天聖經(増補版)/第一篇 神様

目次

第一章 神様の存在と属性

第四節 神の属性


1 神様の属性は、絶対、唯一、不変、永遠です。これが神様の四大属性です。すべての創造は、絶対的であり唯一なものです。すべてのものが絶対的な立場にあるので、絶対的に自分自身をその位置に立てるのです。ですから、すべてのものが唯一です。どこにおいても勝手に混ざったりしません。愛の道というものは唯一です。その次には、不変であり、永遠です。

  

神様の主流属性


2 神様の属性は、絶対、唯一、不変、永遠なので、私たちはそのような内容を中心として絶対的な愛の主体にならなければならず、唯一の愛の主体にならなければならず、不変の愛と永遠の愛の主体にならなければなりません。そのような人が神様の代身者です。神様の属性に一致できる存在は、神様の代身者になることができます。神様が相対を創造するとき、何を加えたのでしょうか。創造性です。絶対創造性、唯一創造性、不変創造性、永遠創造性です。愛を中心とした絶対的な創造性を投入したというのです。神様の愛が絶対、唯一、不変、永遠のものなので、その愛に通じれば、神様と永遠に苦楽を共にすることができ、神様のすべてのものを相続することができます。絶対的な神様の愛が「私」の愛であるならば、絶対的な神様の対象になることができるのです。

3 神様の属性が絶対、唯一、不変、永遠なのと同様に、私たちも絶対的に一つにならなければならず、天下に唯一的なもの、永遠なもの、不変なものとして一つにならなければなりません。そうしてこそ、永遠の愛がそこから始まります。永遠の生命の縁をもって、永遠の真の男性と永遠の真の女性がその過程で絶対、唯一、不変、永遠であり、定着した不動の愛の主人になってこそ、男性として完成し、女性として完成するのです。その場は、愛の完成の場であると同時に、男性と女性の生命が一つになる場であり、男性と女性の生命が一つになると同時に、新しい生命を創造する血統的関係が連結されるのです。

4 神様は、愛を中心として存在します。ですから、神様には愛を中心とする絶対性、愛を中心とする唯一性、愛を中心とする不変性があります。すべてが愛を中心にしています。愛の属性も絶対であり、不変であり、唯一なのです。そのような愛を人間も望みます。絶対的な愛を好むというのです。絶対に一つしかないというものが絶対性です。ですから、神様の属性は絶対であり、唯一であり、永遠、不変です。

5 愛は相対的関係から生じます。ですから、絶対的な神様であっても、愛の前には絶対服従しなければなりません。そうでなければ、人間の道理についての教育ができません。神様は、アダムとエバに対して、「お前たち夫婦の愛は絶対的である。永遠に変わらない」とおっしゃるのです。なぜ絶対的かといえば、アダムとエバは神様の属性が顕現した実体だからです。神様は唯一、絶対、無二のお方です。ですから、アダムも、その属性が顕現したがゆえに絶対的な存在です。アダムは神様の男性的な属性が顕現した存在であり、エバは神様の女性的な属性が顕現した存在なのですが、その属性自体が絶対的です。その内的な属性と外的な属性を備えたものを一つに束ねるものが愛です。その愛は、神様までも絶対服従する絶対的な愛です。ですから、その絶対的な愛を中心とする夫婦は、唯一無二なのです。絶対的であると同時に永遠不変です。

6 創造主である神様が立てた目標は、変わりません。いくら時代が変わり、歴史が紆余曲折の過程を経ていくとしても、すべての人の良心の中心となり、すべての人の希望の目標となる神様は、決して変わりません。永遠の前から永遠ののちまで変わりません。ですから、「わたしはアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終りである」(黙示録二二・一三)とあるのです。

  

真の愛の根源であられる神様


7 神様は愛の根であり根源です。また神様は生命の根です。そして、神様は血統の根であり、良心の根です。私たちは、愛や生命、血統、良心を見ることもできず、触ることもできませんが、存在することを知っているのと同様に、神様を見ることもできず、触ることもできませんが、存在することが分かります。それでは、生命の根となり愛の根となる神様は、どこにいるのでしょうか。空中にいるのではありません。私たちの生命と愛の根の中に神様がいらっしゃるのです。ですから、感じることができないのです。

8 神様は真の愛の根です。根は、幹を通して芽と通じます。そして、枝は東西南北に伸びます。東西南北に伸びれば伸びるほど、芽も育ち、幹も育ち、根も育つのです。ですから、神様は、人間世界において、真の愛を中心とした縦的な父だということを発見できます。真の愛を中心とした縦的な父が創造主であられます。

9 愛の根が神様です。神様は根の中の根です。その愛の根に接ぎ木しなければなりません。そこに一つになれば、その愛の根に連結され、そこから芽が出て多くの枝が伸びれば、花が咲き、実を結びます。そこにおいて、主人の希望が花開くのです。芽が出て枝が伸びなければなりません。芽が出ただけでは滅びます。芽が出れば、枝を伸ばさなければなりません。中心となる枝をはじめとして、数多くの枝が出てこなければなりません。数多くの葉が生い茂ってこそ、そこに花が咲きます。それが育つ順序です。そのようにして、本来の完成段階を経ていくのです。

10 愛の主人は神様です。神様が愛の根です。根の中で中心の根は一つです。中心の根に通じる愛はどこにあるのか探さなければなりません。ですから、完全に神様のようにならなければなりません。神様の心と体が絶対的に一つになっているのと同様に、私たちも心と体が絶対的に一つになる息子、娘にならなければなりません。

11 善の神様は、犠牲と愛の神様です。愛は、犠牲の本質を離れてはあり得ません。愛する人のために犠牲になったとしても、その犠牲を犠姓とは考えません。犠牲になれば犠牲になるほど恵みを感じるのです。愛とは、そのような異なる性質をもっています。愛がどれほど大きいかを考えるとき、それを表すのは、必ず犠牲になるその量がどれほど大きいかによって、愛の大小、高低が決定されます。犠牲が大きければ大きいほど、大きな愛を表すのであり、犠牲が小さければ小さいほど、そこでは小さな愛を表すのです。

12 神様は絶対的な愛の存在です。神様は愛の対象である人間を創造し、御自身の愛をその上に注ぐことができるように願いました。そのようにすることによって、神様は自然に、男性と女性からその愛が返ることを期待しました。そうなれば、神様は無限の喜びを感じたはずです。アダムとエバは、まず自分たち同士が愛の中で一つとなってこそ、神様の愛の完全な対象となることができます。したがって、アダムとエバが一組の成熟した人間となって神様に似るようになり、神様の愛を受けてその愛を神様にお返しするためには、成長と成熟の期間が必要でした。

13 神様は、愛のために天地を創造されました。その愛の対象とは誰でしょうか。人間です。これが人間の価値です。神様は愛の王であられるので、父母の愛も、夫婦の愛も、兄弟の愛ももっています。東西南北、前後左右に、その本性をもって真の愛を備えることを願う相対が現れるときは、いつでも向き合える主体なので、神様は愛の大王であられるのです。

  

情、知、意の人格的な神様


14 神様は、人間とどのような関係にあるのでしょうか。神様が人間と関係を結ぶためには、人格的な神様でなければなりません。人格的な神様であるならば、人間と同じでなければなりません。人間に心があり、体があるのと同様に、人間を造られた神様も、人間と共に共同の目的をもつことができるその本体であるならば、人間に似ていなければなりません。二性性相という概念は、そこから出てくるのです。

15 創造主であられる神様が創造するとき、無目的な創造物を造ることはできないというのです。人間が情、知、意をもっている以上、このような人間を造られた神様も、やはり情、知、意の本体であることは間違いありません。

16 神様は、人格的な神様です。人格的な神様なので、情、知、意を備えなければなりません。そうであってこそ私たちと通じることができます。「私」が笑えぱ神様も笑わなければなりません。それでは、思いのままにできる絶対的な神様が涙を流すのでしょうか。神様も涙を流すというのです。

17 キリスト教では、神様は唯一無二のお方であり、絶対的なお方であり、創造主であり、神聖な存在として至高な立場にいらっしゃるので、人間、すなわち被造物と関係をもつことができないと考えています。被造物は卑しいものであり、創造主は絶対的で神聖な方であるとみなしていますが、愛の概念を中心として考えてみるとき、神様と被造物が愛の関係を結ぶためには人格的な内容が同じでなければならず、心情的内容が同じでなければなりません。すなわち、人格を備えた人と性稟が同じでなければならないというのです。ですから、人間は神様に似ているのです。それで、私たちは、「神様は私たちの父であられる。私たちは神様の子女だ」と言うのです。これは人間が神様に似ているということです。何を通して似たのでしょうか。血統を通して似たのです。血統を通して関係が結ばれたというのは、愛によって関係が結ばれたという意味です。

18 神様は、情、知、意を合わせた内容を備えた人格的な神様です。そのような人格的な神様が最高に願うものが愛なので、その愛の対象のために人間始祖を造りました。キリスト教の神学は、創造主と被造物について、創造主は神聖な方であり、被造物は卑しいものだとしています。神様が理想的な愛の相対者を求めようとする相対理想が絶対に必要だと考えるとき、それはあり得ないというのです。神様が神聖であられるからには、その神聖な方が相対理想を通して求めようとする愛の対象者も神聖だというのです。人間の特権的権威は、ここから成立します。

19 哲学の最後の終着点は神様を発見することです。その神様は、どのような神様でしょうか。絶対的な神様、不変の神様、唯一の神様です。神様を発見するとき、その神様は人間に必要な人格的な神様でなければなりません。人間と関係を結ぶためには、人間が考える内外のすべてを備え、意志を備え、理想を備えた人格的な神様でなければならないのです。情緒的な領域や、意的な領域や、知識的な領域や、あらゆる領域で、人間と通じることができ、完全に関係を結ぶことができる神様でなければ、いくら神様がいるとしても、人間とは完全な関係をつくることができません。このように考えるとき、哲学は、人格的な神様でなければならないという表題に基づいては、神様をあがめ、尊んでこなかったのです。

20 神様が必要とするものが愛ならば、神様は神様に似たものを愛されます。ですから、神様が好み、愛を分かち合える、相対的なものを必要とするのです。人間がそのような相対ならば、人間を中心として見るとき、神様は人格的な神様でなければなりません。それとともに、そのあらゆる要素が100パーセント和合しなければなりません。心と体のすべてが和合する神様でなければなりません。ですから、情、知、意をもった神様でなければならないのです。

21 神様を中心として見てみると、神様は人格をもった神様です。神様は人間の主体なので、人間と完全に通じる人格者です。そのようなお方ならば、その方が考える人倫道徳があるはずです。人間はこれこれこのように生きなければならない、という法則があるはずです。人間に人倫があり、人情があるのと同様に、神様においても天倫があり、天情がなければなりません。神様は主体者としての愛をもたなければならず、そのような法度をもたなければなりません。また人間は、対象者として愛をもたなければならず、その法度をもたなければなりません。人倫と人情があるのに、天倫と天情はないというならば、これは論理に合いません。

22 「元亨利貞(ゲンコウリテイ)は天道之常であり、仁義礼智は人性之綱である」という言葉があります。「仁義礼智」を重要視したのです。「元亨利貞」は、自然の変わりなく循環する春夏秋冬の宇宙軌道についての説明です。しかし、人格的な神様が分かりませんでした。自然世界の陰陽の道理は解きましたが、愛や血統や完成ということが分かりませんでした。神様は東西南北の均衡をとった主体と対象、性相と形状の中和的存在だということが分からなかったというのです。

23 この天地を運行する神様は、人格的な神様です。人格的な神様は、人間を中心とする理想的家庭を中心として父母にならなければならず、夫婦にならなければならず、子女を率いて一族を編成し、一族を中心として一国を編成して世界の統一、天の大家族国家を形成しようとするのです。そのようになれば単一民族になります。イエス様が「神のひとり子」と言ったことは驚くべき宣言です。その次には、「新郎新婦」を語りました。男性として達成すべき最高の基準を教えたのです。ヨハネによる福音書第十四章を見ると、骨子をすべで語っています。ですから、のちに新郎新婦を訪ねてきて、家庭編成、氏族編成、国家編成、世界統一天下のために再臨するというのです。

24 愛を論じようとすれば、人格的な神様でなくてはなりません。人格的に人と同じ素性と情緒をもった神様でなければならないのですが、そのような神様を揚示した宗教は、キリスト教しかありません。キリスト教では神様を「父、ヤハウェの神」といいました。「ヤハウェの神」を父と呼んだというのです。神様を「父」と言ったという事実は、偉大な発見です。

  

原理と法度の神様


25 神様は、原理の神様であられます。反対にサタンは、非原理的な立場に立った存在です。ですから、非原理的であるときはサタンが主管し、原理的であるときは神様が主管するのです。神様が天地を創造されたところを見てみると、神様がいて、その次にアダムとエバがいて、その次に天使長がいる、このようになっています。これが原理的です。

26 宗教生活とは何でしょうか。本性の生活です。本性は原理の中心です。神様は原理の主人です。ですから、神様は原理を管理することができます。本性の位置だけを中心として、神様が管理することができるのです。本性の位置は絶対的な神様と一つになっているので、本性も絶対的な位置に立とうとします。心が体に対していつも命令できるのは、絶対的だからです。また、原理的だからです。原理は、あらゆる事物の中心を決めます。原理原則であるほど、それは中心の近くの位置に行くのです。

27 善良な人、良い人は、全体の代表者です。ですから、善を中心として見てみるとき、原則的な原理の位置に近い人が、より善良な人です。その原理の中心が神様なので、原理に従う本心は、自動的に神様と一つになろうと作用します。その自動的に一つになろうとする作用が良心作用です。本来、良心は人間が堕落しなければ、体までも一つにすることができる主人でした。それが原理でしたが、堕落したので非原理的な基盤になりました。それで原理は、闘争しながらでも、非原理に対して常に作用せざるを得ません。これが良心作用です。

28 真は、必ず神様が中心にならなければなりません。ですから、人間を全体的に収拾し、主管できる決定的な基盤をもつようになるとき、真が成立するのです。その基盤をもつことができなければ、真という言葉は成立しないのです。真の起源は、神様であられます。神様がいらっしゃることによって、真が成立します。ですから、神様が離れるようになるとき、真も離れるようになります。そこには真ではない、悪の起源が生まれるのです。真があってこそ真の結果をもたらすことができます。言い換えれば、神様がいらっしゃることによって神様の願いが成就するというのです。ですから、真や善という言葉は、人間を主として立てられたものではなく、神様を主として立てられたという事実を知らなければなりません。

29 真とは何でしょうか。男性にとって、最も真理であり真なるものは女性であり、女性にとって、最も真理であり真なるものは男性です。また、神様にとって真は人であり、人にとって真は神様です。真理がほかの所にあるのではありません。神様が真であり、神様が真理なので、そこから始まったすべてのものは真であり、真理とならざるを得ません。そのような真のものがどのようにして完成するのでしょうか。男性と女性が一つになり、その一つになった男性と女性と神様が一つになるとき、真の愛を中心として完成するのです。真の愛でなければ完成はあり得ません。このように考えるとき、男性と言えば、その男性は真理の完成を代表した存在であり、女牲もやはり真理の完成を代表した存在です。男性と女性が一つになるのは、神様の完成とともに宇宙の完成のためなのです。

30 神様は、真理の主体であり、真理の本体であられるので、あらゆることが可能だといいます。神様が真理ならば、この原則は同じです。神様は、主体的存在であると同時に、主体としてあらゆることに責任をもたれるのです。自分に関係することでも、相対的なことでも、あらゆることの責任は自分が負うという立場にいます。ですから、神様は今まで歴史の中心になってきたのであり、また永遠に中心存在として残るでしよう。

31 神様が、法で天地万物を造っておいて、その法を無視すれば、その神様は、法を主管できる神様になれません。法を立てたのなら、法を守ることによって、法を主管できる神様になります。法を自分のものにすることができる神様になるというのです。法に反対すれば、その法を自分のものにすることはできません。法を守ってこそ、その法が神様めものになります。自分がその法と一つになったがゆえに、その法を中心として判断することができ、法に背いたと制裁することができ、命令することができます。そうでなければ、法をもって判決することもできず、宣告もできません。

32 キリスト教で「父なる神、全知全能の父」と言いますが、全知全能の神様も原則の基盤の上においての全知全能であって、無原則の基盤の上での全知全能ではありません。自分勝手にする神様ではありません。神様御自身が法を立てたならば、永遠のお方が制定した法は永遠です。自分が立てたものだといって、自分勝手にはできません。

33 キリスト教の牧師たちは、「全知全能で創造の能力をもった神様は、今からでも思いどおりにできる」と言うかもしれませんが、とんでもないことです。天地のあらゆる存在物は、法則、大原則に基づいて作用します。いくら神様でも、この法則を破壊して行動することはできません。この国の大統領でも、憲法を中心として制定されたすべての法、立法機関を通して制定された法を重要視しなければなりません。神様は絶対者であり、永遠、不変、唯一の存在なので、その方が定めた法も、絶対、唯一、不変だというのです。そして、この法に一致する相対者が必要です。相対者がいなければなりません。個人を解放できるその法に一致できる、世界を代表できる相対者が必要だというのです。

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