今晩、このようにお集まりいただいた紳士淑女の皆様に、心から感謝申し上げます。きょう、皆様と共に考えてみようと思うテーマは「人類の新しい未来」です。
現在、私たちは混乱した世界で暮らしています。中世以後、没落し始めた神本主義時代を経て、今は人本主義時代です。それのみならず、物本主義ともいえる唯物主義時代に置かれているのです。このような混乱した状況を経ながら、誰も明確な内容を提示できなかったために、今日、人類は脱イデオロギーという収拾し難い状況を迎えています。
1 絶対的神様の対象である人間の価値
今、問題となるのは、人がいないことでも、物質がないことでもありません。それは、神に対する明確な観が現れないことです。明確な神観を通して、人生観や歴史観を新たに設定しなければ、人類世界の新しい未来は現れることはないと思います。私たちがはっきりと神様を知るならば、中世に没落し始めた不明確な神観、現世の人本主義思潮、唯物主義思潮のすべての問題は解決すると思うのです。
ですから、神様は存在するかしないかということが問題にならざるを得ません。今晩、皆様に忘れ難い印象をいかに残してあげるかを、私は考えざるを得ません。
人間は今まで、真で永遠不変な愛と理想と幸福と平和を期待しない時がありませんでした。変わる人間を通しては、このような理想的な要件を成就させることはできません。これは、今日私たちが現時点において処している世界の状況を見つめてみれば、如実に証明される事実です。このような時に、絶対的で、永遠で、唯一で、不変であられる神様がいらっしゃるならば、そのような神様によって、新しい見地から、真の愛、真の理想、真の平和、真の幸福の起源を求めざるを得ないのです。そのような立場から、神様御自身から見る神観、神様御自身から見る人生観、神様御自身から見る物質観、これを明確にするところから、新しい平和と新しい幸福の世界を私たちは迎えることができると思うのです。
ここで問題となることは何でしょうか。いくら絶対的な神様だとしても、その神様お一人で愛や理想や幸福や平和というものを達成することは不可能です。愛や理想や平和や幸福といった言葉は、単独で成立する言葉ではありません。どこまでも相対的要件のもとで形成される言葉です。ですから、いくら絶対的な神様だとしても、その神様のみ前に相対がいなくなるときには、神様が願われる絶対的愛、絶対的理想、あるいは絶対的幸福、絶対や平和も成就しないという結論が出てくるのです。
そのような観点から見るとき、その絶対的な神様のみ前に対象的な存在として登場することができる存在とは何でしょうか。人間以外には、ほかの存在がいるとは考えられません。この人間だけが神様の理想を成就させることができる対象であり、神様の真の愛を完成させることができる対象であり、神様の幸福と神様の平和を完成させることができる対象の価値を備えているという事実を、私たちは考えもしませんでした。
神様は主体であり、人間は対象です。真の愛の王となることができる神様、真の理想の王となることができる神様、真の平和の王となることができるその神様のみ前に、対象である人間自体を見たときに、私たちは無限の価値をもった存在であることを知らなければなりません。
2 自分よりも優れていることを願われる神様
私が皆様に一つ尋ねてみたいことは、皆様が青春時代に、男性ならば男性が自分の結婚相手を選ぶ時に、劣った人を願ったのか、それとも優れた人を願ったのかということです。このように尋ねれば、誰もが、「優れた相手を願った」と答えるでしょう。また、ある父母に愛する子女が生まれるとき、自分よりも劣る子女が生まれるのを願う父母がいるかといえば、そのような父母はいないのです。自分よりも優れた子女、自分よりも立派な子女が生まれることを願うのが人間です。自分の相対や自分の子女が優れていることを願うのは、人間本性の欲求です。それは、人間が誰に似ているからでしょうか。人間はあくまでも原因的な存在ではなく、結果的な存在であることは否定できません。人間は自分の相対や自分の子女が優れていることを願うのです。それは誰に似ているからでしょうか。原因であられる神様に似ているので、そのように求めざるを得ないということは当然の結論です。
今日、人間は、自分の価値を取るに足りないものと考えています。「私など無価値な存在だ」と動物のように自分を扱う人がたくさんいます。きょう、皆様に一つ覚えておいていただきたいことは、神様は、皆様自身が神様よりも立派であることを願われているという事実です。このことを覚えてお帰りになれば、これは偉大な発見とならざるを得ないと思うのです。このような堂々とした人間の本然の価値を回復するところから、真の愛の世界へと行くことのできる道が生じるのであり、真の理想と真の幸福と真の平和の世界へと行くことのできる道があると思います。今までの神学者たちは、創造主と被造物は対等な位置に立つことはできないと考えてきました。
私たちは、「神様は愛である」と語っています。また私たちは、神様を理想的神様であると思っています。しかし、理想的であっても、一人でいてどうするのでしょうか。一人で幸福になれるのでしょうか。一人で平和や自由といったものがあり得るのでしょうか。このように見るとき、人間は本然の価値を喪失したのであり、本然の価値をもっていたならば、神様が尊敬する人間になっていたことは間違いありません。このような本然の価値を回復する人間の本性があるので、私たちは、最高の対象や最高の主体になることを願うのです。
堕落した人間たちの中で、自分の愛する対象の存在が、一年やあるいは十年ほどして消えてしまうことを願う人がいるでしょうか。愛を中心として対象は永遠です。永遠不変です。より次元の高い絶対的で唯一的な立場において、不変で絶対的な愛を求めるのです。堕落によって本然の価値を喪失した人間でもそのようなことを求めるのに、永遠不変で唯一の絶対者であられる神様が、その対象の存在がしばらく存在したのちになくなることを願われるでしょうか。それは願われないのです。神様は永遠のお方なので、その対象的な愛の存在である人間も永遠であることを願うのは、理論的な当然の結論です。
皆様が一つ、はっきりと悟らなければならないことは、人生は永遠でなければならないという決定的な結論です。そのようなレベルであってこそ、「人間が万物の中で最も貴い(万物之衆唯人最貴(マンムルチチュンユインチェキ))」という言葉が成立するのです。ですから、人生は永遠でなければならず、人生は不変でなければならず、人生は絶対的でなければならず、人間は唯一的な存在にならなければなりません。なぜでしょうか。神様が主体なので、その愛と理想と幸福の対象である人間もそうでなければならないからです。
今、皆様は、主体と対象の関係において、理想の実現が可能であり、愛の世界が可能であり、また幸福の世界が可能であり、平和の世界が可能であり、真の自由の世界が可能であることを知りました。主体と対象の観念を、皆様は今はっきりと知ったのです。
3 天地創造と堕落の起源
私たちは今まで、天地創造の理想的起源をどこに設定するのか、という問題を考えもしませんでした。創造というその言葉自体は、何を意味するのでしょうか。すべてのものの投入を意味します。思いを形にするためには、それに相当する自分自体の力を投入しなければなりません。投入するところから存在が始まるのです。
主体と対象の関係について、神様が考えるならば、道は二つしかありません。一つは、神様を中心として対象が主体のために生きる道と、もう一つは、神様御自身がその対象である人間を造って、人間のために生きる道、この二つの道しかありません。ここに神様の理想的根源地を設定しなければなりません。もし「主体となる神様に、対象的なすべての存在は絶対服従せよ。主体だけのために生きよ」と言う場合は、どうなるでしょうか。神様が男性的主体として存在されるように、男性と女性を中心として、男性が主体で、女性が対象であるならば、その男性が女性に「主体のために生きよ」と言えばどうなるでしょうか。ここには一つになる道が塞がってしまうのです。しかし、知恵の王であられる神様が、「対象のために生きよ」という立場を設定するときは、すべてが一つになることができるのです。ですから、天地創造の理想的起源は、「自分のため生きよ」というところに置くことはできず、「相対のために生きよ」というところに置かざるを得ないという事実を、今、私たちは知らなければなりません。
それでは、堕落とは何でしょうか。人間は神様のために存在するようになっており、また神様は人間のために存在するようになっています。互いのために存在する原則を立てました。しかし、このような原則から外れ、人間自体が自主的自我を自覚し始めたことが堕落です。言い換えれば、自分を中心としてすべて「ために生きよ」というところに自分自身を立てようとしたのです。ここから堕落の起源が生じました。天理原則から外れ出したのです。
4 ために存在する原則
人間が神様を手本として、神様から教育を受け、神様のために存在していれば、そこから理想世界の実現が可能だったにもかかわらず、そうすることができず、人間自体を中心として主体性を強調したので、堕落が起きたのです。このような事実は、聖書を通して如実に証されています。ですから、ここに一つの公式的結論を下すならば、「すべての理想的創造物は、ために存在する」という原則が成立するというのです。真の父母とは、子女のために生まれ、子女のために生き、子女のために死ぬ父母です。その父母は、息子にとって真の愛の父母であり、真の理想の父母であり、真の幸福の父母であり、真の平和の主体的な父母です。真の孝子がどこにいるでしょうか。人が生まれたのは、自分のために生まれたのではなく、父母のために生まれたのであり、生きるのは、自分のために生きるのではなく、父母のために生きるのであり、死ぬのは、自分のために死ぬのではなく、父母のために死ぬ、そのような人が孝子です。
それでは、男性が生まれるようになった理由は何でしょうか。男性自身のためではありません。女性のために生まれたのです。女性が良い服を着て、顔を化粧するのは、誰のためにするのでしょうか。自分のためにする女性がいるでしょうか。男性のためにするのです。女性が生まれるようになった理由は男性のためです。互いのために存在しているにもかかわらず、自分のために生まれたと考えるところから問題が起こるのです。
それでは、理想的な夫とは、どのような人でしょうか。いつも自分だけのために生きてほしいと考える人が理想的な夫でしょうか。違います。真の夫、真の妻はどこで見つけることができるでしょうか。男性が、妻のために生まれ、妻のために生き、妻のために死ぬというその立場でのみ、「ああ! 理想的な夫であり、永遠不変の私の愛の主体である」と言うことができます。ですから、そのような夫をもつ妻は「私は幸せな妻だ」と言うことができるのです。またそのような家庭が平和の家庭に間違いないという話が成立します。しかし、「私のために生きてほしい」と考える夫をもつ女性は不幸であることを、私たちはよく知っています。このような観点から、ために存在するという原則を宇宙創造の起源として設定された知恵の王であられる神様を、私たちは高らかに称賛しなければならないのです。
私たちは、今ここで一つの結論を得ました。ために存在するところでのみ、真の愛は始まり、真の理想が始まり、真の幸福が始まり、真の平和は始まるという、この公式を、私たちはここで設定できるのです。神様がこのような宇宙創造の公式を設定したとすれば、この公式を通してこそ、神様が願われる愛も、神様が願われる理想も、神様が願われる幸福も、神様が願われる平和も可能なのです。それ以外に、これはあり得ないということは当然の結論です。
5 愛国者、偉人、聖人は最も大きなもののために生きる人
この公式を適用すれば、真の愛国者とはいったいどのような人かというとき、彼は、生まれるのも国のために生まれ、生きるのも国のために生き、死ぬのも国のために死んでいく人です。すべてをその国とその国民のために生まれ、生きてから死んでいく人であるならば、その人は愛国者にほかならないのです。李舜臣(イスンシン)将軍のような方が愛国者であることを、私たちはよく知っているのです。順位をつけるとすれば、よりために生きた人が優位になるのです。ですから、悲惨な立場で志操をもってよりために生きる心をもった人であればあるほど、その人はより次元の高い愛国者です。この公式を通した結論は、自動的な結論とならざるを得ません。
今までの歴史の過程で多くの偉人と聖人が生まれては死にましたが、いったい歴史の過程において最も偉大で、最も立派たった聖人はどのような人かというならば、この公式を通して、私たちはすぐに発見することができます。どのようなお方かというと、生まれるのも人類のために生まれ、生きるのも人類のために生き、死ぬのも人類のために死にながらも、誰の責任にするわけでもなく、人類のために福を祈ることのできる立場にいるとすれば、その人は歴史上のいかなる聖人よりも偉大な聖人にほかなりません。
ここには、キリスト教の信徒ではないほかの宗教の方たちも大勢来られていることと思います。イエス・キリストはどのような人なのか、ということを私たちはここで一度考えてみようと思います。イエス様は、万民のためにこの地に来ました。自分のために来たわけではありません。万民と神様のために来たのです。また、自分のために生きたのではなく、神様と人類のために生きました。そのような意味で、神様の天理法度に従って、良い時も悪い時も、ために生きる原則に一〇〇パーセント合格した方がいるとすれば、それはイエス様しかいません。ですから神様は、そのイエス様を保護し、キリスト教を発展させざるを得ないのです。したがって、キリスト教は、名実共に世界的宗教にならなければなりません。
6 聖書は「ために存在せよ」という一言に帰結
私たちがイエス様のみ言を分析すれば、それは簡単です。「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためである」(マタイ二〇・二八)と語られたのは、天倫の大道を明らかにするためだったことを知らなければなりません。ために生きてもらうためではなく、ために生きるために来たということです。それが本来、神様が創造された存在物の理想的起源なので、この起源を説き明かし、この起源に一致する生涯を歩んでいかれた方が、正にイエス様であることを、私たちは知らなければなりません。
新旧約の聖書六十六巻が、いくら内容が膨大だとしても、この一言に帰結するのです。「ために存在せよ」という言葉に尽きるというのです。「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」(マタイ二三・一二)という逆説的な論法が、天地創造の原則的起源を通して見るとき、真理に間違いないという事実を、私たちはこれまで知らなかったのです。
霊界についてよく知らない方がたくさんいらっしゃると思います。私は、神様の特別な恩賜を受け、霊界に関する内容をたくさん体験しました。その世界の構造は、いったいどのようになっているのでしょうか。天国には、いったいどのような人が行くのでしょうか。神様の玉座に近い所に行く人は、いったいどのような種類の人でしょうか。自分のために生きた人は行くことができない場所です。理想的根源であり、創造の中心存在である神様御自身も、宇宙のために存在し、原則的な中心存在としていらっしゃるので、その天国の構造は簡単です。「ために存在する者だけが行くことのできる所である」というのは、当然の結論にならざるを得ません。
天地の大主宰であられる神様がいらっしゃる所が、私たちの本郷であり、本然の世界です。その本然の法度に適合できるように訓練するための場所が何でしょうか。宗教です。それでは、宗教の使命は何でしょうか。教権主義者たちのように、自分の教派のために生きることが、神様のみ旨ではありません。自分の教権を超えてでも、神様のために生き、人類のために生きる教派にならなければなりません。自分の教会のために生き、自分の教会のために戦うのではなく、サタンに対して戦い、人類のために行く教派にならなければなりません。
7 真の宗教とはいかなる宗教か
ですから、今日、宗教というものは、その本郷の世界に入っていくことができるように、その法度に合わせる訓練をする所なのです。ですから、歴史始まって以来、神様のみ旨に従った数多くの宗教は、自分自らを否定する修行をしました。なぜ「犠牲になり、奉仕しなさい!」といったのか、今まで知らなかったのです。なぜ犠牲になり、奉仕をしなければならないのかといえば、本然の世界がために生きる本郷だからです。ですから、その世界に行くためには、そこに行ける訓練と準備をしなければなりません。したがって、高等宗教であるほど犠牲と奉仕を強く求めたのは、歴史時代に、神様が歴史過程を通じて摂理してきたものであることを、ここで知ることができます。
それでは、真の宗教とは、いかなる宗教でしょうか。それは簡単です。神様のみ旨のとおりに行う宗教です。神様のみ旨は何でしょうか。神様のみ旨は、宇宙を救うことです。言い換えれば、世界を救うことです。キリスト教の信徒たちは、これを知らなければなりません。神様のみ旨は、世界を救うことです。キリスト教を犠牲にしてでも、世界を救わなければなりません。それが神様のみ旨なのです。キリスト教の本然の使命は、神様のみ旨を成就することです。神様のみ旨を成就するためには、人類救済の責任を果たさなければなりません。それができないとすれば、審判台の前に立って、行くべき道を行くことができなくなります。私が探ってみると、そのようになっているというのです。
真の宗教はどこにあるのでしょうか。人類のために、自分の国はもちろんのこと、自分の教団や教会を投入できる宗教です。このような宗教は滅びません。私たちがわきまえて行くべきことは何でしょうか。国のために生き、世界のために生きるという原則によって見れば、真偽がはっきりと分かれることを、皆様は知らなければなりません。
8 「ために生きよ」という原則を立てざるを得なかった理由
神様はなぜ「ために生きよ」という原則を立てざるを得なかったのでしょうか。その内容と要因を、私がいくつかお話ししようと思います。真心から命を懸けて皆様を世話してくれた人がいたとしましょう。そこで皆様自身は、一〇〇パーセント世話になったとすれば、その世話に報いるために、五〇パーセントだけお返ししたいと思うでしょうか、それとも一〇〇パーセント以上お返ししたいと思うでしょうか。皆様の本心はいかがでしょうか。それは言うまでもなく一〇〇パーセント以上お返ししたいと思う本心があるので、今日皆様は、その本心に従って救いを受ける可能性があるのです。
ですから、知恵の王であられる神様は、ために生きる原則を立てざるを得なかったという事実を知らなければなりません。ために生きるときは、永生するだけではなく、繁栄するのです。そこから発展します。世話になると、その世話に報いるために適当にお返しするはずはありません。真心から命を懸けてそれ以上お返ししたいと思う本心をもっています。そのような心があるので、天国に行くことができるのです。
また、ために存在する原則を立てざるを得ない二番目の要因は何でしょうか。例えば、皆様の家庭に八人の家族がいたとしましょう。その八人の家族のうち、最も幼い弟が、家庭のために生きることにおいて、父や母、あるいは兄や姉よりも、その家庭のために生きるときには、どのような立場になるでしょうか。だんだんと高められ、中心的な存在として登場するようになるのです。
今日、宗教において教えてくれるすべての論理は逆説的なようですが、ために存在するこの原則に従って見ると、よりために存在すればするほど、より次元の高い中心存在になるのです。なぜ中心存在になるのでしょうか。ために生きる人は、万宇宙のために存在する神様に似ているからです。ですから、神様が自分に似た存在を、神様に代わる中心存在として立てるというのは妥当な結論です。心からために生きる主体の前に、心からために生きる対象となるとき、自然に中心存在にならざるを得ません。
今日、政治哲学で問題となるのは何でしょうか。支配者と被支配者の問題です。この問題をいかに解決するかということが今まで悩みの種でした。それがここで簡単に解決されるのです。よりために生きる立場に立った中心存在の支配を受け、主管を受けることを、今日の人間は恥ずかしいことのように思っていました。「人に支配されるなんて、たまらない!」と言いますが、とんでもないことです。心から自分のために生きてくれる人から完全に主管され、支配される立場が、どれだけ幸福な立場か、私たちは今まで考えもしなかったのです。
皆様が霊界に行けば、神様は、天地の中心存在としていらっしゃるので、そのお方に千年、万年、支配を受ければ受けるほど、それ以上の幸福はないことを知るのです。今日の私たちは、このことを知りませんでした。自分のために心から支配してくれる人、そのような方がいれば、そこに真の平和が存在するという事実を、私たちは全く知りませんでした。ために生きる存在は、中心存在になり、中心存在になることによって完全に統一的な環境をここから造成できるという事実を、私たちは知らなければなりません。
三番目の要因は何でしょうか。なぜために存在せよという原則を立てざるを得ないのでしょうか。今まで皆様は「愛」といえば、「それは私の愛である」と思いがちでした。「愛」といえば、それを皆様は自分の愛だと思っていました。いったい愛というのは、どこから来るのでしょうか。愛は自分から来るのではありません。理想も自分から来るのではありません。生命よりも貴く、何ものよりも価値のある愛と理想は、自分から来ることはないことを皆様は知らなければなりません。それは相対から来るのです。たとえ神様だったとしても、それは同じです。
このように相対が高貴であることを、今まで知りませんでした。ですから、生命よりも貴い愛と、生命よりも貴い理想は、どこから来るのでしょうか。自分からくるのではなく、相対から来るので、それを考えても、謙虚に頭を下げなければならず、ために生きよという法度を立てざるを得ないというのです。
9 教会を統一するための天の作戦
文某という人は、再臨主という名前のゆえに、たくさんの被害を被った者です。統一教会とは、いったいどのような教会でしょうか。簡単です。「統一教会」という名前のとおり、教会を統一してみますか。教会を統一することができるでしょうか。ローマ・カトリックと分裂して以来、ギリシャ正教は約九百五十年の歴史をもっていますが、いまだに一つになれずにいます。プロテスタントも四百以上もの教派に分裂し、互いに批判し合いながら数百年間争ってきました。それを統一するとは、統一教会の文某という人は気が少し狂っているのではないかと思うかもしれません。しかし、それは簡単であるという結論を下すことができます。何を通して可能なのでしょうか。ために存在するこの原則を通して可能なのです。
それで、私がこのような論法によって、今まで三十年間、既成教会からありとあらゆる謀略や中傷を受けましたが、じっとしていました。愚かでじっとしていたわけではありません。天理の法度は、あまりに厳然として冷酷な原則をわきまえていく道であることを知っていたので、黙々と何も語らずにきました。あたかも神様のように、あたかもイエス・キリストのように行かなければならないのです。
ですから、より次元が高い善のキリスト教の一人の生命が奪われれば、何百倍の損害賠償を請求し、打たれて取り戻してくるという天の作戦があることを私は知っていました。すべての既成教会が一つになって統一教会に反対したとしても、統一教会が善の立場であるときには、それを統一教会に損害賠償として渡さなければならないのです。理論的です。
神様は、個人を越え、家庭を越え、氏族、民族、国家、世界、さらにはこの天宙を越え、絶対的に神様のために生きるという一人の人、そのような一つの団体、そのような一つの民族、そのような一つの国家が現れることを願っていることを知らなければなりません。そのようなことを求めようとする神様のみ旨の前に、今日、統一教会は、そのような立場に進んでいこうと身もだえする姿であり、団体であることを記憶してくださることを願います。
ここにおいて、私たちは、理想が実現可能な段階的法則と公式の結論を下すことができます。夫は妻のため、妻は夫のため、父母は子女のために生きなければなりません。さらに、家庭は氏族や親戚のために生きなければなりません。また氏族は民族のために生きなければなりません。そして国家は、自国を中心として世界の国々を屈服させるのではなく、自国を犠牲にして世界のために生きようと考えなければならないのです。そのような国家を探し求めていることを知らなければなりません。
10 理想が実現可能な段階的法則
独裁者がほかにいるわけではなく、独裁主義帝国がほかにあるわけではありません。自国を中心として数多くの民族と国を踏みにじろうとし、あなたたちは私のために生きるべきだという、そこに神様の怨讐である独裁国家があるという事実を、皆様は知らなければなりません。
皆様も御存じのように、今日、共産主義は一九五七年を境界として、ソ連と中共が決裂し始めました。ソ連がスラブ民族だけのための世界共産主義を主張するようになり、そこから分裂するのです。永遠にソ連を宗主国とする共産主義を夢みたので、その共産主義は分裂せざるを得ません。しかし、ソ連共産主義が、世界共産主義のために犠牲になろうという愛をもつならば、中共とソ連は分裂しないのです。ソ連は、超民族的な思想基準の設定が不可能だったという事実を皆様は知らなければなりません。ですから、そこから崩れ始めたのです。
今日、民主主義の主導国家であるアメリカも、神様のみ旨から見た場合、どのように行くべきでしょうか。アメリカが民主主義の宗主国であるとすれば、民生主義を率いて世界のために生きることにおいて、アメリカを犠牲にしなければなりません。しかし、世界を捨てても、アメリカ自体のために生きる立場に立ったので、アメリカは今日、悲惨な状態で苦しんでいるという事実を私たちは知っています。このような観点から、今後、世界を指導する理想と思想はどこにあるのでしょうか。国家と民族を超越し、自分の民族を犠牲にしてでも、世界を救おうという国家と民族が現れるならば、その当時は悲惨な立場で犠牲になるかもしれませんが、二十五世紀や三十世紀以内のある時に世界が必要とする、そのような時が必ず近づいてくるのです。ですから、その時に至って、世界を指導する国家になることを皆様は知らなければなりません。
今日、大韓民国も、自国だけを中心とした大韓民国にしてはいけません。アジアのための大韓民国を誰が設定し、世界のための大韓民国を設定し、さらには、神様のための大韓民国を誰が設定するのかという問題が、今日、悲惨な中に置かれている韓国国民が、直ちに求めていくべき道です。
そのような意味で、統一教会は、教会を犠牲にしていきながらも、先端に立って共産主義と闘っています。民主世界の没落を防ぐために、血のにじむ犠牲を覚悟し、努力しています。自分の団体が犠牲になっても、この厳粛な思想を残す土台の上には、神様が必ず共にいらっしゃるでしょう。ガリラヤの海辺で民族の反逆者の罪を着せられ、三十代の青年として死んだイエス様が、世界を指導する民主世界を創建する国家観の思想をもっていたことを誰が知っていたでしょうか。同じ道理です。ですから、統一教会は黙々とこの道を整えていっているのです。
ここに世界二十五カ国からやってきた国際機動隊の隊員たちにも、「あなたは、自分の国よりも世界を愛しなさい」と教えました。これが神様の願う道であり、真の宗教の行くべき道なので、今日、彼らは、韓民族を自分の民族以上に愛する運動を提示するために韓国の地まで来たことを、皆様が記憶してくださるように願います。
11 理想世界に向かう公式的な人生を生きよう
神様は世界のために責任を負うことのできるその国を望んでいます。そして、世界のために自分のすべてを犠牲にできるその教会を望んでいます。そのことを皆様は知らなければなりません。もし皆様が神様に、「神様、あなたはキリスト教会、あるいは統一教会の神様になりたいですか」と尋ねるなら、神様は、キリスト教会の神様や、統一教会の神様になりたいとは思わないのです。世界の神様になりたいと思うのです。
より高い次元の道のために行く群れは、より高い次元の立場において、永遠に繁栄し、その環境において中心となり、自動的に主管することができるのです。そこから、天から臨む永遠の愛と永遠の理想を所有できることを知らなければなりません。ですから、夫は妻のため、妻は夫のため、また父母は子女のため、家庭は氏族のために生きることが公式的な生き方です。
ここから、個人的人生観や、国家観、あるいは宇宙観や神観にまで到達できる一つの公式が出されました。家庭は氏族のため、氏族は民族のため、民族は国家のため、国家は世界のため、世界は神様のため、神様は私たちのために生きることが理想です。皆様は、最高の神様が「私のためにいる」という立場、最高の神様の愛が「私のためにある」という立場に行ってこそ、平和と幸福、理想、真の愛が実現するのです。別の言葉で結論を下すならば、私のものは妻のもの、父母のものは家庭のもの、家庭のものは氏族のもの、氏族のものは民族のもの、民族のものは国家のもの、国家のものは世界のもの、世界のものは神様のもの、神様のものは私のものなのです。
このようなことが可能なその世界、個人でもために生き、家庭でもために生き、社会でもために生き、国家と世界的にもために生きることができる、どこに行ってもために生きることができるそのような所が、私たちの願う最高の理想郷です。理想郷なので、真の愛があり、真の平和があり、真の幸福があり、真の自由があるのです。そこが、私たちの願う理想世界です。
また、地上でそのような世界が展開し、神様を中心として一つになっているなら、そこは地上天国にならざるを得ません。堕落した人類は、そのような所を目指して前進しなければなりません。これが具現化された世界が起こるようになるとき、そこから人類の新しい未来、新しい希望の世界が展開されることを記憶してくださるように願いながら、私のお話を終えようと思います。
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