天聖經(増補版)/第十篇 平和思想

目次

第二章 平和はどのように成されるのか

第二節 心と体の平和


1 皆さんが暮らしている所は、すべて争いの群れです。心と体が争っているので、夫婦を合わせれば、四人の争いの群れになります。十人の家族が暮らせば、二十人の争いの群れになり、三十六億の人類が暮らせば七十二億の争いの群れです。この中では、平和を夢見ることはできません。神様は、知恵があり、このような道理と事情を御存じなので、平和の基点をどこにおいたのでしょうか。宗教を通して、個人を中心としてこのような運動をするのです。それを見れば、神様は偉大な方だというのです。平和の基点を世界においたのではなく、国においたのではなく、氏族においたのではなく、個人においたというのです。

個人の心と体の平和を永遠の基点にして、そのようにできる男性と、そのようにできる女性を誕生させ、この地上に一組の男性と女性が完全に統一され、完全なプラスの男性と完全なマイナスの女性が神様の愛の力を中心として完全に一つになった家庭が現れたならば、誰がそれを引き離すでしょうか。そのようにできる力の母体であり、神様の愛を中心として連結された家庭の基盤が、まだこの地球星には顕現していないのです。

2 宗教は、個人の生死の問題を決定するものです。私が死ぬか生きるかという問題、私の心と体の平和の基準、私の心と体の解放的自由権をもつことが問題です。それが解放された立場に立ち、自主的な自由権を探し出してこそ、社会解放、国家解放、世界解放があるのです。そこには理論的な矛盾がありません。ところが、心と体が互いに毎日のように闘うのに、自由を見いだすことができるかというのです。

3 人類は、平和の世界を願っていますが、数千万年たっても平和になっていません。堕落人間ではできないのです。平和の主人とは誰でしょうか。家庭が平和になるには、平和の主人である父と母が平和の原因と平和の内容、生活方法を教えなければなりません。その前には、永遠の平和を見いだすことはできません。

人類の先祖は平和を実現しましたか。アダムとエバは怨讐になりました。その怨讐の血統を受けた皆さんは、心と体の間に闘いが起こっています。心と体がなぜ闘うようになったのでしょうか。心と体が闘うようになったのは、平和の本源地を失ったか、破壊されたためです。心と体の平和の基準を見いだせない人々が、平和をどうして探し出すことができますか。闘う人は、家庭から追い出され、国家と世界から追い出されるようになります。今日、人類全体が、心と体が闘っているのに、天国に行くことができますか。いくら修養しても行けません。ですから、宗教の目的は、心と体を統一するところにあるのです。

  

心と体の闘争


4 神様の愛の理想の園と反対となるこの世界は、実体的に分立と紛争が絶えない世界です。愛を中心とした平和の理念が具現された真理の世界ではなく、サタンが寓居して天倫を破壊する世界であり、妬みと嫉妬によって闇争と分裂が絶え間なく起こっている世界です。天性、すなわち本然の理想の園を訪ねようとする皆さんの心の中に、猜疑と嫉妬心がありますか。また、紛争と分裂の心がありますか。これが残っているならば、皆さんは決して本然の理想の園を探せないでしょう。

5 堕落は、自分を自覚したところから始まりました。堕落は人類歴史の破綻、苦悩と失敗の歴史、戦争の歴史をもたらしたので、これを一掃して神様の根本問題を知らなければなりません。神様を中心とした愛のために生きる、すべてのもののために生きる根源を探し出さなければなりません。そのようにしなければ、平和の根源を発見することはできません。平和の根源を発見できなければ、平和の世界は探し出せないのです。

6 神様の血統を受け、永遠に神様の愛を受けるべき体が、神様の怨讐であり、本然の人間の前に怨讐である悪魔サタンの血を受けて、地獄に引かれていく恨めしい立場にあるという事実を、今まで知りませんでした。言い換えれば、神様を中心として、平和な天国で理想的に楽しく暮らせる家庭に、サタンが襲いかかり、不幸と地獄の世界をつくったというのです。

7 心と体の闘いは、核戦争よりもっと恐ろしい戦争です。その戦争には休戦もありますが、ここには休戦もなく終戦もありません。私たちの人生がこの地上に存続し始めたその日から終わる時まで、私たちの心の底では休戦もなく、戦争が続けられているのです。このような人々が家庭を形成し、氏族を形成したので、一層闘うようになり、このような民族と民族が合わさったので、もっと闘うようになり、国家と国家が闘うようになりました。今までの人類歴史は、戦争につながった歴史でした。一月として戦争のやむ日はありませんでした。その闘いの根拠地は、心と体です。心と体が闘いの根拠地となって、個人、家庭、氏族、民族、国家がそのようになったのです。

8 いくら恰幅の良い人だといっても、その人を分析してみれば、金某ならば全某として、内外で闘争をしているというのです。絶えず、内なる人と外なる人が対決をしているというのです。これは否定することができません。皆さんの中では、いつも善の心と悪の体が闘っています。この闘いが問題です。

この闘いの出処はどこでしょうか。起源はどこでしょうか。この闘いは、堕落人間が生まれたその日から発生したのです。今後もこの闘いは、数万年後まで続く可能性が多分にあるのです。

9 今、皆さんは闘っています。自分の一生を中心として大砲を撃っているのです。世の中と向き合う前に、皆さん自身の心と体が闘っているのです。これをいかにして平和にするのでしょうか。この闘いで体が勝つのでしょうか、心が勝つのでしょうか。「私は間違いなく心が勝ちます」と言える人にならなければなりません。心が勝つ人は善の側であり、体が勝つ人は悪の側なのです。

10 今まで人間は、自分自身の心と体を中心として闘争の過程を経てきました。一日として、平和を成し遂げ、統一を成して、天倫に従うはっきりした目的に向かって走っていったことのない人間だというのです。心と体が闘いながら今までの歴史を支えてきたので、結果的に、このような二つの世界に分かれざるを得なかったというのです。

11 本来、人は生まれながらにして心と体が闘う存在であるとすれば、人間における理想や平和や思想などというものは、すべて空論です。それは、すべて無駄なことです。本来、人がそのように生まれついたのでなければ、それは可能ですが、もともとそのような人として生まれているとすれば、無駄だというのです。これは、理論的に合わないことです。

人は、あくまでも原因的存在ではなく、結果的存在です。何ものかによって生まれたので、その結果的存在は、原因と一つにならなければなりません。原因と結果が異なることはあり得ません。結果は、原因を内容として現れるものなので、原因と結果は通じるのです。ですから、過程も一致しなければなりません。それが科学的なのです。

12 神様の根拠地である本心は、天国の見張り台であり、サタンの根拠地である体は、地獄の見張り台になっています。この本心と体が国境線になっています。その境界線で銃声が聞こえてくるのです。それが皆さんの本心の声であり、本心と体が闘う声なのです。この戦争を除去するまでは、神様の息子になることはできず、天の国にも行くことはできません。また、そのような基盤をもたなければ、天国や理想世界というものが訪れることはあり得ないのです。

13 私たちの心と体は、神様とサタンの善悪の対決の場となって、熾烈な争いを繰り広げています。先生も、「宇宙主管を願う前に自己主管を完成せよ」という標語を立てて身もだえした人です。この習慣性を、どのようにするのでしょうか。韓国人は、コチュジャンとみそを食べなければなりません。これを克服できるのでしょうか。昼は仕事をしなければならず、夜は寝なければなりません。寝ないでいることができるのでしょうか。これが問題です。眠りを克服しなければならず、空腹を克服しなければならず、男性が女性に対して、女性は男性に対して克服しなければなりません。

14 私たちの体は、サタンの王宮です。それゆえに神様は、「自分に勝ちなさい、自分を征服しなさい」と教えられるのです。「私」から一つになる道を模索しない限り、世界の平和統一は絶対にあり得ません。今日、世界の人類は、外的な世界において、民主世界を中心として、あるいは共産世界を中心として、「一つにしよう、統一しよう、平和の世界をつくろう」と言っていますが、誤った考えです。私たちの心と体が闘ったままでは不可能です。外的に一つにしたとしても、内的には、自分の心と体が闘っていれば、不可能なのです。

15 私たちは、良心も生きていて、体も生きていると自負していますが、善の中で生活できないサタンの捕虜となっているので、死んだ者です。ですから、私たちを取り囲んでいる鉄格子を壊して出てこなければなりません。また、私たちの心の中や周囲には、二人の主人がいて、平和などあり得ず、苦痛が連続しているのですが、ここにおいて、人生の道を探し求めていくべき私たちがもつべき覚悟と決意とは何でしょうか。私たちを取り囲んでいる鉄格子とはほかならぬこの体なので、良心を動員してこの鉄格子を押しのけて出てこなければなりません。その時が終わりの日なのです。

16 平和と平等は、全人類が願う共同の目標です。その世界は、何から出発するのでしょうか。相応し相合する道と真理から出発しなければなりません。ですから、新しい真理とは何でしょうか。天と地が相応することができ、上下、高低、前後、左右を問わず、立体的な世界にとどまるいかなる存在とも相応できる原動力と内容が備わった世界観と人生観と生活観をもった主義だけが、人類世界の終末に残る、絶対的な真理なのです。歴史は、相応から出発したのではなく、相克から出発したので、この歴史は、破綻と悲哀で幕を下ろさざるを得ません。相応の理念をもって人類を呼び求めている一つの絶対者がいないとすれば、人類の歴史は絶望と言わざるを得ません。

  

心と体の統一


17 今まで数多くの聖人が生まれては逝きましたが、怨讐がどこにいて、世界平和の基準がどこにあるのか分かりませんでした。悪魔とサタンの戦場が「私」の中にあります。それで、先生は心と体の統一を主張するのです。歴史始まって以来、どの聖人も説明できない理論的な基準において、絶対に心と体が一つにならなければならない、という論理をもって教育しています。

皆さんの心の中に、皆さん自身が定着しましたか。自分が自分自身を信じることができますか。深刻な問題です。自分自身が自分を信じることができないのに、どうして神様に「分かってください」と言うことができますか。先生に「分かってください」と言えるのかというのです。私の心が私の体を認め、私の体が私の心を認める絶対的な立場に立たなければなりません。神様が私を認めざるを得ない立場に立たなければならないのです。

18 世界平和の基準は、歴史時代の終末点にあるのではなく、「私」の心と体が闘うのを統一させるところにあります。私たちがその位置を所有できないとすれば、理想世界が来ることはありません。

その世界は、不変の世界なのに、皆さん自身のその変わる姿をもって、不変の自分を所有できますか。それは論理的な矛盾です。絶対不可能なのです。ですから、理想世界を追求するのに先立ち、「私」自身の統一圏、幸福な自我を発見しなければならないのです。

19 皆さんは、心を中心として団結し、まず内的な基盤を積み、次に外的な基盤を探していかなければなりません。そうして、神様を中心とした自分の個体を超えて家庭、社会、国家、世界を探していき、天地までも探していかなければなりません。それでは、一つの世界、一つの理念を求めてきた人間に、最も重要な問題とは何でしょうか。一時、存在してなくなる国家と世界の理念が問題ではありません。権勢が大きくて、地位がいくら高かったとしても、それが重要なことではありません。二つの世界を一つにできる理念と主人公が問題です。

人間には、心を中心とした内的な世界と、体を中心とした外的な世界があります。世界がこのように二つの世界から成り立っているように、霊界も天が支配する善の霊界があり、サタンが支配する悪の霊界があります。神様の六千年の摂理の終結点が「私」の一つの体にあるというのです。

20 今日、天下を統一したとしても、その統一された世界は、その内部に闘いを内包している統一圏の世界であって、その内部が統一されて外的な統一圏を形成した世界ではありません。ですから、たとえ外的な統一を成し遂げたとしても、その世界はいずれ分かれる結果をもたらします。自由を望み、平和を望んで天国生活を享受しようと思っても、現在の何らかの方法で収拾することでは、それを成し遂げることはできません。根本的な問題は、私たちの個体の統一です。心と体が統一を成し遂げ、その根本となる心が、「この世の中の何ものとも替えることができない幸福の条件をもった」と主張することができ、今、この世界に存在するいかなるものにぶつかっても譲歩せず、壊れることがない中心を備えた人間として出発しなければ、世界平和の起源をもたらすことはできません。

21 統一の基盤の上においてのみ、平和があり、幸福があり、自由があり、希望があります。皆さんの心と体が一つになっていないのに、そこに自由がありますか。会社に行ったとしても、心と体が世界大戦をしていて定着できていないのに、自由がありますか。自由という言葉自体も嫌うのです。心と体が闘っていて、そこに幸福がありますか。ですから、皆さんも人生問題について悩むのです。これが根本的に大きな問題です。心と体が一つになっていないところに、幸福があり、平和があるのかというのです。

22 今まで神様は、宗教を通して摂理してこられました。宗教を通して心を中心とした生活を強調してきたのです。心を中心とした生活を強調したのであって、「この世の中と共に生活しなさい」とは教えませんでした。終わりの日以後の世界、この世の中を超えた終わりの世界の生活を強調してこられたのです。

キリスト教を見ても、この現実世界を中心として生きなさいと教えたのではありませんでした。この世の中で、良く食べて、良く暮らしなさいと教えた、そのようなものはありません。必ず心の世界の平和を唱えてきたのです。「神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」(ルカ一七・二一)と教えてきたのです。

23 真の愛なしには、心と体の世界を一つにすることはできません。心と体が分立して争っている世界が、まさしく堕落した世界です。心が絶対的に中心でなければなりません。体は、絶対に不平を言うことはできないのです。体は常にマイナスの立場を取らなければならず、心は常にプラスの立場を取らなければなりません。

プラスが前に立てば、それは永遠なのです。心の力を中心として、体はその位置に立たなければなりません。そのようにしなければ、この世界が平和な世界になったとしても、皆さんはその理想世界に連結されません。

24 統一がないところに平和はありません。統一がないところに希望はありません。皆さんの心と体が一つになっていないのに、幸福ですか。心と体が闘っているのに、幸福ですか。そこに自由がありますか。お互いがよく回らなければならないのです。平和は、お互いにバランスが取れていなければならないのに、バランスが取れていますか。皆さんは、夫婦同士お互いによく調和していますか。皆さん夫婦が、朝二人でけんかをしても、一日中、幸福ですか。そうではありません。統一された基盤の上に自由があるというのです。統一がなければ幸福もなく、統一がなければ平和もなく、統一がなければ希望もないのです。

25 未来の新しい理念は、神様の人間に対するみ旨と理想をはっきりと究明しなければならないだけでなく、神様と人間の関係を明確に明かさなければなりません。本来、人間の心と体は、神様の真の愛を中心として、完全な一つの統一体を成し遂げるようになっています。そして、このように神様の真の愛で心と体が一つになった男性と女性が、神様の真の愛を中心として出会い、夫と妻として一つの家庭をつくるようになれば、この家庭は神様の真の愛を中心として一体を成し遂げることによって、真の自由と平和と幸福の根源地になるのです。

26 心と体において平和の基準をどこに立てるかは、人生において最も貴い問題です。心と体が闘っています。平和の基準は、どこにあるのでしょうか。世界でもなく、国でもなく、宗教でもありません。「私」自身において、心と体の絶対統一を成し遂げた平和の基準を確立するのが宗教指導者であり、そうなるようにするのが教育と修練の目的です。

ですから、皆さんがいくら宗教を信じて偉大な宗教指導者になったとしても、心と体の統一を成し遂げられなければ駄目です。個人の基準に平和の起源を確立して、定着させなければなりません。平和の起源を「私」から設定しなければ、理想的な宗教や天国というものは、夢にすぎません。それは、私と関係がないのです。

27 自分の心と体を、どのようにして一つにするのでしょうか。世界に対する不平を言う前に、世界に対する真の平和を叫ぶ前に、世界に対する真の幸福を叫ぶ前に、皆さん自身を中心として、心と体が一つになって平和の基点を形成しているのか、平和の中心の基点が神様となっているのかが問題です。その基点は、心だけではいけません。神様を中心とした心に一致する体にならなければなりません。このようになったとすれば、神様に従う道が二つにはなり得ません。しかし、堕落することによって、今日、人は二つの道に行くようになりました。分かれるようになりました。そのような結果を見るとき、誤った原因が存在するという事実を否定できないのです。

28 世界的な理念の障壁を崩してしまい、世界のために自らを犠牲にしようという主義が、正に「神主義」です。神様は、世界のために、最も近い息子、娘を犠牲にさせるのです。神様は最も近い人を犠牲にして、世界を愛する起源を備えてこられたので、結局は「神主義」だけが残るのです。それで、歴史に終末が来ても、世界の障壁を乗り越えられる心情を備え、世界を中心とした民族や国家の立場で生きていける意志をもたなければなりません。そのようにしなければ、世界に残される群れになれません。私たちは、体を中心として一つになるのではありません。体は心を中心として、心は天を中心として一つにならなければなりません。天と心と体が一致したその人には、平和と幸福と理想が定着するのです。

29 本来、人は、心の分野を中心として体が一つになり、分けようとしても分けることができなくなれば、堕落していない完成した人間になっていたはずです。エデンで堕落していなければ、心と体が分かれることはないというのです。

しかし、人間の心と体は、今まで闘っています。堕落した世界のその誰もが、心と体が闘っています。ですから、心と体を一つにできないことが恨です。

心と体が一つになれなければ、平和が来ることはあり得ません。幸福が宿りません。人間の生涯が悲運の生涯であり、「人生は苦海のようだ」と言ったのも、すべて一理あります。一つにならなければならないのが本来の摂理観であるにもかかわらず、心と体が分かれることによって、すべて四方に分かれたのです。言い換えれば、主体と対象が分かれたというのです。

30 平和の世界は、いかにして訪れるのでしょうか。心と体が一つになった立場を見いだすことができなければ、平和世界の根はありません。今日、人々は、平和世界が来れば統一の世界が来て、あるいはこの地上に地上天国が来るといいますが、その地上天国の基盤は、あくまでも心と体が一つになるところから始まります。心と体が一つにならなければならず、その次には夫婦が一つにならなければならず、その次には子女が一つにならなければなりません。人間が堕落したので、世界的にすべて破綻するのです。

31 人間の心と体の間隔が広がれば広がるほど、苦衷は大きくなるのです。そこには苦痛が介在し、悲劇が宿るのです。ですから、私たちの心と体の間隔を狭め、それが一つに統一される時を迎えなければなりません。そうでなければ、人間世界に平和や幸福はあり得ません。ですから、自分自身の闘い、自分一個体の闘いを終息させられない人は、世界的な闘いが終息し、そのような世界に入って暮らしたとしても、希望や幸福、あるいは平和の条件をもつことができないのです。

問題は、「私」自身にあります。私自身の根本問題を解決しなければなりません。そうして、私自身の外的な世界の理想的環境を迎えるようになる時に、初めて心にしみる平和、心にしみる幸福を感じられるのです。そのような基盤の上で世界と連結されて、初めて自由で幸福な天国が形成されるのであって、環境がいくら整えられたとしても、自らの問題が解決されていない立場にいれば、いかなる幸福な環境にも和合できないのです。

32 平和世界に向かう道は、二つの方向から一つの方向に向かうのです。今まで心と体の二つが闘ったので、全世界が分裂するようになりました。この心と体が分裂して世界的に展開したのが、宗教世界と政治世界です。この二つを平面的な世界圏にして統一することにより、一つの方向に一体化した世界的な平和圏が生じるのです。堕落していなかったなら、アダムを中心として世界平和の基準が可能です。堕落とは方向が反対です。地獄に行くのではなく、天国に行きます。神様と父母様を中心として、個人、家庭、氏族、民族、国家、世界に展開していきます。そのようになれば、すべて天国の所属になるのです。

33 天国を成し遂げるための一つの重要な標準とは何でしょうか。天国を成し遂げることができる一つの要因とは何でしょうか。それは統一です。統一という原則過程を経なければ、天国は実現されません。一つになるところでのみ、天国はできるのです。人間が願う平和や幸福というあらゆる要件も、一つになるところで成し遂げられるのです。心と体が一つになっていないところでは、いくら「私」が幸福になろうとしても、幸福になれません。いくら平和の基準を維持しようとしても、維持できないのです。ですから、ここで一つになることが何よりも重要だというのです。

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