世界経典 Ⅱ

第11章

成長、責任、そして運命

この章の目次

1) 霊的成長

成長は自然法則である。この世の中に一度に完成するものはなく、始めから完成まで、成長過程を経なければならない。体のように霊魂もやはり、段階別の過程を経て成長するようになっている。成長段階は多様である。穀物から芽が出てきたり、四季が変わったり、新学年に進級すること、すべてが成長段階だと言うことができる。

霊的完成段階である成熟に到達した人だけが神様の愛に完全に同参し、天の王国で自分の位置を見いだすことができる。霊的完成はどのような境地だろうか。それは心と体の統一を意味する。すなわち、正しいことをするために絶えず行ってきた体との闘争から完全に解放される状態である。キリストの完全さをまとうことであり、永続的に愛する神様の心と一体を成した状態である。

― 宗教経典 ―

人びとよ、主に対し労苦して努力せよ、なんじらはかれに会うのである。……なんじらは、必ず一層から他層に登るであろう。

クルアーン84.6.19(イスラーム)

正しい道をたどり、修行にいそしむ修学者に、心のけがれの消滅に対する最初の知恵が生ずる。それからして無上の知恵がある。それより、知恵により完全な精神的自由を得た人には、迷いの生存の束縛を消滅することによって、「私の完全な精神的自由は不動である」という知恵が生ずる。

如是語経62(仏教)

魂と、それに釣合い秩序を付与した方により、邪悪と信心について、魂に示唆したもう方により誓う。まことに魂を、清める者は成功し、それを汚す者は滅びる。

クルアーン91.7 ~ 10(イスラーム)

一歩一歩修行を積み、徐々に仏陀のあらゆる教えを成就する。修行は、地を選んで礎石を打ち込み、その上に家を建てるのと同じであり、寛容と自己制御は悟りに至る修行の礎石である。

大方広仏華厳経10(仏教)

「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」

マルコによる福音書4.26 ~ 29(キリスト教)

ムハンマドは神のみ使いである。かれと共にいる者は、不信心の者に対しては強くてくじけず、おたがいの間ではやさしく親切である、……イエスの福音にも、同じようなかれのものがある。まいた種がその芽をふき、丈夫な茎に伸び立って、種をまいた者を喜ばせる。

クルアーン48.29 (イスラーム)

しかし、私達一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。……そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。

こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、私達は皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。

こうして、私達は、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。

キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。

エペソの信徒への手紙4.7 ~ 16(キリスト教)

人皆がこうありたいと思うようなのを善と言い、善を自分で持っているのを信と言い、更にその善と自分に充実させることを美と言い、充実させた結果、外にひかりかがやくようになったのを大と言い、大にしてよく天下を化すようになると、これを聖と言い、聖にしてそのはたらきのはかり知ることができないようになると、これを神と言うのである。孟子VI .B.25 (儒教)

天はただ春、夏、秋、冬をもっている。人はただ仁、義、礼、智をもっている。……ただこの四つの原理だけがある。その他には何もない。仁、義、礼、智は、起源、成長、完成、そして成就である。もし春に何も芽生えなかったり生まれなかったりすれば、夏に成長を促す何の方法もなくなり、秋と冬に収穫して貯蔵することが不可能になる。

朱熹(儒教)9

キリスト教徒になるのは、一瞬の行為であることも、一生を懸けた行為であることもある。霊的決意と改宗を、「人は、新たに生まれなければ」(ヨハネによる福音書3 章3 節)と語られたイエス様の御意志を、私は日ごとより深く理解していっている。

肉身の誕生は、妊娠から誕生の瞬間の奇跡まで向かっていく一つの過程である。しかし、誕生がその過程の最後ではない。もう一つの成長の始まりである。霊的な誕生もやはり同じである。キリストに対する決意は「霊的誕生」であろう。しかし、これもやはり霊的成長が伴わなければならない。

ビリー・グラハム信念の勇気

こうして神は、人間の魂に精神を与えられた。精神を座とする理性と知性とは、子供にあってはまだ眠ったままで、いわばないにひとしいのであるが、年齢が進んでくると目ざめ、大きくなって知識と教えとを受け取ることがてきるようになり、真理を認識し善を愛する能力を持つようになる。精神はその能力によって知恵を吸収し、徳をそなえ、思慮と勇気と節度と正義とに従って生き、誤謬その他の生まれながらに持つ悪徳と戦い、ただ神の至高にして不変なる善のみを希求することによつてのみ、それに打ち克つのである。

アウグスティヌス神の国22.24 (キリスト教)

― み言選集 ―

人間始祖はいつ堕落したのだろうか。彼らは成長期間、すなわち未完成期において堕落したのである。人間がもし、完成したのちに堕落したとすれば、我々は、神の全能性を信ずることができない。仮に、人間が善の完成体になってから堕落したとすれば、善自体も不完全なものとなるのである。したがって、善の主体であられる神も、やはり不完全な方であるという結論に到達せざるを得なくなる。

創世記2章17 節を見れば、神はアダムとエバに、善悪を知る木の果を取って食べるときには、きっと死ぬであろう、と警告されたみ言がある。彼らは、神の警告を聞かないで死ぬこともできるし、あるいはその警告を受け入れて、死なずに済むこともできたことから推察してみるとき、彼らがいまだ未完成期にあったことは確かである。万物世界が六日という期間を経て完成できるように創造されたので、被造物の一つである人間も、やはり、そのような原理を離れて創造される理由はないのである。

そうであるならば、人間は成長期間のどの段階で堕落したのだろうか。それは長成期の完成級で堕落したのであった。これは、人間始祖の堕落の前後の諸般の事情と、復帰摂理歴史の経緯が実証するもので、本書の前編と後編を研究することによって、そのことが明確に分かるようになるであろう。

原理講論、創造原理5.2.1

神様が土をこねてアダムとエバを造るとき、最初から成長した人に造ったとは考えられません。赤ん坊から造りました。神様が、赤ん坊をはらんだ母が、抱いて育てるのと同様な、そのような過程を経て造ったという論理を立てなくては、このすべての3段階の秩序を通した存在の形成というものは、説明する道埋がありません。それで、アダム・エバに幼児期があったというのです。その次に、長成期がありました。これは天の道理です。その次に完成期がありました。

最初に、無形の神様が無形の世界から有形への過程を経てくることができ、赤ん坊の存在を抱いて育てたという論理から始めなければなりません。それでは、赤ん坊が生まれ育ち、成熟して結婚できる位置まで、父母になれる位置までどのようにして行くのでしょうか。神様が青年期、壮年期、老年期のような過程を経てきたという事実を、神様が育った無形の過程を実体として見るための存在が子女だというのです。このような論理が形成されてこそ、父子一身という論理が出てくるのです。一つは縦的で一つは横的なので、縦横一身の理論を立てられます。

(225-198、1992.1.20)

神様も成長してきました。赤ん坊から兄弟段階を経て結婚段階に行き、赤ん坊を宿して創造したのと同じように、皆さんも妻といえば、見えない神様が見える実体として成長した存在だということを知らなければなりません。皆さんは、結婚すれば、皆さんが成長するときの姿を見ることができます。それをどのように見るのですか。自分の息子、娘を通して再び見るのです。神様が、アダムとエバが成長するのを見て衝撃を感じ、横的な世界、拡張された世界をもったのと同じように、皆さんも赤ん坊を生むことによって横的な世界に発展できる愛の版図が展開するのです。

(297-151 ~ 153、1998.11.19)

一つの生命が投入され、実が結ばれるまでには、夏の季節を過ごし、その根と幹と枝の全体から生命の要素を吸収してこそ、完全な生命力をもって第2の生を出発できる一つの結実になり得ます。同様に、この体は死んだとしても、その心の中に、新しい世界に再び生まれ得る生命の気運が膨れ上がり結実の実が残るかという問題を、自ら推し量ることのできる息子、娘にならなければなりません。いくら歳月が過ぎていき、暴風雨が激しく吹き荒れても、内的な生命力は、その環境の侵犯を受けずに絶えず発展の路程を行ってこそ、春を迎えて再び蒔かれ得る、第2の生命の母体である種になれることを知っています。

(32-37、1970.6.14)

種をつなげるためには、愛の道を通じなければならないために、生まれながらも愛され、育ちながらも愛を目標として育ち、暮らしながらも愛を中心として暮らし、行きながらも愛に帰るために行かなければならないのです。

(138-99、1986.1.19)

博士課程では、幼稚園から学んだことをすべて否定しますか。そうではありません。すべて肯定、消化して博士になるのです。

(111-129、1981.2.8)

神様の愛を教育されなければなりません。それでは、いつまで愛の教育を受けなければなりませんか。父が知るすべての価値の基準を推し量ることができる時まで、言い換えれば、成熟する時までは父母の愛を受けて成長しなければなりません。

(51-172 ~ 173、1971.11.21)

神様のより深い関心は、人間の内的性稟と愛の人格にありました。彼らは、真の愛の経験を通して神様の真の愛に似て完成するのです。神様は、愛の力を内的で非物質的力の中で最も強力なものとして創造されました。そのような愛の力を神様の愛と神様の法度の中で体恤するということは、人が父母であられる神様に似るということです。

(279-206、1996.8.20)

神様の子女である人間の責任は、何よりもまず神様に似ることです。孝子、忠臣、聖人、聖子の家庭の道理を果たす真の愛の化身になりなさいということです。神様の深い心情の内的事情を知って、アダムとエバの堕落以来、数千、数万年、苦痛の中で生きてこられた神様の恨を解いてさしあげなければならないのです。

平和神経、平和メッセージ1.16、2005.9.12

2) 人生の季節

人生にも季節がある。少年期、青年期、成年期、そして老年期などがそれである。少年期は学びの時である。何にでも簡単に影響を受けて学ぶのに大きく開かれている時である。青年期は、自己訓練が必要な探求の時である。二十代は、家庭と職業のために基盤を築く時である。

中年期は、自分の目標を成就する時である。そして老年期に入っていく。この時は、人生の結実が現れる時である。ある人は霊的訓練と道徳的人生を通して得た知恵が現れる反面、ほかの人は浪費した人生の惰弱さばかりが現れる。この時が近づくと、既に人生を改めるには遅い。人間の一生に関するより多くのみ言は、第19 章に詳細に紹介されている。

1. 児童期と青少年期

― 宗教経典 ―

すべての子供たちは、純粋さと神に対する服従を備えた本性をもって生まれる。

ブハーリー・ハディース(イスラーム)

子供たちを私のところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。

ルカによる福音書18.16 ~ 17(キリスト教)

孟子がいわれた。「大徳の人といわれるほどの人物は、いつでも赤子のような純真な心を失わずに持っているものだ。」

孟子IV.B.12 (儒教)

魚は新鮮なときに巻かなければならない。

ヌペ族の格言(アフリカ伝統宗教)

エリシャ・ベン・アブヤが言った。若くして学ぶのは何と同じか。それは新しい紙に書いたインクと同じだ。老いて学ぶのはどうか。それは消された紙の上に書くのと同じだ。

ミシュナ、アヴォート4.25 (ユダヤ教)

実際、あなたがたは今ではもう教師となっているはずなのに、再びだれかに神の言葉の初歩を教えてもらわねばならず、また、固い食物の代わりに、乳を必要とする始末だからです。乳を飲んでいる者はだれでも、幼子ですから、義の言葉を理解できません。固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです。

ヘブライ人への手紙5.12 ~ 14(キリスト教)

子供たちよ、私があなたがたに書いているのは、あなたがたが御父を知っているからである。父たちよ、私があなたがたに書いでいるのは、あなたがたが、初めから存在なさる方を知っているからである。若者たちよ、私があなたがたに書いているのは、あなたがたが強く、神の言葉があなたがたの内にいつもあり、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからである。

ヨハネの手紙一2.14 (キリスト教)

お前は宇宙の四つ角に走っていくだろう。

地が大水と出会う所まで、

天が地と出会う所まで、

冬の故郷まで、

雨の本郷まで、

走っていけ、ここに! 走れ!

丈夫であれ!

お前は民族の母なのだから。

アパッチ族の成年式の歌(アメリカ先住民の宗教)

― み言選集 ―

お父様!私達は幼子にならなければなりません。おなかがすけば、「おなかがすいた」とお父様のみ前にねだる幼子にならなければなりません。幼子にはお母さんを欽慕する性急さがあります。その幼子は天真爛漫です。育てれば育てるほど、大切に抱き、培えば培うほど、父母の基準に従って育ちます。

お父様!ここに集まったあなたの子女たちを重ねて記憶してください。千態万象の事情を抱いてきたこの者たちが、その事情を全部打ち明ければ、お父様が動じずにいられないことを知っていますので、すべてを打ち明け、飢えた幼子がお母さんの乳を欽慕するように、恋しがるように、お父様を慕う心をもつようにしてください。

(20-11、1968.3.31)

アダムとエバを造っておいて、すぐにそれができ上がればどれほどよいかと思うかもしれませんが、そのようになりません。一番の底で小さなものが大きくなり、ある程度まで上がってこなければなりません。上がってこなければならないのです。これが全体の宇宙と関係を結べませんでした。この男性が成長し、15 歳、16歳、17 歳になり、ここに上がってくれば、ブラス・マイナスの宇宙がすべて自分のものになります。詩的になってすべて目覚めるのです。思春期がそうです。家を出て世界を歩き回り、どこかの海にも行き、自分の相対がどこにいるか、目を見開いて歩き回るのです。

(130-155、1984.1.8)

このように青年期には、皆さんが香りを発散するようになります。その香りは広く広かっていきます。虫や蝶がその香りにひかれて飛んできます。ですから、この時期に若者が、若い男女は何を願うでしょうか。彼らは最高のチャンピオン、最高の学生、あらゆる分野で最高になりたいと思うのです。

(52-262、1972.1.2)

今日のティーンエイジャーたちが……。目がひっく返って、どこにでもくっつこうとします。それによって社会に破綻をもたらし、自分自体に破綻をもたらすのです。また、思春期は変わる時なので、誰が一言言っても、「ええい!」と言って……。みなそうだというのです。ちょうど変わる時なので、相対をもって定着するのではなく、しきりに動き回ります。それで、秩序に従って状況を見ながら行かなければならないというのです。皆さんは今、これをすべて整理しなければなりません。善悪の中で悪は何ですか。破壊するものです。何の保護作用も成立しないということを知らなければなりません。

(118-197、1982.6.1)

2. 成熟と老年期

― 宗教経典 ―

先生がいわれた、「私は十五歳で学問に志し、三十になって独立した立場を持ち、四十になってあれこれと迷わず、五十になって天命をわきまえ、六十になって人のことばがすなおに聞かれ、七十になると思うままにふるまってそれで道をはずれないようになった。」

論語2.4 (儒教)

先生がいわれた、「青年は恐るべきだ。これからの人が今〔の自分〕に及ばないなどと、どうして分かるものか。ただ四十五十の年になっても評判がたたないとすれば、それはもう恐れるまでもないものだよ。」

論語9.23 (儒教)

彼の頭が白いが故に年寄りなのではない。実に年若くとも[ヴェーダを]学んでいる者を神々は年寄りとみなす。

マヌ法典2.156 (ヒンドゥー教)

あなたは生命を延長することはできない。ゆえに、不注意でいいかげんな人生を生きてはならない。老いれば既にどうすることもできない。

ウッタラッジャーヤ4.1(ジャイナ教)

学ぶことの少ない人は、牛のように老いる。かれの肉は増えるが、かれの知恵は増えない。

法句経152(仏教)

青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。「年を重ねることに喜びはない」と言う年齢にならないうちに。太陽が闇に変わらないうちに。月や星の光がうせないうちに。雨の後にまた雲が戻って来ないうちに。その日には家を守る男も震え、力ある男も身を屈める。粉ひく女の数は減って行き、失われ窓から眺める女の目はかすむ。通りでは門が閉ざされ、粉ひく音はやむ。鳥の声に起き上がっても、歌の節は低くなる。

人は高いところを恐れ、道にはおののきがある。アーモンドの花は咲き、いなごは重荷を負い、アビヨナは実をつける。人は永遠の家へ去り、泣き手は町を巡る。白銀の糸は断たれ、黄金の鉢は砕ける。泉のほとりに壷は割れ、井戸車は砕けて落ちる。塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る。

コヘレトの言葉12.1 ~ 7(キリスト教)

あなたのほほに白髪が下がり

額にしわが深く谷をつくり

肉身が骨組みになる前に、

歯がはぐきから抜け

背が地に向かって曲がり、

あなたが他の人の重荷になる前に、

片手に杖を持ち

もう片方の手で膝を押して立ち上がる前に、

歳月があなたの肉身の美しさをむしばみ

あなたが死の苦痛を感じる前に、

我々の主、クダラ・サンガマを崇拝せよ!

バサヴァンナヴァチャナ161(ヒンドゥー教)

― み言選集 ―

人間にとって最も重要な時はいつですか。少年時代ではありません。青年時代を超えて壮年時代に行く、すなわち20 歳を超えて40 歳に至るその間が最も重要な時期です。人は20 歳から30 歳に至るまで、人としての土台を築き、そこに自分が隠居できる確固たる基盤を築いておかなければなりません。また、その後に明確な目的を中心として行くことができる環境的な基盤を備えなければなりません。そのようにできない人は、30 歳を超えて40 歳に向かっていくとき、無意味な人間、平凡な人間として生きざるを得ません。

(22-314、1969.5.11)

人の一生を見てみるとき、活動能力を最高に発揮できる時は、いつでしょうか。二十代から四十代、あるいは五十代までです。この20、30 年の期間が全盛期です。しかし、40 歳を超えると、その基準から下がっていきます。このような観点から、皆さんはみ旨のために働ける期間がどのくらいになるかという問題を考えてみなければなりません。

(33-186、1970.8.12)

この生がいくら貴いと言っても、青春の時期に比べることができないことを知っています。お父様、私達が壮年になれば荷を背負わされるようになり、壮年の時期に闘ってもちこたえられなくなるときには、その結実された子孫が悲惨になることを知っています。

それゆえ、壮年の時代を力強く過ごし、老年の時代を経て新しい春を迎え、新しい夏の節気を見ることのできる子孫を、自分の懐の中にもった家庭であってこそ、その後にやって来る秋の節気を無難に克服できるということを知るものです。これが人生というものであり、世界の歴史時代においても、象徴的な現象であることを眺めるようになるときに、お父様のみ旨の前においても、やはり同じだということを知るものです。

(31-139、1970.5.3)

3) 善の啓発

善は努力を必要とする。悪が支配し、私達の心と体を汚染させるこの世の中で、私達が正しいことを行って生きることは簡単ではない。したがって、本当に善の人になるためには、自分に対する絶え間ない訓練が必要だ。アリストテレスは、善の性稟を啓発するのは技術を習得する過程と同じだと見た。長い間持続的な努力によって善行を実践する人は、善の習慣を形成するようになる。数年間養われた善の習慣は、善の性格形成へと続く。人間の霊魂は、良い作物を得るために、種を蒔き、耕作し、毎日毎日雑草を除去しなければならない田畑と同じである。

善を追求する代わりに、小さな過ちだとみなし、自分の過誤を一つずつ黙って見過ごしていけば、時間がたつに従って悪い習慣が徐々に体に宿るようになる。善は善を生み、悪は悪を生む。文鮮明先生は、私達に再度この事実を想起させる。悪は堕落人間の中で繁殖することを好む。したがって、常に善に生きるために積極的に努力しなければならない。ごく小さな過誤が私達を没落に導いていくからである。

1. 実践的生涯を通した善の啓発

― 宗教経典 ―

すべて悪しきことをなさず、善いことを行ない、自己の心を浄めること、これが諸の仏の教えである。

法句経183(仏教)

君子は善を見れば遷ってこれに従い、禍ちがあればこれを改める。

易経、周易下経、益42(儒教)

常にトーラーと慈善に尽くしなさい。その上、他の底意があるときさえも善行の習慣が積まれ、結局動機まで善になるだろう。

タルムード、プサヒーム50b(ユダヤ教)

聡明な人は順次に少しずつ、一刹那ごとに、おのが汚れを除くべし、鍛冶工が銀の汚れを除くように。

法句経239 (仏教)

思慮ある人は、奮い立ち、努めはげみ、自制・克己によって、激流もおし流すことのできる島をつくれ。

法句経25(仏教)

トーラーを研究すれば正確な人になる。次は情熱をもつようになり、情熱を超えて清潔さに、清潔を超えて自制力に、自制力を超えて純潔さに、純潔さを超えて高貴さに、高貴さを超えて温順さに、温順さを超えて罪を警戒する人となり、次は崇高に、崇高さを超えて聖なる霊魂に、聖なる霊魂以降には永遠の生に入っていく。

タルムード、アヴォダー・ザラー20b (ユダヤ教)

この自我は真実と苦行と正智と不断の梵行とによりて得らるべし。身内にありて、輝ける光明所成の彼を照観するはただ罪障を滅したる修行者のみ。

ムンダカ・ウパニシャッド3.1.5 (ヒンドゥー骸)

あなたがたは、力を尽くして信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心を、信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。これらのものが備わり、ますます豊かになるならば、あなたがたは怠惰で実を結ばない者とはならず、私達の主イエス・キリストを知るようになるでしょう。

ペテロの手紙二1.5 ~ 8(キリスト教)

よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べでしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。

このたとえが分からないのか。……種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。

また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。

マルコによる福音書4.3 ~ 20(キリスト教)

器量はこれをまず働かせた上で、獲得する。それは、ちょうど、さまざまな術について見られるところと同じである。すなわち、われわれは学び知ってからなすべきはずのことを、なすことによって学び知るのである。たとえば、ひとは家を建てることによって、建築師となり、琴を弾くことによって、琴弾きとなる。これとちようど同じようにわれわれは正しいことをすることによって勇気あるひとになるのである。

アリストテレスニコマコスの倫理学2.1.4(ヘレニズム)

注意深く適切な行為、規範を確認し、それらを昼夜手本として従い、一瞬の怠慢や中止もないようにせよ。ある程度時間が過ぎたのちに私達はそれらに慣れるようになり、そうなれば、私達はそれ以上、それらに従う必要なく、私達自身の基準をつくるにとができるようになる。

朱熹(儒教)

あなたが習慣にしようとするものは、何であってもそれを実践せよ。そして、あなたがあるものを習慣にするまいとすれば、それを実践せず、あなた自身を他のことに習熟するようにせよ。

エピクテトス(ヘレニズム)

自己修養を長い間継続すれば、徐々に喜びの精神に導かれるようになる。喜びの精神は、柔らかく、寛大で、優しく、調和するものを求めるようになるだろう。これを願う人は、誰もがその悪い感情を除去し、怒りをなくさなければならず、反対を呼び込み、憤怒を引き起こす逆境から自由にならなければならない。個人の、そして長い間の綿密な調査は徐々に理の説明へと導かれるようになるだろう。完全な理解は、他の人に公然と彼を批判なく素直に影響を及ばせることを知るようになるだろう。これを留意する人は誰でも見聞が広がり、影響力があるようになり、拒絶され、そして争いの中で生じる憂慮から自由になるだろう。

この上、私達はさらに積極的に事物の理を観察し、私達の根本的な感情を調査しなければならない。個人的にこのようなことに対し時間をおき、注意深く考えてみる、自身の知的精神的能力を通して経験しなければならない。このようなことを行えば、偏見と虚位の過ちから自由になるだろう。すべてのことにおいて常に自身の学びの力を点検することは重要である。もしある障害物や過ちがあれば、その病弊を発見し、それを根こそぎ抜いてしまうときまで、深く究明せよ。

朱熹(儒教)

― み言選集 ―

善と悪は、未来において決定されるものではなく、現在の一日一日の時間において決定される。

御旨の道、善と悪

心や思いでは善悪が決定しません。行動をしてこそ善悪が決定するのです。そうではないですか。行動しない熱情では、罪として糾明できません。現れないからです。実体でなければ認定できないのです。いくら何かをしても、証拠がなければ決定できないでしょう? 同じことです。行動した結果によってすべてのものが決定するのです。思いだけをもってすべて分かっていると思っても、その世界と私は何の関係もありません。

(359-166、2001.11.7)

皆さんが勉強するために本を読むとしても、ただ読むだけでは駄目です。そこには必ず読む練習をして、訓練する過程が必要です。私達が音楽を聞く場合にも同じです。ただ一度聞いただけでは駄目です。その音楽に対して深く詳細に理解するためには、必ず時間的過程と訓練が必要です。私達が語ることにおいてもそうです。語ることにおいて、人よりも有名になり、抜きん出るためには、ただそのままそうなるのではなく、必ず訓練過程がなければなりません。私達の行動もそうです。私達が心で考えることも同じです。すべて訓練過程を経なければなりません。瞑想や祈祷をするのも、そのための一つの修養方法です。

(67-178、1973.6.10)

有名なバイオリン演奏者たちは、たくさん鍛え、触れ、数多くの練習をしたために、そのバイオリンの筒の音がすべて分かるのです。分かってするので、和音になる音の構造が、それ自体の細胞が変わります。それで、そこから出てくる音が神秘的になるのです。同じことです。精誠を尽くさなければなりません。祈祷とは何ですか。精誠を尽くすことです。どこに行ってもアンテナを立てていなければなりません。一瞬も放心することはできません。

(241-179、1992.12.24)

堕落した人間がどのように再び善であられる神様のところに行くことができるのですか。まず良心を通して本体の善に似ていかなければなりません。次には、神様のみ言に従って行動し、神様の本体の善とみ言の価値を表さなければなりません。そのようになるとき、神様は被造万物をつくられた善の理想である喜びを見いだされるのであり、善の目的を指向してきた人間たちも、神様の善の価値を感じる善の実体になるのです。ところが、これが人間の堕落によってすべて挫折してしまったのです。

(2-320、1957.7.21)

霊人体は神からくる生素(陽性)と肉身からくる生力要素(陰性)の二つの要素が授受作用をする中で成長する。また霊人体は肉身から生力要素を受ける反面、逆に肉身に与える要素もあり、我々はこれを、生霊要素という。人間が神霊に接することによって、無限の喜びと新しい力を得て、持病が治っていくなど、その肉身に多くの変化を起こすようになるが、これは、その肉身が霊人体から生霊要素を受けるからである。

霊人体は肉身を土台にしてのみ成長する。それゆえに、霊人体と肉身との関係は、ちょうど実と木との関係と同じである。生心の要求のままに肉心が呼応し、生心が指向する目的に従って、肉身が動くようになれば、肉身は霊人体から生霊要素を受けて善化され、それに従って、肉身は良い生力要素を霊人体に与えることができて、霊人体は善のための正常的な成長をするようになるのである。

生心の要求するものとは何であるかを教えてくれるのが真理である。それゆえに、人間が真理で生心が要求するものを悟り、そのとおりに実践することによって、人間の責任分担を完遂すれば、初めて生霊要素と生力要素とがお互いに善の目的のための授受作用をするようになる。

ところで、生霊要素と生力要素とは各々性相的なものと形状的なものとの関係をもっている。ゆえに、悪人においても、その本心が善を指向しているのは、その生霊要素が常に作用しているからである。けれども、人間が善なる生活をしない限り、その要素も肉身の善化のための役割をすることができないので、生力要素との間に正しい授受作用をすることもできなくなるのである。

原理講論、創造原理6.3.2

心と体が一つにならなければ、天国に行けません。矯慢にならないでください。謙遜にしなさいというのです。祭物になりなさいというのです。それで、宗教はすべて体を打つのです。3年以上犠牲、奉仕しなさい、断食しなさいと言うのですが、それは人間が好むものではありません。

(245-58、1993.2.28)

2. 善はより良い善を導くが、善を無視すれば悪に陥る

― 宗教経典 ―

善をなすのを急げ。悪から心を退けよ。善をなすのにのろのろしたら、心は悪事をたのしむ。

法句経116 (仏教)

小さな教えでも、行おうと努力せよ。罪から逃げよ。教訓はもう一つの教訓を生み、罪はもう一つの罪を生む。教訓の報いはもう一つの教訓であり、犯罪の償いはもう一つの罪である。

ミシュナ、アヴォート4.2 (ユダヤ教)

「その報いは私には来ないだろう」と思って、悪を軽んずるな。水が一滴ずつ滴りおちるならば、水瓶でも満たされるのである。愚かな者は、水を少しずつでも集めるように悪を積むならば、やがてわざわいにみたされる。「その報いは私には来ないであろう」と思って、善を軽んずるな。水が一滴ずつ滴りおちるならば、水瓶でもみたされる。気をつけている人は、水を少しずつでも集めるように善を積むならば、やがて福徳にみたされる。

法句経121 ~ 122 (仏教)

持っている人は更に与えられて豊かになるが持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。

マタイによる福音書13.12(キリスト教)

イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。

ヨハネによる福音書8.34(キリスト教)

黒いやぎは暗くなる前に早く捕まえなければならない。

イガラ族の格言(アフリカ伝統宗教)

孟子が高子に向かっていわれた。「山の嶺の細い小路も、絶えずきまってそこを人が通れば、やがては路らしい路になるものだが、それも暫くの間、通らないでいると、また茅などの雑草が生い茂って、路を塞いでしまう。……もう今では、茅がお前の心を塞いでしまっているぞ。」

孟子V1I.B.21 (儒教)

天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。早速、五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。

さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。「御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。」主人は言った。「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。」

次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。「御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。」主人は言った。「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。」

ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。「御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。」主人は答えた。「怠け者の悪い僕だ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。それなら、私の金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」

マタイによる福音書25.14 ~ 30 (キリスト教)

孔子のことば。小人は不仁を恥とせず、不義を畏れず、利益があると見なければ一生懸命にならず、刑罰で威しつけなければ懲りない。してみれば小さく懲らして大きな誡めを与えることは、小人にとってもしあわせのことなのである。易に「校を履いて趾を滅る。咎なし」とあるのは、このことを言ったものである。

善行も積みかさねて行かなければ名声を勝ちとるには至らぬし、悪事も積みかさねなければ身を滅ぼすには至らない。ところが小人は小さな善行などやっても無駄だと考えてやろうとせず、小さな悪事はやってもさしつかえないと考えて止めることをしない。だからやがては悪事が積みかさなって隠すことができなくなり、罪が大きくなってのがれることができなくなる。易にも「校を何いて耳を滅る。凶なり」と言ってある。

易経、周易繋辞下伝2.5.7 ~8(儒教)

一度自らにうそをつくことを許した人は、二度、三度、さらには、ついにそれが習慣になるまで簡単にうそをつくようになる。彼は深思熟考せずにうそをつき、真実を語っても世間から信用されなくなる。

トーマス・ジェファーソン

― み言選集 ―

体は心の命令に従順に屈伏しなければ、私達の個体は善化されない。しかし、実際には体が心の命令に反逆して、ちょうどカインがアベルを殺したような立場を反復するので、我々の個体は悪化されるのである。

原理講論、復帰基台摂理時代1.2

習慣的にうろうろ、行ったり来たりし、聖日も行ったり来たりする、進展もなく、ただ停止状態でついてきた人たちは、み旨のために何かを意欲的に実践した経歴がないので、人が良い、悪いと言っても、良いのか悪いのか無感覚なのです。そのように10 年を経て初めて「私はこのような位置にいるのだなあ」と恥ずかしく感じる人もしいたというのです。

(89-231 ~ 232、1976.12.1)

人は本来、悪を避けて善を追求していこうとします。私達の心は、善の世界を立て、悪の世界を除去するために常に走っていますが、その反面、私自身の中で悪の心が善の心に向かって強く作用することを、私達は自分の心を通してよく感じています。善の心を強く掲げていけばいくほど、そこに比例して悪の心が常に対決しているというのです。

また、善の心は、何かの目的に向かっていくとしても、その目的とするところをはっきりと知ることができず、目的とするその世界に向かっていくにおいても、善の心を刺激させることのできる過程や因縁を発見することが難しい反面、悪はその過程に満ちあふれていて、その過程を経て最後まで連結されています。このようなことを見るとき、真を追求する心をもった人は、孤独な生活、悲しい生活をせざるを得ない立場に追い込まれるようになっています。

(36-51 ~ 52、1970.11.15)

4) 決断

道徳的人生とは目的のある人生を意味する。そして、それは決断を必要とする人生である。自然に善になる人はいない。目的なく人生を過ごしていく人は、悪の流れに陥って溺死しやすい。私達は常に分かれ道に立つようになるが、より善の道とより悪の道がそれである。そして、その選択は私達の責任である。経典では、これを生と死、狭い門と広い門、二人の主人の間で選択しなければならない私達の決断力にかかっているという。

文鮮明先生は、人間は中間的存在であり、互いに反対方向に作用する善と悪の力によってどの方向にも引かれていくと言われる。これは、良心を通しで私達を導く神様と、自己中心の欲望を追求せよと刺激するサタンの間の葛藤であり闘争である。このような困難な状況で、自分の道を選択し守っていくことは、各個人の責任である。

― 宗教経典 ―

勝善と福楽とが人に至れる時、賢者は両事を精査して検別し、福楽を捨てて勝善を選ぶ。愚人は利養を求めて福楽を選ぶ。

カタ・ウパニシャッド1.2.2 (ヒンドゥー教)

人は常に善悪の岐路に立つ。

処世訓(PL 教団)

一つは利得に達する道であり、他の一つは安らぎにいたる道である。ブッダの弟子である修行僧はこのことわりを知って、栄誉を喜ぶな。孤独の境地にはげめ。

法句経75(仏教)

だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。

マタイによる福音書6.24 (キリスト教)

神は一つの比喩を提示したもう、多くの主人がいて互いに争う者と、ただひとりの人に完全に仕えている者と。このふたりは比べてみて同じであろうか。

クルアーン39.29(イスラーム)

見よ、私は今日、あなた達の前に祝福と呪いを置く。あなた達は、今日、私が命じるあなた達の神、主の戒めに聞き従うならば祝福を、もし、あなた達の神、主の戒めに聞き従わず、今日、私が命じる道をそれて、あなた達とは無縁であった他の神々に従うならば、呪いを受ける。

申命記11.26 ~ 28(キリスト教)

耳をもって御身たちは聞けよ最勝のことを、明らかな心をもって御身たちは見よ最勝のことを。それはひとりひとりが自分自身のためにする、選取決定に関する二種信条のことで、それというのも重大な走行に先だち、それに目ざめさしめんためです。では、睡眠を通して双生児としてあらわれた、かの始元の二霊についてであるが、両者は、心意と言語と行為において、より正善なるものと邪悪なものとであった。そして、両者のあいだに、正見者たちは正しく区別をつけたが、邪見者どもはそうではなかった。

アヴェスター・ヤスナ30.2 ~ 3(ゾロアスター教)

狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。

マタイによる福音書7.13 ~ 14(キリスト教)

悪いことが多いので、なんじを驚かせるであろうが、悪いことと善いことは同じではない。それでなんじら思慮ある者よ、神を畏れまつれ、おそらくなんじらは成功するであろう。

クルアーン5.100 (イスラーム)

われはかれのために、両目と一つの舌と二つの唇を、つくったではないか。さらに二つの道をかれに示したではないか。だがかれは、けわしい道を取ろうとせぬ。けわしい道が何であるかを、なんじに理解させるるのは何か。それは奴隷を解放し、または窮乏の日には、近い縁者の孤児、また土に伏す貧者を養うことである。それから信仰する者になって、忍耐のために励ましあい、互いに親切温情を尽くしあうことである。

クルアーン90.8 ~ 17(イスラーム)

つまらぬ快楽を捨てることによって、広大なる楽しみを見ることができるのであるなら、心ある人は広大な楽しみをのぞんで、つまらぬ快楽を捨てよ。

法句経290 (仏教)

天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。

マタイによる福音書13.44 ~ 46(キリスト教)

― み言選集 ―

善と悪が対立している世界に私達はいます。心と体を分けておいて、善と悪が互いに引っ張り合っています。悪は悪で引っ張り、善は善で引っ張ります。このように、対立した環境の中に私達人間が身をおいているのです。この境界線をどちち側に越えていくのかによって、悪になることもあり、善になることもあります。皆さんは、この境界線でさまよっているのです。

(36-55、1970.11.15)

私は善悪の分岐点です。

(109-268、1980.11.2)

元来、人間始祖が堕落しないで完成し、神と心情において一体となることができたならば、彼らは神のみに対して生活する立場におかれるはずであった。しかし、彼らは堕落してサタンと血縁関係を結んだので、一方ではまた、サタンとも対応しなければならない立場におかれるようになったのである。したがって堕落直後、まだ原罪だけがあり、他の善行も悪行も行わなかったアダムとエバは、神とも、またサタンとも対応することができる中間位置におかれるようになった。

それゆえ、アダムとエバの子孫たちもまた、そのような中間位置におかれるようになったのである。したがって、堕落社会において、イエスを信じなかった人でも、良心的な生活をした人は、このような中間位置にいるわけであるから、サタンは彼を地獄に連れていくことはできない。

しかし、いくら良心的な生活をした人でも、その人がイエスを信じない限りは、神もまた、彼を楽園に連れていくことはできないのである。それゆえにこのような霊人は、霊界に行っても、楽園でも地獄でもない中間霊界にとどまるようになるのである。

それでは、このような中間位置にいる堕落人間を、神はどのようにしたらサタンから分立させることができるであろうか。サタンは元来、血統的な因縁をもって堕落した人間に対応しているのであるから、あくまでも人間自身が、神の前に出ることのできる一つの条件を立てない限り、無条件に彼を天の側に復帰させることはできないのである。

一方においてサタンも、これまた人間の創造主が神であることを熟知しているので、堕落人間自身に再びサタンが侵入できる一つの条件が成立しない限りは、かかる人間を無条件に奪っていくことはできないのである。それゆえ、堕落人間は彼自身が善なる条件を立てたときには天の側に、悪なる条件を立てたときにはサタンの側に分立される。

原理講論、後編緒論1.1

体のいうとおりにすれば地獄と通じるのであり、心のいうとおりにすれば天国と通じるのです。天国と地獄の分岐線が私です。

(214-283、1991.2.3)

霊的な御飯を食べなければなりません。皆さんが空腹のとき、肉的な御飯と霊的な御飯のうち、どちらがよりおいしくなければならないかというと、私が生き残り、神様の側に立つためには、霊的な御飯の味が肉的な御飯の味よりもっと良くなければならず、霊的な力を中心として生きる味が、肉的な力をもって生きる味より、もっとおいしくなければなりません。

(131-211、1984.5.4)

過去のことをすべて振り返ってみる時、今となっては追憶の一言になるかもしれませんが、その時においては本当に深刻でした。自分の生涯の未来をかけて、どのように行くべきかという問題を談判する時期でした。これは人間だけの決定でなされるものではないという事実が分かったので、「神様がいらっしゃるとすれば、神様のみ意によって、人間的な考えを越えて、決定的な路程を取ることのできる道を行かなければならない」と考えたのです。

(211-135、1990.12.30)

私がなぜこのようなことをしたのでしょうか。神様を知ったからです。そうでなければ、私は世の中の人として堂々と今日のどの社会に行っても賢い人として、長として、十分に一つの国を動かすことができるこのような位置まで行ったかもしれません。そのような頭があり、そのような能力がある人です。

今も私がじっと考えれば、私の一生でたくさんの涙を流したのですが、それは誰のためでしょうか。神様です。神様を知ってからです。また、今まで苦労したというのです。それも神様を知ったからです。迫害を受け、このようなことは、すべてレバレンド・ムーンが愚かだからではありません。神様を知ったからなのです。

先生は、個人的に希望がなく、欲望がないでしょうか。青春時代にその貴いものをもたなかったでしょうか。同じです。しかし、これを無慈悲に一度切ってしまった以降には、二度と振り返りません。そうしてみると、今日のレバレンド・ムーンになました。(93-67、1977.5.1)

5) 善と悪

善と悪はどのように区別できるのだろうか。世の中には、善悪を決定できるある行動に対する正答や、それ自体に内在したり、隠された普遍的指針が存在するのだろうか。善の人と悪の人の違いは何か。

善と悪は、内的、外的に区別される。文鮮明先生のみ言を見れば、ある時は、動機を通して善悪を区分しなさいと言われる。言い換えれば、善行は良心に従って行う行為である反面、悪行は体の欲望を満足させる行為だというのである。ある時は、善悪を心の目的と意図によって区別しなさいと言われる。しかし、自分の意図とは何だったか推し量ることができないとき、明確に現れる指向点がないときは、善と悪を正確に区別することが難しい。仕事がすべて終わって実を結ぶときまで時間がかかる。したがって、文鮮明先生は、時には自分の行為が結実し、善悪が明確になるその瞬間まで、忍耐心をもって待たなければならないときもあると言われる。

このように文先生は、善悪を区別する方法に対しても語ってくださった。しかし、常に強調される客観的な一つの基準がある。善は利他的であり、人のために生きることであり、悪は自己中心的だということである。

1. 善は利他的なものであり、悪は利己的欲望を満たすこと

― 宗教経典 ―

行為はブラフマンから生ずると知れ。ブラフマンは不滅の存在から生ずる。それ故、遍在するブラフマンは、常に祭祀において確立する。このように回転する〔祭祀の〕車輪(チャクラ)を、この世で回転させ続けぬ人、感官に楽しむ罪ある人は、アルジュナよ、空しく生きる人だ。

バガヴァッド、ギーター3.15 ~ 16(ヒンドゥー教)

かれらのうちには、自ら魂を誤った者あり、中間の道をとる者もあり、またかれらのうち、ある者は、神の許しのもとに、種々の善い行いに率先する者もある。それは、偉大な恩恵である。

クルアーン35.32 (イスラーム)

どんな場合にも、輪廻の中の楽のみを、自らのために求めているもの、彼等が下士の衆生であると知られる。生存の中の楽を顧みず、悪業から離れることを自らだけのために求めている者、こうした衆生が中士と言われる。自らに結びついている苦によって、他のあらゆる苦を取り除こうと常に願っている者、こうした衆生は上士である。

菩提道灯論(仏教)

人間には四つの性稟がある。「私のものは私のものであり、あなたのものはあなたのものだ」という者は平均の人である。ある人はこれがソドム人の性稟だと言う。「私のものはあなたのものであり、あなたのものは私のものだ」という者は規律を知らない人である。「私のものもあなたのものであり、あなたのものもあなたのものだ」という者は聖人である。「あなたのものも私のものであり、私のものも私のものである」という者は邪悪な人である。

ミシュナ、アヴォート5.13 (ユダヤ教)

ラーフラよ、もしそなたが身による行為をなしたいと思うならば、そなたはその身の行為についてよく観察すべきです。〈私がなしたいと思っているこの身による行為は、自己を害することになりはしないか、他者をも害することになりはしないか、両者ともに害するものになりはしないか、この身の行為は不善のもの、苦を生むもの、苦の果のあるものではないか〉と。

ラーフラよ、もしそなたが観察しながら、〈私がなしたいと思っているこの身による行為は、自己を害することになる、他者をも害することになる、両者ともに害することになる、この身の行為は不善のもの、苦を生むもの、苦の果のあるものである〉と知るならば、ラーフラよ、そなたはそのような身による行為を、けっしてなすべきではありません。

阿含経中部i.415 (仏教)

自分のために他者を害するなら、地獄などで苦しむこととなる。他者のために自分が害を受けるなら、あらゆる円満を得ることになる。自分が高い地位を望むなら、それによって悪趣、低劣、愚かとなり、それを他者に移すなら、善趣と名誉を得る。自分のために、他者を使うなら、〔後に〕奴隷などを経験しなければならない。他者のために自分か働けば、〔後に〕支配者などを経験することになる。

菩提行論、禅定波羅蜜8.126 ~ 128 (仏教)

創造者を共同の起源とする神々と悪魔たちは、互いにライバルだった。ゆえに、悪魔たちが自慢げに言った。「どこに供え物を置くべきか」。そして自分たちの口に供え物を入れた。神々はそれぞれ自分の友の口に供え物を入れた。すると創造主は彼らに自らを与えた。(注3)

シャタパタ・ブラーフマナ5.1.1.1~2(ヒンドゥー教)

人は誰でも創造的利他主義の光の中で道を歩いていくのか、あるいは破壊的利己主義の暗闇の中で歩いていくのかを選択しなければなりません。これは審判です。人生において絶えず訪れてくる最も差し迫った質問は、「あなたは人のために何をしているのか」です。

マーティン・ルーサー・キング・ジュニア(キリスト教)

正否の物差しは最大多数の最大幸福である。

ジェレミ・ベンサム(注4)(ヒューマニズム)

― み言選集 ―

悪と善の方向はどのように違うのでしょうか。善は常に絶対者であられる神様を中心として相対的立場に立つのであり、悪は自分を中心として主体的な位置に立つのです。善のものとは何でしょうか。自分を犠牲にして全体目的にプラスになるようにするのが善です。それでは、悪は何でしょうか。全体を自分に引っ張り込むようにするのです。善と悪は方向が異なるのです。体はすべて自分が願うことばかりをしようとし、心はすべて体が願うことをできないようにしようとするのです。方向が異なります。

(16-137、1966.1.22)

それでは、今人間たちにとって一番の問題になることは何かというと、善とは何であり、悪とは何かということですが、その基準が不確実だというのです。神様と私の関係を知ったので、その関係が一致して、悪とは何であり、善とは何かということをはっきりと根本から区別しておかなければなりません。悪は何ですか。悪の定義とは何ですか。サタンが讒訴する条件を提示するのが悪です。皆さんはそれを知らなければなりません。罪とは何ですか。サタンが讒訴し、そこに関係を結べる内容をもてば罪です。キリスト教徒たちは、罪の根を

すべて知らなければなりません。

悪の出発は、サタン自身もそうであり、エバ自身も「私が主体になってみよう。私が中心になろう」と考えながら、自分を誇ることから始まったのです。主体のためにいなければならないにもかかわらず、「私のためにいなさい。私のためにいなさい」と言いました。これが悪です。神様の創造原則は対象のためにいることであり、対象を否定し、「私のためにいなさい」、このようになったのです。これを根本にしました。

皆さんは、善悪の起源をはっきりと知らなければなりません。悪の人は何かというと、「私のために生きなさい。すべて私のところに来て屈服しなさい」というのです。神様もこれをたたきつぶさなければならず、イエス様もこれをたたきつぶさなければなりません。ですから、「驕慢になってはいけない。自分の利益を求めてはいけない。人のために犠牲になりなさい。奉仕しなさい」と言ったのです。すべて反対です。

(69-85、1973.10.20)

皆さんが善の人なのか、悪の人なのかを何によって判定するのですか。個人主義的な存在か、公的な存在かに、今日の人倫道徳の基準を立てたのです。善の人は人のために犠牲になる人であり、悪の人は人を搾取する人だということです。教育の標準をそのように立てているのです。

(102-234、1979.1.1)

この世の中には2種類の人がいます。一つは世界的な考えのもとで考え、世界的な考えに従って行動する人であり、もう一つは、その反対の立場で、世界でも何でも、自分の考えどおりに行動する人です。人々は、世界を考えて行動することを好みません。いつでも自分を中心として考えたがるのです。自分を中心として考え、自分を中心として行動するのが人間だというのです。一人は歴史的な世界の聖人たちを考え、その国の愛国者を考え、現世に暮らす有名な人を尊敬し、その道に従っていこうとする人であり、もう一人は、聖人であれ愛国者であれこの時代の指導者であれ、気にせずに「私」を中心として動かなければならないと考える人です。

皆さんはどちらの人ですか。どちらを好みますか。相対を中心とする人生が必要ですか、自分中心的な人生が必要ですか。どちらが皆さんの実際ですか。(相対を中心とするものです)。答えは正しいですが、考えは違います。(考えもそうです)。しかし、実際には自己中心的な道を行っています。いつでも自分を中心としていこうとすることが問題です。それが実際であり事実です。

(117-214 ~ 215、1982.3.7)

世界の人類を、善の基準を標準として三種類に分類すれば、反対の人、善を知りながらも積極的に出て自分のものとすることなく緩衝地帯に住んでいる人、そして、善を私の責任としてなそうとする人に分けられる。み旨の前には、最後の人が必要なのである。

御旨の道、人格

善の人とはどのような人でしょうか。様々に定義できますが、一つには、受けたものを踏み倒す人は悪の人であり、受けたものに対して、プラスして施す人は善の人であるというのです。ですから、子女が自分よりも劣ることを願う父母はいません。優れていることを願うのです。

(315-210、2000.2.2)

アメリカが言うには、「ああ! 世界のことは知らない。私達の国のためだけに生きればよい」、これでは世界の公法に引っ掛かります。アメリカは、今まで世界の人たちに相当仰がれてきましたが、最近はみな、「アメリカ人」どいえば首を振ります。

なぜそうするのでしょうか。今日、カーター大統領といえば、カーター大統領が本当にアメリカの願う大統領か、あるいはアメリカが願わない大統領かという問題を考えるとき、カーター大統領が自分を中心として考えるのか、アメリカを中心として考えるのか、また自分の選挙のために行動するのか、将来のアメリカのために行動するのか、このような問題を中心としてすべて悪のものと善のものが分かれます。アメリカ大統領としてカーターがアメくリカの利益のためにすれば、それはアメリカ内でのみ大統領になりますが、世界を中心として見るとき、世界が公認し、世界の利益になるようにすれば、世界に影響を与えた大統領として、世界が仰ぐアメリカ大統領になれます。そのようにできなければ、世界の制裁を受けるアメリカ大統領になるのです。

このような観点から見れば、人間には必ず法があります。ですから、審判が残るのです。それでは、そこに引っ掛かる張本人は何ですか。その根本とは何ですか。自己中心、自分の考えです。自分を中心とするところですべて引っ掛かります。それは間違いありません。それでは、私達が「世の中の法に引っ掛からない人になる」と自信をもっていくとすれば、どのようにすれば引っ掛からないのですか。「自分のために生きる」、このような人は至る所で引っ掛かります。「自分よりもっと大きなもののために生きる」、このようにするときは、すべての法から解放されます。すべての法で解放されるのです。

(93-302、1977.6.12)

2. 善悪は心の意図によって決定される

― 宗教経典 ―

悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。これが人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない。

マタイによる福音書15.19 ~ 20(キリスト教)

どうして行為それ自体に善悪の分別があり得ようか。ただ善の意志によって行われる行為を善行と名づけ、悪の意志によって行われる行為を悪行と名づけるだけである。……霊魂を清浄にする行為や、それによって霊魂が清浄になる行為を美徳といい、常に心に平穏をもたらしてくれる。しかし、霊魂が善を遠ざけていくようにする行為は悪行であり、それはただ心の不安を企てるだけである。

プーヅャパーダサルヴァルタシッディ6.3(ジャイナ教)

もしも手に傷が無いならば、その人は手で毒をとり去ることもできるであろう。傷の無い人に、毒は及ばない。悪をなさない人には、悪の及ぶことがない。

法句経124 (仏教)

― み言選集 ―

本来、善と悪は一点から出発しました。一点から出発したのですが、その一点とは何かというと愛です。

(26-282、1969.11.10)

心と体でできた、二重構造になっている自分を分別してみれば、良心は善の立場にいて、肉身は悪の立場にいます。

(227-46、1992.2.10)

心の方向と方法によって善が生じることもあり、悪が生じることもあります。心という根本がどの方向と方法に行くのかによって善と悪が分かれるようになります。

(37-116、1970.12.23)

すべて正しいというのですが、その中で誰が善の側であり、誰が悪の側ですか。境界線があります。自分がいる位置以上のものを中心として、上のために生きようという人は善側の位置に立つのであり、自分のためにより低いものについていこうという人は悪側の位置に立つのです。官職にある人が国のために生きなければならない立場であるにもかかわらず、自分の家庭ばかりのために生きれば悪になるのです。

(170-175 ~ 176、1987.11.15)

善はどこから出発するのですか。善は自分から出発するものではありません。善はどこから出発するのかという問題を考えてみるとき、自分から出発することはできません。善というものは、必ず相対のために生きるところから出発するのです。自分のために生きるのではなく、相対のために生きるところから善が出発すると見ざるを得ません。

ですから、「善の人」といえば、自分を中心として出発しようとする人ではなく、人のために生きようとし、人のために努力し、人のために活動する人なのです。そのような人を私達は生活する中や死に臨む場で、「あの人は善の人だ」と普遍的に言います。ですから、善は自分のために出発する立場ではなく、人のために出発する立場であることを私達はここで決定できます。

悪は何でしょうか。「すべてのものは私のために存在せよ。すべてのものの出発は、私のためになければならない」と言います。このような立場が悪の立場です。善と悪がどのように分岐線を引いて分かれるのかというと、人のために生きようとするところは善がとどまるのであり、私を中心とするところは悪がとどまることを私達は知らなければなりません。

私達の心を見てみれば、その心は常に善の心に、善の方向に導こうとします。「人のために奉仕しなさい。人に慈愛心をもちなさい。人のために犠牲になりなさい。人のために生きなさい」というのです。これが善の行く道です。

(65-13 ~ 14、1972.11.13)

3. 善悪は個人の生活様式に現れる

― 宗教経典 ―

あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。

マタイによる福音書7.16 ~ 20(キリスト教)

まことに神は公正と善行、ならびに近親に対する贈与を命じたまい、また一切の醜行と邪悪ならびに違反を禁じたもう。かれは勧告している、おそらなんじらは訓戒に留意するであろう。

クルアーン16.90 (イスラーム)

肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。

ガラテヤの信徒への手紙5.19 ~ 23(キリスト教)

神の使徒が次のように言った。「人々を天国に入れる最も普遍的な行為が何か知っているか。それは神に対する畏敬と良い性稟である。それでは、地獄に入る最も普遍的なものは何か。それは二つのむなしいものであるが、口と隠密な部分である」。

ティルミディーおよびイブン・マージャ・ハディース(イスラーム)

庶民というものは自分から罪を犯すのである。人の家に押し込んだり、人の物を奪ったり、かすめ取ったり、財貨のために人を殺してしまったりして、悪事のためには、取り乱して死を恐れることもない。それでいて、庶民は刑罰を受けると、怨まない者はないのである。王は、ことばを改め、つづいておおせられた。

「封よ、最大の悪事で最も憎むべきことは、何といっても不幸と不友とである。子がその父の始めた事業に慎んで従わないで、その父の心を甚だしく傷つけるならば、その父もその子を慈しむことができないで、かえってその子を憎むことになるであろう。また、弟が天の定めた自分よりも目上であることを敬わないで、その兄に従順であることができないならば、兄もまた幼い者に対するあわれみを心にかけないで、その弟に甚だしく不友となるであろう。こうなっても、わが官長がそれらの人を服罪させないならば、天がわが人民に与えた恒久の道義が、大いに乱れてしまうであろう。されば、文王のお定めになった刑罰の規定に速やかに則って、大法に従わない者を赦すことがないようにせよ。」

書経5.9 (儒教)

大人は生きるために飲み食いする反面、小人は飲み食いするために生きる。

ソクラテス(注5)(ヘレニズム)

― み言選集 ―

善とは何でしょうか。自分を中心として自分のために生きようとする所では、善の種は出てくることができません。自分を中心として利益を得ようという群れの中には善の種がないというのです。自分を中心として自分を利用しようとする人は悪の人です。人の負債に責任をもってあげる人は善の人です。

(41-91, 1971.2.12)

善悪というものは、思いの中で決定されるものではありません。善悪というものは生活圏内で決定されます。天国と地獄は、皆さんの観念の世界で決定されるのではなく、生活舞台で決定されるのです。これは重要なことです。

(40-294 ~ 295、1971.2.7)

悪は強要することです。道理に従うのではなく、道理に逆らって行動することです。ですから、弾圧であり、恐怖であり、恐喝であり、脅迫であり、生命を威嚇していくのです。

(60-61、1972.8.6)

すべてのことには、始まりがあれば終わりがあるようになっています。善いことであれ、悪いことであれ、始まりがあればいつかは終わりがあるのです。善いことは歴史が長いので結末が遅く現れますが、悪いことであるほど結末が早く現れます。善のものは永遠と歩調を合わせますが、悪のものは瞬間と歩調を合わせます。滅びる行為は瞬間に陶酔しますが、栄える行為は永遠に陶酔します。永遠に酔うことができる行為の基盤は、体ではなく心です。

(18-64 ~ 65、1967.5.21)

善悪をどのように決定するのでしょうか。善はより公的な立場にあるものであり、悪は私的な立場にあるものです。忠臣や烈女も、すべてこの基準によって決定します。より大きなもののために生きれば生きるほど、より一層善になります。悪は個人を中心とするものです。善はより大きなものを尋ね求めていくものなので、家庭を中心としていかなければなりません。ですから、皆さんは男性なら男性として結婚して家庭を求めなければならないのです。家庭を求めたのちに、その村で称賛を受けようとします。このように、個人が家庭を求めたのちに氏族を求めなければならず、民族を求めなければならず、国家を求めなければならず、世界を求めなければなりません。

(31-236、1970.6.4)

6) 個人の責任

責任は人間を人間らしくしてくれる核心である。ほかの被造物にも、生命、意識、さらには知能がある。しかし、唯一、人間にだけ生き方、すなわち運命を選択する責任が与えられた。個人に責任があるという話は、自己批判の側面が内包されているのである。自分の困難に対して人を批判するのではなく、自分の中から原因を探し出さなければならないということである。

たとえ人間の責任に対する定義とその限界に差があったとしても、信仰と実践の側面を見てみるとき、あらゆる世界の宗教はこの点を強調している。仏教やその他の唯一神を信じない諸宗教は、解脱の旅程を全的に個人の責任と見ている。自分自身が「自分を照らしてくれる灯台」である。自分が自分を救援するのである。仏陀とムハンマドが、自分たちが救世主と呼ばれることを拒否したように、彼らは自分自身ではない救世主に全的に依存することを拒否している。

反面、唯一神信仰によれば、恩寵以前にまずなければならないことは個人の責任分担である。個人の救援のために努力するとき、初めて神様もその中で共にいらっしゃることができる。救援は天から来る贈り物だが、それを拒否せずに受容するのは人間の責任である。文鮮明先生は、この関係を数字で表現し、95パーセントが神様の責任分担、5 パーセントが人間の責任分担だと言われる。このような脈絡から見るとき、責任こそ人間を人間らしくしてくれるものである。これはすなわち、私達が完成するために各自の役割を果たさなければならないということである。さらには、神様の創造の役事を完成するためにも、人間自身の責任が要求されるという意味にもなる。この責任には、神様が私達人間に自由を与えてくださったという意味が内在されているが、これは神様が人間の堕落行為に干渉できなかった理由を説明する重要な端緒になる。

多くの宗教で、個人の運命が少なくとも部分的にある超越的な力によって決定されると信じている。その力は、神様の予定、過去の業、または相続した罪の荷などで表現される。しかし、いくつかの経典では、このような条件が個人の責任に対する侵害だという概念に反対する。運命論を拒否する人たちは、一瞬一瞬、自分の責任を果たせば、より良い機会が自分に訪れでくると信じている。文鮮明先生は、さらに一人の個人は過去の先祖たちの結実だと語られる。したがって、自分の責任を果たすことは、個人だけでなく、多くの先祖たちにも有益なのである。

1. 各個人は自分自身に対して責任をもつ

― 宗教経典 ―

もし私が私自身のために生きなければ、誰が私のために生きてくれるか。私が私のために存在するときに、現在の私がいるのではないか。今でなければ、いつ私自身のために生きるのか。

ミシュナ、アヴォートM4(ユダヤ教)

信仰する者よ、なんじら自身を守る責任は、なんじらにあるのだ。

クルアーン5.105 (イスラーム)

みずから自分を励ませ。みずから自分を反省せよ。修行僧よ。自己を護り、正しい念いをたもてば、汝は安楽に住するであろう。実に自己の主である。自己は自分の帰趨である。故に自分をととのえよ。商人が良い馬を調教するように。

法句経379 ~ 380(仏教)

善い行いをなす者は己れを益し、悪い行いをなす者は己れをそこなう、なんじらの主は、そのしもべを不正に遇したまわぬ。

クルアーン41.46 (イスラーム)

恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。

ピリピの信徒への手紙2.12(キリスト教)

それぞれの人は自分の自我に対して責任をもっている。あなた達は自らを明かりとし、自らを帰依所としなければならず、人の助けに依存してはならない。法を明かりとし、あなた以外に他の所で帰依所を求めてはならない。比丘は自らの明かりとなり、自らの帰依所となり、絶えず自らの体と感覚と知覚と気分と概念を観察しなければならない。凡夫の欲望と挫折を征服するという信念で、常に堅固で、沈着で、正しい心構えで、このように精進しなければならない。誰でも今や私が死んだあとにこのように行い、熱心に精進すれば、彼は最上の中の最上になるだろう。

阿含経長部2.99 ~ 100 (仏教)

我々の神、主は、ホレブで我々と契約を結ばれた。主はこの契約を我々の先祖と結ばれたのではなく、今ここに生きている我々すべてと結ばれた。

申命記5.2 ~ 3(キリスト教)

自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか? 自己をよくととのえたならば、得難き主を得る。

法句経160 (仏教)

「わたくしは、神々と人間との世界において何ものをも所有せずにふるまうバラモンを見ます。あまねく見る方よ。わたくしはあなたを礼拝いたします。シャカ族の方よ。わたくしを諸々の疑惑から解き放ちたまえ。」 「ドータカよ。わたくしは世間におけるいかなる疑惑者をも解脱させ得ないであろう。ただそなたが最上の真理を知るならば、それによって、そなたはこの煩悩の激流を渡るであろう。」

スッタニパータ10.63 ~ 64(仏教)

友よ、私は、世界の終極に達しないで苦しみを消滅する、と説くのではない。そうではなくて、意識もそなえ心もあるこの一尋の身体に即して、世界そのものと、世界の生起と、世界の止滅と、世界の止滅にみちびく道とを説示するのである。

阿含経相応部i,62 (仏教)

(神がアダムに)「われわれは定まった座も、固有の姿形も、おまえ自身に特有ないかなる贈物も、おおアダムよ、おまえにあたえなかった。それというのも、おまえの願い、おまえの意向にしたがって、おまえが自分で選ぶその座、その姿形、その贈物を、おまえが得て、所有せんがためである。他のものたちの限定された本性は、われわれによって規定された法の中に抑制されている。……おまえは、獣であるところのより下位のものに堕落することもできるであろうし、おまえの意向しだいでは、神的なものであるところのより上位のものに再生されることもできるであろう」

ピコ・デッラ・ミランドラ(注6)(キリスト教)

人生におけるもっとも大きな仕事は、人が自分自身に誕生を与えることであり、自分の内にある可能性を実現させることである。人間が努力して作り上げるもっとも重要な労作は、自分自身のパーソナリティーの形成である。

エーリヒ・フロム(注7)(ヒューマニズム)

― み言選集 ―

信仰生活は、必ず第三者の立場から抜け出さなければなりません。皆さんは今、先生に従っていますが、先生を中心として信仰生活をするのではありません。皆さん自身を中心として信仰生活をするのです。ですから、信仰生活をする人には、人がどうであろうと、自分一人が守っていくべき信仰の道があるのです。

(153-136、1963.11.15)

荒野を越えて、このように小さな家でも建てることができるようになります。摩天楼のように大きくはなくても、皆さんのモデル型の家を建てることができるというのです。それを皆さん自身で建てなければなりません。誰も助けてくれません。自立しなさい。そのようにして、ほかの人々を助けてあげなさい。死地に落ちてはいけません。どれほど困難であっても、毎日一つずつプラスしなさい。そして、一つずつ投入しなさいというのです。今まで神様も、そのようにして投入して忘れるという生活をしてこられました。それが神様の伝統です。

(248-134、1993.8.1)

どのようにしなければならないかは、皆さんがもっとよく知っているのです。その道は私が行く道ではありません。

(36-31、1970.11.8)

直接主管圏と原理結果主管圏、そのときまで成長して上がっていき、成熟するときまでにならなければ、愛が分からないというのです。

(137-100、1985.12.24)

万物は原理自体の主管性、または自律性により、成長期間(間接主管圏)を経過することによって完成する。けれども、人間は原理自体の主管性や自律性だけでなく、それ自身の責任分担を全うしながら、この期間を経過して完成するように創造された。すなわち、「それを取って食べると、きっと死ぬであろう」(創2・17)と言われた神のみ言を見れば、人間始祖が神のこのみ言を信じて、取って食べずに完成するか、あるいはそのみ言を信ぜずに、取って食べて堕落するかは、神の側に責任があるのではなく、人間自身の責任にかかっていたのである。したがって、人間が完成するか否かは、神の創造の能力にだけかかっていたのではなく、人間自身の責任遂行いかんによっても決定されるようになっていたのである。

それゆえに、人間は神の創造主としての責任分担に対して、人間自身の責任分担を全うしながら、この成長期間(間接主管圏)をみな経過して、完成するように創造されていたのである。したがって、その責任分担については神が干渉してはならないのである。このように、人間がそれ自身の責任分担を完遂して初めて完成されるように創造されたのは、人間が神も干渉できない責任分担を完遂することによって、神の創造性までも似るようにし、また、神の創造の偉業に加担させることによって、ちょうど創造主である神が人間を主管なさるそのごとくに、人間も創造主の立場で万物を主管することができる主人の権限をもつようにするためであった(創1・28)。人間が万物と違う点は、正にここにあるのである。

原理講論、創造原理5.2.2

生命の道は、誰かが勧告して行く道ではなく、誰かが導いてくれて行く道でもありません。自分自らこれを消化しなくては行けないという事実を、私達はことさら分からなければなりません。空腹のときは私自身が食べなければならず、孤独なときは、これを解くために一つの主体的な立場に立って、偉人になり得る資格を備えなければなりません。

そのようにすることが、自然の道理であることを思うのでございます。私が生きていくにおいても、自分自ら主体の位置に立たなければならないことを知らなければなりません。受動的な立場に立ってはならないということをはっきり知り、自分自ら誓いながら生命の力を加えていくことのできる、あなたの息子、娘たちとなるようにしてくださいますことを懇切にお願い申し上げます。

(42-90、1971.2.28)

2. 責任は人間に対する神様の贈り物であり配慮

― 宗教経典 ―

主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」

創世記2.15 ~ 17(キリスト教)

ラビ・アキバは言った。「人は愛を受ける存在だ。彼らが神の形どおりに創造されたからである。しかし、創世記9章6節に『人は神にかたどって造られたからだ。』と教えてくださるように、格別な愛で人にこの事実を知らせてくださった](注8)

ミシュナ、アヴォート3.18 (ユダヤ教)

天への恐れ以外、すべて天にかかっている。

タルムード、ブラホート33b (ユダヤ教)

主なる神である私は、モーセに語って言った。「あなたが私の独り子の名によって命じたあのサタンは、初めからいた者である。彼は私の前に来て言った。『御覧ください。私がここにいます。私をお遣わしください。私はあなたの子となりましょう。そして、私は全人類を贖って、一人も失われないようにしましょう。必ず私はそうします。ですから、私にあなたの誉れを与えてください。」しかし見よ、初めから私が愛し選んだ者である私の愛する子は、私に『父よ、あなたの御心が行われ、栄光はとこしえにあなたのものでありますように』と言った。あのサタンは私に背いて、主なる神である私が与えた、人の選択の自由を損なおうとしたので、また私の力を自分に与えるように求めたので、私は独り子の力によって彼を投げ落とさせた。そして、彼はサタン、すなわち、あらゆる偽りの父である悪魔となって、人々を欺き、惑わし、またまことに、私の声を聴こうとしないすべての者を自分の意のままにとりこにする者となった。(注9)

高価なる真珠、モーセ書4.1 ~ 4(末日聖徒イエス・キリスト教会)

いったいだれが、天使や人間の堕落を防ぐ権能が神にはなかったとあえて信じたり、語ったりするだろうか。しかし神はこれを彼らの権能力ら除こうとはせず、むしろそうすることによって、彼らの高慢の悪と神の恩恵の善がどれほど大きいかを示そうとしたのである。

アウグスティヌス神の国14.27 (キリスト教)

― み言選集 ―

人間の完成を願う神様は、真の愛を中心として人間と一体となる条件が必要でした。それで、神様は人間始祖に下さる戒めが必要だったのです。人間が成長期間を育っていく未完成段階にいたことを御存じで、神様は子女である人間に最も貴い真の愛を相続させてあげようとなさる条件が、戒めでした。

(277-197、1996.4.16)

神が人間に対して、その創造性に似るようにし、被造世界の主人として立て、一番愛するための条件として、人間の責任分担を立てられた。

原理講論、予定論4

統一教会の教会員は、責任分担という言葉を言います。人間がより価値のある内容をもつことができるのも、この責任分担があるからだということを私達は原理を通して学んでいます。もし、アダムとエバが責任分担を完遂していれば、私達には恨という言葉は残っていなかったでしょう。もし責任分担を完遂していれば、人間と天使世界、全被造世界は、喜びと栄光の中で神様の主管を受けるようになっていたのです。これが原則だったということも知っています。

(63-320、1972.10.22)

神様は、どうして人生の中に責任分担を下さったのでしょうか。全知全能なる方なので、その全知全能な創造性までも賦与し、また永遠不変な愛の主体であられるので、その愛の主体を代表することのできる位置に立てるために責任分担を下さらざるを得なかったのです。これは福の条件になります。全体を占領することのできる一つの鍵のようなものなので、これを下さらざるを得なかったのです。しかし、この責任分担が問題になり、堕落したということを私達は知らなければなりません。

(20-210, 1968.6.9)

創造原理によれば、神は人間が神の創造性に似ることによって、あたかも神御自身が人間を主管されるように人間は万物世界を主管するように創造されたのである。そこで、人間が神の創造性に似るためには、人間自身がその責任分担を遂行しながら成長し、完成しなければならない。このような成長期間を、我々は間接主管圏、あるいは、原理結果主管圏というのである。それゆえに、人間がこの圏内にいるときには、彼ら自身の責任分担を完遂させるため、神は彼らを直接的に主管してはならないのである。そして、神は人間が完成したのちにおいて、初めて彼らを直接主管されるようになっているのである。

原理講論、堕落論6.1

3. 責任をもつ人は不平を言わずに生活環境を消化する

― 宗教経典 ―

毒からすら甘露(アムリタ)は得られ得る。子供からすら金言が、敵からすら善行が、不純物からすら金が〔得られ得る〕。

マヌ法典2.239 (ヒンドゥー教)

主の言葉が私に臨んだ。「お前たちがイスラエルの地で、このことわざを繰り返し口にしているのはどういうことか。「先祖が酢いぶどうを食べれば子孫の歯が浮く』と。私は生きている、と主なる神は言われる。お前たちはイスラエルにおいて、このことわざを二度と口にすることはない。すべての命は私のものである。父の命も子の命も、同様に私のものである。罪を犯した者、その人が死ぬ。……

それなのにお前たちは、『なぜ、子は父の罪を負わないのか』と言う。しかし、その子は正義と恵みの業を行い、私の掟をことごとく守り、行ったのだから、必ず生きる。罪を犯した本人が死ぬのであって、子は父の罪を負わず、父もまた子の罪を負うことはない。正しい人の正しさはその人だけのものであり、悪人の悪もその人だけのものである。……それゆえ、イスラエルの家よ。私はお前たちひとりひとりをその道に従って裁く、と主なる神は言われる。」(注10)

エゼキエル書18.1 ~ 30(キリスト教)

一類の沙門、婆羅門あり、是の如く説き、是の如く見る、凡てこの士夫人は或は楽、或は苦、或は非苦非楽を領受す、この一切の因は前生に作れり、と……我は彼の処に至りて是の如く説く……前生に因を作りしが故に當に殺生すべし……取るべし……非梵行を行ふべし……妄語すべし……離間語すべし……荒悪語すべし……雑穢語すべし……貪欲者なるべし……瞋恚者なるべし……邪見者なるべし……復前生の所作を堅実なりと執する人々には、是は作さるべし、或は是は作さる可らずと云ふ欲も無く、又精進も無し。復是の如く作さるべきと作さる可らざるとが実に確に知られざるときに、失念して護る所無く住する人々が、自ら沙門なりと称することは理由無きこと……凡てこの士夫人は或は楽、或は苦、或は非苦非楽を領受す、この一切の因は神の化作なり、と是の如く説き、是の如く見るならば、我は彼の処に至りて是の如く説く、……

神の化作の因により當に殺生すべし……邪見者たるべし……堅実なりと執する人々は、此は作さるべし、或は此は作さる可らずと云ふ欲も無く、又精進も無く、復是の如く作さるべきと、作さる可らざるとが実に確に知られざるときに、失念して護る所無く、住する人々が、自ら沙門なりと称することは理由なきことなり。(注11)

阿含経増支部i.1.73 ~ 74(仏教)

孔子が言われた、「弓射は君子(の道)に似たところがある。的に当たらなければ、かえって自身を責めるのである」と。

中庸14(儒教)

人は生来的に原因になることを願う。(注12)彼は悪い結果にならないように努力する。あなたは人々を助けようと努力し、人々はあなたを助けようと努力する。あなたと彼らは原因となることを願うからである。悪いことが起きるとき、あなたも彼らも原因になろうとしない。またあなたは結果になろうと願う。そのとき、あなたは悪い結果を発見する。あなたは結果にならないように努力する。ゆえにそのとき、あなたはあるものやある人を非難する。

プリ・クリアーのためのハンドブック(サイエントロジー)

自己の能力を知っている者は、事に当たっても決して人を怨むことがない。世の中のめぐり行きをよく知ってこれを確信している者は、決して本来頼るべきでない天を怨みはしない。己の反省努力を忘れて他人を怨む者は困窮し、本来すこしも作為のない天を怨む者は、まったく無知であるというべきである。自己の不徳によつて失敗しておきながら、反って他人に失敗の原因を求めようとすることは、まことに事情にうといと言うべきではなかろうか。

荀子(儒教)

― み言選集 ―

問題は誰かということ私です。ほかのところにあるのではありません。ところが、皆さんは世の中に対して不平を言います。「滅びる世の中になった」という言葉は、「私は滅びない人だが、私以外の世の中だけ滅びるときになった」という立場で言う言葉です。悪いことはすべて世の中のせいにして不平を言い、良いことはすべて自分に返して喜びます。これが問題です。世の中が間違っていると不平を言う前に、自分が間違っていることを知らなければならないのです。

(140-25、1986.2.1)

父も祖父もすべて私の隊列に立ち、天意による冥府の先祖に代わって生死の岐路で決断しなければなりません。それで、過去の失敗のすべての傷をなくし、新しい天地に足をおくことができなければなりません。

(310-126、1999.6.15)

皆さんがきょうこの場に至るまで数十万年の歴史がありました。数多くの国と数億万の人の犠牲の代価を払った基盤の上に皆さんがいるのです。彼らの元素の一つ一つが復活し、複合的な構成体のような存在として生まれたのが、正に皆さんだという事実を知らなければなりません。皆さんが責任を果たせなければ、皆さんの先祖まで共に滅びるということを知らなければなりません。

(124-77 ~ 78、1983.1.23)

皆さんが失敗者になるときは、すべて後退する道をつくりますが、あらゆる困難を克服して勝利者になるときは、皆さんの子孫たちも、「私達の先祖が行ったのだから私も行かなければならない」と言う栄光の道が築かれるという事実を知らなければなりません。

(98-213、1978.8.1)

復帰摂理歴史が長い期間を通じて、縦的に要求してきた蕩減条件を、「私」自身を中心として、横的に立てなければならない。そうすることによって、初めて「私」は復帰摂理歴史が望む結実体として立つことができるのである。したがって、我々は今までの歴史路程において、復帰摂理の目的のために立てられた預言者や義人たちが達成することのできなかった時代的使命を、今この「私」を中心として、一代において横的に蕩城復帰しなければならないのである。そうでなければ、復帰摂理の目的を完成した個体として立つことはできない。我々がこのような歴史的勝利者となるためには、預言者、義人たちに対してこられた神の心情と、彼らを召命された神の根本的な目的、そして彼らに負わされた摂理的使命が、果たしてどのようなものであったかということを詳細に知らなければならないのである。

原理講論、後編緒論3

4. 公的責任は個人の責任から始まる

― 宗教経典 ―

天下の人全てにその明徳を明らかにするようにさせたいと望んだ昔の人は、先ず、その国を治めた。その国を治めようとした人は、まず、その家をきちんとした。その家をきちんとしようとした人は、先ず、その身を修めた。その身を修めようとした人は、先ず、その(身の主宰者である)心を正しくした。その心を正しくしようとした人は、先ず、その(心の発現である)意を誠実にした。

その意を誠実にしようとした人は、先ず知(識)を推し極め(全て知り尽くそうとし)た。(我の)知(識)を推し極めるのは、事物の理を窮めて極点まで到達することにある。物(の理め極点)に到達すれば、(我が心の)知るところは全てを尽くす。

知が尽くされれば意は誠実となることができる。意が誠実であれば心は正しくなることができる。心が正しければ身が修まる。身が修まれば家がきちんとする。家がきちんとすれば国が治まる。国が治まれば、天下は平らかになる。天子から庶民に至るまで、一切みな身を修めることを本とする。その本(である身)が乱れて、末が治まるなどということはない。その厚くすべきもの(家)を薄くして、薄くすべきもの(国や天下)を厚くすることはあり得ないのである。

大学(儒教)

だから、監督は、非のうちどころがなく、一人の妻の夫であり、節制し、分別があり、礼儀正しく、客を親切にもてなし、よく教えることができなければなりません。また、酒におぼれず、乱暴でなく、寛容で、争いを好まず、金銭に執着せず、自分の家庭をよく治め、常に品位を保って子供たちを従順な者に育てている人でなければなりません。自分の家庭を治めることを知らない者に、どうして神の教会の世話ができるでしょうか。

テモテヘの手紙一3.2 ~ 5(キリスト教)

もし誰かが真摯に世の中の出来事を自分の個人的な責任と考えるなら、彼らは支配者の心の正誤から始めなければならない。彼らが支配者の心を正しくすることを願うのなら、彼らは彼ら自身から始めなければならない。

朱熹(儒教)

― み言選集 ―

自分を愛さない人は神様を愛することができません。父母を愛さない人は国を愛することができません。また、自分自身を愛することができない人は、父母を愛することができません。自分自身を愛してこそ、父母を愛することができるのであり、国を愛することができるのであり、世界を愛することができるのであり、神様を愛することができるのです。

ですから、宇宙主管を願う前に自己主管をしなさいというのです。このような途方もない愛の実体である個体を主体的な立場に立てておかなければ、家庭も不可能であり、国も不可能であり、国家も世界も不可能です。ですから、自分を完全に愛することのできる人でなければ、完全な神様を愛することはできません。

(22-97 ~ 98、1969.1.26)

皆さんは、悲しみと苦痛と死の道で勝利者にならなければなりません。栄光の場で勝利者になるより、その反対の場で勝利者になってこそ、その勝利を誇ることができます。そうすれば栄光の世界はおのずと訪れるでしょう。ある地域に責任をもてば、責任をもった所にある数多くの困灘と苦痛は私のものだ、私でなければ解決されないという、信念をもって、それに責任をもつ皆さんにならなければなりません。

(14-259、1965.1.1)

自ら、自分の人格を崇拝できる人となりなさい。万物に対しても、恥ずかしくなく、崇拝を受ける感じがなければならない。その次に「私を見習いなさい」と言って、そののちに相対的な世界を見つめなさい。

御旨の道、人格

7) 予定

予定論では、人が互いに異なる財産と道徳性をもつ理由、生まれた環境と宗教に対する理解が異なる理由に関して説明する。そして、このすべての違いの原因を神様に向けている。全能であられ、すべてのことを支配なさることができ、全知であられ、未来を御覧になることができる神様が、すべてのことを予定しておいたと説明する。誰かが罪人になるということは、神様が彼をそちらに導かれたからであり、信仰の英雄になる人もやはり神様が彼に能力を下さったためにそのようになった。このように、絶対予定論では、一人の人間の永遠の宿命が救援を受けるか、地獄へ行くか、出生以前にすべて予定されているという。今後、生きていく寿命と死亡の日、すべてが既に神様の帳簿に記されているという。

運命の手を信じる人は、人生の諸事件を偶然とは見ない。起きるすべてのことは理由があるものである。明白な機会との出会いも、はるか前に神様の摂理の中で計画されたことかもしれない。突然の死や幸運も、無意味な事件ではなく、神様の摂理によって起きたことである。すべての人間の計画と設計は結実するようになっているので、そこに天のみ旨があるならば、ムスリムたちが言う「インシャラー(神様のみ旨なら)」のように、私達は一日一日を生きていきながら、神様のみ旨を知るためにあらゆる出来事を見つめ、運命の流れに自分を合わせるために常に努力することができる。

そうだとすれば、このような予定論が人間の自由意志とどのように調和を成すことができるだろうか。絶対予定論と関連し、長い間受け継いできた答えは、自由を得ようと絶えず努力するということから、人間の無知を受け入れるということである。永遠にわたって全体を御存じの神様は、既に私達の人生の結果を御存じである。しかし、それを知る道がない私達人間は、依然として最善の努力をして生きなければならない。そして、予定論に対する権威あるいくつかの教理があるが、ここでは人間の自由が運命の側面に影響を及ぼし得るとする。そして、神様を、御自身のみ旨に従って祝福も、苦難も与えることができ、私達に最善の努力をしなさいと制限された自由を下さった方だと説明する。

このような絶対予定論を拒否される文鮮明先生は相対予定論を語られる。神様はすべての人に救援を預言されたが、その運命を実現するための必要条件として人間の責任分担が必要だとされる。

1. 神様の絶対予定

― 宗教経典 ―

私は恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ。

出エジプト記33.19 (キリスト教)

まことにこれは一つの訓戒である。それでだれでも望む者には、かれの主への道をとらしめよ。だが神のおぼしめしがなければ、なんじらは欲しないであろう。まことに神は、全知者・英明者であられる。かれはみ心にかなう者を、慈悲に浴させたまい、また不義者に対しては痛烈な刑を備えたもう。

クルアーン76.29 ~ 31 (イスラーム)

神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、私達は知っています。神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。

ローマの信徒への手紙8.28 ~ 30(キリスト教)

主は行為者、すべてが彼から存在しているがゆえに、人のはかりごとが何の役に立つのか。主が意図された、そのようになるだろう。全能であられる主、妨げる者がいない。行われるすべてのことは目的なく彼の遊戯、遠い所に、また極めて近い所にいる主、主が思いはかろうとのぞき込むあらゆるもの、主は一つであり全体である。

アーディ・グラント、ガウリー・スクマニーM.5、p.279(シーク教)

それだけではなく、リベカが、一人の人、つまり私達の父イサクによって身ごもった場合にも、同じことが言えます。その子供たちがまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、「兄は弟に仕えるであろう」とリベカに告げられました。それは、自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした。「私はヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。では、どういうことになるのか。神に不義があるのか。決してそうではない。神はモーセに、「私は自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」と言っておられます。従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。

ローマの信徒への手紙9.10 ~ 16(キリスト教)

秘められたところで私は造られ、深い地の底で織りなされた。あなたには、私の骨も隠されてはいない。胎児であった私をあなたの目は見ておられた。私の日々はあなたの書にすべて記されている。まだその一日も造られないうちから。

詩編139.15 ~ 16(キリスト教)

常に真実を語り、その言葉が正しいと信じられていたアッラーの御使い、「アッラーよ、彼に祝福と平安を与えたまえ。」は、次のように述べられた。お前たちが創られるおりには、母親の腹の中で40 日間精子が宿り、それから同じ期間凝血となり、ついで同じ期間肉塊となる。その後天使が遣わされて霊を吹き込むが、この天使はさらに四つの仕事をするよう命ぜられている。つまり〔生まれてくる者の〕生業、命の長さ、行為、幸・不幸を書きとめることである。ところで唯一無二の神であるアッラーに誓って言うが、お前たちのある者は、楽園の徒の行為にいそしみ、もう少しで天国というところで、この帳簿に記されたことに災いされ、劫火の徒の行為にふけって地獄に落ちる。だがまたある者は、劫火の徒の行為にふけり、すんでのところで地獄行きというところで、帳簿に記されたことが幸いして、楽園の徒の行為にいそしみ天国に入る。

ナワウィー40 のハディース4(イスラーム)

― み言選集 ―

神様は、人を見るとき、心を見通し、過去を見て、現在を土台に未来を見ます。

(100-93、1978.10.8)

レバレンド・ムーンが生まれるとき、レバレンド・ムーンがこのようになるというある動機があって生まれ、このように育ったでしょうか、生まれてから環境を適当に行ったり来たりしながら元素を吸収してこのようになったでしょうか。もとからすべて決定されていたので、目の上の水平線上(注13)が同じであり……。レバレンド・ムーンがこのようになったのは、中間で自分が願ったからではありません。もとからこのように生じるようになっていたので、このようになったのです。レバレンド・ムーン自身も、その原則によって育ったのであって、原則に逆行して育ったのではありません。

(161-160、1987.2.1)

神は全知であられるから、いかなる人間が復帰摂理の中心人物になり得る条件(本章第3 節)を備えているかを御存じである。そこで神は復帰摂理の目的を成し遂げるために、このように、あらかじめ知っておられる人物を予定して、召命なさるのである。しかし、召命なさる神の責任分担だけでは、彼が義とされて、栄光に浴するところにまで至ることはできない。彼は召命された立場で自分の責任を完遂するとき、初めて義とされることができる。義とされたのちに、初めで神が下さる栄華に浴することができる。それゆえ、神が下さる栄華も人間が責任分担を果たすことによってのみ、受けることができるように予定されるのである。ただ、聖句には人間の責任分担に対するみ言が省略されているために、それらが、ただ、神の絶対的な予定だけでなされるように見えるのである。

原理講論、予定論4

ロマ書9章10 節から13 節には、神が胎中のときからヤコブは愛し、エサウは憎んで、更に長子エサウは、次子ヤコブに仕えるであろうと言われた。エサウとヤコブは腹中にあって、いまだ善とも悪とも、いかなる行動の結果も現すことができなかったにもかかわらず、神はエサウを憎み、ヤコブを愛したという理由はどこにあるのだろうか。

これは復帰摂理路程のプログラムを合わせるためであった。このことに関して詳しくは、後編第1章の「アブラハムの家庭を中心とする復帰摂理」において説明するが、エサウとヤコブを双生児として立たせたのは、彼らを各々、カインとアベルの立場に分立させて、アベルの立場にいるヤコブが、カインの立場にいるエサウを屈伏させることによって、アダムの家庭で、カインがアベルを殺害して達成できなかった長子の嗣業復帰のみ旨を蕩減復帰させるためであった。

したがって、エサウはカインの立場にあるので、神の憎しみを受ける立場におり、反対にヤコブはアベルの立場におり、神の愛を受けられる立場であったから、このように言われたのである。しかし、神が彼らを実際に憎むか愛するかは、あくまでも彼ら自身の責任分担遂行のいかんによって左右される問題だったのである。事実、エサウはヤコブに素直に屈伏したので、憎しみを受ける立場から、ヤコブと同じく愛の祝福を受ける立場へ移ったのである。逆に、いかに愛を受けられる立場に立たせられたヤコブであっても、もし、彼が自分の責任分担を完遂できなかったならば、彼は神の愛を受けることができないのである。

原理講論、予定論4

2. 外見上は偶然のような事件も実際には運命による作用

― 宗教経典 ―

天にいらっしゃる方の御意志に逆らう意図をもたなければ、誰もこの世で自分の指を壊すことはできない。

タルムード、フッリーン7b(ユダヤ教)

あなたが落ちる所で、あなたの神はあなたを押し出す。

イボ族の格言(アフリカ伝統宗教)

神がつくられた秩序を蹂躙した人がひっくり返すことはできない。

アカン族の格言(アフリカ伝統宗教)

アルジュナよ、あなたは本性から生ずる自己の行為に縛られている。あなたが迷妄の故に、その行為を行おうと望まないでも、否応なくそれを行うであろう。主は万物の心の中にある。その幻力(マーヤ)により万物を、からくりに乗せられたもののように回転させつつ。

バガヴァッド・ギーター18.60~61(ヒンドゥー教)

楽正子は〔御殿をさがると〕、孟子にお目にかかって言いわけをしていった。「私が殿様におすすめし、殿様もここへきて先生にお会いになるばかりでしたのに、お気に入りの近臣減倉と申すものが邪魔をしたので、にわかにお取りやめになったのです。まことに残念でなりません。」すると、孟子はいわれた。「いやいや、克よ。〔お前は魯の殿のお出ましもお取りやめも、すべて人間わざとのみ考えているが、〕人が出かけるも、取りやめるのも、みなそうさせるものがあるので、人間の力の及ぶところではない。〔そうさせる目に見えない偉大な力、すなわち天命なるものが働いているので〕わしが魯の殿に遭えないは、天命なのじゃ。減氏の子倅などの力で、どうして遭わせたり遭わせなかったり自由にできようぞ。」

孟子I.B.16(儒教)

「神のおぼしめしなら」と、つけ加えずには、何事でも「私は明日それをする」と、言ってはならない。なんじが忘れたとき、主を念じて、「私の主は、これよりも正しい道に近づくよう、お導き下さいましょう」と言え。

クルアーン18.23 ~ 24(イスラーム)

「今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、商売をして金もうけをしよう」と言う人たち、あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません。むしろ、あなたがたは、「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」と言うべきです。ところが、実際は、誇り高ぶっています。そのような誇りはすべて、悪いことです。

ヤコブの手紙4.13 ~ 16(キリスト教)

生まれた者は、結局死ぬようになっている。死んだ者は再び新しい生を得る。生きている者は、結局審判を受けることを知るようになり、知らされ、聖なるその方、神を知るようになっている。

ミシュナ、アヴォート4.29 (ユダヤ教)

時は、誰の友でもなければ誰の敵でもない。彼の現存在を生じせしめた、彼の前存在における効果が切れた時、彼は人を力ずくで奪い去る。たとえ千本の矢で突き刺されたとしても、人は自分の時が来る前に死ぬことはない。たとえ一枚の葉が一点触れただけでも、人は自分の時が過ぎたならば生きながらえることはない。薬も。呪術の文句も、焼いた供物も、祈りも、死に縛られた者や年老いた者を救うことはない。差し迫った悪は百の警戒によっても避けることはできない。ならば、汝に何の不平を言う理由があるか?

ヴィシュヌ・スムリティ20.43 ~ 46(ヒンドゥー教)

― み言選集 ―

韓国では10 月に主が来ると大騒ぎですが、主がどうして来るのですか。既に主が来て宴を行い、らっぱを吹き、披露宴をすべてしたのに、誰がまた来るというのですか。ですから、「お出まし後にらっぱを吹く(後の祭り)」という韓国のことわざがあるのです。このようなことは偶然ではありません。神様の摂理から見るとき、先生が今やっていることは偶然ではないのです。摂理のプログラムによって世界史的な意味で終結し、越えていく時代になり、今はこのようなすべてのものが終わったので、「天地合徳」という課題を立てることのできる時代が来たのです。

(228-68、1992.3.15)

これが皆さんの家庭のモットーです。きょう先生が語った、復帰歴史は再創造歴史であり、環境の中で主体と対象があり、柑対的対応関係を通して成され、個人は家庭のために、家庭は氏族のために、プラス・マイナス、投入しなければなりません。カイン的立場を救援するために、投入していかなければならないのです。統一教会の個人は家庭のために、家庭は氏族のために投入し、犠牲になりなさいというこのような論理は公式による論理であって、適切に適用させるためのものではありません。公式的な論理だということを知らなければなりません。

(267-154、1995.1.4)

ウルグアイを中心とすれば、アルゼンチンもウルグアイについていけません。スペイン系として一番純血だと思うのです。ブラジル人と結婚しないと大騒ぎです。ウルグアイはそのような自負心をもっています。血統を尊重します。それを見れば、韓国人とちょうど合います。ウルグアイの歴史にも33 人の愛国者がいて……。

100 年前の歴史が韓国の歴史と似ているのです。期間も同じです。月も同じです。それは偶然の出来事ではありません。韓国人は純血を願います。純潔を守ってきました。血筋を守ってきたのです。庶子を人並みに扱いませんでした。そのような歴史は世界にありません。庶子がいて、直系の子女がいました。庶子は人並み扱いしなかったのです。乞食よりもっと冷遇したことを知らなければなりません。それは、なぜそうしたのかというのです。今まで庶子に対してきた神様の悲しみを私達は知らなければならないのです。庶子の立場を求めていく……。庶子が長孫になるという……。

(302-55、1999.5.18)

3. 運命と自由意志の関係

― 宗教経典 ―

ラビ・アキバが言う。「あらゆることはすべて予見される。しかし、選択の自由が与えられる。世は恩寵によって審判される。しかし、審判は世のために奉仕の業績を残した比重によって行われる」。

ミシュナ、アヴォート3.19(ユダヤ教)

どんな災厄も、神の許しなく下ることはない、何人でも神を信仰する者は、その心を導きたもう。まことに神は、よろずのことの熟知者であられる。

クルアーン64.11(イスラーム)

わが下僕らよ、私は不正を私自身に禁じ、お前たちの間でも禁じた。それゆえ互いに不正を働いてはならぬ。わが下僕らよ、私が手ずから導いた者を除いては、すべて迷いの道を行く者である。それゆえ私に導きを求めれば、正しい導きを得られよう。わが下僕らよ、私が自ら養う者を除いてはすべて飢えに悩む者である。それゆえ私に糧を求めれば、糧食を授かるであろう。わが下僕らよ、私が衣服を与える者の他はすべて生まれたままの裸である。それゆえ私に衣服を求めれば、願いはかなえられよう。わが下僕らよ、お前たちは昼も夜も罪を犯すが、私はすべての罪の赦し手。それゆえ私に赦しを求めれば、罪も赦されよう。

ナワウィー40 のハディース24(イスラーム)

すべてのものがあなたによって成就するがゆえに、権能はあなたのもの。将棋盤の上であらゆる馬を動かすように、あなたは自らつくったこの世を見下ろしている。世に生まれたすべてのものは、また旅立たなければならない。すべて行かなければならない。どうして生と死の主人であられる主を忘却しようとするのか。(注15)

アーディ・グラント、アーサー・ディー・ヴァールM.1、p.473 ~ 474 (シーク教)

たとえ主なる神が、人間の意志の自由行為を予見なさることができても、依然として選択の自由は人間たちに残っている。神はすべての時を同時に描き、そして永遠性を通して見つめられるからである。(注16)

ボエティウス哲学の慰め(キリスト教)

― み言選集 ―

神は人間の堕落によって、創造目的を完成することができなかった。したがって、堕落した人間たちに対して摂理される神のみ旨は、あくまでも、この創造目的を復帰することにある。言い換えれば、この「み旨」は、復帰摂理の目的の完成をいうのである。神は唯一であり、永遠であり、不変であり、絶対者であられるので、神の創造目的もやはりそのようにならざるを得ない。したがって、創造目的を再び完成させようとする復帰摂理のみ旨も唯一であり、不変であり、また絶対的でなければならない。

それゆえ、このみ旨に対する予定も、また絶対的であることはいうまでもない(イザヤ46・11)。このように、み旨を絶対的なものとして予定されたのであるから、もしこのみ旨のために立てた人物がそれを完成できなかったときには、神はその代理として、他の人物を立ててでも、最後まで、このみ旨を摂理していかなければならないのである。

その例を挙げれば、アダムを中心として創造目的を完成させようとしたみ旨は達成できなかったが、このみ旨に対する予定は絶対的なので、神はイエスを後のアダムとして降臨させて、彼を中心としてみ旨を復帰させようとされた。そればかりでなく、ユダヤ人の不信によって、このみ旨がまた完成できなかったので(前編第四章第一節(二))、イエスは再臨されてまでも、このみ旨を必ず完遂することを約束なさったのである(マタイ6・27)。

原理講論、予定論1

それでは、神はみ旨成就に対して、どの程度に予定されたのだろうか。既に論じたように、復帰摂理の目的を完成させようとされるみ旨は絶対的であるが、み旨成就は、どこまでも相対的であるので、神がなさる95 パーセントの責任分担に、その中心人物が担当すべき5パーセントの責任分担が加担されて、初めて、完成されるように予定されるのである。ここで、人間の責任分担5パーセントというのは、神の責任分担に比べて、ごく小さいものであるということを表示したものである。

しかし、これが人間自身においては、100 パーセントに該当するということを知らなければならない。これに対する例を挙げれば、アダムとエバを中心としたみ旨成就は、彼らが善悪を知る果を取って食べずに、責任分担を果たすことによって、成し遂げられるように予定されたのであった。

ノアを中心とした復帰摂理も、ノアが箱舟をつくることに忠誠を尽くし、その責任分担を果たすことによってのみ、そのみ旨が完遂されるように予定されたのであった。また、イエスの救いの摂理も、堕落人間が彼をメシヤとして信奉し、責任分担を果たすことによって、初めて、そのみ旨が完成されるように予定されたのであった(ヨハネ3・16)。しかし、人間たちがこれらの小さな責任分担をも全うできなかったがゆえに神の復帰摂理は延長されたのである。

原理講論、予定論2

なされるすべてのことは、人間がいくら主張し、いくら騒いでも、この宇宙の天運が願うとおりに拍子を合わせていくようになっているのです。これを遮ることのできる力がない限り、ここに順応するようになっているのであり、ここに順応する道理に従っていく人たちは、必ずこの宇宙の運勢と共に、脈拍と共に発展していくのです。永遠に存続するでしょう。西洋の人の思いどおりにいくらやっても、思いどおりにならないというのです。

ですから、西洋の人の中で知恵深い人は、宇宙の法度に従ってそこに拍子を合わせようという人です。そのような原則的な道を行こうとする人は、再び延長してアジア、世界の文化圏に残ることができるのです。そのような話が結論になるのです。国やあるいは個人を問わず、滅びようという人がいますか、そのような国がありますか。ありません。そうです。ところが、なぜ滅びるのですか。それは誰が滅びるようにするのですか。それは私がするのではありません。この宇宙がするのです。歴史上にいる人たちは、天運の法度に従って拍子を合わせるので、残ることができ、発展することができると見るのです。誰が英雄になりたくないと思い、聖人になりたくないと思いますか。そのような人は一人もいません。

(94-19 ~ 20、1977.6.19)

8) 恩寵と努力の効果

神様の恩寵と人間の努力の関係は、トマス・アクィナスが言うように共同責任だと言うことができる。人間の努力が恩寵を呼び、その恩寵が再び私達の努力を刺激する。数多くの経典が恩寵を受ける前にまず人間の善行の努力が必要であることを強調する。「天は自らを助ける者を助けくる」、またほかのところでは、神様の恩寵が私達の応答以前にある召命や導きだと説明する。

文鮮明先生の教えによれば、神様の恩寵と権能は、摂理完成の95 パーセントを占有する。残りの5パーセントは人間の責任分担として残しておかれた。ごく小さな部分であるが、残りを人間の責任として残しておくことによって、神様は人間をして創追の偉業を共に行う共同創造者として栄光を享受するよう道を準備してくださった。

しかし、救援摂理歴史を見てみるとき、人間の責任分担の失敗や脱落によって、神様に絶望を抱かせたことが多くあった。神様は、御自身一人で一方的にこの課業を完遂なさることはできない。神様はその責任を果たされると信じることのできる方だが、人間はそうではない。したがって、人間に責任分担を下さったというのは、根本的に神様がこの宇宙の運命を私達の手に任せられたものと見ることができる。

― 宗教経典 ―

求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。

マタイによる福音書7.7(キリスト教)

「道」を学ぶ者は「道」と同一になる。人が徳に達すると、その徳と同一になる、人が徳と同一になると、徳もまたおのずから人と同一になる。人が失うものと同一になると、失うものもまたおのずから人と同一になる。

道徳経(道教)

もしある人が少しでも自らを聖化させれば、彼ははるかに聖化された存在になり、もし彼が世の中で自らを聖化させれば、天の国でも聖化された自らの姿をもつようになり、現在において自らを聖化させる者は、これから到来する世の中で聖化された自らの姿をもつようになるだろう。

タルムード、ヨーマ39a(ユダヤ教)

恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。

ピリピの信徒への手紙2.12 ~ 13(キリスト教)

なんじらのうち、その言を隠してもまた現わして言っても、あるいは夜間に隠れても、また昼間公然と出かけても、(全知者・主においては)同じことである。各人には、前からも後ろからも、次から次に天使がつきまとい、神の命により見守っている。

クルアーン13.10 ~ 11(イスラーム)

私に心を向けていれば、私の恩寵により、すべての苦難を越えるであろう。もし我執により、〔私の教えを〕聞かないならば、あなたは滅亡するであろう。

バガヴァッド・ギーター18.58(ヒンドゥー教)

まことの道を知ろうとならば、正しい行がそのまま道。おのれに求道の心がなければ、暗い夜道に道が見えぬのと同じこと。

六祖壇経2(仏教)

孔子は次のように言う。祐けるとは助けるの意味である。天が助ける相手は天道に従順なる者であり、人が助ける相手は信実な者である。上九の人は信実の徳を履み行ない、天道に従順ならんことを思い、さらにまた下位の賢人を尊ぼうと心がける。さればこそ、「天よりこれを祐く、吉にして利ろしからざるなし」というのである。

易経、周易繋辞上伝1.12.1 (儒教)

神が宣言されるには、私は私の僕がもつ考えの近くにいる。そして、彼が私を回想するたびに、私は彼と共にいよう。彼が自らの中に私を覚えるとき、私も自ら彼を覚えるだろう。彼が会衆の中で私を覚えるとき、私は会衆の中にいる者たちよりも彼を記憶するだろう。彼が一歩の所に近づくとき、私は三乗で彼に近づくだろう。彼が私に向かって歩みだすとき、私は彼に駆け寄るだろう。

ハディース(イスラーム)

神は各自にその果実を取ることができる鍵を下さる。

イボ族の格言(アフリカ伝統宗教)

見よ、私は戸口に立って、たたいている。だれか私の声を聞いて戸を開ける者があれば、私は中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、私と共に食事をするであろう。

ヨハネの黙示録3.20(キリスト教)

運動は下から始まる。そしてすべてのものが完成する。イスラエルの共同体が刺激を与えることができなければ、上にいる彼らも動かないだろう。言い換えれば、下からの熱望が上からの完成をもたらすのである。

ゾハール(ユダヤ教)

そのいっさいの行為は天命と人事の配剤に左右される。両者のうち天命は人知を超える。行動は人事に属する。

マヌ法典7.205 (ヒンドゥー教)

実に祈りは良いものである。しかし、神に求めるとき、人は自ら手を貸してさしあげなければならない。

ヒポクラテス

― み言選集 ―

皆さんは、神様の創造の偉業に加担しなければなりません。もともと人間が堕落していなかったとしても、そのような責任はあるのです。堕落して人間の責任分担が設定されたのではなく、堕落していなかったとしても、人間は責任を負っているというのです。人として完成することのできる神様の95 パーセントの創造理想的形態をみな備えたとしても、自分の5パーセントの責任を完遂しなければなりません。人間自体の完成を神様がさせるのではなく、自分がそこにプラスしで完成しなければならない責任があるのです。堕落していなかったとしてもです。

(115-66、1981.11.4)

生心というのは、神が臨在される霊人体の中心部分をいうのである。霊人体は神からくる生素(陽性)と肉身からくる生力要素(陰性)の二つの要素が授受作用をする中で成長する。

原理講論、創造原理6.3.2

座して自分の身の上を嘆息する、そのようなやり方はいけません。発展できないのです。そこに神様が協助しません。毎日のように新しいものを願うのが神様です。

(327-48、2000.7.24)

神様が95 パーセントを創造し、人間は神様が計画された創造原則に協助して100 パーセント完成することによって、私達人間にも神様がみ旨を完成するところに同参したという価値を下さるのです。

(130-19、1983.12.11)

神はみ旨成就に対して、どの程度に予定されたのだろうか。既に論じたように、復帰摂理の目的を完成させようとされるみ旨は絶対的であるが、み旨成就は、どこまでも相対的であるので、神がなさる95 パーセントの責任分担に、その中心人物が担当すべき5パーセントの責任分担が加担されて、初めて、完成されるように予定されるのである。ここで、人間の責任分担5パーセントというのは、神の責任分担に比べて、ごく小さいものであるということを表示したものである。しかし、これが人間自身においては、100 パーセントに該当するというごとを知らなければならない。

そうして、これらすべての立場において人間が担当した責任分担は、神がその責任分担として担当された苦労と恩賜に比べていかに微小なものかを知ることができる。また摂理における中心人物たちが、彼らの責任分担を全うしなかったがゆえに、復帰摂理を延長させてきたという事実を知るとき、この軽微な責任分担が、人間自身においては、いかに大きく、難しいことであったかが推察できるのである。

原理講論、予定論2

キリストの十字架による救いの恩賜がいくら大きくても、人間自身がその責任分担である信仰を立てなければ、彼らを探し求めてきた救いの摂理は無為に帰せざるを得なくなる。したがって、イエスの十字架による復活の恵沢を与えてくださったのは、神の責任分担であって、それを信じるか、それとも信じないかは、あくまでも、人間自身の責任分担なのである。(ヨハネ3・16、エペソ2・8、ロマ5・1)。

原理講論、創造原理5.2.2

愛という言葉は、必ず対象がいてこそ成立する言葉なので、いくら絶対者だとしても、愛することは一人ではできません。このように、神様も一人では絶対に愛することができないので、必ず愛することができる一つの対象をつくらなければならないのです。それで、その対象として被造万物をつくったのですが、その被造万物は自分の形象をそのまま手本として展開させてつくったのであり、その中で自分の人格を身代わりできる存在として創造的な立場に立てておくために造ったのが人間です。

(39-8 ~ 9、1971.1.9)

神様は今まで復帰途上で息子、娘に責任をもってきました。ですから、これからは必ず私が受けなければなりません。神様が私達を協助するためにそのように責任をもってこられたので、私達が神様の息子になるためには、必ずサタンの攻撃を受けなければならないのです。

(31-50、1970.4.12)

9) 準備と素晴らしい出発

いかなる旅程でも、その出発が良くなければならない。東洋のことわざに「始まりが半分だ(始めさえすれば半分は成就したも同じだ)」という言葉があるが、この主題に対してよく説明してくれている。良い出発とは、第1に、内的な準備がよくできたということである。心情を浄化させ、確固たる決意で自分を武装し、行動に対する自分の哲学と方法論に確信をもたなければならない。その後、その課題に対して調査し、前に置かれた障害物を克服するために十分な資料を収集しなければならない。これはとても実用的な助言でありながら、特に霊的な道を追求する人たちにも適用が可能である。人生を軽んじつまらないものと考える人たちは、最初の出発点よりもはるかに低い位置に転落しやすい。

文鮮明先生は、偉大な人、世の中に変化を起こす人になるためには、準備をよくしなければならないと語られる。目標に焦点を合わせて生きない人生は、ただ何の実績もない人生になる。決意を固め、自己訓練の基盤を準備しない人は、自分の前に置かれた挑戦に敗北しがちである。文先生は、腐敗したこの世の中を救援するために、自ら準備した内容を説明しながら、人生の典型的モデルを見せてくださっている。

1. 挑戦に対する準備

― 宗教経典 ―

君子はそのような、くいちがいから来る訟がおきないように、物事をする場合にその始めを慎重にするべきである。

易経6、周易上経、訟(儒教)

成功は先見と決意の結果であり、先見は自ら秘密を守る深思熟考と計画にかかっている。

ナフジュ・アル・バラーガ語録46(シーア派イスラーム)

木を切る前に斧の刃を見よ。

オンジャク族の格言(アフリカ伝統宗教)

君子は兵器を修め不慮の変事に対して警戒を怠らないようにする。

易経45、周易下経、萃(儒教)

あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、「あの人は建て始めたが、完成することはできなかった」と言うだろう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。

ルカによる福音書14.28 ~ 31(キリスト教)

最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。

エフェソの信徒への手紙6.10、13(キリスト教)

幸福の場を拡大させることを願う者は、その人をして心の底に基礎を築くようにしなければならない。陰隲文(道教)

あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、私達は、朽ちない冠を得るために節制するのです。だから、私としては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。

コリントの信徒への手紙一9.24 ~ 27(キリスト教)

未だ商人の海に入らんと欲して、堅固なる大船舫を造らざるは有らず、堅固なる船によりて怖畏無く、多くの珍宝を獲る彼の岸に到るなり、信心の菩薩も亦是くの如く般若行を離るれば菩提より遠ざからん。若し最上の大智行を修せば、當に無上菩提の果を得べし

仏説佛母宝徳蔵般若波羅蜜経14.7 ~ 8(仏教)

― み言選集 ―

危機を克服するためには、深い信仰と、緻密なる計画と、実践するだけの信念がなければならない。

御旨の道、試験・試練

最近の人々は、すべての生活に対して怠惰になり、組織生活を嫌い、友人関係を嫌い、何かの男女関係までも……。女性なら女性に対する責任感もなく、すべて無責任な人々になってしまいました。そうかといって、何か自分が生きる生活の計画があるのでもなく、一年の計画も、生涯の計画もあるわけではないのです。ただ行き当たりばったりで、自分が好み、自分の利益になるように生きていっています。そのようにしていけばどのようになりますか。どこかに行ってぶつかり、粉々に砕けてしまうのです。

(105-11、1979.7.8)

どのようなことをしようという、そのような「観」がなくてはなりません。20歳になったのであれば、一つの「観」をもって、私は何々をしようと決め、生涯闘っていってこそ、その人は歴史的な人物になるか、何かを残すというのです。人目を気にしながら、環境に適当に拍子を合わせて生きることに神経を使う人は、流れていってしまうのです。はっきりと決めてからは、その目的のためにはいかなる困難があったとしても、闘争していくことのできる勇猛心がなければなりません。「それは嫌だ」ということを言わず、すべてを消化することのできる度胸がなければなりません。

(120-299、1982.10.20)

天がすべての準備をしていても、私達がその準備に応じ、心と体に準備の基盤を備えなければならないことを知っております。

(7-287、1959.10.11)

朝、サタン世界に出ていくときは、目、鼻、耳、すべての細胞、心までも武装し「きょうも無事故で帰ってくることができるようにしてください!」と言わなければなりません。

(122-266、1982.11.21)

人生はたった一度です。ただ道を歩いていて出くわし、なるがままに生きるようになっているものではありません。計画を立てなければなりません。家庭に対する新しい計画を立てなけれはならないのです。

(24-86、1969.7.6)

皆さんの人生において、成功できるかできないかということは、皆さんの決心いかんにかかっているのです。そこには必ず二つの問題があります。……一つは克服と勝利です。克服と勝利が自分の人生全体を決定するのです。それを克服できるのかということです。克服というのは簡単なことではありません。最も難しいことは、空腹と眠りを克服することです。サタンが最も必要とすることが眠ることです。眠りと空腹です。次にはまた何ですか。男女問題です。成功しようとすれば、男女問題を克服しなければなりません。

(265-184、1994.11.21)

皆さんは成功したいと思っています。成功は誰もがしたいと思うのです。成功するためにはどのようにしなければなりませんか。成功できるすべての準備をしなければなりません。準備をしてからどのようにしなければなりませんか。今、旧時代の基盤の上に新しい基盤を築くためには、準備された内容を中心としてその基盤を消化できなければなりません。新しい基盤を凌駕できなければならないのです。そうでなければ、歴史的な新しい基盤が立たないというのが歴史的な宿命的結論です。これは私達の人生や私達の国家が行く道においても、必ずそうです。

このような観点から見るとき、私達統一教会は今、何をしているのでしょうか。困難にぶつかり、迫害を受けていますが、その迫害の中でも、未来のために準備しています。成長しています。今回も、全世界が恐れる2億4000万のアメリカに対して、先生は一人で闘っています。友人もいないのです。アメリカの指導幹部や食口たちは、みなそれを知りません。誰も先生の力になる人がいません。ここで闘うためには、ただ盲目的にしてはいけません。準備をしなければならないのです。徹頭徹尾、準備しなければならないというのです。どのような準備をしなければならないのでしょうか。思想的準備をしなければなりません。精神力において、その人たちに負けてはいけません。絶対に負けてはいけません。その次に、努力において、アメリカの歴史過程で功を立てた人たちと比較して負けてはいけないのです。その次には何かというと、行動、具体的な準備をしなければなりません。

徹頭徹尾な思想をもたなければなりません。その次には努力をしなければなりません。思想をもったからといって、じっとしていてはいけません。その準備された事実の上で無限に努力しなければならないのです。努力するにおいては、自分個人を中心として努力するのではありません。この基盤を凌駕できる母体、その主体性を備えるためには、無限な闘争をしなければなりません。今、既成世代の基盤になっているそのすべてのものが、新しい体制を歓迎するようになっていません。歴史は必ず闘争過程を経なければならないのです。闘争過程において滅びるか栄えるかというのです。

困難があっても、自信をもって貫いていくことができる努力をするのです。いかなる犠牲の代価を払ってでも行くのです。その努力は、消化され得る努力ではなく、消化させることのできる努力です。その次には実践です。実践するにおいて、私達宗教指導者たちが闘争することはできないので、無言で実践するのです。相手の人たちが8時間すれば、私は24 時間するのです。

(133-217 ~ 219、1984.7.19)

2. 第一歩

― 宗教経典 ―

大きな木も小さな若枝から成長する。九重の塔も一つの小さなかたまりからつくられ始める。何千マイル行く旅も足もとから始まるのだ。

道徳経64(道教)

君子の道は、例えて言えば、遠くに行くには、必ず近くからし、高く上るには、必ず低い所からするようなものである。

中庸15(儒教)

― み言選集 ―

ノアは自分の一身を征服し、自分の家庭を征服するために、120 年間闘いました。それは簡単なことではありませんでした。120 年後にこの地を審判するという神様の命令を受けたノアは、「1年が過ぎたから、あと119 年残っているなあ」と言って待ってはいなかったのです。

(19-237、1968.1.15)

1年の勝利を誓うために、その年の元旦にある目標を定めた人がいるとすれば、その1年を推し進めていくためには、360 日以上を克服できる闘志力、あるいは推進力を備えなければなりません。そうでなければ、1年を勝利で飾ることはできないことを私達はよく知っています。このような1年に10 年が加えられ、20 年、あるいは30 年が加えられているのが私達の人生の道です。

(31-31、1970.4.12)

永遠の出発は、自分が死んで始まるのではありません。永遠の出発は、自分がみ旨を知った瞬間から続くのです。ここに一日のうちの瞬間でも、時間の関係において飛躍があったり、どん底が生じれば、永遠は中断されるのです。ですから、私達が生涯の路程を中心として、信仰の道を行くのに、今年行けなければ来年に行き、来年に行けなければ再来年に行き、十代に行けなければ二十代に行き、二十代に行けなければ三十代に行き、三十代に行けなければ四十代に行き、四十代に行けなければ五十代に行きと、このようにしてはいけません。一生をこのように生きていくなら、彼は、一生をみ旨と一つになった一日の生活をもってみることができずに死ぬでしょう。もしそのように生きたなら、その人は天国に行けません。

(37-220、1970.12.27)

10) 不屈の忍耐

ある価値を成就するためには、心からの根気と忍耐が必要である。忍耐とは、単純に近づいてくる運命を待つことではなく、目標を達成するときまで粘り強く自分の道を行くことを意味する。いったん決意をして事を始めれば、その次に放棄はない。時として結果は、完全に最後の瞬間にまでいって、初めて出てくることもあるからである。自分が立てた原則を放棄して近道を行ったり、方向を転換したいと思う誘惑を退ける忍苦の姿勢が必要である。経典のメッセージは、忍耐の徳を多様な隠喩で説明する。地に井戸を掘ることや木に穴を開けること、ゆっくりだが屈せずに岩に落ちて穴を開ける水のようなものに忍苦の努力を比喩する。

文鮮明先生は、神様の忍苦の歳月を語られる。神様は、御自身の子女を解放しようと愛と希望で堕落した子女たちの罪と不服従に耐え、悪と悲しみが点在する数千年を忍耐してこられた方である。したがって、根気と忍耐を語る今、天の息子、娘となっていく過程で私達は、神様の忍苦の努力に似ていかなければならない.苦難に耐え、打ち勝ったヨブの話は、第15 章の11.「試練」で詳細に扱っている。

1. 忍耐、辛抱と我慢

― 宗教経典 ―

疲れても疲れても何度でも行動を起こすべし。なぜならば行動に着手する人間に好運の女神(シュリー)は従うからである。

マヌ法典9.300(ヒンドゥー教)

忍耐は天も説得できる。

タルムード、サンヘドリン105a (ユダヤ教)

繁栄は、常に好運を夢見る者を見捨て、堪え忍ぶ者を恵む。したがって人は常に行動的で注意深くあるべきである。

マツャ・プラーナ221.2 (ヒンドゥー教)

先生が川のほとりでいわれた、「すぎゆくものはこの〔流れの〕ようであろうか。昼も夜も休まない。」

論語9.17(儒教)

漁師や屠殺者や農夫などは、自分の生活のためだけを考えて、寒さや暑さなどの害を忍んでいるのに、衆生を幸せにするために、どうして私は耐えられないのか。

菩提行論4.40 (仏教)

順境には楽しめ、逆境にはこう考えよ。人が未来について無知であるようにと、神はこの両者を併せ造られた、と。

コヘレトの言葉7.14(キリスト教)

なんじら信仰する者よ、忍耐と礼拝によって助けを求めよ。まことに神は、耐え忍ぶ者と共にいましたもう。……われは、恐れと飢え、ならびに財産と生命となんじらの労苦による果実の損失とで、必ずなんじらを試みる。だが耐え忍ぶ者には吉報を伝えよ、災難に会ったとき、「まことに私達は神のもの、かれに、私達は帰るのだ」と言う者。このような者の上にこそ、主からの祝福と恵みは下り、またこれらは、導かれる者である。

クルアーン2.153 ~ 57(イスラーム)

ナナークよ、苦難が来たとき、楽しいことに対する問いは役に立たないのだから、楽しさと苦難とは、与えられたときに必ずもらって着なければならない衣服と同じである。問いただすのは無益なのだから、ただ満足することが最善である。

アーディ・グラント、ヴァール・マージュM.I.p.149(シーク教)

私達は、自制の生活を始めるときにもつべき信念を少しも加減なくもたなければならない。私達は気まぐれな心のうずに巻き込まれてはいけない。

アーヤーランガ・スッタ1.36 ~ 37(ジャイナ教)

40 歳になるときまで全くの無学だったラビ・アカバが、ある日、泉から落ちる水滴が石に穴をつくっているのを目撃した。そして、「水が石をすり減らす」という言葉を聞いた。彼は考えた。「やわらかい水が石に穴をつくることができるとすれば、明らかに固い鉄で覆われたかのような律法の言葉も、忍耐と柔軟な心を同伴すれば無知を崩すことができる」。そして彼はそのときから学業に熱中した。

タルムード、アヴォート・デ=ラッビー・ナータン6(ユダヤ教)

学んでいないことがあれば、学習してできるまでやめない。疑がしいことがあれば、問い正して知るまではやめない。考えていないことがあれば、考えて納得できるまでやめない。弁別できないことがあれば、弁別して明らかになるまではやめない。行なっていないことがあれば、行なって篤実であるまでやめない。他の人が(聡明で)一度でよくできれば、自分はこれを百度もする。他の人が十度でよくできれば、自分は千度もする。この道をよく成し遂げれば、愚かな者でも必ず明知に、柔弱な者でも必ず強くなる。

中庸20(儒教)

主は恵みを与えようとして、あなた達を待ち、それゆえ、主は憐れみを与えようとして、立ち上がられる。まことに、主は正義の神。なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む人は。

イザヤ書30.18 (キリスト教)

障害が私を止めることはできない。すべての障害は、断固たる決心に道を譲る。一つの星座の運勢に固定された人は、自らの心を変えたりしない。

レオナルド・ダ・ヴィンチ、手稿(ヒューマニズム)

― み言選集 ―

「忍」という漢字を見ると、忍耐するという言葉は、「心」に「刃」を立てることです。大きな荷物を背負って大きなことをしようとすれば、忍耐することが何百、何千、何万、何百万と無限でなければなりません。

(124-155.156、1983.2.6)

東洋で「忍耐」するという言葉は、「心」に「刃」を剌しても忍耐するという意味です。「心」に「刃」を刺せば、どれほど痛いでしょうか。しかし、1000回忍耐する人は、1000 回の闘いで勝つことができるという希望をもてます。

(93-320、1977.6.12)

これを訪ね求めていくところでは、無数の怨讐たちが妨げるでしょう。しかし、彼らと闘い、また闘わなければならず、進んでまた進み、ぶつかってまたぶつかります。そして、忍耐の祭壇を自分の肩で支え、足で支え、手で支え、体で支え、頭で支え、忍耐の峠を越える覚悟をした生きた祭物にならなければなりません。

(6-92、1959.3.29 (注18))

苦い薬を飲んでも喜べば生き返るのです。苦い薬は、その苦い味だけがあるのではありません。苦い昧のあとには……。苦い薬を飲んでみてください。本当の味を味わってください。苦い昧を本当に味わってみれば、そのあとには甘い味があることが分かるようになります。

苦い薬を飲んでみると香りがあります。芳しい味が必ずあるのです。皆さん、熊の胆嚢を知っているでしょう。熊の胆嚢を食べてみると、最初は苦いのですが、あとから甘い味がするのです。それと同じように、苦い味よりも、その甘い味と芳しい味が分かるようになるとき、苦い薬も丸ごと、そのまま飲み込むことができるのです。ですから、完全な人は、苦い味の中に隠れている甘い味と芳しい味を味わうことのできる人です。このような人が味の分かる人です。すべてのものは上がったり下がったり、授け受けするのが道理です。甘ければ苦く、苦ければ甘く、このようになっています。

(98-205.206、1978.8.1)

先生は、いくら疲れたときでも、やらなければならない責任を思えば、そのすべての疲れが一時に吹っ飛んでしまう。

御旨の道、責任感

長く忍耐する道が宗教の道であり、長く忍耐し犠牲になるのが宗教の道です。忍耐と犠牲によって取り戻された偉大な愛の世界のために、神様を信じていくのです。これは間違いない事実です。神様は愛だと言うとき、その背後には犠牲が宿っていて、忍耐が宿っている事実を皆さんは知らなければなりません。

(112-51、1981.3.29)

善の側はどのようなものでしょうか。長く待ち、長く忍耐し、長く希望をもとうとするのが善の側だということを知らなければなりません。悪の側はそれがありません。自分が不利であれば拳が行き、すぐに行動するのです。神様は善神ですか、悪神ですか。神様は善神です。サタンは悪神ですか、善神ですか。悪神です。「イーブル・ゴッド」や「グッド・ゴッド」というのは誰が決めるのですか。何をもって決めるのですか。それを知らなければなりません。

苦難の中でもひたすら忍耐し、悔しくても忍耐するのです。忍耐するだけでなく、もちこたえなければなりません。そうしながら、絶望ではなく、希望をもっていかなければならないのです。それは誰のためですか。その人のためです。神様のためにするのです。自分のためではありません。それを忍耐できないようにしようとするその人のために、もちこたえることができないようにしようとするその人のために、絶望的なその人のために、そのようなことをしなければなりません。

(93-112、1977.3.21)

イエス様が死んで勝利したその秘訣は何ですか。忍耐していく道、ために生きる原則を立てたからです。ゲッセマネの園で、「父よ、できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください。なぜそのようにされないのですか」と言っていれば、すべて失ってしまっていたでしょう。しかし、「私の思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」、そのように言ったので、忍耐して越えていったので、勝利したのです。それが素晴らしいことです。

(76-227、1975.5.21)

世の中のいかなる拷問も刑罰も、私の天の道を挫折させることはできませんでした。今まで6回にわたる監獄生活も、子女を捜し求める真の父母の道を遮ることはできませんでした。冷たい監房に座って、軒先から落ちる雨だれを眺めながら、「あの水滴がいつかは岩に穴を開けるように、私の目から落ちるこの熱い涙が、必ず恨で凍りついた神様の心を溶かして解放、釈放するその日が来る」と決意して誓う、そのように生きた男の生涯でした。

(447-168、2004.5.1)

神様は、サタン世界と地獄世界まで抱くことができ、またそこでも忍耐し、もちこたえることのできる心があるので、地獄にいるサタンまでもその前では頭を下げるのです。ですから、皆さんが最後の勝利者、最後の父の息子、娘になろうと願うとすれば、皆さんは、神様の忍耐を皆さんの忍耐として、神様の我慢を皆さんの我慢として、皆さんの心と体で感じることができる人にならなければなりません。

(4-243、1958.5.18)

父がそのようにされるので、息子、娘の私達もそのようにして、父がそのような道を行かれるので、私達もそのような運命の道を行かなければなりません。ですから、私達は、この途上でへこたれることなく、不撓不屈の心情をもち、最後の勝利者として決定するようにしてください。「もう勝利した」と言うことのできる安息の一日、あなた達は私のものであり、この天下は私の息子、娘であるあなた達のものだと祝福を受けるその一日まで、忍耐し、我慢し、生き残る群れとなるようにしてください。その日を迎えるまで、苦難に同参する群れとなるよう、許諾してくださることを懇切にお願い申し上げます。

(13-236、1964.3.22)

2. 決して放棄してはいけない、最後まで耐えなさい

― 宗教経典 ―

聖書は、任務を始める者にではなく、任務を完遂した者の功績をたたえる。

タルムード、ソーター13b (ユダヤ教)

最後まで耐え忍ぶ者は救われる。

マルコによる福音書13.13 (キリスト教)

ロトの妻は後ろを振り向いたので、塩の柱になった。

創世記19.26 (キリスト教)

たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。

ガラテヤの信徒への手紙6.9 (キリスト教)

あなたは大きな川を渡った。どうしてあなたは川辺でぐずぐずしているのか。カウタマよ、急いで彼岸に着かなければならない。常に注意せよ!

ウッタラッジャーヤー10.34 (ジャイナ教)

孟子がいわれた。「何事でも、やりとげなくては駄目だ。たとえていえば、井戸を掘るようなものだ。九靱の深さまで掘り下げても、水源に到達しないで途中で止めてしまったら、その井戸を棄ててしまったのと同じだ。」

孟子V11.A.29 (儒教)

樹木の芯を求めて林に入った者が、枝や葉を得て芯を得たように思うならば、まことに愚かなことである。ややもすると、人は、木の芯を求めるのが目的でありながら、木の外皮や内皮、または木の肉を得て芯を得たように思う。

人の身の上に迫る生と老と病と死と、愁い、悲しみ、苦しみ、悩みを離れたいと望んで道を求める。これが芯である。それが、わずかな尊敬と名誉とを得て満足して心がおごり、自分をほめて他をそしるのは、枝葉を得ただけにすぎないのに芯を得たと思うようなものである。また、自分のわずかな努力に慢心して、望んだものを得たように思い、満足して心が高ぶり、自分をほめて他をそしるのは、木の外皮を得て芯を得たと思うようなものである。

また、自分の心がいくら静まり安定を得たとして、それに満足して心が高ぶり、自分をほめて他をそしるのは、木の内皮を得て芯を得たと思うようなものである。また、いくらかのものを明らかに見る力を得て、これに眼がくらんで心が高ぶり、自分をほめて他をそしるのは、木の肉を得たと思うようなものである。これらのものはみなすべて、気がゆるんで怠り、ふたたび苦しみを招くに至るであろう。

阿含経中部i.192 ~ 195 (仏教)

曾子がいった、「士人はおおらかで強くなければならない。任務は重くて道は違い。仁をおのれの任務とする、なんと重いじゃないか。死ぬまでやめない、なんと遠いじゃないか。」

論語8.7(儒教)

― み言選集 ―

聖書(マタイ24・1-14)のみ言の中に、終わりの日の徴候に関するみ言がありました。終わりの日には、信仰を中心として生きていくことが難しいという事実が、ここに記録されています。したがって、この混乱期を克服し、勝利者になろうとすれば、最後まで忍耐して我慢する人にならなければなりません。

(4-237, 1958.5.18)

どこまで忍耐しなければならないのかというと、最後まで忍耐しなければなりません。ですから、神様は、6000 年間忍耐してこられた方です。その方が誰だというのですか。私達のお父様です。私達は、そのお父様の天稟と血肉を受け継いだので、そのお父様のようにならなければなりません。

(44-28、1971.5.4)

信仰生活は、一朝一タにするものではありません。それは一生の間……。信仰生活の中で、私か死んでも永遠を中心として信仰していく道において、私がその志操を守らなければならないということが問題になっているのです。一つの中心となる骨子がなければなりません。永遠に信じていくべき道なので、永遠にそれを否定できない私というものを発見しなければなりません。

(59-234.235、1972.7.23)

皆さんに忍耐があると言いますが、その忍耐が歴史的な忍耐の終着点とは遠い距離にあることを悟るでしょう。今日、私達の教会と因縁をもった人たちが、疲れて進めないと言います。統一教会はいいが、困難で進めないという話を聞きます。そのような話をする人は、地を中心として見れば幸福な人かもしれませんが、天を見ればかわいそうな人です。やはり進むことが難しいのです。

行く道は涙の道です。見て泣き、感じて泣き、闘いながら泣く涙の道です。涙が止まる時間がこの時だと思っていたら、違うのです。涙がさらに連続しなければならない、すなわちさらに忍耐の涙を待ち望まれる天の心情があることを知り、天が哀れな姿の私達を待っていることを知るようになるとき、私が忍耐したという、その事実も天の前に面目がないのです。先生は、解放以降今日まできましたが、いまだに私の忍耐の限界を考えてみたことがありません。また、終わることを望みもしませんでした。終わることを望むその時間から自分のことを見るようになり、その時間から恐れを感じるようになることを、皆さんは信仰生活で感じてみなければなりません。

(6-89、1959.3.29)

神様は、一度決めれば、億千万年がたっても変わらずに行わざるを得ない方です。しかし、皆さんの心を見れば、一日に何度も変わります。朝には「このようにしなければならない」と決心して、夜になると「ああ……」と言うのです。修錬を受けるとき、み言を聞くとき、「そのようにしなければならない」と決心しますが、帰れば、何日もたたずに社会とぶつかるようになるとともに、すべて流れてしまいます。神様は、一度決心すれば、それを何千年でも問題とし、永遠に大切にすることができる方です。歩みながらあちこちふらふらすることはありません。私達が、今は「私はみ旨のために行く」と言いますが、今年の末、あるいは3年後、あるいは10 年、20 年、生涯そのように行きますか。これが下がっていきやすいというのです。そして、行くときは、「私がよければ行くし、悪ければ行けない」、このように言います。

真というものは、私が死のうと生きようと真です。それは死の上に存在できるものであり、変わらない不変の位置に立っているのです。ですから、そのような私、死の上にあるそれを所有できる私になるためには、死を克服しなければならず、変わらない真を模索せざるを得ません。それは当然のことです。言い換えれば、変わるものと変わらないものははっきりと違います。

これらがぶつかれば、変わるものは砕けていきますが、変わらないものはそっくりそのまま残るのです。死と生がぶつかるのです。その時、死を克服して生に残らなければなりません。そのような過程を越えてこそ、神様と関係を結べるというのは決まった道理です。このような内容を考えてみるとき、真が私達の前に現れることのできる時はいつかというのです。それは、変わるものと変わらないものが現れる時です。次には、死と生がここに現れる時です。そして二つが対決する時です。

(66-43.44、1973.3.18)

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