宇宙主管を願う前に自己主管を完成せよ
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目次
五、情欲主管
- 宇宙主管を願う前に 自己主管を完成せよ
- 五、情欲主管
- きれいな血統をどのように保存するのかが我々の問題
- 愛の失敗をするのは後孫に毒を飲ませること
- 志操を生命よりもっと重要視せよ
- 我々はすべての面で新しい次元の規律を持つべし
- 結婚することは天地が合わさること
- 問:我々が講義を聴いて堕落論を知っても堕落をしてはいけないと言われましたが、いつからその責任がありますか?
- 問:男は男にだけ、女は女にだけ伝道しますか?
- 問:そのように考えることさえも罪を犯すことだとイエス様が言われたそのみ言の基準がここに適用されますか?
- 新しい愛の姿勢を正して結婚しなければならない
- きれいな体と心を大切にして愛すべし
- 問:ところで、それにどのように勝ちますか? 悪霊が来てそうしうることもあり、先祖たちが来てそうしうることもあるのですが。
- 問:あるとき、祈るときには、正しい祈りが出てこないのですが、それでも続けて祈るべきですか?
- 問:ティーンエージャーの場合、また二一歳になると結婚をするというのですが、これから入ってくる学生たち、次の世代に性の問題をどのように教えるべきですか?
- 男女が会うには、三人以上一緒に会え
- きれいな血統は、純粋な愛を通じてのみ現れる
- 問:機動隊の活動において、あるときは女性とカウンセリングをする場合もあります。そのようなときは、どのようにしますか?
一、序
一、序
自己主管完成しなさい。堕落人間において、サタンを中心として、体が主体となって引かれた自分の人生を、神様を中心として心が主体となり、体を主管していく生活を意味します。すなわち、第一祝福の完成を意味します。
被造世界において、人間は第一に、被造世界の主管主であり、第二に、被造世界の媒介体であり、和動の中心体であり、第三に、天宙を総合した実体相です。それゆえ、自己主管完成(個性完成)とは、すなわち、宇宙主管完成と直結します。
自分を主管する前に、宇宙主管はできません。自分を主管してからこそ、宇宙主管ができます。自分を主管してこそ、神様を呼ぶことができ、神様の主管圏を願うことができるのが原理観です。アダムは、自分を主管できなかったために、堕落したのです。(一三一―三二二)
先生がこの道を出発する前には「宇宙主管を願う前に自己主管完成せよ」という標語を座右の銘にしました。自己主管とは、易しいものではありません。瞬間の誤りを回復するために、百倍の努力と苦痛を我慢して耐えなければなりませんでした。言葉は容易く、百倍であって、事実は天地の間の差があります。たとえ回復したとしても、なかったことにもなりません。(二一六―一五)
修養をするとき、先生の標語は「宇宙主管を願う前に自己主管完成しよう」というものでした。また、くすぐったいのを感じない訓練も受けました。ある骨の折れる訓練も皆受けました。自己を克服し、自己を主管してこそ、完成の位置に進むことができるのです。(二〇四―二三)
先生は皆さんに、宇宙主管を願う前に自己主管完成せよといつも言ってきました。この自己主管を完成させるのにおいて、最も大きい障害要因は、習慣化された堕落性です。堕落性を脱がずしては、自己主管を完成することができないためです。
宇宙主管を願う前に自己主管完成せよという言葉は、容易いですが、先生もそれをなすまで、どれほど身悶えしたか分かりません。(統八六・三―二〇)
先生が修養しながら、いちばん難しかったのは、火のような性格を克服することでした。それで、いちばんの標語が「宇宙主管を願う前に自己主管せよ」というものでした。(み―四九四)
宇宙主管を願う前に自己主管するということが、どれほど恐ろしいかという事実を知るべきです。ここにサタン世界の根拠地があり、しこりが残っているという事実を知るべきです。悪が皆さんの前にあるのではありません。米国が悪く、世界が悪いのではありません。皆さんの心にあります。心に。心にあるというのです。(一三一―三二三)
二、自己主管の三大困難
自己主管は、肉身(体)を中心とした自分の命を、徹底して否定していく生活です。このような自己否定の自己主管においての三大困難(三大怨讐)は、眠りと空腹と情欲です。
先生は、今までの修養の途中に、三大目標を定めてきました。昔、このみ旨を立ててくるときに、三大目標を定めてきたのです。第一は何か? 宇宙主管を願う前に自己主管完成せよ! これがいちばん難しいのです。いつでも苦痛の道、十字架の道を行くときは、こいつの「私」というのは逃げようとするのです。そのときは、「こいつ!」と言いながら、コントロールするのです。
また、こいつの目は、良いものを見ようとして、悪い所に行こうとします。そんなときは、「こいつ!」と言うのです。そして、この口、こいつの口は、全部良いものを食べようとします。そのときは、「だめだ!」とこう言うのです。聞くのも全部良いものを聞いて、自分を主張しようとします。だめだというのです。また、男として生まれ、女を思い、愛の問題を考えます。そうすると「だめだ、この野郎!」と言うのです。「私が自己を主管し、コントロールできなければ、宇宙主管が皆壊れていってしまう」と出てきました。
皆さんは、それを知るべきです。先生が少年時代にこの道を築いてくるときは、私を主管する前まで、劇場の前も通り過ぎませんでした。飲み屋の前も通り過ぎなかったということを知るべきです。また、扇動するこういう所は通いませんでした。大衆の前に出て扇動し、褒められるのを嫌いました。自己が自己を主管する前には、すべてが失敗です。
では、いちばん難しいのは何か? 寝る問題です。寝る問題がいちばん難しいのです。その次には空腹なことです。その次に精力問題です。これが、三大怨讐です。三大怨讐。それゆえ、夜を明かしながらも修養の過程で立ててきたのです。一人で生きながらも、修養の過程で立ててきたというのです。皆さんたちが先生を考えるときは、先生は聖人だから皆違うと言うでしょうが、先生は鋭敏であるため、そんな問題にもっと敏感だということを知るべきです。もっと大変だという事実を知るべきです。(一三一―三二一)
宗教が教えてくれるのは、善の道に行く道であると考えるとき、宗教の教えの内容は一体何か? 普遍的にある内容を教えてくれるのか? さあ、宗教の教えは、この体が喜ぶことを皆拒否するのです。皆拒否します。自分を中心として高まろうとするのは、皆拒否するのです。それで、昔中世でも修道士たちは苦行をしたのです。仏教のような所でも、苦行をすべきだと言うのです。
さあ、体はお腹が空けば、泥棒をすべきだと言うのです。しかし、泥棒をしてはならないのです。体が、お腹が空けば、泥棒でもして食べるべきだと言うのです。そこで天、善は、「だめだ。死んでも泥棒してはいけない。」と言うのです。このように食べることが重要な問題です。その次に、眠気が来るといって、体面も知らず、恥も自分の威信も知らず、寝てばかりいると、彼は味気ない人です。イエス様がゲッセマネの園で祈るとき、弟子が居眠りしたのと同じように、先生が死ぬようになったのに、体面だの何だの考えず、眠気が来るから仕方ない、そうしてはだめなのです。そんな場であるほど、礼儀を守るべきであり、礼法を守るべきなのです。
その次には何かというと、情緒的な面、愛の問題をどのようにコントロールするかということです。それが今まで、体が支配することに対する宗教世界の重要なブレーキというものです。それゆえ、自分を全的に否定せよというのです。否定。これは、なぜそうすべきなのか? 堕落したためです。
「闘争史」というと、皆さんはただ外部で起こることを言いますが、皆さんの内部にもこの闘争史があるのです。皆さん、闘いますか?(はい)。目は目の闘いをし、鼻は鼻の闘いをし、耳は耳の闘いをし、口は口の闘いをし、手は手の闘いをし、心は心どうしで、全部闘うのです。(一三一―二五)
三、眠りの主管
一) 先生の七年間の苦労
七年間私は、二時間しか睡眠を取りませんでした。私は日毎に原理を続けて話しました。ある食口に、眠気がひどく襲ってきたとき、突然その眠気が吹っ飛ぶほど、大きな衝撃を受けたことがあるそうです。天使がその人に出現して、「何をしているんだ! 先生を見なさい。先生は毎日、汗と涙と血を流して、続けて働いているではないですか・・・。」と叱ったのです。(み―五一九)
先生は、だれよりももっとたくさん教えようと、夜を明かしながら、一九五七年度から七年間を、一日平均二時間しか寝られませんでした。なぜなら、緊迫した天倫の事情があるのを知ったためです。(一八六―三一)
先生は、疲れるときにも寝ない。そのようになるまでには、一〇年以上かかった。時間になれば、腹が減るのは間違いない事実だが、腹が空かなかった。我々は、世界で最も大きな戦争をしているという事実を自覚すべきである。(一九六五・九・三〇)
面白いこととともに、私たちは悪口を言われながらも、面白く過ごしました。そのときは、明け方の二時前には寝たことがなく、一日の平均睡眠時間は二時間でした。そのように、七年間神様のためにあらゆる精誠を捧げ尽くしました。寝られず、食べられず、着られず、迫害を受け、追われ、殴られながらも生きてきました。
あるときには、ジャガイモ二つを持って先生を呼び、涙を流す人、頭にケガをして先生を訪ねる人・・・、このように統一教会の先生は、口で言えないほど惨めな人間の博覧会の見物をたくさんしました。しかしながら、どうしますか?(一六―三四四)
先生は、寝坊をする人ではありません。いつも三時には起きるのです。一時に寝ても、二時間の間に何回も起きるのです。起きてから、そのまま寝るのではありません。うつ伏せになって祈りながら寝るのが常です。そんな生活の継続なのです。そんなことをお母さんは、先生とともに暮らしながらも、何年間も知りませんでした。清平へ連れていき、釣りをするので知ったのです。先生は、上の部屋にいて、お母さんは下の部屋にいるので、先生の生活を何が分かりますか。
今も清平のような所に行けば、そのようにするのです。ですから、お母さんはいつもすまないと思うのです。自分が起きてみれば、いつも祈っているからです。いつ寝るのか・・・。そうだといって、私は倒れないのです。人が寝るとき寝て、遊ぶとき遊び、するときに皆しては、精誠を捧げることはできないのです。食べて残ったもの、使って残ったものをもってしては、神様の前に精誠にならないのです。自分の貴い身を切り、生命を切って行くべきです。それは、間違いないことです。それゆえ、生死を懸けて祈るのです。(五一―二七六)
先生はアメリカで、平均二時間しか寝ませんでした。一二時に皆寝床に入るようにして、その次に三時半、四時まで勉強しました。時間がないために、寝ませんでした。疲れるひまがありませんでした。七年間は寝ませんでした。皆さんは、一日に何時間ずつ寝ますか? 六時間寝る人は、そのうちの二時間は先生のために使ってください。(み―二一四)
二) 天の伝統を立てなければならなかった先生
私が伝統のため、どれほど心血を傾けたか、皆さんは知りません。(み―五一九)
私においては、一二時、二時、三時がありません。また、ご飯を食べる時間もありません。一日に三食食べろと、だれが定めましたか? 私が定めなかったので、そのような基準に順応したくありません。(一一七―一四)
人が生きていくには、いろいろと方法があります。ところで、このように毎食食べて生きていくべきだという原則を、だれが立てましたか? だれが立てたかというのです。神様がそのようにしろと言いましたか? そのような観を立てるなということです。(三〇―一四五)
先生が行く道は、それが標準です。人よりたくさん寝るのではなく、歴史的にいちばん寝ない人になるのだと・・・。苦労をいちばんしようというのです。(一三五―三七)
世界で先生の年に近い人の中で、私ほど寝ない人はいないでしょう。これは、神様のためにです。(九七―三〇九)
三) 眠りをなせない理由
先生は世界復帰のため計画と結果について、新しい計画を立てようと、夜寝そびれるときが一度や二度ではありません。(二一七―二二)
今、先生の位置が、皆さんが見るとき、うらやましいと思われるかもしれませんが、過去も今も寂しく孤独なときがたくさんありました。今も皆さんが眠る時間に、神様の事情を考え、夜明かしで祈っています。(統八二・一一―三二)
この頃は、椅子で祈って計画して、しばし目を閉じるときが多くなりました。皆さんの将来のために、世界のために、神様のみ旨のためにという事実を肝に銘じるべきです。このように二十四時間考え計画を立て、すべきことを指示するありさまが不幸に見えるかもしれませんが、幸福はだんだん近くにやってきていることを知るべきです。(二一七―二二)
これから天国のみ旨がなされたとき、最高に喜ぶ人はだれだろうか? たぶん統一教会の文先生がいちばん喜ぶでしょう。私はそのように思います。闘いでいちばん喜ぶのは、闘いに責任を持ったその司令官がいちばん喜ぶでしょう。兵士は疲れた一日の闘いをしてきましたが、夜に安心して眠ることができる立場ですが、司令官は夜眠れないのです。(一三二―二九)
先生自身について、私が率直に話します。私自身が横になって寝て起きると、順にすぐに記憶されるのが、この時間も世界に広がっている統一教会の食口たちは、先生を中心として精誠を尽くす人が多く、先生を中心として生死をかけて祈祷する人たちがいるということです。それをいつも感じている人です。それゆえ、負債を負ってはならないのです。負債を負わないのです。(五一―二七六)
私たちのような人たちは、昼寝ができないのです。昼寝ができません。いくら疲れても、昨日も約二時間半行きましたか? お母さんが、疲れるからちょっと休めと言っても、心が許しません、心が。何、年が多いと、休むときになったと言うけれど、眠れないのです。私は年が多いですが、私がすべきことは若い人よりもっと多いのです。前よりもっと大きな問題が起こって、すべきことがもっと多いのに、それをだれに任せることができるかというのです。今働くのは、全部だれかに任せないのです。私が指示するのです。全部私が指示するのです。私が指示するのは、ただ指示するのではありません。すでに霊的な何かがあるために指示するのです。それが何のことか分かりますか?(はい)。(一三三―一八一)
皆さんは楽に眠るかもしれませんが、先生はそうできないのです。(一四二―二八)
ご覧なさい。人の命に責任を持って、一生に一度だけしかない非常に重大な問題を置いて眠ることはできません。(一七一―四二)
今回ニューヨークからレンバーまで行きましたが、距離が約二七〇〇キロメートルになります。それを夜昼二〇時間を走りました。こっくりしたら霊界に行くのです。一三時間ずつ運転手を叩いて運転するのです。世の中では二時間して交替し、四時間して交替してと言いますが、私たちはそうはできないのです。横にいる人は、全部グーグー寝ますが、私は寝ませんでした。アメリカの地に私が訪ねて来たのは、私のために来たのではありません。支部に訪ねて行ったのが三時半から四時だったのです。修練生は居眠りしましたが、私は居眠りしませんでした。夜を明かして話しました。(一五二―二五)
先生は神様の所有である愛の決定物として、個人の公証を受け、家庭・民族・国家・世界から公証を受けるべき公的責任を背負っています。ですから、眠ろうとしても眠ることができず、休もうとしても休むことができず、死のうとしても死ぬことができない位置で、ただ一つの道だけを歩んできたのです。(統八六・二―四三)
居眠りしてはいけない。居眠りするとサタンがついてくる。(一一―一〇)
四)眠るときも楽に眠ることができない
眠るときも楽に眠るなというのです。先生がこの道を築いてきたときは、すべてが未完成であるので、仰向けになって眠れず、横になって眠りました。私がお父様のみ旨を知ってから後には、私の体をむやみにさらしませんでした。(二一―二一九)
中学校、高等学校時代には、冷たい部屋で寝ました。そのときは、今より寒かったのです。そして、夏休みのときには故郷に帰らないのです。故郷を発って初めて迎える夏休みの期間というのは、いちばん懐かしいのです。しかしながら、故郷へ行かないのです。その懐かしさを抱いて、国のために、私が行くべき道のために、精誠を尽くすのです。冬には冷たい部屋で寝るのが常でした。火を付けないのです。布団を被っても四方から吹き込む冷たい風を抱いて、エビのようになって寝ながらも・・・。とても寒いので、私が電球を抱いて寝て焦がしてやけどをしましたが、今それがここに残っていて、そのときをいつも思っています。こうして築いてきた道なのです。(五一―二六二)
先生は、可哀想で、乞食のような生活をよくした。寒いとき、新聞一枚が絹の布団以上の価値があることを切実に感じた。それは体験してみなければ分からない。事実を言うから事実に通ずるのである。これが必要である。(一五―一三二)
自分の行くべき道を終わりまで行けないままで、手足を広げて昼寝をしている人を見ると、実に情けない。先生は、監獄でも楽に一度も寝られなかった。(一八―一八四)
先生は、夜に寝て起きると再びそのまま寝ずに、必ず祈って寝る。このようにしてでも、神様が同情しうる立場に立つべきである。(一八―一三五)
皆さん! 先生も疲れます。あるときには、部屋に入るなり、布団だ何だ服も脱ぐことができずに、倒れて眠るときがあります。しかし、何時間も経たないのに、起きれば体が軽いからするのです。(一七六―四五)
五) 徹夜祈祷と精誠(補充資料参照)
皆さんは徹夜祈祷のようなものをするでしょう? 精神を天に全部捧げて、世の中の物情を皆忘れて・・・。その境地が何かというと、眠る境地に入ろうということです。この肉身のカスが全部沈滞すれば、澄んだ水が浮き上がるのと同じように、眠りは私たちが精神修養をして精神を上げ、悪い意識を全部下げようというのです。眠る境地、そんな境地に入るようになれば、皆さんが疲れてそうなれば、うつらうつらするでしょう? そのようなときは皆聞くのです。皆見えるのです。聞くには聞くけれど、確実に聞かず、見るには見るけれど、確実に見ません。そのようになれば、何が起きるでしょう? 夢のような現象が起きるのです。そのとき、何かを教えてくれるのです。分かりますか? それがすべて理論に合わなければなりません。何の話しか分かりますか?(はい)。
それで、徹夜祈祷をして、すべての肉的なものを断絶させて、精神を統一して絶えず上げることによって、将来に自分の行くべき道であるとか、このようなことが見えて、その次に、それが習慣化されるようになると、全体を調整することができる位置に入るのです。そのようになれば、祈祷だけすれば、目を開けても見ることができ、皆聞くことができる境地まで入ります。二種類を見て、二種類を聞くのです。そのような位置に上がるには、相当な修練、修養が必要なのです。(九一―二七五)
我々人間が堕落したことで、サタンの血統を受けたということです。サタンの血を受けたのです。それゆえ、動くようになるときは、この血に、悪なる血が動じているのです。皆さん、それが分かりますか? あのガラス管のような所に入れてみれば、濁った水のようです。泥水のようなものです。しかしながら、眠ればこのすべての肉身が休むために、沈むというのです。重いものは沈んで、澄んだ水が浮くのと同じです。本来の澄んだその心は、天と関係を結ぶことができるために、ここに象徴的であるとか、形象的にこれから行くことのできるものを夢の中で天が教えてくれるというのです。(九一―二七三)
今、天のみ旨を中心とした一人の旗手となり、ありったけの力を尽くして叫ぶとき、その叫びが地だけではなく天に及びうるときになりました。イエス時代よりましなのです。イエス様は、ゲッセマネの園で夜を明かしながら祈りましたが、その三回の祈りにも反応がなかったのです。民族はもちろんであり、ユダヤ教会も反応がありませんでしたが、今我々のときは、それとは違います。自分が死を覚悟して立ち上がるようになれば、反応を引き起こすことができる群が、国家を超えて世界にいくらでもいます。我々は、このようなときに処しているのです。
それゆえ、一晩を明かすのにも、我々食口のために明かすべきです。自分のために夜を明かす人は、ペテロになるのです。民族のために、世界のために夜を明かしたのがイエス様の立場ではありませんでしたか? 死が前を遮ってくるそのような運命の道でも、彼が心配していたのは自分の死ではなく、弟子たちを心配し、民族を心配したために、天の同情が臨んだのであり、それゆえ復活するようになったのではありませんか。皆さんは、それを知るべきです。そのような時が今です。
今こそ、我々統一教会の教団が、イエス様がゲッセマネの園で夜を明かして祈ったときと同じように祈る時が来ました。夜を明かして祈るのに、自分のために祈る時ではありません。我々民族のため祈り、世界人類のために祈るべき時です。そのために夜を明かして、そのために共に泣く群は滅びないでしょう。死の道も共に行くことを決意した人は滅びないでしょう。その峠の道が、復活を約束しうる最後の判決を下すでしょう。自分を滅ばせるのではなく、滅びるようですが復活を追求させうる生命の動機を賦与してくれるでしょう。そのような時代が我々の前に近づいてきているのです。(六〇―三〇)
今、三分の二は越えました。ですから、三分の一しか残っていないのに、何を心配することがありますか? そんなことは心配もしません。そんな問題は、祈りもしません。今まで経済問題では、祈祷を絶対しなかったのです。お金をくれと、私はそんな祈祷ができません。祈祷は、原則的な祈祷をするのであって、祈祷をむやみにすると蕩減を受けます。災いを受けます。我々のような人は、欲を持って絶対祈りません。
さあ、そう知って、お金がなかったり品物がなかったときには、徹夜祈祷をするように願います。祈祷をするにおいては、自分の嘆きの祈梼だけしてはいけません。大韓民国を中心に、北韓に地に住んでいる民のために祈り、ソ連を中心として共産圏内で今呻吟している労働者たちのために祈るべきです。あのシベリヤ平原で死んでいくかわいそうな人々のために祈れというのです。彼らのために北韓を解放し、そこまで行って解放できる道を築くようにしてくれと祈ってこそ、天が聞いてくれるというのです。
先生の祈りは、皆公式化されています。多くの祈りはしません。さっと目を閉じて、すっとするようになれば、もう天が共にあることが分かります。ですから、ただみ旨のために走るだけです。祈るより走るのです。考えることより実践するのです。(一六六―一九三)
皆さん、徹夜祈祷しますか? 徹夜祈祷すべきです。講義する人は、必ずご飯一食を断食してしろというのです。精誠を尽くしなさい。そうでなければ、皆流れていきます。しがみついて訴えよというのです。哀切な訴えをしなさい。親が愛する子に訴える以上、先生が愛する弟子に訴える以上、妻が愛する夫に訴える以上、訴えるべきです。そうでなければ、天が共にありません。世の中にも、そのような心情圈が残っているのです。そのように考えます。(一六六―一八一)
六) 我々は摂理的な時をつかむべきである
眠りの主管=時間主管=摂理的な時をつかむこと
時間を主管することができる者が大者である。時間はすべてをもたらしてくれもし、奪っていきもする。時間を主管できる者は、人生を支配する術を知っている者である。(み―九一)
過去と未来が連結されうる今日が、何よりも貴い。今日この時間に誇りうる何かを持つと言わなければならない。(み―二五二)
長い歴史を時つことも重要だが、瞬間をうまく送ることが貴重である。寝て、食べて、する、ある瞬間が歴史的な運命が決定される瞬間であるということを忘れるな。一瞬間の失敗が一生の間積んだ功績を崩す。(み―一二一)
時は、知らない間に訪ね来て、知らない間に過ぎ去る。我々がみ言を受けるその日から私の終わりの日が始まり、希望の日が始まるのである。
人の生命は有限です。時間は絶えず過ぎ去ってしまいます。ですから、時間を捕まえるべきです。だれでも、摂理的な時間をつかむことができるなら、大きな運がついてくるでしょう。そして、天宙的な観点を持っているべきです。皆さんが天宙的な観点を持っていれば、神様が役事なさるでしょう。(統八五・七―一九)
補充資料 一
夜、深い夜は、神秘性が強いというのです。それゆえ、復興会をするときにも、昼間に復興会をするよりは、夜に復興会をするのがもっと恵み深いのです。それはなぜそうなのかというと、昼間には我々のすべての感情が分散するためです。すなわち、視聴覚など我々が五官で感じうるすべての感覚が全部分散しやすいのです。しかし、夜にはそうではなく、むしろ集中できます。すべてが私を包囲して、私を際立たせ、そのような圏内に私が自動的に立つために、夜には神様とともに恵みの役事をしやすいのです。神様も役事をよくしてくださることができるというのです。それゆえ、夜に食口たちを連れて庭で話すと、その話しは神秘性を帯びるようになります。また、部落部落を往来しながら、食口たちを家まで連れていってあげる途中で話しをすると、その食口はそれを一生忘れられなくなるのです。その楽しみは何かで形容できないのです。そのような価値性を感じうる生活をする人は発展します。
皆さんも一二時を越え、一番鶏が鳴く声を聞くときまで、み言を伝えてみろというのです。どれほど神秘的であるか。静かでひっそりとした夜に、町内の犬たちが吠える声を聞いていきながら、み言を伝えてみろというのです。まるであかあかとした日差しを探し、新しい人生の道を打開していくようであり、灯台の光を探し、新しく航海する船長のような気分を感じるようになるのです。周囲が一様に神秘でいっぱいに満ちた世界を、独り行くような勇敢な姿、りりしい姿、荘厳な姿を感じるようになるのです。このような心情的なつながりを持つには、夜の時間を中心として指導せよというのです。それゆえ、夜や明け方にこのような活動を展開する必要があります。
ところで、その対象が夫のいる女性の場合には、必ず問題が起こります。それをよく理解させて、夜の時間を尊重視させて、夜でも自分の環境を振り切って出てくることができるようにすべきです。このような心情的な原動力を持つことが必要です。そうして、その人々が、いかなる環境でも皆さんが指示する通りについてくることができるようにすべきです。これをまず、み言でそのようにしなければならず、その次には、行動でそのようにしなければならず、心情でそのようにしておけば、その人は伝道できる程度まで育てておかなければなりません。このようになれば、皆さんは、伝道した人を一人も失ってしまわないでしょう。(二九―一九六)
補充資料 二
今先生が行く道においても、私がどうすることもできない力に引かれていっています。皆さんも統一教会に来ては、ある大きな力が皆さんを追い出しているのを感じるでしょう。苦労して悪口を言われてこそ、むしろ力が出るでしょう。先生もあるときには、足が腫れて動かなくても、「こいつ足め、おまえは神様のためにいかなけりゃならん!」と言いながら、この道を進んでいます。今み言を始めて長い時間が流れましたが、時間観念なく話したら、時間が経つのも知らずに話し、聞いています。皆さんが時間が経つのを知らないでいるのは、神様の愛に酔っているためです。それで統一教会は、夜通しでみ言を聞いて語るのが常でした。(九七―二〇九)
三人だけ心を合わせて立ち上がれば、寝なくても疲れない。先生は相対者がないときは、人を創造する立場で話す。(一七―三四七)
土曜日の夜に教会で徹夜をすべきです。(一七―三四七)
毎日のように恋しく思えない人は、神様に侍れません。皆さんは、これを知るべきです。だれを恋しがるにしても、いつも恋しさに浸っていなければなりません。ところで、一二時になると「さあ、寝よう」と言う人は、神様に心配をかける人です。天国は夜と昼がありません。心情の因縁を抱いて現れるときには、夜が問題ではないのです。(一七―二九三)
忙しいときに、食べるものを皆食べて、寝るのを皆寝て、いつ天国を立てるか? 今我々はあまりにも忙しい。通行禁止の時間さえなければ、我々食口たちすべてが交替で夜通し活動すべきである。(一三―一三二)
先生も行くべき道が残っている人です。闘うべき戦争の場が、皆さんよりももっと大きく残っています。夜が来る前から、その夜を予想しつつ、闘ってきたし、朝に恥ずかしい姿を表さないために、一晩中闘ってきたのです。
このような場に集まった皆さんが、今日その父にお目にかかるなら、どんな心を持つでしょうか? 皆さんは楽に休みたいでしょう。しかし、今はそのような時ではありません。神様の胸痛む恨を解いてあげたい方がだれでしょうか? 民族を愛するその心を持って、民族の行くべき道を築くのに、先頭に立つべきです。開拓者の使命を果たさなければならないのです。(二○―一四一)
世界がすべて寝入っているとき、ここで我々は統一しなければなりません。神様は、人が皆寝ている静かな時間に、神様のような考えをしている人を通じて統一しようとされます。(一五七―一二)
補充資料 三
先生は今、刑務所に入るとしても恐れません。そこが天国です。そこから新しく始まるのです。そう、麦飯をやるとしてもいいというのです。腐って匂いのする味噌汁でも持ってこいというのです。それをかけて食べ、千年史を詠みつつ「実にうまいな。だれそれの先祖は、こんな飯を食べながら何を考えたか?」私はこのように考えるため、次元が違うのです。その瞬間はまじめでしょう。また、私が肥桶のそばで寝るとしても、「実によく寝たなあ。私の身の上を輝かせる、これから人類歴史を巻き取ることのできるいい機会が今ではないか。」そのように考えるのです。悪く考えるなということです。先生はそのように考えてきました。今も同じです。
少し前に、工場を訪問したとき、生産部長が社内の状況を報告しましたが、それが先生に通じませんでした。彼が何カ月もかかると考える仕事を、先生が二三日までしろと指示をしました。ですから、約束した通り成し遂げられなければ、大きくやられるべきでしょう。だからといって、一言言えば、自分の体面だの何だのということになるだろうし・・・。ですから、軽挙妄動できますか? それで、何日かじっと置いてみました。ある日の夕方になると、しり込みして、のそのそしてから、先生の所にやってきて、今日の夕方には仕事ができなかったと言うのです。こいつらが私に間違って会ったでしょう。今から再び出発なので、全部集合しろと言いました。これは公的なことなので、一二時前までにやり尽くせなければ、家に帰れないと言いました。そうしたら、再び仕事をするのでした。ところで、彼らがやるやり方なら一二時でなく、一晩中やってもできない仕事でした。そのとき、作業に入った時間が夜九時ごろでしたが、一〇時、一一時が過ぎ、一二時になるまで放っておいてもやるべきことは皆やるのです。
先生が命令したため、一二時でなく夜明かしでもするようになっているんですね。顔色が変わったのです。それで、一日でできる仕事をわずか三時間でやり尽くしました。一二時に「カーン」というまでやって、全部終えました。それだからそうなので、やってできないことはないのです。私が基準を立てるには、そうだというのです。人と同じように食べ、同じように着て、人と同じように時間に合わせて仕事をして、いつ人に先立つことができるかというのです。夜昼の別なく努力しなければならないのです。
私は、今も一二時を越えて家に帰りますが、一二時三〇分ごろ寝床に入って、早朝二時一五分ごろに起きました。起きて何をしようというのでしょうか? 祈祷するのです。四時まで祈祷して、サイレンの音が聞こえると、そのときお母さんの部屋をノックします。それ以前にノックすると、失礼になるからです。四時一五分ごろ部屋に入って、工場に出る準備を急いで、五時三〇分までに工場に到着しました。彼らが出勤するまで三時間ほど待っているのですが、待つその味がどうでしょうか? 実に面白かったのです。人が皆寝ているこの時間に早く起きて、新しい心を持てば、気分がいいのです。「今このように働いたので、今日もこのようにできないときは気合いだ。」と言うと、職員たちが浮かれて仕事をするようになります。そうすれば気分が大変いいのです。疲れるのも、事情によって疲れるのです。気分がとてもいいと、疲れがみんな逃げていくのです。皆さんも一度そうしてみなさい。
先生もじっと座っていると、眠気が来るときがあります。しかし、若い人たちに仕事をさせておいて、一人で楽に居眠りするのは、良心が許しません。私はそれができません。絶対にそのようにできないのです。しかし、あまりにも疲れたときには、神様に許しを乞い、少し目を閉じるときもありますが、私の勝手に寝ることはしません。いくら疲れていても、その場でそのまま倒れないのです。私が願う目的を必ず達成しておいて倒れれば倒れるのであって、それ以前には倒れないのです。今もそのような基準を持って暮らしています。
それゆえ、いい居所での経験や生活が、絶対的なものではないのです。新しいものを発見せよ・・・。新しいものを発見すべきです。年をたくさん取った人たちは、疲れるでしょうが、今まで慣例的なことに対して反対の立場に立つようになれば、そこに神様が共にいらっしゃるようになるのです。必ず神様が共にあるのです。(三〇―一四五)
四、空腹の主管
四、空腹の主管
一)先生は三〇歳までお腹が空かなかった日がなかった。
今日皆さんは、すべて美しい服を着て、美しく装っていますが、私は三〇歳までお腹の空かない日がありませんでした。ご飯がなくてではありません。食べるものがあれば、かわいそうな人にあげるべきであり、着るものがあればかわいそうな人に分けてあげなければならないためです。
学生時代には、黒石洞からソウル駅まで歩いて通いました。友達は全部電車に乗って通いましたが、そのとき電車代が一〇銭でした。私の行く道は、友達と違いました。その一〇銭を駅前に行って乞食にあげながら、「私が今あげたこのお金は少ないですが、これが千倍万倍に膨らんで、このかわいそうな民族が解放の日をもたらしうるようにしてください」と祈りました。私たちは、塗炭の苦しみに陥ってうめくうら悲しい民族の事情を知り、地と汗がにじんでいる民族の受難の歴史を知り、自分の一家を知り、自分の父母を知らなければなりません。(統八三・一二―一四)
先生が、一九四一年度に日本に留学に行くために、釜山に向かってソウル駅を発つとき、ソウルを眺めながら、かわいそうなこの民族をだれが責任を持つかを考え、涙をたくさん流しました。今も漢江べりに行くと、かわいそうなこの民族が解放される日のために、涙を流し捕まえて祈ったその岩が残っています。しかし、解放はされましたが、この民族は、まだかわいそうな民族として残っています。
地下室で人の知らない中で、涙で神様に訴えた時代は過ぎ去り、今は天地のために天の事情を暴露させ、血を吐いてでも訴えるべき時が来るなというのを感じながら、その道を歩んできたのです。(二二―一二一)
統一教会の先生は、三〇歳前まではお腹の空かない日がありませんでした。お金がなくてそうなのではありません。そのように生きなければいけないので、心が安らかでないので・・・。私が三〇歳前までは、学生時代にも新しい洋服を買って着たことがありません。古物屋に行って古着を買って着ました。そして、その残りでかわいそうな人を助けてあげた人です。あるいは愛国者の家庭に夫が辱めを受けたり、難しいことがあると、名もなく助けた人です。そのような生活をしてきたのです。(五一―二六二)
三〇歳までは、私がお腹の空かなかった日がありませんでした。分かりますか?(はい)。わざとこのような生活をしました。服は全部古物屋で買って、匂いのするものを着たのです。なぜ? 女性がついてくるからです。そうでなくてもくっつくのが多いのに・・・。徹底していたのです。また、口をききませんでした。私が口をきかないで暮らしたのです。私が口を開くときは天下が回ると考えたために、むやみに話さなかったのです。その過程では、私の行くべき道が忙しく、準備するのが忙しいのです、準備。その次に、口を開き始めるなら天下が・・・。(一三三―一七〇)
先生は、三〇歳近くになるまでお腹が空いた生活をしたのです。いつもお腹が空いた生活をするのです。お腹が空かない日がなかったというのです。そのような生活をしたのです。お腹が空いた人を同情しながらも、私はお腹が空いた時間を讃えなければなりませんでした。それは深刻なものです。お腹が空いた時間には、深刻なのです。いちばん深刻なのです。ご飯がなくてそうするのではありません。わざとその道を行くのです。責任を果たせない人が、匙(サジ)を握ってご飯を勝手に食べられないというのです。私が準備すべきそのすべての課題をする前には、眠れないというのです。そんなざまで何ら他に考える余地がないのです。心はそれでも、もっとやれとさせるのです。
私は、三〇歳までは二食でした。み旨を知ってからは二食にしました。三食を食べなかったのです。それゆえ、統一教会の教会員たちは三食ができないようになっています。ところで、こいつら、ご飯三食皆食べて、人と同じに皆寝て、昼寝をしたいのがみんな寝る? 私がそんなことができませんでしたか? 私の服を全部私の勝手に買って着られない人なのです、三〇歳まで。
先生は、三〇を越えるまでお腹が空かなかった日がありません。神様に誓った基準が定まらないのに、どうして楽に食べて寝て着られたでしょうか?(一九八八・一〇・三)
三〇歳前には自己主張をするな。(一三三―一七〇)
皆さん、学校の先生の中で勉強を厳しく教えてくれる先生が良い先生ですか、ただいい加減に教えてくれる先生が良い先生ですか?(厳しく教えてくれる先生です)。ところで、厳しく教えてくれる先生を好きな学生は一人もいないでしょう?(はい)。厳しく教えてくれる先生が良い先生なのに、そんな先生を好きな学生はいないということです。反対です。反対なのです。そうかと言って、二つ共になろうとすると滅びるのです。その学校は滅びるというのです。反対作用をすることによって発展できるのです。若い人たちの前では、必ず制裁が必要なのです。自由は必要ありません。分かりますか? その言葉がそのことなのです。
若い人がする通り、大学も出られないで、社会の経験もない人の言葉通りしたら、国を売るのが常なのです。家に入っても、学校でも、まだ世の中を知らないのです。全部知らないのです。習っていくことがたくさんあるので、三〇歳前には自己を主張するなというのです。(一三三―一七〇)
二) 空腹を我慢してきた理由
天を感動させうる場に立て。お腹が空くとき、私をつかんで祈らず、天をつかんで祈れ。「お父様! 今日まで復帰の道を行くための子女たちがどれほど飢えましたか! そして、それをご覧になるお父様はどれほど悲しまれたでしょうか!」(道―三三二)
天の父を思えば、一時も休むことができず、寝ることができず、お腹いっぱい食べられず、血と涙が乾く日がないのである。(統八二・四―二四)
先生が、お腹いっぱいご飯を食べるために統一教会を作って、今日まで悪口を言われて、迫害を受けて、我慢してきた人だとお思いですか? 一生を振り返っても、ある日一食お腹いっぱい食べて、一晩楽に寝てみたときがありませんでした。私がお腹がいっぱいで、楽な生活に溺れたら、人の空腹を忘れるかと思って、ずっとお腹を空かせてきたし、苦労を嫌がらないで、先頭に立ってきたのです。(統八二・四―二三)
先生は、人が飢えるのに私だけよく食べると、そうはしません。今はよく食べようとしてもよく食べることもできませんがね。(一七―二〇)
胸の痛いことを、統一教会の文先生は受けないと思いますか。先生自身も落ちたご飯粒と豆粒を体面なく拾って食べたい、行動までしたい境遇まで至ったときもたくさんありました。(一二七―三二)
先生は世界的なことに一人で熱中して、悪口を言われながらやってきました。お腹が空いて倒れるような境地でも「この腹の奴、行くべき道を行かねば!」といいながら歴史にない激闘をしてきた男なのです。(統八六・〇一―五九)
先生はいい服もあります。しかしながら、必ずいい服は着ないのです。着ていた服でも着るのです。また、ネクタイが数十本になりますが、締めないのです。地味にして歩くのです。なぜそうなのか? 私が果たすべき責任をまだすべてなしえていないのです。責任を果たせない立場に立って、ご飯をよく食べたといってげっぷをしてはいけないのです。伸びをしながら、「ああよく食べた。」と言ってはいけないのです。サタンが讒訴するのです。公的な基準を中心としてすべきことなのです。(五一―二九二)
お腹が空いたといって食べることに執着すると、僕の子にしかなりません。いちばんの怨讐が食べること、寝ることです。(一一―九)
三)食べ物に対する心の姿勢
先生は、熱いご飯を食卓の上に上げておいて食べる度に、昔監獄にいるときのことを思いながら、今まで感謝した心を持って生活しています。(一七―五一)
先生の食事を担当する人が言うには、先生が不思議なほどに分かるというのです。精誠を込めて作ったおかずは食べてももっと探し、精誠を尽くさずに作ったおかずは、いくら美味しいおかずでも食べないのです。仕えてみれば、先生は気難しいのです。舅のうちで気難しい舅でしょう。(一八八―一五七)
昨日も日本の食口が、日本のミカン箱を持ってきました。私が日本のミカンが美味しいということを知っています。しかしながら、昨日それを見ながらも手を付けませんでした。精誠の込められた品物は、むやみに扱ってはいけないのです。それは毒薬よりもっと恐ろしいのです。毒薬よりも・・・。(五一―二七六)
ご覧なさい。電灯の光があると、虫たちは全部電灯の光の方に行くでしょう? 同じなのです。微々たる昆虫も電灯の光に向かって行くのに、万物の霊長たる人間が生命の光がある所へ行かないようになっていますか? ついて行くようになっているのです。それゆえ、お腹が空いたと思うとき、ご飯を食べても「ストップ」といって考えて食べろというのです。匙を持っても「ああ、腹減った。飯の奴、よく来たな。」そう言ってはいけません。ご飯を食べても蕩減原則を中心として「お前はだれに食べてもらいたいのか? お前はカインよりもアベルに食べてもらいたいだろう?」と言って聞いてみると「そうです」と答えるのです。
では、「この部屋にお腹の空いた人がたくさんいるのだが、お腹の空いた人の中でだれのお腹に入りたいか?」と聞くと、よりアベル的な人のお腹に入りたいと言うのです。そんな人がいるのか? お腹の空いた人はたくさんいますが、公儀の仕事をして疲れて来た人にご飯を持っていってあげれば引っかからないのです。仕事をしないで遊んでいた人たちより・・・。この世もそうではないですか? 同じでしょう? なぜそうしてこそ通じるかというと、公法に引っかからず、免れうる道がそこにあるからです。歴史はそのように・・・。もう分かるでしょう。(七四―三三五)
さあ、では自分が善なることがはっきりと分かり、悪なることがはっきりわかりますか? 真理を知るべきです。真理を知れば真でないことから解放されるのです。聖書に「また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」と言いましたが、真が分かるかというのです。それゆえ、善であろうというのです。善を追求する人は、体を打たなければなりません。存在するために続けなければなりません。
我々の日常生活で、人々はいいものがあると、まずいいものに手が行くのです。いいものをまず食べようとするのです。これを本質的に見るとき、サタン側の悪なる食べ物を食べるのか、善の食べ物を食べるのか自分に尋ねるのです。自分が何かを食べるにも、善なる食べ物を食べるのか、悪なる食べ物を食べるのかという二つです。食べ物というのは、宇宙の共有、共同の品物です。共同の価値を持った品物だということを知るべきです。その食べ物が言うとき、だれでも自分を食べればその人に善なる食べ物になって、より価値ある栄養素を作ってあげるのに、悪い奴が食べるために、悪い栄養素になってしまうというのです。
このように見るとき、自分が着る服もそうです。服が言うに「ああ、私は善なる人に着られるべきだ。悪なる人は嫌だ。」そう言うのです。問題が深刻なのです。もちろん、日常食べて暮らす一切もそうなのです。考えることも、今日話す言葉にも善悪があるのです。すべて二つに現れるのです。考えることもそうであり、行動することも同じなのです。(一三一―二四)
ご飯を食べることも、自分のためではなく、目的を中心として食べなければなりません。このご飯を食べたら自分が世界のために走るという思いで・・・。(統七三・一一―二四)
四)衣食住生活の蕩減の原則
―まず食べさせてから食べよう(食)
―まず着せてから着よう(衣)
―まず買ってあげてから買おう(住)
最小限一人(家庭)でも自分の生活理想の基準を立てて生活しよう。あげるときは、民族と国家と世界全体を代表した位置に置いて、最大の至誠を尽くしてあげなさい。先生は、一人で高級食堂に行ってご飯を食べられない人です。いい寝床に行って安心して眠れない人です。しかし、お客さんが訪ねて来たら、いい御馳走をもてなします。(統七九・〇三―一〇)
私が、あるときは、中国料理の店に行って、中国料理を一度食べたらいいと思いますが、先生の体面で一人で行って食べることができますか?(笑い)それゆえ、原理原則通り「おい、腹の減った食口がいたら、どっさり食わせてやらなければならない」と言って、一緒に行って食べるのです。そうして一緒に行った食口が食べながら「ああ、いいな」と言うと私も蕩減復帰になるのです。(笑い)全部原理原則なのです。(七四―三三五)
今朝、私がお母様に話しました。私に報告しないで使っているお金があったら、そのお金がどれほどになると、私にすぐに報告しなさいとね。すぐに言いなさいと言いました。先生に報告せずにお母様が手をつけてはいけないのです。それはなんのことか分かりますか?
知らないうちに、家の中が欠けて出ていき、歴史が横道にそれていくのです。愛する人だといって、家の中の食口だからといってそのまま寛容できません。それで、お母様に訓示するには「あなたがつける装身具とか、すべてを買うのはいいけれど、それをうちの子供たちに伝授するためなら買うな」と言いました。食口たちに来いと言って買ってやったのは言いません。いくらを使っても・・・。
そのように訓示してみると、約婚の指輪までどこに行ったのか、みんな分けてやりました。それは間違いなく、この次に我々が死んだら、全部博物館に帰ってこなければなりません。子供たちにやらなくても、世界の子供たちの手を経て皆入ってくるようになっているのです。
お母様の服は多くありません。先生がしょっちゅうやれと言うからね・・・。生まれつきだから、またそのようにしてしまうのです。あまりにもあげるから心配です。(笑い)近くにいる輩はただもらおうと、この駄犬のような女たち! 近くにいる女たちはもらって着ようと思ったらいけないのです。わざと全部刺し子に縫った服を着てくるのです。ニューヨークに来るようになると、よくない服を着てくるのです。お母様に服を一着もらって着ようとね。そんな女たちは雷に打たれるでしょう。(笑い)
ご覧なさい。私がうちのお母さんに足袋の片方も買ってあげられませんでした。この世にない親不孝です。うちの聖進も、お母さんが入ってくるときまで、私がお金一銭をやったり、パン一切れも買ってやりませんでした。君たちは、飢えるようになれば全部食べるものを供給してやり、反対する奴等までも人知れずご飯を食べさせて生かすというこんなことをしながらもね。そのようなことをしたことは知らないでしょう? そのようなことをしながら、全部助けてやりながらも、私の子供にはしなかったのです。皆さんはそのように暮らしましたか、暮らしませんでしたか? この頃私は、公式席上に出るときにもなるべくネクタイを締めないようにします。
皆さんは、今衛星国家内で地下運動をする食口たちがいるということを知るべきです。死刑宣告を受けた食口たちもいます。それをだれに言うかというのです。それを考えてみなさい。彼らは、自分が愛する子供を犠牲にしてでも「解放の責任が私にあるのに・・・。」このように考えるのです。彼らがだれを信じて死んでいきますか? だれを信じて死んでいきますか? ただ先生一人を信じて死んでいくのです。
夜も昼も、雨が降っても風が吹いても、その人たちに全部お金を補給します。第三国を通じて国境を越えるそのようなことをしています。中国にも地下印刷所まで全部作っておきました。この野郎たち! あんたたちは、自分の子供たちのために、自分のご飯を食べるために駄犬のように働いていますが、彼らはみ旨のために人知れず地下組織編成のため、今まで働いているのです・・・。
皆さんがいつこんなことを考えてみましたか? 自分たちがこのような外国人たちの世話になっているのに対して、恥ずかしさを知らないでいる人が多いのです。世話になって復興する国はありません。援助を受けて豊かになった国があったことはありません。先生は一生の間、だれかの支援を受けてしたのではありません。私の手でするのです。
それゆえ、今政治をする人が私のところに訪ねてきても、私が嫌がる人です。訪ねてくるほどの人々は、皆来られないように、私が除外してしまいました。名のある人として、私の世話にならない奴はいません。訪ねて来れないのです。
文先生がそのように愚かでないのです。君たちは全部学費のために、あるいは、子供たちを食べさせて生かすためにこうしていますが、そんなことは私の眼中にもないのです。私がここに座って、皆こう言ったので、協助してくれるのです。皆さんの顔は、皆明るいですね。何をよく食べたのか。統一教会の食口たちは、見るには皆切れ端になるべきであるようなのに、顔を見ると皆明るいのです。それでも先生を信じて心配はしない様子でしょう?(一三六―八九)
先生自身もそうです。今ある家やそれ以外の全部を、私のものだとは思いません。そのどんなものも公的に処分するのに問題がありません。先生に、お金が何百万ウォン、何千万ウォンが預金されている通帳があったとしても、公的になくすのには問題ではないというのです。神様のために使うのを、自分が使うことより嬉しく思わなければならないのです。絶対的にそうです。このような絶対的な基準を立てなくしては、天の家庭になりえないということを、皆さんは知るべきです。(二三―三二〇)
私は今も印象に残ることが何かというと、現在我が統一教会のある幹部に、「おい、お前の部屋を空けて、誰々にやれ。」と命令してみたのです。「お前が暮らしている部屋をなにがしにやって、お前はこのようにしろ。」と言ってみたのです。そうしては、じっと置いてみたのです。それができなければ、点数が0点なのです。部屋を愛するのか、食口を愛するのか? 問題はそこなのです。
自分を愛すべきか、食口を愛すべきか? 自分を愛して救われる道がありますか!(ありません)。カインを復帰せずしては、アベルは救われる道がないというのです。そうでしょう? カインは怨讐であり、サタンです。サタンを愛さずしては、サタンを屈服させずしては、天国に行けないのです。それで、怨讐でない自分の愛する兄弟を愛せというのに、それもできないでしょうか?
それゆえ先生がそんなことを・・・。先生は、み旨のために全部を変えた人です。飢えている怨讐、統一教会の怨讐と噂になった女もいるし男もいますが、その人たちが、食べるものがなくて私が人知れず米を買って送りました。我が統一教会の食口が飢えているのに、何のことか分かりますか? 食口たちは、自分の子供たちなのです。自分の囲いの中にいる自分の側だというのです。食口たちは飢えて死んでも、私は引っかからないのです。食口が飢え死にしたら、天の同情がありますが、怨讐が死んだら、私が引っかかって入るのです。私が怨讐を愛する前に、彼らが死んではいけないのです。統一教会に対して過激に反対する何人かは、統一教会のみ旨が成されるときまで残っていて欲しいというのが先生の願うところです。死なないのです。そんな人は、何人いますか? そんな人たちを助けてあげるのです。
助けてあげるにおいても、使って残ったもので助けてあげるのではありません。最も貴いもの、真ん中の一切れを切ってあげることをしなければなりません。天が許すときは、自分の妻まで譲りうる雅量を持つべきなのです。なぜそうなのか? 神様がサタンの前に自分の相対を残してやった以後、今まで一人でやってこられたのではないかということです。そうでしょう? 品物が問題ではないのです。(五一―二八九)
私がこれから家を買うということは・・・。汝矣島に世界本部を建てる土地を準備しておき、大学を建てることのできる一〇余万坪の土地を買っておきました。また、世界修練所として使う一二〇万坪以上の土地を買っておきました。このようにしておいたので、今私が家を買っても大丈夫なのです。今は私の番です。その家は皆さんが買ってくれるべきなのです。
皆さんが家を建ててくれるのを願うのは、私がお金がなくてそう言うのではありません。先生が位置をつかむ歴史的な基点において、それでも韓国人がまず家を建ててくれてこそ、その権威と威信が千秋万代に立つようになるからです。それでもある者は、これを考えていますか? 私にはすぐに家を買うことのできるお金があります。しかしながら、理知が違うのです。今も子供たちは子供たちなりに別に暮らし、お母さんはお母さんなりに暮らし、私は私なりに別に暮らしています。一度会おうとすると、服を着替えて行ったり来たりしなければならないようなことをしているのです。ですから、皆さんの威信が立ちません。このような問題について見るとき、家はできるなら皆さんの手を経て買うべきなのです。そうしてこそ神様の前に皆さんの威信が立つのです。皆さんが今まで親の家を買ってあげようと、ありとあらゆることをみんなしたかもしれませんが、韓国人に残してあげうるこの一時の特権を外国人に残してあげたくないのです。何のことか分かりますか?(五一―二九三)
先生がこのように暮らすから、皆さんは先生より豊かに暮らしてはいけないのです。そうすべきではありませんか? ご飯を先生よりよく食べてもいけないし、服を先生よりよく着てもいけません。原則がそのようになっています。皆さんが服をよく着て、ご飯をよく食べることを先生が嫌でそう言うのではありません。先生がなぜそう言うのか、今祈祷してみなさい。
一家の生計のためです。一家の生計のため、皆さんもここに入ってきてご飯を食べるのです。この世だったら追い出される人がここにたくさんいます。ただ行ったり来たりしながら、仕事もしないでご飯を食べるひとが多いのです。それでも見て見ないふりをします。みんな知っていますが、先生を見ると恥ずかしがるから、わざと先生が見て見ないふりをするのです。皆さんに職場はありますか? 何がありますか? それでご飯を食べさせてあげるのです。そのように何力月間かいたのに、後で引っ越しするのに、お金がなくて行く所がないと言うのです。それで家まで求めてあげたことがあります。なぜそうするのか? 先生がこの土地に来て伝統を立てていかなければならないからです。先生の財産は一つもないと言ってもいいのです。先生は伝統を残していくべきです。先生が預金をして何をしてということは、これから祝福家庭たちが暮らせなくなったらいけないので、彼らのためにすることです。先生が祝福してあげたから、豊かに暮らすようにしてあげるべき責任が先生にあるのです。
これからはお金もたくさんできるでしょう。それゆえ、お金が問題にはなりません。皆さんは先生と同じ道を経ていくべきです。神様にどのように仕えて、天の家庭がどのようにすべきかという問題を考えながら、皆さんの道を行くべきです。(二三―三二一)
親に世話になってはいけません。世話になったら、世話になった以上自分がそれを子供の前に加えればいいのです。親の前に返せないものを、子供たちの前に何倍すると言うべきです。子供がいなかったら、それを町内の子供のような人に自分がしなければ、と言うべきなのです。心で世話になって、実際の生活で世話になっていった人は、天国に入れません。自分のためにして世話になっていく人は、天国に入れません。そのような人は僕にしかなれません。頭を下げて暮らさなければなりません。主人にはなれません。主人の子供になれないのです。それは確実ですか?(はい)。
ですから、世話にならないために、自分に食べるものがあれば、いいご飯を作ってかごに入れて頭に載せて、道行く人々に「どうか召し上がってください」という風潮の時代が来るのです。分かりますか? 子供たちを愛せなかった人は、いい家を建てておいて、「子供たちの代わりにうちに来て暮らしてください」と、そうしうる時が来るのです。そうしうる環境が展開すれば、どれほどいい世の中だろうか考えてみなさい。自分の貴いものをあげようとし、為にしようとし、残していこうとし・・・。
それゆえ、昼に尽くせなかったら夜にでもすべきなのです。眠れないのです。そうであれば、その国がどれほどすばらしいでしょうか? 分かりますか、こいつたち。(はい)。大概の概念が分かりましたか?(はい)。(一三三―一四二)
統一教会の人たちは、人よりもう一つすべきです。山の頂上に上がるのにも、上がってそのまま休むのではありません。統一教会の食口たちは、人より一歩でももっと歩いてから休むべきです。これが統一思想です。勉強をしても、人より一分でももっとしろというのです。人が一〇頁の本を読んで寝れば、一一頁読んで寝ろというのです。一頁でももっと見ろというのです。会社で仕事をするにも、人よりもっとしろというのです。出勤をするのにも、出勤時間が八時なら八時以前に出動できなければなりません。退社するときも、人より一〇分でももっと遅くしろというのです。もう一つしろというのです。作業場や、あるいは何かの仕事でもそのようにしろというのです。始まりは人より少し早くして、締め括(くく)りは人より後にしろというのです。そうすると、食べるものはどのようにすべきですか? 仕事を人よりもう一つするから、食べるものももう一つ食べなければならないなあ。(笑い)人が一〇さじ食べるなら、自分は一一さじ食べるべきでしょう? そんなことを誤解して、もう一さじ食べようと目を鋭くしてはいけません。(笑い)(四八―一一四)
統一教会の文先生は、今までの生活哲学が、後で食べて先にさじを置くというのです。ですから、さじをまず置けますか? さじを持つときは後に持ち、置くときはいちばん先に置くべきなのです。以前にある人が証すのには、いつも先生がさじを先に置き、自分はさじをつかんで自分の腹と戦ったというのです。(笑い)そうしてみると、ご飯を食べる場面で、その人たちは弟子になり、自分は師の位置に上がるのです。ご飯を食べる度に頭を下げるのです。それはそうすることができますか? 理解できませんか? そうできるでしょう?(はい)。それが統一思想です。皆さんは、それを知るべきです。(四八―一一六)
五)天の人はどこへ行っても飢える法はない
天が愛する人は、どこへ行っても食いはぐれる法がありません。先生は今まで、ご飯を考えてみたことがなく、私がお金を稼いで暮らそうという、そういう考えはしてみませんでした。そうかといって、ご飯がありませんか? どこへ行ってもご飯が待っています。(一五九―四五)
お腹が空くときは、人の家がご飯を食べるところに行き、挨拶もせずにがつがつ食べます。主人が何か言うと「あなたは朝昼みな食べたが、私はいつからか五食を食べませんでした。ですから、神様も、食べなかった人が食べるのが善だと言ったから、一食ぐらい譲るのが人間の道理ではないですか?」と言うのです。私が悪党でなく、国に被害を被らせるためでなく、暗行御史(李朝時代、王命によりひそかに地方官の治績や非行を調査するために派遣された臨時の官職)と同じ立場で、天倫を正し、人倫を正すために天命により現れた人なのに、私の行く道が千里の道のようなのに、いつ暮らせるほど稼げますか。理論がしっかりと立っています。(一八五―三〇)
生まれたばかりの昆虫の幼虫も、生きようと食べるものを探すのに、万物の霊長が習って食べるものを探し、習って死ぬこと、生きることを探して・・・。そのようになっていません。(五六―一五三)
祝福を受けた家庭が、商売をしないと暮らせないと、人のように暮らすべきだとあがいてはいけません。だめなのです。絶対にいけません。もし、お金を自分の欲から持つようになると、後で泥棒に遭ったりなくしたりするようになります。でなければ、強盗されるようになります。そうか、そうでないか見てご覧なさい。神様が認めない財産を持とうと思っては絶対にいけません。(二一―三二〇)
堕落人間は、自分の存在目的のために、心配しないで存在するために、必要な要件のために心配している。しかし、天は公的な目的のために衣食住を顧みず苦労する人には、必ず干渉してくださる。(み旨の道―一二九)
マタイによる福音書六章二五〜三四節に、それだからあなたがたに言っておく、何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことでおもいわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。
◇ 空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。
◇ あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。
◇ また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。
◇ しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
◇ きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。
◇ だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。
◇ これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。
◇ まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。
◇ だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。
六)十一条生活
(一)十一条の意義
十一条は選ばれた子女たちの基本の道理です。神様の数である一数を捧げることで、九までも捧げたという条件が立てられ、この一〇の一数は残りの数よりもっと貴く思うことを知るべきです。
キリスト教の十一条を見ると、そこには本当に恐ろしい内容があるのが分かるようになります。十一条を出すべきだという聖書の句もあります。十の中で一つを神様に捧げろというのです。「しかしながら、神様が見えるか、十一条が何か」と言う人がいますが、十一条は何かと言えば、一つぐらいだけ行って十まで行こうというのです。もし、皆さんが皆さんの親の誕生日の祝いや還暦の祝い、あるいは、王様の誕生日を迎えて祝ってさしあげるために、牛も捕まえて、豚も捕まえて、あるものないもの皆作って捧げるというとき、その方々がそれを全部食べるでしょうか? 違います。もらうものを皆もらいますが、皆食べられずに、ごく少ししか食べられないのです。しかし、このように少しだけ召し上がりましたが、皆召し上がったという条件が立てられるのです。
これと同じように、十一条は、自分が所有している物質の中で、十分の一を神様に捧げることで全体を捧げるという意味を持っているのです。父に全体を捧げませんが、その中から一つを精誠を込めて捧げることは、そのような意味から価値があるのです。そのように一つを捧げることで、残る九つも貴い品物として取り扱われるようになるのです。このように、十一条を捧げて暮らす人は、絶対滅びる法はないのです。日が経てば経つほど、彼の倉庫が増えるようになっているのです。
*聖書 申命記一四章二二〜二九節
民数記一八章二一節
(二)聖徒たちの基本の道理
教会の十一条生活も食口が十家庭あれば、引導者ひと方を養わなければならない。そうできないと天民権を持つことができない。
十人暮らせば天の人一人を扶養すべきである。
(三)十一条生活
十一条は全ての面にある。学校も十教室の中で一教室は、可哀想な子女たちのための無料奉仕の教室に使うべきである。
聖日は十一条の日なので、自分の日ではない。それゆえ、天の命令通りに服従する日なのである。天のものを自分のものとして使おうとするのは罪である。
自分の子供の中の一人を天の前に捧げるべきであり、そうできなければ人の子供でも勉強させて天の前に捧げなければならない。
(四)教会の品物を重要視すべきである
これからどんな問題が起きるか? 物質的問題、人格的問題、心情的問題、この三つの問題が起きるのです。堕落が何かというと、物質と人格と心情のこの三つの問題に関係したのです。分かりますか?(はい)。では、どのようにすべきか? 自分のものより教会のものを重要視すべきなのです、自分のものまでも、より重要なものに隷属させるべきなのです。分かりますか?(はい)。
自分の品物がだれを通じて来たか? お母さん、お父さんを通じて、自分の努力を通じて、自分に直接入ってきたものです。そうでしょう? み旨を通じて入ってこなかったというのです。では、み旨を通じて入ってくることができる道は何か? 教会を通じて因縁づけられなければならないのです。それゆえ、自分の品物を教会の品物と一致させることのできる心の基盤になるべきです。(五一―二八九)
皆さんがここの本部に出たり入ったりしながら、窓をどれほど愛し、ここにどれほど多くの精誠を捧げたかというのです。ここの女たち、本部に来て掃除をしてみましたか? あなた、掃除をしてみた? おばさんたちは、してみましたか? 自分の家の居間の床はたくさん磨いたでしょう。それではいけないのです。(五一―三八八)
自己の私的な物質を、公的な物質よりもっと重要視する人は、天道に違背する人です。私的な自己の人格を、公的な人格よりもっと重要視する位置は、み旨に違背する位置です。(五一―二九一)
*参考:公金は毒薬よりもっと恐ろしいものである。
公金は種である。蒔けば実を結ぶべきである。結ばなければ皆奪われる。
お金を扱うのにおいては、人格が先立つべきであり言行深思が一致すべきである。
先生の財布から出ていった公金は、むやみに使っては困る。
公金について不徹底だと、追放される。見ていろ。先生は、皆知っているが、時を待つ。
皆さんは先生に献金をするといいますが、先生はそのお金をもらいません。先生はもらわない主義です。皆さんがそれを集めるためにどんなことをしたか? それを私が知り、それについて恥ずかしくない主体的な立場に立たずしては、もらえないのです。本部に献金したお金を、勝手に出して使うのは恐ろしいことです。毒薬より恐ろしいのです。心の姿勢がそうであるために、与えてからもまた与えたい心が、神様に宿るのです。分かりますか? ところで、ただ人が来れば手のひらだけ眺めるのです、何か持ってこなかったかと。そのような教役者は滅びるのです。皆さんはそれを知るべきです。(五六―二七六)
教会のお金でもって、食べて豊に暮らしてみろというのです。皆さんの後孫が引っかかってしまうのです。世界の人を犠牲にして、一介の民族が豊に暮らせないのです。それが善の行くべき道であるにもかかわらず、逆行しているという事実を知るべきです。ただ飯を食べては皆滅びるのです。毒薬よりもっと恐ろしいのです。(一三六―八九)
私は数億のお金を持っていますが、そのお金を私の財布に入れようと思ったことがありません。私があるときはそのようにお金を口癖にしたりもしますが、それは私のために使おうとするのではないのです。我々の先祖たちの精誠を集めて残した基盤の上に、後代に残すことのために・・・。先生が在世の当時にしたことは、歴史的な遺物になるのではないか。だから、お金があれば何を残すのか? 後代のためのものを残してやるべきなのです。君たちを苦労させるのは、後代のためにさせるのです。皆さんは、これから何か残しておいて行くべきなのです。ですが、皆さんができないから、私が代表的にするのです。私の財布にはお金がありませんが、一日に何百万ウォン、何千万ウォンも使っています。そのようなことをしているのです。それは何のためか? 皆さんのためにするのです。未来のためにするのです。(五一―二八八)
五、情欲主管
五、情欲主管
皆さん、これから男女問題に対しては格別に注意しなければならないのです。皆さん、男も女も二人が好きだという言葉を残す人は、これから絶対祝福を受けられないのです。それはしてあげてはいけないようになっているのです。それを知るべきです。
きれいな血統をどのように保存するのかが我々の問題
今までのアメリカの考え方は通じないのです。親たちがデートもしなさいと言いますが、それは通じないのです。天の法度を通じてすべきなのであって・・・。我々が世界のこの倫落問題、青少年問題を全部解決できなければ、世界を救えないのです。皆さんは、これから責任者になる人たちですが、このような面に徹頭徹尾しなければいけません。今まで自分たちなりにありとあらゆる考えをして、問題を起こす人たちがたくさんいました。
韓国でも日本でも、自分たちが前に互いに約束して来た人がいたかもしれませんが、そんなことはいけないのです。アメリカの宣教師を信じてしてあげましたが、これからはそうはいかないのです。
通訳する人は、私が言うことを何とかより分けてしようと思わないで、そのまましなさい。
ですから、そのような問題においては、これから徹頭徹尾にすべきです。分かりますか? 見てみなさい。一度堕落したために、数万年かかったのです。一日の失敗が数億千万年かかったことを知らないのですか。それが誤って引っかかると、皆さんもそのように引っかかってしまうのです。さらにここは完成時代を標準とするために・・・。長成期完成級で落ちたのも復帰歴史が大変なのに、完成基準で父母様の心情を蹂躙する立場に立つようになると、許す法がないのです。それを知るべきなのです。
アダム・エバは、神様と心情関係がつながっていなかったのです。神様の愛を中心として、言い換えれば、人間と神様の間に心情の紐帯をつながなかったその条件があったために、愛をもって救うことができる道があるのであって、心情の紐帯が侵犯されたら愛をもっても救えないのです。神様の愛がアダム・エバを経なかったとき、アダム・エバが堕落したために、愛がまだ残っていて・・・。神様が人間と関係を結べず、愛がタッチできなかったそれがあるために、そのタッチされなかった愛を中心として救いの役事をするのです。
では、今の時はどんな時か? その愛を中心として、それが基調となって出発するのに、これにタッチするようになると救われる道がないのです。何で救うのかというのです。理論的にそうなのです。理論的にそれが何のことか分かりますか?(はい)。
愛が侵犯されないために、その愛をもって救いの役事をしますが、今や我々の時代、完成時代には、神様の愛が接触するのに、この愛を蹂躙したらどこに行って救われますか? 救われません。救われる所がないのです。何をもって救われるかというのです。先生の勝手にできますか? だめなのです。知ってから堕落したらだめなのです。知ってするというこれは何と同じかというと、回るサタンの押し切りの端に突きつけるのと同じなのです。切ってしまうのです。それが分かるかというのです。この問題がどれほど恐ろしい問題か?(はい)。
ここに来ても、もう自分が言葉を聞いていることを知るべきなのです。自分が皆知っているのです。ワシントンから、昨年からところで毎回ここに来てはぞろぞろついて回って、そうできるかというのです。ここに座っている皆さんは感じられないかというのです。皆さんはそのように考えませんでしたか? そういうことを忠告してあげなければなりません。これから我々は、社会的にこの貞操を汚さないきれいな血を、血統をどのように保存するかということを肝に銘じなければなりません。最近、大社会倫理として保存すべきなのです。
ここのアメリカの公園のような所に行けば、若い男女たちがありとあらゆる・・・。それは、これからそうできるようですか? できないのです。ありとあらゆることを皆やっているのです。これから我々の青年たちは、三人が歩いていてそんなのを見たら、そのまま放っておいてはいけないのです。それを越えて、ともに越えていったら滅びるのです。それを中心として飛躍すべきなのです。それを踏んで飛躍しなければならないのです。そうしてこそ世界がまともになるのです。
愛の失敗をするのは後孫に毒を飲ませること
更に、若い青年男女が一所に暮らして皆こうするときに、これから皆さんの責任者たちは、この問題については徹頭徹尾責任を持たなければなりません。私がこのようなことを厳重に処断するでしょう。これから、男女が会って、二人手をつないで歩いていて、私に見つかったらただでは置かないのです。なぜ純粋な自分の感情を変な、関係ない人に皆消耗させて流してしまうのかというのです。きれいに保管しなければならないのです。
花を見るとき、香りがあります。香りを見ると、花のつぼみがしっかりと閉じていてから開いてこそ香りが濃いのです。いつでも開いていたら面白くないのです。同様なのです。愛は人間の香りと同じです。しっかり封じてから、相手に会ったときに初めてその相対のために表現するためのものが愛というものです。なぜ先生はそう言うのか? 原理がそうだからです。ここに来てみたら、今まで宜教師たちが原理を知らなかったのです。
ですから、このような問題を中心として、皆さんが責任者ほどにこの問題を徹底して取り締まらなければならないのです。責任者は女性と二人で一つの部屋で会うなということです。会うには、必ず三人が会いなさい。天使長とエバが二人で会ったため事故が起きて、エバとアダムが二人で会ったために事故が起きたのです。エバとアダムの間に神様をお連れしておいて、天使長とエバの間にアダムを呼んでおいたら、堕落しなかったのです。三人が会ってこそ、その防備になりうるのです。
皆さん、男、女だけいたら堕落する可能性がありますか、ないですか? 答えてみなさい。(ありません)。それはなぜそうなのですか? 揮発油があるのにマッチをなぜ入れて歩くのですか。揮発油がある所にマッチをなぜ持って入り、揮発油のタンクのそばでタバコをなぜ吸うのかということです。それができますか? 一度誤ったら皆消えていくのです。もう永遠に逃れる道理がありません。原理を知れば、逃れる道理がないのです。原理がこのようになるというなら、それはしっかりと条件的になっているため、一度引っかかってみなさい。それを逃れうる何らの根拠もないのです。
では、既成家庭はどのように祝福を受けるのか? その人たちは、結婚するときこれを知らなかったのです。先生が今まで家庭的なすべての基盤を築くために、苦労して蕩減復帰した基盤があるために、先生がそれを・・・。先生が特権を持って祝福してあげることができるのです。ですが、若い男女は原理原則に一致しなければしてあげないのです。できないのです。また、若い男女といっても、アメリカのような所は、純粋な若い男女がいませんが、それはアダム・エバが堕落したのを復帰するそのような原則により・・・。そのようなものを復帰して引っ張ってきたために、その原則を中心として許してやるのであって、そうでなければだめなのです。汚れた人は、先生が絶対祝福してあげるようになっていないのです。前にも話しましたが、それは殺人したことよりひどいのです。殺人は一人を殺しますが、それは自分の後孫を全部殺してしまうのです。
ですから、これから法の中で、愛を侵犯することを治める法律以上がないというそういう時が来るでしょう。それは分かりますか? 今まで皆さんがありとあらゆることをした過去があれば、ここで全部悔い改めなければならないのです。きれいに悔い改めるべきです。原理を聞く度に、本当にあきれて、くやしく、無念なことを感じるべきなのです。「堕落の後孫として生まれたことも無念なのに、自分自体がまたそのようなことをしたとは」と言い、拭いえない悲痛さを感じながら、神様の前にこれを許されうることがあったなら、それ以上の喜びはないという、それ以上感謝できないという、このような立場に立つべきなのです。
そんな者たちがここに来て、自分の好きな人に会ってまたそんなことができますか? できないのです。それがはっきりと分かりますか?(はい)。それを知るべきなのです。
皆さんがこの罪に引っかかれば、皆さんの先祖まで・・・。先祖の希望が何でしょう? 自分たちを正してくれるのを願っているのに・・・。また後孫がどれほど悲惨であるか考えてみなさい。人の親の役をすることは大変であり、人の先祖になるのが易しいことではありません。これから子供たちを産めば、皆愛して喜ぶでしょう? 彼らに口を開けて毒を飲ませるのと同じなのです、毒を。これをよくしなければならないのです。
志操を生命よりもっと重要視せよ
今回、ここの西欧の食口たちを私が祝福しましたが、西欧人がどれほど男女関係に乱れているかについてパーセントが皆出てくるのです。これを何人かが統計を出しましたが、韓国を見るなら純然たる処女・童貞がどれほどになるかというと八三パーセントです。統計が出てきたのです。男も女も同じです。男と女を合わせてそうなのです。日本はどのくらいかというと、六三パーセントです。アメリカは、あまりにもひどいのです。それは恥ずかしいことです。恥ずかしいこと、それが誇りですか? 滅びるのです。そんなに私を嫌わないでください。そうするなら教会に来ないでください。ここでなくても、社会に出ればいくらでも・・・。ここに来てそうですか?
皆さんは、ここでなぜこんなことまで言うのかというと、これからこの問題に対しては徹頭徹尾にしなければならないという思想をしっかりと・・・。自分の生命が絶えても、それはできないのです。こんな覚悟をすべきなのです。志操がなければならないのです。それを命よりも重要視すべきなのです。愛を誤ると、自分の子孫が滅びるようになるのです。
さあ、先生がこのような道を行くようになれば、アメリカ社会全体が悪いと言うようでしょうか、良いと言うようでしょうか? 皆さんも皆そうじゃないですか。結婚するとき、だれがぼろのような新郎・新婦をもらいたいですか? あきれたるじゃないですか。それは皆隠して分からないからそうであって、ありとあらゆることを皆しているのです。皆さん、そのようにぼろのようなものたちがここに来て、神様の女を得るように許したことだけでも恐れ多いのに、他の女に目を移しますか? その目玉を抜くべきなのです。そうして暮らしてきた奴を祝福されるようにして、自分の前に女を、あるいは男を許してくれたという事実だけでもあまりにもありがたくて、恐縮で、大事にすべきなのに、他の人について目玉を回したら、その目玉をみんな抜いてしまわなければならないのです。
ここのジャックにも息子がいますがね、嫁をもらうとき、そんなに勝手に遊んでいた人を嫁にもらいたいと夢でも思ってみましたか? 純粋な嫁をもらおうと思うでしょう。あんたの奥さんもそのように思えば・・・。父母がそれを望むなら、父母がそうであるべきでしょう。そうしてから、そのように願うべきでしょう。それでこそ正当なのです。
さあ、子供たちが結婚するとき、もし皆さんが娘を持ったとしましょう。ところで、あの人と結婚させてやったら離婚するだろうということが分かって、娘をやる人がいますか? また、あの人と結婚するようになったら離婚するだろうということが分かって嫁に行く人がいますか? 離婚すると思いながら息子をやり、娘をやり、嫁をもらい、婿をもらう人がいるかというのです。大概離婚するその主な事件は何か? 男女問題です、男女問題。これをどのように防止するか? これを防止するには、これをしてはいけないということを、理論的にはっきりと教えてやる教育がなければならないのです。ところで、アメリカでそれをしているかというのです。それは原理しかないのです。我々の原理しか。これによって、どれほど直接的な損害がくるかということが頭にスッと打ち込まれてこそ、「ああ」と言って、やれと言ってもやれないのです。それをはっきり知らないから、被害がどうであるかということを知らないからそうでしょう。
夫婦同士は事実・・・。伝道のためにそうであって、夫婦はしっかりとくっついて歩けというのです。一つにならなければなりません。どこかに行って座るときも、別々に座らないで、一緒に座れというのです。夜も昼もいつでも一緒に通じうるのが夫婦ですが、夫婦にならずにそうできますか? 二人が一つの部屋に入って寝ることができますか? 夫婦にならなくて? 行けないようになっているのです。どこにも行けないのです・・・。
我々はすべての面で新しい次元の規律を持つべし
それゆえ、これから理想世界では、夫婦同士本当に仲良く二人で行けば、その人たちに若い男女は挨拶しなければならないようになっているのです。そのような時が来るのです。そのように通り過ぎるようになったら、必ず三人いたら握手して拍手して、皆そうすべきなのです。夫婦同士で一つになったのを栄光と知り、それを讃える社会風土にならなければならないのです。その人たちは、どこに行っても社会からあがめられ、多くの人たちがその夫婦に対して讃美でき、尊敬できるようにならなければならないのです。
さあ、この問題について徹底すべきなのです。そこについて質問する人は質問してみなさい。また、はっきりと分からないという人は手を挙げてみなさい。分かりましたか。もう? なぜ先生がそう言うか分かりましたか?(はい)。それゆえ、皆さんが統一教会に入ってきたら、七年間は公的生活をすべきだというそのことです。六千年の歴史、七千年の歴史を蕩減復帰しなければならないということです。
結婚することは天地が合わさること
先生が皆さんを見ると、正確が皆分かるのです。だれがどうでどうで、誰々が発展性があり、それが皆分かるのです。話さなくてもサッと見れば、心がどうだというのが分かるのです。笑うのを見てもいっぺんに分かるのです。
去年日本食口が何双結婚しましたか? 二七〇何双ですか?(二三五双です)。二三五双を何時間でやったかというと、八時間四〇分という時限内で全部結びました。それをどのようにしたでしょう、どのように? 立たせておいて悪戯のように、人が見れば悪戯をすると言ったことでしょう。女が一人いれば、女をここに一人立たせておいて、男たちを皆一度サッと振り返って合うかどうか見るのです。皆さんの目には、森なら皆青く見えるでしょうが、森の中にもいろいろ種類があるのです。松の木も青く、アカシアも青いですが、アカシアの木と松の木と結婚したらそれでいいですか? 二つとも死ぬのです。接ぎ木したら二つとも死ぬのです。いくら葉が黒くて幹が曲がっていても、その曲がった松の木なら松の木同士でしっかりと接ぎ木すべきでしょう。形は良くても悪くても・・・。
人は滝のように落ちる形があるのです。そのような人は、ぽっくり死ぬタイプなのです。その滝のように落ちるタイプがあれば、爆弾のように突き出すタイプがあるのです。それは皆そういう何かがあるのです。彼らを互いに結んでおくと、事故が中止されるのです。それは皆そういう何かがあるのです。これが下がってくれば上に上げなければならないのと同じではないですか? 風がこうしてひゅうっと吹くとき、もっと風がひゅうっと吹くとき、もっと風が吹くと、フィールドがこのように押されるのと同じで、調整するのも皆そのようなことを考えるべきなのです。ただ街で互いに会って暮らす、それは危険千万なのです。街でこのようにして、何、愛して結婚して暮らすとき、そのようにした人たちによって、これからアメリカに低能児がだんだんたくさん出てくるという思いは、すでに決定された先生の観なのです。それは間違いないのです。それは自滅なのです。自動的に滅びるのです。自動的に後退するのです。
そのようなことが分かる先生なので、皆さんの結婚問題についてそのように深刻なのです。そう思いませんか?(そう思います)。結婚は自分のためにするものではありません。天地、男は天であり、女地です。天地が合わさるのです。自分を中心として国家を代表して、平面的に見れば自分と国家を代表して結婚するのです。
それゆえ、妻に反対することは、地に反対することであり、相対国家に反対するのと同じになるというのです。妻を愛するのは、地を愛することであり、国を愛することです。そうではないですか? 国の一番の代表的な人だというのです、国の。その妻というものは、国の人の中で一番近い人ではないですか? その国を考えてみるとき、妻が一番近いから。それは国を愛することです、国を。そうではないですか? 地を愛せず、妻を愛せなくては、顔を上げられないのです。それなのに、離婚、離婚していいのですか?(いけません)。(六七―五五〜六五)
問:我々が講義を聴いて堕落論を知っても堕落をしてはいけないと言われましたが、いつからその責任がありますか?
その堕落について知ったときからです。これは、すべきでないことをすると言いながらするのはいけないのです。ですから、徹底して教えるべきです。堕落論を聴けば、あなた、君は、このような・・・。さっき言ったように、男にぶら下がっているものは毒蛇の頭であり、女のものは毒薬の壷だというそういう思想をぶち込めというのです。皆さん、それを思うとき、気分がいいですか? それは言葉だけでなく、事実がそうなのです。それよりもっと恐ろしいのです。一度誤ったら自分の子供まで全部滅びるのです、全部。世の中でも、病気のようなものにかかれば皆滅びるではないですか。そうではないですか? それをはっきりとぶち込むべきです。それゆえ、皆さんから行ってこれを中心として実践しなければならないのです。それで今から、この伝統をもって全国的にきれいに洗わなければならないのです。きれいに。それから、その次?
問:男は男にだけ、女は女にだけ伝道しますか?
それは大丈夫です。お父様の仕事のためには大丈夫です。女は娘のように考えて、男は息子のように考えなさい。それは大丈夫です。いつもそのような心の位置だということです。夫のように、相対のように考えては絶対いけません。相対のような観念を絶対持ってはいけないのです。ですが、第三者以上考えれば・・・。必ず大衆生活をするようになるなら大丈夫ですが、二人会ってするようになると誤解するのです。自分はきれいですが、誤解するのです。ここに誤解するようになると、罪をかぶらざるをえないのです。弁明してもだれも聞かないのです。弁明にならないのです。ほかに?
問:そのように考えることさえも罪を犯すことだとイエス様が言われたそのみ言の基準がここに適用されますか?
考えてもいけないのです。我々はそれ以上になるべきです。我々がここでこのような悲惨なことを選ばずには、蕩減復帰という道に合わさりうる道がないと、このように考えろというのです。もっとすべきなのです。先生はこの問題のために今まで、一九六八年の正月一日、神の日を定めるときまで・・・。この問題解決のために、先生が一生かかったのです。先生が一生の間かかったのが、この問題を清算するためだったのです。心情問題、これをまさにつかむために一生かかったのです。この問題なのです。そのために一生かかったのです。皆さんは、先生の尻尾と同じです。先生は頭として大きいですが、皆さんは尻尾であるため頭についていくのと同じことです。
これは何を言おうとすることか? イエス様がかかったその三年間を越えていこうということです。この三年間に三弟子を作って祝福してやり、その形式に合わせようということです。アダム家庭、ノア家庭を作ろうということです。アダム家庭が八人家族でしょう? ですから、アダム家庭で八人が分かれて、争って離れて下ってきたので、八人が父母と一つになって・・・。八人が離れるとき父母と分かれて、兄弟同士で分かれて離れて下ってきたので、兄弟同士一つになって、父母と一つになって復帰して帰っていくのです。八人でなければ天国に入れないのです。
父母と子供が分かれ、兄弟同士殺すことをしたというのです。ですから、兄弟が一つになって、その次に夫婦同士で一つになるべきなのです。そうしてこそ行くのです。そうして八人家族になってこそ天国に入ることができるのです。
それゆえ、三人伝道しなければ・・・。それは何かというと、三人の息子は自分のために命を捧げるべきだというのです。イエス様のために三弟子が命を捧げられなくて、悲惨なことが起こったため、それを蕩減復帰する原則により、自分を中心として三弟子がイエスの弟子よりもっと命をまず捧げると立ち上がれるようにならなくては、復帰にならないのです。
そのように離れていったために、復帰もそのようにしていかなければならないのです。それが原則です。それゆえ、八人家族の条件を備えた人でなければ天国に入れないのです。ここはサタンの愛を中心として壊れて下ってきたので、ここは神様の愛をもって結んで上がっていくのです。
それで我々は、伝道した人と自分の兄弟よりもっと近くあれというのです。しかし、神様の愛を中心としなくては、皆さん同士で愛せないのです。それは、男女的な、異性的な考えなのです。それはできないようになっているのです。長成の時にあるために、男女関係を知ってはいけないのです。だれが夫になるのかを知ってはいけないのです。それがそのようになるべきなので、だれが自分の夫になるのかが分からない立場で祝福を受けてこそ原則なのです。それゆえ、「おまえと私と相対になろう」と言ったら、すでに引っかかっているのです。そうですか、そうでないですか?
アダム・エバが知らずに堕落したために、皆さんも知らないうちに神様の愛を立てて、越えて行くべきなのです。ですから、あらかじめ知ったらいけないということが分かりますか? それゆえ、だれが夫になるか知らず、だれが妻になるか知らないのです。これをだれが知りますか。神様が動機になるべきでしょう。父母が動機になるべきでしょう。統一教会の食口は一家族なのに、だれが父母ですか? 先生ではないですか? ですから、先生が許すときに・・・。そのときは、訪ねても大丈夫です。許した次には。それは先生がそのようにしたくてするのではありません。そうでなければ原理が立たないのです。それで一週間であるとか時間を与えて、いくらでも会えと言うのです。その時には。そのような日が来る前に、そのような許しをする前に心にそんな思いをしたら、それは不純なのです。
このように厳格にしても堕落する可能性があるのに、そのままにしたらそれは何もならないのです。ですから、神様が取って食べるなと命令したのです。善悪の実を取って食べるなと言ったのです。神様も取って食べるなと言ったのです。それなのに、先生が「皆さん勝手にしなさいと言いますか! 神様よりもっと恐ろしく取って食べるな」と言うべきでしょう。神様よりもっと恐ろしい法を適用する人なのです。
さあ、もう分かりましたか?(はい)。それで、皆さんも子供たちをうまく育てろというのです、子供たちを。そう、先生の子供には、今責任者を一人ずつ付けて通わせるのです。何か事があるか、一人で置いておくと恐ろしいのです。どんなことでも起こりうるのです。それで、ぞろぞろとくっついて歩けと言ったのです。今、年が幼いからそうであって、年を少し取るようになったら全部サタン世界を恋しがるのです。愛したくてですね。
ですから、この悪なる世の中でこれを立てようとするので、先生がどれほど頭を使うか考えてみなさい。それゆえ、国が恋しいということを皆さんは知るべきです。早いうちに我々は国を見出さなければならないというのです。それは理解できますか?(はい)。それで今、うちの子供たちは一対一で歩けと言うのです。皆さんとは違うのです。先生の息子は問題が大きいのです。
神様が天使長に「天使長、おまえは歩くとき一人で歩かず二人で歩け」と言い、またアダム、エバにも「二人で歩け」、このように厳命したら堕落しなかったでしょう。それを先生は教えてやるべきなのです。これから、人を一人だけで歩かせるのではなく、二人まで歩くようにしようと思います。それはなぜそうなのか? 息子を愛してそうするよりも、この問題のために・・・。それが深刻な問題なのです。
ですから、今はそれを思うようになるとサタンが浸透し、それを考えなくてこそ神様が臨在されることを考えろというのです。いつでもその実感が出なければならないのです。男たちが話すとき、男たちが女について「私があなたを愛します。」こんな言葉を絶対に言ってはいけないのです。女もあなたを愛するという話をむやみにできないようになっているのです。
堕落したエバとして、自分が復帰する責任がどれほど重いか、復帰もできないでどうして「あなたを・・・」。それは考えてもできないようになっているのです。その愛は、父母が持ってきてやる前には、皆失ってしまったので、ないのです。父母が持ってきてやらなければならないのです、父母が。父母が持ってきてやってこそ愛が出てくるのであって、父母がいなければ愛が出てこないのです。それゆえ、再臨主だの、新郎新婦だのという問題があり、この父母がその死を持ってきてやるために、人類の希望になるのです。それが新郎新婦を中心としたキリスト教思想というものです。
父母が愛してこそ、万民がその愛を持って出発するのです。その前までは独身生活です。それで、パウロのような人も宦官になれと言ったし、聖書もそうであり、今まで宗教もその一つを標準としてきたのです。
さあ、先生がこのように繰り返して話すのは、これがどれほど恐ろしい問題であるかを知っているためにそうだという思いを持つべきなのです。もしそんな失敗をしたら、それをどこに追放させるべきでしょう? それは地獄、無抵抗に入っても当たり前なのです、無抵抗に。
この次に霊界に行って、「先生、先生はなぜそれを確実に教えてくれませんでしたか?」そんなことが言えますか? 言うようになりましたか、言えないようになりましたか? さあ、教えましたか、教えませんでしたか?(教えてくださいました)。ですから、そこに引っかかるなというのです。どうか引っかからないように。
今までの観念とはあまりにも差があるのです。それを皆さんがよく知っているのです。ですから、これをしなければいけないのです。公式ですから、これをしなければいけないのです。(六七―五五〜七七)
新しい愛の姿勢を正して結婚しなければならない
統一教会に入って、そのようなことが起こるなら、それは永遠に讒訴されるのです。もしここに入ってきてそうしたら、自分の先祖たちが許さないのです。霊界の先祖たちが後孫たちに願うことは、純真であってきれいな血族が出てくるのを願うのです。ですから皆さんは・・・。それゆえ、ここに入ってきては、新しい愛の姿勢を正して、それこそ理想的な男性と理想的な女性が互いに会わなければなりません。結局自分一人が過去にそのように生きてきたのは、人類歴史を代表して汚れたと、それを象徴するということを思い、人類歴史を通して悔い改めをすべきなのです。ここではこれから、自分の問題を全部ありのままに告げなければなりません。それを隠しておいては通じないのです。
祝福を受けた家庭の男が、もし他の女とキスしたら、自分は今日だれとキスしたと夫人に報告しなければなりません。愛の主人は夫人であって、自分自身ではないのです。夫人がそれを大丈夫だと言えば、その程度は・・・。(笑い)愛の主人は自分ではないのです。そうではないですか?(そうです)。皆さんは、これから原理的なみ旨を中心として祝福を受けるべきなのに、他の女の所に行き、他の男の所に行ってキスする、そんなことができますか? 絶対いけません。
そういう面で、きれいな結婚をしなければなりません。結婚は自分のためにするのではないのです。後孫のためであり、人類のためなのです。それゆえ、結婚をして子供を産むときは、世界が必要とする子供を産みたがらなければならないのです。そうではないですか?
きれいな体と心を大切にして愛すべし
自分の相手でなくては、男が女を見るとき恥ずかしがるべきなのです。我々は堕落論を習ったではないですか? 我々の立場では、それは否定して、それを清算して越えていくべきです。それは女で言えばですね、この乳房をある男がわずかに触れてたら、塩水で洗ってしまう覚悟をすべきなのです。口をそうしたら、口を洗ってしまいヽ手をそうしたら手を・・・。そんな奴等がどんな奴か分かるかというのです。これから皆さんの中にそんな奴等がいたらそれはサタンなのです。頭を踏んで殺すべきなのです。若い奴等、分かったか?(はい)。そうしなければならないのです。
夫と妻は、宇宙の主人を代表して現れる主人というものです。それなのに汚れた愛をもってしては・・・。そんな不純がどこにありますか? そのような扱いがどこにあるかというのです。そのようにして堂々とできますか? いちばん嬉しく良い日に、結婚する日に、恥ずかしくて良心の呵責を受けるべきですか? その愛の目を見ても、どこを見ても、目を開けて胸をのぞいて見ても透明で、少しも引っかかるものがなくてきれいであるべきで、これがそんなではいけません。いけないのです。それが理想的なものではないのです。
愛は、いちばん貴い、いちばん価値ある出発点なのです。そうなるべきではないですか? 分かりますか?(はい)。それゆえ皆さんは、手がそうしたらこの手がサタンだったなあ、こいつの体がサタンだったなあという心を持つべきです。分かりますか?(はい)。
このようになるのが原則なのに、同性愛? それは動物もそうしません、動物もそうではないのです。そんな人は、畜生にも劣るのです。そんな者たちが今世の中に・・・。このような原則をはっきりと知って、州の代表たちはこのような分野をきれいに掃除していかなければなりません。自分自らが全部、後進たちを教育していかなければなりません。自由にこうして会うのが理想的ですか、先生が言うことが理想的ですか? どちらが理想的ですか? さあ、そこについて、何か聞いてみることはないですか?
問:ところで、それにどのように勝ちますか? 悪霊が来てそうしうることもあり、先祖たちが来てそうしうることもあるのですが。
皆さんが堕落の原理を知るようになるなら・・・。アダム・エバの一度の失敗で、復帰するのに何万年かかったか考えてみなさい。数多くの人が犠牲の代価を払ってこの場に訪ねてくるまで苦労したのに、ここでまた再びそんなことができるかというのです。知らないときは分かりませんが、知ったならばそれはできないのです。
それにどのように勝つか? 勝つでしょう。自分に損害となり、被害が莫大だということが分かるから、自分に被害となり、どのような結果となるかということがあまりにもよく分かるから、そんなことはやれと行ってもできないのです。アダム・エバの一日の失敗によって、どれほど被害を被ったかを知れば、自分自身にどれほど致命的な損害が来るかということを知れば・・・。それが分からないために、それにどのように勝つかという、そんな言葉が出てくるのです。
一度そうしたら、被害がどれほど大きいかということを知るべきです。自分の先祖も引っかかってしまい、後孫まで皆引っかかってしまうのです。その被害がそのように膨大なのに、それを知りながらこっくりこっくりしますか? 知りながらそうすることができますか? 今までは原理を知らないからそうしたでしょう・・・。それを誤って使ったら、後孫が皆滅びるのです。世の中が皆滅びるのです。それがどれほど恐ろしいことですか? 分かりますか?(はい)。それゆえ、このようなことは、これから皆さんの責任者たちが全部厳格にうまくやりなさい。皆さんが、育つ後孫を、きれいな後孫として養い育て、天地の前に恥ずかしくない、後孫を愛しうる父親になりたかったら、そのようにしなさいというのです。きれいな父母として、きれいに愛して息子を産めば、恥ずかしくないのです。何といっても恥ずかしくないのです。そうできずに、その欠点が子供にあるようになったら、それがどれほど恨みになり、どれほど罪責感を感じるようになるでしょうか? それは恐ろしいことです。愛は恐ろしいのです。愛はこの上なく良いものですが、この上なく恐ろしいものです。
問:あるとき、祈るときには、正しい祈りが出てこないのですが、それでも続けて祈るべきですか?
そういうときは、時間を変えるのです。時間を変えるというのです。人によって時間を異にしなさいというのです。自分に合う時間があるのです。例えば、ラジオを見るとですね、電波の方向があるのと同じで、方向をわきまえなければならないのです。
それゆえ、祈りが出てこなくて、何度もそうなるならですね、神霊のある人と一緒に祈る訓練をしなさいというのです。ちょうど、鉄が磁石の近くに行くと、磁石化されて作用するのと同じで、そのようにして自分を是正しなさいというのです。
そうするときは、何度も祈ろうとせず、徹底した信仰の同志の言葉を聞き、証を聞いて、激励を聞いて、恵みの刺激を感じるのがむしろましなのです。
問:ティーンエージャーの場合、また二一歳になると結婚をするというのですが、これから入ってくる学生たち、次の世代に性の問題をどのように教えるべきですか?
それを教えるべきです。その結果がどのようになるということ、その結論から教えてやるべきです。ここの西洋文明圈では、小学校のときから性教育をしますが、それは良くないのです。それは自然に分かるようにすべきです。アダム・エバについて、神様が性教育をしましたか? むしろ知らないのが良いのです、知らないのが。そうして、知るべき年齢になれば、それが恐ろしいということを教えてやるべきなのです。そして、どれほど貴いものかということを教えてやるべきです。
我々の時代は、男女共学時代ではありませんでした。それなのに、その者たちが体をくっつけて踊りを踊りますか? それゆえ、我々はそのような教育機関を作るべきです。これは恐ろしいことのうちでいちばん恐ろしいことです。殺人罪よりももっと恐ろしいのです。殺人罪よりももっと恐ろしい罪を扱うのです。人一人を殺す殺人は、一人を殺すことですが、これは数千代の後孫を滅ぼすのです。何人、何百人、何千人が犠牲になるのです。これからこの問題は殺人よりもっと恐ろしい罪として・・・。そうでしょう。そうでないですか? これはこれから、考えもできないように教育しなければならないのです。
問:今は制度がこのようになっていますが、これから我々が子孫を産むようになればそのときになってこれが変わりえますか?
今でも変わるのです、今でも。統一教会の草創期に、天が直接指導するときは、もし統一教会に入ってきた夫婦同士で関係をすると、夫人が下血する罰を受けるということが起こったのです。我々の教会が反対されるのが、そのようなことのためなのです。婦人たちが我々の教会に入ってくるようになると、そのようなことが起こって、何度も夫を拒否するようになるので、家庭破綻の問題が起きたということです。夫婦同士でそのように分かれる役事をしますが、どうしてそれを許すことができるかというのです。
それゆえ、いちばん恐ろしいのが何かというと、女には男がいちばん恐ろしいのであり、男には女がいちばん恐ろしいのです。ですから、近づくなというのです。女が来たらこのように回れというのです。
男女が会うには、三人以上一緒に会え
この頃見てみると、若い男女が木の下に座って話したりしますが、それは皆誤ったことです。いけません。それは何の話をするのですか、何の話を? 話をしようとするなら、必ず三人が集まってしなさいというのです。三人は大丈夫なのです。天使長とエバが二人で会ったので堕落したのであって、アダムを呼んでおいて話したら堕落しなかったでしょう? そして、アダム・エバも二人で会って話したので堕落したのであって、神様を迎えておいて話をしたら堕落できますか? それゆえ、会うには三人以上一緒に会いなさいということです。
これは強制ではないのです。そのような動機が、そのように誤ったことがいくらでもあるので、それを防止しようとするのです。そうするには、アダム・エバが堕落できない立場を取るのが原理的なのです。それゆえ、我々は、互いに会って「おまえは二人で会ったか? 二人で会うな。なぜ二人で会うのか?」と話しなさいというのです。三人が会いなさいということです。それに不平を言うなら、それはサタンです。それを防止するためのものが、それを清算するためのものが、我々のみ旨ではないですか? それゆえ、三人以上で会いなさいというのです。
伝道をするにしても、女たちは一人で行くなということです。年取ったおじいさんやおばあさんでも、ただ杖をついて歩くおじいさん、おばあさんでも、一人連れて歩きなさい。分かりますか?(はい)。伝道するなというのではありません。危険なのでそうするのです。
皆さん見てみなさい。堕落しうる可能性がありますか、ないですか? (あります)。全部イエスではないですか? ですから、それを防止するのです。三人がいれば、大丈夫なのです。三人がいれば大丈夫です。我々が互いに愛するのは、これを互いに防止するのです。それが愛というものです。
いくら責任者でも、そのようにしなければなりません。責任者でも・・・。もう男女関係、分かりましたか?(はい)。いくら機動隊の隊長でも、州の責任者でも、この原則を守っていくべきです。そうでなければ、誤解されるのです。弁明する道理がないのです。ここで一度その問題に引っかかってしまうと、これは永遠に道理がないのです。もう、この男女問題についてはっきり分かりますか?(はい)。
きれいな血統は、純粋な愛を通じてのみ現れる
それゆえ、今皆さん自身もそうですが、これから祝福を受けた家庭は、その子供たちをうまく育てなければなりません。うまく育てるべきなのです。本来は、世の中に対して全部囲いをしてですね、接触できないようにして育てるべきなのです。ですから、その父母の責任がどれほど重要でしょうか? 父母がそこに対して頭を使わなければならないのです。
我々の時代は、きれいな血統、きれいな血統、きれいな血統を・・・。それが理想的です。それが理想ではないですか? 皆さんの子供たちが頭が良いのは、その夫婦がどれほど愛したか、どれほど犠牲になって愛して産んだかに従って、頭が聡明に生まれるのです。深い美の性稟を持って生まれてくるのです。皆さんの子供たちは、皆さんよりましになるのではないですか? では、どのようにもっとましに産むか? どのようにもっとましに産むことができますか? さっき先生が話したこと、その動機が愛ですが、純粋な愛であるほど、純粋な子供を産むと言ったでしょう?
問:機動隊の活動において、あるときは女性とカウンセリングをする場合もあります。そのようなときは、どのようにしますか?
そのようなときはドアを開けておくとかしてですね、だれか見る人がいなければなりません。だれも見ないほかの所に行くとか、木の下に行って話してはいけません。ほかの食口が見ている所で話しなさい。
もしある女がキスしたら「この野郎」と言って、男がしたら「この馬鹿野郎」と言うのです。分かりますか? そうすべきではないですか。六千年間、数多くの人類を滅ぼし、神様に苦労させ、天地を滅ぼしたそのような凶悪なことを我々が再びできますか? それは愛の怨讐、愛の怨讐なのです。そうなのに、自分たちが昔関係したから、相対を結ぼうと思って良いですか? 原理を知るなら、それは成立しないのです。どのようなことが良いのかというのです。
皆さん、愛する夫の手が数多くの女たちをいじった手だと考えるとき、それは気分がいいですか? そいつの手を見るとき、気分がいいですか? 犬の糞を摘んで食べたその口をもってキスしようと言ったら、それを好むかというのです。この問題は、厳格にわきまえていくべきです。今、完成時代に入って、この問題に引っかかるなら、許す法がないのです。そこには理想的な愛だけを中心として、完成ということが成立するのです。皆さんはそれを知るべきなのです。
純粋な愛をもって、純粋な愛をもって関係している子供を持つようになれば、天国に入るにしても、皆一緒に入るのです。そうなるべきではないですか? そこに自分勝手がありえるでしょうか? 今やこれから、責任者たちがそのような問題をわきまえそこなって、自分の部下たちがそのようになるときには、その責任者が責任を追及されるのです。アダム・エバが堕落したことに神様が責任を取るのと同様で、自分の部下たちが誤ったら、その責任者同士責任を取らなければなりません。皆さんが責任をとらなければならないのです。それが原理観なのです。
精密に話すと、ものすごい法があるのです。愛の法度には、愛をものすごく価値的なものとして立てようとする、そのような内容の法があるのです。これが今、アメリカで蔓延するのは、全部サタンの罠です、罠。滅びるのです。そのようなことを自ら進んでできますか? はっきりと分かりましたか?(はい)。では、やめましょう。(六六―二二〇〜二二九)
心と体の統一方案
心と体の統一方案
統一は皆さんの体と心から始まり、男女が一つになり、神様が願われる理想家庭が成されるのです。統一したところに平和と幸福と自由があるのです。体と心が戦うところに何の自由があるでしょうか? まず自由の基盤を築いたそこに、理想の希望の世界がありうるのです。問題は、自分の体と心をどのようにして一つにするかということです。一つになった上に理想世界、自由、幸福、平和、夢、希望が可能です。(一九七二・七・一六)
一、相反した二つの目的を持った人間
我々個人は、相反する二つの目的の方向を持った人間になりました。これはだれも否定できないでしょう。心は善のところに行くのを願うのに、体はその反対に行けというのです。「私」という人は、間違いなく心と体が合わさってできた私なのに、この二つが戦っているのです。
そのような個人、すなわちそのような男とそのような女が合わされば家庭になります。ところで、内の人と外の人があるために、夫婦が会うと、四人の形が生じ、別個の異なる行動をするようになるのです。もし、一家庭に八人の家族がいると、その八人家族は、相反したエバ家族のような方向を持った家庭になるということです。また、一つの家庭を中心として見るとき、家庭家庭同士相反した立場に立つようになるのです。このようにして、一つの氏族なら氏族、宗族なら宗族、民族なら民族、国家なら国家、世界が分かれるのです。ところがありがたいことは、数百筋、数千筋に分かれないで、大きく二つに分かれたのです。これが不思議なことです。
それゆえ、善悪の本質を見るとき、それは根本的に異なるということが分かります。善は全体の利益を追求するのです。悪は全体も何もないと言い、自分個人だけのためにするのです。悪なる人には家庭も、親族も、国も、世界もないのです。その反面、善なる人は、自分よりも家庭、家庭よりも町内、町内よりも国、国よりも世界のためになろうとします。
今まで歴史は、自分のためにする面と、人のための公的な面を中心として、戦いでつづられてきたのです。神様がこの世を見るときは、この体を中心とした悪の根拠を破綻させ、根を抜いてしまうことが絶対的な要求なのです。その反対に、良心だ何だというものを無慈悲に破綻させようとするのが、サタンを中心とした悪の要求なのです。
それゆえ、そのように戦いながら歴史をつづってきました。良心を主にした神様の側と、体を主にした、神様はいないと言いながら、ただ食べてみようという物質を主とした悪の側が、対立して戦うことから見て、この世の人類は、このように唯物主義と唯心主義に分かれざるをえないという結論を下すことができるのです。もし神様がいなかったら、このような結果の世界は到来しえないのです。悪は、嫉妬、分裂、闘争を強調して、自滅を招来させるのです。
このように見るとき、理想だ統一だということが、どこから生じるのか? 結局は、世界よりも根本に帰っては「私」ということです。根本に帰っては我々ということです。個人なのです。(五三―一一)
我々個人について見ると、二つの目的を持って生きているということを我々は知るようになります。心が願う目的がある反面、体が願う目的があります。体と心が歩調を合わせていくのではなく、いつも互いに戦うのです。前後、あるいは左右にめちゃくちゃになりながら、互いに戦うのです。このように一生の間戦っているのです。これは、我々自身はもちろんであり、過去に生まれては死んだ数多くの先祖たちもそうです。これから我々の後孫たちも同様なのです。すなわち、心と体が戦っているということです。心は善を行えと体に追求しています。可哀想な人がいれば、助けてあげようとし、自分が貧しくても貧しく暮らす人のために犠牲になり、助けてあげなければならないと強調しています。しかし、体はそれと反対の方向を取っていこうとしているのが我々は分かります。
そのような立場で、我々個人が絶対的にすべきことが何かというと、体と心が戦う自分自体内において、心を中心として体を完全に征服し、体の勝利の基盤を築いてからでなければならないのです。そうする前には、善を主とした一日の生活と一年の生活、あるいは、一〇年の生活と一生を残すことはできないのです。善だけを主にすることができる「私」として、変わらない私にならなければなりません。そのような一人の「私」になることが、何よりも重要です。(四一―五九)
体と心が完全に行き違って、体はこちらに行こうといい、心はあちらに行こうというのに、統一できますか? 皆さんの体と心は、毎日のように戦います。友達にして仲良く暮らしますか?(戦います)。戦え、戦え! では、皆さんはどちら側に立っているか? 二つの側にともに立っています。体が好む側に行こうという一つの徒党と、心の好む側に行こうという一つの徒党があるので、皆さんには二つの徒党があります。(五九―一七七)
二、核戦争よりももっと恐ろしい戦争
心と体の戦いは、大東亜戦争よりもっと危急であり、核戦争よりももっと恐ろしい戦争です。その戦争は、休戦でもありますが、ここには休戦もなく、終戦もありません。我々の人生がこの地上に存続し始めたその日から、終わるときまで、我々の心の根本には休戦もなく戦争が統いているのです。このような人たちが家庭をなし、宗族をなしたので、もっと戦うようになり、このような民族と民族が合わさったので、もっと戦うようになり、国家と国家が合わさったので、もっと戦うようになりました。(一九―二八七)
今までの人類歴史は、戦争でつながった歴史でした。ある一日も、戦争が終わる日がなかったのです。その戦いの根拠地はどこか? 体と心です。体と心が戦いの根拠地になることにより、個人・家庭・宗族・国家がそのようになったのです。
世の中の戦争の中で、最も大きな戦争は、ヨーロッパ戦争や世界大戦ではありません。「私」を征服するための戦争以上、大きな戦争はありません。この戦争は、六千年も続いているのに、まだその戦いが終わっていません。終わりましたか、終わりませんでしたか? 続けて罪悪の包みだけを更に大きくしてきたのです。そうして、六千年罪悪の歴史が、皆さんに終結しています。では、この罪悪の歴史をだれがひっくり返してしまうでしょうか? 皆さんでもだめなので、それよりもっと大きな力を持ったメシアが必要なのです。神様の息子が必要なのです。(二一―一八九)
皆さんが自分一個体を悪から救うのが、どれほど大変ですか? 現在の統一教会の食口において問題となることは何か? 体と心を中心として、「私」一人を完全に解放させることです。これがどれほど難しく、その戦いがどれほど熾烈か? この戦いは、米・ソが互いに競争してやる戦いとは比較になりません。民主世界と共産世界が戦うことは問題でもないということです。それよりももっと大変だということです。この戦いは、我々個体から起源しているのです。
このように、個人に二つの輩がいて戦うのと同じで、家庭も二人の輩であり、社会も二人の輩であり、国家も二人の輩であり、世界も二人の輩なのです。これを族譜で明らかにしようとすると、一つは悪の個人であり、悪の家庭であり、悪の社会であり、悪の国家であり、悪の世界であり、また一つは、善の個人であり、善の宗族であり、善の国家であり、善の世界です。このように、きっぱりと分かれました。片方は神を主とした宗教圏内に立っている側であり、他の一方は神様を否定する物質圏内に立っている側です。人がそうなのです。(四一―六三)
世界のどんな苦難よりも、どのような艱難よりも、その何らかの戦争の被害よりも、体と心の戦いにより生じた被害がもっと大きいのです。心の敗戦による山のような悲しみの敗残物が積もっているということを皆さんは知らなければなりません。一日にも何回ずつ、体との戦いで心がしばしば負けていますが、人々はそれを知らずにいます。しかし、道を歩いていて突き出た石につまづいて倒れたことは一年、いや一生の間忘れず「何十年前にここで私が倒れて足が折れたな」と言い、よく覚えています。言い換えれば、心と体の戦いにより、心が負けたことを忘れてしまい、考えもしない人が多いのです。
このようなことを考えるとき、皆さんがいくら声を大にして叫んだとしても、それ自体は敗残兵の立て札を持っている姿なのです。しかし、本来は心と体が戦って、心が勝利することにより、いつも体を主管するようになっています。それなのにそのようになれなかったため、心と体が各々違う方向を追求するようになったのです。(一九―二八五)
では、戦争の中で最も恐ろしい戦争は何か? 自分を中心として戦う戦争が歴史上いちばん恐ろしく、永遠に統く戦争であるということを知るべきなのです。何、第二次大戦が問題ではないのです。永遠の戦争をしている「私」であるのです。永遠の戦争の一線の舞台に立った「私」であるということを知るべきです。(一二一―二六)
三、神様が宗教を立てた目的
今までは、堕落した人間の心と体が戦ってきましたが、その比率が互いに似たり寄ったりでした。その比率が一〇対八程度でした。体に対している環境は、世界全体と接していますが、心が対すべき道は一つの道しかありません。堕落した世界に対する人間の体は、時事刻々と環境に占領されてしまいましたが、心は一つの道に従ってきたのです。それゆえ、現実世界は現れる結果を取り締まってきたのです。悪いことをしようとするとき、心に恐怖が来るようになります。そうしてそのことを行うようになると、今まで積んできたものが崩れます。これを見るとき、心は肉身の行動をいちばん最初から、序盤から干渉しますが、中盤に至っては肉身に支配されるのです。それゆえ、外的な比率で見ると一〇対八程度ですが、環境のために心がいつも押されてくるのです。
では、神様は宗教を立てて何をなさろうとされるのか? 外的な環境に備える恩賜を下さろうとするのです。与えるには、ただ与えるのではありません。精誠を込めてこそ下さるのです。その国の国運を左右する君主が、精誠を込める以上の精誠を込めなさいというのです。命をかけて精誠を込めなければならないのです。
精誠を込めるようになるとどのようになるか? 神様の恵みが来るのです。祈祷生活をしてみた人は分かるでしょう。祈祷生活をするようになると、大きく偉大な力が来るのです。それで祈祷する人の目は、その力により肉界だけでなく霊界までも透視するのです。
神様は超自然的実体の理念圏を人間に因縁づけてくださるために、宗教的な基盤を中心として摂理してこられました。人間の本質的な感情を刺激させて、そのような圏内に行くようにする欲求を起こさせるのです。そうして、人間を超現実的な善につなげようとされるのです。そのようなことをしてきたのが宗教です。
それゆえ、信仰者たちは、殉教が起こり、首が切られると言ってもいいと言って信仰の道を行くのです。現実的な感情を超越しうる、超現実的な感情を実質的に広範囲に感じるために、彼らが死線を越えながらもその道を行くのです。ですから、この道を行く人たちは、千ぐらいの力を八千ぐらいの力に増大させるべきです。そこに神様を迎え、力を増大させて体を打てというのです。
戦うには力が勝敗を決定します。宗教は世の中での体の欲望と、社会要求によるすべての一切を妨げるのです。それゆえ、現実的な全体を否定して立ち上がった宗教であってこそ、純粋な宗教であり、理想的な宗教と言えます。
宗教は、否定することです。それゆえ、全部捨てなければなりません。食べることも捨て、寝ることも捨て、好むものを皆捨てろというのです。情欲、食欲、睡眠欲を捨てろというのです。食べて、寝て、好むことを、皆捨てろというのです。人は本来、食べて寝なければいけません。そして好まなければなりません。ところで、そのすべてが肉身を通じて死亡の行路になっているので、これを追放しろというのです。体に爆弾を爆発させるのです。
原子爆弾を爆発させるのです。木っ端みじんにして、全部占領しろというのです。体は高められるのを好み、楽な場を好みます。また、でこぼこしたものは嫌い、ふっくらとして、つるつるして、ふんわりとものを好みます。我々は、この体の好むものを好んではいけません。
ですから、我々は、むくむくとしたもの、でこぼこしたもの、固いものなど、体が好むものと反対になるものを好まなければなりません。体は高められるのを好み、人のお金を奪ってよく食べたら喜びます。人がどうなっても、豊かに暮らせば喜びます。ですから、そのような根性を全部叩き壊さなければなりません。高められるのを好む体を低めよ、温柔謙遜であれ、犠牲奉仕せよというのです。(一八―六六)
人類歴史に宗教が必要なら、その宗教により何をすべきだろうか? 肉身により歴史が滅び、肉身により社会が滅び、肉身によりこの人類が滅びたためです。従って、この肉身は、怨讐の母体であり、罪悪の根本の根であるということを痛感しなければなりません。
このように、体を打つのが、今まで宗教の根本であったので、イエス様は四〇日断食を通じてむごたらしく体を打たれたのです。体は高められるのを願い、前に立つことを好むのに、宗教は体に、服従しろ、従順になれ、死んで祭物になれと教えます。全部反対に教えます。なぜそうなのですか? それは、心を打つためのものではなく、肉身を打つことで世界的な血筋を持って生まれていくためです。(一八―三二二)
四、心と体を統一させるための二つの方案
本来人は、神様を中心として生まれたのに、堕落したことによって二人の主人を持つようになりました。人が二人の主人を持つようになりましたが、どのようにして持つようになったのか? 血統的に変わったということです。それゆえ、まず、宗教がすべきことは、心と体を統一させることです。ところで、何を中心として統一させるのか? 天意を中心として、天情に従って心が一つになった基盤の上に、体を屈服させなければなりません。宗教は、体を屈服させる方法を教えてくれるのです。(三八―二六九)
(一)体を主管しうる第一の方案
では心と体を統一させるための第一の方案は何でしょう? 体を叩きつぶすことです。体を打てということです。体がしようとすることの一切を完全に否定しろというのです。どの程度否定しなければならないか? 完全に否定しろということです。死んだという立場まで否定しろということです。それでイエス様が、「死のうとする者は生き、生きようとする者は死ぬ」と言われたように、このように逆説的な論理が適用されるのです。
体が完全に死んで、心化され、心が完全に生きている形態の立場に立つことができなければ、一つに完成することができません。言い換えれば、体を完全に殺そうとする人は、心が完全に生きる人であり、心を殺そうとする人は、体は生きていますが完全に死ぬということです。それでイエス様が「死のうとする者は生き、生きようとする者は死ぬ」というみ言を語られたのです。
また、イエス様は、「だれよりも私を愛さなければ、私の弟子になれない」と言われました。これは、だれよりもイエス様をもっと愛せというみ言なのです。父母よりも、兄弟よりも、妻子よりももっとイエス様を愛せと言われたのです。なぜか? イエス様は神様の前に天情の代表者として来られたので、天情と遠く離れている人間に天情をつなげるためには、この世的な肉情を中心としてはいけないからです。父母や妻子や兄弟は、肉を中心とした関係です。この肉情を絶たなければ、天情についていくことができないため、天情についていくには、この肉情を否定して行かなければならないのです。それゆえ、自分の父母よりも、妻子よりも、兄弟よりも神様をもっと愛する人は、天国に行くことができるのです。
天国に行くことができる基準が何か? 天国に行くことができる公式的なチケットをどこでもらうのか? 自分の父母よりも神様をもっと愛し、自分の息子娘よりも神様をもっと愛するところでもらうのです。そうしなければ天国に入ることができないというのです。
天国に入ろうとするなら、肉情を除去させなければなりません。第一の目的は、強制的にでも叩きつぶせということです。それゆえ「温柔謙遜であれ」と教えるのです。では、体が温柔謙遜ですか? 体は絶えず上がろうとして、おごりたかぶろうとします。食べさせると、絶えずもっと食べようとし、休ませてやると、絶えずもっとためにしてくれと言います。従って、体は悪の基盤であり、悪の根であるのです。悪と善の根が変わったのです。
それゆえ、この悪の根を抜かなければなりません。そうするには、体がしようとする通りにしては絶対にだめであり、悪なる所には行ってもいけないというのです。そうでなくては、天道と天情の道理を越えることができないのです。人情と人道は、すべてのことでサタンと悪を中心として出発させやすいために、これを否定しなければいけないのです。
悪を否定しうる第一の方案は、肉身を拘束することです。それで断食祈祷をしろというのです。断食祈祷をしながら精誠を尽くせば、体がスッと元気がなくなって、動くこともできないようになります。そうなれば、心が体を支配することができるので喜ぶのです。その次には、犠牲奉仕することです。自分を殺せというのです。これは全部肉身が嫌がる行動です。それゆえ、真なる宗教は、肉身とのすべての関係を否定するところから出発するのです。そのような結論が出てきます。分かりますか?
皆さん、すべての宗教の教典をご覧なさい。よく食べて、豊かに暮らせという内容がある教典がありますか? そのような教典は一つもありません。宗教は犠牲奉仕、温柔謙遜になれと教えます。それゆえ、死にながらも人のために福を祈ってあげることができるのです。これは体ではできません。そのようなことが肉体を叩きつぶすことだというのです。
心と体が対等なために、けんかをするのです。そのため、体を弱くすることによって、心が勢力を得て、弱くなった体を何カ月間か率いて越えていくようになれば、体を再び上げておいても上がってくることができないように習慣化され、その次からは、心がしようとする通りにせざるをえないようになるのです。このようにしておけば、自分が計画するすべてのことが天の助けによって、うまくいくことを体験するようになります。このようになれば、ただ放っておいても、帰ろうとしても帰れないので、良心を主にした絶対的な立場で生涯をつづっていくことができるようになるのです。これが宗教生活の目的です。(三八―二七〇)
(二)体を主管しうる第二の方案
その次に、体を主管しうる第二の方案は何でしょう? 心と体が似ているのでけんかをするのです。レスリングの世界チャンピオンと、幼稚園の子供と相手になりますか? それはけんかにならないのです。結局、互いに似ているために問題になるのです。それで、第二の方案は、心に力を吹き込むのです。分かりますか? 心に力を吹き込まなければならないのです。この二つの方法以外にはありません。
そうするには、あらゆる精誠を尽くさなければなりません。精誠を積み上げれば心の門が開きます。その心の門が開きさえすれば、とても強力な力が出てくるようになるので、体のようなものは問題にもならないのです。皆さんは、それを知らないでしょう。心と体が似ているのに、心の力が体の三倍だけになっても、体は問題になりません。体はただそのまま置いても問題にならないのです。従って、心の力を圧縮させて、体を一時に引いて行くことができなければなりません。それゆえ、悟りの世界では精誠を尽くすのです。
皆さんは、道に通じるという言葉を聞いたでしょう。道に通じるようになれば、心から強力な力が出てきます。それゆえ、体がしようとすることをすればするほど、むかむかして気分の悪い匂いが出るのです。考えただけでもとても気分が悪いのです。道に通じた人は、心に強力な力が出てくることによって、ただそのまま置いておいても、体は心がしようとする通りにするのです。このような二つの方法以外には。体を調整する方法がありません。それで神様は、体の支配を完成するために、このような作戦を繰り広げておられるということをはっきりと知るべきです。
これが今までの宗教の教えです。従って、統一教会も今そのような公式通りに進むのです。このようにするようになると、自然に人間として行くべき高次的な立場、神様の愛を中心とした神様の息子であることを自ら自覚する立場に入るようになるのです。そのような立場に入るようになれば、一つしかない神様の愛を受けることができるため、釈迦牟尼が「天上天下唯我独尊」と言ったように、自分の権威に及ぶ人がありません。一人自らの価値を讃えることができる栄光の立場に入るようになるのです。言い換えれば、神様の愛を一人で受けることができる息子になり、神様が創った被造世界と神様と関係しているすべてを自分のものとして相続されうるようになるので、一人で高いと自覚する立場に入るのです。このような立場まで行って、神様の愛の圏内で暮らすため訪ねていく道が人間が行くべき道です。(三一―二七二)
(三)心と体を統一させる方法
人の心と体を統一する方法は、二つしかありません。一番目は、この体を木っ端微塵にして占領する方法であり。二番目は、体を打たずに統一する方法です。
そうするにはどうすべきか? 今まで心は、ほら吹きのように一度も体と対等に戦ってみられずに何度も負けてきました。それは、心の力が弱いためです。ところで、この心に注射して力を二、三倍ほど増やすと、どのようになるでしょうか? そうすれば、体を引いていく程度は問題ではないのです。熱心につかんで引きながら行けるのです。自動車のチューブにすっかり空気を強く吹き込めば、大きくふくれあがるように、心にも力を強く入れればどのようになるでしょうか? 力が強くなりますか? その次にこの心と体が戦えば、どちらが勝つでしょうか? このように、無慈悲に体を叩いて占領する方法と、心に力を加える二つの方法があるのです。(一八―三二八)
体と心をどのように一つにすべきか? 統一。どのように一つにするかというのです。一つにする道は、二つの方法しかありません。体を絶対身動きできないように拘束して引っ張っていくことと、体に力がいくらあったとしても、その力よりもっと強い力を心に入れて引っ張っていくのです。この二つの方法しかありません。宗教は、この二つの道を追求するため、体を抑制して、体を拘束して、その次には祈りを通じて力を受けて、その強力な力で体を引っ張っていこうとするのです。宗教生活をする人は、それを日常生活で体験するのです。いくら力がなくても、神霊の役事さえあれば、天の霊が臨めば、力が出てくるのです、力が。(一六一―一五)
五、体と心の統一の基準は愛
統一の基準は何か? 何が統一の基準になるかということを、皆さんが知るべきなのです。それは、愛を中心としてできるのです。そのように見るようになると、愛は二重構造からなっていると言うようになると、これが愛を中心として一つは上のもの、一つは下のもの、霊的な心は上のものであり、体は下のものになり、一つになって共鳴するのが愛というものです。
それゆえ、皆さんの体と心の中には、だれが入ってきているかというと、神様が入ってきているのです。皆さんの体と心が一つになれば、神様が臨在するというのが原理の教えなのです。では、神様がなぜそこに臨在するかというのです。愛の体と心が一つになれば、必ずそこには、一つになる原則が愛から始まるために、相対的な愛があるために、臨むという論理が成立するのです。
「人の体は神様の聖殿である。」このように言います。聖殿は、どんな所ですか? 働く所ですか? どんな所ですか? 聖殿と言うようになると、安息所という言葉と通じます。では、休むには何の中で休むのですか。愛の中で安息するのです。では聖殿は何か? 神様の愛の中に休みうる所です。我々人間が願う理想があるなら、そのような内心的基準が最高の理想の基準ではないだろうか。これを知っているのです。そのような心の愛を持った所を心情の世界と言うのです。それは溢れる泉の水と同じなので、汲み出しても汲み出しても終わりがありません、終わりが。なぜ? 神様がそこにおられるから、終わりがないというこのような論理を、我々は立てることができるのです。皆さんもそのような人になれば良いでしょう?(はい)。
そのような人を見れば、泣いていた人も口を開けて喜びますか、ああと言ってもっと泣くでしょうか?(喜びます)。泣いていた人も近くに行けば行くほど、その懐に抱かれようとし、泣くまいとし、恐ろしい顔をしていた人も笑おうとしてですね。じっとしていた人も、手を動かそうとし、自然にそのようになるのです。それは良いですか?(はい)。それゆえ、愛がなくては、体と心が一つになる道がないのです。これを我々は知るべきなのです。(九一―七七)
六、真なる愛だけが体と心を一つにする。
さあ、愛がある所では、上がってもいいし、下がってもいいし、中にいてもいいという論理が成立します。愛する夫が、自分より高いと言って嫌い、愛する妻が自分より低いといってそれを憎みますか? 一つです、一つ。一つになれば、勝手に低い所から高い所へ上がることもでき、高い所から低い所へと降りてくることもでき、中間にいることもでき、どこでも行けます。ここは制裁がありません。そうですか?(はい)。
今、世の中では、「この世界は一つの世界になるべきだ。統一の世界であるべきだ。平和の世界であるべきだ。」こんな言葉をたくさん言います。
では、一つになるには、力を与えながら「やあ」と言うと「やあ」こうなって、力で一つにするのか? でなければ、何かの組織力を持って、この頃は何かの組織社会だから、強力な組織力で一つにするのか? その次には、ある思想を中心として一つにするのか? そうできる一面はあるかもしれませんが、それは我々の本性として「体と心が全部歓迎をして、これでなければだめだというそのようなものには絶対なれない。」というのです。体と心が「これはいい。このようなものは私が願うものだ。これは永遠な理想の基準で私が侍って暮らすことができる。」と言えるようになっていないのです。それはお金でもだめだし、知識でもだめで、何でもだめなのです。
では、一つになりうる根本が何か? 高い人や低い人や、東西洋はもちろんであり、黄色人や白人や黒人や、どの国でもみな好みうるものが何か? それは愛です。真なる愛で一つになること以外にはないということが、最後の結論であることを、皆さんは知るべきです。そのようですか?(はい)。自分の体と心が親しくなって、一つになって、喜びうることは・・・。お金を見て体と心が喜びますか? それは永遠に喜べないのです。
我々の五官が全部集中して、一つにさっと固まって、笑って踊りを踊りうることは真なる愛の理想以外にはないという結論です。それをだれが否定しますか? 否定すれば、それは愛ではありません。それゆえ、霊と肉が我々の心と体がすべて一つになりえ、ともに共栄しうることは、真なる愛の境地以外にはないという結論を下すことができるのです。(九一―一四一)
自分自体のこの心と体が、いつ一つになりうるか? これが問題です。お金をもってしてもだめで、権力をもってしてもだめで、すべての知識をもってしてもだめで、考えでもだめです。絶対だめです。では、何をもって一つになりうるか? 神様の愛なら一つになりえるのです。こういう結論が出てきます。全知全能の神様の愛ならば、そうできる能力がなければなりません。(九四―二六三)
霊と肉は、本来真の愛を中心として一つになるようになっているのであって、偽りの愛を中心として一つになるようになっていません。それゆえ、真の愛の起源を見出さずしてはこれが一つにならないのです。それが最も理論的だということです。その場を皆さんが越えていって、天が祝福してくれる、その祝福を願って行かなければならないのです。(九一―一八四)
皆さんの体と心が、神様の愛を中心として生きていかなければなりません。ご飯を食べるときも、神様の愛を中心として食べ、考えと行動をするときも、神様の愛を中心としてすべきです。体と心が神様の愛を中心として生きる人にならなければなりません。しかし、皆さんの体と心が怨讐になっています。神様の愛を中心として根を下ろさなければならないのに、サタンの愛で先に根を下ろしたためです。そこから体と心が分かれて戦っています。(一九八六・二・一)
本来は、人間の心と体に神様の愛が入って、内外に矛盾や相入れないこと、または闘争がない結果をもたらさなければなりませんでした。しかし、人間が神様から離れていって、サタンを中心として外的に愛したのが動機になって、体と心が相入れない立場で闘争する結果がもたらされたのです。そうして、外的な体を中心とした愛が、内的な心を中心として、理想的な永遠な生命の起源になる、神様の愛に背いて出てくる歴史の結果がもたらされたのです。ですから、外的な愛、すなわち、サタンの愛を除去して、そこに本然の内的な愛である神様の愛を相続して、体と心を糾合させなければなりません。そうしてこそ、ここから統一が起こるのです。(三七―一七九)
皆さんは、たぶん体と心が一つにならなくて、愛の力で爆発しないでいるということを知っているでしょう。堕落したためです。人間が故障したのです。人間が堕落しなかったのに、体と心が一つにならないはずはないのです。従って、人間にはこの実存の矛盾した極限状況を、どのように克服するかというのが問題であらざるをえません。これが問題です。それを何で克服するのか? 愛の力で克服しなければなりません。愛の力によってのみ克服することができます。(一九八一・五・一六)
救いの摂理というのは、堕落のために生じたのです。本来何を願ったか? 愛を願いました、愛を。愛を願ったのです。その愛は、真の愛です、真の愛。真の愛が何かというのです。皆さんが、真の愛に接するようになると、五官(目・耳・鼻・口・皮膚)が一時に笑うことができ、一時に全部を感じることができるのです。さあ、上の肉身が笑い五感を感じるなら、心はどうですか? 真なる愛に接した心はどうですか? 心があれば、心はこうなってぺちゃんこになっていて、体はこうでしょうか?(いいえ)。どうでしょうか? どうですか? すべてがそこから一致するのです。行動の一致がどこから成され始めるかということを、理論的に問いただしてみるとき、真なる愛から行動の一致が起こるという論理を立てることができます。そうでなくては、神様の理想だとか、人間の理想とする統一を見出すことができる基点がないのです。(九一―七五)*
「宇宙主管を願う前に自己主管完成せよ」 以上
1997年3月25日 初版 発行