平和経

第三篇 9

根本思想

日付:一九九〇年一月十二日

場所:韓国、ソウル、中区、長橋洞宗教会館

行事:文鮮明先生御夫妻韓国宗教協議会訪問歓迎式

各教団の重鎮であられる皆様に、このようにお会いできましたことを、感謝を申し上げます。宗教指導者たちが教団のために奉仕し、その教団自体が自分の使命を果たすとき、大韓民国の未来に希望があると思います。そのためには、一つの教団だけではいけません。互いにどのように和合しなければならないかという問題ですが、単に宗教界だけでなく、世界の政界を見ても、思想界を見ても、問題になります。いずれ人類は一つの目的点に向かって帰結されるということです。

1. 人生問題と神様を中心とした聖人の教え

内外の世界を見れば、政治、経済、文化、社会を中心として、歴史をつないできた数多くの国家群があります。そして、内的世界を見れば、各教団が存在します。これらの教団の各教主は異なりますが、世界を指導すべき責任があるのです。これを人に比較すれば、宗教は心のようなものであり、一般社会は体のようなものです。

しかし、人間自身を見るとき、その体と心がいつ統一されるのでしょうか。どのような聖人でも、「私の教理を通して体と心を一つにした。心と体が争うこの戦争を平和にした」と自信をもって宣言した人がいないことを、私たちは知っています。外的世界と内的世界がこのように対立していて、外的世界である国家主権者たちから今まで宗教界は弾圧を受けてきました。多くの犠牲に遭ってきたというのです。反面、宗教界は打たれるだけで、外的世界を打ってみたことがありません。いつでも、打たれながら大きくなってきたのです。これが根本問題です。それで、きょうのお話の題名は「根本思想」です。

私は大韓民国の白衣民族の一人として生まれましたが、宗教という問題を中心として誰よりも苦心した人です。さらには、人生と人間の問題について深く苦悩しました。人間の問題を誰が解決しなければなりませんか。人間同士では解決できないというのです。それでは、何によって解決しなければなりませんか。聖人の教えで解決しなければなりません。

聖人といえば、皆様が御存じのとおり、特に四大宗教の教主をいいます。その教主たちは、何を中心として生涯の道を歩みましたか。それは絶対的な価値の問題なのですが、神様がいるかという、神様に関する問題でした。

宗教が哲学と異なるのは何かというと、宗教は神様と共に始まりましたが、哲学はそうではないというのです。宗教を見れば、その背後には神秘境と連結されていますが、神様という背後で動く主体を中心として、み旨を広げるために出発しました。ですから、その教主たちは、生活舞台で神様と共に歩んだ人たちです。

神様と共に出発するその生活とは、どのような生活でしょうか。個人的生活でしょうか、そうでなければ家庭を中心として出発した生活でしょうか、氏族を中心として神様と共に生きる宗教の生活でしょうか。あるいは、私たち白衣民族を中心として出発したものでしょうか。これが問題になります。また、国家と共に出発したのでしょうか。世界問題と霊界と肉界、天と地までの問題になるのです。

宗教が出発するとともに、家庭救援の論理を唱えた宗教がどこにありましたか。社会救援、氏族救援、国家救援を主唱して出発した宗教がありましたか。大多数の宗教は個人の救いを主張します。個人が救援されなければならないというのです。個人を中心として出発しました。ですから、高次的な宗教であるほど、その教主が教える教理は、現世と隔離させる内容です。出家を強調するのです。単に仏教だけでなく、キリスト教も同じです。

出家というものは何ですか。大韓民国の民としてある氏族を通して生まれたなら、その伝統的歴史の背景がすべて私を包囲しているので、その背後の前衛隊のような家庭を否定するのです。出家するということそれ自体は、国を否定しなければならず、社会を否定しなければならず、家庭を否定しなければならず、家庭において父子関係までも否定しなければならないのです。これが問題になるのです。

私たちが生活するうえで、運命の道は私たち個々人が努力して開拓できますが、宿命の道は開拓できないのです。父子の関係を切ることができるものとは何かというのです。これが問題になります。ある独裁者が「あれはお前の父親ではない! あれはお前の息子ではない!」と千年、万年教育したとしても、その関係を切ることはできません。

出家において、父子の関係まで否定していく原因がどこにあるのでしょうか。これは問題が大きいのです。出家は、父母との関係をそのままにしていくのですか。それを拒否して自分自らの道の目的を成就するために、自分を中心としたすべてのものを片づけて自己完成を標準としていくのですか。それはあくまでも、自己完成のみを標準にしたものなのです。

2. 宗教の起源、そして神様との関係

すべての宗教は自己完成を標準としています。ですから、すべての高次的な宗教は、独身生活を強調します。父母の血縁までも否定させ、その次には後代までも否定させます。深刻な問題です。カトリックや仏教も同じです。世界を否定し、国を否定し、自分の家庭を否定し、自分の父母を否定し、男性が女性を否定して、女性が男性を否定しますが、なぜこのようにしなければならないのですか。根本問題がここから出てきます。そのような問題が、深刻な問題にならざるを得ないというのです。

なぜ否定しなければならないのかという論理、その教理をどのように教団で探し立てるのかということです。キリスト教も曖昧です。仏教や儒教もそうです。「元亨利貞は天道の常であり、仁義礼智は人性の綱である」という言葉があります。どれほど良い言葉ですか。ここで「天」とは神様のことですが、天が存在しても、始まりとともに永遠に関係を結ぶことのできるものでなければ、理想的な天として侍ることができないのです。始まりとともに過程と終わり全体が、永遠に天でなければなりません。その天と共に私が幸せでなければなりません。不幸ではいけません。その天と一つになるとき、すべての存在が羨まなければならず、すべてのものがそれを崇めながらついていくことができなければなりません。そして、その個体が生まれたある特殊性、韓国民族なら韓国民族にだけ限定された内容ではいけないというのです。人種を超越し、思想を超越していくものでなければなりません。

このように見るとき、神様と共に生きるところから教団が始まったというのです。ここで教主と神様との関係を見るとき、神様についていかなければならないか、教主についていかなければならないか、ということが問題です。教主と神様の関係では、教主も神様についていかなければならないのです。その神様が絶対的な神様ならば、絶対的についていかなければならないというのです。その絶対的についていくことのできる神様と私の関係、神様と教主の関係を知らなければなりません。神様と教主の関係と、教主と私の関係をいかに連結させるかということは、簡単な問題ではありません。

私が霊界と宗教界に関する問題を中心として苦心してみると、神秘的な世界があることを知るようになりました。神様がいるのか、いないのかというとき、神様は間違いなくいます。最近では、関係の世界が問題になっています。一つめ家を見ても、父子の関係、夫婦の関係、兄弟の関係から成っています。それだけでありません。家庭と家庭の関係もあります。いくら自分が立派だったとしても、家庭の関係において脱落してはいけません。自分と家庭の関係、家庭と家庭の関係、氏族と氏族の関係で、中心は何ですか。人間は関係の世界を離れることができないのです。

「家和万事成」という言葉があります。「家和万事成」になろうとすれば、祖父と祖母の関係が理想的でなければなりません。夫婦関係と兄弟関係が理想的でなければなりません。祖父と祖母が自分たちだけで喜び、夫婦同士、あるいは兄弟同士だけで喜んではいけません。祖父と祖母と父母、父母と息子、娘、縦横の前後左右ですべて和合してこそ、「家和」になるのです。「家和」は難しいというのです。なぜですか。私たち個々人の体と心が争っているからです。三十八度線が問題ではなく、世界の戦争が問題ではありません。戦争の動機とは何か、その根本が何かというとき、「私」なのです。

3. 宗教生活は体を主管し、心に従って生きる生活

「人」といえば男性と女性がいます。男性と女性は心と体の両面をもっています。宗教を信じるのに、心と体で信じなければならないでしょうか、心でだけ信じなければならないでしょうか。心と体が一つになって信じるのが理想的ですが、それを一つにできなかったとき、神様は先に心を中心として一つになるようにします。主体である心を通して一つにするのです。

心がまっすぐだというのは、垂直を前提に語る言葉です。心を中心として神様と完全に一つになって、体を一つにしなければなりません。これが今日、宗教者が一生をかけて達成すべき課題です。どのようにすれば心が体を支配できるでしょうか。そこには二つの方法があります。神様と共に生きながら、神意を知る立場に立たなければなりません。神様のみ旨を中心として生きなければならないのです。ところが、体がうまく従ってきません。心がプラスなので、体がマイナスになれば、どれほどよいでしょうか。しかし、体もプラスになろうとするというのです。プラスとプラスとになるので、反発するのです。

それでは、どのように一つにしなければならないのでしょうか。根本理想を求め、強力な信仰心で、その変わらない心で絶対的な姿勢を備えて、体を弱体化させなければならないので、苦行をするのです。苦行を好む人がいますか。苦行を好む人が世の中のどこにいるかというのです。千人いても万人いても、すべての人が嫌います。数億の仏教信者がいるならば、その中で苦行を好む人がいるかというのです。

それでは、それを無理やりするところで、理想が実現できますか。それは理論的に矛盾です。喜んで行っても難しいのに、無理に行って完成するというのは矛盾です。宗教生活は体を主管する生活ですが、プラスである心を中心として、体をマイナスにするためのものです。マイナスさえつくっておけば、「一つになれ」と言う必要がありません。体がマイナスに戻ることによって、体と心は一つになるのです。

神様はなぜ体を打たなくてもよいように創造できなかったのかと言いながら、神様を否定する人々がいます。理由は分からなかったとしても、人間が病気になったのは事実です。僧侶たちがいらっしゃいますが、いくら修行に励みながら念仏を覚えても、肉体の欲望を捨てることはできません。その欲望は生きています。どれほど強いか分かりません。精誠を込めて修行に励んでも、うまくいきません。欲望が行こうとする道と、その世界の前進過程は、公式のようなものです。

それでは、宗教を中心として、なぜ体を苦労させなければならないのですか。良心基準に対して体を弱化させることによって、体が心に従うようにするためなのです。体を弱体化させて、およそ三年間引っ張っていきながら、習慣になるようにしなければなりません。それは絶対的に信仰を強調するためです。絶対的にほかのことを考えてはいけないというのです。父と母、兄弟、自分が愛する人、国と世界の雑多なことをすべて捨てて、絶対的な道理を立てて体を修養し、帰一点を見いだすのです。どのような宗教もみな、そのように教えなければなりません。そうでなければ、宗教世界の発展をもたらすことはできません。人格革命をもたらすことはできないのです。

ですから、断食と絶食をし、苦行しながら社会に出ていって迫害を受け、反対を受けなければなりません。修養の目的成就のためには、体が死にそうだといって大騒ぎしても、物ともせずにすべてのことを忘れなければなりません。心に体が順応できる自我を見いだすためのつらい生活が宗教生活です。そうでない人はみな偽者です。普遍的で妥当なこのような観を中心として見るとき、良心と体を一致させるために、経典が教える内容以上の境地にまで体の修行をしようという人が、仏教で言えば真の仏教信者です。またキリスト教で見れば、真のキリスト教信者です。

申し訳ない話ですが、僧侶たちが妻を得て、息子、娘をもったとすれば、家族を率いて心の世界の統一圏を形成するということが、どれほど大変でしょうか。彼らを背負っていくことがどれほど大変でしょうか。そのような問題を簡素化するために、出家するのではないかというのです。

出家して何をするのでしょうか。完全な道の成就、その目的を成就したあとで、男性と女性の修行者が一つにならなければなりません。それで、終わりの日には、今まで教えたすべての修行の時代が終わり、修行者たちも結婚しなければならない時が来るのです。

外的な世の中では、結婚に失敗し、多くの問題が現れています。悪神の巣窟、悪魔の巣窟、サタンの巣窟になっています。神様は、「この滅びる者たち、お前たちは人倫、道徳を中心として背信の道を行くので滅びるだろう。しかし、お前たちを正すために標本が必要だ。僧侶が結婚し、神父や修道女たちが結婚して標本になるべきだ」と語るでしょう。経典を通してこのようなことを解釈できますか。経典にはありません。四大聖人はすべて教主です。宗教の教祖です。その教祖を中心として数千年の歴史を経てきながら、人類を教化させてきました。神様は天運を動かす中心の絶対的神様ですが、教主たちの志が良いので、彼らを立てて教材として使ったのです。ですから、「私たちの教主は神様だ!」と言ってはいけません。教主を「絶対的神様だ」と言うならば、問題が大きいというのです。

4. 宇宙の根本真理を探すために神様と談判

人間は第一原因から始まりました。第一原因とは何ですか。その名前はどうでもよいのです。そのお方は私たち人間が描く理想をもったお方です。行ったり来たりしながら、適当なことを考えるお方ではありません。絶対者なので、そのお方が考える理想は絶対的です。どの教主でも、そのお方以上にはなれません。優秀な教主や宗教指導者、世の中を騒然とさせるほどの宗教者がいるとしても、神様を中心としなければなりません。自らを中心とすれば、大変なことになります。それは、人間はあくまでも第一存在ではなく、結果的存在だからです。

第二存在である人間は、どのようにして生まれましたか。私にとって第一存在は父と母です。その父と母の第一存在は祖父と祖母です。このようにさかのぼるのです。祖父と祖母の第一存在は先祖です。先祖の第一存在は第一先祖です。人間の第一先祖の第一存在は神様です。神様がいるとすれば、そこまでさかのぼるのです。

その神様のみ旨とは、どのようなものですか。宗教を立てて個人を救うのですか、家庭を救うのですか、国家、世界、天地を救うのですか。地上と天上に地獄がありますが、救いというものは、天上天下の地獄をなくし、天国をつくろうとするのです。そのようなお方が絶対善なるお方です。

私はこのような問題について非常に悩み、宇宙の根本真理が何かと、談判祈祷を捧げました。そうして、神様を発見しました。「あなたを発見したので、死に物狂いです。根本を教えてください」と談判しました。私は身もだえしながら、神様に「あなたはどのようなお方ですか」と尋ねながら、根本思想を明らかにしたのです。

今日、神様がいるのか、いないのかということが世界的問題です。そこから唯物史観と唯心史観の二元論が生じました。心が先か、体が先かということです。ところが、分かってみると、心も先ではなく、体も先ではありません。体と心が一つにならなかったために、このようなことが広がったのです。民主世界は心を拡大させたものであり、共産世界は体を拡大させたものです。これが互いに争うのです。この争いをどのようにすれば止めることができますか。民主世界と共産世界を一つにすることより、皆様自身の心と体を一つにすることが先決問題です。

このような問題を考えながら、悩んで標語として立てたのが「宇宙主管を願う前に自己主管を完成せよ!」でした。第一標語がこれでした。すべての人、すべての教団が世界と天地を支配しようとしますが、自分自身を主管できずにいるのです。そのように身もだえしながら、十年間さまよい歩きました。涙もたくさん流しました。

自分の家の父母を中心として、絶対的に一つになりなさいと教えるのが孝子の道理です。国を中心として教えるのが忠臣の道です。孝子と忠臣は通じます。それをもう少し拡大して言えば、聖人の道です。皆様が信じている教祖たちは聖人ですか、聖者ですか。イエス様も孔子も釈迦牟尼も、聖人です。

5. 真の信者とは、教主の愛を受けられる人

四大宗教において教主の中の教主とは誰ですか。最高の頂上は二人ではありません。山頂に登るときは東西南北の方向から登りますが、山頂は一つです。真の信者はどのような人でしょうか。

仏教の僧侶たちが大勢参加し、高位の僧侶も来られましたが、釈迦が「私たちの高位の僧侶がナンバー・ワンだ」と言えば、どれほど良いでしょうか。それでは、釈迦が願うこととは何でしょうか。霊界に行ってみれば、お金は必要ありません。知識も必要ありません。そこに行ってみるとそうでした。権力が必要ありません。お金をいくらでも創造でき、ダイヤモンドの星も造ることができる神様です。絶対者であり、知識と権力の大王であられます。春夏秋冬の四季を越えて、永遠に自由自在に行使できるお方です。そのお方に何が必要でしょうか。

仏教信者は釈迦の信任を受ける人ですが、信任されることが第一ですか。違います。結局はどこに行かなければならないのかといえば、外的関係から内的関係に行かなければなりません。誰よりも釈迦の愛を受ける人でなければなりません。皆様は信任される人になりますか、愛される人になりますか。母は子女を絶対的に信じますが、息子だといって絶対的に信じているだけで、じっとしていてはいけません。懐に抱いてお乳を与えながら愛してこそ喜びます。本性がそうなっています。

ですから、教主と信者も、先にお話ししたような関係です。「家和万事成」の関係ですが、その関係をどのようにしてもたなければならないのでしょうか。教理を中心とした関係は立派です。しかし、教理は道を教えるのです。道理を教えるのです。道というものは、行く道を言います。方向を教えるのです。行って何をするのでしょうか。釈迦に会い、イエス様に会って何をしますか。みな教主に会ってみたいと思いますが、出会って何をしますか。イエス様のものを自分のものにし、自分のものがイエス様のものになるとすれば、どれほど良いでしょうか。結局は帰依だというのです。同等な立場に行くことが信者の願いです。

その同等な立場に行こうとすれば、どのようにしなければならないでしょうか。釈迦を中心として父方の叔父の関係が良いでしょうか、母方の叔父の関係が良いでしょうか、僕の関係が良いでしょうか。信者たちに「あなたはどんな関係になることを願うか」と尋ねるとき、「釈迦の息子になり、娘になることを願う」と言うでしょう。それが最高の結論です。息子、娘は相続を受けます。そして、共に住みながら、どこでも一緒に行くことができます。どこでも同参できます。父子の関係において愛を中心とするようになれば、相続を受けることができます。愛の属性の中には相続権があるのです。

男性と女性が互いに愛し合うとき、夫のものは誰のものになりますか。夫のものは妻のものになります。また妻のものは夫のものです。ですから、貯金通帳を二つもって暮らす夫婦がいるとすれば、その夫婦は偽者だということができます。それは荷物をまとめるための準備と同じだというのです。それを正さなければなりません。根を直しておかなければなりません。

釈迦と弟子の関係はそれと同じですが、イエス様に「信者たちに何を望まれますか」と尋ねれば、「私たちの何代の孫よ、僕のように働け」と言うでしょうか。キリスト教の牧師たちは、「神様の僕」と言いながら祈祷を捧げます。なぜそのような祈祷を捧げるのですか。神様のみ前に、僕にしかならなくてよいのですか。僕の上には養子がいて、庶子がいて、直系の息子がいます。僕から三段階を越えてこそ、息子、娘になるので、同じ価値なら息子と言えばよいのに、なぜ僕と言うのでしょうか。

6. レバレンド・ムーンは真の愛の哲学者

皆様の中にイエス様を信じる人がいるならば、イエス様の息子、娘のように近い立場に立ちたいですか、隣の家のおじさんのような立場に立ちたいですか。これをイエス様に尋ねれば、「横的ではなく、縦的な一番近い父子の関係だ」と言うというのです。なぜ父子の関係ですか。それは縦的な関係だからです。夫婦関係は横的です。それでは、縦が先ですか、横が先ですか。縦が先だとすれば、どうしてでしょうか。世の中のすべての物が創造されるとき、創造主は水平を見ながら造ったというのです。ですから、良いものは垂直になっています。茎はすべて垂直に育ちます。穀物を見ても、葉はすべて曲がっても、茎だけはまっすぐです。茎には根の茎と芽の茎があります。これらはすべて垂直です。

人間の始祖が第二原因者ならば、第一原因者である神様は高いところにいて、人間は低いところにいます。その中で神様の愛と人間の愛について語るとき、愛は縦的にならざるを得ません。ここで一つの概念の定義を下すことができます。完全に縦的な垂直を作る動作は何でしょうか。知識ではできません。それでは直行できません。知識は回りながら進みます。また、お金は天から下りてくるのではなく、地を転がっていきます。権力も垂直にできません。しかし、真の愛は直短距離を通るのです。

私はこれを発見し、どれほどうれしかったか分かりません。この原理でなければ解明できないのです。宇宙を解くことができません。真の愛とは何ですか。直短距離を経るものです。ですから、上から下に通じる真の愛があるならば、それは垂直にならざるを得ません。少しだけずれても垂直ではないのです。直短距離ではありません。何が宇宙の中で直短距離である垂直を占領できるのでしょうか。それは真の愛だけです。

私が最近、真の愛の話をするので、世界的に有名になりました。レバレンド・ムーンは真の愛の哲学者として知られるようになりました。父母は愛する子女が危険に直面したとき、反対に走っていって救うと言いますか。自分の生命は貴いですが、それが問題になりません。直短距離で駆けつけていくのです。これこそが偉大な福音です。それでは、宇宙の中心とは何でしょうか。直短距離で結ぶ垂直の場を占有できるものは何ですか。それがすべての価値の中心になっていれば、世界はそこから位置の策定が可能なのです。その垂直を中心として東側にあるのか、南側にあるのか、北側にあるのかを決定するのです。

垂直という言葉は、垂直自体を前提として語る言葉ではありません。横である水平を前提条件として語る言葉です。上という言葉は、上を中心として語る言葉ではありません。先に下を認めて語る言葉です。右側という言葉は、左側があることを先に認めて語る言葉です。女性だけで、女性という言葉は使いません。そのような言葉は不明確な言葉です。女性という言葉は、男性を先に存在する先有条件として語る言葉です。相対的概念を中心として語る言葉です。ですから、宇宙で一番まっすぐな垂直を探そうというとき、知識で探すことはできません。権力でも探せません。お金でも探せません。しかし、愛では可能だと見るのです。神様は絶対的なお方であり、神様の愛も絶対的なので、絶対に真だというのです。ですから、その愛は最短の距離を占有するのです。これが根本思想です。

7. 宇宙の根本は愛と生命と血統

哲学に入門する人は、本を見ながら、「私はなぜ生まれたのか」と言いながら悩みます。女性たちは「男性たちに冷遇されるのが無念で悔しい。男性に生まれて一度復讐できたらいい。輪廻転生してそうなったらいい」と考えかねませんが、そのように考えてはいけません。

女性や男性、人が生まれるのは、誰のために生まれたのですか。子女は父母のために生まれました。父母はなぜいなければなりませんか。子女のためにいなければなりません。父母という言葉は、子女を前提として語る言葉です。子女という言葉は、父母を先有条件として語るものです。ですから、先有条件のために関係が結ばれるのです。自分を中心としては関係が結ばれる道理がありません。男性が生まれたのは、女性のために生まれました。真の男性になろうとすれば、先に真の息子にならなければなりません。真の息子になろうとすれば、孝子にならなければなりません。その次に、真の女性に会って真の夫婦にならなければなりません。真の夫婦において、妻は女性を代表したものであり、夫は男性を代表したものです。全世界の男性と女性の代表者です。動物世界は雄と雌、分子の世界は陽イオンと陰イオンから成っています。宇宙はすべてペア・システムになっています。そして、雄雌はすべて縦的な愛を中心として繁殖し、生きていくのです。

僧侶たちは、「女性との関係は考えてもいなかったのに、これは大変なことになった」と言うかもしれませんが、天上世界に行けばどうなるのか、すべて分かるようになるでしょう。男性として生まれたとすれば、何をするためにそのように生まれたのでしょうか。凸が凸のために生じましたか。その根本問題がここから出てきます。凸は凹のために生じたのです。また凹が凹のために生じましたか。凸のために生じました。天地の道理です。東洋思想も陰陽を中心として話をしますが、陰陽が合徳(和合)しなければなりません。そうでなければ未完成品です。その陰陽の合徳は何によってするのですか。愛です。ですから、男性が女性のために生まれたのは何のためですか。愛のためだというのです。男性の愛は男性にあるのではなく女性にあります。女性の愛は男性にあります。私自体に愛があるのではありません。

宇宙の根本は、愛と生命と血統です。神様は愛の主体であり、生命の主体であり、血統の主体です。それがなければ、人間は愛を感じられません。私も愛をもっています。生命をもっていて、血統をもっています。それは、自分一人では分かりません。しかし、自分の相対が現れれば、愛の周波数が来ます。生命が動くのです。血が沸きたちます。それは誰に似てそうなっているのですか。根本がないところでは生まれることができないのです。

それを見るとき、神様も同じだというのです。神様も愛をもっていて、生命をもっていて、血統をもっています。それでは、成熟したということはどういうことですか。成熟するということは、異性に対して愛を求めるということです。その時は、世界がみなその中に入ります。そして詩人にならない人がいません。思春期には、すべての人が詩人になるのです。

一人の男性ならば、それは男性を代表したものです。「私は男性を代表している」と考えないですか。何をもってそのように考えることができるのでしょうか。勉強して、お金を集めて、権力をもってそのように考えることができますか。絶対にできません。世界の男性たち中で、愛することにおいて負けない代表者として立ったというときは、すべての男性たちが「それは正しい!」と言うのです。愛の代表者になったとすれば、すべての人が好むというのです。悪い人、良い人を問わず、みな好むのです。女性も同様です。

そして、人間は一番上に行きたいと思います。何を中心としてそのように思うのですか。お金ではありません。愛を中心としてそのように思うのです。男性が生まれたのは女性のためであり、女性が生まれたのは男性のためです。ですから、神様は互いに貴いものを入れ替えておきました。女性の愛のふろしきは男性が主人です。男性の愛のふろしきは誰が主人でしょうか。女性が主人です。女性が主人ですが、何の主人ですか。愛の王権です。取るに足らないわらぶきの家に住む夫の妻としてではありません。愛の王権を代表した主人です。そのように考えて結婚式をしてこそ、大地が振動するほど太鼓をたたいて良いと言いながら、ウエディング・マーチを響かせるのです。そうでなければ、真っ暗闇な世の中になって、何をしても興味が湧かないというのです。これは文総裁が、歴史始まって以来初めて語る話です。このような話を聞いたことがありますか。仏教の経典にもありません。

それでは、男性と女性がなぜ結婚するのですか。愛のためです。何の愛かというと、絶対的な真の愛です。父子の関係は誰かが分けることはできず、革命できません。父子の関係は絶対的です。そこに流れる愛も絶対的なのです。その関係が絶対的ならば、母と父も絶対的でなければなりませんか、相対的でなければなりませんか。母と父も絶対的でなければなりません。母と父と息子、娘の関係が絶対的なので、母が離れ、父が離れても、息子、娘は離れることができないというのです。ところが、最近の家庭を見れば、母と父が、子女たちを捨てて離れたりしています。

夫と妻が生きていくにおいても、絶対的な愛がなければなりません。ところが、結婚して一週間もせずに離婚する人たちがいます。それが真の夫婦ですか、偽りの夫婦ですか。それは偽りの夫婦です。愛のために生まれたというときは、気分が良いのです。僧侶たちも、精誠を捧げる生活によってこの国の仏教界の高僧になりましたが、昔の母と父の懐が懐かしく思いませんか。忘れることはできません。それは革命することができないのです。そこを求めて入ろうとする気持ちがあるのです。なぜでしょうか。愛が根源だからです。愛が動機になっているので、愛の動機で流れる過程は、愛の関係をもたなければ連結されないのです。

8. 神様と真の愛、そして永生

それでは、神様はいったいどのようなお方ですか。神様は私たちの父です。仏教からは人格神は発見できません。万象の帰一法を論じながら、どのように人格神を発見しますか。内外に情、知、意の感情に通じることのできる神様をどのように発見しますか。愛する孝子をもった父母が、その息子が帰ってくるとき、どのようにするでしょうか。「ああ、私の息子よ!」と言いながら、高僧も教主もみな無視したまま、満面の笑みを浮かべて抱きかかえるのです。

根本に戻ってみましょう。自分のために愛すれば大変なことになります。宇宙はそれを歓迎しません。自分のために生きなさいという愛ならば、大変なことが起こります。

宇宙の根本である神様は絶対的なお方です。創造の根本に入ってみるとき、私が信じる神様は本当に偉大なお方だと思います。その絶対者が信じることのできる絶対的なことは何ですか。神様も絶対的な平和、絶対的な幸福を求めます。

それでは、それをもたらし得るものとは何ですか。お金ですか。お金はいくらでも作ることができます。知識ですか。神様は知識の大王です。権力ですか。神様は全知全能です。それでは、何でしょうか。愛です。真の愛だというのです。絶対的な神様にとっても、愛は絶対的です。

神様にいくら力があっても、真の愛の息子、娘に会えば、「私のものをすべて与える」と言うのです。真の夫は真の妻に「私のものをすべて与える」と言います。「私のものは私のものだ」と言えば、真の愛ではありません。完全に改心して与え合わなければなりません。神様が天地を創造するようになったのも、そのような理由からです。

キリスト教の牧師たちは、「創造主は神聖であり、被造物は卑しい」と言います。しかし、分からないからそのように言うのです。そのような話は、愛の神様という論法を取り消す結果を生み出すのです。神様の愛もイエス様の愛も、愛という言葉は相対性を離れては成立しません。神様の相手は誰でしょうか。「万物之衆唯人最貴(マンムルチチュンユインチェキ)」(万物の中で人が最も貴いの意)という言葉があります。正しい言葉です。神様がなぜ天地を創造しましたか。愛のためです。神様御自身がその理想的な愛を立てる道は投入です。完全な投入です。一〇〇パーセント以上、一二〇パーセント投入です。ですから、真の愛をもって生きる人は、いくら迫害を受けてもて一二〇パーセント、何百パーセント以上投入できる本性の起源と連結されているので、支配を受けません。

独裁者がその時代を破綻させてしまい、すべてを無に解消させたとしても、世界は再現されます。母と父がいくら老いても、愛を再現させるのと同じです。独裁者が抑圧しても、歴史を超越して再現され、権威を堂々と立てるのです。ですから、宗教世界の教主たちはその時代に迫害を受けるのです。しかし、投入したものは、取り戻される環境になれば、その時代以後には実を結ぶのです。

神様は人格神なので、体と心があるのかというとき、あるというのです。神様も愛があるのかというと、あるというのです。生命があるのかというと、生命があり、血統があるのかというと、血統があるというのです。このすべてのものは、自分一人では成り立ちません。相対がいなければなりません。神様は縦的なので、縦的な基準を中心として連結しようとするのです。縦的な立場である子女の立場で大きくなって夫婦になるのです。そして、世界までみな知るようになります。そうして、一つになるのです。どこに行って一つになるのでしょうか。縦的な立場です。その中に息子、娘がいて、神様が入ってきているのです。

円には弦がありますが、アダムとエバは、上弦と下弦を縮小したものになって、扇のような一つの連体になります。骨と肉のようになるというのです。それで、「父なる神」という言葉は、血統関係でなければ成立しません。神様が誰かというと、私たちの父です。真の愛を中心とした縦的な父です。アダムとエバが堕落しないで完成したとすれば、そこに神様が臨在します。アダムとエバが結婚して、夫婦として横的に一つになれば、縦的な神様が降りてきます。降りてくる力の運動が起こるのです。すべてのものは、球形を中心として作用することで、存在するようになっています。ですから、皆様の体と心は誰に似たかというと、神様に似たというのです。

それでは、神様の心と体は、堕落した人間のように争いますか。争いません。それでは、なぜ人間は争うのですか。故障したというのです。事故が起きたというのです。これをキリスト教では堕落といいます。何の故障ですか。腕を一つ切断されても生きます。脚が切断されても生きられます。神様が最も嫌うことは、愛の秩序を破壊することです。アダムとエバが堕落したのち、下半身を隠しました。これが問題です。縦的な真の愛の父、そのお方が創造主ですが、人間が堕落しなかったなら、縦的な位置は九〇度です。男性と女性も、真の愛に通じる道は直短距離です。天地が通じる真の愛の道は直短距離なので、垂直の前に九〇度にならざるを得ないというのです。球形の一番高いところはどこかというと、その中心です。

皆様は、あらゆる存在の中心存在になりたいと思います。なぜでしょうか。そこに行ってこそ、神様の愛に接することができるからです。神様の愛に接すれば、どうなるのでしょうか。神様が私のものになり、神様が所有されたすべてのものも、私のものになります。男性と女性が結婚するのは何のためですか。愛のためです。愛して、何をしようというのですか。中央に行って神様と愛の関係を結ぶことによって、神様を私のものにし、神様の愛を私のものにし、神様の所有を私のものにしようというのです。愛を中心として相続権が連結されるのです。その次には、同居権、永遠に共に暮らすことができるのです。

ですから、真の愛が動くところに永生があるという論理を立てることができます。永生がどこにありますか。息を永遠に吸い込んでもよく、永遠に息を吐いても幸せだというのです。そのような愛を中心として呼吸する世界に、真の愛の永生があるのです。そのような父母を通して愛を受け継いだ「私」です。ですから、男性も女性も、愛をもっていない人はいません。男性も女性も父母の血肉を受け継ぎ、父母の生命を受け継いだので、みな愛をもっていて、生命と血統をもっているというのです。

9. 万教の平和基準と愛の道理

心とは何ですか。縦的な神様の愛と血統を通して受け継いだ、内的な「私」です。内的な私は、縦的な私です。それでは、体とは何ですか。堕落しなかったなら、本然の根本理想を受け継いだ私は、九〇度に立つようになります。堕落しなかった真の父母の愛と生命と血統を受け継いで生まれれば、体と心が一つになった人になるのです。一つは心的な内的神様を中心とした人格、もう一つは体的な外的父母を中心とした人格です。そこにおいて、その二つは、愛を中心として生命と血統を中心とした男性と女性の混合的な統一圏を形成します。ですから、神様に似たものが心なので、心は内的な私だというのです。

宇宙の秘密が何であるかと祈祷してみると、答えは簡単でした。父子の関係だというのです。父子の関係が、ただ形だけの父子の関係ならば、堕落した世の中にもあります。父が子女を売り、子女が父の命を奪う世の中です。

堕落とは何ですか。神様の最も貴いものを盗んだのです。悪魔の行為です。最も貴いものとは何かというと、愛と生命と血統ですが、これを汚したというのです。ですから、歴史時代において神様が最も嫌うものは淫乱です。ローマが滅びたのはどうしてですか。外敵の侵略によって滅びたのではありません。淫乱のためでした。悪魔が淫乱で悪をばらまいたので、人類が世界的に淫乱の風に巻き込まれていくときは、鉄槌が加えられるのです。

教団がそのようになるときは、教団が滅びていき、国がそのようになるときは国が滅びていき、歴史がそのように誤れば、その歴史の方向がみな壊れていくのです。誰がそのようにしますか。そのようにしたのは人間ではありません。国ではありません。神様が嫌うので、そのようになったのです。今まで救援してきた神様は、理想的な神様ではありません。堕落がなかったなら教主を教育し、導かなければならない神様ではないのです。ですから、真の宗教を求めなければなりません。宗教において求めるのは本当の神様です。

神様は何をもって生きたいかというと、愛を中心として生きたいというのです。答えがそれです。何の愛でしょうか。神様と同様に心と体が九〇度で一つになり、完全に一つになった愛です。何が神様の心を統一させることができますか。真の愛です。それでは、真の愛とは何ですか。完全に犠牲になり、一〇〇パーセント投入しては忘れる愛です。そうでないとすれば、神様は今まで、人類が歴史時代に誤ったものを見て、耐えることができたでしょうか。世の中の人であれば、みな抹殺してしまったでしょう。

真の愛は堕落した世界に一つだけ残っています。縦的な基準だけが残っています。それは、父母が子女を愛する愛です。神様の代身の立場で、それだけが地に残っているというのです。ですから、救援摂理も可能です。幸福がどこにありますか。皆様の心にあるのです。神様御自身も何を中心として生きたいと思うでしょうか。真の愛を中心として生きたいと思うのです。真の愛をもった男性と女性と、共に生きたいと思うのです。父母は子女たちを共に抱きたいと思います。神様は、真の愛をもった息子、娘をこの地でかき抱いて生きたいと思うのです。

10. 神様の人間救援の目的

仏教の僧侶たちが、「文総裁は釈迦より偉いと言っている」と言って、大騒ぎしました。「イエス様より偉い、孔子より偉い、誰よりも偉いと言っている」と言って、宗教者たちが大騒ぎしているのです。一生涯において、教主の中で私ほど働いた人がどこにいますか。私は世界中の国々から反対を受けても、基盤を築き上げました。一代を中心として見るとき、私ほど仕事をした人がいません。それを人間の力で行ったとすれば、既に死んで久しかったでしょう。私利私欲のために働いたなら、そうなったでしょう。善の道である統一教会の行路は、愛を通した理想を中心として行く道です。個人的愛観、家庭的愛観ではありません。統一教会の愛観は垂直です。垂直的愛観をもって、思想的観を変えなければなりません。垂直的観を備えた水平の愛です。これが分かるので、民族を超越し、人種を超越するのです。

統一教会の信者たちは、日本人もアメリカ人も、「あなたは黒人と結婚しなさい!」と言えば、喜んで結婚します。なぜでしょうか。何千年前に失った兄弟を取り戻すことだからです。知ってみれば、彼らは私の兄弟です。顔が黒いためにどれほど苦労したのかと言いながら、抱きかかえて泣きます。そのように痛哭から始まります。その痛哭を忘れることはできません。何がそのようにするのでしょうか。真の愛です。統一教会はそうです。私は賢い人です。世界の優れた人に会い、理論的に論じてすべて信頼を勝ち取った人です。ですから、世界の宗教指導者たちは私のことを好みます。

理論に合わない教理は、二十一世紀に必要ありません。理論に合わず、現実生活に利益をもたらすことのできない宗教は、必要ないというのです。統一教会の信者たちはそうです。無邪気に見えますが、むやみに見過ごしません。神様だけでなく、神様の心情を論じます。

神様は世界の救援が目的なので、家庭を犠牲にさせても神様の民族を取り戻そうとします。国家を犠牲にさせても世界を救おうとします。この地上の世界を犠牲にさせて、万代の霊界に行ったすべての霊人たちを解放しようとします。そして、最後には神様御自身が解放されなければならないというのです。

私はそれを知ったので、十字架を背負うのです。「世界の宗教界において、分かった人が十字架を背負うべきだ」と言いながら、四十年の年月を風霜に苦しんだ男が、ここに立っているこの人です。その気迫を見れば、天地を塞いで余りある気迫です。私は神様のみ旨を知るようになったときから、統一教会を犠牲にさせてでも、万教を犠牲にさせてでも、世界救援をしなければなければならないと唱えたのです。ですから、統一教会に使う予算より何百倍も多くのお金を投入して、超教派運動、宗教連合運動をしています。そして、世界舞台では宗教財団をつくって、莫大な資源を投入しています。統一教会の人々は心血を注ぎ、その仕事をしているのです。

世界のために投入します。神様のように投入すれば、蘇生の春の日、歓喜の愛の理想を中心として踊りを踊ることのできる、本然の理想世界が訪れることを知っているからです。このことのためには、十字架を東で背負おうと、西で背負おうと、家で背負おうと、必ず人類のために誰かが背負わなければならないというのです。そのようにしなければ、くぼみにたまった腐った水はきれいになりません。このような思想をもって生きる人たちが、統一教会の人々です。

興亡盛衰の道は、ために生きることから分かれます。自然科学の力学で入力と出力を見れば、いつも入力が出力よりも大きいのです。しかし、愛の世界では入力よりも出力が大きくなります。愛があることによって、壊れていく世の中で均衡を取ることができるのです。ために生きて犠牲になる基盤と、ために生きて、さらにために生きたいという心をもつ真の愛の伝統を受け継ぐところでのみ、この世の中を収拾することができます。それが天理です。ために生きる道は、孝子の愛の道です。忠臣の愛の道、聖人の愛の道です。聖人の愛は人類のための愛です。聖子は天地を愛し、天の王宮法まで守ることができます。神様まで心情的に侍ることができるのです。そのような縦的な立場をつかまなければなりません。

聖子の道理と神様の愛の道理を学ばなければ、万教の平和の基準を見いだすことができません。これこそ宗教協議会が到達すべき目的地ではないかと申し上げつつ、これで終わりたいと思います。ありがとうございました。

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