天聖經(増補版) 第一篇 神様

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目次
  1. 第一節 神様の実存
  2. 第二節 根源であり本体であられる神様
  3. 第三節 神様のみ言
  4. 第四節 神の属性
  5. 第一節 心情の神様
  6. 第二節 真の愛の神様
  7. 第三節 真の父母であられる神様
  8. 第一節 神様の創造
  9. 第二節 神様が創造された被造世界
  10. 第三節 愛で創造された神様
  11. 第一節 神様の恨と復帰摂理
  12. 第二節 再創造される神様
  13. 第三節 解放してさしあげるべき神様

第一節 神様の実存

第一章 神様の存在と属性

第一節 神様の実存


1 先生はかつて、長きにわたる祈りと瞑想の生活の末、ついに実存する神様と出会い、絶対真理を伝授されました。それは、宇宙と人生と歴史の背後に隠されたあらゆる秘密を明らかにする、驚くべき内容でした。この内容を社会に適用すれば社会の問題が解決され、世界に適用すれば世界の問題が解決されます。それだけでなく、宗教の未解決問題や哲学の未解決問題も解決されるのです。これは、かつてなかった新しい世界観であり、新しい宇宙観であり、新しい人生観であり、新しい摂理観であり、新しい歴史観です。また、あらゆる宗教の教理や哲学の特性を生かしながら、全体を一つに包容できる統合原理でもあるのです。

2 「神様がいる」と言うとき、それは言葉だけで知ることではありません。主体と対象の関係を中心とする原理から見てみるときに、神様は存在していると言わざるを得ない、ということではないのです。神様は、「私」が存在する前にいらっしゃったのであり、私が考える前にいらっしゃったのであり、私のすべての感覚、私の一切を主管するお方です。それを認識することが何よりも重要な問題です。知って認識するのが原則ではありません。認識して知るようになっているのです。私たちは、寒ければ寒いことを知って感じるのではなく、寒いことを感じて知るのです。これと同じように、神様がいらっしゃるとすれば、神様がいらっしゃることを感じなければなりません。細胞で感じなければなりません。その境地が問題です。言い換えれば、神様の存在を体恤する立場をいかに私たちが確定するかということ、これが問題だというのです。

3 人生において最も問題になることとは何かというと、まず神様がいるのか、いないのか、ということです。罪人の中で最も大きな罪人とはどのような人かというと、神様がいるにもかかわらず「いない」と言う人です。例えば、父母が元気に生きているのに、子女が「父と母はいない」と言えば、その子女を孝行者と言うでしょうか、不孝者と言うでしょうか。不孝者と言います。それでは、神様がいらっしゃるにもかかわらず「いない」と言う人は、どうなるでしょうか。そのような人は、みな滅びてしまうのです。ですから、存在する神様を「いない」と言うこと以上に大きな罪はありません。「神は死んだ」と言う人たちがいますが、これ以上に大きな罪はないというのです。

4 皆さんは、漠然と、観念的にのみ神様の実存を認識してはいけません。論理的な面でのみ神様の実存を認識しようとすれば、無理があります。なぜなら、論理圏内だけにとどまる神様ではないからです。論理的に神様を認識する信仰が、私たちの生涯を導いて永遠の生命の実体として完成させてくれるのかというとき、ここには問題点が多いというのです。それでは、このような環境で生きている私たちは、どのようにすれば真の主であられる神様の前に出ていくことができるのでしょうか。皆さんが、神様の存在を認めるならば、自分がもっている神様に対する疑いの心を率直に明らかにする、信仰の対象者としてとどまることができなければなりません。

  

結果的存在に対する原因的存在


5 自分が生まれたいと思って生まれてきた人は誰もいません。男性なら男性、女性なら女性、その誰もが、生まれたいと思って生まれてきたのではないのです。父母を通して生まれましたが、自分自身が願って生まれてきたのではありません。私たちの父母も、やはり同じです。父母の父母、このようにして最初の先祖であるアダムとエバまでさかのぼれば、アダムとエバも、やはり同じです。すなわち、人類の始祖となる先祖も、自分たちが願って存在するようになったのではありません。誰か、あるお方が動機となって存在し始めました。「人」と言えば、男性と女性がいます。男性には女性がいなければならず、女性にも男性がいなければなりません。また、男性は、自分が願って男性として生まれてきたのではなく、その男性に必要な女性も、自分が願って女性として生まれてきたのではありません。生まれてみると男性だったのであり、女性だったのです。そうして女性として、男性として育ってみると、夫婦になるにはお互いが必要だ、ということを知るようになります。このように見るとき、この根本原因になるものは人間だと見ることはできません。もし神様がいなければ、人間は存在することができないでしょう。

6 男性と女性が互いに出会って生活していくうちに、膨大な数の人類になりました。その人類は、数多くの国家に連結されていて、数多くの国家は、数多くの氏族、数多くの家庭、数多くの個人に連結されています。「私」自身も、その個人の中の一人であり、その家庭の一員です。ですから、現在の私たちに結ばれたその家庭、あるいは親族は、自分たちが願って形成されたものではありません。神様によって生まれて、家庭の一員になったのであり、親戚の縁を結ぶようになったのです。私たちは師弟の縁や父子の縁を論じますが、その縁も、神様がいなかったとすればあり得ません。このすべてが神様による結果の世界です。

7 この地のあらゆるものが存在するためには、存在させた原因がなければなりません。今日、私たちが生きている社会、私たちが暮らしている国、私たちが見つめる世界も、結果の立場にあります。このようなすべての環境のつながりが備えられるためには、その環境を備えさせた動機が存在しなければならない、ということを否定できません。一つの社会の形成、一つの国家の形成、一つの世界の形成について見てみるとき、それを受け継いでいくのは、もちろん人間です。しかし、人間自体が人間を形成させ得る根本原因になることはできません。人間は、どこまでも結果的存在の立場を避けられないのです。ですから、人間を形成させ得る動機と内容が存在しなければならず、その原因が必ず存在しなければなりません。

8 私たちの心と体は、神様を中心として一つにならなければなりません。心と体が神様と完全に一つになって、三位一体にならなければなりません。神様を中心として一つにならなければならないというのは、神様が原因だからです。神様と人間は原因と結果であり、人間の心と体は相対的です。宇宙の根本がそのようになっています。宇宙の根本は、原因と結果が一つになったものであり、主体と対象が一つになったものです。原因と結果、主体と対象が一つになること、それ以外に、理想的環境、理想的存在は見いだせません。

9 人間は、あくまでも原因的な存在ではありません。ある原因による結果的な存在です。結果は原因と関係なく成り立つことはありません。紆余曲折を経たというとき、その結果は必ず原因と相応する内容と連結されて成り立っています。人間も、ある原因に似てそのようになっているというのです。その原因的な存在が神様だとすれば、人間は神様に似てそのようになったという結論が出てきます。

10 神様は、この宇宙の原因的な存在です。あらゆる作用の原因的な存在であり、力を加える原因的な存在であり、方向を提示する原因的な存在であり、目的を提示する原因的な存在です。私たちはそのお方について、「人格的な神様である」と言います。なぜかというと、必ず動機を中心として方向を定め、目的を提示するからです。それが一つの明確な立場なので「人格的な神様である」と言うのです。ですから、原因を通して方向を定め、目的の世界に進んでいきます。そのような観点において、全体の原因的な存在が神様だというのです。

  

人体の神秘から見た神様の実存


11 人は、宇宙の被造万物の中で、皆さんが推し量ることができないほど偉大で、素晴らしい傑作です。それでは、その主体者、すなわち絶対的な神様がいらっしゃって人を造ったとすれば、神様御自身が語ること、見ること、感じることが分からないように人を造るでしょうか。神様を作家に例えてみましょう。作家は心で考え、頭で構想して、最高の作品を作ろうとします。一つしかない最高の作品を作ろうと構想して作った作品が、それこそ一つしかない作品になるときには、無限にうれしく思うのです。その作品が自分の思っていたものよりもっと素晴らしくなったというとき、「私が考えていたものと違うものになったので壊してしまおう」と言って壊してしまう人はいないはずです。自分が考えていたものよりもっとうまくいったときには、自分の一生の宝物だと思い、どこに行っても自慢したいと思うのが作家の気持ちです。人間が自分の思っている以上のものを望むとすれば、神様もそれ以上のものをお望みになるはずです。そのようにして人間を造ったとすれば、どれほど素晴らしく造ろうとされたでしょうか。ここにおいて、神様は人間を、最高の傑作として造りたいと思わざるを得なかった、という結論を下すことができます。

12 私たちの人体の構造は、本当に神秘の王宮です。数多くの細胞が個別的であると同時に、相応的な関係を中心として、相反することなく協調した構成を通して、私という個人の自由解放圏を形成しているというこの事実は、驚くべきことです。膨大な世界が流動し、運動するのは、「私」一人を完成するためであるという結論にもなります。さらには、神様のみ旨を成すために動いているという結論が出てくるのです。

13 人間において、最も重要なところが顔です。顔の中でも、最も重要なところが目です。この目を中心として考えてみるとき、目は父母から来たと言うことができます。それでは、その父母の目はどこから来たのですか。先祖の先祖をさかのぼっていくと、最初の人間であるアダムとエバにまで至るようになります。それでは、最初のその目が生まれる時、太陽があることを目が知っていたでしょうか。いくら考えても、知っていたとは思えません。目自身は、輻射(ふくしゃ)熱によって水分が蒸発しかねない、この地球というものを知りませんでした。また、眉毛は目にほこりが入るのを防止するためにありますが、眉毛が生じる時、空気の中にあるほこりが目の中に入ってくるのを防ぐために生じたことを知りませんでした。このように、目は無尽蔵な神秘の王宮になっているという事実を考えるとき、目自体が生じる前に、既に太陽があり、空気中にほこりがあり、水分が蒸発していることをはっきり知って、これに合うように誕生させた存在があったということが分かります。その誕生させた主体を、私たちは「神様」と言うのです。

14 耳を見ると、耳は前に向いています。それが反対になっていたとすれば、また、なかったとすれば、どうでしょうか。前から来る音がそのまま通り過ぎてしまうでしょう。遠くの話し声も聞こえないはずです。耳は、前から来る話し声を受け止めるようになっています。なぜでしょうか。相手と向かい合って話をするからです。後頭部に向かって話す人はいません。人と会って話をするとき、向かい合って話をするので、そのようになっているのです。耳が前に向くようになったのは、前から来る声を聞くようになっていることを、耳が生じる前から先に知っていたということです。

15 何のために耳を作っておいたのでしょうか。それは空気が流れて、そこに引っ掛かることで音が集まるようにするために、そのようになっているのです。耳を一度よく見てください。大きな輪があり、小さな輪があって、声をうまく調節します。大声が聞こえてくれば、この大きな輪でその声を弱めます。大声がそのまま耳に入ると衝撃を受けるので、大きな輪で声を一度弱めてから、小さな輪に入るようになっています。そうでなければ大変なことになります。耳自体は知らなかったのですが、もともとの動機がそうなので、そのような形になったのです。誰かが知っていたので、そのように作ったということです。造物主か何か分かりませんが、その何かが存在するというのです。

16 顔に真っ黒な眉毛がついているのを見るたびに、「なぜ、こんなに真っ黒なものがあるのだろう」と言いながら気分を悪くするかもしれません。これがなければ、顔がどれくらいすっきりしてよいでしょうか。それなのに、なぜこれをつけておいたのでしょうか。人の顔に毛が生えていれば眉毛が必要でしょうか。獣は四つ足になって這い回るので、眉毛が必要ありません。それでも、その形態はあります。しかし、人は立って行き来するので、眉毛が絶対的に必要です。眉毛が生えている所は、大抵わずかに高くなっています。眉毛の部位がわずかに高くなっていて、山脈をうまく形成しています。それこそ、良い場所の中でも一番良い場所です。なぜこのように作られたのでしょうか。人が立って行き来することを知っていたからです。

17 人が這って行き来するなら、眉毛は必要ありません。本当に、よくぞくっついているというのです。そして、この眉毛が片側方向に出ています。なぜそのようになっているのでしょうか。雨が降って水が流れるとき、一カ所に流すためです。眉毛が片側方向に向かっていて、横のほうに流れるようになっているので、水が流れ落ちるとき、間違いなく下に流れ落ちるのです。もし、眉毛がなければどうなるでしょうか。汗や雨水がすべて目に入ることになります。汗が目に入ると痛くてたまりません。我慢できないというのです。目をよく見ると、眉毛だけでは頼りないので、さらにまぶたで丸く囲んでいます。まぶたで囲んで目を保護するようにしてあるのです。涙はへこんだところを通って、横に流れ落ちていくようになっています。安全が保障されているというのです。誰が設計をしたのか分かりませんが、何千年、何万年研究して作ったはずです。

18 鼻がもし逆さまになったとすれば、どうなるでしょうか。夕立でも降れば、大変なことになります。どれくらい深刻なことか考えてみてください。笑い事ではありません。鼻は顔の中で人間を象徴します。人間には天道があります。上下関係の秩序を守らなければならないというのです。鼻はなぜ下に向かって広がっているのでしょうか。もしそのようになっていなければ、口が大変なことになるというのです。雨水のようなものが口に流れ込むようになれば、口はどうなるでしょうか。それで鼻は下向きの形になったというのです。このように考えながら顔を見ると、何とも不思議に感じられます。

19 唇を見ると、とても不思議です。唇と歯はよく調和しています。唇と歯はどれほど離れていますか。わずか数ミリしか離れていません。これが危険だとすれば、これ以上危険なことはありません。まかり間違えば大変なことになります。しかし、不安を感じますか。食べるときは、ただ食べることに忙しく、不安を感じたりすることはありません。舌も、どれほど不思議でしょうか。口の中で引っ張ったり押したりしながら、押し切りのような歯の間を出入りしながらも、衝突することなく、どれほど上手にリズムを合わせるでしょうか。よく調和しているというのです。先生は本当に早く話します。このように早く話しているのに、どうしてこのようにリズムを合わせ、初めて会った皆さんと親しくなるように話せるのか、本当に不思議で、よく調和しているというのです。もし舌が指と同じような仕事をするとすれば、どうなるでしょうか。大変なことになります。

  

本心作用から見た神様の実存


20 神様がいるのかいないのか、どのようにして知ることができるのでしょうか。私たちは、見えはしませんが空気があることを知っています。どうして知っているかというと、空気を吸って生きているからです。空気は何か味がしますか。味もなく、見えもしませんが、はっきりと空気があることを知っています。同じように、私たちには心があります。見えはしませんが、心があることを私たちは、はっきりと知っています。心が見えないからといって、ないと言ってはいけません。心がどのような姿形をしているのか分かりませんが、本当に不思議です。

21 神様が暮らすところはどこでしょうか。神様は、最も価値のある愛に定着されます。男性と女性の二人がいれば、神様はどこにいらっしゃるのでしょうか。神様は、一体化して変わらない、統一された愛の最も根底に、垂直にいらっしゃいます。男性と女性が一つになれば、そこが中心点になるのです。神秘的な祈りの境地、霊的体験圏に入って「神様!」と呼べば、内から「なぜ呼ぶのか。ここにいる、ここだ!」と答えられるでしょう。「ここ」というのは、自分の心の中です。心身一体化した愛の中心点、垂直の場です。それでは、個人から家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙の中心はどこでしょうか。いくら小さくても、その中心は良心です。宇宙の愛の軸がとどまるところ、支える先端の地は、自分の良心です。心身一体化した、その良心です。

22 神様は、愛の根、生命の根、血統の根、良心の根です。これは聞違いないことです。そのような神様がいるとすれば、なぜ感じられないのでしょうか。「私」と一つになっているからです。愛と共に、生命と共に、血統と共に、良心と共に一つになっています。神様は根です。神様を現そうとすれば、四方に愛をまきなさいというのです。投入しなさいというのです。それは、自分の生命と愛と、このすべてのものを犠牲にして完全にゼロの位置に戻れば、神様が主人として現れるということです。ですから、ゼロになったその位置で、神様を中心として横的に連結するのです。堕落したために、これが縦的に押さえつけられています。これを横的に連結できるようにすれば、神様が、自分の良心の中で主人になるのです。

23 人間には、否定しようとしても否定できない良心があります。良心があることを否定する人はいません。堕落した人間は、神様がいるのかいないのか分かりません。もし神様がいる場合、神様は創造主であり、人間はその神様が造った被造物だとするならば、被造物と創造主が一つになることができ、一つの共同目的を提示し得る何かがなければなりません。神様が人間を造ったとすれば、その造られた人間を神様が望む創造の目的と一致する点に到達させる、そのような力が作用するものがなければなりません。そうでなければ、人間を造ることができません。神様は絶対者なので、絶対者である神様と、被造物である人間が一つになれる第一の基盤、接触できる第一の土台が必ずなければならないのです。ですから神様は、人間に対してその目的とする結果に到達できるように、人間の中で作用できる何かを存続させなければなりません。それがなければ、神様も喜び、人間も喜べる位置を発見できません。

24 絶対的な神様が人間を造るとき、人間を創造した創造目的の基準と、造られた人間として行くべき目的の基準が、それぞれ異なることはあり得ません。必ず一つになってこそ、神様も喜ぶことができ、人間も喜ぶことができるのです。絶対的な神様を求めて上がっていけるようにする何かの作用が、人間の中になければなりません。その作用がなければ到達できないので、それを望む力がなければなりません。「私」を刺激して引っ張り、押してくれる力がなければならないのです。それが、私たちが否定できない良心の力です。良心は高くなることを願って作用します。良心は、現在の自分より良くなれ、良くなれと催促します。この作用だけは否定できません。良心は、現在の自分よりも高くなれと促すのであって、低くなるように促したりはしません。きょうよりもあす、あすよりもあさって、今年よりも来年、行けば行くほど、さらに高く、さらに価値のある自分を形成しなさいと促す、その力が良心作用です。

25 人間の良心は、あくまでも対象的なものであって、主体的なものではありません。何か分かりませんが、作用の原則に従って求めていけば、必ず作用せざるを得ない一つの主体が存在します。その主体と対象は、互いに損害が発生することを望んで作用するのではなく、より利益になることを、より良くなることを願って作用します。私たちの良心は、より良い、より大きい、より価値のある、より世界的なことに向かって作用しています。したがって、良心作用は、単独で働くものではなく、主体と対象が一つの目的を願って働くものだという結論を下すことができます。

26 主体と対象が私たちの良心の中で作用するのを見るとき、その良心作用は、主体がなくては作用できないというのが天地の原則です。良心が作用を継続して高次元の何かを追求するのを見るとき、高次元の主体がなければならないという結論を下すことができます。ですから、良心の主体となる神様が存在しないと言うことはできません。神様は絶対的に存在します。神様が絶対的に存在しないと言う人は、絶対的に良心作用を否定しなければなりません。良心があることを絶対的に認める限り、神様は絶対的に存在します。

27 人には、絶えず作用している良心があります。皆さんが深い眠りから目を覚まし、良くないことをしようとすれば、心はいつも番人のように「おい、こら!」と言います。その良心作用があることを否定できません。良心をもった人間は、結果的な存在です。結果的な存在が絶えず良心作用をしているという事実を中心として考えてみるとき、作用をするには必ず主体と対象の関係がなければならないので、主体を公認せざるを得ません。その良心作用は、下りていきなさいというのではなく、最高の所に上がっていきなさいと催促しています。なぜでしょうか。ある偉大な主体者と一つになろうとする、より価値のある要求を作用させるプラス的要件がそこにあるので、そのような作用をしていると見ることができるのです。

  

歴史の中で摂理してこられた神様


28 神様は、きょう、この時点内にのみ存在する神様ではありません。いつも「私」の生活感情にのみ相対される神様ではないのです。その神様は、過去から今まで存続してきた神様、すなわち歴史的な神様です。ですから、その神様が歴史を継承させてこられながら望んできた道は、自ら自覚したことに夢中になって努力する人を通して、その歴史の背後において従っていく道ではありません。摂理の内容を先に悟り、その歴史を輝かせ得る時点に立った人が描いていく生活基盤を通して、神様は、摂理を発展させてくるのであり、摂理のみ旨を存続させてこられるのは間違いありません。その位置は、自分のための位置ではなく、公的な位置です。

29 私たちは、何によって神様をつかむことができるのでしょうか。精誠です。今の時代には信仰の自由があるので、迫害がありません。言論、集会、結社、信仰の自由を所有できる時代をつくっておいたのは、終わり日の一時のためです。自由に信仰できるようにしておいたのは、み旨があったためにそのようにしたというのです。今、私たちの時代は、いくら天のために苦労し、命を差し出して忠誠を尽くしても迫害されません。そのような時は過ぎ去りました。ですから、心情をもたなければなりません。歴史的な神様の心情をもたなければなりません。神様は、その時代の神様ではなく、歴史的な神様です。歴史路程で、数多くの預言者を立てて苦労された神様です。皆さんを生かすために、歴史路程で数多くの人に迫害の道、殉教の道を歩ませて今日まで来られたのです。ですから、歴史的な神様だというのです。

30 今までの歴史を見れば、世界の文化圏は、宗教文化圏内に吸収されてきています。民主世界を中心としたキリスト教文化圏や極東アジアを中心とした儒、仏、仙の文化圏、インドを中心としたヒンドゥー教の文化圏、イスラーム文化圏などの形成を中心として見てみるとき、数千年の間、人々は宗教文化圏内に群がってきたことが分かります。これは、修理工場が建てられれば、そこに必要なすべての付属材料がその周辺に集まるのと同じことです。このような事実を見るときに、神様が役事(働き)していらっしゃるというのです。

  

無形でいらっしゃる神様


31 神様は、この宇宙の中で、存在されない所がありませんが、私たちは、そのような神様がいるのかいないのか知らずに生きています。そして、空気があるのに、空気があることを普段は感じることができず、息が詰まって初めて存在していることを感じます。また、脈が一分に七十回ほど打っているのに、これも普段は気づかずにいます。歩くとき、脈に歩調を合わせ、まばたきするときも、脈に合わせてまばたきして暮らすなら、神経が衰弱して、三日もたたずに倒れるでしょう。ですから、私たちがそのようなことに気づかないのは、よくできているからです。全知全能の神様、全天下を料理する神様が私たちのそばにいるとしましょう。力で言えば山も吹き飛ばし、地球にも穴を開けることのできる神様を、私たちの目で見ながら生きるとすれば、生活できると思いますか。ですから、神様が見えなくて良かったというのです。見えたとすれば、私たちは神経が衰弱して、一時間も我慢できないでしょう。ですから、神様が見えないことを有り難く思わなければなりません。

32 私たちは、太陽の光を受けて生きていますが、それに対する有り難みが分かりません。それが有り難いといって、「お天道様、ありがとうございます」と挨拶はしません。このように、私たちは大きなことについては感謝しようとしないというのです。もし、この世界に空気が一リットルしか残っていないとすればどうなるでしょうか。神様が意地の悪い方ならば、世界の統一は問題ありません。恐らく五分以内に統一されるでしょう。神様が空気をすべてもっていって、「お前たち、統一するのかしないのか」と言えば、世界人類が声を合わせて「統一します」と言うでしょう。そのようにすれば、一遍に統一することができるかもしれませんが、神様がそのようにされないことは有り難いことです。空気がなければ、私たちは生きることができません。このように空気は、生命に絶対に必要な要素です。

33 知恵深い神様、全知全能であられる神様は、中央で思いどおりに振る舞うことができる無形な存在として治めるのが、一番便利だと考えられました。神様は無形なので、存在世界を思いのまま突き抜けてきたとしても、誰も、全く支障を感じません。皆さんには体がありますが、神様が来て思いどおりに通り過ぎていかれても、気づきません。神様が、こくりこくりと居眠りしている皆さんの体を、思いのままに踏んでいかれても知らずにいます。ですから、どれほど便利でしょうか。神様は、考えた末に、見えない神様としていらっしゃるのが一番便利だと考えて、そのように見えない神様になられたという論理が妥当です。

34 私たちは、空気が流れていることを知っていますが、それを感じられません。空気が流れることも感じられないのに、神様が通ることを、どうして感じられますか。神様は、無形の神様としていらっしゃるのが最高に便利な方法です。それでいて、この大きな宇宙を治めることができる、それをふろしきで包んで余りある神様でなければなりません。無形の神様ですが、神様の気持ちは、この宇宙でさえ小さいと思い、もっと大きなものを求めていらっしゃるのです。

35 皆さんは、最も大切なものを、人が見たり触ったりできる所に置きたいとは思わないはずです。それを誰も盗んでいけないように、とても奥深くに隠そうとするでしょう。皆さんにとって最も貴重で、たった一つしかない最も良いものなら、それを誰も持っていくことのできない所に隠しておこうとするでしょう。心の深い所、心の根底、正にそこに、そのようなものを隠したいと思うのですが、そこは、皆さん一人だけが神様と出会うことのできる唯一の場所です。皆さんの心は、一人で神様に出会える唯一のものなのです。神様も、開放された場所で皆さんに出会うのは好みません。独特な人間性、独特な思考、独特な感情をもっている、個人としての皆さんに出会える、一つの場所を願われます。それが、神様が人間の良心を無形につくられた理由です。

36 世の中にたった一つしかない宝物があるとして、それを失った日には世界がひっくり返るとしましょう。そのような貴重なものを、心の中の隅に持っていって置くでしょうか、心の中の一番中心に持っていって置くでしょうか。その貴い宝物を、心の一番中央にしまっておくはずです。それでも安心できずに、しっかりと包んでおくでしょう。また、誰かが入ってきてそれを見物するのも嫌なので、ふたを締めてしっかりと包み、絶対にほかの人に見えないようにするでしょう。このようにしたいと思うのが人の気持ちです。神様が見えるとすれば、この天地のダイヤモンドが問題ではありません。宇宙で一つしかない唯一無二の存在である絶対者、無限の価値の絶対者、無限の生命の絶対者、言葉で表現できない大切なお方を、どこに隠したいと思うでしょうか。心の中にしまいたいと思うでしょう。ですから、誰も知らない所に、何千年、何万年研究しても分からない所に隠したいと思うというのです。ですから、神様が見えないのは良いことなのです。

37 神様は無形の存在です。無形と有形はいかにして結合するのでしょうか。無形世界と有形世界はいかにして一つにすることができるのでしょうか。これは理論的に難しい問題です。肉的な何かが母体になっていては、霊的な自分と肉的な自分を一つにすることはできません。霊的な父母と肉的な父母、堕落していない本性の基準で、霊的な神様と、見える実体である太初の堕落していない人類の先祖が、何を中心として一つになれるのかというのです。縦横が必ず一つにならなければなりません。縦横が一つにならなければなりませんが、何を通して一つになるのかというと、愛です。真の愛は最短距離、直短距離で通じます。

  

遍在される神様


38 神様の心は、神様のみ言の中だけにあるのではなく、神様が造られた万物の中にもあります。天地のどこに行っても、そこに神様の心があるというのです。ですから、神様は存在しないところがない、すなわち遍在すると言われています。神様の心の中にいることを願うのなら、皆さんが見つめる物の中に神様の心があるので、その物を自分の物として、天地のあらゆる存在物を自分の物としてかき抱こうとする心をもたなければなりません。私たちの心は、この民族を越え、世界を越え、被造万物を越えて神様と共にいたいと思うのです。神様までも「自分のものだ」と言える立場に行くことを、心は待ち望んでいます。そのような心をもった人は、神様と共にある人です。

39 皆さんは、神様の遍在性を、どのようにして感じることができるのでしょうか。空気を神様の息のように感じ、台風が吹いてくれば、それを神様の鼻の息のように感じなさいというのです。流れる水があるなら、それを、神様がこの世界のために受難の道を克服しながら流された汗のように感じなさいというのです。太陽を眺めれば、その太陽がこの宇宙全体の生命の要因を象徴していることを知って、神様の愛を太陽から学びなさいというのです。神様の心情を体恤するための一つの教本であり、教材として展開させ、愛する息子、娘を喜ばせるための教材として立てておいたものが自然です。

40 「天上天下(てんげ)、唯我独尊であり、全知全能で遍在し、私を経ないものがない」と言うとき、それは愛を中心として語る言葉です。愛を中心として遍在するということです。愛を中心とすれば隠すものがありません。みな現れます。愛する正にその瞬間に、みな現れるのです。愛を中心とした遍在の立場、愛を中心とした全知全能の立場にいたいと思うお方が、神様です。

41 神様が宇宙にいないとすれば、宇宙は空(から)と同じです。しかし神様がいるとすれば、字宙はいっぱいに満ちているのです。それは愛があるからです。ですから、「私」が一人でいても、神様がいることを知るようになるときには、宇宙はいっぱいに満ちているのです。神様はどこにでもいらっしゃいます。どこにでもいらっしゃることを感じるようになります。ですから、愛の中で遍在されることに感動するのです。しかし、私が神様が分からなくなるときは、すべてのものが空になります。

42 神様がいるのかいないのかというと、神様は明らかに存在します。どこにいるのでしょうか。私に一番近いところにいます。ですから、見ることができません。一番近いので見ることができないのです。皆さんの目が皆さんの目を見ることができますか。近いので見ることができません。ですから、神様も近いので見えないのです。

43 男性なら男性、女性なら女性は、すべて神様を身代わりします。神様がほかのところにいるのではありません。「私」の心の中にいます。ですから、祈るときは心と会話しなければなりません。神様は心の根にいます。心をどんどん掘り下げれば、最高の良心の根に神様がいます。その次には、愛の根にいて、生命の根にいて、血統の根にいます。ですから、家でも感謝、社会に出ていっても感謝、国と世界のどこに行っても感謝なのです。天国に行っても、この公式どおりになります。どこに行っても通じるのです。それが地上天国であり、天上天国も同じです。

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第二節 根源であり本体であられる神様

第一章 神様の存在と属性

第二節 根源であり本体であられる神様


1 人間が絶対者によって創造され、絶対者の愛を実践するように造られたとすれば、人間の創造に動機と目的があったことは明白です。その動機と目的を明らかにしようとすれば、絶対者がどのようなお方かという問題、すなわち正しい神観がまず立てられなければなりません。正しい神観が立てられることによって、そのお方の創造の動機と目的が明らかにされるのであり、したがって、平和のために絶対愛を実践しなければならない理由も明白になるのです。

  

第一原因者であられる神様


2 この世の中には、男性と女性の二種類の人間が暮らしています。彼らは、自ら立場を変えることはできません。皆さんは、自らが願ってそのように生まれたのではありません。自分が考えもせず、願いもしなかったのに、そして、原因はもちろん、結果や過程も知らないのに、そのように生まれたのです。人間がいくら偉大だとしても、原因的な存在ではなく、結果的な存在であることを否定できません。したがって、第一原因的な存在がなければなりません。第一原因的な存在を神様と呼んでも、何かほかの名で呼んでもかまわないのですが、その原因的な存在がなければなりません。

3 人間は、あくまでも第一存在ではなく、第二存在です。第二存在、すなわち結果的存在があるためには、原因的存在である第一存在がなければなりません。第一存在と第二存在は、離れようとしても離れることはできません。その第一存在と第二存在は、原因と一体となることのできる結果を望みながら、その関係が結ばれます。神様が人類の中心となって人間の原因的な存在になったとすれば、結果的存在である人間には、その理想を実践できる過程が必要です。それが、私たちが成長して生きる生活過程であり、また長い時間で見れば歴史過程です。

4 あらゆるものを見ると、対になっています。鉱物世界にも、プラスイオンとマイナスイオンがあり、与えたり受けたりしながら運動しています。花にも、雄しべと雌しべがあります。動物世界にも、雄と雌がいます。近頃は、細菌にも、雄と雌があるという話をしているのです。見えない世界にまで雄と雌がいるというのですから、見える世界はどうでしょうか。雄と雌が自分の意志によって生まれたのでしょうか、他者の意志によって生まれたのでしょうか。他者の意志によって生まれたのです。ですから、私たちは、いくら優秀だといっても、結果的存在であって、第一原因的存在ではありません。私たちは対象的存在にすぎません。

5 人間は第一原因から始まりました。第一原因とは何でしょうか。その名前は何でもよいのです。絶対者なので、そのお方が考える理想は、絶対的理想です。人間は、あくまでも第一存在ではなく、結果的な第二存在です。「私」にとって第一存在は、父母です。父母の第一存在は、祖父母です。祖父母からさかのぼれば、第一存在は、最初の先祖になります。人間の最初の先祖を中心として、神様がいるとすれば、神様にまでさかのぼるのです。

6 神様は、私たちの心の動機になるお方です。人間の第一源泉になるお方です。私たちの理想の起源になるお方です。この起源を除外しては結果が現れません。ですから、神様を除外しては世の中が成り立ちません。父母を失った孤児のような境遇にあるのが、この地上の人類です。しかし、その孤児の前に、失ってしまった父母を取り戻すようになれば、その歓喜の声がどれほど大きいでしょうか。世の中を征服して億万の大金を手にした名将の勝利も、この喜びとは比較にならないのです。心が重要です。いくら勝利を称賛できる立場にあるとしても、父母の前に行かなければ真の子女として立つことができません。

  

本体であられる神様


7 歴史は個人から出発して世界にまで広がっていますが、どこで終結するのでしょうか。最高善の本体である絶対者と、永遠不変の縁を結ぶ時まで統くでしょう。最高の善は永遠不変なのです。それ以上の発展がありません。今日、この世の中を見つめるとき、生活感情の異なる民族が、だんだんと生活感情を共にしています。また、理念を異にしていた数多くの宗教が、理念を共にする方向に進んでいます。根本は一つです。この絶対的な一つの価値に向かって、歴史は総進撃しています。ですから、現実に現れた価値は、相対的な価値にしかならないというのです。

8 神様は、情、知、意の本体です。そのような神様は、どのような目的意識をもっていらっしゃるのでしょうか。創造してから目的意識をもったのではなく、創造の前から目的意識をもって創造されたに違いありません。もし、そのようなお方でなければ、歴史を収拾することはできません。人間の認識では感じることのできない力が歴史の背後にあるからです。もし神様にそのような目的意識がないとすれば、目的とする世界に、歴史と全人類を導くことはできません。それゆえ神様は、人間が堕落したとしても、堕落していない人間に賦与すべき世界的な目的意識を痛切に感じていらっしゃるのです。

9 神様は、愛のために人間を創造されました。愛は独りで成立するものではありません。したがって、神様が絶対に必要とされるただ一つのものは、その愛を施すことのできる対象、すなわち神様が愛することのできる対象です。必ず相対がいてこそ愛することができます。愛と心情の本体であられる神様は、その愛が動機となって宇宙を創造されたのであり、特にこの期間に、創世記第一章二十七節のみ言どおり、神様に似た実体対象として人間を創造されたのです。

10 愛の究極者は神様です。この愛よりも深いものが心情です。神様は心情の根源者です。ですから、この心情を中心として、み言も、行動も、理念も成立します。そのいかなるものも、単独では成り立ちません。いつも神様から来る縦的な心情が伴わなければならないのです。神様の歴史的心情、時代的心情、未来的心情をもたなければなりません。

11 神様は真理の本体であり、善の本体であり、愛の本体であり、生命の本体だといいますが、それはどういうことでしょうか。みな同じ話です。真理が成立するには、愛と生命がなければなりません。真の真理を語ることのできる人になるには、自らの生命の中に真理に対する意欲と欲望がなければなりません。生命の本体、愛の本体、真理の本体である神様は、人間の父であると同時に母です。核心は父母です。このように見れば、神様は単純で、分かりやすいお方です。

12 真の父母が生まれた国も、永遠に変わりません。永遠に変わらない国の国民と一つになることは、どれほど貴いでしょうか。あらゆる結果的な存在は、永遠に変わらない本体と一つになりたいと思うのです。本体とより近いところと関係を結ぶことが、心情世界の最高の願いです。

13 神様は、私たちが見いだすべき希望の本体であられると同時に、全体の価値を代表する栄光の本体でいらっしゃいます。ですから、神様の全体に対する主管性を復帰するためには、皆さん一個体で神様を所有できなければなりません。神様を迎え得る人にならなければなりません。その神様は、億兆蒼生を造られた神様であり、万物に対する全体主管の行使をなさるために復帰の苦労をしてこられた神様です。したがって、皆さんが神様を所有したとすれば、その神様は皆さんの神様なので、そのお方が永遠であれば皆さんも永遠であり、そのお方が被造世界に対して主管性をもつようになれば、皆さん自体も実体をまとった神様の立場に立って、万物を主管できるようになります。そのような皆さん自体を探し出すことができないとすれば、神様を所有したとはいえないでしょう。

14 今までもってきたあらゆる罪悪の要素を打破してしまうことができ、今まで属していた死亡の権勢から解脱できる信仰の基準をもたなければなりません。そうするためには、皆さんの疑問を解き得る道を探さなければなりません。生命に向かって進んでいける道を探さなければならないのです。もし、このような道が人間の世にないならば、神様は訪ねてこられません。自分の誤りを悟って悔い改められるように良心を刺激させてくれる実存体が神様ならば、その神様が願う最大の希望と生命と人倫の基準を、皆さんが必ず立てなければなりません。そうすることのできる一日、歴史的な終末時代が、いつかは来なければなりません。それでは、このような宇宙的な運命の道を前にして、皆さんはどの程度考えてみましたか。皆さんは、宇宙と、この社会と世界、さらには皆さん自身に対しても疑いを抱き得る環境に置かれています。このような、あらゆる問題を解明してくれる中心存在が神様です。また、人間が心配しているあらゆることを御存じのお方も、神様ただお一人であり、それを解決してくださるお方も、たったお一人の絶対的な存在であられる神様です。

  

天宙の大主宰であられる神様


15 天宙の中心存在は神様です。その神様は、宇宙的な父母、全体の父母です。このすべての被造世界において、目的としたことを間違いなく経綸(けいりん) していかれるお方が、創造主であられます。その創造主から、父母の心情圏を受け継いで、この地上に生まれるべき人類の先祖が、地の父母です。このように見るとき、天宙を中心として私たちは、三大父母を発見するようになります。永遠であられる天の父母がいると同時に、地の父母がいて、家庭の父母がいます。天の父母と地の父母と家庭の父母、この父母が何を中心として公的な内容の生活をするのでしょうか。物質を中心としたお金でもなく、知識でもなく、権力でもありません。ただ愛を中心として生活するのです。愛を根本としてあらゆるものを治める主体が、神様であり、地の真の父母であり、家庭の父母です。

16 神様は、人類の父母でもあるお方であり、人類の王の中の王でもあるお方であり、あらゆるものの中心でもあるお方です。世界的な孝子、世界的な忠臣を従えるべきお方が神様です。また、世界的に代表される聖人を従えるべきお方が神様です。このようになれば、神様は最高になるのです。それが別々になるのではなく、そのお一人が父母にもなることができ、国王にもなることができます。すべてを総合した中心存在が神様です。孝の中でも最高の孝であり、忠の中でも最高の忠であり、聖の中でも最高の聖を代表できる位置を占有した者だけが神様に侍ることができるとすれば、神様は、この三つを一度に成し遂げた人、孝子にもなり、忠臣にもなり、聖人の中の聖人にもなり得る人を願うはずです。

17 宇宙の中心存在であり、創造主であるそのお方は、中心にいながら、保護の責任を感じて保護してくださいます。保護しながら育成してくださいます。正しく育ててくださるのです。それだけではなく、良いことと悪いことのすべてに責任を負います。逃げる道理はありません。ですから、天地の大主宰であられる神様は、すべてのことに責任を負い、保護、育成なさるのです。その方を中心として、すべての存在が一つになろうとします。

18 神様は、福を無限にもっていらっしゃる、福の中心存在であられます。世の中で何を与えても、買うことのできない福をもたれたお方です。そのお方には、ないものがありません。皆さんの愛する妻より、もっと貴いものをもっているお方です。皆さんの父より、もっと貴いものをもっています。「私の愛する息子、娘よ」と言って泣いたりわめいたりしていた、その子女よりも貴いものをもっているお方です。ですから、この地上の人生で最高に勝利したという人、この世の中のどこから見ても最高に成功したという人は、神様を占有した人です。

19 神様は、天地の大主宰であられます。その方は、最高の理想をもっていらっしゃるので、目的の基準にもなり、動機の基準にもなります。ですから、私たちが存在するようになった動機も神様であり、目的も神様です。それでは、その動機と目的を、どこから探すのでしょうか。その動機は神様のみ旨を中心とした家庭であり、その家庭をして世界的な目的を達成させるのです。

20 神様は絶対的であり全知全能であられるお方なので、そのお方には限界や有限的なものは存在しません。あらゆるものを超越していらっしゃいます。ですから、ある事情の限界圏内に縛られて、それを打開できない立場にいらっしゃるお方ではありません。そのようなお方が今まで求めてこられた願いがあるとすれば、その願いは、そのお方自身のための願いではありません。子女である人間を復帰したいという願いをもってこられました。その願いは、神様御自身で決着をつけるものではありません。人間から解決されて神様に戻るようになっています。

21 自分が起源ではありません。自分の生命は、父母や社会や民族、国家を通じて生まれたのではなく、それを超越した一つの起源、すなわち絶対者である神様から始まったのです。絶対的な立場にあるすべてを、超越した動機と結びつけなければならないのです。時代的な因縁や環境的な因縁、あるいは社会的な与件に結びつけてはいけません。すべてを超越する原因に結びつけ、すべてを超越する目的に結びつけてこそ、飛躍し、超越して脱出することができます。すべてを超越する動機に、「私」の命を結びつけなければなりません。私の命は、私から始まったものではないからです。絶対者であられる神様から出発しました。自らをそのような動機に結びつけるようになれば、死んだとしても、すべてを超越する過程で神様のみ旨のために死ぬようになるのです。環境に左右されるみ旨ではありません。因縁に基づいた世界のためのみ旨でもありません。すべてを超越する動機と、すべてを超越する関係を通して、すべてを超越する結論に向かって進む過程にあるのがみ旨です。言い換えれば、すべてを超越する動機は神様であり、すべてを超越する過程はみ旨であり、すべてを超越する目的は世界のために進むのです。

22 神様は縦的な父であり、縦的な主体であり、人間は横的な主体です。縦横が一つになってこそ組織体が完成します。立体的な組織体は、縦横が一つになり、前後が一つにならなければなりません。縦的なものとは父子の関係です。横的なもの、東西の関係は夫婦の関係であり、前後の関係は兄弟の関係です。このように、一つの家庭に、愛の理想を中心とする一つの球形を形成しようとすることが神様の創造理想です。それでは、神様はどこにいらっしゃるのでしょうか。中央にいらっしゃいます。父の代表として、夫の代表として、母の代表として、妻の代表として、息子、娘の代表として、兄姉の代表として、弟妹の代表として立つことができる、中心存在としていらっしゃるためのものが、神様の創造理想です。

23 神様は、公的な目的を中心として忠誠を誓って立ち上がる者たちの前には、いつも主体的な立場で向き合ってくださる主体者です。「私」が涙を流して身もだえすれば、神様もそれ以上に涙を流して身もだえする主体者です。公的な愛の心に燃えていくとき、神様は愛の中心であり主体者なので、愛に刺激された心にいつも相対し、またそこに対する刺激を与えて、その目的を成し遂げる原動力を補給してくれる主体者です。愛を中心としてその目的を成就させるためには、同労者が必要なのにもかかわらず、世の中にはそのような同労者がいないのですが、神様が同労者になり得るならば、どれほど幸せでしょうか。その神様は、父母に優り、兄弟に優り、どのような師にも優り、自分を愛するどのような人にも優るというのです。

24 私たちの主体は神様です。ですから、神様と共に喜び、神様と共に歌い、神様と共に踊らなければなりません。そうなれば、どれほどよいでしょうか。ですから、私たちの目的も神様です。私たちの人生の道は、何を求めていく道でしょうか。神様を求めていく道です。その神様は、現実的な神様です。

25 神様は個人の主人であり、夫婦の主人であり、家庭の主人であり、国の主人であり、世界の主人であり、天宙の主人です。私たちは、神様の愛をもって、神様の中心までも占領する主人の役割を果たそうというのです。相対基準を造成し、相対と一体化して平和世界を成し遂げようというのです。キリスト教では、「創造主は神聖で、人間は卑しい」と言いますが、それはよく知らないので、そのように言うのです。先生が教えるべきことが、これです。神様が創造した第一の目的は、神様も形状が必要だったということです。

26 神様は最高の公的な主体です。したがって、人間に対する最高の教えは何でしょうか。世界のために公的なことをするよりも、神様のために自分の生命を懸けて精誠を尽くす人になりなさいということです。そのような人が最高です。ですから、聖書に「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである」(マタイ二二・三七)とあるのです。それでは、神様はどのようなお方でしょうか。万宇宙の主人です。ですから、神様を愛するようになれば、この世界は神様を愛する人のものになるのです。

  

愛、生命、理想の主体であられる神様


27 神様は生命の主体です。生命が維持される所には、必ずその背後に愛が残っています。皆さんは父母の愛から生まれました。また、その背後には愛と生命とその目的性をもったお方がいます。そのようなお方は、「私」のような主体ではなく、全体の根のような主体です。皆さんが一つの細胞のような相対ならば、そのお方はこの全体の根のような、宇宙存在の核のような主体です。生命力の全体を代表し得る核であり、愛の力があれば愛で全体を代表する核であり、ある目的があるとすればその目的の原因的な一つの核になるお方です。

28 太陽が昇ってくれば、すべての木の芽は、太陽に従っていくように作用します。芽が従っていく太陽の光とは何でしょうか。生命の元素です。生命の元素は、人間にとっては愛です。神様は愛の太陽です。気づいてみれば、神様は愛の太陽なのです。ですから、すべての愛と生命の要素をもって発展し、無限の世界に同化できる人格を具備するためには、愛の理想に接ぎ木をして和合しなければなりません。そうしなければ、その前に相対圏を得ることはできません。愛の相対圏を得ることができないというのです。ですから、人間は高貴なのです。神様の愛の相対者として造ったのです。

29 神様は、愛の主体であり、生命の主体であり、理想の主体です。ですから、人間は、愛の対象であり、生命の対象であり、理想の対象だという結論を下すことができます。神様が絶対的ならば、自分も絶対的な立場を願わなければなりません。神様が不変ならば、自分も不変でなければなりません。神様が唯一ならば、自分も唯一でなければなりません。神様が永遠ならば、自分も永遠でなければなりません。このような観点で、人間の永生は不可避であり、それは結果的な帰一点とならざるを得ません。いくら神様に愛があるとしても、自分に愛がなく、いくら神様に生命があるとしても、自分に生命がなく、いくら神様に理想があるとしても、自分に理想がなければ、すべてのことがむなしいのです。

30 私たちの生命の主体は神様です。神様は生命の主体であり、愛の主体なので、神様自体に生命力があれば、その生命力も好きになり、愛も好きにならなければなりません。堕落することによってそのような世界にならなかったので、私たちは再び取り戻していかなければなりません。そのような観点から、私たちが生きている世の中は、神様が願う世の中ではなく、私たちが願う世の中でもありません。

31 生命をもった存在物は、きょうも動くと同時に、またきょう以降、永遠の未来にも動くのですが、その生命の主体が神様です。また、生命をもったものは、どのような存在であっても、神様と永遠に一緒にいたいと思い、神様を中心として生活したいと思い、生死までも共にしたいと思う本性をもっています。そのような理念圏内から抜け出そうとしても抜け出すことのできない世界において、主体的な立場にいらっしゃるお方が神様です。さらには、造った万物に対して自分の情熱をすべて傾けて、愛と情的な関係をもって治めるお方が神様です。

32 私たちは今まで、観念的に神様を呼び求めてきました。宗教的な主体としてのみ神様を呼び求めてきたのです。神様は生命の主体であると同時に生活の主体であり、生活の主体であると同時に理念の主体です。しかし、いくらその理念の主体が広くて大きいとしても、実質的にそれは生活感情で分析され、体験されなければなりません。もし生活で体験されるその理念の価値を、存在しているどのようなものとも取り替えることができない、と誇り得る立場に立った人がいるとすれば、その人は、神様が探し求めている人に間違いありません。

33 幸福の土台であり、種の中でも生命の種であるお方が神様です。ですから、生命は偉大です。神様は、生命の種であると同時に、身にまとう理想です。神様の幸福の土台を通して、理想にまで連結させるものは何でしょうか。それが真の愛です。神様は生命の起源であり、愛の起源です。また男性の起源にもなり、女性の起源にもなります。母の起源にもなり、父の起源にもなります。兄、姉、兄弟たちの起源にもなるのです。

34 神様は、自分の生命の根本を尊重するお方です。み言を尊重するお方です。そして、行動を尊重し、愛を尊重するお方です。神様は、自分の存在の価値を認め、み言を語ればみ言どおりになり、み言どおりになったものを愛するお方です。語れば行動として結実し、そののちには、それを放っておくのではなく、愛するのです。ですから、語るのは行動するためのものであり、行動して実体が出てくれば、それは愛で発展させるためのものです。

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第三節 神様のみ言

第一章 神様の存在と属性

第三節 神様のみ言


1 神様のみ言は、盲目的なみ言ではありません。無限に価値のある存在を造るために原理原則を通して語られるみ言が神様のみ言なので、そのみ言には異議があり得ません。絶対的に一つにならなければなりません。神様も信仰があり、原理原則の内容があり、実体がありました。その実体を通すときに、初めて神様のみ前に無限の対象の価値をもった子女が登場するので、そこで爆発する愛を通して、人間と神様の関係が結ばれるのです。これは、神様が人間を造るときも、人間が神様を見つめるときも、同じ立場です。

  

神様のみ言とは


2 創造の前に、先に神様がいらっしゃいました。神様がいらっしゃってみ言を構想されました。そのみ言とは、実体を造り出せる内容のみ言です。実体を造って、ただそのまま神様と関係のないところに置こうとしたのではなく、神様はその実体と永遠に一つになろうとしたのです。分けようとしても分けることのできない、神様も分けることができず、人間も分けることのできない不可分の一体理想を成就しようとしたのです。ですから、出発当時から神様と人間が別々に出発したのではなく、一緒に出発しました。神様がいらっしゃるのと同時に、「私」も出発したというのです。

3 神様は、人間を漠然と造られたのではありません。そこには、「必ずこのようになる」という神様御自身の信念が介在しています。その信念は、具体的な内容をもっていました。その具体的な内容が原理であり、原理原則です。神様御自身も信じる立場で、原理的な内容を通してその信念と原理が一致し、そこに再び実体が一致する瞬間が創造の瞬間です。ここで、その信仰とともに、その原理に通じる実体を造るためのものがみ言です。

4 み言とは、神様と人間の間の契約です。「このようにすれば、このようにしてあげる」という契約です。聖書で教えてくれるのは、すべて契約です。「このようにすれば、このようにしてあげよう」という契約なのです。天は、契約どおりに履行すれば栄えさせ、契約どおりに履行しなければ滅びるようにするのです。

5 み言は、審判の基準になるのです。法は審判の基準、善悪を区別する判断基準です。ですから、真の真理は善悪の起源を決定でき、その善悪の内容を決定する一つの基準にならなければなりません。その基準が「統一原理」でなければなりません。皆さんは、これを絶対視できますか。そのみ言に反抗したり、相反したりするときは、そのみ言の制裁を受けます。そのみ言の助けを受けるのが原則であり、み言に歓迎される立場に立ったとき、初めて人格基準に到達できるのです。しかし、それが自分を中心としたものであってはいけません。自らが生活するときに、あらゆることをみ言のとおりにしたといって、その結果が自らに結ばれることを願ってはいけません。それは天に結ばれるようになります。「私」を中心とするものではなく、全体を中心としなければならないというのです。観点が違っていなければなりません。

6 私たちは神様を真の父と呼ぶことができる存在なので、神様がもっていらっしゃるみ言を私たちも語ろうとしなければなりません。神様のみ言は、そのみ言が与えられる所では、すべて善の実績を生み、復活の役事、再創造の役事を起こさせます。ですから、私たちは悪を清算し、復活の役事を起こして、再創造の権能を行使できるみ言をもった人にならなければなりません。このようなみ言をもった人々が集まり、暮らす所が天国です。

  

心情と愛と天法のみ言


7 人間が生きていく目的は、神様の愛に連結されることです。人間を神様と連結させ得るみ言を宣布する人は地上の人なのですが、その人が伝えるみ言は神様のみ言なので、そのみ言によって新しい人が造り出されるのです。ですから、皆さんは、与え合う基盤において完成の基準を備えることができます。原理的見解がそうです。そのみ言に神様が共にいらっしゃることによって相手が復活する立場に立つようになり、そのような相手と「私」が一つになれば、強固な実体を備えるようになり、そのような実体が備えられるに従って、神様の心情を体恤できるようになります。彼が備えた基準の深さと広さが大きくなるに従って、神様の心情を体恤する比重も大きくなります。み言によって神様の心情が躍動します。ですから、いくら堕落した人でも、そのみ言を聞き、み言に接するようになれば、我知らず神様の心情が芽生えて高まるのです。神様の心情が芽生えて高まることで、怨讐を愛することができる力が生じ、サタン世界を主管できる基礎的な力が発動します。このみ言は、私一人が知っているだけでは絶対にいけません。皆さん自ら、神様の心情を誘発させなければならないのです。

8 真理とは、世俗的な真理ではなく、神様の愛のみ言を言います。神様の真理は、ある特定の摂理的な人物を通して啓示として地上に伝えられます。神様の真理は、絶対真理です。絶対真理は万能キーのようなもので、この真理を適用すれば、どのような難問題も解けるようになります。

9 皆さんは、神様が皆さんに伝えるみ言に対して「永遠の法度のみ言として下さったみ言」と認識して、「これは私の生命のみ言です」と言いながらそのみ言を受け入れるだけでなく、創造の当時に人間を創造していたみ言だと、感じられる一時をもたなければなりません。もし皆さんがそのようなみ言をもつことができず、神様のそのみ言を皮膚で実感できる体験の一時をもつことができないとすれば、神様の息子、娘になることはできません。

10 皆さんが真理を見つけ出そうとするなら、他のどんな話も聞いてはいけません。ただ真の真理のみ言だけを聞かなければなりません。それでは、どのようなみ言が真の真理のみ言でしょうか。どこの誰が聞いても、我知らず悔い改めの心が起き、我知らずそのみ言に心が惹きつけられ、そのみ言を消そうとしても消えない、そのようなみ言があるとすれば、そのみ言が正に真理のみ言です。それが天倫の道理に通じた真理のみ言です。

11 神様が原理的に再創造をしなければなりません。無原理圏の土の塊のような人間を、どうしなければならないのでしょうか。神様が土の塊でアダムとエバを創造されたのと同じ立場で、神様のみ言と一つになるようにしなければなりません。み言は漠然としたものではありません。原理による原則を通じたものです。人の目はこのようになり、鼻はこのようになるという原理原則、設計図がみ言です。その設計図に一致する人にならなければなりません。

12 神様のみ言は、すべての真理の根本であり、したがって絶対真理です。また、統一された真理です。人間の堕落によって神様を失ってしまうことによって、絶対価値と絶対真理を喪失したのであり、統一された価値と統一された真理を失ってしまいました。絶対価値と絶対真理から絶対価値観が立てられます。「観」とは、観点であり、見解であり、理論です。したがって、今日の世界的混乱を収拾する方案は、絶対的価値観を確立することなのです。

13 なぜ神様を必要とするのでしょうか。それは、神様がもつ真理が不変だからです。神様のみ言は変わることがありません。千年前に話したことは、何億万年後でも、そのみ言どおりに守られなければなりません。人間がしたことは、いくら才能を発揮して付け加えても、時代が過ぎればすべて風化作用によってなくなりますが、神様のみ言は、風化作用を超越するのです。

  

創造と成長と完成の真理のみ言


14 神様は、み言ですべてのものを創造されました。み言、すなわち真理が完全でなければ、その実体も完全にはなれません。真理が不完全であれば、実体も不完全とならざるを得ません。信仰生活も、完全な位置に立脚しなければ、完全な信仰生活をすることはできないのです。ですから、神様と天地が願う完全な真理が出てこなければなりません。

15 神様は、永遠で唯一のみ言を通して被造万物を造り始めました。そうして神様は、アダムとエバがそのみ言の目的を完成して、神様が実体的に、永遠に臨在できる体となることを願われました。これがアダムとエバを創造された目的でした。さらに神様は、アダムとエバに命の息を吹き入れ、彼らの心の中に永遠の生命の主体として臨在され、安息の住みかを造ろうとされたのです。正に、このような天倫の大いなる目的を立てて、アダムとエバを創造されたのです。

16 神様が原理を通して語られるとき、自分勝手にするのではありません。原理を中心として完全に一体となった中でお話をされるのです。そこから対象と一体となる観点が生じます。ですから、皆さんにも信仰観が必要です。神様が私たちを信じたのと同様に、信じなければなりません。漠然としていてはいけません。原理を中心として、原理と一つにならなければならないのです。その次には、原理を原理のままで置くのではなく、原理と一つになる信仰をもって、その原理の実体にならなければなりません。それだけでなく、実体を完成するのと同時に、神様の愛を受けられる息子、娘にならなければなりません。

17 イエス・キリストがこの地に来られ、三十年余りの生涯で涙を流され、悲しい苦難の道を歩まれながらみ言を宣布された目的とは、何だったのでしょうか。それは第一に、人間をして神様との関係を回復させるためだったのであり、その次には、人間に天国を紹介するためでした。このようにイエス様は、天国を紹介されるとき、み言で紹介されました。すなわち、真理で天国を紹介しようとされました。神様は、そのように人間と永遠不変の関係を結ぶためのみ言、この地に天国理念を実現するためのみ言を、イエス・キリストを通して人間たちに与えてくださいました。真の真理を、イエス様を通して示そうとされたのです。ですから、神様と人間の関係を結ぶために来られ、真の真理を人間たちに証するために真理をもってこられたイエス様は、神様と人間と全被造万物が希望する天国を建設するために、真理のみ言を宣布し始められたのです。イエス様は、このように神様と人間の関係を回復するために真理を宣布してくださいましたが、その真理と関係を結ばなければならないイスラエル民族がイエス様を不信することによって、イエス様のみ言宣布の目的は成し遂げられなくなったのです。

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第四節 神の属性

第一章 神様の存在と属性

第四節 神の属性


1 神様の属性は、絶対、唯一、不変、永遠です。これが神様の四大属性です。すべての創造は、絶対的であり唯一なものです。すべてのものが絶対的な立場にあるので、絶対的に自分自身をその位置に立てるのです。ですから、すべてのものが唯一です。どこにおいても勝手に混ざったりしません。愛の道というものは唯一です。その次には、不変であり、永遠です。

  

神様の主流属性


2 神様の属性は、絶対、唯一、不変、永遠なので、私たちはそのような内容を中心として絶対的な愛の主体にならなければならず、唯一の愛の主体にならなければならず、不変の愛と永遠の愛の主体にならなければなりません。そのような人が神様の代身者です。神様の属性に一致できる存在は、神様の代身者になることができます。神様が相対を創造するとき、何を加えたのでしょうか。創造性です。絶対創造性、唯一創造性、不変創造性、永遠創造性です。愛を中心とした絶対的な創造性を投入したというのです。神様の愛が絶対、唯一、不変、永遠のものなので、その愛に通じれば、神様と永遠に苦楽を共にすることができ、神様のすべてのものを相続することができます。絶対的な神様の愛が「私」の愛であるならば、絶対的な神様の対象になることができるのです。

3 神様の属性が絶対、唯一、不変、永遠なのと同様に、私たちも絶対的に一つにならなければならず、天下に唯一的なもの、永遠なもの、不変なものとして一つにならなければなりません。そうしてこそ、永遠の愛がそこから始まります。永遠の生命の縁をもって、永遠の真の男性と永遠の真の女性がその過程で絶対、唯一、不変、永遠であり、定着した不動の愛の主人になってこそ、男性として完成し、女性として完成するのです。その場は、愛の完成の場であると同時に、男性と女性の生命が一つになる場であり、男性と女性の生命が一つになると同時に、新しい生命を創造する血統的関係が連結されるのです。

4 神様は、愛を中心として存在します。ですから、神様には愛を中心とする絶対性、愛を中心とする唯一性、愛を中心とする不変性があります。すべてが愛を中心にしています。愛の属性も絶対であり、不変であり、唯一なのです。そのような愛を人間も望みます。絶対的な愛を好むというのです。絶対に一つしかないというものが絶対性です。ですから、神様の属性は絶対であり、唯一であり、永遠、不変です。

5 愛は相対的関係から生じます。ですから、絶対的な神様であっても、愛の前には絶対服従しなければなりません。そうでなければ、人間の道理についての教育ができません。神様は、アダムとエバに対して、「お前たち夫婦の愛は絶対的である。永遠に変わらない」とおっしゃるのです。なぜ絶対的かといえば、アダムとエバは神様の属性が顕現した実体だからです。神様は唯一、絶対、無二のお方です。ですから、アダムも、その属性が顕現したがゆえに絶対的な存在です。アダムは神様の男性的な属性が顕現した存在であり、エバは神様の女性的な属性が顕現した存在なのですが、その属性自体が絶対的です。その内的な属性と外的な属性を備えたものを一つに束ねるものが愛です。その愛は、神様までも絶対服従する絶対的な愛です。ですから、その絶対的な愛を中心とする夫婦は、唯一無二なのです。絶対的であると同時に永遠不変です。

6 創造主である神様が立てた目標は、変わりません。いくら時代が変わり、歴史が紆余曲折の過程を経ていくとしても、すべての人の良心の中心となり、すべての人の希望の目標となる神様は、決して変わりません。永遠の前から永遠ののちまで変わりません。ですから、「わたしはアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終りである」(黙示録二二・一三)とあるのです。

  

真の愛の根源であられる神様


7 神様は愛の根であり根源です。また神様は生命の根です。そして、神様は血統の根であり、良心の根です。私たちは、愛や生命、血統、良心を見ることもできず、触ることもできませんが、存在することを知っているのと同様に、神様を見ることもできず、触ることもできませんが、存在することが分かります。それでは、生命の根となり愛の根となる神様は、どこにいるのでしょうか。空中にいるのではありません。私たちの生命と愛の根の中に神様がいらっしゃるのです。ですから、感じることができないのです。

8 神様は真の愛の根です。根は、幹を通して芽と通じます。そして、枝は東西南北に伸びます。東西南北に伸びれば伸びるほど、芽も育ち、幹も育ち、根も育つのです。ですから、神様は、人間世界において、真の愛を中心とした縦的な父だということを発見できます。真の愛を中心とした縦的な父が創造主であられます。

9 愛の根が神様です。神様は根の中の根です。その愛の根に接ぎ木しなければなりません。そこに一つになれば、その愛の根に連結され、そこから芽が出て多くの枝が伸びれば、花が咲き、実を結びます。そこにおいて、主人の希望が花開くのです。芽が出て枝が伸びなければなりません。芽が出ただけでは滅びます。芽が出れば、枝を伸ばさなければなりません。中心となる枝をはじめとして、数多くの枝が出てこなければなりません。数多くの葉が生い茂ってこそ、そこに花が咲きます。それが育つ順序です。そのようにして、本来の完成段階を経ていくのです。

10 愛の主人は神様です。神様が愛の根です。根の中で中心の根は一つです。中心の根に通じる愛はどこにあるのか探さなければなりません。ですから、完全に神様のようにならなければなりません。神様の心と体が絶対的に一つになっているのと同様に、私たちも心と体が絶対的に一つになる息子、娘にならなければなりません。

11 善の神様は、犠牲と愛の神様です。愛は、犠牲の本質を離れてはあり得ません。愛する人のために犠牲になったとしても、その犠牲を犠姓とは考えません。犠牲になれば犠牲になるほど恵みを感じるのです。愛とは、そのような異なる性質をもっています。愛がどれほど大きいかを考えるとき、それを表すのは、必ず犠牲になるその量がどれほど大きいかによって、愛の大小、高低が決定されます。犠牲が大きければ大きいほど、大きな愛を表すのであり、犠牲が小さければ小さいほど、そこでは小さな愛を表すのです。

12 神様は絶対的な愛の存在です。神様は愛の対象である人間を創造し、御自身の愛をその上に注ぐことができるように願いました。そのようにすることによって、神様は自然に、男性と女性からその愛が返ることを期待しました。そうなれば、神様は無限の喜びを感じたはずです。アダムとエバは、まず自分たち同士が愛の中で一つとなってこそ、神様の愛の完全な対象となることができます。したがって、アダムとエバが一組の成熟した人間となって神様に似るようになり、神様の愛を受けてその愛を神様にお返しするためには、成長と成熟の期間が必要でした。

13 神様は、愛のために天地を創造されました。その愛の対象とは誰でしょうか。人間です。これが人間の価値です。神様は愛の王であられるので、父母の愛も、夫婦の愛も、兄弟の愛ももっています。東西南北、前後左右に、その本性をもって真の愛を備えることを願う相対が現れるときは、いつでも向き合える主体なので、神様は愛の大王であられるのです。

  

情、知、意の人格的な神様


14 神様は、人間とどのような関係にあるのでしょうか。神様が人間と関係を結ぶためには、人格的な神様でなければなりません。人格的な神様であるならば、人間と同じでなければなりません。人間に心があり、体があるのと同様に、人間を造られた神様も、人間と共に共同の目的をもつことができるその本体であるならば、人間に似ていなければなりません。二性性相という概念は、そこから出てくるのです。

15 創造主であられる神様が創造するとき、無目的な創造物を造ることはできないというのです。人間が情、知、意をもっている以上、このような人間を造られた神様も、やはり情、知、意の本体であることは間違いありません。

16 神様は、人格的な神様です。人格的な神様なので、情、知、意を備えなければなりません。そうであってこそ私たちと通じることができます。「私」が笑えぱ神様も笑わなければなりません。それでは、思いのままにできる絶対的な神様が涙を流すのでしょうか。神様も涙を流すというのです。

17 キリスト教では、神様は唯一無二のお方であり、絶対的なお方であり、創造主であり、神聖な存在として至高な立場にいらっしゃるので、人間、すなわち被造物と関係をもつことができないと考えています。被造物は卑しいものであり、創造主は絶対的で神聖な方であるとみなしていますが、愛の概念を中心として考えてみるとき、神様と被造物が愛の関係を結ぶためには人格的な内容が同じでなければならず、心情的内容が同じでなければなりません。すなわち、人格を備えた人と性稟が同じでなければならないというのです。ですから、人間は神様に似ているのです。それで、私たちは、「神様は私たちの父であられる。私たちは神様の子女だ」と言うのです。これは人間が神様に似ているということです。何を通して似たのでしょうか。血統を通して似たのです。血統を通して関係が結ばれたというのは、愛によって関係が結ばれたという意味です。

18 神様は、情、知、意を合わせた内容を備えた人格的な神様です。そのような人格的な神様が最高に願うものが愛なので、その愛の対象のために人間始祖を造りました。キリスト教の神学は、創造主と被造物について、創造主は神聖な方であり、被造物は卑しいものだとしています。神様が理想的な愛の相対者を求めようとする相対理想が絶対に必要だと考えるとき、それはあり得ないというのです。神様が神聖であられるからには、その神聖な方が相対理想を通して求めようとする愛の対象者も神聖だというのです。人間の特権的権威は、ここから成立します。

19 哲学の最後の終着点は神様を発見することです。その神様は、どのような神様でしょうか。絶対的な神様、不変の神様、唯一の神様です。神様を発見するとき、その神様は人間に必要な人格的な神様でなければなりません。人間と関係を結ぶためには、人間が考える内外のすべてを備え、意志を備え、理想を備えた人格的な神様でなければならないのです。情緒的な領域や、意的な領域や、知識的な領域や、あらゆる領域で、人間と通じることができ、完全に関係を結ぶことができる神様でなければ、いくら神様がいるとしても、人間とは完全な関係をつくることができません。このように考えるとき、哲学は、人格的な神様でなければならないという表題に基づいては、神様をあがめ、尊んでこなかったのです。

20 神様が必要とするものが愛ならば、神様は神様に似たものを愛されます。ですから、神様が好み、愛を分かち合える、相対的なものを必要とするのです。人間がそのような相対ならば、人間を中心として見るとき、神様は人格的な神様でなければなりません。それとともに、そのあらゆる要素が100パーセント和合しなければなりません。心と体のすべてが和合する神様でなければなりません。ですから、情、知、意をもった神様でなければならないのです。

21 神様を中心として見てみると、神様は人格をもった神様です。神様は人間の主体なので、人間と完全に通じる人格者です。そのようなお方ならば、その方が考える人倫道徳があるはずです。人間はこれこれこのように生きなければならない、という法則があるはずです。人間に人倫があり、人情があるのと同様に、神様においても天倫があり、天情がなければなりません。神様は主体者としての愛をもたなければならず、そのような法度をもたなければなりません。また人間は、対象者として愛をもたなければならず、その法度をもたなければなりません。人倫と人情があるのに、天倫と天情はないというならば、これは論理に合いません。

22 「元亨利貞(ゲンコウリテイ)は天道之常であり、仁義礼智は人性之綱である」という言葉があります。「仁義礼智」を重要視したのです。「元亨利貞」は、自然の変わりなく循環する春夏秋冬の宇宙軌道についての説明です。しかし、人格的な神様が分かりませんでした。自然世界の陰陽の道理は解きましたが、愛や血統や完成ということが分かりませんでした。神様は東西南北の均衡をとった主体と対象、性相と形状の中和的存在だということが分からなかったというのです。

23 この天地を運行する神様は、人格的な神様です。人格的な神様は、人間を中心とする理想的家庭を中心として父母にならなければならず、夫婦にならなければならず、子女を率いて一族を編成し、一族を中心として一国を編成して世界の統一、天の大家族国家を形成しようとするのです。そのようになれば単一民族になります。イエス様が「神のひとり子」と言ったことは驚くべき宣言です。その次には、「新郎新婦」を語りました。男性として達成すべき最高の基準を教えたのです。ヨハネによる福音書第十四章を見ると、骨子をすべで語っています。ですから、のちに新郎新婦を訪ねてきて、家庭編成、氏族編成、国家編成、世界統一天下のために再臨するというのです。

24 愛を論じようとすれば、人格的な神様でなくてはなりません。人格的に人と同じ素性と情緒をもった神様でなければならないのですが、そのような神様を揚示した宗教は、キリスト教しかありません。キリスト教では神様を「父、ヤハウェの神」といいました。「ヤハウェの神」を父と呼んだというのです。神様を「父」と言ったという事実は、偉大な発見です。

  

原理と法度の神様


25 神様は、原理の神様であられます。反対にサタンは、非原理的な立場に立った存在です。ですから、非原理的であるときはサタンが主管し、原理的であるときは神様が主管するのです。神様が天地を創造されたところを見てみると、神様がいて、その次にアダムとエバがいて、その次に天使長がいる、このようになっています。これが原理的です。

26 宗教生活とは何でしょうか。本性の生活です。本性は原理の中心です。神様は原理の主人です。ですから、神様は原理を管理することができます。本性の位置だけを中心として、神様が管理することができるのです。本性の位置は絶対的な神様と一つになっているので、本性も絶対的な位置に立とうとします。心が体に対していつも命令できるのは、絶対的だからです。また、原理的だからです。原理は、あらゆる事物の中心を決めます。原理原則であるほど、それは中心の近くの位置に行くのです。

27 善良な人、良い人は、全体の代表者です。ですから、善を中心として見てみるとき、原則的な原理の位置に近い人が、より善良な人です。その原理の中心が神様なので、原理に従う本心は、自動的に神様と一つになろうと作用します。その自動的に一つになろうとする作用が良心作用です。本来、良心は人間が堕落しなければ、体までも一つにすることができる主人でした。それが原理でしたが、堕落したので非原理的な基盤になりました。それで原理は、闘争しながらでも、非原理に対して常に作用せざるを得ません。これが良心作用です。

28 真は、必ず神様が中心にならなければなりません。ですから、人間を全体的に収拾し、主管できる決定的な基盤をもつようになるとき、真が成立するのです。その基盤をもつことができなければ、真という言葉は成立しないのです。真の起源は、神様であられます。神様がいらっしゃることによって、真が成立します。ですから、神様が離れるようになるとき、真も離れるようになります。そこには真ではない、悪の起源が生まれるのです。真があってこそ真の結果をもたらすことができます。言い換えれば、神様がいらっしゃることによって神様の願いが成就するというのです。ですから、真や善という言葉は、人間を主として立てられたものではなく、神様を主として立てられたという事実を知らなければなりません。

29 真とは何でしょうか。男性にとって、最も真理であり真なるものは女性であり、女性にとって、最も真理であり真なるものは男性です。また、神様にとって真は人であり、人にとって真は神様です。真理がほかの所にあるのではありません。神様が真であり、神様が真理なので、そこから始まったすべてのものは真であり、真理とならざるを得ません。そのような真のものがどのようにして完成するのでしょうか。男性と女性が一つになり、その一つになった男性と女性と神様が一つになるとき、真の愛を中心として完成するのです。真の愛でなければ完成はあり得ません。このように考えるとき、男性と言えば、その男性は真理の完成を代表した存在であり、女牲もやはり真理の完成を代表した存在です。男性と女性が一つになるのは、神様の完成とともに宇宙の完成のためなのです。

30 神様は、真理の主体であり、真理の本体であられるので、あらゆることが可能だといいます。神様が真理ならば、この原則は同じです。神様は、主体的存在であると同時に、主体としてあらゆることに責任をもたれるのです。自分に関係することでも、相対的なことでも、あらゆることの責任は自分が負うという立場にいます。ですから、神様は今まで歴史の中心になってきたのであり、また永遠に中心存在として残るでしよう。

31 神様が、法で天地万物を造っておいて、その法を無視すれば、その神様は、法を主管できる神様になれません。法を立てたのなら、法を守ることによって、法を主管できる神様になります。法を自分のものにすることができる神様になるというのです。法に反対すれば、その法を自分のものにすることはできません。法を守ってこそ、その法が神様めものになります。自分がその法と一つになったがゆえに、その法を中心として判断することができ、法に背いたと制裁することができ、命令することができます。そうでなければ、法をもって判決することもできず、宣告もできません。

32 キリスト教で「父なる神、全知全能の父」と言いますが、全知全能の神様も原則の基盤の上においての全知全能であって、無原則の基盤の上での全知全能ではありません。自分勝手にする神様ではありません。神様御自身が法を立てたならば、永遠のお方が制定した法は永遠です。自分が立てたものだといって、自分勝手にはできません。

33 キリスト教の牧師たちは、「全知全能で創造の能力をもった神様は、今からでも思いどおりにできる」と言うかもしれませんが、とんでもないことです。天地のあらゆる存在物は、法則、大原則に基づいて作用します。いくら神様でも、この法則を破壊して行動することはできません。この国の大統領でも、憲法を中心として制定されたすべての法、立法機関を通して制定された法を重要視しなければなりません。神様は絶対者であり、永遠、不変、唯一の存在なので、その方が定めた法も、絶対、唯一、不変だというのです。そして、この法に一致する相対者が必要です。相対者がいなければなりません。個人を解放できるその法に一致できる、世界を代表できる相対者が必要だというのです。

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第一節 心情の神様

第二章 心情と真の愛の神様

第一節 心情の神様


1 神様は心情の主体です。ですから、神様も無限に悲しい感情をもっていらっしゃり、無限にうれしい感情をもっていらっしゃいます。神様だからといって、喜び、うれしい感情ばかりもっていらっしゃるのではありません。悲しいとすれば、人間たちが到達できないほど深く、広い悲しみの心情をもっていらっしゃるお方です。

2 人間を造った神様は、私たちの心と体の主人であることはもちろんであり、私たちの理念や、私たちの感情世界の主体の位置、主人の位置に立つことのできるお方であり、さらには、私たちの心情の主人であり、主体であられるお方です。私たちには、このような神様が絶対的に必要です。私たちの意識や人情で観念的に必要なのではなく、絶対的に必要です。そのような主人を失ってしまったことが悲しみです。

  

神様は心情の主人


3 神様は、「私」の体と、私の心情の永遠の主人です。本然の世界は、いくら愛する夫婦だとしても、夫が妻よりも神様をもっと愛するからといって、妻はその夫を恨みません。また、妻が神様を夫よりもっと愛するからといって、夫は「なぜ私より神様を愛するのか」とは言いません。それを見て喜ぶことのできる世界が天国です。世の中のどのような愛、どのような内容をも超越した主体的な立場にいらっしゃる神様は、私の体の永遠の主人です。体の永遠の主人であるその神様の懐やその園にいることができれば、死んでもよいというのです。

4 真の内的心情の縦的な位置に立っているお方が、神様です。父です。それでは、真の父母とは何でしょうか。横的な心情を中心として男性と女性が父母になり、垂直線を補強できる「副体」になるのです。垂直線を曲げてはいけません。この中央線にサタンが侵犯できる道があるので、愛の骨の中で、これを補強できる愛の肉にならなければなりません。愛と化した骨と肉、愛と化した骨の立場の父が縦的な神様であり、愛と化した肉の父母の立場が真の父母です。これが核となって「副体」が決まるというのです。

5 心情の役事とは、人間の肉身と関係している場所を中心として語るものではありません。ここには天情が介在しています。この天情は、根源も天情であり、過程も天情であり、結果も天情の内容を備えなければなりません。ですから、神様の愛を中心として神様と一体となって生まれた、堕落していないアダムとエバのように、神様の血統を受け継ぐことのできる関係をもった自らにならなければ、心情的な勝利の土台を備えることができません。

6 本来、アダムとエバは神様の心情に通じ、神様の希望をもって躍動しながら、毎日の生活の中で神様の懐に抱かれて満足し、あらゆることに対して感謝する主体にならなければなりませんでした。ところが、彼らがそのような道を歩むことができない姿を御覧になる神様の心情の痛みは、苦しむ彼ら以上のものだったことを、私たちの先祖は知りませんでした。

7 今日の「私」はどのような心情でさまよい、どのような視線と、どのような五官をもって生を営んでいるのかを考える前に、皆さんはまず「天よ!私は、心情に対する感覚をもって生涯を生きていますので、昔、エデンでアダムとエバが堕落する前に神様と向き合っていた心情と、堕落したときの心情、神様がアダムとエバを追い出された心情、この人類をつかんでノアを立てる時まで千六百年の間苦労された神様の心情、ノアが百二十年間、山の上で箱舟を造ったとき、激しい冷遇と虐待を受けながらも天に従って苦労したその心情、紆余曲折と千態万象の歴史過程を経てきた神様の心情を、自分のものとして一度生きてみたいです」と言うことができなければなりません。

8 生活感情で、私たちが、神様の感情と共感した感情を、いかに感じるかということが問題です。一人でいれば、思わず「お父様!」と呼び求めることができなければなりません。そうすると、神様から「どうした!」と答えが返ってくる感覚を受けるようになります。一体になれば、そうなります。誰もいないようですが、誰かが私を主管し、指導しているというのです。そのような生活圏内に入った人ならば、神様がいる、いないということが問題にならず、困難にぶつかれば、必ず「私」を擁護してくれ、導いてくれることが分かる立場なので、神様を裏切っていくことはできません。

9 神様も、情、知、意をもっていらっしゃいます。神様から造られた人間に情、知、意があるのですから、神様は言うまでもありません。たとえこの地上の人類が堕落の子孫だとしても、本来は神様御自身の血族であり、直系の息子、娘なので、失った息子、娘を捜し求める父母以上の心情で歩んでこられたお方が神様です。ですから、私たちがこの地に対して涙を流し、死と苦痛で倒れ、悲哀に満ちて悲しむ場面が、正に神様の悲哀と悲しみが反映された場面、場面なのです。ですから、善良な人を蔑視し、善良な人を迫害し、善良な人の命を奪った個人、家庭、民族は長続きしません。神様がそれを記憶するからです。したがって、私たちは自らの涙が落ちるたびに、天の涙が落ちることを知らなければなりません。怨讐に対して無念で悔しい思いが湧き起こるたびに、神様が赦しの涙を流されることを私たちは知らなければなりません。恨みを晴らしても、「おい、こいつ、お前は、よくぞ死んだ」と言う神様ではありません。人を怨讐だと思って打つのではありません。

10 先に与え、打たれて復帰してくる神様です。皆さんもそうでなければなりません。神様の悲惨な経綸も、私たちのためです。「お前と共に語り合い、お前と共に働きたい」と言いたい神様の歴史的な心情を知らなければなりません。神様は、忘れることなくお待ちになります。「私」はいつ神様の復帰摂理に同参(一緒に参加すること)できるかを考えてみなさいというのです。神様と共に住むことができる生活舞台を見いださなければなりません。そして、神様のように考えることができ、語ることができ、行動することができる道を求めていかなければなりません。

11 神様は、全天宙を創造された創造主であると同時に、私たちの真の父です。その真の父は私たちを訪ねてこられるでしょう。どのような運命の紆余曲折に置かれても、それを越えて、その真の父のみ手をつかみ、歴史的な願いと自分の生涯の願いの心情を抱き、「私の父よ!」と最後の一言を残す時まで、人間は行かなければなりません。死の道が横たわっているとしても、そこまで行かなければなりません。終わりの日に、人類の中でそのような道を走っていき、創造主であり、絶対者である神様に対して、「私の父よ!」と呼び求める群れが現れるようになるとき、そこから神様の新しい経綸が始まるのです。

12 私たちがより良い善を指向し、より美しい美を求め、より情的な愛を探し求める一番の目的とは何でしょうか。それは、創造主の天的な心情と関係を結ぶことです。このような見地において、神様の心情、天倫の心情、人倫の心情を探るとき、これらの心情が一つの目的に向かって正常に動いているのかといえば、そうではないというのです。人間社会における人倫と摂理の法度に従って動いている天倫は、方向が異なっています。このような事実は、堕落の結果です。堕落によって創造主の心情と天倫の心情、人倫の心情が相反しているという悲しい事実を知らなければなりません。このような自分たちだということを認識し、このような社会だということを認識し、このような世界だということを認識して、歩みを止めて再び復活した被造世界を見つめようとし、創造主の心情を再び見つめようとし、社会の実状を再び見つめようとし、自分の心と体に再び注目しようとしなければなりません。このようにしなければ、新しい理念の世界、新しい情的な世界は、人類歴史に登場できません。

13 天の勇士になろうとすれば、神様の心情を知らなければなりません。国の忠臣になろうとすれば、国王の心情を知らなければならず、父母の前に孝子になろうとすれば、父母の心情を知らなければならないように、天の勇士になろうとすれば、神様の心情を知らなければなりません。神様の創造前の心情と創造当時の心情、また創造以後、人間が堕落する時の悲しい心情と、その悲しい心情を抱いて復帰歴史を綴ってこられた復帰の心情、そして、復帰したのちの世界を希望される、その心情を知らなければなりません。

14 統一教会で言う神様の心情は、長く、大きく、深いものです。創世前の神様の心情、創世当時の神様の心情、創世以後、アダムとエバが堕落する時の神様の心情がどうであったかを知らなければなりません。アダムとエバが堕落して、神様の胸にどれほど大きな釘を打ち込んだかを知らなければなりません。堕落した以後にも、神様がどれほど悲しまれたかを知らなければなりません。また、復帰路程を歩んでこられながら、どれほど悲痛な心情をもって訪ねてこられたかということを知らなければなりません。復帰の世界をつくるために、御自身の息子、娘たちを凄惨な死の峠に追い立てながら、耐えていきなさいと告げられた神様の心情が、どれほど悲痛だったかを知らなければなりません。そうして最後の一つの中心存在を通してこの罪悪世界を清算し、神様の心情的な恨を解いてさしあげてこそ、み旨は成就するのです。

15 復帰摂理歴史を見ると、神様は世界的な運勢を起こしてこられました。神様は太初に広大な宇宙を造られ、その中心にアダムとエバを立てられました。アダムとエバを造る時、万物のすべての要素をもってお造りになり、多くのものを賦与されましたが、その中で最も重要なものとは心情です。心情は四位基台の中心であり、四位基台の核は愛です。あらゆる存在の最も核心的な基点は心情です。

16 愛と心情は、どのように異なるのですか。普通、愛といえば、心がうきうきしている気分を感じ、心情といえば、心と密接な閾係があるように感じます。その心情は、四方性を有しています。ですから、心情が愛よりも全体の中心です。心情は、愛の過程を経た結果的な立場と同じです。それで心情は、立体的な世界の中心です。ですから、統一教会は今まで、愛の世界より心情の世界を創建しようと主張してきたのです。このように、あらゆるものの中心は心情ですが、この心情は必ず家庭を中心として出てきます。そのような心情が、神様を中心として連結されて一つにならなければなりません。この時、一つになる心情は、個人的にも、家庭的にも、民族、国家、世界的にも一つにならなければなりません。このように見るとき、復帰の完成というものは、心情を除外してはできません。中心の位置を立てることができないからです。

  

心情を通して感じられる神様


17 歴史的な神様の心情は、六千年間悲しみでした。不信した私たちの先祖たちに対して、無念な思いをもっていました。今、私たちは、悔しく悲しい神様を慰労してさしあげる祈りを捧げなければなりません。今、世界に散ちばっている第一、第二イスラエルに対する神様の心情は、悲しみです。その父の袖をつかんで、「父よ、どうしてあなたの心情はこのように痛ましく無念なのでしょうか」と言うとき、その手をつかんで「おお、私の息子よ、私の娘よ!」とおっしゃることのできる群れが現れなければなりません。

18 今日、新郎が新婦を復帰するために手紙形式で書かれた聖書のみ言には、暗号がたくさんあります。なぜ暗号で語られたのでしょうか。心情の神様だからです。聖書は誰もが解けるわけではありません。新郎だけが解くことができます。心情を通して侍ることのできる準備をした人だけが解けるのであって、そうでない人は解けないようになっています。それでは、ここにある暗号の正体とは何でしょうか。新郎が来ることのできる門を開く秘訣です。その秘訣が心情なのです。父母の心情は、幼子を抱いてお乳を飲ませるときも、その子女の頭が白髪になったときも同じです。その心情には差がありません。

19 キリスト教徒たちは、「主は雲に乗って来なければならない」と言います。それならどれほどよいでしょうか。本当にそうであれば、私たちも苦労しません。そのような形で信じようとするなら、牧師や長老たちに負けないほど信じたでしょう。精誠を尽くすことにおいても、誰にも劣らなかったでしょう。主が雲に乗って来られて、どうするというのでしょうか。今までのキリスト教の歴史を調べてみれば、霊的な領域しかなかったために、虐殺され、殺害されながら来ました。地の基盤がないため、数多くの国家の主権者たちに虐殺され、犠牲にならなければなりませんでした。それだけでも悔しく恨めしいのに、再臨主までがまた霊的な存在として来て、どうしようというのですか。キリスト教徒だけこっそりと他へ移して、ほかの人たちはみな葬ってしまうという話ですか。神様は、決してそのようなお方ではありません。聖書の放蕩息子の比喩のように、神様は自分の長男だけでなく放蕩息子である次男も愛する、心情の神様であられます。

20 六千年の間、心情に飢えた大主宰であり、大王として今まで苦しんでこられた神様であられることを、はっきりと知らなければなりません。その神様を慰労してさしあげなければなりません。その神様は、すべての世の中を一度に審判してしまいたいという切実な気持ちがありましたが、御自身の目的があり、御自身の願いと希望がこの地上にあるので、それを見つめて耐えに耐え、さらに耐えてこられたことを知らなければなりません。そのような神様を「父」と呼ばなければなりません。名前だけの神様ではなく、心情の神様を「父」と呼ばなければなりません。そうして私たちの血族でない血族、父母でない父母、兄弟でない兄弟たちが世界的に動員され、天の志操を立てることができ、天の心情と関係を結んで古今東西を超え、民族と国家を超え、天上の心情を中心として動くことができる新しい主義が、この地上に出てこなければなりません。それが出てこなければ、世界は崩れていくのです。

21 今、人間は行く所がありません。しかし、最後の決着をつけなければならないので、絶望の中だけにいるわけにはいきません。今からは、真の真理をもって新しい天地に入っていける、真理による開放運動が広がらなければなりません。失望と絶望に直面している環境を整備し、たった一つしかない生命の道に導いていける基準が現れなければなりません。ですから、今まで何主義、何主義といいながら真理を探してきたのです。完全な真理が現れる時に、初めて世界は完全に統一されるのです。真理に通じてからは、人格を完成しなければならず、その次には心情を完成しなければなりません。

22 私たちは、心情を通して歴史的な神様を知らなければなりません。創造当時から神様は、心情の神様でした。私たちは創造当時の神様の心情と、人間の堕落以後の神様の心情がどうであり、歴史過程を経てきながら、どのような心情をもってこられたかという歴史的な神様の心情を知らなければなりません。皆さんは、信じるには信じていますが、神様の心情が分かりますか。神様の心情を知らなければなりません。その次には、時代的な神様の願いとは何であり、時代的な神様の心情がどうであるかを知らなければなりません。そうして、未来的な神様の心情を知らなければならないのです。

23 切実な心情をもって任せられた使命を完遂するために、無限に努力したにもかかわらず、結局は十字架にかかるようになったイエス様の姿を見つめられる、神様の悲しい心情を感じなければなりません。イエス様には、万民を身代わりし、全字宙を身代わりして神様の悲しみを解いてさしあげ、神様のみ旨を成就してサタンを屈服させなければならない使命がありましたが、不信する群れから、あちらで追われ、こちらで追われて、結局はゴルゴタ山上で十字架にかかるようになりました。このようなイエス様の心情は、どうだったでしょうか。自らを中心として約束されていたすべてのみ旨が破壊されてしまい、自らの一生が結局は十字架の刑に帰結することを感じたイエス様でしたが、それでもイエス様は最後まで天を裏切らず、天に対する忠誠の道理を果たされました。すべての人間がイエス様を不信しましたが、イエス様はそのようなこととは関係をもたず、天倫に向かうその道を一生の目標にして進んでいったというのです。そのようなイエス様の一生が、人間にとって歴史的な希望の道となりました。

24 堕落したこの地上に神様の恨があるとすれば、それは真の父母が存在せず、真の夫婦、真の子女がいないことです。これが神様の嘆きです。パウロは、堕落した人間が養子の姿で救いを得るだろうと言いました。しかし、それは養子であることを知らなければなりません。いくら優れているといっても、養子だというのです。それでは、神様の悲しみとは何でしょうか。それは、直系の子女が養子になったことです。ですから、歴史は、神様の直系の子女を回復するための悲しみの歴史路程です。このような神様の歴史的な悲しい心情を知っている人は、神様を近くに迎えることができるでしょう。また世の中で子女を生んで育てて生きる父母は、子女を愛することによって神様の心情を感じることができます。ですから、本当の夫婦の愛を感じる人は、それを通して神様の本然の愛を感じることができなければなりません。子女が父母を愛することにおいても、やはり同じです。そのような基準がこの地上に現れれば、私たちには善に対する理念が必要になります。「私」自体が善の本体でありながらも、今日の「私」自身は、その中心による相対的な生活観しかもっていません。あらゆるものの主体として立つことのできる価値の中心、生命の中心、理念の中心、愛の中心になることができるのは、真の父母の愛の心情によってのみです。

  

真の父母、真の師、真の主人の主体であられる神様


25 神様を完成させるのは、愛を中心としたアダム家庭です。神様を完成させるのは、人だというのです。また、人を完成させるのは神様の愛です。これが神人一体理想です。「君師父」という言葉があります。王と師と父です。「君師父一体」という言葉は、三大主体思想を意味するのです。父母の心情も、ために生きる愛です。愛する子女に対しては、より投入して忘れることのできる生活を送ってこそ父母です。神様は三大主体思想、君師父の主人です。神様は父の中の父であり、師の中の師であり、王の中の王です。

26 神様は父母の中の真の父母であり、師の中の真の師であり、王の中の真の王です。神様は、永遠の真の父母であり、永遠の真の師であり、永遠の真の主人です。私たちが神様の息子、娘になるとすれば、まず神様のような真の父母にならなければなりません。神様のような真の師の道を行かなければなりません。そして、神様のような真の主人になる道を行かなければなりません。これが三大主体思想です。究極的なモデルは神様です。

27 三大主体思想の中心とは誰かというと、父母です。父母のような師、父母のような国王にならなければなりません。父母の中の父母、一番の父母が神様です。ですから、神様のような父母、神様のような師にならなければなりません。これが三大主体思想です。地上でもこの三大主体思想だけが残り、天上でもこの三大主体思想だけが残るのです。

28 「主体思想」という言葉は、三大主体思想の中にある三つのうち、どれでもすべて当てはまります。三大主体思想は、三つがすべて「主体思想」なので、真の父母をもってきても、そこには真の師がいて真の主人がいます。真の師をもってきても、そこには真の父母がいて真の主人がいます。真の主人をもってきても、そこには真の師がいて真の父母がいます。三大主体思想の三つは対等です。神様は、真の父母であると同時に、真の師であると同時に、真の主人です。どのような師でしょうか。ために生きて、さらにために生きながら教えてあげようとする師です。また、どのような主人でしょうか。すべてを握って自分のものにしようとするのではありません。神様までもあなたのものにしてあげようとするのです。「あなたが主人になるのだ」ということです。ですから、これを一言で表すならば、「生んで、育てて、立ててあげよう」です。総論は、「生んで、育てて、立てて、主人にしてあげよう」です。神様も同様です。人を創造して、育てて、天宙の主人である神様の代わりに、愛をもった者として自分よりも高い位置に存在するようにして、主人にしてあげようとするのです。

29 神様の創造理想は、家庭理想です。家庭をつくろうとしたのです。家庭が形成されるためには、生んであげなければならず、育ててあげなければならず、立ててあげなければなりません。それを父母がします。神様と同様です。神様は、真の父母の立場にいらっしゃるお方です。ここから三大主体思想が出てきます。第一は真の父母、第二は真の師、第三は真の主人です。これを毎日の生活信条にしなければなりません。

30 神様は三大主体思想の主人です。神様は父母です。父母が絶対に必要であり、真の師が必要です。世の中が混乱しているので、この三つのうち真の父母だけを見いだしても生きていくことができます。真の師だけを自分のものにしても滅びません。真の主人だけを自分のものにしても生きていけます。永生の位置に行くのです。なぜでしょうか。ために生きる天理の位置に立つからです。神様がそうなので、自分の家庭で三大主体思想の実体を形成して皆さんが父母にもなり、師にもなり、主人にもなりなさいというのです。そのようになれば、すべて終わるのです。大きな神様から広げて、「私」の家庭ですべて成就するようになれば、ここにすべての垂直の軸が立てられるのです。それが統一的起源なので、神様のものが「私」のものになるのです。ですから、神様に似なければなりません。それが三大主体思想です。

31 皆さんの心と体を見るとき、心がどれほどかわいそうですか。心は、神様の代身です。心は、先祖たちを代表します。心は師を代表し、国王を代表します。しかし、これまでこの心をどれほど蔑視し、ないがしろにしてきましたか。宇宙の中心として真の父母、真の師、真の主人の立場にある、真の愛をもった主体としていらっしゃるお方の代身である心が、この地上で、自分一人を収拾するために、どれほど犠牲になってきたでしょうか。そのように犠牲になりながらも、不平を言いません。ひたすら蔑まれ、引きずり回されながらも、死んでしまったと思っていたら、悪い考えをもって明け方にどろぼうしようとすれば、「おい、こいつ」と、再び生き返って忠告します。皆さんはそのような心を、どれほど弄びましたか。心は、父母の代身であり、師の代身であり、主人の代身です。

32 本郷においては、神様を王として侍らなければなりません。神様は、宇宙の王であり、国の王であり、氏族の王であり、家庭の王です。神様は、宇宙の師であり、国の師であり、氏族の師であり、家庭の師です。神様は、字宙の主人であり、国の主人であり、氏族の主人であり、家庭の主人です。これが三大主体思想です。ここには、ために生きる愛、ために生きて忘れる愛の本質があるがゆえに、この三つ自体が天を代表するというのです。自分自身が、その三大主体思想をすべて備えるとすれば最も理想的ですが、それをすべて備えられなくても、真の父母の立場に立てば、師は右側、主人は左側に立つのです。ですから、この三つのうち、どれか一つだけでももてばいいのです。真の父母になるか、真の師になるか、真の主人になるか、いずれか一つの立場に立てば、天国入籍は問題ありません。これさえすれば統一されるのです。

33 人間が堕落しなかったとすれば、神様がアダムとエバと共にアダム家庭から父母になり、師になり、主人になります。その次に氏族に上がります。家庭から氏族の位置に上がって氏族の父母になり、師になり、主人になり、その次に民族の父母になり、師になり、主人になります。そのような意味から考えてみれば、大統領とは何でしょうか。大統領は国の父母です。ですから、国民たちは大統領を父母として侍らなければならず、師として侍らなければなりません。その大統領は、すべての民族の意気と全体の歴史的背景を代表して、行動の領域でその代名詞にならなければなりません。そして、師になって主人の位置で、今まですべての国民を管理していた国家体制をそのまま伝授していかなければなりません。それが世界に拡張され、天地もそのようになるのです。神様と言えば、そこに逆らうものは何もないというのです。そのお方は、私たちを生んでくれた生命の根本となる父母であり、あらゆる知識の根源者であり、「私」が悟って生活することのできる自由環境を、歴史を通して備えてくれた師であり、そのすべてのものを準備して備え、私に譲り渡してくれた主人であるに違いないからです。この原則は、天上世界では永遠不変です。それが、私たちが立てるべき三大主体思想です。私が神様のように真の父母になり、真の師になり、真の主人にならなければなりません。

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第二節 真の愛の神様

第二章 心情と真の愛の神様

第二節 真の愛の神様


1 神様は、全知全能であられるお方なので、願うとおりにみな成就することができ、したいとおりにすべてすることができます。ですから神様には、ほかに理想とするものはありません。ただ一つ、愛だけが必要です。いくら絶対者の神様だとしても、一人では愛をもつことはできません。愛は必ず相対的関係でのみ見いだせるので、神様がいくら全知全能であられるお方だとしても、愛だけは神様お一人では所有できないというのです。もちろん愛の素性をもっていますが、愛の刺激と愛の信号は、相対を通じてのみ再現されるのであって、御自分だけでは顕現させることができません。これが愛です。愛の力です。

2 神様が人間を造られた目的とは何でしょうか。神様の愛を中心として完成した人を標準にされました。それが基準です。神様の愛を中心として完全な人になるのです。能力のある人、主管性のある人以上に、神様の愛を中心として永遠に一つになり、永遠に共に遊び、永遠に共に楽しむことができる完成した人、愛を中心として一体となり得る立場で完成した人が、神様が理想とされる最高の基準でした。

  

神様は愛の主管者


3 真の愛は神様から始まりました。神様から出発して続いていくので、結局、神様に帰らなければなりません。神様は万王の王です。神様は絶対的なお方なので、神様の愛が永遠であることは違いありません。ですから、その絶対的な愛の対象の位置に立ったとすれば、それは自動的に永生するに違いありません。人間が永遠に生きたいと思うのは、本然の創造の根源からそのようになっているからです。ですから、そのような願いをもっのは当然です。

4 真の愛は、必ず相対的基盤を通して成り立つようになります。夫婦間の真の愛は、自分たち夫婦だけのためのものではありません。神様の創造理想を中心とした真の愛にならなければなりません。絶対的な真の愛の主人は神様です。神様の真の愛で自分の相対と一つになろうとするとき、絶対的な神様の真の愛が臨在するのです。真の夫婦は、神様の真の愛を抱いて一つになり、希望をもって、未来の世界に向かって進まなければなりません。子女の妊娠も、一族の繁栄も、この基台の上でなされます。夫婦の真の愛が生活環境圏を超えて、神様の真の愛の理想と一致する家庭をつくるのが究極的な願いです。

5 神様が存在しないとすれば、人間はこの世で生きる楽しみがありません。目は何を見なければならないのでしょうか。良いものを見なければなりません。映画を見るのも、悪い映画を見ようとするのではなく、良い映画を見ようとします。そして、感動を受けるために良い映画を見にいくのです。耳も良いものを聞こうとします。悪いものは聞こうとしません。良い声の中でも、最高に良い声を聞こうというのです。ですから、人間は、見るのも最高に良いものを見て、聞くのも最高に良いものを聞き、匂いを嗅ぐのも最高に良い匂いを嗅ぎ、触れるのも最高に良いものに触れたいと思います。それでは、最高に良いものとは何でしょうか。愛です。それでは、愛の主人、愛の大王とは誰でしょうか。天地を創造した神様です。

6 全知全能であられる神様、存在されない所がない神様、知恵の王であられる神様は、人間世界で一番悪いものでも、一番良いものにできる能力をもった神様です。ですから、そのようなものを探してみると、愛の支配者の立場が、神様が御覧になるときに、一番良く見える立場でした。愛の支配者の立場が神様に一番似合う立場だというのです。愛の支配者になるためにはどのようにしなければならないのでしょうか。支配者とは、自分の思いどおりにする人を言います。神様は愛の支配者です。「私のために生きよ」と考える支配者ではなく、ために生きようとする支配者です。ですから、自分のために生きる人は、神様とは関係ありません。神様の愛と関係を結ぶためには、自分のために生きようとしてはいけません。自分のために生きようとする人は、神様とは関係ありません。ですから、愛の支配者になるためには、自分のために生きるのではなく、ために生きようとしなければなりません。ために生きようとする愛の支配者、絶対的な主人であるお方が神様です。ですから、ために生きようとする愛を本質として、絶対的な唯我独尊の位置にいらっしゃるお方が神様なのです。

7 神様は、愛の支配者です。永遠にために生きようという、永遠無窮にために生きようとする愛の支配者が神様です。そのような神様なので、そのお方と関係を結び、そのお方と愛の圏内で統治されるためには、「私」も、ために生きる愛をもって主張しなければなりません。そうでなければ、神様は相手にもしないというのです。

8 絶対的な神様も、愛を中心としては絶対服従しようとされるのです。これは、キリスト教の神学にはない言葉です。力の世界を中心として見てみるとき、キリスト教文化圏は多くの血を流しました。力さえ保持すればみなできると考えるのです。「神様は思いどおりにすることができる」と考えました。それが誤っていたのです。絶対的な力を主張する神様も、愛が定着できる所、愛が立つことができる所を求められるのです。神様も、絶対的に愛を好むのです。どのくらい好むのでしょうか。絶対能力を発揮することよりも好みます。全知全能で遍在することよりも好みます。それはどういうことでしょうか。神様は、すべてのものを捨てたとしても、愛を中心として絶対服従しようとするというのです。そうしてこそ筋が通ります。神様は人類の父であると言いますが、父自身が愛を中心として生きずに、息子、娘に「子女たちよ、お前たちは愛に絶対服従して生きなさい」と言うことができるでしょうか。根源がなければなりません。ですから、神様御自身も愛に絶対服従して生きるとき、「私がこのように生きるので、お前たちもこのように生きなければならない」と教育できるのです。

9 真なるものとは何かというと、絶対的な愛です。絶対的な神様も、真の愛には絶対服従しなければなりません。男性と女性が愛の道を探し求め、「その男性、その女性でなければならない」と思うときには、自分の生命を超えて動こうとします。その愛する相対のためには自分の生命を捧げようとし、自分のすべてのものを、過去、現在、未来をそっくり犠牲にしても、その愛と一つになろうとします。これは、堕落した愛でも、そうだという話です。本然の神様が願った完成した愛であれば、どれほど強いでしょうか。生命が問題ではありません。ですから、神様御自身の生命までも否定させ得るものが真の愛の力です。もし、神様が愛も思いのままにすることができるとすれば、平和の世界にはなりません。独裁的な単一世界に、はなるかもしれませんが、和合して相対者の立場で授け受けすることができ、お互いにために生きることのできる愛がなくなれば、平和の世界、一つの世界はできないのです。

  

真の愛ゆえに生まれた人間


10 神様は、なぜ万物を造ったのでしょうか。御自身が愛する対象者をもつためです。御自身が愛する対象圏を造るためです。その対象が地上で生きたのちに、自分の本然の世界に戻ってきて、永遠なる神様の愛の本国に来て生きるようにするためです。男性は女性のために生まれ、女性は男性のために生まれました。それは愛ゆえです。男性と女性が、なぜ愛をもとうとするのですか。神様の愛のためです。それが真理です。

11 神様の主流の属性は、絶対、唯一、不変、永遠です。絶対愛、唯一愛、不変愛、永遠愛です。この愛を求める道を行くためには、自分を中心として考えては、そこで終わるのです。しかし、男性は女性に対し、女性は男性に対し、絶対的に、唯一的に、不変的に、永遠的にために生きる立場において、神様の属性の主流である絶対愛、唯一愛、不変愛、永遠愛が現れるのです。私たちは、永遠の神様に似て、永遠の生涯を中心として生まれたので、永遠の真の愛を中心として生きるのです。その真の愛は、二つではなく一つです。唯一的愛です。また、いくら唯一的で絶対的でも、変化すれば大変なことになります。ですから、不変的愛であり、永遠の愛です。

12 神様の主流属性である絶対的な愛の個人の位置、また絶対愛の家庭の位置、絶対愛の氏族、民族、国家、世界、天宙の位置は分かれているのではなく、すべて一つになって大きくなっていったというのです。頂上に上っていき、個人時代、家庭時代、氏族時代、民族時代、国家時代、世界時代として、一つの中心と連結して拡大した世界にならなければなりません。無形の神様の属性を中心として、男性格主体の絶対主人の立場を中心として、縦的な立場に立ちながら、これが正常に大きくなっていったとすれば、堕落のない世界なのです。

13 アダムとエバは、絶対創造主の体です。体として造ったのです。無形の実体では、実体の刺激の世界と向き合うことができません。それで、神様は、アダムの心に入ってアダムが成熟することを願い、エバの心に入ってエバが成熟することを願いました。しかし、アダムとエバは、神様が成熟することを願った、その時に堕落しました。堕落していなければ、私たちは、神様の直系の血統を受けた息子、娘に、間違いなくなっていたでしょう。神様が根になっているというのです。神様が愛の根です。しかし、堕落したために、神様の愛を土台にした根は生まれませんでした。

14 神様は、人間の先祖アダムとエバをお造りになり、どのような基準に立てたいと思われたのでしょうか。神様が本然の人間を造られた目的は、決して人間を悲しみの中に、苦痛の中に、不幸の中に置こうと思われたのではないのです。神様の働く所として、神様の心の場として、神様の愛の対象としてお造りになりました。アダムとエバは、神様の働く場所であり、心の家であり、愛の対象でした。善であられる神様が造られた創造の世界もまた善なので、アダムとエバが活動するその生活環境も善でなければなりませんでした。それが創造当時、神様の目的であり理念でした。

15 神様が愛の対象を探すために創造した思想とは何でしょうか。投入して忘れることです。これが宇宙発生の基本思想です。ところが、堕落することによって反対になりました。神様は相手のために自分を犠牲にして完全投入し、より良い第二の相手を造ろうとしますが、人間は堕落して、自分を中心として相手を犠牲にしようとします。ですから、堕落した世界では個人主義が世界版図にまで広がって、地上地獄として破壊現象を起こすのです。それが現世です。

  

愛で完成される創造理想


16 神様は、無形の神様です。「正」から分かれていくのですが、そのまま無限に分かれれば見えなくなるので、再び「合」によって現れるのです。そこから大きくなって上がっていきます。大きくなって上がるようになれば、神様は最高の位置に存在するようになりますが、神様はどのように完成するのでしょうか。実際、神様がどのように完成するのかという話は初めて開く話ですが、内容のある話です。神様も完成しなければなりません。全知なので知識の完成ではありません。創造理想はお金の完成ではありません。権力の完成ではありません。愛の完成です。

17 神様御自身は絶対者ですが、絶対に必要とするものは愛です。神様も愛のために存在します。愛のために生きるというのです。私たち人間は、神様の二性性相の一つの性、すなわち内性に似て生まれました。アダムは神様の二性性相の半分、一部分であり、エバは神様の二性性相の半分、一部分です。ですから、これ自体だけでは完成があり得ません。言い換えれば、男性自身の完成、女性自身の完成があり得ないというのです。それで、男性は女性に出会わなければならず、女性は男性に出会わなければなりません。

18 人間完成の道はどこにあるのでしょうか。男性なら男性自体で完成する道はなく、女性なら女性自体で完成する道はありません。それは、すべて半製品だからです。ですから、男性と女性は、完全に一つになった愛を中心としてのみ完成します。アダムとエバが完成するには神様が絶対に必要ですが、神様は縦的な立場で必要なのです。アダムとエバが完成しようとすれば、縦横の愛の関係をもたなければなりません。縦横の愛の関係をもたなければ回転運動、球形運動が不可能です。ですから、横的な立場でアダムに絶対に必要なのはエバです。同じように、エバにも横的に絶対に必要なのはアダムです。

19 愛の概念から男性と女性が分かれました。見えない神様は、一致したところでは愛の刺激を感じられないので、分立させて刺激を感じようとしたのです。言い換えれば、無形の神様の実体の内容が、有形の実体の内容に展開したのです。無形の性相と形状の実体圏が有形の実体圏、性相体と形状体に展開しました。それが再び無形の実体になろうとすれば、一つにならなければなりません。神様が実体としていらっしゃるので、無形の性相と形状の愛で一つにならなければならないのです。人間も、男性と女性が一つになった実体対象になるとき、初めて神様の愛の相対になります。

20 人間の創造とは、神様御自身が成長してきた過程を実際に再び展開させてきたものです。そこに神様が興味を感じ、刺激を感じるのです。人も同様です。画家が、傑作を作るために絵を描くのは、自分の内的な素性をすべて実際の形象として展開させることです。自分の骨髄の中の深い所まで搾り出して投入するのです。

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第三節 真の父母であられる神様

第二章 心情と真の愛の神様

第三節 真の父母であられる神様


1 男性は神様のプラスの性稟の、女性は神様のマイナスの性稟を身代わりした実体対象です。創造理念は、両性の中和体としていらっしゃる神様の性相を二性に分立したのちに、再び神様の本性相に似た姿に合性一体化します。一人の男性と一人の女性は、各々神様の一性に似て現れました。したがって、これらの一男一女の結合は、神様のプラスの性稟とマイナスの性稟が一つとなることです。すなわち、神様に似た中和体となるのです。ですから、二人、すなわち夫婦は、神様の全体を表象する結合体です。男性は神様のプラスの性稟を身代わりすることによって真の父の分身となり、女性は神様のマイナスの性稟を身代わりすることによって真の母の分身になります。彼らは各々神様の代身者でもあるのです。

  

宇宙の中心は父子の関係


2 私たち人類の父が神様です。私たちは神様の息子、娘です。神様が第一世ならば私たちは第二世の神様です。一世の神様がプラスであり、二世の神様がマイナスです。ブラスとマイナスが自動的に一つになるのが創造原理です。

3 天地の中心と宇宙の根本とは何ですか。先生が神秘的な境地に入って、神様に祈ってみると、父と息子、娘の関係、すなわち父子の関係だとおっしゃいました。分からない人たちは、肉親の父母、息子、娘との関係だと思うかもしれませんが、神様と人間の関係を意味するのです。

4 神様と人間は父子の開係ですが、どのようにしてそのような関係が結ばれたのでしょうか。皆さんが神秘的な境地に入って祈るとき、「人間は被造世界の中心ですが、この宇宙の中心は何ですか」と尋ねると、「父子の関係だ」という答えを得るでしょう。宇宙の中心について一言で結論を下せば、父子の関係だというのです。人々は父子関係というものを、普通に考える自分の父母、すなわち人倫道徳を中心とした父子の関係のことだと思っていますが、そうではありません。それを立体的な立場で見れば、神様と人間は、父子関係の情を中心として一つになっています。その位置が宇宙の中心なのです。

5 愛を中心として見てみるとき、「私」は母の愛の実であり、父の愛の実です。神様の愛の実です。縦的な面では神様の愛の実であり、横的な面では父母の愛の実です。これを受け継いだのが私なので、父母は私に背くことができません。なぜなら、永遠にその愛に従って一つになり、永遠にその愛の中で生きたいからです。ですから、父母は、堕落したとしても、その息子、娘と永遠に暮らしたいと思うのです。

6 神様御自身も心と体をもっていますが、それが主体と対象の関係で絶対的に一つになっています。一つになっているので神様が安息できるのです。神様は、永遠に心と体が一つになった立場にいらっしゃいます。真の愛を中心として一つになっています。そして、そのように一つになった対象の存在を必要とするので、人間を造りました。父子の関係は血統的関係です。父母の要素を息子、娘がすべて受け継ぎます。父母の性相と形状を、主体と対象の関係と同じように受け継ぐのです。父母と同じように、プラスとマイナスの要素を子女たちは受け継ぐのです。それ以外には受け継ぐものがありません。神様の愛で一体になり、すべての骨格が一体になり、神様が一つになるのと同じように、心と体が一つになるところから相手が必要になります。そのような立場において、男性は女性が必要であり、女性は男性が必要であり、家庭が必要であり、子女が必要です。

7 心の立場を代表する父が神様であり、体の立場を代表する父が、堕落していない真の愛を中心とした人類の始祖です。統一教会では、歴史時代には分からなかったこの事実を突き止め、これに代わって対応する名称として使う言葉が「真の父母」です。ですから、横的な真の父母の立場が、本来の創造した理想観から見た神様の息子、娘の立場でした。アダムとエバの立場だったというのです。

8 神様は、愛の神様です。愛の神様が人間を本当に愛する位置はどこでしょうか。人間が求める最高の位置です。神様はその位置を愛さなければならない立場にいらっしゃるのです。人情と天情が結合するところは、神様と人間が父子関係を結ぶところです。宇宙の根本は、父子の関係です。その父子関係とは、天地を創造した絶対的な神様と、堕落していない本然の人間との関係です。人類が到達すべき本然の価値の位置は、神様が父であり、人間は子女だという位置です。

9 宇宙の根本は何でしょうか。始まりは愛であり、結果は父と息子です。神様は、愛を中心として父子関係を結ぶために宇宙を造りました。ですから、宇宙の根本も父子関係です。皆さんは宇宙の根本を中心として連結されています。したがって、皆さんも父になり、息子、娘にならなければなりません。

10 宇宙の根本は、正に父子関係です。私たちの本心が行く道は、千万人に尋ねても、神様を自分のものにし、神様の愛を占領するために行く道だと答えるでしょう。息子が十人いるとしても、息子たち一人一人に対する父母の愛には差がありません。万民が心と行動を一致させて神様を父と呼ぶようになる時、かわいそうな父から切なる愛が流れ出るというのです。父母の心情を経て、骨髄からにじみ出る愛が子女に宿るとき、ここが正に人間がとどまる最高の幸福の基点であり、人間の心の本郷です。

11 人は自分に似たものを好みます。理想世界は神様に似なければなりません。神様は天地を創造するとき、どのように造ったでしょうか。創世記第一章二十七節に、「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」とあります。神様のかたちに、男性と女性を創造したというのです。ですから、人間は神様に似ているのです。私たちが自分に似たものを好むのを見ると、結局、神様も私たちが神様に似ているので私たちを好むというのです。ですから神様は、天地万物を造っておき、神様に似たそれらを見ながら喜ぶのです。

12 神様は絶対的なお方であり、全知全能のお方です。そのような神様は誰に似たのでしょうか。私たちがそのお方の形状どおりに造られたので、神様は私たち人間に似ています。神様は人格的な神様です。ですから、神様は人間に似ているのです。人間を神様のかたちに造ったとあるので、父である神様は息子と似ているに違いありません。神様は人間に似ているのですが、どのように似ているのでしょうか。女性に似ていて、男性に似ているというのです。

13 「私」は誰に似ているのでしょうか。神様に似ているのです。神様を中心として見れば、私は神様に似ていて、私を中心として見れば、神様が私に似ています。言い換えれば、父を中心として見れば息子が父に似ているのですが、息子を中心として見れば父が息子に似ているというのです。神様は私たちに似ていて、私たちは神様に似ているというのです。私たちの欲は誰の欲に似ているのですか。神様の欲に似ています。神様の欲に似ているので、その欲は最高のものをもとうとするのです。神様は最高のお方であり、絶対者なので、取るに足らないものを保持しようとするのではなく、最高のものを保持しようとします。それが私たちの心です。

14 神様は全知全能で、遍在し、永遠のお方ですが、私たちはどこが似なければならないのでしょうか。私たちが神様に似ているとすれば、どのようにならなければならないのでしょうか。神様が永遠なら私たちも永遠でなければならず、神様が遍在するなら私たちも遍在しなければなりません。ですから、世界のどこにでも行って暮らしてみたいと思うのです。全知全能の力をもって全世界を一度に掌握して暮らしてみたいと思うのです。そのようにしたいと思うのは、神様に似ているということです。

15 神様と人間の関係を見てみるとき、神様が人間の父であり、人間が神様の息子、娘だとすれば、人間に対して「神様よりハンサムだ」と言っても、神様は気分が悪くありません。もし、気分が悪いとすれば、神様は堕落した人間より劣るというのです。ですから、愛が必要です。

  

真の父母であられる神様


16 神様は、縦的な真の父母です。真の愛を中心とした縦的な真の父母の立場に立っているお方が創造主、神様です。神様が縦的な愛の主人ならば、縦的な愛だけをもっていては一点にしかなりません。これをいかにして横的に展開させるのでしょうか。赤ん坊を生むのは、神様ではなく真の父母です。横的な真の愛の父母の立場に立った、そのお方が真の父母です。神様のみ前に、すなわち縦的な愛を中心とした真の父母のみ前に、九〇度の角度を備えた横的な愛をもったお方が真の父母なのです。ですから、皆さんは二人の父母の愛が必要です。お一人は創造主である父母であり、お一人は神様の対象として理想を描きながらお造りになった実体的な父母です。ですから、神様は心と同じ立場の父母であり、真の父母は体と同じ立場の父母です。

17 神様は縦的な父です。縦的な真の愛を中心とした父母です。そして、アダムとエバが成長し、成熟して神様のみ旨を成すようになったとすれば、これが横的な父母です。横的な立場の真の愛を中心とした父母の位置です。この縦的な神様と横的な真の父母が、愛を中心として十字に交差する点において九〇度で一つになるのです。

18 創造主は縦的な父であり、アダムとエバが堕落しないで完成したならば、横的な父母です。そして、愛を中心として一つになり、そこから子女が生まれていたならば、その子女は縦的な父母に似るとともに、横的な父母に似た真の父母の愛の化身体となるのです。そのように生まれた息子、娘は、神様の代身であり、真の父母の代身です。

19 神様は、真の愛を中心とした縦的な真の父母です。縦的な軸は一つです。その位置は一つしかありません。永遠不変です。神様は、真の愛を中心とした縦的な真の父母の立場にあるお方です。真の愛をもたなければ神様とは関係がありません。また、その縦的な真の愛を中心とした真の父母のみ前に、アダムとエバは真の愛を中心とした横的な父母です。真の愛を中心とした横的な父母の立場が真の父母の位置です。

20 愛を中心として見れば、神様は縦的な父であり、縦的な愛をもった真の父母です。縦的な生命を生んでくれる真の父母であり、縦的な血統を相続してくれる真の父母です。神様は、縦的な真の愛と縦的な真の生命と縦的な真の血統をつないでくれる縦的な父です。その縦的な父の実として結実したものが縦的な位置に立っている心です。その心は、縦的な「私」です。

21 神様は縦的な父母であり、アダムとエバは横的な真の愛を中心とした父母です。この二つの父母が一つになり、その血統を受け継いで出てきた本来の堕落していない子孫にならなければならなかったのですが、エバが二十歳未満の未成熟な時にサタンとペアになりました。ですから、いくら信仰の篤かった人でも、地上で真の父母に侍ることができなかった人は、天国に行けません。そのような原理はないのです。それでは、堕落を越えた立場にいる真の父母とは、どのようなお方でしょうか。神様は縦的な真の愛の父母であり、成熟したアダムとエバは横的な真の愛の父母です。横的な父母だというのです。縦的父母と横的父母を何で一つにするのでしょうか。九〇度の角度の愛で爆発するのです。爆発してそこから息子、娘が生まれ、これが家庭、氏族、民族、国家、世界に広がれば、天の人になるのです。

  

王権を完成しなければならない神様


22 神様とはいったいどなたでしょうか。「神様は絶対者であり、創造主として神聖なお方であり、私たち人間は卑しいものだ」と言いますが、それは間違っているというのです。神様が絶対的に神聖なので、その方が理想的に造った物も聖なる物です。皆、荒野時代において契約の箱を中心として神殿を至聖所、聖所と言いましたが、人が造ったその至聖所と聖所は、神様が造ったアダムとエバ、堕落していない本性の至聖所、聖所の代わりになり得るでしょうか。その至聖所や聖所とは何でしょうか。将来、取り戻すことができ、復帰して理想的なアダムとエバとなるものを象徴的に複合させ、それを大きく、広く、高くして本聖殿、本至聖所のような実体を造るための過程的象徴体にすぎないのであって、それ自体が神聖なのではありません。堕落した人間が造った物も至聖所、聖所と言うのに、絶対的で神聖なその方がお造りになったアダムとエバは、どれほど神聖なものでしょうか。ですから、アダムとエバの心は至聖所と同じであり、アダムとエバの体は聖所と同じであり、その中に神様がいるのです。そのようになっていたならば、神様を中心として、アダムは神様の体になるのであり、エバも神様の体になるのです。神様の男性格の性稟に似ているのがアダムであり、女性格の性稟に似ているのがエバです。この二人の結婚式をすることが字宙の王権を立てる式です。それが愛の王権です。

23 アダムとエバは神様の体です。神様を中心として、未来においてアダムは王になり、エバは王妃になるのです。神様と一つの体です。ですから、正分合です。正から分かれるのは愛のためです。それでは、「絶対的な神様は、分けなくても思いどおりにできるのに、なぜ分けたのですか」と尋ねれば、何と答えられるでしょうか。分けておいた理由は、実体世界を造られた神様が無形のままでは実体世界を治めることができないからです。それで体が必要なのです。創造された目的が、神様も実体をまとって実体の父母になることです。その実体とは誰かというと、アダムとエバです。アダムとエバが完成すれば、神様はアダムとエバの心の中に入っていき、神様を中心とする王権を成し遂げるのです。

24 神様は、なぜ人を創造したのでしょうか。この宇宙は実体であるので、実体の主人であるアダムとエバを中心として管理、主導できる立場に立つためです。霊界において、神様は無形でいらっしゃるために治めることができないので、実体の体をまとうことによって、実体をもって地球星で生まれてくる自分の息子、娘となる子孫たちを治める王になるために、実体の人を造ったのです。その王の顔とは、誰の顔ですか。アダムの顔です。王をつくったので、王妃が必要です。エバがその王妃にならなければなりません。二人は地上の先祖であると同時に、天上世界の先祖になります。ですから、その父母が生きた生活的伝統を千年、万年受け継いで世界に連結すれば、王権は一つです。地上世界の王権であると同時に、天上世界の王権になるのです。

25 神様は無形です。霊界に行っても見えません。神様が愛を中心としてアダムを造ったのは、この被造世界が体をもっているからです。神様は体をもった父にならなければなりません。体をもった父になることで、見えない無形と見える有形が一つになるのです。それは宇宙が一つになることを象徴します。ですから、体をまとうためにアダムとエバを造ったというのです。アダムとエバは神様の形状に似た体をもった姿として現れるのです。そうして、アダムの姿とエバの姿が天の国の王座に上るようになり、その王と王妃の心の中に神様がいらっしゃることで、地上世界と無形世界を統治するというのです。神様の王国を造るのです。愛の王国です。

26 神様は王の中の王であり、父母の中の父母なので、アダムとエバは神様の真の愛を中心とした王子、王女です。しかし、堕落することによって、この王子、王女の位置を失ってしまいました。言い換えれば、アダムとエバは、長子権、父母権、王権を失ってしまったのです。

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第一節 神様の創造

第三章 創造主であられる神様

第一節 神様の創造


1 宇宙は、単純に物質に根源があるものであったり、自然発生的にできたりしたものではありません。宇宙の第一原因者であられる創造主、神様はいらっしゃいます。そのお方は絶対者であり、永遠不変であられ、善であられます。宇宙万象は、そのお方の基本設計である創造目的によって造られた被造物です。心情の本体であられる神様の創造目的は、喜びを享受されることです。しかし、喜びは一人では感じることができません。ある主体が喜びを感じるためには、必ずその対象の実体が必要です。喜びの中でも最高の喜びは、主体と対象が愛を与え合うときに感じるようになります。

2 宇宙は本来、一つのみ旨の中から生じました。この宇宙を中心とした天の父母様がいらっしゃって、その父母に由来して今日の、この被造世界が生じました。宇宙の父母である中心存在が神様です。ですから、存在世界と神様、「私」と神様は二つではなく、一つです。一つは、中心の位置に立つために、上から地に向かって垂直線で下りてきているのであり、もう一つは、平面の水準を通して中心と結びつこうとしています。そのような神様のみ旨があります。

3 神様が最初に天地を創造される時、この天地と御自身の内的基準と、永遠の関係を結ぶことを願われる宇宙観と創造理想と創造目的がありました。そのようなものの中心は、正に神様の心情でした。宇宙の根源はあくまでも神様自体ですが、宇宙の創造という現象を起こすようにした最初の根拠は神様の心情であり、その心情を中心として一体化することのできる理想圏がありました。

  

創造とは何か


4 アダムとエバは神様の体であり、見える神様です。アダムとエバは見える神様の立場です。神様はエネルギーの本体なので、霊界に行っても見ることはできません。体がありません。ですから、実体世界を指導し主管するためには、実体をまとわなければなりません。アダムとエバは、堕落せずに完成して地上で生きて天上に行けば、形状をまとった神様になります。見えない神様と、見えるアダムとエバが一つになるのです。そのようになれば、アダムとエバが「ははは」と笑うのは、神様が「ははは」と笑うことなので、それは正に宇宙が「ははは」と笑うことです。無形の神様が実体をまとった神様として登場するためのものが、被造世界の創造です。この世界を創造したのは、無形の神が実体の神様として登場するためなのです。

5 神様は人の母体であり、万有の核です。なぜあらゆる存在の核であられる神様が天地創造をされなければならなかったのでしょうか。それは、核が一人だけでは核自体が滅びてなくなるからです。電気で言えば、いくら完全なブラスだとしても、プラスだけがあってマイナスがないときは、「なくなるな」と言ってもなくなります。そのプラスがなくならないためには、なくならない原則に従わなければならないので、創造の役事を経て完全なマイナスが生じるのです。それは、互いが与え合うことで、初めて存在が決定されるからです。

6 天地万物を創造された神様は、その内的な心の世界で感じるあらゆるもので、外的な世界に完全な対象の実体を立てて、それと共に与え合うようになります。責任をもつことができる位置で、完全に与え合える対象を造っておこうとして造ったのが人です。ですから、神様が造られた被造万物の中で最も好むのが人です。また、人が最も好むのは神様です。神様を尊重するのです。ですから、人は神様を訪ねていくようになり、神様は人を訪ねていくようになるのです。

7 「神様が主人だ。天地を創造した創造主だ」というとき、その創造主という言葉は、根源を意味する言葉であり、主体を意味する言葉です。創造物は対象だということです。画家で言えば、自分の傑作を作ろうと構想したとすれば、その構想どおりにそのまま展開させて気に入ったものができなければなりません。気に入るということは、目で気に入り、鼻で気に入り、耳で気に入り、口で気に入り、無数にある自分の細胞まですべて和合して気に入る、ということです。それは全身が気に入った存在なので、自分の体を身代わりにしたものです。そのように見れば、心と体は本来一つになるようになっています。私たちの霊人体は霊的な五官をもっていて、肉体も肉的な五官をもっていますが、これが互いに和合して、理想的な和動が広がらなければなりません。それは食べることで広がるのではありません。体と心の和動は真の愛によって始まるのです。

8 神様は天地を創造した主体です。その主体であられる神様は、息子、娘である人類と向き合っていらっしゃるお方ですが、「人間のために私はいる」と言うのが原則です。そうだとすれば、人間は幸せな人になるのです。それ以上、望むものはありません。この原則は、私たち人間が本来もつべきものでしたが、もつことができなかったので、最高のものを望んでいます。その最高のものが神様の愛です。

9 創造は、根対的存在を造ったということです。本来、神様が力を大量に投入したのは、神様御自身のために、神様が良くなるためにではありません。自分が良くなるためではなく、先に相対を造るために苦労しました。先に投入して理想相対の追求という表題のもと、すべての天地万物を造っていったというのです。

10 存在と生命のうち、どちらが先でしょうか。哲学というものは、存在から始めるようになります。初めから生命を扱えません。それでは、生命はどこから出てくるのでしょうか。生命は独りで自ら出てくるのではなく、父母の愛から出てきます。生命の世界と愛の世界は、神様が管理する世界です。それ以下のものを扱ってきたのが哲学思想です。ですから、存在よりも生命が先です。存在を動かすのは生命です。生命を動かすのは何でしょうか。愛だけが生命を動かすことができます。愛によって出発したので、愛の関係に従って動き、愛の結果を訪ねていくのが生命の行く道です。このように、情緒的な問題が宇宙創造の根本です。

11 いくら偉大な神様だとしても、愛の情緒を感じられない立場なら、孤独な神様です。ですから、猫でも懐に抱き、「私は猫をうまく作ったな。私が耳をこのように作ったとき、気持ちが本当に良かった。この足の爪も、ねずみを取って食べやすいように、このように作ったのだ。はっはっは、気持ちが良い」と言わなければなりません。その良いというのは、情緒的な動機を中心として、あらゆることが関係しています。

12 神様は、今も創造の能力をもって、古い環境を片づけて新しい環境をつくろうとされます。そうすることのできる能力をもったお方です。それが不可能なのは、堕落圏だからです。ある条件の提示が成立しなければ不可能です。それでしないのであって、できないのではありません。環境的条件さえ提示され、天が活動できる内容さえ提示されるようになるときには、新しい歴史は、新しく創造される環境は、いつの時でも、どのような時代でも連結することができます。創造当時の神様も、歴史過程を経てきた今日の神様も、未来の神様も、創造主としての権限は、いつももっています。

13 神様が創造するときに、神様のみ旨がありました。神様の考えがありました。神様の考えとともに計画がありました。人間を創造して、これこれこのような人間世界を造ろうという、本来の神様のみ旨と計画があったというのです。ですから、いくら人間が堕落したとしても、今日、神様の救援摂理圏の人間は、神様のみ旨と計画圏内に立たなければなりません。そうでなければいけません。ですから、神様は、人間を御自身のみ旨と計画圏内に入れるように準備されるのです。神様の計画とそのみ旨を中心として、環境と与件を開拓しながら、人間を計画圏内に立てるために前面に立てたのが、歴史時代に現れた数多くの宗教です。

  

完全投入を通した創造


14 神様が天地万物を創造されるとき、なぜ人間を造ったのでしょうか。相対がいない神様としては刺激を受けることができないので、相対を造って理想の愛と生命と希望の刺激を感じるために造りました。聖書で見るように、神様が人間を造るとき、「おい!人よ、現れよ」と言って簡単に造ったのではありません。神様は、あらゆる生命と愛と希望を懸けて人間を造りました。結局、神様と人間の関係においては、投入という言葉、無条件投入という言葉、全体投入という言葉を語ることができます。ここから、神様が真の愛を成すための方向性を探ることができます。相対に一〇〇パーセント投入したのです。投入する過程は、神様自体の消耗です。しかし、完全投入したという日には、問題が異なります。一〇〇パーセント投入して完成する日には、百を投入したものは百のものが完成して、そこに相対的な愛がプラスされて神様に帰ってくるというのです。ここに相対的な愛の権限、相対的な特権の価値、自分が投入したすべての内容がブラスされて登場するようになるのです。そうすることで、神様は初めて刺激的な幸福を感じられるというのです。

15 父母は愛する子女に対して、全体を投入しようとします。神様と同じです。神様は、神様のために投入したのではありません。神様のために存在するのではなく、相対のために存在しようという、相対のための神様の位置に立とうというのです。神様が神様のために存在しようといえば、それは真の愛ではありません。自分をすべて子女に投入して、その子女と共にいようとするところにおいて、愛と生命と希望が成り立ちます。結局、真の愛と真の生命と真の希望をもったそのお方が最初に人間に与えたいと思うのは、真の愛と真の生命と真の希望です。それを与えるときに、自分の立場で与えたのではなく、相手の立場に立って与えたというのです。

16 真なる神様は、相対を造るときに、完全投入することによって、より価値のある理想的な完全形を展開したのです。神様は、アダムとエバを造れば、アダムとエバのために生きようとするのです。神様のためではありません。自分のためにいた時から、相対のために生きる時へと展開していくのです。理想的存在というものは、自分を中心とはしません。理想的存在は、他のために生きるところに、対象のために生きるところに存在します。この原則が字宙の根本です。

17 聖書では、神様は全知全能なので、言葉一つで、「このような天地になれ」と言ってそうなったとあります。しかし、そのようにはなっていないのです。神様は、あらゆるものを投入したというのです。もっている力をすべて投入しました。もっている愛の力をすべて投入して、未来に、御自身の愛する息子、娘、御自身の愛する家庭のための贈り物として万物を造ったというのです。

18 創造とは力の投入を意味します。この世の中に芸術家がいるなら、その芸術家は傑作を作ることを願います。芸術家は、傑作を作るために、ありとあらゆる思いと精誠を投入します。すべてを投入するところからのみ完全な傑作が生まれます。不完全投入ではありません。完全投入、それ以上できないというときに初めて傑作が生まれます。精誠を尽くさず、血と肉を投入していないものを愛することができますか。「私」の骨の中の骨であり、肉の中の肉であり、私の思想の中の思想であり、私の全体の中の全体を投入したので、希望の対象とすることができるのです。ですから、創造自体が投入から始まったというのです。力を投入しなければなりません。力を投入しなければ何も生じません。完全な投入をするところで完全な対象が成立するという原則を中心として見てみるとき、神様は主体として対象に対して完全に投入したというのです。神様御自身が自らのために存在するのではなく、対象のために存在するという運動を始めたのが創造の役事です。

19 万物を創造するということは、自分の本質を取り出すことです。結局は、エネルギーを投入したということであり、エネルギーを投入したということは自分の本質の投入を意味するのです。投入するのです。対象を創造する理念の世界は愛によってなされたので、そのみ旨を成し遂げるために神様は投入されたのです。投入するのは、それが自分に結実するようにするためではなく、相対に結実させるためです。ですから、愛で造りました。それで、投入して神様が願うことを感じるのではなく、満足を感じることができたのです。それが原則になることによって、愛の伝統においては父母の愛の本質が残りました。自分を投入して自己意識を感じるのではなく、自己意識を忘れて、より相対的な目的が成し遂げられる価値を追求することに、自分のすべてが吸収されていくのです。結局は、神様も創造した人のために生きる立場に立つということです。それが創造の原則です。

20 力学世界では、入力が出力より大きいのです。しかし、真の愛の世界は、入力が出力より小さいのです。ですから、これが平面に展開して永遠の宇宙が存在するのです。消耗すればすべてなくなります。運動するからです。しかし、無限に投入する愛の力が作用するので、消耗なく大きくなるのです。神様が、愛を中心として存続する立場に戻るのです。反復作用によって循環作用を継続する形態をもって、永遠に存続するようになっています。ですから、家庭から氏族、氏族から民族、民族から世界まで同位、等価の基準で拡大し、一人の人間の頭で構想した宇宙のように、人類と宇宙を、合性体と同様に、理想世界、統一世界、平和の一体圏、統一圏にすることができるのです。

  

原則と法則による創造


21 神様は、アダムとエバには相対的立場で命令され、相対的な立場で信仰の条件を見て彼らに対されましたが、これからは実体を求められるようになります。ですから、相対的な立場ではなく、「私」の心と体が一体になることによって、自分の一つの実体を求めなければなりません。このような実体を求めるためには、創造の法則を通さなければなりません。

22 聖書を見ると、天地を創造したことが簡単に述べられています。み言によって天地万物を創造したというのです。「おい、何々」と呼べば、「はい」と言って現れたというのです。「星よ、生まれよ」と言うと星が生じ、「地球星よ、生まれよ」と言うと生じたということになっています。しかし、ここにおいては、無限な秩序と法度に従って前進するという原則を継承させ、小さなものから大きなものへと発展させてきたのです。

23 人間の生活の中で、ために生きる真の愛があらゆる相関関係の基本ですが、これは父母の真の愛を動機として体恤するものです。神の真の愛を根とした父母の真の愛は、人間の個体を完成させるようになります。完成した個体が真の愛の理想的な夫婦となった家庭において、彼らの子女に真の愛を伝授するようになるのが創造の秩序です。地上の理想世界は、完全な一人から、真の愛による家庭、社会、国家、世界に拡大していきます。

現在の世界は、このような理想世界とは、その出発を異にした世界です。神様の創造原則のうち、最も貴い真の愛の秩序から人間が離れた、堕落の結果が拡大してきた世界です。神様の創造秩序を度外視したまま、人為的な組織形態や法則、秩序だけを重視する現在の世界は、理想的な個人、家庭、そして民族を養成することはできません。

24 神様は、天地を創造されるときに、万物を造られ、人を神様の対象として造られました。対象として造られたのですが、授け受けする授受作用の原則が天地の作用として、運動法則になっているので、すべてを完全に与えるまでは戻ってきません。これが原則です。妻が夫を完全に愛そうとすれば、夫から完全に愛されたというその日になってこそ、「夫を本当に愛そう」このようになるのです。完全に愛されるようになるときに、完全に与え始めるのです。それが天地の原則です。主体から完全に受けてこそ、完全に返すのです。それを受ける前に返し始めれば、完全なものは戻ってきません。それが愛を中心とした授受作用、原理原則を中心とした宇宙の原則です。

25 神様の創造過程を中心として見てみると、三段階の原則があります。先に神様の考えがあり、その次に心を通してその考えを現し、その次にそれが実現します。そのような三段階を経て創造物が形成されたのです。もちろん、み言を実践するに当たっても、心だけではできません。そこでも、やはり神様を中心として神様の心と神様の体が一つにならなければなりません。そうして「このようになれ。このように創造されるのだ」と言うとき、初めて創造が実現するのです。

26 神様の創造過程を見ると、最初に極めて小さいものを造るその動機から相対的観念をもち、目的を具現したその目的体に新しい動機を加え、より大きなものに発展させてきました。そうして、その段階を高めて目的に動機を加え、相対的観念を加えて目的を具現し、またその目的が動機となり、だんだんと次元を高めて人間まで創造してきたのです。

27 神様が創造主として、歴史的で内情的な原則を中心として、存在の起源から今まで成長した過程を、実体的に展開してきたのがアダムとエバの創造過程です。それでは、どこから連結されるのでしょうか。細胞が一つになって大きくなるのと同様に、赤ん坊が十ヵ月間の成長過程を経て、男性と女性の形態に分かれていくのと同じではないかというのです。そうでなければ、生命の遺伝をどのように展開させるのかという論理に対して、解釈する方法がありません。言い換えれば、主体には相対圏が必要だということです。統一教会の言葉で言えば、性相には形状が必要だということなのです。

28 内的な性相は、あらゆる根源的な面において外的な形状と一致することもでき、通じることもできる関係があります。ですから、人が生まれて育つその過程は、見えない無形の神様が実体を見るためのものだったのです。ですから、自分の内的なあらゆる存在が表現されるので、愛さざるを得ないというのです。それが「私」です。「私」が現れた実体です。無形の実体が有形の実体として展開される以上、そこにすべてを投入しなければなりません。

  

神様の臨在と顕現


29 神様は、どこにとどまりたいと思われるのでしょうか。アダムとエバが堕落しないで完成し、真の愛を中心として一つになるとき、神様はそこに臨まれます。結婚した日に初愛が植えられる、そこにおいて中心となって出会おうというのです。神様の血と愛と生命を、どこに植えますか。内的なものと外的なもの、プラスとマイナスが同化して一体にならなければならないのです。ですから、初愛が最も貴いのです。縦的な永遠の愛の主人が神様であり、横的な永遠の愛の主人が夫婦です。

30 神様は、神様と人間が主体と対象として縦的な愛の関係を完成することだけを目標とされたのではありませんでした。縦的な愛を完成して、アダムとエバの横的な愛の結実をもたらそうとされました。その瞬間が、正に内的父母であられる神様が、外的父母であるアダムとエバと完全一体となるために臨在される愛の理想成就の瞬間です。無形の父母であられる神様が、アダムとエバの形状をまとって有形世界に永存する父母になるのです。この時、アダムとエバは真の父母、真の先祖になるのです。

31 神様が天地を創造されるときには、復帰は必要ありませんでした。神様が創造本来の世界でアダムを中心として願ったことは、今日、復帰すべき世の中で待ち望む願いとは本質的に違います。アダムとエバを創造したすべての願いは、何よりもまず神様御自身を顕現させることでした。言い換えれば、アダムとエバを通して神様の内的な要素を外的実体として展開させ、神様が願われる遠大な希望と人間の願いが一致した一時を迎えることを願われたのです。

32 神様が被造世界を造られた目的は共に生きることですが、今日、人間と万物、あらゆる存在物が神様と共に生きることができる圏内にいません。堕落によってそのようになったのです。堕落したために、神様が臨在できる根拠地が消えるようになったというのです。そうだとすれば、神様がアダムとエバを失ったその日から今日まで、人間を探し求めるのは何のためでしょうか。それは、人間が神様の宮になり、神様の体になり、神様と一体となって、天と地を身代わりした一つの実体存在になれば、人間の喜びが神様の喜びになり、神様の喜びが人間を通して万物に連結されるからです。すなわち、人間が神様と万物を結びつける中間媒介体だからです。

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第二節 神様が創造された被造世界

第三章 創造主であられる神様

第二節 神様が創造された被造世界


1 創世記第一章二十七節を見ると、「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」となっています。帰納的に見ると、神様の中には一人の男性と一人の女性がいるということです。それが一つになって、一つの主体として現れたお方が神様です。そして、このような性稟に似て現れたのがアダムとエバです。

  

二性性相の中和体としていらっしゃる神様


2 神様は二性性相の主体としていらっしゃいます。無形の二性性相の主体としていらっしゃる神様の男性格の内的性稟を実体として展開して、相対的に造ったものがアダムであり、女性格の内的性稟を実体として展開したものがエバです。言い換えれば、神様の内性的なすべてのものを投入して実体化させたものが人間だということです。

3 「統一原理」では、神様は無形の絶対的主体として、二性性相の中和的主体としていらっしゃるお方だといいます。二性性相としていらっしゃる神様御自身の分性的実体としてアダムとエバを造っておき、彼らが成長して愛を中心として横的に連結されるとき、縦的な立場で中心になろうとしたのです。それはアダムとエバが成熟すれば、神様の男性性稟はアダムの心の中に、神様の女性性稟はエバの心の中に入っていくということです。だからといって、神様が分かれるのではありません。二性性相の主体としていらっしゃる神様なので、アダムとエバの心の中に臨在することができるのです。

4 主体と対象は、どこから出てくるのですか。これらが出てくる土台がなければなりません。「統一原理」では、これを二性性相と言います。この主体と対象は、人間自体から造られた主体と対象ではありません。力自体は作用をするのです。作用しようとすれば、その力を作用させる回路がなければなりません。そのように授け受けできる道がなければ、力は作用できません。皆さんの心臓も、動脈、静脈のような循環器官があるので作動します。このようにあらゆる作用は、必ず主体と対象の相応関係を備えなければなりません。力が存在する以前に、主体と対象がなければならないということです。主体と対象が存在するためには、その土台がなければなりません。

5 宇宙全体を見れば、愛と関係を結ぶようになっているので、鉱物世界を見てもそこにプラスとマイナスがあり、植物世界を見ても雄しべと雌しべがあり、動物世界を見ても雄と雌がいて、人間世界を見ても男性と女性がいて、天と地があります。ですから、神様も、それ自体において二性性相の存在としていらっしゃり、その二性性相というプラスとマイナスが和合しているとともに、二性性相の中和的存在であり、格としては男性格なのです。

6 神様の性相的な結実者、見える実体として生まれたのがアダムでありエバです。二人が一つになるということは、神様の性相と形状が初めて愛を中心として一体になれる基準ができるので、それを中心として心情圏が始まるのです。それが家庭的心情圏を中心として氏族的な心情圏に拡大します。そうすると、アダムとエバ自体が心情圏において個人的な心情圏、家庭的な心情圏、国家的な心情圏の代表者になります。アダム一代で、すべてのモデルが形成されるのです。個人的なモデル、家庭的なモデル、国家的なモデル、心情的なモデルがすべて成立できたということです。

7 神様は、なぜ人間を創造しましたか。「私」がなぜ生まれたのかという根本問題を知らなければなりません。神様は愛の主体です。「統一原理」を見れば、神様は二性性相の中和的存在とありますが、愛を中心とした統一的存在だということは、まだ話していませんでした。そこに、愛を中心として統一的存在だということを添付しなければなりません。

8 「統一原理」で神様を二性性相の主体としていらっしゃるお方だと言うのは、科学的な分析結果により、間違いなくそのようでいらっしゃるという事実を知って言うのです。ですから、主体と対象が完全に一つになれば、神様の力がそこに永遠に存在します。主体がなく、対象がない所には力が存在しません。神様は、どのように存在するのですか。神様自体内にある主体と対象の力が授け受けすることによって永存します。これは理論的に神様を説明するものです。

9 神様の二性性相の第一性のあらゆる理想的要素と、神様が想像し、構想していたあらゆる実体を形状化させたものが男性です。この男性が愛の理想として結実するときは、この宇宙の存在世界の男性圏が結実するのです。この男性圏は、誰によって結実しなければならないのでしょうか。人類の先祖である真の父になるべきアダムによってです。アダムによって結実されるものでした。そして、女性圏は、エバによって結実されるものでした。この二つが一つにならなければならなかったのです。ですから、女性は男性に出会わなければならず、男性は女性に出会わなければなりません。出会って一つになり、そこから子女が生まれてこそ、平面に神様が着陸されるのです。

  

神様の体になるアダムとエバ


10 神様が万物を創造された目的とは何でしょうか。第一に、神様に体がないからです。体をまとわなければなりません。堕落しないで完成したアダムとエバが愛で完成し、神様の内的な形状を表面化させて実体として現すためのものが、アダムとエバの完成の理想です。神様の体がなければなりません。体がある世界を支配しようとするので、そのようにしたのです。それから第二に、繁殖基盤が必要だからです。縦的な霊界に行っては繁殖がありません。縦的な愛を中心として、垂直点に連結されるからです。縦的なこの軸では繁殖できません。繁殖しようとすれば、平面的な面において空間が必要です。平面と三六〇度を中心として球形になっているので、膨大な空間が必要です。ここにはいくらでも生産できる面積があるので、地上で子女を生み、天の国に行かなければなりません。繁殖が必要だったので、天の民を扶養するためにアダムとエバの体が必要だったというのです。第三に、愛の相対を永続させるためです。神様は、アダムとエバだけを造っておいて愛すればよいでしょうか。一代で切れてはいけません。これを永続させるために、血統を通して神様の愛の相対を永続的に残すために、体が必要なのです。

11 アダムとエバを中心として霊肉両面の世界を、すなわち無形実体世界と有形実体世界を主管することが神様の人間創造の目的です。したがって、一つの人格的な神様として現れることを示すために、神様はアダムとエバという実体と関係を結ばなければなりません。アダムとエバの完成とともに神様の形状完成、すなわち形が完成するのです。神様はアダムとエバを造られる時、その形態、人相、人格などが、無形世界の中心にいる神様のような姿にならなければならないという考えをもっていらっしゃいました。形がなければ形の世界を主管することはできないのです。

12 無形の神様は、体がありません。体をもたなければ、霊界や地上世界を治めることはできません。神様が現れるためには、体をまとわなければならないのですが、その体をまとう代表がアダムとエバです。堕落していないアダムとエバの体をまとって現れるのです。ですから、アダムとエバは、人類の始祖であると同時に、天地を主宰する神様になるのです。実体をもった神様、すなわち永遠の無形世界の神様の形状を代わりにまとって現れた立場、父母の立場で世界を統治すべき責任がアダムとエバにあったというのです。アダムとエバを造ったのは、アダムとエバの形状を手に入れて、霊界と肉界を連合させるためです。

13 神様には体がないので、皆さんが霊界に行っても、神様を見ることはできません。神様は体をまとっていませんでした。ですから、体が必要です。体をもった万物を創造された神様は、御自身も体をまとってこそ万宇宙の主人になるのです。真の父母の体をまとうことによって、見える世界と永遠の世界の中心になり、父母になり、王になり、平和の主人公になることができます。

14 神様は無形で形体が見えないので、形体をまとって現れなければならず、また、形体をもっている人間と万物を主管するためには、アダムとエバの形体をまとって現れなければなりません。そのようになれば、アダムとエバと神様が一体になるので、アダムとエバの心のようなお方になるというのです。アダムとエバの心の位置に神様が臨在して一つになったので、結局は、アダムとエバの内的な主人、内的なアダムとエバのようなお方が神様だったというのです。神様とアダムが一つになり、エバと神様が一つになってアダムとエバが夫婦になれば、結局、内外の夫婦のような立場に立つようになり、そこで愛し合って子女を生むようになれば、神様の直接的な血統に連結されるのです。それを結ぶのが愛です。神様が天地万物を、この世界を創造したのは、神様御自身が愛を感じるためです。神様御自身が愛そうとして創造したのです。

15 アダムとエバは、神様の体です。また、神様の愛の対象者です。一人では愛することができないのです。いくら絶対者でも一人ではできません。ですから、この被造世界を造ったのは、愛する対象圏を準備するためです。被造世界は愛の博物館であり庭園です。

16 無形の神様が一人でいて何をするのですか。見えない神様だけでは何も始まりません。私たち人間の父母になろうとすれば、体をもって感じることができなければなりません。このような人間と同じ体をまとうために、やむなくアダムとエバを二重的存在として造らざるを得ませんでした。なぜ二重構造に造らざるを得なかったのでしょうか。無形の神様と同じようにするために、心と体が一生を経て、あの世に行く時までに一つになったという基準を立てなければならないからです。それができずにあの世に現れれば、その形状が神様と一つにならないのです。実体的王権をもった父母が、無形の父母である神様と一体になり、永遠の天上世界に体をまとった王権を顕現させるために、アダムとエバを二重構造で造ったというのです。また、神様が体をまとうためにアダムとエバを造ったというのです。

  

神様の聖殿として創造した人間


17 神様もアダムとエバと連結しなければ、世の中と関係を結ぶ道がありません。アダムとエバと関係を結んでこそ、アダムとエバの息子、娘と関係が結ばれます。それは自然に結ばれるのです。神様が人を造った理由は、同じ父母の立場に立つためであり、体をまとうためです。ですから、外的な神様はアダムとエバです。アダムとエバを男性と女性の二性性相をもった分聖殿のようにしておいて、神様がそこに入るのです。神様が入って作用してこそ、アダムとエバの二人が理想的な作用をするのであって、神様が作用できなければ、神様のみ旨も何も分からないというのです。そうでなければ、神様が人間と関係を結ぶ基盤がないというのです。

18 神様は、無形の神様なので、どこにでも通じることができます。ですから、どこでも行けない所がありません。すべて通じるというのです。それでは、神様は、どこで暮らすのでしょうか。神様が暮らす家は、私たちの心の真ん中です。男性の心には神様の男性格の心情がとどまり、女性の心には神様の女性格の心情が入って暮らすというのです。したがって、本来の人類の先祖であるアダムとエバは、見える神様です。ですから、アダムが名前をつければそのようになり、アダムの願いはかなわないことがなかったということです。

19 アダムとエバが堕落しなければ、神様はアダムとエバの心の中にいらっしゃるのです。アダムとエバは、外的夫婦であると同時に、内的な夫婦です。したがって、神様と内外で一つになった体から生まれた息子、娘は、誰の息子、娘でしょうか。外的神様の息子、娘になると同時に、内的神様の息子、娘になります。コリント人への第一の手紙第三章十六節に、「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか」という内容があります。人間は神様の聖殿であり、人間の心の中に神様のみ霊が臨在していらっしゃるということです。人間がそのような立場にあるので、神様は人間にとっては正に父になります。それができなくなってしまったのが人間の堕落です。

20 私たちの体は聖殿です。神様が臨むことのできる家です。皆さんが神霊的な世界に入って「神様!」と言えば、心の中から「どうした!」と答える体験をして、初めて分かるようになります。そのように尋ねれば、天から答えが来るのではなく、「私」の心から答えが来ます。本来、アダムとエバが堕落しなければ、神様がアダムとエバの本心の奥深くにいらっしゃって、アダムを操るのです。ですから聖書を見ると、「アダムが名をつけたとおりになった」と言ったのです。

21 「アダムは神様の実体であり、体は神様の聖殿だ」と言いました。神様は、アダムの心に臨在している見えない父です。この二人の父が一つになります。一体になるのです。ですから、無形世界と有形世界の一体の基点がアダムの本性的基準です。その本性的基準は、お金の包みや欲の包みではありません。純粋な思春期を通してあらゆる細胞機能が総動員され、一つの触覚として、アンテナとして現れたその基準を中心として、神様がそこに臨むことによって定着するというのです。神様がアダムの心に来て内的父となり、アダムは外的な父として霊的世界と実体世界の和合一体の基準で、一人の男性を中心として一人の女性と横的世界で一体になることによって、愛を中心とした球形が生まれるのです。

  

神様と被造世界の関係


22 人間は神様に似ています。神様は絶対的な主体なので、絶対的な対象の愛を中心として一つになることができます。それで、神様は主体と対象の中和的主体として、人を造るときにアダムとエバを造りました。その全知全能の愛の力には、何であっても許諾されないものがありません。神様がアダムとエバを創造したのと同じように、人間も創造の能力を賦与されるのです。神様から創造の能力を賦与され、私たちも人を創造できる位置が息子、娘を生む位置です。結局は、神様と同様に人を造ったという位置に、人間も立つことができるというのです。

23 神様が遍在するので私たちも遍在したいと思い、神様が全知全能なので私たちも全知全能でありたいと思い、神様が唯一無二なので私たちも唯一無二であることを望むのです。これが似ているということです。それでは、神様は、御自身の何に似れば最も喜ばれるのでしょうか。遍在より、全知全能より、唯一無二より、愛に似ることを一番喜ばれます。愛に似ることによって、神様と一番似るようになるのです。その愛さえ似るようになれば、何であろうと、すべてを失っても、結局は自分自身が行くとおりに、みなついてくるようになっています。

24 私たちの周囲において、私たちも知らないうちに繰り広げられている天下の万象が、神様の愛と共に存在するものであるという事実を知りませんでした。神霊的な境地に入ってみると、小さな砂一粒にも宇宙の道理が入っていて、一つの原子にも無尽蔵の宇宙の調和が入っているということが分かります。存在するすべてのものをよく知ることはできませんが、ある複合的な力を通して現れた結果であることは否定することができません。分子を越えて原子、原子を越えて素粒子のようなものは、無意識的に存在するのではなく、ある意識と目的をもって存在するのです。したがって、存在するすべてのものは、神様の愛のみ手を通って出てきたものであり、必ず神様と心情的な関係を結んで存在しているというのです。

25 天地万物は神様に似ています。万物は神様に象徴的に似て生まれました。人は神様に形象的に似て生まれました。神様を中心として、人は形象的に似て生まれなければならず、万物は象徴的に似て生まれなければなりません。神様が造られたとすれば、そうでなければなりません。神様は、神様の法度を中心として永遠の愛を備えた、全知全能で遍在するお方として存在されるのです。

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第三節 愛で創造された神様

第三章 創造主であられる神様

第三節 愛で創造された神様


1 神様が存在するための起源とは何でしょうか。全知全能ですか。絶対的権限ですか。一人でいるのに、絶対的権限があっても何かできるでしょうか。神様の本質とは何かという問題が重要です。それが愛です。「私のために生きなさい」という愛ではなく、人のために生きようとする愛です。

2 神様は全知全能であられ、遍在されるお方として、惜しむものがなく、もっていないものがありません。すべてのものをもっていますが、そのすべての価値よりも貴いものとして立て、誇りたいものがあるとすれば、それは何でしょうか。神様は、ただ愛のほかは何も必要でないというのです。愛以外は必要ありません。

  

神様にとって絶対に必要なもの


3 神様が最も好むもの、人間が最も好むものとは何でしょうか。真の愛です。それは異議がありません。聖書でも、「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ三・一六)とあります。ですから、神様が最も好むものが、自分を犠牲にして怨讐を愛する真の愛だというのです。兄弟が愛で一つに結ばれ、神様に親孝行できる孝子、孝女にするのが神様の願いでした。それで聖書には、人間として守るべき戒めの中で、最初の戒めについて語られています。「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである」(マタイ二二・三七、三八)とあります。神様が最も好むものとは何だというのですか。お金を好むのではありません。知識を好むのではありません。権力を好むのではありません。真の愛です。自分の心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、すべてのものを尽くして神様を愛することが第一の戒めです。そして、自分を愛するように隣人を愛することが第二の戒めなのです。

4 天地を創造した天地の大主宰であられる主人の立場にある神様にとっても、必要なのは絶対的な愛です。大宇宙とも取り替えることのできない絶対的な真の愛を必要とするのですが、その愛をどこで探し出すことができるのでしょうか。神様御自身では探し出すことができません。自分の心に愛があっても、一人では探し出せないのです。愛は、どこから来るのでしょうか。自分自身から来るのではなく、相対から来るのです。相対がいなければ愛を探すことができないので、その愛を探し出すためには、相対のために与えなければなりません。相対のために与えなければ、愛の道を求める方法がありません。

5 神様が最高に喜ぶためには、どのようにしなければならないのでしょうか。神様は、お金を願うのでもなく、知識を願うのでもなく、権力を願うのでもありません。そのお方は、全知全能のお方であり、創造の能力をもっていらっしゃるので、そのお方には欠如したものがありません。しかし神様にも、たった一つ必要なものがあります。神様にも愛が必要です。愛が必要なのですが、一人では愛することができません。相対が必要です。このような点から見てみるとき、愛のために宇宙を創造したと結論づけることができます。

  

神様はなぜ創造されたのか


6 神様は、なぜ創造したのでしょうか。神様も愛が必要なので創造しました。神様は、愛のために天地を創造したというのです。愛の相対が必要で、愛の相対を求めるためです。そのような神様なので、絶対的に自分のために生きなさいと、「私のために生きなさい」という愛し方はしません。神様も、愛の相対は自分より優ることを願うというのです。神様が一〇〇〇パーセントをもっているとすれば、一〇〇〇パーセントを完全に投入しようとします。愛の相対が自分より優ることを願うのが愛の本質であり、本性だからです。

7 神様は、愛の対象が必要で人を造りました。一人で愛することはできません。対象圏がなければ愛は成り立ちません。神様も愛が絶対に必要なので被造万物を造り、被造万物を代表した万物の霊長として人を造ったのです。人が絶対的に必要なので、絶対的愛の対象圏の価値を与えたのです。愛を共有するために、その対象的存在として造ったものが人間です。ですから、人間自体は神様の体です。

8 神様は、なぜアダムとエバを造ったのでしょうか。神様は無形でいらっしゃるお方なので、実体の形状をもった父母にならなければ、形状の子女を愛することができません。それで、体をまとうために造りました。第一に、無形の神様が体をまとうためであり、第二に、体をもつことによって震動するような衝撃が来るようにするためです。それは、言葉だけではできません。一つの言葉があれば、音楽がなければならず、その音楽に合わせなければなりません。この衝動的な刺激に喜びを感じるのです。第三に、神様は中心軸をもった垂直の父なので面積がありません。神様御自身を中心として見てみるとき、一点しかないこの軸には繁殖の根拠地がありません。なぜ体が必要なのかというと、東西甫北の三六〇度を中心として面積が必要だからです。

9 神様は、真の愛の本体としていらっしゃいます。神様も、愛を体恤するためには相対が必要です。それは、愛が主体と対象の関係、すなわち相対を通して関係を結んでこそ可能な経験であり、喜びだからです。どのような存在も、一人で孤立していては愛を感じられません。神様の創造の動機は、真の愛と、その対象である真の人を創造することです。神様は、神様と自由に愛を与え合う存在として人間を創造されました。人間は、神様の完全な愛の対象体として造られました。人間は、神様の息子と娘です。創造主、神様は、人間の真の父母であられます。神様は、アダムとエバが真の愛を中心として純粋に成長して、真の人になることを願われました。

10 神様は、絶対者であるにもかかわらず、何が慕わしくて創造したのでしょうか。黄金や知識も必要ない全知全能の神様が、備えていないものがない神様が、何が必要で人を造ったのでしょうか。創造の根本動機とは何でしょうか。それは権力でもなく、知識でもなく、お金でもありません。神様には愛の基盤がなかったのです。神様も一人では愛することができません。ですから、天地創造の動機は愛です。

11 神様は、なぜ天地を創造されたのでしょうか。その絶対者が、全知全能のお方が、何がないために人を創造されたのでしょうか。愛のために創造しました。愛は相対がいなければ現れません。相対がいないのに作用するようになれば損害が生じます。すべて自分を保護するようになっています。損害が生じる所では絶対に動きません。愛は、相対が現れれば、ないように思えても飛び出してきます。神様にも愛がありますが、男性的な神様が静かに一人でいる時には、その愛が現れません。これを現してみせることのできる相対が人間です。

12 神様が人を造ったのは、愛を成就するためです。その愛は、神様から始まるのではありません。相手から見いだされるのです。相手がいなければ探し出すことはできません。ですから、神様が最高の貴いものを成就させるためには、相手が必要なのです。神様も相手がいなければなりません。それで相対を造られたのです。神様御自身も、相手から絶対的な愛を成すことができるように相対を訪ねていくのです。ですから、神様も愛のために存在するというのです。それが愛の驚くべきところです。神様も人のために存在し、人は神様のために存在します。ですから、真の愛は、ために生きるところから始まるのです。

13 本来、人間はどこから生まれたのかといえば、神様の愛から始まりました。愛ゆえに生まれました。愛が起源です。人間が受け継いだその生命が貴いのではありません。神様の愛の理念を通して生命が現れたので、生命の前に愛が先です。愛に根ざして私たちの生命が流れてきたというのです。それで愛で生まれ、愛で青ち、愛の相対に出会わなければならないのです。

  

喜びと愛のための創造


14 神様は、絶対者であり、唯一無二のお方です。しかし、そのお方がいくら偉大だとしても、一人でいらっしゃるのなら喜びや楽しいことはあり得ません。一人では楽しみがなく、絶対に喜びがありません。例えば、世界に二人といない法学者や世界のあらゆる権力をもち、一言で世界を二転三転できる権威をもった人がいるとしましょう。そのような立場にいる人でも、一人でいては喜ぶことができません。いくらそのような立場にあっても、喜ぶことが一つもないというのです。

15 神様は、なぜ天地創造をしたのでしょうか。「私のような男性、私のような女性を、見えない性相から実体的形状に展開させ、その生命たちが動き回るのを見るのが好きで造ったのだ」ということと、「動き画るのを見るのもよいが、この二つが一つになって伸び、くるくると転がるのを見たかった」ということとでは、どちらが楽しいでしょうか。結局は、愛し合うのを見たいと思って造ったというのです。互いに競い合う男性と女性を見たいと思うでしょうか、互いに愛し合う男性と女性を見たいと思うでしょうか。愛のほうです。創造の出発の動機は愛です。この宇宙もやはり、愛のために形成されたのです。ですから、神様が創造の存在世界の前に現れるようになるとき、愛の本質として現れなければならないというのは最も理論的です。

16 神様は、絶対者であり、唯一無二であられるお方なのに、なぜ宇宙を創造されたのでしょうか。絶対的な愛であり、生命であり、理想をもっていらっしゃる神様ですが、そのすべてのものを一人では実現することができません。ですから、いくら偉大な神様でも、一人では愛や理想の実現があり得ないので、その愛と理想を実現するためにされたのが宇宙の創造です。神様がなぜ人間を創造するようになったのかというと、神様が喜ぶためにお造りになったということです。一人でいては喜ぶこともないので、相対理想の実現のために創造したという結論を下すことができます。

17 神様がなぜ天地創造をされ、なぜアダムとエバを造られたのかというと、喜びのために造りました。神様が喜ぶために創造されたのです。アダムの中に神様が入って無形の父になり、アダムが有形の父になるようにしようとされたのです。ですから、アダムは実体をまとった神様にならなければなりませんでした。それでは、神様はなぜ実体を必要とされるのでしょうか。御自身が造った実体世界は、無形では主管できないため、実体をまとった神様が必要だからです。それで実体の神様として造ったのがアダムとエバです。ですから、アダムとエバは神様と一体にならなければなりません。

18 絶対者が創造した天地間の創造物自体も、絶対的な価値をもつことはできなくても、絶対者と離れることのできない相対的価値をもつためには、その絶対者を中心として「相対的絶対」の位置を求めなければなりません。言い換えれば、お一人しかいない絶対者に造られたという事実は、「相対的絶対」の型を備えた存在であるに違いないというのです。ですから、絶対者自体だけでは喜びを得ることはできません。喜びは一人で成り立つものではないからです。

19 神様は、人間を造るためにあらゆる万物を造ってこられました。最初の日から造ったその万物を御覧になるとき、無限の願いと無限の希望をもって喜ばれました。そして、このすべての万物の主人として、神様の代わりに万物を主管する主人として私たちの先祖であるアダムとエバを造られたのです。それから、無限に喜ぶ心情で彼らのために祝福されたのです。彼らに「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ」とおっしゃいました。「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ」という祝福のみ言を人間に下さったのは、神様を喜ばせることが目的で人間が造られたという意味です。神様は、このような目的を成すために、私たちを祝福されたのです。

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第一節 神様の恨と復帰摂理

第四章 解放してさしあげるべき神様

第一節 神様の恨と復帰摂理


1 天地万物を造られた神様は、人間をこの上なく愛してお造りになりました。造ったどのようなものよりも、一人の人間に対して、その栄光と希望と篤実な心情を中心としてお造りになりました。その一人の人間が成長して希望を成就することによって、幸福を謳歌し、平和の家庭を造って、神様と共にあることを神様は願われました。堕落していない本来のアダムとエバを造って喜ばれた神様、アダムとエバが成長するたびに、神様は切ない心情、懇切な心情をもって一つの希望の勝利を完結できる、その時を待ち望まれたのです。成長するアダムとエバを前にして、造られた創造世界を見つめるたびに、「お前のために造った万物も良いが、万物を治めるお前を見つめるのはもっと良い」とおっしゃる父の心情、父の気持ちだったというのです。そのように、希望として映ったアダムとエバ、幸福の根拠地になれるアダムとエバ、またあらゆる万物世界においてよりどころとなる中心存在であるアダムとエバ、あるひと日、堕落の日があってはいけないアダムとエバ、悲しみのひと日があってはいけないアダムとエバでした。しかし、そのアダムとエバがある日、失敗することによって、堕落という言葉がもたらされ、悲しみという言葉がもたらされ、神様の希望の世界に暗黒の権勢が侵入したという事実は、恨めしく、悔しい出来事だったのです。

2 人類始祖が堕落することによって、人類始祖の悲しみは当然のことですが、人類始祖を見つめ、希望をもっていた神様が、人間によって悲しみに遭遇したのです。人間が悲しむ立場に藩ちることによって、神様御自身がかわいそうな立場、悔しくて苦痛な立場に立たなければなりませんでした。これは、この地上と天地間においては、残念な、あるいは考えることすらできなかったことですが、人類始祖の失敗によって、そのような事件が起こりました。これが人間の堕落です。

  

なぜ悲しみの神様なのか


3 アダムとエバが堕落することによって、永遠の神様の愛と理念を中心として愛の園で永遠の福楽を享受するようになっていたその創造の理想が挫折し、今まで神様は、数千年の歴史の中で苦労されざるを得なくなりました。ですから、皆さんは、アダムとエバが堕落することによって果たせなかった創造理想を成し遂げるために、神様が今までサタンと闘いながら感じられた、その悲しい心情を体恤しなくてはいけません。皆さんは、アダムとエバを失ったその時の悲しみ、アダムとエバが神様を裏切って堕落した時の神様の、その悲しい心情を体恤しなければならないのです。そのためには、先に神様の愛とは何なのかを知らなければならず、神様が人間をどの程度まで愛されるかを体恤しなければなりません。それができなければ、神様がアダムとエバを失って悲しまれた、その心情を到底体恤する道はありません。

4 神様は、栄光をもって出現される存在です。人間の喜びが神様の喜びであり、神様の警びが人間の喜びになることが創造理念なのですが、その理念は行き場を失い、神様は凄惨な姿になりました。人間の前に現れる神様の姿は、栄光の姿ではありません。どのような凄惨な個人や民族とも比較できないほど、凄惨な立場にある神様です。本来、神様は栄光の姿でしたが、人間が堕落したその日から、その反対の姿でいらっしゃるようになったのです。神様はあらゆるものを子女である人間に任せることができ、人間はあらゆるものを父なる神様に任せることができるというのが、神様と人間の相互の立場でしたが、そのようにすることができなくなりました。凄惨な姿で子女たちの前に現れるしかない父母の心情が、どれほど苦しいでしょうか。しかし、自分の苦痛と事情を告げたいと思わず、無限に骨を折られる悲しい姿を見せたくないと思われる神様です。

5 今まで人間は、神様が栄光の中で、苦難や苦痛がない中でいらっしゃるお方だとばかり思っていました。数多くの宗教も、今まで歴史過程でそのように考え、信仰生活をしてきました。本当の意味で神様は、御自身の家庭、御自身の子女、御自身の財産、御自身の国と世界を失った立場にいらっしゃいます。そのような立場にいらっしゃるお方が私たちの父です。その父に出会えば、自らのすべての恨が解怨され、今まで待ち望んできたすべてが解決されると思っていました。ところが今日、この道を求めてきて父母と対面してみると、その父母がもっている財産はもちろんのこと、世界と父母のあらゆるものが怨讐の手の中に置かれているというのです。

6 皆さんは、歴史的に悲痛な神様のお姿を心中に抱き、悲しい神様の心を慰労し、喜びと栄光をお返ししてさしあげる孝子にならなければなりません。神様は、今も落胆し、嘆息していらっしゃいます。私たちは、神様をお迎えし、民族を越え、世界を越え、万民と共に天宙の全権を身代わりして神様の恨を解いてさしあげ、勝利の一日を迎えなければなりません。神様が、審判する代わりに祝禰してあげたいと思うことのできる、そのような息子、娘になるために身もだえしなければなりません。そのような人になってこそ、残る群れになります。激しい環境と逆境に苦しめられても、それに屈することなく、「私だけが残りました」と言えなければなりません。このような心情をもってこそ、神様と命の関係を結ぶことができます。このような心情と結ばれていれば、いくら強い北風や暴風が吹きつけてきても、このような生命力をもった心情の絆を、あえて崩すことはできません。

7 神様は、玉座に座って栄光を受ける神様ではありません。堕落した人類に対して、神様は今まで救援するために、毎日痛哭していらっしゃいます。そのような立場で人類を導いてこられたのが神様の姿です。神様は、このように悲惨なお方です。悲惨な姿に落ちた人類を救援するために、神様は寝ている人類を起こして、「来なさい!来なさい!」とおっしゃるのです。しかし、そのようにして行くようにはなっていないのです。責任分担を果たさなければなりません。これを身代わりしてあげられない立場でみ業を成し遂げようとするのですから、どれほど大変だったでしょうか。

8 神様は、悲しみの主人公であり、苦痛の主人公です。このように私たちが侍るべき父は、喜びと栄光を享受したいと思う心はもっていますが、そのような内容をもって喜んだり栄光を享受したりしてみることができなかった神様です。堕落の恨とともに、悲しみと苦痛の内容をもたれた悲しみの神様であり、苦痛の神様です。私たちは、神様が幸福な方だと思っていますが、決してそうではありません。喜ぶ内容があるかと思っていくら隅々まで探してみても、そのようにはなっていません。世の中を治める権力をもって栄光を享受し、幸福を謳歌する内容だけをもつべき神様には、喜びと栄光と善の結実、理想の要素がすべてなくなり、悲しみと苦痛だけが残っています。これが恨めしいというのです。この上なく悲しいことの中でも、これ以上に悲しいことは、天地のどこにもないでしょう。

9 神様は最も悲しいお方です。死んでいく自分の母がかわいそうだと言って泣く人よりも、神様はもっと悲しいお方です。善を主張することで、万民が公認する立場で民族の反逆者として追われて、恨めしく死ぬ人よりも、もっと無念なお方です。最も悔しく、最もかわいそうな主人公が、正に神様です。それを実感できるように教えなければならないのが宗教です。神様が着ている服は、栄光の服ではありません。血の汗に浸っている服です。その服は、御自身の息子、娘たちが手でつかもうとしてつかめなかった、血のにじんだ手で作った服です。神様の足は、茨の道をかき分け、数多くの闘争歴史で傷を負った足です。神様は、一人の個人が恨を解こうとして倒れるとき、代わりに打たれてきたお方であり、一つの民族を立て、その他の様々な民族が倒れ、裏切るようになるとき、その一つの民族の代わりに打たれながら闘争するお方です。私たちが信じてきた神様は、このようにかわいそうなお方です。

  

かわいそうな神様


10 神様は軟禁状態にあります。息子を失った、永遠のひとり子である息子、娘を失った父母の苦痛を抱いて生きる神様です。恨の神様です。今まで涙を流し続け、胸をたたきながら救援歴史のために人間の後ろについていきながら、数限りなく死に遭遇し、ありとあらゆることを見ても、耐えに耐えた神様です。その胸に、釘が打ち込まれているとすれば、世界を覆って余りある釘が打ち込まれているのであり、恨があるとすれば、この世の中にない恨を抱いてきたというのです。それが神様です。

11 神様は万物の主人ですが、その主人の行動を一度もしてみることができませんでした。愛の主体ですが、人間に対して「私はお前を愛している」と言ってみることができなかったのです。あらゆるものをもち得る自由な立場にいても、人間に対して「お前は私のものだ」と言って、思いどおりにしてみることができない神様です。また神様は、地上に多くの人類が生きていますが、彼らを一度も御自身の息子、娘、あるいはサタンをはねのける勇者として立ててみることができませんでした。イエス様を信じているキリスト教徒たちがたくさんいますが、神様は彼らを、サタンに対する総進撃の命令を下せる総司令官として立ててみることができず、イエス様を立てて天使世界に命令して地上と関係を結ぼうとしましたが、そのようにすることができませんでした。地上の人間に新婦の理念を与えて新婦を探し回りましたが、新婦だと言ってサタンに誇ることのできる一人に会うことができなかった神様です。そのような神様のみ前に、私たちはあまりにも申し訳ない群れです。

12 神様は、無限にかわいそうなお方です。罪悪の子女を抱き、「愛する息子だ」と言わざるを得ない不自由な立場にある神様は、罪悪の息子、娘が生きているこの地上に来られて、引き裂かれ、傷つけられ、追われる神様です。神様は痛哭していらっしゃいます。神様の心情には、ずたずたに裂けた傷があります。民族が倒れて新しい民族がつくられるたびに傷を受けられ、歴史のどの一ページにも、例外なく神様の心情の曲折が隠れているというのです。

13 神様には恨があります。人間の堕落によって生じた恨があります。語ることのできない曲折と恨の内容があります。人類を救援されるためにあえぎながら探し求めてこられた神様は、悲しい身の上です。この地上の、どのような物乞いも、神様よりはましです。神様がそのようになりました。神様が玉座に座って天地万物に号令し、あらゆることが思いのままになるとすれば、なぜ六千年の間、罪悪の人類を導いてこられたのでしょうか。一番かわいそうなお方です。主人であるにもかかわらず、主人の本分が果たせませんでした。父であるにもかかわらず、父の本分が果たせませんでした。これほど悔しいことはないというのです。御自身が造ったものであるにもかかわらず、御自身の思いどおりにできず、御自身の息子、娘であるにもかかわらず、息子、娘だと言うことができませんでした。この壁を崩すために摂理してこられたのが六千年の歴史です。

14 世の中で、最もかわいそうなお方が神様です。最も多くの苦労をした、苦労の大王が神様です。人間を創造したその日から、人間を見るまいとしても見ざるを得ない運命を抱えた父の立場にいらっしゃる神様、春夏秋冬はもちろん、六千年の歴史の中で、一時でも手放すことのできない人間の姿を見つめながら、苦しみあえぎ、泣き叫ぶことが生活哲学となり、それを掲げて人間を支える生活をしてきた神様なのですから、どれほどかわいそうなお方でしょうか。

15 歴史的な神様、時代的な神様は、悲しい神様です。過去と現在の神様は、悲しみの神様です。この悲しい神様を知って迎えることのできない者は、審判されるというのです。この世の中で本当に神様を愛する者だとするならば、自分の悲しみと自分の苦痛があるとき、これを解決してほしいと神様に祈ることはできません。歴史的な悲しみと苦痛を担って今まで訪ねてこられたことだけでも恐縮で、有り難いのに、これを知らずに自分の悲しみと自分の苦痛まですべて表す者たちは、審判されるようになります。歴史的な悲しみの神様であり、時代的な悲しみの神様に、とても自分の苦痛を祈ることができず、一人で泣く人がいるならば、神様は同情してくださるでしょう。「私の苦痛より神様の苦労がどれくらい大きいでしょうか。私が死ぬとしても、その苦労を私にお任せください」と言う息子、娘にならなければなりません。今日、ただ福を下さいといって祈る人々は、行けば行くほど神様のみ前に頭を上げることができない罪人になるでしょう。恩賜が多い神様の愛の圏内に入れば入るほど、頭を上げることのできない罪人です。

16 神様は永存されるお方です。神様が涙を流すのは、死の道を一掃し、苦痛の道を一掃し、悲しみの道を一掃するためです。神様が悲しみと苦痛と死の道を一掃するために、先に涙を流し、血と汗を流してきたことを知って、私たちは、そのみ旨を身代わりしなければなりません。神様が死の場に行かれてはいけません。今まで神様は、最後の死の場、最後の涙を流す場、最後の血と汗を流す場に私たちの先祖を立てました。このようにしたのは、神様に愛がなくてしたのではありません。そのような場を解消するために、神様も、それ以上の痛みを感じられました。愛する子女が死ぬその瞬間、父母の心は、どれほど苦痛であり、愛する子女が苦痛を受けるのを見つめる父母の心情は、どれほど痛むでしょうか。自分が死ぬよりも、もっと痛むのです。このような痛む心情を抱え、人類歴史が始まって以降、苦痛を受けてきた神様です。私たちは、一代を中心として一度苦痛を越えれば、私たちの責任はすべて終えることができますが、神様は、今まで私たちのたくさんの先祖たちが死の道を行くたびに、涙の道を行くたびに、血と汗を流す道を行くたびに、悲しみと苦痛の道を行くたびに、激しい苦痛を受けてこられました。

  

父母の位置を奪われた神様の恨


17 神様は、本然的真の父母の立場にあるお方です。真の父母となるべき神様が父母の立場を奪われてしまったので、創造理想の本然的基準にはなかったことが生じました。この創造世界にはあり得ないことに対して、創造主であられる神様は、干渉することもできず、それに責任を負って消化する立場にも立てないというのです。

18 神様は、王の座を怨讐に奪われました。神様は、栄光の神様となることができず、悲しみの歴史を抱えていらっしゃいます。御自分の国の王として、宇宙の王として存在するにもかかわらず、王が生きているにもかかわらず、王は死んだと蔑まれていらっしゃいます。結局は、御自分の愛する息子、娘をすべて奪われ、地球星は完全に怨讐によって、籠絡の場となってしまいました。

19 人類始祖の堕落によって、神様は愛する子女を失った父母になりました。子女が監獄生活をしているのに、栄光を享受する父母がいるでしょうか。神様の心情は限りなく痛むのです。また、堕落によって、人間のために造った宇宙万象までも、すべてサタンの主管圏に差し出してしまいました。真の愛の主人であられる神様は、その愛の対象を失った瞬間から、限りなく孤独な神様になりました。万有の主宰者としての権能を、一度も主張してみることができませんでした。愚かな堕落人間もみな自分を誇って生きているのに、神様は創造主の威信を一度も立ててみることができませんでした。あらゆる生命の主人でありながらも、それらの前に至尊な御自身を現すことができませんでした。

20 人間が堕落することによって、何を失ったのでしょうか。第一に、真の愛の理想世界を失い、第二に、真の愛の理想家庭を失いました。真の愛の夫婦を失ったというのです。第三に、真の愛の息子、娘、宗家の一番上の孫を失いました。これが神様の三大悲哀です。

21 み旨の完成を望んできた神様の時代は、堕落によって、成し遂げられずに消えてしまいました。天地万物を造られた神様の希望の場に、根本的な破綻をもたらしました。神様が計画していたあらゆるプログラムが完全に破壊され、蹂躙されました。永遠の愛の理想対象圏が破綻させられたというのです。純粋な本質的な愛をもった神様が、理想的対象として描いていたアダムとエバが堕落していった時、神様の心はこの上なく悲しかったでしょう。これ以上ない極めて悲痛な思いだったでしょう。

22 キリスト教では、「神様は栄光の中にいる審判主として、地獄へ送り、天国に送る」と言います。この世で最もかわいそうなお方が神様です。最も悲痛で身もだえしながらも、光明の天地が暗黒の地獄へと落ちるのを防ぎ、そこで体を支え、目を見開いて気を取り直し、死に至った子女たちを生き返らせようという心をもたれたお方が神様です。

23 人間と永遠に共にいるべき神様が、その人間と引き裂かれるときの、その悲痛さと悔しさと憤りと悲しさは、どれほど大きなものだったでしょうか。人間は、全宇宙とも取り替えることのできない一つの愛の基地を目指して成熟し、平衡を保った上で縦横が結合する一つの軸をつくらなければなりませんでした。そのようになっていたならば、それが一つの基準となり、天地のあらゆる万物の測定基準になることができました。その愛と関係が結ばれたすべてのものは、どこにでもみな合うようになっています。

24 神様も、自分の愛の相対が自分より優ることを願います。その愛の相対が人間なのです。それなのに、人間が特権的な価値を喪失して苦しむ、そのような無価値な人生を見つめる神様の心情は、どれほど悲惨でしょうか。その人たちが、本来は自分の愛と自分の生命と自分の血統を通して直系の子女となり、天の国の勝利の栄光を占有するはずだったにもかかわらず、敗者の仮面をかぶって呻吟と苦痛と嘆息と絶望の中であえいで、生命を断つ立場にあるというのです。それを見つめる神様は、どれほど胸が詰まる思いでしょうか。そのように悲しい神様なのです。

25 皆さんは、自分よりも悔しい立場にいる人に慰労されるときには、慰めを受けることができます。神様は誰よりも悲痛さを経験していらっしゃるので、その神様を誰も慰労することができません。始まりも神様御自身であり、終わりも神様御自身なので、その心の中にしこりとなっている恨をいかにして解くかということが、神様の内的な事情です。神様は、このような事情を抱いて、今まで復帰摂理をしてこられました。霊界は、時間と空間を超越した世界なので、六千年前の悲しみも、歴史時代圏内に永遠に残るのです。もし、自らを祭物として捧げたという体験によって喜びを感じたとすれば、それが時間圏の内容であっても、生活圏の内容であっても、一生において忘れられないのです。歳月が過ぎれば過ぎるほど、その幅と広さが大きくなってあがめられる対象になり、それが無限の根源と関係が結ばれるというのです。これから皆さんが、このような神霊的な体験をして、そのような内容をもって実行するようになれば、神様が今まで受けてこられた悲しみが一時的なものではなく、連続的につながってきたということが分かるでしょう。

26 私たちは、自らを前面に立てて自分のことをむやみに話してはいけません。長い歴史の裏道で、真の自分を語ることのできる子女を探して、恨に絡まった復帰摂理をしてこられた神様の心情を少しでも知るならば、むやみに自分を主張できないのです。私たちは、寝ても覚めても理想家庭完成のために生きなければなりません。神様の創造本然の世界である平和世界、神様が千年、万年待ち続けてきた理想家庭さえ立てるならば、そこが正に地上天国の出発地になるでしょう。そこで、かわいそうな神様の恨を解いていけるようになるでしょう。

  

変わらない神様のみ旨


27 神様は絶対者であられるので、志されたことを成就しないわけにはいかず、なさろうとしたみ旨を必ず成功させなければならないお方です。堕落したアダムとエバを再び収拾して、再生工場で修理し、本然の神様の愛を受けることができる、堕落していないアダムを再び造り出さなければならず、エバを再び造り出さなければなりません。そうして再び探し出された父母に連結させて、子女を探さなくてはいけません。そのような立場にあるので、救援摂理が始まったのです。

28 神様のみ旨は変わりません。人がいくらたくさんいるとしても、み旨に向かって行く道は一つしかありません。絶対的な神様なので、み旨も一つであり、そのみ旨の道に向かっていく道も、二つの道にはなり得ません。自分勝手に行き来することはできないのです。一つの直線しかないというのです。

29 絶対的な神様は、歴史観をもっていなければなりません。その歴史観は、摂理を通して現れます。摂理の中には、摂理のみ旨に従う人と、従わない人がいます。言い換えれば、信仰生活をする人と、しない人、この二種類がいます。こうした東西南北の文化圏を収拾して、一つの世界へと指向する絶対的な神様の理想、すなわち神様のみ旨は絶対的に一つです。神様のみ旨、神様の指向するその目的は、人類を破綻の渦中に追い込むためのものではなく、人類を解放と平和の境地に導くためのものです。ですから、平和の終着点に向かって、統一された世界に向かって歴史は動いていかなくてはなりません。

30 あなたと「私」の二人が神様の愛を中心として愛し合い、み旨を中心として愛し合うなら、どれほど素晴らしいでしょうか。そうすることのできる家庭、そうすることのできる氏族、そうすることのできる民族、そうすることのできる国家、これが私たちの望む願いです。そのような圏内に「私」が包括されて生きている立場、すなわち歓迎し、呼吸し、授け受けする圏内で、私が主体的な立場で挙動しながら生きるという立場に立つとき、それこそ痛快なことではないでしょうか。無限の世界が伸びていき、無限の世界が縮小され、主体としての調和の関係を提示できる私であり、脈拍の起源に波動を起こさせる私だということを考えるとき、どれほど痛快な立場かというのです。そのような私がどこかに行くようになれば、神様もついてきます。私が隠れてしまえば、神様も困ります。それができると自覚されたところから統一の要因が決定されるのです。

31 いくら外的勝利が完結したとしても、内的勝利がここに伴って完結しなければ、一つの全体目的を完成することができないと見るのが原理の観点です。ここで、内的なものが重要か、外的なものが重要かということが問題です。二つのうち、内的なものをより重要視せざるを得ません。内的な問題は、神様のための問題であり、外的な問題は、人のための問題だからです。このような観点から、私たちは神様のみ旨を重要視せざるを得ません。神様のみ旨は、神様と内的に一つとなった個人を通して家庭を形成し、その家庭を通して内的に一つになった氏族を形成し、その氏族を通して内的に一つになった民族を形成し、その民族を通して内的に一つになった国家を形成して発展させようとするのです。これが神様の計画です。

32 罪のある世の中から、罪のない世の中に移さなければなりませんが、これが救援です。移すということが救援なのですが、それがすなわち復帰だということを知らなければなりません。本来、神様のみ旨は、救援ではありません。ですから、本来の神様のみ旨に戻らなければならないのです。メシヤが来る目的は、神様のみ旨を成し遂げるためのものです。神様のみ旨とは何でしょうか。悪魔サタンの世の中にいる人たちを、すべて自分の所に救い出すことであり、悪魔サタンを追放することです。今日、皆さんが生きている所には、罪を犯せば讒訴する悪魔サタンがいます。これを追放しなければなりません。人類を救援することが神様のみ旨であり、人類を滅ぼし、人類を蹂躙する悪魔サタンを、この地球星から永遠に追放することが神様のみ旨です。

33 神様にとって一番重要なことがあるとすれば、それは何でしょうか。み旨の成就であることは間違いありません。み旨を成就すること、言い換えれば、創造理想を完成すること以上に重要なことはありません。しかし、創造理想、すなわち、み旨を成し遂げなければならないということは、神様御自身のこととしてのみ残される問題ではありません。み旨の成就というものは、あくまでも神様を離れた相対の立場にその成否がかかっているという問題になってくるのです。ですから、神様御自身にのみ直接的な問題になるのではなく、相対的問題としても現れるのです。神様がアダムとエバを造る前に天地万物を造っておき、その次にアダムとエバを造って中心の位置に立てておきましたが、その中心存在が勝利の結実体になることがもちろん神様の望みですが、そのようになれるかなれないかということは、神様御自身に鍵があるのではなく、人間自身にあるのです。

34 堕落した父母、すなわち偽りの父母から生まれた人間は、神様と関係を結ぼうとしても結ぶことができなくなりました。すなわち、天地を創造した創造主と内縁の関係を結ぶことのできる何ものももてなくなったのです。創造の原則を中心として見てみるとき、人間は神様が造ったという由来があり、そして、神様が人間を造った目的が人間を堕落させるためではなく、完成させるためであり、創造の標準となる法度があるので、このようなものを中心として人間が再び責任を遂行するようにするためのものが、第二次的な復帰摂理路程です。復帰摂理は、堕落する前の状態に引き上げる路程です。人間は堕落することによって無原理圏の世界に落ちてしまいました。言い換えれば、原理がない世界、神様が干渉しようとしても干渉できない世界に落ちてしまったのです。

35 神様が主体と動機にならなければなりません。人間だけでは、神様と関係を結ぶことができず、恨のどん底から抜け出すことはできないのです。創造の原則から見てみるとき、人間は本来、神様と父子の関係を結ばなければならないことを御存じの神様なので、神様は落ちた人間を再び子女の立場に引き上げようとしますが、そうするのは容易なことではありません。創造より何倍もの受難の道を行かなければならないのです。神様は、今まで無原理圏内に落ちた人間を、はしごを置いて引き上げる摂理をしてこられたのです。

36 神様は、アダム家庭が堕落したその日から、アベルを中心として摂理しました。父母が誤ることによって、子女を中心として摂理したというのです。摂理の目的はみ旨を立てることですが、それではみ旨の目的とは何でしょうか。創造理想、創造目的を完成することです。創造目的の完成は、愛の一致であり、理想を実現することです。ですから、アダム家庭において、このことが成就しなかったという事実が堕落だと見るのです。それでみ旨と心情の喪失が堕落によって成立したのです。これを復帰するために、これを再創造するために、アベルを立てて役事したのです。アベルの意志と神様のみ旨は分離されるのではなく、一致しなければなりません。神様が御覧になる次元とアベルが向き合っている次元が一致しているでしょうか。次元は違いますが、行く方向において、個人としてアベルが向き含っている立場は、神様の全体のみ旨の前にはもちろん差がありますが、み旨を行っていく過程で、向き合うみ旨の立場と方向は一致しなければなりません。ですから、アベルは救援摂理を完成するためにカインと一つにならなければなりません。カインを一致化させることが問題です。

37 堕落した人類は、いまだに世界が立証することができ、地が立証することができ、天が立証することができる、永遠の生の価値を見いだすことができずにいます。ですから、堕落した人間には、個人の生の価値を取り戻し、個人を経て世界的な生の価値を取り戻し、世界を越えて天的な永遠の生の価値を取り戻さなければならない復帰の使命が残っているのです。それでは、神様が今日まで摂理のみ旨を立て、全体の生の価値を求めてこられた目的は、どこで終結するのでしょうか。それは、皆さん一個体や世界で終結するのではありません。天と地が一つになって神様が喜ぶことができると同時に、世界が喜ぶことができ、世界が喜ぶことができると同時に、個人が喜ぶことができる生の価値を取り戻さなければなりません。その時になって、初めて天の救援摂理も終わり、サタンを中心とした世界的な人倫も終わり、個人的な道徳観念も終わるようになります。堕落した人類には、このような生涯路程を開拓していかなければならない責任があるのです。

38 原罪を取り除くための闘いは、アダム家庭から始まりました。アダム家庭の二人の息子であるカインとアベルを分立したところから、摂理歴史が始まったのです。神様はアベルを愛し、アベルに供え物を捧げるようにしました。供え物を捧げるときは、誰よりも神様のみ言を絶対視しなければなりません。サタンが反対しても、それを克服して越えなければなりません。アベルは精誠の限りを尽くして環境上の困難を克服し、み旨にかなうように供え物を捧げました。供え物を捧げるアベルは、堕落したアダムよりも神様のみ言に絶対順応しなければなりません。アベルはサタンとは永遠に関係がない、神様と永遠に一つになる実体にならなければなりません。それでこそ神様の愛を受けられる立場になります。そうすることで、悪の主権から解放されて、善の主権に入っていくというのです。

39 天と地の中からは探し出すことができず、被造物の中から探し出すことができない一つの貴い存在、神様の内部に隠されている全体の性相を新しく示すことのできる、より次元の高い新しい実体が主人公として現れて、神様のみ旨を成就させる日はいつでしょうか。このような感激的で衝撃的なひと日を迎えるために、今日まで神様は、この一つの目的を立て、復帰摂理をたどりながら絶え間ない苦労の中で役事してきていらっしゃるのです。

40 神様は千辛万苦しながら、人間を救援するために多くの蕩減の歴史を経てきました。神様は悪魔を思いどおりに打ちのめし、悪魔から人々を思いどおりに奪ってくることのできる能力があるお方ですが、それは不可能です。神様が人間を愛で育て、愛で家庭を築き、愛で氏族と民族と国家と世界を形成しようとしていた本意のみ旨がある限り、アダムとエバは堕落したとしても彼らが堕落する前に対していた心を、神様は永遠にもっていらっしゃらなければなりません。アダムとエバは堕落することによって神様の心の世界から離れましたが、力をもってこれを強制的に元に戻すことはできません。既に悪魔と愛の関係を結んだからです。愛という関係を結べば、所有権が決定されるのです。相続権が決定されるのです。同居権、同位権、同参権が決定されることによって、完全にサタンの所有権に移るようになるのです。

41 人間が堕落することによって、神様が喜びの日を迎えることができず、人類始祖が喜びの日を迎えることができず、神様と人間のために造られた万物も喜びの日を迎えることができませんでした。その主人たちが悲しい立場に立っているので、それに伴って喜ぶ立場に立つことができないというのは当然の道理です。神様と人類始祖が悲しい立場に落ちていくことによって、万物も悲しい運命の立場に立たざるを得ません。ローマ人への手紙第八章二十二節には、「被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けている」とあります。万物の嘆息も嘆息ですが、人類も嘆息します。人類も嘆息しますが、万物と人類の主体的な立場に立った神様も、嘆息圏内に立っているというのです。喜びではなく、悲しみから始まった歴史なので、悲しみの歴史を元に戻して、喜びの歴更に復帰、救援しようとするのが神様の摂理です。

  

本然の世界を復帰するための摂理


42 神様が今まで苦労して摂理してこられたのは、ただみ旨を成就するためでした。そのみ旨の帰一点をどこに置いたかというと、人間と神様が苦楽を共にできるところに置いたのです。人間が、神様の希望されるみ旨を成就して、神様と永遠に苦楽を共にできる関係を結ぶようになれば、神様は人間の真の父であり、人間は神様の真の子女になるのです。このようになれば、神様の意志がすなわち人間の意志になり、人間は全被造万物とも和動して、神様に栄光を返しながら、神様の知恵深さと慈しみ深さと恵み深さを、永遠に称賛するようになるでしょう。そのような日が来ることを、神様と人間と万物は願っているのです。み旨は神様の創造理想であり、堕落した人間にとっても永遠の理想です。ですから、そのみ旨が成し遂げられれば神様と人間が一体となり、神様が楽しければ人間も楽しく、人間が楽しければ神様も楽しくなります。すなわち神様の意志が人間の意志になって、二人ではない一人として和動できるようになることによって、人間は神様に永遠の理想の喜びをお返ししてさしあげ、また自らもそれによって永遠の喜びを感じるようになります。

43 この世の中の主人は神様でなければなりませんでした。神様と愛の関係を結んだ直系の子女で構成された家庭を主として、氏族が編成され、国家ができ、世界ができていたとすれば、それこそ、神様が主管できる世界であり、神様が主管できる国であり、神様が主管できる家庭であり、神様が主管できる個人になっていたでしょう。ところが、人間が堕落することによって、個人から家庭、氏族、民族、国家、世界、このように全体が神様と反対する立場になってしまいました。これが堕落の歴史であり、堕落の世界です。この世界をこのまま放っておけば、神様が創建しようとされる創造理想である永遠の愛の世界を成し遂げることができず、また絶対者であられる神様は、本来意図された創造理想を実践させてこそ、神様の本来の権威をもつことができるので、その位置を標準として、悪の世界を収拾し、本来理想とされた本然の世界に導いてこられたのです。これが堕落した世界に対する神様の摂理です。

44 今まで神様の願いは、人間が万物と心情関係を結び、神様と心情関係を結ぶことでした。それで神様は、堕落した人間を僕の僕の立場から始めて、僕、養子の立場を経て、子女の立場、そして父母の立場にまで引っ張り上げるみ業をしてこられました。それは嘆かわしい堕落の因縁を切り捨てて、万物と人間と神様が一体の心情関係を結び、神様の喜びが人間の喜びであり、人間の喜びが万物の喜びになるようにしようというものです。神様は、息子、娘を万物世界と天使世界にまで誇り、見せてあげ、慈しんであげたいと思われました。人間は、誰も創造当時の姿ではありません。人間には情的な性稟があるので、悲しみや喜びなどの感情を感じることができます。相対を通して喜びや悲しみを感じることができます。相対の喜びが「私」の喜びになるとき、互いに誇りたいと思い、見せたいと思うのが人間の気持ちです。神様も同じです。神様は、人間が喜ぶのを見て喜ばれ、人間は自分たちによって喜ばれる神様を見て喜ぶのが、正に授け受けする喜びです。

45 本来の世界に戻るには、人間の力だけでは不可能です。それで神様は引き上げる役事をされます。これが復帰摂理です。ここに人間が協力すれば復帰摂理は易しいはずですが、今まで人間は、このような神様の摂理に協力しませんでした。そのような中で神様は、家庭、氏族、民族、国家、世界にまでみ旨を広めてこられました。その過程で内的、外的に受けられた苦衷は言うに言えないものでした。いくつかの国家や民族も、平面的には苦労したと言えますが、神様のみ前では苦労したとは言えません。個人はより一層、そうです。地上だけではなく、今まで生まれては逝ったあらゆる人間をすべて総合してみても、み旨のために苦労して協助したと言える人がいません。これは否定できない事実です。このような人間を導くために、神様は責任を負い、自ら苦労され、闘ってこられたのです。

46 数多くの人類を中心として、神様は六千年の間苦労してこられました。六千年の間苦労してこられましたが、末世のこの時、終わりの日とは、どのような時でしょうか。この世界には本然の僕として生きていく群れがいて、本然の養子のような群れがいて、本然の子女のような群れがいます。その子女のような群れが生まれた基盤の上に、本然の父母が来るというのです。これが再臨思想です。それでイエス様が「私は花婿であり、あなたがたは花嫁である」という立場で語られたのです。地上に、一人の父と一人の母が現れなければなりません。小羊の婚宴とは、この地球上に人類が失ってしまった本然の私たちの家を、初めて建設する瞬間です。私たちの家を建設しようとすれば、そこには父母がいなければならず、兄弟がいなければなりません。これを基盤として子女が繁殖することによって、本然の氏族が広がり、本然の民族が広がり、本然の国家が広がり、本然の世界が広がるのです。そのようにして今までの悪の世界を清算し、善の世界に向かって摂理していくのが復帰摂理です。

47 人間は、堕落することによって、原理圏内でない無原理圏に落ちました。天使は神様の僕ですが、人間がどの程度落ちたのでしょうか。天使世界、僕よりも悪い世界に落ちました。主人になるべき、王子、王女になるべき位置から、僕よりも悪い位置に落ちたので、再び上がらなければなりません。それで僕の僕から僕、養子、庶子、直系子女の位置まで、その次に母を通して父の位置に戻らなければなりません。これが復帰です。救援摂理は、病気になる前の基準に再び戻すものです。ですから、救援摂理は復帰摂理です。復帰摂理は適当にするものではありません。

48 神様は、堕落によって汚された地を再び回復されようと、残された天使たちを通して、人間と関係を結ぶ救援摂理をしてこられました。堕落することによって、聖なる神様に背いた立場に立っている人間、万物とも比較できないほど完全に落ちた人間と再び相対されるために、神様は救援摂理をしてこられたのです。サタンが支配し、サタンが讒訴する人間を、神様が主管されるために、橋を架けて役事してこられた歴史が、旧約時代を経て、新約時代を経て、今に至っています。

49 神様が数千年の間、復帰摂理をされながら受難の道を経てきたのは、神様がお人よしだから耐えてきたのでしょうか。今まで人類歴史の数万年の間、神様が救いの摂理をしてきながらも、いまだに疲れ果てることなく続ける、その原因はどこにあるのでしょうか。全知全能であられるからではありません。愛の道を求めてきたためであり、愛の息子、娘を探し求めてきたからです。ですから、愛は、千年を一日のごとく、その受難の道を何度も越えさせる、偉大な力です。

50 神様は、投入して忘れ、また投入して忘れる真の愛をもっているので、今まで救援摂理をしてこられたのです。真の愛を中心として投入して忘れる役事を繰り返してきたので、今日、世界がこのようになりましたが、今も投入していらっしゃいます。ある団体を通したり、どこかの誰かを通したりしてでも、投入しなければなりません。ですから、神様が堕落したこの宇宙を回復し、本質的な愛を中心として創造された真の愛の理念を実現するために、今まで投入してきた本然的基準を永遠に統けなければ、絶対者である神様の権威を取り戻すことができません。

51 人間が罪を犯したからといって、「おい、お前、なぜ罪を犯したのか」とおっしゃるばかりの神様ではありません。罪を犯した事情をよく御存じの神様です。御自身の事情は考えずに、人間の事情を知ろうとされる神様です。神様は悲しい者には悲しい事情をもって訪ねてこられ、苦痛を受けている者には苦痛の事情をもって訪ねてこられ、悔しくやるせない者には悔しくやるせない事情をもって訪ねてこられました。皆さんは、神様とどれだけ事情を通じたことがありますか。神様は私たちの生活環境の中にも、そのように訪ねてこられました。それだけではなく、心情をもって訪ねてこられました。「お前が私を裏切っても、私はお前の父親だ」という心があるので、六千年という長い歳月を訪ねてこられたのです。

52 子女は、自分の血肉を受け継いだ息子、娘です。母親が涙を流せば、心が通じて共に涙することができるのが息子、娘です。父親が涙を流して悲しめば、共に悲しむ心が自然に生じてくるのが息子、娘であるにもかかわらず、彼らを指導し、育成するのは、非常に困難です。人間は、神様がいくら泣いても、いくら悲しんでも、見て見ないふりをします。これは、人間がサタンの血肉を受けて生まれたからです。むしろ、神様が悲しまれるのを見て、褒めたたえるのです。滅びる者を見れば、喜んで笑うというのです。神様は、このような人間を中心として指導し、開拓の方向を教えてあげようとするので、どれほど御苦労が多いでしょうか。しかし、一から百、千、万までために生きようとされる心、哀れに思われる心が神様になかったとすれば、神様が今まで摂理歴史を続けてくることはできなかったというのです。

53 人間が堕落したその日から、この地上には苦痛と悲しみと悲惨の歴史が始まりました。これは、創造当時に神様が計画した本来の目的ではありません。神様もこのような世の中は願わなかったのであり、人間もこのような世の中に生まれて生きることを願いませんでした。ですから、神様はこのような悲惨な歴史、悲しく苦痛な歴史を清算し、本来願っていた平和の世界、幸福の世界、自由の世界、善の世界を取り戻すという目的を立て、この堕落した世の中を収拾しているというのです。これがすなわち復帰の道であり、救援摂理の道です。

  

宗教を立てた理由


54 神様は、堕落した人間と復帰の縁を結んで、失った理想の園を探してこられました。神様が堕落した人間を復帰して、昔、堕落していないアダムとエバと向き合っていたその喜びの園を建設し、天の喜びを基点にして、世界的な理念を創建するために摂理される歴史が救援摂理歴史であり、私たちが歩んでいくべき復帰歴史です。したがって、復帰の路程を歩んでいる皆さんが、自分の一個体を天倫の路程の前に立てて、冷静に批判してみなければなりません。皆さん自身がどのような位置に置かれているのか、どのような立場であえいでいるのかを反省してみなければなりません。その位置と方向を人間に教えてくださろうとする神様の愛があったので、今日、人倫を代表する宗教が立てられたというのです。ですから、神様は信仰という言葉を立てて、歴史過程に宗教を中心として人間を復帰してこられたのです。

55 アダムとエバが善悪の実を取って食べずに堕落しなければ、どのようになっていたでしょうか。神様の圏内で結婚して神様の愛を受け継ぎ、神様の生命と血統を受け継いで直系の子女になっていたのです。このような人々には救世主が必要ありません。修養が必要ありません。直系の子女は心が一つになっているので、神様のようにすべて通じるようになっています。一体になってすべて通じます。心と体が闘うことが問題です。一つにならなければ、皆さんが天上世界に行っても、億万年にわたって一つにしなければなりません。真の愛を中心として一つにするのです。真の愛でなければできないのですが、真の愛の道理を教えるその代表者が真の父母様です。あらゆる歴史的な罪を取り除いてしまうことのできる内容になって、初めて解放が始まります。

56 宗教は、人間の志を成し遂げるためにあるのではなく、神様のみ旨を成し遂げるためにあります。神様のみ旨が成し遂げられてこそ、人間の志が成し遂げられます。これが創造の原則であり、神様が人類を創造された目的です。堕落した人類世界は、まだ神様のみ旨の完成時代を経験したことがなく、今日、人間の志の完成時代を経験したことがありません。ですから、今まで人類歴史は、理想世界に向かって、より次元の高い本然の地に向かって、それを追求してきたのです。その追求する目的は、結局、人間の意志で一つの目的を達成しようとするのではありません。神様のみ旨を完成するところから人間の志が出発すると見るのが、神側から見る摂理史的歴史観です。神様が目指されるのは、第一次としてアダム完成とエバ完成です。さらには霊界の完成です。天使世界の完成です。今まで救援摂理は、神様のみ旨を成し遂げるために神様が中心となってやってきました。

57 神様のみ旨の完成は、あくまでも世の中の観点とは異なります。物質的条件ではありません。世の中で言う知識の条件でもありません。権力の条件でもありません。それでは、何の条件でしょうか。愛を中心とした完成を標準としています。数多くの宗教は、歴史の背景が異なり、時代的な差があり、その差に従ってこのような目的を標準としてきたので、どのような宗教でも慈悲や愛の内容をもたなければならなくなっています。その愛は、どのような愛でしょうか。アダムに対する愛はアダムにだけ及ぼされるものではなく、エバの愛はエバにだけ及ぼされるものではありません。その愛はアダムとエバの愛として、今後、家庭、氏族、民族、国家、アダムの子孫全体に及ぶのです。そうしてこそ、その愛の理想の夫婦から愛の理想の氏族、民族、国家、世界の形成が可能になります。

58 神様が立ててきた宗教の中には必ず主流宗教があり、その次には主流民族がいます。主流民族と主流宗教を連結させ、主流思想にまで結びつけて、神様の理想実現を経綸することが神様のみ旨です。ですから、神様のみ旨は、現想実現のための土台にならなければなりません。神様のみ旨を成そうとするその土台の上には、神様のみ旨を成就させる民族がいなければならず、国家がなければなりません。これが形成されなければ、神様の創造理想を受け継ぐことができません。それで歴史が始まって以降、神様の理想を受け継ぐに当たって、必ず神様のみ前に近かった宗教を通して民族が編成されます。宗教を中心として神様の理想を受け継ぐ個人、家庭、氏族、民族、国家、世界に連結されます。神様の理想を受け継ぐ道を行くのが、み旨の道です。

59 神様のみ旨を中心として生きようとし始めたのが宗教の道なので、宗教は神様のみ旨の道を行くのです。神様のみ旨は絶対なので、永遠に一つです。二つはあり得ません。ですから、絶対的なみ旨、絶対的な神様のみ旨を中心として生きる人は、個人の天国生活をするのです。家庭でそのように生きる人は、家庭の天国生活を神様と共にするのです。民族、国家、世界を越えて、世界的なみ旨を中心として世界が一つになって生きるようになれば、それが地上天国です。

  

天運を動かす摂理の主役


60 み旨の道は一つです。み旨が行く方向は二つではありません。み旨が安着できる所も一つです。しかし今日、この地上に生きている人たちを見ると、自分の意志だと決めているその方向が複数の系統に分かれています。意志が様々だというのです。方向も様々です。また、その意志を中心として、自分が成功することや定着すべきものなど、このようなものがすべて多様です。

61 神様と人間が一つのみ旨を中心として、一つの愛によって和合して生き、全天地が神様の愛を楽しみながら、その愛を実際の生命の中心として立て、すべてが一つになって生きることが神様の創造本然のみ旨でした。しかし、アダムとエバが堕落することにより、神様の愛は、神様の愛としてのみ残るようになりました。すなわち、人間と関係を結ぶべき神様の愛は、人間と関係を結ぶことができずに、人間から離れるようになり、全被造世界から離れるようになりました。ですから、神様は、御自身が立てようとされたその愛を中心として、すべての万物を糾合し、神様と万物が共に喜ぶその一日を願われながら、六千年の歴史を経過してこられたのです。しかし、いまだに神様の愛を中心として全被造万物が一つに統一されないまま、その神様の理念は理念のまま残っていて、取り戻すべき希望の愛もそのまま残っています。ですから神様は、そのみ旨を必ず成し遂げるために、今まで摂理してこられたのです。

62 私たちは今、希望成就の過程にとどまっています。ある目的を見つめてその希望を成し遂げていく過程にあります。この過程において動いているとすれば、皆さんは立てた信仰の約束を終結することができなければなりません。そのような限界を越えた一個体は、最後の一時に主の血と肉を受けたことに報いる存在です。このような意味で、「私」はいかにすべきなのでしょうか。イエス様の前後、左右、上下、また聖霊の前後、左右、上下、神様の前後、左右、上下を身代わりすることができなければなりません。天上のみ旨であると同時に地上のみ旨である、人間を通して決着をつける限界の日を地上に立てることができなければ、イエス様のみ旨も成し遂げることができず、神様のみ旨も成し遂げることができません。そのようなみ旨を考えれば、今日、取るに足らない私たちの価値はあまりにも大きいというのです。

63 皆さんは、六千年の歴史の最後に残った、一つの宇宙的で冒険的な任務を遂行しなければなりません。その任務が宇宙的ならば、皆さんも相対的に宇宙的な存在にならなければなりません。冒険的な内的覚悟をもって立ち上がってこそ、その任務を遂行することができます。神様のみ旨が私たちの信仰生活と異なって成されたら、どうするのですか。今まで超現実的な冒険の路程を通して、神様の歴史は進展してきました。このような宇宙的な冒険の関門を経てこそ、最後の勝利の旗を掲げ、父の前にホザナの凱歌を歌うことができ、宇宙的な新婦の立場を身代わりできる存在になることができます。またそうしてこそ、どのような条件にも引っ掛かることがなく、どのような環境で、どのような迫害と非難があったとしても、超現実的な冒険の基準を立てる天の王子、王女になることができます。

64 皆さんは、自由の中でも最高の自由、栄光の中でも最高の栄光、喜びの中でも最高の喜びの位置で主に侍らなければなりません。そうして、歴史的に現れたサタンのあらゆる讒訴条件から逃れて、父を呼び求めることができなければなりません。そのような人になれば、神様は、皆さんが語る前に、先に皆さんを訪ねてくださいます。ですから、皆さんはそのような基準を、皆さんの生活過程で立てなければなりません。神様は、このように御自身の宇宙的な愛を中心として体恤する人格の価値をもった一人、イエス様を身代わりし、歴史を代表した人格の価値をもった一人を先に訪ねてこられます。このような人々が集まって国を復帰し、世界を復帰し、天地を復帰してくれることをイエス様は願っています。これが神様のみ旨です。

65 神様が摂理歴史を繰り返してこられたのは、人間をしてその摂理に相応させることで、人間の前に理想の神様として立つためでした。ところが、サタン圏内にいる人々には、神様が審判の神様であり、恐怖の神様として現れるようになります。ですから、私たちが神様を理想の神様として迎えるためには、人間の堕落による神様の悲しみを私たちが代わりに体恤して、神様と同じ悲しい立場に立ち、神様と同居できる関係を結ばなければならないのです。そうでなければ、神様は私たちに理想の神様として現れることができず、また創造理想の主人公としても現れることができません。私たちが理想の神様を迎えるために進む路程において、この道を遮っているサタンとの闘いの路程を経なければなりません。これが、堕落した人間が必然的に行くべき蕩減復帰の道です。

  

原理原則による救援摂理


66 私たちは、神様の摂理が復帰摂理であることを知っています。復帰摂理とは何でしょうか。失ったものを回復する運動です。失ったものを再び取り戻すことです。造った人が壊れたので、み言を通して再創造することです。再創造されるべき人間です。体に通じるみ言も失い、心に通じるみ言も失い、心情とともに永遠に楽しめるみ言も失ったのが堕落した人間なので、私たちは、み言、すなわち真理を探し出さなければなりません。真理はみ言だといいました。真理は組織を導いていく原則であると同時に、天倫の根本です。したがって、世界は今まで真理を求めてきました。ところが、まだ真のみ言が現れていません。真のみ言がないので、真の生命の実体がありません。真の生命の実体がないので真実の愛の実体がありません。真実の愛の実体がないので、真実の宇宙、真実の天地が現れていないのです。

67 神様は復帰摂理の役事をするとき、大ざっぱにされるのではありません。復帰摂理は再創造の役事であり、再び取り戻す役事なので、原則に従って行います。創造原則に従って再創造の役事をしてこられたのです。人が堕落したので、神様が人を造ったのですが、造られていなかったのと同様の立場に人が立っているので、再び造られたという条件的な立場にもっていって合わせなければなりません。

68 救援摂理は復帰摂理です。復帰摂理は再創造摂理です。再創造摂理は、どのようになるのでしょうか。神様が創造する時に、何を先に造ったでしょうか。天使世界を先に造りました。その次は万物世界を造りました。その次にアダムとエバを造りました。このように三段階を経てきたのです。このような三段階の原則を通して、今日、歴史も発展してきました。この全体歴史は再創造歴史圏内にあるので、神様が今まで堕落した人類を救援するところにおいては、形態としては再創造歴史の過程を経るというのです。

69 神様は、救援摂理を通して本然の理想形態を復帰するのです。ですから、救援摂理は復帰摂理です。復帰摂理は、どのような摂理を通過するのでしょうか。再創造摂理です。再創造は、神様が投入した愛を人間が代わりに再び投入してこそ、再現された理想的創造物になります。ですから、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」(マタイ二二・三七)と言いましたが、これが第一の戒めです。第二の戒めは、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」(マタイ二二・三九)です。第三の戒めは、万物をあなたの父母の代わりに、夫婦の代わりに、子女の代わりに、愛する心をもちなさいということです。最初の戒め、第二の戒め、第三の戒め、このように終わるのです。縦横を中心とする愛の理想圏内において、球形的な理想がここから始まるのです。

70 サタンは、神様のみ旨を破綻させ、破壊する分子です。神様は、その破壊するサタンに対して勝利して、再創造過程を経て復帰してきます。しかし、そのまま復帰してくることはできません。蕩減させるには、大ざっぱではできないというのです。創造したその過程に戻っていかなければなりません。ですから、救援摂理の全般的内容を見れば、神様の蕩減復帰摂理はまず、救援摂理をしてくるということです。歴史的なあらゆるものを私たちが総評すれば、第一に救援摂理、第二に蕩減復帰摂理、第三に再創造摂理です。このように見れば、救援摂理は復帰摂理です。救援摂理は本然の立場に戻ることです。病院に入院して生死の境で呻吟していた人たちが、本来の立場に戻るようになれば、「救われた」と言います。救援は本然の立場に戻ることを意味します。その救援摂理は蕩減復帰摂理だというのです。戻るには、そのまま戻ることはできません。必ず蕩減しなければならないのです。

71 神様の救援摂理は復帰摂理なのですが、復帰摂理は蕩減復帰摂理です。復帰摂理は、そのままでは推進されません。必ず犯した罪を蕩減しなければなりません。蕩減するということは、サタンを分立させることです。罪を犯せばサタンの所有権内に存在するようになるので、それを蕩減してサタンを分離し、分離することによって本然の基準に原状回復して、帰ってくることができるのです。今まで、長い間の歴史過程を通して犯した人類の罪は、どれほど大きいかというのです。その悪なる人々が犯した罪をどのようにして蕩減しなければならないのでしょうか。人間は知りませんが、善なる人々が犠牲になることによって蕩減されるというのです。国も同じです。国が犯した罪があれば、その国の善なる人を何人かずつ連れていくことによって、それを埋めるのです。そのようにしなくては蕩減になりません。人類全体を見ると、このようにしながら世界的な舞台まで発展してきました。その過程で人類が犯したあらゆる罪を蕩減し、世の中を正常に変えるために、蕩減の祭物として善なる人々がたくさん逝ったというのです。

72 歴史路程において蕩減というものを中心として善悪が分かれ、また不幸と幸福が分かれ、福を受ける道と罰を受ける道が分かれます。世の中も同じです。それと同様に、神様の復帰摂理も例外なしに蕩減によらなければなりません。堕落したので、蕩減がなければなりません。堕落に対する憤りをもたずに生きる人は、毎日のように堕落の道を経ていくのです。堕落したために、神様の復帰摂理路程において、神様は悲しい神様になりました。これだけではなく、神様は苦痛の神様になりました。悲しみと苦痛の神様だけでありません。神様が苦痛を受けて悲しむことで終わるのではありません。神様が願うあらゆる貴いものを、すべて失いました。すべてを失ったので、神様は復帰摂理路程において、それを再び取り戻そうとするのです。ですから、苦痛に遭わなければならず、それを取り戻そうとするので、悲しい道を行かざるを得ません。失ったものを取り戻そうとするので、そのようになるというのです。

73 人間が堕落することによって、神様は最も貴いものを失いました。神様は何も関係がないのではありません。神様と人間は父子の関係です。愛を中心として一体理想を成し遂げようとした関係があったのですが、人が落ちることによって神様の一体理想、愛の理想を成し遂げることができなくなったので、これを再び取り戻さなければなりません。再び取り戻すには、蕩減復帰をするのです。ただそのままでは取り戻すことができません。人間が落ちることによって、故障したのと同じようになったので、復帰摂理は蕩減に向かって行きますが、蕩減の路程をすべて行ったからといって、神様が取り戻さなければならない愛の理想を取り戻すことはできません。これを取り戻すためには、再創造のプログラム、工場のあらゆる生産品をつくるときの青写真を中心として、再びつくり直さなければならないのです。

  

メシヤの役割と使命


74 神様がイスラエル民族をカナンの地に呼び入れられたのは、カナンの地に天国を建設するための勝利的な民族基盤を完結して、一つの主権を立てたあと、将来送るメシヤを迎えるようにするためでした。ですから、イスラエル民族は、自国を統治できる主人公としてメシヤを迎え、メシヤを中心としてサタン世界を打って、神様の復帰摂理を終結しなければなりません。このような使命があったにもかかわらず、イスラエル民族とユダヤ教団には、それが分かりませんでした。その当時、イスラエル民族は救世主が来さえすれば、自動的に世界を支配する民族になるとばかり考え、民族的な勝利と国家的な勝利の土台の上に、世界的な勝利の土台を築いて、復帰の歴史を終結しなければならないということが分かりませんでした。

75 個人が完成できなければ、新しく自覚された家庭が形成されず、新しい家庭が現れなくては、新しい民族と新しい国家も出てくることができません。ですから、統一教会では、個人の完成を決意して立ち上がるのです。神様は、個人復帰の完成を何よりも待ち望んでこられました。男性なら男性一人を完成するために、今まで六千年の歴史がかかったというのです。これまで神様は、復帰摂理の全般的な目的を、時代を超越して一人の完成した男性に置き、それを標準にしてこられました。そして、その完成した男性を中心として一人の女性を立て、一つの家庭完成の標本をつくろうとされたのですが、それがメシヤ思想なのです。神様は、このメシヤ思想を中心として新郎新婦を立てることによって、復帰摂理の決着をつけようとされたのです。そのようにして、全体の生活基盤を立てるのです。そのお方が立てておいた生活観や、そのお方が指向する理念は、後代の万民が見習うべき標本です。

76 神様の復帰摂理のもう一つの公式は、メシヤを遣わされるのに先立って、中心宗教と中心国家を立てて役事するということです。神様はまず、イスラエル民族とユダヤ教をお立てになり、その準備された土台の上でメシヤ、イエス様を送られて、すべての人間が次第に彼と一つになるようにされることによって、善の版図を広めていきながら、世界復帰、すなわち天国理念を実現しようとされました。アダムから四千年もかかって準備されたイスラエル民族とユダヤ教が、イエス様を迎えて一体となることによって、犠牲を払って一つのみ旨に従っていたならば、その当時に、すぐに中東とアジアを統合し、西洋を連結して全世界の地の果てまで急速にみ旨を伝播することによって、神様の主権で統一された地上天国を建設したでしょう。

77 真の愛と真の生命の種をもったアダムを失った神様は、サタンの讒訴条件のない新しい種をもった息子を探し立てなければなりません。創造の時にアダムを先に造ったように、再創造摂理である復帰摂理でも、堕落と無関係な息子を先に立てなければなりません。これがメシヤ思想の根本です。メシヤは、サタンの主管下にいる堕落した血統をもった人々の生命を否定し、新しい生命の種を接ぎ木してあげるために来られる真の人です。根は神様に置いているのですが、後のアダムとして来て、アダムが犯した罪を清算しなければならないのがメシヤです。神様が、能力だけで役事する超人をメシヤとして送ることができない事情が、ここにあります。

78 救世主は、神様のみ旨を中心として、成し遂げられなかった愛の恨を解く代表者です。人間は、その愛を成し遂げられなかった恨をもった絶望的存在です。これを解怨成就するために来られるお方が救世主です。本然の愛を求めるために来るのです。御飯が食べられない人に、御飯を食べさせるために来るのではありません。神様を解放しなければならないのです。男性を解放する道には、心から愛する妻がいなければなりません。そのような妻が永遠に愛して残ることができるとき、その男性には拘束がありません。解放です。本質的中心である神様は、今まで愛を求めて投入しながら忘れる立場にある、悲しい神様です。

79 神様はどのようにしても、本来計画された真の愛と、平和の理想を回復しなければなりません。神様の救援摂理は、原状回復の摂理、すなわち復帰摂理です。このような復帰摂理のために宗教を立て、善の版図を広めてこられました。神様が送られるメシヤは、この復帰摂理を完結する、総責任を負って来られるお方です。ですから、メシヤは真の父母として来られて、根本から正しく回復しなければなりません。メシヤとして来られたイエス様は、真の父母の使命をもって来られました。彼は地上で、人類を真の愛で重生させ、真の人、真の夫婦に回復させて、真の父母にさせるために来たのです。不幸にも、彼は地上の不信によってみ旨を成し遂げることができず、亡くなられるとともに再臨を約束しました。真の父母として再び来られて、神様の創造理想を完全に回復しなければならないのです。

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第二節 再創造される神様

第四章 解放してさしあげるべき神様

第二節 再創造される神様


1 神様は、人間の堕落によって、六日の創造期間、すなわち最初の日から六日目までに創造したあらゆるものを失いました。人のゆえにすべて失ったというのです。神様は、これを再び取り戻すために、六千年の歴史を摂理してこられました。この六千年を中心として、七千年の歴史へと越えていくのです。キリスト教では千年王国を主張していますが、一日が千年になり得ます。千年王国というのは、世界的な復活圏を意味します。

  

復帰摂理歴史の足跡


2 皆さんは、皆さん個人の生活的な面で、永遠の生や世界的な生と関係を結ぶことのできる、生の足場を立てなければなりません。そうでなければ、皆さんの今の生が世界的な生を経て、永遠の生になることはできません。このような字宙的な生を立てるべき人間の先祖アダムとエバが、堕落することによってそれを失ったので、これを再び復帰するために神様が六千年間苦労してこられましたが、神様のこのような苦労の歴史を復帰摂理歴史といいます。

3 神様を中心として人間が完成していたならば、人間の楽しみが神様の楽しみとなり、人間が享受する栄光が神様の栄光になったはずですが、人間が自らの楽しみと自らの栄光を神様が望まれる基準で享受できなかったがゆえに、人間には悲しみが始まりました。そして、罪を犯した人間であるがゆえに、その理想の園とはあまりにも遠い距離にまで落ちてしまいました。このように落ちた人間を、再び取り戻すための苦労の歴史が復帰摂理歴史です。

4 歴史始まって以来、今まで、「人類歴史は復帰歴史である」ということを知った人はいませんでした。歴史の背後関係を「復帰」という概念で定義を下したというのは、統一教会が歴史に残した大きな功績です。歴史の根本となるのは神様であり、またその神様が責任を負い、今まで歴史をずっと治めて発展させてこられました。そのため、復帰の使命を担った数多くの個人、家庭、氏族、民族、国家があり、それによって歴史は段階的に発展してきました。

5 神側から見れば、歴史が始まって以降、今まで完全に勝利してその勝利の日を称賛したことがありません。アダムとエバが堕落したその日から数千年の間、復帰摂理歴史をたどってきましたが、神様の創造理想を見てみるとき、天が勝利した、あるいは天が栄光を占有したという位置には未到達の過程にあります。

神様が望むことは、あくまでも真の勝利、すなわち真が絶対的な権威をもち、その権限を行使することです。その行使は、一時だけではなく、歴史性をもち、過去もそうでなければならず、現在もそうでなければならず、未来にも連結される勝利として、天を中心として行われるのです。それにもかかわらず、神様はそのような時をいまだに迎えることができていません。復帰摂理路程、あるいは歴史時代のある一部分では勝利したことがありますが、その勝利もまた、再び歴史過程を経てくるときには、失敗の結果として帰結されたというのです。

6 復帰摂理歴史は、アダムとエバを造った基台の上で、縦的関係によって今まで役事してきたのです。人間は神様を中心として、「神様!神様!私たちの完成の基準をお立てください」と言って、僕の僕から僕、僕から養子、養子の立場を経て、直系子女の立場を経て、父母の立場にまで上がらなければなりません。

旧約前の時代である僕の僕から、ヤコブ以降の時代である僕を経て、ずっと上がるのです。ですから、養子の立場を経て、患子、娘の立場を経て、息子、娘が初めて真の父母であられるメシヤに出会って人類の父母の位置に立つようになれば、僕の僕の時代から僕の時代、養子の時代、息子の時代、父母の時代を迎えて救援されるのです。

7 歴史的な希望と信仰で求めてきた天国、すなわち勝利の園を取り戻すべき私たちです。皆さんは、天が喜ぶ個体を求め、天が喜ぶ家庭を求めて天国に入らなければなりません。しかし、その家庭を求めようとすれば真の父母を求めなければならず、真の夫婦、真の兄弟を求めなければなりません。これを求めるためのものが、神様の摂理歴史です。ですから、希望を象徴した時代は旧約時代であり、信仰を象徴した時代は新約時代です。これからは愛を象徴する時代が来ますが、その時代は成約時代と言うことができます。ですから、そのような関係が天上から地上世界にまで広がっています。

8 本来、一つのみ旨として立てられていた創造理想世界は、堕落することによって築くことができませんでした。しかし、神様は絶対的な権限をもった方なので、外的な世の中がすべて変化したとしても、御自身は絶対的に変わることはできません。悪魔にアダムとエバを奪われ、万物をすべて譲り渡しましたが、神様はやはり神様であり、絶対的なお方なので、本来は天使長である悪魔サタンまでも自然屈伏させなければなりません。いてもいないのと同様の立場において、絶対的な神様の権威を立てなければなりません。

善なる神様は、悪なるサタンを先に打つことはできません。善なる神様の愛の本質世界に、先に打てる原因、動機がありません。怨讐に対してまでも、ために生きなければなりませ

ん。万物のために投入に投入を重ね、ために生き、またために生きる神様の威信とその絶対的な権威は、いくら悪魔が生まれ、反対しても崩れません。そのような立場で、ために生き、またために生きながら来てみると、神様の救援摂理は、このように数千年の歴史を経てくるようになりました。そのようにしながら自然屈伏させてきたのです。

9 人類歴史は、善悪の闘争史です。神様は、真の愛を中心とした真の父母、真の子女、真の家庭、真の国家、真の世界、そして真の天宙を立てて、真の愛の理想で主管しようとされましたが、サタンが偽りの愛を中心として偽りの父母、偽りの子女、偽りの家庭、偽りの国家、偽りの世界、そして偽りの天宙を立てて支配してきました。これを取り戻そうとするので、人類歴史は、善悪の闘争史として繰り返されてきたのです。すなわち、個人から永遠の世界に至るまで、サタンは神様の原理的歴史発展に従っていきながら、原理的世界をまねて、真のものが来る前に真のものであるかのように先手を打ちながら、原理の世界を破壊しようとするので、善悪の闘争を避けられなくなったのです。

神様は、利他主義の立場で再創造摂理をされながら、ために生き、また、ために生きながら、打たれて奪ってくる作戦を取る一方、サタンは自分中心の立場で、先に打っては損害賠償までしなければならない道を歩んできたのです。神様の作戦は、打たれて奪ってくる作戦であり、サタンは打って滅びていくのです。このように、善の側は打たれ、追害され、犠牲を払いながら発展していきますが、サタンはその反対です。

  

旧約時代、新約時代、成約時代の意味


10 歴史的な復帰路程を総括的に見ると、神様は今まで、蘇生、長成、完成の三段階を通して摂理してこられたことが分かります。旧約時代の僕の時代、新約時代の養子の時代、成約時代の真の子女の時代を超えて、真の父母の時代になるのが復帰路程です。

11 人類歴史を見ると、旧約時代、新約時代、成約時代、このように三時代があります。旧約時代までは、祭物を犠牲にして子女を救う時代です。神様の息子が来る準備をするのです。新約時代は、イエス様が祭物となって父母を迎える時代です。ですから、再臨時代を迎えて新郎新婦を立て、父母を迎えるための準備をしてきました。成約時代に先生が中心となり、真の父母という名をもって今まで四十年間以上苦労してきたのは、神様を地上に迎えるためです。そして、神人一体となるのです。

12 恨が宿った六千年の歴史過程は、どのように続いてきたのでしょうか。神様とサタンと人間を中心として、ある条件を立ててくるものなのですが、これがすなわち祭物の峠です。六千年の摂理歴史を回顧してみるとき、旧約時代までは万物を通して祭物の峠を越え、新約時代にはイエス・キリストの実体を通して祭物の峠を越えました。

それでは、成約時代には何を基準として祭物の峠を越えるようになるのでしょうか。聖徒たち、すなわち皆さん自身を通して越えるようになります。このように、全体的な摂理歴史は祭物を中心として成されますが、旧約時代までは万物を通して祭物の峠を越えなければならず、新約時代はイエス・キリスト、すなわち神様の息子を中心として祭物の峠を越えなければなりませんでした。しかし、成約時代である今は、新郎新婦の名前を身代わりする皆さん自身を条件として、祭物の峠を越えなければなりません。皆さんがそのような祭物の峠を越えるまでは、この地上に真の平和と自由と理想の世界は成就されないのです。

13 旧約時代までは万物を犠牲にし、新約時代は息子を犠牲にし、成約時代は父母を犠牲にするのです。万物を犠牲にさせたのは、所有権を否定する立場で息子、娘を取り戻すためです。息子を否定したのは、父母を取り戻すためであり、父母様が十字架を負ったのは、神様に侍ってさしあげるためです。ですから、旧約時代は行義時代、その次に、新約時代は信義時代、その次の成約時代は侍義時代です。

14 旧約時代までは万物を犠牲にし、新約時代には息子を犠牲にし、成約時代には父母を犠牲にして神様を迎えたので、今からは何をすべきでしょうか。皆さんが父母を身代わりする立場に立たなければなりません。万物は旧約時代であり、息子、娘は新約時代です。

15 復帰の途上においては、僕の僕の時代から僕の時代を経て、養子の時代、直系の時代に上がっていかなければなりません。それでは、完全に僕の僕の時代を経て僕の時代、養子の時代を経て直系子女の時代へと関係を結ぶことができるでしょうか。直系の時代と関係を結ぶ場合は、そのまま結ぶことはできません。必ず原理によって「信仰基台」を経て、「実体基台」を経て、「メシヤのための基台」を経なければなりません。つまり、メシヤを迎えなければならないのです。メシヤは神様の真の息子です。養子と真の息子とは、血統的な関係が違います。ですから、血統転換が必要です。

16 皆さんが蕩減復帰していくのに、根本問題とは何でしょうか。旧約を完成しなければならず、新約を完成しなければならず、成約を完成しなければなりません。成約の完成は、全世界が神様の統治圏内に入ることです。これが成約時代の完成です。旧約時代までは万物を復帰するための時代であり、新約時代は天の国の民を復帰するための時代であり、成約時代は天の国の主権を復帰するための時代です。世界の主権を復帰しなければならないというのです。世界の民を復帰しなければならないのがイエス様の使命です。すなわち、世界の万民を一つの国の民として復帰しなければならないのがキリスト教の使命であり、世界を一つの主権に復帰しなければならないのが再臨主の使命です。

  

旧約時代までの復帰摂理


17 旧約時代は僕の時代でした。僕の僕の立場にある人間を、僕の立場に復帰させてきた時代でした。ですから、アブラハムも僕だったのであり、息子にはなれませんでした。神様は、僕の僕を立てて忠誠の道理を立てられました。そのようにして、この歴史的な世界人類を導いて糾合させ、世界的な悪の舞台を天の側に占有させるとともに、神様の摂理を発展させてきました。ヤコブも神様の息子として勝利したのではなく、僕の立場で勝利したのです。神様がこのように僕の僕から僕の位置に復帰し、僕の位置から養子の位置へと復帰しながら摂理してこられたのです。

18 旧約時代の全人類に対する救援摂理は、僕の立場での救援でした。ですから、この時代には最初の最初から最後の最後まで残って勝利できる中心を立てなければ、僕としての復帰基台を立てることができませんでした。それで、神様はノアやアブラハムなどの中心人物をお立てになって、四千年という歴史を導いてきながら、数多くの犠牲を払ったのです。

19 人類歴史は、宗教と共に出発し、宗教は人類と共に流れ動いています。希望の道を発見しなければならないからです。神様は、人間が堕落したその日から、御自身が創造した責任を負い、堕落した人間を救援する摂理を展開されるために、歴史過程を経て、今まで苦労してこられました。

堕落することによって推し量ることのできない状況に落ちてしまった人間は、サタンの支配を受けていますが、サタンを中心として愛する人になってはいけないので、サタンまでも失う立場に落ちるようにさせるのです。ですから、神様は、僕の僕以下に落ちた立場から救援歴史をされるのです。神様が数多くの宗教を通して僕の僕の道理を教えていく摂理をしてこられたのは、そのような理由のためです。ですから、人類のために奉仕しなさいというのです。僕の僕の立場にある人間には、仕えてもらう資格がないので、無条件に従順に服従する道以外には方法がありません。僕の僕の立場は主人がいないので、僕が主人の役割をする立場です。

20 旧約時代を中心として見てみるとき、それ以前の人類は僕の僕の立場にいましたが、旧約時代に入ると僕の立場に立つようになり、そのようになることによって、初めて主人をもつことができるようになりました。

僕の僕の立場から僕の立場に来るためには、人間自らが開拓することはできないので、神様が開拓者の使命を果たしてこられました。僕の僕よりも、もっと悪なる一族を教育しなければならなかったのが神様の事情でした。しかし、神様は無形でいらっしゃるので、人間の前に現れたとしても見ることができない立場なので、特定の人、すなわち預言者を立てて教育してこられたのです。その預言者は、神様の身代わりとしてこの地上に来ましたが、人間として神様の命令に従って順応しなければならない立場でした。

21 預言者は、人間に何を教えなければならなかったのでしょうか。神様のみ旨に従おうとすれば、従順の道理を立て、歴史をさかのぼる摂理をしなければならないことを教えなければなりませんでした。ですから、サタンの前に忠誠を尽くす、それ以上に神様のために忠誠を尽くす人が出てこなければならなかったのです。そのような道理を神様が教えなければなりません。そうして僕の法度を立て、一つの編成を備えたあとに、個人、家庭、氏族、民族圏を形成して、摂理のみ旨に相対できる環境をつくらなければなりません。ところが、僕の立場ではこれを立てることができないので、新しいメシヤ思想を提示して、今後、救世主を送ってくださるという約束を立てて役事をしてこられたのです。それが正に、イスラエル民族を中心とした摂理でした。

22 旧約前の時代は、祭物を犠牲にして、神様が僕の僕として使うことのできる人を準備する時代です。これが旧約前時代です。人が万物よりも低くなりました。人が万物よりも悪くなったので、神様のみ前により近い万物を二つに裂いて、あなたの所有物、「私」の所有物、このようにして分けて立てました。このように分別された祭物を立てなければならなかった事実は、誰のせいでしょうか。神様のせいでもなく、サタンのせいでもありません。人間が責任分担を果たせなかったからです。サタンの血統を受け継いだのは、人間が責任分担を果たせなかったからなのです。

23 人間は堕落しましたが、神様に背くことはできないので、僕の僕の立場にまで下りていかなければなりませんでした。僕の僕とは、主人がいないことを意味します。堕落した人間は、僕の僕の立場から神様に忠誠を尽くさなければなりません。サタンは天使長だったのであり、神様の僕でした。その僕の前に引かれていった人間なので、人間が神様のみ前に戻ってくるためには、僕の僕の立場から、神様に忠誠を尽くしたという基準を立てなければなりません。

24 旧約前の時代には、使いのような立場の使命者として立てられたノアとアブラハムを通して、神様のみ旨を伝えてきました。暗闇に沈むこの地上の万民たちを、父が相対する立場にまで引き上げるために、アブラハム一族を選び、イスラエル民族を立てられました。それによって、イスラエル民族を通して、人間が徐々に神様のみ前に進む道を切り開いてきました。そうして、天は、天使たちに役事させる一つの基準を立てられました。そうしてから、アダムとエバに対する神様のみ旨を完成したという基準を備えることによって、父に直接、相対できる勝利的な土台を造成するために、イエス様が来る時まで、四千年の間御苦労されたのです。

  

新約時代の復帰摂理


25 神様の約束を成し遂げるために、神様のみ旨を中心としてこの地上に来られたお方がイエス・キリストです。彼は、過去の歴史時代において、人間が僕の立場にいるときに神様がなされた約束を成し遂げて、養子と、真の息子の立場を立てるために来られたのです。僕が忠臣の道理を果たすときは、養子の位置に立つことができるというのです。ですから、復帰摂理歴史を経てくるとともに、イスラエル民族をして僕として忠誠を尽くすことのできる土台を築くことで、養子の関係を結んでいくようにしたのです。

26 養子の関係は、どのように結ぶのでしょうか。神様の息子がこの地上に来る前には、不可能です。神様の息子がこの地上に来なければならず、その息子の命令を聞いて、そこに順応して、初めて養子の関係を結ぶことができます。これが旧約時代と新約時代が連結される役事です。

旧約を信じてきた人々は、僕として養子の恩恵を受けることを願いますが、それが正にメシヤが来ることを願う理由です。すなわち、メシヤによって僕の悲しい身の上を越え、養子圏の立場に進むことが彼らの希望だというのです。養子の位置は、直系の息子、娘がいなくなるとき、父母から相続を受けることのできる関係が成立する立場です。

ですから、僕の立場を超越して、神様のみ旨を迎える恩恵を受けることを願ってくるようにしたのが、僕の旧約時代を指導してこられた神様のみ旨です。したがって、彼らが僕の身の上を免れて、神様の相続を受けられる圏内に入る、特権的な一時を望んで出てきたのであり、それがイスラエルの選民思想です。

27 イエス様は、一段階高めて神様の愛を紹介しました。旧約時代には、モーセは愛の神様を紹介することができず、権能の神様、能力の神様、審判の神様だけを紹介しました。しかしイエス様は、愛を紹介しました。愛の神様を紹介し、愛のイエス様を紹介しましたが、当時の人間は受け入れませんでした。

28 今から二干年前、ユダヤ教を中心として、その時代において世界的宗教圏をつくり、ローマに反対されながら、天の側に立ってローマを消化できる宗教運動の主軸として立てるために、イエス様を送りました。ユダヤ教が待っていたメシヤを送られたのです。

そのメシヤは、どのようなメシヤでしょうか。ユダヤ教のメシヤです。ユダヤ教のメシヤとして来て、世界的メシヤ路程を開拓しようとして、途中で亡くなられました。すると、ユダヤ教は、どのようになるのでしょうか。今までのユダヤ教のためだけの神様として仕える、そのような神様であってはいけません。

それでは、イエス様がこの地上に来て教えるべきこととは何でしょうか。旧約聖書で教えてくれた神様を、ただそのまま教えてはいけません。新約時代の神様として教えてあげなければならないのです。

29 僕のイスラエルをつくり、僕の国と僕の民族をつくり、ここに神様の息子が来て、その息子を信じ、イエス様のみ言を信じることによって僕から養子になり、イエス様が一段階上がるようになれば、イエス様を信じる人は息子になるのです。

イエス様は、何によって一段階上がるのでしょうか。この地の人間が堕落することによって人類の先祖がいなくなったので、先祖の立場に上がるようになれば、イスラエル民族は養子の立場で接ぎ木され、神様のみ前で相続権に対し得る、息子の名分をもつようになります。ですから、ローマ人への手紙第八章二十三節に、「御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる」とあり、「あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは『アバ、父よ』と呼ぶのである」(ローマ八・一五)とあります(訳注:韓国語の聖書では「子たる身分」が「養子」となっている)。養子にしかなれません。今、キリスト教徒たちは養子です。養子は血統が違うのです。

30 養子になろうとすれば、どのようにしなければならないのでしょうか。これが問題です。養子は僕よりも優れていなければなりません。神側の僕よりも優れていなければならず、サタン側を見ると、サタンは悪の世界の王ですが、そのサタンよりも優れていなければなりません。サタンは本来、天使長でしたが、その天使長は僕だったので、その僕よりも劣る人は養子になることができません。これは原理的です。

また、このサタン世界を自分の手で征服するという信念をもたなければなりません。そうでなくては養子になれません。神様のために生きる道があるとすれば、歴史が始まって以降、どのような人よりも、誰よりも神様のために生き得る代表者が出てきてこそ、養子の出発をすることができます。そのような歴史を標準として、長久な歴史時代、縦的な歴史を経て、一つの民族を動員してこのような養子圏をつくるために、神様は苦労をしなければならないのです。その養子が出てくる目的は、神様を父母として、相続権を受け継ぐためです。

31 神様に本来息子がいるのに、養子を立てることはありません。息子がいないので養子が必要なのであって、息子がいれば、養子は必要ありません。その養子を立てる目的は、真の息子を探すためなのです。その養子は自分が神様の相続を受けても、それは自分のものではなく、神様御自身の本来の息子、娘の前に返してあげるべき相続だという思想をもたなければなりません。そのような養子をつくらなければなりません。養子は、将来来る息子、娘のために、自分が死ぬとしても、生命を尽くし、自らのあらゆるものを犠牲にしても、神様が願われる直系の息子、娘が生まれることを願い、いつもそのために準備する心をもたなければなりません。養子の名を立てなければ、息子と関係を結ぶことができないのです。

  

成約時代の復帰摂理


32 成約とは何でしょうか。約束を成したということです。神様が創造理想を完成するという話です。それでは、成約時代とは何でしょうか。創造理想を完成した息子、娘、エデンから追い出して失ったそのアダムとエバが、世界的舞台の上で代表的な王権を身代わりできる神側の息子、娘として帰ってこなければならないというのです。ですから、堕落がなかったように歓迎できる個人から、歓迎できる家庭、歓迎できる氏族、歓迎できる民族、歓迎できる国家、歓迎できる世界にならなければなりません。

33 成約時代とは何でしょうか。地上において、家庭を中心として、父母様の愛を中心として理想世界に向かう過程、サタンが讒訴できない新しい世界に前進する過程が成約時代です。成約時代は、原理的に見れば、責任分担を完成した父母圏を意味するのです。

約束とは責任分担です。責任分担の約束を未完成にしたのが堕落です。旧約は昔の約束です。新約は新しい約束であり、成約は約束を成す時です。約束を成すというのは、世界の万民たちが責任分担を完遂することです。しかし、責任分担を果たせなかったために、個人、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙の責任分担が残されたのです。サタン世界まで生じたのです。責任分担を果たせないことによってサタンが生じたので、この責任分担を果たさなければなりません。

34 神様の摂理を見ると、三段階に分かれます。旧約時代、新約時代、成約時代です。キリスト教では、旧約と新約ですべて終わったと思っていますが、違います。成約時代が残っていることを知らずにいます。イエス様が再び来てみ旨を成し遂げなければなりませんが、それが成約時代です。旧約があり、新しい約束があったので、その約束が成し遂げられなければならないのではないですか。再臨主がこの地上に来て、み旨を成就するのです。

35 成約時代は、成し遂げる時代です。個人的に成し遂げ、家庭的に成し遂げ、氏族、民族、国家、世界的に成し遂げるのです。神様の愛と、神様の生命と、神様の血統を中心として連結します。単一の血統、単一の愛、単一の生命の伝統です。このようになれば、サタンは離れていかなければなりません。接ぎ木することによって、サタンの血統的因縁がなくなるのです。

36 旧約時代までには、万物を犠牲にして息子の行くべき道を整え、新約時代には、息子を犠牲にして再臨主、真の父母が来る道を整えたのです。成約時代には、真の父母が犠牲になることによって縦的な神様を地上に迎えるのです。神様は人類の前に真の愛を中心とした縦的な父母であり、真の父母は真の愛を中心として、その縦的な父母の前に横的に九〇度の角度を合わせた横的な父母です。ですから、縦横の愛を中心として、初めて神様の愛と神様の生命が動くのです。神人合徳(和合)が動き、真の父母の愛を中心として、新しい血族が広がっていきます。そうなることによって、人類歴史の中で初めて本然的原理基準を中心として、神様の愛の中で出発した生命の種が地上に顕現するのです。

37 旧約時代までは、万物を犠牲にして息子、娘を取り戻す時代です。新約時代は、息子、娘を犠牲にして父母が来る道を築く時代です。父母がこの地に来て、神様が来ることのできる道を築くのです。縦的父の水平世界を、万民世界を越えてつくらなければならないのが真の父母の使命です。ですから、この水平の父の心情圏がつくられるようになれば、縦的な父の心情圏は、自然にここに来て定着します。そうして縦的、横的な愛を抱ける位置に行けば、ついに世界を越えて神様は核の位置に行き、本然の理想の権限を再び編成したことによって、「すべて成し遂げた」と言うことのできる時代に越えていくというのです。

38 私たちは、神様を希望の主人公として見つめ、信仰の主人公として見つめています。また愛の主人公として見つめています。この希望と信仰と愛の主人公としていらっしゃる神様は、人間をして歴史過程で希望を身代わりした旧約時代、信仰を身代わりした新約時代を経るようにされたので、これからは愛を身代わりした成約時代を経なければなりません。

それでは、今、そのような成約時代、すなわち再臨時代において、永遠不変の一つの中心要素として残されるものとは何でしょうか。それは神様の愛です。それは、全体の中心要素であると同時に、全体理想の要素にもなります。ですから、今まで人間は、この愛のために希望の摂理路程と、信仰の摂理路程を経てきました。

しかし、今、愛の摂理路程を皆さんが歩まないとすれば、神様がこの地上に愛を中心として成すべき統一の足場は、崩壊してしまうというのです。

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第三節 解放してさしあげるべき神様

第四章 解放してさしあげるべき神様

第三節 解放してさしあげるべき神様


1 復帰摂理を完成するためには、今まで完成できなかったすべての基準、すなわちアダムが堕落した基準、イエス様が成就できなかった基準などを、すべて現世に引っ張ってきて解き明かし、再び蕩減して復帰しなければなりません。これをしなければならないのが統一教会の使命であり、自らそれを実行し、先生のあとについてくる世界に広がる統一教会の食口たちに、それを行わせるのが先生の使命です。

  

復帰摂理完成の意味


2 私たちが悟るべきことは、堕落していないアダムとエバに賦与していた、その環境的理念世界に関するものを、いかにして再び自覚するかということです。環境がいくら残忍で、いくら怨讐の悪党たちが反対して闘争が起こっても、これを克服できる信念と思想基準が確定していなければなりません。

そうすることによって、今日の社会と私たちの生活において及ぼされる、すべての悪の結果を打開して余りあるようでなければなりません。これが押されて離れていっては、復帰摂理の完成は不可能です。ですから、この世界で生きている、あるいはみ旨と向き合っている個人は、「この世界には私だけ残っており、この世界の問題を解決できるのは私だ」という信念をもたなければなりません。この信念をもたずには、主体であられる神様の前に、環境を代表した相対的存在として立つことはできません。

そのような問題を中心として見てみるとき、「私」がこの世界を越えて、堕落していない理想的なアダムの理念を私の実体的主体思想として立て、そして決意したその決意が、この死亡世界を超越できる心の土台になっていなければ、み旨の道を行くときに、いつも失敗するようになっているのです。

3 神様の真の愛を中心として、血統的な関係をもつ真の家庭がありませんでした。堕落した父母によって、偽りの愛と偽りの生命と偽りの血統の因縁を結んだために、私たちの心と体の闘いが起こりました。アダムとエバが怨讐になりました。また、アダムの息子、娘の間に殺戮戦が起こりました。ですから、神様がこれを復帰するための救援摂理が復帰摂理です。救援摂理を完成するためには、失った真の心と体が一つになった息子、娘として、絶対的に一つになった夫婦として、真の愛を中心として完全に一つになり、神様と永遠に共に生きる真の家庭をつくらなければなりません。

4 メシヤが再び来る目的とは何でしょうか。サタンの主権を打破してしまい、人類を天の側に取り戻してきてサタンを追放すること、そして、今日のキリスト教と一つになって救援摂理を終わらせることが、メシヤが来る目的です。言い換えれば、神様の本然のみ旨の世界に戻るための、復帰摂理を完成することがメシヤの使命です。

5 再臨主は、イエス様が果たせなかった神様の復帰摂理の根本を完成するために来られます。すなわち、創造理想を完成すべき真の本然の赤ん坊の種として来て、神様の真の愛、真の生命、真の血統の根源になる真の父母の理想を完成するために来られます。彼は、既にイエス様の時まで神側が勝利した根本摂理の基台の上に臨在されます。すなわち、イエス様が成長して大人になるまでの勝利的な基盤の上に正しく立たれ、彼が果たせなかった新婦を探し出し、真の父母になられ、万民を救ってくださるのです。

6 イエス様は万民の父母です。イエス様は、神様が送られた二番目の父母です。この父母が失敗したものを回復させなければ、第三の勝利した父母は生まれてきません。これは当然のことです。第二の父母は、第一の父母になるべきアダムとエバの失敗を回復しなければ、第二の父母として勝利の基台に立つことができません。第一の父母の基準を復帰できないからです。イエス様が亡くなったので、第三次まで延長されたのです。ですから、第三次として来られる再臨主は、第一の父母のアダムとエバの失敗と、第二の父母の立場で来られたイエス様と聖霊の使命を、霊肉共に実体的に蕩減復帰する勝利基盤を立てなければ、地上に勝利した真の父母として現れることができません。

7 アダムが失敗し、イエス様が亡くなって本然の世界に戻ることができず、二次アダムの使命を完結できなかったので、再び来られる主は、三次アダムとして来て、霊肉を完成してサタン世界とサタンの王権を取り除き、救援摂理を終わらせ、本然の神様の完成世界に戻らなければなりません。このように、地上天国と天上天国に通じることができるよう、決着をつけなければならないのが神様の救援摂理です。

8 天上世界に行った人も地上世界の人も、期間の差はありますが、真の父母の道理を中心として、塞がっていた壁がみな崩れてなくなります。すべての人が天上世界に向かって発展していける本然的基準の形態を完成させることによって、真の父母の使命もすべて終わるのです。それを見てみるとき、神様のみ旨が完成される完成時代が、私たちの目の前に躍り出てきたことを忘れてはいけません。

  

解放されるべき神様


9 神様の愛を中心として神様を解放しなければなりません。神様も今、愛を中心として拘束されています。監獄に閉じ込められているのと同じです。解放を受けられなかったというのです。全知全能であられる神様、宇宙を創造した神様が、人間のために愛を中心として成し遂げようとしていた理想世界をサタンに奪われたので、神様もサタンを分別しなければ心情的な解放を受けることができません。神様の心情的解放基盤がこの宇宙に生じないということです。神様も拘束されました。愛する子女が死んだのに、父母が安らかではいられないというのです。

10 人間が堕落することによって、自由な神様になれませんでした。すなわち、拘束された神様になったというのです。その次には、人類始祖が拘束されてしまいました。その次には、天使世界まで拘束されてしまいました。それだけではなく、歴史的に多くの宗教人が拘束圏内で苦しんでいます。人類もやはり同じです。

11 万民が嘆息圏を抜け出さない限り、父母の立場に立った神様は、嘆息圏内から抜け出すことができません。愛する子女が悩んでいるのに、父母が安らかな立場に立つことはできないのです。このような立場に神様がいらっしゃるので、神様を解放してさしあげなければなりません。何によって神様を解放してさしあげなければならないのでしょうか。神様は万民を愛することのできない拘束圏内にあるので、万民に対して自由に愛することのできる解放圏を神様に取り戻してさしあげるべき責任があります。堕落した人によって誤ったので、堕落線を越えて勝利した息子、娘となって解放してさしあげなければなりません。

12 神様とサタンの闘いを、誰が止めることができますか。ただ何もせずに闘いが終わりますか。神様のみ前に孝子がいなかったのであり、神様のみ前に忠臣の道理、神様のみ前に聖人の道理、神様のみ前に聖子の道理を立てられる者がいなかったというのです。その国を守ることのできる主流の愛の体制がなくなったので、神様の立つ位置がありません。今まで軟禁状態にとどまっている神様になっています。天の国には、地獄と中間霊界、楽園があります。イエス様は楽園に行っていますが、本来は天国に行かなければなりません。神様が創造した世界で、楽園とはどういうことか、中間霊界や地獄とはどういうことかというのです。堕落のゆえに、その痛みを感じている神様だというのです。

13 神様の探し求める祖父母に会ったことがありますか。神様になりたい祖父母に会ったことがありますか、会うことができませんでしたか。堕落したがゆえに、絶対に会うことができませんでした。神様の探している父母に会ったことがありますか。会うことができませんでした。神様の探している妻、夫に会ったことがありますか。会うことができませんでした。神様の探している息子、娘に会ったことがありますか。会うことができませんでした。この恨をどのように解くのでしょうか。この心情の拘來の鉄条網を誰が切るのでしょうか。それは神様の愛以外にはありません。神様の本質的愛以外にはないというのです。

14 私たちは、神様を解放しなければならない運命に置かれています。「人類のゆえに神様が拘束を受けているのだ。私ゆえに神様が拘束されているのだ。私という一個体のために神様がサタンの讒訴を受けているのだ。私のゆえにイエス様も亡くなったのだ。私ゆえに聖霊が血のにじむ闘争の歴史を抱いて身もだえしてきたのだ。神様、私に力をお与えください。お父様を安息させ、解放の座に移してさしあげます。イエス様も聖霊も解放の座に移してさしあげます」と言えなければなりません。ですから、信仰に飢えた者、希望に飢えた者、愛に燃える者を、神様は六千年間求めてこられました。

15 私たちは神様を父と呼びます。父なる神様は、善なる人も悪なる人も誰も関係なく、悪の勢力の下で踊りを踊っているのを見て、「ああ、いいぞ!上手だ!」とおっしゃるでしようか。私たちとは父子の関係をもった父なので、天地天下の内心における拘束の場、内心の凄涼で悲惨な環境を取り除くために骨を折り、闘わざるを得ないというのです。ですから、私たちはそのような神様の内的なすべての事情を知り、神様をそのような場から解放してさしあげなければならないというのです。

  

復帰摂理の完成は神様の解放


16 神様を解放しなければなりません。それも四数です。旧約時代、新約時代、成約時代、その次には解怨時代です。解怨時代には全体を捧げなければなりません。そして、神様が全体を受け入れて、神様がそのまま持っているのではありません。神様が全体を受け入れて、初めてアダムに渡してくださるのです。アダムは、受けたものを再び神様にお返ししなければなりません。

神様がアダム、真の父母に渡してあげることによって、ここから所有権の分配が始まらなければなりません。これをもらい受けて、統一的王権時代をもたなければ、地上に天国が成就されません。

17 国を救い、世界を救わなければなりません。世界を救うのに、まず神様を解放しなければなりません。神様が解放されてこそ、世界を解放することができます。神様を解放しておき、世界を解放しようというのです。それで統一教会を地の果てにまで伝播して、心情的な絆を結び、杭を打ち込んで世の中を愛で溶かし切ろうというのです。

18 子女を失ったかわいそうな父母の身の上を誰に訴えるのでしょうか。子女が現れてそれを解いてあげるまでは、その胸のしこりとなった恨を解くことができず、打ち込まれた釘を取り除くこともできません。釘を取り除き、愛の涙と血肉で解いてさしあげなければならない神様の恨の心情を、誰が解放してさしあげるのでしょうか。自分の解放よりも先に、神様が解放されなければなりません。これが、宗教人たちの追求する究極的な解放の道であることを知らなければなりません。

19 キリスト教思想は再臨思想です。イエス様が再臨して何をするのでしょうか。神様のみ前に、不義を立ててほしいと抵抗するサタンを絶ち切ってしまうことができなければ、神様はその永遠の抵抗を避けることができません。この地に再臨主が来て、神様を解放しなければなりません。公義の道理の前に立って、神様を解放する責任を果たす主役として来られるお方が再臨主です。

20 神様の目から涙が流れ、胸には赤い血が流れ、血が流れるべき血管が詰まり、胸が詰まって瀕死の状態になった神様を、孝子、忠臣、聖人、聖子の道理でもって解怨成就してあげなければなりません。その神様が私をかき抱いて「御苦労だった」と涙を流されても、涙を流さずに、「私は何の関係もありません」と言って神様の涙を止め、背を向けながら涙を流そうという、天理を抱いてきた人が真の父母です。

21 神様を私の手で解放しなければなりません。神様は解放された神様ではなく、拘束された神様です。ただ息子、娘を失っただけでなく、孝行息子、孝行娘を失ってしまったその父母の心を解いてあげるために、その孝行息子以上にあらゆる面を備えて、十倍以上の功を尽くして孝行しても、その本来の心を解放することはできません。先生がそのような神様を解放しようというのです。今日、キリスト教では、神様はあらゆる能力があって思いどおりにできると思っていますが、それは大きな思い違いなのです。

22 先生を見ると、何でもないように見えますが、考えることが違います。思想が違うというのです。顔が、体が偉大なのではなく、思想が偉大だというのです。神様までも動かざるを得ません。神様までも先生についてこなければならないという精神、それが偉大なのです。愛の目的を達成できていないその神様を、先生が愛をもって解放することを主張します。愛の目的を成就できなかった恨をもっている神様が、先生に出会って解放されたという話は、理論によるものです。体系的な理論、科学的な実証的結果によってこれを主張するのです。

23 神様の心の中で、解放的心情で称賛できる本然的理想の息子、娘の歴史はどこへ行ったのでしょうか。先生と統一教会の夫婦の理念は、神様の血統を受け継いで生まれた息子、娘として、千年、万年、永遠のその父母に侍り、「永遠に私の息子、私の娘だ」と称賛できる息子の資格、娘の資格を備えることです。その立場を通過してこそ、神様の心の中に残っている堕落による傷を解くことができます。

24 キリスト教では、「おお!栄光の神様、私に恵みを下さい」と言いますが、神様はそのような神様ではありません。悲惨な神様です。拘束の中にいる神様です。息子、娘をよく生んで解放されなければならない神様なので、神様の運命は悲しく痛ましい運命です。ですから皆さんは、その神様を解放してさしあげなければなりません。そうでなければ、天道が是正されないので、この地上に理想世界がやって来ることができないというのです。これを正すための歴史が、統一教会の歴史であり、使命です。

25 神様は、復帰の神様です。神様は、本来の神様ではありません。恨の宿る神様、かわいそうな神様です。喜びの神様ではありません。落胆の神様です。ですから、本来の状態に戻すためには、落胆の神様を解放してさしあげなければなりません。それは、お金や権力でもできません。どんな人にも不可能です。真の愛だけが可能なのです。

26 統一教会の皆さんは、神様の解放軍です。世界の解放ではありません。世界の解放は容易です。人間が団結すれば世界の解放はできますが、神様の解放は心情圏を団結させなければなりません。愛の圏を団結させることのできる原理と思想体系をもたなければなりません。ですから、霊界にある絡み合つたものを解き、地上に心情圏の橋を架けなければなりません。どのような革命よりも恐ろしい革命であり、困難な革命です。人類の解放は容易ですが、神様の解放はそのために困難だというのです。世界にまたとない困難なその仕事を、先生が旗手となって、今日、摂理史の総決算という論理を通して答えを下すことができたというのは、驚くべきことです。

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