第三節 真の万物主管
1 世界の主人は神様です。それでは、誰がこの地を治めるべきでしょうか。当然、この世界の主人である神様が治めなければなりません。そうでなければ、神様から愛を受ける、主人を代理する人が治めなければなりません。世界の主人は神様です。したがって、神様に忠誠を尽くす思想をもった人間が世界を治めるのです。
人類を永存させるためには、神様を主人として一つの世界、言い換えれば、より価値のある一つの世界、より永遠の一つの世界を成し遂げようという主義をもたなければなりません。それが何主義かというと、神主義です。神様の愛を受ける息子、娘になれば、「世界は私のものだ」と言えるのです。
公的に管理しなければならない万物
2 万物は、公的な法度による統治を受けるようになっています。公的な法度の主管圏内にあるというのです。人間も公的な法度の圏内に属しているのであり、万物も公的な法度の圏内に属しています。国家も公的な法度の圏内においてのみ、存続することができます。ここに私的な内容が介在するときは、存続することができないのです。
3 公的な人は、すべての万物を公的な世界の統治法で管理することができ、主管できるのです。その内容が正に天法です。皆さんがこのような原則を知っておけば、言葉を話しても、どんな行動をしても、罪にならないのです。悪を除去するための行為は罪になりません。三回以上、言い聞かせたのにもかかわらず、話を聞かないときは、打ってでも正してあげなければなりません。したがって、皆さんは、常に善と悪をえり分け、より大きなもののために生きなければなりません。天地のために生きる人々ほど恐ろしい人間はいないのです。
4 この世の中にある万物を見て、「お前は、公的な法によって治められるのを願うのか、私的な法によって治められるのを願うのか」と尋ねれば、「より公的な法によって治められたい」と言うでしょう。それはなぜでしょうか。人が最高の善の圏内に進みたいと思うのと同じように、万物も最高の善の圏内に進みたいと思うからです。ですから、世界のすべての万物と、すべての人間は、誰によって治められたいと思うのでしょうか。より公的な存在によって治められたいと思うのです。
5 皆さんは、万物を公的に管理できる人にならなければなりません。御飯を食べるときは、その御飯の価値を知って食べなければなりません。「お前は、どんな人の口に入ることを願うのか。お前は、どんな顔をもった人の口に入って骨となり、肉となり、エネルギーとなり、善の世界のために何を残したいと思うのか」と考えながら御飯を食べなければならないというのです。御飯がおなかに入るのは同じですが、たった一つの御飯粒でも、善の人に入っていくことを願うのです。より公的なものを願うというのです。
6 公的な物は恐ろしいのです。公的な物が個人の命を奪うこともあります。近頃は、都市の空気を汚染しないようにしようと言いますが、当然そのようにしなければならないのです。きれいにしなければ侵犯されます。また水もきれいにしなければなりません。このように、万物はすべて公的なものなのです。
太陽は生命の根源であり、無限の価値をもっています。私たちは、そのような太腸の光をただで受けています。太陽の光を買おうと、お金を用意して持ち歩く人を見ましたか。また太陽の光を受けたからと言って、一銭でも出した人を見ましたか。この太陽の光を売ると言えば、買いますか、買いませんか。水や空気、光などの自然物は、皆さん個人のものではありません。
7 今まで自分がもっていた物、もしくは自分所有の財産は、自分がしばらくの間、管理する過程にあるものです。すなわち、皆さんは管理人だというのです。各自がよく管理し、神様に奉献してさしあげるべきこの万物は、真の父母を経て、神様の懐に帰らなければなりません。言い換えれば、神様の物であると同時に真の父母の物であるという過程を経て、自分の物になるという事実をはっきりと知らなければなりません。
皆さんが今までこの地上で暮らしてきた慣例から見れば、ある物を指して誰々の所有だと主張することはできますが、そこにとどまってはいけません。このすべての物は、父母の名を経なければならず、神様の名を経なければなりません。そのようにしてこそ、復帰した万物の基準が完結するというのです。皆さんは、そのような日を迎えるときまで、所有主ではなく管理者です。ですから、主人に返してさしあげるそのときまで、管理人としての責任をしっかりと果たさなければなりません。このような観点から、公的な物と私的な物を明確に区分しなければならないのです。
8 皆さんは、公的な物と私的な物を、必ず秩序をもって区別しなければなりません。そのような過程を経て私的な物と公的な物の基準を明確にし、確固たる原則を中心として生きることができなければなりません。ところが、見てみると、大概は逆さまになっています。私的な物は大切に思い、公的な物はないがしろにしています。それでは絶対にいけません。
皆さんは、公的な物を大切に思うことができなければなりません。私たちがもっている私的な物を通して万物復帰の峠を越えようとすれば、まずそれを公的な物とし、教会であれぱ教会、国家であれば国家、ひいては世界の物にしなければなりません。ですから、公的な物をより重要視しなければならないのです。このように見るとき、万物よりも人であり、人よりも神様です。人間は、自分を中心として「私が一番だ」と言いますが、自分を中心としては世界復帰など話にもなりません。物よりも人であり、人よりも天です。天を中心として、すべての万物を見つめることができなければなりません。
9 皆さんが自分本位にもっている物は、皆さんの物ではありません。私が住んでいるその家が私の物ではなく、私が食べている御飯が私の物ではなく、私が使っているささいな日常の家の物すべてが私の物ではないというのです。これは、永遠無窮に継承できる公的な父を中心とした世界と、永久に関係を結んでいる公的な物であることを忘れてはいけません。私が着ている一着の服もそうであり、私がもっている生活基盤ももちろんであり、私がもっている体も私の物ではないというのです。
10 罪とは、公的な物を蹂躙することです。統一食口は、これからこのような点で最初から最後まで徹底していなければなりません。父の物は神聖な物です。その万物が神聖であってこそ、その万物を食べて生きる「私」の体が神聖になるのです。その万物が無限の価値をもつようになるとき、その万物を生活要素として暮らす「私」の体が無限の価値をもつのです。
そのような自分が無限の価値の公的な存在であると分かるとき、「私」はその公的な価値をもって家庭を統一しなければなりません。家庭を基盤として氏族、氏族を基盤として民族、民族を基盤として国家、国家を基盤として世界に前進していかなければなりません。より大きな分野に小さなものが吸収され、小さなものが祭物になっていかなければならない私たちなのです。
11 皆さんは、寝ても覚めても、父の国は私たちの国であり、父の民は私たちの民であり、父の物は私たちの物になるようにしなければなりません。これは、神様の心情と、「私」の一身を通して、心情的な二つの相対的基盤の上に乗せられ、生活し、存在することを願うことです。これが造られた被造万物です。
ですから、心情を取り去ってそれらを扱うのは罪だというのです。心情から外れれば罪になるというのです。私たちは、兄弟と向き合うとき、私たちの世代においては神様を立ち会わせ、神様の心情を連結させて向き合えなければなりません。そして、物質を扱うときにも、神様の心情を立ち会わせて扱えなければなりません。
12 「私」自身は公的な物をもっているのか、私的な物をもっているのか、これが問題です。皆さんは、「自分の物」という観念を超越しなければなりません。これが今後の世界人類に教えるべき最も大きな教訓です。皆さんは、自分の物という観念を否定し、公的な物であるという観念をもって進まなければなりません。
被造世界のすべての万物は、ある特定の個人に固着している所有物ではありません。自分の土地だと言って、それが良いと過度に誇れば滅びるのです。それは公的な物だからです。自分は、ただそれを管理しているだけです。その統治法に従って、自らが公的な管理人として管理すれば永遠に管理できますが、管理法に従わなければ滅びるのです。
13 公的管理法、万物に対する公的な管理法を、誰も知らずにいます。万物に対する真の価値を設定するときになってこそ、聖書で言う万物の解放時代を迎えるのです。そのようにすることなく万物に対するのは、管理ではなく強奪です。したがって、万物には真の主人が必要です。万物は今まで、公的な権限と価値を賦与されませんでした。万物は、そのような立場で治められることを願っています。すなわち、万物は真の愛の管理を受けなければならないということです。真は、自分を中心としたものではありません。
14 妻は夫のために、子女は父母のために、また父母は家庭のために、祖父と祖母も家庭のために、孫も家庭のために、このように愛によって互いのために生きるのが幸福なのです。すべての家族が、自分のものにしようとするよりも、自分たちのものにしようと努力し、祖父も節約して自分たちのものにしようとし、父と母も自分たちのものにするために節約し、息子、娘もそのようにし、家族全員が自分たちのものを拡大させるために努力する家は繁栄するでしょう。
ですから、お金を節約し、全体のために生きるところから愛の家が拡大されるのです。このような家庭を中心として、社会や世界に広がっていくときに理想実現が可能なのであって、自分のもの、自分を中心としてではできません。
15 統一教会の宣教師は、西欧文明社会の豪華な要素を必要としないほど訓練されています。私たちは新しい文化をもっているからです。それが開拓精神です。私たちの若者は、どこに行っても不慣れなことがありません。私たちの宣教師は、豪華な家具なしで、最も質素な生活道具だけをもって暮らします。皆さんが宣教師になって悲しみに沈んでいる人たちを伝道するときは、まず涙の心情をもたなければなりません。皆さんは、神様が悲しみの神様であることを彼らに認識させてあげなければならないのです。神様は、悲しみにくれている人々と共に泣くのを願っていらっしゃることを知らなければなりません。
16 皆さんが、捨てるべきではない物をたくさん捨て、消耗すべきではない物をたくさん消耗するのをたくさん見てきました。ですから、どのようにしてでも、世界のため、神様のみ旨のため、この国の復帰のために、一銭でも節約できる道を模索しなければなりません。ですから、経済的管理において、より一層節約できる道を開拓しなければなりません。
17 原理的に見るとき、浪費は罪です。私たちは、生まれるときから一定量の消耗品を使うようになっています。それ以上使えば罪なのです。私たちは、残していかなければならないというのです。そうでなければ、私たちの子孫がそれを負債として相続します。そのようなことを誰かが教育してくれますか。教育以前に、原理が先生です。自然が先生であり、海が先生です。
18 大切にし、節約し、苦労して何をしようというのですか。後代のために良いことをしようというのです。それで世界に誇れる基盤をつくるという思想をもとうというのです。そのような思想の伝統を十年残し、そのような思想の伝統を百年残し、そのような思想の伝統を千年残すとき、大韓民国が世界から推戴を受ける民族になるのは間違いありません。ですから、このような原則で指導しようというのが先生の思想です。反対を受けている現在においては、最も悪い思想だと見ることもできますが、のちのちにはこの思想だけが残り、この思想だけが勝利すると考えるので、このような道を歩み始めたのです。
万物主管と健康
19 断食をしてみた人は、時間がどれほどたくさんあるか分かるでしょう。御飯を三食食べると、どれほど多くの時間を消費するか分かるでしょう。また精神的にも、りんごを一つ食べようと冷蔵庫を開いてのぞき込み、コーラを一本飲もうと行ったり来たりする精神的消耗がどれほど多いでしょうか。食事のときだけ食べる習慣が必要です。そのようにすれば、病気にもならず、健康になるというのです。
20 おなかがすいて御飯を食べるにしても、御飯を茶碗に山盛りにして食べるのではなく、五分の二を除いた五分の三を食べて満足できる基準を持ちなさいというのです。そうしてこそ知恵深い人です。何でも節約できなければなりません。「最高に節約していくらで暮らせるか」、このような訓練をして、最低三カ月間は各自の記録を出し、自ら最大の限界点までやってみなければなりません。そのようにしてどうなるか、見てみようというのです。
21 神様を直接愛する前に、皆さんの足先から、皆さんが食べる食べ物を愛し、物質を愛し、万物を愛し、皆さんの体を愛さなければなりません。万物を愛することによって万物の要素を吸収し、「私」の体を愛するようになるのです。皆さんの第一の父母は皆さんを生んでくれた父母ですが、第二の父母は地球です。この地です。皆さんは地から、皆さんの肉身が大きくなるように要素を供給されたのです。ですから、地を愛しなさいというのです。
22 誰であっても、多くの動物と魚を愛して放せば、子孫が繁栄するというのはもっともな言葉です。自分の故郷の地で暮らせば風土病にかかりません。身土不二(しんどふじ)です!その地域の土を踏み、空気を吸い、穀物を食べ、野菜を食べ、水を飲むのが身土不二です。
自分が暮らした故郷の地と同じ所を、世界的に一、二、三、四、五、六、七番から何百まで定めることができれば、そこを順番に遊覧しながら暮らすことができます。世界が一つの光復の祖国彊土(きょうど)にならざるを得ない時代になるというのです。
海にも、西洋と東洋が均衡を取れるよう、魚がよく育つことのできる海流が流れています。空気も勝手気ままに流れるのではありません。気温の差に従って流れるのですが、均衡が取れているのです。そのように、均衡を取ることを考え、絶滅する動植物の種を繁殖させる訓練を小学校のときからしなければなりません。そのようにすれば、一つの世界にならざるを得ないのです。
23 原理的に見るとき、完全な人間は、精神と肉体が神様の心情と絶対価値を中心に統一的な関係をもち、健康な状態で正しい役割を果たさなければなりません。いくら健全な精神をもっているとしても、健康な肉体をもてなければ完全な人にはなれず、それとは反対に、健康な肉体を所有していても、精神が正しくなければ正しい人間の役割を果たすことはできません。このような事実を認識し、皆さんは体と心が正しい統一を成就していけるよう、絶えず精進しなければなりません。
24 万物世界は、神様の産毛のようなものです。これが汗で流れ、時が来て落ちていく立場にあったとしても、神様の体と一致していた存在として「私」が愛し、触れるのと同じように、万物を愛しながら食べて生きてこそ、病気にならないというのです。神様が愛するものを造られたので、造られたその愛するものを神様のように愛し、神様の代わりに食べてあげて、神様の代わりの人格になるとき、すべての栄養素は健康を支えるようになっているのです。病気になって死ぬようにはなっていません。そのようにするためには、神様の愛と生命と血統と一つにならなければなりません。神様の代身存在にならなければならないのです。
25 人間は、どれほど素晴らしいでしょうか!愛のオーケストラを演奏し、愛の脈拍を中心として宇宙を生かしていく動物と植物を食べて暮らします。愛の結実を食べて生きるというのです。花も結局、愛の結実です。葉も愛の結実です。このような愛の結実を食べて生きるので、どれほど幸福な「私」自身かというのです。
愛の結実を食べて暮らす人間は、病気がありません。真の愛の実を食べて生きる人間は病気にならないのです。食堂で食事をするとき、パンが一つ残っていたとしても、「これが、世界的に数多くの手を経てここまで来るのに、どれほど多くの旅行手段があり、どれほどたくさんの苦痛を克服して来ただろうか。すべての人の努力の実、愛の実として作ったものを持ってきて私に献上されたものなのだから、これを愛の主人である私が、相対のように思いながら食べなければならない」と言わなければなりません。そのようにするのが嫌な人は、病気がついてくるようになっているのであり、喜ぶ人は病気が退くようになるのです。愛で満ちた世界の実を取って食べる仙人が人間だというのです。
26 愛する心をもって食べ物と向き合うとき、その食べられる食べ物は、「あなたの血と肉になり、力になって神様を愛することのできる元素として私が吸収される、この驚くべき事実に感謝します」と言いながら、早く口に入っていこうとするのです。牛の肉を食べても、「この牛肉は、子牛のときから母親が愛し、主人が愛で育ててここまで来た愛の結実なのだなあ!」ということが分からなければなりません。愛の実を食べて生きるという概念を中心として愛し、神様の本質的愛と一致する立場で食べて感謝する人は、病気にもならないというのが理論的な結論です。
27 皆さんが食べている食べ物は、すべて実りです。すべての万物の実りを食べているのです。美しさの種の本体、美しさの生命体が縮小した物を食べているのです。
私たち自身がその価値ある物を食べている以上、それを価値ある愛を中心として完成するために、大きくなるために食べていることを忘れてはいけません。そのような心をもって食べれば、病気にもならず、健康によく育つことができるという話が成立するのです。
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