み旨にかなった子女指導

み旨にかなった子女指導
 


第四章 父母の責任

 第一節 父母が備えるべき基盤

 一 先に立てるべき信仰的基盤

 皆さんも同じです。皆さんが神様の息子・娘になるためには、神様がサタンを愛したという立場に立ったのと同じく、サタンを愛したという条件を立てなければなりません。個人レベルで、家庭レベルで、世界レベルでこれを立てなければなりません。皆さんがそういうとてつもないどん底に置かれているので、先生はこれを代表的に蕩減してあげるのです、先生が。分かりますか? (はい)。(一九八五・一二・二二、本部教会)

 さて、統一教会は霊的子女という言葉を使っているでしょう。霊的子女という言葉を? そんな言葉は辞書にはありません。たぶん、英語の辞書にもないはずです。その霊的子女という言葉はどういう意味かというのです。私たち人間、現在の堕落した世界の人間が神様を捜し求めていくにおいては、先祖が二つになるのです。堕落した世界から復帰してくれた先祖、その次には自分の直系の先祖、このように二つの先祖になります。

 今まで、先祖は堕落した先祖しかいませんでした。霊的ではありません。霊的にも肉的にも堕落したというのです。先祖であっても、神様が公認できる先祖にはなれないというのです。だからキリスト教を見れば、霊的救援を言うのです。キリスト教時代は霊的救援時代で再臨時代は肉的救援時代です。来られる主は先祖ですが、霊的先祖と実体先祖を備えなければならない、このようになるのです。そして肉的子女というものは、世の中の人の中から捜すのではありません。自分が直接産んだ子孫です。神様が自分を通して肉的子女を持たなければならない、こうなるのです。(一九八三・三・一四、ベルベディア修練所)

 さて、それでは信仰の息子・娘とは何かを知らなければなりません。その意味は三種類あります。一つ目は天使長復帰の必要性であり、二つ目はサタン世界全体復帰であり、三つ目は私が祝福を受けられる息子の位置に進むためです。だから信仰の息子・娘は、信仰の親が直系の息子・娘を産んで接ぎ木しなければなりません。だれに接ぎ木しなければならないのかと言えば、自分の信仰の親が産んだ直系の息子・娘と一緒に接ぎ木しなければならないというのです。分かりますか? さあ、信仰の母親に接ぎ木すべきですか、信仰の父親に接ぎ木すべきですか? 息子だから息子同士で接ぎ木しなければなりません。(一九八三・五・三、仁川教会)

 皆さんの信仰の息子・娘も完全に一つとなって皆さんの息子・娘たちを・・・。結婚するとおなかから赤ん坊が生まれますね。信仰の三人の息子・娘が、皆さんの赤ん坊に、おなかにいる時から従順屈伏しなければなりません。今までのカイン・アベル復帰は産んでから復帰しました。しかし、根本においては腹中から復帰しなければなりません。

 カインはだれでしょうか? 天使長なのです。アベルはだれでしょうか? アダムなのです。天使長はどうしなければならないかと言うと、アダムを創造する時から仕えていかなければなりません。そうではないですか? それゆえ、皆さんの赤ん坊が腹中から生まれる時から・・・。アダムを創造する時から天使長が協助して屈伏してきたのに、生まれた後、アダムをすっかり創造した後に反対に小突いたのです。

 それを蕩減復帰するためには、子どもが腹中にいる時から三人の霊の子がその子に侍り、完全に僕の位置に、僕の立場に立たなければ、霊界にいる三人の天使長がアダムの前に屈伏しないので完全に復帰することができないというのです。原理がそうではありませんか? 皆さんがこれを決定しなくては、絶対サタンの讒訴を完全に逃れることができないというのです。

 では先生はいつそのようにしたでしょうか? うちの譽進と孝進が生まれるまでの期間が三年間です。三年間ですね、三年間皆さんは全員地方へ行って闘いました。闘いますが、皆さんは内的な面ではそのことをしたのです。内的な面ではそれを蕩減復帰したのです。赤ん坊が腹中にいる時、その赤ん坊が食べたいものは皆買って食べさせ、したいことは全部できるように、今後自分のすべての生命と財産を相続させようという覚悟の下で侍ることのできる立場に立たなければなりません。その立場に立たなければ霊界の三大天使長がアダムに侍る基準を蕩減復帰することができません。根本的に蕩減復帰できないというのです。

 これが私たち統一教会の核心目的基準です。ここ、この現実で、現実の地上でサタンの讒訴条件を完全に逃れることができなければ天国に行けないというのです。(一九六八・八・一一、馬山教会)


 二 東洋思想の特徴と統一教会の思想

 韓国で毛筆で字を書くときに縦線を引くのを見ると、上のほうが大きいですか、下のほうが大きいですか?(上のほうです)。上のほうが大きくて、だんだん下に行くにつれてすっととがるというのです。どういうことかと言うと、原因的中心は上で結果的中心は下だというのです。下は回転するための一つの起点であり、定着するための起点ではないことを知らなければなりません。私たちの家庭的な愛に父母の愛があるというのは、定着するためのものではなく回転するための一つの焦点です。定着するのは神様に帰らなければならないというのです。

 それゆえ、子どもに対する愛より以上に神様に対する愛が大きくなければ、この宇宙の原則的な主流のセンター、愛のセンターに一致することができない、このように見るのです。だから、たとえ妻子を捨てることがあろうとも父母は捨てることができないという、その東洋思想の教えは驚くべきものなのです。今日、西洋式はどうかと言えば、下が太いというのです、下が。てっぺんから始まるのではなく、平面的な私から始まって上に上っていくというのです。全部が「私」を中心とするのです。両親は関係がないというのです。それゆえ、仕方なく神様は東洋と西洋をくっつけるための運動をしました。(一九八三・四・二四、本部教会)

 東洋思想には、家庭を犠牲にして国を救わなければならないという教えがあります。国を犠牲にして世界、この宇宙を救わなければならないという教えがあります。ところが皆さんの国アメリカにはこのような思想がないではないですか?( ? )

 統一教会の思想は、愛を中心とした一つの世界観を紹介します。個人はこのように行かなければならず、家庭はこのように行かなければならず、氏族はこのように行かなければならないということがはっきりしているというのです。その法度はレバレンド・ムーンの構想ではないというのです。天の国の法度の反映体なのです。そうでなくては、霊界に行って入籍できないのです。

 小学校から中学校を経て、高等学校、大学を経て大学院、博士コースに進むのが秩序的発展過程です。霊界で「君、何をして生きたのかね?」と聞かれた場合、「私は夫のだれそれと出会い、息子・娘を何人産んで暮らしました」と言ったところで通用しないのです。

 神様は世界を失ってしまいました。「これこれこうして息子・娘を産んで暮らしましたが、神様を愛し、神様のみ旨を成すために人類を愛し、神様と生きるために、そのような精神のゆえに私の家庭は迫害を受けてきました」こう答えなければならないのです。「私のお父さんはそこで生きていく中で飢死しました」と言うことが誇りなのです。恥ではありません。「私のお母さんは伝道に出かけ、打たれて死にました」というのが誇りであり、恥ではないというのです。準備できなかった連中が生きる姿は、死のわなに飛び込む恨みの声であることを知らなければならないというのです。(一九八六・九・二一、本部教会)


 三 アブラハムのイサク献祭の教訓

 アブラハムじいさんも、カルデヤのウルの自分の故郷の家で豊かに暮らしているのに、神様が引っ張り出して異邦の地に連れてゆき、祭物を棒げなさいと命じて祭物を棒げるのですが、その祭物もアブラハムが捧げると言いましたか? 「神様! 私が祭物を捧げる祭壇を皆準備しましたので、あなたが受けてくださいますか、受けてくださいませんか?」と祈祷したわけでもなかったというのです。願いもしなかったのに神様が来て「おい、お前がこんなに苦労したのだから、私はお前を祝福してやる。お前の後孫が天の星より、地の上の砂より、もっと栄えるように祝福してやるから三大祭物を捧げよ」と言ったので、祭物を捧げたのです。

 また、祭事を捧げるために供え物を裂くのですが、小さな鳩の一羽くらい裂かなかったら裂かなかったで、それが大きな問題になるかというのです。違いますか? その小さな鳩を裂こうというのですから、ナイフを入れるところがありますか? それ一つ裂かなかったら裂かなかったで、何をそんなに激怒するのですか? 祝福してあげようという神様が、鳩一羽裂かないからといって、「お前の後孫が四百年間僕の生活をするようになるであろう!」と言われたのですから、その神様を神様だと思ったでしょうか? 「これはサタンでないか?」と考えることもできるというのです。しかし、アブラハムじいさんの素晴らしい点は何でしょうか? それを何よりも恐ろしく思ったというのです。神様がそのような罰を下されるようになったとき、それを自分が死ぬことよりもっと深刻に考えたというのです。だからアブラハムじいさんは偉大だというのです。

 そのような失敗を犯してから、何よりも大きな衝撃を受けた立場においても神様を敬う心を持ったので、その息子を捕まえて殺せという命令を受けたとき、自分の息子を捕まえて殺して、衝撃を受けたそれが解消できるならば、直ちに実践しようという決心をしたのです。そのような決心をするまで、内的に神様が命じられる言葉をどれほど慎重に考えただろうかということを私たちは知らなければなりません。それゆえ百歳で一人息子として得た、それも神様が祝福して奇跡的に得た息子を捕まえて供え物として捧げることができたというのです。いつかは与えたと思ったら、今度はまた捕まえて献祭しろだなんて? それを信じられると思いますか? 全部が矛盾です。全部皆人間の頭で人間同士ですることでは絶対にないというのです。

 堕落したこの世の父親でも、そのように福を祈ってあげればそうはしないはずなのに、まして神様がなぜそんなことをしなくてはならないのでしょうか? これには私たち人間が知ることのできない複雑な事情があったというのです。たいてい人間は自分以上に愛することができません。自分以上に考えることもできません。だれかを愛するとしても、自分を抜きにしては愛さないというのです。自己をプラスさせて愛そうとするのです。自己を否定しては、何であっても動こうとしないのが人間です。それにもかかわらず、アブラハムは自己を否定する立場で、愛の道を選んだというのです。自分を否定してどんな愛を捜そうとしたのでしょうか? 神様の愛を捜そうとしたというのです。自分を否定し、自分の氏族を否定し、自分の親族を否定し、どんな家庭とどんな氏族を捜したのでしょうか? 世の中が反対しても、神様が喜べる家庭と、神様が喜べる氏族を慕ってきた代表者がアブラハムだということを私たちは知らなければなりません。

 自分の子どもを捧げるとしても、神様が喜ぶことのできる一つの氏族を、一つの国を彼は心の奥深く願っていたのです。その願いがどんなに困難な環境よりも大きかったので・・・。アブラハムは数知れないジプシーの行路も無難に突破することができたというのです。それが大きかったので、またそれを愛する心がいつも強かったので、そのために生きようとする自らが確立していたので、困難な環境をすべて押し退けて、ひたすら神様が指示する道だけに従っていくことができたということを、私たちは知らなければならないというのです。(一九七二・六・五、中央修練院)

 天国に行ける人はどんな人でしょうか? アブラハムが信仰の先祖になった動機は何でしょうか? アブラハムは神様に自分の息子を献祭の供え物として捧げました。彼が祭事を捧げたのは未来の後孫のために祭事を捧げたのです。これはまさに彼が祭事を捧げるようになった動機なのです。未来の後孫のために自分の子どもを捕らえて祭事を捧げるアブラハムの心はどれほど悲壮だったでしょうか?

 現在より未来の世界のために自分の息子・娘を神様に供え物として捧げて、祭事を捧げることのできる人は、未来の勝利の基盤を現在に引っ張り込むことができるのです。アブラハムは自分の息子を未来の世界のために供え物として捧げました。自分の息子・娘を愛するのは、その時代の何よりも、未来の何ものよりも愛しているけれど、万民をその息子よりもっと愛することのできる心があったので、自分の子どもを供え物として捧げることができたのです。(一九七〇・七・一九、前本部教会)


 四 国の基準以上を持って息子・娘を愛する

 私の息子・娘が重要であり必要ですが、息子・娘の問題よりも全体目的について見る場合、漠然とした生活をしてはいけません。息をするのもそうだし、行き来するのもそうだし、祈祷をするのもそうだし、すべての面を全体的な目的と一致させて生きなければなりません。そうしてはじめて天運に従って越えていけるというのです。統一教会員はこの基準だけ認識すればいいのです。

 家庭でやりたいことをすべてやり、あれこれ欲を出して、自分がやりたい放題やってから、み旨だ何だと言うようであっていいものでしょうか? 徹した立場で国家的な、世界的なことをしていかなければ、将来天国が復帰できないのです。天国というのは、皆さんの生活基盤からひとりでに成されるものではありません。皆さんが自ら成していかなければならないのです。(一九六七・六・八、前本部教会)

 皆さんは息子・娘を産んで誇らしいといって、ある時には・・・。私が祝福してあげた息子・娘ですが、西洋でもそうです。「先生、私たちの息子・娘の名前をつけてください」と万国から電話するのです。名前をつけてくれとうるさいのです。電話をかけて、またかけて、十分後にまたかけて、ジリリーン・・・。この人たち、あなたたちの赤ん坊の名前つけるのに忙しい! それではダメなのです。皆さんは国を愛する資格を備えてから、息子・娘を愛さなければなりません。神様を愛してから、息子・娘を愛するようになっているでしょう? その神様は万国の神様であり、天宙の中心である神様なので、その方を愛した後には天地も愛したという資格を得るのです。国も愛した、民族も愛した、氏族も愛した、家庭も愛した、個人も愛したというそのような資格を得るのです。大きなものを愛して資格を取れば・・・。分かりますか? 大学に行って修士の学位を取れば、高等学校を卒業しなくても大丈夫です。どうやって取ったかを問わず、それは認定してくれるのです。それと同じだというのです。(一九八三・三・二七、本部教会)

 赤ん坊を産んで、かわいいと言って唇を当てて口づけするそのお父さんを見るとき、その唇は神様を愛したという公認を受けてするのですか? 男性として妻を抱いてキスしたり愛するとき、神様の愛の公認を受けて愛するのですか? そういう時はひやっとするのです。この憎い手が、この憎い口が動きかけて、ブレーキが掛かるというのです。ストップ! 急ブレーキがキイッ! 自分がびっくりしてひっくり返りながら「アッ!」と大声を上げうる、そんなブレーキが掛かる時があったかというのです。(一九八三・三・二七、本部教会)

 世界を救うためにこのようにするのが先生の責任であり、神様の責任です。はっきりしているでしょう?(はい)。皆さんが「先生はなぜああなのか?」と考えるとき、「世界を消化するのは先生の責任だけど、まだ最後まで来ていないな」ということを知らなければなりません。皆さん、アフリカにいるチンパンジーなどを見ると、しらみも取って食べるのです。(笑い)お母さんとお父さんはチンパンジー以上にしなくてはならないのです。分かりますか? お母さんとお父さんたちは、それ以上にしなければならないというのです。(一九八三・一〇・九、ベルベディア修練所)


 五 何よりもみ旨を重要視する

 今日、私たちはみ旨のために生き、世界のために生きる人々であるので、後孫のために生きる人々です。(一九七一・七・一、南山聖地)

 皆さん自身がどのようにしたら、神様から信じられる人になるでしょうか? そうなるには何を中心にしなければならないでしょうか? これが問題です。み旨の前に、物質の前に自分が模範になる人とならなければなりません。分かりますか? み旨の道を行くにおいて、子どもの前に模範を見せる人とならなければなりません。物質よりもみ旨を重要視しなければ引っかかるのです。子どもよりもみ旨を重要視しなければ引っかかるのです。自分の夫より、自分の妻よりみ旨をもっと重要視しなければ引っかかるのです。(一九七一・二・一三、龍山教会)

 子女たちには自分の両親が悪いのか良いのかがすぐ分かります。み旨のために動く態度を粘り強く貫いていけば、その環境で分かってくれる日が来ます。

 夫婦は死んでも天道は残していかなければなりません。その家庭は何のためにありますか? 自分の子女のためにあるとしても、まず神様のために、国のために生きなければなりません。それが結局は自分の子女のための道であるのです。そうしてこそ、子女たちが神様の運と世界の運とともにあり、国の運ともともにあることができるからです。ですから、祝福されて産んだ貴い子女たちが苦労をするとしても、その子女たちに拍子を合わせないで、神様と世界と国の運勢に拍子を合わせなければなりません。(一九六八・一一・三、前本部教会)

 歴史を引き継ぐ人とはどのような人でしょうか? 後代の人々が引き継ぐのですが、何のために働いた人でしょうか? 世界のために、人類のために、霊界のために生きた人です。この二つの世界のために、より尽くした人々が引き継ぐのが原則です。分かりましたか?(一九七八・三・一九、ベルベディア修練所)




























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