原理講論 創造原理
第一章 創 造 原 理
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人間は長い歴史の期間にわたって、人生と宇宙に関する根本問題を解決するために苦悶してきた。けれども、今日に至るまで、この問題に対して納得のいく解答を我々に与えてくれた人はまだ一人もいない。それは本来、人間や宇宙がいかに創造されたかという究極の原理を知らなかったからである。さらに、我々にはもっと根本的な先決問題が残っている。それは、結果的な存在に関することではなく、原因的な存在に関する問題である。ゆえに、人生と宇宙に関する問題は、結局それを創造し給うた神が、いかなるお方かということを知らない限り解くことができないのである。創造原理はこのような根本的な問題を、広範囲にわたって扱っている。
(一)神の二性性相
(二)神と被造世界との関係
(一)神の二性性相
無形にいます神の神性を、我々はいかにして知ることができるだろうか。それは、被造世界を観察することによって、知ることができる。そこで、
パウロは、「神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない」(ロマ一・20)と記録している。あたかもすべての作品は、その作者の見えない性稟の実体的展開であるように、被造世界の森羅万象は、それを創造し給うた神の見えない神性の、その実体対象として展開されたものなのである。それゆえ、
作品を見てその作者の性稟を知ることができるように、この被造万物を見ることによって神の神性を知ることができるのである。
今我々は、神の神性を知るために、被造世界に普遍的に潜んでいる共通の事実を探ってみることにしよう。存在しているものは、いかなるものであっても、それ自体の内においてばかりでなく、他の存在との間にも、陽性と陰性の二性性相の相対的関係を結ぶことによって、初めて存在するようになるのである。これについて実例を挙げてみれば、今日、すべての物質の究極的構成要素といわれている素粒子は、みな、陽性、陰性、または陽性と陰性の中和による中性を帯びている。これらが二性性相の相対的関係を結ぶことによって、原子を形成するのである。
さらに、原子も、陽性または陰性を帯びるようになるが、これらの二性性相が相対的関係を結ぶことによって、物質の分子を形成するのである。このように形成された物質は、また、互いに二性性相の相対的関係によって植物または動物に吸収されて、それらの栄養となるのである。
さらに、すべての植物は各々雄しべと雌しべとによって存続するし、また、すべての動物は各々雄と雌とによって繁殖、生存するのである。人間についての例を見ても、神は男性のアダムを創造されてのち、「人がひとりでいるのは良くない」(創二・18)と言われ、その対象として女性のエバを創造なさったあと、初めて「はなはだ良(善)かった」(創一・31)と言われたのである。さらに、あたかも、電離した陽イオンや陰イオンが、各々陽子と電子との結合によって形成されているように、
雄しべや
雌しべ、あるいは雄や雌もまた、各々それ自体の内部で、陽性と陰性の二性性相の相対的関係を結ぶことによって、初めて存在することができるのである。したがって、人間においても、男性には女性性相が、女性には男性性相が各々潜在しているのである。そればかりでなく、
森羅万象の存在様相が、表裏、内外、前後、左右、高低、強弱、抑揚、長短、広狭、東西、南北などのように、すべて相対的であるのも、あらゆる被造物が二性性相の相対的関係によって、互いに存在できるように創造されているからである。
以上の記述によって、我々はすべての存在が、陽性と陰性との二性性相による相対的関係によって存在を保ち得ているという事実を明らかにした。さらに、
我々はすべての存在を形成しているもっと根本的な、いま一つの二性性相の相対的関係を知らなければならない。存在するものはすべて、その外形と内性とを備えている。そして、その見えるところの外形は、見ることのできない内性が、そのごとくに現れたものである。したがって、内性は目に見ることはできないが、必ずある種のかたちをもっているから、それに似て、外形も目に見える何らかのかたちとして現れているのである。そこで、前者を性相といい、後者を形状と名づける。ところで、性相と形状とは、同一なる存在の相対的な両面のかたちを言い表しており、形状は第二の性相であるともいえるので、これらを総合して、二性性相と称するのである。
これに対する例として、人間について調べてみることにしよう。人間は体という外形と心という内性とからできている。そして、
見える体は見えないその心に似ているのである。すなわち、心があるかたちをもっているので、その心に似ている体も、あるかたちをもつようになるのである。観相や手相など、
外貌から、見えないその心や運命を判断することができるという根拠もここにある。
それゆえ、心を性相といい、体を形状と称するのである。ここで、心と体とは、同一なる人間の相対的両面のかたちをいうのであって、体は第二の心であるということもできるので、これらを総合して二性性相であるという。これによって、あらゆる存在が性相と形状による二性性相の相対的関係によって存在しているという事実を、我々は知るようになった。
それでは、
性相と形状とは、お互いにいかなる関係をもっているのであろうか。無形の内的な性相が原因となって、それが主体的な立場にあるので、その形状は有形の外的な結果となり、その対象の立場に立つようになる。したがってこの両者はお互いに、内的なものと外的なもの、原因的なものと結果的なもの、主体的なものと対象的なもの、縦的なものと横的なものとの相対的関係をもつようになるのである。これに対する例として、再び人間を取りあげてみることにしよう。心と体は、各々性相と形状に該当するもので、体は心に似ているというだけではなく、心の命ずるがままに動じ静ずる。それによって、人間はその目的を指向しつつ指向維持するのである。したがって、心と体とは、内外、原因と結果、主体と対象、縦と横などの相対的関係をもっているということができるのである。
このように、いかなる被造物にも、その次元こそ互いに異なるが、いずれも無形の性相、すなわち、人間における心のように、無形の内的な性相があって、それが原因または主体となり、人間における体のようなその形状的部分を動かし、それによってその個性体を、ある目的をもつ被造物として存在せしめるようになるのである。それゆえ、
動物にも、人間の心のようなものがあり、これがある目的を指向しこうする主体的な原因となっているので、その肉体は、その個体の目的のために指向しこう生せいを営むようになるのである。植物にもやはりこのような性相せいそう
的な部分があって、それが、人間における心のような作用をするので、その個体は有機的な機能を維持するようになるのである。そればかりでなく、人間が互いに結合するようになるのはそれらの中に各々結合しようとする心があるからであるのと同様、
陽イオンと陰イオンとが結合してある物質を形成するのも、この二つのイオンの中に、各々その分子形成の目的を指向しこうするある性相的な部分があるからである。陽子を中心として電子が回転して原子を形成するのも、これまた、これらのものの中に、各々その原子形成の目的を
指向しこうする性相的な部分があるからである。
また、今日の科学によると、原子を構成している素粒子は、すべてエネルギーから成り立っているという。それゆえ、
そのエネルギーが素粒子を形成するためには、必ずそのエネルギー自体の中にも、素粒子形成の目的を指向しこうする性相せいそう的な部分がなければならないということになる。更に一歩進んで、このように性相と形状とを備えているそのエネルギーを存在せしめることによって、あらゆる存在界の究極的な原因となるところのある存在を我々は追求せざるを得なくなるのである。この存在は、まさしく、あらゆる存在の第一原因として、これらすべてのものの主体となる性相と形状とを備えていなければならない。存在界のこのような第一原因を我々は神と呼び、この主体的な性相と形状のことを、神の本性相ほんせいそうと本形状ほんけいじょうというのである。我々は、今、パウロが論証したように、あらゆる被造物に共通に見られる事実を追求することによって、神は
本性相ほんせいそうと
本形状ほんけいじょうの
二性性相にせいせいそう
の中和的主体として、すべての存在界の第一原因であられることが理解できるようになった。
既に述べたように、存在するものはいかなるものでも、陽性と陰性の二性性相の相対的関係によって存在するという事実が明らかにされた。それゆえに、
森羅万象しんらばんしょうの第一原因としていまし給たもう神も、また、陽性と陰性の二性性相の相対的関係によって存在せざるを得ないということは、当然の結論だといわなければならない。創世記一章27節に「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」と記録されているみ
言ことばを見ても、神は陽性と陰性の二性性相の中和的主体としてもいまし
給たもうということが、明らかに分かるのである。
それでは、
性相と形状の二性性相と、陽性と陰性の二性性相とは、互いにいかなる関係をもっているのだろうか。本来、神の本性相ほんせいそうと本形状ほんけいじょうは、各々本陽性ほんようせいと本陰性ほんいんせいの相対的関係をもって現象化するので、神の本陽性ほんようせいと本陰性ほんいんせいは、各々本性相ほんせいそうと本形状ほんけいじょうの属性である。それゆえ、陽性と陰性とは、各々性相と形状との関係と同一なる関係をもっている。したがって、陽性と陰性とは、内外、原因と結果、主体と対象、または
縦たてと
横よことの相対的関係をもっている。神が男性であるアダムの
肋骨あばらぼねを取って、その対象としての女性であるエバを創造されたと記録してある理由もここにあるのである(創二・22)。我々はここにおいて、神における陽性と陰性とを、各々男性と女性と称するのである。
神を中心として完成された被造世界は、ちょうど、心を中心として完成した人間の一個体のように、神の創造目的のままに、動じ静ずる、一つの完全な有機体である。したがって、この有機体も性相と形状とを備えなければならないわけで、その性相的な存在が神であり、その形状的存在が被造世界なのである。神が、被造世界の中心である人間を、神の形状である(創一・27)と言われた理由もここにある。したがって、被造世界が創造される前には、神は性相的な男性格主体としてのみおられたので、形状的な女性格対象として、被造世界を創造せざるを得なかったのである。コリント・一一章7節に、「男は、神のかたちであり栄光である」と記録されている聖句は、正にこのような原理を立証しているのである。このように、神は性相的な男性格主体であられるので、我々は神を父と呼んで、その格位を表示するのである。上述した内容を要約すれば、
神は本性相ほんせいそうと本形状ほんけいじょうの二性性相の中和的主体であると同時に、本性相ほんせいそう的男性と本形状ほんけいじょう的女性との二性性相の中和的主体としておられ、被造世界に対しては、性相的な男性格主体としていまし給たもうという事実を知ることができる。
(二)神と被造世界との関係
以上の論述によって、
被造物はすべて、無形の主体としていまし給たもう神の二性性相に似た実体に分立された、神の実体対象であることが分かった。このような実体対象を、我々は個性真理体と称する。人間は神の形象的な実体対象であるので、形象的個性真理体といい、人間以外の被造物は、象徴的な実体対象であるために、それらを象徴的個性真理体という。
個性真理体は、このように神の二性性相にせいせいそうに似た実体として分立されたものであるがゆえに、それらは、神の本性相ほんせいそう的男性に似た陽性の実体と、その本形状ほんけいじょう的女性に似た陰性の実体とに分立される。さらに、このように分立された個性真理体は、すべて神の実体対象ともなるので、それらは各自、神の
本性相ほんせいそうと
本形状ほんけいじょうに似て、それ自体の内に性相と形状の二性性相を備えるようになり、それにつれて、陽性と陰性の二性性相を、共に備えるようになる。
ここにおいて、二性性相を中心として見た神と被造世界との関係を要約すれば、被造世界は、無形の主体としていまし給たもう神の二性性相が、創造原理によって、象徴的または形象的な実体として分立された、個性真理体から構成されている神の実体対象である。すなわち、万物は神の二性性相が象徴的な実体として分立された実体対象であり、人間はそれが形象的な実体として分立された実体対象である。それゆえ、
神と被造世界とは、性相と形状との関係と同じく、内外、原因と結果、主体と対象、縦たてと横よこなど、二性性相の相対的な関係をもっているのである。
今、我々は創造原理に立脚して、東洋哲学の中心である易学えきがくの根本について調べてみることにしよう。易学えきがくでは、宇宙の根本は太極たいきょく(無極)であり、その太極から陰陽が、陰陽から木火土金水もっかどごんすいの五行ごぎょうが、五行ごぎょうから万物が生成せいせいされたと主張している。そして、陰陽を道と称し(一陰一陽之謂道いちいんいちようこれみちという)、その道は、すなわちみ言ことば(道也者言也みちはことばなり)であるといった。この内容を総合すれば、太極から陰陽、すなわちみ言ことばが、このみ言ことばから万物が生成せいせいされたという意味となる。したがって、太極は、すべての存在の第一原因として、陰陽の統一的核心であり、その中和的主体であることを意味するのである。
このようにして、ヨハネ福音書一章1節から3節に記録されているように、み言ことばはすなわち神であり、このみ言ことばから万物が創造されたというその内容と、これとを対照してみれば、陰陽の中和的な主体であるその太極は、二性性相の中和的主体である神を表示したものであるということを、知ることができるのである。
創造原理を見ても、み
言ことばが二性性相から成り立っているがゆえに、そのみ
言ことばから創造された被造物も二性性相からなるものでなければならない。したがって、陰陽が、すなわち「み
言ことば」であるという
易学えきがくの主張は妥当である。
しかしながら、
易学えきがくは単に陰陽を中心として存在界を観察することによって、それらが、すべて性相と形状とを備えているという事実を知らなかったので、太極が陰陽の中和的主体であることだけを明らかにするにとどまり、それが本来、本性相ほんせいそうと本形状ほんけいじょうとによる二性性相の中和的主体であることを、明白にすることはできなかった。したがって、その太極が人格的な神であるという事実に関しては知ることができなかったのである。
ここにおいて、今我々は、
易学えきがくによる東洋哲学の根本も、結局、創造原理によ(二)神と被造世界との関係ってのみ解明せられるという事実が分かった。そうして、近来、
漢かん医学が
漸次ぜんじその権威を増していくようになったのも、それが陰陽を中心とする創造原理的根拠に立脚しているからだということを知ることができるのである。
第三節 創造目的
(一) 被造世界を創造された目的
(二) 神の喜びのための善の対象
(一) 被造世界を創造された目的
被造物の創造が終わるごとに、神はそれを見て良しとされた、と記録されている創世記のみ言ことばを見れば(創一・4〜31)、神は自ら創造された被造物が、善の対象となることを願われたことが分かる。このように被造物が善の対象になることを願われたのは、神がそれを見て喜ばれるためである。それでは、
被造物がいかにすれば、神に一番喜ばれるのであろうか。神は万物世界を創造されたのち、最後に御自分の性相せいそうと形状のとおりに、喜怒哀楽の感性をもつ人間を創造され、それを見て楽しもうとされた。そこで、神はアダムとエバを創造なさったのち、生育せいいくせよ、繁殖せよ、万物世界を主管しゅかんせよ(創一・28)と言われたのである。この三大祝福のみ言ことばに従って、人間が神の国、すなわち天国をつくって喜ぶとき、神もそれを御覧になって、一層喜ばれるということはいうまでもない。
それでは、神の三大祝福は、いかにして完成されるのだろうか。それは、創造の根本基台である四位よんい基台が成就された基盤の上でのみ成就されるのである。それゆえに、神が被造世界を創造なさった目的は、人間をはじめ、すべての被造物が、神を中心として
四位よんい基台を完成し、三大祝福のみ
言ことばを成就して、天国をつくることにより、善の目的が完成されたのを見て、喜び、楽しまれるところにあったのである。
それゆえに、人間を中心とする被造世界が存在する目的は、神を喜ばせることであった。また、
すべての存在は二重目的をもつ連体れんたいである。既に述べたように、すべての存在の中心には、性相的なものと、形状的なものとの二つがあるので、その中心が
指向しこうする目的にも、性相的なものと形状的なものとの二つがあって、それらの関係は性相と形状との関係と同じである。そして、
性相的な目的は全体のためにあり、形状的な目的はそれ自体のためにあるもので、前者と後者は、原因的なものと結果的なもの、内的なものと外的なもの、主体的なものと対象的なものという関係をもっている。それゆえに、全体的な目的を離れて、個体的な目的があるはずはなく、個体的な目的を保障しない全体的な目的もあるはずがない。したがって、森羅万象しんらばんしょうの被造物は、このような二重目的によって連帯しあっている一つの広大な有機体なのである。
(二) 神の喜びのための善の対象
神の創造目的に関する問題を詳細に知るためには、我々がどんな状態にいるときに、
喜びが生ずるかという問題を先に知らなければならない。喜びは独自的に生ずるものではない。無形のものであろうと、実体であろうと、自己の性相と形状のとおりに展開された対象があって、それからくる刺激によって自体の性相と形状とを相対的に感ずるとき、ここに初めて喜びが生ずるのである。一つの例を挙げれば、
作家の喜びは、彼がもっている構想自体が対象となるか、あるいはその構想が、絵画かいがとか彫刻などの作品として実体化して対象となったとき、その対象からくる刺激によって、自己の性相せいそうと形状とを相対的に感じて初めて生ずるようになる。ここで、構想自体が対象として立つときには、それからくる刺激は実体的なものではないために、それによる喜びも実体的なものとなることはできない。人間のこのような
性稟せいひんは、みな神に似たものである。ゆえに、神もその実体対象からくる刺激によって、それ(神)自体の
本性相ほんせいそうと
本形状ほんけいじょうを相対的に感ずるとき、初めて喜びに満たされるということを知ることができる。
四位よんい基台の基盤の上で、
三大祝福による天国が実現すれば、これがすなわち、神が喜びを感ずる世界であるということを、既に我々は説明してきた。そこで、これがいかにして神の喜びのための善の対象となるかを調べてみることにしよう。
神の第一祝福は個性を完成することにある。人間が個性を完成しようとすれば、神の二性性相にせいせいそうの対象として分立された心と体とが、授受作用によって、合性ごうせい一体化して、それ自体において、神を中心として個体的な四位よんい基台をつくらなければならない。神を中心として心と体とが創造本然ほんぜんの四位よんい基台を完成した人間は、神の宮みやとなって(コリント・三・16)、神と一体となるので(ヨハネ一四・20)、神性しんせいをもつようになり、神の心情を体恤たいじゅつすることによって神のみ旨を知り、そのみ旨に従って生活をするようになる。このように個性を完成した人間は、神を中心としたその心の実体対象となり、したがって、神の実体対象となる。ここで、その心と神は、このような実体対象からくる刺激によって、それ自体の性相と形状とを相対的に感ずることができるので、喜びに満ちることができるのである。そうであるから、個性を完成した人間は、神の喜怒哀楽を直ちにそれ自体のものとして感ずるようになり、神が悲しむ犯罪行為をすることができなくなるので、絶対に堕落することがない。
つぎに、
神の第二祝福を成就するためには、神の二性性相が各々個性を完成した実体対象として分立されたアダムとエバが夫婦となり、合性ごうせい一体化して子女を生み殖やし、神を中心として家庭的な四位よんい基台をつくらなければならないのである。このように、
神を中心として四位よんい基台をつくった家庭や社会は、個性を完成した人間一人の容貌ようぼうに似るようになるので、これは、神を中心とした人間の実体対象であり、したがって、また神の実体対象ともなるのである。それゆえに、人間や神は、このような家庭や社会から、それ自体の性相と形状とを相対的に感ずるようになり、喜びに満ちることができる。したがって、
人間が神の第二祝福を完成すれば、それもまた神の喜びのための善の対象となるのである。
そのつぎに、人間が神の第三祝福を完成すれば、それがどうして神の喜びのための善の対象となるかを調べてみることにしよう。この問題を解明するためには、まず性相と形状とから見た人間と万物世界との関係を知らなければならない。
神は人間を創造する前に、未来において創造される人間の性相と形状とを形象的に展開して、万物世界を創造された。それゆえに、人間は万物世界を総合した実体相となるのである。人間を小宇宙しょううちゅうという理由は、すなわちここにある。
神は下等動物から、次第に機能の複雑な高等動物を創造されて、最後に、最高級の機能をもった存在として人間を創造された。ゆえに、人間にはすべての動物の構造と要素と素性そせいとが、ことごとく備えられているのである。人間がいかなる動物の声でも出すことができるのは、いかなる動物の発声器の性能をも備えているということを立証するものである。また、人間はいかなる被造物の形や線の美もみな備えているので、画家は人間の裸体をモデルとして画法を
研磨けんまするのである。
人間と植物とを比べてみても、その構造と機能には差異があるが、しかしすべてが細胞からできている点においては同一である。それから、
人間には植物の構造と要素とその素性そせいとが、ことごとく備えられている。すなわち、植物の葉はその
容貌ようぼうや機能から見て、人間の肺に
該当がいとうする。葉が大気中から炭酸ガスを吸収するように、肺も酸素を吸収する。植物の幹と枝は人間の心臓に
該当がいとうするもので、栄養素を全体に供給する。そして植物の根は人間の胃腸に
該当がいとうするもので、栄養素を摂取する。さらにまた、植物の導管と
師管しかんの形態と機能とは、人間の
動脈どうみゃくと
静脈じょうみゃくに
該当がいとうするのである。
また、人間は水と土と空気で創造されたので、鉱物質の要素をももっている。地球も人体構造の表示体になっている。地球には植物に
覆おおわれた
地殻ちかくがあり、地層の中には地下泉があって、その下に岩層に覆われた熔岩層があるが、これは、ちょうど、
産毛うぶげで覆われた皮膚があって、筋肉の中には血管があり、その下には骨格と、骨格に覆われた骨髄がある人間の構造とよく似ている。
神の第三祝福は、万物世界に対する人間の主管性しゅかんせいの完成を意味する。人間が祝福を成就するためには、神の形象的実体対象である人間と、その象徴的実体対象である万物世界とが、愛と美を授け受けして合性ごうせい一体化することにより、神を中心とする主管的な四位よんい基台が完成されなければならない(
本章第五節(二)(3)参照)。
既に論じたように、万物世界はどこまでも、人間の性相と形状とを実体として展開したその対象である。それゆえに、
神を中心とする人間は、その実体対象である万物世界からくる刺激によって、自体の性相と形状とを相対的に感ずることができるために、喜ぶことができるのである。そして、神はこのように、人間と万物世界とが合性ごうせい一体化することによって、神の第三対象である被造世界によって、神自体の本性相ほんせいそうと本形状ほんけいじょうに対する刺激的な感性を相対的に感じて、喜びに浸ることができる。人間がこのような神の第三祝福を完成すれば、それも神の喜びのための、また一つの善の対象となるのである。このように
神の創造目的が完成されたならば、罪の影さえも見えない理想世界が地上に実現されたはずであって、このような世界を称して、我々は地上天国という。のちに詳細に説明するが、元来、人間は地上天国で生活して、肉体を脱ぐと同時に、霊界で自動的に天上天国の生活をするように創造されているのである。
既に説明したすべての事実を総合してみると、
天国は神の本性相ほんせいそうと本形状ほんけいじょうのとおりに、個性を完成した人間一人の容貌ようぼうに似た世界であるということを、我々は知ることができる。人間において、その心の命令が
中枢ちゅうすう神経を通じて、その
四肢五体ししごたいに伝達されることにより、その人体が一つの目的を
指向しこうして動じ静ずるように、
天国においては、神の命令が人類の真の父母を通して、すべての子女たちに伝達されることにより、みな一つの目的に向かって動じ静ずるようになるのである。
(一) 創造本然ほんぜんの価値の決定とその価値の基準
(二) 創造本然ほんぜんの知情意と創造本然ほんぜんの真美善
(三) 愛と美、善と悪、義と不義
(一) 創造本然ほんぜんの価値の決定とその価値の基準
創造本然ほんぜんの価値はいかにして決定されるのだろうか。ある対象がもっている価値は、その対象が存在する目的と、それに対する人間主体の欲求との相対的関係によって決定されるというのが、我々の今まで考えてきた一般的な価値観であった。
しかし、ある個性体の創造本然ほんぜんの価値は、それ自体の内に絶対的なものとして内在するものでなく、その個性体が、神の創造理想を中心として、ある対象として存在する目的と、それに対する人間主体の創造本然ほんぜんの価値追求欲が相対的関係を結ぶことによって決定される。したがって、ある対象が創造本然ほんぜんの価値をもつためには、それが人間主体との授受作用により合性ごうせい一体化して、神の第三対象になり、創造本然ほんぜんの四位よんい基台をつくらなければならない。では、創造本然ほんぜんの価値の基準はどこにあるのだろうか。創造本然ほんぜんの価値は、ある対象と人間主体とが、神を中心として、創造本然ほんぜんの四位よんい基台を完成するときに決定されるが、この四位よんい基台の中心が絶対者であられる神であるから、この価値の基準も絶対者なる神である。それゆえに、絶対者であられる神を基準として、これに対して相対的に決定されるある対象の創造本然ほんぜんの価値もまた絶対的でないはずがない。
例を挙げれば、花の美はいかにして決定されるのだろうか。それは、神がその花を創造された目的と、その花の美を求める、人間の美に対する創造本然ほんぜんの追求欲が合致するとき、言い換えれば、神の創造理想に立脚した人間の美に対する追求欲が、その花からくる情的な刺激によって満たされ、人間が完全な喜びを感ずるとき、その創造本然ほんぜんの美が決定される。このように、創造目的を中心として、その花から感ずる喜びが完全であるとき、その花の美は絶対的である。ここに、その美の追求欲というのは、人間自身がその性相せいそうと形状とを、その対象を通じて相対的に感じようとする欲望をいうのである。また、その花の創造目的と、その花に対する人間の価値追求欲とが合致する瞬間、その対象と主体は渾然一体の状態をなすようになる。それゆえに、ある存在が創造
本然ほんぜんの価値をもつためには、神を中心として、それとそれに対する人間主体とが渾然一体の状態となって、神の第三対象となり、
四位よんい基台をつくらなければならない。そうすれば、
絶対的な価値の基準である神に対して相対的に決定された万物の創造本然ほんぜんの価値も絶対的なものとなるのである。今まで、ある対象の価値が絶対的なものとならず、相対的であったのは、その対象と、それに対する堕落人間との間になされる授受の関係が、神の創造理想を中心としたものでなく、サタン的な目的と欲望を中心としたものであったからである。
(二) 創造本然ほんぜんの知情意と創造本然ほんぜんの真美善
人間の心は、その作用において、知情意の三機能を発揮する。そうして人間の肉身は、その心の命令に感応かんのうして行動する。これを見ると、その肉身は心、すなわち知情意の感応体かんのうたいとして、その行動は真美善の価値を追求するものとして表れるのである。神はどこまでも、人間の心の主体であるので、知情意の主体でもある。したがって、人間は創造本然ほんぜんの価値実現欲によって、心で神の本然ほんぜんの知情意に感応かんのうし、体でこれを行動することによって、初めてその行動は、創造本然ほんぜんの真美善の価値を表すようになるのである。
(三) 愛と美、善と悪、義と不義
(1) 愛 と 美
神から分立された二性の実体が、相対基準を造成して授受作用をすることにより四位よんい基台をつくろうとするとき、それらが神の第三対象として合性ごうせい一体化するために、主体が対象に授ける情的な力を愛といい、対象が主体に与える情的な力を美という。ゆえに、愛の力は動的であり、美の刺激は静的である。
神と人間について例をとれば、神は愛の主体であり、人間は美の対象である。男女については、男子は愛の主体であり、女子は美の対象である。被造世界においては、人間は愛の主体となり、万物世界は美の対象となるのである。しかし、主体と対象とが合性ごうせい一体化すれば、美にも愛が、愛にも美が内包ないほうされるようになる。なぜかといえば、主体と対象とが互いに回転して一体となれば、主体も対象の立場に、対象も主体の立場に立つことができるからである。対人関係において、目上の人の愛に対して目下の人がささげる美を忠といい、父母の愛に対して子女がささげる美を孝といい、また夫の愛に対して妻がささげる美を烈という。愛と美の目的は、神から実体として分立された両性が、愛と美を授受することによって合性ごうせい一体化して、神の第三対象となることによって、四位よんい基台を造成して創造目的を達成するところにある。
つぎに、神の愛とは何であるかを調べてみることにしよう。神を中心としてその二性性相にせいせいそうの実体対象として完成されたアダムとエバが一体となり、子女を生み殖やして、父母の愛(第一対象の愛)、夫婦の愛(第二対象の愛)、子女の愛(第三対象の愛)など、創造本然ほんぜんの三対象の愛を体恤たいじゅつすることによってのみ、三対象目的を完成し、四位よんい基台を完成した存在として、人間創造の目的を完成するようになる。このような四位よんい基台の三対象の愛において、その主体的な愛が、まさしく神の愛なのである。それゆえ、神の愛は三対象の愛として現れ、四位よんい基台造成のための根本的な力となるのである。したがって、四位よんい基台は神の愛を完全に受けて、これを体恤たいじゅつできる完全な美の対象であり、また、完全な喜びの対象であるから、創造目的を完成した善の根本的な基台なのである。
(2) 善 と 悪
主体と対象が愛と美を良く授け、良く受けて合性ごうせい一体化して神の第三対象となり、四位よんい基台を造成して、神の創造目的を成就する行為とか、その行為の結果を善といい、サタンを中心として四位よんい基台を造成して、神の創造目的に反する目的のための行為をなすこと、または、その行為の結果を悪というのである。
例を挙げれば、神を中心として心と体が、主体と対象の立場において、愛と美を良く授け良く受けて合性ごうせい一体化し、個人的な四位よんい基台を造成して、創造目的を完成した個性体となり、神の第一祝福を完成するようになるとき、その個性体、または、そのような個性体をつくるための行為を善という。そして、神を中心としてアダムとエバが、主体と対象の立場において、愛と美を良く授け良く受けて夫婦となり、子女を生み殖やして家庭的な四位よんい基台を造成して、創造目的を完成した家庭をつくり、神の第二祝福を完成するようになるとき、その家庭、または、そのような家庭をつくるための行為を善という。また、個性を完成した人間が、ある事物を第二の自我として、その対象の立場に立たしめ、それと合性ごうせい一体化して神の第三対象をつくり、主管的な四位よんい基台を造成して神の第三祝福を完成するようになるとき、その事物とか、または、その事物をつくるための行為を善という。サタンを中心として四位よんい基台を造成することによって上記のような神の三大祝福に反対の目的を成し遂げる行為、または、その行為の結果を悪というのである。
(3) 義 と 不 義
善の目的を成就していく過程において、その善の目的に役立つ生活的要素を義といい、悪(サタン)の目的を成就していく過程において、その悪の目的に役立つ生活的要素を不義という。それゆえに、善の目的を成就するためには、必然的に、義の生活を必要とするようになるので、義が善の目的を追求する理由は、すなわちここにある。
(一) 被造世界の創造過程
(二) 被造物の成長期間
(一) 被造世界の創造過程
創世記一章を見れば、天地創造は、地は形なく、むなしく、やみが
淵ふちのおもてにあり、というところで、光を創造されることから出発して、その次には、おおぞらの下の水とおおぞらの上の水とを分けられ、その次に、陸と海とを分け、続いて、植物をはじめ、魚類、鳥類、ほ乳類、人類などを創造されるのに、六日という期間を要したと記録されている。これによって、
我々は被造世界の創造が終わるまで、六日という時間的な過程があったということを知るのである。ここにおいて、我々は、聖書に記録された創造の過程が、今日、科学者たちの研究による宇宙の生成せいせい過程とほぼ一致するという事実を知ることができる。科学者たちの文献によると、宇宙は初めはガス状態として、無水時代の
混沌こんとんと
空虚くうきょの中で天体がつくられ、降雨による
有水ゆうすい時代になって、水でできたおおぞらが形成され、その次に、火山の噴出によって水の中に陸地が現れて、海と陸地が
生成せいせいされ、次には、下等の植物と動物から始まって、順次に魚類、鳥類、ほ乳類、人類が
生成せいせいされたといい、地球の年齢を数十億年と推算している。今から
数千年前に記録されたこの聖書の天地創造過程が、今日の科学者たちの研究したものとほぼ一致しているという事実を見るとき、我々は、この記録が神の啓示けいじであることは間違いないということを再確認することができる。
ここにおいて、宇宙は時間性を離れて突然に生成せいせいされたものではなく、それが生成せいせいされるまでには、相当な時間を要したという事実を我々は知った。したがって、天地創造を完了するまでの六日というのは、実際は、日の出と日没の回数によって計算される六日ではなく、創造過程の六段階の期間を表示したものであることが分かる。
(二) 被造物の成長期間
被造世界の創造が終わるまで、六日、すなわち六段階の期間を要したという事実は、正に被造世界を構成している各個性体が完成されるに際しても、ある程度の期間が必要であったことを意味する。また、創世記一章にある天地創造に関する記録を見ても、その日その日の創造が終わるたびごとに、その序数日数を明らかにしているが、この日数表示によっても、我々被造物の完成にはある期間が必要であったことを知ることができるのである。すなわち、
神は初めの日の創造が終わると、「夕となり、また朝となった。第一日である」(創一・5)と言われた。夕から夜が過ぎて、次の日の朝になれば、第二日であるにもかかわらず、第一日であると言われたのは、被造物が夜という成長期間を経て、朝になって完成したのち、初めて創造目的を完成した被造物として、創造理想を実現するための出発をするようになるからである。
このように、被造世界で起こるすべての現象は、必ずある程度の時間が経過したのち、初めてその結果が現れるようになる。
これは被造物が創造されるとき、一定の成長期間を経て完成できるように創造されたからである。
(1) 成長期間の秩序的三段階
被造世界は神の本性相ほんせいそうと本形状ほんけいじょうとが数理的な原則によって、実体的に展開されたものである。ここにおいて我々は、神は数理性をもっておられるということを推測できる。またさらに、神は絶対者でありながら、相対的な二性性相にせいせいそうの中和的存在であられるので、三数的な存在である。したがって、唯一なる神に似た被造物(創一・27)はその存在様相やその運動、さらにまたその成長期間がみな三数過程を通じて現れるようになる。
したがって、神の創造目的である
四位よんい基台は、神、アダムとエバ、そして子女の繁殖という三段階の過程を通じて、初めて完成するようになる。
四位よんい基台を造成して円形運動をするには、必ず
正分合せいぶんごうの三段階の作用を経て、三対象目的をつくり、三点を通過しなければならない。ゆえに、一つの物体が定着するには、最少限三点で支持されなければならない。またこのように、すべての
被造物が完成するに当たっても、その成長期間は、蘇生そせい期、長成ちょうせい期、完成期の秩序的三段階を通じてのみ完成するようになる。では、自然界で三数として現れている例を挙げてみることにしよう。自然界は動物と植物と鉱物からなり、物質は気体と液体と固体の三相を表している。植物は根と幹と葉の三部分からなり、動物は頭部と胴部と
四肢ししの三部分からなっている。
我々はまた、聖書に見られる三数の例を挙げてみることにしよう。
人間は成長期間の三段階を完成できずに堕落し、創造目的を完成できなかったので、この目的を再び完成するに当たっても、この三段階を通過しなければならない。それゆえ、復帰摂理は三数を求める摂理をされた。したがって、聖書には、三数を中心とした摂理の記録が多い。父、子、
聖霊せいれいの三
位い、楽園の三層、ルーシエル、ガブリエル、ミカエルの三天使、箱舟の三層、ノアの洪水のときの三次にわたる
鳩はと、アブラハムの三種の供え物、イサクの
献祭けんさいの三日間、モーセの三日間の闇と災い、出エジプト路程のための三日間のサタン分立期間、カナン復帰のための三次にわたる四十年期間、ヨルダンを渡る前のヨシュアを中心とするサタン分立の三日期間、イエスの三十年私生涯と三年の公生涯、三人の東方
博士はかせ、彼らの三つの
貢みつぎ
物もの、三弟子、三大試練、ゲッセマネでの三度の祈り、ペテロのイエスに対する三度の否認、イエスの死の前の三時間の闇と三日目の復活など、その例は数多くある。
それでは、
人間始祖はいつ堕落したのだろうか。彼らは成長期間、すなわち未完成期において堕落したのである。人間がもし、完成したのちに堕落したとすれば、我々は、神の全能性を信ずることができない。仮に、人間が善の完成体になってから堕落したとすれば、善自体も不完全なものとなるのである。したがって、善の主体であられる神も、やはり不完全な方であるという結論に到達せざるを得なくなる。
創世記二章17節を見れば、神はアダムとエバに、善悪を知る木の果を取って食べるときには、きっと死ぬであろう、と警告されたみ言ことばがある。彼らは、神の警告を聞かないで死ぬこともできるし、あるいはその警告を受け入れて、死なずに済むこともできたことから推察してみるとき、彼らがいまだ未完成期にあったことは確かである。万物世界が六日という期間を経て完成できるように創造されたので、被造物の一つである人間も、やはり、そのような原理を離れて創造される理由はないのである。
そうであるならば、
人間は成長期間のどの段階で堕落したのだろうか。それは長成ちょうせい期の完成級で堕落したのであった。これは、人間始祖の堕落の前後の諸般の事情と、復帰摂理歴史の経緯が実証するもので、本書の前編と後編を研究することによって、そのことが明確に分かるようになるであろう。
(2) 間接主管しゅかん圏
被造物が成長期にある場合には、原理自体の主管性しゅかんせい、または自律性によって成長するようになっている。したがって、神は原理の主管者しゅかんしゃとしていまし給たまい、被造物が原理によって成長する結果だけを見るという、間接的な主管をされるので、この期間を神の間接主管圏、または原理結果主管圏と称するのである。
万物は原理自体の主管性しゅかんせい、または自律性により、成長期間(間接主管圏)を経過することによって完成する。けれども、人間は原理自体の主管性しゅかんせいや自律性だけでなく、それ自身の責任分担を全うしながら、この期間を経過して完成するように創造された。すなわち、
「それを取って食べると、きっと死ぬであろう」(創二・17)と言われた神のみ言ことばを見れば、人間始祖が神のこのみ言ことばを信じて、取って食べずに完成するか、あるいはそのみ言ことばを信ぜずに、取って食べて堕落するかは、神の側に責任があるのではなく、人間自身の責任にかかっていたのである。したがって、人間が完成するか否かは、神の創造の能力にだけかかっていたのではなく、人間自身の責任
遂行すいこういかんによっても決定されるようになっていたのである。それゆえに、人間は神の
創造主そうぞうしゅとしての責任分担に対して、人間自身の責任分担を全うしながら、この成長期間(間接主管圏)をみな経過して、完成するように創造されていたのである。したがって、その責任分担については神が干渉してはならないのである。
このように、
人間がそれ自身の責任分担を完遂かんすいして初めて完成されるように創造されたのは、人間が神も干渉できない責任分担を完遂かんすいすることによって、神の創造性までも似るようにし、また、神の創造の偉業に加担させることによって、ちょうど創造主そうぞうしゅである神が人間を主管しゅかんなさるそのごとくに、人間も創造主そうぞうしゅの立場で万物を主管することができる主人の権限をもつようにするためであった(創一・28)。人間が万物と違う点は、正にここにあるのである。
このように、人間が、自身の責任分担を完遂かんすいし、神の創造性を受け継ぐことによって、天使をはじめ、万物に対する主管性しゅかんせいをもつようになったとき、初めて完成するようになさるために、神は間接主管圏をおいて、人間を創造されたのである。それゆえに、堕落して、このような主管性しゅかんせいをもつことができなくなった人間たちにおいても、復帰原理によって、人間の責任分担を完遂かんすいして、サタンをはじめ、万物に対する主管性しゅかんせいを復帰するための、間接主管圏をすべて通過しなくては、創造目的を完成することができないのである。神の救いの摂理が非常に長い期間を通じて延長してきたのは、復帰摂理を担当した中心人物たちが、神も干渉できないそれ自身の責任分担を遂行すいこうするに当たって、常に失敗を繰り返してきたからである。
キリストの十字架による救いの
恩賜おんしがいくら大きくても、人間自身がその責任分担である信仰を立てなければ、彼らを探し求めてきた救いの摂理は
無為むいに帰せざるを得なくなる。したがって、
イエスの十字架による復活の恵沢けいたくを与えてくださったのは、神の責任分担であって、それを信じるか、それとも信じないかは、あくまでも、人間自身の責任分担なのである(ヨハネ三・16、エペソ二・8、ロマ五・1)。
(3) 直接主管圏
直接主管圏とは何であり、またこれを創造された目的は、どこにあるのだろうか。神を中心として、ある主体と対象とが合性ごうせい一体化して四位よんい基台をつくり、神と心情において一体となり、主体の意のままに愛と美を完全に授受して、善の目的を完成することを直接主管という。したがって、直接主管圏とは直に完成圏を意味する。このように、直接主管は、あくまでも創造目的を成就するためであるので、これがなくてはならないのである。では、
人間に対する神の直接主管とは、具体的にどのようなことをいうのだろうか。神を中心として、アダムとエバが完成して合性ごうせい一体化し、家庭的な四位よんい基台を造成することによって、神と心情において一体となり、神を中心としたアダムの意のままに、お互いに愛と美を完全に授受する善の生活をするようになるとき、これを神の直接主管という。このような人間は、神の心情を
体恤たいじゅつし、神のみ旨が完全に分かって、実践するようになるので、あたかも、頭脳が、命令ならざる命令で
四肢五体ししごたいを動かすように、人間も、神の、命令ならざる命令により、神のみ旨のとおりに動いて、創造目的を成し遂げていくようになるのである。
つぎに我々は、
万物世界に対する人間の直接主管とはいかなるものであるかを調べてみることにしよう。神を中心として完成した人間が、万物世界を対象に立てて合性ごうせい一体化することによって、四位よんい基台をつくり、神の心情を中心として一体となった人間の意のままに、人間と万物世界とが、愛と美を完全に授受して、善の目的を成し遂げることを万物に対する人間の直接主管というのである。
(一) 無形実体世界と有形実体世界
(二) 被造世界における人間の位置
(三) 肉身と霊人体との相対的関係
(一) 無形実体世界と有形実体世界
被造世界は、神の二性性相にせいせいそうに似た人間を標本として創造されたので、あらゆる存在は、心と体からなる人間の基本形に似ないものは一つもない(本章第一節(二)参照)。したがって、被造世界には、人間の体のような有形実体世界ばかりでなく、その主体たる人間の心のような無形実体世界もまたあるのである。これを無形実体世界というのは、我々の生理的な五官では、それを感覚することができず、霊的五官だけでしか感覚することができないからである。霊的体験によれば、この無形世界は、霊的な五官により、有形世界と全く同じく感覚できる実在世界なので、この有形、無形の二つの実体世界を総合したものを、我々は天宙てんちゅうと呼ぶ。
心との関係がなくては、体の行動があり得ないように、神との関係がなくては創造本然ほんぜんの人間の行動もあり得ない。したがって、無形世界との関係がなくては、有形世界が創造本然ほんぜんの価値を表すことはできないのである。ゆえに、心を知らずには、その人格が分からないように、神を知らなくては、人生の根本意義を知ることはできない。また、無形世界がいかなるものであるかを知らなくては、有形世界がいかなるものであるかを完全に知ることはできないのである。それゆえに、
無形世界は主体の世界であり、有形世界は対象の世界であって、後者は前者の影のようなものである(ヘブル八・5)。有形世界で生活した人間が肉身を脱げば、その霊人体は直ちに、無形世界に行って永住するようになる。
(二) 被造世界における人間の位置
第一に、神は人間を被造世界の主管者しゅかんしゃとして創造された(創一・28)。ところで被造世界は、神に対する内的な感性を備えていない。その結果、神はこの世界を直接主管なさらずに、この世界に対する感性を備えた人間を創造され、彼をして被造世界を直接主管するようになされたのである。したがって、
人間を創造されるに当たって、有形世界を感じ、それを主管するようになさるために、それと同じ要素である水と土と空気で肉身を創造された。無形世界を感じ、それを主管するようになさるために、それと同じ霊的要素で、霊人体を創造された。変貌山へんぼうさん上でのイエスの前に、既に一六〇〇余年前に亡くなったモーセと、九〇〇余年前に亡くなったエリヤが顕現したとあるが(マタイ一七・3)、これらはみな、彼らの霊人体であった。このように、
有形世界を主管できる肉身と、無形世界を主管できる霊人体とから構成された人間は、有形世界と無形世界をみな主管することができるのである。
第二に、神は人間を被造世界の媒介体として、また和動わどうの中心体として創造された。人間の肉身と霊人体が授受作用により合性ごうせい一体化して、神の実体対象となるとき、有形、無形の二つの世界もまた、その人間を中心として授受作用を起こし合性ごうせい一体化して、神の対象世界となる。そうすることによって、人間は二つの世界の媒介体となり、あるいは和動の中心体となる。人間は、ちょうど二つの音叉を共鳴させるときの空気のようなものである。人間はこのように、無形世界(霊界)と通ずるように創造されたので、あたかも、ラジオやテレビのように、霊界の事実をそのまま反映するようになっている。
第三に、神は人間を、天宙てんちゅうを総合した実体相として創造された。神はのちに創造なさる人間の性相と形状の実体的な展開として、先に被造世界を創造されたのである。したがって、霊人体の性相せいそうと形状の実体的な展開として、無形世界を創造されたので、霊人体は無形世界を総合した実体相である。また肉身の性相と形状の実体的な展開として有形世界を創造されたので、肉身は有形世界を総合した実体相となるのである。ゆえに、人間は天宙を総合した実体相となるので、しばしば人間を小宇宙しょううちゅうという理由は、ここにあるのである。
ところが、
人間が堕落し、被造世界が自己を主管しゅかんしてくれる主人を失ったので、ロマ書八章19節に、被造物は神の子たち(復帰された創造本然ほんぜんの人間)の出現を待ち望んでいると述べられている。それだけでなく、和動の中心体である人間が堕落して、有形、無形二つの世界の授受作用が切れたので、それらが一体となることができずに分離されたから、ロマ書八章22節には、被造物が嘆息している事実を明らかにしている。
イエスは霊人体と肉身をもつ完全なアダムとして降臨された方である。したがって、彼は天宙を総合した実体相であったのである。それゆえに、万物をキリストの足もとに従わせたと言われた(コリント・一五・27)。イエスは堕落人間が彼を信じ、彼と一体となって、彼と共に完成した人間とならしめるために降臨されたので、救い主であられるのである。
(三) 肉身と霊人体との相対的関係
(1) 肉身の構成とその機能
肉身は肉心にくしん(主体)と肉体(対象)の二性性相にせいせいそうからなっている。肉心とは肉体をして生存と繁殖と保護などのための生理的な機能を維持できるように導いてくれる作用部分をいうのである。動物における本能性ほんのうせいは、正にそれらの肉心に該当がいとうするものである。肉身が円満に成長するためには、陽性の栄養素である無形の空気と光を吸収して、陰性の栄養素である有形の物質を万物から摂取して、これらが血液を中心として完全な授受作用をしなければならない。
肉身の善行ぜんこうと悪行あくぎょうに従って、霊人体も善化あるいは悪化する。これは、肉身から霊人体にある要素を与えるからである。このように、肉身から霊人体に与えられる要素を、我々は生力せいりょく要素という。我々は平素の生活において、肉身が善の行動をしたときには、心がうれしく、悪の行動をしたときには、心が不愉快さを経験するが、これは、その肉身の行動の善悪に従って、それに適応してできる生力要素が、そのまま霊人体へと回っていく証拠である。
(2) 霊人体の構成とその機能
霊人体は人間の肉身の主体として創造されたもので、霊感だけで感得され、神と直接通ずることができ、天使や無形世界を主管しゅかんできる無形実体としての実存体である。霊人体はその肉身と同一の様相であり、肉身を脱いだのちには無形世界(霊界)に行って永遠に生存する。人間が永存することを念願するのは、それ自体の内に、このような永存性をもつ霊人体があるからである。
この霊人体は生心せいしん(主体)と霊体(対象)の二性性相にせいせいそうからなっている。そして
生心というのは、神が臨在される霊人体の中心部分をいうのである。霊人体は神からくる生素(陽性)と肉身からくる生力要素(陰性)の二つの要素が授受作用をする中で成長する。また霊人体は肉身から生力せいりょく要素を受ける反面、逆に肉身に与える要素もあり、我々はこれを、生霊せいれい要素という。人間が
神霊しんれいに接することによって、無限の喜びと新しい力を得て、
持病じびょうが治っていくなど、その肉身に多くの変化を起こすようになるが、これは、その肉身が霊人体から生霊要素を受けるからである。
霊人体は肉身を土台にしてのみ成長する。それゆえに、霊人体と肉身との関係は、ちょうど実と木との関係と同じである。生心の要求のままに肉心が呼応し、生心が指向しこうする目的に従って、肉身が動くようになれば、肉身は霊人体から生霊要素を受けて善化され、それに従って、肉身は良い生力要素を霊人体に与えることができて、霊人体は善のための正常的な成長をするようになるのである。
生心の要求するものが何であるかを教えてくれるのが真理である。それゆえに、人間が真理で生心が要求するものを悟り、そのとおりに実践することによって、人間の責任分担を
完遂かんすいすれば、初めて生霊要素と生力要素とがお互いに善の目的のための授受作用をするようになる。ところで、生霊要素と生力要素とは各々
性相せいそう的なものと形状的なものとの関係をもっている。ゆえに、悪人においても、その本心が善を
指向しこうしているのは、その生霊要素が常に作用しているからである。けれども、人間が善なる生活をしない限り、その要素も肉身の善化のための役割をすることができないので、生力要素との間に正しい授受作用をすることもできなくなるのである。このように、
霊人体はどこまでも、地上の肉身生活においてのみ完成できるのである。霊人体は肉身を土台として、生心を中心として、創造原理による秩序的三期間を通じて成長し、完成するようになっているが、蘇生そせい期の霊人体を霊形体れいけいたいといい、長成ちょうせい期の霊人体を生命体、完成期の霊人体を生霊体せいれいたいという。
神を中心として、霊人体と肉身が完全な授受作用をして合性ごうせい一体化することにより、四位よんい基台を完成すれば、その霊人体は生霊体せいれいたいになるが、このような霊人体は無形世界のすべての事実をそのまま感ずることができる。このように、霊人体に感じられるすべての霊的な事実は、そのまま肉身に共鳴され、生理的現象として現れるので、人間はすべての霊的な事実を肉身の五官で感じて分かるようになる。
生霊体せいれいたいを完成した人間が地上天国を実現して生活したのち、肉身を脱いで霊人として行って生活する所が、すなわち天上天国である。それゆえに、地上天国が先に実現したのち、初めて天上天国も実現できるのである。
霊人体のすべての感性も肉身生活の中で、肉身との相対的な関係によって育成されるので、人間は地上で完成され、神の愛を完全に体恤たいじゅつして初めて、肉身を脱いだのちのその霊人体も神の愛を完全に体恤たいじゅつすることができるようになるのである。このように、霊人体のすべての
素性そせいは肉身のある間に形成されるので、堕落人間においては、霊人体の悪化は肉身生活の犯罪行為に由来するもので、同じく、その
霊人体の善化も、肉身生活の贖罪によってのみなされる。罪悪人間を救うために、イエスが肉身をもって地上に降臨された理由はここにあるのである。それゆえに、
我々は地上で善なる生活をしなければならない。したがって、救いの摂理の第一次的な目的が地上で実現されなければならないので、イエスは天国の門の鍵を地上のペテロに授けて(マタイ一六・19)、地上でつなぐことは天でもみなつながれ、地上で解くことは、天でもみな解かれるであろうと言われたのである(マタイ一八・18)。
天国でも地獄でも、霊人体がそこに行くのは、神が定めるのではなく、霊人体自身が決定するのである。人間は元来、完成すれば、神の愛を完全に呼吸できるように創造されたので、犯罪行為によってもたらされた過ちのために、この愛を完全に呼吸することができなくなった霊人体は、完全な愛の主体である神の前に立つことが、かえって苦痛となるのである。それゆえに、このような霊人体は、神の愛とは遠い距離にある地獄を自ら選択するようになる。また、
霊人体は肉身を土台にしてのみ成長できるように創造されたので、霊人体の繁殖はどこまでも肉身生活による肉身の繁殖に伴ってなされる。
(3) 生心せいしんと肉心にくしんとの関係から見た人間の心
生心と肉心との関係は、性相せいそうと形状との関係と同じく、それらが神を中心として授受作用をして合性ごうせい一体化すれば、霊人体と肉身を合性ごうせい一体化させて、創造目的を指向しこうさせる一つの作用体をつくる。これが正に人間の心である。人間は堕落し、神を知ることができなくなるに従って、善の絶対的な基準も分からなくなったが、上述のように、創造された
本性ほんせいにより、
人間の心は、常に自分が善であると考えるものを指向しこうする。このような心を良心という。しかし、
堕落人間は善の絶対的な基準を知らず、良心の絶対的な基準をも立てることができないので、善の基準を異にするに従って、良心の基準も異なるものとなり、良心を主張する人たちの間にも、しばしば闘争が起こるようになる。善を指向しこうする心の性相的な部分を本心といい、その形状的な部分を良心という。
それゆえに、人間がその無知によって、創造本然ほんぜんのものと基準を異にする善を立てるようになるときにも、良心はその善を指向しこうするが、本心はこれに反発して、良心をその本心が指向しこうする方へと引き戻す作用をする。サタンの拘束を受けている生心と肉心が授受作用をして合性ごうせい一体化すれば、人間をして悪を指向しこうさせるまた一つの作用体をつくるが、これを我々は邪心という。人間の本心や良心は、この邪心に反発し、人間をしてサタンを分立させ、神と相対することによって、悪を退け善を
指向しこうするようにさせるのである。