統一思想要綱

付 録

この章の目次

文鮮明先生の思想を整理する過程において、絶えず新しい教えのみ言を下さったのであるが、その中で特に重要な「三大主体思想」と「四大心情圏と三大王権」の内容を補充として紹介することにする。同時に、『原理講論』に収録されている「共生共栄共義主義」に対する解説も合わせて載せることにする。

一 共生共栄共義主義

共生共栄共義主義は、文先生の神主義を経済、政治、倫理の側面から扱った概念であり、共生主義と共栄主義と共義主義の三つの単純概念からなる複合概念である。共生共栄共義主義の意味を正確に理解するためには、それぞれの単純概念を正しく理解する必要がある。そこで、共生主義と共栄主義と共義主義のそれぞれの内容を具体的に説明してみよう。

(一) 共生主義

共生主義は、理想社会の経済的側面を扱った概念であるが、特に所有の側面を扱った概念である。所有の側面から見るとき、資本主義経済や社会主義(共産主義)経済の特徴において、前者は私的(個人的)所有であり、後者は社会的(国家的)所有である。

ところで両者共に、愛という要素は全く排除されている。すなわち私的所有であれ、社会的所有であれ、心理的要素が排除された単純な物質的所有にすぎないというのが、その特徴の一つであると見ることができる。

しかし、これに対して共生主義は、神の真なる愛に基づいた共同所有を意味する。すなわち共同所有とは、第一に神と私の共同所有であり、第二に全体と私、第三に隣人と私の共同所有をいう。ところで、共同所有は単なる物質的所有だけではなく、神の真の愛に基づいた共同所有である。これは神の限りない真の愛によって、その真の愛に満ちた贈り物である一定の神の財産(所有)が、神からわれわれ(私と隣人)に共同管理するようにと授けられたことを意味するのである。

創造原理から見たとき、被造世界は神の所有である。なぜならば被造世界は本来、神の愛の主管下にあるからである(『原理構論』一〇九頁)。聖書には、創造主である神は、地の上、大空には鳥が飛ぶように(創世記一・二〇)、水には魚が群がるように、陸には獣が棲むようにされたと書かれている(創世記一・二一―二五)。これは、空は神の真の愛を中心とした鳥たちの共同所有を意味するのであり、水は神の真の愛を中心とした魚たちの共同所有を意味するのであり、陸は神の真の愛を中心とした獣たちの共同所有であることを意味するのである。いくらはげたかのような猛禽であっても、空の一部を独占せず、いくら虎のような猛獣であっても、陸の一部を独占せず、いくら狂暴なサメであっても、海の一部を独占しないのである。

神は万物に対する愛の主管権を人間に与えたので、空や海や陸はもちろん、鳥や魚や獣など、すべての生物を、人間は神の真なる愛を中心とした感謝の心でもって共同所有するようになっていた。すなわち、自然は神と人間の共同所有なのである。

それにもかかわらず、人間だけは堕落によって個人主義に流れて土地や万物(財物)の一部を独占するようになり、今日に至っては、自由民主主義という名のもとに、合法的に広大な土地と莫大な財産を独占しながら、感謝するどころか、良心の呵責すら感じなくなっている。隣で人が飢えて倒れるのを見ても、眉一つ動かさずに威勢よく生きている資本家たちの社会が資本主義社会である。彼らはみな、天道に違反した生活をしているのである。

神と人間との関係は、父母と子女の関係である。そして父母と子女の関係の最も基本型は、家庭である。家庭において、すべての財産は父母の財産であると同時に子女たちの財産でもある。家屋、庭園、田畑、家畜などは、父母の所有であると同時に子女たちの所有である。すなわち家庭において、所有権はたとえ法的には父母の名義になっていても、父母と子女の共同所有なのである。そして本然の世界では、父母は常に子女に真なる愛を与えるので、子女たちは常に父母に感謝する心をもって、その所有物を大切にしながら、丁重に取り扱うのである。

家庭においては、祖父母、父母、子女(兄弟姉妹)の三代が共に集まっているのが、その基本型である。したがって共同所有は、厳密にいって三代の共同所有となる。すなわち、真なる愛を中心とした祖父母と父母と子女の共同所有である。ここにおいて祖父母は神を代身する立場にあるから、三代の共同所有は「真なる愛の本体である神(祖父母)と父母と子女の共同所有」であると表現することができる。このように三代が共に所有する形態の、家庭の共同所有は、すべての次元の共同所有の原型となる。このような事実を根拠として、共生主義の共同所有は「神の真なる愛に基づいた、神と私、全体と私、隣人と私」、すなわち三段階の「他者と私」の共同所有なのである。したがって、これを「神と全体と隣人と私」の共同所有であると定式化することができる。

このような家庭の所有形態(共同所有)を拡大したのが団体の共同所有である。これを企業体に例えてみよう。企業体は真なる愛の主体である神と、父母と同じ立場の社長と、子女(兄弟)と同じ立場の従業員の三段階の共同所有であると同時に、神と私、社長と私、従業員と私という、三段階の「他者と私」の共同所有なのである。

企業体は、たとえ企業家が創立したものであるとしても、本然の世界では、いったん神の前に捧げることになっている。捧げて神の所有になったのち、再び神の真なる愛によって、受け賜ることによって、神との共同所有となるのである。このような手続きは、形式的で単純な要式行為では決してない。そのような手続きを経るとき、初めて神の真なる愛による加護と協助が下されるようになるのである。以上は企業体の例にすぎないが、その他の団体においても同じである。

家庭の所有形態を拡大したものが国家レベルの共同所有である。例えば国営企業体の場合、企業体内のすべての財産は例外なく国家と国民の共同所有である。すなわち真なる愛の主体である神と、国家の主権者である大統領と、企業体の全社員との三段階の共同所有であると同時に、神と私、大統領と私、全社員と私、すなわち三段階の「他者と私」の共同所有である。ここにも神の真なる愛の加護と協助が常に下されるのであり、また大統領の愛による関心と政策が常に加えられるので、社員たちは神に感謝し、大統領に感謝しながら、共同所有の観念をもって、すべての財産を大切にしながら丁重に取り扱うのである。これが「国家レベルの共同所有」の概念である。

ここに「理想世界には個人所有はないのか」という疑問が生じるであろうが、理想世界にも個人所有はもちろんあるのであり、またなければならない。なぜならば、人間は神の普遍相と個別相に共に似ているからである。一人の個人は万人と共通な属性(普遍相)をもっていると同時に、彼自身だけに特有な属性(個別相)をもっている。そして人間には、全体目的と個体目的という二重目的が与えられており、欲望とともに、愛を実践するための自由がまた与えられている。そのため、人間には個人所有が許されているのである。この事実を共同所有の原型である家庭的所有形態をもって説明しよう。

家庭において、例えば農家の場合、家屋、庭園、田畑、家畜など共同所有の財産を家族が共同で真心を込めて管理し、保存するのは、目的という側面から見れば、全体目的を達成するためである。そして、このような全体目的の達成のために、家族は共同に衣食住の生活をする。すなわち同じ家で、共同の家計によって、着たり、食べたり、住んだりして暮しているのである。しかし同時に、各個人は独特な個性(個別相)をもっているので、衣食住において、自分の独特な事情や趣味に合う生活をするようになる。また父母や子女は、それぞれ個人的に専用する部屋や衣服や、いくらかの生活必需品などが必要な場合が多い。だから父母は、子女に小遣いを与えるのである。これらは、個体目的を遂行するための所有であり、個人所有にほかならない。

ところで、個人所有は個体目的の達成のために必要であるが、同時に全体目的を達成するためにも必要である。すなわち、全体目的は共同の所有物をもって共同生活を通じて達成することもできるが、個人の所有物をもって個別的な方式を通しても達成できるのである。

例えば、子女たちは父母に孝行して父母を喜ばせようとするが、それは彼らの全体目的の達成である。例を挙げれば、兄は自分の個人所有物である本をたくさん読んで、学校で優秀な成績を収めることによって父母を喜ばせ、弟は自分の個人所有物である絵の具を使って立派な絵を描いて、展覧会に出品して、特選に入賞して父母を喜ばせ、姉は自分の個人所有物であるバイオリンを弾いて、演奏会で聴衆の絶賛を受けて父母を喜ばせたとしよう。そのとき、兄や弟や姉は、彼らの個人所有物をもって全体目的を達成したのである。

そのように、個人所有物は、個体目的の達成ばかりでなく全体目的の達成のためにも必要なのである。人間には、欲望とともに愛と自由が与えられている。すなわち人間には、自分の独特な個性を生かし、自分の個人所有物を活用しながら、自由意志によって、他人に愛を継続的に施すために、つまり全体目的の達成のために、欲望と愛と自由が与えられているのである。

それでは、個人所有はどの程度まで許されるのであろうか。それは自己の分に合う程度、すなわち適正所有によって決めればよい。そして自分の分に会う程度、すなわち適正な量と質の程度はそれぞれ自分の良心によって決めればよい。本然の人間において、良心は本心であって、堕落した人間とは違って、自分が必要とする所有物の量や、種類、質がよく分かるようになるのである。

人間は心に感じる欲望の程度、感謝の程度、満足の程度などの心理上の分量をしばしば物質量で表示する。例えば人の世話になったとき、心に感ずる感謝の程度(感謝量)を贈り物の種類と量でもって、または一定の金額でもって表示する場合がある。

同様に、自分の個人所有に対しても、自己の分に合うと感じる心理上の量や種類を物質的な量や種類でもって表示することができるのである。自己の心理量(心理上の多少の程度)を物質量で表示することは、自分以外には他の誰もできない。しかし、自分の分に合った心理量の決定はたやすくなされる。われわれが食事をするとき、少く食べれば体力が弱まり、食べすぎれば、おなかをこわしやすいことを各自がよく知っていて、適切な量と質の食事を取るように、各自の良心が清まれば、神がその良心を通じて各自の分に合った心理量を教えてくださるからである。そして分に合った心理量の決定がたやすくなされるのである。

ところで、ここで一つ明らかにしておきたいのは、いくら良心によって、各自の分に合う個人所有の適正な量と質が決定されるとしても、すべての人においてその量と質は決して同一ではないということである。そこには、いくつかの理由がある。第一に、個人ごとに独特な個別相をもっていて性格と趣味がそれぞれ違うからである。第二に、個々人はみな個性真理体であると同時に連体であるからである。連体とは、個人が一定の格位(連体格位)において、上下、前後、左右に、愛の対象に相対している存在であるということである。だから、そこには最小限の、一定量の、対象に施すための物質が必要となる。そのような物質の質と量は、その格位が高くなるほど、増大する場合がある。そのような理由によって、分に合う質と量は各人各様にならざるをえない。したがって、それが他人に対して真なる愛を投入するために必要な個人所有であるならば、多少、多くても、それは適正所有になるのである。

このように共生主義は、共同所有に基づいた共同経済に関する理論である。ここで「経済」という概念は、まず従来と同じように、「第一産業、第二産業、第三産業に基づいた財貨の生産、交換、分配、消費などに関する活動の総和」を意味する。けれども、すでに述べたように、未来社会の経済は、神の真なる愛を中心とした共同所有がその基盤となっているために、その経済活動の様相は従来のものとは全く異なる。一言でいえば、経済活動のすべての過程は、物質的な財貨の流通過程であるが、それは心情と愛、感謝と調和が共に流れるところの、物心一如の統一的過程である。財貨それ自体も、真心と愛が共に宿っている物心一如的な個体であり、流通過程それ自体も、関係者たちの真心と愛が共に流れるところの物心一如的な過程なのである。

そして未来世界の経済の特徴は、未来世界は国境のない統一世界であるために、全世界はいくつかの地域的なブロック経済が有機的、調和的に統一された、一つの経済圏を成すということである。すなわち地域的特殊性に合うような地域的特殊産業と、汎域的・普遍的産業が調和と統一をなす、統一産業を形成するということである。それは、すべての個体は普遍相(普遍性)と個別相(特殊性)の統一体であるという統一原理から導かれる結論である。

未来社会のすべての産業は、企業家の利潤を目的とするのではなく、人類全体の福祉の増進を目的としている。したがって、すべての産業活動の直接的な結果は財物の増殖なのである。未来社会において、経済政策が解決すべき最も深刻な問題は、幾何級数的に膨脹する人口のための食糧問題である。かつてマルサス(T. Malthas )も『人口論』でこの問題を憂慮したのであり、七〇年代以来、ローマクラブも、この問題に対して警告を発してきた。しかるに、この難問題は、養殖法の開発などによる水産業の振興によって解決されるようになる。それは、海は女性を象徴し、女性は生産がその主な使命であるという、統一原理から導き出される結論である。

(二) 共栄主義

共栄主義は、理想社会の政治的な側面を扱った概念である。これは特に、資本主義の政治理念である民主主義に対する代案としての側面から、未来社会の政治的特性を扱った概念である。周知のごとく、資本主義社会の民主主義は「自由民主主義」であるが、それは英国の清教徒革命、アメリカの独立戦争、フランス革命において、自由、平等、そして博愛などのスローガンをもって出発した政治理念である。

民主主義は「人民が主人となって政治を行う」という思想であり、理念である。それはアメリカの十六代大統領、リンカーン(A.Lincoln )の「人民の、人民による、人民のための政治」という有名なゲティスバーグの演説によく表れている。民主主義は本質的に、人民の自由と平等を実現するための理念である。民主主義が多数決原理と議会政治を主張する最終目的も、人民の自由と平等の実現にあったのである。自由と平等は表裏の関係にあって、自由なき平等はなく、平等なき自由もありえないのである。

それでは「人民」とは何であろうか。市民革命当時の人民は、絶対王朝の下で支配を受けていた被支配層を意味していた。しかし今日、人民とは、概して階級を超越した国民大衆の意味で使用されている。けれども今日、権力層がしばしば独裁に流れる傾向があるので、人民とは、権力層や富裕特権層を除いた「大多数の国民」の意味に解釈してよいのであろう。

ところで民主主義が実施されて、すでに二百年が過ぎたが、果たして人民の自由と平等は実現されたであろうか。それに対する答えは「否」というしかない。なぜならば、自由民主主義は資本主義を政治的に支えてきたのであるが、資本主義はその構造的矛盾によって、富の格差、富の遍在を招いて、大多数の国民(人民)に経済的な不平等と不自由をもたらしたからである。そして経済的な不平等、経済的な不自由は、そのまま政治的な不平等、政治的な不自由に連なっている事実を、われわれは何度も目撃してきたのである。

特に大多数の貧民層の自由と人権は、しばしば自由民主主義という名のもとに、踏みにじられる傾向が強かった。そのうえ主権は名目上、人民の主権であるだけで、実質的には、政党人たちが選挙という名前のもとに、莫大な資金を投入して勝ち取る彼らだけの利権に転落してしまった。そのため選挙戦とは、要するに政治的な利権の争奪戦にほかならないのである。したがって「人民の、人民による、人民のための政治」という神聖なる政治とはなりえず、「政党人の、政党人による、政党人のための政治」という風土が醸成されたのである。

自由民主主義の、このような欠陥のために、「自由民主主義は権力層や富裕層のためのブルジョア民主主義にすぎず、人民大衆のための民主主義ではない」と共産主義者たちは告発したのであった。そして第二次世界大戦以後、彼らは労働者、農民のための共産主義こそ真の人民民主主義であると主張してきたのである。それでは人民の真なる自由と平等と博愛を実現しうると思われた民主主義が、二百余年が過ぎた今日に至るまで、その目的を達成できない原因はどこにあるのであろうか。

それは市民革命によって、専制君主制が打倒されて出現した当時の民主主義が、基本的に個人の権利と自由と平等を主張する個人主義の内容をもって成立したからである。個人の個性と人格と価値を重要視するという点で、個人主義は尊重されてよい。しかし政教分離政策によって、個人精神の指導原理としてのキリスト教が機能しえなくなり、個人主義は利己主義に流れるようになった。それによって、民主主義は利己主義的な個人主義を基盤として成立したという結果になってしまったのである。

このような利己主義的な個人主義が経済人の精神を支配し、政治家の精神を支配したために、資本家たちは、絶えず利潤の極大化を追求するようになり、政治家たちは政権を利権視するようになった。今日、政治家たちは公明選挙の名のもとに、あたかも利権獲得のために投資するような気分で、莫大な選挙費用を投入している。そして資本家、企業家たちの執拗な利潤追求と、政治家たちのあくなき政権欲によって、今日の民主主義社会には、あらゆる不正腐敗や各種の犯罪が氾濫しているのである。

これは、民主主義には初めからその標語である自由・平等・博愛を完全には実現しえない限界性があったことを意味しているのである。すなわち、政教分離政策による民主主義において、個人主義は必然的に利己主義に流れざるをえないという限界性を見せたのである。しかし、自由民主主義がすべての面において失敗したのではなかった。自由民主主義は、宗教(信仰)の自由を保証するという役割を明らかに果たしたのである。すなわち自由民主主義国家において、春に様々の花が満開になるように、各種の宗教と信仰の花が満開となったのである。

ここで、神の摂理史的な観点から民主主義の出現の意義を考えてみよう。民主主義が宗教(信仰)の自由を保証したのは、神の摂理と関係があったからである。神の摂理から見るとき、民主主義はメシヤ王国の前段階において現れた政治理念である。ここでわれわれは、民主主義が絶対君主体制を打倒した市民革命によって立てられたという事実に留意する必要がある。もし当時の体制が絶対君主制ではなくて、神の真なる愛を実現するためのメシヤ王国であったならば、市民革命は起きなかったであろう。そして人類はメシヤ王国において、真なる自由と平等と博愛を満喫しながら、幸福な生活を楽しんだはずである。

「もし絶対君主制ではなくて、メシヤ王国であったならば」という前提は、単なる仮定ではない。神の摂理から見れば、実際、当時にメシヤ王国が立てられるようになっていたのである。そのことについてもう少し具体的に説明しよう。

西洋史によれば、八世紀末から九世紀の初めにかけて、フランク王国を大きく発展させて西ローマ帝国を復活させた国王がカール大帝である。神の復帰摂理から見れば、新約時代のカール大帝は旧約時代のイスラエル王国(統一王国)のサウル王に相当する君主である。アブラハムから八百年のころ、サウルはサムエル預言者によって頭に油を注がれたあと、イスラエル王国の最初の王となった。同様に、カール大帝は八〇〇年ごろに、法王レオ三世によって戴冠されて、西ローマ帝国の皇帝になったのである。統一原理では、カール大帝のこの治世を旧約時代のイスラエル王国(統一王国)に対応する概念で、キリスト王国と呼んでいる。

旧約時代のイスラエル王国において、初臨のメシヤが降臨して世界を統一し、神の真なる愛を中心としてメシヤ王国を立てることが神の摂理であった。新約時代にはキリスト王国に再臨のメシヤが降臨して、神の真なる愛を中心としてメシヤ王国を立てるのが神の摂理であった。ところが旧約時代のイスラエル王国において、王たちは三代にわたって神のみ旨にかなうような摂理的な条件を立てられなかったために、神はイスラエル王国を南北朝に分立させたのであり、ついには北朝はサタン側の王国であるアッシリアに、南朝は新バビロニアに占領され、王たちは捕虜になるようにせしめられたのである。それにより、イスラエル王国を通じてメシヤ王国を建てようとされた神の摂理は失敗に終わってしまった。それと同様に、新約時代のキリスト王国の王たちも神のみ旨にかなうように摂理的な条件を立てられなかったので、神はキリスト王国を東西王朝に分立させ、十字軍戦争の受難と法王のアヴィニョン捕囚の受難まで与えるようになったのである。そしてキリスト王国の王たちが責任を果たさなかったために、サタン側の王国である絶対君主政体が形成されるようになった。

かくして上から、国王を通じてメシヤを迎えて、メシヤ王国を地上に立てようとされた神の摂理は、旧約時代と同様に挫折したのである。しかし、だからといって、神のメシヤ王国実現の摂理が放棄されたのでは決してなく、新しい方式によってメシヤを迎える摂理が開始されたのであった。それはまさしく下から、民意によってメシヤを迎える摂理であった。この摂理は旧約時代にも、新約時代にも行われたものである。

民意によってメシヤを迎えるためには、神の摂理を遮るサタン側の王国や君主制を崩壊させて、民意が自由に現れるような社会環境を造成しなければならなかった。そのために、神は個人の意志が尊重される民主主義思想を普遍化させたのであった。

旧約時代には、神はアベル側の異邦民族であるペルシアを立てて、イスラエル民族を捕虜にした新バビロニア王国を打倒させたのち、イスラエル民族を故郷に帰還させ、マラキ預言者をつかわしたのち、メシヤ降臨の準備期を迎えるよう摂理された。その一環として、イスラエル民族の王位を空位にしておいたのち、紀元前四世紀末からイスラエル民族をヘレニズム文化圏に属するようにされたのである。ヘレニズム文化圏は、個人の個性を尊重する民主主義思想を基盤とした文化圏であったので、イスラエル民族はこの文化圏の中で個人の意志を自由に表すことができたのであり、民意によってメシヤを迎えることが可能になったのである。統一原理では、このような社会を「民主主義型の社会」と表現している(『原理講論』四九二頁)。

神は、それと類似した摂理を新約時代にも行われた。すなわち神の摂理を妨害するサタン側の勢力を崩壊させる摂理を行われたのである。十六世紀の初めにマルティン・ルターを立てて、サタンによって世俗化したキリスト教(旧教)を改革する、いわゆる宗教改革運動を起こす一方、十六世紀末から十八世紀末にかけて、人間の理性を尊重しながら、旧時代の権威や特権および社会的な不自由や不平等に反対する啓蒙主義運動を、全ヨーロッパにわたって展開させたのである。この運動を土台として、ついには「自由・平等・博愛」をモットーとする市民革命(フランス革命)を起こさせて、サタン側の君主制である絶対君主政体を崩壊させたのである。そのようにして近代民主主義が成立したのであるが、先に述べたように、民主主義はどこまでも民意によって再臨のメシヤを迎えるために立てた政治理念にすぎないのであって、真なる自由・平等・博愛を実現しうる理念では決してなかったのである。

さらに旧時代の宗教において、人間の個性や自由や権利を無視するなど、あまりにも誤りが多かったために、民主主義政治は出発とともに政教分離政策を実施せざるをえなかった。そのような理由のために、民主主義は人間の精神が従わなければならない価値観の絶対基準(神)を喪失するようになったのであり、その結果、必然的に利己主義的な民主主義に転落したのであった。そして民主主義社会は、今日のような大混乱を引き起こすようになったのである。

すべての問題は、神の真なる真理と真なる愛によってのみ根本的に解決される。したがって、真なる真理と真なる愛をもってこられる再臨のメシヤを中心とする王国が建てられるとき、初めてすべての問題の根本的な解決が可能になるのである。

以上、神の摂理的観点から見た、今日の自由民主主義の限界性と、民意によって再臨のメシヤを自由に迎えることが可能となるように、信仰の自由を保証したという点で、民主主義が責任を果たしたということ、すなわち民主主義の功績について指摘した。

一言でいえば、共栄主義は共同政治に関する理論である。共同政治とは、万人が共に参加する政治をいう。「万人共同参加の政治」こそ、真の意味で民主主義の理念にかなう概念である。万人の共同参加とは、もちろん代議員選出を通じた政治への参加を意味する。ここで「代議員選出による政治参加」が共栄主義における共同政治であるとすれば、今日の民主主義政治と何ら異なるところがないではないか、という疑問が生じるかもしれない。けれども、そこには基本的な違いがある。そのことについて説明する。

共栄主義の共同政治では、まず第一に、代議員選挙の立候補者間の相互関係はライバル関係ではなく、真なる愛を中心として、神の代身者であるメシヤを人類の父母として侍って生活する家族的な兄弟姉妹の関係である。第二に、代議員選挙のとき、立候補者たちの出馬は自分の意志によるものではなく、多くの隣人(兄弟)たち、すなわち他意の推薦による出馬である。それは真なる愛を中心として兄弟姉妹の関係にある有能な人材は、お互いに譲り合うからである。第三に、選挙は莫大な費用と副作用を伴う投票方式ではない。初段階の簡略な投票方式に続いて行われる、厳粛なる祈りと儀式を伴った抽選方式でなされるのである。そのとき、当選した候補者も、当選しなかった候補者も、共に当落が神意によることを知って感謝し、全国民も神意に感謝しながら、その結果を喜んで心から受け入れるようになるのである。

このように共栄主義における、共同政治は全世界が一つに統一されたメシヤ王国の政治であるために、神の真なる愛を中心とした「共同参加の政治」である。また神の代身者であるメシヤを父母として侍り、万民がその父母の愛を受け継いだ兄弟姉妹の立場で共同政治に参加するために、そのような共同政治は「人民の、人民による、人民のための政治」でなくて、「人類の真の父母を中心とした、兄弟の、兄弟による、兄弟のための政治」であって、その政治は厳密にいって、民主主義政治ではなく、天父を中心とした兄弟主義政治なのである。

ところで、民主主義が実現しようとして今日まで実現できなかった真なる自由、平等、人権尊重、博愛などは、この天父を中心とした兄弟主義政治によって初めて完全に実現されるようになる。そういう意味において、共栄主義の共同政治を兄弟主義的民主主義の政治であると表現することもできる。ここで特に指摘したいのは、兄弟主義それ自体は常識的な意味の同胞主義であるとしても、ここでいう兄弟主義は今日のような国境の中に閉じ込められた地域的な国家の国民が、互いに兄弟の関係を結ぶような同胞主義ではないということである。それは全世界が一つの国家に統一され、全人類が一つの中心である父母に侍り、その父母の子女として互いに兄弟姉妹の関係を結ぶ方式の同胞主義である。それが真なる意味の四海同胞主義である。

今日まで、四海同胞主義の理念があっても、その理念が実現を見なかった理由は、第一に、世界統一がなされていなかったからであり、第二に、人類の真なる父母が出現していなかったからである。その点においては、民主主義も同じである。今日まで、民主主義の理念が一〇〇パーセントは実現できなかったのは、すでに述べたように、いくつかの理由のほかに、民主主義理念自体は超民族的、超国家的であるにもかかわらず、現実は民族的、国家的特殊性の制約を受けていたからである。

そしてその点においては、メシヤ王国も同じである。先にメシヤ王国について何度か述べたが、メシヤ王国もまた一つの地域的な国家ではなくて、超民族的、超国家的なのである。メシヤの降臨は一つの地域的国家である選民国家においてなされるが、メシヤ王国の形成は世界統一がなされたのちに初めて可能になるのである。しかし共生共栄共義主義は、世界統一以前でも、指導者たちが努力さえすれば、神を真の父母として侍りながら、ある程度まで実施されると見るのである。そうすることによって、現在の各種の混乱をひとまず収拾することが可能なのである。現在の資本主義の次には共生共栄共義主義社会が来ざるをえないというのは、そのような理由のためである。

最後に、共栄主義における共同政治と三権分立の関係について説明する。われわれは民主主義政治が立憲政治であり、立憲政治は律法、司法、行政の三権分立を骨格とする政治であることを知っている。そして共栄主義の共同政治も、やはり代議員が政務に参加する政治であって、三権分立を認めるのはいうまでもない。

しかし共栄主義の場合における三権分立は、モンテスキューの主張のように、権力の乱用を避けるために権力を三分するという意味での三権分立ではなく、立法、司法、行政の業務の円満な調和のために、「三府の業務分担」という意味での三権分立である。そして、権力の概念も従来のものとは異なる。従来の権力の概念は、国民を強制的に服従させる物理的な力を意味したのであるが、共栄主義における権力は、真なる愛の権威をいうのであって、対象は主体の真なる愛に対して、心から感謝しながら、その主体の意志に自ら進んで従うのである。

あたかも人体のいろいろな器官が、人体を生かすという共同目的のもとに、様々な種類の生理的機能をそれぞれ分担して互いに有機的に協調しているように、三府も国家存立の三大機能(立法、司法、行政)をそれぞれ分担して、共同理念のもとに、有機的で調和ある協調体制を成すところに、三権分立の真なる意味があるのである。

それで統一原理には、このような協調関係にある立法府、司法府、行政府をそれぞれ人体の肺、心臓、胃腸に比喩している。あたかも各臓器に分布している末梢神経が頭脳の命令に従って、少しの誤りもなく、緊密な協調をなして、人体の生理作用を円満になしているように、理想社会において、立法府、司法府、行政府も、真なる愛の主体である神のみ旨が一定の伝達機関を通じて伝達されて、円滑に協調するようになっているのである。

ここで特に明らかにしておくことは、神の創造において、地上天国の理想像は人体を見本として構想されたという事実である。したがって、理想世界の国家の構造は人体構造に似ているのである。先に立法府、司法府、行政府を肺、心臓、胃腸に比喩したが、実は肺、心臓、胃腸をモデルとして、三つの機関が立てられたのである。

人間の堕落によって、国家は本然のあり方を失い、非原理的国家になったが、理想国家の構造の骨格は、そのまま人体構造に似ているのである。そして、人体の臓器(肺、心臓、胃腸)とその機能が永遠不変であるように、立法、司法、行政の三府とその機能も、原理の世界では永遠不変である。ところで、理想世界の立法、司法、行政の内容は、非原理的な現行のものとは一致しない。非原理的な権力が物理的な強制力であるのに対して、原理的な権力は真なる愛の情的な力であるという点で、両者は違うのである(ただし、ここでは原理的な立法府、司法府、行政府の機能についての説明は省略する)。

(三) 共義主義

共義主義は、共同倫理の思想をいう。これは、すべての人が公的にも私的にも道徳・倫理を遵守し、実践することによって、健全な道義社会すなわち共同倫理社会を実現しなければならないという思想である。今日、資本主義社会や共産主義社会(ソ連、東ヨーロッパなどの前共産主義社会、および中国や北韓などの現共産主義社会)を問わず、人民大衆が持たなければならない価値観、すなわち道徳観念や倫理観念は、ほとんど消えてしまったために、それによって、様々な不正腐敗の現象や社会的犯罪が氾濫し、世界は今、大混乱に陥っている。そして人々は、今日のこのような価値観の崩壊を見て嘆きながらも、その収拾方案を提示しえないでいるのである。

共義主義はまさしく、このような価値観の崩壊を根本的に収拾して、誰でも、いつでも、どこでも、道徳と倫理を守るような、健全な道義社会を地上に立てようという理念である。言い換えれば、資本主義社会と共産主義社会の次の段階として到来するようになる理想社会は、先に説明した共生共栄の社会であると同時に、万人が地位の上下を問わず、共同に同一なる倫理観をもって生活する共同倫理の社会なのである。ところで、共義主義は未来社会、つまり共生共栄共義主義社会の基本となるものであるが、共義主義社会の具体的な内容は三大主体思想が実施される社会である(後述)。

未来の理想社会において、宗教は必要でなくなる。なぜならば、宗教の目的がすでに達成されているからである。キリスト教の教えの目的は、最終的には再臨のメシヤを迎える時まで信仰を強調することにある。儒教の目的は、最終目的には地上に大同世界を成す時まで儒教の徳目を実践することにある。仏教の目的は、理想社会である蓮華蔵世界が地上に出現する時まで仏道を修め、仏法を守ることにある。したがって、再臨のメシヤを迎えることによって、創造理想世界が実現すれば、キリスト教の目的は達成されるのであり、地上に大同世界が実現すれば、それによって儒教の目的も達成されるのであり、地上に蓮華蔵世界が実現すれば、それによって仏教の目的も達成されるのである。

ところで、すべての宗教の目的が達成された世界が共生共栄共義主義社会であって、それがまさに再臨のメシヤを中心とした社会である。したがって再臨のメシヤの教えは、キリスト教の中心真理を含んだ教えであり、儒教の真髄を含んだ教えであり、仏教の核心を含んだ教えである。そして、そのことが明らかになるために、あえて一教派の看板に固執する必要はなくなるのである。同時に、共生共栄共義主義社会は今までの宗教が教えてきたように、未来を準備するための社会ではなくて、メシヤとともに現実の中で真の愛の生活、すなわち天国生活を営む社会である。その社会は、万人が同一なる価値観をもって生活するために、今までの信仰に重きを置いた宗教教理は実践に重きを置いた生活倫理となる。未来社会のそのような側面を指して、共同倫理社会すなわち共義主義社会というのである。

それでは、共同倫理社会の特徴は何であろうか。第一に、社会生活は三大主体思想に基づいた三大主体の真なる愛の運動によって支えられるようになる。三大主体思想により、一次的には、三大の中心すなわち家庭の中心である父母と、学校の中心である先生と、主管の中心である管理責任者(社長、団体長、国家元首など)の三大主体が、神の真の愛をそれぞれの対象である子女、学生、従業員(国民)に対して、絶えず限りなく施し与えるのであり、二次的には、その対象(子女、学生、従業員、国民)の相互の愛が誘発されるようになり、全社会が愛の園すなわち、倫理の社会となるのである。

そのとき、すべての格差は真なる愛によって消え去るようになる。貧困は、少しでもより多く持つ人たちの真なる愛によって消えてしまう。疎外された者は、管理責任者の真なる愛によって、すぐ慰められる。知識の枯渇を感じる者は、有識者の真なる愛によって、すぐその渇きが癒される。このような社会が、愛の園すなわち倫理の社会になるということの意味である。かわいそうな人を見れば、助けたくてたまらないのが、神の真なる愛であるからである。

そのとき、先生の真の愛を中心とした学校や、管理責任者の真なる愛を中心とした職場や国家は、すべて家庭倫理を拡大した倫理体系となるである。すなわち先生を中心とする学校は、父母の真の愛を中心とする家庭が教育の側面で拡大された拡大家庭であり、管理責任者の真なる愛を中心とした職場や国家は、家庭が管理や統治の面において拡大された拡大家庭形なのである。そのようにして、社会全体が神の愛によって満たされる。それが共義主義の実体であり、真骨頂である。したがって共生共栄共義主義は、まさに三大主体思想に基づいた社会体制なのである。

第二に、このような共生共栄共義主義社会の基本単位となるのは、あくまでも家庭である。言い換えれば、三大主体の愛が実施される場合に、最も基本となるのが家庭である。実は家庭には四大格位がある。すなわち祖父母、父母(夫婦)、兄弟姉妹、子女の位置がそれである。この四つの格位の間に神の愛が授受されるのである。すなわち、祖父母の愛、父母(夫婦)の愛、兄弟姉妹の愛、子女の愛が授受されるのである。家庭において、そのような愛が授受されれば、自動的に秩序が立てられ、家法が立てられるようになる。そのようにして、家庭秩序と家庭規範が根づくと同時に、思いやりのある、むつまじい家庭の平和が定着する。このような家庭がまさに理想家庭である。

このような家庭を土台とした経済、政治、社会がまさに共生共栄共義主義社会である。このようにして長い間の人間の念願と、数多くの思想家や宗教者たちの理想がついに成就されるようになるのであり、六千年の間、神がそれほどまで願われた創造理想世界が実現されるのである。

結 び

以上でもって、共生共栄共義主義の単純概念としての共生主義、共栄主義、共義主義のそれぞれについて説明した。ところですでに見たように、共生主義、共栄主義、共義主義はそれぞれが分かれることのできない、渾然一体となった理念であり、思想である。そのような主義が実現されるとき、初めて神が構想された創造理想世界が実現されるようになる。そのような理由のために、一つの名称として、共生共栄共義主義と呼ぶである。そして共義主義は、理想家庭の理念を基盤とする三大主体思想がその内容となっているのである。以上、共生共栄共義主義について説明した。

二 三大主体思想

三大主体思想は、文先生によって使用され始めた用語であるが、ここで三大主体とは、父母と師(先生)と主人をいう。三大主体は、言い換えれば、三大中心を意味する。父母は家庭の中心であり、師(先生)は学校の中心であり、主人は主管の中心である。ここで主管の中心とは、団体、企業体、会社、国家などの中心を意味しており、管理、統治の責任者を意味している。したがって団体の長(例:組合長、政党党首、連合会会長など)や、企業体や会社の社長、道知事、国家の大統領などが、みな総括的に主人の概念に含まれる。このような主体に関する理論が三大主体思想であって、この三大主体が神の真の愛を実践するという理論である。

神の真の愛

神の愛とは、要するに神の絶対愛をいう。神は絶対者であるために、神の愛は絶対的愛である。ここでいう絶対とは、世俗的な意味の絶対とは異なる。ここでの絶対は、永遠不変性、無限性、普遍性をいう。神は永遠的存在であり、存在しないところがない(無所不在)のであって、いつでも、どこでも存在されるのである。したがって神の愛もまた永遠であり、存在しないところがないのである。このような内容をもつ愛が絶対的愛であり、真の愛である。

例えていえば、真の愛は太陽光線のようである。太陽光線は地球上のどこでも照らさない所がなく、常に休みなく継続して永遠に照らしている。それと同じく、真の愛とは、包括的であり、全人類だけでなく、すべての万物に対してまでも、施し与えられる愛である。被造物全体が真の愛の対象である。真の愛の対象から除外される存在は、この宇宙にはない。普通、愛といえば、人間同士が与えて受ける愛のことをいうが、真の愛とは、人間同士はもちろん、敵までも、ひいては万物までも愛する、そのような愛である。

人間は上下、前後、左右にいろいろな階層の人々とつきあっている。上には父母、上司、年長者たち、下には子供、部下、年少者たち、前には先生、先輩、指導者たち、のちには弟子、後輩、追従者たち、右には兄弟姉妹、親友、同僚たち、左には自分と性格の合わない者、または自分に反対する者までも対しながら生活している。そのようないろいろな階層の人々をすべて愛するのが真なる愛である。そればかりでなく、自然万物までも愛するのが真なる愛である。そして、そのような神の真なる愛を実践に移そうとするのが三大主体思想である。

それでは愛とは何であろうか。愛とは、人間や万物に温情を施しながら、その対象を喜ばせることであり、対象のために与えることである。自分のためではない。世俗的な愛は、自分の利益を得るために他人を愛する利己的な愛であるが、文先生の教える愛とは、「愛において、何も得ようとするのではなく、ただ他人のために与えること」である。そのように、愛とは温情を他人に限りなく施すことであるが、いかなる方式で施すかといえば、「親しく話す」とか、「相手を理解する」とか、「物質や金銭を与える」、「協助する」、「奉仕する」、「助ける」、「苦境から救う」、「抱擁する」、「怨讐を許す」、「親切に教える」など、いろいろな愛の方式があるのである。そのような方式で、温情を施しながら、他のために与えて、また与えるのが真なる愛である。したがって、このような精神を利他主義、または為他主義という。

三大主体の真なる愛

そのように神の真なる愛とは、他のために与えて、また与える愛である。限りなく与えて、また与えるのである。ちょうど温泉の泉が限りなくわいてくるように、限りなく、また絶え間なく、他人に温情の泉を注ぐのである。そのような愛を三大主体が日常生活において実践するという思想が三大主体思想である。すなわち、父母がそのような神の真なる愛を子女に対して実践すること、また師がこのような神の真なる愛を弟子に対して実践すること、そして主人の立場にある者が部下や構成員たちに対して神の真なる愛を実践することである。

ところで、真の愛をいかに実践するのであろうか。主体の役割を通じて真の愛を実践するのである。父母の子供に対する役割は子供を養育することである。ここで「養」とは子供を育てること、すなわち食べさせ、着せ、寝かせ、住居を与えることである。そのような役割を通じて真の愛を施すのである。すなわち食べさせ、着せ、住ませながら、父母の愛すなわち温情を施すのである。食べさせるにも温情をもって食べさせ、着せるにも温情をもって着せ、寝かせるにも温かい心をもって寝かせるのである。次に、「育」とは教育することである。家法を立てて、礼儀作法や倫理、道徳を正しく教え、また必要な知識も教えるのである。ここにも父母の深い温情が必要である。

そのように父母が子女の養育を通じて、神の真なる愛を施すのである。子供を愛するのは、子供が成長したのちに父母が子供から利益を得ようとするためであってはいけない。子供を育て、学ばせて、将来、子供を通じて金もうけをするとか、権力を得ようというような考えを持ってはいけない。子供が善なる立派な人間、人格を備えた知識人、奉仕することを知る社会人になることをひたすら願いながら、温情に満ちた養育をするのが父母の役割である。そのような養育を通じた愛の実践が父母の真なる愛の実践である。

そして師の役割は教えることである。知識教育、技術教育、体育、芸育などがそうである。そのような教育を通じて、親切に、真心を込めて生徒を育てることである。生徒たちから質問があれば誠意をもって答え、生徒たちに難しい問題があれば可能な限りその難問を解決できるように助けながら神の真の愛を実践するのが、師の役割を通じた真の愛の実践である。ただ収入のために教えるのは、知識を売買することにほかならない。そのような方式では絶対に正しい教育となることはできない。そこには愛が宿るはずがないからである。金を得るのは二次的な問題として、真心を込めて学生に教えることを最優先の目標としなければならない。そしてその教えは、学生が成長したのち、社会に奉仕しうる人格の所有者になることのできる内容でなければならない。そのためには、先生自身が、まず人格的な姿勢、奉仕の姿勢をもたなければならない。そのような姿勢でもって、すべての真心と温情を施しながら、学生に教えるのが師の真なる愛である。すなわち師の真の愛とは、そのような師の役割を通じて愛を実現することである。

次は主人の役割を通じた主人の愛について説明する。主人の役割とは何であろうか。大統領の役割は、国民をよく治めて国民がよい生活をするようにすることであり、道知事の役割は道民のために道政を円満に行うことであり、企業体の長の役割は従業員や職員たちのためによく与えることである。ここで企業体の場合について、もう少し具体的に説明しよう。企業体の長は部下や従業員たちに仕事ばかりさせて、自分だけ金をたくさんもうけて蓄財しようという考えは捨てなければならない。企業体であるから、お金をもうけなければならないが、もうけてからは必ず与えなければならない。未来社会の企業は、与えるためにもうける精神が要求されるのである。

企業体の主人は利他主義の奉仕精神をもち、温情をもって各級の職員や従業員たちのために与え、愛さなければならないのであり、衣食住の問題において困難に直面していないかと、彼らの世話をしなければならない。愛による主管である。主管には部下に命令するという主管もある。命令それ自体は冷たいものであるが、温かい温情の心をもって命令すれば、命令を受ける部下は感謝の心でもって受け入れるのであり、命令は温かく感じられるのである。

ところで主管には建物や施設の管理も含まれる。聖書には、人間に対する神の三大祝福に関する記録があるが、その中の第三祝福は、愛でもって万物を主管せよという命令である。一次産業、二次産業、三次産業、そして物質を扱うすべての活動は万物主管の概念に含まれるが、主管は必ず愛でもって行うのである。したがって建物や施設も私の物である前に、公的なもの、神のものであると見なければならないのである。

それで財産や施設を真心を込めて管理し、維持、保存する精神も、「愛で万物を主管する」という主管精神であり、管理精神である。このごろ深刻に取り上げられている公害問題は、みなこのような本然の主管精神、管理精神が失われたために生じた必然的な結果である。そのような万物に対する愛の精神、すなわち主管精神、管理精神も、やはり主人の真なる愛である。

以上を要約すれば、三大主体がその役割を通じて神の真なる愛を実践するという理論が三大主体思想なのである。

一つの中心の三主体性、および三大主体思想

一つの中心の三主体性とは、一つの中心が父母、師、主人の三主体の役割と愛を同時に行うことをいう。父母と師と主人の機能はそれぞれ別のものであるが、父母は同時に師であり、主人であるということである。

父母は、単独で三主体の役割を通じた真の愛を実践するのである。すなわち父母は、主として父母としての役割を果たしながら、師の役割、主人の役割まで果たしつつ、対象を温情をもって愛するのである。学校の先生は、主として先生の仕事を行いながら、父母として学生を子女のように養育し、また主人として部下のように治めなければならない。また主人は主管し、管理し、治めるなどを主にしながら、父母としての役割や師としての役割も果たし、部下や従業員に愛を施すのである。例えば管理者(主人)は、管理することのほかに、子供を養育するような心で、従業員に対して寝食をはじめとして、いろいろな便宜を図ることに常に関心を示しながら、温情を施さなくてはならないのである。また師の立場に立って、部下や従業員に規範や知識を教えることもなさなければならないのである。

そのように、一つの主体または一つの中心が三主体性を同時に遂行するということが三大主体思想である。すなわち、父母の三主体性、師の三主体性、主人の三主体性の実践に関する思想が三大主体思想である。

すでに述べたように、自己中心的に何かの利益を得ようとするのではなくて、他人に限りなく与えようとするのが真の愛である。そして真の愛のもう一つの特徴は「完全投入して忘れること」である。与えてまた与えるのであるが、そのとき与えたことを完全に忘れてしまうのである。どんなにたくさん愛したとしても、そのことを忘れてしまって、私が愛したという考えをしないのである。

忘れてしまえば、心が空になり、謙虚になるのである。私があの人をたくさん愛したのに、なぜ反応がないのか、けしからんというような心を抱けば、私は傲慢になってしまう。一度、心が傲慢になれば、次からは真なる愛を与えるのが難しくなる。それゆえ、愛を施しては忘れなければならないのであり、そうしてこそ、また愛したい思いがわき上がってくるというのである。神の真なる愛が、その空になった心を満たすからである。このようにして、いつも新しい気分で愛し、また愛するようになるのである。父母も先生も主人も、みなそのようにしなければならないというのが、すなわち真なる愛である。

愛の拡散

三主体の愛、すなわち父母の子女に対する愛、先生の学生に対する愛、主人の部下に対する愛は「下向性の愛」であるが、その下向性の愛が注がれれば、それは愛の誘発効果を引き起こす。

父母が子女に真の愛を与えるならば、子女はじっとしていない。子女は父母の愛に感銘して、感謝の心をもって、父母に孝行するようになる。父母が真心を込めて愛するので、子女は親に真心を込めて孝行したくなるのである。それは「上向性の愛」である。また子女が父母の真の愛を受ければ、父母に対する孝行の心はもちろんのこと、子女相互間、すなわち兄弟姉妹同士も互いに愛するようになる。これは「横的な愛」(水平の愛)である。そればかりでなく、息子と嫁すなわち夫婦同士も真の愛すなわち夫婦の愛を授受するようになるが、これも横的な愛である。したがって父母の愛によって、上向性の愛と横的な愛(水平の愛)が誘発されて、家庭が愛で満たされるようになる。したがって家庭において、父母の愛(下向性の愛)が最も重要である。

学校における先生の愛も同じである。先生の真の愛(下向性の愛)を受ける学生たちは、自動的に先生を心から尊敬するようになる。「本当に私たちの先生は偉大で立派な方である」と考えて、先生の前に自然と頭が下がるようになるのである。学生たちは、知的な欲望が満たされて、先生の教えに感化される。そして先生を尊敬せざるをえなくなるが、それは上向性の愛である。そればかりでなく、先生の真なる愛に感銘して、学生同士が愛し合うようになる。すなわち横的な愛を授受するのである。このような誘発効果を起こすのが、また先生の愛(下向性の愛)である。

数年前、ある大学で学生が先生を殴るという、かんばしくない事件があった。そのとき、新聞はみな学生たちを非難した。それ自体は間違いではないが、問題の接近方式を知らない論評であった。学生の過ちは二次的な問題であり、一次的な責任は先生にあったのである。これは殴られた先生個人の問題ではない。一般的に、先生たちが平素から三主体性の役割と真の愛を実践し、師道を行っていたならば、学生たちが先生を殴るというようなことがありえたであろうか。その時の学生たちの暴行は、「先生はなぜ自分たちを正しく教えてくれなかったのか」という不満の表現形態であったといえるのである。

また、学生たちの父母にも責任がある。父母が子女に平素から下向性の愛を与えていなかったに違いないからである。だから、父母と同じような先生を尊敬したいという考えが出てくるはずがないのである。したがって「学生の教師に対する暴行」という問題の対処は、この三大主体思想でもってこそ、なされるのである。

すでに述べたように、三大主体の愛は、父母が子供に、師が弟子に、主人が部下に与える愛すなわち下向性の愛であるが、この下向性の愛が原則的に先である。このような下向性の愛によって、二次的に誘発されて表れる愛が上向性の愛と水平の愛である。

愛は誘発効果と相互反応を起こすから、例えば下位者の上向性の愛がまずなされても、それに対する反応としてのちに上位者の下向性の愛が誘発されうるということはもちろんである。すなわち、子供が先に父母に孝行し、弟子が先に師を尊敬し、部下が先に上司(主人)を尊敬することによって、それぞれ父母の愛、師の愛、主人の愛が後次的に誘発されるのも事実である。しかし原則的に、下向性の愛が先次的であって、上向性の愛や横的な愛(水平の愛)は後次的である。なぜならば、下向性の愛が先である場合には、上向性の愛と水平の愛は一〇〇パーセント誘発されるが、上向性の愛が先の場合には、下向性の愛が一〇〇パーセント誘発されるという保証はないからである。それは、水平の愛においても同じである。そのように真なる愛の出発は下向性の愛にあるのである。真なる愛の根源が神であるからであり、神からは、すべてがまず下りてくるからである。

したがって例えば、一企業体の長が従業員たちを真に愛すれば、従業員たちは受けてだけいて、だまっているということはできない。必ず反応するようになる。すなわち企業主(社長)が温情をもって、多くもうけただけ、従業員たちにたくさん与えようと、たゆまず努力すれば、従業員たちは企業主を仰ぎ見て、感謝するようになる。そのような企業主がもし困難に直面したとするならば、従業員たちは「自分たちの給料は上げなくてもよいです。その費用で工場をもっと発展させてください」というようになるのである。そのように企業主が真の愛を施しさえすれば、従業員たちは企業主を愛するようになり、従業員相互間にも愛がゆきわたる。そればかりでなく、従業員は工場の施設や器物までも愛するようになる。そのように主体の愛(下向性の愛)、すなわち父母の愛、師の愛、主人の愛がいつも先次的なのである。

そのようにして、真なる愛が家庭に拡散し、学校に拡散し、企業に拡散すれば、結局、このような愛が全国に拡散し、ひいては全世界にまで拡散するようになって、この地球村は神の愛で充満していくのである。そのとき、初めて地上のすべての犯罪は跡形もなく消えていき、真なる平和、永遠なる平和が実現されるのである。

三大主体の根源は神である

三大主体思想において、三大主体の根源はどこにあるのかという疑問が生じるであろう。それはまさに神である。すべての主体の根は神であるからである。主体の中で最も代表的な主体がこの三大主体であり、その根がまさに神である。

まず神は人間の父母である。われわれがお祈りするとき、神を父または天のお父様と呼ぶが、ある人は天のお母様と呼んだりする。神は陽陰の原理をもっておられるから、人間の父母なのである。そして神は、人間を息子・娘として造られたのである。堕落のために人間は罪人となったが、本来人間は決して罪人ではなく、神の息子・娘である。したがって神は、人間の父母であると同時に真なる愛の本体である。そして神は、ロゴスでもって宇宙を創造された。それは、ヨハネ福音書の一章一節以下に記されているとおりである。ロゴスは真理であり、言である。したがって神は、真理の主体である。真理の主体とは、師を意味する。すなわち神は、愛の主体であると同時に真理の先生でもあるのである。さらに神は、宇宙の創造主であるが、創造主は同時に主管の主人である。

最も根源となる父母、師、主人のことを韓国古来の表現でいえば、「君師父」である。君は主人、師は先生、父は父母に相当する。韓民族は、古来からそのような君師父の思想をもっていたが、その君師父の根がまさに神である。神御自身が父母であり、師であり、主人であるために、君師父は文字の順序が違うだけで、まさに三大主体と同じ意味の用語である。

韓国の愛国歌に「ハヌニムが保護されるわが国万歳!」という句があるが、ここでハヌニム(天)はまさにハナニム(神)と同じ意味の創造主である。神は何でもってこの国を保護してくださるのであろうか。父母の真なる愛、師の真なる愛、主人の真なる愛で保護されるのである。そのように父母、師、主人、すなわち君師父の根が神である。三大主体の愛は天道であり、天道は絶対的である。したがって三大主体思想は絶対的であり、絶対に滅びることはない。この天道に背いた者、この思想を守らなかった者があればかえって被害を受けるようになるのである。

今日、社会がこのように混乱しているのは何のためであろうか。三大主体の愛、すなわち天道を守らなかったからである。われわれは自然法則に逆らうと肉体の被害を受けるので、自然法則を守りながら生きている。それと同じように、心は天道に従って生きなければならない。そして三大主体思想は神に根をおく天道であるから、守らないわけにはいかない。守れば平和になり、守らなければ混乱が生じるのである。従来の宗教が愛を強調した理由はここにあったのである。

仏教は慈悲を行うように教えたのであり、儒教は仁を、キリスト教は愛を行うように教えたが、なぜそうしなければならないかということが、今日まで明らかにされなかった。それは、慈悲や仁や愛の根が神の真なる愛だからである。神の真なる愛であると同時に、三大主体の愛であるからである。父母と子女の関係を規定する儒教の三綱五倫も、三大主体思想の中にみなに含まれる。仏教の修道に関する徳目も、キリスト教の愛の徳目もそうである。愛に関する聖賢たちのすべての主張や教えは、みな例外なく、三大主体の愛のカテゴリーの中に含まれるのである。

今日、従来の価値観が衰退するようになったのは、慈悲や仁や愛の根が神の真なる愛であることを知らなかったからであり、これらが三大主体の愛の形態として現れたものであることを知らなかったからである。言い換えれば、従来のすべての宗教の徳目の根が神の真なる愛であり、したがってすべての徳目の内容は三大主体の愛に基づいていることが明らかになるとき、従来のすべての徳目が活性化される。そして、今日の人類の心を指導することができる能力を再び回復できるようになるのである。

共生共栄共義主義および理想家庭の理念との関係

次は、三大主体思想と共生共栄共義主義の関係、および三大主体思想と理想家庭の理念の関係について説明する。共生共栄共義主義は、未来社会(理想社会)の経済的、政治的体制の特徴を表す用語である。すなわち共義主義(共同倫理)によって運営される経済体制であり、政治体制であるという点が未来社会体制の特性となっている。同時に、共義主義の実質的な内容は、三大主体思想の実践であり、三大主体思想の最も核心部分は理想家庭の理念なのである。したがって以上を要約すれば、未来社会は理想家庭の理念を基礎とし、三大主体思想を内容とする共義主義によって運営される経済および政治体制の社会なのである。

新しい価値観の定立

終わりに、このような三大主体思想を基礎として新しい価値観が立てられるという点について説明する。三大主体の真なる愛の行為と、その愛によって誘発されるすべての対象の愛の行為、すなわち下向性の愛の行為と、上向性の愛の行為、および横的愛の行為などを倫理的側面から見れば、それは真なる善となるのであり、知的、教育的側面から見るとき、その行為は真なる真となるのであり、芸術的側面から見るとき、その行為は真なる美となるのである。行為に関する限り、真、善、美は分かれているのではない。真なる愛の行為が、評価する角度によって真となり、善となり、美となるのである。そして従来のすべての徳目にこの三つの価値観、すなわち三大主体思想を注入すれば、それらの徳目が活性化され、蘇生するのである。

三 四大心情圏と三大王権の意義

文鮮明先生は、成約時代の理想家庭を実現するために「四大心情圏と三大王権」の概念を明らかにされた。理想家庭は理想社会実現において最も基本となる単位となるために、理想家庭を実現するためには、四大心情圏と三大王権の概念に対する十分な理解が要求されるのである。まず、四大心情圏について見てみよう。

(一) 四大心情圏

心情の概念

「四大心情圏」が意味することを理解するためには、まず心情の概念を知らなくてはならない。心情とは、「愛を通じて喜びを得ようとする情的な衝動」を意味する。言い換えれば、心情とは「愛したくてたまらない情的な衝動」をいう。神はそのような情的な衝動のために、すなわち対象を愛したくてたまらない衝動のために、その対象として人間を創造され、人間の喜びの対象として万物を創造されたのである。

心情圏

ここで心情圏とは、心情の対象の範囲のことをいう。例えば、文化圏といえば、一つの文化の範囲のことであり、勢力圏といえば、勢力が及ぶ範囲をいうのである。したがって心情圏とは、心情の対象の範囲、すなわち愛の対象の範囲のことをいう。心情は愛したい情的な衝動であるために、その衝動は必ず行動となって現れるようになっているが、その時の行動がすなわち愛である。それゆえ、心情と愛は表裏一体の関係にある。したがって、心情の対象の範囲とは、愛の対象の範囲となるのである。

四大心情とは、父母の心情、夫婦の心情、兄弟姉妹の心情、子女の心情の四つの心情をいう。心情は愛と表裏一体であるために、四大心情はまさに四大愛を意味する。すなわち父母の愛、夫婦の愛、兄弟姉妹の愛、子女の愛の四つの愛を意味するのである。

縦的な愛と横的な愛、および家庭的愛

四大心情または四大愛を正確に理解するためには、愛の方向性すなわち縦的な愛と横的な愛に対する理解が必要である。縦的な愛とは下向性の愛、すなわち上から下に向かう愛をいうのであり、神の人間に対する愛、父母の子女に対する愛をいうのである。横的な愛は、横に向かう愛のことで、兄弟姉妹間の愛や夫婦間の愛をいうのである。ここで兄弟姉妹間の愛とは、兄弟同士の愛と姉妹同士の愛、および兄弟と姉妹の間の愛をいう。そして父母の愛、夫婦の愛、兄弟姉妹の愛、子女の愛は、みな家庭で行われる愛であるために、これらは家庭的愛となるである。

ところで父母の愛、夫婦の愛、子女の愛の三つの愛を、原理では「三対象の愛」と呼んでいる。神を主体と見たとき、父母や夫婦や子女はみな神の対象であるために、父母の愛、夫婦の愛、子女の愛を「三対象の愛」というのである。したがって、四大心情を基盤とする四大愛は、三対象の愛に兄弟姉妹の愛を加えたものである。

四大心情圏と愛の成長

文先生は愛も成長するといわれる。すなわち、人間が子供から成長していくにつれて、愛も成長していくのである。子供は生まれた時には愛が何であるか全く分からない状態にあるが、父母の愛のもとで成長しながら、少しずつ父母に対する愛が芽生えてくる。それが子女の愛である。ここで子女とは、息子と娘というのではなくて、二人の幼児または双生児のような意味である。男の子と女の子というような性的な概念をもっていない純粋な幼児、児童、子供のような意味の子女である。すなわち、ここでいう子女の概念は、性を超越した中性のような意味である。そのような幼児が、少しずつ父母に対して愛(子女の愛)を感じながら成長して父母となるのである。

次に、兄弟姉妹の間にも愛が芽生えて成長するのであるが、やはり父母の愛を土台として兄弟間の愛、姉妹間の愛、また兄弟と姉妹の間に愛が成長するのである。再言すれば、父母の下向性の愛を受けながら、子女の愛と同様に、兄弟の間に愛が生まれ、姉妹間に愛が生まれ、また兄弟と姉妹間に愛が生まれて、身体の成長とともに、その愛も成長していくのである。それが愛の誘発効果である。そのようにして兄弟や姉妹が成熟すれば、兄弟は他の家庭の姉妹と、そして姉妹は他の家庭の兄弟と婚約し、結婚して、夫婦となる。その時の夫婦間の愛が、まさに夫婦の愛である。

ところですでに述べたように、子女(児童)が完成して成熟すれば、父母(親)となる。そのとき、父母の概念も性別の概念、すなわち父と母という概念ではなくて、子女に対する親という意味の単純概念である。子女すなわち児童が成長を完了すれば、親となって父母(親)は子女を生み、子女に対して父母の愛(親の愛)を実践するようになる。以上が、子女の愛、兄弟姉妹の愛の成長と、夫婦の愛および父母(親)の愛に関する説明である。

ここで特に指摘したいのは、例えば夫婦の愛の場合、兄弟姉妹が成熟して結婚すれば、急に夫婦の愛が生じるのではなくて、成長する中で無意識のうちに、兄弟と姉妹間に夫婦の愛の前段階に相当する異性愛が、少しずつ芽生えていたということである。その理由は、兄弟と姉妹が成長するということは、夫婦となりうる資格を少しずつ備えてゆきながら成長していくことを意味するからである。そのために、肉身の成長につれて無意識のうちに、おぼろげながらも異性愛(夫婦愛の前段階の愛)が芽生えて成長するのである。

父母の愛も同じである。子供が成長し、親となり、そして急に父母の愛が生じるのではない。子供は成長するにつれて、無意識のうちに父母の愛を心の中に感じながら成長するのである。すなわち父母の愛の中で成長するので、自分を育ててくれた父母の愛がどんなものであるかを学びながら成長するのである。そのように、子女の愛と兄弟姉妹の愛の場合だけでなく、夫婦の愛、父母の愛においても愛の成長がなされていることが分かるのである。

愛の内包性

内包性とは、何かの中に含まれる属性のことをいう。したがって愛の内包性とは、一つの愛が他の愛をその内部に含んでいる性質を意味する。そのように他の愛をその中に包含する愛とは、主に兄弟姉妹の愛、夫婦の愛、父母の愛をいう。

兄弟姉妹の愛は、子女の愛を内包している。なぜならば兄弟姉妹は子供として成長する過程で、兄弟姉妹の関係を結ぶようになるからである。次に夫婦の愛は、子女の愛のほかに兄弟姉妹の愛も内包している。なぜならば、兄弟姉妹が成長して夫婦となるからである。もちろん、一つの家庭内の兄弟と姉妹が夫婦となるのではない。一家庭の兄弟は、他の家庭の姉妹と夫婦となり、一家庭の姉妹は、他の家庭の兄弟と夫婦となるのである。兄弟と姉妹が成長すれば夫婦となるので、夫婦の愛の中には子女の愛のほかに兄弟姉妹の愛も内包するようになる。そして父母の愛は、以上の愛をすべて含んでいる。すなわち、子女の愛、兄弟姉妹の愛、そして夫婦の愛までも含んでいる。

以上を心情という側面から見るとき、兄弟姉妹の心情は子女の心情を内包しており、夫婦の心情は子女の心情と兄弟姉妹の心情を内包しており、父母の心情は以上の心情すべてを内包しているということが分かる。したがって、心情圏すなわち心情の対象の範囲という側面から見るとき、子女の心情圏は最も狭く、兄弟姉妹の心情圏はそれよりも広く、夫婦の心情圏はさらに範囲が広く、父母の心情圏は範囲が最も広いということが分かる。

これを具体的にいえば、子女の愛(心情)の対象は父母として父と母の二つである。兄弟姉妹の愛(心情)の対象はそれぞれ三つである。夫婦の愛(心情)の対象は一つだけのように感じられやすいが、そうではない。統一原理の夫婦観においては、夫は一家庭の男性全体を代表し、妻は一家庭の女性全体を代表している。すなわち夫は夫であると同時に、祖父、父、兄、息子を代表する立場であり、妻は妻であると同時に、祖母、母、姉、娘を代表する立場である。したがって、夫婦それぞれの愛(心情)の対象は五つとなる。このように、夫婦の愛の対象は互いに一つのように見えるが実際は五つである。次に、父母の愛の対象はもっと範囲が広くて以上の対象をみな含むようになる。すなわち、子女、兄弟姉妹、夫婦がみな父母の愛の対象となる。(ここで

説明した愛の対象の数は、対象として見る観点によって変わりうるが、重要なことは愛の対象の範囲が次第に拡大しているということである。……編者注)

ここで一つ付け加えることは、四つの愛、すなわち子女の愛、兄弟姉妹の愛、夫婦の愛、父母の愛は、おのおの神の愛のもとで行われるために、神に対して感謝すると同時に、意識的または無意識的に、神を愛の対象とするようになるという事実である。そして愛の対象の範囲の大きさという面から見るとき、子女の愛、兄弟姉妹の愛、夫婦の愛、父母の愛は、四つの同心円で表現することができる。これを図示すれば、図12―1のようになる。

代表愛としての夫婦愛

以上の四種類の愛、すなわち子女の愛、兄弟姉妹の愛、夫婦の愛、父母の愛の中で、代表となる愛(代表愛)が夫婦愛である。なぜならば、すでに述べたように、夫は家庭内のすべての男性を代表し、妻は家庭内のすべての女性を代表するばかりでなく、おのおの神の一性をも代表するからである。さらには、夫は人類の半分である全男性を代表する立場であり、妻は人類の半分である全女性を代表する立場であり、ひいては夫は全宇宙の個性真理体の陽的な面を代表し、妻は全宇宙の個性真理体の陰的な面を代表する立場であるからである。

すなわち夫婦間の愛は、家庭内の男性の側と女性の側の愛を代表し、神の陽と陰の愛を代表し、人類の男性と女性の愛を代表し、全宇宙の半分である陽的側面と陰的側面の愛(結合力)をそれぞれ代表するために、夫婦愛が最も代表的な愛になるのである。すなわち夫婦愛の中には神の愛のみならず、人間を含む被造世界のすべての愛が内包されている。それゆえ、夫婦愛が家庭的愛の代表となるのである。

天宙の中心と愛の結実体

以上の説明によって、夫婦の愛は単なる男一人と女一人だけの愛ではなくて、神の愛と家庭的愛と被造世界の愛を総合した総合愛であることを明らかにした。愛が総合されれば相乗作用を起こして、抑制しがたい激発力、発動力となって現れる。このような夫婦の結合の位置は、天宙を代表した位置、すなわち天宙の中心の位置であると同時に、創造理想を完成した位置であり、第二の創造主の位置なのである。メシヤすなわち人類の真の父母は、まさにこのような第二の創造主の標準型として来られるお方である。それほどまでにこの位置は、尊く聖なる位置であり、神に似た位置である。

したがって家庭外的なすべての愛(民族愛、人類愛、万物愛、同胞愛、祖国愛など)の根源は、この夫婦の愛にある。なぜならば、夫婦の愛は単なる陽性と陰性の間の愛であるだけではなく、すべての種類の主体と対象の間の愛を代表しているからである。すなわち、性相(心)と形状(体)の愛はもちろんのこと、主要素と従要素(主個体と従個体)の愛も代表しているからである。

例えば、夫(男)は天であり、妻(女)は地である。すなわち夫婦は、主体の神と対象の被造世界との関係である。したがって、夫婦の愛は、神と被造物(人間)との愛を代表するのである。また夫は心でもって妻に指示し、妻は体でもって行動するから、夫婦の関係は性相と形状としての主体と対象の関係である。したがって、そういう意味において、夫婦の愛は、宇宙のすべての無形的存在と有形的存在の間の愛をも代表するのである。また男は主人であり、妻は従う者である。そういう意味で、夫婦の関係は、主従関係つまり主体と対象の関係である。したがって夫婦の愛は、すべての類型の中心(主人)と従う者との間の愛を代表するのである。例えば、師と弟子、政府と国民、太陽と地球、核と細胞質などがそうである。

また、夫は人類の半分である男性の代身存在であり、妻もまた人類の半分である女性の代身存在である。したがって、男女の結合は人類の統一を現し、夫婦愛は人類愛ともいえるのである。そしてまた、夫は全宇宙と霊界の陽的な側面を代表し、妻は全宇宙と霊界の陰的な側面を代表する。したがって夫婦の結合は、全天宙を代表する中心となる。このように見たとき、夫婦の愛は、被造世界のすべての類型の愛を代表している。そのような愛は、みな神の愛が分化したものである。したがって代表愛、総合愛としての夫婦の愛は、まさに神の愛それ自体である。したがって総合愛を現す夫婦の結合の位置は、天宙の中心の位置であり、第二の創造主の位置であり、創造理想が完成した位置である。

このように本然の夫婦の愛は、実に限りなく広く、深いのである。したがって夫婦の愛によって生まれる子女は、そのような聖なる総合愛の実であり、結実体である。夫婦の愛がそのように神の愛と全被造世界の愛を総合した愛であるために、その愛によって新たに生まれる子女すなわち新生体(新生子女)は、神の子女であると同時に、宇宙を総合した実体相であり、小宇宙の価値をもつようになる。

ここで一つ付け加えたいことは、地上世界において起きる現象は事実上、二次的な現象であって、一次的には、天上世界すなわち霊界において、先に行われるということである。したがって、地上世界に子女が生まれて、成長して夫婦となり、父母となる現象、すなわち人間(アダムとエバ)が生まれ、子女として、そして兄弟姉妹として、愛を少しずつ感じながら成長していく現象が、天上で、さらに正確にいえば神の心の中で、先に起きるのである。すなわち先に述べた子女の成長、兄弟姉妹の成長、夫婦となること、父母となることなどが、地上に現れる前に、天上の神の心の中で理想的な姿として先に現れるのである。

再言すれば、神はアダムとエバを創造する前に、神の心の中でそのような内容を理想的なものとして構想された。そしてのちに、その構想どおりに、アダムとエバが子女として創造され、その構想どおりに、兄弟姉妹として成長し、夫婦となり、その構想どおりに、父母となるようになっていたのである。

ここで、神の構想の中のアダムとエバ、子女、兄弟姉妹、夫婦、父母をそれぞれ霊的アダムと霊的エバ、霊的子女、霊的兄弟姉妹、霊的夫婦、霊的父母として表現する。以上、説明した内容を図で表現すれば、図12―2のようになる。

四大心情圏の拡大形としての世界的心情圏

四大愛は家庭的愛であり、四大心情も家庭的心情である。子女の心情圏は家庭内での子女の心情圏であり、兄弟姉妹の心情圏も家庭内での兄弟姉妹の心情圏であり、夫婦の心情圏も同じく家庭内での夫婦相互間の心情圏であり、父母の心情圏も家庭内での父母の心情圏である。したがって、四大心情圏の基本形は家庭的四大心情圏なのである。

統一原理によれば、全人類が人類の真の父母を頂点として侍り、大家族社会を成すのが本然の社会の姿である。すなわち世界人類が真の父母を中心とした一大家族を成すのである。言い換えれば、創造理想世界において、人類社会は家庭を拡大した拡大形としての大家族社会となり、個々の家庭は人類の大家族社会を縮小した小家族社会であるといえる。

ゆえに、家庭的子女の心情圏は世界的な子女の心情圏に拡大することができ、兄弟姉妹の心情圏も世界的な兄弟姉妹の心情圏に、夫婦の心情圏も世界的な夫婦の心情圏に、そして父母の心情圏も世界的な父母の心情圏に拡大することができるのである。したがって、人類大家族社会は世界的な四大心情圏となるのである。

すでに述べたように、心情圏とは心情の対象の範囲を意味するのであり、それは愛の対象の範囲を意味するのである。それで世界的な四大心情圏とは、全人類を四大愛の対象と見て、その対象の範囲をいうのである。家庭における子女の心情圏は、子女の愛の圏をいい、したがって子女が愛を捧げる対象すなわち父母をいうのである。それでは、世界的な四大心情圏の中での子女の心情圏とは何であろうか。それは父母と同じような年齢層の大人たちである。つまり世界的な大人たちであって、それは子女が父母のように尊敬し、侍るべき大人たちの層である。

兄弟姉妹の心情圏も同じである。家庭内での兄弟心情圏、姉妹心情圏はそのまま家庭内の兄弟と姉妹であるが、世界的な兄弟姉妹の心情圏は、自分の兄弟や姉妹のような年齢層の男女をすべて含むのである。すなわち、これらの年齢層の人々がみな兄弟姉妹の心情圏、愛圏に含まれるのである。したがって、世界のどこに行っても、兄弟や姉妹のような年齢層の男女に会えば、実の兄弟姉妹のように愛を授受するようになるのである。

それでは夫婦の心情圏も同じであろうか。そうではない。夫婦の心情圏はその性格が違っている。世界のどこに行っても、自分の夫と似た年齢の男性、あるいは自分の妻と似た年齢の女性に会えば、自分の夫に、または自分の妻に与える愛と同じような愛を与えてよいかといえば、そうではない。なぜならば、夫婦は一夫一婦制の上に成立する異性の関係だからである。すなわち、夫婦の愛は必ず夫婦の生活つまり性生活が伴う愛であるために、夫婦の愛は夫婦間以外には決して許されないのである。その代わり、似た年齢層の男女に対しては、自分の実の兄弟姉妹に対するように愛すればよい。この点が、他の世界的な心情圏と違う点である。

父母の心情圏は、子女の心情圏や兄弟姉妹の心情圏と同じである。世界のどこに行っても、自分の息子や娘と同じ年齢層の子供たちに会うとき、父母の立場で自分の子女に対するのと同じ父母の心情、父母の愛をもって彼らに接すればよいのである。

(二) 三大王権

三大王権の意義

三大王権というとき、まず三大王権は三大主体とどのような関係があるのか、という疑問が生じるかもしれない。「三大主体思想」において述べたように、三大主体は家庭の中心、学校の中心、職場の中心を意味するのである。一国の王は、国の中心であるためにやはり主体である。ここに三大王は王が三人であるから、三大主体のように感じられるであろう。しかし、三大王と三大主体は同じではない。

三大王権の「王」は、世俗的な王のように一国の王を意味するのではない。それは家庭の中心、すなわち家長を意味するのである。家長は父母である。したがって三大王権の三大王は、三代にわたる父母を意味する。具体的にいえば、祖父母、父母、子女の三代をいうのである。ここで祖父母、父母、子女の「三だい」の「だい」は大きい「大」という字ではなく、世代の「代」をいう。しかし三大王権という時の「だい」は「大」という字であって、三つの大きな王権という意味である。同じ「だい」であるけれども、その意味はそれぞれ違っているのである。

ところで、王権はまさに王の権限をいう。世俗的には、王はすべての国民を王権でもって治める頂上的な存在、すなわち最高の位置にある存在である。ところが天国においては、すでに述べたように、王は家庭の中心である家長、すなわち父母というのである。家庭においては父母が王である。国の王は国の父母である。企業体も天国では拡大された家庭であるために、企業体の長は企業体の父母の立場であって、やはり王である。

それでは、家庭において、なぜ王が三人いるようになるのであろうか。家庭の父母は一つであるから王も一人だけであるはずなのに、なぜ王が三人になるのかという疑問が生じるのである。しかし過去、現在、未来から見るとき、王が三人になることが分かる。すなわち、過去の父母、現在の父母、未来の父母がそうである。したがって三大王とは、祖父母、父母、子女をいうのである。祖父母は過去の王であり、父母は現在の王であり、子女は未来の王である。

そのようにして祖父母も王であり、父母も王であり、子女も王であるために、祖父母にも、父母にも、子女にも、王の権限が与えられている。したがって、三大王権というのである。しかしその性格は異なっているのである。

三大王権の性格

祖父母は、過去に属する方であるから過去の王である。過去の王とは、過去に地上を代表した王であったということである。では今は何でもないかとえば、今も王である。しかし今は地上を代表した王ではなく、霊界を代表した王である。過去には父母の立場に立つ地上の王であったが、今は祖父母として霊界を代表する王なのである。そればかりでなく、神をも代表した立場が祖父母である。すなわち祖父母は、家庭において霊界を代表し、神を代表しているのである。したがって、原理でいう神を中心とした四位基台は、本然の世界では祖父母を中心とした四位基台となるのである。

本来、家庭の四位基台の中心は神または人類の真の父母であるが、祖父母がそれを代身する立場で四位基台の中心となるのである。したがって、これからは祖父母の位置が神の位置になるのである。祖父母は家庭において最高となり、神の立場になる。したがって子女も父母も、共に祖父母に最高に侍らなければならない。

そして父母は、現在の地上を代表する王である。祖父母は霊界の王であり、父母は地上の王である。また父母は、家庭を代表するために、家庭における王である。そして子女は、未来の家長である。現在は王ではなくて、王子、王女の立場であるが、王子や王女は未来の王や女王となるのである。そのように子女は、未来の地上の王であり、家庭の王である。そうでありながら、またすべての後孫を代表する立場である。子女に続いて孫、曾孫などが生まれるが、すべて未来の王であり、未来を代表する立場である。

(三) 三大王権の表現が必要な理由

ここで、次のような疑問が生じうる。すなわち慣例に従って、そのまま祖父母、父母、子女といえばよいのに、なぜ王といわなくてはならないのか、ということである。それは、王といえば最高に尊貴な位置であるからである。今まで、われわれは祖父母や父母や子女の概念をもっていたが、それらは創造本然の概念とは全く異なっていた。今までわれわれは原理を学んで、家庭の貴さや、父母、夫婦、子女の貴さを知っているが、神が見られる父母、夫婦、子女と、われわれが原理的に知っているものとは、まだとても大きな違いがあるのである。

王や王子などの用語は、最高の貴さを表している。すべての人間は、王のように最高に尊貴な存在である。われわれは原理を聞いたといっても、人間がどれほど貴いのか、実感をもって感じることはできなかった。その貴さは、ぼろの着物を着て、賤民の中に隠れている王子に例えてみることができる。

逆臣の謀反によって王位を失い、父王のもとを離れて、みすぼらしい着物を着て、遠く山中の僻地に身を隠して住んでいる一人の不運な王子がいるとしよう。のちに、村の長老たちがこの事実を知って、「万乗の貴き方が、どうしたことでしょうか。われわれはつゆ知らず、お仕えすることができず、大罪を犯しました。不忠をお許しください」と謝りながら、それからは、王子に最高の真心を尽くし、最高の高い位置に立てて、最高に気持ちよく侍ったとしよう。そのとき、その王子が受ける最高の真心、最高の高い位置、最高の侍奉は、その王子の尊貴さを表すのである。それと同じように、神が見られる人間の価値はそのように、いやそれ以上に貴いのである。

父母も同じであり、祖父母も同じである。今までわれわれが知っていたような概念の祖父母や父母や子女では決してない。非常に貴い概念の祖父母であり、父母であり、子女である。そのように貴くて、尊厳で、栄光なることを表現するためには、「王」という概念を用いるしかない。地上において王は、地位や身分において最高だからである。それゆえ理想世界において、人間はそのように貴い存在であって、そこに祖父母と父母と子女がいるので、三大王という概念で表現したのである。

したがって、いくら子供であっても、父母は彼らをむやみに扱ってはいけない。王が王子に対するように、自分の子供に対さなければならない。この世の王も、自分の息子を世継ぎに定めたなら、王子がいくら幼くても、その言葉をいたずらに無視したりしない。たとえ息子の言葉が理屈に合わないようであっても、その言葉に耳を傾けるのである。そのように、未来社会において子供をいたずらに無視してはならない。そして子供たちは、父母を王や王女として、祖父母を大王と大妃(霊界の王と王女)として侍らなくてはならないのはもちろんである。

王権とその概念

王には王が持つべき権勢すなわち王権が与えられているので、祖父母、父母、子女の王権を三大王権という。三大王に与えられた権限という意味である。そのような観点で、われわれは自分の家族や他人の家族を再認識しなければならない。家族は王のように貴いのであり、家庭はまさに王宮となるのである。

王宮において、王は地上の王位を子供に譲ってからは、祖父母となり、大王として、霊界と神を代表する家庭の中心の位置にとどまるようになる。そして家庭は、王宮のように尊貴な場所となるのである。したがって、家法は王宮の法となる。真の父母の家庭がまさにその標本となる。そして理想世界になれば、すべての家庭は真の父母の家庭に似るようになる。

最後に、王権における権力の概念について説明する。権力とは、主管の対象に対して一種の恐ろしさを与えて、対象を主管の主体に服従させようとする力のことをいう。世俗的な権力(主権)は物理的な拘束力である。例を挙げれば、警察力や軍事力などを用いて国民を強制的に主権の前に服従させる権威である。しかし天国の権力は、対象が自ら感謝の心をもって主体に従うようにさせる力のことであって、そのような力はまさに神の真の愛の力なのである。

ところで、天国の権力すなわち真の愛も、対象に恐ろしさを与える権威をもっている。それは神の真の愛に背いたり、逆らう時の生命の死に対する予感からくる恐ろしさである。愛は生命の源泉であり、愛の喪失は生命の喪失すなわち生命の死とつながるために、主体の愛を無視したり、逆らう時には、その結果(生命の死)を潜在意識が感知して、恐ろしさを感じるようになるのである。神の愛を限りなく喜びながらも、恐ろしさを感じるのはそのためである。

そこに共産世界における主体(独裁者)に対する人民の服従と、天国における主体に対する国民の服従との差異があるのである。共産世界の独裁者は恐怖の手段でもって人々の生命を脅かしながら、人民を強制的に服従させてきたが、神の国においては、真の愛によって、国民が喜んで自ら主体に服従するようになるのである。そこに、両世界の根本的な差異があるのである。

しかし、服従しなかったとき、生命に不利益を受けるという点においてはどちらも同じである。共産世界では、独裁者に服従しなければ、すぐさま地上で生命が脅かされたり、粛清されたりするが、天国では主体の愛の命令に従わなければ、その程度によって、軽くあるいは重く、そしてまた、その場であるいは一定の期間ののちに、生命の萎縮あるいは脅威を感じるようになるのである。このように、愛にも権威があることが分かるのである。

神の権威に対する聖書の記録を見れば、アブラハムが献祭の失敗により、その蕩減として、ひとり子のイサクを供えものとして捧げるとき、神が「あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」(創世記二二・一二)といわれた聖句がある。これは神の愛に威厳(恐しさ)が伴っていることを表す聖句である。

このように、世俗的な権力は強制性をもつ拘束力であるが、神の国の権力は自発的な従順を誘発する真の愛の力である。王権は行使されるものである。三大王権の行使とは、祖父母と父母と子女が、それぞれこのような真の愛の力を対象に施すことを意味するのである。

底本『統一思想要綱(頭翼思想)』統一思想研究院。本文は Daum カフェ「천일국 경전방」 の連載から、目次は 統一思想研究院 の公開目次に合わせました。

誤植・修正提案

コメント感覚で送れます(匿名OK)。ページURLは自動で添付されます。