真のお父様は、生涯で六度にわたり、無辜の獄中の苦難を味わわれた。日本統治下で一度、北朝鮮の共産治下で三度、大韓民国で一度、そして、アメリカで一度の監獄生活をされ、その期間だけでも五年に及ぶ。六度の監獄生活は、天のみ旨を成し遂げるための苦難の路程であるが、監獄は、精神と肉体の活動が制限された所である。特に興南監獄では、寒さと飢えは言うまでもなく、窒素肥料の硫酸アンモニウムをかますに入れて運ぶという、苛酷な重労働に苦しまなければならなかった。さらに、西大門刑務所とダンベリーでの受難は、自由世界で行われた言われなき迫害であった。蕩減復帰の道は、かくも遠く険しいものだったのである。
真のお父様は、絶体絶命の危機の中でも、苦難を大きな義のための試練と捉え、神様を慰労された。特に、打たれて奪ってくる天の摂理歴史を御存じの真のお父様は、かえって監獄が神様の愛を最も深く体恤できる避難所であると語られた。このような逆説的な論理が、果たしてどこにあるだろうか。結局のところ、人類が受けるべき蕩減を代わりに背負われ、人類の救援摂理のための勝利の条件を立てられたのである。
神様が準備してきたキリスト教が責任を果たせないことにより、真のお父様は、北朝鮮の共産治下での受難を通し、新しい出発の基台を築かれた。特に、再臨主に出会うために精誠を尽くしていた神霊教団の腹中教を通して、真のお母様と縁を結ぶ機会をおもちになった。真のお父様が大同保安署で受難に遭われていた当時、共に拘束されていた腹中教の指導者は、真のお父様のみ言を受け入れなかったが、真のお母様が六歳の時に腹中教団から祝祷を受けたため、結果的に真のお父様と連結されるという奥妙な摂理的役事(働き)だったのである。
真のお父様の受難は、新たな摂理を進める契機となった。特に興南監獄での受難は、イエス様の十字架での死を蕩減復帰する摂理的条件を立てられたもので、出獄して南下したのちに行われた「世界基督教統一神霊協会」創立の基盤となった。そして、ダンベリーでの受難を通しては、アメリカのキリスト教聖職者を一つに束ねる奇跡を生み出された。併せて、真のお母様は、心情的にお父様と一体となってダンベリーの受難路程を共に歩み、世界的蕩減復帰摂理を勝利へと導かれた。このように恨と迫害の歴史を越えて勝利されるまで、真の父母様は血と汗と涙の「天路歴程」(天国に向かって歩む道)を歩まれたのである。
地下独立運動と収監
真のお父様は、一九四一年四月から一九四三年九月まで、日本で留学生活を送られた。そして、この期間、国を愛さない人は天を愛することができないという信念により、地下独立運動をされたのである。一九四三年十月中旬に帰国された真のお父様は、留学当時に独立運動をしたことが露見し、一九四四年十月、京畿道警察部に拘束され、翌年二月まで苦難に遭われた。
1 お父様は、日本統治下で地下運動をしました。そこから私の行く道を決めたのです。日本に行っている時には、お金持ちやあらゆる人たちからの誘惑もたくさんありましたが、お父様は誰とでも友達になることができました。
その人たちは、私が何者かは知りませんでしたが、自分たちが必要なときにはいつも私を仲間に入れました。そうしながら、私に対して、自分の胸の奥にある秘密を我知らず、ありのままに話したのです。
2 お父様が日本留学に行った時、上海臨時政府を中心として地下運動をしました。日本の特高警察の資料の中に、お父様の名前が出ているのを誰も知りませんでした。先日、日本からその資料を持ってきました。お父様が韓国を中心として三カ国を往来しなから独立運動をしたというのが、特高警察の記録に残っているので、今では誰もが認めるのです。
3 昔、お父様が日本の東京での勉強を終えて帰ってくる時、二十一年後にまた会おうと祈って渡ってきました。その後、二十一年ぶりに再び日本に行きました。当時、日本で地下運動をしながら、共産主義者と組んで合同作戦を行ったこともあります。ありとあらゆることをしました。
お父様の後ろには、いつも刑事たちが付きまといました。私が韓国に行くとなると、彼らは韓国にあらかじめ連絡をし、「誰々が今、韓国のどこどこに行く」と知らせるのです。このようにして、お父様が駅の改札口を出ると、会いたくない人たちがやって来て、「今、来たのか」と言うのです。今まで、そのようなことがたくさんありました。
4日本で地下運動をした代表的な人がお父様です。二重橋のある東京の近郊に住みながら、地下運動をした人なのです。日本のことを誰よりもよく知っています。貧民窟からすべて研究したのです。日本の大臣の秘書室に入り、秘書として文書を作成する仕事をした経験もあります。その時、日本の将来は長くないと見たのです。
若い学生時代から、地下運動を奨励しながらそのような活動をしたことを、お父様は語らないので、誰も知りません。関釜連絡船に乗って往来しながら独立のための秘密交渉をしたり、釜山から新義州(シニヂュ)と中国の安東(現在の丹東)まで「ひかり」号に乗って往来しながら、独立運動の背後の人脈をつなげ、地下運動をする内部人士たちに連絡する活動をした人がお父様です。
5お父様は、韓民族が日本統治下の四十年の受難の中にあったとき、獄中生活をしました。監獄に行ったのです。民族の解放のために監獄に行きました。ありとあらゆる口車で、「出世させてあげよう、優遇してあげよう」と言ってきましたが、お父様は苦難の道を選んできました。天が、怨讐の日本に対して関心ももたせないようにしたのです。神様が監獄に入れたのは、日本に対して完全に断ち切るための作戦でした。今考えるとそうなのです。日本政府を支持する人は、上の人たちから下の人たちまで、すべてお父様に反対する立場に追い込んだというのです。苦難の道を選んで越えてきなさいということです。
6神様との心情関係を経て神様の保証人となり、サタンの公認を受ける立場まで開拓するために、統一家が出発しました。これは誰も知らないことです。その背後には、あまりにも多くの悲惨な道があります。私は、日本統治時代から監獄を出たり入ったりしました。血を吐き、十本の指から血を流す場でも、「これが十カ国の血に代わり、十の民族の血に代わる祭物として捧げられるとすれば、どれほど光栄でしょうか」と祈りました。私が救われるよりも、私一人が死んで国が解怨成就され、国が解放されるなら、どれほど良いだろうかと考えたのです。
7万民が共通に願ゐる最高の希望であり、万民が探し求めるべき本然の目的基準は、本然の父母を探し出すことであり、本性が指向する故郷、すなわち本性の世界を探し出すことです。したがって、過去の人も、現在の人も、未来の人も、これらを勝ち取らなければ、その国に幸福が宿ることはできません。これが天理原則です。
お父様は、このために他のすべてを投げ捨てました。父母も捨てました。お父様が監獄に入った時は、日本帝国主義時代でした。ですから、その当時、お父様は、国を裏切る逆賊の立場に立つことがなくなったので、むしろ監獄に入るようになったことを感謝しました。お父様が追求していたのは天の国の主権だったので、その当時、主権があった彼らの立場からは、(独立運動を)許すことができなかったのです。日本の圧制圏内にいたので、この世的なことに対しては、一切関心をもつことができませんでした。ですから、父母を捨て、家庭を捨て、出世できる環境をすべて捨てて、失われた国を捜し出すため、この道に進み出たのです。
8私が二十代の若者として夢を膨らませ、批判されながら歩んでいた時、母は「ああ、あの子は、勉強をさせたのに、あのようなことをしている」と言いました。私は、賢いと言われていました。次男として生まれましたが、文氏の家門では期待が大きかったのです。ですから、母は私のためにあらゆる精誠を尽くしました。ないお金を集めて外国にまで送って勉強させたのに、監獄に引っ張られていったのです。日本統治下の頃、監獄に訪ねてきて涙を流す母のことを考えても、そのようなことはしないほうがよかったのですが、そのように生きました。このような境遇にいることに対して、母は言葉を失っていました。「私は、母の息子として間違ったことはしていません。文某の家に生まれ、その家門を汚したことはありません。大韓民国の伝統的思想を中心として批判してみても、良心に呵責を受けるものはありません。私が牢屋暮らしをする身になったからといって、この息子がかわいそうだと涙を流す母は願いません。ここで忠告をして、激励してくれながら、あすの希望のために、韓民族が解放されてアジア全体の主導権を握れる道を開拓するために、いかなる冒険にも堂々と挑みなさいと勧告できる母が私には必要であって、それ以外は必要ありません。私は神様の息子であると自負する人です」と言いました。
9私の手で大勢の人に家も買ってあげ、背広もあつらえてあげましたが、両親にはハンカチの一つも買ってあげませんでした。親不孝をしたのです。親不孝と言っても、これほどの親不孝はありません。
日本統治時代に、日本から帰ってきて監獄に入っているとき、母が訪ねてきて涙を流すと、私は青天の霹靂のように怒鳴りつけました。「あなたの息子である文某という人は、小心者ではありません。私の目に映っているのは、母よりも、世界と神様の悲しみです。だから、それを晴らすためにこの道に来ているのです」と言いました。
怨讐を愛する道を行く
京畿道地域とソウルの四つの警察部を管轄する日本の京畿道警察部は、悪名高いことで有名だった。真のお父様は収監されていた期間、ありとあらゆる激しい拷問を受け、血を吐くほどむち打たれた。そして、刑事たちは、地下独立運動を行った同志の名前を言うように要求したが、真のお父様は最後まで口を開かなかった。義理と約束を果たすために、肉身の苦痛を越えられたのである。
真のお父様は、死が目前に迫る中でも、同情を求める祈りはされず、むち打たれる場でも、かえって拷問する人々を赦し、彼らの福を祈られた。
一九四五年二月に京畿道警察部から釈放されるまでの監獄生活は、将来の公的活動に備え、真のお父様と天が深く交流する期間であった。
10 お父様は、手錠もたくさんかけられました。監獄に入れば、「文某が入ってきた」とうわさが広がります。すると次の日、日本入たちがぷしつけに入ってきて挨拶をするのです。しかし、それは歓迎の挨拶ではありません。ここに来ているのか。いないのかを見るためなのです。学生時代にも、普段から警察部を出入りしていました。また、拷問台で少しも動じずに振る舞ったことのある人です。そのような歴史がたくさんあります。
お父様は、日本人から何度も拷問を受けました。彼らの拷問はとてもひどいものでした。今の若い人たちを捕まえて、あの時のように焼きごてを当てながら拷問すれば、していないことも「した」と言ってしまうでしょう。
11 日本統治下で、お父様は軍靴を履いた足でおなかを蹴られる拷問も受けました。二人が左右で手をつかみ、もう二人が上から踏みつけるのです。そのようにされれば、おなかの皮はどうなりますか。そうしてトイレに行き、一度座って立てば、どれほど苦しいでしょうか。しかし、落胆はしませんでした。「いやあ! 素晴らしい!」と思ったのです。神様のためにそうなったというのは、世の中にはないことです。
それでも、釈放されて出る時には、彼らに親切に接して出てきました。五、六時間の間、激しい拷問を受けて気絶し、ばたっと倒れるとき、むしろ拷問をする彼に対して同情心が生まれるのです。その時の思いは本物です。「あの時の、あの誰々はどこにいるだろうか」と思い出されます。享楽を追い求める人たちには、このようなことをいくら説明しても絶対に理解できません。
12 忠臣とは、どのような人でしょうか。国のために誰よりも多くの犠牲を払った人が、より輝く忠臣になるのです。孝子とは、どのような人でしょうか。生涯を捧げて、その生命が尽きるほど父母のために生きる人が孝子です。生命を捧げた人と捧げていない人のうちで、どちらがより孝子かというと、生命を捧げていない人は、孝子になる資格がありません。そして、国のために生命を捧げた人が忠臣です。生命を捧げていない人は、忠臣として扱いません。私たちは生命を捧げる覚悟をして歩むのです。
お父様は、正義のために、命を既になげうっていたのです。小心者ではありません。私は、日本統治下で学校に通いながら闘った人です。私が監獄に入れられ、口を割ってしまえば、七十人の同志たちの首が飛ぶようになっていました。しかし、答えませんでした。約束をしたら、その約束を履行する人なのです。あらゆる手段、方法を動員して加えられる拷問を受けながら、たとえ死ぬとしても、口を開きませんでした。
13 日本統治時代、私はありとあらゆる拷問を受けても、白状しませんでした。京畿道警察部の主任がいくら拷問しても、白状しなかったのです。「話さない」と言えば、それでおしまいです。三百六十五日、いくらでもやってみなさいというのです。何度気絶して意識が戻ったとしても、「なんだ。ちょっと眠らせてくれ」と冗談を言うのです。「もっと寝ていたいのに、どうして起こすんだ、こいつら」と言うのです。そうしているうちに、拷問とも友達になりました。誰が来ても、「おいおい、そうやったら痛くない。こうやって、こうやりなさい」と言いました。明らかに解決できそうにないので、一言言ってあげるのです。そうして、「お前たちが無理に印を押させたことを、公判廷に出たら私が話す」と言いました。男なら、自分が決意したとおりにしなければなりません。このような男です。そのような人なので、今まで迫害を受けてきても滅びませんでした。
14 お父様は、決して寂しいとは思いません。寂しく思ってはいけないのです。日本統治下の時から監獄に入って、たくさんの拷問を受けました。頭が切れて体が血だらけになるほど、ありとあらゆる拷問を受けたのです。そのたびに神様は、耐え抜ける秘法を教えてくださいました。
ある時は十二時間取り調べを受け、拷問を受けて這って進むこともできないほどになり、何度も気絶しては意識が戻る、そのような過程を繰り返しても、私は口を開きませんでした。サタンが世界を占領して天の秘密を探り出そうとしましたが、私は何も言いませんでした。
すべてが私の一言にかかっているので、死んだとしても絶対に口を開くことはできませんでした。角材で身の毛がよだつ拷問を受けても、話さなかったのです。
義理を果たすことができなければなりません。一度約束をしたら、自分が滅びたとしても守らなければなりません。このように拷問を受けたあと、一晩過ぎれば、その日は悲しい日であると同時に、忘れられない日として残るのです。
15 お父様は、むちで打たれ、血を吐き、皮膚が腫れ上がるような場でも、「この血は、歴史を裏切った先祖の血です。私にはまだ行く道が残っていますので、背負う十字架があるならば、もっと背負わせてください」と祈りました。これは、どれほど男らしい祈りでしょうか。今までそのような路程を歩んできました。
「耐え忍んで進みますが、いつの日か報いる日がやって来るでしょう。ですから、父よ、耐えてください。韓民族を審判しようとされるならば、最後の審判をされる前に、私に通告して審判してください。また、世界を審判しようとされるならば、最後に私に通告して審判してください」と言ったのです。
自分の不運を嘆いたり、自分の身の上について愚痴をこぼしたりするような人に比べれば、どれほど立派な男でしょうか。歴史時代に一度現れ、霊界に行っても、世界的にあがめられる人になってみなさいというのです。どれほど素晴らしいことでしょうか。
そのようにできる時は一度しかありません。この時を逃せば、もうないのです。その機会をつかまなければなりません。
16 運動がどれほど素晴らしいことか分かりません。疲れてつらいときは、用を足しに行って、きっかり五分間だけ運動すればすっきりします。そのようなことを学んだので、獄中でも死にませんでした。拷問を受ける場に行ったとしても死ぬことはないのです。
拷問を受けるときには、必ず血を流していかなければなりません。水を飲ませて、おなかでもどこでも、ぎゅっぎゅっと踏みつけるのです。ですから、それに耐えるためには、まず浣腸をして、小便の代わりに後ろから抜くように、抜け道をつくらなければなりません。そのためには、血を流していかなければならないというのです。
神様はどれほど知恵の王か分かりません。非常に疲れると鼻血が出るでしょう。鼻血が出なければ脳出血になるのです。鼻血が出るのは、その防止策です。疲れたときには血圧が高くなることを知っているので、噴出するのです。
それと同じように、拷問を受けるときには、抜け道をつくるために必ず血を流さなければなりません。ですから、唇をかむか、舌をかむかして血を流し、穴を開けておかなければなりません。そのようなことを私が教えて、多くの人を助けてあげました。私のような人の生涯路程は、楽な道ではなく、簡単な道ではありません。今まで数多くの死の道がうねって続いてきましたが、その峠をすべて越えました。
17 お父様は、日本統治時代の末期に刑事たちから無数の拷問を受けました。国を愛することを知らない人は、神様を愛することもできないのです。ですから、日本で独立のための地下運動をしました。そのような闘争をして故郷に行くと、誰それが帰ってきた、ということを日本の警察は不思議なくらいによく知っていて、付いて来るのです。
警察に捕まって取り調べを受けるときには、血を吐きながら、何度も死の境をさまよいました。しかし、共に活動した同志たちに対する責任と義理のために命を懸け、「私一人で闘った」と言いました。殺すと脅かされても口を割りませんでした。「言わない」と言ったら言わないのです。(日本の統治から)解放された時、すぐに京畿道の警察部に勤務していた人たちを整理することもできました。しかし、滅んで涙を流しながら行こうとする彼らだったので、そのまま送り出してあげました。
18 植えなければ刈り取ることはできません。怨讐を生かすために、夜に逃がしてあげた歴史が残っているので、日本の若者たちは、お父様に対してその恩を返さなければなりません。日本の国が返さなければなりません。ですから、二十代に監獄生活をしたことに対して、神様に有り難く思うのです。
日本の監獄に入ったので、韓民族の悲惨さが分かりました。すべて教育です。日本がどれほど悪いかを、監獄に入って知ったのです。いくら愛国者の話や本を通して知ったとしても、実感が湧きませんでした。それを信じることができなかったのです。本は勝手に考えて書くことができます。
しかし、監獄に入り、拷問を受けて血を流す過程で、その同志たちと共にいながら、初めて韓国の悲惨な状況が分かるようになりました。このような民族を誰かが解放しなければならないという義務感をもつようになったのも、監獄に入ってからでした。監獄が、お父様にとっては偉大な先生になったのです。復帰摂理路程で、誰一人として触れることができない礎石を据えられた一時でした。
19 お父様は、我が民族が日本統治下で、日本人たちにどれほど虐殺されたかをよく知っています。ですから、日本人たちのことを考えただけでも(怒りと悔しさで)身震いがします。しかし、アジアで日本を無視することはできません。アジアで三国路線を広げるためには、敗れはしましたが、日本は必ず必要な国だというのです。民族性から見ても、間違いなくドイツ民族以上の団結力が生まれるでしょう。
復讐してはいけません。復讐で始めればまた復讐で終わり、そうして、結局は滅びるのです。それゆえ、統一教会は新しい世界をつくるために、「統一理念」を中心として、まずこの国と民族を救わなければならないという新しい糾合運動をしたのです。
20 世の中がいくら反対しても、私は滅びません。私を監獄に閉じ込めても、私の心と私の理念は、閉じ込められません。私を打ちなさいというのです。打てば、今まで私が神様のみ前に歩んできた道と、神様が築いてこられた道とが連結されるのです。
ですから、「打つなら打て! 私がお前を憎むか憎まないか」と言いながら、怨讐を愛する心がどれだけ強いかを鑑定しなさいというのです。むちで打たれ、血を吐きながらも、「ああ! よく打たれた。歴史的な怨恨の人類に代わって打たれた。私は打たれて忘れ、記憶にとどめておくことはしない」と言い、「神様! 彼らをお赦しください」と言いました。その立場を通過しなければなりません。そのためには、自らを犠牲にする立場に自分を立てなければならないのです。そうすれば簡単です。
日本統治下で、私は十二時間近く拷問を受けて血を吐いたこともあり、十五分間で人を狂わせる、生涯忘れられない拷問も受けました。それでも、奇跡的に生きて出てきたのです。
しかし、私は、彼らに対して怨讐のように接することはしませんでした。彼らに福を祈ってあげてから行く責任が私に残っているので、彼らの何を見て福を祈ってあげるかを、その監房で悩み、研究したのです。
それでも、人には良心があるので、私を拷問した人が、朝、人々がすべて出ていったあとで、誰にも分からないように謝罪するのです。それを見ると、人間は誰もが同じです。彼らも、良心はだますことができないというのです。
大同保安署収監の背景
真のお父様は、天が備えられた韓国のキリスト教指導者の不信により、新たな基盤を築くため、一九四六年六月六日、北朝鮮の平壌に到着された。真のお父様の伝道集会は神霊的な恩賜に満ち、多くの信者が押し寄せた。すると、キリスト教の指導者たちによる密告と共産政権の宗教弾圧がかみ合い、平壌到着から二カ月後の八月十一日、真のお父様は、韓国政府のスパイであるなどの容疑で、大同保安署に収監された。当時、許浩彬(ホホビン:孝彬)をはじめとする腹中教の幹部たちも大同保安署に収監されていた。
1 お父様が二十七歳の時は、共産世界の平壌に行って闘った時期です。その時代と今の時代とを比較してみれば、皆さんは幸福な人たちです。その時だけでも、七十人以上のキリスト教の牧師が団結してお父様に反対しました。北朝鮮の共産治下でキリスト教がキリスト教連盟をつくり、共産党と一つになって反対する環境で、彼らと向かい合って闘いました。私たちの理念さえもてば、どこに行っても核心要員を引き抜ける力がつきます。その時、私は平壌の景昌里(キョンチャンニ)という所にいたのですが、それぞれの教会では「景昌里に行くとハンサムな異端の男がいるが、彼の話を聞いただけでだまされてしまう」といううわさが立ちました。特に「女性たちは行ってはならない」と、大々的に宣伝されたのです。
2 お父様は、共産党の統治下にある北朝鮮に入っていったのですが、すぐに捕まりました。私が南側から来たので、李承晩(イスンマン)の手先だというのです。しかし、いくら調査をしてみても、根拠をつかむことができませんでした。それで、「男のムーダン(霊媒)である」とか「社会を乱す」などと言って捕まえ、閉じ込めたのです。
その時、本当に何度もむちで打たれました。拷問もたくさん受け、ひどい扱いをたくさん受けました。そのような道を歩んできた人です。とても劇的な場面が数多くありました。それらを、希望に満ちたあすを築くための一つの過程だと考えれば、貴重な時間だったのです。
3 サタンは、個人を使って私を攻撃させ、家庭を使って最も憎むように仕向けます。国家をも使って、どうしたら命を奪えるかと、その方法を探し求めています。イエス様の命を奪ったように、どんなことをしてでも命を奪おうとするのです。
ですから、私に反対するために、すべてが動員されました。共産治下の北朝鮮に入って、監獄暮らしをしました。私を韓国のスパイに仕立て上げ、「李承晩政権の手先だ」と言いながら、あることないこと、ありとあらゆる言葉を浴びせかけました。「北朝鮮政権を略奪するための回し者だ」と言うなど、ありとあらゆることをしたのです。命を奪おうとして放り込んだというのです。
その時、「ああ、神様のみ旨も何も、大変でできそうにもない。すべて放棄しよう」と思っていれば、そこで終わっていたでしょう。しかし、「世界が滅びる前に、私が滅びる立場に行くことはできない。世界が残っている限り、生き残らなければならない。いかなる拷問を受けたとしても、死の境地に出くわすことがあっても、神様のみ名によって、神様のみ旨を成し遂げるために闘うのだ」と考えました。
4 私は平壌で共産党に捕まり、手錠をかけられて監獄に引っ張られていきました。日本統治下の時には、日本の警察官に引っ張られて監獄に行ったこともあります。
私は、希望に満ちた心をもって監獄に行きました。なぜなら、監獄に行けば、ある人に会う約東になっていたからです。霊界を通して、ある人に会うように予定されていました。その人に会うために喜んで入っていったのです。そこに行けばこのような人に会えると思うと、それが正に希望の出発になるのです。
5 腹中(ボクチュン)教の許浩彬氏は、一生涯あらゆる精誠を尽くして信仰の道を歩んでいきました。その背後の歴史を見ると、皆さんには想像のつかなこを歩んだのです。宗教者を怨讐のように扱う共産党の圧制下で激しい拷問を受けても、自分たちの信仰心を守っていきました。
その拷問を受けた内容は、言語に絶するものです。蒸し暑い夏の季節に、彼女たちは苧麻(からむし)のチョゴリ(薄手の服)を着た身でどれほどむちを打たれたのか、その服が穴だらけになったという話を聞きました。数十回も気絶し、彼女の弟は拷問に耐えられずに死んでいきました。四十人以上の責任者も投獄され、悲惨な状況で拷問を受けました。お父様もそのような立場で、同じ団体の一員とみなされて、投獄されたのです。
6 蕩減復帰原理によって、お父様は、私を待って準備していた集団に会いに行くことはできませんでした。イエス様が亡くなられた理由は、彼が新婦を迎えられなかったからです。イエス様を迎える新婦が準備されていなかったからです。それが、イエス様の亡くなった原因でした。
ですから、再臨主が来る時、その準備された集団は、新婦の位置で準備したものをもって訪ねてこなければなりません。もし、その準備された集団の指導者だった許浩彬氏が、主がいらっしゃる所を知るために神様に祈っていたならば、神様がその人にその場所を教えてあげていたでしょう。ですから、お父様は彼らが来るまで待っていました。彼らのいる所に行くことはできないというのです。
その期間にお父様は、アンナのような女性に会いました。その女性は、二つの立場の業をしていました。彼女は、時には天の側で業をし、時には中間の立場で業をしたのです。天の側でなければ中間の立場です。お父様は、その年を取った女性に出会ったのち、許浩彬氏に人を送り、お父様が誰なのかを祈ってみなさいと伝えました。しかし、許浩彬氏は、一つの大きな兆候を期待したのであって、一人の若い男性などは期待してもいませんでした。お父様は、許浩彬氏に特別な人ではなく、普通の人を送ったのです。許浩彬氏は、その人が大きな使命をもっていることを悟れず、彼を送り返しました。そのあとにも、一人の若い女性をその集団に送りましたが、許浩彬氏からは何の反応もありませんでした。その時、許浩彬氏は、自分の集団の幹部たちが一堂に会したとき、自分か受けた「春香(チュニャン)が監獄で彼女の夫に会ったように、お前も監獄で主に会うだろう」という啓示を説明していたのです。
7 お父様が平壌で許浩彬氏に会おうとした当時、北朝鮮は共産主義者たちが占領していました。その時、共産主義者たちは、許浩彬氏の集団が人々からたくさんの寄付金を集めて、良い服を作り、良い家を買ったことを知るようになりました。それで、彼らはこの集団の指導者たちを宗教的詐欺師として告発し、彼らを監獄に放り込んだのです。
そして、その時にお父様も、その集団と関係があると告発されました。実際には、何の関係もありませんでしたが、そのように告発されたのです。そうして監獄に入ることになり、その集団の指導者と同じ部屋に閉じ込められました。
許浩彬氏のもとでその集団を率いていた一人の男性が、同じ部屋にいるという状況になったのです。その日が一九四六年八月十一日です。
その集団の指導者たちは、共産主義者たちによって、とても苛酷な拷問を受けました。共産主義者たちは、あらゆる宗教を抹殺しようとしたのです。
大同保安署での受難と釈放
真のお父様が大同保安署で受けた拷問は、非常に苛酷なものだった。一週間眠らせない、棍棒で袋だたきにするなど、特殊な拷問が加えられた。真のお父様は、百三日日となる一九四六年十一月二十一日、半死半生の状態で釈放された。信徒たちは、お父様が多くの血を吐いて、瀕死の状態に陥っていたため、亡くなられたあとの問題まで議論していたが、奇跡的に回復された。その後、集会所を移転され、引き続きみ言を伝えられた。
8 お父様は、共産党から一週間眠らせないという拷問も受けたことがあります。拷問を受ける時は、「こいつ、お前が耐えるか、私が耐えるか見てみよう」と思い、おもしろい時間だと考えました。普通の人たちは、一週間眠ることができないと、うつらうつらしながらすべてを話してしまいます。
お父様は、目を開けていてもよく眠ります。それを研究しました。その時、訓練をしたので、今も眠気がすると、その方法を利用するのです。また、拷問を受けて、あざができたり、痛いところがあったりすると、それをほぐす方法を研究したので、疲れた時にはその運動をします。私は今でも、普通、一日に一時間だけ眠れば、持ちこたえられるのです。
9 平壌で開拓する時、キリスト教の牧師と長老の夫人たちがお父様のところに押し寄せるので、七十人以上の牧師が投書して、お父様を監獄に放り込みました。南側から来たスパイとみなし、ソ連の共産党まで来て取り調べをするのですが、ひどい拷問を受けました。彼らは真っ赤な部屋で一週間眠らせません。三日眠れなかったら人は狂ってしまいます。
真っ赤な部屋に一人で入れておき、白い座布団に座らせて、三日から一週間、睡眠を取らせないのです。お父様は、「お前が私を眠らせないようにできるか」と思いながら、目を開けて眠りました。眠る訓練をしたのです。目を開いたまま眠るのです。当時、「文某は男のムーダンで妖術まで使うので、聖書に出てくるような奇異なことがそのまま起こる」とうわさになっていたので、横に見張りがいました。
10 お父様は、力もあり敏捷です。できない運動がありません。私が運動するという時には、何をしても三等以内に入らないものがありません。そのような能力のある男でしたが、袋だたきに遭ったのです。
東西南北の十二方位すべてから打たれても、ただ黙って打たれなくてはならない時が一度や二度ではありませんでした。ありとあらゆる拷問を受けました。そのような拷問を受けて打たれても、「打て! こいつら!」と言って耐え抜きました。棒でたたかれても、「打ってみろ! こいつら!」と言ったのであって、情けなく「ああ、助けてくれ!」とは言いませんでした。机の脚(の角材)でたたかれても、「お前が折れることはあっても、私は折れるものか」と思いました。たたかれて歯が半分ほど欠けてしまったこともあります。
お父様がそのような恥辱の場で流した汗は、何の汗でしょうか。大声を張り上げたとすれば誰よりも張り上げ、血を流したとすれぱ誰よりも流しました。涙を流したとすれば、誰よりも流したというのです。
平壌刑務所収監と公判
共産治下の宗教抹殺政策は極限に達した。真のお父様は、キリスト教団の嫉みと誣告(故意に事実と異なる内容で人を訴えること)により、一九四八年二月二十二日、平壌内務署に拘束され、四月七日の公判では社会秩序紊乱などの罪で、五年の刑を言いされた。しかし、判決文の中に出てくる「虚構」という表現については異議を提起し、修正するようにされた。真のお父様が伝えた真理は、決して虚構ではないからである。真のお父様は、法廷を出られる際、悲しむ食口たちに手を振って、彼らを慰められた。
1 お父様が教会運動をすると、すぐに食口たちが増えました。当時、北朝鮮当局の政策は、すべての宗教を抹殺することでした。また、キリスト教の牧師たちは、自分の教会の信徒たちがたくさんお父様のところに来たので、私を告発しました。その結果、三回目の投獄に遭うことになりました。平壌の内務署に拘束された日が一九四八年二月二十二日です。
2 一九四八年四月七日は、お父様にとって忘れられない公判の日です。キリスト教団の嫉視と共産党当局の宗教抹殺政策によって、二月二十二日に平壌内務署に拘禁され、二月二十五日には髪を刈られました。共産治下で宗教公判が行われるというのは、あり得ないことです。公判は、四月三日から四月七日に延期されました。四月三日は、拘禁されて満四十日になる日でした。
3 私が平壌の内務署で公判廷に立つことになった時、北朝鮮にいるキリスト教の牧師たちが来て、ありとあらゆる罵声を浴びせました。それで、「あなたたちの子供と私の子供のうち、どちらが立派になるか見てみよう。あなたたちの教える教会員と私が教える教会員と、どちらが優れているかを見てみよう。死んでも私のほうが優れているだろう」と考えたのです。
そのような、人が知ることができず、人が感じられない衝撃を、いまだに忘れていません。寝ながらも、そのようなことを考えるのです。その場で、天のみ前に私が孝の道理、忠の道理を尽くそうと誓ったその誓いを、どのように実践するのかというのです。疲れようにも疲れていられません。くたびれようにも、くたびれている暇がありません。忙しいというのです。ですから、彼らが考えもつかないことをするのです。話もせず、じっとしているからといって、意気地がないのではありません。私の行く道が忙しいので話さないのです。正しくないことを見たら我慢ができない人です。
4 お父様が平壌の刑務所に入っていくとき、食口たちは自分の夫が死ぬよりももっと切実に心配しながら、「先生、今行ってしまったら、いつまた来られるのでしょうか」と言いました。しかし、お父様は、「私が行って会わなければならない人がいる」と答えました。その時、そこに行けばある人と出会うだろうと約束されていたのです。足が震え、嘆息し、痛哭する怨恨の道であるにもかかわらず、その道を行きました。それは、希望する天国に行く道だからです。このように喜びの心で行けば、地獄も天国に変わるのです。神様もそのような心をもっているでしょう。それで、そこで出会わなければならない人たちとすべて会い、新しく決意しながら第二次の出発をしたのです。
5 平壌刑務所にいる時、裁判を受ける日が、本来は一九四八年四月三日でしたが、共産党が教会を弾圧する口実をつくろうとして期日が遅れ、四月七日になって受けました。その日は、食口たちが一緒に集まりました。しかし、彼らはその時から分裂し始めました。
刑を受けて監獄に行く時は、かえって希望に満ちた足取りでした。なぜなら、刑務所にも神様があらかじめ準備した人がいるからです。
監獄には午後三時頃に入り、入ってから三日目となる日に、金氏という青年に会いました。彼はもともと、日本統治時代に陸軍士官学校砲兵科を卒業し、日本軍砲兵大尉として服務していた時に終戦を迎えた人です。終戦後、彼は北朝鮮人民軍に入隊し、砲兵司令官の腹心の部下として服務していましたが、その時に国家機密漏洩罪で死刑宣告を受け、死ぬ日を待つのみでした。その上、自殺を企てたものの、それが発覚し、鎖でつながれていました。
彼の話によれば、ある日、夢の中に白髪の老人が現れ、自分の名前を呼びながら、「お前は絶対に死なない。お前は南から平壌に来た青年を迎える準備をせよ」と教えてくれたそうです。しばらくして砲兵司令官の保証のもとで、彼に対する処罰は死刑から四年八カ月に減刑されました。それから再び夢の中にその老人が現れ、「教えたとおりに信じていない」と叱責しながら、「幾日もせず、南韓から来た若い先生に会うだろう」と教えてくれたというのです。
6 平壌刑務所で、天から直接の命令を受けた人に会いました。彼は、霊界からの教えを通して、私に関する証を直接受けていました。私に会うことが既に一年前から、天の約束として準備されていたのです。このように真を追求し、大きな希望の基盤を築かせようとするので、ここまで天が根を張るのです。
このような天の事情を考える時、私がこの道を排斥し、この道を遠ざけようという気持ちがあれば、天倫の前に立つことができない反逆者になることを徹底して信じました。私が考える前に、天はそこで大きな関係を私と結ばせるために準備していたのです。しかし、(その人が)我知らず反逆する立場に立つことを悟れていないのを見るとき、とても興味深いことでした。
7 お父様が入った監房に、金氏という人がいました。その時、お父様の年は二十九歳で、彼も二十九歳でした。一九四八年四月二十八日の明け方に、愛する息子が死刑宣告を受けるや、心を痛めて病にかかった上に、交通事故に遭って死んだ金氏の父親が夢の中に現れ、彼を連れて、宮殿のような所に行ったそうです。そこには階段があったのですが、階段を上るたびに聞いたことのない音が聞こえたといいます。階段を三段上るたびに三拝をしながら上がっていくと、そこにはまぶしい玉座があり、その上に一人の青年が威厳をもって座っていたというのです。彼の父親が「顔を上げてあの方を見なさい」と言うので、そちらの方を見上げたのですが、さしてくる光彩があまりにもまぶしくて、はっきりと見ることはできなかったそうです。金氏は、お父様に初めて会った瞬間から心が引かれ、お話を少しでも聞いてみたい衝動を感じていたのですが、三日目にしてようやく、「お話を聞かせてほしい」と懇願しました。お父様は金氏に、今まで歩んできた路程を「ロレンス」という仮名で、三日間、聞かせてあげました。そうしながら、ここに神様が約束した人がいることを知りました。その人が正に、監房長の金氏だったのです。
お父様は彼に「あなたは誰にも言えない自分だけの心配事をもっているでしょう?」と言いながら、その心配事が何か尋ねてみました。その問いに彼は驚き、それまであったすべての内容を詳細に打ち開けて、自分が夢の中で見た、玉座に座っていた青年が正にお父様だったことを初めて悟るようになりました。
8 お父様が平壌刑務所にいる時には、私が男のムーダンであるといううわさが立ちました。相手が話す前に既に分かって、尋ねるので、そのようなうわさが立ったのです。このようなうわさを共産党当局も耳にして、お父様のことが恐ろしいのか、取り調べをする時も、三人以上の看守が見守っていました。
お父様は平壌刑務所から興南監獄に入る時に、サタン世界から神様の世界に越えていける一つの結果をもたらすために、このような現象が起こるのだと思いました。そのような所に行っても、正体を明らかにせず、内外で変わってはならないと考えたのです。イエス・キリストが万邦に、世界の前に、人類の胸の中で灯火になることができたのは、自分の生命を左右する環境でも、消えることのない心情をもって死の関門を突破したからです。
それが今日の歴史と文化の起源になりました。すなわち、文化世界を創造する起源になったというのです。統一教会も、そのような基盤から出発したということを知らなければなりません。
獄の中の獄、興南監獄に移監
真のお父様は、一九四八年五月二十日、平壌刑務所から、獄の中の獄と呼ばれる「興南特別労務者収容所」(通称、興南監獄)に移監された。収監番号は五百九十六番であった。興南監獄は、寒さと飢え、重労働を伴う途方もない作業量ゆえに、普通の人には耐え難い所であった。特に、監獄内のアンモニアガスと粉塵が汗と反応して、肌がむけてただれる皮膚病と肺病により、一年で収監者の四〇パーセントが死にゆく現実の中でも、真のお父様は肉体の健康を維持され、同僚たちよりもはるかに多くの労働量をこなされた。死の影がちらつくこの場所で、真のお父様は知恵と愛で苦難を克服されたのである。
9 お父様が興南の監獄に手錠をはめられて行くとき、平壌に残る食口たちが手を振りながら見送ってくれたことが忘れられません。私は涙を流しませんでしたが、彼らは子供が死んでいくのでもなく、夫が立ち去るわけでもないのに、ひたすらすすり泣いて涙を流しました。それがどれほど悲壮だったでしょうか。それを見ながら、「天を訪ねていく人は不幸な人ではない」と思いました。
私がどんなに鉄格子の中で苦難を受けたとしても、私を訪ねてくれる旅人、監獄を訪ねてくれる彼らは、自分の血族を越え、民族愛を越えて、天上の心情圏を地上の監獄と連結させるに当たって、恥辱を物ともせずに行動した人たちです。これは驚くべき事実です。
10 興南は、潮風が吹くと砂利が飛ぶような所です。ですから、肌が出ているところは、何でもいいので覆いたくなります。突き刺すように入ってくる風が、どれほど怨讐か分かりません。朝早く九百人以上の囚人たちが労働に動員されて出ていくとき、出掛ける前に検査をします。単衣(ひとえ)の服を着た人たちを、明け方五時から七時頃まで二時間以上、その寒い所に座らせておくのですから、どうなるでしょうか。「ウォウォウォウォー」と声を出して震えます。それは本当に痛ましいです。我知らず「ウォウォウォー」と震えるのです。いくら声を出すなと言っても、そうなります。
お父様が過ごした部屋には三十人以上いました。夏には、下から水がしみ出てきます。そこでも私は、一番暑い所、一番臭いがする最低の場所で過ごしました。そこで、寒はのことを考えるのです。冬の主人になれる人が夏を支配することができ、夏の主人になれる人が冬を支配することができます。困難を支配できてこそ最高の富を支配できるのです。天はそのような富む者をつくろうとするのです。
ですから、苦労しましたが、それが祝福でした。そのように反対の実績が得られたのは、蕩減復帰において一致したからです。そのような祝福の実績を残さなければならないというのです。
11 興南は、冬に零下二三度まで下がる所です。そのような所でお父様は、単衣の服を着ていても寒いとは考えませんでした。その場で、「もっと寒くなれ。もっと寒くなれ。もっと寒くなれ」と思いながら、それを克服する闘いをしました。寒ければ寒いほど、綿入れのズボンと上着はすべて人にあげ、単衣の服だけを着て仕事をしました。厚い服は人に与え、単衣の服を着ようとしたのです。
また、最も困難な仕事はどこにあるのかと考えて、その場所を訪ねていこうとしました。ほかの人たちは最も易しい仕事を求めるのですが、最も困難な仕事を探し回ったのです。これを越えられなければ死ぬと考えました。そうでなければ、共産党やこの世界を制覇するという考えをもつことはできないのです。
12 お父様の歯を見ると、割れているところがあります。監獄で針を作ろうとして割れました。監獄では針が本当に貴重です。手に入れることができないので、作って使わなければなりません。その時、肥料工場に肥料を入れるかますを結ぶために使う手かぎがありました。その手かぎの端を非常に軽く、百回でも千回でもたたくのです。突然強くたたいてはいけません。軽くたたくと平らになります。その平らになったところを、ガラスで裂くのです。
その次に、それを研いで針を作ります。その時、穴が丸いといけないので、歯でぎゅっとかんで細長く作るのです。その次には、これを切らなければならないのですが、切る道具がないので、歯でかみ切るのです。そうしようとしたところ、歯がこのように割れました。今でもこの歯を見るたびに、監獄での生活が思い出されます。
そのようにして針を作っておくと、そのうわさが監獄全体に広まり、土曜日になると針を借りに来るのです。すると王様のように座って、「あなたも受け取っていきなさい。あなたも受け取っていきなさい」と言いながら貸してあげるのです。そうしてから朝、出ていくとみな挨拶をします。そのような時には、針も作れなければなりません。私が精誠を込めて作った針なので、世の中で作った針よりもよく縫うことができると考えました。
13 皆さんは、共産党の監獄での生活がどのようなものか、よく知らないでしょう。ソビエト革命後、多くのソ連人が強制労働に苦しみました。共産主義理論では、彼らの前に、何らかの有産階級や反共産主義分子たちがいてはいけません。共産党は反対者たちをすべて粛清したいのですが、世界の世論のゆえにそうすることができないのです。そこで共産党は、彼らを強制労働に動員して、厳しい労働によって彼らが死ぬ時を待つのです。
北朝鮮で監獄にいた時、お父様は強制労働収容所に収監されました。北朝鮮の共産党は、ソ連の経験に倣って、すべての囚人たちを厳しい労働に動員し、彼らが死ぬまで放っておきました。
14 重労働をさせて死なせるのが共産主義の作戦です。興南の監獄に入ってから三年過ぎると、ほとんどがみな死んで出ていきます。間違いなく三年以内にそうなります。食べ物をろくに与えずに重労働をさせるので、ここに入ってきた人は、まず死んだも同然です。
この世の普通の人の基準では、一日三食、脂気のある食べ物を食べて精いっぱい仕事をしても、十人で一日に七百かますしかできません。しかし、この工場では、その倍近くの量をしなければならないのです。食べる御飯は少なくて、大きな口で、三口も食べれば終わってしまいます。そうして重労働をするので、朝食を食べて工場に向かうその道で、既に足がふらつきます。そのような足を引きずっていって、朝から仕事をするのです。その姿は、本当に悲惨極まりないものです。
15 私が仕事をした興南の硫酸アンモニウム肥料工場に、大きな広場があります。白い硫酸アンモニウムが生産されて出てくると、ベルトコンベアを通ってその大きな広場の真ん中に積もるのですが、滝の水が落ちるように、白いものが落ちてきます。その高さが二十メートルほどになります。そのように高い所から広いコンベアを通って落ちる様子は、滝のように壮観です。それが地面に落ちると冷めるのです。
熱いと固まりになるので、固まらない程度に冷ますために、そのように高い所から落とさなければなりません。落ちて積もった大きな肥料の山はピラミッドのようですが、それをすくって入れるのです。
しかし、時間がたったものは、熱で溶けて、岩山のように固まってしまいます。まるで氷山のように青白くなるのです。そのような肥料の山を中心として、それをすくって袋に入れる作業をします。大きな広場に八百人から九百人が出ていって仕事をするのですが、大きな山を二つに分けて積み上げるのと同じようなことをするのです。
16 お父様は、北朝鮮の共産政権の(興南)監獄に入って、二年五カ月の間、重労働をしました。何の労働かというと、肥料工場でする仕事です。硫酸アンモニウム肥料工場で、肥料がベルトコンベアに載せられて、広場の真ん中に落ちるようになっています。その肥料をかますに入れて秤に掛け、貨車に積む仕事をするのです。熱処理をして作るものなので、生産されて出てくる硫酸アンモニウムは熱いのです。それが冷めると塊になります。それを何年もの間放っておくと、岩のようになってしまいます。本当に大変な重労働でした。
一日八時間の労働時間に、一人一人の責任分担があります。十人一組になって仕事をするのですが、一組の一日のノルマは千三百かますです。これを八時間以内に終わらせなければ、食事が半分に減らされることになっていました。
17 硫酸アンモニウム肥料工場で仕事をしたのですが、そこはアンモニアガスが充満しています。ですから、硫酸アンモニウムが皮膚に溶け込み、絞ると水が出るほどです。どこを絞っても水が出てきます。細胞が、半分は死んでいるというのです。そのような環境では、精神力でなければ持ちこたえられません。
そこでは、いくらしっかり食べている人たちでも、三年も仕事をすると肺病になります。ならなければうそです。そのようなアンモニアガスが工場の中に満ちているのです。ですから、大体六カ月過ぎて咳をすれば、血の混じった痰が出ます。必然的に、そうなるようになっています。そこできつい仕事に疲れ果てず、自分の精誠の基盤を築き、蘇生した体をもってこそ持ちこたえられるのですが、普通の若者たちはそれを知りません。ですから、お父様が経験を通して、それを指導し続けてきたのです。
18 肥料工場でする仕事は、かますに肥料を入れ、秤に掛けて縛り、引っ張っていって貨車に積むことです。どんどんと肥料をすくい出すので、肥料の山の近くに場所を取ってはいけません。およそ十メートル、十五メートル離れた所からしなければなりません。ですから、その距離の分だけ、引っ張っていかなければなりません。
そうやって、それを港で待っているソ連の船に積み込むのです。数万トン積み込むのですが、それを毎日計算しながら、行わなければなりません。それが間違った場合は、大きな問題になります。国家間の外交問題がかかっているからです。ですから、ノルマは絶対に完遂しなければなりません。
そのような中で、仕事ができなければ二級に落ちるのです。かますを縫う仕事をする二級に落ちると、御飯は半分しかくれません。その次に、それもできなくなれば、縄をなう所に行くことになります。縄をなう所に行くと、御飯は三分の一にしかなりません。それは死ねということです。
結局、一握りの御飯をもらうために、必死になって働きに出るのです。夕方、帰ってきて、ほかの人と同じように一握りの御飯をもらうことが一番の希望なのに、その半分や三分の一をもらうことになれば、茫然とするのです。ですから、死に物狂いで、御飯のために死ぬまで働かざるを得ないというのです。
19 お父様は、監獄でマラリアを患っても祈りませんでした。かえって、そのような時には断食をしました。「ようし、やるぞ!」と言って、薬も飲むことができずに二十四日間患っても、責任量の仕事を完遂していきました。朝、働きに出掛ける時に、監房から出るように言われます。広場に全員集めておいて、不法な所持品を持っていないか、すべて身体検査をします。そうすると、そこで一時間から二時間が費やされます。こうして九時に作業が始まるとすると、一里以上の道のりを歩いていくのに一時間から一時間二十分かかります。御飯を食べる時間を入れれば、二時間以上はかかるというのです。
ですから、働きに出るとなると、普通明け方の四時半に起きて、九時に作業場に到着するのです。そうやって出掛けて座り込むと、頭が非常にくらくらします。頭がくらくらして、立つことができません。ですから、横の人の肩をつかんで立ち上がるのです。作業場に行っても、自分の力で働くのではありません。
限度を超えた冷酷な監獄の食事
収監者たちには、少量の雑穀御飯と塩の汁物が配給された。御飯は粘り気がなく、大口で食べると、三口ほどにしかならなかった。それでも、仕事をしなければ配給量が半分に減るため、具合が悪くても作業場に出ていかざるを得なかった。御飯を食べながら死んだ人の口の中から、御飯を取り出して食べることもあった。正に、興南監獄は冷酷さの限界線を越えた場所だった。このような所でも、真のお父様は、最初の二、三週間、配当された給食の半分を収監者たちに分け与えられたのである。
20 監獄でお父様は、決して一言も話しませんでした。共産主義者たちの組織を知っていたからです。お父様にとって最も大変だったことは、虚偽の演説を聞いたあとに感想文を書くことでした。監視員たちは監視の目をお父様に集中させて、告発する条件を探し求めていました。共産主義者たちは、お父様の部屋にスパイを入れておきました。ですから、お父様は一言も話さなかったのです。
監視員たちは、一人の囚人に御飯を少し多めに与えて、その囚人を手先として利用しました。これは、とても簡単にできることです。共産主義の世界では、御飯で人々を操るのです。皆さんが御飯を食べながら、時々、石が入っているときがあると思いますが、ある人はそれを吐き出すでしょう。しかし、囚人たちは、吐き出したものまでも、ことごとくなめて食べるほどでした。このような状況が続いたのです。
21 お父様は、一九四九年十二月十七日から二十一日までの期間を、一生忘れることができません。当時、監獄に入っている人には、大概とうもろこし御飯や燕麦(えんばく)御飯、それから豆かすのようなものが与えられました。殺すことができないので食べさせるのです。
その期間には、そばを半分しかひいていないもので作られた御飯が与えられました。そのようなものを配給して食事にしたのです。それを最初に食べたときは、肌がむくみました。そばの御飯だけを食べると腫れるのです。その御飯を食べるとき、御飯に気をとられた人たちは、胃がどうなろうと食べます。胃のことを考えません。おなかがすいているので、それが食べづらくても、そのままごくりとのみ込んでしまい、病気になったのです。
お父様はそのことを既に知っていました。ですから、普段、御飯を食べる時間よりも三倍ゆっくり食べました。すべて一つ一つ皮を剥いて食べたのです。ほかの人たちは、その食べ物を食べて、消化できないので顔が腫れました。ですから、食べる時は、唾を倍以上も出すようにして、長時間かんで食べなければなりません。その時、そば一粒一粒、すべて皮をむいて食べたのですが、それが一生忘れられません。
またその上、仕事は重労働をしました。その時、この世で御飯がどれほど貴重なものかを知りました。米一粒がどれほど貴いかを、その時に知ったのです。食膳が出されると、その時のことが思い出されます。
22 興南の肥料工場でする仕事は重労働です。一般社会の人でも、一週間に一度ぐらいは豚肉を食べなければなりません。豚肉は脂が溶けていきます。牛肉は脂が固まりますが、豚肉の脂は流れ落ちるので、細胞を洗浄する作用があるのです。肥料の成分が体の中に入って固まってはいけません。ですから、人々は、一週間に一度くらな肉の脂身を無性に食べるのです。しかし、そこに肉があるでしょうか。「御飯でもたらふく食べられたらよい」と思うのです。
朝御飯は、お父様なら三さじも食べれば終わりです。口を大きく開けて食べれば、三さじにしかならないというのです。それを食べて八時間、重労働をするのです。
収容者たちは、朝御飯を食べて工場に出掛けるのですが、工場まで一里以上の道のりです。一里を超える距離を歩いていけば、足もふらつきます。そのような状態で八時間労働をしなければなりません。
23 食べることができずに病気になり、死にかかっている人にとって、御飯は救世主です。一握りの御飯は、この世の一軒の家と取り替えても余りあるのです。ですから、御飯を食べている途中で息絶えると、その人の口にある御飯を取り出して食べるほどになります。狂気の沙汰といっても、そのような狂気の沙汰はありません。食べている御飯の中に石があって吐き出したものに御飯が一粒付いていれば、他の人がその石に付いた一粒を拾って食べるのです。生き地獄です。
そうしながら、反動分子を音もなく除去するのです。千人いたら、死んで監獄の後門から出ていく人が、一年で四百人近くになります。三年から四年もすれば、すべて死ぬということです。脂気がすべて抜けて死ぬまで仕事をさせるために、そのような政策を取るのです。無慈悲という程度ではありません。無慈悲なことにも、ある程度の限度があります。冷酷なことにも限度があるというのです。これは、限度をはるかに超えたことです。
24 私が興南の監獄に入っている時、千人近くの人がいました。その千人の中で、一年だけ過ぎると、四〇パーセントほどが死んで出ていきます。ですから、毎日葬式を行うのです。毎日、後門から棺が出ていくのを見なければなりません。自分の部屋にいる人たちも、そのように死んでいくのです。三十人いれば、十人以上死ぬことになります。
看護する人がいて、御飯を食べて死んでいくのではありません。病気になって苦しむことよりも、おなかがすく苦痛のほうが上回っているのです。病気になった人でも、仕事をしなければ御飯は半分しかもらえません。監獄で大きな一握りの御飯をもらうのと、半分をもらうのを比較してみると、大きいのをもらう時は天国のようで、小さいのをもらう時は地獄のようです。いくら話しても、皆さんには理解できないでしょう。
結局、仕事に出掛けて帰ってきて、やっと御飯がもらえるので、病気でも仕事をするのです。門を出る時に座り込んでいたとしても、這ってでも仕事に出掛けます。仕事をするふりでもしなければなりません。もう半分の御飯のために、あがきながら、仕事が終わるまで我慢するのです。帰って御飯をもう半分もらうことが、最高の理想だというのです。
ですから、御飯をもらう時間には、具合の悪い人はいません。自分のノルマに相当する御飯は、すべてしっかり食べるのです。そのように御飯をもらって戻り、死に物狂いでその御飯を食べている途中で、結局スプーンを落とし、目を閉じて死んでいく人が一人や二人ではありませんでした。
25 今でもお父様が一番忘れられないことがあります。私が興南の監獄にいるとき、母が一カ月に一回、面会に来ながら持ってきてくれたはったい粉を、監房にいる囚人たちと分け合って食べました。一つの監房に三十人以上いたので、たくさん分けてあげることはできず、新聞紙の切れ端に一さじずつ盛って、分けてあげたのです。
それは、牛カルビなど問題になりません。そこでの豆一粒は、外の世界での大きい雄牛十頭に勝るのです。いくら体面をつくろって威信をかざしたてる人でも、一粒の豆が落ちれば手を伸ばすようになっています。三十人以上が一斉に手を伸ばし、互いに豆を拾おうとするのです。恐らく皆さんは、そのような境地を想像することもできないでしょう。
26 監獄にいる時、はったい粉を分けてあげる日は、正に祝宴の日です。お父様は、それをあげるのが惜しいからといって一人では食べません。絶対に一人では食べないのです。このはったい粉を水でこねて、はったい粉餅を作り、新聞紙に包んで作業場に持って出掛けます。食べたいのを我慢して、昼食の時間まで耐えなければならないのですが、その食べたい思いがどれほど切実か分かりません。それでも、それを分け合って食べたいので我慢するのです。汗を流して仕事をしながらも、一日中、そのことしか考えません。そうこうするうちに、昼食の時間になれば、それを分けて食べるのです。
私たちが働いていた肥料工場は大きいので、第一作業場と第二作業場に分かれていて、大きな肥料の山がそれぞれいくつかあります。作業時間にはそこで仕事をしますが、休み時間の十五分間は、それこそ天国です。その世界の生活というものは、体験してみたことがない人には分かりません。このような体験は、億万のお金とも交換することができません。それは血の涙で染まっているからです。自分の生涯のすべてを投入しなければならない世界が、正にその世界です。
27 監獄にいると、みな、おなかがすいて死にそうになります。肝油はどれほど生臭いでしょうか。その生臭い肝油に御飯を混ぜて食べても、生臭さが感じられないのです。それをコップに一杯そのまま注いで飲んでも、生臭くありません。それだけ体に脂気が不足しているということです。それがどれほど芳しいか分かりません。それだけ飢えているのです。ですから、(普通の人なら)仕事をしていても御飯が恋しく、自分が死ぬことも知らずに、ただ御飯ゆえに苦労して働くのです。働かなければ御飯を半分しかくれませんでした。御飯を半分しかもらえないというのは、死ぬほどつらいことです。そのような世界で彼らを慰労してあげ、彼らを教育してあげなければなりません。
私はたくさんの人を生かしました。「この工場で働けば、何カ月間はこのような症状が起き、また、このような症状も起きる。何カ月間はこれこれこのようになるが、この峠を越えられなければ必ず死ぬことになる。だから私の言うことを聞きなさい」と話し、大勢の人がお父様の言葉どおりに生活したおかげで、死にゆく環境の中で生き残りました。その人たちか弟子になったのです。ですから、監獄に行っても、教えてあげなければなりません。
28 興南の監獄にいる時、人々は御飯が恋しいので、どんなに具合が悪くても仕事に出掛けます。そうして帰ってきては、御飯をもらって三さじも食べられないまま、口に入れてかみながら死んでいく人もいます。すると、周りにいた人たち同士でけんかが起こります。口に入っていた御飯粒までも取り出して食べるのです。
お父様はそのような中でも、二、三週間も(御飯の)半分を人に分け与え、半分だけを食べて生きました。三年ではなく、五年、十年でも生きるのです。自然の中には目に見えない波長があります。自然が私を生かすために何かをあげたいと思うのです。私が自然を好むからです。近くの丘にりんご畑があれば、そのりんご畑から香りが漂ってきます。その香りをりんごのように感じて、ごくりとのみ込めば、本物のりんごを食べるのと同じなのです。
29 お父様は、りんご一つを握り締めて本当に感謝したことがあります。共産圏の監獄にいた時のことです。一年に二回、五月一日と一月一日には果物をくれます。りんごが一つ配給されるのですが、自分で良い物を選ぶのではなく、順番に分けてくれるのをもらうのです。虫食いの物でも、どんな物でも、ただ配給してくれる物を受け取らなければなりません。りんごを分けてもらうと、普通の人たちは受け取るなりむしゃむしゃと、一分もかからずにすべて食べてしまいます。
しかし、お父様は、「この色は、どれほどきれいなのだろう! この色を味わおう」と考えました。そして、「色を味わい、それから味を味わってみよう」と考えました。そうすると、口を開けて食べようという思いが湧かないのです。食べずに取っておいてこそ、目の保養にもなり、匂いも嗅いだりできるので、食べようという思いをもつ自分になれないことを感じました。
かといって、それを持って行き来するような状況でもありません。ですから、食べることは食べるのですが、食べる時は、神様のみ前に祈りながら、「りんごを食べますが、私が世界で最初にこのような思いをもって食べます」という自負心をもって食べたことがありました。
30 お父様は、監獄で御飯をもらっても、「おかずがない」と不満を言うことはありませんでした。水を置き、おかずのない御飯を食べても、天の父を呼びつつ「あすの希望をもって歩んできたお前ではなかったか」と言って食べました。そこでは、おかずがあったとしても御飯と一緒に食べることはできません。
監獄の中は、食事をする人が千人近くいるので、お汁と御飯を一緒に与えることはできません。一時間以内に御飯を食べなければなりませんが、お汁は向こうで、御飯はこっちでと、別々にくれるので混雑するのです。御飯だけ受け取るのに三十分かかります。そのように御飯とお汁を受け取っていれば、食事の時間が過ぎてしまいます。また、食事の時間が終わるやいなや、三分以内に作業場に出発しなければなりません。ですから、一方の手にお汁を受け取り、もう片方の手に御飯を受け取って、このようにそろえて食べる余裕がありません。手当たり次第に、お汁はお汁で、御飯は御飯で列に並び、受け取ってすぐに食べるのです。御飯を先にもらえば御飯から食べます。おかずなしの御飯を食べるのです。
そこで、おかずなしで御飯を食べる方法を学びました。御飯だけでも本当においしいのです。私は昔から、おこげがとても好きです。神様はよくぞ私を訓練してくださったと思います。昔、私が食べたおこげの味が、その御飯の味です。そこにこげた昧が少し加われば、普通の御飯には見向きもしなくなるほどおいしくなります。いつもそのように、お汁はお汁だけで、御飯は御飯だけで食べました。そのような場でも、私はみ旨を中心として生命を捧げる覚悟をし、神様のために孝の道理、忠の道理を尽くすのだと思って生活しました。
獄中の聖者
興南監獄の収監者たちにとっては、御飯と休憩ほど大切なものはなかった。しかし、真のお父様は、忠母様が面会の際に持ってきた服と食べ物を、他の収監者たちに分け与えるなど、困難な状況でも、かえって神様を慰労し、蕩減復帰路程を歩むべき孝子、忠臣、聖子としての道を歩んでいかれた。真のお父様は、獄中で最も困難な仕事を一手に引き受けて行うなど、模範的な監獄生活を送られたため、共産党から三度にわたって模範労働者賞を受けられた。サタンからも認定されたのである。
1 興南の監獄で囚人たちは、少量の食事と重労働で、常に栄養をきちんと摂取できずにいました。胃は常に働かなければならないのですが、次の日の朝、起きると、自分のおなかが板のようになっていることに気づきます。それが共産党の労働者収容所の生活です。
監獄から作業場までの距離は、一里以上の道のりでした。毎朝監獄から作業場まで歩いていく時は、手をつないで四列に並ばなければならず、横には小銃と拳銃で武装した警備員たちが監視しています。もしも、列が乱れたり、手をつないでいないことが発見されたりすれば、その人たちは脱出をたくらんでいるとみなされるのです。ですから、自分の頭をまっすぐに上げることができません。いつもこのような状況でした。
お父様はそのような環境の中で、どのようにして生き残ることができたのでしょうか。人間は肉身だけではありません。もしも囚人たちが、食べ物だけを食べて生きるようになっていたならば、彼らは死んでいたはずです。精神力が重要です。
2 お父様は、興南の監獄にいながら、ほかの人の二倍まで仕事をしようと決心しました。仕事をするたびに、常に試験を受けていると考えたのです。より一生懸命に仕事をするとき、私の肉身がどのような影響を受けるのかを分析し、研究しました。時々速度を上げると、私の体が変化しました。もし普通に仕事をしていれば、私の体はどのように反応していたでしょうか。
私の組の十人の中には、何人か体の弱い人もいました。ですから、自分のノルマを完遂できない人たちの分を補うために、私のノルマ以上の仕事をしました。毎日そのようなことを続けました。作業をする間に御飯のことを考えていれば、働くことができません。ですから、仕事をする時、御飯のことは考えませんでした。常に、そうするような運命に定められている、そのような仕事をするために生まれてきたと考えました。まるで復帰摂理を行うかのように、常にすべての心情と誠意をその仕事に注いだのです。
3 お父様は監獄で作業する間、常に霊界で経験したことを考え、後日、子孫たちや従う人々に見せてあげる映画の主人公であると考えました。お父様に従う人々や子孫たちは、私が仕事をするのを見ながら感動するだろうという思いをもって働きました。
作業は、午前九時から始まり、十時過ぎに十五分間の休憩時間があるのですが、その時間にトイレに行きます。しかし、お父様は決してそのことを考えませんでした。休憩時間を告げるベルが鳴っても聞こえませんでした。周りに誰もいないことに気づいて、初めて休憩時間であることを知りました。体は仕事をしていましたが、霊は休んでいたのです。そのような精神で働いたので、体重が減らず、ほとんどそのままの体重を維持しました。体重がほとんど減らなかったというのです。ですから、看守たちはとても驚きました。
また、働きに行くたびに、常に最も困難な仕事を探して、それをしました。数カ月後、最高の労働者と呼ばれるようになりました。脱出の陰謀を企てることができないように毎日組み替えをしたのですが、組を新しく編成するたびに、囚人たちはみな、この最高の労働者と同じ組になることを願ったのです。お父様の後ろには多くの人たちが並んでいました。
4 お父様は、青春時代に疲れ果てそうになる時も多かったのですが、疲れ果てないようにしようとどれほど気をもんだか分かりません。それは、ただ何もせずにできることではありません。囹圄(牢獄・獄舎)の身になったときも、「神様、私に同情なさらないでください」と言いました。困難な状況でも、絶対に祈りませんでした。深刻でした。一週間でも、一カ月でも話をしません。これは何を意味するのでしょうか。難しければ難しいほど、「私の最高の知恵を絞り、最高の精誠を込めて、私によって神様がこの難しい環境を打開できる道を、いかにして模索するか」と考えました。
私によって、私が救いを受けようと考えたのではありません。「この難しい心情的動機をつなげて、いかにして神様が痛哭し、悔しさと無念な思いをもちながら、これを強く打つことができるようにするか。怨讐の敵陣を撃破できる心情の爆発力をいかにして刺激させるか」という面を考えたというのです。そして、「早くここから出なければならない」とは考えませんでした。おなかがすけば、「腹よ、空腹になるならなってみよ」と思いました。これから世界が行かなければならない蕩減復帰路程を掲げて、空腹以上に深刻な立場で、神様を強く抱き締めて涙を流した時はありましたが、その場を免れるための努力はしなかったというのです。
5 千万の男がみな後退してしまうような峠がいくらでもあります。監獄に入って、「私がこの死の場で生き残るためには、御飯を半分だけ食べても生きようという決心をしなければならない」と思い、二、三週間、私の御飯の半分を他の人に分けてあげました。他の人の半分だけ食べて生きようというのです。ですから、いつでも心理的に御飯を食べなければなりません。半分しか食べられない境遇で、さらに半分もらって食べられるという心理的余裕が、生命を引っ張っていける力になることを発見しました。数カ月もすると体に変化が起こる理由が何か、すべて分かるので、死にゆく若い青年たちをたくさん生かしてあげました。
6 自分の体力を保全するためには、運動をしなければなりません。お父様が興南の監獄にいる時に考案した運動法があります。この運動をすれば、とても効果があります。そのようなことを続けたので、私は食べるのは少しですが、精神力で補充しながら体を鍛錬してきました。今の体とそれほど差はありませんでした。少しやつれていただけです。その時、監獄にいても、約七十二キログラムはありました。他の人たちは、ただ骨と皮ばかりになり、背中がやや曲がって、屍のように感じるほどでしたが、私は絶対に、そのようにはなりませんでした。
7 興南の監獄にいる時、普通の人たちは日曜日には休みます。あのきつい重労働をして日曜日になると、どれほどうれしいことか、それこそ安息日だというのです。ただありったけの力を振り絞って土曜日の夕方までは、どうにか我を忘れて働きます。正気ではありません。肥料工場に出掛け、仕事をして帰ってきたあとは、骨の髄から参ってしまいます。ただぐったりとするのです。御飯さえ食べたら、そのあとは倒れて起き上がることもできません。土曜日の夜と日曜日は、それでも自由が与えられるので、その場で食べて寝るのです。
しかし、寝るのが災いのもとです。お父様は三年近くその監獄にいましたが、昼寝を一度もしませんでした。絶対に昼寝をしないのです。心に決めた睡眠、心に決めた食べ物以外は欲しませんでした。
8 人は死ぬ時に、王子なら王子の権威を備えて死ななければならず、忠臣なら忠臣の姿勢を備えて死ななければなりません。のたれ死にすることはできません。お父様は、興南の監獄にいる時も、体を拭き、毎日のように冷水浴をしました。一日中肥料の山で仕事をしたので、硫酸アンモニウムが体に付いていて、皮膚がただれる可能性があります。そのような体を、夕方に飲むように与えられる水を飲まずに、明け方に起きてその水で手拭いをぬらし、冷水浴をしたのです。「出役(働きに出掛けること)!」という声がして準備するその時間に、サッサッサッサッと拭きました。
収容者たちに、便所で使うような水で沫浴させていましたが、私は死んでもその水ではしませんでした。ですから、水を飲むことが問題ではありません。自分の体を保護しなければならないのです。私は監獄にいながらも、ふくらはぎを人に見せたことがありません。いい加減な生活はしませんでした。興南の監獄で「獄中の聖者」という名前を残した人物なのです。
9 天に侍る人は、監獄にいるからといって、体をなおざりにすることはできません。これ以上ないほど疲れる労働をしても、座る場所を選んで座り、土曜日や日曜日には昼寝をしたことがありません。他の人たちは、重労働をして帰ってくると、御飯を食べるやいなや寝てしまいますが、私はそのまま寝たことがありません。監獄で一緒に生活する人たちは、重労働で疲れて先に寝るので、お父様の寝る姿を見たことがないという話が出たのです。そして、明け方には誰よりも早く起きます。また、夜は必ず一人で運動をします。そこでは飲み水がどれほど貴いか分かりません。一口の水が命と同じです。
そして、小さな部屋に数十人がいるので、夏の暑い時には、汗をかき、服を脱いで絞れば汗水が出るのです。ですから、ひしゃくで何杯も水を飲まなければ生きられません。自分の体を清めた、その立場で天に侍るのが道理です。
そこでは、どんなに暑くても自分の肌を見せませんでした。肥料工場から出てくる肥料が窯で熱せられて出てくるので、どれほど暑いでしょうか。そのような暑い所でも、下半身を見せませんでした。貞節を守る女性以上の訓練をしてきたのです。いくら監獄での生活が険悪でも、私の行く道を遮ることはできません。
10 興南の監獄に入って肥料工場で仕事をするとき、とても暑い陰暦五月から六月の盛夏でも、お父様はズボンの裾を締めるひもを結んで仕事をしました。すねも出しませんでした。最近は半袖の服も着ますが、昔はそのような服が本当に嫌いでした。私の体を神様のみ前に捧げなければならない神聖な道が残っているので、神様のために精誠を尽くすところでは、誰にもこの体を見せたくないと思ったのです。ですから、一人で寝る時も、手足を広げて眠りませんでした。上に神様がいらっしゃるというのです。寝る時にも礼法があるのです。
11 私が共産党の統治下で監獄生活をしていたときは、要注意人物でした。その監房には、誰々を監視せよという命令を受けた二、三匹の犬がいました。その犬というのは、動物ではなく、「臭いを嗅ぐ人間」だというのです。それが分かったので、私は話をしませんでした。半月たっても話をしませんでした。そして、日曜日は寝ないことで有名でした。また、明け方に起きて冷水摩擦をすることで有名でした。
いくら困難な環境に置かれていても、天に侍る責任があります。地獄に行っても、そこで天国人としての生が光り輝かなければなりません。いくら薄手の服を着て寒くても、いくら追われる哀れな立場にいたとしても、自分が選ぶべき天との関係を優先させてきました。
12 監獄では、夕方に御飯を食べてしまえば、することがありません。ただ座って時間ばかりやり過ごさなければなりません。話すことしかすることがないので、世間話から何から、話題にならない話がありません。一番初めは自分が罪を犯した話から、自分の親の話など、すべて出てきますが、それから何カ月か過ぎると、話すことがありません。何も話さなかった人は私しかいないのです。ですから、私に話をしてくれとせがむようになっています。
それで、「どんな話をしてもいいのか」と念を押したあと、短編小説、長編小説を作って話をするのです。毎日のように小説を一編ずつ語るのです。誰の小説でもなく、どこかの文学作品に既にある内容ではありません。私が題名をつけて創作するのです。私には、そのような頭があります。長編小説を一晩でも何編もつくり出すことができます。顔を見ながら三日くらい話をしてあげれば、どんな話をしても、しきりに「おもしろい」と言うようになります。そのあとは、私が一番隅の狭い所に座っていれば、何度も引っ張り出されるのです。「嫌だ」と言っても、監房長が何度も引っ張り出すのです。私はどこに行っても最も悪い場所、便器の横で過ごしていたのですが、私が「出ていかない」と言えば、監房長が「私がそこに座るから、あなたはあそこに座りなさい」と言うのです。それが、本然の世界です。
13 収容者たちにとって最もうれしいこととは何でしょうか。監獄でも一度、思う存分に休みたい、仕事をする時間でも一度休みたい、というのが切実な望みです。ですから、作業する組を編成するときに、互いに仕事が上手な人同士で組になって超過達成をしようとします。仕事をすれば、私は誰にも負けません。何でも上手にやります。肥料かますを縛って運ぶにしても、何の仕事をするにしても、やれば、誰かに負けたりしません。ですから、私と同じ組に編成され、私が指示するとおりに働きさえすれば、組のノルマを早く終えます。そのようにして普通、午後一時半から二時には終えてしまうのです。それは誰も付いてくることができません。
御飯のことを考えていては、御飯が人を捕って食べてしまうのです。御飯のことを考えてはいけません。仕事をするなら、その仕事をおもしろく思って、「きょうは私が昼食時に一かますでも多く縛ろう。人よりもたくさんやろう」という一念で、一かますでもより多く縛ることに楽しみを感じながら働けば、疲れません。そうしてこそ、体を保っていくことができます。かますをいくつか片づけただけで「御飯を食べよう」と考える人は長続きしないのです。
14 肥料をかますに入れて秤に掛け、かますを運ぷのに、私たちの組は五分から十分かかりますが、私は平均五分間でやってのけます。他の組は十五分かかります。このように時間がかかっていては、責任分担を果たすことができません。山を崩していきながら秤を移動させるのですが、秤を四、五メートル以上移していれば遅れます。ですから、ほとんど動かさずに行う方法を研究しました。誰もこの方法のとおりに従わないので、仕方なく一人でしました。そのようにして、お父様が千三百かますのうち半分以上を一人でやっていると、みな良心があるので付いてくるようになるのです。
お父様は模範労働者でした。共産党から毎年、模範労働者賞をもらいました。その頃は体重が七十二キログラムでした。外見からはそれほど体重はないように見えますが、骨が重いのです。ほかの収容者たちはやつれていくのですが、私はやつれませんでした。ですから、あらゆる人の研究対象でした。
15 興南の肥料工場の硫酸アンモニウムには硫酸が入っているので、肌に付くとひび割れして、毛が抜けるようになります。肌が肥料かますに触れるので、ひび割れるのです。朝、血がぽたぽた流れます。硫酸アンモニウムがひび割れたところに入り、朝になって血が出たりすると落胆しかねません。それでも、「お前たちがいくらそのようにしても、私は生き残らなければならない」と思いながら、それを克服しなければなりません。これよりひどくなったとしても、やらなければならないというのです。
そこで人間の精神力がどれほど偉大かを知りました。そのような環境に少しも屈せず、堂々と最高の位置に立つことができたのです。ですから、監獄にいる人たちまでも、あとからお父様のことを尊敬するようになりました。仕事ができる誰それといって、賞をもらいました。そのようなことが起きたのです。結局は切り抜けたというのです。どんなに困難な監獄でも切り抜けていく余力がなければなりません。それを克服できなければならないということです。
空腹と寒さを克服しなければなりません。暑さはそれでも克服しやすいのです。また、睡眠を克服しなければなりません。たとえ死んだとしても、「お前は負けずに、勝利して死んだ」という思想を残さなければならないと思いました。このような基盤を霊的に残さなければ、再び地上で活動できる基盤を失ってしまうと考えたのです。
16 私が精誠の限りを尽くし、涙で勧告しながら教えた人たちが、興南の監獄でたくさん死んでいきました。そのような所でも私を呼びながら、「私の両親に、私はこのように死にますが、あなたと共に良い日を過ごしたと伝えてください」と言って、死んでいった人たちがいます。その時は、どれほど空腹だったか分かりません。御飯を口に入れて、かみながら死んでいく人もいます。するとその横にいる人たちが、先を争ってその御飯を取り出して食べるのです。それは、皆さんには理解できません。
そのような場所で、父母にならなければならず、そのような場所で、兄にならなければなりませんでした。そのような場所で、「私がこのようにしているのだから、あなたたちも倒れてはいけない」と言って、私が見本にならなければなりませんでした。ですから、そのような環境で、お父様は毎年表彰を受けました。他の人たちが「難しくてできない」という仕事があれば、私が行って、その仕事をしました。互いに易しい仕事をしようとする中でも、私は最も難しい仕事を探し回ったのです。
17 私は学生時代に、共産主義の理論を勉強した友達と理論闘争もしてみましたが、その理論どおりにしてはいけないと思い、共産主義者たちと闘ってきました。共産主義がどのようなものか、詳細に知っています。(興南)監獄の組織は、共産党の組織の中で最も緻密な組織です。そのような中でも、お父様は自己批判をしませんでした。二年五カ月の間、自己批判書を書きませんでした。それで、要注意人物になったのです。
そのような中で、黙々と一等の労働者にならなければなりませんでした。生き残る方法は、それしかありません。少しでも後退し始めれば、生き残れないのです。ですから、すべてのことにおいてチャンピオンです。誰も私にかないません。肥料を詰めることにおいても私が一番であり、運ぶことにおいても、縛ることにおいても、また貨車に積むことにおいてもそうです。ですから、毎年、表彰されたのです。
監獄で花咲かせた真の愛
真のお父様は、最悪の場でも天に背くことなく、かえって天を慰労された。そのため、監獄の囚人はもちろん、ひいては共産党員たちまでも、真のお父様を尊敬し、従ってきた。特に、監獄で勝利する道は、ために生きて自らを犠牲にする道しかないと考え、真の愛を実践された。真のお父様は、死の道でもイエス様の恨を解き、再臨主の使命を果たそうとされたのである。
18 私が監獄にいる時、はったい粉をもらっても、一人では食べませんでした。すべて分けてあげました。そのように分けてあげてみると、私の食べる分がなくなり、横の人たちが集めて私にもってきてくれるということが起きたのです。ですから、そこにいる人たちは、お父様に対して何も言えません。
また、三十人以上が一つの部屋で寝るのですが、私が最も悪い場所で眠りました。寝ている途中で起きて用を足しにいこうとすれば、便器が隅にあるので、人を踏みつけていくことになります。あまりにもぎゅうぎゅうに詰めて寝ているので、強く押しても駄目なら、足で蹴りつけるのです。そのようなことがよく起きました。
しかし、その人たちが、私に足蹴りをしてしまったとしても、次の日の朝に来て、「すみませんでした」と言います。ほかの人であれば、「きのうの夜、なぜそんなことをしたんだ」と言ってけんかが起きるのです。また、急ぎの時には、私のおなかを踏んで越えていったとしても、私であることに気づけば、「気がつかなくてすみません」と言います。お父様はそのように生きました。
19 私が興南の監獄にいる時、母が定州から興南にまで来て私に会おうとすれば、証明書を十八枚ももらわなければなりませんでした。母がそれをもらって、息子のためにと、はったい粉を持って訪ねてくるのです。はったい粉を作る米や麦があるでしょうか。あとで知ったことですが、村中を回りながら、物乞いをしたそうです。遣い親戚の所に行って、「息子がこのようになってかわいそうなので、哀れに思ってください」と涙を流しながら物乞いをして、はったい粉を作り、毎月持ってきてくれました。また、冬には凍え死ぬのではないかと思って、母が服も作って持ってきてくれました。
そのようにして持ってきてくれたはったい粉を、その場ですべて分けてあげました。私一人で積み上げて、食べることはできません。良心が許しません。服は、囚人服を着ることはあっても、面会に来た時に持ってきてくれた綿入れのズボンの服は着ることができません。何年監獄にいても、面会に来る人がいない人がたくさんいます。彼らの前でそれを着て自慢する立場には立てません。その服も、もらったらすぐにすべて分けてあげました。そうして、破れた囚人服、肌の見える服を着ました。そのように風になびく服を着ている姿を見るとき、母はどれほど唖然として言葉が出なかったでしょうか。聖子の行くべき道は、このような道です。聖子の道理、愛国者の道理、忠臣の道理を果たそうとすれば、このような道を行かなければなりません。
20 興南はどれほど寒いか分かりません。「冬の風が吹くと、砂利も飛ぶ」と言われる所です。面会に来た母が息子を見ると、冬に下着も着ずに、ほとんど破れた単衣の囚人服をそのまま着ているのです。ですから、「持ってきてあげた下着はどこにやったのか。持ってきてあげた綿入れの服はどうしたのか」と尋ねました。母から見れば、はらわたが煮えくり返るのです。
私は母に、「自分よりもかわいそうな境遇の人にあげました。震えても一緒に震え、飢えても一緒に飢えようというのに、それが悪いでしょうか」と言いました。堂々としているというのです。天地の何人の前でも堂々としています。
そうすると、母が来て私に忠告します。「お母さんの事情も知らず、そんなことができるのか」と言うのです。「お母さんがお前のためにこのように準備してきたのに、それを誰が人にあげなさいと言ったのか」と言うのです。ですから、私が母に向かって、「私はそのような金某の息子ではありません。私は、そんなお母さんをお母さんと思っていません。むしろ(お前は)母親よりも立派だと褒めながら、「欲しい物があればもっと持ってきてあげよう」と言うべきなのに、それが忠告だと言うのですか」と言うと、母はただただ大粒の涙をぽろぽろとこぼしました。そのことを、私は忘れることができません。
21 朝食を食べてから昼の十二時まで、どれほどおなかがすいたか分かりません。舌がすれて高熱が出た時のような臭いがします。そのような環境で、私もおなかがすくのですが、同じ囚人たちを慰労するために、一場の長編小説を話し続けるのです。そうすると、一カ月もたたないうちに、彼らが差し入れてもらったものを私のところに持ってきて、「先生の好きなように処理してください」と言ったのです。それは驚くべきことです。
原理は簡単です。ために生きる愛をもって完全投入すれば、そのようになるのです。天理の根本がそのようになっているので、その根本を私が抱き締めていくところには、それを破壊する人がいません。私がそのように行動すれば、出力は強くなります。悲壮な決意と涙が交差する誓いをして、代わりに死の道を行くという旗印を掲げて進み出る群れが現れました。ですから、これは間違いなく真理の道です。
22 私が監獄にいる時、忘れられない出来事がありました。私の誕生日でした。監獄は殺風景な所です。そこに平壌の人がいたのですが、その人が私の誕生日であることを知って、朝、自分が食べ残しておいた一杯のはったい粉をくれたことが、生涯忘れられません。いつか、何千倍にして返してあげなければならないと思います。
私は世話になるのが本当に嫌いな人です。世話になったら、必ず返さなければならないというのです。私は世話をするために来たのであって、世話になるために来たとは考えません。私が「やる」と言って進み出た道では、絶対に最下位にはなりません。
23 私が興南の監獄にいる時、私に従った人たちがいました。その人たちは、食べる物があれば、私に持ってきてくれました。はったい粉を紙に包み、汗の臭いがする股のところに入れて、分け合って食べようとして持ってくるのです。検査をするので、見つかったら大変なことになります。それが、どんなに豪華な晩餐よりも印象的なのです。
生きてきてみれば、それが一生の間、記憶に残ります。すべての認識器官がそこに浸らなければならず、そこで体恤された感覚をもって霊界に行かなければなりません。それが祝福です。自分のために生きるのではありません。自分よりも全体のために生きるのです。
24 私は、北朝鮮の興南の監獄にいる時、共産党の要員たちや囚人など、ありとあらゆる人たちを愛するために先頭に立って闘った人です。ですから、その監獄の共産党要員たちが、私を保護するために気遣ってくれるのが分かりました。自分たちが犠牲になったとしても、お父様の秘密を保護しようとしました。共産世界の極悪性が集約された組織が監獄ですが、そのような監獄の世界でも、私を保護する道があることを発見したのです。そのたった一つの道は、犠牲になって愛する道です。これを私は発見してきました。
その監獄で共産党の幹部だった人は、家からはったい粉が送られてくると、それを練って餅を作り、股の間に隠して、仕事をする所まで一里以上の道を歩いてくるのです。うっかりすると落ちて出てきてしまうので、隠していることが見つかる可能性があります。見つかれば大変なことになるのです。
お父様と一緒に分け合って食べようとして、そのようにしたというのです。そのように自分の命まで懸ける危険なことがいくらでもあります。そうしながら、昼食時まで汗を流して働くのです。落ちて見つかると大変なことになるので、股間の奥深いところに隠します。そうすると、汗がしみて臭いがします。新聞紙のような物で包んだからといって、はったい粉に汗がしみ込まないでしょうか。汗がしみたからといって、それを捨てるわけにはいきません。
それを分けてくれるその時は、億万の宇宙を買って余りあるほどの愛の爆発が起こるのです。活火山が噴火するのです。そこでも、天の同志が蘇生するのをはっきりと見ました。ただその愛の道だけが、この世界を消化できることを知ったのです。
獄中の弟子を立てて蕩減復帰を勝利
真のお父様は、獄中の苦難を踏み越えて勝利された。監獄では、自らみ言を伝えて伝道することは不可能だったが、愛を実践することによって夢や啓示など霊界の協助を導き出し、十二人以上の獄中の弟子を立てられた。真のお父様は、イエス様が十字架にかかられるとき、イエス様に背いた十二弟子を復帰する蕩減条件を立てることによって、再臨主としての新しい出発のための基台を造成されたのである。
25 監獄には、私が「脱獄しよう」と言えば、命を懸けて付いてくる人たちがいました。死地においてイエス様の十二弟子が逃げたことを復帰しなければなりません。自動的に復帰しなければならないというのです。私が口を開かなくても、霊界が動員されて伝道してくれました。
お父様の囚人番号は五九六(韓国語の発音では、オ・グ・リュク)番でした。ある意味では、「悔しい(オグル)」という言葉に聞こえる香号です。ある人には、夢に先祖が現れ、差し入れのはったい粉を、少しも手を付けずにお父様のところに持っていくようにと命令をしたこともありました。それで、その人がはったい粉の袋を持ってとぼとぼと歩いてきて、「ここに五九六番はいますか。誰ですか」と言うのです。このように霊界が動員されて、食べる物を持ってきてくれたりしました。
その後、私が何も言わずに、平壌を経由して韓国に避難する際、四人の人が付いてきました。四位基合の復帰です。教会を中心とした四人を連れてきたのです。このように歴史は、復帰の原則を外れることはできません。
26 お父様は監獄で、極悪な死刑囚たちにも天の哀れみがあることを願いました。イエス様は、十字架で亡くなるとき、右の強盗に「あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」(ルカ二三・四三)と言いました。お父様は、涙が重なり合う事情をもった人々に、新しい望みと希望を与えるために闘ってきました。監獄に入っても、そのようなことをしたのです。
その人たちを慰労してあげ、私が監獄を出る時に、親が自分の元を去るよりもさらに切ない気持ちで涙を流す場を、彼らに残してあげなければなりませんでした。そのようにしなければ復帰の使命に責任をもてないことを悟り、そのような気持ちで生きてきました。ですから、監獄を出る時、私にしがみついて痛哭する人たちをたくさん見ました。そのようにしたので、私が興南の監獄を出て韓国に来るときに、四人の人が、自分の親や妻子を捨てて私に従ってくるということが起きたのです。
27 お父様の監房から離れた他の部屋に、私に従う人が十二人以上いました。そのように離れて過ごしていても、工場への出発命令が下れば、十五分間ですべて行列をつくるのです。その時は、出てきてトイレにも行ったり来たりするのですが、ほかの人たちと一緒に大勢で行くとトイレが満員になります。それで、監房別に座るのですが、看守が見張っているので、お父様がいる所に行こうとしても行けません。境界線を越えられないのです。
その人たちにとっては、お父様に会うことが一日の中で最も光栄なことであり、生命の道でした。ですから、看守が立っているその下を腹ばいになり、這いつくばるようにして通過しながら、会いにくるということが起きました。見つかった場合には、逃走を企てたとして銃床の端でたたかれ、独房生活を一週間から三週間しなければなりません。三回見つかれば刑罰が重くなります。問題が複雑になるというのです。そのような中でも彼らは、お父様に会って挨拶をしていくことを一日の栄光と思い、そのように行動しました。また、自分たちに食べる物があれば、自分も空腹なのに、私のところに持ってきて分け合って食べるのを光栄なことと思ったのです。そのような心情的絆が、皆さんの知り得ない歴史的背後の伝統として残っているという事実を知らなければなりません。
28 お父様が共産治下の興南の監獄に行って、残忍な圧制と虐待を受けるようになったのは、実体的な復帰の天命を帯びていたからです。サタンの銃剣の前でも、この獄門を開けて出ていくことができる天の人を、天は探し出せるようにしてくれました。直接語らなくても、霊界の霊人たちが伝道して、お父様に従わせました。私は口を閉じていましたが、自分の先祖たちが直接現れて伝道したのです。そうして、お父様は、イエス様を捨てて逃げていった十二弟子以上の弟子を監獄で探し出したのです。監獄から工場に出発する時間になると、共産党の物々しい監視の中でも、彼らはお父様に会おうとしました。すべての人々が仕事に行くために外に出て、ざわざわとしているのですが、そこで看守たちが銃を持って見張っているにもかかわらず、床を這って私を訪ねてきたのです。天が選んで会わせてくれた人たちは、そのように這ってきてでも、まず挨拶をしようとしました。神様はそのように役事(働き)されます。そこで蕩減基準、四位基台復帰の基準を立てたのです。
六・二五動乱と興南監獄解放
一九五〇年六月二十五日、六・二五動乱が勃発した。国連軍が結成され、連合軍が参戦した最初の戦争であった。この戦争は、民主世界と共産世界の対決の場であり、アベル型の人生観を集約した神本主義の唯心思想とカイン型の人生観を集約した無神論の唯物思想が対立した戦争であった。真のお父様は、国連軍の爆撃によって、戦争の勃発から百十二日日の十月十四日、興南監獄から解放された。国連十六カ国が参戦した六・二五動乱は、摂理から見れば、再臨のメシヤを神様が救出されるための聖戦であった。
1 六・二五動乱は、世界十六カ国の人々が血を流しながら、勝利を主張し、標榜した戦争です。そのような出来事は、神様の摂理に従ってきた人類の歴史上、初めてのことでした。
一国の内乱のようですが、神様の摂理歴史の中で、このような戦争は初めてでした。それがお父様と連結されれば、天のメシヤ精神と連結されるのです。ですから、この戦争の歴史を明らかにすることで、全世界が受ける影響がいかに大きいかというのです。そのような意味で、メシヤが生まれた所が祖国です。人類の祖国になる韓国を保護し、祖国光復を成し遂げるために、六・二五動乱に多くの国を動員したのです。
2 お父様が興南の監獄にいる時、六・二五動乱が起きたので、共産党は、監獄にいるすべての囚人を、最前線の三十八度線に立てて殺害する計画を立てました。事態がますます緊迫してくるので、そこにいるすべての囚人たちの中で刑期の長い人たちは、より遠い場所に後退させ、残りの約三分の二は最前線に送り出そうとしました。人海戦術を行うために、良くも悪しくもすべて引っ張っていったのです。命令に従わない時には、すべて銃殺してしまう計画でした。
その時、八百人以上を興南から定平(チョンピョン)まで引っ張っていきました。本来、興南から元山(ウォンサン)までは汽車が通っていましたが、その時は国連軍の爆撃で線路が寸断され、十二里ほどを歩いていかなければなりませんでした。七十人余りしか残さずに、すべて連れていったのです。その時、お父様も連れていかれましたが、夜八時に出発し、夜通し歩いて夜明け頃には八里ほどの所まで行きました。昼は爆撃があるので歩くことができませんでした。汽車もまた夜の時間を利用しなければならないので、早朝四時前に到着するようにしたのです。一日では着かないので、二日かけて行く計画で、初日の夜は夜通し歩き、朝方に立ち止まりました。
ところが、中央から私たちを乗せるために下ってくる汽車に途中で事故が起き、仕方なく数日間そこに停車して留まることになったのです。そこにそのまま滞在すると、かなりの支障を来します。この囚人たちを連れていく途中で、万が一事件でも起きれば、問題が生じるような状況になったというのです。そうして、看守たちはほんの数人しかおらず、囚人たちはたくさんいるので、問題が起きるのではないかといって戻ることになりました。戻ってきてから、また三日後にその八百人以上の囚人を連れていったのですが、その時は、私は残ることになり、監獄から出てくるようになったのです。
3 興南の監獄から解放されて出てくる時、私の後ろに四人の人が付いてきました。「先生が行かれるところに付いていきます」と言ったのです。妻も子もすべて捨てて、私に付いてきました。その中に、文氏の姓をもった人が一人いました。文氏の中にカインが一人できたのです。「自分たちの故郷には帰らない」と言って、出てくる時に四人の人が平壌まで付いてきましたが、その文氏はある所に連絡を取りに行き、その間に私たちが南に下ることになったため、離れ離れになってしまいました。
彼はカインとして以北に残り、私はアベルとして以南に来たのです。私が北朝鮮に行くことになったとき、彼が死んでいなければ訪ねてくるでしょう。もしも死んでいたなら、私が彼の墓を訪ねていって、石碑を一つ建ててあげなければならないと思っています。「あなたの精誠が途絶えることがなければ、韓国と北朝鮮がこれから出会う日があるだろう」と思って、今も祈っています。私は、父や母のためには祈りませんが、彼のためには祈っているのです。
4 興南の監獄から出てくる時に、監獄から私のあとに付いてきた人の中に文氏という人がいます。この人は、咸興(ハムン)にある咸鏡南道(ハムギョンナムド)の道庁で課長をしていた人ですが、名前を文正彬(ムンヂョンビン)といいました。部下が過ちを犯して捕らえられたのです。私と同じ監房にいたのですが、霊界から教えを受けて、お父様と縁をもった人です。
興南から平壌に出てくる時、私の後ろに付いてきました。彼には妻がいて、息子、娘がいました。私は監獄から出て、彼の家に立ち寄り、別れの挨拶をしてきたのですが、彼が付いてきたのです。これから平壌から南側に行こうとする時でした。金元弼の母親が教会の食口だったのですが、その母親が順安(スナン)に商売に行っていて不在でした。数日後には出発しなければならないのに、戻ってこないので、仕方なく金元弼の母親を連れてきなさいと、文正彬を送りました。
ところが、そこは、歩いていったとしても一日、二日もあれば戻ってくる距離なのに、戻ってこないのです。事態はますます緊迫してきて、中共軍に完全に包囲されそうだったので、このままでは駄目だと思い、仕方なく先に出発しました。ですから、それこそ「先生のために命を捧げる」と言って付いてきたその文氏という人は、出てくることができませんでした。金元弼の母親を連れてこようとして、南の方に出てくることができなかったのです。
5 私が監獄から出てきて平壌に行く時、付いてきた人がたくさんいました。「自分の故郷には行かない」と言ったのです。監獄から出たら、すぐに自分の故郷に帰らなければならないはずですが、帰らないというのです。彼らをみな帰し、四人だけ連れてきました。平壌に着くと、「自分の故郷に行ってきなさい」と言って、全員送りました。「何日何時まで来るように」と言いましたが、わずかにその日に間に合わずに後退したので、みなが従ってくることはできませんでした。
いつか、その人たちにまた会うでしょう。天のために忠誠を尽くし、天のために精誠を尽くす人は滅びません。天はお父様のことを愛しています。世の中の誰も知らない中で、寂しい時に天がそのように協助してくださった事実を体験しています。そのようなことが一度や二度ではありません。一度や二度ではないそのような過去を回想してみれば、その恩を忘れることはできないというのです。
6 私は、興南の監獄だけでも二年と五カ月間いました。そこから出てくるとき、労働しながら着ていた服を持ってきました。服の中で、作業着、ランニングシャツ、パンツ、このようなものはすべて木綿でできたものです。硫酸アンモニウム肥料工場で働いたので、木綿にそれ(硫酸アンモニウム)が付けば、木綿が溶けるのです。木綿は酸に弱いので、引っ張るとすべて破れてしまいます。ですから、長く着ていると穴が開いたり、ぼろぼろに腐食したりして、それを着ると乞食の中の乞食になります。臭いがして、どうしようもありません。服をこすると粉になってしまいます。それを捨ててはいけません。これが統一教会の歴史的な財産として宝物になるのです。
これを捨てることができないので、すべて布団の中にぎゅうぎゅうに詰め込みました。すべて布団の中に詰め込んだのです。そして、寝る時にはそれを敷いて寝ます。布団の綿を抜き取って、二年半の間着ていたぼろの包みを代わりに詰め込んだのです。監獄から出てくる時、持ち出す財産が何かあるでしょうか。興南から平壌までの十日間、それを背負ってきたのです。他の所帯道具はすべて投げ捨てて、それを持って出てきました。
そのようにして出てくる時、それをある食口に預けながら、「絹のチョゴリ、スカート、高級な絹の布団をすべて捨てたとしても、これだけは間違いなく私のところに持ってきなさい」と言ったのですが、それを先に捨てて自分たちの物だけをまとめて持ってきたのです。それで、それをなくしてしまいました。もしも今、その(歴史を証する)材料があれば、私が説明をする必要はないでしょう。天下とも交換できない貴い材料です。
7 私が興南の監獄から出てくる時に、それまで着ていたそのぼろを持って出てきました。それを売ったところで一銭にもなりません。廃品回収業者にあげても、見返りに飴の半分もくれないのです。三年近い歳月を送りながら、絹のズボンとチョゴリは人にあげてしまい、その囚人服だけを着て暮らしていました。触るとぼろぼろと綿のように崩れていくそのぼろが、何のために必要だったかというのです。それは、十年、一世紀、あるいは数十世紀が過ぎたのちには、億万のお金を出しても買えない宝物になるのです。
今、エルサレムにイエス様が使っていた箸が一膳でもあるとすれば、それはたとえイギリスを渡すといっても買えず、アメリカを渡すといっても買えないでしょう。このような言葉を、今日の若者たちが聞けば笑うかもしれませんが、千金、万金よりもさらに貴いので、困難な環境を克服してまで、それを持って出てきたというのです。
平壌で四十日間、弟子を収拾
興南監獄を出られた真のお父様は、十日後に平壌に到着され、多くの人々が避難の途に就く状況でも、四十日間、散り散りになった弟子たちを一人一人捜し求められた。故郷の定州(チョンヂュ)はそれほど遠くなかったが、父母や兄弟に会いに行かれなかったのは、アベルよりもカインを先に愛さなければならないという、蕩減復帰の道を行かなければならなかったからである。そして、金元弼と朴正華を連れ、南下の途に就いて、ようやく新しい出発をされたのである。
8 考えただけでも身震いをするほどの平壌でしたが、興南の監獄から出てきて、平壌を訪ねていきました。そこに食口たちがいたからです。世の中の人であれば、当然、自分の故郷を訪ねていくでしょう。私が監獄に入ったとき、私のことを考えてくれた何人かの食口が残っていることを知り、また、私がこのような生活をするようになったのは、天が動機となっていたからです。
そうして、以前、平壌にいたときに関係のあった食口たちをすべて捜してみました。反対していた人や離れていった人まで捜してみたのです。その人たちは、私が監獄に入ったから離れてしまったのであって、私がいる時に離れたのではありません。監獄に入る前に、私のことを信じると誓った人たちです。私に「離れる」と報告もせず、通告もしていないので、私には師としての責任があるというのです。彼らは裏切るとしても、天のみ前に「信じる」と誓い、約束した基準があります。その人たちに自ら会って、彼らが冷遇する時は、天もまた諦めるのですが、天がいまだに私に関心をもっている以上、それまでは師として誓った責任を取らなければなりません。
ですから、散らばっているすべての食口たちを捜したのです。私が自ら行くことができなければ、金元弼を遣わして会わせたりしていたので、故郷に行くことができませんでした。一週間、捜し回ったのに見つけられない人もいました。9お父様が興南の監獄から出てくる時に付いてきた人は四人です。イエス様は一人で逝きました。しかし、お父様が監獄から出てくる時は、四人が一緒に出てきたのです。咸鏡南道から平安(ピョンアン)南道まで、最も険しい山岳地帯を歩いてきました。東海岸を中心として、金剛山(クムガンサン)、雪嶽山(ソラクサン)の太白(テベク)山脈、江原道(カンウォンド)、咸鏡道、平安道の三角地帯を越えてきたのです。
その時、北朝鮮の人民軍が太白山脈を通って逃げていきました。軍隊があちらこちらにいる巣窟を経由してきたのです。人民軍は逃げていくのに、私たちは南の方に行こうとしていたので問題になりました。迂回しようとすれば、四日、五日を無駄にしてしまうからです。(軍隊は、)連れていった囚人たちを銃殺して逃げていく状況でした。そのような危険地帯を経てくる時にも、「監獄から出てきた人にとっては、すべてが危険地帯だ。行けない所がどこにあるか」と言いながら、わざわざそのような所をたどってきたのです。そのようにして平壌に着きました。
避難民生活をしながら、平壌で伝道した時に集まっていた人たちを捜しました。「私が監獄に行く時に涙を流したその人たちを忘れずに捜すのだ」と思って捜したのです。中共軍が平壌に入城するという報道を耳にしましたが、会えずにいた一人のおばあさんを捜しに行きました。そのおばあさんが亡くなったことを知ってから、避難してきたのです。10 北朝鮮で共産党があらゆる宗教団体を迫害してなくそうとしましたが、最後まで残った団体が私たちでした。当時は統一教会という名前はありませんでした。お父様が教える一つの集団だったのです。監獄から出てきてやるべきことは、教会の活動を続けることでした。ですから、まず平壌にいる昔の食口たちに会ってみました。お父様が三年近く監獄にいて、共産党が迫害をするので、あからさまに宗教生活ができる環境ではありませんでした。そのため、だんだんと地下に入っていったので、監獄から出てきてからも、そのようなことが全くできませんでした。
その時、以南に下る前に、昔、関係を結んでいたすべての食口たちに会ったのです。監獄に入るとき、彼らが涙を流して悲しんだことが鮮明に思い出されます。私が手錠をかけられ、五年の刑を宣告されて、「五年の間、元気に暮らしてまた会おう」と言った時、涙を流したそのことを思うと、今でも(その場面が)鮮明に浮かびます。監獄から出てきて、み旨の中で結ばれた食口たちを再び糾合するために、年老いた人から若い人に至るまで、思いつくすべての人たちを捜しました。
11 私が興南の監獄から平壌に出てきたのちに、三度も人を送って訪ねた人がいます。最初に行った時も門前で断られ、二回目に行った時も、三回目に行った時も門前で断られました。私としては、「背を向けよ」という神様の指示があるまで、最高の精誠を尽くさなければなりません。見捨てることはできないのです。ほかの人たちはみな以南に避難していくのに、十二月二日の夕方まで人を送って連絡させました。
そこで私が果たすべき責任は、すべて果たしました。天下のどこに行っても恥ずかしくないというのです。心情の理念をもって歩み始め、心情に受けた傷、私の胸中に植えつけられたすべての傷を抜き取り、新たな心情を神様のみ前に連結させ得るという自信を得てから、初めてそこを離れました。ですから、夜、平壌を出発したのです。
指導者はこのように、慎重に責任を負わなければなりません。死ぬような立場においても、神様が任せてくれた責任分野を終結させていかなければ、その人の行く道が塞がってしまいます。ですから、そのときに関係を結んだ人に対して、結論を出さなければならないのです。そうして、私が天地を前にして、現世や来世で、彼らの先祖が同情し、子孫が同情し得る場に立たなければなりません。そのようなことを考えたため、その人々を訪ねていったのです。
12 私は、八人の兄弟をすべて捨てた人です。北朝鮮で監獄生活をする時、これからの情勢がどうなるかを予想していた人です。平壌に行って、四十日間滞在していましたが、そこから二十八里だけ行けば私の故郷です。二日あれば故郷に行ってくることもできましたが、故郷にいる親兄弟たちには会いに行かず、み旨と向き合っていた人たちを一人残らず訪ねていきました。天のみ前に誓った人たちに会うために歩き回ったのです。故郷にいる父母や親戚を顧みず、食口一人のために命を懸けて捜し回りました。
13 私が平壌に行っている時、二日だけ歩けば、兄を連れてこられました。しかし、兄以上に国を愛したという条件を立てておかなければ、連れてくることができないのです。父母以上に国を愛するという条件を立てておかなければ、父母を連れてくることはできません。これが完全な蕩減復帰です。
アベルになるためには、カインを愛さなければなりません。その次に、真の父母を迎えるためには、まずサタン世界の父母に侍らなければなりません。ですから、私はそのような役事をしたのです。それで、おばあさんたちを連れて出てきました。原則がそのようになっています。おばあさんたちを三位基台として結び、母子協助をすることができるサタン世界の三人の息子、娘を立ててきたのです。皆さんもこの原則どおり、そのようにしなければなりません。
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