第三節 夫婦の愛
1 愛には犠牲が伴います。愛の道は、流れていきながら犠牲になってこそ円満なのであって、自分が犠牲にならなければ、すべての四方の均衡が壊れるのです。夫婦の愛とは、家の中の均衡を取るための心情作用と同じです。自分が一人独自的に行動していては問題が起きます。夫婦の心情は、大きくなればなるほど、大きな分野で欠如したものを補ってくれるので、貧民窟にいる人々も、愛に対して夢をもって生きるのです。「私たちは、このような愛の立場を探すためにこのような立場に来たので、ここに幸福があるのだ」と言いながら、その立場に定着して生きようとするのです。
神様の愛を体恤する夫婦の愛
2 四位基台を造成するためには、まず夫婦の心情を経なければなりません。そうしてこそ、子女の心情をもつことができ、父母の心情をもつことができます。男性は神様の陽性的形状であり、女性は神様の陰性的形状です。夫婦は、天下を一つのふろしきに包んだようなものです。ですから、夫婦は、神様の理想的な愛の心情を感じることができるのです。四位基台は、地上天国と天上天国の礎石です。天国は、一人で立てることはできないのです。
3 夫婦の愛を中心として一つになった立場は、創造当時に、アダムとエバと天地万物を造った、神様の愛を体恤できる立場です。この立場で、子女、兄弟、夫婦、父母の実体的な代身者として完成したので、最初の創造主である神様の立場と同じように、霊肉を中心として第二の創造主の立場に立つのです。そこには、子女の愛、兄弟の愛、夫婦の愛、父母の愛が詰まっているので、第二の創造主の立場、対象の立場に立つようになります。それで、創造の喜びを感じられるように、神様が与えてくださったのが子女です。子女は、天の国の王子、王女です。
4 神様の愛、父母の愛は、縦的な愛であり、男女間の愛は、横的な愛です。男性と女性が会おうとすれば、横的な愛を縦的な愛の上に接ぎ木しなければなりません。九〇度で合わせなければなりません。これを合わせない愛、縦的な基準と連結しない愛は放浪者の愛です。破壊されるのです。縦的な愛と九〇度で連結するときには、作用するすべてのものが、球形に影響を及ぼすことができる力として現れます。縦横が一致した愛の圏内に入っていけば、愛を中心として万宇宙を治めることができます。万宇宙と関係を結ぶことができます。そこには、知識も、権力も、お金も、生命も、必要ではありません。生命も、その中では永生するのです。
5 人間の価値を知らなければなりません。夫も神様の代身者であり、妻も神様の代身者です。また、母親と父親も神様の代身者であり、「私」という存在も神様の代身者です。夫は四代を代表します。祖父、父、夫、兄弟を代表します。この四つの愛を中心に、その代表として相続されたのが夫婦です。それで、夫婦の愛が貴いのです。
ですから、夫婦が壊れる時は、人類の愛、祖父母の愛、父母の愛、兄弟の愛も壊れてしまいます。人間は、宇宙で神様に侍って生きるようになっているからです。
「私」には、祖父の愛が芽を出すことができ、父の愛、兄弟の愛が芽生えるようになっているのです。千年、万年、生命の連結とともに、血統を通して横的な繁殖の基台の上で発展することによって、家庭を中心とする氏族、氏族を中心とする民族、民族を中心とする国家、世界、天上の国が形成されるのです。
6 結婚すると、皆さんの思いどおりにはできません。神様の愛に出会うために行かなければなりません。人間が男性として生まれ、女性として生まれたのは愛のためです。愛で夫婦が一つにならなければなりません。二性性相として分立されたものが合性一体化すれば、どのようになるのでしょうか。神様の愛を受けるようになります。
神様の愛に出会おうとすれば、女性は男性と一つとなり、男性は女性と一つにならなければなりません。そうでなければ、神様の愛に出会う道がありません。神様の愛に出会うことによって同位格に立つことができるからです。神様の横の立場に行って立つことができるというのです。
なぜ神様は、その愛を、アダムとエバに求めたのでしょうか。その愛を中心として神様と一つになることができるからです。夫婦の愛は、神様の愛を連結させるためのものです。神様の愛を受けるようになれば、神様と同等の立場に立ちます。男性と女性は、夫婦の愛という概念の前では、同じ立場に堂々と立つことができます。愛したあとには、二人が一人です。逃げることができません。いつでも連帯責任を負うのです。
7 男性と女性が、各自の体と心が一つになったかということと、二人が一つの体になったかが宿題です。宇宙が「良い」と言うことができるように、完全な一体になったかというとき、真の愛がなければ一体とはなれません。宇宙で「私」が男性なら男性、女性なら女性として、完全に一つの体になることができる立場に立ったか、ということが宿題なのです。これは、今日の哲学と宗教が解決しなければならない問題です。
男性は妻が絶対に必要であり、女性は夫が絶対に必要であることを知りませんでした。男性に絶対に貴いものが妻であり、女性に絶対に貴いものが夫です。神様よりも、神様に会うことよりも、まず必要なものは、男性には妻、女性には夫です。一つの体になるとは、妻と夫が愛を中心として一つになるのです。
8 愛という球形を中心として東西が合わさり、南北が合わさるのです。その次には、天と地が合わさるのです。それは、宇宙を占領するためです。結婚する目的とは何でしょうか。宇宙を占領することです。神様を占領することです。夫は東側、上側の代表であり、妻は西側、下側の代表です。彼らが愛で結ばれることによって、天下を占領するのです。神様を占領し、宇宙を占領するのです。
9 夫婦が、神様を愛して人類を愛する心の基台の上で、爆発するようにお互いに愛すれば、その家庭によって神様が酔い、宇宙が酔うことができるようになるのです。その愛は、神様のための愛であり、人類のための愛とならざるを得ません。その愛の根は、自分にあるのではありません。神様が愛の根源です。
10 男性と女性というのは水平です。水平を念頭において語る言葉です。縦的に見る時は上下を念頭において語る言葉です。相対圏を中心としてすべての理想形が描かれるので、すべての言葉も相対的な言葉を語るようになります。人といえば、男性と女性です。男性と女性は何で一つになるのでしょうか。夫と妻は、各々半分の世界です。人類がどれほど多くても、その分母は男性と女性だけです。そこには、悪い男性、悪い女性もいて、あらゆる種類の人がいますが、男性と女性の二つに分けることができるのです。その二つが一つに出会うことができる母体は、お金でもなく、知識でもなく、権力でもありません。愛なのです。
11 男性と女性が愛するようになれば、いろいろなことが起きます。神様を求めていく道を知り、神様の愛を本当に味わうならば、神様のその愛は、世の中のどんなものにも比べられないものです。そのような愛を味わった人がいるならば、どんな苦難も、その人を占領することができず、どんな悲しみも、その人を占領することができません。このようなことをはっきりと知って、神様を父として侍り、神様に似た息子、娘にならなければなりません。お金や権力があるといって神様の息子、娘になることは絶対にできません。神様の愛を味わった人は、神様の権威と神様の威信と神様の体面を中心として、法度のままに生きなければなりません。神様の息子、娘が価値のない生き方はできないのです。
12 皆さんは、兄弟の立場で兄弟のために生き、その兄弟の立場から夫婦になれる立場に立たなければなりません。そうしてこそ、神様が兄弟として愛せなかったものを愛し、夫婦として愛せなかったものを愛し、子女として愛せなかったものを愛したという、三大愛の原則を復帰するようになります。このような三大愛の原則が、皆さんの家庭を中心として完全に一致するようになれば、神様の愛で愛し合うことができます。このような家庭を中心として、神様の創造理想を実現しようとするのが、正に統一教会でいう天宙主義です。
13 復帰の道に立った私たち夫婦が、本然の世界に向かっていくときに、常に神様の創造理想の心情を感じなければなりません。それに満たされて、生涯をかけていく路程で、感謝の一念をもって過ごさなければなりません。それが、今から祝福家庭が、創造目的を成し遂げるために行かなければならない路程です。そこに苦労することがあったとしても、それは私たちを苦しめるためのものではありません。天に今まで秘密に積んでおいた祝福を、もっとたくさん下さるために、神様はこのような苦労の道を行かせるのです。それは、有り難いことです。
心情的な愛によって結ばれた夫婦は、その愛情が生活圏を乗り越え、生涯を乗り越えて、神様の目的と間違いなく一致した家庭をつくらなければなりません。そうでなければ、神様がいらっしゃる天国に帰っていくことができません。これが、創造なさった神様の目的です。そのような家庭に向かっていかなければなりません。
切っても切れない夫婦の愛
14 男性は女性のために、女性は男性のために生まれました。ですから、男性の重要なもの、男性の宝物は、女性に保管させました。そして、女性の重要なもの、女性の宝物は男性に保管されています。互いに取り替えられているのです。男性の宝物を女性に保管させておいたので、男性は女性と離れることができません。また、女性の宝物を男性に保管させておいたので、女性も男性と離れることができません。それが愛の「ひも」です。ですから、男性の愛の主人は女性であり、女性の愛の主人は男性です。ところが、男性や女性が今までよこしまに浮気をしたため世界が腐敗し、すべて滅んでいっています。主人が知らないうちにどろぼうをしているのです。愛の不変の鍵は、男性のものは女性が、女性のものは男性がもっているのです。
15 「私」の貴い愛は、私にあるのではなく、相手方にあります。ですから、夫のものの主人は妻であり、妻のものの主人は夫です。主人を互いに取り替えて向き合っているのです。ところが、この夫が、自分のものであるかのように、よこしまに浮気をして歩き回りながら、世の中をすべて滅ぼしてしまいました。妻たちもそうです。それは、自分のものではないのです。主人は一人です。自分が主人ではありません。妻の主人は夫であり、夫の主人は妻です。愛を中心として主人です。ですから、愛する時には、体と心のすべての細胞が共に作動するのです。
16 女性がもっているすべてのものは、女性のものではありません。横的なものは子女のものであり、縦的なものは男性のものです。「女性がもっているのだから、女性のものだ」と考えやすいのですが、自分のためには何も必要ありません。
これが必要なのは男性です。また、男性のものは男性に何の必要もありません。女性に必要なものです。神様が互いに取り替えておきました。ですから、凹凸があるのです。男性と女性を統一して一つにする道は、その道以外にありません。
神様は、その器官を作る時、「天地の間に最も高貴なものだ」と思われました。度胸があって欲心の多い男性が、すべてのものを片づけて最も好むもの、またそのような女性が最も好むものを、自分の中に求めるとすれば、それは刺激がありません。相対ゆえに刺激を感じるのです。ですから、女性のものは男性が主人であり、男性のものは女性が主人です。それを自分のもののように考えて行動すれば、天地の大道を破綻させるのです。
17 もし、男性が男性のものを自分のものとしてもっていたなら、絶対にそこから移動しようとしないでしょう。女性が女性のものをもっていたなら、そのまま張り合って千年、万年持ちこたえることができるかもしれませんが、そうすることはできません。相対が自分の側に来るようにしたり、自分が相対の側に行ったりしながら、互いに入れ替わつて一つになるのです。愛は、このように作用するのですが、授受する作用は、必ず互いに入れ替わりながら価値が現れるようになっているのです。
女性と男性を見るとき、女性がもっている愛の器官は女性のものでしょうか。女性の愛の器官の主人は男性であり、男性の愛の器官の主人は女性です。これを今まで知らなかったので、よこしまな世の中になりました。これは絶対的です。絶対的な愛の主人が互いに取り替えられてもっているので偉大なのです。
18 男性と女性は、何がお互いに違いますか。生殖器を含めた体が、まず違います。それでは、男性の生殖器と女性の生殖器は、誰にとって絶対に必要ですか。男性の生殖器は女性のためにあり、女性の生殖器は男性のためにあるのです。人間の生殖器は、一つは凸であり、一つは凹ですが、なぜそのようになったのですか。二つともとがったようにするとか、二つとも平らにすることもできるのに、なぜそのように違って生まれたのですか。すべて相対のためなのです。男性のものは女性が絶対に願い、女性のものは男性が絶対に願うのです。女性のものは男性のものであり、男性のものは女性のものだという事実を知りませんでした。
19 人の話し声を聞いてみると、その人について知ることができます。女性の話し声が高いですか、男性の話し声が高いですか。女性の話し声が高いのです。何がそのように高くしたのでしょうか。女性は、力が男性よりも弱いのに、どうして声を高く出すのですか。愛の情、その愛においては、女性は高く、男性は広いのです。男性は、広い愛をもっています。女性は、自分の夫と息子、娘だけを考える、その愛においては高いのです。しかし、男性は、親戚や国などを考える愛においては広いのです。ですから、息子、娘を愛したり、家庭を愛したりすることは母親に学び、世の中を愛することは父親に学ばなければなりません。このようになるのです。このように結んでおくことで、円満な円形を成し遂げることができるのです。
20 皆さんは、すべてが自分を主として「私だけ良い暮らしをすればいい」と利己主義に流れていっています。しかし、今は、利己主義をすべて捨てて愛を分けてあげなければなりません。家庭もそうでなければなりません。幸福な家庭は、夫が出掛けて帰ってくると、外であったすべてのことを妻と共に話し合い、新しく開拓できる要因を発見しなければなりません。
お互いが力を合わせて研究する家庭が、幸福な家庭です。父母がそのようにすれば、子女たちもそこに力を加えて、私たちもこのような家庭をつくろうといって同調するようになります。
21 夫婦の愛の場は、万宇宙の花です。自分の妻は、歴史博物館に展示されたすべての人々の総合体です。そこに、花として現れたのが妻です。神様が初夜の都屋に参席するというのです。歴史始まって以来、喜ばしい男女の愛の中に、神様がとどまって定住するのです。ですから、どれほど恐ろしい立場ですか。それを連結させて道をつなぐことができ、爆発することができる完全なマイナスになれなかったので、完全なマイナスをつくる役割を今、私がやっているというのです。ここから、天地に愛の光明な太陽が浮かび始めるのです。生命の家庭、理想の家庭として、すべて一つにして、自分の妻の部屋を訪ねていかなければなりません。
22 愛を中心とする生活では、すべてのことが解決されます。欲心の多い男性の虎のような目も、愛するようになれば、穏やかになり、絵に描いたお月様のような姿になって、凍りついていた口も、にこりと開きます。凍っていたすべてのものを完全に溶かせるものが愛であり、溶けていたものを凍らせるのも愛です。極と極を包括して余りあるものが愛です。
好むの「好」という字を見れば、男性と女性が合わさっています。男性と女性がけんかをするようになれば、完全に和解できる道がないのに、何を好むというのですか。けんかを十回しても、また好きになる力があるからです。その力が愛という怪物です。「夫婦げんかは刀で水を切るようなもの」という言葉がありますが、刀で水を切れば、傷が残りません。一度けんかしても、額をたたいてくすくす笑えば、終わるのです。愛なくしては平和が訪れません。
愛の至聖所と本宮
23 愛の道は、神様の至聖所を求めていく道です。契約の箱が至聖所ではありません。堕落した人間が作った契約の箱が至聖所ではありません。堕落せずに神様の本然の愛を中心とした愛をもつことができる所に、その契約の箱以上の価値があります。男性の愛の生殖器と女性の愛の生殖器が至聖所のようなものです。これで過ちを犯すと、雷に打たれてしまいます。至聖所に間違って触れるとイスラエル民族が急死したのと同じように、これに間違って触れると天下が滅びます。お互いが、愛を守る大祭司にならなければなりません。夫婦は、愛を守る大祭司であり、神様の愛を相続するための大祭司です。
24 男性と女性の生殖器は、天国の王宮の宝庫です。神様も勝手にはできません。男性のものの主人は女性であり、女性のものの主人は男性です。神様は、知恵の王なので、互いに取り替えておきました。それが最高に貴いものなので、それを占領するためには、自分の夫と妻を最高に貴く思わなければなりません。自分の生命以上、自分の息子、娘以上に貴く思わなければなりません。
25 女性でも男性でも、至聖所をもっています。その至聖所をお金で買うことはできません。世の中の人々が、「ああ、愛は天とも、地とも取り替えることはできない」と言います。それが至聖所だからです。至聖所は、天と宇宙の中心と完全に一つとなり、理想やすべてのものを所有する特権をもった所です。至聖所には、すべてのものがあります。すべてのものを所有しているというのです。
生命と愛のうち、どちらがより貴いですか。これが人類歴史において整理できていません。なぜ愛が貴いのですか。生命がどれほどあっても、男性の生命と女性の生命が至聖所を身代わりすることはできないというのです。生命には至聖所が連結されていません。愛にだけ至聖所が連結されているので、愛は生命よりも貴いのです。
26 結婚とは、半分の男性と女性が生殖器を一つにすることによって、お互いが完成することです。男性は女性の愛を中心として完成し、女性は男性の愛を中心として完成します。男性は女性を完成させ、女性は男性を完成させるのです。真の愛で一つになります。愛が中心になって生命が活性化され、二人が一つになる位置がその場です。男性の血と女性の血が一つの器の中で一つになる位置がその場だというのです。その場から息子、娘が生まれます。
その場は、息子、娘より貴いのです。夫よりも、神様よりも貴いのです。その場は、子女より貴く、夫より貴く、父母より貴いというのです。それがなければ、父母も無価値なものであり、夫婦も無価値なものであり、息子、娘も無価値なものです。そのように貴いので、宝の中の宝として、世の中の誰にも見えないように一生の間、錠をかけておくのです。そして、その鍵は、男性のものは女性がもち、女性のものは男性がもっています。
27 男性と女性が愛する本宮、生殖器は、愛の王宮であり、生命の王宮であり、血統の王宮です。祖父と祖母も、それを中心として生き、父と母も、それを中心として生き、自分たち夫婦も、それを中心として生き、将来生まれる息子、娘も、それを中心として生きるのです。ところが、それが悪いもの、下品な言葉になってしまいましたが、なぜでしょうか。本来は神聖な言葉です。神聖な言葉として受け止めなければなりません。そこで永遠の愛が連結され、永遠の生命、永遠の血統が出てきます。最も貴いのです。ですから、それを犯す人は、生命の世界、愛の世界、歴史の世界の歓迎を受けることができません。
28 私たちが今まで、愛という言葉を卑しいものと考え、良くないものと考えてきたのは、堕落したからであって、事実は神聖な本宮なのです。本然の愛の立場は、神聖な宮殿であり、最高に貴い所です。その宮殿の門は、勝手に開くことができません。愛の王、愛の王妃になってこそ、その宮殿の門を開くようになっているのが人間本来の愛の伝統です。真の父母をもった王と王妃は、その宮殿の門を開くことができます。そのような宮殿、そのような本宮から神様の愛する息子、娘が誕生します。
29 頭よりも、愛の器官がもっと重要です。頭には真の愛の起源がありません。真の血統の起源もありません。その起源は生殖器にあります。生殖器にすべてのものがあります。そこに生命があり、愛があり、血統があります。そこが愛の本宮なのです。生命の根もそこにあります。血統も同じです。人間の体だけでなく、人間世界と人類歴史を通じて最も貴いところです。それがなければ人類の繁殖は不可能です。
30 旧約聖書を見れば、聖所や至聖所という言葉が出てきます。聖所は人を象徴し、至聖所は愛の家を象徴します。愛することができる家のことを意味します。すべての人が聖所をもっていて、至聖所をもっています。聖所は、神様をお迎えできる家です。至聖所は神様だけが特権的な愛の主管権をもつことができるので、神様と関係を結ぶことができる場所です。至聖所は、天と通じることができる場なのです。神様と直接関係を結ぶことができる至聖所が、正にそこです。それが人間のどこにあるかといえば、皆さんの生殖器です。これは、ほかの誰も触れることはできません。至聖所を守る大祭司は、絶対に二人ではありません。一人です。昔、エバの前でその至聖所の鍵をもっていたのはアダムであり、アダムの至聖所の鍵をもっていたのはエバでした。
31 愛は投入から始まります。真の愛は、与えようとする運動から始まったというのです。宇宙は、そのような法度と内容の原則に従って動くにもかかわらず、受けようとするのは宇宙に逆らい、背く行動です。そのようなものは天運が打ってしまいます。この宇宙は、主体と対象の相対関係を備えるようになるとき、保護するようになっています。ですから、相対を探す時まで成長し、その次には、相対に会わなければなりません。それができないときには、なくなってしまうのです。女性と男性が結婚したいと思うその心は、宇宙力から来るのです。
32 主体と対象の関係をもてば、宇宙が保護するようになりますが、愛を中心として主体と対象の関係をもてなければ、それを押し出す宇宙力のために、寂しさや苦痛を感じるようになります。病気になると、どうして痛むのですか。夫婦で暮らしていて一人が先に死ぬと、なぜ心が痛むのでしょうか。そのようにする力の作用が、宇宙力です。
宇宙力は、主体と対象を保護するようになっていますが、この宇宙圏内で主体と対象が衝突すると、追放されるようになります。そうしなければ新しいものが補完されません。ですから、主体と対象の関係を維持すれば、均衡を保つ宇宙力によって相対的立場から保護を受けますが、一方だけでもなくなるときには宇宙力が押し出すので、その痛みに耐えられないといって騒ぐようになるのです。
33 広大無辺の大宇宙は、主体と対象の共同目的体なので、自分を保護する宇宙力をもっています。同時に、主体と対象が完全に一つになった存在を保護、育成する一方で、主体と対象が一つになれない存在を排斥する作用があります。そのために、存在の永続性が可能なのです。このように助ける力を相応作用といい、反対の力を相克作用といいます。また、作用と反作用ともいいます。
34 心と体が一つになっている時は、宇宙力の保護を受けるので、喜びを感じるようになりますが、心と体が一つになっていない時は、苦痛を感じて反発するようになります。病気から来る苦痛も同じです。体内で主体的要素と相対的要素が調和統一できていないとき、宇宙の保護力を喪失する一方、その反作用によって苦痛を感じるのです。これが大きな病苦となって現れます。この時、主体と対象に調和統一の道を開いてあげるためのものが医者の診断による投薬です。これは、個人や家庭においても同じです。
35 結婚後には、二人の間に誰かが介入するのをうれしく思いません。結婚後に、主体と対象が完全に一体化して、宇宙の保護力を得て幸福と満足を感じているのに、そこにある第二の女性や第二の男性が介入すれば、夫婦が一つになる力が破壊される憂慮があるので、反発作用をするようになります。このような刺激によって、彼らも主体と対象をつくって一体になり、宇宙力の保護を受けて永続するようにするのです。すなわち完成を促進する力になるのです。
電気作用でも、主体であるブラスと対象であるマイナスが一つになれば円満に作用しますが、プラスとプラス、マイナスとマイナス同士は反発するようになっています。どんな存在でも、このように主体と対象を探して関係を形成すれば、同じ法則によって安定と喜びを感じるようになるのです。
36 母親や父親が死ぬと、なぜ悲しいのでしょうか。宇宙の力が押し出すので悲しいのです。母親と父親の愛、父母が子女を愛し、子女が父母を愛するその愛を受けていかなければなりません。そうしてこそ、三六〇度で拍子が合うのです。また、夫婦で夫が死ぬと、一カ所が壊れてなくなります。天地の運勢は、すべてのものに拍子を合わせて完全に備わったものを保護するようになっているのに、それができずに欠如しているので、その力が欠如している分だけ、一気に押し出します。その一気に押し出すのを痛みとして感じるのです。病気になると痛みがあるのも同じ道理です。何かが欠如しているので、宇宙が、天運が保護する保護圏内から追放する力によって痛むのです。それが追放する作用です。それをうまく保護して存統しなさい、ということを告げているのです。
絶対「性」と真の愛の教育
37 男性に絶対に必要なものは凸ではありません。凸は反発します。そこには幸福がありません。絶対凸には絶対凹が必要です。絶対凸が絶対凹と向き合うときには、神様が共にいらっしゃいますが、そうでなければ、神様は離れるのです。それはサタンの血統です。それは、九八パーセントになったとしても、サタンの血統の影が少しでも残っていれば、神様は臨在されません。絶対「性」、絶対相対、絶対愛を中心として、縦横が九〇度の角度になってこそ、神様が訪ねてこられて、その家庭の主人になるのです。
38 真の愛は一つしかありません。初愛は、一人の夫を引き連れ、一人の女性を引き連れるのです。絶対的に一つです。ですから、絶対「性」という言葉なのです。フリーセックスを防御するためのものが絶対「性」です。まばたきする妻の目は自分のものですか。夫のものです。それをもってほかの男性を気にするようになれば、目が腐っていき、骨が溶けるのです。宇宙において、これを犯す日には赦しがありまぜん。救いがありません。神様が追い出してしまいます。追い出して、数千万代後の子孫を通して復帰するのです。
39 貞操という言葉があります。韓国では、貞操のある女性を何で表現しますか。「春香」(チュニャン)です。韓国は、貞操のある礼儀の国です。妻を中心としては春香です。孝女を中心としては「沈清」(シムチョン)です。ですから、女性たちは沈清以上にならなければならず、春香以上にならなければなりません。下(ビョン)地方長官が「寝室に来なさい」と言っても、その言葉を聞くことはできないのです。生命がずたずたに切り裂かれても、それはできません。愛のために生まれた生命なので、悪い愛によって犠牲になったとしても、結局は、光り輝く愛に復活するというのです。
40 女性の心の世界において、最も高まる領城、最高に悲惨な領域は、愛以外にはありません。女性がそうであるならば、男性はどうでしょうか。無愛想で、好き放題に生きるのが男性ですが、男性はどうでしょうか。愛の心は、男性が多いですか、女性が多いですか。恋わずらいになる比率は、女性よりも男性が高いのです。それは、男性にはかき抱く愛があるからです。女性は一方向の愛ですが、男性は四方を抱く心をもった愛なのです。四方の方向性を観測できる力があるので、愛の衝突も多いのです。
41 どれほど優れている男性だとしても、ある女性に惚れ込み、恋の病気にかかって死ぬほどの境地になれば、その男性は、金や知識、権勢などすべて捨てて、黄金の板に寝ていたとしてもそれをすべて捨てて、生きるためには体面も忘れてその女性のあとについていくようになります。そのように、神様が真の愛を好むなら、真の愛をもった一人の相手が現れる時、神様がどれほど神聖な方だとしても、その愛に従わなければならないのです。
愛の法は学んで知るものではない
42 人間が愛の舞台を求めていくときには、教育は必要ありません。男性と女性が結婚するとき、初夜にはどのようにしなさいと教えることはありません。性教育などがなくても、昆虫もよく知っています。万物の霊長として、夫婦で愛せない人はいません。ですから、教育は必要ないのです。男性と女性が愛に従って完成するときに教育が必要ならば、神様は、全能の神様ではありません。教育の必要がなく、天下万国と天下万象の世界を、いつでも超越できる資格を備えた道が、愛の道です。
43 皆さんは、家庭で愛し方を学びましたか。ある父親が彼の子女に、「私から愛し方を学びなさい」と言いますか。また、母親も子女に、「私から愛し方を学びなさい」と言いますか。また、父母が子女の愛し方を誰かに学びましたか。誰かから、新郎新婦はこのように愛さなければならないと学びましたか。学んだことはありませんが、よく知っています。本当に神秘的なことです。
44 父母が子女を愛するのに、誰かに教えてもらって愛しますか。皆さんは、赤ちゃんを生んで愛する時、その愛する方法を習いましたか。どこに愛を教える学校がありますか。何もありませんが、誰でもその基準は満点です。不足だと感じれば感じるほど、さらに完全だというのです。完全なものは、手を出す必要もなく、習う必要もありません。加減が必要ないものが完全なものなので、完全なものは変わらないものであり、変わらないものは永遠に続くというのです。
45 「愛」と言っても、これは漠然とした言葉です。愛というものは、言葉では理解しきれません。父母の愛をどれほど説明したとしても、父母がいない人には理解できない境地です。夫婦の愛をどれほど説明したとしても、独身の人は理解することができません。父母の愛がいくら大きいと言っても、子女を生んで育てることができず、そのような体験をもてない人には、到達できない境地です。
46 人にはいつも刺激が必要です。刺激がなければ幸福を感じることはできません。刺激がなければなりません。いつも食べている御飯も、おなかがすいていてこそ食べるたびに新たな味がするように、夫婦間の愛も同じように、常に刺激を通して新しくなければなりません。妻と夫が、互いに見れば見るほど、もっと見たいと思い、一日中共にいたいと思わなければなりません。そのために、自らについて研究をしなければならず、神様について研究をしなければなりません。
47 真の愛は、経験を通して得るものであり、体恤を通して分かるようになっています。真の愛は、言葉や文字、あるいは一般教育を通して体得できるものではありません。生活を通してのみ、完全に体得できるのです。
赤ん坊として造られたアダムとエバは、成長しながら、真の子女の心情、真の兄弟の心情、真の夫婦の心情、真の父母の心情を、段階的生活を通して経験し、体恤することによって完成するようになっています。神様の真の愛を全体的に体得するとき、初めて創造目的を完成した理想的な人間になるのです。
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