真の父母経

第三篇 第二章

真のお父様の南下と釜山路程

この章の目次

第一節 真のお父様の南下路程

弟子と共に歩んだ南下路程

真のお父様は、一九四八年二月二十二日から一九五〇年十月十四日まで、二年七カ月と二十一日間、平壌内務署と平壌刑務所、興南監獄において厳しい拷問と過酷な強制労役の中、死の淵を越えて蕩減路程を勝利された。

興南監獄を出獄されたのち、既に大勢の人々が避難していた平壌で、昔の食口の収拾に専念され、四十日後に南下された。

真のお父様は、十二月四日の夜、平壌のキリスト教を代表する新婦格の金元弼(キムウォンビル)と共に、獄中の弟子を代表する朴正華(パクチョンファ)を自転車に乗せ、大同江(テドンガン)の下流から、船便で川を渡られた。黄海道(ファンヘド)の碧城郡(ピョクソングン)に着き、青龍(チョンニョン)半島の南端から龍媒島(ヨンメド)に入ったが、再び戻って凍りついた臨津江(イムヂンガン)を渡り、南下された。

平壌から二人の弟子と共に南下する苦難の路程は、堕落した人類を導き、創造本然の理想世界に率いていく、天の摂理の一面を象徴的に見せてくれるものであった。

1 私は、興南の監獄から出て平壌にまで来ても、両親が故郷にいるのは知っていましたが、故郷に行くことができませんでした。いくらでも行ってくることができたにもかかわらず、行けなかったのです。その時、故郷に行けなかったのは、監獄に入る前に私に従っていた食口たちの安否が気遣われ、彼らに会って収拾し、すべて通告してから故郷に帰らなければならないという考えからでした。それが天に従う正道です。

そうしているうちに、突然戦況が変わり、故郷には行けなくなりました。このような情勢になることは予測していました。それで、故郷に立ち寄らず、その食口たちを急いで捜し回ったのです。ですから、三十八度線を越える時に、「私がこのように故郷をあとにして発つのは、天のためであり、私が再び帰ってくる時は、私の手で以北(現在の北朝鮮)を解放し、私の故郷の地を訪ねて、天の勝利を称賛いたします」と祈りました。その祈りを中心として闘ってきたのです。

2 興南の監獄から出て、平壌に行って何をしたのでしょうか。平壌で事件に巻き込まれて監獄に入る前まで私に従っていた食口たちに、会わなければなりませんでした。それで、一人一人にみな会いました。最後の三人のうち二人は、年を取って亡くなっていました。もう一人は、所在が分かり、人を送って会おうとしましたが、結局会うことができず、避難の途に就きました。一九五〇年十二月四日に平壌を出発しました。

人民軍が(平壌に)入城して粛清をする過程の中で、私たちは出発したのです。その時、私は、足をけがした朴正華という人を自転車に乗せてきました。人民軍の銃声を聞きながら下ってきたのです。国道は人民軍が占領していたので、避難民たちはそのほかの小道や、道のない野原や山を越えて三十八度線まで南下してきました。ですから、人民軍とはわずか三里内外しか離れていなこを通ってきたのです。

朴正華が避難の途中で、「このままでは三人とも死んでしまいます。ですから、私が抜けましょう」と言いました。行く道で足手まといになることを知って自決しようとしたところを、私に叱られ、最後まで付いてきたのです。龍媒島に出る時は、朴正華を背負っていきました。朴正華を背負っていったのですが、潮水が入ってくれば、みな溺れて死ぬかもしれません。あの困難な泥道を歩いたことが忘れられません。

3 三十八度線を中心として、国軍警備隊は南側にいて、人民軍は北側にいました。三十八度線で警備隊が見張っているので、南側に行く道がすべて塞がってしまいました。それで、一般人は一人も三十八度線を越えることができませんでした。ですから、青丹(チョンダン)という所から船に乗って出なければなりません。三十八度線に問題が生じたことを、私が誰よりも先に知りました。

国軍警備隊が道の要所にいるので、三十八度線に問題があれば、彼らがまず先に移動するのです。一日前に国軍警備隊が移動することを知ったので、すぐに三十八度線をあとにしました。歩いて埠頭に行ってみると、埠頭から龍媒島までが一・五里です。(ぬかるみの中、人を背負って)二時間以内に一・五里をどのようにして行くのでしょうか。水が引き始めるのを見て、一・五里の道を歩かなければならないのですが、水が引く時から渡り始めて、水が戻ってくるよりも速く歩いてこそ、一・五里を渡ることができるのですが、危険千万です。天を信じて、あらん限りの力を尽くして走った時の思いが忘れられません。その一・五里の泥道を走つたのです。ですから、体は、頭から足の先まで泥だらけになりながら、潮水が埠頭を越える前に、やっとのことで渡り終えました。

4 私は、以南(現在の大韓民国)の地に下る頃、北朝鮮がどのようになるかということを見通していました。ですから、三十八度線をいかに越えるかという問題をめぐって、相当に苦心しました。

もしその時、私の言うとおりにしていなければ、出てくることができなかったのです。休みなく先を急がせました。警備隊員たちが三十八度線からすべて後退していたので、事態は非常に不利でした。そのような時は、素早く先に動かなければならないのです。

このようにして、龍媒島を通って韓国に向かう船に、一旦は乗ろうとしたのですが、その時、警備隊員がすべて後退していた状況だったので、一般人たちは船に乗ることができませんでした。ですから、龍媒島に行ったのに、私たちの乗れる船がないので、再び戻ってきて、三十八度線を越えて下ってきたのです。

5 私たちが臨津江の近くに到着した日、夜の間に臨津江の川辺まで行かなければならないという、そのような何かを感じました。そういう時、お父様は、非常作戦、非常措置を取るのです。アンテナを最高に伸ばして調べるのです。普通の時には、そのようなことはしません。

ですから、他の人たちは夕方になったといって、他の日と同じようにみな村に入って場所を取るのですが、私たちだけは午前零時を過ぎて一時に、臨津江に隣接する家に到着しました、その家の人は、みな韓国に行って、いなかったので、そこに入りました。ところが、私たちが到着した日まで、臨津江が凍らなかったのです。「今夜この川が凍らなければならないのだが」と心配したのですが、神様が保護してくださり、ちょうどその日の晩に凍りました、それで、明け方早くに越えていきました。

私たちが一番早く来たと思ったのですが、その村に先に来ていた人たちがたくさんいました。そして、国連軍の撤収に伴って、私たちの一行を最後に、道を塞いでしまったのです。そのあとに来た人たちは、みな後ろに引き返しました。このような時に一分でもうろうろしていれば、どうなっていたでしょうか。人の運命は時間が問題だというのです。躊躇していればすべて台無しにしてしまうのです。

そのようなことが私たちの人生にもたくさん起こるのですから、天道をかき分けていく道で、何事も起こらないことがあり得るだろうかというのです。ですから、どれほど深刻でしょうか。

6 興南の監獄から出たあとは、何一つ持っていない旅人でした。平壌から韓国まで下ってくる約二カ月間は、乞食をしました。ある時は、言葉で表現できないほど食べたいと思うこともありました。それでも、「神様、きょう食べる物がないので、何か下さい」という祈りは絶対にしませんでした。かえって神様を慰労したのです。

ある時は、「あすは間違いなく、ある美しい婦人が道端で何かをくれるはずだ」と考えると、翌日に間違いなく、考えたとおりに真っ白い服を着た婦人が道端で待っていて、「昨晩、夢で万端の準備を整えて待っていなさいと言われ、このようにお待ちしておりました。どうぞ召し上がってください」と言うのです。そのような出来事がたくさんありました。誰も否定できない生きた実績をもっているのです。

そのように助けてくれた村には、時が来れば、恩を返そうと考えています。神様もそうです。お父様と神様が互いに抱き締め合って泣いたその悲しみは、地上の人々は誰も知りません。その深い深い神様に向かう心情は、推し量ることができません。それを考えると、すべての細胞が締めつけられるようです。

三十八度線を越える時の決意

真のお父様は、三十八度線を越える時、「必ず、この手で自由世界を糾合して共産党を消化し、北朝鮮を解放して、南北を統一する」という、悲壮な誓いの祈りを捧げられた。真のお父様は、その日の祈りと誓いを忘れることなく、一生涯、闘ってこられた。臨津江を渡ったあと、紆余曲折の道のりを、ソウルまで八十数キロ歩くのに、一週間かかった。一九五〇年十二月二十一日、臨津江から出発して汶山(ムンサン)駅に到着し、十二月二十七日に漢江を渡り、平壌を発ってから二十四日目に、学生時代に過ごされたソウルの黒石洞に到着されたのである。

7 私は、三十八度線を越える時に祈った言葉を忘れません。「お父様、私は以南の地にまいります。私は以北に来て、み旨を成し遂げることができず、敗者の悲しみを抱いたまま、獄中の身の上を免れることができずに、追い立てられる群れの歩みに従って以南へとまいります。以南に行けば、また反対を受けるでしょう。十年の道、二十年の道、立ちはだかる道がどんなに遠いとしても私は行きます。行って、またこの道を訪ねてこなければならないことを知っておりますので、三十八度線より北に私が行けなければ、私の思想を植えつけて子孫に行かせるようにし、彼らが行けないのなら、私に従う弟子たちにでも行かせるようにいたします」という決心をして下ってきた人です。十年の歳月を一心不乱に闘ってきたのです。私が天のみ前に誓って進み出た歩みは、皆さんとは違います。

8 私が三十八度線を越えながら心で誓ったことは、誰一人として知らないでしょう。また、以北の興南監獄で三年近い歳月を送り、三十八度線の南側を中心として天のみ前に祈ったことを、誰も知らないのです。「悲しい環境ですが、きょう、三十八度線を越えます」と言って涙ながらに祈ったことを、一緒に来た人も知りません。私のために精誠を尽くした父と母を故郷に残し、「この親不孝者が再び帰ってくる日まで待っていてほしい。死なずに待っていてほしい」と言って出発したことを、私は忘れずにいます。また、私が共産党から拷問を受けながら、「私がこの目の黒いうちに、お前の一族を屈服させ、お前の口で神様の偉大さを称賛するその日を迎えてみせる。私は死なずにその日を迎えるのだ」と誓って決意した事実を、皆さんは知らないでしょう。それは今もなお、骨身にしみる心情として私に残っているのです。

9 お父様は一人、以北の地から追われる身で韓国を目指して下ってきました。それがついきのうのことのようです。その期間に夢のような出来事がたくさん起こりました。

興南の監獄から出て、韓国に下ってきたのは三十一歳の時で、まだまだ若い頃でした。その時、監獄から出ながら決心したことが、再出発でした。いくら困難なことが北朝鮮の地であったとしても、そこでのすべての困難を忘れ、その困難だった事実が、私の行く道に損害をもたらすのではなく、第二の出発をする上で一つの刺激剤になるだろうと考えました。

私は、いかなる道を通ってでも、み旨の道を完成すべき責任を感じていたので、監獄から出てきた三十代の若者として、新たに出発するという決意が強かったのです。(平壌から)三十八度線を越え、慶州(キョンヂュ)を経て釜山まで来るのに、二カ月ぐらいかかりました。その時、釜山に来てみると、どこにも身を隠すことができないほど避難民たちでいっぱいでした。それで、仕方なく土窟を掘って避難生活をせざるを得なかったのです。

第二節 釜山での新しい出発

釜山に至る路程と避難生活

真のお父様は、ソウルの黒石洞に到着されたあと、明水台の新イエス教会時代に親しかった信仰の同志、郭魯弼(クァクノビル)の家を訪ねたが、既に釜山に避難していた。その家に荷物を置き、数日間、滞在された。一九五〇年十二月三十日には、昔の下宿先である李奇鳳(イギボン)の家族を、人づてに聞いて探し求めた末に見つけ出し、夜遅くまで語り合った。三十一日、郭魯弼の家に帰ってきたところを、突然押しかけた警官の職務質問に遭い、黒石洞の派出所に連行された。そして、真のお父様は、金元弼と同じく、防術軍の徴集という名目で、昌慶宮(チャンギョングン)で身体検査を受けられた。短く切った髪と、「北朝鮮から下ってきた」という言葉に、検査員は、逃亡兵かスパイかもしれないとの心配から、丙種(免除)判定を下した。このようにして不合格証を受け、金元弼と共に黒石洞の郭魯弼の家に再び戻って、一九五一年、新年の初日を迎えられた。二日後、身体検査の不合格証を持って派出所に行き、避難民証の発給を受け、一・四後退(中共軍参戦による、韓国軍の後退)により一月三日、ソウル全域に避難退去令が下りると、真のお父様一行も、釜山を目的地として再び避難していかれた。

1 私が以北から以南に来る時、丸刈りの頭のままで来ました。昔は軍隊に行くと、頭を刈りました。私も以南に来て、若者なので軍隊に行かなければなりませんでした。昌慶宮で若い軍人たちの身体検査をしていたのです。

私は監獄から出てきたばかりでしたが、体つきはやせていませんでした。それで、兵役調査をしたのですが、私に対して、「どこから来たのか」と聞くのです。当時はスパイと軍人が入り混じって歩いており、見分けるのが難しい時でした。髪の毛を刈っていたのでスパイではないかと思ったのです。もしスパイを軍隊に送ったら、自分の首が飛ぶので、調査後に免除の「丙種」という落第のはんこを押してくれました。それで、それを持ち歩いたのですが、どこに行っても万事に通じました。証明書はそれしかなかったのです。

2 皆さんは、お父様が苦労したことを知っていますが、その苦労をただしたのではありません。人民軍が叫びながら追いかけてくる中、避難地の釜山に到着しました。避難民の中では、私たちが一番遅く到着したはずです。洛東江(ナクトンガン)戦線の戦闘が終わったあと、釜山に到着したのです。

避難してくる中で、ソ連軍が迫ってくる危険、中共軍が迫ってくる危険、北朝鮮軍が追ってくる危険を経てきました。ですから、避難生活をたっぷりと味わったのです。その中で忘れることのできない出来事がどれほど多いか分かりません。それは、お父様の一生において通り過ぎる歴史の一つの歩みではなく、歴史時代の蕩減という恨の穴を埋めるための歩みでした。私が、後ろを眺めながら、「これから行くべき道は楽に行くことはできない」と、決意して行く人であることを忘れてはいけません。避難生活のとき、家がないので芝生の上や砂場で、空を布団と思って眠り、星を見つめながら、三千里半島に恨の涙をたくさん流したのです。

3 平壌から歩いて釜山まで来るのに、五十五日かかりました。御飯ももらって食べたりしながら来たのですが、おもしろいことに、天は本当によく御存じだというのです。おなかがすいて疲れて、「あさってぐらいに鶏が手に入るだろう」と考えると、そのようになります。それが分かるというのです。

あるおばさんが現れて、「いらっしゃいましたか」と挨拶するのです。それで「どなたですか。私は知りませんが」と言うと、「昨夜、私の何代前のおじいさんが現れて、きょう貴いお客様が来られるから、鶏も料理し、餅も作っておくようにと言うので、準備しておきました」と言います。「その方がどのような顔立ちなのか御存じなのですか」と尋ねると、「見かけはみすぼらしい行人(こうじん)として来るとのことでしたが、見るとあなたの顔とそっくりです」と言うのです。

皆さんは、そのようなことを信じられますか。そのようにして、餅も鶏肉も御馳走になったのですが、そのようなことが多くありました。

4 北朝鮮で私に従っていた食口は、積極的な人たちでした。夜も昼も、私がどこに行って誰に会おうと、付いて回りながら大騒ぎした人たちだったのです。しかし、監獄に入って出てくると、みないなくなってしまいました。私が忘れることのできない食口たちまでも、みないなくなりました。私が懇切な手紙を書いて、人を遣わして伝達した人がいたのですが、その人のところに行ってみると、その人も既に変わっていました。「先生が神様の息子なら、どうして監獄に行くようなことがあるのか。先生の教えは、すべてよこしまなものだ」と言って、手紙も何も受け取りもせずに、「異端の人物が現れたな。また異端の行いをしようと訪ねてきたのか」と言ったというのです。それで、その手紙を持って、避難してきました。慶尚北道(キョンサンプクト)の永川(ヨンチョン)に行くと線路があり、その横にできた道路に橋があります。その時、釜山に下るために、永川のその橋を通ったのですが、持ってきたその手紙を、もう一度読んでから、破って投げ捨ててしまいました。その時が一九五一年一月十八日です。

そのような忘れられない事情がたくさんあります。あれほど熱心な信仰をもっていた人も、信じられない背信者となって離れていくことを、私は既に知っていました。監獄にいた時、その人の霊が来て挨拶をすると、泣きながら「私は離れることになりました」と、自分の事情を話すので、「そんなことがあるのか」と思っていたのですが、案の定、その時に離れていったのです。

避難民生活とその苦難

真のお父様は、一九五一年一月二十七日、釜山の草梁(チョリャン)訳に到着され、金元弼と共に、待合室でバター缶を使って御飯を作り、飢えをしのいで最初の夜を過ごされた。当時、釜山は避難民でごった返していた。翌朝から、ソウルの黒石洞の家に住所だけを残して、避難してきていた郭魯弼を探し、三日間過ごされた。そして、一月三十一日、偶然にも日本留学時代の友人である嚴德紋(オムドンムン)に出会い、嚴德紋の強い勧めを断り切れず、すぐに富民洞(プミンドン)にある一間の彼の借り部屋に移り、彼の妻と二人の子女ら、四人家族と共に、窮屈な生活を始められた。一週間、み言を聞いた嚴德紋は、ひざまずき、「あなたは私の友ではなく、私の先生であり、偉大な聖人であり、哲人です」と告白した。真のお父様と金元弼は、四月初旬頃、草梁駅の裏にある、労働者の宿所として使われていた狭いバラックに入って十日ほど過ごし、道で偶然出会った、興南の獄中の弟子である金元德(キムウォンドク)の槐亭洞(クェヂョンドン)の家にも半月ほど滞在され、解放前に電気会社の職員社宅として使われたポムネッコルの入り口の家で、五月から八月まで、四カ月ほど下宿された。また、第三埠頭で荷物を運ぶ仕事をしながら半月ほど過ごされた。ある時は、日当たりの良い森の中や、防空壕でも眠られるなど、涙ぐましい避難民生活をされた。そして、もらった御飯を召し上がり、時には見知らぬ家の軒下に身を寄せられた。

5 釜山に着くと人で超満員でした。部屋はどこに行っても空いていませんでした。ごみ箱や空箱のような所にも二、三人の人がいました。韓国の全域から避難してきた人々がすべて釜山に集まったのです。まるで、煮え返る釜のようでした。足の踏み場もないほどでした。町はいつも超満員で、まっすぐに立っていても、押されていくような日常生活だったのです。

釜山に来たのに、着る物もなく、食べ物もないので、一銭でも稼がなければなりませんでした。そのような環境で様々な仕事をしながら、新しい教会運動を始めていきました。また、家がありませんでした。その時は二月なので寒い時期です。夜に仕事をして、夜中の十時から十二時頃に帰ってくるので寒かったのです。ですから、オーバーを膝までかぶせて、海老のように身をすくめて眠ったことが今でも印象に残っています。その時かぶったオーバーを、記念として残しておくようにと食口に預けたにもかかわらず、ぼろぼろのオーバーだといって捨ててしまいました。今それが残っていて、皆さんが目にすれば、見ただけで涙をぽろぽろと流すほど記念になるオーバーでした。そのようなことをしながら、一歩一歩、歩んできて今日の基盤を築いたのです。

6 嚴德紋氏は学生時代の友人ですが、その友人に、水晶洞(スヂョンドン)の十字路にある朝興銀行の前で、雨の降る日の昼の十二時頃に出会ったのです。出会うなり我知らず叫んでしまい、道行く人たちがみな振り返りました。嚴德紋氏は、私に会うとは思いもしなかったそうです。私が北朝鮮で死んだものと思っていたのです。嚴德紋氏は私に会うなり、「自分の家に行こう」と言いました。今でもそのことを感謝しています。大勢の人が絶えず避難してきたために、家という家の軒下にまで座り、夜を明かすしかなかったのです。ですから、午後一時、二時の最も暖かい時間にオーバーをかぶって、近くの山に登り、岩の間に座って寝ていた状況で、嚴德紋氏が家に連れていってもてなしてくれたことは、今も忘れることができません。

7 お父様の興南監獄以降、釜山までの路程は、四カ月という長い期間でしたが、皆さんは、お父様の服がその間にどれほど汚れたか、想像もできないでしょう。服があまりにも汚いので、裏返しに着ていました。また、寝られるような場所もありませんでした。そのように薄手の服を着て下ってきた時が十二月だったので、とても寒かったのです。釜山に着いてからは、寒さを避けるために、夜に基地の埠頭に行って働きました。仕事をするほうが、寝るよりも楽だったのです。そして、昼は山に登って、林の中で寝場所を決めて眠ったり、一人の時間をもったりしました。

8 お父様は、釜山に避難してきて、波止場のほとりでも寝て、山の中でも寝ました。おもしろいというのです。軍人の外套を敷いて寝る時は、二月の初めなので寒かったのです。夜は寒いので、出掛けてお金を稼ぎ、昼は十時から二時の間に寝ます。その時は日当たりの良い所に行き、じっと座って、雉のようにしっかりと寝場所を定めて寝れば、それで良いのです。寝て起きて服を着ると、金(キム)サッカ(李朝末期の放浪詩人)の詩が思い浮かびます。そうしてお金ができ、お粥を食べたくなったら波止場に出掛けるのです。波止場のほとりのおばさんたちが、冷めるのではないかと布切れで小豆粥を包み、自分のかわいい一人息子を抱いて愛するように、大事に手渡してくれます。このお粥を買って食べるのです。その時は、その人たちが友達でした。

凡一洞(ボミルドン)の土塀の小屋で新しい出発

真のお父様は、一九五一年八月、釜山市東区(トング)凡一(ポミル)四洞(ドン)一五一三番地、ポムネッコルの一番奥、水晶山(スヂョンサン)の中腹に、小さな土塀の家を造られた。石と土だけを積み重ねて造ったところ、二回も崩れ落ち、三回目にようやく完成した。中は二坪に満たない部屋が一つだけだった。別途に台所はなく、外の片側に釜を一つ置いたかまどがあった。その横に足を伸ばし、腰をかがめてようやく出入りできる、高さ一メートルの出入り口があった。腰を仲ばせないほど低い屋根は、戦闘糧食の段ボール箱でつなげてあり、晴れた日は空が見え、天気の悪い日は雨が降り注いだ。雨が降ると、部屋の片隅に小さな泉が湧き、下からは溝を流れる水の音が聞こえた。山のほうの煙突を通って入ってきた水は、部屋の下を通り、かまどへと流れ出てきた。床には何重にもむしろを敷き、その上にかますを三重、四重に広げて敷いたあと、さらに幅と長さのある敷布団を広げて敷いた。真のお父様は、一九五一年の後半期には、金元弼の仕事の世話をしながら内的準備に力を注がれた。朝早く出勤し、夜遅く帰ってきた金元弼は、副業で、アメリカ軍の軍人がもつ写真を見て肖像画を描く仕事をした。一枚四ドルの絵を一日に十枚前後、多いときは三十枚まで描いた。真のお父様は、『原理原本』を執筆しながら、夜には釜山市内や海を眺めて摂理の未来を思い浮かべられ、早朝には山に登って涙の祈りをされた。

9 私は、避難時代である三十二歳の時、釜山の草梁に初めて来たのですが、まだ若かった頃です。今よりもっとハンサムでした。私は、釜山鎮区(ヂング)第四埠頭に働きに通いました。その埠頭で小豆粥を売っていたおばさんたち、蒸し餅を売っていたおばさんたちのことが思い出されます。また、草梁には労務者収容所があったのですが、そこの小さな部屋で『原理原本』を書いたことが思い出されます。とても小さな部屋だったので、横になってもまっすぐには寝ることができず、対角線に寝なければなりません。対角線に寝ても足が壁についてしまうのです。

10 釜山で避難民生活をする時、私の周囲には人々がたくさん集まってきました。私が興味深い話をしてあげると、彼らは食べ物を持ってきて、分け合って食べました。しかし、ずっとそのように暮らしてばかりはいられないので、小屋を一つ準備したのですが、犬小屋よりは少し良い程度でした。

泥土と岩石を材料にして造った、とてもみすぼらしい住みかでした。家を建てられるような土地は一坪もありませんでした。それで、山の斜面に小屋を建てたのです。建ててみると、床の真ん中を湧き水が流れていきました。屋根は古い箱で覆いました。部屋はとても小さなものでした。また、ぼろぼろの服を四カ月間、そのまま着ていました。そのような凄惨な状況でしたが、霊的に選ばれた人たちが、私を訪ねてきたのです。

11 お父様は、この道を出発しながら、釜山の凡一洞につばめの巣のような家を建てることになりました。家を建てるにはシャベルが必要です。シャベルを借りようとしても、誰も貸してくれませんでした。避難民たちはお金になりさえすれば何でも売ってしまうので、そのような人だと思って、貸してくれないのです。家を建てなければならないのに、シャベルもなく、お金もなければ、どうするのでしょうか。仕方なく、火掻きでしました。つるはしもないので、火掻きで地面をならしたのです。また、煉瓦を作る道具を借りようとしましたが、それも貸してくれませんでした。それで、アメリカ軍の部隊に行って戦闘糧食の段ボール箱をもらい、角を広げて貼りつけ、その上にこねた土を塗って家を建てました。とてもたくさんの土を使いました。そのようにして、つばめの巣のような家を建てたのです。

12 以北にいる頃から会っていた食口たちが、韓国に下ってきました。昔のお父様を忘れることができず、訪ねてくるのです。聖日になると、釜山の凡一洞の小さな家で礼拝を捧げました。家は小さいのですが、その家がどれほど有名か分かりません。土地がないので、山の斜面を削って建てました。そのようにしても誰も何も言わないので、山の斜面を横に掘って建てたのです。雨が降るとその部屋から水が湧き出ました。どれほど味わい深いでしょうか。二十一世紀の最高の文化住宅です。ですから、仕方ないではないですか。地面をおよそ半尺ぐらい掘り、石を拾ってきて水門を造るのです。水門を造って、その上にオンドルを置きました。そのオンドルの下には湧き水が流れるのです。そのような有名な家です。

13 一九五三年に休戦協定が結ばれましたが、(それ以前の)「六・二五動乱」が続いている時のことです。当時、アメリカから入ってくる軍需物資の船団が、列をつくって釜山港に入ってきました。毎朝起きると、お父様はそれを数えるのです。普通は五十隻で、ある時は頁隻を超えることもありました。それを見れば、戦況がどうなるかを知ることができます。軍需物資を補給する船の数が増えているのを見ると、「ああ、この戦争は熾烈になるだろう」と考え、船が少なくなれば、「ああ、もう戦争が小康状態になるのだろう」と考えました。その当時、お父様に従っていた食口たちが何人かいました。霊界を通じて縁をもち、出会った食口たちが、凡一洞に一人で住んでいたお父様を急ぎ足で訪ねてきたのが、ついきのうのことのようです。

14 お父様は昔、避難時代に釜山でたくさんの涙を流していた時がありました。世の中にそのような家はありません。岩の上に家を建てておいたのです。入ってみると、小さなテーブルが一つ、それから絵を描くキャンバスがありました。「六・二五動乱」に参戦したあと、故郷に帰るアメリカ軍部隊の人たちに肖像画を描いてあげたキャンバスが一つあったのです。テーブルとキャンバスの二つしかありません。悲惨なことです。お父様は、左右四カ所にポケットが付いたアメリカ軍の作業服を赤褐色に染めて着ていました。また、真っ青に染めた韓国服のズボンを、裾のひもも結ばずにはいていました。靴はゴム靴を履いていました。それも同じ大きさのものではなく、片方は大きく、もう片方は小さいものを引っ掛けて歩きました。そうして、岩の上に独り寂しく座り、祈りながら涙を流したのですが、その岩が涙岩です。

15 私たちが釜山で避難生活をした時、金元弼が絵を描いて売りました。私は枠を作り、紙に線まで引いてあげました。顔に鼻だけ描けば、あとは私がすべて塗りました。共に夜を明かしながら描いたのです。夜の十二時から始めて、一晩で肖像画を三十枚まで描きました。それをすべて描くためには、線を先に引かなければなりません。三十枚ずつ持ってきたら、まず線を引き、その線に沿ってかたどって描くのです。ですから、その線をすべて私が引いてあげるのです。

一枚につき四ドルでした。アメリカ軍の人たちが帰国するとき、自分の妻にお土産にする物があるでしょうか。自分の妻の肖像画が最も良い贈り物であることを知って、その仕事をしたのです。今なら三十ドルや四十ドルどころか、三百ドルくらいはもらえるでしょう。ですから、一晩で二十枚以上描くのですが、それを一人では描けないので、私が手伝ってあげました。夜を共に明かしたのです。

16 私は、金元弼を連れてポムネッコルで暮らしていた時が良かったと思います。その時が良い時だったというのです。幼稚園や小学校の時代が最も良いのです。なぜなら、父母が自分を迎えに来てくれたり、待っていてくれたり、自分のために尽くしてくれる時の(心の)ゆとりが、どの時期よりも多いからです。ですからその時期が、ほかのどの時期よりも良いのです。

その頃は、互いにために生き合う心に満ちていました。そのようなことを感じたので、あの頃が良かったというのです。お父様とみ旨を中心として、心情的な絆が、ほかのどの時期よりも深かったので、あの時が良かったと思うのです。

17 釜山の凡一洞の聖地は、共同墓地の近所にあり、石だらけの谷間のほかには何もありませんでした。そのような所に、お父様はみすぼらしくて粗末な仮小屋を建てました。しかし、その中で暮らしながら、この地上のいかなる宮中で栄光を享受しながら暮らす人よりも、神様の息子として孝行ができる一番の道を歩んでいました。また、誰も及び得ない深い内心の基準に到達することが願いでした。その当時は、外面的に見ると、何もありませんでした。一文の価値もない人のようでした。ひげはぼうぼうと生え、顔は黒ずむままに黒ずんでおり、服装は韓国服と洋服を合わせて着ていたのです。

18 皆さんは、釜山のポムネッコルの聖地で、お父様が岩を抱きかかえて悲痛に思った心情を知らなければなりません。「六・二五動乱」の時、貨物船で埋め尽くされた釜山港、武器を運ぶための船で埋め尽くされた釜山港を眺めながら、どのような祈りをしたのか、皆さんは分からないでしょう。その時のその祈りが、すべて成就しました。統一教会は、名実共に孤児の立場、世の中の誰も歓迎せずに見捨てられた立場から立ち上がりました。通過しなかったところがありません。忠孝の道理を果たし得る道があるのなら、その道を訪ねていこうと身もだえしながら準備した男が、皆さんが従い、信じ、侍る、お父様なのです。

19 世界の有名な牧師たちが今(一九八六年)、韓国を訪問していますが、何のために韓国に来るのでしょうか。私が座っていた釜山の聖地を訪ねてくるのです。その時は、それこそ避難民として哀れな姿をしていた時でした。そこに座り、「あの大海を渡り、私が心で待ち望んだ心情の絆の種を、あの国に行って蒔いておかなければならない」と考えました。氷山のようなこの世界に、父母がどこにいて、妻子がどこにいて、子女がどこにいるのかというのです。その時が「六・二五動乱」の時です。釜山の海を眺めながら、そのような祈りをしました。神様は、「見てみなさい。この先、世界はこのようになる」と言いながら、大きな商船、天の商船に私を乗せ、数多くの群衆が歓呼するのを見せて、慰労してくださいました。

第三節 『原理原本』の執筆

神様から公証を受けた原理

真のお父様は、一九五一年五月十一日、『原理原本』の執筆に入られ、翌年の五月十日に完了された。食口がそばで忙しく鉛筆を削ってさしあげなければならないほど、執筆に没頭された。『原理原本』を書かれる間、涙を流しながら聖歌を歌われ、また、涙を流しながら祈られた。時には、裏山にある小さな平地まで登り、歌を歌い、瞑想を続けながら心血を注いで書いていかれたのである。「記録第一巻」から「記録第五巻」に分けて記述された『原理原本』は、各巻ごとに四カ所の穴を開けて束ねられ、合計六百九十ページ以上に達した。本文の内容は、主に鉛筆でハングルと漢字の横書き草書体で書かれ、校正と校閲作業は、黒と青、茶色のインクを使い、ペンで行われた。薄く下線を引くときには赤い色鉛筆が使われた。特に、中間の十ページほどの分量(二百九十一-三百ページ)の本文は、青色のインクペンで書かれている。『原理原本』は自筆で作成され、現存する最初の原理記録であるという点で、その意味は甚大である。初期には、この『原理原本』を弟子たちが筆写し、順番に読んでいた。

1 原理のみ言を語るときに、私は聖書を参考にしません。聖書にない内容です。神様から直接伝授されたものです。新約聖書は、イエス様が直接書いたものではありません。使徒たちが編集した内容が多いのです。

真は真のものとして、そのままにしておきなさいというのです。自分の神学観や自分の理論をもってきて、こぶのようにつけ加えてはいけません。神様の公証を受けたのか、自分の理論を加えなさいという許可を受けたのか、というのです。私は許可を受けていないものを発表したことはありません。私が行った上で発表してきました。間違いありません。ですから、滅びないのです。

2 凡一洞にいる時は、粗末な服を着て、頭はぼさぼさのまま、男性二人で土窟のような家で過ごしました。他の人からは、哀れに見えたはずです。金元弼が「お金を稼いでくる」と言うので、私は「そうしなさい」と言いました。その当時は、『原理原本』を書いていましたが、同志一人がどれほど貴く、従ってくる一人の人がどれほど貴かったか分かりません。

皆さんも、このように、人に対する味を知らなければなりません。ですから、金元弼が会社に出掛けるときは、必ず一キロ以上付いていったものですが、そのようにして初めて気が楽になりました。また、夕方になって帰ってくる頃になると、必ず迎えに出たのですが、その会う時の気持ちは、言葉では言い表せないものでした。そのように帰ってきて夜眠るのですが、布団がなくて、おくるみ一枚だけをかぶって寝たものです。その時は、そのように暮らしました。

3 お父様は、埠頭が見下ろせる凡一洞で「原理」を書きました。『原理原本』を起草したのです。詩のように書きました。私が骨子を抜き出して書いたので、説明しなければ、他の人々はよく分かりません。そのように、『原理原本』を起草しておいて、一九五二年五月に『原理原本』の執筆を終えました。『原理原本』以降、『原理解説』、そして、『原理講論』が発刊されました。

4 お父様は、聖書だけを見て原理を探し出したのではありません。「創世記が人間の堕落を記録した章ならば、ヨハネの黙示録は復帰の章である。これが生命の木としてこのようになったのなら、生命の木として復帰されるのだ。それが合わなければ聖書はうそである」と思いました。種を植えて生えたものは、種に返るのです。これが合わなければなりません。種から出た芽は上に伸びるべきであって、横に伸びてはいけません。それが合わなければならないのです。

今日の原理の教えは、推理的な方法を通して摂理史観に一致しているのです。名実共に神様が生きている限り、その神様が愛を中心として摂理のみ旨を展開していく限り、世界は必ずその文化圏を中心として統一時代を迎えなければなりません。そして、天地創造がどのように成し遂げられ、なぜ神様が愛を好むのかなどを明らかにしたのです。

5 神様は、すべての悲しむ人たちを慰労してくださいます。また、神様は、生死禍福を主管される主人でいらっしゃいます。ですから、あらゆることをその方に委ねようとするのです。人のために心配できる心をもったところには、神様の相対的な形態が備わっているので、「いらっしゃらないでください」と言っても、いらっしゃるのです。善なるところには、「いらっしゃらないでください」と言っても、神様がいらっしゃるというのです。ですから、『原理原本』を見れば、対象や対象の価値という内容までも、すべて異なる形で解釈しています。与え合えば、必ず相対性が備わるので、与え合うほど対象の基台ができるようになります。それで、神様や善、真を中心として動けば、それは残るようになっているのです。

6 皆さんが「原理」の本を持ち歩くときは、この上なく大切に扱わなければなりません。この本が一冊しかないと考えてみてください。お父様がこの本の原稿を草案するとき、その原稿の管理をどれほど深刻にしたか考えてみなさいというのです。もしそれがなくなり、私が死んでしまったらどうなるでしょうか。世界が左右されるのです。

この「原理」の本一冊で一族の興亡が決まり、一国の興亡が決まり、この世界の興亡が決まり、天地の興亡が決まり、永遠の生命が左右されることを、考えてみたことがあるのかというのです。そのようなことを考えてもみなかった人たちが、心情世界の様々な人たちとつながろうとすれば、どれほど遠いかを考えてみてください。

7 お父様は原理を中心として、原理とともに今まで歩んできました。苦労で築かれた基盤です。原理の本には、血と汗と涙が入り混じっています。ページごとの内容に入り混じっているお父様の血の涙が、皆さんに訴えかけていることを知らなければなりません。お父様が若い青春を犠牲にしてここに投入したのです。血と涙が皆さんに訴えかけているというのです。そこに引っ掛かってはいけません。無価値な原理ではありません。神様が粛然として頭を下げるのです。仰ぎ見る原理です。

真理の真髄、『原理原本』

真のお父様は『原理原本』について、真理の真髄を圧縮して記録したものであることに加え、本然の心情を通して愛の力を爆発させることができる歴史性を備えたみ言であるため、論文的表現よりは、詩的表現を用いて記述せざるを得なかったと強調された。様々な宗教の経典を隅々まで探究していた劉孝元(ユヒョウォン)協会長は、『原理原本』に初めて接し、驚くべき真理の世界に心酔して、一ページを筆写するのに何日もかかるほど、涙を流し続けたと告白した。

8 お父様は『原理原本』を書く時、詩的に書いたので、一枚の中に数十枚分の解説が必要な内容を編成しておきました。一般の人たちはよく理解できません。

劉孝元が医学を勉強したというので、「その内容について一度説明してみなさい」と言うと、「できません」と答えるのです。そこでお父様が一ページの内容を解説してあげると、その場で敬拝をしました。「いくら説明しようとしても、私の頭では及ばない内容があることが(今までは)分かりませんでした」と言ったのです。

9 釜山に避難してきて、一九五一年五月十一日、『原理原本』を書き始めました。『原理原本』は詩的に書きました。それは、誰が見ても分からないのです。私が劉孝元に説明してあげたので、頭がすっきりしたのです。そうして、「なんと、このような内容だったとは!」と言いながら、その原本を見てページごとに涙を流すので、涙でぬれた原稿になりました。キリスト教の根本、共産主義の根本が、すべて砕けていくというのです。

10 劉孝元協会長は、私の話を聞く前に、『原理原本』を読んで、「自分の体が永遠に天のみ前に捧げられる祭物になったとしても感謝します」と書面で誓ったのです。私が孤独な時に、その人に出会いました。このようなことが神様の役事です。その時のお父様の心情は深刻でした。深刻なので、その場で神様が役事したのです。神様があらゆる役事をしてくれるのです。そのようにして、今まで歩んできました。

11 お父様は、劉孝元協会長に、原理の全幅的な体系を備えることができるように教えてあげました。『原理原本』は詩的に書いたものです。かなり飛躍し、圧縮して書きました。劉協会長がその本を見て痛哭したのです。『原理原本』の内容に感動した、恐らく歴史的にも、統一教会の原理に接した代表的な人だと見るのです。ですから、劉協会長は、私に会いもしないうちに、「弟子になる」と言ったのです。手紙を書いて、「私はこのみ言をもって永遠に先生に仕える弟子になります」と誓った人です。それで、私はソウルから釜山の影島(ヨンド)に下っていき、二十一日間修練会をしました。修練会をするとき、劉協会長は自分が初めてお父様に会うので、いかにして会うのかという問題について心配していたのです。そして、お父様に会うやいなや、自分の過去の深刻だった事情をすべて話したのですが、私が今でも忘れられない内容がたくさんあります。その時の影島での修練会ですべての人が霊界に通じ、霊的体験をしました。その修練会が終わってから世の中に出てくるとき、修練生たちは、「このような世界があったのか」と思うほどの変化を感じたのです。

第四節 釜山と大邱の開拓伝道

釜山開拓時代

真のお父様は、釜山に到着された一九五一年一月からほぼ半年間、転々と居所を移しながら、避難民生活をされ、同年八月、ポムネッコルに土塀の小屋を自ら建てて住まわれ、新しい食口を迎える準備をされた。神様が失ってしまった子女を探し求めてこられた、それ以上の慕わしさをもって、山に登って涙の祈りを捧げるなど、多くの精誠を注がれたのである。その結果、神様の啓示に従い、食口たちが一人、二人と集まり始めた。『原理原本』の執筆を終えた日の一九五二年五月十日、高麗(コリョ)神学校の二年生だった姜賢實(カンヒョンシル)伝道師が導かれ、その年の十二月一日、早くからキリスト教団で牧会をしていた李耀翰(イヨハン)牧師が加わるなど、天は準備された聖徒たちを送ってくださった。真のお父様は、一九五三年一月、食口たちが増え、一部で反対が激しくなると、ポムネッコルの土塀の小屋から水晶洞(スヂョンドン)へと引っ越し、水晶洞でも何回か居所を移された。

1 お父様は、「六・二五動乱」の時に釜山に避難し、そこで三年の期間を過ごすとき、大勢の人たちが声を張り上げる中、かつて会おうと約束していた人の呼ぶ声が聞こえてくるように感じましたが、会う方法がありませんでした。その慕わしさは、胸が締めつけられるほどのものでした。それは、神様が人間を捜し求めてきた思慕の心情を、地上にいる息子に体恤させる良い時期でした。自分の父母が慕わしくて涙を流すのではなく、父母のために夜を明かすのではありません。

天が進むための足場であるカインとアベルを中心とした復帰の原則を、どのように解決するのでしょうか。それは、自分の血族でもできません。外的な血族を中心として、勝利の基盤の上に氏族基盤を立て、民族的基盤へと行かなければならないのが復帰の路程です。

2 お父様は、釜山の凡一洞(ポミルドン)で、神様と縁を結ぶ食口たちを慕っていた時に、あらゆる精誠を尽くして待ちました。霊的に見ると、彼らが来ることは来るのですが、実際には近くに来ていないのです。ですから、時が来るのを待つしかありませんでした。凡一洞では、食口といえるのは、お父様まで合わせて三人しかいなかったのです。その頃、私たちは霊的に交流しながら、山河を友として暮していました。

3 お父様が凡一洞にいた頃、本当に人が慕わしく、一人で座ってしきりに独り言を言う時が多かったのです。白い紙一枚隔てた向こう側から、大衆の話し声がすべて聞こえます。聞こえることは聞こえるのですが、顔は見えません。その白い紙一枚さえ取り除いてしまえば、大衆が来ることができるのです。そのように捜し求めている人の声が聞こえるというのです。ですから、人を慕わしく思うのです。朝起きてから夕方まで、時間が過ぎるのも忘れて人を慕わしく思います。

人を慕わしく思う心は、この上なく貴いものです。その度数が満ちれば、人が訪ねてくるのです。その心をもって、その人と向き合うようになれば、人は霊的な存在なので、その場から立ち上がろうとしても、足が固まって立ち上がれません。不思議なことが起きるのです。その環境に完全に包まれるようになります。統一教会の出発には、そのような役事があったことを、皆さんは知らなければなりません。皆さんは、人を慕わしく思わなければなりません。自分の妻子が問題ではないのです。み旨のために、人を慕わしく思わなければなりません。

4 「父母の心情で、汗は地のために、涙は人類のために、血は天のために」というみ言を、いたずらに主張したのではありません。お父様がそのように生きました。

その標語のとおりに、出ていって伝道してみなさいというのです。お父様の言うことが本当かうそか、テストしてみなさいというのです。食口がいなければ、戸を開けたまま、食口を慕わしく思うようになると、人が訪ねてくる音がすべて聞こえます。そのように慕わしく思うのです。そうすれば、必ず道は開かれるようになっています。姜賢實が初めてポムネッコルに私を訪ねてきた時も、お父様は失った我が子を慕わしく思う気持ちで過ごしていました。

5 ポムネッコルの土塀の家の時代に、「凡一洞の頂にサタンの魁首が現れたので、キリスト教徒たちは行ってはいけない」といううわさが立ちました。私たちだけで礼拝を捧げても、既にその近所の教会がみな知って、「行ってはいけない」とこそこそ言いふらすのです。しかし、絶対に失望はしませんでした。私は、山に登って祈りながら、霊的にサタンの胸ぐらをつかんでたくさん闘いました。「この闘いでお前が勝たない限り、お前が私に屈服する日が来るだろう」と言いながら闘ったのです。そのようにして出発しました。

6 釜山のポムネッコル時代、凡一洞に教会が一つありました。その教会の人たちが私たちを見て、人も良く、聖書もたくさん知っていて、教会にも通ったという話を聞いたので、伝道しようとしたのです。お父様は、彼らの話を聞いてあげました。彼らが話をする時、よく聞いてあげたのです。それで、私が間違いなく自分たちの教会の信徒になると思って喜び、最初の日はそのまま帰りました。その翌日に、間違いなくまた来ます。その時は、私が「一つ尋ねてみましょう」と言いながら話をするのです。そのように尋ねれば、彼らは答えられません。彼らに、「イエス様とはそんなに無知なのですか。聖書はいい加減にできているようですね」と、このように一言、言っておくのです。私が優れているからこのように言うのではありません。その人が聖書をよく知らないので、そのような話をしたのですが、誰も聖書が間違っているとは言えないようになっています。聖書を知らない人がどうやって伝道をするのですか。お父様は、「私は教会には通っていませんが、私が知っている聖書の話を一度聞いてみませんか」と言いながら、話をそれとなく始めていきます。最初は、その人が聞いて消化不良を起こすような話は絶対にしません。様子を窺って、神経質な人ならば、私は神経の鈍い人のように話をします。そのように数時間だけ話をすると、私の言うことを聞くようになっているのです。

7 釜山避難時代、凡一洞に家を建て、三人が集まって伝道したり、祈ったりしました。当時、彼らに話をするとき、お父様は、三人を前にして話をするとは考えませんでした。三人ではなく、三千万人であると考えたのです。「今この人たちに話をしているが、現在の数億のキリスト教徒と、全人類に対して話をしているのだ」と考えました。三人を前にしても、汗を流しながら、町内に響き渡るように話をしたのです。

聖日にさえなれば、近所で「あの人、また大騒ぎしている!」と話すほどでした。膝を突き合わせて、こそこそ耳打ちをしても、すべて聞こえるはずなのに、およそ百五十メートル離れた井戸のそばにいるおばさんにまで聞こえるように話をするのです。そのようにするので、その近所の教会に通っていたおばさんが、通りすがりに聞くようになりました。それで聖日のたびに来て、外で聞くおばさんがいました。未婚の男性たちが住む部屋には入りづらかったのです。そのおばさんがのちに入ってきてみると、むちゃくちゃです。世の中にはない話や、世界が揺れ動くような話をひたすらするのですが、座っている様子を見ると哀れなのです。しかし、世界を統一するとか何とか言いながら、「神様は私の父であり、私は神様の息子である。天国が建設され、地獄が崩壊する」と言っているのです。

8 凡一洞に井戸があるのですが、そこに水をくみに来た人たちは、私たちが礼拝を捧げ始めると、「あの家はけんかをしない家だとうわさになっていたが、この頃はけんかをしている」と言って不思議に思ったのです。ある時には、神学校に通う人が来て、「あなたよりも立派な人が歴史上にたくさん現れて統一世界を夢見たのに、みな成し遂げられませんでした。それなのに、ここであなたが統一するのですか」と言うのです。その時、私が話をしながら、よくよく考えてみても、本当に哀れでした。水が流れるように溝を掘り、その上に家を建てたので、オンドルの下では、ちょろちょろちょろと水の流れる音がするのですが、そのような家に座って、そのような途方もない話をするのですから、誰が信じるでしょうか。

彼らは、私より良い物を食べ、良い服を着て、良い暮らしをしているのですから、私の話には信じられるところがないというのです。そうして、私の話を聞いてみると、うぶな顔つきで、そのような人には見えないのに、「何がどうだこうだ」と言いながら大騒ぎしているのを見てからは、近所の話題の種になりました。お父様が語る話を聞いてみると、世界が行ったり来たりし、天地がひっくり返ったりする内容です。お化けが出そうな家に住んでいますが、世界を手の上に載せて思いのままにしたり、天地をひっくり返したりしながら、韓国と世界を統一するという途方もない話をするので、うわさが立ったのです。「あの近くに行ってみると、井戸端では無口だったあの人がものすごかった」といううわさが立ったので、人々がどんどん集まってくるのです。

9 私が釜山の凡一洞の谷間で避難生活をしていたとき、釜山港のたくさんの船を見て、「私の手で造った船に乗って、一度釜山港に帰ってこなければならない」と思いました。すべての港口に出入りする大きな船を見て、「私の愛する息子、娘があの船に乗って世界に号令できるその日、自由と平等の舞台の上で、そのようにできる環境が整うひと日がいつ来るのか」と思いながら、神様が日久月深(イルクウォルシム=願いが時とともに強くなる様子)、千万年史を行き来しつつ望んでいたことを考えるとき、その先頭に立って、大洋を目指して前進する航路に立つならば、それは驚くべき事件です。

10 釜山は、避難民が集まってきた所でした。ですから、韓国にいる篤実な信仰者たちにも、みな会える所です。そのような過程を経ながら、教会が出発しました。学生時代における黒石洞の教会の歴史、平壌の教会の歴史、それからソウルの教会の歴史、このような歴史がすべて絡まっているのです。そして、北朝鮮の監獄から出てきて、(その後、韓国で)三人の女性と一人の男性の、四人を立てました。男性は天使長の代わりに立てたのです。女性は、玉世賢(オクセヒョン)おばあさん、池承道(チスンド)おばあさん、李奇完(イギワン)さんです。李奇完さんはソウルにいました。そうして、四人を中心として、初めて新しく釜山から出発したのです。そして、水晶洞で、以前に日本人が所有していた家屋を一つ手に入れて、教会を始めました。

大邱開拓伝道

真のお父様は、新しい食口が集まると、李耀翰牧師に有名な牧師と神霊的な指導者たちを訪ねさせるなど、伝道に目を向けられた。特に一九五三年七月二十日、姜賢實伝道師に、「生きていらっしゃる神様が、私たちの側に立って協助していらっしゃることを忘れてはならない」という激励のみ言をかけられ、服一着だけを持たせて、大邱の開拓伝道に出発させられた。この時、初めて原理が公に宣布されたのである。そして、八月中旬、李耀翰牧師を再び太邱に派遣された。姜伝道師が築いた土台の上に教会を建てる、というみ意があった。そのようにして、三、四十人の新しい食口が集まり、礼拝を始めるなど、キリスト教団の迫害と反対の中でも、教会が早々に出発できたのである。

11 草創期には、私一人でした。そのように始め、何人かの食口たちを集めて、全国にいる神霊的な人たちを訪問させました。その中に、伝道のため大邱に送った姜賢實伝道師がいました。その伝道師は、凡一洞(ポミルドン)の天幕教会に責任をもっていた女性でした。凡一洞の谷間には寺しかなかったのですが、一番端の家におかしな青年がいるといううわさを聞いて、伝道しようと訪ねてきたのです。それで、その時、み言を語ってあげたのですが、神様が役事をして、毎日毎日訪ねてくるようになりました。そうするうちに、その天幕教会を捨てて統一教会を信じる決心をしたのです。

そうして、その後、伝道のために大邱に送りました。大邱は、以南(現在の大韓民国)のエルサレムといわれる地域なので、そこに送ったのです。送る時は、何も持たせずに送り出しました。旅費も与えず、「出ていって伝道しなさい」と言って送り出すしかない、その時の事情がありました。ですから、霊界からたくさん役事しました。大邱に行ったのですが、行く所がないので、霊界がコーチして、会うべき人に会わせてくれたのです。

大邱教会は、そのようにして始まりました。

12 姜賢實伝道師に、「大邱に行って開拓伝道をしなさい!」と言いました。それで、開拓伝道に出て泣きながら歩いているので、神様が勧告したのです。大邱に行った時、「あなたは今ここに来て泣いているが、私は千年の恨を抱いて働いている」と神様から勧告されたので、逃げようとまとめていた荷物を再びほどいたそうです。よくよく見ると、神様は、こちらの事情を一つも聞いてくれません。(ただ、)開拓伝道をしなさいというのです。

ですから、「私の代わりにどこそこに行きなさい」と言われて行くと、ある時は汽車の切符を買って待つ人がいたり、行く道中に祝いのお膳の支度をして待つ人もいたりしたのです。

13 伝道をする時は、座って心配ばかりしてはいけません。お金を使ったからといってできるものではないので、精誠を尽くさなければなりません。そうして祈ると、天が教えてくれるのです。足に豆ができるほど活動し、事を起こしてこそ、そこから役事が始まるのです。

姜賢實の証を聞いてみてください。知人が一人もいない大邱の真ん中に、開拓伝道に行ったのですから、誰か歓迎する人がいたでしょうか。通りをさまようしかないので、どれほど落胆するでしょうか。「神様、どこに行かなければなりませんか」と自分の身の上を嘆くと、「あなたは今、一日でそのような状態になるのか。千年、万年の間、そのようにし続けてきた神の心情と比べれば、話にもならないではないか」と言われたそうです。苦労をもっとしなければならないというのです。神様と出会い、神様のみ旨を探し求めていくのは、易しいことではありません。

14 お父様が大邱にいた時は、一カ月間に十三回も引っ越しをしました。そこでは、私を知らない人がいませんでした。キリスト教徒たちが写真を持って歩きながら、私の顔さえ見かければ、「文誰それが現れた」と大騒ぎでした。どこそこに現れたというと、教会で毎日のように「異端の頭である誰それを追放せよ」と大騒ぎしながら、その都市全体がうなり声を上げて追放しようとしたのです。

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