二世の道
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目次
第一章 神様の創造のみ業
第一章 神様の創造のみ業
P.18
第一節 神様の実存一 神様の実存を知る
今日、先生が世界的に提唱している思想的内容を見ると、一番目は何ですか? 世界の宗教を統一する原理です。では、宗教をどうやって統一するのでしょうか。神様についてだれよりもはっきりと教えてあげるのです。「このようにすれば、間違いなく体験的宗教を実現することができる。理論的体系に基づいて、科学的データに基づいて、体験させることができる。そうしなければ宗教を一つにすることはできない」というのが宗教に対して提唱している原理です。
二番目は何ですか? 思想に対して提唱している原理です。世界が混乱し、人々が右往左往しながら方向を見いだせずにいる中で、確固たる思想を中心として進んで行く道、その道が二通りあると先生は見ています。
その思想というのは何かというと、人生問題、個人の問題に対する思想です。人間は一体どのようにして生まれたのでしょうか。人間自体を論ずるとき、人間はあくまでも結果的な存在であって、根源的な存在ではありません。自分自身が第一原因的存在だと主張する人は一人もいません。原因は分かりませんが、結果的な存在だから結果的な存在として生まれたのです。人間とは何かという問題を考えるとき、結果的な存在として生まれた人間には、人間に生まれるようになった原因があるに違いないため、第一原因的存在として提示すべき何者かが存在しなくてはならないのです。ですから、神様についての問題を中心にした上で、自分自身についての答を出さなければなりません。
神様を知った土台の上でのみ、自分個人の人生観というものが設定され、家庭がどのように進み、社会がどのように進んでいき、国家がどのように進み、世界がどのように進み、将来、世界の終末はどのようになる、という方向を設定できるのです。それは自分だけの方向ではありません。自分だけの方向ではないのです。ですから、人間についての問題と、原因的な存在である神様がいるかどうかの問題を知らなければなりません。
今日、哲学の追求する道は何ですか? 哲学は理論を通して神様を究明するために、すべての知性人を投入しましたが、失敗の烙印を押されてしまいました。神様を発見できなかったのです。
世界が一つになれなかったのは、中世のローマ教皇庁が本当の神様を教えてあげられなかったからです。そこから、世界が人本主義に転落してしまったのです。神様はいない、というわけです。妄想だ、虚構だ、というわけです。それはなぜですか? 神様をはっきりと教えることができなかったからです。神様をはっきりと知るには、体験を通さなければだめです。理論だけではだめです。直感を通した体験が必要なのです。しかし、そのような神様を教えることができませんでした。
哲学は神様を探して求めてきましたが失敗しました。今日、世界が民主主義と共産主義に分かれて争っていますが、これは失敗に終わるのです。なぜなら、神様を見つけることができなかったからです。
では、宗教は何なのでしょうか。宗教には神様の究明が必要ありません。宗教というのは、神様を見いだし、神様とともに生きようとするものです。それも理想的に生きようとする生活理念になっています。人生の幸福を神様とともに追求するのです。ですから真の宗教は神様とともに生きる宗教です。
では、ここで問題になるのは何でしょうか。思想の問題も、神様を知らなければ解決できないのです。また、共産主義、共産主義は唯物論を主張し、物質主義ですが、これを解決するにおいても神様を知らなければだめなのです。「神様はいない」というその主義を完全に滅ぼし、「神様はいるのだ」ということをはっきりと百二十パーセント認識させなければなりません。神様を知らずしては、何事も解決できないのです。違いますか? 思想も神様を徹頭徹尾知った上で、神様と相対的位置なり対等の位置に立たなければ、正しい思想理念を世界に提示したとしても、変動する環境に巻き込まれてしまいます。それは、絶対的な思想になりえないからなのです。(一四一−二三四)
二 本来は自然に分かるようになっていた
二 本来は自然に分かるようになっていた
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人類が堕落しなかったなら、神様がいるかどうかということを問う必要もありませんでした。それは本心で分かるのです。つまり、人類が堕落せず善の父母としてこの宇宙に現れ、家庭を成し、その家庭が繁殖してこの人類世界をつくったなら、今日の人類は神様がいるとかいないとかで論じ合う必要はなかったのです。血統がつながっているので、体で分かるのです。一本の木と同じで、そこには説明が必要ありません。説明を通して神様が分かるようにつくったとしたら、神様は創造を誤ったのです。本来、人間には説明が必要ありません。説明の過程を通り越したところから出発すべき人間が、堕落により、神様と隔離された立場から出発して個人・家庭・氏族・民族・国家・世界と進んできたために、神様がいるかどうかを論ずるこのような世界になったのです。
人類が堕落せずに、善なる父母を通して生まれていたなら、神様がいるかいないかという議論は必要なかったはずです。生まれながらにして、自然に分かるのです。子どもは胎中でお乳の飲み方を学んで生まれるのですか? 生まれると同時に、目の前に母親の乳房があれば吸うようになっています。自動的に分かるようになっているのです。それと同じく、人類は堕落しなかったならば神様との関係を自動的に知って、自動的に解決して、自動的に行くべき方向を知ったことでしょう。ところが、堕落によってすべて分からなくなってしまったのです。だから神様がいるかどうか、疑う世界になったのです。(二〇−三〇六)
三 神様の遍在性
三 神様の遍在性
P21
人間の始祖であるアダム・エバが堕落しなかったなら、神様の愛を中心に一体となり理想の実体を成したことでしょう。そして、神様は私たちの内的父母となられ、アダム・エバは外的父母になるのです。地上の世界が地上だけで孤立するのではなく、神様を中心とする霊界が地上を代表した人類始祖と完全に一つになるため、神様を中心とした霊界は内的な面を表し、アダム・エバを中心としたこの地上は外的な面を表して一体になるのです。では、神様はどこにおられるのでしょうか。霊界ではなく、私たちの心の中心におられるようになるのです。すなわち、心の中心におられる神様と心の命令を受けるアダム・エバは一心同体なのです。(一四五−三一〇)
それでは、皆さんは神様の遍在性をどうやって感じることができるでしょうか。それは、空気を神様の息吹のごとく感じ、台風が来たら、神様が世界のために苦難の道を克服してこられながら流された涙のように感じることができるのです。太陽を見るときには、その太陽がこの宇宙全体の生命の源を象徴することを知って、神様の愛を太陽に学べということです。
神様の心情を体恤するにおいて、一つの教本として、教材として展開したもの、愛する子供たちを喜ばせるための教材としてつくられたものが自然ではないですか? そうなのです。木の葉を見て自分の息子や娘のように思い、独りで語りかけることのできる人がいたなら、その人は聖人に近い人なのです。分かりますか? 気の狂った人ではありません。(五九−一〇二)
四 神様は無形の存在
四 神様は無形の存在
P22
神様は生きていますか、死んでいますか?(生きています)。悪魔も生きていますか、死んでいますか? 神様を見たことがありますか? どうして分かりますか? 悪魔を見たことがありますか? どうして分かりますか? そこで、共産主義でいう観念と実在が哲学の問題となるのですね。目に見えないものは皆すべて観念です。抽象名詞。良心も観念だと見るわけです。では、愛を見たことがありますか? いわば愛も観念、抽象名詞です。しかし、愛は観念ではありません。実生活のあらゆる面で触れているのです。(一八六−六七)
神様は知恵深い方です。神様は自ら「見えない主人になろう」そういう考えができるのです。便利な道を選ぶとなると、人間たちの知らないうちに、そっと神様ひとりで思いのままにできるように、人間がいくら追いかけても捕まえることができず、見ようとしても見えない存在になるのがいちばん便利な方法でしょう。それでもって主人として君臨すればよいのです。分かりましたか? そうやって君臨するのが理想的なのであって、二百十億光年にもなる宇宙に「我が懐に抱かれよ、お前は我がうちにあれ」と言うそんな図体をした神様だったら、神様としてやっていられるでしょうか。その神様に心があるとすれば、心から体までの距離はどのくらいになるでしょうか。その大きな体と心が互いに訪ねて行くには、どれだけ時間がかかるでしょうか。神様がご覧になっても嘆かわしいはずです。
そのように考えると、知恵深い神様、全知全能であられる神様は、中央に立って思いのままに動き回れる、無形の存在としてこれを支配するのがいちばん便利だと考えたのです。では、だれか文句を言う人がいますか? 神様は無形であるだけに、存在世界を自由に通り抜けて行っても、少しの支障も感じる人はいません。皆さんにも体がありますが、神様が来て自由に通り抜けても分からないのです。神様が、うとうと居眠りしている皆さんの体を踏んで行っても気づかずにいるのです。だからとても都合がいいのです。いちばん都合がいいでしょう? 従って、神様はよく考えた末に、目に見えない存在でいるのがいちばん便利だということで見えない神様になった、という論理は妥当な論理なのです。
皆さん、空気が体を出入りしているのを知っていますか?(はい)。出入りしていますが、それを感じますか?(感じません)。感じないでしょう? 空気が出入りするのも感じないのに、神様が出入りするのを感じられるかというのです。こうして神様は、無形の神様でいることが最も便利な方法だと判断し、この宇宙を支配できる、宇宙を風呂敷に包んで余りあるほどの神様でなければいけないと考えたのです。無形の神様ですが、無形の神様の心はこの宇宙でさえ小さいと感じ、もっと大きなものを要求しているのです。分かりましたか?(はい)。(一三八−一六七)
五 神様は体恤しなければ分からない
五 神様は体恤しなければ分からない
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では、「神様はいる」、漠然と「神様はいる」と言うと、私たちにはあまり関係がないような気がします。神様がいるならいるで、私たちと何の関係があるのかというのです。関係、リレイションシップ(relationship)というものが問題ですが、どのような関係を持つかということが重要なのです。(一三〇−二〇九)「神様はいる、神様はいる」というのは、言葉だけではないのです。『原理』を通して主体と対象の関係を中心として見るときに、私たちは、神様が不可避的にいなくてはならない存在だという立場ではなく、「神様は私が考える以前から存在していたのだ。私のすべての感覚、私の一切のものを主管する神様だったのだ」という立場なのです。それを認識することが何よりも重要な問題です。
「認識して知る」のが原則ではないですか? 「知って認識する」のではなく、「認識して知る」ようになっています。私たちは、寒いなら「寒い」ということを知ってから感じるのではなく、寒いことを感じてから知るのですね。それと同じように、皆さんは、神様がいるなら神様がいるということを感じなければなりません。細胞で感じなければなりません。その境地が問題なのです。すなわち、体恤的立場をどのように確立するかという問題、これが問題なのです。(五八−二九一)
今日、私たちは、「神様の愛を受けたか?」あるいは「今、神様の愛を受けているか?」と聞かれたら、何と答えるでしょうか? 世界中の神学者の中には、神様がいるのかいないのか分からない人もいます。ムーニーたちはどうですか?
神様は頭で知るのではなく、心情で体恤しなくてはなりません。感じなくてはならないのです。私たち統一教会は、神様からいただくことのできる愛の取り分があります。その取り分をいただかなければなりません。(一二八−一三〇)
皆さん、これが問題です。皆さんは寝ているときも「お父様」、独り言でも「お父様」と言えなければならないのです。世の中の人々が自分の相手を慕う以上の慕わしさがこみ上げるようでなければなりません。そうして食べることも寝ることも忘れて、その生活の内面に天のお父様への慕わしさを持って「お父様」と呼べば、目の前にお父様の姿がなくてもお父様の手が握られるようになるのです。そういうことがあるのです。夢のようなことが起こるのです。「お父様」と呼べば、お父様の懐に抱かれるようになるのです。このような中で体恤的感情をいかに体得するかということは、信仰生活において何よりも貴いものであることを皆さんは知らなければなりません。
そのような体恤の感度、感じる度数、その量がその人の信仰の基準になりうるのです。そのような愛の心情を持ったならば、どこへ行ったとしても「私がこれをしなくてはならない」というときには、「天よ、共にいてください」と言う前に、すでに神様は共にいてくださっているのです。そのようなことを皆さんが感じるときには、「神様、感謝いたします」と言うようになるのです。(五八−二九九)
第二節 神様の創造
第二節 神様の創造
P26
一 なぜ、天地万物をつくったのか神様はなぜ天地万物をつくったのか、これが問題です。この地、万物はなぜ生まれたのでしょうか。自然発生ではありません。偶然に発生することはありえません。「科学的」という言葉を使うとき、原因と結果がつながらなくては公式になりません。公式的な論理を経て文明も発展するのです。公式を適用できる環境的与件があります。これは自他ともに認める事実です。(一六四−八三)
神様はこの天地をなぜつくったのか、これが問題です。この問題は哲学でも問題であり、数多くの宗教でも問題です。この天地はどうしてできたのか、それが問題なのです。宇宙もやはりそれをなぜつくったかが問題であり、人もどうして生まれてきたかが問題なのです。(一三六−一三六)
神様は何をするために天地を創造されたのでしょうか。いたずら半分につくった? あるいは何か遊びの対象として? 違います。収穫できる一つの結実を心に抱きながら創造したのです。(二七−二二七)
神様はなぜ天地を創造したのでしょうか。それはいくら絶対者だといっても、自分独りでは喜びを感じることができないし、たとえ喜びがあっても喜びの刺激を感じることができないからです。つまり、絶対者がいくら「私は絶対者だ。私は愛の主人公だ。生命の主人公だ」と言ったところで、絶対者一人では愛の刺激を感じることができないのであり、天地が自分の体の中にあるという生命の刺激を感じられないのです。(三八−一五二)
神様は天地創造をなぜなさったのでしょうか? 生命的接着を目的としてなさったのでしょうか? 違います。愛の理想を同化させるためなのです。(一八八−一九六)
二 神様が人間を創造されたわけ
二 神様が人間を創造されたわけ
P27
神様は人間を何のために創造したのでしょうか。子供たちの生命を見るために創造したのではありません。ご自分の子供たちと愛を築くために、人間を創造したのです。いくら考えてもそれしかありません。人間を創造した目的は愛のゆえです。神様の愛を中心として、そこから生命が創造されたのであって、生命をつくってから愛を誘発したのではないのです。言い換えると、本来、神様の心に愛が芽生えはじめて生命が生まれたのであり、その生命は愛から始まったので結果も愛にならなくてはなりません。分かりますか? 始まりが愛なので、終わりも愛にならなければなりません。それゆえ、愛を取り去ってしまえば私たち人間は不幸になるのです。(五七−二二)
神様は私たち人間をなぜ創造したのでしょうか。神様が私たちを創造したのは愛のゆえです。神様は芸術作品か何かを作ろうとしたのではありません。愛ゆえに創造を始めたということを知らなければなりません。ですから、「私」という一人が存在する以前に愛が先にあったのです。愛のモデルを標準としてすべてをつくったのです。本来、愛のモデルを中心に、神様の理想的なモデルを中心に男性をつくり、女性をつくり、この被造世界をつくったということを知らなければなりません。(一六一−三二七)
神様はなぜ人をつくったのでしょうか。全知全能の神様、遍在する神様は何が不足で人をつくったのでしょうか。キリスト教式に、ただつくった、とすれば簡単でしょう。しかし、それでは通じません。神様は何が必要ですか? 神様にお金や金塊やダイヤモンドが必要ですか? 必要ですか、必要ないですか?(必要ありません)。そんなものはいくらでも…ない?(あります)。ちゃんと知っていますね。では、神様は知識が必要ですか、必要ないですか?(必要ありません)。知識の王であるわけですが、その知識はいくらでも…ない?(あります)。そうです。では、全知全能の神様に権力が必要ある、ない? どうですか?(ありません)。あってもなくてもそれだけのことです。そんなものは「ある」と言ってもいいし、「ない」と言ってもかまいません。同じことです。
それなら神様に必要なものは何ですか? 神様は生命も必要ありません。生命の主体なのに生命が必要ですか? それでは何が必要ですか? 何ですか?(愛です)。愛が必要なのです。どうして神様に愛が必要なのですか? 愛というのは相対的関係において成立するものだからです。理論的に突き詰めてもそれしかありません。神様も愛を必要とする神様にならずしては、この創造世界の人間と関係を結ぶことができないのです。だから愛を持って訪ねてこなければ存在世界と関係を結べない、という結論になるので、神様は愛を標準として定められたのです。分かりましたか?(一二一−九九)
神様ご自身が愛するために、愛の対象が必要で人をつくったのです。愛は一人ではできないですね? 対象圏がなければ愛は成立しません。神様も愛が絶対に必要だからこそ被造万物をつくり、被造万物を代表した霊長として人をつくったのです。人が絶対的に必要なので、絶対的愛の対象圏の価値を与えたのです。愛を共有するために、その対象的存在としてつくったのが人間なのです。従って、人間自体が神様の体です。神様の体であるアダムとエバの二人が夫婦になるということは、神様が夫婦になることなのです。分かりますか? そして、天上世界に行ってどうなるでしょうか? アダムとエバの姿で神様が人類の先祖になって、霊界と地上世界を処理するようになっているのです。分かりましたか? そうなったのです。
神様はなぜ天地万物を創造したのでしょうか。一番目は愛の対象のために。二番目は形状を持つために。三番目は実体を持った存在を主管するのに無形の存在ではだめだから、刺激がないから実体的主体となって刺激的な因縁を結ぶためです。それで人間をつくったのです。分かりますか? 一番目は何ですか?(愛のために)。二番目は何ですか?(形状を持つために)。三番目は何ですか?(刺激的な因縁を結ぶために)。刺激的な愛を必要とするからです。(一三八−二一二)
神様は人間をなぜつくったのかという問題について見るとき、ただつくりたいからつくったのですか? 違います。見るためにつくったのではありません。何のためにつくったのかというと、愛を築くためにつくったのです。それを知らなければなりません。(八一−一六)
三 神様は人間をどのようにつくったのか
三 神様は人間をどのようにつくったのか
P29
神様はあらゆる万物をおつくりになり、その万物の主人公として人間始祖をエデンの園につくっておかれました。人間をおつくりになるとき、神様がふざけ半分に見て楽しむものとしてつくったのではありません。趣味でおつくりになったのではありません。人間をつくって万物を代表する中心に立てるまでの神様のご苦労と精誠は、到底語り尽くせるものではないという事実を私たちは知らなければなりません。神様は、人間をおつくりになるとき、精誠の限りを尽くし、心血を注ぎ、ご自身の命の核心をすべて集中なさり、愛と愛情をありったけ注いでおつくりになったのです。どんな力をもってしても離れられない、切っても切れない因縁の中でおつくりになったのです。このようにしておつくりになった人間なので、その人間をご覧になるときはじめて神様に平和が訪れるようになり、すべての情と幸福は人間を通してのみ宿るのです。
神様は人間の父であり、人間は神様の子女です。神様が骨の中の骨、肉の中の肉、骨髄の中の骨髄をそっくり投入してつくった人間なので、このような人間が神様を引っ張れば、自ずと引っ張られてしまうのです。また神様が人間を引っ張れば、嫌でも引っ張られて行くのです。
神様はこのような因縁の中で、内容と目的が一致する人間としてつくったのです。もし、そのようにつくった人間を見て神様がほめたたえるみ言や詩があったとしたら、それは世の中のいかなる詩人も作家も表現できない最高の作品になるはずです。その対象は神様でもなく、万物でもなく、ただ万物を代表した人間なのです。(二〇−二〇七)
宇宙が創造される前に、まず神様がおられました。神様がおられ、み言を構想されました。そのみ言というのは、具体的な実体をつくりだす内容をもったみ言です。その実体をつくりだして、それっきり神様と関係のない位置に置こうされたのではなく、神様とその実体が永遠に一つになるようにされたのです。切っても切れない、神様も切れないし人間も切れない不可分の一体理想を成就しようとされたのです。そのための最高の位置はどんな位置ですか? 私たち人間の立場から見ると、神様が最高の位置におられ、私たち人間は無価値な位置にありますが、私たちは最高の価値を持った神様の前に最高の対象となることを願うのです。また、それが一時的ではなく、永遠であることを願うのです。ですから人間は、「出発当時から神様と別々に出発したのではなく一緒に出発したのだ。自分は神様がおられると同時に出発したのだ」という立場を追求していくのです。(六八−一二七)
四 万物をつくった目的
四 万物をつくった目的
P30
本来、神様は天地万物を何かの遊びでつくったのではありません。趣味でつくったのではありません。何の目的も方向もなしに、何ら理念的内容もなしにつくったわけではないのです。これは皆さんが常識的に考えてもよく分かるでしょう。偉大な目的と大宇宙の理念をもって創造したのです。それでごく小さな生き物から広大な宇宙に至るまで、あらゆる存在物には、神様の心情を通した理念が宿っていることを私たちは否定することができません。それでは、このような理念をもって創造した目的は何でしょうか? 神様の愛を中心とする理念の世界、すなわち愛を中心に通じ合い、愛を中心に楽しみ、愛を中心に生き、愛を中心に死ぬ世界を目的としたに違いないのです。
私たちが眠りから覚めて目を開くと、眼前に広がる森羅万象が見えてきます。私たちは目に映るその万象を通して何か計り知れない間接的な印象を受け、そこに反応する感覚で生活での感覚を高めていくのです。私たちの回りにいるごく小さな生き物も、例外なく私たちと因縁があり、関係があるのです。私たちが無視しても、その生き物たちはその日その日、天倫の理念に従って存在の価値を表し、人間と因縁を結んでいるのです。
なぜですか? ごく小さな存在物から、万物を主管できる万物の霊長といわれる人間に至るまで、その存在目的を中心に見るならば、すべて神様の大宇宙の理念に通じる愛の理念圏内に入っています。それで小さなものは大宇宙の目的を達成するにおいて大きな分野を担っているものに吸収されて動くのです。小さなものは大きなものに吸収され、その材料になり、一つの要素になり、大理念を中心として一つの目的に向かうようになります。歴史はこのように進展していくものであり、存在世界は天倫という原則の軌道に従って一つの目的のために動いていくという事実を否定できません。(九−一六四)
神様はなぜ万物をつくったのですか? 自分が愛する対象、対象者を得るためです。自分が愛する対象圏をつくるためです。その対象が地上生活を終え、自分の本然の世界に帰り、永遠の神様の愛の国に入って暮らすようにするためです。それを知らなければなりません。(一四二−七六)
五 創造の過程
五 創造の過程
P32
皆さん、聖書を見ると、天地創造をしたことが簡単に述べられています。み言で天地万物を創造した、とあります。「おい、何々!」と呼んだら「はい」と言って出てきたというのです。「星よあれ」と言ったら星が出てきて、「地球よあれ」と言ったら地球が出てきたとなっているのです。しかし、ここには無限の秩序と法則に従って、前進的な原則を継承し、小さなものから大きなものへと発展させてきたのだということを私たちは知らなければならないのです。そうしてこのすべての万物をつくっておいて、万物の精髄として集約したものが、いわゆる聖書のアダムとエバ、人類の祖先です。(六五−二一)創造するとき、何で創造しましたか? 最初は神様のみ旨がありました。神様の考えがありました。神様の考えとともに計画がありました。人間を創造して、これこれこのような人間世界をつくる、という神様本来の意志と計画があったことが分かります。(七六−九二)
一つ知らなければならないことは、神様が世界をつくるとき、環境を先につくったということです。環境創造を先にしたのです。それを知らなければなりません。そこは必ず主体と対象を中心として作用する世界です。結果としてそうなったのです。主体と対象が合わさって作用する形状世界として自然界は展開されています。そうなるのです。(一三一−二一七)
天地創造の原理を探ってみると、核心を先に創っておいて相対を創ったのではありません。核心を創る前に相対的な与件を創っておいたのです。人を創るために、土を先に創っておいて…。外的なものを基盤として、内的なものを立てていくのです。それが天地創造の原理なのです。現在よりも大きいもの、無価値なところからより価値あるものを築いていくのです。こうなるのです。天地創造の原理はそうなっています。今日、人間創造について見ても、人間を創るときには、先に体を創っておいてから霊人体を創ったのです。(一五二−三一九)
第三節 宇宙
第三節 宇宙
P34
一 宇宙とは何か宇宙とは何かといえば、被造世界のすべてのものは、神様の愛する子女たちが愛の理想を実現していくことができるように、教材としてつくっておいたものです。ですから、すべて対照的構造です。鉱物も主体と対象の関係で作用します。原子もそうではないですか? 陽子と電子が主体・対象の関係で作用するのです。作用をしなくては存続できません。運動をしなくては永続、存続できないのです。
それゆえ宇宙は、人間を中心としてその中心に到達できるように創造された世界なのです。(一三七−五九)
宇宙は何ですか? 神様の一つの体と同じです。目に見える神様の体と同じなのです。このような論理がここで成立するのです。宇宙は神様の分身です。それゆえ、私たちは現実に宇宙を愛することができる、という観念が成立するのです。宇宙を愛するという実感が持てるわけです。皆さん、髪もこうやって整えてやるでしょう? 服も何かがついたら払い落とすでしょう? それはなぜですか? 自分のものだから、自分と同じだから、そのような観念があるわけです。分かりますか? 皆さんがこれからどうしなければならないかというと、心の中に神様を迎え入れ、神様と心を一つにし、体を一つにし、万物が一つになる世界を成さなければなりません。(八六−一七四)
二 宇宙の規模と構造
二 宇宙の規模と構造
P34
この宇宙がどれほど大きいかというと、何億光年にもなります。何億光年です。光は一秒間に三十万キロメートル進むのですが、その三十万キロメートルというのは、地球を七周半回る距離です。その距離を一秒間で進む光が一年間かかって進む距離を、天文学では一光年といいます。その光年を単位として出発した光が、何億光年と進んでもまだ到達できない、それほど大きな宇宙です。分かりますか?(一二七−二一六)グリニッチ天文台では、これまで百億光年の彼方にある星まで発見し尽くしたのですが、今や百五十億光年の彼方にある星も見ることができる時代になり、それ以上の時代に入りつつあるのです。
この宇宙がどれほど大きいかというと、先ほど何といいましたか? 百億、ざっと見当をつけて、それも原理的数で二百十億光年、それほど大きいのです。それはどういうことかというと、光がここから出発して、それが一日かかるのを何というでしょうか、一日かかるのを?(一年かかるのを一光年といいます)。いえ、それが一日かかったら何といいますか? 光年ではなくて一日何といいますか? 一何ですか、一光日。一カ月だったら何ですか?(一光月)。私は分かりません、こんがらかって。皆さん、自分で考えてみなさい。
さあ、これが出発して一秒間に三億メートル\光と電気の速度は同じです\三億メートル進むのです。距離でいえば、地球を七周半回る距離です。七周半からの距離になります。あっと言う間にもう七周半回っています。それほど速い光が一日かかってもまだ着かないので、腰が曲がるほど疲れ、気が遠くなって「もう知るもんか」と言うくらいなのに、百年でもなく、百の何万倍ですか? 百の何万倍? 百の百万倍が億ですか? それが一億ですが、一億光年というと、出発してから一億年、進んでいく間にも百歳生きる人が百万人生まれて死んでいきます。
では、二百十億光年ならどうなりますか? 百人の人生の何倍ですか? 二億千万倍ですか? 皆さん、計算してみてください。その人たちがずらりと並んで、次々に生まれては死に生まれては死に、百歳生きて死にまた百歳生きて死に、それほど時間をかけてまだ先があるのです。
その距離も直線で進むのではありません。ぐるぐる回っているわけです。そのような宇宙なのです。自分より先に数えきれない人々が死んいっても、まだ果てしなく続くその距離はどんなに遠いことでしょうか。それは何千年何万年生まれては死に、さらに復活しても足りないほど遠い距離です。そういう世界があるのです。それは盲目的に動いてはいません。すべて授け受けする対応関係を中心として…。私たちの細胞まで作用するのです。
共産主義では、それが自然にできたものだといいます。
三 宇宙の完成
三 宇宙の完成
P36
宇宙完成、宇宙完成という言葉は簡単ですが、一体宇宙の完成とは何でしょうか。宇宙を完成するには自分が完成しなければなりません。たとえ宇宙が完成したとしても、自分が完成できなければ何の関係もないのです。世の中がいくらよくても、いくら外的世界が喜び、踊りを踊っていても、自分が今苦痛にあえいでいるとしたら、その外的世界の喜びの環境も自分とは関係がないことを私たちは知っています。宇宙の完成というのは、外的世界もいいし、内的な自分自身もよくなければなりません。よいというのは、心もよく体もよくなければならないのです。私たちの細胞についていうと、細胞全部が皆よくなければなりません。目の細胞と足の裏にある細胞とでは違いますね? 違うのです。違いますが、それらの細胞が皆喜び、手の細胞も一つ残らず喜び、心と体の全体が喜べなければなりません。それも、ただ離れたところで喜ぶのではなく、一つに連結されて連帯的な内容を中心として、共鳴的な愛の喜びを感じられる世界であってはじめて宇宙完成になるのです。(一六六−二一〇)
第四節 自然と人間
第四節 .自然と人間
P38
一 自然は第一の聖書昔、祈祷する人たちは、自然は第一の聖書だといいました。第二ではありません。イスラエルの歴史を綴ってきた聖書を見れば内容がはっきり分かります。その内容を見て、先生がどれほど首をかしげたと思いますか? それは占い師がやるのと同じで、鼻につければ鼻輪、耳につければ耳輪だというようなものです。現実から逃避するための方便です。そこで、事実内容を判断して前後の事情を明らかにするのが困難なので、聖書よりも神様のおつくりになった自然世界が第一だというのです。(二〇−二七一)
二 神様の心情的因縁が宿る万物
二 神様の心情的因縁が宿る万物
P38
因縁というのは、きわめて小さなところから結ばれていくものです。個体も四百億兆個にもなる細胞が因縁で結ばれている生命体です。神様の愛を中心とした創造理念の世界、つまり大宇宙のあらゆる存在物は、どれひとつ取っても神様の心情を受けずに生まれたものはありません。このことを感じる詩人は偉大な詩人です。一つの木の葉が揺れるのを見て天宙的な心情を感じ、それを表現できる詩人がいたとすれば、彼は宇宙的な詩人だといえます。今日、私たちはこういうことについてあまりにも無視し、無関心でいました。私たちの周りに私たちの知らないうちに展開している森羅万象が、神様の愛とともに存在しているという事実を知りませんでした。
神霊に満たされた境地に入ると、ちっちゃな砂粒ひとつにも宇宙の原理が込められているし、ひとつの原子にも限りない宇宙の調和が込められていることが分かります。存在するすべてのものは、はっきりとしたことは分からなくても、何か複合的な力を通して現れた結果だということを否定することができません。分子の中に原子、原子の中に素粒子…。これらが無意識的に存在するのではなく、ある意識と目的を持って存在している事実を皆さんは徹底的に知らなければなりません。
道人とはどんな人ですか? 一本の草を見ても「神様!」と言える心情で、自分の価値と同等にその価値を認識できる人が最高の道人だといえます。同じように、その価値を謳うことのできる人が最高の芸術家なのです。さまざまなに存在する自然界を見て、神様の奥深い愛と心情の妙味にふれ、それらの友となって互いに喜び合うことのできる感情を持った人がいるとすれば、また、さらにその感情で細胞の一つひとつが動く人がいるとすれば、その人は全宇宙を代表できる人なのです。その人は万物の霊長です。しかし、食べることしか知らない人は、万物の霊長になれるでしょうか?
神様が被造世界をおつくりになるとき、そこには喜びがありました。つくったあとで見ると「それははなはだ善かった」とあります。喜びがあったのです。喜びとは何ですか? ある目的を果たしたときに感じるものです。おつくりになった万物に神様の目的意識が内在していたので、創造された万物を見て神様は喜びを感じられたのです。
それでは、復帰の世界はどのような世界ですか? 一言でいうと、森羅万象の各個体を見ながら、神様を賛美できる心情的な因縁を立体的に備えた人々の住む世界です。神様がご覧になる人格の価値はそこにあります。ですから、昔、聖フランチェスコのような人が、動物を見て、あるいは鳥を見て説教したという話もうそではありません。夢のような話です。でも、夢ではなく事実です。(九−一六八)
三 宇宙は神様がつくった自然博物館
三 宇宙は神様がつくった自然博物館
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子供たちを見ていると、おもちゃなどに対してすぐ反応します。何か不思議なものが動いている、というわけです。おもちゃは何でも好きですが、動くもので直感的に感じるのは動物です。子犬だとか、昆虫かなにか。子供たちは皆、飛び回る生き物や野生の動物といった動くものが好きなのです。なぜでしょうか。もともと人間はそうなっているのです。人間は、自然世界やこの地球の動きを見て興味を覚えるものなのです。それを楽しんで、もう一つの相対のように…。もちろん、(人間の相対とは)相対基準が違いますが、それを鑑賞するところで、人間は本当に楽しみ、興味を感じるのです。それによって、自分自身の愛の属性を一通り学びます。虫、昆虫、動物が生きていくのを見ると、どれも皆つがいになっていることが分かります。このような観点から自然とは何かというと、唯一人間だけを愛の対象として、相対理想を教育するために展開した教材、博物館なのです。
ですから鳥たちの歌には三つの種類があります。まず、おなかがすいたときの歌と、次に愛し合う相対のための歌、そして危険を知らせる歌があります。それが皆違います。普通の人は分かりませんが、彼らの世界ではちゃんと分かるのです。おなかがすいて鳴けば、即座に分かります。そうなっているのです。彼らの毎日の生活は何が中心でしょうか。おなかのすいたのは、一回食べれば済みます。かといって、毎日のように危険にさらされているわけでもありません。大部分の歌は何を中心に歌うのかというと、相対と授受する関係で歌が行き交いするのです。(一三七−二一一)
人間は主体と対象、すなわち相対的な男性と女性に創造されており、さらに人間のためにある万物世界全体も、愛の原理の下に調和を成し、また人間の愛によって生命と理想を実現するようになっています。
万物世界は人間、とくに成長過程のアダム・エバにとって愛の教科書であり、愛の真髄が無尽蔵に陳列された博物館なのです。(一三五−一二)
初めは、神様の子女として誕生したアダム・エバも、神様の保護圏内で幼い頃から育てられ、高められるに従ってだんだん大きくなっていきます。そうして知能が発達するので、神様がなぜ被造世界をつくったかを知るようになり、その被造世界を通して教育されていくのです。森羅万象のすべては、人間始祖、本来の祖先となるアダム・エバが生活していけるすべてを教える教材だったのです。「一つの完成したアダム・エバ」になっていないので、理想の生活をしていくために必要な標本であり博物館であったという事実を知らなければなりません。(一三七−一二八)
四 自然に対する姿勢
四 自然に対する姿勢
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朝、目を開いて自然を見渡すと、その自然がしみじみと自分の本姓と因縁をもって新しい理想の感情を芽生えさせます。しかし、人の世は見れば見るほど絶望と悲しみの思いがつのることを皆さんはよく知っているでしょう。本来、堕落していない本然の人間たちの住む世の中であれば、人間の価値は見る者に悲しみを感じさせるような程度の低いものではありません。人間は、一本の草、一輪の花、一本の木と同じ程度の価値でつくられたのではないのです。被造万物のいかなるものをもっても換えられない高貴な人間であり、どんなものとも比較することのできない価値を持った姿で、天の代身を務めるべき人間だったのです。(九−九七)もう、私たちは気づかなくてはなりません。神様の愛が宿る自然を見渡し、「世の中の王や有名な人物が持っている素晴らしい品物と比較になるものか。骨董品なんかと比較になるものか。どこかの有名な婦人が着ている豪華な衣装と比較になるものか」という心を持たなくてはなりません。それができないなら、私たちは自然世界に対して知らず知らずのうちに罪を犯しているのです。
一つの生命体を見るときに、「人間の作った何と比較になろうか。いくら素晴らしい人がいようと、神様より素晴らしいはずがあろうか」と、神様が心情を注いでおつくりになった万物を抱きしめて、何よりも貴く感じる者がいたとすれば、その人は間違いなく天の子女でしょう。このような人は、祈祷が必要ありません。神様とともに生きる人です。天は人間をそのような立場に押し出すのです。
皆さん、考えてみてください。人間は自分が愛する人の者は何でも愛し、かわいがります。違いますか? それでいて、いちばん愛すべき神様のお創りになった万物は、かわいがることを知りません。こんな人間たちが神様の息子や娘になれますか?
嘆息する万物の恨みを解いてやる責任を負った皆さんは、一本の木、一本の草からも六千年前、それらをおつくりになるときの神様の心情と創造のみ業を体恤しなければなりません。そういう心を持たなければなりません。
ですから統一教会の食口たちは、道を歩いていて野の草一本見ても涙するようでなければなりません。木を抱きしめて泣くことができなければなりません。「主人を失ってどんなに寂しかったか」と。一度そうしてごらんなさい。私はたくさんの涙を味わいました。岩を抱きしめて泣いたこともあれば、風が吹くのを見て泣いたこともあります。なぜ泣いたのか、もう話を聞きましたから分かるでしょう。
「神様がおつくりになった価値ある万物が、神様と永遠の因縁で結ばれた貴い万物が、今日どこかの宮殿で国宝だの宝物だのといわれ大切にされる品物ほどの扱いも受けられずにいる悲しさを、私は分かってあげなくてはいけない」という心を皆さんが持つなら、この民族はこれから世界人類を支配できる新しい民族になるでしょう。これは観念ではなく事実です。
果たしてだれが万物に対し、先祖代々伝わる家宝より、この世で最も貴い宝石といわれるダイヤモンドより貴く思い、つかんで放すまいとするでしょうか。そういう人がどこにいますか? 神様は、ご自身のおつくりになった万物を心から思いやり、それを抱きしめて涙する者を見て「よしよし」と言われるのです。どう思われるか考えてごらんなさい。(九−一七五)
自然とは何でしょうか。神様が私たちのために、為に生きる愛を持った息子や娘が生まれるとき、その愛を与える万物として、贈り物として与えた展示品です。鳥の鳴き声ひとつ、草一本といえども、愛する子供たちの生活を美化するためにつくられた作品だということです。道端に転がっている石も、子供たちが国を治める主人となることを思い、その国の装飾品としてつくったのです。流れる水も同じです。無味乾燥で単調であってはいけないので、調和をきわめた和合の園をつくり、愛のために生きる世界を見てそれを相続できる夢の王子、希望の王子を育てるために創造したのです。
ですから万物を通して学ぶわけです。雄・雌がチッチッとさえずるときは、(万物の)主人であるおばさんも学ばなくてはなりません。互いのために生きる世界に向かって、自分の一生、自分の命を懸けて生きる本然の被造世界の美しさを賛美できるようでなければなりません。そうなれば、その家の垣根に小鳥たちが来て住もうとするのです。巣を作ってひなを育てようとするのです。分かりますか?
博物館にある何かの作品がいくら貴重だといっても、生きている作品に勝るものがありますか? 神様の作品である地球万物博物館を、だれが神様以上に愛したかというのです。自分の国の博物館以上に愛したかというのです。道端で踏みつけられてよれよれになったタンポポであれ、神様が直接おつくりになったものを博物館にある新羅時代の金冠と比べることができますか? 祖国の地をそのように考えるのです。
そのような神様の心情を持って「お前を神様が主管できるように、本然の王の立場で、愛を受けていたその立場で愛することのできない自分が恥ずかしい。すまない」という心を持ち、立派な姿勢で万物を愛する王がいるならば、野の草もその王について行って、永遠にそばにいたいと思うものなのです。そのように生きなくてはならない人間なのです。(一七五−一八七)
五 自然を愛し、人を愛せ
五 自然を愛し、人を愛せ
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自然を愛し、人を愛することができなければなりません。人を愛することができず、自然を愛することができない人は、神様を愛することができないということを皆さんは知らなければなりません。万物は神様の象徴的存在であり、人間は実体的存在なので、万物と人間を愛することのできる人は神様を愛するようになるのです。そして、若い人しかいない教会はだめなのです。おばあさん、おじいさん、おばさん、おじさん、みんな集まる教会をつくらなければなりません。献身だけがいちばんよいのではありません。分かりますか?(はい)。だからずっと孤児で育った人は、(成長できず)孤児にしかならないのです。(七〇−一八二)
いつも自然を愛さなければなりません。自然を愛さなければならないのです。それに、人間も愛さなければなりません。人間の中でも、五色の人種すべてを愛さなくてはなりません。神様が「私は白人だけが好きだ」と言われるでしょうか? そうだとしたら、だれもが皆白い服を着なければなりません。白人たちは皆白い服だけを着なければなりません。色のついた服は全部捨てなければならないのです。黒い服などなぜ着るのですか? 色のついた服などなぜ着るのですか? 矛盾するでしょう。(一三三−三〇)
第二章 人間の価値と人体の神秘
第二章 人間の価値と人体の神秘
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第一節 人間の位置と特性一 人間の位置
1 神様の形状を持った分性的実体
統一教会の原理では、神様は無形の絶対的主体であり、二性性相の中和的主体として存在されるかただといいます。二性性相として存在される神様の分性的実体としてアダムとエバを創造されたというのです。そしてアダム・エバが成長すれば、愛を中心として横的に結ばれ、縦的に神様と関係が結ばれるということです。つまり、アダムとエバが成熟したら、神様の男性性稟はアダムの心の中に入り、神様の女性性稟はエバの心の中に入るのです。しかし、神様が分かれるわけではありません。そのような二性性相の主体であられる神様なので、アダム・エバの心の中に臨在することができるのです。
神様はどんなかたでしょうか。神様は目に見えない内的アダムの位置におられ、そして目に見えない内的な位置におられながら、内と外が一つになって…。アダムは人類にとって何かというと、目に見えない内的な父に侍る実体的父の立場に立つのであり、またエバは内的な母である神様に侍る人類世界の実体の母として立つのです。こうして縦的基盤から横的基盤に拡大させるのです。(一三八−二四七)
神様はなぜアダム・エバを必要としますか? 二つの目的があります。一つは、愛の理想を成就することです。二つ目は何ですか? 無形の神様が形状を持って現れるためです。そのため、無形の神様が有形の形状を持って有形世界と関係を結ぶことのできるその基礎、その核心がアダム・エバなのです。
ですから、もしアダム・エバが完成して霊界に行っていたなら、アダム・エバは神様の体と同じであり、神様はアダム・エバの心のような立場で補佐するのです。一人の霊的世界の完成した人(神様)を実体世界の体と心のような一つの結果としてをなそうというのが、神様がアダム・エバを創造された目的です。(九二−一四七)
2 神様の愛の対象
人間は宇宙の被造物の中の傑作です。どれくらいの傑作かというと、皆さんが考えも及ばないほど大きく素晴らしい作品なのです。それならその主体者、つまり絶対的な神様がおられて人をつくったのなら、神様ご自身の話すこと、見ること、感じることを人が感じられないようにつくるでしょうか?(五三−五一)
神様は被造万物の中に神様の愛の対象となるものをつくったのですが、その存在が私たち人間です。神様の愛の対象、神様の愛の対象をつくるために全身全霊を込めて、ご自身のすべてを投入しきったのです。今日のクリスチャンたちが信じているように、み言で魔法の杖のように、最近のアメリカの子供が見る童話や映画でやるように、呪文を唱えて「出ろ」と言えばパッと出るようなそんな愛の対象を神様は願いません。愛の対象を立てるため、神様はご自身のすべてを投入したのです。そうして何をしようとされたのでしょうか? 宇宙に愛の核を定めようとされたのです。それが創造理想だったのです。(一六六−一四七)
3 神様の息子・娘
今日、多くのクリスチャンたちは、神様は唯一無二のかたであり、絶対的なかたであり、創造主であり、神聖な存在として最高の位置におられるため、被造物である人間と創造主とは関係を持つことができないと考えています。被造物は卑しいもので、創造主は絶対的で神聖なかただと考えています。しかし、愛の概念を中心として見るとき、いくら至高至善の神様で、たとえ卑しい被造物だとしても、愛の関係を結ぶためには人格的な内容が似ていなければなりません。心情的内容が同じでなければなりません。つまり、人格を持った人間と性稟が同じでなければならないのです
従って人間はだれに似て生まれたのでしょうか。神様に似て生まれたのです。それで統一教会の食口は「神様は私たちの父だ。私たちは神様の子女だ」と言うのです。これは何を意味していますか? 私たち人間は神様に似て生まれたということです。何を通して似たのでしょうか。血筋を通して、血統を通して神様に似たのです。血統を通して因縁を持ったということは、愛で因縁を持ったことを意味します。(一三八−二四六)
本来人間の特権は何かというと、どんな人であれ天の王国世界において王子として生まれることのできる権威を持っているのです。王女として生まれることのできる権威を持っているのです。それが人間の価値です。それが本来の人間の権威でした。(六八−三二六)
では、人間の願いは何でしょうか? 人間の理想や願いといったものは何でしょうか? どこに帰結するのでしょうか? 何だと思いますか? その一つ目は何ですか? 神様の息子や娘になるのが人間の最大の希望に違いないという結論になります。次は何ですか? 神様に愛される息子や娘になることです。次は何ですか? 神様のすべての存在を相続すること、それ以上はありません。分かりますか? 人間の願いは何ですか? 神様の子女になること、神様に愛される子女になること、神様のすべての存在を相続できる子女になること、これがすべてなのです。
ここで問題になるのは、神様の息子になるにはどうならなければいけないか、ということです。神様と生命が連結されなければなりません。血統的連結がなくてはいけないという問題になるのです。もし、人類始祖が堕落しなかったなら、皆さんはだれの息子や娘として生まれたでしょうか? 自然と神様の息子や娘として生まれたのです。(九一−二四二)
4 万物の霊長
イ)万物の霊長
人間は万物の霊長だといいます。霊長という言葉は、必ず中心に立ち、全体の価値を代身できてはじめて使えることを私たちは知っています。
出来の良い人であれ悪い人であれ、人には世界的な中心になろうとする欲望があります。無限の価値を持った中心になりたいと願うのです。何かの存在であれば、その存在の中で最高の存在になりたいと思い、また絶対的な中心があれば、その中心と一つになりたいと思うのです。このようにより価値あるものと関係を結びたがるのが人間の心です。
では、人間の心はなぜそうなっているのでしょうか。それは本来人間が歴史の全体価値を代表する中心的な価値を持っているからです。(三二−二一二)
神様が人間を万物の霊長として立てるときに、天地のあらゆる環境を代表した中に、センターとして立てたでしょうか、それとも一部分として立てたでしょうか?(センターです)。それは事実です。そのため、すべての人は宇宙の中心になると主張できる自主権を持っているのです。それを知らなければなりません。それは猿の世界やライオンの世界、虎の世界にはありません。人間世界にだけあるのです。(一一七−三五)
万物の霊長という言葉はどういう意味でしょうか。万物の霊長とはだれですか? 今日、人間だといっていますが、万物の根本の霊長は神様です。違いますか? 皆さん、霊があることを知っていますね。人間にはその霊があります。人間は霊の長なので、結局神様と直結して霊長というのです。
万物の霊長というのは、人間自体ではなることができません。人間も被造物なのにどうして万物の霊長になるかというのです。被造物というのは相対的結果体です。被造物ということだけでは原因に通じることができず、原因を占領できないのです。被造物は原因によって占領されるようになっているのです。皆さんが結果的存在であることは間違いありません。霊長というときの長は、霊の中心という意味です。これは、本来語らずとも神様と人間が一つになった関係においていう言葉なのです。(三二−一三七)
ロ)動物と人間の異なる点
動物と人間の違うところは何ですか? 食べるのも同じです。寝るのも同じです。服を着たりするところは違いますが、あとは同じです。目や鼻の形・構造から見ても、さして違いはありません。
では、人間の中で貴い人とはどんな人でしょうか。体や目鼻、生活することを中心として貴いと見るのですか? 何をもって貴いと見るのですか? 人間を見ると、人間は霊的な人間と肉的な人間からなっています。霊肉が合わさって一人の人間になっている、こう見るわけです。この二つが一つになるのです。ここで、霊的な生活、肉をもって生きる生活は動物と何ら変わりありません。食べて寝て、また食べるための活動をして、全く同じです。動物とどこが違うのでしょうか。動物と何が違うでしょうか。
人間は動物と何が違いますか? それがこの宇宙で動物と違った価値を持たしめ、貴い価値を持たしめるものになるはずだ、という推理ができます。「人間は貴い」というとき、その人間は肉的な人間ではなく霊的な人間です。霊的なものが貴いというのは、肉的なものとは違うということです。違わなければならないのです。霊的なものが高ければ、肉的なものは低いのです。また、霊的なものが低ければ、肉的なものは高いのです。この二つは違うものなのです。(一二九−三〇七)
それでは、人間と猿を比較してみましょう。猿と人間は根本が異なります。猿はただキャッキャッと騒いで、食べて寝て子供を産むのが第一です。猿が古里のおとうさん・おかあさんに会いたくて泣きますか? 猿がお兄さんを気遣ったり、あるいは親のために死のうとしますか? では、人間はどうですか? そういったことをしますか、しませんか?(します)。種が違うのです。それに猿たちが集まって、先祖が何をどうしたとか、神様はいるとかいないとか話し合うことができますか?(できません)。霊界があることを考えたりしますか? この宇宙が平和の世界になって、一つの世界になって、愛の花園になるということなど考えるでしょうか? その猿が進化して人間になったと言う人たちは、犬や豚のような人間です。人間と動物は種が違うのです。
人間は自分を中心とするのではなく、他を中心として、より大きなものを中心として願いながら生きるものであって、自分より低いものを願いながら生きるようにはなっていません。次元が違うのです。
人間は古代から、つまり人間が生まれるときから神様をあがめてきました。神様をあがめない種族はありません。神様について考え、人間がより高度な存在として生きる宇宙について考えてきたのです。猿の頭でそんなことが考えられますか? 何千何万の段階を経たところで、できないなのです。猿にそんな能力がどうして備わるでしょうか。話にもならないのです。(三九−三三三)
ハ)神様の絶対的な相対は人間のみ
天地の万物の中で、絶対者である神様の前に絶対的な相対の価値を持って現れることのできる存在物はどのようなものでしょうか。考えてみてください。昆虫だろうか。あるいはうちの裏庭でグーグーいびきをかいて寝ている子犬だろうか。これらが絶対的な相対の存在になりえますか? もしなれるとしたら、子犬よりもずっと賢い猿が文句を言うことでしょう。
では猿は相対になれるのでしょうか。今日では猿が進化して人間になったと言うでしょう? これから私が大学生たちに言って、教授たちに「猿先生おはようございます」とあいさつさせたらどうでしょうか? 「教授は猿の頭と猿の体を持っておられるでしょう?」と言ったら、「こいつ!」と怒るはずです。
人が猿のような体を持っているのは事実ですが、次元が違います。霊的な存在である人間は、霊的存在でない猿とは次元が違います。根本が違うのです。猿の手と足の形は人の手足に似ています。このように多くの点で人間と似ているため、猿が進化して人間になったと言うのです。
私は、猿のことを考えただけで気分が悪くなります。ところが皮肉なことに私はさる年なのです。これはもう間違ってさる年に生まれたのだと思います。それほど猿が嫌いなのです。
人間と猿を解剖学的にみると、数十項目の違いがあります。ところが進化論では、この猿が飛躍的な発展、すなわち突然変異によって人間になったと言います。それらしい論法ですが、ここには無神論者たちの魔術的な要素が隠されているのです。そこで、共産党の間違いを正すために、統一教会が勝共理念をもって猛攻を加えているのです。猿が進化して人間になったというようなでたらめを信じないでください。
もし猿を絶対的な創造主の前に絶対的な相対として立てたとしたら、人間たちがどれほど批判することでしょうか。「あれが神様の相対だって? トイレを使うことも知らない。あの歩き方は何だ。四つ足で歩いてるじゃないか」と陰口を言うはずです。四つ足で歩き回るのは未完成なのです。
人間も赤ん坊のときは四つ足で歩きます。ですから猿は外形からしても未完成圏内にいるのです。人間は四つ足で歩きはしません。人間は二本の足で歩きます。それはすでに猿より立体的な安定性を持っているということです。また、人間は天と地の連絡機関です。曲線ではなく直線で行き来できます。だから神様と通じる内容があるのです。(三八−一五九)
ニ)人間が二本足で歩くわけ
あらゆる万物の中で動物は皆四つ足で歩きますが、人間はなぜ二本足で歩くのでしょうか。なぜですか? 縦的な代表者だからです。このあらゆる被造万物の中で人間だけが立って歩ける動物なので、神様が分かるようになっているし、無形世界や何かといった無限に高い垂直世界と無限に低い垂直以下の世界を考えるようになっています。
ですから二本足で歩く動物の権威を失わないようにしなければなりません。これを知らなければなりません。木は立っていてこそ芽が太陽の光りに向かうわけですから、立っていてはじめて価値が出てくるのです。人間が立って歩くのも、神様の愛の光を慕い価値ある存在になるためです。これを知らなければなりません。では、皆さんは低い人になりたいですか高い人になりたいですか? 高い人になりたいはずです。皆さん、そんな欲望があるでしょう?(はい)。ありますか、ありませんか?(あります)。(九六−二一七)
全被造世界の動くものの中で、立って歩くのは人間しかいません。なぜ人間は立って歩くのですか? それはすでにすべての標準が縦的なものからなっていることを意味します。次に被造世界のすべては、横的九〇度を中心としてどのくらいの角度かによって、その価値の基準が変わるのです。(三六−二〇四)
二 被造世界における人間の価値
二 被造世界における人間の価値
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1 二つの世界の主管者人間は二つの世界を主管しなければなりません。天上世界の神様と地上世界にいる自分、神様と自分は両方でのこぎりを引き合う関係です。そうして世の中を裂こうというのです。それはやさしいことですか、難しいことですか? のこぎりの刃がぼろぼろに欠けるほど困難なことです。一方には統一教会の男性がいて、もう一方には統一教会の女性がいると考えてみてください。皆さん、そのような立場でこの世の中を裂くことができますか?(三四−三四七)
2 和動の中心体
人間は和動の中心体です。しかし、和動するためには絶対的な中心基準が決まらなければなりません。ちょうど、大勢の人がリズムを合わせる際、指揮者を中心に上下関係がしっかりつながらなくてはならないのと同じです。
この宇宙の和動の中心体が人間だということを、私たちは原理を通して学びました。従って人間は絶対的基準と一致した立場にあるため、その人間がとどまるところに宇宙がとどまるのであり、存在世界が彼を中心として作用するのです。そして、その作用によって、存在世界に力が生じるのです。(二九−一二八)
この宇宙で神様が笑いたくて地に連絡しようとすれば、人間を通さなければならず、地が笑いたくて神様に連絡しようとすれば人間を通さなければならないのです。人間を通さなければならないのです。なぜ宇宙も人間が必要で神様も人間が必要なのか分かりますか? そのわけは、人間が回れば神様も回り、人間が回れば宇宙も回るというところにあります。人間が回らなければ神様も回らず、行ったり来たりできないのです。分かりますか、言っている意味が? そうなっていることを知らなければなりません。(九六−二三二)
宇宙の中心は何でしょうか。人間は中心にはなりえません。宇宙の中心は創造主であられる神様、すなわち絶対的な実体が中心にならなければならないのです。その絶対的な中心の要素と一致した内容を持った存在がその中心に近づくことができます。つまり、その内容と一致する要素を備え、心情的な一致か、事情の一致か、希望の一致か、という問題を中心として、そこに一〇〇パーセント一致したらその中心に近い位置に立つのです。(二四−二二〇)
3 大宇宙の縮小体
人間は大宇宙の縮小体です。皆さんは小宇宙です、小宇宙。大宇宙とは何でしょうか。大宇宙は被造世界なのです。大宇宙の源泉は力の源泉です。作用の源泉、力の源泉とは何でしょうか。神様です。私たちは大宇宙の前に立った一つの小宇宙であり、大宇宙の絶え間ない力の源泉である神様の力が私たちの心に入ることによって、この大宇宙と釣り合う相対の価値を持っているのです。
従って人間は宇宙の花だと考えることができます。分かりますか? 一本の木に例えると、宇宙という大きな苗木があり、その苗木において人間というものは\「私」という存在は\一つの花だということです。雄しべと雌しべがありますが、原則的調和の作用が展開して種を作るのと同じく、男性・女性が宇宙の花として咲いて香りを漂わせるときが思春期なのです。(一二一−一九〇)
私たち人間というものは自分一人だけではありません。人間とはいかなる存在でしょうか。人間というものは自分一人ではないのです。宇宙の共通した因縁を総合して結実体として現れたのが人間ではないですか? このような人間には万物の総合相がすべて入っているのであり、数多くの先祖たちの個性すべてが投入されたものなのです。
金○○さんといえば、その金○○さん一人ではありません。その人には植物、鉱物、動物、あらゆる万物の形態がすべて入っています。顔も、今は自分の顔のように感じていますが、その顔になるまでには数万年の歴史を経てきたのです。数万年にわたって先祖たちの血を引き継いでそのように生まれたのです。それは奇跡的な実体です。
のみならず、その背後に天の因縁が共にあったがゆえに、その人が残ったのです。天の因縁を中心に見るとき、限りなく屈折した因縁を経て今日の自分がつくられたことを知らなければなりません。(五八\三○四)
三 人間の型
三 人間の型
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1 人間の区分肉的人間は動物的人間であり、霊的人間は精神的人間です。人間を二つの種類に分けるなら、動物的人間、精神的人間です。動物的人間は価値のない人間であり、精神的人間は価値のある人間です。質を比べると何が違うのでしょうか。動物的人間は自分のために生きる人であり、精神的人間は全体のために生きる人です。(一二九\三○三)
この地上に三種類の人間が住んでいることを皆さんは知らなければなりません。体の言うなりに生きる人、心の言うなりに生きる人\心も変わります\そして、神様の心と神様の体が一つになっているその部分に自分の心と体を一致させることのできる人、この三種類の人間がこの地上に住んでいます。(七〇−六一)
信念の強い人、意志的な人、情緒的な人、など三つの型の人間を中心として歴史的な人物が生まれます。これが十二の型に分かれ、さらにこれが三段階になれば三十六の型になります。また、これが男性・女性で展開すれば七十二の型になります。(一八−九四)
2 人間のさまざまな型
統一教会を見ると、皆同じ食口でも実にいろいろな人がいます。白人の中でも百人が百人皆同じではありません。皆さんはこれを知らなければなりません。東の型、西の型、南の型、北の型、などそのタイプは皆違うのです。
皆さんの中には東の型の人、西の型の人、南の型の人、北の型の人、すべています。あるいは、春、夏、秋、冬、すべての季節の人がいます。氷のように冷たくカチカチに凍りついた型がいるかと思えば、一目見ただけで良い印象を受ける型もいるのです。いつも堂々として、いつも成長していけるのは夏の型です。一気に舞い上がって、またすぐ落ち込むのは秋の型です。(三三−四〇)
皆さん一人びとりが、今どの季節に該当するかを知らなければなりません。自分の性格を考えれば、自分が春に当たるか、夏に当たるか、秋に当たるか、冬に当たるかが分かるのです。
人間的にとても美しく、情的に穏やかで、何でもよく吸収する人は春に当たります。また、情がとても豊かで涙もろい人は夏に当たり、淡々としてすっきりとした容貌を持ち、けちをつける隙のない人は秋に当たります。そして冬に当たる人は、一度食らいついたら決して離れない要素をもっている人です。皆さんは自分がどの季節に当たるか、見分けることができなくてはなりません。
秋に当たる人は相対的な人と出会わなければなりません。つまり、春の人を探さなければならないのです。夏に当たる人は冬の人と出会わなければなりません。熱過ぎて心配な人は、冷たい人と出会って冷やさなければなりません。それは目を見れば分かりますし、顔かたちを見れば分かるのです。(三一−二一五)
祈祷生活をすると、人に対するとき、一目見ただけで説明する前にその人がA、B、Cの型のうちどの型か分析できるのです。そんな何かがあります。先生はそれが速いのです。そういう体恤があってこそ…。霊も無数にいます。人がたくさんいるのと同じで、霊もピンからキリまでいるのです。人もありとあらゆる人がいるでしょう? 霊もそうなのです。ですから霊を判別するためには、自分自身の尺度、心の零点(座標の原点)を中心として、これが左に行くか右に行くかを分別できなければなりません。それができなければ霊を見分けることができないのです。善霊か悪霊かということも、そのような感覚によって直ちに分析できるのです。従って、必ず体恤的な信仰が必要だということを知らなければなりません。(七六−一四六)
3 個性真理体としての人間の特性
皆さん、人によって顔が違うのと同じく、人によって臭いが違うことを考えてみてください。臭いをかいでみると違います。だから犬は皆臭いをかいで探すのです。ここに約二百人集まっているとして、二百人全部の臭いをかいでみると皆違います。(九八−二六六)
私たちの教会で使う個性真理体という言葉は特殊な用語です。個性真理体という言葉を使うのです。それを英語でいうとindividual truth bodyになります。おかしな言葉ですが、しかたがありません。(一三三−一四)
一人びとりが持っている特性は一つしかないものです。また、一人びとりの人格も皆違うのです。(四一−一三六)
原理でいうと、人間というのは個性真理体です、個性真理体。お母さん・お父さんから生まれましたが、お母さん・お父さんとは違います。もし、その本性が違っていないのなら、特性を持っていないのなら、生まれる必要はありません。神様が多様な個性真理体をこの地上につくることを願われて、そのような分立体として生まれたのが私たちの個体なのです。ですから、いくら神様が大きいといっても、私たちの個体一つひとつと相対することによって、大きな神様の全体の喜びが完成できるのです。こうして見るとき、小さくても平等な自由、平等な価値を私たちはここで発見するのです。
では、ここにいる人たちが皆同じ顔をしていたらどんなにつまらないでしょうか? うんざりするはずです。長い顔や平べったい顔がいて、鼻の形から何から全部多様なので、見ればみるほど関心を持つようになるのです。これも面白いし、あれも面白い。全部面白いのです。
皆さんが服を着る際にも、男性・女性皆一緒に春夏秋冬同じ季節を過ごしていますが、服を着るのを見ると全部違います。次に歩き方もそうです。歩き方も皆違います。全部違います。手のしぐさも、小さなことですが皆違うのです。また、笑い方も違うし、声も違うし、すべてが違います。そのようにして個性真理体の特性が現れるのです。これが貴いのです。
皆さん、人の顔をよく見ると、目と鼻と耳と口、この四つがありますが、世界四十億の人類を比べてみても一つとして同じものはありません。これが神秘的なのです。それ自体が神秘的なことなのです。そう思いませんか? このように見るとき、個性真理体が喜ぶことのできる天国というのは、男性・女性を中心として個性的な人間たちが入って住んでいるため、そのすべての人間たちが調和し、理想形として現れる所です。(一二四−二七九)
四 人間の特性
四 人間の特性
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1 人間は貴い万物世界のどこを見ても、必ず起源があります。起源がなくてはならないのです。では、その起源において人間が中心であったかという問題、そして私たちが見ている鉱物世界と植物世界のうちどちらが先かという問題も重要な問題です。「萬物之衆 唯人最貴」といわれますが、人間が最も貴いとはだれが言ったのでしょうか。万物のうちでただ人間だけが貴いという決定をだれがしたのでしょうか。それなら植物界を見るとき、個々の植物は貴くないということでしょうか。もちろん貴いですが、万物の中で最高の価値の内容を持っているのが人間なのです。では、その貴いというのは一人の人生についていうのでしょうか。それとも、私たちは先祖から血族を通して続いてきたその一人ですが、私たちの先祖たちも皆含まれるのでしょうか。また、これから生まれてくる子孫たちも含まれるのでしょうか。それをだれが決めたのでしょうか。だれが決めたのかという問題を考えるとき、その決めたこと自体を本当に信用できるのでしょうか。これが問題です。
それでは、「人間は貴い」「あの人は貴い人だ」というとき、それをだれが決めるのかというのです。この問題について考えるとき、私たち自身がそのように決めるのよりも、動機となるに足る、根源となるに足る中心者、ある主人がいて、その主人が決めたのなら認めることができます。しかし、自分が決めた、私たちが決めたと考えるなら、私たちというもの自体が今日自分の生活を中心に行くべき方向も知らない者ですし、今世の中に生きる人もそうではないですか? ただ動物のように生まれて生きて死ぬのが人生のすべてだ、このような立場の人間として自分自身が万物の中でいちばん貴い存在だと決めたとしたら、それ自体信じるに足りません。自分を信じられない、こんな立場に立っている自分を中心としてその自分が貴い立場にあるという決定をしたところで、それが全宇宙から認められた事実として普遍化できないということです。
それでは、だれが決めなければならないでしょうか。すべてを存在せしめる、ある原因的な存在が…。鉱物世界を見ると、無限な元素が互いに結ばれています。その鉱物世界の神秘的なすべての構造と形態というものは、でたらめに出来ているのではありません。必ずある方向性を中心としてその目的と価値を持っているのです。植物も同じですし、人間も同じです。すべてを存在せしめる一人の主人がいて、その主人から「お前は私がつくった万物の中でいちばん貴い」と言われれば、それは全体が認めることができます。そうなるには、自分自身が貴いと認めることのできる根本的な存在と関係がなくてはなりません。
では、「貴い」というとき、現在の立場をもって貴いというのか、自分が生まれて生きていく中で人生の目的を完成させる内容全体を中心として貴いというのでしょうか。いくら考えても、自分が生きている現在の立場、生活圏自体を中心として貴いと見ることはできないのです。「人間には、責任と目的完成の内容を中心とする貴い価値が与えられている」ということを考えないわけにはいきません。
そのような立場から見るとき、自分は何でしょうか。自分は何なのでしょうか。人間が貴いことを願う自分は何なのでしょうか。そう願うことが一つの根源となって、ある過程を経て目的地まで行った後でなければ、貴いという価値の決定は不可能なのです。その目的を達成する過程で「自分は貴い」というのですが、実際には、まだその位置に到達できずにいることを考えなくてはならないのです。だから「人間は完成しなければならない」というでしょう?(一三八−七一)
人間は何が貴いのですか? 立って歩くことですか? 熊の子でも立って歩くことはできます。人間の勝っているものは何ですか? 人間が勝っているのは、神様と愛し合う資格があることです。(一二七−二三)
人間が最も絶対的に知らなくてはならないのは何かというと、根源です。神様をはっきりと知り、自分の親をはっきりと知り、自分の夫をはっきりと知り、自分の子をはっきりと知り、自分の兄弟をはっきりと知ればよいのです。その次に、兄弟がこれから生きていける国をはっきりと知ったらすべて終わるのです。それが第一です。
どこかの大学を出て大学院に進んで博士になったと言いますが、博士など何になりますか? お母さんや妻・兄弟と換えることができますか? 親と換えることができますか? 最も貴いものを持っていながら、その貴さに気づかずにいる人のことを何といいますか? 愚か者、人でなしといいます。(一四七−二三一)
2 人間の本性
人間の本性は何を求めていますか? 貴いものを求めています。貴いものはどこで探さなければなりませんか? 変わる所から貴いものを見つけることはできません。変わるものは貴いものと関係がありません。従って貴いものというのは、変わらない所にあるもので、変わることのないものです。なぜそうなるのでしょうか。私たち人間の本性自体が変わることのないものだからです。
私たち人間の本性は絶対的に変わらない性質を持っており、その性質の指向する通りに絶対的に変わらない価値を求めていこうとするのです。ですから、人間はきょうよりも明日、明日よりもあさってにより価値あるよいものがあるという希望を持って生きています。「若いころは苦労しても、中年になったらきっと幸せになれるだろう」という希望を持って生きる人であればこそ生きがいを無理矢理にでもつくり出せるのであって、それすらなかったとしたらどうなりますか? それではいけないのです。(一四一−一三二)
神様を作家に、人間を作品に例えてみましょう。自分が何かを真心込めて作ったにもかかわらず思い通りにならなかったときは、気分が悪いものです。しかし、作ってみたところ、自分が考えていた以上のものになったとき、それを見て「おい、こいつ、なんで思ったよりいいものになったんだ?」と気分を悪くする人がいますか? そのようにうまく作られたものは、寝るときにも、また戦争で避難するときにも懐に入れて持ち歩き、どこに行こうと愛したいのが人間の本性です。(五三−二二六)
3 人間の精神力
人間の精神力がいかに偉大なものかを知らなければなりません。「ああ疲れた。八時間寝ないときつくてもう…」という思いをだれがさせているのですか? 取り去ってしまわなければなりません。人間は二十四時間働いても平気でいられるのです。ご飯は三食食べるものとだれが決めましたか? 一日一食でもいいでしょう。一食ずつ食べながら約四百日修練会をやれば、一食だけでも十分に普通の人の二倍働いてもびくともしない、むしろ前より健康な人をつくることができます。そう思いますか、思いませんか?
人は決意してこそ強い行動ができるのではないですか? 正しい思想的骨組みさえ入れてやれば、体は走っていくのです。(六五−三〇八)
4 人間の求めるもの
今、この地上に生きている人間たちを見ると、何か、より高いものを追い求めています。きょうもあしたも、自分の置かれている環境を超えて、より広範囲な環境で価値ある存在になることを望んでいます。(三八−七三)
現時点を中心として見るとき、人間や神様が望み、待ちこがれるものは何でしょうか? 何を追求するのかといえば、現実よりよくなることを望むという事実を私たちは否定することができません。これまでの時間よりもこれから訪れる時間がよりよくなることを願い、今の立場よりも今後の立場がよりよくなることを願っているのです。ここで信仰という問題が登場するわけです。(二七−九三)
人間が生まれたばかりのときは母乳しか知らなかったのが、成長するにつれて父母を知るようになり、次に自分を知るようになります。人間の心はいつも最高の基準まで上ろうとします。いったいどこまで行ったら「これ以上は必要ない」と言うのでしょうか?(一三−八六)
人がよい人と出会いたいと思うのは、よりよい人を通して神様と出会うためであり、よりよいものを求めるのも、結局、神様と出会うためです。ですから、神様の前に進み出ることのできる道を見つけることは喜びなのです。(一三−九五)
人間にいちばん問題になるのは、人間が追求する最高の中心、すなわち絶対者と一つになることです。絶対と相対という言葉を追求していくのにおいて、人間は相対的基準を越えて絶対者と一つにならなければならないのです。そうしてはじめて上下関係が成立するのです。人間は、このように上下関係の立場まで進まなければならないのです。(二九−一二七)
人間たちはどこに行きたがるかというと、よい所へ行きたがります。学生なら学校へ行きたがるでしょう? なぜ学校へ行こうとするのですか? 高くなりたいからです。高くなって何をしようというのですか? よりよくなるためです。
ではよくなったらどうなりますか? つまり、どんどん広くなって高くなったら、どこまで上って行きますか? 人間世界を越えて天の頂上、神様がおられる所まで上って行くのです。ずっと上って行けたらいいでしょう? 人の欲望は限界がありません。こういうことが問題になるのです。
人の欲望の限界点はどこですか? その目的地はどこですか? これが問題です。すべてを所有したいし、どんどん上って行きたいし、よいものは全部自分のものにしたいと思うのです。世界までも自分のものにしたいと思うのです。そうでしょう?(四一−二六八)
人間はだれでも尊敬されることを望んでいます。また、多くの人の中で自分が中心になることを望んでいます。つまり、中心的な立場で指導したいと思う心をだれもが持っているということです。(二四−二九〇)
5 人間が好きなもの
人はだれが見ても分かるものを好みますか、見ても分からないものを好みますか? 人は神秘的なものを好みます。皆さん、そういうものが好きではないですか? 神秘的なものは表に現れません。功名に隠されたいちばん重要な本宮に入って行き、その中の部屋まで錠でがっちり閉ざされた所にある宝物、そういうものがあればもっと神秘的です。人はより神秘的なものを欲しがります。外的にはより大きなものを求める反面、内的にはより神秘的なものを求めるのです。(一三八−一五八)
それでは、ここで高いものが中心ですか、低いものが中心ですか? どちらですか? 人は高いものを好むでしょう? 深い所があって高い所が始まりますか、高い所があって深い所、低い所が始まりますか? 人は深い谷が好きですか、高い山の頂上が好きですか? どちらが好きですか?(高いほうです)。
なぜ深い所は嫌いなのですか? どうして? 高い所に上れば上るほど多様な世界と関係を結ぶことができます。高い所に上れば、すべてが目に見えるのですべてを相手にできます。しかし深い所に行くと、たくさんあったものがだんだんなくなってしまうのです。皆さん、分かりますか? 見えていたものがだんだん切り取られていくのです。だれもが高い所を好むのはなぜですか? 高い所では多様な世界と関係を結んで、自分が主体的な立場で全体を観察できるからです。深い所ではその反対になるわけです。
人はなぜ高い所が好きなのですか? 多様なものと因縁を結ぶことができるので高い所が好きなのです。なぜ低い所は嫌いなのですか? 単純になるからです。多様な関係から遠ざかるということです。最も貴い人は、高い理想、高い考え方、高いものと関係を結ぼうとする人です。そういう人が貴い人だという概念をここから導き出すことができます。
そのような観点から見るとき、精神的姿勢の高い人が貴い人だということです。体は同じでも精神的姿勢の低い人は卑しい人です。霊的な基準で生活する人が高い人で、肉的基準で生活する人が低い人です。このように分けることができます。(一二九−三〇八)
皆さん、木を見るとき、「われわれは緑のほうがいいけれども、その木自体は毎日のように緑色をしているのだから飽き飽きするだろうに」と考えたことがありますか? 黄色い色、赤い色に一度なってみたいと思うでしょうか? ですから生きること自体が自分のためではなく、あらゆる自然のために生きるものなのです。
では、緑色なのはなぜでしょうか。皆さん、このように暑いときに、緑色でなく赤い色だったらどうでしょうか。しかもそれがまだら模様だと考えてみてください。どんなに刺激が強くてうっとうしいでしょうか。
空、海、草は皆青いのですが、どうでしょうか。うんざりするでしょうか。私の好きな黄色だとしたらどうですか? また、ほかの色だったらすぐに飽きてしまうでしょう。ところが、青や緑は慰労の色なのです、慰労の色。
では人はなぜ緑が好きなのでしょうか? なぜ人は緑が好きですか? この存在世界はグリーン(緑)と調和するようになっています。ですから土にはグリーンの色素が多いと見るのです。土は主にグリーンの色素なはずです。だからその土からつくられた私たち自身はグリーンを好む、そのように理論的なのです。そう考えることができます。神様もそれを知っておられたので、空も海も青や緑に…。すべて人間を中心にこのグリーンと調和するようにつくったのです。なんと素晴らしいことでしょうか。(一一九−一六九)
6 人間の特徴
人間は考える動物なので、考えてみて自分が損をすることは絶対にしません。よく比べてみて、自分に利益にならなければ絶対に行動しません。利益になれば行動するのです。皆さんもそうではないですか?(一九−三四)
皆さん、成功することを願う人、手を挙げてみてください。では失敗することを願う人、手を挙げてください。そんな人は罰が当たります。どんなにしとやかな娘でも、聞くまでもありません。本当に成功する道があるものなら、手だけでなく足まで挙げたくなるはずです。だれであれ、滅びたいと思う人はいません。皆さん、優秀な男になりたいでしょう? では、何からうまくいくことを願いますか? 自分の友達の間でまずうまくいくことを願うのです。(三二−二五八)
人は現実の中で生きていますが、未来への夢を持っています。ほかの動物と違って人間は未来に対する夢を持たなければならないことを知っています。夢というのはどんなものですか? 夢というのはただただ高く、ひたすら高いものであり、ただただよく、ひたすらよいものです。これが夢というものです。夢を持っているというとき、あしたに向かって、あるいは未来に向かってただひたすら悪い夢を抱いている人はいません。そんなものは夢ではありません。ですから一般的にいうと、夢というものはただひたすらよく、ただひたすらうれしいものです。それはどういうことかというと、発展を意味し、栄えることを意味します。(一七一−四一)
人間をよく見ていると、実におかしな存在です。一度悪くなりだしたら限りなく悪くなり、一度よくなりだしたら限りなくよくなるのを見かけます。また、極から極に連絡することができ、極から極に飛び越えることのできる存在がまさしく人間です。(一八−三一七)
第二節 人間の目的と価値観
第二節 人間の目的と価値観
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一 人間の目的1 本然の目的
先生は全生涯を捧げて修道の道を歩んできた人です。さらに、宇宙の根本と神様の実存という問題をめぐってだれよりも悩んだ人です。
血と涙のにじむ修道の過程を通して、先生は生きた神様の実存をはっきりと知りました。生きた神様と直接対面する体験までするに至りました。そして、宇宙の根本である神様との平和を得ずして、この地球上で真の平和を論ずることはできないと悟ったのです。
神様は宇宙の第一原因であり、森羅万象の創造主です。そして私たちの愛する父です。神様は特別なみ旨を成すために万物を創造され、その目的はまさしく愛の具現にあります。神様は真の愛の根源ですが、いくら全能の神様でも、一人では決して愛の喜びを感じることはできません。神様は愛の対象が必要であり、その対象から自発的な愛が返ってくることを願いました。その対象として最高の被造物がまさに人間です。そのような理由で、人間の人生には目的があるのです。人生の目的は成熟して神様と永遠に真の愛の関係を実現することにあります。まさにこれが神様と人間の間に平和を成す根本原理なのです。(一六六−一三一)
私たち個人はもちろん、地上に生きている数多くの人間たちの中に善を望まない人はいないことを私たちはよく知っています。これまで歴史の方向も善を指向してきましたし、教育者や信仰者たちも善の基準を立てるために努力して闘ってきたことをよく知っています。ですから、生まれるのも善のために生まれ、死ぬのも善のために死ななくてはならないのが人生の目的です。人生の目的のみならず、人間が歩んできた歴史の目的であることを私たちは否定することができないのです。(二四−一三)
自分たちが豊かに暮らすことも大切ですし、自分たちが何かをすることも大切ですが、それより先に、縦的な天の父母の前に孝の道理を尽くさなければならないのです。縦的な天の父母の前に忠の道理を尽くさなければならないのです。縦的な天の父母の前に聖人以上の道理を尽くさなければならないのです。それが、人間が生まれた本来の目的です。また、そのような人間と出会うために、神様は人間をつくったのです。そういう目的があるのです。(五八−二三一)
真の人生を生きる道はどこにありますか? 人間はどこから生まれましたか? 愛から生まれましたが、人生はどんな道を行かなければなりませんか? 愛の道を行かなければなりませんが、どのように死ななければなりませんか? 愛のために死ななければならないという結論になります。その愛はどんな愛ですか? 大宇宙が歓迎できる愛です。小宇宙ではありません。神様が認め、天使世界が認め、万物が認め、すべての人が認め、父母が認めることのできる大宇宙の中で生まれ、その中で生き、その中で愛し、その中で死んでいくことが人生の目的だと見るのです。(八三−一六四)
人は自分がよいときは親、兄弟、親戚を訪ね、一緒に楽しもうとします。よいということは幸せだということです。幸せは永遠なものであり、永遠なものは心情です。
宇宙の中心は何ですか? それは親と子です。つまり親と自分です。神様と自分なのです。神様は父、自分は息子…。
人生の究極的な目的は、父を見つけだし、切っても切れない関係を結んで喜びを感じることです。(一二−一〇四)
2 人生最高の目的
人生最高の目的は何ですか? 堕落した人間にとって最高の願いは何ですか?「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。(コリント十三/十三)」というこのみ言は、実によいみ言だと思います。(一六−一三二)
人間は何を目的にしなければなりませんか? 個人を目的とするよりも、家庭を目的とするよりも、団体を目的とするよりも、国を目的とするよりも、世界を目的とするよりも、天地を目的とするよりも、神様を中心として、神様と人間が一つになった目的に向かって進まなければならないのです。
では、どの目的が最後に残るでしょうか? 個人を中心とするものは流れて行き、家庭を中心とするものも流れて行き、自分の団体を中心とするものも流れて行き、国を中心とするものも流れて行き、世界を中心とするものも流れて行くのです。しかし、最後まで残れる一つの目的があるとすれば、それは神様と人が合同で追求する目的です。そのような目的だけが人類歴史の最後まで残ることができるのです。(四一−三二三)
皆さんの心が最後に落ち着く終着点はどこですか? 神様を見つけて自分のものにしたとしても、そこに皆さんの心は安息しようとはしません。では、皆さんの心の最後の終着点はどこですか? 神様を占領し、神様の愛を占領するところです。ですから、皆さんが神様の愛を占領できなければ、万事がだめになります。
人生の最後の目的は何でしょうか? ここでは神様を中心として天の中心となるそのかたと出会うことが問題なのではありません。そのかたとともに生活することが問題になります。
そのかたとどんなところで出会うか、どんなところで生活するかというのが問題です。そのかたとは中心で出会い、中心で生活するというわけですが、その中心となる場というのは神様の愛の場です。
ですから、人類の良心が指向する最高の目標は、天運に従って神様と一つになり、神様の愛を自分のものにすることです。結論はそれです。(二四−一七)
人間が最後に到達したいと願うのは何でしょうか。最高のかたの愛の相対者となることです。その最高のかたがだれかといえば、私たちの父であると同時に神様なのです。(六五−四六)
3 二重目的
私たち人間は、二重構造の形態になっています。霊的世界と肉的世界、この二つの世界の媒介体、共鳴体として生まれたのです。(一二七−一五四)
人間は男性であれ女性であれ、心と体の二重構造になっています。心は縦的に、体は横的になっています。縦横の起源を通さずしては座ることも位置を決定することもできません。違いますか? 間違いだ、ぺちゃんこだ、まっすぐだ、正しい、といえる基準は縦横の基準なしには設定できません。位置を決定できません。東だとか西だとかいう位置を決定できません。(一七二−二六四)
統一教会でいう個体目的と全体目的というのは歴史的に妥当な論理的基盤で主張できる、ということを私たちはここで知ることができます。そして、個体目的は何かというと、個体完成のためのものであり、全体目的は何かというと、個体目的完成のためのものです。そこで、個体目的を完成せずしては全体目的に接することができない、出発することができない、ということができるのです。(一〇八−一六二)
人間には体の目的と心の目的があります。では、どちらがより大きな目的で、どちらをより早く成さなければなりませんか? 心の目的を先に成さなければなりません。
個人の小さな目的と大きな目的があるとき、小さなものを捨ててより大きな目的を追求すれば、ここにはプラスの要因が発生し、小さな目的にも利益になり、大きな目的もやはり成すことができるのです。共産主義者たちも目的世界は認めています。しかし、非目的世界から目的世界に変わるその過程においては、必ず破壊的な闘争の歴史が展開すると言います。従って共産主義の理論は、いつかは覆されるのです。
人間は生まれたときから行くべき道があります。全体のための目的と個体のための目的、すなわち二重目的の存在になっています。(一九−二九九)
二 人間の価値決定
二 人間の価値決定
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1 没落した世俗的価値観とその代案今日、人間たちの願うものは何でしょうか。最後に願う彼らの目的は何でしょうか。豊かに暮らすことです。だれでもそう思います。では、豊かに暮らすというのはどういうことでしょうか。根もしっかりしていないし、芽の目的もはっきりしていないので、結局は自分を中心とした平和、自分を中心とした幸福、自分を中心とした民族を追い求めるのです。そうして享楽の淵に落ちてしまうわけです。
人間は死んだらそれで終わりだという思いから、彼らが築き上げた理想的な環境で、死ぬ前にだれよりも豊かに生きてみたいのです。だれよりも世界的な環境で行動し、一度関係を結んでみたいのです。そうこうするうちに、享楽のわなにはまってしまうのです。そのため、今日アメリカなどの国では倫理・道徳などすべてが没落してしまいました。
価値観の喪失というのも程があろうに、歴史的伝統までも拒み、家庭の親・兄弟・夫婦といった家庭制度まですべて破綻させてしまいました。皆、個人的享楽のために相対的なものをすべて除去しています。(一七二−一五)
だから今、価値観の没落だの脱イデオロギーだのと言いながら騒ぎ立てているのです。だから今、主体的な思想をもって世界を導くことのできる指導者が求められる時代にきているのです。経済的問題が問題ではなく、科学的問題が問題ではありません。「真の宝のような一人の人間が現れたらどんなにいいだろう。新しい革命を提示して人生の理想郷を描くことのできる主人、そして真の価値を持った個人から価値的家庭を経て価値的世界まで導いてくれる主人がいたならどんなにいいだろう」というのが今日の人々の悩みです。(八五−一〇〇)
したがって、今日この世界においては、はっきりした価値観を持たなければなりません。世界観を越えることのできる価値観を持たなければなりません。統一教会ではその価値観の中心を神様に置いているのです。私たちの主張は「理想世界に帰ろう」ではありません。「神様に帰ろう」です。神様に帰らずしては、理想世界もなく、幸せな世界もなく、永遠な世界もなく、愛の世界もないのです。なぜですか? そのあらゆる幸福の要因、私たちが願うあらゆる与件は、神様によって始まらなければだめだからです。それで神様に帰らなければならないのです。これを慕い、これを探し求めてきたのが人類歴史上に現れた宗教という機関だということを、皆さんは知らなければなりません。
それでは、私たち堕落した人間はどんな考え方を持たなければならないでしょうか。無限の価値観を持たなければなりません。今日、世界は共産世界と民主世界が闘争していますが、最後には皆疲れてしまいます。人間だけではだめだと、疲れる果てる時がだんだん近づいてくるのです。人間だけで世界を料理するようにはなっていないので、疲れるに決まっています。
このような立場から、有り難いことに統一教会では何を提示していますか? 私たちは絶対的な価値観を提示するのと合わせ、真の父母を提示しているのです。私たちが願う絶対的な価値のその基準は何ですか? どこが終着点ですか? 真の父母の子女になることです。永遠の命を持つことができ、永遠の愛を持つことのできる神様の子女になるのです。それ以外には道はありません。違いますか?
アダムとエバが堕落するとき、神様の許しの中で相対理想を結んだわけではありません。自分勝手にしたのです。神様が許して関係を持って出発できるのは、父子の因縁に他なりません。しかし、それが壊れて没落したため、標準の形にもう一度継ぎ合わせなくてはなりません。それは避けようがありません。(六八−一三八)
2 人間の価値決定
心情が通じるようになれば、皆が神様の子女になります。文化の背景や歴史的環境、あるいは時代の位置によって人間の価値が左右されるわけではありません。いかなるものによっても、人間の価値を決めることはできません。人間が天を知り、地を知り、天の目的と地の目的と人間の目的を知ったところにおいてのみ、人間の価値が決定されるのです。(一五−八三)
価値は目的観によって決定されます。私たちは何のために生まれ、何のために生き、また何のために死ぬのでしょうか。それはだれかの妻になるためでもなく、だれかの夫になるためでもありません。私たちは一つの目的のために生まれました。
より価値あるものは何でしょうか。より大きな目的のために、この原則的な神様と神様のみ旨のために、主体的な自我を確立してその道を開拓し、相対的な権限を吸収していくところにおいてのみ、より価値ある道が成立することを皆さんは知らなければなりません。
それを要約して簡単にいうと、神様は第一であり、神様のみ旨は第二であり、第三は自分です。このようにして、第四である相対的圏を求めていかなければなりません。この道においてのみ、より価値のある道が生まれるのだという観念をしっかり整理しなければならないのです。この道を通してのみ可能なのです。そして、それだけで終わるのではありません。それをいつも第二目的、第二出発の動機として反復することによってのみ、その価値は帰結するのです。(六六−二七二)
私たちは新しい価値観を模索し、それを中心にしなければなりません。世界に対する新しい価値、人間に対する新しい価値、理念に対する新しい価値、あるいは愛に対する新しい価値を模索しなければなりません。その価値観が神様のみ旨と一致できる内容をもって出発するとき、その価値観は人間を中心とした価値観とは母体が異なります。人間の理想を中心に立てられている価値観とは違うのです。
そこには天地の差があります。その価値観は分立されたところにあるのではなく、悪の現実圏内で関係を結び、悪の世界のどんな幸福にも勝る幸福をもたらすものでなくてはなりません。そういう理念を見つけなければ、そこから忍耐と克服、つまり耐えて乗り越える基準を立てることはできないのです。従って今世界は、現実を否定し、より次元の高い価値観を見つけられるかどうかの境目で悶えているのです。
実存哲学もそのような観点で生まれたのです。現実を克服するには、現実を克服できる内的な価値観を提示しなければなりません。その内的な価値観をどのように提示するかということが、現代哲学における重要な課題であることを皆さんは知らなければなりません。
その価値観は人間によって形成されるのではありません。人間がいくら努力したところでだめなのです。それが証明されて余りある圏内に入ってきています。ここで重要なことは超越的な価値、より高次元的な価値です。その内容というのは、漠然としていてはだめなのです。「過去にこうになったように、未来もこうなるはずだ」という認識ではだめなのです。現実生活において、私たちの生活感情を中心として環境の与件を克服し、打開できる実質的な内容を備えなければならないのですが、それをいかに体得するかというのが問題なのです。(四四−二二八)
3 人間の価値基準
皆さん、人に対して「この人は良い、あの人は悪い」と批評することがあります。それでは、ここで良いというのは何を根拠にしているのでしょうか。どんな位置とどんな環境の中で言っているのかという問題を中心に見るとき、その基準は漠然としています。今日この地上は、そのような漠然とした基準を持って生きる人々で満ちています。ある人が朝もワッハッハ、夜もワッハッハといくら喜んだところで、その喜びも一貫した目的と関係を結ぶのでなければ、咲いてはすぐ散ってしまう花のようになるのです。このような立場で喜びを描いていったところで、その人生の終わりに何が残るでしょうか。むなしく寂しい人生しかもたらさないのです。(四一−一三七)
私たちが人の価値を論ずるときに、その外的な姿がよいからといって、その人を立派な人だと評することはできません。人の価値を評するときには何を中心として評しますか? その人の持つ思想と良心基準です。そして、その思想と良心基準に心情問題がどの程度まで介在しているかによって、その人の人格を論ずるのです。(六−三〇六)
人間の価値基準は何でしょうか。愛を通さずには価値基準が設定できません。愛という言葉は相対的観念圏内で成立するものなので、互いの価値基準も相対的観念圏内で成されるのです。(五一−一六六)
4 価値の形成
人は自分一人優れているからといって、すべてがうまくいくわけではありません。必ず相対的世界と関係を結び、相対的関係を備えてはじめて、そこで自分の人格的価値が現れるのです。人のできないことをすれば、それだけの価値が現れるということです。(二七−一二九)
神様がいくら素晴らしいかただとしても、愛は一人で築くことはできません。レバレンド・ムーンがここに立っていますが、レバレンド・ムーンにも愛があります。愛をたくさん持っています。愛するにおいては、一人でいくら「わが愛よ!」と叫んでもどうでしょうか。「頭がおかしい」と言われるでしょう。しかし、小さな何か、一円玉に口づけする人がいたとしても、それはおかしなことではありません。ですから、相対価値の無限性を知らなければなりません。(一三六−一一一)
神様は絶対的な創造観を所有する絶対者なので、絶対的な対象価値の存在を追求するのです。これは、この地上の被造万物の何ものにも換えられません。価値で見るなら、相対的存在とは神様を与えても換えることのできない存在です。「相対的価値」という言葉はちょっと難しい言葉ですが、相対という言葉を中心として、その対象の価値というものは神様を与えても換えられないのです。神様を与えたところで、神様一人になります。ハナニム(一人のかた:神様)として残るのです。
ですから、神様自身を投入し、神様自身の力、エネルギーを消耗するのです。消耗戦をするのです。それで、神様にも換えられない対象の価値的存在としてつくったのが人間です。このように、絶対的な価値の存在が人間であることを皆さんは知らなければなりません。神様はそのような思想でもって、価値的存在として人間をおつくりになったのです。
ところで、人間をつくる際には漠然とつくったのではありません。漠然とではありません。そこには、「必ずこのようになる」という神様ご自身の信念があったのです。(六八−一三四)
5 人間の価値は偉大だ
人間の価値はどれほど大きいでしょうか。神様が杖をついて、先年万年懐かしむことのできる存在が人間です。統一教会の文先生がよく考えてみたところ、これが宇宙の根本だったのです。これが内と外の関係になっているので、縦横の愛の世界観が成立するのです。そうではないですか? 上下の関係と左右の関係になるので、縦横の愛の世界観が展開するのです。その中心には神様が臨在されます。違いますか? 心の深い谷間に、一つにしっかり縛りつけておけるのはどこかというと、縦横の中心です。そうですね? これを縛っておかなければ、縦横の基準が愛の理想形として現れません。縦的なものがいくらあっても、横的なものは出てこないのです。それで人間をこのようにつくったのだということを知らなければなりません。
このような観点から見て、神様を私たちの心の中に入れようとするのは不敬罪ですか、正当な行為ですか?(正当です)。神様を心に入れるとしたら、どのような入れ方をしますか? 大切にお迎えするというより、近ごろの争い合う世の中に突っ込むわけで、お迎えするようにはなっていないでしょう? 違いますか? そうなのです。(四八−二二四)
人間の価値はどれほど大きなものでしょうか。神様がぐうの音も出なくなるような偉大な武器を私たちは持っているのです。世の中に人間を保存しておく博物館があったとしたら、その博物館の標本は美人が多くて美人でない人は少ないということがあるでしょうか? 考えてみてください。どちらか一方が多くなるのでしょうか? 美しい女性がいれば、それに相対する美しくない男性がいなくてはならないのです。それで釣り合いが取れるのです。神様が見るとき、そうなのです。(一六一−一三九)
第三節 人体の神秘
第三節 人体の神秘
P82
一 体は神秘の王宮人間の体は神秘の王宮です、神秘の王宮。どこかの学者だ科学者だという人が何を言おうと、それらは全く役に立たちません。指一本研究して本を書くとしたら、何千万冊書いても書ききれないのです。人体は神秘の王宮です。人間の体には四百兆以上にもなる細胞が、皆それぞれ異なった作用をしながら動いています。これを拡大すれば、この宇宙よりも大きくなるのです。
これは何の衝突もなく調和を成し、一日の生活、一年の生活、一生の生活を営むことができるほど神秘的です。ところがある科学者は、それらがすべて自然に適応し発展してきたものだと言います。(三七−一六)
体は神秘の王宮です。この指の爪一つ取っても、医学的に何千年何万年研究して切りがないのです。このごろの博士とかいう人たちを見ていると、怠け者もいます。博士たちが研究していることと全宇宙を比べてみると、何億万分の一にも満たないのです。そんな人たち、いわゆる博士という人たちが、神様はいないとかどうしたとか結論づけたことを信じられますか? 気分が悪いでしょう?
何かの公式だの法則だのと言いますが、それを超越したものがたくさんあります。公式の終わりはどこにあるか、考えたことがありますか? 私たちが学校で学んだ高等数学や何かの公式は、宇宙の公式世界において何段階に属すでしょうか。人間は自然環境に備えることのできる内容を持って生まれたということを、私たちはもう一度考えなくてはなりません。(三五−五三)
皆さん、これから毎朝鏡を見る際に考えてみてください。どれほど神秘的か。この顔かたち全体について考えると、この世界は神秘の王宮になるでしょう、神秘の王宮! いくら医学が発達しても、この人体の中にある無窮無尽の世界の内面を解明し尽くすことはできません。本を千冊書いても、この指一本すら解明できないのです。子供が適当に粘土をこね回して人形を作るようにして出来たと思いますか? 前後左右どこを見ても矛盾や欠点がないように、秩序整然とした配列の中ですべてがつくられたのです。(一五九−二七四)
私たち人間の体の構造を見ると、これは神秘の王宮です。どんな存在よりも「神秘」そのものだといえます。そのようなすべての神秘の要素を連結しながら、人間という一つの生命体をつくった絶対者がいるとすれば、彼は無限の能力を持った主人公であるに違いありません。(二七−二一九)
二 人体の三段階
二 人体の三段階
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私たちは原理を通し、蘇生時代、長成時代、完成時代という三段階について学びました。三数が重要です。自然界を見ても、鉱物世界、植物世界、動物世界、このように分けられます。人間を見ても三数で、一・二・三、一・二・三、一・二・三、全部三つの部分に分けられます。顔を見ても、目・鼻・口、三段階です。(両隣の人と)手をつなぐのも、三数を表します。一人・二人・三人と、手をつなぐのも三数を表すのです。目も三点を結びます。焦点が三点を連結しているのです。鼻も中に入って一つになります。口を見ても、一・二・三、三数なのです。さて、こうして見ると三数が必要です。それでこの宇宙を見るときに、西洋思想にはありませんが、東洋思想では宇宙を「天・地・人」と見るのです。また、世の中もそうではないですか? 上・中・下があります。円形を描くのにも、必ず三点を結ばなければなりせん、三点を。一・二・三、必ず三点が連結されなければなりません。直線になるためにも、必ず三点過程を経なければならないのです。この直線というのは、すべて三点で連結されなければならないわけです。全部、同じ立場で連結されなければならないのです。(一二五−一五八)皆さんが一つ知らなければならないことは、アダムとエバはそのときは一人の男性であり一人の女性にすぎませんでしたが、全宇宙の中心だったのです。アダム・エバは何ですか? 神様の何ですか? 神様の体なのです、体。そのため、人間は二重構造からなり、心に神様が入るようになっています。神様を中心とした空気のようなものが心なのです。この宇宙を見ると、空気のある空間世界があり、これが心に当たります。そして地に当たるのが体なのです。三重構造になっているのです、三重構造に。すべてが三段階になっているのです。これを見ると、地にも私たちの体が生きていくのに必要な生命の要素があり、空気にも生命の要素があり、また霊界にも私たちの永遠の生命が呼吸できる生命の要素があるのです。
皆さんはご飯も食べなくてはならないし、呼吸して空気も吸わなくてはなりませんが、この二つだけ吸収してもだめです。これ(霊界の生命の要素)を吸収しなくてはならないのです。まず、食べるのが蘇生です。口が蘇生です。そしてこれ(鼻)が長成ですね。次に皆さんは、永遠の生命を呼吸することのできる生命の要素をもらわなければなりません。全部合わせて三段階になっているのです、三段階に。この手を見ても、指があって爪があり、さらに白いところがあります。すべて三段になっています。全部がそうなっているのです。(九二−一六一)
目の構造はいくつからなっていますか? 白目、黒目、瞳からなっています。蘇生・長成・完成でピタリと当てはまるようになっているのです。鼻を見ても、穴が一つ、二つあって、中のほうで一つに合わさります。完成になるわけです。耳を見ても、一・二・三、このように三つの部分からなり、これが総合して聞くことができるようになっています。指も折り曲げてみると、このように一・二・三です。全部、調べてみればこのように三つになっているのです。従って、三段階の法則というのは宇宙の法です。内臓にも、肺・胃・肝臓があります。すべて秩序整然として、このように天地の原理が人間という一つの存在の中に皆入ってるのです。(三七\一七、九六\二三〇、三八\二五三)
「三度目の正直」という言葉があります。一回目にできなくても三回目には必ずできる、ということです。韓国ではこのような言葉をよく使います。三つ揃わなければならないのです。三つのものが合わさる所には、神様がおられます。目上の人に何かを差し出すとき、手を下に支えるように持って差し出すでしょう? 天地の原理がそうなっているからです。あいさつをする際にも、腰を曲げてしますね。なぜそうするのか分かりますか? 一つになるためです。三つ揃えば、一つに結ばれるということです。(三八−二五三)
三 人体に絶対必要な要素
三 人体に絶対必要な要素
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すべての存在物(生命体)は、四分の三が水から出来ています。水がよく調和している所に生命があるのです。皆さんも、水分が多くなると下痢をするでしょう? 水分が少なくなれば補給するでしょう? 皆さん、身体の温度を三十六度や三十七度に調節するものは何かというと、それはすべて水なのです。生命をすべてコントロールするのです。そうですね? こうして見ると、水というのは絶対に必要なものです。そして皆さんの体は、流れて行くもの、水蒸気です。水蒸気ですから流れ者です。(一〇二−一三)神様が目に見えないのは幸いです。これを私たちは有り難く思わなければなりません。私たちは太陽の光を受けて生きていますが、それに対する有難さも知りません。それが有り難いからと、「太陽さん、ありがとう」とあいさつしますか? 私たちは大きなものを知らずに生きています。大きなものに対しては、感謝の気持ちを知らずにいるのです。
もし、この世界に空気が一升しか残っていなかったとしたら、世の中の人々はそれをいくらで買うと思いますか? 神様が意地の悪いかただとしたら、世界統一は問題ないはずです。たぶん六分以内に統一できることでしょう。神様が空気を残らず持って行って「お前たち、統一するのかしないのか?」と言えば、全人類が合唱で「統一いたします」と答えるでしょう。そのようにすれば、すぐに統一できるはずですが、神様が空気をそのようになさらないのは有り難いことなのです。空気がなければ私たちは生きられません。このように、空気は生命に絶対必要な要素です。ところが、この空気に対して有り難く思っていますか? 泥棒のように有り難うのあいさつもなく、ただで吸っているのです。違いますか?
人の体は四分の三が水です。人の体は水袋なのです。そんな私たちが、水に対して有り難く思っていますか? 真夏の猛暑の中、巡回して回る人たちが自転車に乗って尾根づたいに上って行くときには、どれほどのどが渇きますか? 尾根にはたいてい果樹園があります。そこで冷たい水を一杯もらって飲む味は、とてもお金には換えられません。そんな水を飲んでいながら、水を汲んで来てくれた人には礼を言いますが、水には有り難さを感じません。「水さん、ありがとう」と言いますか? 言いませんか? 言うことも知らないのです。
また、日光がどれほど貴いですか? もし太陽がなければ、すべてが凍え死んでしまうのです。日光が生命を維持するのに絶対必要な要素であるにもかかわらず、有り難く思わないのです。このいちばん大切なものをただでもらっています。水と空気と太陽の光がいちばん貴重なのです。(三八−二四五)
四 身体の解説
四 身体の解説
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1 目は神様の象徴人が「神様は絶対いない」と言っても、私たちは「神様は絶対いる」と信じ、自信を持って進まなければなりません。創造原理を中心に人体の構造について詳しく話してあげたいのですが…。皆さんは、興味と関心をなくさないようにしてください。(三九−一六六)
皆さんは鏡で皆さん自身の顔を見ることができます。顔は宇宙を象徴し、そこには天地の調和があります。また、目は神様を象徴します。だからすべての万物が生まれるとき、目から生まれるのです。それを知っていますね?(はい)。人の目は宇宙の目のような中心存在です。首が目のために行ったり来たりするように、宇宙も神様のために行ったり来たりするのです。この目は情報機関なのです。
あらゆるものは三段階からなっていると話しました。目も三段階になっています。縁は白目で、次に黒目、中央に瞳があります。黒い瞳は重要なものなので中央にあります。ところで、瞳はなぜ丸いのでしょうか。男性と女性が円満でなければならないことを意味しているのです。角があってはいけません。自動車のタイヤは全部丸いから走るのであって、ちょっとでも歪んでいたら大変です。だから人は目のような男性、目のような女性になればいいとなるわけです。不思議ではないですか? 大切なものが中央にあるのです。(三九\一六七、九四\六四)
目は神様を象徴します。ところで、この目は何が好きですか? 色が好きです。色を鑑定します。色というものは本質相を表します。すべての色は、その本質がどうであるということを表すのです。目が行ったり来たりするのは神様を象徴し、宇宙を象徴するのです。体の中で真ん丸いのは目しかありません。分かりますか? だから目は上にあるのです。神様のように。目がこの辺についていたら、どんなにかよさそうなものでしょう? しかし、それでは秩序がありません。
また、眼球は横に行ったり来たりします。これが動かなかったら、首がどれほど疲れますか? どれほど精神的に疲れるでしょうか? 考えるほど偉大なのです。もし、これがこうなって、これはこのようになって、こうだったとしたら、皆さん、一日それで生きてみなさい。(一一八\一一二、一五九\二七〇、一〇七\二九四)
目は神様を象徴するので、二重、三重の構造によって見えるようになっています。これは栗と同じです。いが、皮、渋をむいて中身が出てきます。そして、目は人間の性稟を表します。目を見ればその人の性格がどうであるか分かります。かえるの卵がおたまじゃくしになるとき、目が先に出来ます。そうでしょう? なぜだと思いますか? それは神様が先におられたからです。(三八−二五三)
皆さんも自分の顔を見て、美人だなあと思いながら、目を見ると不思議に思うことでしょう。この目はなぜここについているのだろう? これはもういくら考えても、ここしか居場所がないのです。それに、もし目がこんな高いところに来ていたらどうでしょうか?(笑い)そうなったら目はどこを見るのですか? どうやって角度を合わせますか? このように考えてくると、目はいつも中央になければなりません、中央に。見ればほぼ中央にあります、中央に。(三七−一七)
皆さん、目はなぜ二つあるのですか? 一つだけだったらどうですか? 神様はなぜ目を二つつくったのですか? 鼻の頭に目をつくったほうがずっといいでしょう。なぜ二つにしたのですか? それは、ここに一つあるだけでは、四方の感覚の均衡がとれないからです。一つだけでは体が傾いてしまうのです。なぜですか? いつも水平線を中心として垂直を合わせることができないのです。一つだある場合、均衡をとるには、どんな位置かを知るにはこのように見て、こう見なければなりません。こうしてようやく「ああ! ここなのか」と分かるのです。しかし、これでは四方の感覚がつかめません。
そこで便利なように、目がこうして左右に二つついているのです。こっちにあったらどうですか? どんなに不便ですか? また、この目が独りぼっちでいたらどんなに寂しいですか?(笑い)二つあれば、右の目は「あ、お前、そこにいるのか。左目がいるんだな」と思うのです。いいでしょう?(一一〇\八七、一八七\六四)
この目はなぜつくられたのですか? なぜ生まれたのですか?(見るためです)。見るために生まれましたか? 見てどうしますか? よいものを見るために、愛を探すために生まれたのです。(八三−一六九)
西洋人は目が大きく、東洋人は目が小さいです。だから西洋人は近くのものしか見れないのです。だから西洋人は現実主義なのです。目が大きいために全部は見れません。近いところは見えても。しかし、東洋人は未来を見るのです。目が小さいから未来が見えるのです。(九四−六三)
2 眉毛
眉毛は何のためにあるのですか? それは天と人類世界(地上世界)とは一つですが、このような間隔があることを象徴しているのです。(九四−六三)
顔に眉毛は何のために生えているのですか? それも、縁起でもなく真っ黒なものが。眉毛を一度見てください。顔に真っ黒な眉毛がついているのを見るたびに、「なぜこんな真っ黒なものがあるんだろう」と気分が悪くなるかもしれません。マツケムシのように真っ黒で、しかも一匹でなく二匹も額にへばりついています。でも、よく考えてみると、「本当にいいものがついているな」と感じられるのです。
共産党は環境に適応していくうちにそうなったと言いますが、それは間違っています。しかし、なぜ眉毛はここについているのでしょうか。また、人が四つ足で歩くとしたら眉毛は必要ですか?(必要ありません)。人は二本足で立って歩くので、必要により眉毛ができたのです。人の顔に毛が生えていたら眉毛は必要ですか?(必要ありません)。動物は四つ足ではって歩くので、眉毛が必要ありません。似たものがあるだけです。しかし、人は立って歩くので眉毛が絶対的に必要なのです。
眉毛がなかったら、汗をかいたときに困ります。汗が額から流れると、眉毛で目を避けて流れるのです。それで眉毛のある所は少し盛り上がっています。眉毛の生えている所はちょっと高めになっています。とくに男性は眉毛の所が盛り上がっていなければなりません。しかし、女性は少し低いほうがよいのです。
眉の所が心持ち高くなって山脈を成しています。まさしく最高の位置なのです。なぜそのようにつくられたと思いますか? 人が立って歩くことを知っていたからです。人が逆立ちして歩くとしたら、眉毛は必要ですか? 逆立ちして歩くとしたら、目の下にあるはずではないですか? 本当にうまくつくられているのです。
本来、理想的な眉毛は、少し盛り上がっていなければなりません。もし、眉毛が盛り上がっているのでなく、へこんでいたなら、汗がそこに集まってごみ箱になるはずです。そうなれば、ごみ箱になるしかないのです。皆さん、このようにうまくできた眉毛を百万ドル出すと言われたら交換しますか、しませんか?(しません)。
また、目はなぜ瞬きしますか? もし、目が瞬きしなければどうなるでしょうか? それこそごみ箱になるのです。目が瞬きするのは、空気が乾燥するため水分が蒸発して乾くのをおしぼりで湿らしてやる働きをするのです。そして端のほうに窓の格子のようなまつげがあるのはなぜかというと、ほこりが目に入ってくるときに、目に知らせたり防いだりするためです。こんなレーダーのような装置はどこにもありません。
目は中に深くへこんだつくりにはなっていませんし、また歪んだ形にもなっていません。さらに眉毛は一方向に生えています。
目はやや外側に出ています。なぜかというと、安全にするためであり、水が流れるとき、一カ所に流すためです。汗をかいたら必ず目に入ってしまうことを知っておられた神様が、それを保護するために「眉毛は目の上にこのようにあれ」と言われたのです。目に不純物が入ってはいけないからです。汗や雨水が入らないようにつくってあるのです。そうでなければ、目が痛くてたまりません。雨水や汗が目に入りそうになっても、横に流れて入らないようになっているわけです。
目を見ると、信じられないことに、まぶたで保護されています。涙は横の低いほうへと流れ落ちるようになっています。安全が守られているわけです。だれが設計したのか分かりませんが、何千年も何万年も研究してつくったはずです。これらのことを考えてみると、目がいかにうまくつくられているか分かります。(三九\一六三、三八\二四八、三八\一五五、三七\一七)
私がいつも話している目という存在は、すでに天文学的知識を持っています。この地に空気があることを知っています。だから眉毛も生えているでしょう。
眉毛のない人がどこにいますか? すでに知っていたのです。この地上では輻射熱(放射熱)によって水分が蒸発することを知っていたのです。それでまつげがあるのです、まつげが。違いますか? 目が瞬きしないのなら、どうしてまつげが必要ですか? なぜこのように瞬きしますか? ほこりを…。ほこりを上に押し上げて、目に入るのを保護するためです。
瞬きしなかったら大変なことになります。目がごみ箱になります。風が吹けば、当然このだだっ広い目の中に吹き込んできます。それをすべて知っていたのです。すごいことでしょう! 自然にそうなったのではありません。(一八七−五八)
昔、私が日本にいたころの友人の中には共産党員が大勢いました。私は彼らを集め、「君たちの目はどうなっているか? 目はなぜ瞬きするのか? 瞬きしなければ、君たちの目はごみ箱になってしまうはずだ。これは空気の中にほこりがあることを知っていたからだ。さらに、まつげはなぜだれのまぶたにもついているのか? まつげが窓格子の役割を果たし、どれほど見事に防御していることか。これが自然に出来たというのか?」と神様の存在を明らかにしました。それで共産党員は先生を嫌っていました。こうして先生は、世界を懸けて闘う訓練をしてきたのです。
皆さん、鏡を見る度に顔をよく見てください。目は、まぶたが一日に数千回瞬きします。これが一日でも止まったら、目はどうなると思いますか? 瞬きすることによって、目をきれいに掃除してくれるのです。そうですね? 実に不思議なことです。すべてを知り尽くし、水も漏らさぬ準備をして生まれたのです。(三八−二一五)
3 鼻
秩序の中にはどんな秩序があるでしょうか? 主従関係と上下関係です。これでほとんどすべて入ります、ほとんど。これを一つの原則、一つの公式として見てみましょう。まず、私たちの顔の中で、鼻はどうでしょうか?(垂直です)。この鼻は目より大切なものですか? どうして真ん中についているのですか? 重要な部分なのです、重要な部分。どうして重要なのかというと、一日中食べているからです。いつも何かを食べているのが鼻なのです。寝るときは目も閉じ、口も閉じ、耳も休んでいますが、鼻は食べています。夜には「グー、グー」と昼にもまして食べなくてはなりません。(笑い)なぜ、このように二十四時間食べているのですか? 食べないと命にかかわるのです。大変なことになります。
ですから、鼻というのは顔の中心につけておく価値がありますか、ありませんか?(あります)。それで、王のように大切に迎えるために「中心に座ってください」となったわけです。それだけ重要な位置につけるのです。目を閉じて約五分じっとしていても何ともありませんが、鼻をつまんだらどうですか? それだけ重要なので縦的になっているのです。それから口があります、口が。口は横向きになっていますね? そのくせ動く方向は縦的です。(笑い)
なぜそうなっているのですか? 皆それぞれ似ているのです。横的なものは縦的に似ており、縦的なものは横的に似ているのです。鼻は何を象徴していると言いましたか、きのう話したとき?(アダムとエバです)。アダムとエバ、人を象徴しています。
そして鼻は通じていないところがありません。目にも通じ、耳にも通じ、すべてに通じています。だから鼻をつまんでフウッとやれば空気が…。右の穴は男性で、左の穴は女性です。それは神様が息をする穴なのです。何を? 愛の空気を吸うのです。霊界ではそうなっています。空気は何かといえば、愛です、愛。愛を感じ、愛を呼吸する訓練をするために男性・女性、相対がいることを知らなくてはなりません。
ですから、鼻はたとえ縦的になっていても穴は二つです。中のほうでは一つになります。中に入って一つになるくらいなら最初から一つにすればいいのに、なぜ二つになっているのですか? すべての原理がそうなっているのです。皆さん、片方の穴が詰まったら気分がいいですか? それは故障したのと同じです、故障。従って、この鼻が故障することによって全身が故障します。アダム・エバの場合、男性と女性が故障したわけですから、全宇宙が故障したことになるのです。
この鼻で何を連結しますか? 生命をいつも連結します。アダムとエバは、二人が一つになって永遠の愛を中心として生命を連結するのです。同じです。そして耳も工場であり、目も工場であり、口も味を見る工場です。これらは皆情報機関です。臭いをかぎ、味を見て、音を聞いて…。目は天を象徴し、鼻は上とつながっています。さらに口までもつながっています。鼻はそうなのです。鼻は何かというと宇宙そのものです。これは天に通じているのです。全部鼻に連結されているのです。ですから、これはセンターです。すべてのセンターになっているのです。そして、鼻から下にかけて溝があるでしょう? だから万物までも主管できるのです。(一一八\一一二、一二三\一二七)
宇宙の中心はアダムとエバです。そしてこの宇宙を観察するのが神様です。ですから、いちばん初めは神様なのです。それで生まれる際には目が先になるのです。しっかりと目を中心に見てください。目が先につくられるようになっています。そして最後につくられるのは鼻です。
鼻はなぜ突き出ているのですか? 鼻は人の体の先頭にあります。鼻が先頭ですか、腹が先頭ですか? 鼻は道案内です。道を案内するものは天道にのっとり、礼法を身につけていなければなりません。
西洋人はもともと鼻が大きいのでさておき、東洋では小さかった鼻が、背が伸び二十代になって大きくなります。それはどういうことかというと、鼻はアダム・エバ、つまり人間を象徴するため、人間がいちばん最後に完成することを意味するのです。(九四\六五、三九\三三一)
人の顔の中で、鼻はいちばん醜い部分です。洗面する際にも、この鼻のためにいつもかがんでしなければなりません。鼻はなぜこんな形をしているのかというと、顔を洗う度にあいさつして有り難く思えというわけです。(笑い)鼻の形がこうなっているのは、地上に天候の変化があることを知っていたからです。夕立も降れば霧雨も降ることを知っていたのです。もし、鼻が逆さについていたらどうなったと思いますか?(笑い)それら、危険なものが入らないように、事前に防止してあるのです。
皆さん、鼻はなぜこんな形をしているのですか? 上が太くて下が細くなっていたらどうだったでしょうか? 大変なことになります。ホースを突っ込んだように、すべて鼻に入ってしまいます。下のほうが広くなっているのは、汚物があるからです。下のほうが広くなっていないとだめなのです。それは鼻の下に口があるからだと話したでしょう?
のみならず、ここに溝まで掘ってあります。溝のない人、いますか? 汗をかいたら外側に流れるようになっています。そしてこの溝は、汗が流れることを前もって知っていてつくられたのです。(三八\一五四、三八\二五〇、五四\九九)
先生の鼻には特色があります。鼻が高くてとがっています。ユダヤ人の系統はこうなのです。宗教民族は鼻がとがっているものです。ユダヤ人を見てください。とがっているでしょう。宗教的な素質を持った民族です。
鼻が高い民族は頭のよい民族です。精神的な面に秀でているのです。見てみなさい。芸術家や宗教家は皆そういう素質を生まれつき持っています。(九六−二二九)
鼻はアダム・エバを象徴していると言いましたが、アダム・エバはどうしたら幸福になるのでしょうか? 西洋人の鼻を見ると、細くて高い鼻です。東洋人は低くて広い鼻です。また、黒人を見ると、下が広くて短い鼻です。その比率を見ると、たいてい似通っています。考えて見てください。本当かどうか。
それでは、黒人の鼻はなぜ下が広いのでしょうか? 暑いので、空気がたくさん出たり入ったりしなくてはならないからです。また、白人は北極のように寒いところに住むので、冷たい空気がたくさん入ってはいけません。少しずつ長く入って行くのでなければなりません。白人は北極から来た人々です、北極から。東洋はというと、温帯圏内です。黄色人種は、温帯圏内にいるため、このようにずんぐりとした鼻なのです。(笑い)事実です。
このように見るとき、鼻がアダム・エバを象徴しているなら、将来人類の調和をだれが成すのでしょうか。黒人でもなく、白人でもありません。黄色人種なのです。骨相学的にそういう結論になります。そして、白人と黒人が争う代表的な国がどこかというと、アメリカです。だから神様は考えた末にレバレンド・ムーンを送ったのだ、といえるわけです。(拍手)両者の間に入って争いを止めるには根気が必要です。黒人はたいてい怠慢です。なぜですか? 暑いところにいるので、怠慢にならざるをえません。そうですか?(はい)。(笑い)そして白人はまじめです。北極にいる白熊は、じっとしていたら凍え死んでしまいます。だからまじめなのです。事実です。
ところで温帯圏内では、夏の暑いときは怠けて、冬の寒いときにはまじめになります。これで調和するのです。さらに春と秋があります。こうして気候的に見てくると、これから世界を支配できる人は白人でもなく、黒人でもなく、黄色人種圏内から出てくるといえます。私が黄色人種だからこんな話をするのではありません。分かりますか?(笑い)
ですから、世界的な指導者たち、思想的で理想を追求する人々は東洋から現れました。西洋文明の思想は闘争歴史の促進剤でした。歴史上、争いの血をたくさん流した人々は白人です。それを知らなければなりません。北極では動物を捕まえて食べなければならないからです。黒人は主に草食です。木の実を食べて暮らします。人類歴史において、いちばん血を流さなかった人種は黒人です。そして黄色人種は、その中間です。肉も食べれば草食もします。そのようなことは、思想的に知っておいたほうがいいでしょう。(笑い)
それから、この鼻は円形に近いほどいいことを知らなければなりません。そうではないですか? 円満でなければなりません。西洋人の鼻の構造を見てください。彼らよりもふくよかで丸顔の人々がすべての物質を獲得するのです。
そのため、西洋文明は一方向だけに深いわけです。科学や細部的な面に深みがあります。また、黒人は一つの問題について十年、二十年と人生を懸けて考えることを嫌います。ずっと考え続けることができません。そして東洋人は、人生について最も深く考えます。だから道徳問題に関して次元の高い観念を持って生きるのです。分かりますか?(はい)。(一〇七−二九七)
空気を吸うことを知っていたので、鼻の中に窓格子のような毛をつくっておきました。鼻を見ると、中に鼻毛が生えています。パイプが何かでふさがっていたら気分が悪くないですか? 本来、パイプは滑らかで、ふっと吹けば空気がシュッと抜けなければならないのですが、そこに引っかかるものがあったらどれほど気分が悪いでしょうか? 鼻の穴もよけいなものがないほうがいいのに、なぜ鼻毛で複雑にふさいでいるのでしょうか? 穴が奥まで見えるか、一度のぞいて確かめてください。逆さにしてのぞき込んでも見えません。見たことのない人は、この後、食事の前に友達の鼻の中を見てください。先生の言うことが合っているかどうか。鼻毛でふさいであります。毛が全部中心に向かってうまく生えています。
空気の中にほこりがあることを知っていたのです。空気が主に中心部を通るわけですが、ほこりが入ってはいけないので、毛が中心に向かって生えているのです。なぜこんな見た目にもよくないものがあるのかと思いますが、これがなかったら大変です。この毛が一カ所に集まっているので、鼻に入ってくるほこりやごみがそこで止まるようになっています。そして流れ出る鼻水に混ざり、固まって出てくるわけです。研究してこのようにつくったのですか、自然にこうなったのですか? 自然にこうなったと思いますか? 人間が設計したとしても、このようにできはしません。ですから、鼻自体は空気の中にほこりがあることを知っていたでしょうか、知らなかったでしょうか?(知りませんでした)。知らなかったらどうしてこんな完全無欠な原則を持って生まれたのですか? それなら、これを知っていた張本人がいなければならないでしょう? 皆さんはいないと思いますか? 共産党でも、私のこの話にはぐうの音も出ないのです。こうして説明するのが、神様を見せてあげるいちばん簡単な方法です。そうでしょう?(はい)。(三八\一五五、五四\九九、三七\二〇、二四\二〇、三九\一六四、三八\二五〇)
4 口・舌・唇
人の目は神様を象徴し、鼻は人を象徴し、口は万物を象徴します。口は食べ物を食べるので万物を象徴するのです。口は万物を象徴します。口は多くの食べ物を食べるようになっています。この口を通して、心と体の関係が成されるのです。口は何がいちばん好きですか? 万物を摂取することです。そのあらゆる存在の形態と連結することです。また、すべての言葉はこの口を通して出てくるのです。(三九\一六七、三八\二五三、一〇七\二九三)
歯は、食べることを知った上でつくられましたね? さらに、話すことを知った上でつくられたものです。舌が言葉を話すには、唇とうまく調和しなければならないでしょう? 唇が板で作ったようなものだったら、どうやって言葉を話しますか? 私が話すのを見てください。私がこのように話すのを見ると、いつの間に考えてあるのか、唇とうまく調子を合わせてすらすら言葉が出てきます。なんとすごいことでしょうか? こうして見ると、すべてを知っていたことが分かるのです。(三九−三三二)
口の中にある舌も実に不思議なものではないですか? 舌は七十年、八十年、伸びたり縮んだりしても、何の故障もしません。本当にうまくつくられているのです。ご飯を食べるのを見ても、言葉を話すのを見ても実に神秘的です。口の中で伸び縮みしながら、しかも裁断機のような歯の間を出たり入ったりしながら衝突もせずに、なんとも見事に拍子を合わせています。調和の極致といえます。
もし、舌が手の指のようなことをするとしたらどうなるでしょうか? 大変なことになります。言葉で説明できないほど複雑な作用をするにもかかわらず、絶妙の動きで滞りなくご飯を食べ、話しをするのを見てください。これは天地の調和を成す姿です。本当に神秘的です。皆さん、舌に感謝しなくてはなりません。舌がなければどうやってご飯を食べ、話をしますか? このように、これらのすべてが何をしなければならないかを、生まれるときからすでに、何者かが知っていたのです。(三八\一五五、三八\二五〇)
唇はなんと不思議なものでしょうか? 唇と歯は調和していますか、どうですか?(調和しています)。しかし、唇と歯はどのくらい離れていますか? わずか数ミリしか離れていません。しかも、舌は歯と歯の間で危険ではないでしょうか? それにもかかわらず、舌は上下の歯とうまく三数の調和を成しているのです。歯の間を出入りしながら、まかり間違えば噛まれてしまうでしょうに…。がぶっと噛んだらおしまいです。情け容赦なく噛み切られてしまいます。こんな危険なことはありません。しかし、不安を感じますか?(感じません)。食べるときはひたすら食べることに夢中で、不安など感じないのです。
口もゴムの中の最高のゴムです。広げるときは思いきり大きく広げ、すぼめるときはとても小さくできます。全く自由自在です。皮よりも生ゴムよりも優れています。何ら力むことなく言葉を話せるのを見ても、本当に不思議です。電子オルガンや、人工頭脳か何かを持った機械でも、これほど正確に拍子を合わせられると思いますか? 口のようにはいかないのです。舌は思いのままに動いてくれます。食べるときや話すときに、一つの垣根の中で唇と歯と舌がかくも見事に拍子を合わせる様子は実に神秘的です。(三八\二五〇、三九\一六四、一五九\二七一)
唇は、上唇は薄く、下唇は厚くなっています。長さはどうですか? 上唇が長いですか、下唇が長いですか?(上唇が長いです)。上唇ですか。どうしてそうなっているのですか? ここに線がこうなっているので長く見えるのです。すべて調和を成しています。分かりますか? 唇を見ると、上唇のほうが長いと思うでしょう? 実際は短いのに。なぜかというと、下唇が厚いのでバランスを取るには長めでなくてはならないからです。そうでなければ、下唇に押し上げられてもっとバランスが悪くなるのです。相手のことを考えてそのようになっているのです。分かりますか?(一一〇−八八)
歯は何個ありますか?(三十二個です)。なぜ三十二個なのでしょうか。それは、四掛ける八で三十二だからです。四は四位基台を意味し、八はこの世の中を意味し、さらに八は再出発を意味しています。これはあらゆる万物を証しすることができ、消化できることを意味しています。四位基台の二倍の数が調和したものですから、立体的だといえます。四数の立体性を意味するのです。人間が森羅万象のすべての万物に接することができるようになるのはこのためなのです。それで、歯並びのいい人は乞食になったり、ひどく貧しい暮らしをすることがありません。なぜですか? 自然は、どうせ人間に食べられるなら美しい歯でかじられたいと思うのであって、醜い歯でかじられたいとは思いません。それは理論的です。自然の理にかなっているのです。
だから自然も美しい人を好むのです。これらのことから、人間は皆漠然と生まれたわけではなく、全宇宙の調和を成して生まれたのです。したがって、全部四位基台になります。鼻も一から四位基台を成します。二に向かって、こうして洞窟がここで分かれて二つになるのです。これが鼻です、鼻。(笑い)これは目です。目には必ず焦点があります。視神経の焦点が合わなければなりません。これは四位基台です。そして耳は四方、全体に通じます。私たちの耳は全体と四方に通じるのです。
人間は、顔かたちを見れると、どれも四位基台を並べたようなものです。口もそうです。口も四位基台です。全部そうなのです。ここがこうなっているのも四位基台です。四位基台を分けた一つです。円形も四位基台の変形です。全部、その変形なのです。(九四\六五、一一八\一二二)
5 耳
耳はどうしてこのように格好よくできていますか? 耳ができる以前に何者かが、空気があることを知っていたのです。さらに、鼻を見てください。鼻は何のためにこうなっているのですか? 皆さん、神様がいるかいないかということは、目・鼻・耳を見れば分かります。神様はいない、という者は目玉を抜いて、耳をふさぎ、鼻をそぎ落としてみなさい。(三八−一五四)
耳が後ろ向きついていたらどうなったことでしょうか? すでに前方に向かって話し、前方から聞くことを知っていたのです。そして、大きな山脈と小さな山脈で和音するようにし、さらに事故が起こることを予想し、防止するようにつくられているのです。どうでしょう、どれもこれも、知らないのにこうなったと思いますか?(五四−九九)
耳を一度見てください。耳を見ると、あらゆる音波が耳の神経に入って連結されるようになっています。もとの音は一つですが、皆さん、音叉を知っているでしょう? 音叉を一つ叩くとの同じです。「コーン」と鳴らすと、横にあるものも「コーン」と鳴ります。
耳の溝はこのようになっていますが、この溝がなかったらどうでしょうか? 前の方からくる音が素通りしたらどうなるでしょうか。気分が悪いことでしょう。遠くで話す声を聞くことができません。また、耳は前から来る音を聞くようにできています。なぜ? 相手と向かい合って話をするからです。耳元に口を近づけて話をする人はいません。耳の溝がこのようにつくられているのは、前方から来る音を聞くことを知っていたからです。(三八\二四八、九六\二六)
耳の特徴は、よい音を聞こうとすることです。悪い音を聞こうとはしません。悪い音を聞こうとするものであるなら、音楽干渉などどうしてするのですか? よい音を聞こうとするからなのです。よい音の中でも最高のよい音を聞こうとするのです。
ですから、見るのも最高のものを見て、聞くのも最高の音を聞き、臭いをかぐのも最高の臭いをかぎ、触るのも最高によいものを触ろうとします。では、最高によいものとは何ですか? 愛です。そして愛の主人公、愛の大王様はだれですか? 天地を創造された神様です。(三七−二二)
6 髪
髪の毛は木と同じです。髪の毛を指でこすってみると、どちらが根元でどちらが先の方か分かります。木の葉のようになっているからです。これらのことから、どれも皆、体を保護するために一つひとつ真心込めてつくられていることがわかります。
つまり、百科辞典で研究して決定し、設計し、百パーセントの価値を持った傑作としてつくられているのです。これが人間です。これでも人間が独りでに自然発生したと思いますか? (三七−二〇)
神様は、私たちの体を満点に満点を増し加えることのできる自然な体につくりました。髪の毛をよく見ると、木のようになっています。手で髪の毛をこすってみると、どちらが根元でとどちらが反対側か分かるようになっています。先のほうから根元のほうに動かすときにざらざらした感触があります。髪の毛はざらざらしているので、物に触れるとくっつくわけです。(三八−一五五)
最近では髪の毛一本で人の性格から職業まで分析できるのと同じく、その人の背後の関係をすべて分析し、置かれている環境も分析できるのです。このように科学的な時代になって詳しく探ってみると、私たちの体の一部分、肢体というものは自分だけのものではありません。皆連結されているのです。(五九−一七五)
7 額と顔
なぜ額は平たく横に広がっているのか考えてみましょう。それは天が広いことを象徴しているのです。神様は広いということです。宇宙の中心は何ですか? 神様です。(九六\六三、三九\一六七)
8 ひげ
男性にはなぜひげがあるのでしょうか。女性にはないのになぜ男性にはひげがあるのでしょうか。このひげも保護するために必要なのです。男性は仕事をするので汗をたくさんかきます。それでその汗が広がらないでうまく流れるように、防御体としてひげが生えるのです。(三八−二五〇)
9 首
人間世界は霊界と同じです。霊界が共にあるのです。首から上は霊界に該当します。なぜ首は細くなっているのですか? 首は情報機関なのです、情報機関。ですから、霊界から人間世界の臭いをかぎ、声を聞き、眺め、味わうのです。人間が秩序の組織圏内にいることを否定することはできません。
そしてこれが縦的・横的になっていて、次に立体が展開するのでもう一つ必要になります。これを一つの球形として想像するのです。すると何になるかというと、縦、横、前、後になります。これを統一教会では、前後、左右、上下の関係といいます。それを知らなければなりません。宇宙には本来、そのような秩序が絶対必要です。(一二三−一二九)
頭(首)がこのように回るようになっているのはなぜですか? 耳のためでもなく、目のためでもありません。それは宇宙が神様のために回ることを象徴的に見せているのです。(五四−一八)
10 手・指・爪
統一教会では、神様を「二性性相の主体」と表現します。皆さん、「ナンバーワン」というとき、親指をこうして立てるでしょう? 親指でなく人差し指を立てる人、いますか? いないでしょう。親指は何を意味しますか? 神様です。そして、親指には間接が二つあります。それは二性性相であられる神様を象徴しているのです。神様は男性と女性の二つの性稟を持っているのです。
皆さん、子供が生まれるとき、必ず手をにぎった状態で生まれてくるのはなぜですか? 天地の理に従っているからです。手を見ると親指は二つの間接からなり、それは二性性相の神様を象徴し、残りの四本の指は四季を意味し、十二の月を象徴しています。そして、宇宙の中に神様が隠れていることを象徴しているのです。(三九\一六七、三九\二五二)
目という存在についていうときは、目自体だけについていうのではありません。全部連結されているのです。「手」といえば、その手自体も連結された一つの部分として存在するのです。手が「私はやりたいようにやる」と言うとき、やりたいようにやるという手一つを中心として単独的な立場ではありません。連帯的な立場で、共同的な活動を目標とした内容で手が動くのです。
手がこのように行くとしたら、手だけが行くのではありません。全体が行くのです。全細胞が行き、心が行き、すべてがそこに同じ歩調をとる中で、手がその全体を代表した立場で活動するのです。ところが、もし、手はこう行くのに、心と目がほかの所に行くとしたら何にもなりません。さらに、目が見るとしても、心が伴わなければ何になりますか? 心が先に行かなければならないのです。その次に体が続くのです。(一二九−四四)
皆さん、手の爪がどれほど大切か分かりますか? 手の爪がなかったらどうやって物をつかみますか? 爪がどんなに大切かを知ろうと思うなら、一度剥いでみてください。どんなに大切なものか分かるはずです。そして手のひらと手の甲を見てください。皮膚が違います。その一つひとつをよく見ると、どうしてこんなにも見事に配置、配列され、つくられているか、見れば見るほど神秘的です。それ以上のものは想像もつかないほどうまくできているのです。それ自体が神秘なのです。(三七−二一)
11 五感と六感
何かによって作られた品物と持ち主は、どのように関係を結ぶことができますか? それは本然の真の愛によって相互関係を結ぶのです。本来の主人が愛の主人になるとき、その主人に対して全被造物は、何千年、何億年経っても反対できないのです。ついて行くようになっています。
全被造物はこの愛を中心として因縁を結びます。その被造物を見ると、植物世界や動物世界、そして鉱物があり、このすべては喜びを感じる感覚と性質を持っています。ですから、これらは皆、本然の真の愛による関係を結ぶことのできる本質を持っているのです。
被造世界の第一の主人である人間には五感があります。五感とは何ですか? 目、鼻、口、耳、皮膚、このように五感があるわけですが、五感だけではありません。六感がなければならないし、七感がなければならないことが知られていません。こんな言葉は初めてでしょう? 六感という言葉はありますね、六感。しかし、七感を持たなければ神様が分かりません。堕落によって五感だけになってしまったので、六感と七感を加えなければならないのです。それがうまく行かないので問題です。(一六三−四〇)
人間のいちばん大切な部分はどこかというと頭であり、体にはその次に大切な部分があります。心臓です。それは、頭が天を象徴していることを意味します。思考は天を象徴し、体にある心臓は地の中心を象徴しています。そしてさらに、体と心の二重構造になっています。体は自然界を反映したものであり、心は霊界を反映したものです。それで私たちは、五感だけでなく、六感、七感があると見ることができるのです。(一〇七−二九四)
私たちは五感を持っています。私たちの五感は私たちだけに関係しているのではありません。私たちが持っているあらゆる感覚器官を通し、より次元の高い神様の愛が宿るのです。ですから私たちは、その五感を通して神様の愛と横的な面において、また縦的な面において必ず関係を結ばなければならないのです。
このような観点から、五感を中心として生きている私たちのすべては、五感を通して自分だけ関係を結ぶようにつくられているのではなく、主体であられる神様と関係を結ぶようになっています。これは紛れもない事実です。従って、私たちが感じるあらゆる直感、あるいは直観までも、自分を中心としたものでなく、相対的なその理念を引継いで関係を結び、互いが幸福になる内的因縁を持って存在していることを否定できないのです。(五九−二九五)
12 細胞
私たち人間は、生理的な立場から見ても高等動物だといわれます。四百兆に近い細胞からなり、いかなるものよりも複雑で緻密な構造を持ち、同時に全体が融合して統一的な機能の下に一つの目的、一つの方向性を備え、和合しながら調和を成して生きているのです。(一八八−二五〇)
細胞は生命体のために、人体なら人体の目的に貢献する要素を残してはじめて細胞としての作用をなしたといえるのであり、それがなければだめです。細胞が生成されるには、すでに構成された細胞が第三の細胞を形成できるように何かを残してやってはじめて可能なのです。そうでなければ、皆吹っ飛んでしまうのです。(三四−二四五)
そこで、皆さんが知っておくべきことは、自分の体と心を一つにするには神様の愛の道をたどって行くしかない、ということです。自分の心と体が一つになっていないのに、幸せになれますか? 神様の愛だけが私たちの体と心を完全に一つにできるのです。
私たちの体は数多くの細胞からなっていますが、五感のあらゆる細胞は一つの骨髄に集結し、焦点を合わせることができるのは、唯一愛の力しかないことを知らなければなりません。その愛の力はいかなる力よりも刺激的です。ですから、皆が愛の道に従って行くようになっています。そして霊と肉、霊人体と肉体が神様の愛と百パーセント和合して一つになったら、どれほど強い力になりますか?
心の細胞と体の細胞が愛によって完全に一つになれば、共鳴するようになります。共鳴、共鳴体を知っていますね? 周波数が同じなら、こうして叩くともう一方でも同じ音が出ます。本来、共鳴体になっているわけです。ところが、それが故障してしまったのです。それを元に戻す方法は何でしょうか? お金でもなく、権力でもなく、知識でもありません。ただ神様の愛を取り戻す道以外にはないのです。(一四二−一一七)
13 その他
人間の体も心臓を中心として肢体全体が動き、生命を維持しています。私たちの心について見ると、心にも中心があります。その中心は人間の相互関係において絶対的なものです。(二九−一二四)
皆さん、だれにでも腹の中には内臓があります。そして、内臓には肥料が入っています。しかし、内臓の中に入っている肥料は必要ないからといって、内臓のある部分だけ切り捨て、自分の必要な部分だけ残すということができますか? すべて必要なのです。そこには肥料となるものまで入っています。(四四−三四〇)
皆さんは呼吸をしていますが、その回数は数えていますか? 胸の中では、ハンマーで叩くように鼓動していますが、その太鼓の音が聞こえますか? ハエがちょっと髪の毛をかすめて行っても分かるのに、ハンマーで叩くような胸の鼓動は感じられません。おかしくないですか? ハエがちょっとかすめて行っても分かるのに、ハンマーで心臓を叩く音は気づかないことを考えてみてください。実際に聴診器を当ててみれば音がします。鼓動の刺激を見ると、その力はハエがかすめて行くのより何十倍、何百倍の強さです。それが見事に調和しているのです。
もし、その脈拍の音をいちいち数えていたら、皆、神経がおかしくなってしまうでしょう。一、二、三、四、…。こうして数えてみてください。数えられますか? 一日、あるいは一週間、十日、一カ月、心臓が動いていることを考えたことがありますか? もし、それを相対的に見たとしたら、大変なことになります。
「おや! これが今日はこうだったのが、あしたは少しこのようになるのではないか」と考えようものなら死んでしまうのです。ですから、知らないほうがいいのです。それを相対的に見たら大変なことになります。
皆さん、私たちの体にある神経器官のようなものは見えないのが幸いであって、その芸術的な神経が作用するのを見ながら生活することを考えてみてください。これは機械に例えるなら、最高に精密な機械です。数億個の部品があるのに、それが故障もしないと考えることができますか? このように見るとき、それらが目に見えないのは幸いなことなのです。心臓が息を切らして走るのが分かったら大騒ぎになるのです。
では、どうしてそれを感じないのですか? あまりにも近いからです。自分が存続する生命感覚の外にあるのではなく内にあるからです。映画のスクリーンのようなものに反射すれば映るのですが、その生命感覚の壁の向こうに行かなければ感じることができないのです。
神様もそれと同じです。神様もあまりに近いところにおられるために見えないのです。目もあまりに近いので見えません。だから、近すぎても見えないし、遠すぎても見えないでしょう? 世の中のすべてはそうなっています。ですから、神様とともに愛を感じた人にとって、神様がいるいないということは問題にならないのです。違いますか? そのような世界があるのです。(五九−三一六)
私たちは、神経器官を中心とすれば、もちろん頭が中心になっています。そうなっていますね? 神経器官は見ることができますか? また、私たちの血管器官を中心とすれば、心臓が中心になっています。さて、何が中心かというわけです。(心です)。体を中心としての話です。心は後にしましょう。(笑い)神経器官と血管器官が調和しなければなりません。血管器官の行く所には神経器官も行かなければならないし、神経器官の行く所には血管器官も行かなければならないのです。自然とそれは共同運命体になるのです。もし、血液、血管器官が通らなければ神経器官も後退することになり、神経器官が通らなければ血管器官も後退することになります。そうでしょう?
このように見るとき、私たちの体も二つのものがあります。二性性相が調和を成していることが分かります。それで、この二つの器官はどこを中心として連結されますか? 何を中心として? それは私たちの生命を中心として連結されるのです。
さて、頭の細胞を流れている血が、足の裏の細胞を流れている血に「汚いなあ。頭のほうに来るな」と言うことができますか? そんな境界線がありますか? 頭のほうに上って来るな、という境界線がありますか?(いいえ)。そのような意味で、黒人も白人も黄色人種も区別はないのです。見てみなさい。一人の人の皮膚でも、ここは白くて、ここは黄色くて、色が違うでしょう?(九一−二八〇)
本来、私たちの体内には白血球があり、入ってくる菌と戦っているでしょう?攻撃の戦いの一方で、保護の戦いをするのです。攻撃戦と防御戦でバランスのとれた一線上で生きているのが生命です。その生命が戦っているのです。(一四五−一九九)
五 笑いと調和
五 笑いと調和
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笑いというものは実に面白いものです。静かに笑うのも笑いのうちです。笑えばすべてが丸くなります。おじいさんが大笑いするとき、「はっはっは」と高まらずに「ひっひっひ」と下がっていきます。なぜだんだん下がるのですか? おかしくないですか? 丸くなるためです。ひやりと笑うときは口が少ししか動きませんが、大きく笑うときは口がこのように丸くなるのです。ですから、丸く笑う人に悪い人はいません。今、観相学の話をしているのではありません。でも、面白いでしょう?(はい)。(一七三・二四二)皆さん、笑うときに目と鼻と別々に笑いますか、一緒に笑いますか?(一緒に笑います)。目が笑い、鼻が笑うのに口がこんなふうになっている人は、食べ物に困ることになります。また、鼻が笑わないでこわばっている人は、子宝に恵まれません。さらに、笑うことは笑うのですが、このように目が笑っていない人は情が薄い人です。分かりますか?皆さん、このようににっこりと、大きく笑わなければなりません。(九六・二三二)
それでは、笑うとき一方の目だけ笑って、もう一方の目は「笑わない」と言えますか? 神様は二性性相ですね? では、そのうちプラス性相は笑うのに、マイナス性相はふてくされていることができますか?(笑い)できないでしょう。プラス性相が笑えば、マイナス性相は自動的です。「さあ、プラス性相が笑うぞ。よーい、ドン! マイナス性相笑いスタート」といった機械装置か何かを用いなくても…。一方が「う」と言えば、一緒に「ふふふ」と笑うようになっているのです。そうでしょう?(はい)(七五・二六)
第三章 青少年期と成和
第三章 青少年期と成和
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第一節 青少年期一 青少年期は春の季節
春は誰もが好きな季節です。冬と春は全然違う季節です。春と夏と秋は、そのまま自然に連結されるのですが、冬と春の間には格段の差があります。それゆえ、私たちの心と生活に大きな変化をもたらすときが、つまり冬と春が交差するときであると考えるのです。
春になると、いろいろな草木が新芽を吹き出すのが見られます。それはすなわち、万物に変化をもたらすときが春だということです。それだけでなく、季節が移り変わるにつれて移動する渡り鳥の群れも新しくたくさん出てくるのが見られます。また、春には花の咲くのが見られます。
それゆえ、春の季節はすべての万物が自分のいちばんよいところを自慢する季節ではないか、と考えるようになります。私たち人間もその環境に従ってこの春という季節を心の中深く感じてみたいという心情を持っているのです。
この春をそのように考えるとき、ただ「春が来た。春はよい季節である」という考えよりは、この良い季節を迎えるため、その背後には普通の季節と違う受難の過程を経ていなかったかということを私たちは考えるようになるのです。
それと同様に私たちは、一年を中心にして四季が変わる度ごとに変化をもたらすことを見るようになります。それでは自然にだけそのような季節の変化があるのかというと、そうではありません。この四季と同じことを、私たちは一日の中でも見ることができます。朝は春に当たり、昼は夏を象徴し、夕方は秋を象徴するのです。また夜は冬を象徴するものと見ることができます。
朝が好きか夕方が好きかというとき、大多数の人々は朝が好きだと言います。なぜですか? 闇を象徴する夜がすべてを覆い隠していたのが、新しい朝を迎えることのできる変化の過程を経てきたので、朝というのが私たちにとってもっと貴く感じ刺激的に感じるようになるのです。さまざまな鳥だとか人々は、やはり朝に希望的であり、朝に喜ぶことのできる姿で現れるとき、その朝の気分がその一人の人の一日の生活全体を左右することも私たちは知っています。それゆえ、朝に気分がよければこそ、その日の気分がよいのです。朝は休んで起きるので、自動的に気分が良くなっているのです。
これと同じように、一日一日にも春の季節に該当するときがあるように、私たち人間の人生をとってみても、春の季節と同じようなときがあることを私たちは知っています。皆さんが知っているように、思春期の時期、青少年の時期はそれこそ人生における春の季節に該当するのです。その次に青年時代、壮年時代、老年時代があります。春夏秋冬と同様の道を歩いているのです。(六六−一八一)
二 青少年たちの性向
二 青少年たちの性向
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皆さんのような少年時代は実によいときです。なぜよいですか? 皆さんくらいのときは、何でも自慢したがるときだからです。この中で、中学生たちは手を挙げてみなさい。下ろしなさい。このくらいのときがいちばん自慢したがるときです。自分の家に少しだけよいことがあっても自慢したがるのです。大人たちは、よいことがあっても自慢すれば噂になりそうだと心配するのですが、少年少女のときには家の中でよいことがあれば、電車でとかバスでとか、どこででも自慢するのが好きなのです。これと同じく、少年少女の時代には自慢することが好きな時期で、自分に自慢できることがたくさんあることを願うときです。このような少年少女時代がなぜよいのかといえば、自分の心にうれしいことがあればそれをそのまま表し、天下に知らせたい心があるのでよいというのです。自分によいことを自慢しようとする、その心は良いことがあればどんなことでも自分のものにしたがる吸収力が強いということを意味します。分かりますか?(三三−二七四)
今日、青少年たちにはすべてのことを好きになれる心の土台があります。しかし、よいものは考え方にかかっています。本当によいものは永遠でなければならないのです。自分を主としてよいことは絶対的ではありません。(三三−二八九)
幼い少年少女たちも、彼らの考えは誰でも一番になることです。皆さんも一番になりたいでしょう? そうですか、そうでないですか? 誰でも「私が世界で第一になりたい」ここにいる学生たちはそのような考えを持っていますか? 持っていますか、持っていませんか?(持っています)。持っていますか? お嬢さんたちも持っているでしょう?(はい)。
小学校しか出ていない女性たちも、あるいは幼稚園にも行かない幼い年頃の少女の心にも、「女性の中では、私が世界で一等になりたい」という心が内在しているのです。そのような気持ちがない人はいないでしょう。そうでしょう? 男性も同様です。たとえ学校を出ず、ぐうたらの中のいちばんのぐうたら者であるとしても、その心の世界で最高になりたがる心は皆あるのです。そうでしょう?(はい)。
それでは、その最高の頂上を目指して登れば、真なる人が現れるでしょうか、現れないでしょうか? 数多くの人たちが、自分なりに最高の頂上を目指して登っています。ある人はこのように登り、ある人はあのように登って行きます。その頂上を目指しながら登っていくのです。いずれにせよ、人類はその最高の頂上を真なる一つの願いとして、そこに到達するために競争をしているのです。そこに到達しようという欲望を持っていることは間違いありません。(三九−二九二)
皆さん、本来の人間の欲望はそうでしょう? 人間は世界をすべて自分のものにしたいと思うのです。子供も全部そうです。
人は生まれながらにして皆誰もが世界的な人になりたがります。「世界は私のものだ」といいながら、世界でいちばん高い人になりたがるのです。一番になりたいという心は皆持っているのです。人間がこのような心を持って生まれたのに、そうなれるひとときの時間も持つことができず、願いを一度も果たすことができず、苦しく生きるようにする神様ならば、それは本当の神様でしょうか? 悪い親でもそのくらい耐えれば、一度は願いをかなえてあげるでしょうに…。違いますか?
それでは、この世界を自分のものにすることができる道はどんな道ですか? 簡単です。世界をつくられたかたの息子・娘になればよいのです。ほかのことではありません。それを得るために、世界と闘ってなるのではありません。簡単です。
神様の息子・娘になれば、父のものは自分のものですから、神様のものが自分のものとなるのです。ここにいる学生たち、父の家は自分の家ですね? 父の家は自分の家なのです。「この家は私たちの家ではなく、お父さんの家です」という子供がいますか? 鼻がつぶれて、足はびっこをひき、はって歩くような子供でも、これは誰の家かと尋ねるとき、自分の父の家であると言いますか? どうしようもない息子だとしても、誰の家かと尋ねれば、自分たちの家だと答えます。これを見るとき、世界で一番になる道があることにはあります。皆が欲望を満足させられるようになっているのです。神様の息子・娘となって、神様を父として立ててごらんなさい。どれほど誇らしいでしょうか? どれほどに?(四八−七六)
若者たちの心は、欲望でいっぱいです。白頭山も自分のポケットに寄っていったと自慢し、太平洋圏も一杯の水みたいに飲んでやりたいと思うのです。皆さんのような青年時代には、それくらいの気概を持つべきです。(一五一−六八)
三 青少年が持つべき姿勢
三 青少年が持つべき姿勢
P118
1 大きな夢を持て青少年ならば、青少年の夢があるのです。希望があるのです。私たちの夢は、右手で神様をつかみ、左手で世界をつかんで生きていくことです。それは素晴らしいことです。(八七−二一)
若い人たちが夢を持つのに、人間だけの夢を持ってはいけません。人間は移り変わってゆくものです。思想を通じて移り変わっていくようになっているのです。(八七−一一)
皆さんは、大きな夢を持たなくてはなりません。現実は困難ですが、未来への夢を持って、現実を未来のことと思って生きている人は、天の人になれます。神様が記憶する人になるということを知らなければなりません。
先生が話をするので、いいことはいいでしょう?(はい)。これは今だけで終わるものではなく、未来に通じる喜びだということを知るべきです。それを知らなければ大変なことになります。
では、楽な仕事をしながら、将来を夢見るのですか、困難で複雑な仕事をしながら将来を夢見るのですか? どちらが価値がありますか?(困難で複雑な…)。それはなぜでしょうか? 結果がもっとよく、もっと幸福なのです。そういう人たちは、さぼったりするでしょうか? 粘り強く十年でも二十年でも行くでしょうか、上がったり下がったり、気まぐれに行くでしょうか? どのように行くでしょうか?(粘り強く…)。知っていることは知っていますね。(九八−二九一)
2 自分の適性を早期発見せよ
最も恐ろしいのは何ですか? 好きですることです。神様も、好きでするところには占領されてしまうのです。聖書を見れば、「常に喜びなさい」という聖句がありますが、すべてそれについて語った言葉なのです。神様を占領したいでしょう?(はい!)。では、神様を占領する方法が分かりましたか、分かりませんか?(分かりました)。
世界的に有名な人になるにはどうしたらいいでしょうか? 自分は世界的に有名になるのだと、決めつけておいて欲を張るような人は、絶対にそうなれません。私はそう考えます。万一、そんな人がそのようになったとすれば、死んでしまうでしょう。福を受けることができません。一つの責任を持ったならば、幼いころから好きでするのです。夜も、昼も…。十代、二十代、三十代、五十代、一生の間、ひたすら好きでやり続けた人は、時間をそれだけ投入したから成功するというのです。そのようになれば、すべてのことが成されるのです。
それゆえ皆さんは、幼いときから自分が好きなことを早く選択して、一生の間、それを好きで努力し続ければ、世界的人物になれるということです。それで文先生は今日まで統一教会の責任者となり、創始者となったのは何でしょうか? 神様のみ旨、神様の心情においては、誰よりもそれを愛し、幼いころから今に至るまで、荒波にもまれようが死の峠を越えようが、変わることなく愛しながら進んでみると、今日の文先生となっていたのです。ほかには何もありません。倒れて疲れて、困難で、こんなことは夢にも考えられませんでした。死ぬことがあっても、考える余地がなかったのです。仕方がありませんでした。ですから、働けば休みなく発展するのですね。
いくら熱帯地方に行こうが私は好きなのだから…。汗を流してもよく、腹がすっかり濡れても良く…。それゆえ、「先生は鉄筋みたいな男だ」こんな言葉をよく聞きました。これは皆間違っています。私は、手をつけた仕事は本当に喜んでやるのです。誰よりも好きでやるのです。それが先立つだけであって、ほかのことはありません。
それゆえ、先生が何かするのを見れば、そのために生まれてきた人のように、他のことはすべて…。統一教会の先生であるだけで、何もありません。農村で何か始めるにしても、そのために生まれてきた人のようにやるのです。ですから、若い人たちも、私にはかないません。精神姿勢がこうですから、かなわないのです。理論的に先を行っています。仕事をするとき、「早く終わって帰ろう」こうではありません。「ああ、終わらなければいいのに」と喜びながら仕事すれば、疲れるでしょうか? 考えてごらんなさい。
もう皆さんは成功の秘訣が分かりましたね。新しい分野が分かったのです。皆さんの顔を見れば、喜んでいる顔なのか、仕方なしにやる顔なのか、直ちに分かります。喜んでしたことは、どんなことでも忘れません。原則がそうであるか、そうでないか、皆さん、先生の言葉が正しいか、そうでないか、だれがやってみてごらんなさい。やってみなさいというのです。(七六−二七三)
3 計画を立てよ
自分の一生は一度しかありません。なんとなく出発して、行き当たりばったり式に、どうにかこうにか生きるようになっていません。計画を立てなければなりません。(二四−八六)
青少年期は、人生において最も貴い時代です。目的を立てる決心ができるのが、この時代です。それゆえ、青少年期は、人生の分岐点です。それで十八歳を前後として一生の計画を立てなくてはなりません。
この時期は、人生における交差路のような時期です。この交差路でしっかりと悟って、どのように行くのかが重要です。最も重要なことは、少年期、壮年期、老年期を一貫して無難に行くことができるのか、ということです。(二一−八二)
皆さんが一つ知らなければならないことは、皆さんが皆さんの一生のプログラムを作りなさいということです。先生の一生を見てみると、十五歳から三十歳が蘇生期、三十歳から四十歳が長成期、四十五歳から六十歳が完成期なのです。三段階計画をしてきました。ですから、三十まではあらゆる準備をしました。万全の準備をしたのです。それで準備ができたらぶつかれ、全体に影響を及ぼすようにぶつかれ、国にぶつかり、あらゆる影響を受けるように全体にぶつかっていけというのです。それで、三十以降にはぶつかったのです。闘ったのです。(一〇三−五九)
四 青少年に必要なこと
四 青少年に必要なこと
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成功するにおいても、人それぞれの素質によって違います。一年で成功する人もあれば、三年かかって成功する人もいます。人によっては、素質があって一年で成功する人がいるかと思えば、素質が無くて他の人の二倍、三倍の努力をしてはじめて成功する人もいます。それゆえ、残された十年間にやり遂げるべき仕事を、三十年かかったとしてもやり遂げるという信念を持たなければなりません。ですから、統一教会員においても、信念を強固にする必要があります。先生は、そのために十八歳から冒険を始めて今日までやってきました。信念が最も重要な問題だということです。分かりますか? これを強化するためには、時によっては高い山にも登ったり、谷間へも訪ねて行かなければなりません。また、伝道をしに行きたいですか、行きたくないですか? 行きたければ行き、嫌ならやめなさい。
その次に、若い人には何が必要でしょうか? 意欲です。意欲も必要です。ところで、やってみたいという心にも、四百余段の階段があります。しかしながら、本当にやりたいというときには何段階かというと、一段階なのです。皆さん、本当にやりたいですか?(はい)。どれくらいやりたいですか? 腕が片方切られても、脚がばきっと切られてもやりますか? その次に左手、左足が切られても、右手、右足が皆切られても問題ないと言いつつ、それを忘れて喜ぶことができますか? 首を切られてもできる仕事があるならば、やりますか、やらないですか?(やります)。皆さんは、今、ビクビクしながらもやると言っているのでしょう?(笑い)
言うのはやさしいです。口では「やります」と直ちに言いますが、行動は万事に引っかかるのです。それゆえ、いちばん問題となるのは、自分の手足を投入して、後には生命まで投入することのできる姿勢ができているかということです。
私は昔、友達につき合って山に行くときも、朝早くからご飯を食べるやいなや、「おい! きょう山に登ろう」と言いました。そして行ってもびりにはなるまいと思いました。先生はそうなのです。昔、学生のときから山に行くというときには、おなかが痛くて体に支障があるとしても、完全武装して行きます。行って登れそうもないときは、祈祷しつつ登ります。「神様! 登ります」こうした条件を立てて登って行くのです。ただ人について登っていくのは大嫌いです。自分のなせる努力のすべてを尽くしておいて、神様に祈祷するべきです。「私はこんな決意をして、こんな意欲を持った誰だれです」と言いながらです。先頭に立てないときは、こうした条件でも立てなければなりません。このような意欲が必要だというのです。もしも百雲台に登るとしたら、頂上まで猪でもぶら下げて登るくらいの意欲がなければなりません。
意欲の中にはあらゆる探求欲が介在しています。「漢江にはどんな鳥が住んでいるのか? ああ、夏になって暑いけれども、あの山のてっぺんはどれほど涼しいだろうか? どれほど涼しいか登って行って一度風に当たってみよう。やあ、そこからソウルの都を見たらどうだろうか?」このような意欲、こういう心にしみる意欲が豊富であればあるほど、与えられるすべての環境を克服するのは問題ではありません。
先生は、幼いころから山を見れば、あの山の名前は何だろう? あの山には何があるのだろう?」と考えて、そう考えれば必ず行ってみました。また、洞内班内の内外二十里くらいのことには精通していました。池があれば、その池のどこに穴があって、どこに何があるということまで、皆知っていました。大きなライギョを捕まえようとして逃がしたときには、大変でしたが池の水をすべて汲み出すまでして捕まえてしまいました。
また、ある池に大きなフナが一匹だけいましたが、そいつを捕まえようと釣り糸を垂らしておきました。ところが、肝心なやつは捕まらず、雑魚ばかりがとても多くて、しょっちゅう食いついてきます。それで、小さなやつが捕まれば「お前は行け、こいつめ」と逃がしては再び大きいやつを捕まえようとしました。そうして、とうとうそのフナを捕らえたときの気持ちというのは、実感してみなければ分かりません。実際、そいつを捕まえるまで、苦労はしましたが、捕まえたときの気分は、そんなことのすべてを忘れさせてくれます。皆さんもそういう快感を感じようとすれば、それなりの何かがなければなりません。
ところで、最近の若者たちを見れば、人の顔色を読むことにだけは長けており、だれかが「一緒に行くか?」と言えば、本当は嫌なのに「うん、行こう」と言うのです。男たるものがこれでは、小心者の役目しかできません。ひたすら人の後にくっつき回りながら、やっかい者になるのです。どうしようもありません。それゆえ、意欲は人間の生命です。
意欲を成し遂げるためには、冒険が必要です。短期間に成功しようとすれば、それだけ大きな冒険をしなければなりません。それは平面的で一方的な冒険ではなく、立体的な冒険です。それゆえ、試練を最後まで克服できる粘り強い性格が必要だとういことを知らなければなりません。それを学ぶためには、神経質が鈍経質にならなければなりません。ヒキガエルのように鈍くなければなりません。ヒキガエルに学ぶことは多いのです。ヒキガエルが朝目覚めて日ざしを浴びつつ目をぱちくりさせてふんばっている姿を見て学ばなければなりません。また、牡牛が反すうしながらどれほど瞑想にふけっているでしょうか? そのように瞑想するのも学ばなければなりません。必要なのです。
人間には根気がなければなりません。どんなに理念がよいといっても、根気がなければなりません。どんなに理念がよいといっても根気がなければだめです。粘り強くてこそできるのです。十年を変わりない姿で過ごさなければなりません。先生はこのように話をよくしますが、話さないとなったら一か月くらいの間何も話さないでも平気です。監獄に入ったときも、何か月もの間口をききませんでした。先生が口を開けば、どんな話でも上手にしますが、しないとなれば、一言も口をきかないのです。
それゆえ、意欲を持って、倍加される冒険をしなければなりません。これ無しには、いくら夢が大きくても、その夢を実現するにおいて、他人の食べ残ししか自分のものにできません。これでは、びりになってしまうのです。
意欲を持って冒険するにおいては、断固たる勇気が必要です。勇気、勇気が必要なのです。あることに直面したときは、どんなことも恐れずに前進しなければなりません。国が反対するなら反対し、世界が反対するなら反対しろというのです。時が来たことを鑑定して判別した後には、勇気を持って進まなければならないのです。監獄をも恐れることはありません。私たちにはこうした勇気が必要だということです。
しかし、どんなに勇気があっても、それが無謀なこととなってはいけないので、判断をしっかりなさなければなりません。物事の道理をしっかり見極めた上で、正しいとするなら、いくら困難があるとしても克服すべきです。私が今日まで、数十年間準備してきたことが、ここで破綻するならば、あまりに惜しいと思えるようでなければなりません。ですから、今から準備しなさいというのです。今まで準備して、ここで後退せざるをえない敗者の悲痛な立場に立つということは、あってはなりません。それゆえ、そうしたあらゆる立場を克服しえる勇気が必要です。勇気百倍で、生命をも意に介さずに前進しなければなりません。こうした過程を踏まなければ勝利は来ないのです。
勝利の基盤は、こうした過程を経てこそ成し遂げられるものなのです。こうした過程を経ずして勝利したのは、人の世話になった人です。今日、統一教会の文先生という人は、誰の世話にもなりませんでした。先生は道義的な仕事に信念を持って、誰よりも力を注いで、勇気百倍で歩んできたのです。
それでは、勝利をどこに帰すべきでしょうか? 天運によって勝利したのであるから、天倫に従って、主体的な存在に帰すべきです。独自的立場では、勝利を収めることができません。歴史が流れ、時代が過ぎ去り、勝利の基盤が広がるようになるとき、世界は新しい栄光の世界へと移り変わっていくのです。こうした内容が宿っているということを知らなくてはなりません。何が必要ですって?(意欲です)。それから何が必要ですか?(勇気です)。それでこそ勝利するのです。
統一教会は、今日まで歩んできましたが、いまだに世界的舞台に向かって行くべき道が残っています。それで、先生は世界へと向かって行くのです。行くにおいては、誰にもへつらわず、負けないのです。また、問題を解決するための勇猛さは、誰にも負けず闘うにおいても、誰にも負けません。このような心を持って前進しなければ、世界的勝利は期待できません。現在いくら民族的に勝利したとしても、世界的な勝利の道は遠いのです。
統一教会が発展してきた段階を考えつつ、皆さん自身がどんな立場で若い時代を送るかを考えなければなりません。神様のみ旨を統一の理念圏内で生きてはいますが、常に先生が指向し、神様が指向する勝利の世界に向かうために自らの立場を批判することができなければなりません。そして批判することによって、自ら悲しみを感じる小心者となるのでなく、それを土台として発展することのできる大きな器とならなければなりません。
では、皆さんは今からどのようにするべきでしょうか? 天上世界が認める天の王子となり、王妃となり、栄光の天国を成すために、若い時代に十分な準備をしなくてはなりません。そうできる皆さんとならなければならないのです。分かりましたね?(二四\八四、三三\二七八)
皆さんは今、青少年です。ここで話をしている人間も、皆さんと同じくらいの年代には、どちらにしろ歴史の車輪を一度ひっくり返して越えるためには、歴史的なあらゆる苦痛だとか、悲しみだとか、悲哀の屈折を避けては通れないということを悟ったのです。民族を救うためには、民族的な患難、世界を救うためには世界的な患難が必ずあります。なぜならば、今の世界は善の世界ではなく、悪に始まり悪の目的世界を営んでいく歴史発展途上にあるからです。
多くの若者たちは、その胸の内に希望と抱負を抱いて走っています。また、同時に、新しいものや、よりよいものを自分のものにしようとする欲望は、誰もが持っています。新しくて、よりよいものを得るためには、人ができないよりよい面のことに反対となる与件を打破しなければなりません。そうぜずしては、新しいものやよいものが自分と関係を結びえないということを、歴史的事実において、あるいは現実の生活時点において見て、私たちはよくよく知ることができます。
それゆえ、こうした出発の道に立っている皆さん自身を立てておいて、もう一度誓う時が来ました。今、私はどこへ行くのか? どうしなければならないのか? 何のために、どうやって、どんな内容に向かって行くのか? こうした問題について考えるとき、いろいろな多くの問題があるでしょう。(一五四−一二)
人間のすべての運命は、一八`二四歳の間における姿勢(信念と方向)いかんによって左右されます。信念を持って生きる人の結果は、長い歳月を経てはじめて現れてくるでしょう。
信念のない人は、どんなにその人の現実が華やかであったとしても、途中で挫折するおそれが強いですが、信念がしっかりしている人は、進む路程が微々たるもので、困難であるとしても、最後まで貫くことができるのが特徴です。
知識を持った人も、信念を持った人にはかないません。それゆえ、聖書にも、心と思いと性稟を尽くせと書いてあるのであって、知識を尽くせとは書いてありません。
信念が立っている人は、多くの屈折や困難があるとしても、へこたれず、克服していきます。そうして、その結果は、より輝かしく現れるのです。
信念には、人間の信念のみならず、天宙的信念もあり、さらには神様の信念もあります。神様の信念と人間の信念が一つとなることを目標として、歴史を摂理してこられたのが、神様の役事なのですが、その方便として宗教が現れたのです。
神様の信念とは、必ず創造目的を達成しようとする信念であり、その内容は何よりも天を愛し、人間を愛し、全宇宙を愛せというものです。すなわち、天地人が愛を中心とした一つの世界を成すというのが、神様の創造の目的なのです。(一〇−一五)
五 立派な人物になるには
五 立派な人物になるには
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1 重要な人物になるにはここに集まった皆さんは、誰しもが、自分自ら重要な人物になりたいという思いを持っていることでしょう。「重要な人物」といえば、これは普通の水準を越えて全体の前に中心的な位置を占める人でなければいけないという結論が出るのです。そのような人になるためには、あらゆる環境において勝利的基準となって、比較の基準にならなければなりません。そのような比較の基準になろうとすれば、完全なものと、完全でないものとを分別するすべを知らなければなりません。
では、人間において重要な人物になるためには、どんな面で人より抜きんでていなければならないかということを、ここで考えざるをえません。
私たち人間には、五官があります。目で見ることにおいて普通の人より抜きんでていなければなりません。また、聞くことにおいても、やはりそうでなければなりません。話をするにおいても同じことです。触ったり感じたりなどのあらゆる面において、抜きんでていなければなりません。それから心においてもです。心自体もその気くばりにおいて他の人より秀でているべきです。
それは事実として、そうありえるためにはどうしたらいいのかというのが問題です。見て行動する、このすべてのことが人より秀でているためには、ただ行動するだけではいけません。すべての部門において、皆を凌駕しえる内容を備えていなければならないのです。
皆さんは勉強するために本を読むにしても、ただ見るだけではいけません。必ずそこにおいて見る練習をして、訓練する過程を経なければ、そうなることは不可能です。
私たちが聞くことにおいてもそうです。人より優れ、抜きんでるためには、何もせずにそうなるのではなく、必ず訓練過程が必要です。その内容に従って鍛錬し、訓練する過程が絶対的に必要なのです。
気を配ることや考えることも同様です。皆すべて訓練過程を経るべきです。それゆえ、瞑想とか祈りというのも、そのためにする修養方法です。心の修養方法を意味するのです。
そうだとすれば、重要な人となったといえる位置に到達するためには、あらゆる面に熟練するように訓練過程を経て、それが的中した位置に立ったといえる人にならなければなりません。そうでなくては、重要な人になることはできません。それは、普通の人ができることではありません。普通の人ができないことをやり遂げなければならないのです。
そうなるには、ただ何もしないでなれるものではありません。数多くの問題を前にして、訓練と試練の過程を経るのみならず、なすべきことに対するすべての問題に、自信を持って立ち向かっていける人にならなければ重要な人にはなれません。
私たちの日常生活、人が生きる生活においてどのような訓練をしているでしょうか? 一生の間、見る訓練、聞く訓練、話す訓練、行動する訓練をしているのです。結局、私たちの生活とは、ひとつの訓練過程に過ぎないのです。
こうした内容を整えて、ある目的と一致しえる結果にまで到達した生活をしたかしないか、訓練過程において、それを成し遂げたかどうかによって、その人が全体的環境の前に、比較の基準として現れることができるかどうかが、決定されるのです。
こうした内容を整えて、ある目的と一致しえる結果にまで到達した生活をしたかしないか、訓練過程において、それを成し遂げたかどうかによって、その人が全体的環境の前に比較の基準として現れることができるかどうかが決定されるのです。
ですから、結局、私たちは、普通の人が見ることのできないものを見、普通の人が聞くことのできないことを聞き、普通の人ができない話をし、普通の人が考えられないことを考え、普通の人ができない行動をしなければいけません。そのようになれば、その人は間違いなく重要な人物になり、立派な人になるのです。このような人々をどの団体がどれほど多く保有しているかが、その団体が全体の前に中心となることができるかという問題を決定するようになるのです。あるいは一つの国においても、そういう人がどれほど多いかという問題がその国が世界的な中心国家となるかどうかを左右するのです。
では、私たちの団体について見るとき、皆さんについて話すとすれば、皆さんをどんな人に仕立てなければならないでしょうか? 皆さんはどんな人になりたいでしょうか? 皆さんは重要な人になろうとし、教会自体においては、重要な人に作り上げようとするのは、間違いのない事実です。
また、皆さんがいくらよく見て、よく聞き、話を上手にし、よい考えをするとしても、行動において敗者となれば、すべて水の泡になってしまうのです。それゆえ、皆さんはどの分野にぶつかっても後退することなく、どんな分野でも走り抜けていける人とならなければなりません。
後退する日には、いくら訓練をして、あらゆるものを備えたとしても敗者となるのです。どんなに難しい問題でも、克服していかなければなりません。前進して自分の力と能力で、それを消化して越えていける人になってこそ、その問題を中心として責任を持つことができ、その環境において、その問題を凌駕した勝利的基準によって、公認を受ける中心的存在として決定されるのです。
ですから皆さんは今、新しいことを学び、新しいことを聞き、新しい言葉を学び、新しい考えを持つことのできる環境において、訓練を受けているのです。私たちが学ぶ内容も、複雑なのです。私たちが考えることも複雑なのです。それなら複雑なことは悪いことでしょうか? 内容が備わり統一性を持った複雑さは、貴いものとなるのです。
あらゆる万物を見ても、万物の中でも構造上複雑なものであるほど、価値ある存在となるのです。何らかの中心、重要な人物になろうとすれば、その人物が自分の環境において、複雑な機関を連結して動かしえる自制力を持たなくてはなりません。それゆえ、重要な人物になることを願うなら複雑な環境を消化しえる自分自身をどのような発見するかとういことが問題となるのです。ですから、複雑な環境や、さまざまな分野における訓練が必要なのです。
私たち人間も、見てみれば五官で感じるのであり、その次に行動問題を中心として見るとき、その行動がどこに及ぶかということにおいて、その及ぶ範囲が広いか狭いか、あるいは多方面か一方面か、立体的か平面的かという問題に従って重要な人物、重要な責任者が決定されるのです。
先ほど、重要な人となろうとすれば、あらゆる面における訓練を受けなければならないと言いましたが、自分のためになる立場に立つのではなくて、人のためになる立場に立たなければならないということが、もう分かったでしょう。(六七−一七七)
2 全体のためになる思考方式を持とう
皆さんは、どのような思考方式と思想を持つべきでしょうか? 「私は全体のために生きよう。全体より、私はもっとやらなければならない」という、全体のためになる思考方式を持たなければなりません。「十人の人が苦労すれば、私はそれ以上やらなければならない。そこに誰もが耐えられないような困難があるならば、私がそれを成し遂げよう。そこに私の手が必要であり、私の血の汗がつながらなければならない」という思考方式で努力しなければなりません。そうしようとすれば、どれほど大変でしょうか? それゆえ我慢して耐えなければなりません。我慢して耐え抜けば良い因縁を結べるがゆえ、感謝して賛美する心を持てというのです。それはすべて、喜びが与えられるための基盤となります。その喜びは私自身のために与えられたものではありません。神様のみ旨のために与えられたのです。(四四−三八)
3 自責できなければならない
私たちが朝、サタン世界に出て行くときは、目、鼻、耳、すべての細胞、心までも武装して、「きょうも無事故で帰ることができるようにしてください!」と言わなければなりません。どれほど険しい世の中でしょうか? 夕方に帰ってきて顔を洗うときに鏡を見て「この目、鼻、耳、手、足、こいつがいつだって問題だ」と言いつつ「お前、きょうは罪を犯さなかったか?」と尋ねてみるのです。さあ、そのようなことを、目で見て、話をして行動をして、何かの権力でもってそのようなことすべてをさささっとかわして、勧告をして振り返ることのできる能力がなければならない、というわけです。ですから、統一教会で教育するのは、この世界のサタンどもを打ち捕らえる最高の剣を与え、武器を与えるのと同じことなのです。(一二二−二六六)
4 先を行くべきである
統一教会は、すでに思想的な面においては、誰も対抗できない内容を持っています。何であるにしろ、私が手をつける日には一等にならなければなりません。私が手をつける日には一等になるべきなのです。今日までそのようにやってきたのです。
眼鏡をかけるにおいても、ナンバーワンですか?(はい!)。皆さん、眼鏡をかけるのが好きですか?(はい)。(笑い)そのときは、眼鏡をかけることのできる立場にありつつも、眼鏡を投げ捨てて眼鏡なしで歩き回るのがナンバーワンです。(笑い)。皆さん西洋人たち、では三つも眼鏡をかけてごらんなさい。四つかけるならかけてごらんなさい。四つ五つかけても一つもかけていないようにふるまえるなら、眼鏡をかけていないとき以上にもっとできるならかけなさい。それでかけないときより仕事をよくするのならいいです。
それならば、寝るのはどうですか? 「人が八時間寝るなら、私は二十四時間に一時間プラスして二十五時間寝よう」これはどんなに素敵でしょうか? 八時間寝るのが何でしょうか? 二十四時間に一時間プラスして二十五時間寝よう」(違います)。では、どうしましょうか? マイナス二十五時間寝なければなりません。(笑い)それは問題が違ってくるというのです。
サタン世界より、何か一つでも優れていなければなりません。どの町へ行こうが、私はお前たちとは違うということを主張するべきです。何であれ違う、というのです。ここにプラスワンしろということではありません。それは好きなようにしなさいというのです。千を加えてもよいし、…。多ければもっとよいです。多いほどもっとよいです。もっとよい。いくらでも、もっとよいのです。(八一−一三四)
統一教会の群れ、天の食口たちは誰かが命令しなくても自動的に一つにならなければなりません。共産党以上に強力でなければなりません。分かりますか?(はい)。
第一には父母に侍ることにおいて、第二には兄弟を愛することにおいて、第三には行動することにおいて、彼ら(共産党)の先を行かなければなりません。彼らに負けてはいけないというのです。北韓から南韓にスパイを送ってくるように、私たち統一教会員も、今後、北韓に行けというとき、行けない人がいないようにしなければなりません。誰でもそういう所に行っても生き延びれる決意を持たなくては、統一教会の食口にはなれません。行動的な分野において、彼ら(共産党)を凌駕することのできる、天の息子・娘とならなければいけません。(二三−二九五)
5 丈夫で強く変わりなくあるべき
統一教会の皆さんをサタン世界に投入させておいて、木でいうなら何の木になるべきですか?(樺の木です)。樺の木は強くありません。(ナツメの木です)。ナツメの木?(クヌギの木です)。そう、クヌギです、クヌギ。誰もが知っているクヌギの木です。ナツメならば、女の子たちは良く分からないでしょう、何の木なのか? 曲がってはいけません。曲がるとしても折れてはいけません。折れてはいけないのです。どころで統一教会の皆さんは粘り強いですか?(はい)。
ですから、私たちは粘り強くなければなりません。さあ、そうしてみると、文なにがしという人は粘り強い人ですか、くみしやすい人ですか?(粘り強い人です)。そうでなければなりません。
そして、風が吹く冬が来ようと、夏が来ようと、あるいは春が来ようと、雨が降ろうと、どうであろうと変わりなくあるべきです。皆さん、鉄は変化しますか、変化しませんか? ステンレスは変化しますか、しませんか? どうですか? 鉄が好きですか、ステンレスが好きですか?(ステンレスです)。どうしてですか? なぜですか? 変わらないからなのです。(一〇〇−一九四)
大韓民国が、主の来られる国だとすれば、世界のすべての国を全部巻き込むとしてもぐらつかない、そんな国にならなければなりません。そのような埠頭にならなければなりません。そうなろうとすれば、どれほど強くしなければならないでしょうか? そこにはセメントや砂利、砂、そして鉄筋が必要です。埠頭を作るにおいて、コンクリートを強くしようとすれば、何を意味するかというと、人を意味します。
人の中でも強い人です。誰かがへし折ろうとも、へし折れず、突き刺そうとも突き刺せない強い人がいなければなりません。そのような固い志と志操を内包している信仰者たちを中心として線を継がなければなりません。そうしてスイッチさえ押したらいっぺんに救うことのできるように装置しておかなければなりません。そうした歴史的な使命が私たちにあるということです。
統一教会が、こういう途方もない使命の完遂を願うならばコンクリートをするにおいて、皆さんは何になるでしょうか? 鉄筋になるのか、砂になるのか、砂利になるのか? 皆さんはどれになるでしょうか? 考えてごらんなさい。鉄筋になれというのです。では、鉄筋になりましたか? 鉄筋になれなかったならば、砂利にでもなれということです。砂利にもなれなければ、砂粒にでもなれということです。また、砂粒にもなれなければ他のために与える水にでもなれということです。水というものは、どこにでも吸収されるのです。皆さんはそれを知らなければなりません。(三二−一四六)
第二節 思春期の特徴と現象
第二節 思春期の特徴と現象
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一 思春期とはどのような時か思春期とはどのような時でしょうか? 心が外に向かって出ようとする時です。心がすっかり成長したので、そのままでいては、アシや竹のように長く伸びることができません。というよりも、心が体の外に出ようとするのです。また、体は心を求めて入ろうとします。そのような時なのです。そうなる前までは心と体は平行してきたのですが、これがいつ一つになるかというと、思春期に一つになるのです。それゆえ、心は外的な世界のすべてを占領して関係を結ぼうと、しきりに外的な世界のすべてを占領して関係を結ぼうと、しきりに外に出ようとするのです。その反面、体は心の世界に従っていこうとします。このようになっているのです。(一四〇−二〇)
皆さん、思春期時代がなぜよいのでしょうか? 思春期時代はよい時です。結婚前の娘、青年時代がいちばんよい時なのです。ここにいる女の子たち、そうですか? 思春期時代がいちばんいいんですね。おばさんたちもそうでしたか? いくらそうじゃないと言っても仕方がないのですね。
その時がどんな時かといえば、皆さん自身が波長を与える時なのです。自分が波長をどんどん遠くに与え、遠くのものと因縁を結ぼうと、範囲を広げる時です。分かりましたか? 授け受けする道が広がるようになれば、うれしくなるのです。
ですから、思春期時代がどのような時かというと、あらゆることにおいて自分を主体として、「私がいちばんだ」と思う時なのです。皆さんもそうなのです。自分がいちばんだと考えます。マラソン競技場に行って堂々と格好よく一等でゴールインしたように思います。「私が一等なのだ」と考えるのです。どんな運動を見ても、全部やってみたいと思う時が、思春期なのです。
そのときは、皆自分なりの文学を持ち、詩人にならない人はいません。わけもなく心がそわそわして、鼻も歌を歌い、耳も歌を歌い目も歌い、口も歌い、腕も歌い、体も歌おうとするのです。そのため、じっとしていられないのです。目もじっとしていず、耳もじっとしていず、口もじっとしていず、手もじっとしていず、このように全体を動かして自分と因縁を結ぼうとする時なのです。
人間においてこうした心情は一度しかありません。老いて死ぬまで、そんな心情があるならいいのですが、その時さえ過ぎてしまえばすっかり冷めてしまって、一生の間に二度と無いのが問題です。自分の一生において、思春期時代のような結果の時代がなければならないのですが、その結果の時代はいつでしょうか? これが問題なのです。その結果の時代がまさに霊的世界なのです。神様の愛の世界だというのです。それゆえ、霊界に行けば、思春期時代と同じ美男・美女の姿で生きるのです。いいでしょう? そうであるならいいでしょう? そこでは顔は醜くなく、紅気を帯びた青少年時代のままです。いつでも思春期時代のようなのです。
思春期は、寂しい秋の日に、柿の木の枝先で木の葉が一枚揺れていたのが、風がひゅうっと吹いて、その葉がはらりと落ちれば、それを見てもアハハと笑う時です。それを見ればうら寂しいはずなのにもかかわらず、そうではないのです。深刻に考えてみれば、それはあきれるような光景ではありませんか? 皆落ちて、たった一枚残った葉さえ落ちるのを見て笑うというのです。人間に例えるなら、人々が皆死んでたった一人しか残っていないのに、その一人まで倒れるのを見てアハハと笑うのと同じなのです。その落ちた葉が風に転がっていけば、ついて行ってヒヒヒと笑うのです。このようにすべてのことに同化したい時であり、すべてのことを主管したい時が思春期なのです。
それでは、すべてのことに同化して、すべてのことを主管するものは何でしょうか? 皆さんの細胞を見てみれば、先祖から受け継がれた感情的要素がそれぞれ異なっていたのが、一度その因縁に従って与えうる運動をしてみる時が思春期だというのです。与えるだけでなく、受けてみようという作用をなしえる時が思春期であるため、思春期はよいというのです。(五〇−二六八)
思春期というのは、外的なあらゆる被造物を愛することのできる心が開かれる時なのです。(一三六−三二)
二 思春期の特徴
二 思春期の特徴
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一生において思春期といえば、思春期には目も四方に大きく開き、心も四方に大きく膨らみ、体も四方に膨らみ、全体がすべてよいといえる環境の中で寝ころんで暮らしたい、そんな心が広がるのです。心が広がりながら、宇宙とともに関係を結びたい気持ちが生ずる、そういう時が思春期だというのです。すべてが春を象徴するのです。春は拡張の季節です。持てる力のすべてを、ありのままに発揮する時です。自分が本来持っている要素の、すべての力全体を発揮し尽くす時なのです。(一六六−二〇九)
アダム・エバは成長してどうなりましたか? 五歳、六歳、七歳、八歳、九歳、十歳、このように成長して思春期を迎えるのです。その時になると、世の中で起こるすべてのことを、どんどん知るようになります。どんどん大きくなれば、どんどん知るようになるのです。そうしてどんどんどこに行き着くのでしょうか? 親戚を知り、どんどん知って行くのです。世界を知り、どんどん知っていくのです。そうして「ああ、これが愛なのだなあ」と言いながらどんどん成長していくというのですね。
そして、その時になってよくよく見ると、愛の目で見ると、世界のすべて、宇宙のすべてが自分の圏内にあるというのです。そうすれば、「私はこの圏内を中心としたすべての要素を代表する者だ。私はこの圏内を中心としたすべてのものを代表する偉大な私だ」このようになるのです、これが。そのときは自分がいちばんです。そうでしょう?(一三〇−一五六)
皆さん、思春期時代にはですね、天下の王子になった気分なのです。そうですか、そうじゃないですか? そうなのです。何でも自分を中心として、ひっくり返して、考える時代です。このように、思春期時代は反駁する時代なので、自分と分かってくれなければ、いくらでも他の道へ行く可能性があります。それゆえ、今日青少年たちの問題が世界的な問題となったのです。思春期には、どんなことでも自分を中心としなければ嫌なのです。しかしながら、自分と関係を結んだならば、それがどんなに微々たることであっても、得意になるのです。
二十歳前後になると女の子たちをよく見ることですね、わけもなく「ヒヒヒ…」と笑います。(笑い)秋に葉がみんな落ちた柿の木から、よく熟した柿の実がポトリと落ちるのを見ても、ハハハと笑います。それは何か分からないけれど、通じるということです。すべてのことが皆自分と関係を結んだゆえに最高の感情が誘発されるのです。それゆえ思春期というのは、あらゆるものに接して因縁を結ぶことのできる転換点なのです。
それはどうしてでしょうか? 神様の愛を中心として、男性と女性を完全に百パーセント一つにするための神様の創造本性が土台となっているためです。ところが、これが間違ってしまったためにへこみ、踏まれて砕けて、あたかもよい器にひびが入ったも同然になってしまったのです。(三三−三三三)
三 思春期の心と体の状態
三 思春期の心と体の状態
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皆さん、思春期時代をよく見てみると、異性に対する目が開かれれば、すべての思いがそこに皆集中するでしょう? すべての細胞作用がそこに全部集まるというのですね。(一〇八−二三三)今日、堕落した世界にある人間たちですが、思春期においては、霊肉の細胞が愛に変わる平行線上に生きているのです。そういうことが分からないのですね。分からないまますっかり年を取ったんでしょう。それでそのときに男も女も成長するのです。「やあ、宇宙はこのようだなあ!」と言うのです。「詩的に、文学的に、天下のすべてが私の愛の雰囲気に踊りを踊って遊びだすのだなあ、ハハハ」と、こうなのですね。そうして霊と肉、細胞の門、あらゆる門がすっかり開いて「歓迎いたします!」と言うのです。「愛を持ってきてください!」と言うのです。
ところで神様の愛を中心として、こうした思春期時代を作ったならば、人間世界には悲惨というものは無く、堕落というものは無く、愛を中心として神様と完全に一つになってしまうのです。(一三〇−一二一)
男も女も、思春期になると完全に青春を迎え、若者となり、あらゆる器具が完成します。器具というのは物に対して言う言葉でしょう。すべての気管が百パーセント完成に至るようになれば、そのときは静止状態になるのです。そうじゃありませんか? あらゆるものが飽和状態になるのです。運動というのは、必ず飽和線を経るのです。そうしてから静止するなり回るなりします。そうでしょう? 必ずそうなのです。飽和状態になって静止するのです。
そういう飽和状態になる前の段階が何かというと、思春期です、思春期。分かりましたか? そのように言えば理解できるでしょう。思春期とは何でしょうか? 自分の肉体発育においてすべての細胞とすべての気管が完成する時なのですね。器具に例えるなら、ぺしゃんこの器具だったのに、空気をぷうっと入れて破裂寸前にまでなったのです。破裂寸前にまでなったというのです。もう少し空気を入れれば、「パン」とはじけるのです。それを考えるとき、破裂とは何でしょうか? それが愛ならば、どれほどよいでしょうか?
同じことで人間も十八ころになると、息を吹き込んだ何ですか? ゴム風船のようにぷうっと膨らみ、くるくる回るようになるのです。そして破裂寸前の状態になるのです。回りながら、この宇宙とともに生活して…。
皆さんの子供たちやどこかの小学生たちに、「君は大韓民国を旅行したいか、世界一周したいか?」と聞けば、「もちろん世界一周だ」と答えます。皆さんも私に似たのでそう答えますね。私はそう答えます。皆さんもそうでしょう?(はい)。それなら、私に似たのですね。(一一〇−八四)
本来は、心を中心として、愛を中心として成熟したならば、自動的に和合するのです。体が感じたことを心が感じ、心が感じたことを体が感じるのです。共鳴とうのがありますね? 音叉というのがあるでしょう、音叉? 同じ周波数を持ったものはプラスが鳴れば、つまり一方で振動を起こせば、もう一方でも自然に共鳴作用が起きるでしょう? 共鳴作用が起きるのに、プラス・マイナスが相対的位置、同じ周波数の状態になると鳴るようになるのです。
それはいつ起きるのでしょうか? 思春期、このように成熟した時には…。成熟すると、どうなるのかと言えばですね、世の中の道理を知るのです。(一一八−三〇九)
皆さん、思春期を迎えた青少年たちを見なさい。女性を見ると、目をぱちくりさせて、五色の服をまとって、お尻をくくって歩きまわります。お尻が大きいと大変なことになりますから。目立たないようにひたすら小さくして外出するのです。
皆さん、人間において、知恵とすべての肉的作用を百パーセント活用することのできる時が思春期です。細胞全部が作用するのが百パーセントなのです。その時だけは百パーセント活用するのです。
女性たちは、かわいらしいものや模様のついたのを、なぜ着ようとするのですか? それは全部皆信号と同じなのです。(一四四−二〇二)
四 思春期の戒律
四 思春期の戒律
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1思春期を正しく過ごせ未婚の男女たち、思春期には男性は女性に、女性は男性に互いに会いたがります。そうでしょう?(はい)。心がそわそわし始めるのです。そうでしょう?(そうです)。私は皆さんの心が分かりません。そうですか、そうではないですか?(そうです)。皆さんの心は本当にそうでしょうか?(そうです)。率直でなければなりません。この娘さんたちもそうでしょう? 男性がいれば男性に「フン」といってとぼけていますが…。そうではないですか? そうなのです。
男性たちは十七・八歳にもなると早くも感情が高まり、どこか線路沿いの道などで、女学生や気立てのよい娘が通るのを見ると、「いつまた見ることができるだろうか?」と考えるのです。女性たちは「あのような男性ならお嫁に行こう」と考えるのです。そういうことばかり考えているのです。(笑い)どこかに行ってこのような気になると、先生は気分が悪いです。(笑い)感情が鋭いのです。ちょっと見ればもう分かるのです。そうでしょう? 皆さん、そうですか、そうではないですか?(そうです)。皆さんもそうですか!(笑い)だから思春期は危険なのです。
近ごろの世の中は何かと騒々しい時代です。そのような風が吹くこの天地に、統一教会の食口たちは絶対そうなります?(なりません)。なりません。彼らの思春期は「思う」の思春期ではなく「死ぬ」の死春期です。(笑い)分かりますか?(はい)。何と言いましたか?(死春期です)。気分がいいですか、悪いですか? さあ、どちらを選びますか? わっ、すごいですね。(笑い)
だから、その忌まわしい目をえぐり取れというのです。(笑い)死んでしまうので、早くその忌まわしい目をえぐり取れということです。この憎い鼻をひねってしまえとういうのです。この穴を塞いでしまえ、この舌を引っ込めさせろ、ということです。それでこそ死なずに済むのです。なんだ、そんなの…。簡単にできますか?
それではイエス様には思春期がありましたか、ありませんでしたか?(ありました)。イエス様にも思春期がありました。イエス様にも思春期がありましたが、どんな思春期? この「思う」の思春期を歩みましたか、「死ぬ」の死春期を歩みましたか? どんな思春期を歩みましたか? 誰にでも口笛をぴゅっと吹き、合図を送る、そのような思春期?(違います)。「思う」の思春期を歩んでいったのです。
まず、皆さんはこの思春期をうまく過ごさなければなりません。生きんとするのは思春期であり、死なんとするのは死春期です。死のうとしてこれを抜け出れば、一回りして反対になれば、百八十度回転すれば死春期が変わって思春期になります。だからイエス様は死ぬ死春期を通して希望の春の日、新しい生きた春の日である新郎新婦の思春期に向かって歩んだのです。分かりますか? このようになるのです。それが歴史です。
人間の堕落とは何ですか? 神様を中心として春の日を迎えられないのです。そうでしょう? 春の日が来たら、孝行者になろうという者たちが自分たちだけ春の日を迎えるのですか? 父母を中心として「お父さん、お母さん! きょうは春です。私たちと一緒に出てこの日を楽しみましょう」これこそ孝行者であり「お母さん、お父さん! きょうは春の日ですが、春には昼寝をするのが適当です」と言って昼寝をさせておいて、自分たちだけで唄を歌ったり、踊りを踊ったりする連中が孝行者ですか、孝行者ではないですか?(孝行者ではありません)。孝行者でないばかりか、ろくでなしです。そうでしょう?
堕落とは何ですか? 神様を中心として、神様の側から見れば死春期の始まりです。死春期なのです。死春期の歴史が始まるのです。それゆえ、死なんとする者には春が来るのです。新しい時代が来るのです。このような役割を今まで果たしてきたのがキリスト教歴史です。(五七−一五九)
今日、ティーンエイジャー(teen ager:十代)が重要だというのですが、それはどういうことですか? これはプラス(+)やマイナス(−)、どこでも…。向こう見ずに、やたら歩き回ろうとするのです。だから社会に破綻を招き、自分自体に破綻を招くのです。また思春期は変わるときであるので、誰か一言だけ言っても「フン!」と言って…。皆そうです。どんどん変わるときなので、どんどん歩き回ろうとするのです。
それで秩序に従い、状況を見つめながら行かなければならないのです。皆さんが今これを全部整理しなければなりません。全部整理しなければならないのです。びくともしないものをすべて整理しなければなりません。では、善悪の中で悪は何ですか? 破綻するためのものです。いかなる保護作用も成立しないということを知らなければなりません。分かりましたか?(はい)。(一一八−一九七)
思春期は女性も男性も危ない時です。それゆえ、思春期に立場を誤って選択して一生を滅ぼすこともあれば、正しく選択して人生を豊かにすることもあるのです。そのような問題が起こるのです。(一二四\一二〇、五〇\二七〇)
若い青春時代はほんの短い期間です。レバレンド・ムーンは最も貴い時を正しく過ごした人なのです。どんなことがプラスになるでしょうか? 若いときに遊びたいだけ遊び、踊りを踊ったり、そういうつまらないことに押し流されることでなく、迫害を受け、嘲笑され、真のものを本質化するためにこの道を行くのです。先生の路程は過去もそのようであり、未来もそうです。この道はいつも同じなのです。(一二九−一八〇)
2 秩序を正しく守れ
セルフ・センター(自己中心)の悪いところはどこですか? 自分を中心とする観念が無ければ秩序自体の位置を確保できませんが、それがなぜ悪いのかといえば、秩序を破る立場で行動をするように主張から悪いのです。分かりますか?(はい)。秩序を破ることが悪いのです。愛の悪いところはどこですか? 愛はすべて悪いわけではなく、愛は時に従ってすべて与えられるようになっているのに、秩序を破り、時を守らずに犯したことが悪いのです。
では、このように見るとき、サタンと神様とどれだけ差があるかというと、隣り合わせなのです。(笑い)サイド・バイ・サイド(side by side:並んで)という言葉が実感できますか?(はい)。何が違うでしょうか? 秩序、順序が違うだけなのです。
今日、サタンはこのような作用を世界に拡大させています。青少年たちが父母に反対し、家庭を破綻させるのは、この法度においてこれは秩序を破綻させるから悪なのです。それによって家庭が破壊され、それによって社会が破壊され、それによって国家が破壊され、それによって人間が破壊されるので、これが悪でないはずがありません。
思春期の時は力を出して、映画に出てくるスリルある場面を実践してみたいと思うものです。人々はそれがどうして悪いのかと言います。それは、そのように勝手気ままな行動をすると、環境を破綻させることになるからです。それゆえ、制裁をしなければならないのです。皆さんの知性が完全に明るく開かれて、社会の体験と環境的なすべてのことをコントロールできる時になればできますが、今はできないのです。
子供になぜ刃物を持たせるなと言うのですか? ぱっと振り回すからです。切ることを覚えるのです。切ることを覚えてさっと切るわけです。だから母親の手も切ってしまうのです。さっと切るのです。そういうことも起こりえます。そのように秩序を破壊するので持たせるなというのです。分かりますか?(はい)。
私たちが時間を定めて「八時に来くるように」と約束をするのですが、八時一〇分に来て「八時一〇分ですが、なぜ悪いですか?」と言うのはだめなのです。八時一秒に来ても、それはいいですか、悪いですか?(悪いです)。一〇分ころに来る人もいるのに、一秒くらいいいでしょう…。(笑い)それがいけないのです。この世界では通じません。八時がいちばん秩序よくぴったりしているからなのです。
では、八時なのに六時に来た人、七時に来た人、七時五九分五九秒に来た人とどのような差があるでしょうか? 秩序で見ると、これは同様です。これ(七時五九分五九秒に来た人)が本当に時間を節約したことになり、本当に時間をきちんと守る人なのです。
さて、ここにいま一人、「私は時間ちょうどに来るのがいちばんだ」という人がいた場合は、二人ともよいのです。これは不平を言うことができません。悪いとはいえないのです。それゆえ、このような秩序と順序という法が重要だということを知らなければなりません。
それゆえ秩序というものが必要になります。宇宙はそれで維持しています。秩序と法に従って運行していくのです。宇宙もそうです。考えてみてください。月が「私は地球をこれだけ回って飽きたので一度太陽を回ってみよう!」と言ったら、月は砕け散って無くなります。それ自体の価値が無くなるのです。
また、地球が「私は太陽系、太陽を中心に回るのに飽きたので、太陽よ、お前が一度私を中心に回ってみろ!」と言ったらどうなりますか?(笑い)どのようになりますか? この宇宙が破壊されてしまいます。ほかの衛星まですべて混乱が起こったらどうなるかというと、宇宙が破綻するのです。分かりますか?(はい)。(一一七−一八四)
天下のどんな人でもいえることですが、とくに思春期の時期の青少年たちは「自分のやりたいようにするのが最高の自由だ」このように考えるでしょう? 「この世の法や制度を誰が作ったのか? 適当に必要な人たちが作ったのであって、私が作ったのではない。私はこの法を無視する」と言って天下を恐れないのです。何でも自分勝手にやりたいのが若い思春期時代の生活であり、希望に満ちあふれているのが若者たちの心です。しかし、それがその通りになるわけではありません。(一五六−八四)
3 初恋を神様に捧げよう
イ)「取って食べるな」の意味
聖書には「取って食べるな」とあります。なぜ「取って食べるな」と言ったのでしょうか。それは初めからある時まででしょうか、あるいは永遠なのでしょうか?(ある時までです)。このように見るとき、「取って食べるな」というその言葉は、過程的な内容を中心とした愛の警告ならば理解できますが…。それは思春期という成長期間があるためにそう言ったのであり、永遠に取って食べるなということではありません。ではなぜ善悪知るの実を取って食べるなと言いましたか? それは何の問題ですか? それは人間と天を破綻させる動機となる内容があるために問題視したのであり、そうでなければ問題視する必要もないのです。
原理でいう堕落という言葉、今日、何も知らない人間において、堕落という言葉は偉大な福音だということを知らなければなりません。偉大な福音です。苦痛の時代において、堕落という警告は極めて偉大な福音なのです。
善悪知るの実、これが果実ならばすべて…。だから果実であるはずがないのです。それは何の果実ですか? 果実を中心として億千万の人類が悶え苦しみますか? このように破綻をもたらし、闘争する路程でうめく現状をもたらす果実を神様はなぜつくりましたか? これは今レバレンド・ムーンが話す、愛の内容を中心とした果実の結果だったというのが何よりも理論的に近いのです。(一二八−八七)
皆さんは今これから咲こうとする花のつぼみがいいですか、すっかり咲きった花がいいですか?(つぼみがいいです)。先生はすっかり咲いた花が好きなんですが。(つぼみが好きです)。それは皆さんがつぼみなのでつぼみがいいと言うのでしょう。咲こうとする花がいいですか、すっかり咲いた花がいいですか?(咲こうとする花がいいです)。皆さんがまさに咲こうとする人たちでしょう?(はい)。
咲くのにおいては、自分の思うままにいっぱいに咲くべきです。分かりますか? 他人の力によって咲かずに自分の思い通りに大きく咲けということです。どういうことかというと、皆さんが自然に育ち、自然に思春期を過ぎ、自然な環境で大きく花開き、愛したい夫を迎えなければならないのです。分かりますか?(はい)。咲くこともできないままつぶれてはいけません。葉が落ち、花粉が落ちた花になってはいけません。分かりますか?(はい)。男たちも同様です。男たちも大きく咲かなければなりません。
まだ咲いてもいないつぼみなのに、手段方法を中心として手紙を出したり恋愛したりするような、そんなとんでもない者になってはいけません。分かりますか?(はい)。自然に大きく咲かなければなりません。神様がご覧になるとき「純然と本性的に咲いたな。香りをかいでみると純粋だ」と言えるようでなければなりません。分かりますか? それゆえ神様も希望が多いのです。
そのような神様は純粋なものを願われますか、つぶれたものを願われますか? それでは皆さんはどうですか? 純粋なものを願いますか、つぶれたものを願いますか?(純粋なものです)。堕落した皆さんも願うのですから、神様はそれをもっと願うのではないですか? それゆえ皆さんが純粋な情をもって大きく咲き、今日の堕落した世界において悲しみの絶頂に陥るのでなく、それを越えることのできる価値ある皆さんになってくれることを願うのです。(四七−八八)
ロ)初恋は貴い
初恋は根こそぎ占領します。愛の主体は誰ですか? 神様です。愛の主体が神様なので、愛することができるのも神様一人しかいないのです。本来、初恋は神様とするようになっています。ところがそのようにできなかったのが堕落です。
エバは誰と愛しましたか?(天使長とです)。ところが喜びながら愛さなければならないのに、顔をしかめて泣きながら愛したというのです。皆さん、堕落するときにエバが「ああうれしい! 取って食べて本当においしかった」と言ったでしょうか? エバが天使長に強姦されたとき、その心はどうだったでしょうか? 良心の呵責を受けながら天使長の誘惑に引きこまれていったのです。すべての細胞が喜び、花が春を祝い楽しむように愛さなければならなかったにもかかわらず、細胞が朽ち果て、心情が朽ち果てた立場で顔をしかめて愛したのです。
皆さん、初恋は貴いと言いますか? 私はよく分かりませんが、皆さんはどうですか?(貴いです)。皆さんのほうが私より上ですね。それでは、答えた人は初恋をした経験があるようですね。(笑い)こういうときは黙っているものです。皆さんに一言おうと思ったのです。もし、ここにいる女性たちがそのような答えをしようものなら、気合いを入れようと思いましたが、男性が答えたので我慢することにします。とにかく初恋がいいという言葉は聞いたことでしょう。
ハ)初恋を神様の前に
皆さん、考えてみてください。二十代に近づいた青少年として、汚されず染まらない高潔な純情を大事にしっかり包んで、どこに持って行くべきでしょうか? 天がいちばん喜ぶことのできるその祭壇の前に置いて、神様が喜び、その次には自分と同じ純情を持った男性あるいは女性が出会い、神様が結んでくださる神聖な場が新郎・新婦の出会う場であるにもかかわらず…。
先生の心に記憶される皆さんにならなければなりません。分かりますか? その次には、神様の心に記憶される皆さんにならなければなりません。そのような思想を持ち、もう皆さんは少しの間中学・高校時代を送った後、大韓民国の実戦部隊に責任を果たさなければならず、さらには実務の責任を担うべき青少年ではないでしょうか。(六四−八四)
ニ)純種となれ
自分の体は貴いものです。これを汚さずに天に孝行しろというのです。天に奉仕する責任を持ち、神様から認められた体を持ち、サタンの死亡圏から脱出しなければなりません。これは人間としての最高の目的であり、またそれが基準なのです。創造原理でいえば、そのようにならないはずがないのです。(一五−二〇二)
皆さんは神様の前に純種になりましたか、なっていませんか?(なっていません)。純種となるためにはどのようにしなければなりませんか? 従順にしなければなりません。それで皆さんがいうことを聞かなければ、殴ってでも従順にする法度を教えるのです。神様の愛を教えるのです。これがキリスト教です。だからキリスト教はすべての宗教の中心になる宗教なのです。
今から純種の種子を作らなければなりません。それでは、種子を割ってみれば、その種子の中心は何ですか? 皆さん、種子の中心は何ですか?(胚乳です)。胚乳の中心は何ですか? 神様の愛なのです。それでは皆さんの頭を割ってみれば、その中心は何ですか? 神様の愛です。神様の愛なのです。種の中心、すなわち根になることのできる動機は何ですか? 神様の愛です。神様の愛から出発するのです。(三三−三三二)
ホ)初恋を持って霊界まで
初恋の心を持って神様の前に行かなければならないのです。(一二九−一四九)
初恋とともに行く人が、天国では最高の位置に行くということを知らなければなりません。どういうことか分かりますか?(はい)。(一二九−一三五)
この地上に生きる人で天国に行くことのできる人は、初恋を中心として生き、初恋によってすべてのことを放棄し、初恋に生死を委ねて生きるという人です。それゆえ、正しい初恋をしなければなりません。(一二八−八五)
第三節 成和の道
第三節 成和の道
P153
一 成和の意味皆さんは成和という言葉の意味を知っていますか? 成和という名前をなぜ若者たちにつけてあげたのでしょうか? 皆さんの中で年とった人と一つになることが好きな人、手を挙げてみなさい。お年寄りには悪いですが、年寄りどうし一つになってもよいですか? また、おばさんどうし一つになったらどうなりますか? 愚痴ばかりこぼすようになるのです。違いますか? それでは全くだめなのです。それゆえ、血の沸き立つ若者、純潔の血が沸き上がり、神様の感情に同化できる血を持った若い青少年たちが必要なのです。だから若者たちに成和という名をつけてあげたのです。
成は創造理想の完成を意味します。すなわち宇宙全体の完成を意味するのです。本来、完成の基準を立てる時期は、人間始祖が堕落した年齢である十七、十八歳のときです。だから神様は成和二十代を中心にすべてのことが成されることを願うのです。未来の完成の位置をものにできるのは、青少年の時期にある人たちです。
皆さんは蘇生・長成・完成の段階を知っています。長成を成した後はそのままじっとしているのではありません。化学(ファハク)の化(ファ)と成和(ソンファ)の和(ファ)では何が違いますか? 化学の化(ファ)は自分の本質的な性格と形態までも変えてしまうものであり、成和の和は主体的な観がはっきりした絶対的な主体として、相対的与件を作るものです。どこに行っても形式にこだわりません。それでこそ成長するのであり、一段階上がることができるのです。
成和の意味は何かというと、成して和合するということです。一つの目的を成して和合するということです。和合することによって、二人ではなく一人になります。麹と同じです。一つの家庭に年とったおいじさん・おばあさん、あるいはお父さん・お母さんがいますが、いつも子供たちの笑いが絶えないようであってこそ、その家庭に笑いの花が咲くのと同じです。そのような意味で成和の若者たちの持つ責任が大きいことを、皆さんは知らなければなりません。(四七\八〇、二一\八三、二五\一〇七)
二 「私は天の子女だ」という自覚を持て
二 「私は天の子女だ」という自覚を持て
P154
もう私たちはお父様の息子とならなければなりません。娘とならなければなりません。心からお父様の血統を受け継いだ息子・娘とならなければなりません。お父様の心情が私たちの心情と因縁を結び、お父様の心情の動脈が私たちの心情の動脈と因縁を持つ一体的関係を成し、お父様の行かれる道が私たちの道であり、お父様の事情が私たちの事情であり、お父様のみ旨が私たちのみ旨とならなければなりません。(二七−二七〇)堕落したアダムとエバは知りませんでしたが、私たちはサタンのあらゆる事実をすべて解明し、再びサタンの侵犯を受けない心情的基準を備え、歴史的なサタンまでも主管できる立場に立たなければなりません。神様の心情を通し、天と地に命令するに不足のない神様の直系の息子・娘とならなければなりません。そのようにして、神様から「我が息子よ、娘よ、今やお前たちの時だ。お前たちの日だ。今やお前たちの思い通りにできる」と祝福を受けるその日まで前進して、初めて本当に願ってきた所、本当に行きたかった所に行くことができるのです。(一〇−二一二)
今日、私たちが知るべきことは、「私は神様の民族だ」「私は天の国民だ」「私は天の子女だ」という自覚をもって生活すれば、必ず闘いを経なければならないということです。(三−四一)
皆さんは、天地の前に自信を持って、私は間違いなく神様の愛を中心とする息子であると、宣布しなければなりません。息子であることを否定できるものが何かありますか?(一三七−三〇四)
真の父母の子女だという認識を、皆さんのお母さん・お父さんのそれ以上にはっきりするよう、証ししなければなりません。嫌でもたくさん呼びなさいというのです。千回、万回「真の父母、真の父母」といいながら証ししろというのです。たくさん証ししなければなりません。皆さんのお母さん・お父さんを忘れるほど「真の父母、真の父母」と言わなければなりません。そうしなくては、その意識構造を変えることはできません。口をつぐみ、じっとしていてはだめなのです。分かりますか?(はい)。
エリコ城にイスラエル民族が入って占領するとき、ラッパを吹いて太鼓を叩き喚声を上げて「神様の国民が来た、お前たちは屈伏するのだ!」と叫んだら崩れたでしょう?(はい)。同様です。「この世は私のものだ。私たちは真の父母の息子だ。愛の所有決定権が門の前に来たので、これを否定すれば損害賠償を何倍もしなければならない!」と言わなければならないのです。臆病者になってはいけません。(一三七−三〇四)
犬の子として生まれたら、犬として生きなければなりません。犬としてだけ生きなければなりません。豚の子として生まれたら、豚として生きなければならないし、私たちムーニーはムーニーとして生まれたので、ムーニーらしく生きなければならないのです。(一三〇−二六六)
皆さんは虎の子となるべきであり、猫の子となってはいけません。分かりますか? では、虎の子になりますか?(はい)。それなら虎の鳴き声を一度出してみなさい。(ガオー)。小さくても虎の声を出さなければならないのです。「ニャオン」と猫の声を出してはいけません。皆さんは猫の子ではなく虎の子となり、韓半島全土にうずくまっている猫の子たちをすべて掃き捨てなければなりません。(三七−八八)
三 終わりの日には成和が自覚するとき
三 終わりの日には成和が自覚するとき
P156
終わりの日は何についていうのかといえば、一年中秋のような時を言います。秋になれば葉が落ち始めます。葉が落ちる際にはどこから落ちますか? 太い枝にある葉から落ちるのです。細い枝にある葉から落ちるのではありません。昔のもの、旧時代のものが先に落ちるのです。その権力が皆落ちていくのです。それゆえ私たち大韓民国を見ると、韓国の三十代が世界を料理する時に入ってきたのです。そして、これから少し過ぎれば、十代・二十代が世界を料理できる時になります。だから今の大学生が問題なのです。昔は七十・八十代となってようやく国を動かすことができたのですが、それが六十代、五十代、四十代、三十代へとだんだん下がってきています。二十代を過ぎ、これからはそれが十代に入ってくるようになれば、高校生たちをどのように収拾するかが問題になることでしょう。大学生が問題ではありません。これから高等学生たちをどのように収拾するかが問題なのです。
世界を生かしたり殺したりというのは、年とった人々のすることではありません。それで最近では、年とった人々は旧世代だといい、相手にしてもらえないでしょう? 大学の教授たちの中でも、年のいった教授たちを旧世代のモデル・ケースとして扱うのです。三十代の教授であって、初めて学生たちが深い興味を示すのです。おかしいでしょう?
それは何かというと、葉が落ちるようなものです。人類文化を形成するにおいて、年を取った人が落ちていくのです。皆落ちていくのです。昔は年のいったおじいさんの言葉だといえば、村中が行ったり来たりしたものですが、今では村の犬さえおじいさんの言葉には反応しないのです。そのようになりました。
今ではおじいさんの時代が過ぎ去り、お父さん・お母さんの時代が過ぎ去り、お兄さん・お姉さんの時代も過ぎ去り、私たちの時代が来たのです。今の時はどんな時ですか? 今は青春時代です。若い世代です。大韓民国で今いちばん頭が痛いのは何かというと、与党と野党が頭痛の種なのではなく大学生です。もう少しすれば高校生です。最後の土壇場に来ているのです。もう終わりの日が近づいているのです。
堕落の動機は何かというと、個人主義が発露することが堕落の出発点です。個人主義の発露が堕落の出発点なのです。世界や何かといったものはありません。その次に自由奔放の基盤を持ったことが堕落の要因です。「神様が取って食べるなというのはどういうことだ? 法とか何だとか無ければいいのに、法がなぜ必要なのか? 制約がなぜ必要なのか? 自分勝手にやってもいいだろうに」というのですが、そのように自分勝手にすることが自由ですか? それではいけないのです。
自由なら自由なほど、その世界は秩序と規約が守られなければならないのです。精密な機械であるほど、縦横に原理原則による秩序の通りに法則的な軌道に従って動くのです。このような法則に従うとき、自由活動の結果が出るのです。これは今日の科学文明と社会制度を中心に見るときに、否定することができないのです。この社会の構造も自由な形が必要です。人間だけ自由を必要とし、社会制度は自由を必要としていないのでしょうか? 社会制度は人間と相応するものなので、社会制度が組織と体系の規制の下で形成されたなら、人間はその体系化された制度に応じ、そこに備えることができなければならず、それを主体的な立場でむしろ保証してやらなければなりません。そのようにすべき人間であるという立場から見ると、勝手気ままな自由などありえないのです。
進むには、必ず道が設定されなければなりません。方向が必要です。今日、自由主義の思想は無方向的です。自分の思い通りにするのに方向がありますか? しかし、方向のない心がどこにありますか? そのような考え方は滅亡する考え方です。そのような退廃的な思想は絶滅させなければなりません。それゆえ、難しく高次的なものであるほど行く道が複雑なのです。皆さんは複雑なのがいいですか、単純なのがいいですか? 複雑なのがいいのです。
皆さん、人体の中でも目について考えると、単純なようですが複雑なのです。目の細胞も一つひとつはすべて複雑です。すべて複雑ですが、一つの生命体として生活をするにおいて、これが互いにぶつかり合うのではなく、互いに協助しながら共存しているのです。それゆえ、自分は目であれ何であれ皆嫌いで手がいちばんだということはできないのです。前後左右上下関係において、位置と階級に従って、必ず各々制約された法度と条件に順応しなくては行く道がないのです。通ずる道がないのです。(四九−一九〇)
四 成和の活動姿勢
四 成和の活動姿勢
P158
先生は、青少年期に、願いの標準と生涯の目標を立てて決心しました。先生は、いつのまにか青年期と壮年期を過ぎ、老年期に入りました。ところで、一つだけ悲しいのは、青少年時代に完成したので、父のことを呼ぶことができなかったことです。すなわち、エデンの園のアダムとエバのような時期に、お父さんと呼べなかったのが悲しいのです。それゆえ、皆さんはだれよりも幸福な人たちです。神様の伝統を引き継いだ者として、直行しなければなりません。み旨を知らない学生たちと先生たちを哀れに思わなければなりません。そして、神様が自分一人を立てるためにどれほど苦労なされたかを考えなければなりません。
正しくないことは屈伏させなければなりません。力に対抗して、力でないもので屈伏させようとすれば、何千倍の苦労をしなければなりません。どんな環境も収拾して征服することができる、忠孝の志操を立てなければなりません。そして純粋な心で出発し、確固不動な歩みで目的を達成しなければなりません。
原理は道案内であり、原理の目標は先生の生涯です。誠心誠意、目標に向かっていけば、道しるべが現れます。皆さん各自は、自分に与えられた環境で歴史的な出発をしなければなりません。そして真実の種を蒔いて育てなければなりません。(二一−八三)
皆さんの心の世界でいちばんよいものは何ですか? これが問題です。世界でいちばんよいものがあれば、統一教会の少年少女たちがこれを奪わなければなりません。一人で不足ならば十人、百人、千人、万人でも食らいついて奪わなければならないのです。
大韓民国に中学・高校生がどれくらいになりますか? 百万人ほどで蟻の群れのように食らいついてやっと奪って来れるよいものがあるとしたら、皆さんが百万人を動員できますか? それができるなら、人々を動員して奪ってくる運動をしなければなりませんか、どうですか?(しなければなりません)。
ところで、それを知っている人は私一人しかいません。皆さんを動員させなければなりませんが、皆さんはどうしますか? 皆さんが動員しなければ、世界でいちばんよいものは、永久に皆さんとは何の関係もなくなります。しかし、皆さんが「何年間に百万人を動員する」と進み出たなら、世界でいちばんよいものを皆さんのものにできるでしょう。
つまり、今日、世界の数多くの国にいるすべての青少年、中・高生たちを皆押し退けて、韓国の学生が獲得したなら、韓国は世界中の中・高生のチャンピオン国となるでしょう。そうでしょう?(はい)。それをやらなければならないという気がしませんか? やるの、やらないの?(やります)。若い人には相当刺激的な言葉で「やる、やらない?」と聞かなければなりません。(笑い)今、皆さんの中で先生を初めて見る人は、「先生は品のある立派な方だと思っていたが、こうだとは知らなかった」という人もいるでしょうが、品よくやっていては力が出ません。大きな声で「やる、やらない!」と言ってこそ力が出るのです。先生がそういうことも十分に知らなければ、皆さんを指導することができません。一度してみたいですか、してみたくありませんか?(してみたいです)。(三三−二七七)
五 成和人となれ
五 成和人となれ
P160
神様は今若い人たちに願いを託し、要求しておられます。これほど複雑な地上に神様は私たちを立て、願われてきた世界を成そうとしておられるのです。今日の私たち若者は、その道を行かなければならないのです。(一五−八一)先生も年とった人の中に入るので気分がよくありません。しかし、年老いた側には入りません。先生は年とった人が好きではありません。若い人が好きです。今でも、好きなのは若い学生たちです。しかし、学生たちの気分がよすぎるのも困ります。
今日、統一教会の中・高生を成和学生といいます。「成和」という言葉がどういう意味か分かりますか?「ソンファ(成和)」という言葉です。それでは大変なことが起こったときや緊急なときは何と言いますか? それもソンファ(成火)と言います。「ソンファ」をハングルで書けば同じです。発音も同じです。しかし意味は違うのです。
皆さんは大韓民国の成和人にならなければなりません。町内の成和人とならなければならないのです。学校で伝道するときにも、楽に伝道できますか?「なんだ、それくらいの勉強が問題なものか。私が大勢の友達を引っ張って行って信じるようにしよう」という人がいますか? そんな人を見ましたか? ひたすら「聞くだけ聞いてみましょう」と頼み込まなくてはならないでしょう。だめなら胸倉でも一度つかんでみろというのです。悪い意味ではなく、よい意味でです。(二五−一〇二)
先生は成和が好きです。皆さんは成和人です。また、村に行けば村の成和人です。サタン世界の成和人であると同時に、神様の世界の成和人です。それゆえ、一点で出発して一点で実を結ぶのです。皆さんは自分が成和人であることを考えたことがありますか?
このような観点でみるとき、世の中で親たちが子供に「勉強しなさい。言うことをよく聞きなさい。友達の模範にならなければならない」と言うのですが、それが成和人ですか? 父母が子供に「勉強をしないと劣等生になるから、頑張って勉強しなさい」これも成和といえば成和です。また、子供が学校から帰るや、父母が愛の心で愛情こまやかに与えてくれたものをすべて持って出て行き、近所の子供たちにかわいそうだと分けてあげます。これも成和です。また、父母が子どもに十年もかけて、何か精誠を込めて準備し、与えましたが、これも二時間足らずで全部ほかの子供たちに分けてあげます。それも成和でしょう?
成和には二つあります。一つは滅びるものであり、一つは栄えるものです。一つは福を与えるもので、一つは福を取り出すものです。一つは積み上げるものであり、一つは崩すものです。(二五−一〇三)
今から成和学生の皆さんは、自分の肉体から怨讐に復讐し、自分の肉体から神様を開放して差し上げることのできる騎手となろうという信念を持たなくてはなりません。神様が六千年間闘ってこられた信念以上の信念を持った人がいれば、み旨を成すことができなくても、神様はその人に仕事を任せるのです。(四七−八〇)
自分自身が孤独であれば、周りの学生たちを自分の側につけなければなりません。そして、その学校を陥落させて「私は勝利した」と万歳を叫ぶことができなければなりません。
鏡の前で自分の顔を見るたびに「お前はみ旨の前に出発したその道をそのまま歩んでいるのか」と問いかけてみなければなりません。
「成和」の名前を汚さない皆さんにならなければなりません。自分の力ではそれ以上できず、耐えられないときになってから「神様、助けてください」と言ってこそ自主性のある人となります。
第四章 学校と勉強
第四章 学校と勉強
P164
第一節 学校と先生一 学校とは何か
教会は天のためのものであり、学校は未来の子孫のためのものです。神様のみ旨は後世のため残すものです。個人を犠牲にし、より大きな後世を願うので、今は滅びても、後世により大きな国と世界が到来することを思い、そのためにあらゆる精誠を尽くすのです。(九六−三三)
二 学校に通うわけ
二 学校に通うわけ
P164
皆さんは学校に通っていますね。小学校なら小学校を出発した動機があります。そして、学童として毎日毎日日課に対する相対的観念を通し、それといかに一つになるかという過程を通して小学校卒業という一つの課程を終えることになるのです。そうして小学校を卒業した目的の上に、卒業したというその目的基準の先に新しい動機を見いだして、新しい世界と相対関係を結び、新しい目的の世界に進むのが中学校であり高校であり大学であるわけです。(六六−二四二)学生たちは学校に通いますが、なぜ学校に通いますか。学校に通うのは国と世界のためです。そのように考えなければなりません。そこが人と違っていなければなりません。(一一七−九五)
赤ちゃんはお乳を飲んで満足しながら人の顔も見分けるようになり、「あの人がいちばんいいな。あの人がお乳を飲ませてくれる人だ」と思うのです。でも、お乳だけ与えていればいいのでしょうか。本当に愛する親なら、訓練もして運動もさせて、嫌なこともさせなくてはいけないでしょう。大きくなればなるほど世界に打ち勝つことのできる人にしようとする親、世界的な厳しい訓練をすべて施して、世界が太刀打ちできないような人に育てようとする親が本当の親なのです。
それは、小学校、中学校、高等学校、大学に通わせて訓練し、世界を支配できる人、世界に支配される人ではなく、世界を支配できる人にしようということです。(九五−八七)
三 教育と善
三 教育と善
P165
学校の授業科目の中に道徳の時間がありますね? この道徳を最近は何といいますか?(正しい生活です)。「正しい生活」ですか? この正しい生活の時間に先生が、悪い人には悪で報い、善い人には善で報いろと教育するのではなく、悪い人に対するときは耐えろと教育します。悪いことをする人を見て、自信がなければ接するなと言います。悪から離れろと言います。分立しろと言うのです。(三九−三〇八)今日、大韓民国に大学や中学、高校、何らかの教育機関がたくさんありますが、その定義も知らずにいます。韓国の人口は四千万、このごろでは六千万とも言われていますが、五千万以上にもなる韓国の国民は、善・悪という言葉は知っていても、一体それは何を基準としていう言葉か、第一の基準は何か、これを知らずにいるのです。これが問題なのです。
言葉もそうです。自分と少しでも違ったことを口にすれば、悪いと言います。「私はこうだと言っているのに、あいつはああだと言うのだからとても悪いやつだ」というように、全部そんな調子です。行動を見ても、「あの悪いやつ」といいます。基準がありません。変わるものを基準にしたものは破壊に至るのです。あらゆる測定器、メーターならメーター、はかりならはかりのその基準は変わるものではありません。変わらないものが単位になるのです。絶対に変わらない単位は何が中心になっているか、これが問題なのです。(一三六−一一〇)
私たち人間は、どのように生きるにせよ、この世に生を受けたなら、一つの時代を生きていかなくてはなりません。一つの時代を生きるにおいて、人類の生活はいろいろな形で展開しています。
とりわけ、悪いことはしやすい世の中です。悪いことにはすぐかかわってしまいがちですが、善いことは難しいのです。悪いことをしやすいのです。ですから、これを制裁し防ぐための法律はたくさんあります。
いろいろな人々に「君は善い道に行くのか、悪い道に行くのか?」と尋ねるなら、だれもが「私は善い道に行く」と答えます。だれでも幼いときからそのように言うのです。子供のときから、小学校、中学校、高校、大学に至るまで、教育を受ければ受けるほど、どこに行っても一生の間ずっと、善い道を行け、という教えを受けるわけです。そのような世界に私たちが生きているということを皆さんは知らなければなりません。そのような世界に私たちは生きています。(九八−二三二)
今日、私たちは歴史上に二つの道があることを知っています。善なる人がいれば、そこには反対の人がいます。善いことをしようとするとき、必ず反対の副作用が現れるのです。本来の善を立てるための社会ではなく、善に反対する歴史的な社会であったことを私たちは知っています。
ですから、善いことをするのは難しくとも、悪いことをするのは簡単です。十の悪よりも一つの善を行うほうが難しい社会的な実情の中に自分が置かれていることを忘れてはなりません。このような悪が基盤を固め、悪の思潮が再び歴史的背景から現実的な舞台に現れ、私たちの求める未来世界を征服しようとするとき、私たちがこれを傍観したり逃避する立場に立つなら、善なる世界を完成することはできないのです。そうなれば、善なる個体を完成することができず、善なる個体を完成できなければ、善なる家庭を完成することも不可能になり、善なる国、善なる世界も完成不可能になるのです。(五四−一二)
四 学校での教育課程
四 学校での教育課程
P167
小学生は小学校の学課(教育課程)に拘束されています。そうですね? 学課は自分を拘束する縄です。大学に行けば大学の学課が自分を拘束しておく手錠と同じなのです。それを解かなければなりません。そうでしょう?(一二六−四二)何かを一つするには七年以上取り組まなければなりません。このごろは、小学校も六年ですね? 中・高等学校も六年ですね?(はい)。それはだれが六年と決めましたか? 六数を過ぎなければ次の段階に進めないのです。六数は三対象の対象数です。蘇生・長成・完成を分けてあるのです。理想数は七数です。これが連結されるときには七数中心です。七数は完成数なのです。分かりましたか?(一八一−九〇)
どこの小学生であれ、「僕は小学校なんて要らない」と言うことができますか? その小学校が嫌いなら、絶対に中学校に行く道はありません。そうですか?(はい)。中学校を卒業できなくては、絶対に高校へ行くことはできません。どうして行けないのですか? 自分の勝手でしょうに、なぜ行けないのですか? 行く力がないのですか? 美男子ではないですか? お金がないのですか? 貧しくて着るものがありませんか?(いいえ)。嫌でもその課程を経なければならないのです。
学問修得の段階について、私たちが幼稚園で学び、小学校で学び、中学高校で学び、大学に進んでさらに学び、博士の位置まで行くと見るとき、最高の課程に進むにおいて、下のほうの課程は必要ないと言えるかというのです。小学校で学んだものがどうして必要ですか? 小学校では基礎を学ぶのです。それはすべて必要なものです。それを自然に消化できる環境のおかげで習得できた事実を忘れたのなら、そんな言葉も出てくるでしょうけれども、その事実を認めるなら、必要ないとは言えません。
では、幼稚園に行って習うのは何ですか? 小学校に行って便利に、小学校に行って学ぶことを容易にするための準備をしに幼稚園に行くのです。小学校へはなぜ行くのですか? 小学校は中学校に行って勉強するのに支障がないようにするために行くのです。中学校へ行くのはなぜですか? 高校での勉強に支障がないようにするためです。高校へ行くのはなぜですか? 大学へ行くのは? 修士、博士課程に支障がないようにするためです。こういう論理です。正しいですか?(はい)。(一二二−一七六)
見てみなさい。幼稚園より小学校で学ぶのがずっと悲惨で、小学校より中学校がもっと悲惨で難しいのです。また、中学校より高校がさらに悲惨で、高校より大学の修士コースのほうがさらに悲惨です。修士の先の博士コースはもっと悲惨です。博士コースを終えて社会に出てみると、これがもっと悲惨なのです。これが続くのです。だんだん難しくなるのです。だんだん。
皆さん、統一教会のレバレンド・ムーンに今も学んでいますか、いませんか?(笑い)こんな講義は大学でもしません。この講義は、よく聞いてみると根本的な教育なのです。それを感じますか?(はい)。皆さんは言葉で言い尽くせない…。皆さんが社会に出ると、社会が皆自分より下に見え、だれか偉そうな人が話をしても何も感じません。ですから統一教会の食口は賢いのです。それで、(特別な)何かがある、と言われるわけです。これが一般の評価です。
皆さんが幼稚園に通っていたときは、きれいな服を着たものですし、小学校に通うときもきれいな服を着て、中学校に通うときもきれいな服を着ましたが、高校を出て修士課程に進んだら、きれいな服など何になりますか? 散髪する時間がないし、ひげをそる時間がありません。本当に悲惨です。思い返してみると、昔、幼稚園のころが懐かしく、小学生のころが懐かしくなります。かといって、あんなのんびりしたことをやってもいられないのです。(一一七−四〇)
五 よい先生とは
五 よい先生とは
P169
小学校に入ると、先生が、教室で座り方から話し方、行動、すべて規制して「これをしてはいけません」というのが初めは多いでしょう? 何でもかんでも「してはだめだ」と言います。そうしなければ大学に行って博士になっても、大人になって何かの地位に就いたとしても、そこで主人たる位置に立てないのです。その日のために小学生のときから準備をするわけです。ですから学校へ行けば、全部「あれもだめ、これもだめ」なのです。ひたすら遊んで回りたいし、垣根も登ってみたいし、戸も蹴飛ばしたいし、手っ取り早いのが好きなのに「こらこら、そんなことをしてはだめだ」と言います。うちの權進もそうです。この子は、今朝もおかあさんが「家にいなさい。外に出ていたずらしてはだめ」と注意しました。それなのに、お父さん・お母さんがいなくなると、夜も明けきらないうちから外に出て遊びたがります。それで「ああしてはだめ、こうしてはだめ」となるわけです。
皆さん、それを知らなければなりません。そこで、このような教材を立てるにおいて、…。神様は釣りをするのに、見た目によい甘いえさは使いません。規制するのです。してはいけない、というのがとてもたくさんあります。まかり間違えば、堕落した世の中の東西南北、四方すべてが汚れてしまうのに、好きなようにやれと言いますか? 「このように、これだけをやれ」と言うのです。(横に跳ねるのではなく上にだけ)高く飛び上がるほうがよいのです。「高く飛べ、高く飛べ」と言うのです、首だけでも天に引っかかるように。そういう意味があるのです。(一三六−二〇九)
学校では、どんな先生が好きですか? 「さて、きょうも勉強の時間になったけど、君たち若い連中は勉強嫌いだよね? 勉強の代わりに花畑で遊ぼう」という先生が好きですか、それとも「このガキども。春が何だ。勉強しろ勉強!」という先生が好きですか? どちらがよい先生ですか?(二番目の先生です)。そうですね。(一三一−一一七)
学校では、目をきっといからせてチョークをとり、厳しく教える先生がいい先生ですか、ただ遊ぶように楽に教える先生がいい先生ですか? どんな先生が真の先生ですか?(厳しく教える先生です)。知っていることは知っていますね。
ですから、学校では恐ろしい先生がいい先生です。分かりますか? しかられても何と言われても、従順にその悪口をすべて消化する人は、その場に同参するのです。同参して、その先生の直系の弟子になるのです。それが原則です。そうでしょう? それ、そうですか?(はい)。それが原則です。(一六一\三七、一二五\八二)
先生は子どもたちに大きな愛を与えなくてはなりません。大きな愛を与えようとする前に、弟子たちは絶対服従しなくてはなりません。この頃の学生たちは合格者ですか、不合格者ですか?(不合格者です)。不合格者の中でも危険な不合格者なのです。許せません。神様が私たちのためにしてくださるので、すべての宇宙は絶対服従するのが当然だ! (一六四−五〇)
今日、学校問題が急を要する社会問題として、アメリカや日本や全世界に登場しています。先生は、父母の代わりに愛をもってその教え子たちを教育しなければなりません。(一二七−一七)
第二節 学生の本分
第二節 学生の本分
P172
一 学生の位置と責任学校に行けば学校には校長先生がいて、先生がいて、生徒がいて、主体と対象の環境になっているので、そこでは学生が先生の言うことに反対したら追放されるのです。学校に行く学生が、勉強よりもほかの考えを持って行くとすれば、その人は追放されるのです。(一一八−一九)
人はだれでも自分の所属が無ければなりません。家庭に入れば父母に侍る息子なら息子、娘なら娘、あるいは母親なら母親、父親なら父親の位置を持っていなければならないのです。人それぞれにその位置があり、その位置で関係を結んでいるので、その位置で任されたところの責任を私たちは果たそうとしているのです。例えば、ある父母の息子として将来を望みながら学校に通っている学生がいれば、彼には学生としての位置と責任があるのです。もしもその位置がなければかわいそうな人なのです。そのような位置がなく、そのような関係と因縁の中で、何かの責任を持つことのできない人は寂しい人です。
そのすべての位置が明らかで、その位置を中心として、前後、左右、上下関係においてその人が要求するままに秩序正しく協助できる環境を持つようになるとき、この人はこれから無限に発展できるのです。しかし、いくら位置が決定されていて、その環境が具備されていたとしても、関係され因縁づけられるすべての周囲の環境が、その人が行く道の前に同行できない、反対になりうる、互い違いの環境になるときには、その人が行く道の前に困難が伴うのです。
私たちの人生行路においてもこれは同じです。一つの家庭においてもそうであり、一つの社会においてもそうです。(四一−一三〇)
今日、若い学生たちは、かばんを持って学校に行きます。ところで、かばんを持ってどんな目的で行くのかということを考えられない学生たちがいます。
自分は社会に出る。出てどこに行くのでしょうか。自分は国の重大な責任を持って出ていく、世界があるので世界を指導するために行くといって出て行きますが、そこからさらに進めばどこに行くのでしょうか? 天があるならエックス(X)が横たわります。世の中の万事がこのような曲折の場におかれていることを私たちは否定できません。(五−一七八)
ある人が成功するためには、目的観がはっきりしていなければなりません。目的観がはっきりしていなければなりません。行く途中で、ジグザグに上がったり下がったりすれば時間的消耗が生じます。時に対する消耗をもたらすようになるのです。皆さんが勉強するとき、小学校から中学校、高等学校、大学を経て修士、博士コースを経ていくのに、自分が何を専攻するのかということは、とても重要な問題です。
このような観点から見るとき、もし小学校なら小学校時代により努力すれば、中学時代を迎えられる位置にも進めます。私たちが修士コースまで行くためには、約一八年ないし一九年、博士コースまでは二十年ないし二十一年を勉強していかなくてはならないのですが、その勉強する年限は定められていますが、時間的な面でこれをどのように圧縮するか、という問題については、ここに倍の努力を投入することが必要なのです。
その期間を一八年に縮めるか、十年に縮めるかということは、だれによって決まるのですか? 時に対する限界がそれを左右するのではなく、自分にかかっているのです。時が自分を支配するのではなく、自分が時に関するものを支配できる能力者にならなければなりません。そうですね?
ある一定の目的を中心にするためには、必ず一定の時間が必要です。また一定の時間があるのですが、その一定の時に自分の一定の努力の量を投入しなければなりません。また一定の時間に自分の一定の努力の量を投入するとしても、そこにどのくらい精誠を尽くしますか? どれだけ体と心が一つになり、投入されるかというところに差が出るのです。
それでは精誠を尽くし、すべての精誠を尽くすことのできる力を、原動力をどこからもってきますか? それが問題です。それを他者の力により補助を受けるか、自力で自分が主体性を発揮するか、という二つの立場に立ちます。この二つの道において、どの道が効果的かというのです。それは自体的なこのような原動力を持つことができてはじめて、相対的に外的に、だれか協助してくれる人がいなくても正しく行けるのです。
それでは自体的な原動力を備えるにおいて、その自体的な人間としていちばん必要なものは何ですか? その動機の核心となれるものは、何でなければならないかというのです。そこには心情的問題に悩まされても自分が主体性を持てる道、永遠なる精神を捧げられる基盤がなくてはならない、ということを推測できます。このような高次的な愛の心情が、どこでそのような爆発的な原動力を私たちに提示するのでしょうか? それは必ず相対的関係、父母と子どもの間とか、愛する人と自分との関係とか、このような相対的関係を中心として生じるのです。そういう爆発的な刺激をどこで受けるのですか? 愛で受けます。愛ですが、愛もその処する位置によって違うのです。互いによい環境か、悪い環境かという。皆さんはどうですか?(九八−九)
皆さんが幼稚園に行き、小学校に行き、中・高等学校に行き、大学に行くのは何のためですか? なぜ行きますか?(責任だからです)。どうせその責任を負うべき運命にあるので、責任を果たすか、果たせないかによって…。果たすための解決方法、より価値があり、より大きな責任を果たせるために行くのです。そうですか?(はい)。(九八−二三四)
二 学生時代は準備するとき
二 学生時代は準備するとき
P175
学生は何ですか? さまざまな社会の核、要素を集結させるのです。社会のいろいろな制度を中心として、相対的基準を備えたところで根となれるものを学校で全部…。そこで、ここにおいて専門分野といえば、経済なら経済分野など、各専門分野が皆あるのです。政治なら政治分野、皆連結されるのです。ですから社会の訓練場所、それが学校です。社会のいろいろな制度を核として連関関係を結んでいるのです。
社会と学校はどうなるかといえば、X・Yの関係です。同じです。これもこのように連結されるのです。学校の成績がよい人が社会に出ても優れた活動をするかというと、そのまま通用しません。勉強を頑張った以上に、社会に出て活動しなければなりません。何もせずに食べようとしては絶対にだめです。共に大きくなっていかなくてはなりません。勉強のできる人なら、このくらい大きければ、その大きいくらいに相対的な条件を立てなければなりません。
いくら勉強ができても、座ったままでは社会で出世できません。勉強を頑張って、いくらうまく就職ができたとしても十年、二十年漠然と過ごしたら、そのままではほかの人に負けるのです。ですから共に伸びていかなければなりません。(一八〇−一三〇)
皆さん、見れば皆若い人たちですが、ある人が成功するか、しないかということは、ある一時に決定されます。一時が重要です。(九一−二九)
学校の教室で勉強を始めるときは、皆自分の先生であり、自分の弟子であり、皆同じですが、一年過ぎれば落第生が出るという事実を知らなくてはなりません。そのときは、先生が「君をいつも愛してきたけれどしかたがない。君は落ちなくてはならず、彼らは上がらなくてはならず、私は彼らについて行かなければならない。君はついて来ることができない」ときっぱり言うときは、行くことができないという事実を知らなければなりません。落第した後で、先生が悪い、友達が悪いといくら言ってみても通じません。(一二三−二〇四)
学生は学生時代に何を残すべきでしょうか。また、皆さんは開拓時代に何を残すべきでしょうか。すべてのことにおいて、それを確かめなければなりません。分かりますか?(はい)。
対人関係では何を残すべきですか? 完全にそれを考えなければなりません。(九六−三三一)
三 真なる学生
三 真なる学生
P176
1 真なる学生今日、人間たちの中に真なる人がいますか? これが問題です。不幸だという人たちが、真の人になれますか? 皆さんは金が好きでしょう? 皆さんは純金を願いますか、それともほかのものが混じったものを願いますか?(純金を願います)。ほかのものを混ぜ合わせて、それを本当の純金だと言ったら、人は嫌がるはずです。純金は、純度が九十九パーセントでなく、百パーセントでなくてはなりません。
それでは純金と純金が合わされば、それはどんな金になりますか? 純金どうし合わせれば純金になりますが、その純金に少しでも偽物を混ぜたら偽の金になります。ですから純金に純金をどんなに加えてもいいですが、そこに少しでも偽物を加えたら本物の純金まですっかり偽物になってしまいます。このように考えるとき、果たして真なる人はいるのでしょうか。いると思う人は手を挙げてみなさい。
ここに学生たちがいるのですが、私たちはよく「真なる学生だ」と普遍的に言います。これを皆さん、知らなくてはなりません。私たちがいう真なる人というのは、普通の人より少しよい人をいうときの言葉です。ある町内を中心にしてみるとき、町内の学生たちの中で、少しよく見えれば「真だ」というのです。ですから、今町内で使う真だというその言葉は、絶対的なものになりえません。(四一−一七一)
ある学校の学生たちがいたら、その学生たちの中でもっとも真なる学生はどの人であるといったとき、それはどこまでもその学校で言うことです。その学校について見るとき、そこには過去もあり未来もあります。そうならば、その学校で現在最も真だという学生が、過去も代表できますか? 現在の数多くの学校の学生たちの中で随一の中心になれますか? さらには、未来の数多くの学生たちの前において中心になれるかという問題を見るとき、自信を持てないのです。
また、ある人について「あの人は私たちの村だけでなく、大韓民国人だれでも真の人だと認めることができる」と言ったとき、果たしてその人が過去を代表できるか、現在を代表できるか、未来を代表できるか、等々の問題が連結されて問われるのです。(四〇−三〇六)
「真なる学生」というときに、その真なる学生は何を忘れてしまうべきですか? 図書館に十人の友達が入って勉強をするというとき、勉強するのを忘れて勉強する人、疲れも知らず、昼なのか夜なのかも忘れ、ご飯を食べるのも忘れてしまって勉強する、そのように何かを忘れて勉強する人が真なる学生です。
どこに行っても真の愛だけしようというのです。お兄さんにお仕置きされても蹴られても忘れ、こちらの隅で打たれたら、向こうの隅に行って「あっ、お兄さんどこに行くの?」と言いながら、むち打たれてまだ痛みも取れないのについて行く、そんな人が真の弟です。(一七四−二八)
2 よい学生
学校の学生は、校長先生をはじめ、先生方が考える通りについて行く学生はよい学生であり、そこに違反する学生は悪い学生である。これが理論的です。家でもそうです。家でもお父さん・お母さんの考える通りについて行く人はよい人であり、それに反対する人は悪い人なのです。
それなら、会社の社長の考え通りにする社員はよい社員であり、違うことをする社員は悪い社員だといえば間違っていますか、正しいですか?(正しいです)。統一教会のムーニーたちの中で、レバレンド・ムーンの考え通りにする人たちはよいムーニーであり、その反対の人たちは悪いムーニーだ。これは正しいですか?(はい)。それでは、皆さんはどちら側ですか?(よいムーニーです)。何がよいムーニーですか? レバレンド・ムーンと考えが同じで?(行動が同じ人です)。ちゃんと知っていますね。皆さん、私よりよい考えを持っていますか?(いいえ)。でも、私はそれを願っています。皆さんもそうですか?(はい)。
このような論法でみるとき、神様が考える通りに考える人はよい人になれる、なれない? どうですか?(なれます)。(一〇四−二〇六)
グッドボーイ(good boy:よい学生)とは何ですか? バッドボーイ(bad boy:悪い学生)を消化でき、彼に教えることのできる基準を持ってはじめて、グッドボーイだということを知らなくてはなりません。グッドボーイはいつでもバッドボーイの影響を受けず、バッドボーイがグッドボーイの影響を受けるようになっています。それを知らなければなりません。バッドボーイにもなりグッドボーイにもなることはありえないのです。そうなれば、それはグッドボーイでなくバッドボーイになるのです、バッドボーイ。二つの世界を行ったり来たりするのです。(一一六−一九五)
皆さん自身が考えてみて、皆さんはよい人ですか、悪い人ですか? もう一度聞いてみます。(よい人です)。皆さん、どれだけ皆さんのお父さん・お母さんを好きになって、愛したことがありますか? だから悪い人です。皆さんの兄弟をどれだけ本当に愛したことがあるでしょうか。愛してみましたか?(はい)。愛したことのない人は悪い人です。皆さんの友達をどれだけ好きになったことがありますか?
皆さんの先生をどれだけ好きになったことがありますか? この世界の聖賢をどれだけ好きになったことがありますか? いちばん好きになるべき神様をどれだけ好きになったことがありますか? このような問題を取りあげて、私がよい人か悪い人かと尋ねてみるとき、皆さんはどうですか? そのように聞かれたら、よい人ですか、悪い人ですか?(よい人です)。今よい人ですか?(笑い)皆さんは、いつでもそれを考えなければなりません。(七六−二七五)
私はきのう水択里に行って中学・高校生たちにこんな話をしました。父母の世話になったら、それはよいことではないので、それ以上に返さなければならないと言いました。父母の愛の種が大きいならば、実一つでも返すことのできる結実を結ばなくてはなりません。それゆえ父母の前に孝行しなければなりません。師を尊敬しなくてはならないし、社会と国の前に忠誠を尽くさなければなりません。父母の前に負債を負ってはなりません。(六八−一七一)
第三節 友達関係
第三節 友達関係
P181
一 本来の友達の中の友達は父母もし人間が堕落しなかったら、友達の中の最も真実な友達がだれかといえば自分の父母です。自分の父母が友達の中の友達の王なのです。また、先生の中の先生の王が父母なのです。分かりますか? すべての計画の根本は父母であり、すべての生活の根本も父母であり、すべての社会活動の中心も父母なのです。ところでこの父母が、真の父母でなく偽りの父母になりました。逆さまになったのです。
二 友達関係は友情が必要だ
二 友達関係は友情が必要だ
P181
友達どうしの間には友情があります。友達の間から友情を取ったら一つになりますか、なりませんか? ならないのです。(四一−三三一)友達どうしの間でもそうです。ただ顔を知っているだけ、挨拶するだけで過ごした友達の家に行って、自由な感じがしますか? 自由ではないのです。友達どうしの間でも、互いに確かな心情的つながりがあり、自分は友達の生活を思い通りに侵犯でき、さらに友達はこちらの生活を自由に侵犯できてはじめて自由なのです。このような因縁を結ぶためには、必ず情的に近づかなければなりません。そうなれば、外的な問題はすべて解決するのです。従って、いちばん問題になるのは心情的問題です。(三三−一三三)
よく私たちは、友達どうしで「いちばん大切なものは何か」と尋ねることがあります。それはどういう意味でしょうか。それは、自分の心の中の心情に深く刻まれた物があるか、ということです。深いという言葉には、必ず心情的な内情が連結されているという事実を私たちは知らなければなりません。(九一−一〇)
人々は友達がほしいというとき、涙のある友達を願います。かといって、一日中泣いてめそめそしている、そんな友達がほしいのではありません。涙のある反面、笑いに満ちあふれた人を願うのです。人はいつでも、しかめ面をしていてはいけないのです。そんな中でも、あふれる喜びを見いだせなくてはならないのです。ですから、福を受ける人はどんな人ですか? 人が泣くとき、一緒に泣いてあげる人が福を受ける人です。そうなのです。福というのは、永遠に離れたくない所にやってくるものです。そう思いませんか?(三六−一〇九)
三 友達関係の形成
三 友達関係の形成
P182
「私の友達はどんな人であるべきだろう?」と心に問うなら、この心は「けちな人とは友達にならない」と答えます。(一五三−二五)後退は、どんな人でも歓迎しません。後退する人はだれも友達になってくれないし、接しようともしません。前進するところでのみ交わろうとするし、友達になろうとするのです。それでは、今、私たち自身は停止しているでしょうか、あるいは前進しているでしょうか、それとも後退しているでしょうか。何にもまして、これが私たちの考えるべき問題です。(三二−一九)
だれよりも親しく愛される友達になろうと思えば、その人の悲しみと苦痛を知り、その人を支え、慰めてあげなければなりません。そうしてはじめて、その人の友となり、その人を支配できるのです。心情を通し、愛で因縁を結んだなら、その人が自分の思い通りに動き、自分もその人の思い通りに動くことができるのです。(七−三〇六)
十人の友達のために犠牲になる人がいるとすれば、十人を統率できる中心者としてだれを立てるべきかというとき、十人のために犠牲になる人を中心者に立てようとするのです。中心者として立てる場合だけでなく、その人が自分を完全に犠牲にして、彼らが安心できるようにすれば、自分たちを指導してくださいといって、自分たちの指導者に立てるのです。そうなるのです。(四九−一九八)
四 望ましい友達
四 望ましい友達
P183
皆さん、よい友達というのは、その友達が自分に対してどれだけ考えてくれるか、一日に何回考えてくれるか、という回数が多いほどよい友達になるのです。(一六一−一三一)皆さんが学校で、十人の中でいちばんよい友達を選べというとき、十人の心情を知り、十人の事情を知り、十人のために尽くす友達が一人いて、一方、十人全員に自分のために尽くせと言う友達がいたならどうなるでしょうか。十人全員に対して私に尽くせと言う人は追い出され、十人全員のために尽くす人は主人になるのです。(一七七−二八八)
ある人に十人の友達がいるとします。その人が、十人の友達に対して全体に奉仕し、犠牲になり、生命を懸けて彼らのために生きるとき、その十人の友達は、その人のためだけではなく、自分の親戚とか、自分の友達の前まで連れていって紹介し、誇ろうとします。しかしながら、その反対の立場で、十人の友達に全部自分だけのためにしてくれと言うときには、一人だけでなく全部が離れていってしまうのです。そのようにしていなくなるから滅びるのです、多くなるから栄えるのです。こちらは悪の行く道であり、こちらは善の行く道です。(五四−二九)
皆さんが真なる友達と言うならば、真なる友達とはどんな友達かというのです。十人の友達がいて、その中でいちばんの真なる友達はだれか? かき分けてみれば、十人のためにより犠牲になろうという人です。自分の利益を追求せず、十人の利益を自分の利益よりもっと尊重視しながら、一日の生活から一年の生活を通じて、青春時代から老年時代まで友達のために一生をそのように生きるという人が、友達の中の真なる友達にならざるをえないのです。(一七二−一四五)
真なる友達と言えば、真なる友達とはどんな人か? 今日、普通人間たちが願う心と反対の立場で、自分を懐かしがってくれ、自分に接することのできる人です。普通、人はいいものがあると、自分のものと言いますが、いいものがあればその友達のために「これはおまえのだ」と言える友達であってこそ真なる友達というのです。全部反対です。「おいしいものがあれば、自分が食べる」と言うのが、普通の人の心ですが、「おいしいものは、おまえが食べろ」と言える人、世の中の普通の人なら「悲しいものは、おまえのもの、いいものは私のもの」こう言うだろうけれど「悲しいものは、私のもの、いいものは、おまえのもの」と言える人がいい人なのです。(一五六−八二)
この世の中で、いちばん好かれうる友達がいたら、その好かれうる友達というのは、億千万歳までも君と私の間を絶つことができないという、そういういい立場の友達かということです。値段の高い何よりも、自分の奥さんよりもいいと言える友達がいい友達です。一日の生活感情で引き起こされた一言の言葉で捨てられる、そのような因縁の立場ではありません。生命自体を収めていっても絶つことのできない立場が、このような友達の立場なのです。そのような同情の立場ではないと言える立場が、善の母体であるため、今日、自分の本心に共にあった善と因縁づけられたすべての因縁は、永遠に絶とうとしても絶つことができないのです。(四二−二一八)
幸福な人はどのような人か? 悲しいとき、自分の心を分かってくれる友達を持った人です。幸福な人はどのような人か? 苦痛を受けるとき「その苦痛を私が代わりに受ける。あなたはその苦痛の場に行くな。私が代わりに行く」と、生命を捨てる覚悟をして立ち上がることのできる、友達や愛する息子や娘を持った人です。その人は、幸福な人です。皆さん、そのような人をみんな持ちましたか? 持ったかというのです。(一五〇−二七七)
五 友達関係の留意点
五 友達関係の留意点
P185
「ああ、あの人は私の友達の中で、あるタイプの人のようだ。あの人は、私が知っている一〇〇人の中で、あるタイプの人だなあ」ということを比較研究すべきです。それで、三、四人の人を選んで、テストをしてみるのです。温柔な人か? 傲慢な人か? 強烈な人か? その次は何と言うか、ぐずぐずとした人か?(五四−一七七)私たちが「あの友達はいい友達だ」という言葉を例に挙げたとしても、いい友達というものは、自分がその友達をいい友達だと言うとき、その友達も自分をいい友達と言うことができてこそ、いい友達なのです。そうではなく「ああ、あいつは困る」と言う立場では、いい友達にはなりえないのです。それゆえ、いい友達を探すためには、必ず一つの峠を越えなければなりません。開拓しなければなりません。開拓するにはどのようにすべきか? 汗を流すべきでしょう? 苦労すべきでしょう? 開拓するには、必ずそこに比例する苦労の代価を支払わなければなりません。ですから、汗が出るのであり、涙が出るのです。(三三−三一七)
皆さんは、悪い人と言うとき、どのような人を悪い人と言いますか? 自分だけを中心にして、心配して考える人を悪い人だと言うのです。そのような人は、社会では悪い人と烙印が押されるのであり、家庭では悪い子になるのであり、友達の間では悪い奴になるのです。このようなことを考えるとき、人は自分を主張しながら生きるようになっているのではないということが分かります。より価値のあるものとは、自分を中心にしたものではないのです。
友達が百人、千人いるといっても、誇るのではありません。いくら友達がたくさんいるとしても、皆さんが自分の主張ばかりしていては、みんな離れていってしまうのです。離れていくなと、いくら祭りを行なっても無駄なのです。「このやろう、おまえはこれをしろ」このような目に三回だけ遭えば、逃げて行くでしょう。そのようにするのが、すなわち自滅となる動機です。(三六−一八一)
皆さんが友達とつきあおうとするときには、発展できる友達か、そうでなければ希望のない友達かということが問題になります。希望のない友達と関係を結ぶべば結ぶほど、自分にだんだん無価値な結果が現れるしかありません。それゆえ、よりましな友達と関係を結び、よりましな明日のために準備し、努力すべきなのです。(三二−一四)
信仰生活において、ある問題に対したり、あるいは、ある事件に遭ったとき、これが自分に歓迎する立場で現れるか、そうでなければ恐れとして現れるか、という問題を皆さんは、いつも心の善や、あるいは心の基準を中心として、比較検討しなければならないのです。
もし、ある友達がやって来て、信仰の道において問題となることを中心として言うようになれば、彼の言葉を初めて聞く場では、その言葉に自分の本心が和動し、自分の本心が平穏に和合するかということをいつも分析して批判すべきです。(四〇−六八)
私たちの一生の問題を考えてみるとき、皆さんが今まで生きてきたのもそうですが、これから生きていくのにもそうなのです。一言の言葉が一生を左右することがいくらでもある、ということを皆さんは知るべきです。自分が一言言わなければ、不幸な事件に遭わなかったのに、一言によって一生をだめにすることがいくらでもあるのです。それと同様に、聞くこともそうです。一言、一度過って聞くことによって、一生がだめになるのです。また、行動においてもそうです。一度行くのを、過って行けば、やはり一生はだめになるのです。また、みなさんが友達とつきあうのにおいても、友達一人に過ってつきあうことによって、一生をだめにすることもあるのです。
そのようなことが一生に一度や二度でないために、昔から、考える人たちは、言うことに注意し、聞くことに注意し、行動に注意し、友達に注意しろと教えてきたのです。これは古今東西を問わず、同じ公式で通じるものである、ということを皆さんは知るべきです。
人を見るなら、自分が不利で、自分が困難なときには、他人を考えにくいのです。これは公式です。共通です。それを認めますか?(はい)。そのとき、自分の困難から免れるためには、友達を利用することもあり、環境を利用することもあり、違うことを言うこともあり、違う行動をとることもあるのです。そのような環境が待っているということは事実です。
このように考えるとき、人間の世の中では、だれを信じるか? 自分がだれかに頼って、すべての正しい道を行くのが難しい場合は、いくらでもあるのです。いい友達だと自分が信じたのにもかかわらず、後で彼が自分を踏みにじり、利用する場合が多いのです。そうなりうるようになっているのです。それゆえ、そのような観点から見るときに、だれを友達とするのか? だれとともによい契機を持つのか? このような問題は、世の中で大きな問題です。(九一−二九)
皆さんが友達とつきあうとき、ただ今日会うそれだけで終わる友達は、いいかげんな友達です。それ以上希望のない友達です。いくら難しい道を行き、受難の道を行っても、今日会うときより次に会うとき、何だか分からずに刺激を受け、何だか分からずに衝撃を受け、何だか分からずによい決心をさせる内容を持った友達がいるならば、いくら難しく寂しい立場を経ていっても、その友達について行こうとするのです。(四二−一九四)
第四節 勉強
第四節 勉強
P189
一 勉強をする理由1 勉強とは何か
皆さんが勉強するのも、接ぎ木をすることでしょう? 学校に入って勉強するのは、先生が知っているすべての知識に接ぎ木して、それを自分のものにすることです。
2 勉強する理由
神様のみ旨をなすということは、なしたということは、どのようなことか? 内外に、縦横に、四方に完全に一つになることです。これが神様のみ旨をなすことです。
さあ、そのようなみ旨を願う神様は、アダム・エバを創っておいて放っておけますか? 法度を立てたでしょう? 「おまえ、早く大きくなれ」と言ったでしょうか? そう言いましたか、言いませんでしたか?(そう言いました)。それでエデンの園のアダム・エバに、「取って食べるな」と言ったのが、その言葉なのです。アダムが地に生まれて、たくさん習うべきなのです。アダム・エバが習うべきなのです。万物をみんな主管しようとするなら、万物の性格をみんな知って、特性をみんな知って、よいというものをみんな知って、悪いというものをみんな知って生まれなければならないということです。(一三四−一二一)
私が勉強するのは、私だけよくなるためのものではなく、かわいそうな人たちの友となってあげ、学べなかった人たちに教えてあげ、その人たちを開放させるためのものです。(三三−二八九)
「私が有能な人にならなければならない」という人は勉強しなければなりません。勉強をなぜするのでしょうか? その分野の価値を知るためです。このようになるのです。(六三−二一四)
勉強を何のためにするのでしょうか? 勉強ゆえにする人は落第です。勉強をするのも世界を救うためにしなければならず、ごはんを食べるのも世界を救うために食べなくてはなりません。(六三\二一四、三三\二九九)
それゆえ勉強するのも私たちの家のため、私たちの家を守るため、統一教会を守るためにするのではありません。神様を保護し、世界を保護するためにするのです。ですから神様を保護し、世界を保護するために、私が勉強をもっと一生懸命しなくてはならないというのです。(一三〇−三一二)
3 勉強すれば未来が保証される
勉強する人には未来が保証されるのです。(九八−二九三)
若いとき勉強しないで遊んだ人は、老いたとき苦労するのは原則です。若いとき遊びたくても遊べず、犠牲となり、そして努力した人は晩年に…。宇宙の道理がそのようになっているのです。幸福な人、満足な人は宇宙の道理に乗っていく人です。(九八−五五)
さて、皆さん、勉強をなぜするのですか? 「学校は今日のために行く」そうですか?(未来のために行きます)。そうではないですか。それは今のためです、今。(未来のために行きます)。未来のために。皆さんは未来のためですか?(はい)。私は分かりません。(笑い)父母たちが「学校へ行け、こいつ」と言い、鞭を打てば、鞭を受けて泣きながら学校に行くのです。「エーン、エーン!」こうしながら学校に行くのです。それはどれほど不幸ですか? しかし、泣きながらも行く道に希望がある、未来があるというのです。未来があるというのです。そうです。行かないよりも「あー、私行かない!」といって行かなかったのよりも未来があるというのです。
その話は何ですか? 今日のために生きる人になるのか、未来のために生きる人になるのかという話です。今日のために生きる人と、未来にために生きる人がいるのです。私たちはここでこのような二種類の人を探し出せます。皆さんはどんなのを取りますか?(未来のために生きる人です)。なぜですか? どうしてですか?(より価値があるからです)。それは何がより価値がありますか? どうして価値がありますか?
今日のため生きる人は今日が終われば行く道がないのです。ぐるっと後ろ向きになれるし、横には行けます。しかし未来のため行く人は泣きながらも前進するのです。明日も行くことができ、あさっても行くことができます。その話は何かといえば、今日のため生きる人は今日が終われば後退するとか、それとも横に行くのです。横に行くときには前進がないので下りていくようになります。けれども未来のため行く人は疲れても横に行こうとも前進するというのです、前進。それでより価値があるのです。価値があるということは深さと高さと広さがあるというのです。今日のために生きるのはここで終わります。価値がありません。深さもなく、高さもなく、広さもないというのです。後退です、後退。〇です、〇。〇より小さくなるのです。ですから価値がないというのです。分かりますか、何の話か?(はい)。
今日学生たちに勉強しろといえば「勉強するの嫌だ。勉強しなくても私はいい」といってひっきりなしに遊び回るのです。それではよいはよいでしょう。そうしてみたらこれが習慣になり滅びるようになり、悪くなるのです。(一一七−三一九)
二 勉強する目標
二 勉強する目標
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1 勉強する目的今日世界の人たちが生きるとき、生活するのに何を中心として生きますか? 勉強する目的がどこにありますか? 人間完成ではありません。生活的方便として活用される物質的条件の豊かさを拡張するためのひとつの方法として知識を追求します。権力も同じです。
自分の出納記録をした、自分自らの経済的基盤を自由化できる舞台を形成するための方便と考えています。(一二六−二二五)
皆さん、勉強する学生たちが「私が熱心に勉強するのは立派な人になろうということです」しかし自分が学博士になるといって立派な人ではありません。学博士になっても相対圏以上の主体形を占めるようになるときに、主体的な立場に立つようになるときにはじめて自分が勉強した以上を実現できるのです。ですから今努力するのは相対目的のために努力するのです。そうではないですか? 農業をする人が種を蒔くことも結局は秋に収穫できるという相対的目的に向かって蒔くのです。これは宇宙の現象世界、あるいは作用世界の帰一点です。(一〇九−一二一)
勉強を何のためにするのですか? 勉強ゆえにする人は落第です。お金を稼ぐのもお金ゆえに稼ぐのは落第です。そこのこの愛という言葉を全部皆もっていってつければどれほど美しいでしょうか? それでは神様も「おー、その子どもは私に必要であり、その力は私に必要であり、そのお金は私に必要だ」このように答えるというのです。分かりますか、何の話か? どうですか?(そうです)。(一二九−二八五)
2 勉強は自分のための手段ではない
皆さんが勉強する目的が個人の出世のためなら、その社会的与件が個人が出世できない予件になるときには、その社会で戦闘する位置に入っていくようになるというのです。そんな人は自分の家庭のために国家の福利を塞ぐ人であり、個人の福利のために国家の公益を忘却する人です。(三四−二一)
皆さんが国家を中心として統一理念を立てるためには皆さんの国家観が全部一致されなければなりません。皆さんは今そうですか? 自分の出世のために勉強して、自分の生活問題を解決するために就職をする人はそこから流れていくしかない人です。(三四−二四)
さて、それでは皆さんはここに来て勉強する目的は何ですか? 自分が出世しようと勉強するのですか?(いいえ)。自分が好きで、好きな基盤を通して出世するのは、永遠に自分のものになります。しかし好きでないのに手段、方法を問わず成功したら、それは必ずサタンが奪っていくのです。神様がぶち壊してしまうというのです。(七六−二七〇)
皆さんが勉強するのもそうです。「私がこのように勉強して博士学位を取ればこそよく暮らせる」請うなら博士学位をどうにかして取ってみなさい。深刻なことです。自分の娘、自分の息子を博士にさせるよりむしろ食口たちの息子娘がいわば(その子たちを)博士にさせたい心を持つべきです。世界のために働く食口たちのために。
私は怨讐の子息たちまでも彼らが知らない中でお金を送り、素質があるので勉強をさせてきました。飢える怨讐たちには、ご飯を食べさせてきた人です。(一三〇−三一五)
世の中を見れば、世の中の家庭は全部皆自分の息子娘のためだけにして、自分の家庭だけのために暮らしているのです。皆さんが勉強をしてもだれのためにするのですか? 国のためだと考える人がいません。勉強するのは全部皆「私が出世するために、私が何かになって世界を牛耳るためにする」というのです。全部皆自分個人を中心として、自分の家庭を中心として、自分の氏族を中心として、自分の民族を中心として、自分の国を中心としてするというのです。それしか考えられないのが人間です。(六五−三四)
ある人が勉強するのにおいて、自分が基準としたことを中心としてその目的を果たしたとするとき、自分が喜ぶことのできるその目的成就の価値を全体の分野に適用させることができ、またそれをひとつの要因として活用することができるかという問題においてみるとき、それが極めて制限された限界圏内に属するということは避けられない事実だと見られるというのです。しかし、私たち人間の欲望は制限されたある限界圏内の勝利の価値だけを追求するのではないということを私たちは知っています。(五〇−一一)
3 勉強する目標
勉強する人は「ああ、私たちの家、私がよく暮らすために勉強する」というのと「ああ、国と世界をよく生かすために勉強する」というのと内容が違います。では普通の人は何のために勉強しますか? 自分が出世するために、自分の家庭のために勉強します。国とか世界のため勉強しなければなりません。
それでは理想的といえばどうなるべきですか? もちろん私のために勉強するというのも理想です。しかしそれよりは、家庭のためというのがより理想的だというのです。そして、家庭より国のためにするというのがより理想的であり、国より世界のためにするのがより理想的であり、世界より宇宙のためにするのがより理想的だと、こうなるのです。(一一八−二一四)
女性として生まれた皆さんも、人と同じように生まれて育って勉強をして嫁に行っても、皆さんは世の中の人たちと違わなければなりません。世の中の人のようなら勉強だけすればいいですが、私たち統一教会の教会員たちは勉強をしながら未来の復帰の道を開拓するために、二重の生活をしなければならないのです。(四三−二五二)
それでは、皆さんが勉強をして有名な大学を出てすることはだれのためですか? 「ああ、嫁をうまく得て息子娘を幸せにしてあげるためだ」という人もいるでしょう? しかし「私が国のため、世界のため勉強する」というとき残るのです。国はそんな人を必要とし、世界はそんな人を必要とするのです。合っていますか、合っていませんか?(合っています)。神様は?(神様もそうです)。これを確実にしなくてはなりません。(一二八−三〇二)
三 勉強するのが骨が折れる
三 勉強するのが骨が折れる
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1 勉強するのが好きな人はいない皆さんの中で勉強するのが好きな人はいますか?(はい)。勉強するのが好きですか? 私はそう考えません。勉強は嫌です。遊ぶのが好きでしょう? 自分の思うままにただ…。皆さん、幼稚園の子どもたちに幼稚園に行けと言えば、ああ…。また、小学校の児童たちに学校に行けというとき「ああ、お母さん私は学校に行きます」と嬉しいことのように跳ねるのを見ましたか? 「ああ、私は学校に行くのが嫌だ」こんなことを見ましたか? どちらをたくさん見ましたか?
幼稚園に行く子どもたちをじっと考えれば、幼稚園の子どもたちは幼稚園それだけが分かるでしょう。その幼稚園から小学校、中学校、高等学校、大学、学士博士までみんな知った立場で幼稚園からそれを始めろと言えばできません。できないことです。するようですか? 勉強しても皆逃げていきます。そう思いませんか?
それと同じように、皆さんも何かと言えば復帰の小学校に入ったのです。復帰の学校である小学校に入るのを同じだというのです。何も分からないので「しよう」というので「しよう! しよう!」こうですが全部皆分かれば…。分からないのが幸いで、分からないのが福だというのです。(笑い)それでも知りたいですか?(はい)。(笑い)分からず行くのです。
これを見なさい。ある深い山中の峠を越えるのに、その峠にはいつも虎が群れで出てくるとしましょう。それを父親母親は知っていますが、背負った子どもはその群れの虎でも何でも母親に負ぶさっているので天下が皆安心です。しかし背に負ぶさった子どもがもしその峠で群れの虎が出てくることを知ったらどうなりますか? どうなのか考えてみなさい。捕まって食われるときに、父親母親より自分が先に食われると考えればその峠を越えていこうとしますか? それゆえに知らないのが幸せなときが多いのを知らなくてはなりません。ただ熱心にだけすれば過ぎていくのです。(七九−一一九)
普通の幼稚園から普通の小学校、中学校、高等学校、大学まで行かなければならないとすれば「ああ、それをどうやって…」となるでしょう。幼稚園に入るときにそれを知れば「ああ、大学に行って博士になるのがこうこう骨が折れる」となれば幼稚園に行こうとする子どもは一人もいないだろうと私は考えます。(九七−九八)
学校で勉強する時間が好きか、修学旅行に行く時間が好きかというとき、修学旅行に行くのが好きだと行きたがりますが、修学旅行に行くことは難しいのです。外地に行って消化するべき環境ができるのに、その環境を消化できなくては脱落者になり落後者になるのです。(一一五−九九)
皆さん勉強するのは大変でしょう? そうかといって、しないでいられますか? それはなぜですか? 勉強して何をするのかといえば、社会という体制に合わせられる自分を作るためです。社会が私に合わせてくれるのではありません。同じく皆さんが築いてきた統一教会のこの道が、皆さん自体を訪ねて合わせてくれるのではありません。皆さんが合わせなければなりません。(一三九−七九)
学校に行って勉強するのが好きな人がいますか? だれが勉強するのが好きですか? それではなぜしなければなりませんか? しなくてはだめです。死にながらでもしなければならないのです。そうでなければ落後者になるのです。(一三七−一五七)
2「勉強しろ」の本当の意味
さて、子どもに悪いことを教える父母はいません。悪い父母はいません。悪い先生でも弟子たちには正しい講義をするのです。「イエス、イエス」という人はよくするのです。事実ですか?(はい)。(一一七−三一四)
学校に行く子どもに対して、勉強する子どもに対して「勉強をよくしろ、勉強をよくしろ、勉強をよくしろ」毎日毎日そう言ったらどれだけ聞きたくないですか? しかし、勉強ができず落第生になり世の中に出ていくときは「ああ、私たちのお父さんお母さんがそのように話したとき、言うことを聞いていたら…」こうだというのです。父母に讒訴できません。讒訴できないのです。
皆さんが好きだと休んでいる間に、天と地を失ってしまっているのです。盗まれているというのです。人が勉強している時間に勉強しないで、全部皆怠けて事故に遭うのと同じなのです。それで何になりますか? 落第生になるでしょう? (九一−三一三)
いくら強力に主管しても、彼をより立派にさせ、より輝かせるために、彼のために自分が加担して苦労させればさせるほど自分が苦労するという条件になるのです。
例を挙げて話せば、愛する父母が子女を身動きできないようにして、朝に夕にすべての生活を干渉しながら、勉強しなければ勉強しろとむちをもって強制的にさせても、それは父母の道のためではないのです。子女の将来のために、父母自身が困難に耐えて犠牲になりながらそんなことをするという事実を、子女はそのときは分からないけれど、後でみればみるほどそれが自分のための栄光の位置になり、祝福の起源になるということを知るようになるのです。自分が成功したとき「ああ、私たちのお父さんお母さんは独裁者だった」そうですか? 「ああ、私のために実にありがたくよくしてくださった!」こうだというのです。それが理解できますか?(はい)。
それでは悪いことは何ですか? 善と悪がどこで分かれますか? 行動は同じようでも内容が違うときは天地が変わるのです。むちをもって打っても、だれのために打ちましたか? 彼らのため、彼らの将来と彼らの祝福のため打つときは善になりますが、私のために「私の利益のためにおまえしろ」と打ったときには悪になるのです。
それゆえ、皆さんはこのような観点から、善悪の基準を確実に知らなくてはなりません。善悪の基準を分からないでは、これが混沌となっては、私たちがどんなことが神様の責任なのか、どんなことが私たちの責任分担なのか分からないというのです。分かりましたか?(はい)。(八七−一二三)
皆さん、学校に通う学生にとって、「勉強を熱心にしろ、熱心にしろ」というのが先生の毎日の訓示になるのです。先生はいつもなぜそうなのですか? 学校に備えてあるすべての学びの贈り物をそのままに 一〇〇パーセント相続してあげようという話です。「あなたがそのように努力して、この学校にあるすべての宝物を根こそぎ奪っていけ!」というのです。奪っていくには条件があるというのです。人よりもより血と汗を流し、すべての精誠を尽くせばこそそれを奪っていっても嬉しいけれど、精誠を尽くさずには、カンニングしてだましては…。そんな人は学校から追放されるのです。
それでは、相続を受けようという人は、必ず主人からよい言葉だけを聞くようにはなっていないのです。分かりますか?(はい)。先生が言うには「あなたたち、勉強を熱心にして、品行を端正にして、すべての学生たちと違いなさい。すべての学生が行く道を行かずに他の道を行きなさい」これです。全部皆反対の道に、一人ぼっちの道に追い出すのです。それはなぜですか? いちばん尊いものを相続してあげるためにです。そんなとき気分がいいですか、悪いですか?(いいです)。気分がいいでしょう?(はい)。(一〇一−一七〇)
四 勉強をよくする法
四 勉強をよくする法
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1 勉強する心の姿勢一般的な人たちの場合も「志」と言えば、いろいろな志があるのです。事業する人は事業の志、ある勉強をする人は学問の志など、すべての人たちが自ら定めたところの志を持って生きています。私たちがいう志というもの、これは人間関係の志を言うのでなく、神様のみ旨をいうのです。(一八六−五三)
私たちは、何を勉強するにおいても、精誠を尽くすのであり、本を一ページ読むときにも、神様のために読むという心で精誠を尽くし読むのです。それも決して易しいことではありません。(二六−一四五)
先生は勉強するのもそのような心でします。勉強するときになぜ疲労を感じますか? 自分のために勉強するから疲労を感じるのです。しかし、全人類が死ぬか生きるかという問題がここの一ページに懸かっていると、一文句に懸かっていると考えてご覧なさい。一単語を加えることで三千万が生き、一単語を減らすことで三千万が滅びるという心で、もっと精誠を尽くし、その一単語を増やそうという深刻な心で勉強してみろというのです。頭が悪いのはなぜ悪いのですか? 皆さん、深刻な場で、あったことを忘れられますか? 生命を懸けてしろというのです。皆さんがドキンドキンという心臓の鼓動する音を感じるときがあるでしょう。深刻ならばそうです。そんな深刻な場で皆さんが決心したことが忘れられますか? 頭が悪いということも皆程度の問題だというのです。
心が散漫だから覚えられないのであり、死地で自分が死ぬようになる瞬間が近づくのに、生きられる妙案が浮かんだとするとき、その妙案を記憶できますか、できませんか? 皆さんが勉強をするときに、本一ページなら一ページをつかんで生命を懸けてそこに投入しろというのです。私は聖書を見るとき「これが何なのか」と深刻に考えれば、その問題を解決するために一年、二年、三年でも精誠を尽くしました。「ああ、それはこのようになったのだな」となるときまで根を引っ張るというのです。
自分のための道を行くときは、いつも失望のみが残ります。民族のため、世界のため行く道には、いつも望みがあります。なぜですか? 民族と世界が復活していくためです。皆さんがこのような思想をもって生活し、生涯を生きていけば、現在自分に残るものはないとしても、その人は歴史的な人物として残るようになるのです。(三五−三八)
2 目的に対するたゆみない刺激があってこそ
私たち人間たちは、日常生活で喜びを感じながら生きたいのです。喜ぶのを願うのに独りでは喜べないのです。人を通して喜ぶとか、次には物質を通して喜ぶとか、他の何か学問とか、このようなことを通して喜ぶようになっています。そのような生活の中で喜びを感じようとすれば、対象的な問題が時間が経つのにつれて、だんだんよい面に展開されなければなりません。そうでなくしては嬉しいことは続けられないのです。言い換えれば、喜びを感じるためには、相対的な刺激が絶対必要なものです。
皆さんがある非常に大きな目的を定め、その目的を果たすためには、必ず時間と過程が必要なのですが、その過程をどのように克服していくのか、ということが問題になるのです。そうしようとすれば、その目的を中心として毎日のように生活環境で目的に対し対象的な刺激をどのように続けて受けていけるか、ということが重要な問題になるのです。
それをある程度の期間までは、自分が決心して続けて維持していくかもしれませんが、その刺激が目的を果たすのに相対的要件として続けて残せなくなるときは、そこから脱落が起こり、失望が生まれ、失敗の要因が組成されることを私たちはよく知っています。それゆえ、私たち日常生活においてや、実在生活において、この刺激というものが、即、喜ばしい刺激であるとか、理想的な刺激がなくてはならないのです。いくつもの面でぶつかる環境にあっては、よい面の刺激は絶対に必要なものです。
皆さんも世の中で勉強をして何になるというこんな考えをすれば、そこに対する意欲を中心として、刺激をどうやって感じるかということが成敗の決定要因になるという事実を知っていることでしょう。いくらどんな目的を成就すると決心した人がいたとしても、その意欲からこのような刺激的な要因を取ってしまえば、その人はその目的を途中で放棄するとか、未完成なまま終わってしまうことでしょう。(六六−三七)
3 だれよりも努力しなければ
成功するという人は現実を重要視しなければなりません。皆さんが勉強するにおいても、現実を中心に熱心に勉強しなければなりません。熱心に勉強するというのは、現実の与件を歓迎する立場ではありません。そうではありませんか? 現実の予件を否定する立場を探して入らなければ成功できる道も、幸福になれる道も行くことができません。簡単なことです。
勉強するときも全部一等ですか? とんでもありません。落第する人もいるのです。学校に入って落第したら、彼は学校に入れなくて落第を知らない人より、事実は劣るのです。否定的な与件がふさいでいれば、それを越えていかなければなりません。そうしようとすれば何倍、何十倍の努力をしなければなりません。現実で公認を受け、未来の自分の位置を決定しようとすれば、何倍の受難の道を行かなければなりません。現実でそのような結果を持ってこられなかったら、現実を納得させる過程が必要です。
このように考えるとき、問題はどこにありますか? 学校に行ったら、その学校を代表できる一等にならなければなりません。一等になることが易しいことではありません。いくら頭がよくても「私の頭はよいから…」このように自信を持つ人は、どうにか一度は一等になるかもしれませんが、努力する人には負けるのです。
それでは努力とは何ですか? 自分がその道を開拓するために、だれよりも多くの苦労をするのです。だれよりも我慢して耐えるのです。そこから成功の要因が決定されるのです。そのような生活過程では、敗者の悲しみが宿るのでなく、勝者の栄光の基盤が備えられていくのです。これは私たちの現実からよく分かる事実です。
それゆえ、未来を継承することのできる人はどんな人ですか? 現在の行楽に歩調を合わせる人ではなく、現在の歓喜の環境に調子を合わせ、踊りを踊る人ではありません。未来の価値を現実圏内に立てるために、現在の環境を克服し、耐え忍んで、無限に犠牲になり、無限に代価を支払う人でなければ未来の相続者になれないのです。(四五−三一)
今日、たくさんの人たちは学ぼうと思っています。それで勉強をします。ある分野に全心全力を尽くして学究的な面で世界的な学者になるために勉強をして、努力をしています。ここで、その努力というのは何ですか? 自分の専攻分野において、今まで歴史上の多くの人たちが残しておいた観念とその内容を、どのようにしてでも短い時間内に自分のものとして消化し、自分が利用できるものとして置き換えられる人が勉強をよくする人です。(二八−二六一)
皆さんは必ず勝利しなければなりません。そうするためには、どのようにしなければなりませんか? 人が一回勝てば私は二回勝ち、人が一時間眠れば私は半時間眠り、人が一食食べれば私は半食食べるという信念を持って闘わなければなりません。勝利の秘訣は他のところにあるのではありません。どのくらい時間を多く割いて、努力を多くして、資本をたくさん入れるかに懸かっています。
まるで入学試験を前にした受験生のように、時間の闘い、精神の闘い、努力の闘いが重要なのです。落第した人たちは、人より多く眠ったとか、多く食べたとか、いずれにしろ人より一つでもより楽に過ごした人たちです。(一九−一四三)
皆さんが夜を明かしながらも努力し勉強するのを趣味だと思わなければなりません。(六七−二二五)
4 全力投入しなさい
死のうとするものは生き、生きようとするものは死ぬ、聖書のみ言は実によく教えてくれました。宇宙の原則を中心として、よく教えてくれました。これこれの問題を考えてみるとき、否定できない事実ではないですか。成功を願う人がいるならば、その目的のために犠牲になる生活をしなくてはなりません。そのような人は早く出世するのです。そうでしょう? そうですか、違いますか?
勉強する人、高等考試なら高等考試を中心として、その目的を果たすことを願うとき、夜でも昼でも犠牲になって、そこに絶対服従して時間を投入し、全生命を投入すれば、その試験にパスする成功の時間に遠くなりますか、近づきますか? 遠のけと祭事をささげても遠のかず、むしろ近づくのです。それは道理です。(六一−二六九)
ひとつのページをめくりながら、眠たいなら涙を流しながら「この時間、天が私を待っているのに、この手がどこに行くのか? この目がどこに行くのか?」そうでなければなりません。眠気が来れば自分の肉をつねって夜を明かしながら、涙を流して祈りながら勉強すればこそ、天の福が連結されるのです。はしごが置かれるのです。(一三〇−三一二)
ですから今、勉強も骨が解けて肉のようになるくらい勉強させます。腰がまっすぐな人が足萎えの人のようになるのです。(一八四−三一五)
勉強することを考えてみるとき、頭に鉢巻きをしてしますか、ただぼんやりと座ってしますか? 眠らないで優等生になりますか、眠って落第生になりますか?(眠らないで優等生です)。そのようにすれば幸いですが、そのようにできない人は皆…。(九七−七一)
皆さんが教育上よく知っているように、小学校に入れば小学校課程を中心として卒業するのが目的だとするときは、その小学校を卒業するためには、先生と自分の努力が合わさらなくてはならないのです。中学校も高等学校も同じく、大学も同じです。そこで自分が望むところを 一〇〇パーセント完成させるということはとても難しいことです。
ですから、一〇〇パーセント完成できる人の姿勢はどうであるべきですか? どんな姿勢を持つべきですか? そうしようとすれば、いつもそこに対して考えなければならず、他の考えをしてはだめです。勉強なら勉強に対して全力を尽くさねばなりません。全力を集中して、そこにすべてのことを投入しなければなりません。「私があるときは遊び回り、あるときは何かして、あるときには友達に会わなければならない」そのような考えは第二次的だというのです、二次的。(一〇四−九五)
皆さんは、学校に通う学生に勉強がよくできると言いますが、勉強がよくできる人はどんな人ですか? もちろん頭がよく努力する人もそうですが、いつも勉強を考える人、いつも勉強することを主体に考える人です。そのような人が勉強がよくできるようになっています。
頭に他のことがないのです。他のこと、俗っぽいいろいろな考えがなく、光でいえば白色しかないというのです。それゆえ、その人の頭にはすべての記録が 一〇〇パーセント明確に記録されるのです。外国語を学ぶにおいても、自分がどういう国の言葉を勉強していると考えて、その生活圏内に入り、見て、聞いて、感じ、すべての環境の事実を勉強するその言葉と一緒に連想し解決していく人が勉強のできる人です。(一六一−一三〇)
学校に行き、本のページをめくるのにも骨が溶け出るように体と心を尽くして、悲しい神様を慰めるという心情でしなければなりません。(二二−一四五)
五 実力と点数
五 実力と点数
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1 実力が必要である神様を愛するにおいて、内的実力を備えなければなりません。それでは、その実力を何で高めるのですか? その実力が偶然に得られますか? 外的な世界の前に私たちが先頭に立ち、受難の道を克服していくところにのみ得るようになるのです。そのようにすればこそ、人生の永遠なる勝利を勝ち取ることができるということを皆さんは知るべきです。(三五−一五〇)
勉強しなさい。皆さんを実力の舞台にたたきやる時が来ます。先生も今勉強しています。(一四−九六)
試験にパスしようとすれば、夜を明かして勉強しなければなりません。論文を書こうとすれば、何ヵ月でも苦労し、何年でも苦労し、夜を明かしてもしなければなりません。(一一一−一二一)
皆さんは、理論が立たなければなりません。勉強しながら理論をパスしなければなりません。皆さんは、教えてあげられる能力がなくてはなりません。その次には何ですか?
努力です。実績を持つ人にならなければなりません。その次に、愛を中心にしなくてはなりません。その次には何かといえば、神様が管理できる人にならなければなりません。それが重要です。(一一八−一二五)
大学の卒業証を持っている人は手を挙げてみなさい。それを取っておきなさい。(一七二−一七九)
2 試験と点数
学生たちを中心にしてみれば、自分の学校で最高の成績を取りたいのが望みです。過去から現在に至るまで、学校の歴史的な基盤を越すことのできる最高の成績を取りたいのが学生たちの欲望だというのです。このように最高の記録を出せる基準を中心として、学校は新しい歴史的な伝統が立てられ発展するのです。
その最高の成績を出せる基準が何点かに従い、その基準が上がれば上がるほど、その学校は有名になり発展するのです。もし、一〇年前に勉強がよくできる学生が最高の成績を上げたのに、その学生の成績記録を現在までも崩せなかったとすれば、その学校は発展する学校でないのです。すなわち、過去を回想する立場にあっては、未来の新しい記録に向けて前進できる立場に立てないのです。そのような学校は発展できません。けれども、昨日よりも今日この時間がよく、今日この時間より明日がだんだんよくなれるなら、その学校は無限に発展するのです。(四一−一三)
勉強がよくできる学生たちは、安心する日がありません。試験をうまく受けても心配しなければなりません。試験を受けて点数をみれば九八点です。このようなときは「ああ、 一〇〇点になれなかった」とまた心配です。「その二パーセントを私が落ちたのでより熱心にしなければならない」そうすればそれが最高になるのであり、「ああ、九八点ならいいだろう、私は九八点なら十分だ」とすれば、そこからは後退するのです、後退。
皆さん、学校に行けば学校に行き、学課の勉強をたくさんして複雑な過程を経た人は立派です。複雑なのでいちばんびりというどん底に行くという人がもっと立派ですか? どんなものがより易しいですか? 〇点は〇ではありません、〇? 穴がぽっかりと空いたので、出るのが易しいでしょう、どこにでも。それでがけに穴をあけるのが易しいですか、穴があるところを出るのが易しいですか? どちらが易しいですか?
一〇〇をみれば、この前にどんじり(〇)をやたらに殴る棒(一)が守っていると私は考えます。この〇が打たれても勝手に行ってくっついてはいけません。それはきっちり間隔をとらなければなりません。それがどれほど秩序整然としているかというのです。それはいいですか? 易しいことを探していく人は絶望が待ち、難しいことを探していく人は希望が待ちます。これは天地の道理だということを知らなければなりません。分かりましたか?(九六−一九〇)
皆さんは 一〇〇点をもらいますか、もっとつけて一二〇点をもらいますか? 皆一二〇点をもらいたいでしょう? 一二〇点もありえます。私が昔学校に通ったとき、一〇五点までもらったことがあります。(笑い)どのようにして一〇五点をもらったのでしょうか? そのとき、担任の先生が感嘆したというのです。一〇五点になったといって何の審判や裁判を受けますか?
ないという話は何かといえば、ありうるという話です。ですから、皆さんの愛が何点くらいなのか気になるのです。そうでしょう?(はい)。(三三−二八一)
第五章 信仰と責任分担
第五章 信仰と責任分担
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第一節 信仰生活一 信仰とは何か
1 信仰の意味
皆さんは愛の根を探さなければなりません。すなわち、神様の愛を探さなければならないのです。パウロは「信仰と希望と愛、この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは愛である(コリントⅠ・ 一三・一三)」と言いました。皆さん、信仰とは何ですか? 「信じる」とうい漢字から人偏を取ると「言」が残ります。信仰とは、結局人の言葉を意味します。このとき、言葉とは人と人の関係を結んでくれるものを意味します。関係がなければ言葉が出てこないので、言葉を言うときにはすでに相対基準ができているのです。また、関係が結ばれるには信仰がなければなりません。
このような根本はどこから来たのでしょうか? 愛による因縁から出てきたのです。でも、その因縁は自分勝手に結べるわけではありません。その因縁を結べる力というものがあり、目的とする基準がお互いに一致できたので結べたということです。(二〇・二五)
私たちのいう信仰とは何かというと、真なる人の人格を中心として、その人格を追求していくことです。また、そのような人格を追求しながら生きていくのが信仰生活です。
「信」という字を見ると、人に言葉の言、そして「仰」も人偏があります。これも人を抜きにしていません。人を中心とするのではなく、尊敬する対象を中心とすることです。そういう位置から私たちが真のみ言を追求していき、そのみ言を通して一つの方向を成立させるためのものが信仰生活なのです。(六〇・二六三)
信仰生活について考えるとき、その対象はすでに自分ではなく神様なのです。あくまでも神様に対して行く道です。すなわち、主体と対象の関係が神様と自分の間に結ばれ、主体から生じる事実が対象に至るようになり、対象によって起こることが主体にも関係されなければならないということです。こういう関係が結ばれなければ、み言とともに成される自分自身になることはできません。(四〇・二七六)
2 信仰が必要なわけ
もし、アダムとエバが堕落しなかったらどうなっていたでしょうか? 神様の基準が上になって、神様を中心に三位一体となっていたことでしょう。そうして、そこで生まれた子女たちは全員天国に行ける息子・娘なのです。それなら祈祷がどうして必要で、宗教が何のために必要でしょうか? つまり、信仰という言葉は人間に必要なかったはずです。お父さんを信じますか? お父さんに向かって救世主と言ったり、救ってほしいと頼むなどということがありますか? 自由にお父さんの懐に飛び込み、膝の上に座ってひげを抜いてもかまわないものを、信じるとは何を信じるのですか?(二二・二八三)
天の誇れる個人となった後に、天が自慢できる夫婦になり、父母になり、孝子になり、国・世界を成すときに、そのときは宗教が必要なくなります。信仰という言葉が必要なく、救世とうい言葉も必要なくなります。二つではない一つの一体的な因縁圏内で、神様はようやく人間に対しご自分の栄光を現す新しい出発をするようになるのです。(三・六二)
現時点を中心に見るとき、人間でも神様でも願い待ちこがれるそのものは、追求するものは何かというと、現実よりももっと勝ることを望んでいることです。今の時間よりもこれから来るその時間がもっとよいことであることを願い、今の立場より後の立場がよくなることを願っているというのです。ここで信仰という問題が起こるのです。
私たちが信じ願っていることは現実的なことではありません。今後の問題です。願いごと自体は現実的ではないのです。必ず、時間という過程を通じた後で自分と直面する問題です。ですから、私たちがの望み信じ願うすべての心は、現実の自分の立場より優れていて現在の位置に何かしらプラスさせることのできるものを追求していくのです。(二七・九四)
二 信仰の目的
二 信仰の目的
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1 信仰の目的とは何か信仰者にいちばん必要なものは、明確な目標です。「私は必ずこの道を行く」という確実な目標です。この目標があやふやになると信仰者の生活は崩れてしまい、いくら決意をして覚悟を決めても目的とは何らの関係もなくなってしまうのです。目的もなく、百回覚悟を決めたとしても、どうなるとうのですか? 目標を明確にさせて覚悟を決めるのなら、目標の前に一歩でも近づけるけれども、曖昧な目標ではどんなに決意しても少しも役に立ちません。(二七・一〇一)
信仰の目的とは何でしょうか? まず、世界のために忠誠を尽くすことではなく、堕落前のアダムとエバのすべての未完成部分をもって、完成したという基準を立てることです。
前に失敗したことを復帰するには、どうしなければならないですか? 失敗したのと反対のことをしなければなりません。復帰をするには何からしなければならないのでしょうか? 第一にみ言であり、第二に人格、第三に心情です。(二四・一〇四)
聖書六十六巻のみ言は、天が私たちに何を望まれて語られたみ言でしょうか? 真なる一人の人間を創造されるために、真なる一人の人間を探すために許されたみ言だということを知らなければなりません。
では、私たちがみ言に従い、み言を守っていく目的はどこにあるのでしょうか? 私たちもイエス様のように、道と真理と生命体とを成すために存在するのです。イエス様の語られたことを成してどうしなければなりませんか? イエス様の新婦になるのです。これが信仰者の最高の目的なのです。そのために、終わりの日にはキリストとともに王のような立場になるというのです。相対的関係になるということです。(八・三一六)
2 私たちの信仰目標
今までの宗教は、個人救済にその目的を置いてきました。熱心な信仰者でも、信じる目的を自分が救われることに置いてきたのです。天国にも自分一人だけ行けばそれでよいと言うのです。彼らは家庭救済、氏族救済、民族救済、国家救済、世界救済という観念は、なおさら持ったことがありません。
では、家庭救済、氏族救済、民族救済、国家救済、世界救済ができる出発の一歩の基準はどんなものでしょうか? 家庭救済なのです。家庭救済の基盤が地上に強く固く立てられるように勝利的な土台をつくらなければ、国家救済の摂理をすることができません。ですから、宗教はこれまでちりぢりばらばらになって、国から追われながらそのような基盤を立てているのです。しかし、そのようなことも、霊的な一方の分野だけにおいて責任を持ってきたのです。(三二・二四一)
私たちの信仰目標はそれなのです。ただ信じて天国に行くのですか? 天国へ行きたいと言って行けるのですか? 役所で所属の手続きをするときでさえも、字をひとつ間違えればもう一度やり直すものなのに、天国の門をそのままこっそり越えて行けるとでも思っているのですか? とんでもないことです。どんな事情を話して訴えても、そのような条件では入れません。天国は心情の門を通らなければ入れません。心情の世界は時間と空間を超越できるために、そこでは進歩もなく退歩もありません。一定の観もなく、型もありません。そこだけは、アルファであると同時にオメガであり、始めであるとともに終わりなのです。(七・二二五)
三 信仰生活
三 信仰生活
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1 信仰生活の定義皆さんは、皆さん自身を個体的な自分としてだけ見てしまいがちですが、皆さんの中には創造の全体理念が入っているのです。ですから皆さんは、まず世界的な「生」の価値を実現しなければなりません。そうした後で、個人的な「生」の価値が成り立つのです。このような「生」の価値を見いだすために生活していくのがまさに信仰生活というものです。(二・九)
永遠な生命の世界を追求するのが信仰生活です。永遠な神様の愛を追求するのが信仰なのです。永遠な生命と永遠な愛とを一致させるために、神様の喜びと自分の喜びが合わさり、しかも二つの喜びではなく一つの喜びとして感じることができる最終点を見いだすのが信仰の道です。そのため、信仰生活をする私たちの個体がどれほど前進的な愛と生命力を持てるかが、何よりも重要な問題とならざるをえないのです。(三二・一九)
信仰生活とは、総合的な生活です。(三一・二二六)
2 信仰生活の第一条
宗教は、神様と人間との関係を結んでくれるものです。その関係を何でもって結ぶのでしょう? 愛で結ぶのです。その愛は、どんな因縁で結ぶのでしょうか? 主人と僕の因縁でもなく、国と国民の因縁で結ぶのでもありません。一体どんな因縁なのでしょう? 神様を自分の父とする父子の因縁で結ぶ因縁なのです。「神様は私の父である。神様はどうしても私を愛さずにはいられない」と言える信仰は素晴らしい信仰です。「自分の首が切られても愛さずにいられない」と言える信仰です。(三二・二四九)
「信仰者は絶対的に神様を信じよ! 絶対的に神様の前に帰依せよ! 神様を中心として完全に立て!」というのが信仰の第一条です。どんな宗教であれ、これが信仰者たちに第一条となっていることを知らなければなりません。その次、二番目は何でしょうか? 「原理、神様の立てた法と一つになれ、法と完全に一つになれ」ということです。(八七・一二三)
善とは何ですか? 最高の善とは何ですか? 最高の基準に対する中心性を認め、その責任を果たすことが最高の善なのです。宇宙の最高峰はだれでしょうか? 神様です。それで神様のためにすべてを捧げなさいというのです。それが信仰の第一条です。神様の勝利とは、全宇宙が含まれます。ですから、皆さんは神様のためなら盲目的であってもよいから、ありったけの力を出して苦労しなさいというのです。ある時が来れば皆解決されます。その期間に、皆さん自身を犠牲にしなければなりません。(一五・一一六)
今日、信仰者たちはどのように生きていかなければならないのでしょうか? 変わってしまう理念の条件を持ちながら生活するのではありません。変わらない不変の理念を回復するわけですが、その理念は別々に離れたものではなく、自分の生活圏内において全体が一つの理念で連結されているとうい事実を知った上で、自ら神様と関係した生活をしていかなければなりません。(三・五二)
3 信仰の出発点
統一教会は青少年時代に当たります。人類が神様の前にいつも青少年時代を中心として対した時があったでしょうか? アダム・エバは青少年時代に堕落しませんでしたか? 堕落したアダム・エバを導いてくるにおいて、サタンが誇る青年時代、サタンが誇る壮年時代、サタンが誇る老年時代としては経てきましたが、神様を中心として青年時代、壮年時代、老年時代はありましたか? 神様の側に立って愛を受けられる青少年時代、青年時代、壮年時代、老年時代を経て天国に行くのが本来の理想的な、堕落していない人間の行く道であるにもかかわらず、今日この地上にそのような道を行く人がいません。
ですから、信仰の道というものは年寄りたちが行く道ではないのです。分かりましたか? 理想的な信仰というものは、非常に活発な青少年から始まるものなのです。人間のいちばん貴い時代は青少年時代です。花が咲くときであり、香りを放つときです。そういう貴い青少年たちが愛と情熱に燃え上がり、天の国の理念を中心とする建国の勇士として登場するそういった群れが出てくるとき、そこには新しい希望の世界が展開されると見るのです。
このような青少年たちが心からの愛を受けて青年になり、愛されたその青年たちが大きくなって壮年になり、愛されたその壮年たちが年とって老人になっていくのです。(六〇・七三)
信仰者の出発点とは、外的な世界ではなく、自分自身の良心なのです。そのために、自分の良心を中心にそれ以上の問題を論ずるために信仰が必要なのであって、それ以下の問題を論ずるために信仰が必要なのではありません。(二七・一〇〇)
4 信仰生活の方法
宗教を持って信仰生活をする人は、真の道を行かなければなりません。天の真なる道を求めて行かなければなりません。人間の血筋の中に流れるサタンの血を解き砕くことができず、占領することもできずにいるために、宗教は真理を中心に「闘え、押せ、打て!」と命令するのです。これを正面から闘い挑むことが宗教なのです。(一八・一五一)
向こうの山頂にある石と山のふもとにある石は同じ種類であっても、一つはてっぺんに、一つはどん底にあるとうい違いがあります。山頂にある石は、下へと転がりさえすれば下りてくる可能性がありますが、山のふもとにある石は山頂に上がることはできないのです。人間はちょうどそういった立場に位置しているのです。上がって行くことはできません。だれかが引っ張り上げてくれるまでは、堕落した人間は上がって行くことができないのです。
ですから何といいますか、ケーブル・カー式に橋を渡し、乗せて引っ張り上げようと、神様が全部装置をつくり「スイッチ・オン」とやればガタガタ動き出す、そういう道が宗教なのです。そのため、信仰生活は苦労です、苦労。「つかんでいなさい。手を放したら落ちて死ぬ! 命がない!」と言うのです。「私は力がないからお父さん・お母さん助けて」と言っても手伝うことはできません。ねばり強く、普通のねばり強さの何千倍もねばり強く、この手に一度握ったら「手の筋よ、固まれ!」とこのようにしなければなりません。そうしているうちに手が折れても、手は不平を言うことができません。すべてそのくらい努力しなければならないのです。(一三〇・三六)
私たちの信仰生活においての一つの結論は、信仰生活は深刻かつ真剣にしなければならない、ということです。(二四・二二九)
今現在、私たちが生命を維持させるためには、継続的に呼吸をしなければなりません。また、そこに相応する栄養を補給しなければなりません。このように、供給された栄養素が私たちの体の循環器を通して互いに授け受けしたときに、昨日と差があるとすれば体のコンディションは悪化してしまうのです。しかし、正常な身体リズムと歩調を合わせ、昨日より少しでも栄養を補給してやれば、私たちの体は自然と健康になるのです。そこから新しい前進の基が広がっていくことを私たちは知るようになるのです。
これと同じように、皆さんが信仰生活をするにおいても、必ず栄養剤のようなものが必要なのです。また、正常に呼吸をするのと同じ生活態度が必要なのです。つまり、「私はこのように進まなければならない」という独自的な信仰基準を中心として、呼吸するように信仰路程を行かなければならないのです。ですから呼吸するのと同じように生命力を補給できる正常な基準がなくてはならないのです。そうすれば、そこに相応して栄養を補給できるのです。そうなれば、栄養剤をどうやって補給するか、正常な信仰基準の前に正常な栄養剤を補給できる補給路をどのようにするか、という問題が後にも前にも前後左右、四方において起こってくるのです。きのうよりきょう、この時間より次にの時間にどのようにすればよりよいより価値ある栄養を補給できるかということが問題なのです。
皆さん、信仰生活で喜びというものは必ず前進し、発展するところでのみ感じられるものです。ですから、どうすればそのような内容補強できるかということをいつも考えなければなりません。(四二・六四)
今日皆さんは、皆さん個人のある欲望を満たすために努力するのではなく、より大きな目的のために犠牲になり奉仕する信仰生活をしなければなりません。(三・一三一)
5 体恤的信仰が必要
私たちは、神様は愛であると信じています。数多くのみ言も、神様は愛だと教えています。では、皆さんはそのみ言を通して神様の愛の心情に応えた信仰生活を、どれだけしてきましたか? 天の心情を抱き、恨み多き歴史を見つめ、恨み多きみ旨を憂い、恨み多き神様の心情を察しようとしたことがありますか? 愛の心情を立てて人類を呼ぶ天の父の心の中には、私たちに喜びを知らせ楽しませてくださる心よりも、私たちを探してくださる悲しみと苦痛がもっと多いのだとういことを体恤したことがありますか? このような心を体恤しなければなりません。(六・二五一)
私たち統一食口たちは復帰原理を学んで知っているように、私たち自体が神様の心情に応える体恤する信仰をしなければなりません。そういう立場からエデンの園のアダム・エバが堕落した姿を見つめて、恨多き神様の代わりに無限の恨の心情をもって泣ける者にならなければなりません。
そして、その次に神様が、カインがアベルを殺すのをご覧になったとき、無限に恨を持たれるようになった心情を、私たちは体恤しなければなりません。その後千六百年が過ぎたイエスの時まで、時代ごとに天的な使命を受け持った責任者として送られた数多くの先祖たちが、悲しみと恨みに溺れて闘い挑んだ歴史を、神様がご覧になり悲しまれた心情を実感しなければならないのです。
また、四千年が過ぎ去り、六千年の歴史を経ながら摂理してこられた神様の代表的摂理の担当者が、悲しまずにいられなかったその心情を体恤しなければなりません。今日地上に生きている人は全員、彼らに代わって悲しまなければなりません。(六・二五一)
四 信仰姿勢
四 信仰姿勢
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1 信仰と中心問題人間の望みとは何でしょうか? この地上を見てみると中心がありません。神様の望みとは何でしょう? 中心を立てることです。では私たちの望みとは何でしょうか? 中心を探すこと、それが重要です。そのために人類の望み花にかというと、神様が立てようとされる中心に合わせることです。
その中心を立てようとする思想は何でしょうか? メシヤ思想です。だから人間の望みは何かというと、その中心となられるかたに侍り、中心を立てることなのです。僕の時代から、養子の時代、息子の時代、父母の時代まで次元の異なる反対を繰り返していくので、そのため悲惨な道を歩まざるをえなくなって、また戻って来てしまう、そういう道でしたが、結局、より高い中心として送られたかたがメシヤです。
そのメシヤが中心に定められなければならないのですが、立てるのは皆さんではなく神様が立てるのです。ですから、立てられた中心を皆さんが迎え、そのかたと一致さえするのであったら…。
皆さんの範囲が大きければ大きいほど、その中心と一致すれば、その中心とともに大きな舞台の前に立てるようになるのです。私たちは中心を探して侍ることが願いであり、天は中心を立てることが一つの願いなのです。
では念願成就、人間の念願成就が成され、天の念願成就が成されるようになるというのは、どういうことでしょうか? 中心を探して侍ることによって人間の念願成就が成されるのと同時に、天の復帰摂理の念願成就も成されるという結論に達するというわけです。(六四・一八九)
皆さんが信仰者として、統一教会の信者としての新しい姿勢を持たなければなりません。ここでいちばん重要な問題は、中心に対する確固たる信頼を持つことです。そのような信念を持つまでは、いくら覚悟を決めても何の意味もありません。この前方を行くにあたって、どんなことにぶつかれば自分はどうするのだろうかと自問自答してみなさい。この道を歩んでいると、だれよりも近い人が皆さんの前に来ては、皆さんを誘うことでしょう。甘く、その気にさせる言葉をかけてくることでしょう。皆さんの行くべき道を塞ぎ、皆さんをその位置から引き下ろすためにできる限りのことをしてくるでしょう。そういうとき、皆さんはどうするのか、自分の顔を見て自問してみてください。そのとき、皆さんは「退け、この化け物め! 私は昼も夜もこの道を行くのだ!」と言わなければなりません。それはどんなに素晴らしい姿でしょうか。(一一八・二八五)
皆さんは信仰の中心に対して、そして目標に対してはっきりと知っておかなければなりません。それは、超越的な存在でなければなりません。信仰生活をするということは、自分の現在の立場よりもっとよくなることを望むためにするのです。その絶対的な要求される基準に達するために、絶対的な内容を備えた最初の信仰基準が不変でなければならないのです。春夏秋冬、四季が変わるのも一年圏内で変わっています。それと同じく、いくら環境が変化したとしても、自分の目標下において行わなければなりません。自分の信念の下で行わなければならないとういわけです。信念がふらつくようでは、どんなことも成せません。信念が確かでなければ、何ごともできないということです。(二七・一一二)
2 絶対信仰
イ)信仰は自己否定と悔い改め
終わりの日には、理想世界が来る前に審判が来なくてはなりません。この審判を避けられる人は、歴史的事情と因縁をありのままに抱いている人ではありません。それを打ち切っている人です。世の中の流れに従っていくのではなく、そういうものを跳ね返し、顔を背けて避けて行く人が審判を避けられるのです。そうでなければ新しい理想的な出発に迎えられないため、宗教は今までこのような内容を中心として「この世を捨てろ。世の中とのすべての因縁を切れ。俗世間を近づけるな。俗世間と断絶しろ。否定的な立場で新しい悟りを得よ」と教えを説いてきたのです。現在を押し進めることができ、未来を打開し、過去を収拾できるこのような悟りが必要なので、宗教は世の中と妥協することを求めたりはしません。(二一・一三六)
宗教では「温柔謙遜、犠牲と奉仕、教えることはそれしかない!」とそのように追い立てるのです。それは正しい教育ですか、偽りの教育ですか? それしかないのです。そのため信仰の道は従順であり、自主ではありません。これを知らなければなりません。信仰は何ですか? 従順です。自主と対案と弁論ではありません。
自分を否定しなければならないので、歴史をも否定しなければなりません。それはなぜですか? ここに検定物があるとします。それを是正したからといって悪い点がそのまま勝手に悪くなるのでしょうか? それと同じです。否定しなければなりません。完全否定しなければなりません。最後まで否定しなければならないのです。最後まで否定しなければならないのです。では、皆さんの指はどれだけ善でしょうか? 皆さんの目はどれくらい善ですか? 皆さんの耳は? この腹の虫、心の底はどれほど善なのでしょうか? 根本問題はここから解決されていかなければならないのです。(六八・三一六)
ここで、天国に入るためにいちばん問題になるのは何でしょうか? 「私」という怨讐があるのです。自分が怨讐なのです。今まで皆さんが信仰生活をする中において、祈祷して一生懸命努力してきたすべては「私」を勝利させるためのものです。「私」がいる限り、これは完全に…。
その次には、「私」を否定する者、神様の名でもって「私」を否定する者とならなければなりません。完全に否定しなければなりません、完全否定。サタンがくっついているひもがあれば、そのすべてを完全に切り放してしまうのです。皆さん、絹糸のようなものがずっと世界にめぐらされているのです。それをかみそりのようなものでばっさり切ってしまわなければなりません。(一二二・一三)
信仰を何を要求しているのでしょうか? 悔い改めを要求しています、悔い改め。それはどんな悔い改めでしょうか? 歴史手な悔い改めと時代的な悔い改めです。そして天は、歴史的な悔い改めと時代的な悔い改めを願っています。そういうことを知った上で、「過去のすべての罪も私の罪であり、この時代にとどまっているすべての罪も私の罪ですから、お父様、どうかお許しください」とこのような祈りをする者でなければならないのです。(八・三二二)
イエス様もこの地上に来られて宣布されたことは何かというと、「悔い改めよ。御国は近づいた」です。これは矛盾した…。天国が近づいたというなら、悔い改めずに行けたらどんなにいいでしょうか。どうですか? 矛盾した、逆説的な内容を示して、人間がただでさえ苦労しながら生きているのに、さらに悔い改めとは? 一体、悔い改めとは何でしょうか? 悔い改めとは、完全に振り返ることです。罪を犯してもそれが罪だと悟れない人が罪を犯していると分かるとき、完全に否定し、完全に反対方向に振り返るのです。どういうことかというと、百八十度転換する一つのテーマなのです。
では、悔い改めたらどうなるのでしょうか? 決心がつくのです。そうではないですか? 悲壮なまでの決心をするのです。死ぬ覚悟をして涙を流しながら痛哭するようになるのです。これは何かというと、二度とこの道は行かないと完全に決別するのです。悔い改める前と悔い改めた後とでは、世界が違うのです。四十五度程度ではありません。百八十度違うのです。悔い改める前と後では天地の差です。昔はサタン世界にいたのに、きょうは天の世界にいるのです。そういう事柄を宗教では必ず示さなければなりません。(一〇一・九二)
天国を探し求める人の前には、自分というものはありえません。そこには真心と克服することだけがありえるのです。天国を探しだした後には自分がありえますが、天国を探し求める位置では自分というものはありえません。民主主義方式でいくことができません。自分を主張する与件はありえないのです。そういう与件が残る限り、その世界はサタン圏です。
私たちの信仰の道には自己主張、自我観念は存在しえません。絶対的な信仰というのは、自我の観念が一つも残っていない状態の信仰をいうのです。違いますか?絶対的に信じるというときに、自分自身に絶対的に反対の要因が一つでもあってはなりません。神様を中心に一つになるというところには、自己主張するものがありません。主体が要求するままに完全に一致しなければなりません。完全に一致するということは、自分自身を主張できる一片の心もないことをいうのです。
信仰生活をしながら自分勝手に主張できる立場があるとすれば、その立場は天国ではありません。
へびは脱皮しなければ大きくなれません。脱皮するためには、石やかごの隙間に入り込んで出なければなりません。反対の力が体に加えられることによって、脱皮をすることが可能になります。それと同じく、暗黒の勢力が私たちの体の血と肉に一つとなって覆いかぶさっているのですが、これをどうやって抜け出しますか? そのまま放っておくわけにもいきません。ですから、知恵が必要になります。反対に、全部反対の道を行かなければなりません。完全に脱げるまで、完璧に反対の道を行かなければなりません。(四六・八二)
ロ)一つの心を持て
絶対的に一つの心を持たなければなりません。一つの心ですが、熱い一つの心ですか、冷めた一つの心ですか?(熱い一つの心です)。口で言うのはたやすいのです。それを聞いた耳が貴重であり、その考えが貴重なのです! 一つの心とはどんな一つの心ですか? どんな心?(熱い一つの心です)。熱い一つの心。では、皆さん、熱い一つの心を持っていますか?(一〇一・一〇七)
ハ)不変でなければならない
私たちが大切に思っている宝物や貴重品を考えるとき、その宝物が、ダイヤであれ金であれ、なぜ必要かというのです。それはよく見ると、すべての物質の中心となる物質の代表的な位置に立っているということを、私は知ることができます。皆さんは宝石といえばだれでも金やダイヤを思い浮かべます。昔の人も貴重に扱ってきましたし、今の人もやはり同じく貴重に思っていますし、また未来の人もそうだと思います。
このように考えると、貴重なものというのは変わりません。ずっと変わらないのです。それをなぜ必要とするのでしょうか? すべてのものを代理した立場で中心に立ち、そのすべてのものをいつどの時代で比較したとしても、その比較した基準が狂うことがない位置に立っているため、それが貴重となるのです。また、環境にいくら変化が起きても、そこにかたよらない特権を持ち続けます。その物質が、貴重な宝石がそういう立場にいるので、結局すべての人がその立場に一緒にいようとし、それを所有しようとしたがるのは当然のことです。理にかなっています。
それでは、そういう観念からみて、私たち人間はどのような存在にならなければならないでしょうか? 私たち自身もやはり同じだといえるのです。変わってはいけません。変わらないだけでなく、その固さはダイヤモンド以上に固く、その色の美しさは金よりももっと美しくなければなりません。このような観点ですべてを見るとき、歴史的義人、聖賢たちはどんな人物たちでしたか? 不変の理想と不変の思想を持っていた人たちです。また、不変の生活を、行動をした人たちでした。
彼らに目的があれば、その目的は不変のものです。全体が変わることのない目的を持った人たちです。(七四・一〇)
原理を探し求めるとき、いちばんの秘訣は何かというと、始めと終わりが同じでなければならないことです。善は始めと終わりが同じなのです。始めと終わりが同じであり、そして終わりに一を加えたものが善です。一をプラスしていくことが、神様の歴史が成されていくことなのです。ですから変わってしまう人は、悪い人になるとういことです。変わる人は皆悪の祭物になるのです。それが鉄則です。いくらよいといっても、そのよいものが変化し始めたら悪の祭物になるのです。サタンのえじきです。サタンはそういう作戦を立てるのです。
そのために聖書においてもそういった境地に入り…。神様のみ言であれば、始めと終わりが全く同じでなければなりません。痛快なのは「私はアルファでありオメガである」と言われたことです。これで終わりということになります。この一言が巡り会いたかった言葉です。それ以上神様は必要としません。それ以上の神様は、堕落した人間を救うためのそのみ言に記録されているアルファとオメガであられる、その神様ではありません。(一五〇・九六)
信仰の道は心を中心として行く道なので、どの宗教であれ、信仰者に対して心を変えろと教えることはありません。変わらない心を持たねばならないと教えるのです。十年前に抱いた心が十年後に変わってはならず、歳月が流れてたとえ生涯を終えたとしてもその心だけは変わらずに残らなければならない、と教える宗教があるなら、その宗教は真の宗教なのです。(三二・一三二)
皆さん、信仰生活は突然にできるものではありません。それは一生の間ずっと…。信仰生活の中で、死んでも永遠に信仰を持ち続けていくということにおいて、自分がその切り開くのを見守ることが問題になるのです。皆さんはこれを確実に知らなければなりません。一つの中心になる要点がなければなりません。信仰生活において不変の軸がなければなりません。核心がなければなりません。それは何かというと、「どんなに困難な壁があったとしても、私自身の悲しみが永遠であっても、私自身の苦痛が永遠であったとしても、それを神様の苦痛だと示すことはできない。しかし、私が志願して天の父母に侍ったことだけは否定できない。天に対して否定の道理を立てることはできない」という鉄則を持たなければなりません。それがいちばん大切なのです。(五九・二三四)
動物世界にも、不変の動物がいます。それは何ですか? 羊です、羊。分かりますか?(はい)。羊は主人に刃物で首を切られても「メー」と鳴いて死にます。蹴ったりかみついたりしません。主人が毛を刈るときも、おとなしくしています。それで、供え物としてはそういう動物が選ばれるのです。分かりましたか? その次は牛です、牛。牛はどうしてかというと、生まれながらに苦労し、犠牲になるのです。肉も人間に捧げ、骨までも人間に捧げるのです。すべて捧げてしまうのです。そして、その次は鴨です。鴨はというと、失った愛を歌うからです。失った愛をほかのどんな動物よりもいちばん恋しがるのです。初恋を懐かしがります。そういう面でいちばん早いのは鴨です。ですから、絶対従順、絶対犠牲、絶対愛の象徴的な供え物が羊、牛、鴨だというわけです。そう思いますか?(はい)。(九七・二八八)
ニ)絶対服従
終わりの日には、一体どのようになるでしょうか? 六千年の終末史全体の悲しみと苦痛と悲惨の立場で、全世界にあふれているクリスチャンたちが勝利すれば、来る再臨主は苦しみや苦痛とは関係がなくなるのです。しかし、全世界にあふれているクリスチャンたちが、そういう基盤を築いておけなかった場合、来る再臨主自ら聖徒たちを代表し、悲しみと苦痛と悲惨とを経ることを避けるに避けられなくなってしまいます。
それはあたかも神様から選ばれ立てられたユダヤの国が責任を果たせず、イエス様が悲しみと苦痛と悲惨を味わうしかなかったのと同じです。皆さんはこれを知らなければなりません。
もし、皆さんがこのような蕩減復帰の条件を立てた立場で呼ばれることがあったら、皆さんは絶対服従しなければなりません。いつまでかというと、一つの王権を立てて一つの国、一つの民族を動員して堕落した生活を取り除くまで絶対服従しなければなりません。イスラエル民族はモーセの命令にいつまで絶対服従しなければならなかったかというと、カナンの七族を滅ぼす時まででした。ノアの家庭もノアに絶対服従しなければなりませんでした。いつまで? 三代以上、すなわち孫の代まで絶対服従しなければなりませんでした。(一三・一五二)
皆さん、信仰するにあたってどのようにして天を中心に絶対服従という言葉が出てきたのか知っていますか? これはとてつもない言葉です。堕落した私たち人間から見たら、これは息が詰まるほど嫌な言葉ですが、神側から見れば息が詰まるほどほ喜ばしいプレゼントなのです。これを知らなければなりません。
そのため、「人間は決心しなさい。その決心を中心に直行しなさい。直行するときは、決心したその目標の前に絶対服従しなさい」というのです。服従しない人は、成功することはできません。服従すれば成功します。違いますか? そのようになっているのです。(六一・二六〇)
絶対に信じなければなりません。絶対服従しなければなりません。絶対的に愛さなければなりません。これが三大条件です。絶対何ですって? 絶対に何?(服従)。絶対的信仰というべきです。服従は二番目ではないですか? 最初は何ですか? 絶対?(信仰)。絶対?(服従)。絶対?(愛)。愛。そうです。それはどういうことかというと、「絶対」という言葉には唯一信仰、唯一服従、唯一愛が含まれています。(一六九・五八)
ホ)神様に向かって直進せよ
人はまっすぐ行かなければなりません。人の左右と背後をだれが支配しているかというと、サタンが支配しています。それで、横道のほうへ行ったり、右に行ってみては左に行ったり、後ろにも行ったりするのです。ですからまっすぐに行かなければなりません。どこへまっすぐ行くのでしょうか? その目的が分かりません。漠然としていますね。まっすぐに行けというのはどこですか? それは神様のおられる所です。これが原理観です。
アダムがまっすぐに行けずどこに行ってしまったでしょうか? エバは左側へ、アダムは右側へ行ったのです。サタンを中心にです。サタンが操りました。こっちに行こうと言われ、ついて行ったりしたので二人は壊れてしまったのです。「エバさんこちらに来なさい。アダム君こちらに来なさい」と別れさせておいて滅ぼしてしまったのです。サタンがそうしてしまったので、蕩減復帰原則により、天使が何をしなければならないのかというと「そっちに行ってはだめです。この道をまっすぐに、神様のもとへ行こう」と言いながらアダム・エバを後ろから押して行かなければなりません。左右後ろから、まるで岩を転がすように押すのです。(七六・一〇六)
チ)絶対信仰
堕落とは何ですか? すべてを壊してしまうことです。壊してしまうのが敵なのです。神様とアダム・エバを突き放し、エバとアダムの関係を壊してしまったのです。堕落のゆえに互いが敵になってしまいました。通じ合うことができなくなってしまいました。天情を中心として通じられなくなったのです。天情の前に互いが情を交わさなければならないのに、敵となってしまったのです。その父母と子女の間に、兄弟の間に怨讐の種が蒔かれたのです。これを蒔いて植え付けてきたのが歴史でした。
そうしてきたために、歴史が神様の本然の愛を中心としてぶつかるわけです。いくらぶつかっても、本然の愛は歴史をたどりながら志操のある人を一人ずつたてては引き継がれてきたのです。リレーというのがあるでしょう? バトンを渡しながら連結するのです。そうして、向こう側の終着点までこれを伝達しなければなりません。そのような闘いをしているのです。
それは何を中心として連結されていますか? 何を中心にバトンが渡されますか? 神様のための真の愛です。絶対信仰です。真なる愛を探し求めていくにおいて、絶対信仰が介在しなければなりません。絶対信じることができなければ、絶対愛が現れません。絶対信じることができなければ絶対愛が出てこないのです、蕩減復帰原則において。ですから絶対信仰を持たなくてはなりません。「神様は私の父だ」と絶対的に信じろというのです。(一二五・二六一)
信仰でいう生命というものは、二人が妥協して生まれたり、環境と因縁を結んで生まれるものではなく、絶対的な立場で生まれるものです。それは避けられないことです。この絶対的な立場は、すべての人が見上げて踊り喜ぶような立場ではありません。絶対的な立場は、それは何ともいえない孤独な立場です。それは二人でいられるような所ではありません。一人しかいられない所です。絶対というものは相対要件を超越しているものだからです。その立場は非常に困難で、もどかしく、孤独で、危険といえばこの上なく危険な立場です。
その絶対的なものが進むことのできる方向はどんな方向ですか? 二つの方向はありえません。一つしかないのです。(三七・九)
皆さんは信仰生活をしながら、「ほかの人たちが行くから自分も行く」とか、「聖書を信じなければならないと言われたから信じる」という考え方をしていませんか? そのように信じていたら、だれかが来て少し揺すっただけで心が変わってしまうのです。ですから、信仰は絶対的でなければなりません。「神様が絶対的だから自分も絶対的だ」といえなければなりません。そう考える人、手を挙げてみなさい。(二一・二五四)
五 信仰生活の注意点
五 信仰生活の注意点
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1 心が沈んでしまうとき皆さんが信仰の道を行きながらも心が沈むのは、内的な基準が下がるからです。この内的基準が下がった状態では、何をやっても満足な結果をもたらすことはできません。ですから、内的な神様の臨在点に同化する生活、一致する生活にならなければなりません。そのような観念をどのように確保するかということを考えなければなりません。(二二・四八)
皆さんは、自分が祈祷をしたり、誠精を尽くしたら、何ともいえない力がわいてくるのを感じることでしょう。皆さんを超越する力が、皆さんに訪ねてくるのです。放送局から送る電波をアンテナを通して受信するように、それが自分の心に来てつながるのを感じるようになるのです。心が純粋であるほど、心が素直であるほど、それが入って来る角度と同じ角度で反射できるのです。(三七・一二三)
2 困難なとき
イ)困難に対する理解
大きなことをするには、三分の一は反対するのが原則です。その反対がないと、神様の功労がなくなります。すんなりとできたら何の功労になるでしょうか?「さあ、行こう!」と言って皆が「はい」と応じたら、何の功労になるでしょうか?反対され、胸を痛め、涙を流し、そうして峠を越えてこそ「よくやった」と言えるのであって、楽に越えたらよい気持ちがしますか? お腹がいっぱいなところへおいしいものを与えたらどうですか? 「ああ、おいしい」と言うでしょうか?お腹がすいているときなら、ただの麦ご飯でもがつがつ食べながら「ああ、おいしい」と言うでしょう。そういうものなのです。(七〇・二三三)
皆さんの中にも、あるとき自分も知らないうちに悲しみがこみ上げてきて、わけもなく涙が滝のように流れる経験をした人がいるかも知れません。私たちはその悲しみの正体を知らなければなりません。その悲しみは自分の悲しみではありません。それは追求してみると歴史的な悲しみです。その悲しみはだれが持ってきたのかというと、神様が持ってきたものなのです。では、それはだれゆえの悲しみなのかというと、神様ではなく私たちなのです。結局は私たちを救うための悲しみなのです。それは私一人の救いではなく、国と世界の救いのためです。国がなければ私たち自身は救いを受けることができません。皆さんはそれを知らなければなりません。(三二・一〇〇)
ロ)困難を克服する方法
心配事と災難が訪れたからといって、気を落としてはいけません。迫害されたからといって心配してはいけません。その代わりに、自分が定義の位置から未来を受け継げるように、天運の前に世界的な運勢基盤の上で天運を受け継ごうと、自分自身を準備しなければなりません。そのことを自らはっきり知るようになれば、それ以上必要ありません。そのようになれば、首を切ってしまったとしても生きていけるのです。(一四七・一九八)
私たちが「環境に勝ち進もう」というとき、この言葉の中に私たちはいつも危険にさらされているという意味も入っています。いつでも危険が待ちかまえているのです。もし、先生が皆さんに対し、環境変化のリズムを合わせてあげなければ、敗者になってしまうのです。それは当然のことです。歴史的な実証があるからです。これをどのようにして克服するのか、これをどうやって消化するのかという問題に、私たちの生死がかかっているのです。
ですから、すべての問題に対して疑いを持つなというのです。正面から挑戦して行けというのです。高い山があれば、必ず谷があるのと同じく、試練があれば必ずその試練に見合った福が訪ねてくるのです。神様が、善が訪ねてくるのです。冬が過ぎれば、冬の峠を越えれば春はやって来るのです。同じなのです。その次には夏が来ます。谷は夏と同じです。それが発展の現れだということを知らなければなりません。(六七・一〇〇)
困難なことにぶつかるときに皆さんが知らなければならないのは、これから訪ねてくる福を受けることのできる準備、天の福を受けて人類に譲り渡すことのできる自分のすべての準備をしなければならないことです。器を用意しなければならないのです。福を受けとめることのできる器を作らなければなりません。(一三三・三〇二)
ハ)困難に対する先生の姿
先生は北韓共産党の監獄に入って二年八カ月の間重労働をしました。何の労働だったかというと、肥料工場での仕事でした。硫酸アンモニア工場から粉がコンベアーに積まれて工場のある一カ所に落とされるのですが、それをはかりで量ってかますにぎっしり入れて貨車に積み込む仕事です。
熱処理をして作ったものなので、こぼれる硫酸アンモニアは熱いです。それが冷めると固まりになります。それを何年か放っておくと岩のようになってしまいます。本当に大変な重労働でした。一日八時間の労働時間に一人ずつ責任分担がありました。十人が一つの班になって仕事をしました。一班の一日の責任分担は千三百かますで、八時間以内に終えることができなければ食料が半分に減らされてしまいます。一日にもらうご飯の量は、小さな器に一・七杯くらいしかもらえません。おかずは何もなく、汁は味噌汁ではなく塩水です。それを食べて八時間労働をするのです。
重労働をさせて死なせるのが共産党の作戦です。ここに入って三年経ったら、皆死んでいきます。必ず、間違いなくそうなります、三年以内に。食べ物を与えず重労働させるのですから、この工場に入ってきた人は最初から死んだのと同じです。
この世で普通の人の基準では、一日に三食、栄養価のある食事をしても一日に七百かますしかできません。しかし、この工場ではその倍近い量をすることになります。食べる物は少なく、多めに取って三口で終わってしまいます。それで重労働をするのですから、朝ご飯を食べて、工場に向かうその途中からすでに足がふらつくのです。その足を引きずって朝から仕事をします。それはもう悲惨この上ないことです。
先生は、監獄で与えられるご飯の半分だけ食べて生きていく決心をしました。人間はパンによって生きていくのではありません。神様のみ言によって生きていくのです。どうせこのご飯だけでは死んでしまうのです。ですから、このご飯の半分で生きていこうと決心するまでに半月かかりました。自分が半分食べて残る半分は分けてあげました。どれほど精神的に幸福でいられることか。日々、感動の量をいかに増やすかが問題でした。精神的な慰めは実に大きいものでした。
生活は科学的です。労働する場合にも労働しているということを意識しないのです。労働時間は祈祷の時間でした。いつも世界的なことなどいろいろなことを想像するのです。朝八時に監獄を出発し、十時に工場へ着きます。十分間トイレに行く時間が与えられます。早くも死にたくなるほど疲労が出てきます。胃が溶けそうなほどうずくのが感じられます。それでもそのことを全然考えないのです。それを考え始めると、ただ休憩時間だけを頭に浮かべるようになります。
肥料四十キロを入れて、それを担ぎ上げるのがいちばん苦痛でした。皆それを嫌がりました。先生は、皆が嫌がるこの難しく大変な仕事を引き受けました。この大変な仕事を続けたら死んでしまいます。それで、いちばん疲れるこの仕事をやりのけるだけの体力をつくる以外に生き残る道はありません。皆さんも、いちばん難しいことを受け持ちなさい! そのように前進的に考えなければなりません。
一日に三百かます以上入れてから運ぶのですから、もはや休む暇もありません。千三百かますといえば、この講堂(水沢里)よりもっと大きな山になります。考えてごらんなさい。千三百かます。これを八時間の間に終えなければならないのです。肥料をかますに入れて、運ぶまでに五分から十分かかります。先生は平均的に五分でやってのけました。ほかの人は十五分かかります。こんなに時間がかかっては責任分担を果たせません。山を崩しながらの作業なので、はかりを移動させながら行うのですが、四〜五メートル以上動かしていては時間がかかって遅れてしまいます。そこで、あまり動かさずに入れていく方法を研究しました。
皆がこの方法に従わないので、仕方なく一人でしました。そのようにしていると、皆にも良心があり、先生が千三百かますの半分以上を一人でするので従うようになりました。先生は模範労働賞をもらいました。新しく入ってくる人には先生が教育しました。
体は硫酸の害を受けました。髪は抜け落ち、皮膚を押すと水が出てきます。六カ月以上経つと必ず喀血するようになります。たいてい肺病だといって気を落とし、死んでしまいます。精いっぱい頑張ってみても一年か二年しか持ちこたえることができません。
どれほど腹がすき、ご飯が食べたくなるかということは、言葉ではすべて表現できません。
ご飯がどれほど恋しいことか。それは死ぬという極地を越えてしまうほどに恋しくなるのです。工場に出られないときは、必ずご飯が半分に減らされます。働かない者は食べるな、というのが共産党の鉄則なのです。病気になっても、ほかの人たちと同じ一食のご飯が恋しいため、死をも厭わず仕事に出かけます。そして、最後の力を振り絞って仕事を終わらせ、帰ってきて夕食を食べながら死んでいきます。すると、その周辺にいる人たちが死んだ人のものを争って奪い取るのです。
先生はそういう中で人間の深いところまで研究しました。食べ物を慕うほどに、自分が神様を慕っているだろうか? 先生は日々比較し、照らし合わせながら過ごしてきました。「何より神様を愛さなければならない。このご飯一食を食べるためにここへ来たのではない。万人の蕩減の道を開拓するために来たのだ」と考えました。自分の行動に対し、不信するような態度は絶対とりませんでした。それで先生は有名でした。(三五・一八五)
先生はどういう人なのか、皆さん考えてみてください。先生は性格がとても短気です。一言でも悪口を言われれば、我慢できない性格です。だれかに一発殴られたら、我慢できない人なのです。また、だれにも負けたくありません。私は極端な性格をすべて持っています。そういう気質と性格を持っているので、できないことがありません。何か運動をしても、自分が勝ってみせる、という性格を持っています。頭も悪くありません。
そんな私に悲惨な境地、私の性格ではそれ以上耐えられない境地が何十回、何百回、何万回あったか考えてみてください。恥ずかしいといえば、それ以上恥ずかしいことのない境地が一回や二回ではありませんでした。しかし、これをすべて克服できたのは、神様がおられたからです。神様も先生と同様に火のような性格を持っておられるはずですが、その性格のままにやってしまえば、世界を皆掃き捨ててしまえる立場にありながら、神様はそれをじっとこらえておられるので世の中が残っているのではないでしょうか。サタンに対して復讐しようとしても、それ以上に神様が耐えてこられたことを知り、悔い改めてきたために、今日の統一教会があることを皆さんは知らなければなりません。
そのような困難と、悔しく無念な思いをこらえてきた神様のみ旨を、この復帰のみ旨を私がどうして汚すことができようか。どうして傷つけることができようか。そういう思いを持っているので、今日までこの道を歩んでいるのです。そういう立場で耐え忍び、そういう立場で克服し、そういう立場で許し、そういう立場で愛そうとする道を、私たち統一教会が行かなければなりません。(六五・三二八)
皆さんにいくら悔しく無念なことがあっても、先生の悔しく無念な思いには及びません。また、レバレンド・ムーンがいくら悔しく悲痛だとしても、神様の悔しく悲痛な思いには及びません。だから耐えるのです。そこで心情的な絆が結ばれるのです。悲しみの裏側に神様の心情的歴史の道が広がることを知らなければなりません。(一〇六・一一九)
3 信仰の試練
命を懸けて信仰の道を行こうとすれば、三つの試練を通過しなくてはなりませんが、それはサタンの試練、先駆者たちの試練、天使の試練です。しかし、教会の食口たちは、無事通過することができます。(一四・二〇二)
私たちが神様を求め、信仰の道をたどって行くとき、その道を何がさえぎるでしょうか? まず、我知らずのうちにこみ上げてくる不信の思いが行く手をさえぎります。また、罪悪の試練がさえぎり、予期できない死の力が襲ってきます。私たちはこのような不信の峠を越え、罪悪の峠を越え、死の峠を越えなければなりません。(二・一〇)
皆さんは神様に所有されたいですか?(はい)。どうやって?このくらいの穴があって、その穴を通れと言われれば通れなければなりませんか?(はい)。どうやって通りますか?
学生たちに試験を受けさせ、一番になる人を見分けるには、難しい問題を出します。だれもできないように難しくするのです。よい先生であるほど、易しい問題を選ぶのではなく、難しい問題を選ぶのです。試験問題を出すとき、それでいいですか? よい先生は、学生が楽にパスできるように易しい問題を出す?(違います)。(笑い)そうですね。
では、神様はよい先生ですか、普通の先生ですか、悪い先生ですか?(よい先生です)。絶対によい先生です。ですから、本当によい先生はどんな問題を出すかというと、本当に難しい問題を出すのです。
では、サタンと神様が試験問題を前にして「サタンよ、お前はこれが解けるか?」というとき、「それくらい、できないことがありますか?」と言うかもしれませんし、サタンが「それなら神様、あなたはできるのですか?」と言えば、「私はできるとも」と言えなければならないでしょう? 神様はできるけれどもサタンは「私にはできません」と言うようでなければなりません。そしてそこで違いが出るわけです。
神様がサタンを屈伏させるには、どんな方法を考えるでしょうか? サタンがいちばん嫌がり、いちばん悪いというのは何でしょうか? これが問題です。今、ここから神様のなされることを喜ぶ人とサタンのすることを喜ぶ人、そういう分け方が成り立つのです。
人として、あるいは学生として、試験問題が好きな人がいますか? 試験問題が好きな人はいません。しかし、試験はしないわけにはいきません。試験問題は必要なのです。どうですか? 試験問題は嫌いでも、試験を受けることは避けられないのです。それを認めますね?(はい)。同じことです。
それなら、神様が試験と宿題を出すのはどこであり、サタンが試験と宿題を出すのはどこでしょうか? これを知らなければなりません。神様の試験を受ける場所とサタンの試験を受ける場所は同じでしょうか? サタンの試験会場はどこで、神様の試験会場はどこでしょうか? 簡単です。外的世界はサタンの試験を受ける所で、内的世界は神様の試験を受ける所です。では、サタンの試験問題と神様の試験問題はそれぞれどのようなものでしょうか? 正反対です。正反対でないはずがありません。(一二三・二二五)
4 信仰生活の中の注意点
信仰者と信仰を持っていない人の違いは何ですか? 信仰を持っていない人は、家庭を中心として社会生活さえすれば済みますが、信仰者は家庭を中心として社会生活のみならず、教会生活も合わせてしなければならないのです。(二二・三六)
今日の信仰者たちは、ちょっと間違えただけで生死を左右する岐路に立たされています。(一・三九)
信仰生活をしていて、ある人から打撃を受け、またある人のために自分の道を行けなくなる人がいるのを見ることがあります。そんな場合は、自分の心をどのように作用させるかにかかっています。(二四・六五)
信仰の道は、自分なりに判断する道や自分が望む道に行ってはいけません。信仰の道は、霊界に行っている数多くの悟り深い指導者たちと因縁を結びながら、高い段階へと一歩ずつ上がらなければならないものです。ペテロ、ヨハネ、ヤコブ、この三人の弟子以上の立場に行ってはじめて、イエス様と関係を結ぶことができるのです。(三二・一六四)
信仰の道に入っている人たちは、自分を中心として腹を立てるときがいちばん恐ろしいことになります。ですから、腹を立てないでください。腹を立ててはいけません。神様を信じていく途中で自分の欲望を中心に腹を立てようものなら、根こそぎ引っかかってしまいます。皆さんは、生涯の路程をこのような問題で上がったり下がったりしながら進んでいるのです。自分が停止しているのか、前進しているのか、あるいは後退しているのかをはっきり知らなければなりません。これをはっきり知った上で、もう一度努力していかなければなりません。(三二・三四)
自分は、どのタイプに当てはまるのかを知らなくてはいけません。「私はこのようなタイプなので、この分野に適している。私はこういう一般的な性質を持ち、こういう特性を持っているのでこの道に進まなければならない」ということを知らなければなりません。ある人は奉仕する使命があり、ある人は教育の責任があり、またある人は事業の責任を持つ人もいるのです。これらのことは、自分の本心を中心に心の声、つまり最初に感じるその感覚で知らなければならないのです。
春になれば、その春の日が暑いとか、あるいは寒いとかを感じるものです。また、その日の朝、気分がどうであるという感じがあります。温度の違いによって、皮膚に接する感覚が異なるのです。これと同じように、人に接すればその人の信仰レベルがどのくらい高まっているかがすぐ分かります。ですから、信仰レベルの低い人に何度か会うと気持ちが落ち込んでしまいます。何の話をしても嫌になるのです。その心は私の心ではありません。嫌になるその心を探ってみると、自分の心ではないのです。
皆さんが信仰生活において、自分の心の感情を通し何パーセントの自信を持つかということを感覚を通して検証しなければなりません。そして、その実績基準を立て、生活の基準を決めて調整していかなければなりません。皆さんのところに、先生がいつも一緒にいるわけでもなく、神様もいつも一緒におられるわけではありません。(四〇・九〇)
第二節 人間の責任分担
第二節 人間の責任分担
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一 間接主管圏と直接主管圏1 間接主管圏
原理の中に責任分担という言葉がありますね、責任分担? なぜ責任分担というものがあるのでしょうか? 人は大きく成長しなければなりません。成長して上って行かなければなりません。十五・十六・十七・十八歳、思春期まで長成しなければならないのです。ここから中央まで上がろうとするならば、成長していかなければなりません。大きくなろうとするので、そのときまで待たなくてはなりません。そのため、統一教会では、これを原理結果主管圏といいます。直接主管圏、原理結果主管圏があるというのです。直接主管圏と原理結果主管圏。成長して成熟するときまで到達しなければ、愛が分からないのです。どんなに努力してもです。だから成長するまで待つのです。
そうして平面的な極から二つが一つになるとき、神様がぴったりそのときに来られて彼らに結婚式をしてくだされば、それで済んでしまうことです。(一三七・一〇〇)
皆さんは原理の内容を知らなくてはいけません。原理原則で人間がつくられたときに、二十歳を中心に間接主管圏を設けられたというのは、人間が成熟することを望まれる神様にとっては、避けようのないことだったと理論的に解明できます。分かりますか?
原理主管圏をなぜつくられたのですか? これをつくらなければ成熟するための限界、時をつかめなくなってしまいます。思春期という時をどこに決めるかです。それで原理主管圏、思春期の時になるまで待つわけです。ですから、愛においては神様がすべてを干渉してはいけないのです。人間が必要とするものは何かというと絶対的な愛です。(一四八・一五〇)
私たち統一教会の原理を見ると、間接主管圏と直接主管圏があります。しかし、人間が堕落することによって、間接主管圏だけにいるようになってしまったのです。直接主管圏はいまだに連結されていないのです。アダム・エバが責任を果たせないことから、間接主管圏から直接主管圏へと連結することができなかったのです。ここで責任分担が関係してきます。そのため、復帰摂理は責任分担のために何度も延長されてきたのです。それを知らなかったのです。
神様の直接主管圏に連結される、神様の愛の圏内に行くためには、間接主管圏で何をしなければならないのでしょうか? 完成するためには、自分の責任分担を完成させなければなりません。(一三九・二三一)
2 直接主管圏
人間が責任分担を完成した後には、何が成されるのでしょう? それは何かというと、人間の責任分担とともに、神様の直接主管圏内に入れるということです。それを知らなければなりません。原理がそうなっているでしょう?(はい)。
そのようにして直接主管圏に入った後、神様が何を中心に直接主管されるのでしょうか? お金を中心として? 能力を中心として? 何を中心に主管するのでしょうか?(愛です)。そうです。愛、愛なのです。そのときには、アダム・エバは神様の祝福を受けて神様の愛の圏内に入るのです。アダム・エバが愛の圏内に入り、その愛の圏内で一致した後、神様の愛を平面世界へと広げていく時代が地上天国の基盤です。(一二四・三〇六)
神様の愛を中心にして完全な神様の愛が現れたときには、サタンは出てくることもできなくなります。それが責任分担の完成です。責任分担を完成していたなら、間接主管圏と直接主管圏において愛の因縁が結ばれるのです。そこから縦的な愛と横的な愛が連結されるのです。(一七三・二八六)
何度も話しましたが、責任分担圏というのは愛を中心として一つになった位置ではないですか? 完成に向かい、縦的な神様と連結されたときに、間接主管圏と直接主管圏が連結されるのではないですか? 違いますか? そこにはサタンがいません。直接主管圏と間接主管圏が連結されると心情圏が連結されるので、サタンが存在できないのです。その前に堕落したから問題なのです。(一七二・一九八)
責任分担を持った統一的直接主管圏の一致点というものは、理想的父母の愛においてのみ可能なのです。
二 人間の責任分担とは
二 人間の責任分担とは
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1 アダム・エバの五パーセント人間の責任分担とは何でしょうか? 神様の愛を知り、神様とアダム・エバが完全に一つになれる基準、神様の愛の中心基準とアダム・エバの愛の中心基準が一点に集まらなければなりません。(一四五・三二〇)
アダム・エバが堕落したというのは、どういうことですか? 彼らが堕落する前に、まず神様に尋ねてみたなら堕落することはありませんでした。この尋ねてみることが責任分担の五パーセントです。尋ねてみるのは自由です。「天使長がこれこれこうですが、どうしましょうか?」と尋ねてみなければなりませんでした。そうしていたら、神様が答えてくださったはずです。しかし、尋ねてもみないで横的な関係を結んでしまったのです。それが問題です。尋ねてみないで行動したために問題が起こったのです。いつもそうです。皆さんは、自分の責任分担である五パーセントを果たす自信がありますか?(三三・二四一)
アダム・エバが堕落なぜ堕落したのかというと、責任を果たせなかったからです。それでは、責任を完遂するには、アダム一人だけができるのでしょうか? まず神様を中心として、神様と一つにならなければなりません。神様と一つになる前には責任分担を完遂できないことを知らなければなりません。その次に何かというと、原理と一つにならなければなりません。このような二つの条件が成立しなければなりません。(八七・一二二)
2 責任分担をくださったわけ
本来、人間の責任分担を与えたのでしょうか? 創造のみ業に加担させるためであり、次に何ですか?(創造性を与え、万物を主管する資格を与えるためです)。次は?(原理の絶対性と完全無欠性のためです)。この三つの内容です。
皆さんが神様の創造のみ業に加担しなければなりません。本来、堕落していなくても、そのような責任はあるのです。堕落して人間の責任分担が設定されたのではなく、堕落しなくても責任を担っているのです。人間として完成できる神様の九十五パーセント、創造理想的形態をすべて備えたとしても、自分の五パーセントを完遂しなければならないのです。人間自体の完成を神様だけがさせるのではなく、自分がそこに補って完成すべき責任があるのです。堕落しなくてもです。(一一五・六六)
原理を通して知っているように、神様は人間を愛され、全天宙が屈伏する愛と権威をくださいますが、すべてが完全に頭を下げる最高の愛と最高の権威を考えて人間に責任分担をくださったのです。
それでは、神様はどうして人生の中に責任分担を立てられたのでしょうか? 全知全能なかたが、その全知全能な創造性まで与え、また永遠不変な愛の主体であられるので、その愛の主体を代身できる立場に立てるために、責任分担を与えざるをえなかったのです。これは福の条件となり、全体を占領できる一つの鍵のようなものなので、これを与えないわけにはいきませんでした。しかし、この責任分担の問題で堕落したことを私たちは知らなければなりません。(二〇・二一〇)
3 責任分担を果たせなかった結果
今日、統一教会がいう責任分担という言葉は偉大な言葉です。皆さん、だれも責任分担を果たしていない立場にいますね? そうですね?(はい)。人類始祖が責任分担を果たせなかったために、責任分担を果たしていないその立場は、サタン支配圏になってしまったのです。それで、責任分担を果たしていないその立場から悪主権世界が生まれたのです。従って、復帰時代において善主権世界とは、責任分担を完成した線以上の立場から始まるのです。理論的にそうなります。責任分担の線以下は悪主権になり、責任分担線以上が善主権になりますが、悪主権の出発は何によって始まったのでしょうか? 堕落した愛によって始まったのです。
サタンの愛の領域が天国の門前の境界線まで連結し、責任分担を完遂できず、直接主管圏と間接主管圏内の差をもたらした先祖の罪によって、死の淵が生じたのです。(一三七・二五一)
責任分担圏が侵犯されることで何が生じたかというと、もう一つの父母が生じたのです。もう一つの父母というのはサタンです。はっきりと知らなければなりません。(一三七・二四七)
4 責任分担を完成した立場とは
責任分担を完成した立場に立った人間とはどんな人間でしょうか? 神様のように完全な人間なのです。神様が九十五パーセント創造しましたが、人間が百パーセント完成した創造物の資格を受けることのできる立場に立っているので、人間完成とともに神様の創造のみ業完成にもなるのです。創造のみ業の完成であるとともにみ旨の完成であり、み旨の完成とともに神様の完成になるといえます。(一三〇・二〇)
責任分担を完成すれば、サタンがいなくなります。讒訴する存在がなくなるのです。この基準を越えられなければ、讒訴条件があるため、いくら天国に入ろうとしても入れないのです。讒訴条件の内容を持っていては入れないのです。絶対的な愛、不変、唯一、永遠の愛の内容を中心に神様の愛と関係を結んだ基準に立てば、サタンがそこに讒訴条件を立てることができません。そのような立場に立てば、万国どこに行っても、夜も昼もサタンのいられる所がありません。サタンがいても逃げ出すようになるのです。もう整理しなければなりません。(一六九・八四)
責任分担を完成することによって間接主管圏と直接主管圏が連結され、地上天国と天上天国が連結されるのであり、それがなければすべて無効です。ですから、私たちは責任分担を完成した愛の実体、愛の化身となり、神様を愛し、自分の妻を愛し、万宇宙を愛し、自分の家庭を愛さなければなりません。そのような人だけが天国に入るのです。それが天国に入る公式です。(一五〇・四二)
三 責任分担の発見とその重要性
三 責任分担の発見とその重要性
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1 責任分担の発見責任分担というものを今まで知らなかったために歴史が…。なぜ善なる人々が皆犠牲になり、悪なる人々が栄えるのですか? 歴史を見ると、独裁者たちがなぜ世の中を支配したのでしょうか? 善軍が現れて世界を一つにすることは実現できず、歴史を調べると、どれも独裁者の世界統一の夢だけが記録されています。それはサタン世界だったため、責任分担圏を侵犯されたため、それ以下のあらゆる被造物、それ以下の人間自身、地上世界の万民、地上に現れて霊界に行った先祖たちまで見ても、責任分担完成圏を越えた者は一人もいません。
それが原理です、原理。それは先生が適当に取ってつけたものではありません。この責任分担という言葉を知らずしては歴史が解けません。そうですね? 全体歴史が解明できません。歴史の曲折を解決できません。なぜ戦争歴史なのですか?本来、責任分担という善の条件が悪なる世界の条件を克服すべき立場にあるので、堕落してサタン世界になって転落したのを覆す闘いをしなければなりません。そのため、善悪の闘争史になるのです。(一三七・二六六)
統一教会での責任分担という言葉はだれが作ったのですか? だれが発見しましたか?(お父様です)。私は発見したまでであって、つくったわけではありません。(笑い)神様がつくったのです、神様が。それでは、私が発見する前からその言葉はありましたか、ありませんでしたか?(ありました)。いつから?(天地創造のときからです)。天地創造のときです。この法は永遠の法です。それを知らなければなりません。
神様の愛は絶対的であると同時に、その愛が絶対的な責任分担の上に立たなければ、その愛を実現できません。絶対的です。皆さんが朝ご飯を食べて生きることを考えるよりももっと根本なのです。
責任分担という言葉は先生が発見しましたね? 発見したのですが、皆さんのようにじっと座ったまま責任分担という言葉を発見したのですか? 闘争して発見したのです。これを発見されたらサタン世界は完全に崩れるので、サタンはひたすら隠し、覆いかぶせ、もう山を積み上げて完全に隠しておいたのです。(一五〇・四一)
今日、統一教会で人間の責任分担というものを解明した事実は、宇宙的な発見であることを知らなければなりません。原爆の発明やアインシュタインの相対性原理の発見などとは比較にもならないのです。それを知らなければ人類のすべての問題が解決できません。
皆さんが人間の責任分担というこの真理を知ったという事実は、偉大なものを所有していることになります。しかし今、ムーニーたちは人間の責任分担をいちばん嫌っています。いちばん好きでなければならないのがムーニーであるにもかかわらず、ムーニーたちが人間の責任分担を嫌っているのです。どうですか? 好きですか、嫌いですか?(好きです)。「君たち、人間の責任分担を果たしなさい」と言いましたが、果たしましたか?(果たしていません)。(一二四・三〇三)
この宇宙のすべての矛盾した事実と歴史のすべての悲運の曲折、どれも皆、歴史上の責任分担というものを知らなかったために生じたのです。責任分担を皆さんは勝手に考えています。「責任分担は原理で教えてくれるもので、私たちとは関係ない。世の中は思い通りに生きていける」このように考えているのです。
そのように見るとき、レバレンド・ムーンが責任分担という言葉を発見したというのは偉大な発見であることを知らなければなりません。皆さんは責任分担をどれだけ重要に思っていますか? この責任分担には宇宙がかかっています。神様も解放されず、宇宙も解放されず、地獄もこのために解放されず、社会の矛盾したあらゆる不義の歴史が責任分担という壁に引っかかってあえいでいるのです。(一二四・九四)
2 責任分担の重要性
この責任分担という言葉は、人間の世の中ではあまり使わない言葉です。しかし特別に統一教会では、どんな言葉よりも重要視する単語です。統一教会の中では、この責任分担と蕩減という言葉、責任分担と蕩減復帰、この二つを知らなければ歴史的なすべての内容を理解することもできず、誤った歴史、あるいは未知の事実を解決することができません。そのような重要な言葉です。
統一教会でいう責任分担という言葉は重要な言葉です。この責任分担が果たされることにより、アダム・エバはようやく人間として完成します。完成した人間になるのです。また、創造主がいるなら、その創造主が人間を完成すると同時に人間を創造した目的が成されるのです。それは、創造主としての権威を立たせられる結果をもたらすようになります。人間が責任分担と完遂したという立場は、神様のすべての創造理想を完成する結果になったということです。(一六九・四五)
責任分担! これをよく知らなければなりません。子供たちに強調しなければなりません。救いの歴史は復帰の歴史であり、復帰の歴史は再創造の歴史です。再創造は何によって? 原理的にするのです。責任分担を果たさなければなりません。責任分担! 責任分担は私たちの絶対的な信仰なのです。絶対従順です。それ以外にありません。自己主張はありえません。分かりましたか? エバは自己主張をして堕落したのです。統一教会に入って不平を言うなというのです。(一四三・一一三)
3 責任分担を遂行する姿勢
今日、堕落した人間はどうなっているでしょうか? 堕落した人間は、人間の責任分担だけするのではありません。創造全体の九十七パーセントをすべて踏みにじってしまったのです。そのために再創造をしなければならないのですが、再創造とはどのようなものでしょうか? 責任分担の限界線に立つことのできる、そんな立場ではありません。創造過程のすべてが壊れてしまったということです。ですから、極めて困難なことなのです。ですから人間は、九十七パーセントに当たる責任を果たしてもらわなければ、責任分担を完成する道が永遠にないのです。再創造しなければなりません。そのため、復帰摂理というのは再創造歴史になりますが、再創造がなぜ必要になるのでしょうか? 人間の責任分担があるからです。人間の責任分担を果たし、本来の位置まで進むためにも必ず再創造の過程を経なくてはなりません。再創造過程を経るには、必ず蕩減しなければなりません。蕩減条件を立てなければなりません。受難の道を行かなければだめなのです。
神様はこれまで人間の責任分担以上のところで人間世界に対しています。しかし、それ以下に落ちた人間は、何としてでも橋を架けて上って行かなければなりません。その圏内に全人類が引っかかっているのです。全世界も歴史もそうですし、過去に霊界に行った人、現在の人類、これから生まれる子孫全体がこの運命圏を抜け出せずにいます。これが怨恨の堕落圏です。
ですから、再創造していくにはどうしなければなりませんか? 必ず闘争過程を経なければなりません。だれと? サタンとです。再創造過程に必要な圏はだれが支配していますか? サタンが支配しているのです。九十七パーセント圏をサタンが支配し、九十七パーセント圏以上から神様が支配する。こう見なければならないのです。(一一五・六七)
責任分担にも個人的責任分担があり、家庭的責任分担圏、氏族的責任分担圏、民族責任分担圏、国家的責任分担圏、世界的責任分担圏、宇宙的責任分担圏、天宙的責任分担圏があります。なぜですか? 堕落した世界だからです。堕落した世界なので、門がありません。その門は責任分担を中心とした愛の圏でなければだめなのです。個人も反対し、家庭、氏族もこれに反対するのです。そして民族も…。(一六二・九二)
もう責任分担というものが分かりましたか?(はい)。皆さんは責任分担を一日に何回考えたことがありますか? ご飯を食べるときにも責任分担、箸を持つときにも責任分担、スプーンや皿を洗うときも責任分担、トイレに行って用を足しながらも責任分担、歩きながらも責任分担を意識しなくてはなりません。アダム・エバは責任分担とういうものを考えなかったために滅びました。皆さんも、責任を果たせなければ滅んでしまいます。分かりましたか? 私たちは、アダム・エバのように責任分担を果たせずに堕落した人になってはいけません。復帰して勝利した人になるためには、二十四時間責任分担を重視しなければならないのです。
これから統一教会の食口たちは、あいさつをする際、この言葉を使わなければなりません。human(人間)のHとresponsibility(責任)のRを合わせて「HR」と言わなければなりません。HRで「ハ!」と言います、「ハ!」。そのようにして歴史、文化は創造されるのです。全歴史の源泉です。今日この場から「ハ!」とあいさつして「おい、ハっていうのは何だ?」と聞かれたら、「君たちは知らないだろう。ちょっと話を聞いてごらん」と教えてあげるのです。朝にも「ハ!」、晩にも「ハ!」と言いましょう。それがいちばん便利です。(笑い)ハ! いいですか?(はい)。それは先生も好きですし、神様も宇宙も好きなのです。もう、分かりましたね? ですから、統一教会の皆さんは統一教会の責任分担を忘れないようにしてください。これが大切なのです。(一二四・一〇三)
四 私たちのための祈祷文
四 私たちのための祈祷文
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愛する天のお父様、幼い少年少女たちがこの場に集ってまいりました。この者たちはある一つの地域から集まったのではなく、この国の全地域から集まりました。この者たちの将来をお父様が哀れんでください。この者たちを、ほかのだれのために生まれたのでもなく、あなたのために生まれた少年少女とならしめてください。だれのために闘う者になるよりも、あなたのために闘う者とならしめ、だれのために生きるよりも、あなたのために生きる群れとならしめてください。
もう私たちは、善なる道がどのような道かを知り、悪なる道がどのような道かを知りました。また、お父様の恨がどうしたら解かれるかも知りましたので、お父様、私たちがその道を行くよう導いてください。
いかに険しい受難の道が押し寄せて来ても、あなたがこの道を歩んでおられますから、私たちも運命的に行かねばならない父子の因縁があることを感じて進む子女とならしめてください。
私たちに悲しみが近づいてきても、それを越えればあなたの癒しが訪れることを知る子女とならしめてくださることを切にお願い申しあげます。(四七・九〇)
第六章 先生の学生時代
第六章 先生の学生時代
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第一節 先生の幼少時代一 先生の誕生
先生は一九二〇年に生まれました。そのとき、韓国の情勢は悲惨でした。日帝時代であり、いちばん悲惨な時代、歴史的な大変遷の時代でした。先生は患難(不安と災難)の時代に生まれ、患難の時代に生きているのです。そうではないですか? 国を見てみると患難です。日本に隷属していた患難の時代でした。そのとき、一九二〇年は、己未の年(一九一九年)の万歳事件の後であり、その上、同じ年から三年だったか七年だったかの間、凶年になったのです。
私が母のお腹にいるときは、松の木の皮を…。あれ、何といいますか?(松の甘皮)。松の甘皮を削って食べて、それでどうにかしのいだという話も聞きました。このことを考えると、神様は今日文先生を愛しているように思えるのに、生まれるときはなぜそんな歴史的な苦境に追いやり、最もひどい患難、険しい谷に立たせて苦労させたのか…。それに私が生まれるとき、私の一族が…。これらはすべて神様の役事なのです。私は蕩減法を知っているからすべて理解できるのであって、そうでなければすべて嘘だと言うことでしょう。(一四一−三〇)
二 信仰の中で成長される
二 信仰の中で成長される
私は、北韓のある地方の誠実な儒教の家庭で生まれました。十数歳のとき、家族全員がキリスト教に改宗しました。私は改宗と同時に深い感銘を受けました。私はこの新しい信仰に愛着を持ち、以前に愛しただれよりもイエス様を愛しました。
私は一六歳のとき、特別な経験をしました。復活祭の朝、長い時間にわたって涙の祈祷を捧げたところ、イエス・キリストが現われて、多くの啓示と教示をくださいました。イエス様は深奥なる驚くべき内容について、多くのみ言を語ってくださいました。苦痛を受ける人類を思い、神様が悲しんでおられると語られました。そして、私に地上における神様の歴史に対する特別な役割を担ってほしいと求められました。(一三四\一四四:既成教会の牧師に宛てた書簡:英語から韓国語に訳したもの)
三 幼少時代の自然探求
三 幼少時代の自然探求
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1 自然から学ぶ先生の幼年期は田舎で育ったので、季節が変わる度に渡り鳥がやって来て、季節それぞれの花がいっぱいに咲く環境の中で成長しました。先生が幼い頃は、韓国のどこに行っても季節がはっきりしていて、季節が変わるごとに美しい自然を見ることができました。今日のソウルは一日中歩いて行っても自然とは出会うことができず、すべて人為的な自然しか見られない索漠とした都会地になっていて、悲しみを感じたりもします。このような都会の環境の中で育った人間は情緒が不足し、自然の神秘と美しさを感じる機会がないため、乱暴であったり個人主義の性格になりやすいことを知らなければなりません。自然との出会いの中で多くのことを学び、悟るようになるのです。
先生は自然の中で多くのことを学び、身につけることができました。その中で、本当の愛とはどのようなものか、幸福とはどのようなものか、についても自分で悟りました。学校教育よりもっと根本的なことを学ぶことができるのが自然の世界でした。
季節が変わり、美しい鳥が飛んで来たのを見つけると、その鳥を追いかけながら、どのようにして巣を作り、どのように生きていくのか、様子を観察しました。あるときは、鳥の巣を探すのに一週間かかったり、鳥が卵を産んでひなをかえすのを見るために十日以上かかったりもしました。親鳥に似たかわいらしく美しいひなを見ながら、神様の神秘と愛を深く確認したりもしました。(一九八六・一・三)
昔、私は田舎で暮らしていましたが、そのときいちばん嫌だったのが、牛に餌をやりにいくことでした。ところが初めのうちはうんざりしていたのに、悟ってからは、牛を心から愛するようになったのです。あるときこんなことがありました。牛はお昼になると、時間になったことがちゃんと分かります。でも、私はいたずらしたり遊んでいるとき、最後までやらずに途中で餌をやりに行くのが嫌でした。それで「十分だけ待ってろよ。いや、あと三十分だけ」そうこうしているうちに一時間、二時間…。こんな調子なので、牛は野原につながれたまま「自分を迎えにくる主人はどこへ行ったんだろう」と待っているのです。しかし、遅れて行っても、私なら腹を立てて暴れるでしょうに、何も言わずにじっと見つめているのです。そんなとき、私は「偉い! 立派だ! 君子だ! すまなかった!」と心の中でつぶやきました。そんなことが何度もありました。「おい! お前は僕よりも…」そう気づいてからは「おい、お前の偉いところが分かったから、きょうはいっぱい食べさせて蕩減復帰するぞ!」と、陽が沈み暗くなるまで餌を与えました。ところで、牛は腹が膨れてパンパンになっても主人が食べさせるのでずっと食べ続けます。夜を明かしてでも食べています。胃が大きいですから、その餌の貯金通帳にたくさん入るわけです。
このように、私は牛について学んだことがたくさんあります。焼けつくような真夏の陽射しの中に座り、汗をたらたら流しつつも、遠くの山を望みながら瞑想する大王様の観があります。だから世界の人々は、とらの肉は嫌いでも牛肉は好きなのです。犬の肉も嫌いだし、猫の肉も嫌い、皆嫌がります。それらはどんなにすばしっこいですか? 猫はしつこくニャンニャン鳴くし、犬はやたら吠えます。「だから牛の肉はみんなが好きなんだな」と思いました。歯ブラシなども、牛の骨のかけらでつくったものです。尻尾ひとつ取っても捨てるところがありません。糞も肥料に使いますね。ですから「牛がいいことはいい!」というわけです。分かりましたか?(一〇九−四〇)
2 自然を通して情緒豊かな人格を養う
私の家には、大きな栗の木があります。約二百年になる栗の木で、とても美しい木です。私はさる年生まれのせいか、よく木に登りました。それも枝という枝、栗の実のある枝を片っ端から…。(笑い)このように太った人ですから\そのときも太っていました\木の枝が曲がって落ちそうになると、その下の枝にうまくぶら下がるように考えておきます。ですから落ちるときは、別な枝に引っかかって落ちるわけです。わざわざ枝の先へ行って、その枝の届くところへ渡るテストまでやるのです。
そのようにして、今度は枝の切れ端に細工をして、それでポキポキッと栗の実を取ると本当に面白いです。あるものは、栗のいががぱっくり口を開けています。この中実を地面に落とさないで取るのです。ボキボキ…。下手をすると落ちてしまいます。その栗の実を地面に落とさないように取る、その面白いこと…。今もはっきり覚えています。これは田舎で育った者でなければ分からないでしょう。十数本、いえ、十数本どころか数十本です。その栗の木がものすごく大きいのです。
それから大きいアカシアの木があって、そこにはカササギの巣が何個かあったのですが、四季を通じていつもカササギがさえずっています。大きな木には決まってカササギの巣が何個かあるものです。カササギは(韓国で)吉鳥(縁起のよい鳥)だというでしょう? カササギが「カッカッカッ」と鳴いたら、何かの便りがあるというでしょう? 私の家の門をくぐると、毎日、朝にも「カッカッ」晩にも「カッカッ」鳴いているのです。
そのカササギの巣がある木に、あっという間に登ってしまいます。しょっちゅう登ったり下りたりしているので、しまいには一息で登れるようになりました。
そして、このカササギの生理とういうのは、見ていると実に面白いのです。カササギの巣を見ただけで「あっ、今年は風がどこからどこへ吹くんだな」ということが分かります。東風が吹きそうだと思えば方向をちゃんと変えて、小枝をくわえて出たり入ったりしながら巣を組んでいくのを見ると…。まったくだれに教えられたのか、見事な作品を作り上げるのです。これは木の小枝を組んで作ったものなので、雨が漏ったりするでしょう? そこで、次に何をするかというと、泥を持ってきて内側を全部塗るのです。風が入らないようにそうしておいて、実に不思議なことに、雨が降ったら一カ所に流れるように小枝を巣の上にあてがい、雨が巣に入らないようにするのです。分かりますか? 小枝の端をできるだけ集めてあるのです。雨が降っても、雨水がその方向に流れ落ちるようにするわけです。これをだれが教えたのか、本当に大した腕前ですね。(笑い)私たち人間もそんな家を作ろうとすれば、たぶん数年は習わなければならないでしょう。ところが、小枝を口にくわえて要領よく作ってしまうのです。
そうして少し経って見てみると、どうでしょう。数日後には巣ができ上がって、あとどのくらいすれば卵が孵化する、ということが分かります。そのカササギの卵を見ると、薄青い筋が絡み合っています。神秘的な筋があるのです。とてもきれいです。この卵の大きさは、鶏卵の約四分の一程度です。
その卵を産む前は、いくら登って行ってもさほど騒ぎ立てたりしません。鳴きません。しかし、卵を産んでからは、面白いことが起こるのです。卵を産むころに登って行くと、このカササギが隣近所まで聞こえるほど騒ぎ立てます。すると、今度は近所にいるカササギの群がやって来てデモを始めるのです。それが面白いのです。そんな趣味がありました。だから鳥たちの生態に詳しいのです。(笑い)
そのように、一回登ってみると一個、次に登ってみると二個、三個、これがたくさん産むときは十二個、十三個まで産みます。
ところで、何度行っても危害は加えません。だんだん慣れて、ひょいと顔を突っ込むと「あっ! また来たな」とあいさつをします。「クァックァッ」とあいさつするのです。登って行っても何もしませんから。登って、見て、下りるだけです。
あるときなど、雨が降っていたりして登らないこともあります。すると、私が出かけるときに、どこから見ていたのか、「カッカッカッカ」と合図してくるのです。どうして来ないんだ、というわけです。こんなにも人になつくのかと思いました。うそではありません。皆さん、そういう趣味を知らなかったでしょう? 今ではすっかり年をとったので、そんな趣味も持てなくなりました。(笑い)
では、カササギのひながかえったらどうするでしょうか。小枝の山のように作った巣の中にひなを置き、えさをくわえてきて食べさせます。えさをくわえて食べさせるのを見ていると、鳥が自分の子を愛するのを見ていると、私たち人間も、子供をどのように愛するべきか、たくさん学ぶ点があるのです。
このひなが飛び回るようになっても、そこそこ大きくなったからと放っておいたりせずに、相変わらずえさを与え続けます。これを私が一羽ずつ放してやるのです。「きょうはいちばんお前のためになることをしてやるぞ」と言って、足に長いゴムひもを縛り付けて飛ばすのです。悪い子ですね。(笑い)そうしてやると、カササギの子がとても喜びます。この鳥がぱたぱたと飛んでいると、いつの間にやら親鳥が来て、つれていこうとします。でも、ゴムひもを結んであるのでどうなりますか?(笑い)そんないたずらをしばらくやって、そのうちかわいそうになって放してやりました。親鳥は、子を連れて森の中の大きなねずの木に移します。皆さんは、ねずの木といっても知らないかも知れませんね。大きな木です。そういった世界を見ると、すべて愛の情緒を中心として動いている事実が分かるのです。
親鳥が子を失ったとき、その心情は人間世界の父母の心情と同じです。かえって、今時の人間の親が恥ずかしいくらいです。
このような観点から見て、すべての情緒はどこに起源があるのでしょうか。どうですか? どこから来たと思いますか? 親鳥は、すべてのひなを愛することを知っています。それを人間が教えたのですか? どこで習ったのですか? 愛さずに争い合って、つついたり捕まえて食べたりしてもおかしくないでしょう。それなのに、皆一様に子を保護するのですから不思議です。
ですから先生は、神様の心情を知り、歴史の事情を知り、世界のあらゆる事情に通じ、未来の人間の事情はこのようになるということを予想して、それを描いていくのです。そういう面が違うのであって、ほかに違うところはありません。学識が高いからといって自慢にはなりません。お金持ちだからといって自慢にはならないのです。その人の心に宿る情緒的人格がどれだけ大きいか、ということが問題になるのです。(一四一−三三)
3 先生の自然に対する好奇心
先生は多方面に素質があります。何であれ、できないことがありません。人間にできることなら何にでも素質があります。体育をやろうと何をやろうと、素質が有り余って…。その代わり、極端な性格で、一度手にしたものは、頭が割れようが首が抜けようが放しません。うちの子供たちもそうです。この小さな国進でさえ、清平へつれて行ったところそうでした。ある程度のところに登ったらそれでよさそうなものを、さらに登ろうとして…。どこまでも登ろうとするのです。それはお父さんに似たのです。先生は、村でだれも登ったことのないいちばん高い木があれば、必ず登りました。夜、寝ることも忘れて、夜中なのに登るのです。あるときは、登る途中で落ちてしまい、枝をつかんでぶらんぶらんと宙吊りになったこともあります。神様のご加護です、死んだら大変ですから。(笑い)
また、近所に池があれば、その池にはどんな魚がいるのかと思い、全部釣ってみるのです。大きいやつを釣り上げようと決めたら、もう一年十二カ月でも釣りをやるのです。先生はそんな性格です。ですから、ひと度何かに取り組んだら、死なない限りそれは解決することになるのです。
それから、雪が降ったら寝ていられません。イタチ猟に出かけます、夜中に。もう、百里でも何百里でも駆け回るのです。お腹のすくのも忘れてしまいます。ですから、私の母はたいへん苦労をしました。ひどい人です、私は。早くも十代に入ったころから両親の心をつかみ、コントロールしていました。まあ、そのくらいだからこういう活動ができるわけでしょう。違いますか? だれであれ、うかつなことをしたら黙っていませんから、そのブレーキに両親でさえ降参せざるをえません。一歩も引きません。骨が折れても引き下がりません。死んでも譲らないのです。
私の家では養蜂もたくさんやっていました。本当にこの蜂蜜、アカシアの蜂蜜はおいしいです。蜂は、このアカシアの花にとまってその味に触れたとたん…。うちでは蜂を本当にたくさん飼っていました。この蜂のやつが頭を突っ込んで蜜を吸うときには、前後の足をこうしてふんばって、尻尾は下に支えおいて吸いまくるのです。そのときにピンセットで尻尾をつかんで引っ張ると、尻尾が切れても放さないのです。すごい執念でしょう? 尻尾が切れるほど引っ張る小僧もひどいですが、味をしめて放そうとしない蜂はもっとしたたかです。それを見て「うわっ! こりゃ教えられたな。僕もこのくらいになろう」と思いました。(笑い)
カエルというカエル、鳥という鳥、私が捕まえてみなかったものはありません。初めて見る鳥がいると、もう捕まえなければじっとしていられません。知るまでは夜も寝ていられません。あるときなどは、渡り鳥が来て、さっと山の中に消えて…。そのときも鳥の巣という巣は…。それはまったく面白いのです。二羽の鳥がつがいになって、小枝をくわえてはせっせと巣を作って…。(お笑いになる)
それから、その鳥たちが水を飲む所があります。水を飲む所があるのです。そこで、どこで水を飲むのかを調べて、そこに枝を一つ置いておきさえすれば確実に、百発百中で捕まえることができます。(お笑いになる)鳥は地面に下りるのよりも、石の上に下りるのよりも、専門は何かというと、木に留まることです。その習性を利用して、水の上に枝を一つ渡しておけば間違いなく留まるのです。だから確実に仕留めます。馬の毛でしっかり一つ作っておいて、三回だけ行ったり来たりすれば、しっかりと首が引っかかるのです。(笑い)ああ、こいつ、これを見ればですね、これは皆全部…。
私がこんなことをなぜ言うかというと、皆さんが青春時代にすることは全部して、育てるものは全部育て、遊ぶものは全部遊んで、面白いものは全部見て、そのようにしてはだめだというのです。だめなのです。そんな遊びをしていると落ちやすく、行くことができないのが常だというのですね。分かりますか? (五一\二七〇、一三六\一三二、一八六\三〇三)
4 自然に対する新しい姿勢
先生は幼いとき、美しい鳥を見ればその鳥に対して深い関心をもちました。その鳥が何を食べて生きるのか、どこに巣を作ってひなをかえすのか? このようなことを何日かかっても、まんべんなく探して、必ず知りつくさずには終わりませんでした。また、草も数百種類を採集してどんなものが毒草でどんなものが薬草であるか、またその構造はどのようになっているか、ということを知ってみるために熱心に研究しました。
先生は自然を見る度に、神様がこのすべてのものをどのように作られたのかと深く考えてみました。どんぐりの木やいろいろな草の葉を見ながら、どのように作られたのだろうかと考え続けていると、このすべてのものが限りなく神秘的でした。
皆さんは石ころ一つでも創り出すことができますか?
先生は、蛇も数えきれないほどたくさん捕まえてみました。
私たちは何でも物事に対してたくさん関心を持たなければなりません。そしてそれに対する内容を知って初めてそれを支配することができるというのです。私たちが、自然がもつその自然の価値だけを知っても言葉にできないほどの福を受けるのです。そのようにしてみると結局、自然が私を中心として創られたという事実が分かるようになります。しかし人々はそのような事実を知りません。自然を見る術を知らないのです。
自然は本当に神秘的です。私たちがこのようなことを知れば、風の音も素晴らしい音楽に聞こえるでしょう。そして私たちの信仰生活にも大きな助けになります。
私たちの体といちばん近いのが自然です。ですから私たちは、嘆息する自然の願いをかなえてあげなければなりません。
山を愛せる人であればこそ高いところをあがめることができます。そんな意味において孔子、釈迦、イエス様はすべて山を愛した方たちでした。
先生は名勝地に行けば、それが天の運勢を中心としてどのくらいの価値があるかという立場で眺めてみます。そして、それを天の運勢と連結するようにします。だから統一教会の草創期には、山にたくさん登ったのです。
一つの国の山と地を見れば、その国の民族性を知ることができます。韓国の水はどこに行って飲んでも玉水(清らかな水)です。
私たちは、自然に対する復帰をまずなしておかなければなりません。私たちは、外国に出る前に私たちの自然を深く愛してやらなければなりません。
自分が生まれた地を愛することを知っている人は、自分の体を愛することも知っています。また自分の体を愛することを知っている人は、自分の心を愛する人であり、自分の心を愛する人は、神様を愛する人です。ですからこのような人は滅びません。また、このような人は天も打つことができません。私たちはナイアガラの滝よりも、自分が生まれたこの地をもっと愛さなければなりません。自然が神様の摂理路程においてどんなに多くの人々を慰労したか、という事実を私たちは知らなければなりません。(一四−一〇一)
四 先生の小学校時代
四 先生の小学校時代
P268
昔も学校に行くための学院がありました。ソウルにも大学に入るための学院があるのと同じようにですね。そのときでいえば小学校です。国家が認定するそういう学校に入るための前段階として学院があったというのです。その学院に行って勉強して、編入試験を受けなければなりませんでした。そんな中間教育機関として学院がありました。その学院に行くために、従兄弟をけしかけて革命をしたのです。両親は反対するのです。祖父も「おまえたちが行けば死ぬ」と言うのです。そんな過去があったからです。そんな環境を全部押し退けて学校に行くのです。学校に行けば、皆日本語を学ばなければならなかったのですね。カタカナ、ひらがなを勉強したのが昨日のことのようです。それを一日で全部覚えてしまいました。
学校に行ってみると三学年、四学年、五学年の生徒たちは日本語を話すのにですね…。そのとき私たちが年を取ってから入ったために背が大きかったのです。それなのに日本語を一言も知らないので、それを何といいますか? そのときのその苦しかったことは、感じたことのない人には分からないことでしょう。ですから、雷のように一学年、二学年、三学年、四学年、全部の本をたった一五日ですべて覚えてしまいました。そうしてみると耳が開けるというのですね。そんな話…。(一七一−二五八)
先生も勉強するでしょうか、しないでしょうか?(勉強しました)。先生が勉強するときは、雷のように勉強しました。何年かの間にすることを、あっという間にやってのけたというのです。今でも故郷を考えると…。先生の故郷は北韓なのですね。定州から北東方向に約八キロの距離にある全くの農村だったというのです。皆さんはランプを知らないでしょう、ランプ?(知っています)。ランプを知っていますか?(はい)。どんなものがランプですか? 油をこのようにして勉強したのがついこのあいだのようです。二時、三時、夜を明かして勉強すると、お父さん、お母さんが「おい! 寝ろ。体が弱くなったらだめだ。」このように言ったのです。いつもそうだったのです。
そのとき、私がいちばんの友にしたのは夜虫たちでした。夏には夜虫を友達にしたのです。スッと、このように座って二時、三時までいたのです。静かな夜に…。田舎の晩は本当に静かです。虫たちが月夜に鳴く声はとても神秘的なのです。サッと山で遊び回ったことが、つい昨日のことのようです。昨日のようなのに…。それはどういうことかというと、私たちの人生が短いということなのです。短い人生だというのです。(一〇〇−一六一)
先生は小学校に通うときから校長先生の行動を見て、「僕はこのように生きなければならない」という訓練を絶えずしました。(二五−一二四)
小学校の卒業式のときに答辞の時間があります。そのようなときには、だれかが卒業生を代表して答辞を読むようになります。そのとき、先生が最後に壇上に上がって訴えたことを今でも覚えています。そこには警察署長、郡守、校長先生など、地方の有志たちが皆集まっていました。先生はそのような場を願っていました。ですから堂々と壇上に上がりました。そして言いたいことがあると言って、少年時代の教育に対する批判と、今までの先生に対する見方を話したのですが、それが大きな問題になりました。小学校を卒業する学生がそんなことを言うとはだれも考えられないことでした。ですから先生は、そのときからレッテルが貼られるようになりました。(一五−一八二)
先生は頭が悪くないのです。小学校六年生のとき、一八〇ページの本を一日で覚えた記録を持っているのです。そんな頭を持っている人です。精神だけ集中すれば、一度見れば分かるのです。私が今、英語の勉強をしなければならないと決心しても、それに集中するようになれずにいます。ですから、英語ができる皆さんをつかまえてさせなければならないのです。
それでは、昼だけさせることを願いますか?「アイゴー、夜は寝なければ。」それでいいのですか? 昼でも晩でもいつでも…。そうしてどうなるのか? 先生がしようと言う通りにしながら、先生に従っていくのです。先生に従っていくようになれば、この世界だけではなく、永遠に先生に従っていくのです。(六六−七五)
第二節 先生のソウルでの学生時代
第二節 先生のソウルでの学生時代
P271
一 衣食住生活私は幼いとき、中学校のとき、ソウルに来て学校に通いました。(一五三−三三)
先生は故郷を一八歳のときから去って、今まで故郷を忘れてサタン世界を収拾するために、人生を懸けてきたのです。(一四七−二五三)
学生時代に自炊生活をしました。七年間一人で自炊生活をしました。ソウルはこの頃は天気が良いけれど、そのときには、零下二一度、平均零下一五度以下で、寒いときでした。寒かったのです、そのときは、井戸で水を汲むとき、鉄のつるべで水を汲むとひもがよく切れたのです。冷たい部屋で生活するのです。中学校、高等学校時代は冷たい部屋で寝ました。その頃は今より寒かったのです。
そのときには、布団の布袋を冷たい部屋に敷いて寝て、朝にパッと起きてみると、ベタッとそのまま跡が刻まれているのです。これが一週間過ぎても消えないのです。模様がついている跡なのです。ですから、火を炊かないで生活する若い青年は悲惨だ、と考えるかもしれません。寒いから仕方なく電気のコードを使ったのですが、今見ればあちこち傷があるというのです、火傷をして。それを見るとき、私は忘れません。足を見るたびごとに、母にこんなことは言わないのですが、私の体に傷ができたのです。そのように節約をして、友人たちが学費を出せない分を私が担うために、あるときには荷車を引いて…。(一三七\二八三、五一\二六二)
先生は中学校時代に昼食を食べませんでした。お金がないから食べないのではなく、お腹がすいた人の事情を知るためでした。また、ご飯がないからそうしたのではありません。修養する者たちは、人生を通じて、平常時に修養しておかなければならないと思って…。そのときは、何があっても食べることが楽しみだったのです。ただ、食べてもまた食べたいときです。そんなときに昼食を食べなかったのですから、昼食のとき、ご飯を慕う心は複雑なのです。友人たちは弁当を持ってきて食べているのに、私は遠いところに一人座って、ご飯も食べないで瞑想するその場は深刻な場だというのです。(五〇−三〇八)
先生は、先生自身に対しては本当にけちなのです。私が三〇歳までは、学生時代にも新しい洋服を買って着たことがありません。古物商に行って古着を買って着ました。服は全部学生服ですが、継ぎを当てて着ました。古物商、ソウルの交差点にある古物商に行って、学生たちが着て持っていかないもの、皆襟にあかが付いたもの、油あかが付いたもの、臭いがするものをわざと選ぶのです。髪はできるだけこうして、顔も洗わないで、なるべく髭も剃らないで、なぜ? どこに行ったとしても何でもできるのです。パンツみたいなものも、そのまま全部作って着るのです。一人で暮らしても、み旨を成し遂げなければならないということなのです、一人で暮らしても。そして、その残ったものでかわいそうな人を助けてあげた人です。あるいは愛国者の家族に、夫が恥辱を受けるなど困難があれば、名もなく助けてあげた人です。そんな生活をしてきたのです。(五一\二六二、三一\二六〇、一三七\二八五)
二 教会生活
二 教会生活
P272
その頃学校に通いながら、日曜学校の学生たちも指導して、みなそうだったのですね。黒石洞教会でもそうだったし、西氷庫教会でもそうでした。その頃は漢江が凍って、夜に寒いから河が凍って氷が割れる音が「ガアン、ズズズズズ…」とそうなのです。そうすると一人でいると恐いのです。そんな漢江を渡って通いながら、西氷庫にある日曜学校の学生たちに教えました。
私が日曜学校の学生たちにとてもよく教えました。今は話を面白くできませんが、その頃は面白くしていたようです。私が涙を流すようになると、全部がわんわんわんわんといいながら、毎回泣いて大騒ぎしながらですね。一度泣いたら充分だろうに、泣かせるのはここまでにしてくれと願うはずなのに、またしてくれというのです。ついて回りながらですね。そのようによく話をしてあげたのです。そのようにしながら通った日…。(一五−一八二)
若い子供たちに日曜学校の先生の役割、すなわち教えるのですが、私は名の通った日曜学校の先生でした。なぜ? 子供の心理をよく知っているからです。私が経験して知っているのです。私が悲しい場合にはいちばん悲しい場面を話し続けるのです。本は何の本? 話せば長編小説なのです。監獄に入るようになれば、三百六十日全部毎日にように小説の話をするのです。それは即席中の即興長編です。なんのことか分かりますか?
私たちのような人は、今やどこへ行っても、一日に十回、百回説教しても詰まることはありません。だから商売になるのではないですか。(笑い)だめな人たちを連れて、先生として食べていっているのでしょう。私は文先生ではないですか? 統一教会の文先生です。おじいさんの前でも文先生であり、ここにいる尹博士に対しても文先生です。その博士のおじいさんの前にも文先生であり、子供に対してもまた文先生です。子供にも私はよくするのです。子供ともよく遊ぶのです。また針仕事をするのも私はうまいのです。パンツは私が一人で全部作ります。編物もできないものはありません。私の服は、私が作ります。靴下のようなものは一日あれば一、二足、三、四足作ることのできる能力がある人です。(一三九−五一)
三 お金を惜しんで歩き回られる
三 お金を惜しんで歩き回られる
P274
学生のとき、先生は電車に乗って通うことができませんでした。絶対に乗らないで通ったのです。そのころ、電車料金が五銭でした。それでも必ず歩いて通いました。そうして往復十銭を集めて、道ばたで施しを願う人々にあげました。そのとき、乞食たちをじーっと観察するのです。昔、鷺梁津峠とファシンデパートの横の通りには乞食たちが多かったのです。行くとき一度さーっと見て、帰って来るときもう一度さーっと見て、その中で年が多い人と若い人を分けるのです。乞食の中でまだ年若いものにはあげないのです。かわいそうな人にあげるのです。奉仕にしても、年が多い人を選んで施すのです。施しもそのようにしてあげたというのです。(五〇−三〇八)私が学生のとき、黒石洞からソウル駅まで歩いて通ったことが思い出されます。夏に、友人たちは皆どこに行くにしても電車に乗って通ったのですが、私は歩いて通いました。「私が行く道は違う。おまえはこの道を行ってはだめだ。」と考えたのです。駅前に行けば、施しを求める彼らの前に両手でお金をあげながら「私が今あげるものは少ないけれど、このお金が千万倍に増えて、乞食のようなこの民族が解放の一日を迎えることができるようにしてください。」と祈祷したことが思い出されるのです。
呻吟と塗炭の中に包まれている哀れな民族の事情を知り、その民族の受難の歴史に血と汗を流した自分の一族を知り、自分の一家を知り、自分の父母を知らなければなりません。
私が日本に行くとき、ソウル駅から下関まで、オーバーを被って慟哭をして行ったのが何時間だったか。今も忘れられません。そのとき、韓国人たちは全部日本に行く人たちですが、彼らには父母がいます。しかし私は「神様! み旨の中であなたが行くことのできる、力を振り絞って行くことのできる礎を置くために、愛の情熱に燃える心情が熔け出ていって、流れる涙の跡を通さなければならないということを私が分かりましたので、そのような道を行かせてください。」という祈祷をしたのです。
高いところから訪ねて行かなかったというのです。貧民窟から、人間の末端のところからたどって訪ねていきました。その世界の生活苦に喘ぐ人間像を知って…どんな分野でも全部経験しました。労働もしてみて、農業もしてみて、船乗りもしてみて、してみなかったものがありません。
私の人生の千秋の恨とあなたの哀れなすべてのものをこの息子が受けて…。六千年歴史の中であなたの心情になんらかの恨が残っているならば、この息子一人を打っておいて、千万代打っておいて解くことのできるその心を持ってくださいと言いながら、そんな道を探して来たのです。(一二七−三〇)
四 学習
四 学習
P275
勉強をする若い学生たち! 昔先生が勉強するときには、一ページを読んで涙を流しました。この一ページ一ページ毎に、民族の運命を左右しうる秘密が含まれているのではないかと思いながら勉強をしたのです。祈祷もそのようにするのです。(三九−六二)先生は多方面に素質がある人なのです。絵を描いてもうまいのです。私が十二歳のとき、書堂に行って手本を書いてあげた人です。すると言えばできないことがないのです。勉強をするというときには、私は一日に二百ページの本を覚えた人なのです。ものすごいといえばものすごい人だというのです。
ですから私が学術面に出ていれば、すでにだれにもひけをとらないようになったというのです。だれもうらやましくないようになったというのです。そんな頭を持ったのです。(六八−六六)
私たちのような人は、電気工学を学んだ人ですが、学校に通うとき先生に質問すれば、全部困らせるのです。私の顔さえ見れば、「あいつ、またどんな質問をするか」と、こう思うのです。やたらに尋ねるので自分の手に余るのです。(笑い)そのような何かがあるので、今このようになって世界を牛耳ることのできる基盤を固めたのです。今日のチタニウム工場も、だから存在するのです。化工としては王者の位置に進んでいるのです。それがチタニウムです。だからセラミックにも関心を持っているのです。今後において、すべての科学文明の材料と素材にはセラミックが入っていくのです。そこにおいて先端に立たなければなりません。(一六五−一八六)
五 学生のときの生活
五 学生のときの生活
P276
「私が神様を気狂いのように愛することを見せてあげて、証すことのできる姿勢を備えよう。」これが先生の考えでした。それでは、愛することにおいて限界点はどこか? それは皆さんが考えている取るに足りないところではありません。ですから先生は、花のような青春時代が早く過ぎていくことを願いながら催促しました。先生が学生のときには頭を上げないで通いました。頭を下げて通ったのです。(三七−三五)
学生時代には、学校から帰れば制服を脱いで投げて、労働場に行って仕事をしました。私がお金が無くてそうなのではありません。してみなっかたことはありません。石炭を運ぶ仕事もしてみたし、作男暮らしもしてみました。あらゆることを皆してみたのです。結局人間の苦楽がどのようなものかを皆知ってみたというのです。ですから私がしなければならないことは、その苦楽を経ながら生きている人間たちを解放する責任者になって、この人々を完全に解放してあげることだと考えたのです。(三七−三六)
先生が皆さんのような年齢のときに、うらやましいことがなかったでしょうか? 皆さんは映画を見に映画館にもよく行くでしょう? 先生は映画を見もせず、映画館の前に行かないときがあったということを知らなければなりません。
どんなに醜悪な行動をするのを見ても、そこで感染しないでそれらを指導することのできる主体性を身につけるためには、そんなところも経なければならないのです。それはなぜか? 私がそれ以上に越えていって、全部過ぎていって、映画館だろうがこのようなところをどんなに通っても引っかからず、行って、寝て、暮らしても、そこで犯罪を犯さないでいられる線を越えて立たなければならないからです。(九三\二七八、一八四\二四七)
六 豊富な訓練と経験を積まれる
六 豊富な訓練と経験を積まれる
P277
そう、先生がしてみなかったことがないというのです。あの山の中に入って行って炭を焼くことまで全部学んだのです。チゲ(背負子)の脚を結ぶことも全部学びました。穴を掘ることができないでしょうか、どこか労働場に行って責任をもつことができないでしょうか、汚い言葉を使えないでしょうか、「このやろう!」と言って三日もしないうちに友達になるのです。「こいつ、何だ?」と言って、全部こき使うのであって、私がこき使われるのではないのです。飯場のようなところに行けば、頭領がいるでしょう? 頭領も、さっと一発でやっつけてしまえば…。当惑するというのです。「こいつ、大口をたたくな。言うことを聞け! 悪い奴め。おまえたちは皆学生の金を搾取してだめだ。」そう言うのです。そうしておいた後には、おだて上げることができなければならないというのです。そんなことができなければなりません。その人たちを指導しようとすれば一方通行だけしていてはだめなのです。分かりますか?(はい)。さっさと処理するときは処理し、後退するときは後退し…。そんなことを全部自由自在に、臨機応変にできる人になるためには、経験をたくさん積まなければなりません。分かりますか?(はい)。(一四三−二九七)
私は裁縫もうまいのです。編物もうまく、私はできないことがありません。私の姉が嫁ぐとき、私が全部編物も教えてあげて、皆…。本を見れば分かります、本を見れば? (一八六−三一〇)
手先が器用なのです。一度だけ見ればその通りにするのです。これ、何か、戸を組み立てろと言われてもするというのです。私は大工もしてみたのです。釜山へ行って、米国部隊で大工仕事もして食べたのです。大工仕事をするのを昔私が見たので、見よう見まねでしたのです。分かるのです。初日に行って全部するのです。
建築現場に行けば、家を建てるのがどのようだ、ということがすぐに全部分かるのです。学んでするか? 道理を判断して、原則を明らかにしてするようになれば皆、全部通じるようになっているのです。(六八−六七)
第三節 先生の信念と思想
第三節 先生の信念と思想
P279
一 先生の祈祷生活私たちは、今まで祈祷を人間のためだけにしました。私はそのようにしません。人間のために祈祷をするだけでなく、天のために祈祷しなければならないというのです。イエスのために祈祷しなければならないというのです。イエス様がこの地に来られて、私たちのために夜を徹して祈祷して下さったのに報いなければならないでしょう。次に、今日まで苦労された神様のために祈祷しなければならず、更には万民のために祈祷しなければなりません。そのような感情に生きる人は、神様と最も近い人だということができるのです。体験をしてみるとそうだというのです。(六−三四四)
先生は一日一日の生活において、重要な問題は必ず神様に祈祷して解決します。大ざっぱにしないのです。(四三−三三)
先生が床にうつ伏せになって祈祷するときには、涙が乾かなかったのです、涙が。分かりますか? ここ(膝)にたこができたのです。今もたこができた跡が残っているのです。うつ伏せになって祈祷するので、ここ(膝)にたこができたのです。今はそのように祈祷をしませんが。「念を入れて作った塔が崩れることがあろうか」(真心を込めてして事が無駄に終わることは決してないだろう、という意味の韓国の諺)という言葉があるではないですか? そうでしょう? 神様のために功を尽くさなければならないというのです。神様が慕わしくて気が狂う位、胸が痛い境地まで入らなければならないというのです。神様のいらっしゃるところが地であれば、何か、一日に千回行って来たい心がありますが、そのような地ではないので仕方なく先生を送られたのです。そのような何かがあるので、皆さんが先生を愛さずにはいられないようになっているのです。無性にそのように情が行きますか? 涙を流しながら祈祷するとき、冬に綿入れのパジ・チョゴリを全部涙で濡らしたときがあったのです。どんなにすごいことか考えてみろというのです。刀を突きつけておいて談判祈祷するときが、一度や二度ではなかったのです。(六〇−二一二)
先生は神様の前に、綿入れのパジ・チョゴリが皆濡れるほど祈祷したことが何回か知れず、包丁を持って腹の皮を突いて誓ったことが何回か分からず、死の峠を越えていきながら、心に固く誓ったことが何千万回か分からないのです。(一九−一九)
先生は今までみ旨のために苦労してきたし、今も寝ても覚めてもその道を進んでいます。先生に近くで侍ってみることのできなかった人は、先生をよく知ることができません。先生は寝ていて、目が覚めさえすればうつ伏せで祈祷します。なぜそのような生活をしているのか? この一晩にも、世界に広がっている愛する子女たちが、私を通して、神様のために祈祷しているからです。自分が精誠を尽くせないとしても、そこに負けないように拍子を合わせてあげなければならないのではありませんか? 先生が眠るときは分からないので、神様も許してくださるのです。その時間には、子息が疲れて寝るようになれば、父親が見守ってくれるのと同じように、神様が代わりに祈祷してくださるのです。(二六−一三八)
二 早くから人生の問題について悩まれる
二 早くから人生の問題について悩まれる
P280
先生はすでに小さいときから、ずーっと人生の問題に対して深刻だったのです。死の問題に対して深刻だったのです。天があるということを知り、世の中がどのようだということを皆探求し、「私はこのように行く。公式的な路程はこれだ。」と決定したのです。では、一生の間迫害を受けて、一生の間考えながら来たので、してみなかった考えがあるでしょうか? 深刻な場でも、難しい場でも、苦痛を感じる場でも、すべてそのようにしてきました。無数の敵、無数の敵を銃刀をもって防いできたのではないのです。背後の様々な作戦を通して、具体的にしてきたというのです。ですから、皆さんが楽な生活をするというのは、間違っているのです。将軍になる人の出発するときの考えと、兵卒になる人の出発するときの考えは違うのです。(一二四−一九八)
先生は本の一ページをもって何ヵ月間研究し、一つの題目をもってでも、何ヵ月間考えながら尽くしてみたこともあります。重要な人生の根本問題、実存問題についてそうでした。そのような問題は、生命を尽くして立ち向かわなければなりません。これが解決されれば、私という個体だけではなく、万民が解放されることができ、天地の解怨成就が開かれるということを考えながら、死ぬという恨があったとしても生命をかけてするのです。そこで死ぬとしても、その死は嘆息の死ではなく、素晴らしい栄光の死であるのです。ですから皆さんは、前後左右を心得て、真なる結果がどこから決定するのかということをはっきりと知って、信念を持って立ち向かうのです。こういうことが分かりますか? (三七−一四〇)
先生は少年時代から、人生に関して次のような様々な基本的な問題に対して悩み始めました。「私はだれなのか? 私はどこから来たのか? 人生の目的は何だろうか? 死んだ後に私たちの生命はそのまま続くのだろうか? また、神様は果たして存在されるのだろうか? 神様は全能でいらっしゃるのか、あるいは無力な存在でいらっしゃるのか? もし神様が全能でいらっしゃるのなら、神様はなぜ人間世界の問題を解決してくださらないのか? この地球上には、なぜ数多い苦痛が存在するのか?」
とにかく、その後から九年間、先生は、いつでも全能でいらっしゃる神様、そしてイエス様とともに生きてきました。先生は何回かにかけて、霊界に入っていってみました。次第に神様は驚くべき真理を教えてくださいました。それはまるで長く暗い夜が過ぎ去り、朝日が昇るかのようでした。その真理の中で、先生は光輝く新しい文化の瑞光(めでたいことの前兆)を見ることができました。(一〇二−二八八)
三 先生の生活標語と修養目標
三 先生の生活標語と修養目標
P282
1 生活標語先生の三大標語
イ)天宙主管を願う前に自己主管を完成せよ。
ロ)尋ねてから行え。
ハ)命令によって行動せよ。(二七−二九八)
2 修養の三大目標
公的な権威を持つために
イ)信仰をくださいませ。(み旨のためならばどんなことでもできる信仰を)
ロ)愛をくださいませ。(神様がまだ愛してみることのできなかった愛を)
ハ)知恵をくださいませ。(二七−二九八)
先生は今まで修養途中に三大目標を決めてきました、三大目標。昔、このみ旨を立てて現れたときに、三大目標を決めたのです。最初は何か? 天宙主管を願う前に自己主管を完成せよ! これが最も難しいのです。いつでも苦痛の道、十字架の道を行くときはこいつの「私」というものは、逃げようとするのです。そのときは「こいつ!」と言いながらコントロールするのです。
また、こいつの目は良いものを見ようとし、悪いところに行こうとします。そのようなときは「こいつ!」と言うのです。そしてこの口、こいつの口は全部良いものを食べようとします。そのときは「だめだ!」というのです。聞くのも全部良いものを聞いて自分を優先するのです。だめだというのです。また男として生まれて女性を考えて、愛の問題を考えます。そうすれば、「だめだ、この悪い奴め!」というのです。愛の問題に対して考えれば「私が自己を主管してコントロールできなければ、天宙主管が皆壊れて出ていってしまう。」と、このようにしてきたのです。
いちばん難しいことは何か? 睡眠の問題です。睡眠の問題がいちばん難しいのです。その次には、腹が空くことです。その次が情欲問題です。これが三大怨讐です、三大怨讐。そのために徹夜しながらも、それを修養の過程として立ててきたのです。腹を空かせながらも修養の過程として立ててきたのです。一人で生きながらも修養の過程として立ててきたのです。皆さんが先生を考えるときは、先生は聖人であるから、全部異なると言うでしょうが、先生は鋭敏なので、そのような問題にもっと敏感だということを知らなければなりません。もっと大変だったという事実を知らなければなりません。
自分を主管する前には天宙主管はできません。自分を主管してこそ、天宙主管をすることができます。自分を主管してこそ、神様を見ることができ、神様の主管圏を見ることが、願うことができるのが原理観です。アダムが自己を主管することができなかったので堕落したのです。
こいつの手がどこに行くのか? こいつの足がどこに行くのか? 思考がどこに行くのか? 考え、見て、聞くことが、神様が見聞きし、感じることのできる体を持って、摂理を代行するようになってこそ、良心の呵責を受けない人ではないのか? それでこそ原理観において合格した人ではないのか? このように見るのです。皆さんも同じです。これを主管できなけれ、ば皆先生が行くところに行くことができないのです。神様の息子、娘になれないのです。
天宙主管を願う前に自己主管をすることがどんなに恐ろしいか、という事実を知らなければなりません。ここにサタン世界の根拠地があり、核が残っているという事実を知らなければなりません。悪が皆さんの前にあるのではありません。環境が悪く、世界が悪いのではありません。皆さんの心にあるというのです、心に。心にあるというのです。(一三一−一三七)
四 先生の生活信念
四 先生の生活信念
P284
父母に、私が正しいと考えるときは、屈してみたことがありません。どんなにひどかったことか…。私が泣くようになれば、ただ泣かないのです。皆さん、田舎に行けば、アシで編んだ敷物があります。その敷物を知っていますか? 田舎で暮らした人たちは分かるだろうね。泣くようになればそういうところに座って…。小さいときのことを思い出すのです。一回泣くようになれば、一日中泣くのです。泣かせたその張本人が来て、頭を下げて降伏するまでは絶対に終わらないのです。(笑い)分かりますか? そのようにひどい人です。泣いても静かに泣かないのです。血が出て、ここの皮が全部むけるほど泣くのです。ですから家では「あの子がしようと言う通りに全部してやろう。」という結論を出したというのです。母も私に降伏し、父も私に降伏し、兄も私に降伏したというのです。生きてみると、いつも生涯正しいでしょうか? しかし、正義に立脚して、私が天理の道理に従うところにおいては、父母は反対せず、何も言いませんでした。(一〇五−二三七)
今日、この世紀末的な歴史の終わりに生まれた皆さん、どうせ一度男として生まれたのですから、決着をつけなければならないのですが、そうしようとすれば、こっそりと逃げて回らないで、みんな抱えて、悪いものはつまみ投げて、きれいに片づけなければならないのではないですか? 今まで私はそのようにしてきました。
先生には無限なる資料が必要でした。労働場に行けば、一等労働者です。できないことがありません。ですから、いつでも食べて生きる心配がない人です。ところで、例えば私がある労働場に行って仕事をしても、ああ統一教会の先生が稼ぐのに困ってこんな仕事をするのだなあ、と思うならばそれは大きな誤解です。
私は今でも、どこに行ってもこの体をもって何でも皆することができます。そして、してみなかったことがありません。何でも一度つかまえたら、終わりまでしないものはありません。また、どこかで何かをするとすれば、適当にやっても三等以内になるというのです。多分神様も知恵深い方でいらっしゃるから、私のような人、特殊な人をうまく選ばれたようです。
一度手をつけて始めることには、生命が行く途中で死ぬとしても、片づけてこそ満足します。くだらなくてみっともなくするなら、全く初めからしません。だれでも一度捕まえたら、お前が潰れるか私が潰れるか二つに一つです。
私がこの道に立ち上がるときも「神様はいますか?」と最後まで突き止めて、神様がいらっしゃることを確実に知ってから出発しました。次は「神様の願いはありますか?」と尋ねて、神様の願いがあることを知りました。また、「神様、私が必要ですか?」と尋ねて、私が必要なことを知りました。「では、どのくらい必要ですか?」と問いただしました。このように、私が一度訪ねていきくっつけば、神様が返事をしてくださるなり、そうでなければ風呂敷を包んで他のところに行かれるなりしなければなりませんでした。皆さんもそのような何かがなければなりません。(一三−二〇一)
レバレンド・ムーンはどんな人か? 一つの才能しかない人です。愚かにただまっすぐにだけ行く人だというのです、まっすぐだけ。ああ、口を少しつぐんで静かにしていて、少し適当に回り道をすればいいのに、なぜしゅっちゅう悪口を言われるように作用してそうするのかというのです。そのようにしながら、多くの人々の反対を受けなければならない峠を越えていくからです。昔愛した人が反対したことも、全部越えていくことができるのです。ところで、皆さんは回り道をする考えをしているでしょう。(違います)。では、なぜ世間のすべてのものをすべて切ってしまって行かなければならないのか? 父母の愛に引かれればまっすぐに行くことができないためです。神様は今まで、まっすぐな道を訪ねて来られたために、まっすぐ行かなければならないのです。分かりますか、なんのことか?(はい)。(九七−二五七)
五 先生のみ旨の道
五 先生のみ旨の道
P286
皆さんはみ旨の道を歩みながら、どのくらい深刻にしてみましたか? 先生は一生の間そんな道を歩いてきたというのです。妻子も知らないのです。私だけが知っています。孤独な単身の寂しい男が行く道を、だれも知らない中で、神様が協助して人間たちが驚くほどの実績をもって、今日この社会に問題を提示し、また疲弊していくこの民主世界の思想圏内に新しい波及を提示する問題の人物になりました。このようになったのも、私がよくやったからではなく神様が共にいてくださったからです。神様がそのように寂しい方であり、神様がそのように孤独な方であり、私のような方であるから、私の事情を分かってくださるということを私が知ったので、私が死ぬ日まで神様のみ旨と願いを一つでも解いてさしあげ、その分野を一つの基盤でも拡大させて、神様のために生きることのできる人を集めるのが、私の使命だと思って歩んできたのです。悪口を言われても反対することができず、むち打たれても復讐することができず、愛で耐えてきたことは、神様の子息として生まれ出たためであり、その方のみ旨を立てなければならない責任があるためです。ですから、この伝統をどのように立てるか、ということを考えながら、ふらふら歩きをして行っても、あるいは腰を折り曲げて行っても、這って行っても、これだけは残さなければならないと思いながら闘ってきたのです。(八二−四七)
先生はアジア人です。韓国人です。世間で見れば中進国家の国民の一人ですが、なぜ皆さんはレバレンド・ムーンに従い、皆さんの心はなぜ先生の行く道に併せて一緒に動くのか? それは先生が天理の大道の原則を中心として、神様と関係をこのように密接に結ぶことができる伝統的内容があるためです。皆さんの心が、行かなければならない本然の道がそこに連結されることによって、皆さんの心は、そこに揺り動かされ、そこに引かれていかずにはいられないのです。
レバレンド・ムーンは神様がいなければ何でもありません。イエス様がいなければ何でもなく、善なる霊界がなければ何でもありません。大変なのです。しかし、神様がいらっしゃるので、世間の人々が後ろ指をさせば、その指によって自分の一族が滅び、一国が滅びるうるように巻き込まれていくのです。
今やはっきり分かりますか?(はい)。皆さんがどのように生き、どのようにするのかということがはっきりと分かったでしょう?(はい)。皆さんの口には不平があってはなりません。先生の口には不平がありません。不平という言葉を学ぶことができませんでした。み旨の前においては「ノー」という言葉を知りません。「ノー」と「不平」という言葉を知らないというのです。ですから間違いないのです。
さあ、これは私が十代のときから持って歩んできた思想です。一生の間、六十の生涯持って歩んできたのですが、この原則は間違いなく発展してきたのです。(一三一\三三〇、一九八四・五・一九、イーストガーデン)
六 先生に対する私たちの姿勢
六 先生に対する私たちの姿勢
P288
神様の愛を備えることが重要なのです。神様はできるならば、アベルがカインを自然屈服させて絶対服従させることによって、神様の愛を共に分けることを願われます。このようなみ旨を中心として、先生も苦労してきたので、皆さんは先生が苦労したことを自分の苦労だと思って、涙を流しつつみ旨のために精誠を尽くせば、皆さんも神様の愛の圏内に入るようになるのです。こういうことなのです。皆さんは先生が苦労した話をすれば、それが私がしたことのように感じ、胸が痛く、悲しく、涙が出、悔しがり、腹が立つ、このように同感することができなければなりません。皆さんを先生に同感させるようにするための材料が先生の苦労です。
先生が歴史時代に苦労をしましたが、それは今日現実的に共に感じることができるのだということです。ですから、皆さんが先生の痛みを自分の痛みとして感じるようになるときには、先生の前にカインとして決定されうるのです。それは先生と皆さんが愛して一つになったという証拠になるのです。そこにおいて神様の愛を受けるのです。これがどの程度まで続かなければならないのか? 永遠に続かなければなりません。神様は今までこのような過程を経て、復帰歴史をしてこられました。そのために皆さんを育てる期間が必要なのです。(三四−一〇一)