神様が平和の源泉である。私たちが周囲を見回して葛藤と紛争ばかりを見たとき、地上で平和を求めて絶望するとき、私たちは神様、すなわち平和の王に視線を戻す。神様が私たちを訪れる時、その方は私たちの胸にある怒りを鎮静させてくださり、私たちの怨讐を他の観点、すなわち兄弟姉妹の観点で見るようにされる。神様は愛である。神様と共にあることで私たちは、私たちの怨讐さえも愛し得る力をもつようになる(第13章5.「怨讐を愛しなさい」参照)。したがって、平和に至る糸口は、神様と一緒に暮らすことであり、神様の愛を表すことである。
これに対して文鮮明先生は、特別な洞察力を提示した。神様の愛が特別に結婚と家庭の深い人間関係に臨むため、神様を中心とした平和な家庭こそ、平和な社会と国家と世界を建設する実質的な単位である。
― 宗教経典 ―
いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。
ル力による福音書2.14 (キリスト教)
主が御顔をあなたに向けて/あなたに平安を賜るように。
民数記6.26 (キリスト教)
神は平和であられ、その方の名もまた平和であるので、すべてのものがその平和の中にとどまるのである。
ソハール3.10b (ユダヤ教)
わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。
ヨハネによる福音書14.27<キリスト教)
まことに神は、人を平安の家に招きたまい、またみ心にかなう者を直き道に導きたもう。
クルアーン10.25 (イスラーム)
トーラーの目的はすべてこの地に平和を成すことにある。
タルムード、ギッティーン59b (ユダヤ教)
堅固な思いを、あなたは平和に守られる/あなたに信頼するゆえに、平和に。
イザヤ書26.3 (キリスト教)
私たちの先祖よ、これはあなたの世界であり、あなたのご意志です。私たちを平和にされ、人々の霊魂を落ち着かせてください。あなたは私たちの先祖、私たちの人生の道においてあらゆる悪を除去してください。
ヌエル族の祈り(アフリカ伝統宗教)
どんなムスリムも、彼の舌や彼の手から恐れを感じなくてもよくなるとき、本当のムスリムになる。
ブハーリー・ハディース(イスラーム)
「道」は実在し、何事もしない。だが、それによって為されないということはない。もし統治者がそこにとどまるならば、あらゆるものは自然に変わるだろう。もし変わる過程で意図があらわれるならば、名前のないもともとの非区別によって抑制するべきである。名前のないもともとの非区別を経験すれば、意図のない状態があらわれる。意図がなくなれば静かになり、天下は自然に安らかになるであろう。
道徳経37 (道教)
― み言選集 ―
神様御自身は、愛の王であられ、あるいは平和と幸福の王であられ、理想の中心者に違いありません。ですから、人間がそのようなものを追求していきながら限界にぶつかってしまうようになれば、神様を通して打開していく道以外にはないと思うのです。
(72-11.1974.5.7)
争っていた人たちが、神様さえやって来れば、互いにために生きようとするのです。
(330-267. 2000.820)
真の平和、真の幸福、真の自由は、人間から訪れるのではなく、真の神様 から訪れるので、神意に一致し得る立場に立てず、何か間違った立場に立っている人間は、そのようなところに到達できないと考えられるのです。
(78-103.1975.5.6)
今まで、平和を追求しなかった時代はありませんでした。しかし、変化と不信に満ちたこの地が、今はそのような理想的要件を成就させ得るのではなく、袋小路にぶつかっています。私たちは、変わる人間世界を越えて、絶対的で、不変であると同時に永遠であられるお方がいらっしゃるならば、そのお方を通して、このような要件を成就させられると考えるようになりました。 そのようなお方がいらっしゃるとすれば、そのお方は神様に間違いありません。その神様は、理想の主体であられ、愛の主体であられ、幸福と平和の主体です。神様を中心として、このような幸福や理想、あるいは平和や愛という言葉を考えてみるとき、これらの言葉は、神様お一人をおいて言える言葉ではなく、どこまでも相対的関係において成立する言葉です。神様の前に相対的な存在がいるとすれば、いったいその存在は、どのような存在でしょうか。そ れは、私たち人間以外にはあり得ません。私たち人間は、神様の愛を成就させる、神様の理想と幸福と平和を完結させるところにおいて、なくてはならない存在なのです。
(74-46 〜47、1974.11.27)
争えば、なぜ悪なのですか。争う所に神様は、いらっしゃいません。これが問題です。神様は、平和の主人であり、統一の主人であり、最高の善の主人でいらっしゃるので、争う所にはいらっしゃらないのです。神様が離れるので、悪の世界になるというのです。
(261-292,1994.7.24)
「平和」とは、何を前提にして言う言 葉ですか。平和は、一人を前提にして言う言葉ではありません。必ず相対圏を前提にして言う言葉です。そこには必ず愛がなければなりません。愛が離れた所に平和はあり得ないのです。
(175-196 ~197,1988.4.17)
平和になるという言葉は、主体と対象が互いに一つになることをいいます。これを東洋の漢字で言えば、「平」は「ホリゾンタル」、「和」は「ハーモニー」という意味です。それが何を意味するのかというと、相対は、中心が回ろうとするときに一緒に回ろうとするのですが、それは、中心と相対が衝突する のではなく、和解しようとするときに展開するのです。
(注3)(82-133,1976.1.4)
神様を核として東西、四方、球形形態の均一的な愛の感謝、愛の心情の統一圏をもたなければ、人類平和の起源の着地が生じないことを知らなければなりません。そのような立場では、神様の平和理想を成し遂げられる「私」、「私たち」と言える基盤をもち得ないという話は理論的です。
(357-131.2001.10.29)
神様が平和の教育材料を地上の人間たちに教えてあげようとすれば、どのような材料を求められるでしょうか。 愛の材料を求められるのです。愛の材料を求めようとすれば、愛という言葉自体は見えないので、愛をもった男性と女性を求められるのです。それは、必然的帰結です。平和の起源をどのよ うに探し出していくのか、ということが問題です。それを可能にし得る力がなければならないのですが、その力が愛です。
(193-153.1989.10.3)
平和世界の基本単位は、国家ではなく、和平した家庭です。神様を迎えた人格、すなわち心と体が—つに調和を成した男性と女性が、神様の祝福のもとに夫婦となった家庭がその単位になるのです。人類歴史始まって以来、真の父母を通して初めて取り戻される福のある家庭です。真の愛で家庭の構成員が調和、一体を成した和楽する家庭です。このような家庭が増え広がり、平和の氏族、民族、国家、世界を成し遂げていくようになるのです。
(400-98、2002.12.27)
神様は、人間を神様の形状どおりに造られ、人間はまさしく神様の聖霊がいらっしゃる家と同じ聖殿として造られたのです。人間一人一人が神様の聖殿として、神様に侍って暮らす家として完成したならば、どうして人間同士の闘争と殺戮が可能でしょうか。創造本然の世界で人間が争うのは、右腕が左腕と争うのと同じことであり、自分が自分の手で自分の目をくり抜くのと同じことなのです。このような本然の世界では、戦争はあろうとしてもあり得ませんし、互いに愛し合い、和睦して生きる世界であり、どのように神様にもっと栄光を捧げるかという善意の競争だけがある世界です。そこには葛藤がなく、誤解もなく、美しい協調と相互協助でもってただただ和睦、団結して、真、善、美 を追求する平和の世界のみが永続する のです。その世界は、神様に似た世界であり、神様の理想と本質のために生きる世界なのです。私たちは、このような世界の基本理念を「神主義」、または「頭翼思想」と称するのです。「ため」にする愛、互いに「ため」に生きるところに平和は当然なのであり、このような世界を宗教的に表現するならば、地上天国であるというのです。
(219-116.1991.8.28)
平和は、平和的な個人からわき出る。内的平和に至った人々は、人に平和を 拡散する。彼らは人と平和的に相対する内的な力、明晰さ、情熱をもつ、文鮮 明先生のみ言によれば、体と心の統一を育成することによって、私たちは、人 と豊かな愛を授け受けするのに適した器になる。
内的平和の育成は、外的平和の創造の出発点になる。いかなる政治的、経済 的プログラムであっても、それを助けてくれる人々が自分たちの胸の中に憎し みと暴力を抱えているならば、公正で適切な平和を導くことはできない。
― 宗教経典 ―
深い湖が、澄んで、清らかであるように、賢者は真理を聞いて、心清らかである。
法句経82 (仏教)
人は流れる水を鏡にしようとしないで、静止した水を鏡として、自分の姿を映すものである。ただみずから静止するものだけが、静止を欲するものに静止を与えることができるのである。
荘子5 (道教)
海に水が流れこむ時、海は満たされつつも不動の状態を保つ。同様に、あらゆる欲望が彼の中に入るが、彼は寂静に達する。
パガヴァッド・ギーター 2.70 (ヒンドウ一教)
あなた自身の欲心に対して聖戦をせよ。そうすれば、あなたの心を知恵が占めるだろう。最上の聖戦は、誰かが他の人に背こうと考えることもできない、それを守ることである。
ハディース(イスラーム)
主は万物の心の中にある。その幻カにより万物を、からくりに乗せられたもののよう回転させつつ。全身全霊で彼にのみ庇護を求めよ。アルジュナよ。彼の恩寵により、あなたは最高の寂静、永遠の境地に達するであろう。
パガヴァッド・ギーター18.61〜62(ヒンドウ一教)
このすべてのものが満ち、あのすべてのものも満ちている。満ち足りたものから満ち足りたものが出てくる。満ち足りたものが満ち足りたものから取られるとき、満ち足りたものはそのまま残っている。オーム、平和、平和、 平和。
イーシャ・ウパニシャッド、ピース・チャント (ヒンドウー教)
修行者は心のうちが平安となれ。外に静穏を求めてはならない。内的に平安となった人には取り上げられるものは存在しない。どうして捨てられるものがあろうか。海洋の奥深いところでは波が起らないで、静止しているように、静止して不動であれ。修行者は何ものについても欲念をもり上がらせてはならない。
スッタニパータ919〜920 (仏教)
何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。ま た、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。得られ ないのは、願い求めないからで、願い 求めても、与えられないのは、自分の 楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。
ヤコブの手紙4.1〜3 (キリスト教)
肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。 肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。
ガラテヤの信徒への手紙5.17 (キリスト教)
自分の欲望と聖戦を行え。そうすればあなたの心は知恵で満たされるだろう。最高のジハードは、他の人に罪を犯すとは考えもしないことである。
ハディース(イスラーム)
人々が自分から自分を侮ってだらしない行為をするから、他人もその人を侮辱するのであり、家庭も自分から破滅するような原因をつくるから、他人もその家庭を破滅させるのであり、国家も暴政を行なって国内の怨みをかうようなことをするからこそ、他国も侵略してきてその国を亡ぼすのである。されば、〔書経の〕太甲篇にも、『天の降した(自然におこった)災難はどうにか避けられもしようが、自分の招いた災難はとても遁れられない』とあるが、まさにこのことをいったものだ。
孟子IV.A.8 (儒教)
戦乱や闘争、そして党争は、どうして生じるのですか。ただ肉体と肉体の欲望から生じるのですか。実に戦争は財物を得るために生じ、財物は肉体を保存し、保持するためになければなりません。
プラトン パイドン(ヘレニズム)
たしかに一人の人の内でも、「肉は霊に逆らって欲し、霊は肉に逆らって欲する」のである。それゆえ霊の欲するものは他の人の肉の欲するものに対抗し、あるいは肉の欲するものが他の人の霊の欲するも のに対抗して、ちょうど善人と悪人とが互いに闘うように、闘うことがありうる。あるいは善人ではあるがまだ完全ではない人々の場合、彼らが癒されてその健康が最後の勝利に導かれるまでは、二人の肉の欲が、ちょうど悪人同士が闘うことがありうるのである。
アウグスティヌス 神の国15.5(キリスト教)
精神的な暴力は何の力ももっことはできず、ただ自らの考えが暴力的なその人を傷つけるだけである。それは精神的非暴力と全く異なる。精神的非暴力は、世界がまだ知らない力をもっている。
モハンダス・カラムチャンド・ガンディー (ヒンドウー教)
― み言選集 ―
心と体が闘うのに、そこに幸福があり得ますか。心と体が一つになっていないところに、幸福がどこにあり、平和がどこにあるのかというのです。
(242-60.1992.1227)
世界に対する不平を言い、世界に対する平和と真の幸福を叫ぶ前に、皆さん自身を中心として、心と体が一つになって平和の基点を成しているのか、平和の中心基点が神様となっているのか、これが問題です。
(140-17 〜18、1986.2.1)
昔から数多くの聖人、賢哲たちが天国を語るとき、怨讐と闘う激しい場で、自分の憤怒と自分のすべての血気をあらわにして怨讐と争う場で語ったのではなく、怨讐の刀の前でも自分自身を忘れ、静かに天を慕い参拝する場、安らかに天の懐に抱かれる場、 怨讐の環境を超越する場で語ったということを知るものです。
(25-38 - 39.1969.9.28)
「人の体は神様の聖殿である」とこのように言います。聖殿とは、どのような所ですか。仕事をする所ですか。どのような所ですか。聖殿というならば安息所という言葉と通じます。それでは、休むには何の中で休みますか。愛の中で安息するのです。聖殿とは何でしょうか。神様の愛の中で休める所です。私たち人間が願う理想があるならば、そのような内心的基準が最高の理想の基準ではないですか。これを知っているのです。そうした心の愛をもった所を、心情の世界というのです。それは、わき出る泉の水と同じであって、くみ出しても、くみ出しても、終わりがありません。なぜ でしょうか。神様がそこにいらっしゃるから、終わりがないというのです。
(91-78、1977.1.30)
平和とは、何ですか。心と体が一つになり、家庭が平和であってこそ、国家的平和、世界的平和ができるのです。人間が造作した思想では、平和はできません。本然的な神様の心情から心と体が一つになり、その次には夫婦がーつになり、父子が一つになった家庭的基盤が、平和の礎石になるのです。そ の家庭に宇宙まで載せたとしても、根の指示を受けなければなりません。
(305-203.1998.7.14)
UNは、過去60年をかけて努力してきましたが、いまだに世界平和は、はるか彼方です。体と心のカイン・アベ ル関係も解決できない人間の努力だけでは、不可能なことです。
平和神経、平和メッセージ121、2005.9.12
自分の中で永遠に続くこの戦争を、どのように平和に裏返してしまうかという問題です。これは、何よりも重要な問題であることを知らなければなりません。これができなければ、世の中が平和世界になっても、それはすべて地獄になります。先生がこの道を出発する時、第1の標語とは何かといえば、「宇宙主管を願う前に自己主管を完成しなさい」ということだったのです。
(131-34.1984.3.11)
イエスは、平和の仲裁者を神様の息子、娘と呼んだ。実際に、葛藤する集団を和解させることは、その方の家族の構成員が互いに平和に生きることを願われる神様の偉業に同参することである。しかし、平和を仲裁する人の仕事は、難しくもある。たとえその人が双方に公平で、関心を見せて共感しようと努力したとしても、平和の仲裁者は、どちらか一方から攻擊されたり、非難されやすい。 したがって、平和の仲裁者は、平和のために喜んで犠牲になり、危険を甘受しなければならない。さらには、自分の命さえ捨てることを覚悟しなければならない。
和解は、反目する集団に多くを要求する。それは、一時的休戦を越えて、真心からしみ出る寛容を要求する。究極的に和解は、以前の怨讐を愛の絆と結束へと導かなければならない。文鮮明先生は、私たちが私たちの怨讐を愛し、怨 讐の国と和解し、怨讐の宗教と和解しなさい(第13章5.「恩讐を愛しなさい」参照)という宗教経典の倫理を適用するよう、教えている。
― 宗教経典 ―
あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と 仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。
マタイによる福音書5.23~24(キリスト教)
身内との和合われらにあれ。他所人との和合〔われにあれ〕。アシュヴィン双神よ、汝らはここに和合を確立せしめよ。(注7)われらをして意と和合せしめよ、知と和合せしめよ。われらをして神意に抗して戦わしむることなかれ。激しき殺戮において、喊声の立ちのぼることなかれ。インドラの矢をして落 ちしむることなかれ、決戦の日の到来したるとき。
アタルヴァ・ヴェーダ7.52.1〜2 (ヒンドウ一教)
信仰して、主に信頼しまつる者にとっては、神のみもとにあるものこそ、もっと善美でずっと長持ちする。また、大罪や破廉恥の行為を避ける者、及び怒ったときでも寛容する者。……悪 に対する報いは、それと同様の悪である。だが寛容して和解する者に対しては、報酬は神の務めである。まことに かれは、悪い行いの者をめでたまわぬ。 ……だが耐え忍んで寛容する者、まことにそれらは、あらゆる事に果断でそれを成就する。
クルアーン42.36〜43 (イスラーム)
だがかれらがもし、和平にかたむいたならば、なんじもそれにかたむき、神に信頼せよ。
クルアーン8.61(イスラーム)
神の使徒が言った。「現在と未来に最も優れた教訓を教えようか。あなたを抑圧する者を赦し、あなたから背を向ける者と紐帯を結び、あなたを侮辱した者に親切にし、あなたから奪った者に与えることである」。
ハディース(イスラーム)
誰にも悪意を抱かず、すべての人に慈愛で、神が私たちに見せられたその正義に対する固い確信で、私たちが直面することを終えるために、この国の傷を縫い合わせるために、戦闘をしなければならなかった者と彼の未亡人と孤児を世話するために、私たちの間の、そしてすべての国々と、正しく恒久的な平和を成し遂げ、これを保持することに全力を尽くすために邁進しましょう。
エイブラハム・リンカーン 2番目の大統領就任辞
― み言選集 ―
一人でも、和平したところで条件を立てていかなければなりません。争うところでは駄目です。神様が離れていくのです。どこで条件が立てられることを願うのでしょうか。あらゆる悪のものが屈服し、除去された善のところで、これが立てられることを願うのです。争い、不平を言う立場では、条件を無視するのです。ですから、兄弟同士で何か問題があれば、祭祀を行うときには和解してから来なさいというのです。
(286 209 ~ 210.1997.8.11)
自分は自分のために存在するというところでは、お互いに一つになれません。食口たちが平和の動機を成すことができ、お互いが慰安の対象となるためには、「私は、あなたのためにいる」という立場に立たなければなりません。 私はあなたのために、食口のためにいるというところにおいてのみ、平和は 描かれるのです。
(60-21,1972.8.1)
今まで国家の形成過程は、自分に引き付けるものでした。しかし、これから世界に越えていく過程では、自分を捨てなければなりません。自分の愛する国が世界を指導する国家になるためには、その国を捨てなければなりません。そのようにできない国の主義や思想は、世界を糾合できません。
(26-294、1969.11.10)
各国が自分の国を中心として、神様が愛していると言いながら自分の国以外の国はすべて怨讐視すれば、その世界は、どのような世界ですか。争いの世界です。これを皆さんは知らなければなりません。神様の息子、娘になろうとすれば、神様が愛するように愛さなければなりません。人類を愛せなければならないのです。先生は、神様が怨讐と怨讐の国家が互いに和解するのを願い、親和することを願い、互いに通じて一つになることを願っていらっしゃると知ったので、今日、国境を越えて世界をーつにするためのことをしているのです。
(83-312.1976.225)
― 宗教経典 ―
かれは、愛欲を離れ、よくないことを離れ、思慮のある、思考のある、遠ざかり離れることから生じた、喜び・快楽からなる第一段階の精神統一に到達している。
阿含経長部xiii.75.三明経 (仏教)
平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
マタイによる福音書5.9 (キリスト教)
もしも信者の中の二団が争えば両者の間を調停せよ。もしかれらの一方が他方に対して、無法なことをするならば、反逆者が神の命令に服従するまで戦え。かれらが応じたならば、正義と公平を旨として、かれらの間を調停せよ、まことに神は、公正な者をめでたもう。
クルアーン49.9 (イスラーム)
劫中に武器があらわれると、そのために慈しみの心を起して、ひとびとをみちびいて、争闘のない境地に安住させる。もしも大きな戦争が起ったならば、ぼさつは敵に対して等しい力を現じて、敵を降し伏して、威勢を現じて、平和、安らかならしめる。
維摩経8 (仏教)
フーザのラビ・パルカは、たまにラベットの市場に行った。ある日、預言者エリヤが彼に近づいてきた。するとパルカはエリヤに尋ねた。「この者たちの中に、これから来るその日を見る者がいますか」。エリヤが答えた。「あの二人がそうなるだろう!」。パルカがすぐにその二人の新しい者たちに尋ね た。「あなたの職業は何ですか」。彼らは答えた。「私たちは道化役者です。私たちは、悲しい人に会えば笑わせ、争う人たちに会えば、彼らの間に和解をもたらしてあげます」。
タルムード・タアニート22a (ユダヤ教)
全ての王達が席につき、完全なる静寂が続いた後、真白な歯と大太鼓のように深い声をもつクリシュナは話し始めた。「バーラタよ。わたしはクル家とパーンドウ家の間に、勇士達を殺すこと無く平和を樹立せんがために来ました。王よ、わたしにはこの事のほかに何も語るべきことはありません。…… ドウルヨーダナに率いられたあなたの卑劣な息子達は、徳も益も捨て、道徳を無視し、欲望に溺れ、今や最も近い同族に対して不義なる行いをしているのです。この(大殺りくという)重大な危機は、クル家の行いに端を発している のです。もしあなたがそれに無関心でいるならば、それは大いなる殺りくを生み出すでしょう。おおバーラタよ、もしあなたがその気になればその危険を避ける事ができ、平和を得る事さえ難しくはないと思うのです。平和を樹立する事は、王よ、あなたとわたしとにかかっているのです。あなたの息子達を正道に引き戻しなさい。わたしはパーンドウ家を正します。」
マハーバーラタ、ウディヨーガ・パルヴァン (挙兵の巻)95 (ヒンドウ一教)
私には、世界に教える新しいものは何もない。真理と非暴力はあの神々ほども古いものだ。私ができる最も幅広い範囲で、その二つにおいて試みたこと、それが今まで私がしてきたすべてだ。
モハンダス・カラムチャンド・ガンディー (ヒンドウ一教)
私たちは、千年の反目を忘れるために、 川の水のように血が流れてきた国家の間 で、欧州国家連盟を追求しています。
ウィンストン・チャーチル
― み言選集 ―
神様の愛の中には相克はあり得ないし、ただ相和、相応のみがある。聖書に、「平和をつくり出す人たちは神の子と呼ばれるであろう」というように記録された意味もこのような点において理解しなさい。
御旨の道、信仰生活
神様がどれほど耐えたのか、ということを皆さんは知らなければなりません。皆さんは少しでもつらければ不平を言い、ロをとがらせて……。そのようなとき、神様はどれほど耐えたでしょうか。そのように、私たちも耐えなければなりません。千年、万年酎えなければなりません。争ってはいけないと いうのではありません。二人とも利益があるときは争います。争っていって滅びるときは、争ってはいけません。 争うとしても、私の味方にして教育するために争わなければならないのであって、怨讐になるために争ってはいけないのです。
(104-33 - 34,1979.3.25)
世界的次元でも、やはり地域、人種、 宗教、文化、慣習、言語、国籍など、一つの平和世界のために飛び越えなければならない挑戦の課題が山積みされています。しかし、本来宇宙万象をつくられた神様の視覚、神様の真の愛の目を通して世界を見る時、世界は、人種、言語、宗教、理念的差異を越えて一つに見えるのです。青年たちが神様の真の愛を中心に犠牲と奉仕の努力を注ぐとき、世界の貧困と飢餓問題、そして、さらには貧富の格差と、歴史上の異質な経験からくる葛藤と憎悪の感情は、初めて治癒の糸口を見いだせるのです。愛せないものまでも愛することこそ真の愛だという定義から、私たちは観念、葛藤関係が克服され得る明確な方向性を知るようになります。自由と平等の間の理念的矛盾も、真の愛の場で初めて、一つの出会いの場を見いだせます。与えて、また与え、そして与えたことを忘れたまま、より与えることを願う神様の真の愛によって利己主義を克服し、和合と繁栄の世界に進んで いけます。特に、家庭は国のために、国は世界のために、そして世界は神様のために犠牲になる位置に進まなければならないという真の愛の倫理展開から、民族利己主義、国家利己主義を越えて永遠の平和の世界を望めるのです。
(288-201~202.1997.11.28)
レバレンド・ムーンのような人がここに来て、黒白を調整しています。今 まで黒白問題を調整してきたのです。それで、レバレンド・ムーンが教えることは、白人が黒人に奉仕できるようにすることです。
(124-275~276.1983.227)
黒人たちは、このアメリカで天の蕩減路程において、アベル的歴史において奴隷の道を歩んできました。この国を創建したのは皆さん黒人たちであって、白人たちではないことを知らなければなりません。白人ではなく黒人です。まず黒人を犠牲にして、その次にインディアンを犠牲にしてきたのでは なかったですか。争えば黒人たちが恨みを晴らすのであり、有色人種が白人種と争えば、白人の皆さんを残しておくと思いますか。そのようなことを知らなければなりません。レバレンド・ムーンは、なぜここに来たのですか。事実、インディアンは私たちの親戚と同じです。国で見れば、親戚関係、兄弟関係だということです。彼らをすべて葬り去ろうとするので、私が来て止めてあげなければなりません。恨みを晴らそうとして来たのではなく、救ってあげ、和解させるために 来たのです。そのようなことを誰がするのですか。白人がしますか、黒人がしますか。それはできません。できないというのです。白人の話も聞かず、黒人の話も聞きません。「ここで絶滅させられた有色人種と同じ黄色人の私たちも、怨讐であるこのアメリカを赦すのだから、あなたたちも赦しなさい」、そうしてこそ 黒人が話を聞くのです。「あなたたちの怨讐よりも、黄色人の怨讐、インディ アンの怨警、アジア人の怨警だが、彼らを私が赦すのだから、あなたたちも赦しなさい」、このようにすれば統一できるのです。歴史的に、アベルが行く道はそうでした。
(106-241、1979.12.30)
ペルシャ湾の問題をキリスト教の責任者たちができないので、先生が全世界のキリスト教の重鎮とイスラームの重鎮に会い、これを防御するための会合を今も行っています。韓国に暮らす人が、ペルシャ湾が滅びるなら滅び、原子爆弾が落ちるなら落ちるのであって、私と何の関係がありますか。しかし、世界人類の行く道が暗澹としていることを知っており、暗礁に乗り上げるのは間違いないので、それを知っている私が責任をもち、お金を使いながら、侮辱されながら、外交的舞台で彼らを生かしてあげようとしているのです。ここに、アメリカとソ連まで巻き込み、これに拍子を合わせて行動しなければなりません。私は、このようなことをしているのです。中共と台湾のナンバー 2を和解させたのは、誰です か。私です。ユダヤ教とアラブ圏とを和解させたのは、私がつくった「世界平和教授アカデミー」です。そのようなことをしているのです。
(211-183.1990.12.30)
私は、もう85歳の老齢になりました。しかし、この崇高な天命を完遂し、この地球星が神様の真の家庭で満ちあふれるその日まで、中東地域から銃声が消え、平和と歓喜の祝砲が響き渡るその日まで、そして、私の祖国韓半島から聞こえてくる統一の万歳の声が、太平洋を越えてこのアメリカにまで響き渡るその日まで、レバレンド・ムー ンは誰よりも先頭に立って走ることでしょう。
(443-191,2004.3.23)
― 宗教経典 ―
「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。 自分が何をしているのか知らないのです。」〕 人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。
ル力による福音書23.33 ~34 (キリスト教)
しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。
エフェソの信徒への手紙2.13-16 (キリスト教)
それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとして も、今はもうそのように知ろうとはし ません。だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。
コリントの信徒への手紙二5.16 ~19(キリスト教)
― み言選集 ―
イエス様は、闘っているこの世界に新しい方向を提示してくださいました。ローマやイスラエルのような圧迫国家と非圧迫国家の間には、お互いを怨讐視する高い障壁があるのですが、イエス様の哲学は、それを壊してしまうべきだというものです。イエス様は「ローマよ、あなたは力で私を征服しようと するが、私はその反対に愛であなたを征服する」と考えられたというのです。それで、十字架にかかりながらも怨讐のために福を祈ってあげたのです。そのような思想は、ローマの兵士たちに対して「彼らは、自ら犯した罪が分からないので、彼らを許したまえ」という驚くべき宣言として現れたことを知らなければなりません。イエス様がそのようになさることによって、世 界のすべての国がお互いを怨讐視することを乗り越え得る、二つの国家間の国境を乗り越え得る、一つの原型、または模範となりました。イエス様は、個人的な怨讐がすべてではないと知っていたというのです。家庭的な怨讐があり、氏族的な怨讐があり、民族的な怨讐があり、国家的な怨讐があり、世界的な怨讐によって四方から縛りつけられていることを知っていました。これは、私に従い、私が行く道を行こうとする人には、数多くの怨讐が待っているということです。そして、「家庭的に行けば家庭的な怨讐が待っており、氏族的に行けば氏族の怨讐が待っていて、熾烈な闘いが予 想されるけれども、その時にこそ恩讐を愛しなさい」というみ言です。このような精神をもっていれば、いつかは勝利できるというのです。真の家庭と世界甲和、悪を自然屈服させようとする神様の戦法は、「怨讐を愛せよ」ということで した。内容は、簡単ですが、これが神様とサタンの間で勝敗として分かれる境界線となってきたことを誰も知りませんでした。キリスト教の愛の精神によって、激しく迫害を加えてきたローマ帝国が屈服しました。キリスト教は、そのようにして世界的な宗教になりました。これまで、クリスチャンは、個人的な怨讐だけを考えてきたのですが、そうではありません。怨讐国家とか、さらには怨讐世界も愛さなければなりません。怨讐の間柄である国家を、自分の祖国以上に愛し得る基盤と伝統を成さない限り、地上に天国は顕現できません。このような歴史的な伝統の樹立は、神様の真の愛の中でのみ可能なのです。
(316-81,2000.2.10)
聖書に、怨讐の個人を愛しなさいという言葉はありますが、怨讐の国を愛しなさいという言葉はありません。私たちは、怨讐の個人を越えて怨讐の国を愛そうというのです。国を愛するだけではなく、死地にある国を救ってあげようというのです。それがメシャ思想です。
(93-160,1977.522)
和睦させる者は神様の息子と呼ばれ る、と聖書にあります。私が神様のみ旨を知ったために、天の国を中心として、神様のみ旨を中心として人類が和睦できるようにしようとするので、そこで槍を受けるとしても、先に受けなければなりません。和解させようとすれば、そのようにしなければならないのです。血を先に流さなければなりません。それを意に介さず、争う二人を生かすためには、そのようなこともできなければなりません。
(211-182.1990.12.30)
平和は、正義がある所で栄える。正義は、葛藤する双方の人々に同一には現れないかもしれないが、誤りを正し、負債を返し、損傷した信頼を回復するためには、何らかの措置が取られなければならない。隣人に過ちを犯したことに対して、普通に悔い改めをすることでは十分ではない。悔い改めには償還が伴わなければならない。
償還は、損害に正確に相応する値段でなくても、誤った人が損害を受けた人に自ら補償するときに、最も効果的である。ベルサイユ条約により第1次世界大戦が終わったのち、ドイツがフランスとイギリスに提供するように強要された戦争賠償金と、第2次世界大戦後、ドイツがユダヤ人とその他のナチ犠牲者に提供した償還とを比較してみよ。ドイツに戦争賠償金が強要された前者の場合、その戦争賠償金は、ドイツ人の大きな怒りを引き起こし、ヒトラーの登場に直接連結する、復讐に対する要求に油を注ぐ結果となった。ナチの犯罪に対してドイツ人が本当に悔い改めた後者の場合、その償還は、ドイツと以前の怨讐国家の間に善の意志を広げるのに役立った。
私たちが犯した誤りに対する真心に満ちた悔い改めに続いて、私たちが損害を及ぼした人々に自発的に償還を提供することが平和創造の原則である。また、私たちが意識しないまま犯した罪、または私たちが過去から受け継いだ負債、または私たちが集団的に責任を負わなければならない誤りもあり得る。 私たちは、これらに対しても償還しなければならない。
文鮮明先生は、この概念を「蕩減復帰」の教えとして確立した。先生は、「蕩減」とは保険の損害賠償請求額のように固定された金額ではなく、むしろ相手側の苦しい心を和らげるために必要なものは何でも与えることだと教える。もし、相手側が赦す心をもっているならば、それは小さくなる。そうではなく、数年の間背信と不信で関係が緊張した状態ならば、それは大きくなるだろう。
「歯には歯、目には目」という一節は、本来の聖書的意味で返還するための法的公式として受け入れられる。そして、ユダヤ教では、そのように理解された。人々は、先天的に自らが借りたすべてを返さなければならないことを知っている。しかし、その一節は、たびたび復讐の正当化のために誤って引用された。それは完全に異なる問題である。苦痛に遭った集団による復讐は、一種の乱暴な正義だが、それは平和への助けにならない。それは、ただ暴力の悪循環を助長するだけだ。世界経典は、赦すことがより良いと教えている。
― 宗教経典 ―
ああ肉体に住む者よ、汝がなしてきた全ての事に対して償いをせよ!
ガルダ・ブラーナ235 (ヒンドウー教)
贖罪の日は、天に対する罪を贖罪する日だ。しかし、人間に対する罪は傷を受けた者が赦さない限り、贖罪を受けることはできない。
ミシュナ、ヨーマ8.9 (ユダヤ教)
サママがイマーム・マリーに、計画的な殺人を犯した者が悔い改める方法があるか尋ねた。彼が答えた。「ない。殺害された者の親戚に慰謝料を払い、奴謙たちを解いてあげ、2カ月間断食し、神の赦しを求め、自発的な祈りを行う方法以外にはない。もし彼がこれを行えば、私は彼の悔い改めが受け入 れられただろうと希望する」。サママが言った。「それでは、彼にお金がなければどうしますか」。彼が言った。「それは、ムスリムにお金を求め、彼の血族に賠償することができる」と 言った。
ハディース(シーア派イスラーム)
もし、その他の損傷があるならば、命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足、やけどにはやけど、生傷には生傷、打ち傷には打ち傷をもって償わねばならない。
出エップト記21.23〜25(キリスト教)
われはかれらのために律法の中で定めた。生命には生命、目には目、鼻には鼻、耳には耳、歯には歯、もろもろの傷害にも、同様の報復と。しかしその報復を控えて許すならば、それは己れの罪の償いとなる。およそ神が下したまえるものによって裁判しない者は、不義を行う者である。
クルアーン5.45 (イスラーム)
深い怨みを和解させても、必ずいくつかの怨みがあとに残る。このように、和解は最善の方法とはいえない。賢者は借人の契約書を握っているけれど、借人に支払いを求めない。だから、「徳」のある者は契約書を握るだけであり、「徳」のない者は税金のとりたてをする。
道徳経79 (道教)
以前には悪い行ないをした人でも、のちに善によってつぐなうならば、その人はこの世の中を照らす。雲を離れた月のように。
法句経173 (仏教)
もしある人が本当に悪の行為をして、その後に彼の道を変更して悔い改めれば、邪悪ないかなることも行わず、あらゆる善のことを敬虔に実行することを決心したのなら、彼は結局、間違いなく良い運命を得るようになるだろう。これを災いを福に変えると言う。
太上感応篇、感応と報い5 (道教)
また、悪人に向かって、わたしが、「お前は必ず死ぬ」と言ったとしても、もし彼がその過ちから立ち帰って正義と恵みの業を行うなら、すなわち、その悪人が質物を返し、奪ったものを償い、命の捉に従って歩き、不正を行わないなら、彼は必ず生きる。死ぬことはない。彼の犯したすべての過ちは思い起こされず、正義と恵みの業を行った者は必ず生きる。
エゼキエル書33.14 ~16 (キリスト教)
そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。……しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。」
ル力による福音書19.2.8~9 (キリスト教)
― み言選集 ―
復帰摂理は、必ず蕩減を中心として発展もし、新しい契機を用意するというのが原則です。なぜ蕩減が必要なのですか。歴史的な失敗を清算するのと同時に、歴史的な罪を中心として常に讒訴してくるサタンを分別するためです。このような立場に、個人も全体も引つ掛かっているのです。皆さん個人を中心として見ても、現在の「私」というものが現在だけの「私」ではありません。歴史的な全体を受け継いだ子孫になっているのです。そして、現在の「私」というのは、今日の個人を中心としている現在の「私」ではなく、全世界を代表した立場にいる「私」だというのです。各自がそのよう な立場にいます。
(99-164 〜165.1978.9.18)
蕩減復帰は、失ってしまったそれと同じ、正常そのものをもって復帰するのです。蕩減復帰だというのです。病気になれば、病気になった状態から逆さまに上がっていかなければなりません。ですから、旧約時代は、目には目、歯には歯です。
(252-128.1993.11.14)
法廷で判事、検事たちが求刑するとき、それを有り難く受けようとする人には減刑してあげようとするのが判事の心情であり、検事の心情だというのです。判事や公判廷を恐ろしく思うよりも、自分に忠告する個人を恐ろしく思う人は、罪を犯して刑を受けても免れる道があるのであって、それを恐れることがなければ免れる道がないとい うのです。
(104-279 ~ 280. 1979.6.1)
私たちの同僚関係においても、一言間違って失敗すれば、それで関係が壊れることもあります。夫婦同士でもそうです。一言の言葉が動機になって気分が悪くなれば、それによって別れていくのを見ることができます。そのような苦痛を受ける立場に落ちたときは、どのようにしなければなりませんか。まず、語ったことの根本を掘り下げ、「これは間違っているが、これはこうで、これはこうだ」として、あなたが間違ったのか私が間違ったのか、友人であれば彼が間違ったのか私が間違ったのかを判別して、これを清算してこそ、そこから解決していくのであって、そのまま覆いかぶせて「そうしょう」としてはいけないのです。そのような内容が残れば残るほど、それによって永遠に怨讐となり、永遠に残ることを知らなければなりません。国家間で戦争をしたときも、戦争が終わったあとには、誰が正しくて間違っているのかを判断し、損害賠償を請求したり何かをするなどして、埋め合わせて越えていかなければならないのです。
(89-116~117.1976.11.1)
ある人に負債を負えば、その人の僕となる。そうでなければ滅びる。反対しようとしても反対することのできない立場まで行って、そのときに初めて位置を確保することができる。
御旨の道、試験・試練
蕩減復帰は、外的世界を完全に否定するところから蕩減が始まるのです。完全復帰するためには、神様の愛を中心として完全否定する段階が残っているということを知らなければなりません。真の愛の基準の前に立つことができなければ、完全否定です。
(312-334,1999.11.7)
神様は、打たれて奪ってきます。レバレンド・ムーンは、今まで打たれて反対されながら奪ってきました。全世界が反対したのです。全世界が反対するのは、全世界が屈服するという予告であることを私は知っています。反対すればするほど、世界と向き合っていた神様は、レバレンド・ムーンの側に行きますか、反対する側に行きますか。なぜ先生の側に来るのですか。反対する人までも愛そうとしたからです。違うのです。反対する怨讐に復讐しようとしないのです。血には血、歯には歯、目には目でするのではありません。愛で消化しようとするのです。
(168-204.1987.9.20)
戦争は平和を生むのではなく、さらに多くの戦争を生むだけである。第1次世界大戦は、すべての戦争終息させる戦争と思われていた。しかし、30年もたたずにヨーロッパは第2次世界大戦に巻き込まれた。このような事実を理解するにおいて、偉大な聖賢たちが非暴力主義を教えた。彼らは、報復せずに、優しい心をもって、喜んで攻撃に耐える。これが平和世界を建設するにおいての最上の教えである。これ以外に、どのような方法によっても神様の王国は具現されない。
それでも、栄枯盛衰の歴史において、人々が残酷な侵略者に遭ったとき、神様は彼らが自分を自ら防御することを許諾した。葛藤する二つの集団の間で、神様は侵略者に対抗する防御者の側に立った。そのため、歴史を通して、自分が勝利すると確信して戦争を起こした侵略者は、ことごとく敗北者になった。これは、国家政策の手段として戦争が無用だということを再度悟らせるものである。
― 宗教経典 ―
そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした。そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」
マタイによる福音書26.51~52(キリスト教)
わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頰を打つなら、左の頰をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、ーミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。
マタイによる福音書5.39〜41 (キリスト教)
勝利者からは怨みが起る。敗れた人は苦しんで臥す。勝敗をすてて、やすらぎに帰した人は、安らかに臥す。
法句経201(仏教)
見よ、彼らは、敵の命であっても、その命を奪うよりはむしろ自分の命を犠牲にする方を選んだ。そして彼らは、同胞を愛していたので、自分たちの武器を地中深く埋めてしまった。
モルモン経・アルマ書26.32 (末日聖徒イエス・キリスト教会)
罪を犯した者たちは死ななければな らないと祈るのか。それよりも、彼らが悔い改め、これ以上の悪がないように祈れ。
タルムード、プラホート10a (ユダヤ教)
武力は平和ができることをすることができない。もしあなたがさとうきびで願う目的を果たせるなら、どうして毒薬を使うだろうか。
ソーマデーヴァニーティヴァーキャームリタ344 (ジャイナ教)
「この乱れた天下は、いったいどこに落ちつくのだろう」とおたずねになる。 そこで「いずれは、必ず統一され〔て落ちつき〕ましょう」とお答えすると、また「だれがいったい統一できるのだろう」と問われる。そこで、「人を殺すことのきらいな仁君であってこそ、はじめてよく統一できましょう」とお答えすると・・・・・・。
孟子l.A.6 (儒教)
何人かの子供たちが川辺で遊んでいた。彼らは砂の城をつくり、それぞれ自分の砂の城を守って言った。「これは私のものだ」。彼らは自分の砂の城をつくりながら、崩れないように最善を尽くした。砂の城が完成したとき、一人の子供が他の子供の砂の城を足で蹴飛ばし、完全に崩してしまった。崩れた 砂の城の主人が怒り、崩した子供の髪の毛をつかみ、拳でたたいて叫んだ。「この子が私の砂の城を壊した! みな来て、私がこの子を懲らしめることができるように手伝ってくれ」。他の子供たちが来て彼を手伝った。彼らは、砂の城を崩した子供を棒でたたき、その子供が地面に倒れると、踏みつけることまでした。そうしたのち彼らは、各自の砂の城で遊びを続け、「これは私のものだ、他の誰もこれをもつことはできない、近くに来るな! 私の砂の城に触るな!」。しかし、夕方になって暗くなり始めると、彼らはみな家に帰らなければならなくなった。もう誰も自分の城を惜しいとは思わなかった。ある子供が自分のものを足で蹴飛ばすと、他の子供は両手で自分の城を押さえてつぶした。そうしたのち、彼らはそれぞれ家に帰っていった。
瑜伽師地論4 (仏教)
主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦う ことを学ばない。
イザヤ書2.4 (キリスト教)
暴力を使えば、殺人者を処分することはできます。しかし、殺人自体をなくすことはできません。暴力を通してうそをつく者は処分できますが、それで真理を成就することはできません。暴力を通して私を憎悪する者を処分することができますが、憎悪自体をなくすことはできません。暗闇は暗闇を終わらせることができません。ただ光だけができるのです。
マーティン・ルーサー・キング・ジュニア 黒人の進む道(キリスト教)
憤怒と憎悪は調和をもたらすことができません。武器の減少と軍備の撤廃は、対決と非難によって成し遂げることはできません。
テンジン・ギヤツオ、第14代ダライ・ラマ
― み言選集 ―
武器を使って平和の世界をつくろうとすることは、神様のみ旨ではありません。また、レバレンド・ムーンのみ旨ではありません。力を使わず、愛によってどのように消化させるかを考えていらっしゃるのです。
(103-184.1979.2.25)
過去の歴史的な偉人たち、聖人たちの中で、その時代に迫害を受けなかった人がいますか。そのように歴史過程で反対を受けるようになるとき、私が正しいと弁明した人たちは、聖人の中に入れません。イエス様は、歴史と共にそのような非難を受けて恨を抱きましたが、黙って口を閉じて逝きました。しかし、歴史時代の勝利者として再び登場したのは、なぜでしょうか。悪と争わなかったからです。
(80-34,1975.10.4)
宗教を信じる人たちは、一発打たれれば同じように打ち、争って対抗できないのですか。権力者がいれば、権力者を激しく打ち、闘いなさいと教えてあげられないのかというのです。本来の人類が希望を求めていくときに、争いを通して希望を求めたとすれば、どのようになっていたでしょうか。しかし、エデンの園の理念がそうではないのです。神様の創造理想がそうではなかったというのです。本来、私たちが救援摂理の道を行くのは、本然の園に帰ろうとすることですが、その本然の園での理想世界実現というのは、争いをして求めていく世界ではありませんでした。互いが自分を高めようとする世界ではなく、謙遜と愛が宿る世界だったのです。このような本来の園の内容を追求していく理想の道を訪ねていく人たちが、争い、嫉妬し、妬んでいては、その本質の世界とは関係のない結果になり、そのような者たちは天に属せないので、そのような道を天は今まで、歴史を通してコーチせざるを得なかったのです。今ではもう、本来の世界がどのようなものだということを知りました。自分を中心として驕慢な人は、いくら誇っても、天国に行けば神様と関係がないのです。その次には、争う人、妬み、嫉妬する人たちも同じです。これからの真の宗教は、「出ていって闘いなさい」というものではありません。人を利用し、人をすべて支配しなさいという宗教ではないのです。愛をモットーとして生きていくのです。
(98-33.1978.4.8)
― 宗教経典 ―
土地の争奪で戦っては、原野をーぱいに満たすほどたくさん人を殺し、城の奪合で戦っては、城を埋めつくすほど無数の人を死なせるというようなのは、なおさらのことだ。つまりは、人の肉を土地に食べさすようなもので、かかる連中はその罪死刑にしてもまだ足りぬ。されば……戦争の上手な連中は最高の重刑に処すべきであり……。
孟子IV.A.14 (儒教)
武器は、人々によって蔑視される不吉な前兆をもった道具である。だから、「道」を有した人はそれに身をおかない。武器は不吉な前兆をもった道具である。避けることができない時だけ、それを知る。たとえ戦闘にあたっても、冷静で冷淡であるのがよい。たとえ戦争に勝ったとしても、光栄とすべきではない。光栄とは、人を殺害するのを楽しむことを意味するからだ。人々を殺害するのを楽しむような人は、天下で成功しない。
道徳経31(道教)
できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言わ れる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火 を彼の頭に積むことになる。」悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。
ローマの信徒への手紙12.18~20 (キリスト教)
怒りを解き、憤りを捨てよ。自分も悪事を謀ろうと、いら立ってはならな い。悪事を謀る者は断たれ/主に望みをおく人は、地を継ぐ。しばらくすれば、主に逆らう者は消え去る。彼のいた所を調べてみよ、彼は消え去っている。貧しい人は地を継ぎ/豊かな平和に自らをゆだねるであろう。主に従う人に向かって/主に逆らう者はたくらみ、牙をむくが/主は彼を笑われる。 彼に定めの日が来るのを見ておられるから。主に逆らう者は剣を抜き、弓を引き絞り/貧しい人、乏しい人を倒そうとし/まっすぐに歩む人を屠ろうとするが/その剣はかえって自分の胸を貫き/弓は折れるであろう。
詩編37.8-15 (キリスト教)
イマーム・マリーが神の使徒のさやで手紙を発見したが、このように書かれていた。「神の目に最悪の人間は、彼と争わない者を殺す者であり、彼をたたかない者をたたく者である。ゆえに、彼は神がムハンマドに下されたクフル(不信仰)の罪を犯すようになるのである」。
ハーディース(シーア派イスラーム)
彼らが先に争いを始める前に争うな。そうすれば、神の恩寵であなたたちは正当化されるだろう。そして、彼らが争いを始める前まで彼らをそのままにしておくことは、また一つの正当性になるだろう。そうしてからあなたたちが彼らを退けたのなら、逃亡する者を殺さず、負傷した者の命を奪わず、服を脱 がさず、死体を切り刻んではならない。
アミール・アル・ムウミニーン・アリーダアイム・アル・イスラーム(イスラーム)
― み言選集 ―
アメリカが過去3年の間、イラク戦 争につぎ込んだ戦費がどのくらいになるか御存じですか。約20兆円(2000億 ドル)に迫っています。それだけ予算があれば、ベーリング海峡プロジェクト(注14)を完成しても余るお金です。なぜ私たちが、互いに殺し合う戦争に、このように途方もないお金をつぎ込む愚かな蛮行を続けなければならないのでしょうか。聖書のイザヤ書第2章4節の教えのように、今や、「銃や刀を溶かして、すきとくわを作る」時です。人類はもうこれ以上、戦争のための戦争に子女たちの命を犠牲にし、天文学的なお金を費やす悪業を繰り返してはなりません。世界のすべての国家の力を総動員し、大宇宙の主人である神様が願われる平和理想世界王国創建に、総邁進すべき時が来たのです。
平和神経、平和メッセージ1.32 2005.9.12
今まで神様が万民の平和の武器として下さった科学技術を、特定の一国が使用して世界をむさぼり、幸福になることを神様は容赦されません。万民の幸福のために人間に下さったのが科学技術です。特定の白人だけがその恵沢を享受し、平和を無視した武器として使用することはできません。そのような観点から先生は、技術平準化を語るのです。
(190-178,1989.6.19)
戦争について見てみるとき、何によって善の側と悪の側を分けられますか。何もしていないのに、先にたたく人が悪の側だというのです。二人の学生がけんかしているとき、誰が先にけんかをしかけたかが問題です。先生は攻撃されたほうに立ちます。それで、必ず先に打った者が負けるということを知らなければなりません。なぜかというと、先生が攻撃された側に立ってくれ、神様が攻撃された側に立ってくれるので、負けるようになっているのです。それでは、なぜ先に打つのが悪ですか。本来、この宇宙で善が先に出発しなければならないのですが、悪が先に出発しました。アダムとエバが何もしていないのに、先に打ったのです。神様が何もしていないのに、先に攻撃をしたのです。それで悪だというのです。もし悪の人が善の人を侵害したときは、その侵害したものを支払ってあげなければなりません。侵害された人は、損害賠償を請求することができるのです。そのような戦略を、作戦を知って、そのような内容を知っている神様は、じっとしているでしょうか、攻擊するでしょうか。じっとしているというのです。また、神側にいる人はどうでしょうか。神様がじっとしているので、神様に従い、神様と—つになろうとする人たちも、じっと打たれているのです。 打たれてじっと最後まで耐えれば、損害賠償を請求できます。サタンは攻撃者の先祖です。サタンが悪の先祖なので、攻撃者の先祖であることを知らな ければなりません。神様は守備の王です。したがって、打たれれば打たれるほど、その基盤のもとには蕩減復帰を短縮させていける原理があります。このような観点から、サタンは攻撃をして奪われていくのであり、神様は攻撃を受けて取り戻してくるという結論が出てきます。第1次大戦のとき、ドイツが勝ちましたか、負けましたか。負けました。なぜ負けたのですか。ドイツは絶対に負けたくなかったのです。サタンも絶対に負けたくなかったので す。しかし、天理原則によって負けたのです。その次に、第2次世界大戦のときは、誰が先に打ちましたか。日本とドイツです。それでは、負けましたか、勝ちましたか。なぜ負けたのですか。神様が、公義の審判官が、「おい! こいつ。いくらやっても、お前が間違っている!」と言うのです。
(91-243〜244、1977.223)
神様は、歴史において活動し、国家の栄枯盛衰を決定する。これは、神様がイスラエルに下した啓示の第一原理であった。イスラエルの預言者たちは、その民族が神様のみ旨に忠実なのかどうかによって、神様が彼らに祝福と懲罰を分けて与えられることを知っていた。儒教は、天命が義なる統治者を助け、腐敗した王朝を滅亡に導く高次的カだと語っている。これに似て、クルアーン(コー ラン)では、強力な国家が勃興して滅亡する歴史の中に、義なる神様の審判を識別している。神様の審判は、古い偉大な国家の痕跡をアラビアとエジプトの砂漠の中に埋もれた廃虚の中に残されている。
一時、強力だったローマ帝国の滅亡は、無神論と道徳的堕落が破滅に至らせたという、もう一つの証拠である。文鮮明先生は、アメリカと西洋の様々な国々が同じ運命を通して苦痛を受けることもあると警告しながら、このような経典の伝統を受け継いでいる。しかし、先生は国民が神様へ向かいさえすれば、彼らの差し迫った滅亡は逆転できると希望を提示している。
― 宗教経典 ―
わたしは陶工の家に下って行った。 彼はろくろを使って仕事をしていた。陶工は粘土で一つの器を作っても、気に入らなければ自分の手で壊し、それを作り直すのであった。そのとき主の言葉がわたしに臨んだ。「イスラエルの家よ、この陶工がしたように、わたしもお前たちに対してなしえないと言う のか、と主は言われる。見よ、粘土が陶工の手の中にあるように、イスラエルの家よ、お前たちはわたしの手の中にある。あるとき、わたしは一つの民や王国を断罪して、抜き、壊し、滅ぼすが、もし、断罪したその民が、悪を悔いるならば、わたしはその民に災いをくだそうとしたことを思いとどまる。またあるときは、一つの民や王国を建て、また植えると約束するが、わたしの目に悪とされることを行い、わたしの声に聞き従わないなら、彼らに幸いを与えようとしたことを思い直す。」今、ユダの人々とエルサレムの住民に言うがよい。「主はこう言われる。見よ、わたしはお前たちに災いを備え、災いを計画している。お前たちは皆、悪の道から立ち帰り、お前たちの道と行いを正せ。」
エレミヤ書18.3-11(キリスト教)
彼らの胸に恐れをもたらす神によって、略奪品に対する不正が現れ、彼らの間に広がる死によって偶像崇拝が蔓延し、彼らの食物が減っていくことによって人々は秤を削るようになり、彼らの間に広がる流血、殺害のために人々は不公正な判決をするようになり、彼らの上に君臨する敵のために誓約を破るようになる。
マーリク・ハディース(イスラーム)
孟子がいわれた。「夏・殷・周三代の王朝が天下を得たのは、その開祖兎王・ 湯王・文王・武王がよく仁政を行なったからであり、それが天下を失ったの は、その末代の架王・糸寸王・幽王・属王がいずれも不仁の政治を行なったからである。……諸侯の国々の興廃・存亡する原因もまた同じである。故にもし天子が不仁であったら、天下を安らかにすることができず、諸侯が不仁であったら、社稜すなわち国家が安らかにすることができず、卿・大夫が不仁であったら、祖先代々の霊廟すなわちその家を安らかにすることはできず、……士や庶民が不仁であったら、自分ひとりの身体さえ安全にすることはできなくなる。ところが今の人々は、……死んだり亡んだりするのを忌みきらいながら、しかも不仁なことばかり楽しんで行なっているのは、ちょうど酔うことをきらいながら……無理をして酒を飲むようなもので、矛盾も甚だしい。」
孟子IV.A.3 (儒教)
三十三天の天王たちによって、王者の分けまえを与えられ、人間界の支配者はすべての神々の息子の身分を得た。不法なことを絶滅するために、悪事の破壊者である彼は、衆生を神の住処に送るために、かれらを善事に従事させよ。人間であれ、神であれ、ガンダルヴァであれ、人間の王であれ、ラークシャサ(羅刹)であれ、あるいは、チャンダーラであれ、彼はそれらの悪事を破壊する。王は善事をなす人々 の両親であり、所行の実行とその果報を示すために、王は神々の加護を受ける。王がその国土にある悪事を見逃すとき、また、悪人に相応しい処罰を課さないときは、悪事を見逃したことにより、不法が劇しく増し、その国には凶悪な事件や争いが生じる。そして、王がその国土にある悪事を見逃すとき、三十三天の天宮にいます神王たちは怒る。その国土は凶悪きわまる残忍な悪事の害なわれ、敵軍の襲来するとき、その国土は亡び、だれが金を貯えていようと、その楽しみも家庭も、種々の凶悪な事件により、互いにそれらを失う。いかなる方法で統治するにせよ、為すべきことを果たさないとき、あたかも象が蓮池を踏みつぶすように、かの王は自国を滅ぼす。吹いてはならない風が吹き、降ってはならない雨が降り、曜星・星宿の星まわりは不吉で、太陽と月の運行は凶である。穀物も、花も、果実も、種子も正しく実らず咲かず、王が義務を怠るところでは、飢饉が生ずる。……そして、すべての神王たちは互いに語るであろう。「この王は不法に味方して、不法である。この王が神々を怒らすのも、遠いことではない。神々の憤りによって、かの王の領土は滅びよう。……愛する者たちから孤立し、兄弟・息子にも見離され、また、愛する妃妾と別れ、また娘も死のう。流星が降るように堕ち、さらにはまた幻日が見られよう。他国の軍勢の脅威と飢饉の被害は物凄く増大しょう。信頼した大臣は頓死し、また愛する象も瀕死し、これらのものが死んだ直後に、愛馬もまた廳馬もたおれ、……そして、諸地方には、口論・争乱・凶悪な事件が起こり、凶悪な鬼霊が国内に入りこみ、激烈な疫病が発生する。……したがって、王は自身の 愛する生命を捨てることがあっても、この世を安楽にする正義の宝を捨ててはならぬ。」
金光明経12 (仏教)
かれらは地上を旅してかれら以前の者の最後が、どうであったかを観察しないか、かれらは、これら(マッカの多神教徒)よりも有力で、地上に残す遺跡においてもすぐれていた、(注15)しかし神は、かれらのもろもろの罪のために捕まえたもうた。そのとき神から、かれらを守れる者はひとりもなかった。それはかれらの使者たちが、明証をもたらしたとき、かれらはそれを拒んだので、神はこれを捕まえたもう。まことにかれは強力で、懲罰に厳重であられる。
クルアーン40.21~22 (イスラーム)
なんじは神が、いかにアードの民を 処分されたかを考えないか、そびえたつ柱をもつイラムの町、これに類するものは、諸都市において、造られたことはなかったではないか、また谷で岩を切り刻んだサムードの民、杭のぬし、ファラオを考えないか、これらはすべて諸都市において、法外にそむいた者たちで、その地に邪悪を増長させた、それでなんじの主は、懲罰のむちをかれらに浴びせかけたもうた。まことになんじの主は、油断なく監 視したもう。
クルアーン89.6〜14 (イスラーム)
ああ、皇天の上帝は、その長子、大国殷の王に与えられた命令を改めて周に与えられ、ここにわが王が万民統治の大命をお受けになることになりました。限りなくおめでたいことでありますとともに、限りなく重大なことでございます。ああ、何ともどうしてつつしまずにおられましょうか。天は、もはや大邦殷の命運を断絶されましたので、殷の多くの在天の祖先の明王と、その子孫の王と主だった人々とはその天命が絶えたことに服従しています。ただ愚かな奴とあさはかな者どもとは、その子どもを抱きかかえ妻と手をとりあって、天に悲しんでさけび訴えることを知るだけで、その亡国をのろって、不安におののいています。ああ、天も四方の人民のことを哀れんでいます。どうか天命をかえりみてお励みなさいますように。王はどうかつとめて徳を慎みなさいますように。古の先王、夏王国を考えてみますのに、その先王には天の霊異降って、先王は面と向かつ て天神に謀り従っていましたが、今になってもはやその天命を失ってしまい ました。近くは、殷王国を考えてみますのに、その先王には霊異が降って、面と向かって天神に謀り従っていましたが、今となってもはや天命を失ったのです。……王は、ここにおでましになって上帝の命令をお受けになって、みずから、この天下中央の地から王業を行いなさいますように。
書経5.122周書第八(備孜)
ゆかしくいます 文王 ああ 徳すぐれ恭し大いなるかな 天命 商の子孫たち商の子孫たちその数億ならず上帝既に命じたまひ 周にこと底さしたまへり周にこと依さしたまへり天命は定めなし殷士のおほどかなるも 都にて祝ごとすその祝ごとするになほ殷の服つけたり王の忠臣たちよ 先祖の名を汚したまふな
先祖の名を汚したまふなひたすらに徳を修めよ永く天命にそひ 多福を求めゆかむ殷の未だ滅びざるときよく上帝の命にかなへり殷のことに鑑みたまへ天命を得るは易からず
天命を得るは易からず汝の身にて絶たすまじぞ名声をかがやかせ殷の滅びたる次第を考へよ天意の動きには 声もなく 臭もなし文王を規範としすべての邦よ 精誠を致せ
詩経、235文王(儒教)
誰かが仏陀の弟子たちを悩ませるならば、その人は、梵天王とインドラによって送られた外国の軍勢によってただちに攻撃されるだろう。
大集経(仏教)
楽浪の 国つ御神の うらさびて 荒 れたる京 見れば悲しも
万葉集I (神道)
主がバーブルの侵略からコーラサンを守護され、ヒンダスタンに恐怖を預けられた。主が自ら罰を下されることはなく、ヤーマ(死に神)のように死を扱うムガールのバーブルを送られた。民たちが苦痛の中で泣き叫んでいるとき、あなたは彼らに何の哀れみも感じられなかったのか。万有の創造主であられるあなた、もし力の強い敵が同じように力の強い者を苦しめるのなら、心はこれほど悲しくないだろう。しかし、凶暴な虎がおとなしい雌牛の群れの中に放たれたとき、あの聖なる師を恨めしく思わざるを得ない。あらゆる宝(インドの資源)を強奪し、これを蕩尽した犬のような者たちは、最後には恥ずかしい終末を迎えるだろう。あなただけが結束させ、再結合させるとは、あなたの権能はこのように偉大だ。あらゆる快楽を飽きるほど楽しみ、自ら偉大な者だと偽りを語る者は、主の目から穀物をかすめるつまらない虫にすぎないのである。
アーディ・グラント、アーサー、M.1. p.360 (シク教)
主はこう言われる。イスラエルの三つの罪、四つの罪のゆえに/わたしは決して赦さない。彼らが正しい者を金で/貧しい者・を靴一足の値で売ったからだ。彼らは弱い者の頭を地の躍に踏みつけ/悩む者の道を曲げている。父も子も同じ女のもとに通い/わたしの聖なる名を汚している。(注17)祭壇のあるところではどこでも/その傍らに質にとった衣を広げ/科料として取り立てたぶどう酒を/神殿の中で飲んでいる。その行く手から/アモリ人を滅ぼしたのはわたしだ。彼らはレバノン杉の木のように高く/樫の木のように強かったが/わたしは、上は梢の実から/ 下はその根に至るまで滅ぼした。お前たちをエジプトの地から上らせ/四十年の間、導いて荒れ野を行かせ/アモ リ人の地を得させたのはわたしだ。わ たしはお前たちの中から預言者を/若者の中からナジル人を起こした。(注18) イスラエルの人々よ、そうではないかと/主は言われる。しかし、お前たちはナジル人に酒を飲ませ/預言者に、預言するなと命じた。見よ、わたしは麦束を満載した車が/わだちで地を裂くように/お前たちの足もとの地を裂く。そのときは、素早い者も逃げ遅れ/強い者もその力を振るいえず/勇者も自分を救いえない。弓を引く者も 立っていられず/足の速い者も逃げおおせず/馬に乗る者も自分を救いえない。勇者の中の雄々しい者も/その日には裸で逃げる、と主は言われる。
アモス書2.6〜16 (キリスト教)
幾度か月が傾き、幾度か冬が過ぎ ば、あるとき、この広い大弛の上に移されて歩き回ったり、幸せな家庭で暮らし、偉大な聖霊の保護を受けた力強い部族の子たちの中には、生き残り、あなたたちよりもっと強く希望に満ちた部族の墓で誰も悲しまないだろう。しかしなぜ、私たちの部族の運命を悲しまなければならないのか。海の波のように、部族は来ては行き、氏族も来ては行く。それが自然の秩序なのだから、後悔は無駄なことだ。あなたたちが衰え落ちるときは遠くにあるかもしれないが、必ず訪れるだろう。神と友のように、共に歩いて語る白人たちさえ、共通の運命から抜け出すことはできない。結局、私たちは一つの兄弟なのである。それを私たちは知るようになるだろう。
シアトル酋長(注19)(アメリカ先住民の宗教)
はるか遠い昔に下された呪いのように 私たちに恐ろしい呪いが下るだろう。そのように人の創造者は言うが人々は聞かない。はるか遠い昔に下された呪いのように私たちに恐ろしい呪いが下るだろう。しかし、私たちはこの一言だけを語るだけだ。怠惰よ!無精よ!このような人たちは父から何も聞くことができない。その方の声を知らないからである。その方は人を愛する存在である。
ディンカ族の祈り(アフリカ伝統宗教)
― み言選集 ―
歴史の方向が悪に向かっていくように思われますが、そうではありません。人間が自分の心を中心として体を抑制し、新しい覚悟と新しい決心をもって進むべき方向を選ぶように、歴史も、歴史自体で指向するのではありません。ある一時と時期、世紀を歴史の背後にいらっしゃる神様が干渉し、支配する 過程を経てきている事実を知らなけれ ばなりません。
(4-191.1958.4.20)
私たちは、歴史を通して、多くの文明が栄枯盛衰を繰り返してきたことを知っています。様々な文明が、一時は巨大になり栄華を極めましたが、その後、滅亡し忘れられていきました。このような文明の衰退は、気候や疾病、外敵よる侵略、自然災害、このような外的な要因によるものもありますが、大部分は内的な腐敗、特に宗教や道徳性が衰退したことによるものです。
(343-155. 2001.127)
栄枯盛衰の曲折が現れるのは、自分を中心として統一しようとするのか、全体の平和の世界を中心として統一しようとするのかにかかっているのです。この二つの間で栄枯盛衰が展開します。
(369-178. 2002.2.14)
この地上のある国で、私たちの国は滅んでも、神様のみ旨と世界を救うことができれば犠牲になろうとする、そのような国がありますか。アメリカが外国のために協助しようとするときは、アメリカは全盛時代でした。しかし、「ああ、私たちの国が滅び、世界が栄えてどうするのか。世界をほうり投げて、 私たちの国をしっかり握っておかなければならない」、今はこのようになっています。
(69-87.1973.10.20)
人種を差別する人たちは滅びます。神様がいるとすれば、必ず滅びるようにするのです。歴史時代において、数多くの文明圏がすべて滅んだ理由は何ですか。文明が発達すれば、すべて自分を中心として世界のために生きようとするのではなく、世界をすべてのみ込み、自分たちの思いどおりにしょうとしたために、すべて滅んだのです。アメリカで言えば、アメリカは世界の主導国家であり、全世界のあらゆる文明圏を動かせるので、驕慢になって差別するのですが、そのようにしていては滅びます。自然に滅びるのです。このように世界的に名をはせていますが、内部的には息子、娘をすべて打つのです。最も愛する子孫を打つというのです。
(97-322. 1978.4.1)
イギリスが日の沈むことのない国として、キリスト教文化を中心として統一世界をつくりましたが、イギリスのための世界だと考えました。世界のためのイギリスだということが分からなかったのです。アメリカが世界の中心国家になったとして、これがアメリカのための世界だと思いますか。違います。世界のためのアメリカだということを知らなければなりません。そうでなければ滅びます。神様の摂理はそのようなものです。
(247-111.1993.4.25)
迫害されていた群れが迫害していた群れを支配していくのです。ひつくり返ります。歴史はそのように回っていきます。支配していたその時代の思想的な基準以上の思想的な基準さえもてば、必ず謀属されていた民族が支配していたその人たちを支配するようになるのです。迫害される群れが第二の主人になるという事実を知らなければなりません。第二の主人です! このような原則があるので、迫害される人たちが主人になれます。この堕落圏内では、不可避な原則なのです。
(95-105-106. 1977.11.1)
歴史学者シュペングラーが指摘したように、文明は、1年に春夏秋冬があるのと同じように、興亡を繰り返しています。今は大西洋文明の時代が過ぎ去り、太平洋文明の時代が来る時です。
(115-171,1981.11.10)
低気圧圏に空気がなければ、高気圧圏の空気が流れていって満たしてくれますか、満たしてくれませんか。水が高い所にあれば、下の穴に流れていって満たしてくれますか、満たしてくれませんか。均衡が理想です。それでは、今日、先進国家と発展途上国があるのですが、発展途上国は飢えて死んでいっています。1年に2000万人が飢えて死んでいるのです。これが神様のみ旨ですか。宇宙の自然な運動圏を迫害するのが先進国家です。先進諸国が今、雷に打たれます。天が打つのです。審判するのがエイズと麻薬です。フリーセックス、ホモセクシュアル、レズビアンです。神様が最も憎み、サタンが最も好むものです。反対です。レバレンド・ムーンが消費の多いアメリカの国、先進国家をすべて飢えさせて、飢えて死んでいく発展途上国を助けてあげようという運動をしようと思います。自然世界は、すべて均衡を取っているのです。「天宙大家族を形成し、自由と平和と統一と幸福の世界を完成することをお誓いいたします」、 自由というものは個人の自由ではなく、全世界の大家庭にいる人たちの自由であり、大家庭の平和であり、大家庭の幸福です。全人類がすべて幸福だということです。
(260-192.1994.5.8)
歴史時代にローマがいくら強かったとしても、その内部から滅んでいきました。何ゆえに滅んでいったのですか。このセックスのためです。セックスのために滅んでいったのです。それが事実ですか、違いますか。今から2000年前のポンペイを見れば、すべてがひたすら飲み食いし、踊りまくって滅びました。このようなことを見るとき、死亡と滅びることと直結されるものとして、最も効果的な道とは何ですか。愛の秩序が紊乱になるとき、滅びるというのです。これはレバレンド・ムーンの話ではなく、歴史的な事実です。それが事実だと思いますか。それは、白人もそうであり、黒人もそうであり、有色人種、黄色人もすべてそうです。このようなものが蔓延し、このような行いが増大した国とそのような文化がある国家を見るとき、どのような文化がそうで、どのような国がそうなのかというと、強くて、権力をもっていて、お金をもっていて、知識をもっている国がこの病にかかるようになっています。ですから、アメリカのような国があらゆる面で良いと思っていたのに、そのような面では未開の民族より劣るのです。この病にかかれば、歴史時代に滅びなかった国がなく、倒れなかった国がないというのが事実です。その文化にもちこたえられる国がありません。これによってどのようになりますか。若い人たちに秩序がなくなります。 若い人たちに秩序がないので、家庭の秩序が破綻し、教会の秩序、社会の秩序、あらゆる秩序の破綻をもたらすのです。今、アメリカがそのような実情ですか、違いますか。私は、アメリカの青年たちがいい気になって着飾り、得意になっているのを見るとき、あなたたちが何年もつかを見てみようと思うのです。
(103-97~98、1979.2.11)
最近は、フリーセックスだ何だといって、若い人たちは、独身の男女が出会って思いのままにキスもし、ー晚過ごすことも思いどおりにしています。滅びます。絶望だというのです。方法がありません。アメリカも方法がなく、イギリスも方法がなく、フランス、イタリア、全世界も方法がありません。ところが、先進国がそうなので、発展途上国がすべてそのままついていきます。ですから、神様が世界を愛する立場で、アメリカでも、先進国でも、早く滅ぼさなければならないという結論が出てきます。なぜかというと、世界を助けるために、発展途上国が侵食されないようにするためです。そのような考えが、そのような話が、合っていると思いますか。神様の立場がそうかというのです。神様がいれば、そのような反対の道を取るのであり、また考える人がいれば、これを防いで反対に行ける道を模索するでしょう。
(117-201-202.1982.3.7)
神様は、なぜアメリカを祝福してくれたのですか。神様のみ旨です。人類を救うために、世界平和の基地をつくるために、人類を神様のみ旨の中で解放するためです。サタンを追放して地獄を解放するためだ、というのがその目的です。一つの服を着ても、その服が歴史過程でどれほど多くの人たちの血痕を残し、どれほど多くの民族を泣かせ、どれほど悲惨な谷間を経てきたかを考える人がいますか。—の服を着るにおいても、世界人類を代表して着るので、負債のある立場で着ていると考えるアメリカ人がいますか。服もそうですが、住む家、環境もすべてそうです。自分たちが優れているから、そのようになったのではありません。ここよりも世界のために生きる神様のみ旨があり、神様の心と考えがあることを考える人がいますか。そうでなければ、ここにいる人たちから取り上げて、より世界のために生きる人たちに与えざるを得ない、という結論になるのです。このアメリカの白人たちによって犠 牲になった人たちが、霊界に行っているでしょうか、いないでしょうか。イ ンディアンたちだけではありません。今まで白人たちが弱小国をすべて侵犯し、どれほど略奪しましたか! 今までアメリカが、あらゆる面でヨーロッパより優れていると言いました。イギリスが宣教するので、「私たちもイギリスに負けない」と言いながら競争しました。「ヨーロッパの人たちよりも私たちが優れている、優れている」と言いながら世界のために援助もしました。第2次大戦前後までは、全世界を援助していたのです。アメリカが宣教師をたくさん送った所とはどこですか。ヨーロッパではアフリカや南米に送りましたが、アメリカはアジアに送りました。宣教師を送って未開な地域を占領し、アジアに対して力を及ぼし、フィリピンもすべて自分の国に入れました。アジア版図を中心として、宣教師を送りながらこのよ うに拡大したのです。植民地にしたこと自体は悪いことではないのです。ア メリカが占領した植民地の人たちを、アメリカ人よりもっと愛すれば神様が賛成します。アメリカ国民より、本土の人よりもっと愛すればです。かわいそうなので、愛さなければなりません。自分の家を売ってでも、愛しなさいと いうのです。そのようにすれば、植民地が問題になりません。世界が一つになります。そのようになれば、植民地の人たちがなぜ反対しますか。「アメリカ! おお、ありがとう、ありがとう」と言いながら、神様のようについていくようになります。それを願ったのですが、そこに行って奪ってきたのです。 すべて足で踏みつけたというのです。 歴史に反抗しました。そこからずれていきました。
(202-332~ 333.1990.5.27)
世界のすべての知性人は、今は急変する世界だと言っています。このように急変してどこに向かうのですか。ー般の人々は、このように急変すれば絶望の世界に到達する危険性が大きいと考えています。希望の世界に到達すると思っている人はとても少ないということを知っています。「近代文明を指導 してきた西洋文明は、既に没落しているだけでなく、夜の世界に入り込んでいる」と言う人もいます。西洋文明を指導するにおいて精神的な支柱であったキリスト教はもちろん、キリスト教を中心とした家庭や、社会や、国家が、傾くだけ傾いたというのです。世界の若い人々の中で未来を考える人たちは、なお一層、とても暗澹とした立場で悩まざるを得ないという時代に来ています。このような実情の中で、もし神様がいらっしゃるならば、神様はそのような絶望の終着点に向かって、そのまま走らせるのではなく、これを整備し対処させて、新しい次元の世界に、希望の場に連結させる道を考えざるを得ないという結論に到達するのです。
(103-39〜40.197922)
アメリカ人、アメリカの青年たちは滅んでいきます。これはアメリカの為政者たち、アメリカの学者、アメリカを知っているという人たちが、すべて語っています。アメリカの宗教指導者たちはもちろん、すべて語っているのです。これが共通の結論です。この病を誰が治療するのでしょうか。アメリカの軍事カでも治せません。アメリカの経済カ、アメリカの政治力、アメリカのそれ以外のあらゆる科学的な力で、月世界に行くと誇っていますが、それを治すことができるのかというのです。誰もできません。レバレンド・ムーンだけがこのアメリカを救う人です。神様がレバ レンド・ムーンを立ててアメリカに送らざるを得なかったと、私は思います。
(93-122. 1977.5.21)
新千年期に全地球的な環境汚染、不足した天然資源の競争、暴力、そして核兵器拡散問題に直面した世界で、世界平和の建設を叫んでいる。以前は預言者たちや夢想家の漠然とした夢だったことが、今は人間の生存と直結した現実となった。このような状況は、現代にだけ出現したものなので、私たちは過去の世紀の主要な宗教家と夢想家の発言で補充する。
神様は文鮮明先生に、世界平和のための実際的で、数え切れない構想を提案するように霊感を与えられた。先生は、私たちの時代の世俗的な平和の使徒とは、特別に変わった観点をもつ。世俗的な平和の使徒は、科学と技術の進歩を通し、人類はみな共に豊かさを享受する世界を創造するようになると主張する。彼らによれば、世界では宗教と文化の古い偏見は、世俗的な民主主義的価値と市場の自由に席を譲るという。文先生は、平和は神様から発見されなければならず、宗教と霊性は世界人類が一家族理念を具現するのに中心の役割をしなければならないと教える。ユートピア建設の世俗的、楽観的進歩観は既に、ほぼ出尽くしており、人類は、世界平和に向けて、宗教の重要性と内的基盤の必要性を再考しつつあるとの文先生の言葉は、新たな説得力を得てきている。
文先生は、平和世界建設のための非常に特別な構想をもっている。その構想は、霊的次元を加えたUNの改革、国境線の撤廃、超文化的結婚による文化の連帯、そして世界都市を連結する国際高速道路を含む。世界平和は真の愛の実践によって建設されるという、先生の根本的信念が現実化しているのである。
― 宗教経典 ―
終わりの日に/主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち/どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい/多くの民が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。主の教えはシオンから/御言葉はエル サレムから出る。主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。
イザヤ書2.2~4 (キリスト教)
狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共 に伏す。子牛は若獅子(主20)と共に育ち / 小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ/その子らは 共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草 を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ / 幼子は蝮の巣に手を入れる。わたしの聖なる山においては / 何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように/大地は 主を知る知識で満たされる。
イザヤ書11.6-9 (キリスト教)
我の希望は、世界の各宗教の指導者達や支配者達が、現代の改革とその繁栄の復興のために、一致して立ち上がることである。世界の窮乏をとくと考えておたがいに話し合い、これを案じて充分な討議を行ない、病んで、ひどく傷めつけられている世界が必要とする治療薬を施すがよい。
バハオラ 落穂集110 (バハイ教)
私は永久的な世界平和に対する希望を見ることができない。私たちは努力したが、惨愉たる失敗に終わった。世界が霊的に再生しなければ、文明は滅亡するだろう。
ダグ・ハマーショルド
― み言選集 ―
冷戦時代が終息し、世界はしばし平和のための祝杯を挙げることができました。しかし、間もなく人類は、その冷戦の終わりが自動的に平和時代に連結されるのではないということを知るようになりました。世界のあちらこちらで、激烈な戦争が起こり続けています。今も、前ユーゴスラビアと中東で、またスーダンや南アジア等の地で殺戮戦が繰り広げられています。これらの紛争は、主要宗教間の根深い葛藤が背景になっていることは周知の事実です。宗派間の対話と和合がいかに重要であるかを悟らせてくれる事例です。現代において宗教的な理想の実現は、しばしば世俗権力と一定の距離をおいて活動してきました。今日の一般的な認識は、これを当然なものとして受け入れています。しかし、世界平和理想に貢献する国際組織は、世界の偉大な宗教的伝統と自分たちとの関係を再検討すべき時になったと見ています。
(330-245,2000.8.18)
神様の経綸と歴史の帰趨を見れば、人類は国境と人種を超越し、神様を真の父母として侍って生きていかなければならない巨大なーつの家族です。ーつの世界家族として、一つの囲いの中で調和して協力しなければならない運命共同体です。これ以上、隣人とほかの国の困難が私とは関係ないとは言えない時代が来ました。私たちは、人類が戦争と犯罪、麻薬と暴力、環境汚染と生態系の破壊、不倫とエイズなどに巻き込まれて落ちていくのを傍観する ことはできません。これから私たちは、神様と歴史の前に答えなければなりません。大きく和合してーつにならなければならない人類が、何をもって、どのように現実を克服し、近づいてくる新千年を希望の中で迎えることができるでしょうか。また、個人と自国の利益を超えて「ため」に生き、信頼して生きていくべき平和世界を成し、またこれを支える新しい価値観をどのように定立するのでしょうか。科学技術の燦爛たる楼閣の上で人本主義の眼鏡をかけ、物神の誘惑のもとでではなく、本心の扉を開けて謙虚に答えを探さなければなりません。地上で探せなければ、天から来る声を通して解決しなければなりません。
(279-211~212.1996.8.20)
― 宗教経典 ―
慈悲深い主の命令が世に宣布されるため、人を害したり、苦痛を与える者は二度といないだろう。すべての人類が平和の中で慈悲n盾のもとで生きていくだろう。
アーディ・グラント・ラーグM5.p.74(シク教)
われら連合国の人民は、われらの一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救い、基本的人権と人間の尊厳及び価値と男女及び大小名国の同権とに関する信念を あらためて確認し、正義と条約その他の国際法の源泉から生ずる義務の尊重とを維持することができる条件を確立し、一層大きな自由の中で社会的進歩と生活水準の向上とを促進すること、並びに、このために、寛容を実行し、且つ、善良な隣人として互に平和に生活し、国際の平和及び安全を維持するためにわれらの力を合わせ、共同の利益の場合を除く外は武力を用いないことを原則の受諾と方法の設定によって確保し、すべての人民の経済的及び社会的発達を促進するために国際機構を用いることを決意して、これらの目的を達成するために、われらの努力を結集することに決定した。よって、われらの各自の政府は、サン・フランシスコ市に会合し、全権委任状を示してそれが良好妥当であると認められた代 表者を通じて、この国際連合憲章に同意したので、ここに国際連合という国際機関を設ける。
国際連合憲章「全文」
過去には、各国の公職者たちだけが普遍的な公益を提供する立場にいると思われていた。彼らが外交チャンネルや頂上会談を通して法と条約を締結するなど、法的手段を活用することによってそれが可能だと考えた。しかし、今日の普遍的な公益は、全世界的様相の周題点を私たちに提示してくれている。この諸問題は、世界的次元の公権力と組織、対策がなければ解決されない。結局、道徳的秩序のためには、世界的単位のある共通の公権力が設定されなければならず、その力は、強制ではないすべての合意によって導き出されなければならない。補完牲の原則により、世界単位の公権カは、各国の公権力の行使範囲を制限しようとしない。各国の国家的地位もやはり侵害しない。その真の目的は、世界的次元で各国の政治権力と市民、団体がより 安全に各自の任務を遂行し、義務を果たし、権利を享受できる環境を造成することである。私たちは、真実にUNが —UNの組織 と手段— 本来の高貴で巨大なUNの使命に、より忠実になることを希望する。人々が徐々に地球村の一家族の一員であることを意識していくにつれて、このような願いがより一層強くなってきている。
教皇ヨハネ23世 地上の平和 (キリスト教)
― み言選集 ―
アダム家庭で始まったカインとアベ ルの闘争歴史は、人類歴史をそのまま戦争と葛藤の歴史にしてしまいました。小さくは人間個々人の心と体の葛藤から、大きくは国家と国家が、さらには全世界が物本主義と神本主義に分かれ、対立、闘争をしてきました。極度の利己的個人主義は、きょうも私たちの生活を脅かしています。人類の希望であり、未来を約束された若者たちを、フリーセックスと麻薬の奴隷に転落させています。物質万能主義に陥った先進国は、自国の利益にばかり目がくらみ、一日に数万人ずつ飢えて死んでいくかわいそうな生命から顔を背けています。誰が、この数千年にわたるカインとアベルの歴史的な葛藤を解いてくれるのでしょうか。世界平和を掲げて出発したUNに、それができると思われますか。UNは、過去60年をかけて努力してきましたが、いまだに世界平和は、はるか彼方です。体と心のカイン・アベ ル関係も解決できない人間の努力だけ では、不可能なことです。今こそ、天命に従って出発したアベル的平和理想世界王国の創建が必要な時です。(注21)
平和神経、平和メッセージ1.20〜21、2005.9.12
神様は、私たち指導者、特に宗教指導者を召命していらっしゃいます。世の中の不義と罪悪に挑戦し、真の愛を施すことを願っていらっしゃいます。すべての宗教人が一つの心となり、神様の人類に対する熱望を代弁し、実行しなければなりません。体と外的な世界を代表する政治家や外交家たちの経綸と実践だけでなく、心と内的な世界を代表する世界宗教指導者たちの知恵と努力が合わさってこそ、平和世界が完全に達成され得るのです。そのような点から、UNを再構成する問題まで深刻に考慮すべき時です。恐らく、両院制の形態をもったU Nを想像することもできるでしょう。国家代表で成された既存のUNを、各国家の利益を代弁する下院に代えて考えられます。著名な宗教指導者と文化界、教育界など、精神世界の指導者たちで、宗教議会、あるいはUNの上院を構成することも考慮できるのです。このとき、宗教議会は地域的な個々の国家の利害を越えて、地球星と人類全体の利益を代弁すべきなのです。両院が相互に尊重し協力することによって、平和世界の実現に大きく寄与できるのです。世界指導者たちの政治的経綸は、世界の偉大な宗教指導者たちの知恵とヴィジョンにより効果的に補完できます。(330-247~248. 2000.8.18)
― 宗教経典 ―
人びとよ、われはひとりの男とひとりの女から、なんじらをつくり、民族にした、これはなんじらを、互いに認識させるためである。神のみもとで最も尊い者は、なんじらのうち最も主を畏れる者である。
クルアーン49.13 (イスラーム)
小さくて人口の少ない国がある。数多くの道具があったとしても、誰もそれを使わない。人々は生命を大事にし、誰も遠くに移住することを望まない。船や車は役に立つが、誰もそれらに乗らない。すばらしい武器を所有していても、誰もそれを使わない。人々にもう一度、縄を結んで約束のしるしとしたような時代に戻らせ、すばらしいごちそうで楽しませ、立派な服装を着させる。自分の住居でおちつかせ、週間を楽しませる。隣の国はすぐに見えるところにあり、鶏の鳴き声や犬の吠えるのが聞こえるけれども、人々は互いに往き来することもなく、その人生を送るのである。
道徳経80 (道教)
ジャンプ=ドヴィーバにおいて、八万四千の都に住む八万四千の王者たちが、それぞれの国土において楽しく暮らすだけでなく、その王国と王権に何ひとつ不自由することなく、自己 所有する財宝に満足して互いに傷つけあったりしないであろう。また、互いに傷つけあうようなことを起さないであろう。そして、それぞれに前生の業の集積に従って、王位に即き、それぞれの王国と王権に満足するだけでな く、互いに征伐せず、他国の領土の征服のために進撃することもしないであろう。そして、ジャンプ=ドヴィーバ において八万四千の国土ならびに都城における八万四千人の王たちは、互いに相手の幸福を願うようになるであろうし、また憐れみの心を持ち、相手の安楽な生活を願って、互いに喧嘩や口 論や反目や抗争がないように努めて、それぞれの国土で楽しく暮らすであろう。……ジャンプ=ドヴィーバは栄え、食料ゆたかになるだけでなく、美しく、多くの人々が住み、また大地はさらに一層肥沃となるであろう。
金光明経(仏教)
その日には、エジプトからアッシリアまで道が敷かれる。アッシリア人はエジプトに行き、エジプト人はアッシリアに行き、エジプト人とアッシリア人は共に礼拝する。その日には、イスラエルは、エジプトとアッシリアと共に、世界を祝福する第三のものとなるであろう。万軍の主は彼らを祝福して言われる。「祝福されよ/わが民エジプト/わが手の業なるアッシリア/わが 嗣業なるイスラエル」と。
イザヤ書19.23~25 (キリスト教)
多様な信仰と政治経済の体系によって、平和で友好的な地球家族をつくりあげようとすれば、私たち各自はそのような調和のために全力を尽くすという責任を果たさなければならない。それ以外に他の代案はない。
テンジン・ギャツオ、第14代ダライ・ラマ
戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。相互の風習と生活を知らないことは、人類の歴史を通じて世界の諸人民の間に疑惑と不信をおこした共通の原因であり、この疑惑と不信のために、諸人民の不一致があまりにもしばしば戦争となった。……政府の政治的及び経済的取極のみに基づく平和は、世界の諸人民の、一致した、しかも永続する誠実な支持を確保できる平和ではない。よって平和は、失われないためには、人類の知的及び精神的連帯の上に築かなければならない。
ユネスコ憲章,前文
平和はあなたたちと私、または少数の偉大な人たちが、即刻つくり出せるものではない。さらには、百万人のキリスト、またはクリシュナたちも、それをすることはできなかった。『マハーバーラタ』に出てくるように、主クリシュナは、パンダヴァ族とカウラヴァ族の間の大戦を防ぐことができなかった。すべての人類は、地上に平和をもたらすキリストのようにならなければならない。私たち各自が自分の生をキリスト、クリシュナ、ブッダの知恵と典型に従って私たちの生を具体化するとき、私たちは正にここから平和を謳歌することができるだろう。神の子たちが、「私たちはインド人であり、あなたたちはアメリカ人、また、私たちはドイツ人であり、あなたたちはイギリス人」と区別する限り、彼らは迷いにとら われ、世界は分裂するだろう。もし私たちが違いを無視し、差別と偏見なくすべての人たちに対する愛を学べば、数多くの戦争と苦痛と破壊が防止されるだろう。どこかの国籍をもっているという事実よりは、あなたたちが神の形どおりにつくられているという事実を誇りに思わなければならない。なぜなら、「アメリカ人」、または「イ ンド人」は、時が来れば捨てられる上看にすぎないからである。しかし、あなたたちは永遠に神の子である。あなたの子たちにそのような理想を教えるのがよりよいのではないだろうか。それは平和のための唯一 の道だ。学校で真の平和の理想を確立し、あなたたち自身の生において平和を成さなければならない。
パラマハンサ・ヨガナンダ(ヒンドウ一教)
世界の指導者たちが、国家間の相互依存のためには政治的ブロック体制を放棄し、すべての形態の経済的、軍事的帝国主義を犠牲にし、相互協力への変化が必要だという事実を悟ることができない限り、世界平和は遥遠である。個人と国家間の結束のためには、これが必ず必要だ。
教皇ヨハネ・パウロ2世 真の開発とは (キリスト教)
― み言選集 ―
21世紀の人間は、宇宙を創造した神様の根本原理を離れては、これ以上地球星の主人として存在できません。人々が願わなくても、人類の未来は、より密接な人間関係を要求します。未来には、人々が地域と民族と肌の色を超越して、より密接に絡み合って生きていかざるを得ない「地球一家族時代」が近づいてきています。様々な宗教と文化、伝統、そして互いに異なる生活意識をもちながらも、利害の次元を超えて互いに交わり、受け入れざるを得ない世の中が来ています。個人やある集団が、利己的な選択で自分だけの隔離された逃避地を所有することはできなくなります。
(219-9.1991.8.24)
私たちがこの世界にあるすべての国境線を撤廃すれば、平和の世界は自動的に訪れるようになるのです。そこで私たちが覚えておかなければならないことは、この世界に現存する国境線の主人が果たして誰なのかということです。神様ではないということは明らかです。国境をつくり始めた張本人は、正にほかでもない悪魔サタンなのです。したがって、国境線がある所には、必ず悪魔と悪魔の実体が潜んでいるということを知らなければなりません。このような結果は、人間始祖の堕落によって善悪の分岐点となる血統が入れ替わってしまったからです。東洋と西洋を比較してみても、文明圏を中心として相反する国境線ができていますが、そこには、悪魔が陣を張っているというのです。悪の文化的背景、歴史と伝統的背景、人種差 別など、このようなあらゆる種類の落 とし穴を掘って国境線をつくった張本 人は、神様ではなく、悪魔サタンだと いうのです。神様が願われた善の世界は、統一の世界です。すなわち、全人類が一つの大家庭を成して暮らす一つの世界なのです。そのような世界に、どうして国境が存在できるでしょうか。国境がない世界なので、怨讐もあり得ません。それは、怨讐という言葉の中に国境が内在しているからです。怨讐を愛して一つになれば、国境が崩れていくのです。ですから、神様の戦略戦術は、常に「怨警を愛しなさい」というものです。「怨讐を愛しなさい」 というみ言ほど偉大な戦略はなく、また、これほど偉大な戦術はあり得ません。このような素晴らしい内容を、今日まで人類は、歴史的に知らずに生きてきたのであり、今生きている現代の人たちも知らずにいるというのです。
(419-190〜191.2003.10.3)
霊界では国境を認めません。国境を超越しています。私たち統一教会の教会員は、このようなみ旨を主導する立場にいるので、国境を超越しなければなりません。私たちは氏族を超越しています。摂理で見るとき、アダムの三人の息子の中で白人は3番目の息子であり、黒人は2番目の息子であり、黄色人は1番目の息子です。その三人が一つにならなければなりません。それで、先生を中心として、文氏の氏族をセンターとして数多くの氏族をすべて連結させるのです。次には、統一教会を中心として数多くの宗教を連結させるのです。そのようになれば、中心氏族と中心宗教が一つになります。一つは内的なものとしてプラスになり、もう一つは外的なものとしてマイナスになり、全世界的なプラスとマイナスが一つになるのです。ですから、国境を越えて東洋人が西洋に行くことができ、西洋人が東洋に行くことができ、 東洋の霊が西洋に行くことができ、西洋の霊が東洋に行くことができ、イスラームの霊がキリスト教に行くことができ、キリスト教の霊がイスラームに行くことができるのです。どこでも往来できます。今までは、それぞれ別々でした。今、ヨーロッパ経済共同体のような運動が起きているでしょう? ヨーロッパの人たちは、思いどおりに行ったり来たりしているではないですか。これからこれを妨げる日には世界が滅びるのです。
(101-331-332.1978.11.12)
人間世界に真の愛を完成したならば、政治的に、文化的に、また環境的に何か問題が起こるでしょうか。真の愛の世界では、解決すことができない問題はありません。真の愛の世界は、まさしく歓喜と理想が充満した自由と平和と幸福の世界です。真の愛の同位権、同参権、相続権によって、喜びと幸福が無限に、そして永遠に拡散していく世界になります。今日、世界人類が抱いている難問題は、真の愛の完成によってのみ、その根本的な解決が可能なのです。
(294-65.1998.6.11)
将来には戦いがありません。今までの戦いは、自分を中心とした、くだらない戦いでした。それは、互いに奪うための戦いでしたが、統一世界は、神様の王権を立てて「ために生きる」世界なので、戦争は必要ないのです。兄弟同士、互いに奪う必要はありません。 あまりにも与えようとするので、逃げていかなければなりません。ですから、自分の部落に暮らすようになれば、そのまま通過です。下宿のようなものは、部落でするのです。そのようになれば、朝、昼、そしてタ御飯を食べることができるよう、精誠を込めて準備してくれるのです。そして、そこで寝ていくこともできます。そのような時代が来るのです。将来は三権分立というものもなくなります。法律もすべてなくなります。愛の自治権が完全に成し遂げられれば、法律が自動的に完成します。「ために生きる」愛、それを成し遂げた所には、何の問題もないのです。上下が一つになり、前後、左右が一つになります。
(224-173,1991.11.24)
これから私たちは、神様と歴史の前に答えなければなりません。大きく和合して一つにならなければならない人類が、何をもって、どのように現実を克服し、近づいてくる新千年を希望の中で迎えることができるでしょうか。また、個人と自国の利益を超えて人のために生き、信頼して生きていくべき平和世界を成し、またこれを支える新しい価値観をどのように定立するのでしょうか。科学技術の燦爛たる楼閣の上で人本主義の眼鏡をかけ、物神の誘惑のもとでではなく、本心の扉を開けて謙虚に答えを探さなければなりません。地上で探せなければ、天から来る声を通して解決しなければなりません。
(279-212.1996.8.20)
私は、きょうこの貴い神様の摂理歴史的完成の場をお借りして、もう一度、神様と人類の摂理的最後の目的である平和天国創建のために、そして神様の祖国と本郷の創設のために、実に摂理的で革命的なプロジェクトを宣布しようと思います。歴史的に、サタンによって東と西、南と北に分けられ、地理的には、北アメリカ大陸とロシア大陸を分けるベーリング海峡に、橋を架け、海底トンネルを通そうというのです。そうして、アフリカの喜望峰からチリのサンティアゴまで、イギリスのロンドンからアメリ カのニューヨークまで、自動車で全世界を巡回、疾走できる「世界超高速道路」を連結する「ワールド・ピース・キング・ブリッジ-トンネル」を完成し、世界を一日生活圏にしようというのです。これ以上の分断と分裂は容認できないというのが天の警告です。全世界を一日生活圏で結び、サタンがつくった人種、文化、宗教、国家の壁を崩し、神様が何よりも願ってこられた平和理想世界王国を、この地球星に創建しよようというのです。アメリカとロシアが一つになり、ヨーロッパ大陸、中国、インド、日本、ブラジルなど、世界のすべての国家、そしてすべての宗教が一つになり、共に力を合わせ、この歴史的なプロジェクトを成功させなければなりません。この事業の成功こそ、人類にとってこれ以上戦争と分断が必要ない平和理想世 界王国を創建するのに、決定的な役割を果たすことでしょう。
平和神経. 平和メッセージ1.30~31 2005.9.12
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