訓教経/(上)009
文鮮明先生のみ言集
訓教経(上)
神様の競走場に立った人間
一九五九年八月九日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第七巻』
コリント人への第一の手紙第九章二十四節に「競技場で走る者は、みな走りはするが、賞を得る者はひとりだけである。あなたがたも、賞を得るように走りなさい」とあります。このみ言を中心として、「神様の競走場に立った人間」という題目で少しの間お話しします。
◆人間は復帰摂理の競走場に立ったランナー
数多くの歴代の預言者も、現在生きている人間も、何かは知りませんが、ある目標に向かって人生行路を走っていることだけは事実です。漠然とでも、ある目標を前に置いて生活する形態もいろいろな形に展開してきたのであり、また民族や歴史の形態もいろいろな形に展開してきています。
このようなすべてのものは、何ら因縁のない結果として現れたのではありません。必ずある因縁のもとで現実に符合し、ある目的に向かって動いてきているというのです。もしそのような因縁とそのような目的を中心として動かなければ、神様もどのような存在をも立てることができないのです。
もし神様がいらっしゃるならば、神様は堕落した人類とも縁を結ぼうとするのです。それゆえ、ある目的に向かっていく私たちは、その因縁圏内に生きているという事実を否定することはできません。
人間は堕落することによって、神様と善の因縁を結ぶことができず、サタンと悪の因縁を結びました。神様はそういう悪の因縁をもっている私たち人間を捨てようとなさったのではなく、探そうとなさいました。再び探すために、神様と私たちが人類の歴史路程にしがみついて、ひっくり返してきているのです。
歴史の方向は、そういう目的を果たす一時に向かい動いていっています。それゆえ、私たちは生活を通じて自らの良心基準を中心として、その目的地に向かって走っている一選手です。この地上に生まれて死んだ人は、誰でも神様の復帰摂理の競走場に立った人間でした。
では、誰彼を問わず、こういう選手の立場に立った自分であることを認めるならば、私たちはどのようにしなければならないでしょうか。天が御苦労して立てられた自分自身であることを知り、こういう競技場に立って走るべきだということを理解するならば、天は私たち人間にある訓練をさせ、この競技場で走らせるはずです。では、自分はいかなる試練と路程をたどってその目的地まで走っていくのでしょうか。これは、誰彼なく共通に解決しなければならない重要な問題です。
過去に生まれて死んだ預言者や烈士の中には、その競技のプログラムの一部分を受け持って、ある標準を立てていった人もいました。言い換えれば、このような預言者や烈士たちは、最後の幕が降りるその瞬間までは、競技全体、すなわち天の全体摂理をみな経ていったのではなく、ある一部分を受け持って終結し、また進んでいくのです。
神様は、このような復帰の競技場をつくっておいたので、ここに入った私たちは、自らの命を懸けて生涯路程を経て走っている自分自身、走らなければならない自分自身であるという事実を知らなければなりません。
今日この地を眺めれば思想も多く、宗教世界を眺めれば宗派も多く、教派もたくさんあります。民族の違いによりその民族による主義、あるいはその民族のために出てきた宗教など、いろいろな形に展開しています。そのような主義、そのような宗教は、神様の摂理のプログラム圏内の全体の内容を備えた主義と宗教になるべきであったにもかかわらず、そのようになれませんでした。
それらはすべて、ある一つの民族に該当する主義、ある一つの民族に該当する宗教、またはある一時代に該当する主義、ある一時代に該当する宗教形態でした。すなわち、神様の競技場の一部分にすぎない、ある一部分の使命を担当した主義と宗教だったのです。
◆競技の形態と賞金を与える日
私たちが競技場に行ってみれば、百メートルの競技もあり、二百メートル、あるいは五千メートル、一万メートル競技もあり、最後にはマラソン競技まであります。では、私たちは復帰摂理をなさる神様の競技場に立った体ですが、いかなる競技に責任をもってこの宇宙史の前に立つことができるでしょうか。これが問題です。各自の価値と人格の差があったとしても、ある分野を定めて、その競技種目において責任を全うすることによって天の願う基準を立てることを、天が期待していらっしゃるのは間違いありません。
したがって、私たちはそういう競技場に立った体ですから、命を尽くして走っていかなければなりません。そして、生涯路程を行く間、自分はいかなる競技で何になって天の前に立つべきかを知らなければなりません。
神様が六千年間摂理をしてきましたが、全体的に眺めると、まだ神様のすべての競技種目が終わっていません。今でも走っています。きょうも走り、あすも走らなければなりません。
この競技が終われば、神様は全世界の人類、さらには過去に生まれて死んだ数多くの人間と今後の競技が終わるまでの数多くの人間に、競技の分野によって賞を与えるでしょう。賞を与える一日、それは何の日ですか。キリスト教の名を借りるならば「審判の日」です。審判の日は、今日の時代的な名を借りるならば「終わりの日」ということができます。
では、私たちにおいて、一つの競技種目で賞をもらうことができる勝利的な基準を立てたかどうかが問題です。これは私たち自らが反省しなければならない問題です。走るにはいろいろあります。競技場に入っていき、正常なコースを走らなければならないにもかかわらず、競技場外で自分勝手に走る人も多いでしょうし、また競技場に入って正常なコースを走りはするものの、備えた力量が不足して途中で倒れる人もいるでしょうし、終わりまで走るには走ったけれど、賞をもらえない人もいるでしょう。賞をもらう人は制限されています。
神様は六千年間摂理してこられましたが、まだ競技者に自ら賞を与えてはいない立場にいらっしゃいます。それで、神様が世界人類の前に現れ、今まで走ってきた数多くの競技者に、その競技種目によって賞金を与えることができるその一日を、霊界の霊人たちも願っており、地上の私たちも願っています。この日が、終わりの日です。
◆競技者がもつべき姿勢
このように走っていかなければならない私たち自身です。どうせ行かなければならないからには、どうやって行くべきでしょうか。競技場に立つ者としての準備が必要です。何の準備ですか。内的準備と外的準備が必要です。内的には、自分がある目標に向かって走っていくという信念がなければなりません。ある命令のもとに、あるコースを走らなければならないとき、自分自身は、そのコースに存在し得る障害物に対処していくことができるという信念がなければならず、またその信念を中心として実際に正しい目標に向かって走ることができる内的な準備が必要なのです。
いわば、心身を鍛練することです。一つの目標に向かって走るにおいて、最後の目的地まで到達するまで倒れず、誰にも負けないという信念、最後の勝利者として立つための信念が必要なのです。また、最後の目的地まで走っていくにおいて、自分の体がある障害物にぶつかっても、これを押して走っていくことができるという信念をもたなければなりません。
ところが、今日地上に数多くの人々が生きていますが、競技場の選手の立場に立って、ある目的地に向かって走る態勢を整えた者はいくらもいません。
人間は、ある分野に所属して生きるようになっています。自分がとどまることができる位置と境遇をもっていない人は、かわいそうな人です。そのある目的に向かって、あるコースを走っていくという観が立っていない人はねかわいそうな人です。私たちは、ほとんどがそうです。
したがって、私はこのような目標のもとで、こういう覚悟で、心と体を鍛練して競技に臨むという、数多くの怨讐と戦って勝たなければならないという、自らの内的な準備と外的な準備をする時がなければなりません。ここに集まった人々すべては、自分自身がそのような準備の時をもてない者がいるならば、自分自身を見直さなければなりません。
そうであるなら、私たちはいかなる内的な準備をしなければならないのでしょうか。それは、自分個人のための準備をしてはなりません。国家を代表するあるマラソン選手がいるとしましょう。彼が走る時、最後の優勝をし、その栄光を自分自身のために走ることよりも世界の前に、自分を生んでくれた民族と国家の威信を立てなければならないという信念で走るならば、彼はどんな困難にも勝っていくことのできる余裕ができるでしょう。しかし、自分個人の栄光と、自分個人の目標だけのために走るならば、苦しさにぶつかるとき、そこで簡単にあきらめてしまうでしょう。
私たちが信念をもつにおいて、それが自分のための信念になってはなりません。民族を中心とした信念、世界のための信念、さらに天と地のための信念をもたなければなりません。この天地間にある被造万物全体の勝敗が、自分にかかっているという信念をもって走るならば、倒れることがあっても、再び立ち上がって走ることができる余裕が生まれます。しかし、自分を中心として進んでいては、今までの困難以上の困難にぶつかる時は倒れてしまいます。自分を中心として願った希望以上の困難に巻き込まれるときには、折れてしまうのです。
それゆえ私たちは、心身を鍛練するとともに、天と地に対して使命的な一つの目標のもとで走っているという信念が必要です。それで、人間は漠然とでも神様のために、善のために生きています。善とは、制限された環境を抜け出すことです。善は限定された制限線を超えて存在するのです。それゆえ、人間は漠然とでもそのような標準のもとで生きています。
◆競技場で勝利者となるには
私たちは漠然としていてはいけません。自分はある競技種目で、どの等数に必ず入らなければならないという信念をもたなければなりません。こういう信念をもって、出発線に立って走ることができる者にならなければなりません。
過去に生まれて死んだ聖賢たちは、私たち人間の前に、ある事業分野を教えてくれたのではありません。何かの事業で成功しようとするなら、どのようにすべきかを教えてくれたのではありません。私たちの人生の行くべき道、心の行くべき道、精神の行くべき道、私たちの生命が動く道を指示し教えてくれました。
私たちの思想が動くことができる道、私たちの生命が動くことができる道、この道は、自分個人の道だけではありません。この道は、千秋万代をかけて、あるいは歴史をかけて、どの時代でも公式的であり、共通的な道です。私たちは、そういう道で戦って勝利できる天の民を恋しがらなければなりません。
その目的が果たされるとき、それが自分を中心としたものでなければ、私によって天地が共に喜ぶようになるのです。民族を代表して立ち上がったランナーが優勝するときは、民族全部が優勝したことになります。たとえその競技種目が小さくとも、その価値の栄光は全体に及びます。
したがって、これからこういう内的な信念をもつことができる、価値的な標準のもとで、その価値的な目標を成し遂げるために、自分自らの価値的な信念を鍛えることができる一日が必要であるということです。ところが、今日まで私たちはそのようなことを感じることも、考えたこともありませんでした。
私たちは、いずれにしても走っているのですから、敗者になろうが勝者になろうが、そうするのです。勝者になるためには、秘訣がなければなりません。内的には、勝つという信念と、目標に向かう不変の心情をもたなければならず、外的には、競技をするのに簡便にすることです。競技場に行く人は、できれば簡単で、単純でなければなりません。自分の心の方向に、自分の体がいつでも動いてくれる準備ができていなければなりません。ですから、鍛練が必要なのです。
しかしながら、競技場は自分の目標に向かって、自分が自由に走ることができるようにはなっていません。走るこの競技場には、数多くの障害物が置かれています。その数々の峠の障害物は、私たちの先祖たちが敗北して倒れた場面です。自分自身を誇り、自らの決心を誇って立ち上がる多くの人々が、その障害物に引っ掛かって倒れました。私たちの行く手には、私たちの先祖たちが障害物に引っ掛かって倒れた、数々の峠が置かれています。したがって、できれば心情が動くとき、その体がついて動くことができるように、簡単にしなければなりません。こうすることができるように、自ら体を鍛練しなければならないのです。
鍛練は安らかな立場ではできません。鍛練は、激しく打たれる立場でできるのです。このような内的準備の修練を繰り返すためには、内的に打たれても、これを打ちのめしていくことができる自分の体が必要です。内的決心は変わることができず、この体もまた耐え難い試練にぶつかったとしても、そこで敗れてはなりません。それゆえ、修道の道を行く人に対して、天は「すべて捨てて従いなさい」と言いました。イエス様も網を繕っているペテロを呼ぶとき、「すべて捨てて私に従いなさい」と言われました。
修道の道を尋ね求めるために、山中で修道するのも、すべて一理あります。したがって、私たちは内的な覚悟のもとにそこに対応する外的な覚悟、清算条件を具備しておいて、どんなことにぶつかっても行くという自信、どん底に落ちても心身をもちこたえることができる自信をもたなければなりません。そうでなくては、走ることもできず、競技場に立つこともできません。
私たちは、このような競技場で一つの種目を選び、走らなければならない一競技者であるので、目標を成し遂げるために、変わらない信念をもって鍛練しなければなりません。私たちは信仰者の態度、走る者の態度、修道の道を行く者の態度をもたなければならないのです。寝ても覚めてもその目標を征服するための決意に燃える心がなければなりません。
人々の中には、漠然とイエス様を信じれば天国に行くと考える人がいます。天国とは、どのようになっているのでしょうか。そこは、ある種目を通過したグループで構成されています。漠然と、自分はイエス様を信じて天国に行くと考えてはなりません。もちろん、天が協助してくれる分野もありますが、私たち自らが備えるべき分野があります。
皆さんは、競技者として内的準備と外的準備を整えなければなりません。その次に、競技者として走らなければならないコースについて知らなければなりません。どこに行けば何があって、またどこには何があるということを、またそれから、昔も数多くの人々がこのコースを走ったけれど、失敗したコースであるということを、走ったからといってみな優勝したのではなく、走っている途中で放棄したコースであるということを知らなければならないのです。
◆競技者が知るべきこと
修道の道がそうです。歴史が生じてから、修道の道を行った人でも、その道の名誉を担って神様の前に立った人だとしても、神様は「君が最後の勝利者だ」と言って賞を与えることはできなかったのです。今も走っている過程にあります。私たちが走る目標は、神様が主管する全体の競走の目標である宇宙性とつながります。
それゆえ、どんなに種目が小さくても、宇宙的につながり得るその時まで持続しなければなりません。ここに百メートル競技種目で一時優勝した者がいるとしても、それで彼を「優勝者だ」と言うことはできません。優勝したその価値と栄光を、終わりの日まで保っていかなければなりません。
競技場に立っている私たちは、この走るコースの数多くの峠で、数多くの人々が倒れた事情も知らなければなりません。ある時はどのように倒れ、どのように争って、どのように敗れていったかを知らなければなりません。今まで人間は、漠然と目的地に向かって走りましたが、今日この時代の私たちは、漠然とした目標のもとで走ってはいけません。走るには、そのコースに対するあらゆる内容をはっきり知らなければならないのです。
神様の摂理のコースを走るためには、復帰のコースを経なければなりません。天を訪ねる路程でランナーとして立ち上がった私たちは、どのようにしなければならないでしょうか。出発は、どこからするのでしょうか。アダム家庭から出発しなければなりません。人間が出発した基点は、アダム家庭からです。そこから走ってきました。そこから神様と人類が同伴して六千年間走り、今日この時間まで来ました。しかし、まだその競技は終わっていません。今も走っているのです。
では、どのようにしなければなりませんか。先祖から走ってきたすべての伝統的な精神をもたなければなりません。どこに所属しているのかを知らなければなりません。何の競技をして、どこに所属し、どのようなことをするのかを知らなければなりません。私は何の競技種目に参加しているかということを知らなければならず、過去に誰がどんな記録を出したのかということも知らなければならず、誰がどのように失敗したのかということも知らなければなりません。このすべての悪条件と善の条件を知り、その悪条件に引っ掛かり得るすべてに備えなければならないのです。
私たちの人生行路には、数多くの怨讐が障害物を置いて妨げています。見える障害物でなく、見えない障害物を置いています。それは歴史上の数多くの預言者が倒れた峠です。このように、数多くの峠があるので、これに対する知識がなければなりません。それゆえ、今日私たちは歴史を知らなければならないのです。
過去を知り、現在を知って、未来を知らなければなりません。これがランナーが知らなければならない常識です。あるコースに進んでいる途中で、主催者側がある目標のもとで計画したそのコースを変更するかもしれません。それゆえ、過去の預言者たちが走ってきた歴史的なコースを知り、またそのコースで戦ってきた経路、そして戦っている現実の事情と、今後戦うべき計画をすべて知らなければなりません。それでこそ最後の勝利者になるのです。
ところが、今日信仰者の生活をじっと見てみると、神様がどのように役事してこられたかを知らずにいます。神様が今この瞬間、いかなる種目で、いかなる計画のもとでどのように動いていらっしゃるのかを知らずにいます。このような姿をした人々を「ランナー」と言えますか。神様は六千年間役事してこられながら、この競技種目を運営する方向があります。主眼があります。私たち人類の始祖から人類の終末時代まで、一貫した目標のもとで、一貫性をもって動くということです。
◆神様の摂理に代わり得る宗教
こういう見地から、自分がいかなる人生行路を走るランナーになったかということを感じて、勝利者になることを願うならば、歴史性を帯びた宗教を探さなければなりません。また、時代性を帯びた宗教を探さなければならず、未来性を帯びた宗教を探さなければなりません。そのような宗教であってこそ、人間が最後まで信じても落胆することがないものなのです。
過去に数多くの宗教人がいましたが、彼らの寿命は何世紀にしかなりませんでした。このような事実を考えてみると、神様は人間の知らない中で摂理してこられました。人間が堕落したその日から始まって、私たちが行ったのち、未来まで摂理なさることは明らかですが、そのような摂理をする神様のプログラムに代わり得る宗教があるならば、その宗教はどんな宗教でなければならないでしょうか。歴史的な面で貢献する宗教であり、人類歴史の起源の因縁をもってきた宗教でなければなりません。そして、善悪の起源を論断する宗教でなければならず、人生行路のあらゆる歴史性を包容して、未来の最後の目的地で勝敗を決定づけることができる宗教でなければならないのです。
私たちが神様の前に賞を受けるなら、今日この時代によくやったといって賞を受けることはできません。霊界には数多くのランナーがいます。神様の摂理路程で千態万状の事情をもって競技場を走った数多くの人々がいます。
その多くの人々を全部集めておいて、彼らを代表して賞を受けなければならない存在ならば、彼は、昔の先祖たちが行けなかった所にすべて行ったという勝利の条件を備えなければならず、また今日の人間の前でも勝利的な条件を備えなければなりません。
また、未来の人間も「正しい」と言える基準を備えた者であってこそ、神様が表彰できます。それゆえ私たちは神様を信じます。私たちは人生の行路を走っているのです。最後の一日の目的地に向かって走っているのです。
では、私たちが信じている神様は、いかなる方でしょうか。その神様は、歴史的な神様です。さらに、時代的な神様であり、未来的な神様です。その神様が立てられた目標も、歴史的な目標であり、時代的な目標であり、未来的な目標です。
私たちが信じている神様がそうであり、私たち人間が願う望みの基準もそうであるなら、神様も歴史的な神様、時代的な神様、未来的な神様であると知って信じなければなりません。それでこそ神様が賞を与えるとき、悲しんで与えるのではなく、喜んで与えるのです。その賞を与える方の心情が分かる最後の瞬間が来なければなりません。
数多くの宗教は、何千年あるいは何百年間続いて、この時代の思潮の前に押し出される傾向を見せています。キリスト教も今まで数千年間続いてきましたが、未来の一時を歩んで再び越えなければならない運命に置かれています。ここにもし、骨髄からわき出た神様のある競技コースがあるならば、そのコースは歴史的なコースであり、時代的なコースであり、未来的なコースであるので、私たちはこれに対する知識がなければなりません。
それゆえ、この時にある新しい真理があるならば、その真理はこの時代的なものであってはいけません。時代性を帯びているだけでは絶対にいけないのです。何かの主義、何かの思想があるといっても、一時代の一時に合うだけのものならば、その主義と思想は過ぎ去ってしまいます。連綿とした歴史の背景をもって、この時代の思潮に通じて越えていくことができる理念、新しい主義が必要なのです。
◆神様と共に楽しみ、勝利できるランナー
神様は歴史的な神様であり、時代的な神様であり、未来的な神様であられます。そして、私たちもやはり歴史的であり、時代的であり、未来的な条件を備えたランナーとして、それに対する知識をもたなければなりません。そうでなければ、未来のある思潮に巻き込まれていくでしょう。
それに対する知識を備えて、さらには歴史的な神様の心情も知らなければなりません。食口というものは、事情が絡んでいます。事情は相対的関係です。歴史的な父の心情、時代的な父の心情、未来的な父の心情がこうなので、その心情を中心として行う父の競技に対する、あらゆる知識を備えて心情の分野まで合わせて入っていかなければなりません。そうして、優勝して最後に満足することができ、神様に対面して永遠に喜びを享受することができる者になることを天は願うのです。
宗教は真理のみでできたものではありません。道は真理だけではありません。主義と思想は真理を中心として進みますが、宗教は真理以外に心情が内包されているのです。主義と思想には心情がありません。しかし、宗教は親と子が無言で愛するように、何かが絡んでいます。論理的な条件を越えて動く内容が備わっています。しかし、主義はそうではありません。主義は心情的な結合ではなく、組織的な結合なのです。
今日、私たちが目標に向かって走る競走者の態度として備えるべきものは、歴史的なそのコースに対する知識がなければならず、時代的な実情をよく把握しなければなりません。それから、未来的な内容、その計画をある程度まで知ってこそ、走っていくことができます。これが私たちランナーがもつべき常識です。
このように、天に向けて私の命を懸けて進むにおいて、天の歴史的な心情、時代的な心情、未来的な心情まで備えた者がいるならば、神様が今までこのコースを立てて築いてくるためにどれほど御苦労なさったのかということを感じる人がいるならば、彼はいかなる困難にぶつかっても無難に貫いていくはずです。
次に、その目標に向かって走っていくにおいて、戦いの心情を失ってはなりません。あらゆる準備を整え、知識のあるどのような怨讐に対して戦っても、勝ってみせるという心情をもたなければなりません。戦いに敗れてはなりません。実践分野は戦いです。この地上のすべてと戦って勝利し、一番最後に、「賞を与える神様が自分をけ飛ばしても、自分は屈しない」と言うことのできる勇敢な者にならなければならないのです。
◆試練の多い修道の道
修道の道を行くには、必ず試練がたくさんあります。この競走の場面で走るには、自分自身が大変なことはもちろんですが、想像もできない無数の試練があります。肉眼に見えない数多くの悪霊が私たちを試験する過程があり、そのコースが過ぎれば天使が試験します。また、そのコースが過ぎれば、道人と道師が試験します。
もしイエス様を信じていくなら、イエス様が試験します。初めは導いてくれますが、一番最後には試験するのです。神様も自分を率いてくれては、最後に賞を与える時になって試験します。なぜそうなのかといえば、人間が神様を裏切ったからです。
人間に賞を与えるために自然環境を造っておきましたが、人間が神様を裏切ったので、それを再び回復するためには、必ず試練の過程を通じなければなりません。試験なく与えようとしたけれど、試験を受ける条件に置かれているので、必ず試験を経なければなりません。イエス様も十字架上で「わが神、わが神、どうしてしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ二七・四六)と祈られたように、天は捨てられるのです。
このような戦いの勇者として自分が走るにおいても、走るそこには心の戦いと体の戦いが起こるようになります。決心をもっただけはできません。六千年コースを経てきたその峠ごとに、神様とサタンが戦ってきた内的な苦しい心中が、走る者の心の中につたわってきます。神様とサタンが戦ったことが、自分にぶつかってきます。それで、そのような内的な苦しい心中と、外的な苦しい心中が今の自分に現れるようになるのです。
自分自身はただ走るのではなく、内的な戦いと外的な戦いをしなければならないと同時に、天の試験に勝たなければなりません。人生行路で勝利するには、その戦いで勝利しなければなりません。その理由は、歴史が六千年を経過しましたが、このコースでまだゴールインした人がいなかったからです。「私は行く」と言ったけれど、決勝点まで行った人がいなかったからです。
◆イエス様が再び来られる理由
イエス様は今天国に行っていると信じていますが、楽園にいます。イエス様は「楽園にいる」と言いました。楽園は天国に入る待合室です。イエス様が再び来られるのは、楽園の門を破って、天国の門を開放するためです。この地上ですべきことをすべてできなかったので、再び走って最後の決勝点にゴールインしなければならないのです。
したがって、今日私たちが走っている競技の種目は、信仰という名をかけた最後のコースです。競技でいえば、マラソン競技のようなものです。マラソンは競技の中で、一番輝く種目であり、競技の王座を占めることができる種目です。
では、こういう競技の種目に入った私たちは、どのように走らなければならないでしょうか。自分の決心だけで走ってはいけません。ここには、いろいろな戦いが加重されています。心の戦いと体の戦い、怨讐との戦いがあります。それで、命懸けで世の中が引っ張っています。真の信仰生活をするにおいて、命懸けで、世の中が引っ張っていて、命懸けで主義、思想が引っ張っています。
その目標はどこですか。漠然としています。行くべきその道には、無数の怨讐が見えない所で矢を射ています。それだけでなく、信じていたイエス様も、神様までも最後になって「君は誰か」と言って、「知らない」と言われます。必ずそのようなことがあります。
では、私たちが戦いの勇者としていかなる決心をしなければなりませんか。私が走るこの道の目標は間違いないという決断を下したときには、死を覚悟しても行くという決心をしなければなりません。それでこそ、そのコースで勝つことができます。滅びるにも最高に滅びるという決心、死ぬにもこの世で一番哀れに死んで、苦労するのも一番苦労するという決心をしなければなりません。神様が苦労なさったことより、もう一つ苦労するという覚悟をしなければならないのです。
◆神様が誇ることができる息子、娘になるには
今走っている私たちの現実を見つめてみましょう。私たちはある目標のもとで今走っています。走る生活は戦いであり、戦いでは体を引っ張ります。今まで信じてきた信仰観念が引っ張っています。ここに数多くの試験があります。それが終われば、最後は神様がけ飛ばします。「君が私の息子、娘か。自信があるか」と問い返すでしょう。「君は何に優勝したか」と言われれば、「はい、これこれに優勝しました」と言って、実績を見せなければなりません。世の中の先生も、自分の弟子に自分のある何かを任せるためには、いろいろな面で試験します。
したがって、私たちは最後に残る人生のコースを走るランナーとして、戦いの勇者であることを知らなければなりません。そして、天の精兵であることを知るべきであり、またその精兵としての覚悟をしなければなりません。体を打っても「打つなら打て」、いかなる理念と思想が打っても「よし」、いかなる迫害が来ても「よし」、国家、世界、天、これらすべてが動員してけ飛ばしても「よし」、神様まで乗り出して反対しても「反対するならしてください」と言えなければならないのです。
このように天地が動員して反対しても、そこで勝利した者がいるなら、彼は神様が永遠に誇ることができる息子、娘になるでしょう。神様が「もうお前にはまいった。復帰摂理路程を出発して人間を探し出してから、お前のような人には初めて会った」と言える人がいるなら、その人にすべて降参するのです。それは生死をかけた戦いでも、どんな戦いでもそうです。
終わりの日に、このような最後の修道の道を走っているランナーがいるとするなら、そして最後の優勝を願って走るランナーがいるとするなら、その人は覚悟しなければなりません。自分たちが信じている教祖が救い主でないこともあります。最後には実力戦をしなければなりません。なぜなら、救いの摂理が終結していないからです。歴史的な神様の競技場で、すべての競技が終わらない限り、そしてすべての競技が終わって神様が賞を与えない限り、戦いは続きます。
◆神様が立てたかった摂理的な代表者
二千年前にイエス様がこの競技の場面で勝利し、四千年歴史の代わりをしたメシヤの使命を果たしましたが、キリスト教徒はそのメシヤの勝利のバトンを受けて、今までの二千年歴史を生きた歴史として神様の前に立てることができませんでした。イエス様が生まれて亡くなってから今まで、キリスト教の形態は整いましたが、心情問題であるとか、それ以外の戦いで勝利する基準を立てることができませんでした。その日から今日まで、「勝利した」と言える一つの基準が出てこなかったのです。
イエス様も反対してみて、神様も反対してみて、「うん、お前はいい」と言って、イエス様と神様が手を挙げて祝福できる人にならなければなりません。そうするには、いかなる障害物でも克服しなければなりません。
では、神様は救いの摂理をしてくるにおいて、どのような摂理的な代表者を立てたかったのでしょうか。サタンはもちろんですが、神様も何も言うことのできない、認めざるを得ない勝利の息子、娘を立てて、サタン世界や天の世界に誇りたいのが神様の心情です。人間の心がそうであるならば、神様の心もそうだというのです。
したがって、今日修道の道を行く私たちを、最後には神様が試験します。「この道を行くな」と言うでしょう。「それでも、私は行きます。私は走ってから死にます」と言うことのできる人が出てこなければなりません。そのような人がいないときには、聖書以上の内容をもったみ言は出てきません。イエス様が生まれて逝かれた、それ以上の内容のみ言は出てきません。イエス様以降、神様が語りたかったみ言は出てこないのです。
私たちがこのコースを走るには、イエス様の時以上の十字架でも来い、神様が六千年の摂理路程で受けてきたその苦労と悲しみの苦痛も来い、今日この地上の人類すべてが動員されて一度に矢を射る場までも来い、神様の摂理も人間を中心として、サタンの反対も人間を中心としてするから、全世界の人類を動員して来い、最低の地獄にも行き、最高の天国にもに行く、という信念を備えなければならないのです。
そうして、心から肯定もしてみて、反対もしてみて、また実証もしてみて、間違いないと決心がつけば走らなければなりません。走るにおいて、誰も止めることができないようでなければなりません。どのようなものが来ても、退けていかなければなりません。それでこそ、六千年間の恨みで妨げられた峠を無難に越えることができるのです。
ここに先生がいるとするなら、その先生のところに来て「やってみましょう」と言うことのできる、気迫をもった勇者を天は待ち焦がれています。それでこそみ旨が成されます。もし、そういう知識を備え、そのような決心をもって、そのような戦いの覚悟をして立ち上がる息子、娘がいるならば、天は彼を無視できません。「お父様、こうではないですか。お父様の心情はこうではないですか。お父様の歴史的な願い、時代的な願い、未来的な願いはこうではないですか。そして現段階で、これではいけないから、これを無視してしまってこのようにしなければならないのではないでしょうか」と言いながら、未来的な願いの条件を備えて出てくれば、イエス様が反対しても、誰が反対しても、神様は「そうか。お前の話は正しい」と、認めるようになっているというのです。
◆勝利した者が受ける賞
過去に生まれて死んでいった数多くの聖賢たち、あるいは私たちが信じている救い主は、その時の世界と未来世界を開拓するために立てられたのです。ですから、イエス様が語ろうとなさった未来のことをもって、イエス様の前に現れて抗議すれば、イエス様は有り難く思います。誰かが摂理を中心として、この時代以降の未来の摂理的な内容をもって「神様! これを早くすべきではないでしょうか。これよりもこれをすべきではないでしょうか」と言いながら、現在のことを無視して、未来のことをもって立ち上がったとしても、天は彼を打つことはできません。かえって褒めるのです。
私たちは、そのような戦いの覚悟をもって行かなければなりません。そうして、天が認める日には、いかなる賞をもらうのでしょうか。今日、世の中である競技種目の勝利者になると、主催者がそれに該当する賞を与えますが、神様の六千年の競技の場面で最後に勝利した人々に、神様は何を与えるでしょうか。どのような競技でも、優勝して賞をもらう時は、うれしいものです。しかし、それは一時的なものではないでしょうか。過ぎてしまえば、その競技とは何ら関係がなく、また別の人が優勝して賞をもらうようになります。しかし、神様の競技場で最後の決勝点にゴールインする人は一人です。後にも先にもありません。終わろうとするなら、永遠に終わるのであって、また別の何かは存在しません。
終わるその競技で賞をもらった喜びは、きょうだけではありません。永遠です。それ以上の良い内容が展開するかどうかは分からなくても、それ以下に落ちることはありません。勝利した彼らに、天は何の栄光を下さるでしょうか。神様の息子、娘という栄光を下さるはずであり、神様が立てられた天と地のすべての権勢を彼らの前に任せるのです。天の王宮があるなら、彼らはそこで暮らすことのできる天の王族として承諾されることでしょう。永遠無窮な賞を与えるのです。
そのように勝利した息子、娘がいるとするなら、神様は六千年間準備した天国全部を動員して、歓迎のお祭りをすることでしょう。その祭りは一日で終わるのではなく、永遠に続くことでしょう。その世界が正に天国、パラダイスです。したがって、これから私たちは、そういう理念のもとで走るランナーの一人にならなければなりません。
◆勝利し得る秘訣
今日、たくさんの宗教があります。儒教、仏教、イスラム教などいろいろな宗派があります。競技場の中には、走る道もたくさんあります。しかし、天は場所を指定します。「この競技場の競技種目はこれだ」という条件になっています。ある教派、ある宗派、誰かの命令のもとで動く人間になっているのは恨めしいことです。人間が堕落したからそうなのです。
私たちは、どの道、神様の競技場に参加しなければなりません。それで、ある一種目でも走らなければなりません。ところが民族が違います。天が願う競技は、民族別の競技ではありません。世界的な競技です。いわばオリンピック大会と同じです。その競技場は、各民族の代表者が選ばれて集まる所です。この競技場に来て走らなければなりません。今日、神様の復帰摂理も同じです。それゆえ、天は世界的なマラソン大会の優勝者を探すために摂理してこられます。そして多くの競技の中でも、王座を占めることができるマラソンのような立場にあるのが、宗教です。
しかし、宗教だからといって、すべて良いのではありません。系統立てられていてこそ、良い宗教です。それで、それに対する常識をもたなければなりません。もし、それに対する知識がないとするなら、いくら準備したとしても勝利する人にすることができません。教えることができません。盲目的に走るだけでは優勝できないのです。
ですから、心身の準備と知識を備えて、最後の戦場で天と地がすべて動員して反対しても、屈しないでそれを貫いて超えることができる信念をもって闘い、押し進めることができる人にならなければなりません。そのような人になってこそ、人生行路の最後のコースで勝利できるグループに参加できるということを心に銘記してくださるようお願いします。