天聖經(増補版)/第八篇 信仰生活と修練

目次

第二章 心と体の修練

第二節 修練の目標


1 人間が失った自らを取り戻そうとすれば、どのようにしなければならないのでしょうか。子女を失う当時の、神様の心情を回想しなければなりません。そうでなければ、本然の自分を取り戻す方法がありません。失ったものは、失ったその場所にまた行ってこそ、見つけることができるように、失った自分を取り戻すためには、「私」を失う時の神様の心情を回想しなければなりません。そのような運動を提示しなければ、人間は本来の自分を取り戻すことはできないのです。

  

本然の自分を取り戻すこと


2 「私」を取り戻すには、誰を中心として取り戻さなければなりませんか。自分を中心として取り戻すのではありません。神様を中心とした私を取り戻すまでは、本然の位置に戻ることはできません。ですから、数多くの宗教は神様を求めるのです。神様と私の関係を知って、私がどのように立たなければならないのかということを知るための道が、宗教の道なのです。

3 人間にとって最も貴いものは、神様の全体属性を備える本然の私です。しかし、人間が最も貴いものを失ったので、それが見つかるまでは喜びや幸福を感じることができません。それで、今日の堕落した人類は、東西南北の四方に散って、その「本然の私」を探し求めているのです。

4 絶対的な理念の本体であり、善の本体であり、生命の本体であり、愛の本体であるその何かを必然的に求めるべき人間なのですが、「私」自身は今、さまよっています。このような私の姿が絶対的な善の方向と角度に比べて、どのような方向と角度をもっているのでしょうか。

私の心は右に行こうとするのに、体は左に行くのはどういうことでしょうか。私の心は、もっと高い理念をもとうとするのに、実際には限界のある宇宙観をもっているのはどういうことでしょうか。私たちの姿を、もう一度冷静な立場で観察してみなければなりません。その何かを求めるためにあえいでいる、自らの強情でひねくれた姿を見つめようとしなければなりません。私には体があり、心があり、霊があります。私たちは、この体と心と霊が統合した一つの姿にならなければならないのです。

5 神様と共に働き、共に死ぬ立場で自分を再創造する努力を経なければ、平和の境地、神様の理想郷は「私」と関係を結ぶことができません。この距離を短縮させ、その理想的平和の境地が自分のものだという自覚をもち、自分が動くときは必ず神様が創造した本然の道に従って動くようにするのです。そして、天国に入る時、サタンが汚したものをきれいに清算して解放し、天国の王権を受け継いでから入らなければならないのです。

6 人はみな、負債を負いました。生命の負債、血統の負債がそれです。宇宙の愛の中で生じた存在世界に負債を負っています。ですから、負債を返す解放の位置に行かなければなりません。万物を造られた神様の本然の愛の心の位置を踏み上がって、神様までも解放させてあげなければならないのです。創造したすべてのもの、絶対信仰、絶対愛、絶対服従の基準で造ったものを神様が失ったので、私たち人間が取り戻してあげなければならないのです。

  

自己主管が優先


7 今は、自分たちの生命と、先祖たちの生命を救うべき覚醒時代です。これを考えるとき、「私」個人はこのように自由に動いて暮らせる自らではありません。このすべての存在世界は、宇宙的な関係圏内で私の実存価値を立てることを待ち望んでいるのを、実体的に感じなければなりません。心で感じ、頭で理解するだけでなく、情的に感じることのできる立場にまで進まなければならないというのです。

今日、人間を見つめて、「あまりにもかわいそうです。お父様!しかし、お父様が良心をもった人間に物質を与える責任と、真の心をもつ者の体を主管すべきみ旨があることを知っておりますし、真の霊自体がお父様の主管を受けなければならないことを私たちは知っております」と言いながら、自分自身に山のような黄金と宝物を持ってこられても、それが心の願うものではないとすれば、それを果敢に捨てることができなければなりません。

問題は、このようにこの上なく大きな物質的な試練を、軽々と越えられるのかということです。したがって、私の体の価値は宇宙よりも大きいので、この宇宙よりも大きな体を私の心が屈服させる時、私の心は宇宙的な価値を乗り越えるのです。

8 私たちの心は、世界を抱き、天地を抱き、最後には神様まで抱こうとします。それが心がもつ目的です。ですからイエス様は、「神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」(ルカ一七・二一)と言いました。さらには、「父がわたしにおり、また、わたしが父におることを知って悟るであろう」ヨハネ一〇・三八)と言いました。

皆さんは、皆さんがもっている理念や、皆さんが暮らしている生活環境において、隣人をどれくらひ参(一緒に参加すること)させることができ、この民族とこの世界を、どれほど引き入れることができますか。皆さんの心は大きいのですが、その心の中に自分の一つの体を入れることができない堕落した人間です。皆さんの心は、天地を抱き、神様までも抱いて安息させてさしあげようとします。それにもかかわらず、皆さんは、自分の一つの体を征服できずに、あえいでいるのです。

9 皆さんは、それぞれ心をもっています。それでは、心と体は互いに友人になるでしょうか、争い合う群れになるでしょうか。もし友人になれずに争い合う群れになるとすれば、どちら側が闘いの主人公になるのでしょうか。心と体が争えば、いつでも体が先に心に闘いを挑むようになります。心はじっとしているのに、体が心を苦しめるのです。男性の体でも女性の体でも、その体は心を悩ませるのです。ですから、自分一個体において、心と体の統一を成し遂げなければなりません。皆さんが「心よ、体よ、お前たち、統一しなさい」と命令したからといって、心と体が統一されるのではありません。

10 心がどれほど大きいか知っていますか。見えませんが、あることはあります。この心がどれほど大きいかというと、恐らくこの世界を百個、千個入れても、満足しないでしょう。また、地球星のようなダイヤモンドが何千個、何万側あるのに、一個だけしか与えなければ、気分を悪くするでしょう。このように、心は想像もできないほど大きいというのです。また皆さんの心は、学ばなくても、良いことと悪いことをよく知っています。

心が誰かから、「おい、心よ。誰かがこれこれこのようなことをすれば、悪いことなので、その時はお前が番兵になりなさい」ということを学んだでしょうか。学んでいませんが、この心は、体がとても大きな力で刃向かってきても問題にしません。かえってその力に比例して、電気よりも速く、即座に反応を起こします。他の思いをもてば、即座に止めるようにするのです。

どれほど教育を受ければ、そのようになるのでしょうか。もし人が教育して、いつでもそれができるようにしたとすれば、これは大成功です。いくら偉大な教育者でも、このようにすることはできませんでした。このようなことを学んだことがありますか、ありませんか。学ばなくても、すべての人がよく知り、よくできるというのです。

11 世の中が問題ではありません。天下が統一されたとしても、「私」が統一されなければ神様のみ前に行けません。一言誤っても、良心はすべて分かります。良心は両親に優ります。良心は両親が与えたものではありません。天から来たのであり、根っこが神様なので、自分の両親に優るのです。良心は堕落した世界の師に優り、良心は両親に優るのです。

12 皆さんの心と体が闘い始めたのは、いつからか分かりますか。堕落した直後からです。そこで病気にかかったのです。それを取り除いてしまうことができなければ、絶対に天国に行けません。心と体が闘う人は、天国に行けません。先生はそれを闘ったのです。「宇宙主管を願う前に自己主管を完成せよ」というのです。行けば行くほど、神霊的な世界に入れば入るほど、もっと恐ろしいサタンが現れるのです。

13 皆さんは、常に「私」という存在が善悪の母体だということを考えなければなりません。先生も皆さんのような年齢のとき、このような内容で苦闘したのです。

それで、先生が立てた標語が、「宇宙主管を願う前に自己主管を完成せよ」というものです。これが信仰生活においての第一条です。このような面で、自己を完成し、自己を主管できるようになるとき、すなわち、自分の体を制御し、克服できる自主性をもつようになるときは、自分の心と体の相克がなくなるのです。

14 先生は、「お金を下さい」とは祈りません。出世するためには祈りませんでした。それでは、三大目標とは何でしょうか。

第一に、「宇宙主管を願う前に自己主管を完成せよ」というものです。第二に、「絶対的な信仰をもとう」というものです。第三に、「絶対愛をもとう」というものです。これが三大目標です。

「私」の仕事において、サタンがうそをついてだましても、私は絶対的な信仰をもって事実を確認するまで行くのです。ですから、「サタン、お前も、最後には私を正しこに案内しなければならない」という信仰をもつのです。

15 至高な愛の理想を成就すべき人間の完成は、愛に対する責任性をもつ時に可能なのです。その責任性とは、人間が愛の自由を下さった神様に感謝しながら、自己修養、自己管掌で自由の主体になる責任です。人にとって愛の責任性は、法や世間体ゆえに守られるのではなく、神様との生命的、縦的関係の中で自己主管、自己決断で守られるのです。

  

心と体の統一


16 人の心と体を統一する方法は二つしかありません。一番目には、この体を粉々にして占領する方法であり、二番目は体を打たないで統一する方法です。強制で体を主管する方法はよくありません。それでは、どのようにしなければならないのでしょうか。今まで心は、体と対等に闘ってみることが一度もできずに、いつも負けてきました。それは心の力が弱いためです。

この心に注射を打ち、力を二倍から三倍に増やせばどうなると思いますか。そうすれば体を引っ張っていくことぐらいは問題にならないはずです。つかんで引っ張っていくことができるのです。自動車のタイヤに空気を強く吹き込めば大きく膨らむように、心にも強く力を放り込めば、どのようになるでしょうか。力が強くなります。そのあとに、心と体が闘えばどちらが勝つでしょうか。このように容赦なく体を打って占領する方法と、心に力を加える二つの方法があるのです。

17 心の力の源泉は愛です。ですから、心が授け受けして生じる爆発的な力を神様に連結さえすれば、それは何倍、何百倍、何千倍も統一できるのであり、世界万民が待ち望んでいた願いを成就できるのであり、永遠に共に暮らすことができると同時に、天国も自分のものにすることができるのです。その秘訣が正に愛です。愛は、統一に向かって上がるエレベーターであり、統一を成就できる絶対的な秘訣なのです。

18 この地に暮らしている堕落した人間は、悲しい思いが募れば募るほど、互いに分裂していきます。自分を中心として悲しめば、悪人たちの習性である分裂が起こり、善のために悲しめば、分裂していたものが一つになるのです。すなわち分かれた心と体が一つになって、天倫と統一された合一点がつくられるようになるのです。

19 統一は、「私」の心と体からしなければなりません。これを教える所が統一教会です。したがって、統一教会に入ると、他人のように疎遠に過ごしていた人も、兄弟よりも身近に過ごすようになります。また、肉身の父母ではない父母様に侍り、互いに異なる兄弟と互いに異なる国と互いに異なる民族が、一層強く糾合される高次的な愛をもっています。ですから、このようなところを「萬民之願統一世界」と言わざるを得ないのです。統一教会に入れば、このような希望の要素をもつことができるのです。

20 心と体が一つになった男性と女性、心と体が一つになったその心と体の基準とは何でしょうか。自分の心と体の基準ではありません。神様の心と体の基準、本来の先祖の心と体の基準がなければなりません。本来の神様の心の基準、神様の体の基準がなければなりません。見えない神様の心と体に似て現れたので、見えない神様の心と体の基準を中心として、地上において平衡を取っていきながら出会わなければなりません。会うのに、何で出会わなければならないのかというと、愛で出会うのです。愛で統一されるようになっているのです。

21 どんな聖人も、「心と体の統一が万事統一の基本となる」ということは主張しませんでした。「家和万事成」と言ったように、家が和合すれば万事が成就されるのは事実ですが、和合すべきその父と母の心と体が和合しているのかというとき、そうではないというのです。十人が暮らしていれば、十人の心と体が和合してすべてが一つになるべきですが、サタン世界では十人の心と体が闘っているので、二十に分かれているというのです。そこに平和はあり得ません。

22 皆さんは、個人の心と体を一つにしなければなりません。その次には、夫婦の統一です。愛を中心として互いにために生きるときに、統一が可能なのです。心は今まで一生の間、皆さんの体のために生きました。しかし、この体は心のために生きませんでした。心が体のために生きるのと同様に、体が心のために生きる立場に立って、一つにならなければなりません。

何を中心として一つになるのでしょうか。真の愛、ために生きる愛をもって一つになるのです。そのような「私」になってお互いのために生きる真の愛を中心として、夫と妻が一つにならなければなりません。そうしてこそ、枝がどんどん伸びていきます。それでこそ、大きくなるのです。それが自分で分かります。それでこそ、心が喜びます。何を見てもうれしく、仕事をしても苦しいと思わず、寝なくても疲れないというのです。

23 統一教会の「統一」とは何でしょうか。神様に心と体があるならば、心と体が一つになり、統一された場をもたなければ、神様も解放を受けた喜ばしい場に、幸福の場に出ていくことができません。神様がそうだとすれば、世界もそうだということです。世界自体も主体と対象の関係、社会も主体と対象の関係、家庭も主体と対象の関係になっています。

救援摂理は復帰摂理であり、復帰摂理は再創造摂理です。再創造摂理を通さなければ、あらゆることが成就されません。男性と女性が通じてこそ、互いに夫婦にもなることができます。主体と対象が一つにならなければ通じません。統一もそのように成立します。神様と人間が通じてこそ、一つになります。通じるというのは、体が通じ、心が通じるということです。

24 どこで統一を探すのでしょうか。統一は、犠牲になるところ、譲歩するところにあります。そのようにすれば、どこに行っても、三年モーセずに一つになるのです。三年を越えて和合投入し、犠牲になって投入すれば、新しい主人が行ったり来たりしながら一つになります。世の中が、大宇宙の真の愛の空気でいっぱいになるというのです。ですから、解放圏です。

25 統一する前に、どのようにならなければならないのでしょうか。統一は、水平の上に立たなければなりません。平和がなければ統一はできないのです。ですから平和統一です。知らない人は「統一平和だ」と言うかもしれませんが、知っている人は「平和統一」です。ですから、この言葉は、道理に従って、理屈に合うように連結されています。それは本当に驚くべきことです。それ自体が伝統的な思想をもって、そこに関係している人たちが生きていることが奇跡です。神秘的なのです。

26 和合統一は栄え、闘争分裂は滅びます。分裂すれば滅びます。すべてが相対主義になっているのに、分裂するので滅びるのです。なくなるのです。和合統一です。あらゆるものは、お互いに個性真理体として和合して統一します。上中下、右中左、前中後、これはすべて栄えるのです。補い合うので栄えます。悪は闘争しながら分裂して滅びるのであり、善は一致しながら和合しようとするので、統一されて栄えるのです。

27 平和と和合は異なります。平和はただそのままこの水平上で実現されますが、和合は二つが一つの関係を結ばなければなりません。次に、統一は核がなければ定まりません。重心がなければ大変なことになるのです。なぜ生きるのかという問題や、なぜ仕事をするのかという問題は、目的観に連結されます。「私」が宇宙の中で、どこに関係を結んで生きるかということが問題なのです。

28 自然な環境において原則を中心として従っていき、ために生きることによって広がる和合と統一は天国のものであり、反対に、強制的にこちらのために生きなさいと注文し指示するのは、和平と平和の反対となる地獄の世界です。

皆さん自身の心と体を見るとき、心は天が定めた原則を知っているので、いつでも自分に「他のために生きなさい」と言うのです。

しかし、この体は、神様が定めたことと反対の立場にいるので、強制的に「自分のために生きなさい」と言うのです。このような存在はあり得ず、自動的になくならなければならないのです。

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