宇宙の根本
三、宇宙の根本は愛である
1.宇宙の中心は愛である
この宇宙全体、天国全体の中心軸は何ですか。愛です。愛は、生命の根本であり、血統の根本です。それは、愛を中心として成されているので、愛の軸に従って運動します。運動とは、ただするのではないのです。運動は、必ず主体と対象を中心とするので、それ自体の位置において、愛を中心として関係を結んで行動するのです。
永遠の愛の実績として存続したいというのが、すべての運動するものの目的になっているというのです。作用とは、ただするのではないというのです。
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宇宙の根本は、愛から始まりました。神様はどのようにして生まれたのでしょうか。愛が中心です。ですから結論は、絶対的な神様も絶対的に服従したい理想郷をもたなければならないということです。完全に服従するところに完全な幸福があり、完全な解放があるところに完全な幸福があるのです。
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宇宙の根本の動機は、何を中心として動くのでしょうか。男性を中心として動くのではありません。女性を中心として動くのではありません。神様御自身を中心として動くのでもありません。神様が動くことができる動機は何かというと、愛です。
それゆえに、愛は、始まりであり終わりだというのです。コリント人への第一の手紙第十三章を見れば、信仰と希望と愛はいつまでもあるが、このうちで一番は愛だ、といいました。それは、なぜそのようにいったのでしょうか。それを解くことができなかったのです。
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なぜ真の愛で愛さなければならないのでしょうか。宇宙の根本が真の愛の原則から生じたからです。したがって、それに通じれば、宇宙のすべてと関係を結ぶことができるのです。理論的なのです。それで、一つが上ならば一つは下であり、一つが右側ならば一つは左側になるのです。鉱物世界、植物世界、動物世界がすべてそうです。お互いに与えようとするそのような世界が起源となって出発したので、お互いに与えようとしながら暮らすのが宇宙です。
このような論理で、より次元の高い大きな存在にすべて吸収されようとするのです。このように思う時に、宇宙存続の源泉はどこでしょうか。より高い愛を中心として与えようとする運動圏内で作用するものが宇宙的な存在です。
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宇宙の存続する原則とは、理想的な根本の愛と接続することができる環境的条件であり、縦的、横的、すべての球形的な全体方向性の運動圏内に所属した属性だったというのです。それでは、その父母の前に皆さんはどうでなければなりませんか。そこに報いなければなりません。相対にならなければならないでしょう? 一つになろうとするなら、父母のように相対にならなければならないという結論です。真の愛の相対になる時に統一が展開されるのです。真の愛がなくては完全に統一することができないのです。結論を出しました。
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神様を中心とした人間は、神様の体と同じであり、体と同様の実体を、象徴型として影のように送ってくださったものがこの宇宙万象です。この宇宙万象は、何を標榜して造られたのかといえば、神様御自身を標榜して造られたというのです。それが形象的、象徴的な位置にいるだけであって、その根本主体は神様を中心として造られたというのです。
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宇宙の根本は、どこから始まったのですか。進化論でもなく、創造論でもありません。進化より先に、創造の概念がある前に、雄と雌がいたということを知らなければなりません。では、雄と雌はなぜ生まれたのでしょうか。愛のゆえにです。愛、これが公式です。
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神様は、神様よりもっと立派な愛のパートナーを願われます。皆さんも、愛の相対が皆さんよりも優秀なことを願うでしょう? 同じです。神様御自身が主体と対象として完全に一つになっているのですが、それが創造の根本です。愛を中心として二つが完成するのです。そこで神様が解放されるのです。愛の位置で歌って踊ってごろごろ転がって、すべての被造世界が一つになるのです。そのような世界は、どれほど楽しい世界でしょうか。
家を建てる時は、水平が合わなければならず、垂直が合わなければなりません。合わなければすべて倒れるでしょう? 宇宙がどのように存在するか、という根本問題に入っていくというのです。
それで、神様御自身も愛が必要です。神様御自身が天の玉座において、「ああ! 私は愛が好きだ」と歌いますか。文総裁が一人で踊ってこのように汗を流すようになれば、狂った人ではないでしょうか。ハンカチ一枚見ながら踊ってこのようになれば、狂ったのではありません。これの十分の一、百分の一くらいのものを見て踊って笑ったとしても、それは気違いではありません。
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創造は、相対価値の絶対基準に該当する価値的内容をもっている、という事実を認めなければなりません。
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アダムとエバが完成すれば、神様が結婚させてあげることによって、アダムとエバの体の中に、性相と形状、男性と女性の形状をもった神様が入っていき、私たちの心の位置に創造主、お父様の体の位置に創造物、お父様が愛によって一つになるのです。他のものではないのです。知識でもなく、権力でもなく、お金でもありません。真の愛によってここで一つになることによって、真の愛を中心として形状が成され、家庭が成されるようになるというのです。真の愛が重要なのです。これがはっきり分からなければ宇宙の根本を知らないというのです。
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世の中の人たちが考えるのは、お金をもって世界で一番の代表者になる、権力をもって一番の代表者になる、知識をもって一番の代表者になる等の様々な考えをしています。
しかし、宇宙の根本である神様から関係しているすべてのものは、真の愛を中心とした代表者になることを願うのです。それが、人間が願い、神様が願われる道だということを知らなければなりません。
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皆さんは、愛が良いと言うでしょう? 愛を求めていくでしょう? どのように求めていくことが、宇宙の根本であるその公式に合う愛の直線の道、近道なのかというのです。これが問題です。
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この宇宙の根本は何ですか。神様は絶対者です。力があります。力が根本ではありません。知識が根本ではありません。それでは、お金ですか。これは、あの世から見れば退廃的な何というのでしょうか。廃物を拾って歩き回るのです。廃品を回収して歩き回る人々は、お金を集めようという人です。私たちのような人は金があるといいますが、私はそのようなお金を使わないのです。
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神様が天地を創造される時、どのようにされたのでしょうか。神様の相対になることができるのは人しかいないのです。それで、自分を一〇〇パーセント投入されました。それでは、知恵の王なのに、なぜ投入されたのでしょうか。完全に投入して神様はゼロの位置、無になり、あそこは百二十になるので、気圧でいえば、ここは低気圧中の低気圧である真空状態になり、あちらは高気圧になるので、ひゅーと循環作用が起きて自動的な発展原則、自動的な運動原則を追求します。
それで、絶えず押し込めばこちらは巻き込むでしょう。自分を包囲するそのようなことが展開するのです。それは何をもってですか。愛をもってするのです。宇宙の根本が愛なので、このような原則によってこのように展開されるのです。
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根本は個人です。個人で連結するのです。家庭も、氏族もすべてです。根本は、いくら小さくても同じです。角度は同じだというのです。九〇度です。それで、これを茎にして真の愛、真の愛、真の愛、真の愛、真の愛、このようになって地球星全体が真の愛で一つになり、宇宙でもどこでも真の愛でぎっしりいっぱいになるのです。そのようになれば、いつでも「良い! あなたは私と似ている!」と言うようになり、どこに行っても、縦的でも横的でも全く同じになるのです。
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人間は、歴史を通じて宇宙を越えていっても愛を必要とし、昼でも夜でもどこに行こうとも、若くても年老いても死んでも、いつでも愛の観念を離れることができない存在です。なぜそうなのでしょうか。根本がそのようになっているので仕方がないというのです。愛だけが今でも創造の能力を行使することができるのであって、愛がなくては行使することができないのです。発電所のような愛の原動力を中心として、すべて行くのです。
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愛も、もちろん神様がつくることができると思いますが、その愛を所有するということは一人ではできません。二人が所有しなければなりません。神様も愛を一人で探すことはできません。ですから、その基準の測定原器は何でしょうか。宇宙万象、存在世界、永遠世界で測定することができる絶対的に一つしかない原器、それは何でしょうか。根本問題です。それが愛だというのです。ですからこれは、春夏秋冬、季節の変化に影響を受けません。受けてはならないのです。
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なぜ愛のひもに結ばれて生きるようになっているのですか。神様の本物の愛に、神様も喜ばれ、宇宙も喜び、この世界も和合することができる愛のひもに人間が結ばれて生きるようになっているのですが、そのような愛のひもに結ばれずに幸福になり得る心の基台がないのに、生活が幸福になり得ますか。なり得ません。根本が違っているのに、結果が幸福であり得ますか。歴史はこのような関係になっています。
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心と体が一つになったその場に入っていくようになれば、その場は、釈迦が経験した位置です。「天上天下唯我独尊」というその境地に入っていきます。その中に入っていくようになれば、愛の球形内のすべての力は、この中心を通じることなしには作用することができないのです。これを通じない作用は存在できません。宇宙のすべての作用は、これを基本として定めて拡大しました。
ところが、愛を中心とした軸が生まれなかったのです。それはすなわち、核心が生まれなかったのと同じです。人間だけではありません。今日、人間同士で連結された愛、家庭を中心とした愛、家庭を中心として拡大された氏族、民族、国家の愛、あるいは聖人が教えてくれた愛をもっては、その根本を悟ることができなかったというのです。
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宇宙根本において、生命が先ですか、愛が先ですか。このように思う時、それを突き詰めて入っていくようになると、生命が先にはなり得ないのです。神様は生命の源泉ですが、生命の源泉であられる神様が存続するには、どのような基盤の上で暮らすことを願われるのでしょうか。何の基盤の上で暮らすことを願われるのでしょうか。神様は、平和の基盤の上で暮らすことを願われるはずです。平和の基盤設定は何がするのですか。生命がするのか、他の何かがするのですか。それがまた問題です。それは、生命がするのではありません。主体と対象が高低を超越して、共通的価値を認めることができる秩序的段階を超越したその何かです。それは何ですか。真の愛です。
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皆さん、細胞繁殖というものを知っているでしょう。これ一つを取ってみても、その位置に再び目が出て鼻が出てくるのです。髪の毛も出てきて、足も出てきて、すべて出てきます。すべてのものが全く同じなのです。真の愛と連結した細胞は宇宙と同等な価値をもつことができるのです。なぜ真の愛がそうでなければならないのですか。真の愛は原因であると同時に結果であり、根本であると同時に目的だからです。
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愛は、宇宙をはじめ、どのような存在でも因縁をもたない存在がありません。小さな草一本でも、必ず愛を中心として生きているというのです。鉱物もプラスイオンとマイナスイオンを中心として生まれ、すべて愛ゆえに動いています。
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真の愛で成された心情圏は、いくら小さくても宇宙と連結され、その中で起きる出来事の波長は万象と霊界まで波及するのです。霊界を含む天宙は、すべて同じ神様の真の愛の原理のもとに存在するからです。神様と人間との間の縦横、前後的真の愛の関係は、人間相互間の理想的真の愛の関係の根本であり、その完成は四大心情圏を成した理想家庭においてのみなされます。
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愛の本質は何ですか。どのような愛ですか。愛とはどのような愛ですか。今日のアメリカに蔓延しているフリーセックス、一夜の愛が愛ですか。それは、根本の愛とは関係がありません。それでは、根本の愛、真の愛はどのようなものですか。愛とは、始めであり終わりです。この宇宙が生まれたのは何のために生まれたのかといえば、愛のために生まれたというのです。愛を訪ねていくというのです。神様に対して聖書には「私が最初であり最後である。始めであり終わりである」とありますが、それはどういうことですか。これは、愛をおいていう言葉です。
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なぜ「ため」に生きなければならないのですか。なぜそのようにしなければならないのですか。それを願わないのに、なぜそうでなければならないかというのです。愛のひもが結ばれているというのです。愛のひもが万物に連結しているといのです。愛のひもが私の体を結んでいるというのです。このような時、すべてが手を差し出して早く早く巻いてくれというというのです。早く早く大きくなろうというのです。愛の宇宙を占領しようというのです。愛の宇宙も宇宙であり、それはパートナーの世界ですが、愛の根本が神様まで占領しようとするのです。
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神様は、いつでもうれしいでしょうか。皆さんは、いつでもうれしいですか。うれしくありません。しかし、真の愛をもった時には、悲しみもその愛によってすべて消化されるのです。これを見る時、愛の絶対権限が、この宇宙のある個別的権力や知識や何かをもって第一主義を主張する、それ以上のものとして残したいのが人間の本性の欲求だったというのです。それがどこから来たのでしょうか。根本から来ました。その根本のどこからですか。神様の愛からです。神様もそのような愛を願うために、そこから来たのです。
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最初から私たち人間は、近ごろの共産主義のように闘争概念から始まったのでしょうか、融合概念から始まったのでしょうか。どちらなのですか。電気でいえば、プラスとマイナスが闘争するというのですか。それでは、どのようになっていたのでしょうか。調和と融合から始まったのです。それで、お母さんとお父さんの愛を通してお互いに調和して、融合して私が生まれたのです。それは否定できません。このように思う時に、宇宙の根本は、本性とは、調和にもなり融合される内容から出発した、ということを私たちは知ることができます。
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すべての宇宙の中で、借金だらけの人間にならずに借金を負わせて暮らすことができる方法とは何でしょうか。それでは、私の根本がないのでしょうか。違います。心にいくらでももっています。「ごめんなさい」、「ありがとう」と言うことのできる心、水を見て、山野を見つめて、野原を見つめて、三千里の山川、さらには大地球星を見つめて「ありがとう!」と言うことができる心、神様の前に有り難いと考え、環境に有り難いと考え、不平を言わないで侍って暮らすことができる、このような主人の心をもちなさいというのです。真の主人には、そのような人々がなるのです。