平和を愛する世界人として 【序文】 平和を愛する世界人として - 序文  乾いた冬の終わりに、夜通し春雨が降りました。どれほどうれしいことでしょうか。朝の間中、庭をあちらこちらと歩き回りました。湿りを得た地から、冬の間ずっと嗅ぐことのできなかった土の香りが芳しく匂い立ち、枝垂れ柳や桜の木には小さな芽が萌え始めました。至る所から、ぽんぽんと新しい生命の芽吹きの音が聞こえてくるようです。  追いかけるように庭に出てきた妻は、いつの間にか乾いた芝の上にひょいと突き出したヨモギの新芽を摘み取ります。一晩降った雨で、すべてのものが香りを放つ春の庭園になりました。  世の中が騒がしかろうと、どうであろうと、3月になれば必ず春は訪れてきます。このように冬が去って春になり、春になれば花が満開になる自然は、年を取るほどに、より貴重なものとなってきます。私が何者だからといって、神様は季節ごとに花を咲かせ、雪を降らせ、生の喜びを与えてくださるのか。胸の内、その奥深い所から愛があふれ、それが喉元もとまで込み上げてきて、息が詰まるようです。  生涯、平和な世界を成すために東奔西走し、地球を何周も回りましたが、私は今、この春を迎える庭において真正なる平和を味わっています。平和もまた、神様が何の見返りも求めず、ただで下さったものです。私たちは、それをどこでなくしてしまったのでしょうか。全く見当違いの場所で捜し出そうと努力しているのかもしれません。  平和な世界をつくるために、私は生涯、この世の底辺や辺境の地を訪ね回りました。飢えている息子を前に、なすすべもなく見守るしかないアフリカの母親たちにも、川に魚がいるにもかかわらず、釣り方が分からなくて家族を食べさせられない南米の父親たちにも会いました。  私は彼らに食べ物を少し分けてあげただけですが、彼らは私に愛を施してくれました。私は愛の力に酔って、原始林を伐り拓き、種を蒔き、木を伐って学校を建て、魚を釣って、おなかを空かせた子供たちに食べさせました。体中を蚊に刺されながら夜を徹して釣りをしても幸福であり、泥土の中に太ももまですっぽりと埋まってしまっても、寂しい隣人たちの顔から陰が消えるのを見るのが喜びでした。  平和な世界に向かう近道を探して、政治に変化をもたらし、世の中を変えることにも熱中しました。ソ連のゴルバチョフ大統領に会い、共産主義と民主主義の和解を試み、北朝鮮の金日成主席と会い、朝鮮半島の平和について話し合いました。さらに、道徳面において崩れゆくアメリカに行き、清教徒(ピューリタン)の精神を目覚めさせるという医者や消防士のような役割も果たし、世界の紛争を防ぐことに没頭したのです。  私たちの運動は、イスラーム教徒とユダヤ教徒の融和のために、テロが頻発するパレスチナに入ることを恐れず、ユダヤ教徒とイスラーム教徒、キリスト教徒たち数千人を一堂に集め、和解の場を準備し、平和行進を行いました。それでも、葛藤は今も続いています。  しかし今、私はわが祖国韓国で平和の世界が大きく開いていく希望を見いだします。多くの苦難と分断の悲しみで鍛えられた朝鮮半島で、世界の文化と経済を導く強い機運が、龍が舞い上がるように巻き起こっているのを全身で感じています。新しい春が訪れるのを誰も抑えることができないように、朝鮮半島に天運が訪ねてくるのを、私たち人間の力ではどうすることもできません。押し寄せる天運に従って、私たち民族が共に飛躍するために、しっかりと心と体の準備をしなければならない時です。  私は、たった三文字にすぎないこの名前を言うだけでも世の中がざわざわと騒ぎだす、問題の人物です。お金も、名誉も貪ることなく、ただ平和のみを語って生きてきただけなのですが、世の中は、私の名前の前に数多くの異名を付け、拒否し、石を投げつけました。私が何を語るのか、何をする人間なのかを調べようともせずに、ただ反対することから始めたのです。  日本の植民統治時代と北朝鮮の共産政権、大韓民国の李承晩政権、そしてアメリカで、生涯に六回も主権と国境を超えて、無実の罪で牢屋や暮らしの苦しみを経て、肉が削られ血が流れる痛みを味わいました。しかし今、私の心の中には小さな傷一つ残っていません。真(まこと)の愛の前にあっては、傷など何でもないのです。真の愛の前にあっては、怨讐(深い怨みのあるかたき、敵)さえも跡形もなく溶けてなくなるのです。  真なる愛は、与え、また与えても、なお与えたい心です。真なる愛は、愛を与えたということさえも忘れ、さらにまた与える愛です。私は生涯、そのような愛に酔って生きてきました。愛以外には、他のどのようなものも望んだことはなく、貧しい隣人たちと愛を分かち合うことにすべてを捧げてきました。愛の道が難しくて涙があふれ、膝をへし折られても、人類に向かう愛に捧げたその心は幸福でした。  今も私の中には、いまだすべて与えきれない愛だけが満ちています。その愛が、干からびた地を潤す平和の川となって、世界の果てまで流れることを祈りながら、この本を発表します。最近になって、私が何者かと尋ねる人がぐっと増えました。その方々の少しでも助けとなるように、これまでの生涯を振り返り、この本に率直な話を詰め込みました。ページ数に限りがあるので、語りきれない内容は次の機会にお伝えできればと思います。  これまで私を信じ、私の傍らを守り、生涯を共にしてきたすべての人に、そして、すべての難しい峠を共に克服してきた妻である韓鶴子(ハンハクチャ)に、無限の愛を送ります。最後に、この本を上梓するまでに多くの誠を尽くしてくださった金寧社の朴恩珠社長と、私が思いつくままに語った煩雑な内容を読者の皆様に分かりやすくお伝えするために、苦労を厭わず尽力してくださった出版社の関係者の皆様全員に、心からあふれる感謝の意を表したく思います。 2009年3月1日 京畿道加平にて 文鮮明(ムンソンミョン) 【第一章 ご飯が愛である――幼少時代】 1. 父の背におぶさって学んだ平和 私は生涯一つのことだけを考えて生きてきました。戦争と争いがなく世界中の人たちが愛を分かち合う世界、一言で言えば、平和な世界をつくることが私の幼い頃からの夢でした。そのように言うと、「幼い時から平和を考えていたなんて、どうしてそんなことが?」と反問する人がいるかもしれません。しかし、平和な世界を夢見ることがそんなに途方もないことでしょうか。 私が生まれた一九二〇年は、日本がわが国を強制的に占領していた時代でした。一九四五年の解放以後も、朝鮮戦争やアジア通貨危機をはじめ、手に負えないほどの混乱を何度も経験し、この地は平和から程遠い歳月を送らなければなりませんでした。このような痛みと混乱はわが国だけが経験したことではありません。二度の世界大戦やベトナム戦争、中東戦争などに明らかなように、人々は絶えず互いに憎み合って、同じ人間だというのに“敵”に銃の照準を合わせ、彼らに向けて爆弾を爆発させました。肉が裂かれ、骨が砕ける凄惨な戦場を体験した者にとって、平和というのは空想に等しい荒唐無稽なことであったかもしれません。しかし、平和を実現することは決して難しいことではありません。私を取り巻く空気、自然環境、そして人々から、私たちは容易に平和を学ぶことができます。 野原をわが家のように思って暮らした幼い頃、私は朝ご飯一杯をさっと平らげては外に飛び出して、一日中、山に分け入り、川辺を歩き回って過ごしました。鳥や動植物の宝庫である森の中を駆けずり回り、草や実を取って食べてみると、それだけで一日おなかが空くのも忘れるほどでした。幼い心にも、森の中にさえ入っていけば体と心が平安になると感じていました。 山で跳び回っているうちに、そのまま眠ってしまったこともよくあります。そんな時は、父が森の中まで私を捜しに来ました。「ヨンミョン!ヨンミョン!」という父の声が遠くから聞こえてくると、眠りながらも自然と笑みがこぼれ、心が弾みました。幼少の頃の私の名前は龍明(ヨンミョン)です。私を呼ぶ声ですぐに目が覚めても、寝ているふりをして父に背負われていった気分、何の心配もなく心がすっと安心できる気分、それこそがまさしく平和でした。そのように父の背中に負われて平和を学びました。 私が森を愛したのも、その中に世界のすべての平和に通じるものが宿っていたからです。森の中の生命は争いません。もちろん互いに食ったり食われたりですが、それは空腹で仕方なくそうしているのであって、憎しみからではありません。鳥は鳥どうし、獣は獣どうし、木は木どうし、互いに憎むことはありません。憎しみがなくなれば平和がやって来ます。同じ種どうしで互いに憎しみ合うのは人間だけです。国が違うといっては憎み、宗教が違うといっては憎み、考えが違うといってはまた憎むのです。 私はこれまで二百ヵ国近い国々を回りましたが、空港に降りた時、「ここは実に平和で穏やかだなあ」と感じた国は多くはありませんでした。内戦のさなかで、銃剣を高く上げた軍人たちが空港を監視し、道路を閉鎖し、銃弾の音が昼も夜もなく聞こえる所もたくさんありました。平和を説きに行った場所で、銃のために命を失いそうになったことも一度や二度ではありません。今日、私たちが生きる世界では、相も変わらず大小の紛争と葛藤が絶え間なく続いています。食べ物がなくて飢餓に陥った人々が数億人もいるのに、軍事費に使われるお金は数百兆円に上ります。銃や爆弾の製造に使うお金だけでも節約すれば、多くの人が飢えの苦しみから救われることでしょう。 私は理念と宗教の違いのゆえに相手を憎み、互いに敵となった国どうしの問に、平和の橋を架ける仕事に生涯を捧げました。イスラーム(イスラム教)とキリスト教が融和するように交流の場を設けたり、イラクをめぐって対立する米ソの意見を調整したり、北朝鮮と韓国の和解に尽力したりしました。名誉や金欲しさでしたのではありません。物心がついて以来、今に至るまでの私の人生のテーマはただ一つ、世界が一つになって平和に暮らすことです。他のことは眼中にありません。昼夜を問わず平和のために生きることは容易ではありませんが、ただひたすらその仕事をする時、私は幸福でした。 東西冷戦時代、私たちは理念によって世界が真っ二つになる経験をしました。当時は共産主義さえなくなれば平和がやって来ると思っていましたが、そうはならず、冷戦が終わった後に多くの争いが生じました。世界は人種と宗教によってばらばらになってしまいました。国境を接した国どうしが反目するにとどまらず、同じ国の中でも人種間、宗教間で反目し、出身地域の違いでも反目しています。このように分裂した人々は、互いに敵対感情が甚だしく、全く心を開こうとしません。 人間の歴史を振り返ってみると、最も残忍かつ惨たらしい戦争は、国家間の戦争ではなくて人種間の戦争でした。それも宗教を前面に出した人種間の戦争が最も残酷です。二十世紀最悪の民族紛争といわれるボスニアの内戦では、いわゆる民族浄化の一環でイスラーム信者を一掃する政策が採られ、ある地域では子供を含む七千数百人以上のイスラーム信者が虐殺されました。ニューヨークの百十階建て世界貿易センタービルに飛行機が突っ込み、二棟を倒壊させた九・一一テロも記憶に新しい大惨事です。これらはみな民族・宗教問の紛争がもたらした惨憺たる結果です。今もパレスチナのガザ地区では、イスラエルが敢行したミサイル攻撃によって数百人が命を失い、人々は寒さと空腹、死の恐怖の中で身震いしています。 一体何のためにそうまでして互いを憎み、殺し合うのでしょうか。表面的な理由はさまざまでしょうが、その内幕を詳しく調べてみると、間違いなく宗教が関与しています。石油をめぐって繰り広げられた湾岸戦争がそうだったし、エルサレムを占有しようとするイスラーム勢力とイスラエルの紛争がそうです。このように人種対立が宗教という衣を身にまとうと、問題は本当に複雑になります。中世で終わったと思っていた宗教戦争の悪夢が、二十一世紀にも相変わらず私たちを苦しめています。 宗教紛争が頻繁に起こるのは、多くの政治家が自らの利己的な欲望を満たそうとして、宗教間に潜む反感を利用するからです。政治的な目的を前に、宗教は方向性を見失ってよろめき、本来の目的を喪失してしまうのです。宗教は本来、平和のために存在するものです。すべての宗教が世界平和に責任を負っています。それなのに、反対に宗教が紛争の原因となったのですから慨嘆するほかありません。その醜悪な様相の背後には、権力と資本を握ったどす黒い政治が隠れています。指導者の本分はすべからく平和を守ることであるのに、かえって逆のことをして、世界を対立と暴力へと追い立てているのです。 指導者の心が正しく立たなければ、国と民族は行き場を失って彷徨うことになるでしょう。悪しき指導者は、自らの腹黒い野心を満たすために宗教と民族主義を利用します。宗教と民族主義の本質は悪いものではありませんが、それらは世界共同体に貢献してこそ価値があるのです。私の民族、私の宗教だけを絶対視して、他の民族と他の宗教を無視して非難するとすれば、その価値を失ってしまいます。自分の宗教を押し立てて人を踏みにじり、人の宗教を大したことないと見下して、憎悪の火を燃やして紛争を起こすとすれば、そうした行為はすでに善ではないからです。私の民族だけ、私の国だけが正しいと主張することも同様です。 お互いを認め合い助け合って生きるーこれが宇宙の真理です。取るに足りない動物もそのことを知っています。犬と猫は仲が悪いといわれていますが、一つの家で一緒に育ててみると、お互いの子を抱きかかえ合って親しくなります。植物を見ても分かることです。木に絡まって上に伸びていく葛は、木の幹に寄り掛かって育ちます。だからといって、木が「おまえはなぜ私に巻き付いて上がっていくのか」と葛を責めたりはしません。お互いに為に生きながら、共に生きることがまさに宇宙の原理です。この原理を離れれば、必ず滅亡するようになります。今のように民族どうし、宗教どうしが相互に罵り合って、争うことが続くとすれば、人類に未来はありません。絶え間のないテロと戦争によって、ある日、吹けば飛ぶ埃のように消滅してしまうでしょう。しかし希望が全くないのではありません。もちろん希望はあるのです。 私はその希望の紐をつかんで放さず、生涯、平和を夢見て生きてきました。私の願いは、世の中を幾重にも囲んできた塀と垣根をきれいさっぱり壊して、一つになる世の中をつくることです。宗教の塀を壊し、人種の垣根を取っ払い、富む者と貧しい者の格差を埋めた後、太古に神様がつくられた平和な世の中を復元するのです。飢えた人もなく涙を流す人もない世の中ということです。希望のない世界、愛のない世の中を治療しようとしたら、私たちはもう一度、幼い頃の純粋な心に戻るしかありません。際限のない欲望から離脱して、人類の美しい本性を回復するためには、幼い頃、父の背におぶさって学んだ平和の原理と愛の息遣いを生かすことが必要なのです。 2. 人に食事を振る舞う喜び 私の目はとても小さいのです。どれほど小さいかというと、母は私を産んで、「うちの赤ちゃんには目があるのか、ないのか」と言って、わざわざ目を広げて見ようとしたそうです。すると、生まれたばかりの私が目をぱちぱちしたので、「あれまあ、目があるにはあるんだ!」と言って喜んだといいます。そのように私の目が小さかったために、幼い頃は「五山の家の小さな目」と呼ばれました。 それでも、目が小さくて貧相だという話は聞いたことがありません。むしろ少しでも観相の分かる人は、私の小さな目に宗教指導者の気質が現れていると言います。カメラの絞りも穴を狭めるほどより遠くを見ることができるように、宗教指導者は人より先を見通す力がなければならないので、そのように言うのでしょう。私の鼻も変わっているのは同様で、一見して誰の言葉も聞かない頑固一徹の鼻です。観相は決していい加減なものではなく、私が生きてきた日々を振り返ってみると、「このように生きようとして、そのような顔に生まれた」と言うことができます。 私は平安北道定州郡徳彦面上思里二二二一番地で、父は南平文氏の文慶裕、母は延安金氏の金慶継の次男として生まれました。三・一独立運動が起こった翌年の一九二〇年陰暦一月六日が、私が生まれた日です。 上思里には曾祖父の代に引っ越してきたそうです。数千石の農業に直接従事して、独力で暮らしを立てて家門を起こした曾祖父は、酒もたばこも口にせず、そのお金でよその人にご飯一杯でも多く食、べさせようとし、そうすることに生き甲斐を感じる人でした。「八道江山(全国)の人に食事を振る舞えば、八道江山から祝福が集まる」1これが亡くなる際に遺した言葉です。そんなわけで、わが家の奥の間はいつもたくさんの人でごった返していました。「どこそこの村の文氏の家に行けば、ただでご飯を食べさせてくれる」と村の外にまで知れ渡っていたのです。母はやって来る人たちのつらい世話をてきぱきとしながら、不平を一度も言いませんでした。 休む間もなく熱心に働いた曾祖父は、暇ができると草鮭を編んで市場に出して売ったり、年を取ってからは「後代にわが子孫が良くなるようにしてください」と祈りながら、アヒルを数匹買っては放してやったりしました。また、奥の間に漢文の先生を招いて、近所の若者たちに文字を無料で教えるようにしました。そこで村人たちは、曾祖父に「善玉」という号を付けて、わが家を「福を受ける家」と呼びました。 しかしながら、曾祖父が亡くなって私が成長する頃には、豊かだった財産はすべてなくなり、ただ幾匙かのわずかなご飯を食べて暮らす程度になりました。それでも、人に食事を振る舞う家風だけは相変わらずで、家族が食べる分がなくても人を先に食べさせました。おかげで、私がよちよち歩きを始めて最初に学んだことが、まさしく人にご飯を食べさせるということでした。 日本占領期の頃、満州に避難する人々が通った町が平安北道の宣川です。わが家はちょうど宣川に行く一級道路(幹線道路)の近くにありました。家も土地も日本人に奪われて、生きる手立てを求めて満州に向かった避難民が、わが家の前を通り過ぎていきました。母は八道(李氏朝鮮時代、全国を威鏡道、平安道、江原道、黄海道、京畿道、忠清道、慶尚道、全羅道の八道に区分したことに由来する言葉)の各地からやって来て家の前を通る人のために、いつでもご飯を作って食べさせました。乞食がご飯を恵んでくれと言ってきて、すぐにご飯を出さなければ、祖父がまず自分のお膳をさっと持って行きました..そのような家庭に生まれたせいか、私も生涯ご飯を食べさせる仕事に力を注いできました。私には、おなかを空かした人たちにご飯を食べさせる仕事が他のどんなことよりも貴く重要です。ご飯を食べる時、ご飯を食べられない人がそこにいれば、胸が痛く、喉が詰まって、スプーンを持つ手がそのまま止まってしまいます。 十歳の時でした。大みそかの日になって、村じゅう餅を作るのに大忙しだったのに、暮らし向きが困難で食べる物にも事欠く村民がいました。私はその人たちの顔が目に焼き付いて離れず、一日中、家の中をぐるぐる回ってどうしようかと悩んだあげく、米一斗(一斗は十升、約十八リットル)を担いで家を飛び出しました。家族に気づかれないように米袋を持ち出そうとして、袋に縄を「本結んでおく余裕もありませんでした。それでも、米袋を肩に担いだまま、つらさも忘れて、勾配が険しい崖道を二十里(約八キロメートル。十朝鮮里は日本の一里、約四キロメートルに相当する)も跳ねるように駆けていきました。おなかを空かした人たちを腹いっぱい食べさせることができると思うと、気分が良くて、胸がわくわくしました。 わが家の横には石臼を使った精米所がありました。中の小米が外に漏れないように精米所の四方をしっかり囲むと、冬にも吹き抜ける風がなくて、とても暖かでした。家のかまどから炭火を分けてきて火を起こすと、オンドルの部屋よりも暖かくなります。そんなわが家の横の石臼の精米所に居場所を定めて、冬の季節を過ごす者たちが何人かいました。八道を転々として物乞いして歩く乞食たちです。彼らが聞かせてくれる世の中の話が面白くて、ちょくちょく石臼の精米所に足を運んだものです。母は息子の友達となった乞食の食事まで一緒に作って、精米所にお膳を持ってきてくれました。分け隔てなく同じ皿をつつき、同じご飯を食べ、毛布一枚に一緒にくるまって、共に冬を過ごしました。真冬が去って春になり、彼らが遠くへ行ってしまうと、また戻ってくる次の冬が待ち遠しくてなりませんでした。 体がぼろをまとっているからといって、心までぼろをまとっているわけではありません。彼らには、明らかに温かい愛がありました。私は彼らにご飯をあげ、彼らは私に愛を施してくれました。彼らが教えてくれた深い友情と温かい愛は、今に至るも私の大きな力になっています。 世界を回って、貧しさとひもじさで苦痛を味わう子供たちを見るたびに、人々にご飯を食べさせて少しも惜しむことがなかった祖父の姿が脳裏に浮かびます。 3. 誰とでも友達になる 私は心に決めたことがあれば、すぐに実行に移さなければ気が済まない性格です。そうしないと夜も眠れませんでした。やむなく夜が明けるのを待たなければならないときは、 晩中まんじりともしないで壁をしきりに掻きました。掻きすぎて壁がすっかりぼろぼろになり、夜の間に土の屑がうずたかく積もるほどでした。悔しいことがあれば夜遅くでも外に飛び出して、相手を呼んでひとしきり喧嘩もしたので、そんな息子を育てる両親の心労は重なるばかりでした。 特に、間違った行動は見過ごしにできず、子供たちの喧嘩があると、まるで近所の相談役にでもなったかのように、必ず間に入って裁定し、非のある方を大声で怒鳴ったりしました。ある時は、近所で勝手気ままに横暴を働く子供のお祖父さんを訪ねて、「お祖父さん、お宅の孫がこんなひどいことをしたので、ちゃんと指導してください」とはっきり忠告したこともあります。 行動は荒っぽく見えても、本当は情が深い子供でした。遅くまで祖母のしぼんだおっぱいを触って寝入るのを好みましたが、祖母も孫の甘えをはねつけはしませんでした。嫁に行った姉の家に遊びに行き、姑をつかまえて、餅を作ってほしい、鶏を屠ってほしいとねだっても嫌われなかったのは、私の中に温かい情があると大人たちが知っていたからです。 とりわけ私は、動物を世話することにかけては並外れていました。家の前の木に巣を作った鳥が水を飲めるように水たまりを作ってやったり、物置から粟を持ってきて庭にサーッと撒いたりしました。初めは人が近づくと逃げていった鳥たちも、餌をくれるのは愛情の表れだと分かったのか、いつの間にか私を見ても逃げなくなりました。魚を飼ってみようと思って、魚を捕って水たまりを作って入れておいたことがあります。餌も一つまみ入れてやりましたが、次の日、起きてみると皆死んでいました。きちんと育てたかったのに、力なく水に浮かぶ姿を見ると、ひどく胸がふさがって一日中泣きました。 父は数百筒もの養蜂を手がけていました。大きな蜂筒に蜂の巣の基礎になる原板の小草を折り目細かくはめ込んでおくと、そこにミッバチが花の蜜を運んできて、蜜蝋を分泌し、巣を作って蜜を貯蔵します。好奇心旺盛だった私は、ミツバチが巣を作る様子を見ようと蜂筒の真ん中に顔を押し込んで刺されてしまい、顔が挽き臼の下に敷く筵みたいに腫れ上がったことがあります。 蜂筒の原板をこっそり引き抜いて隠し、きつ叱られれたこともありました。ミツバチが巣を作り終えると、父は原板を集めて何層にも積んでおくのですが、その原板にはミッバチが分泌した蜜蝋が付いていて、油の代わりに火を付けることもできました。ところが、私はその高価な原板をカランコロンとひっくり返しては、石油がなくて火を灯せない家々に、蝋燭に使ってくださいと分け与えたのです。そんなふうに自分勝手に人情を施して、父からこっぴどく叱られました。 十二歳の時のことでした。その頃は娯楽といえるようなものがなくて、せいぜいユンノリ(朝鮮半島に伝わるすごろくに似た遊び)か将棋、そうでなければ闘牋(花札が普及する前に行われていた賭博の一種)があったぐらいです。 私は大勢で交わって遊ぶのが好きで、昼はユンノリや凧揚げなどをし、夕方から近所の闘牋場に頻繁に出入りしました。闘牋場で一晩過ごせば百二十ウォンほどのまとまったお金は稼げます。私は三ゲームもやればそれだけ稼ぎました。陰暦の大みそかや正月十五日頃が闘牋場の最盛期です。そういう日は、巡査が来ても大目に見て、捕まえることはしません。私は大人たちが興じている闘牋場に行って、一休みしてから、明け方頃にぴたっと三ゲームだけやりました。そうやって稼いだお金で水飴を丸ごと買って、「おまえも食べていけよ。おまえもどうだ」と言って、近所中の子供たちに分け与えました。そのお金を絶対に、自分のために使うとか、悪事を働くのに使ったりはしませんでした。 義理の兄が家に来れば、財布のお金を自由に出して使いました。そうしていいとあらかじめ許可をもらっていたからです。義理の兄のお金で、かわいそうな子供たちに飴玉も買ってあげ、水飴も買ってあげました。 どの村でも、暮らし向きがいい人もいれば悪い人もいました。貧しい友達が弁当に粟飯を包んでくるのを見ると、やるせなくて自分のご飯が食べられず、友達の粟飯と交換して食べました。私は、裕福で大きな家に住む子供よりは、生活が苦しくてご飯を食べられない子供とより親しかったし、何としてでもその子の空腹の問題を解決しようとしました。それこそが私の一番好きな遊びだったからです。年齢は幼くても、すべての人の友達に、いや、友達以上にもっと心の奥深くでつながった人にならなければならないと思いました。 村人の中に欲の深い男性が一人いました。村の真ん中にそのおじさんのマクワウリ畑があって、夏になると甘い匂いが漂い、畑の近くを通る村の子供たちは食べたくてうずうずします。それなのに、おじさんは道端の番小屋に座って、マクワウリを一つも分け与えようとしません。ある日、「おじさん、いつか一度、マクワウリを思いっ切り取って食べてもいいでしょ」と私が尋ねると、おじさんは「いいとも」と快く答えました。そこで私は、「マクワウリを食べたい者は袋を一つずつ持って、夜中の十二時にわが家の前にみんな集まれ!」と子供たちを呼び集めました。それからマクワウリ畑に群れをなして行き、「みんな、心配要らないから、好きなように一畝ずつ全部取れ!」と号令をかけました。子供たちは歓声を上げて畑に走って入っていきあっという間に数畝分を取ってしまいました。その晩、おなかの空いた村の子供たちは、萩畑に座って、マクワウリをおなかが破裂しそうになるくらい食べました。 次の日は大騒ぎです。おじさんの家を訪ねていくと、蜂の巣をつついたようでした。おじさんは私を見るやいなや、「この野郎、おまえがやったのか。マクワウリの農作業を台無しにしたのはおまえか!」と言って、顔を真っ赤にしてつかみかからんばかりの勢いでした。私は何を言われても動じないで、「おじさん、思い切り食べてもいいと言ったじゃないですか。食べたくてたまらないみんなの気持ちが僕にはよく分かるんです。食べたい食べたいと思っている子供たちに、マクワウリを一つずつ分けてやるのと、絶対に一つもやらないのと、どっちがいいんですか!」と問い詰めました。すると、かんかんになって怒っていたおじさんも、「そうだ、おまえが正しい」と言って引き下がりました。 4. 私の人生の明確な羅針盤 私たちの本貫は全羅道羅州の東にある南平です。曾祖父文禎紘は高祖父文成学の息子で、三兄弟の末弟でした。曾祖父にも致國、信國、潤國の三兄弟の息子がおり、私たちの祖父は長兄に当たります。 祖父の致國は学校にも通わず書堂 (日本の寺子屋に似た私塾)にも行ったことがないため、字は一つも知りませんでしたが、聞いただけで『三国志』をすべて暗記するほど集中力がずば抜けていました。『三国志』だけではありません。誰かが面白い話をすると、それを全部頭に入れてすらすらと暗唱しました。何でも一度だけ聞くと全部覚えてしまいます。祖父に似て、父も四百ページ以上ある「讃美歌』をすべて暗記して歌いました。 祖父は「無条件に与えて生きなさい」という曾祖父の遺言によく従いましたが、財産を守ることはできませんでした。末弟の潤國大叔父が一族の財産を抵当に取られて、すっかりなくしてしまったからです。それからというもの、家族、親族の苦労は並大抵ではありませんでした。しかし、祖父も父も、潤國大叔父を一度も怨みませんでした。なぜなら、賭博に手を出して財産を失ったわけではなかったからです。大叔父が家の財産を担保にして借りたお金は、すべて上海臨時政府(一九一九年四月に上海で組織された亡命政府。正式には大韓民国臨時政府)に送られました。当時、七万円といえば大金でしたが、大叔父はその大金を独立運動の資金に使い果たしてしまったのです。 潤國大叔父は朝鮮耶蘇教長老会神学校を卒業した牧師です。英語と漢学に秀でたインテリでした。徳彦面 (面は日本の村に相当する行政区分で、郡の下、里の上に位置する) の徳興教会をはじめとして三つの教会の担当牧師を務め、崔南善先生などと共に一九一九年の三・一独立宣言文を起案しました。独立宣言文に署名するキリスト教代表十六人のうち徳興教会の関係者が三人になると、大叔父は民族代表の立場を自ら降りました。すると、五山学校(民族意識の高揚と人材育成を目的とした初等。中等教育機関) の設立に志を同じくした南岡・李昇薫先生は、潤國大叔父の両手を握って涙を流し、万一、事に失敗したならば、後を引き受けてほしいと頼んだといいます。 故郷に戻ってきた大叔父は、万歳を叫んで街路にあふれ出てきた人々に太極旗 (現在の大韓民国の国旗で、元は一八八三年に朝鮮国の国旗として公布されたもの) 数万枚を印刷して配りました。そして同年三月八日、定州郡の五山学校の校長と教員、学生二千人以上、各教会信徒三千人以上、住民四千人以上と会合し、阿耳浦面事務所の裏山で独立万歳のデモを率いて逮捕されました。大叔父は二年の懲役刑を宣告され、義州の監獄でつらい獄中生活を送りました。翌年、特赦で出監したものの、日本の警察の迫害が激しくて一箇所に留まることができず、あちこちに身を隠していました。 警察の拷問を受けた大叔父の体には、竹槍で刺されて、ぼこっとへこんだ大きな傷跡がありました。鋭くとがった竹槍で両足と脇腹を刺す拷問を受けても、大叔父はついに屈しなかったといいます。激しい拷問にもまるで言うことを聞かないので、警察が、独立運動さえしなければ郡守(郡の首長)の職でもやろうと懐柔してきたりもしました。すると、かえって「私がおまえら泥棒の下で郡守の職に飛びつくとでも思ったのか」とすさまじい剣幕で、大声で怒鳴りつけたといいます。 私が十七歳頃のことです。潤國大叔父がわが家にしばらく滞在していると知って、独立軍の関係者が訪ねてきたことがありました。独立運動の資金が不足して援助を乞いに、雪が降り注ぐ夜道を歩いてきたのでした。父は寝ている私たち兄弟が目を覚まさないように掛け布団で顔を覆いました。すでに眠気が吹っ飛んでいた私は、掛け布団を被って両目を大きく見開いたまま、横になって大人たちの話し声に聞き耳を立てました。母はその夜、鶏を屠り、スープを煮て、彼らをもてなしました。 父がかけた掛け布団の下で息を殺して聞いた大叔父の言葉は、今も耳の奥に生き生きと残っています。大叔父は「死んでも国のために死ぬなら福になる」と話していました。また、「いま目の前に見えるのは暗黒であるが、必ず光明の朝が来る」とも話していました。拷問の後遺症から体はいつも不自由でしたが、声だけは朗々としていました。 「あんなに偉大な大叔父がなぜ監獄に行かなければならなかったのだろう。われわれが日本よりもっと力が強ければ、そうはならなかったのに……」と、もどかしく思った気持ちもよく覚えています。 迫害を避けて他郷を転々とし、連絡が途絶えた潤國大叔父の消息を再び聞くようになったのは、一九六八年、ソウルにおいてでした。従弟の夢に現れて、「私は江原道の施善の地に埋められている」と言ったそうです。従弟が夢で教えられた住所を訪ねていってみると、大叔父はすでに十年前に亡くなっていて、その地には、雑草が生い茂った墓だけが堂々と残っていました。私は潤國大叔父の遺骨を京畿道披州に移葬しました。 一九四五年八月十五日の光復以後、共産党が牧師や独立運動家をむやみやたらと殺害する事件が起きました。大叔父は幸いにも難を逃れ、家族に迷惑をかけないように共産党を避けて、三八度線を越えて南の旌善に向かいました。しかし、家族も親族もその事実を全く知らずにいました。旌善の深い山奥で書を売って生計を立て、後には書堂を建てて学問を教えたといいます。大叔父に学問を学んだ弟子たちの言葉によれば、平素は即興で漢詩を作って楽しんだそうです。そうして書いた詩を弟子たちが集めておいて、全部で百三十首以上になりました。 「南北平和」 十年前、北の故郷を離れて南に越えてきた 在前十載越南州 流水のように歳月が経ち、私の頭は白くなった 流水光陰催白頭 北の故郷に帰りたいが、どうして帰ることができようか 故園欲去安能去 しばし他郷に留まるつもりが、長い間留まることになった 別界薄遊為久游 葛布の衣を着ると、暑さで夏が来たことを感じ 袗稀長着知當夏 扇子をあおぎながら、もうすぐ秋が訪れると思う 闘紈扇動揺畏及秋 南北の平和は遠からずやって来るので 南北平和今不遠 軒下で待つ人々よ、あまり心配するな 候簷児女莫深愁 家族から離れて、見知らぬ旌善の地に生活しながらも、潤國大叔父の心は憂国の真情に満ちていました。大叔父はまた、「蕨初立志自期高 私慾未嘗容一毫(初め志を立てるときは自ら進んで高い目標を掲げ、私欲は体に生えた黒くて太い毛の先程度でも許してはならない)」という詩句も残しました。独立運動に従事した功績が韓国政府から認められたのは非常に遅く、一九七七年に大統領表彰、一九九〇年に建国勲章が追叙されました。 数多い試練に直面しながらも、一心不乱に国を愛してきた大叔父の心が見事に表現された詩句を、私は今も時々口ずさみます。最近になって、年を取れば取るほど潤國大叔父のことを思い出すのです。国の行く末を心配したその人の心が、切々と私の心深くに入り込んできます。私は大叔父自作の「大韓地理歌」をわが信徒たちにすべて教えました。北は自頭山から南は漢ラ山まで、一つの曲調で歌い通すと、心の中がすっきりする味わいがあって、今も彼らと楽しく歌ったりします。 「大韓地理歌」 東半球に突出した大韓半島は、東洋三国の要地に位置し、 北は広漠たる満州平野であり、東は深く青い東海だ。 南は島の多い大韓の海があり、西は深く黄金の黄海だ。 三面の海の水中に積まれた海産物、魚類貝類数万種は水中の宝だ。 北端に鎮座する民族の基、白頭山は、鴨緑江と豆満江の二大河の水源となり、 東西に分流して両海に注がれ、中国とソ連との境界がはっきりと見える。 半島中央の江原道に輝く金剛山、世界的な高原の名は大韓の誇り、 南方の広大な海に聳え立つ済州の漢ラ山、往来する漁船の標識ではないか。 大同、漢江、錦江、全州の四大平野は、三千万民同胞の衣食の宝庫であり、 雲山、順安、扮川、載寧の四大鉱山は、私たち大韓の光彩ある地中の宝だ。 京城、平壌、大邸、開城の四大都市は、私たち大韓の光彩ある中央の都市だ。 釜山、元山、木浦、仁川の四大港口は、内外の貿易船の集中地だ。 大京城を中心として延びた鉄道線、京義と京釜の二大幹線を連結し、 京元と湖南の両支線が南北に伸び、三千里江山を周遊するのに十分だ。 歴代朝廷の繁栄を物語る古跡は、檀君、箕子二千年の建都地平壌。 高麗始祖太祖王建の松都開城、李朝朝鮮五百年の始王地京城。 一千年の文明を輝かせた新羅、朴赫居世始祖の村、名勝地慶州。 山水の風景、絶景の忠清扶余は、百済初代温 王の創造古跡地。 未来を開拓する統一の群れよ、文明の波は四海を打つ。 寒村、山邑の平民は古い頭を拭い去り、未来の世界に猛進しよう。 5. やると言えばやる「一日泣き」の強情っぱり 父はお金を貸して踏み倒されることはあっても、返してもらうことには無頓着な人でした。しかし、自分がお金の入り用があって借金したときは、返済の約束は、牛を売り、家の柱を抜いてでも必ず守る人でした。父はいつも、「小手先の企みで真理を曲げることはできない。真というものは、そんな企みに屈するものではない。小手先の企みで何をしようと、数年も経たずにぼろが出るものだ」と言っていました。父は風采が良かったばかりか、米俵を背負って階段をのっしのっしと上がっていくほど逞しい体の持ち主でした。私が九十歳(数え)になっても世界を股に掛けて活動できるのは、父から譲り受けた体力のおかげです。 讃美歌「あの高い所に向かって」を好んで歌った母も、並の女性ではありませんでした。真っすぐで、豪胆で、荒っぽいのが母の性格でした。額や頭のつるりとしたところに加えて、性格もそのまま受け継いだ私は、我が強く、この母にしてこの息子ありと言えそうです。 幼い頃、私のあだ名は一日泣き」でした。一度泣き始めると、一日中泣いてようやく泣き止むところから付いたあだ名です。泣くときは、一大事でも起こったかのようにわんわん泣いて、寝ている者が皆起き出してくるほどだったといいます。じっと座って泣いたのではありません。部屋の中で、ひっくり返って、跳ね回りながら騒ぎを起こして、体のあちこちに傷ができ、皮膚が切れて、部屋のそこらじゅうが血だらけになるほど泣いたそうです。幼い時からとても気性の激しいところがありました。 一度決心すると絶対に譲歩しませんでした。どんなことがあっても譲歩しませんでした。もちろん物心がつく前のことです。過ちを犯したのは私だと分かっていても、母が何か指摘すると、「違う。絶対違う1」と言ってぶつかりました。「間違っていました」と一言で済むのに、死んでもその言葉を口にしませんでした。しかし母も負けてはいません。「さあ、親が答えなさいというのに答えないのか!」と言って叩くのです。ある時などは、何回叩かれたか分からないほど叩かれて気絶してしまいました。それでも私は降伏しませんでした。すると今度は、目の前でおいおい泣き始めるではありませんか。その姿を見ても、まだ間違っていたとは言いませんでした。 我が強いだけに勝負欲も強くて、どんなことでも、死んでも負けるものかという気持ちでいました。大げさではなくて、「五山の家の小さな目。あいつは一度やると言ったら必ずやる奴だ」と村の大人の誰もが認めるほどでした。何歳の時だったか、私に鼻血を出させて逃げていった子供の家に一月も通い詰めたあげく、その子と会って、親からは謝罪を受け、餅まで一抱えもらってきたのを見て、大人たちも舌を巻きました。 だからといって、気力だけで勝とうとしたのではありません。同じ年頃の子供たちよりもはるかに体も大きく、力も強かったので、村には腕相撲で私にかなう者がいませんでした。ところが、三歳年上の子に相撲で負けたことがあり、その時はひどく腹が立って我慢がなりませんでした。そこで、毎日山に登り、アカシアの木の皮が剥がれるほど木にぶつかって稽古し、力を付けて、六カ月後にはその子に勝ってしまいました。 わが家は子供が多い家系です。私の上に兄が一人、姉が三人、下に弟と妹が八人いました。幼い頃は兄弟が多くいて、本当に良かったと思います。兄弟姉妹、いとこ、またいとこ、全員呼び集めたら何でもできました。それでも歳月が過ぎてみると、広い世界に私一人が残った気分です。 一九九一年末、北朝鮮に八日間ほど行く機会がありました。四十六年ぶりに故郷に行ってみると、大勢いた兄弟と母はすでに亡くなり、姉一人と妹一人だけが生きていました。子供の頃、母のように私の世話をしてくれた姉は七十を過ぎたお婆さんになっていたし、あれほどかわいかった妹もすでに六十を過ぎて、顔は雛だらけでした。 あの頃は、この妹をなんだかんだとよくからかったものです。「孝善、おまえの新郎になる奴は目が一つしかないそ!」と言って逃げると、「何ですって!そんなこと、お兄さんがどうして分かるの?」と言いながら追いかけてきて、小さな拳で私の背中をパンパン叩きました。十七歳になった年に、孝善が叔母の紹介で見合いをしました。その日、朝早くから起きて、髪をきれいに整え、美しく化粧した孝善は、家の内外を掃除して新郎となるかもしれない人を待っていました。「孝善、おまえそんなに嫁に行きたいのか?」とからかうと、化粧した顔が赤く染まって、その姿が何とも言えずかわいらしかったです。 北朝鮮を訪問して十数年が過ぎた今は、あの時私と会って、胸が痛くなるほど泣いた姉も亡くなり、妹一人が残っているだけというのですから、切なくて、心がすっかり萎れてしまうようです。 手先が器用だった私は、靴下や服の類は自分で編んで着ていました。寒くなれば帽子もすいすい編んで被りました。編み物の腕前は女たちよりも上で、姉にも教えてあげたし、孝善の襟巻きも私が編んでやりました。針仕事も好きでした。熊の足裏のように大きく分厚い手で、下着も自分で作って着たのです。「荒織りの木綿」を置いて、それをさっと半分に折って、型を取って寸法に合わせて裁断した後、裁縫をすると、自分の体にぴったりのものができました。母の足袋もそうやって作って差し上げたところ、母は「おやおや、二番目の子が遊びでしていると思ったら、母さんの足にぴたっと合ってるね」と言って、喜んでくれました。 孝善の下には妹が四人もいました。母は十三人の子供を産んで、五人の子供に先立たれています。母が憔悸したのは言うまでもありません。生活に余裕がない上、子供がそんなにも多くて、母は言葉で言い尽くせないほどの苦労をしました。 その当時、娘を嫁に出すとか嫁をもらうときには、木綿を織らなければなりませんでした。綿花から取り出した綿を糸車に入れて糸を紡ぎますが、糸車に入れる際のほぐした綿の固まりを平安道の言葉で「トケンイ」と言います。子供たちが一人、二人と結婚するたびに、「荒織りの木綿」のように柔らかく美しい木綿が、母の厚ぼったい手を通して作られました。人1 倍手際が良くて、普通の人が一日に三、四枚織る布を、母は十枚も二十枚も織り出しました。姉を嫁に出すというので、速いときは一日に一疋(二反)織ることもありました。決意すれば何でもさっとやってしまう母の性急な性格によく似て、私も何でもさっとやってしまう性分です。 今もそうですが、私は幼い頃からどんな食べ物でもよく食べました。トウモロコシもよく食べ、生のキュウリもよく食べ、生のジャガイモや空豆もよく食べました。二十里(約八キロメートル) 離れている母の実家の畑に蔓が伸びているのがあって、何かと尋ねてみたら「チクァ」という返事でした。その村ではサツマイモを「チクァ」と言ったのです。掘って食べてみると、後味が素晴らしく良くて、籠に入れて持ってきて一人で全部食べました。翌年からは、サツマイモの季節になると、しばしば母の実家に走って行きました。「お母さん、しばらくの問どこそこに行ってきますよ」と言って、二十里の道を一息で走って行き、サツマイモを食べたのです。 故郷では、五月はジャガイモの蓄えが底を尽きかける一番大変な時期です。冬の間はずっとジャガイモばかり食べて、春になって六月頃に麦を収穫するとジャガイモ暮らしは終わりを告げます。麦は最近のように食べやすくした平麦ではなく、丸麦でしたが、それなりに美味しく食べました。丸麦を二日ほど水でふやかしてご飯を炊くと、スプーンでぎゅうぎゅう押さえたとき、飯粒が弾けて散らばります。それにコチュジャン(唐辛子みそ)をさっと混ぜて一口食べると、麦が口の端からしきりに飛び出してきます。そこで、口をむっと閉じて、もぐもぐと食べた覚えがあります。 アマガエルもたくさん捕って食べました。昔の田舎では、子供たちが麻疹にかかるか病気になるかして顔がやつれていれば、アマガエルを食べさせました。太ももがぱんぱんに張った大きなアマガエルを三、四匹捕まえて、カボチャの葉に包んで焼くと、蒸し器で蒸したようにふかふかしてとても美味しいのです。味からすればスズメの肉、キジの肉にも劣りません。広い野原を飛び回っていたクイナはもちろん、まだらでかわいい山鳥の卵もたくさん焼いて食べました。このように、自然界には神様が下さった食べ物があふれていることを、山や野原を歩き回って知っていきました。 6. 牛を愛せば牛が見える 目に入るものはすべてを知り尽くして初めて満足する性格だったので、何でも大まかに知ってそれで終わりということはありませんでした。「あの山の名前は?あの山には何があるのだろう?」という疑問が浮かぶと、必ず行ってみたものです。幼い頃、二十里 (約八キロメートル) 四方にある村々の山の頂という頂には全部登ってみました。その山に行く途中も行かない所がありませんでした。そうやってこそ朝日が照らすあそこに何があるかを心に思い浮かべ、心置きなく眺めることができるのであって、分からないと眺めるのも嫌になります。目に入るものは、その向こう側にあるものまですべて知らなければ気が済まず、我慢できませんでした。 ですから、山に行って触ってみなかった花や木がありません。目で見るだけでは物足りず、花も木も触ってみたり、匂いを嗅いでみたり、口に入れてみたりしました。その香りと食感があまりに心地良くて、一日中草木の匂いを嗅いでいなさいと言われても嫌ではありませんでした。良き自然に魅了されて、外に行けば家に帰るのも忘れてしまい、野山を歩き回りました。太陽が沈んで薄暗くなっても恐ろしいとは思いませんでした。 姉たちが山菜採りに行く時は、私が先頭になって山に登って、山菜をもぎ取りました。おかげで、味が良くて栄養価のある青菜も種類別に全部分かるようになりました。その中で、好物と言えば苦菜です。薬味を加えた醤油で和えて、ビビンバに入れてコチュジャンと混ぜて食べると、味が一級品でした。苦菜は、食べるとき口に含んでちょっと息を止めます。そうやって一呼吸置いてよく蒸らすうちに、苦菜の苦味が消えて、口の中に甘味が染み出してきます。そのコツがうまくつかめると、非常に美味しく苦菜を食べることができます。 木登りも好きで、わが家にあった樹齢二百年の大きな栗の木を登り降りしました。村の入り口の外まで大きく広がった展望がどれだけ素晴らしいことか。木のてっぺんまで上がって、いつまでも降りようとしませんでした。 ある時、夜中まで登っていたら、すぐ上の姉が眠らずに私を捜しに来て、危険だと大騒ぎしたことがあります。 「龍明、お願いだから降りてきなさい。夜遅いから、早く戻って寝なければ」 「眠くなったらここで寝ればいいよ」 姉に何を言われようと、私は栗の木の枝に座ってびくともしません。すると、腹を立てた姉が怒鳴りました。 「こら、猿!早く降りてこい!」 私が木登りを好んだのは申年生まれだったせいかもしれません。 栗の木に毬栗が鈴生りに垂れ下がるようになると、あっちの木こっちの木と、折れた木の枝を使って毬栗をゆらゆら動かして回りました。毬栗がぽとぽと地面に落ちていくので、この遊びも本当に面白いものでした。都会暮らしの最近の子供たちがこういう面白さを知らないのは実に残念なことです。 自由に空を飛び回る鳥も私の関心の対象でした。なかなかきれいな鳥が飛んでくると、雄はどうなっているのか、雌はどうなっているのかと、実地にいろいろ調べて研究しました。その頃は木や草や鳥の種類を教えてくれる本がなくて、自分で詳しく調べてみる以外方法はなかったのです。渡り鳥の後を追って山をあちこち捜し回ろうとし、おなかが空いても気になりませんでした。 ある時、カササギがどうやって産卵するのかひどく気になって、朝な夕なカササギの巣がある木を登り降りしました。毎日のように木登りして観察したので、実際に卵を産む場面も見たし、カササギとも友達になりました。 「カッカッカッカッ」 カササギも初めは私を見ると、しきりに鳴いてやたらと騒いだのですが、後になるとじっとしていました。 周辺の草むらの虫も私の友達でした。毎年夏の終わり頃になると、私の部屋の前にある柿の木のてっぺんでヒグラシが鳴きました。夏の間中ミンミンミンと耳痛く鳴いていたセミの声がぱったり途絶えて、ヒグラシが鳴き始めると、どれだけほっとするかしれません。もうすぐ蒸し暑い夏が去り、涼しい秋が来るという季節の変わり目を告げる鳴き声だったからです。 「カナ、カナカナカナカナ」 そうやってヒグラシが鳴くたびに、私は栗の木に登って考えました。 「そうだな。穴に入って鳴いたって誰も気がつかないさ。やっぱり、どうせ鳴くなら、ああいう高い所で鳴いたら村の人みんなに聞こえていいよなあ」 ところで、分かってみると、ミンミンゼミもヒグラシもすべて(人に聞かせるためではなく) 愛のために鳴くのでした。ミンミンミンもカナカナカナも鳴き声は皆、連れ合いを呼ぶ信号だと知ってからは、虫の声が聞こえるたびに笑いが込み上げました。 「そうか、愛が恋しいというのか。熱心に鳴いて、素敵な連れ合いを見つけろよ」 このように自然界の生き物と友達になって、彼らと心を通わせる方法を少しずつ悟っていきました。 故郷の家から十里(約四キロメートル)西に行くと黄海です。少し高い所に登るだけで広々とした海が見えるほど、海は近くにありました。溜め池がいくつもあって、そこに小川の水が流れ込んでいました。下水のにおいがする池に入り、中をあさって、ウナギとカニを上手に捕まえたものです。池の中のあらゆる場所を探って魚を捕まえてみると、どこにどんな魚が棲んでいるのかよく分かりました。ウナギはもともと広い所に腹ばいでじっとしているのが嫌いで、穴に隠れます。頭を穴に押し込んでも、長い体を全部は入れることができず、尻尾がちょこっと出ているのが普通です。その尻尾らしきものを口で噛んで捕まえれば間違いないのです。カニの棲む穴のような所に、ウナギは尻尾を出してじっと潜んでいました。わが家に来客があって、お客様がウナギの煮詰めたものを所望されたときは、十五里(約六キロメートル)の道をぶっ通しで走っていってウナギを五匹ほど捕まえてくるのは訳もないことでした。夏休みになれば一日に四十匹以上、いつも捕ってきたからです。 私が唯一嫌だったのは、牛に牧草を食べさせることでした。父から牛に食べさせてこいと言われると、向こう側の村の野原に牛をつないでおいて、その場から逃げてしまいました。しばらくの時間逃げて、心配になって戻ってみると、牛は相変わらずその場所につながれていました。半日近く過ぎても自分に食べさせてくれる人が来なければ、牛はモーと鳴きます。遠くで牛の鳴き声が聞こえてくると、私はいたたまれなくなって、「牛の奴め。あいつめ、あいつめ……」と言って苛立ちました。おなかが空いたと私を捜して鳴く声を、気にしないようにしても気になって仕方がなく、胸がつぶれる思いをしました。それでも、夕方遅くに行ってみると、怒って角で私を追い返そうとすることもなく喜んでいました。そんな牛を見るたびに、人間も大きな志の前では牛と同じでなければならないと考えました。愚直に時を待てば良いことに出会うようになるものです。 わが家には、私がとてもかわいがっていた犬がいました。利口な犬で、学校から戻ってくると家の外の遠くまで迎えに来ました。私を見つけるとうれしそうにするので、いつも右手で触ってやりました。そのせいか、犬がたまたま私の左側に来ても、さっと回って右側に来て、私に顔をすりつけてきます。そのときは右手で顔を触って顔や頭をごしごししてやり、背中を撫でてやりました。そうしないと、キャンキャン吠えては付いてきて、私の周りをぐるぐる回るのです。 「こいつ、愛が何であるのか分かるのか。それほど愛がいいのか」 動物も愛を知っています。雌鶏が雛をかえすために卵を抱いている姿を見たことがあるでしょうか。卵を抱いた雌鶏は、深刻そうな目をして、誰も近くに来ないように足を踏みならして、一日中座っています。雌鶏が嫌がるのは承知の上で、私は鶏小屋を随時出たり入ったりしました。入っていくと、雌鶏は怒って、首を真っすぐに立てて私を睨みつけます。私も負けじと睨み返します。あまり頻繁に出入りしたので、後になると、最初から私を相手にしなくなりました。しかし一度だけ、神経が高ぶったのか、卵を守ろうと足の爪を長く伸ばして、ピューンと飛んで私をつつこうとしたことがあります。結局、卵が気になってその場を離れられず、徒労に終わりましたが。 卵を抱いた雌鶏は、私がわざと近くに行って羽を触ってもぴくりともしませんでした。おなかの羽毛が抜けてしまうほど卵を守って座り続け、やがて雛を誕生させます。そうやって母子が愛でしっかりと一つになっているので、卵を抱いた雌鶏の権威の前では雄鶏も好き勝手なことはできません。「誰であろうと、ちょっとでも触ってみろ。黙っちゃいないぞ!」という天下の大王の権威を持っているのです。 雌鶏が卵を抱いて守ることが愛であるように、豚が子を産むことも愛です。豚が出産する様子も見守りました。親豚がウーンと稔って力むと子豚がつるっと落ち、またウーンと捻って力むとつるっと出てきました。猫も犬も同様です。目も開けられない動物の子供たちが、ウーンと力むたびにこの世界に出てくるのを見ると、うれしくて自然と笑みがこぼれます。しかしながら、動物の死を見るのは実に悲しいことです。 村から少し離れた所に屠畜場がありました。牛が屠畜場に足を踏み入れると、白丁(屠畜などに従事する当時の被差別民)が出てきて、腕ほどの太さの金槌で牛をドーンと一撃します。大きな牛がばたりと倒れて、すぐに皮を剥ぎ、足を取り外します。足を取り外した後でも、切られた箇所がずっとぴくぴくしているのです。生命が死にきれなくて生きているのです。それを見ると涙があふれて、わんわん泣きました。 私は幼い時から人並み外れているところがありました。神通力があるかのように、人々が知り得ないことをかなりよく言い当てました。幼い頃から、「雨が降る」と言えば間違いなく雨が降ったし、家の中に座って「あの上の村の誰々お爺さんが危ないだろう」と言えば、そのとおりになりました。そんな能力があったので、七歳の時から村々で見合いをしてあげるチャンピオンになりました。新郎と花嫁の写真を二枚だけ持ってくればすべて分かりました。「この結婚は良くない」と言ったのに結婚すれば、全部壊れてしまいました。そのように良縁を結んであげることを九十歳になるまでしたのですから、その人が座ったり、笑ったりするのをさっと見ただけで、すべて分かるようになりました。 姉が今何をしているのかも、集中して思念してみるとすべて知ることができました。精神を統一し、集中して思念すれば、全部分かりました。ですから、姉たちは私を好きでありながらも、一方で私を恐れました。私が彼女たちの秘密を何でも知っていたからです。凄い神通力のように見えますが、実際のところ、これは別段驚くようなことではありません。取るに足りない蟻でさえも、梅雨の始まりを知って前もって避難するではありませんか。人間も自分の行く道を先んじて知らなければなりません。それを知るのはそれほど難しいことでもありません。カササギの巣を詳しく観察すれば、風がどこから吹いてくるかを知ることができます。どこからか風が吹いてくれば、カササギはその反対側に入口をさっと作っておきます。木の枝をくわえてごちゃごちゃと絡み合わせた後、雨水が入らないように巣の下と上に赤土をくわえてきて塗ります。そうしてから木の枝の端をすべて一つの方向に揃えます。家の軒のように雨水が一箇所にだけ流れるようにするのです。カササギにもこれだけの生きる知恵があるのに、人間になぜそういう能力がないのでしょうか。 父と一緒に牛の市場に行って、「お父さん、あの牛は良くないから買っては駄目です。良い牛はうなじがしっかりして、前足が立派で、後ろと腰ががっしりしていなければならないのに、あの牛は全然そうじゃない」と言えば、必ずその牛は売れませんでした。父に「おまえはそんなことをどうやって知ったのか」と言われたので、私は「お母さんのおなかの中で学んで生まれました」と答えました。もちろんそれは、そんなふうに言ってみただけです。 牛を愛すれば牛が見えるのです。この世で最も力強いのが愛であり、一番恐ろしいのは精神統一です。心を落ち着かせ静めていくと、心の奥深い所に心が安らぐ場があります。その場所まで私の心が入っていかなければなりません。心がそこに入って眠って目覚めるときには、精神がとても鋭敏になります。まさにその時、雑多な考えを排除して精神を集中すればすべてのことに通じます。疑問に思ったら、今すぐにでもやってみたらよいでしょう。この世のすべての生命は、自分たちを最も愛してくれるところに帰属しようとします。ですから、真に愛さないのに所有し支配することは偽りなので、いつかは吐き出すようになっているのです。 7. 草むらの虫と交わす宇宙の話 森の中にいれば心が澄んできます。木の葉がしきりにカサカサする音、風が葦を揺らす音、水場で鳴くカエルの鳴き声といった自然の音だけが聞こえ、何の雑念も生じません。そこで、心をがらんと開け、自然を全身で受け入れれば、自然と私は別々のものではなくなります。自然が私の中に入ってきて、私と完全に一つになるのです。自然と私の問の境界がなくなる瞬間、奥妙な喜びに包まれます。自然が私になり、私が自然になるのです。 私はそのような経験を生涯大事にしまって生きてきました。今も目を閉じれば、いつでも自然と一つになる状態が訪れます。ある人は無我の状態だとも言いますが、私を完全に開放したところに自然が入ってきてとどまるのですから、事実は無我を超えた状態です。その状態で、自然が話しかける音を聞くのです。松の木が出す音、草むらの虫が発する音……。そうやって私たちは友達になります。 私は、その村にどんな心性を持った人が住んでいるか、会ってみなくても知ることができます。村の野原に出て一晩過ごし、田畑で育つ穀物の言葉に耳を傾ければ、おのずと分かるようになります。穀物が嘆息するのか喜ぶのかを見れば、村人の人となりを知ることができるのです。 韓国と米国、さらには北朝鮮で何度か監獄に入っても、他の人のように寂しいとかつらいとか思わなかったのも、すべてその場所で風の音を聞くことができ、共に暮らす虫たちと会話を交わすことができたからです。 「虫たちと一体どんな話をするんだ!」と疑うこともできますが、ちっぽけな砂粒一つにも世の中の道理が入っており、空気中に浮かぶ埃一つにも広大無辺な宇宙の調和が入っています。私たちの周りに存在するすべてのものは、想像もできないほどの複合的な力が結びついて生まれているのです。また、その力は密接に連関して相互につながっています。大宇宙のあらゆる存在物は、一つとして神の心情の外で生まれたものはありません。木の葉一枚揺れることにも宇宙の息遣いが宿っています。 私は幼い頃から山や野原を飛び回って、自然の音と交感する貴重な能力を与えられました。自然はあらゆる要素が つのハーモニーをなして、偉大で美しい音を作り出します。誰一人として排除したり無視したりせず、どんな人でも受け入れて調和をもたらします。自然は、私が困難にぶつかるたびに私を慰めてくれたし、絶望して倒れるたびに私を奮い立たせました。大都市に生きる最近の子供たちは自然と親しむ機会すらありませんが、感性を教え育むことは知識を養うことより重要です。自然を感じる心がなく、感性が乾いた子供であるならば、誰が教育したところで何が変わるでしょうか。せいぜい世間に広まった知識を積み上げて個人主義者になるだけです。そんな教育では、物質を崇拝する唯物論者ばかりを作り出すことになってしまいます。 春の雨はぽつぽつ降り、秋の雨はぱらぱら降る、その違いを感じることができなければなりません。自然との交感を楽しめる人であってこそ正しい人格が身に付くと言えます。道端に咲いたタンポポ一本が天下の黄金よりも貴いのです。自然を愛し、人を愛することのできる心を備えておくべきです。自然も、人も愛せない人は、神を愛することはできません。神が創造された万物は神ご自身を表す象徴的な存在であり、人は神に似た実体的な存在です。万物を愛することのできる人だけが神を愛することができます。 8. 「日本人はどうぞ日本に帰りなさい」 誤解のないように付け加えておくと、私は野山を歩き回って四六時中遊んでいたわけではありません。兄を助けて野良仕事も熱心にやりました。農村には、季節ごとにやらなければならない仕事がたくさんあります。田や畑を耕し、田植えをし、田畑の草取りもしなければなりません。草取りの中で最もつらいのが、粟の畑で雑草を取る作業です。種を蒔いた後、畝間の除草を三回はしないといけないのに、粟畑の除草は重労働で、一回やり終えるごとに腰が曲がるほどでした。 サッマイモは赤土に植えて育てると味がなく、砂土に赤土を三分の一ほど混ぜた土壌で育てると甘いサツマイモを収穫できます。トウモロコシを育てるには、人糞の堆肥が最も良いため、手で糞をこねまわして粉末を作ることもしました。野良仕事を手伝ってみて、どうやれば良い豆や良いトウモロコシができるのか、どんな土に豆や小豆を植えればいいのか、自然と分かるようになりました。ですから、私は農夫の中の農夫です。 平安道はキリスト教文物が早くから入ってきた所で、一九三〇年代、四〇年代にすでに農地が真っすぐに整理されていました。田植えをするときは、一竿を十二間に分けて一間 (普通、一間は六尺で約一・八ニメートル) ごとに目印を付けておき、この長い竿を少しずつ移動させて、二人で六列ずつ動きながら整然と苗を植えていきます。後に韓国に来てみると、竿もなく、ただ列の線を引いただけで、一列に数十人ずつ入って、じゃぶじゃぶと行ったり来たりして植えるやり方で、実にもどかしく見えました。足を指尺二つ分の幅に開けて立ち、素早く植えるのがコツです。私が農繁期に田植えを手伝っただけでも学費程度は十分稼ぐことができたのです。 九歳になると、父は私を近所の書堂に送りました。書堂では、一日に本一ページだけ覚えればよいとされていました。三十分だけ集中して覚えて、訓長(先生)の前に立ってすらすら詠ずれば、その日の勉強は終わりです。 年老いた訓長が昼食の前後三時間ほど昼寝に入ると、私は書堂を出て、野山を歩き回りました。山に行く日が増えれば増えるほど、草や実など食べ物の在り処にも精通するようになり、そうなると次第に食べる量が増えて、それだけで食の問題を解決しました。ですから、昼食や夕食は必要ないのです。その時から、私は家で昼食を取らずに山に行くようになりました。 書堂に通って『論語』『孟子』を読み、漢字を学びましたが、文字はかなり上手に書きました。おかげで十一歳の時から、訓長に代わって、子供たちが手本にする書を書くようになりました。ところで、実を言うと私は書堂より学校に通いたかったのです。世の中は飛行機を造っているのに、「孔子曰く」「孟子曰く」でもないだろうと思ったからです。その時が四月で、父がすでに一年分の授業料を全額払った後でした。それを知りながら書堂をやめると決心して、父を説得しました。祖父も説得し、叔父までも説得しました。当時、普通学校に移ろうとすれば編入試験を受ける必要があり、試験に合格するには塾に入って勉強しなければなりませんでした。私はいとこまでけしかけて、圓峰の塾に入って、普通学校編入のための勉強を始めました。 十四歳になった一九三四年、編入試験を受けて私立五山普通学校の三学年に入りました。入った時は人より遅れていましたが、勉強ができて五学年に飛び級しました。五山学校は家から二十里(約八キロメートル)も離れた所にあります。しかし、私は一日も休まず、毎日決まった時間に歩いて行きました。峠を越えると他の子供たちが待っていて、私が先に立ってサッサッサッと早足で歩いていくと、彼らは付いてくるのが大変そうでした。平安道の虎が出てくる恐ろしい山道を、そうやって歩いて通いました。 五山学校は独立運動家である李昇薫先生が建てた民族学校です。日本語を教えないだけでなく、初めから日本語を使えないようにしました。しかし、私の考えは少し違っていて、敵を知ってこそ敵に勝つことができると考えました。それで、再び編入試験を受けて、今度は定州公立普通学校四学年に入りました。公立学校の授業はすべて日本語です。初登校の前夜、辛うじて片仮名と平仮名だけを覚えて登校しました。それでも、日本語が全然できなくて困り、一学年から四学年までの教科書を十五日以内に全部覚えました。そうやって初めて耳が通じたのです。 おかげで、普通学校を卒業する頃には、日本語を流暢に話せるようになっていました。卒業式の日、定州邑 (邑は面の中で人口が多く商工業が盛んな地域を指し、日本では町にあたる) の主立った名士が皆、学校に集まってきました。私は志願して、彼らを前にして演説をしました。感謝の言葉を述べたのではありません。この先生はどうであり、あの先生はどうであり、学校制度にはこのような問題があって、この時代の指導者はこういう覚悟で臨むべきだ等々、批判的な演説を日本語で続けざまにやりました。 「日本人は一日も早く荷物をまとめて日本に帰りなさい。この地は、わが国の者たちが子々孫々にわたって生きていかなければならない先祖から受け継いだ遺産です!」 そういう演説を、警察署長、郡守、面長すべてが集まった前でやりました。潤國大叔父の魂を受け継いで、あえて誰も言えない言葉をぶつけたのです。聴衆がどんなに驚いたかしれません。演壇を降りる時に見てみたら、彼らの顔は灰色に曇り、呆然としていました。 問題はその後です。日本の警察は、その日から私を要注意人物としてマークし、私の行動をあれこれと監視し、うるさく付きまといました。後には、日本に留学しようとした際、警察署長が書類に判を押してくれなくて、ひどく苦労しました。日本に送るわけにはいかない要注意の青年として拒絶したのです。結局、警察署長と激しく争って、強く訴えた後になって、ようやく日本に渡って行くことができるようになりました。 【第二章 涙で満たした心の川――神の召命と艱難】 1. 恐れと感激が交差する中で 私は物心がついてくると、「将来何になるのか?」という問題について熱心に考え始めました。自然を観察し研究することが好きだったので、科学者になろうかと考えましたが、日本の収奪に苦しめられ、日に三度の食事さえままならない人たちの惨めな有様を目にして、考えを変えました。科学者になってノーベル賞を取ったとしても、ぼろを身にまとい、飢えた人たちの涙をぬぐい去ることはできないと思ったからです。 私は人々の流れる涙をぬぐい、心の底に積もった悲しみを吹き払う人になりたかったのです。森の中に横になって鳥たちの歌声を聞くと、「あのさえずりみたいに、誰もが仲良く暮らせる世の中を築こう。一人一人の顔をかぐわしい花のように素晴らしくしてあげたい」という思いが自然と沸き上がってきました。一体どんな人になればそうできるのか、それはまだよく分かりませんでしたが、人々に幸福をもたらす者になろうという心だけは固まっていきました。 私が十歳の頃、牧師である潤國大叔父の影響で、私たち一家は全員キリスト教に改宗しました。次姉と兄の精神的な病が按手祈疇を通して治癒したことから、猫頭山(標高三一〇メートル)のふもとにある徳興長老教会に入教し、熱心に信仰生活をしたのです。その時から、私は真面目に教会に通って、礼拝を]度も欠かしませんでした。礼拝時間に少しでも遅れると、あまりにも恥ずかしくて顔を上げることができませんでした。まだ子供なのに何を思ってそうしたかというと、私の心の中には、その時すでに神の存在がとても大きな位置を占めていたのです。そして、生と死や人生の苦しみと悲しみについて、深刻に悩む時間が増えていきました。 十二歳の時、曾祖父のお墓を移葬するのを見たことがあります。本来は一族の大人だけが参列する場でしたが、人が死ねばどうなるのか直接見たいという欲求に駆られて、必死に割り込んで入れてもらいました。墓を掘り起こして移葬する様子を見守った私は、驚きと恐怖に襲われました。儀礼作法を弁えた大人たちが集まって墳墓を開けた時、私の目に飛び込んできたのはか細い骨の欠片だけでした。両親から聞いていた曾祖父の姿は跡形もなく、白い骨だけがぞっとするような醜い姿を現しました。 曾祖父の骨を見てから、私はしばらくの間、その衝撃から抜け出すことができませんでした。「曾祖父も生きておられた時はみんなと全く同じ姿をしていたはずなのに……。そうすると、父や母も亡くなれば曾祖父のように白い骨だけが残るのか。自分も死ねばそうなるのか。人はみんな死ぬけれど、死んだ後は何も考えられず、そのまま横たわってばかりいるのか。思いはどこにいくのか……」 そうした疑問が、頭の中を離れませんでした。 その頃、家の中でおかしな出来事がたくさん起きました。今もはっきりと思い出すことが一つあります。礼装を仕立てようと、機織りで作る反物の出来上がったところまでを甕に入れておいたのに、ある晩、その白い布地が上の村の古い栗の木に掛かっていました。できた部分は一疋(二反)ほどの量になるまで少しずつ集めておいて、その木綿の生地で子供らの婚礼衣装を縫うのですが、これを故郷では「礼装」と呼びました。ところで、誰が夜中に家から遠く離れた栗の木に掛けたのか、それが分かりませんでした。到底人の仕業とは思えないので、近所の誰もが恐れたのです。 十五歳の頃、十三人の兄弟姉妹のうち五人の弟妹が、わずか一年で相次いでこの世を去るという悲劇も経験しました。一度に五人もの子供を失った両親の傷ついた心は言葉で表現しようがありません。ところが、ぞっとすることに、不幸はわが家の塀を越えて一族にまで及びました。丈夫だった牛が急に死に、続いて馬が死に、一晩のうちに豚が七匹も死んでいきました。 家族の苦難は民族の苦痛、世界の苦痛と無縁ではありません。次第にひどくなる日本の圧政とわが民族の悲惨な立場を見つめて、私の苦悩もただ深まるばかりでした。食べる物がなくて、人々は草や木の皮もあるだけもぎ取って、それを煮て食べるほどでした。世界的にも戦争が絶えませんでした。 そんなある日のことです。新聞で、私と同じ年の中学生が自殺したという記事を読みました。 「その少年はなぜ死んだのだろう。幼い年で何がそんなにつらかったのか……」 少年の悲しみがまるで私自身の悲しみであるかのよう感じられて、胸が締めつけられました。新聞を広げたまま三日三晩泣き通しました。とめどなく涙が流れて、どうしようもありませんでした。 世の中でなぜこれほど異様なことが相次いで起こるのか、なぜ善良な人を悲しみが襲うのか、私には全く理解できませんでした。曾祖父の墓を移葬する際に遺骨を目撃してからというもの、生と死の問題に疑問を持つようになった上、家の中で起こる理解しがたい出来事によって、私は宗教に頼るようになりました。しかしながら、教会で聞くみ言だけでは、生と死に関する疑問をすっきりと解くことができません。もどかしく思った私は、自然と祈りに没頭するようになりました。 「私は誰なのか。どこから来たのか。人生の目的は何か」 「人は死ねばどうなるのか。霊魂の世界は果たしてある のか」 「神は確実に存在するのか。神は本当に全能のお方なのか」 「神が全能のお方であるとすれば、なぜ世の中の悲しみをそのまま見捨てておかれるのか」 「神がこの世をつくられたとすれば、この世の苦しみも神がつくられたものなのか」 「日本に国を奪われたわが国の悲劇はいつ終わるのか」 「わが民族が受ける苦痛の意味は何なのか」 「なぜ人間は互いに憎み合い、争って、戦争を起こすのか」 等々、実に深刻で本質的な問い掛けが私の心を埋め尽くしました。 誰も容易に答えられない問いなので、答えを得るには祈るしかありません。私を苦しめる心の問題を神様に打ち明けてお祈りしていると、苦しみも悲しみも消えていって、心が楽になります。祈る時間は次第に長くなりました。祈りで夜を明かす日も、一日また一日と増えていきました。そしてとうとう、神様が私の祈りに答えてくださる日がやって来ました。それは何物にも代えがたい貴重な体験で、その日は、私の生涯に最も大切な記憶として残る、夢にも忘れることのできない一日です。 十五歳になった年の復活節(イースター)を迎える週でした。その日も、いつもと同じように近くの猫頭山に登って、夜を徹して祈りながら、神様に涙ですがりつきました。なにゆえこのように悲しみと絶望に満ちた世界をつくられたのか、全知全能の神がなぜこの世界を痛みの中に放置しておられるのか、悲惨な祖国のために私は何をしなければならないのか。私は涙を流して何度も何度も神様に尋ねました。 祈りでずっと夜を過ごした後、明け方になって、イエス様が私の前に現れました。風のように忽然と現れたイエス様は、「苦しんでいる人類のゆえに、神様はあまりにも悲しんでおられます。地上で天の御旨に対する特別な使命を果たしなさい」と語られたのです。 その日、私は悲しい顔のイエス様をはっきりと見、その声をはっきりと聞きました。イエス様が現れた時、私の体はヤマナラシの木が震えるように激しく震えました。その場で今すぐ死んでしまうのではないかと思われるほどの恐れ、そして胸が張り裂けるような感激が一度に襲いました。イエス様は、私がやるべきことをはっきりとお話しになりました。苦しんでいる人類を救い、神様を喜ぶようにしてさしあげなさい、という驚くべきみ言でした。 「私にはできません。どうやってそれをするのでしょうか。そんなにも重大な任務を私に下されるのですか」 本当に恐ろしくてたまらず、何とか辞退しようとして、私はイエス様の服の裾をつかんで泣き続けました。 2. 胸が痛ければ痛いほどひたむきに愛せ 私は非常に激しく混乱しました。両親にも打ち明けられず、かといって、心の中にぎゅっとしまい込んでおくわけにもいかない大きな秘密を抱えてしまったのです。どうしていいか分からず、途方に暮れました。明らかなことは、私が天から特別な任務を託されたという事実です。しかし、一人でやり遂げるにはあまりにも大きな責任でした。しかもその内容たるや驚くべきものがありました。到底自分には果たし得ないと思って、不安と恐怖におののく毎日でした。混乱した心を何とかしようと、以前にもまして祈りにすがりつきましたが、それすら役に立ちません。いくら努力しようとも、イエス様に会った記憶から少しも逃れられなかったのです。泣き出したい気持ちをどうすることもできなくて、私はその恐れを詩に書きました。 [栄光の王冠] 人を疑えば、苦しみを覚え 人を裁けば、耐えがたくなり 人を憎めば、もはや私に存在価値はない しかし、信じてはだまされ 今宵、手のひらに頭を埋めて、苦痛と悲しみに震える私 間違っていたのか。そうだ、私は間違っていた だまされても、信じなければ 裏切られても、赦さなければ 私を憎む者までも、ひたむきに愛そう 涙をふいて、微笑んで迎えるのだ だますことしか知らない者を 裏切っても、悔悟を知らない者を おお主よ!愛の痛みよ 私のこの苦痛に目を留めてください 疼くこの胸に主のみ手を当ててください されど 裏切った者らを愛したとき 私は勝利を勝ち取った もし、あなたも私のように愛するなら あなたに栄光の王冠を授けよう イエス様に会った後、私の人生は完全に変わりました。イエス様の悲しい顔が私の胸中に烙印のように刻まれ、他の考え、他の心は全く浮かびませんでした。その日を境に、私は神様のみ言に縛られてしまいました。ある時は、果てしない暗闇が私を取り囲み、息つく暇さえないほどの苦痛が押し寄せたし、またある時は、昇る朝日を迎えるような喜びが心の中に満ちあふれました。そういう毎日が繰り返されて、私は次第に深い祈りの世界に入っていきました。イエス様が直接教えてくださる新しい真理のみ言を胸に抱いて、神様に完全に捕らえられて、以前とは全く異なる人生を歩むようになりました。考えることが山ほどあって、次第に口数の少ない少年になったのです。 神の道を行く人は、常に全力で事に当たり、心を尽くして、その目的地に向かっていくべきです。この道には執念が必要です。生来、頑固一徹な私は、元から執念の塊です。生まれつきの性質そのままに、苦難にぶつかっても執念で克服して、私に与えられた道を進んできました。試練に遭って翻弄されるたびに私を深いところで支えてくれたのは、「神様から直接、み言を聞いた」という厳粛な事実でした。しかし、一度しかない青春をかけてその道を選ぶことが、たやすいことだったでしょうか。逃げたい気持ちになったこともあります。 知恵のある人は、どんなに困難でも、未来への希望を抱いて黙々と歩いていきますが、愚かな人は、目の前の幸福のために未来を無駄に投げ捨ててしまいます。私も若い盛りには愚かな考えに染まったこともありましたが、結局は、知恵ある人が行く道を選択しました。神が願うささ道を行くために、一つしかない命を喜んで捧げました。逃げようとしても逃げ場がなくて、私が行く道はただその道以外にありませんでした。 ところで、神はなぜ私を呼ばれたのでしょうか。九十歳(数え) になった今も、毎日、神がなぜ私を呼ばれたのかを考えます。この世の中の無数の人の中から、よりによってなぜ私を選ばれたのか。容貌が優れているとか、人格が素晴らしいとか、信念が強いとか、そういうことではありません。私は頑固一徹で、愚直で、つまらない少年にすぎませんでした。私に取り柄があったとすれば、神を切に求める心、神に向かう切ない愛がそれだったと言えます。いつ、いかなる場所でも最も大切なものは愛です。神は、愛の心を持って生き、苦難にぶつかっても愛の刀で苦悩を断ち切れる人を求めて、私を呼ばれたのです。私は何も自慢できるものがない田舎の少年でした。この年になっても、私はただひたすら神の愛だけに命を捧げて生きる愚直な男です。 私は自分では何も分からなかったので、すべてのことを神に尋ねました。「神様、本当にいらっしゃいますか」と尋ねて、神が確かに実在することを知りました。「神様にも願いがありますか」と尋ねて、神にも願いがあるという事実を知りました。「神様、私が必要ですか」と尋ねて、こんな私でも神に用いられるところがあると知りました。 私の祈りと至誠が天に届く日には、イエス様は必ず現れ、特別なみ言を伝えてくださいました。切実に知りたいと願えば、イエス様はいつでも穏和な顔で真理の答えを下さいました。イエス様のみ言は鋭い矢のように、一直線に私の心深くに突き刺さりました。それは単なるみ言ではなく、新しい世界を開く啓示のみ言、宇宙創造の真実を明かすみ言でした。イエス様は風が傍らを通り過ぎるようにお話しになりましたが、私はそのみ言を胸に抱いて、木の根っこを抜く思いで切実な祈りを捧げ、宇宙の根本と世の中の原理を少しずつ悟っていきました。 その年の夏休み、私は祖国巡礼の旅に出ました。一文無しでもらい食いをして、運が良ければトラックに乗せてもらいながら、全国津々浦々を巡ってみました。祖国はどこに行っても涙の坩堝でした。飢えた民衆の苦痛に満ちた息遣いが絶えることはなく、彼らの凄絶な悔恨の涙が川のように流れました。 一日も早くこの悲惨な歴史を終わらせなければ。もうこれ以上、わが民族を悲しみと絶望に陥るままにしておいてはならない。何としてでも日本にも行き、アメリカにも行って、韓民族の偉大さを世界に知らせる方法を探し求めなければならない」 祖国巡礼を通して、私はもう一つの新たな課題を得て、今後の志をさらにしっかりと立てました。 「必ず民族を救い、神様の平和をこの地に成し遂げます」 両拳をぎゅっと握るや心も引き締まり、進む道がはっきりと見えました。 3. 刀は磨かなければ鈍くなる 定州普通学校を終えたあと、住居をソウルに移した私は、黒石洞 (現在のソウル特別市銅雀区内) で自炊しながら京城商工実務学校に通いました。ソウルの冬はとても寒かったです。零下二○度まで気温が下がることも珍しくありませんでした。そのたびに漢江の水が凍ったりもしました。自炊の家 (下宿) は井戸が深くて十尋 (約一八・二メートル。一尋は六尺で約一・八二メートル)以上もありました。紐がよく切れるので鎖をつないで使いましたが、井戸水を汲み上げる時に釣瓶縄に手がペタペタくっつき、口で息をハーハー吹きかけて水を汲んだものです。 寒さ対策に、持ち前の腕を生かして編み物をよくしました。セーターもたくさん着て、厚手の靴下や帽子、手袋もすべて自分で編んで作りました。私が編んだ帽子はとてもかわいくできて、その帽子を被って外に出れば、みんなが私を女性と思うほどでした。 しかし、真冬でも自分の部屋に火を入れたことはありません。火を入れる余裕はなかったし、極寒の中、家もなく道端で凍りついた体を温める人に比べれば、貧しくても屋根の下で横になって眠ろうとする私の立場が贅沢だと考えたからです。ある日は、あまりにも寒くて、裸電球を火鉢のように布団に入れたまま、その布団をすっぽり被って寝て、熱い電球で火傷して皮膚が剥がれてしまいました。今でもソウルと聞けば、その時の寒さがまず頭に浮かびます。 ご飯を食べる時は、おかずを二品以上お膳に並べたことがありません。いつも一食一品、おかずは一つあれば十分でした。自炊の時の習慣で、私はおかずはたくさん要りません。やや塩辛く味付けしたものが一つあれば、ご飯一杯をさっと平らげることができます。今でもお膳におかずがたくさん並んでいるのを見ると、無性に煩わしい気持ちがします。ソウルで学校に通っていたこの頃、昼食は食べませんでした。山を歩き回った昔の習慣のおかげで、一日二食あれば空腹を気にしないで生活できたのです。そういう生活を三十歳になるまで続けました。このように、ソウルの生活は私に、暮らしのつらさを痛感させました。 一九八〇年代に黒石洞を訪ねてみたことがあります。驚くべきことに、当時下宿した家がそのまま残っていました。私が生活した玄関脇の部屋や洗濯物を広げた庭は数十年前のままでした。ただ、手に息を吹きかけて冷たい水を引き上げた井戸はなくなってしまい、それが残念でした。 「宇宙主管を願う前に自己主管を完成せよ」これは、その頃の私の座右の銘です。先に身心を鍛錬してこそ、次には国を救い、世の中を救う力も持てる、という意味です。私は、食欲はもちろん、一切の感性と欲望に振り回されないで、体と心を自分の意志どおりにコントロールできるところまで、祈りと瞑想、運動と修錬によって自分を鍛錬しました。そこで、ご飯を一食食べる時も「ご飯よ、私が取り組む仕事の肥やしになってほしい」と念じて食べ、そういう心がけでボクシングもし、サッカーもし、護身術も習いました。おかげで、若い頃よりもかなり太りましたが、今でも相変わらず体の動きだけは青年のように身軽です。 京城商工実務学校に通っていた時、学校の掃除は自分一人でやりました。問題を起こした罰としてやらされたのではなく、人よりも学校をより多く愛したい心がおのずとあふれてきて、そうしたのです。誰かが手助けしてくれるのも申し訳なくて、一人で仕上げようと努力し、人が掃除した場所ももう一度自分でやり直しました。すると友人たちは皆、「それじゃあ、おまえ一人でやれ」と言って、自然と学校の掃除は私の役目になりました。 私はめったに話さない学生でした。他の友達のようにぺちゃくちゃ話すこともなく、一日中一言も話さないこともよくありました。だからなのか、拳骨を食らわしたり、力で脅かしたりしたこともないのに、同級生は私を怖がって、むやみに馴れ馴れしくすることはありませんでした。トイレで並んでいても、私が行けばすぐに場所を空けてくれたし、悩みがあればまず私のところにやって来て、私の意見を聞くということが頻繁にありました。 先生方の中には、私の質問に答えられず、逃げていった人が少なくありません。数学や物理の時間に新しい公式を学ぶと、「その公式を誰が作ったのですか。正確に理解できるように初めから丁寧に説明してください」と先生に噛み付いて、授業を引き延ばしました。そうやってかき回し、追い散らしてはほじくり返し、ほじくり返しするので、先生方はすっかり降参してしまいました。私は世の中に存在する論理を一つ一つ検証して確認するまでは、どんなことも受け入れることができませんでした。「その素晴らしい公式をなぜ私が先に考えつかなかったのか」と思うと、おおっぴらに腹を立てたりもしました。幼い時、夜通し泣いて、我を張って譲らなかった性格が、勉強に対してもそっくりそのまま表れたのです。勉強する時も、祈る時と同じように全精力を傾け、誠を尽くして取り組みました。 私たちはあらゆることに精いっぱいの誠を尽くすべきです。それも一日、二日ではなく、常にそうすべきです。刀は一度使っただけで磨かないと、切れ味が悪くなってしまいます。誠も同じです。毎日刀を鋭く磨き、刀を研ぐという心で、絶え間なく継続すべきです。どんなことでも誠を尽くせば、我知らず神秘の境地に入っていくようになります。筆を握った手に誠心誠意の一念を込めて、「この手に偉大な画家が降りてきて私を助けよ」と祈りつつ精神を集中すれば、天下の耳目を驚かすような絵が生まれます。 私は発声練習に誠を尽くしました。人よりも速く、正確に話すためです。小さな部屋に籠もって、「カーギャーコーギョー、カルナルタルラル……」と声を出して練習しました。「フィリリーリックー」と、話したい言葉を雨あられのように降り注ぐ訓練もしました。その成果で、ひとこと人が一言言う問に十の言葉を言うほど早口で話せるようになりました。すっかり馬齢を重ねた今でも、私は本当に言葉が速いのです。速すぎて聞き取りにくいと言う人もいますが、気が急くので到底ゆっくり話すことができません。胸の内に話したい言葉がいっぱいあるのに、どうしてゆっくり話せるでしょうか。 そういう面で、私は話が大好きだったわが祖父によく似ました。祖父は奥の間に集まった来た客を相手に、三時間でも四時間でも時の経つのも忘れて四方山話に花を咲かせました。私もそうです。心が通う者たちと席を共にすると、夜遅くなろうと明け方になろうと、そんなことはどうでもよくなります。胸中に積もった言葉がすらすら流れてきて止めることができません。食事の時間も迷惑に思うくらい、話をするのが好きで好きでたまりませんでした。話を聞く方も力が入って、額にぶつぶつと汗が吹き出します。それでも私が汗をたらたら流して話し続けるので、「もう帰らなければ……」とどうしても言い出せずに、私と一緒にうとうとしながら、夜を明かすのが常です。 4. 巨大な秘密の門を開ける鍵 故郷で山という山は全部足を運んで登ったように、ソウルも隅々まで行かなかった所がありません。その頃、ソウル市内を電車が走っていました。電車賃は五銭でしたが、それさえもったいなくて、いつも歩いて行きました。蒸し暑い夏の日は汗をたらたら流して歩き、極寒の冷たい冬は肉を抉るような風をくぐり抜けるようにして歩きました。もともと足が速い私は、黒石洞から漢江を渡って鍾路の和信百貨店まで四十五分あれば着きました。普通の人には一時間半ほどの道のりですから、どれだけ早足だったか想像がつくでしょう。浮いた電車賃は貯めておいて、私以上にお金に困った人に分け与えました。出すのが恥ずかしいくらいの微々たる金額だとしても、大金を出せなくて申し訳ないという気持ちで、そのお金が福の種になるようにと思って渡しました。 四月には故郷からきちんと学費を送ってきましたが、生活が苦しい周囲の人たちを見過ごしにできず、五月になる前に全部なくなりました。学校に行く途中、息も絶え絶えの人に出くわしたことがあります。かわいそうに思うと足が止まってしまい、その人を背負ってニキロほど離れた病院に向かって走り出しました。運良く財布に入っていた学費の残りで治療費を払うと、あとはもうすっからかんです。今度は自分の学費が払えなくなり、学校から督促を受けることになりました。それを見て、友人がお金を一銭、二銭と集めてくれました。その時の友人は生涯忘れられません。 助け合うこともまた、天が結んでくれる因縁です。その時はよく分からなくても、後で振り返ってみて、「ああ、それで私をその場に送られたのか」と悟るようになりました。ですから、突然私の前に助けを乞う人が現れたら、「天がこの人を助けるようにと私に送られたのだ」と考えて、心を込めて仕えます。天が「十を助けなさい」と言うのに、五しか助けないのでは駄目です。「十を与えよ」と言われたら、百を与えるのが正しいのです。人を助けるときは惜しみなく、財布をはたいてでも助けるという姿勢が大切です。 ソウルに来て、ケピトック(風餅)というお菓子を初めて見ました。色や模様が美しいので、「ああ、こんなに美しい餅がたくさんあるなあ」と言って、口に入れて噛むと、中の空気が抜けて、ぺちゃんこに潰れるではありませんか。その時思いました。ああ、ソウルという所はそのままこのケピトソクのようだ、と。 「抜け目のないソウルっ子」という言葉がなぜ生まれたのか、分かった気がしました。ソウルは外から眺めると、地位の高い立派な職業の人ばかりいる富者の世の中に見えますが、その実態は貧者の天下です。漢江の橋の下にはぼろぼろの服を着た乞食があふれていました。私は漢江の橋の下の貧民窟を訪ねて行き、彼らの頭を刈って心を通わせました。貧しい人は涙もろいのです。胸の中に溜まりに溜まった思いが高ずるのか、私が一言声をかけても泣き出して、大声で泣き叫びました。手には、ぽりぽり掻くと白い跡ができるほど、べっとりと垢がこびり付いています。物乞いでもらってきたご飯をその手でじかに私にくれたりもしました。そんな時は、汚いとは言わずに喜んで一緒に食べました。 ソウルにいた時も熱心に教会に通いました。最初は黒石洞五旬節教会に通い、漢江の向こう側 (北側)にあった西氷庫五旬節教会にも通いました。その後、内資洞 (現在のソウル特別市鍾路区内)のイエス教会と黒石洞にあった明水台イエス教会に通いました。西氷庫洞(現在のソウル特別市龍山区内) に行こうとして漢江の橋を渡ると、寒い冬の日は「パーン!ジジジジー!」と氷が割れる音がしたものです。 教会で日曜学校の先生を務めたことを思い出します。私の話は抜群に面白くて、子供たちがとても喜びました。今は年を取って冗談を言う才能もなくなりましたが、その当時は面白おかしい話もよくして、子供たちは打てば響くように反応してくれました。私がアーンアーンと泣けば子供たちもアーンアーンと泣き、私がハッハッハと笑えば子供たちもハッハッハと笑います。私の後ろをぞろぞろ付いて回るほど人気がありました。 明水台の裏側に瑞達山があります。瑞達山の岩に登って、しばしば夜を徹して祈りました。寒くても暑くても、一日も休まず祈りに熱中しました。一度祈りに入れば涙と鼻水が入り混じるくらい泣き、神様から受けたみ言を胸に抱いて、何時間も祈りだけに集中しました。神様のみ言はまるで暗号のようで、それを解こうとすればより一層祈りに没頭しなければなりません。今考えると、その時すでに、神様は秘密の門を開ける鍵を親切に与えてくださったのに、私の祈りの不足ゆえにその門を開けることができませんでした。そういう訳で、ご飯を食べても食べた気がせず、目を閉じても眠れませんでした。 一緒に下宿していた友人たちは、私が山に登って夜通し祈っていることはよく知らないようでした。それでも、他の人とは違う何かが感じられたのか、私に一目置いていました。しかし私は、平素はおどけた言動をして仲良く過ごしたものです。私は誰とでも気持ちがすっと通じます。お婆さんが来ればお婆さんと友達になり、子供たちが来れば子供たちとふざけたりして遊びます。相手が誰であっても、愛する心で接すればすべて通じるのです。 黒石洞の頃、早朝祈禧会で私の代表祈疇に感化され、私を訪ねてきて親しくなった李奇完おばさんとは、この世を去る時まで四十数年間、友情を分かち、友として交流しました。妹の李奇鳳おばさんは、私が下宿した家の女主人でした。下宿の掃除で何かと忙しそうにしていましたが、いつも私に温かく接してくれました。私によくすれば自分の心が楽になると言って、おかずの一つでももっと食べさせようと気を配ってくれました。無口で、別段面白みもない私を、なぜそんなふうにかわいがってよくしてくれたのか分かりません。後日、私が京畿道警察部に収監された時は差し入れもしてくれました。今も李奇鳳おばさんを思えば胸が温かくなります。 自炊の家の近所で小さな店を出していた宋おばさんも、その頃の大事な恩人です。おばさんは、故郷を離れて暮らすのはおなかが空いて大変だろうと言って、店の売れ残りがあると何でも持ってきてくれました。小さな店を切り盛りしてやっと食べている立場なのに、私にはいつも厚い情けをかけてくれて、食べ物を用意してくれました。 漢江の川辺で礼拝を捧げた日のことです。昼食時間になって、会衆はばらばらに座ってご飯を食べ始めました。昼食を取らない私は、その中にぼんやり座っていても仕方ないので、一人だけすっと後ろに離れて、川辺の石の小山に座っていました。それを見た宋おばさんが、パン二個とアイスケーキを二個持ってきてくれました。それがどれだけありがたかったかしれません。一つ一銭で、全部で四銭にしかならないものでしたが、おばさんの心遣いは今も私の心に刻まれています。 いくら小さなことでも、いったんお世話になったら生涯忘れることができません。年が九十歳になった今も、いつ誰が何をしてくれたか、また、いつ誰がどのようにしてくれたか、すらすら話すことができます。私のために労苦を惜しまず、陰徳を施してくれた人たちを生涯忘れることはできません。 陰徳を受けたときは、必ず、もっと大きくして返すのが人の道です。しかし、その人に直接会えないこともあるでしょう。恩恵を施してくれた人に直接会えなかったとしても、大事なのはその人を思う心です。ですから、その人に会えなくても、受けた恵みを今度は他の人に施そうという一途な心で生きるのがよいのです。 5. ぐつぐつと煮えたぎる火の玉のように 京城商工実務学校を終え、一九四一年に日本に留学しました。日本をはっきりと知らなければならないという考えから出発した留学でした。汽車に乗って釜山に下っていくとき、なぜか涙があふれて、外套を被っておいおい泣きました。涙と鼻水が止まらず、顔はぱんぱんに腫れ上がっていました。植民統治下で陣吟する孤児に等しいわが国を後にする心は、これ以上ないほど悲しいものでした。そうやって泣いた後で窓の外を見ると、わが山河も私以上に悔しく悲しそうに泣いていました。山川草木から涙がぽろぽろと流れ落ちる様を、私はこの両目ではっきりと見ました。痛突する山河に向かって、私は約束しました。 「故国の山河よ、泣かないで待っていろよ。必ず祖国光復を胸に抱いて帰ってきてやるからな」釜山港から関釜連絡船に乗り込んだのは四月一日の午前二時でした。強い夜風に打たれても、私は甲板を離れることができず、次第に遠ざかっていく釜山を眺めて、一睡もせずに夜を過ごしました。 東京に到着した私は、早稲田大学附属早稲田高等工学校電気工学科に入学します。現代科学を知らなくては新しい宗教理念を打ち立てることはできないと考えて、電気工学科を選びました。 目に見えない世界を扱う数学は、宗教と一脈相通ずる面があります。大事を成そうと思えば数理の力に優れていなければなりません。私は頭が大きいせいか、人が難しいと言う数学に長けており、数学を好みました。頭に合う帽子を探すのが大変で、直接工場に足を運んで二度も合わせ直して作ったほど、頭が大きかったのです。一つのことに集中すれば、普通なら十年かかるところを三年もせずにやり遂げてしまえるのも、大きな頭のおかげかもしれません。 日本留学時代も、韓国にいた時と同じように、先生方に向かって質問を浴びせました。一度質問を始めると、先生の顔が赤くなるまで質問し続けました。そのせいで、「これをどう考えますか」と質問しても、ある先生などは最初から無視して私を見ようともしませんでした。しかし私は、疑問が生まれると、必ず根っこまで掘り下げて解決しなければ納得できないのです。先生を窮地に追い込むのが目的ではありません。どうせ勉強するなら、それくらい徹底してやらなければ意味がないと思いました。 下宿した家の机には、常に英語、日本語、韓国語の三種類の『聖書』を並べて広げておき、三つの言語で何度も何度も読み返しました。読むたびに熱心に線を引いたりメモを書き込んだりして、『聖書』はすっかり真っ黒になってしまいました。 入学と同時に参加した韓人留学生会の新入生歓迎会で、私は祖国の歌を力強く歌って、熱い民族愛を誇示しました。警察官が居合わせた席でしたが、かまわず堂々と歌い上げました。その年、早稲田高等工学校の建築学科に入学した厳徳紋は、その歌声に魅了されて、私の生涯の友人になりました。 東京には、留学生で構成された地下独立運動組織がありました。祖国が日本の植民統治下で呻吟していたのです。独立運動は当然のことでした。大東亜戦争が熾烈を極めるにつれて、弾圧は日に日に激しさを増していきました。日本政府が韓国の学生たちを学徒兵という名目で戦場に追い立て始めると、地下独立運動も次第に活発になっていきました。日本の天皇をどうけるかについて色々と討論したこともあります。私は組織上、留学生を束ねる責任者となり、金加先生の大韓民国臨時政府 (金九は当時主席) と緊密に連携しながら、同臨時政府を支援する仕事を受け持ちました。いざとなれば命を投げ出さなければならない立場でしたが、正義のためという考えから、ためらいはありませんでした。 早稲田大学の西側に警察署がありました。私の活動に感づいた警察は、絶えず目を光らせて私を監視しました。夏休みに故郷に帰ろうとしても、先に警察が嗅ぎつけて、埠頭や駅に私服警官を送って見張るほどでした。そのため、警察に捕まって、取調べを受けたり、殴られたり、留置場に拘禁されたりしたことも、数え切れないほどありました。追いかけてきた警察と四ツ谷の橋で、欄干の柱を抜いて戦ったこともあります。この当時、私はぐつぐつと煮えたぎる火の玉のようでした。 6. 労働者の友となった苦労の王様 ソウルにいた時と同様、東京でも行かない所がないくらいあらゆる土地を歩き回りました。友人が日光のような景勝地を見物に行くときも、私は一人残って東京市内の至る所を歩いて回ってみました。見た目はきらきらして華やかでも、東京の街もやはり貧者の天下でした。私は家から送金されたお金を皆、貧しい人々に分け与えました。 その時代は誰もがおなかを空かせていました。留学生の中にも苦学生が大勢いました。私は一カ月分の食券が手に入ると、全部持って行って彼らに渡して、「食べろ。思う存分食べろ」と言って、すべて使いました。自分ではお金の心配はしませんでした。どんな所でも働いて仕事をすれば、ご飯は食べることができたからです。お金を稼いで苦学生の学費を助けるのも私の楽しみでした。そうやって、人を助けたりご飯を食べさせたりすれば、体の奥からふつふつと力が沸いてきました。 所持金をはたいて全部分け与えた後は、リヤカーで荷物を配達する仕事をしました。東京の二十七の区域をリヤカーで縫うようにして回りました。電信柱を載せたリヤカーを引いて華やかな街灯がともる銀座を通った時、交差点の途中で信号が赤になってしまい、その場に立ち止まったため、道行く人々がびっくりして逃げていったこともあります。おかげで、今でも東京の隅々まで手に取るように分かります。 私は労働者の中の労働者であり、労働者の友達でした。汗のにおいと小便のにおいが漂う彼らと肩を並べて、私もまた作業現場に行って、汗を流して働きました。彼らは私の兄弟だったのであり、それゆえに、ひどいにおいも気になりませんでした。真っ黒なシラミが列をなして這っている汚い毛布も、彼らと一緒に使いました。何層にも垢がこびりついた手も、ためらわずに握りしめました。垢まみれの彼らが流す汗には粘っこい情けがあり、私はその情けが面白くて好きでした。 主に川崎鉄工所と造船所で肉体労働をしました。造船所には石炭運搬用の「バージ」と呼ばれる艀があって、ポンポン船がそれを曳航します。私は三人一組になって、午前一時までに石炭百二十トンをバージに積み込む仕事をしました。日本人が三日かけてする仕事を、韓国人は一晩でやってのけます。韓国人の手際のよさを見せてやろうと思い、無条件に一生懸命働きました。 作業現場には、労働者の血と汗を搾り取る輩がいます。労働者を直接管理する班長が往々にしてそうです。彼らは、労働者が汗水たらして稼いだお金の三割をピンはねして、私腹を肥やしていました。しかし、力のない労働者は全く抗議できませんでした。弱い者を苦しめ、強い者にへつらう人間。そんな班長に腹が立って我慢ならなかった私は、“三銃士”の友人を呼び集めて彼の元を訪ねていき、「仕事をさせたなら、させたとおりに金を払え!」と食ってかかったことがあります。一日で駄目なら、二日、三日としぶとく詰め寄りました。それでもまったく話を聞かないので、私の大きな体で足蹴りをして、班長を吹っ飛ばしてしまいました。私はもともと無口でおとなしい人間ですが、怒ると子供の頃の意地っ張りの気質が蘇り、蹴飛ばしてしまうこともよくやります。 川崎鉄工所には硫酸タンクがありました。労働者は硫酸タンクを清掃するために、タンクの中に直接入っていって原料を排出する仕事をします。硫酸はとても有毒で、タンクの中に十五分以上入っていることはできません。そんな劣悪な環境の中でも、彼らはご飯のために命がけで働きます。ご飯というものは、命とも引き換えにできるくらいに重要なものでした。 私はいつも空腹でしたが、いくらおなかが空いても、自分のために食べることはしませんでした。ご飯を食べるときには、はっきりした理由がなければならないと考えました。それで、食事のたびに、おなかが空いた理由を自らに問いただしてみました。「本当に血と汗を流して働いたのか。私のために働いたのか、それとも公的なことのために働いたのか」と尋ねてみました。ご飯を前にすることに、「おまえを食べて、きのうよりもっと輝いて、公的なことに取り組もう」と言うと、ご飯が私を見て、笑いながら喜んだのです。そんなときは、ご飯を食べる時間がとても神秘的で楽しい時間でした。そうでなければ、どんなにおなかが空いても食事をしなかったので、一日に二食食べる日もそれほど多くはありませんでした。 元から食べる量が少なくて一日二食で我慢したのではありません。若い盛りでしたから、私も食べ始めればきりがありませんでした。大きな器に盛ったうどんを十一杯まで食べたこともあり、また親子どんぶりを七杯食べたこともあります。それくらい食欲旺盛だったのに、昼食を抜いて一日に二食しか食べない習慣を三十過ぎまでかたくなに続けました。 おなかが空けば食べ物が恋しくなります。空腹時のご飯の恋しさは嫌というほど知っていますが、世界のためにご飯一食ぐらいは犠牲にできて当然だろうと思いました。新しい服を着てみたこともないし、どんなに寒くても部屋に火を入れませんでした。とても寒いときの一枚の新聞紙は、絹の布団のように暖かいものです。私は一枚の新聞紙の価値をよく知る男です。 ある時は品川の貧民窟で生活してみました。ぼろを被ったまま寝て、日差しの強い真昼になってシラミを捕まえたり、乞食たちがもらってきたご飯を分け合って食べたりしました。品川の通りには、流れ者の女性も大勢いました。一人一人事情を聞いてあげると、お酒を一口も飲めない私が、いつしか彼女たちのかけがえのない友になっていました。酒を飲まなければ本心を打ち明けられないというのは、空しい言い訳です。酒の力を借りなくても、彼女たちを不欄に思う私の心が真実だと分かると、彼女たちも素直な心で胸の内を明かしました。 日本で勉強する間、本当にありとあらゆることをしてみました。ビルの小使いや文字を書き写す筆生の仕事もしました。作業現場で働いて現場監督をしたこともあれば、人の運勢を占ったこともあります。生活に困れば、文字を書いて売ったりもしました。それでも、勉強をおろそかにはしませんでした。私は、そうしたことはすべて自分自身を鍛錬する過程だと考えました。いろいろな人に会ってみましたが、それを通して、人間をより多く知るようになりました。おかげで、人をちらっと見れば、「ああ、何をしている人だな」「この人は良い人だな」とすぐに分かります。頭であれこれ考える前に、体が先に分かってしまうのです。 私は今でも、人間が人格完成しようと思えば、三十歳になるまでは苦労してみなければならないと考えます。三十歳になるまでに、人生のどん底を這いずり回るような絶望の坩堝に一度ぐらいははまってみるべきでしょう。絶望の奈落の底で新しいものを探し出せというのです。そうすれば、「ははあ」と驚きの声を上げながら、「今の絶望がなければ、このような決心はできなかったはずだ」と心を新たにするようになります。絶望の淵から驚きの声を上げて抜け出してこそ、新しい歴史を創造する人に生まれ変わることができるのです。 一箇所だけ、一方向だけ見ていても大事は成せません。上も見て、下も見て、東西南北をすべて見なければなりません。人の生涯はどれも同じ七十年、八十年ではないのです。一度しかない人生であり、その間に成功できるか否かは、自分の目で物事を正しく見られるかどうかにかかっています。それには豊富な経験が物を言います。また厳しい環境にあっては、余裕のある人間味と柔軟な自主性が必ず必要です。 人格者は、一度上がって急降下する人生にも慣れていなければなりません。大抵の人は一度上がると、下がるのを恐れて、その地位を守ろうと汲々としますが、淀んだ水は腐るようになっています。上に上がったとしても、下に下りていって、時を待った後にさらに高い頂に向かって上がっていくことができてこそ、大勢の人から仰がれる偉大な人物、偉大な指導者になれるのです。三十歳になる前の若い時代に、こういったことをすべて経験しておくべきです。 ですから、私は今も青年たちに、世の中のあらゆることを経験してみなさいと勧めています。百科事典を最初から最後まで隈無く目を通すように、世の中のすべてのことを直接、間接に経験したとき、初めて自らの拠って立つ価値観が定まります。価値観とは何でしょうか。それは自らの明確な主体性です。「全国を見回してみても、私を負かす者はなく、私にかなう者はない」という自信を得た後に、最も自信のあるものを一つ選んで、一気に勝負をつけるのです。そうやって人生を生きれば必ず成功するし、成功せざるを得ません。東京で乞食の生活をしながら、私は以上のような結論に達しました。 私自身も、東京で労働者と寝食を共にしながら、また乞食と食うや食わずの悲哀を分かち合いながら、苦労の王様、苦労の哲学博士になってみて、初めて人類を救おうとする神の御旨を知ることができました。それゆえ、三十歳までに苦労の王様になることです。苦労の王様、苦労の哲学博士になること、それが天国の栄光に至る道です。 7. 穏やかな心の海 日本が始めた大東亜戦争の戦況は日増しに切迫していきました。切羽詰った日本は、不足する軍人の穴を埋めるために、健康な二十歳以上の学生を休学させて、学徒兵として出征させました。そのため、私も六カ月早く卒業することになりました。 一九四三年九月三十日に卒業して、故郷の家には「崑崙丸に乗って帰国する」と電報を打っておきました。ところが、帰国船に乗ろうとした日、足が地に付いて離れないという不思議な現象が起きました。出航する時間はどんどん迫ってくるのに、どうしても足を離すことができず、結局、箆喬丸に乗り損ねてしまいました。 「崑崙丸に乗るなという天のみ意のようだ」と思った私は、しばらく日本に留まることにして、友人たちと富士山に登りました。数日後、東京に戻ってきてみると、世の中は上を下への大騒ぎになっていました。私が乗ろうとした崑崙丸が撃沈されて、韓国に帰る乗船者のうち五百人以上が死んだという話でした。毘嵜丸は、当時の日本が誇る大型高速船でしたが、米潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没してしまったのです。 息子が乗る船が沈没したという知らせを聞いた母は、確かな情報を得るため、そのまま履物も履かずに定州邑の中心街まで二十里 (約八キロメートル) の道を走っていきました。足の裏に太い棘が刺さったことにも気づかないで、魂が抜けたように私の名前ばかり呼んだそうです。 その後、汽車に乗って釜山に下ってきました。釜山の海洋警察署に到着してみると、乗船者名簿に息子の名前はなく、東京の下宿からはすでに荷物をまとめて出発したと連絡を受けていたので、呆気にとられるばかりでした。 日本留学を終えて祖国に帰ってきたものの、それまでと何も変わるところがありませんでした。日本の圧政は日々激しくなり、国土は血の涙に濡れていました。私はソウルの黒石洞に再び腰を落ち着けて、明水台イエス教会に通いながら、日々新たに悟るすべての内容を几帳面に日記帳に書き留めることにしました。悟りの多い日は、一日で一冊の日記帳を使い切ることもありました。そうするうちに、数年にわたる祈祷と真理探究の総決算とも言うべく、それまでどうしても解けなかった疑問についに答えを得たのです。それは一瞬の出来事でした。あたかも火の塊が私の体を通り抜けたかのようでした。 「神様と私たちは父と子の関係である。それゆえ、神様は人類の苦痛をご覧になって、あのように悲しんでいらっしゃるのだ」という悟りを得た瞬間、宇宙のあらゆる秘密が解かれました。 人類が神様の命令に背いて、堕落の道を歩む中で起こったすべての出来事が、映写機が回るように私の目の前にはっきりと広がりました。目から熱い涙がとめどなく流れ落ちました。私はひざまずいてひれ伏したまま、容易に起き上がることができませんでした。子供の頃、父に背負われて家に帰った日のように、神様の膝に顔を伏せて涙を流したのです。イエス様に出会って九年目にして、ようやく父の真の愛に目覚めたのでした。 神様は人類始祖アダムとエバを創造された後、生育し (人間として成熟し)、繁殖し (家庭を築き)、平和世界を築いて暮らしなさいと祝福してくださいました。しかし、アダムとエバは神様の定めた時と戒めを守ることができず、不倫を犯し、それによって二人の息子カインとアベルを生みました。堕落の落とし子となった息子たちは、互いを不信し、兄弟間の殺人を犯してしまいます。こうして平和は破れ、罪が世界を覆い、神様の悲しみが始まりました。ところが、人間はメシヤ(救い主)たるイエス様を殺すという大罪を再び犯してしまったのです。それゆえ、今日人類が被っている苦痛は、当然通過しなければならない贖罪の過程であり、神様の悲しみは依然として続いているのです。 神様が十五歳の私に現れたのは、人類始祖の犯した罪の根が何であるかを伝え、罪と堕落のない平和世界を築こうとされたためでした。人類が犯した罪を蹟罪し、太古の平和世界を復元するように、というのが、私が神様から授かった厳重なみ言でした。神が願う平和世界は死んでから行く天国ではありません。神の願いは、私たちが生きるこの世の中が、太古に創造されたその場所のように、完全に平和で幸福な世界になることです。神は人類に苦痛を与えたくて、アダムとエバを誕生させたわけではないのです。私はこの驚くべきみ言を世の中に伝えなければなりませんでした。 宇宙創造の秘密を解明すると、私の心は海のように穏やかになりました。私はぼろを着て下を向いたまま歩き回りましたが、心はあふれんばかりの神のみ言に満たされ、私の顔からは喜びの輝きが消えませんでした。 8. 「どうか死なずに耐え忍んでほしい」 ひたすら祈りに精進し続けるうちに、結婚する時が来たことを直感しました。神の道を行くと決めた以上、すべての歩みは神の支配下にあります。祈りを通して時を知れば従わざるを得ませんでした。そこで、仲人の経験豊富なある婦人に依頼して、定州の有名なキリスト教家庭の娘である崔先吉と見合いをしたのち、略式の婚約をしました。 彼女はとても由緒ある家庭で生まれ育った真心を尽くす女性でした。小学校しか出ていませんでしたが、ほんのわずかでも人の世話にはならないという性格で、神社参拝を拒否して十五歳で獄中生活をしたほど、信念のある信仰深い女性でした。私は二十四番目の新郎候補だったそうで、彼女は新郎を選びに選んだのです。しかしながら、ソウルに戻った私は、見合いをしたことさえ忘れてしまうほど切迫した心情にありました。 私はもともと、留学から戻ったら、中国、ソ連、モンゴルの国境都市である中国の海拉爾に行く計画でした。満州電業株式会社に就職して三年ほど生活しながら、中国語とロシア語、モンゴル語を学ぼうと考えていました。日本に打ち勝つために日本語を教える学校に通ったように、来るべき未来に備えようと、三国の国境地域に行って外国語をいくつか学ぶつもりでした。ところが、当時、情勢が尋常ではありませんでした。どうしても満州に行ってはならないようで、就職予定を取り消しに満州電業安東支店(安東は鴨緑江の対岸にある現在の中国・丹東)に行きました。そこで手続きを終えた後、故郷の定州に戻ってみると、お見合いを準備してくれた婦人が大騒ぎを起こしていました。婚約した女性が私でなければ嫁に行かないと言い張って大変だと言うのです。私を見るやいなや女性の家に連れて行きました。 私は彼女に、これから私がどう生きていくかをはっきりと話しました。 「いま結婚しても、少なくとも七年ほどは、あなた一人で生きる覚悟をしなければならない」 「なぜそうしなければならないのですか」 「私には結婚生活よりもっと重要なことがある。実際、結婚するのも神様の摂理を遂行するためだ。私たちの結婚は、家庭を超えて、民族と人類を愛することのできる位置まで行かなければならない。私の意志がこうであっても、心から私と結婚したいのか」 すると女性は、「好きなようにしていいです。あなたに会った後、月の光の中で花が満開になっている夢を見たので、あなたは問違いなく天が私に下さった連れ合いです。ですから、どのような困難があっても我慢できます」と、気丈な態度で答えました。それでもまだ不安だった私は、何度か彼女の固い誓いを確認し、そのたびに彼女は「あなたと結婚できさえすれば、どんな事情があっても尽くすので、何の心配もしないでください」と答えて、私を安心させました。 四月に結婚式を挙げる予定が、義父が急に亡くなったので、当初の日取りを延期して一九四四年五月四日に婚礼を行いました。五月は普通ならのどかな春の日ですが、その日は土砂降りの雨でした。イエス教の李浩彬牧師が主礼を務めてくれました。李浩彬牧師は光復(日本の敗戦で植民統治から解放されたこと。一九四五年八月十五日を指す)後、南に下って超教派的な中央神学院を設立した人です。 自炊していたソウルの黒石洞で新婚生活を始めました。「まあ、まるで卵を扱っているみたいで、どれだけ美しいお嫁さんなのかしら」と言った下宿屋のおばさんの言葉どおり、私は妻を心から大事にし、愛しました。 当時の私は、龍山にある土木会社の鹿島組京城営業所に就職して、会社の仕事と教会の仕事を一緒にしていました。ところがその年の十月、新婚の家に突然日本の警察がやって来て、「早稲田大学の経済学部に通っていた誰それを知っているか」と尋ねるなり、答えも待たずに私を京畿道警察部に連行しました。共産主義者として引っ張られていった友人の口から、私の名前が出たことが理由でした。 警察に連行された私は、いきなり拷問を受けました。 「おまえも共産党だろう?内地に留学して、そいつと同じ仕事をしただろう?おまえがいくら違うと意地を張っても無駄だ。警視庁に照会すれば分かるようになっている。こんな所で犬死にしないように、共産党の奴らの名前を全部吐くことだな」 日本で同じ活動をしていた友人の名前を吐けと言って、机の脚に使う角材が四本とも壊れるほど殴られましたが、私は最後まで話しませんでした。 すると、次に警察は、黒石洞の新婚の家を家捜しして日記帳を押収しました。彼らは日記帳を一枚一枚めくっていって、友人の名前を突き止めようとしましたが、私は死を覚悟して知らないと突っぱねました。 戦争は終わりの時が近づき、焦りの色を濃くした日本の警察の拷問は、とても言葉で言い表せないほど残酷でした。彼らは鋲を打った軍靴で私の体を容赦なく踏みつけ、私が死んだようにぐったりすると、天井に吊して揺らしました。精肉店の肉塊と化した私の体は、彼らが押す棒に任せてあちこち揺れ動き、口からは鮮血がほとばしってセメントの床を濡らしました。何度も気を失い、そのたびにバケツ一杯の冷水をかけられ、意識が戻ればまた拷問です。鼻をつまんで、洋銀製のやかんを口の中に突っ込み、大量の水を無理やり飲ませる拷問もありました。床に倒れた後、カエルのように膨れ上がったおなかを軍靴で踏みつけます。食道を通って上がってきた水を吐き出すと、目の前が真っ暗になって何も見えませんでした。そんな拷問を受けた日は、食道が燃えるように痛み、水っぽい汁でさえ一口も喉を通らず、剥き出しの床に力なく俯になって、ぴくりとも動けませんでした。 私はついに友人の名を口にせず、拷問を耐え抜きました。意識が朦朧となる中でも、それだけは死に物狂いで守り通しました。ところが、業を煮やした警察は、故郷の母親を呼ぶ作戦に出たのです。足が伸びきって思うように立つこともできなかった私は、複数の警官に両腕を挟まれて、面会室まで辛うじて歩いて行きました。母は私に会う前から、もう目の周りが涙でただれていました。血まみれになった息子の顔を見て、「少しだけ我慢しなさい。自分が何としてでも弁護士をつけてあげるから。その時までどうか死なずに耐え忍んでほしい」 と必死に訴える母でした。しかし、「いくら志が良くても、おまえの命を守るほうが先だ。絶対に死んではならない」と言って泣いている母を眺める私の心は、つらく切ないものでした。心の中では、「お母さん1」と言って共に抱き合い、こんこんと泣きたい気持ちでした。けれども、母親に面会させる警察の意図をよく知る私としては、そうはできなかったのです。母の言葉に私ができる返事と言えば、裂けてぶくぶくと膨れた目をしきりに瞬きさせることだけでした。 京畿道警察部に拘束された四カ月間、下宿屋の李奇鳳おばさんとその姉妹たちが交代で差し入れをしてくれました。おばさんは面会するたびに泣くので、私は「少しだけ我慢すれば、この時代は間もなく終わります。遠からず日本は滅びますから、泣かないでください」とおばさんを慰めました。それは自分の言葉ではなく、神様が私に下さった信仰でした。 翌一九四五年二月、警察から解放されて出て来るとすぐ、私は下宿の日記帳をひとまとめにして、漢江の川辺に行きました。そして、もうこれ以上友人に被害が及ばないように、そのたくさんの日記帳をことごとく焼き捨てました。そのまま残しておけば、私が監獄に入るたびに禍根になるかもしれないものでした。 拷問でぼろぼろになった体はなかなか回復しませんでした。長い間血便が出て、体を動かせずに難儀する私を、下宿屋のおばさんの姉妹たちが真心を込めて世話してくれました。 ついに一九四五年八月十五日、待ちに待った光復の日が来ました。三千里半島 (朝鮮半島の南北の長さを三千朝鮮里とした伝統的表現) が「万歳!」の声と太極旗の渦に覆われた感激の日でした。しかし私は、遠からず朝鮮半島に訪れるであろう驚くべき災難を予感して、とても深刻になり、喜んで万歳を叫ぶことができませんでした。独り小さな部屋に閉じこもって、祈りに熱中しました。不吉な予感どおり、祖国は日本の植民地支配から解放されましたが、すぐに三八度線で国が二つに分かれました。北朝鮮の地に、神の存在を否定する共産党が足を踏み入れたのです。 9. 拒否できない命令 光復の直後、韓国の実情は言うに言えない混乱状態でした。お金があっても、米を手に入れることは簡単ではありませんでした。とうとう家に米がなくなったので、買っておいた米を取リに黄海道の白川に向かいました。その途中でのことです。 「三八度線を越えて行きなさい!北の方にいる神様に仕える人々を取り戻しなさい!」という啓示が下りました。 私は即座に、三八度線を越えて平壌に向かいました。長男が生まれて二月しか経っていない時でした。今か今かと私を待つ妻が心配でしたが、家に戻る余裕はありませんでした。神のみ言は厳しいものです。み言を受けたら、従順に即応しなければなりません。創世記から黙示録まで数十回も線を引いて読み、ごま粒のようなメモ書きで真っ黒になったぼろぼろの『聖書』一冊だけを携えて、私は三八度線を越えて行きました。 その時はもう共産党から逃れようと、北から避難民が続々と南下してきていました。特に、共産党が宗教を迫害したので、多くのキリスト教徒が宗教の自由を求めて南側に下ってきました。宗教はアヘンだと言って、民衆に宗教を持たせないようにしたのが共産党です。そのような地に、私は天の召命を受けて向かったのです。牧師であれば嫌う共産党の支配する世界に、私は自分の足で歩いて入っていきました。 避難民が増えるや、北側の警戒が物々しくなって、三八度線を超えることすら容易ではありませんでした。しかし、百二十里 (約四十八キロメートル) の道を歩いて三八度線を越え、さらに平壌に到着する時まで、なぜこの険難な道を行かなければならないかと私は一度たりとも疑いませんでした。 一九四六年六月六日、平壌に到着しました。もともと平壌は「東洋のエルサレム」と呼ばれたように、キリスト教が深く根を下ろしている所です。日本の占領期には、神社参拝は言うに及ばず、皇居のある東方に向かって敬礼させる東方遥拝など、ありとあらゆる弾圧が縦横に加えられました。私は平壌の西門に近い景昌里の羅最燮氏の家で伝道生活を始めました。その人は南にいた時から知っていた教会の執事です。 最初の日、近くの子供たちを集めて世話をすることから始めました。子供たちが来れば、『聖書』のみ言を付け加えた童話を聞かせて、一緒に遊びました。子供であっても必ず敬語を使い、真心を込めて世話しました。そうしながら、私が伝えたい新しいみ言を誰かが聞きに来るだろうと待ったのです。ある時は一日中門の外を眺めて、人を懐かしく思ったりもしました。そうやってじっと待っていると、やがて篤実な信仰心を持った人たちが私を訪ねてくるようになりました。その人たちを迎えて、私は夜通し新しいみ言を教えました。訪ねてくる人には、三歳の子供であろうと腰の曲がった目の遠い老人であろうと、愛の心で敬拝し、天に対するように仕えました。年取ったお爺さん、お婆さんが訪ねてきても、夜遅くまで話をしました。「なんだ、年を取った老人なので嫌だな」というような思いを持ったことは一度もありません。人は誰でも尊いのです。人が尊いことにおいて、老若男女に差別はありません。 二十六歳の若々しい青年がローマ人への手紙やヨハネの黙示録を教えるのですが、その話が今まで聞いたことのない内容なのか、志のある者が一人、二人と集まり始めました。毎日のように来ては、喋ることもなく、ただ話だけを聞いていった器量の良い青年である金元弼は、そうやって私の一番目の弟子になりました。私は、平壌師範学校を卒業し教鞭を執っていた彼と二人で、交代でご飯を炊いて食べ、師弟の絆を深めました。 私は一度『聖書』の講義を始めると、信徒たちがやることがあると言って先に席を立たない限りは休みませんでした。精いっぱいの情熱を注いで教えたので、体中から汗が滝のように流れました。みんなに分からないように、外に出て服を脱いで絞ると、服から水がぽたぽたと落ちます。暑い夏だけではありません。雪の降る厳寒の季節でもそうでした。そうやって全身全霊を込めて教えました。 礼拝を捧げる時は必ずきれいな白い服を着ました。讃美歌を数十回繰り返して歌い、情熱的な礼拝を捧げました。参会者が感動にあふれて涙を流すので、世間は私たちの教会を指して「泣く教会」とも呼んだのです。礼拝が終わると、一人一人が受けた恵みを証しします。証しをしている間、参会者は皆、恵みによって体が天に舞い上がるような体験をしました。 私たちの教会には、入神する人、予言する人、異言を語る人、また異言を通訳する人等々、霊通する人が多く現れました。時として私たちの教会に合わない人が来ていたりすると、霊通した人が目を閉じたままその人のところに行って、肩をバーンと叩きます。すると、叩かれた人は急に涙や鼻水を流して、悔い改めのお祈りをするようになります。そうやって熱い聖霊の火がサーッと通り過ぎていくのでした。 聖霊の火の役事(神のみ業、神霊の働き)が起こると、長い間患っていた病気がきれいに治ったりもしました。特に、私が残したご飯を食べて胃腸病が治ったという人の話が周囲に広まると『教会のご飯は薬ご飯』と言って、私が残したご飯を待つ人も大勢現れました。 このような聖霊の体験が知られてから、教会の門を閉めることができないほど信者の数が増えました。池承道ハルモニ (お婆さん) や玉世賢ハルモニは、夢の中で「若い先生が南から上がってきて、万寿台を渡ったところにいる。行って会いなさい」という言葉を受けて、訪ねてきました。誰かが伝道したとか導いたとかではなくて、天が教えた住所を聞いて、路地を歩き回って探し当て、「夢でお会いした方がまさに先生です」と言って喜んだのです。神学を勉強した牧師たちも私を訪ねてきました。私は彼らの顔だけ見ても、何が気がかりで訪ねてきたかが分かりました。何も聞かずに彼らの疑問に答えを示してあげると、喜びながら、びっくりして感激に震えるばかりでした。 自ら悟って体験した話から神のみ言を説いたせいか、今まで理解できずに疑問だった部分がすっきりと解決されたと言って、多くの人たちが喜びました。大きな教会に通った人の中には、私の説教を聞いて、通っていた教会をやめて私たちの教会に来る人もいました。平壌で一番有名な章台峴教会の中核メンバー十五人が一度に私を訪ねてきて、教会の長老たちが激しく抗議してきたこともあります。 金仁珠夫人の義父は平壌で有名な長老でした。しかし彼女は義父の教会には行かず、家が義父の通っていた教会のそばだったので、夫の家族に気づかれないように、庭の甕置き台を上がって、家の塀を越えて私たちの教会に来たのです。夫人はおなかに娘がいる体で、二尋 (約三・六四メートル)ほどの高さになる塀を、危険を顧みずに跳び越えて来ました。これが元で、彼女は長老である義父母から激しい迫害を受けました。私もそのことを知っていました。ひどく胸が痛む日は、信者を夫人の家に送って様子を」かがわせましたが、そのような日は間違いなく義父から鞭打たれていました。よほどひどく曜かれたのか夫人は血涙を流していました。 ところで、夫人は食口 (家族の意。教会の信徒を、親しみを込めてこう呼ぶ) たちが門の外に立っていると少しも痛くいと言います。「先生は、私が鞭打たれるとどうしてお分かりになったのですか。食口がいると私は痛みもなく、叩く義父の方がくたびれてどうすることもできないのです。一体どうしたことでしょうか」と話していました。 鞭を振るい、柱に縛り付けておいても、嫁が懲りずに私たちの教会に行くようになると、金仁珠夫人の家族が教会にやって来て、いきなり私を殴ったりもしました。服が破れ、顔が大きく腫れ上がりましたが、私は一度も刃向かいませんでした。刃向かえば、夫人がもっと困難になるとよく知っていたからです。 大きな教会に通う信徒たちがどんどん抜け出してくると、既成キリスト教会の牧師たちは、私をねたんで警察に告発するようになりました。ただでさえ宗教を目の上のこぶと見て一掃しようと狙っていた共産党当局は、格好の口実を得て私を捕らえにかかりました。 一九四六年八月十一日、私は「南から上がってきたスパイ」の汚名を着せられて、平壌の大同保安署に連行されました。南の李承晩が半島北部の政権に欲を出して密かに北に派遣したスパイだと決めつけたのです。 監獄暮らしといっても特に恐ろしくはありませんでした。経験があったからでしょうか。その上また、私は監房長と親しくなるのが上手です。二言三言話をすれば、どんな監房長でもすぐに友達になってしまいます。誰とでも友達になれるし、愛する心があれば誰でも心を開くようになっています。 数日経つと、一番端っこに座っている私を、監房長が上の場所に引っ張ってくれました。便器のそばのとても狭い隅っここそ私が一番好む場所なのに、しきりにもっと良い場所に座れと言ってきます。いくら嫌だと言ってもどうしようもないことでした。 監房長と親しくなったら、今度は監房の住人を一人一人調べてみます。人の顔はその人の何もかもを物語ってくれます。「ああ、あなたはこうだからこのような人であり、あなたはああだからあのような人である」と言って話を始めれば、誰もが驚きました。初めて会った私が心の中を言い当てるので、内心は嫌っても認めざるを得ません。 誰であっても心を開いて愛情をもって接するので、監房でも友人ができ、殺人犯とも親しくなりました。やるせない監獄暮らしだったとはいえ、私には私なりに意味のある鍛錬期間でした。この世の中に意味のない試練はありません。 監獄ではシラミもノミも皆友達です。獄中の寒さは格別なものがあって、囚人服の仮縫いのところから糸を伝わって行き来するシラミを捕まえて一箇所に並べると、シラミどうしが互いにへばり付き合って丸くなるほどです。それをフンコロガシのようにごろごろ転がせば、互いに離れまいと必死になります。シラミはもともと入り込む性質があって、互いに頭を突き合わせてくっついてはお尻だけ出しているので、この光景を見るのも面白くてたまりません。 世の中にシラミやノミを好きな人はいないでしょう。しかし、監獄ではシラミやノミも貴重な話し相手になります。南京虫やノミを見る瞬間、ふと悟る啓示がありますが、それを逃してはなりません。神がいつ何を通して語られるか予測できません。南京虫やノミであっても貴く思って調べてみることができなければなりません。 監獄にいる問、罪を自白せよと数限りなく殴られました。しかし、血を吐いて倒れ、息が絶えそうになる瞬間にも、気を失わずに耐え忍びました。腰が折れたかと思うほどの激しい苦痛が襲うと、「天のお父様、私をちょっと助けてください」という祈りが自然と出てきます。そうすると再び気を取り直して、「お父様、心配なさらないでください。文鮮明はまだ死にません。こんなふうにみすぼらしく死んだりしません」と言って、堂々と振る舞いました。そうです。私はまだ死ぬ時ではありませんでした。私の前には完遂しなければならないことが山のようにあったし、私にはそれらをやり遂げる使命がありました。拷問ごときに屈服して同情を買う程度のいくじなしの私ではありません。今も私の体にはその時できた傷跡がいくつか残っています。肉が削げ、血が流れた箇所は、今はもう新しい肉が付きましたが、その日味わった激しい苦痛は、傷跡の中にそっくりそのまま残っています。私は、その日の苦痛が染み付いた傷跡を眺めて誓ったこともあるのです。 「この傷を持ったおまえは必ず勝利しなければならない」 ソ連の調査官まで出てきて私を糾弾しましたが、罪がないのでどうしようもありません。結局、およそ三カ月後の一九四六年十一月二十一日、捨てられるようにして釈放されました。拷問であまりに多くの血を流して命の危険がある状態でしたが、信徒たちがよく世話してくれました。無条件に尽くして私に生命を与えてくれました。 こうして、私はもう一度気力を振り絞って教会の仕事を始めました。教勢が急に大きくなったのは、それから一年を過ぎた頃です。ところが、既成キリスト教会はそのような私たちを放っておきませんでした。既成教会の信徒たちがより一層私たちの教会に集まるようになると、反対する既成キリスト教会の牧師八十人以上が、共産党当局に投書して私を告発しました。これを受けて、私は再度共産党によって連行されたのです。平壌内務署に捕縛された日が一九四入年二月二十二日でした。鎖を付けて引かれていき、四日目に頭を刈られました。その時に私の頭を刈った人の姿まで生き生きと覚えています。教会を切り盛りしていた間に長く伸びた髪の毛が、ぼとりと床に落ちました。 捕縛されるやいなや、またしても鋭い拷問が開始されました。拷問を受けて倒れるたびに、「私が受ける鞭は民族のために受けるのだ。私が流す涙は民族の痛みを代表して流すのだ」という思いで耐え忍びました。極度の苦痛で気を失いそうになると、間違いなく神様の声が聞こえました。神様は息が絶えるか絶えないかという瞬間に現れます。 公判は四月七日でした。本来、拘禁されて満四十日になる四月三日が公判の予定でしたが、七日に延期されたのです。公判廷には、北で有名な牧師たちがぞろぞろと集まってきて、私にありとあらゆる悪口を浴びせました。宗教はアヘンだと言う共産党も私を嘲笑しました。公判を見に来た教会の信徒たちは、弁護側の席で物悲しく泣いていました。まるで子供や夫が世を去ってしまったかのように哀切な祈りを捧げていました。しかし、私は涙を流しませんでした。私を見て身悶えして泣いてくれる信徒たちがいるので、天の道を行く者として少しも寂しくなかったのです。「私は不幸な人ではない。だから泣いてはならない」と思いました。判決を受けて公判廷を後にする際、彼らに手錠のかかった手を振ってあげると、手錠からチャランチャランと音がしました。その音がちょうど鐘の音のようでした。私はその日すぐに平壌刑務所に収監されました。 10. ご飯粒一つが地球よりも大きい 平壌刑務所に入所して一カ月半が過ぎた五月二十日、私は興南監獄に移送されました。自分一人であれば逃亡でも何でもできましたが、強盗犯や殺人犯と一緒の組になっていたので、できませんでした。列車で十七時間ほどかかる遠い道のりを行きながら、じっと座って窓の外の光景を眺めていると、悲しみが込み上げてきました。脇を小川の水が流れ、うねうねと谷間に続くその道を、囚人の身となって行かなければならないのです。開いた口がふさがらないとはこのことでした。 興南監獄とは、興南窒素肥料工場の特別労務者収容所のことです。そこで私は二年五ヵ月の間、苦しい強制労働に従事しました。強制労働はもともとソ連で始まったものです。ソ連は、世論と世界の目があるために、資本家や反共主義者をむやみに抹殺するわけにはいかず、新たにこの刑罰を考案しました。強制労働の刑を受けると、つらい労働にへとへとになりながら死ぬまで働くしかありません。この制度をそのまま真似た北朝鮮の共産党は、すべての囚人に強制労働をさせました。過酷な労働をくたくたになるまでやらせて、自然と死ぬように仕向けたのです。 興南監獄の一日は明け方四時半に始まります。囚人を全員起こして前庭に整列させ、不法な所持品がないかどうか、まず身体検査をします。衣類を全部脱がして、埃一つも見落とさないようにパタパタ叩いて隈無く探すので、優に二時間はかかりました。興南は海が近く、冬には脱いだ体に寒風が吹きつけて、肉が抉られるような痛みがありました。身体検査が終わると、粗末な朝ご飯を食べ、十里 (約四キロメートル) の道を歩いて工場に向かいます。四列に並んで、顔を下に向けたまま、手をつないで歩きます。囚人たちの周りを小銃と拳銃で武装した警備員たちが付いて行きました。万一列が乱れたり、手が離れたりすると、脱走の意図ありとみなされ、容赦なく殴打されました。 雪が道に積もった冬の日、寒い明け方の道を歩いていくと、頭がくらくらしました。凍りついた道はよく滑るし、肌に突き刺さるような冷たい風が吹くと、頭の後ろの毛が逆立ちます。朝ご飯を食べたといっても、元気は出ません。足を踏み外してばかりいる毎日でした。しかし、力の抜けた足を引きずってでも工場に行かなければなりません。道すがら意識が朦朧となる中で、私は自分が天の人だという事実を繰り返し考えながら歩いて行きました。 肥料工場には、肥料の原料となる硫酸アンモニウム(硫安)が山となって積まれていました。ベルトコンベヤーで運ばれてきて、そこから下に降り注ぐ硫安は、白い滝のようにも見えました。降り注いだばかりの硫安は熱を帯びて、真冬にも湯気がゆらゆらと立ち上るほどでしたが、時間が緻つと冷めて氷のようにかちかちになりました。山と積まれた硫安をすくい上げて、かます(わらむしろを二つ折りにして縁をとじ、袋にしたもの)に入れるのが私たち囚人の仕事でした。「肥料山」高さ二十メートルを超える巨大な硫安の山の呼び名です。八百人から九百人が大きな広場に出て、硫安をすくい上げて袋詰めする場面は、あたかも大きな山を二つに分けるかのようでした。 十人一組で一日に千三百かますやるのが私たちに与えられたノルマです。一人の一日当たり責任量は百三十かますになります。それをやらないと食事の配給が半分に減らされてしまうので、生死の分かれ目と思って必死に働きました。硫安を詰めたかますを少しでも楽に運ぼうと、針金で輪を作って、かますを結ぶ際に使いました。運搬用のトロッコ(貨車)が通るレールの上にこの太い針金を乗せておくと、平らに潰れて針の代わりに使えます。かますに穴を開ける時は、工場のガラス窓を破って、そのガラスを使いました。看守も苦しい労働に悩まされる囚人に同情して、工場の窓を破るのを見てもそのままにしていました。私はある時、その太い針金を歯で噛み切ろうとして、そのまま歯が真っ二つに折れてしまいました。今でも私の門歯をよく見れば歯が欠けていますが、興南監獄で得た忘れることのできない記念品です。 どの囚人も重労働で疲労困態して痩せこけていくのに、私は体重七十ニキロをずっと維持して、囚人たちの羨望の的でした。体力だけは維持して少しも他人が羨ましくなかった私も、一度だけマラリアにかかってとても大変だったことがあります。一月近くマラリアにかかっていても、私が仕事をできなければ他の囚人たちが私の分までやらなければなりません。そうならないように、一日たりとも休みませんでした。このように体力があったので、私は「鉄筋のような男」と呼ばれました。いくらつらい重労働であっても我慢できました。監獄であろうと強制労働であろうと、この程度は問題になりません。どんなに鞭が恐ろしく、環境が悲惨だとしても、心に確固たる志があれば動揺しませんでした。 日本の川崎鉄工所で働いた時、タンクに入っていって硫酸を清掃しましたが、毒性のために死んだ人を数人目にしました。しかし、興南工場は、それとは比較にならないくらいひどい所でした。硫酸は有害で、触れると髪の毛が抜け、皮膚から粘液が流れます。硫安工場で六カ月も働けば、喀血して死ぬ人もいます。指を保護しようと指貫をはめても、かますを結んでいると、有毒な硫安に触れてすぐに穴が空いてしまいました。着ていた衣服は硫安で溶けて擦り切れてしまい、肉がひび割れて血が流れるか、骨が露わになる場合もありました。肉が削げ落ちたところから血がどろどろと流れ、粘液がだらだら出てきても、一日たりとも休まずに仕事をしなければなりませんでした。 それだけ仕事をしても、ご飯は一日に小さな茶碗で二杯にならない配給しかありません。おかずはほとんどなく、スープは大根の葉の入った塩水がすべてでした。スープはちょっと口にしただけでも塩辛かったのですが、石のようにごつごつしたおかずなしのご飯はそのままではのみ込めないので、そのような塩辛いスープでさえも貴重で、誰一人としてスープの汁を無駄にする者はいませんでした。 ご飯茶碗を受け取ると、どの囚人も一瞬にして丸ごと口の中に入れます。自分の分を食べ終わると、他の人がご飯を食べる姿を、喉を鳴らして眺めています。ある時は、我知らず人のご飯茶碗にスプーンを突っ込んで、争いが起きることもありました。同囚のある牧師は、「豆一粒だけくれたら外に出てから牛二頭あげる」と言ったほどです。死人の口の中に残ったご飯粒まで取り出して食べるほどでした。興南工場で味わった空腹は、それほどまでに凄絶でした。 空腹がもたらす苦痛は、実際に味わってみなければ分かるものではありません。空腹が極まったときは、ご飯粒一つでもどれだけ貴いかしれません。今も興南のことを思うだけで気持ちがさっと引き締まります。ご飯粒一つがそこまで人間の全神経を刺激できるということが信じられませんでした。おなかが空けば涙が出るほどご飯が恋しくなり、母親よりもっと恋しくなります。おなかがいっぱいのときは世界の方が大きいのですが、おなかが減ればご飯粒一つが地球よりもっと大きいのです。ご飯粒一つの価値とは、そのように驚くべきものです。 興南監獄では、配給された握り飯の半分を同僚たちに与え、残りの半分だけを食べました。約三週間そうやって実践した後、初めて握り飯一つを全部食べました。二人分のご飯を食べたと考えれば、空腹に耐えることがとても楽になります。 興南の実態は残酷の一語に尽き、実際に体験したことのない人には想像すらできないでしょう。囚人の半数が一年以内に死んでいきます。死体を入れた棺桶が毎日のように監獄の裏門に運ばれていくのを見つめなければなりませんでした。全身のあぶらが一滴残らずなくなるような仕事ばかりさせられて、死んで初めて門の外に出ていくことができたのです。いくら無慈悲で冷酷な政権であっても、それは明らかに人間としての限界線を越えたものでした。そのように囚人の涙と怨念がこもった硫安入りのかますは、港からソ連に運ばれていきました。 11. 雪の降る興南監獄で 監獄で、食べ物の次に恋しかったのが針と糸でした。労働でぼろぼろになった衣服を繕おうとしても、針と糸がないとそれができません。そうなると、獄中生活が長くなればなるほど乞食のような格好になってしまいます。特に、興南の冷たい冬の風を何とかしようとしたら、穴の空いた衣服をそのままにはしておけず、そんな時は道で拾った小さな布切れでもとても貴重です。 鉄屑が付いた布であっても、みんなが争って拾おうとして大騒ぎになります。布は何とか確保できても、針を手に入れるのはさらに大変でした。ところが運のいいことに、硫安のかますを運ぶ途中に、偶然針一本がくっついてきたのを見つけました。田舎から持ってくるかますに、なぜか混ざっていたのです。その時から、私は興南監獄の針仕事屋になりました。針を手に入れたのがうれしくてたまらず、毎日のように他の人のズボンや股引を縫ってあげました。 肥料工場は、真冬でも汗がたらたら流れるほど暑く、冬でもそうなので、真夏の暑さは想像を絶すると言ってよいでしょう。それでも私は、一度もズボンの裾を巻き上げて向こう脛を出したことがありません。一年で一番蒸し暑い時期でも、必ず裾の紐を結んで働きました。他の人がズボンを全部脱いで放り投げ、下着姿で働くときでも、私はちゃんとしたズボン姿で働きました。 一日工場で仕事をしてくると、体中が汗と肥料の粉でべとべとになります。大部分の人が仕事を終えるやすぐに服を脱いで、工場から流れてくる汚い水で体を洗いました。しかし、私は一度も体を出して洗うことをしませんでした。その代わり、配給でもらうコップ一杯の水を夜の間残しておいて、まだみんなが眠っている明け方に起きて、タオルに水を濡らして体をふきました。明け方の霊気を集めてお祈りをするためでもありますが、自分の尊い体をむやみに人前にさらしてはならないという考えから、そのようにしました。 監獄では三十六人が一部屋の監房に生活しましたが、非常に狭い部屋の隅に置かれた便器の横が私の居場所でした。夏になれば水があふれて湿っぽくなり、冬になれば氷が凍って、誰もが嫌がる場所です。便器といっても蓋のない小さな入れ物があるばかりで、その臭気は筆舌に尽くしがたいものがありました。 塩のスープに蕎麦の握り飯を食べた囚人は、ともすれば下痢を起こしました。 「ああっ、おなかが!」 おなかをかばって便器まで刻み足で走ってきた囚人が、お尻を出すやいなや、慌てふためいて液便をザーッと出すので、便器の横にいる私はややもすると液便を被りました。 全員が寝静まった夜中にもおなかが痛む人はいるようです。 「あっ、痛っ」 と言って、足を踏まれた人の悲鳴が聞こえると、私は素早く起きて隅に行って座ります。人を踏んづけて急いで便器まで駆けてきた人は、そこに来てお尻を出す前に下痢便を漏らし、無理にでもそのまま我慢して排泄するので、飛沫が飛び散って悲惨なことになります。寝入っていて、きれいによけられない日は、そのまま被るしかありません。それでも、四六時中液便が跳ねるその隅の場所を、私の居場所と思い定めて生活しました。「よりによっていつもそんな所に座るのはどうしてか」と他の囚人に聞かれると、「ここが一番楽です」と答えました。わざとそうしたということではないのです。その場所に座ると本当に気持ちが楽になりました。 私は文学や芸術を特別なものだとは考えません。何であっても私と心が通じて親しくなれるなら、文学であり芸術なのです。便所で便が落ちる音が美しく楽しく聞こえれば、それもまた音楽と異なるところはありません。同様に、便器の前で横になっている私に跳ねた液便も、私の考えに従えば素晴らしい芸術作品になることがあります。 当時、私の囚人番号が五九六番でした。そこで人々は私を「オグリュク」と呼びました。夜、眠ることができず、横になって天井を眺めて、「オグリュク、オグリュク……」と独り言を言いながらするすると舌を転がして発音すれば、「オグリュク」が「オグル(韓国語で「憤慨」の意味)」に聞こえました。私は本当に「悔しい」囚人でした。 共産党は、監獄の中に「読報会」なるものを作って自己批判させ、保安隊によって囚人の一挙手一投足を監視しました。そして、毎日、その日に学んだことを感想文として書けと言ってきました。しかし、私はただの一文も書きませんでした。「父なる金日成首領が私たちを愛してくださり、毎日のようにご飯と肉のスープを与え、このようにいい暮らしができるようにしてくださって感謝です」などという感想文は、絶対に書くことができませんでした。いくら死が目の前にちらついたとしても、無神論者である共産党幹部に感想文を捧げることなど、できない相談でした。私は感想文を書く代わりに、監獄で生き残るため、人よりも数倍熱心に働きました。一等労働者になることだけが、感想文を書かなくとも監獄生活を耐え抜くことのできる道だったからです。おかげで一等模範囚になって、共産党幹部が出す賞まで受けました。 監獄にいる問、何度か母が訪ねてきました。定州から直接興南に行く汽車はないので、乗り換えながら二十時間もかけて来るのです。その苦労は並大抵のものではありません。若い盛りに獄舎につながれた息子に食べさせるために、親族の八親等まで頼って米を一握りずつ集めて、炒り粉 (はったい粉) にして持ってきてくれました。面会所の鉄条網の外で息子の顔に出くわした母は、涙を流していました。はるばる遠く興南までやって来た強靭な母親が、監獄の息子を見るなり胸が詰まり、顔も上げることができずに泣き続けました。私の姿があまりにみすぼらしかったのか、いくら強靭な女性であっても、苦痛のただ中にいる息子の前では弱い母親にすぎませんでした。 母は、私が結婚する時に着た紬のズボンを持ってきてくれました。囚人服は硫安で溶けてぼろぼろになって肌が見えていましたが、私は母がくれた紬のズボンを穿かずに他の囚人にあげてしまいました。親族を頼って準備してきたはったい粉も、母が見ている前で囚人たちにすべて分け与えました。息子に食べさせ、着させようと真心を込めて作ってきた食べ物と衣服を、全部赤の他人に与えてしまうのを見て、母は胸をかきむしって泣きました。 「お母さん、私は文なにがしの息子ではありません。文なにがしの息子である前に、大韓民国の息子です。また、大韓民国の息子である前に世界の息子であり、天地の息子です。ですから、彼らを先に愛してから、お母さんの言葉を聞き、お母さんを愛するのが道理です。私は度量の狭い男ではないので、そういう息子の母親らしくしてください」 氷のように冷たい言葉を浴びせたのですが、母の目を見る私の胸は張り裂けんばかりに痛かったのです。寝ても母が懐かしくて目覚めるほどだったので、弱くなりそうな心を落ち着かせなければなりませんでした。神の仕事をする者には、私的な母子の因縁よりは、たったの一人であっても暖かく着せ、もっとおなかいっぱい食べさせることのほうが重要だったからです。 私は監獄にいても、人々と時間を見つけては会話を楽しみました。私の周りはいつも話を聞きに集まった人たちでいっぱいでした。おなかが空き、寒さに震える獄中生活であっても、通じる人たちとの交流は温かいものでした。興南で結んだ縁で、私は十二人の同志であると同時に生涯を共にする人を得ました。その中には以北五道連合会の会長だった有名な牧師もいました。彼らは、命の危険と隣り合わせの環境にあって、血肉よりもっと濃い絆で結ばれた私の骨と肉のような存在でした。彼らがいたので獄中生活は空しくありませんでした。明け方になると、私は彼らの名前を一人一人呼んで真心を捧げ、平壌にいる教会信徒のためにも毎日三回以上名前を挙げてお祈りしました。彼らがズボンの胴回りに隠して私に取っておいてくれたはったい粉一握りを、数千倍にして返してあげなければならないと思いました。 12. 国連軍が開けてくれた監獄の門 興南で投獄されていた間に朝鮮戦争(一九五〇年六月二十五日に北朝鮮が突如、韓国を侵略した。 韓国では「六・二五動乱」と呼ばれる)が勃発しました。戦争が始まって三日目、韓国軍はソウルを明け渡して南部に後退しました。この非常事態に対処しようと、アメリカをはじめとする十六カ国が国連軍を組織して参戦します。仁川から韓国に上陸した米軍を主力とする国連軍は、ここから攻勢に転じて、北朝鮮の代表的な工業都市である興南に押し寄せていきました。 興南監獄は自然と米軍の攻撃目標になりました。爆撃が始まると、看守たちは囚人をほったらかしにして、全員防空壕に避難してしまいました。囚人が生きようが死のうが彼らには関係のないことでした。 ある日、目の前にイエス様が現れて、涙を流して去っていく姿を見ました。ふと嫌な予感がして、「みんな、私から十ニメートル以上離れるな!」と告げたところ、それからいくらも経たずに爆撃があり、直径十ニメートル以内は神様が守ってくださると知っていたので、私の近くにいた囚人たちは辛うじて命拾いしました。 爆撃が激しくなると、看守は囚人を処刑し始めました。囚人の番号を呼んで、四日分の食料とシャベルを持たせて、外に連れ出しました。他の監獄に移送されるものと思って呼ばれて出て行った彼らは、山に連れていかれ、自分の墓穴を掘らされた後、そのまま殺されてしまいました。量刑の重い囚人が先に呼ばれていました。じっと数えてみると、次の日は私の番でした。 ところが、まさにその時、処刑を翌日に控えた一九五〇年十月十三日、三八度線を越えた韓国軍と国連軍が興南に押し上がってきたのです。米空軍のB29爆撃機は十四日、興南肥料工場とその付近一帯に激しい爆撃を加え、興南全体が火の海になるほど梅雨の雨のように爆弾を降り注ぎました。危険を察知した看守たちは、その前に逃げ出していました。ついに私たちを囲んでいた監獄の門が開かれました。夜中の二時ごろ、私は他の囚人たちと共に、堂々と歩いて興南監獄を出てきました。 二年五カ月ぶりに監獄から出てきたので、みすぼらしい姿に我ながら呆れました。下着も上着も、どれ一つとして破れていないものはありません。しかし、そのぼろをまとった乞食同然の姿のままで、監獄から私に付いてきた者たちと一緒に、故郷ではなく平壌に向かいました。故郷で私の心配をして、泣いて月日を送っている母の姿が目に浮かびましたが、平壌に残っている信徒たちをまとめるのが先でした。 平壌まで歩いて行ってみると、北朝鮮が開戦前から戦争の準備をしていた事実をはっきりと確認できました。非常時に軍用道路として使えるように、大きな都市には幅広い二車線の道路が通してありました。また、路面を分厚いセメントで固めて、三十トンの戦車が通り過ぎてもびくともしないような頑丈な橋があちこちに造られていました。興南監獄の囚人が命を削って積み上げた肥料をソ連製の旧式兵器と換えてきて、それらを三八度線に一斉に配備したのです。 平壌に着くとすぐ、投獄される前に一緒だった信徒たちを一人一人捜して回りました。彼らがどこで何をしているのか気になり、心配でなりませんでした。戦争の混乱で別れ別れになっていましたが、何としてでも彼らを捜し出して、きちんと生きていけるように後始末をつける必要がありました。ただ、誰がどこに住んでいるかを知るすべはなく、平壌市内を見境もなく歩き回って、隅々まで捜すしかありませんでした。 一週間かかって捜し出したのは三、四人だけです。監獄から持ってきたはったい粉に水を混ぜて餅をこね、彼らに食べさせました。興南から平壌に着くまでの間、凍ったジャガイモを一つか二つ食べるだけで我慢し、おなかが減っても手を付けないで、大事に取っておいた食料です。彼らが美味しそうに食べる姿を見て、私も満腹になった気がしました。 年寄りも若者も記憶に残る人はすべて捜し出そうと、平壌でおよそ四十日留まりました。大部分の信徒を見つけ出しましたが、結局行方の分からない人もいました。しかし、彼らのことも私の心から消えることはありませんでした。 十二月四日の夜、南側に向かって歩き始めました。私と金元弼をはじめみんなで、避難民の群れの三十里 (約十ニキロメートル) ほど後ろを付いていきました。というのも、思うように歩けない信徒がいたのです。彼は興南の監獄から私に付いてきた人でした。平壌で先に監獄から出た彼を捜していたら、家族は皆避難してしまって、足の折れた彼一人が空っぽの家に残っていました。私は歩けない彼を自転車に乗せて連れて行きました。立派な軍用道路は軍隊が占領して使えないので、凍りついた田んぼの上を歩きに歩いて避難の道を急ぎました。背後から中国人民解放軍と北朝鮮軍が迫ってきており、その上、歩けない者を連れて足場の悪い道を行ったので、その苦労は尋常ならざるものがありました。あまりにひどい悪路では、彼を背負って、空の自転車を引いて進んでいきました。荷物になるのは嫌だと途中で何度も死のうとする彼をなだめて、時には大声で怒鳴りつけもしながら、最後まで一緒に下っていったのです。 年が若い金元弼は歩きながら眠りこけることもありましたが、彼を追い立てて、夜遅くまで八十里 (約三十ニキロメートル)の道を歩いたこともあります。 いくら追われていく避難の道であっても、腹が減っては戦はできません。避難民が慌てふためいて打ち捨てていった家に入り、「米の甕、米の甕」と歌を歌いながら食べ物を探しました。米や麦、ジャガイモをあるだけ探し出して煮て食べ、辛うじて命をつなぎました。ご飯茶碗はともかくスプーンも箸もないのには困って、木の枝を切って箸の代わりにしましたが、それでもご飯はよくおなかに入りました。「窮状が大変な幸運だ」といいます。おなかがグーと鳴るのに食べられないものはありませんでした。麦で作った餅一つが、王様の素晴らしいご馳走にも引けを取らないほど美味しく感じられました。ただ、私は、どんなに空腹であってもいつも先に箸を置くようにしました。そうすれば、他の人が気分良く一口でも二口でも多く食べることができるからです。 避難路を歩き続けていくと、やがて臨津江の近くに到着しました。ところが、どういう訳か一刻も早く川を渡らなければならないと心が急かされました。この峠を越えて初めて生存の道が開かれると思ったのです。私は金元弼を容赦なく追い立てました。 幸いにも川の水はかちんかちんに凍っていて、私たちは先に来た避難民の後を追って臨津江を渡りました。後から後から休むことなく避難民が集まってきていました。ところが、私たちが臨津江を渡り終えるや、国連軍はこれ以上渡ってこられないように川を閉鎖してしまいました。少しでも遅れたら渡河できなかったかもしれない間一髪の出来事でした。 ようやく川を渡ると、通り過ぎてきた方をちらりと振り向いた金元弼が、恐る恐る尋ねてきました。 「先生は、臨津江が閉鎖されることをあらかじめご存じでしたか」 「当然のことだ。天の道を行く人の前にはそのようなことが多くあるのだ。一つの峠だけ越えれば生き延びられるのに、人々はそれを知らないのだ。一分一秒が急がれる状況だったので、いざという時にはおまえの胸ぐらでもつかんで渡るつもりだった」 金元弼は私の言葉に感動した様子でしたが、私の心は複雑な思いでいっぱいでした。三八度線で南北が分断された地点に到着した時、私は片方の足を韓国に、もう片方の足を北朝鮮にかけて祈祷を捧げました。 「今はこのように強く押されて南下していくとしても、必ずもう一度北上していきます。自由世界の力を集めて必ず北朝鮮を解放し、南北を統一します」 避難民の群れに交じって歩いて行く間も、ずっとそう祈り続けました。 【第三章 世界で最も中傷を浴びた人――教会創立と受難】 1. 「あなたは私の人生の師です」 臨津江を渡ってソウル、原州、慶州を経て釜山に到着した日が一九五一年一月二十七日でした。釜山の地は避難民でごった返していました。朝鮮八道 (全土) の人が全部集まったかと思えるほどで、人が生活できる所は軒先までぎっしりと詰まっていて、お尻一つ入り込める隙間も残っていませんでした。仕方なく、夜は林の中に入って木の上で眠り、昼になるとご飯を求めて市内に下りていきました。 監獄で剃った頭はむくんでいました。内側を布団綿で継ぎ当てしたパジチョゴリ(男性用の韓服)はぼろぼろになり、染み付いた脂垢のせいで、雨に濡れると服の上を雨粒がころころと転がりました。靴も上の部分はくっついているだけ、下底はほとんど残っておらず、裸足で歩くのと同じでした。どこから見てもどん底の中のどん底、乞食の中の乞食です。働き口も所持金もなく、食べ物を得るには物乞いするしかないという惨な有様でした。 しかし、乞食をして回るときも、私はいつも堂々としていました。目ざといので、ぱっと見てご飯をくれそうにないと思うと、「われわれのように困った人を助けてこそ後で福を受けるのだ!」と言って、むしろ強気の態度でご飯をもらいました。そうやって手に入れたご飯を、日当たりの良い所に座って、数十人でぐるりと囲んで食べました。無一物で乞食の境遇にありながらも、お互い不思議と気持ちが通じ合うところがありました。 「おお、これは一体何年ぶりか?」 誰かが弾んだ声で呼ぶので振り返ってみると、日本留学時代に私の歌声に魅了されて友人となった厳徳紋でした。今は、世宗文化会館やロッテホテルなどを設計して、わが国有数の建築家になった人です。彼はみすぼらしい姿の私をぱっと抱きかかえると、有無を言わせず自分の家に連れていきました。 「行こう。さあ、わが家に行こう」 結婚していた彼は、一間の部屋に住んでいました。狭い部屋の真ん中に布団包みを吊して部屋を二つに分けると、彼は妻と幼い二人の子供を向こう側に行かせ、「さあ、あれからどうやって生きてきたのか話してくれ。どこでどうしているのかずっと気がかりだった。前は普通の親しい友人のようにしていたが、いつも君のことを友人以上の存在と思ってきた。心の中で一目も二目も置いていたことは知っていただろう?」と言うのでした。 私はその時まで、友人に自分の正直な心の内を明かしたことはありません。留学していた時、『聖書』を読んでいても友人が来ればすぐに片付けてしまうほど、自分の内面を見せませんでした。厳徳紋の家で初めて洗いざらい話したのです。 話は一夜で終わりませんでした。神と出会って新しく悟ったこと、三八度線を越えて平壌に行き布教活動を始めたこと、興南監獄を生き延びたこと。全部話すのに三日三晩かかりました。話をすっかり聞き終えると、厳徳紋はその場ですっくと立ち上がって、私に丁寧なお辞儀をしました。 「おい、それはどういうことだ?」 その手をつかんで引っ張りましたが、彼は頑として動きませんでした。 「これからは、あなたが私の人生の師です。このお辞儀は私が師に捧げる挨拶だから受け取ってください」 それから後、厳徳紋は私の生涯の友であり、同時に弟子として、私をそばから見守ってくれました。 厳徳紋の一間の部屋を出てから、釜山の第四埠頭で夜間の重労働に就きました。仕事が済んで労賃を受け取ると、草梁駅で小豆粥を買って食べました。熱い小豆粥は、冷めないように、器はどれもこれもぼろ布でしっかりと包んであります。私は小豆粥を一つ買って食べながら、その器を一時間も抱きかかえていました。そうすると、埠頭で夜通し働いてかちかちに凍りついた体がとろりと解けたのです。 その頃、草梁の労務者用の宿所に入ることができました。部屋が呆れるほど小さくて、対角線で横になっても壁に足が当たります。その後、知り合いの家に泊めてもらい、その部屋で鉛筆を削り、心を尽くして『原理原本』の草稿を書きました。極貧の生活だろうと何の問題もありませんでした。たとえゴミの山の中で暮らしたとしても、意思さえあればできないことはないのです。 二十歳を過ぎた金元弼も、仕事は何でもやりました。食堂の従業員として働いた時は、お焦げの残飯を持ち帰って一緒に煮て食べたりしました。また、画才を生かして、米軍基地に就職して絵を描く仕事もしました。 そうした中、凡一洞のボムネッコルに上がって小屋を建てました。ボムネッコルは共同墓地の近所なので、岩と谷間以外に何もない所です。谷間の上にも何もありません。斜めの崖で、そもそも自分の土地だと言えるような場所さえないので、まず斜面を水平に削って、その場所を固めて小屋の敷地を造りました。金元弼と共に石を割り、土を掘って、砂利にして運びました。土と藁を混ぜて作った壁石で壁を積み、米軍部隊からもらったレーション箱(兵士の野戦食であるレーションを詰めた箱)の底を抜いて平らにして、屋根に被せて出来上がりです。部屋の床には黒のビニールを敷きました。 バラックでも、これほどのバラックはありませんでした。岩場に建てた家なので、部屋の真ん中に岩がぷくっと突き出ていました。その岩の後ろ側に置いた座り机と金元弼の画架が調度品のすべてでした。雨が降れば部屋の中で泉が噴き出します。座った場所のすぐそばで、水がちょろちょろと音を立てて流れていく、とてもロマンチックな部屋でした。雨漏りがし、水が流れる冷え冷えとした部屋で寝ると、起きたときに鼻水がたくさん出ます。そうであっても、わずか一坪でもそうやって安心して横になれる場所があるという事実が、限りなく幸せに思えました。神の御旨に向かって行く道でしたから、劣悪な環境の中でも胸には希望があふれていました。 金元弼が米軍基地に出勤するとき、私は山の下まで付いていき、夕方仕事を終えて戻ってくるときは迎えに出ます。それ以外の時間は眠らずに鉛筆を削り、机に座って『原理原本』を書きました。米の甕に米はなくても、部屋に鉛筆はいっぱいありました。金元弼は、私が執筆に専念できるように、横にいて物心両面から私を助けてくれました。一日中働いてきて疲れているはずなのに、「先生、先生!」と言っては私に付いて回ります。もともと寝不足な私が便所でよく眠ることを知ってからは、便所まで付いてくるほどでした。それだけではありません。 「先生が本をお書きになるのを、少しでもお手伝いさせてください」と言って、私の鉛筆代を稼ぐために、新しい仕事まで始めたのです。それが米軍兵士の注文に応じて肖像画を描く仕事でした。当時、米軍兵士の間では、故国に帰る前に妻や愛人の肖像画を描いておくことが流行していました。図画用紙ぐらいの大きさの画布に糊を塗って、木の枠に付けて絵を描きます。売値は一枚四ドルでした。 金元弼のそのような真心がありがたくて、彼が絵を描くときは、私も横にいて黙々と助けました。彼が米軍基地に仕事に出かけると、画布にぱりっと糊を含ませ、木を切って枠を作ります。退勤してくるまでに、筆をすべて洗い、必要な絵の具を買っておきました。そうしてお枚か二枚だけだったのが、いつの間にか有名になって、寝る間も惜しんで二十枚、三十枚と描きました。 仕事が増えるにつれて、それまで手伝いだけしていた私も、直接絵筆を執って彼を助けるようになりました。元弼が顔の輪郭を大まかに描いて、私が唇や服の色を塗るというように、共同して仕上げるのです。 一緒に儲けたお金は、鉛筆と絵の道具を買うことを除いては、すべて教会のために使いました。神のみ言を文章にまとめることも重要ですが、もっと多くの人に神の御旨を知らせることが急がれていました。 2. 井戸の近くに住む「気のふれた美男子」 ポムネッコルに土壁の家を建てて教会を始めた当初、私の話を聞いてくれる人はたったの三人だけでした。それでも、三人に話をするとは考えず、たとえ目に見えなくても数千、数万、いや人類全体が私の前にいると考えて話をしました。全世界に向けて爆発するような大音声で、昼夜を分かたず私が悟った原理のみ言を伝えました。 家の前に井戸が一つありました。その水を汲みに来る人たちの間に、土壁の家に気がふれたおかしな男が住んでいるという噂が生じました。格好はみすぼらしいし、人気のない場所の幽霊が出そうな家から天下に号令するような叫び声が聞こえてきたので、人々はひそひそとそんな話をしたのです。天地がひっくり返って韓国が全世界を一度に統一するという気宇壮大な話をしたので、山を下りた周辺一帯に噂が広まったようでした。噂のせいか、井戸の近くに住む気のふれた男を見ようと、わざわざ訪ねてくる人も現れました。何々神学校に通う学生が一度に来たこともあったし、梨花女子大の教授たちが訪ねてきたこともありました。恰幅のいい健康そうな美男子という噂が付け加わって、「気のふれた美男子」を一目見ようと、遊びがてら山道を歩いて上がってくるおばさんたちもいました。 『原理原本』を脱稿した日、私は鉛筆を置いて、「これからは伝道する時なので、伝道できる聖徒を送ってください」と祈りを捧げた後、井戸端に出ました。五月十日のことです。春が深まり、綿を入れた韓服のズボンに古びたジャンパーを着ていたので、汗が出ました。その時、一人の若い女性が、額に浮かんだ汗をふきふき井戸の方に上がってくる姿が見えました。 「神様は七年前から伝道師を多く愛されました」 と話しかけたところ、彼女は目を丸くして驚きました。七年前とは、彼女が神様の仕事に一生を捧げようと決心したまさにその時だったからです。 「私は下の村の凡川教会の伝道師、姜賢實です。井戸の近くにおかしな青年が生活しているというので伝道しに来ました」 と彼女が私に挨拶しました。挨拶を終えた後、家に入った彼女は、むさ苦しい部屋の中をうさん臭そうにじろじろ見回すと、座り机の上を目を凝らして見つめ、尋ねました。 「どうして先の磨り減った鉛筆があんなに多いのですか」 「今朝までかかって宇宙の原理を明らかにする本を書きました。そのみ言を聞かせるために神様が伝道師をここまで送られたのでしょう」 「どういうことですか。私は、伝道すべき人がいるので、井戸の辺りに上がってみなさいというみ言を受けて、来たのです」 私は座布団を出して彼女に座るように勧め、私も座りました。私たちが座ったすぐそばで、泉の水がちょろちょろ流れていました。 「韓国の地は今後、全世界で山の峰と同じような役割を果たすでしょう。そして、世界中の人が韓国人に生まれることができなかったことを悔しく思う時が来るでしょう」 私の言葉に、彼女は呆気にとられた表情で私を眺めました。 「今後、イエス様はエリヤが洗礼ヨハネとして現れたように、肉身を持って韓国の地に来られます」 という私の言葉を聞くと、とうとう彼女は激しく怒り出しました。 「イエス様は行き場所がなくて、仕方なくこの悲惨な韓国に来られるということですか」 と言って、私に食ってかかったのです。 「黙示録をきちんと読んで仰っている言葉ですか。私は……」 「高麗神学校で勉強した人間だということでしょう?」 「いや、どうしてお分かりになったのですか?」 「私がそんなことも知らずに伝道師を待ちますか。私を伝道するために来たと仰るのですから、きょうは一つ、私を教えてみてください」 姜賢實神学を勉強した人らしく、聖句をすらすらと語って私を攻撃しました。抜け目なくきっちり挑んでくるので、私も機関車のような声で一つ一つ忙しく対応しました。討論が長くなって外が暗くなると、私が夕飯を準備しました。おかずといっても萎びたキムチだけでしたが、水の音がちょろちょろする部屋に座ってご飯をしっかりと食べ、終わるとまた討論を始めました。その後、何度も継続して訪ねてきては私と討論を繰り広げ、姜賢實はついに凡川教会を去って、私たちの教会の信徒になりました。 晩秋のある日、妻がボムネッコルの小屋に私を訪ねてきました。彼女は六歳の男の子の手を握っていました。米を買いに家を出て、平壌に上がっていったその年に生まれた息子です。いつの間にかすっかり大きくなっていました。私はとても息子の顔を正視できませんでした。うれしいと顔をさすって抱くこともできませんでした。何も話せないまま、私は微動だにせず立ち尽くしていました。 妻があえて語らなくとも、戦争のさなかに彼ら母子が通過してきた苦労が目に浮かびました。事実、私はこの母とこの子がどこでどのように生きているかをすでに知っていました。しかし、まだ家族の面倒を見る時ではありませんでした。結婚する前に何度も固い誓いを確認したように、もう少しだけ私を信じて待ってくれれば喜んで彼らを捜し出すことができましたが、まだ時ではありませんでした。土壁の小屋は狭くおんぼろであっても、すでに私たちの教会でした。いろいろな信徒たちが私と一緒に食べ、生活し、み言を勉強していた場所なので、そこに妻子を住まわせることはできませんでした。小屋を見て回った妻は、寂しい心を抱えて山の斜面を下りて行ってしまいました。 3. 教派ではない教会、教会でもない教会 悪口を言われると長生きするといいますが、悪口を言われた分だけ生きるなら、私はこの先、あと百年は長生きできるでしょう。また、ご飯でおなかを満たす代わりに、ありとあらゆる悪口をのみ込んだので、私は世の中で最もお腹の膨れた人です。平壌に行って教会を始めた時に反対し、石を投げた既成キリスト教会が、釜山でもまた私に反対しました。教会を始めて以来、何から何まで言い争ってきました。「異端」「似非」は私の名前の前に付ける固有名詞でした。いえ、私の名前の「文鮮明」は異端、似非と同じ意味でした。異端、似非という接頭語のないそのままの名前で呼ばれたことがないほどでした。 激しい迫害に抗しきれず、一九五三年に私は釜山からソウルに上がってきました。翌年五月、奨忠壇公園に近い北鶴洞のバラックを借りて、「世界基督教統一神霊協会」の看板を掲げました。このような名称にした理由は、いかなる教派にも属したくなかったからです。だからと言って、もう一つ他の教派を作る考えは更にありませんでした。 「世界基督教」は古今東西にわたるキリスト教のすべてを意味し、「統一」は今後行くべき目的性を意味します。「神霊」は父子関係の愛を中心とする霊肉界の調和を暗示した表現で、簡単に言うと「神様中心の霊界を背景とする」という意味です。特に統一は、神の願う理想世界をつくっていくための私の理想でした。統一は連合ではありません。連合は二つが集まったものですが、統一は二つが一つになることです。後日、私たちの名前になった「統一教会」は、実際には人々が付けてくれた名前であり、当時、大学生の間では「ソウル教会」と呼ばれました。 とはいえ、私は教会という言葉をさほど好みません。教会とは文字どおり「教える会」です。宗教は「宗となる教え」ですから、教会とは根本的なことを教える集まりという意味になります。本来、教会という言葉で人と私を分ける理由は何もありません。にもかかわらず、世間は「教会」を特別な意味を持つ言葉として使うのです。私はそういう特別な部類に属したくありませんでした。私が願ったのは教派のない教会でした。真の宗教は、自分の教団を犠牲にしてでも国を救おうとし、国を犠牲にしてでも世界を救おうとするものです。いかなる場合であっても教派が優先にはなり得ません。 仕方なく教会の看板を付けたにすぎず、いつでもその看板を外したい思いです。教会の看板を付けた瞬間、教会は教会でないものと区別されます。一つのものを二つに分けることは正しいことではありません。それは、私が夢見ることでもなく、私の行くべき道でもありません。国を生かし、世界を生かすために、もしも教会の看板を外さなければならないとするならば、今でも私はそうすることができます。 しかしながら当時、現実的にはどうすることもできませんでした。そこで、正門の内側、敷地内に一歩入った建物の入り口に教会の看板を掲げました。少し高い所に掛ければ見栄えが良いのですが、家の軒が低くて、看板を掛けるには不向きでした。結局、子供の背丈ぐらいの高さに看板を掛けておいたので、子供たちがそれを外して遊んで、そのまま二つに割ってしまったこともあります。私たちの教会の歴史的な看板ですから、捨てるわけにもいかず、針金でごちゃごちゃに結んで、釘で入り口にしっかりと打ちつけました。看板をそんなふうにぞんざいに扱ったせいか、私たちも世間から言うに言えないぞんざいな扱いを受けました。 玄関は頭を下げて入らなければなりませんでした。中も狭く、八尺 (約二・四ニメートル) 四方の部屋に六人が集まってお祈りをすれば、お互いの額がぶつかるほどでした。近所の人たちは、看板を見て嘲笑したものです。身をすくめて入っていく家の中で、一体どこの「世界」を語り、「統]」を夢見るのかと皮肉ったのです。名前に込められた意味を知ろうともせず、一方的に私たちを狂人扱いしました。しかし、そんなことは何でもないことでした。釜山では、もらい食いまでして命をつないだ身です。礼拝を捧げる部屋がある今は、何を恐れることもありませんでした。黒い染みが付いた米軍兵士のジャンパーを着て、黒のゴム靴を履いて歩きましたが、心は誰よりも堂々としていました。 教会に来る信徒たちは、お互いを「食口」と呼び合います。当時の食口は、誰もが愛に酔っていました。教会のことを考えて、心の中で「行きたい」と思い続けると、どこにいても私がすることをすべて見聞きできました。神と通じることのできる内的な愛の電線で、完全に一つになったのです。ご飯を炊く準備だけして火を付けずに教会に走ってきたり、新しいチマ(スカート)に着替えると家族に言っておきながら穴の開いたチマのままで走ってきたり、教会に行かせないように丸刈りにされてもその頭のままで教会に走ってきたりしました。 食口が増えてきたので大学街で伝道を始めました。一九五〇年代には、大学生と言えば最高の知性を備えた人々でした。まず梨花女子大学校と延世大学校(当時は前身の延禧大学校)の前で伝道を始めたところ、短期間のうちに私たちの教会に通う学生が増えていきました。梨花女子大学の音楽科の梁允永講師と舎監の韓忠嘩助教授も私たちの教会を訪ねてきました。 先生だけでなく大学生も多く来ました。ところが、その増え方が一人、二人というのではなく、一度に十人、二十人と幾何級数的に増える状況で、既成キリスト教会はもちろんのこと、私たちでさえも驚かざるを得ませんでした。 大学街の伝道を始めてニカ月で、梨花女子大学と延世大学の学生を中心に教会員が爆発的に増えました。あまりに速い速度でした。春の突風がひゅうと吹き過ぎていったかのように、大学生の心が一瞬のうちに変わってしまいました。梨花女子大学の学生が一日に数十人ずつ荷物をまとめてやって来ました。寄宿舎から出られないようにすると、「どうして?どうして出られなくするのですか。そんなことをするなら私を殺してください!」と言って、寄宿舎の塀を平気で乗り越えて来ました。私が止めても聞き入れません。きれいな学校よりも足のにおいのする私たちの教会の方がいいと言うので、どうしようもありませんでした。 心配した梨花女子大学の金活蘭総長は、社会事業学科の金永雲副教授を私たちの教会に急派しました。カナダで研鐙を積んだ金副教授は、梨花女子大学で将来を嘱望された女性神学者でした。統一教会の教理の弱点を探し出して、学生が私たちの教会に流れないようにしようと、わざわざ神学を専攻した金副教授を送ったのです。ところが、総長特使の資格で教会を訪れた金副教授は、私に会って一週間で熱心な信徒になってしまいました。金副教授まで私たちの教会を受け入れたので、梨花女子大学の他の教授や学生たちが、これまで以上に私たちを信頼し始めました。信徒が雪だるま式に増えたことは言うまでもありません。 事態が手の付けようのないほど拡大してくると、既成キリスト教会は例によって、私が教会員を横取りしていると攻撃を始めました。私は無念で残念な思いになりました。私は、私の説教だけを聞きなさいと強要したり、私たちの教会にだけ通いなさいと言ったりしたことはありません。前門から追い出せば後門から入ってくるし、門を閉めて鍵をかければ塀を乗り越えて入ってくるのです。全く自分の力ではどうすることもできませんでした。 こうなると、困惑したのは延世大学と梨花女子大学でした。キリスト教財団の大学として、他の宗派の教会に教授や学生たちが集まっていくのを、黙って見過ごしにすることだけはできなかったのです。 4. 延世大と梨花女子大の退学・免職事件 危機感に襲われた延世大学と梨花女子大学は、学校の歴史上、前代未聞の破天荒な選択をしました。梨花女子大学は金永雲副教授をはじめ教授ら五人を免職処分にし、学生十四人を退学させたのです。その中には卒業を控えた学生も六人いました。延世大学でも教授一人が免職となり、二人の学生が退学させられました。 当時、延世大学の校牧(学校の牧師)は「学校に影響が及ばないように、卒業してからその教会に通ってもいいのではないか」と学生を懐柔しましたが、彼らは聞きませんでした。むしろ学生たちは、「学校には無神論者も多く、巫女 (ムーダン)の子供まで通っているのに、なぜ私たちが退学させられるのですか」と強く抗議したのです。当然の抗議でしたが、学校側は「私たちの学校は私立であり、キリスト教の学校なので、いくらでも任意に退学させられる」と繰り返すばかりで、頑として彼らを追い出しました。 この事実が世間に漏れると、新聞 (東亜日報、韓国日報) に「宗教の自由がある国で退学処分は問題がある」という趣旨の社説が載り、世の中が騒然としました。 アメリカとカナダの宣教部の援助を受けていた梨花女子大学は、異端であると噂の立った教会に行く学生が多くなれば、財政上の支援を受けるのに問題が生じるとして、危惧の念を覚えたようです。当時、梨花女子大学はキリスト教の布教に熱心で、週に三回あるチャペルの時間ごとに学生の出席率を確認して宣教本部に提出するほどでした。 学生を退学させ、教授らを追放すると、私たちに同情する世論も次第に大きくなっていきました。ところが、それを覆すために、口にするのも忍びないデマを流し始めました。もともとデマであればあるほど人々を惑わして引き付けるようになります。デマはまた異なったデマを生みながら、延世大と梨花女子大の事件はとんでもない怪談咄となって、一年以上にわたって私たちの教会を苦しめました。 私は事件の拡大を望みませんでした。無理に問題を起こしたくなかったのです。そのまま静かに信仰生活をすればいいのだから、あからさまに寄宿舎を飛び出してまで世の中を騒がせる必要はない、と学生を説得しました。しかし、「なぜ駄目だと言われるのですか。私も恵みを受けたいです」と言って、逆に私を説得する者までいたのです。結局は十数名もの学生が学校から追い出されたのですから、私の心も穏やかであるはずがありませんでした。 退学させられた学生たちは、傷ついた心を癒そうと、集団になって三角山の祈禧所に登って行きました。学校から追い出され、家でも睨まれ、友達も離れていき、当然行く所がありませんでした。彼らは三角山に登って断食し、涙や鼻水を流してひたすら祈りに没頭しました。すると、あちこちから異言が起こってきました。もともと神様は、私たちが絶望の果てに立った時に姿を現します。学校を追放され、家族と社会から捨てられた学生たちは、三角山の祈疇所で神様と出会うようになりました。 私は三角山に行って、断食祈祷で気力の尽きた学生たちに食べ物を分け与えて、その苦労をねぎらいました。 「退学処分になったことも悔しくてたまらないのに、断食まですることはない。良心の呵責を覚えることをしたのでなければ、どんな悪口を言われようと不名誉ではなく、犯罪者になることでもないので、絶望しないで時を待ちなさい」 卒業間近だった学生六人は、後に淑明女子大学に編入してかろうじて卒業しましたが、この事件のために、私の評判は悪化の一途を辿りました。延世大・梨花女子大事件が紙面を賑わしたことで、その時までに誕生していた新興宗教のありとあらゆる悪い噂が全部私たちの仕業になってしまいました。「そうかもしれない」で始まったデマは、そのまま「そのとおりだ」となって、私たちに襲いかかってきました。 激しく叩かれて、私たちの教会は大きな痛手を被りました。無念で、腹も立ち、声を上げて抵抗したかったのですが、私は何の声も出さなかったし、彼らと争いもしませんでした。なぜなら、私たちの行く道はあまりにも険しく、目的の場所ははるか遠い先にあって、争っている時間はなかったのです。世間の誤解は時が経てば自然と解けるので、それほど気を遣うこともないと考えました。「文鮮明は雷に打たれるべきだ」と公然とわめき散らす者たちや、私の死のために祈ろうというキリスト教牧師らの横暴も、見て見ぬふりをしました。 ところが、噂は静かになるどころか、日が経つにつれてますます増殖し、異常なほどの広がりを見せました。誰彼となく立ち上がって私を指さしました。興南肥料工場のむんむんした暑さの中でも一度も向こう脛を出したことのない私でしたが、その私がよりによって裸になって踊りを踊るという噂まで出回ったのです。それからというもの、私たちの教会に入ってくる人たちは、「あの人は本当に裸になって踊りを踊るのだろうか」という疑いの眼差しで私を見つめました。 この種の誤解を解消しようとすれば時間が必要です。そのことをよくよく承知している私は、一言の弁明もしませんでした。人を知ろうとしたら、その人と付き合ってみなければ本当のことは分かりません。私をろくに見もしないで、ああだこうだと口から出まかせを言って何のためらいも感じないような連中は、どうしようもない人たちであると思って、我慢しました。 延世大・梨花女子大事件によって、私たちの教会は完全に崩れ去る一歩手前まで追い込まれました。「似非宗教集団」というラベルが私の額にぴたっと貼られてしまったばかりか、既成キリスト教会が一つになって立ち上がり、私を処断せよとわめき立てました。 こうして、一九五五年七月四日、警察が私たちの教会に踏み込んできて、私を逮捕し、後日、弟子の金元弼と劉孝永、劉孝敏、劉孝元を捕らえていきました。既成キリスト教会の牧師と長老たちが、権力層と手を結んで私たちの教会を潰そうとしたのでした。投獄された四人は私の同志であり弟子でもあった者たちでした。さらに、警察は私の過去を隈無く洗って、兵役忌避という罪状を見つけてきました。北朝鮮では獄舎につながれ。 5. 焦げた木の枝にも新芽は生える 一九五五年七月四日、私はソウルの中部警察署(治安局特殊情報課)に連行されました。屈辱的な扱いを受けたのに、思いの丈をぶちまけて抗弁一つしようとせず、ぐっとこらえる私を見て、「意気地なし」と決めつける人もいましたが、これもまた私に与えられた道であると受け止めて、我慢に我慢を重ねました。それが私に与えられた天の御旨に向かっていく道だとすれば、仕方のないことだと考えました。いかなる困難があろうと私はその道を行かなければなりません。それがそのまま私の存在価値、生きる理由だったので、絶対に挫けないで、困難であればあるほど、誰の前であっても威風堂々と振る舞いました。 そう決意すると、警察には私を打ち負かす方法がありませんでした。調書を書く際には、まず私から、こう書きなさいと教えてやりました。「おい君、この言葉をなぜ書かないのか。そこにはこう書かなければならないのだ」と言って、初めて刑事は次に進みました。私が教えたとおりに調書を書いてみると、一つ一つの句や節に間違いはないのに、もともと彼らが意図した内容とは正反対になっていました。そのことに気づいた刑事は、腹を立てて調書をびりびりと破いてしまいました。 私はソウル地方検察庁に送致され、西大門刑務所に収監されました。手錠をかけられても、恥ずかしいとか寂しいとか思うことはありませんでした。監獄生活が私の行く手を遮る障害になるでしょうか。そんなことはあり得ないことです。憤怒の思いが沸き上がることはあっても、私を挫折させる罠とはなりませんでした。私としては、むしろ商売の元手を得た気分です。「監獄で消える私ではない。ここで死ぬことはできない。これは解放の世界に向けて跳躍するための踏み台にすぎない」と考えて、監獄生活に打ち勝ちました。 悪は滅び善が栄えるのが世の道理であり、天の法です。泥まみれになっても、純粋で真実の心を失わなければ絶対に滅びません。手錠をかけられていく時、通り過ぎる女性たちが私を流し目で見て、顔をしかめました。淫乱の似非教祖だから見るのもおぞましいという表情でした。しかし、私は怯えることもなく、恥だとも思いませんでした。彼らが汚い言葉で私と教会を罵っても、私は決して動揺しませんでした。 しかしながら、そういう私であっても、痛みがなかったわけではありません。外では堂々としましたが、喉が締めつけられ、骨身に沁みて悲しかったことが一度や二度ではありませんでした。心が弱くなるたびに、「私はこんな監獄で死んでしまう男ではない。必ずもう一度立つ。きっと立って見せる」と言って、歯を食いしばりました。「すべての痛みを自分の中に隠したまま抱えていくのだ。教会のありとあらゆる重荷を私が背負っていくのだ」と心に誓いました。 世間は、私が捕まって刑務所に行けば、教会は潰れて、信徒たちはすぐにばらばらになって去っていくとばかり思っていましたが、そうはなりませんでした。収監されている問、毎日、信徒たちの誰も彼もが私に面会に来ました。面会の順番をめぐって争うことさえありました。面会時間は朝の八時からです。それなのに、彼らは明け方から刑務所の塀の所に並んで待っていました。人々が私の悪口を言えば言うほど、私が寂しければ寂しいほど、私を慰労し、私のために涙を流す人も、次第に多くなりました。 私は面会を必ずしも歓迎したわけではありません。「こんなに騒々しく来るとは。何しに来たのか」と叱ることも多かったのです。それでも、彼らは涙をぽろぽろ流しながら私に付いてきました。信仰とはそういうものであり、愛もまた同様です。私が言葉巧みに話すから私を慕うのではありません。私の心の深い所にある愛を知ったがゆえに慕うのです。彼らは私の真実の心を理解してくれました。手錠をかけられて裁判を受けに行く時、私を捜してあちこち歩き回った信徒たちを死んでも忘れることができません。被告席に座った私の姿を見てしくしく泣いたその顔は、いつも私の記憶の中にあります。 「いくら人を狂わせようとしても、あれほど狂わせることができるだろうか」 刑務所の看守らが、押し寄せる信徒たちを見て、そう言いました。 「あの人は自分の夫でも妻でも子供でもないのに、なぜあんなふうに真心を込めることができるのか」と感嘆した人もいましたし、「なんだ、文鮮明は独裁者で搾取する者だと聞いていたが、すべてでたらめだった」と考えを変えて、私たちの教会に来た人もいました。結局、収監されて三カ月ぶりに無罪で釈放されました。私が釈放される日、刑務所長と課長らが丁重に見送ってくれました。彼らは三カ月後に私たちの教会の信者になっていました。彼らの心が私に向いた理由は簡単です。近くでじっと眺めたので、噂とは全く違うことが分かったのです。世の中の騒がしいデマが、かえって伝道の手助けになったようでした。 捕まっていく時はマスコミと世間が大騒ぎしたのに、いざ無罪となって刑務所を出て行く時は、静かなものでした。新聞に文鮮明教祖が無罪で釈放されたという記事が小さく載っただけです。私に対する凶悪なデマは全国に騒々しいほど広まりましたが、その噂が丸ごとデタラメだったという事実は静かに葬られました。信徒たちは「先生、腹が立って悔しくてたまりません」と言って、私を見て泣きましたが、私はただ沈黙して彼らをなだめました。 デマによって後ろ指をさされ、弄ばれた痛みを忘れることはできません。大勢の人が私を激しく責め立てて、三千里半島に私の体が立つ場がなくなっても、一切を耐え忍んで乗り越えてきましたが、その悲しみは今も心の片隅に物寂しく残っています。風雨に曝され、火に焼かれても、絶対に燃えて死ぬ木になるわけにはいきませんでした。焦げた木の枝にも春が訪れるように、新芽は必ず生えてきます。強い信念を心に抱き、堂々と歩いて行けば、世の中も正しく私を理解してくれるでしょう。 6. 苦難よ、私たちを鍛えてほしい 人々は私が伝える新しい真理に異端と言っては石を投げましたが、ユダヤ教の地で生まれたイエス様もまた、異端の罪を被せられて十字架に付けられました。それに比べれば、私の受けた迫害は痛いことでも悔しいことでもありませんでした。体に加えられる苦痛はいくらでも我慢できます。ただ、私たちの教会に対する異端審問、こればかりは悔しくてなりませんでした。草創期から私たちの教会を研究した神学者の中には、独創的で体系的な新しい神学であるとして、高く評価する人が多かったのです。にもかかわらず、私たちをめぐる異端論争がかくも騒がしく広がったのは、神学的な問題というよりは現実的な状況がそうさせたのでした。 私たちの信徒の大部分は、それまで通っていた既成キリスト教会を去って私たちの教会に来た人たちです。まさにこの点が、既成キリスト教会から敵視された原因でした。梨花女子大の梁允永講師が警察の取り調べを受けた際、警察は、金活蘭総長や多くのキリスト教牧師から統一教会を非難する投書が届いたと明かしています。要するに、私たちが何か誤ったわけではなかったのです。既得権層の漠然とした恐れと危機感、そして度を越した教派主義が引き起こした明らかな弾圧でした。 新しい教えを伝える私たちの教会には、さまざまな宗派の人が集まっていました。私がいくら「またどうして来たのか?すぐにあなたの教会に戻りなさい!」と言って、半ば脅迫するように追い出しても、彼らはすぐにまた戻ってきました。 私を求めて集まってくる彼らは、誰の言葉も聞きませんでした。学校の先生の言葉も聞かず、両親の言葉も聞きませんでした。ところが、私の言葉はよく聞きました。お金をあげるとかご飯を与えるわけでもないのに、私の言葉だけを信じて、私を捜し求めてきました。その理由は、私が彼らの行き詰まった心に道を開いてあげたからです。真理を知る前には、私もまた天を見てももどかしく、横の人を見てももどかしかったので、彼らの心は十分に理解できました。答えを得られずに苦しんでいた人生のすべての疑問が、神のみ言を悟ることによってきれいさっぱりとなくなりました。私を求めてくる青年たちは、私が伝える話の中に、ふだん心に抱いていた問題への解答を初めて見いだしたので、私と共に行く道が険しくつらいと分かっていても、私たちの教会に来たのです。 私は道を切り開く人です。崩壊した家庭を訪ね求め、氏族を訪ね、国を訪ね、世界を訪ねて、究極的にはそれらが神に立ち返っていく道を道案内する人です。私の元に来たのは、その事実を知って、私と一緒に神を求めていこうと決意した人ばかりです。それのどこがいけないというのか、およそ納得のいかない話です。神を求めただけなのに、世の中のありとあらゆる迫害と非難を受けなければなりませんでした。 異端騒動に巻き込まれる困難を味わっていた頃、私をさらに困らせたのが当時の妻でした。彼女は釜山で再会した後、実家の家族と一緒になって私を追いかけ回し、離婚をせがみました。教会を直ちにやめて家族三人で暮らすか、さもなければ離婚したいということでした。彼らは私が収監されていた西大門刑務所までやって来て、離婚書類を押し込んで判を押せと脅迫しました。しかしながら、神の願う平和世界を築く上で結婚がいかに重要かをよく知る私は、彼らからどんな侮辱を受けてもじっと耐えました。 彼女は私たちの教会と信徒にも言葉で言えないような乱行に及びました。むやみやたらと私の悪口を言うのはいくらでも我慢できましたが、教会と信徒にまで乱暴狼籍を働くのは耐えがたいことでした。彼女が来るたびに、教会を訪れる信徒たちに悪口を浴びせかけ、教会の器物を壊し、教会にある物を勝手に持ち去ったばかりか、人糞を振りかけることまでしました。彼女が現れると礼拝をすることができないほどでした。最終的に、西大門刑務所を出た後、彼らが準備した離婚状に判を押さざるを得ませんでした。私の信念を守る間もなく、私の背中を押して離婚させたのです。 先妻のことを思うと、今も気の毒な気がします。彼女がそこまでするようになった背景には、キリスト教一家であった実家と既成教会の煽動がありました。結婚する前はしっかりした女性だったのに、がらりと変わってしまったことを考えると、世の中の偏見と固定観念の恐ろしさというものを再認識せざるを得ません。 離婚の痛みと異端として後ろ指をさされる悲しみを味わいましたが、私は少しも屈しませんでした。茨の道を踏み越えていくこと、それはアダムとエバが犯した罪を蹟罪し、神の国に向かって行く私が、きちんとやり遂げなければならないことでした。もともと日が昇る直前が最も暗いといいます。私は神様にすがりついてお祈りすることで暗闇に打ち勝ちました。しばらくは目を閉じる時間を除いて、一日のすべての時間を祈疇に捧げました。 7. 大切なのは真実の心 三カ月ぶりに釈放されて出てきた私は、神から愛され、生命を与えられている喜びをいま一度噛みしめました。私は神の愛と生命に負債を負った者だということです。その負債を返すために、一からやり直すことを決め、新しい教会の場所を探すことにしました。しかし、「神様、私たちの教会を建ててください」とは、私は祈りませんでした。小さくて何の値打ちもない建物だとしても、それまで不便だとか恥ずかしいとか思ったことはありません。祈る場所があればそれだけで感謝であり、広くて静かな場所までは望みませんでした。 信徒たちが集まって礼拝を捧げる家はどうしても必要です。そこで、二百万圜 (圜は一九五三年から一九六二年にかけて使われた韓国の貨幣単位) の借金をして、青披洞(現在のソウル特別市龍山区内)の丘にあった、すっかり荒れ果てた日本式の家屋を買いました。非常に小さな家で、真っ暗な洞穴のような一本道をかなり歩かないと辿り着かない路地裏にありました。その上、それまでに何があったのか、柱といわず壁といわず真っ黒に汚れていました。建物をきれいにしようと、教会の青年たちと一緒に、洗濯用の苛性ソーダを溶いて三日かかって拭いたので、黒い汚れはほとんど落ちました。 青披洞の教会に移っていった後、私はほとんど眠りませんでした。奥の間に身をかがめて座り、明け方の三時か四時になるまでお祈りをして、服を着たまましばらく背中を丸めて寝ると、五時にはもう起きる生活を七年間続けました。毎日一、二時間しか寝なくても、うとうとすることもなく、明けの明星のように目を輝かせて、疲れを知りませんでした。 やろうと思うことが心の中にいっぱいあって、食事の時間も削りました。いちいちお膳を準備しないで、部屋の床にご飯を置いて、しゃがんだままで食べました。「誠を投入せよ!眠けの中でも投入せよ!へとへとになるまで投入せよ!おなかが空いても投入せよ!」と何度も何度も自分に言い聞かせ、ありとあらゆる反対とデマの中にあって、種を蒔く心情で祈りました。そして、その種は大きく育って必ず穫り入れられるだろうし、韓国で穫り入れが難しければ、間違いなく世界で穫り入れられるだろうと考えました。 一年も経つと信徒数は四百人を超えました。四百人の信徒の名前を一人一人呼び上げて祈っていると、名前を呼ぶ前から、彼らの顔が頭の中をしきりに行き交いました。彼らの顔が泣いたり笑ったりします。その人が今どんな状態にあるのか、病気なのか元気なのかを祈りの中で知るようになりました。 一人一人の名前をずっと呼んでいるうちに、「きょうはこの人が教会に来る」と思えば、その人は連絡もなしに教会に来ました。苦しむ姿が浮かんだ人を訪ねて、「どこどこが痛くないか」と聞いてみると、「そうだ」と答えます。「先生は、私が苦しんでいるとどうしてお分かりになったのですか。本当に不思議です」と言って彼らが驚くたびに、私はにっこり笑いました。 祝福式(結婚式)の時のことです。祝福式を前にした新郎新婦に、私は必ず純潔であるかと尋ねます。その日も新郎の候補者に尋ねました。「本当か?」と聞いてみると、彼が大きな声で「はい!」と答えました。そこで再び尋ねました。「本当か?」。彼はまた「はい!」と言いました。私が三回目に尋ねた時も同じ返事でした。私は彼を真っすぐに睨みつけて、恐ろしい声で問い詰めました。 「おまえ、江原道の華川で軍隊生活をしただろう?」 新郎の候補者がすっかり怯えた声で「はい」と言いました。 「その時、休暇をもらってソウルに来る途中、旅館に入っただろう?その日、赤いチマを着た若い女と一線を越えたじゃないか。はっきりと分かっているのに、なぜ嘘をつくのか」 私は怒って彼を追い出しました。心の眼を開けていれば、何を隠していても全部分かるようになっています。 神のみ言よりも神通力に惹かれて教会に来る人もいました。彼らは霊的な能力に最高の価値があると思ってすがりつきます。しかし、一般に奇跡といわれるものは世の人々を惑わすのです。奇跡にすがりつくのは正しい信仰とはいえません。人間の罪は、必ず蹟罪を通して復帰 (罪のない元の状態に戻ること) しなければならないのです。霊的な能力に期待しては絶対に駄目です。教会が定着してくると、私はそれ以上、心の眼で見たことを信徒に話さないようにしました。 信徒の数は次第に増えましたが、数十人だろうと数百人だろうと、私は一人だと思って向き合いました。どんなお婆さんでも、どんな青年でも、その人一人だけを相手とするように、精いっぱいの真心を込めて話を聞きました。「韓国で私の話を一番よく聞いてくれる人は文先生だ」という言葉を、信徒全員から聞きました。お婆さんたちは、自分がどんなふうに嫁に行くようになったかという話から、年上の夫のどこが悪いかということまで、何から何まで打ち明けてくれました。 私は本当に人の話を聞くのが好きです。誰であろうと自分の話をし始めると、時の経つのも忘れて聞くようになります。十時間、二十時間と拒まずに聞きます。話そうとする人の心は緊迫していて、自分を救ってくれる太い綱を探し求めるのです。そうであるならば、私たちは真心を込めて聞かなければなりません。それがその人の生命を愛する道であるし、私が負った生命の負債を返す道でもあります。生命を尊く思って、敬い仰ぐことが一番大切です。嘘偽りなく心を尽くして人の話を聞いてあげるように、私の真実の心の内も真摯に話してあげました。そして、涙を流してお祈りしました。 涙を流して夜通し祈ったので、板の間が乾く日がありませんでした。板の間は私の血と汗と涙でいつも濡れていました。後日、アメリカに留まっている間に、青披洞の教会を端正に造り直すという計画を聞いて、すぐに工事を中止せよと電報を打ったことがあります。青披洞教会は私個人の歴史を刻んだ場所でもありますが、私たちの教会の歴史をそのまま証言する場所でもあります。いくら立派に造り直しても、歴史が消えてしまえば何の使い道があるでしょうか。重要なのは端正な姿形ではありません。その中に宿った意味です。不足であれば不足なりに、そこに伝統があり、光があり、価値があるのです。伝統を尊重することを知らない民族は滅びてしまいます。 青披洞教会の柱には、「いつ、どういうことのために、その柱をつかんで涙を流したのか」という歴史がそのまま刻まれています。つかんで涙を流した柱を見れば、込み上げてくるものがあるし、曲がった扉を見ても、当時の思いが蘇ります。ところで、今はもう昔の板の間が全部なくなりました。夜通し俯して祈り、血涙を流した板の間がなくなったので、その涙の跡もまたなくなってしまいました。私に必要なのはそのような痛みの追憶です。模様や外観は古くても、そんなことは関係ありません。歳月が過ぎて、私たちにも立派な造りの教会が数多く建つようになりましたが、私はそうした所よりも、青披洞の丘の上の狭くて古い家を訪ねて行ってお祈りするほうが、ずっと心が休まります。 私は生涯を祈りと説教で生きてきました。しかし、今でも人々の前に立つ時は恐ろしさを感じます。人の前で公的な話をするということは、数多くの生命を生かしもすれば殺しもすることだからです。私の言葉を聞く人を生命の道に導かなければならないということは、本当に重大な問題です。生死の分岐点に立って、いずれが生の道であり死の道であるかをはっきりと判定し、心の底から訴えなければならないのです。 今も私は説教の内容を前もって定めません。前もって準備すれば、説教に私的な目的が入り込むかもしれません。頭の中の知識を誇ることはできますが、切実な心情を吐き出すことができなくなってしまいます。私は公の席に出る前には、必ず十時間以上お祈りをして真心を捧げます。そうやって根を深くするのです。葉っぱは少々虫に食われても、根が深ければ影響はありません。それと同じで、言葉が舌足らずでも真実の心さえあればよいのです。 教会を始めた頃、私は作業着に使っていた黒い染みの付いた米軍兵士のジャンパーを着て、壇上に立って汗と涙にまみれて説教しました。痛突しない日がありませんでした。涙が心の中に充満して外に流れ出しました。気が遠くなり、息が絶えてしまうような日々でした。衣服は汗にまみれ、頭からは汗の粒が流れ落ちてきました。 青披洞教会の頃は誰もが苦労しましたが、特に私が初代協会長として立てた劉孝元は実に多くの苦労をしました。片足が不自由で、しかも肺が痛くて体がきついのに、一日十八時間の原理講義を三年八カ月も続けました。食べる物も芳しくなく、一日に麦ご飯二杯で耐え忍び、おかずは生キムチを漬けて一晩寝かして食べるのがやっとでした。彼の好物といえばアミの塩辛です。部屋の一方の隅にアミの塩辛を置いておき、それを一つかみずつ取って食べて、困難な日々を辛抱しました。おなかが空いて、疲れ果てて、板の間に元気なく横たわっていた劉孝元を見ると、本当に胸が痛かったのです。サザエの塩辛でも漬けてあげたい気持ちでした。滝のようにあふれ出す私の話を、痛む体でよく整理して書き留めた彼を思えば、今も心が痛みます。 多くの信徒の犠牲を肥やしにして教会はどんどん育ちました。中高生で構成された成和学生会は、母親が包んでくれた弁当を持ってきて、伝道師たちを支えました。中高生が自分たちで順番を決めて、交代で弁当を捧げて、伝道師の食事を用意しました。中高生のご飯を食べなければならない伝道師たちは、その子らが決まった食事を欠かして、おなかが空くことを思いながら、ご飯を口に入れては涙を流すのでした。ご飯よりも誠が大切なので、誰もが「死んでも御旨をなそう」という切迫した心情で頑張りました。 このように、私たちの教会は、つらくても全国各地に伝道に行きました。陰険で腹黒い噂がたっぷりと出回っていて、どこへ行っても統一教会という言葉すら思うように口に出せずに、悲しい思いを味わいます。近所の掃除をしたり、人手のない家で家政婦をしたり、夜は夜学を開いて文字や言葉を教えたりして、心が通じるようになるまで何カ月もそうやって奉仕しながら、私たちの教会は次第に大きくなっていきました。その頃、大学に行きたくても、私と一緒に伝道するために、大学進学を放棄して教会に献身した草創期の学生たちを、今も忘れることができません。 【第四章 私たちの舞台が世界である理由――アメリカへ雄飛】 1. 決死の覚悟で行くべき道を行く ソウルの西大門刑務所から釈放された一九五五年は朝鮮戦争の休戦協定が結ばれた直後であり、食べていくのがとても大変な時でした。しかし、当座は食べていくのが大変だとしても、将来の計画を立てる必要がありました。今は大勢が共に集って礼拝を捧げる教会すらなかったとしても、遠い未来のことを準備しなければならないと思ったのです。 世界情勢を見たとき、日本を憎い敵とばかり考えて、無条件に排斥してはならないと思いました。そこで、何度か宣教師の派遣を試みましたが、いずれも成功には至りませんでした。最後に使命を果たしてくれたのが崔奉春 (日本名は西川勝) です。 一九五八年、甲寺 (忠清南道の鶏龍山にある) の裏山に崔奉春を呼んで、私は言いました。「おまえは、今すぐ玄界灘を渡っていかなければならない。勝利するまで戻ってくることはできない」 彼は少しもためらわずに「はい!」と答え、「召されて出で立つこの身はゆくぞ……」という統一教会の聖歌を歌いながら、意気揚々と山を下りていきました。日本に行って生活はどうしたらいいか、宣教はどうやって始めたらいいかと尋ねることもしませんでした。崔奉春はそのように豪胆な男でした。 当時は日本とまだ国交がなかったので、密航するしかありませんでした。密航は国法を破ることでしたが、日本宣教は必ずやらなければならないことでした。したがって、何があろうと困難はすべて耐え忍ぶしかなかったのです。 崔奉春は決死の覚悟で密航船に乗り込みました。私は、彼が無事に海を渡ったと知らせてくるまで、他のことは一切せず、小さな部屋に籠もって座り、ひたすら祈り続けました。何も食ベず、寝ることもしませんでした。彼を送り出すのに必要な資金百五十万圜は、借金をして充てました。満足にご飯を食べられない信徒が大勢いる中で、大金を借りてでも彼を送ったのは、それだけ日本宣教が急を要することだったからです。 しかし、崔奉春は、日本に到着するとすぐに逮捕されてしまいました。広島と山口の刑務所に収監され、韓国に強制送還される日を待つ身となったのです。約九カ月間の刑務所生活の後、思い詰めた彼は、韓国に帰るくらいならむしろ死を選ぼうと腹を決めて、断食を始めました。食を絶つと熱が出ました。警察は治療が必要と判断して本国送還を延期し、入院させたところ、彼はその機に乗じて病院から逃げ出しました。 こうして生きるか死ぬかの苦労を一年半ほど続けた末に、崔奉春が日本に教会を創立したのは一九五九年十月のことでした。その時代、韓国と日本は正式に国交を結んでいないばかりか、圧制政治のつらい記憶ゆえに、誰もが日本との修好に激しく反対していました。そのような怨讐(深い怨みのあるかたき、敵)の国日本に、密航させてまで宣教師を送ったのは、日本を救うためであると同時に、大韓民国の未来を拓くためでもありました。日本を拒否して関係を断絶するよりも、日本人を教化した後、私たちが主体となって彼らを味方につけなければならないと考えました。 何も持たない韓国としては、日本の為政者と通じる道を開いて日本を背景にしなければならず、また何としてもアメリカと連結されてこそ、未来の韓国の生存の道が開かれると見通したのです。崔奉春の犠牲によって宣教師の派遣に成功した後、日本教会は久保木修己という優れた青年指導者を得て、彼と彼に付き従う若者たちによって、しっかりと根を下ろしました。 日本に宣教師を派遣した翌年(一九五九年)、今度はアメリカに宣教師を送りました。この時は密航ではなく、堂々とパスポートとビザの発給を受けて送りました。西大門刑務所を出てから、私の収監に加担した自由党の長官らと接触し、パスポートを得ることができました。私に反対した自由党を逆に利用したのです。当時、アメリカはあまりにも遠い国でした。私がその遠いアメリカに宣教師を送ると言うと、まず韓国でもっと教会を大きくして、それから送っても遅くはないと誰もが反対しました。しかし、大国アメリカの危機を早く収拾しなければ韓国は滅びると言って、私は信徒たちを説得しました。一九五九年一月、梨花女子大を追われた金永雲宣教師が最初に派遣され、その年の九月、金相哲宣教師がアメリカに到着して、全世界に向けた宣教史の第一歩を踏み出しました。 2. 大事に稼いで大事に使う 商売をして集めたお金は神聖なお金です。しかし、商売で得たお金を神聖なものにするには、それに携わる者が嘘をつかず、暴利を貧らないという条件が必要です。商売をするときは、常に正直でなければならず、三割以上の利益を取ってはなりません。そうやって大事に稼いだお金は、当然貴い目的のために使うべきです。目標が明確で、志のあることのために使わなければならないのです。私は生涯、そのような心がけで事業を展開してきました。事業の動機は、単純にお金を稼ぐことではなく、神様の仕事である宣教活動を支えるところにありました。 事業を通して宣教資金を得ようとした理由の一つは、信徒たちに負担を強いて宣教活動費を充当したくなかったからです。いくら神の御旨のためだからといって、海外に宣教師を派遣することは、思いだけで何とかなるようなことではありません。宣教費用が必要でした。そして、その費用は、当然自分たちの手で稼いだお金でなければなりませんでした。堂々と商売をして稼いだお金を宣教費用に投じてこそ、何の活動をしても胸を張っていることができるのです。 何かお金になることはないかと悩んでいたとき、切手が目に入ってきました。当時、私は信徒に一月に少なくとも三回は互いに手紙を出すよう勧めていました。手紙を出すには四十圜の切手を貼る必要がありますが、一枚の切手を貼らずに、一圜切手を四十枚集めて貼るようにしました。そうやって一月に三回送った手紙に付いている切手を剥がして売ると、最初の年だけで百万圜くらい儲けることができました。何でもない切手が大きなお金になることを経験した信徒たちは、それを七年間も続けました。また、名勝地や俳優の白黒写真に色を塗ったブロマイド写真の販売も、少なからず教会運営の助けとなりました。 しかし、教会が大きくなってくると、切手収集や写真販売だけでは十分な宣教費用を捻出することが難しくなりました。世界各地に宣教師を送ろうとすれば、もっと大きな規模の事業が必要です。私は、日本人が使い捨てていった旋盤機械を、一九六二年の貨幣改革前に七十二万圓を投じて購入しました。貨幣改革後の価値では七万二千ウォンになります。それを教会として使っていた家屋の奥まった練炭倉庫に入れて、会社を起こし、「統一産業」と命名しました。「皆さんの目には、この旋盤機械が価値のないものと見えるかもしれません。やっとのことで一台の古びた機械を入れて、一体何の事業を起こすのかと思うでしょう。しかし、皆さんの前に置かれたこの機械が、遠からず七千台、いや七万台の旋盤機械になって、大韓民国の軍事産業から自動車産業まで相次いで発展するのです。きょう入ったこの機械は、間違いなくわが国の自動車産業を引っ張っていく礎石になるでしょう。ですから、信じてください。必ずそうなるという確信を持ってください」 私は練炭倉庫の前に信徒を集めて堂々と語りました。たとえみすぼらしい出発だとしても、目標は高く、遠大でした。彼らは私の意志に従い、献身的に仕事に取り組んでくれました。そのおかげで、一九六三年には、もう少し大きな規模の事業を始めることができました。その年は、「天勝号」という船を建造して、仁川市万石洞の埠頭のほとりで進水式を行っています。信徒ら二百人以上が列席した場で漁船を海に送り出しました。 水は私たちに命を与えてくれる特別なものです。私たちは皆、母親のおなかの中から誕生します。母親のおなかの中とはまさに水であり、私たちは全員、水から出てきたのです。人間が水から命を得たように、水の中の試練を経てこそ陸地で完全に生き残ることができる、という願いを込めて、私たちは海に船を送り出しました。 私たちが建造した「天勝号」は、とても良い船でした。西海 (黄海)を素早く縫うように進み、たくさんの魚を捕まえてくれました。しかし、そんな時でも、信徒たちの反応はぱっとしませんでした。陸の上でもやることが多いのに、あえて海にまで出て魚を釣る事業をするのはどうしてかというのです。私はすぐに海洋時代がやって来ると直感していました。海に浮かべた「天勝号」は小さな一歩だとしても、海洋時代を開くことになる貴重な一歩でした。私は、その時すでに、もっと広い海やもっと大型で高速の船を頭の中に思い描いていました。 3. 世界を感動させた素晴らしい踊りの力 私たちの教会は裕福な教会ではありません。満足に食べることもできない者たちが集まって始めた貧しい教会です。ですから、他の教会のように真っすぐに聳え立つ教会堂もありませんでした。よその人が米のご飯を食べているとき、麦のご飯を食べながら一銭、二銭と節約して集めたお金を、私たちよりもっと貧しい人たちに施しました。伝道師は、セメント剥き出しの冷たい部屋で、火も焚かないまま毛布を敷いて暮らします。食事どきになると、ジャガイモをいくつか焼いて食べ、飢えをしのぐのが普通でした。どんなときでも、自分たちのためには一銭も使わないように努力しました。 一九六三年のことです。そうやって集めたお金で、十七人の子供たちを選んで、「仙和児童舞踊団」 (後に「リトルエンジェルス」と呼ばれる)を創設しました。当時、韓国の文化的土壌は悲惨なものでした。私たちが見て楽しむものはもちろんのこと、人に見せられるようなものもありません。人々は、韓国の踊りとはどんなものか、五千年続いた韓国の文化とはどういうものかを全部忘れて、ただただその日一日を生きることにあくせくしていました。 私の計画は、十七人の子供たちに韓国の踊りを教え、世界に送り出すことでした。韓国と言えば、戦争と貧困ばかりを思い浮かべる外国人に、大韓民国の美しい踊りを見せて、韓民族が優れた文化を持つ民族だと知らせようと考えたのです。私たちがいくら五千年の歴史を持つ文化民族だと主張したところで、彼らの前に見せるものがなければ、信じてくれるはずがありません。 美しい韓服を着て軽やかに回っていく韓国の踊りは、足を出して飛び跳ねる踊りに慣れた西洋人の目に新鮮な衝撃として映るにちがいない優れた文化遺産です。私たちの踊りには、韓民族の悲哀の歴史が余すところなく込められています。押さえつけられた頭を俯かせ、目につかないようにひっそりと動く踊りは、恨の多い五千年の歳月を生きてきた私たちの民族だけが作り上げることのできる仕草です。 白い朝鮮足袋の足を一歩踏み出し、顔をさっと回して白い手を上げる姿を見ると、心がすっかり奪われます。力強い声でたくさん話して相手を感動させるのではありません。その見え隠れするような一つの踊りが人の心を動かします。それこそが芸術の力です。言葉を語らずとも言葉が通じ、彼らが生きてきた歴史を知らなくても、自然とその心が分かるようにする力が芸術にはあるのです。 しかも、子供たちの汚れのない表情と明るい笑顔は、戦争を経た国の暗いイメージを一度に洗い流してしまいます。私は、二十世紀最高の文明国アメリカに行き、五千年の歴史を持つ韓国の踊りを初公開するつもりで舞踊団を創設しました。ところが、世の中は再び私たちに向かって非難の声を浴びせました。リトルエンジェルスの踊りがどのようなものか、見る前に非難したのです。 「統一教会の女たちは夜昼なく踊りを踊って、しまいには踊る娘らを生んだ」という呆れてものも言えないような悪口を浴びせてきました。しかし、私はどのような種類の噂にも動じませんでした。リトルエンジェルスを通して、韓国の踊りはこういうものだと世人の目を開かせる自信がありました。私たちに向かって「裸踊りをしている」と悪罵を投げつける人たちに、朝鮮足袋でひらりひらりと走り出す美しい踊りを見せてやりたいと思いました。体をねじるでたらめな踊りではなく、全身を韓服で包み、つつましく踊る本当の韓国の踊りのことです。 4. 深い山奥に細い道を通した平和の天使たち 私たちが死ぬ前に、必ず子孫に残しておかなければならないものが二つあります。一つは伝統であり、もう一つは教育です。伝統のない民族は滅んでしまいます。伝統とは、民族を結ぶ魂であり、魂の抜けた民族は生き残ることができません。もう一つ、重要なものが教育です。子孫に教育をしなければ、その民族は滅びます。教育は、学問・芸術など新しい文物を吸収することを通して、世の中で生きていく力を得るものです。人は教育を通して生きる知恵を学びます。文字が分からないときは誰もが幼稚なままですが、教育を受ければ、世の中の知恵を活用できるようになります。また、教育は世の中の仕組みを理解する英明さをもたらしてくれます。数千年間続いた私たちの伝統を子孫に伝える一方、新しい文物を教育することは、民族の未来を開くことにつながります。受け継いだ伝統と新しい文物は生活の中で適切に融合され、独創的な文化として再生します。伝統と教育は、どちらがより重要で、どちらがより重要でないと言うことはできません。二つを適切に融合させる知恵も教育から得られるのです。私は、舞踊団を作った後、「リトルエンジェルス芸術学校」(その後、仙和芸術学校に改称)も作りました。学校を作ったのは、芸術を通して私たちの理想を広く世界に連結させるためです。私たちに学校を運営する能力があるかどうかは二の次の問題でした。私はまず実行から入りました。意義が明確で良いことなら、当然始めなければならないでしょう。天を愛し、人を愛し、国を愛する教育をしたいと思ったのです。 私は仙和芸術学校を作り、「愛天、愛人、愛国」というとても大きな揮毫を残しました。すると、ある人が「韓国固有の文化を世界に誇ると言いながら、どうして愛国を最後にしたのか」と尋ねてきました。私は「ある人が、天を愛し、人類を愛したなら、その人はすでに、そのことによって国を愛したのです。愛国はおのずと完成します」と答えました。 全世界から尊敬される人は、すでに韓国を世界万邦に伝えたといえます。世界各国を訪れ、韓国文化の卓越性を見せながらも、リトルエンジェルスは一度も「コリア」を叫びませんでした。しかし、リトルエンジェルスの踊りを見て拍手を送る人たちの心の中には、「文化と伝統の国、韓国」というイメージがしっかりと根を下ろしています。そういう意味で、リトルエンジェルスは、他の誰よりも韓国を広く世界に知らせて、愛国を実践したのです。仙和芸術学校出身で世界的なソプラノ歌手となった吉秀美 (スミ・ジョー) と申英玉、そして世界最高のバレリーナとなった文薫淑 (ジュリア・ムーン) と姜秀珍の公演を見るたびに、私は心が満たされます。 リトルエンジェルスは、一九六五年のアメリカ公演をはじめとして、今に至るまで世界を駆け巡って韓国の美しい伝統を披露しています。イギリス王室に招待され、エリザベス女王の御前で公演を行い、アメリカ独立二百周年の行事に招待され、ワシントンのジョン・F・ケネディ・センターの舞台に上がったこともあります。ニクソン米大統領の前で特別公演も行い、ソウル・オリンピック文化芸術祝典にも参加しました。リトルエンジェルスは、すでに世界的に名のある平和の文化使節です。 一九九〇年にソ連を訪問した時のことです。ゴルバチョフ大統領との会談を終え、その地を離れる前夜、リトルエンジェルスの公演が開かれました。共産主義の牙城であるモスクワのど真ん中に、韓国の幼い少女たちが立ったのです。韓服を着た天使たちは、韓国の踊りを終えたあと、美しい声でロシア民謡を歌いました。客席から「アンコール!」が連呼され、いつまでたっても舞台を下りることができませんでした。結局、準備した合唱曲をすべて歌い終えてから下りてきました。 客席には、ゴルバチョフ大統領令夫人のライサ女史が座っていました。当時、韓国とソ連は正式な国交を結んでおらず、そのような国の文化公演にファーストレディーが出席するのは、極めて異例なことでした。さらに、客席の前方に座ったライサ女史は、公演の間中、終始大きな拍手を送ってくれました。ライサ女史は、公演が終わると舞台に上がってきて、団員に直接花束を渡し、「リトルエンジェルスこそ平和の天使です。韓国にこれほど美しい伝統文化があるとは知りませんでした。公演を見ている間、幼い頃に帰って夢を見ているようでした」と韓国文化の素晴らしさに賛辞を惜しみませんでした。そして、リトルエンジェルスの団員を一人一人抱き寄せて、「My Little Angels!」と言いながら頬にキスしてくれました。 一九九八年には、純粋な民間芸術団体として初めて北朝鮮の平壌を訪問し、三度も公演を行いました。かわいらしい新郎新婦の踊りも踊り、華やかな扇の舞も踊りました。公演を見ている間、北朝鮮の人たちの目には涙がにじんでいました。この時、新聞記者は、こらえきれずに涙を流す北の女性の姿をカメラに収めています。公演を見終えた金容淳・アジア太平洋平和委員会委員長は、「深い山奥に小さな細い道を開いた」と称賛しました。 リトルエンジェルスがしたことはまさにそれです。これまで背を向け合っていた南北が一箇所に集まり、一緒に公演を見ることができるという事実を初めて証明したのです。人々はよく政治や経済が世の中を動かすと考えますが、そうともいえません。文化や芸術も世の中を動かす力を持っているのです。人々の心の最も深い所に影響を与えるのは、理性よりも感性です。受け入れる心が変われば世の中が変わり、制度が変わります。リトルエンジェルスは、韓国の伝統文化を世に知らせる役割をしただけでなく、自由圏と共産圏という異なった世界の問に小さな道を作る役割も十分に果たしました。 私はリトルエンジェルスに会うたびに、「心が美しければ踊りが美しくなる。心が美しければ歌が美しくなる。心が美しければ顔が美しくなる」と言っています。真の美しさは内側から滲み出るものです。リトルエンジェルスがそうやって全世界の人々に感動を与えたのは、韓国の踊りの中に溶け込んでいる韓国の伝統や精神文化が美しいからです。ですから、リトルエンジェルスが受けた拍手喝采とは、つまるところ韓国の伝統文化が受けた拍手喝采なのです。 5. 海に未来がある 幼い頃から、私の心はいつも遠いところに向かっていました。故郷では山に登って海を慕い、ソウルに来てからは海の向こうの日本に思いを巡らしました。常に、今いる世界よりも、もっと広い世界を夢見ていました。 一九六五年は、私が初めて世界巡回に出た年です。トランクいっぱいに韓国の土と石を詰めて持っていきました。世界を回って、要所要所に韓国の土と石を埋めるつもりでした。八ヵ月半で日本とアメリカ、そしてヨーロッパなど四十ヵ国を回りました。 ソウルを出発する日、数十台のバスに分乗してやって来た信徒たちで、金浦空港はいっぱいになりました。北西の風が激しく吹きつける一月の飛行場に、黒山の人だかりができました。その頃は、外国に出ていくのはかなり大変なことでした。彼らが空港に集まったのは、誰かに言われたからではなく、自分の心が導くとおりにしたことです。私は信徒たちの思いをありがたく受け取りました。 当時、私たちの宣教国は十ヵ国をわずかに超えるほどでしたが、私は二年で四十ヵ国に増やすつもりでした。 四十ヵ国を巡回したのは、その基礎を固めるためでした。 最初に訪問したのは日本です。密航して宣教を始めた日本で、私は大々的な歓迎を受けました。国法に背いての命がけの危険な出発でしたが、今考えてみれば、当時の私たちの選択はとても適切なものでした。 私は日本の信徒たちに尋ねました。 「皆さんは日本的ですか?そうでないとしたら、日本的なものを超えましたか?」 私は話を続けました。 「神が願われるのは日本的なものではありません。神は日本的なものを必要とされません。日本を超えたもの、日本を超えた人を必要とされます。日本の限界を超えて世界に向かう日本人であってこそ、神が用いることができるのです」 日本の人々には冷たく聞こえたかもしれませんし、寂しく感じたことでしょう。しかし、私はあえてきっぱりと話しました。 次に訪れたのはアメリカです。サンフランシスコ空港に降りた私は、アメリカ宣教師と共にニカ月間アメリカ全域を回りました。各州を巡回している間に、「全世界に号令する中心本部はアメリカだ。これから創建する新しい文化は、必ずアメリカを踏み越えていかなければならない」と痛感しました。私はアメリカの地に五百人収容できる修練所を建てようと計画しました。もちろん、韓国人だけでなく、百以上の国から修練生を受け入れる国際的な修練所を建てることが目標でした。 幸い、その願いは間もなく果たされました。その後、毎年百ヵ国から四人ずつ送られたメンバーが修練所に集まり、半年間世界平和を研究し、討論することになりました。それは今でも続いています (この国際修練所は後に統一神学大学院となる)。人種や国境、宗教は何の関係もありません。私は、人種と国境、宗教を超えた多様な考えを持つ人たちが集まり、世界平和について虚心坦懐に議論することが、人類を成長させ、世界をより発展した社会にすることだと信じています。 アメリカを巡回する間に、ハワイとアラスカを除く四十八州はすべて行きました。後部座席に荷物を載せられるワゴン車を借りて、昼夜兼行で走りました。運転手が居眠りをすることがあると、「おいおい、疲れているのは分かるよ。しかし、遊びで来たわけではないのだ。大きな仕事をするために来たのだから、しっかり頼むよ」と言って、励ましました。どこかに楽に座ってご飯を食べることもしませんでした。車の中で、食パンニ枚にソーセージを一つ入れ、ピクルスでものせて食べれば、立派な一食になります。朝昼晩といつもそうやって食べました。寝るのも車の中です。車が宿であり、車がベッドであり、車が食堂でした。狭い車の中で馬食べて、寝て、お祈りしました。何でもできないことがありませんでした。その時の私には達成すべき明確な目標があったので、体が少々不便なことぐらいは十分に耐えることができました。 アメリカとカナダを経て中甫米を回り、次にヨーロッパに渡りました。私の目で直接見たヨーロッパは、完全にバチカン文化圏でした。バチカンを超えなければヨーロッパを超えることはできないと思いました。峻険といわれるアルプスも、バチカンの威勢の前には何でもないものでした。 ヨーロッパの人々が集まって祈りを捧げるバチカン (カトリック教会の総本山であるローマ教皇庁やサン・ピエトロ大聖堂がある)で、私も汗をぽたぽた流して祈祷しました。数多くの教派と教団に分裂した宗教が、何としてでも一日でも早く統一されるようにお祈りしました。神様がつくられた一つの世界を、人間がそれぞれの立場で自分たちに有利なようにあちこち分けてしまったものを、必ず一つにしなければならないという思いが、より確固たるものとなったのです。その後、エジプトと中東を経てアジア各国を回ることで、八ヵ月半の長い巡回を終えました。 ソウルに帰ってきた私のトランクには、四十ヵ国、百二十ヵ所の地域から持ってきた土と石がいっぱいに入っていました。韓国から持って行った土と石をその土地に埋めて、新たにその場所から持ち帰った土と石です。土と石で世界四十ヵ国と韓国を連結したのは、朝鮮半島を中心として平和世界が実現する未来に備えるためでした。私は、四十ヵ国すべてに宣教師を送り出す準備を始めました。 広い地球村を巡回しながら、私は人知れず世界を舞台に行う事業について構想を練りました。教会が大きくなり、宣教地が一つ、二つと増えるにつれて、宣教費用もぐんと増えたので、それをまかなうためにさらに大きな事業が必要でした。アメリカ四十八州を巡っている時も、私たちの教会の支えになる事業は一体何だろうかと考え続けました。 それで思いついたことは、アメリカ人は毎日のように肉を食べるという事実でした。まず牛一頭の値段がいくらか調べてみました。マイアミで二十五ドルする牛がニューヨークに行くと四百ドルになります。マグロはどうかと調べてみると、驚いたことに、一匹のマグロが四千ドルを超えます。さらに、マグロは一度に百五十万個以上の卵を産みますが、牛は一頭しか産むことができません。こうなると、牛を育てるべきか、マグロを育てるべきか、答えはおのずと明らかです。 問題は、アメリカ人が魚肉を食べないことでした。しかし、日本人はマグロといえば飛びついてきます。アメリカにも日本人は大勢暮らしていて、日本人が運営する高級レストランは、マグロの刺身をとても高く売っていました。一度刺身の味を覚えたアメリカ人も、マグロを喜んで食べました。 私たちの暮らす地球は、陸地より海がもっと広いのです。アメリカは広い海に囲まれていて、魚が豊富です。また、二百海里(約三百七十キロメートル)の外側であれば、誰でもそこに行って、好きなだけ魚を捕ることができます。畑を耕したり、牛を育てたりしようとすれば、土地を買わなければなりませんが、海はその必要がなく、一隻の船さえあれば、どこまででも行って魚を捕ることができるのです。海の中には食べ物が豊富にあり、海の上では世界を一つに結ぶ海運事業が活発に行われています。世界中で作られるあらゆる物資が船舶に載せられ、海を縫うようにして運ばれていきます。そう考えると、海は私たち人類の未来に責任を持つ無限の宝庫といえるでしょう。 私はアメリカで船を数隻買いました。写真集で目にするような大型船舶を購入したのではなく、三十四フィート (約一〇・四メートル)から三十八フィート (約一一・六メートル) 程度の大きさの船を買いました。エンジンを切ったままマグロを追いかけ回すこともでき、大きな事故を起こすこともないヨット大の漁船でした。ワシントン、サンフランシスコ、デンバー、アラスカに船を出し、船の修理場も作りました。 研究もたくさんしました。一つの地域に一隻ずつ船を出し、海水の温度を測り、日ごとにマグロがどのくらい捕れるかを調査して、図表を作成し、統計を出しました。専門家が作った統計を手に入れて書いたのではなく、信徒たちが直接海に入り、潜水して作成しました。その地域の有名な大学教授が研究した結果は参考にするだけで、私が直接その地で暮らしながら、一つ一つ確認しました。ですから、私たちが作った資料ほど正確なものはありませんでした。 そうやって苦労して作った資料でしたが、独占せずにすべての情報を水産業界に公開しました。それが終わると、今度は他の海を開拓しました。一つの海で捕りすぎると、魚介類が減ってしまいます。そうならないように、急いで他の海に進出します。水産業を始めていくらも経たないうちに、私たちはアメリカの水産業界を大きくひっくり返してしまいました。 次に、私たちは、また新たな仕事を始めました。はるか遠くの海に出ていく遠洋漁業に飛び込んだのです。一隻の船が海に出ていけば、少なくとも半年間は家に戻りません。その間は魚捕りに専念し、船に魚がいっぱいになると、食べ物と石油を満載した運搬船が出ていって、魚と取り替えます。船には巨大な冷蔵庫があり、捕った魚をしばらく貯蔵することができました。 「ニューホープ」という名前の私たちの船は、マグロをたくさん捕ることで有名です。その船に私が直接乗って、マグロを捕りに行きました。人々は船に乗ることを恐れます。若い者たちに船に乗りなさいと言うと、怖気づいて皆逃げていきました。「先生、私は船酔いが激しいので駄目です。船に乗るだけで吐き気がして死にそうです」と泣き言を言うので、私が先頭に立ちました。その時から一日も欠かさず船に乗って七年以上が過ぎ、それから後も、九十歳(数え)になる今でも、時間さえあれば船に乗ります。そうすると今では、「私も先生のようにキャプテンになりたいので、船に乗せてください」と言ってくる青年が増えました。船に乗りたいという女性も増えました。何であっても、まずリーダーが先にやれば、付いてくるようになっています。おかげで私は、すっかり名の通ったマグロ釣り師になりました。 ところで、マグロを捕ってばかりいても始まりません。適切な時期に適切な価格で売らなければ無駄骨に終わってしまいます。私はマグロの加工工場を造って、直接販売までしました。冷蔵施設を備えた大型トラックにマグロを載せて売りました。販売が行き詰まると、シーフード・レストランを建てて、マグロを消費者の元に届けるルートを作りました。ここまですると、誰も私たちを軽んじることができなくなりました。 アメリカは、世界的な四大漁場の中で何と三つを持っている国です。それは、全世界の魚の四分の三がアメリカを囲む海にいるという話です。それなのにアメリカは、魚を捕る人が少ないために、水産業が見る影もなく後れていました。国では、水産業を盛り上げるためにあらゆる振興策を出しましたが、大きな効果はありませんでした。誰でも二年半だけ船に乗れば、一〇パーセントの値段で船を譲ると言っても、志願者がいませんでした。もどかしいことです。そんな状態だったので、私たちが水産業を起こすと、湾口都市は大騒ぎになりました。私たちが入っていきさえすれば、都市が繁盛するのですから、そうならざるを得ません。私たちがやることは、結局、新しい世界を開拓することでした。単純な魚捕りではなく、人が行かない道を行くのです。人が行かない道を行くのは何と楽しく、胸のすくことでしょうか。 海は本当によく変化します。人の心は朝夕に変わると言いますが、海は刻一刻と変わります。ですから、海はより神秘的で、より美しいのです。海は天を抱いて生きています。蒸発した海の水は上空に集まって雲になり、雨になって再び降ってきます。自然にはトリックのようなものがないので、私は自然が本当に好きです。高ければ低くなり、低ければ高くなります。どんなときでも、バランスを保とうとします。釣り竿を垂らして座っていると、表現できないほどのんびりします。海の上では何者も私たちを妨害できません。私たちを急き立てる者は誰もいません。当然、時間はたっぷりあります。ひたすら海を見て、海と話をしていればよいのです。海にいる時間が長くなるほど、私たちの霊的な世界は広がっていきます。しかし、時として、海は穏やかだった相貌を一変させ、荒々しい波が打ち付けてきます。人の背丈の数倍にもなる大波が、のみ込むように襲いかかり、船の舳先にほとばしります。激しい風は帆を破り、恐ろしい音を立てます。 ところがです。そのように波が荒々しく、風が激しく吹きつける中でも、魚は水の中でぐっすり眠っています。波に体を預けて眠るのです。それで、私も魚に学びました。いくら荒々しい波が押し寄せてきても恐れないことです。波に体を預けたまま、私も船と一体になって波に乗ることにしました。すると、どんな波に直面しても、私の心は動揺しませんでした。海は、私の人生の素晴らしい師です。 6. アメリカに行くための最後の飛行機 一九七一年末、私はアメリカに向かいました。アメリカに行って必ずしなければならないことがあったからです。しかし、到着までには紆余曲折がありました。アメリカのビザを初めて取るわけでもないのに、なかなかビザが下りず、信徒の中には出国の日を延期してはどうかと言う人もいましたが、それはできませんでした。彼らに説明するのは難しかったのですが、決められた日に韓国を出発しなければならなかったのです。それで、まず日本に行ってアメリカのビザを解決することにして、ひとまず出国を急ぎました。 出発予定日はとても寒い日でした。私を見送ろうと、信徒たちが空港のすぐ外まで集まってきました。ところが、いざ出国しようとすると、旅券に外務部(外務省)旅券課長の出国認証の捺印がないことが分かりました。結局、予約していた飛行機に乗ることができませんでした。 「申し訳ありません、先生。ひとまずご自宅にお戻りください。捺印をもらってきます」 と、出国準備を担当する信徒が慌てた様子で言ってきました。 「いや、空港で待つので、早く行って捺印してもらってきなさい」 私は急いでいました。ちょうど日曜日で、旅券課長は出勤もしていないはずです。しかし、そうした事情を考える余裕がありませんでした。担当者が旅券課長の家まで訪ねていって、捺印をもらうことができたので、その日の最後の飛行機に乗って韓国を出発しました。ところが、ちょうどその夜、「国家非常事態宣言」が発布され、翌日から海外出国が林示止されたのです。ですから、私はアメリカに行くための最後の飛行機に乗ったのです。 ところが、日本に行って再びアメリカのビザを申請しましたが、断られました。後で分かったことですが、光復(一九四五年八月十五日)の少し前に共産主義者の疑いをかけられて、日本の警察に捕まった記録が残っていました。一九七〇年代に入って、世界的に共産主義が猛威を振るっていた時期でした。私たちは百二十七力国に宣教師を送り出しましたが、そのうち共産国家の四力国から追放されたほどです。当時、共産国家で宣教するのは命がけでしたが、私は最後まで使命を放棄せず、ソ連をはじめとする共産主義諸国に宣教師を派遣しました。 私たちは東欧の共産国家で行う宣教活動を「ナビ(蝶)作戦」と呼びました。幼虫がさなぎの期間を経たのち羽根を付けた蝶になる姿が、共産国家で苦難に耐えなければならない地下宣教活動に似ていることから、そう名付けたのです。蝶が幼虫から脱皮していくのは、苦労が多く孤独な過程ですが、成虫になるとどこへでも力強く飛んでいくことができます。同様に、地下宣教も、共産主義さえ崩れれば、羽根を付けてひらひらと飛んでいくものでした。 一九五九年初めに渡米した金永雲宣教師は、北米大陸のすべての大学を回って神のみ言を伝えましたが、その中でカリフォルニア大学バークレー校に留学していたドイツ人のピーター・コッホは、新しい真理によって伝道され、学業を中断して、オランダのロッテルダムに行ってヨーロッパ伝道を始めました。日本でも、中国をはじめとするアジア圏の共産国家に宣教師を送り出しました。きちんとした派遣礼拝を一度もできずに宣教師を死地に送り出す私の心は、甲寺の裏の松林で、崔奉春を日本に送り出した時とさして変わりはありませんでした。子供が打たれるのを見るのは、かえって自分が打たれるよりも残酷です。いっそのこと私が宣教師になって行けばよいものを、信徒を監視と処刑の地に送り出しながら、私の心は泣き続けていました。宣教師を送り出した後、私はほぼすべての時間を祈りに費やしました。彼らの命のために私にできることは、心を尽くして祈りを捧げることだけでした。共産圏での宣教は、見つかればすぐに共産党に襟首をつかまれて引っ張られていく、危険この上ないものでした。 共産圏の宣教に行く信徒は、親に目的地さえ知らせることができずに出発しました。共産主義の恐ろしさをよく知る親たちが、最愛の息子・娘が死地に入っていくのを許すはずがなかったからです。ソ連に派遣されたクント・プオルチョは、国家保安委員会(KGB)に見つかって、国外追放されました。チャウシェスクの独裁が極に達していたルーマニアでは、秘密警察のセクリタテアに尾行され、電話を盗聴されることが頻繁にありました。 一言で言って、ライオンのいる洞穴に飛び込むようなものでした。それでも、共産国家に潜入する宣教師の数は日増しに増えていきました。その頃、一九七三年のことです。チェコスロバキアで、宣教師を筆頭に信徒三十人以上が一度に検挙されるという惨い事件が起きました。マリ・チブナは冷たい監房の中で、二十四歳という花の盛りを迎えようかという年頃で命を失い、共産国家で宣教中に落命した最初の殉教者となりました。翌年、もう一人がやはり監獄で命を失いました。 知らせを聞いた私は、全身が硬直しました。話すこと、食べることはもちろん、祈ることさえできず、石の塊になったように座り込んでいました。彼らが私に出会っていなければ、私が伝えるみ言を聞いていなければ、そのように寒くて孤独な監獄に行くこともなく、そこで死ぬこともなかったはずなのに……。彼らは私の代わりに苦痛を受けて死んだのです。 「彼らの命と交換した私の命は、それだけの価値のあるものなのか。彼らは私の代わりに共産圏宣教の重荷を背負ってくれた。その負債を、私はどうやって返せばよいのか」 私はますます言葉を失っていきました。深い水の中に浸かっているように、際限のない悲しみに落ちていきました。その時、私の目の前にマリ・チブナが黄色い蝶になって現れました。チェコスロバキアの冷たい監獄を抜け出した黄色い蝶は、力を失って座り込んでいる私に向かって、力を出して立ちなさいとでも言うように、羽根をひらひらさせました。彼女は、命をかけた宣教を通して、本当に幼虫から脱皮して蝶になっていたのです。 極限状況で宣教する信徒たちは、ひときわ多く夢や幻想を通して啓示を受けました。八方ふさがりの状況では、誰とも連絡が取れないので、神様が啓示を通して進む道を知らせてくれました。就寝中に「すぐに起きてそこから移動しなさい」と夢で教えられ、跳ね起きてその場を離れるやいなや、秘密警察が踏み込んできた、ということもあります。間一髪で命拾いするような出来事が、一度や二度ではありませんでした。また、一度も直接会ったことがないのに、夢に私が現れて、宣教のやり方を教えたこともあったそうです。信徒たちは、私に会うやいなや、「ああ、あの時、夢でお目にかかった先生に間違いありません」と喜びの声を上げるのでした。 このように共産主義を崩すために、また神の国を建設するために、命をかけて闘ってきた私を、かえって共産主義者だと疑い、アメリカ入国のビザを出さないというので、仕方なく、これまでカナダで反共活動をしていた資料を提出して、ようやくビザを受けることができました。 私がこのように複雑な過程を経てアメリカに行ったのは、彼らを堕落させた黒い勢力と闘うためでした。命をかけて悪の勢力と戦争をするために出発したのです。当時のアメリカは、共産主義と麻薬、退廃、淫乱など、世の中に存在するありとあらゆる問題が、坩堝のように混ざり合ってぐつぐつと煮え立っていました。私は「消防士として、医者としてアメリカに来た」と叫びました。家に火が付けば消防士が駆けつけ、体が病気になれば医者が訪ねてくるように、私は堕落の火が燃えているアメリカに火を消すために駆けつけた消防士であり、神を見失い退廃の沼に落ちたアメリカの病気を治すためにやって来た医者でした。 一九七〇年代初頭のアメリカといえば、ベトナム戦争をめぐる葛藤と物質文明に対する懐疑で、社会が激しく分裂していた頃です。人生に意味を見いだすことのできない若者たちは、道端をほっつき歩いて、酒と麻薬、フリーセックスに人生を浪費し、貴い霊魂を堕落するに任せていました。彼らが彷徨するのを止め、正しい人生に戻るように導いてやるべき宗教は、もはやその役割を失っていました。そのために、低俗でわいせつな雑誌類が道端で堂々と売られ、麻薬を吸って幻覚を見ながらふらふら歩く若者たちがあふれ、離婚した家庭の子供たちは、心のよりどころを失って街をさまよいました。あらゆる犯罪が幅を利かせるアメリカ社会に警鐘を鳴らそうとして、神様は私をその地に送られました。 アメリカに到着するやいなや、私は「キリスト教の危機と新しい希望」「キリスト教の新しい未来」という主題で全国を巡回し、講演活動を展開しました。人々が集まった場所で、誰も指摘していないアメリカの弱点を鋭く指摘しました。 「アメリカは本来、清教徒精神によって建てられた国です。わずか二百年の間に世界最大の強大国になるほどの目覚ましい発展を遂げたのは、神から無限の愛の祝福を受けたからです。アメリカの自由は神から来たものです。ところが、今日のアメリカは神を捨ててしまいました。今、アメリカの人たちは、神から受けた愛をすべて失ってしまいました。何が何でも霊性を回復しなければアメリカに未来はありません。私は皆さんの霊性を目覚めさせ、滅びつつあるアメリカを救おうとここにやって来ました。悔い改めてください!悔い改めて神に帰らなければなりません!」 7. レバレンド・ムーンはアメリカ精神革命の種 アメリカ人が最初に見せた反応は、この上なく冷たいものでした。「ようやく戦争の貧困の中から立ち直った韓国という取るに足りない国から来た宗教指導者が、どうしてアメリカ人を相手に悔い改めよと言うのか」と、皮肉っぽく言いました。 アメリカ人ばかりが私に反対したのではありません。国際共産主義者と連携した日本の赤軍派の反発は特に激しく、私がよく滞在していたボストンの修練所に侵入し、後に地元警察の検問に引っ掛かって摘発され、FBI (米連邦捜査局)に引き渡されたこともありました。私に危害を加えようとする動きが度々あったので、私の子供たちを警護員なしでは学校に通わせることができないほどでした。殺害の危険が続くと、私もある期間、防弾ガラスの中で講演を行いました。 彼らの妨害にもかかわらず、東洋から来た小さな目の男が行う巡回講演は、日増しに話題を呼びました。人々は、今まで聞いていたものとは全く違った新しい教えに耳を傾けました。宇宙と人生に関する根本原理をはじめ、アメリカの建国精神を呼び覚ます講演内容が、退廃と怠惰の奈落に沈んだアメリカ人に新鮮な風を送り込んだのです。 アメリカ人は、私の講演を通して意識革命を経験しました。若者たちは「ファーザー・ムーン」、あるいは「レバレンド・ムーン(文師)」と呼んで私に従い、肩まで長く伸びた髪とぼうぼうに生えたひげを切りました。身なりが変わると心も変わるもので、酒と麻薬に溺れていた若者たちの心の中に神の愛が入り込み始めました。 講演には、宗派を超越して多様な若者たちが集まりました。説教の中で、「ここに長老派教会はいるか?」と尋ねると、「ここです、ここ!」と手を振る青年がとてもたくさんいました。また、「カトリックもいるか?」と尋ねても、あちこちで手を挙げました。「南部バプテスト教会は?」と尋ねると、どれくらい多くの人が「私です、私!」と言うのか分からないほどでした。私が「自分の宗教を放っておいて、なぜ私の説教を聞きに来るのですか。早く帰ってください。帰って自分の教会でみ言を聞きなさい」と言うと、「ああ!ああ!」と大きく溜め息をつきました。そのようにして、だんだんと多くの人が集まり、若者だけでなく、長老派教会やバプテスト教会の指導者が、教会の青年たちを連れて訪ねてくるようになりました。時間が経つにつれて、「レバレンド・ムーン」はアメリカ社会の精神革命を意味する一つの「イコン(聖像、崇敬の対象)」になっていきました。 私は、アメリカの若者に我慢と忍耐を教えました。自分を守ることができてこそ、宇宙を守ることができるという事実を切々と訴えました。 「皆さんは、苦痛の十字架を背負いたいですか。誰も十字架の道を行きたいとは思いません。心では背負いたくても、体が先に『ノー!』と言ってしまうのです。見た目には良く見えても、心にも良いとは限りません。見た目にはまことしやかでも、中を見てみれば、醜くて悪いものが多いのです。ですから、見た目によいものばかりを求めて、その道ばかりを行きたくなったら、すぐに『こいつ!』と怒鳴って防がなければなりません。若者はひっきりなしに異性に引かれるのではありませんか?そういうときでも、『こいつ!』と言って自分を止めなければなりません。自分で自分をコントロールできなければ、世の中で何をしようとうまくいきません。私が壊れれば宇宙が壊れるのです」 「宇宙主管を願う前に自己主管を完成せよ」という青年時代の座右の銘を彼らに訴えました。アメリカ社会は物質社会です。私は物質文明の真ん中に行って、心の問題を話しました。心は目にも見えず、手でつかむこともできません。しかし、明らかに私たちは心の支配を受けています。心がなければ何もありません。私はその心に愛を加えた真の愛を話しました。真の愛を土台として明確な自我意識を持ち、自分自身を自らコントロールできてこそ、本当の意味での自由をつかむことができる、と訴えました。 また、労働の大切さを教えました。労働は苦痛ではなく創造です。一生の間働いて暮らしても楽しいのは、労働が神様の世界に連結されているからです。人がする労働というのは、実際には、神様が創造しておいたものを使って、いろいろなものを作り出すことにすぎません。私が趣味として神様の記念品を作るのだと考えれば、実際、労働は何でもないことです。私は、物質文明がもたらす豊かな生活に慣れ、働く喜びを忘れてしまったアメリカの若者たちに、「楽しく働きなさい」と教えました。 そしてまた、もう一つ、自然を愛する喜びを教えました。都市の退廃した文化にとらわれ、利己的な人生の奴隷となった青年たちに、自然がどれだけ大切かを話しました。自然は神様が下さったものです。神様は自然を通して私たちに語りかけます。一瞬の快楽とわずかなお金のために自然を破壊するのは罪悪です。私たちが破壊した自然は、巡り巡って、害となって私たちに返ってきて、子孫を苦しめることになります。私たちは自然に帰り、自然が話す声を聞かなければなりません。心の門を開き、自然の声に耳を傾けるとき、自然の中から伝わる神様のみ言を聞くことができるのだ、とアメリカの若者たちに話しました。 8. 夢にも忘れられない一九七六年、ワシントン記念塔 一九七五年十月、ニューヨーク・マンハッタンの北側にあるベリータウンに「統一神学大学院 (UTS)」 を設立しました。 教授陣には、ユダヤ教、キリスト教、仏教など、あらゆる宗教の垣根を越えて、各界から優れた人材を迎え入れました。彼らが教壇に立って自分の信じる宗教を教えれば、学生たちは鋭い質問を投げかけます。授業は、毎回白熱した議論の応酬の場となりました。あらゆる宗教が寄り集まって討議することで、間違った偏見はなくなり、学生たちはお互いを理解し始めました。こうして、多くの有能な若者が私たちの学校で修士課程を終えて、ハーバード大学やエール大学の博士課程に進学していきました。彼らは今日、世界の宗教界を導く人材になっています。 アメリカ議会は、一九七四年、七五年に私を招請しました。私は、上下両院議員の前で「アメリカを中心とした神の御旨」という主題で講演を行いました。 「アメリカは神の祝福によって誕生した国です。しかし、その祝福は、ただアメリカ人だけのものではありません。それは、アメリカを通して下された世界のための祝福です。アメリカは祝福の原理を悟り、全世界の人類を救うために自らを犠牲にしなければなりません。そのためには、建国精神に立ち返る一大覚醒運動を起こさなければなりません。数十に分かれたキリスト教を統合し、あらゆる宗教を一つにまとめて、世界文明の歴史に新たな一ページを加えるべきです」 私は、道行く若者に向かって訴えたのと全く同じことを、アメリカ議員の前で声高に訴えました。その時点で、アメリカ議会から招請を受けて講演した外国の宗教指導者は私しかいません。続けて二度も議会の招請を受けると、韓国から来た「サン・ミョン・ムーン (Sun Myung Moon)」 とは一体誰なのかと、関心を持つ人がとても増えました。 その翌年の六月一日、ニューヨークのヤンキー・スタジアムで、アメリカ建国二百周年を祝う祭典を開きました。当時のアメリカは、建国二百周年を自ら祝っていられるほど平穏無事とはいえない状況でした。共産主義の脅威に苦しんでいたのであり、青少年の多くは、麻薬や堕胎など神の願いとはかけ離れた人生を送っていました。私はアメリカ、中でもニューヨークが大きな病にかかっていると考えました。そこで、病に臥したニューヨークの心臓にメスを入れる気持ちで祝典に臨みました。 祝典当日は驚くほどの雨が降り注ぎましたが、開始直前、会場一帯は晴れ、悪天候の苦難を劇的に超えて、大会は成功裏に行われました。まだ雨が降っている時のことです。バンドが「ユー.アー・マイ・サンシャイン(You Are My Sunshine)」を演奏すると、ヤンキー・スタジアムに集まった人々は、全員で声を合わせて一斉に歌い始めました。雨に打たれながら太陽の光の歌を歌うので、口では歌を歌いましたが、目からは涙が出ました。雨水と涙が入り混じる瞬間でした。 私は学校に通っていたとき、ボクシングをやっていました。ボクシングでは、いくらジャブを何回入れても、体力のある選手はびくともしません。しかし、アッパーカットを一発大きく入れれば、どんなに体力のある選手でもぐらつきます。私は、アメリカという大国にアッパーカットを一発大きく入れるつもりでした。今までに成功したどの集会よりもはるかに大きな規模の集会を持ち、アメリカ社会に「サン・ミョン・ムーン」の名前をしっかりと刻み付ける必要があると考えました。 ワシントンDCはアメリカの首都です。アメリカ議会議事堂とリンカーン記念堂を直線で結んだほぼ真ん中にワシントン・モニュメントという記念塔があります。ちょうど削って尖らせた鉛筆を垂直に立てたのと同じ形をしています(高さ百六十九メートル)。その記念塔の下には、リンカーン記念堂まで続く幅の広い芝生広場があって、そこはアメリカの心臓部といってよい場所です。私は、そこで大規模な集会を開く計画を立てました。 ワシントン記念塔前の広場でイベントをするためには、アメリカ政府の許可を得なければならず、アメリカ公園警察からも許可を取らなければなりません。しかし、アメリカ政府は、私のことをあまり好ましく思っていませんでした。アメリカ政府が何度も申請書を突き返してきたため、大会当日の四十日前になってようやく許可を得ることができました。 信徒たちも、あまりに大きな冒険だとして、誰もが引き留めようとしました。ワシントン記念塔前広場は、都心の真ん中に位置し、がらんとした、辺り一帯に何もない公園です。それも、木が生い茂って垣根になっている所ではなく、ただの青い芝生の広場です。ですから、もし人が集まらなければ、四方八方からその閑散とした様子があからさまになってしまいます。広い芝生の広場をぎっしりいっぱいにしようとすれば、数十万の人波が押し寄せてこなければならないのですが、果たしてそれが可能かということです。その時まで、ワシントン記念塔で大きな行事を行った人物は二人しかいませんでした。公民権運動の一環で「ワシントン大行進」を行ったマーティン・ルーサー・キング牧師と、大規模な宗教集会を開いたビリー・グラハム牧師です。そのような場所で大会を開こうと、私が挑戦状を突きつけたのです。 私はその日の大会のために、休む間もなく祈祷しました。原稿を四回も書き直しました。大会の一週間前になっても、その日にどんな説教をすべきか心が定まっていませんでした。原稿を書き終えたのは、大会のわずか三日前です。本来、私は説教の前に原稿を用意することはしません。しかし、その時はそうしてみようと心が動かされました。どういう訳なのかはっきりしませんが、とても重要な大会になることは明白でした。 ついに一九七六年九月十八日、夢にも忘れることができないその日が来ました。朝早くから人々がひっきりなしにワシントン記念塔に押し寄せてきました。何と三十万人という大勢の人の群れです。それほどの群衆が一体どこから押し寄せてきたのか、全く見当もつかないことでした。彼らの髪の毛の色や顔の色は皆、色とりどりでした。神様がこの地上に送り出されたすべての人種が集まったかのようでした。それ以上何を言う必要もない、本当に世界的な大会になりました。 私は三十万人の群集の前で、「退廃的なアメリカの青年たちを危機から救い出し、希望の若者にするためにアメリカに来た」と堂々と宣布しました。私が一言一言語るたびに、観衆の中で歓呼の声が上がりました。東洋から来たレバレンド・ムーンが伝える教えは、混沌の時代を生きていた当時のアメリカの青年たちにとって、新鮮な衝撃でした。彼らは、私が伝える純潔と真の家庭のメッセージを歓迎しました。人々の熱狂的な反応に、私の体からも脂汗が流れてきました。 その年の暮れ、『ニューズウィーク』誌は私を一九七六年今年の人物」に選びました。しかし、また一方では、私を警戒し、恐れる人たちが増えました。彼らにとって私は、東洋から来た不思議な魔術師にすぎず、彼らが信じて付いていくような白人ではありませんでした。また、自分たちがよく聞く既成キリスト教会の教えと少々異なった話をするということが、彼らをとても不安にさせました。その上、白人の若者たちが、「目が魚のように細長いアジア人」を尊敬し、彼に付いていくのを絶対に容認できませんでした。彼らは、私が純真な白人の若者を洗脳していると悪い噂を流し、私に歓声を送る群れの背後で、私に反対する勢力を集めました。またしても新たな危機が身近に迫ってきたのです。しかし、臆することはありませんでした。私は明らかに正しいことをしていたからです。 アメリカは人種差別と宗教差別が激しい国です。アメリカンドリームに憧れて、世界中からあらゆる人種が集まってくる自由と平等の国として知られていますが、実際は、人種差別と宗教差別によって激しい葛藤が生じている国です。それは、退廃と堕落、物質主義のような一九七〇年代の豊かさの中に現れた社会の病弊よりも、はるかに深くアメリカの歴史に根ざした、簡単には治すことのできない持病のようなものでした。 その頃、宗教問の融和を導くために、私はよく黒人の教会を訪ねていったものです。黒人のリーダーの中には、マーティン・ルーサー・キング牧師に倣って、人種差別をなくし、神の平和世界を築こうと努力する隠れた人材がたくさんいました。 彼らは、法的に人種差別が禁止される前、数百年間続いた黒人奴隷市場の写真を教会の地下室に展示していました。生きている黒人を木に吊して火で焼く場面、奴隷として売られてきた黒人たちを鶏のように並べてその口を開ける場面、男女の黒人を裸にして奴隷を選ぶ場面、泣き喚く子供を母親の懐から引き離す場面など、およそ人間の心を持っていたならば到底できないような蛮行を犯す姿がそのまま写し出されていました。 「見ていてください。これから三十年のうちに、黒人と白人の混血家庭から生まれた子供がアメリカの大統領になるでしょう」 一九七五年十月二十四日、シカゴの集会で私はそのように語り、その日の予言は、今やアメリカで現実のものとなりました。シカゴで誕生したオバマが大統領になったのです。しかし、私の予言は自然に成就したのではありません。宗教と教派問の葛藤をなくすために大勢の人の血と汗が流されたからこそ、今、一輪の花が咲いたのです。 9. 「私のために泣かずに世界のために泣け」 ワシントン記念塔の集会には、驚いたことにアメリカの既成キリスト教会の牧師たちも信徒を大勢連れてやって来ました。私の伝えるメソセージが宗教や宗派の別なく若者たちに感動を与えていると判断したのです。私が喉が張り裂けるほど声を大にして叫んだ「超宗教・超宗派」という目標が達成された瞬間でした。ワシントン記念塔の集会は奇跡でした。その日、集まった三十万人の群集の記録は、今も破られていません。 しかし、良いことには必ず悪いことも付いてくるものです。一部の在米ユダヤ人が、私の顔が描かれたポスターに八の字のひげを描き、ヒトラーを思わせるように手を加えました。彼らは私に反ユダヤ主義を意味するアンチ・セミティズムのレッテルを貼り、「ユダヤ人を虐待する人物」と印象づけて激しく攻撃してきました。ユダヤ人だけではありませんでした。私に従う若者が急速に増え、原理を学ぼうとする牧師の数が目立って増え始めると、既成キリスト教会も私を迫害し始めました。一方で、伝統的なキリスト教会が集中的に私を圧迫するようになり、他方で、「共産主義の拡散防止はアメリカの責任である」と説く私の主張に反発した革新系左派勢力が私を牽制し始めたのです。 人気が高まるほど、私をめぐるさまざまな疑惑が提起されました。以前は全く問題にならなかったことが、突然深刻な問題となって私を圧迫しました。保守勢力は、私が革新寄りだとして、私の教える教理が伝統的な価値観を破壊すると主張しました。彼らが私を最も不満に思ったことの一つは、十字架に対する新しい解釈でした。 救世主 (メシヤ) として来られたイエス様が十字架に付けられて亡くなったのは、神様の予定された御旨ではありません。イエス様が処刑されることによって、平和世界を築くという神様の計画は頓挫してしまいました。もしその時、イスラエル民族がイエス様をメシヤとして受け入れていれば、東西の文化と宗教が一つになる平和世界ができていたはずです。しかし、イエス様は十字架にかかって亡くなったのであり、神様の人類救済の事業は、結局、イエス様の再臨以降に延長されたのです。このような十字架に対する私の新しい解釈が多くの反対を呼びました。既成キリスト教会はもちろん、ユダヤ人たちまでもが、すべて私を敵として激しく攻め立てたのです。彼らは、私をアメリカから追放しようと、さまざまなことを企てました。 最終的に、またもや私は囚われの身となりました。奈落に沈んだアメリカの道徳性を目覚めさせ、神の御旨にかなう国として復興させることしかしていないのですが、アメリカは私に脱税の罪を着せたのです。年齢が六十をとうに超えている時です。 私はアメリカに定着した最初の年に、世界各国から送られた宣教献金をニューヨークの銀行に預金しました。アメリカでは、宗教活動に使う基金は宗教指導者の名義で銀行口座に入れておくのが伝統的な慣習です。ところが、この銀行口座の預金から発生した三年間の利子所得を、私が所得として申告せず、脱税したと嫌疑をかけて、ニューヨーク連邦検事局は私を起訴しました。結局私は、一九八四年七月二十日、コネティカット州のダンベリー連邦刑務所に収監されました。 ダンベリーに収監される前日、ベルベディア (ニューヨーク州ハドソン河畔にある教団施設) で最後の集会を持ちました。ベルベディアをいっぱいに埋めた信徒たちは、涙を流して私のために祈ってくれました。私に従う数千人の弟子たちが、ベルベディアに詰めかけてきました。私は彼らに向かって声高に叫びました。 「私は潔白です。私は何の過ちも犯していませんが、ダンベリー刑務所の向こうに昇ってくる輝かしい希望の光を見ながら行きます。私のために泣かずに、アメリカのために泣いてください。アメリカを愛し、アメリカのために祈ってください」 悲しみにひたる若者たちを前に、私は希望の握り拳をぎゅっと握ってみせました。 刑務所に入る前に私が残した声明文は、宗教者の間に大きな波紋を呼び起こしました。判決に抗議して潔白を訴える運動が起き、私のために力強い祈祷の波が起きました。 私は監獄に入ることを恐れるものではありません。監獄生活には慣れています。しかし、周囲の人たちは、一部のユダヤ人が私の命を狙って何をするか分からないと恐れました。それで私は堂々と監獄に入っていきました。 10. 「なぜ父が刑務所に行かなければならないのですか?」 ダンベリー刑務所でも、「為に生きる」という私の原則は何も変わりません。朝早く起き、汚れた場所をきれいに掃除しました。食堂に行っても、他の囚人は、テーブルに鼻をつけて寝ていたり、世間話をしていたりするのですが、私は必ず背筋を伸ばして順番を待ちました。与えられた仕事は他の人よりずっと多くやって、周りの人の世話をしました。余った時間には私自身の説教集を読みました。夜でも昼でも説教集を読んでいるので、ある囚人が「それがおまえの聖書か。おれの聖書はこれだが、一度見てみるか?」と雑誌を放り投げてきました。『ハスラー』というポルノ雑誌でした。 ダンベリー刑務所の中で、私は「黙って働く人」「本を読む人」「瞑想する人」と呼ばれました。そうやって三カ月が経つと、監獄の中の囚人や看守とも親しくなりました。麻薬で捕まった人とも親しくなり、ポルノ雑誌を自分の聖書だと言っていた囚人とも親しくなりました。さらに一月、二月が過ぎると、今度は、収監されていた囚人たちが、自分がもらった差し入れを私に分けてくれるようになりました。彼らと気持ちが通じるようになると、監獄の中に春の日が差してきたかのようでした。 監獄に行くのは悪いことばかりではないと私は思います。涙の谷間で泣く人を悔い改めに導くには、まず私が涙を流さなければなりません。私がそれ以上の悲しみを持たなければ、その人の心を開かせ、み言を受け入れさせることはできないでしょう。天の摂理は本当に奥妙です。私が監獄に閉じ込められると、意外にも、「宗教の自由」を侵害したアメリカ政府に対して憤りを露わにした聖職者七千人以上が、私を救い出すために立ち上がりました。その中には、アメリカのキリスト教保守派を代表する南部バプテスト教会ジェリー・ファウエル牧師や、オバマ大統領の就任式の際に祝禧を捧げた革新系のジョセブ・ローリー牧師(当時は南部キリスト教指導者会議議長)もいました。二人は救出運動の先頭に立ちました。娘の仁進(当時十九歳)も、彼らと腕を組んで一緒に行進しました。七千人以上の聖職者の前で、涙して書いた手紙を読み上げることもしました。 「皆さん、こんにちは。私は、文鮮明牧師の次女文仁進です。一九八四年七月二十日は、世界の終末が私たち家族に訪れてきたかのようでした。この日、父は刑務所に入っていきました。このようなことが父の身に起きるとは夢にも思いませんでした。それも神が祝福した自由の地であり、父がとても愛し、奉仕してきたアメリカの地で起きたのです。父は、アメリカに来てとても熱心に活動しました。私は、父が眠っている姿を一度も見たことがありません。常に早朝に起きて祈り、活動しています。私は、アメリカの将来と神のために、父ほど献身的に活動する人を見たことがありません。ところが、アメリカは父をダンベリー刑務所に投獄してしまいました。父がなぜ刑務所に行かなければならないのですか?父は自分の苦痛は意に介さない人です。神の御旨を実践してきた父の人生には、涙と苦難が点在しています。今、父の年齢は六十四です。父にはアメリカを愛した罪しかありません。しかし、父は今この瞬間にも、刑務所の食堂で皿を洗ったり、床を磨いたりしています。先週、私は、囚人服を着た父と初めて面会しました。私は声を上げて泣きました。父は『私のために泣かないで、アメリカのために祈りなさい』と私を諭してくれました。全世界数百万の教会員に語った話を私にもそのまましてくれました。『おまえの怒りと悲しみを、この国を本当に自由な国にすることのできる強い力に変えなさい』父は刑務所の中で、いかなる苦労もし、いかなる苦痛にも耐え、いかなる十字架も喜んで背負うと話しました。『宗教の自由』はあらゆる自由の基礎です。『宗教の自由』を守るため、父を支持してくださった皆さんに、心から感謝申し上げます」 私は模範囚として認定され、六ヵ月減刑されて、十三ヵ月後に出監しました。刑務所の門を出ていった日の夜、ワシントンDCで出監歓迎晩餐会が開かれました。ユダヤ教のラビやキリスト教の牧師ら宗教指導者が千七百人も集まり、私を待っていました。私はそこで再び「超宗教・超宗派」を主張しました。誰の目も気にすることなく、大きな声で世の中に向かって叫びました。 「神は宗派主義者でも教派主義者でもありません。教理の枝葉末節にとらわれる神ではないのです。神の父母としての心情、そして大いなる愛の心には、民族と人種の区分がありません。国家や文化伝統の壁もありません。神はきょうも、万民を同じ息子・娘として抱くために努力しておられます。今、アメリカは、人種問題、価値観の混乱と社会や倫理・道徳の退廃問題、霊的枯渇とキリスト教信仰の衰退問題、無神論に立脚した共産主義問題など、深刻な病弊を抱えています。私が神の召命を受けてこの国に来た理由はここにあります。今日のキリスト教は、大きく覚醒し一つに団結しなければなりません。牧会者たちもまた、これまでの役割を再検討して、悔い改めなければなりません。イエス様が来られて『悔い改めよ』と叫ばれたその時の情景が、二千年を経た今、この地上に繰り返されています。私たちは、神がアメリカに命じた重大な使命を果たさなければなりません。このままでは絶対にいけません。新しい宗教改革が起こらなければならないのです」 獄中生活を終えて出てくると、これ以上私を縛り付けるものがありませんでした。私は、以前よりもっと強い声で、堕落したアメリカに対して警告のメッセージを放ちました。神様に対する愛と道徳性を取り戻すことこそが、この国を再び立ち上がらせることのできる力だと、強く訴えました。 何らの罪もなく刑務所に入りましたが、神の御旨はそこにもありました。私が刑務所に収監中から、私のために救出運動を起こした七千人を超す牧師たちは、代わる代わる釜山のボムネッコルとソウルを訪ねてきました。一体レバレンド・ムーンのどのような精神がアメリカの若者たちをかくも引き付けるのか、それを知ろうというのです。彼らは短い訪問期間の中でも、わざわざ時間を割いて私たちの教理を学んで帰りました。私は彼らを中心に「アメリカ聖職者連合会(ACLC)」を組織し、今も宗教と教派の垣根を越える信仰運動と平和運動を展開しています。 【第五章 真の家庭が真の人間を完成する――結婚と愛】 1. 私の妻、韓鶴子 私が妻に初めて会ったとき、妻は小学校を卒業したばかりの十三歳の少女でした。教会に来るときも帰るときも、いつも同じ道を通り、一度も大声を出したことのないおとなしい少女でした。ある日、信徒の洪順愛女史がその娘と一緒に挨拶に来ました。 「何という名前か?」と聞くと、「はい、韓鶴子といいます」と、はきはきと答えました。ところがその瞬間、私は思わず「韓鶴子が大韓民国に生まれたのだなあ!」と三度も繰り返し、「神様!韓鶴子という立派な女性を韓国に送ってくださったのですね。ありがとうございます」と祈りました。それから彼女を見つめて言いました。 「韓鶴子、これからたくさん犠牲にならなければならないのだなあ」 彼女を見た瞬間、これらすべての言葉が自然と飛び出してきました。後日、洪順愛女史は、その日の私がなぜ自分の娘を見て三度も同じことを繰り返したのか、本当に不思議に思ったといいます。妻は、その日の短い出会いをよく覚えていました。私が独り言のように漏らした言葉も、すべて忘れずに胸の中にしまっていました。自分の将来のことで大きな啓示を受けたような気がして、忘れられなかったそうです。 妻の母、洪順愛女史は、篤実な長老教会の家系に生まれ、キリスト教信仰に育まれて成長しました。故郷は私と同じ定州でしたが、実際に暮らしたのは安州(平安南道)です。朝鮮戦争のときに南に下ってきたそうです。私たちの教会の信徒になってからは、春川(江原道)で献身的な信仰生活を送り、娘をとても厳しく育てました。妻が通った看護専門学校はカトリックが運営する学校でした。規律が非常に厳格で、まるで修道女のような生活だったそうです。おとなしい性格の妻は、真の信仰を懸命に求め歩いた母の元で、家と学校を行き来しながら大きくなりました。学校を除けば、私たちの教会に来ることが彼女にとっての唯一の外出でした。 当時、四十歳を目前にした私は、結婚する時が近づいていると直感していました。神様が「時が来たので結婚しなさい」と命じれば、そのとおりに従うだけでした。一九五九年十月から、池承道ハルモニ(お婆さん)が中心となって、新婦も決まっていないうちから私の婚約準備が始まりました。誰になるか分からない妻のために七年間も祈濤していたある信徒は、「先生、私は夢の中で韓鶴子嬢が先生の新婦になるのを見ました」と言いました。また池承道ハルモニは、「ああ、これは何の夢でしょう。夢の中に数十羽の鶴が現れて、手で追い払ってもしきりに飛んできて、先生を白く覆うのです。これは何かの兆候でしょうか」と夢の話をしました。 すると今度は妻の夢に私が現れて、「その日が近づいてきたので準備しなさい」と語ったというのです。夢の中で妻は、「今まで私は天の御旨どおりに生きてきました。これからも神様の御旨が何であれ、神様の僕として従います」と従順に答えたそうです。 妻が私の夢を見た数日後、私は洪順愛女史に娘を連れてくるように言いました。十三歳の少女の時に挨拶を受けて以来、公式的には初めて会う場でした。私は妻に絵を描いてみなさいと言いました。彼女は躊躇なく鉛筆をさっと動かし、描いたものを私の前に広げてみせました。とても良く描けていると思って妻の顔を見ると、恥ずかしがるその姿が本当に美しく、絵に負けないくらい心も立派でした。その日、私は妻にとても多くの質問をしました。そのたびに妻は、戸惑うこともなくはきはきと答えました。 数日後、私は再び妻を呼びました。呼ばれた理由が分からないまま私の前に立った彼女に、「あすの朝、結婚式をする」と言うと、「そうですか」と言って、それ以上何も聞かず、反対もしませんでした。反対というものを知らない女性のようでした。そのように純粋でおとなしかったのですが、神の御旨に対しては固く決心した人でした。 一九六〇年三月二十七日、私たちは婚約し、それから半月も経たない四月十一日に結婚式を挙げました。私は紗帽を、妻はチョクトゥリを被りました (紗帽とチョクトゥリは伝統的な礼装用の帽子と冠)。二十三歳も年下の新婦のきりっと結んだ口元と清楚な顔が端正に見えました。 「私との結婚が、普通の結婚とは違うことをよく知っているだろう。私たちが夫婦の因縁を結んだのは、神様から受けた使命を果たし、真の父母になるためであって、世の中の人たちのように男女の間の幸福のためではない。神様は真の家庭を通して天国をこの世に広げたいと願われている。私たちはこれから、天国の門を開く真の父母になるための厳しい道を行かなければならない。歴史が始まってからこの方、その道を行った者は誰もいないから、私たちの行くべき道がいかなるものか、私にも分からない。したがって、これから七年間、あなたにとってはとても耐えがたいことがたくさんあるだろう。私たちの行く道は他の人とは全く違うということを片時も忘れず、たとえ小さなことでも私と相談した後に行い、私が言うことにはすべて従順に従ってこなければならない」 「すでに覚悟しておりますので、何もご心配なさらないでください」 妻の表情には固い意志が見えました。妻は、結婚した翌日から耐えがたい日々を送らなければなりませんでした。最初に訪れた困難は、実家の母親に会えないことでした。妻の家系は三代続けて母一人で子供を育ててきたので、母親と娘の関係がひときわ親密だったのですが、私は妻の母に「娘に会いに訪ねてこないでください。これから三年間は私の前にも姿を見せないでください」と何度も繰り返し伝えました。妻には、母親だけでなく、親戚との関係もすべて断つように言いました。教会の母である人が、親戚とひそひそ話をしたり、私的なことに気持ちが奪われたりしたら、自分の責任を果たすことができないと考えたからです。妻の心の中には、ひとえに夫だけがいなければならなかったのです。 私は、三年間、妻を信徒の家に間借りさせました。また、教会には一日に一度しか来られないようにしました。それも、夜に来て、来るときは正門から入っても出るときは裏門から静かに出て行くように言いました。その上、私は夜通し礼拝をしたり祈祷を捧げたりするので、頻繁に妻の元に行くことができません。その間も、私をめぐるおかしな噂は途切れなく続いたので、年若い妻が耐え抜くのは容易なことではありませんでした。 結婚した頃は、すでに全国に百二十ヵ所以上の教会の基盤を築いて、かなり有名になっている時でした。教会の中でさえ私の結婚をめぐってさまざまな声があり、妻をねたみ、怨んで、あらゆることを言って騒ぎ立てました。 しかし、私が妻を間借りさせただけでなく、どこへ行くにも妻の代わりにお婆さんたちを連れて回るので、妻に対してああだこうだと言っていた声は次第に消えていきました。最初の娘が生まれた頃、産後の関節痛にかかって、暖房もない部屋でぶるぶると震えていても、夫の私が顔も出さないので、どうしてそんな冷たい仕打ちができるのかと、かえって妻をかばって心配する人が増えました。 「先生もあんまりだ。結婚したのなら夫人と一緒に暮らすべきなのに、あれは何だ。顔を見る暇もないとは」 こうして、妻の悪口を言っていた人たちがかえって妻に同情し、一人、二人と妻の味方になっていきました。 妻は若くして本当にたくさんの訓練を受けました。私と一緒に暮らす問、一時も自由にできませんでした。いつも神経をとがらせて、薄い氷の上を歩くように、「きょうは何事もないだろうか、あすは何事もないだろうか」とやきもきしながら暮らさなければなりませんでした。一言言葉を間違えただけで私から咎められることもしばしばでした。うれしくて「うれしい」と言っても難癖をつけられ、私の後ろをちょろちょろ付いてきては小言を言われました。真の母になるためには仕方のないことでしたが、妻の心の中の悲しみはさぞや大きかったことでしょう。 私はただ一言投げかけるだけですが、妻は私の一言一言に合わせて生きなければなりませんでした。その苦労たるや言葉で言い表せないものがあったにちがいありません。そうやってお互いに合わせていくのに七年もの期間が必要でした。結婚生活で最も大切なことは信仰で一つになることだという事実を、その時に再び悟りました。 2. この上なく善良で貴いあなた 結婚してから、私は妻と約束をしました。 「いくら憤懣やるかたないことがあっても、信徒たちに「先生夫婦が喧嘩をした』と思わせないようにしよう。これから子供を何人生んでも、父母が喧嘩したところを見せないようにしよう。子供たちは神様だからね。子供たちはとても小さな愛の神様だ。だから、子供たちが『お母さん!』と呼ぶときは、無条件に笑って『どうしたの?』と答えなければいけない」 七年間、そのように容赦のない訓練を受けたのち、妻は初めて母らしくなりました。教会の中で、妻をめぐってなんだかんだと言っていた陰口は姿を消し、家庭にも安らかな幸福が訪れてきました。妻は十四人の子供を生みましたが、世界中を講演して回る私と一緒に家を離れているときは、毎日、子供たちに手紙やはがきを書いて送るのを欠かさないほど、子供たちを愛で包んで育てました。 二十一年間に十四人の子供を生んで育てたのですから、言うに言えない苦労があったはずですが、その素振りさえ見せませんでした。出産を控えた妻を置いて、私が海外に行ってしまったことも一度や二度ではありません。信徒たちが送ってくる手紙で、妻の生活が大変で栄養状態が心配だという内容を読んでも、どうすることもできない日もありました。それでも妻は、一度もつらいと不平を言ったことがありません。今も済まないと思うのは、一日に二、三時間しか眠らない夫に合わせるために、妻もこれまで毎日二、三時間しか眠ることができなかったことです。 妻は自分の結婚記念の指輪まで人にあげてしまうほど情け深い女性です。ぼろを着た人を見れば服を買ってあげ、おなかを空かせた人に会えばご飯を振る舞いました。家にプレゼントが届いても、開けずにそのまま人にあげてしまうこともしばしばでした。ある時、オランダを巡回している途中、ダイヤモンドの加工工場に寄る機会があり、それまで苦労をかけてきたお詫びの印に、妻にダイヤモンドの指輪を買ったことがあります。お金が少なくて大きなものは買えませんでしたが、私が見て良いと思うものを一大決心して買いました。しかし、その指輪さえ人にあげてしまいました。私が妻の指に何もないのを見て、「指輪はどこに行ったのか?」と聞くと、「どこに行くも何も、流れていきましたよ」と言うのです。 いつだったか、黙って大きな風呂敷を出して、服を包んでいる妻を見つけて、理由を尋ねました。 「それをどうするのか?」 「使うところがあります」 詳しい話はせずに風呂敷をいくつか包んでいました。後で知ったところによると、妻は国外に出ている宣教師たちに送ろうとしていたのです。「これはモンゴル行き、これはアフリカ行き、これはパラグアイ行き……」と、ふふふと笑う妻の心が本当に美しく感じられました。今でも、海外に出ている宣教師たちをあれこれと世話するのは妻の役目です。 妻は一九七九年に「国際救護親善財団(IRFF)」を作り、今もアフリカのコンゴ(旧ザイール)とセネガル、コートジボワールなどの国を回って、奉仕活動をしています。貧しい子供たちに食べ物を分け与え、体の具合が悪い人には医薬品を、ぼろを着た人には衣服を届けます。韓国でも一九九四年に「愛苑銀行」を作りました。孤児救済と無料食堂の運営、北朝鮮同胞救済などの活動を行っています。また妻は、以前から女性団体の仕事もしています。妻が責任を持つ「世界平和女性連合」は世界八十力国に支部を置く団体であり、国連にも登録されたNGO(非政府組織)です。 人類の歴史において、女性はいつも抑圧される立場にいました。しかし、これから訪れる世界は、女性の母性と愛、親和力が土台となった和解と平和の世界です。女性の力が世界を救う時代が到来するのです。 しかし、今日の女性団体は、不思議にも男性に反対することが女性のパワーを示すことだと言わんばかりに、男性を目の敵にして敵対しようとばかりします。妻が責任を持って運営する女性団体では、宗教に基盤を置いて、愛で平和世界を拓いていく運動を展開しています。家庭を壊して飛び出してくる女性解放ではなく、真の家庭を守り、愛を実践する女性運動です。「女性はまず孝の心を持つ真の娘として育ち、結婚して貞節と献身で夫を支える妻となり、子供を正しく育てて社会のために奉仕する指導者となるように導く」そうした女性を社会に送り出すことが妻の夢なのです。妻が率いる女性運動は、真の家庭を作るためのものです。 私が公的な仕事で忙しい時期に、私の子供たちは一年の半分近くを父も母もいない中で生活しなければなりませんでした。子供たちは、両親のいない家で信徒たちと共同体を作って暮らします。家の中はいつも信徒たちでいっぱいでした。また、わが家の食卓はいつもお客さんが優先で、子供たちは後回しでした。このような環境のために、子供たちは普通の家庭の子供であれば感じないような孤独を嫌というほど感じて育ちました。しかし、それよりもっと厳しい困難は、父親のことで受けなければならない苦痛でした。どこに行っても「異端の教祖、文鮮明」の息子・娘として指をさされたのです。それぞれあてどなく彷徨う時期を経験しましたが、子供たちはいつも元の位置に戻ってきてくれました。親として注意深く面倒を見てやることもできなかったのですが、今ではハーバード大学の卒業生が五人もいるのですから、これ以上ありがたいことはありません。今、子供たちは、私の仕事を助けてくれるほど皆成長しました。しかし、私は依然として厳格な父です。今も変わらず、父である私以上にもっとよく天に仕え、人類のために生きる人とならなければならないと教えています。 大抵のことには動じない妻でしたが、二番目の息子、興進の死に直面した時は、大変な悲しみを乗り越えなければなりませんでした。一九八三年十二月のことです。私は妻と共に全羅南道光州で開かれた勝共決起大会に臨んでいました。興進が交通事故に遭って病院に運ばれたという国際電話を受けましたが、二日間の公式日程が残っていたため、すぐに渡米することはできませんでした。公式行事の全日程を終えた後、ニューヨークに急行しましたが、病室に横たわった興進はすでに意識がありませんでした。 坂道を加速しながら下ってきたトラックが急ブレーキを踏んで、横滑りして起きた事故でした。興進の車には親友二人が一緒に乗っていました。自分の命が危ない緊迫した状況の中でも、興進は急いでハンドルを右側に切り、自分の座る運転席がトラックとぶつかるようにして、助手席と後部座席に座った友人たちの命を救いました。事故現場の坂道に行ってみると、道路には、右側に急ハンドルを切ったタイヤの黒い跡がそのまま残っていました。 結局、興進は、年を越えた一九八四年一月二日の早朝、天の国へと旅立ちました。ちょうど一月前に十七歳の誕生日を迎えたばかりでした。育てた子供を先に送り出す妻の悲しみは筆舌に尽くしがたいものでしたが、声を出して泣くどころか涙さえ流すことができませんでした。私たちは霊魂の世界を知っています。人の霊魂は命を失ったからといって埃のように消えてしまうものではなく、霊魂の世界に行きます。しかし、愛する子供ともはやこの世で会うことも触れることもできないということは、親として耐えがたい苦痛です。思いどおりに泣くこともできなかった妻は、興進を乗せた霊枢車を何度も撫でていました。 このように大きな苦労を経験するたびに心に衝撃を受けたはずですが、妻はよく乗り越えてくれました。いくら困難で大変な状況の中でも、妻は穏やかな笑顔を忘れずに人生の峠を越えてきました。信徒たちが子供の問題で妻に相談に来ると、妻は笑顔で答えます。 「待ってあげましょう。子供たちが道に迷うのは一時のことで、いつかは過ぎ去ります。子供たちが何をしても、絶えず抱き締めるような気持ちで愛してあげながら、あとは待ちましょう。子供たちは必ず両親の愛の懐の中に戻ってきます」 私は生涯、妻に大声を出したことがありません。私の性格がもともとそうだからではなく、妻が大声を出させるようなことをしたことがないからです。私の理髪もこれまでずっと妻がやってくれました。妻の理髪の腕は世界最高です。最近は、私も随分と年を取ったせいで、妻に頼ることが多くなりました。「足の爪を切ってほしい」と言えば、妻はさっと切ってくれます。足の爪は間違いなく私の足の爪ですが、私の目にはよく見えず、妻の目のほうがよく見えるのですから、不思議なものです。年を取るほど、そのような妻がますます貴くなります。 3. 夫婦が必ず守らなければならない約束 結婚した後には必ず守るべきことがあり、私は結婚する夫婦に必ず次のことを誓わせます。第一に、夫婦がお互いに信頼し愛すること、第二に、お互いの心を傷つけないこと、第三に、二世や三世の子供たちに純潔を守るよう教育すること、第四に、真の理想家庭を築くためにすべての家族が互いに激励し協助すること、等々です。婚前の純潔を守ることと結婚後に貞節を守ることは、男女を問わずとても大事です。人間らしく、正しく生きるために、また健全な家庭を守るために、私は必ずこれを教えます。 結婚とは、ただ単なる男女の出会いではありません。それは神の創造の偉業を受け継いでいく貴重な儀式です。結婚は、男性と女性が一つになり、生命を創造して真の愛を求めていく道です。結婚を通して新しい歴史が生まれます。結婚した家庭を中心に社会が形成され、国家が建設され、神の願う平和世界が築かれていきます。つまり、この世の中で神の国、天国が広がる起点となるところが家庭なのです。 ですから、夫婦は平和の中心にならなければなりません。夫婦は仲良くしなければならないし、そればかりでなく舅や姑、そして親戚に至るまで、その夫婦によって平和が生まれてこなければなりません。二人だけが愛して幸せに暮らすのではなくて、その家の家族全員がお互いに愛して暮らさなければなりません。 私は結婚した夫婦に、無条件に子供をたくさん生みなさいと言っています。子供をたくさん生んで育てることは神の祝福です。神が下さった貴い命を、人間の物差しで測ってむやみに堕胎するようなことはあってはならないことです。この世に生を享けたあらゆる命にそれぞれ神の御旨があるからです。命はすべて貴いのですから、しっかりと受け入れて守ってやらなければなりません。 結婚した夫婦がお互いを信頼して愛を積み上げていくのは当然のことです。私が夫婦に最も大切なこととして誓わせているのは第三の約束です。 「子供たちに純潔を守るよう教えること」 真に当然なこの約束が、最近の世の中ではあまりにも守るのが難しくなってしまいました。しかし、世の中が悪くなればなるほど、より徹底して守らなければならないのが純潔です。 人間も世界平和も、家庭を通して初めて完成するものです。そして、すべての人間を善なる人間にし、理想的な平和世界をつくっていくことが宗教の目的です。平和は政治家が額を集めて相談したからといってできるものではありませんし、強大な軍事力があるから平和になるともいえません。世界平和が訪れてくる出発点は、政治でも軍事でもなく家庭です。 ところで、家庭生活において最も大変なのが息子・娘をきちんと育てることです。親は愛で子供を生み育てますが、子供は父母の思いどおりには生きてくれません。加えて、現代の物質文明は青少年の純粋な心を破壊しています。美しく育つべき青少年が麻薬に溺れ、幻覚を見ながら生きています。幻覚は正気を失わせ、正気を失った子供たちは、結局、犯罪と堕落の沼地にはまってしまいます。 思い起こすと、一九七一年のアメリカは、フリーセックスの嵐が吹き荒れて、社会が言葉にならないほど混乱していました。道端には、髪を伸ばし麻薬に酔ってぐったりしているヒッピーがあふれていました。立派な教育を受けたはずの健康な青年が、そうやって一人、二人と駄目になっていきました。性的な堕落が甚だしく、一年に八百万人の性病患者が出たそうです。ところが、真に深刻な問題は、政治家や学者、牧師ら社会のリーダーとなるべき人たちが、その事実を知っていながら、見て見ぬふりをして問題を覆い隠そうとあくせくしていたことです。彼らが現実から目を背けようとしたのは、自分たちが純潔ではなかったからです。自分たちが純潔を守れないのに、子供たちにそれを守れと教育することはできません。 大人たちの不倫と性道徳の乱れは、家庭を破壊し、子供たちを駄目にしてしまいます。不倫と乱れた私生活は、子供たちの心に致命的なダメージを与えます。現代社会の人々が物質的な曲豆かさほどには幸福を享受し得ていないのは、本を正せば家庭が崩壊しているからです。家庭を救うためには、まず大人たちが襟を正してきちんと生きることです。子供を純潔に育てるのはその次の問題です。 母親とは、家庭を守る砦のような存在です。母親の犠牲と奉仕があってこそ健全な家庭、平和な家庭が正しく立つことができます。世の中がいくら変わろうともその基本は変わりません。美しい子供はそういう家庭から育ってきます。横に歩くカニが、自分の子供に向かって真っすぐ歩けと言うのは理屈に合わない話です。子供は家庭で親の姿を見て学ぶのであって、子供の教育にはそれが一番大事です。父母が正しい手本を見せなければなりません。真の家庭から真の子女が出てくるのです。真理は常に最も単純です。 子供たちを育てていく中で、最も難しい時期が思春期です。思春期の子供たちは皆、王子様であり王女様です。思春期はあらゆることを自己中心に考える時期なので、父母の言葉に無条件に反発するものです。そういう時こそ彼らを理解してやらなければ、うっかりするととても悪い道にはまり込んでしまいます。反対に、いくら些細なことでも、自分と心が通じると思えばとてもうれしくなります。秋の日、葉っぱがすっかり落ちた柿の木から、熟した柿がぼとっと落ちるのを見ただけでも、うれしくて笑います。何だか分からないのですが、自分の心に届くものがあるので喜ぶのです。なぜそうなるのかと言えば、神が人間をそのように創造したからです。神から創造された人間の本性がそうなっています。 思春期に愛の感情に包まれてしまうと、世の中を見る目が曇って判断力を失ってしまいかねません。思春期の少女と少年が会って話をすれば、胸が高鳴りますが、そのようなとき、その心を神の基準に合わせなければ必ず悪の世界に染まるようになります。体 (肉欲) を制御する手段がなくなってしまうからです。心の目と体の目が一つになって動きます。愛の鼻を持てば、それまで嫌っていたにおいも好きになり、愛の口を持てば、それまで嫌っていた味も好きになります。夜通し愛の話を聞きたくなるし、愛する人にはしきりに触れてみたいと思うようになります。 思春期になると、心と体の細胞はすべての門を開こうとし、愛を喜んで迎え入れたくなります。愛には幸福感が伴いますが、だからといって、「しめた!」とばかりに無条件にその門に駆け込むと、大変なことになってしまいます。まだ門を開いてはならないのです。門を開くには時を待たなければなりません。時が来て初めて愛の門を開くことができます。時を知り、愛と性を正しく用いることを知るべきです。父母は、思春期の子供たちにこのようなことを正確に教えなければなりません。愛は神に似ていく過程であって、世の中で蔓延しているような自分勝手に楽しむものではありません。 4. 愛は与えて忘れなさい 家庭は、神が創造した最高の組織です。また、人類が互いに愛し、平和に暮らすことを学ぶ愛の学校であり、世の中に平和の王宮を建てるための訓練道場です。為に生きる夫と為に生きる妻として、そして永遠の愛の道を行くための夫婦として、その責任を学ぶところです。家庭は世界平和のためのべースキャンプなので、息子・娘が「お父さんとお母さんが喧嘩する姿を、生涯一度も見たことがない」と言うようにならなければなりません。 人生を歩んでいけば、ありとあらゆることをすべて経験するようになるものです。いくら仲の良い夫婦でも、一緒に暮らしていれば、互いに小言も言い、怒鳴ることもありますが、子供たちが入ってきたら、ぴたっと止めなければなりません。いくら腹の立つことがあっても、子供たちに接するときだけは、穏やかにしなければなりません。子供たちが、「わが家はとても和気藹々としていて、お父さんとお母さんは本当に仲が良い」と思って育つようにしなければならないのです。 父母は、子供たちにとって第二の神様です。「神様が好きか?お父さんとお母さんが好きか?」と尋ねて、「お父さんとお母さんが好きです」と答えたら、それはすなわち「神様も好きだ」という意味です。教育の最も大事な部分を担っているのが家庭です。幸福も平和も、家庭の外にはありません。家庭こそが天国です。いくら莫大なお金と名誉を持ち、世界をすべて手に入れたとしても、健全な家庭を築くことができなければ、その人は不幸です。家庭は天国の出発点だからです。夫婦が真実の愛で結ばれ、理想的な家庭が築かれたら、宇宙と直接連結されます。 ダンベリー刑務所にいたとき、面白い光景を見ました。テニスコートを造るために、毎日坂道をブルドーザーでならす作業をしていました。雨が降り出すと作業を止め、晴れの日になるとまた作業を始めるということの繰り返しで、これが数カ月続きました。しばらくの問、雨ばかりで仕事ができず、ようやく二十日目になって、再び作業するために出て行った日のことです。水草のある所に水鳥が巣を作っていました。囚人たちの運動用の歩道から数メートルも離れていない所でした。 最初は、水鳥がいることも知りませんでした。完壁といってよいほどの保護色で、水鳥の羽毛が水草そっくりに見えました。卵を産んで、初めてそこにいることが分かったのです。水鳥はしっかりしゃがみ込んだまま、黒い砂利石のような卵を抱えていました。雛が卵を割って出てくると、母鳥が餌を取ってきて雛たちの口に入れていました。ところが、餌をくわえてきた母鳥は、雛がいる巣まで絶対に一度で飛んでいきません。巣から少し離れた所に降り、そこから歩いて雛のいる所に近づいていきます。それも、毎回、違う方向から歩いていきます。雛がいる巣の位置を誰にも知られないようにする母鳥の知恵でした。 水鳥の雛たちは、母鳥が取ってきてくれる餌を食べてすくすくと育ちました。囚人たちが散歩をしていて巣のそばに近づくと、母鳥が飛んできて彼らを鋭いくちばしでつつきます。もしや自分の雛が傷つけられるのではないかと警戒するのです。 水鳥も父母の真の愛を知っていました。真の愛とは、自分の命までも捨てることができるものです。そこにはいかなる計算もありません。母鳥が命を捨ててまで雛を守ろうとするその心は、真の愛そのものです。父母はいくらつらくても愛の道を行きます。愛の前に自分の命を投げ出していくのが父母の心であり、真の愛です。 愛の本質とは何でしょうか。愛の本質とは、人に何かをしてもらおうとする思いを捨てて、人のために、全体のために先に与えて、為に生きることです。与えても、与えたという事実そのものを忘れてしまい、絶えず与えるのが愛です。それは、喜んで与える愛です。母親が子供を胸に抱いてお乳を与えるときに感じる喜びの心情がまさにそれです。 父母は、愛する子供のために骨身を削って苦労しながらも、疲れを知りません。それくらい子供を愛するからです。本当の愛は神様から始まり、また愛は父母から来るのです。ですから、父母が「おまえたちが互いに喜ぶのは、父母の恩徳によるものだ」と言えば、子供たちは「お父さんとお母さんが私をこのように育て、このような伴侶と出会わせてくれなければ、大変なことになるところでした」と答えなければならないのです。 家庭は愛の包みだと言うこともできます。天国に行ってその包みをほどいてみれば、その中から良いお父さんとお母さんが飛び出してきます。美しい子供たちが飛び出してきます。慈愛に満ちたお祖父さんとお祖母さんが飛び出してきます。一人一人が愛の包みに包まれている所が家庭です。家庭は神の理想が実現する空間であり、神がなさることの完成した姿を見ることのできる場所です。神の御旨は、愛が実現する世界をつくることであり、家庭は神の愛が満ちあふれた所です。 家族とは、言葉にしただけで自然と口元から笑みがこぼれる存在です。家庭には、心から私のためにしてくれる真の愛が満ちあふれているからです。真の愛は、愛を与え、そして愛を与えたことさえ忘れてしまうものです。父母が子供のために生きる愛、祖父母が孫に与える愛が真の愛です。国のために命を捧げることもまた、真の愛です。 5. 天国の礎は平和な家庭 西洋の人たちは、本当に孤独に生きていきます。子供たちは十八歳になれば家を離れ、クリスマスの時などにちょっと顔を見せればそれで終わりです。両親を訪ねていって安否を気遣うこともあまりありません。結婚すれば完全に独立して暮らし、一人で生活できないくらい年を取ると療養所に行きます。そんな状況なので、西洋の老人は東洋の文化を羨ましく思っています。「東洋の人たちは、お祖父さんとお祖母さんを一家の長として敬い、一緒に暮らすので、本当に見ていてよいですね。子供たちが年老いた両親を養い……。それでこそ人として生き甲斐があるというものです。療養所で横になって、子供の顔も見ることができずに、歳月が過ぎていくのも分からないまま生き長らえて何をするというのですか」と嘆く老人が一人や二人ではありません。 ところが、西洋の老人がそれほど羨む東洋的な家庭観がだんだんと崩れていっています。いつからか始まった西洋ブームのために、数千年続いてきた私たちの伝統を自ら投げ捨てたのです。私たちの服を捨て、私たちの食べ物を捨て、私たちの家庭を捨てました。年末になると、隣人助け合い運動の放送番組では、毎年増えていく独り暮らしの老人の人数が発表されます。そのようなニュースを見るたびに、残念な気持ちを抑えることができません。家庭は家族が一緒に集まって暮らす所です。家族がばらばらに別れて一人になってしまえば、それはすでに家族ではありません。大家族制度は韓国の美しい文化です。 私は、三代が一緒に暮らす家庭を勧めています。韓国の伝統を守るためだけではありません。夫婦が結婚して貴い子供を生めば、親は子供にすべての物を譲りますが、譲れるものには限界があります。父母は現在を、子供は未来を象徴します。祖父母は過去の歴史を代表します。したがって、祖父母と父母と子供が一緒に暮らしてこそ、子供は過去と現在の両方の運勢をすべて譲り受けることができるのです。祖父母を愛し、尊敬することは、過去の歴史を受け継いで、過去の世界を学ぶことです。子供は父母から現在を生きる貴い知恵を学び、父母は子供を愛して未来に備えるのです。 お祖父さんは神様の代身の立場です。いくら賢い青年でも、広い世の中の秘密をすべて知ることはできません。人が年を取って自然に悟るようになるあらゆる人生の秘密を、若い人はまだ知りません。お祖父さんが家庭の歴史になる理由がまさにここにあります。お祖父さんは、長きにわたって自ら経験して悟った生きた知恵を、孫に伝達する貴い師です。 世の中で最も年を取ったお祖父さんはまさしく神様の立場です。ですから、お祖父さんの愛を受け、またお祖父さんのために生きる人生は、神の愛を悟って、神のために生きる人生ということができます。このような伝統を守ってこそ、神の国の秘密倉庫の扉を開けて、愛の宝をもらうことができるのです。年を取った人を無視することは、その国の国民性を捨てることであり、民族の根を無視することと同じです。 秋になれば、栗の木はだんだんと水分がなくなり、葉が落ちます。栗の毬も殻が剥がれ、栗の実を包んだ内皮も乾いてしまいます。これがほかでもない生命の循環です。人もこれと同じで、赤ん坊として生まれ、父母の愛を受けて育ち、良い配偶者と出会って結婚します。これらすべてが愛によってなされる生命の輪です。そして、年を取れば、乾いた栗の毬のようになっていきます。私たち全員が同じです。老人は他にいるのではなく、年を取れば私たち全員が老人になります。それを考えたら、いくらもうろくした老人だとしても、いい加減に接してはいけません。 「家和して万事成る」という言葉を覚えておくべきです。家庭が平和であれば、すべてのことがうまくいくという意味です。平和な家庭は天国の基礎であり、家庭の原動力は愛です。家庭を愛するように宇宙を愛すれば、どこへ行っても歓迎されるようになります。神様は、宇宙全体の父母として愛の真ん中にいらっしゃるのです。したがって、愛にあふれた家庭は、神様にまで一潟千里で通じるようになります。家庭が愛によって完成してこそ宇宙が完成するのです。 6. 凍りついた舅の心を溶かした十年の涙 「日本人の嫁が密陽の孝婦(孝行心の厚い嫁)になった」という記事が、韓国のさまざまな日刊紙に一斉に載ったことがありました。宗教団体の紹介で家族の反対を押し切って韓国に嫁いできた日本人の嫁が、体の不自由な姑と年老いた舅を真心を込めて奉養し、周囲の人たちの推薦で親孝行賞(慶尚南道密陽市)を受けたという内容です。彼女は結婚した翌日から、身体障害二級で下半身不随の姑を背負って病院を転々としながら看病を始めました。舅と姑の世話をするために一度も心置きなく帰国できなかった彼女は、当然の責務を果たしただけだと、親孝行賞をもらったことに対してかえって心苦しく思ったそうです。 その日本人の嫁は、私たちの教会の「交叉祝福」を通して韓国に来た八島和子です。交叉祝福とは、宗教、国家、人種を超越して、男女が結婚で結ばれることを意味します。農村に行けば、結婚できない青年たちがあふれています。交叉祝福で韓国の農村の青年たちと結婚した新婦たちは、どのような条件も付けずに韓国に来て夫に会い、家庭を築いて暮らしています。また、病気の舅や姑を助け、挫折していた夫を励まし、子供を生んで育てます。彼女たちは、韓国人が暮らすのが大変だからと離れてしまった農村を守り、生き返らせています。どれほどありがたく、貴いことでしょうか。このように高貴なことが、すでに三十年以上続いてきました。 今まで交叉祝福を通して韓国に定着した外国の女性たちは、数千人を超えます。若者たちが皆出て行って、これまで赤ん坊の泣き声を聞くことができなかった村の年寄りたちは、彼女たちが生んだ子供を自分の孫が生まれたかのように喜んで迎えます。忠清道のある地域の小学校は、全校生徒八十人中、半分以上が交叉祝福で結ばれた私たちの教会の信徒の二世だそうです。その学校の校長は、これ以上生徒の人数が減れば学校を閉鎖しなければならないと、私たちの教会の信徒たちが他の地域に引っ越していかないように毎日祈っています。今、韓国では、交叉祝福で生まれた子供たち二万人以上が初等教育を受けています。 最近も、八月十五日の光復節になると、「日本人が犯した罪を謝罪します」と言って頭を下げる、特別な日本人の姿がテレビニュースに登場します。自分が直接犯した罪ではないのに、先祖が犯した罪を代わりに謝罪するのです。彼らもやはり、十中八九、交叉祝福を通して国家間の障壁を崩した私たちの教会の信徒です。彼らのおかげで、日本を怨讐 (深い怨みのあるかたき、敵) のように思っていた私たちの心の壁を大きく崩すことができました。 私によく従ってきたとても英明な青年がいました。結婚の時が来て、一九八八年に配偶者を求めたところ、相手は日本の女性でした。青年の父親は「よりによって日本人を嫁に迎えなければならないとは……」と言葉を失ったそうです。彼は、日本の統治時代に徴用で連れていかれ、岩手の炭鉱で強制労働に従事した人でした。仕事がとてもつらく、死を覚悟して炭鉱を脱出した彼は、下関まで数十日かけて歩いていき、釜山行きの船に乗ってようやく故国に戻ってきました。ですから、日本に対する憎悪は天にも届くかと思われるほどでした。 「このとんでもない親不孝者め!わが家の族譜からすぐに抜いてしまおう。わが家には一歩たりとも怨讐の国の女を入れることはできない。すぐに連れて消えてしまえ!おまえとは意見が合わん。家を出ようが死のうが、おまえの勝手にしろ!」 父親の態度は強硬でした。しかし、青年は自らの意志を貫き、日本人女性と結婚した後、楽安 (全羅南道) にある故郷の家に新婦を連れていきました。父親は門も開けてくれませんでした。渋々二人の結婚を受け入れた後も、嫁に対するいじめは続きました。嫁がつらそうにしていると、「おまえたちが私にしたことに比べれば、このくらいは何でもない。こうなることも分からずに、この家に嫁に来たのか」と叱責しました。 また、舅は、名節 (正月や秋夕など韓国の伝統的な祝日のこと) で家族が集まるたびに、日本の嫁をそばに座らせて、岩手炭鉱時代の話を繰り返し聞かせました。そのたびに嫁は、「お父さん。私が日本の代わりに謝罪します。申し訳ありませんでした」と涙を流して許しを請いました。日本の嫁は、舅の心の怨みがなくなるまで、幾度となく繰り返される話を最後まで聞いて、何度も頭を下げました。 そうやって十年くらい経って、ようやく舅は嫁に対するいじめを止めました。怨讐に対するような冷たい態度が消え、嫁をかわいがるようになったので、驚いた家族が尋ねました。 「最近、嫁のことをどうしてあんなにかわいがるのですか。日本の女性なのに憎くないのですか」 「もう憎くはない。心の中に積もり積もった怨みはすべてなくなった。これまでだって嫁を憎んでいたわけではないのだ。徴用された時の怨みを嫁にぶつけていただけだ。この子のおかげで私の怨みがすべて解けた。これからは、私の嫁だからかわいがらなくては」 日本人が犯した罪を日本女性の嫁が代わりに償ったのです。人類が平和世界に向かう贖罪の道とはこのようなものです。 7. 結婚の真の意味 理想的な平和世界を成し遂げようとするとき、交叉祝福より早い道はありません。他の方法では時間がどのくらいかかるか計算もできないことが、交叉祝福によって、二、三世代経てば奇跡のように成し遂げられます。ですから、平和世界が少しでも早く訪れるよう、国境を超えてお互いに怨讐と思っている国の人どうしで結婚しなければなりません。結婚する前は「あの国の人は見るのも嫌だ1」と言いますが、その国の人が夫になり妻になれば、半分はもうその国の人になって、あらゆる憎しみが、雪が解けるように消えていきます。そのように二代、三代とそれを維持していけば、憎しみは完全に、根こそぎなくなります。 交叉祝福は、国家を超えた結婚ばかりを言うのではありません。宗派が異なる人たちを結婚させることも、国境を崩すことと同じくらい重要なことです。実際、国境を超えることよりもさらに難しいのが異なる宗派間の結婚です。しかし、紛争を抱えた宗派どうしも、結婚をすれば、宗派を超えて融和するようになります。交叉祝福で結婚すれば、お互いにそれまで生きてきた文化が違うと門に固く鑑をかけるようなことはしません。白人と黒人が結婚し、日本人が韓国人と結婚し、またアフリカ人とも結婚します。そうやって交叉祝福で結婚する人数が百万を超え、一千万を超えて、広がっていくのです。交叉祝福を通して完全に新しい血統が生まれています。白人と黄色人と黒人を超える完全に新しい人間が誕生するのです。 若者たちに結婚の神聖な意味と価値を教えることは、何よりも大切です。今韓国は、世界で最も出生率が低い国の一つです。子供を生まないのは危険なことです。子孫が途絶えた国には未来がありません。私は若者たちに、純潔な青少年期を経て神の祝福を受ける結婚をした後に、子供を最小限三人以上は生んで育てなさいと教えています。子供は神様が下さる祝福です。子供を生み育てることは、天の国の市民を育てることです。ですから、若い時期に性的に乱れた生活をしながら自分勝手に堕胎するのは大きな罪です。 結婚は、私のためではなく相手のためにするものです。結婚するとき、立派な人やきれいな人ばかりを追い求めるのは間違った考えです。人間は、人のために生きなければなりません。結婚するときも、その原則を忘れてはいけません。いくら愚かな人でも、美人よりもっと愛そうという心で結婚しなければなりません。福の中で最も貴い福は神の愛です。結婚は、その福を受けて実践することです。その貴い御旨を理解して、真の愛の中で結婚生活をし、真の家庭を築かなければなりません。 世界平和は、その言葉どおりに雄大なものではありません。家庭が平和であってこそ社会が平和になり、国家間の葛藤が消え、それがあってこそ世界平和への道が開かれます。ですから、完全な家庭こそが重要であり、家庭の責任はそのくらい大きいのです。「私さえ幸せに暮らせばよい、私の家庭さえ守ればよい」という言葉は、私の辞書にはありません。 結婚は二人がするものですが、実際には二つの家系が因縁を結ぶことであり、さらには、二つの氏族、二つの国が融和することです。異なる相手の文化を受け入れ、歴史の中で生じた怨恨を克服して一つになっていきます。韓国人が日本人と結婚すれば、韓国と日本が融和するのであり、白人と黒人が結婚すれば、白人種と黒人種が融和するのです。また、彼らが生む子供たちは、二つの民族の血を同時に受け継いだ融和の人間であり、白人と黒人を超える新しい人種の出発点になります。このようにして数世代が経てば、国家や人種間の分裂や反目がなくなり、全人類が一つの家族となって、平和な世界をつくることができるのです。 韓国でも、最近になって外国人との結婚が増え、国籍と宗教が異なる人たちが出会い、家庭を築くことが増えてきました。新しい言葉で「多文化家庭」と呼ばれています。互いに異なる環境で成長した男女が家庭を持ち、仲良く暮らすことは、それほど簡単ではありません。さらに、韓国のような単一文化圏で国際結婚した夫婦が幸せに暮らすためには、お互いを理解し大切にする努力がより多く必要になります。交叉祝福で結婚した私たちの信徒が、異文化の配偶者と愛を分かち合い、結婚生活を成功させることができるのは、神様を中心に結ばれたからです。 多文化家庭がきちんと定着できるよう、地域の社会団体では、韓国語も教え、私たちの文化を紹介するプログラムも運営しています。しかし、結婚に対する考えが変わらない限り、そのような努力は何の役にも立ちません。「私がなぜこの男性と結婚したのか。この男性と結婚していなければ、私の人生はもっと良かったのに……」という心を持っていたら、結婚生活は地獄と同じです。韓国語と韓国文化を教えることよりも先にやるべきは、結婚を正しく理解することです。 結婚は、ただ婚期が来た男女が出会って一緒に暮らすことではありません。結婚は犠牲の上に成り立ちます。男性は女性のために生き、女性は男性のために生きなければなりません。私の利己心がすべて消えるときまで、絶えず相手のために生きなければなりません。そのように犠牲になる心が愛です。女性と男性が出会って、楽しくて良いものが愛ではなく、命を捧げることが愛です。そのような覚悟をした後に結婚しなければならないのです。 8. 真の愛は真の家庭から 男女がいくら愛し合っても、幸福な家庭を完成させるには、必ず家庭の囲いとなる父母がいて、大切にする子供がいなければなりません。家族という囲いがしっかりしているとき、その家庭は初めて幸福になります。いくら大きな社会的成功を収めたとしても、家族の囲いが崩れてしまえば不幸になってしまいます。 愛の土台となるのは、お互いがお互いのためにすべてのものを捧げる犠牲の心です。父母の愛が真の愛であるのは、持っているものをすべて与えても、もっと与えたいと思う愛だからです。子供を愛する父母は、与えたことを覚えていません。「おまえには、何月何日にゴム靴を買ってやり、服も買ってやった。おまえのためにこれまでさんざん苦労したが、その代価はいくらだ」と帳簿に書いておく父母は一人もいません。かえって、自分が持っているものをすべて与えても、「これ以上与えることができなくて本当に済まない」と言うのが父母です。 幼い頃、養蜂をしていた父に付いて回り、ミツバチが遊ぶ様子をたくさん見ました。花畑を飛び回っていたミツバチが蜜の匂いを嗅ぐと、花びらにしっかりと足をつけ、尻尾を後にしたまま口を雄しべと雌しべに差して蜜を吸います。その時、ミツバチに近づいて、尻尾をつまんで引き抜いても蜜から離れません。命がけで蜜を守るのです。 家庭を持って暮らす父母の愛はまさにこのミツバチと同じです。自分の命が尽きても、子供に対する愛の紐を放しません。子供のために命を捨て、さらには命を捨てたことさえ忘れるのが父母の真の愛です。いくら道が遠く険しくても、父母は喜んでその道を行きます。父母の愛は、世の中で最も偉大な愛です。 いくら良い家で山海の珍味を食べて暮らしても、父母がいなければ心ががらんと空いてしまいます。父母の愛を受けられずに育った人の心の中には、他のどんなものでも満たすことのできない孤独と寂しさが隠れています。家庭は父母の真の愛を受けて愛を学ぶ所です。幼少期に愛されなかった子供たちは、生涯愛に飢え、情緒的な苦痛を受けるだけでなく、家庭や社会のために当然すべきことがあるという高い道徳的な義務を学ぶ機会を失ってしまいます。その意味で、真の愛は、家庭以外の他の場所では決して学ぶことができない価値だといえます。 真の家庭は、夫と妻、父母と子女、兄弟姉妹がお互いに為に生きて愛する所です。さらには、夫は妻を神様のように愛し、妻は夫を神様のように尊敬する所です。夫は父の代身であり兄の代身なので、血のつながった父を捨てることができず、また兄を捨てることができないように、夫を捨てることはできないのです。妻もやはり同じです。ですから、「離婚」という言葉はあり得ません。このようにお互いを絶対的な存在として暮らす所が、真実の愛にあふれた真の家庭です。 お互いに異なる人種と文化的背景を持つ夫婦だとしても、神様の愛を受けて家庭を持ったのなら、彼らの間に生まれた子供たちの間で文化的葛藤というものはあり得ません。その子供たちは、父母を愛する心で母の国と父の国の文化と伝統をすべて愛して大切にするのです。したがって、多文化家庭の葛藤の解決は、どのような知識を教えるかではなく、その父母が真の愛で子供を愛するかどうかにかかっています。父母の愛は、子供の肉と骨の中に露のように入り込んで、母の国と父の国を一つのものとして受け入れさせ、子供が立派な世界人として育つようにする肥料となります。 家庭というのは、人類愛を学び教える学校です。父母の温かい愛を受けて育った子供は、外に出ていけば、家で学んだとおりに、困っている人を愛の心で助けるでしょう。また、兄弟姉妹の間で情け深い愛を分かち合って育った子供は、社会に出て隣人と厚い情を分かち合って生きていくでしょう。愛で養育された人は、世の中のどんな人でも家族のように思うものです。自分の家族のように思って人に仕え、人に自分のものを分けてあげる愛の心は、真の家庭から始まります。 家庭が大切なのは、もう一つ理由があります。家庭は世界に拡大するからです。真の家庭は、真の社会、真の国家、真の世界の始まりであり、平和世界、神の国の出発点です。父母は、息子・娘のために骨が溶けてなくなるほど働きます。しかし、単純に自分の子供にばかり食べさせようと働くのではありません。あふれるほど愛を受けた人は、人のために、神様のために働くことができます。 家庭は、あふれるほど愛を与え、また与える所です。家庭は、家族を包む囲いであって、愛を閉じ込める所ではありません。かえって家庭の愛は、外にあふれ出て、絶えず流れていかなければなりません。いくら愛があふれ出ても、家庭の愛は渇くことがありません。神様から受けたものだからです。神様から与えられた愛は、いくら掘り出しても底が見えない愛、いや掘れば掘るほどもっと澄んだ泉があふれ出てくる、そのような愛です。その愛を受けて育った人は、誰でも真の人生を生きることができるのです。 9. 愛の墓を残して旅立つ人生 真の人生は、個人の私的な欲心を捨てて、公益のために生きる人生です。これは孔子やイエス、釈迦やムハンマドなど、世界的な宗教指導者であれば誰もが語る、古今東西の真理です。この真理は、誰もが知っていて、あまりにもありふれているので、かえってその価値を見失いがちです。しかし、いくら歳月が過ぎ、世の中が変わっても、この真理だけは変わりません。世界がいくら急速に変わったとしても、人が生きていく本質は変わることがないからです。 自分の最も親しい先生は自分の良心です。最も親しい友人よりも貴く、父母よりも貴いものが自分の良心です。ですから、一生を生きていきながら、最も親しい先生であるこの「良心」に、「私は今、正しく生きているか?」といつも尋ねなければなりません。良心が自分の主人だという事実を悟り、心を磨き、生涯親しく過ごしてみれば、誰もが良心の声を聞くことができます。良心が涙をぽろぽろ流して泣く声を聞いたら、その時にしていることはすぐ止めなければなりません。良心を苦しめることは、自らを滅ぼすことだからです。良心を悲しませることは、結局、自らを悲しみに陥れることです。 心を明るくし、清めようとすれば、世の中と離れて、私と私の心、この二つだけが対面する時間が必ず必要です。とても孤独な時間ではありますが、心と親しくなる瞬間こそ、私自身が心の主人になる祈りの場であり、瞑想の時間です。周囲の騒々しさを退けて、心を静めていけば、心の中の最も深い所が見えてきます。心が落ち着くその深い場所まで降りていくためには、多くの時間と労力を注がなければなりません。一日でできることはありません。 愛が自分のためのものではないように、幸福と平和も自分のためのものではありません。相手のいない愛がないように、相手のいない理想と幸福、平和もありません。これらすべては、人との関係から始まるものです。一人で愛してできることは何もなく、一人で立派な理想を夢見て成し遂げられるものは何もありません。一人では、幸福になることも、平和を語ることもできません。必ず相手がいなければならないということは、私よりもその相手がより大切だという意味です。 幼い子供を背負った母親が、人々が行き交う地下鉄の入り口にしゃがみこんで海苔巻を売る姿を見たことがあるでしょう。朝の出勤時間に合わせて海苔巻を売ろうと、その母親は夜中までかかって海苔巻を作り、だだをこねる赤ん坊まで背負って出てきました。通り過ぎる人々は何気なく、「ああ、あの赤ん坊さえいなければ楽に暮らせるのに……」と言いますが、実際には、その母親は赤ん坊のために生きているのです。母親の背中でだだをこねる赤ん坊が、その母にとって生命線なのです。 「人生八十年」と言います。喜怒哀楽が入り乱れる八十年という歳月は、本当に長く見えますが、その中で、眠る時間、生活の資を得る時間、遊ぶ時間、諸々の雑事に追われる時間などを除外すれば、わずか七年しか残らないといいます。私たちがこの世に生まれて八十年を生きても、本当に自分自身のために使える時間はわずか七年だけです。 人生はゴム紐と同じです。誰にも等しく与えられた七年が、ある人には七日だけ使われ、ある人には七十年分にも使われることがあります。時間はもともと空いていて、私たちがその中を満たしていくのです。人生も同じです。生きていれば、誰でも安らかな寝床と裕福な食卓を願わない人はいないと思いますが、食べることや眠ることは、それだけでは時間を浪費しているにすぎません。自分の命が尽きて体が地の中に埋められる瞬間、生涯の富と栄華は一度に泡となって消えてしまいます。その人が自分の自由に使った七年の時間だけが残り、後代の人たちに記憶されます。その七年の歳月だけが、八十年の生涯を生きて自分がこの世に残す痕跡なのです。 人が生まれて死ぬことは、自分の意志によるものではありません。人は、自分の運命に対して何も選択することができません。生まれても自分が生まれようとして生まれたのではなく、生きていても自分の思いどおりに生きることができるわけでもなく、死ぬとしても自分が死のうと思って死ぬのではありません。このように、人生において何の権限もないのに、自分は優れていると誇れるものがあるでしょうか。自分自身が生まれたいと思っても生まれることもできず、自分だけの何かを最後まで持つこともできず、死の道を避けることもできない人生ですから、誇ってみても侘しいだけです。 人よりも高い位置に上がったとしても、一瞬の栄華にすぎず、人よりもたくさんの財物を集めたとしても、死の門の前では一切合財捨てて行かなければなりません。お金や名誉や学識、そのすべてが時と共に流れていってしまい、歳月が過ぎればすべてなくなってしまいます。いくら立派で偉大な人だとしても、命が尽きた瞬間に終わってしまう哀れな命にすぎません。自分とは何か、自分がなぜ生きなければならないのかを、いくら考えても分からないのが人間です。したがって、自分が生まれた動機と目的が自分によるものではないように、自分が生きるべき目的も、やはり自分のためではないことを悟らなければなりません。 ですから、人生いかに生きるべきか、ということに対する答えは簡単です。愛によって生まれたのですから、愛の道を求めて生きなければなりません。父母の果てしなく深い愛を受けて生まれた命なので、生涯その愛を返して生きなければならないのです。それこそが、私たちが人生において自らの意志で選択できる唯一の価値です。私たちに与えられた七年という時間の中に、どれほど多くの愛を満たしたか、ここに人生の勝敗がかかっています。 誰でも一度は肉身という服を脱いで死にます。韓国語では、死ぬことは「トラガダ」と言います。「トラガダ」という言葉は、もともと出発した所、すなわち根本に再び戻るという意味です。私たちが生きているこの宇宙のすべての活動は循環しています。山に積もった白い雪が解け、渓谷を流れ下って川の流れとなり、海へと流れ出ていきます。海に流れ込んでいった白い雪は、暖かい太陽の光を浴びて水蒸気となり、再び空に昇って雪や雨の滴になる準備をします。そのように、本来いた所に帰るのが死です。人が死んで帰る所はどこでしょうか。心と体から成る人の命から体を脱ぎ捨てるのが死なので、本来、心がいた所に帰るのです。 死を語らないまま生を語ることはできません。生の意味を知るためにも、私たちは死とは何かを正確に知らなければなりません。どのような生が本当に価値あるものなのかということは、今すぐにでも死ぬかもしれない窮地に追い込まれ、一日でも長く生きようと天にすがりついて泣き喚く、そのような人こそが知り得るものです。それほど貴い一日一日を、私たちはどのように生きればよいのでしょうか。誰もが渡っていかなければならない死の境界を越える前に、必ず成し遂げておくべきことは何でしょうか。 最も大切なことは、罪を犯さず、影のない人生を生きることです。何が罪なのかという問題は、宗教的に、また哲学的に多くの論争の種になりますが、はっきりしていることは良心が躊躇することをしてはならないという事実です。良心に引っ掛かることをすれば、必ず心に影が残るのです。 その次に大切なことは、人よりもっと多くの仕事をすることです。人に与えられた人生が六十年であれ七十年であれ、時間が限られていることに変わりはありません。その時間をどのように使うかによって、普通の人の二倍にも三倍にもなる豊かな人生を生きることができます。時間を必要度に応じて細かく刻み、一瞬でも無駄に使わずに一生懸命働けば、その人生は本当に貴いものになります。人が一本の木を植えるとき、自分は二本、三本の木を植えるのだ、という勤勉で誠実な姿勢を持って生きるべきです。自分のためにそのように生きよと言うのではありません。自分よりも人のために、自分の家庭よりも隣人のために、自分の国よりも世界のために生きなければなりません。世の中の大概の罪は、「個人」を優先するときに生じます。個人の欲心、個人の欲望が隣人に被害を与え、社会を滅ぼすのです。 世の中のあらゆるものは通り過ぎていってしまいます。愛する父母、愛する夫と妻、愛する子供も通り過ぎていってしまい、人生の最後に残るのは死だけです。人が死ねば墓だけが残ります。その墓の中に何を入れれば価値のある人生を生きたと言えるのでしょうか。生涯かけて集めた財産や社会的な地位は、すでに通り過ぎてしまった後です。死の川を渡っていけば、そのようなものは何の意味もありません。愛の中に生まれ、愛の人生を生きたのですから、生を終える墓の中に残るものも愛だけです。愛によって生まれた命が、愛を分かち合って生き、愛の中に帰っていくのが私たちの人生なので、私たちは皆、愛の墓を残して旅立つ人生を生きなければなりません。 【第六章 愛は統一を導く――冷戦終焉・宗教融和】 1. 人を善にする宗教の力 一九九〇年八月二日、イラクのフセインがクウェートを武力侵攻しました。「中東の火薬庫」と呼ばれるペルシャ湾に戦争が勃発したのです。全世界が戦争の渦の中に巻き込まれていくとき、私は「キリスト教の指導者とイスラーム (イスラム教) の指導者に会って、この戦いを止めなければならない」と考え、すぐに双方に連絡を取りました。その地が韓国と何の関係もないとしても、罪のない人が命を失う戦争は、全力を尽くして止めなければなりません。 イラクの侵攻が始まると、直ちに私たちの教会の食口(家族の意。教会の信徒を、親しみを込めてこう呼ぶ) を中東に送り、各宗教の指導者たちを集め、中東会談を提案しました。中東地域と特に関係のない私が出ていって会談を提案した理由は、宗教人であれば当然世界平和のために奉仕しなければならないという使命感のためでした。キリスト教とイスラームの争いは、共産主義と民主主義の紛争と比べられるものではありません。宗教戦争よりも恐ろしいものはないのです。 私はブッシュ米大統領 (在任一九八九~一九九三) に、 絶対にアラブ圏と戦争を起こしてはいけないと何度も繰り返し伝えました。ブッシュ大統領はイラクを相手に戦争しようと考えるかもしれませんが、彼らは国の上に宗教があるのです。したがって、イラクが攻撃を受ければ、ずべてのアラブ圏が団結するようになります。それで、イラクがクウェートを侵攻すると、すぐにシリア、イエメンの宗教指導者を集めて、ブッシュと絶対に戦争をしてはいけないという趣旨の緊急会議を開きました。アメリカが勝とうとイラクが勝とうと、爆弾を浴びせて家や野原や山を崩し、貴い命が血を流して死んでいくとすれば、何の意味があるでしょうか。 中東地域に危機の兆候が見えるたびに、私たちの食口は、全世界の有名なNGO(非政府組織)と共に命をかけてイスラエルとパレスチナを訪ねていきます。いつ、どこで、どのように死ぬか分からない所に食口たちを送り出すのは心安らかではありません。ブラジルの熱い日ざしの下で畑を耕していても、アフリカの難民村を訪問していても、私の心は中東の火薬庫に飛び込んでいった食口たちに向かっています。そして、一日も早く世界に平和が定着し、彼らを死地に送り出さなくても済む日が来るようにと祈ります。 二〇〇一年、ニューヨークの世界貿易センタービルが崩壊する青天の霹靂のような事件が起きました。世の中では、これをイスラームとキリスト教の間に必然的に起きる文明の衝突だと言います。しかし、イスラームとキリスト教は、衝突と対立の宗教ではありません。両方とも平和を重視する宗教です。イスラーム勢力は過激だという考えが偏見であるように、イスラームとキリスト教は異なるものだという考えも偏見にすぎません。宗教の本質は同じです。 一九九一年、私たちは、全世界の宗教学者四十数人を集め、『世界経典』 (Wilson, Andrew, ed. World Scripture: A Comparative Anthology of Sacred Texts, Paragon House, 1991) を編纂しました。『世界経典』は、キリスト教とイスラーム、仏教をはじめとする世界の主要な宗教の経典に登場する言葉を、テーマごとに比較、研究し、まとめたものです。ところで、作業を終えてみると、そのたくさんの宗教の教えの中で、約七割は同じことを言っていました。残りの三割だけが、各宗教の特徴を表す言葉でした。 これは、全世界の宗教の七割は同一の教えを伝えていることを意味します。ターバンを巻く、念珠を首にかける、十字架を前に掲げる、などその外見は違いますが、宇宙の根本を求め、創造主の御旨を推し量ろうとする点では、すべて同じです。 人は趣味が同じだけでも良い友人になります。生まれた故郷が同じというだけでも、数十年を共に過ごした間柄のように話が通じます。ところが、実に教えの七割も同じ宗教どうしが、互いに話が通じないというのは本当に残念なことです。互いに通じることを話し、手を結べばよいのに、お互いに異なるところばかりを指摘して批判しています。世の中のすべての宗教は平和と愛を語ります。ところが、まさにその平和と愛をめぐって争いを起こしているのです。イスラエルは、パレスチナ人が暮らす場所に大規模爆撃を加えながら平和を主張します。パレスチナの子供たちが血を流して死んでいくのに、彼らは平和のための戦争だと言います。 イスラエルが信じるユダヤ教もやはり平和の宗教です。イスラームも同様です。『世界経典』を編纂しながら得た私たちの結論は、世界の宗教が間違っているのではなく、信仰の教え方が間違っていたという事実でした。誤った信仰は偏見を呼び、偏見は争いを呼びます。 九・一一テロ以降、テロリストの烙印を押された イスラームの人たちも、私たちと同じように平和を願う人たちです。長い間、パレスチナの指導者だったアラファト氏も、やはり平和を願う指導者でした。彼は、一九六九年にパレスチナ解放機構(PLO)の議長になった後、ガザ地区とヨルダン川西岸をパレスチナの独立国として宣布しました。一九九六年に選挙を通してパレスチナの自治政府議長(大統領)となった彼は、ハマスなどの過激派の活動を防ぎながら、中東の平和を目指そうとする努力を惜しみませんでした。中東問題が困難にぶつかるたびに、私たちは彼と直接接触 し、対話をしたことが十二回にもなります。 アラファト議長の執務室を訪ねていく道は厳重です。自動小銃で武装した物々しい警備兵たちの間を通り、少なくとも三回以上の身体チェックを経てようやく入っていくことができます。ターバンを何重にも巻いたアラファト議長は、私たちの食口に会うと、笑顔で「ウェルカム!」と挨拶をしてきます。そのような関係は、一日や二日で構築されたものではありません。それまで私たちが中東平和のために投入した真心は、とても言葉では表現できないほどでした。命がけで紛争地域に入っていって宗教指導者たちと信頼関係を結ぶまで、私たちは血のにじむような努力をしました。お金もたくさんかかり、苦労をたくさんしました。それでようやく私たちは、アラブとイスラエルの双方から信頼を得て、中東紛争が起きるたびに仲裁の役割ができるほどになったのです。 私が初めてエルサレムに足を踏み入れたのは一九六五年でした。当時は、「六日間戦争」 (第三次中東戦争のこと。一九六七年六月五~十日) が起きる前で、エルサレムの東地区がまだヨルダンの領土の時でした。私は、イエス様がピプトの裁判場に引き出される前に、血の汗を流して祈りを捧げたオリーブ山を訪ねました。そこには、すでに「万国民の教会」が建てられていました。私は、イエス様が祈る姿を見守って以来、二千年を経たオリーブの木を軽く撫でました。そして、その木にユダヤ教とキリスト教、イスラームを意味する三つの釘を打ち込み、彼らが一つになる日のために祈りを捧げました。ユダヤ教とキリスト教、イスラームが一つにならなければ、平和世界は決して目指すことができません。オリーブの木に打ち込まれた三つの釘は今も残っており、依然として平和世界ははるか彼方です。 世の中は、ユダヤ教とイスラーム、キリスト教に分かれて鋭く対立していますが、実際の根は一つです。問題は、イエス様をめぐる解釈です。 二〇〇三年五月十八日、アメリカの各教会で十字架を取り外す式典を行った牧師たち百三十二人がエルサレムに行き、イスカリオテのユダがイエス様を売り渡して得た銀貨三十枚で買ったという「血の畑」 (マタイによる福音書二七章八節) の地に、十字架を埋めました。そして、その年の十二月二十二日、宗教と教派を超越して全世界から集まった三千人以上の平和大使と、イスラエルとパレスチナの人たち一万七千人以上がエルサレムの独立公園に集まり、イエス様の頭から茨の冠を外して、平和の王冠を被せる儀式を行いました。そして、そこに集まった二万人以上の人たちが、共に宗教と宗派を離れて人類の平和のために行進しました。 その日、アラファト議長は、夜八時に合わせてパレスチナのすべての家の前に明かりを灯すようにさせて、私たちの平和大行進に深く関与しました。全世界にインターネットで生中継されたその日の行進を通して、イエス様は平和の王として復権されたのであり、お互いに反目していたキリスト教とユダヤ教、イスラームが和解する契機が与えられたのです。 エルサレムには、サウジアラビアのメッカとメディナに次ぐイスラーム第三の聖地である、岩のドームとアル=アクサ・モスクがあります。そこは、ムハンマドが昇天したといわれる場所で、イスラームの信者でなければ入れない所ですが、私たちにはその門を開いてくれました。彼らは、平和大行進を終えたキリスト教徒とユダヤ教の指導者を、寺院の奥まで案内しました。イスラームもやはり平和を愛する宗教です。私たちは、偏見と我執で固く閉じていたタブーの門を開き、イスラームとキリスト教、ユダヤ教が互いに意思疎通できる道を拓いたのです。 もちろん、人間は平和を好みますが、一方では、争いを好むこともあります。非常におとなしい牛を闘わせたり、鶏がとさかを逆立たせ、鋭いくちばしで柔らかい肉片を噛みちぎったりするのを見て楽しむのが人間です。それでいて、子供たちには「喧嘩をしないで仲良く遊びなさい」と言います。結局、戦争を起こす根本原因は、宗教や人種ではなく、人の心性です。すべてのことが人の問題です。現代人は、すべての紛争の原因を科学や経済の視点から捉えることを好みますが、本当の根本的な問題は人間自体にあるのです。 人を善にするもの、争いを好む人間の悪の本性をなくしてくれるもの、それが宗教です。世界のあらゆる宗教は、すべて平和な世界を理想としています。すべて天の国を願い、ユートピアを夢見て、極楽世界を念願しています。呼び名はそれぞれ違いますが、人間が夢見て願う世界はすべて同じです。この世界には数多くの宗教があり、その何倍も多い宗派がありますが、それらが願うことは一つです。それらが目指す目的地は天国であり、平和の世界です。人種と宗教の対立によってずたずたに引き裂かれた心を、きれいに治癒する温かい愛の国なのです。 2. 川は流れ込む水を拒まない 世の中に蔓延した利己主義は、その個人を滅ぼすだけでなく、他の人と民族の発展までも阻害してしまいます。人間の心の中にある貧欲さが平和世界に進む道において、最も大きな障害物になるのです。個人の貧欲さが民族の貧欲さに拡大し、貧欲さに染まった心が、人と人、民族と民族の問に分裂と紛争を引き起こします。歴史上、貧欲さのために起きた紛争によって、大勢の人たちが血を流して死んでいきました。 このような紛争をなくそうとすれば、世の中に流布する誤った価値観と思想を変える一大革命が起きなければなりません。私たちの社会の糸束のように絡まった複雑な諸問題は、そのような革命が起きれば、あっという問に解決されます。人と人が、民族と民族が、まず愛で相手に配慮し、協力すれば、現代社会の諸問題はことごとく解決するでしょう。 私は、生涯平和のために身を捧げてきました。平和という言葉を思い起こすだけで、今も喉が締め付けられて食べ物が通らず、目頭が熱くなります。世界が一つになって平和を享受する、その日を思い描いてみるだけでも、これ以上ない感動があります。平和とはそのようなものです。思想が違い、人種が違い、言葉が違う人たちを一つに連結することです。そのような世界を慕い、願う心です。平和は具体的な行動であって、漠然とした夢ではありません。 これまで平和運動に取り組んできたことは、簡単なことではありませんでした。苦難も多く、お金もたくさんかかりました。しかし、個人の名誉のためにしたのではありません。お金を稼こうとしたわけでもありません。すべての国・地域の人々に警告し、本当に平和が宿った世界が実現するよう、全力を尽くしただけです。この活動をしている間、私は孤独ではありませんでした。世の中の人たちの願うことが、結局はすべて平和に帰着するからです。しかし、不思議なものです。ありとあらゆる人がそれほど願っているのに、平和はいまだに訪れていないのです。 平和を口で語るのは簡単です。しかし、平和を呼び込むのは簡単ではありません。人々が、平和な世界を築く際に最も必要とされる真理を避けて、知らないふりをするからです。人との平和、民族間の平和を語る前に、私たちは神との平和を語らなければなりません。 最近の宗教は、自分の教派だけが一番と考え、他の宗教は無視して排斥します。他の宗教や教派に対して壁を積み上げることは正しくないことです。宗教とは、平和の理想世界を求めていく巨大な川と同じです。川は広々とした平和世界に至るまで、ずっと流れていきながら、たくさんの支流と出会います。本流に合流した支流は、その時からは支流ではなくて本流です。そのように一つになるのです。 本流の川は、流れ込んでくる支流を追い出さず、すべて受け入れます。そのたくさんの支流をすべて抱きかかえ、同じ流れとなって海に向かいます。世の中の人たちは、この簡単な原理を知りません。本流の川を求めて流れ込む支流が、この世の中の数多くある宗教と宗派です。泉が湧いて流れ始めた根本はそれぞれ異なりますが、求めていく所は同じです。平和に満ちた理想世界を求めていくのです。 宗教の問に立ちふさがる壁を崩さなければ、絶対にこの地上に平和は訪れてきません。宗教は、すでに数千年の間、全世界の多くの民族と連合して大きくなってきたので、文化的垣根が非常に高く、それを崩してしまうことはとても大変なことです。それぞれ異なる宗教が高い壁の中で、自分だけが正しいと主張しながら数千年を経てきました。時には勢力を広げようと、他の宗教と対立して争うこともありました。神の御旨でもないことに、神の名を掲げたのです。 神の御旨は平和の実現にあります。国家と人種、宗教によって引き裂かれ、互いにけなし合い、争って血を流す世界は、神の願うものではありません。神の名を掲げて血を流し、互いに争う私たちは、神を苦しめてばかりいるのです。ずたずたに引き裂かれた世界はすべて、人々が自分の富と栄達のためにつくったものにすぎず、神のみ意にかなうものではありません。神は私にはっきりとそう語られました。私は神が語られたことをこの地上で実践する使者です。 宗教と人種を一つにする平和世界をつくるための道は、限りなく苦労の多いものでした。時には人に妨げられ、時には能力の壁にぶつかることがたくさんありましたが、私はその使命を捨てることはできませんでした。私と共に歩む食口や同僚が、あまりのつらさに弱音を吐くとき、かえって彼らを羨ましく思い、「皆さんは、歩んでいて嫌だと思えば戻ることもでき、やってできなければ死ぬこともできますが、私はそのようにすることもできないかわいそうな人です」と、彼らに向かって切々と訴えたこともありました。 私たちが生きている地球には二百余りの国があります。このたくさんの国が平和を享受しようとすれば、必ず宗教の力が必要です。宗教の力はあふれる愛にあります。私は愛を伝える宗教者なので、世界平和のために働くのは当然です。平和世界を築く上で、イスラームとキリスト教に違いはありません。私は、アメリカで教派に関係なく二万人以上の聖職者を集め、平和運動を展開しています。これを通してキリスト教とイスラーム、ユダヤ教、仏教が共に集まり、平和世界を目指す方法を議論し、人々のかたくなな心を変えることに全力を傾けています。私の目標は、きのうもきょうも、神を中心に一つの世界をつくることです。その国には神の主権だけがあります。全世界は一つの国土、一つの国民、一つの文化でまとまります。一つになった世界に分裂と争いがあるはずがなく、その時、初めて本当の意味での平和世界が開かれるのです。 3. 「ソ連の地に宗教の自由を許可しなさい」 ダーウィンの進化論は唯物思想に立脚していますが、精神は物質から生まれるという彼らの思想は、根っこから間違っています。人間は神が創造された被造物であり、すべての存在は精神と物質の両面を備えた統一体なので、共産主義の理論と思想は間違ったものです。それでも私は、日本留学時代に共産主義者と一緒に独立運動をしました。彼らもやはり祖国光復のために命を惜しまない良き友人でしたが、彼らと私は根本的に考えが違いました。したがって、私たちは、祖国光復が実現した後、それぞれの道を歩んでいかざるを得ませんでした。 私は共産主義の唯物史観に反対する者です。全世界的に勝共運動を展開し、共産主義国家ソ連の世界赤化戦略に立ち向かい、自由世界を守護しなければならないと、歴代のアメリカ大統領に直言してきました。私たちの運動を快く思わない共産国家は、私を亡き者にしようとテロを試みたりしましたが、私は彼らを憎んだり、敵と思ったりはしませんでした。私は共産主義の思想と理念に反対しているのであって、その人たちを憎んだのではありません。神様は共産主義者までも一つに抱きかかえることを願われる方です。 そのような意味で、冷戦時代の末期である一九九〇年四月に、ソ連のモスクワに入っていってゴルバチョフ大統領と会い、その翌年十一月に北朝鮮の平壌を訪問して金日成主席と会ったのは、ただ単なる命がけの冒険ではありませんでした。それは天の御旨を伝えるために、私が行くべき宿命でした。「モスクワ(Moscow)」を英語で発音すれば「マスト・ゴー(行かなければならない)」と聞こえます。 私は共産主義に対して確固たる考えを持っていました。ボルシェビキ革命 (一九一七年) 以降六十年が経てば、徐々に滅亡の兆候が現れ、七十年を経た一九八七年には、精も根も尽き果てて倒れると確信していました。一九八五年、当時の私は米ダンベリー刑務所に収監されていましたが、面会に訪れたシカゴ大学の著名な政治学者、モートン・カプラン博士に、八月十五日になる前に「ソ連共産帝国の崩壊」を宣布するように言いました。 カプラン博士は「ソ連帝国の滅亡を宣布するのですか?どうしてそんな危険なことを……」と全く乗り気ではありませんでした。火が最後に最も華々しく燃えるように、当時は共産主義の没落を予感させる兆候が見えるどころか、かえってより勢力を広げている時だったので、気後れするのも当然でした。もしも的外れな宣言になってしまったら、学者としての名声が一夜にして消滅してしまうのは明白でした。 「レバレンド・ムーン(文師)、共産主義が没落するというあなたの話は信じます。しかし、まだ時ではないようです。ですから、ソ連帝国の『滅亡』よりは『滅亡する可能性がある』と遠回しに言ってはいけませんか」 博士の話に私は烈火のごとく怒りました。人がいくら気後れしても、確信があるときは、勇気を出して、死力を尽くして闘わなければならないと思ったのです。 「カプラン博士、それはどういうことですか。ソ連帝国の滅亡を宣言するのは、そのくらいはっきりとした意味があるからです。あなたが共産主義の終焉を宣言する日、共産主義はまさにその時から力を失うようになるのに、なぜ躊躇するのですか」 結局、カプラン博士は、ジュネーブで開かれた世界平和教授アカデミーの国際会議で「ソ連共産帝国の崩壊」を宣言しました。誰も考えつかないことでした。その頃、中立国であるスイスのジュネーブは、ソ連の国家保安委員会(KGB)が用意周到に配置した数万人のKGB要員が、世界を駆け巡って情報収集しながらテロを企てる所でした。その上、会議が開かれたインターコンチネンタル・ホテルはソ連大使館の向かいにあったので、カプラン博士が抱いた恐怖感は十分に理解できます。 しかし、数年後、博士はいち早くソ連崩壊を予測した学者として大きな名声を手にしました。 一九九〇年四月、私は世界言論人会議の主催者としてモスクワに乗り込みました (同時に行われた世界平和頂上会議、ラテンアメリカ統一連合国際会議を合わせて「モスクワ大会」と呼ぶ)。意外にもソ連政府は、空港から国家元首級の待遇をしてくれました。警察のエスコートを受けてモスクワ市内に入っていきました。私の乗った自動車が、普段は誰も使うことができず、大統領と国賓だけが通ることのできる中央の黄色い”黄金路”を走りました。その時はまだソ連は崩壊しておらず、冷戦が継続している時代だったのに、反共主義者の私を非常に手厚く迎えてくれたのです。 私は世界言論人会議の基調講演で、ソ連のペレストロイカ (改革・立て直し) を称賛しながら、その革命は必ず無血革命でなければならず、心と魂の革命でなければならないと訴えました。世界言論人会議に出席するためにモスクワを訪問したのですが、実を言えば、私の関心はゴルバチョフ大統領との会見に集中していました。 当時、ペレストロイカ政策が成功し、ソ連国内でのゴルバチョフの人気はとても高いものでした。それこそアメリカの大統領には十回でも会うことができる私でしたが、ゴルバチョフに会うのは難しい時でした。しかし、私には彼に会って話すことがあったので、必ず会いたいと思っていました。ゴルバチョフがソ連を改革して共産世界に自由の風が吹きましたが、時が経つにつれて、改革の刃は彼の背中を狙うようになっていました。このまま行けば、すぐに大きな危険に遭遇してしまうところだったのです。 「彼が私に会わなければ天運に乗る道がなく、天運に乗らなければ彼は生き延びることができない」 私が心配しているという話がゴルバチョフ大統領の耳に入ったのか、彼はその翌日(四月十一日)、モスクワのクレムリン宮殿に私を招待しました。ソ連政府が送ってくれたリムジンに乗ってクレムリン宮殿の奥に入っていきました。まず大応接室に入って、私たち夫婦が座り、その横に前・元職の各国大統領・首相らがテーブルを囲んで座りました。ゴルバチョフ大統領は、ペレストロイカの成功を満面の笑みで熱心に説明しました。それが終わると、いよいよ単独会談です。大統領執務室に場所を移すと、私は時を逃さずゴルバチョフ大統領に言いました。 「大統領はペレストロイカですでに素晴らしい成功を収めていらっしゃいますが、それだけでは十分な改革はできません。今すぐこの地に『宗教の自由』を許可してください。神様なしに物質世界だけを改革しようとすれば、ペレストロイカは必ず失敗します。共産主義はもうすぐ終わります。この国に『宗教の自由』を呼び起こしてください。それこそが国を救う道です。これからはソ連を解放した勇気で、全世界の平和のために働く世界の大統領になってください」 「宗教の自由」という、全く予想もできなかった言葉が飛び出すと、ゴルバチョフ大統領は少なからず当惑し、顔がこわばりました。しかし、「ベルリンの壁」崩壊を容認した人らしく、すぐにこわばった顔をゆるめ、私の言葉を真摯に受け入れました。私はすぐに、「韓国とソ連はもうお互いに国交を結ばなければなりません。そのためにも、大韓民国の盧泰愚大統領を必ず招待してください」と言葉を続けました。さらに、韓国とソ連が国交を樹立するとどのようなメリットがあるのかということも、一つ一つ説明しました。私の話をすべて聞いたのち、ゴルバチョフ大統領はひときわはっきりとした口調で約束しました。 「韓ソ関係は順調に発展すると確信しています。何よりもまず朝鮮半島の政治的な安定と緊張緩和が必要だと思います。韓国との国交樹立は今や時間の問題です。そこには何の障害もありません。文総裁が提案されたとおり、盧大統領にもすぐに会うようにします」 その日私は、ゴルバチョフ大統領と別れる際、私の腕時計を外して彼の手首にはめてあげました。まるで昔からの友人に対するようなざっくばらんな私の態度に当惑する彼に向かって、「大統領が今推進していらっしゃる改革政策が困難に直面するたびに、この時計を見ながら私との約束を思い起こせば、天が必ず道を開いてくださるでしょう」と強調して言いました。 私と約束したとおりゴルバチョフ大統領は、その年の六月、サンフランシスコで盧泰愚大統領と会い、韓ソ首脳会談を持ちました。そして、一九九〇年九月三十日、韓国とソ連は八十六年目に歴史的な国交樹立を果たしたのです(第一次日韓協約で外交権を一部失った一九〇四年八月以来八十六年目に、という意味)。もちろん、政治は政治家が、外交は外交官がすることですが、時として、長い間ふさがっていた水田の水の出入り口に穴を開ける上で、何の利害関係もない宗教者の役割がより効果的なこともあります。 それから四年後、ゴルバチョフ前大統領はソウルを訪問し、漢南洞の私の家を訪ねてきました。その時は、すでに権力の座を去って、在野の人になっていました。一九九一年八月、ペレストロイカに反対する反改革派のクーデターが起きた後、彼は兼任していた共産党書記長を辞任し、ソ連の共産党を解体しました。共産主義者の彼が自分の手で共産党をなくしてしまったのです。 ゴルバチョフ前大統領は、私たちが真心を込めて準備したプルコギ(焼肉)とチャプチェ (春雨と野菜、肉などを妙めた韓国料理)を箸で美味しそうに食べました。デザートの水正果を称賛しながら、「韓国の伝統料理はとても素晴らしいです」と何度も繰り返しました。権力の座から退いたゴルバチョフ氏とライサ夫人は、その間に随分と変わっていました。かつてモスクワ大学でマルクス・レーニン主義を講義していたほどの徹底した共産主義者だったライサ女史の首には、十字架のネックレスが光っていました。 「大統領は偉大なことをやり遂げられました。たとえソ連大統領の地位を明け渡したとしても、今では平和の大統領になられました。あなたの知恵と勇気のおかげで、戦争なしに世界平和を成就できるようになりました。世界のために、最も偉大で、永遠に美しく輝くことをされたのです。神様の仕事をされたあなたは平和の英雄です。ロシアの歴史に永遠に残る名前は、マルクスではなく、レーニンでもなく、スターリンでもなく、ひとえにミハイル‐ゴルバチョフだけです」 私は戦争なしに、血を流すことなしに、共産主義の宗主国(総本山)たるソ連の解体をやり遂げたゴルバチョフ前大統領の決断を高く褒め称えました。すると彼は、「レバレンド.ムーン(文師)、私はきょう大変な慰労を受けています。その言葉を聞いてとても力が出ます。私の余生は世界平和のための事業に捧げます」と言って、私の手を固く握りしめました。 4. 朝鮮半島の統一がすなわち世界の統一 ゴルバチョフ大統領との会談を終えてクレムリン宮殿を出てくる際、私は随行していた朴普煕に特別な指示を一つしました。 一九九一年を越える前に金日成主席と会わなければならない。時間がない!ソ連はもう一、二年のうちに終わってしまう。問題は韓国だ。何としてでも金日成主席と会い、朝鮮半島で戦争が起きるのを防がなければならない」 ソ連が崩壊すれば全世界の共産国家も一緒に壊滅するので、急いでいました。そうなれば、窮地に追い込まれた北朝鮮がどのような挑発をしてくるか分かりません。その上、北朝鮮は核兵器に強く執着していたので、なおさら不安でした。北朝鮮との戦争を防こうとすれば、北朝鮮と話ができるチャンネルがなければならなかったのですが、その時まで私たちにはそのようなものがありませんでした。何が何でも金日成主席と会い、核兵器に対する野望を捨てさせ、韓国を先制攻撃しないという約束を取り付けなければなりませんでした。 朝鮮半島は世界情勢の縮図です。朝鮮半島で血を流せば世界が血を流します。朝鮮半島が和解すれば世界が和解し、朝鮮半島が統一されれば世界が統一されるのです。ところが、一九八〇年代後半から、北朝鮮は核保有国家になろうとあがいていました。これに対して欧米諸国は、先制攻撃をすると高飛車な態度で脅していました。このまま極限まで突き進めば、北朝鮮がどんな強硬手段をを講じるか分かりませんでした。私は、どうしても北朝鮮と対話のチャンネルを構築しなければならないと考えたのです。 しかし、事はそう簡単ではありませんでした。北朝鮮と接触していた朴普煕に対して、北朝鮮政府の金達鉱副総理は、「北朝鮮の人民は、今まで文総裁を国際的な勝共運動の魁首と思ってきました。それなのに、どうして保守・反共の総帥を歓迎できますか。これは到底想像外のことに思えます」と強く釘を刺してきたのです。しかし、朴普煕はあきらめませんでした。 「アメリカのニクソン大統領は徹底した保守・反共主義者です。その彼が中国を訪問して、毛沢東主席と会談を行い、米中の国交が正常化しました。ここから利得を得たのは中国です。侵略者の烙印を押されていた中国が、一躍世界舞台の表面に浮き上がってきたのです。北朝鮮が国際社会で信用を得ようとすれば、文総裁のような保守・反共主義者を友人にしなければなりません」と北朝鮮を説得しました。 一九九一年十一月三十日、ついに金日成主席が私たち夫婦を北朝鮮に招待しました。当時、ハワイに滞在していた私たちは、急遽、北京に飛びました。中国政府が用意した北京空港の貴賓室でしばらく待っていると、北朝鮮の代表が現れ、正式招待状を出してきました。 招待状には、平壌の官印が鮮明に押されていました。 「朝鮮民主主義人民共和国は、統一教会の教主・文鮮明師と令夫人、そして随行員一同を共和国に招請します。共和国は在北期間中、その身元を保証いたします。 一九九一年十一月三十日 「朝鮮民主主義人民共和国政務院副総理金達鉱」 私たち一行は、金日成主席が用意した朝鮮民航 特別機JS215に乗って平壌に向かいました。これは、極めて異例で、特別な待遇でした。 特別機は黄海を渡って新義州方面に向かい、そこから故郷の定州上空を通過して平壌に行きました。故郷が目に入るように配慮してくれたのですが、夕焼けに赤く染まった故郷の山河を見下ろすと、胸が高鳴って心の奥底がしびれるようでした。あれが本当に私の故郷なのかと思うと、すぐにでも飛び降りて山や野原を走ってみたいと思いました。 平壌の順安空港には、四十六年前に別れた家族が出てきていました。花のように美しかった妹は初老のお婆さんになり、私の手を握って顔をしわくちゃにして泣きました。七十歳を超えた姉も、私の肩をつかんで激しく泣き、涙を流しましたが、私は最後まで泣きませんでした。 「ここでそのようにしないでください。家族に会うことも大切ですが、私は神様の仕事をするために来たのです。そのようにしないで、気持ちをしっかり持ってください」 四十数年ぶりに出会った姉妹たちを抱きかかえて泣くことができない私の心の中では、涙が滝のように流れていました。しかし、私は何とか心を抑えて宿所に向かいました。 翌日、いつものとおり早朝に起きて祈りました。もし迎賓館に監視設備があったなら、朝鮮半島の統一のために泣く私の祈りがすべて記録されているでしょう。その日私たちは、平壌市内を回りました。平壌は主体思想の赤い標語で完全に武装されていました。 四日目は、特別機に乗って金剛山見物に行きました。九龍淵の滝は真冬でも力強く水を降り注いでいました。金剛山の名勝地を隅々まで見て回った後、六日目は、ヘリコプターに乗って故郷に行きました。夢の中でも慕わしくて一足飛びに駆け寄ったその家が、いま目の前に現れました。夢か現かと思って、しばらく家の前で望夫石 (中国湖北省武昌の北の山にある岩。昔、貞女が戦争に出かける夫をこの山で見送り、そのまま岩になったと伝えられている) のように立った後、家の中に入っていきました。本来は、母屋と倉庫、離れと家畜小屋が互いに向かい合った四角形の家でしたが、今は母屋だけが残っていました。私が生まれた奥の間に入っていき、あぐらをかいて座ってみました。このようなとき、昔の記憶がきのうのことのように鮮明に蘇ります。奥の小さな扉を開いて裏庭を見てみると、昔、私が登って遊んでいた栗の木は、すでに切られてなくなっていました。 「うちの小さな目、おなかは空いていないのか?」と母親が私を優しく呼ぶようでした。母の木綿のチマ(スカート)がさっと私の目の前を通り過ぎていきました。 故郷で両親の墓を訪ねて花を捧げました。興南の監獄に私を訪ねてきて悲しみの涙を流した母の姿が、私が母を見た最後の姿でした。母の墓の上を昨晩降った雪が軽く覆っていました。私は白い雪を手の平で払い、母の墓に生えた芝をしばらく撫でました。母の荒れた手の甲のように、墓の上の冬の芝はざらざらしていました。 5. 金日成主席との出会い 私が本来、北朝鮮に行こうとした理由は、故郷に行きたかったからでも金剛山を見物したかったからでもありません。金日成主席と会い、祖国の将来について討議し、訴えるために行ったのです。ところが、六日間が過ぎても、金日成主席と会わせるという話は一つもありませんでした。 十二月五日、故郷を巡ってから、ヘリコプターに乗って順安空港に戻ってくると、予告もなく金達鉉副総理が出迎えに来ていました。 「あす、偉大なる首領、金日成同志が文総裁にお目にかかるそうです。その場所が興南にある麻田主席公館ですので、今すぐ特別機に乗って興南に出発していただきます」 「主席公館は何箇所かあると言っていたのに、よりによって興南なのか?」行く途中で「興南窒素肥料工場」と書かれた大きな看板を見たので、以前に監獄生活をしていた記憶が蘇り、本当に複雑な気分になりました。 私たちはそこの招待所で一泊し、翌朝、金日成主席に会いにいきました。 麻田主席公館に入ると、金日成主席が先に出てきて待っていました。私たちはどちらからともなくお互いに抱き合いました。私は徹底した反共主義者であり、金主席は共産党(朝鮮労働党)の頭目ですが、二人の出会いに理念や信仰は重要なものではありませんでした。私たちは、長い間生き別れになっていた兄弟と同じでした。それがまさに血が通う民族の力です。私はいきなり金日成主席に言いました。 「金主席の温かい配慮で家族と会うことができました。しかし、今も祖国には、生死さえも分からないまま、年老いて死んでいく一千万人の離散家族がいます。離散家族が相まみえることができるように対面の恩恵を与えてください」 私は故郷を見てきた話を付け加えて、同族愛に訴えました。故郷の言葉がすらすら通じるので、一層気持ちが安らかでした。すると金主席も、「同感です。来年からは南北の別れた同胞がお互いに家族に会う運動を始めましょう」と、春の雪が解けるようにすぐに応じてくれました。 故郷の話題で話の糸口を開いた私は、すぐに核兵器に関する意見を述べました。朝鮮半島の非核化宣言に合意し、国際原子力機関(IAEA)の核査察協定に調印するよう丁重な態度で説得に努めました。 すると金主席は、 「文総裁、少し考えてみてください。私が誰かを殺そうと思って核爆弾を造りますか?同族を殺しますか?私がそのような人間に見えますか?核が平和目的にのみ使われなければならないということには私も同意します。文総裁の話を心して聞いたので、うまくいくでしょう」 と気持ちよく答えました。 当時は、北朝鮮の核施設問題で南北関係が思わしくなく、とても慎重に提案したのですが、晴れ晴れとした答えに、その場にいたすべての関係者が驚くほどでした。話がよく通じた私たちは、食堂に場所を移して、早めの昼食をとりました。 「文総裁は『冷凍ジャガイモそば』をご存じですか。私が白頭山でパルチザン活動をしていた時代に本当によく食べた料理です。召し上がってみてください」 「知っていますとも。私の故郷でもよく食べていた料理です」 と、私は笑顔で答えました。 「はは、文総裁の故郷では珍味として召し上がったのでしょう。私は生きるために食べました。日本の警察が白頭山の頂上までしらみつぶしに探し回るので、一匙のご飯も落ち着いて食べることができませんでした。白頭山の頂上で、ジャガイモ以外に食べる物があるでしょうか?ジャガイモを煮て食べようとしたときに、日本の警察が追いかけてくれば、ジャガイモを土の中に埋めておいて逃げるのです。しばらく経ってそこに戻ってくると、よほど寒いのか、ジャガイモが土の中でもこちこちに凍ってしまいました。仕方なく、凍ったジャガイモを掘り出し、溶かして粉にしたあと、そばにして食べました」 「主席は『冷凍ジャガイモそば』の専門家ですね」 「そうです。これを豆乳に混ぜて食べても美味しいのですが、ゴマのスープに混ぜて食べてもとても美味しいです。消化も良いし、ジャガイモに粘り気があっておなかもいっぱいになります。ああ、それから文総裁。『冷凍ジャガイモそば』は、このように威鏡道式に芥子菜のキムチをのせて召し上がるのが珍味です。一度試してみてください」 私は金主席が勧めるとおりに、「冷凍ジャガイモそば」に芥子菜のキムチをのせて食べました。香ばしいそばと辛いキムチがよく合い、おなかがすっきりしました。 「世の中に山海の珍味はたくさんありますが、私はそのようなものはすべて必要ありません。故郷で食べていたジャガイモ餅やトウモロコシ、サツマイモより美味しいものはありません」 「主席と私は、味の好みまでよく合いますね。やはり故郷の人どうしで会うのはうれしいことです」 「故郷を見て回ったそうですが、どうでしたか」 「感慨無量です。私が暮らしていた家が残っていて、しばらく昔のことを思い出しながら、奥の間に座ってみました。今にも母が私の名前を呼びそうな気がして、胸がじんとしました」 「母君……?」 「すでに亡くなったそうです」 「そうでしたか。ですから、早く統一されなければならないということですね。私が聞いたところによると、文総裁は相当ないたずらっ子だったそうですが、故郷に行って少し遊ばれましたか?」 金主席の話に、食卓に座っていた人たちがわははと笑いました。 「木にも登って、魚も捕まえにいかないといけないのですが、金主席が待っていらっしゃるということで急いでこちらに来たので、次にまた呼んでくださらなければなりません」 「そうですね。是非そうしましょう。ところで、文総裁は狩りをされますか。私は狩りがとても好きです。白頭山で熊狩りをしてみれば、間違いなく魅了されますよ。熊は体が大きいので愚鈍に見えますが、実際はとても利口者です。ある時、熊と一対一で出くわしたのですが、熊が私を見てぴくりとも動かないのです。熊を避けて逃げ出せばどうなるかお分かりですよね。ですから、私も熊を睨みながらじっとしていました。一時間、二時間と時間がどんどん過ぎていくのですが、熊は依然として私を睨んでいます。白頭山の寒さがどれほど有名ですか?熊に食べられて死ぬ前に凍え死にしそうな状況です」 「いや、それでどうなったのですか」 「ははは、いま文総裁の前に座っているのは熊ですか、人ですか?それが答えですね」 私が大声で笑うと、金主席は不意に「文総裁、次にいらっしゃったら、一度一緒に白頭山に狩りに行きましょう」と言いました。それで私もすぐに「主席は釣りもお好きでしょう?アラスカのコディアック島にハリバットという熊くらい大きなヒラメがいます。一度それを釣りに行きましょう」と続けました。 「熊のように大きなヒラメですか。それなら当然行かなければなりませんね」 狩りでも釣りでも、私たちは互いに趣味が通じました。すると突然話すことが増え、久しぶりに会った旧友が互いに過去の話をするかのように、先になったり後になったりしながら話をしました。私たちの笑い声が食堂の中に大きく響き渡りました。 私は金剛山の話も切り出しました。「金剛山に行ってみると本当に名山ですね。私たち民族の誇らしい観光地として大きく開発しなければなりません」「金剛山は統一祖国の資産です。それで誰も手を出せないようにしました。間違った開発をして名山を台無しにすることもあるからです。文総裁のように国際的な眼識を持った方が開発を担ってくださるのなら、信じることができますね」 金主席は、その場で金剛山開発の要請までしてきました。 「主席は私より年が多くていらっしゃるので、お兄様になられますね」と言うと、金主席は「文総裁、私たちはこれから兄と弟として仲良くしていきましょう1」と私の手をしっかりと握りました。 金主席と私は、手をつないで廊下を歩いていき、記念写真を撮って別れました。私を送り出した後、金主席は「文総裁という人は本当に立派だ。一生の問に大勢の人に会ってみたが、あのような人はいなかった。度胸もあり、情にあふれた人だ。親近感を覚えて気分が良くなり、ずっと一緒にいたいと思った。後でまた会いたい。私が死んだ後に南北の間で議論することが生じれば、必ず文総裁を訪ねなさい」と金正日書記に何度も繰り返し伝えたそうですから、お互いにかなり通じ合ったようです。 私が一週間の日程を終えて平壌を出発するやいなや、延亨黙総理を首班とする北朝鮮代表団がソウルにやって来ました。延総理は「朝鮮半島非核化共同宣言」に調印しました (一九九一年十二旦二十一日)。そして、翌年の一月三十日、北朝鮮はIAEAの核査察協定に調印することによって、私との約束をすべて守りました。命がけで平壌に入っていき、まずまずの成果を挙げたのですから、本当にやった甲斐がありました。 6. 地は分けられても民族を分けることはできない 朝鮮半島は地球に唯一つ残った分断国家です。韓民族には朝鮮半島を統一させる責任があります。真っ二つになった祖国をこのまま子孫に譲り渡すことはできません。韓民族が二つに分かれ、互いの父母、兄弟に会えないままで生きるということは、あってはならない悲しみです。南北を分ける三八度線や休戦ラインは人間が引いたものです。地はそのように分けることができますが、民族を分けることはできません。半世紀を超えて分けられていても、私たちがお互いを忘れることができずに慕うのは、一つの民族だからです。 韓民族を「白衣民族」といいます。白衣の白は平和の色です。したがって、韓民族は平和の民族です。日本による占領時代、韓国人と中国人と日本人が満州やシベリアの地で互いに殺し合いをするような中でも、韓国人は刃物を持ち歩きませんでした。日本人と中国人は全員刃物を持ち歩きましたが、韓国の人たちは火打ち石を持ち歩きました。凍りついた満州とシベリアの地で火を焚くことは、命を守ることです。韓民族はそのような人たちです。天を恭敬し、道義を大切にし、平和を愛する人たちです。 日本植民地時代と朝鮮戦争を経験しながら、韓民族は本当にたくさんの血を流しました。しかし、国が統一もされず、平和の国権が成し遂げられてもいません。国土が真っ二つに分かれ、一方は共産主義の暗い世界になりました。 私たちが民族の主権を取り戻そうとすれば、必ず統一を成し遂げなければなりません。今のように南北が分かれていては平和を得ることはできません。私たちがまず平和統一を成し遂げ、完全に主権を取り戻してこそ、世界平和を成し遂げることができるのです。韓民族を「倍達民族」と称するように、韓民族は世界に平和を伝達する配達人として生まれたのです(「倍達」は韓国の古典的な称。 「倍達」と「配達」はハングルでは共に「ペダル」と発音するので、掛けて表現している)。すべての物には名前があり、名前にはそれぞれ生まれつき持っている意味があります。白衣民族の白い服は昼も夜もよく目立ちます。暗い夜中に標識にできる色は白色だけです。韓民族は、夜も昼も世界平和を伝達して回る運命を持って生まれたのです。 南と北の間には休戦ラインが横たわっていますが、それは大きな問題ではありません。私たちが休戦ラインを除去すれば、その次にはロシアと中国というもっと大きな休戦ラインが横たわっています。韓民族が完全な平和を得ようとすれば、ロシアと中国との休戦ラインまで飛び越えなければなりません。大変なことですが、不可能ではありません。大切なのは心の持ち方です。 私は、汗を流し、血を流すとき、残らずすべて流すのがよいと考える人です。心の中の残りかすまで、ありったけのものをすべて流して送り出してこそ、未練が残らずきれいに整理されます。苦難も同じです。苦難に最後まで打ち勝ち、きれいに清算してこそ、苦難が終わるのです。何であっても、完全に清算すれば、また戻ってくるものです。そのように、凄絶な苦痛なしには民族の完全な主権を取り戻すことはできません。 今でこそ皆平和統一を語りますが、私が以前、平和統一を主張していた頃は、反共法と国家保安法を恐れて、平和統一という言葉を使うことさえためらわれる時代でした。私はその当時から、絶えず平和統一を主張してきました。今も誰かが「どうすれば朝鮮半島は統一されますか」と尋ねれば、私の答えはいつも同じです。 「韓国の人が韓国よりもっと北朝鮮を愛し、北朝鮮の人が北朝鮮よりもっと韓国を愛すれば、きょうにでも朝鮮半島は統一されます」 一九九一年に命がけで北朝鮮の地に入っていき、金日成主席と会ったのも、すべてそのような愛の下地があったために可能なことでした。その時私は、金日成主席と南北離散家族再会、南北経済協力、金剛山開発、朝鮮半島非核化、南北首脳会談推進などに関して合意しました。 反共主義者が共産国家に入っていって南北統一の入り口を開くとは誰も思いませんでしたが、私は世界をあっと驚かせました。 私は金日成主席に会う前 (十二月二日)、平壌の万寿台議事堂 (日本の国会議事堂に相当) において、党・政府要人との会談の席で二時間にわたって演説を行いました。その日、私が北朝鮮の指導者たちを相手に強調して語ったことは、「愛による南北統一方案」です。金日成主義で武装した北朝鮮の指導者たちを座らせておいて、私のやり方で語ったのです。 「南北は必ず統一されなければなりませんが、銃剣によっては一つになることはできません。南北統一は武力では成し遂げられません。朝鮮戦争も失敗したのに、また武力で何とかしようと考えるのは愚かなことです。皆さんが主張する主体思想では南北を統一することはできないのです。それでは、何をもって統一されるのでしょうか。この世の中は、人間の力だけで動くのではありません。神様がいらっしゃるので、絶対に人間の力だけではどうすることもできないのです。戦争のような悪なることに対しても、神様は摂理されます。ですから、人間が主体となった主体思想では南北を統一することはできません。統一された祖国をつくるのは『神主義』によってのみ可能なのです。 神様が守ってくださる私たちに統一の時が近づいてきています。統一は、わが民族の宿命であり、私たちの時代に必ず解決すべき課題です。私たちの時代に祖国統一の聖業を成し遂げることができなければ、永遠に先祖と子孫の前に頭を上げることができないでしょう。 『神主義』とは何でしょうか?神様の完全な愛を実践することです。南北を統一するのは、左翼でもできず、右翼でもできません。その二つの思想を調和させることのできる『頭翼思想』があってこそ可能です。 愛の道を行こうとすれば、全世界の前で南侵した事実を謝罪しなければなりません!北朝鮮が韓国に送った定住スパイが二万人もいることを知っています。彼らに、今すぐ自首せよと司令を出してください。そうすれば、私が彼らの思想を正す教育をして、南北の平和統一に寄与する愛国者にします」 私は議事堂のテーブルに拳を打ち下ろし、強烈に語りました。すると、私の演説を聞いていた北朝鮮側の尹基福・朝鮮海外同胞援護委員会委員長 (祖国平和統一委員会副委員長) と金達鉉副総理の顔がこわばりました。この発言が私にどのような危険をもたらすか分かりませんでしたが、言うべきことは言わなければなりませんでした。単に彼らを刺激するためではなく、その日の私の演説が金日成主席と金正日書記にすぐ報告されるという事実を、あまりにもよく知っていたので、私たちの志を伝達しようと、わざとそのように話しました。 演説が終わるやいなや、随行員たちの顔が真っ青になりました。北朝鮮側関係者の数人は、よくもあんな話ができたものだと真顔で抗議してきました。「演説の内容があまりにも強烈で、彼らの雰囲気があまり良くないです」と随行員たちが心配しました。しかし、私は断固として言いました。 「私がなぜここに来たのか。北朝鮮の地を見物するために来たのではない。ここまで来て言うべきことを言わずにいれば天罰を受ける。たとえきょうの演説が原因で金主席と会えずに追い出されたとしても、言うべきことは言わなければならない」 その後、一九九四年七月八日、突然金日成主席が死去しました。当時、南北関係は最悪の局面でした。韓国の地にパトリオットミサイルの配備が計画され、アメリカでは寧辺の核施設を破壊しろという強硬派が力を得て、今にも戦争が起きるような状況でした。北朝鮮は一切の外国の弔問客を受け入れないといいましたが、私は兄弟の義を結んだ金主席の死を哀悼するのが当然だと考えました。 私は朴普煕を呼びました。 「今すぐに弔問使節として北朝鮮に行きなさい」 「今、北朝鮮は誰も入れない状況です」 「難しいことは分かっている。しかし、何としても入っていかなければならない。鴨緑江を泳いで渡ってでも、必ず入っていって弔問してきなさい」 朴普煕は北京に飛んでいき、命がけで北朝鮮と連絡を取りました。すると、金正日国防委員会委員長が、「文総裁の弔問使節は例外とし、平壌にお迎えするようにしなさい」と指示を下したのです。平壌に入って弔問を終えた朴普煕に会った金正日国防委員長は、「文鮮明総裁はお元気ですか。このたびはこのように難しい中を来ていただいて、本当にありがとうございます。われわれの偉大なる主席も文総裁の話をいつもしていました」と丁重に挨拶をしました。 一九九四年の朝鮮半島は、いつどこでボンと爆発するか分からない危機的状況でした。まさにその時、金主席と結んだ縁のおかげで朝鮮半島の核危機を無事に越えたことを思えば、その時の弔問は、単なる礼節にとどまるものではなかったのです。 私が金主席との出会いを詳しく紹介するのは、人と人との間の信義について話をするためです。私は祖国の平和統一のために彼に会いました。そして、民族の運命を思う私の信義が通じたために、彼の死後、息子の金正日国防委員長も、私たちが送った弔問使節を受け入れたのです。真実な心で愛を分かち合えば越えられない壁はなく、成就できない夢はありません。 私は北朝鮮を故郷、私の兄弟の家と思って訪ねていきました。何かを得るためではなく、愛の心を与えるために行ったのです。そして、その愛の力が、金日成主席にとどまらず金正日国防委員長にも通じました。その日から今まで、北朝鮮と私たちの問には特別な関係が続き、南北関係が難しくなるたびに、力を尽くして道を開く役割を担っています。すべてのことは、金日成主席と会い、真実な心を通して信頼関係を築いたことがその根本です。信頼はそれほどに大切なのです。 金日成主席に会った後、私たちは北朝鮮で平和自動車工場をはじめ、普通江ホテル、世界平和センターなどを運営しています。平壌市内には、平和自動車の広告塔が八つも建てられています。韓国の大統領が北朝鮮を訪問したとき、北朝鮮当局は平和自動車工場を見せてくれました。大統領と一緒に北朝鮮を訪問していた財界人らは、普通江ホテルに泊まりました。北朝鮮の地で働く食口は、日曜日ごとに世界平和センターに集まって礼拝を捧げます。 これらのことは南北の平和的な交流と統一のための平和活動であって、経済的な利益を得るための事業ではありません。民族的な愛で南北統一に寄与しようとする努力の一環なのです。 7. 銃剣を収めて真の愛で 韓民族を分けているのは休戦ラインだけではありません。嶺南 (慶尚南北道) と湖南 (全羅南北道) も、見えない線で分かれています。また、日本に住む韓国・朝鮮人は、民団 (在日本大韓民国民団) と朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)に分かれています。民団と朝鮮総連を対立させている理由は、父母が決めた故郷が違うからです。ところが、その故郷がどこなのか、行ったこともない二世、三世まで、父母が引いた線の中に身をすくめて生きています。民団と朝鮮総連に分かれてお互いに言葉も交わさず、学校も違う所に通い、結婚もしません。 二〇〇五年、私は嶺南・湖南の人々と在日韓国・朝鮮人を一つにするために、それまで計画してきたことを実行に移しました。民団から千人、朝鮮総連から千人の同胞をソウルに招待し、嶺南の千人および湖南の千人と姉妹結縁をするようにしました。日本で民団と朝鮮総連の人々が一箇所に集まって南北の平和統一を論議するのはまず不可能です。困難なことをやり遂げた分、嶺南・湖南、民団と朝鮮総連の人々が一箇所に座り、互いに抱擁する光景は、それこそ感激もひとしおでした。その時、ソウルを初めて訪れた朝鮮総連の幹部は、亡くなった父の故郷がどこなのかもはっきり分からないまま、冷戦構造の代理戦争をして生きてきた歳月が本当に残念だと語って、座り込んで激しく泣きました。それまで無為に心の分断線を引いて生きてきたことが、限りなく恥ずかしいとも言いました。 朝鮮半島の分断と対立を正しく理解しようとすれば、過去と現在と未来をまとめて見つめることができなければなりません。すべての事件には根があるものです。朝鮮半島の分断は、善と悪が真っ向から争う善悪闘争の歴史が作り出したものです。朝鮮戦争が起きると、北朝鮮を助けるためにソ連と中国をはじめとする共産圏国家が総動員されました。韓国も同様です。アメリカをはじめとして十六ヵ国から軍隊を派遣し、医療班を派遣した国が五力国、戦争物資を支援してくれた国が二十ヵ国にもなります。同一民族どうしの争いに、これほど多くの国が動員された戦争は他に類例がありません。韓国という小さな国で起きた戦争に、全世界人類が深く関与したのは、朝鮮戦争が共産主義勢力と自由主義勢力の代理戦争だったからです。ある意味では、韓国が世界を代表して善と悪の闘争を熾烈に繰り広げたのです。 アメリカで日刊紙「ワシントン・タイムズ」を創刊してから十年目の一九九二年、アレクサンダー・ヘイグ元米国務長官が記念式典に出席し、祝辞を述べる中で、意外な話を披露しました。 「私は朝鮮戦争に従軍して数々の戦闘に加わりました。指揮官だった私は興南攻撃を任され、命がけの猛攻撃を繰り広げました。文総裁が共産党に捕まって興南監獄におられ、その日の攻撃で解放されたという話を聞いて、感慨無量でした。おそらく、文総裁を救うために私がそこに行ったようです。今は反対に、文総裁がアメリカを救おうとここに来ておられます。『ワシントン・タイムズ』は、左派言論が世論を主導するワシントンDCにあって、バランスの取れた歴史観を持ち、これから行くべき方法を知らせてくれ、アメリカ人の生命を救う新聞です。今回も確認したように、歴史に偶然というものは存在しないのです」 一時、韓国社会では、朝鮮戦争の時に国連軍を総指揮していたマッカーサー将軍の銅像を撤去しようという主張がありました。もし国連軍が参戦していなければ、南北が今のように分断されていなかったというのがその趣旨でした。 私はその話を聞いて、本当に驚きました。そのような主張は、北朝鮮の共産党(朝鮮労働党)の立場でのみできるものです。 このように世界的な犠牲を払ったにもかかわらず、いまだに朝鮮半島の統一は訪れていません。その日がいつ訪れるか分かりませんが、私たちがすでに統一に向かって力強く踏み出しているという事実だけは明白です。統一に向かっていく道には、たくさんの障壁があります。幾重にも折り重なった障壁を一つ一つ崩していかなければなりません。長い時間がかかり、苦労が多くても、鴨緑江を泳いで渡っていく精神で耐え抜けば、統一は必ず訪れます。 一九八九年末、東ヨーロッパの国々の中で最後まで持ちこたえていたルーマニアの共産政権が、流血の民衆蜂起によって打倒されました。政権が崩壊した直後、二十四年間ルーマニアを統治していたニコラエ・チャウシェスクは、彼の妻と共に処刑されました。彼は自分の政策に反対する者たちを無残に虐殺した残忍な独裁者でした。どの国でも、独裁がだんだんと強化されていく理由の一つは、政権を失うと命まで危うくなるという恐怖心です。自分の命が守られるという確信さえあれば、独裁の崩壊がどういう過程を辿るにせよ、あそこまで袋小路に向かって突き進んでいくことはないでしょう。 朝鮮半島でも、どういう方式かは分かりませんが、いずれ遠くない未来に統一を達成するでしょう。したがって、政治家は政治家なりに、経済人は経済人なりに、統一韓国に備えるさまざまな準備をしなければなりません。私はやはり宗教者として、北朝鮮の人たちを愛で抱きかかえ、共に平和を分かち合うことのできる統一韓国を迎えるための準備をおろそかにしないでしょう。 私は、ドイツの統一について長い間研究してきました。一発の銃弾も撃たず、一滴の血も流さずに統一できた理由に関して、当時、統一を主導していた人たちの経験を聞き、私たちに適合する方法を探したのです。その結果、ドイツが平和統一できたのは、東ドイツの権力者に「統一されても命の危険はない」という信頼を植え付けたことが大きな要因だった事実が分かりました。命が保証されていなければ、東ドイツの為政者があれほど簡単に統一の門を開くことはなかったでしょう。 同じように、私は北朝鮮の為政者にも、そうした信頼感を与えなければならないと考えました。以前、日本で出版された北朝鮮を題材にした小説に、チャウシェスクが処刑される映像を数十回も見ながら、「われわれが政権を失えばあのようになる。絶対に政権を失ってはならない」と絶叫する為政者たちの姿が描かれていました。もちろん、日本の小説家の想像ですが、彼らの現実的な悩みに耳を傾け、それを解決してあげてこそ、早く統一が訪れるのです。 朝鮮半島に平和世界を構築することは意外に簡単です。韓国が完全に北朝鮮のために生きるとき、北朝鮮は戦争を仕掛けることなく、朝鮮半島には自然に平和が訪れてきます。親不孝な子供を感動させられる力は、拳でもなく、権力でもなく、心から沸き上がる愛の力です。北朝鮮に米をあげたり、肥料を送ったりすることよりも、愛を与えることのほうが大切です。愛する心で、誠を尽くして、北朝鮮を思って為に生きるときにこそ、北朝鮮も心を開くという事実を忘れてはいけません。 【第七章 韓国の未来、世界の未来――理想郷に向かって】 1. 人類史の新たなページを開く朝鮮半島 私は、故郷が慕わしく、夢の中でも故郷を訪ねていく人です。私の故郷は、ソウルを通り越して、あの遠い山と海のある北朝鮮の地、定州です。私の心は、いつどこにいても、愛と命があるその場所と結ばれています。私たちは皆、父母の血統を受け継いで生まれ、父母の愛を受けて育ったので、その愛がそのまま溶け込んでいる故郷を忘れることができません。それで、年を取れば取るほどより故郷が慕わしくなるのです。そこから出発したので、そこに帰らなければなりません。人は根本を離れることはできません。二〇〇四年、私はアメリカでの三十四年間の活動を終え、天運が共にある朝鮮半島に帰ってきました。 私たちは、朝が昼に変わる時間を知ることができません。また、夕方がいつ夜に越えていくのかも知ることができません。どの瞬間に過ぎていってしまうのか、天のなさることを人は分かりません。私たちの人生もそうです。成功と失敗の瞬間は、すべて私たちの知らないうちに過ぎていってしまいます。国も同じです。一つの国の吉凶がいつ訪れてくるのか知ることができません。このように人間は、天運がどのように動くのか知ることができないのです。天運とは、世界を動かす力であり、宇宙が回って行く原理です。私たちは知ることができなくても、世の中を創造された方が摂理する天運というものが明らかにあります。 宇宙は宇宙なりの秩序にきちんと合うように動きます。この世の中のあらゆる存在物は、存在する以前からある原則を持っています。赤ん坊がこの世に生まれれば、誰が教えなくても、目を開けて呼吸をします。無理やりそのようにさせるのではなく、おのずとそのようになるのです。「おのずとなること」が宇宙の秘密を解く重要な鍵です。 自然には、おのずとなるものがとてもたくさんあります。しかし、実際には「おのずと」という言葉は合いません。おのずとなるように見える自然現象の中にも、私たちが知ることができない宇宙の方向性があるのです。宇宙の運、天運とはそのようなものです。宇宙のことが前もって分からないだけで、宇宙が循環する過程で大きな運が到来する時期が明らかにあります。寒い冬が過ぎれば春が来て、春が去れば夏が来る宇宙の原理を知れば、私たちの国に到来する未来もあらかじめ見通すことができるのです。 知恵深い人は宇宙の法度に拍子を合わせます。歴史に末永く残る人たちは、すべて宇宙の法度に拍子を合わせた人たちです。アメリカにいた時、家の前のハドソン川でたくさん釣りをしました。私は幼い頃から魚を捕まえるのが得意でしたが、時として、一匹のオイカワも釣ることができずに落胆して帰ってくることがあります。私たちはよく分かりませんが、魚にも通る時と道があります。水があるからといって、いつでも魚が通っていくのではありません。それを知らずに、夜も昼も釣り竿を垂らして待ってみても、無駄骨です。天運も同じです。未来を見る目がなければ、天運が自分の目の前に来ていても、見ることができません。それで、天運を見ることのできる慧眼が必要なのです。 世界文明の方向は、絶えず西進しながら発達してきました。すなわち、エジプトの大陸文明とギリシャ・ローマの半島文明を経てイギリスの島嶼文明が発達し、再びアメリカの大陸文明に移っていきました。文明は継続して西進し、太平洋を渡って日本に行きました。しかし、人類文明の移動はここで止まりません。日本を大きく育てた力が、今や朝鮮半島に移ってきているのです。人類の文明が朝鮮半島で結実する準備をしています。 日本の島嶼文明が大陸と連結しようとすれば、必ず半島を経由しなければなりません。もちろん、アジアにはインドシナ半島もあり、マレー半島もありますが、それらの国々は、現代文明を受け継ぐだけの背景を持ち合わせていません。ひとえに朝鮮半島だけがその役割を果たすことができるのです。朝鮮半島は、地政学的にまさに絶妙な位置にあります。太平洋の海を挟んでアメリカと日本に対しているかと思えば、アジアとヨーロッパ大陸とも連なり、中国、ロシアと国境で向き合っています。そのため、昔から強大国の勢力争いの要地となり、多くの犠牲を払ってきました。 冷戦時代には共産主義と命がけの戦争を行い、今も朝鮮半島は依然として世界の強国の関心と利害関係が絡み合い、分断国となったまま、完全な平和を成し遂げることができずにいます。世界四大強国の利害関係が衝突する接点にある朝鮮半島は今、強大国の衝突を防ぎながら、世界の繁栄と平和のための協力を導き出す重大な役割を担当する時期になりました。 天運には必ず重大な責任が伴います。今や天運を迎えた朝鮮半島は、これらの国々が衝突せず、世界の繁栄と平和のために緊密に協力するよう、ベアリングのような役割をしなければなりません。ベアリングは、回転する機械の軸を一定の位置に固定しながら、同時に軸を自由に回転させる役割をします。これから朝鮮半島は、まさに強大国との関係を円滑に維持しながら、世界平和を発展させるベアリングになるべき時です。 その役割のために、私は以前から徹底した準備をしてきました。ゴルバチョフ大統領の改革政策を支持しながらソ連との関係改善を促進させ、都小平の中国改革開放政策を一九八〇年代後半から積極的に援助しました。延辺大学の工学部設立を後援することをはじめとして、中国の地に足を踏み入れた後、天安門事件によって中国に投資しようとしていた外国資本が続々と中国を離れていく時にも、私たちは中国に残り、広東省の恵州に数億ドルを投資して、中国の改革開放のために多くの努力をしました。 単に経済的な理由でしたことではありません。私は事業家ではなく宗教家です。宗教家は、行く末を見通し、未来に準備する人です。ロシアと中国、日本、そしてアメリカまで、朝鮮半島を通して互いに協力し、発展していかなければなりません。朝鮮半島が世界平和の軸にならなければならないのです。 ところが、いざロシアと中国との関係改善のために働いてみると、最も基本的なロシア語辞典と中国語辞典さえないという事実を知りました。お互いの言葉も分からないで何かを一緒にできるでしょうか。その時、行く末を見通した志のある教授たちが、中韓辞典と露韓辞典の発刊のために努力しているという知らせを聞きました。それは、高麗大学の民族文化研究所の洪一植教授が推進していた中韓大辞典プロジェクトと、ロシア語学科の教授たちが準備していた露韓辞典発刊事業でした。私はこの二つの辞典の編纂を支援しました。これらの辞典は、今も韓中交流と韓露関係において大切な役割を果たしています。 いくら高い山の頂上に置かれた石だとしても、 落ちるときは谷底に落ちていきます。西洋文明の最後がまさにそれです。科学の力を借りて目覚ましい発展を遂げましたが、精神的な没落によって、すでに谷底に向かって落ちていっています。その谷底がまさに数千年間精神文化を築き上げてきた東洋です。 その中でも、朝鮮半島は東洋と西洋の文明が出会う場所であり、大陸文明と海洋文明が出会う所です。歴史学者のシュペングラーは、一年に春夏秋冬があるように、文明もまた興亡盛衰を繰り返てきたと言いました。今は、これまで栄えてきた大西洋文明時代が過ぎていき、新しく環太平洋文明の時代が開く時です。環太平洋文化圏の中心はアジアです。韓国を中心とするアジアが新しい歴史の主人公になります。全世界人類の三分の二がアジアに暮らしています。世界のあらゆる宗教の起源もアジアです。アジアは、長い間、人類の精神的な根源でした。 西洋文明と東洋文明は、近い将来に朝鮮半島で一つになるでしょう。世の中は今も急速に変わっています。天運も、ますます早く私たちに向かって近づいています。世の中が完全にひっくり返る変化の時期に、朝鮮半島が世界を導く重大な役割をきちんと果たすためには、万全の準備をしなければなりません。偏見と利己心に染まった過去を捨て、澄んだ目と新しい心で、訪れてくる時代を迎えなければなりません。 2. 苦難と涙の地から平和と愛の地へ 韓民族がこれまでに経験してきた悲惨な歴史には、深い意味があります。韓国が世界平和の前進基地になる運命なので、そのように多くの苦難を経験したのです。朝鮮半島が世界の中心になれるのは、長い間苦難と逆境に耐えてきたからです。私たちは数多くの苦難を経験しましたが、誰も敵として憎まない民族です。私たちを苦しめた隣人はいろいろいましたが、不倶戴天の敵にはなりませんでした。 韓民族の心の中には、敵までも愛する心があります。敵を愛して受け入れようとすれば、絶えず自分を治めなければなりません。自分の心がすっかり膿を出し切った後にこそ、敵を愛し得る心の余裕が生じるのですが、韓民族はまさにそのような心を持ちました。 迫害を受ける人は神様と一番近いのです。涙を流す心を持つことが大切です。普段は涙を流したことがなかった人も、国を失えば涙を流して泣きます。神様にすがって働実します。苦痛に満ちてつらいことですが、涙を流して泣くことのできる心は福となります。涙に濡れた心に神様が来られるからです。韓民族の心の中に涙が多かったので、朝鮮半島が天運を受ける地になることができたのです。 韓民族は先祖を崇拝します。いくら食べる物に困っても、先祖の墓を売ってまで食べる物を求めることをしないのが韓民族です。韓民族は、昔から天を仰ぐ敬天思想を守って生きてきたのであり、三度の食事よりも精神世界をさらに重要に思う文化民族です。仏教と儒教を受け入れて織徽たる宗教文化を花咲かせたのであり、キリスト教を受け入れていくらもたたないうちに、全世界を代表するキリスト教の伝統を立てました。ところが、それよりもっと凄いことは、そのような宗教が互いに衝突することなく、互いに融和して平和に共存しているという事実です。何が韓民族をこのように独特な民族にしたのでしょうか。 韓民族は・もともと宗教的な心を持つ「宗子 (本家の長男 ) として、いつでも神様のみ言を受け入れる心の準備ができています。また、韓民族は、神様の御旨をしっかり実行できる英明さを持っています。その優秀さをよく表しているのが韓国の言葉とハングルです。これは天が下さった宝です。 韓国の言葉には、人の心情を表現できるさまざまな形容詞と副詞が非常に豊富です。この世のいかなる国の言葉も、人の複雑な心を韓国の言葉ほど繊細に表現できません。言葉はすなわち人です。言葉が繊細だということは、その人の心が繊細だということです。 韓国人が使うハングルもまた、どれほど素晴らしいでしょうか。私は「訓民正音」という言葉が本当に好きです。「民を教える正しい音」という、このように美しい意味を持つ文字を使う国は韓国だけです。デジタル時代となり、ハングルの優秀性がより大きく表れています。子音と母音の単純な組み合わせだけで、人間がこの世で出すあらゆる音をすべて記すことができるのですから、本当に驚くべきことです。 私は、すでに三十年前から外国の食口たちに、これから訪れる未来に備えて韓国語を学びなさいと言ってきました。ところが、最近になり、いわゆる韓流ブームに乗って韓国語を学ぼうとする人たちが随分と増えました。日本やモンゴル、ベトナム、アフリカまで、世界のどこでも韓国語ができる人たちがとても増えました。これは決して偶然ではありません。 言葉には魂があります。日本統治時代に日本があれほど韓国の言葉をなくそうとしたのは、韓民族の魂をなくすためでした。今、世界的に韓国の言葉を使う人が増えているのは、韓民族の魂が大きく広がっていくことを意味します。韓民族の文化的影響力がそのくらい高まったのです。 韓民族は、絶対に人の世話にはならないという独特な性格を持っています。私はアメリカで、韓国人の頑固な性格をあらためて感じることができました。アメリカはいろいろな社会保障制度が整えられている国ですが、韓国人はそのようなものに全く頼ろうとしていませんでした。国がくれる支援金に期待せず、何が何でも自分の手で稼いで子供を育て、両親の世話をしようとしました。そのくらい韓民族は自主性が強いのです。全世界に宣教師を送り出してみれば、そうした気質がそのまま表れます。見知らぬ国に派遣されても、特別不安を覚えることもありません。宣教師だけでなく、商社の社員もそうです。世界のどこでも、使命を受ければ、あらゆることを振り切っていきます。二の足を踏み、躊躇することがありません。 韓民族は誰よりも勤勉です。一箇所に留まらずに四方を歩き回ります。世界のどこでも韓国人のいない所がないほど進取の気性に富んでいます。また、一つのものに縛られず、多方面にわたって能力を発揮します。一つのことに行き詰まれば、そこで挫折することなく、勇気をもって他の分野に飛び込んでいく適応力も優れています。 村で大きな宴会が開かれれば、人々がわあっと押し寄せてきて、争って良い席を取ろうと大騒ぎになります。そのようなとき、黙って末席に行って座る人がいれば、その人はまさに時代の主役となる人です。自分の口に入るものを先に取る人はすべて落第です。ご飯を一匙食べるときも、人のことを先に考えなければなりません。私たちが朝鮮半島に訪れてくる天運を迎えようとすれば、私よりもっと大切な人がいることを心の奥深くに刻まなければなりません。 韓民族は、今まで自分たちが愛するものをすべて奪われました。日本統治時代には大切な国を奪われ、続いて国土が真っ二つになり、愛する父母、兄弟たちと別れなければなりませんでした。そのため、朝鮮半島は涙の地になりました。しかし、今は韓民族が世界に向かって泣いてあげなければならない時です。これからは、自分たちのために泣いていた時よりも、もっと真摯に、切実に世界のために涙を流さなければなりません。それが天運を迎えた朝鮮半島で私たちがすべきことです。私たちがそのようにするとき、朝鮮半島の天運が世界に広がっていき、韓民族が先頭に立って世界平和時代が開かれるのです。 3. 二十一世紀の宗教が最終的に目指すもの 二十世紀は激動の世紀でした。過去二千年間に起きたことよりも、もっと多くのことが百年の間に起きました。二十世紀は、二度の世界大戦を経験し、共産主義が勢いよく広がった後に消えていった世紀です。また、神を捨てて物質に埋没した世紀でした。そうだとすれば、二十一世紀はどうでしょうか。科学が発達し、もうこれ以上宗教は必要なくなったと言う人たちもいますが、人間の精神世界がなくならない限り、宗教の役割は決して終わらないでしょう。 宗教の目的は何でしょうか。それは神様の理想世界を成し遂げることです。より多くの人を宗教の世界に伝道しようと努力する理由は、より多くの人を神様の民にするためです。すべての人が神様の民になれば、世の中はもはや戦争と混乱のない平和世界になります。究極的に宗教が行く道は平和です。 神様は愛と平和の世界を願ってこの世をつくられました。自分の宗教だけが唯一の救いであると言い張って混乱を引き起こすのは、神様が願われることではありません。神様は、この世界のすべての人が平和と和解、共生のために一生懸命に働くことを願われます。教会に行くがゆえに家の中に混乱が起きるとすれば、私は躊躇なく家庭を先に守りなさいと言います。なぜかというと、宗教は神様の完全な世界に入っていくための手段であって、それ自体が目標ではないからです。 人類は、分かれた意見を一つにまとめ、衝突する文明の一致点を探し出すでしょう。今後、人類を導いていく思想は、これまでのすべての宗教とすべての思想を皆一つに合わせたものでなければなりません。過去のように、一つの国が先頭に立って人類を引っ張っていった時代はすでに終わりました。民族主義の時代も終わりました。 今のように、宗教と人種を前面に立て、同じ群れどうしで固まる時代が続くとすれば、人類は戦争を繰り返すほかありません。慣習と伝統を超えなければ、平和の時代は決して訪れることはありません。今まで人間を操ってきたどの主義も、思想も、宗教も、来るべき未来の平和と統一を成し遂げることはできないのです。ですから、未来には、仏教も超え、キリスト教も超え、イスラームも超える、新しい理念と思想が出てこなければなりません。私が数十年間、宗派も超え、宗教も超えなければならないと、喉が張り裂けるほど主張してきたのも、まさにこのような理由のためです。 地球上には二百を超える国・地域があり、その国ごとにすべて国境を持っています。国と国の間には、お互いを区分する国境があるのです。国境によって分けられた国々は、永続することができません。国境を克服できるのは宗教だけです。ところが、人々にとって希望となるべき宗教が、数多くの宗派に分かれ、自分たちどうしの争いに躍起になっています。自分の宗教、自分の教派第一主義に陥り、世の中が変わり、新しい時代が開かれることを知らずにいるのです。 数千年間、築いてきた宗教の壁を崩すことは簡単ではありません。しかし、平和世界に行くためには、必ず宗教の壁を崩さなければなりません。教団と教派はつまらない争いを止め、お互いの意見を調整していきながら、一つの世界に向かって進んでいく方法を模索しなければなりません。世界平和実現のための宗教の役割を果たすために、具体的な実践の道へと踏み出さなければなりません。幸福な未来は、物質的な繁栄だけでは成し遂げられません。宗教間の理解、精神的な融和を通して、思想と文化、人種の間の葛藤を克服することが急がれています。 私は、全世界の多様な宗教者に対して、三つのお願いをします。一つ目は、他の宗教の伝統を尊重し、宗教間の紛争や衝突を防ぐよう努力すること、二つ目は、すべての宗教共同体は互いに協力し合い、世界に奉仕すること、三つ目は、世界平和のための使命を完遂するために、あらゆる宗教指導者が参画する組織を発展させることです。 右の目は左の目のために存在し、左の目は右の目のために存在しています。また、二つの目は、人間全体のために存在しています。私たちの体の手足がすべてそうです。自分のために存在するものは一つもありません。宗教も、自分の宗教のために存在するのではなく、愛と平和のために存在します。世界平和が成し遂げられれば、もはや宗教は必要ありません。宗教にとっての最終的な目標は、愛と平和に満ちた世の中を現実世界に成就することです。それが神様の御旨です。 人の心を平和に対する渇望でいっぱいに満たすことは易しいことではありません。そのためには、繰り返し教えて、また教えなければなりません。それで私は、教育事業に心血を注ぐのです。私たちの教会が基盤を確立する前に「仙和芸術学校」を設立し、「清心国際中高等学校」「鮮文大学」など、さまざまな学校を建てました。また、韓国だけでなく、アメリカの「ブリッジポート大学」をはじめとして、世界各地でたくさんの学校を建てたり、運営したりしてきました。私の教育理念は、仙和芸術学校を建てたときと同じく、天を愛し、人を愛し、国のために働く人材を育てることです。 学校は、真理を教える聖所のような所です。学校で教えるべき最も重要な真理は何でしょうか。一つ目は、神様を知って、その存在を現実の世界に顕現させることです。二つ目は、人間存在の根源を知り、自分の責任を果たし、世界の運命に責任を持つことです。そして、三つ目は、人類の存在目的を悟り、理想的な世界を建設することです。このようなことは、長い間真心を込めて教えて、初めて分かるようになります。 今日の教育は、競争して勝った者が幸福を独占する、勝者独占社会をつくっていくことに焦点が合わせられています。それは正しい教育ではありません。教育は、人類が共に豊かに暮らす平和の世界をつくるための手段でなければなりません。今まで私たちを支配してきた教育の理念と方法を、人類共通の目標のためのものに変えなければなりません。アメリカがアメリカだけのための教育を行い、イギリスがイギリスの利益だけのための教育を行えば、人類の未来は真っ暗闇です。 教育者は、自分一人が裕福に暮らす方法ではなく、私たちの時代のあらゆる社会的な諸問題を解決することのできる知恵を教えなければなりません。各宗教に属する宗教学者の役割はもっと重要です。宗教学者が教えるべきことは、自分の宗教の複雑な理論や優越性ではなく、人類を愛し、平和世界を成し遂げる知恵です。彼らが先頭に立ち、人類は兄弟姉妹であり、世界は一つの家庭だという平和の原理を子孫に教えていかなければ、決して人類の幸福な未来を期待することはできません。 知恵の中の知恵は、神様の心情と理想を知ることです。ですから、科学技術が天に届くかのような二十一世紀にも、宗教の役割は依然として重要です。したがって、全世界の宗教は、人類の行くべき目的地を正確に知り、今すぐに大小の利益争いを止めなければなりません。体面を優先させた名分争いもやってはいけません。お互いに知恵を集め、力を合わせて理想世界の建設に勤しまなければならないのです。葛藤と憎悪に染められた過去の日々はもう忘れ、平和をもたらさなければなりません。世界平和のための努力はいくらやっても終わりがありません。人類を理想世界に導いていく宗教者は、自分が平和の使徒であることを、一瞬たりとも忘れてはいけません。 4. 文化事業として実践する創造のみ業 私は、一九八八年のソウル・オリンピックが世界的な冷戦構造を決定的に変える平和の祭典になると予感し、世界各国に広がっている食口たちをソウルに呼び集めました。そして、自分の国の選手団を案内し、応援する責任を持ち、韓国の記念品をプレゼントし、食事ももてなすようにしました。予測どおり、ソウル・オリンピックには中国もソ連も参加し、共産陣営と自由陣営がすべて融和する平和の祝祭となりました。開会式の当日、私は蚕室のメーンスタジアムの一般観覧席に座り、平和と融和の宴を喜んで見ていました。 オリンピックが終わった直後、私はその熱気を受け継いで、「一和天馬」プロサッカーチームを創設しました。一和天馬チームは、優勝も数回し、サッカーチームとしての名声を築いてきました。その数年後には、今度はブラジルサッカーの本拠地ブラジルで「セネ」と「ソロカバ」というプロサッカーチームを創設し、今に至るまで運営しています。さまざまなスポーツの中で、特別にサッカーチームを作ったのは、私がサッカーが好きだからです。私は、幼い頃から運動をするのが好きで、ボクシングもやり、韓国の伝統武術もしましたが、年を取ってからも喜んで見るスポーツは断然サッカーです。学生時代には、学校の運動場をあちこち駆け回ってボールを蹴っていましたが、今は見るのを楽しみます。ソウルでワールドカップが開かれたときは、三台のテレビを並べておいて、中継する全部の競技を見ました。特に韓国が出るゲームは、一ゲームも見逃しませんでした。 サッカーは人生の縮図です。私がいくら上手にボールを運んでも、自分よりも速くて上手な相手チームの選手が、瞬間的に自分のボールを奪っていけば、結局は何にもなりません。また、ボールをうまく運んでシュートを打っても、ゴールポストに当たって跳ね返ればそれで終わりです。ボールを運んでいくのは自分のすることですが、ボールをゴールに入れるのは、自分一人の力ではできません。朴智星選手のように、絶妙のタイミングでアシストしてくれるチームメイトもいなければならず、粘り強く相手チームをディフェンスする李榮杓のような選手もいなければなりません。 しかし、最も重要な人は、フィールドの外でチーム全体を見ている監督です。直接走ってボールをゴールすることはしませんが、監督の力は、選手全体を合わせたものよりもっと重要です。監督は、ちょうど神様が私たちの知り得ない世界をご覧になって私たちにサインを送るように、選手たちが見ることのできないものを見ます。監督のサインによく従いさえすれば、ゲームは百発百中勝ちます。しかし、監督がいくらサインを送っても、愚かな選手が気づかずに自分勝手にボールを回せば、ゲームに負けるしかありません。 サッカーは勝敗を競う競技ですが、国家間の平和と協力の増進にも大きな力を及ぼします。全世界のスポーツの祭典であるオリンピックよりも、ワールドカップの中継放送を見る人が二倍も多いというのですから、人類がどれほどサッカーが好きかを知ることができます。転がっていく一つのボールをめぐって、国と人種、宗教、文化を超えた融和の場をつくる力がサッカーにはあります。サッカーと人類の平和は、よく調和する一組のパートナーです。 ブラジルのスポーツ大臣まで務めたサッカーの王様ペレが、ソウルの漢南洞にある私の家を訪ねてきたことがあります。人々はペレを世界最高のサッカー選手として記憶していますが、私が出会った彼は、素晴らしい平和運動家でした。彼がサッカーを通して成し遂げようとしたことが、まさに世界平和だったからです。私と会ったペレは、にっこり笑ってこのように言いました。 「以前にアフリカのガボンでサッカーの試合をしたことがあるのですが、当時、そこは戦争中だったのです。爆弾が落ちてくる中でどうやってゲームをしたと思いますか?ありがたいことに、ゲームをしている間は休戦したのです。私はその時、サッカーが単にボールを追いかけ回すだけのスポーツではないという事実をはっきりと悟りました。サッカーは、世界平和をつくりあげていく人類共通の素晴らしい手段です。それ以降、私はサッカーを通して世界平和運動をしなければならないと誓ったのです」 ペレ氏があまりにも素晴らしく見えたので、私は彼の手をぎゅっと握りました。競争の激しい世の中を生きていれば、ストレスが多いのです。ストレスは生活を緊張させ、心の平安を奪い、ストレスが積み重なれば、一人一人の神経が逆立ち、公然と争いを起こしやすくなります。そのような緊張状態を健全に解放してくれるものこそ、スポーツや芸術活動のような趣味生活です。スポーツと芸術は、人間の抑えつけられた欲求を解放する方法であるにとどまらず、人類を一つに結ぶ道具です。私がサッカーチームを運営し、バレエ団を率いる理由は、そのような活動がまさに平和をもたらす手段となるからです。ペレ氏は、すでにそのような私の心を知っていました。 志を同じくした私たちは、その場で国際的な規模の新しいサッカー大会である「ピースカップ」を創設しました。そして、二〇〇三年から二年ごとに「ピースカップ大会」を開き、世界の有名なサッカーチームを韓国に呼んで試合を行いました。しかし、二〇〇九年に開かれる第四回大会からは、開催地を世界のさまざまな国に変える計画です。まず、二〇〇九年は、サッカーの本場と言われるスペインのアンダルシア地方で開かれる予定です。スペイン最高のクラブチームであるレアル・マドリードとセビージャFC、フランスのリヨンに加え、イギリスの名門クラブチームが参加し、世界最高のサッカー競技を繰り広げるでしょう。「ピースカップ」を運営して生じる収益金は、経済事情の厳しい国の青少年サッカープログラムを援助する経費として使います。特に、身体的障害を持つ子供たちが、サッカーを通して夢を失うことなく生きていけるよう、多くの努力をしています。(第四回ピースカップ大会は、二〇〇九年七月二十四日から八月三日にかけて、スペインのアンダルシア州各地と首都マドリードで行われた) 国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)と共に、アフリカのりベリアで青少年サッカー大会を開いたりもしました。リベリアは、十五年以上続いた部族間の紛争によって、人々の暮らしがとても苦しい所です。たびたび起こる紛争によって人口が急減したために国連の特別保護を受けているその国の子供と青少年が、一緒に集まってサッカーをしながら平和を謳歌しました。ボールを蹴りながら楽しんでいる問に、部族間で互いに融和する精神を自然と身に付けるのです。 私たちが精魂込めて準備していることがもう一つあります。他でもなく、イスラエルとパレスチナの居住地域の真ん中に立派なサッカー場を造ることです。二つの国の子供たちを相手に、ヨーロッパの有名なコーチを呼んでサッカーアカデミーも開く計画です。このような活動を通して、大人たちは互いに銃口を向け合っていたとしても、子供たちはサッカー場に集まってボールを蹴るようにしようと思うのです。 多くの人が非現実的だと首を横に振りますが、私たちは必ずやり遂げます。今もイスラエルの長官はサッカー場をイスラエルの地域に造らなければならないと言い、パレスチナの長官は自分たちの地域に造らなければならないと言い張っていますが、私は必ず二つの地をつなぐ所に造ります。私は周囲の圧迫に押されて夢をあきらめる人ではなく、頑固一徹の意志で夢を成し遂げる人です。 誰もが不可能だと言っていたことの中の一つがバレエ団を作ることでした。最近は、韓国でもバレエを好む人たちが増え、バレエのスターまで出てきましたが、私がバレエ団を作った当時は、本当にバレエの不毛の地にほかなりませんでした。 バレエを見るたびに、私は、天の国の芸術とはまさにあのようなものだと思うのです。バレリーナがつま先でまっすぐに立って頭を天に突き上げれば、その姿勢だけでも完壁に神様を畏敬する姿です。それほど一途に神様を畏敬していると見えるものは他にありません。バレエは、神様が人間に下さった美しい体を活かして、その方に愛を表現する最高の芸術です。 一九八四年に創設された「ユニバーサル・バレエ団」は、「白鳥の湖」と「くるみ割り人形」をはじめ、「ドン・キホーテ」「ジゼル」、そしてオリジナル創作バレエの「沈清」「春香伝」を公演し、今では国際的なレベルに成長しました。世界の有名な舞台から招待を受けているユニバーサル・バレエ団のバレリーナたちは、躍動的な西洋バレエに韓国人特有の静的な美しさを加え、洋の東西がよく調和した公演を見せてくれることで評価を受けています。ユニバーサル・バレエ団は、アメリカのワシントンにバレエ学校も所有しています。また私は、「ニューヨークシティ・シンフォニー・オーケストラ」と国際合唱団の「ニューホープ・シンガーズ」も作りました。 芸術は神様の創造の偉業に似ています。芸術家が自らの作品のために渾身の力を注ぐように、神様も自ら創造された人間とこの世界のためにすべての心を注がれたのです。「神は『光あれ』と言われた。すると光があった」(創世記一章三節)という聖書のみ言は、一言で光が自然とつくられたような印象を与えますが、絶対にそうではありません。神様が光をつくり、地をつくることにすべての力を注がれたように、舞台の上に立ったバレリーナの踊りも、死力を尽くしたのちに誕生した創造の結実です。 サッカーも同じです。九十分間、サッカー選手は死力を尽くします。どこから飛んでくるか分からないボールに向かって走っていき、ゴールに向かって思い切り蹴飛ばす、そこに生涯のあらゆるものをかけ、神様がこの世界を創造する時のようなエネルギーを注ぎます。自分が持っているものを百パーセント完全に注ぎ込むこと、一瞬のために自分を丸ごと捧げることは、何よりも偉大なことです。 5. 海を治める者は世界を掌握する 海を掌握する国が世界の主役になるということは、歴史が証明しています。十六世紀のイギリスを考えてみてください。イギリスの女王エリザベス一世は、王位に上がるやいなや、海洋政策を強化しました。資本と技術をすべて動員し、頑丈な船を造り、勇猛な人たちを船に乗せて海に送り出しました。彼らは、海の果てに何があるのか分からないまま、命がけで海に出ていきました。 イギリスは、もともと海に強い民族ではなかったのです。かえってノルウェーやスウェーデンのバイキングに侵略されていた民族でした。しかし、海を失えばすべてを失うという事実を悟り、海洋圏を強化したエリザベス一世の血のにじむような努力によって、イギリスはバイキングとスペインを凌駕する海洋帝国になりました。そのような努力の末に、大西洋の小さな島国イギリスは、五大洋六大州に無数の植民地を治める「日の沈まない国」になることができたのです。(五大洋六大州は韓国でよく使われる表現で、全世界を意味する) イギリスを中心とする西洋文明は、科学技術を発達させました。羅針盤を持って世界のさまざまな所を訪ねて回り、旗を立てて植民地にしました。知識と技術が発達すればするほど、世の中のすべてを自分のものにしていったのです。 しかし、韓国をはじめとする東洋はそうではありません。精神を重要視する東洋世界は、物質のために精神を捨てることはしません。物質と精神が衝突すれば、むしろ物質を捨てる所が東洋です。そのため、これまで東洋は、西洋に比べると生活が豊かではありませんでした。しかし、いつまでも精神が物質によって支配されるということはありません。 西洋の物質文明が堕落の道を歩むとともに、東洋にチャンスが巡ってきています。エジプトを経てギリシャ・ローマで発達した文明が、イギリスとアメリカを経て朝鮮半島を囲む太平洋地域に移ってきているのです。今まさに太平洋文明圏の時代が開かれています。新しい文明時代の主役は、韓国をはじめとするアジアです。韓国と日本が、このように短い期間に世界的な強国として急成長したのは、アジアの時代が来ていることを立証するものであり、決して偶然ではなく、歴史的な必然です。 しかし、韓国が世界の主役として浮上するのを、アメリカやロシアが黙って見ているはずがありません。韓国をめぐって、アメリカと日本、ロシア、中国の間に大きな争いが起きるかもしれません。韓民族は、それに備えて二つのことを準備しなければなりません。 まず、日本とアメリカを結び、ロシアと中国をつなげる巨大なベルトを作って自らを守らなければなりません。何によってその国々を結ぶことができるのでしょうか。一つになる思想であり、一つになる心です。地球村の人類が、人種と国家と宗教を超えて一つだという思想こそが・国家間の戦争を防ぎ、平和世界を成し遂げる道を開くことができるのです。韓民族は、戦争の危険から自らを守るためにも、一つになる平和思想を世の中に植え付けなければなりません。 もう一つ、韓民族が準備しなければならないものは、海洋時代を生きていく力を備えることです。太平洋は海です。海を治める力がなければ、太平洋文明圏の主役になることはできません。いくら天運が到来したとしても、自分がまるで準備ができていなければ、チャンスをつかむことはできないのです。韓国が中心となった海洋時代が開かれるという事実を知ったのなら、当然、海洋時代の主役になる準備をしなければなりません。 海には魚だけがいるのではありません。海のもっと大きな宝は、エネルギー源に他なりません。石油の埋蔵量が減少するとともに、エネルギー源をめぐる危機感が日に日に高まっています。石油が底をつけば、人間の文明世界はそのまま暗黒になってしまいます。トウモロコシを利用した代替エネルギーを開発すると言いますが、それは、人類が食べて生きていく食糧も不足している状況では、決して可能なことではありません。本当の代替エネルギーは海にあります。海の中に埋められた水素エネルギーに人類の未来があります。 地球の三分の二が海です。言い換えれば、人類を食べさせていく資源の三分の二が海に埋まっているということです。ですから、海をきちんと治めることができなければ、未来を開いていくことができません。すでに先進国は、海底から石油と天然ガスを掘り出し、深層水を吸い上げて高い値段で売っています。海の中から資源を探し出すことは、今始まったばかりです。しかし、全人類が海を拠り所として生きていく日が、遠からず訪れてくるでしょう。 海洋時代はひとりでに開かれるのではありません。何よりも自分が先に海に出ていかなければなりません。船に乗って海に出ていき、波と闘わなければなりません。そのような勇気がなければ、決して海洋時代に備えることはできません。海を占領する国が、世界をリードすることができるのです。海を占領した国の文化と言語が世界の言語と文化となる世の中がすぐにやってきます。したがって、海を創造主の御旨に合うように管理し、海の資源を正しく運用しなければなりません。 海は世界を結束させる求心点となるでしょう。海を治める人になろうとすれば、そこで自由に生きていくことのできる訓練をしなければなりません。私は、魚を釣る訓練をさせるとき、大きな船一隻に小さな船十隻を従わせて一緒に送り出します。湾口を出発するときは大きな船に付いていきますが、広い海に着いた瞬間、小さな船に乗ってきた人たちは自分自身で責任を持たなければなりません。風がどこからどこに吹くのか、海の底の状況はどうなのか、魚はどの道を行くのかを、自ら学習して解決しなければならないのです。 6. 海洋時代がもたらす計り知れないチャンス 私は「アラスカ精神」という言葉を好んで使います。早朝に起きて海に出ていき、その日に釣るべき責任量を釣ることができなければ、その量を満たすところまで魚を釣ってから帰ってくるのが「アラスカ精神」です。そのように粘り強く忍耐することを学んでこそ、船乗りになることができます。 魚を釣ることは遊びではありません。海の中にいくら魚がたくさんいるとしても、ひとりでに釣れることはありません。専門的な知識と多くの経験が必要です。網を編むこともでき、錨綱を結ぶこともできなければなりません。そのように厳しい訓練を受けた人は、魚釣りだけが上手になるのではなく、世界のどこに行っても、新しい環境を克服し、他の人を導くリーダーとして成長します。魚釣りの訓練とはそのようなリーダーを育てることなのです。 海で覇権を握ろうとすれば、世界を巡航するに相応しい船と潜水艦も必要です。韓国はすでに世界最高の造船国です。海洋大国になれる実力を十分に備えているので、これからは海に直接出ていく人が増えていかなければなりません。韓民族は海上王と呼ばれた張保皐(七九〇~八四六年頃。統一新羅時代に新羅、唐、日本にまたがる海上勢力を築いた人物。韓国ドラマ『海神』の主人公として描かれている)の後裔です。船に乗って海に出て、波に打ち勝った伝統が韓民族にはあるので、できないことがありません。 人々は波を恐れます。波は風に乗って波打ちますが、風が吹いて波が立ってこそ、海の中に酸素が供給されるのです。風が吹かずに波のない静かな海が続けば、海は死んでしまいます。波が大切だということを知れば、もはや波は恐ろしくないのです。強風が吹いて波が荒々しくても、それが海の中の魚を生かす道だということを知れば、かえってそれを海の魅力として受け入れるようになります。 海の下に三十メートルだけ潜っていけば波は存在しません。潜水艦に乗って海の下に潜っていけば、エアコンが必要ないほど涼しいのです。適度な温度の静かな海の中では、あらゆる魚が群れをなし、踊るようにして泳ぎ回っています。まるでリトルエンジェルスのように色とりどりの美しい服を着て、ひらひらとヒレを揺らします。そのように静かで平和な世界がすぐに訪れるでしょう。 海洋時代が訪れてくるということは、韓国に世界を変えるチャンスが来るということです。あらゆる生命体を養育し、包み込んでくれる海は、女性を象徴します。反対に陸地は男性を象徴します。海に浮かぶ島国は女性を表しますが、大陸の端にある半島国家は男性を表します。半島国家の国民は、海と大陸のあらゆる敵の侵入に備えて生きてきたため、人一倍勇猛で強靭な民族性を持っています。ギリシャやイタリアのような半島国家で人類の文明が発生したのは偶然ではありません。大陸に伸びていき、広い海洋を克服していく進取の気性と強靭な探検精神があったために、華々しい文化を花咲かせることができたのです。 黒潮について考えてみましょう。海流は偏西風と貿易風によって引き起こされますが、潮流は太陽と月、特に月の引力によって上下運動として起こされます。黒潮は北赤道海流の一部で、一万四五〇〇キロメートルになる世界最長の海流であり、北太平洋の西岸境界線として北方を流れ、黒潮続流は西太平洋に暖流を戻します。太平洋を巡る海流の力は、巨大だという表現では不足です。黒潮が巡っていく力によって海全体が動くので、もし黒潮がなければ、海の水が循環せず、すべて死んでしまいます。いくら大きくて悠々とした川でも、結局は海に流れていくのと同じように、いくら大きくて勇壮な海も、黒潮の力強い水の流れに従って動くのです。私たち民族は、世界を導く黒潮にならなければなりません。世界の生命力を一箇所に結集させる力の源泉にならなければならないのです。 私は、太平洋文明圏の中心となる所を求めて、何度も韓国の南海岸一帯を回ってみました。そして、麗水と順天を選択しました。鏡のように静かで澄んだ麗水の近海で、李舜臣将軍が日本を大きく退け、また亡くなりました。そのような歴史的な海をもつ麗水は、嶺南と湖南が出会う所であり、智異山のふもとに接し、朝鮮戦争後には、左翼と右翼が正面から争った民族の痛みが染み付いた地でもあります。葦原で有名な順天湾は世界的に有名なリアス式の美しい海岸です。澄んだ水が打ち寄せる海に出ていくと、あらゆる魚を釣ることができ、静かな湾ではアワビとワカメが育ちます。また、広々とした砂浜は、ハイガイをはじめとする各種の貝と、テナガダコがたくさんいる所です。船に乗って海に出てみても、山に登って見渡してみても、来るべき海洋時代を準備するための拠点として、どこにも不足な点のない美しい地です。 私は今、麗水を中心に南海岸を開発中です。その準備のために、巨文島をはじめ、いろいろな島々を回り、何カ月もそこで暮らしました。その村で数十年間農業をし、漁業をして生きてきた人たちを師として、古びた旅館で寝泊りしながら詳しく調査しました。話を聞いて調査するだけでなく、目と足で一つ一つ見て回り、調べてみました。それで、「どの海にどのような魚が生息しているのか、どの海にどんな網を投げるべきか、どこに何の木が育ち、どの家に中風にかかった老人が独りで暮らしているのか」をすべて分かるようになりました。 南海岸に関する調査がすべて終わった日、その時まで私に協力してくれた村の里長 (里は韓国の行政単位。道、郡、面の下に里がある。面が日本でいう町村ぐらいの大きさ) を飛行機に乗せ、アラスカに行きました。自分が知っているす。へてのことを私に教えてくれたので、私も自分が知っていることを彼に教えてあげたいと思ったのです。私は彼と一緒に釣りをして、アラスカにどんな魚が生息していて、どのように釣るのかを教えてあげました。いくら小さい知識でも、そのようにお互いに分かち合ってこそ、私の心が平安なのです。 私が麗水開発を始めるやいなや、麗水市は二〇一二年の海洋国際博覧会の開催地になりました。国際博覧会(EXPO) は、オリンピック、ワールドカップと並ぶ世界三大祝祭です。国際博覧会が開かれる三カ月間に、全世界から百五十四力国の会員国や国際機構が各種の展示会を開きます。そのようになれば、世界の耳目が麗水に集中するのはもちろん、先進技術と文化が一度に麗水に集まってきます。夏の日に、雲が激しい勢いで押し寄せてくる場面を見たことがあるでしょうか。一度風に乗り始めた雲は、あっという間に山を越え、海を越えます。もたもたすることがありません。そのように、雲の群れが押し寄せてくるように、世界が麗水に向かって、朝鮮半島に向かって集まってくるようになります。 私は、南海岸にある島という島をすべて橋で連結し、世界各国の船に乗る人たちに食事と宿泊所を提供するコンドミニアムを建てる計画です。飲み食いして遊ぶためのコンドミニアムではありません。アメリカ人、ドイツ人、日本人、ブラジル人、アフリカ人等々が、たとえ互いに他の船に乗って魚釣りをしたとしても、寝食は一つの家でするようにして、人類が一家族であると分かるようにしたいのです。 海洋時代は宇宙時代でもあります。遠からず航空科学技術が絶対的に必要な時代が訪れます。その時になって宇宙産業を準備するのでは遅いのです。私は今、金浦に航空産業団地を造成し、世界的に有名なシコルスキーのヘリコプターを私たちの手で造る準備をしています。今後、太極マークをつけたヘリコプターが全世界の海と空を飛び回る日が必ず来るでしょう。 7. 一輪のタンポポが黄金よりも貴い 現代社会の三大難問は、公害と環境保全、そして食糧です。三つのうちでどれか一つでもないがしろにすれば、人類は滅亡してしまいます。地球は、すでに壊滅的な状態に陥りつつあります。物質に対する際限のない貧欲が、自然を壊す深刻な公害を引き起こし、水と空気を汚染させ、人類を保護してくれるオゾン層まで破壊しました。このままいけば、人類は自分がつくった物質文明の罠にかかって自滅してしまうでしょう。 私はブラジルのパンタナール地域を持続・保全するための活動を二十年近くやってきました。パンタナールは、ブラジルとボリビア、パラグァイにまたがる世界最大の湿地帯としてユネスコの世界自然遺産にも登録されました。私は、パンタナールの生物を神様がつくられた原型どおりに保全し、保護することを、世界的な環境運動としで育んでいます。 海と陸地、動物と植物が一つに重なり合って生息しているパンタナールは、本当に絶妙な所です。「美しい」「素晴らしい」という単純な言葉では決してその価値を表現することができません。空からパンタナールを見下ろして撮った写真集は、その美しさのために世界で最も多く販売された写真集の中の一つです。パンタナールは、ノドジロオマキザルとホエザル、コンゴウインコ、ジャガー、アナコンダ、カイマンのような珍しい動物が生息する人類の宝の庫です。 パンタナールを中心にアマゾン川流域の生物は、創造当時の原型をそっくりそのまま保って暮らしています。パンタナールは万物創造の原点です。人間は、神様がつくられたものをたくさん破壊しました。人間の貧欲さによって種が絶滅した動物や植物があまりにもたくさんあるのです。しかし、パンタナールには、今も神様がつくられた創造物の原型がそのまま残っています。私はパンタナールに鳥の博物館や昆虫の博物館を建て、絶滅した種と創造の原型を復元する仕事をしています。 パンタナールは、たくさんの動植物の生息地であるだけでなく、地球に酸素を供給する役割もしています。パンタナールは世界で最も多い量の酸素を作り出す「地球の肺」であり、「自然のスポンジ」、そして「温室ガス貯蔵庫」です。しかし、このようなパンタナールがブラジルの急激な産業化によって、年を追うごとに壊されていっています。地球の主要な酸素供給源であるアマゾン地帯が破壊されれば、人類の未来は暗黒にほかなりません。 また、日本の本州ほどの面積のパンタナールの湖には、数百種類の魚が生息しています。その中には、重さが二十キログラムを超える黄金に輝く「ドラド」という魚もいます。釣り竿にドラドがかかれば、自分の体が川に引き込まれそうになります。全力で釣り竿を持ち上げると、黄金色の鱗を光らせながら空中に飛び上がってきます。そうやって何度か引き上げても、余力を残していて、体をばたつかせています。魚ではなく、熊や虎のように力が強いのです。 パンタナールの湖はいつもきれいです。水の中に何かを放り投げても、あっという間にきれいになります。いくら汚れたものでも、いつの間にかきれいにしてしまうのは、いろいろな魚が生息しているからです。魚はそれぞれ食べる物が違います。そのような魚がごった返して暮らしながら、水を汚すものまですべて食べて片付けてしまうのです。餌を食べること自体が、水をきれいにする清掃作業でもあるのです。それがまさに私たち人間とは違う点です。魚が生きている目的は自分のために生きているのではありません。周辺をきれいにしながら、より暮らしやすい環境をつくってお互いのために生きています。 パンタナールの湖のホテイアオイの表面を見ると、虫が真っ黒にへばり付いています。虫だけがいればホテイアオイは生きていけませんが、それを食べる魚がいるので、虫も生き、ホテイアオイも生き、魚も生きるのです。それがまさに自然です。すべて自分のために生きるのではなく、お互いのために生きています。自然がこのように偉大だということを教えてくれています。 いくらパンタナールに魚がたくさんいても、ひっきりなしに捕まえていれば魚は減ってしまいます。魚を保護しようとすれば養殖をしなければなりません。パンタナールの魚が貴重であればあるほど、よりたくさんの養殖場を造って魚を育てなければなりません。魚だけでなく、昆虫も育て、鳥も育て、動物も育てなければならないのです。昆虫を育てることは、世の中にもっと多くの鳥が生きていけるようにすることです。パンタナールは、こうしたすべてのものを育てることのできる場所なので、貴重性が増すのです。 パンタナールには魚ばかりがたくさんいるのではありません。川辺にはパイナップルとバナナの木、マンゴーの木が立ち並んでいます。水のない畑に稲を植えれば、三毛作をして余りあるほど稲がよく育ちます。それほど土地が良いので、大豆やトウモロコシのようなものは、種さえ蒔いておけば、人の手を借りて育てなくても、どんどん実ります。広々とした草原には、ダチョウが大またで歩き回っています。ダチョウは、人が背中に乗っても大丈夫なくらい力があります。 ある時、船に乗ってパラグアイ川に沿って下っていき、川辺の民家に立ち寄ったことがありました。そこに暮らす農民が、私たちが空腹だと気づいて、すぐに畑からサツマイモを掘ってきてくれたのですが、その大きさがスイカくらいあったのです。その上、一度掘り出してそのまま蔓を放っておけば、何年でもまたサツマイモが実るそうです。植えなくても、毎年サツマイモが実るというのですから、食べる物が不足している国に広めたいと強く思いました。 湿地を開発しようとする人たちは、いろいろな経済的利益を主張しますが、実際にパンタナールは、湿地それ自体でも十分に経済的な価値が高いのです。パンタナールには黒い松の木(ケブラッチョ)が原始林を形成しているのですが、とても頑丈で細胞組織が緻密なので、木に杭を打っても、百年以上生きるそうです。この木は「黒檀」と呼ばれる高級木材なのですが、腐りにくく、鉄よりも寿命が長いそうです。そのように貴重な松の木が一抱えほどの太さに育ち、森を形成している景観を想像してみてください。私はパンタナールの四百ヘクタールの土地に木を植えました。私たちが植えた木々によってパンタナールがより一層美しくなり、そこで作られた豊富な酸素が私たちの人生を潤沢にするのです。 自然を破壊するのは人間の利己心です。今、安心して息をすることもできないほど地球の環境が破壊されたのは、人より少しでも大きく、早く成功しようとする人間の貧欲さのためです。しかし、もうこれ以上、地球が破壊されるのを放っておくことはできません。自然を救うことに対して、宗教者がまず立ち上がらなければなりません。自然は神様の創造物であり、人類のために下さった贈り物です。自然の貴重さを悟らせ、創造当時の豊かで自由な状態に戻すことを後回しにすることはできないのです。 パンタナールが自然の宝庫だという事実が広まるとともに、パンタナールをめぐる争いが始まっています。保護して育てなければならない所が、貧欲さに満ちた人間相互の争いの場へと変わる兆候を見せているのです。私は十年前から世界各国の指導者をパンタナールに呼び、「自然を保護し地球を守る法」に関して討論を行っています。世界の環境専門家と学者も集め、パンタナールに関心と愛を寄せてくれるようお願いしました。パンタナールがこれ以上、人間の無慈悲な欲心のために破壊されないように、番人となって守っているのです。 環境問題が深刻になると、環境保護運動を行う団体が増えました。しかし、最も良い環境保護運動は愛を伝播する精神運動です。人間は、自分が愛する人のものであれば、何でも好んで大切にします。ところが、神様がつくられた自然を大切にして愛することができません。神様は人間のために自然を下さったのです。自然を利用して食べる物を得て、生活を潤沢にするのは、その方のみ意です。自然は自分だけが使って捨てる使い捨ての物ではありません。自然は子々孫々に至るまで、私たちの子孫が継続して食べる物を得て、体を支えて生きていくべき土台です。 自然を大切にして保護する近道は、自然を愛する心を持つことです。道を歩いていて一株の草を見ても、涙を流すことができなければなりません。一本の木を抱きかかえて泣くことができなければなりません。一つの岩、一瞬の風にも、神様の息遣いが隠れていることを知らなければならないのです。自然を大切にして愛することは、神様を愛することと同じです。神様がつくられたすべての存在を愛の対象として感じなければなりません。博物館にある一つの作品がいくら立派だとしても、生きている神様の作品には及びません。道端に咲く一輪のタンポポが新羅の金の冠より貴いのです。 8. 貧困と飢餓を賢く解決する方法 空腹でなければ神様は分かりません。空腹の時間が神様の最も近くに行くことができる機会です。空腹の時、私の前を通り過ぎる人がいれば、もしかしたらあの人が私の母ではないか、私の姉ではないかという思いがするものです。誰でも私を助けてくれる人を待つのです。そのようなとき、善なる同情の心を持たなければなりません。 空腹はアフリカのような開発途上の国々だけの問題ではありません。アメリカに行った時、私が最初にしたことは、貧しい人たちに食糧を分配するトラックを用意することでした。世界で最も暮らしが豊かな国であるアメリカにも飢えて死んでいく人がいるほどですから、貧困な国の事情は形容しがたいほど残酷です。 全世界を巡回して感じる最も差し迫った危険は食糧問題です。食糧問題こそ一時も先延ばしできない問題です。今も私たちが生きている世界では、一日だけで四万人が飢えて死んでいっているのです。自分のことではない、自分の子供のことではないと知らないふりをしていてはいけません。 単純に食べ物を分け与えるだけでは飢えを解決することはできません。より根本的な視角から接近しなければなりません。私は二つの根本的で具体的な方案を考えています。一つは、安い費用で食べ物を十分に供給することであり、もう一つは、貧困に打ち勝つ技術力を供与することです。 食糧問題は、今後人類に非常に深刻な危機をもたらすでしょう。なぜならば、限りある陸地で生産されるものだけでは地球上の人類をすべて食べさせることはできないからです。ですから、海にその解決策を見いださなければなりません。海は未来の食糧問題を解決できる鍵です。私が数十年前から絶えず海を開拓してきた理由もここにあります。食糧問題を解決しなければ、理想的な平和世界を建設することはできません。 アラスカでは、十五インチ以下のスケソウダラをすべて肥料にしてしまいます。素晴らしい食物ですが、それを食べることを知らないので、そのまま肥料にしてしまうのです。わずか二十年から三十年前には、西洋の人たちは、私たちが牛の尾をくれと言えばただでくれました。彼らは、韓民族が好んで食べる肉の骨や内臓を食べることを知らなかったのです。魚もそうです。世界で捕獲する魚の二〇パーセント以上がそのまま捨てられます。私はそのようなことを見るたびに、アフリカで飢え死にする人たちが思い浮かび、胸が痛みます。魚は牛肉と比較にならないほど高たんぱく質です。そのようなものをかまぼこやソーセージにしてアフリカに持っていけば、どれほどよいでしょうか。 思いがそこまで至ると、私は本格的に魚を貯蔵して加工する仕事を始めました。魚をいくらたくさん捕まえても、後処理を上手にできなければすべて無駄になります。いくら良い魚でも、新鮮な状態で八カ月以上はもちません。冷凍倉庫にきちんと凍らせておいても、氷の間に空気が入って肉から水気が抜けていきます。それで魚に水をかけて再び凍らせますが、既に元の味を出すのは難しいので、事実上捨てた物と同じです。私たちは、このように捨てられる魚を集めて粉にすることに成功しました。ドイツやフランスのような先進国でもできなかったことを私たちはやり遂げたのです。 私たちはそれを魚の粉、「フィッシュ・パウダーfish powder)」と呼びます。魚を粉にすれば、蒸し暑いアフリカでも簡単に保管し、運搬することができます。フィッシュ・パウダーは、九八パーセントがたんぱく質の塊である高たんぱくの中の高たんぱくで、飢えて死ぬ人類を生かすことができます。フィッシュ・パウダーでパンも作ることができます。生きてぴんぴんしている魚が十分もしないうちに粉になって出てきます。このように新鮮なフィッシュ・パウダーは、ルワンダとクロアチア、アルバニァ、アフガニスタン、スーダン、ソマリァなどに供給され、飢餓に直面する人々の空腹を満たしているのです。フィッシュ・パウダーを求める人たちが増えてきたので、これからはもっと多くの場所に魚の加工工場を建てるつもりです。 海の中には無尽蔵の食糧がありますが、人類を食糧問題から救う最も優れた鍵は「養殖」です。都市の高層ビルのように、これからは魚を養殖するビルができるでしょう。パイプを利用すれば、高いビルや山の上でも養殖をすることができます。養殖で全世界の人をすべて食べさせて余りある食糧を生産できるのです。 海は神様が下さった福の塊です。私は海に出ていけば、顔が真っ黒に焼けるほど魚釣りに熱中し、チョウザメも釣り、マカジキも釣りました。私が直接魚を釣る理由は、魚の釣り方を知らない人たちにその方法を教えるためです。魚を釣ることができなかった南米の人たちを連れて、川に沿って船に乗り、数カ月回りながら釣り方を教えてあげました。私が直接絡まった網を巻き上げ、三、四時間かけて、ほどく方法を見せながら教えました。 安い費用で食べ物を十分に供給するためには、人類の最後の宝庫である海と、いまだに原始林のまま放置されている大森林を開発しなければなりません。ところが、それが言うほど簡単ではありません。体を動かすのが難しいほど蒸し暑く、じめじめした所に直接入っていき、身を投じて献身する苦労があって、初めて可能なのです。熱帯地方の大森林を開発するのは、人類を愛する情熱と献身なくしてはやり遂げることができません。 ブラジルのマットグロッソ・ド・スール州のジャルジンは、生活するにはとても不便な所です。天候は暑く、名前も知らない虫たちが容赦なく食いついてきます。私はそのような所で、鳥や蛇を友達にして暮らしました。靴を履くこともできませんでした。裸足でジャルジンの赤い土を踏んで歩く私の姿は農民そのものです。また、川で魚を釣り上げる私は漁師そのものです。「お、あの人は本当に農民だ!本当に漁師だ!」という声を聞いてこそ、原始林を開発することができます。きれいで安楽な寝床で八時間ずつ眠り、三食を食べ、涼しい木陰で横になって休みながらできることではありません。 パラグアイを開発した時のことです。フエルテ・オリンポに小さな家を探して、食口たち何人かで一緒に暮らしました。トイレが一つだけなので、朝はみんなで順番を決めなければなりません。そこでも私は、早朝の三時になれば必ず起きて、運動して釣りに出ました。そのため、一緒に過ごしていた食口が随分と苦労しました。早朝、ろくに目が開かないまま釣りの餌を作ることは日常茶飯事でした。その上、船に乗ろうとすれば、人の牧場をいくつか通らなければなりませんでした。真っ暗な所で牧場の閉まった門を開けようとするので、すぐに開けることができず、それを見て私が雷のような大声を出しました。 「何をもたもたしているのだ!」 自分で聞いてもびっくりするほど恐ろしい声を上げるのですから、食口たちは本当に大変だったでしょう。しかし、私は一分一秒を惜しむ人です。いい加減に過ごす時間は少しもありません。平和世界が成し遂げられる時まで、やらなければならないことが、レジからレシートが出てくるように目にありありと浮かぶので、とても気が急いていたのです。暗闇がまだ残っている早朝の川で釣りをしようとすれば、蚊が押し寄せてきます。蚊の針がどれほど強いのか、ジーンズの上からでも刺して容赦なく食いつきます。夜が明ける前なので、釣りの浮きが見えないときは、目印になるように釣り竿に白いビニール袋を結んで投げなければならないほどでしたが、私は気が急いていて、日が昇るまで待てませんでした。 ジャルジンは今も懐かしい所です。目を閉じれば、ジャルジンのかっかとする熱気が私の顔にくっついてくるように思い、ジャルジンのすべてのものが懐かしいのです。体が少し大変なのは何でもありません。体の経験する苦痛はすぐに消えます。重要なのは心の幸福です。ジャルジンは私を幸福にしてくれました。 9. パンよりもパンの作り方を教えよ 人類の飢餓問題を解決しようとすれば、種を蒔く心がなければなりません。種は土の中に蒔きます。目に見えない土の中で発芽して芽を出すまで、忍耐して待たなければなりません。飢餓問題も同じです。食べる物がなくて死んでいく人に一握りのパンをあげるよりも、当面は苦労して日の目を見なくても、小麦を植えて収穫しパンを作る技術を教えなければならないのです。そうしてこそ、より根本的で持続的に飢餓を解決することができます。私たちは今からでも、飢餓で苦しむ地域の風土と土、人々の気質を共に研究しなければなりません。 アフリカにはキャッサバという木があります(ブラジルではマンジョカと呼ばれる)。コンゴの人たちは、牛を売る前に栄養が豊富なキャッサバの木の葉を食べさせて牛の肉を太らせます。人々もキャッサバの葉を印でつき、油を入れてこねたあと、焼いて食べます。ですから、キャッサバの木をたくさん植えて、毒抜きをした後、木全体を粉にして、パンや餅を作るときに入れるのがよいと思います。また、サツマイモに似た形の「キクイモ」は、土に植えれば非常に早く育ち、ほかの救荒作物よりも収穫量が三倍も多いのです。キクイモをたくさん植えるのも、飢餓問題を解決するのに役立つでしょう。 ジャルジンでは、大きなミミズを利用して農作業をするので、土地がよく肥えています。そのミミズは、サンパウロ州のカンピーナスにだけ生息しているのですが、生体習性を研究して他の所でも育てれば、農業に役立ちます。マットグロッソ地域には、韓国人が進出して蚕を研究しています。蚕を育てれば、高価な絹も得ることができ、栄養剤を作って売り、食べ物を買うこともできます。 人類の飢餓問題を一度に解決できる画期的な方法はありません。国ごとに人々の食生活と習慣が異なり、また育つ動植物が異なるからです。大切なことは隣人に対する関心です。自分がおなかいっぱいご飯を食べるとき、誰かおなかを空かせている人がいないか見渡すことのできる心を持つことが肝要です。人類が飢餓問題を解決しなければ、この世界に本当の平和はありません。すぐ横にいる人が空腹で死んでいくのに、それをそのままにして平和を語るのはあり得ないことです。 食糧を直接援助することと同じくらい大切なことは、食糧を自給できる技術を普及することです。技術力を普及するためには、後れた地域に学校を建てて、文字の読み書きができない人をなくすと同時に、技術学校を建ててそこで食べて生きていけるだけの実力を育てなければなりません。アフリカと南米大陸を征服した西洋人は、彼らに技術を教えませんでした。彼らの土地で資源を掘っていき、彼らを労働者としてのみ扱いました。彼らに農業のやり方も、工業のやり方も教えませんでした。それは正しくないことです。私たちは以前からコンゴ(旧ザイール)、ガイアナ、パラグアイ、ブラジルなどに学校を建てて、農業と工業技術を教えています。 空腹な人たちのもう一つの問題点は、体が病気になっても、貧しさのために治療を受けられないことです。地球の反対側にある先進国では、人々が薬漬けで病気になりますが、空腹な彼らは、私たちにとってごくありふれた下痢薬や風邪薬がないために死んでいくのです。それで、飢餓撲滅運動をしながら、一方では医療支援も同時にしなければなりません。無料診療所を開設して、慢性疾患で苦しむ彼らの面倒を見てあげなければなりません。 私は、人類が共に平和に暮らしていくモデルとして、ブラジルのジャルジン地域に「ニューホープ農場」を造りました。広々とした土地を耕して農地にし、高原地帯には牛を育てる牧場を造りました。ニューホープ農場はブラジルにありますが、ブラジル人だけのものではありません。空腹な人たちは、誰でもニューホープ農場に来て働き、食べることができます。全世界のあらゆる人種からなる二千人以上の人たちが来て、いつでも食べて休むことができる所です。小学校から大学までの教育機関も一緒に設立し、農業も教え、牛を育てる方法も教えます。木を植えて育てるやり方、魚を釣って加工し販売することまで教えます。農業だけするのではなく、川の周辺のたくさんの湖を利用して養殖場も造り、釣り場も造りました。 パラグアイの国土の六〇パーセントを占めるチャコ地方は、長い間捨てられた地でした。海の底が隆起して陸地になったチャコ地方は、今でも土に多くの塩分が含まれています。私は七十歳を過ぎてからパラグアイに入っていきました。長い間捨てられた地で生きてきた彼らの生活は、言葉では表現できないほど疲弊していました。彼らを見つめる私の心がどれほど痛んだか、とても言い表すことができませんでした。私は心から彼らを助けたいと思ったのですが、彼らは、顔の色が違い、言葉が違う私を受け入れようとはしませんでした。しかし、私はその程度で放棄しませんでした。 三カ月間、パラグアイ川に沿って歩き回り、そこの人たちと一緒に食べ、一緒に眠りました。皆が不可能だと言っていたことに、七十歳を超えた私が飛び込んだのです。彼らは誰も釣りをすることができませんでした。私が魚を釣り上げるのを見た彼らは、不思議に思ってそばに集まってきました。私は彼らに釣りの方法を教えてあげ、彼らは自分たちの言葉を教えてくれました。そのようにして、三カ月間一緒に船に乗りながら、私たちは互いに親しくなりました。 彼らが心を開くと、私は世界が一つにならなければならない理由を繰り返し語りました。最初、彼らは反応があまりありませんでした。しかし、チャコ地方の人たちは、年とともに少しずつ変わっていきました。そのようにして十年が過ぎると、熱い心で「グローバル・ピース・フェスティバル」を開くくらいに変わったのです。 パラグアイ川は海のように深くて広い川です。私は、パラグアイ川に船を出して魚を釣りました。やることがなく飢えていたチャコ地方の人たちは、魚を釣って、生計を維持できるようになるでしょう。魚をたくさん釣ると、そのまま腐って捨てるほどになっていたので、川辺に冷凍倉庫を建てました。フィッシュ・パウダーを作る工場も造れます。船に乗るのが怖い人たちは、冷凍工場で魚を貯蔵し、販売する仕事をしています。彼らは、これ以上飢えによって絶望したり、つらい思いをしたりすることがなくなるでしょう。 しかし、食べる問題だけが解決したからといって、すぐに平和が訪れてくるのではありません。飢えが解決した後には、平和と愛に関する教育が必要です。私はジャルジンやチャコのような地域に学校を建てています。最初、住民は子供たちを学校に送らずに牛の世話をさせていました。「牛と友達になって遊ぶのもよいが、学校教育を受けなければ発展できない」と粘り強く説得した結果、今では学生がたくさん増えました。牧場がうまくできるようになれば、簡単な技術を利用して物を作る軽工業の工場を造ってあげられるし、学生たちは工場で働こうと、一生懸命に学校に通うようになるでしょう。 全世界の飢えて死んでいく人たちは私たち全員の責任です。ですから、私たちが出ていって彼らを救わなければなりません。明確な責任感を持って、彼らを食べさせ、助けなければなりません。裕福な人は少し低い所に下りていき、貧しい人は少し上げてあげ、すべての人が等しく豊かに暮らす世界をつくらなければならないのです。 10. 青少年よ、志を立てれば人生が変わる! 私たちが見慣れない人に会えば、「あなたは誰ですか」と尋ねるように、神様も私たちに尋ねられます。そして、神様は、「私は青年です」という答えを一番喜ばれます。なぜなら、人生で最も大切で、最も美しい時が青年時代だからです。青年時代は未来のための安息の土台にならなければならず、新しい時代を開く礎石にならなければなりません。 ところが、最近の青年からは、情熱を見いだすことがだんだんと難しくなっています。人生の目的を見つけ出すことができないまま、無駄にあちこちきょろきょろと見回すかわいそうな青年が増えています。歴史上、偉大な指導者は、皆幼い頃から人生の目的が明確でした。彼らは、幼い頃に胸に抱いた目的を生涯大切に持ち続け、それを成し遂げようと、熾烈な人生を生きました。寝て、起きて、活動するすべての人生の営為が、未来の舞台を準備するためのものだったのです。今、果たしてどれだけの人がそのような人生を生きているでしょうか。 私たちは全員、偉大な人間として創造されました。何の意味もなく皆さんがこの世界に出てきたのではありません。神様は、自分のすべての愛を注いで私たちをつくりあげられたのです。ですから、私たちはどれほど偉大な存在でしょうか。神様がいらつしゃるので、私たちは何でもすることができるのです。 神様を愛することにより、私の人生は完全に変わりました。自分よりも人類をもっと愛し、私と私の家族の問題より人類の苦痛を先に考える人になったのです。また、神様がつくられたすべてのものを愛そうと努力しました。山にある木も愛し、水にいる魚も愛する心で見ました。世の中のすべてのものから神様のみ手を感じようと、触覚を鋭敏にしました。 そのように、心を神様の愛に合わせて変える一方、使命を果たそうと、私が備えるべき強健な体をつくるために努力しました。いつ、いかなる時に神様が私を呼ばれても、即座に走っていく準備をしたのです。サッカー、ボクシング、韓国の伝統武芸と、私が指導して作った円和道で体力を養いました。円和道は、まるで舞踊をするように体を柔らかく動かす円形運動で、直線よりも回転のときにより大きなパワーを出せるという原理を活用したものです。 今も私は、筋肉と骨の節々を伸ばすストレッチを行い、私が直接開発した呼吸法で一日をスタートします。世界を巡回して講演するために、それさえする時間がなければ、トイレにいる時間を利用してでも必ず運動をします。若い時は、一日に三十分やれば十分だったのですが、年を取ってからは、一日一時間に運動量を増やしました。 二〇〇八年、私が乗っていたヘリコプターが不時着するという事故を経験しました。ヘリコプターが黒い雲に包まれたかと思うと、あっという間に山の斜面に強く打ち付けられてしまいました。ヘリコプターがひっくり返り、体が安全ベルトに縛られたまま逆さまにぶらさがりました。私は反射的に両側の肘掛けをしっかり握りました。もし私が、日頃運動を怠っていたら、逆さまにぶら下がった瞬間、腰が折れてしまっていたでしょう。体は健全な精神が宿る器です。体を鍛錬することを怠ってはいけません。 勉強が好きで学校に行く学生は多くないでしょう。親が行きなさいと言うから行くのであって、勉強がしたくて学校に行くのではありません。最初は皆そうです。しかし、訳も分からずに学校に通っていると、勉強の味が分かるようになります。その時からは、勉強も自分からするようになり、自分の行く道も自分で求めていきます。分別がつくようになるということです。 ところが、親は、子供が分別がつくようになるのを待ちきれず、「勉強しなさい。少しは落ち着いて勉強しなさい」と激しくせきたてます。勉強して未来に備えなければならないことを、親はよく知っているからです。このままでは勉強する時期を逃し、何の備えもないまま未来に直面してしまうのではないかと心配するのです。 しかし、勉強して未来に備えることよりもっと大切なことは、志を立てることです。無条件に勉強に追い立てられる前に、将来自分が何をしたいのかを決め、自分がどれくらい役に立つ人間にならなければならないかを自ら悟らなければなりません。最近の青少年は大部分、志を立てないまま勉強にばかり没頭しています。 ある日、英語の勉強を熱心にしている学生がいたので、私は尋ねました。 「何のためにそんなに熱心に英語の勉強をしているのか」 と言うと、その子が答えました。 「大学に行くためです」 このように愚かなことがどこにありますか。大学は目的ではありません。大学は、何々の目的でどんな勉強をしなければならないというときに行く所であって、それ自体が目的にはなり得ません。 また、お金をどのくらい稼ぐかを人生の目標に掲げないでください。私は今まで、月給を一銭ももらったことがありません。それでも、私はこのようにご飯を食べて生きています。お金は何かをするための手段なのであって、目標ではありません。お金を稼げば使い道がなければなりません。目標もなくお金ばかりを手にすれば、そのお金は必ず無駄に消えていってしまいます。 職業は、全面的に自分の素質と趣味に沿って決定しなければなりません。消防士になろうと、農民になろうと、サッカー選手になろうと、政治家になろうと、それは皆さんの心次第です。私がお願いしたいのは、職業を超えた話です。サッカー選手になってどのような人生を生きるのか、農民になってどのような人生を生きるのかを尋ねているのです。 志を立てるということは、自分が生きていく人生の意味を決めることです。農民になろうと思うなら、新しい農法を実験しながらより良い品種を作り、人類の飢餓問題を解決するという志を立てなければなりません。サッカー選手になるにしても、自国の名を世界万邦に轟かせ、サッカーをやりたくてもできない子供たちのためにサッカー教室を開き、彼らの夢を育てたいという意味のある志を立てなければなりません。 世界的なサッカー選手になろうとすれば、血のにじむような訓練を経なければなりません。しかし、もし皆さんの心に抱いた志が明確でなければ、世界の頂点に立つまでのつらい訓練に耐えることができません。志があってこそ、自分を守っていく力が湧き、特別な人生を生きていくことができるのです。 11. グローバルリーダーは世界を懐に抱く人 志を立てることは、木を植えることと同じです。家の庭にナツメの木を植えれば、家の庭にナツメが実り、裏山にリンゴの木を植えれば、裏山にリンゴが実ります。どのような志をどのような所に植えるのか考えてみてください。皆さんがどのような志を立ててどこに植えるのかによって、ソウルのナツメの木にも、アフリカのリンゴの木にもなれるのです。もちろん、南太平洋のヤシの木にもなることができます。皆さんが植えた果物の木のように、未来に皆さんの志が実を結ぶのです。どうか、その実がどこに実ればよいかを考えながら志を立ててください。 志を立てるときは、心を広く持ち、必ず全世界を見渡してみてください。貧困と疾病がなくならない苦痛のアフリカも見て、宗教問題で銃口を向けて生きているイスラエルとパレスチナも見て、麻薬の原料であるケシを栽培して辛うじて生きているアフガニスタンも見てください。極度の貧欲さと利己心によって世界経済を窮地に追いやったアメリカも見て、地震と津波が絶えないインドネシアも見てください。そして、その国々の間に、自分自身を立たせてみてください。自分がどの国、どの事情に適合するのかを考えてみてください。もしかすると、新しい宗教紛争が起きるインドが適合するかもしれません。もしかすると、干ばつと飢餓で苦しむルワンダかもしれません。 志を立てるにおいて、自国の狭い国土を怨むような愚かなことをしないでください。皆さんが行うことによって、自分の国はいくらでも広げることができ、ひょっとすると、国境が完全になくなるかもしれません。私たちがアフリカで活躍すれば、アフリカは自分たちの国になります。ですから、世界を舞台にしてやれることを探してみてください。おそらく、今まで皆さんが夢見てきたことよりも、はるかに多くのことを発見できるでしょう。一度だけの人生を世界が必要とすることに投じてください。冒険をしなければ宝島に行くことはできません。自分の国を超えて世界を舞台に志を立てることを願っています。 一九八〇年代に私は、韓国の大学生を日本とアメリカに送りました。毎日のように催涙弾が飛び交う祖国を離れ、より広い世界、多様な世界を見せるためでした。井の中の蛙は、井戸の外にもっと広い世界があることを知りません。 私は、グローバルという言葉も知らない時に、グローバルを夢見た人です。日本留学に出発したのも、より広い世界を見るためでした。かつて、日本留学から戻ったのち、中国の海拉爾に行ってモンゴル語と中国語、ロシア語を学ぼうと計画したのも、世界的に生きるためでした。私は、今も飛行機に乗って世界中を飛び回っています。一日に一ヵ国ずつ忙しく回っても、全世界を回ろうとすれば、半年以上かかります。 世界のどこにでも人が暮らしていますが、状況は千差万別です。ご飯を炊く水がない所もあり、水が多すぎる所もあります。電気が通っていない所もあり、つくった電気をいまだに使うことができない国もあります。何でもそうですが、一方にはあふれ、一方では足らない、そのようなことが世界にはたくさんあるのです。問題は、余っていたり、足らなかったりするものを、公平に分配する役割をする人が少ないということです。 資源も同様です。ある国には石炭や鉄鉱石が山のように積まれています。石炭を掘るために中に入っていく必要もありません。ただ山のように積み上がっている石炭の固まりから、スコップで掘り出せばよいのです。しかし、韓国には石炭も鉄鉱石もありません。無煙炭を掘り出そうとすれば、命がけで数十メートルも坑道を掘って土の中に入っていかなければなりません。技術もそうです。アフリカにはバナナが自然によく育つ所がたくさんあるので、バナナさえ食べていれば飢えることはありません。ところが、バナナ農場を造って大量にバナナを育てる技術がないために飢えているのです。韓国はバナナに適した気候ではないのに、立派にバナナを栽培しています。私たちのこのような技術は、アフリカの貧困を解決するのに大きな力になるのです。韓国のトウモロコシ栽培技術が、北朝鮮の飢餓の解決に役立ったことも同じ話です。 最近流行している言葉の中に「グローバルリーダー」という言葉があります。英語を流暢に話してグローバルリーダーになりたいと言いますが、実際にグローバルリーダーになる道は、英語の実力にかかっているのではありません。英語は意思疎通の道具にすぎず、本当のグローバルリーダーは世界を自分の懐に抱く人でなければなりません。世界の問題に全く関心がないのに、英語で意思疎通ができるからといってグローバルリーダーになることはできないのです。 グローバルリーダーは、地球上のあらゆる問題を自分の問題と考え、それを解決しようとする開拓者の精神を持たなければなりません。安定的で固定的な所得に執着したり、退職後の年金と平安な家庭生活を夢見たりする人は、グローバルリーダーになることができません。未来に何が待っているかよく分からなくても、世界がすべて自分の国であり、全世界の人類がすべて自分の兄弟だという意識があってこそ、グローバルリーダーになることができるのです。 兄弟とは何でしょうか。神様はなぜ、私たちに兄弟を下さったのでしょうか。兄弟は全世界の人類を象徴します。私たちは家庭の中で兄弟を愛する経験を通して、人類を愛する人類愛、同胞愛を学びます。兄と姉を愛する心がそのように広がるのです。お互いに愛を分かち合う家庭の姿は、人類が互いに融和する姿と同じです。たとえ自分が空腹でも、兄弟のためにご飯を残すことのできる愛が兄弟愛です。グローバルリーダーは、まさに人類を相手に兄弟愛を施す人です。 今は「地球村」という言葉さえ昔の言葉になりました。地球はすでに一つの生活圏です。人生の目標が、大学を出て月給をたくさんくれる会社に就職し、安定して生きていくことだとすれば、小犬くらいの成功を収めるようになります。しかし、アフリカの難民救護に命をかけて取り組めば、虎のような成功を収めるでしょう。どちらを選択するかは各自の心にかかっています。 私は今も世界を飛び回っています。一日も休む時間がありません。世界はまるで生きている生物のように絶えず変化し、問題を引き起こします。私は、そのような問題のある、暗くて奥まった所を訪ねて回ります。私が訪ねていく所は、景色がよくて楽な所ではありませんが、私は暗くて、大変で、孤独な所で幸福を感じます。 私は、皆さんの国から本当の意味のグローバルリーダーが出てくることを願います。国連を導いていく政治リーダーが出てくることを願い、紛争地域の争いを防いでくれる外交リーダーが出てくることを願います。道端を俳徊して死んでいく貧しい人たちの世話をするマザー・テレサのような救いのリーダーが出てくることを願います。また、私のように、人々が顧みることのない土地と海を開拓し、新しい世界を広げていく平和のリーダーが出てくることを願います。夢を持って志を立てることがそのスタートです。冒険心と開拓精神を持って、人が夢見ることのできないような夢を持ち、意味のある志を立てて、人類のためのグローバルリーダーとなることを切に願うものです。 12. すべてのものは天からの借り物 私に対して世の中では、世界的な金持ちだとか億万長者だとか言いますが、それはよく知らずに言う話です。私は生涯、一生懸命に働いてきましたが、自分のために建てた家は一軒もない人です。私の妻や子供たちのためにためた財産もありません。成人なら誰でも持っている一本の印鑑さえありません。 人が眠るときに眠らず、人が食べるときに食べず、人が休むときに休まずに働いた、その代価は何かと尋ねたいでしょう。しかし、私は金持ちになることを願って働いたのではありません。お金は私にとって何の意味もありません。人類のために、貧困で死んでいく隣人のために使われないお金は、一枚の紙切れにすぎません。一生懸命に働いて稼いだお金は、世界を愛し、世界のために働くところに使われてこそ、相応しいのです。 私は、宣教師を外国に送り出しながらも、多くのものは与えませんでした。それでも、私たちの宣教師は、世界のどこに行っても上手に生きていきます。生きていくには、ごく基本的な生活用品だけが必要です。寝袋一つだけあれば、十分に生きていくことができます。大切なことは、何を持っているかではなく、どのように生きるかです。物質の豊かさだけが幸福な人生の条件ではありません。悲しいことに、現代の韓国語では、「チャル・サンダ」(良く生きる)という言葉が、どういうわけか物質的な豊かさばかりを意味する言葉に変質してしまいました。本来、幸福な人生とは良く生きることであり、それは意味のある人生を生きるということです。 私は、礼拝や特別な行事がある日でなければ、ネクタイをしません。格式を備えた正装もあまり着ません。家にいるときは、普通のセーター姿です。たまにこのようなことを考えます。西洋社会でネクタイにかかるお金がどのくらいになるだろうか。ネクタイに付けるピンやワイシャツ、カフスボタンはどれほど高いだろうか。世の中の人たちが、皆ネクタイをしないでそのお金を飢えている隣人のために使えば、世の中はもう少し暮らしやすい所になるでしょう。高いことだけが問題ではありません。いま外で火事が起きたとします。セーター姿の私とネクタイを結んだ人では、どちらが先に飛び出していくことができるでしょうか。私はいつでも飛び出していく準備ができている人です。 私は、毎日入浴することも賛成しません。入浴は三日に一度で十分です。靴下も毎日洗って履くことはしません。夜になると、靴下を脱いでズボンの後ろポケットに入れておきます。翌日に履くためです。ホテルに行けば、浴室に掛けられているタオルの中で、一番小さいものを一枚だけ使って出てきます。小便は三回した後にトイレの水を流し、トイレの紙は一枚を三つにたたんで使います。このような私を見て、原始人とか野蛮人と言ってもかまいません。ご飯を食べるのもそうです。私は、おかずを三種類以上置いて食べません。私の前にご馳走が並べられ、あらゆるデザートが置かれていても、手が出ません。ご飯も山盛りにして食べません。器の五分の三くらいがちょうどよいのです。 私が韓国で最も好んで履く靴は、大型ディスカウントショップで四万九千ウォン(約四千円)で買ったものです。毎日穿くズボンは、買ってから五年を優に超えたものです。アメリカで私が最も好んで食べる食事はマクドナルドです。金持ちはジャンクフードと言ってあまり食べません。しかし、私は二つの理由からマクドナルドを好みます。値段が安くて、時間が節約できるからです。子供たちを連れて外食するときも、マクドナルドに行きます。私がマクドナルドによく行くとどうして分かったのか、マクドナルドの会長が毎年年賀状を送ってくるのです。 「お金を大切に使い、何でも節約しなさい」 いつも食口たちに強調することです。アイスクリームや飲料水のようなものも、買って食べずに水を飲みなさいと言います。そうやって節約して自分だけがお金持ちになりなさいという意味ではありません。国を助けるために、人類を助けるために大切にするのです。どのみち、この世を旅立つときは何も持っていくことができません。私たちは皆、その事実をよく知っています。それなのに、何をそのように握り締めようとするのか理解できません。私は、生涯に手にしたものをすべて差し出し、身軽にこの世を旅立つでしょう。天の国に行けば金銀財宝があふれるほど散らばっているのに、地上から何を持っていくのでしょう。私たちが暮らしている世界より、もっと良い世界に行くと考えれば、地上のものに執着する理由がありません。 私が生涯、好んで歌う歌があります。誰もが皆知っている流行歌ですが、その歌を歌うたびに、故郷の家の野原に寝転んでいるように心が平安になって、涙がしきりに出てきます。 白金の宝石で飾られた王冠をもらっても 土臭く、汗まみれの麻布の上着に勝るものはない 純情の泉が湧き出る私の若い胸の中では 好きなように、柳の枝を折って笛を吹き 私の歌の調べに合わせて雀も鳴く 世の中を買えるほどの黄金をもらっても 麦畑を耕してくれるまだら牛に勝るものはない 希望の芽が吹く私の若い胸の中では 好きなように兎たちと話をし、 私の歌の調べに合わせて歳月も過ぎていく (孫露源作詞、白映湖作曲「心の自由天地」) 幸福は常に私たちを待っています。それでも私たちが幸福を探し出すことができない理由は、欲望が行く道を阻むからです。欲に眩んだ目は前を見ることができません。たったいま地面に落ちた黄金のかけらを拾おうとして、その先にある大きな黄金の山を見ることができず、ボケットに入れることにあくせくし、ポケットが破れたことも分かりません。私は今も興南監獄で生活していた時のことを忘れません。いくら卑賎な所でも、興南監獄よりは楽で恵まれています。すべてのものは公的なものであり、天のものです。私たちは、ただ管理しているにすぎません。 13. 幸福の源は「為に生きる」人生 子女は両親の血と肉を受けて生まれます。両親がいなければ子女はいません。ところが、この世の中に一人で生まれたかのように個人主義を主張する人がいます。誰からも何の助けも受けない人だけが個人を主張し、個人主義を語ることができます。世の中に自分だけのために誕生したものは何もありません。あらゆる被造物はお互いのために誕生しました。私はあなたのためにいて、あなたは私のためにいるのです。 自分だけのために生きる利己的な人生ほど愚かな人生はありません。利己的な人生は、自分のために生きているように見えますが、究極的には自分を破壊する人生です。個人は家庭のために、家庭は民族のために、民族は世界のために、世界は神のために生きなければなりません。 私が建てた学校には、どこでも三つの標語が掲げられています。一つ目が「昼十二時のように影のない人生を生きなさい(正午定着)」です。影のない人生とは、すなわち良心に引っ掛かることがない人生です。地上での人生を終えて霊界に入っていけば、生涯、自分が生きてきた人生が、録画テープが回るように展開します。天国に行くか地獄に行くかは自分の人生によって決定するのです。ですから、一点の影もないきれいな人生を生きなければなりません。 二つ目は、「汗は地のために、涙は人類のために、血は天のために流して生きなさい」です。人間が流す血と汗と涙は偽りではありません。すべて真実です。しかし、自分のために流す血と汗と涙は無意味です。血と汗と涙は人のために流さなければなりません。 最後の三つ目は、「One Family Under God! (神の下の一つの家族)」です。神様は唯一のお方であり、人類は兄弟姉妹です。言語と人種と文化の違いはあっても、すべて同じなのが人間です。 南太平洋には全部で十四の島国があります。その中のマーシャル諸島共和国に行って大統領に会ったとき、私が尋ねました。 「本当に美しい地ですが、国を導いていくのに困難が多いのではないですか」すると大統領は大きく溜め息をつきました。 「人口もわずか六万人だけで、島で最も高い所が海抜二メートルにすぎず、海面が一メートル上昇しても国全体が水浸しになってしまいます。しかし、最も深刻な問題は教育です。裕福に暮らす家の子供たちは皆、アメリカやヨーロッパに行って教育を受け、故郷に戻ってきません。貧しい家の子供たちは、きちんとした教育を受ける学校がないので、いくら優秀でも指導者になる素養を積み上げることができません。結局、私たちのような島国の悩みは、未来を導いていく人材を育てることができないことなのです」 マーシャル諸島共和国の大統領の嘆きを聞いた私は、すぐにハワイのコナに島国の子供たちのための「ハイスクール・オブ・ザ・パシフィック」という学校を建てました。各国から選ばれた子供たちに高等教育を受けさせ、必要であれば大学への進学も支援します。ハワイまで行き来する飛行機代、学費、寄宿舎費を提供することはもちろん、コンピューターも買い揃えて最高の教育をします。島国の学生たちを勉強させるのに条件はたった一つ、学業を終えたら必ず自分の国に帰り、国と民族のために奉仕しなければならないということです。それが唯一の条件です。 「為に生きる」人生を生きるということは、時として個人の犠牲を前提とします。数年前にわが教会の宣教師が南米を巡回する途中で大きな地震が起きたことがあります。宣教師夫人が真っ青になって私を訪ねてきました。「どうすればよいですか、先生。あまりにも心配でどうしたらよいか分かりません」と言って涙ぐんでいるのです。それで私がどうしたかといえば、肩を叩いて慰労するどころか、怒鳴りつけました。 「今あなたは夫のことを心配しているのか?それとも、夫が修羅場で何人の命を救っているだろうかと心配しているのか?」 夫の安否が心配なのは当然です。しかし、宣教師の夫人ならば、それ以上のことを心配できなければなりません。夫を安全に守ってくださいと祈祷するのではなく、夫がより多くの命を救えるようにしてくださいと祈祷しなければなりません。 この世の中に、自分だけのために存在するものは一つもありません。神様は、この世界をそのように創造されていないのです。男性は女性のために存在し、女性は男性のために存在します。自然は人間のためにあり、人間はまた自然のためにいるのです。この世界のあらゆる被造物は相手のために存在し、作用します。ですから、相手のために生きなければならないというのが天の道理です。 幸福は必ず相対的な関係においてのみ成立します。生涯を声楽家として生きてきた人が、無人島に行って声が嗅れるほど歌を歌ったとしても、聞いてくれる人がいなければ幸福になることはできません。私がある相対のために存在しているという事実を悟ることは、人生の尺度を変えるような一大事です。私の人生が私だけのものではなく、誰かのためのものであるとすれば、今までの生き方とは全く違う道を行かなければなりません。 幸福は、人のために生きる人生の中にあります。自分のために歌を歌ってみても全然幸福ではないように、自分のためのことには喜びがありません。いくら小さくて、取るに足らないことでも、相手のために、人のためにするとき、幸福を感じるのです。幸福は、「為に生きる」人生を生きる時にこそ発見できるのです。 14. 紛争のない世界を夢見て 私はずっと以前から、宗教が一つになり、人種が一つになり、国家が一つになる世界を主張してきました。数千年の人類歴史は、この世界を分裂させるような出来事の連続でした。宗教が変わり、権力が変わるたびに国境で分けられ、戦争が起きましたが、今は世界が一つになる時代です。これからの世界は、国際平和高速道路を通して完全に一つにならなければなりません。 国際平和高速道路は、韓国と日本を海底トンネルで連結し、ロシアと北米大陸を隔てるベーリング海峡に橋を架け、全地球を一つにする大事業です。そうすれば、アフリカの喜望峰からチリのサンティアゴまで、またイギリスのロンドンからアメリカのニューヨ1クまで自動車で走っていくことができます。全世界のどこでも、行き止まることなく毛細血管のように連結されるのです。 世界が一日生活圏に変われば、誰でも簡単に国境を越えて行き来することができます。誰もが行き来する国境は、これ以上境界としての意味がありません。宗教も同様です。互いに他の宗教との間で往来を頻繁にすれば、お互いに理解する心が生じ、衝突がなくなり、宗教間の壁が崩れます。また、全世界の多様な人類が一日生活圏に入って暮らすようになれば、人種の壁も崩れます。見た目が異なり、言葉が異なる人種の問にも意思の疎通がなされ、それこそ世界の文化が一つにまとまる文化革命が完成するのです。 シルクロードは、単に絹を売り、香料を買う貿易の道ではありませんでした。東洋と西洋の人種が出会い、仏教とイスラーム、ユダヤ教、キリスト教が出会う場だったのであり、彼らの互いに異なる文化が混合して新しい文化が誕生する場でした。これから二十一世紀は、国際平和高速道路がそれをやり遂げるでしょう。 ローマが興隆できたのは、世界のあらゆる道がローマに通じていたからです。それほど道が重要なのです。道が通れば人々が通っていきます。文化が通っていきます。思想が通っていきます。それで、道ができれば歴史が変わるのです。国際平和高速道路が完成すれば、世界は物理的に一つになることができます。道がそのようにしてくれるでしょう。世界を一つに結ぶことの重要性は、いくら強調してもしすぎることはありません。私があまりにも先を行っていると思う人たちもいるでしょう。しかし、宗教者は未来を見通して準備する人なのですから、先を行くのは当然です。そのために世の中に理解されず、苦難を受けたとしても、宗教者であれば当然、未来に備えることの先頭に立たなければなりません。 しかし、国際平和高速道路が完成するためには、多くの国の協力が必要です。日本の侵略を受けた経験のある中国は、日本と高速道路で連結されることをそれほど望みはしないでしょう。しかし、中国を通さずに世界と通じることはできないのですから、中国の心を変える努力をしなければなりません。誰がするのでしょうか。二十一世紀の国際平和高速道路の牽引車となる私たちが先頭に立ってしなければなりません。 ベーリング海峡に橋を架けることはどうでしょうか。途方もないお金がかかりますが、それも心配することはありません。アメリカがイラク戦争に注いだお金があれば十分に橋を架けることができます。これからは、戦争を起こして人類に苦痛を与えるようなことはあってはなりません。戦争を起こし、数百兆ウォン(数十兆円)のお金を乱費するのは、道理に背く凶悪なことです。今や私たちは、「銃剣を溶かして鋤や鍬を作る時」です。 国際平和高速道路は、世界を一つに結ぶグローバル統合プロジェクトです。一つになるということは、単に互いに離れた大陸を海底トンネルと橋でつなぐということだけでなく、世界が平準化されるという話です。技術を独占し、その利益を独占するとき、世界の均衡は崩れます。国際平和高速道路は、世界の地下資源と人的資源の不均衡を調節し、等しく豊かに暮らす富の平準化を成し遂げてくれます。平準化とは、高いものは少し低いところに引き下げ、低いものは少し高く引き上げ、互いの高低を合わせることです。そのためには、より多く持っている人、より多く知っている人の犠牲が必要です。平和世界の建設は、一過性の善意や寄付ではできません。絶えず自己を犠牲にし、自分が持っているものを惜しみなく与える真実の愛こそが平和世界をつくっていくことができるのです。 しかし、国際平和高速道路を建設すること自体は、世界を物理的に疎通させることにすぎません。人は心と体が一つになった被造物です。私たちが生きる世界も、物理的な疎通と共に情緒的な疎通が一緒になされてこそ、完全な統一が達成されます。 第二次世界大戦が終わった直後に創設された国連は、これまで世界平和のために多くのことをしてきました。しかし、創設六十周年を超えた今、国連はその本来の目的を失い、力の強い国々の利益のために働く場所となりつつあります。世界中で発生する紛争を解決するために設立された国連は、一部の利益ではなく、世界の利益を優先する組織でなければなりません。強大国が自国の利益を優先して他国を力で抑圧するとき、紛争はまた別の紛争を呼び起こすだけであるにもかかわらず、今の国連としてはどうすることもできません。 このような点を補完しようとすれば、今後国連は、上院と下院の両院体制に変えなければなりません。今のように各国の政治・外交分野の代表者たちが世界の問題を論議する下院と、超宗教的な代表者たちが集まって平和問題を論議する上院がなければなりません。超宗教的な代表者は必ず、諸宗教について十分に学んだ開かれた心を持つ宗教指導者でなければなりません。彼らは、政治家のように狭い視角から特定の国家の利益ばかりを考えたりはしません。全人類を懐に抱く愛の心で人類の幸福と世界平和のために努力する超宗教的な指導者たちが、世界各国に派遣された外交大使と力を合わせ、これ以上紛争のない世界、愛で一つになった世界をつくっていかなければなりません。 「宗教者がなぜ世界の問題に首を突っ込むのか」という反対意見もあるでしょう。しかし、今の時代、世界は宗教によって深い自己省察の域に達した宗教者の関与を切に求めています。世の中に蔓延する不義と罪悪に立ち向かい、真の愛を実践する人たちが、まさに宗教者です。世界情勢に対する分析力を備えた政治指導者の知識と統治能力が、霊的な眼識を備えた超宗教指導者の知恵と一つになるとき、世界は初めて真なる平和の道を見いだすことができるのです。きょうも私は、世の中のすべての人が宗教と理念、人種の壁を越え、「平和を愛する世界人」として生まれ変われるように祈っています。