Autobiography

平和を愛する世界人として

第4章

CHAPTER 04

第四章 私たちの舞台が世界である理由――アメリカへ雄飛

この章の目次
  1. 1. 決死の覚悟で行くべき道を行く
  2. 2. 大事に稼いで大事に使う
  3. 3. 世界を感動させた素晴らしい踊りの力
  4. 4. 深い山奥に細い道を通した平和の天使たち
  5. 5. 海に未来がある
  6. 6. アメリカに行くための最後の飛行機
  7. 7. レバレンド・ムーンはアメリカ精神革命の種
  8. 8. 夢にも忘れられない一九七六年、ワシントン記念塔
  9. 9. 「私のために泣かずに世界のために泣け」
  10. 10. 「なぜ父が刑務所に行かなければならないのですか?」
SECTION 01

1. 決死の覚悟で行くべき道を行く

ソウルの西大門刑務所から釈放された一九五五年は朝鮮戦争の休戦協定が結ばれた直後であり、食べていくのがとても大変な時でした。しかし、当座は食べていくのが大変だとしても、将来の計画を立てる必要がありました。今は大勢が共に集って礼拝を捧げる教会すらなかったとしても、遠い未来のことを準備しなければならないと思ったのです。

世界情勢を見たとき、日本を憎い敵とばかり考えて、無条件に排斥してはならないと思いました。そこで、何度か宣教師の派遣を試みましたが、いずれも成功には至りませんでした。最後に使命を果たしてくれたのが崔奉春 (日本名は西川勝) です。

一九五八年、甲寺 (忠清南道の鶏龍山にある) の裏山に崔奉春を呼んで、私は言いました。「おまえは、今すぐ玄界灘を渡っていかなければならない。勝利するまで戻ってくることはできない」

彼は少しもためらわずに「はい!」と答え、「召されて出で立つこの身はゆくぞ……」という統一教会の聖歌を歌いながら、意気揚々と山を下りていきました。日本に行って生活はどうしたらいいか、宣教はどうやって始めたらいいかと尋ねることもしませんでした。崔奉春はそのように豪胆な男でした。

当時は日本とまだ国交がなかったので、密航するしかありませんでした。密航は国法を破ることでしたが、日本宣教は必ずやらなければならないことでした。したがって、何があろうと困難はすべて耐え忍ぶしかなかったのです。

崔奉春は決死の覚悟で密航船に乗り込みました。私は、彼が無事に海を渡ったと知らせてくるまで、他のことは一切せず、小さな部屋に籠もって座り、ひたすら祈り続けました。何も食ベず、寝ることもしませんでした。彼を送り出すのに必要な資金百五十万圜は、借金をして充てました。満足にご飯を食べられない信徒が大勢いる中で、大金を借りてでも彼を送ったのは、それだけ日本宣教が急を要することだったからです。

しかし、崔奉春は、日本に到着するとすぐに逮捕されてしまいました。広島と山口の刑務所に収監され、韓国に強制送還される日を待つ身となったのです。約九カ月間の刑務所生活の後、思い詰めた彼は、韓国に帰るくらいならむしろ死を選ぼうと腹を決めて、断食を始めました。食を絶つと熱が出ました。警察は治療が必要と判断して本国送還を延期し、入院させたところ、彼はその機に乗じて病院から逃げ出しました。

こうして生きるか死ぬかの苦労を一年半ほど続けた末に、崔奉春が日本に教会を創立したのは一九五九年十月のことでした。その時代、韓国と日本は正式に国交を結んでいないばかりか、圧制政治のつらい記憶ゆえに、誰もが日本との修好に激しく反対していました。そのような怨讐(深い怨みのあるかたき、敵)の国日本に、密航させてまで宣教師を送ったのは、日本を救うためであると同時に、大韓民国の未来を拓くためでもありました。日本を拒否して関係を断絶するよりも、日本人を教化した後、私たちが主体となって彼らを味方につけなければならないと考えました。

何も持たない韓国としては、日本の為政者と通じる道を開いて日本を背景にしなければならず、また何としてもアメリカと連結されてこそ、未来の韓国の生存の道が開かれると見通したのです。崔奉春の犠牲によって宣教師の派遣に成功した後、日本教会は久保木修己という優れた青年指導者を得て、彼と彼に付き従う若者たちによって、しっかりと根を下ろしました。

日本に宣教師を派遣した翌年(一九五九年)、今度はアメリカに宣教師を送りました。この時は密航ではなく、堂々とパスポートとビザの発給を受けて送りました。西大門刑務所を出てから、私の収監に加担した自由党の長官らと接触し、パスポートを得ることができました。私に反対した自由党を逆に利用したのです。当時、アメリカはあまりにも遠い国でした。私がその遠いアメリカに宣教師を送ると言うと、まず韓国でもっと教会を大きくして、それから送っても遅くはないと誰もが反対しました。しかし、大国アメリカの危機を早く収拾しなければ韓国は滅びると言って、私は信徒たちを説得しました。一九五九年一月、梨花女子大を追われた金永雲宣教師が最初に派遣され、その年の九月、金相哲宣教師がアメリカに到着して、全世界に向けた宣教史の第一歩を踏み出しました。

【サイト管理人注】原語版が伝える過酷な背景と断腸の思い(詳細版)

韓国語の原語版(第4章)の該当部分には、日本語訳では大幅に省略されている、当時の極限状況が生々しく記されています。主な違いと詳細な内容は以下の通りです。

  • 崔奉春は日本警察の激しい拷問により、おでこにはボラ色の皮下出血が残り、髪の毛が一掴み抜け落ちて頭皮の生肉が白く露出していた崔奉春の痛々しい姿が詳細に描写されています。
  • 満足に食べられず空腹だったはずの崔奉春がすぐにスプーンを持てなかったため、お父様が自らスプーンを取って汁にご飯を混ぜ、「これが私にできることだ本当に心が痛む」と声をかけながら口に運んでやったこと、そして「これがこの世で最後に味わう温かいご飯になるかもしれない」という悲壮な覚悟が綴られています。
  • 再びの密航を命じられた崔奉春が「怖くて二度と行けない」とその場に座り込んで泣き叫び、恐怖で足の力が抜けて立ち上がれなくなった様子が描かれています。さらに、お父様は送り出さなければならない使命の重さと苦悩のあまり、「男が一度誓ったら実行しろ、死んでも日本に行って死ね!」と彼の頬を容赦なく叩いて大声を張り上げ、無理やり送り出さざるを得なかった断腸の思いが克明に描かれています。
SECTION 02

2. 大事に稼いで大事に使う

商売をして集めたお金は神聖なお金です。しかし、商売で得たお金を神聖なものにするには、それに携わる者が嘘をつかず、暴利を貧らないという条件が必要です。商売をするときは、常に正直でなければならず、三割以上の利益を取ってはなりません。そうやって大事に稼いだお金は、当然貴い目的のために使うべきです。目標が明確で、志のあることのために使わなければならないのです。私は生涯、そのような心がけで事業を展開してきました。事業の動機は、単純にお金を稼ぐことではなく、神様の仕事である宣教活動を支えるところにありました。

事業を通して宣教資金を得ようとした理由の一つは、信徒たちに負担を強いて宣教活動費を充当したくなかったからです。いくら神の御旨のためだからといって、海外に宣教師を派遣することは、思いだけで何とかなるようなことではありません。宣教費用が必要でした。そして、その費用は、当然自分たちの手で稼いだお金でなければなりませんでした。堂々と商売をして稼いだお金を宣教費用に投じてこそ、何の活動をしても胸を張っていることができるのです。

何かお金になることはないかと悩んでいたとき、切手が目に入ってきました。当時、私は信徒に一月に少なくとも三回は互いに手紙を出すよう勧めていました。手紙を出すには四十圜の切手を貼る必要がありますが、一枚の切手を貼らずに、一圜切手を四十枚集めて貼るようにしました。そうやって一月に三回送った手紙に付いている切手を剥がして売ると、最初の年だけで百万圜くらい儲けることができました。何でもない切手が大きなお金になることを経験した信徒たちは、それを七年間も続けました。また、名勝地や俳優の白黒写真に色を塗ったブロマイド写真の販売も、少なからず教会運営の助けとなりました。

しかし、教会が大きくなってくると、切手収集や写真販売だけでは十分な宣教費用を捻出することが難しくなりました。世界各地に宣教師を送ろうとすれば、もっと大きな規模の事業が必要です。私は、日本人が使い捨てていった旋盤機械を、一九六二年の貨幣改革前に七十二万圓を投じて購入しました。貨幣改革後の価値では七万二千ウォンになります。それを教会として使っていた家屋の奥まった練炭倉庫に入れて、会社を起こし、「統一産業」と命名しました。「皆さんの目には、この旋盤機械が価値のないものと見えるかもしれません。やっとのことで一台の古びた機械を入れて、一体何の事業を起こすのかと思うでしょう。しかし、皆さんの前に置かれたこの機械が、遠からず七千台、いや七万台の旋盤機械になって、大韓民国の軍事産業から自動車産業まで相次いで発展するのです。きょう入ったこの機械は、間違いなくわが国の自動車産業を引っ張っていく礎石になるでしょう。ですから、信じてください。必ずそうなるという確信を持ってください」

私は練炭倉庫の前に信徒を集めて堂々と語りました。たとえみすぼらしい出発だとしても、目標は高く、遠大でした。彼らは私の意志に従い、献身的に仕事に取り組んでくれました。そのおかげで、一九六三年には、もう少し大きな規模の事業を始めることができました。その年は、「天勝号」という船を建造して、仁川市万石洞の埠頭のほとりで進水式を行っています。信徒ら二百人以上が列席した場で漁船を海に送り出しました。

水は私たちに命を与えてくれる特別なものです。私たちは皆、母親のおなかの中から誕生します。母親のおなかの中とはまさに水であり、私たちは全員、水から出てきたのです。人間が水から命を得たように、水の中の試練を経てこそ陸地で完全に生き残ることができる、という願いを込めて、私たちは海に船を送り出しました。

私たちが建造した「天勝号」は、とても良い船でした。西海 (黄海)を素早く縫うように進み、たくさんの魚を捕まえてくれました。しかし、そんな時でも、信徒たちの反応はぱっとしませんでした。陸の上でもやることが多いのに、あえて海にまで出て魚を釣る事業をするのはどうしてかというのです。私はすぐに海洋時代がやって来ると直感していました。海に浮かべた「天勝号」は小さな一歩だとしても、海洋時代を開くことになる貴重な一歩でした。私は、その時すでに、もっと広い海やもっと大型で高速の船を頭の中に思い描いていました。

SECTION 03

3. 世界を感動させた素晴らしい踊りの力

私たちの教会は裕福な教会ではありません。満足に食べることもできない者たちが集まって始めた貧しい教会です。ですから、他の教会のように真っすぐに聳え立つ教会堂もありませんでした。よその人が米のご飯を食べているとき、麦のご飯を食べながら一銭、二銭と節約して集めたお金を、私たちよりもっと貧しい人たちに施しました。伝道師は、セメント剥き出しの冷たい部屋で、火も焚かないまま毛布を敷いて暮らします。食事どきになると、ジャガイモをいくつか焼いて食べ、飢えをしのぐのが普通でした。どんなときでも、自分たちのためには一銭も使わないように努力しました。

一九六三年のことです。そうやって集めたお金で、十七人の子供たちを選んで、「仙和児童舞踊団」 (後に「リトルエンジェルス」と呼ばれる)を創設しました。当時、韓国の文化的土壌は悲惨なものでした。私たちが見て楽しむものはもちろんのこと、人に見せられるようなものもありません。人々は、韓国の踊りとはどんなものか、五千年続いた韓国の文化とはどういうものかを全部忘れて、ただただその日一日を生きることにあくせくしていました。

私の計画は、十七人の子供たちに韓国の踊りを教え、世界に送り出すことでした。韓国と言えば、戦争と貧困ばかりを思い浮かべる外国人に、大韓民国の美しい踊りを見せて、韓民族が優れた文化を持つ民族だと知らせようと考えたのです。私たちがいくら五千年の歴史を持つ文化民族だと主張したところで、彼らの前に見せるものがなければ、信じてくれるはずがありません。

美しい韓服を着て軽やかに回っていく韓国の踊りは、足を出して飛び跳ねる踊りに慣れた西洋人の目に新鮮な衝撃として映るにちがいない優れた文化遺産です。私たちの踊りには、韓民族の悲哀の歴史が余すところなく込められています。押さえつけられた頭を俯かせ、目につかないようにひっそりと動く踊りは、恨の多い五千年の歳月を生きてきた私たちの民族だけが作り上げることのできる仕草です。

白い朝鮮足袋の足を一歩踏み出し、顔をさっと回して白い手を上げる姿を見ると、心がすっかり奪われます。力強い声でたくさん話して相手を感動させるのではありません。その見え隠れするような一つの踊りが人の心を動かします。それこそが芸術の力です。言葉を語らずとも言葉が通じ、彼らが生きてきた歴史を知らなくても、自然とその心が分かるようにする力が芸術にはあるのです。

しかも、子供たちの汚れのない表情と明るい笑顔は、戦争を経た国の暗いイメージを一度に洗い流してしまいます。私は、二十世紀最高の文明国アメリカに行き、五千年の歴史を持つ韓国の踊りを初公開するつもりで舞踊団を創設しました。ところが、世の中は再び私たちに向かって非難の声を浴びせました。リトルエンジェルスの踊りがどのようなものか、見る前に非難したのです。

「統一教会の女たちは夜昼なく踊りを踊って、しまいには踊る娘らを生んだ」という呆れてものも言えないような悪口を浴びせてきました。しかし、私はどのような種類の噂にも動じませんでした。リトルエンジェルスを通して、韓国の踊りはこういうものだと世人の目を開かせる自信がありました。私たちに向かって「裸踊りをしている」と悪罵を投げつける人たちに、朝鮮足袋でひらりひらりと走り出す美しい踊りを見せてやりたいと思いました。体をねじるでたらめな踊りではなく、全身を韓服で包み、つつましく踊る本当の韓国の踊りのことです。

SECTION 04

4. 深い山奥に細い道を通した平和の天使たち

私たちが死ぬ前に、必ず子孫に残しておかなければならないものが二つあります。一つは伝統であり、もう一つは教育です。伝統のない民族は滅んでしまいます。伝統とは、民族を結ぶ魂であり、魂の抜けた民族は生き残ることができません。もう一つ、重要なものが教育です。子孫に教育をしなければ、その民族は滅びます。教育は、学問・芸術など新しい文物を吸収することを通して、世の中で生きていく力を得るものです。人は教育を通して生きる知恵を学びます。文字が分からないときは誰もが幼稚なままですが、教育を受ければ、世の中の知恵を活用できるようになります。また、教育は世の中の仕組みを理解する英明さをもたらしてくれます。数千年間続いた私たちの伝統を子孫に伝える一方、新しい文物を教育することは、民族の未来を開くことにつながります。受け継いだ伝統と新しい文物は生活の中で適切に融合され、独創的な文化として再生します。伝統と教育は、どちらがより重要で、どちらがより重要でないと言うことはできません。二つを適切に融合させる知恵も教育から得られるのです。私は、舞踊団を作った後、「リトルエンジェルス芸術学校」(その後、仙和芸術学校に改称)も作りました。学校を作ったのは、芸術を通して私たちの理想を広く世界に連結させるためです。私たちに学校を運営する能力があるかどうかは二の次の問題でした。私はまず実行から入りました。意義が明確で良いことなら、当然始めなければならないでしょう。天を愛し、人を愛し、国を愛する教育をしたいと思ったのです。

私は仙和芸術学校を作り、「愛天、愛人、愛国」というとても大きな揮毫を残しました。すると、ある人が「韓国固有の文化を世界に誇ると言いながら、どうして愛国を最後にしたのか」と尋ねてきました。私は「ある人が、天を愛し、人類を愛したなら、その人はすでに、そのことによって国を愛したのです。愛国はおのずと完成します」と答えました。

全世界から尊敬される人は、すでに韓国を世界万邦に伝えたといえます。世界各国を訪れ、韓国文化の卓越性を見せながらも、リトルエンジェルスは一度も「コリア」を叫びませんでした。しかし、リトルエンジェルスの踊りを見て拍手を送る人たちの心の中には、「文化と伝統の国、韓国」というイメージがしっかりと根を下ろしています。そういう意味で、リトルエンジェルスは、他の誰よりも韓国を広く世界に知らせて、愛国を実践したのです。仙和芸術学校出身で世界的なソプラノ歌手となった吉秀美 (スミ・ジョー) と申英玉、そして世界最高のバレリーナとなった文薫淑 (ジュリア・ムーン) と姜秀珍の公演を見るたびに、私は心が満たされます。

リトルエンジェルスは、一九六五年のアメリカ公演をはじめとして、今に至るまで世界を駆け巡って韓国の美しい伝統を披露しています。イギリス王室に招待され、エリザベス女王の御前で公演を行い、アメリカ独立二百周年の行事に招待され、ワシントンのジョン・F・ケネディ・センターの舞台に上がったこともあります。ニクソン米大統領の前で特別公演も行い、ソウル・オリンピック文化芸術祝典にも参加しました。リトルエンジェルスは、すでに世界的に名のある平和の文化使節です。

一九九〇年にソ連を訪問した時のことです。ゴルバチョフ大統領との会談を終え、その地を離れる前夜、リトルエンジェルスの公演が開かれました。共産主義の牙城であるモスクワのど真ん中に、韓国の幼い少女たちが立ったのです。韓服を着た天使たちは、韓国の踊りを終えたあと、美しい声でロシア民謡を歌いました。客席から「アンコール!」が連呼され、いつまでたっても舞台を下りることができませんでした。結局、準備した合唱曲をすべて歌い終えてから下りてきました。

客席には、ゴルバチョフ大統領令夫人のライサ女史が座っていました。当時、韓国とソ連は正式な国交を結んでおらず、そのような国の文化公演にファーストレディーが出席するのは、極めて異例なことでした。さらに、客席の前方に座ったライサ女史は、公演の間中、終始大きな拍手を送ってくれました。ライサ女史は、公演が終わると舞台に上がってきて、団員に直接花束を渡し、「リトルエンジェルスこそ平和の天使です。韓国にこれほど美しい伝統文化があるとは知りませんでした。公演を見ている間、幼い頃に帰って夢を見ているようでした」と韓国文化の素晴らしさに賛辞を惜しみませんでした。そして、リトルエンジェルスの団員を一人一人抱き寄せて、「My Little Angels!」と言いながら頬にキスしてくれました。

一九九八年には、純粋な民間芸術団体として初めて北朝鮮の平壌を訪問し、三度も公演を行いました。かわいらしい新郎新婦の踊りも踊り、華やかな扇の舞も踊りました。公演を見ている間、北朝鮮の人たちの目には涙がにじんでいました。この時、新聞記者は、こらえきれずに涙を流す北の女性の姿をカメラに収めています。公演を見終えた金容淳・アジア太平洋平和委員会委員長は、「深い山奥に小さな細い道を開いた」と称賛しました。

リトルエンジェルスがしたことはまさにそれです。これまで背を向け合っていた南北が一箇所に集まり、一緒に公演を見ることができるという事実を初めて証明したのです。人々はよく政治や経済が世の中を動かすと考えますが、そうともいえません。文化や芸術も世の中を動かす力を持っているのです。人々の心の最も深い所に影響を与えるのは、理性よりも感性です。受け入れる心が変われば世の中が変わり、制度が変わります。リトルエンジェルスは、韓国の伝統文化を世に知らせる役割をしただけでなく、自由圏と共産圏という異なった世界の問に小さな道を作る役割も十分に果たしました。

私はリトルエンジェルスに会うたびに、「心が美しければ踊りが美しくなる。心が美しければ歌が美しくなる。心が美しければ顔が美しくなる」と言っています。真の美しさは内側から滲み出るものです。リトルエンジェルスがそうやって全世界の人々に感動を与えたのは、韓国の踊りの中に溶け込んでいる韓国の伝統や精神文化が美しいからです。ですから、リトルエンジェルスが受けた拍手喝采とは、つまるところ韓国の伝統文化が受けた拍手喝采なのです。

SECTION 05

5. 海に未来がある

幼い頃から、私の心はいつも遠いところに向かっていました。故郷では山に登って海を慕い、ソウルに来てからは海の向こうの日本に思いを巡らしました。常に、今いる世界よりも、もっと広い世界を夢見ていました。

一九六五年は、私が初めて世界巡回に出た年です。トランクいっぱいに韓国の土と石を詰めて持っていきました。世界を回って、要所要所に韓国の土と石を埋めるつもりでした。八ヵ月半で日本とアメリカ、そしてヨーロッパなど四十ヵ国を回りました。

ソウルを出発する日、数十台のバスに分乗してやって来た信徒たちで、金浦空港はいっぱいになりました。北西の風が激しく吹きつける一月の飛行場に、黒山の人だかりができました。その頃は、外国に出ていくのはかなり大変なことでした。彼らが空港に集まったのは、誰かに言われたからではなく、自分の心が導くとおりにしたことです。私は信徒たちの思いをありがたく受け取りました。

当時、私たちの宣教国は十ヵ国をわずかに超えるほどでしたが、私は二年で四十ヵ国に増やすつもりでした。 四十ヵ国を巡回したのは、その基礎を固めるためでした。

最初に訪問したのは日本です。密航して宣教を始めた日本で、私は大々的な歓迎を受けました。国法に背いての命がけの危険な出発でしたが、今考えてみれば、当時の私たちの選択はとても適切なものでした。

私は日本の信徒たちに尋ねました。

「皆さんは日本的ですか?そうでないとしたら、日本的なものを超えましたか?」

私は話を続けました。

「神が願われるのは日本的なものではありません。神は日本的なものを必要とされません。日本を超えたもの、日本を超えた人を必要とされます。日本の限界を超えて世界に向かう日本人であってこそ、神が用いることができるのです」

日本の人々には冷たく聞こえたかもしれませんし、寂しく感じたことでしょう。しかし、私はあえてきっぱりと話しました。

次に訪れたのはアメリカです。サンフランシスコ空港に降りた私は、アメリカ宣教師と共にニカ月間アメリカ全域を回りました。各州を巡回している間に、「全世界に号令する中心本部はアメリカだ。これから創建する新しい文化は、必ずアメリカを踏み越えていかなければならない」と痛感しました。私はアメリカの地に五百人収容できる修練所を建てようと計画しました。もちろん、韓国人だけでなく、百以上の国から修練生を受け入れる国際的な修練所を建てることが目標でした。

幸い、その願いは間もなく果たされました。その後、毎年百ヵ国から四人ずつ送られたメンバーが修練所に集まり、半年間世界平和を研究し、討論することになりました。それは今でも続いています (この国際修練所は後に統一神学大学院となる)。人種や国境、宗教は何の関係もありません。私は、人種と国境、宗教を超えた多様な考えを持つ人たちが集まり、世界平和について虚心坦懐に議論することが、人類を成長させ、世界をより発展した社会にすることだと信じています。

アメリカを巡回する間に、ハワイとアラスカを除く四十八州はすべて行きました。後部座席に荷物を載せられるワゴン車を借りて、昼夜兼行で走りました。運転手が居眠りをすることがあると、「おいおい、疲れているのは分かるよ。しかし、遊びで来たわけではないのだ。大きな仕事をするために来たのだから、しっかり頼むよ」と言って、励ましました。どこかに楽に座ってご飯を食べることもしませんでした。車の中で、食パンニ枚にソーセージを一つ入れ、ピクルスでものせて食べれば、立派な一食になります。朝昼晩といつもそうやって食べました。寝るのも車の中です。車が宿であり、車がベッドであり、車が食堂でした。狭い車の中で馬食べて、寝て、お祈りしました。何でもできないことがありませんでした。その時の私には達成すべき明確な目標があったので、体が少々不便なことぐらいは十分に耐えることができました。

アメリカとカナダを経て中甫米を回り、次にヨーロッパに渡りました。私の目で直接見たヨーロッパは、完全にバチカン文化圏でした。バチカンを超えなければヨーロッパを超えることはできないと思いました。峻険といわれるアルプスも、バチカンの威勢の前には何でもないものでした。

ヨーロッパの人々が集まって祈りを捧げるバチカン (カトリック教会の総本山であるローマ教皇庁やサン・ピエトロ大聖堂がある)で、私も汗をぽたぽた流して祈祷しました。数多くの教派と教団に分裂した宗教が、何としてでも一日でも早く統一されるようにお祈りしました。神様がつくられた一つの世界を、人間がそれぞれの立場で自分たちに有利なようにあちこち分けてしまったものを、必ず一つにしなければならないという思いが、より確固たるものとなったのです。その後、エジプトと中東を経てアジア各国を回ることで、八ヵ月半の長い巡回を終えました。

ソウルに帰ってきた私のトランクには、四十ヵ国、百二十ヵ所の地域から持ってきた土と石がいっぱいに入っていました。韓国から持って行った土と石をその土地に埋めて、新たにその場所から持ち帰った土と石です。土と石で世界四十ヵ国と韓国を連結したのは、朝鮮半島を中心として平和世界が実現する未来に備えるためでした。私は、四十ヵ国すべてに宣教師を送り出す準備を始めました。

広い地球村を巡回しながら、私は人知れず世界を舞台に行う事業について構想を練りました。教会が大きくなり、宣教地が一つ、二つと増えるにつれて、宣教費用もぐんと増えたので、それをまかなうためにさらに大きな事業が必要でした。アメリカ四十八州を巡っている時も、私たちの教会の支えになる事業は一体何だろうかと考え続けました。

それで思いついたことは、アメリカ人は毎日のように肉を食べるという事実でした。まず牛一頭の値段がいくらか調べてみました。マイアミで二十五ドルする牛がニューヨークに行くと四百ドルになります。マグロはどうかと調べてみると、驚いたことに、一匹のマグロが四千ドルを超えます。さらに、マグロは一度に百五十万個以上の卵を産みますが、牛は一頭しか産むことができません。こうなると、牛を育てるべきか、マグロを育てるべきか、答えはおのずと明らかです。

問題は、アメリカ人が魚肉を食べないことでした。しかし、日本人はマグロといえば飛びついてきます。アメリカにも日本人は大勢暮らしていて、日本人が運営する高級レストランは、マグロの刺身をとても高く売っていました。一度刺身の味を覚えたアメリカ人も、マグロを喜んで食べました。

私たちの暮らす地球は、陸地より海がもっと広いのです。アメリカは広い海に囲まれていて、魚が豊富です。また、二百海里(約三百七十キロメートル)の外側であれば、誰でもそこに行って、好きなだけ魚を捕ることができます。畑を耕したり、牛を育てたりしようとすれば、土地を買わなければなりませんが、海はその必要がなく、一隻の船さえあれば、どこまででも行って魚を捕ることができるのです。海の中には食べ物が豊富にあり、海の上では世界を一つに結ぶ海運事業が活発に行われています。世界中で作られるあらゆる物資が船舶に載せられ、海を縫うようにして運ばれていきます。そう考えると、海は私たち人類の未来に責任を持つ無限の宝庫といえるでしょう。

私はアメリカで船を数隻買いました。写真集で目にするような大型船舶を購入したのではなく、三十四フィート (約一〇・四メートル)から三十八フィート (約一一・六メートル) 程度の大きさの船を買いました。エンジンを切ったままマグロを追いかけ回すこともでき、大きな事故を起こすこともないヨット大の漁船でした。ワシントン、サンフランシスコ、デンバー、アラスカに船を出し、船の修理場も作りました。

研究もたくさんしました。一つの地域に一隻ずつ船を出し、海水の温度を測り、日ごとにマグロがどのくらい捕れるかを調査して、図表を作成し、統計を出しました。専門家が作った統計を手に入れて書いたのではなく、信徒たちが直接海に入り、潜水して作成しました。その地域の有名な大学教授が研究した結果は参考にするだけで、私が直接その地で暮らしながら、一つ一つ確認しました。ですから、私たちが作った資料ほど正確なものはありませんでした。

そうやって苦労して作った資料でしたが、独占せずにすべての情報を水産業界に公開しました。それが終わると、今度は他の海を開拓しました。一つの海で捕りすぎると、魚介類が減ってしまいます。そうならないように、急いで他の海に進出します。水産業を始めていくらも経たないうちに、私たちはアメリカの水産業界を大きくひっくり返してしまいました。

次に、私たちは、また新たな仕事を始めました。はるか遠くの海に出ていく遠洋漁業に飛び込んだのです。一隻の船が海に出ていけば、少なくとも半年間は家に戻りません。その間は魚捕りに専念し、船に魚がいっぱいになると、食べ物と石油を満載した運搬船が出ていって、魚と取り替えます。船には巨大な冷蔵庫があり、捕った魚をしばらく貯蔵することができました。

「ニューホープ」という名前の私たちの船は、マグロをたくさん捕ることで有名です。その船に私が直接乗って、マグロを捕りに行きました。人々は船に乗ることを恐れます。若い者たちに船に乗りなさいと言うと、怖気づいて皆逃げていきました。「先生、私は船酔いが激しいので駄目です。船に乗るだけで吐き気がして死にそうです」と泣き言を言うので、私が先頭に立ちました。その時から一日も欠かさず船に乗って七年以上が過ぎ、それから後も、九十歳(数え)になる今でも、時間さえあれば船に乗ります。そうすると今では、「私も先生のようにキャプテンになりたいので、船に乗せてください」と言ってくる青年が増えました。船に乗りたいという女性も増えました。何であっても、まずリーダーが先にやれば、付いてくるようになっています。おかげで私は、すっかり名の通ったマグロ釣り師になりました。

ところで、マグロを捕ってばかりいても始まりません。適切な時期に適切な価格で売らなければ無駄骨に終わってしまいます。私はマグロの加工工場を造って、直接販売までしました。冷蔵施設を備えた大型トラックにマグロを載せて売りました。販売が行き詰まると、シーフード・レストランを建てて、マグロを消費者の元に届けるルートを作りました。ここまですると、誰も私たちを軽んじることができなくなりました。

アメリカは、世界的な四大漁場の中で何と三つを持っている国です。それは、全世界の魚の四分の三がアメリカを囲む海にいるという話です。それなのにアメリカは、魚を捕る人が少ないために、水産業が見る影もなく後れていました。国では、水産業を盛り上げるためにあらゆる振興策を出しましたが、大きな効果はありませんでした。誰でも二年半だけ船に乗れば、一〇パーセントの値段で船を譲ると言っても、志願者がいませんでした。もどかしいことです。そんな状態だったので、私たちが水産業を起こすと、湾口都市は大騒ぎになりました。私たちが入っていきさえすれば、都市が繁盛するのですから、そうならざるを得ません。私たちがやることは、結局、新しい世界を開拓することでした。単純な魚捕りではなく、人が行かない道を行くのです。人が行かない道を行くのは何と楽しく、胸のすくことでしょうか。

海は本当によく変化します。人の心は朝夕に変わると言いますが、海は刻一刻と変わります。ですから、海はより神秘的で、より美しいのです。海は天を抱いて生きています。蒸発した海の水は上空に集まって雲になり、雨になって再び降ってきます。自然にはトリックのようなものがないので、私は自然が本当に好きです。高ければ低くなり、低ければ高くなります。どんなときでも、バランスを保とうとします。釣り竿を垂らして座っていると、表現できないほどのんびりします。海の上では何者も私たちを妨害できません。私たちを急き立てる者は誰もいません。当然、時間はたっぷりあります。ひたすら海を見て、海と話をしていればよいのです。海にいる時間が長くなるほど、私たちの霊的な世界は広がっていきます。しかし、時として、海は穏やかだった相貌を一変させ、荒々しい波が打ち付けてきます。人の背丈の数倍にもなる大波が、のみ込むように襲いかかり、船の舳先にほとばしります。激しい風は帆を破り、恐ろしい音を立てます。

ところがです。そのように波が荒々しく、風が激しく吹きつける中でも、魚は水の中でぐっすり眠っています。波に体を預けて眠るのです。それで、私も魚に学びました。いくら荒々しい波が押し寄せてきても恐れないことです。波に体を預けたまま、私も船と一体になって波に乗ることにしました。すると、どんな波に直面しても、私の心は動揺しませんでした。海は、私の人生の素晴らしい師です。

SECTION 06

6. アメリカに行くための最後の飛行機

一九七一年末、私はアメリカに向かいました。アメリカに行って必ずしなければならないことがあったからです。しかし、到着までには紆余曲折がありました。アメリカのビザを初めて取るわけでもないのに、なかなかビザが下りず、信徒の中には出国の日を延期してはどうかと言う人もいましたが、それはできませんでした。彼らに説明するのは難しかったのですが、決められた日に韓国を出発しなければならなかったのです。それで、まず日本に行ってアメリカのビザを解決することにして、ひとまず出国を急ぎました。

出発予定日はとても寒い日でした。私を見送ろうと、信徒たちが空港のすぐ外まで集まってきました。ところが、いざ出国しようとすると、旅券に外務部(外務省)旅券課長の出国認証の捺印がないことが分かりました。結局、予約していた飛行機に乗ることができませんでした。

「申し訳ありません、先生。ひとまずご自宅にお戻りください。捺印をもらってきます」

と、出国準備を担当する信徒が慌てた様子で言ってきました。

「いや、空港で待つので、早く行って捺印してもらってきなさい」

私は急いでいました。ちょうど日曜日で、旅券課長は出勤もしていないはずです。しかし、そうした事情を考える余裕がありませんでした。担当者が旅券課長の家まで訪ねていって、捺印をもらうことができたので、その日の最後の飛行機に乗って韓国を出発しました。ところが、ちょうどその夜、「国家非常事態宣言」が発布され、翌日から海外出国が林示止されたのです。ですから、私はアメリカに行くための最後の飛行機に乗ったのです。

ところが、日本に行って再びアメリカのビザを申請しましたが、断られました。後で分かったことですが、光復(一九四五年八月十五日)の少し前に共産主義者の疑いをかけられて、日本の警察に捕まった記録が残っていました。一九七〇年代に入って、世界的に共産主義が猛威を振るっていた時期でした。私たちは百二十七ヵ国に宣教師を送り出しましたが、そのうち共産国家の四ヵ国から追放されたほどです。当時、共産国家で宣教するのは命がけでしたが、私は最後まで使命を放棄せず、ソ連をはじめとする共産主義諸国に宣教師を派遣しました。

私たちは東欧の共産国家で行う宣教活動を「ナビ(蝶)作戦」と呼びました。幼虫がさなぎの期間を経たのち羽根を付けた蝶になる姿が、共産国家で苦難に耐えなければならない地下宣教活動に似ていることから、そう名付けたのです。蝶が幼虫から脱皮していくのは、苦労が多く孤独な過程ですが、成虫になるとどこへでも力強く飛んでいくことができます。同様に、地下宣教も、共産主義さえ崩れれば、羽根を付けてひらひらと飛んでいくものでした。

一九五九年初めに渡米した金永雲宣教師は、北米大陸のすべての大学を回って神のみ言を伝えましたが、その中でカリフォルニア大学バークレー校に留学していたドイツ人のピーター・コッホは、新しい真理によって伝道され、学業を中断して、オランダのロッテルダムに行ってヨーロッパ伝道を始めました。日本でも、中国をはじめとするアジア圏の共産国家に宣教師を送り出しました。きちんとした派遣礼拝を一度もできずに宣教師を死地に送り出す私の心は、甲寺の裏の松林で、崔奉春を日本に送り出した時とさして変わりはありませんでした。子供が打たれるのを見るのは、かえって自分が打たれるよりも残酷です。いっそのこと私が宣教師になって行けばよいものを、信徒を監視と処刑の地に送り出しながら、私の心は泣き続けていました。宣教師を送り出した後、私はほぼすべての時間を祈りに費やしました。彼らの命のために私にできることは、心を尽くして祈りを捧げることだけでした。共産圏での宣教は、見つかればすぐに共産党に襟首をつかまれて引っ張られていく、危険この上ないものでした。

共産圏の宣教に行く信徒は、親に目的地さえ知らせることができずに出発しました。共産主義の恐ろしさをよく知る親たちが、最愛の息子・娘が死地に入っていくのを許すはずがなかったからです。ソ連に派遣されたクント・プオルチョは、国家保安委員会(KGB)に見つかって、国外追放されました。チャウシェスクの独裁が極に達していたルーマニアでは、秘密警察のセクリタテアに尾行され、電話を盗聴されることが頻繁にありました。

一言で言って、ライオンのいる洞穴に飛び込むようなものでした。それでも、共産国家に潜入する宣教師の数は日増しに増えていきました。その頃、一九七三年のことです。チェコスロバキアで、宣教師を筆頭に信徒三十人以上が一度に検挙されるという惨い事件が起きました。マリ・チブナは冷たい監房の中で、二十四歳という花の盛りを迎えようかという年頃で命を失い、共産国家で宣教中に落命した最初の殉教者となりました。翌年、もう一人がやはり監獄で命を失いました。

知らせを聞いた私は、全身が硬直しました。話すこと、食べることはもちろん、祈ることさえできず、石の塊になったように座り込んでいました。彼らが私に出会っていなければ、私が伝えるみ言を聞いていなければ、そのように寒くて孤独な監獄に行くこともなく、そこで死ぬこともなかったはずなのに……。彼らは私の代わりに苦痛を受けて死んだのです。

「彼らの命と交換した私の命は、それだけの価値のあるものなのか。彼らは私の代わりに共産圏宣教の重荷を背負ってくれた。その負債を、私はどうやって返せばよいのか」

私はますます言葉を失っていきました。深い水の中に浸かっているように、際限のない悲しみに落ちていきました。その時、私の目の前にマリ・チブナが黄色い蝶になって現れました。チェコスロバキアの冷たい監獄を抜け出した黄色い蝶は、力を失って座り込んでいる私に向かって、力を出して立ちなさいとでも言うように、羽根をひらひらさせました。彼女は、命をかけた宣教を通して、本当に幼虫から脱皮して蝶になっていたのです。

極限状況で宣教する信徒たちは、ひときわ多く夢や幻想を通して啓示を受けました。八方ふさがりの状況では、誰とも連絡が取れないので、神様が啓示を通して進む道を知らせてくれました。就寝中に「すぐに起きてそこから移動しなさい」と夢で教えられ、跳ね起きてその場を離れるやいなや、秘密警察が踏み込んできた、ということもあります。間一髪で命拾いするような出来事が、一度や二度ではありませんでした。また、一度も直接会ったことがないのに、夢に私が現れて、宣教のやり方を教えたこともあったそうです。信徒たちは、私に会うやいなや、「ああ、あの時、夢でお目にかかった先生に間違いありません」と喜びの声を上げるのでした。

このように共産主義を崩すために、また神の国を建設するために、命をかけて闘ってきた私を、かえって共産主義者だと疑い、アメリカ入国のビザを出さないというので、仕方なく、これまでカナダで反共活動をしていた資料を提出して、ようやくビザを受けることができました。

私がこのように複雑な過程を経てアメリカに行ったのは、彼らを堕落させた黒い勢力と闘うためでした。命をかけて悪の勢力と戦争をするために出発したのです。当時のアメリカは、共産主義と麻薬、退廃、淫乱など、世の中に存在するありとあらゆる問題が、坩堝のように混ざり合ってぐつぐつと煮え立っていました。私は「消防士として、医者としてアメリカに来た」と叫びました。家に火が付けば消防士が駆けつけ、体が病気になれば医者が訪ねてくるように、私は堕落の火が燃えているアメリカに火を消すために駆けつけた消防士であり、神を見失い退廃の沼に落ちたアメリカの病気を治すためにやって来た医者でした。

一九七〇年代初頭のアメリカといえば、ベトナム戦争をめぐる葛藤と物質文明に対する懐疑で、社会が激しく分裂していた頃です。人生に意味を見いだすことのできない若者たちは、道端をほっつき歩いて、酒と麻薬、フリーセックスに人生を浪費し、貴い霊魂を堕落するに任せていました。彼らが彷徨するのを止め、正しい人生に戻るように導いてやるべき宗教は、もはやその役割を失っていました。そのために、低俗でわいせつな雑誌類が道端で堂々と売られ、麻薬を吸って幻覚を見ながらふらふら歩く若者たちがあふれ、離婚した家庭の子供たちは、心のよりどころを失って街をさまよいました。あらゆる犯罪が幅を利かせるアメリカ社会に警鐘を鳴らそうとして、神様は私をその地に送られました。

アメリカに到着するやいなや、私は「キリスト教の危機と新しい希望」「キリスト教の新しい未来」という主題で全国を巡回し、講演活動を展開しました。人々が集まった場所で、誰も指摘していないアメリカの弱点を鋭く指摘しました。

「アメリカは本来、清教徒精神によって建てられた国です。わずか二百年の間に世界最大の強大国になるほどの目覚ましい発展を遂げたのは、神から無限の愛の祝福を受けたからです。アメリカの自由は神から来たものです。ところが、今日のアメリカは神を捨ててしまいました。今、アメリカの人たちは、神から受けた愛をすべて失ってしまいました。何が何でも霊性を回復しなければアメリカに未来はありません。私は皆さんの霊性を目覚めさせ、滅びつつあるアメリカを救おうとここにやって来ました。悔い改めてください!悔い改めて神に帰らなければなりません!」

SECTION 07

7. レバレンド・ムーンはアメリカ精神革命の種

アメリカ人が最初に見せた反応は、この上なく冷たいものでした。「ようやく戦争の貧困の中から立ち直った韓国という取るに足りない国から来た宗教指導者が、どうしてアメリカ人を相手に悔い改めよと言うのか」と、皮肉っぽく言いました。

アメリカ人ばかりが私に反対したのではありません。国際共産主義者と連携した日本の赤軍派の反発は特に激しく、私がよく滞在していたボストンの修練所に侵入し、後に地元警察の検問に引っ掛かって摘発され、FBI (米連邦捜査局)に引き渡されたこともありました。私に危害を加えようとする動きが度々あったので、私の子供たちを警護員なしでは学校に通わせることができないほどでした。殺害の危険が続くと、私もある期間、防弾ガラスの中で講演を行いました。

彼らの妨害にもかかわらず、東洋から来た小さな目の男が行う巡回講演は、日増しに話題を呼びました。人々は、今まで聞いていたものとは全く違った新しい教えに耳を傾けました。宇宙と人生に関する根本原理をはじめ、アメリカの建国精神を呼び覚ます講演内容が、退廃と怠惰の奈落に沈んだアメリカ人に新鮮な風を送り込んだのです。

アメリカ人は、私の講演を通して意識革命を経験しました。若者たちは「ファーザー・ムーン」、あるいは「レバレンド・ムーン(文師)」と呼んで私に従い、肩まで長く伸びた髪とぼうぼうに生えたひげを切りました。身なりが変わると心も変わるもので、酒と麻薬に溺れていた若者たちの心の中に神の愛が入り込み始めました。

講演には、宗派を超越して多様な若者たちが集まりました。説教の中で、「ここに長老派教会はいるか?」と尋ねると、「ここです、ここ!」と手を振る青年がとてもたくさんいました。また、「カトリックもいるか?」と尋ねても、あちこちで手を挙げました。「南部バプテスト教会は?」と尋ねると、どれくらい多くの人が「私です、私!」と言うのか分からないほどでした。私が「自分の宗教を放っておいて、なぜ私の説教を聞きに来るのですか。早く帰ってください。帰って自分の教会でみ言を聞きなさい」と言うと、「ああ!ああ!」と大きく溜め息をつきました。そのようにして、だんだんと多くの人が集まり、若者だけでなく、長老派教会やバプテスト教会の指導者が、教会の青年たちを連れて訪ねてくるようになりました。時間が経つにつれて、「レバレンド・ムーン」はアメリカ社会の精神革命を意味する一つの「イコン(聖像、崇敬の対象)」になっていきました。

私は、アメリカの若者に我慢と忍耐を教えました。自分を守ることができてこそ、宇宙を守ることができるという事実を切々と訴えました。

「皆さんは、苦痛の十字架を背負いたいですか。誰も十字架の道を行きたいとは思いません。心では背負いたくても、体が先に『ノー!』と言ってしまうのです。見た目には良く見えても、心にも良いとは限りません。見た目にはまことしやかでも、中を見てみれば、醜くて悪いものが多いのです。ですから、見た目によいものばかりを求めて、その道ばかりを行きたくなったら、すぐに『こいつ!』と怒鳴って防がなければなりません。若者はひっきりなしに異性に引かれるのではありませんか?そういうときでも、『こいつ!』と言って自分を止めなければなりません。自分で自分をコントロールできなければ、世の中で何をしようとうまくいきません。私が壊れれば宇宙が壊れるのです」

「宇宙主管を願う前に自己主管を完成せよ」という青年時代の座右の銘を彼らに訴えました。アメリカ社会は物質社会です。私は物質文明の真ん中に行って、心の問題を話しました。心は目にも見えず、手でつかむこともできません。しかし、明らかに私たちは心の支配を受けています。心がなければ何もありません。私はその心に愛を加えた真の愛を話しました。真の愛を土台として明確な自我意識を持ち、自分自身を自らコントロールできてこそ、本当の意味での自由をつかむことができる、と訴えました。

また、労働の大切さを教えました。労働は苦痛ではなく創造です。一生の間働いて暮らしても楽しいのは、労働が神様の世界に連結されているからです。人がする労働というのは、実際には、神様が創造しておいたものを使って、いろいろなものを作り出すことにすぎません。私が趣味として神様の記念品を作るのだと考えれば、実際、労働は何でもないことです。私は、物質文明がもたらす豊かな生活に慣れ、働く喜びを忘れてしまったアメリカの若者たちに、「楽しく働きなさい」と教えました。

そしてまた、もう一つ、自然を愛する喜びを教えました。都市の退廃した文化にとらわれ、利己的な人生の奴隷となった青年たちに、自然がどれだけ大切かを話しました。自然は神様が下さったものです。神様は自然を通して私たちに語りかけます。一瞬の快楽とわずかなお金のために自然を破壊するのは罪悪です。私たちが破壊した自然は、巡り巡って、害となって私たちに返ってきて、子孫を苦しめることになります。私たちは自然に帰り、自然が話す声を聞かなければなりません。心の門を開き、自然の声に耳を傾けるとき、自然の中から伝わる神様のみ言を聞くことができるのだ、とアメリカの若者たちに話しました。

SECTION 08

8. 夢にも忘れられない一九七六年、ワシントン記念塔

一九七五年十月、ニューヨーク・マンハッタンの北側にあるベリータウンに「統一神学大学院 (UTS)」 を設立しました。 教授陣には、ユダヤ教、キリスト教、仏教など、あらゆる宗教の垣根を越えて、各界から優れた人材を迎え入れました。彼らが教壇に立って自分の信じる宗教を教えれば、学生たちは鋭い質問を投げかけます。授業は、毎回白熱した議論の応酬の場となりました。あらゆる宗教が寄り集まって討議することで、間違った偏見はなくなり、学生たちはお互いを理解し始めました。こうして、多くの有能な若者が私たちの学校で修士課程を終えて、ハーバード大学やエール大学の博士課程に進学していきました。彼らは今日、世界の宗教界を導く人材になっています。

アメリカ議会は、一九七四年、七五年に私を招請しました。私は、上下両院議員の前で「アメリカを中心とした神の御旨」という主題で講演を行いました。

「アメリカは神の祝福によって誕生した国です。しかし、その祝福は、ただアメリカ人だけのものではありません。それは、アメリカを通して下された世界のための祝福です。アメリカは祝福の原理を悟り、全世界の人類を救うために自らを犠牲にしなければなりません。そのためには、建国精神に立ち返る一大覚醒運動を起こさなければなりません。数十に分かれたキリスト教を統合し、あらゆる宗教を一つにまとめて、世界文明の歴史に新たな一ページを加えるべきです」

私は、道行く若者に向かって訴えたのと全く同じことを、アメリカ議員の前で声高に訴えました。その時点で、アメリカ議会から招請を受けて講演した外国の宗教指導者は私しかいません。続けて二度も議会の招請を受けると、韓国から来た「サン・ミョン・ムーン (Sun Myung Moon)」 とは一体誰なのかと、関心を持つ人がとても増えました。

その翌年の六月一日、ニューヨークのヤンキー・スタジアムで、アメリカ建国二百周年を祝う祭典を開きました。当時のアメリカは、建国二百周年を自ら祝っていられるほど平穏無事とはいえない状況でした。共産主義の脅威に苦しんでいたのであり、青少年の多くは、麻薬や堕胎など神の願いとはかけ離れた人生を送っていました。私はアメリカ、中でもニューヨークが大きな病にかかっていると考えました。そこで、病に臥したニューヨークの心臓にメスを入れる気持ちで祝典に臨みました。

祝典当日は驚くほどの雨が降り注ぎましたが、開始直前、会場一帯は晴れ、悪天候の苦難を劇的に超えて、大会は成功裏に行われました。まだ雨が降っている時のことです。バンドが「ユー.アー・マイ・サンシャイン(You Are My Sunshine)」を演奏すると、ヤンキー・スタジアムに集まった人々は、全員で声を合わせて一斉に歌い始めました。雨に打たれながら太陽の光の歌を歌うので、口では歌を歌いましたが、目からは涙が出ました。雨水と涙が入り混じる瞬間でした。

私は学校に通っていたとき、ボクシングをやっていました。ボクシングでは、いくらジャブを何回入れても、体力のある選手はびくともしません。しかし、アッパーカットを一発大きく入れれば、どんなに体力のある選手でもぐらつきます。私は、アメリカという大国にアッパーカットを一発大きく入れるつもりでした。今までに成功したどの集会よりもはるかに大きな規模の集会を持ち、アメリカ社会に「サン・ミョン・ムーン」の名前をしっかりと刻み付ける必要があると考えました。

ワシントンDCはアメリカの首都です。アメリカ議会議事堂とリンカーン記念堂を直線で結んだほぼ真ん中にワシントン・モニュメントという記念塔があります。ちょうど削って尖らせた鉛筆を垂直に立てたのと同じ形をしています(高さ百六十九メートル)。その記念塔の下には、リンカーン記念堂まで続く幅の広い芝生広場があって、そこはアメリカの心臓部といってよい場所です。私は、そこで大規模な集会を開く計画を立てました。

ワシントン記念塔前の広場でイベントをするためには、アメリカ政府の許可を得なければならず、アメリカ公園警察からも許可を取らなければなりません。しかし、アメリカ政府は、私のことをあまり好ましく思っていませんでした。アメリカ政府が何度も申請書を突き返してきたため、大会当日の四十日前になってようやく許可を得ることができました。

信徒たちも、あまりに大きな冒険だとして、誰もが引き留めようとしました。ワシントン記念塔前広場は、都心の真ん中に位置し、がらんとした、辺り一帯に何もない公園です。それも、木が生い茂って垣根になっている所ではなく、ただの青い芝生の広場です。ですから、もし人が集まらなければ、四方八方からその閑散とした様子があからさまになってしまいます。広い芝生の広場をぎっしりいっぱいにしようとすれば、数十万の人波が押し寄せてこなければならないのですが、果たしてそれが可能かということです。その時まで、ワシントン記念塔で大きな行事を行った人物は二人しかいませんでした。公民権運動の一環で「ワシントン大行進」を行ったマーティン・ルーサー・キング牧師と、大規模な宗教集会を開いたビリー・グラハム牧師です。そのような場所で大会を開こうと、私が挑戦状を突きつけたのです。

私はその日の大会のために、休む間もなく祈祷しました。原稿を四回も書き直しました。大会の一週間前になっても、その日にどんな説教をすべきか心が定まっていませんでした。原稿を書き終えたのは、大会のわずか三日前です。本来、私は説教の前に原稿を用意することはしません。しかし、その時はそうしてみようと心が動かされました。どういう訳なのかはっきりしませんが、とても重要な大会になることは明白でした。

ついに一九七六年九月十八日、夢にも忘れることができないその日が来ました。朝早くから人々がひっきりなしにワシントン記念塔に押し寄せてきました。何と三十万人という大勢の人の群れです。それほどの群衆が一体どこから押し寄せてきたのか、全く見当もつかないことでした。彼らの髪の毛の色や顔の色は皆、色とりどりでした。神様がこの地上に送り出されたすべての人種が集まったかのようでした。それ以上何を言う必要もない、本当に世界的な大会になりました。

私は三十万人の群集の前で、「退廃的なアメリカの青年たちを危機から救い出し、希望の若者にするためにアメリカに来た」と堂々と宣布しました。私が一言一言語るたびに、観衆の中で歓呼の声が上がりました。東洋から来たレバレンド・ムーンが伝える教えは、混沌の時代を生きていた当時のアメリカの青年たちにとって、新鮮な衝撃でした。彼らは、私が伝える純潔と真の家庭のメッセージを歓迎しました。人々の熱狂的な反応に、私の体からも脂汗が流れてきました。

その年の暮れ、『ニューズウィーク』誌は私を一九七六年今年の人物」に選びました。しかし、また一方では、私を警戒し、恐れる人たちが増えました。彼らにとって私は、東洋から来た不思議な魔術師にすぎず、彼らが信じて付いていくような白人ではありませんでした。また、自分たちがよく聞く既成キリスト教会の教えと少々異なった話をするということが、彼らをとても不安にさせました。その上、白人の若者たちが、「目が魚のように細長いアジア人」を尊敬し、彼に付いていくのを絶対に容認できませんでした。彼らは、私が純真な白人の若者を洗脳していると悪い噂を流し、私に歓声を送る群れの背後で、私に反対する勢力を集めました。またしても新たな危機が身近に迫ってきたのです。しかし、臆することはありませんでした。私は明らかに正しいことをしていたからです。

アメリカは人種差別と宗教差別が激しい国です。アメリカンドリームに憧れて、世界中からあらゆる人種が集まってくる自由と平等の国として知られていますが、実際は、人種差別と宗教差別によって激しい葛藤が生じている国です。それは、退廃と堕落、物質主義のような一九七〇年代の豊かさの中に現れた社会の病弊よりも、はるかに深くアメリカの歴史に根ざした、簡単には治すことのできない持病のようなものでした。

その頃、宗教問の融和を導くために、私はよく黒人の教会を訪ねていったものです。黒人のリーダーの中には、マーティン・ルーサー・キング牧師に倣って、人種差別をなくし、神の平和世界を築こうと努力する隠れた人材がたくさんいました。

彼らは、法的に人種差別が禁止される前、数百年間続いた黒人奴隷市場の写真を教会の地下室に展示していました。生きている黒人を木に吊して火で焼く場面、奴隷として売られてきた黒人たちを鶏のように並べてその口を開ける場面、男女の黒人を裸にして奴隷を選ぶ場面、泣き喚く子供を母親の懐から引き離す場面など、およそ人間の心を持っていたならば到底できないような蛮行を犯す姿がそのまま写し出されていました。

「見ていてください。これから三十年のうちに、黒人と白人の混血家庭から生まれた子供がアメリカの大統領になるでしょう」

一九七五年十月二十四日、シカゴの集会で私はそのように語り、その日の予言は、今やアメリカで現実のものとなりました。シカゴで誕生したオバマが大統領になったのです。しかし、私の予言は自然に成就したのではありません。宗教と教派問の葛藤をなくすために大勢の人の血と汗が流されたからこそ、今、一輪の花が咲いたのです。

SECTION 09

9. 「私のために泣かずに世界のために泣け」

ワシントン記念塔の集会には、驚いたことにアメリカの既成キリスト教会の牧師たちも信徒を大勢連れてやって来ました。私の伝えるメソセージが宗教や宗派の別なく若者たちに感動を与えていると判断したのです。私が喉が張り裂けるほど声を大にして叫んだ「超宗教・超宗派」という目標が達成された瞬間でした。ワシントン記念塔の集会は奇跡でした。その日、集まった三十万人の群集の記録は、今も破られていません。

しかし、良いことには必ず悪いことも付いてくるものです。一部の在米ユダヤ人が、私の顔が描かれたポスターに八の字のひげを描き、ヒトラーを思わせるように手を加えました。彼らは私に反ユダヤ主義を意味するアンチ・セミティズムのレッテルを貼り、「ユダヤ人を虐待する人物」と印象づけて激しく攻撃してきました。ユダヤ人だけではありませんでした。私に従う若者が急速に増え、原理を学ぼうとする牧師の数が目立って増え始めると、既成キリスト教会も私を迫害し始めました。一方で、伝統的なキリスト教会が集中的に私を圧迫するようになり、他方で、「共産主義の拡散防止はアメリカの責任である」と説く私の主張に反発した革新系左派勢力が私を牽制し始めたのです。

人気が高まるほど、私をめぐるさまざまな疑惑が提起されました。以前は全く問題にならなかったことが、突然深刻な問題となって私を圧迫しました。保守勢力は、私が革新寄りだとして、私の教える教理が伝統的な価値観を破壊すると主張しました。彼らが私を最も不満に思ったことの一つは、十字架に対する新しい解釈でした。

救世主 (メシヤ) として来られたイエス様が十字架に付けられて亡くなったのは、神様の予定された御旨ではありません。イエス様が処刑されることによって、平和世界を築くという神様の計画は頓挫してしまいました。もしその時、イスラエル民族がイエス様をメシヤとして受け入れていれば、東西の文化と宗教が一つになる平和世界ができていたはずです。しかし、イエス様は十字架にかかって亡くなったのであり、神様の人類救済の事業は、結局、イエス様の再臨以降に延長されたのです。このような十字架に対する私の新しい解釈が多くの反対を呼びました。既成キリスト教会はもちろん、ユダヤ人たちまでもが、すべて私を敵として激しく攻め立てたのです。彼らは、私をアメリカから追放しようと、さまざまなことを企てました。

最終的に、またもや私は囚われの身となりました。奈落に沈んだアメリカの道徳性を目覚めさせ、神の御旨にかなう国として復興させることしかしていないのですが、アメリカは私に脱税の罪を着せたのです。年齢が六十をとうに超えている時です。

私はアメリカに定着した最初の年に、世界各国から送られた宣教献金をニューヨークの銀行に預金しました。アメリカでは、宗教活動に使う基金は宗教指導者の名義で銀行口座に入れておくのが伝統的な慣習です。ところが、この銀行口座の預金から発生した三年間の利子所得を、私が所得として申告せず、脱税したと嫌疑をかけて、ニューヨーク連邦検事局は私を起訴しました。結局私は、一九八四年七月二十日、コネティカット州のダンベリー連邦刑務所に収監されました。

ダンベリーに収監される前日、ベルベディア (ニューヨーク州ハドソン河畔にある教団施設) で最後の集会を持ちました。ベルベディアをいっぱいに埋めた信徒たちは、涙を流して私のために祈ってくれました。私に従う数千人の弟子たちが、ベルベディアに詰めかけてきました。私は彼らに向かって声高に叫びました。

「私は潔白です。私は何の過ちも犯していませんが、ダンベリー刑務所の向こうに昇ってくる輝かしい希望の光を見ながら行きます。私のために泣かずに、アメリカのために泣いてください。アメリカを愛し、アメリカのために祈ってください」

悲しみにひたる若者たちを前に、私は希望の握り拳をぎゅっと握ってみせました。

刑務所に入る前に私が残した声明文は、宗教者の間に大きな波紋を呼び起こしました。判決に抗議して潔白を訴える運動が起き、私のために力強い祈祷の波が起きました。

私は監獄に入ることを恐れるものではありません。監獄生活には慣れています。しかし、周囲の人たちは、一部のユダヤ人が私の命を狙って何をするか分からないと恐れました。それで私は堂々と監獄に入っていきました。

SECTION 10

10. 「なぜ父が刑務所に行かなければならないのですか?」

ダンベリー刑務所でも、「為に生きる」という私の原則は何も変わりません。朝早く起き、汚れた場所をきれいに掃除しました。食堂に行っても、他の囚人は、テーブルに鼻をつけて寝ていたり、世間話をしていたりするのですが、私は必ず背筋を伸ばして順番を待ちました。与えられた仕事は他の人よりずっと多くやって、周りの人の世話をしました。余った時間には私自身の説教集を読みました。夜でも昼でも説教集を読んでいるので、ある囚人が「それがおまえの聖書か。おれの聖書はこれだが、一度見てみるか?」と雑誌を放り投げてきました。『ハスラー』というポルノ雑誌でした。

ダンベリー刑務所の中で、私は「黙って働く人」「本を読む人」「瞑想する人」と呼ばれました。そうやって三カ月が経つと、監獄の中の囚人や看守とも親しくなりました。麻薬で捕まった人とも親しくなり、ポルノ雑誌を自分の聖書だと言っていた囚人とも親しくなりました。さらに一月、二月が過ぎると、今度は、収監されていた囚人たちが、自分がもらった差し入れを私に分けてくれるようになりました。彼らと気持ちが通じるようになると、監獄の中に春の日が差してきたかのようでした。

監獄に行くのは悪いことばかりではないと私は思います。涙の谷間で泣く人を悔い改めに導くには、まず私が涙を流さなければなりません。私がそれ以上の悲しみを持たなければ、その人の心を開かせ、み言を受け入れさせることはできないでしょう。天の摂理は本当に奥妙です。私が監獄に閉じ込められると、意外にも、「宗教の自由」を侵害したアメリカ政府に対して憤りを露わにした聖職者七千人以上が、私を救い出すために立ち上がりました。その中には、アメリカのキリスト教保守派を代表する南部バプテスト教会ジェリー・ファウエル牧師や、オバマ大統領の就任式の際に祝禧を捧げた革新系のジョセブ・ローリー牧師(当時は南部キリスト教指導者会議議長)もいました。二人は救出運動の先頭に立ちました。娘の仁進(当時十九歳)も、彼らと腕を組んで一緒に行進しました。七千人以上の聖職者の前で、涙して書いた手紙を読み上げることもしました。

「皆さん、こんにちは。私は、文鮮明牧師の次女文仁進です。一九八四年七月二十日は、世界の終末が私たち家族に訪れてきたかのようでした。この日、父は刑務所に入っていきました。このようなことが父の身に起きるとは夢にも思いませんでした。それも神が祝福した自由の地であり、父がとても愛し、奉仕してきたアメリカの地で起きたのです。父は、アメリカに来てとても熱心に活動しました。私は、父が眠っている姿を一度も見たことがありません。常に早朝に起きて祈り、活動しています。私は、アメリカの将来と神のために、父ほど献身的に活動する人を見たことがありません。ところが、アメリカは父をダンベリー刑務所に投獄してしまいました。父がなぜ刑務所に行かなければならないのですか?父は自分の苦痛は意に介さない人です。神の御旨を実践してきた父の人生には、涙と苦難が点在しています。今、父の年齢は六十四です。父にはアメリカを愛した罪しかありません。しかし、父は今この瞬間にも、刑務所の食堂で皿を洗ったり、床を磨いたりしています。先週、私は、囚人服を着た父と初めて面会しました。私は声を上げて泣きました。父は『私のために泣かないで、アメリカのために祈りなさい』と私を諭してくれました。全世界数百万の教会員に語った話を私にもそのまましてくれました。『おまえの怒りと悲しみを、この国を本当に自由な国にすることのできる強い力に変えなさい』父は刑務所の中で、いかなる苦労もし、いかなる苦痛にも耐え、いかなる十字架も喜んで背負うと話しました。『宗教の自由』はあらゆる自由の基礎です。『宗教の自由』を守るため、父を支持してくださった皆さんに、心から感謝申し上げます」

私は模範囚として認定され、六ヵ月減刑されて、十三ヵ月後に出監しました。刑務所の門を出ていった日の夜、ワシントンDCで出監歓迎晩餐会が開かれました。ユダヤ教のラビやキリスト教の牧師ら宗教指導者が千七百人も集まり、私を待っていました。私はそこで再び「超宗教・超宗派」を主張しました。誰の目も気にすることなく、大きな声で世の中に向かって叫びました。

「神は宗派主義者でも教派主義者でもありません。教理の枝葉末節にとらわれる神ではないのです。神の父母としての心情、そして大いなる愛の心には、民族と人種の区分がありません。国家や文化伝統の壁もありません。神はきょうも、万民を同じ息子・娘として抱くために努力しておられます。今、アメリカは、人種問題、価値観の混乱と社会や倫理・道徳の退廃問題、霊的枯渇とキリスト教信仰の衰退問題、無神論に立脚した共産主義問題など、深刻な病弊を抱えています。私が神の召命を受けてこの国に来た理由はここにあります。今日のキリスト教は、大きく覚醒し一つに団結しなければなりません。牧会者たちもまた、これまでの役割を再検討して、悔い改めなければなりません。イエス様が来られて『悔い改めよ』と叫ばれたその時の情景が、二千年を経た今、この地上に繰り返されています。私たちは、神がアメリカに命じた重大な使命を果たさなければなりません。このままでは絶対にいけません。新しい宗教改革が起こらなければならないのです」

獄中生活を終えて出てくると、これ以上私を縛り付けるものがありませんでした。私は、以前よりもっと強い声で、堕落したアメリカに対して警告のメッセージを放ちました。神様に対する愛と道徳性を取り戻すことこそが、この国を再び立ち上がらせることのできる力だと、強く訴えました。

何らの罪もなく刑務所に入りましたが、神の御旨はそこにもありました。私が刑務所に収監中から、私のために救出運動を起こした七千人を超す牧師たちは、代わる代わる釜山のボムネッコルとソウルを訪ねてきました。一体レバレンド・ムーンのどのような精神がアメリカの若者たちをかくも引き付けるのか、それを知ろうというのです。彼らは短い訪問期間の中でも、わざわざ時間を割いて私たちの教理を学んで帰りました。私は彼らを中心に「アメリカ聖職者連合会(ACLC)」を組織し、今も宗教と教派の垣根を越える信仰運動と平和運動を展開しています。

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