天聖經(増補版)/第十一篇 礼式と名節

目次

第二章 礼拝儀式

第二節 献金生活


1 皆さんは、統一教会に入ってきて、蕩減復帰という言葉を学びました。蕩減復帰するためには、祭物的な条件が必要ですが、祭物を捧げるためには精誠を尽くさなければなりません。思いどおりにできるなら、どれほど良いでしょうか。自分の思いどおりにすれば、神様が受け取れないのです。話にもならないというのです。そのため、条件物は「私」の生命の代身です。「私」の代わりに死ぬのです。

ですから、その条件物と完全に一つにならなければならず、その条件物を完全に愛さなければなりません。それが死ぬとき、一緒に痛みを感じ、心の中で泣きながら祭祀を捧げなければなりません。アブラハムが子女を祭物として捧げたのと同じように、心情的に切っても切れない関係を備えた立場で捧げなければならないのです。このような立場で祭物を捧げるべきです。そのため、自分にとって一番貴いものを祭物として捧げなければなりません。物質を捧げるときは、皆さんが使い残した物を捧げれば罰を受けます。そのような物は、かえって捧げないほうがよいのです。

2 十分の一献金の内容を見れば、そこには本当に恐ろしい内容があります。十分の一献金を捧げなければならないという聖句もあります。十のうち、一を神様に捧げなさいというのです。「なぜ十分の一献金をするのか」と言う人もいるかもしれませんが、十分の一献金は、一だけ捧げたということを、十まで捧げたという認定を受けるものです。

もし皆さんが、皆さんの父母の誕生祝いや還暦祝い、あるいは王の誕生日を迎えて祝賀してさしあげるために、牛も屠り、豚も屠り、あるものないものすべて作って捧げた場合、その方たちがそれをすべて食べるでしょうか。食べません。受け取ることはすべて受け取りますが、すべてを食べることはできず、ほんの少ししか食べられません。このように少ししか食べなくても、すべて食べたという条件が立てられるのです。

3 十分の一献金は、「私」が所有している物の中から十分の一を神様に捧げることにより、全体を捧げるという意味があります。父に全体を捧げるのではなく、その中から精誠を尽くして十分の一を捧げるというのは、そのような意味で価値があるのです。そのように十分の一を捧げることにより、残りの十分の九も聖なる物として取り扱われるようになります。このように十分の一献金を捧げながら暮らす人は、絶対に滅びません。日がたてばたつほど、その人の「天の倉庫」があふれるようになっているのです。

4 神様のみ前に精誠を捧げるとしても、手つかずの物をもって精誠を捧げなければなりません。そのようにしてこそ神様と関係を結べるのであって、使い残した物で精誠を捧げてはいけません。十分の一献金は、一番精誠を込めた手つかずの物でなければなりません。それが祭物です。祭物を捧げるときは、手つかずの物を捧げなければなりません。もし、息子を祭物として捧げるとすれば、一番良い息子を捧げなければならないのです。祭物は「私」の代身だからです。

5 精誠を尽くして十分の一献金をすれば、絶対に飢え死にしません。その子孫が、物質に関して窮乏に遭わないのが原則です。十分の一献金を捧げるために精誠を尽くさなければなりません。それが信仰の本質です。適当にするのは通じません。祭物は、自分の生命の代わりに捧げるのです。ですから、最も貴いものを捧げなければなりません。地上人にとって一番貴いものは生命です。ですから、「私」の生命を捧げるのです。これが、蕩減復帰の祭物を通して罪を洗い清めることなのです。

6 十数は帰一数であり天に至る数です。人間が占有できる数は九数までです。九数は、今までは悪い数として扱われてきました。サタンが今までこれを支配したというのです。今日、サタンが支配するこの地上で、この九数を天のみ前に預けて連結させることにより、神様が私を主管できるのです。そのようにして、十数の位置を取り戻しておけるので、私が神様を信じて九数を引っ張れば、この九数圏内のすべての所有権をサタン世界から分離することができるのです。それで、十分の一献金という言葉が出てきたのです。

7 神様にはお金が必要ありません。神様と堕落した人間が関係を結ぶための条件物として、お金を必要とするのです。神様のために献金するのですか。神様は、お金が必要ありません。神様は、二十四時間いつでも、いくらでも、黄金やダイヤモンドを作ることができるのに、何のお金が必要でしょうか。皆さんを生かしてあげる条件を立てるために必要なのです。「私は神様のために献金する」と考えずに、国のために献金し、世界のために献金すると考えなければなりません。救いの目的を成し遂げてさしあげるために献金するのです。神様のために献金するのではありません。

8 一つの生命を育てるということは、決して簡単なことではありません。精誠を尽くさなければできないことです。使い残した物ではいけません。食べ残したかすのような物でもいけません。そのような物は、果敢に切り捨てなければならないのです。最初の物は、神様のみ前に捧げなければならず、手つかずの物を神様のみ前に捧げなければなりません。手つかずの物がない所には、神様が共にいません。新しい物がない所には、神様が共にいないのです。祭物も、他の人が残した物ではいけません。それは汚れてしまっているというのです。恩恵を受けた人であれば、すぐに分かります。それで、不浄な所には行かせないようにするのです。

9 精誠を捧げ、恩恵を受けていく代価として、感謝献金をするようにしなければなりません。精誠のないお金は、天が願いません。精誠を込めたお金でなければならないのであって、ポケットに入れてあったお金を、そのまま献金してはいけません。三日以上身につけて供えて聖別し、それから献金しなければなりません。自分の生命、財産をすべて入れなければなりません。先生は、もっている財産をすべて捧げました。その捧げた物を通して、世界の物質が渡ってこれるように橋を架けるのです。そうすれば永遠に滅びません。永遠に生き残るのです。

10 精誠を込めた献金や礼物と向き合うとき、その価値を知らずに向き合っては、精誠を込めた礼物に審判を受けます。王も身の振り方を誤れば、すなわち精誠を尽くした人にいい加減に向き合えば、滅びるのです。その王に従った人々も、精誠を尽くす人に反対すれば、天の逆族として追いやられます。そのため先生は、精誠を尽くす人に、いい加減に向き合わないのです。

11 記念をする祝いの日には、必ず統一旗とともに先生の写真を置き、礼物を捧げなければなりません。民族を代表し、国家を代表し、自分の家庭を代表して、記念の礼物を奉献しなければなりません。これは、先生が食べるのではなく、今後の国と自分の子孫に返してあげるためのものです。宴をしたり、良いことがあるときは、必ず精誠を込めたお返しの物を奉献しなければならないのです。それが天に侍る生活です。

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