一、真の子女とは
6、親を何遍も泣かす者
①
「先生は神より以上、犠牲になりたい。十年、百年の蕩減の道が残った場合には、一生涯に恒っても蕩減する。しかし死んではいけない。我は不具者になってもいいから、生命を残して蕩減の道を歩んでいく。それが子供の考えだ。それが報いる道だということがわかる。そう考えるよ。親もそういう子供を迎えた場合には、骨肉が分離し、にじみ出るような涙を流すんだよ。だから、神様も流しているに違いない。・・・・・・先生を泣かせ、神様を泣かせる場合には、泣いたより以上の悲惨な悲哀な立場に立つ子供に対して、親は永遠に別れようとしても別れることはできない、とういう結論になっちゃうんだよ。
親孝行は、親を何遍も泣かすことだよ。そうだろう。なんでそんなにも、こういうような親に対して忠誠を尽くすかと思った時に、感謝の思いで親は泣くんだよ。親を泣かせる、それ以上の孝行者はいない。競を泣かせて初めて、日本的世界的孝行者として立つことができるんだよ。」(一九七一・八・二十一)
②
「このようなことを行なうならば、神が最も愛する復帰された神の子になることができる。神はこの子を誇りとし、すべてのものを与えたいと思われるであろう。
神が栄誉とあらゆる良いものを与えて下さろうとする時、天の父にこう言うことができる。『お父様、あなたはすべての幸福と祝福を私に下さるとおっしゃいました。これらはみな私のものですね』。神はこう答えるであろう。『もちろんみな、お前のものだよ』。
こうして初めて、何でも好きなことができる立場に立ち得る。そして自分に与えられた祝福をみな、他の人々にわかちたいと思って、『私の受けたものは全部、兄弟のものです』と言えば、神は一層喜ばれるに違いない。
もし、このようにできるならば、最もふさわしい神の孝行息子、孝行娘になっているはずである。
このような位置に立てば、天の父の心情を引きつけてやまないであろう。事実の神の愛を所有することができ、これがすべての中心点になるのである。このような神の息子が自分の持てるものをすべて人に与えつくして無一文になっている時、神はこう言われるであろう。『私はお前のものである。お前には私がある』。
この方法に従って自分の道を歩もうとすれば、神自ら、降りてこられて共にいまして下さるであろう。どこに行っても神と出会うことができるのである。どんなに低い位置にいたとしても神は人間に焦点を合わせて、どこにでも共にあって下さるにちがいない。」