六五〇〇双特別集会における御言/本郷/真の愛による交差祝福と国境撤廃


本 郷
真の愛による交差祝福と国境撤廃
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六五〇〇双特別集会における御言
日時:1989年6月19日 場所:龍仁の一和工場

六五〇〇双特別集会において、在韓の六五〇〇双日本食口に村して、日本語で語られた御言の前半部分を要約したものです。


相対のために生まれた人間

 ここにいる皆さんは全員、異国の男性、女性を求めてきたのではありませんか? 異国の男性、女性を中心として解決すれば、同じ国の男性、女性の解決は問題ではありません。それは大変なことです。もしも、女性が子供を生まなかったらどうなるか、子供をつくらない運動をしたとすればどうなりますか?

 聖人のような男性、女性が何千億万人地上に住んだとしても、一世紀以内に人類は滅亡します。だから、統一教会の女性は子供を生む義務があるということを知らなければなりません。

 女性は胸が大きくなるのはなぜかというと、それは子供のためです。それから、女性には月経があるでしょう? それは子供のためです。子供は一人で得られますか? 旦那さんが絶対に必要です。生理状態を解決する根本を考えてみても、男性が絶対に必要です。そうではありませんか? それを否定する女性は手を挙げてみなさい。(笑い)皆そうです。

 ヒップが大きくなるのも自分のためではありません。女性は肩が狭く、ヒップが大きくなっています。長く座っているようになっています。肩が押し付けられないからです。男性は座ってはいけません。ヒップが小さいから長く座れません。走り回らなければなりません。だから、生活問題は男性がしなければなりません。それゆえに、女性は座るとき、四角に無理なく、東西南北に合うようになっているのです。それを否定する者は、宇宙が讒訴します。

 男性はもともと女性のために生まれてきたのです。先生は、それをずーっと苦悶してきました。「なぜ、人間は生まれたのか」、それを苦悶して苦悶して、尋ねて尋ねて、探って探って、結論を付けたのです。その後にようやく、わたしは結論を出し、真理の真っただ中に立っていたことを発見したのです。完全なものです。

 なぜ、男性が生まれてきたか? それは、男性のためではありません。国に先立って、世界に先立って、女性のために生まれたのです。いくら大学を出たとしても、女性であれば忠実な男性のために勉強することになります。忠実な男性のために勉強しなかったと考える者は、社会にも、国にも、世界にも通用しません。愛が伴う知識は必要であるけれども、愛のない知識は、だれも必要としません。

 愛が伴う権力はどこでも歓迎されますが、愛の伴わない権力というものは、だれも受け入れません。愛とともに行く所には疲れがありません。その反対に希望の山が積まれます。愛を独り占めにしようとする人は、最終的には疲れて、捨てられてしまうのです。


真の愛の定義

 だから、日本という国が将来発展し、存続することを願うならば、愛国心を持つ国民を永遠に持つことです。そのためには、愛国心に先立って家庭を愛し、社会を愛する愛の国民を持つことです。国に先立って、夫婦共々に国の代表として愛ある家庭と社会をつくる、そこから愛国という言葉が生まれてきます。世界を愛したいと思う者は、国を愛さなくてはなりません。これが、統一教会の偉大な方向性なのです。

 今までの世界主義は、国や氏族、社会といった、犠牲になる社会、犠牲になる愛の基盤を全面的に放棄して、「世界にだけ奉仕せよ」と言うのです。これが共産党の主張でした。しかしながら、統一教会はそうではありません。

 愛はすべての方向性を抱える内容を持っています。個人の方向性は万年変わらないし、家庭の方向性は皆同じです。個人の生活と世界観がつながっているのです。個人の人生観、家庭観、社会観が皆別個に、方向が乱れてはいけません。個人の人生観も家庭観と通じ、家庭観が社会観につながり、社会観が国家観に、国家観は世界観に、世界観は宇宙観につながり、宇宙観は愛とともに結実しなければなりません。

 そのような歴史の中心的な方向性を、小から大までつなげるその本流を、核心につなぐ方向性をなすものは一体何ですか?(「真の愛」)。愛しかありません。真の愛とは一体何ですか?(「ために生きる愛」)。ために生きる愛では、真の愛になりません。ために生きる愛の道によって真の愛が探されるのです。真の愛は一体何ですか? (「怨讐を愛する愛」)。怨讐を愛する愛が真の愛ですか? 怨讐でない者を愛する真の愛はないのですか?(どよめき)そういうこともあります。自分の愛する子供たちは怨讐でもないのに、愛さなければなりません。間違ったところには愛の代わりに鞭を打つ。これをどう解釈しますか? そんなことでは正しい解答になりません。

 では一体何ですか?(「縦的神の愛と横的父母の愛が一つになった所」)。そうです。縦的神の愛と横的父母の愛。縦的な真の愛と横的な真の愛が一つになって、世界の血統的内容を抱擁した上に立つ愛を、真の愛と言うのです。そこが私の生命の元になります。だから、私は真の愛から始まります。それを否定した場合には、自分の生来の生命を否定し、存在すべてを否定することになります。真の愛には、自分の生命が永遠的につながるのです。そこには血統が入ります。

 あなたたち自身を愛するのが真の愛ですか? 「自分を愛したい」という者は、真の愛に属するものですか? 自分に属するものですか?「自分を愛したい」という者は、永遠に真の愛とつながりません。

 縦的愛の主体である縦的お父様と横的父母とともに結束して、そこからつながれた血統の上に立ったのが私です。それは、縦的愛を表徴した聖霊実体です。その行く道はきちんと公式的になっています。それゆえに、永遠不変の愛の基台から生まれた自分自身が、父母もそういう立場で見て、ともに愛し合う。愛を中心として、父母が別個ではありません。父母がなければなりません。絶対必要です。男の子も、女の子も絶対必要です。そこには言葉も必要ありません。父親は自分の息子、娘に村して、「わたしは絶対愛した」とは言いません。それをだれかが邪魔して、横的な力で加減ができるものではありません。真の愛はそういうものです。


愛、生命、血統

 真の生命体を中心として、男性、女性が愛によって結束する、そういうカップルは真の夫婦です。社会はそういう因縁によってつながります。兄弟圏の心情を横的に、社会的に拡大した第二の相対圏が真の社会であり、真の国であり、真の世界です。自分とつながらない者は、自分の愛の根底とつながりません。自分は宇宙の代表みたいになりたいでしょう? 私は宇宙を代表しています。真の愛の背後的因縁を中心として皆平等ですから、それを犯すような者は、処罰されるのです。

 それゆえに、愛と生命と血統、これが自分です。血を持っているでしょう? 自分が生命を持っているでしょう? また、愛も持っているでしょう? 男性ばかりだったら、愛も何も分かりません。女性が愛を感じるときは、体が分かるのです。生理体が震えます。それは不思議なものです。

 血統は何によって結ばれますか? 生命によって。生命は何によって?(「愛」)。愛、生命、血統。それは一つです。愛は根元であり、生命は木の幹であり、私は枝と同じです。枝の中には幹もあれば、根もあります。

 それゆえに、血統を汚す者は天宙憲法に引っかかります。自分の勝手にできません。女性はその血統を男性に援助してもらわなければ、次の血統圏を持つことができません。また、男性は女性に援助してもらわなければなりません。このようにして生命が組まれていくならば、愛と血統が真っすぐつながります。このように交差して結び合うのですが、その愛を中心として血統は垂直につながるのです。ゆえに、女性は離婚して、夫と別かれて家を出たとしても、子供は連れ出すことができません。子供は縦的に立つからです。女性は、横的です。横的なものは、東西南北、方向性を変えても存在します。

 愛がなければ、男の生命、女の生命をかき混ぜて、そこに花を咲かせることができません。だから、「自分」というものは、男の命を女の命が激流し、巻き合う、その渦巻きの結晶、愛の結晶として植え込まれたものなのです。それは、男性がなしたのではありません。愛するとき、男性も女性も皆こうするでしょう?(しぐさで示される)。皆頭が回るでしょう。その渦巻きの真っただ中に生命が生まれるのです。男性の要素と女性の要素がともに融合、一体圏を結束する真っただ中に、自分が定着して生命が生まれてきます。


自分というもの

 それゆえに、自分というものは、ご父母様の愛に同参したものであり、参席者です。その価値は、お母様よりも子供のほうがもっと価値があります。それは、お父様の血を買ってきたものだからです。また、お父様より偉いものです。それは、お母様の血を買ってきたものだからです。男性一人、女性一人では、それはできません。だから、男性も女性も、お父さん、お母さんも、子供を崇拝しなさい。

 愛に絶対的に服従して消えて行ったとしても、それは消えてなくなるのではありません。永遠の存在圏をなすのです。それは重要です。自分というものは父母の愛の結実体です。愛を中心として同参、参席した同参者であり、その結実体です。

 だから、自分はお父様の実であり、お母様の実です。愛による新しい実として生まれたものです。私がお父さんを尊び、お母さんを尊ぶならば、それ以上に自分を尊ばなくてはなりません。ゆえに、自分を犯す者は、憤慨して、排斥されますが、それを防備しようとする者は、保護作用を受けるのです。それは悪いことではありません。

 だから、自分、親、神様をいつでも引っ張っていく愛の連携を、「真の愛」と言います。神を否定できません。父母を否定できません。自分を否定できません。それに順応していく道をたどって行くのが愛の道なのです。個人が家庭に、家庭が氏族に、氏族が民族に、民族が国家に、国家は世界に、世界は宇宙に、宇宙は神様に、神様の愛の栄光の実体までつながるのです。

 真の愛を背後に抱えなければ何事も進められません。家庭を真の愛で愛したという証拠を得なければ、社会を愛することができません。社会を愛したという証拠がなければ国を愛することができません。

 だから、会社においても、自分勝手に物をなくしたり、粗末に扱ってはいけないのです。その物が、「ああ、嫌だ、嫌だ」と言ってデモをします。しかし愛すれば歓迎されます。そのような生き方をする人の背後には、国と社会と家庭が慕って行くし、男女ともに、子供たち全部がそれに伴ってついて行こうとします。


円満な夫婦生活

 皆さんは、なぜ先生の後について行きますか? お金で先生が買収しましたか? 暴力で押し付けて命令しましたか? 真の愛ゆえです。真の愛を持つ人は、社会が抱擁するし、宇宙が抱擁します。それを主流にして生きなきい。

 主流がなければ、世界的な価値をつなぐことができません。ともに生きる道ですから、真の愛が存在するところには、すべてが同位の存在権を得る。価値観を得るのです。縦的神様と、ご父母様と、自分を一体化させて、永遠にそれを一つにさせる、そういう内容を持つ基台を、縦的、横的に、世界的につなげていく道が、真の愛の道です。自分の生命もその根底で休みたいし、自分の一生の平和もその基台の上を残したいし、すべてが、その基台の上に願うものです。

 あなたの目玉はどうですか? あなたの目玉はあなたの目玉ですか? お母様の目玉ですか、だれがこのように作ったのですか? 目玉も、生理作用、愛の力の作用によって生きるのです。だから、目も、真の愛の目で見れば、永遠に見ても疲れません。

 夫婦ともの生活もそうでしょう? 毎日旦那さんと会ったときには、腰を触りながら喜びます。旦那さんの手が永遠に触ってくれなければ、腰が泣くというのです。昼夜旦那さんの真の愛の手が触った場合には、いつでも百パーセント歓迎体制をつくります。だから、自分の愛する相対者と十二時間キスしてもいいというのです。三百六十五日、ご飯を食べないでキスしながら死んでいったとしてもいいではありませんか。(笑い)それは不幸な夫婦ではありませんよ。

 一番秘密に保管したい所を、夫婦同士では一番露骨に現したい、旦那さんの手で永遠に触ってもらいたい。そうではありませんか?

 少女時代に男性が来て、そこに触れたとすれば大変です。しかし、結婚して触ってもらえれば、それは理想的です。愛するときも生きるときも、それが幸福の的です。ともに行動したい。男女間係はそのようにして一つになるし、生理作用も愛によってまとまるのです。女性は、夫婦間係の愛の生活、生理的関係の生活が円満でなければなりません。それがどこかよじれ、問題が起こるとヒステリックになります。

 先生は、女性の笑い方を見れば、その夫婦生活はどうか、すぐ分かります。女性が笑う第一の標準、相村者は旦那さんです。旦那さんとともに笑う表情は、生活につながっています。だから、さっと見て、悲しそうな何かがあると、すぐ分かります。それは理論的です。笑い方を見れば分かります。愛によるいかなる笑いも、その声はハーモナイズし、どこに行っても調和するでしょう? しかし、自分の欲望に駆られた笑い方は、女の爪で顔をかくような思いがします。だから、愛というものは偉大なものです。


真の愛の道

 ですから、国を超えての、韓国人女性、韓国人男性との愛はいかばかりの愛でしょう? それは関心の的です。真の愛を求めていくとき、日本的感情を持って見詰めるその目は愚かな目です。日本の着物を着たという考えでもって、日本的な愛の向き方をするのは、その旦那さんに対して大変失礼です。

 あなたたち、韓国のしゅうとめとかに会うときはどうでしょうか? 言葉も通じないし、家庭においていかに大変でしょう。しかし、訪問伝道活動等を通じてあなたたちは韓国を愛しています。自分の子供よりも自分の娘(嫁)に上げるのがもっと素晴らしいのです。だから皆、今あなたたちを歓迎するようになっているということを先生は知っています。

 ですから、言葉が通じなくても、「この女は日本人ではない」と言われるような境地にまでいかなければなりません。“”(擬声語、物が落ちる音)発音してみなさい。発音をしたとき、「あれは、日本人の婿だった」と思われるようではだめです。

 だから、そういうことを思う前に、愛に染められて、愛の感動によって、すべてを忘れるような環境をいかに求めるかということが、今からのあなたたちの生涯の宿題です。それは偉大なことです。

 あなたたちは二つの国を超えて愛を実践する者です。だから、誇るべきです。真の愛というものは、自分の血を生命化します。昼夜いつでも、そこに行かなければなりません。その道をたどって行くのが愛の道です。自分の父母も、自分自身も嫌う人はだれもいません。愛したいのす。袖様にも嫌いなものはありません。だから、元が願っていくところの、永遠に向き合う道をたどって行くのが真の愛の道です。

 だから、縦的愛というものは縦的なお父様を象徴しているのです。良心は「縦的私」であり、肉身は「横的私」です。それが、私の生命と、私の血統と血によって結びついているのです。この良心と肉身、生命と血が、百パーセント向き合うところが真の愛の道です。

 それで、結婚した夫婦は「本当に、良心から私を愛しますか?」と聞くのです。良心と肉身と別個に、「私を愛してください」と言う人は、男性であれ、女性であれ世界中にだれ一人いません。心は神を象徴しているがゆえに、神の愛と神の存在と神の血がつながっているのです。体は、父母様の愛と、ご父母様の血と生命とつながっています。心身ともに、永遠に、これが一つになるのです。自分の愛と生活のすべての力を注ぐ所、それらが向き合うその場所に真の愛がつながります。

 今までは、宗教生活の一番の秘訣は何かというその規定も分かりませんでした。良心と肉身を九〇度に一体化させるのが宗教生活の理想です。そのように理想的な生活をして何するのかというのです。お父様はおじい様の愛の道を立たせたし、私はお父様の愛の道を立たせてあげるのです。孫もこのようにして立たせていく、つまり自分によって立たせておいた愛の道を先祖から子孫にまでつなぐのです。


同居権、同参権

 文字を書くにしても、愛する人がくれたペンシルとか万年筆は貴重な物です。心身を一体化させれば、血が激動しながら文字を書くようになります。それは素晴らしいことです。そこには、天のお父様も、現実の肉体を持つ横的父母も参席しています。見詰めているのです。今ともに同参しています。

 ゆえに、愛の属性は同居権、参席権、同参権です。真の愛によって永遠に同じく居たい。真の愛を中心としてどこでもともに参席したい、結びたい。それから、真の愛を持つと、「私のすべての物はあなたのものであり、あなたのすべての物は私のものです」と言うように、自分のものを相対者に任せたいと思うようになるのです。それはお父さんのものでもなければ、お母さんのものでもありません。共有のものであるけれども、それは公的なものだから、公的な愛の主人である後孫に譲ってあげるのです。

 ゆえに、代表的なものは自分の子供です。お母さんの代理であり、神様の代理であり、旦那さんの代理として愛してもらいたい、それが子供の願うところです。それが、創造理想の核心であり、主流の自然な位置です。母親を待ち焦がれた子供の目は、大きくなったら旦那さんを待ち焦がれるようになります。そのようにして二つ(夫婦)になった場合には、夫婦の目としては、将来自分の子供を待ち焦がれるような目になります。

 真の愛とは何か? 根底がどうなっていますか? 真の愛の道はどのように行くか? 神様を認定し、ご父母様を認定し、自分を認定し、自分の相対者と自分の子供まで認定しなければなりません。全部がそこに服従します。全部がそこに従います。そこには議論がありません。それを代表としてつなぐ道に、真の愛は連結されます。

 だから、自分の旦那さんを愛するように、自分の奥さんを愛するように、そして父母が自分の子供を愛するように人類を愛しなさい。神様のために愛しなさい。それが、真の愛の道です。動機がそうであれば、結果は世界的に通じます。宇宙が歓迎します。それを否認し、否定する何者もありません。そのような基準が立った場合には、すべてが相対に立って関係を持とうとします。電気の周波が出るのと同様な周波が出ます。その周波に感動するものは、同じ原動力で相対してきても、どこでもそれを拡大して作用するのです。偉大なものです。

 ゆえに「真の愛」と言う場合、神様と父母、愛に結ぶ自分と、将来自分の血統につながる夫婦ともの家庭までつながります。それは一つのものです。

 だから、子供を愛する親は、お母さんもお父さんも、どこかへ行って遅く帰って来た場合には、夜通しで見詰めても疲れません。先に疲れる者は相対者であり、疲れない者は主体者です。父母の話を聞きなさい。父母が主体の愛のもとで訓示するその愛は、正しい道を告げてくれます。真剣な者が主体になります。会社の後継者はどういう人かといえば、社長よりも熱心に会社を守り、昼夜休まず出勤し、努力する人です。そのような人は、全体の関係性の中で中心的に移動していくのです。


宇宙の根本

 父母に会いたいでしょう? ここに来ても、お父さん、お母さんを忘れられないでしょう? 父母に愛されている兄弟は忘れられません。自分を犠牲にしても、自分の妹や弟を成功させたい、自分よりもりっぱにしたい。自分の家庭を犠牲にしても国をりっぱにしたい。それが、本心の願う基準です。国がそのようになれば、私は家庭を超えて、氏族を超えて、国とともに栄えていく。国家に対して、出世をしたいという思いがするでしょう?

 しかし、愛を持たない者はそれができません。欲心をもった者は、いかに高く上がったとしても下がっていきます。愛の本質に全面的に従う者は愛とともに栄えるのです。それが万象の真理です。

 「真の愛」と言う場合には、神様、ご父母様、絶対的な愛を持つ私、私の血統、生命、それ自体です。私は、愛を中心としてお母様を代表し、お父様を代表し、神を代表します。だから、神様は私を否定でさません。私が呼び掛けた場合には答えざるをえません。私を追いかけて来て離れられません。そういう主体なる私には、愛があり、生命があり、血があります。愛を押しつけてきて、再創造の力をつなぐ血を持っています。

 子供たちは何によって生まれますか? 血によってつながりますか? 生命によってつながりますか? 血です。女性のタイム(生理)には血が集まったり、減ったりするでしょう? これが生命の元です。だから、人間は血を見た場合には深刻になるというのです。皆さんは血を見るとショックでしょう? その血の中には生命がつながっているし、愛がつながっています。

 それゆえに、愛国運動は血を激動させる運動によって成立します。宇宙の根底は、愛、血、生命です。それらが私に結実しています。だから、私は愛の中心を持つ生命の保護体です。それから血によって歴史性、伝統性をつないでいるのです。この三つともに必要です。皆さんもこの三つを皆持っているでしょう? この三つのものが一つに合併することによって、新しい人が生まれます。これが宇宙の根本です。神様自体に愛があり、生命があり、血があったからです。


霊界での生活を規定するもの

 皆さん、霊界に行けば次元が違うだけで、現実とそっくり同じ世界です。この地上世界は横的に作用する世界であり、霊界は縦的に作用する世界ですが、その内容は同じです。さらに、私の意識に現れたことがそのまま実現する世界です。

 「一和の工場で大会をしよう。二千人以上準備!」と言えば、直ちに展開します。「そこに参席するお客様は銀色の着物を着て参席しなさい」と言えば、すぐにそうなります。千万人の宴会も一瞬のうちに準備されます。うそのような世界です。会いたい人には、さっと呼び掛ければどこでも会えます。そう考えてみた場合には、いくら自由であっても、愛の相対者を差し置いてそこに参席したいでしょうか?

 今までは霊界が分かりませんでした。しかし、先生が地上で教えることによって、それが分かるようになり、霊界には大革命の基盤が拡大されてきました。宴会も、相対者をともに連れて行くような時代に変化し発展していきます。

 今までは、向こうに行っても兄弟のような人ばかりで、結婚した人はいません。元の世界では、真の父母がまだ愛の道を立てていないときに、子供のような者たちが愛の道を行くのは許されません。男女働いても、聖霊という感覚が感じられません。成熟していない男、女ともにいても何も知らないでしょう。先生からみたら面白くありません。

 今からの地上世界でこのような理想相対を組んで、霊界へ移動する準備をするのです。我々を中心として皆霊界へともに連れて行って、何千年の先祖たちをあなたに、相対理想を先生の命令によって、氏家の分派圏を中心として代表的長を立たせて組ませてやろうとするのです。そのような再編成がなされるのです。

 何を中心としてなすかというと愛を中心としてなします。いかに真の愛を実践するか。実体を通じての生活において、生涯に残してきたその基台の大きさに比例して、霊界での活動、位置、権限が決定されるのです。

 だから不平を言うことができません。不平を言えば口が命令します。「私の口は正義と愛の目的のために使うのであって、不平を言うために動くようにできていません」。それで体が動かなくなって、他の所へ追い出されます。そのような恐ろしい世界が未来に待っているということを知らなければなりません。


先生からの最高の土産物

 “韓国に来た”という思いを早く忘れなければなりません。そして、言葉が通じ合わなければ道がありません。日本の言葉を語っていては、そのような思いを抜き取ることができないのです。分かりましたか?

 今年の「万物の日」の世界会議で決定したことであり、数年前から言ってきたことですが、来年(一九九〇年)以後、先生は通訳を使わないと発表しました。

 先生は最近、毎朝起きるとすぐ、健康のために少し横になって半分寝ながらあんまをしてもらっています。そうしながら、六〇年代の説教集の内容をずーっと聴いていますが、それは実に感動的です。どんなに素晴らしいことを言っているかが分かるのです。重要なことは、そのころすでに皆教えています。

 ゆえに、統一教会のメンバーは先生に対して一言の不平も言えません。真心を尽くして教えた内容は感動的です。先生自体が、六〇年代に語ったその歴史的内容に感動します。それが余りにも事実だから、永遠に問題になるのです。それがうそだったら、それでおしまいです。それが事実だった場合には、常に天地が共鳴します。

 これは、地上の堕落世界において、人生の根本問題を、深い次元から苦悶し続け、悲哀の生涯を残したすべての民族のためのものです。歴史的に考えても、現世の状況を解決する立場から考えてみても、無限の価値ある真理の内容を、迫害され、背信されながらも、今まで何千回も授けてやろうとして続けてこられた神の愛は、偉大なものです。普通一般の人であれば、こんなに貴いものをあげるのに、一声「君、永遠にやめなさい」と反対されれば、やめてしまうでしょう。しかし、それでも永遠に続けてやる。年がたつにつれて疲れるはずなのに、それも忘れてやりたい、教えたいという思いがそこに潜んでいるのをみるとき、愛の力は偉大なものだと感嘆するのです。

 その内容をつづった本を、先生が地上を去るときの最高の土産物として残していこうとするのです。それは、天宙を売り払っても買うことができない土産です。先生を真の父母と考えた場合には、君たちが真の子供であるとすれば、その土産によって血統的に一つになるのです。血統的に一つになった場合には、生活はもちろん、環境は皆治められます。子は、親のすべての愛の代理者であるがゆえに、親の言葉と文化と生活様式を相続するのが、伝統的な道です。

 それもしないで行った場合には、霊界に行って大変なことになります。あなたたちの先祖たちが讒訴します。先生と同時代に生きていて、あれほどまでに、再三にわたって、「韓国語を勉強しなさい」と言い聴かせられながらも、日本語を使って生きてきたとすれば、あなたたちの先祖が、「一家を辱めてきたその心を知らないのか!」と訴えるのです。先祖が真の父母に対して、あなたを仲間にして付き合うことも、紹介することも、つなぐこともできないではありませんか。

 あなたたちは言語を学ぶことによって、原理憲法を知るのです。その原理の説教集は、日本語でもなければ英語でもありません。韓国語です。韓国語はだれの使った言葉かといえば、真のご父母様の言葉です。真の父母からすべてが始まるべきです。それにつながる文化圏に立つ後孫の生活圏を立たせるためには、同じ文字、同じ言葉を使わなければなりません。それが伝統的な道です。そうしなければ霊界で引っ掛かります。


言葉の革命

 こういう決定をしたために、もしも各国の代表者が韓国語を知らなければ大変です。韓国語を知らない者は後輩になります。だから、日本にいる僑胞が中間に立たなければなりません。そのようにしてでも言葉の革命をしなければ大変です。だれかがしなければなりません。

 堕落によって、うち建てられたバベルの塔はサタンの理想を拡大し、その権威を誇る基準となったのです。そのようにして言語が分裂していったとすれば、統一圏の天的時代を迎えて、言葉を統一しなかった場合には、サタンに負けたことになります。

 日本語で先生の説教集を読んだとしても味がしません。日本人と韓国人の性分は全く異なります。心情的、信仰的基準においては絶対に及びません。その形容詞は、詳細な分析的内容を表現することのできる、世界的な言語です。だから韓国人の発音というものは世界的です。言葉が優秀です。韓国人はなぜ頭が良いかといえば、それは言葉自体が分析的内容を表現し、立体的分析をなすことができるからです。

 言葉、言語形態から見ても韓国語で発音できない音声がありません。それで、韓国人が日本語を学ぶと、日本語を一〇〇パーセント解読できます。聞いて分かるのです。しかし、あなたたちが韓国語を勉強しても、三〇パーセントくらいしか解読できません。また、日本人がいくら一所懸命英語を学んでも、二〇パーセントくらいしか通じません。でも、韓国人はそうではありません。

 それゆえに、日本人が本当に世界に通ずる万国語を解読するには、まずもって韓国語を習った後にできるのです。神様が、未来の世界を統一する民族として選定されるために賜物として授けられたその言葉が、日本民族によって無視されたというのです。その言語をサタンが破壊しようとしたのが分かったために、復帰時代において、再び神の方に取り戻さなくてはならないのです。それゆえに、エバ国家は皆韓国語を習わなければなりません。女性は、旦那さんの家にお嫁に行った場合には、そこで使われている方言であっても、すべてそれを伝統的祖国語、母国語として習わなければなりません。そうではありませんか?


真の子女としての責任

 皆さんが先生の説教集を読んでいかなければ、霊界に行っても先生に出会うことができません。地上で先生がなしてきたこと、その内容すべてが先生の説教集に入っているのです。説教集を解読して、何回か読まなくてはなりません。それを読まなければ、先生の蕩減復帰時代を発見することができません。

 イエス様について語られた内容には、とても深いものがあります。それを既成教会の牧師が読んだとすれば、口をそろえて、「文先生は異端だ」と言うことができないような内容になっています。今まで反対してきた者たちが、二千年の歴史を通じて築いてきたすべての内容が崩壊するような、恐るべき事態になりつつあるというのです。

 韓国にお嫁に来たり、婿入りした者は、どうせ習わざるをえないでしょう。しかし、そのために習うのではありません。九十年代に入れば、一和の工場にも、言葉を語れない者は入れないかもしれません。来年の正月からは、韓国語を知らない日本の女性は皆、イーストガーデンから帰るのです。先生の前で挨拶したり、祈ったりするのに日本語では通じません。先生はそれを発表したために、霊界はそういう日を中心に方向を固めています。だから地上はそれをなさなければなりません。分かりましたか?

 だから、来年になるまでに、六か月以内に習っておきなさい。今から六か月たっても語れない旦那さんや奥さんは日本に追い帰すかもしれません。「今から六か月以内に韓国語を解読できない者は日本に帰りなさい」と言えば、日本に帰りますか、帰りませんか?(「帰りません」)。先生が命令するのに? そんな親孝行息子がどこにいますか。(笑い)

 本一冊ですべてが解決するのに、数千冊の訳本を必要とするなら、その材料や原料の消耗にだれが責任を持ちますか。宇宙が讒訴します。考えてみなきい。世界中どこに行っても、普遍的な生活の境地を味わわなければ地上天国にはなりません。初めて出会った人でも、自分の兄弟と出会ったように、どこでも自由自在に話し掛けることのできる、そのような言葉の革命をだれが決定しますか。だれもできません。

 真の親たるべき者が間違った道を行くことによってそうなったのです。牛の吠える声は二つですか?

 羊の声は二つですか? 一つではありませんか? 人間だけがめちゃくちゃです。ばらばらなものを逆にして、一方向的な決定運動をしなければなりません。分かりましたか?(「イエー!」)言葉も通じない大学でもって真の父母の世界圏に立つ者は、目玉が恥ずかしい、顔が恥ずかしい、一身が恥ずかしい。その体でもって真の父母によって教えられた真の愛を受けたのですか? とんでもないことです。


言語統一、心情統一、血統統一

 言語統一。それが一番難しい学問です。言語を統一し、心情、愛の世界を統一し、血統を統一する。この三つでおしまいです。

 一つは言葉、言語です。それから?(「心情」)。心情。それから?(「愛」)。血統。「私の誓い」の五番目は?(「我々は、神を中心とした一つの主権を誇り、一つの国土を誇り、一つの民を誇り、一つの言語と文化を誇り…」。それほど重要なものです。それから?(「血族」)。血族。それから? 新世界。だから、心情の世界を作る。そこには皆入っている。真の父母の血統によって植えつけたものを収穫しなければなりません。それは、お金によって得られるものではありません。何千万人の犠牲によってもらえるものではありません。

 その道を求めて、多くの宗教界においては殉教の血の祭壇を築きながら、歴史がつづられてきたのです。そのようにして自分の前に賜物として授けられたその血統を中心として、世界を一つにしなければなりません。地上天国。それはつながっているのです。言語統一、それから心情統一、それから血統統一。それ以外の道を求める者は統一勇士ではありません。だから、先生の生涯の道は一つのことです。先生の前には国境がありません。サタン世界の文化の影も認めません。因習にとらわれたりしません。皆、崩して造り変えなければなりません。

 あなたたちの親は、文先生に反対するでしょう? 親が子供を拉致するような、歴史にないことが統一教会内に起こったのは、サタンの伝統と根本的に異なるからです。自分を生んでくれたその親元を出て、天地ともに真の、理想的な親を求めて泣き続けてきたのが人類歴史であるということを知らなければなりません。そのような代表的な勝利者として、真の父母につながったその誇りを、何と取り替えることができましょうか?

 いかばかり自分が喜んで、感謝の涙をどれくらい流しましたか? 心身とも、細胞全部がその感謝に打たれて、意識を超越して、奉仕の生涯残しても余りある感謝の思いを持ってきましたか? 真剣なものです。

 あなたたちは「文先生」、「真のお父様」と呼ぶでしょう。その名前につながる先生の外的表情は、今という時間圏内に収まるものですが、世に立つべき先生の、その背後というものは、時空を超越しているのです。それを知らなければなりません。

 時間内の基準において尊敬すべきお父様ではありません。それは、時空を超えて、歴史を超越して永遠にたたえるべき名前です。その土産をあなたたちが受けたからには、自分の後世万代につなげる土産として残して、飾りを付けなければなりません。そこに、花を飾るように心情的に飾りを付けるのです。これを基盤として、一族の伝統的家系をつくるのです。そこに、先生のみ言とともにいかなる飾りを、芸術の価値を、刺繍を置くようにプラスさせたいか。それが、私たちの生涯をかけて追求する目標なのです。

 文化の伝統はそこにあります。それで、先生はきょうも、六七年に語った十七冊分のみ言をカセットテープに入れました。韓国の家庭に皆分けてあげて、毎日毎日、時間があればそれを聴くのです。

 先生が祈る祈祷の内容は、実に感動的です。それを、原稿によってしか知らない人たちは実に不幸です。先生自体、今になって第三者の立場でそれを聴くとき、それが先生の祈りとは思われないのです。その叫びの声が、二十四年の歴史を超えて、今の現実に勝利した先生自体を感動させます。いかなる人も、万民が感動しうる価値がここに横たわっています。それは、金で買うことができないし、国を売っても買うことができないし、世界を授けても取り替えることができないもの、だれもが貴ぶことのできる唯一の宝物だというのです。


涙の祈祷で解かれた天宙の公式

 その言葉、その内容を探るのに、先生はどれほど苦労したか。参考書もなければ、勉強した所もなければ、何もなかったのです。単位も、公式もなかったのです。その膨大な内容を解明した後に、単位も公式も皆先生が造ったのです。そして、その全体を実験して、間違いない基準に立ってから責任を持って発表した内容なのです。

 したがって、それは霊界が公認し、地上の万民が公認しなければならない内容であり、万民の後孫も、絶対に相続すべき内容だというのです。それから外れた場合には、希望というものがなくなるような世界になることでしょう。その内容を解明し、今までずーっと現実を蕩減して、世界的歴史の人間とともに携わって結論づけてきたその愛というものは貴いものです。歴史を知らないことは不幸です。根本を、統一思想で言えば本体論をはっきり知らなければなりません。

 それを探るための先生の背後の歴史はいかばかりか。何千回、何万回、どれほど涙を流したことか。涙を流す生活をするために外に出ることができなかったのです。毎日七時間から十七時間も涙を流しながら祈り続けました。涙の祈祷の後には、水をかけたような涙の跡が毎日残っている。先生のその涙が、あなたたちを讒訴するときが来ます。聞くのに真剣になり、解決するのにいかばかり真剣だったでしょう。

 それを無視して、いいかげんに片付けて迎えた者には、「近寄るな。理想世界の背反者よ、消えてしまえ!」と、先生は何も言わなくても、宇宙万象が叫びかけます。霊界に行ってそうなります。「どれくらい先生に侍ってきましたか?」と聞かれるのです。

 「真の親」という言葉に伴う心情は、自分を通して植えた場合には、真の子供が生まれてくるのかというのです。それが問題です。あなたたちが先生のように慕って慕って行くのと同じように、あなたたちによって植えつけられたそのものが、命懸けで奉仕しうるような子供であり、同じような結実となるか?

 一回転ができなかった場合には、戻って行く道です。戻って行かなければ使い物にならず、放棄してしまうしかありません。あなたたち、入って行くときよりも縮まってくるでしょう? 統一原理を聴いた場合には、興奮して自分の感覚を超越した気分に漂っていたでしょう。しかし、その時期を過ぎてみると、昔のように、自分なりに考え、憂うつな顔で、みっともない格好をして統一教会を疑ったり何かして、いろいろなことをしてきたでしょう。もしも先生がそのように振る舞った場合、今まで神が耐えてきたと思いますか?神様は最も神経質なおかたです。


価値ある世界を目指して

 ときたま、先生は疲れ切ってしまうことがあります。み旨のために、人間の力、体力の限界をどこまで超えてやれるかということを神様もよくご存じです。しかし、それを超えて超えて、超え切れない境界を超えていくのです。そして着物を脱がずにそのまま寝た場合には、神様が先生の体をずーっと抱擁してくださるのです。

 そのとき、手が光ります。神よ、感謝します! 自分の息子たる者が、限界を超えて神のために奉仕しようとするその心情圏、その行動の実績をご覧になる神様は、その玉座を去って地上まで来られて、その子供を抱擁したい。そのような愛の主体者であることが分かるのです。

 まぶたを開けるとともに、自動的に涙があふれる境地、骨肉が融け合うような、宇宙の真ん中に自分自体が神とともに立つような境地に運ばれるときの幸福感を、何に例えることができるでしょうか。そういう価値ある世界に向けて歩んでいるということを知らなければなりません。

























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