第三節 真の人間の生活
1 真の愛の人生は、一言で言うとために生きる人生です。人が自分のために与えてくれることを願う前に、まず人のために与える生き方です。そして、人のために与えたことを忘れてしまう生き方です。与えてあげたといって何かを期待する生き方ではありません。与えても、もっと多く与えることができずに心を痛める生き方です。ために生きるにおいても、頭を下げて与える生き方です。それが父母の愛であり主人の愛です。人類の真の父母である神様がそうなのです。
ために生きる人生哲学
2 神様を愛するほど人を愛するようになれば、神様が「私」を愛するように、また人が「私」を愛するのです。ですから、聖書においてイエス様も、「人の前でわたしを受けいれる者を、わたしもまた、天にいますわたしの父の前で受けいれるであろう」(マタイ一〇・三二)と言われました。同じ道理です。神様を愛するように人を愛しなさいというのです。
そこにおいては、何を投入しても考えず、惜しまず、何を投入したか記憶してはいけないというのです。食べるものがあれば、それを食べずに取っておいて、自分が食べられなくても与えたいと思い、一人では食べられないといって食口たちのことを考えられる、そのような父母の心を備えた責任者にならなければなりません。
3 いつでも神様の愛を中心として主体にならなければなりません。影響を及ぼさなければなりません。影響を及ぼすというのは、どういうことでしょうか。与えなければならないということです。与えるときには、どのように与えなければならないのでしょうか。食べ残した残りかすを与えてはいけません。食べ残した残りかすをあげれば、食べてからも気分が悪く、唾を吐くのです。
餅をあげるにしても、あれこれ取ったり置いたりしてからあげるときは、かえってあげないよりもっと気分が悪いというのです。五つある餅を人にあげるのに、半分くらいそのままあげてこそ「有り難い」と言うのであって、あれこれとつまんでからあげれば、世話になる人が、あとから批評するのです。ですから、与えるときは、神様と共に父母の心情で与えなさいというのです。
4 自分を中心として作用しようというのは悪をもたらしますが、全体のために作用しようというのは発展をもたらすのです。全体のために行くところには、すべてのものが門を開くというのです。個人も門を開き、家庭も門を開き、氏族も門を開き、民族も門を開き、世界も門を開き、天の国も門を開き、愛の道やすべての道が門を開いて歓迎するというのです。統一教会は、このような観点から、ために生きる道を行きなさい、ために生きなさい、ために生まれた、という天理を教えるのです。
5 もし皆さんのために誰かが心から生命を尽くし、犠牲になりながら一〇〇パーセント与えた人がいるとすれば、皆さんの本心がその恩を返すのに、五〇パーセントはポケットに入れて、五〇パーセントだけ返したいと思うでしょうか。それとも、あるだけすべて返したいと思うでしょうか。誰でも、もっと返したいと思うのが人間の本心です。
心から愛して与えたことを知れば、一〇〇パーセント以上返すというのです。このようにすることによって、ここに永遠という概念が設定されます。永遠が始まるのです。ですから、このような原則を立てざるを得ません。ここから発展と繁栄が広がるのです。
6 父母の愛は良いものですが、父母の愛が父母のために生きなさいという愛であれば、子女はその父母の愛を必要としません。子女の愛は良いものですが、子女が自分のために生きなさいという愛であれば、その愛は父母も願いません。
自分が十を与えたなら、ために生きる愛は必ず十一で返ってきます。ために生きる愛はそうなのです。相対が小さなもので「私」を愛し、ために生きてくれたなら、「私」はそれ以上のもので返してあげたいと思うのです。これは、どんどん拡大していきます。拡大しながら時がたち、一生の間そのようにすれば、これが国を越え、世界を越え、永遠の世界、天国を越え、天上世界を越えていくのです。
「私のために生きなさい」と言う者は減少します。一度したのち、二度目にするときには、十だったその愛が減少して八に落ちるのです。夜も昼も私だけのために生きなさいというのは、心が逆に巻き込まれていきます。愛は相対から来るのですが、ために生きようとするその道に従うことによってのみ、純粋な理想的愛が往来するのです。
7 個人主義思想はあり得ません。自体自覚から、自分に利益になるようにしようという思想を中心としてエバが天使長と一つになったため、その道を否定しなければなりません。今までは利己思想について語りましたが、これからは利己ではありません。利他主義思想を語らなければなりません。
「利己」とは何かと言えば、「我」だというのです。相対が「私」だというのです。カイン世界のために生きなければならないというのですが、そうではありません。一つの体なので、一つにならなければならないのです。利己的思想の時代ではなく、利他的思想時代です。「私」が相対を創造し、「私」と一体化させ、より大きな「私」にできる道を行ってこそ天に帰るのであって、自分第一主義で進んでいく人は天国に行けません。それが原理です。
一つのモデルが中心になっていれば、中心の四方を中心として、三六〇度は同じ度数で分けられなければなりません。そこには境界線もなく、平等、平和、統一です。また自由です。ですから、利已的な思想ではありません。利他的な思想によって「私」の体と心から、より大きな心を中心として体が一つにならなければなりません。カインを屈服させる「私」にならなければならないのです。
8 与えてくれる父母に対しては、「私」も返さなければならないので、孝行せざるを得ないのです。生命は、皆さん自身を中心として出発したのではなく、宇宙の根本から生じました。その宇宙全体がために生きる場にあるのですが、それを否定する存在は、なくならなければなりません。根源がないので、消えなければならないのです。
人間は、ために生きるために生まれたというのです。ために生きるときは、愛の相対のために生きなさいというのです。父母のために生きるときは、その父母の愛を「私」が受けて、育ててあげなければならないので、年老いた父母ほど、(「私」は)ために生きなければなりません。そのようにすれば、自分の家庭が大きくなるのです。
国を受け継ごうとするのであれば、夫婦同士で愛するよりもっと大きく、国のために生きる家庭にならなければなりません。そうしてこそ、その国が抱くことのできる家庭になるのです。家庭よりさらに大きな国、国よりさらに大きな世界のために生きなければなりません。その次には、より大きな世界である天地、天地よりさらに大きな神様のために生きなければなりません。
み旨にかなう心情生活
9 サタンの侵犯は、神様の心情を蹂躙する所から出発したので、サタンを屈服させて審判できる一番の基準は、神様の心情を復活させることです。すなわち、神様の心情を再び誘発させるところから、勝利の基台が整えられるということです。そのため、終わりの日にはみ言審判、人格審判、心情審判があります。
そのみ言と人格と心情が審判の基準なのですが、その基準がどの段階でなければならないのでしょうか。アダムとエバが堕落する前の段階の基準、それ以上の位置に上がらなければなりません。そのようにしなければ、み言を再び探し出したという立場で、勝利の旗を持って現れることができません。そのみ言と実体を完成したという立場にも立つことができず、またみ言の実体であられる神様のみ前に呼ばれた者として、神様の心情を相続したという立場にも立つことができないというのです。その基準は、アダムとエバが堕落する前の段階よりさらに次元の高い段階で決定しなければなりません。ですから、統一教会では完成時代の神様の心情を教えてあげるのです。
10 アダムとエバは、長成期完成級で堕落するとき、神様の心情を推し量ることができませんでしたが、統一教会では完成時代において、神様の心情を教えてきました。完成を中心とした神様のみ旨がどういうものかということを教えてきたのです。ですから、その基準以上の位置に立たなければ、サタンがアダムとエバを堕落させたその基準を清算することができないので、皆さんはそのような位置に進まなければなりません。しかし、この世界人類を見るとき、今までそのような場に進んだ人は一人もいませんでした。その場に私たちが行こうというのです。
11 皆さんは一つの志を立て、それと共に生活しなければなりません。神様が動じる生活、歴史が動く生活、人類が手本とする生活、子孫が後ろに従ってくる生活をしなければなりません。そして、行動は強く、大胆でなければなりません。神様がヨシュアに、「強く、また雄々しくあれ。あなたは歴史的な神を忘れてはならない」と言ったように、神様は摂理のみ旨を成就するために、中心人物にあらかじめ勧告しておかれるのです。怨讐との闘いを天が命令するときには、必ず勝つようになっています。この世的な志を立て、それに従って生活し、行動すれば、そこにはサタンが侵犯します。ですから、どのような志を立てたかが問題なのです。世の中で公認された志ではいけません。世の中で公認する生活ではいけないのです。心情的に公認を受けられる志を立てなければなりません。
12 志と生活と行動には、心情が裏づけされなければなりません。歴史的心情、復帰的心情、創造的心情、汎人類的心情、このような心情を中心として、志と生活と行動が成されなければなりません。アダムとエバにおいては、蘇生、長成、完成の段階を経て、完成したのちにこそ心情問題が台頭してくるのです。
これから新しい時代における中心問題は心情です。神様の心情を中心として生活しなければなりません。神様の心情は、復帰の心情、創造の心情です。堕落がなかったならば復帰の心情はなかったでしょう。栄光の心情、見るだけで喜ばしい創造の心情だけがあったでしょう。ところが、堕落して復帰の心情が生じたのです。ですから、そのみ旨を果たさなければなりません。
皆さんが神様のみ旨を中心として、神様の理念を中心として、今まで復帰路程において悲しまれた神様の心情を解いてさしあげなければなりません。アダムとエバが神様のみ前に栄光の一日を成し遂げてさしあげられずに堕落したので、それを皆さんが成し遂げてさしあげなければなりません。復帰的な心情と創造的な心情をもって、神様のみ前に栄光の一日を成し遂げてさしあげなければなりません。
真の人間の生活
13 イギリスやアメリカを訪問した日本人やドイツ人を、怨讐の国の人と考えてはいけません。怨讐の国の人でも、自分の家族の延長だと考えなければならないのです。世界のどこに行っても、老人を見れば、自分の祖母を愛する以上に愛さなければなりません。そのようにしてこそ、天の前に近づくことができるのです。
そのような環境になれば、アメリカの祖母も、日本の子女たちを実の孫のようにかわいがるのです。自分の孫がいれば、国家を越えて結婚させてあげたいと考えるようになるのです。愛は偉大なものです。環境を越えて、自分の最も近い所に置きたいと思うのが愛の世界です。家庭は天国生活の訓練場です。それを拡大したのが地上天国であり天上天国です。先生がアメリカに対して心配したのは、そのためだったのです。
14 家庭の生活において、愛を中心として一つになったモデル的なその形態は、教科書と同じです。これを拡大したのが世界です。世界は、祖父母の年齢、父母の年齢、自分たち夫婦の年齢、息子、娘の年齢に等級が分かれているのです。そのように互いに違う年齢の等級が一つの家庭において訓練され、一つになった形でその公式を通して和合できる者になれば、世界のどこに行っても、天国、天下のどこに行ってもその相続を受けることができ、そこに同参することができ、主人の位置に入ることができるのです。天国は家庭です。そのような愛の経験をもって国境を越え、兄弟姉妹のように愛する世界が地上天国です。そのように生きた人が、永遠の天国に連結されるのです。それは人生最高の成功であり、最高の幸福の道なのです。
15 男性と女性は、互いが理想的な道を完成させる相対です。相対がいなければ真の愛を見つけることができないので、「私」が完成できないのです。皆さんの父母がサインしなければならず、祖父母がOKしなければならず、自分の相対がOKし、息子、娘が「間違いなく私たちのお父さんはOKだ」と言うことができるその時、息子、娘は幸福を感じるのです。神様の代身者、この宇宙の王の代身者に侍って暮らす幸福な皇太子、皇女として暮らすことができ、王宮で宮中生活ができるので幸福だというのです。そこが天国です。それを先生が発見し、教え、実践するのです。
16 天国は家庭からです。祖父母は神様の代身であり、父母は現在の代身であり、息子、娘は未来です。過去と現在と未来が縮小されています。ですから、父母はこの世を代表します。祖父母は神様を身代わりしているのです。祖父母は過去の神様の位置であり、父母は現在の神様の位置であり、息子、娘は未来の神様の位置です。真の愛を中心としては同等なのです。
真の愛の論理を中心として、平等であり、同等な内容の価値、本質的な一体理想観を形成できるのです。真の愛を中心として、ために生きる愛の核を中心として、東西南北、四方が一つに絡み合うとき、その場は永遠に神様の愛の運勢が保護するため、これは神様の愛の相対として永遠に不滅です。永生するというのです。
17 真の父母は横的なので、そこには縦的なものを必要とするのです。この縦的な父母に似たのが心です。縦的な愛と生命と血統を受け継いだのが良心であり、横的な愛と生命と血統を受け継いだのが体です。そのため、九〇度になることのできる人情と天情が合徳(和合)し、永遠に固着したその場に神様が安着されるのです。すべての万福の起源がそこから無限にあふれるので、永生幸福の福ある世界が出てくるのです。このような家庭天国を形成しなければなりません。そのような生活圏を拡大すれば、世界になるのです。
18 神様の愛を知り、父母の愛を知り、父母に侍ることができ、夫の愛を知り、夫に侍ることができ、子女の愛を知り、子女に侍ることができなければなりません。子女に命令をするだけでなく、侍ることもできなければならないのです。ために生きることができなければなりません。そうしてこそ、神様の愛を理解することができます。
教材として必要なのです。子女がいなければ未完成です。神様の愛を知ることはできません。神様が人間を、子女をどれほど愛されたか分からないというのです。夫になってみなければ妻の愛が分からず、妻になってみなければ夫の愛が分かりません。また父母になってみなければ、父母の愛がどのようなものか分からないのです。それをまとめて分からせるための教材として造ったのです。ですから、息子、娘がいなければ真の父母になれません。
本然のその原則、規範に合格できる一等品になるためには、父母が必要であり、妻が必要であり、子女をもたなければなりません。そうしてこそ、神様の愛を体恤できる一等品として、この宇宙が判を押してくれるのです。それでこそ、天国に自然と入っていくというのです。
19 神様が喜ばれ、悲しまれることを常に判別しながら生きる人は、悪なる人になろうとしてもなることができず、天の法度に背こうとしても背くことができません。公的であれ私的であれ、神様が最も嫌われる人は、対人関係において他の人を利用しようとする人です。その次は、何でも自分の利益を中心として判断しようとする人です。
神様が好まれる人は、譲歩する人です。譲歩とは、自分がひたすらその人についていくことです。その人がしようと言うとおりに、ひたすらついていくのです。ひたすらついていけば回るようになり、回ってみれば、あとから自分がその位置を占領するようになります。結局は、その人のすべてのものを占領できるというのです。
20 常に柔和、謙遜で、その人がしようと言うとおりに従順、服従、屈服しなければなりません。それは、その人を完全に占領するためです。人だけを占領するのではなく、その人の全体を占領するための作載です。したがって信仰世界においては、自分を否定し、代わりに相手の要求に完全に順応していく作戦を取らなければなりません。それは自分自体がなくなるのではなく、相手を完全に占領するための一つの作戦なのです。このようなことを生活において感知しなければなりません。
21 驕慢は怨讐です。驕慢と固執はサタンの本質であり、サタンの要素です。ですから、秘たちは驕慢になる代わりに議遜になり、固執する代わりに和合しなければなりません。「和而有親」です。この人にもよくしてあげ、あの人にもよくしてあげる人にならなければなりません。そのようになれば、ここからすべてのことが通じるようになるのです。この人とあの人、二人が一つにならなければ、より大きいものが出てこないのです。和合しなければそのようになります。サタンの本質には、妬みと嫉妬のようなものもありますが、驕慢と固執は、私たちには許されないものです。
22 統一教会は聖人をつくろうというのです。偉人の前には怨讐がいますが、聖人の前には怨讐がいません。偉人は自分の民族だけを愛した人ですが、聖人は人類を愛した人です。ですから、偉人が神様のみ前に出ていくとき、「お前は自分の民族は愛したが、私が愛する、私が求める世界人類を愛することができなかったではないか」と言われれば、神様のみ前に出ていくことができませんが、聖人の道理に従っていった人は、神様のみ前に直行できるのです。統一教会は聖人をつくろうというのです。
23 神様をあがめる人は血を流さなければならず、神様を愛そうとする人は涙を流さなければなりません。目から涙が乾いてはいけません。そして、神様を探し求めていこうという人は汗を流さなければなりません。それで、父母の心情で僕の体を用い、人類のため、アベルの立場で犠牲になって奉仕し、精誠を尽くして与えなさいというのです。そのように与えながら誇るのではなく、もっと良いものを与えたいという思いをもち、恥ずかしさを感じながら与えなさいというのです。それが神主義です。
24 先生が今まで夜を徹しながら人に対しているのは、すべての人を好きになるためです。人を嫌っては復帰歴史に責任をもつことはできません。悪人も好きにならなければならないし、善人も好きにならなければなりません。すべての人を好きにならなければ神様を身代わりできないからです。
堕落とは、神様の世界から反対の立場に落ちたことです。この世界を、悪の立場に落としたのが堕落です。神様も、「この世界は悪い」と言うようになれば、神様ではありません。神様が復帰摂理をすることができないというのです。神様がこの世界を「良い」と言いながら造ったのに、「堕落したから、この世界は悪い」と言う立場に降りてくれば、神様ではないというのです。ですから、悪いことも良いことのように対するのが原則です。ですから、イエス様も「怨讐を愛しなさい」と言われたのです。
25 「怨讐を愛しなさい」というのは、「怨讐がいない立場に立ちなさい」ということです。怨讐がいない立場に立ちなさいということは、エデンの園で堕落圏を迎えていない本然の世界、本然の位置に帰った状態になりなさいということです。私たちは、これを中心として闘うのです。すべてがそのようになるために闘うのです。ですから、皆さんが最初に人に対するときは、悪い人だとしても、悪く見てはいけないというのです。
真の忠臣、孝子の人生
26 正午定着をする家庭、影のない家庭にならなければなりません。エデンの園では、影のない真の愛だったので、愛するのに影があってはいけません。ですから、世の中の万事、すべてのものがそこに来てつながり、一つになるようになっているのです。そこに他のものが進み出て自己主張することはできません。ですから、絶対信仰、絶対愛、絶対服従です。そのため、自分がないのです。真の愛の前には、すべてがそのようになります。影のない定着をアダム家庭で成し遂げ、アダム一族、アダム民族、アダム国家、アダム世界にならなければなりません。
27 神様がその中で夜も昼も思いどおりに安息できる、影のない家庭にならなければなりません。そのような場所が神様の創造理想なので、私たちがこのように生きるのは、神様を個人から天上世界まで、永遠に父として侍り、その父のみ前に孝子、孝女の家庭になり、忠臣、忠女の家庭になり、聖人夫婦の家庭になり、聖子と聖女の家庭になるためなのです。
その家庭において、神様は自由自在にどこへでも行くことができます。末裔から一度に何代かの先祖まで思いどおりに行き、思いどおりに帰ってくることができ、四方、天地に神様が思いどおりに通じることのできる、影のないその世界が天地に連結されるとき、地上天国になり、天上世界の天国になるのです。影のない正午定着にならなければなりません。
28 皆さんは影のある生活をしてはいけません。それで正午定着を宣布しました。それは素晴らしい言葉です。影がありません。体と心が一つになり、家庭の四位基台が一つにならなければなりません。父が誤れば父の影が生じ、母が誤れば母の影が生じ、四人家族で四人が定着できなければ、光の混乱が起こるのです。影がある所は、みな嫌がります。ですから、正午定着をしなければなりません。
あちらの国に行っても影があってはならないのです。影がない所で個人から家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙、神様まで八段階の垂直線を往来する方が神様です。神様の愛に影が生じるかというのです。純愛そのものです。ですから、誰もが純潔な血を願うのです。誰もが影を嫌がるのです。影はサタンです。ですから、何であっても、誤れば隠そうとするのです。それが怨讐です。国境線がそうです。国境撒廃は正午定着を意味します。これは象徴的な話ではありません。必ずこのようにしなければならないのです。
29 真の父母の前に真の孝子、真の忠臣、真の聖人、真の聖子の道理を果たさなければなりません。それによって初めて王権樹立になるのです。敬い侍る息子、娘の権限がそれだけ拡大すれば、その上に立てなければならないのが天の国の王権です。王権を立ててそこに即位することにより、サタン世界はなくならなければならないのです。
30 これから、家庭を中心として、新しい忠臣、聖人、聖子の道理を果たして生きた人々の歴史を、伝統として新たに立てなければなりません。
今までの蕩減時代の伝統ではなく、理想世界の新しい伝統を立てなければなりません。その伝統が、皆さんが天の国に永遠に暮らすことのできる伝統になるのです。真の孝子、孝女の道、真の忠臣、烈女の道を立て、聖人、聖子の家庭の道理をここで準備していかなければなりません。
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