天聖經(増補版)/第一篇 神様

目次

第一章 神様の存在と属性

第一節 神様の実存


1 先生はかつて、長きにわたる祈りと瞑想の生活の末、ついに実存する神様と出会い、絶対真理を伝授されました。それは、宇宙と人生と歴史の背後に隠されたあらゆる秘密を明らかにする、驚くべき内容でした。この内容を社会に適用すれば社会の問題が解決され、世界に適用すれば世界の問題が解決されます。それだけでなく、宗教の未解決問題や哲学の未解決問題も解決されるのです。これは、かつてなかった新しい世界観であり、新しい宇宙観であり、新しい人生観であり、新しい摂理観であり、新しい歴史観です。また、あらゆる宗教の教理や哲学の特性を生かしながら、全体を一つに包容できる統合原理でもあるのです。

2 「神様がいる」と言うとき、それは言葉だけで知ることではありません。主体と対象の関係を中心とする原理から見てみるときに、神様は存在していると言わざるを得ない、ということではないのです。神様は、「私」が存在する前にいらっしゃったのであり、私が考える前にいらっしゃったのであり、私のすべての感覚、私の一切を主管するお方です。それを認識することが何よりも重要な問題です。知って認識するのが原則ではありません。認識して知るようになっているのです。私たちは、寒ければ寒いことを知って感じるのではなく、寒いことを感じて知るのです。これと同じように、神様がいらっしゃるとすれば、神様がいらっしゃることを感じなければなりません。細胞で感じなければなりません。その境地が問題です。言い換えれば、神様の存在を体恤する立場をいかに私たちが確定するかということ、これが問題だというのです。

3 人生において最も問題になることとは何かというと、まず神様がいるのか、いないのか、ということです。罪人の中で最も大きな罪人とはどのような人かというと、神様がいるにもかかわらず「いない」と言う人です。例えば、父母が元気に生きているのに、子女が「父と母はいない」と言えば、その子女を孝行者と言うでしょうか、不孝者と言うでしょうか。不孝者と言います。それでは、神様がいらっしゃるにもかかわらず「いない」と言う人は、どうなるでしょうか。そのような人は、みな滅びてしまうのです。ですから、存在する神様を「いない」と言うこと以上に大きな罪はありません。「神は死んだ」と言う人たちがいますが、これ以上に大きな罪はないというのです。

4 皆さんは、漠然と、観念的にのみ神様の実存を認識してはいけません。論理的な面でのみ神様の実存を認識しようとすれば、無理があります。なぜなら、論理圏内だけにとどまる神様ではないからです。論理的に神様を認識する信仰が、私たちの生涯を導いて永遠の生命の実体として完成させてくれるのかというとき、ここには問題点が多いというのです。それでは、このような環境で生きている私たちは、どのようにすれば真の主であられる神様の前に出ていくことができるのでしょうか。皆さんが、神様の存在を認めるならば、自分がもっている神様に対する疑いの心を率直に明らかにする、信仰の対象者としてとどまることができなければなりません。

  

結果的存在に対する原因的存在


5 自分が生まれたいと思って生まれてきた人は誰もいません。男性なら男性、女性なら女性、その誰もが、生まれたいと思って生まれてきたのではないのです。父母を通して生まれましたが、自分自身が願って生まれてきたのではありません。私たちの父母も、やはり同じです。父母の父母、このようにして最初の先祖であるアダムとエバまでさかのぼれば、アダムとエバも、やはり同じです。すなわち、人類の始祖となる先祖も、自分たちが願って存在するようになったのではありません。誰か、あるお方が動機となって存在し始めました。「人」と言えば、男性と女性がいます。男性には女性がいなければならず、女性にも男性がいなければなりません。また、男性は、自分が願って男性として生まれてきたのではなく、その男性に必要な女性も、自分が願って女性として生まれてきたのではありません。生まれてみると男性だったのであり、女性だったのです。そうして女性として、男性として育ってみると、夫婦になるにはお互いが必要だ、ということを知るようになります。このように見るとき、この根本原因になるものは人間だと見ることはできません。もし神様がいなければ、人間は存在することができないでしょう。

6 男性と女性が互いに出会って生活していくうちに、膨大な数の人類になりました。その人類は、数多くの国家に連結されていて、数多くの国家は、数多くの氏族、数多くの家庭、数多くの個人に連結されています。「私」自身も、その個人の中の一人であり、その家庭の一員です。ですから、現在の私たちに結ばれたその家庭、あるいは親族は、自分たちが願って形成されたものではありません。神様によって生まれて、家庭の一員になったのであり、親戚の縁を結ぶようになったのです。私たちは師弟の縁や父子の縁を論じますが、その縁も、神様がいなかったとすればあり得ません。このすべてが神様による結果の世界です。

7 この地のあらゆるものが存在するためには、存在させた原因がなければなりません。今日、私たちが生きている社会、私たちが暮らしている国、私たちが見つめる世界も、結果の立場にあります。このようなすべての環境のつながりが備えられるためには、その環境を備えさせた動機が存在しなければならない、ということを否定できません。一つの社会の形成、一つの国家の形成、一つの世界の形成について見てみるとき、それを受け継いでいくのは、もちろん人間です。しかし、人間自体が人間を形成させ得る根本原因になることはできません。人間は、どこまでも結果的存在の立場を避けられないのです。ですから、人間を形成させ得る動機と内容が存在しなければならず、その原因が必ず存在しなければなりません。

8 私たちの心と体は、神様を中心として一つにならなければなりません。心と体が神様と完全に一つになって、三位一体にならなければなりません。神様を中心として一つにならなければならないというのは、神様が原因だからです。神様と人間は原因と結果であり、人間の心と体は相対的です。宇宙の根本がそのようになっています。宇宙の根本は、原因と結果が一つになったものであり、主体と対象が一つになったものです。原因と結果、主体と対象が一つになること、それ以外に、理想的環境、理想的存在は見いだせません。

9 人間は、あくまでも原因的な存在ではありません。ある原因による結果的な存在です。結果は原因と関係なく成り立つことはありません。紆余曲折を経たというとき、その結果は必ず原因と相応する内容と連結されて成り立っています。人間も、ある原因に似てそのようになっているというのです。その原因的な存在が神様だとすれば、人間は神様に似てそのようになったという結論が出てきます。

10 神様は、この宇宙の原因的な存在です。あらゆる作用の原因的な存在であり、力を加える原因的な存在であり、方向を提示する原因的な存在であり、目的を提示する原因的な存在です。私たちはそのお方について、「人格的な神様である」と言います。なぜかというと、必ず動機を中心として方向を定め、目的を提示するからです。それが一つの明確な立場なので「人格的な神様である」と言うのです。ですから、原因を通して方向を定め、目的の世界に進んでいきます。そのような観点において、全体の原因的な存在が神様だというのです。

  

人体の神秘から見た神様の実存


11 人は、宇宙の被造万物の中で、皆さんが推し量ることができないほど偉大で、素晴らしい傑作です。それでは、その主体者、すなわち絶対的な神様がいらっしゃって人を造ったとすれば、神様御自身が語ること、見ること、感じることが分からないように人を造るでしょうか。神様を作家に例えてみましょう。作家は心で考え、頭で構想して、最高の作品を作ろうとします。一つしかない最高の作品を作ろうと構想して作った作品が、それこそ一つしかない作品になるときには、無限にうれしく思うのです。その作品が自分の思っていたものよりもっと素晴らしくなったというとき、「私が考えていたものと違うものになったので壊してしまおう」と言って壊してしまう人はいないはずです。自分が考えていたものよりもっとうまくいったときには、自分の一生の宝物だと思い、どこに行っても自慢したいと思うのが作家の気持ちです。人間が自分の思っている以上のものを望むとすれば、神様もそれ以上のものをお望みになるはずです。そのようにして人間を造ったとすれば、どれほど素晴らしく造ろうとされたでしょうか。ここにおいて、神様は人間を、最高の傑作として造りたいと思わざるを得なかった、という結論を下すことができます。

12 私たちの人体の構造は、本当に神秘の王宮です。数多くの細胞が個別的であると同時に、相応的な関係を中心として、相反することなく協調した構成を通して、私という個人の自由解放圏を形成しているというこの事実は、驚くべきことです。膨大な世界が流動し、運動するのは、「私」一人を完成するためであるという結論にもなります。さらには、神様のみ旨を成すために動いているという結論が出てくるのです。

13 人間において、最も重要なところが顔です。顔の中でも、最も重要なところが目です。この目を中心として考えてみるとき、目は父母から来たと言うことができます。それでは、その父母の目はどこから来たのですか。先祖の先祖をさかのぼっていくと、最初の人間であるアダムとエバにまで至るようになります。それでは、最初のその目が生まれる時、太陽があることを目が知っていたでしょうか。いくら考えても、知っていたとは思えません。目自身は、輻射(ふくしゃ)熱によって水分が蒸発しかねない、この地球というものを知りませんでした。また、眉毛は目にほこりが入るのを防止するためにありますが、眉毛が生じる時、空気の中にあるほこりが目の中に入ってくるのを防ぐために生じたことを知りませんでした。このように、目は無尽蔵な神秘の王宮になっているという事実を考えるとき、目自体が生じる前に、既に太陽があり、空気中にほこりがあり、水分が蒸発していることをはっきり知って、これに合うように誕生させた存在があったということが分かります。その誕生させた主体を、私たちは「神様」と言うのです。

14 耳を見ると、耳は前に向いています。それが反対になっていたとすれば、また、なかったとすれば、どうでしょうか。前から来る音がそのまま通り過ぎてしまうでしょう。遠くの話し声も聞こえないはずです。耳は、前から来る話し声を受け止めるようになっています。なぜでしょうか。相手と向かい合って話をするからです。後頭部に向かって話す人はいません。人と会って話をするとき、向かい合って話をするので、そのようになっているのです。耳が前に向くようになったのは、前から来る声を聞くようになっていることを、耳が生じる前から先に知っていたということです。

15 何のために耳を作っておいたのでしょうか。それは空気が流れて、そこに引っ掛かることで音が集まるようにするために、そのようになっているのです。耳を一度よく見てください。大きな輪があり、小さな輪があって、声をうまく調節します。大声が聞こえてくれば、この大きな輪でその声を弱めます。大声がそのまま耳に入ると衝撃を受けるので、大きな輪で声を一度弱めてから、小さな輪に入るようになっています。そうでなければ大変なことになります。耳自体は知らなかったのですが、もともとの動機がそうなので、そのような形になったのです。誰かが知っていたので、そのように作ったということです。造物主か何か分かりませんが、その何かが存在するというのです。

16 顔に真っ黒な眉毛がついているのを見るたびに、「なぜ、こんなに真っ黒なものがあるのだろう」と言いながら気分を悪くするかもしれません。これがなければ、顔がどれくらいすっきりしてよいでしょうか。それなのに、なぜこれをつけておいたのでしょうか。人の顔に毛が生えていれば眉毛が必要でしょうか。獣は四つ足になって這い回るので、眉毛が必要ありません。それでも、その形態はあります。しかし、人は立って行き来するので、眉毛が絶対的に必要です。眉毛が生えている所は、大抵わずかに高くなっています。眉毛の部位がわずかに高くなっていて、山脈をうまく形成しています。それこそ、良い場所の中でも一番良い場所です。なぜこのように作られたのでしょうか。人が立って行き来することを知っていたからです。

17 人が這って行き来するなら、眉毛は必要ありません。本当に、よくぞくっついているというのです。そして、この眉毛が片側方向に出ています。なぜそのようになっているのでしょうか。雨が降って水が流れるとき、一カ所に流すためです。眉毛が片側方向に向かっていて、横のほうに流れるようになっているので、水が流れ落ちるとき、間違いなく下に流れ落ちるのです。もし、眉毛がなければどうなるでしょうか。汗や雨水がすべて目に入ることになります。汗が目に入ると痛くてたまりません。我慢できないというのです。目をよく見ると、眉毛だけでは頼りないので、さらにまぶたで丸く囲んでいます。まぶたで囲んで目を保護するようにしてあるのです。涙はへこんだところを通って、横に流れ落ちていくようになっています。安全が保障されているというのです。誰が設計をしたのか分かりませんが、何千年、何万年研究して作ったはずです。

18 鼻がもし逆さまになったとすれば、どうなるでしょうか。夕立でも降れば、大変なことになります。どれくらい深刻なことか考えてみてください。笑い事ではありません。鼻は顔の中で人間を象徴します。人間には天道があります。上下関係の秩序を守らなければならないというのです。鼻はなぜ下に向かって広がっているのでしょうか。もしそのようになっていなければ、口が大変なことになるというのです。雨水のようなものが口に流れ込むようになれば、口はどうなるでしょうか。それで鼻は下向きの形になったというのです。このように考えながら顔を見ると、何とも不思議に感じられます。

19 唇を見ると、とても不思議です。唇と歯はよく調和しています。唇と歯はどれほど離れていますか。わずか数ミリしか離れていません。これが危険だとすれば、これ以上危険なことはありません。まかり間違えば大変なことになります。しかし、不安を感じますか。食べるときは、ただ食べることに忙しく、不安を感じたりすることはありません。舌も、どれほど不思議でしょうか。口の中で引っ張ったり押したりしながら、押し切りのような歯の間を出入りしながらも、衝突することなく、どれほど上手にリズムを合わせるでしょうか。よく調和しているというのです。先生は本当に早く話します。このように早く話しているのに、どうしてこのようにリズムを合わせ、初めて会った皆さんと親しくなるように話せるのか、本当に不思議で、よく調和しているというのです。もし舌が指と同じような仕事をするとすれば、どうなるでしょうか。大変なことになります。

  

本心作用から見た神様の実存


20 神様がいるのかいないのか、どのようにして知ることができるのでしょうか。私たちは、見えはしませんが空気があることを知っています。どうして知っているかというと、空気を吸って生きているからです。空気は何か味がしますか。味もなく、見えもしませんが、はっきりと空気があることを知っています。同じように、私たちには心があります。見えはしませんが、心があることを私たちは、はっきりと知っています。心が見えないからといって、ないと言ってはいけません。心がどのような姿形をしているのか分かりませんが、本当に不思議です。

21 神様が暮らすところはどこでしょうか。神様は、最も価値のある愛に定着されます。男性と女性の二人がいれば、神様はどこにいらっしゃるのでしょうか。神様は、一体化して変わらない、統一された愛の最も根底に、垂直にいらっしゃいます。男性と女性が一つになれば、そこが中心点になるのです。神秘的な祈りの境地、霊的体験圏に入って「神様!」と呼べば、内から「なぜ呼ぶのか。ここにいる、ここだ!」と答えられるでしょう。「ここ」というのは、自分の心の中です。心身一体化した愛の中心点、垂直の場です。それでは、個人から家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙の中心はどこでしょうか。いくら小さくても、その中心は良心です。宇宙の愛の軸がとどまるところ、支える先端の地は、自分の良心です。心身一体化した、その良心です。

22 神様は、愛の根、生命の根、血統の根、良心の根です。これは聞違いないことです。そのような神様がいるとすれば、なぜ感じられないのでしょうか。「私」と一つになっているからです。愛と共に、生命と共に、血統と共に、良心と共に一つになっています。神様は根です。神様を現そうとすれば、四方に愛をまきなさいというのです。投入しなさいというのです。それは、自分の生命と愛と、このすべてのものを犠牲にして完全にゼロの位置に戻れば、神様が主人として現れるということです。ですから、ゼロになったその位置で、神様を中心として横的に連結するのです。堕落したために、これが縦的に押さえつけられています。これを横的に連結できるようにすれば、神様が、自分の良心の中で主人になるのです。

23 人間には、否定しようとしても否定できない良心があります。良心があることを否定する人はいません。堕落した人間は、神様がいるのかいないのか分かりません。もし神様がいる場合、神様は創造主であり、人間はその神様が造った被造物だとするならば、被造物と創造主が一つになることができ、一つの共同目的を提示し得る何かがなければなりません。神様が人間を造ったとすれば、その造られた人間を神様が望む創造の目的と一致する点に到達させる、そのような力が作用するものがなければなりません。そうでなければ、人間を造ることができません。神様は絶対者なので、絶対者である神様と、被造物である人間が一つになれる第一の基盤、接触できる第一の土台が必ずなければならないのです。ですから神様は、人間に対してその目的とする結果に到達できるように、人間の中で作用できる何かを存続させなければなりません。それがなければ、神様も喜び、人間も喜べる位置を発見できません。

24 絶対的な神様が人間を造るとき、人間を創造した創造目的の基準と、造られた人間として行くべき目的の基準が、それぞれ異なることはあり得ません。必ず一つになってこそ、神様も喜ぶことができ、人間も喜ぶことができるのです。絶対的な神様を求めて上がっていけるようにする何かの作用が、人間の中になければなりません。その作用がなければ到達できないので、それを望む力がなければなりません。「私」を刺激して引っ張り、押してくれる力がなければならないのです。それが、私たちが否定できない良心の力です。良心は高くなることを願って作用します。良心は、現在の自分より良くなれ、良くなれと催促します。この作用だけは否定できません。良心は、現在の自分よりも高くなれと促すのであって、低くなるように促したりはしません。きょうよりもあす、あすよりもあさって、今年よりも来年、行けば行くほど、さらに高く、さらに価値のある自分を形成しなさいと促す、その力が良心作用です。

25 人間の良心は、あくまでも対象的なものであって、主体的なものではありません。何か分かりませんが、作用の原則に従って求めていけば、必ず作用せざるを得ない一つの主体が存在します。その主体と対象は、互いに損害が発生することを望んで作用するのではなく、より利益になることを、より良くなることを願って作用します。私たちの良心は、より良い、より大きい、より価値のある、より世界的なことに向かって作用しています。したがって、良心作用は、単独で働くものではなく、主体と対象が一つの目的を願って働くものだという結論を下すことができます。

26 主体と対象が私たちの良心の中で作用するのを見るとき、その良心作用は、主体がなくては作用できないというのが天地の原則です。良心が作用を継続して高次元の何かを追求するのを見るとき、高次元の主体がなければならないという結論を下すことができます。ですから、良心の主体となる神様が存在しないと言うことはできません。神様は絶対的に存在します。神様が絶対的に存在しないと言う人は、絶対的に良心作用を否定しなければなりません。良心があることを絶対的に認める限り、神様は絶対的に存在します。

27 人には、絶えず作用している良心があります。皆さんが深い眠りから目を覚まし、良くないことをしようとすれば、心はいつも番人のように「おい、こら!」と言います。その良心作用があることを否定できません。良心をもった人間は、結果的な存在です。結果的な存在が絶えず良心作用をしているという事実を中心として考えてみるとき、作用をするには必ず主体と対象の関係がなければならないので、主体を公認せざるを得ません。その良心作用は、下りていきなさいというのではなく、最高の所に上がっていきなさいと催促しています。なぜでしょうか。ある偉大な主体者と一つになろうとする、より価値のある要求を作用させるプラス的要件がそこにあるので、そのような作用をしていると見ることができるのです。

  

歴史の中で摂理してこられた神様


28 神様は、きょう、この時点内にのみ存在する神様ではありません。いつも「私」の生活感情にのみ相対される神様ではないのです。その神様は、過去から今まで存続してきた神様、すなわち歴史的な神様です。ですから、その神様が歴史を継承させてこられながら望んできた道は、自ら自覚したことに夢中になって努力する人を通して、その歴史の背後において従っていく道ではありません。摂理の内容を先に悟り、その歴史を輝かせ得る時点に立った人が描いていく生活基盤を通して、神様は、摂理を発展させてくるのであり、摂理のみ旨を存続させてこられるのは間違いありません。その位置は、自分のための位置ではなく、公的な位置です。

29 私たちは、何によって神様をつかむことができるのでしょうか。精誠です。今の時代には信仰の自由があるので、迫害がありません。言論、集会、結社、信仰の自由を所有できる時代をつくっておいたのは、終わり日の一時のためです。自由に信仰できるようにしておいたのは、み旨があったためにそのようにしたというのです。今、私たちの時代は、いくら天のために苦労し、命を差し出して忠誠を尽くしても迫害されません。そのような時は過ぎ去りました。ですから、心情をもたなければなりません。歴史的な神様の心情をもたなければなりません。神様は、その時代の神様ではなく、歴史的な神様です。歴史路程で、数多くの預言者を立てて苦労された神様です。皆さんを生かすために、歴史路程で数多くの人に迫害の道、殉教の道を歩ませて今日まで来られたのです。ですから、歴史的な神様だというのです。

30 今までの歴史を見れば、世界の文化圏は、宗教文化圏内に吸収されてきています。民主世界を中心としたキリスト教文化圏や極東アジアを中心とした儒、仏、仙の文化圏、インドを中心としたヒンドゥー教の文化圏、イスラーム文化圏などの形成を中心として見てみるとき、数千年の間、人々は宗教文化圏内に群がってきたことが分かります。これは、修理工場が建てられれば、そこに必要なすべての付属材料がその周辺に集まるのと同じことです。このような事実を見るときに、神様が役事(働き)していらっしゃるというのです。

  

無形でいらっしゃる神様


31 神様は、この宇宙の中で、存在されない所がありませんが、私たちは、そのような神様がいるのかいないのか知らずに生きています。そして、空気があるのに、空気があることを普段は感じることができず、息が詰まって初めて存在していることを感じます。また、脈が一分に七十回ほど打っているのに、これも普段は気づかずにいます。歩くとき、脈に歩調を合わせ、まばたきするときも、脈に合わせてまばたきして暮らすなら、神経が衰弱して、三日もたたずに倒れるでしょう。ですから、私たちがそのようなことに気づかないのは、よくできているからです。全知全能の神様、全天下を料理する神様が私たちのそばにいるとしましょう。力で言えば山も吹き飛ばし、地球にも穴を開けることのできる神様を、私たちの目で見ながら生きるとすれば、生活できると思いますか。ですから、神様が見えなくて良かったというのです。見えたとすれば、私たちは神経が衰弱して、一時間も我慢できないでしょう。ですから、神様が見えないことを有り難く思わなければなりません。

32 私たちは、太陽の光を受けて生きていますが、それに対する有り難みが分かりません。それが有り難いといって、「お天道様、ありがとうございます」と挨拶はしません。このように、私たちは大きなことについては感謝しようとしないというのです。もし、この世界に空気が一リットルしか残っていないとすればどうなるでしょうか。神様が意地の悪い方ならば、世界の統一は問題ありません。恐らく五分以内に統一されるでしょう。神様が空気をすべてもっていって、「お前たち、統一するのかしないのか」と言えば、世界人類が声を合わせて「統一します」と言うでしょう。そのようにすれば、一遍に統一することができるかもしれませんが、神様がそのようにされないことは有り難いことです。空気がなければ、私たちは生きることができません。このように空気は、生命に絶対に必要な要素です。

33 知恵深い神様、全知全能であられる神様は、中央で思いどおりに振る舞うことができる無形な存在として治めるのが、一番便利だと考えられました。神様は無形なので、存在世界を思いのまま突き抜けてきたとしても、誰も、全く支障を感じません。皆さんには体がありますが、神様が来て思いどおりに通り過ぎていかれても、気づきません。神様が、こくりこくりと居眠りしている皆さんの体を、思いのままに踏んでいかれても知らずにいます。ですから、どれほど便利でしょうか。神様は、考えた末に、見えない神様としていらっしゃるのが一番便利だと考えて、そのように見えない神様になられたという論理が妥当です。

34 私たちは、空気が流れていることを知っていますが、それを感じられません。空気が流れることも感じられないのに、神様が通ることを、どうして感じられますか。神様は、無形の神様としていらっしゃるのが最高に便利な方法です。それでいて、この大きな宇宙を治めることができる、それをふろしきで包んで余りある神様でなければなりません。無形の神様ですが、神様の気持ちは、この宇宙でさえ小さいと思い、もっと大きなものを求めていらっしゃるのです。

35 皆さんは、最も大切なものを、人が見たり触ったりできる所に置きたいとは思わないはずです。それを誰も盗んでいけないように、とても奥深くに隠そうとするでしょう。皆さんにとって最も貴重で、たった一つしかない最も良いものなら、それを誰も持っていくことのできない所に隠しておこうとするでしょう。心の深い所、心の根底、正にそこに、そのようなものを隠したいと思うのですが、そこは、皆さん一人だけが神様と出会うことのできる唯一の場所です。皆さんの心は、一人で神様に出会える唯一のものなのです。神様も、開放された場所で皆さんに出会うのは好みません。独特な人間性、独特な思考、独特な感情をもっている、個人としての皆さんに出会える、一つの場所を願われます。それが、神様が人間の良心を無形につくられた理由です。

36 世の中にたった一つしかない宝物があるとして、それを失った日には世界がひっくり返るとしましょう。そのような貴重なものを、心の中の隅に持っていって置くでしょうか、心の中の一番中心に持っていって置くでしょうか。その貴い宝物を、心の一番中央にしまっておくはずです。それでも安心できずに、しっかりと包んでおくでしょう。また、誰かが入ってきてそれを見物するのも嫌なので、ふたを締めてしっかりと包み、絶対にほかの人に見えないようにするでしょう。このようにしたいと思うのが人の気持ちです。神様が見えるとすれば、この天地のダイヤモンドが問題ではありません。宇宙で一つしかない唯一無二の存在である絶対者、無限の価値の絶対者、無限の生命の絶対者、言葉で表現できない大切なお方を、どこに隠したいと思うでしょうか。心の中にしまいたいと思うでしょう。ですから、誰も知らない所に、何千年、何万年研究しても分からない所に隠したいと思うというのです。ですから、神様が見えないのは良いことなのです。

37 神様は無形の存在です。無形と有形はいかにして結合するのでしょうか。無形世界と有形世界はいかにして一つにすることができるのでしょうか。これは理論的に難しい問題です。肉的な何かが母体になっていては、霊的な自分と肉的な自分を一つにすることはできません。霊的な父母と肉的な父母、堕落していない本性の基準で、霊的な神様と、見える実体である太初の堕落していない人類の先祖が、何を中心として一つになれるのかというのです。縦横が必ず一つにならなければなりません。縦横が一つにならなければなりませんが、何を通して一つになるのかというと、愛です。真の愛は最短距離、直短距離で通じます。

  

遍在される神様


38 神様の心は、神様のみ言の中だけにあるのではなく、神様が造られた万物の中にもあります。天地のどこに行っても、そこに神様の心があるというのです。ですから、神様は存在しないところがない、すなわち遍在すると言われています。神様の心の中にいることを願うのなら、皆さんが見つめる物の中に神様の心があるので、その物を自分の物として、天地のあらゆる存在物を自分の物としてかき抱こうとする心をもたなければなりません。私たちの心は、この民族を越え、世界を越え、被造万物を越えて神様と共にいたいと思うのです。神様までも「自分のものだ」と言える立場に行くことを、心は待ち望んでいます。そのような心をもった人は、神様と共にある人です。

39 皆さんは、神様の遍在性を、どのようにして感じることができるのでしょうか。空気を神様の息のように感じ、台風が吹いてくれば、それを神様の鼻の息のように感じなさいというのです。流れる水があるなら、それを、神様がこの世界のために受難の道を克服しながら流された汗のように感じなさいというのです。太陽を眺めれば、その太陽がこの宇宙全体の生命の要因を象徴していることを知って、神様の愛を太陽から学びなさいというのです。神様の心情を体恤するための一つの教本であり、教材として展開させ、愛する息子、娘を喜ばせるための教材として立てておいたものが自然です。

40 「天上天下(てんげ)、唯我独尊であり、全知全能で遍在し、私を経ないものがない」と言うとき、それは愛を中心として語る言葉です。愛を中心として遍在するということです。愛を中心とすれば隠すものがありません。みな現れます。愛する正にその瞬間に、みな現れるのです。愛を中心とした遍在の立場、愛を中心とした全知全能の立場にいたいと思うお方が、神様です。

41 神様が宇宙にいないとすれば、宇宙は空(から)と同じです。しかし神様がいるとすれば、字宙はいっぱいに満ちているのです。それは愛があるからです。ですから、「私」が一人でいても、神様がいることを知るようになるときには、宇宙はいっぱいに満ちているのです。神様はどこにでもいらっしゃいます。どこにでもいらっしゃることを感じるようになります。ですから、愛の中で遍在されることに感動するのです。しかし、私が神様が分からなくなるときは、すべてのものが空になります。

42 神様がいるのかいないのかというと、神様は明らかに存在します。どこにいるのでしょうか。私に一番近いところにいます。ですから、見ることができません。一番近いので見ることができないのです。皆さんの目が皆さんの目を見ることができますか。近いので見ることができません。ですから、神様も近いので見えないのです。

43 男性なら男性、女性なら女性は、すべて神様を身代わりします。神様がほかのところにいるのではありません。「私」の心の中にいます。ですから、祈るときは心と会話しなければなりません。神様は心の根にいます。心をどんどん掘り下げれば、最高の良心の根に神様がいます。その次には、愛の根にいて、生命の根にいて、血統の根にいます。ですから、家でも感謝、社会に出ていっても感謝、国と世界のどこに行っても感謝なのです。天国に行っても、この公式どおりになります。どこに行っても通じるのです。それが地上天国であり、天上天国も同じです。

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