精誠と祝福の信仰生活
真のお母様は洪順愛大母様が再臨玉を迎えるための信仰生活に専念するにつれ、幼少時代を主に母の実家で過ごされた。そうして、外祖母である趙元模女史と大母様を通して、信仰の精髄を習得されたのである。大母様は真のお母様が以北(現在の北朝鮮)にいらっしゃった六歳の時まで、サタンがあらゆる方法を用いて危害を加えようと付いて回るのを、夢の啓示を通してたびたび目撃し、乳母のような立場で、精誠を尽くして真のお母様を養育した。したがって、真のお母様は、天の新婦としてお立ちになるまで、大母様と共に苦難の道を歩まざるを得なかったのである。
1 私(お母様)が生まれてから一カ月ほどたって、大母様の夢に「新しい主」、金聖道おばあさんが白い雲に乗り、白い服を着て現れました。そして、「順愛、その赤ん坊のために心配しただろう。心配するな。この赤ん坊は主の娘であり、あなたは乳母と同じである。お乳だけしっかり飲ませて養育しなさい」と語られました。大母様は、その命令を心にしっかりと刻んで生きていきました。私は幼少の時、普通の赤ん坊とは違いました。一歳になる前に歩き、言葉まで話しました。一言一言、非常にはっきりと話したのです。ですから、母方の祖母も、「この子はやはり違う」と言ったといいます。そのように賢く、少しも欠けた所がなかったというのです。
2 母方の祖母の趙元模おばあさんと洪順愛大母様は、再び来られる主を迎えるための準備と信仰で一貫した生涯を送られました。世の中と妥協されず、安逸な家庭環境の枠にはまった信仰ではなく、二十四時間すべてを天のみ前に奉仕し、主を迎えるための準備に、この上ない精誠を尽くされました。
大母様は、そのような信仰生活を送ったので、ほとんど家にいらっしゃらず、私(お母様)は幼い頃、主に祖母と一緒に多くの時間を過ごしました。それで、祖母を通して、自然に、かつ当然のように信仰を受け入れるようになったのです。
3 母方の祖母は、私(お母様)に対する天のみ旨を御存じで、私が世の中に染まらず、純粋に育って天のみ前に用いられ得る貴い娘として成長できるよう、多くの精誠を注がれました。祖母は、いつも私に「お前の父親は天のお父様だ」と言われました。ですから、父親と言えば、肉身の父のことを思わず、いつも天のお父様のことを思ったので、神様のことを思うと、いつも心が温かくなるように感じました。また、外的に見ればすぐには理解し難い環境で育ちましたが、特別な不平不満はありませんでした。いつも何かが私のことを包んでくれているような感じがあり、常にゆとりのある心で過ごしていました。
大母様や祖母にも、肉身の父親に関してや、お二人がどうしてこのような生活をしているのかなどといった質問は、全くしませんでした。肉身の父母に対する恨みや不満は、私の人生には全くなかったのです。
4 私(お母様)は、六歳(数え)の時まで平安南道の安州で過ごしましたが、その六年間、大母様の夢にはいつもサタンが現れ、私の命を奪おうとして付きまといました。ですから、大母様は、サタンと六年間、闘い続けられたのです。それでも深い意味は分からないまま、「なぜサタンがこれほどまでに追い回しながら、この子の命を奪おうとするのだろうか」と、ただ不思議に思っていたそうです。
8大母様は、新イエス教会と聖主教を訪ね回り、最後は腹中教で、再臨主が来られることを待ち望みながら祈りに没頭しました。当時、私(お母様)は数えの四歳ぐらいでしたが、私も大母様に従って敬拝を捧げるなど、精誠を一緒に捧げました。朝と晩には公式的な敬拝の時間があり、各自、黙想祈祷を捧げつつ、たびたび敬拝を捧げました。以南(現在の大韓民国)に下ってきた数えの六歳まで、その生活は変わりませんでした。
6私(お母様)の幼少時代は、主の花嫁になる者として聖別するための期間だったと思います。本来、私の性格は外向的ではなく、世の中から離れて、自分自身の世界を楽しむほうでした。真のお父様も、趙元模おばあさんや大母様について、天情の道理を私に引き継がせるために骨身を削るのも意に介さず、一片丹心、神様のみ前に絶対服従し、絶対従順する道を行ったと語られたことがあります。そして、ありとあらゆる誘惑の環境に触れさせないようにするため、天が私を世の中から離して聖別生活をさせたのであると語られました。
南下後、戦争と受難を克服
外祖母の趙元模女史と洪順愛大母様と真のお母様は、腹中教に行き来された一九四八年、北朝鮮の共産党当局の宗教弾圧により、十一日間、共に収監された。このように、共産党が次第に猛威を振るうようになるや、趙元模女史は、「以南に行こう」と提案した。その頃、「以南に行きなさい」という天の啓示があった。以南は、三人にとって非常に不慣れな場所だったが、ちょうど、鉄山・聖主教の金聖道の長男の鄭錫天(チョンソクチョン)が先に南に行ったという話を聞いたため、彼を訪ねていこうと決心した。また、大母様の弟の洪順貞(ホンスンジョン)は、日本留学中、戦時状況に伴って中途帰国することになり、陸軍士官学校の薬剤官教育を受けたのち、中尉として任官し、軍に服務中であった。その弟に会うことも兼ねて、三人は一九四八年、真夜中に出発し、死線を越えて、千辛万苦の末、南に渡ったのである。
7私(お母様)が安州に住んでいた時、大母様は信仰的情熱ゆえに、ほとんど家を空けていました。そのような状況だったので、私は常に、母方の家族たちが面倒を見てくれる中で育ちました。キリスト教を信仰していた父は、共産党当局の脅威を避けて、一九四六年、やむなく先に南へと下りました。その頃、父が家に訪ねてきて、大母様に「一緒に行こう」と言ったことをかすかに覚えています。
8共産治下で信仰をもつことはとても困難でした。趙元模おばあさんは、韓国にいる息子の洪順貞氏に会うため、大母様と私(お母様)と共に南下の途に就きました。私たち三代の母子は、南下する途中でも、主に向かって敬拝を捧げました。洪唯一おじいさんは、平壌がエデン宮であるという啓示を受けて、これを守るために残られ、それ以降、会うことはできませんでした。
9私(お母様)が南に下る道は容易ではありませんでした。すき返した田畑に沿って歩いていこうとするので、足を取られ、寒さに震えながら南へ南へと移動しました。私たち一行が、やっとのことで三十八度線の近くに到着した時のことです。物々しく警備に就いていた北の人民軍に捕まってしまったのです。彼らは、私たちを空き家の物置に閉じ込めました。そこには、既に捕まった人たちがいました。人民軍は、男性には乱暴に対しましたが、女性と子供にはきつく接することはありませんでした。
大人たちは、寒さに震えながら歩哨に立っている人民軍に食べ物を持っていってあげなさいと、私を使いに行かせました。私は震える心を抑え、笑顔で食べ物を人民軍に渡しました。何度かそのようにしたところ、人民軍の人たちの心がとても穏やかになりました。ある日の夜、人民軍が、「故郷に帰りなさい」と言って私たちを解放してくれました。生死の岐路において、温かい愛の力が生命の道へと導いてくれたのです。
10 母方の祖母は、私(お母様)といつも一緒にいらっしゃったのですが、祖母と通りを歩くと、人々が私のことを「とてもかわいい」と言って誰もがかわいがってくれました。それで、当時は、人々があまり出歩くことができない時だったのですが、私はあちらこちら歩き回りながら、人のお使いもたくさんしてあげ、多くの愛を受けました。韓国に下ってくる過程でも、子供や女性たちの中に幼い私がいたので、無事に南に渡ってくることができたのです。
やっとのことで三十八度線を越えたばかりの時でした。韓国の軍人たちが人の気配に気づき、こちらに銃口を向けて撃とうとした瞬間、私が歌を歌ったのです。すると、軍人たちはその歌声を聞いて銃口を下げました。そして、私たちを温かく迎えてくれたのです。「こんなにかわいい娘さんを連れてくるとは、大変な苦労だったでしょう」と言って、南側へと導いてくれました。
11 大母様が腹中教に通っていた頃に、母方の叔父である洪順貞氏が日本留学から戻り、南に下って軍に入隊しました。叔父は知識人で、とてもおしゃれな方でした。当時、知識入たちの間では、共産主義理論に同調する人がたくさんいました。叔父もまた共産主義思想が良いと思っていましたが、理論とは違う北朝鮮の共産体制を見て失望しました。理論と矛盾する体制を見て、親がいる北には行かず、南に行って軍に入隊したのです。
(その後、)母方の祖母が、軍隊にいる叔父にどうしても会いたいというので、大母様と私(お母様)と一緒に、叔父に会うために南下したのです。その時からソウルにとどまり続けることになりました。
南下した当初はソウルの孝昌洞(ヒョチャンドン)にいました。そこで小学校にも入学しました。その後、私は行く先々で羨望の的になり、周囲の大勢の人たちから愛されて育ちました。もし私が早く結婚しなければ、この世に奪われる可能性が高かったので、幼い年で聖婚させて、天が先に私を抱かれたのではないかと思いました。
12 ソウルで母方の叔父を捜す時も天の保護がありました。やっとのことで三十八度線を越え、苦労の果てに以南に下っては来たものの、叔父を見つける見通しが立ちませんでした。祖母と大母様は、どう捜したらよいか分からない状況で、あちこちさまよいながら訪ね歩きました。とても難しいことでした。そうこうしているうちに叔父の友人に出会い、便りを知ることができました。天佑神助(天の神の助け)でした。
その時、叔父はソウル近郊の軍隊の幕舎に住んでいましたが、私たちが訪ねていくと、とても喜び、「いつも故郷にいる家族を思って心配していたところに、このように訪ねてきてくれたので、とてもうれしい」と言いました。それで、急いで家を一つ借りて暮らすようになったのですが、あとで分かったのは、そこが正に青坡洞(チョンパドン)の旧本部教会からとても近い所だったということです。
13 私(お母様)が数えの八歳の時、「六・二五動乱」が勃発しました。それで、ソウルから避難することになったのですが、その時、叔父が私たちを助けてくれました。当時、陸軍本部の医務将校だった叔父が、漢江の橋が爆破されるという情報をあらかじめ入手したのです。漢江の橋の通過証を持っていた叔父は、軍用車に乗ってきて、祖母と私を乗せて南の方に避難することになりました。大母様は、ただひたすら主に出会うことだけを思い、絶えず精誠を尽くしながら過ごされたのですが、その避難の途に最初は同行できませんでした。
漢江の橋を渡る時、叔父は私たちに「橋を渡ったらすぐに降りなさい」と言いました。私たち一行は、叔父に言われるがまま、橋を渡るやいなや降りて身を伏せたのですが、その瞬間、漢江の橋が「ドカーン」と爆発して、崩壊したのです。その時、漢江の橋を渡っていた多くの軍人が川に落ちて亡くなりました。幸運にも私たち一行は、叔父の助けで命を取り留めることができたのです。
今も漢江の橋を渡る時は、あの日のことが思い出されて心が痛みます。私と同年代の韓国人のほとんどは、戦争と厳しい受難時代を経てきていますが、私は、すべてにおいて絶えず天の保護があり、無事に過ごすことができました。大母様は、避難生活で私が風邪をひいた時は、飴を口に入れて咳を抑え、けがをした時は、アロエに御飯を擦り潰して傷口に塗り、治療してくださいました。
14 私(お母様)たち一行は、一九五〇年六月二十八日の午前三時に漢江の人道橋が爆破されたのち、南の方に避難してきました。そして、全羅道(チョルラド)にある軍人家族避難収容所に留まり、九・二八ソウル収復後に帰京し、空き家になった日本家屋で過ごしました。そのような中、中共軍が介入することにより、ソウルは再び共産軍の手中に落ちるようになりました。そして、一九五一年の一・四後退の時、再び避難の途に就いたのです。軍人の家族は、他の避難民より先に特別列車に乗ることができ、そのお陰で、ソウルを発ち、大邱に降りてきました。その時、陸軍本部が大邱に移され、そこに勤務していた叔父の家の近くに住むことになりました。私は、このような避難路程において、いつでも神様が共にいらっしゃることを実感しました。神様は、北朝鮮から韓国に来るときも、韓国での避難の渦中でも、常に保護してくださつたのです。
天の導きのとおりに生きてきた学生時代
真のお母様は、ソウルの孝昌小学校をはじめ、大邱、西帰浦(ソグィポ)、春川(チュンチョン)などの地を経ながら学業を続けられた。特に、春川の鳳儀(ポンウィ)小学校の生活記録簿には、「非常にしとやか、親切で、どこか高尚な態度も見られ、級友の中で最も女性らしい」と記録されており、この学校を卒業する時には優等賞を受賞された。
その後、真のお母様は、一九五六年四月から一九五九年三月まで、聖正(ソンジョン)女子中学に通われた。真の父母様は、善正(ソンジョン)中学校に校名が変わったこの学校を、一九八七年四月に引き継がれている。また、真のお母様は、一九五九年三月、現在のカトリック大学看護学部の前身であるソウル聖ヨセフ看護学校に入学された。
1 私(お母様)は、南に渡ったあと、ソウルの孝昌洞(ヒョチャンドン)に部屋を借りて過ごし、孝昌小学校に入学しました。そして、大邱(テグ))と済州道(チェヂュド))に移ってからも、勉強を続けました。大母様が、私をより清く育てようという意図から、一九五四年に済州道に渡ったあとは、西帰浦(ソグィポ)の新孝(シニョ)小学校、すなわち今日の孝敦(ヒョトン)小学校の五学年に転校しました。その後、江原道(カンウォンド)・春川の補給廠長として発令を受けた母方の叔父が、手紙を二度も送ってきて春川に来るようにと言うので、そこに行くことになりました。
そして、春川・孝子洞(ヒョヂャドン)の叔父の家と近い薬司洞(ヤクサドン)で部屋を借りて暮らしながら、一九五五年二月、春川の鳳儀小学校に転校し、すぐに六学年に進級したあと、翌年の一九五六年三月二日に、第十一期として卒業しました。その後、叔父の助けで一九五六年四月十日、ソウルの鍾路区(チョンノグ)社稷洞(サヂクトン)にある聖正女子中学校に入学して、一九五九年三月二十五日、第三期として卒業しました。この期間は、叔父の家族と共に、敦岩洞(トナムドン))と新堂洞(シンダンドン)で生活しました。いとこと共に生活しながら、社稷洞に通学したのです。
2 私(お母様)が中学生の時、学校で運営委員長をした記憶があるのですが、その時、全校生徒のいる前で壇上に上がり、決定事項を話さなければなりませんでした。その話を終えて下りていくと、国語の先生をはじめ幾人かの先生が、「いやあ! 鶴子(ハクチャ)は大したものだ!」と言うのです。いつも周囲の人々には、静かでおとなしい学生という印象を与え、気安く近づけない感じを与えていたのですが、そのように発表するので、驚かれたのです。しかし、私はただ説明しただけなのです。それが、私が大勢の人々の前で話をした初めての経験でした。
3 最近、私(お母様)を訪ねてきた一人の友人がいます。同じ地域に住んでいて、一緒に中学校に通ったのですが、彼女のお父さんは、私にとてもよくしてくれました。また、一年上の先輩が私を見て、端正できれいだと言って、多くの関心をもってくれました。その先輩は、カナダに住みながら、たびたび私に手紙を送ってくれたり、韓国に来ると会ったりもしました。いつだったか、私が通っていた学校に行ってみると、当時の国語の先生がまだいらっしゃいました。その国語の先生のお顔が思い出されます。また、数学の先生も、私にとてもよくしてくださいました。
4 私(お母様)が高校に進学する頃は、戦争が終わったあとで、道路という道路が負傷者であふれていました。戦争孤児や子供たちは、飢餓と疾病でとても苦しんでいました。病気になったとしても、すぐに治療を受けられる人はまれでした。彼らは、とてもかわいそうでした。彼らの痛みを治癒してあげたいと思い、看護学校に入ったのです。彼らを助けてあげられる道を探すためでした。
5 私(お母様)は、どの学校に行っても先生から愛され、よく面倒を見てもらいました。まじめに見えたからか、先生たちがよく面倒を見てくれたのです。また、先生たちから「君は今どきの学生とは違うね。少し外に出て歩いてみてはどうだ」と言われたりもしました。ただ、悩みが多いなどの理由からそのようにしていたのではなく、静かに座っているのが好きだったのです。
思春期や、成長期にも、私は生きることに対する悩みはもちませんでした。母方の祖母や大母様が、常に天に侍って生きる信仰を植えつけてくださったからです。大母様の厳格な指導のもとで、様々な本を熟読しながら過ごしました。そうして、気の合う一人、二人の友人と一緒に果物の木を育てて、田園生活をしながら暮らしたいとも考えていました。友人たちとの会話では、「あなたはまじめな人だけど、お嫁には先に行くでしょう」と言われたこともありました。
聖婚したのちは、過去の学生時代のことを考えることがなかったので、特別に思い出せることがありません。また、考える暇がありませんでした。最近になって、時折訪ねてくる友人たちがいて、その時の記憶が少しよみがえったりするのです。
6 私(お母様)は、平安で静かな雰囲気の中で読書や音楽を楽しむ学生として知られていました。また、かなり知的なイメージの学生としても知られていました。極度に感情的でもなく、極度に怒りを表に出すこともなかったのですが、初めて会う人には、むしろ少し冷たい印象まで与えていたと思います。
私は寄宿舎で、修道女のような生活をしました。さながら温室の中に咲く一輪の花のように、完全に外の環境から自分自身を隔離していたのです。今になって初めて、それがいつか主にお会いして、主の花嫁になる人として聖別するための天の準備過程だったことを知りました。
7 私(お母様)は、一九六〇年まで、衣服で包むように、自分自身をほとんど現さない生活をしました。天が私を世の中と妥協することのない生活へと導かれるので、簡素な生活環境の中で暮らしたのです。神様は、私がサタン世界の空気を吸うことも嫌うほど徹底的に保護してくださり、そのような環境の中で、私は、私自身の考えをすべてなくし、天が導く生活だけをしました。
そして、常に日記を書きましたが、不思議なことに、何げなく書き綴っていたことが、「私たちの願いは統一」など、ほとんどがそのような言葉だったのです。後日、お父様のみ言を聞いてから、そのようなことが意味のあるものとして思い出されました。
8 お母様は、壇上でもとても自然です。壇上で初めて歌を歌ったのが、高校二年生の時です。歌がうまいことでとても有名になりました。誰を前にしても、壇上に上がればチャンピオンのように堂々としていました。
9 お母様には一つも欠点がありません。とても良いお母様です。それは、ただ自然にそうなったわけではありません。男性たちに対するとき、お父様と比較して、「お父様がこうだから、あの男性たちもこうだろう」と考えるのです。そのたびに心が広くなるので、良く見えるというのです。お母様の目と手を見てください。どれだけ鋭敏か分かりません。一言語ると、主語がどうなっていて、目的語がどうなっていると指摘するのです。鋭敏なのですが、よく分析するというのです。十代の時、友人たちから印象的な女性、記憶に残る女性と思われたという話を聞きましたが、鋭敏だからそうなのです。ですから、行き来する道も、何の考えもなしには通りません。自分の心が向く所だけを通るのです。
真のお父様との出会い
聖主(ソンジュ)教の金聖道(キムソンド)は、長男の鄭錫天(チョンソクチョン)に、「神様が任せてくださったこのみ旨を、私が成就できなければ、他の人を通してでも成し遂げる。その代身者も、私と同じように淫乱集団として誤解され、迫害を受け、獄中での苦しみを味わうだろう。そのような教会が現れれば、真実の教会であると思って、訪ねていきなさい」という遺言を残した。そのため、鄭錫天は、姉の鄭錫温(チョンソゴン)と共に、母親の代でこのみ旨が成し遂げられなくても、次の代、あるいはその次の代になれば、必ず成し遂げられると信じ、南下したあと、家庭で熱心に礼拝を捧げながら、このみ旨が成し遂げられているところを探し回った。その頃、新聞に報道された梨花(イファ)女子大学退学事件の記事を読み、鄭錫温か娘と共に奨忠洞(チャンチュンドン)のソウル統一教会を訪ねるようになった。その後、真のお父様は、一九五五年十月四日、西大門(ソデムン)刑務所から無罪で釈放されたのち、鄭錫天の消息を聞き、大邱の東城路(トンソンノ)にある鄭氏の家を自ら訪問された。これにより、のちに大母様と真のお母様が、真のお父様に出会うことになったのである。
10 真のお父様が西大門刑務所から出監され、復興会の激励のために大邱に来られた一九五五年十一月頃、春川にいらっしゃった大母様は、鄭錫天氏から手紙を受け取りました。聖主教とそっくりな教会がソウルにあるというのです。そして、真のお父様が今、大邱に来てみ言を語られるから、早く来て聞きなさいということでした。しかし、大母様は、事情があってすぐには大邱に行くことができず、翌月、十二月に行かれました。大母様が大邱に行くと、鄭錫天氏は、「ようやく主を探し出しました。腹中教で服を準備してお迎えしようとしていた方を、ようやく探し出したのです。その方が、大邱に来てみ言を語られました」と語り、その方が既にソウルに上京されたと伝えました。また、腹中教で教えていたことと全く同じことを教えていると話しました。大母様は、今からソウルに上京すれば、お慕いしていた方にお会いできるという思いでうれしくもありましたが、なぜかしきりに不足さばかりを感じたといいます。このように、心の準備をしていると、その日の晩、黄金の龍が一双、ソウルの方に向かってひれ伏している夢を見たのです。大母様は心の中で、「大邱に来る時は白い龍を見たが、大邱を発とうとする時には黄金の龍が一双現れるとは、本当に不思議だ」と思ったといいます。そして、すぐにソウルに上京し、青坡洞一街(カ)の旧本部教会で真のお父様にお会いして、挨拶をお捧げしました。驚くべきことにその方は、腹中教時代に二回夢でお会いした、正にその姿であり、夢にまで慕い求めた主の姿だったのです。大母様は、あまりにも畏れ多い気持ちになり、身の置き場がなかったといいます。
11 私(お母様)は、北朝鮮ではお父様にお会いすることができず、南に下ったのち、ソウルで初めてお会いしました。その時、私は満十三歳で、小学校を終えたあとでした。当時は、大母様と共に入教してから、いくらもたっていない時でした。その頃、私は江原道(カンウォンド)の春川に住んでおり、お父様はソウルにいらっしゃったため、互いに遠く離れていました。一九五六年三月、大母様に連れられて青坡洞教会に行き、初めてお父様にお会いしたのです。私は、お父様と出会ったあと、青坡洞教会に通いながら中学校を卒業し、高校に進学しました。
12 お父様が学生服を着た私(お母様)をご覧になったのちに、じっと目を閉じて感嘆されたことが、今も記憶にはっきりと残っています。すべては天が準備なさっていたと常に感じます。私の性格から見ても、生きてきた背景から見てもそうです。
イサクがアブラハムと祭物を捧げるために山に登っていく時、アブラハムに「祭物はどこにあるのですか」と尋ねるのですが、アブラハムは「神様が既に準備されている」とだけ言いました。しかし、幼いイサクは、既にそこで状況判断をしていたのです。
それと同じように、私も、「私が何かをしなければならないようだ」という状況判断を、幼い頃からしていました。再臨主の相対として準備された自分であることを、それとなく感じていたように思います。
私は、既に私に定められた道を行かざるを得ないように生まれついたのです。他の女性であれば耐え難い立場でしたが、私はすべてのことに打ち勝ってきました。
13 皆さんは、お父様が聖婚を決心されて、初めて私(お母様)に出会った時、最初の会話がどのような内容だったのか、最も気になるでしょう。当時の食口たちはみな、お父様のことを慕っていましたが、同時に近寄り難く感じてもいました。しかし、私は近寄り難いとは思いませんでした。私が何を言っても怒ることがないといった印象で、まるで私の母方の祖父にお会いしているかのように感じました。
周辺の人たちの中には、恐らく「あの人(お母様)は、年は幼いがとても肝が据わっている」と感じていた人もいたと思います。私は当時、祖父のようにも感じ、父のようにも感じ、そして、夫のようにも感じ、兄のようにも感じ、息子のようにも感じたのです。
14 アダムとエバは、神様のみ言に背いて堕落しましたが、私(お母様)は、「神様が警告しなかったとしても、当時は神様と一問一答していた時代なので、本心の作用によってみ言を守れたのではないだろうか」と考えたこともあります。私は、神様の摂理歴史を思いながら成長してきました。私が満十七歳でお父様に出会った時、「神様が大変な苦労をして歩んでこられた蕩減復帰摂理歴史を、私の代で終わらせる。私が終わらせる」と自ら決心しました。私は、そのような内容を誰かに教育されたわけではありませんが、そのような決心をしたのです。そのように決心することができたのは、私が神様を知ったからです。
15 私(お母様)は、お父様に会った時、摂理歴史を知りました。「原理」を勉強したわけでもないのに、蕩減復帰摂理歴史が分かったのです。ですから、私は、「お父様が再臨主として使命を完成、完結したと宣言するためには、私の力が絶対的に必要だ。私は誰にも任せることなく、私自ら責任を果たす。私が生きている限り、このみ旨は発展し、成功する。サタンを必ず追い払う」と決心しました。このために、私は心と体をすべて捧げて犠牲になったのです。
韓国における信仰生活
真のお母様は、外祖母の趙元模女史と洪順愛大母様と共に、一九四八年に南下されたあと、ソウルと大邱、西帰浦、春川などの地を転々としながら、信仰生活をされた。大母様が、大邱で過ごしていたとき、見知らぬ一人の男性が真のお母様を見て、「天地において貴い娘」と証をするなど、真のお母様はどこに行っても注目の的であり、多くの霊的な証を受けられた。
16 聖主教の金聖道氏は、獄中の苦難に遭ったあとに他界し、残った家族が中心となって命脈を保ち、許浩彬氏を中心とした腹中教がそのあとを継ぎました。しかし、聖主教は、北朝鮮の共産党治下で定着することができなくなりました。特に、金聖道氏の長男の鄭錫天氏は、南に下り、鉱山事業をしばらくしたあと、大邱の東城路(トンソンノ)に家を構え、米と石油の商売を始めました。その大邱で、六・二五動乱を経る中、鄭氏の家族と大母様の一行が出会うことになったのです。大母様は、鄭錫天氏の家族と集まって話をし、「私たちが北朝鮮にいたとき、聖主教の新しい主(金聖道氏)と腹中教の許浩彬氏を通して多くの恵みを受け、大きな役事(働き)が起きました。再臨主は韓国に来られるでしょうから、この道を探し求めるため、集まって一生懸命に祈りましょう」と、心を合わせました。鄭氏の姉である鄭錫温氏も、釜山から来るようにさせ、大母様は、大勢の食口たちと共に、熱心に祈りながら信仰生活をしていくようになりました。
17 大母様が大邱で小さな店を出していたある日、笠をかぶった通りすがりの道人が、小学生だった幼い私(お母様)を見て、驚くべき証をしました。「この娘は、十人の息子にも勝るので、しっかり育ててください。数えの十七歳になれば、年の差が大きい人と結婚する貴い娘です。陸海空の財産をもつ富者として暮らすでしょう」と言うのです。
大母様がその言葉を聞いて驚き、どういうことかと尋ねると、(その人は)「生まれる時から、そのような運命に生まれたのです」と言いました。大母様は、その言葉を聞いてから、真理のみ言を求めて、さちに一生懸命に信仰しなければならないと決心されました。そして、「再臨主に出会うまでは、世俗に染まらないよう、正しく育てなければならない」と考え、済州道に行って生食をするなど、厳しい霊的な鍛錬生活をされました。
その後真のお父様に出会ってからは、私を統一教会の重要な働き手として育てようと思われました。そのように、一つのほこりも付かないようにされたのです。それほど、天のみ旨に捧げるための摂理には、極端で、かつ涙ぐましい事情が秘められていたのです。
18 趙元模おばあさんは、家庭礼拝を捧げながら聖別された生活を送り、私(お母様)に聖書の話もたくさん聞かせてくださいました。大母様は、聖書を熱心に奉読し、真心を尽くして信仰生活をされたため、私の周辺には常に聖書がありました。私は、自然に聖書を読むようになり、天の父母様が導かれる生活をしました。このような生活は、大邱に避難した時や動乱後、済州道と春川に転校してからも、そのまま続きました。大邱で教会学校に通う時は、学生代表として歌もよく歌いました。
19 大母様は、避難していた大邱で聖主教の金聖道氏の長男である鄭錫天氏に会ったのち、新しい主が韓国に来られるという信仰をもって祈りに励み、松葉を食べる生食をしながら暮らしました。
当時、小学生だった私(お母様)は、かわいらしくて勉強もできたので、周囲の人々に人気がありました。しかし、大母様は、私が注目の的になることを負担に思われました。私について「主の娘」という啓示や証がたくさんあったからです。結局、大母様は、再臨主に出会うため、一九五四年に済州島に渡っていかれました。私は、ひどい船酔いで苦労したことが思い出されます。
20 大母様の関心は、いつも「天の花嫁である」という祝祷を受けた私(お母様)を、世俗に染まらず純粋に成長させることに集中していました。「六・二五動乱」が終わった翌年、混乱した地を離れ、済州道で約九カ月間過ごしました。
当時、済州道には、聖主教の金聖道おばあさんの次男、鄭ソクチン(鄭平和=チョンピョンファ)氏がいました。その人は、イエス様の苦難を体恤するために、茨の冠をかぶって十字架の苦痛を再現するほど、熱烈な信仰をもった人でした。
大母様は、その方と共に、より一層篤実な信仰生活に励みました。昼は畑を耕して生食をしながら、夜は祈りと精誠を尽くす日々でした。
三代にわたる準備
真のお父様のみ言によれば、新婦基盤全体を代表した女性が人類の真の母になるには、それにふさわしい摂理的条件が具備されなければならない。その第一の条件は、サタン世界の讒訴を越え得る内的な血統的内縁(内的な縁故)である。人類の女性全体を代表する一人の女性が立てられ、真のお母様にまで連結するため、その背後には三代にわたる一人娘の女性がいなければならないというのである。それゆえ、真のお母様の母方の家系は、三代にわたって一人娘をもうけることにより、天の側に聖別されてきた。そして、外祖母の趙元模女史と大母様、真のお母様は、一人娘として、周辺に親戚が多くなく、しがらみのない暮らしを通して分別生活をしながら、天の新婦基盤を準備したのである。
1 誰でもお母様になれるというわけではありません。すべての摂理が、エバの歴史を中心とした摂理と連結された関係を中心として出てくるのです。そのような内外のすべてを合わせ、主が来られて三人の女性の協助を受けて結婚式をするようになるのですが、その時、三人の女性は、蘇生、長成、完成と同じです。
祖母から母、娘まで、三代が一つになったというのは、旧約時代、新約時代、成約時代が連結されたということです。それによって、父母が定着できる時代に入ってくるのです。お母様が中心です。蘇生が中心ではなく、長成が中心ではありません。ですから、歴史時代のあらゆるものが三段階を経なければなりません。平面的時代のあらゆるものは、三番目の段階を完成してこそ、完成の段階に立つのです。
2 お母様は、世界の女性たちの代表です。その人類全体の女性を代表して一人の女性が受け継ぎ、お母様にまで連結されたのです。ですから、お母様の背後には、三代が連結されなければなりません。本来は一人娘にならなければなりません。アダムも一人息子であり、イエス様も一人息子です。再臨主も、神様のみ旨から見れば、一人息子です。一人息子のみ旨を立てていくので、一人娘でなければなりません。ですから、復帰摂理から見ると、男性と女性が相対的な立場で一つになって結ばれ、世の中のサタン世界を越えて天の国へと行かなければなりません。
3 お母様お一人がお生まれになるためには、三代が一人娘であると同時に、三代が、来られる主のために生きた功績の基盤がなければなりません。お母様の背景を見ると、趙元模おばあさんから洪順愛おばあさん、そして、お母様まで、三代が一人娘です。また、洪氏おばあさんは、再臨主を迎えるための神霊教団の重要な幹部として教育されてきました。そうして、南に避難してくる頃に、お母様が許浩彬氏の母親から「天の花嫁になるだろう」という祝福を受けたのです。お母様がそのような祝福を受けた基盤は、天が準備したのです。
4 お母様の三代が再臨主を迎えるための準備をしました。歴史は、そのようにして上がっていくのです。プロテスタント教会から反対され、カトリック教会からどれほど反対を受けたでしょうか。李龍道牧師を中心として新イエス教会をつくったといって、どれだけ迫害を受けたでしょうか。神霊的な役事と韓国の中心人物たちをすべて連結させて、お母様が祝福を受けました。お母様の家系は、十二人を超えてはいけないのです。
5 腹中教は、主が人として来て母を選定し、十二使徒を立てるという信仰をもっていて、主に侍る訓練をさせました。お母様は、その特定集団を通して訓練を受けました。その腹中教の教主の母親がお母様を呼び、祝福してくれました。気づいてみると、祝福をすべて受けていたというのです。そこに男性がいてはいけません。できるだけ一人娘でなければならないというのです。
6 来られる再臨主を歓迎するために準備した代表者が李龍道牧師です。李龍道牧師は、既成教会から追い出されて新イエス教会をつくり、鉄山の金聖道と連結され、白南柱(ペクナムヂュ)を通して東と西が連結されたのです。ですから、大母様の家庭を中心として、一つは新イエス教会へと進み、もう一つは女性を中心とした腹中教へと進んだのです。
腹中教において、主を迎えるために、先導的な代表として家を出て歩んだ人が大母様です。新イエス教会から祝福を受け、腹中教から祝福を受けたのです。お母様の家門を見ると、そのようにしてきたというのです。そうでなければなりません。
天の新婦としての準備生活
神様は、ひとり子として再臨主を送られ、ひとり娘である天の新婦をあらかじめ準備してこられた。真のお母様は、幼少時代に周辺から「天の新婦になるだろう」という霊的な証を、数回受けていた。「小羊の婚宴」が近づくと、真のお母様が天の新婦になるという夢の啓示が、多くの食口にも現れ、特に、大母様も夢で啓示を受けた。白い礼服を着た女性食口たちがピンク色の花を手に持ち、真のお父様の部屋に入っていくのだが、後ろを振り返ると、食口ではない女性たちも花を持って立っていた。その時、大母様は、「神様は女性を失ってしまったので、六千年間、女性を探し求めてこられたのだな」と考えた。そこで、真のお母様が、お座りになっている真のお父様の前に歩いていくのが見えた。その間、天から雷鳴と稲光が起こり、一カ所に集まった。そして、大勢の人々がその光景を羨ましそうに眺めているのだった。その時もやはり、大母様はそれが何を意味するのか分からなかった。それでも、大母様は、夢の啓示が実現されるように精誠を尽くしながら、真のお母様を養育してきたのである。
7 大母様が主を迎えるために歴史的な受難の道を歩んできたので、お母様もそのような訓練を経た歴史があるのです。み旨のために真心を尽くす夫の道であるならば、それ以上に熱心に従う女性と、そのような家門が必要です。そのように考えて、お母様を迎えたのです。
8 大母様は、迫害を受け、新イエス教会から腹中教を経て、統一教会まで来ました。三つの教団に仕えた歴史がなければ、お母様の先祖になることはできません。大母様がお母様を生んだのも、霊界の命令があって生んだのです。そのような歴史があります。そうでなければ、お母様として誰でも連れてきて立てることはできないのです。
9 母になるためには、三時代の祭物的な家庭にならなければなりません。一人娘の歴史を残さなければなりません。大母様がお母様を身ごもって、一人でこの道を出発したのです。純潔な夫を探し求める三時代の女性たちが歩まなければならない、十字架の峠を越えて育てなければなりません。お母様として、誰を選んでもいいのではないのです。お母様にとってお父様は、祖父の代わりであり、父の代わりであり、夫です。ですから、お父様と向き合うときは、兄のように思い、父のように、祖父のように、王のように思ったというのです。それゆえ、お父様がそれを知って、そのような妹の位置から育てていかなければなりません。婚約者の位置、夫婦の位置、母の位置、祖母の位置、女王の位置まで上がっていくようにしなければならないのです。
10 お母様を尊敬せざるを得ません。三つの教団を経てきました。大母様から、「主が来られるので、主に侍ろうとするなら、このように侍らなければならない」と何回も聞いたので、それが骨髄にしみ込んでいるのです。そうでなければお母様になることはできません。
この十七歳の娘が、女王にならなければならないのです。天の国の女王の位置まで進んでいかなければなりません。ですから、結婚したのちに、統一教会において、相対の位置、母の位置、祖母の位置、その上の女王の位置に上がらなければなりません。母と言えば、その母は国を代表する母です。妻と言えば、その妻は王の代身の妻なので、王として侍るのです。
人知れず歩まれた苦難の道
真のお母様は、天の新婦として立つ聖婚式を前後して、あらゆる苦難を踏み越え、勝利の道を歩まれた。絶対主体であられる神様と真のお父様のみ前に、絶対対象として、絶対信仰、絶対愛、絶対服従の手本としての路程を歩まれた。真のお母様は、いかなる逆境にあっても、摂理であれば、それを貫いて進む強いお姿をお見せになった。真のお母様は、「私が歩んできた道は、考えるだけでも耐え難い苦難の連統でした」と回顧された。
1 お父様がどのような方かを知っているため、皆さんは、それと同じように、ただそのまま、私(お母様)が非常に幸福で、すべての面において完全な人であるに違いないと考えるでしょう。「あなたは神様がそのように創造され、本来、完全な姿でお生まれになった方ですから、御自分では何の努力もする必要がなく、ただその位置に選ばれたのです」と考えるかもしれません。そして、天宙の母として、お父様に出会い、幸せな家庭をもって、人生を楽しんでいるというのが、私に対する人々の一般的な見解でしょう。しかし、お父様がその位置に立たれるために苦難と十字架の道を歩まれたように、私も当然、私なりに、信じられないほどの忍び難く、耐え難い十字架を背負ったのです。
もちろん、私も初めから完全な人間として出発したのではなく、完成まで進まなければなりません。その到達すべき基準があまりにも高く、時には目標までたどり着くのが本当に不可能であると思われたこともあります。その使命を果たし、神様の期待に応えるためには、非常に困難な試練と苦難、そして、絶対的な信仰が必要でした。私は、そのような立場にいたのです。過ぎし日のこのような事情と、私が歩んできた路程に関して振り返って考えてみるとき、涙があふれるのをどうすることもできません。これについて話そうとすれば、苦難と試練の記憶がすべて生き生きとよみがえるので、私はそれを話すのが非常につらいのです。
2 私(お母様)が歩んできた道は、考えるだけでも耐え難い、苦難の連続でした。神様は、選ばれたお父様に試練を与えられたように、私にも何度も試練を下さいました。そして、サタンも、お父様とイエス様を試みたように、私に対して、やはり試みました。メシヤが通過されたような過酷でひどい試練を、このか弱い女性が通過したのです。私は実に、荒々しい海に浮かんだ小さな帆舟のようでした。一方で、その当時は、私に訪ねてこられる神様の恵みを、最も深く感じた時でもありました。
私が苦痛の中にいるときも、神様は、自ら現れて啓示を下さり、導いてくださいました。そのような直接的な導きがないときも、私を愛し、守ってくれようとする周囲の人々を通して、(神様は)絶え間なく導き、啓示を下さいました。ですから、当時は、大変に困難な試練と苦難に耐えなければならない時だったにもかかわらず、同時に、その時こそ、最も美しく、神様の恵みに満ちあふれた、本当に神様が共にいてくださることを実感できる時でもありました。このようにして、完成に向かって苦悩しながら歩んだ成長期間が終わり、天が願われる基準に到達した私が、その当時を振り返るとき、その苦難に満ちた記憶がすべて、喜びに変わったのです。
私はいつでも、お父様と深い対話をし、交流することができました。お父様と私の間には、尽きない話題と限りない理解があり、無限の信頼に満ちあふれた対話がありました。お父様とそれほど多くの話を交わさなくても、深く互いの事情を理解することができました。なぜなら、お父様が通過してこられた事情と、私が歩んできた道が、神秘的なほど、非常に似ていたからです。お父様とは、共通の一つの目的を深く理解し、それゆえに不屈の信仰ですべてのことを忍耐し、すべての苦難と闘って完成基準に到達して、今やサタンが一切侵入できない基準まで歩んできたという勝利感があります。お父様と私が向かい合うとき、互いに感じる勝利感によって、私は限りなく慰められ、平安を得ることができました。
3 私(お母様)は、自分自身の体験を通して、神様について、神様がどのようにそのみ旨を成就されるのかについて、多くのことを知りました。人生において、私は、本当に天国と地獄をすべて通過してきましたが、そのどちらも、神様が期待される、完全に成熟した人格を形成するために必要なものだったことを知るようになりました。
もし私が、天国の喜ばしいことだけを享受してきたとすれば、天国の生活をそれほど深く味わい、感謝することができなかったでしょう。私は、地獄のどん底までも通過し、その苦い味も体験しました。「これ以上、このように難しこを進み続ける力が私にはありません。この道を進み続けるのは絶対に不可能です。神様! なぜ私にこのような道を行けと言われるのですか」と、数え切れないほど尋ねました。私に必要だったのは、真に朽ちることのない不屈の信仰と決意と忍耐であり、それが今日の私自身をつくり上げたと言えます。
皆さんが天国に行く道において、天国的な面だけを期待してはならないというのです。地獄的な面も当然、予期しなければなりません。地獄のどん底の監獄を通過することも、当然、予期しなければなりません。それこそ、神様の恩恵を感じられる最も貴い部分であると言えます。そのような過程を通過するとき、皆さんはより堅固に立つことができ、円満で総合的な人格と霊性を備えた人格者として、さらに成熟することができるでしょう。そして、天国をより深く体恤できるでしょう。そのような体験が、いつか皆さんの誇りとなるでしょう。勝利と忍耐の記録こそ、いつの日か皆さんの誇りとなるでしょう。
勝利された真のお母様
真のお母様は満ちあふれる慈愛をもって、時には限りなく崇高な涙をもって時には少女のような清らかなほほえみで、時には澄み通って地の果てまで響く玲瓏(れいろう)な声で、暗闇を貫く輝かしい光を発せられた。真のお父様は、「真のお母様の勝利によって、復帰摂理を完成、完結、完了することができた」と語られ、真のお母様の勝利に対して、「実に、無私こそが成功の鍵」であることを強調された。
真のお父様が一九九九年六月十四日の「真の父母様天宙勝利祝賀宣布表彰牌」の中で明らかにされたように、真のお母様は、「神様の特命と復帰摂理歴史の結実として結ばれた本然の神様の子女であり、人類の真の母の使命」をもってこの地に来られ、「天のみ前に真の子女の使命、夫の前に真の妻の使命、そして、子女の前に真の父母の使命」を完遂された。そして、真のお母様は、天だけが記憶される中、蕩減復帰の苦難の路程を勝利し、永遠なる真の父母の伝統を立てられたのである。
4 お母様は、家庭の母として、教会の母として、天宙の母として、当然、真の母として、より大きな責任をもつようになります。そのようなお母様が他の人に比べて特別な点は、生まれつき鋭敏な霊的直観力をもっていることです。また、人物や事物に対する洞察力と観察力がとても正確で、直観力も非常に鋭く、明晰ですから、お母様の心に反映されたものは、いつでも真実だというのです。その次に、お父様に対する絶対的な忠誠心をもっており、誰が何と言おうと、何でもやると深く決意していることです。それがお母様の信念でもあります。そのような信仰と信念があるので、その苦難の歳月にも、目的達成のため、実に信じ難いほどの忍耐力をもって勝利してきたのです。
5 お父様は、お母様がみ旨に対して特別な性稟をもっていることを深く感謝しています。それは、お母様が常に私心なく、自分の子女だけでなく、皆さん食口に対しても、何でも与えようとすることです。自分の物のうち、何か貴く思う物があれば、いつも誰かに与えたいと思い、与えることを喜びとするというのです。世の中の多くの人々は、真のお母様には多くの喜びがあり、宝石や服などをたくさんもっていると思うかもしれませんが、事実は決してそうではありません。
何でも、自分が良いと思う物は誰かにあげて喜ばせたいと思っています。天候が突然変わったある日などは、お父様と外出しなければならないのに、軍笥(たんす)の中に服があまりなく、その天候に合うふさわしい服を見つけられないときもありました。もちろん、そうでなければ、お父様自身の伝統に付いてくることができないのですが、お母様はお父様以上に質素な生活をしてきたのです。
6 お母様は、ひたすら完成基準に向かって、七年間闘ってきました。この七年という期間に、実に様々な非難と中傷、うわさ、誤解などが真の父母様の家庭を取り囲み、渦巻いていました。非難と中傷と迫害ゆえに血を流すような期間でしたが、それらすべてのものが、必要だったのです。問題は、お母様がこのような試練に耐え、非難されてもそれを克服して越えられるかということでした。
お母様はすべてのことに勝利しました。お母様はひたすら沈黙を守って、耐え忍ばなければなりませんでした。このような事情の中で、歳月が流れていきました。しかし、いかなることが起こっても、お母様は最後まで不屈の信仰によって忍耐し、犠牲になりながら、沈黙を守り、信仰し続けてきたのです。そして、ついに、非難されてきた事情がすべて逆さまになり、皆がお母様に頭を下げ、「この方は、本当に天宙のお母様であられる」と考えるようになりました。そのように尊敬し、侍るようになったのです。
7 時には、とても信じられないことが起こったりもしました。お母様を非難していた人々は結局、一人ずつ離れていきました。お父様は原理を知っているので、このような類の事情をいかに主管し、指導者としての使命を果たして、最終的な勝利をもたらすべきか、よく分かっていたのです。もし原理を知らなかったならば、本当に、どのように処理すべきか分からず、うろたえたでしょう。結局は、愛です。愛が中心であり、すべてが愛の問題なのです。そして、愛の問題が極端な方向に行くこともあり得るというのです。お父様は、愛を征服し、復帰するために来ました。そして、それは神様に対する心情復帰でもあります。それこそ、愛の十字架でした。しかし、お母様は、このような困難を経ながらも、ただの一言も弁明しませんでした。お母様自らその苦難の意味を悟って忍耐し、ついに勝利したのです。
8 お母様について話すことができるのは、実に勝利的な信仰だったということです。お父様に対する絶対的な信仰でした。お母様も大母様も、共に勝利しました。この天宙的な勝利以降、今やお父様として、そこにふさわしい栄光を(お母様に)与えることにしました。大母様も、生涯を通してお母様の母親にふさわしい、正当な尊敬と栄光を受けなければなりません。もしそれらを受けることができずに亡くなれば、子孫にその結果が現れるでしょう。原理的観点から見るとき、お父様はお母様に、これまでとは違う形で向き合っています。それが復帰の過程です。それほど難しく、大変なことなのです。これがどれほど難しいことか、皆さんはとても理解できないでしょう。
お母様と大母様は、最も光栄で、責任ある立場に選ばれたのですが、統一教会の最も低い立場で入教し、最も低い位置からその路程を出発しました。このことから、私たちは神様の祝福が、最も高く、光栄で神聖な所で受けるものでは決してなく、人間の悲惨で最低な立場に打ち勝って受けるべきものである、という教訓を学ぶことができます。そのようにしてこそ、祝福が永遠のものとなり、全人類を包容できるものとなるのです。
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