感謝する信仰 第1章 従順に従ってきたみ旨の道

目次

召命されたみ旨に従って

 あらかじめ定められた信仰の中に育つ

 私の故郷は平安北道鉄山郡扶西長面長佐洞八〇二番地で父親・鄭錫天(チョンソクチョン)長老と母親・ 崔愛善(チェエーソン)氏の二男一女のうち長男として生まれた。

 私の祖母金聖道(キムソンド)氏は祖父・鄭恒俊(チョンハンジュン)氏に十八才の幼い年齢で嫁入りした。祖母は困難な生活に追われて精神病になり苦しんでいたが、盧勧士(ノグォンサ)(勧士:伝道したり、信者の信仰心を深めたりすることをおもな任務とする布教師)という人に按手祈祷をしてもらい、完治することができた。その後祖母は一生懸命に信仰生活を送り、私の父が病気になった時も祈祷で治した。そのようなことがあってから祖母はより一層信仰を強くしたが、反面祖父からの迫害はひどくなった。教会に行けないようにするために祖母の服をビリビリに破ったりもしたが、それでも続けて教会に行くので、別居しようと思い、家を建てる木をさがしに山に行ったところ病気になって死んでしまった。

 その後、祖母はより一層熱心に信仰生活を送ったが、担当牧師が男女問題で拘束されたため衝撃を受け、罪に対して深く掘り下げる祈祷をした。するとサタンが現れて原罪を暴きながらうすら笑うように讒訴した。 それでもう一度、イエス様にすがって懇切に祈祷したら「今までお前ほど罪の根について知ろうと精誠を尽くしたものはいなかった」

 と言われながら、

 1、罪の根は淫乱であること

 2、イエス様の十字架はイスラエル民族の不信のためであったこと

 3、主は肉身をもって韓国に来られること

 などのみ言を語られた。

 祖母はそのみ言を長さ二メートル、幅三十センチの紙十二枚に記録しておいた。その後また入神して「時が急がれるので、早く世の中に伝えるように」というみ言を受けて担当牧師に報告すると、それはサタンの仕業であると言われたのであった。そんな中でも恩恵を受けることが噂になって、祖母に多くの人々が訪ねてくるようになり、ついには長老教会の懲罰を受けることになってしまった。

 一九三一年二月になって、石賢(ソクヒョン)おばあさんに聖霊の役事が始まり”新しい主が生まれたので悔い改めなければいけない”と叱責することがあった。それで家族全員で三日断食祈祷をしながら悔い改めると、恩恵に満たされた。それから私たちの家では、毎日礼拝をするようになり、病気を治すための祈祷を受けようと一日に十数名の人々が集まってきた。

 祖母は一九三七年二月二日に総督府総務課の許可を受けて聖主教団をたて、本格的な伝道活動に入っていった。教勢は日ごとに拡大していき、定州(チョンジュ)、安州(アンジュ)、粛川(ソクチョン)、平壌(ピョンヤン)、元山(ウォンサン)、恵州(ヘジュ)、ソウルなど二十数カ所に集会所をたてていった。

 このような環境の中で生まれた私は、信仰の香りが体にしみついているほどであった。

 幼いころは親戚や村の人達から〝新しい主のガキ”と呼ばれて、肉を食べれば情欲が生じ脱線しやすいので肉を食べてはいけないという指示に従って、肉も食べることができなかった。

 ある時、聖主教団の恩恵を受けた青年が高等警察の刑事であることを知らないで、その人を伝道して「日本は今後滅び、韓国は新しい主を中心として世界の一等国になる」ということを言うと高等警察の刑事は、私たちの家に数日間寝泊まりしながら聖主教団の内容を把握して帰っていき、警察に報告した。そのため、一九四三年十月に祖母と父親そして叔父が投獄されてしまった。しかし、祖母の思いを受け継いで家では信念をもって礼拝をし続けていった。

 解放後、南に下って来てからも聖主教団の名前で私たちの家では礼拝を捧げながら、祖母が主張していた思いが父の代でなされなければ私の代でなされ、万一そうでない時には、私の後孫の代に必ずなし遂げられると確信して生活した。

 一九五〇年、六・二五動乱が起こって大邱で中学校(六年制)卒業を目前にしていた 私は、学徒兵に志願して小隊長になり第一線に配置された。敵の陣地に向かって攻撃する中、砲弾が爆発して十名余りの部下が犠牲になるという悲運を味わった。 また、足が切断された部下が私を呼びながらも連れていってあげられないという口惜しさに身もだえしたりした。私は叔父がくれた小さい聖書をいつも胸に抱きながら歩いた。夜、歩哨勤務をした後、静かにふたのない塹壕で祈祷をしたり、聖書を読んだりして過ごした。その後休戦になってからは、陸軍本部作成局教材倉庫に勤務するようになり、家から出退勤した。

 「淫乱で非難される所に行け」

 そのような中、一九五五年六月初め梨花女子大の事件が起こった時、父親が統一教会に訪ねていき、一週間原理講義を聞いて帰ってきた(祖母は淫乱で非難される教会があれば主に出会うことができると遺言を残していた)。父は「祖母が主張していたものより聖書的な面から見ても優れている」としながら不思議だと言った。

 それで私は一九五五年に聖日礼拝に参加してから入会した。一九五七年に大邱からソウルに引っ越しをし、私も陸軍中尉としての七年間にわたる軍の生活を終え、約二か月間原理の勉強に熱中した。 建国(コングック)大学に通う時は文先生から、協力金を頂いた。その時は先生に近く待って生活していた。ある時青年会員たちが冠岳(クァナック)山に登ったが、その時雨がふってきたので、先生と共に橋の下で餅を食べ、山頂では先生と幅跳びなどをした。そして、わが家で金元弼先生と聖進様と共に約三年間生活した。その時私は、のんびりと学校にだけ通うのではなく、前線に出て開拓の道を行くことを決心し、すぐに開拓伝道 に出発した。 伝道師としての最初の歩みはたやすくはなかった。監理教会(メソジスト教会)に通う人と因縁ができたのだが、思いがけずその監理教会の牧師と競争をするようになった。どちらがより多くの精誠を尽くすかによって、その人の心を動かすことができるために、その家にいって早朝の礼拝をしながら原理のみ言を伝えた。

 その結果、その人は原理の前に屈服した。役事というのは神様の愛とみ言でなければあり得ないということを、その時はっきりと体験することができた。特にその人の父親がなくなられた時には、監理教会の牧師に祈祷をお願いするのではなく、統一教会の伝道師である私に祈祷をお願いしてきた。

 伝道生活をしても心が満足せず、心霊が苦しい時は一人で登山をしながら祈祷と瞑想の時間をもった。その時私は、昼食を食べないで過ごしていた。忠州から四キロくらい離れた牧の地を開拓する時は、夕方の集会のために午後五時ごろに出発をし、到着すれば食口たちは夕食を終えた後であるために、すぐにみ言を伝えなければならなかった。 二時間くらいみ言を語って、時には歩いて帰ってきたりもしたが、それでも楽しい日々であった。

 ある時、監理教会に通う一家庭を伝道する中で、監理教会の牧師とぶつかった。お互いがぎこちない雰囲気であったが、挨拶をして私が少し話をすると、その牧師は何も言わないまま席を立ってしまった。その後、その家庭は伝道されて、そこを礼拝所として使うようになり、私は二カ所を行き来しながら礼拝をするようになった。そこでは青年たちが伝道された。

 ある時、礼拝が終わってから十名を引率して徹夜登山をした。忠州教会に、通行禁止十分前に到着し、食口たちと共に急いで忠州市内を抜け出るために南山に向かって走っていった。静かな月夜に一行は何も語らないで暗い夜道を抜け、山の下に到達した。 私は目標地点を定めた後、各自の間隔は五歩、そして先頭と中間と後尾の人を立てて対話をしないようにしながら山に登り始めた。一次と二次の目的地を越えて、三次の目的地である鶏鳴山に向かって前進していったが、後ろでは遅れる人や倒れる人も出た。しかし、その人たちを抱えて歩きながら強行軍を続けて、頂上に無事に到着することができた。頂上に立って勝利者の喜びを満喫しながら祈祷をし、聖歌を歌いながら、眠っている人類が早く目覚めるように祈り合った。行軍に参加した食口は責任者との距離がなくなって、信頼感が強くなっていった。

 先生は聖婚式を終えた後、洪順愛ハルモニが証の中で、選ばれた韓鶴子オモニムを生んだ数カ月後に私の祖母が洪順愛ハルモニに夢の中で現れて、「おまえが生んだ子供はおまえの子供ではないので良く育てて天の前に捧げなければならない」という教えを話されたということであった。このみ言を聞いて先生は「鉄山の、聖主教団の金聖道ハルモニが摂理歴史の中で初めて新婦の準備をしてきたが、鄭錫天長老と母子協助をして新郎 を迎えなければならないのに、その使命を果たすことができなかったために、その罪の代価で鄭錫天長老が半身不随になって、蕩減を受けている」と語られた。

 このようなみ言を聞いてみると、私の使命と責任が重大であることを感じた。私の父親は鉱山を献納して、また忠南(忠清南道)の牙山(アサン)の瓶を焼く工場を受け継いで運営した。

 牧会の一戦に出て行く

 一九六〇年度から公式的な四十日伝道が始まった。私は鎮川郡に任命を受けて出発した。その日の夜は行く所がなくて小川の土手でかますをかぶって寝た。 次の日泊まる部屋を定めた後、伝道に出かけた。あちこちの家を毎日訪問して、み言を伝えたが、これだという実績が現れなかった。うどんと麦飯で朝夕の食事をし、昼は、はったい粉を食べた。

 一九六〇年十月に、全羅北道の裡里の地域長として行くようになった。 その年、冬季啓蒙期間に二十名余りを動員し、二十数カ所に配置して、徒歩で巡回しながら隊員たちを指導した。隊員たちは、大部分学生と青年たちだったので、行く所ごと涙ぐましいことが多かった。

 私は教会にいる時、三十六家庭の祝福を受けた。第一次の面談の時、先生はある女性を指して、「おまえに合うがどうだ」と尋ねられたので、「いいです」と答えたが、 他の人は一組一組と決定していったのに、私には連絡が来なかったので唇がからからに乾くほど焦る思いが募った。

 聖日の朝になって、先生が急に呼んでくださるので行ってみると、相手は他の人であった。父母様の前で決めてくださった相対者と初めて握手をした。本当に歴史的な瞬間であった。ただ有り難く感謝するばかりであった。

 しばらく後に結婚式が決まったので、反対する妻の家に行って挨拶をすると、水一杯を供えてでも式は我が家でしなければいけないと妻の父が怒った。一九六一年五月十五日早朝から三十三組の祝福を準備して十時に結婚式が挙行されたが、外では大変な騒ぎとなった。しかし、無事に結婚式を終えて、新しい家で初夜を過ごした。数日後に妻は全国巡回師として働くようになり、私は裡里教会で活動するために、新婚生活は離れて過ごす所から始まった。しかし、そのような生活がすべて楽しく感謝することばかりであった。

 慶尚南道地区を受け持って

 慶尚南道地区を受け持って、一九六一年八月末に初代慶南地区長として任命を受けた。 私のわずかな牧会の経験で、一つの道(行政単位)を受け持ってみると、すべてが不足であった。毎月先生の指示事項を地域長たちに伝達し、それを確認しながら監督しなければならず、地区の全般的な状況を把握しなければならず、地域長たちの人事問題、食口たちの教育問題なども受け持たなければならない、難しい立場が地区長の職であった。

 地区本部の食口たちの把握が終わると、各地域を自転車に乗って巡回することを始めた。第一回修練会を馬山(マサン)地域本部で実施した時、五十四名が参加し成功をおさめた。私は修練会の成果を吸収するため、釜山から鎮海(チンヘ)まで四十キロを三人が徒歩で行軍するという蕩減条件を立てた。

 地区修練を勝利して、多くの人が開拓に出た。私は開拓隊員たちがいる所を、自転車で巡回した。一度は陜川(ハプチョン)の集会のために、馬山から百キロ離れたその所に向かって出発した。夕方の集会時間に合わせようと身もだえしながら、ベルトをぎゅっと閉めて前進した。しかし、双璧を過ぎて峠を下りて行った時に、自転車がパンクしてしまった。薄暗くなっていくのにまだ二十キロも行かなければならないので、大変なことになった。どうしようもなく、引っ張って行ったが、走ったりしながら夜十一時に陝川に到着した。

 次の日の朝に集会をした。地区本部の生活は食口たちの精誠で維持されている状況であった。一九六二年の正月の一日から食事をすることができず、願わない自然断食をするようになったが、食口が焦げご飯を持ってきたので、それを温めて朝食を食べた。このようなことが私には、み旨を成していくに際して、大きな試金石となった。

 このような中で家内は、全国巡回をする途中で妊娠し、鎮海教会の伝道師としてしばらくいたが、出産日が近くなったので上京してきた。しかし、私は出産に対して何を準備するべきかを知らずに、何もすることができなかった。しばらく後に男の子が生まれたという連絡を聞いて、まごつきながらも、嬉しい心が増し加わって、父親になったという実感をもった。先生はこの子供の名前を珍雨(チンウ)と付けてくださった。その後百日が過ぎて妻が子供を連れて来たので、結婚してから一年が過ぎてやっと家庭生活を始めることができた。食口たちは大部分一人で教会に来るので、地区長の夫婦が安楽な新婚生活 をするようになれば申し訳なく恐縮であった。それで、子供を連れて夫婦が向かい合ったり愛らしい話を交わすこともできないまま、食口たちと共に和動しながら過ごすように努力した。

 ある時は食口たちに会うことが申し訳なくて、夕ご飯を食べた後に部屋から出て、 二階の礼拝室に行き、過ごしていると妻が子供を抱いて上がって来た。そこで、私は屋上に上がって行ったが、しばらくすると妻がまた上がって来た。このようにかくれんぼをしながら信仰生活をしたが、私が一人でいる時よりも家内と子供が共にいるので、教会の雰囲気がずっと良かった。

 一九六二年、夏季四十日啓蒙期間には、全食口を開拓伝道に動員させ、巡回した。私は巡回をしながらどのようにすれば父母の愛を食口たちに十分に与えることができるかと、いつも気が焦った。私が慶南地区に一年間いながら、全地域本部を二回以上巡回した。ある時は釜山から出発して、馬山で一夜を過ごし、晋州(チンジュ)と山清(サンチョン)、咸陽(ハミャン)を経て、居昌(コチャン)地域の加祚面(カジョミョン)教会の献堂式に参席するという、非常に目まぐるしく過ごしたこともあった。

 四十日啓蒙をする時は政府までが妨害をした。このような事実を知った先生は、緊急に地区長会議をもって、我が教会は看板をはずすことがあったとしても、啓蒙と奉仕で天のみ旨を伝えることをおろそかにしてはならないと、強く指示された。

 その後私たちはより一層熱心に活動して、周囲から認められ、私たちに反対する公文を取り消すことができた。一九六二年九月ごろに、先生が全国巡回をする途中で慶南地区に来られた。私は、釜山駅でお迎えし、タクシーに乗って教会に行った。食口たちは沿道に二列縦隊で立って歓迎した。先生に侍るのにはいろいろ困難が多かった。食堂と寝室などがとても不便であった。

 全北(全羅北道)地区で情熱を注ぐ

 全北地区で情熱を注ぐこの時、文先生は私を全北地区長として任命されながら、歌を歌いなさいと言われた。私は離別の歌を歌った。 全北は、それほど疎い所ではない。以前に裡里教会で、活動したことがあったからである。

 赴任してからしばらく後に、冬季啓蒙期間になって、食口たちを総動員して、啓蒙に参加させ、七ヵ所地域を自転車で巡回した。最初の目的地である任實地域に行く時は、大雪で南原地域は十四名の幼い学生たちがすべての反対を押しのけて教会の生活を受け持っていた。弁当は地域長たちに差し上げ、昼食は断食をしていた。私が巡回に行った時もその学生たちが精誠を込めて接待をしてくれた。巡回をしながら感慨深かったこと は、昔、裡里地域長の時代には、徒歩で巡回して活動したが、今は地区長として自転車で巡回をするようになったということである。

 私はその後二人目の子供、健淑(コンスク)を得た。安産であったがその理由は、母親が栄養不足で子供が十分に大きくなれなかったからである。子供は乳が足らなくて、泣く声がやまなかった。だからといって牛乳を買って飲ませる訳にもいかなかったので、やるせない思いであったが、復帰摂理の第一戦責任者として、甘んじて受け止め、越えていかなければならない十字架の路程であったので、黙々と越えていくほかなかった。母親が子供を背負って商売をしながら、乳を飲ませるのだが、乳が足らずにいつも泣いていた(健淑が七才の時体重を測ってみると三歳児の体重しかなかった)。

 私は、毎月ソウルで地区長会議を終えた後には父親を訪ねて、信仰的な教えを受けた。その教えの中で忘れられない内容は、万事に感謝する生活をしなければならないというみ言である。それは「感謝する生活は、感謝することができない立場で感謝することが本当の感謝である」という意味であった。

 また、先生のみ言の中で同じ実力や同じ条件の場合には、誰がより多く活動するかによってその勝敗が決定されると言われたことがある。それで私はできる限り、地方巡回を何度も行い、地方の食口たちと会って、心情的な因縁を結びながら、先生の思想と愛を伝えるために努力した。

 一九六九年秋に、青年十二名を連れて三泊四日の日程で智異山(チリサン)征服に出かけた。南原(ナムウォン)の雲峰を経て、天王峰で一泊をしてから、地図上に出ている泉を捜してみたが、泉がなくて四キロ後方に行き、朝ご飯を作って持ってこなければならなかった。指揮官の誤った判断によって、無駄な苦労をしてしまった。私たちは三泊四日を共に過ごしながら、 困難を克服することによって、団結と協力することで一つになっていった。

 一九六六年四月、先生は各地域長たちにジープ車をくださった。その時は車を持っている人が余りいなかったので、天の有り難さを改めて感じることができた。地方教会を巡回すれば食口たちがより一層喜んでくれた。先生が全北に巡回に来られた時、茂朱具天洞(ムジュグチョンドン)に御供して行ったが車が故障してしまった。茂朱(ムジュ)教会での夕方の集会のために慌てて行きながら、待っている食口たちのことを考えながら、苦労して行ったこともあった。先生は全州と淳昌(スンチャン)、茂朱教会の集会をもたれた。

 一九六六年七月には鎮安(チナン)の馬耳山(マイサン)で地域長、夏季修練会を実施した。ある晩、原理講読会を通して、質疑応答をしながら共に学んだが、地域長たちが疲れて居眠りばかりしていた。何度も起こしたが手のつけようがないので、馬耳山登山を命じて私が先頭に立った。地域長たちは気分が良くなかったであろうが、どうすることもできず従ってきた。 そうして全員が真っ暗な山道を手探りしながら頂上まで登って聖歌を歌い、万歳を叫び馬耳山に鳴り響かせた。次の日には、地域長たちの精誠を集め、平地から二十メートル高い所にある穴の開いた所に三百六十五個の石で塔を作り、統一塔と名づけた。

 一九六七年度初秋には、先生が全北に巡回に来られて鹿狩りをされた。淳昌郡(スンチャングン)雙置面(サンチミョン)を経て、福興面(ポクフンミョン)にある山で十名余りの人が声を出しながら、山頂に向かって前進していくと八合目に至った時、「鹿だ」という叫び声と共に銃声がけたたましく鳴った。その 後、「当たった」という喜びの声が聞こえたので、私は嬉しくなって頂上に向かって一所 懸命走った。息が切れて汗が滝のように流れた。 突然また銃声が聞こえてきて続けて「捕まえた」という叫び声が聞こえた。その後私は、二頭の鹿が横たわっているのを見た。 その瞬間にすべての疲れが喜びの声に変わった。私たちは鹿の血を飲むという栄光を分かち合うことができた。

 またある時には地区長会議をしていた時、先生が夜の釣りをされた。何の準備もなく、 釣り場に来た私たちは横で見守っていたが、天幕でうたた寝をし朝早く起きてみると、 先生はすでに釣り場に出かけて座っておられた。このような苦労の中で先生は、大自然の運勢を呼吸しながら精誠を尽くされる時間であったことを感じた。釣り大会があった時、私は十五匹を捕まえて、二等になり先生から釣り竿を賞品として頂いた。その釣り竿は私の大切な財産になった。

 私が全北に赴任して八年になる時、家を借りて地区本部としていたために、いろいろ と困難なことが多かった。私は全北を離れる前に、地区本部教会をたてるために積極的に推進して、全食口たちの精誠で、太平洞(テピョンドン)一街(イルガ)にある大地百十坪に六部屋の韓国式住居を購入した。私たちの家を準備したので、いくら賛美歌を歌っても、また声を合わせて祈祷しても、何も言う人がいないので、心が平安であった。

 先生の家庭に似ようと努力する

 私が全州に赴任した時、私の家族は三人であったが、離れる時は七人になっていた。 ソウルでの生活は一から始めなければならなかった。 永登浦(ヨンドゥンポ)地区長として就任したが、 集会所さえも粗末だった。やっと何人か力を合わせて五坪の二階部屋を借りて開拓を始 めた。しかし、生活も不十分で明日の朝食を心配していると、不思議にも食口たちが献 金をしてくれて、何とか食事をして伝道に専念することができた。

 一九七〇年十二月、「全祝福家庭婦人たちは総動員して、三年伝道に参加しなさい」という命令が下った。そして「不参加者は千秋の恨みを残す」と語られ、妻も参加することになった。ところが次女の韓淑(ハンスク)を生んでから、まだ四十日しかたっておらず、今まで叱られながら結婚をして、やっと落ち着いてきて両親も安心しているのに、「子供たちを実家に預けて伝道に行く」というので、「祝福を受けた家庭から天国が始まると言いな がら、今になって家庭を破綻させようとするのは、いったいどういうことか」と言われたが、弁明することはできなかった。

 妻は任地に出かけ私は全国巡回師として回るようになると、家には幼い子供たちと世話をする姉妹が生活をやりくりしなければならなかった。 生後四十日になる赤ちゃんをまだ幼い姉妹が育てていかなければならなかったので、時間に合わせて授乳することさえできなかった。そんな時には霊界がその姉妹を起こして乳を飲ませたということが、一度や二度ではなかった。

 近所の人たちが不思議な家だと言いながら、子供たちだけで住んでいるのに特別な事故もなく過ごしているのを見て、「神様が守ってくださるお陰だ」と話していたそうである。時々会議に来て家に寄ってみると、大喜びになった。子供たちが健康に成長しているのを見るごとに、「父母が天のみ旨の前に忠誠を尽くした生活をすれば、天が子供たちを守ってくださる」ことを実感することができた。

 先生が三年伝道の命令を下さったのは、世界的な摂理歴史の出発のために、民族的な基盤の上に立たなければならなかったからである。反対する父母たちに、祝福家庭の子供たちを預けて、世話をさせることによって、民族的な蕩減条件を立て、一九七二年に先生は世界的な摂理歴史を出発されたのである。 過ぎ去って初めて、先生がなさることが天の摂理のプログラムに合わせるための方法であったことが分かった。

 永登浦教会では、家を借りるのに大変であった。子供が八名もいるので、家主の顔色をうかがわなければならなかった。それで引っ越しをする時には半分の子供を叔母の家に預けておいて、夜になって連れてきた。しかし、後になって家主が見て、子供が多いことに気づいて、苦情を言い出すとまた引っ越しをしなければならなかった。それで最初から古い家を借りたが、雨が降ると壁の土が落ちてきて、家が崩れると思い、荷物をまとめる準備をした。すると、次男の珍華(チンファ)が「荷物をまとめるのではなく、急ぐなら先生の写真だけを持って行けばいいじゃないか」という言葉に、気を取り戻したりもした。 また雨の夜、長女の健淑が夢を見てご母様が来られて家の周りを見ながら「心配する事はない」と慰めて行かれたと言いながら、天が守ってくださると喜んだ。いつも私たちは子供が多いために冷たい視線を受けてきたが、ある時先生が特別に家を買ってくださって、その後は家のない悲しみから逃れることができるようになった。

 いくつかの分野の使命を担当する

 婦人伝道隊員たちの活動期間が終わると、巡回師制度がなくなり慶北巡回伝道団が編成され、私は慶北地区の巡回伝道団長として任命を受けた。その後教区長として任命されたが挨拶もしないうちに、今度は国際勝共連合事務総長として推薦された。私が巡回師の時に全国を巡回しながら、牧会者たちが勝共活動に偏って牧会を軽視しているのを見て、「勝共活動をしていては天国に行くことができない」と言ったが勝共連合に行くよ うになったので、苦笑いをせざるを得なかった。しかし、推薦を受けたので活動をしながら日本勝共連合の招待で、与野党国会議員十名余りを引率する実務者として、日本に同行した。韓国では統一教会が認定されていないのに、日本における活動状況を見て、皆が驚いた。

 私は勝共連合にいながらも、教会の方針と一致する方向に運営していくように努力した。政府では勝共連合を統一教会の勢力拡張の一環として利用しているにすぎないとして反対し、勝共運動を妨害した。しかし、私たちは熱心に活動したので、政府も私たちの実績を認め一九七三年、十月には全国から人々を集め、中央修練所で勝共教育を実施した。その時までの反共教育は、「共産主義は非人間的であり、北韓は地獄である」という類の感情的な教育をしていたが、私たちは理念的に勝共 (共産主義に勝る)しなければいけないと主張し、そのような教育を行った。

 一九七四年九月初めに天の恩恵として、世界一周旅行をするようになった。アメリカに行ってみると食口たちは、マジソンスクエアガーデン大会のために力を尽くしていた。大会前夜祭のバンケットは、ウォルドルフ・アストリア・ホテルで開催されたが、 大盛況を納めた。そして次の日の大会には、三万の席が満員になり入場を制限すると、外では入場できなかった人が三万名以上になったという。先生が語り始めるとすぐに、 一人の男が立ち上がって大声で騒いだが、外に出された。その人は韓国人の牧師であったという。先生は笑いながら山有花の歌(農作業の時にうたう歌を歌われ、雰囲気を和らげてから再び話を続けられた。

 先生はこの大会を終えてアメリカ国内の八大都市を巡回講演をされた。 忙しい中にも私たち一行を引率されながらデパートに行って、洋服、ワイシャツ、ネクタイ、靴などを一人一人に選んで買ってくださった。そして、食べ物も一番おいしいものを私たちに食べさせようといろいろと好みを聞いてくださった。

 私たちは有名なディズニーランド、宇宙航空発射基地、アトランタ、ナイアガラの滝、ワシントンの生家、国会議事堂、ジョペス、マイアミ、シカゴ、百十階の高層ビル、ニューオリンズの四十キロの橋などを、四十日間見て廻った。アメリカは大国であった。そのせいか、アメリカ人はどこでも世界一だと言った。そのような優越感と、自負心をもっているアメリカ人に天の新しい秩序を教えようとされる先生のご苦労が、どれ程大 きいものであるかを実感させられた。

 次には、イギリスとスコットランド、ドイツ、フランス、イタリア、バチカンなど二十カ国を巡回した。その後私は、勝共連合で約二年間勤務して一九七五年六月に一和販売株式会社の代表理事に就任した。初めは、事業分野に足を伸ばしてみると、すべてが分からないことばかりであったが、何よりも急がれることは市場開拓だった。それで宣伝と販売に拍車をかけた結果国内市場をつかむことができたが、いろいろな経費を減らすためには、一和販売株式会社を一和製薬の営業部として吸収させるのが望ましく思われ、先生に述べたところ一和製薬に吸収された。

 その後先生に侍り、済州島に狩りに行った。初日は私に銃を与えてくださらなかったので、寂しく思った。しかし、その次の日には銃を持って出かけ、雌キジ二匹を捕まえ三日目には先生が見ておられる所で、雄キジを捕まえた。雄キジを捕まえてこそ、狩人として認定されるのである。休み時間に、先生と共に写真を撮るようになったので、ニコニコと笑みが止まらなかった。またある時、柳鍾泳(ユジョンヨン)部長と一緒に行く途中、雄キジが飛んで行くのを見て撃つと、そのまま落ちてきた。本当に楽しい時間であった。

 そして夜にはチームを作ってユンノリをしたが、ユンが続けて五回も出た。私は五つのコマを重ねて一気に行こうと主張した。しかし先生は、そうしてはいけないと言われたが私が、最後まで主張するのでそのとおりにしてみた。しかし、結果は途中で死んでしまった。

 教会部長から開拓教会長に

 私は教会伝道部長として、新しい職を命ぜられた。まず全国教会現況を把握するために二回も全国を巡回した。その中で感じたことは、「絶対的な原理のみ言をもっていながらも、教会復興がうまく進まない原因は責任者たちの実力不足である」ということであった。責任者の大部分は、心情と愛を土台にして食口たちを指導するのではなく、アベルの立場に立って命令をする形で指導したので、食口たちの心情と事情が通じず、一つになることができなかったのである。

 それで巡回しながら、食口たちには悟るようにし、一方では責任者たちの質的向上のために、続けて原理講義と説教学と相談学などの教育をしながら、勉強する方向へと導いていった。そして、教会を新築したので日曜学校を運営することを強調し、教育を施しながら日曜学校の教科書も発刊した。

 一九七六年度こそは私にとって、喜びと悲しみが行き来する年であった。天は四月一日から五月末まで、六十日の特別伝道期間を定めて、六千年の歴史を蕩減する大きな恩恵を与えてくださった。そして私の家庭には八人の子供がいるからと、先生が賞金を下さり、ピアノと冷蔵庫を購入して子供たちを喜ばせることができた。以前は子供たちが、日曜学校の礼拝を終えると友達同士遊んできて、「誰の家は何があるけれども、私たちの家にはなぜないのか」と不満を言っていたため、父母としての道理を果たせないことを申し訳なく思っていたのであった。

 私の父親である鄭錫天(チョンソクチョン)長老は十年近く半身不随で苦しんできたが、十一月四日に七十一歳で他界した。父親の還暦の時にも参席することができず、五百ウォンを送って差し上げたが、病の床におられながらも言われたことは、「還暦の時に使いなさいと五百ウォンをくれるものがあるか」と寂しがっていたという。それを聞いて私は父親の死体の前に悔いた。

 一九七七年には、総務部長に任命された。そして一九七八年度には重要な年であるので、熱心に活動しなさいという先生のみ言によって百日間朝食断食をして、妻と清平に行き、三日断食をしながら先生の身辺のために祈祷を捧げた。

 一九七九年度からは伝道部長を兼任しながら忙しく過ごし、一九八〇年度には、先生に侍り日本の幹部百五十余名と韓国の教区長達が共に雪岳山(ソラクサン)と東海岸を経て、 慶州、釜山などを巡回した。

 一九八一年度には譽進様の結婚式で、司会を受け持ったが、独身祝福の時には初めてのことであったのでかなり戸惑ってしまった。私は「先生と同じ立場に立つことができなかったとしても、絶対にやり遂げていく」という心情で、二十七年間み旨の道に従ってきた。そのため、いろいろな困難があったが今まで残ることができ、天の導きと愛を十分に受けることができたと思う。今私は、開拓教会長としての立場だが、いつも感謝 する生活をしながら祝福に答える者になっていこうと努力している。

信仰の系譜

 祖母の啓示による信仰の雰囲気の中で成長する

 私の信仰生活は私が母親の胎中にいる時から始まった。その当時、祖母は特別に啓示を受けた内容を中心として信仰生活を送っていたので、他の人とは違った困難を味わっていた。なぜならば、その啓示の内容が理解しにくいものであり、多くの非難を受けていたからであった。

 祖母は啓示の内容ゆえに、通っていた教会からも罰を受け、その教会に行くこともできないまま家で礼拝をするようになったという。これをきっかけとして、この時から祖母の役事は大きくなり、志のある多くの人が集まり始め、私の信仰も小さい時から祖母の教えに従っていくようになり、信仰的な役事を見聞きしながら成長していった。その当時、祖母が受けた啓示の内容は、

 1.再臨主は肉身をもって韓国に来られ、

 2.韓国は世界の中心的な国になり、

 3.人間の堕落はある木の実を食べて堕落したのではなく、淫乱で堕落したのであり、

 4.イエス様を殺したのは過ちで、十字架は既定事実ではない、ということだった。

 私は幼い時から、このような内容の信仰教育を受けてきたので、祖母が受けた啓示の内容を絶対的に信じていた。そして、「このみ旨を万一祖母が成就できなければ、父親が達成するであろうし、またもし父親もできなければ、私の代になされるのであろう。そしてもし、私の代でもできなければ、私の後孫を通して必ず成就されるだろう」と確信していた。

 私の少年期の信仰生活は大部分、家で行なっていた。私たちだけが知っている啓示の内容を中心として、信仰生活をしてきたがその後、私たちの家族は新しい原理のみ言に接するようになって、大きな驚きと共に生の喜びを禁ずることができなかった。

 原理のみ言は我が家で主張していた啓示の内容よりも、より一層はっきりと正確に解明してくれるものなので、私たちは大きな感銘を受けたのである。その中でも特に、再臨論に対しては少しの疑いもなく、ただ絶対的な真理として信じる、その信仰心だけがより一層深く根をおろすようになった。

 多くの人たちがここに呼応して集まってくるのを見る度に、私はより一層固い決心をするようになり、統一教会に入教した後にはこのみ旨が必ず成就されるということを、より強く確信した。

 開拓伝道の出発

 私は恵みにあふれた心になり、喜びの中で生活する期間を送るようになった。私の心は家から学校にのみ通うことを許さなかった。私は、生活に変革を起こさなければならないという心の声を聞くようになった。それで、学業を中断して伝道の第一線にみ旨のため出ていかなければと決心した。ただこの道だけが、祖母が教えてくれたみ旨が成就される道だと考え、そのように実践しなければいけないと考えた。

 私は「誰にも負けない、天のみ旨をなす役軍になろう」と自らの心を引き締めながら、開拓伝道の道を出発したのだった。天のみ旨を成すために、わずかながらでも助け人になっていきたいという一念で忠州に向かった。私の責任者としての第一歩は軽くはなかった。天の息子として、日々の歩みにおいて見本にならねばと難しい問題を抱き、信念に満ちた姿で出発した。ただ、天だけを信じる心で出かけた。天は求める者に与える" というので、求めるべき場所で天をつかんで身もだえするしかなかったのである。

 天は確かに生きておられ、私の祈祷に応答してくださるのを見た。私は監理教会(メソジスト教会)に通っていた。勧士の人を伝道するようになったが、このこと故にその監理教会の牧師と競争することになった。どちらがより多く精誠を尽くすかによって、その勧士の心を動かすことができるので、牧師と私は思いもよらず、精誠競争をするようになったのである。勧士の家は私が住んでいる集会所のすぐ前の家だったが、この人は果樹園を経営していた。この人が忠州では有志として知られていたので、異端扱いをされながら、社会から非難の対象になっている統一教会を信じるというのはとても難しいことであった。

 しかし、私はずっと精誠を尽くして、原理のみ言を伝える事ができる機会をもった。その勧士が通っている監理教会は遠いので私たちは早朝祈祷会の時間を利用することにした。二、三人が「心を合わせて祈れば、成就してくださる」とのことなので、私たちはそのみ言を信じて心を合わせ祈祷しながら、勧士の家で早朝祈祷会を行うことに決め、早朝五時三十分ごろに行くと門が開けられていて、その人の寝室で早朝礼拝をした。 原理のみ言に順々に接していくことになり、勧士は原理の前に屈服するようになった。このような姿を見ながら、心の中でどれくらい嬉しかったかわからない。

 監理教会の勧士を伝道する

 復活の役事は、神様の愛でなくてはあり得ないことだと思う。勧士も神様の愛の導きが直接臨んで、再創造の役事が起こったのであった。

 特に忘れられないことは、勧士のお父さんが亡くなられた時、監理教会の牧師に祈祷を依頼せずに、統一教会の伝道師である私に祈祷を願ってきたことである。これは原理のみ言に接してみると、死ぬ瞬間がどれほど重要なことであるかが分かり、家庭内でも 満足できないことがあれば、正しながら生活するようになったからであった。 そして、 勧士は統一教会に入会し、非難するのを楽しむ人々に対して防波堤の役割もするように なった。また、何よりも既成信仰をもった婦人たちを伝道するようになったことが嬉しいことであった。この時、本部教会に席を置く、金(キム)食口の経済的な協力によって忠州教会の復興を行ったことも感動的な出来事であった。

 私は伝道生活をしていても、心が満足できない時や、心霊が苦しい時には登山をしながらサタンを打ち砕かんばかりの喚声を上げたり、祈祷する時間をもった。

 ある時、鶏鳴山(ケミョンサン)という高い山に登った。祈祷する心情で登り始め、八合目に来た時、私の視野には万山平野が広がった。昔と変わりなく悠々と流れる南漢江をながめる私の 心は深い感慨にひたった。

 「み旨をなしていく上で、受難の紆余曲折が伴ったとしても私はあの川の流れのように変わることなく、すべての十字架の苦難を克服していこう」と忠誠を誓った。

 私の視野に展開されるすべてのことを、私の師として学ぶ時間であった。語らずとも 神秘さを感じることができるため、私は時々山を探し求めるようになり、青年たちと学生たちを指導するためにも、山登りを楽しんだのであった。登山をする時にはすべての雑念を一掃することができ、お互いに団結し、協力するよい機会となった。

 文先生は草創期に食口たちを引っ張って、ソウルの周辺にある山に登られたが、私は先生が直接指導されるその姿を思い浮かべながら、幼い兄弟たちの教育に力を尽くした。

 ある時山に登り気分が良くて、かなり大きな石を転がしたことがあった。大きな石がゴロゴロと音を立てながら転がっていく光景を見ながら、実に爽快であった。ところが山の下で作業をしていた人が叫ぶ声に私は「あっ」と驚き、楽しく過ごしていた気分は影も形もなくなってしまい、背筋がぞっとした。

 平凡な生活の中の非凡な教訓

 山の下から木こりの叫び声が聞こえてきたが一度転がり出した岩は、我知らずといわんばかりに楽しそうに転がっていくのであった。本当にとんでもないことだった。木こりの叫び声には構わず、岩は摩擦音を立てながら、踊りでも踊るかのように、高く低くジャンプする度に、私は冷や冷やしながら気が気でなかった。

 私は緊急な思いにいつの間にか神様を呼びながら、「助けてください!」と祈った。また「下で叫ぶ人の声を聞きとめて、岩が無事に通り過ぎるようにしてください」と心の中で切に祈祷した。私はこの時、平凡な生活の中から非凡な教訓を得た。「サタンはいつも、どこでも私を苦しめることができるので、私の気分のままに生きた時、それが天のみ旨を妨げることになり得る」ということを実感した。万一ここで事故が発生したら、どれほど不幸なことだろうかと考えた。それで私は「すべてのことを余りに急いで慌ててするのではなく、前後左右をぐるっと見回して、失敗しないように慎重にしなければならない」と感じた。

 またある時は、忠州から四キロほど離れた牧杏 (モッケン、忠州肥料工場のある所)を開拓した。 その当時は昼食を食べないで過ごしていた。私は夕方の集会のために、午後五時ごろに は出発して急いで歩いたが、私が到着した時は食口が夕食を終えた後であったため、すぐにみ言を伝えなければならなかった。

 そこで人々が夕食を食べたかどうか尋ねてくれば、私は「食べた」と答えるしかなかった。原理のみ言を約二時間くらい語ったが、その後は車に乗せてもらって帰ったり、歩いて帰ったりした。

 夕食はもちろん帰ってからとったが、私は帰ってくる道すがら急ぎながらも祈祷と賛 美を忘れなかった。その当時のことを考えただけでも、楽しい恩恵の夜がよみがえってくる。私は精誠を尽くして監理教会に通う、ある家庭を伝道している時、思いがけず、その教会の牧師とばったり出会った。お互いがぎこちない雰囲気であったが挨拶をしないわけにいかず、あいさつをして少し話したが、その牧師は何も言わないまま席を立ってしまった。それからその家庭は伝道され、そこが礼拝所になったが、そこでは青年たちが伝道された。

 徹夜登山強行軍

 ある時は、そこで礼拝が終わって、帰宅した後、青年たちと学生たちを集めて夜十一時に十余名を引率して忠州教会に通行禁止十分くらい前に到着した。 事前に忠州青年たちと共に徹夜登山強行軍をすることに約束していた。私たちは、忠州市を取り囲んでいる新山、前山、南山、鶏鳴山(ケミョンサン)を一周して早朝五時に到着して、早朝祈祷会を一緒にする 約束をして出発したので、強行軍をしなければならなかった。

 また、通行禁止にひっかからないように、一次目標が十分以内に忠州市内を通過していくこととなり、二十名近い人員が夜道を力強く歩んでいく音は夜の静けさをこわしていった。

 静かな月夜に私たちの一行は、無言のまま暗い夜道を貫いて、山に登っていた。そしてやっと通行禁止を逃れることができ、目標地点を定めた後注意事項を伝えた。私は将校で除隊した関係上、夜間訓練の経験があったが、それを土台にして天の息子、娘を訓練することになるとは考えてもいなかった。

 個人の間隔は五歩、先頭者と中間と、そして後尾を決め、対話を一切禁じ、五十分間の行進と十分間の休憩などを守るようにした。暗い罪悪世界を清算する天の息子、娘たちが開拓の精神を高めるために、黙々と祈祷する心で前進しなければならないと思った。絶対に落伍者がないようにお互いに協力しながら、一次目的地に向かって進んでいった。一次目的地と二次目的地は無事に越えることができた。しかし、2次目的地である南山から三次目的地である鶏鳴山に行く途中、部落を通過して行ったが、犬の鳴き声がうるさく響いた。私は「天の息子、娘たちが、暗黒の世界を切り開いて光り輝く天国建設のために勇進しているので、サタンたちが発悪の声を上げているのだ」と思いながら、三次目的地に向かって行った。そして、朝が近づくと後ろで疲れる人も出てきたので、私は後尾から激励しながら前進して行った。

 鶏鳴山は簡単ではなかった。道のない茂みの中をかき分けて、木の枝にひっかかった 倒れたりしながら最後のコースを走っていった。私たちが八合目まで前進したが、突然一人の青年が疲労困憊して、その場に座り込んでしまった。私は一旦前進を止め、その青年の症状を確認した後、もう一度彼を脇から支えながら、定時刻に到着するように強行軍を続けた。

 不思議なことに体の調子が悪かった青年は次第に回復し、頂上では笑みを浮かべるまでに至った。私たち一行は聖歌を力強く歌った。そして祈祷し、天に向かって誓いを立てた。どんな困難にぶつかっても最後まで耐えていきながら、目的地であるカナンの地に向かっていくことを決意する祈祷をしてから、力強い万歳をして早朝の空気を揺るがした。

 その声はあたかも眠りに陥ちた人類を目覚めさせる起床のラッパ音のように力強く鳴り響いた。責任者として途中にあったいろいろな出来事を振り返ると、み旨と関連して感じられた。「サタンの試練があったとしても、目標達成のために身もだえしながら歩めば、天の恩恵があり、勝利を得ることができる。私たちは心を合わせて目標を立てて 前進すれば、勝利の喜びを感じるように、成功の秘訣は行動することにある」と悟った。 私たちは早朝祈祷会を共に過ごしながら、恵み深い時間をもつことができた。

 試練と苦痛の後に来る恩恵

 試練と苦痛があった後には、天の恵があるというみ言を実感できたことが嬉しかった。一夜の出来事であったが、行軍に参加した食口たちがお互いに近くなり、心を合わせ、責任者との距離感がなくなり、お互い信頼の対話を交わすことができる機会となった。

 当時参加した学生としては、金重壽(キムジュンス)氏もいた。今も時々、その時の話をすることがある。「私のものを私が大切に思い、抱き続けなければ誰が私のものを貴重に思ってくれるか」ということを感じる。このような観点から見る時、私は忠州での開拓史を日誌にとどめておかないわけにはいかなかった。

 教会で復興会をするためにタクシーを借りてマイクをつけ、忠州市内を往来しながら 原理を宣布したことも楽しいことであった。私はここで牧会者としての体験を積みながら、人格修養に多く役立てることができた。正しい思想とみ旨をもっているからといって楽しいわけでなく、そのみ旨が実りとして現れた時嬉しいのである。その実りが得られるまではじっとしているのではなく、意欲をもって活動しなければならないのである。 そして私は牧会というのがどのくらい難しいものであるかが分かった。すべてのことは私を中心としてなされるのではなく、相手を中心として食口たちが何を願っているのかを知って指導しなければいけないためである。

 私は何よりも、私自身を克服する生活が最も難しかったということができる。以前、軍隊生活で部下に対して命令するように、食口たちを呼び捨てにしたり、また、私の考えが絶対的なので食口たちは無条件に従わなければならないというように行う時もあった。食口たちが責任者に自分の信仰を告白しようとする時、話をすべて聞きもしないで、自分の立場で何でもないことだと思ってはいけないのである。私はアベルなので、カインの立場にいる食口たちは従順に屈服して、天の愛を伝授されなければならないというように、強調してもだめである。

 また責任者自身の不足な点を隠してもいけない。それが続くと誰の忠告も受け入れず、おかしくなってしまう。そして、自分を中心としてみ旨をたやすく考え、天が願う食口の姿をつくっていかなければならないのに、自分に帰結させてしまうのである。

 心に尋ねて生活しなければ

 私は弾琴臺(タングムデ)に行くたびに壬申倭乱(文録・慶長の役)の時、一五九二年四月に北進する小西行長に会い、聞慶鳥嶺(ムンギョンチョリョン)の天然要塞地を捨てて、大平原に日本軍を呼び寄せ、弾琴臺で背水の陣を敷きながら闘った申(シン)将軍について考えた。

 国家の存亡を左右するのは一人である。その申将軍、一人の誤った状況判断により、 結果は大変なことになった。万一、聞慶鳥嶺の天然要塞地で一戦を決していたなら、韓国の歴史は変わっていたであろう。しかし、将軍一人の失敗が後孫にまで悪影響を及ばしたことを本人は知る由もなかった。このように考えてみると、申将軍に対して怨み深く思われた。しかし、万一、私がこの将軍と同じ立場であったとすれば、どのようにするだろうかと自問自答してみた時、私はハッとさせられた。なぜなら、私は六千年間天とサタンが戦う戦闘に参戦した第一線の指揮官として、天が悲しむ誤判をしたなら、天と人類の前に審判を受けるようになると思うと、恐ろしく感じたからである。

 私は心の中で決意をした。誤判によって、天と人類と後孫たちの前に非難の対象になってはならないと、心の中で叫んだ。それのみならず、六千年の長いサタンの歴史路程を精算しようと出発した先生は、どのように歩んで来られたのかと考えてもみた。その時、私にこんな言葉が思い浮かんだ。金元弼先生が南に来られた後、徴兵されて先生と別れる時「一人でいる時は、どのようにすればよいですか?」と質問したところ、先生は「すべてのことを心に尋ねながら生活すればよい」と語られたという。私は「誤判しないように、すべてのことを祈祷する心情で心に尋ね、天に尋ねる生活が体にしみつかなければならない」と感じることが一度や二度ではなかった。

 不足な私が責任者の立場に立ったため誤判しやすいので、食口の中で話し合う相手を、壮年、婦人、青年などの各層から三名ずつ立てたのである。そうすれば、歴史的な誤判を避けられる確率が高いので、尋ね話し合う指導者にならなければいけないと感じた。復帰の戦線に出た私たちは、話し合う相手をもつことがどれほど重要か分からない。それで、私は信仰的に金元弼先生とよく話し合いながら、開拓の信仰生活を維持してき た。私は忠州にいながらも本部のことや、本部行事に関心をもった。天と因縁を結んだ最も近い所であるためである。私の心霊の疲れを慰めてくれ、先生の復帰戦で誤判を下さない名指揮官としての秘訣を学ぶため、しばしば出入りした。私のすべてのものを食口たちに分けてあげた後は、虚脱感を感じ、それを補充する供給所を求めて奔走する日々を過ごした。

私の家庭生活

 私が祝福を受けていつの間にか十六年という歳月が過ぎ、子供が八人にもなった。 長いといえば長く、短いといえば短い歳月だが、自分自身を振り返ってみれば実に早い月日だった。十六年前、祝福を受けてもそれぞれ離れて暮らしながら妻は妻なりに巡回し、最初の子供を生んで初めて全州(チョンジュ)地区で一緒に暮らし始めた。しかし一九六二年度には自転車で全州地区を巡回していたのだが、そうしてみたら一ヶ月に二十日余り回って家に帰り、また地区長会議に参席して帰ってくるのに三日ぐらいかかったため、実際に一緒に住む期間は月に七日くらいしかなかった。そしていつも教会の食口達と一緒に暮らしていたので、水槽の中で魚が遊んでいるように感じられた。

 一九六九年にソウルへ上京して別々の暮らしをするようになったが、その時からは家 庭生活を始める気分であった。その理由は子供たちを育てるのに中心を定めて生活できたからである。最初に長男の珍雨(チンウ)が生まれて一緒に生活した時は、必ず寝る前に二人でご父母様に敬礼を捧げ、朝も敬礼をする生活をした。お互いに知らなかった者が出会い、心を合わせて生きることに努力したが、年をとって結婚したので比較的大人の気分でうまく心を合わせて出発することができた。ところで、やはり女性というのは一日中子供のことでクタクタになり、家族のことで苦労させられるが、すべての疲れを解く対象はただ夫だけなのである。しかし夫はやはり公的な生活の疲労と困難な問題による疲れのせいで、妻に対してそれほど神経を使えないのである。

 ある日私は「どんなに疲れていても家庭生活に気を使わないといけない」と感じた。わずかな時間でも空き時間ができれば妻と信仰の話をした。本質的な信仰の話、自分の生活で感じたこと、自分の生活で辛い点などを話し、お互いに自分のことを相手に伝えた。そうすることでお互いの本当の事情を知り、感じ、深い心情に通じることができた。ソウルに上京した時からは家庭団欒のより平和的な家庭の雰囲気を築くために、毎週土 曜日には子供たちと歌合戦をして賞金をあげたり、夫婦で合唱をしてあげたりして過ごした。そして特別なことがある時には必ず子供たちへ報告してあげた。

 毎晩寝る前には家庭礼拝をした。その時は歌や、賛美歌を歌い、父親の日々の生活報告をしたり、母親が子供たちにうまくできなかったこと、ケンカしたこと、うまくできたことなどを報告した。その時子供たちに注意をしたり、誉めてもあげたりして、原理的生活の方法と天の家庭の威信、自負心、真のご父母様の家庭に侍らなければならない方法などを教えてあげた。

 歴史的な内容の映画で、昔の忠臣や烈女などのテレビ番組は、天の前に孝行する道が それ以上でなければならないという話をするよい教育材料になった。

 親が子供たちに約束したら、必ず信用を守らなければならない。そして、両親がしている仕事はすべて神様のみ旨のためにすることであり、立派な両親であるという信念を呼び起こすようにして生活した。

 また親子が三年間ぐらい離れて暮らしても、明るい生活ができるよう努力した。例えば、長女の健淑が小学校二年生の時、母親が三年間伝道のために出かけていった。おばさんが夏休みの時連れていって面倒を見てくれた。時々私がソウルに来れば、電話をして「健淑元気でいるか?」と尋ねた。

 次の日おばさんが言うには「この家の子供たちは、種が違う」ということだ。なぜかというと、父親から電話がくればビー玉のような涙を流して両親を恋しがるというのである。そしてある日、その家の末娘と話しながら「私は母方のおばあちゃんは嫌いだ。お母さんが神様の仕事をするために出かけていったのに、おばあちゃんは赤ん坊(百日程度)を置いて伝道に出かけたと、お母さんを悪く言う。それで自分はおばあちゃんが嫌いだ」と言っていたそうである。普通の子供たちは、自分たちを置いて出かけてしまったお母さんが憎いと言うのに、そういうことは言わないというのであった。

 毎日夜になればその日に起こったすべてのことを天のみ旨と連結させる、絶対的な生活教育に重点を置いて過ごしている。

成和青年時代の活動 (一九七七年九月二十九日)

 成和青年時代を回顧しようとする私にはもどかしさだけが残る。青年時代はつい昨日のことのようであっても、もうすでに流れ去ってしまった長い月日に無常さを感じる。心は常に若い気持ちでいても、体の動きが鈍いのを感じる時、私の若さが衰えたことを感じる。私が入会した時は若さを誇り、雄々しく仕事をする二十代であった。

 私は特別に再臨主を迎えるために、集団で準備してきた教団に入会した。その名前は聖主教団であり、その代表は私の父鄭錫天(チョンソクチョン)長老であった。特に主張した教理は「善悪を知る木の実は果物ではなくて、人間は男女の性関係により堕落したのである」ということ、「死ぬはずではなかったイエス様を、人間が理解することができず殺したのである」ということ、「再臨主は雲に乗って来られるのではなく、肉体をもって来られるのだが、 それは韓国に来られるのである」ということであった。

 このような内容は私の祖母である金聖道おばあさんが天から受けた啓示であり、これを中心に新しい教団として出発することになった。それで私の家は韓国教会から異端者の烙印が押された。しかし、その後統一原理のみ言に触れてみると、祖母が啓示を受けた内容よりももっと確かな内容が、聖書を中心として具体的に解明されているばかりでなく、今まで知らなかった内容までも説明されることを知って、まさにここが待ち望んできた教会に違いないと決心して入会することができた。

 このような土台の上で私は「絶対的な信仰で天の前に忠誠を尽くす道だけが残っているので、死ぬほどの忠誠を尽くせというみ言のごとく生きてゆこう」と努力してきた。しかし、そうできなかった私自身の青年時代の姿を今、後悔せずにはいられない。特に個性が強い若い時期ほど自分を克服することが難しかったのである。

 一九五〇年代は文先生が直接指導してくださった時代であったため、実の子供以上に私たちをかわいがってくださった。親が子供たちにすべてのものをあげたいと思うように、先生は一人でも二人でも相手がいれば、話を聞かれ、年老いたおばあさんが受けた啓示の内容に対しても夜を徹して耳を傾けてくださった。聖日礼拝の後では多くの人たちと部屋で親しく話され、野外へ出かけては歌とみ言で時を過ごし、それぞれに忘れることのできない印象を植えつけようと心を尽くされた。

 先生は、自ら先頭に立たれ、ソウル付近にある仁田(イナン)山、三角(サンガク)山、白雲(ペクトゥル)山、 冠岳(クァナック)山、南(ナム)山、道峰(トボン)山などを食口たちと登りながら、み言と和動により多くの楽しい時を過ごされ た。

 いつだったか漢江(ハンガン)の砂原で夕方まで集会をして、リレーと相撲などを楽しんだ。特に忘れられないことは先生が直接相撲を取られたことであった。相撲で勝たれた時の雰囲気は絶頂に至った。私が今残念に思うことは、その時先生と直接相撲をしてみなかったことである。これはいくら後悔してもしきれない。そんな機会は二度と来ないからである。

 ある時は雨に濡れながら登山をし、そこで青年たちとかけっこや歌合戦などを一緒にしながら、信仰の情を深め、お互いを結束させて下さった。「私は新郎であり、あなた方は新婦である」というみ言のとおり、先生を恋しがり、会いたがり、見たがるように、先生が指導されたのであった。

 故劉孝元協会長が原理講義を終えると必ず来られ、補充説明をして下さった。慈悲深い姿で「再創造の歴史が始まるのだ」という内容で、「み言の価値を重要視せよ」と語りながら、原理のみ言拝読会と原理試験に対しても強調された。このように古い食口たちは先生から直接指導を受けられたことが誇りであり、貴重な祝福であった。

 成和青年会の事業部長の時には、伝道費用を作るため全国的に切手収集を行なった。そうして集められた切手を事業部員が整理して、「切手商会」を作った。 その時切手商をしていた宋さんがすべて買ってくださり、伝道費用に役立てることができた。

 また、食口たちの切手に対する認識を新たにするためにお母様の誕生日に切手展示会を開き、多く集めてきた食口には授与式も行なった。

 その時、切手を最もたくさん集めて来たのは青年女性の金卿男(キムキョンナム)食口であった。全国で断然トップとなったが、それから数年後にその青年女性が私の伴侶になるとは夢にも思わなかった。最近でも、その時の賞品としてもらった『原理解説』の本に書かれた先生のサインを見ながら、その話で花咲くこともある。また子供に教育材料として話す時もある。それが因縁となり、今も珍雨君が代を継いで切手収集の趣味をもち、記念切手が出ればお金をくれとしつこつねだることがある。こんなことが天の楽しみではないかと思ってもみたりもする。

 私が金元弼先生と聖進様に侍りながら、約四年間一緒に生活する機会をもったが、それは私にとって忘れられない貴い宝物となり誇りとなった。その時金元弼先生から信仰の伝統について教えられた。多くの方々が私の家に出入りされ、多くのことを見聞きすることができた。このような生活の中で感じられたすべてのことが私の信仰生活に役立つ材料となった。

 永遠なる世界に向かって進んで行きながらも、私こそが正しいと主張するような誤った信仰生活をしてはいけないと思う。患難が押し寄せる時、黙々と耐えながら、絶対的な信仰と話し合う相手をもつことによって、難しい峠を克服することができた。天の行く道は一人で行くことができず、アベルを通して行かなければならないので信仰のアベル的存在を立て、話し合いと報告をしながら進んで行くのである。そうすればうまく行くことができるのである。

 私は報告を金元弼先生にした。忘れられないことは、聖婚式の時のことであった。 多くの青年男女たちがいたが、中心だけを見つめ、縦的な基準を立てていくことに重点を置く信仰指導を受けた。そのため異性間の生活に対する思いは弱められ、また、自分を中心とした生活も考えられなかった。このような教育を受けた私はすべてのことを先生にゆだねて、信仰のみで過ごした。み旨が分かった人々は誰でも死を覚悟して雄々しく出発した。しかし、落伍者たちも多かった。

 私は信仰生活において、大きなことのためには命を懸けるが、小さなことは軽視するという傾向が強かった。お互いの意見が対立する時には、譲歩しながら自分を犠牲にするということは、特に信仰生活において重要なことである。からし種ほどの信仰と、小さな鳩を裂く信仰をもって小さなことにも精誠を尽くし、犠牲となる者になろう!

 先生は一九六〇年度聖婚式を目前にして、伝道の書七章二十八節の「千人の男性のうちに一人の男性を得たけれども、千人の女性のうちに一人の女性をさがすことができなかった」という聖句のごとく苦労される姿を感じることができた。

 その一人の方を探すための特別修練会が第二次協会四十日修練会であった。ヤモク教会で実施されたが、うりやスイカなどの果物を乗せてヤモク教会へ向かわれる先生と、七四七ジープに同乗し、二、三度お供できたことは忘れられない。特に修練生を連れて 池に入って魚を捕まえたことや、枝に引かかるのが嫌で中に入ろうとしない私たちを先生が叱られたことなどが、追憶として思い起こされた。このような場所では一番良い時や一番難しい時、また一番嫌な時や、一番悲しい時、各自の長所、短所が出てくるものである。修練生たちは青年女性が大部分であった。その中で一人を探そうと心を砕かれる姿は二度とないことだと思われる。私も新婦を探し立てられる場の末席に残ることができた喜びを感じた。そのころは私の一世一代において一番幸福な青年時代であった。

 先生と一緒に七日断食をしたことや、一九五九年度にソウル市内を渡り歩きながら十 二月二十五日に聖歌を力づよく歌ったこと、また一九六〇年から先生の誕生日には断食を三年間一緒にしたことや、第一次四十日修練会を前本部教会で受けたことなどは、永遠に忘れられない私の宝であり、誇れる成和青年時代である。このような土台の上に、今日の私がりりしく残り得ることができたと思う。

 大学を中断してみ旨のための第一線に立つことを志願して、忠州教会開拓に臨んだ。一番悲しくつらかったことは、伝道した食口が熱心に教会へ通っていたのに、離れて去っていく時であった。反対に、既成教会の牧師と対面し、教徒の前で言い負かした時はものすごく痛快であった。また、既成教会の勧士を伝道するために、毎日早朝祈祷会を勧士の家で行い伝道することができたことは忘れがたいことであった。そして、肺結核患者のために食口たちと心を合わせて祈祷すると、全快するようになったことは祈祷の威力と、天が生きておられることを実感させられた。 忠州教会を指導しながら約五キロ離れた牧杏(モッケン)の地を開拓するために、毎日午後には歩いて往復したが、その時の喜びは経験者のみが理解できるものであった。

 このような生活が積もり積もって、真なる信仰を土台とした人格の所有者として認定を受けられると信じている。忠州でのことは青年時代において、み旨のための革命の道を進んでいくように天が下さった祝福であった。それは、天の役軍として成長していくための天の恩恵であったと感謝している。そのような感謝の心で過ごし、今日も一日天が喜ばれる自分自身になっていくために反省し、悔い改め、一歩一歩前進することを自らに言い聞かせ、忠誠を尽くし努力している。

先生と友なる青年時代(一九八〇年四月二十二日)

 人は誰でも経ねばならない人生の過程を通過するが、幼年期、少年期、青年期、壮年期、そして老年期と区別することができる。この中でも人生の花だといえる時代は、青年時代に違いない。どの時代より青年時代には夢と希望、情熱と勇気、決断力と進取の気性、そして不義と闘う正義感などを秘めており、すべての面に敏感な感受性をもっている。そして、人生全体を決定する時期でもある。だから正しいこと、正しい道、正しい真理、正しい正義、そして正しい判断ができる知恵を、青年時代に得たということは人生の勝利であり誇りであるに違いない。

 かつての聖賢や英雄豪傑たちも青年時代に決定したことを最後まで達成するために奮闘努力して初志貫徹していった時、勝利が決定されたものである。

 先生も青年時代を、人類の罪悪史を精算するために生死の境を越える苦しみに勝利しながら生きてこられた。ただひたすら神様の悲しみの恨みを慰めてさしあげ、神様の経綸のみ旨を成し遂げ、神様の愛と平和と幸福と喜びが広がる理想世界を築くための理念をもって働かれた。

 今日統一教会で、中心的な位置にいる人たちはみんな二十代で入会して、先生の青年時代の哀しい事情の中で汗と涙と血の因縁を結んだ人たちである。その時先生は前に立って、食口一人一人を愛によって抱きながら、情深き姿でさまざまなことを指導して面倒を見てくださった。

 ある時は食口たちと一緒に高い山に登り礼拝をされ、和動の時間をもちながら全員の苦労を慰労され、み旨を成すために決意を固めた時もあった。また、ある時は先生が本部の青年たちと、冠岳(クァナック)山に雨に降られながら登ったが、初めての道のため迷ってしまい、果川(クァチョン)の方を回って(遠回りしながら) やっと山を登ったこともあった。 これらのことは私の生活の中で忘れることができない貴い思い出である。貴重なことはたくさんあるものではない。私は青年時代の先生に侍り、一緒に苦労の道を行けたことが最も貴重なことである。ですから、若い時に統一教会に入会し、貴い先生に侍ることができることを 皆さんは誇りと考えなければならない。特に先生と共に復帰路程に参加するということは人類歴史上二度とない貴い機会である。

 成和青年の皆さん、先生が本当に貴い方だということをもう一度確信してください。私たちは若い時代に先生に侍ることができたという事実だけを見ても誇れることである。ところで今先生は、若い皆さんへすべてのことを相続させようとしている。世界的摂理の栄光の塔を全人類の前に相続させようとしている今、成和青年の会員となり、皆さんのすべての力と情熱を燃やし、天の栄光を受けることができる時が、まさに今であるこ とを肝に銘じ、任された責任と信仰生活に精誠を尽くすさなければならない。

 受けられる器を私が準備をしなければならないということを肝に銘じ、最後まで変わらないで天の祝福を受けられるように努力しなければならない。

 人生の中で一番仕事ができる時代が青年時代であり、この貴い時代を逃さず、全国の教会において成和青年たちが中心となり教会を復興させるように願う。

 「父と母とを敬え」。

 また

 「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」。

 この青年はイエスに言った、

 「それはみな守ってきました。他に何が足りないのでしょう」。

 イエスは彼に言われた、

 「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、私に従ってきなさい」。

 <マタイ福音書十九章十九節~二十一節 >

 そこで、あなたは若い時の情欲を避けなさい。

 そして、きよい心をもって主を呼び求める人々と共に、義と信仰と愛と平和とを追い求めなさい。

 <テモテへの第二の手紙二章二十二節>

私のマグロ釣り(一九八〇年九月二十九日)

 歴史的転換期である八十年代にアメリカで直接先生に侍る機会をもった。

 私が訪米した時はちょうどマグロ釣りをする時であった。私の生涯において最初で最後の貴重で幸福な機会であった。私は韓国でマグロ釣りに対するさまざまなうわさを聞いてきたが、直接待って釣る機会は初めてであったので、好奇心がとても大きかった。マグロ釣りの季節は七月一日から八月三十日まで二ヶ月間だった。二ヶ月間で釣ることができる数は千八百匹だけと限定されている。これを釣れる所は大西洋にある。ボストンから約一時間北へ行けばグロスターという人口三万人の小港都市がある。この都市はアメリカとカナダに接する世界的な五大漁場の一つである北アメリカ北東岸漁場(ニュポートランド島近郊)に面している都市である。漁場は、このグロスターから約一時間離れた大西洋に位置している。

 マグロは深さ二十五~四十メートルの所にいるが、十五~二十メートルの浅い所にいる小さい魚を捕まえるために集まってくる。

 このように季節ごとに水深が浅いところを探しながら、五大洋を渡っていくという。マグロは約二万個の卵を産むのだが、その中で残る数は極めて少ない。特におもしろいことは卵からかえった稚魚はえさを求めてあちらこちらへ行くが、成魚となった後は自 分の故郷を訪ねてくるということである。それで卵をかえしてやって、稚魚を放流すれば一年間にさまざまな所を回り、大きくなって、放流した所に帰って来るので、その時に捕まえるというのである。

 マグロに対して関心をもつのは、アメリカ人よりも日本人である。日本人は本当にマグロが好きである。マグロ釣りは四~五年前までは、アメリカ人はスリルを感じるスポーツとしてお金持ちの人たちがしてきたが、現在に至っては生計を立てる仕事となりつつある。このようになったことは先生が本格的にマグロを釣り、市場開拓をすることでマグロを獲る人が多く増えたためであるといわれる。

 先生は七月二日、マグロ釣りに出発する前に、二十余名に向かってマグロ釣りの意義と注意と展望に関してみ言を語られた。四時間語られるみ言を聞いて、それまでは自分なりにマグロ釣りについて理解していたが、それからは新たな次元でその重要性を悟る ようになった。先生はそれまで何も語られないで、マグロ釣りに熱中しながら、すべてのことを準備して来られたのであった。 その時、次のようにみ言を語られた。

 「やっと今、私が構想していることを話しても、あなたたちが信じられる環境になったので語るのである。マグロ釣りを通してより高い次元へ飛躍しなければならない。 将来は人口が増加するため、陸地にある自然が枯渇する時代が来る。その時に備えられない 統一教会の先生であってはいけない。私は宗教指導者として、毎日船に乗り魚を釣ることは印象としては良くない。けれども、このようにしなければ将来多くの人々が統一教会に入会した時、新しい文化を創造する先生が海に対して開拓の種を残すことができなかったとしたら、その嘲笑をどうやって避けられるか。だから、このような内容を知っている私は、地球の三分の二を占め広大なる資源をもっている海を開拓せずにはいられない。これからの勝利者は海を支配する位置にいなければならない。それで私はマグロ釣りよりも、もっと大きい目的である水産業に力点を置いて推進することを強調する」。

 先生は先見の明をもって前進されるのに、弟子たちは懸命に仕えるといいながらも、分からない立場でとやかく言っている。それを先生は知りつつも七年間マグロ釣りをされながら、幾度も水産業について説明されたことを思うと、申し訳なさと同時に先生の内的苦労がこんなところにあったのかということが分かった。いつになればあなたたちは信じられるのか。かわいそうな先生であると、今一度感じさせられた。今こそ私たちが成熟した立場で先生のどんなみ言であろうと従順に従い、絶対的な信仰の姿勢をもたなければならないと決意した。

 「海を開拓するに当たって、必要なものは船だ。船がなければならないので、まず造船所をアラバマ州に造っている。船があっても船員と船長がいなければならない。それで私たちは、少ない人数でも多方面に渡って活動しなければならない。だから皆さんに船に乗る練習から始めて魚を捕る方法、船を運転する方法などを習得させ、船員資格試験と船長の資格試験も受けられるように、修練の期間として訓練させるのである。

 あなたたちは船を動かす資質を育てなければならない。海は穏やかな時はとても穏やかだが、その穏やかな海が訳もなく波立つ時は生死を超越しなければ、海へ出かけていくことができない。海の水はすべてのものを飲み込み、すべてのものを消化する。また自分の形態をもっていない。いつであろうと高低のバランスの取れた姿をもっているが、あなた方は人格的な面においてこのような海に似なければならない。

 父母の心情と僕の体で黙々と従順に従いながら、み旨のために犠牲になっていく美しさと、讐怨を伝道するためにすべてを投入して、天の父の恨みを解怨してさしあげる姿をもたなければならない。あらゆる辛さや、悔しく切ない思い、そして迫害や、艱難が押し寄せて来たとしても、すべてを消化することのできる円満な人格の持ち主、誰とでもいつもよく授け受けることのできる和動の主人公になる時、海のような天の深い心情 世界の主人公になることができる」。

 このような奥の深いみ言であった。海に向かう度に、このような気持ちで対する時、それは天との祈祷の時間となる。

 肉類からたんぱく質を取ると太ってしまうので、海の魚からたんぱく質を取ると人体にいいということが証明されている。しかし、アメリカ人の好みに合う魚は、すべて外国から輸入しているので、需要に対して十分な供給ができない実状である。だからといってアメリカ自体で解決できる方法もない。なぜなら船に乗る人がだんだん減っているからである。船に乗って、海に十日余り出ていると、妻が逃げて行ってしまい、家庭破綻がくるのである。このような現状の中で、船に乗らなくてもいくらでも食べていける職業があるので、危険な海の生活に愛着をもったりはしないのである。

 しかし、水産業こそが私たち教会員のため、天が準備して来られたものであるから、我々が先頭に立つしかない。アメリカ人は海の魚が食べられるのを知らないので、魚を捕まえて食べることを啓蒙しながら、市場を開拓すれば無尽蔵に売ることができる。

 これからは祝福家庭は生活基盤を整えなければならない。その時になって、解決しようとしても遅いので、今から準備して、船を一隻ずつあげてマグロ釣りから始めていろいろな魚を捕る方法を学び、釣って売るルートを整えればいいのである。このようにしながらアメリカ人の中で船をもっていても魚を捕まえ売ることができない人たちまでも一緒にして、中心港に魚を集めておけば、私たちの冷凍車で集めて運搬し、都市で売り、現金にするこの方法で、数年間推し進めていけば、全国に散らばっている漁船を呼び集めることができる。

 そればかりでなく、冷凍車で輸送をしなければならないので、自動的に運送業が始まる。そうなれば、各地方の特産物を産地から安く購入して、高値で売れる所に持っていき売れば、私たちの組織網と輸送網によって勝利することができるのである。

 多方面に連結された人々が増えていけば、我々の社会基盤も広くなる。それのみならず、私たちと関係を結んだ人たちと真実な立場で信用取り引きを維持していけば、伝道もたやすくなる。このような条件を、多く備えれば地上天国の理念が早く実現されるのである。これからは、私たちの食口と因縁さえできていれば、霊界が動員され役事される時が来る。その時のために総動員して、多くの関係を結ぶように努力しなければならない。

 マグロ釣りの趣味をもつ人々は、月平均経費が一万ドルほどかかる。二ヶ月で少なくとも、二万ドルの経費を支払える人は、お金持ちに違いない。こんな人たちは会社の重役であり、会社の中心にいる人たちである。だからこの人たちと因縁を結ぶことができるのである。

 因縁をもった人たちを通して、我々の会社で造った船を宣伝して販売できるルートと、私たちの組織網と運送業を通して各界各層の会社の生産製品を卸売り価格で購入し、マージンを少なくして消費者に安く売る運動を家庭教会運動として各家庭に入っていくこ ともできる。こうなれば会社の重役と肩を並べることのできる社会的な位置も得られるので、天も喜ばれるに違いない。

 それのみならず、グロスターの重要な土地に一万五千坪の大地に部屋三十二室もある大きな邸宅を購入された。邸宅の名はモーニング・ガーデンで、これからここはアメリカ内の著名人や教授、及び科学者たちを招待し、休養所として提供しながら先生の活動と理念を紹介する場所として利用される。時には余暇を利用してマグロ釣りもするようにして、避暑地としても活用する予定である。よくもてなしながら、良い環境を無料で提供してあげる時、多くの人が統一圏へと連結されるだろう。

 先生は私たちが造ったマグロ釣りの船を来年からは無料で貸してあげて、マグロ釣りを楽しんでもらい、後でボートを買いたくなるようにする。即ち、長期的な視野で網をかけているのである。

 今年一九八〇年は八月二十四日から二十九日まで、第一回世界マグロ競技大会に十余カ国から百隻余りの船が参加して賞金十万ドルで、一位に七万ドル、二位に二万ドル、三位に一万ドルをあげた。重さでの一位、大きさでの一位、数での一位の者三名がくじ引きをして、一位、二位、三位を決定する変わった方法である。

 この大会は毎年続けられるだろう。来年は第二回大会をヨーロッパのイタリア、シシリー近海でする予定で、一九八二年度にはフィリピン近海で行う予定である。大会が繰り返されるほど、世界的なマグロ同好会ができていく。 世界的に各国の有名人志や富豪たち、また社会の中心人物たちを呼び集め、人類文化事業に貢献できる組織に発展させる予定である。もし、このようにできればその勢力基盤は各国で大きな影響力を行使することができることだろう。

 今アメリカでは各種武器を自由に販売しているので、銃を持った強盗殺人事件が多く発生している。それで国会で法によって規制しようとすれば、ハンティング・グループの会員たちが各界各層で反対運動を起こし、国会で各種武器所持を規制する法案を通過させないようにしているのがアメリカの実状である。

 それで、これからマグロ同好会の集まりが世界的な基盤に拡大される時、彼らの勢力は大きなものとして天が喜ばれる方向に実を結ぶ日も遠くはないと、私は感じる。こうなれば本当に素敵なことになる。「先生の深い心情を知る道はない」ということを再び感じさせられた。

 先生はグロスター付近に魚粉工場を造って、食生活の改善に貢献しようとされる。海の豊富な資源を開発することに、先駆けて歩まれる先生の大いなるみ旨に合わせていくことのできる統一食口とならなければならない。この時間も先生は海に対する開拓の難しい路程を続けておられることを考える時、私の信仰生活を反省し、悔い改めながら充実した歩みをしていかなければならないと感じさせられる。先生は水産業を通して大いなる計画を推進されながらも、一方では、小さなことに至るまで教育しておられるのである。

 マグロ釣りの出発は、明け方四時に起床し、四時三十分に家を出て、四時四十分ごろに出港する。先生が乗られる「ニューホープ」号を先頭に六隻のボートもゆっくりと動き出し、左右に分かれてついて行くようになる。静かに眠る港を後にして、力強いエンジンの音と共に黎明をかき分けながら、戦いの場に向かって小気味よく前進する。

 約一時間もすると誰もいない漁場へ到着する。この時間に船では投げてやる餌を切ることになる。餌は主に、にしん、明太、さば、たらなどを刻んで船の周りに続けて投げてやるのである。マグロ釣りの二等兵である私は、魚を切る仕事と、投げてやる仕事が主な任務であった。

 漁場に到着した船はぐらぐらと揺れるが、揺れながらも釣り竿を下ろす。船の後方に真っ直ぐに、あるいは斜めに六竿をおくようにする。一番遠い所は約三十メートル離れた距離に、深さは十五広(一広は約一・八メートル)で、次は約二十五メートルの距離に、深さは十二広、次は約二十メートルの距離に、深さは十広程度、次は約十六メートルの距離に、深さ八広程度、次は十三メートルの距離に、深さ六広程度、次は十メートルの距離、四広程度の所に重りを垂らすようにする。そして船の両わきに三竿ずつ六竿、合計十二竿を仕掛けておく。

 釣りの餌は、一般の人たちは、にしん一匹を使っているが、先生は鮫の肉を握りこぶし大の固まりに切って、釣り針に下げて使用している。それで異常なまでにマグロがかかる確率がにしんより高い。

 昨年度、私たちの船全体で六十匹余りを釣ったが、先生が乗った船だけで三十余匹を釣ったというのであるから、その実力は相当なものである。それで今年度は「ニューホープ」号が陣取る所には、いつも周囲に十隻余りが集まってくるのであった。

 一般人たちは一体どのようにして、何を使えばあのようにマグロをうまく取れるのかと不思議でならないのである。それで最後はニューホープ号に近づいて来て、鮫を持ってきて、鮫をどのように使うのか、特別に加えているものは何なのか教えて欲しいというほどである。

 私と柳(ユー)渉外部長は、マグロがかかる時まで交代で餌を切って投げた。私が切ったら柳部長が投げ、柳部長が切った時は私がその肉を投げるようにした。

 先生は船にある魚探知機を見ながら、指揮をされる。魚探知機にマグロが来たのが黒く写れば切っておいた餌を船の周囲に多くまきながら誘導する。しかし、なかなか餌に食いつかない。

 一番多くボートが参加した時は百二十隻くらいだったが、その時は百二十隻中で、たった一匹しか捕れなかったこともあった。このように釣るのが難しいのである。一日中出かけても釣れなくて、ただ帰ってくるのが普通である。毎日六十~七十隻が出ても、 平均四、五匹しか釣れないので、どれほど難しいかがわかる。

 そして一日中餌を切って投げる作業を、十日間ずっと行うと、嫌になってくる。特に新鮮なにしん、さば、たらは切りやすいが、新鮮でない少し腐った魚の時は、その匂いがひどいだけでなく、切るのも大変である。また服につけば匂いがして、洗濯するのに忙しい。だから私たちは、午前中にマグロがかかってくれることを願った。かからない時は、午後六時まで魚を切り続けるため、手がふやける。餌がなくなれば鮫を取って餌にするので面白くない。

 このようなさまざまな思いをなだめながら、先生に侍り生活する期間を有意義な機会とするように決意をした。

 一日中釣れない時は、静かに祈祷する時間として過ごすことができた。果てしない大海の波と戦いながら、マグロを釣るのだという一念で雄々しく出かけて行く。 連続する単純な生活にも自然の威力や、創造の神秘を感じてみた。波打つその波間には、不平不満のない調和した深い情が感じられる。また、波がぶつかり青い波が白い水しぶきへと変化していく場面は、人間の力では想像もできないほどである。美しい創造の美を心ゆくまで鑑賞することができる。

 先生は大きな行事がある時は大西洋に「ニューホープ」号に乗って出て行き、無限な天の国と復帰摂理の歴史的な内容を自ら体験されながら、神様の恨みを精算するために精誠を尽くす時間をもたれたという。先生は船上で誰かと話されることもなく、ただ天と因縁を結んだ祈祷の時間をもたれる。

 六日間一匹も釣れなかったが、焦りと待ちつづける心情で一日のように過ごした。しかし、それからいよいよ待望のマグロがかかって、必死に引き上げた。船に乗っていた人たちは、超非常事態であった。一番先にすべきことは、かかった魚が逃げてしまわないように、釣り糸が引かからないようにすることだ。釣り糸の長さは二百六十メートル から二百八十メートルまであり、釣り糸の端には一抱えの大きさのゴムボールが結んで ある。いつの間にか二百八十メートルの釣り糸が全部伸びて、ゴムボールが、水を分けて楽しそうに走っていた。この時ばかりは、周りにいるすべての船がマグロがかかっている赤いボールを眺めていたが、実に壮観であった。

 このように、釣り上げるまで、マグロは約百メートル~二百メートル程水の中を泳ぎ、そして疲れて休む。その時までにボートでは、十一竿の釣り竿を、迅速にしまわなければならない。先生はどれほど動きが敏速か、私たちの追随を許さない。初めてのことではあるが、気を利かして周りに協力しながら赤いボールを見つめて、歓声を上げた。捕まえたという雰囲気で大騒ぎとなった。

 釣り竿を全部しまってから、帆をそこへ残し、ゆっくり始動し、赤いボールのある所へ行き、ボールを引き上げるようにする。 その時から、釣り竿を握り釣り上げると、一進一退のマグロとのシーソーゲームが展開される。

 しかしおかしいことに、かかった釣り糸がピンピンに張らなければならないのに、反応がなかった。後で分かってみると、竿と釣り糸がはずれたため、マグロを逃してしまっていた。どれほど悔しく、気が抜けたことか分からなかった。

 いろいろなことがあったが、再び釣り竿を下ろした。六日目にやっとかかった魚を逃した口惜しさを抱きながらも一日中待ってみたが、無駄であった。また三日間全くかからないで、毎日反復する日課を繰り返した。毎日一度ずつでもかかってくれればいいのにと思いながらも、そうもいかず、とてももどかしいばかりであった。

 十日目になった時、待ちに待ったマグロが二度目にかかり、追いかけていくと私の目には、あの珍しい光景が展開された。一度経験したので、今度は釣り竿を引く時には、一緒に手伝った。その時は二百八十メートルの釣り糸はそのまま全部は出さず、中間くらいで止めながらマグロと引き合う試合が始まった。ボートでは必ず釣ってやるという一念で糸を引いているし、水中にいるマグロは決死の思いでひきちぎって逃げようと、糸がピンピンに張っていた。

 このようにしながらも、素早く逃げる時には長く糸を伸ばしてやらなければならない。なぜなら釣り糸がぷつんと切れてしまうからである。約三十~五十メートルぐらいまで伸ばしてやった後で、ゆっくり釣り上げるのだが、その時釣り糸を素早くまとめておかなければならない。もしも、バラバラにそのままにしておいて、マグロにのみ熱中してあちらこちら行きながら、釣り糸を踏むと、マグロが逃げていく時釣り糸が足に絡まり、海に落ちる不祥事が起こる。

 それでこのようなことがないように、前ではマグロと一進一退しながら、釣り糸を引っ張り、後ろでは籠にうまく釣り糸をまとめるのである。そうして、マグロが逃げて行く時は釣り糸をうまく伸ばしてあげて、二人~三人が四十分から五十分間続けて引っ張れば、マグロはだんだん気力がなくなっていく。

 ところでマグロも知恵があるのか、ビンビンに釣り糸を張っていてどうしようもなくなった時釣り糸を伸ばしてあげると、その時、突然船がある方向へ向かって行くのである。この時知恵をもってうまく捕まえなければ、すべて白紙に戻ってしまう。なぜなら、釣り針に引っかかったところが痛いので、これを抜くために引き返して来て、釣り糸に余裕ができたところで抜けて行こうとするためである。

 こんな過程を経ながら、マグロの力を無くしながら釣り糸を引っ張り上げる。十メートルぐらい残してからは、船の端でつかんで引っ張る人は決死的に闘うようになる。行ったり来たりしながら釣り竿を握り、引っ張って、五メートル~六メートルくらいになった時、浮き沈みする。この時、うまく釣らなければものすごく骨が折れる。

 槍の先に矢をつけて、その矢先には別の糸がついている。それは四十~五十センチになる木の端に、人差し指ほどの太さの鉄筋がついている。これを最後に先生が投げるのであるが、とても上手である。この矢先をマグロに刺してこそ安心することができる。その時からは二人で釣り上げられるので、安心できるが、それまでは安心できないのである。

 船先で力尽きたマグロを、船上に上げてえらをほじくり出す。血を抜くのである。 そしてマグロの尾をロープで縛って吊るす。そうして血をだいたい抜いた後は、船の後部にかけておく。そうすると一日の日課が終わる。マグロは一隻のボートに一匹ずつ吊ることができるようになっているからだ。万一、午前中に釣れば、ドラム缶程の大きさの器に入れたえさは、他の船にあげて凱旋将軍の姿で笑みを浮かべながら帰るようになる。

 マグロ釣りを始めて十日で一匹を釣ることができたので、うれしい思いを表現することが出来ないほどであった。船に上げて見ると五色の体つきの最新型の魚であると感じた。特に背中にあるひれは、加速すると自動的に中に入って見えなくなるのは、神様の創造の美と神秘を感じさせてくれた。

 初めて釣ったマグロの重さは、八百四十ポンドだった。私の体重より約5倍も重い。大きさは約四メートルで、その値段は韓国のお金で約七十万元であった。牛一頭の価格である。私たちが釣ったマグロは、アメリカ内の日本人レストランで消費され、残りは日本へ輸出される。

 先生に待って、二十日余りマグロ釣りができたことを天の前に感謝しながら、受けた恩恵に答えることができる自分にならねばならないと決意した。

 このような生活の中でも夜遅くまでさまざまな問題点を解決するために、食口たちの心 霊指導をされる先生の姿を見た。先生の教育方法は昔も今も変わらない。一人一人を相手にしてあげたい心がけでいつも生活しておられる。

 すべてのことは一から始まるので、私自身から生きていなければ人に教えることができない。先生は蕩減路程を終えられたにもかかわらず、苦労の路程を続けておられるのを見ると、私たちがより一層頑張らなければいけない。

 先生に待って二十日間マグロ釣りをしたが、全部で十二匹がえさに引っかかったが六匹は釣り上げ、六匹は不幸にも逃がしてしまった。私が離れる時まで我々が釣った数は 三十四匹であった。先生は、マグロ釣りよりも大きい天の摂理を成すために、開拓の道を今も歩んでおられることが分かり、私たちの苦労で慰めることができる成果を得るために力を尽くさなければならない。