真の父母経

第二篇 第一章

真のお父様の聖誕

この章の目次

第二篇 真の父母様の聖誕と召命

神様は、人間の先祖であるアダムとエバが堕落したため、イエス様をメシヤとしてこの地に送り、救援摂理をしようとされたが、イスラエル民族とユダヤ教が不信して責任を果たせないことにより、再び韓民族の中に人類の救世主、再臨主として真の父母様を送られた。

神様の救援摂理を担当することになる真の父母様の聖誕は、その意味から見るとき、神様の摂理史における大事件であるがゆえに、多くの前兆があった。真のお父様の聖誕に先駆け、生家の前のねずの木に金鶏が止まり、鳴いて飛び去ったということや、真のお母様の聖誕前に、洪順愛大母様に「あなたの子女が息子であれば宇宙の王になり、娘であれば宇宙の女王になるだろう」という啓示が下りるなど、多くの証が現れた。

真のお父様は、十六歳(数え)になられた年の一九三五年四月十七日、山上で涙ながらに祈る中、神様から召命を受けられたのち、将来の摂理的使命者として、故郷で三年、ソウル留学三年、そして日本留学二年半と続く準備期間を送られた。特に、ソウルでの学生時代には自炊しながらの下宿生活を通して、苦行に近い生活訓練を経ながら、学業と信仰に精進された。そして、日本留学時代には、学業のほかにも祖国の独立運動とともに、原理の究明に没頭しながら、多様な体験をされた。

真のお母様は、外祖母の趙元模女史と大母様が再臨主を迎えるための信仰生活に専念することにより、幼少時代を主に母方の実家で過ごし、信仰の精髄を身につけられた。そして、南下したあとは、孝昌(ヒョチャン)小学校をはじめ、大邱、済州道の西帰浦(ソグィポ)、春川(チュンヂョン)などの地を経ながら学業を続けられた。

真のお母様は、一九五六年、小学校を卒業した満十三歳の時、真のお父様に初めてお会いになった。真のお母様は、「お父様は、私を御覧になった瞬間、目を閉じられ、つぷやくように、『ああ、神様韓鶴子というこのように立派な女性を、この韓国に送ってくださったことを感謝します』と語られた」と回顧された。

神様は、人類の救いのために、ひとり子である再臨主とひとり娘である天の新婦を送ろうと、長い間準備してこられた。その基盤の上に、真のお父様と真のお母様が「小羊の婚宴」をされ、人類の真の父母様として登場されたのである。真の父母様は、復帰摂理を完成、完結、完了し、勝利されて、真の愛、真の生命、真の血統の善の先祖となられたのである。

第一節 真のお父様の聖誕とその背景

聖誕の時代的背景

神様が再臨主としてこの地に送られた、真のお父様の聖誕を前にして、民族的には、日本の占領下において、数年間の凶年が続いて大患難が押し寄せ、国際的には全世界が二つに分かれ、植民地争奪戦を繰り広げるなど、終末時代を彷彿とさせる大混乱が起こった。このように、国内外で混乱の様相が極限に達したのは、再臨主の地上聖誕のための世界的蕩減基台を立てる天の摂理と見ることができる。真のお父様は、三・一運動の翌年、一九二〇年の陰暦一月六日(陽暦二月二十五日)、平安北道定州郡徳彦面(トゴンミョン)上思里(サンサリ)二二二一番地において、父・文慶裕(ムンギョンユ)忠父様と母・金慶繼(キムギョンゲ)忠母様の間に、六男七女の次男として聖誕された。

1 本来アダムとエバは、堕落しなければ人類の真の父母となり、神様の心情に通じ、神様の事情に通じ、神様の願いと目的をすべて達成したはずでしたが、堕落することによってそのような計画が挫折したのです。ですから、これを再び取り戻すためには、再創造の歴史を経なければなりません。

言い換えると、アダムを再創造して、失った人類の真の父の立場に再び立て、神様が彼の頭に手を乗せて、「お前は、私が創造の理念に基づいて造ったアダムであり、私の事情と心情を推し量れる息子である!」と祝福してくださらなければなりません。

このような責任を背負って、この地上に来られる方が再臨主です。ですから、六千年の歴史は、神様が取り戻そうとされる、一人の完成した人類の先祖をつくるための歴史なのです。

2 神様は、イエス様がみ旨を成し遂げられず、地上に養子の(父子)関係だけを残して亡くなられたので、彼を再びこの地に送ることを約束してくださり、キリスト教を中心に、直系の(父子)関係を取り戻すことができる土台を開拓するため、二千年間、摂理してこられました。したがって、今日、全世界に広がっているキリスト教徒たちは、神様が愛される真の息子に直接、接ぎ木されなければなりません。

それでは、歴史の終末時代に、主はいかなる資格をもって来られるのでしょうか。真の父母の資格をもって来られるのです。しかし、イエス様がこの地上に来て、真の父母の立場にまで進むことができなかったため、すなわち、栄光の中で神様に侍り、万民を代表して神様を慰労する生活的な土台をもてなかったので、メシヤが再び来られるとしても、栄光の主として来ることはできないのです。

ですから、再び来られるメシヤは、イエス様がこの地に来て成し遂げられなかったみ旨を継承し、神様を慰安してさしあげられる孝誠(真心を尽くして父母に仕えること)の道理を先に果たしたうえで選ばれ、サタンまでも屈服させ、神様に栄光をお返しできる土台を立てておかなければなりません。そのようにするまでは、真の父母の資格を備えることができません。これが、今まで神様が摂理してこられた復帰摂理の概観です。

3 第一次世界大戦から今まで、混乱の世界、戦争の時代が連続しています。この歴史的路程は、偶然に形成されるのではなく、人類史という巨大な歴史をめぐって、蕩減の役事(働き)を行っているのです。

世界のあらゆる知識人たちは、「今は急変する世界である」と言っています。一般の人々は、世界がこのように急変すれば、絶望の世界に到達する危険性が高いと見ています。希望の世界に到達すると考える人は、極めて少ないのです。近代文明を指導してきた西欧文明は、既に没落したばかりか、「もはや真っ暗闇の世界に入った」と言う人もいます。

西欧文明を指導するうえで、精神的な支柱となってきたキリスト数はもちろん、キリスト教を中心とした家庭や社会や国家が、傾くだけ傾いているのです。そのうえ、世界の若者たちの中で未来を考える人たちは、極めて暗澹たる立場で悩まざるを得ない時代に置かれています。神様は、そのような絶望の終着点に向かって、そのまま走らせるのではなく、これに代わって、新たな次元の世界へと、希望の場所へと連結する道を考えざるを得ないというのです。

4 第一次世界大戦以降、六十年から七十年の期間は、世界的な激動の時代だと見ることができます。この期間は、受難の道を行かざるを得ない歴史的な運命の期間でした。お父様もこの期間に生まれ、今まで苦難を受け続けながら過ごしてきました。

それでは、神様の摂理において、この歴史の重大な受難期、激動の受難期は、何を目的として訪れるようになったのでしょうか。苦難を受ける背後で、滅びるか再生するかの二つの内容を、歴史はいつも決定してきたのです。この期間は、この二つの問題を決定しなければならない歴史的な運命の期間です。このような立場から、天の父は人類を滅亡に導くわけにはいきません。いかなる手段や方法を使ってでも、人間を救わざるを得ないというのです。

この期間は、神様が特別な摂理の基準をこの地上に立てる重大な期間です。ですから、神様は、苦難の中で歴史を引いたり押したりすると同時に、その背後で、新しい天の摂理の基盤、発展の基盤を再生させてこられたことは間違いありません。

5日本は、東洋を中心としてイギリスの文化を受け継いできたのですが、大陸文化を中心とする韓国は、メシヤが来られる地中海文化圏のローマと同じ立場で出発しました。

アダム国家である韓国に再臨主が来ることになっていたので、私が生まれる前、アダム国家として越えるべき蕩減期間がありました。それで、韓国が四十年間、日本に隷属したのです。私が生まれた一九二〇年当時は、蕩減期間です。ですから、歴史的な全体摂理史を終結させるみ旨を、私の家門において受け継がなければならなかったのであり、それゆえ、私の家族が伝統的蕩減路程を経ざるを得なかったのです。

6私が生まれた時期は一九二〇年です。三・一運動が起きた年が一九一九年ですから、その翌年に生まれたのです。私が生まれる前の三年間は、凶年になりました。三年以上、凶年になり、最も困難な時に、三・一万歳事件を中心として、国家が混乱する時代に入ったのです。

このように国家が、日本の統治下でサタン側の方向に合わせて引かれていくので、ここに革命を提示し、新たな方向が現れるようになりました。三・一運動を主導した人々は宗教家たちでした。キリスト教と天道教を中心とした人たちが主導してきました。そうして新たな方向、日本帝国主義の方向ではなく、アメリカの方向に従っていくようになりました。

キリスト教が国家と民族を中心として、完全にその文化圏を平準化圏として形成できたという事実は、韓民族が日本帝国主義の統治下において、アメリカを中心としたキリスト教文化圏に方向を合わせてきたために可能だったのです。これは驚くべき事実です。そのような歴史的な反響を巻き起こした運動から、キリスト教は急進的に発展し始めたのです。

7一九一九年三月一日は、韓国が日本の統治から独立するために万歳運動を起こすことによって、多くの人が犠牲になった日です。なぜ三月一日にそのようなことが起きたのでしょうか。私がこの期間に胎内に宿り、生まれなければならないからです。宿った時から十カ月すれば、一九二〇年の正月です。

そうして、条件的にでも国を取り戻して主が生まれるべきであって、条件的にでも国がなければ、来られる主が空中に浮いてしまうため、天はそのような役事をしたのです。私一人が生まれるには、多くの血を流さなければならないというのです。それで一九一九年が凶年になり、そのような良くないことが起きました。天の摂理は、そのように展開してくるのです。

8十六歳(数え)で殉国した柳寛順(ユグァンスン)烈士は、堕落していないエバと同じ立場にいました。アダム国家におけるエバと同じだというのです。そのエバの立場にいた柳寛順烈士の体を、サタンの立場である日本帝国が六つに分けてしまいました。六数はサタン数です。柳寛順烈士は、国家に忠誠を尽くすため、一身を犠牲にしながら独立運動をしたのです。

独立万歳運動が盛んだった一九一九年に、私はおなかの中にいました。独立していない地でそのまま生まれるわけにはいかないので、私の生命を中心としてそのような闘いがあったのです。その時から十カ月後の一九二〇年に生まれました。

韓半島と定州(チョンジュ)

韓半島は、東西洋文明を結ぶ橋の役割を果たしながら、再臨主が誕生できるよう準備してきた摂理的な地である。真のお父様のみ言によれば、「定州」は、神様の愛が地上に着陸できる基点であると同時に、神様があらかじめ定められた郡である。そして、真のお父様が誕生された上思里は、天を欽慕して敬うという意味における代表的な地として位置づけられ、世界の聖地になるであろうと語られた。

9アジアの東北地域に位置する韓半島は、現代文明を受け継ぎ得る地理的条件を備えた日本と接触できる位置にあります。大陸と接触する場合、大陸自体に直接接触するよりも、半島を経なければなりません。ですから、いつも文化交流の役割を果たす所は半島でした。そのような意味で、韓半島が東洋と西洋の文明を結実させ、結合させる橋梁の役割を果たしてきたのです。神様は、必ずそのような半島を中心として摂理されるので、この民族が、その文明を受け継いで収拾する役割をしてこなければなりません。終局において、文明は宗教を通して結実するのです。

10 メシヤは、いかなる国に来るのでしょうか。原理的観点から、その方は、独立した国に来ることはできません。なぜでしょうか。イスラエルの国と、その国を動かせるユダヤ教が基盤となってメシヤを迎えるべきだったのですが、メシヤを迎える立場になれなかったのです。ですから、イスラエルの国とユダヤ教は、国を失って追い払われていました。イエス様の立場から見ると、イエス様を迎えるべきその国と、その教会がなくなったも同然なので、イエス様は、相対する国と教会がない立場から出発するようになったのです。ですから、神様は歴史時代を通して、そのような立場にある一国を、再臨の一日と連結させる準備をせざるを得ません。

イスラエルの歴史が悲惨な分裂の歴史で出発したので、それを収拾するためには、最下の段階にある歴史的な国家を立てなければならないのです。歴史的に見るとき、そのような立場にある国が韓国です。韓民族は、地域的にも歴史的にも、ユダヤ民族と似た内容をたくさんもっています。

11 歴史的に見るとき、信仰心に燃えている民族は、どの民族でしょうか。「ハナニム(神様)」という言葉も聞くことができず(ユダヤ教、キリスト教のような宗教がなかったこと)、預言者や烈士のいかなる預言もないまま、五千年の歴史を保ってきた韓民族は、なぜか分かりませんが、天に対する信仰心が秀でているのです。東半球の、爪のように小さなこの国が、今まで幾多の時代を経て、五千年の歴史を保ってきたという事実は奇跡です。

韓国の歴史を見ると、周辺国から数百回にわたって侵犯される、危険な歴史路程を経てきました。それでも韓民族は、民族の気概として流れるその何かをもって希望の一日を望んできました。この極東の韓半島を動かしてきた希望の民族精神があったがゆえに、今まで闘ってこられたのです。このような精神をもって活動してきた民族に、メシヤが来ないでしょうか。

情的な面でも、極東では韓国人以上に情熱的な人々はいません。また、韓国は、東方礼儀の国と呼ばれてきました。信義の宗教、希望の宗教であると主張していた仏教も、儒教も、キリスト教も、今や限界にぶつかっています。しかし、韓国は、民族精神を中心として、世界理念に燃える隠れた情熱が、心から湧き上がっている民族です。

12 韓国は、五千年の歴史を経てくる間、今まで犠牲になってきました。中国に多大な影響を与えたのが韓国人です。韓国民族は東夷民族であり、本来、戦争を嫌い、平和を愛する民族です。ですから、中国大陸を捨てて半島に集まったのです。孔子も「そこに聖人が住む」と東夷民族をたたえながら、「東夷民族のところに行きたい」と言いました。

韓国の歴史を見ると、他国を侵略したことがありません。数多くの侵略を受けましたが、侵略をしたことがないというのです。その代わり、不義の攻撃を受けるときには、火のようになります。負けないというのです。それこそ正義に燃える民族です。満州やシベリアのような所を回りながら死んだ韓国人の亡骸を調べても、煙管(キセル)と火打ち石しかありません。他の国の人は刃物を持って歩きますが、韓国人にはそのようなものがありません。ですから、ロシアや中国のような国で、韓国人が夜に、「コリアンだ」と言いながら門をたたけば、ほとんどの人たちは門を開けて、「入りなさい」と歓迎するのです。そのような民族が暮らす国なので、お父様のような人が現れてくるのです。

13 お父様の故郷は、北朝鮮の平安北道定州です。そこについて語るべき話がたくさんあります。幼い頃の逸話がたくさんあるのです。今後、世界の人々が、そこをイスラームのマッカ(メッカ)や、キリスト教のエルサレムと同じように考えるようになるのです。

皆さんは、生きている間に、お父様の故郷に行ってみなければなりません。もし皆さんが、そこに行くことができずに霊界に行けば、「生きている時にいったい何をしていたのか」と後ろ指をさされるのです。

14 皆さんが「私は真の父母に侍った。出発から侍り、最後まで侍った」と言えてこそ、天国の民になり、天の国の皇族として現れ得るのです。ですから、父母様をお迎えし、出発した所に帰るのです。皆さんの故郷は本来、エデンです。真の父母様が生まれた所がエデンです。人間は、堕落によって故郷の地を失ってしまいました。ですから、真の父母がエデンの園の主人になるのです。真の父母が生まれた所が人類の故郷なので、皆さんの故郷も、父母様が生まれた所にならざるを得ません。

聖誕の前兆と名前の意味

真のお父様の聖誕を前後し、多くの吉兆が現れた。一九一九年の三・一運動以前には、真のお父様の生家の前にあるねずの木に金鶏が止まり、鳴いて飛び去ったことがよくあったという話が伝わる。そして、曽祖父である文禎紇(ムンヂョンフル)が、一双の龍が海から昇天するという夢の啓示を受け、真のお父様の代の「行列(ハンニョル)」(一族間で、始祖から数えた男性の世代の上下関係を表す語。同じ行列の男性は、名前の一字に同じ漢字をもつ)の字を「龍」の字とし、「龍」の字と「明」の字をもって名前をつけたが、真のお父様は一九四五年、光復直後に公式摂理路程を出発されたあと、平壌における伝道時代に、その大きな摂理的使命にちなんで、天から「鮮」の字と「明」の字を新たに受け、改名された。

15 私の母は、私を身ごもり、出産の日が近づいた頃、実家に行きました。母の故郷である大山洞(テサンドン))の前には、帝釈山(チェソクサン)という大きな山があります。四方から眺められる、一つの象徴的な山です。

母が、出産する日を待っていたある時、悪天候になって暴風が吹き、山と村全体が雲に覆われたそうです。そこに一筋の光が現れると、その帝釈山の頂上に黄金の龍が現れ、山腹を回りながら昇っていったというのです。母がそのあとを少し離れて追いかけ、山頂まで来たので座って喜んでいると、その頂上がたちまち海になったのです。その海に尾で水を打ちながら身をくねらせる黄金の龍が二頭現れ、「天下よ、達者でいなさい」と挨拶をすると、天に昇っていったそうです。

母はそのようなものを見たので、心の内に秘めておき、私が八歳の時、「どう見ても、お前が果たすべき責任のようだ」と言いながら、この話をしてくれました。み旨を知ってみると、天との約束の中で、そのようなことがすべて啓示されたというのです。母も啓示をたくさん受けました。特別なことが起きたり、家で難しい問題が起きたりすると、母が事前に察知して、それに備えるために精誠を尽くすという経歴があったのです。天と地が一つになった場で、すべての困難を解決したのだと考えることができます。

16 私の母が、私を呼んで話してくれたことが忘れられません。曽祖父の時も、祖父の時も、夢のお告げで龍を見て、同じ夢のお告げを嫁である母も見ました。「どうもお前がその実体ではないかと思う」と言って話してくれたことが忘れられないのです。

母の実家の前にある帝釈山の上で、二頭の黄金の龍が如意宝珠(仏教において様々な霊験を表すとされる宝の珠のこと)をくわえて昇天するのを見たそうです。それを母は、事実と考えたのです。昼間にどしゃぶりの雨が降っている時、山を見るとそのような現象が見えたというのです。

17 私の名前を見ると「鮮」の字があります。これは魚と羊ですが、海と陸地、水と地を意味します。ですから、のどかで明朗だという意味でもあります。夜、雨が降ったのち、朝日が燦爛と輝けば鮮明です。「明」の字は日と月です。ですから、地ものどかで、天ものどかだという意味の二文字が合わさったのです。また、天は男性を意味し、地は女性を意味しますが、この二つが一つになったことを意味します。清く、明るく、明朗だということです。

そして、「文」というのは、真理を意味します。名前のとおりのことを私はしています。それで一生の聞、この名前を見ながら、「私は、このようにしなければならない。このようにしなければならない」と思ってきたのです。

第二節 真のお父様の家系

家門の伝統

南平(ナムピョン)文氏の始祖である武成公(ムソンゴン)・文多省(ムンダソン)は、西暦四七二年二月に、今日の全羅南道羅州(ナヂュ)市南平邑楓林里(ブンニムニ)にある、長者淵(チャンヂャヨン)という池の近くにある大きな岩の上の石箱でお生まれになったが、その石箱には赤い字で「文」と刻まれていたと伝えられている。南平文氏の族譜を見ると、新羅時代の慈悲(チャビ)王が、夢の中で「この国に特別な赤ん坊が生まれたので探しなさい」という命を受け、南平にある文巌(ムナム)という岩で泣いている赤ん坊を探し出したところから、文氏の先祖が出発したと記録されている。また、文多省は、真興(チンフン)王の時代に輔相(ボサン=大臣を従え、国王を助けて国を治める人)を兼ねて大国師(テグクサ=国王の学問上の師)に昇格したのち、端正な容貌をした人々を選んで、風月主(ブンウォルヂュ=花郎徒の首長)と呼び、孝、忠、義を教えたという。真のお父様は、「南平文氏は、伝統的に良心的であり、操を立てて不義と妥協しない、恐るべき頑固さをもった一族」とされ、「八道江山(パルドガンサン=韓半島全土)から我が家を訪ねてくる人は、誰であっても厚くもてなしてから送り出しなさい」という家門の伝統があると語られた。

1 世界の人々は、お父様の血統がどこに連結されているのかを探ります。大韓民国の歴代の先祖たちが犠牲になった土台の上に連結されているのです。犠牲とは何かというと、肥やしになることです。肥やしのある所に生命の種を植えると、よく育ちます。歴史時代に受難を経て、苦痛を受けたその民族は、生命の種を受けてすくすくと育てることができます。このような受難を経た地域では、聖人が出生するのです。義の人、義の主張、義の国、義の主義が発生するようになっているのです。

2 お父様は、南平文氏です。南平という言葉は、南の平地を意味します。南とは理想のことです。南の国に平地を築いていける活動舞台、自然舞台が待っているというのです。文は「文章」の「文」の字です。文の字を見ると、「又」の字の上に点(`)を載せているので、祭祀にお供えするお膳と同じです。

ですから、文氏は祭司長の責任を果たさなければなりません。祭主にならなければならないのです。祭物を供え、神様の恨を解いてさしあげる祭主にならなければならないということです。私はそのように考えて生きてきました。

3 自分の先祖の中で、国の忠臣や聖人、聖子の功績をもつ人がいれば、その人を先祖の中の先祖として奉らなければなりません。文克謙(ムングッキョム)という方は、高麗時代に、武官と文官の間を行き来しながら和解を取り結ぼうとして客死しました。文克謙おじいさんは、歴史的な伝統をわきまえて、朝鮮時代五百年の歴史を綴り得る橋を架けたのです。そして、綿の種を中国から持ち込んだ文益漸(ムンイクチョム)おじいさんから二十三代目に私が入っています。

4 私の家は、曽祖父が引っ越してこられてから定州に住み始めたのですが、家には家訓があります。その家訓とは、「八道江山を慕いつつ、八道江山から貴い客が訪ねてくることを願い、来る客人たちを、真心を込めてもてなしなさい。通りすがりに訪ねてくる客人たちを、真心を込めてもてなしなさい。そうすれば、八道江山の福が、我が一族に訪れる」というものです。

ですから、訪ねてくる客人の接待に手抜かりがあってはいけないというのです。その背後に何がついているのか分からないので、この上ない真心でもてなして送り出せば、後代に福がやって来るのです。「三千里の全土から訪れる福なので、その福はそのような基盤の上で出会うようになり、そのような基盤を通して福を受ければ、さらに三千里半島を越えて世界に分け与えられる福が押し寄せてくる」と考えるのです。

5 私が両親に有り難く思うことは、家訓があるために、「家に出入りする人を絶対にそのまま帰さずに、必ずもてなしてから送りなさい」と言われたことです。乞食が来たといって冷遇してはいけないというのです。私の祖父もそうでした。伝統がそうだったのです。

冬に乞食が訪ねてきて「御飯を下さい」と言えば、食事中でも祖母や母が即座に出ていくのですが、準備をしていなければ、祖父が自分のお膳を持って出ていくのです。知らないふりをして御飯を食べることができません。乞食に食事をあげて、自分は食べられなくてもかまわないというのです。私は、今まで世界の人々のためにそのようにしました。

湖南(ホナム)地方、嶺南(ヨンナム)地方など、八道江山の人々が、以北(現在の北朝鮮)を経て中国に行くときには国道を通っていきます。村に来て一晩泊まっていこうとすると、「あっちに行けば文氏の家があるから、そこに行って泊まりなさい」と教えられるのです。それで、私の家はいつも、春夏秋冬、四季を通して客間が空いていませんでした。ですから、食事の用意をする母が、一生の間苦労したことを私は知っています。八道の人々に御飯を食べさせた、その家門は滅びないのです。八道から歓迎される後裔が生まれるというのです。

6 私の家には、いつも人がたくさんいました。私が八歳の頃、眠りから覚めて起きてみると、見知らぬ人たちで客間がいっぱいでした。そうして夜に宴会をしました。どうして集まっているのかと尋ねてみると、「独立軍が来た」と耳打ちするのです。その時、その人たちは天幕のような所で寝泊まりし、屋根にも上って歩き回り、塀も片手を付いて飛び越えるという話をたくさん聞きました。

その人たちに、夜食として麺料理を作ってあげました。鶏を料理して麺を作るほうが、御飯の仕度よりも早く、たくさんの人に食べさせることができるからです。おなかをすかせた人がいれば、主人が食べられなくても、彼らに食べさせなければならないというのが家訓でした。そのような教育を受けたのです。

7 真の父母の家門にも、愛国忠臣の歴史的伝統を備えなければなりません。私の家では、不思議なことに、家族の中で誰かがたばこを吸ったりお酒を飲んだりすると蕁麻痺が出ます。お酒も飲めず、たばこも吸えません。また、家庭の伝統で立派な点は、妾を置いたことがないことです。ですから、私の祖父の代から見ても、儒教思想を中心に最高の信仰をもってきました。

私の従祖父は牧師でしたが、預言書に関するすべてのことに通じていました。私の母や家族も、祈ると未来について知ることができました。

真のお父様の家族

南平文氏が平安道と咸鏡道(ハムギョンド)一帯に根を下ろしたのは、忠宣公(チュンソンゴン)・文益漸(ムンイクチョム)の五人の息子のうち、三男の毅安公(ウィアンゴン)・文中實(ムンヂュンシル)の時からであり、その中で毅安公の五代目の子孫である文達(ムンダル)が平安北道(プクト)の定州に定着した。真のお父様の高祖父・文成學(ムンソンハク)は、毅安公の十九代目の子孫に当たり、禎浩(チョンホ)、禎機(チョンギ)、禎紇(チョンフル)など、三人の息子をもうけた。その中で末息子の文禎紇が、正に真のお父様の曽祖父であり、上思里(サンサリ)に初めて基盤を築いたのである。

そして、文禎紇は、致國(チグク)、信國(シングク)、潤國(ユングク)の三人の息子をもうけたが、長男の文致國が真のお父様の祖父である。文致國は、真のお父様について、「この子は将来、大きな人物になるので、彼が願うことは何でも助けてあげなさい」と語った。文致國は、慶裕(キョンユ・一八九三年、陰暦七月十一日-一九五四年十月十一日)、慶福(キョンボク)、慶球(キョング)など、三男二女をもうけ、文慶裕忠父様は、延安金(ヨナンキム)氏の慶繼(キョンゲ・本名は周觀[チュグァン]、一八八八年、陰暦十月十五日-一九六八年一月七日)忠母様(チュンモニム)と婚姻をした。忠母様は定州の有力者で、独立運動と五山学校の設立にも携わった父・金伯洪(キムベコン)と母・仁同張(インドンチャン)氏のもと、三男二女の長女として生まれ、朝鮮時代に最も多くの科挙合格者を輩出した延安金氏の家門で富裕な生活を送りながら、貞潔で気品を備えた姿に成長した。背が高く、闊達、情熱的な性格だった忠母様は、真のお父様の再臨路程において、完全な母子協助の摂理基盤を築く犠牲的な人生を送った。

8 私の家庭は、曽祖父の時に神様の祝福を受けました。しかし、祖父の時になって蕩減を受けました。祝福を受けたあとには、蕩減を受けることになります。イスラエル民族も、祝福を受けたあとには、必ず蕩減を受けました。十の祝福を受けたならば、必ずそれだけの蕩減を受けなければならないのです。

ですから、私が神様の召命を受けるまでに、私の家庭に相当な混乱が起きました。財産を失い、人命被害もありました。それだけではなく、私の身近な人々に混乱が起きたりもしました。このように、祝福を受ければ、絶望的な状態に至るまで、神様はその家庭をサタン世界に差し出します。そうすると、サタン世界がしきりに打つのです。三代にわたって蕩減の歴史がありました。

9 昔、私一人を亡き者にするために、私の家族に信じられない様々な霊的現象がありました。私はそのような環境の中で生まれ、様々な困難な環境を自ら解決してきました。もちろん両親もいて、親戚もたくさんいました。その中で従祖父(文潤國)は牧師でしたが、有名な方でした。漢文にもたけていて、中国の歴史にも精通している方でした。また平壌神学校を出て英語もできました。西洋文明も見通すことができる、独立運動の先駆者でもありました。

そのような家庭的背景をもっていましたが、すべての問題を私一人で解決してきたのです。それは、どこの誰に相談しても分からないことです。私が将来歩もうとするその道については、両親も知らず、誰も知らないのです。その背後で、霊的現象によって一家族、親から親戚に至るまで、様々な問題が起きました。たくさんの出来事がありました。サタンはよく知っているので、私を中心に家族全体に悪影響を及ぼすのです。

10 私は、三・一運動を主導していたある家門で生まれました。私の従祖父、文潤國おじいさんがそのような人でした。私は、従祖父から「お前は、私よりも立派な孫にならなければならない」という話を聞きながら育ったのです。そのおじいさんは、私をとても愛しました。五山(オサン)学校を建てたその背後には、私の従祖父がいます。

11 私の父について言えば、法がなくても正しく生きることができる方でした。もし父がどこかで急に借金をしてきた時には、その借金を返すと約束した日に、利子まで返してあげなければ耐えられない方でした。どのようなことがあっても、その約束を履行するのです。約束を遂行することにおいては、模範的な方でした。

12 私の母は、十三人の息子、娘を生みました。私の上に姉が三人もいます。息子としては私が二番目です。五人が亡くなり、残ったのが六人の娘と二人の息子でした。ですから、母がどれほど衝撃を受けたでしょうか。息子を育てて亡くし、娘たちも育てて亡くしたのです。

弟が死んで、その棺を父が運んで埋葬したのですが、私の兄は手伝うことができませんでした。父が責任をもって簡単な棺を組み立て、そこに弟の亡骸を入れて、肩に担いでいって埋めたのです。母は子供を亡くして泣いているので、父は一人で埋葬しました。そして、帰ってきても手を洗いませんでした。三日過ぎてから、ようやく手を洗って御飯を食べ始めたのです。息子を埋葬して、どうして手を洗って御飯が食べられるでしょうか。それを見ると、父は法がなくても正しく生きていける人でした。先祖の遺言を法より恐れる人です。

13 私の母は、厚い徳のある方でした。男勝りの方で、とても激しい性格でしたが、嫁の役割は上手にこなしました。舅が朝、どこかに出掛けるというと、それに合わせて明け方から食事を作ってさしあげました。一生の間、不平も言わずに、そのようにしたのです。私は、母から多くのことを学びました。

14 私は、母にとても似ています。私の革命的な気質は母に似ているのです。父は学者です。父は、一度聞けば、最近のコンピューターのように忘れません。記憶力が優れていました。私の創造力は母に似たのですが、母方の祖父もそうでした。革命的な素質が多かったのです。母方の祖父は、自分の村で海と関連した仕事をするにも革命的でした。それで、私が六歳、七歳、八歳の時、その母方の祖父の家に行っては、祖父に付いて回りながら魚を捕ったりしたのですが、それをどれほど興奮して待ったか分かりません。

15 私の母は、赤ん坊をたくさん生みました。十三人を出産したのですが、母が語った言葉があります。「この世で「楽しい、楽しい」と言っても、ほかに楽しいことはない。赤ちゃんを生んで、お乳をあげて育てる、それ以上に楽しいことはない。年を取って赤ちゃんが生めないから、すべてがつまらなくて仕方がない」と語っていたのです。

母の顔を見ると、多くの苦労をしてかさかさになった顔です。様々な風霜をすべて経た母親の顔です。しかし、愛らしい赤ん坊を育てた、その苦労の姿がいいと言うのです。愛は困難と犠牲を伴いますが、その犠牲を忘れさせるのです。真の愛を実践すれば、犠牲になったことを忘れるようになります。そのような犠牲が肥やしとなり、肥料となるのです。また、自分の肉となり、骨となって、喜びになります。愛になるというのです。

16 私の兄は、弟の私に対しては、絶対的でした。カインの立場で完全に蕩減できる基台が自然に造成されたのです。兄の信仰は徹底していました。八・一五解放と六・二五動乱が起こることをあらかじめ知っていました。あらゆる困難な問題を、霊界の指示を通して解決するという、信仰態度を身につけていました。私の兄は、「歴史上に数多くの兄がいて、数多くの弟がいたが、自分の弟は歴史的な弟である」と思っていました。ですから、私が何か言うと、それを絶対視して、従ってくれました。

私が平壌にいる時のことです。その時は、復帰摂理の途上において、とても大きな役事があったのですが、私が頼んだことは、普通の考えでは信じられないことだったにもかかわらず、兄は様々な内容を整えて弟のために手助けをしました。その頼みがどれほど難しいことであっても、躊躇せずに助けてくれる兄でした。

17 兄は霊界に通じていたので、知っていました。「兄弟関係はどの家にもみなあり、一族の誰もが縦横に関係をもっているが、兄弟の中で私の弟が歴史で一番の弟だ」と、それだけは分かっていたのです。霊界からそのように教えてくれたというのです。

ですから兄は、私がしようと言うとおりに、すべてしました。「家を売る」と言えば家を売り、「牛を売る」と言えば牛を売り、学費がなければ土地を売ってでも出してあげようとし、一つも反対しようとはしませんでした。ですから、カイン・アベルを復帰したのです。

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