罪と蕩減復帰


罪と蕩減復帰
 

 四 蕩減条件は自分が立てなければならない

  1.他の人が代わりに立てることができない

 蕩減条件は自分が立てなければなりません。他の人が代わりに立てることができるものではありません。堕落は主管権を失ったことを意味します。復帰のためには他の人がどんな干渉をしたとしても、自分自身の確固とした主体性をもって進まなければなりません。他の人がどんな道を行こうと、私の行く道は忙しいのです。前でどんな言葉を言ったとしても、そこに気を遣ういとまもありません。夜寝る時間もありません。落ち着いてゆったり座って御飯を食べる余裕はありません。そのような切迫した心情をもたずしては復帰の道を行くことはできません。
           *
 堕落は人間がしでかしたので、蕩減復帰も人間自らがしなければなりません。罪を犯した者が罪を蕩減しなければならないのが原則なのです。父母が偽りの父母となったので、真の父母が来てそのすべてのものを蕩減してくれなければ、神様に帰っていける道はありません。このすべてのものを解決してくださる方が真の父母なのです。真の父母は、皆さんの生命を何千万、何億捧げたとしても換えることができない価値をもっておられる方です。ですから皆さんは真の父母を求めて、「命を懸けて従います」と言うことができなければなりません。
           *
 人間が堕落することによってどんな結果が現れたのでしょうか。人間世界から神様が追放され、天使世界が追放され、万物世界を失って、その次には個人基準、家庭基準、氏族、民族、国家、世界基準をすべて失ってしまいました。その責任は誰にあるのでしょうか。その責任は神様にあるのでもありません。天使世界にあるのでもありません。万物にあるのでもありません。人間にあるのです。このような結果が現れたのは人間の責任です。ですから人間は、自分たちが責任をもって復帰路程を歩んでいくべき運命に置かれているのです。
           *
 復帰の道は、堕落した経路と反対の経路を突破していかなければなりません。そして蕩減の道は、堕落した者には原則として現れるのです。これを克服しなければ本来の姿に復帰することができないので、自分を清算しなければなりません。個人的な問題から家庭、氏族、国家、世界をどのように復帰するのかという確実な理論体系をもっていなければなりません。
           *
 皆さんが統一教会員として伝道をする時、「いやー、大変でできない」と言うならばどうなるか知っていますか。それは神様を中心としたことにならず、自分を中心としたことになるのです。このような原則を考えるとき、皆さんが統一教会に入ってきて活動するにあたって、行けないとか、不平を言いながら活動する人がいれば、不合格なことをしたということをはっきりと知らなければなりません。自分を中心として統一教会で働く人は、困難に遭うとすぐにレバレンド・ムーンと統一教会に対して不平を言いながら、今まで統一教会に入って働いたことが私のものだと主張するのです。
           *
 蕩減条件は、自分自身が立てなければなりません。他の人が代わりに立てることはできません。堕落は主管圏を失ったことを意味します。
           *
 天国は、神様を絶対的な中心として侍り、それを通して愛の因縁を結んで生きる所です。この根本を正しく立てるために神様は救援摂理をされるので、絶対に自分を立ててはいけないのです。
           *
 アダムが責任分担を果たせなかったので、私たちは責任分担を全うするのに誰かの協助を受けては、その使命を完遂することができない立場にあります。最後の決定は、私たち自身がするのです。言い換えれば、善なる人になるのか悪なる人になるのかという決定は神様がされるのではなく、私たち自身がしなければならないのです。
           *
 皆さんは、生命以上に懇切なる立場に立たなければなりません。ですからおなかをすかせた立場でも祈祷しなければなりません。断食をしながらも自分をすべて投入しなければなりません。神様の愛とともに生命力を万国に投入しなければならないのです。その過程では神様は絶対に答えられず、知らないふりをされます。干渉してはいけないのです。その投入が終わるまでは干渉されません。人間の責任分担とは何ですか。自分自ら完成することではないですか。同じように、自分が祈祷していくときは神様が干渉されないのです。かえって反対するのです。本当に不思議です。
           *
 勝敗の起点をどこに置くべきでしょうか。先生に置いてはいけないというのです。先生がどんなに勝敗の起点をもったとしても、それは皆さんと関係がないのです。皆さん各自には五パーセントの責任分担があるのです。
           *
 個人の生活環境が変わり、時代の違いが生じるに従って、その時その時ごとに神様が呼ばれる道の前に、相対となる立場を決定するためには、私自身が努力していかなければならない責任分担五パーセントの路程がいつもあるのです。それは個人を中心としてもそうであり、教会を中心としてもそうであり、国や世界を中心としてもそうだというのです。
           *
 神様はどんな方なのでしょうか。玉座に座り、栄光を受ける神様だと思いますか。そうではないのです。堕落した人類に対して神様は今まで何をされたのでしょうか。人類を救援しようと毎日痛哭していらっしゃるのです。そのような立場で人類を引っ張ってこられたのが神様の姿です。神様はこのように悲惨な方です。悲惨な中に落ちた人類を救援するために神様は眠りこけた人類を起こして、「来い、来い」と言われるのです。しかし、そのようにして行くようにはなっていません。皆さんは責任分担を果たさなければならないのに、それを代わってあげることができない立場で、(救援)しようとされるのが、どれほど大変だったでしょうか。


  2.責任分担の心構え

 人間は、自分が今生きているところが善側か悪側かということを決定しなければならない、中間位置にいます。また、私が善なる方向に行くのか悪なる方向に行くのかということも、第三者の力を借りて決定するのではなく、自分自らの判断によって決定しなければならないのです。さらに責任分担を全うすることができずに、堕落した人間の後孫になった私たちは、必ずこれを決定しなければならない、重大な岐路にあるということを知らなければなりません。


 五 蕩減法なしにはサタン分立はできない

  1.私は分水嶺に立っている

 先生は監獄に何度も出入りしました。以北から以南まで行く先々で……。それを知らなければなりません。なぜ蕩減復帰しなければなりませんか。なぜサタンを分立しなければなりませんか。サタンを分立する目的は責任分担圏自由化のためです。堕落する前のアダムとエバがサタンの干渉を受けましたか。サタンの干渉を受けていては天の国へ行けないのです。皆さんは今どこに立っているのでしょうか。自分がどこにいるのかは、自分の良心が知っているのです。それはだますことはできません。私がどこへ行こうとしているのかを良心は知っているのです。
           *
 蕩減復帰は不可避なものです。なぜ蕩減復帰しなければならないのか、なぜサタンを分立しなければならないのかといえば、自然な本然の責任分担、自由環境基盤を必要とするからです。そうすればサタンが讒訴できないし、サタンが因縁をもつことができない位置を私が占有するようになるからです。それで蕩減復帰、責任分担完成という基準は論理的にも不可避です。ですからサタンを分立しなければならないのです。ですから御飯を食べないで座っていても、サタン世界とは関係がないという考えをもっていなければなりません。ここが分水嶺です。これが境界線です。
           *
 蕩減復帰の道は、サタンを分立するための道です。サタン分立をなぜしなければならないのでしょうか。責任分担圏を探すためです。本来責任分担圏は、サタンがいない所です。アダムの責任分担がそうです。アダムの責任分担圏は本来、サタンが侵犯できる基準ではありません。その確実な思想を注入しなければなりません。私たちはいずれにせよ行かなければなりません。責任分担を完成して神様の愛の中に接ぎ木されなければなりません。神様の愛の中に接ぎ木しようとすれば、サタンを分立しなければなりません。サタンと因縁をもったすべてのものを、完全に分立しなければなりません。
           *
 蕩減復帰は、なぜ生じたのですか。堕落以後、何のために生じたのですか。責任分担がなければ蕩減復帰という言葉も必要ありません。人がどの位置で堕落したのかというと、責任分担を果たしていく過程で堕落したのです。このとき堕落した人間は、責任分担圏をサタンに渡してしまったのです。サタンに奪われてしまったのです。それゆえこの責任分担圏を、もう一度取り戻してこなければならないのです。
           *
 もし堕落した人間の前に神様が責任分担を設定しなかったならば、今日の統一教会で主張する蕩減復帰という言葉は出てこなかったはずです。ただそのまま復帰すれば良かったでしょう。蕩減しなければならない! なぜ蕩減しなければならないのでしょうか。人間には責任分担があるからです。人間が完成しなければならない責任分担を自ら壊してしまったので、その賦与された責任を果たさなければならないのです。そのようにするためにはサタン世界のすべてのことに勝利し、サタンを主管する位置に立って、堂々とサタン世界の反対環境を取り除いたその位置に立って、神様の愛を受けることができる位置に入らなければなりません。そのようになればサタンは離れるのです。
           *
 堕落した子孫である私たちには、責任分担圏が残っているのです。責任分担を中心として見るときに、個人的な原理結果主管圏で個人完成して神様の愛と連結させ神様の直接的な愛の因縁を結ぶことができる基盤をもったのかという時、もてなかったというのです。蕩減復帰はなぜ必要かといえば、サタンを分立させるためです。サタンを分立しなければ責任分担を果たすことができません。
           *
 責任分担がどんなに重要かを、みんな知らないで生きてきたのです。これが解放の基準です。蕩減復帰とは何ですか。責任分担を完成できる自由環境をつくるためのものです。サタンが侵犯するので、サタンを防御するにはどのようにしなければならないでしょうか。サタンよりも神様をもっと愛し、人類をもっと愛さなければなりません。サタンよりも神様を憎み、人類を愛する反面、私たちは「私はお前より神様をもっと愛し、人類をお前よりももっと愛する」と言わなければなりません。堕落しなかった人間がもっていくべきその基準を中心として、一方通行化させることができるこのような立場に立たなければ、サタンを分立することができません。
           *
 蕩減復帰はなぜ必要なのかいえば、サタンを分立させるためです。サタンを分立しなければ責任分担を全うできません。
           *
 サタンは、責任分担が果たせなかったという条件の上に侵犯しました。ですから責任分担が終われば、サタンは追放されるのです。責任分担を完成すれば、サタンはいることができません。
           *
 皆さんは、責任分担完成圏に立っていますか。未完成圏に立っていますか。未完成圏に立っているのに先生と何の関連がありますか。それを知らなければなりません。蕩減復帰をなぜしなければならないのですか。責任分担を全うするためです。責任分担を果たすにおいて本来、堕落する前の責任分担圏はサタンが讒訴することができないのです。サタンが侵犯するその場においては責任分担圏が出てきません。ですからサタンが侵犯できないのです。その場が監獄です。
           *
 神様を愛する力をもって、サタン世界の監獄を自ら進んでいくのです。サタンが一番嫌う所を、私が一番喜んで歓迎するのです。この世の中の人たちは苦労を嫌うでしょう。統一教会の教会員は苦労が好きです。なぜ好きなのですか。蕩減復帰をしようとするからです。驕慢はサタンがする行動です。サタンは、下がっていく所へは下りていけないのです。
           *
 サタンを防御するには、神様を誰よりも愛さなければなりません。この世界の誰よりも愛して、宇宙を誰よりも愛さなければなりません。自分よりも愛さなければなりません。自分は堕落した人間なので、自分より愛さなければならないのです。サタンは神様より自分を最も愛し、世界より自分を最も愛しました。それがサタンです。ですから個人主義を中心とした皆さんは、サタンの王者たちです。自分を思う人は、そうです。
           *
 責任分担法がなければ整理ができません。責任分担があるのでサタンもきれいに整理されて、国もきれいに二つの国に分かれて境界線をはっきりさせて、神様の愛を中心とした宇宙的な主管圏時代に入っていきますが、これが神様が霊界と肉界を直接主管する天上天国です。地上天国です。はっきり分かりましたか。皆さんが問題です。皆さんはどこにいるのかといえば、いつも境界線にいます。個人を中心とした蕩減復帰の境界線においては、サタンがついてきてはいけないのです。
           *
 統一教会の教会員の生活観念とは何でしょうか。世界のために生きるというのです。世界のために生き、神様のために生き、さらには神様の解放と父母様の解放と世界解放のため生きるのです。これが統一教会員の生活内容とならなければなりません。


  2.サタン圏(堕落圏)を脱するには

 完全に救いを受けるには、自分の罪を清算しなければなりません。皆さんの過去と現在のすべての生活を通じて犯した罪を清算しなければなりません。罪を清算するには、原理原則に食い違いがないようにしなければなりません。
           *
 堕落して故障したので、故障を直すには故障する前の原理原則に従って合わせなければなりません。そして創造法度に一致できるようにするためには、再創造歴史の過程を経なければならないのです。堕落は相手のために自分を投入しないで、反対に相手に自分に投入しろというところから始まったので、反対に投入することを経なければなりません。ですから宗教は自分を犠牲にしなさいと言うです。
           *
 アダムとエバの堕落以後、人間がかかった病気とは何ですか。サタンを中心とした愛の病気になり、間違ったその愛の病気でサタンの血統を繁殖させてきたのです。言い換えれば、サタンの血統を受けてサタンの直系として生まれたのが病気なのです。ところでその病気はどのように出発したのでしょうか。神様が立てた秩序と天地の道理、環境などすべてのものを否定して、自分を中心として愛したところから堕落の病気が始まったのです。ですからこの病気を治すには、自己を否定し神様を絶対的に中心として生きなければならないのです。天使長やアダムとエバが神様を中心とした愛を願ったならば、堕落しないで理想世界を成したはずです。
           *
 サタン圏を抜け出すには、神様を中心とした観をもたなければなりません。そうでなければ抜け出すことはできません。それ以外には抜け出すことができないので、このような道を選ばざるを得ないのです。
           *
 私が行かなければならない道は難しいけれども、私の前を行かれる神様がいて、私のそばで歩む友達がいて、私たちの兄弟がいるという事実を考えなければなりません。また、人類が行くべき未来の運命の道が、まだ私たちの前に残っているということを考えなければなりません。私の生命が尽きるまで行くと考えなければなりません。そのような考えをもつことによって、サタンが自分を中心として堕落した基準を越えていくのです。私中心ではなく、神様を中心とした考えをすることによって堕落圏を越えていくことができます。ですから統一教会で最も大変な時は、最も大変なサタンの堕落圏をけり飛ばして解放され得る日が近づいたことを意味します。
           *
 元来堕落は死の境地に落ちたことなので、救援するために死の境地に飛び込まなければなりません。どうせその過程を通過しなければならない運命ならば、男らしく喜びの心で臨む皆さんにならなければなりません。そのように決意をもってみ旨の道を歩む食口が多くなれば、世界は新しい方向に進むのです。私たちはその母体を成す心情に燃えています。皆さんの心の中には、生死の境界を超越できる信念がありますか。
           *
 先生は何十、何百、何千、何万にもなる生死の境界線を見守りながらサタンと対決して来ました。言い表し難い大変な環境が波のように何度も押し寄せても、先生が立てた基準は変わりません。足が折れたとしても、目の玉が落ちたとしても、首が飛んだとしても、出発した時の心情基準から外れません。ですから死ななければ勝利するのです。
           *
 どのようにすればサタン圏の愛とサタン圏の血統が脱げますか。自分を愛して自分だけ考えればいつでもサタンは引っ張っていきます。反対に私を否定し、神様を中心として考えて生活するようになれば、サタンは私を管理できず、神様が臨在して管理するようになるのです。それによってサタン世界の天使長圏から解放され得るのです。堕落した天使長の位置から堕落しなかった位置に上がっていくのです。
           *
 死ねというのです。死んだふりをなさい。あの足の裏に何度も踏まれよというのです。私が知るところによれば、高いところに上がって心と体を一つにすることのできる道はありません。天下に高い心をもって上がれば、一つになる道がありません。踏まれなければなりません。先生も高くなるのではと、神様が四十年間足で踏んでしまったのです。踏んでしまったので、上がろうとするのがすりつぶされて一つになるのです。三千里半島を歩き回った金サッカ(一八〇七―一八六三。本名は金炳淵。家門が滅んだのを嘆き、生涯放浪生活を送り、多くの風刺の詩をつくった)のように、ののしられ、踏みにじられ、ぞんざいに扱われながら、さまよわなければならないのです。そうしながらもそれを消化することができ、それをみな喜んで消化できる自分自身を発見しなければなりません。
           *
 「愛という枠をもって私がサタンよりも愛するという心で、神様を愛し、宇宙を愛する心をもって、神様のみ旨と人類の解放のためにどん底に下りていく」と言うことができなければなりません。下りていくのはどういうことでしょうか。踏まれてみなさいということです。四十億人類にみな踏まれてみよというのです。踏まれても不平を言わないのです。感謝し、愛によって消化するのです。このようなことをしなければなりません。


 六 信仰は蕩減法を守っていくこと

  1.信仰と蕩減

 統一教会は九八パーセント、九五パーセント生活的な面が全部信仰です。九五パーセント神様が造られたものを失ってしまったので、九五パーセントやってこそ再創造が始まるのです。その上でさらに五パーセントまで私がしなければなりません。ですからどんなに大変なことでしょうか。堕落していなかったら九五パーセントは天がしてくださり、五パーセントだけを私がしていたでしょうが、堕落したことによって神様がもう一度してあげることはできないというのです。再創造を私がしなければならないのですが、九五パーセント、プラス五パーセントです。ですから死ぬ覚悟をしなければなりません。犠牲になる覚悟をしなければなりません。世界蕩減路程を歩みきるまでは、楽な考えをしてはいけないのです。
           *
 先生がこの地に来て信仰世界に残した偉大な内容は四つです。神様と人間との関係をはっきりさせました。責任分担と蕩減というものを、この歴史の中で誰も知らなかったことをはっきりさせておきました。その次に、良心的な人は生きていくことが難しく、悪人は良い生活をしていますが、これはどうしてかということです。蕩減法、カイン・アベルの問題を知らなかったことを、これをはっきりさせました。
           *
 人間は堕落性を相続して習慣の奴隷になってしまいました。今日においては宗教者までもこのような惰性に浸り安逸な生活をする傾向があります。習慣的な信仰生活は危険です。このような信仰生活はサタンの讒訴条件を提示させてしまう要因になります。人間たちが復帰路程を歩んでいくにつれて一人でも失わないようにしようとするサタンは、あらゆる方法を通じて再侵犯の機会をねらっています。サタンは個々人が立てた蕩減条件によって個人から離れていかなければなりませんが、また再び家庭的次元、民族的次元において、侵犯することもあり得るのです。
           *
 私たちが行くべき公式路程がありますが、皆さんはそのような公式をはっきりと知らないでいます。「私たちには蕩減が必要ない。何のために私たちがこの大変な蕩減の道を行かなければならないのか」。このような人はサタン圏内で死ぬしかありません。サタンは彼らの圏を主張します。皆さんはこのようなサタンの領域を征服しなければなりません。サタンを退かせなければなりません。サタン圏を占領しなければなりません。果敢に立ち上がりなさい。過去のことを清算しなさい。これが信仰生活において皆さんがしなければならない責任です。はっきりと知らなければなりません。
           *
 蕩減復帰は条件復帰ではありません。事実蕩減だということを知らなければなりません。このようなものは原理にはありません。条件蕩減でありながら事実蕩減というようなことは初めて聞くことでしょう。したがって今までの復帰路程を考えてみると、サタン世界で一番良心的な一人を立てます。ノアが正にそのような人でした。ノア一人の信仰を絶対信仰の基台の上に立て、ノアの家庭を中心として着陸するようになります。絶対信仰の男性、絶対信仰の女性、絶対信仰の四位基台が必要です。
           *
 神様は堕落した人間を蕩減復帰させようとして宗教を立てられました。神様は宗教を通じて神様中心の精神を強化させる方法、生と人格に対する肉体の支配を逆転させる方法を教えておられます。宗教が断食、犠牲的奉仕、温柔で謙遜な態度などを要求する理由は正にこのようなところから来ています。これは肉体の勢力を減少させ、肉体をして精神に服従させる方法です。信仰生活を通じて、肉体中心的な生活習慣から脱して新しく精神中心的な生活方式をつくっていくまでに、通常三年ないし五年かかります。
           *
 蕩減は、何を中心としてするのでしょうか。蕩減の内容とは何でしょうか。サタンをより愛するのか、神様をより愛するのかという愛の問題です。すべてのことが愛の問題です。蕩減するには神様を絶対に信奉しなければなりません。ところがサタンは神様を絶対に信奉しませんでした。背信したということです。始めてから、中間で神様を背信しました。それゆえに、まず蕩減の道を行くに当たって信仰や行動が絶対的でなければなりません。
           *
 蕩減路程というものは責任分担圏を立てなければなりません。この責任分担は何を中心としてしなければならないのでしょうか。より天を愛すること、より絶対的な信仰とより絶対的な愛をもたずしては、サタンを屈服させることはできません。
           *
 今までの蕩減復帰時代は過ぎ去りました。蕩減復帰時代は過ぎたために、これからは法的な行動に即座に引っ掛かる時です。蕩減復帰時代は帰っていくことです。第一次ができなければ第二次に移るので、前進的な発展に通じることができる過程でしたが、今の時は蕩減復帰時代が過ぎたので復帰時代です。今は復帰時代であるだけに誤ったことを後日に延ばして解決する時ではありません。即刻的です。このようなことをはっきりと知って、過去のかすかな信仰概念があったならば、それをけり捨てて先頭に立つ覚悟をしなければなりません。
           *
 み旨のために行く道で先生自身の生活を中心として見れば、誰も理解できない道を歩んできましたが、その背後で天が理解してくださるその二面的な深さと幅がありました。そのような事実を考えるとき、それは不幸ですか、幸福ですか。幸福なことです。彼らが私に反対するのは、反対したくてそうするのではありません。反対しなければ蕩減復帰は成立しません。天がすべてさせているという事実を知って、皆さんは感謝しなければなりません。感謝していけば、結局は私が考えもしなかった世界に行くことになり、私に反対していた世界は考えもしなかった結果の世界に落ちてしまうということです。それゆえ、天に侍っていく人の生涯は感謝しなければならないということです。
           *
 自分が行った忠誠の実績をもって、それを貴く思い、天の前に一歩一歩前進することが貴いことであって、欲を出して祈祷するとしても、騒がしくするとしてもみ旨がすべて成就するというわけではありません。蕩減復帰の道を中心としては自分を第一に立てる人はみな流れていくのです。文先生は自分が一番素晴らしいと言いますか。私が今まで皆さんに教えたことは、私が行わないで教えたのではありません。私がすべて行ってから教えたのです。
           *
 神様の解放は、真の父母と一つになって地上のすべての祭物を捧げることができるサタンの讒訴条件を清算しなければできません。皆さんが、どのようにして神様の心情的な所有権に帰着するのでしょうか。父母と皆さんと万物が平行線上で神様の所有だと決定することができる位置をもつことができなかったということです。これを蕩減復帰しなければなりません。
           *
 皆さんが蕩減復帰の道を歩んでいるという事実、責任分担という宿命的な道を歩んでいるという事実をどれだけ感謝して受け止めましたか。もう一度考えてみなければなりません。「ああ、統一教会の原理のみ言は良いが、蕩減復帰は嫌だ」と言うことはできません。大学に入るためには、その関門を通過するために試験を受けなければなりません。私が願う反対の道が横たわっています。これを解決しなければ学校に入ることができません。同じことです。統一教会の行く道は簡単ではありません。
           *
 私がどうしてついて行かなければならず、私の心がなぜ促され、良心が生きた心地もなく追求されているのかということを、皆さんは誰よりもよく知っています。私の心はどうしてこうなのだろうということです。正道が目の前にあるがゆえに従って行くべき歴史、人間が行くべきであり、私が行くべき蕩減復帰の深刻な運命の道が残っているからです。落ちてしまってはこの道は行けません。御父母様の背に乗っていくまでは、行く道がないということです。いくらはえが汚くても、走っている千里馬の腹の下にくっついて落ちることなく忍んでいけば、千里の道を行けるのと同じことです。ひっくり返ってもくっついていかなければならないのです。落ちてはなりません。
           *
 今日、信仰をする人たちは蕩減復帰の道を歩んでいるということを忘却しています。アダムとエバがどうして堕落したのでしょうか。責任分担路程を忘れてしまったからです。現実を忘却してしまったから堕落しました。責任分担圏を残したまま人類は呻吟せざるを得ない立場に立ち、この責任分担圏さえも自由に迎えることのできない立場になりました。堕落した人間であるがゆえに、責任分担圏を自由に迎えることができるその位置まで出てくるためには、今日の歴史的なすべての堕落圏を解脱していかなければなりません。そうでなければ復帰の道に出てくることはできません。
           *
 蕩減復帰を完成した人は手を挙げてみなさい。こいつ、こん棒でたたかれて、罵声を浴びせられ、雷に打たれなければならない邪悪な者たちよ、見なさい。これをしなかったら先生もどうにもなりません。先生ははっきり教えました。そのとおりに霊界が変形されるのです。皆さんがこれをできずに逝けば、あの世に行って必ず引っ掛かってしまうのです。いくら夫婦同士が息子、娘を愛したとしても、全部行ってストップです。霊界に楽園ができたのと同じように、統一教会において天国に入る前の家庭楽園ができてしまうのです。
 そこでは愛し合うこともできません。どうやって愛し合いますか。我が子だからといっても、愛したくとも愛することができなくなっているのです。そこに行けば、どうしますか。夫に「あなたは私を愛していたのに、ここに来てどうしてそうなの」と言ったとしても、愛することができなくなっています。愛することができません。自分が立っている位置では愛するようになっていません。
           *
 皆さんに聞きたいことがあります。皆さんは蕩減復帰の道を歩いてきましたか。そのように生きてきましたか。長子復帰をしなければならない運命として私の前に長子復帰の道が立ちふさいでいるのに、これを必死に努力して、どのような代価を払ったとしてもこの峠を越えなければならないといって身もだえをしましたか、しなかったのですか。しなかったのですね。ただ先生について来たのでしょう。先生がどうだから? 先生が好きだからですか。どうしてついて来たのですか。ついて来たその動機も、原理よりも先生が好きだからついて来たのです。
           *
 統一教会に入り、すべて腰掛けていて天国に行くと考えてはいけません。心情圏を相続しなければなりません。皆さんは、いつ蕩減復帰すると考えましたか。いつ蕩減復帰しますか。蕩減復帰するために行けと言うのに、いつ行きましたか。
           *
 人間にとって一番難しいこととは何でしょうか。サタンの三大門がありますが、一つ目は食べることです。この口は、食べて食べて食べたら、もっといい物をくれと言います。しきりにそうします。その次は休むことです。寝さえすれば、しきりに休みたいのです。そうでしょう。仕事をしたくありません。その次は何ですか。情欲です。浮気をしようとします。統一教会で浮気をして男女問題があれば一箇所に連れていって、ガソリンを掛けて燃やしてしまうでしょう。そのような時が来るのです。私が、そのような指示をしないからこうなのです。神様が、エデンの園にいたアダムとエバを追放したでしょう。この子たちを処理する道がありませんでした。ところが今は大変おびただしいほどあります。ですから深刻だというのです。


 七 蕩減の道は絶対服従、絶対順従の道

 宗教人は、なぜ絶対服従をしなければならないのでしょうか。絶対的な主体の前に絶対的な相対になろうとするので絶対服従しなければならないというのです。そして悪に対しては、死んだとしても絶対相棒になってはいけません。愛せよと言っても、悪と絶対相棒になるなというのです。人間は愛しますが、人間と一つになっている罪を愛してはいけないということです。皆さんは、これを知らなければいけません。
           *
 神様が絶対的ならば、私も絶対的な位置を願わなければなりません。神様が不変ならば、私も不変でなければなりません。神様が唯一ならば、私も唯一でなければなりません。神様が永遠ならば、私も永遠でなければなりません。このような観点で人間の永生は不可避です。それは結果的な帰一点でないわけがないという結論を堂々と下すことができると見るのです。いくら神様に愛があるとしても、私に愛がなく、いくら神様に生命があるとしても、私に生命がなく、いくら神様に理想があるとしても、私たち人間に理想がないならば、すべてが無駄だというのです。
           *
 我欲をもってはいけません。先生を中心にして完全に絶対的に一つにならなければなりません。一つの根です。根を引っ張れば、引っ張られていかなければならないのです。幹や枝は、自分の存在意識をもつことはできません。主張することができません。二つの方向はあり得ません。一つです。これが勝利的基盤を築き、位置を確保すれば東西南北に自由が広がるというのです。そうしなければ自由がありません。どういうことか分かりますか。ですから自由行動をすることができません。
           *
 今までの道人たちは、何を中心に生活してきましたか。イエス様もかわいそうな人です。人間的に見れば何の主張もない人です。夜も昼も神様のみ旨だけをもって、自分の旨はないのです。神様のみ旨の前に絶対服従でした。絶対服従! なぜ絶対服従したのでしょうか。絶対的な主体、円形的な主体がいるにもかかわらず、もう一つの三角形的主体の圏を成したのがサタンなので、そのサタンを取り除くためにそうしたのです。今日、人間はサタン圏の中に隷属しています。サタン圏内に隷属している人間を脱出させるためには、サタンが一番嫌がる道を行かなければならないのです。それで宗教は良心を中心に絶対服従しろと言うのです。良心と心が、本来は神様が絶対的なので絶対的な神様を中心に絶対的に一つになるようにしようとするので、宗教世界ではマイナスになれと言うのです。
           *
 絶対的に服従しなさい。絶対的に服従することは滅亡することではないのです。服従したらどうなりますか。一つになります。一つになったらどうなるのでしょうか。悪は反発するのです。完全に一つになっているので、悪は反発するのです。それで悪を取り除くことができるというのです。これが原則です。
           *
 神様のみ旨には、神様の理想的なみ旨と、人間が堕落してしまったので蕩減復帰しなければならないみ旨があります。二つあるということを知らなければなりません。それではどのようなみ旨の道を行かなければならないのでしょうか。二番目です。それではその二番目のみ旨の道には、天に従って信仰生活をする人たちが自由にすることができる内容が、少しでもあるのかということです。これっぽっちもないのです。
           *
 絶対的な信仰をしなければいけません。「統一教会を信じるか」と言う時、「絶対的に信じて行く」と言わなければなりません。
           *
 絶対信仰とは何でしょうか。自分が信じているある宗教の指導者がいたら、その指導者と私は歴史的に数千年という遠い隔たりがありますが、信じる心を中心としては平面的に対等な時代圏内に入ることができます。それで絶対的に信じなさいというのです。絶対的に信じる時、その人と一緒にいるということが分かるようになるのです。またその人と一緒に暮らしているということが分かるようになるのです。このようなことを新しく認識させて刺激させるためのものが、信仰だということを知らなければなりません。
           *
 残るものは何でしょうか。絶対信仰も去り、絶対服従も去りますが、最後には絶対愛が残るのです。信仰と愛と希望、この三つはいつもありますが、その中で一番は何ですか。(愛です)。信仰も去り希望も去りますが、最後には愛が残るというのです。同じことです。絶対信仰も、みな去ります。
           *
 死ぬところでも答えなければいけません。死ぬと言って目を閉じて「私は、死んだ」と言っていれば、既に別の世界に行っていたということです。飛躍が起こったということです。統一教会はそのように発展してきたのです。気が詰まり、息が詰まり、四方が堅く絞められて、地に入ることも天に跳ね上がることもできないその場を、死を覚悟して乗り越えていけば、生きておられる神様は間違いなく顕現されるのです。ですから私には神様がいるか、いないかということは問題になりません。そして怨讐を消化しなければいけません。怨讐を愛さなければなりません。その道は、易しくはありません。自己否定を何十回、何百回するだけでなく、怨讐を愛することができるところまで行かなければなりません。そうでなければ神側に立つことができません。
           *
 宗教は、肯定概念から始めることができません。先祖がそうしたのです。それを否定する第一条件が何かというと、絶対信仰です。絶対信仰。分かりますか。そう、あなた方は絶対信仰を身につけましたか。ですから苦行の道をなぜ行くのか、その原因を暴かなければなりません。きょう文なにがしが来て、宗教の秘密世界をすべて明らかにすることを願うでしょう。なぜ苦行の道を行かなければならず、犠牲にならなければならないのか、なぜ絶対に信じなければならないか、と牧師たちを呼んで三つのことを聞いただけでも答えられず、「そ、それ信じることによってすべての救いを……」と言うのです。そのような妄想的なサタンの煙幕戦術に引っ掛かってはいけません。
           *
 さあ、統一教会がそうです。統一教会員たちが蕩減復帰するためには、反対の行路を通じて行かなければならないだけに、自己認定、自己肯定から始めるのではありません。完全否定です。完全な宗教は自己否定から、堕落した世界の完全否定から始まります。それで世界を否定して、国を否定して、氏族を否定して、家庭を否定して、妻夫、男性女性自体を否定して、私の体と心自体を否定しなければなりません。否定の版図がどのくらい大きいか知らなければなりません。私の心を中心にして体まで否定しなければなりません。
           *
 統一教会を信じて福を受けようという考えをしてはいけません。福をあげようという考えをしなければなりません。統一教会自体内の福を国と世界のため、もっと大きいもののためにあげると言わなければなりません。そのように行く時、レバレンド・ムーンが皆さんの進路に責任をもちます。皆さんの足を私が引っ張りはしません。そのような人にならなければなりません。
           *
 表では好きですが、心の中で頭を横に振る人がいます。このようなことを見るとき、良い性稟をもって生まれなければならないというのです。信仰の道において自己と闘って勝つということは、世界を克服することよりも難しいのです。このような観点で見るとき、第一次の十字架は自己を克服しなければならないということです。
           *
 では、今まで責任分担の蕩減歴史を誰が全部しましたか。それをお金で返すことができますか。皆さんの家を売って、国を売って返すことができますか。それでは、何をしなければなりませんか。することはありません。ただ絶対服従です。皆さんが二十代までは絶対服従です。二十代になる前にエデンの園でアダムとエバがお尻を振って堕落したのです。自己主張していてです。二十代までは絶対服従です。二十代前は服従しなければなりません。ですから子供たちは絶対服従です。絶対服従を教えなくても服従するようになっています。彼らももし父母と一つになれなかったならば滅ぶということを知っているのです。神様と一つにならなければ滅ぶというのです。
           *
 四大心情圏と三大王権を失ったので、これを取り戻さなければなりません。これを成すためには絶対服従と絶対従順と絶対犠牲を中心として順応し、何をさせたとしてもすべてをやると言わなければなりません。そのようにしてこそ、父母がサタン世界からここに来るのです。ですからサタン世界の男性は天使長だから切ってしまわなければならないのです。そうすれば、ここから上がっていくのです。
           *
 カナン復帰路程では先生について行かなければなりません。雁が大洋を渡るとき、親分雁の前に絶対服従です。異議がないというのです。「飛べ」と言えば飛ぶのです。死ぬほど疲れても、ただついて行かなければなりません。今までそのようなことをしてきたのです。今は目的地に来てひなを産む時です。すべてこのようになっているので、同族同士お互いのために生きて、愛して、一つの族属を成して、族属自体を誇ることができる、そういうことをしなければならないのです。これが今この時、しなければならないことだと言ったのです。今まではカナンの福地に向かっていく時でした。今は定着時代に入ったのです。
           *
 本当の孝子は服従する者です。本当の忠臣は奸臣に追われて死んだとしても、王に対して無能な王だと言うのではありません。奸臣に追われて死にながらも、忠臣の志操でかわいそうな心を抱いて涙を流しながら王の安泰を願う人が、本当の忠臣です。絶対服従です。絶対服従で成功をもたらすことのできるただ一つの道は、真の愛の道しかありません。
           *
 先生は今まで「ああ、お前たち、先生の言葉に絶対服従しろ」とは言いませんでした。私たちは歴史的な路程に順応して行かなければなりません。歴史的路程とは何かと言えば、神様のための摂理的な歴史路程です。今まで皆さんに復帰摂理路程を教えてあげたのは、そのような意味からです。統一教会の文先生のために教えてあげたのではありません。ですから先生も行くのです。人類の目的を成していくのです。その目的を一点に結末を見ることができなかったので、この結末を締めくくってあげようとするのが今日、この時代の統一教会が主張する統一原理であり、統一思想だということを知らなければなりません。































目次に戻る

前のページに戻る

次のページに進む