尊敬する内外の貴賓の皆様。きょう、このように「ワシントン・タイムズ」創刊二十周年を迎え、私としては、とても感慨深いものがあります。一九八二年五月、私がニューヨークのマンハッタン連邦裁判所において、無念な思いで宗教裁判、人種裁判とも言える裁判を受けていた最中に、天の命令に従い、「ワシントン・タイムズ」創刊のための最終決定を下したときのことが鮮やかに思い出されます。
世界共産主義の波が怒涛のごとく全世界を襲っており、アメリカさえもそれに対して、なすすべがないという時でした。私は、民主世界の最後の砦であり、第二イスラエル圏のキリスト教国家であるアメリカを共産主義から守り、天がキリスト教を中心として立てようとした平和の理想世界、すなわち地上、天上天国を創建しなければならないという、天の崇高なみ旨に従ったのです。決して、新聞社をつくって、お金を儲けようという思いからではありませんでした。これまで「ワシントン・タイムズ」だけでも十数億ドル以上を投入しましたが、決してそのことで後悔したり、誰かを恨んだりしたこともありません。それが、天と人類のための真の愛の実践だったからです。
アメリカに送る最後のメッセージ
私がアメリカに来てから既に三十年が過ぎました。今では私の年も八十二歳になり、還故郷の時が来たことを感じています。最後に私は、第二イスラエル圏国家であるアメリカと人類に、神様と霊界の実相についてのメッセージをはっきりと伝えてから、ここを発とうと思います。このメッセージは、単なるレバレンド・ムーン個人のメッセージではありません。この時代に人類が守らなければならないメッセージとして天が下さったものです。
天のみ旨について、今まで人類は無知な状態で生きてきました。第一に、神様について無知であり、第二に、私たちが死んだのちに、否応なしに選択の余地なく入って暮らさなければならない霊界について無知でした。
しかし今は、人類歴史の終末を迎え、既に天上においては四大聖人をはじめとする数多くの宗教団体の指導者たちが、私の教えである「統一原理」を真の真理として受け入れました。彼らは今、真の新しい家庭編成のための祝福結婚を通して、地上の弟子や子孫に再臨協助することに総動員され、役事することを始めました。
第二イスラエル圏であるキリスト教国家のアメリカのためには、特別に霊界から、イエス様を中心とする四大聖人と歴史上で有名な弟子たちが、それぞれ百二十人ずつ選抜され、統一された連合戦線を構築しました。今や彼らは、地上再臨を通して、「超宗教超国家連合」と「超NGO(非政府機構)連合」の活動を本格化させ、この地上に平和世界を完成しようとしています。
彼らは、真の父母の思想である「ために生きる生活」、すなわち真の愛の実践でなければ、人類の将来はないと叫んでいます。したがって私は、「神様のみ旨から見たイエス様の生涯と終末である現代に対する神様の警告」という題目で、アメリカと人類に、この最も貴いメッセージを伝えることによって、きょうの記念の辞に代えさせていただこうと思います。
イエス様の十字架の摂理を注意深く見ると、右の強盗と左の強盗、イエス様とバラバがいたのですが、そのような形で種が蒔かれたというのです。「自分のまいたとおりに、刈り取る」という原則ゆえに、最初に現れたのが、イエス様を中心とする「右の強盗型」と「左の強盗型」である右翼世界と左翼世界、すなわち民主圏と共産圏であり、その次に現れたのが、イエス様の十字架を中心として登場した「バラバ型」であるイスラーム圏です。イエス様によって恵沢を受けることになった「バラバ型」のイスラーム圏は、キリスト教の対立勢力を中心として出発したのです。
このように種が蒔かれた歴史は、世界の形態が四大陣営に結束するという時代の運勢に入っていくようになりました。アラブ圏のナセルは、イスラーム圏を統合して、アラブ統一国家の夢を抱きました。そうかと思うとキリスト教は、「すべての宗教を統合しよう!」と叫びながら、世界的な新しい趨勢に入りつつあります。
このような世界的な傾向を見ると悲運の種が蒔かれた歴史が、ようやく今、神様を中心とした善の結果として現れつつあることが分かります。終末時代になれば、このような現象がますます露骨に現れ、最初に蒔いたものが、それと同じ姿の実が結ばれて刈り取られるようになるのです。それは、摂理の法度によって現れざるを得ない、不可避的な現象です。すなわち、真の愛主義である「真の父母思想」によって統一されるのです。
右の強盗とキリスト教
民主世界が内的ならば、共産世界は外的です。右翼が内的ならば、左翼は外的です。ですから、今後来られるメシヤは、神様を尊重する民主世界の内的な基盤の上に来られ、外的な環境圏を吸収し、主流のキリスト教文明圏を中心として、様々な文明圏を統合する運動をしなければなりません。歴史の最後には、このような運動が起きるのです。そのようなことが偶然とばかりは言えません。そのような動機の種が蒔かれたので、そのような結果が結ばれるのです。
十字架で亡くなられたイエス様は、強盗殺人犯である右の強盗とともに亡くなられました。もし右の強盗がその場にいなかったとすれば、イエス様は、地上に対して、また人間に対して、関係を結ぶ何の縁も探し出すことができなかったでしょう。しかし、右の強盗が、死ぬ立場にあったにもかかわらず、イエス様の味方に立ってイエス様を擁護したのです。人類歴史上、イエス様の味方に立った最後の人は誰だったでしょうか。それは、ペテロでもなく、イエス様の父母でもなく、イスラエルの国でもなく、ユダヤ教でもありませんでした。ただ一人、右の強盗だったのです。
死の場において、自分の因縁を通告し、死を乗り越えて、イエス様に全幅の信頼をかけた、ただ一人の人がいました。その人が、正に右の強盗だったのです。もし、右の強盗がいなければ、イエス様が復活して地上摂理を再開できなかったという事実を、皆様は知らなければなりません。
四千年の歴史を締めくくり、三十数年間の生涯を締めくくるその場において、ただ一人でしたが、初めてイエス様と関係を結び、死の道に同参してまでも、イエス様を希望の主体とし、イエス様に侍ることができた人が、右の強盗だったのです。彼が中心になっているという事実は、彼が使徒たちよりも勝っていることを物語っているのです。ペテロよりも勝っているのです。
なぜならば、右の強盗は、内容は知りませんでしたが、死の場において、その生命が尽きるときまで、イエス様に侍る方向性を備えたからです。しかし、ペテロやヤコブのような十二使徒たちは、内容を知っていながらも、そして一つの方向性を備えるという誓いまでした人たちでありながらも、最後まで、その方向性を備えることができませんでした。ですから、右の強盗が、人類の歴史上において、地を身代わりして、未来を再起させることのできる中心的な存在になったという事実を知らなければなりません。
聖書を見たときに、イエス様が、個人的、家庭的、民族的、国家的な条件を立て、サタンと闘って完全に勝利したことがあったでしょうか。勝利したことがありませんでした。イエス様にも屈服しなかったサタンが、ましてやイエス様を信仰する人に対して屈服すると思いますか。六千年間、神様に讒訴し、神様のみ旨を蹂躙して、神様の摂理を台無しにしてきた、偽りの知恵の大王であるサタンが、イエス様を信仰する人が、「退け」と言ったからといって、退くと思いますか。そのためには、相続権が伴わなければならないのです。
私たちには、歴史的な相続権がなければなりません。アダムからノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、イエス様以後までの伝統と基盤を受け継いで、歴史的な祭物を身代わりした相続者にならなければなりません。そのようにして、サタンに、「お前は、歴史路程において、ノアに敗れ、ヤコブに敗れ、モーセに屈服したではないか。私は、彼ら全員の勝利の基盤の上に立っているのであり、摂理歴史のすべての伝統を相続したのだから退きなさい、このサタンめ!」と叫んでこそ、退くようになっているのです。
無条件に「サタンよ、退け!」といくらでも祈祷してみてください。六千年間、神様に讒訴し、蹂躙しながら、復帰摂理を破綻させてきたサタンが、「私は、イエス様を信仰しているのだから退きなさい」と言ったからといって、容易に退くと思いますか。それはあり得ないことです。「私は、間違いなく、歴史的な神様の心情を通して神様が探し求めてこられた者である。私は、イエス様の神聖な聖体に接ぎ木された者である」と言うことができなければなりません。
イエス様が神様から受け継いだ相続の系譜、すなわちイエス様をこの地に送られるときまでの四千年間の神様の心情的相続譜に載っていなければならないのです。そうして、十字架上においてサタンに勝利するのではなく、十字架にかからずに屈服させて勝利しなければなりません。肉身をもって実体復活しなければならないのです。そのような実体の相続者として認定された人であってこそ、天国に入っていくことができるのです。
霊的救いの摂理の土台を残したイエス様
今までのキリスト教は、霊肉の地上天国を願ってきたのではなく、肉的世界は放棄してしまい、霊的救いを目標として、霊的王国における霊的メシヤとしてのイエス様に侍ってこざるを得ませんでした。言い換えるとイスラエル民族には国があり、選民的国権をもつことができたのですが、今日、全世界のキリスト教は、第二イスラエルの霊的国家なのであって、主権国家、すなわち国がないのです。キリスト教徒は、霊的第二イスラエル圏内に立っているので、肉的基盤をもつことができず、霊的基盤だけをもっているのです。したがって、霊肉を中心とした地上天国を完結しなければならないという、神様の本然のみ旨を成し遂げることができなかったので、主は再び来ざるを得ないという事実を知らなければなりません。
きょうここで、皆様に一つ宣言しようと思うことがあります。それは、十字架の場においては、神様は勝利されたのではなく、サタンが勝利したという事実です。ゲッセマネの園で、イエス様が、「今は……やみの支配の時」(ルカ二二・五三)と宣布されたことを、皆様も覚えていらっしゃるでしょう。十字架の場は、神様が四千年間、準備してこられた国を失ってしまった場であり、イスラエルの教会を失ってしまった場であり、洗礼ヨハネの一党と十二弟子、右の強盗など、すべてを失ってしまった場になったことを知らなければなりません。
十字架上には、キリスト教がなかったのです。それでは、キリスト教は、いつ出発したのでしょうか。イエス様が、亡くなられてから三日目に復活され、四十日の間、自分に背いた弟子たちに会われ、聖霊が降臨した後に出発したのが、キリスト教です。しかし、キリスト教徒たちは、二千年の間、十字架の道理ではなく、復活の道理によってキリスト教が生まれたことを知らずに、信仰してきたのです。このような事実を悟るならば、皆様は、すべて悔い改めなければなりません。イエス様が復活された土台の上からキリスト教が始まったので、キリスト教は、霊的なキリスト教なのです。
イエス様のみ言を詳しく調べてみましょう。イエス様が、十字架にかけられて亡くなられることが、神様のみ旨の成就だったとすれば、ゲッセマネの園におけるイエス様の祈祷は、間違っていたことになります。メシヤとしての資格がない祈祷だった、ということになるのです。それは、全く驚くべき事実です。メシヤとして、一度ならず三度までも、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。
しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ二六・三九)という祈祷をすることができるのかというのです。もし、イエス様が亡くなられるために来られたのだとすれば、イスカリオテのユダには賞金を与えなければなりませんが、イスカリオテのユダについて語られた「その人は生れなかった方が、彼のためによかったであろう」(マタイ二六・二四)というイエス様のみ言を、どのように解釈したらよいのでしょうか。
イエス様が、十字架上で亡くならなかったら、どのようになっていたでしょうか。イスラエルの国は、イエス様の教えに従って安定し、そのまま残り、ユダヤ教もそのまま残ることを、イエス様は知っておられたのです。しかし、御自身が十字架で亡くなれば、後世の数多くの人々が、十字架の道に従っていかなければならなくなるので、血を流さずしては、その道を行くことができず、数多くのキリスト教徒たちが苦労し、また、主が再び来られても苦労されることを、イエス様は知っておられたのです。
ですから、ゲッセマネの園において、イエス様は、そのような祈祷をせざるを得なかったことを知らなければなりません。今日、キリスト教徒たちは、イエス様も肉身をもっていらっしゃったので、死の苦痛が恐ろしくて、そのような祈祷をされたのだと言っています。しかし、イエス様がそのように取るに足らないメシヤだったのでしょうか。
皆様。十字架上で息を引き取られるとき、「すべてが終った」(ヨハネ一九・三〇)と言われたイエス様のみ言は、どういう意味でしょうか。イエス様は、霊肉共に救うための使命をもってこられたのですが、基盤のないこの地上では、神様のみ旨を完全に成し遂げることはできないことを悟られたのです。ですから、十字架を背負ってでも、霊的救いの摂理の基台を残し、また霊的救いの摂理を出発させることができる条件を立てるために、御自身のすべてを捧げて「すべてが終った!」と言われたのです。
盲目的信仰の時代ではない
皆様は、このようなことは夢にも考えなかったでしょう。神様のみ旨を成就するために、サタンの国を滅亡させ、サタンの王権をなくし、人類を取り戻そうとされた主が、このように悲惨に死んでいかれたという事実を今からでも知って、キリスト教とユダヤ教は悔い改めて、一つにならなければなりません。一つになって、再び来られる主を迎える準備をしなければなりません。
真理は、理論に合わなければなりません。今こそ、盲目的な信仰の時代をはねのけ、新しい世界に向かって、この世界を収拾し救うために、全世界のキリスト教徒は、一つに団結しなければならないときが来ました。ですから、「統一」という言葉が必要な時が来たことを知らなければなりません。
イエス様が亡くなられた後、三日間、苦しみを受けられたという事実は、何を意味するのでしょうか(ペテロⅠ三・一九)。天地は死亡圏にあり、地獄も死亡圏の因縁をもっているので、イエス様が天地を主管されるためには、この死亡圏を下にも乗り越え、上にも乗り越えなければならなかったのです。ですから、地獄のような、一番底の境地に行って苦痛を受けたとしても、それを乗り越え、生命の関係を追求し、神様を慰労する希望の道を行かなければなりませんでした。
したがって、イエス様が、地獄のようなその環境を経ることによって、希望の天国に向かって再出発できる道がつくられたのであり、地上では、捨てられ、追われ、死の道を行かれながらも、希望の道を後世に残すことができたのです。ですから、イエス様は、三日路程を行かざるを得なかったのです。
三日間、イエス様は、地獄を見物するために行かれたのではありません。地獄を知らないイエス様ではありませんでした。イエス様は、そこに行かれて判決を下し、死亡世界から生命の世界に行く道を開いておかなければならなかったのです。そのようにして、死亡の地獄世界であるこの地上に、勝利の基盤を築かれたのであり、天国に行くことのできる起源をつくっておかれたのです。
イエス様は、教団の前では異端者として、民族の前では律法の破壊分子として追われました。御自身の氏族から追われ、家からも追い出されました。洗礼ヨハネの一党からも追われました。それで、イエス様は荒野に出ていかれたのですが、そこでもまた、サタンに追われたのです。しかし、それだけでは終わりませんでした。最後には、全体が動員されて、十字架の死の道、ゴルゴタの道に追いやられたのです。
しかし、反逆者として追いやる民族に向かって、かえって涙を流されたイエス様でした。イエス様は、ユダヤ教団から異端者として扱われたのですが、イスラエルのいかなる祭司長よりも、彼らのために、より多くの血の涙を流された人でした。その時代の誰一人として、御自身の味方になってくれる人がいなかったのですが、イエス様は、その時代の友でした。民族の反逆者として迫害されたのですが、民族の忠臣であられたのであり、教団の異端者として迫害されたのですが、教団の忠臣であられたのです。
イエス様の道は、始めから終わりまで、引き裂かれ、追われ、倒れる、十字架を背負った凄惨な歩みでした。しかし、それだけだったでしょうか。むちを持った無謀な悪党たちによって追いやられるという、そのような境遇に追い込まれることもありました。このような立場で、もし、イエス様がエリヤのような人だったならば、彼も、「ただわたしだけ残りました」(列王紀上一九・一〇)という祈祷をしたでしょう。
しかし、イエス様は、ゲッセマネの園で、三人の弟子を後ろにおいて祈祷されるとき、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ二六・三九)と祈られました。そのことが偉大だったのです。御自身の事情も哀れでしたが、自分の一身は民族の祭物であり、人類の祭物であり、天倫の祭物であることを御存じだったのです。
イエス様の悲しみと神様の恨
そのようなことを御存じだったイエス様は、御自身の悲しみも悲しみではありましたが、天の悲しみがどれほど大きいものかを心配する気持ちのほうが大きかったのです。民族のために現れたにもかかわらず、民族に裏切られる、そのような自分を見つめられる天の悲しみのほうが、どれほど大きいかということをより心配されたのです。イエス様は、天の王子であられ、万宇宙の主人公であられ、メシヤであられました。そのようなイエス様が、「凄惨な十字架で落命とは、どういうことでしょうか」と言って嘆息しようとすれば、この宇宙を動員して嘆息することもできたのですが、嘆息できない自分であることを感じられたので、追われる立場に立つようになったことを、むしろ天に面目なく思われたのです。
教団を糾合し、民族を糾合して、天の王国を建設し、世界を父の懐に抱かせてさしあげなければならない責任を担われたイエス様は、その使命を残したまま十字架の道を行かれるようになるとき、恨みは何も感じられませんでした。イエス様が、「この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈祷されたのも、自分の一身の死が悲しかったからではありません。自分の一身の死によって、民族の悲しみと天の悲しみが加重されることを知っておられたので、そのように祈られたのです。
イエス様は、自分が十字架で倒れれば、後代の世界人類に加重されることになる十字架が残され、そのことによって、悲しみの歴史は終わらないことを御存じでした。ゴルゴタの道が終わらないことを御存じでした。死の道が終わらないことを御存じだったのです。そして、自分がゴルゴタの道を行けば、自分に従う人々もまた、ゴルゴタの道を歩まなければならないことを御存じでした。
十字架だけでなく、それ以上の困難な道が残されることを御存じのイエス様でいらっしゃったのです。両手両足に釘が打ち込まれ、わきを槍で突き刺されて血を流す立場、茨の冠をかぶる立場に立ったとしても、それが自分で終わらないことを御存じだったイエス様は、天に向かって「すべてが終った」と言われました。そのみ言は、人間世界において、十字架の道がすべて終わったということではありませんでした。十字架のために涙しながら案ずる心の訴えが、天に通じたことを示しているのです。このように、イエス様は、数多くの預言者や烈士が、天に対して犯したすべての過ちを背負われ、天を慰労してさしあげるために、自分自身を生きた祭物として天に捧げられたという事実を、私たちは知らなければなりません。
それでは、ここでイエス様に対する神様の心情は、どのようなものだったでしょうか。死にゆくイエス様のその姿、天を案じながら十字架の峠を越えていくその姿を見つめられるとき、人間世界に対する憤りがあるとすれば、これ以上の憤りはなかったはずであり、天の四千年間の歴史路程を見ても、これほど大きな憤りはなかったでしょう。しかし、イエス様御自身は、死にゆくその中で、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ二三・三四)と言われました。神様には、即座に、ノアのとき以上の審判をしたいという思いがあったのですが、イエス様が、民族をつかんで亡くなられ、教団をつかんで亡くなられ、十字架をつかんで亡くなられたことによって、人間を捨てることができず、そのままつかんでこられたのです。そのような心的な関係が、後代の人間、残されたイスラエル民族と結ばれていたので、神様は、背反する後代の教団と人間たちを捨てることができずに、つかんでこられているのです。
四千年間、復活摂理を通して救いの役事をしてこられた神様は、イエス様を復活させる摂理だけでは、天上のみ旨と地上のみ旨を合わせて完結させることができないので、新しい契約を立てられ、それをもって、天上と地上のみ旨を合わせて、約束された本然の園を取り戻す摂理をしてこられたことを、皆様はよく御存じだと思います。
聖書を見るとイエス様は、与えた杯とパンが、すなわち新しい契約であるとおっしゃいました。イエス様が昇天されたのちに、私たちは、そのイエス様の血と肉を受けたのですから、これは、やがて成し遂げるべき全体の生命を身代わりすると同時に、全体の摂理を身代わりしたものであることを、皆様は知らなければなりません。イエス様の血とイエス様の肉を受けるということは、何を象徴するのでしょうか。それは、イエス様一個人の血と肉を意味するのではありません。大きくは、天と地を意味するのであり、小さくは、中心と個体を意味するのです。また、肉は真理を象徴し、血は神霊を象徴します。これらすべてのものを、イエス様は、私たちに何の条件もなしに下さったのです。
神様と人間との間を塞いでいるものは何でしょうか。天のみ旨が地上に現れ、地上の全体の状況が、天のみ旨に帰結され、一つの目的をもって動かなければならないのですが、それが塞がってしまったのです。
イエス様が、新しい契約を立てていかれたので、彼が亡くなったあとは、霊的な世界と肉的な世界が、人、すなわちイエス様に従う使徒を中心として連結されなければならない、という条件が残されました。イエス様が亡くならなければ、イエス様を中心として、天と地が連結されて一つになっていたのですが、亡くなられることによって、イエス様は、天に代わって条件を立てるようになったのであり、聖霊は、地に代わって条件を立てるようになったのです。
今は天一国を安着させるとき
尊敬する貴賓の皆様。しかし、今や時が来ました。神様が六千年間、待ち続けてこられ、キリスト教徒が二千年間、待ち望んできた超宗教、超国家、超NGO(非政府機構)圏次元の平和統一世界である地上、天上天国を建設すべき天の時が来たのです。ついに天運が到来したのです。天上のイエス様とペテロ、ヤコブなどの弟子たちはもちろん、数千、数万の宗教指導者が一心一体となって、自由自在に地上に再臨し、真の父母様に侍って、神様のみ旨である「天一国」、天と地が一つになって、永遠の平和を享受して暮らす天国を、必ずやこの地上に安着させるでしょう。
今や、第二イスラエル圏であるキリスト教国家のアメリカが、先頭に立つべき時が来ました。銃剣によるのではなく、真の愛と真の生命と真の血統を基盤とした、真の真理とために生きる真の愛で、全世界の人類を教え導かなければならない責任が、アメリカにあるという点を、私はきょう、この場を借りて満天下に宣布する次第です。
最後に、このような崇高な天命に従い、「ワシントン・タイムズ」とUPI通信のような主要言論媒体も、これからは、超宗教的な側面と超思想的な側面を通じた汎人類教育に、より一層、積極的に乗り出してくださることをお願いする次第です。併せて、霊界の指導者たちが送ったメッセージを収録した冊子を配布しましたので、熟読してくださるようお願いします。ありがとうございました。
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