男性と女性が愛し合っても、それが神様が立てようとされたみ旨と一致するか、また神様が人間に願われたその基準と一致するかが問題になります。男性と女性が愛し合うとき、神様が考えられるモデル的な愛と一致するかということです。
神様を中心として最初の男性と女性が愛で一つになっていたならば、それは、愛を中心にした宇宙のモデルになっていただろうという結論が出るのです。神様も人間にそのような愛を願われたのです。同様に男性と女性も、お互いに相手に対してそのような愛を願ったのです。そのような真の愛は、宇宙の核にならざるを得ないというのです。メートル法のような一つの標準型になるのです。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-335,1983.6.5)
神様の愛と人間の愛は、本質的に同じです。愛は、一つになろうとする力です。男性と女性がお互いに恋しく思う理由は何でしょうか。男性は女性、女性は男性を通してのみ神様を所有することができるからです。なぜならば、男性と女性が愛で一つになる所に、神様が臨在されるのです。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-336,1982.4.26)
二性性相の母体であることを考えるとき、男性と女性の尊厳なる価値を褒めたたえると同時に、神様の尊い価値をより一層褒めたたえられる人にならなければなりません。(25-277,1969.10.5)
男性の心の中には、神様が愛していらっしゃる女性がいて、彼の相対である女性の心の中にも、神様が愛していらっしゃる男性がいて、共にたたえるようになる場合には、神様もそれを見て喜ばれるのであり、すべての万物も互いに喜ぶようになるのです。彼らが互いに抱擁する喜びの内容が天と地が共に喜ぶ価値ある内容になります。
男性と女性が互いに愛し合い、抱擁するそのこと自体が、宇宙が一体となる場となるのです。神様の理想の中で成される創造本然の姿は、そのようなものなのです。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-334,1969.2.4)
本来、男性は、自分が喜べる女性を迎えなければならず、女性もやはり、自分が喜べる男性を迎えなければなりません。それだけでなく、人間の喜びというその限界を越えて、神様も喜び、すべての万物が喜ぶ出会いでなければなりません。
そのようになれば、この世のすべての存在物がその夫婦のために動員され、彼らに主管を受けることを願うようになります。鳥たちは、彼らのために歌を歌い、蝶は、喜びひらひら舞うようになるのです。神様も喜ばれ、人間も喜び、すべての万物も喜ぶようになるのです。このような立場で人間始祖が歴史を出発させていたならば、それこそ創造本然の理想世界になっていたのです。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-336,1969.2.4)
本来、男性が生まれた本当の意味はどこにあるのでしょうか。それは、女性のために生まれたということを否定できないのです。その反対に、女性は女性のために生まれたのではありません。男性のために生まれたという事実を自らが確信できないところに問題が生じるということを、私たちは知らなければならないのです。
これを天地創造の大主宰であられる神様が、創造の原則として決められたので、その原則に従っていかなければ、善で、真で、幸福で、平和な世界、あるいは愛と理想の世界へ入ることができないのです。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-338,1975.1.16)
女性は男性に出会うために生まれ、男性は女性に会うために生まれたのでしょう? これが最高の真理です。ですから、このような原則に従って祝福圏を探し出さなければなりません。最高の真理圏を離脱することは、最高の悪になるのです。(21-201,1968.2.20)
男性と女性は、生理的に反対です。女性は一方的なのに比べて、男性は三方、四方的です。また、女性は家の中に居ますが、男性はあちらこちら世の中を巡るのです。
このように性格が反対なのです。それでは、このような主体的な男性と相対的な女性が何を中心にして一つになるのでしょうか。愛を中心にして一つになるのです。人間と神様を一つにさせるのも愛なのです。(38-255,1971.1.8)
男性が生まれたのは何のためですか。学問やお金、権力のためではありません。女性のためです。女性のために男性が生まれたということです。男性の骨格が女性よりも大きいのは、自分だけが稼いで生活するためではなく、子女と妻を養うためです。
男性がもっている器官と女性がもっている器官は、それぞれ違います。それを誰のためにもっているのですか。それは、自分のためにもって生まれたのではありません。男性のものは、女性のために生じたので女性のものです。女性のものは、もちろん逆に男性のものです。そのように考えてみましたか。笑い話ではありません。(143-275,1986.3.20)
男性と女性の愛の象徴は何ですか。愛の終着地点はどこですか。男性と女性を一つの体に成さしめる性の器官です。それは、愛を中心として心と体が完全に一つになれる通路となるのです。男性がもっているものは男性のものではなく、女性がもっているものは女性のものではありません。男性は女性のものをもっていて、女性は男性のものをもっています。ですから、生まれたのは、自分のために生まれたのではありません。相手のために生まれたということを、はっきりと知らなければなりません。(132-146,1984.5.31)
なぜ男性と女性が地球上に生まれたのでしょうか。互いに愛し合うために生まれたのです。神様は知恵の大王であられるために、男性と女性の愛の器官をそれぞれ取り替えてくださったのです。男性のものだといっても、その主人は男性ではありません。女性の場合も同じです。主人を差し置いて自分の思いのままに行動した人は、愛に背いたことに対する審判を受けなければならないのです。法の中でも一番恐ろしい法の罰を受けることを知ったならば、自分の妻を差し置いて、どうして他の女性を考えることができますか。反対に妻たちは、夫をほうっておいて、どうして他の男性を考えることができますか。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-340,1986.3.14)
皆さん、愛は絶対に必要なものでしょう? その愛に絶対必要な要素は、人間です。男性と女性です。女性には男性が必要であり、男性には女性が必要なのです。
どれだけ必要なのでしょうか。大韓民国よりも、世界よりも、さらには神様よりも必要なのです。女性がいなければ、百年以内に人類は滅亡するのです。ですから、男性がいくら天下を統一したと威張っても、女性がいなければ百年以内にいなくなるのです。ですから、女性は絶対に必要なのです。(25-180,1969.10.4)
「人」といえば、男性と女性をいいます。一人の男性を考えてみると、女性がいなくてはならないのであり、女性を考えてみても、男性がいなければなりません。その男性は、自らが願って生まれたのではありませんが、その男性にとって必要なその女性も、自分が願って生まれたのではないのです。生まれてみると男性になり、女性になっていたのです。(67-267,1973.7.22)
男性として生まれたとき、女性がいることを知って生まれましたか、知らずに生まれましたか。生まれてみて、男性一人だけだと気分が悪くないですか。また女性として生まれてみて、女性一人だけだと気分が悪いのです。そうではないですか。ですから、女性が生まれるとき、男性がいることを知って生まれましたか、知らずに生まれましたか。自分はたとえ知らずに生まれたとしても、自分を生んでくださった方は知っていたというのです。自分が女性として生まれたのは、自分を必要とする男性がいるためなのです。
同様に、自分が男性としてこのように生まれたのは、自分を必要とする女性がいるから男性として生まれたのです。すべて知った上で、そのように生まれていたのです。(37-19,1970.12.22)
男性にとって絶対に必要な存在は女性です。神様を絶対に必要とする前に、女性という相対的な存在がいなければなりません。人類歴史が不幸だったのは、男性が絶対に必要な存在として女性を正しく認識できなかったからでした。同様に、女性にとって絶対的に必要な存在が男性であることを知らなかったのです。
真の愛の味を感じるためには、理想圏をもたなければなりませんが、そのためには、男性には女性が必要であり、女性には男性が絶対に必要なのです。真の愛のための絶対的な男性と女性は、一生懸命努力することによって結ばれ、絶対的男性と女性が一つに結ばれたとき、神様が二人の中に臨在されるようになることを知らなければなりません。
真の愛で結ばれた夫婦が別れることは、神様も嫌われるので、絶対的男性と女性の愛は永遠なのです。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-340.1986.8.20)
神様は全知全能であられる方ですが、その絶対的な存在も、一人では何の意味もありません。それと同様に、一人の男性がいくら美男で健康な人だとしても、女性がいなくてはその意味がないのです。自分の容姿や健康に酔って生きる男性は、どこにも使い道のない陰険な存在にすぎません。そのように、自己陶酔に陥って生きる男性が世の中に多いということが問題であり、歴史が悲劇として流れてきた原因でもあるのです。自己陶酔に陥ってしまっている世の中を改善し変化させてきたのが、神様の摂理だったということを知らなければなりません。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-341,1986.8.20)
愛は、一人では成されないのです。愛は、どこから出てくるのですか。「私」から出てくるのではなく、相対から来るのです。相対から出てくるので、「私」が頭を低くして相対のために尽くさなければならないのです。「ために生きる」という天理がここから生まれるのです。極めて高貴なものが「私」のところに訪れるのですが、それを受け入れようとすれば、それを貴く思い敬わなければならないという「ために生きる哲学」を実践しなけばならないのです。(143-277,1986.3.30)
人には愛があります。しかし、愛というのは、「私」一人では現れません。男性が一人でいるときには、愛は現れません。男性の前に相対的な女性が現れてこそ、愛が生じてくるのです。このように相対が現れて初めて、愛が生じるのです。(祝福家庭と理想天国Ⅰ342-1982.10.29)
父母の愛が素晴らしく、夫婦の愛が素晴らしいというとき、本当の愛は、自分を中心とした愛ではありません。愛というのは、「私」から始まるのではなく、相対から始まるのです。皆さんは、これを知らなければなりません。夫から、妻から愛が生じるのであり、息子から、兄弟から愛が始まるのです。
愛は、自分自身から始まるのではなく、相対から始まるのです。ですから、愛の主人は誰でしょうか。相対が愛の主人となるのです。(34-33,1970.9.20)
愛はどこから出てくると言いましたか。相対から現れるのです。相対が醜くて憎ければ愛も後退しようとするし、相対がきれいで好ましければ愛の作用もその分早くなります。
相対の言語、美、香り、味など、相対の要素によって愛の作用が決定されるようになるのです。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-343,1982.10.29)
愛の根拠地はどこでしょうか。愛の根拠地は「私」ではありません。「愛」という名詞(言葉)は相対的観念から語るものです。相対がいなければ、いくら美男子であっても、一人では愛することができないのです。
愛の根拠地は「私」ではありません。「愛は私からだ」というのは、サタンが今まで利用してきた言葉です。愛の根拠地は「私」ではありません。愛の根拠地が自分だと考えますが、このような考え方を改めなければ、未来の歴史も発展がありません。
今まで、妻は妻なりに、夫は夫なりに自分が中心だと言って、お互いに「私のために尽くしなさい」というので破綻が生じたのです。愛の根拠地は「私」にあるのではなく相対にあるので、その愛を「私」がもつためには、「私」自身がその愛の前に犠牲にならなければなりません。
愛は必ず犠牲を要求するのです。また、愛は克服を必要とするのです。このような観点から見るときに、今日サタン世界を克服できる内容は、この天地間において、他のところからは見いだすことができません。神様を中心とした愛の原則によってのみ見いだすことができるので、神様は愛をしっかりつかんでいらっしゃるのです。
世の中で「慈悲」という言葉も、愛がなくては出てこないのです。「仁」という言葉も、一人では出てこないのです。「慈悲」や「仁」という言葉も、すべて相対的観念から語られるものです。(46-351,1971.7.18)
男性は天を象徴し、女性は地を象徴します。したがって、二人が一つになって調和しなければなりません。男性と女性は、互いに異なっています。男性の筋肉はごつごつしていて、女性は滑らかです。男性は髭が生えますが、女性は髭が生えません。声も違います。男性と女性を比べてみると、相対的に釣り合っています。調和がとれているのです。人間というのは、肉的構造を見るとき、左右に相対的です。半分と半分をぴったりとくっつけたからです。
皆さん、高いだけ、あるいは低いだけでよいですか。調和を成すのがよいのです。水平線を中心に、下には魚が棲み、上には哺乳類、鳥類などが棲んでいます。女性は、ひと月に一度、生理がきます。月を中心にして潮が満ち引きするように、女性も同じです。呼吸作用と同じです。男性と女性が調和して平衡線にならなければなりません。
なぜ人々が、昇ったり降りたり、回ったりするいろいろな施設のあるディズニーランドを好むかといえば、宇宙がそうだからです。男性だけの和動と、男性と女性の和動とでは、どちらが気持ち良いですか。男性と女性が和動するほうが良いのです。宇宙がそうだからです。宇宙が陰陽の調和を成して和動するので、人間が拍子を合わせなければならないのです。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-344,1984.5.31)
異性間において愛の調和を成せば、一つの円形運動をするようになります。異性が愛で一体となって愛の実を結ぶようになれば、神様が降りてこられ、人間は上っていくようになり、中央で出会うようになります。
神様は、この円形の求心点となって球形運動が行われるのです。求心点から四方のどこにでも通じることができるのです。その求心点は、愛の調和が成される所であり、生命が胎動する場であり、平等主義と共同主義の始発点なのです。そこには愛の力があるからです。ですから、宇宙のすべての作用と包容の力は愛なのです。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-345,1982.4.26)
人間にとって愛は、永遠なるものであり、二つではなく一つです。男性と女性の間が愛で結ばれれば、地上で夫婦が年を取るまで仲良く連れ添わなければならず、死んでも永遠に共に生きていくようになっているのです。体は二つですが、一つとなって回転することによって一体化するのです。
二つの体が一つになれば、神様のように回るようになり、愛の四位基台をつくるようになりますが、それが正に愛の理想世界なのです。そこには、偽りの愛は侵犯することができず、ただ真の愛のみが臨在するようになります。神様を中心にして、男性と女性が祝福を受けて完成した位置に立ったならば、神様はいつでも訪ねてこられるようになります。
愛の四位基台をつくるようになれば、相手側の体を通して心までも愛するようになり、心を愛するようになれば体まで従ってくるようになっているのです。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-346,1984.1.1)
この世で最も神聖なものは何ですか。それは真の愛です。真の愛は、神様から出発します。神様が存在されるなら、それ以外の道はありません。神様が心から願われるのは真の愛の道であり、真の愛の道を通らなくては、神様の前に出ていけないことを知らなければなりません。
神様は、愛を通して、見て、聞いて、食べて、触れてみたいのです。人間も、神様から愛の口づけを受けたなら、内部が爆発するような喜びを感じるはずです。神様の願いはここにあるのであって、ダイヤモンドや宝石を所有してうれしいとおっしゃるのではありません。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-381.1986.8.20)
人間の全身を見れば、人体は五感をもっています。人間は、誰でも五感の認識によって真の愛を感じ、確認するようになっています。目が真の愛に向かっていれば、その目は真の愛に染まって酔うようになっています。
酔った瞳の色は、どれほど美しく光るでしょうか。真の愛に惹かれている人の、ほほえむその唇は、どれほど恍惚としたものか考えてみてください。人間の五感が真の愛に酔って動く姿、神様に向かって動く五感の調和がどれほど美しいだろうかと想像してみてください。
そのような美しさを通した喜びは、神様お一人では体験することができないのです。そのような美しさは、相手がいてこそ体験するようになるので、それが神様が人間を創造された目的でもあるのです。
真の愛に酔った瞳に触れてみたい、唇に口づけをしたい、心の旋律を一度奏でてみたいという美しい男性と女性がいれば、神様はどのようにされるでしょうか。真の愛のエバがいるなら、そのエバの心情世界を一度は旅行したいという思いをもたれるはずです。
美しいエバの心情世界、心情圏がどれほど広く深いかを確認したいという衝動をもたれるはずだというのです。神様は、天地を創造された以上に美しい内容を所有しているアダムとエバの心情世界を旅行したいと思われることでしょう。
神様は、真の愛の人間に対して、宇宙を旅行すること以上に、その心情世界を旅行したいと思われることは確実であり、アダムとエバの真の愛の心情世界を永遠に離れたくないという思いをもたれるでしょう。
神様が人間を造られたのち、人間の真の愛におぼれて愛の迷子になったならば、世の中はどのようになっていたでしょうか。人間の中に神様がお住みになるようになるので、神様と人間が一つになってつくりだした世界は、喜びと美しさが充満した世界だということは確かです。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-382,1986.8.20)
真の愛が完成すれば、感応の神様は、その真の愛にどっぷりつかっても後悔なさらないはずです。真の愛の中ならば、どのようなことが起こっても、ひたすら喜ばれる方が神様であられます。真の愛の世界で人類が生きるとすれば、一生後悔のない幸福な生涯になることでしょう。また世の中に戦争の歴史もないはずであり、不満や不幸のない世界になっていたでしょう。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-383,1986.8.20)
私が幼いときにあった話ですが、ある日、鳥を一つがい捕まえて、二羽のくちばしを口づけさせる遊びをしたことがあります。二羽が口づけするのを見るために、巣を作って餌もあげながら観察したのです。その鳥たちが互いに愛し合って、楽しそうに歌を歌うのを見たいという子供心からそのようにしたのです。
それは、すべての自然の道理をはっきりと知るための、一つの好奇心に満ちた実験のようなものでした。今考えれば、意地悪なことばかり続けていました。
愛は自然な中で成されるということを、その後しばらくしてから悟ることができました。自然な中で、最高に自由な雰囲気の中で成されるものが真実の愛なのです。私が愛について正しく知っているのは、長年の実験を経た結果なのです。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-353,1986.1.3)
愛の価値を失った人を大学で教育して、何が変わるというのでしょうか。彼らは、みんな知識を蓄えるだけで、個人主義者になり、物質主義の信仰者をつくり出すだけなのです。テンジャンチゲ(注:肉、野菜などをみそとともに煮た汁物)は、土鍋に入れてこそ本来の味が出るのと同様に、人格修養も、愛を基にしてこそ所期の目的を達成することができるのです。
世界文明は、美術的調和を整えた基盤の上で花を咲かせなければなりません。焼いたカルビは皿に盛らなければならず、テンジャンクッ(注:韓国風みそ汁)は土鍋に入れてこそ、本来の味を味わうことができるのと同じです。風味の良いテンジャンクッの味は、一度味わえばどこへ行っても忘れることができないのです。
同じように、人間も風味の良い味に似たそのような愛に一度味をしめれば、変わることがないのです。甘いだけのインスタント食品にはすぐに飽きを感じるように、愛もインスタント食品のようにどこででも簡単に求めることができるならば、それは、真の愛だとはいえません。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-354,1986.1.3)
最近は、インスタント食品のように愛する人たちが、至る所に広がっていますが、それが問題です。香水風呂に入ったからといって、愛が深まることはありません。田舎に住みながら冷水につかって体を洗い、そして寝床に入る夫婦の愛のほうが、もっと純粋であり、長くたてば深まるものです。
夫婦がキスをするために歯をみがくとすれば、それは自然な愛ではなく、歯みがき粉のにおいのために、その人だけがもっている固有の体臭を味わうことができないのです。歯をみがいてキスをする人を見ていると、その人は愛を味わうためにキスをするのか、それとも歯みがき粉のにおいを味わうためにするのか分からないほどです。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-354,1986.1.3)
皆さんが好きな、愛する人と出会えれば、抱擁したいし口づけもしたいのは、自然な異性間の本能なのです。「私」が環境と接しているのは、この宇宙を好きになるためです。それは、相対を探し出すための人間の自然な行為です。
すべての人間が相対理念のもとで、男性は女性に対し、女性は男性に対するとき、そこには愛の秩序に違反する行為や事件はないのです。真の愛の秩序は、相対的な理念を基にして男性と女性が出会うときに生まれるのです。(祝福家庭と理想天国Ⅰ-355,1981.1.13)
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