第二節 父母の愛
1 子女は、父母の愛の実現体であり、投入体です。父母の生命の延長体です。また父母の理想の具現体です。子女を生んで愛したことのある人たちは分かるでしょう。それで、愛する息子に対して、「これは、私の愛の実体であり、生命の延長体であり、理想の具現体だ。第二の私だ」と言うのです。子女は、愛と生命と理想的基盤から生まれるので、父母はその子女を見れば見るほど愛らしく、見れば見るほど生命が躍動し、見れば見るほど理想的相対として登場するのです。
変わることのない父母の愛
2 伝統的で、縦的で、標本的な愛が、母親と父親の愛です。これは縦的です。縦は変わることがありません。夫婦の愛は、この縦的愛を横的に引き継ぐための愛なので、夫婦は離婚することはできても、父子の関係は切ることができません。天地の道理が、そうなのです。縦的な愛なので、そうだというのです。横は四方があるので、三六〇度回っていくことができますが、縦は一点しかありません。これは、移すことができないというのです。
3 愛の中で、最も貴い愛が父母の愛です。真の愛は、直短距離を通るからです。父母の愛は、真の愛を中心とした縦的な愛です。縦的な愛は、とどまる所が一つしかなく、分けることができません。その位置を変えたときには、天地がひっくり返ります。どれほど能力があって、どれほど良い手段でも、垂直に訪ねてくる愛を移せば、天地が暗黒天地、地獄になるのです。これは、直短距離を通るので、垂直にならざるを得ません。これに傷をつけることはできず、これを横に移すこともできません。ただ一つしかありません。絶対的です。父子関係は、縦的関係であり垂直的な愛の関係なので、分けることができないのです。
4 父母は、唯一であり、その次に、不変で永遠です。父母が変わることはありません。ですから、父母の愛も革命することができません。どれほど革命が起きるといっても、愛を革命することはできないので、愛は永遠に存続します。そのような父母、そのような愛の主体である父母が、「私」を絶対的に必要とするのです。唯一的に必要とし、不変的に必要とし、永遠に必要とするのです。
5 母親と父親は、息子、娘のために犠牲にしたこと、夜通し働いて食べさせ、学校に送って勉強させたことを、帳簿につけたりしません。「いくら使ったので、これが十年過ぎれば、銀行の利子ならいくらになる」と計算して取り立てようとはしないというのです。投入して計算するのではなく、すべて忘れてしまうのです。ですから、父母が良いというのです。最も良いのが父母の愛です。
父母がいない人を孤児と言いますが、孤児は悲惨なのです。根をもつことができずにいるので、方向ももつことができないのです。ですから、犠牲になるところにおいてのみ、真の愛を探すことができる、というのが宇宙創造の原則です。
6 父母が子女を育てる時、赤ん坊の時から「お前がやがて大きくなって分別がつくようになれば、私がお前を育ててあげたことを覚えておかなければならない」と教育する父母がいたなら、その父母は正常な父母ではありません。そのようなことをするくらいなら、牛を育てて仕事をさせるほうがよいのです。自分の子女に、「私がこのように愛してあげたので、お前はそれ以上に私にしてくれ」と言う父母はいません。愛する人のためには、犠牲になるのです。与えて、もっと与えても、不足ではないかと感じ、与えても、もっと与えたい心があるのです。価値の究極を永続的に刺激することができ、未来の希望を続けて補充してあげることができる道が愛の道です。
7 堕落した世の中でも、母親の愛は、子女のために投入して忘れ、また投入して忘れ、奉仕し、犠牲になって子女が良くなることを願いますが、その子女が良くならず、老いて死ぬほど苦労しなければならないのであれば、老いて死ぬまでもっと投入し、投入することを続けるのです。それが母親の愛です。堕落した世界でもそうです。
そのようにして逝った父母であることを知るようになれば、お墓に行って、「この親不孝の子女を赦してください」と痛哭し、今からでも何倍も親孝行をしようと、一八〇度変わって孝子の道を行こうとするのです。手段と方法を通した道ではありません。これは、本当に血と肉を絞り出す愛の道においてのみ可能です。
8 子女に対する父母の愛は、ただそのまま生活的な関係だけで通じる愛ではなく、骨髄から湧き出てくる愛なのです。忘れるに忘れられず、切るに切れない愛の心を父母はもっているのです。それで、生命の余力がある限り、父母は子女を愛するのです。子女と生命の関係が結ばれていることを感じる時、父母には子女を愛する心が自然に湧き出るのです。「私の息子なので愛する」という意識的な心が先に立って愛するのではなく、その心よりも先立つ自分の生命力が、子女と連結されているので、愛さずにはいられないというのです。
9 真の愛とは何でしょうか。ために生きる愛ですが、いくらでも与え、千年与えても忘れようとします。千年与えても忘れてしまうのです。記憶しません。愛の世界では、入力よりも出力が大きいのです。父母は、七十歳になった息子だとしても、その息子がどこかに出ていくとき、「きょうは車に注意しなさい」と言うことができます。九十歳の老年になるまで毎日のように繰り返したとしても、疲れることを知りません。それは、永遠に続けても疲れないのです。それが愛です。
堕落した世界の父母の愛もそうなのに、本然の本質世界である神様の愛に属しているとすれば、疲れることがあるでしょうか。ここで初めて、私たちの人生において、真の神様の対象圏を確定することができます。神様の愛が永遠不変であることを知るようになるとき、私たち人間の愛を中心として永生の論理が妥当なものになるのです。愛を中心として見るので永生するのです。
10 父母が子女を愛するとき、「父母はこうでなければならない」というある固着した形式をもち、自分を主張する場において子女を愛するのではありません。自分を主張せずに自分を否定するのです。すなわち、自分がない立場から子女を愛するのです。言い換えれば、父母は、父母の権限をもって、いつも堂々とした立場で子女を愛するのではなく、父母の権限を忘れた立場、それ以上の立場で子女を愛するのです。そのような愛をもって子女の前に臨むのが父母なのです。
11 父母と子女の関係において、子女は母親の乳房を求めていきますが、愛を除いてそのようにすることができますか。できません。父母の愛を子女に感じさせ、子女を抱くことによって、自分の幸福よりも、天地がすべて平和の境地に入っていくことを感じ、全体の雰囲気に良いものが芽生えることを感じるようになるときには、その子女が自分の胸に入ってきたとしても、それを許し、「さあ、そのようにしなさい」と言える、大きな度量のある心が生じるのです。ですから、父母は子女を無限に愛することができるのです。
父母の愛は真の愛の典型
12 父母は、子女を無限に愛することができます。ある意味では、子女は父母の怨讐です。ホースを持ってきて、自分の血と肉を吸い取る怨讐なのです。しかし、母親としての新しい希望の刺激、夫に対する新しい刺激がその子を通して感じられるのです。そのような境地では通じる何かがあります。その境地は、他の誰かが意のままにすることができません。絶対的な愛に結び付けられるのです。絶対的な愛を中心として、自分のためではなく、神様のため、全体のための愛を中心として誓うその場には、何よりも強い基準が立てられるようになるのです。そのような基準の上に立たずに、ただ言葉だけで、または見て、聞いて、約束することだけでは駄目です。それは、いつ変わるか分からないのです。
13 父母は、子女を切ってしまうことができません。愛の共同体であり、愛の実だからです。すべてのものは、実を結びます。すべてのものは、結実を求めていくのです。結実を否定することはあり得ません。すべての木も、実を否定するものはありません。それは永遠を持統させるのです。この実は、母親と父親の愛の要素を、すべて引っ張ってくるのです。すべて動員させます。
ですから、それを見ればうれしいのです。「私」の中に永遠の「私」がいて、歴史があり、発展する「私」がいます。現在と未来の愛が連結するのです。父母が子女を愛するのを罰する法はありません。罰することはできないのです。宇宙が保護するようになっています。父母が愛する子女を抱いて喜ぶその場は、この宇宙の法が攻撃することはできず、保護するようになっています。
14 子女がおなかをすかせてやって来ると、母親の胸が膨れ上がります。胸が膨れて痛くなると、ばんばんに膨れます。おなかをすかせた赤ちゃんを抱いてお乳を飲ませる母親の気分は、言葉で表現することが難しいのです。膨れ上がっていた胸が縮んでくると、母親はすっきりして気分が良くなります。お乳を飲ませる味は、赤ちゃんと母親でなければ分かりません。また、赤ちゃんがお乳を吸って触るのを見るとき、母親の愛がそこからあふれ出ます。ですから、すべての喜怒哀楽の双曲線がぶつかる母親の心は、体験しなければ分からないというのです。
15 本然の愛は、父母が子女のために命を捧げることができる、そのような愛です。自分の生命を超えて愛するのです。本来、この宇宙が創造されたのは、生命のためではありません。愛のために造られたので、愛が先なのです。ですから、愛に一致する生命であって、生命に愛が一致するのではありません。したがって、真の愛は、命を犠牲にして命を超えて愛する愛です。それが天の愛であり、宇宙と通じる愛です。自分の子女のために命を捧げられる父母であれば、その父母は、この宇宙に二人といない真の父母だというのです。
16 子女をたくさん育てた父母は、愛の心情が広く、大きく、深いことを知ることができます。子女をたくさん育てた人は、悪の怨讐も打つことができないというのです。それほど広い土台に立っていて、広い法度をもって生きているからです。
17 赤ん坊が生まれると、母の愛の電波に沿って自動的に乳首を探しに行きます。器量が良くても悪くても関係なく、母であればいいのです。これこそ創造の妙味であり、神聖な姿なのです。人は、愛で生まれ、愛を受けながら成長します。このような立場で見るとき、「私」というものは、父母の愛の実です。父母の愛とはどのようなものかということを、実際の実として見せたのが私なのです。愛の実であるがゆえに、父母は私を愛さなければなりません。その実を通して、無限の愛がまた実を結ぶのです。個人的愛、家庭的愛、氏族的愛、民族的愛、国家的愛、世界的愛、宇宙的愛、そして本質的な神様の愛まで連結できる道が、ここにあるというのです。
18 父母と子女の間の愛は、父母から来ます。私たちは、生まれた時から父母の愛を受けます。父母が生きていらっしゃる限り、少年時代、青年時代、壮年時代、どの時代ということに関係なく愛を受けるのです。父母の愛を受けて成長し、横的な夫婦の愛が各自に起きるようになっています。夫婦の愛が続くためには、子女を生んで愛さなければなりません。
父母は、子女がいなければ、真の愛が何なのか知ることができません。対象がいてこそ真の愛を感じられるのです。兄弟同士は、父母の愛がどのようなものかを知らずに育ちますが、成長して結婚し、子女をもつようになると、父母の愛を知るようになります。言い換えれば、父母で始まって一回転し、父母に帰って、初めて知るようになるのです。ですから、子女を生んでみてこそ、成熟した人になると言うことができるのです。
19 夫婦の愛を通して一つになることによって、神様と同じ立場で、創造の能力を備えたものが子女です。神様が創造されて、どれほど喜ばれたのかを私たちに感じさせるために、子女を愛する心を与えられたのです。このように見れば、神様は、最も良いものを私たち人間に、すべて注いでくださったというのです。永遠の神様の愛と一つになって、幸福と満足の中で、平和なエデンで生きるように人間を造られたのです。そのようになることによって絶対的な神様のみ前に、人間は神様の愛を中心として永遠に相対の立場になり、別れようとしても別れることができない、幸福な人として生きるのです。これが人間の本然の姿でした。
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