天聖經(増補版)/第三篇 真の愛

目次

第三章 真の愛の実践

第二節 真の愛の実践


1 神様の愛の本質と和合できる内容を備えなければ、善にはなり得ません。愛は、自分が主体的な立場を強調するものではありません。対象的な立場を強調するのです。自分を主張していては、行くことができないのです。「私」一人が孤独になれば、国の主人にはなれません。必ず相対的価値を決定しなければなりません。男性と女性は、必ず家庭で公認を受けることができる人にならなければなりません。これが理想天国における組織の根本思想です。

男性が女性に絶対的な公認を受けることができなければ、理想世界で絶対的な公認を受けることはできません。一人の女性に世界的な価値を公認されない男性が、世界的な価値の世界を迎えるというのは矛盾です。そのような価値の世界を堂々と迎えるのに不足のない人、そのような家庭の主人公にならなければなりません。その家庭は、二つではなく一つです。その家庭は、主体になって氏族のために犠牲と克服の生活をしなければなりません。その目的は、自分に置くのではなく相対に置くのです。

2 愛の道は、あちらこちらに行ったりはしません。一つの道しかありません。愛の道は、二つの道ですか、一つの道ですか。一つの道です。一つの道だけを行くようになれば、これが通じないところはありません。愛の道は、貞淑な道であり、静かな道であり、司祭が祭事を捧げる瞬間がそうであるように慎重な道です。

  

犠牲を通した真の愛の道


3 人の生命は、愛の理想を中心として宿ったものなので、人間の生命の本質は愛です。ですから、愛を本質として生まれた生命は、神様がそうされたように「ために生きる人生」を生きなければならないのが天理原則です。したがって、人間は、真の愛のために生まれた存在だと言うことができるのです。

真の愛は、ために生きるところから始まります。創造本然の人間は、その心と体に神様の真の愛を備え、そのまま感応しながら生きるようになっています。言い換えれば、心は真の愛を中心として神様と感応し、体は自動的に心に共鳴するのです。体と心が闘わない真の統一の起源は、神様の真の愛をそのまま引き継いで体感するところにあるのです。

4 神様の愛は、天の国に現れるのではありません。万宇宙、存在世界の前に現れ、人間の前に現れなければなりません。父母の愛も子女の前に現れるのです。夫の愛は妻の前に現れるのであり、妻の愛は夫の前に現れるのです。それが愛の公約であり、愛の行く方向です。その道に従わなければ、愛を成し遂げることはできません。

5 神様の愛のためには、神様も犠牲にならなければならず、人類も犠牲にならなければなりません。それが、私たちが行くべき道です。なぜそのように行かなければならないのでしょうか。神様がそのように行かれるので、私たちも神様と一緒に行くには、その道に進み出なければなりません。ですから、その道に行く立場は、「私」個人が家庭で神様と同参できる資格をもつ立場です。その次に、「私」の家庭が氏族と民族と国家と世界と天宙まで同参できる資格をもつ立場です。愛の世界を出発する時から愛の世界を過ぎていく時まで、そのような資格をもつのです。これは、神様の愛を中心として出発し、神様の愛を中心とする愛の方向に常に同参者になったと言うことができます。そうすれば、堕落圏を抜け出ることができるのです。

6 愛の道は、自分のために生きることではなく、自分を犠牲にすることです。愛する人の一言を聞けば、十年の苦労も克服できるのです。それは驚くべきことです。愛する夫や愛する妻と約束した一言を中心として、十年どころか一生の間も苦労できるのです。そして、その克服すべきすべての過程が険しければ険しいほど、難しければ難しいほど、悲惨であれば悲惨であるほど、約束した内容の愛は、より高い次元の立体的価値をもつようになるのです。

7 夫が妻のために犠牲になる心をもつようになるとき、妻は絶対的なその犠牲の前に、相対になるために、ひたすら努力します。嫌いながら努力するのではなく、心から喜びながら努力するようになっています。ここには苦痛がありません。犠牲はありますが、その犠牲は不幸な犠牲ではなく、甘くて奇妙な味が漂うのです。父母が子女を愛するところには、犠牲が同伴します。犠牲になって代価を払いなさいというのではなく、忘れるのです。与えて忘れるのが愛を通した犠牲です。神様は、今まで万民のためにたくさんのものを与えて犠牲になってきましたが、与えたあとはその犠牲の代価を忘れてしまいました。ですから、右の手がすることを左の手が知らないようにしなさいと言ったのです。何かをあげたのでこれを受けようと考える人は、愛の主人ではありません。与えて忘れる人が愛の中心者です。

8 人間は、神様が願う愛の道を探していかなければなりません。悪魔が願う堕落の道を否定し、神様が願う愛の道を探していってこそ悪魔が分立されます。知識があるといって、教理をもっと知っているといって、能力があるからといって、知恵があるからといって分立されるのではありません。愛がなければなりません。キリスト教が今まで残っているのは、犠牲になってきたからです。血を流してきたので残ることができたのです。

9 愛の道は、利用される道です。もっと大きな所に向かって利用される道なのです。個人は家庭に利用されようとし、家庭を引っ張って国のところに行って利用されようとする道です。また、国を引っ張っていって世界で利用されようとする道なのです。世界を引っ張っていって天地で利用されようとし、天地を引っ張っていって神様に利用されようとする道が真の愛の道です。

10 長い間、耐える道が宗教の道であり、長い間、耐えて犠牲になるのが宗教の道です。忍耐と犠牲で、探し出された偉大な愛の世界のために神様を信じていくのです。神様が「愛」と言うとき、その裏には犠牲が宿り、忍酎が宿っているのです。

11 愛する人との愛や父子関係の愛は、季節に関係ありません。自分の愛する人のために涙を流すその涙は、春や夏や秋や冬などの季節を超越します。真の愛は、若い時代、中年時代、老年時代を超越します。永生することができ、永遠に喜び、永遠に幸福になることができる軌道のようなものが真の愛です。世の中に変動が起き、革命が起き、生死の境が変わることがあっても、愛だけは変わりません。いつも、そのような心情的な環境をつくっていかなければなりません。そのような環境を続けるためには、祈りの生活が必要です。そのようにすることによって育ちます。み旨の道を行くところには、愛の道を求めていくところには、監獄が問題ではなく、死が問題ではありません。死を克服し、困難を克服できる道が、真の愛を求めていく道なのです。

12 真が永存することができ、時空を超越して永続できる力に連結されるためには、神様の真の愛に連結されなければなりません。私たちは、愛のために犠牲になって相対的愛を立てなければなりません。夫婦を犠牲にして家庭を探し、家庭を犠牲にして氏族を探し、氏族を犠牲にして民族を探し、民族を犠牲にして国家を探し、国家を犠牲にして世界を探し、世界を犠牲にして天地を探し、天地を犠牲にして神様を探し、神様までも犠牲にして愛の道を行こうというのです。神様も犠牲になられるというのです。愛のために神様も犠牲になっていらっしゃいます。

  

犠牲になる人は中心になる


13 愛の道を探していこうとすれば、犠牲になり、奉仕をしなければなりません。犠牲と奉仕がなければ、十の愛をもってきた人が、百、千、万の道を行こうとしても、行くことができません。先祖が悪ければ、十の愛ももってくることができません。しかし、十の愛を持ってきた人も、百、千、万の道を行くことができる道があるならば、そのような道を一度行ってみたいと思うのです。

先生は、これを知ったので、ありとあらゆる辱めを受け、監獄に入って死ぬほどの苦痛を受けながらも耐えてきたのです。ですから、民族のために生きて愛することにおいて、誰よりも犠牲になろうとします。愛することにおいても、これくらい愛すればいいだろうと思っていても、先生よりも犠牲と愛の度数が高い人がいれば、先生は、その千倍、万倍犠牲になって愛さなければならないと思うのです。その道を行こうとするのです。そのような先生になってこそ、神様が愛を注いでくださるのです。

14 人のために犠牲になるところにのみ、愛の道があります。父母が子女を愛するときに、「私はお前を二十年間勉強させたので、お前は蕩減復帰の原則によって二十年間父母の犠牲になりなさい」とは言いません。自分の代価を計算することなく苦労すればするほど、そしてその苦労が極まれば極まるほど、子女は父母に対して愛の心をもつのです。その代価を要求しなくても、父母を愛さざるを得ないのが子女の本心です。

ですから、子女を愛する父母には不孝者がいないのです。父母を心配させる不孝者はあり得ないのです。子女のために犠牲になる父母には孝行者が生まれます。一国の国王が臣下のために犠牲になれば、その臣下たちは、忠臣になるまいとしてもならざるを得ないのです。ですから、愛の道とは、より苦労し、より骨を折れば折るほど、その価値が減少するのではなく、倍加するのです。これが愛の道です。

15 犠牲の立場に追いやるのが愛です。それ自体は納得し難いかもしれませんが、倒れて死んで祭物になる背後には、神様の愛が自分も知らない間に積み上がっていくのです。ですから、それを広げて氏族圏を越え、それを広げて民族圏に影響を与え、それを広げて国家の基準を越える日には、新しい国の旗を掲げて世界に向かって進軍できるのです。その目的に向かっていく道が、統一教会の道です。ですから、皆さんは、この国を自分の息子、娘よりも愛することができなければなりません。み旨に従っていく立場では、代表として責任を担って歩むときが多くなければなりません。

16 愛の道は犠牲を伴います。それは、相対の愛を完全に占領するためです。相対が完全に「私」と一つになることができ、私に順応できる基盤をつくらなければならないからです。愛のために犠牲の代価を払う人には、愛を中心として完全に一体になるのです。ですから、愛の所在地は自分ではなく相対です。私が優れているので妻や夫が私を愛するのだと考えてはいけません。

17 愛の根拠地は、自分自体にあるのではなく、相対にあります。ですから、相対の価値を一〇〇パーセント認めるところにおいてのみ、一〇〇パーセント愛の価値が現れるのです。愛の道では、なぜ犠牲にならなければならないのでしょうか。それは自分のものではないからです。相対という根拠地においているので、その根拠地に完全に一致できる条件を提示しなければ、愛の目的を違成することができません。ですから、完全な愛で愛そうとすれば、完全に犠牲にならなければなりません。完全な犠牲を越えていく愛の道には、完全な統一が展開します。

18 犠牲になる人は、必ず中心者になります。家庭において孝子とは、より犠牲になる人です。ですから、家庭の中心になるのです。国の愛国者は、より犠牲になる人なので、国の中心者になります。聖人の中でもより犠牲になる聖人が、聖人の中の中心になります。これが天理なので、この天理の道に厳粛に従っていき、すべての分野で和合できる人にならなければなりません。そうすれば、神様の新しい希望が宿り、神様の愛の力が加重されます。

19 愛の道は、犠牲になることによって輝くのです。ですから、聖書に、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである」(マタイ二二・三七、三八)とあるのです。宇宙のすべての戒めの中で、第一の戒めがあるとすれば、この戒めです。これが最も重要な法です。この法を中心として、すべてが成し遂げられるようになれば、それ以外のすべての法度は、この法度の圏内で治められるようになります。

このような観点から、神様のみ旨を成し遂げ、神様の創造理想を成し遂げるためには、行かなければならない道があるのです。創造理想は、絶対的な神様の愛と関係を結ぶときに実現されるというのです。

20 真の愛の道は、自分と立場を同じくする人たちを犠牲にしてでも、より大きな世界に向かって前進し、手を広げて犠牲になるのです。家庭を中心として見ると、家庭が社会のために存在する時は、家庭を去ったとしても、それは家庭を去るのではなく、そのような位置で社会と共に一つになるのです。息子が成長して相対に出会い、夫婦になれば、父母のもとを去りますが、夫婦になることによって、父母との愛がさらに深くなることができ、子女を生むことによって、さらに大きくなることができるのです。その家庭が社会に出ていけば、さらに大きくなることができ、発展すればするほど、もっと大きくなることができるのです。

21 父母が自分だけのために子女を愛すれば、それは偽りの愛です。また、子女が自分だけのために父母を愛すれば、それも偽りの愛です。統一教会は、どのようにしなければならないのでしょうか。真の愛をもった真の宗教であれば、統一教会だけのために愛してはなりません。自分が犠牲になったとしても、父母を愛してこそ孝子であり、自分が犠牲になったとしても、子女を愛してこそ真の父母になるように、統一教会を犠牲にしても、国を愛し、世界を愛さなければなりません。これが愛の法度を立てる最も近い道です。

22 私たち個人が家庭のために犠牲になることは、家庭的愛の道を探すためであり、家庭を犠牲にして氏族を探そうとすることは、氏族的愛の道を広げるためであり、氏族を犠牲にして民族を救うことは、民族的愛の道を広げるためであり、民族を犠牲にして世界を救うことは、世界的な愛の道を広げるためです。このように、世界的な愛を中心として神様の愛まで行かなければなりません。このように行かなければならない道が、今後私たちが行かなければならない道です。

23 宗教は、個人が犠牲となり、家庭が犠牲となり、氏族が犠牲となり、国までも犠牲にするのです。イスラエルの国も氏族圏を犠牲にしてきました。ですから、世界の国家の中でも、宗教を信じる国家は、今まで犠牲の歴史を歩んできたのです。創造的愛の対象の理念を成し遂げるためには、それが愛の本質的原則なので、その原則を通さなければ神様と一致できる場をもつことはできません。また、神様が主管する愛の理想世界と関係を結ぶことはできません。愛の理想世界と関係を結ぼうとすれば、その原則の伝統を受け継がなければならないので、宗教が行く道は、博愛主義を立てて犠牲を強調するのです。天国と地獄、善と悪はここから分かれます。

  

血と汗と涙の道


24 神様は、今まで私たちを復帰する路程で、サタンと対決してこられました。神様が苦労されたその路程を見本として、私たちもその道を行かなければなりません。分かってみると、神様は、父母の心情と僕の体で、汗は地のために、涙は人類のために、血は天のために流して、失われた子女を取り戻すために歴史路程の中で数多くの苦労をしてこられました。私たちもやはり、父母を求めて侍るために、そのような汗と涙と血を代わりに流さなければならず、父母の心情を体恤するために、僕の体で歩まなければなりません。

神様が私たちを復帰するために苦労され、私たちもまた神様を求めていくのに苦労する、その路程で結ばれた涙は、私たち個体だけのための涙ではありません。この涙こそ神様が共にいらっしゃる涙であり、その汗こそ神様が共にいらっしゃる汗です。その血と犠牲も個体だけのためのものではなく、神様が血を流して犠牲になる場に同参するためのものなのです。

25 神様は、父母の心情をもって僕の体で地上に来られました。万民が涙を流せば神様も涙を流し、万民が汗を流せば神様も汗を流しました。また、万民が死の場に立つ時は万民を身代わりして血を流されたというのです。私に代わって神様が何千万回祭物になられたか分かりません。神様が何度自ら祭司長の役割をされたでしょうか。このようなことを、個人から家庭、氏族、民族、国家、世界までしてこられ、どれほど苦痛が多かったでしょうか。息子を送ってこの使命を果たさせようとされましたが、それまでも失敗し、神様が息子の使命までしなければなりませんでした。

26 死んだ私たちを生かすために、神様が死の道を行かれたので、皆さんは、父母の心情をもって涙と血と汗を流していかなければなりません。この道は、堕落の子孫たちにとっては運命の道です。イエス様がこの地に来て、涙は人類のために、血は天のために、汗は地のために流したのです。過去と現在を歩み、一度に心情的な実体基準を準備したのです。心情的な蕩減をするために、不孝者の立場に置かれている人類に代わって赦しの基準を立ててきました。

27 神様と心情的に通じ、神様を心情的に体恤しなければなりません。心情的な体恤をしていない人は、絶対に父の前に行くことができません。イエス様当時のイスラエル民族は、どうしましたか。神様の涙で立て、神様の血で立て、神様の汗で立てた彼らには、神様の心情を通した涙が残っていて、神様の心情を通した血が残っていて、神様の心情を通した汗が残っているにもかかわらず、選ばれたイスラエル民族は、それをすべて忘れてしまいました。

28 一片丹心で一つの道を行かなければならない運命にある私たちは、どのようにその道を行かなければならないのでしょうか。知恵で行くことができなければ汗と涙で、汗と涙で行くことができなければ血を流してでも行かなければなりません。私たちの汗を神様の汗として、私たちの涙を神様の涙として捧げなければなりません。血は神様のために、涙は人類のために、汗は地のために流さなければなりません。

そうして、神様と地と人類が出会うことができない怨恨の基盤を、一つ残らず片づけてしまわなければなりません。これが、私たちがしなければならないことです。「私」の生活感情が、「神様がするべきことは私がするべきことであり、私がするべきことは地がするべきことであり、私がするべきことは人類がするべきことだ」と言える立場にまで行き、さらには「私」を中心とした天的価値を謳歌することができなければなりません。

29 私たちは、生きていらっしゃる神様の存在を知り、サタンがこれ以上この世界を滅ぼす前に人類を救わなければなりません。「私」は、たとえ低い立場から滅ぶ立場に入っていくとしても、統一教会がこの民族と世界人類に提示できる材料をもつことが急務です。先生は、そのようなことを心配しているのです。その材料が必要です。歴史について提示できる材料、時代について提示できる材料、未来について提示できる材料が必要です。

それでは、その材料とは何でしょうか。それは血と涙と汗です。心情で通じることができる血と涙と汗、神様に涙を流させることができる血と涙と汗、民族に涙を流させることができる血と涙と汗です。一人一人が、世界の人々がそれを聞くとき、涙を流すことができる血と汗がなければなりません。

30 皆さんがもっている最も貴重なものは何でしょうか。それを何の後悔もなく、ためらわずに与えることができなければなりません。皆さんにとって最も貴重な所有物は、皆さんの涙と汗と血です。皆さんは、万物のために汗を流さなければなりません。天のために皆さんの血を注がなければなりません。人類のために皆さんの涙を流さなければなりません。これが原理運動の標語です。私たちは、このようなことを自由に分けてあげることができなければなりません。そうしてこそ、心霊的に一つになることができ、心情的に一つになることができるのです。

31 皆さんは、セメントとなり、砂利となり、砂となり、水とならなければなりません。皆さんの血と汗と涙を水に、皆さんの肉は砂に、皆さんの骨は砂利にしなければなりません。そうして、自分自身の基礎を堅固にしなければなりません。そのようにして固めた基盤は創造的なものなので、千年の歴史が過ぎても崩れるはずがなく、一万年の歴史が過ぎても崩れるはずがなく、またどんな団体が千年、万年努力しても崩すことができません。

  

怨讐を愛することと原理の道


32 イエス様は、十字架を背負いながらも、なぜ「怨讐を愛しなさい」と言ったのでしょうか。サタンを屈服させるものは愛しかないからです。神様を中心とした愛は、世界を救おうとする愛です。サタン世界の愛の圏内を奪ってこようというのです。神様の愛の目的は、サタン世界を屈服させることです。救援の目的は、神様が願う摂理のみ旨を完成することです。その摂理のみ旨を完成する骨子が愛です。愛をもってこの世界をサタンから奪還しなければなりません。

33 聖書で、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」(マタイ五・四四)とあるのは、悪魔につながった人間を愛しなさいということであって、悪魔自体を愛しなさいということではありません。私たちの願いは永生です。永生は、真の愛の道にだけあります。そのような神様の愛を中心として体と心がために生き、さらにために生きる道を行くようになるときは、そこから統一が起こります。

統一は、心が体のために生きるように、体が心のために生きるところからなされます。そのような場で与え合うようになれば、中央を中心として軸に従って必ず統一されるのです。この原則的な愛の軸と水平線が十字になったところに、自分の存在位置があるのです。

34 人間は、二つの血統が連結しています。一つは、自分を生んだ歴史的な先祖を中心としてサタンの血統に連結しています。この血統が生じた動機は、自分を中心とする自主的自覚性を採ったからです。それでは、神様の血統とは何でしょうか。自分ではなく、全体のために生きるものです。ために生きる血統です。ですから、傲慢な人は、永遠にサタンの血統圏を抜け出すことができません。その血統圏を抜け出そうとすれば、どのようにしなければならないでしょうか。世界の人は、すべて自分のために生きるのですが、天の側は反対です。自分のために生きようとしないで、全体のために生きているのです。堕落圏を抜け出すための表題は「怨讐を愛する」ということです。

35 愛を求めていくときは、心が先に行きます。ところが、相対ができないときには、今まで投入したすべてのものはなくなってしまうのです。ですから、神様は、神様の愛が成立する時まで、はらはらすることを続けていこうとします。中断はできないので、すべての細胞に愛をいっぱいに満たし続けて関係を結ぼうとするのです。そのようにして、完成する時まで続けて投入し、また投入する心をもって創造活動をしていきます。ここに、ために生きる哲学の根本論理があるのです。

36 神様が天地万物を創造したということは、自分のすべての愛の心情を投入したことを意味します。そのような神様ならば、そのような心をもった対象が必ず生じなければなりません。そうしてこそ、神様と人間の関孫が形成されるだけでなく、神様の愛が顕現します。そのような人は興隆するようになっています。良心は、このような事実を理論的にはっきりとは知りませんが、「お互いに愛し、お互いにために生きなさい」と言います。そして、宗教は、「人のために犠牲になりなさい」と教えるのです。

37 神様がために生きる原則を立てたというのは、空気で言えば、平準化された空気の中で完全真空状態に入っていきなさいということです。絶対真空圏内に入っていけば入っていくほど、高気圧は自動的に低気圧のほうに循環します。神様御自身が愛の相対を求めるために投入して、また投入してみると、その場にいたとしても、自然に戻ってくるようになるのです。このような論理的根拠を中心として、被造物をペア・システムで創造したのであり、前進する次元の高い上部のレベルを通して、人間と神様の理想的な足場をつくるために天地を創造したのです。

38 真の愛は、「私のために生きよう」というところにあるのではありません。真の理想、真の幸福、真の平和の基準は、そのようなところにはありません。人のために生きようとするところから始まります。ですから、真の夫婦、真の父母、真の師、真の愛国者は、自分自身を中心として引き込むところから始まるのではありません。自分自身を投入するところから始まります。創造自体がすなわち投入なのです。

39 うまくいくようにしようとする人は、まず相対世界がうまくいくようにしなければなりません。このような観点から統一教会では、「人のために生きなさい!」と言うのです。生まれたのは、ために生きるためです。創造は、神様全体の投入ですが、神様も愛を中心として愛のために創造したというのです。

世界では、今まで「自分のために生きなさい!」と言ってきましたが、出発から間違っていたのです。父母のために生まれ、妻のために生まれ、夫のために生まれたのです。「私」の生は父母のために受け、夫の生は妻のために受け、妻の生は夫のために受け、兄弟のために受け、この国のために受け継ぎました。そして、世界のために生まれたのです。

40 「統一原理」は、アダムとエバが堕落したあとにつくられたのでしょうか、堕落の前につくられたのでしょうか。堕落の前にも原理はありました。その原理の道は、アダムとエバが行かなければならない道です。アダムとエバが人類の祖先として一〇〇パーセント完成し、神様の愛の圏内で一体になれば、誰も離すことができません。神様も離すことができません。救援の道は復帰の道であり、復帰の道は再創造を通して行かなければならない道です。再創造は、アダムとエバが堕落する前の原理原則を適用して、その原理原則に一致できる完成的内容を経て、存在の価値を決定しなければなりません。そうしなければ帰っていくことができません。神様と関係を結ぶことができないのです。

41 原理の道はたどっていく道であり、復帰の道は尋ね求めていく道です。蕩減復帰の道は尋ね求めていく道であり、尋ね求めることができれば、今度はその道をたどっていかなければなりません。今までは復帰の道を知りませんでした。今は先生によってすべて解明されたので、復帰路程の原理の道は、そのまま歩んでいかなければなりません。公式路程なので、先祖も子孫もそれを通過しなければなりません。

42 原理の道は、人間だけが行く道ではなく、神様もその原理の道を通してこそ、人間に出会うことができるのです。このように、神様も原理の道を行こうとし、また人間もやはり原理の道を行こうと努力しなければなりません。この二者が原理の道を通してこそ勝利の出会いがあるのです。それでは、悪というものは何でしょうか。原理の道を行くことに反対するのが悪です。その道を行くことができないようにするのが悪です。そこに障害物を持ってきて置いておくのが悪です。ですから、原理原則には例外がありません。

43 人間始祖のアダムとエバが始祖としての道を失ってしまったので、皆さんがもう一度探していかなければなりません。それで、復帰の道は尋ね求めていく道であり、原理の道はたどっていく道です。原理の道はたどっていく道なので、皆さんは、先生が行く道を行かなければなりません。先生の道は、霊的なサタンと世の中のサタン、すなわち霊肉を中心とする天宙的なサタンと闘って勝利して歩んでいく道ですが、皆さんにはそれがありません。世界的なサタンもなく、国家的なサタンもいないのです。

44 天運に乗ろうとすれば、原理の道を行かなければなりません。原則的な道を行かなければなりません。これが先生の生活哲学です。今まで迫書を受け続け、みな滅びると思っていましたが、その滅びる所から跳躍し、より大きな世界へ、より大きな舞台へと発展してきたのです。天が協助することができたのは、天理原則に一致した道を歩んできたからです。

45 統一教会の信徒は、先生を通して復帰の道を求めていく原理を知ったので、皆さんは、必ず原理の道を歩んで行かなければなりません。原理の道には例外がありません。祖父も行かなければならず、父親も行かなければならず、自分も行かなければなりません。祝福を受けて生まれた息子、娘だとしても例外はありません。

46 復帰の道は尋ね求めていく道なので、先生が今、皆さんの前で尋ね求めているのです。尋ね求めていって実験し、原理の道を切り開いてきているのです。ですから、皆さんは、これをそのまま歩んでいかなければなりません。道案内をする人が海を渡るようになれば、一緒について渡らなければならず、高い山脈を越えるようになれば、一緒について越えていかなければなりません。それを嫌だと言っていては、自分の解放圏を迎えることはできません。

47 先生は、今まで、神様に対して一言の不平も言わずにみ旨の道を歩んできました。罪もなく監獄に入っていき、悪事を行う者たちから打たれて血を吐く立場でも、「神様、なぜこのようにされるのですか」と恨んだりはしませんでした。僕が億千万回反対したとしても、息子だけはそのようにしてはいけないのです。反対するサタンがいるのを知りながら、どうして息子が神様に反対することができますか。そうではないですか。死んでも父の側に立って死ななければなりません。あらゆる困難に耐えてきてみると、父に言いたいことがたくさんあるでしょう。しかし、言わないのが偉大なのです。

48 皆さんは、どれほど悲惨な路程でも行かなければなりません。先生もそのような道を行った人です。行くときに、世の中のどこの誰をも恨んではいけません。恨む前にこの国、この世界がどのようになるかということと、み旨の行く道を心配しなければなりません。これが復帰の責任者として取らなければならない相応の態度です。皆さんは、そのような心的基準を天の前に立てなければなりません。

49 復帰の道は、喜んで行かなければなりません。死の道も喜んで行ってこそ天が訪ねてくるのであって、憂鬱になり、嘆く立場で行くようになればサタンがついてきます。殉教の道も、自分が天国に行くために殉教した人は、天国とは反対の立場にいきます。神様を解放して世界を生かすために「私」が殉教する、このようにならなければなりません。

イエス様の生涯は、ローマまで救うための生涯だったので、ローマの兵隊を愛したのです。それで、死んでもローマを愛したので、ローマがキリスト教の懐に入ってきたのです。そこで泣いたりわめいたりすれば、神様の心の中に尊敬する余地がなくなるのです。立場がなくなって、サタンがその場を占めるようになります。それで、み旨の道を行く人は、死んでも不平を言うことができません。不平を言う人を友人にすることは、最も危険です。

50 喜びを感じれば、神様が「私」に対して関心をもって神様の愛の圏内に入っていきますが、この喜びをどのようにして実践するかが課題です。すべてのことが喜びであれば、喜ぶ自分自体にとどまることなく、すべての万物と共に和動することができ、それを万物の相対的喜びとして残さなければなりません。信仰生活も楽しく、神様のみ旨の道ですることも楽しくなければなりません。仕方なくやるのではいけません。どれほど難しくても楽しく思い、難しいと感じてはいけません。生活環境でこれを根づかせなければならないのです。

51 天宙兄弟主義の共同生活体験を拡大しなければなりません。自分の家族だけで生活してはいけません。四位基台なら四位基台の四家庭、四カ国の家庭が、コンドミニアムのような所で三年以上一緒に生浩するのです。息子、娘だけが自分の息子、娘ではありません。全体を自分の息子、娘のように愛さなければなりません。神様が願う兄弟家庭のような制度をつくって体験することができなければなりません。

52 これからは家庭的に訓練するアパートができるのです。文化住宅、アパートです。七家庭以上が生活できる家を造るのです。それで、数カ月ずっ入って共同生活をしながら文化生活ができる、訓練住宅、アパート訓練所ができるというのです。皆さんは、すべてその訓練所を経なければなりません。そのアパートで三代が一緒に住むのです。御飯も一緒に食べ、勉強も一緒にするのです。これが原理です。

53 皆さんは、三位基台の三人の夫人同士で一つにならなければなりません。それで今、一つになるように訓練するのです。これからは、十二家庭が一つの家で生活しなければなりません。次には百二十家庭、あるいは千二百家庭がすべて一つの家で生活するのです。一つの町内で生活したとしても争ってはいけません。千代、万代の歴史を動かす伝統を立てなければならない時が、現在の真の父母と一緒に生きる時代なのです。この時代に、その伝統を立てることができなければ、大変なことになります。もし、三家庭の中で、一家庭でも息子、娘を生むことができなければ、息子、娘を生める家庭が、生めない家庭に息子、娘を生んであげなければなりません。

  

孝子、忠臣、聖人、聖子の道


54 孝子が行く道も違い、忠臣が行く道も違い、聖人が行く道も違い、聖子が行く道も違いますが、すべて一つの系統です。一つの系統ですが、何が一つの系統なのでしょうか。世の中で父母を愛することは、孝子一代で終わります。忠臣もその一カ所だけで終わるのです。しかし、真の愛を中心とすれば、その方向は永遠に残ります。その先祖を中心として立てた基盤があれば、その基盤は、自分の子孫が守ることができない時もいつも残され、その基盤で功を立てれば、そこで積み重なって上がっていくことができます。ですから、真の愛を中心とする方向性をもって、孝子、忠臣、聖人、聖子の道理を行えば行うほど、そこには発展があるだけで、後退はありません。

55 皆さんは、神様が願われるように、家庭で孝子になろうという考えや、国家で忠臣になろうという考え、世界で聖人になろうという考え、そして天地で聖子になろうという考えをもってみましたか。歴史的に見るとき、すべての聖人は、孝子となり、忠臣、聖人、聖子になりなさいと教えてきました。これを教えない宗教は、宗教として歴史に残ることができません。いずれにしても、これは人間の宿命です。宿命は、父子関係のようなものをいいます。宿命は分けることができません。運命は代わりを置くことができますが、宿命はそれができません。

56 孝子という名称をもってみ旨の道を行ってこそ、勝利者になることができます。六千年の罪悪の歴史に責任を担うという覚悟のもと、神様のみ前で従順の王子、服従の王子とならなければなりません。イエス様が、「わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ二六・三九)と言ったように、孝子の基準を立てたあとに、「サタンがついに私たちの前で屈服しました」と言ってこそ、天国に入ることができるのです。そうすることによって、先祖となり、実体の先祖となり、心情の先祖となり、み言の従順の先祖となり、血統の先祖にならなければなりません。

57 孝子は、自分の一身を無視し、自分に属する妻子を無視して、父母のみ旨に従わなければなりません。それが孝子の道理だというのです。ですから、み旨が行く道は、愛が行く道です。「私」個人よりも大きなことを先に愛する道がみ旨の行く道であり、愛の行く道だというのです。

58 孝子とは、父母に対して愛を中心として節操を守る人です。忠臣は、国を愛する人であり、聖人は世の中を愛する人です。聖子は、天の国の王宮圏までも愛する人です。ですから、これからみ旨を抱く人として世界に名をはせながら、万民からあがめられることを希望としてみ旨の道を行こうとすれば、苦労する道で、誰よりも輝く闘士にならなければなりません。

59 国のために土地を売るのが忠臣の行く道です。国のために牛や豚を売るのが忠臣の行く道です。息子、娘を学校に送ることができなくても行く道が、忠臣の行く道です。自分の肉を切るほどに千辛万苦の生を生きながら、国を愛し、後代のために闘おうというのが愛国者の行く道です。

60 国のために自分の一族と一家を犠牲にしても行こうというのが忠臣です。自分の不幸と不便を顧みず、夫のために愛の心をもって犠牲になるのが烈女です。父母のために愛をもって犠牲の道を求めていくのが孝子です。それが原則です。良いものには、必ず犠牲が伴うようになっています。自分を否定することが犠牲です。完全否定は、完全犠牲です。

61 国民が行かなければならない真理の道は、国の中心存在のために、変わることのない愛を求めていく道です。その道が愛国者の道です。国民は愛国者の道を行かなければなりません。次に人類が行かなければならない真理の道が聖人の道です。聖人の道を行かなければなりません。自分の一国を超えて万民を同胞のように、兄弟のように、自分の相対のように愛していくことが、世界に向かっていく真理の道です。

62 世の中には、家庭のために忠誠を尽くす人もいて、社会のために忠誠を尽くす人もいて、国家のために忠誠を尽くす人もいます。国家のために忠誠を尽くす人は、国家理念を後代に残すときに、一つの伝統の条件を立てることができます。しかし、この地と、この世界のすべてのものは、いずれ一度、審判台に立たなければなりません。これを越えるためには、一民族のための忠臣ではなく、一父母のための孝子ではなく、満天下の王の中の王、主人の中の主人、万有の父である神様のみ前で忠臣となり、孝子となりなさいと、宗教では教えています。これが宗教の道理です。

63 愛国者とは、国のための忠臣のことをいい、聖人とは国境を超えて世界人類を愛する人のことをいいます。ですから、家庭では孝子、国家では忠臣、世界では聖人、天地に対しては聖子の道理を守らなければなりません。イエス様のように、天の宮殿法と天国の法を愛で連結できる個人にならなければなりません。

この道は、すべて直線です。悪魔の愛は、この道とは反対に行くのです。ですから、サタン側の習慣と天の側の習慣は、一八〇度異なります。サタン側は、自分を主として投入しなさいという歴史的性稟をもち、天の側は、相手のために投入しようという歴史的性稟をもってきたので、そのように投入した人が主人になるのです。

64 聖人と忠臣は何が違うのでしょうか。忠臣は国家を超えることができませんが、聖人は国家を超えています。自分の国だけを愛するのではなく、人類と世界を中心として、すべての受難の中で自分の生命を飛び越えて人類を愛した人が聖人です。

65 キリスト教でいう聖人とは、イエス様のような人を言いますが、聖子は、天の国のすべての愛の圏内と歴史を代表し、地上世界の人類の愛の圏内を代表するのです。それだけでなく、天国と王宮の王権を中心とした内外の内容を備えた愛をもって生きようとした人が聖子です。

ですから、聖子と聖人は違います。聖人は、一つの世界を備えることができず、漠然と全人類を同胞愛で愛そうとした人であり、聖子は、天と地、地上天国と天上天国を中心として愛するのです。その主体は永遠でなければなりません。国家の国民は一時代を経ていきますが、その主権は永遠を代表します。天の国の王権を中心として最後まで愛そうとした人が聖子です。

66 聖子の道とは何でしょうか。人間世界だけではなく見えない霊界にも通じて、全宇宙を代表して伝統的忠孝の道を行くのが聖子の道です。ですから、聖人の道の愛を犠牲にして、それ以上の愛の道を立てようというのが聖子の道です。イエス様は、この地に来て聖子の法と道理に従う道を知ったので、怨讐までも愛そうとしたのです。

67 聖人は、世界を愛する人々です。宗教指導者たちは、すべて聖人の道理に従っていきます。千年、万年の歴史を超えて国境を克服していきながら、世界を愛する道です。次にイエス様のような聖子とは何でしょうか。神様を中心として、天国と天国の王権を愛する人です。

68 家庭で父母のために愛する人は孝子であり、国のために愛する人は愛国者であり、世界のために愛する人は聖人です。先生は、神様と世界と宇宙のために愛する聖子になりなさいと教えます。聖子になろうとすれば、神様のような愛を心にもたなければなりません。

69 人類歴史は、何を通して綴られてきたのでしょうか。堕落した世の中であっても、人倫道徳を中心として綴られてきたのです。その道徳の中心が愛です。父母の前における孝子とは、父母をより一層愛する人であり、国の前における忠臣とは、より一層国を愛する人であり、国を越えて世界の前に愛を教えようとするのが聖人の道です。世界を自らの家庭よりも、自らの国よりも愛そうとするのが聖人の道理です。聖子の道理は、天と地のすべての法よりも、王宮法を中心として「最高の愛を実践しなさい」と言うのです。愛を中心として、すべてのことがこのようになるのです。

70 孝子は、忠臣になれば自然になります。忠臣になるときは、千人、万人の孝子の上に立つのです。また、忠臣ではなく聖人になれば、忠臣何千人がなした基盤があったとしても、聖人の立場に吸収されます。聖子は、神様の息子です。数多くの聖人がいたとしても、聖子の道を行くようになるときは、聖人はそこに順応しなければなりません。愛さなければならず、ために生きなければなりません。孝子の道、忠臣の道、聖人の道、聖子の道を行く人は、どのような人でしょうか。自分の命よりも、自分の妻子よりももっと大きなものを愛して、ために生きて生活しようとする人です。

71 聖人がすべて聖子になるわけではありません。神様の息子になるのではないのです。聖子にならなければなりません。どれほど国王を愛し、国民を愛したとしても、聖子になるためには、天国の王宮法を知らなければなりません。王宮法の支配を受け、そこに拍子を合わせることができるたった一つの法を知らなければなりません。

72 地上で忠臣の資格を備えなければならず、世界を代表する聖人の資格を備えなければならず、天地を代表する聖子の資格を備えなければなりません。聖子とはどのような人ですか。天国の王宮法まで守ることができる人が聖子です。イエス様を聖子というのもそのような方だからです。

孝子は、ために生きる愛をもって家庭と国家と世界のために、愛を中心として全生涯を投入しなければなりません。聖子の道のためには、自分一代だけではなく、数百代を代表した立場で投入し、霊界の善の霊たちを地上に再臨させて自分に協助させることができる基盤を、どれほど幅広くして国家を超えた影響を及ぼしていくかということが問題です。ために生きる愛をどれほどもっていくかということが、天の国での等位決定の基準になるのです。

73 聖子の道は、天国の王宮法も知り、地上世界の王宮法をすべて知って、ここに合わせて生きようとするのです。そのようにするのが天国の王子の道理です。神様がそのようにされるので、その神様の父母の心情を受け継ぎ、その王権のすべての心情を受け継いで、夜も昼もそのように生きようとする息子が真の息子だからです。聖子の歩みは、今日の家庭から天上世界にまで曲折の道を行くのではなく、直短距離で連結される愛の道を行くのです。

74 聖人は、世界人類のために犠牲になって行く人であり、聖子は、神様を中心として世界の人々のために、神様のように生きていく人です。歴史的な聖人は、今まで世界の人々のために死んでいった人であり、神様の息子である聖子は、神様にも忠誠を尽くしますが、神様のように万民のために生きていく人です。このように、聖子は聖人とは違います。

真の孝子は、自分の父母のために生きるように兄弟のために生きていく人であり、真の忠臣は、国王のために生きるように国民のために生きていく人です。真の聖子、神様の息子、娘は、神様のために生きるように、神様に属したすべてのもののために生きていこうとする人です。

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