天聖經(増補版)/第九篇 家庭教会と氏族的メシヤ

目次

第三章 教会長の道

第三節 教会長の精誠生活


1 皆さんは、食口が訪ねてきて帰れば、その人を思いながら夜を徹して祈り、灯油ランプの灯をつけて、あした話してあげる内容を準備しながら、朝日が昇ってくるまでその人が来るのをどれほど待ってみましたか。そのように待ってみてください。その人が来るようになっています。間違いなく来るのです。それは実現可能です。そうすれば、「いやあ、精誠とはこういうものなのだなあ!精誠が極まれば、神様を動かせるのだなあ!」ということを実感するのです。「誰々が来なければならない」と思い、精神統一をして三時間だけ祈れば、その人はそわそわし、我知らずに心が動くのです。「教会に行ってみよう」と、心が命ずるのです。そのようなことが可能だというのです。

2 精誠を捧げるときは、多くの人を挙げて捧げるより、一人一人を挙げながら精誠を捧げるのが良いのです。多くの人に対して精誠を捧げるのと、一人一人に対して精誠を捧げるのでは、はっきりとした違いがあります。東西南北が違うというのです。そのため、主体がいれば一つの対象を決定し、その対象を中心として線を引かなければなりません。そうしてこそ四方が描かれるのです。その四方が描かれるときまでは、対象と絶対的な関係をもたなければなりません。それでこそ丸い円が描けるのです。

  

天が記憶する指導者


3 人間がこの地上で暮らしながら神様に仕えるためには、必ず聖人の道理を基盤とした宗教を通さなければなりません。そして、今まで過去の数多くの宗教指導者が歩んだ道を、自分も当然行くべき道と思い、その道を願いながら歩もうと決意する人にならなければなりません。そうして、宗教を中心として、生まれては逝った数多くの宗教指導者と一つになれば、その宗教の世界に自然と位置が定まるのです。そのような基盤の上で祈れば、それは一つの宗教圏を越えられる立場に立つので、それだけ神様との距離を短縮させられるのです。

ですから、地上で宗教の道を探し求めていく人は、精誠を捧げなければなりません。人間の中には、精誠を尽くして宗教の道を訪ねていかなければならない人もいますが、善の先祖を多くもっていて、彼らが願ったものに向かってそのまままっすぐに行く人もいます。それでは、彼らが願ったものとは何でしょうか。彼らが追求するのは、宗教が追求する目的の世界なのです。

4 宗教の目的は、一人の真の人間を探すことであり、真の家庭と真の国家と真の世界を探すことです。これは宗教の目的であると同時に、神様の目的です。それがすなわち、神様が地に対して摂理する目的です。ですから、私たちが宗教指導者の精誠を尽くしたその土台の上に立てば、神様の目的圏内に自然と接することができる境地まで行くのです。

そのため、ある特定の宗教を信じる人がいるというとき、その人は、その宗教の最高指導者だけを信じるのではありません。その宗教に従った人々と、その宗教のために四方から精誠を捧げている指導者を信じるようになるのです。それだけでなく、その宗教が世界的な基盤をもっていれば、世界の数多くの指導者たちまで信じ、従っていこうとするのです。それは、霊界と宗教圏の距離を短縮させるためなのです。

5 終わりの日には、恵みを受けた一人の人だけを通じるのではなく、必ず何人かを比較してみて通じなければなりません。高い内容をもった霊的指導者に会い、自らその段階を高めていく知恵深い方法を取らなければならないというのです。しかし、今日、地上に生きている信仰者たちは、このようなことを知らずにいます。そのため、信仰者は、総合的な観測、総合的な比較、総合的な分析をして、自分自身が最も早こを探していかなければなりません。ですから、ある新しこを行くときは、決してそのまま行ってはいけないのです。

6 いつも恩恵を受けようとしてはいけません。他の人が掘っておいた井戸から水をくんで飲むのではなく、その井戸の水脈に沿って新しい水の流れを探すために努力しなければなりません。これと同じように、自分を指導し、恩恵を与えてくれた指導者が限界点に到達したと思われるときは、その指導者が最も恵みを受けていたときに捧げたそれ以上の精誠を捧げてこそ、その道を越えることができるのです。しかし、今日、信仰者たちはこれを知らずにいます。

7 天国とはどのような所であり、その構造はどのようになっているのでしょうか。簡単です。一言で結論を下せば、その世界はために生きた人が行く所です。自分のために生きた人が行く所ではありません。神様と人類のために生きて死んだ人だけが行く所です。

ここに、いくらよく信じる教会の指導者や信徒がいるとしても、いくら精誠を捧げた人がいるとしても、その精誠が神様と人類のための精誠でない限り、それを自分に帰結させる人は、結局、天国に入れないのです。しかし、自分のために生きるのではなく、本郷の道理のみ旨に従ってために生きる原則を手本とし、物心がつくときから他の人のために、神様のために生活し、自分のために死の道を行くのではなく、神様と人類のために死の道を行く人は、間違いなく天国に行くのです。

8 教会長であろうと、教域長であろうと、人を見ることができなければなりません。心霊を検討し、どのような状態にあるのかを知らなければなりません。ですから、最も大変な仕事が霊的指導者の仕事です。ですから、祈らなければなりません。向こう側の山に何があるかということが、祈れば浮かんでこなければなりません。ですから、精誠を捧げなければならないのです。食口の心霊状態がどうなのか、教会長が先にすべて分からなければなりません。精誠を捧げた人は、どのようなことが起こったのか、あらかじめすべて分かるのです。

9 昔、先生が教会を指導するとき、四百人が集まりました。人々の名前をずっと呼んでいくのです。そうすれば、すぐに分かります。そのとき、心霊の良い人は水平線の上に立ち、低い人は斜めに立ち、一番悪い人は逆さまに立っているのです。そのような霊的な体験を適してでも、天と音律が合わなければなりません。共鳴しなければなりません。コムンゴ(朝鮮の伝統弦楽器)の弦を弾けば、音律が合わなければならないのと同じように、天と共鳴しなければなりません。弦が少しだけ緩んでも、合わないのです。それでは和音になりません。ですから、よく合わせた共鳴の音が必要なのです。

10 天のみ前に精誠を捧げる人は、いい加減に扱うことができません。地方で、ある食口がりんごを一つ先生のところに持ってきたとしても、先生はむやみに手を出しません。精誠を込めた物に誤って手を出せば、赦しを受けられないのです。神様の一片丹心の心情と神様の最高の努力を無視すれば、天倫の前に容認されない罪人になるというのです。

他の人が精誠を込めた物をいい加減に扱ってはいけません。九十九ほどの精誠を込めた物であれば、百ほどの精誠を込めてこそ、それを扱う資格があるのです。例えば、ある集団の責任者が、精誠を込めた物を受け取り、天のみ前に連結させられなければ、その精誠を込めた人が多ければ多いほど早く滅びます。ですから、神霊的な集団は、自らの当代には栄華を極めるかもしれませんが、天道に外れることが多く、すぐに滅びるのです。

11 自分のために祈り、精誠を尽くしてくれる人が多ければ多いほど、その人は福を受けた人に違いありません。「私」一人のために精誠を尽くす人をたくさんもつためには、まず自分がもっているすべての福を多くの人に譲り渡してあげなければなりません。そのようにするまでは、多くの人が私に対して「福を受けなさい」と祈ることはないというのです。一人のために十人が精誠を尽くせば、その一人は神様が記憶せざるを得ません。そのように精誠を尽くす環境を収拾し、「お互いがお互いを新しい段階へと刺激することができる環境の基台を広げよう」と言って、一つの団体を構成したのが教会です。

12 教会の責任者は、自分のために精誠を捧げてはいけません。数多くの群れのために精誠を捧げなければなりません。その数多くの群れが行くべき所は、自分の家庭だけでなく、その国と世界までです。そのため、教会長の視線が自分の家庭と自分の教会の教会員にのみ、とどまっていてはいけません。その教会員を通して国と世界に向かう心をもち、神様に向かって、「私が捧げた精誠と教会員が捧げた精誠を合わせ、世界に進むことのできる道を築いてください」と言わなければなりません。このように教会長と教会員が一つになって授け受けすれば、そこには必ず神様が臨在されるのです。一つになって神様が臨在なさるときは、自分の教会の復興のためではなく、国の復興のために一つになるときです。

  

精誠と天の役事


13 民族復帰時代には、家庭復帰時代に捧げた精誠以上の精誠を捧げられる人が、統一教会の教会員の中にいなければ、責任をもった責任者が精誠を捧げなければなりません。そのようにしなければ、統一教会は民族的な運命を残し、その限界線を越えていくことができません。もし一人でもその限界線を越えて、神様の無限の生命力を投入するように自分の生命を投入し、すべての愛の心を投入すれば、統一教会はその人によって発展するでしょう。

しかし、そのような人がいないときは、停止したり、後退したりするでしょう。統一教会が発展するときには、必ずその背後に発展させる動機があるのです。すなわち、国家と民族を越えて世界まで統一教会を率いていくために、自分の生命力を投入する人がいるはずなのです。その人が誰かを知らなければなりません。生命力だけでなく、すべての愛を投入して犠牲になる人がいなければなりません。そのような人がいなければ、世界へと発展できる統一教会にはなれません。これは原理的立場から見るとき、当然の道理なのです。

14 み旨の道に従ってきた皆さんは、自分の生命力と愛の力を、民族を越え、世界を越え、それ以上の位置まで投入しなければなりません。皆さんが投入する生命力と愛の力が、教会発展の行路を開拓する要因になるのです。地上の悲しい事情を抱き、ぶつかっていく統一教会の運命を抱いて身もだえする人々がいれば、彼らのためにあらゆる精誠を尽くし、感謝と称賛を捧げても足りません。

それにもかかわらず、自分を中心として批判し、自分と関係ないと言って無関係だと考えてしまえば、その人はそこで終わりだというのです。皆さんは、統一教会が発展する事実を見つめ、無限に感謝を感じると同時に自らの不足を感じ、「きょうはこうですが、私にも力を下さい」と言わなければなりません。秋の季節であれば秋の季節で終わらせ、冬の季節であれば冬の季節で終わらせるのではなく、自分の深い所に宿っている、あすの春の日を迎えていっぱいに咲く生命力と愛の力を探し出せなければ、皆さんの行く道は終わりだというのです。

15 宗教の責任者や指導者が地上で霊界の道を築く途中で失敗し、その道を越えられなくなったにもかかわらず、再びその道のために精誠を尽くしながら訪ねてくる人がいれば、神様はその人を保護されるのです。しかし、いつでもその人を保護されるのではありません。その人が先に歩んだ人々の失敗の境地に到達したときや、その場に入ったとき、そこで精誠を捧げれば、神様はその人が失敗圏内から抜け出してくることができるよう、背後で調整するのです。そうして神様の直接的な恩賜を受けられるように役事されるというのです。

16 神様は、宗教の世界に責任をもった人々が、その責任を完遂できずに逝った道の背後で、数多くの霊界を中心として、いつでも再び責任を担わせることのできる恩賜の基台を準備し、再びその道に従ってくる人々が失敗の道を免れるようにしてくださるというのです。このときは神様が、自分の立場を中心として考えるのではなく、宗教のために精誠を尽くす立場を中心として役事されるのです。神様は、このように一段階、一段階高く上がっていけるように役事されます。

17 教会長は父母の立場です。父母は、子女たちをすべて寝かせるまでは、先に寝ることができません。体調が悪いということでもない限り、そのようにはできないというのです。分別のつかない子女たちのあすを心配しながら涙し、生活の苦しさを感じるときには胸を締めつけながら、その息子、娘のために福を願ったあとに寝床につくのが、父母の心です。

同じように、責任者は眠ることができないようでなければなりません。そして、早朝や夜に静かな時間ができれば、自分の教会の食口のために人知れず涙を流し、精誠を尽くしてあげなければならないというのです。そのようにしてこそ、基盤が築かれるのです。このように子女を育てて、どのようにしなければなりませんか。教会よりも国のために生きる愛国者にすべきです。そのためには、父母が手本を見せてあげなければなりません。

18 愛によって正しく教育したのちに、「やりなさい」と言ってこそ、正しい父母です。皆さんがそのような生活をすれば、神様は皆さんから離れようとしても離れられません。また、そのような人には、何か分からない強い力があり、すべての人の視線を自動的に引くようになります。その人には、関心をもたざるを得ないというのです。

冬に、火鉢に火を起こしておけば、冷たい火鉢と熱い火鉢は説明しなくても誰でも分かるので、「行くな」と言っても、熱い火鉢を訪ねていくのです。同じように、皆さんも、そのように人が訪ねてくる人間にならなければなりません。そのような伝統的基盤を備え、犠牲的覚悟のもとで個人の新しい伝統を拡大し、家庭的基盤に連結させて、それによって氏族、民族、国家を形成しようというのです。これが天の行く道です。

19 もし責任者が誤り、責任者が間違うときはどのようにしますか。私がその人を中心として最後まで合わせていけば、その誤った責任者は出ていき、責任者のために精誠を尽くして侍った「私」が、その責任者の後継者になるのです。そのような人はどこに行っても発展します。いくら間違っている人と接するときでも、その人の心に合わせて調整しようとすれば、その心に合わせるよう調整された人が、必ず折れて出ていくというのです。できないことを命令され、そのできないことを「間違いなくやります」と言えば、自分がやらないのに命令した人が長く続かないのです。木の芽で言えば、やらない人は停止し、これをする人は育つのです。

20 負債を負った人は、どの社会でも除去され、すべてその人を嫌うのです。第三者の扱いをするのです。皆さんは、どの責任者が悪いなどと言ってはいけません。「その責任者の前に私が私自体を輝かせ、私の実績を公正に表すことのできる良い機会ができた」と思いなさいというのです。その周囲にいる人は、すべて「私」を認定するというのです。

その責任者に能力があり、細かく指導してくれるなら、私にとって何の実績になるでしょうか。責任者が不足であることによって、「私」が輝ける良い機会になるというのです。ですから、不平を言う所に行って不平を言わず、後退する所に行って後退してはいけないというのです。私が出会った人の仕事を手伝ってあげ、祭祀を行ってあげ、花を挿してあげようという心をもちなさいというのです。そうすれば、いつでも主人になるのです。

21 皆さんが高い山に登れば、その周囲の人々が「早く早く救ってほしい」と言う声を聞くことができなければならず、霊界の先祖たちが「早く早く救ってほしい」と言う思いを感じなければなりません。その中で責任を果たさなければならないのです。それが祭司長です。祭司長の資格証書をもって、自分の責任を果たさなければなりません。

いくら頭が痛くても「痛い」と言えず、いくら疲れていても「疲れた」と言えないのが祭司長です。神様が「休みなさい」と命令してこそ、休めるのです。責任を果たせなければ逆に蕩減を受け、病気になります。その道を避けていくために、自分で迫害を受ける道をつくって行くこともしなければなりません。祭司長は、食べることにおいても、一番下から上がっていかなければなりません。着ることにおいても、一番どん底から行かなければならないのです。すべてを復帰していくのです。そうして国と一つとなり、民と一つとなることによって、上がっていくのです。悲惨なのです。そのような意味で、先生は迫害を受けることを有り難く思うときが多くあります。「私」の家庭と私たちの教会がすべき蕩減を、外部でこのように騒ぐことによって、外的蕩減としてすべて消耗させているのです。

22 責任者は、苦労しなければなりません。苦労するのは、蕩減条件を提示することになります。寝ずに祈り、精誠を捧げ、そのまま休まずに努力して外的蕩減をしてあげることによって、どのようになりますか。人を王のように侍るのも蕩減です。蕩減法です。その人がいくら悪くても、王のように侍ったとき、その精誠の心をその人が受け取れなければ、神様が受け取ってくださるのです。その人が統一教会を信じないで出ていけば、その人の善の先祖が積んだすべての福を、「私」が根こそぎ受け継ぐのです。恐ろしい作戦です。全体の福、万民の物を私が受け継ぐのです。収穫するのです。収めるというのです。

23 統一教会が教えるのは、「個人は家庭のために犠牲になりなさい」ということです。個人が家庭のために犠牲になれば、その家庭は自然に蕩減し、必ず福を受け、豊かに暮らせる位置に行くのです。犠牲になった人が中心になります。より犠牲になってすべての環境に利益をもたらした人は、必ず中心者になると同時に、責任者になるのです。

ですから、自分がうまくいくために、福を受けるために精誠を尽くすよりも、全体の中心、責任者になる福を受けるために精誠を尽くし、信仰の道に従うのが、天理と歴史が願う信仰の道であることをはっきりと知らなければなりません。それで、統一教会は、この原則によって「個人は家庭のために犠牲になりなさい」と言うのです。理由なく語っているのではありません。皆さんがそのように犠牲になれば、皆さんが家庭の中心存在となり、その家庭の福を継ぐときに、皆さんの息子、娘を通し、皆さんの家庭が福を分かち合うようになっているのです。そして、今後、氏族になれば、その家庭がその氏族を統治できる中心家庭、福の中心になるというのです。

  

食口のために精誠を尽くす生活


24 精誠をたくさん捧げる人が中心存在になります。天の祝福は、その人を通して現れます。アンテナが高ければ高いほど、世界に向かって遠く広がっていくのです。少しでも高ければ、世界のすべての電波に乗って越えていくのです。この電波に乗って、世界に行くというのです。それと同じです。そのため、精誠をたくさん捧げ、より投入して忘れる人にならなければなりません。それが、神様の創造の原則なので、より投入して忘れる人は、永遠の責任者になるというのです。

25 祈らなければなりません。人の前に精誠を尽くし、その次に神様のみ前に精誠を捧げるという二つの道があります。霊的指導者の生命力を連結させるには、神様と人間が連結される中間的立場にいるので、皆さんが精誠を捧げた割合に応じて、結果が変わります。神様と百の原因をもてば、それが皆さんを通して百の結果として現れます。神様と一つになることに比例して、食口が一つになるのです。先生と一つになることに比例して、食口が一つになります。

そのため、皆さんは生命線として、先生を思わざるを得ません。神様は無形な方なので、眠りながらも、道を歩きながらも、寝ても覚めても先生を思ってみなさいというのです。そうすれば霊界の門が開きます。妻子をすべて忘れてみなさいというのです。精誠を捧げる道が最も早こなので、皆さん自身を中心として、食口にそのような現象が起こるようになっています。原因がそうなので、結果として現れるのです。

26 牧会者は、三日に一度ずつでも、食口たちのために祈ってあげなければなりません。先生は、興南の監獄で三年近くの歳月を過ごしましたが、その中でも何人かの食口のための祈りは、御飯を食べるときから寝るときまで、毎回、してあげなかったことがありません。たとえ離れていった人だとしても、その人のために続けて祈ってあげました。

そうすると霊的に先生を訪ねてきて、離れていった事情を、涙を流しながら報告するのです。「肉身が弱く、どうしようもなくて先生から離れていかざるを得ません」と挨拶をして去っていくその悲惨な情景は、同情するまいとしてもせざるを得ないのです。そのように離れていっても、その人のために続けて祈ってあげなければならないのです。

27 先生は、地域のために祈るとき、その地域の責任者のために祈るのではありません。責任者のために忠誠を尽くし、その責任者と相対基準を造成して熱心に働く食口のために祈ります。このようにしてこそ、私たちのみ旨がだんだんと発展していくのです。地域の責任者たちが責任を果たしたからといって、その責任者を称賛するのではなく、その人が称賛を受けられるようにした食口たちを称賛しなければなりません。

これから責任者は、自分たちを協助した食口のために祈ってあげなければなりません。心情的な面で負債を負ってはならないというのです。一線で闘っている、苦労している食口がいれば、御飯を食べるときも彼らを思い、涙とともにスプーンと箸を持ち、涙とともに御飯をのみ込むことができなければなりません。「天よ、彼らを見守ってください」という祈りが自然に出てこなければなりません。このような心情が欠如すれば、発展できないのです。

28 責任者が一片丹心でしなければならないことは何でしょうか。御飯を食べることでしょうか。違います。この罪悪世界において、生命の一つ一つをどのように天の息子、娘として復活させ、天の国に移してあげるかという責任的使命感をもたなければなりません。月日がたつとともにそのような使命感をより深くもち、進んでみてください。できないことがありません。完全な主体の前には、完全な対象が生じるのです。

ですから、主体は対象のために祈ってあげなければなりません。祈るのですが、対象が早朝に起きるのであれば、それよりも先に起きて、精誠を尽くしてあげなければなりません。人は、自分のために精誠を尽くしてくれれば、すぐに分かるようになっています。

29 責任者は、自分の位置を守っていきながら、精誠を尽くさなければなりません。皆さんが責任者ならば、朝に祈るとき、二十人以上の人を祈らなければなりません。そうして一日に、七十人以上の人を祈ってあげなければなりません。食口と共に食べ、食口と共に暮らしなさいというのです。人にとって最も深刻な時間は、御飯を食べる時と眠る時です。おなかがすいて御飯を食べる時、そして、眠くなって寝床に就こうとする時は、すべての神経がそこに集中するからです。その反面、目が覚めるときはすべての神経がゆるんだ状態になっているため、深刻ではありません。ですから、一日の生活の中で、三食の御飯を食べる時と、眠る時が一番深刻な時間です。み旨のために、そのような深刻な場で祈りなさいというのです。そのようなときに祈る一度の祈りが、普通のときに祈る何度かの祈りよりも良いのです。

30 皆さんは、常に食口と御飯を一緒に食べ、一緒に寝るという心情で、食口のことを考えなければなりません。そうすれば、誰々はどうだという感触を得るようになるのです。そのように感覚が鋭敏になれば、遠くにいる人も近くに見え、近くにいる人はさらに近くに見えるのです。見れば、すぐに分かるというのです。心霊を指導する人々がその程度の能力もなくて、どのようにして人々を指導できるでしょうか。

自分が一つの生命に対してどれほど精誠を尽くしたかということが問題です。イエス様が、「人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか」(マルコ八・三六)と言われたみ言の意味も、一つの生命を宇宙よりもっと貴く思い、そこに心情の錨を下ろされたことを知らなければなりません。世界を忘れ、一つの生命のために一対一で闘いながら、人間の価値の谷間を訪れて入っていかれたイエス様の心情的境地に到達するとき、新しい食口との縁が結ばれるのです。

31 祈りがどれほど偉大か、祈りの力がどれほど大きいかを知らなければなりません。私一人がここで祈りましたが、立体世界の霊界を、無限の世界を動かして動員できるというのは偉大です。そのため、祈りは磁石のような作用をします。また祈りは、力をもっているので、皆さんが将来、責任者になり、食口のために二十四時間決意して、「それはすぐにできる」と信じて祈れば、そのようになるのを見ることができます。実際、そのような力があるのです。ですから、聖書にも、「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」(マタイ一八・二〇)とあります。三人だけでも合わさって祈れば、偉大な力をもたらすことができるというのです。

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