成約人への道
四 天国は家庭単位で行く所
家庭は国の中にあり、国は世界、世界は宇宙の中にあるので、家庭や世界を捨てたとしても、神様のために愛したとすれば、すべてを愛したという位置に立つのです。ですから統一教会の皆さんは、世界のために生き、神様のために生きるべきなのです。皆さんが先生のことを好きだというくらい、世界を愛し、人類を愛したとすれば、天国へ行くことができるのです。
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父なる神様というように、神様は親です。本来堕落しなかったならば、アダムとエバが父母であると同時に、国の王となるのです。天国の王になるのです。宇宙の王になるのです。ですから愛する孝子は天国へ行くことができるというのです。愛する忠臣と孝子は、天国へ行くことができるということです。夫を神様のように、主のように、王のように思って仕え、真の愛をもって生きる人は、天国へ行くことができるのです。父母を愛し、その国と世界を愛することなくしては天国へ行くことができないという論理が、そこで成り立つのです。
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人間の堕落とは何でしょうか。堕落した子女とは何でしょうか。彼らは、神様が自分の父であると切に感じることができません。彼らは心の中に神様という概念をもっていないのです。皆さんは次のようなことを体験し、悟らなければなりません。
まずは「私は新生して新しい生命を得て、真の父母によって新たな生活を営んでいる神様の息子、娘である」という事実を実感しなければなりません。
第二には「私は神様の国に住む資格をもった市民である」ということを実感しなければなりません。
第三には、皆さんが国と世界を見るときに、神様の愛を感じなければならず、「神様がこの世界を遺産として下さったので、神様の子女としてこの世を所有する権利がある」と思わなければなりません。
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私一人では天国に行くことはできません。そのような意味で、一人の男性は一人の女性と一つにならなければなりません。そのような過程を経るためには、一人は必ずカインと一つにならなければなりません。相対的環境を必要としているのです。父母を迎える前に、もしくは夫婦を迎える前に、兄弟の間で一つの相対的基準をもっていなければ(天国へ)行くことができないというのが、統一思想なのです。
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皆さんが知らなければならないことは、地上で天国の愛を体験できなかったならば、天上に行くことができないということです。カイン的な人を本当に愛したことがありますか。天国へ行くにはサタン世界における父母の愛、夫婦の愛以上の愛で愛さなければなりません。もし、堕落世界で父母が子女のために命まで捧げたとすれば、私たちはそれを超越した愛で愛さなければならないのです。
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皆さんの心の中に、皆さんの生活の中に神様の愛があふれて、ぽたぽたと滴るようでなければなりません。愛がぽたぽたと滴れば、希望がありますが、愛が乾いているとするならば、皆さんとその家庭は滅びるしかないということを知らなければなりません。愛の乾いた人は、愛の国の国籍から除名されるという事実を知らなければなりません。愛の伝統の世界から除外されるしかない運命になる、ということをはっきりと知らなければなりません。
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皆さんは、夫婦の愛と父母の愛を尊重できてこそ、天国へ行くことのできる資格者となるのです。自分たち夫婦が愛し合う以上に、両親を愛し、自分の両親を愛する以上に、おばあさん、おじいさんを愛さなければなりません。それが天国の核心であり、理想的モットーとなるのです。
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天国に行く人とは、どのような人でしょうか。神様よりも自分の息子をより愛する人は、天国に行くことはできないのであり、神様よりも妻や自分自身を愛するようでは天国に行くことができないのです。
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「私は劉孝元です。地上では先生の一番弟子として長い間協会長を務め、み言を受けて『原理講論』を執筆し、世界的経典とならしめたので、霊界では最も高い地位を占めることと思っていました。ところが、先生が霊界の三位基台を編成なさったのですが、李起錫、劉孝元、朴鍾九の順でした。私は失望して不平を言いました。先生は、『ここは愛の世界であり、知性を競うのではなく、愛を競うところである。李起錫のほうが愛をより多く所有していたのだ。だから李起錫が三位基台の一番上の兄になったのだ』と説明してくださったので理解できました。私はいまだ天国へ行くことができずにいます。今行く途中です。これまでは知性的な面に傾いてやってきましたが、地上にいる妻と共に、懸命に心情的に働こうと思います。現在天国には興進様がいらっしゃいます。興進様も祝福を受ける前は天国にお入りになることができなかったのですが、四位基台を立てて天国へ行かれました。霊界は愛の世界です」
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天国には、独り者は決して行くことができません。独身者にとって天国は絶望の山河です。寂寞の山河には希望がありますが、絶望の山河というのは希望すらない状態ではないですか。(注:韓国語では「絶望」と「寂寞」の発音が似ている)
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皆さんは、天国とはどのような所だと思いますか。天国は一言でいうと、完成した人が行って暮らす所だということができます。天国は真なる愛をもった完成した人の行く所だとすれば、その真の愛をもった人というのは、どのような人なのでしょうか。人間には男性と女性がいます。神様の理想的愛が地上でどのようにして完成するかということを考えると、男性と女性を離れては完成されないという結論に至ります。完成した愛の主体性をもった男性と女性でなければ、神様の愛は完成されないのです。
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天国復帰は誰がするのでしょうか。み旨のためならば十字架の道も感謝することができ、絶対夫婦、絶対信仰、絶対実践、絶対心情を主張することのできる夫婦から初めて天国の門が開かれるのです。
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天命を受けて、この怨讐の世界において手本となるような家庭になってほしいというのがお父様の願いであることを思えば、天国に行くためには、家庭を通さずしては行けないということを知らなければなりません。
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天国へは一人では行くことができません。祝福は、天国の門をさっと越えるということなのです。天国は、家庭的に行くところです。三代の因縁をもって行くところです。ヤコブの七十人の家族も、三代が合わさったものです。そのようにしてエジプトに行ったのです。
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本来、創造原則による天国とは、家庭を中心として行くところです。父母が行って、子供が行って、自分の家門全体が行ってこそ幸福なのであり、父母は地獄へ行き、子供だけが天国へ行ったとするならば、どうして天国だということができるでしょうか。ですから、統一教会が今後天国へ行くことのできる道を築くにおいて、家庭的な基準を立てなければなりません。そうしなければ天国へ行くことはできません。家庭を中心としてサタンの讒訴し得る基準を脱しなければなりません。歴史的な讒訴基準、時代的な讒訴基準から脱しなければなりません。
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一人では天国に行けません。一人では絶対に天国へ行くことはできません。アダムとエバが二人で堕落して地獄の門を開いたので、一人では天国へ行くことはできないのです。ですからイエス様も天国に行くことができず、楽園にいるのです。イエス様も新婦を迎えて初めて天国へ行くようになっているのです。今日のキリスト教信徒は、このようなことを知りもせずに、みな「イエス様についていく」と言います。そうなれば、彼らは行って、再び戻ってこなければなりません。家庭を築き、家庭的な復帰の基準を立てなければ、天国へ行くことはできないのです。ですから、統一教会で祝福をしてあげるのです。
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女性が先に罪を犯したので、女性神である聖霊が来て母の実体として現れ、罪を洗い、世の中を清めたならば、イエス様は、新郎として新しい種をもって再臨しなければなりません。再び充電して、新たな天地の真の父母の血族として、神様を中心とした新しい世界をつくろうというのが神様の目的です。そのような世界ができてこそ、神様の計画がみ意のままに成されたということができるのです。目的もなしに六千年の間摂理してこられた神様だとすれば、そのような神様は信じる必要すらないのです。
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天国とはどのような所でしょうか。男女が共に家庭を築いていくところです。ところが、イエス様はこの地に来られて新婦を探し求められず、息子、娘をもてずに亡くなられたので、今まで楽園で二千年間祈祷しながら、聖霊に役事させていらっしゃるのです。
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本来神様は、夫は天国に、妻は地獄に行くというように創造されたのではありません。創造当時の理想の主人公たち、すなわち父と母と息子、娘が氏族を成し、民族を成し、国を成そうとしたのでした。そうなるべきではないでしょうか。ところが、人間が堕落したので地獄が生じたのです。
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統一教会でいう天国とは、一人で行く天国ではなく、家族が共に行く天国です。神様の創造理想から考えると、男性と女性が分かれていくところが天国でしょうか。そうではありません。二人で行く所が天国です。父親が行けば母親も行き、両親が行けば子供も一緒に行く所が天国なのです。天国へはお父さん、お母さんが一緒に行かなければなりません。お父さんは天国に行くのに、お母さんは地獄に行くというのでは、天国だと言えるでしょうか。このような立場から、私たち統一教会は歴史的な宗教です。
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天国というのは、人間が堕落せずに、この地上で神様の愛の懐で成婚し、神様の喜ぶ息子、娘、神様の喜ぶ孫を得て神様の愛を受け、その家庭がみな一緒に行く所です。子供が行けなくても、自分さえ行ければ良いというのは天国でしょうか。
ところで、楽園というのは、いくら仲の良い夫婦や親子でも、別れて行くのです。家庭とは何ら関係がありません。そのような所が天国でしょうか。両親と共に家族全員が行って、神様を中心として授け受けすることのできる、そのような世界が天国です。息子は地獄で死にそうだとあがいているのに、親が天国でいい暮らしをすることができるでしょうか。そのような所を天国だと言えるでしょうか。
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天国へは、個人的には絶対に行くことができません。先生が知っているところでは、天国は、これまでキリスト教徒が信じているような妄想的な所ではありません。本来天国は、家庭単位で行くようになっています。家庭が行くようになっているのです。家庭が行くのです。お父さん、お母さん、息子、娘が一緒に行って神様を中心として、共に生きることのできる所が理想的な世界なのです。ところが、父親は地獄へ行き、母親は天国へ行き、姉は地獄へ行き、弟は天国へ行くというのでは、自分が天国へ行ったとしてもうれしいでしょうか。天国へは、家庭単位で行くのです。家庭が行くのです。
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天国へ行く秘訣とは何でしょうか。天国へは個人で行くのではありません。家庭的に行かなければなりません。家庭的に行かなければならないというだけではなく、一族を率いていかなければなりません。この地で神様の前に多くの一族がいるということは恵まれたことです。家庭にたくさんの息子、娘がいて富裕であれば、恵まれた家庭だといいます。そのように恵まれて天国へ行こうとするならば、個人が一人で行くのではなく、家庭的に行かなければなりません。