世界経典 Ⅱ

第8章

宗教

この章の目次

1) 宗教の目的

すべての宗教には、強調する部分にそれぞれ多少の違いはあるが、ある共通目的がある。西洋の宗教で、万宗教の主な目的は救援にある。「religion (宗教)」の語源は、神様と「再び結ぶ」という意味のラテン語に由来する。

人間は堕落によって故障したため、神様が故障した所を修理し、根本的な善に復帰させ、神様と再び関係を結ぶようにするための方便として宗教を立てた。これとは対照的に、東洋で宗教の意味は、漢字に表れた意味のように、「根本的教え」と理解される。これは、宗教が善の品性と徳性を育てる究極的教えであることを意味する。

文鮮明先生は、宗教の二つの意味、すなわち堕落した人間は、罪の問題を解決しなければ、究極的に徳性を育てられず、神様に再び結ばれない点を認める。

先生は、宗教の妥当性の側面から二種類の宗教に区別する。第一に、原罪を清算し、神様と完全な関係を回復させてくれるメシヤを迎えることを目的とする摂理的な宗教(ユダヤ教、キリスト教)と、第二に、徳行の修練を主要目的とする一般的宗教がそれである。神様の国は、このような二種類の宗教の土台の上に定着することができるだろう。

宗教は、共同体を育てる社会的目的ももつ。宗教は、人々が平和と調和の中で生きることができるよう、愛の方法と和解に関して教える。これを拡大すれば、宗教の究極的目的は、平和世界を具現することである。神様は創造主としてすべての人類の父母であるため、宗教は私達を神様に導き、父母の愛を中心とする普遍的兄弟愛と姉妹愛を感じられるようにする。

1. 救援の道を提示する宗教

― 宗教経典 ―

「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」

使徒言行録16.30 ~ 31(キリスト教)

全身全霊で彼にのみ庇護を求めよ。アルジュナよ。彼の恩寵により、あなたは最高の寂静、永遠の境地に達するであろう。

バガヴァッド・ギーター18.62 (ヒンドゥー教)

まことに神のみもとの教えは、イスラームである。経典を授けられた人びとが……それゆえもしかれらが、なんじと論争するならば言え、「私も私に従う者も、真心こめて神に服従帰依し奉る」。また経典を授っている人びとならびに無知の者たちに、「あなたがたも帰依するか」と言え。もしかれらが帰依すれば、たしかに導かれる者である。

クルアーン3.19 ~ 20(イスラーム)

人々は恐怖にかられて、山々、林、園、樹木、霊樹など多くのものにたよろうとする。しかしこれは安らかなよりどころではない。これは最上のよりどころではない。それらのよりどころによってはあらゆる苦悩から免れることはできない。さとれる者(=仏)と真理のことわり(=法)と聖者の集い(=僧)とに帰依する人は、正しい智慧をもって、四つの尊い真理を見る。――すなわち①苦しみと、②苦しみの成り立ちと、③苦しみの超克と、④苦しみの終滅におもむく八つの尊い道(八聖道)とを(見る)――これは安らかなよりどころである。これは最上のよりどころである。このよりどころにたよってあらゆる苦悩から免れる。

法句経188 ~ 192 (仏教)

一つは利得に達する道であり、他の一つは安らぎにいたる道である。ブッダの弟子である修行僧はこのことわりを知って、栄誉を喜ぶな。孤独の境地にはげめ。

法句経75(仏教)

― み言選集 ―

私達の社会に道徳観念や宗教生活、道義的な観念というものがなぜなければならず、なぜそのような道を行かなければならないのかというと、私達が過ったために、それを再び本然に合わせるためです。

(205-8、1990.7.15)

人間の本心がいかに善を指向して努力するとしても、既に悪主権の上におかれているこの世界においては、その善の実相を見ることができなくなってしまっているので、人間は時空を超越した世界に、その善の主体を探し求めなければならなくなった。このような必然的な要求によって誕生したのが、すなわち宗教なのである。

このように、堕落によって神様を失ってしまった人間は、宗教をつくり、絶えず善を探し求めて、神に近づこうとしてきたので、たとえ宗教を奉じてきた個人、民族、あるいは国家は滅亡したとしても、宗教それ自体は今日に至るまで、絶えることなく継続してそのまま残ってきたのである。

原理講論、人類歴史の終末論2.3

結局は、人間が堕落したためにこのようになったことを知らなければなりません。しかし、堕落した息子、娘を見て、父母であられる神様はただじっとしていることはできないのです。人間が故障したラジオのようになったので、これを再び直すためには、修理工場を造らなければなりません。

人類歴史の過程において、人間を救うための修理工場を造られた痕跡があれば、神様はいないとは言えないのです。その修理工場とは何かというと、宗教です。宗教は、文化と歴史的背景が異なり、氏族と氏族関係によって異なるものを全世界的に糾合し、目をつくり、鼻をつくり、手をつくり、足をつくる工場をだんだんと広げていき、神様がいらっしゃる所に追い立ててこなければなりません。

(54-102、1972.3.20)

神様が力をもってするのならば、何の問題もなく、すぐに全人類を救えます。神様にはいかなる宗教も必要ありません。ところが、なぜ神様に宗教が必要なのですか。神様が自然屈服させようとするそこに、自然と頭を下げるのです。そのようになれば、神様がセンターになり、すべてのものを治めるようになります。それが神様の作戦です。

(207-21、1990.10.21)

宗教を信じるのは、本来のお父様と本然の国を再び復帰するためです。宗教という言葉は、人間だけを中心とした言葉ではありません。神様、すなわち神様を母体とした最高の教えが宗教です。神様と関係を結び、神意に従って生きる方式を身につける過程があるのです。

したがって、聖人は、天意に従わなければならず、天情を紹介しなければなりません。真の宗教は、神様に対して教えてあげなければなりません。真の宗教は、漠然とした神様を紹介するのではなく、神様に対する認識をはっきりと強固に植えつけてあげられなければなりません。

世の中と妥協する宗教は、高次的な宗教だと言うことはできません。そのような宗教は、結局は衰退してしまうようになります。真の宗教は、人が神様を正しく求め、神人が一体を成す本然の世界に帰っていくことを教えなければなりません。宗教を信じるのは、罪のない世界、神様と本然の関係を結んだ理想世界を求めていくためです。

神様が求めていらっしゃるのは、宗教界ではなく理想世界です。理想のない宗教界は滅びます。宗教の目的は、宗教自体の教理を通した世界ではなく、神様の理想を通した世界です。ここにおいて問題となるのが創造理想です。神様が創造なさったので、創造理想を糾明するのはとても重要なことです。

(404-299 ~ 300、2003.2.6)

ここではどのような教団も、

どのような集団も、どのような教派も

問題ではないことを知っていますので、

お父様が認めることのできる

(私達の)内的な心情、

お父様のお心を体得することのできる

切実な心情をもっていくことが

真理の要点であり、

真理のすべてであるということを

私達が分かるよう

許諾してくださいますことを、

お父様、切にお願い申し上げます。

(4-236、1958.5.18)

2. 善良な性稟を育てる宗敎

― 宗教経典 ―

みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。

ヤコブ書1.27 (キリスト教)

神に己れの真心を尽くして服従帰依し、善い行いにいそしむ者は、主のみもとから報奨を賜わる。かれらには恐れもなく憂いもないであろう。

クルアーン2.112 (イスラーム)

実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。その恵みは、私達が不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、私達の救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。キリストが私達のために御自身を献げられたのは、私達をあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。

テトスへの手紙2.11 ~ 14 (キリスト教)

慈悲のモスク、真実の祈りのマットを、正直のクルアーンをつくり、正当な富を起こせ。謙遜があなたの割礼となるようにし、正しい行為があなたのラマダンの断食となるようにせよ。これによってあなたは真のムスリムになるだろう。

善行があなたのカアバとなるようにし、真理があなたの師となるようにし、高潔な徳行をあなたのカリマとし、日々のナマズとせよ。神を楽しませることであなたの念珠となるようにせよ。最後の審判の日に栄光があるだろう。

アーデイ・グラント、ヴァール・マージュ、M.1、p.140(シーク教)

人生で最も避けるべきことは動揺(優柔不断)することと軽率であることだ。最も貴重なものは敬虔な心だ。したがって、我々儒者は、心の誠実さを保とうと努力することであり、敬虔さを最も必需的なものと見なすのである。誠実さと敬虔さは、我々を天地と神と霊魂を結んでぐれることは言うまでもない。しかし、それらの案内者として仏教を採択した、また他の部類の人たちがいる。

彼らは、仏陀に拝み、仏陀の経典を暗唱し、常に敬虔さと畏敬心を保ちながら努力を傾ける。彼らは決して心越しに注意深く守る警戒を解くことはせず、次第に純粋で明るくなり、悪の思いから自由になり、善を行う用意ができるだろう。この悟りは、彼らの最も幸福な地と呼ばれる。

その時、必需的なことは、仏教の人たちがあなたを信じることができないようにする動揺(優柔不断さ)と軽率さを、儒教の人たちのように避けているということである。敬虔さと畏敬心によって節制された心を常に維持せよ。でなければ、仏教経典の暗唱や儒家の談論を何に用いるのか。

陰騭文 (道敎)

― み言選集 ―

宗教という文字はこのように不思議な文字ですが、このような文字は初めて見るでしょう? その意味とは何かというと、家で言えば板の間のような教えが宗教だというのです。

(92-309、1977.4.24)

教会とは、何をする所でしょうか。人格を形成し、人格を育てる所です。堕落したので、教会が必要です。家庭と社会で終わるのではありません。人格を復帰するにおいては、そのままでは復帰できません。大学を卒業して何かの博士の学位を受けたからといって、それで人格が復帰されるのではありません。ですから、教会が必要だというのです。

(25-126、1969.9.30)

人間の堕落によって、今日、愛は根本的に自己中心的になってしまいました。このような自己中心的な愛は、精神から来るものではなく、肉体を中心にしています。肉体は、サタンが活動する所です。肉体は、サタンの舞踏場であり、停泊地です。精神は、神様が住まわれる所、すなわち主体の位置になります。

しかし、精神の対象の位置にあるべき肉体がもう一つの主体になろうと努力しながら継続して精神を誘惑し、だましています。人間の生活で、このような関係を修正することは、とても重要です。ですから神様は、堕落した人間を蕩減復帰しようと、宗教を立てられました。

神様は宗教を通して、神様中心の精神を強化する方法、生活と人格に対する肉体の支配を逆転させる方法を人々に教えていらっしゃいます。宗教がしばしば断食、犠牲的奉仕、従順で謙遜な態度等を要求する理由は、正にこのようなところに由来しています。これは、肉体の勢力を減少させ、肉体をして精神に服従するようにさせる方法です。信仰生活を通して肉体中心的生活習慣から抜け出て、新たに精神中心的な生活方式を作り出すまでには、普通3年ないし5年はかかります。

また、「絶えず祈りなさい」という聖書のみ言があります。これもまた、とても重要なみ言です。なぜならば、サタンは堕落した世界を支配しているからです。サタンは、一日24 時間、あらゆる方向から堕落した人間を誘惑し、苦しめています。反面、神様はただ一つの方向から、すなわち精神の垂直的方向からのみ、力を及ぼすことができます。

(201-208 ~ 209、1990.4.9)

水に溺れた人を救ったということは、溺れる前の状態に戻すことなので、人間の愛の理想を中心として、神様が理想としていたそのみ旨を成し遂げることができなかったのですから、人間自体には宗教が絶対的に必要です。愛の理想を求めていくことを願うのならば、必ず宗教が必要だという結論が出てきます。

(112-298、1981.4.25)

そこが、私達人間が訪ねるべき本郷です。今日、私達は堕落した人生として、本郷から追放された人間になったために、本郷の地に向かって帰るべき運命にあるのです。しかしそこへは、その人間自体としては入ることができないために、神様は、人間が入ることができる道を歴史過程に設定せざるを得ません。それで、その民族の文化背景、風習、あるいは伝統が異なることによって、数多くの宗教を立てて収拾していきました。

そのように収拾するための訓練場として立てたのが宗教です。ですから宗教は、本郷の地に入ることができる資格者を錬磨させる訓練場です。東西、四方の文化背景によって、高い所に前進することができる一つの統一された宗教世界に導いてきています。

そのような本郷の所へ導くべき宗教であるために、宗教は何を教えているのでしょうか。「ため」に生きなさいということを教えていると言わざるを得ません。そして、高次的な宗教であるほど、「ため」に生きるべきだという原則を強調しなければならず、「温柔謙遜であれ」と言うのです。数多くの人を高め、彼らのために生きる立場に立てというのです。「犠牲奉仕せよ」と教えるのです。なぜでしょうか。神の国の法度に合わせる訓練をしなければならないからです。

(78-117 ~ 118、1975.5.6)

3. 宇宙的共同体を促進する宗教

― 宗教経典 ―

そこではもはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。

ガラテヤの信徒への手紙3.28(キリスト教)

信者たちは兄弟である、それでなんじらは、ふたりの兄弟の間を融和せよ、そして神を畏れまつれ、おそらくなんじらは慈悲にあずかるであろう。

クルアーン49.10 (イスラーム)

イスラエルは、すべてが一つの兄弟意識で連結されるとき、初めて天と出会うことができる。

タルムード、ムナホート27a(ユダヤ教)

見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。かぐわしい油が頭に注がれ、ひげに滴り衣の襟に垂れるアロンのひげに滴り、ヘルモンにおく露のように、シオンの山々に滴り落ちる。シオンで、主は布告された、祝福と、とこしえの命を。

詩編133 (キリスト教)

つどいが和合しているのは楽しい。和合している人々がいそしむのは楽しい。

法句経194 (仏教)

仏教の究極的な目的、そして他の異なる宗教の究極的な目的は、人々の益に寄与することである。

テンジン・ギャツォ、第14 代ダライ・ラマ(仏教)

― み言選集 ―

今日までの人類歴史を回顧してみるとき、いかなる文明もその根本支柱は精神です。時代と時代を越え、世紀と世紀を経ながら、歴史の中で中心を失わず、連綿と受け継がれてきた精神的な支柱の立場にあるのが宗教です。

何かの主義や思想ではありません。仏教を見てください。儒教を見てください。キリスト教を見てください。これらはすべて時代が変わっても、その創設者の精神を受け継ぎ、変わらずに終わりの日に成される目的世界に向かって進んでいるので

す。

(9-277、1960.6.12)

神様は愛と真理を人間たちに伝え、人間を救済しようと宗教を立てました。一定の時代と地域によって様々な宗教を立てました。例えば、2400 年前にインドに仏教を立て、中国に儒教を立て、2000 年前にユダヤにキリスト教を立てました。したがって、絶対的価値観は、神様を信奉する宗教を通してこそ立てられるという論理が成立するようになります。すなわち、宗教を基盤としない人の思想や哲学では、今日の混乱を収拾できる方案を立てるのが難しいのです。

これを言い換えれば、人類を混乱から救出するのは、ただ神様を中心とする宗教によってのみ可能だということです。歴史を振り返るとき、儒教、仏教、キリスト教、イスラームなどは、各々一定の時代と一定の地域において、社会的不安と混乱を一掃し、平和と安全の土台の上に輝かしい文化を花咲かせてきました。

(122-300、1982.11.26)

宗教の中の真の宗教はどのような宗教でしょうか。神様を中心とした父子の関係を結ぶようにさせ、さらには兄弟の関係を結ぶようにさせ、神様を中心として兄弟の家庭を成そうとする、そのような真理の内容を備えた宗教です。そのような宗教が神様の立てられた偉大な宗教であり、人間が主張する最高の宗教だという結論を下せます。

(91-225、1977.2.20)

あの世に行けば、他の国の人同士は一緒にいられませんが、すべての宗教圏は一緒にとどまることができるのです。宗教圏は、一つの世界を願って歩み、一つの神を信じて行くので一緒にとどまることができるのです。

宗教を信じる人々がこの世の人々と違うこととは何かといえば、彼らは一生の間霊界を標準として生活するという点です。宗教というものは、永遠の世界、超然とした世界の内容を中心として、神様なら神様がいらっしゃるところと神様が住んでいらっしゃるところを中心として、私達が関係を結べる内容を教えてくれるのです。

(297-271、1998.12.19)

彼らはたとえ皮膚の色が違い、生活環境が違ったとしましても、み旨に対しては一つの血筋で因縁づけられた兄弟ですので、彼らが集まる所ごとにあなたが共にいてくださり、恩賜の炎で抱いてくださいますことを懇切にお願い申し上げます。

(10-150、1960.9.25)

全宗教の究極的目標は、神様のみ旨である平和理想世界を成すこと、ただそれだけです。宗教は、教団内の自体救援や個人救援を考える前に、世界救援という神様のみ旨を心配しなければなりません。

(135-221、1985.11.16)

2) 真理に至る多様な道

多様な諸経典を見れば、諸宗教が真理の要素を含んでいるが、信仰を共有してはいないことが分かる。あらゆる真の宗教は同一の神様に仕えている。クルアーン(コーラン)はユダヤ教と同じ神様に仕え、キリスト教徒たちはムハンマドの「アッラー」と同じ神様に仕える聖書に従う人々であることを自認している。シーク教の経典は、ムスリムどヒンドゥー教徒が同一の神様に仕えていることを確認する。神道の経典は、神道の最高神は本質的に夫婦と同一だと記述している。

さらに、様々な経典は、個別の宗教が同一の最高目標に至る一つの道であることを確認する。これはあたかも多くの川が大きな海へと流れ込んでいくのと同じであり、頂上に至る多くの登山道があるのと同じことである。世界の諸宗教は、多様な文化の追求、習慣、環境によって人間性を高揚させ、それらの道はそれぞれ異なって始まったが、より近くなりながら、最後の一つの道へと融合している。このような脈絡から文鮮明先生は、神様が偉大な宗教の創始者たちに、彼らが生きた時代と文化に適合したメッセージを与え、彼らを呼んで立てたと言う。文鮮明先生の教えによれば、偉大な宗教の創始者たちは、人類が究極的目的に向かって前進できるよう、神様の摂理的な経綸によってこの地上に送られた真の引導者だったというのである。

確かにすべての宗教は自分の道が最高であり最上だと考える。聖書でイエスは「私は道であり、真理であり、命である。だれでも私によらないでは、父のみもとに行くことはできない」と言う。コーランは、かつての啓示に対する正確で唯一の証言が正にコーランであり、ユダヤ教の律法とキリスト教の福音は腐敗と加筆に染まっていると言う。しかし、私達はより高い神様の知恵の前に謙遜でなければならない。群盲が象に触れる例えで見るように、各宗教の道は全体を見ることができないまま、真理に接していることも分からない。文鮮明先生は、人間の霊的発展過程でそれぞれ異なる時代に様々な宗教が現れたので、宗教ごとに水準が異なると見る。しかし、宗教開における違いのために、各宗教が共通にもっている核心真理が分かれてはいけない。宗教者たちは、宗教の違いを寛大に認め、共通点を発見できなければならない。

1. 同一の神様を崇拝し、その方の偉大なみ旨に仕えるすべての宗教

― 宗教経典 ―

ヒンドゥーとムスリムは同じ一つの神に仕えるのだから、一介のイスラーム律法学者や教主に何かできるというのだろうか。

グル・グラント、バイロ一、p.1158 (シーク教)

日の出る所から日の入る所まで、諸国の間でわが名はあがめられ、至るところでわが名のために香がたかれ、清い献げ物がささげられている。わが名は諸国の間であがめられているからだ、と万軍の主は言われる。

マラキ書1.11 (キリスト教)

信仰をそなえ、他の神格を供養する(祀る)信者たちも、〔正しい〕教今によってではないが、実は私を供養するのである。何故なら、私はすべての祭祀の享受者であり、主宰者であるから。

バガヴァッド・ギーター923~24(ヒンドゥー教)

まことにわれは、導きと光明のある律法を、モーゼに下した。それで神に服従帰依する諸予言者は、これによってユダヤ人を、さばいた。聖職者たちや律法学者たちには、神の経典の守護が託され、それによっており、かれらはその証人でもあった。それゆえ人びとを恐れず、ただ私を恐れよ、わずかな代価で、私のしるしを売ってはならぬ。もし神が下したもうたものによらず、裁判するならば、かれらは不信者である。

われはかれらの足跡を踏ませて、マリヤの子イエスをつかわし、かれ以前に下した、律法の中にあるものを確証するために、導きと光明のある、福音をかれに授けた。これはかれ以前に下した律法の確証であり、また主を畏れる者への導きであり訓戒である。それで福音の信者をして、神がその中に示したまえるものによって、さばかしめよ。

およそ神が下したまえるものによらずして、さばく者、これらの者は違犯者である。われは真理によって、なんじに経典を下した。それ以前にある経典を確証し、それを守るためである。それで神が下したまえるものによって、かれらの間をさばけ、なんじに賜わった真理にもとづき、かれらの私欲に従ってはならぬ。

われは、なんじらそれぞれのために、一つの教律と公明な道とを定めた。もし神のみ心なら、なんじらをあげて一つの教団になされたであろう。しかし、これをされなかったのはかれがなんじらに賜わったものによって、なんじらを試みたもうためである。それゆえ相競って善行に励め。なんじらはこぞって、神に帰るのである。そのときかれは、なんじらが論争していたことについて、告げたもう。

クルアーン5.44 ~ 48(イスラム)

ここは神々の地である。民はそれらを敬うべきである。私は毘盧遮那如来であるから、私の民は仏陀の法に帰依すべきである。

聖武天皇におりた天照大神のお告げ(神道)

人種や宗教が何であろうとも、世界の人々は、一つの天の源から霊感を受けた一つの神の民であるということに何らの疑いもない。彼らの守っている掟の間の相違は、それが啓示された時代の種々の要求や緊急度によって起こるのである。人間の我欲の結果から起こるいくつかの例外を除けば、それらは全て神の定め給うたものであり、神の意志と目的の反映である。

バハオラ落穂集111(バハイ教)

それぞれ異なる所から流れてくる

あらゆる川が海でその水が混ざるように、

おお、主よ、様々な聖賢たちを通して

人々が選ぶ様々な川が

たとえ見た目は異なるように見えても

狭き道に見えたり、

まっすぐな道に見えるとしても

すべてがあなたに通じています。

サンスクリット賛歌(ヒンドゥー教)

人々がいかなる方法で私に帰依しても、私はそれに応じて彼らを愛する。人々はすべて私の道に従う。

バガヴァッド・ギーター4.11(ヒンドゥー教)

まことにコラーンを信ずる者、ならびにユダヤ人、サービ教徒、キリスト教徒で、神と終末の日を信じて、善い行いにいそしむ者には、恐れもなく憂いもないであろう。

クルアーン5.69 (イスラーム)

これから訪れる世に属した異教徒の中にも義人はいる。

トセフタ、サンヘドリン13.2(ユダヤ教)

そこで、ペテロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。

使徒言行録10.34 ~ 35(キリスト教)

またなんじは、信仰する者と感情上最も近いのは、「私達はキリスト教徒だ」と、言う者であることを知るであろう。これはかれらの間に、司祭者と奥義の修道士がいて、かれらが高慢でないためである。

み使いに下されたものをかれらが聞くとき、なんじらは、かれらが認めた真理のために、目に涙があふれるのを見よう。かれらは言う「主よ、私達は信仰します。私達を証人のうちに書きとめて下さい」。

クルアーン5.82 ~ 83(イスラーム)

他のすべての宗教も、人間の心性の不安を除去しようと努力している。宗教ごとにそれぞれ提示する道があり、それらも生に対する教えと規律、儀礼を紹介している。カトリック教会は、これらの中の神聖さと真なるものに対し、いかなるものも否定しない。

それらが教える概念と教え、人生の道と行動規律に心から敬意を表する。たとえ私達が勧める道と多くの面で異なるとしても、それらもやはり様々な万民を明るく照らす真理の光を反射していることを認める。

第ニバチカン公会議、キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言(キリスト教)

― み言選集 ―

宗教で信じる神様は、その名前が様々であり、その表現が異なるが、その宗教で信奉する中心存在は一つの神様に帰一されていると見るのです。

(140-11、1986.2.12)

それでは、皆さんも知っている四大聖人はどのような人たちですか。宗主たちでした。宗教を中心とする教主たちでした。例を挙げてみると、イエス様もそのような人であり、釈迦牟尼もそのような人であり、孔子様もそのような人であり、ムハンマドもそのような人です。

どうしてこのような人たちが、人類の案内人として信仰の対象になったのでしょうか。「その人の言葉を絶対に信じなければならない」というのです。異議がありません。なぜそうでなければならないのですか。案内人だからです。

頂上に向かって前進するそこにおいて、たった一人の道案内人、彼はある宗派に責任をもって頂上に向かって上がっていくのです。第1の峰から最高の峰まであるとき、第1の峰に上がっていけば、また違う道と連結させます。このように次元を変えながら、最高の頂上に向かって前進していくのです。

神様は東側の一つの道だけ行くのではありません。それでは西側にいる人が帰ることができないからです。ですから、このような立場で東洋の宗教や西洋の宗教、南方の宗教、北方の宗教など、世界的な地域を考えてこのような宗教を立て、このように主流の最も高い峰に向かって上がっていく方向を示しながら、その間にいる大勢の民族を吸収し、統一の世界に前進していかなければならないのです。

(81-181 ~ 182、1975.12.28)

神様がいなければ、私達統一教会は必要ありません。四大聖人はすべて神様を中心とする人たちですが、聖人たちの頂上とは何ですか。聖人自体ですか、神様ですか。神様です。イエス様も聖人ですが、その上は神様であり、釈迦牟尼もムハンマドも孔子も、その上は神様です。神様を知らない人は聖人と言うことはできません。神様を抜いては聖人という言葉をもつ人はいないのです。

聖人自体が、聖人が教えることとは何ですか。その聖人たちが主張することとは何ですか。善い世界をつくろうと言いましたか。幸福や正義、善というものを中心として、より世界的に拡大させようと主張した群れたちが聖人なのです。歴史的に見れば、それを千年、万年継続しようと主張した人が聖人です。そうです。ですから、何千年前の聖人たちの教えに、今も従っていこうとするのです。

(130-146 ~ 147、1984.1.8)

今日、この地上にはたくさんの宗教があります。人類が分散しているので、これを収拾しようとするので、自然と各民族に合う宗教が必要です。各自、歴史と環境、文化の背景と風俗、習慣が異なるので、このような様々な形態を一つの目的として収拾するためには、数多くの宗派がなければならないのです。

例えば、川を見ると、上流にはたくさんの支流があります。このたくさんの支流が下っていけば下っていくほど、互いに合流しながらその数がだんだんと減り、結局は、一つの川になって大海に入っていきます。同じように、数多くの宗教も一つの幹になりながら、最後には神様を中心にお迎えし、神様の愛を占領する所に一つになり、どどまるようになるのです。

(23-127、1969.5.18)

宗教というものは何かというと、神様の愛の世界を求めていくための訓練道場です。そこで一段階、一段階高まり、本然の位置まで引っ張っていく使命を分担されたのが世界的宗教だというのです。

(87-177、1976.6.2)

今日、私達が生きているこの世界は、善を中心とする世界ではなく、悪主権内の支配を受ける堕落した世界なので、この世界には、神様と、善神と関係を結ぶことができないように障害が横たわっているのです。

この障害をかき分けるにおいて、人間が中間の役割をしなければならないようになっているので、善神は悪の世界を善の世界にするための運動を、歴史過程を通し、宗教の背景を中心として世界的に発展させてきた事実を知らなければなりません。

世界は民族文化の背景が異なり、習慣と風習が異なりますが、そこに合う宗教の版図を広げていき、地域的な版図から世界的な版図へ宗教を形成してきたのです。今この世界には4大宗教文化圏がありまず。キリスト教文化圏、イスラーム文化圏、インド教文化圏、極東の儒仏仙の三道を中心とする文化圏があるのです。このような宗教版図をして、今日悪の世界にいる人たちを善の世界に転換させることをしています。

それでは、神様がいるとすれば、神様にも希望があるはずですが、その神様の希望とは何でしょうか。宗教を中心として、様々な宗教を残すのではなく、必ず一つの宗教形態を世界的な舞台に展開させたいというのが神様のみ旨に違いありません。これは誰もが考えることです。考えだけでなく、神様御自身に私達が尋ねてみたとしても、この世界に神様の真のみ旨を代表した一つの宗教がなければならないと答えざるを得ません。

(113-313、1981.5.10)

お父様!

私達それぞれに、

あなたのみ手を経なかった者の

いないことを(私達は)知りましたし、

いかなる国であっても、あなたの願いの中で、

今まで導きを受けなかった国の

ないことを知るようになりました。

さらには、

万民をあなたが理想とされた

本然の世界に導くために、

国境を越えに越えながら、

現時点までお父様が

御指導してきてくださったことを、

私達はよく知っています。

(76-86 ~ 87、1975.2.1)

2. 個別的違いの背後にある普遍的なもの

― 宗教経典 ―

そのとき、ある群れの弟子たちが釈迦に近づいて言った。「師よ、ここ舎衛城の街には、絶えず論争することを好むあらゆる遊行者や論師たちが暮らしています。ある人が言うには、世界は永遠で無限なものだと言い、またある人は、世界とは有限で永遠ではないと言います。ある人は、肉身の死と共に霊魂も消滅すると言い、またある人は、肉身が滅んだあとも霊魂は永遠に存在するという話をします。師よ、彼らに対してあなたは何と言われますか」。

釈迦は答えた。「昔、ある王がいたが、ある日、臣下に命じた。『舎衛城に住んでいるすべての盲人たちを一箇所に呼び集めよ。……そして、すぐに象の所へ連れて行ってやれ』、臣下が王の命を受け、この盲人たちを象の元に連れて行き、手を引いて盲人に示した。中には、足を触る者、尾を持つ者、尾の根本を持つ者、腹を触る者、脇腹を触る者、背を触る者、耳を触る者、頭を触る者、牙を触る者、鼻を触る者がいた。盲人たちがそれぞれ象の各部を触ったあと、王が彼らに近づいて尋ねた。『盲人たちよ、象がどのような動物か言ってみよ』。

すると頭を触った者はこう答えた。『象は鉢のようです』。象の耳を観察した者は、『象は箕のようだ』と言った。象の牙を触った者は、『犂(すき)の歯』と言い、象の鼻をつかんだ者は『犂』と言った。そして象の体を感じた盲人は、『象は納屋』と言い、足を触った者は『柱石』と言い、背中に触れた者は『しっくい』と言い、尻尾の毛に触れた者は『筆』と言った。

そして、王の前で『王様、象とは私が言っているものです』と再び言い争いを始めた。ちょうどそれと同じであり、外道に属する遊行者たちは、目がなく前を見ることができず、真の意味を知ることができず……真実はこうだと言い張り、互いに論争に従事している」。そのとき釈迦は、次のようにウダーナを歌われ、その真意を示された。おお、婆羅門、沙門と自ら称する者たち、彼らはどれほど執着し争うのか!それぞれの見解に貪着するために彼らが互いに争うので、そのような群れは物事の一つの側面ばかりを見でいる。

ウダーナ68 ~ 69、盲人と象の寓話(仏教)

何人かのインド人が展示用に象を連れてきて、暗い家に入れた。群衆がその獣を見るために暗い所に入っていた。目で見ることができないことを知り、見物人たちは暗闇の中で、一人ずつ手で獣を触った。

一人の手が象の鼻に触れた。「この生物は水柱のようだ」と彼は言った。また他の人の手は象の耳に触れた。その人にはその獣がフライパンのように思えた。また他の人は象の足に触れた。「私は象の形が柱のようだと思う」と彼は言った。また他の人は象の背中に触れた。「この象は王座のような形だ」と彼は言った。

感覚の目は手の平と同じだ。手の平は獣全体を覆うすべをもっていない。海の目は一つであり、泡はまた異なる。泡は流れていくままにしておき、海の目で凝視せよ。昼夜泡のかけらが海で砕ける。驚くべきことではないか。あなた達は、海ではなく泡を注視する。私達は互いに衝突するボートと同じだ。私達の目は暗かったが、きれいな水にいる。

ジャラールッディーン・ルーミー精神的マスナヴィー3、1259 ~ 1272(イスラーム)

あるムスリムとあるユダヤ人が争っていた。ムスリムが言うには、「その方は、この世でムハンマドを選ばれた」と言うと、ユダヤ人が「その方はこの世でモーセを選ばれた」と言い返した。するとムスリムが手を挙げてユダヤ人の顔をたたいた。そのユダヤ人が預言者(ムハンマド)のところに行き、彼とムスリムの間で起きた経緯を告げると、預言者がムスリムを呼び、そのことについて尋ねた。

ムスリムが語ると預言者が言った。「私をモーセの優位に置いてはならない。なぜなら、人類は復活の日にすべて意識を失い、私も彼らと共に意識を失うだろう。私は最初に目覚め、権力の座のそばにいるモーセを見るだろう。私は、彼が私より先に意識を失って目覚めた者の中の一人なのか、神が例外とされた者の中の一人なのか分からない……預言者の間に差をつくるべきではない」。

ブハーリーおよびムスリム・ハディース(イスラーム)

ある人たちは主に「ラマ」と叫び、ある人たちは「トゥダ」と叫ぶ。ある人たちは彼を「コサイン」として、ある人たちは「アッラー」として敬拝する。彼は土台の中の土台であり、惜しみなく与える者であり、情に深ぐ慈悲深い者だ。

ヒンドゥーは彼を得ようと聖なる水で沐浴し、イスラームはメッカを巡礼する。ヒンドゥーはプーチャを行い、他の者たちはマナーズに頭を下げて拝む。ベーダを朗誦する者たちがおり、他の者たち(キリスト教徒、ユダ教徒、ムスリム)はセム族の経典を唱える。

ある人たちは青い法服を着て、ある人たちは白い法服を着て、ある人たちは自らをムスリムと称し、またある人たちは自らをヒンドゥーと称する。ある人たちはバヒシャット(ムスリムの天国)を熱望し、ある人たちはスワーガ(ヒンドゥーの天国)を渇望する。ナナークが言うに、主のみ意を実現する者は誰でも主の秘密を知るだろう!

アーディ・グラント、ラームカリー、M.5、p.885(シーク教)

ゴタミドよ、何の教えであれ、あなたはこのように確信できるだろう。「この教義こそ、心の落ち着きではなく焦燥、執着から抜け出すのではなく執着に捕らわれること、世俗的なものの減少ではなく増加、倹約ではなく貪欲、満足ではなく不満足、孤独ではなく友人と過ごすこと、元気旺盛ではなく鈍いこと、善なることを喜ぶのではなく悪なることを喜ぶようにするものだ」。

ゴタミドよ、このような教えに対して、このように確信できるだろう。「これは正しい規準ではない。これは修行ではない。これは師の教えではない」。しかし、何の教えであれ、あなたはこのように確信できるだろう。「この教義こそ、心の焦燥ではなく落ち着きに至るようになり……落ち着きではなく焦燥、悪なることを喜ぶのではなく、善なることを喜ぶようになるだろう」。このような教えに対してこのように確信できるだろう。「これは正しい規準だ。これは正しい修行だ。これは師の伝言だ」。

律蔵2.10 (仏教)

― み言選集 ―

あらゆる文化で宗教は中心核でなければならず、共義の標準でなければなりませんでした。各宗教は、自分自身の伝統を絶えず守ってきたことに対して誇りをもっています。各自は、自分の宗教をほかのあらゆる宗教よりも優秀な宗教だと考えます。しかし、宗教的な教えは宇宙的な要素をもっているだけでなく、その教えは神様から来たものです。

(234-222、1992.8.20)

残念なことに、今日に至って、宗教は種類の如何を問わず、混乱を収拾できる機能と人間の精神を指導できる能力を喪失してしまいました。今日の宗教は、徐々にその生命を失いつつあり、信仰はだんだんとより形式化しつつあります。

人類は今、宗教からだんだんと関心が遠くなりつつあり、熱い火のように燃え上がるべき信仰の本然の姿勢は、少数の例を除けば、徐々に消えていきつつあります。これは実に重大な事態だと言わざるを得ません。なぜかというと、人類の精神を善導すべき宗教がその機能を完全に喪失したとき、世界は無法天地と化し、人類はあらゆる暴力と乱行と殺戮の海の中へと落ちてしまうからです。

実際に、今日そのような現象が起き始めているのであり、共産主義の策略によって加速化しています。これを一言で、宗数的価値観の崩壊現象と表現できます。それでは、その崩壊の原因とは何でしょうか。それは、第1に、科学技術の発達と経済成長などにより、人間の精神が物質主義に流れているからです。第2に、共産主義をはじめとする各種の無神論と唯物論思想が急速、かつ広範囲に蔓延しつつあるからです。

第3に、政治分裂の流れのもとで、国家の教育政策において宗教を教育科目から排除することによって、幼い時から無神論の思想を注入するという結果をつくりだしているからです。第4に、共産主義者たちが赤化工作のために、残された価値観さえも意図的に破壊する戦略を用いているからです。第5に、宗数的価値観を理論的に守護する確固たる本体論が欠如しているからです。

(122-300 ~ 301、1982.11.25)

人間たちが生きるにおいて、世の中では平面的に生きるので、外から見れば宗教はすべて同じに見えます。しかし、宗教の背後を調べてみると、復帰摂理をしてくる神様の摂理で見るとき僕の僕の宗教圏があり、僕の宗教圏がありそして、養子、庶子、直系の子女、母の宗教、父の宗教を経てきたのです。このような話が成立します。

そうだとすれば、宗教のその内容は何でしょうか。内容はすべて同じです。神様を愛しなさいということ、神様を絶対主人として侍りなさいということですが、その内容はすべて同じです。大同小異です。ですから、宗教の内容を見ても、その段階を区別することはできません。内容はすべて似ているのです。だからといって宗教はすべて同じと見るのでしょうか。そうではないのです。摂理の時代を見れば、復帰摂理は終わりの日を通して成し遂げられます。始めから終わりの日が近づけば近づくほど、宗教の目的が成し遂げられる時代が来るのです。

(143-75 ~ 76、1990.12.9)

善悪というものは、思いの中で決定されるものではありません。善悪というものは生活圏内で決定されます。天国と地獄は、皆さんの観念の世界で決定されるのではなく、生活舞台で決定されるのです。これは重要なことです。

(40-294 ~ 295、1971.2.7)

3) 寬容、宗教的自由、そして宗教一致

寛容は「ほかの信仰をもった人にどのように対するか」から始まる。非信仰者と信仰者を同じ関心をもって対するよう教える経典の章句を、ここに集めた。宗数的論争や数理的葛藤は非難されるべきである。それらは、時として敬虔に偽装された利己主義の衝動を受け、自分の信仰に合わないものに敵対心を表す。

これを拡大すれば。政府は宗教の自由を認定し、信仰の問題に強制性をもってはならない。多くの人々が宗教の自由を現代民主主義の唯一の特徴として認識しているが、これは十字軍戦争、宗教裁判、30 年戦争などなど、戦争の残酷性で点綴された長い期間の宗数的偏狭から胎動したものである。一部の文明には宗数的寛容の時期があった。寛容な仏教信者だったアショーカ王(紀元前3世紀)治下のインド、ムガール帝国の啓蒙皇帝アクバル(16 世紀)、アル・アンダルス(ムスリム治下のスペイン、10 世紀)、そして中国の宋王朝時代(10 ~13 世紀)などがそれである。それにもかかわらず、宗教の自由が地球的価値として確固たる位置を定めたのは、民主主義が確立されてからであった。

文鮮明先生は、神様の摂理の中で最も苦労して成就した勝利の一つが宗教の自由を確立したことだと指摘した。宗教間の和解と連帯は、宗教の寛容と宗教の自由を越えたより高いビジョンだ。人類が世界の様々な宗教とより親密になり、宗教指導者たちが対話を通して、紛争と過去の偏見をなくそうと努力した結果、このような現代的ビジョンが胎動したのである。バハイ教は、以前から宗教間の一致を主張してきた。

ユダヤ人の大虐殺の恐怖を経たのち、キリスト教徒とユダヤ教徒の関係が変化しながら反ユダヤ主義的要素が宿っているキリスト数の教理に対し、広範囲な再評価が履行された。しかし、1990年代後半まで、世俗主義の傾向や宗数的偏狭が、いつしか宗教を過去の遺物として残すようになるという見解が支配的だった、しかし今日、それは時代とかけ離れた見解である。宗数的極端主義とテロリズムが急速に広がり、人類は世界平和の具現のために宗教間の協力が必須の前提条件であることを深く覚醒するようになった。しかし、文鮮明先生は、宗教の一致が神様の摂理の主要な目標の中の一つであるという信念のもと、50年以上、少しも誇示することなく、黙々とその目標を実現するために尽力してきた。

1. 他の宗教者に対する寛容

― 宗教経典 ―

自らの教義をたたえながら、他の人たちの教義を見下す者たちは、どんな問題も解決できない。

スーヤガダンガ1.1.50(ジャイナ教)

また最善(の言い方)でなく、経典の民と議論してはならぬ。

クルアーン29.46 (イスラーム)

異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。

ペテロの手紙一2.12 (キリスト教)

我々の師はこのように教えられた。「イスラエルの貧しい者だけでなく、異教徒の貧しい者たちも助けなさい。イスラエルの病人だけでなく、異教徒の病人も訪ねていきなさい。イスラエル人の死体だけでなく、異教徒の死体も一緒に埋めてあげなさい。平和の名によって」

タルムード、ギッティーン61a (ユダヤ教)

カパティカが尋ねた。「賢者はどのように真理を顕示しますか」。仏陀が答えた。「ある人が信仰をもったとき、もし彼が『これは私の信仰だ』と言えば、そのときまで彼は真理を顕示するだろう。しかし、それだけでは『ただこれだけが真理であり、それ以外はすべて偽り』という絶対的な結論に到達することはできない」。

阿合経中部2.176 (仏教)

いろいろな花から蜜を集める蜂のように、知恵のある者はいろいろな経典からその精髄を受け入れ、あらゆる宗教からただ長所だけを見る。

シュリーマッド・バーガヴァタム11.3(ヒンドゥー教)

まるで聖書に根拠を置いているかのように、主なる神がユダヤ人を捨てて呪われたと語るのは正しいことではない。神のみ言を伝え、教理問答を行うにおいて、彼らは福音とキリストの聖霊の真理に反することを教えることはない。さらにすべての人に対する迫害に反対する立場にあるカトリック教会は、ユダヤ人と同じ先祖の伝統を継承しているごとを認める。政治的理由ではない福音の霊的愛に基づき、私達はいつどこで行われるユダヤ人に対する憎悪と迫害、反ユダヤ主義の表現に対し非難するものである。

第二バチカン公会議、キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言(キリスト教)

― み言選集 ―

真の父母の理想と世界平和の理想は直結しています。すべての国家と民族と文化と宗教が互いに100 パーセント以上ために生き、寛容にしながら和合することによって、世界平和を成し遂げなければなりません。

(205-159、1990.8.16)

神様は、何かの教理で生活する方ではなく、宗教儀式や形式に縛られた方でもありません。神様は生きている霊的な存在であり宇宙の創造者です。宗教は、全人類に対して正しい教えの手本とならなければなりません。神様が同じ宗教内の争議による教派間の闘争や他宗教間の闘争を御覧になるとき、神様の心情は最も痛むのです。

私は、二つの一致化運動として、ニューエラ(New Era)と神様会議を創設し、これらを通してキリスト教内の教派間はもちろん、他宗教開の調和と統一に対する可能性と必要性を試みてみた結果、このような調和と統一は、忍耐と犠牲、そして真の愛の貴重な結実として実現されることを確認するようになりました。

そして、各宗教間の真摯な対話と調和を実現することで、地上に神様のみ旨を促進させ世界平和を実現するために、私は、「世界宗教議会」と「世界宗教連合」を設立しましたが、現在このような機構は、停滞した宗教界に奇跡を起こしています。

そして、私は、人種紛争および宗教戦争を防いで、神様の名のもとの理想的平和世界を立てることに積極的に寄与する青少年の機構を設立しましたが、「世界青少年会議」と「青少年宗教奉仕団」がそれです。私は、このようなすべての機構を通して、宗教界に新しい代案を提示しています。

(167-99、1987.6.30)

一つになるための運動をする人たちが、すべての宗教に対して一つになることができる努力をしなければなりません。道があるとすれば、教理上ですべてのことを解き、説得できる能力があるか、そうでなければ忍耐力があり、寛容心をもってその宗教と一つになるために譲歩していくか、二つの道しかないというのです。

(103-126、1979.2.18)

宗教を中心として見てみるとき、世界が必要とする宗教は、どのような宗教ですか。より平和を提示することができる宗教です。そのような宗教になるには、自分を重要視して、また自分を中心にする所有観念や所有欲をもっていては不可能です。そうしていては、歴史時代に自分たちの祖国を中心として、自分の民族を中心とする主体的な観念に支配された、そのような形態を抜け出ることはできません。

これを脱しようとして、「自分を犠牲にしなさい! 自分を犠牲にしなければならない」と言うのです。そして、自己の利益を追求する世界の歴史についていくようになるときは、戦争の歴史自体から抜け出せません。それを知っている天は、「自分を犠牲にせよ! 自分を否定せよ!」と言ったのです。また、自分が主体の位置にいたとしても、主体の自己利益を追求するのではなく、相対の利益を追求できる道を選びなさいと言ったのです。それで、犠牲を強調し、奉仕を強調し、自分自身を否定する道を求めていくのが宗教の道だということです。

(172-143 ~ 144、1988.1.10)

神様は世界を救おうとするのであって、長老派(プレスビテリアン)なら長老派、監理教(メソジスト)なら監理教、聖潔派なら聖潔派、それ一つだけを救おうとはしません。長老派ばかりを中心とする神様になることはできないのです。世界のために生きる神様です。教会が真になろうとすれば、「世界のために犠牲になりなさい」というのです。世界を生かすためには、その教会が滅ぶようになるとしても犠牲にならなければなりません。これが原則です。そのようにしてこそ、神様のみ旨が成し遂げられるのですが、教会を中心として世界を審判しながら、「私達でなければならない」と否定し、「私達のために生きなさい」と言いながら、自分を絶対視する教会は滅びます。

(69-87、1973.10.20)

神様がこの時代を経綸するために願われる宗教は、「父母の立場にある宗教」です。父母の心情を抱いて生きる宗教を要求されるのです。私は、真の父母思想を教育し、各自がその伝統に似た真の父母になりなさいと教えています。まず家庭において真の父母となり、氏族における真の父母である氏族的メシヤの使命を果たすように指導しています。真の父母の心情を抱いた教会人、真の父母の心情を実践する宗教となってこそ、葛藤と憎悪と罪悪の世界において神様のみ旨を実現することができるのです。

他の宗教や教派を軽蔑し、敵対視する宗教は、世界平和の実現にも、神様の摂理にも有用ではありません。天運は調和した平和世界を指向します。ところが、現実はどうですか。冷戦時代が終息しながらも、いまだに克服すべき対決と紛争の素地があまりに多いのです。人種間の紛争、宗教間の葛藤などの根本を解決し、人類一兄弟、世界一家族の和合時代を成し遂げなければならない課題は、真の父母主義を通してこそ可能です。

(260-128 ~ 129、1994.5.1)

2. 宗教の自由

― 宗教経典 ―

なんじは人びとを、しいて信者にしようとするのか。神の許しがなければ、何人も信仰にはいることはできないのである。

クルアーン10.99 ~ 100(イスラーム)

宗教には強制があってはならぬ。まさに正しい道は迷誤から明らかに分別される。

クルアーン2.256 (イスラーム)

ところが、民衆全体から尊敬されている律法の教師で、ファリサイ派に属するガマリエルという人が、議場に立って、使徒たちをしばらく外に出すように命じ、それから、議員たちにこう言った。

「イスラエルの人たち、あの者たちの取り扱いは慎重にしなさい。以前にもテウダが、自分を何か偉い者のように言って立ち上がり、その数四百人くらいの男が彼に従ったことがあった。彼は殺され、従っていた者は皆散らされて、跡形もなくなった。その後、住民登録の時、ガリラヤのユダが立ち上がり、民衆を率いて反乱を起こしたが、彼も滅び、つき従った者も皆、ちりぢりにさせられた。

そこで今、申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。」

使徒言行録5.34 ~ 39(キリスト教)

神の預言者がメディナに到着したとき、そこにいたユダヤ人と条約を結んだ。「パニ・アウプ族のユダヤ人は、ムスリム信者と一つの共同体である。ユダヤ人は自らの宗教を実践し、ムスリムは彼らの宗教を実践する。なぜなら彼らは彼ら自身の富、財産、人々だからである。抑圧を行ったり犯罪を行ったりする者は例外である」。

ハディース(イスラーム)

連邦議会は、宗教の護持にかかわる法律、宗教の自由な活動を禁じる法律、言論または出版の自由を制約する法律、国民が平穏に集会する権利を制約する法律、国民が苦痛の救済を政府に請願する権利を制約する法律の、いずれをも作ってはならない。

アメリカ合衆国憲法、補正第1 条

すべて人は、思想、良心及び宗教の自由に対する権利を有する。この権利は、宗教又は信念を変更する自由並びに単独で又は他の者と共同して、公的に又は私的に布教、行事、礼拝及び儀式によって宗教又は信念を表明する自由を含む。

世界人権宣言第18 条

盲目的な忠誠であれ、あるいは友好的な視角から自分の宗派を示そうとする意図であれ、自分の宗派をたたえながら他の人の宗派を見下す者は、誰でも自分の宗派に相当する害を被る。他の人たちの教えに耳を傾け尊重することによって、和合することが最善である。すべての宗派の信徒たちが徳を学び、教えなければならないというのが皇帝の願いである。

アショーカ石柱勅令12(仏教)

霊魂は真実なものに見えるものだけを受け入れることができ、心は善なるものに見えるものだけを愛することができる。強要は気の弱い人なら偽善者を、勇敢な人なら殉教者をつくるだろう。気の弱い人であれ勇敢な人であれ、彼は迫害の不当さを感じて憤慨するだろう。教授、説得、そして折り、これが宗教の拡張のための方法である。憎悪、憤慨、軽蔑を刺激する方法は敬虔になりえない。

ドニ・ディドロ(ヒューマニズム)

― み言選集 ―

神様が準備されるもう一つのことは、メシヤが降臨できる環境を造成しなければならないということです。……イエス様が十字架にはりつけになったのは、当時の制度下では避けることのできない事情だったといえます。これをよく御存じの神様は、メシヤが再び来る再臨の時に何よりも必要なのは、人をむやみに捕まえて葬り去ることができない政治制度だということです。

このために、2000 年間汗を流して準備された制度が、正に今日の民主主義です。民主主義は人権を尊重する制度です。民主主義は、少数派も多数派の中に入り込んで生き残れる制度です。民主主義は、とりもなおさず自由を保証する制度です。その自由が正に言論の自由であり、宗教の自由であり、結社の自由であり、出版の自由であり、集会の自由です。その民主主義のアメリカの憲法を見れば、自由の中の最も絶対的な自由が宗教の自由であり、アメリカの議会と政府は宗教を規制できるいかなる法もつくれないようになっています。

(100-246、1978.10.19)

イエス以後2000 年間の霊的な復帰摂理によって、彼が働き得る社会を造成するために、民主主義時代をつくっておかれたからである。イエスは、初臨のときには、ユダヤ教の反逆者であると見なされて亡くなられたのであったが、彼が再臨なさる民主主義社会においては、たとえ、彼が異端者として追われることがあるとしても、それによって死の立場にまで追いこまれるようなことはないのである。

原理講論、モーセとイエスを中心とする復帰摂理3.3.2

私が神様に感謝することは、人類歴史上、最も困難な時期に私を宗教の自由守護のための指導者として、アメリカの霊的覚醒運動に点火する道具として使っていらっしゃるということです。

(133-213、1984.7,19)

3. 宗教共同体と宗教間の紐帯

― 宗教経典 ―

私には、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊も私の声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。

ヨハネによる福音書10.16 (キリスト教)

私の家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。

イザヤ書56.7 (キリスト教)

私は、ずっと以前に、すべての宗教は真であり、またその中に何らかの誤りをもっていると結論を下しました。私は、私自身の宗教を固く守りますが、それにもかかわらず他の宗教をヒンドゥー教のように尊重しなければならないでしょう。

したがって、もし私達がヒンドゥー教徒であれば、キリスト教徒はヒンドゥー教徒にならなければならないと祈ってはいけません。……私達の最も内密な祈りは、ヒンドゥー教徒はより立派なヒンドゥー教徒になり、ムスリムはより立派なムスリムになり、キリスト教徒はより立派なキリスト教徒になるべきだという祈りです。

モハンダス・カラムチャンド・ガンディー(ヒンドゥー教)

根本的に世界のすべての主要な宗教は、同一のメッセージを伝える。したがって、多様な宗教の調和は重要であり、また必須的だ。各伝統は、異なる性向と精神体系をもつ人たちに適合した価値をもつ。便利な意思伝達が発達したこの世代に私達は相互の宗教伝統を学ばうとさらに努力しなければならない。

これは私達がすべての宗教を一つにしなければならないということを意味していない。私達は多様な宗教の共通目的を認めなければならず、各宗教が内的進展のために蓄積してきた多様な技法を尊重しなければならない。

テンジン・ギャツォ、第14 代ダライ・ラマ(仏教)

カトリック教会は、天の子女たちのために勧告の教えをもっている。教会は慎重と愛情を込め、異なる宗教の信仰者たちと、対話と協力を通して、またキリスト信仰と生の証人として他宗教の社会文化の価値と彼らの道徳的、霊的善を認め、保存し、奨励するものである。

第ニバチカン公会議、キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言(キリスト教)

神の宗教の本質的な目的は人類を統一することだ。聖なる顕現が連帯と愛の媒体の始祖、彼らは、不和、紛争、憎悪をつくろうとこの世に来られたのではなかった。神の宗教は愛の動機や、もし憎悪と殺戮の原因になるようにつくられたのなら、その不在が存在することよりもよいだろう。なぜなら、その後、それは人間の世界に凶悪で害となり妨害となるものだからである。

この華々しい世紀に私達の義務は、聖なる宗教の本質を研究することであり、世界人類が一つになるにおいて基礎となる実在を求めることであり、神聖な愛のひもで人類を連合させる連帯と和合の源泉を発展させることである。このような統一が永遠の光彩であり、聖なる霊性であり、神の光輝であり、王国の贈り物である。

アブドゥルバハー、万国平和の普及(バハイ教)

― み言選集 ―

私が知っている神様は、宗派主義者ではありません。枝葉的な教理理論に縛られた神様ではないのです。私達は、教義の文字や儀式の条件に融通性なく縛られる神学的葛藤から早く抜け出し、神様と生きた交わりをもたなければなりません。信徒たちの信仰が生き生きとし、各自の霊魂が神様と交流する純粋な宗教風土の造成が急がれていると思います。

神様と父母の心情、そして大いなる愛の中には、民族や顔の色の区分はあり得ません。国家や文化、伝統、洋の東西の壁もありません。神様は、きょうも万民を同じ子女として抱くために努力していらっしゃいます。私達は、宗教間の対話と和合を通して神様の創造目的であり、人類共通の希望である単一平和理想世界を必ず実現しなければなりません。

(135-221、1985.11.16)

今日の人類が直面している一つの大きな問題が、数多くのキリスト教の教派の間で、様々な世界の諸宗教の間で、そして各世界宗教の内部で起きている相互無理解の現象です。この問題を解決しようとする多様な努力にもかかわらず、宗教の共同体間の対立と敵対感は依然として継続しています。

過去数世紀の間に起きた宗教戦争は、今日も終わっていません。相互一致のための多くの運動が試みられてきましたが、篤実な信者たちの間には、いまだ不寛容、宗数的偏狭および宗教的驕慢の風潮が蔓延しています。それで、大部分の宗教が同じ神様に仕え、さらには同じ教理をもっているケースが頻繁にあるにもかかわらず、宗教者たちは、相互弾圧と敵対行為を継続してきました。

私達は、神様が教団主義や教理、党派主義を超越していらっしゃるという事実を悟らなければなりません。神様の目的は常に全人類を救援しようとされるところにあったのであり、特定の民族や人種、宗教団体だけを救援しようとされたのではなく、これは今この時間にも変わりありません。宗教者として私達が相互間の争いと敵対行為を終息させなければ、世の中を救おうとされる神様を手伝ってさしあげられません。たくさんの宗教指導者たちがこれを痛感してきましたが、様々に複雑な理由のためにこの問題の解決は何度も挫折してきました。

私か強調してきたことは、世界平和のための必須的条件が正に宗教間の和睦だということでした。今まで、ある宗教が神様を完全に代弁することは不可能だったので、宗教がもっている多様な見解は必然的な産物です。しかし、私達全員が唯一の天の父母の子女たちなので、私達は一つの大家族の中の兄弟姉妹であり、したがって、宗教間の葛藤と憎悪は不必要なのです。

(133-274 ~ 275、1984.8.13)

神様が世界とすべて隔離されていますか。神様はそうではないのです。世界を救おうとしています。イスラームを見ても、ムスリムを中心として、自分たちを中心としてやろうとしています。世界を考えていません。仏教もやはり同じです。社会に出て活動することを今までしてこなかったのです。

(99-17、1978.8.27)

ユダヤ教のイスラエルを中心として、中東にある国々がカイン・アベルで一つになったなら、既に6世紀前からインドと中国とユーフラテス川流域に宗教があったので、中央地帯を中心として統一し、自動的に一つになることができる環境をすべてつくっておいたはずです。

ユダヤ教とイスラエルの国が一つになっていれば、その時は既にローマが腐敗した状態だったので、中東でもどこでも革命を起こすことができたのです。

そうすれば、ローマ帝国の版図内にインドや中国、この宗教圏が霊界から一つになりなさいという指示さえあれば、一度に回っていくことができました。神様が願うことは、ヒンドゥー教の国ではなく、ユダヤ教の国ではなく、キリスト教の国ではなく、一つの国です!

(406-23、2003.3.2)

東洋では無我の境地を求めて入っていきます。静かな所、何も感じない場を求めていくのです。ところが、西洋では、「ああ、お金がたくさんあり、何々がたくさんある所に行こう!」と言っています。西洋式は「ある所に行こう。たくさんある所に行こう」と思って目が大きくなったのです。目がこのように大きくなりました。目が大きくなり、「ああ、早く行こう、早く行こう」と言うのです。また、背が大きくなってこのように行きます。東洋の人は小さいです。目も小さくなり、鼻も小さくなり、すべて小さくなりました。足も短いです。そのような観点から見るとき、これはどこが内で、どこが外ですか。西洋は外であり、東洋は内なのです。

(118-47、1982.5.2)

宗教の目的は何ですか。宗教の目的は一つの世界を指向することです。宗教で信じる神様は名前が様々で、表現が異なりますが、その宗教で信奉する中心存在は、一つの神様に帰一していると見るのです。このように見るとき、その宗教が教える方向と目的はいつでも一つを標準としているのです。それで、最後にはすべての宗教が自分なりの道を収拾し、一つの一大変革時代を迎えなければなりません。

(140-10 ~ 11、1986.2.1)

「神様のもとの一つの世界」は、神様の永遠、不変、絶対の願いであり目的なので、必ず成し遂げられるのですが、まず宗教統一をしてこそそれが可能です。お一人の父である神様に侍り、一人のメシヤのもとに神主義によって固く結束すれば、神様が共にいらっしゃるので、世界復帰、すなわち地上天国の具現は時間の問題です。

(88-211、1976.9.18)

今日、たくさんの宗教が主張していた世界的な思潮も過ぎていってしまい、最後に残されるものは、再臨主として来られる新郎を中心として新婦たちが出会う、そのような新しい世界的文化圏時代が来るのです。その世界は、言語も統一され、生活も統一され、行動も統一され、希望も統一され、心情も統一された時代が来るというのです。

(50-62、1971.10.31)

4) シャーマニズム、多神教とアニミズム

世界の諸経典は、すべての宗教が共通に強調する普遍的な観点をもっている。それでも、宗教はそれぞれの独特な性格と主眼点をもっている。次の六つの主題は、宗教の独特な特徴を表しながら、特殊な宗数的伝統とそれらに関する文鮮明先生の教えを扱う。霊性の充足さを失わないまま、唯一の神様(一つの究極的実在)に共通に合致する普遍的性格を大きく逸脱しなければ、自らの宗数的特徴ばかりを度を超して強調する必要がない。

ここですべての宗教を扱うことはできず、文鮮明先生が経験を通して言及した宗教に限る。韓国は、シャーマニズム、仏教、儒教に根を置く宗数的多元主義国家である。韓国には、躍動的なキリスト教の共同体があり、少数グループに成長しているイスラーム共同体もある。文鮮明先生のシャーマニズムに対する見解は、先生が主に韓国社会で経た多様な経験からのものである。シャーマニズムは、韓国の田舎でいまだに強い影響力をもっており、シャーマニズムを行う人をムーダンと呼ぶが、その大部分が女性である。

霊と交流できるムーダンの能力は印象的である。文鮮明先生は、アメリカで生活するとき、アラスカのエスキモーのムーダンと交流したり、ブラジルとパラグアイの先住民と友として過ごしたりもした。文鮮明先生は、霊界の現実と、それと効果的に交流するための霊的訓練に関して熟知している。このような理由ゆえに、先生は聖書中心のキリスト教徒のように、シャーマニズムと物活論に対して独善的な非難はしない。かえって文先生は、シャーマニズムを人間の霊的発達段階の中で低い段階ではあるが、正式段階として認めている。

文鮮明先生の教えの中で注目する点は、シャーマニズムと多神教は本来、堕落した天使を崇拝の対象とする「僕の僕」宗教だとする点である。多神思想は、ギリシャやヒンドゥー神話ではっきりと見ることができるが、様々な神々が世の中の女性たちと好色的な活動をするのは、人間堕落の当時、エバに対するサタンの誘惑に起因するのである。それにもかかわらず、神様は献身的な修行者たちに、その神々の次元を超えてより高い道徳的品性をもつための権能を賦与するやり方で教えてきた。このような方法を通して人間は「僕の僕」の位置を越え、彼らの位置を格上げしながら、より次元の高い宗教に発展しできた。ヒンドゥー教とその信徒の諸経典は、このような伝統が時代を経てどのように浮上して次元の高い宗教として変わってきたかを記述している。

1. 自然神崇拝

― 宗教経典 ―

神々よ! あなた方の御名のすべてが崇拝され、尊敬され、敬愛されんことを。天と地から生じたあなた方のすべてが、ここにわが祈願を聞き入れられんことを。

リグ・ヴェーダ10.63.2(ヒンドゥー教)

古来、わが先祖の歴代の天皇は、政治を行なうにあたって、つつしんであつく神々を敬われ、山川の神々を祭って、神々の力を天地にお通わしめになった。このため、陰陽はよく開き和し、神々のしわざも順調に行なわれたと聞いています。

日本書紀22(神道)

山上の主よ!

内山の七峰よ、

外山の十三名勝地よ。

この名山と帝釈天に

国家の大きな祭壇が将軍の保護を受ける。

そのうちの一つが崔栄将軍ではないか。

大韓の名将、

国民たちが喜ぶ。……

おお、私は大山神だ。

座れば三千里を覆い

立てば九万里に伸びる。

明鏡を見下ろせば、

万里を見ることができる。

おお、私は大山神だ。

お前が私のために何を捧げたのか。

紅い布で包んだ豚で十分なのか。

三色の糸の束で十分なのか。

私にたくさんの絹を捧げよ。

おお、この家の夫婦よ。

誰が食糧を与えるのか、お前は覚えているのか。

誰がお前に家を与えたのか。

誰がお前に財物を与えたのか。

誰がお前に長寿を与えたのか。

私、山上がおまえを祝福したのであり、

必要な時に助けを与えた。

山の神の招き(韓国巫教)

一軍の戦争主管者たち、私はあなたに挨拶します。あなたの先祖たちよ!私はたった今、霊魂のためにたばこを吸おうと思います。聞いてください、大地の創造者、私は一息のたばこをあなたに捧げようと思います。私の先祖モモシーは、あなたに彼の心を尽くしました。

あなたが彼を祝福した燃える場、あなたが彼に許諾した短い生涯、あなたが私の先祖に与えた祝福の四倍を、私はあなたに直接求めます。私の人生で何かの問題が起きないことを願います。

西側に暮らす雷鳥の頭よ、あなたは私の先祖を強くしました。私は一息のたばこをあなたに捧げます。あなたが彼らの燃える場で、彼らに与えた一双の鹿、その糧を私はあなたに直接求めます。私が捧げるこのたばこを受けられ、私が困難に遭わないように願います。

偉大な黒鷹よ、あなたもまた私の先祖を祝福しました。私はあなたにたばこを捧げます。あなたが彼らに祝福した何かの糧を、私はあなたに直接求めます。私に心配事がないことを願います。

向かい側、東の方に暮らし、暗闇の中を散策するあなた(夜の霊魂)よ、私はあなたが吸うたばこを捧げます。あなたが私の先祖に祝福したものは何でも、私はあなたに求めます。もしあなたがこのたばこを吸えば、私は決して病弱な人にならないでしょう。

南の方に暮らす疾病の支配者よ、人間のように見える不死身の方、体の片方には死が漂っており、もう片方には生命が漂っている方よ、あなたは白昼、真昼に私の先祖を祝福しました。あなたは食べ物で彼らを祝福し、彼がどんな仕事でも決して失敗しないと言いました。あなたは彼らの家を避けていくと約束しました。

あなたは彼らが楽に食べ物を得ることができるよう、その前に動物を送りました。私はあなたにたばこを捧げます。これを吸われて、そして私がどんなことでも困ることがないように願います。

太陽、光の放浪者よ……祖母の月……聞いてください、私の先祖が祈りを捧げたすべての霊魂よ、あなた達すべてにたばこを捧げます。私の先祖は、彼を祝福したあらゆる方のために宴を開きました。私達の先祖に与えたすべての祝福を、私達に再び施してください。そうすれば私達は弱くならないでしょう。私はあなた達すべてに挨拶します。

浄化の家で、ウィネバコ族の祈願文(アメリカ先住民の宗教)

神よ、来られてコーラの実を召し上がってください。チュクよ、来られてコーラの実を召し上がってください。先祖たちよ、来られてコーラの実を召し上がってください。

エヒリムと呼ばれるクビディの人から聞いた話である。アグネス族の人が彼のサツマイモを盗まれた。それで私はその問題を調べるため、神の司祭たち、アロの所持者たち、長老たちを招集した。ゾクの司祭だった私の父がしたように、私は彼らを呼んだ。

この問題を裁くために集まった人たちの中で、偽りを行ったり、原告でも被告でも、誰であっても偽りの証言をしたりする者がいれば、神、チュク、ゾク、そして先祖たちとオホよ、彼を罰してください。

イボ族の法廷祈願文(アフリカ伝統宗教)

パルヴァティは、自分の息子のガネシャが生き返ったのを見て、喜んで彼を抱きしめ、彼を新しいマントと装飾で着飾った。彼の顔にキスをした後、彼女は言った。「おおガネシャよ、あなたは生まれたその時から大きな苦痛を背負ってきました。今やあなたは祝福され満足しました。あなたは全ての神々に先だって崇拝されるでしょう。あなたは苦痛から解放されるでしょう。今あなたの顔には朱がぬってあります。だからあなたは全ての人から、常に朱をもって崇拝されるようになるでしょう。」

「あなたを花、ビャクダンの練り粉、香気、縁起の良い食物の供物、光の波、キンマの葉、慈悲に満ちた贈り物、彷徨、そして敬礼をもって礼拝を行う者には、あらゆる成功が確実にもたらされるでしょう。」

シヴァ、ブラフマー、ヴィシュヌは声をそろえて宣言した。「ああ偉大なる神々よ、ちょうど我々が三界のいたる所において礼拝されるように、ガネシャもまたお前達全てによって礼拝されるように。彼は全ての生涯を取り除く者であり、全ての儀式の実を授ける者である。」

シヴァ・プラーナ、ルドラ・サンヒター18(ヒンドゥー教)

― み言選集 ―

最も未開な人間から高次的な人間に至るまで教えてくれるのです。それで、昔、未開な宗教はすべて物を見て敬拝しました。神様の代わりに岩に仕え、木に仕え、このようにシャーマニズムのようなものが始まりました。それで、各民族の方向がすべて異なってきたのです。そのように教えてきました。

(91-271、1977.2.27)

ムーダンやこのような女性たちがたくさんの神々に接してするのですが、それは何でしょうか。堕落した天使長とエバがそのような道を行ったのと同じように、その圏内に引きつけられ、霊の僕の位置、愛の僕の位置で、その位置を抜け出すことができず、新しい霊的世界の道を通して、地上に新しい予言をするのです。これは合っています。この地上には、霊界に接してそのようなことをする群れがいることを知らなければなりません。

(76-95、1975.2.1)

霊界は、どのような世界でしょうか。天使世界です。天使世界に当たる霊界の神々がなぜ人間世界と関係を結ぼうとするのかという問題が、今まで分かりませんでした。皆さんは、ムーダンや占術、迷信という言葉を聞いたことがあるでしょう。それは何ですか。いまだに善悪の位置を明らかにしていない立場に立っている宗教形態です。神様が宗教形態を備えていくので、サタンも宗教形態を備えて防御しようというのです。

大概、皆さんがムーダンや占術をする人を見れば、8割以上が女性です。誰と接しているのですか。エバが堕落するとき、天使の指導を受けて引っ張られ、悪の結果をもたらしたのと同じように、復帰時代の道を再現させて従っていくこの地上では、必ず霊界の天使たちが地上に来て女性たちと一つになり、すべてのことを教えるのです。天使たちが教えるとおりにするのが占術やムーダンの役事です。そのようにしながら何をするのでしょうか。堕落したエバと同じように、霊人と暮らしているのです。

(76-95、1975.2.1)

歴史の発展過程を見てみると、必ず信仰というものがいつも問題になっています。最近では迷信と言われるものも、昔は信仰生活の母体だったのです。大きな木を見れば、その木に仕えたり、あるいは雄大な山があれば、その山に仕えたりするのです。ところが、そこにも、人間たちには分かりませんが、守っている神々がいるのです。

(176-287、1988.5.13)

神様は摂理の中で、そのみ旨を成し遂げるために数多くの曲折の歴史過程を経てきたのです。歴史過程の大勢の人間たちは、文化の背景が異なり、風習と習慣が異なると同時に、地域的な環境、あるいは気候の差による環境など、様々な環境によって異なる文化背景で暮らしています。

ですから、神様は、救援摂理を完成させるために、このすべての人類の背後から、私達自身では推量できませんが、その文化背景にふさわしい摂理の道を選んでいきながら、その環境に生きている個人を収拾し、家庭を収拾し、社会、国家を収拾してきたと見ざるを得ません。

このような立場から見るとき、神様の摂理のみ旨の中で歴史が発展するとすれば、その発展する歴史過程に神様の摂理歴史を成し遂げることのできる主流、あるいは非主流の摂理路程がありそうだというのは当然の結果なのです。このように見るとき、世界には数多くの宗教があります。最初は、小さな迷信宗教のような歴史過程を経て神様を迎えようとしながら、だんだんと高次元的な宗教として連合させ、最後には一つの宗教理想を通した救援摂理の完成時代に行くようにするのです。この世の中を愛される神様であれば、そのような摂理をしてこなければならないという結論が成立するのです。(121-298、1982.10.30)

今まで歴史は、東の方に太陽が昇ってくる歴史だということを知っているので、互いがつけておいた火によって、灯火をつけ、神様を中心として、雑神を中心として……。ムーダンたちも、すべて自分の体験があるのです。宗教を信じない人とムーダンでは、どちらがよいでしょうか。信じないより、雑神であっても仕えるほうがよいのです。

(194-315、1989.10.30)

2. 様々な神々を越えて勝利した人間

― 宗教経典 ―

神々を大切にする存在は人間である。もし一つの霊(崇拝物)があまりに問題を起こせば、それを切ってすべての木を見せよう。私達は祭物を捧げ続けなければならない。そうすれば、とがめがその神々に戻っていくだろう。

アフリカの格言(アフリカ伝統宗教)

迷える人々は、人間の体をとる私を軽んずる。私の万物の偉大な主としての最高の状態を知らないで……。彼らは空しい願望を抱き、空しい行為をし、空しい知識を得、分別を失い、人を迷わせる、羅刹的、阿修羅的な本性(プラクリティ)に依存する。

バガヴァッド・ギーター9.11~ 12 (ヒンドゥー教)

「我は梵なりき」と知るものはあらゆるものに成ることができ、いかなる神も彼の転変を妨げる力はもたないのである。彼は神々そのものの自我にさえ成っているのだから。もし梵以外のある神を崇信して「この神と我とは別のものである」などと思っている者があれば、それは真実のことを知らないのである。

かかる人間は神々にとって家畜のようなもので、ちょうど多くの家畜が一人の人間を養っているように、一人一人が多くの神々を養っているのである。家畜の一頭が奪(と)られても面白くないのだから、まして多くの家畜が奪られるにおいてはなおさらだ。だから、梵を人間どもが知るということは神々にとって好ましいことではないのである。

ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド1.4.10(ヒンドゥー教)

さらには、神々もブラフマンを実現することによって彼らを圧倒しようと努めるヨーガ行者をねたむ。ゆえに、彼らが彼が放心するということを知れば、あらゆる方法で彼を堕落させようと務める。(注13)

シュリーマッド・バーガヴァタム11.20(ヒンドゥー教)

神道とは何か。本当の宗教は、世俗的な人たちが空虚な供え物を捧げる神社にあるものではなく、善行と清い心にある。

加藤健司(神道)

聖なる川で沐浴するあなたの兄弟たちよ、見よ。

小川で沐浴するあなたの僧侶たちよ、見よ。

あなた達の卑しい考えを放棄せよ、

放棄せよ。

他の人の妻に対するみだらな心を捨てよ。

他の人の富に対する貪欲を放棄せよ。

もしこのようなものを放棄しないまま

川に身を浸せば

乾ききった川で喉を洗うのと違わない。

バサヴァンナヴァチャナ642 (ヒンドウ一教)

真実のみ勝つ。虚妄はしからず。真実によりて天神の路も作られたり。この路を辿りて、聖者達はその願望を成就して、真実在なる至上の宝蔵のある処(至上界)へと登りゆくなり。

ムンダカ・ウパニシャッド3.1.6(ヒンドゥー教)

― み言選集 ―

ユダヤ民族の歴史を見れば、勝利したとして「イスラエル」という名前がヤコブ時代に初めて出てきます。そのような時代は、天使長級と同じです。それは信じることができず、行ったり来たりするのです。

ですから、その前に出てきた様々な宗教、ヒンドゥー教や仏教、ゾロアスター教、太陽神を崇拝するギリシャ宗教、そのようなものが宗教的な名前をもって出てきたのです。それが天使長圏の精神的基盤を通して出てきました。

(220-52、1991.10,14)

宗教運動は、あの未開な所から迫害を受けてきました。それでは、このような役事をさせる方は誰でしょうか。神様です。ここで分かれるのです。

僕の僕から段階的に分かれてきました。そうすると、僕の僕の中では僕が主人になるのです。主人が僕をこき使うのではなく、僕が主人をこき使うようになります。このような天の国の僕の主人になろうとすれば、サタン世界をすべて合わせた僕の迫害を受けて勝利しなければなりません。

(124-69、1983.1.23)

ムーダンの中にも男性のムーダンがいます。このような人たちは、起源は大概よくありません。性関係に対して乱れ、道義的な道を離れてきました。これが宗教圏と連結されます。これが道義的な出発を中心として、人間はこのように生きなければならない、天を中心として人間は正しい道を行く、家庭生活の伝統を正さなければならないと言うのです。自分の思いどおりに生き、愛の関係を自分勝手に持つ人たちは悪いと言います。この愛の道理を立てていくためのものが人間世界に宗教として現れたのです。

(295-174、1998.8.28)

5) 仏教

文鮮明先生は、自身の故郷である韓国の文化に深い影響を与えた仏教に対して、最高の敬意を表している。文先生は、堕落の泥沼から真の本性の自我を回復しようとする世界宗教の教えから、仏教の教え、特に自己否定め実践が最も優れていると考える。文先生は、「零点」、すなわち空の状態に到達するのが真の悟りであると解明された。

しかし、文先生の見解によれば、仏教は根本的に二つの側面、すなわち人格神としての神様に対する知識と真の愛の理想に対する十分な理解が欠如しているという。それでも、釈迦に教えた方も神様であり、東洋に光を与えるために仏教を立てた方も神様だった。すべての宗教者たちは、仏教を通して多くのことを学べるが、特に誤った自我を克服し、真の自我を発見するための自己否定の方法に対して、そうであるといえる。

1. 仏教の価値

― 宗教経典 ―

もろもろの道のうちでは(八つの部分よりなる正しい道)が最もすぐれている。もろもろの真理のうちでは〈四つの句〉(=四諦)が最もすぐれている。もろもろの徳のうちでは〈情欲を離れること〉が最もすぐれている。人々のうちでは〈眼ある人〉(=ブッダ)が最もすぐれている。

これこそ道である。(真理)を見るはたらきを清めるためには、この他に道は無い。汝らはこの道を実践せよ。これこそ悪魔を迷わして(打ちひしぐ)ものである。汝らがこの道を行くならば、苦しみをなくすことができるであろう。(棘が肉に刺さったので)矢を抜いて癒す方法を知って、わたくしは汝らにこの道を説いたのだ。

法句経273 ~ 275(仏教)

螺髪を結っているからバラモンなのではない。氏姓によってバラモンなのでもない。生れによってバラモンなのでもない。真実と理法とをまもる人は、安楽である。かれこそ(真の)バラモンなのである。

われは、(バラモン女の)胎から生れ(バラモンの)母から生れた人をバラモンと呼ぶのではない。かれは「〈きみよ〉といって呼びかける者」といわれる。かれは何か所有物の思いにとらわれている。無一物であって執著のない人、かれをわれは〈バラモン〉と呼ぶ。

すでにこの世において自分の苦しみの滅びたことを知り、重荷をおろし、とらわれの無い人、かれをわれは〈バラモン〉と呼ぶ。

強くあるいは弱い生きものに対して暴力を加えることなく、殺さずまた殺させることのない人、かれをわれは〈バラモン〉と呼ぶ。

敵意ある者どもの間にあって敵意なく、暴力を用いる者どもの間にあって心おだやかに、執著する者どもの間にあって執著しない人、かれをわれは〈バラモン〉と呼ぶ。

芥子粒が錐の尖端から落ちたように、愛着と憎悪と高ぶりと隠し立てとが脱落した人、かれをわれは〈バラモン〉と呼ぶ

法句経393、396、402、405 ~ 407 (仏教)

いとも麗しき国王の車も朽ちてしまう。身体もまた老いに近つく。しかし善い立派な人々の徳は老いることがない。善い立派な人々は互いのことわりを説き聞かせる。

法句経151 (仏教)

比丘よ、縁起とは何ぞや。比丘等よ、生に縁りて老死あり。如来{世に}出づるも、若しくは{世に}出でざるも、このことは定まり、法として定まり、法として確立し、即ち相依性なり。

阿含経相応部ii.25 (仏教)

世尊よ、智恵の完成は光輝を与えるものです。世尊よ、私は知恵の完成を礼拝いたします。世尊よ、知恵の完成は礼拝されるべきであります。世尊よ、知恵の完成は汚されておりません。世尊よ、知恵の完成は、世界のいかなるものによっても汚されることがありません。世尊よ、知恵の完成は光明を与えるものです。世尊よ、知恵の完成は、三界のすべての闇黒を除くものであります。

世尊よ、知恵の完成は、煩悩と悪しき見解のすべての暗闇を除くものです。世尊よ、知恵の完成は依拠されるべきものです。世尊よ、知恵の完成は最高のはたらきをなすものであります。世尊よ、知恵の完成は、さとりの助けとなる諸要素に安楽を添えるものであります。世尊よ、知恵の完成は、盲目の友情に光を与えるものであります。世尊よ、知恵の完成は、すべてのおそれと悩みを除く光を与えるものです。

世尊よ、知恵の完成は、自分の特徴をもたないことによって、菩薩大士たちの母であります。世尊よ、知恵の完成は、すべての仏陀の教えという宝を与えるものであるから、(仏陀の)十力をもたらすものであります。世尊よ、知恵の完成は、粉砕されないものです。世尊よ、知恵の完成は、四種の自信をもたらすものであるから、孤独な友情たちを保護するものであります。世尊よ、知恵の完成は、因縁より生ずるものでないことによって、輪廻の退治者であります。

八千頌よりなる般若波羅蜜経7.1(仏教)

― み言選集 ―

仏教文化圏を形成した仏教は、古代文明圏内でその環境圏内の主体と対象の関係を中心としてインドを収拾し、新しい理想を提示するための神様のみ旨の中から出てきたのです。

(144-182、1986.4.24)

インドで発生した仏教を見ても、その理念は世界的な理念です。世界的な観点をもって現実的な生活舞台を越えて超自然的な世界の理念まで内包した宗教であってこそ、終わりの日まで残っていることができるのです。

(9-279、1960.6.12)

仏教を中心として東洋の宗教があるのですが、仏教が摂理に最も近いのです。儒教もありますが、儒教は主流ではありません。神様に対する観がはっきりしていません。そして、仏教にも霊的世界の体験があるにはありますが、仏教では一切法の論理を語ります。ですから、人格的な神様を知りません。人格的な神様を知らなければならないのです。このように神様は、ユダヤ教を中心とする東洋の宗教を中心として、アジアを統一できるようすべて準備しておいたのです。

(208-312、1990.11.21)

仏教は、神様がいることは教えてくれますが、実践の神様よりも法の神様をより強調しています。人格的な神様に対しては……。

(53-297、1972.3.4)

釈迦牟尼は、すべての道理を法に帰一させました。法の対象は、人間の対象的関係である環境であって、人間ではありません。愛を標準としたものではなく、法を標準としたものです。それで法文(注17)と言うのです。ですから、「釈迦」という言葉は自覚を意味します。自覚をして何をするのですか。自覚で終わるのですか。ですから、入山修道をして孤独な生活をしますが、愛の理想世界に対してはやはりあいまいだというのです。

(50-116、1971.11.6)

2. 仏者の覚醒

― 宗教経典 ―

バラモンよ。流れを断て。勇敢であれ。諸の欲望を去れ。諸の現象の消滅を知って、作られざるもの(=ニルヴァーナ)を知る者であれ。

法句経383 (仏教)

あらゆる存在は、すべて自分の心次第であることが分かる。なぜ自己の心の中で即座に、変わらない清浄な自己の本性を見極めないのか。『菩薩戒経』もいっている、「私はもともと自己の本性が清浄なのである」と。もし自己の本心を認識し、自己本来の真性をはっきりと見届けるならば、誰でも仏が得られた無上の悟りを成就する。

六祖壇経2(仏教)

諸々の仏・如来たちは、存在するものすべてを身体とするものであり、すべての生ける者どもの心想の中に入って来るからである。それ故に、あなた達が心に仏を観想するとき、この心がそのまま仏の三十二の大相であり、八十の小相なのだ。この心が仏を作り、この心がそのまま仏なのだ。智慧海のごときもろもろの仏たちは心想から生ずる。それ故に、一心に思念を集中し、心してかの仏・如来・尊敬さるべき人・正しく眼覚めた人を観想するのだ。

観無量寿経17(仏教)

天と地において、ただ私だけが尊貴な者である。

阿含経長部2.15 (仏教)

― み言選集 ―

私達が祈祷する目的、あるいは仏教徒たちが座禅を通して無我の境地を求めていく目的とは何でしょうか。それは心の核心となり得る要素を悟らせようというのです。そのような一つの基準を立て、見て、聞いて、感じる心の中心を天倫の前に立てたならば、神様に敬拝を捧げ、ハレルヤの栄光をお返しできるようになるのです。

(2-192 ~ 193、1957.5.19)

仏教には、自性を清めなければならないという言葉があります。「天上天下唯我独尊」と釈迦牟尼が言いましたが、それは何かと言えば、私が私に尋ねれば私に神様が入っていることが分かる、ということです。そのようになれば、できないことがないというのです。

ですから、自分の心を清めなければなりません。心を清めなければならないというのです。心が先生よりもいいのです。心は永遠の私の主人です。ですからよこしまな心をもつなというのです。公理に属した公的立場に立った心をもたなければなりません。

(133-179 ~ 180、1984.7.10)

釈迦牟尼でも、彼がその神秘の境地、「天上天下唯我独尊」と言ったことは、正常な一般人の考えの中でそのような境地に入っていったのではありません。心と体が共鳴できるある境地に投入され、そこでぶつかる自我を覚醒させるとき、天下のすべては、「いやあ、私が一番だ!」という境地に到達するようになります。それは新しい境地の認識を通して起きるのです。

(141-235、1986.2.26)

神様はどこに行っていなければならないのですか。自分を中心とせず、完全に全体のためのゼロ、「大きなゼロ」になる所が神様のいらっしゃる場所です。神様は、「大きなゼロ」の位置に立つのです。そのような神様と出会おうとすれば、皆さんがゼロポイントよりもっと低くならなければなりません。そして、皆さんは肉となってその「大きなゼロ」の位置を保護できなければなりません。

「大きなゼロ」の位置が心の位置であれば、それを囲んでいるのは肉の位置なので、そのゼロポイントを保護しなければならないのです。皆さんはそのようになっていますか。それで、神様的なものを求めるために、仏教では座禅というものを通して、良心とは何かと、心の底を訪ねていこうとするのです。

(230-134、1992.5.1)

3. 仏教の知惠

― 宗教経典 ―

スブーティよ、「如来は法を教え示した」と、このように説く者があるとすれば、かれは誤りを説くことになるのだ。スブーティよ、かれは、真実でないものに執着して、私を謗(そし)るものだ。それはなぜかというと、スブーティよ、〈法の教示〉〈法の教示〉というけれども、法の教示として認められるようなことがらはなにも存在しないからだ。

金剛般若経21(仏教)

もろもろの如来によって証得されたところの、言語の分別をはなれ、文字と二つの境とをはなれた、自内証の行境なるものが、わたくしによって証得されたものであり、不滅不増なるものであることである……。

かくの如くにわたくしともろもろの如来とによって証得された、かの法性と法住性と法決定性と如性と実性と真性とは住する。故にマハーマテイよ、如来が現等覚した夜より般涅槃する夜にいたるまで、その間に如来は一字も宣説せず、また宣説しないであろう。

楊伽経61(仏教)

― み言選集 ―

東洋に行けば仏像があるのですが、その仏像は話をしますか。仏像を見るとき、その口では話もせず、悪口を言わず、称賛もせず、考えてばかりいます。それが偉大なのです。見つめる所も一箇所だけを見るのであって、あちこち見ません。

見ようとすれば、重要な一箇所だけを見ればよいのであって、つまらない雑多なものを見て何をするのですか。究極のものを一つ見ればよいのです。ですから、複雑な世界を収拾する最高の王とは何でしょうか。沈黙だというのです。

(228-77、1992.3.15)

6) 儒教

儒教の倫理は、東アジア文化の核心である。今日、アジアの急速な西欧化により多くの人たちが儒教的価値と慣例を軽視している。それにもかかわらず、数千年間儒教の道徳哲学は家庭生活を導いてきたのであり、慈悲、正義、礼儀などで国王の行動半径を規定してきた。文鮮明先生は、儒教の規範的教えを高く評価する。先生は、儒教の教えが「天の法度と最も近い」と語る。先生は、父母と子女、王と臣下、夫と妻、兄弟間、友人関係を規定した儒教の五倫は、すべての人間のための卓越した倫理であると信じている。

文鮮明先生は、神様に鼓舞されて儒教が生まれたと主張する。先生は、儒教の天の概念がたとえあいまいだとしても、神様の概念を表していると語る。先生が説明する儒教の弱点は、神様に対するあいまいな理解であり、その結果、天と地上の日常生活を適切に連結できないという点である。そして先生は、儒教の長所を有効に利用できる新しい解法を具体的に提示する。神様と人間の関係は、父母と子女の関係であり、その倫理は儒教の「孝」だというのである。言い換えれば、私達は、神様を父母として侍らなければならず、儒教の倫理が侍ることにおいて必要な、最も卓越した解法を提示しているのである。

1. 儒教の倫理

― 宗教経典 ―

大きいことよ、聖人の道は。(天地に)満ち渡って万物を生育し、高大さは天をも極めてその外にでるものがない。満ち足りて余りあるばかり大きいことよ、大綱の礼は三百条、細目の礼は三千条。至徳の人の出現を待ってはじめて行なわれる。だから、至徳な人でなければ、上の広大な道は成就することができないというのである。

中庸27(儒教)

およそ君子たるものは、ひたすら正しい理法にかなった行為をして、あとはすべて天命に任せて待つばかりである。

孟子VII.B.33 (儒教)

天子から庶民に至るまで、一切みな身を修めることを本とする。その本(である身)が乱れて、末が治まるなどということはない。その厚くすべきもの(家)を薄くして、薄くすべきもの(国や天下)を厚くすることはあり得ないのである。

大学(儒教)

あわれみの心は仁の芽生えであり、悪を恥じ、憎む心は義の芽生えであり、譲りあう心は礼の芽生えであり、善し悪しを見分ける心は智の芽生えである。人間にこの四つの芽生えがあるのは、ちょうど四本の手足と同じように、生まれながらに具わっているものなのだ。それなのに、自分にはとても……

そんな立派なことはできそうにないとあきらめるのは、自分を見くびるというものである。またうちの殿様はとても仁政などとは思いもよらぬと勧めようとしないのは、君主を見くびった失礼な話である。だから人間たるもの、生れるときから自分に具わっているこの四つの芽生えを育てあげて、立派なものにしたいものだと自ら覚りさえすれば、ちょうど火が燃えつき、泉が湧きだすように始めはごく小さいが、やがていくらでも大きくなるものだ。

このように育てて大きくしていけば、遂には天下をも安らかに治めるほどにもなるものだが、もしも育てて大きくしていかなければ、手近な親孝行ひとつさえも満足にはできはすまい。

孟子I1.A.6 (儒教)

君子は根本のことに努力する、根本が定まってはじめて〔進むべき〕道もはっきりする。孝と悌ということこそ、仁徳の根本であろう。

論語1.2 (儒教)

さて、忠孝はすべての徳の根であり、そこからすべての道徳的教えが派生する茎である。どの髪の毛も皮膚の一かけらも、我々の体は両親からいただいたものだから、それを敢えて痛めたり、傷つけたりしてはならない。これが忠孝のはじめである。

我々は、将来に自分の名前を有名にするために、子どもとしての道を踏み行うことによって、自分自身の人格を確立するとき、それによって我々の両親を賞賛することになる。これが忠孝の終わりである。これは両親の奉仕で始まる。それは、為政者の奉仕へと発展する。そして、良い性格の確

立によって完了する。

孝経(儒教)

人の道義とは何であろうか? それは、父の慈、子の孝、兄の良、弟の弟、夫の義、妻の聴、長の恵、幼の順、君の仁、臣の忠である。これら十の道義というのである。

礼記7.2.19 (儒教)

仁、義、礼、智……ただこの四つがあるだけであり、それ以外に他のものはない。

朱熹(儒教)

― み言選集 ―

儒教では、孔子の教えに従うのですが、孔子のその教えを中心とする礼法を見ると、天法に近いものがたくさんあります。

(31-292、1970.6.4)

儒教は人間の道理を教えました。儒教の中心思想は何ですか。元亨利貞は天道之常であり、仁義礼智は人性之綱であると言いました。(注23)元亨利貞は天道之常とは、ここには人格的な愛がありません。法を語ったのです。仁義礼智は人性之綱ですが、これは三綱五倫を意味します。

(296-272、1998.11.10)

道を歩いていても、東洋思想は、目上の人が前に立たなければなりません。なぜですか。先に生まれたからです。そのように環境を合わせようとするのです。あとから生まれた人は後ろに立つということです。高いものは高いものとして、低ければ低いものとして、前のものは前のものとして、後ろのものは後ろのものとして、上のものは上のものとして、前後を合わせなければなりません。そのような観は、変わるものではありません。それは永遠に不変なのです。

(168-252、1987.9.27)

三綱五倫(注24)の五倫は、父子有親、君臣有義、夫婦有別、長幼有序、朋友有信で、五大条件です。三綱は忠、孝、烈を意味します。これは人間が行くべき内容です。この内容を見れば、天のみ旨の前に外的内容を中心として、サタンを防御できる環境的与件を成しておいたのが天使長的み旨の宣布だったことを知らなければなりません。

(295-179、1998.8.28)

儒教では三綱五倫を教えています。「孝子」とは何ですか。愛を中心として命懸けで父母に侍る息子のことをいうのではないですか。では「忠臣」とは何ですか。愛を基台として、天の代わりに君主のために生命を捧げて犠牲になりながら行く人を「愛国者」と言います。

(143-153、1986.3.17)

歴史時代に私達の韓国では、儒教思想によって孝子の道理を教育しました。父母が亡くなれば3年の喪に服さなければならないとして、山に行って暮らしたのです。それは、本当にそのようにしたいと思ってそのようにするのです。

韓国民族が世界に誇り得るものとは何ですか。父母のために自分の一生をすべて埋葬してしまい、権威だろうと何だろうと、出世して右大臣、左大臣になったとしても、その道を行かなければならないのです。すべてを捨てて孝の道を求めていくようにさせたのは、天が韓国の民に儒教を立てて教育するための良い伝統だったからです。そこには異議がありません。

(181-217、1988.10.3)

神様と私と、何の関係を結ぶのかというのです。父子の関係が良いことは良いのです。それは何ですか。縦的関係です。儒教の教えは正しいのです。父子の関係は、説明や力で否定できる内容では絶対にありません。自分の父と知っているのに、「それはあなたの父ではない」と言ったからといって、それで説得できますか。父の息子として生まれた私自身であることを間違いなく知るようになるとき、それを否定するものは何もありません。

(198-298、1990.2.5)

個人的には孝子として、国家的、民族的には忠臣の気概をもって天に対さなければなりません。東洋の三綱五倫のようなものには、すべて一理があります。それを教えてあげるためのものです。天に対する忠孝も同じです。同じことです。父母に孝行できない者が、天の前に孝子にはなれません。国に対する忠臣の志操をもてない者が、天の前に忠臣にはなれません。

(7-66、1959.7.12)

2. 儒教の天の概念

― 宗教経典 ―

天が助ける相手は天道に従順なる者であり、人が助ける相手は信実な者である。上九の人は信実の徳を履み行ない、天道に従順ならんことを思い、さらにまた下位の賢人を尊ぼうと心がける。さればこそ、「天よ年これを祐く、吉にして利ろしからざるなし」というのである。

易経、周易繋辞上伝1.12.1 (儒教)

楽正子は〔御殿をさがると〕孟子にお目にかかって言いわけをしていった。「私が殿様におすすめし、殿様もここへきて先生にお会いになるばかりでしたのに、お気に入りの近臣減倉と申すものが邪魔をしたので、にわかにお取りやめになったのです。まことに残念でなりません。」

すると、孟子はいわれた。「いやいや、克よ。〔お前は魯の殿のお出ましもお取りやめも、すべて人間わざとのみ考えているが、〕入が出かけるも、取りやめるのも、みなそうさせるものがあるので、人間の力の及ぶところではない。〔そうさせる目に見えない偉大な力、すなわち天命なるものが働いているので〕わしが魯の殿に遭えないは、天命なのじゃ。減氏の子倅などの力で、どうして遭わせたり遭わせなかったり自由にできようぞ。」

孟子I.B.16(儒教)

君子たるものは、事業のもといをはじめて、その手がかりをのこして、後世の子孫が承けつがれるようにしてやれば、それで宜しいのです。しかしながら、それが成功するかどうかは天命でありまして、人間の力ではいかんともしがたいものです。

孟子I.B.14(儒教)

先生が匡の土地で危険にあわれたときにいわれた、「文王はもはやなくなられたが、その文化はここに(このわが身に)伝わっているぞ。天がこの文化を滅ぼそうとするなら、後代のわが身はこの文化にたずさわれないはずだ。天がこの文化を滅ぼさないからには、匡の連中ごとき、わが身を、どうしようぞ。」

論語9.5(儒教)91

天の怒りを敬み戯れはしゃぐことなかれ。天意の變(かわ)ることを畏れ気ままに振舞ふことなかれ。天つ神明らかにして汝とともに出でまさむ天つ神明らかにして汝とともにゆきまさむ

詩経、254 板(儒教)

― み言選集 ―

礼式において人類を代表できる内容を教えてくれたのが孔子です。孔子は韓国人です。李相軒氏の『霊界の実相と地上生活』を見れば、孔子が笠をかぶり、韓国のトポ(韓国の男子が上着の上に羽織る袖が広くて長い礼服)を着て、テニム(韓国の男性のズボンの裾を締めるひも)を結んでいるのです。そのような事実を見るとき、孔子は韓国人です。ですから、東方の国を相当に追慕したのです。

そのような方を通して、外的な人間の道義的な面のすべてのものを教えてくれました。孔子の伝統的思想とは何かといえば、「元亨利貞は天道之常であり、仁義礼智は人性之綱」と言いました。総評をしました。しかし人格的な神様が分かりませんでした。人格的といえば、知情意を備えていることを意味します。愛を中心として知識を備えて志を立てることのできる、知情意を中心とした意味だというのは、変わることのない知識であり、変わることのない情でなければならなかったのですが、それは絶対的な神様でなくては、そのようになれないのです。そのようなものが分からなかったので、人格的な神様が分かりません。理知的な神様は分かりましたが、人格的な神様が分かりませんでした。これは天使長型です。それで、道義的な面で世界人類に影響を及ぼしたのです。アジア圏です。アジア圏が根源なので、アジア圏に影響を及ぼしたという事実は驚くべきことです。

(295-174 ~ 175、1998.8.28)

儒教を見れば、神様に対しては象徴的です。神様の人格に対して具体的な内容をもっていません。悪を行えば罰を受け、善を行えば福を受けると、行動的な、倫理的な面で教えてくれています。

(53-231、1972.2.28)

孔子は、「為善者は天報之以福であり、為不善者は天報之以禍である」と言ったのですが、これは漠然としています。天とは何かというとき、漠然としているというのです。それで、宗教のようでもあり、そうでないようでもあるのです。(注26)

(38-260、1971.1.8)

韓国の法に、目上の人から何かをもらうときは両手でもらうようになっています。それは水平になってこそ、愛を受けることができるという意昧です。受けるのは垂直を通して90 度で受けなければならないのです。その道理を象徴するのです。人心は天心と言うではないですか。私達のすべての規則は、良心の道理に従って相対的に生まれ出てきたものなので、水平にならなければなりません。

(171-237、1988.1.1)

儒教思想は、元亨利貞は天道之常です。天道之常とは何ですか。天のみ旨が行く道です。仁義礼智は人性之綱と言いますが、仁と義を行うのは人が行くべき道です。この二つが合わなければなりません。天を抜かしても駄目であり、仁義礼智を抜かしても駄目です。それを連結させることができなかったというのです。

ですから、天が漠然とした天になったのであり、仁義礼智が漠然としているのです。これをどのように連結させるのかを知りません。それで、この二つの世界の形態は、歴史においてその実体的基準を形成することができず、流れてしまうのです。「統一原理」を中心とするものが二性性相として出てきて、どのように私と関係を結び、社会のどのような形態を中心として実体圏を残しているのかというのです。

再創造の実体圏です。私達人間が願う理想とは何ですか。知識でもなく、権力でもなく、お金でもありません。愛の実績を願うのです。したがって、師弟愛、親子愛、すべて愛ではないですか。君臣の愛……。天にも息子が必要です。天子の愛は、独りではできないようになっています。

(185-272、1989.1.17)

7) ユダヤ教

神様の摂理の中で最初の主要宗教として、ユダヤ教は世界の宗教の中で独特な立場を確保している。はるか昔、偶像崇拝の時代、神様はイスラエルの民を呼ばれ、彼らと永遠の約束を結んだ。今日、多くのユダヤ人たちは、透徹した信仰と神様の恩寵と選民など、特別な運命に対する畏れの中、契約を守ることに情熱的である。

しかし、このような特色をもったユダヤ教は、普遍的使命をもっているという確信によって常にバランスを維持している。預言者たちは、ユダヤ人たちが選ばれたのは彼ら自身だけのためではなく、神様の真理の輝きをすべての国に照らすためであると宣言した。ユダヤの歴史に普遍主義と民族中心主義の間の緊張が継続して高まっている中、文鮮明先生は一貫してユダヤは地球的視角をもたなければならないと主張する。

ユダヤ人たちは、ほかのいかなる民族より多くの苦難を経てきた。600 万のユダヤ人が虐殺されたホロコーストに見るように、2000 年間国を失ってさまよい、抑圧され、迫害を受けてきた。彼らは苦難の渦中でも、どのように神様との関係を継続して結んできたのだろうか。神様の救援歴史において、ユダヤ人の苦難がどのような意味をもつのだろうか。文鮮明先生は、この質問に対して様々な回答をしている。それは,ユダヤ人を強くしようとされる神様の訓練過程であり、ユダヤ人を一つにまとめてより神様に近づけようとすることであり、この世の中を神様に導ける指導者にするためである。

キリスト教徒たちは、ユダヤ教がイエスを救世主として認めないため、彼らとの和解に困難を経験してきた。それでも、イエスとユダヤ人の弟子の脈絡から見るとき、キリスト教の反ユダヤ主義は弁明の余地がない。ユダヤ人たちがイエスを受け入れないことによって自分たちの道を失うようになったと考えながらも、ユダヤの兄弟の世話をやめなかった使徒パウロの苦悩が文鮮明先生の教えにも表れている。しかし、パウロと異なり、文鮮明先生は、ユダヤ人の改宗を強調しない。先生は、ユダヤ教、キリスト教、イスラームが独自性を維持しながら互いに赦し、愛しながら、世界平和具現のための宗教間の連合を形成するとき、初めて神様の現在的意志を実現できると教える。

文鮮明先生は、現在のイスラエル国家をユダヤ人の特別な故郷として認めるが、ただほかの人々の苦痛の代価であってはならないと言われる。先生は、イスラエルの生存と繁栄は隣人アラブ――イスラエルの聖書的根拠までさかのぼり、歴史的根に対する葛藤解消――との純粋な平和と和解を通してこそ、可能だと教える。先生は、復帰歴史観の立場により、ユダヤ人とアラブ人の間で互いに愛し、自己の利益を越えることを強く要請している。

1. 選民

― 宗教経典 ―

イザヤ書60 章21 節に出ているように、この「あなたの民は皆、主に従う者となり、とこしえに地を継ぎ、私の植えた若木、私の手の業として、輝きに包まれる」。すべてのイスラエル民族がこれから訪れる世に、彼らの立場を占有するだろう。

ミシュナ、サンヘドリン10.1 (ユダヤ教)

今、もし私の声に聞き従い、私の契約を守るならば、あなた達はすべての民の間にあって、私の宝となる。世界はすべて私のものである。あなた達は、私にとって、祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。

出エジプト記19.5 ~ 6(キリスト教)

イスラエルの子らよ、なんじらに施こした、わしの恩典を心に銘じ、私との約束を履行せよ、私はなんじらとの約束を全うするであろう。私をのみ恐れよ。

クルアーン2.40(イスラーム)

聖なる方がイスラエルを貴いものとしようと言われた。そうして彼らに多くの法と戒めを下された。

ミシュナ、マッコート3.16 (ユダヤ教)

あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなた達を選ばれたのは、あなた達が他のどの民よりも数が多かったからではない。あなた達は他のどの民よりも貧弱であった。

ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなた達の先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなた達を導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。あなたは知らねばならない。あなたの神、主が神であり、信頼すべき神であることを。この方は、御自分を愛し、そめ戒めを守る者には千代にわたって契約を守り、慈しみを注がれるが……。

あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。

人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった。あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい。あなたの神、主の戒めを守り、主の道を歩み、彼を畏れなさい。

申命記7.6 ~ 9、8.2 ~ 6(キリスト教)

主は母の胎にある私を呼び、母の腹にある私の名を呼ばれた。私の口を鋭い剣として御手の陰に置き、私を尖らせた矢として矢筒の中に隠して、私に言われた。あなたは私の僕、イスラエル、あなたによって私の輝きは現れる、と。

こう言われる。私はあなたを僕として、ヤコブの諸部族を立ち上がらせ、イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。だがそれにもまして、私はあなたを国々の光とし、私の救いを地の果てまで、もたらす者とする。

イザヤ書49.1 ~ 3、6 (キリスト教)

― み言選集 ―

歴史上に勝利したという立場に立ち、「私達の民族は勝利した民族だ」という内容を提唱した宗教はありません。ユダヤ教以外にはないのです。ヤコブの時代に来て、天使と闘って勝ったのです。天使と闘ったのです。人間世界と闘ったのではありません。霊的世界です。見えない霊的世界の実体存在である天使と闘って勝ったというのです。地上世界の人と闘って勝ったのではありません。霊的世界と闘って勝利した一つの代表的な民族として地上に登場し始めたのがイスラエルの国だったのです。ユダヤ教とユダヤの国を中心に、アダムから22 代を経たのちにイスラエルの国の歴史が始まったのです。

そのようにしてイスラエルという名前を中心に今まできた、神様の選択を受けた民族だというのです。選民思想が透徹した民族として、2000 年間さまよいながらも自分たちのその伝統的歴史を喪失しませんでした。どの環境、どこに行っても、神様に選ばれた民族だということを一辺倒で主張するのは、歴史時代に、いかなる民族からも見いだせません。

(149-85、1986.11.17)

神様がこの地上に、万民がイスラエル民族を称賛するようにと立てたのです。万民がイスラエルを見習い、イスラエルを神様と同じように称賛してくれることを願いました。ところが、イスラエル民族は、そのようこな伝統の歴史を立てられませんでした。神様の愛を通して、チャンピオンの立場であるイスラエル圏はヤコブから始まりましたが、そのヤコブの代を受け継いだイスラエルの民たちは、そのようにできなかったのです。

彼らは、神様のみ旨と神様の摂理を中心として神様を愛し、神様のみ旨を愛するにおいて、世界のいかなる民族よりも優れていなけれはなりません。ところが、イスラエル民族はどのようになりましたか。自分たちが選民だという選民圏は高めましたが、神様のみ旨のための使命と召命圏を忘却したのです。

彼らを選民として立てたのは、神様の代わりに世界を愛し、神様の代わりに愛の中心になるようにするためでした。それにもかかわらず、彼らはその使命を果たせませんでした。その召命圏の位置に高く上がっていき、それを中心に万民をすべて愛さなければならない民族が、愛さずに愛されようとしたというのです。

(169-265 ~ 266、1987.11.1)

それでは、選び立てられたイスラエルの国とイスラエル教団が行かなければならない道とは何でしょうか。それは宇宙的なものです。使命が宇宙的だということです。イスラエルという特定の民族が選ばれたとしても、その特定の民族のために行かなければならないのではなく、人類のために行かなければならない道だというのです。

(168-304、1987.10.1)

2. ユダヤ人の苦難

― 宗教経典 ―

我らが敵から敗走するままになさったので、我らを憎む者は略奪をほしいままにしたのです。あなたは我らを食い尽くされる羊として、国々の中に散らされました。御自分の民を、僅かの値で売り渡し、その価を高くしようともなさいませんでした。我らを隣の国々の嘲りの的とし、周囲の民が嘲笑い、そしるにまかせ、我らを国々の嘲りの歌とし、多くの民が頭を振って侮るにまかせられました。

辱めは絶えることなく私の前にあり、私の顔は恥に覆われています。嘲る声、ののしる声がします。報復しようとする敵がいます。これらのことがすべてふりかかってもなお、我らは決してあなたを忘れることなく、あなたとの契約をむなしいものとせず、我らの心はあなたを裏切らず、あなたの道をそれて歩もうとはしませんでした。あなたはそれでも我らを打ちのめし、山犬の住みかに捨て、死の陰で覆ってしまわれました。このような我らが、我らの神の御名を忘れ去り、異教の神に向かって、手を広げるようなことがあれば、神はなお、それを探り出されます。心に隠していることを神は必ず知られます。

詩篇44.11 ~ 22(キリスト教)

イスラエルの民をオリーブの木に例えることができる。オリーブが強い圧力を受けるとき、あぶらを吹き出すように、イスラエルの民も苦痛を通してこそ、義人の姿に戻っていく。

タルムード、ムナホート53b (ユダヤ教)

「私は恋に病んでいますから」(雅歌2 章5 節)。イスラエルの人々が聖なる主、神の前で言った。「万宇宙の主人よ、私に与えられたすべての疾病が、私をしてあなたにより愛されるようにしてくれました」。また他の聖句でイスラエルの人々は聖なる主、神の前でこのように言った。「万宇宙の主人よ、私にこの国が与えているすべての苦難の理由も、私があなたを愛するからです」。

雅歌ラッバー2.5(ユダヤ教)

私達は羊の群れ。道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。その私達の罪をすべて、主は彼に負わせられた。

イザヤ書53.6(キリスト教)

― み言選集 ―

イスラエルの宗教を中心として見るとき、世界には数多くの宗教があります。仏教が現れており、儒教が現れており、ヒンドゥー教が現れているのです。このように宗教が多いといっても、これらの宗教が戦うのではなく、これらを収拾して一つの世界に行かなければならない、全世界の人類がみな分かれて戦うのではなく、一つにしなければならない、宗教と宗教が戦うのではなく、一つにしなければならないという思想がなければなりません。

宗教を一つにできる思想があると同時に、すべてのイスラエルは民族を糾合して一つにし、引っ張っていける思想がなければならないのです。神様の創造理想実現は世界的であり、人類的であるために、その創造理想に一致できるこのような思想的内容をイスラエル教団とイスラエル民族がもたなければならなかったのです。

(168-304、1987.10.1)

世界歴史路程において一番根気よく、長い歴史をもった単一民族(注28)として滅びずにもちこたえてきた国が何カ国になりますか。総合して見るとき、ユダヤの国がそうです。2000 年の開国がなく、数多くの国の馬のひづめに踏まれて血を流し、虐殺に遭い、ありとあらゆる虐待をうんざりするほど受けましたが、いまだにその伝統と威信と姿勢を喪失せずに堂々と残っている、世界の流浪の孤客となっても自分の主導的な民族性をもったまま残っている民族が、ユダヤ民族です。

そのユダヤ民族がそのように苦労して何をしますか。迫害が加重されれば加重されるほど、その刺激によって、この世界を支配することのできるお金が必要だということ、内的な知識が必要だということを、いつも考えたのです。

そのためユダヤ民族は乞食の生活をしながらも、息子を勉強させたのです。そのことをしたのです。お金をもうけなければならなかったのです。「徹天之恨」を解くために、「私が頼る力の杖は、お金であり知識である」と考えたので、そこにすべてのものを集結できる立場に、行くまいとしても行かざるを得なかったのです。

そのような立場で、神様が罰としてユダヤ民族をそのように苦労させるのか、そうでなければ最後まで耐えて残る民族にするために訓練させたのでしょうか。このような問題を取り上げてみるとき、神様が愛されてそのような訓練をさせたなら、世界を制覇できる祝福は、そのようにうんざりするほど苦労した民族が受けるだろうということは、当然の結論です。

神様のみ旨を見るとき、神様が道しるべを立てるのは、道しるべをして山を占領し、占領した特権的な権威をみなもたせるためであり、道しるべの使命のみ賦与するためではないというのです。道しるべの使命のみをするための特殊民族は、その民族の道しるべ的な立場だけの特殊民族です。それをみな済ませたのちに、万民を特殊的な価値と栄光の位置に立てるためのものが神様の救援摂理です。これを考えるとき、その特殊的な民族の内容はどのようなものでなければならないのでしょうか。万民を包括することのできる自主的な力量をもたなければなりません。それをもてなければ、この世界を消化することはできないでしょう。

(81-190 ~ 191、1975.12.28)

すべての宗教を糾合するための神様のみ旨があったことを知らなければなりません。イスラエル民族を犠牲にさせることによって、世界を一つに糾合しようとされた神様のみ旨がありました。600 万が問題ではありません。宗教を一つにすれば、人類が一つになることができるのです。

そのように宗教を糾合する中で、ユダヤ教はどれくらい団結したでしょうか。最も強く団結した宗教団体です。いかなる宗教団体よりも彼らは直接苦難を受けたので、最も強く一つになることができるユダヤ教になったのです。宗教を一つにするにおいて誰が中心の位置に立てるのでしょうか。ユダヤ教が中心の位置に立たざるを得ません。これが摂理的な観点から見たレバレンド・ムーンが説明する結論です。

(105-126 ~ 127、1979.10.4)

3. ユダヤ教とキリスト教の関係

― 宗教経典 ―

私はキリストに結ばれた者として真実を語り、偽りは言わない。私の良心も聖霊によって証ししていることですが、私には深い悲しみがあり、私の心には絶え間ない痛みがあります。私自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。

では、尋ねよう。神は御自分の民を退けられたのであろうか。決してそうではない。私もイスラエル人で、アブラハムの子孫であり、ベニヤミン族の者です。

福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています。神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順によって憐れみを受けています。

それと同じように、彼らも、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです。神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。

ローマの信徒への手紙9.1 ~ 5、11.1、11.28 ~ 32(キリスト教)

― み言選集 ―

今日、ユダヤの民がこの地上に生きています。ところで、その民族は神様のみ旨に背いた民族なのに、どうして神様は彼らを捨てることができないのでしょうか。もちろんユダヤの民が横道にそれたのですが、神様が選んだ選民として神様のために変わらない心をもってきたからです。天に反対する立場にいますが、いつしか神様を尋ね求めていくようになるときは、どの民族よりも神様が忍耐したこと、耐えられたことを任せることのできる民族なので、摂理の道に背きましたが、捨てることができないのです。

歴史過程でいかなる逆境がぶつかってくるとしても、天のために摂理歴史のために歩んでいく民族がいるとすれば、その民族は世界を支配するでしょう。自分たちがもつ決心と覚悟が天のために生きる心が根拠になっている限り、一時、神様のみ旨に背き、サタンの使いをしたとしても、最後まで忍耐できる貞節をもっていけば、サタンは結局、屈服してしまうのです。サタンは忍耐しようにも忍耐できず、我慢しようにも我慢できません。サタンが忍耐でき、我慢できれば、神様に背いて6000 年の歴史を逆らってくることはなかったでしょう。

神様を中心とする民族がいかなる逆境にぶつかっても、自分の民族が天の選民だということを主張すれば、その民族は世界からいなくならないでしょう。今日、ユダヤの民が世界の経済圏を握り、それ以外の様々な分野で主導権を行使できるのも一理があることを皆さんは知らなければなりません。

(4-243 ~ 244、1958.5.18)

ユダヤ教は旧約を中心とするみ旨の先祖なので、第一世型の長兄であり、キリスト教は新約を中心とする第二世型の次男であれば、統一教会は約束を成す成約の内容を備えた第三世型の末弟です。この三つの宗教はみ旨の三兄弟なので、彼らの母体であるイスラエルとアメリカと韓国はみ旨の三兄弟国になるのです。ですから、UNでサタン側の共産圏からこの三カ国が同じように追われているのは、み旨的に共同運命にあるからです。この三カ国が一体化して手を結び、UN本来の使命と機能を回復し、内的には宗教を統一し、外的には世界統一を成し遂げなければなりません。

(88-211, 1976.9.18)

4. イスラエルの地

― 宗教経典 ―

シオンのために、私は決して口を閉ざさず、エルサレムめために、私は決して黙さない。彼女の正しさが光と輝き出で、彼女の救いが松明のように燃え上がるまで。諸国の民はあなたの正しさを見、王はすべて、あなたの栄光を仰ぐ。主の口が定めた新しい名をもって、あなたは呼ばれるであろう。

あなたは主の御手の中で輝かしい冠となり、あなたの神の御手の中で王冠となる。あなたは再び「捨てられた女」と呼ばれることなく、あなたの土地は再び「荒廃」と呼ばれることはない。あなたは「望まれるもの」と呼ばれ、あなたの土地は「夫を持つもの」と呼ばれる。主があなたを望まれ、あなたの土地は夫を得るからである。

イザヤ書62.1 ~ 4(キリスト教)

あなたの神、主はあなたの運命を回復し、あなたを憐れみ、あなたの神、主が追い散らされたすべての民の中から再び集めてくださる。たとえ天の果てに追いやられたとしても、あなたの神、主はあなたを集め、そこから連れ戻される。あなたの神、主は、かつてあなたの先祖のものであった土地にあなたを導き入れ、これを得させ、幸いにし、あなたの数を先祖よりも増やされる。

申命記30.3 ~ 5(キリスト教)

われはその後、イスラエルの子らに言った、「この地に住みつけ、だが来世の約束が来るとき、われはなんじらを一雑群にするであろう」。

クルアーン17.104 (イスラーム)

私達の霊魂のルネサンスとともに世界の文明は新しく生まれるだろう。争いは終息し、私達の復活とともにあらゆる生命体が新しい誕生の喜びで満たされるようになるだろう。宗教は新しく貴重な衣服に衣替えし、汚れて、みすぼらしく、不潔なすべてのものを脱ぎ捨てるだろう。太初に人類のためにイスラエルの井戸端に準備した高潔な光の露を飲み、すべてが和合するだろう。人類に向かうアブラハムの壮健な祝福が実現され、これによリイスラエルの地に新しい豊かさが訪れるだろう。

アブラハム・イサク・グク、シオン主義

― み言選集 ―

イスラエルはどんなに難しい時代と環境を経たとしても、自分たちが選民であるという意識を失いませんでした。行くところ行くところで迫害と悲しみがいつでも彼らを待ち受けていましたが、彼らはその悲しみを通して一日の希望を標準として行ったのです。

その悲しみが彼らを落胆させたのではなく、かえって彼らを団結させ、難しい環境を打開させる歴史的な闘争過程を越えさせたという事実を、私達は知っています。そのため、悲しみというものは落胆の条件になることもできますが、目的をもっていく人には、かえってそれが目的を成就させることのできる内的な力を結成する条件になるという事実を、私達は知らなければならないのです。

それではイスラエル民族が念願したものは何でしょうか。唯一神を中心として国家と民族が心情一致した理念圏内に立つことでした。それを追求してきながら、彼らは死んだとしてもそれを胸に抱いて死にました。そのみ旨を成せないことを恨として残しました。彼らが死ぬとき、父母としてあるいは何らかの指導者として、子孫の前にそのみ旨を成し遂げることを、遺言として残しました。このようなことを見てみるとき、悲しい歴史過程を経てきた民族であればあるほど、その歴史過程を通して世界的な勝利の基盤を迎えることができるという事実を、私達は推測することができるのです。

しかし、彼らは国のない中で悲しい運命にぶつかればぶつかるほど、自分たち民族に現れる環境を眺めれば眺めるほど、いつも国家観念をもち、同族愛を増していったのです。その悲しみにぶつかることによって、新しい国家を追求するようになり、自分たちが拘束された環境を打破して解放された新しい環境を追求することができたのです。その悲しみが正にそのような動機となったのです。そのような民族はいつの時か必ず勝利の一時を迎えるということを、私達は知らなければなりません。

(30-247 ~ 248、1970.3.29)

イスラエル民族は、主に会えば、イスラエル民族を中心として天下統一をすると思っていました。愛するものに自分自身を投入し、歴史を再創造して愛の対象を求めていくのが神様のみ旨だということを知らなかったのです。来られる主と共に、イスラエル民族を中心として投入し、ローマとアジアを統一しようという神様の摂理を知らなかったので、イエス様を殺害したのです。

イエス様を殺害することによって、イスラエル民族は2000 年間さまよい、馬蹄で踏み殺され、銃剣で撃たれ、引き裂かれて殺害される、あらゆる屈辱を受けました。その後、主が再び来ることができる再臨時代の1948 年度を中心として、韓国の独立と同じイスラエルの独立が訪れるのです。

(208-286 ~ 287、1990.11.20)

イエス様が来られた目的とは何かというと、国を取り戻すことです。氏族的メシヤは、イエス様がイスラエルの国とユダヤ教を中心として国を取り戻すことができなかったので蕩減しなければなりません。そのような面から見るとき、祝福家庭はイエス様の立場に立つので、国を復帰しなければならないのです。

イスラエルは南と北に分かれています。北朝の10 支派と南朝の2 支派に分かれています。レアとラケルによって一つにならなければならなかったのが、戦争によって国家的な基準で分割されてしまったのです。モーセの時代にそのようになりました。イエス様は、そのような立場で亡くなったのです。それを象徴するのが右側の強盗と左側の強盗です。

それがカイン・アベルの立場で世界的な基準になっているので、その基準の上に再臨主が来て転換し、勝利圏を成して統一しなければならないので、再臨主の使命をもつ人は、共産主義を整備しなければなりません。それで先生は、共産主義を打倒する世界一のチャンピオンとして働かざるを得ませんでした。

そして、民主主義を一つにしなければならず、世界を一つにしなければならず、アメリカさえも収拾してあげなければなりません。そして、宗教界と政治界がすべて一つにならなければなりません。今、イスラエルとキリスト教が怨讐でしょう? イスラエルとイスラーム圏の中東が怨讐関係です。これを平和にしなければなりません。

(250-331、1993.10.15)

8) キリスト教

キリスト教は、文鮮明先生が受け継いだ宗教であるため、ほかの宗教より深く語ることができる。先生の主な教えも、キリスト教の性格と関連したキリスト教の核心的伝統、教会一致、キリスト教の世界福音化などと直接関連している。

キリストの例に見るようにキリスト教の核心伝統は愛と犠牲である。キリスト教徒は、イエス様がそうしたように、自分の十字架を背負うことや、神様のみ旨のために苦痛を受けるのを躊躇したり恐れたりしない。したがって、キリスト教は簡単で平安な宗教ではなく、常に献身と勇気、そして確信が必要な宗教である。キリスト教徒の愛は、キリスト教の根本的な核心伝統だ。イエス様は、弟子たちに怨讐を愛し、自分を陥れ、傷つける人を赦しなさいと教える。キリストの愛を実践するキリスト教徒の教えは、真に崇高で美しいものである。

しかし、キリストの愛が完全に実践されず、時にはほかの教会信者と共感帯を形成できず、キリスト教は、草創期から内部葛藤の問題を内在していた。キリスト教の愛より教理の潔癖主義と教派の利益を前面に立てながら、教会は互いに争い、迫害し、全般的にキリスト教に大きな被害を与えた。文鮮明先生は、キリスト教の核心真理を明確に解明しながら、愛の実践と教会一致のために献身してきた。

キリスト教は、全人類を救援する世界的使命をもっている。文鮮明先生にとってこれは福音を説教したり、異教徒を改宗させる問題ではない。今日、世界の多くの宗教の中で、地球上のあらゆる文明を民主的価値と愛と博愛の倫理で導いたのは、キリスト教の輝かしい貢献である。教会の究極的使命は、このような価値の土台の上に、イエス様が再び降臨するときに立てられる神様の地上天国を準備することである。

この項目は、教会の使命成就に対する成功と失敗の記録として、キリスト教の歴史を示している。キリスト教の歴史は、少なくない欠陥を露呈させた歴史だった。教会が権力と富、そして世の中の権威という世俗的価値を追求したときは、失敗し続けた。反面、教会がキリストの犠牲と伝統を中心として真の信仰の自由を追求するときは一様に発展した。

このような歴史過程において、神様は権威あるキリスト教文明(草創期に中世時代のローマ・カトリックを通し、そして今日ではアメリカを中心とするプロテスタントを通して)を土台として神様の王権を立てようと試みた。ところが、バチカンの指導者たちが愛と犠牲など、イエス様の核心伝統に従う生き方より、権力と世俗的栄光をより追求していた中世文明は、消えた。今日、この世界を神様の王国に導く使命をもったキリスト教国家の代表国であるアメリカは、中世と似た試練に直面している。

1. キリスト教の核心的伝統 : 愛と犠牲

― 宗教経典 ―

自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、私の弟子ではありえない。

ルカによる福音書14.27(キリスト教)

私のためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。マタイによる福音書5.11~12(キリスト教)

そればかりでなく、苦難をも誇りとします。私達は知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望は私達を欺くことがありません。私達に与えられた聖霊によって、神の愛が私達の心に注がれているからです。

ローマの信徒への手紙5.3 ~ 5(キリスト教)

彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。信者たちは皆一つになって、すべての物を共有し財産や待ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。(注31)

使徒言行録2.42 ~ 47(キリスト教)

愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、私達が生きるようになるためです。ここに、神の愛が私達の内に示されました。私達が神を愛したのではなく、神が私達を愛して、私達の罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのように私達を愛されたのですから、私達も互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。私達が互いに愛し合うならば、神は私達の内にとどまってくださり、神の愛が私達の内で全うされているのです。

ヨハネの手紙一4.7 ~ 12(キリスト教)

だが、こうした愛の業、まさにその業のゆえに、一部の人たちからわれわれは刻印を捺されているのである。連中はいう。「見ろ、奴らは互いに愛し合っている」。そういう人々は互いに憎み合っでいるのだ。「奴らは仲間のためにならいつでも死ぬ覚悟でいやがる」。その連中は互いに殺し合う気持ちしかもっていないのだ。

テルトゥリアヌス護教論

キリスト教徒の血は、種子なのである。

テルトゥリアヌス護教論

― み言選集 ―

キリスト教は十字架で出発して、行く先々で打たれて血を流した。今日、キリスト教は、世界から打たれる立場をとらなければ世界を主管することができない。見てごらんなさい。一番多く倒れたバチカンの丘にキリスト教の宮殿が立ったではないか。

御旨の道、試験・試練

今日のキリスト教が世界的版図を成し遂げるまで、どれほど犠牲の代価を払ったか分かりません。殉教の祭壇に絶えず犠牲にさせることによって、悲惨なその喚声が地球上に響き渡り、その泣き声が聞こえない所がないほど歴史を傷つけてきたのです。そのような血の祭壇が連続し、今日、目前にまで到達した歴史的な恨が絡まっていることを知らなければなりません。これを受け継いで解怨しなければならない厳粛な歴史的課題を抱えている私達は、神様を解放し、キリスト教を再び解放しなければなりません。

(210-361、1990.12.27)

ゲッセマネの園で血涙を流して祈祷されるイエス様の姿、ゴルゴタに向かって十字架を背負っていかれるイエス様の聖なる姿を通して、イスラエル民族は天に背いた反逆の群れになりましたが、彼らを立てるために苦労された神様の悲しい歴史が引き継がれたのです。この涙の歴史、この汗の歴史、この血の歴史を相続されたのがキリスト教だということをはっきりと知らなければなりません。このような内容を知らない人は滅びます。イスラエル民族がこれを知らずに滅びました。皆さんも、ただ聖書や賛美歌だけを聞いて教会に出入りするのではなく、血を流す神様を身代わりしたイエス様を知り、涙を流す神様を身代わりしたイエス様を知り、汗を流す神様を身代わりしたイエス様を知らなければなりません。このような犠牲と死で世界を占領していくのがキリスト教の伝統であり、神様が人間を取り戻してこられる伝統的な路程です。

(10-281、1960.11.6)

今日、キリスト教がすべきことは、苦痛が伴うことをどのように消化するかが問題です。天の心情を引き込み、「お父様! イエス様が十字架の苦痛を堂々と越え、死の伝統を堂々と越え、かわいそうな万民のために祈ることができたように、私達もそのような立場でイエス様がもっていた心をもつようにしてください」と思える心をもつこと、問題はそれです。

(7-96、1959.7.19)

キリスト教徒たちが好んで語る聖句は、ヨハネによる福音書第3章16 節です。そこに「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」とあります。今、キリスト教徒たちは、「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」ことを忘れてしまっています。

この世というのは、この宇宙全体を意味するのです。この世を愛されてイエス様を送ったのです。教会を、ユダヤ教を、ユダヤ人をこのように愛したのではなく、この世を愛してひとり子を送ったという事実を忘れてしまっているのです。

イエス様は、どのような方ですか。世界の中心になる存在です。世界を救うために来た方です。イエス様を信じるというその信仰の中には、世界がすべて入っていくのです。神様も入っていき、この地も入っていき、全体が入っていくという概念を知らずにいます。

(124-294、1983.3.1)

2. キリスト教の一致

― 宗教経典 ―

体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。

エペソの信徒への手紙4.4 ~ 6(キリスト教)

従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。

エぺソの信徒への手紙2.19 ~ 22(キリスト教)

彼らのためだけでなく、彼らの言葉によって私を信じる人々のためにも、お願いします。父よ、あなたが私の内におられ、私があなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らも私達の内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたが私をお遣わしになったことを、信じるようになります。

あなたがくださった栄光を、私は彼らに与えました。私達が一つであるように、彼らも一つになるためです。私が彼らの内におり、あなたが私の内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたが私をお遣わしになったこと、また、私を愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。

ヨハネによる福音書17.20 ~ 23(キリスト教)

あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。

コロサイの信徒への手紙3.12 ~ 15(キリス教)

― み言選集 ―

キリスト教は、「教会はイエスの体である」とこのようなことを言っています。この家が、教会がイエスの体なのかというのです。イエスの体とはどのようなものですか。それは教会員たちです。人です。人がイエスの体なのです。それでは、それがどうしてイエスの体なのですか。イエスの体を中心とするその場に私が代表として立てば、その場に一緒に立っているイエスの体は、人々を代表して立ったものなので、イエスの体の位置に私が入っていくのです。

このように見るとき、二つの教会があり得ますか。今日、たくさんの教派がありますが、これはすべて正しいことではなく、間違った教会であることを知らなければなりません。このようなことを考えるとき、このような内容を見るとき、今日のキリスト教に分派が多いという事実は、イエスが最も悲しむ事実であることを知らなければなりません。それは何を意味するのかというと、イエスの体をばらばらに引き裂いてしまったということです。2000 年間、キリスト教がしたことは祭物……。

イエスの体と同じ祭物を再び捧げ、勝利の祭物基盤を捧げて越えていくべき世界的な一つの宗教、一つのキリスト教にならなければならないのですが、このようになったという事実は、イエスにとってとても悲痛なことであり、神様にとってとても悲痛な事実だということを知らなければなりません。ですから、イエスが心であれば、今日のキリスト教は何ですか。体です。それでは、心と体が別になれますか。なれません。どのようにならなければなりませんか。一つにならなければなりません。

イエスが今までキリスト教を中心としてきた主目的は何ですか。神様は私の神様であり、私達のお父様であり、人類は私達の兄弟であり、この地は私の地だというその観念でした。それ以外にはありません。今日、キリスト教徒たちがこのような思想を受け継がなければならないのです。世界は私の世界であり、万民は私達の兄弟であり、神様は私達のお父様、それで、一つの家の家族にならなければならないというのが神様の思想であり、イエスの思想であり、キリスト教の思想だというのです。教派が問題ではありません。教派をなくしてでも、民を取り戻さなければならず、教派をなくしてでもこの地を取り戻さなければならないことを知らなければなりません。

(93-12 ~ 25、1977.5.8)

今日、キリスト教の多くの教派はなぜ生じたのでしょうか。キリスト教の中で教派が生じたという事実は、怨讐を愛しなさいというキリスト教の教理とは違います。キリスト教の教理は、怨讐を愛しなさいという教理です。自分の教会内では愛するかもしれませんが、キリスト教徒同士で争っています。あなたの兄弟を愛しなさいと言いました。キリスト教の兄弟はキリスト教です。長老派は監理教、監理教は聖潔教、すべて兄弟だというのです。

(107-20、1980.2.21)

神様にとって重荷は何ですか。神様にとって重荷とは何か考えてみましたか。それは滅びるキリスト教と多くの宗教が問題だということです。宗教をどのように一つにするのかということが一番の問題なのです。

神様は、宗教をどのように一つにするかということのために頭を痛めていらっしゃるのですが、監理教が、「天のお父様! ほかのキリスト教ではなく、私達監理教に福を下さい」と言えば、それが神様の耳に入っていくでしょうか。400 以上の宗派の中の一つの宗派です。そのようなことを見るとき、神様は「ええい、こいつ!この教派主義者たち! 自分たちのために祈祷する前に、まずキリスト教を一つにしなさい! 一つにしてから祈祷しなさい」、そのように思われるのです。

「そのようにすれば、私が一度祈祷を聞いてあげよう」、このように思われるというのです。キリスト教が一つになったところで、「神様、私達キリスト教を通してあなたが最も頭を痛めた重荷である宗教を一つにするために私達に力を下さい! 能力を下さい! 一つになるように協助してください!」と言うとき、天が「お前の祈祷は正しい」と言うのであって、「ええい、こいつ。欲が深い。そのような祈祷は役に立たない」と言われるでしょうか。ですから、神様は教派を崩すことのできる人が出てくるのを願っていらっしゃるのです。教派を崩して一つにできる人が出てくることを待っていらっしゃるというのです。

(98-114 ~ 115、1978.5.7)

それで、世界のキリスト教を統一するときは、神霊で一つにするのです。それで神霊協会なのです。拳で統一するのではなく、銃剣で統一するのではなく、神霊で統一するのです。何で統一するのかというと、人間の力ではできません。これは霊的世界を動かしてこそ可能です。

キリスト教を統一しようとすれば、統一できなかったキリスト教の内容を完全に除去させて、統一できる内容だけを残しておけば統一されます。統一できないものを除去し、統一できるものだけを残しておけば統一されるようになっています。ですから、ここには全世界のキリスト教がもつことができない新しい真理体系、旧約聖書から新約聖書に、そしてこれからの未来に連結される聖書体系に至るまで、新しい観を形成しなければならないという言葉が成立するのです。その観自体が神様の見る観であり、霊界が見つめる観でなければならないのです。

霊界の協助を受けようとすれば、神様が協助しようといって立ち上がらなければなりません。神様が霊界の王としていらっしゃるなら、王が「う~ん」と言っているのに、部下たちがいくらやってもそれは駄目です。その王である神様が興奮して、「それはそうだろう! 私の時が来た」、このように気分を良くしてこそ、その部下の霊界がすべてついていって一つになれるのであって、神様が反対しているのに、霊界が協助することはできません。神様が心の中で旧約聖書と新約聖書の内容を骨子にまとめたものを鑑定されるとき、「ああ、その人は正しい。統一教会はなかなかいい」という、このような何かがなければなりません。

(113-97、1981.5.1)

3. 世界に対する教会の使命

― 宗教経典 ―

主である私は、恵みをもってあなたを呼び、あなたの手を取った。民の契約、諸国の光として、あなたを形づくり、あなたを立てた。

イザヤ書42.6 (キリスト教)

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。

ヨハネによる福音書3.16 ~ 17(キリスト教)

つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉を私達にゆだねられたのです。ですから、神が私達を通して勧めておられるので、私達はキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。

コリントの信徒への手紙二5.19-20 (キリスト教)

イエスは、近寄って来て言われた。「私は天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を私の弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

マタイによる福音書28.18 ~ 20(キリスト教)

使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアめ全土で、また、地の果てに至るまで、私の証人となる。」

使徒言行録1.6 ~ 8(キリスト教)

― み言選集 ―

皆さん、キリスト教徒、イエス様を信じる人たちが一般社会の人よりも悪いという評判を聞いたことがありますか。それはどういうことかというと、神様を信じるという人たちがもっと悪だ、もっと利己主義だということです。

アメリカの人たちがなぜ個人主義になったのですか。イエス様が個人主義者ですか。神様が個人主義ですか。ところが、なぜイエス様をよく信じる国家を代表するアメリカの人たちがなぜ個人主義になったのですか。イエス様を信じたのなら、そのような人になりません。イエス様を信じているのに、なぜそのようになったのですか。それは端的に何を意味するのかというと、神様を信じることを利用したのであり、イエス様を信じることを利用したのです。自分の利益のために信じたという結論にしかなりません。

(124-294、1983.3.1)

それでは、祭物とはどのような存在ですか。受けられる神様が喜ばれ、万民が喜んだのちに、初めて頭を上げる存在です。ところが、今日のキリスト教が、神様が喜ばれる前に頭を上げ、万民が喜ぶ前に頭を上げたのなら、崩れます。

キリスト教が万民のために奉仕しなければならない使命を負っているのに、そうすることがでぎずにいれば、万民のために祭物にならなければならないのに、そうすることができずにいれば、改革すべき時が来るのです。

ですから、万王の王であり、天の皇太子であるイエス様も喜ぶことができずにいます。なぜかというと、祭物として来られたためです。霊界に行っても、神様は喜ばれ、地上の聖徒は喜んでも、祭物であるイエス様は喜べません。神様と万民が喜んだのちにこそ、初めてイエス様が喜ぶことができる日が来るのです。その日が再臨の日です。これが祭物の行く道です。

(5-79-80、1958.12.21)

イエス様のような方は、ユダヤ教はもちろん、イスラエルの国とローマの国のすべての人々が死の道へ追いやったのです。しかし、彼が行った道は天道に従って行った道であり、価値のない人生として行った道ではなく、崇高で、無限の価値の基準をもって行った道です。

その価値の基準は、全世界が願うことのできる中心内容をもったものなので、彼の教えは、必ず人間が求めるべき希望の基準であり、求めるべき真の道なので、その教えを通して世界が統合され、今日の民主世界が創建されたという事実を皆さんは知らなければなりません。

(41-70、1971.2.13)

キリスト教文化圏は、この世界の終わりの日に名実共に世界的な文化圏になれるのです。また、全世界の国家は、この文化圏を中心に基盤を定めざるを得ません。

(39-44、1971.1.9)

今日の皆さんは、そのような物質的な闘争を踏み越え、イエス様の天国の理念に従っていかなければならず、さらには、全世界のキリスト教徒と力を合わせ、神様の国をこの地上に建設しなければならないのです。

言い換えれば、イエス様が、昔のイスラエルの全体的な価値と比喩できるユダヤ教団と一つになり、世界を復帰すべき使命があったのと同じように、今日の全世界のキリスト教徒たちにも、世界を代表できる民主主義の理念と、またその民主主義理念の基本となっているキリスト教の理念を中心として一つに団結し、神様の国をこの地上に建設しなければならない使命があることを知らなければなりません。

(3-123 ~ 124、1957.10.13)

4. キリスト教の歴史 : 勝利主義、腐敗と更新

― 宗教経典 ―

私も言っておく。「あなたはペテロ。私はこの岩(注32)の上に私の教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。私はあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」

マタイによる福音書16.18 ~ 19(キリスト教)

真昼の太陽の頃で、一日がすでに午後になりはじめていた頃、コンスタンティヌスによれば、彼らはまさしく己の目で、ほかならぬ天に、太陽の上に懸かる、その形状が光で示された十字架のトロパイオン(トロフィー)を目にされたのです。それには「これにて勝利せよ」と書かれておりました。彼と兵士全員がその光景を見て驚愕しました。兵士はそのとき、彼がある場所に率いて行く遠征に同道していて、その奇蹟を目にしたのです。

エウセビオスコンスタンティヌスの生涯

真の信仰は、聖なるカトリック聖徒たちの教会がただ一つしかないことを信じさせる。私達は確信をもってこれを信じ、率直に告白する。教会の外では、いかなる救いも罪からの赦免もあり得ない。したがって、今私達は宣布し、決定し、はっきりと言う。すべての人類は救いのために必ずローマ聖職者の権威に服従しなければならない。

ボニファティウス8 世唯一の聖なる

信仰を保護するために世俗の権力者たちは、教会が明示した異教徒たちが占領する区域を打尽するために最善の努力をすると公に誓い、努力しなければならないだろう。

第4 ラテラノ公会議、カノン3

ローマ人たちは、賢く自分たちを取り囲む三つの壁を築いてきた。……第一に、世俗の権力が彼らに対する法的権利をもてないようにした。……第二に、ただ教皇だけが聖書を解析できるようにした。第三に、教皇以外に誰も審議を招集できないようにした。……したがって、必要性が提示されるとき、そして教皇が全キリスト教徒たちに反して行動するとき、能力のある人が全キリスト教の真の一員として、真の自由の審議会を招集するために最善を尽くさなければならない。世俗の権力も、誰もこれをすることはできない。

マルチン・ルター教皇権に対して宗教は、抑圧された生きものの嘆息であり、非常な世界の心情であるとともに、精神を失った状態の精神である。それは民衆の阿片である。

カール・マルクスヘーゲル法哲学批判序説

また神が私達を称讃と光栄の対象となし、後に続いて建設される植民地(プランテーション)について人びとが「主なる神はこれをニューイングランドの植民地のようになし給うた」というようになるとき、イスラエルの神が私達のあいだにい給うことを知るであろう。というのは、われわれは丘の上の町となり、あらゆる人の目がわれわれの上に注がれることを、考えねばならぬ。

ジョン・ウィンスロップキリスト教的慈愛のひな型

人間社会の出来事を司る、見えないその手を認め、敬拝する義務を合衆国の国民より多く負った国民はいません。合衆国の国民が独立国の地位に向かった一歩一歩が、神の摂理を見せてくれるある徴表をつけていたからです。

ジョージワシントン第1 期大統領就任辞

― み言選集 ―

中世の教皇庁を中心として見るとき、当時は既に腐敗して、彼らは教権と教条に縛られ、神様のみ旨は世界を救うことであるということを忘却してしまいました。世界は、すべてほうり出して、自分たちの権力、自分たちが築いてきた基盤が崩れないかと心配で、目を丸くしながら、そこに反対する者はすべて切ってしまいました。世界を救うためには、何倍もの犠牲を支払ってもかまわないと言ったのですが、自分たちの位置と栄光を得るために、その立場の擁護に陥ったのです。

神様が世界を救おうとするみ旨をもっていらっしゃるなら、これをそのままにしておいては何にもなりません。ですから、壊してしまうか、再び立て直さなければなりません。すなわち、新教運動を起こさなければならないのです。

ですから、マルティン・ルターのような人が現れて正面から衝突したのです。あなた方が愛する神様を私達が信じ、あなた方が愛するそれ以上に私達は世界的に平等な立場で自由な立場で指導しようと考えるのです。そのように考える人がいれば、神様は積極的に協助するのです。

(69-102 ~ 103、1973.10.21)

神様は、摂理の基点を失わないために、天を心配する一人の人、ルターを中心として宗教改革を起こしました。このように神様は、一方は滅ぼし一方は立てる摂理をしてこられたのです。そして、キリスト教を通して第2のイスラエル型を経るようにして、文芸復興を経て一大混乱を経験するようにしたのち、人本主義的理性哲学を中心とした啓蒙思想に敵対して立つことのできる摂理をしてこられたのです。

啓蒙主義者であるルソー、モンテスキューのような人たちは、キリスト教が破滅することを知りました。そうして、ドイツでは清廉な人物たちが現れ、神秘性を鼓吹しながら神様の実体的な内的体験を主張するようになりました。それが、英国を経てウェスレイ兄弟が復興運動を起こすようになりました。のみならず、クェーカー派を起こして神秘的な内的な体験をするようになったのです。

一方、人間は神様を愛することも忘れ、人間を愛する理性も忘れて、物質ばかりを愛する唯物思想的な主義にまで到達しました。堕落した人間であるとしても必ず本然の立場に帰っていかなければならないために、いつの時か、その物質を中心とした思想を打つ時が来るようになります。

(4-18、1958.2.16)

すべての人類の救済を標榜して、2000 年の歴史の渦巻の中で成長し、今や世界的な版図をもつようになったキリスト教の歴史を取りあげてみよう。ローマ帝国のあの残虐無道の迫害の中にあっても、むしろますます力強く命の光を燃え立たせ、ローマ人たちをして、十字架につけられたイエスの死の前にひざまずかせた、あのキリストの精神は、その後どうなったのであろうか。

悲しいかな、中世封建社会は、キリスト教を生きなからにして埋葬してしまったのである。この墓場の中から、新しい命を絶叫する宗教改革ののろしは空高く輝きはじめたのであったが、しかし、その光も激動する暗黒の波を支えきることはできなかった。初代教会の愛が消え、資本主義の財欲の嵐が、全ヨーロッパのキリスト教社会を吹き荒らし、飢餓に苦しむ数多くの庶民たちが貧民窟から泣き叫ぶとき、彼らに対する救いの喊声は、天からではなく地から聞こえてきたのであった。これがすなわち共産主義である。

神の愛を叫びつつ出発したキリスト教が、その叫び声のみを残して初代教会の残骸と化してしまったとき、このように無慈悲な世界に神のいるはずがあろうかと、反旗を翻す者たちが現れたとしても無理からぬことである。このようにして現れたのが唯物思想であった。かくしてキリスト教社会は唯物思想の温床となったのである。

共産主義はこの温床から良い肥料を吸収しながら、すくすくと成長していった。彼らの実践を凌駕する力をもたず、彼らの理論を克服できる真理を提示し得なかったキリスト教は、共産主義が自己の懐から芽生え、育ち、その版図を世界的に広めていく有様を眼前に眺めながらも、手を束ねたまま、何らの対策も講ずることができなかったのである。これは甚だ寒心に堪えないことであった。

のみならず、すべての人類はみな同じ父母から生まれた子孫であるという教理に従って、それを教え、かつ信じているキリスト教国家の国民たちが、皮膚の色が違うというただそれだけの理由をもって、その兄弟たちと生活を同じくすることができないという現実は、キリストのみ言に対する実践力が失われ、灰色に塗られた墓場のごとく形式化してしまった現下のキリスト教の実情を、そのまま浮き彫りにする代表的な例だということができよう。

原理講論、総序

中世時代にキリスト教は、この宗教の理念を中心として、その理念のもとにいる人々は上下を問わず吸収し、融合させなければなりませんでした。ところが、この目的を達成することができず、世俗的に堕落することによって、神様までも打つようになりました。もしローマ教皇庁が腐敗せず、自分たちがいるのは世界のためであり、自分たちがいるのは人類のためだという使命感をもち、自分たちが喜べば、自分たちが喜ぶ前に人が喜ぶことができるように、すなわち自分よりも人のために生きる思想を提唱していたなら、教皇庁は崩壊しなかったでしょう。

ところが、ローマ教皇庁がそのようにできなかったので、これをそのままにしておくことはできないので、神様が外的には文芸復興を起こして打たれ、内的には宗教改革を起こして旧教を打たれました。そうして、その後、イギリスを中心としてアメリカ大陸に渡り、キリスト教の理念を中心とする国家を建設するようになったのです。

すなわち、ローマの政治理念、キリスト教の宗教理念、ギリシャの知性主義が融合し、今日の全民主主義を支配する汎米主義が成し遂げられたのです。今後、アメリカが今日の民主主義を統合し、天倫と連結できるその時まで、国家的な使命を身代わりし、所有的な権限を代行できる責任を担おうとすれば、どのような思想をもたなければならないでしょうか。まず、自分第一主義の思想を捨てなければなりません。これがアメリカ国民にとって何よりも肝要なのです。

(5-22 ~ 23、1958.11.9)

9) イスラーム

今日、イスラームは、神様が経綸される摂理の中で重要な役割をしている。文鮮明先生は、キリスト教が衰退した今日、イスラームが相対主義時代に必ず要求される確固たる信仰と道徳的純粋性をもっていると語る。先生は、イスラーム世界を西欧の敵と見る「文明の衝突」の脚本を全的に拒否する。なぜならば、イスラームは神様の王国の一つの柱として霊的祝福を受けた高等宗教だからである。

イスラームは正義の宗教であり、その点から、過ちと威信をよく表すユダヤ教やキリスト教より優位であるともいえる。それでも、この時代は、人間の霊的支柱である三宗教が互いに和合することを要求する。文鮮明先生は、これらの宗教の間の葛藤の根源は、教理やムハンマドの使役をめぐる諸事件ではなく、現代世界で不可避に発生する葛藤の種としてイエス様の十字架を指摘する。イエス様の時代の過ちを解決するためには、その歴史の主役だったキリスト教とユダヤ教、そしてイスラームの子孫たちが共に行う努力が求められる。

1. 信仰と正義の宗教

― 宗教経典 ―

なんじらは、人類につかわされた最良の教団である。なんじらは正しいことを命じ邪悪なことを禁じ、神を信奉する。

クルアーン3.110 (イスラーム)

神は、なんじらに信仰が好ましく、またなんじらの心の中を、それにふさわしくたまい、なんじらに不信心と邪悪と反逆を、嫌わせたもう。これは正しく導かれた者であり、神からの恵みであり、恩典である。

クルアーン49.7 ~ 8(イスラーム)

「私達は、神と私達に啓示されたものを信じます。またアブラハム・イシマイル・イサク・ヤコブと諸支部族に啓示されたもの、ならびにモーゼとイエスに賜わったもの、および主から諸予言に下されたものを信じます。それらの間のいずれにも、差別をつけません。かれに私達は服従帰依し奉る」。

クルアーン2.136(イスラーム)

これはわれが下した、祝福された経典である。それゆえこれに従って、なんじらの義務を尽くせ、おそらくなんじは、慈悲に浴するであろう。これはなんじらに「経典はわしら以前に、ただ二つの宗派にだけ下された。わしらはかれらの学んだことが、ほんとうにわかっておらぬ」と、言わせないためである。

またなんじらに「もしわしらに経典が下されたならば、きっとかれらよりも、よく導きに従ったであろうに」と言わせないためである。いまなんじらの主から明証、ならびに導きと慈悲とがなんじらに来た。それでも神のしるしを偽りだとして、それからそむき去る以上に、はなはだしい不義者があろうか。

クルアーン6.155 ~ 157(イスラーム)

真の信者は、神のことに言及されるとき、その胸が畏敬の念でおののく者たちで、かれらにしるしが読唱されるのを聞いて、信心を深め、主に信頼する者たちである。礼拝の務めを守り、われが授けたものを使う者たちである。これらの者こそ、真の信者である。かれらは主のみもとで高い位階を得、また寛容と栄誉ある給養を賜わる。

クルアーン8.2 ~ 4(イスラーム)

なんじら信仰する者よ、正義にもとづいて立証し、神のために堅固に立つ者であれ、人を憎悪させて、なんじらが不公正にながれるよう刺激してはならぬ。正義を行え、それは最も篤信に近い、神を畏れまつれ。神はなんじらの行うことを熟知したもう。

クルアーン5.8(イスラーム)

― み言選集 ―

イスラームは、総合的な宗教です。キリスト教の新・旧約をすべて引き入れてつくった総合的な宗教ですが、それもやはり神様を中心としたものです。アラビア民族に適合した内容を土台として、神様を中心に、神様による絶対的な真の人間を構想し、求めてきたのです。

(39-316、1971.1.16)

ムハンマドを中心とするイスラームは、ほかの宗教の経典内容を引いてきて総合してつくった宗教なのです。ここには、聖書の内容もあります。したがって、この宗教は天使長格宗教です。宗教的な術語で天使長格宗教だというのです。ですから、このイスラームは共産党と野合するのです。したがって、この宗教は、今後変わっていく世界に火をつけることのできる予言的な宗教になるでしょう。

(39-42、1971.1.9)

イスラームとキリスト教徒は、1400 年の間怨讐です。イスラームでは、ほかの宗教に参席すれば死刑です。それにもかかわらず、シリアのイスラーム大主教が……。この人は、イランのホメイニのような人です。ローマ教皇庁で言えば、教皇のような人なのですが、その人が霊界から命令を受けました。その人は最高の修道生活をした人なのですが、第2次大戦以降、天からユダヤ教とキリスト教とイスラームが一つにならなければ大変なことになるという啓示を受けたのです。40 年前にその啓示を受け、それを推進したのです。

それを推進するとき、ユダヤ教の人たちは、「こいつ、私達を騙してのみ込もうとしている」とキリスト教の人たちは、「この人たちは私達と怨讐なのに、そのようなことができるか」と言いました。また、自派では、「ユダヤ教やキリスト教は私達と歴史的な怨讐なのに、彼らの側につくようなことをしているのか」と言いました。それで監獄にも何度か出入りしたのです。

宗教生活には啓示というものがあります。これは間違いない事実です。その人がそのような使命を受け、責任を果たさなければならないのですが、果たせずにいました。それで私が今やっている世界宗教連合運動のビデオを見て感動し、「ああ、この方を私は訪ねていかなければならない!」と思ったのです。その時がイランのホメイニが死ぬ何日か前でした。

(212-324 ~ 325、1991.1.11)

2. 既存の宗教を訂正し、立ち向かう宗教

― 宗教経典 ―

まことに神のみもとの教えは、イスラームである。経典を授けられた人びとが、知識が下った後に、相争うのは、ただかれらの間のねたみからである。神のしるしを拒む者があれば、神は、まことに精算に迅速であられる。

クルアーン3.19(イスラーム)

ユダヤ人は言う「キリスト教徒は、全くよるとこがない」と、キリスト教徒も言う「ユダヤ人は全くよるところがない」と、かれらは同じ経典を読んでいるのである。このように、知識のない人びとも、同じようなことを言う。だが神は審判の日に、かれらの間の異なるところを判決されるであろう。

クルアーン2.113 (イスラーム)

かれらは経典の中の字句の位置を変え、与えられた訓戒の大部分を忘れてしまった。それでかれらのうちわずかの者以外は、つねに背信しているのを、なんじは見るであろう。だがかれらを許して見のがせ。(注34)まことに神は善い行いをなす者をめでたもう。

われはまた「私達は、キリスト教徒だ」と、言う者とも約束を結んだ。だがかれらも与えられた教訓の一部分を忘れた。それでわれは復活の日(注35)まで、不和と憎悪とをかれらのあいだにこびりつかせた。神はかれらに、その行なったことをやがて告げ知らされるであろう。経典の民よ、なんじらが隠している経典の中の多くを、なんじらに解明し、緊要でない多くのものを、取消すために、み使いがまさになんじらに来た。

クルアーン5.13 ~ 15(イスラーム)

また神がこう仰せられたときを思え、「マリヤの子イエスよ、なんじは神のほかに、私と私の母とを二柱の神とせよと、人びとに告げたか」。(注36)かれは申し上げた「あなたにたたえあれ、私に権能のないことを、私として言うべきでありません。もし私がそれを言ったならば、必ずあなたは知りたもう。あなたは、私の心のうちを知りたもう、だが私はあなたの、み心のうちは知りません。まことにあなたはよろずの秘密を熟知したもう」。

クルアーン5.116(イスラーム)

神も終末の日をも信じない者と戦え、また神とみ使いから、禁じられたことを守らず、真理の教えを認めない者は、経典の民でも、進んで税を納め(注37)、屈服するまで戦え。ユダヤ人はエズラを、神の子だといい、キリスト教徒はメシヤを、神の子だという。これはかれらが口先で言うところで、いにしえの不信心な者の語をまねたものである。神よ、かれらを討ちたまえ。かれらは真理からなんと迷い去ったことよ。

かれらは、神をおいて、法学者や修道士を己れの主となし、またマリヤの子メシヤを主としている。しかしかれらは、唯一の神に仕える以外には、命ぜられていない。かれのほかに神はないのである。かれらが配するものから高くいますかれにたたえあれ。かれらは口先で、神のみ光りを消そうと望んでいるが、たとえ不信者たちが忌みきらうとも、神は、かれのみ光りを全うする以外のことは拒みたもう。

かれこそは、導きと真理の教えをもってみ使いをつかわしたまい、たとえ多神教徒たちが忌みきらうとも、よろずの宗教の上にそれを現わしたもう方であられる。

クルアーン9.29 ~ 33(イスラーム)

― み言選集 ―

天の国には、息子がいて、養子がいて、僕がいます。これが平面的に展開するのです。ここでメシヤは息子であり、洗礼ヨハネは養子であり、イスラエル民族は僕です。それでは、この三つが一つになり、誰と相撲しなければなりませんか。ローマと相撲をしなければなりません。ヤボク川で天使長とヤコブが闘ったのと同じように、そのような闘いをしなければなりません。その時、ローマの主権が疲弊し、あらゆる弱小民族が自主独立国家を主張できる準備が芽生えていたのですが、その時、イエス様がそのような運動をしていればアラブ圏がその時に完全に統一されていたでしょう。

怨讐に対抗することによって、怨讐を嫌う人同士は統一されるのです。大きな怨讐に対抗するとき、大きな怨讐に脅威を受けている群れ、怨讐に反対する群れは一つになるというのです。そこで、その三つの人が一つになっていれば、ローマは越えていけました。完全に越えていったというのです。ところが、洗礼ヨハネは洗礼ヨハネで、ユダヤ教はユダヤ教で、イエス様はイエス様で別々になったのです。

(111-151.1981.2.10)

イエス様が亡くなることによって、キリスト教が反対方向に行ってしまいました。アジアを中心として全世界を統治しなければならないのですが、イエス様が十字架に打ち付けられることによって、イエス様の体をサタンが占領してしまいました。イエス様の代わりにバラバを赦したでしょう? イエス様が亡くなることによって、バラバが解放されて出てきました。そのバラバ圏というのが今のイスラーム圏になっています。本来、イエス様が死なずに国を中心として一つになっていれば、今の中東のイスラム圏は12 支派に分割されず、神様の祝福を受けた都市になっていたでしょう。

(250-216、1993.10.15)

神様とイエス様は、怨讐を愛しなさいと言いました。キリスト教の怨讐は誰ですか。ミニスター・バラカンです。中国の怨讐は誰かというとソ連であり、ソ連の怨讐が誰かというと中国です。彼らを愛しなさいと言ったので、愛さなければなりません。レバレンド・ムーンがソ連と中国とアメリカを愛しました。

中国がアメリカを愛し、ソ連が中国を愛しますか。誰もできません。しかし、レバレンド・ムーンだけがやっています。それが神様のみ旨の前で一等になるのです。ですから、今は怨讐がありません。キリスト教圏、イスラーム圏、黒人世界と白人世界だけでなく、霊界の地獄までも怨讐がないのです。

(339-156 ~ 157、2000.12.10)

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