真なる子女の道_サ 女性の人格完成の道



サ 女性の人格完成の道

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 女性は半分なのです。男性を愛で消化することによって、円満な女性の人格が完成するのです。分かりますか? それゆえ、悪い女性は、たまには男性からぶたれなくてはなりません。尻にあざができ、ほっぺにあざができないといけないのです。そして、口はむやみに開けないで、じっとしていなければなりません。女性は口が武器なのです。それしかないのです。口が武器なのです。そして、表情が武器なのです。その二つなのです。分かりますか? それで、女性は言葉のために滅びることもあるのです。

 ご覧なさい。映画を見ても、一言も言わないでじっとしていれば消化できたのに、「アイゴー、出よう!」と言って、風呂敷を持って一度家を出て行ってしまえば、もう戻ってくることができません。息子娘がいても、「お母さんがそれでは、お父さんに冷たくされるのが道理です」と言われるようになるのです。ですから女性は、どんなことがあっても風呂敷を包んではいけないのです。

 お仕置きをされたとしても、決して風呂敷を包まず、布団に横になって寝込んでしまいなさい。横になって復讐するほうがよいのです。御飯を一週間くらい食べずに、けろりとして、すべてに干渉して、「ああ、今来られたのですか?」と言って、けろりとして食べないでいてみなさい。夫が眠ることなく一週間の間、見守っていて、和が生まれるのです。それは、どんなに素晴らしいことでしょうか? (笑い)為に生きながら復讐できるのです。

 ですから、「夫は悪者」と言う女性は、存在できないのです。「悪い夫であっても、私のために歴史的に訪ねてきた人であり、数多くの男性たちの旗を受け継いで、私という女性を訪ねてきてくださいました」と言わなくてはなりません。そのような旗を立てて、平和の王国を成し遂げよう、愛の国を成そうと、出会った二人なのです。これが夫婦なのです。愛は、生きていなければなりません。愛が死んでしまってはいけないのです。女性は半分なのです。分かりますか? 円の半分なのです。女性の行く道は、円の半分を描かなければなりません。男性を踏みつけて上がっていこうとするのはよくないことです。

 それでは、どのように上がっていくのかというと、男性が降りてこられるようにしておいて、次に、背負われていくのです。男性のために生きる人は、自然にその村でも上がっていけるのです。村の人々の前に、おじいさんの背中におぶさって上がっていくのです。家庭で、お母さんがそのような厚徳な心を持っていれば、三代以内で、その家門を受け継ぐことのできる長孫の息子娘が生まれるのです。そのような道理によって、三代で復帰するのです。復帰するということは、全体を支配できるので、三段階だけを越えることができれば、新しい希望の世界に連結されるのです。そして、螺旋形になって大きくなっていくのです。(一九八九・一・六)

 皆さんは愛の家を持っていますか? 君は、愛の家を持っているのですか? (探さなければなりません)。女性は、女性の愛の家を持ち、男性は男性の愛の家を持っているのです。しかし、女性が持っている愛の家は女性のものではなく男性の愛の家であり、男性が持っている愛の家は男性のものではなく女性の愛の家なのです。何のことか分かりますか? これが分からなければ大変なことです。交通違反になるのです。

 女性の愛の家はどこにあるのかといえば、女性にあるのではありません。入れ替わっているのです。それでは、なぜそのように交差するのでしょうか? 愛は、交差の過程を経なければならないからです。宇宙を連結させるためには、交差しなければならないのです。

 これは愛のみが可能なのであって、他のものではだめなのです。他のものにはできないのです。他のものは全部、皆さんのためにあるのです。目は誰のものでしょうか? (自分のものです)。自分の体は皆、自分のものだと言うのですが、愛だけは自分のものではないのです。愛だけは自分のものではありません。愛は、自分のものではないのです。全部が相対のものなのです。入れ替わっているのです。それが入れ替わっているために、交差点が生じてそれを拡大すれば、球形が現れるのです。

 旧約聖書には、聖所や至聖所という言葉がありますが、それは何を言っているのでしょうか? 聖所は人を象徴するものであり、至聖所は愛の家を象徴するものなのです。愛することのできる家のことをいう言葉なのです。

 人は皆、聖所、至聖所を持っているのです。聖所とは、神様に侍ることのできる所です。では、至聖所とは何でしょうか? 特権的な愛の主管権を持つために、神様との関係を結ぶ所が至聖所なのです。至聖所は、天と通じることのできる位置をいうのです。天との直接的関係を結ぶことのできる所がすなわち至聖所なのです。

 それは、誰もが触れることはできません。至聖所を守る祭司長は、二人ではありません。絶対に一人なのです。そうですね? 至聖所を守っている人が鍵を開けなくてはならないのに、他の人がそれを汚し、触れるようなことがあれば、昔は雷に打たれて死んだのです。何のことか分かりますか? エバの至聖所の鍵を持っていたのはアダムであり、アダムの至聖所の鍵を持っていたのはエバであったということを知らなければなりません。

 そして、神様と一体の愛の因縁を結ぶところで、神様に侍って愛し合わなければならないのです。男性と女性の二人だけが会うのではありません。男性と女性の二人が会う時には天理を代表する、宇宙創造理想が巡り合う位置で神様の愛を受けるのです。そして、「あなたの願いである息子娘を得なければなりません」と言うのです。(一九八四・六・二〇)















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