天国を開く門 真の家庭

第四章

人生路程

この章の目次

第一節 人が願う目的

神様には体がありません。それで、すべての万物を神様の体として、アダムを神様の顔として表したのです。それが創造理想です。

神様は本来の霊的な焦点であり、アダムは本来の肉的な焦点です。その二つの焦点が90度をつくるのです。それが神様の創造目的であり、人が願う目的です。アダム、エバは、堕落しなかったなら、あの世に行って父母として永遠に現れることができるのに、堕落したためにそうできないのです。堕落しなかったなら、自分の父母に神様のように侍れば、誰でもみな天国に行くようになるのです。(29-109,1982.7.4)

第二節 生まれた理由

この世界は丸くなっています。太陽も丸く、地球も丸く、星も丸く、口も丸くなっています。どんなものでも、みなそのようになっています。それゆえ、宇宙は丸く丸く回りながら関係を結ぶのです。そして、丸くなっていても、個別的にだけでなく、全体に関連性を結びながら、球形を維持しているのです。

では、なぜ自分が生まれたのでしょうか。この大宇宙と拍子を合わせるために生まれました。それで海の波がざぶんざぶんと音を立てれば、自分の心もざぶんざぶんと音を立て、風が気分良く吹けば、自分の心も気分が良く、花が咲いて香りを放てば、自分の心も香りを放つのです。(104-122,1979.4.22)

愛で生まれ、愛で育って、愛で生きて、愛で死ぬようになるときは、生まれるのも有り難いことであり、生きるのも有り難いことであり、死ぬのも有り難いことです。皆さんは、父母がこの上なく愛する場に同参して生まれたというのです。同参者だということです。

皆さんは、父母の愛から生まれたために、父母の愛が差してある旗だと思わなければなりません。それゆえ、旗が動くのは愛を表示するためなのです。一生の間、愛のために生きるのです。それで、母のためにも愛の旗を振ってあげ、父を見ても愛の旗を振ってあげ、兄弟たちのためにも愛の旗を振ってあげるのです。(103-258,1979.2.25)

第三節 瞬間(一日)と一生の関係

皆さんの生活全体が栄養素を吸収し得る基盤にならなくては、生命体を完成することができません。これが、自然の現象世界で繰り広げられるのです。生命の分岐点は、長い期間にあるのではなく、一瞬間にあるのです。

瞬間を無視する人は、貴いものをもつことができません。偉大な人にもなれず、神様の王座と王冠を受け継ぐこともできません。それゆえ、瞬間を輝かせるために、皆さんは言葉一言、行動一つにも注意すべきであり、考えることも注意すべきです。自分の生活で繰り広げられるすべての内容が、世界と関係する現象として残るという信念で解決できる所でのみ、勝利圏が決定されるのです。

このように、勝利圏が決定されるのは瞬間です。したがって、歴史的な勝利圏、天宙的な勝利圏も瞬間に決定されます。瞬間を輝かせ得る無限の価値を感じて生活する人は、偉大な人になることができるのです。聖人にもなることができ、神様の息子、娘にもなることができるのです。このように、生死の分岐点は瞬間にかかっています。(31-218,1970.5.31)

今日、我々の姿勢が問題です。まず、み旨にかなった国が来ることを願い、そのみ旨が成されることを願うのも必要でしょうが、それより、自体がどのようにすればみ旨と一致していくかということが重要です。

一時間なら一時間を、どのようにすればみ旨と一つになるかということが、み旨の国が成されるのを願うことより重要だということです。それゆえ、まずみ旨を継承し得る個人的な環境、家庭的な環境、氏族的な環境、民族的な環境を成してこそ、み旨の国と関係を結ぶことができるために、神様を中心として、一日の生活圏内で、一時間なら一時間をどのようにみ旨と関係を結ぶかということが、重要な問題とならざるを得ません。

復帰摂理歴史を見れば、アダム家庭からノア家庭、アブラハム家庭、モーセ家庭とイエス家庭まで、4000年の歴史が下ってきていますが、彼らが失敗するようになった動機は、ある一年を中心としたものではありません。アダム家庭において、アダム、エバが堕落したのも、一年や十年、あるいは何十年を計画して失敗したのではありません。その失敗は、一瞬にもたらされ、一瞬の失敗が億千万年続いてきたということを考えるときに、その瞬間、瞬間がどれほど恐ろしく、どれほど怖いのもであるかを知ることができます。

その一瞬の失敗で、歴史時代に修行の道を行った数多くの人たちが、受難の報いを受けなければならず、そのみ旨についていかない数多くの民族が、滅亡の窮地に落ちなければなりませんでした。それが、とてつもない蕩減の祭物の起源になったというのです。このような事実を考えるとき、一時間、カチッ、カチッという瞬間が恐ろしいのです。それゆえ、永遠の天国も一瞬を離れてはあり得ないのです。

永遠の出発は、自分が死んで始まるのではありません。永遠の出発は、自分がみ旨を知った瞬間から続くのです。ここに、一瞬でも時間の関係において飛躍があったり、穴が生じれば、永遠は中断されるのです。

それゆえ、我々が生涯の路程を中心として、信仰の道を行くのに、今年行けなければ来年行き、来年に行けなければ再来年に行き、十代に行けなければ二十代に行き、二十代に行けなければ三十代に行き、三十代に行き、三十代に行けなければ四十代に行き、四十代に行けなければ五十代に行きと、このようにしてはいけません。一生をこのように生きていくなら、その人は、一生の間、み旨と一つになった一日の生活をもってみることができずに死ぬでしょう。もしそのように生きたなら、その人は天国に行けません。

いくら自分が暮らしているその国が良いといっても、一日の勝利基準をもてなければ天国に行くことができず、一年の勝利基準をもてなければ永遠の世界に入ることができないのです。それゆえ、信仰者は永遠を夢見てくことも重要でしょうが、それより重要なことは、現実においてどのように悪を清算して善の旗手になるかということです。このような問題が何よりも重要です。

このような点から見るとき、アダムの瞬間的な失敗が億千万年の恨を残してきたのです。アダム家庭で、カインとアベルが父母の恨を解いて、兄弟の壁を崩して、一つの家庭の起源をつくらなければなりませんでした。このように、復帰摂理の代表として立てられたアベルが死んだのも、瞬間的な事件でした。

百二十年かかって箱舟を造ったノアの苦労の路程でも、神様が「願いを成就する日が来たので、船に乗れ」と言われた命令も、一瞬に下されました。この命令に同調した人は、永遠の神様の祝福を受けることができましたが、そうできなかった人は、永遠の審判圏内に埋葬されたというのです。

アブラハムも同様です。神様が「あなたの子孫をふやして、天の星のように、浜べの砂のようにする。・・・・・・もろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう」(創世記22:17-18)と祝福されましたが、その祝福の命令もカチッ、カチッという一瞬に下されたというのです。アブラハムが供え物をした時間も、何十年間供え物をしたのではなく、たった一日でした。祭物を裂いて供え物をする時間は、一時間未満でしたが、ここで歴史的なすべての生死禍福の起源が組まれてくるのです。

今日、信仰者たちが恐るべきことは、「終わりの日」に訪ねてくる審判ではなく、一日一日の生活圏内で訪ねてくる時間です。それを、どのようにみ旨と一致させるか、どのようにみ旨と交差路を形成していくかという問題です。(37-219,1970.12.27)

第四節 胎中期間と三段階秩序

アダム、エバを神様が造ったのなら、それをどのように造ったのでしょうか。土でこねて造ったなら、どのような土で造ったのでしょうか。どこから出発したのでしょうか。どこから始まったのでしょうか。アダム、エバを、成人になった人として造ったとは考えられません。赤ん坊から造りました。

神様が、母親が赤ん坊を宿して育てるの同様の過程を経て造ったという論理を立てなくては、このすべての三段階の秩序を通じた存在の形成というものは説明する道理がありません。それで、アダム、エバに胎中期間があったというのです。その次に、長成期がありました。これは天理です。その次に完成期がありました。

胎中期間とは、どのような期間だったのでしょうか。無形の神様が、無形の世界から有形の過程を経てくることができる赤ん坊を胎中に宿して育てた期間だったというのです。(225-198,1992.1.20)

第五節 我々の人生の道

我々が暮らしている社会、国家、世界は、自分の意志に符号する環境になっていなので、すべての苦衷が生じており、善悪の分岐点が重なり合っています。百人なら百人、各々自分なりの一日の生活を営むために環境と闘争しており、その環境を押して進んでいます。

それゆえ、朝に計画した一日の仕事に対して誰も自信をもつことができないということを、我々は一日の生活の中でよく体験します。その上に、その環境の範囲が大きければ大きいほど、自信の一日の生活を勝利として結果づけるためには、それに比例した決意と推進力をもたなければなりません。そうでなくては、その日が勝利の日になり得ないのです。そのような一日一日が加わってひと月になり、ひと月ひと月が加わって一年になります。

そのひと月も、我々が計画したとおりに暮らせる環境になっていません。我々がひと月の勝利をもたらすためには、そのひと月の環境に備わった複雑なすべての事情、すべての与件を打破することができる推進力と決意がなければなりません。それがなくては、ひと月の計画を勝利したものとして終えることができないのです。

一年を推し進めるためには、365日を克服することができる闘志力、あるいは推進力を備えなければなりません。そうでなくては、一年を勝利で飾ることはできません。このような一年に十年が加わって、二十年、あるいは三十年が加わった日々を過ごしているのが、我々の人生の道です。

今日、この地に暮らしている人間は、時間性から逃れることができません。人類歴史について見ても同様です。個人、家庭、氏族、民族、国家、世界もそのような時間圏内で動いていっています。

人が生きていく所には、必ず達成すべき目的があります。その目的を中心として、十年、二十年、三十年、七十年、一生の間行くべきなのです。目的が大きければ大きいほど、内的にもっと強く誓わなければなりません。そうでなくては、その目的に到達することはできません。時間という過程を通じて、その目的を凌駕し得る内的な決意を続けない限り、その目的を達成することはできないのです。(31-149,1970.5.24)

第六節 我々が訪ねるべき本郷

皆さんは、霊界の事実を知らないかもしれませんが、私は神様の特別な恵沢を受けて、未知の世界についてよく知っています。その世界の根本を掘り返してみると、原則は簡単でした。その世界は、神様の天地原則である「ために生きる」生活をした人だけが行く所です。そのような内容で形成された世界が、理想天国です。

そこが、我々人間が訪ねるべき本郷です。今日、我々は堕落した人生として、本郷から追放された人間になったために、本郷の地に向かって帰るべき運命にあるのです。しかしそこへは、その人間自体としては帰ることができないために、神様は、人間が帰ることのできる道を歴史過程に設定せざるを得ません。

それで、その民族の文化背景、風習、あるいは伝統が異なることによって、数多くの宗教を立てて収拾していきました。そのように収拾するための訓練場として立てたのが宗教です。ですから宗教は、本郷の地に入ることができる資格者を錬磨させる訓練場です。東西南北、四方の文化背景によって、高い所に前進することができる一つの統一された宗教世界へと率いてきています。

そのような本郷の所へ導くべき宗教なので、宗教は何を教えなければならないのでしょうか。「ため」に生きなさいということを教えざるを得ません。ですから、高次的な宗教であるほど、「ため」に生きるべきだという原則を強調しなければならず、「温柔謙遜であれ」と言うのです。数多くの人を高め、彼らのために生きる立場に立てというのです。「犠牲奉仕せよ」と教えるのです。その理由は、その国(本郷)の法度に合う訓練をしなければならないからです。(78-27,1975.5.6)

第七節 人生最高の行くべき道

人生の行くべき道とはどのようなものでしょうか。神様の愛を占領することが、人生の行くべき道です。神様の愛を占領することが、人生の行くべき最高の終着点です。この道は、男性も女性もみな行かなければなりません。すべての人が行くべきなのです。

人生の行くべき道は、無限であられる愛の神様を探すことです。十回でも百回でも、死の峠を経てでも、死んでも絶えず探していくべき、神様の愛を探すのが人生の最高の行くべき道です。

欲望の果てはどこまででしょうか。神様の愛を占領することです。神様を占領したといっても、その中にもっと貴い愛を占領できなければ、神様は自分の神様ではありません。それゆえ、神様の愛を占領しなければなりません。愛さえ占領すれば、神様はいらっしゃらなくても構わないのです。神様のものが私のものであり、私のものが神様のものになるとき、初めて内外が一つになるのです。そのような国が、上下の等級のない理想の本国になるのです。

そのような場で寝そべれば、天下にあるすべての存在が、良く見えないものがなく、天下にあるすべての存在が、自分のために存在しないものがないと感じられるのです。そのようなものが神様の愛なので、今日人間が行くべき天上世界、すなわち天国は、愛で充満した所なのです。(39-210,1971.1.10)

第八節 出生の基準と生涯の基準

① 誤った出生の基準

今日、世の中の人は、自分自身が高貴な人だと言っている人でも、いくら博士だと言っている人でも、自分の出生が間違ったということを知りません。神様の恩讐であるサタンの愛と、生命と、血筋をもって生まれたということを知らないというのです。重要な問題です。

堕落によって人間は、サタンの愛により生まれたのです。サタンの愛がその父母にまでつながってきました。母の生命、父の生命にサタンの血が流れていて、その血が今日、自分につながってきたというのです。そのような三種類の結実が、正に自分です。

ですから皆さんは、サタンの血統に属しているのです。いわば皆さんの血管を伝わってサタンの血が流れているのです。したがって、サタンは自動的に自分の理想的な結実を得たのであり、神様は、そのような男女を本然の純粋な感性人間に救おうとされるのです。皆さんは、サタンの愛から出発したのです。皆さんは、サタンの血統をもって生まれたのです。

それゆえ、出発が誤ってしまいました。出発が誤ったので、再び帰らなければなりません。帰るには帰るのですが、どこに帰るのでしょうか。原点に帰らなければなりません。偽りの父母によって始まったので、帰って真の父母によって再び始めなければなりません。ですから、どれほど深刻ですか。自分が、神様の愛と、神様の生命と、神様の血筋を再び引き継がなければなりません。

それで、祝福を受けるとき、血統転換式をします。それを、自分の生命よりも信じなければならないのです。統一教会の一つの礼式だといって、ただ一般の宗教儀式として考えてはいけないのです。これは、死んだ立場から回生させる注射と同じです。解毒注射です。

我々の先祖が誤ったのです。これのために、歴史を経ながら多くの人々が犠牲になりました。これを知る私たちは、再びその道を行くことはできません。絶対行けないのです。堕落天地に不倫の愛を残すことによって、歴史を通して受けたその代価が、とてつもなく大きかったのです。個人、家庭、社会、国家、世界に及ぼした影響が、とてつもなく大きかったというのです。(216-109,1991.3.9)

②生涯の基準

ここで、生涯とは、永遠の生涯をいいます。霊界のことだけを言っているのではありません。それは生きている永遠の人生です。「自分自身」という存在は、神様の愛の対象として造られました。絶対的であり主体的な神様の対象が、正に「自分自身」です。神様の愛の相対が「自分自身」だというのです。神様がご自身よりも貴く考えるものが、真の愛の概念です。神様は、絶対的であり、永遠であられる生命の中心です。そして神様の理想は、もっと永遠なものですが、その理想の中心が、正に真の愛です。その愛の相対が「自分自身」なのです。

愛の属性は、主体と対象が一つになることです。それは、国家を一つにします。それゆえ、どんな場でも同参することができ、どこにでもついていくことができます。全財産を、みな相続することができます。神様の心情までも、みな相続するのです。私は悲惨な過程を経てこれを発見することによって、その基盤の上に立つようになりました。こえは何ものとも換えられないし、崇高で高貴なものなのです。驚くべき恩賜です。

それゆえ、神様と同じ立場に立つのです。永遠なる真の愛の場に同席するのです。あの世は、制限された地球星とは次元が違います。制限された所では自由に動くことができませんが、あの世は次元が高い世界であるために、何でもできる所です。時間を飛び越えられるのです。愛を中心として何でも願いさえすれば、いつでもどこでも、みな得ることができるのです。

我々は元来、永生体として造られました。真の愛を中心とした対象体である自分は、永遠の生命体なのです。ですから、霊界に行けば自由なのです。それで、生涯の基準として、第一が善悪の基準です。皆さんは、それを知るべきです。善悪の基準が第一であり、第二が本然の出発点であり、三番目は永生です。(216-25,1991.3.9)

誤植・修正提案

コメント感覚で送れます(匿名OK)。ページURLは自動で添付されます。