天聖經(増補版)/第三篇 真の愛

目次

第一章 真の愛の根源

第一節 神様の真の愛


1 神様は、どのような方でしょうか。愛の神様です。ですから、パウロは「だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか」(ローマ八・三五)と言いました。イエス・キリストも、神様の愛がなければ、取り立てて語るほどの人ではありません。それで私たちは、神様の愛を何よりも好むのです。神様の愛は、生命の源泉であり、幸福の源泉であり、平和の源泉です。

  

神様の愛とは


2 神様の愛は、太陽よりも強いのです。朝に太陽の光が出ると、すべての植物の芽は太陽に向きます。すべての生命の起源であり、人間の本心の起源であり、理想的要素の主体的な起源になるのが神様の愛です。

3 来たるべき主には本来、神様の真の愛があり、神様の真の真理があります。この真理によって家庭が広がるのであり、国家と世界が広がるのであり、個人的、家庭的、氏族的、民族的、国家的、世界的な愛と理念と人格が出発するのです。このようなことは個人から出発します。ですから、個人として正しく生きる人は、地の果てに行ったとしても世界のために生きる人です。愛の世界ではそうなのです。

心情の世界で一時間生きることを千年の歴史に誇ることができ、一日生きることを万年の歴史に誇れるよう、高貴な体験ができるようにするのが真の愛です。真の愛は、細胞が膨張する気運まで感じることができます。そのような世界は、神様の愛がある世界です。その世界は、言葉で表現するのは難しいですが、あたかも、のどかな春の日に雲に乗って飛んでいくような感じを与える悦惚の世界であり、すべての細胞が踊りを踊るような世界です。

4 神様の愛を何と表現することができますか。暖かい春の日に、空には白い雲がふんわりと浮かんでいて、地上ではかげろうが揺れ、虫が飛び交い、ありも世の中を見物しようと動き回って出たり入ったりし、さらさらと流れる小川のほとりには、綿毛のついた種が芽を出し、かえるが春の日の歌を歌い、蜂と蝶が群れをつくって飛び回る、そのような環境に酔いしれて眠りそうになりますが、眠らずに、うれしくていつまでも「いいな」と言える、そのような味だと言うことができます。神様が求める理想相対を中心として感じる気分は、蝶が飛び、蜂が飛んでくる花園のようなものです。

5 神様がいらっしゃる所には、愛が満ちあふれます。与えれば与えるほど、もっと与えたいと思い、受ければ受けるほど、そこに千万倍加えて返したいと思うのです。そのような所が天国です。そこでは、もっと与え、もっと受けることができるので、爆発的な刺激を感じるようになります。すべての細胞が、はち切れるような刺激を感じるのです。神様の愛は、そのようなものです。

6 善の人とは、どのような人でしょうか。貴く良いものを自分だけのものにしないで全体のものとし、またその価値を全体の価値に連結したいと思う心をもった人です。天地を創造された神様は、究極的な善の方であり、すべての万物の根本になる方であり、愛の主体であられる方です。ですから、神様は、御自身が本当に信じることができ、愛することができ、すべてのことを任せられる人がいるならば、最も貴いものをそっくりそのまま譲り渡したいと思うのです。これによって、私たちは、自分に最も貴いものを本当に与えたいと思う心が天理の原則であり、人間の本然の心であることを推し量れます。

7 神様の愛は、父母の愛、夫婦の愛、子女の愛を代表します。もちろん、そこには兄弟の愛も入り、これを拡大すれば国家や世界の愛も入ります。神様の愛は、父母の愛であり、夫婦の愛であり、子女の愛だというのです。これが最高に素晴らしい言葉です。愛の力は、すべてのものを治めることができるので、運命の道も意のままにすることができます。もし、このような愛をはっきりと知ったなら、この愛の力をもってすべてのものを治めることができるので、私たちの運命の道も意のままにすることができるのです。

8 神様が必要とする愛は、絶対的愛です。神様が絶対の愛、唯一の愛、不変の愛、永遠の愛を必要とされるように、私たち人間も、絶対、唯一、不変、永遠の愛を必要とします。すべて神様に似なければなりません。神様は、男性格と女性格、陽性と陰性でいらっしゃる方なので、そこから分かれて実体対象として創造された人間も、男性と女性に創造され、彼らが結婚するようになると、実体として神様を身代わりした陽性と陰性になるのです。このように、結婚を通して縦的な神様の愛が横的に完全統一されるように追求するのが、神様のみ旨です。

9 神様が私たちに愛を与えてくださるとき、どれくらい与えたいと思われるのでしょうか。「これくらいならいいだろう」という限界を引く愛ではありません。無限に与えようとする愛です。神様は、すべて与えても、「あなたと共に、あなたの中で生きたい」とおっしゃいます。そのようにさせる本質が愛です。神様も、愛の中に入って僕になってもいいというのです。

父親は、愛する息子、娘が自分の食卓の上に上がっても、それを眺めて喜びを感じるのです。愛は法を超越します。神様が今まで愛を下さったといって、人間に、「私は完全にすべてを与えたのに、お前はなぜ与えないのか」と言うことができますか。絶対的な愛をもった神様は、いまだに与えたい愛をすべて与えることができないで、もどかしく思っていらっしゃるのです。自分を主張できない神様です。完全な愛を与えようとしたのが人間に対する創造の原則なのですが、神様は、今まで完全な愛を与えることができなかったので、もっと良いものを与えたいと思われるのです。そのような神様なので、神様のことを思えば思うほどうれしくなるのです。

10 神様が「私は愛である」と言いましたが、その言葉は、夜も喜び、昼も喜び、働きながらも喜び、休みながらも喜び、踊りながらも喜び、泣きながらも喜ぶということです。それで、「私には愛がある。すべてがある」と言ったのです。「すべて」という言葉は、その中にすべて入っているということです。愛を一番好む方が神様です。そのような愛をたっぷりもっているのが神様なので、人間がその愛を知って昧わえば、死んでも神様を離すことができません。

11 縦的な愛を受けようとすれば、堕落していない本来の横的な九〇度を形成し、男性は右側、女性は左側になって二人に火がついて調和しなければなりません。そのようになるとき、男性と女性を中心としてその中で神様に侍ろうとすれば、訪ねていって接ぎ木しなければなりません。接ぎ木するのに、どのように接ぎ木するのでしょうか。平衡にならなければなりません。そうすれば個人的にはどのようになりますか。神様は、愛の骨髄です。それを知らなければなりません。愛を中心として神様の愛は骨の愛であり、人間の愛は肉の愛です。骨と肉が一つになって形を備えるのです。皆さんに骨があるように、神様の愛は骨の愛であり、真の父母の愛は肉の愛です。

  

永遠で絶対的な真の愛


12 皆さんの心に永遠の愛がありますか。「神様の愛は私に現れるのだ。永遠に変わりはしない。天地が変わっても、この公約は変わらない」という立場が定まっていますか。神様の愛は、変わらないところに現れます。不変なので、神様の愛は永遠です。変わらない愛なので、神様の愛が私に現れるならば、変わらない心の土台の上に現れます。ですから、人生の間、食べるのもその愛のために食べ、寝るのもその愛のために寝て、活動するのもその愛のために活動しなければなりません。愛のために変わらない完全な基準をもっている限り、神様の愛は現れます。そうでなければ、この宇宙の公約はすべてむなしいものです。

13 神様は、人類の前に、父の立場にいらっしゃる方です。父でいらっしゃるので、自分の息子、娘の前に中心です。人間を創造したとしても、父母の立場にいらっしゃるので、子女に対する立場では子女のために存在するのです。父母は子女のために存在しようとします。

夜も昼も子女が侵害されないかと心配し、子女に何かの問題が起きるかもしれないと保護してあげ、また何か反対される要件が生じるかもしれないと防御してあげるのが父母です。そのような父母の本質を求めていくこと、父母の本質に連結されることが善の道、すなわち愛の道です。このような父子関係の愛を連結させるのが善なので、そのような善の立場を通して目的が成し遂げられるのです。ですから、善には必ず愛がなければなりません。愛ですが、中心的な愛が臨在しなければなりません。そうでなければ、地上で愛の中心を決定することはできません。

14 神様は、今まで御自身と近い所にいる人々と、氏族、国家まで愛を与えられました。神様は、「少ない」と思って受け入れないかもしれないと、さらに補いながら、イスラエルの個人と氏族と国家を祝福してくださいました。そして、それでも不足で、愛する息子を送って祝福してくださろうとしました。彼らがそれでも受け入れないとなると、その息子の命まで与えたのです。このように、一人しかいない息子が死んでも、さらに愛を与えようとする方が神様なので、その愛が帰ってくる日には、天地がすべて理想的な天国に変わるようになります。

15 神様と人間は、どこで連結されるのですか。生命が交流する所、愛が交流する所、理想が交流する所です。その点は、父子の関係にならざるを得ません。「私」が神様と同等になることができるので、そのような喜びはどれほど大きいですか。愛の主体であり、生命の主体であり、理想の主体なのに、祈りが必要ですか。威信と体面を超越するのです。ためらうことなく神様をつかむことができます。神様が抱きかかえてなでてくれ、愛してくれることを体験すれば、骨と肉が溶けてしまうでしょう。

16 神様の愛に接すれば、どうなるのでしょうか。髪の毛も踊り、細胞も踊るというのです。その愛に一〇〇パーセント酔えば、ひっくり返るのではなく、千年、万年、共に住みたくなります。誰かが起こそうとすれば、「起こすな」と言います。このような境地になるのです。「神仙の遊びに斧の柄の腐るのも気づかない(夢中になって月日のたつのを忘れてしまうの意)」という言葉があります。それほど、人間が想像できない高次元の愛に酔うことのできる道があるのです。

17 なぜ、万民は喜びながら神様に従っていくのでしょうか。神様は、万民のためにすべてのことを与え、また与えながらも恥ずかしく思われ、「今はこれだけしか与えられないが、少しだけ待っていなさい。何百倍、何千倍、もつと良いものを与えよう」と言いながら、きょう、与えることで満足するのではなく、与えながらも「未来にはもっと良いものを与えよう」と約束する心の余裕をもっていらっしゃる方だからです。

そのような方と一緒にいれば、たとえ満足に食べることができずに貧しく暮らしても、幸福だというのです。満足に食べることができない立場になると、現実圏内で希望の刺激が衝撃的に感じられるのです。どういうことかというと、かえって新しい決心ができるということです。その場は、未来のためにお互いに慰労の涙を一緒に流すことができる場です。絶望が共にあるのではなく、あすの希望を現在の刺激として考え、お互いに決意して、一緒になって激励できる爆発的な場が、正にそのような場なのです。

18 神様は、アダムとエバの体を好むのではなく、二人の間の愛を好まれます。彼らと一つになれる立場を願わざるを得ないのです。神様が人間に対して願う終着点は、息子、娘に会って愛することができる場です。そして、人間が願う創造目的の終着点は、神様を父として侍り、その息子、娘として愛を受ける場です。ですから、人間は、神様の息子、娘になろうとし、神様は、人間を自分の息子、娘にしようとするのです。この二者が出会う場が、父子関係の場です。それ以上の場はないのです。

19 神様には知識が必要ありません。知識を創造された方だからです。神様には権力は必要ありません。全知全能の方だからです。神様にはお金も必要ありません。ダイヤモンドや黄金も思いどおりにつくることができる方です。その神様には、たった一つだけ必要なものがあるのですが、それが愛です。「神様御自身は思いのままに愛することができるのではないか」と言いますが、とんでもない話です。神様独りでは作用できないのです。どれほど立派な博士で、天下に号令できる権力者で、天下を掌握し所有している大富豪だとしても、一人では愛することができません。ですから、神様に最も必要なものは、真の愛を分かち合うことのできる対象者です。

  

真の愛の母体でいらっしゃる神様


20 情緒的な問題を中心として見てみるとき、神様は愛の母体です。ここから父母の愛が出てきたのであり、夫婦の愛が出てきたのであり、子女の愛が出てきたのであり、兄弟の愛が出てきたのであり、親族の愛、民族の愛が出てきました。愛の分岐というものは、根幹から伸びていく枝や葉のように、波紋が波打って出ていくのと同じように、遠い所に行けば行くほど、だんだんと感度の差が出てくるのです。皆さんが神様の愛を受ける人になれば、皆さんの親戚の中で心情的に最も近い立場に立つ人と親しくなるようになります。神様が共にいらっしゃるようになると、知らないうちに引っ張ちれるというのです。

21 皆さんは、父の心情を気遣える息子、娘の姿になって、父に侍ることができなければなりません。そうでなければ、皆さんは、かわいそうな人になるでしょう。神様がいらっしゃることを知らないのなら分かりませんが、知っているなら、私たちを探して苦労される神様は、私たちが心の主人公としてのみ侍る方ではないことを知らなければなりません。

神様は、「私」と永遠に一体となり、食べても共に食べ、生きても共に生きる、すなわち永遠に苦楽を共にできる実体的な主人公なのです。永遠に変わることのない愛の本体であり、永遠の希望の化身です。このような神様のみ前で、イエス様はどんな弁明も捏造もせず、自分自体を忘れてしまい、父を身代わりするみ旨ならば、どのような行動でもできる方でした。皆さんは、このようなイエス様の足跡を引き継ぐ息子、娘にならなければなりません。

22 皆さんの心は、大きなものがあれば、すべて自分のものにしようとします。ですから、その心の前にもっていけないものがないのです。心は、神様に侍り、その神様のみ前に従うすべての国があれば、その国まですべてもち、あるいは世界があれば、その世界まですべてもちたいと思うほど膨大だというのです。ですから、心の中で神様に侍っても事故が起こらないのです。これ餐心です。皆さんの心は、そのように大きいのです。

この心の中で神様に侍ろうというのです。神様は、愛する方であり、絶対的な方なので、その絶対的な価値がある方を他のところに置いておくことはできません。愛する人同士は共に行きたいと思い、共に居たいと思い、共に生活したいと思うのです。どのように共に生活したいと思うのでしょうか。そこに深く入り込んで一つになって、一緒に住みたいと思うのです。それが愛の本質です。

23 男性は、「私は男性を代表する完成した愛の主体者」と考え、女性は、「私は女性を代表する宗成した愛の主体者」と考えて、「あなたと私はお互いに絶対に必要な人です」と考えなければなりません。男性にとって、絶対に必要なのは女性です。神様の代わりに、地上で絶対に必要なものが女性なのです。また、女性にとって、神様の代わりに絶対に必要なものが男性です。そのように必要とするのは、なぜですか。神様の愛を受けるためです。そうしようとすれば、男性と女性は、真の完成の立場で、背を向けようとしても向けることができず、愛すまいとしても愛さずにはいられない立場で神様に侍らなければなりません。愛の主人は男性でもなく、女性でもありません。神様です。

24 神様の愛の発掘地は、どこでしょうか。兄弟間で愛する場に、神様の愛が出てくるのではありません。男女が愛するその愛を中心として、神様の愛が立てられるのでもありません。神様の愛は、父子関係の愛によって立てられます。縦的関係が成立しなければなりません。その縦的関係は、父母の愛を受けなければならないので、父子の愛以外にはありません。この愛には距離がないのです。この縦的関係には、一つの中心がなければなりません。中心は一つしかありません。中心は第一の立場にいるのです。中心が二つあれば、世の中では闘いが起こります。

25 真の愛をもって自分よりも立派な方を探そうとするので、一〇〇パーセント、一〇〇〇パーセント以上投入し、また投入するのです。そうして投入が終わったと思うその瞬間に、止まるようになります。神様は、人間を創造するとき、御自身よりも立派な愛の相対を造ろうとしたので、神様のすべての要素、目に見えない無形の要素を一〇〇パーセント実体化させるために投入し、また投入しようとしたのです。投入して忘れることのできるところにだけ、真の愛の起源を発見することができます。簡単な内容です。これが宇宙の根本原理です。

  

創造は真の愛の投入


26 神様は、絶対者であると同時に、真の愛の主体であり、永遠不変の唯一圏に立っていらっしゃいますが、「私のために生きなさい」と言う方ではありません。ないところに存在させようとするので、自分から投入しなければなりません。投入とは、ために生きることです。自分を投入しなければなりません。投入して宇宙が生じたのです。ですから、真の愛の根源、根拠地、出発の地は、存在する世界のために生きようとする真の愛です。真の愛から出発したのです。これが理想的な本然の出発点です。

27 神様が万物を創造される時、自分のすべてのものを投入することによって、その投入した対象が拡張すれば、そこから愛を見いだすことができるのと同じように、私たちも公的な世界に投入すれば投入するほど、そこから愛と関係が結ばれていくのです。それで家庭で孝行しなさいというのです。なぜ父母に孝行し、兄弟同士の友愛をもたなければならないのかというと、そうすればするほど、愛が「私」につながるからです。

それでは、「私」はどのような主人になりたいのでしょうか。知識の主人になりたいのではなく、権力と名誉の主人になりたいのでもありません。愛の主人になりたいと思うのが、人間が造られた最高の目的であり、人間が求めていかなければならない終着地です。

28 母親は、自分の体を投入して忘れてしまいます。自分の血と肉を分けてあげながら、覚えておく母親はいません。子女にお乳を与えながら、「きょうは何グラムを子女に供給した」とノートに記録したりはしません。投入して忘れ、投入して忘れてしまうというのです。母親が子女を育てながら立っている所が、神様が天地を創造しながら投入して忘れ、投入して忘れた、その立場と同じなのです。

29 創造の起源は、愛を中心として、ために生きる論理です。対象のために、すべて投入することが偉大なのです。ここから、「ために生きよ」という生活哲学が出てきます。愛は理想的な航海をしなければなりません。私たちがそのような目的世界に向かって、方向を定めて生きていくためには、ために生きなければならないという生活哲学が出てくるのです。完全投入しながら行く道以外には、真の愛の道に出会うことはできません。それは、完全に投入し、完全にために生きるところにおいてのみ可能だからです。

30 真の愛は、ために生きる愛です。与えること、ために生きるということは、第二の創造の対象、愛の対象を求めることです。神様だけが創造するのではなく、私たちも今、創造しているのです。神様が創造される時、御自身を完全に投入したのと同じように、真の愛は、自分を完全に投入するのです。そのように、自分を完全に投入すれば、自分の代身である創造物が生じてきます。

31 真の愛は、仕えられることではなく、他に仕えることです。神様は、最初に御自分の愛の対象を創造される時、御自身のすべてのエネルギー、すなわち御自分を一〇〇パーセント投入されました。このようにして神様は、真の愛の根本をつくられたのです。言い換えれば、神様は、御自身を完全に消耗し尽くす、真の愛の伝統を立てられたのです。その真の愛は、宇宙の中心です。

32 真の愛が行く道は、受けるための道ではなく、ために生きるための道です。ですから、神様御自身も愛の相対を創造する時、神様御自身がために生きる立場に立って、御自身が所有するすべてを投入し、また投入しました。このような心をもつ本然の中心存在が、天地を創造された神様です。真の愛は、ために生きるときに一〇〇パーセント、一〇〇〇パーセント、すべてを与えて、真空状態になるのです。

33 愛は完全投入です。男性が愛を求めていくには、すべて投入しなければなりません。人間の五官、日、耳、鼻、口、触覚をすべて、完全に投入しなければなりません。創造の原型に従って、モデルの完成形態を経なければ、愛に至れる資格がないからです。神様と似ているという立場で、完全に投入しなければなりません。

34 神様は、愛を中心として創造を始められました。神様は、損になることをしたのではありません。投入することは損ですが、神様は、なぜそのようにされたのですか。愛には、すべてのものを満たして余りある力があるので、消耗させて投入しても、その代わりに愛が戻ってくるのです。真の愛は、投入するほど、だんだん小さくなるのではなく、投入して動けば動くほど、大きくなっていきます。

もし、真の愛が小さくなっていくというのが原理ならば、神様自体が投入すれば、消耗します。しかし、真の愛の世界は、投入すればするほど大きくなるのです。真の愛の世界は、動けば動くほど大きくなっていきます。愛を占領しようとすれば、投入して忘れ、投入して忘れてしまわなければなりません。

35 神様が心情をもって万物を造ったのは、自己投入であるとともに、相対のためです。その相対とは、愛の相対です。ですから、神様が創造されるときに自分を投入し、愛の心をもって喜ばれたのと同じように、皆さんも万物を愛するようになれば、神様の側に立つようになります。万物を愛すれば愛するほど、神様のあとを訪ねていくのです。

36 宇宙的原理の根源は神様であられます。宇宙の創造のときに、神様は、自らの創造物のために、自らの全体を投入されました。また、歴史を通して、自分勝手に生きる堕落した人類を救うために、絶えず犠牲になってこられた方が、正に神様です。神様のみ旨を知った預言者、聖人、そして哲人たちは、自らの人生の中で神様の原理に従いました。そして、彼ら自身は、真理を守ることで満足せずに、他の人たちを教えるために犠牲の道を歩みました。

37 人のために責任を負って犠牲になるのは、何のためでしょうか。自分が困難を克服しなければならないことがあったとしても、「私」を通して相手方に影響を及ぼすためです。あたかも、何もないところから神様が力を投入して創造されたのと同じような立場に立つためです。神様は、造られたものを見て「良し」とされたので、そのような結果として現れたものも善になっています。ですから、神様の原理原則に従って、神様の創造原理に従って、神様のような立場に立たなければ善になることができません。

誤植・修正提案

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