天聖經(増補版)/第一篇 神様

目次

第二章 心情と真の愛の神様

第一節 心情の神様


1 神様は心情の主体です。ですから、神様も無限に悲しい感情をもっていらっしゃり、無限にうれしい感情をもっていらっしゃいます。神様だからといって、喜び、うれしい感情ばかりもっていらっしゃるのではありません。悲しいとすれば、人間たちが到達できないほど深く、広い悲しみの心情をもっていらっしゃるお方です。

2 人間を造った神様は、私たちの心と体の主人であることはもちろんであり、私たちの理念や、私たちの感情世界の主体の位置、主人の位置に立つことのできるお方であり、さらには、私たちの心情の主人であり、主体であられるお方です。私たちには、このような神様が絶対的に必要です。私たちの意識や人情で観念的に必要なのではなく、絶対的に必要です。そのような主人を失ってしまったことが悲しみです。

  

神様は心情の主人


3 神様は、「私」の体と、私の心情の永遠の主人です。本然の世界は、いくら愛する夫婦だとしても、夫が妻よりも神様をもっと愛するからといって、妻はその夫を恨みません。また、妻が神様を夫よりもっと愛するからといって、夫は「なぜ私より神様を愛するのか」とは言いません。それを見て喜ぶことのできる世界が天国です。世の中のどのような愛、どのような内容をも超越した主体的な立場にいらっしゃる神様は、私の体の永遠の主人です。体の永遠の主人であるその神様の懐やその園にいることができれば、死んでもよいというのです。

4 真の内的心情の縦的な位置に立っているお方が、神様です。父です。それでは、真の父母とは何でしょうか。横的な心情を中心として男性と女性が父母になり、垂直線を補強できる「副体」になるのです。垂直線を曲げてはいけません。この中央線にサタンが侵犯できる道があるので、愛の骨の中で、これを補強できる愛の肉にならなければなりません。愛と化した骨と肉、愛と化した骨の立場の父が縦的な神様であり、愛と化した肉の父母の立場が真の父母です。これが核となって「副体」が決まるというのです。

5 心情の役事とは、人間の肉身と関係している場所を中心として語るものではありません。ここには天情が介在しています。この天情は、根源も天情であり、過程も天情であり、結果も天情の内容を備えなければなりません。ですから、神様の愛を中心として神様と一体となって生まれた、堕落していないアダムとエバのように、神様の血統を受け継ぐことのできる関係をもった自らにならなければ、心情的な勝利の土台を備えることができません。

6 本来、アダムとエバは神様の心情に通じ、神様の希望をもって躍動しながら、毎日の生活の中で神様の懐に抱かれて満足し、あらゆることに対して感謝する主体にならなければなりませんでした。ところが、彼らがそのような道を歩むことができない姿を御覧になる神様の心情の痛みは、苦しむ彼ら以上のものだったことを、私たちの先祖は知りませんでした。

7 今日の「私」はどのような心情でさまよい、どのような視線と、どのような五官をもって生を営んでいるのかを考える前に、皆さんはまず「天よ!私は、心情に対する感覚をもって生涯を生きていますので、昔、エデンでアダムとエバが堕落する前に神様と向き合っていた心情と、堕落したときの心情、神様がアダムとエバを追い出された心情、この人類をつかんでノアを立てる時まで千六百年の間苦労された神様の心情、ノアが百二十年間、山の上で箱舟を造ったとき、激しい冷遇と虐待を受けながらも天に従って苦労したその心情、紆余曲折と千態万象の歴史過程を経てきた神様の心情を、自分のものとして一度生きてみたいです」と言うことができなければなりません。

8 生活感情で、私たちが、神様の感情と共感した感情を、いかに感じるかということが問題です。一人でいれば、思わず「お父様!」と呼び求めることができなければなりません。そうすると、神様から「どうした!」と答えが返ってくる感覚を受けるようになります。一体になれば、そうなります。誰もいないようですが、誰かが私を主管し、指導しているというのです。そのような生活圏内に入った人ならば、神様がいる、いないということが問題にならず、困難にぶつかれば、必ず「私」を擁護してくれ、導いてくれることが分かる立場なので、神様を裏切っていくことはできません。

9 神様も、情、知、意をもっていらっしゃいます。神様から造られた人間に情、知、意があるのですから、神様は言うまでもありません。たとえこの地上の人類が堕落の子孫だとしても、本来は神様御自身の血族であり、直系の息子、娘なので、失った息子、娘を捜し求める父母以上の心情で歩んでこられたお方が神様です。ですから、私たちがこの地に対して涙を流し、死と苦痛で倒れ、悲哀に満ちて悲しむ場面が、正に神様の悲哀と悲しみが反映された場面、場面なのです。ですから、善良な人を蔑視し、善良な人を迫害し、善良な人の命を奪った個人、家庭、民族は長続きしません。神様がそれを記憶するからです。したがって、私たちは自らの涙が落ちるたびに、天の涙が落ちることを知らなければなりません。怨讐に対して無念で悔しい思いが湧き起こるたびに、神様が赦しの涙を流されることを私たちは知らなければなりません。恨みを晴らしても、「おい、こいつ、お前は、よくぞ死んだ」と言う神様ではありません。人を怨讐だと思って打つのではありません。

10 先に与え、打たれて復帰してくる神様です。皆さんもそうでなければなりません。神様の悲惨な経綸も、私たちのためです。「お前と共に語り合い、お前と共に働きたい」と言いたい神様の歴史的な心情を知らなければなりません。神様は、忘れることなくお待ちになります。「私」はいつ神様の復帰摂理に同参(一緒に参加すること)できるかを考えてみなさいというのです。神様と共に住むことができる生活舞台を見いださなければなりません。そして、神様のように考えることができ、語ることができ、行動することができる道を求めていかなければなりません。

11 神様は、全天宙を創造された創造主であると同時に、私たちの真の父です。その真の父は私たちを訪ねてこられるでしょう。どのような運命の紆余曲折に置かれても、それを越えて、その真の父のみ手をつかみ、歴史的な願いと自分の生涯の願いの心情を抱き、「私の父よ!」と最後の一言を残す時まで、人間は行かなければなりません。死の道が横たわっているとしても、そこまで行かなければなりません。終わりの日に、人類の中でそのような道を走っていき、創造主であり、絶対者である神様に対して、「私の父よ!」と呼び求める群れが現れるようになるとき、そこから神様の新しい経綸が始まるのです。

12 私たちがより良い善を指向し、より美しい美を求め、より情的な愛を探し求める一番の目的とは何でしょうか。それは、創造主の天的な心情と関係を結ぶことです。このような見地において、神様の心情、天倫の心情、人倫の心情を探るとき、これらの心情が一つの目的に向かって正常に動いているのかといえば、そうではないというのです。人間社会における人倫と摂理の法度に従って動いている天倫は、方向が異なっています。このような事実は、堕落の結果です。堕落によって創造主の心情と天倫の心情、人倫の心情が相反しているという悲しい事実を知らなければなりません。このような自分たちだということを認識し、このような社会だということを認識し、このような世界だということを認識して、歩みを止めて再び復活した被造世界を見つめようとし、創造主の心情を再び見つめようとし、社会の実状を再び見つめようとし、自分の心と体に再び注目しようとしなければなりません。このようにしなければ、新しい理念の世界、新しい情的な世界は、人類歴史に登場できません。

13 天の勇士になろうとすれば、神様の心情を知らなければなりません。国の忠臣になろうとすれば、国王の心情を知らなければならず、父母の前に孝子になろうとすれば、父母の心情を知らなければならないように、天の勇士になろうとすれば、神様の心情を知らなければなりません。神様の創造前の心情と創造当時の心情、また創造以後、人間が堕落する時の悲しい心情と、その悲しい心情を抱いて復帰歴史を綴ってこられた復帰の心情、そして、復帰したのちの世界を希望される、その心情を知らなければなりません。

14 統一教会で言う神様の心情は、長く、大きく、深いものです。創世前の神様の心情、創世当時の神様の心情、創世以後、アダムとエバが堕落する時の神様の心情がどうであったかを知らなければなりません。アダムとエバが堕落して、神様の胸にどれほど大きな釘を打ち込んだかを知らなければなりません。堕落した以後にも、神様がどれほど悲しまれたかを知らなければなりません。また、復帰路程を歩んでこられながら、どれほど悲痛な心情をもって訪ねてこられたかということを知らなければなりません。復帰の世界をつくるために、御自身の息子、娘たちを凄惨な死の峠に追い立てながら、耐えていきなさいと告げられた神様の心情が、どれほど悲痛だったかを知らなければなりません。そうして最後の一つの中心存在を通してこの罪悪世界を清算し、神様の心情的な恨を解いてさしあげてこそ、み旨は成就するのです。

15 復帰摂理歴史を見ると、神様は世界的な運勢を起こしてこられました。神様は太初に広大な宇宙を造られ、その中心にアダムとエバを立てられました。アダムとエバを造る時、万物のすべての要素をもってお造りになり、多くのものを賦与されましたが、その中で最も重要なものとは心情です。心情は四位基台の中心であり、四位基台の核は愛です。あらゆる存在の最も核心的な基点は心情です。

16 愛と心情は、どのように異なるのですか。普通、愛といえば、心がうきうきしている気分を感じ、心情といえば、心と密接な閾係があるように感じます。その心情は、四方性を有しています。ですから、心情が愛よりも全体の中心です。心情は、愛の過程を経た結果的な立場と同じです。それで心情は、立体的な世界の中心です。ですから、統一教会は今まで、愛の世界より心情の世界を創建しようと主張してきたのです。このように、あらゆるものの中心は心情ですが、この心情は必ず家庭を中心として出てきます。そのような心情が、神様を中心として連結されて一つにならなければなりません。この時、一つになる心情は、個人的にも、家庭的にも、民族、国家、世界的にも一つにならなければなりません。このように見るとき、復帰の完成というものは、心情を除外してはできません。中心の位置を立てることができないからです。

  

心情を通して感じられる神様


17 歴史的な神様の心情は、六千年間悲しみでした。不信した私たちの先祖たちに対して、無念な思いをもっていました。今、私たちは、悔しく悲しい神様を慰労してさしあげる祈りを捧げなければなりません。今、世界に散ちばっている第一、第二イスラエルに対する神様の心情は、悲しみです。その父の袖をつかんで、「父よ、どうしてあなたの心情はこのように痛ましく無念なのでしょうか」と言うとき、その手をつかんで「おお、私の息子よ、私の娘よ!」とおっしゃることのできる群れが現れなければなりません。

18 今日、新郎が新婦を復帰するために手紙形式で書かれた聖書のみ言には、暗号がたくさんあります。なぜ暗号で語られたのでしょうか。心情の神様だからです。聖書は誰もが解けるわけではありません。新郎だけが解くことができます。心情を通して侍ることのできる準備をした人だけが解けるのであって、そうでない人は解けないようになっています。それでは、ここにある暗号の正体とは何でしょうか。新郎が来ることのできる門を開く秘訣です。その秘訣が心情なのです。父母の心情は、幼子を抱いてお乳を飲ませるときも、その子女の頭が白髪になったときも同じです。その心情には差がありません。

19 キリスト教徒たちは、「主は雲に乗って来なければならない」と言います。それならどれほどよいでしょうか。本当にそうであれば、私たちも苦労しません。そのような形で信じようとするなら、牧師や長老たちに負けないほど信じたでしょう。精誠を尽くすことにおいても、誰にも劣らなかったでしょう。主が雲に乗って来られて、どうするというのでしょうか。今までのキリスト教の歴史を調べてみれば、霊的な領域しかなかったために、虐殺され、殺害されながら来ました。地の基盤がないため、数多くの国家の主権者たちに虐殺され、犠牲にならなければなりませんでした。それだけでも悔しく恨めしいのに、再臨主までがまた霊的な存在として来て、どうしようというのですか。キリスト教徒だけこっそりと他へ移して、ほかの人たちはみな葬ってしまうという話ですか。神様は、決してそのようなお方ではありません。聖書の放蕩息子の比喩のように、神様は自分の長男だけでなく放蕩息子である次男も愛する、心情の神様であられます。

20 六千年の間、心情に飢えた大主宰であり、大王として今まで苦しんでこられた神様であられることを、はっきりと知らなければなりません。その神様を慰労してさしあげなければなりません。その神様は、すべての世の中を一度に審判してしまいたいという切実な気持ちがありましたが、御自身の目的があり、御自身の願いと希望がこの地上にあるので、それを見つめて耐えに耐え、さらに耐えてこられたことを知らなければなりません。そのような神様を「父」と呼ばなければなりません。名前だけの神様ではなく、心情の神様を「父」と呼ばなければなりません。そうして私たちの血族でない血族、父母でない父母、兄弟でない兄弟たちが世界的に動員され、天の志操を立てることができ、天の心情と関係を結んで古今東西を超え、民族と国家を超え、天上の心情を中心として動くことができる新しい主義が、この地上に出てこなければなりません。それが出てこなければ、世界は崩れていくのです。

21 今、人間は行く所がありません。しかし、最後の決着をつけなければならないので、絶望の中だけにいるわけにはいきません。今からは、真の真理をもって新しい天地に入っていける、真理による開放運動が広がらなければなりません。失望と絶望に直面している環境を整備し、たった一つしかない生命の道に導いていける基準が現れなければなりません。ですから、今まで何主義、何主義といいながら真理を探してきたのです。完全な真理が現れる時に、初めて世界は完全に統一されるのです。真理に通じてからは、人格を完成しなければならず、その次には心情を完成しなければなりません。

22 私たちは、心情を通して歴史的な神様を知らなければなりません。創造当時から神様は、心情の神様でした。私たちは創造当時の神様の心情と、人間の堕落以後の神様の心情がどうであり、歴史過程を経てきながら、どのような心情をもってこられたかという歴史的な神様の心情を知らなければなりません。皆さんは、信じるには信じていますが、神様の心情が分かりますか。神様の心情を知らなければなりません。その次には、時代的な神様の願いとは何であり、時代的な神様の心情がどうであるかを知らなければなりません。そうして、未来的な神様の心情を知らなければならないのです。

23 切実な心情をもって任せられた使命を完遂するために、無限に努力したにもかかわらず、結局は十字架にかかるようになったイエス様の姿を見つめられる、神様の悲しい心情を感じなければなりません。イエス様には、万民を身代わりし、全字宙を身代わりして神様の悲しみを解いてさしあげ、神様のみ旨を成就してサタンを屈服させなければならない使命がありましたが、不信する群れから、あちらで追われ、こちらで追われて、結局はゴルゴタ山上で十字架にかかるようになりました。このようなイエス様の心情は、どうだったでしょうか。自らを中心として約束されていたすべてのみ旨が破壊されてしまい、自らの一生が結局は十字架の刑に帰結することを感じたイエス様でしたが、それでもイエス様は最後まで天を裏切らず、天に対する忠誠の道理を果たされました。すべての人間がイエス様を不信しましたが、イエス様はそのようなこととは関係をもたず、天倫に向かうその道を一生の目標にして進んでいったというのです。そのようなイエス様の一生が、人間にとって歴史的な希望の道となりました。

24 堕落したこの地上に神様の恨があるとすれば、それは真の父母が存在せず、真の夫婦、真の子女がいないことです。これが神様の嘆きです。パウロは、堕落した人間が養子の姿で救いを得るだろうと言いました。しかし、それは養子であることを知らなければなりません。いくら優れているといっても、養子だというのです。それでは、神様の悲しみとは何でしょうか。それは、直系の子女が養子になったことです。ですから、歴史は、神様の直系の子女を回復するための悲しみの歴史路程です。このような神様の歴史的な悲しい心情を知っている人は、神様を近くに迎えることができるでしょう。また世の中で子女を生んで育てて生きる父母は、子女を愛することによって神様の心情を感じることができます。ですから、本当の夫婦の愛を感じる人は、それを通して神様の本然の愛を感じることができなければなりません。子女が父母を愛することにおいても、やはり同じです。そのような基準がこの地上に現れれば、私たちには善に対する理念が必要になります。「私」自体が善の本体でありながらも、今日の「私」自身は、その中心による相対的な生活観しかもっていません。あらゆるものの主体として立つことのできる価値の中心、生命の中心、理念の中心、愛の中心になることができるのは、真の父母の愛の心情によってのみです。

  

真の父母、真の師、真の主人の主体であられる神様


25 神様を完成させるのは、愛を中心としたアダム家庭です。神様を完成させるのは、人だというのです。また、人を完成させるのは神様の愛です。これが神人一体理想です。「君師父」という言葉があります。王と師と父です。「君師父一体」という言葉は、三大主体思想を意味するのです。父母の心情も、ために生きる愛です。愛する子女に対しては、より投入して忘れることのできる生活を送ってこそ父母です。神様は三大主体思想、君師父の主人です。神様は父の中の父であり、師の中の師であり、王の中の王です。

26 神様は父母の中の真の父母であり、師の中の真の師であり、王の中の真の王です。神様は、永遠の真の父母であり、永遠の真の師であり、永遠の真の主人です。私たちが神様の息子、娘になるとすれば、まず神様のような真の父母にならなければなりません。神様のような真の師の道を行かなければなりません。そして、神様のような真の主人になる道を行かなければなりません。これが三大主体思想です。究極的なモデルは神様です。

27 三大主体思想の中心とは誰かというと、父母です。父母のような師、父母のような国王にならなければなりません。父母の中の父母、一番の父母が神様です。ですから、神様のような父母、神様のような師にならなければなりません。これが三大主体思想です。地上でもこの三大主体思想だけが残り、天上でもこの三大主体思想だけが残るのです。

28 「主体思想」という言葉は、三大主体思想の中にある三つのうち、どれでもすべて当てはまります。三大主体思想は、三つがすべて「主体思想」なので、真の父母をもってきても、そこには真の師がいて真の主人がいます。真の師をもってきても、そこには真の父母がいて真の主人がいます。真の主人をもってきても、そこには真の師がいて真の父母がいます。三大主体思想の三つは対等です。神様は、真の父母であると同時に、真の師であると同時に、真の主人です。どのような師でしょうか。ために生きて、さらにために生きながら教えてあげようとする師です。また、どのような主人でしょうか。すべてを握って自分のものにしようとするのではありません。神様までもあなたのものにしてあげようとするのです。「あなたが主人になるのだ」ということです。ですから、これを一言で表すならば、「生んで、育てて、立ててあげよう」です。総論は、「生んで、育てて、立てて、主人にしてあげよう」です。神様も同様です。人を創造して、育てて、天宙の主人である神様の代わりに、愛をもった者として自分よりも高い位置に存在するようにして、主人にしてあげようとするのです。

29 神様の創造理想は、家庭理想です。家庭をつくろうとしたのです。家庭が形成されるためには、生んであげなければならず、育ててあげなければならず、立ててあげなければなりません。それを父母がします。神様と同様です。神様は、真の父母の立場にいらっしゃるお方です。ここから三大主体思想が出てきます。第一は真の父母、第二は真の師、第三は真の主人です。これを毎日の生活信条にしなければなりません。

30 神様は三大主体思想の主人です。神様は父母です。父母が絶対に必要であり、真の師が必要です。世の中が混乱しているので、この三つのうち真の父母だけを見いだしても生きていくことができます。真の師だけを自分のものにしても滅びません。真の主人だけを自分のものにしても生きていけます。永生の位置に行くのです。なぜでしょうか。ために生きる天理の位置に立つからです。神様がそうなので、自分の家庭で三大主体思想の実体を形成して皆さんが父母にもなり、師にもなり、主人にもなりなさいというのです。そのようになれば、すべて終わるのです。大きな神様から広げて、「私」の家庭ですべて成就するようになれば、ここにすべての垂直の軸が立てられるのです。それが統一的起源なので、神様のものが「私」のものになるのです。ですから、神様に似なければなりません。それが三大主体思想です。

31 皆さんの心と体を見るとき、心がどれほどかわいそうですか。心は、神様の代身です。心は、先祖たちを代表します。心は師を代表し、国王を代表します。しかし、これまでこの心をどれほど蔑視し、ないがしろにしてきましたか。宇宙の中心として真の父母、真の師、真の主人の立場にある、真の愛をもった主体としていらっしゃるお方の代身である心が、この地上で、自分一人を収拾するために、どれほど犠牲になってきたでしょうか。そのように犠牲になりながらも、不平を言いません。ひたすら蔑まれ、引きずり回されながらも、死んでしまったと思っていたら、悪い考えをもって明け方にどろぼうしようとすれば、「おい、こいつ」と、再び生き返って忠告します。皆さんはそのような心を、どれほど弄びましたか。心は、父母の代身であり、師の代身であり、主人の代身です。

32 本郷においては、神様を王として侍らなければなりません。神様は、宇宙の王であり、国の王であり、氏族の王であり、家庭の王です。神様は、宇宙の師であり、国の師であり、氏族の師であり、家庭の師です。神様は、字宙の主人であり、国の主人であり、氏族の主人であり、家庭の主人です。これが三大主体思想です。ここには、ために生きる愛、ために生きて忘れる愛の本質があるがゆえに、この三つ自体が天を代表するというのです。自分自身が、その三大主体思想をすべて備えるとすれば最も理想的ですが、それをすべて備えられなくても、真の父母の立場に立てば、師は右側、主人は左側に立つのです。ですから、この三つのうち、どれか一つだけでももてばいいのです。真の父母になるか、真の師になるか、真の主人になるか、いずれか一つの立場に立てば、天国入籍は問題ありません。これさえすれば統一されるのです。

33 人間が堕落しなかったとすれば、神様がアダムとエバと共にアダム家庭から父母になり、師になり、主人になります。その次に氏族に上がります。家庭から氏族の位置に上がって氏族の父母になり、師になり、主人になり、その次に民族の父母になり、師になり、主人になります。そのような意味から考えてみれば、大統領とは何でしょうか。大統領は国の父母です。ですから、国民たちは大統領を父母として侍らなければならず、師として侍らなければなりません。その大統領は、すべての民族の意気と全体の歴史的背景を代表して、行動の領域でその代名詞にならなければなりません。そして、師になって主人の位置で、今まですべての国民を管理していた国家体制をそのまま伝授していかなければなりません。それが世界に拡張され、天地もそのようになるのです。神様と言えば、そこに逆らうものは何もないというのです。そのお方は、私たちを生んでくれた生命の根本となる父母であり、あらゆる知識の根源者であり、「私」が悟って生活することのできる自由環境を、歴史を通して備えてくれた師であり、そのすべてのものを準備して備え、私に譲り渡してくれた主人であるに違いないからです。この原則は、天上世界では永遠不変です。それが、私たちが立てるべき三大主体思想です。私が神様のように真の父母になり、真の師になり、真の主人にならなければなりません。

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