み旨の道/祝福家庭と理想天国Ⅰ

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目次
  1. 序 文
  2. 成約のみ言
  3. み旨の道
  4. 指導者
  5. 苦労・祭物・従順
  6. 二 み言・人格・心情について
  7. 三 信仰について
  8. 伝 道
  9. 四 祝福について
  10. 第一章 創造理想と男女の愛
  11. 第二節 真の男女の愛
  12. 第三節 真なる結婚と真の愛
  13. 第四節 愛を中心とした終末の現象
  14. 第二章 真の父母と神の家庭
  15. 第二節 小羊の婚宴と最初の復活
  16. 第三節 真の父母と真の子女
  17. 第四節 家庭を中心とした復帰摂理
  18. 第三章 祝福の意義と価値
  19. 第二節 新生と祝福の起源
  20. 第三節 祝福の意義と価値
  21. 第四節 祝福を受けるための蕩減条件
  22. 第四章 祝福の過程
  23. 第二節 相対を結ぶ基準と私たちの姿勢
  24. 第三節 約婚事例
  25. 第四節 祝福の過程とその意義
  26. 第五章 完成のための公式路程
  27. 第二節 再創造のための子女たちの責任分担
  28. 第三節 信仰の三子女を通した家庭復帰
  29. 第六章 ご父母様の聖婚と祝福家庭
  30. 第二節 祝福家庭に対する摂理的意義
  31. 第三節 祝福家庭の価値と使命
  32. 第四節 国際祝福家庭の使命
  33. 第七章 真の夫婦と理想家庭
  34. 第二節 理想家庭
  35. 第三節 祝福家庭の生活
  36. 第四節 真なる父母と子女
  37. 第五節 子女教育

序 文

祝福家庭と理想天国

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序  文


 半世紀以上にわたって文鮮明先生は、いかにして神のみ旨が真の家庭を通して成就されるかについて教えてこられました。文先生はただ教えてこられただけではありません。教えることのすべての内容を御自身で実践され、また御夫妻の模範的生活を通して世界の祝福家庭を指導してこられました。

 文先生の教えは社会学や心理学よりも深く、広範囲な影響力をもっています。それは聖書の奥義を解明し、神の最も中心的なみ旨を明らかにしています。文先生は、堕落した子女たちを御覧になる神の悲しみの心情を初めて明らかにされました。さらには、人間始祖アダムとエバの堕落以来、神は復帰摂理をなし、歴史は神が人類を救済されようとしてきた復帰の歴史であることも教えておられます。

 文先生は、神の復帰歴史の目的は、地上において真の父母と真の家庭を築くという、神の本然の創造理想と同じであることを発見されました。アダムとエバが真の父母になれなかったので、イエス様が第二のアダムとして、真の父として来られたのです。しかしながら人々の不信仰により、イエス様は花嫁のいない花婿として、十字架の犠牲の道を行かれました。

 今日イエス様は、御自身の果たせなかった使命を完遂するために文先生を呼ばれました。文先生は召命にこたえて立ち上がり、苦難の路程の中から、一九六〇年に文先生の令夫人であられる韓鶴子女史と御聖婚されることを通して、真の父母の立場を打ち立てられました。

 私たちは今日までの文先生御夫妻の人生の中から、真の父母の価値を知るようになるのはもちろんですが、み言を通し、その方の真の価値をさらに深く知ることができます。文先生は神様と人間、世界、歴史、霊界の問題に至るまで、あらゆるものを解明され、既に出版された二三三冊の『マルスム選集』に収録されたみ言の中で、私たちに明らかにしてくださっています。

 文先生は復帰摂理の唯一の作戦は「打たれて奪ってくる」作戦であると語られました。一生涯打たれる人生、苦難の蕩減路程を歩まれ、ついに失われた天の長子権、父母権、王圏をサタンから奪ってこられ、「天地父母天宙安息圏」時代(宣布日一九九七.陰七.七)を開かれました。

 既に神様の善主権世界がこの地上に定着する新しい時代を迎えて、その主人となる祝福家庭は、天の父母と地の父母が安息できる真の家庭の理想を実現すべきであり、み言と心情の源泉にならなければりません。そこで文先生はそのことを悟らせてくださるとともに、「訓読会」を制定してくださり(一九九七.一〇.一三制定)、み言を毎日訓読することによって、天に侍る真の家庭の伝統を立ててくださいました。

 本書は先生の数多い珠玉のようなみ言の中から、成約時代宣布後に下さったみ言(「真の父母と成約時代」「真の家庭と私」「救援摂理史の原理観」「宇宙の根本を探して」「真の愛を中心とした真の家庭と宇宙」)と『御旨の道』、そして『祝福と理想家庭』をまとめて一冊にしたものです。本書を通し、私たちは天の父母と地の父母を安息させ、真なる幸福と平和が定着する家庭、社会、国家と世界に対する解答を得ることができると考えます。

「真理はあなたがたに自由を得させるであろう」(ヨハネ八・三二)という新約の約束が、この本の、すなわち成約のみ言の中で成就されることを念願します。

一九九八年十月二日

















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成約のみ言

祝福家庭と理想天国

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成約のみ言

救援摂理史の原理観


  

一九九六年九月十日から二十九日まで世界二十二カ国四十三都市で講演

  

一九九七年三月十三日から四月三日まで韓国二十二都市で講演



 尊敬するご来賓、世界平和家庭連合の会員、そして紳士淑女の皆様!

 新緑の季節八月を送り、すでに五穀が実る天高く馬肥ゆる豊かな結実の季節、秋の初めに、私たちすべてが顔を向かい合わせて座り、自らを確立してみる時が来ました。

 このような時に、私はきょう、各界の高名なる指導者の皆様とともに、人間の生命の揺籃であり、平和世界の礎石たる真の家庭に関して共にお話を分かち合えることを無限の喜びと考えます。きょうのこの集いが未来に健全な家庭と平和世界を築く貴い動機となるようにお願いします。

 神様は絶対者であられ、唯一、不変、永遠であられるお方です。そのみ旨も同じなのです。もし人間始祖アダム、エバが神様の愛で一体になったなら、万事は完全、完成なのです。ですから、神様の出発、目的とその過程も、そして原因と結果とその方向も絶対的なのです。人間始祖アダム、エバは無知から堕落し、混沌に陥りました。個人的な無知と混沌から、家庭、国家、世界的無知と混沌に陥るようになりました。

 この堕落圏を逃れるためのものが宗教と救援摂理の努力なのです。終わりの日にメシヤが来て、神側で見る唯一、絶対、永遠、不変なる原因と方向と結果をはっきり教えてあげ、無知と混沌世界を清算して本然の神様の懐に帰るべきなのが、み旨の完成です。そのようにならなければ、終わりの日に、すべての宗教も、主義や思想も、国家も、皆滅びるようになるのです。

 今、私たち人類はわずか数年で二十一世紀を迎え、二〇〇〇年代の新しい歴史時代に差しかかります。このような重大な時点で、私はきょう、「救援摂理史の原理観」を主題としたお話で、新しい時代を準備する私たちの心を確認しようと思います。

 創造主と人間との真の愛を中心とした完全、完成を願う神様は、人間と一体となる条件が必要でした。それで、神様は人間始祖に下さる戒めが必要だったのです。人間が成長期間を育っていく未完成段階にいたことをご存じで、神様は子女である人間に最も貴い真の愛を相続させてあげようとなさる条件が、戒めでした。本来、真の愛は経験を通して得て、体恤を通して分かるようになっていました。真の愛は言葉や文字、あるいは一般教育を通して体得できるものではありません。生活を通してのみ、完全に体得するのです。赤ん坊としてつくられたアダムとエバは成長しながら、段階的に生活を通して経験をすることによって、真なる子女の心情、真なる兄弟の心情、真なる夫婦の心情、真なる父母の心情を体恤することによって完成するようになっています。神様の真の愛を全体的に体得するとき、初めて創造目的を完成した理想的な人間になるのです。

 人は自分の愛する相対が、自分より何千万倍、いや無限大の価値的存在として生まれることを願います。このように神様も、ご自身が愛する相対である人間が、無限なる価値的存在になることを願われるのです。人間が完成すれば神性をもち、天の父が完全であるように、完全で神的な価値をもつのです。神様は絶対者であられますが、真の愛の理想は一人では成されません。愛の理想は必ず相対を要求するからです。私たちはここで、神様の真の愛と人間の真の愛の出発と完成が互いにいかなる連関をもっているかを知らなければなりません。もし、神様が真の愛の絶対的な対象として人間を立てずに、ほかの方法を通してご自身の真の愛の出発と完成を成そうとされたなら、どのようになったでしょうか?

 神様と人間の真の愛の理想は、おのおの動機が異なり、二つの愛の方向と目的は異なるしかなくなります。もしそうなるなら、神様の愛の理想は人間より上位の、またほかの愛の対象を立てて成さなければならず、一方で人間の愛の理想は神様と直接的な関係を持てなくなってしまいます。

 真の愛の主体者であられる神様は、その真の愛の相対として人間を立てました。神様の愛の理想は、人間を通してのみ完成されるのです。神様の創造目的は、神人愛一体の絶対的愛の理想世界です。人間は神様の最高最善の愛の対象としてつくられました。それゆえに、人間は創造物の中で唯一、神様の実体を身につけた対象なのです。

 無形の神様の前に、見える体として生まれました。人間は完成すれば神様の宮になります。神様が自由に、また平安にいつも入ってきて、住まわれることのできる有形の実体です。神様の絶対的な真の愛の全体的な理想は、人間を通して父母と息子の縦的関係で実現、完成します。神様はご自身の体としてアダムを先につくりました。アダムは神様の息子であると同時に、体をもった神様自身でもあります。

 その次に、アダムの相対者としてエバをつくって、横的な愛、すなわち夫婦の愛の理想を完成しようとしました。エバは神様の娘であると同時に、神様の横的愛の理想を実体で完成すべき新婦でもあったのです。

 アダムとエバが完成して神様の祝福の下で結婚し、初愛を結ぶその場は、すなわち神様が実体の新婦を迎える場なのです。アダムとエバの夫婦の愛の理想が横的に結実するその場に、神様の絶対愛の理想が縦的に臨在、同参なさることによって、神様の真の愛と人間の真の愛が一点から縦横の基点を中心として出発し、一点で結実完成するようになるのです。神様の創造は必然でした。目的のない創造は考えることができません。神様において創造が必要であった理由は、ただ一つ、真の愛の理想でした。最も簡単で低級な被造物から人間に至るまで、おのおの主体と対象、陽性と陰性のカップルで展開なさった理由も、愛の理想の下で相対関係を形成するためなのです。創造物の愛の理想と神様の究極的な愛の理想は別個ではありません。人間世界の男性と女性の愛の完成を通して、神様の絶対愛が完成するようになさったのが、創造原理です。

 初めに人間をアダムとエバ一男一女として創造なさった理由もここにあります。神様の創造目的はアダムとエバが真の愛の主体であられる神様の戒めを守って真の人として完成することです。さらには神様の真の愛で一つとなった真なる夫婦になるのです。また、彼らがその真の愛の中で息子・娘をもち、幸福に豊かに暮らすことのできる真の父母になることです。アダムとエバが真の愛で完成することは、まさに神様が実体を身にまとう願いが成就するのです。そして、彼らが真なる夫婦として完成することは、まさに神様の絶対的な愛の理想の完成を意味します。

 次に、アダムとエバが善なる子女をもって真の父母になることは、まさに神様が永存の父母の位を実体的に確定し、また神様が人間の血統を通して子々孫々を繁栄なさることによって、天上天国の市民を無限にされたかった理想を成就なさろうとされたのです。

 ところが、人間始祖アダムとエバは堕落してしまいました。エデンから追われるとき、彼らは子女を抱えていませんでした。神様が追い出したアダムとエバをエデンの外まで訪ねて行って祝福し、結婚式をしてあげられたはずは絶対にありません。全人類は神様の愛と関係なく繁殖した、追い出された先祖の後孫です。

 満場のご来賓の皆様!

 人類の堕落が木の実を取って食べた結果でありうるでしょうか? アダムとエバの堕落は神様の真の愛の理想に背いた不倫の犯罪です。守るべき戒めが必要だった堕落前のアダムとエバは、未完成段階、すなわち成長期間で堕落してしまいました。蛇で表示された天使長の誘いを受け、エバが霊的に堕落し、そのエバがアダムを誘って(時ならぬ時に善悪を知る木の実を取って食べる)肉的な堕落をしてしまったのです。

 本然の園で神様と対話しながら、楽しくはしゃぎ回って暮らしていたアダムとエバが、死ぬことを顧みないでまで犯しうる可能性のある犯罪は、間違った愛の犯罪しかないのです。人類の先祖の初愛の結合は、神様自身の愛の完成でもあったので、当然、神様もアダムとエバも宇宙万象も、歴史を通して歓喜と祝福の中に酔う幸福な宴の連続でなければなりません。

 神様の愛と生命と血統が人間の中で出発しながら定着する幸福な儀式でなければなりません。ところが、彼らは下半身を覆い、木の後ろに隠れて、不安に震えました。天道に逆らう偽りの愛、偽りの生命、偽りの血統の根源をつくった不倫の関係を結んだからです。堕落したアダムとエバの後孫である全人類は、子々孫々、生まれる時から原罪があるようになりました。

 人類が個体の中に心と体の衝突を矛盾として感じるのも堕落に根源があり、愛の秩序が紊乱した社会の中で、本心が願わない生を生きていくのも、すべてここに由来しました。愛の理想を中心として見るとき、動植物の世界では、その愛の関係がすべて繁殖を前提にして初めて成されます。

 しかし、人間だけはその例外です。人間は夫婦の愛の関係を自由に享受します。これが万物の霊長たる特権です。神様は息子・娘である人間が無限なる愛の喜びをもつように祝福しました。神様が許諾した真なる自由は、責任性を前提とします。もし、責任性なしに個々人が愛の自由だけを主張し、実践するなら、どれほど大きな混乱と破局が来るでしょうか? 至高なる愛の理想を求める人間は、愛に対する責任性をもつときに完成が可能なのです。

 その責任性は次の三つとして考えることができます。第一に、人間は愛の自由を下さった神様に感謝しながら、自己修練、自己管理で自由な真の愛の主体者になる責任です。人において愛の責任性は、法や世間体ゆえに守られるものではなく、神様との生命的縦的関係の中で自己主管、自己決断で守られるのです。

 第二に、相対に対する責任性です。人間は本性的に自らの相対の、自分に対する愛が分けられることを願いません。夫婦間の横的な愛の関係は、父母と子供の間の縦的な愛の関係と異なり、分けられればもはやその完全性が破壊されます。これは夫婦間で絶対的な愛の一体を成すようになっている創造原理ゆえです。人は絶対に自分の相対のために生きるべき愛の責任性があります。

 第三に、子女に対する愛の責任性です。子女たちの誇りと幸福の基地は父母の愛です。子女たちは真の愛で和合一体化した父母を通して生命が生まれ、そのような愛の中で養育されることを願います。父母の子女に対する最も貴い責任は、外的な養育だけではなく、彼らの霊性を完全にしてあげる真の愛の生命的な要素を提供することです。

 家庭が貴い理由はこのためです。生活的な経験を通して体得する真なる子女の心情、兄弟の心情、夫婦の心情、父母の心情は真なる家庭以外、そのどこでも得ることはできません。アダムとエバが神様を中心とした真の愛の夫婦となれば、神様は理想どおりに、ご自身の実体であるアダムの体の中にいましたまいながら、エバを愛されるようになるのです。

 さらには、アダムとエバは神様の実体をまとった真の父母となって、善なる愛、善なる生命、善なる血統の出発となったことでしょう。ところが、堕落によってアダムとエバはサタンの実体となって、悪なる夫婦、悪なる父母、悪なる先祖となってしまいました。彼らの結合は悪なる愛と悪なる生命と悪なる血統の根となってしまったのです。人類はすべてこの根に根源をおいたので、生まれるときからすべてが、神様の怨讐であり姦夫であるサタンの後孫になり、悪なる父母の血統を受け継ぐようになってしまったのです。

 親愛なる紳士淑女の皆様!

 人類の先祖の堕落で真の愛の理想が崩れたとき、神様の苦痛がどれほど大きかったでしょうか? 神様の子女になるべき人間たちが、本来の父母であるご自身が分からず、むしろサタンに仕えるのに、神様は救援歴史をしてこられたのです。

 絶対的な神様の創造理想も絶対的であるので、悲しい救援歴史をなさるしかありませんでした。神様の救援摂理は、失った真の愛の創造目的を再び回復する復帰摂理です。ですから、救援摂理は再創造摂理でもあります。このような点で、復帰摂理の根本は、どうすれば創造理想を完成する人間の種、本然の赤ん坊の種を見いだせるかにあるようになります。

 神様が一番嫌う姦夫であるサタンの偽りの愛から由来した生命と血統を、清算しなければなりません。神様の真の愛と生命と血統と一体になった救世主、真の父母を、どのようにして生まれさせるかということです。人間始祖が自分の責任分担を完遂できず、不倫なる血統関係を結んでサタンの主管を受けるようになったので、神様が直接立って原状回復させることができないのです。

 神様は天使長側に回った人類を、条件なしに善なる立場から選ぶことも、打つこともできないのです。神様は善なる天使長的中心人物を立て、先に打たれながら蕩減条件を立てるようにして、奪ってくる作戦をしてこられました。しかし、サタンは先に打ち、奪われる立場になりました。第一次、第二次、第三次世界大戦はその例になります。先に打った側が滅びました。復帰摂理を概観すれば、母子協助の基盤が重要でした。ヤコブの時、モーセの時、イエス様の時、皆そうでした。

 堕落の張本人であるエバの代わりに責任を果たすお母さんを立て、次子と母子協助をしながら、サタンの血統と生命を分立させるための摂理が存在してきたからです。神様は、堕落によって人類を先に占有したサタンと血縁的に直結した長子に、直接対することがおできになりません。神様は善側を代表する次子を相対として条件を立たせ、悪側を代表する長子を屈服させることで、善なる血統を復帰してこられました。

 アダム家庭で、神様は次子アベルを立てて長子カインを屈服させようという摂理をなさいました。堕落した母親ですが、そのエバによる兄弟を一つにしようとする努力がありましたが、結局はカインがアベルを殺害することによって、救援摂理は終結を見ることができず、延長し始めたのです。ノアの時も母子協助の基準はありましたが、本格的な母子協助の基準はリベカ、ヤコブの時からです。

 人類の堕落はアダム、エバ、天使長、このように三つの存在によって引き起こされました。天使長がエバを誘って霊的堕落をし、その次に堕落したエバがアダムを誘って肉的堕落をすることによって、神様を裏切ったのです。堕落した天使長がサタンになりました。救援摂理は復帰摂理であり、復帰の原則は百八十度反対の道を通してなされるのです。

 真の愛と生命の種をもったアダムを失った神様は、サタンの讒訴条件がない新しい種をもった息子を探し立てなければなりません。創造の時アダムを先につくったように、再創造摂理である復帰摂理も、堕落と無関係な息子を先に立てなければならないのです。これがメシヤ思想の根本です。メシヤは、サタンの主管下にいる堕落した血統をもった人たちの生命を否定し、新しい生命の種を接ぎ木してあげるために来られる真の人であられます。

 根は神様に置きましたが、後のアダムとして来て、アダムによって引き起こされたものを清算しなければならないメシヤです。神様が、能力だけで役事する超人を、メシヤとして送ることのできない事情がまさにここにあるのです。

 この地に神様の愛と生命の種をもって生まれる息子のために、先にお母さんがいなければなりません。お母さんが息子を産むにしても、ただそのまま産むことはできないのです。必ず、復帰の公式を通して産まなければならないのです。

 復帰摂理の中に現れた母子協助は、すべてが天の息子がサタンの讒訴を免れた新しい生命の種をもって着地するための準備であり、条件なのです。母子共にサタンの攻撃を免れることのできる条件を立てた土台の上で、サタンを代表する長子を屈服させることにより、サタンが先に占有した愛と生命と血統を復帰してこられたのです。神様の摂理の歴史を記録した聖書の中に、理解することのできない記録がたくさんあります。

 リベカが夫のイサクと長子のエサウをだまし、次子ヤコブを助けて彼に祝福を受けさせました。神様は一見不当に見える方法を用いたこの母子の側に立たれて、彼らを祝福し続けられました。アダムの家庭では、カインとアベルの兄弟が胎外で争って、次子のアベルがかえって殺されました。

 ヤコブは、アベル以後、善の側に立った多くの人の犠牲と蕩減条件の基台の上に立ったので、先に占有したサタンに追いついて、双子の兄であるエサウを相手にするようになったのです。結果的にヤコブは、ヤボク川で天使を屈服させる霊的勝利の条件と、実体の天使長の体であるエサウを屈服させることによって、歴史以来、初めて勝利したというイスラエルの祝福を受けるようになりました。しかし、その時は既に歳が四十代でした。サタンの偽りの愛の種がエバの胎中にまかれて悪の生命が生まれたので、神様は母の胎中まで入っていって分別しておかなくては、天の息子が胎中で誕生することができないのです。ですから、ヤコブの勝利によっても、まだ分別されていない妊娠から四十代までの期間も、サタンの分立がなされなければなりません。

 結果的にこの責任を任された偉大な母がタマルです。タマルはユダの長男のエルと結婚しましたが、エルは神様にふさわしい人ではなかったので死んでしまいました。当時の慣例に従い、ユダは次子のオナンをタマルに与えて子供を産むようにしましたが、オナンは生まれる子供が自分のものにならないことを知り、精子を地に流しました。これが神様の前に罪となってオナンも死んでしまいます。

 タマルはユダの三番目の息子のシラと一緒になろうとしましたが、ユダはシラをタマルに与えませんでした。タマルによって二人の息子たちが死んだと考えたユダは、シラまで死んで家系が絶たれることを心配したからです。タマルは選民の血統を続けなければという一念から、売春婦に変装して、舅であるユダを迎え、双子の赤ん坊を身ごもりました。赤ん坊たちが生まれる時、先に手を突き出して出ようとした長子の赤ん坊が再び入り、弟になるべき次子の赤ん坊が兄になって先に生まれたのですが、彼がペレヅです。

 タマルの胎中で長子と次子が争って、分立される胎中復帰がなされたのです。このような条件の上に、選民の血族を集め、二千年後にローマ帝国の国家基準に対峙するイスラエルの国家的土台の上に、メシヤを身ごもることができたのです。

 神様の息子の種が準備された母親の胎中に、サタンの讒訴のない立場を探すことができるようになった国家的勝利の土台が造成されたのです。このような基盤の上に、聖母マリヤが摂理の主流に登場するのです。ヨセフと婚約したマリヤは、自分の身を通してメシヤが生まれるという(ルカ1:31)ガブリエル天使長の驚くべきメッセージを受けました。処女の立場で赤ん坊を身ごもれば、死ぬしかないという当時の規則でしたが、「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」(ルカ1:38)と言いながら、絶対信仰で神様のみ意を受け止めました。マリヤは親族であり、尊敬される大祭司長のザカリヤに相談しました。

 ザカリヤの家庭では、その夫人のエリサベツが神様の能力によって、妊娠した洗礼ヨハネを胎中に身ごもったまま、マリヤに対して「あなたは女の中で祝福されたかた、あなたの胎の実も祝福されています。主の母上がわたしのところにきてくださるとは、何という光栄でしょう」(ルカ1:42〜43)とイエス様の懐胎を証ししました。このように神様はマリヤとザカリヤとエリサベツをして、メシヤの誕生を一番先に知らせました。彼らはイエス様によく侍り、神様のみ旨によく従わなければならない重大な使命をもった者たちでした。ザカリヤ夫婦はマリヤを自分たちの家にとどまらせました。

 イエス様をザカリヤの家庭で懐胎しました。エリサベツとマリヤの間柄は母親側のいとこの関係でしたが、摂理上では、姉(カイン)と妹(アベル)の関係でした。ザカリヤの前でエリサベツの助けを受けたマリヤは、レアとラケルがヤコブの家庭で母子が一体になれなかったのを、国家的基準でザカリヤ家庭を通して蕩減する条件まで立てながら、イエス様を誕生させなければなりませんでした。

 歴史以来、初めて神様の息子の種、真の父となるべき種が、準備された母の胎中に、サタンの讒訴条件なく着地したのです。それによって、地上に初めて、神様の初愛を独占することのできるひとり子が誕生するようになったのです。

 当時の法によって、容認されるはずもなく、また、常識でも考えることのできないことを、マリヤが成し遂げなければなりませんでした。三人が全部霊的に感動したし、神様から来た啓示に従い、それが神様のみ旨であり、願いであることを無条件に信じ従わなければならなかったためでした。

 神様の息子はたとえ着地したといっても、サタンの世界の中で無事に育ってみ旨を成し遂げるためには、保護されるべき囲いが必要なのです。神様はザカリヤの家庭の三人に、その基盤となってくれることを期待されました。三人が神様の息子を保護し、侍ることにどのように専念し、どれだけ長い間一つになったかについては、考えるべき点がたくさんあります。

 聖書には「マリヤは、エリサベツのところに三か月ほど滞在してから、家に帰った」(ルカ1:56)と記録してあります。その後、聖書で見る限り、マリヤとエリサベツとザカリヤは互いに行き来した記録がありません。ここからマリヤとイエス様の困難が始まります。ザカリヤ家庭は、最後までイエス様の囲いにならなければなりませんでした。少し過ぎて、ヨセフはマリヤが子供を妊娠した事実を知るようになります。

 この時、彼の衝撃がどれほど大きかったでしょうか? 愛する婚約者のマリヤが自分とは何の関係もない状態で、三か月間どこかへ行って帰ってきた時には子供を妊娠していたのですから、ヨセフがマリヤに、胎内にだれの赤ん坊を身ごもっているのかを追及するのは当然なことでした。

 その時、もしマリヤが正直に話してしまったなら、どんなことが起こったでしょうか? もし明らかにした場合には一族が滅亡するようになるのです。ですから、マリヤはただ「聖霊によって懐胎した」とだけ話したのです。マリヤのおなかが膨らんできて、周囲の人たちも妊娠したことが分かるようになりました。その時、ヨセフが自分は知らないことだと言ったならば、また、どうなったでしょうか? ヨセフは神様の啓示を信じ、妊娠が自身の責任であると擁護した義人でした。

 これによってマリヤは、婚約期に妊娠したという嘲笑は浴びたとしても、石を受けて死ぬことはなかったのです。マリヤを愛したヨセフは、初めはこのようにマリヤを守ってあげました。しかし、ヨセフの心の底には苦悶がたくさんありました。

 特に、生まれたイエス様を見詰めるヨセフは、その父親に対する疑問と関連し、心の中の苦痛を頻繁に経験するようになりました。イエス様が大きくなると同時に、ヨセフとの関係において心情的な距離が生まれるようになり、このことによって、家庭に頻繁に紛争が起こったことは間違いのない事実です。こうしてイエス様は私生児の立場で、ザカリヤ家庭の保護も受けられず、また、ヨセフとも難しい条件で、心情的に途方もなく寂しい立場で育ちました。メシヤの道を自覚するようになったイエス様は、孤独な事情が神様のみ旨を成すに当たって深刻な障害の要因であることを、独りもどかしく思いました。

 メシヤは真の父母であり、その使命のためには実体の新婦をお迎えにならなければなりません。天使長がアダムと兄妹のように育ったエバを、偽りの愛で堕落させた立場を、根本的に復帰すべきイエス様であられます。したがって、アダムを代身して神様の息子として来られたイエス様は、天使長型の妹を妻として迎えなければなりません。彼女がまさしくザカリヤの娘、洗礼ヨハネの妹なのです。サタンの権勢が主人の役割をする世の中で、このことが成されるためには、絶対的な信仰によって形成された保護基台がなければなりません。不幸にもイエス様の周辺では、このような基台が皆崩れてしまいました。

 もし、ザカリヤとエリサベツが神様の啓示と霊的な恩恵の下で、初めにもった絶対的な信仰をもち続けていたなら、状況は全然違っていたことでしょう。彼らが責任を果たしたならば、マリヤは三か月後にその家を出たとしても、継続的に彼らと行き来し、相談したはずです。ザカリヤ家庭は、イエス様の誕生の後にも、地を代表して最も先頭に立ってメシヤを保護し侍りながら、証すべき人々として神様が選んだ家庭です。彼らは、イエス様を神様の息子として、メシヤとして、この上ない精誠を込めて侍るだけでなく、さらにまた、イエス様を通して神様のみ旨を受け、絶対的に従ったはずでした。

 また、イエス様のために生まれた洗礼ヨハネだったので、彼が悔い改めさせた民たちをして、イエス様を信じ救われるように導く責任を果たしたはずです。しかし、不幸にも、ザカリヤも、エリサベツも、洗礼ヨハネも、イエス様を神様の息子として証ししただけであって、侍り従った実績は何一つありませんでした。

 尊敬される祭司長のザカリヤが傍観し、洗礼ヨハネがイエス様と無関係な立場に立つようになることにより、かえってイエス様の行く道をもっと難しくしてしまいました。民たちが従うことができないようにしてしまいました。ましてや、彼らが信仰を失い、人間的な考えに流れたときに、イエス様が願われた、新婦を迎えることを助けるはずは絶対になかったのです。次に考えるべき点は、ヨセフとマリヤの関係がイエス様に及ぼした影響です。

 マリヤはエバとタマルを蕩減復帰すべき立場なので、ヨセフとは婚約関係を保たなければなりませんでした。しかし、摂理的に見れば、彼らの関係は夫婦ではありえません。ですから、彼らはイエス様が誕生する時まではもちろん、その後にも性関係を結んではならないのが神様の願いでした。ヨセフはマリヤに対して、イエス誕生の後にもずっと愛の心を持ち続けました。マリヤはヨセフと別れ、イエス様を神様の息子として育てたい気持ちがあったはずです。しかし、現実は、それを簡単には許しませんでした。本心ではだめだと思いながら、マリヤはヨセフと性的関係を結ぶようになって子女をもつことにより、エバの失敗を反復した結果となってしまいました。

 サタンはこれを条件として、彼らに侵入するようになりました。イエス一人を残して、すべてサタンの主管下に入っていった結果となったのです。イエスを守るべき父親も、母親も、アベル側の兄弟(洗礼ヨハネとその兄弟)も、カイン側の兄弟(ヨセフの子女)もすべてサタン側になってしまいました。人がサタンの侵入を受ければ、もはや霊的に受けた恩恵と感動を失ってしまいます。神様に対する確信と感謝を失うようになります。すべてのものを人間的に考えるようになります。

 これによりマリヤまで、イエス様が願われる結婚を助けられず、かえって反対してしまったのです。これが、イエス様が新婦を迎えられず、そして真の父母になれず、十字架の道を行かざるをえなかった直接的な原因になったのです。カナの婚姻の宴で、イエス様がマリヤに「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか」(ヨハネ2:4)と言ったのも、最も貴い摂理の要請であるイエス様の新婦を迎える仕事をなおざりにし、遠い親戚の婚姻の宴を手伝おうとするマリヤを責めた心情が表出されたものです。「わたしの母とは、だれのことか。わたしの兄弟とは、だれのことか」(マタイ12:48)と言われたみ言葉も、このような基準から理解しなければなりません。

 イエス様は、母マリヤからも、ザカリヤ、エリサベツからも反対され、最後に洗礼ヨハネからも反対され、肉親の保護を受けながら使命を完遂することを断念するしかありませんでした。新しく霊的基盤を探して、再び復帰摂理をなさろうと出発したのがイエスの出家でした。出家したイエス様は行く所がありませんでした。「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」(マタイ8:20)と嘆息されました。

 親族の基盤を失ったイエス様は、それに代わることのできる基盤を探しに出かけたのです。これがイエス様の三年路程でした。しかし、民族が不信し、弟子たちの信仰が弱くなって、サタンの侵入を受けてしまったので、イエス様の基台は崩れ、十字架の道に行かれるしかありませんでした。本来、イエス様はメシヤとして地上に来て、弟子たちと万民を祝福され、罪のない天国を築かなければなりませんでした。ところが、不信されて新婦を迎えられなかったので、真の父母になれず、その使命を完遂することができませんでした。それゆえ、再臨することを約束されました。

 きょう、このようにイエス様とマリヤに関する内容を詳細に明らかにするのは、これまで既存のカトリックとプロテスタントの反対がたくさんありましたが、聖書でいうように「地上でつなぐことは、天でもつながれ、地上で解くことは、天でも解かれるであろう」という真理のとおり、イエス様とマリヤを解放させてあげるためなのです。再臨主はイエス様が果たせなかった神様の復帰摂理の根本を完成するために来られます。

 すなわち、創造理想を完成すべき真なる本然の赤ん坊の種として来て、神様の真の愛、真の生命、真の血統の根源になる真の父母の理想を完成するために来られます。彼は、既にイエスの時まで神側が勝利した根本基台の上に臨在されます。

 すなわち、イエス様が大人になられる時までの勝利的な基盤の上に正しく立たれて、彼が果たせなかった新婦を探し出し、真の父母になられ、万民を救ってくださるのです。それゆえ、真の父母は血統を伝授する新しい結婚行事を通じ、全人類をして、神様の真の愛、真の生命、真の血統に接ぎ木して、真の人として救援し、さらには真なる家庭を成して地上天国を建設なさるのです。

 それゆえ、再臨主は肉身をもって来られて、新しい血統関係を編成しようとするのであり、これが国際合同結婚式なのです。アダム一家庭で失われたものを世界大家庭圏で蕩減することにより、アダム家庭で完成すべき真の長子権、真の父母権、真の王圏を取り戻し、神様が主管なさる地上天国へと転換し、天上天国に入籍をして、神様を中心とした地上、天上王圏時代に進入して、勝利と自由と幸福と統一の世界を復帰し、神様の創造理想である地上天国、天上天国を迎えるようになるのです。

 これが救援摂理史の原理観です。皆様も将来、この喜ばしく新しい祝福結婚式を受けるようにお願いします。

 親愛なる各界指導者、そしてご来賓の皆様!

 きょう、この意味深い集いに盛況を呈してくださった皆様に、今一度、深く感謝を申し上げます。併せて、皆様すべてがこの歴史的な方向に一致して、平和世界建設に先駆者となってくださるようにお願いします。皆様と皆様のご家庭に神様の祝福がともにありますよう、お祈り申し上げます。

 ありがとうございました。




宇宙の根本を探して


  一九九六年八月一日 アメリカ ワシントンD・C
 尊敬するご来賓の皆様、世界平和家庭連合会員、紳士淑女の皆様!

 冷戦の終息とともに、平和と社会正義に対する新しい希望が急速度に全地球星に拡大しています。新しい世界的現実を無視したり、直視できない指導者たちは、津波のように押し寄せる変化に流されてしまいます。

 今、私たちは新しい世紀の分岐点に立って、私たちの伝統的な思考方式を再検討してみて、新しい機会と価値観を迎えるのに、果敢に進んでいくべき時だと思います。私はきょう、私の夫である文鮮明総裁が生涯をかけて主唱してきた「世界平和の実現と真の家庭の価値」について、お話をすることができるようになったことを大変な栄光と存じます。

 きょう、私は「宇宙の根本を探して」というテーマでお話しいたします。私たちが宇宙の根本を探していけば神様に帰着しますが、そのお方は、男性格と女性格の二つの性稟を所有しておられるということを知らなければなりません。宇宙の出発の原因がどのようになっているでしょうか? 神様に対してはまだ分からないとしても、私たち人間は男性と女性、主体と対象からなっています。存在界を調べれば、鉱物界、植物界、動物界、どの世界を問わず、次元がより高い陽性と陰性が、より低い陽性と陰性を吸収して、存在、発展していることを知ることができます。

 なぜこのような現象が生じるのでしょうか? このすべての存在世界は、万物の霊長である人間を完成させるべき責任があるからです。鉱物界を見ても、陽性と陰性、すなわち主体と対象が愛という概念のもとに、互いに一体となって存在をしており、植物界も同様に、すべて雄しべと雌しべ、すなわち主体と対象が愛を中心として、一つに結合して存続するのです。最近、医学界では病原菌までも陽性と陰性があると言っています。

 主体と対象、すなわち陽性と陰性が一つになるのに、何を中心として一つになるのでしょうか? キスすることによってでしょうか? 愛は概念であって実在ではありません。愛が定着することのできる実在は何でしょうか? 男性が男性になり、女性が女性になるようにするものが何であるかを知らなかったというのです。それがまさしく生殖器です。それを卑しく思う人がいますか? 貴く思うとすれば、どのくらい貴く思うでしょうか? 今までは、それが善くないものと考えたとしても、今からは貴く思わなければなりません。

 未来の世界はどのような世界でしょうか? 生殖器を絶対的に貴く思う世界になるなら、その世界が善い世界でしょうか、悪い世界でしょうか? 栄える世界でしょうか、滅びる世界でしょうか? 冗談で言っているのではありません。神様が人間を創造なさる時、最も重要視して、精魂を込めてお造りになった所がどこでしょうか? 目ですか、鼻ですか? 心臓でしょうか? でなければ頭脳でしょうか? これらは全部、死んでなくなってしまうのです。実際、そうではないでしょうか?

 世界平和のための家庭連合の目的は何でしょうか? 道徳と宗教、すべての分野を完全に超越し、生殖器が一つとなって、神様までも拍手で歓迎することのできる人が暮らす世界があるなら、どのような世の中になるでしょうか? 男性と女性が生まれる時、彼らの生殖器の主人はだれでしょうか? 夫の生殖器の主人は妻であり、妻のものの主人は夫です。生殖器の主人が互いに取り替えられていることを知りませんでした。明快な真理です。これを否定できないというのです。千年、万年、歴史がいくら流れても、この真理は変わりません。

 あらゆる男性たちは、それが自分のものだと考え、またあらゆる女性たちも、それが自分たちの所有だと考えたために、世の中がこのように滅びつつあるのです。互いが主人を間違えているという話です。すべての人たちは、愛は絶対的であり、永遠なるものだといいながら、夢のようなものとだけ考えていますが、その永遠の愛の主人がひっくり返っているということをはっきり知るなら、世の中がこれほどまでにはならなかったはずです。博士や学者は数多くいますが、これ一つ考え抜いた人がいないというのです。

 皆様はこの真理を否定できますか? 皆様の父母、祖父母、曾祖父母、そして人類の先祖たるお方と、さらには宇宙の根本であられる神様に尋ねても、全部、同意するようになっているのです。これが鉄則なのです。この真理こそ、宇宙が億万年過ぎても原理原則として残るので鉄則です。

 そして、この鉄則によって、神様の前に出ていけば、正しい人と間違った人の判定を受けるようになるのは当然なのです。アダムとエバの堕落も知ってみれば、まさにこの鉄則に背いたところに由来しているのです。アダムやエバは、自分たちの生殖器が自分たちの所有だと錯覚したのです。

 考えてみてください。神様が善悪を知る木の実を取って食べたからといって、アダムとエバを追い出しますか? 根本的な問題を誤って、宇宙のどこからも公認を受けられなくなったので、追放されてしまったのです。鉱物界や、植物界や動物界の雄と雌もすべて、愛の相対のために自分の生殖器を保管しているということを、アダムとエバが知らなかったというのです。

 では、生殖器は何のために存在するのでしょうか? それは愛のためです。愛を探すためにそのように男性と女性として生まれたというのです。神様の属性は何でしょうか? 神様は絶対的、唯一、永遠、不変であられるお方です。そうだとすれば、愛の主人はだれでしょうか? 男性でもなく、女性でもありません。そのお方がまさに神様であられます。愛を中心として愛を通してのみ、神様と人間が一つになるのです。なぜなら、神様にも人間にも愛が絶対に必要だからです。神様が必要とする愛は、果たしてどのような愛でしょうか? 絶対的愛を願われます。皆様はどうでしょうか? 私たちも同じです。

 神様が絶対的愛、唯一の愛、不変の愛、永遠の愛を必要とするように、私たち人間も絶対、唯一、不変、永遠なる愛を必要とするのです。皆、神様に似なければならないのです。神様自身が男性格、女性格、陽性と陰性をもっておられるお方なので、そこから分立された実体対象として創造された人間も、男性と女性として創造されたのであり、彼らが結婚すれば、実体として神様に代わる陽性と陰性になるのです。

 このように結婚を通して縦的な神様の愛が、横的に完全統一されるように追求したものが神様のみ旨だったのです。人間の体はこの地を代表した横的なものです。すなわちそれが肉身です。それと反対に、良心はいつも縦的なものを愛し、縦的に高いものを求めるのです。したがって、人間は神様の縦的な基準と一つになりうる点を探していくのです。その点は中心点でなければならず、まさにこの点で男性と女性が共に出会わなければなりません。そうして、この中心点から出生した人間は、愛とともに幼児の成長過程を経て、兄弟姉妹の愛、そして夫婦の愛を経験しながら成長するのです。

 このとき、肉身は地を代表して成長するようになり、心は神様を中心として成熟して、ついに体と心が縦的、横的に一つになって、幸福の基地を築くようになるのです。そのようなところであってこそ、絶対的な愛を中心として、絶対的存在である神様も喜び、その愛の対象体である夫婦も幸福になるのです。

 このように、上下の関係である父子の関係、東西の関係である夫婦関係、前後関係である兄弟姉妹関係が、一点を中心として完全に一つになるとき、理想的な球形を造るようになります。このようなゆえんで、父子の関係を東洋では一つの体だといいます。さらには夫婦関係も一つの体であり、兄弟姉妹も一つの体として考えています。何を中心として、このように言うことができるのでしょうか? 真の愛を中心としてこのすべての関係が四方に球形を造るとき、このすべてのことが可能になるのです。一点で出会って、球形を造らなければならないのです。その点は一つです! 一つなので、統一が可能なのです。神様と人間も父子の関係なので、一つにならなければならないのです。それは真の愛を中心としてです。

 尊敬する世界平和家庭連合の会員の皆様!

 人間の欲望がどれほど高いでしょうか? 皆様の心の欲望は、神様よりも高くなることを願ったりもします。いくら劣った人でも、神様よりも勝った世界の代表者になろうという欲望はもつことができるのです。もし、皆様が神様の愛する息子なら、「お父様、いらしてください!」というとき、神様はそれを拒まれるでしょうか? 皆様の妻がいくら劣っているとしても、本当に愛するなら、妻が呼ぶとき、夫は従うのです。

 このように真の愛で一つになれば、妻が夫を呼んでもついていき、兄さんが呼べば弟がついていき、弟が呼べば兄さんがついていき、皆が絶対に離れたがらなくなるのです。神様も独りでいれば寂しいでしょうか、寂しくないでしょうか? どうして分かりますか? 皆様、愛をもっていますか? 生命をもっていますか? 皆様の血統をつなぐことのできる精子と卵子を皆、もっているでしょう? 良心ももっていますか? それなら、愛を見たことがあるでしょうか? 生命、血統、良心を見ましたか? 触ってみたことがありますか?

 その存在の現象は知っていますが、触ることも見ることもできないということを知らなければなりません。ただ心で感じてのみ知ることができるのです。同じ論理として、神様がいるか、いないかというとき、または神様を見たか、見なかったかと尋ねてみると、見なかったとはいえないのです。見えるものと見えないもの、どちらが重要でしょうか? 見えないものがもっと貴いということを知らなければなりません。

 上品な壇上からこのような話をすれば失礼だと思うでしょうが、実感の出る話なので、例を挙げてみましょう。皆様、毎日、朝起きてトイレに行くでしょう。大便をするとき、マスクを使って大便をするでしょうか? もし、ほかの人がそばで大便をして、そのような臭いを漂わせれば、すぐに鼻をふさいで何万里でも逃げ出すはずなのに、なぜ自分が大便の臭いはそのまま嗅いで、座って、平気なのでしょうか? 自分の体と一つになっているから、自分の大便を汚く感じないのです。

 皆様、幼い時、鼻くそをほじくってなめてみたことがありますか? その味が甘かったでしょうか、塩辛かったでしょうか? なぜ、その鼻くそが汚く感じられなかったのでしょうか? それがまさに私たちの体の一部分だったからです。

 愛、生命、血統、良心があっても一つになっていて、完全にバランスをとれば、感じられないのです。私たち人間がそうであるように、神様も愛、生命、血統、良心、皆もっていますが、独りではそれを感じられないのです。完全にバランスを取っているので、感じることができないのです。ですから、神様も相対が必要なのです。相対の必要性をここから見つけることができるのです。

 男性でも女性でも、独りのときは愛を感じられませんが、男性の前に女性が現れ、女性の前に男性が現れるときは、相対的に刺激的な愛と血統が雷と稲妻のように衝撃を受けて問題を起こすことを知らなければなりません。だから、しっかりしなければなりません。このような真理を知らずに生きてきたのです。神様も絶対的に愛の相対が必要だという論理を、人間が悟ることができなかったというのです。

 それなら、神様の愛の相対はだれでしょうか? 猿でしょうか? 人間が結果的存在であるならば、猿がその原因的存在、すなわち私たちの先祖になれるでしょうか? それではお話にならないというのです。アメーバから始まった生命体が人間に至るまでは、数千の段階の愛の門を通過しなければならないのです。ただ無条件に上がっていきますか? とんでもありません。あらゆる動物も皆、同じです。種の区別は厳格です。だれも占領できません。

 唯物論を信奉する共産主義者たちが猿を先祖として信じ、猿と人間を交配させたとして、新しい生命体(人間)が出てくると思いますか? 百年、千年しても無駄骨です。なぜ、できないのでしょうか? 秩序の尊厳性は考えてみるべき問題です。

 そうだとすれば、神様も何を必要とするでしょうか? 何か器官をもっと必要とするでしょうか? 目でしょうか、手でしょうか? 必要とされるのは、私たちが考える五官ではありません。神様は男性格と女性格の二つの性稟をすべて所有しておられますが、父としておられるためには、男性格主体として存在なさるお方です。

 このような基準で見るとき、神様も愛のパートナーが必要でないでしょうか? 被造世界のだれが、果たして神様の愛のパートナーになるでしょうか? 男性独りででしょうか? 女性独りだけでパートナーになれますか? 神様はどんなパートナーを願われるでしょうか? お金のパートナーですか? 知識のパートナーですか? 権力のパートナーですか? 違います! 神様は愛のパートナーを願われるので、夫と妻が生殖器を通して一つになるその場を中心として顕現なさり、人間と出会うのです。

 なぜその場が神様を中心として一つになる場なのでしょうか? 愛は絶対的であり、男性と女性が絶対的に一つになることを願う所がまさにその場だからです。横的に見れば、陽性である男性がその中心に向かって近づき、陰性である女性がまた近づき、神様も男性の性格である陽性と女性の性格である陰性が合わさって、大きく陽性的立場で、大きな陰性と合わさって一つになるのです。いつそのようになるかということが問題です。

 結婚とは何でしょうか? なぜ結婚が重要なのでしょうか? 結婚は愛を探していく道だからです。愛する道、生命を創造する道です。男性と女性の生命が一体になる道です。男性と女性の血統が混ざる所です。結婚を通して歴史が生じ、ここから国が生じ、理想世界が始まるのです。これがなければ、個人の存在意味もなく、国もなく、理想世界もありません。これが公式になっています。

 男性と女性は絶対的に一つにならなければならず、父母と子供たちは絶対的に神様と一つになり、神様を愛し、神様とともに生きてから、死んでそのまま霊界に行けば、そこが天国なのです。しかし、そのような人、そのような家庭、国家、世界、そのような理想的な人がいないので、神様が理想とする天国は空いているのです。今まで死んでいった人類はすべて、地獄に落ちています。天国に入れなかったという話です。

 このような観点から見るとき、イエス様も人類を救うための救世主として来られましたが、昇天した後、天国には行けず、楽園に行っておられることを知らなければなりません。天国に行くためには、家庭を築いて入らなければならないので、イエス様も再臨なさることを願われるのです。

 イエス様も結婚して家庭を築き、その家庭とともに神様に侍って暮らしてから、共に天国に入れるのであって、独りでは天国に入れないので、聖書でも「あなたがたが地上でつなぐことは、天でも皆つながれ、あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう」と書かれているのです。地上で解決しなければなりません。地上で病気になったので、その病気になった場所で治さなければなりません。

 皆様の家庭は堕落圏内の家庭です。氏族、国家も同様です。闘って勝たなければなりません。アダム家庭で覆されたのです。アダムとエバが赤ん坊を生んだ後に追い出されましたか、追い出された後に赤ん坊を生みましたか? 彼らは追い出された後、神様と無関係な立場で子供を生んだのです。このようなことも知らずに天国に行けるのでしょうか? とんでもありません! 無知からは理想も生まれず、完成もありません。しっかりしなければなりません! このように警告します。

 レバレンド・ムーンの話が正しいか、正しくないか祈祷してみてください。私がこの道を見いだすためにどれほどの受難の道を歩んできたか、だれも知りません。罪なしに監獄に六回も入るほどの苦難に遭い、探し出してきた道です。ところが、他人の大切な息子・娘たちを連れていって、このような真理を教え、あまりにも短時間に方向転換させるので、皆が洗脳したと言うのです。事実とは反対に無神論者たちは、神がいないということを科学的に理論的体系を立てて証明しようとして、自ら崩れてきました。

 それと同様に、キリスト教徒たちは自分たちが信じている教理と違うといって、異端だと責め立てながら、私たちを取り除こうと大騒ぎしているのです。しかし、彼らが唱える異端が正統なのです! 反対になることを知らなければなりません。サタンが嫌うものは神側であり、神様が嫌うものはサタン側だということを知らなければなりません。

 思想的空白期に置かれている旧ソ連の若い青年たちも、レバレンド・ムーンの思想を中心として出版された中学校、高等学校、大学校の教材を通して、そして甚だしきに至っては、刑務所の罪人までもその教材を通して、思想武装をしています。ロシアの三千六百の学校でレバレンド・ムーンの思想の教材を使っているのです。

 彼らは叫んでいます。「私たちがアメリカに勝らなければならない! レバレンド・ムーンに反対するアメリカに勝らなければならない!」と、西洋の腐敗した退廃風潮であるホモセクシャル、フリーセックスなどを収拾する道は、レバレンド・ムーンの思想だけだと彼らは信じ、急いでいるのです。アメリカより先にレバレンド・ムーンに従っていこうと、叫んでいるのです。

 皆様! 神様がお好きですか? レバレンド・ムーンがこのようなことを展開しているのをごらんになる神様は、喜ぶでしょうか? 教皇庁の教えと、今度の大会に列席したロバート・シューラー牧師の教えが同じでありえますか? もちろん、統一教会の教えも大きく違います。そうだとすれば、だれの教えが正しいか神様に尋ねてみてください。イエス様と聖母マリヤに対する皆様の理解が間違ったものだと、いくら教えてあげても、それ自体が統一教会に利益になることがあるでしょうか? しかし、皆様が間違いなく知らなければならない一つのことは、「地上で解かなければ、天でも解くことができない」ということです。それを早くから知ったレバレンド・ムーンは、生涯をかけてこの道を歩んできたのです。

 皆様、イエス様が結婚をしなければならないでしょうか? 結婚をしなければなりませんでした。イエス様は女性ですか、男性ですか? 聖女がいるなら、イエス様も彼女と結婚をしたくなかったでしょうか? 神様はエデンの園にアダムとエバを創造なさりながら、彼らに生殖器をもつことを共に許されましたが、何のためにそうされたのでしょうか? 彼らが成長すれば、神様が彼らを結婚させてくれるでしょうか、させてくれないでしょうか?

 問題は彼らの堕落にあります。堕落ゆえに血統が変わったのです。それゆえ、神様は彼らをエデンの園から追い出されたのです。本来、神様の体となるべきアダムと、神様の婦人格に立つべきエバが堕落することによって、神様自身の体と理想を病気にかからせ、怨讐になったので、それをごらんになった神様の心情がどれほど大変だったでしょうか? 堕落は自らを埋葬する墓です。人のものを奪い取っていく行動です。言い換えれば、堕落はフリーセックスの根になり、個人主義の先祖になりました。

 アダムとエバがエデンの園にどんな種をまいたでしょうか? フリーセックスの種、すなわち節制のない性関係の種をまきました。それを否定できますか? そうしたために、彼らが下半身を覆ったのです。幼子たちも父母が隠しておいた大切なお菓子を盗み食いして、見つかれば隠すのが本性の作用ではないでしょうか? もし、善悪の実を取って食べたなら、その取って食べた手や口を覆うべきはずであるのに、なぜ下半身を覆ったのかというのです。堕落は淫乱によって引き起こされたということを否定することができません。

 アダムとエバが堕落して落ちたものを救ってあげるためには、堕落した方向と一八〇度違う逆の経路を通してこそ、救ってあげられるということは、この上なく理論的です。堕落によって地獄行きの血統を受け継いだので、メシヤが来なければならないのです。

 メシヤは堕落前、神様が創造したエデンの園の場で、家庭を築くことのできる主人として来られるお方です。メシヤはまず、神様に侍る家庭を築き、その家庭を通して国家を立てなければならないのです。このように、家庭が問題です。メシヤの家庭を中心として、接ぎ木する摂理をしなければならなかったのです。この死亡の世界で、だれが自分を救ってくれるかが問題です。

 旧約時代は、「目には目、歯には歯」という原則の下に蕩減してきました。イサクの妻であったリベカをごらんなさい。長子であるエサウと夫までもだまし、次子であるヤコブに祝福を奪い与えた女性ではありませんか? そのような女性を神様はなぜ愛したのでしょうか? そのような神様をどうして信じることができるのでしょうか? 今まで、このような疑問をだれも解決できませんでした。レバレンド・ムーンが初めて解いてあげているのです。レバレンド・ムーンだけが神様の秘密を皆、知っているからです。

 では、どこで天国と地獄が分かれるか調べてみましょう。空中ですか? どこでしょうか? まさに皆様の生殖器です! 深刻なことです。これが天地をひっくり返しました。この事実をだれが否定できますか? レバレンド・ムーンが発表した原理の本の堕落論に、説明がなされています。疑問に思えば神様に尋ねてごらんなさい。皆様としては夢にも想像できない内容と理論をもって、体系立てておいたレバレンド・ムーンの原理の本に、だれしも反対することはできないのです。

 レバレンド・ムーンが天国に行くか、行かないか、気がかりなら、死んで霊界に行ってみれば、分かることです。レバレンド・ムーンがこの道を探すために、死の道を何度も越えてきたことを、皆様は知らなければなりません。神様を数百回も泣かせた人がレバレンド・ムーンです。歴史以来、だれもレバレンド・ムーンほど神様を愛した人がいません。

 それゆえ、いくら世の中がレバレンド・ムーンを滅ぼそうとしても、私は絶対に滅びません。神様が保護してくださるからです。皆様もレバレンド・ムーンが教える真理圏内に入ってくれば、神様が共に保護してくださいます。

 生殖器を、目がつぶれた盲人のように、方向を失ったまま使用すれば地獄行きであり、反対にこれを神様の絶対愛に基準を合わせて使えば、天国の高い所に行くのです。これは明白な結論です。

 今、青少年の問題が深刻な問題です。エデンの園でアダムとエバが、青少年期に日陰の下で淫乱によって堕落して、フリーセックスをまいたので、取り入れの時期である終わりの日には、必ず世界的に青少年たちのフリーセックスの風潮が蔓延するようになる現象が現れるのです。終わりの日には再臨主が神様の真の愛を中心として、堕落圏内に陥った人類を絶対愛圏内に引っ張り上げ、救われる戦略を、サタンは知っています。

 ですから、サタンはどこにも愛の基準を置くことができないので、アダムとエバを堕落させるときに天使長がそうしたように、全人類をフリーセックスに押しやって、裸になって死んでいく方向に全世界を引っ張っていくのです。人類がすべて天使長の後裔たる末路に直面するようになるのです。

 エデンの園からサタンの支配圏内に陥ったアダムとエバの後孫が、今日の人類なので、サタンは堂々と神様の前でも、この世界のすべての男性と女性を引っ張っていき、自分のやりたいとおりにすることのできる権限を主張するというのです。神様はサタンが何を願うかをご存じなのです。サタンはフリーセックスを通して、ただの一人も神様の前に帰れないように、言い換えれば、全人類を完全にだめにしてしまい、地上地獄を造ろうとするのです。

 今日、私たちが生きているこの世界が、地上地獄となっていく世界でなくて何でしょうか? したがって、このように地上地獄になったこの世界と百八十度異なる、正反対の道を求めていけば、天国に行く道があるのです。再臨主が来て、この世の中を救ってくれるのも、まさにこのような百八十度反対の道を教えてくれて、天国に導くことなのです。

 それでは、フリーセックスの道と百八十度異なった正反対の道とはどのような道でしょうか? 偽りの父母が現れて、つくっておいた道がフリーセックスの道なので、真の父母が現れて、この間違った道を正してあげなければならないのです。神様は干渉なさることができません。その地の主権や軍事力、経済力、政治力でも手をつけることのできない問題です。偽りの父母によって引き起こされたことなので、真の父母がメスをもって手術しなければ、決して人類は救われる道がないのです。

 罪を犯した者がその罪を蕩減しなければならないのです。家庭で結婚を誤って、血統が百八十度ねじれてしまったので、真の父母が来て、結婚させ、百八十度原状に戻すことによって、天国に行く道を開いてあげるようになるのです。

 神様がアダムとエバに期待したのが何だったでしょうか? 絶対純潔愛を期待したのです。絶対純潔愛が存在する所には絶対純潔夫婦が誕生するようになり、自動的にフリーセックス、ホモ、レズビアンという言葉は消えるようになるのです。このような絶対純潔愛を探す運動を世界的に広げるためにレバレンド・ムーンは一生をささげて、受難の道を克服してきました。今は勝利のファンファーレを響かせ、世界に号令をかけうる時が来たので、天の前に感謝をするものです。

 世界平和に向かっていくことのできる礎石を置くのも家庭であり、世界平和への道を破壊しうるのも家庭です。人類の希望と幸福の土台が破壊された所がアダム家庭でした。したがって、きょう、このように世界平和家庭連合を創設し、皆様の家庭も、今からはサタン世界と百八十度異なる方向に行くことのできる道を開くようになったことを、天の前に感謝せざるをえません。この道でなくては、自由も幸福も理想もありません!

 皆様は今、絶対純潔、唯一、不変、永遠の生殖器を中心として、これを基盤にして、神様をお求めになるようお願いします。この基盤が真の愛の基盤、真の生命の基盤、真の血統の基盤、真の良心の基盤にならなければならず、ここからまさに地上天国と天上天国が生じることをお分かりにならなければなりません。

 すべての男女が自分たちに所属した生殖器が、実は、自分のものではなく、主人が自分の相対だということを認定するようになれば、私たちすべては頭を下げ、謙虚な姿勢で愛を受け入れるようになることでしょう。愛は相対なしには来ないのです。相対から来るということを知らなければなりません。ために生きないところには、愛がありえないのです。絶対、ために生きるところで絶対愛を見いだすことができるということを肝に銘じてください。

 どこに行かれても、テレビやその他、言論機関を通してレバレンド・ムーンの話を伝えてみてください。絶対に滅びません。地獄になったこの世界を、果たしてどんな力で変えることができるでしょうか? 神様の愛、すなわち絶対、唯一、不変、永遠であられる神様の真の愛を中心として、私たちの生殖器も絶対、唯一、不変、永遠の基準に立て、生きていかなくては不可能なのです。私たちの生殖器の本来の主人は神様であられます。

 今、私たちすべてが共にこの目的のために前進しましょう。神様の真の愛を実践する前衛隊になりましょう。今から家にお帰りになられたら、夫と妻でもって、自分たちの生殖器が絶対、唯一、不変、永遠な器官であることを互いに確認し、それがまさに自分のものではなく、あなたのものであり、あなたが今までよく保管してきたものが自分のものだと宣言し、互いのために生き、永遠に奉仕し、感謝しながら生きようと、お誓いください。そのような家庭であってこそ、永遠に神様がとどまるようになり、そのような家庭を中心として世界的な家庭編成が成されるのです。

 そうして、皆様共に次回三百六十万双の祝福結婚式に列席なさり、地上天国に入籍する真の家庭になるようお願いいたします。

 ありがとうございました。




真の愛を中心とした真の家庭と真の宇宙


  一九九七年八月十日 韓国ソウル 新羅ホテル
  

家庭が円満になるメッセージ


 尊敬するご来賓の皆様、特別にこの場にご光臨賜った著名なる紳士淑女の皆様7

 公私多忙であられるにもかかわらず、この場にご来臨くださった皆様に深く感謝を申し上げます。

 このような貴き日、私に心から皆様にささげたい最も貴い返礼の贈り物があるとするならば、それは私がこれまで世界を巡回しながら伝えてきた、最も代表的な二つのメッセージをご紹介することです。

 それは、「救援摂理史の原理観」と「宇宙の根本を探して」というメッセージです。現代においては男女問題と家庭問題、そして青少年問題が絶対的に解決されなければなりませんが、この二つのメッセージは、その根本的な解決方案を提示しているのです。

 各自帰られて、自らを振り返り、家庭を愛したい思いが生じるたびに、このメッセージを深く考えてくだされば、皆様が幸福で円満な家庭を築くのに大きな助けとなることでしょう。

 この二つのメッセージを皆様の年の数ほど読まれることをお願いします。八十歳を超えているなら、八十回以上読むべきです。皆様が読めば読むほど、天の祝福と天運が共にあることでしょう。読めば読むほど、その家庭に平和が自動的に訪れるようになるはずですので、たくさん読まれるようにお願いいたします。

 一番目のメッセージの主題は、「救援摂理史の原理観」です。その内容を要約すれば、神様を中心として結婚し、真の父母になることです。第一次アダム家庭でアダムが失敗して堕落したので、第二次アダムとしてイエス様が来られて、これを国家的な次元で復帰しなければならないということです。

 第一次アダムは堕落したアダムであり、メシヤであられるイエス様は、第二次アダムとして来られたのです。しかし、イエス様が真の父母の家庭を築くことができずに約束だけして亡くなられました。それゆえ第三次アダムが再び来られ、世界的基準で真の父母の使命を償い復帰しなければならないのです。これが、第三次アダムとして来られる再臨主の使命です。したがって、旧約時代、新約時代、成約時代を完成するのです。そして、人類救援の根本問題が、血統復帰であるという事実も明らかにするのです。

 こうして、真の父母を中心とした成約時代を迎え、世界的に広がった祝福結婚式となるのです。

 二番目のメッセージの主題は、「宇宙の根本を探して」です。人間の堕落の根本が愛によってなされましたので、人類は真の愛を失ってしまいました。そのことから、この真の愛をどのように取り戻すかという問題が提起されています。

 真の愛を失ってしまったということは、淫乱によって堕落したことを意味します。すなわち、生殖器を中心として過ちを犯したので、これを取り戻そうとすれば、その反対に正しく行かなければなりません。このように、間違った愛がエデンの園で植えられたので、終わりの日の刈り入れのときにその結果として現れる現象が青少年問題なのです。

 ですから、セックス混乱時代が来るのです。これを清算するのは、絶対純潔(絶対的性)でなければなりません。このような絶対純潔(絶対的性)の概念でのみ、家庭破壊を防止し、青少年の淪落を防ぐことができるのです。


  

神様は父母の中の真の父母


 「真の愛を中心とした真の家庭と真の宇宙」という新しい主題で、皆様とメッセージを分かち合おうと思います。

 皆様は、すべて父母を持っています。そして、師を持っており、国の主を持っています。それは、だれにとっても絶対的に必要なものです。

 しかし、父母といっても、真という基準を中心として見るときには、いろいろな基準があります。皆様自身は、果たしてどれくらい真なる父母になったと思われますか?

 また、「師」といっても、アメリカにあるハーバード、エール、コロンビアのようなアイビー・リーグ(アメリカ東部の名門私立大学八校で結成しているリーグ)に属する大学であるとか、イギリスのオックスフォードやケンブリッジなどの大学の教授なら、それで真なる「師」と言えるでしょうか?

 国の主人も、「真」という基準から見るとき、皆、同じではあり得ません。皆様は、アメリカのような強大国の大統領ならば皆、真なる大統領であると思われますか?

 事実、今日の家庭では、子供が親を信じることができず、夫婦同士も互いに信じることができず、兄弟同士も不信し合うような間柄になっています。学校では先生のことを信じることができず、国では国の責任者を信じることができないというのが、今日の実情なのです。

 このように、皆様が願われるこの三つの重要な立場、すなわち父母と師、国の主人の中で、「真」という基準を中心として見た場合、一つでも合格することができるのか、ということが問題なのです。

 皆様が真なる父母になり、真なる師になり、真なる主人にならなければならないとするならば、そのような世界最高の基準と、そのすべてのモデルの中心はだれなのでしょうか?

 それが正に神様なのです。

 神様は、父母の中の真の父母であり、師の中の真の師であり、王の中の真の王であられます。神様は永遠の真の父母であり、永遠の真の師であり、永遠の真の主人であられます。

 私たちが神様の子女になるとするならば、まず神様のような真の父母にならなければなりません。神様のような真の師の道を行かなければならないのです。そして、神様のような真の主人になる道を行かなければなりません。これが三大主体思想です。その究極的なモデルは、神様なのです。


  

天を父母として見れば、地は子女


 旧約聖書に記録されている、イスラエル民族の前に送られるメシヤとはだれのことでしょうか?

 メシヤは、正に真の父母として来られるおかたであり、真の師として来られるおかたであり、真の王として来られるおかたです。

 しかし、イエス様がこの地上で家庭を持って民族を一つにすることができなかったので、メシヤは再び地上に来られなければならないのです。再び来られるメシヤは第三次アダムとして来られて、世界的基準で真の父母権と、真の師権と、真の王圏を教えてくださろうとするのです。これが正にメシヤ思想です。

 家庭があり、国家があり、世界があり、天がある所ならば、いつでもどこででも、この三大主体思想が正しく確立されなければならないのです。

 人が空間の世界に立つためには、必ず上下が必要であり、左右が必要であり、前後が必要です。そうでなければ、自分の存在位置が確定されません。皆様が上下を正しく備えているか、左右、前後を正しく備えているかによって、さまざまな姿になるのです。皆様の上下、左右、前後関係、そして、家庭の問題、国の問題、世界の問題を扱ううえにおける、公式は一つです。個人を中心として上下、左右、前後があるように、家庭においても父母と子女がいなければならず、夫と妻がいなければならず、兄弟姉妹がいなければならないのです。

 これと同じように、国においても国の主人を中心として、すべての家庭が東西の文明、南北の文明をすべてかき抱き、それから世界の万民を兄弟姉妹のようにかき抱いて、結局、一つの家庭のモデルを築くのです。モデルは全く同じです。

 そして、自分自身がそのモデルの中心となるのです。自分の後には、自分の家庭がなければならず、国と世界と天地、そして、神様にまで進んでいかなければならないのと同じ道理です。皆様には、宇宙の中心になりたいという気持ちがあります。それだけではなく、すべての人は皆、そのように宇宙の中心になることができるのです。

 このように、宇宙において、その核に当たるものが家庭の概念です。天を父母として見れば、地は子女です。東西を見れば、東側は男性を象徴し、西側は女性を象徴します。女性は結婚することによって、どこでも夫の位置に従っていくのです。

 西側が太陽の光を受けて輝くとき、東側と同じ価値を持つようになることと同じです。兄弟関係も同じです。長子である兄を中心として生活するとき、弟妹たちが協力するようになるのです。


  

東洋文明は縦的、西洋文明は横的


 ですから、人間は父子の関係を持ち、夫婦関係を持ち、兄弟関係を持たなければなりません。つまり、この三つの関係が、一点になければなりません。その中心点は一つなのです。上下、左右、前後の中心が異なってはならないのです。この中心点が狂えば、上下、左右、前後関係の均衡が皆、崩れてしまうのです。

 結局、上、下、左、右、前、後、そして一つの中心点まで合わせると、全部で七数を成すようになるのです。このように七数を成すということはすなわち、神様を中心として完全な真の愛で一つになって、これらすべてが完全に球形を成して、調和と統一を成す家庭になることです。私たちが、よく「ラッキー7」というのも、このような観点から見れば一理あることなのです。

 それで、これが一つに定着して回るようになれば、八数です。真の愛が永遠に変わらない限り、この中心も変わらず、永遠に回ることができたはずなのですが、堕落することによって神様を中心から追い出してしまったのです。神様の真の愛を全部追い出してしまったので、真の家庭の理想がすべて崩れてしまったのです。

 西洋と東洋は、その生活習慣において、あまりにも異なる点がたくさんあります。さまざまな面で正反対です。例えば、韓国で人を呼ぶときは、手のひらを下にして手招きしますが、西洋の人たちはそのようにすると、かえってもっと遠くに行ってしまいます。私のことが嫌いで行ってしまうのだろうか?と、むしろ誤解してしまうようになっています。

 西洋の文字は、横的なものであり、左側から右側に進行しますが、東洋の文字は本来縦的なもので、上から下に書いて読むようになっています。ですから、西洋の本は左側から開いてみますが、東洋の本は右側から開いてみます。西洋文明は一種の横的文明なのです。

 握手であいさつするのは、横的なあいさつということです。頭を下げながら、あいさつする東洋文明は縦的です。東洋では、家庭制度の核が先祖でなければならないという伝統がありますが、西洋ではそのような核が強くありません。先祖を核とする概念がないのです。自己中心であるというのです。

 すべてのものが核から連結されるので、核が動かなければすべてが動かないのです。ですから、中心核から一つ、二つ、三つ、四つ、五つ、六つ、七つ、すべて同等です。それを分ければ十二切れになりますが、その十二切れをどこに合わせても皆、合います。祖父が願えば孫は反対せず、子女もそれを願うようになり、三代が皆、一緒に願うようになるのです。祖父、祖母、父、母、夫婦、息子、娘、全部中心に合わせるようになるのです。

 この愛を中心として見るとき、父子の関係も一つであるので一体であるといい、夫婦関係も一体であり、兄弟間も一体であるといいます。一つの体です。何を中心として、このような関係を一体であるというのかと言えば、愛の中心である神様の真の愛を中心として言うのです。

 真の愛を中心として、父母と子女が一つになり、夫婦も一つの体になり、兄弟間も同様です。このようになることによって、すべてのものの価値が同等になるのです。


  

聖子になることを願われる神様


 では、神様がその子女に願うことは何でしょうか?

 お金をたくさん稼いで億万長者になることでしょうか?

 国の最高の権力を手にする大統領になることでしょうか?

 神様が息子と娘であるアダムとエバに願われたことは、彼らが成長して孝子、忠臣、聖人、聖子になることでした。

 では、皆様は神様が願われるように、家庭では孝子、国では忠臣、世界では聖人、天地の前に聖子になろうという思いを持ったことがあるでしょうか?

 歴史的に見るとき、すべての聖人は、孝子、忠臣、聖人、そして、聖子になるようにと教えてきました。

 皆様はこのような理想的な人間、すなわち人間がその人格完成に必要とする孝子、忠臣、聖人、聖子の道理という観点から見るとき、合格したと見ることができますか?

 このような内容を知らずしては、家庭で真なる父母の役割を果たすことはできません。 真なる父母であれば、孝子、忠臣、聖人、聖子のような前進的なことを教えてあげなければなりません。自分の子供たちに、孝子、忠臣、聖人、聖子の道理を果たし、さらに、神様にまで行かなければならないということを、教えてあげなければならないのです。そのように教える人がいるとすれば、神様がごらんになるとき、初めて真なる父母、真なる師、そして真なる主人であると考えられるのです。

 皆様に真なる父母の資格があり、真なる師の資格があるというときには、真なる主人の資格も備えるようになり、さらには真なる王になることのできる資格まで備えるようになります。

 堕落した人に、真なる孝子という概念があるでしょうか?

 忠臣の概念もありません。聖人の概念もありません。聖子という概念もありません。ですから、滅びるのです。

 だれが聖子になることを願うのでしょうか? 神様が願われるのです。

 聖人になることをだれが願うのでしょうか? 世界が願います。

 国は何を願うのかと言えば、忠臣を願います。家庭は孝子を願います。これが正に、真なる真理の道です。

 愛を中心としたこのような真理は、一つの方向で永遠に持続するのです。そのことを知らなかったのです。それで、真なる父母になれなかったのです。国の真なる主人になれませんでした。聖人や真なる聖子になれなかったのです。

 イエス様がこの地上に来られたとき、家庭にそのような真の主人がおらず、国と世界にもそのような真の主人がおらず、結局、天地に真の主人がいませんでした。どのようにして、その道理の道を行かなければならないかを知らなかったというのです。しかし、もはや知らなければなりません。真なる父母は、「孝子になったから、忠臣になるな」とは言いません。真なる父母は、その孝子に「おまえは、家庭を犠牲にして忠臣の道を求めて国に仕えなければならず、国を犠牲にして聖人の道理を果たし、世界のために生きなければならない。また、世界を犠牲にして、天地が願う道を行かなければならず、天地を犠牲にして、神様を求めていかなければならない」と、教えてあげなければなりません。

 そのようになろうとすれば、個人は家庭のために犠牲にならなければなりません。家庭のために犠牲になってこそ、孝子になるのです。また、愛国者になろうとすれば、その家庭全体を犠牲にしてでも国を救わなければ、愛国者になることはできません。

 聖人というものは、自分の国を犠牲にして、世界を救わなければなりません。聖子は、世界を犠牲にして、天上天国と地上天国を築かなければならないのです。

 ですから、すべての父母たちの中で、より子供のために生きる父母が真の父母であり、いかなる師よりも、よりために生きる師が真の師であり、いかなる大統領よりも、よりために犠牲になろうという大統領が本物です。このような概念があるということを知りませんでした。投入して犠牲になるのです。そのようにしなければ、一つの平和と統一の世界は、永遠に来ないのです。


  

真の愛のために生まれた五官


 個人主義がどこにありますか?

 自己において自己だけを主張する部分は一つもありません。子供が父母の愛によって、母親のおなかの中で、卵子から育って生まれるとき、その九九・九九九パーセントは母親の骨と血と肉です。

 そしてそこに〇・〇〇一パーセントの一つの父親の精子が合わさって生まれるのです。そこには、「自己」という概念はあり得ません。だれでも生まれるとき、自分自身だけという概念はなかったのです。

 いかに立派な人であっても、自分一人で立派に生まれたと言える人は一人もいません。レバレンド・ムーン(文鮮明師)も同様です。骨や血や肉も、すべて母親のおなかの中で譲り受けたものです。

 この体の重要な部分は、母親の体の延長だということを認めなければなりません。私たちの体のあらゆる要素は、精子と卵子に含まれていたのです。例外はありません。ですから、個人主義というものが存在する根拠はないのです。

 「上」という言葉が成り立つときは、「下」を認めたうえで言う言葉です。「上」ということだけで、個人主義が成り立つでしょうか?

 個人だけという概念はあり得ません。「右」というのは、「左」というものをあらかじめ前提としたうえで言う言葉です。「前後」について見ても、「前」というのは「後ろ」を前もって認定して言う言葉です。

 男性という言葉も、男性一人を念頭に置いて言う言葉ではありません。女性を前提条件にして言う言葉なのです。これは、だれか一個人の言葉なのではなく、宇宙的な事実です。

 男性は、なぜ生まれたのでしょうか? 男性たちはよく、自分一人で生きていけるので、そのようなことに関心がないなどと皆言いますが、男性は女性のために生まれたのです。女性がいなければ、男性は必要ありません。絶対的に必要ないのです。結局、自分のために生まれたものは、一つもないのです。

 私たちの五官を見てください。自分の目が、自分の目を見るために生まれたのでしょうか?

 鼻や耳、口、手もすべて、相対のために生まれました。五官を総動員して、集中させることのできるその力が何かと言えば、真の愛です。目、鼻、耳、口、手は、真の愛のために生まれた真の愛の道具です。

 自分のために生まれたものは一つもありません。人のものを自分のものにする人を泥棒といいます。人のものを持ってきて、自分のものとして使う人は泥棒ではないでしょうか?

 ですから、女性のために生まれた男性の五官と体を、自分勝手に使う人は泥棒なのです。

 男性と女性は、何が互いに異なるのでしょうか?

 まず、生殖器を含んだ体が異なります。では、男性の生殖器は、だれにとって絶対に必要なのでしょうか?

 男性の生殖器は、女性のためにあるのです。

 人間の生殖器の一つは凹であり、一つは凸ですが、なぜそのようになったのでしょうか?

 二つとも、とがらせるとか、二つとも平べったくすることができるのに、なぜそのように異なって生まれたのでしょうか?

 すべて、相対のためです。

 男性のものは、女性が絶対に願い、女性のものは男性が絶対に願うのです。女性のものは、絶対に男性のものであり、男性のものは絶対に女性のものだという事実を知らなかったのです。それを占領することによって、愛を知るのです。

 二つが一つになるような経験を通してのみ、最高の境地の愛を知ることができるのです。どこのだれであれ、このような事実を絶対に否定することはできません。だれでも皆、認定しなければならないのです。二つが完全に一つになるその場で、理想的な夫婦が生まれます。正に、その場に絶対愛が存在するのです。絶対的に変わらないそのような愛の場に、神様が臨在されるのです。

 ですから、絶対純潔(絶対的性)は神様を中心としたものであり、フリーセックスは自分とサタンを中心としたものです。歴史的に政治家や経済人たちは、文学作品やメディアを通してフリーセックスを刺激することが多くありました。ですから今から私たちは皆、政治家や経済人、文人、作家と言論人たちと一つになって先頭に立ち、フリーセックスを防がなければなりません。フリーセックスは、完全になくならなければなりません。


  

霊界を統一したレバレンド・ムーン


 レバレンド・ムーンの話を聞けば、皆様の現在の立場とは百八十度異なる人間になり、異なる国になり、異なる世界になるのです。間違いなく変わります。この悪なる世界を完全に変化させることは、絶対に必要なことです。

 ところが、サタンを含めた悪の世界の人たちは、神側の人々を好みません。それで、世の中すべてがレバレンド・ムーンに反対してきました。国家と世界的次元でも反対しました。しかし、レバレンド・ムーンは神様に属しているので、神様がレバレンド・ムーンを保護してこられたのです。

 レバレンド・ムーンをサタンは嫌いますが、神様は好かれるのです。いくらレバレンド・ムーンを悲しませ、押さえつけて、無視するとしても、レバレンド・ムーンは意に介しませんでした。レバレンド・ムーンは、下がってはいきませんでした。むしろ、最も高い立場まで上がっていくようになりました。それで今は、どこのだれであれレバレンド・ムーンに反対できないようになったのです。

 あらゆる迫害を受けながら、どうしてこのような世界的な基盤を築くことができたのでしょうか?

 いかなる力でもって、世界の碩学と最高の指導者たちを教え導くこのような基盤を築くことができたのでしょうか?

 神様がそのような力をレバレンド・ムーンに下さったので可能だったのです。神様が私を保護され、私にそのような方向性を教えてくださり、今も継続して保護し教え導いてくださっているので、レバレンド・ムーンは、常に成功の道を進んでいるのです。

 歴史以来、霊界に通じることのできた多くの宗教指導者たちがいましたが、レバレンド・ムーンほど霊界を知り、かの天の国、霊界を統一して、この地上に現れたのはレバレンド・ムーン一人しかいないということを知らなければなりません。

 そうして、神様から玉璽(天の印章)を受けました。そうでなければ、地上の統一はできません。神様が霊界でそのように私を訓練し育てられたように、この地上においてもそのように継続して導いておられるということを知らなければなりません。

 二十余年間、レバレンド・ムーンは、新教の地アメリカに行って多くの迫害を受けました。しかし、イエス様が亡くなられて以後二千年間、すさまじい殉教の血を流したキリスト教を、この国に定着させようという神様のみ意を知ったので、アメリカを捨てることができなかったのです。旧教の地、南米も同様です。四十余年前にレバレンド・ムーンを受け入れていたならば、南米も北米もどのようになっただろうかと考えてみてくださるようにお願いします。韓国においては、なおさらそうです。


  

家庭が円満になるメッセージ


 それでは、真の愛はどこから始まるのでしょうか?

 自分の生命を投じた後、また復活して、三度以上より投入しようというところから真の愛が始まるのです。私たちは、堕落した血を受け継いだので、自分の生命を懸けてでもこれを越えなければなりません。

 ですから、「死なんとする者は生き、生きんとする者は死ぬ」(マタイ一○・39参照)というのです。イエス様もこの地上に来られて、その道を行かれたのです。そのことによって、世界に広がることができたのです。

 「神様の下の一つの国」と「神様の下の一つの世界」のうち、皆様はどちらが好きですか?

 一部のアメリカの人たちは、「神様の下の一つの世界」が好きではありません。また、一部の白人たちは、黒人が好きではありません。アングロ・サクソン系の白人の新教徒たちが、アメリカの支配的な立場を占めていますが、彼らを中心としたアメリカは、世界のために生きるという考えを持たなければなりません。もし、アメリカだけのために生きるというのなら、アメリカは存続することができないのです。

 今は、時代が変わっています。来るべき時代とは、「神様の下の一つの世界」の時代です。神様は、このような世界のために働いておられ、また、そのような摂理のために働く者を助けておられます。そして、これからも永遠にそのような者たちを助けていかれることでしょう。

 ところで問題は、すべての人たちが、このような世界で暮らすことを願いながらも、そのような摂理の同参者になることは好まない、ということです。

 一つの平和な世界をつくるために、私たち夫婦はさまざまな努力を傾けています。そのうちの、いくつかの代表的な例を挙げれば、人種と宗教、国境、言語の障壁を超越して、未来世界の基盤を固める理想的な国連大学を建てることです。また、世界的な知識を交流させるために、遠隔通信大学が必要です。

 医学では、堕落によって生じた肉体の病気を治療するだけではなく、東西文化の和合を通して、東西洋の葛藤までも修復させるという次元から、統一思想と統一医学を開発しなければなりません。東西思想と医学が一つになってこそ、今後、エイズのような難病を治せるようになることでしょう。

 このすべての課題は、すでにブリッジポート大学(米国)と鮮文大学(韓国)を中心として、実践に移されつつあります。

 さらに私たち夫婦は、すでにアメリカのワシントン・タイムズだけでなく、南北米すべての国々をカバーする言論機関をつくりました。これらの言論機関は、まもなく世界百八十五か国にまで拡張され、世界が一つになって学び、協力するのに大きく貢献するようになることでしょう。

 レバレンド・ムーンはアメリカに行って、アメリカ国民の前に一つも負債を負いませんでした。むしろ、アメリカのために私は尽くしました。天から受けた祝福でもって、レバレンド・ムーンはアメリカを祝福しました。私たち夫婦は、天から受けた祝福を世界にすべて分け与えました。南米も韓国もレバレンド・ムーンを歓迎して、アメリカのような祝福を受けることを願っています。

 どんなに反対しても、より多く愛する人が主人になるのです。より多く愛し、より多く投入し、より多く与えて忘れる者が中心存在になるのです。これがまさしく天法なのです。


  

生命を三度以上投入する真の愛


 これから皆様は、家庭において父母の前に孝行し、国の前に忠臣になり、世界の前に聖人になり、神様の前に聖子になる道を行くべきです。だれであろうと、家庭、国家、世界、天、地の前に恥ずかしくない、この宇宙自然の中で天運の保護を受ける自らとなり、神様の最高の愛を受ける家庭を築くべきなのです。

 そうして、地上天国に転換し、天上天国に入籍をして、神様を中心とした地上天上王圏時代に入り、勝利と自由と幸福と統一の世界を求めゆく国際合同結婚式を迎えなければなりません。

 皆様もすべて、今年(97年)の三百六十万双の祝福結婚式に、さらにそれを越えて行われる三千六百万双の合同結婚式に参与してくださるようにお願いします。そうして、天地が歓迎する人になって、永生の道を求めるようにお願いします。

 私たち皆が、神様と真のご父母様の血族になり、神様の真の愛を中心とした真なる家庭と真なる世界(宇宙)文化創建の主役になって、来る二十一世紀を平和と統一の世界へと建設していくことを願いながら、これで私のメッセージを終わります。

 皆様と、皆様の家庭と、なされている事業に、神様の祝福が共にありますようにお祈りいたします。

 ありがとうございました。




真の家庭と私


  一九九五年九月十四日 東京 東京ドーム
韓鶴子女史による講演

 尊敬するブッシュ大統領御夫妻、御来賓、そして満場の皆様。再び皆様にお目にかかれましたことを、心からうれしく思います。私にとっては、今回が四度目の日本訪問となります。

 私たち世界平和女性連合は、創設以来三年目を迎えました。昨年の十七万組の韓日姉妹結縁に続き、今年は一月以来、既に六千組以上の日米姉妹結縁をなしてまいりました。日米姉妹結縁は、第二次世界大戦後五十年を迎える日米関係において、新しい未来を切り開く重要な行事となり、日米両国は過去の敵対関係を超えて、最良のパートナーとしての絆を再び強化するようになりました。

 ブッシュ大統領御夫妻は、その特別ゲストスピーカーとして、何度もお話しくださいました。そして、このたびは、わざわざ日本までお越しくださいましたことに、心から感謝申し上げます。


  

心と体の闘争はどこから?


 きょう、私がお話ししたいテーマは、「真の家庭と私」です。世界で今、最も深刻な問題は家庭の崩壊です。果たして、真の家庭とはどのようなものでしょうか。

 今日、私たちが生きている世界は、善の世界か、それとも悪の世界かと尋ねられると、誰もがみな「悪の世界」と答えるでしょう。では、なぜ悪の世界なのでしょうか。それは、世界中のどの国の歴史を見ても、戦争の歴史を繰り返してきたからです。

 もし世界が悪いと言うのなら、そこに属する日本もまた悪い国と言わざるを得ません。したがって、そこに属している私たちも悪いということになります。

 自分自身をよく吟味してみますと、心と体が戦っているという事実を否定することはできません。そして、この戦いの起源はいったいどこにあるのかが問題になります。もし私自身の中に平和の基地がなければ、どんなに家庭が平和であっても、国や世界が平和だとしても、私自身が闘争している限り決して幸福とは言えないからです。

 皆様も御存じのように、第一次、第二次、第三次世界大戦(東西冷戦)も終わりを告げました。しかし、私たちの内部における心と体との戦いは、昔から現在に至るまで、さらに未来にわたって継続する戦いであることを否定することはできません。

 このように考えた時、もし神がいるとすれば、私たちの内部の心と体との戦いを、なぜこれほどまで歴史を通して継続させてきたのかが、大きな問題になります。

 人間が罪を犯したとしたら、罪を犯したその人が蕩減(罪を償う)のは当然です。神は罪そのものに責任をもつことも、これに干渉することもできないのです。

 では、心と体が戦うようになった出発点はどこにあるのでしょうか。私たちの生命は、父母から受け継ぎました。そして父母は祖父母から生命を受け継ぎました。このようにさかのぼっていくと、心と体の戦いの起源も、人類の最初の先祖の立場にまでさかのぼることになります。


  

人間はみなサタンの後孫


 すなわち、人類の最初の先祖であるアダムとエバに何らかの問題があったためであると考えられるのです。しかもその問題は、アダムとエバの愛の問題であると言わざるを得ません。生命の起源は父母の愛から始まるからです。

 私たちの生命が出発する以前から、このような戦いが始まっていたとしたら、父母が愛する、その愛の在り方そのものが問題になったと考えられます。

 アダムとエバの愛が喜びの愛となり得ず、相反する愛の起源から、私の生命が根を下ろしたために、私たちの内部の紛争が始まったのです。

 聖書には、アダムとエバが堕落することによって、エデンの園から追い出されたと記録されています。追い出されたのち、彼らが子孫を繁殖したことは事実です。彼らは、神のもとではなく、サタンのもとで結婚式をしたのです。

 堕落は、サタンによってエバが誘惑され、次にエバがアダムを誘惑することによって起こりました。つまり堕落は淫乱によって始まったのです。そのような願わざる関係によって、人類始祖はサタンと一体となり、善の先祖となれず悪の先祖となり、悪なる愛と、悪なる生命と、悪なる血統の根をもつようになったのです。

 このことが事実ならば、私たちは堕落した人類の後孫ということになります。家庭や民族を越えて、国家や世界まで発展してきた今日の人類五十億は、みなサタンの後孫であり、悪の父母の血統を受け継いでいることを、否定することはできません。

 私たちの体内には、神が最も嫌う姦夫であるサタンの血統がうごめいているという事実を、今日まで誰も考えることができませんでした。これが最も重要な問題です。


  

善悪が分立、闘争してきた歴史


 では、悪の根源を、どのようにして清算できるのでしょうか。サタンは、悪なる愛の根をどこに下ろしたのでしょうか。私たちの体、すなわち私たちの肉身に下ろしたのです。

 もし人間が堕落しなかったとすれば、心身が一つになることはごく自然な道理でした。ところが堕落によって、天に属する良心と、これに反する体とが互いに衝突するようになったのです。ここから心と体の闘争の歴史が始まったということを、私たちははっきり認識しなければなりません。

 神は、善悪分立の歴史を通して、悪から善へと転換するしかありませんでした。神は公的な立場で、全体のために生きる道をたどりながら、愛と平和を再創造されるのに対して、サタンは私的な立場で、歴史を通して全面的に善の側を破壊しようと、憎悪による戦争を引き起こしてきました。人間が永遠に神の側に行けないように、地上と天上の両世界を滅ぼそうとしてきたのです。

 神は善の立場に立っているので、サタンの側に回ってしまった人々を打つことができず、人類を取り戻すために、かえって天の側が打たれて奪ってくるという作戦をとってきました。一方、逆にサタンは人々を打ちながらも奪われてきたのです。

 終末期になれば、サタンは今まで霊的に人類を支配してきた位置を神側に奪われるようになるので、「神はいない」という無神論を提示し、人本主義と物本主義、共産主義の出現をもたらし、天の側に立つ右翼とサタンの側に立つ左翼との闘争を世界的に展開してきました。そしてついに、天の側の勝利によって、第二次世界大戦以降、キリスト教文化圏を中心として、人類は最終的には勝利と平和へ向かう大転換時代を迎えるようになったのです。

 今日の時代は、個人主義王国時代であり、真の愛を中心とする天の家庭を完全に破壊させたフリーセックス時代、父母否定時代、夫婦否定時代、そして子女否定時代であり、またホモセクシュアルやレズビアンによって、理想家庭を求める天の側を完全に破壊する地上地獄時代となりました。これを天国に転換していくのが、メシヤ再臨の使命なのです。再臨されるメシヤは、真の父母として、心身の統一、夫婦の統一、親子の統一を願われているのです。


  

神の創造を認めるか否か、それが問題


 今、世界的な問題は、私的であるか公的であるか、物質が先か精神が先か、無神論か有神論か、実在論か観念論か、進化論か創造論かということです。これをはっきりしなければなりません。

 例を挙げて考えてみましょう。動物世界では、生まれる時に、まず目が最初に生ずるようになっています。目自体は物質です。目は生まれる前から、太陽があることを知っていたでしょうか、知らなかったでしょうか。物自体である目は何も知らずに生まれてきましたが、太陽を見られるように生まれたということは、目が生まれる以前から、太陽のあることを知っている存在があったことになります。すなわち、目は太陽があることを知っていて生まれたのです。

 目自体は、空気があることも、埃が飛び散っていることも、蒸発による乾燥があることも知らなかったとしても、既にそれらを知っている存在があって、目を守るために、瞼が準備されたり、涙腺をもって防備させたりするのです。

 結論を言えば、このように、私たちは思惟と存在、精神と物質、観念と実在、有神論と無神論、創造論と進化論、等々の問題を解決することができるのです。したがって、すべては確実に、神によって創造されたということを否定することはできません。

 ここで私たちは、本然の神の理想世界に戻って、神の願われる家庭と私と世界とを、はっきりと知らなければならないのです。そのようにして、堕落後に生じた私たちの周辺の複雑な関係を、解明しなければなりません。


  

体を打って心を立てるのが宗教


 私たちの心と体を見ると、体は地獄の基地、良心は天国の基地になっていて、私たち自身は二つの世界の分岐点に立っています。そのことを、私たちは今まで知らなかったのです。このような立場に立っている自分自身を見た時に、体のほうが心を支配していることを発見するのです。

 肉身が良心を支配している理由は、堕落した時、サタンと関係を結んだ偽りの愛が、良心の力よりも強かったからです。神は、このことをよく知っていたので、堕落した人間を見捨てず、これを救うために、良心を支配している肉身の力を弱める作戦をとってきたのです。

 このように、天が働くことのできる救いの体制として、良心に対して立ててきたのが、歴史上における宗教なのです。そのため、過去にも現在にも宗教が必要なのです。

 全世界の文化圏が異なる背景に従って、それぞれの宗教が立てられてきました。しかし、体が心を支配していることを、どのようにして弱化させるか、除去させるかということが、宗教の目的であることを今までの信仰者たちは知らずにいるのです。

 もし堕落がなかったならば、宗教は必要なかったのです。人類始祖が堕落によって誤ったので、これを修正するために必要になったのが宗教です。

 では、神は宗教を通して何をなさろうとするのでしょうか。心を支配している体の力を屈服させようとしているのです。

 多くの人々は、宗教を信じて救われるものと考えています。例えば、キリスト教を信じれば天国に行き、仏教を信じれば極楽に行くと思ってきました。しかし天国は、神を中心とした真の愛と一体となった子女たちたちが、神の家族として神の愛を中心とした真の家族となって入る所であることを、今まで誰も知りませんでした。

 では、宗教がなすべき内容は何でしょうか。体が嫌がることを行うのです。「断食しなさい、奉仕しなさい、犠牲になりなさい、そして祭物になりなさい」と言うのです。祭物は、血を流し、生命を捧げなければならないようになっているのです。

 それで、聖書では「生きんする者は死に、死なんとする者は生きん」という逆説的な教えをしてきたのです。これは、肉身の思いのままに生きれば地獄に行くしかないし、肉身を主管して良心の解放圏の道に生きれば、天国に行くという意味だったのです。

 体を完全に屈服させ、良心が絶対的な立場に立てば、私たちの良心は無限なる欲望と希望をもつようになります。

 今日まで、歴史を通して数多くの宗教や宗教指導者たちが現れましたが、完全に体を克服して無の境地に立って、良心を主体とした本然の基準で、天と相対できる立場に立った人はいませんでした。


  

良心は私のすべてを知っている


 私たち堕落人間は、偽りの愛の根を中心としたために、偽りのオリーブの木となり、真のオリーブの木になれませんでした。神の真の愛を中心として根を下ろすべき人間が、悪魔の愛を中心としての根を下ろしたために、偽りのオリーブの木になってしまったのです。

 この事実を、いかにして清算すべきでしょうか。これが、現代に生きている私たち人間が解決しなければならない最も重大、かつ宿命的な課題として残っているのです。

 自分自身をよく吟味してみると、私たちの良心は、自分のすべてのことを知っています。良心は、私にとって父母よりももっと近い存在なのです。そして良心は、真の愛によって永遠に、神の懐に抱かれることを願っているのです。

 子供が結婚すれば、親と別れて暮らすようになることもありますが、良心は生まれる前から私と共にあり、私と別れることはありません。私を愛しながら、永遠に真実で傷のない神の子女として、私を解放しようとするのが、良心の使命です。

 良心の世界には、先生は必要ありません。本然の道を行く限り、自分の行くべき一生の道をはっきり知っており、間違いなく神の懐に帰れるように、教え導いてくれるのです。

 良心が私の一生のすべてを知っているように、霊界に行けば、霊界のコンピューターがあって、地上で行ってきたすべてのことが記録されています。

 「私は霊界には行かない」と、自信をもって言える人がいるでしょうか。いずれ、私たちはみな霊界に行くようになっています。皆様も霊界に行けば、自分の一生ばかりではなく、数千代の先祖たちのことも、一瞬のうちに分かるようになっています。

 霊界は時間と空間を超えた世界なので、地上にいる時に、良心に反する足跡を残してはならないのです。良心はどんなに著名な教授よりも優れている、ということを知らなければなりません。皆様の良心は、船の羅針盤と同じ役割をしているのです。

 皆様の中で、自分の結婚相手を選ぶ時に、自分よりも劣った人を願う人がいるでしょうか。決していないのです。誰しも自分の愛する相手は、自分よりも何十倍、何百倍、可能ならば何千倍、何万倍、何億万倍でも優れていることを願っているのです。

 このように良心の欲望は、最高の愛を求め、絶対的価値の中心を占領しようとするのです。このことは、私たちの先祖、また後孫も同じです。もし、このような質問を神御自身にしたならば、きっと同じような回答を下さるに違いありません。


  

良心は神をも占領する


 皆様は、良心の欲望はすべてかなえられると思いますか。日本人の一人として、国会議員になれば、次に首相になり、できればアジアの第一人者、さらには世界一の高い地位を占めたいというのが、良心の欲望なのです。

 歴史始まって以来、多くの人々は、人間の良心の欲望は達成できないものと結論を下してきました。しかし、レバレンド・ムーンは、それが「達成可能である」という結論を下したのです。

 皆様、良心の器がどれほど大きいものか、お分かりですか。良心は神まで占領したとしても、宇宙にもっと価値あるものがあれば、それも占領しようとするのです。

 神の良心の器と人間の良心の器とは、どちらが大きいでしょうか。神の良心の器のほうが大きいとすれば、それで何をしようとするのでしょうか。神が一番占領したいのは、人間の真の愛に対する人間の欲望であるというのが結論です。

 神は絶対的な方ですが、一人でいて寂しくないでしょうか、幸福でしょうか。いくら大統領であっても、愛する妻がいなければ、寂しいのです。

 神も相対を必要としないでしょうか、どうでしょうか。いくら神でも、一人では寂しいのです。人間はお金や知識や権力がないと寂しいのですが、神は創造主ですから、お金や知識、権力は必要ありません。神に一番必要とするのは何でしょうか、それが問題です。

 私たちは、神を何と呼んでいるでしょうか。神は愛の王様で、愛の主人です。もし神が愛の王であり、新郎であるとすれば、神の愛の相対となる女王が必要だということは絶対的な真理です。では、絶対的な神の前に、相対となり得る存在は誰でしょうか。それが、真の人間なのです。

 私たちには、お金も知識も権力も必要ですが、もし愛する妻がいなければ、それらはみな、むなしいものとなってしまいます。夫には妻と子が必要であり、妻には夫と子供が必要です。そのような愛の相対と共に暮らすところが家庭なのです。

 良心の欲望を、思う存分に満たしてくれる愛の主人である神に侍り、そのもとで、神の愛の対象である夫婦が一つになって、その愛の中で、愛する息子、娘と共に幸福に暮らす家庭こそ、神の真の愛を中心とした地上天国の最初の出発の基地となるのです。

 私たち人間も、愛する対象が自分よりも何千万倍、無限大の価値ある存在であることを願うように、神もまた、愛する相対が無限の価値ある存在であることを願っているのです。この対象になるのが、真の人間です。そのような男性と女性が、堕落しないで完成したアダムとエバであったということを、今まで誰も分からなかったのです。

 私たちに良心の高い欲望が与えられたのは、なぜでしょうか。神が主体で人間は対象の立場であるから、そのままで神の分身となるのではありません。人間は神とは別個の人格なのです。そして神の対象として、神の何千万倍の期待にそえるような価値ある存在となれるように、人間に与えてくださったのが、良心の愛に対する欲望なのです。

 神が、創造当初に理想として願った真の愛を中心として、神人一体の家庭を築いたならば、今日の私たちは、天国に行くのか、地獄に行くのか、何ら心配する必要もなく、そのまま天国にみな入れるようになっていたのです。


  

解放された良心は真の愛に結ばれる


 ここで問題となるのは、神の真の愛と人間の真の愛が、それぞれ主体的愛と相対的愛として、一つになった一点から出発できず、異なった愛の出発となり、二つの愛の方向と目的をもつようになったことです。

 そのため、神と人間が願う絶対的理想世界は見いだすことができないのです。神と人間の二つの愛が、一点から出発することを願っていた神のみ旨は、堕落によって完全に頓挫してしまいました。

 今日、私たちはサタンの愛を中心として、偽りの父母となり、偽りの愛、偽りの生命、偽りの血統を受け継いだ後孫となったので、天国とは関係がない地獄に行くしかないのです。

 皆様が心の問題を解放し、良心世界に三百六十度の解放圏を連結すれば、良心は自然に、真の愛と連結されるようになるのです。

 ところで、愛の器と良心とは、どちらが大きいかと言えば、愛のほうが大きいのです。なぜならば、良心は愛から始まったからです。

 良心を解放し、神の真の愛と一つとなって暮らし、神の愛の血族のために準備し、愛を中心として暮らしたのちに入る所が天国です。このような愛を占領できなければ、永遠に天国に入ることはできないし、その時が来るまで、私たちは数千万年も待たなければならないのです。

 真の良心と真の愛が一つになって暮らす人は、自動的に天国に入ることができます。たとえイエス様を信じたとしても、神の愛と連結しない限り、天国には入れません。肉身と良心が戦う人は、天国には入れません。サタンの血統を受けて紛争する人も、天国には入れません。その道を開拓すべき宗教同士が争うならば、終わりの日には、みな滅びてしまうのです。争うところに神はいません。すべての宗派と宗教は一つにならなければなりません。

 宗教は、体を打って良心を解放するものであり、直接、救援の門を開くのではありません。救援の門を開くには、神の真の愛を中心として、真の愛と真の生命と真の血統を受け継ぐことが必要です。

 宗教を信じていても、救いを得るのではありません。宗教によって肉身を打ち、良心の解放圏を得ることができれば、愛に対する良心の欲望は、神以上に高くなる資格をもっているのです。


  

人間は神の無限の愛の対象


 皆様、いかがですか。自分が行っていることは、良心が先に知っていますか、それとも神が先に知っていますか。良心が先に知っているのです。もし、良心より神が先に知っていれば、人間は神の分身であり、同じ体と言えます。人間は一人では相対的な理想を完成することができません。それで、アダムとエバが堕落したあと、神が「アダムよ! どこにいるのか」と、先に主体であるアダムに尋ねたのです。

 人間は、神の真の愛を動機として出発したので、相対的人格者として神に帰るのです。父母が百歳になり、子供が年を取って八十歳になれば、父と子は、父子の関係はもちろん、友達の関係になれるのです。女性と男性は、力では相手になりませんが、愛が介在すれば、妻と夫が互いに押したり引いたりして一つになれます。

 人間が、神の前に相対的な愛の存在になれば、神は喜ばれたでしょうか、喜ばれなかったでしょうか。絶対に喜ばれたのです。神は、理想的対象である人間を未来の希望として見つめながら、愛の対象が完成される前に、この宇宙を創造されたのです。

 愛の対象として完成したアダムとエバが、それ以上の大きなものを、さらに創造してほしいと願えば、神には創造する能力があるでしょうか、ないでしょうか。私たちの良心の欲望が無限であっても、それにこたえて創造することができる神であることを知らなければなりません。

 このように無限なる神の真の愛を中心として、その対象として人間を創造したという事実を完全に失われたために、これを再び回復しなければならないのが、私たち人間の生涯であり、人類歴史の目標なのです。

 神が宗教を立てた目的は何でしょうか。神の骨肉のごとくに一体となって愛し合うような息子、娘を中心とした愛の家庭、氏族、民族、国家を形成するのが、神のみ旨であったということを、はっきり知らなければなりません。


  

救いの摂理は復帰摂理


 それでは、メシヤはどのような方でしょうか。永遠なる神の真の愛を根として、初めて地上に降臨し、すべての宗教が願ってきた理想を完成させる方が、再臨のメシヤなのです。

 再臨のメシヤが真の父母となり、失われた真の愛を回復し、真の生命と真の血統を中心として、地上に理想家庭を立てることが、神の救いの摂理の目的です。

 堕落によって、神はアダムの家庭の中で、真の母と息子、娘を失ってしまいました。神に属する一人の息子、娘もいなくなったのです。神の真の愛を中心として、血統的因縁をもつ神の家庭がなかったのです。

 堕落した父母を通して、偽りの愛と偽りの生命と偽りの血統の因縁を結んだことによって、私たちの心と体との間に戦いが起こりました。アダムとエバとは、互いに怨讐関係となり、その息子、娘たちの間に醜い殺戮戦が起こりました。

 そのため、神が人類を救うために立てた救援摂理が復帰摂理なのです。まず、心身一体となった息子、娘が絶対的な夫婦となり、さらに神の真の愛を中心として、親子が完全に一つになって、神と共に永遠に生きる真の家庭をつくります。そして、新婦の立場に立っているキリスト教を連結させて、神との血縁関係を結び、真の愛で統一された家庭、氏族、民族、国家、世界を再編成することが、神の救援摂理の完成なのです。

 日本の国家指導者の皆様は、日本が神の祝福を受けることを願っていらっしゃることでしょう。そのためには、真の愛を中心として、心身が一つとなった国民にならなければなりません。真の愛を中心として、夫婦が絶対的に一つにならなければなりません。神の真の愛を中心として、子女が絶対的に一つになった家庭がこの国に多くなる時、神は、自然とこの国は世界の中心的国家になるのです。


  

千六百名以上が海外ボランティア活動


 私は夫レバレンド・ムーンと共に、中南米十七カ国の大統領をはじめとする貴賓の方々とお会いしてきました。また、つい最近は、世界百六十三カ国からなる三十六万双の国際合同祝福結婚式を成功裡に終えてきました。

 第二次世界大戦後、レバレンド・ムーンは五十年間、全世界的に迫害を受けてきました。それは、私の夫に何かの罪があったからではなく、この世を救うために、他の人の身代わりとして、多くの迫害を受けたのです。しかし今日では、夫のことを「誰よりも立派な人である」と、多くの方々が尊敬するようになりました。

 皆様、レバレンド・ムーンによって、共産主義は滅びました。ゴルバチョフ前大統領と金日成主席に影響を与え、転換させたのはレバレンド・ムーンです。今日、「家庭崩壊と二世の倫理的退廃で滅びていくアメリカを救う人は、レバレンド・ムーンをおいてほかにない」と言われています。

 韓半島の困難な政治的背景の解決のためにも、レバレンド・ムーンは深く関係しているのです。中近東においてもそうです。レバレンド・ムーンは、一度言ったことは必ず達成してきました。私が夫と共に、三年前に「世界平和女性連合」を設立したのは、世界中の女性たちが妻として家庭を守り、母として子女たちを正しく育てていけば、今こそ神と人類の理想とした永遠なる平和世界を実現できると確信したからです。

 今や、私たちの「世界平和女性連合」は、世界一六三カ国に支部をもつ大きな組織となりました。特に、私が何よりも誇りに思うことは、千六百三十名を超える知性と教養にあふれた若い日本の女性たちが、ボランティアとして世界中で活躍していることです。それは、世界史上でも例のない運動だからです。


  

自由と平和は真の家庭と私から


 このような事実を見た時から、日本がレバレンド・ムーンを、アメリカよりも先に受け入れるようになるならば、世界一の指導国家になることでしょう。

 皆様も御存じのとおり、レバレンド・ムーンの夫婦は「真の父母」の名で、全世界に知られております。真の父母によって、神人愛の一体となった真の愛の種、真の生命の種、真の血統の種を接ぎ木され、大きな祝福が伝授されるのです。

 これを通して、超国家的な血縁関係を結成して、神を中心とした天宙的大家族主義を形成することにより、父母主義、夫婦主義、兄弟主義を宣布して、心情文化世界を迎えることによって、地上から天上まで、天国に入れる解放された地上天国世界を完成するのです。

 全世界の人類が、特に日本の皆様が大きな祝福を受けて、天国の家庭として転換し、地上天国に入籍するようになることを、切にお願いします。

 きょう、このように意義深い日、皆様にお会いして、互いに信じ合う立場で、最も重要な内容を紹介いたしました。どうか新しい決意のもと、この道に歩調を合わせてくださるようお願いします。

 この地上に平和をもたらすのは、「真の家庭と私」であり、そこから解放と自由と統一と平和の天国が始まることを覚えてくださるよう、切にお願いしながら、私の話を終えたいと思います。

 皆様の国と、皆様の家庭に、神の祝福がありますよう、お祈りいたします。御静聴ありがとうございました。














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み旨の道

祝福家庭と理想天国

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み旨の道


一 み旨について

み 旨


一 み 旨


1 み旨は、私がいる前からあった。神様がみ旨の始まりであり、み旨の内容であり、み旨の目的である。

2 み旨は我々のすべての幸福の要素であり、我々の誇りであり、我々の権威であり、我々の知識ともなる。

3 人は生まれてそのまま死んでいけるけれども、み旨は、そのままで消え去ることはできない。必ず実を結び、結末をつけなければならない。

4 先生はみ旨に対しては、一歩も譲らない。み旨一つをなすためには、いかなる犠牲があってもそこには避ける道がない。

5 我々は、行くべき道を残しておいて、今日に満足する者とならずに、この世の未練を断ち切ることのできる、より大きいみ旨をもって新しい歴史を開拓していこう。

6 たとえ体は、現実の中に生きているとしても、生活感情と理想とすべての因縁は、カナンの理想郷を慕いつつその世界に住まなければならない。

7 我々は最低の基準で苦痛を受けながらも、サタン世界の最高の栄光を嘲笑し、踏み越えていける心情基準とならねばならない。

8 天国に行ける人は、この世の最高の栄光の位置を与えられても、み旨を捨てることはできない、という一片丹心の心情を所有した者である。

9 先生も身もだえしながらこの道を行く。いわんやあなた方が精誠を尽くさずにおれようか。

10 復帰は安定した立場においては考えられない。打たれて、また打たれながらも耐え忍ぶ立場において残らなければ、蕩減条件が立てられないのである。

11 地獄の底を貫きなさい。

12 打つことによっては征服することはできない。打って復帰するならば、また打たれなければならない。打たれながら復帰していくことによってのみ、結局は負けて勝つことになる。これが最後の作戦法となる。

13 「何を食べようか、着ようか、飲もうかについて心配するな」というイエス様のみ言を顧みる時が今である。
  神の国とその義よりも、自分の生活をより心配すれば滅びる。その国がなければ、個人、家庭、社会、民族、すべてが蹂躙を受ける。国のない故郷があるはずがない。

14 神様の苦しみ(心配)を避けて自己の安楽を求める者はみ旨の世界には必要ない。

15 必要のない数千人よりも、必要な一人がもっと大切である。

16 我々はきのうまで全宗教が行ったことのない未開の道を行くのである。

17 モーセを中心として十二支派、七十長老がいて六十万大衆を動かしたごとく、復帰は組織の緻密性を無視することはできない。

18 天の摂理的な「プログラム」は、根源と上から合わせてくるのである。それゆえに知らない道を行く我々は、命令する方向に従って従順になるのが近道である。

19 完全なる主体(+)が生ずれば、完全なる対象(-)が生ずる。しかし対象が生ずる前にまた異なったほかの主体があれば破壊される。

20 モーセはイスラエル民族の半分を失ったとしても、むち打ってカナンに入らなければならなかった。打つべきものを打たなかったがゆえに、モーセも、イスラエル民族も、摂理の時機もみんな失ってしまったのである。

21 神様は一時と一人の方と一つの仕事のために六千年間み業をなしてこられた。ゆえに、この一人の方がなさる仕事と一時を裏切る者は六千年を裏切る者であり、反対に忠誠をもって迎える者は六千年の不変の忠臣として認定される。忠臣は六千年の恵沢を一身に浴びるであろうし、裏切り者は累積された罰を一身に受けるのである。

22 自分の口でいったん悪いと言っていながら、ある日突然変わって、良いと言う日には、その人は、その良いと言った事柄に完全屈服してしまうであろう。

23 み旨を知った食口たちが落ち着きはらっているのを見るとき、先生はかえって異常な感じを受けるほどである。先生は神様と一体化し、サタンと三十億人類を相手として綱引きをする深刻な感じでみ旨の生活をしている。

24 堕落人間の願いは、
  ①神側に戻っていくこと、
  ②天地を自分のものとして取り返すこと、
  ③敵サタンに対して恨みを晴らすこと。

25 モーセはみ言の十字架、イエス様は肉体の十字架、再臨主は心情(愛)の十字架。

26 先生は皆さんよりも一段階前に立って仕事をやっていくので、先生のやることに関心をもちなさい。それは皆さんの次の生活の目標であるからである。蕩減復帰の道は他人の援助なく一人で行くのが原則である。後援を受けるなら、その人の生命までも責任をもたねばならない。

27 皆さんは難事にぶつかれば百遍も変わることができるが、先生は決して変わることができない。たとえ先生の行く道に死が待ち構えていたとしても、行かなければならない運命である。その理由は、行かい場合に受けるであろう全天宙に侵入してくる苦痛のほうが、先生が死を乗り越えていく苦痛よりも、もっと大きいことを、あまりにもよく知っているからである。

28 神様は有能な者を選んで用いる。その理由は、サタンと戦って勝利しなければならないみ旨があるからである。

29 神様が自ら僕の立場で涙を流し、神様が自ら子女の立場で涙を流し、神様が自ら父母の立場で涙を流しておられる事情を知って、その恨みを解くために至誠を尽くしなさい。

30 み旨の前で躊躇するとサタンが侵入する。み旨を知って躊躇する者となってはいけない。

31 神様は天理原則しか知らないし、先生はみ旨しか知らない人である。

32 古い衣を脱がずして新しい衣を着ることができないように、古い観念で新しい世界を見つめることはできない。

33 深く植えれば植えるほど遅く芽生えるものである。あまり時を急ぐな。六千年間植えておいた復帰歴史が一  日にしてなされようか。

34 統一の理念は千万人をアベルとして対してあげるときに成就される。

35 神様のみ旨のために苦労をしながら死ぬ時には、生きている間になせなかったみ旨を後孫を通して果たしてください、という祈りをもって死んでいくことによって、初めて再臨して協助することができる。

36 カナン福地は民族的福地でなく、私の福地であるという信念をもって行かなければならない。モーセが死ん  でも、族長が死んでも、私は行くという信念をもって行かねばならない。

37 み旨の道は神様を背負って、果てしなく遠い目的地に向かって、首まで漬かる水の中を渡っていくのと同じである。ここで私が溺れれば神様のみ旨は覆ってしまう。考えてごらんなさい。

38 「我が思いではなく父のみ意のままになさしめてください」という祈りのごとく、私の思いと父のみ旨とが  異なることはあり得ない。

39 神様を呼んで三度あっと驚くことのできることを提示すれば、神様はどうすることもできず、必ず自分の神様となる。

40 神様と私は好き嫌いが同じである。ゆえに人に良くすること、それがすなわち神様に良くすることである。それが善である。

41 今まで悪の歴史と悪の世界であったがゆえに、善が追われて、屈辱を受ける歴史であった。これが聖人、  預言者の歩んだ道ではなかったか。我々もみ旨のために追われ、幾度も屈辱を受け、涙を流さなければ、霊  界に行って彼らの前に恥ずかしくない堂々たる者となることはできない。

42 旧約の時代は望みを見つめつつ実践してきた時代であり、新約時代は信仰を実践してきた時代である。今後、  成約時代は愛を求めて実践していく時である。

43 歴史と世界が、それなくしては滅びてしまうほど貴重なものがあるとしたら、それをどこにおくだろうか。
  それを自分の心の一番中心におきたいと願うのが人間の常であろう。心の奧底におこうとすれば、それは見えてはならない。神様が無形なるものとしていまし給うのは、正にそのためである。神様が見えないということは幸いであって、もし神様が見えたとしたら人間による争奪戦を何でもって防ごうか。神様もこの苦痛を耐え難かろう。

44 我々の動機が神様であり、過程も神様と共に歩み、同一なる目的に向かっていったために発展したのであり、そうでないときには発展していかなかった。

45 神様は与えて喜ばれるために人間を創造なさった。与える場合は、あなたと私とは一心(同体)だという立場で与えようとなさる。

46 自分を中心として蒔き、自分を中心として実を結ぼうとするな。動機と結果を神様に帰しなさい。

47 幸福は与えてもまた与えたいし、大事にしてもまた大事にしたいし、愛してもなお愛したい人を探すことで  ある。

48 イエス様は個人的な勝利の条件はもったとしても、国家的に公認を受ける環境をもたなかったがゆえに十字  架にかかられたのである。

49 七年路程は、堕落した人間たちを救い出す道を連結しながら、外的に長成期完成級以上にサタンが侵すこと  のできない基準を築いたのであり、内的にはエバ(お母様)が完全に復帰され得る基準を整えたのである。
  ゆえにこの期間には、エバがアダムに絶対服従する基準を立てなければならないし、先生の家庭がサタンの  侵入し得る条件を完全に除去して勝利の基準を立てなければならない。

50 旧約時代は新婦格の時代であり、新約時代は新婦の時代であり、成約時代は妻の時代である。妻の時代は主  様と一体理想をなす時なので、祈りも自分の名前でやる時が来る。

51 我々のみ旨が事実なのか。事実だとしたら、今自分が生きていく状態がみ旨に合うかどうかを反省しなけれ  ばならない。

52 大きくなればなるほど、自分の足もとを見なければならないし、小さければ小さいほど神様を見上げなければならない。

53 先生はみ言を見いだすための十字架、実体を探すための十字架を背負って歴史の峠を越えてきた。

54 皆さんは統一教会の行く道において、本質を求め原型に近づくように努力しなさい。

55 人間には情的分野(愛―家庭)と使命分野(仕事)とがある。この二つがないときには、彼は存在世界で死  んだ人である。

156 真なる因縁は途中で変わるものではない。

57 混血民族を収拾することのできる民族は、世界を支配することができる。

58 「絶対に天を裏切ってはならない!」、これが統一精神である。

59 体は心に侍り、心は天倫に侍り、天倫は神様に侍って進まなければならない。

60 神様の最高の目的は人間である。

61 本部はゴルゴタの最高の山頂である。

62 すべての思考は神様を通してしなさい。

63 神様は精誠を尽くさないところにおいては働かれない。

64 最後の涙の場で会いましょう。

65 今や世界が反対しても滅びない。

66 真理と生命と愛は三者一体の関係にある。真理があるところには、愛と生命が伴わなければならないし、愛  があるところには、真理と生命が伴わなければならない。

67 怨讐である自分自らを打ち、生きて果たせなければ死んででも成そうという心情をもたねばならない。

68 目は天地を見つめ、生活はみ旨と一致したものでなければならない。

69 もしみ旨を果たせないときには、怨讐に死体も見せたくはない。「共に死のう」という心情で行こう。勝利  した道での死体ならいざしらず、敗北した道での死体は見ることができない。

70 み旨が滅びると言った場合には、いかなることをも受ける覚悟をしている。先生のために心配せず、各自の  責任を果たそう。

71 原理を探すのは茫々たる海の中で砂粒を拾うのと同じである。

72 み旨を遅延させたのは、その責任が、神様にも、国家にもあるのではなく、我々にある。

73 昼夜み旨を慕っていなければならない。それが消えればおしまいである。ゆえに、常に衝撃の中で生きなけ  ればならない。

74 原理を知ることが目的ではなく、それを通して神様を知り、中心たるお方を知るのが目的である。

75 み旨のためにあなたは今、何をしているのか。先生も常に自問自答する。

76 神様の心情を紹介して導くことのできる宗教が、神様の宗教である。

77 み旨は世界のためのものであり、後代のためのものである。

78 死んでも倒れても、正道においてのみ死ねば、天地の運勢がその中にあるので、天地を征服することができ  る。

79 み旨の目的を達成するということは、すなわち天地万物と人類の個体の目的をも達成することになる。

80 天地の軌道は私が眠っていても回っている。誰も見ていないからといって自分勝手にやれば滅びる。

81 「み旨」を抱いた人は、み旨がなされる時までは、「心配」から離れることはない。

82 我々は、神様と神様の目的と私の目的との三点において、直線を維持することができなければならない。

83 み旨のために働く態度を絶えずもって進もう。そうしたら、その環境の中でみ旨を知る日が来るだろう。

84 み旨と共に時も流れていく。この場で、皆さんは永遠を身代わりし得る一個体として立ち得るか。前進しな  ければ決定した基準を失ってしまう。

85 個人の使命が自分で終わってはならない。神様の全体目的と一致しなければならない。

86 神様がアダム、エバを創造されたことは、アダム、エバの子女に目的があった。メシヤを立てたのも、メシヤ自体に目的があるのではなく人類に目的があるのである。

87 神様を代表した宗教と世界を代表した思想を正しめようするのが統一教会の仕事である。宗教は縦的であり、  思想は横的である。

88 父子の関係こそが宇宙の根本的な立場である。

89 主流は短くまっすぐなものである。また近道である。それは、直線で行ける道だからである。

90 思いもしないところに因縁が結ばれるということはあり得ない。

91 堕落すれば、人間が悲しむ前に、神様が悲惨なのである。

92 神様の摂理には練習というものがない。ゆえに、最高の深刻さをもたねばならない。

93 我々の人生は、過ぎた道を再び立ち戻ることができないのである。

94 統一思想は、歴史の願望を通じるものでなければならない。歴史的な聖賢、君子たちもすべてが、これであ  ると言えるものでなければならない。

95 み旨のために傷つけば、それは後日まで自分にとって教育となり、後孫にも立派な教育となる。

96 神様と一つになりみ旨と一つになってこそ、第二の主体となる。

97 み旨以外には、信じるものがない。


二 善と悪


98 善は自己を中心としたものではない。人のために自己を犠牲にすることである。悪は自己を中心としたもの  であり、自己のために人を犠牲にすることである。

99 善は大げさに(大きく)始めることではなく、知らせて表れるものでもない。しかし、悪は大きく始めて宣  伝して表れるものであり、だんだん小さくなっていくのである。

100 善は条件なくして与えることである。

101 善を行ったことを後悔せず、積んでおいた善を売り飛ばさないように。

102 真なる善と幸福は、家庭よりも、国家、世界、天地間の創造主の心の中におかねばならない。

103 人間の欲望の究極は、神様を知って、神様の善と幸福と愛を所有し、神様を所有することである。

104 善なる人は食べ物に対しても、まず天、次に地、その次に人類を考えてから食べる。

105 常に善なる心と哀れみの心をもちなさい。

106 善はアルファとオメガが同じである。ゆえに人も、始めと終わりが同じ人が最後の勝利者であり、善人である。

107 善を行ってそれを忘れれば、その善は善の主体である神様の記憶に移される。

108 悪を分別することのできる指針として与えてくださったのが良心である。

109 個人を犠牲にして家庭が善くなることができればそうするのが善であり、家庭を犠牲にしてこの世が善くなることができればそうするのが善である。

110 愛と善は全体のものである。天地創造は神がもっておられる最高の善と幸福を分け与えるためである。ゆえに、愛が多いところ、善なるところ、幸福なるところに人は引っ張られていく。

111 善なることをなすとき、環境のために失敗しても、それは失敗とならない。必ずほかの面において成就されるようになる。

112 事実がそうでないのに事実のように現れるのが悪である。私的に動く者、世界を自分の思いどおりにしようとする者は必ず滅びる。

113 善は、自分より家庭をより愛すること、家庭より国家をより愛すること、国家よりも世界人類をより愛することである。

114 善を打って残る悪はなく、悪に打たれて滅びる善はない。そのため、善なる立場で悪に早急に数多く打たれて損害賠償を請求しなさい。そうして復帰路程において忠臣となりなさい。

115 善はもっているものを万民に分け与えたい心情である。善を行って全体の心に合わせることのできる和動性があれば全体の中心となることができる。

116 善はより大きいものを大切にすることである。統一教会全体を犠牲にしても、この民族と国家のためになればそれは善である。国家を犠牲にしても世界のためになれば、世界が栄えるとき、その国は中心国家となり、ある民族を犠牲にして国家を生かせば、その民族はその国家の主動民族となるだろう。

117 善なる人にも、悪なる人にも、全部に友達となってあげなさい。しかし悪人と和することなく彼らを善に向けるコンパスの中心とならなければならない。

118 何が善であるか悪であるかに対しては、神様も教えてくださらない。時には、神様が、それは正であると教えてくださったとしても、ある時はそれが否であると教えてくださるときがある。ゆえに、それは自分で見分けをつけなければならない。

119 「怨讐を愛せよ」という言葉は怨讐の中にある罪まで、あるいは悪まで許せということではない。悪に取り付かれているその人をかわいそうに思えということである。

120 エデンの園のサタンは自己の罪悪性を明らかにしたが、終わりの日のサタンは自己の罪悪性を明らかにしない。

121 私たちをつくられた神様を父と呼ばなければならないのに、反対に、サタンを父と呼ぶようになったのが堕落である。

122 慈悲は、完全な善が積もって、より高い次元の世界に向かって進むようになるとき、設定されるものである。

123 善に対する管理と褒賞を与えるものは神様しかいない。社会法においては悪なる者を罰するが褒賞を与えるという法はない。

124 悪は制裁を受けるが、善は制裁を受けない。

125 生きるということは、悪の要素を除いて善の要素の本質へ接ぎ木することである。

126 我々は善のための代弁者となって、悪に対しては審判者にならなければならない歴史的岐路に立っている。

127 善は利用されない。一時的には利用されるように見えるが、結局、利用した者が滅びる。

128 流れゆく波も情で抱いてあげる心があるとき、その心の基が善である。

129 み旨の道を行きたい心が以前より何百倍も強くなってこそ初めて、善へと一歩発展することができる。

130 天理と法度を破綻させるのが悪である。個人としての食口は神様を代表した教会を先立たせなければならない。

131 いくら下がろうとしても下がることができないのが善である。

132 善は、動かない場にあっては決定されない。それゆえ、善は万民のための、すなわち第三者のための立場において動く時、決定される。

133 率直に語り、真実に行動するとき、善は決定される。

134 善と悪は未来において決定されるものではなく、現在の一日一日の時間において決定される。

135 悪が一人で滅びようとしないのは、堕落の経路がアダムを引っ張って堕落させた動機となっているからである。

136 善が、悪の発動するときに静かにしているのは、善が悪と共に行動することができないために、悪が過ぎたあとに現れるからである。

137 私が、見ることも話すことも、すべてを相対(対象)のためにするときは善である。


復帰・復帰の心情


138 復帰の道は、苦労しながら、血を流しながら行く道である。

139 復帰の道は取り返していく道、原理の道はたどっていく道。

140 今日までの歴史は打たれて奪ってくる歴史であった。ゆえに歴史は打たれて追われる群れが引っ張ってきた。皆が嫌がる立場、痛哭する所に行きなさい。その道が歴史の流れてきた骨髄である。

141 神様の嘆息の事情とやるせない心情を誰が担当するか。アダムによって凝結されてきた全歴史的条件をあなたでもって蕩減しなさい。そうするためには、アダムを恨むな。かえって彼を理解し同情しなさい。そうすることによってのみ、アダムを通じて出発できなかったみ旨があなたから出発することができるのである。

142 我々は幹であり、葉であり、神様は根である。葉を一枚つければ、そのぐらい根ではより大きい戦いが始まるようになる。

143 神様は人間のためにすべて犠牲の重荷を代わりに背負ってくださってもこれを忘れようとなさるが、サタンはこの負債を条件として我々を打とうとかかってくる。

144 あなたにおいて神様の恨みが凝結されていることを知らねばならない。ゆえにあなたは、個体を中心として動かず、六千年間積もってきた事情を解かなければならない歴史的結実体として動きなさい。

145 心と体、兄弟、国家、世界、天と地の間に積もったすべての嘆息の障壁を崩さなければ、神様は決してあなたを通じて喜ぶことができず、愛することができない。

146 先生は監獄で拷問を受けるときも、神様がこのような道に送ってくださる時、行けという神様よりも行かせねばならない事情をもっていた神様を先に考えた。

147 先生の胸の中にある事情を誰が知ろうか。妻子も分からない。孤独な先生である。誰かが「あなたはこのような事情があるでしょう?」とその事情の底に触れれば、ワッと大声で痛哭する先生である。

148 先生は、皆さんのように若い時節に、青春を楽しむことを知らなかった。早く花盛りの青春よ過ぎ去れと言いながら四十を見つめて生きてきた先生である。

149 先生に財産があるとしたら、血涙、神様までも泣かざるを得ない、これしかない。

150 送去怨世之年
  歓来幸世之年

151 天宙之願孝進
  衆生之願忠進

152 先生は人が考えないことを考えたし、人が夢見ることのないことを事実として認めさせるために身もだえした先生である。

153 先生は統一をいかにするか心配せず、蕩減条件をいかに立てるかを心配してきた。

154 先生が誕生日に断食したという今日の歴史が後孫に伝えられるとき、それは偉大なる伝説の資源となるだろう。

155 神様は学識があって、権勢をもっている者を訪ねていらしたのではない。十字架の道、茨の道を平地にするため血涙の苦労をする者を訪ねていらっしゃる。

156 萬世之願 統一世界
  天地之願 統一教会

157 祝福や歴史的な尊い因縁の相続は十字架上でなされなければならない。

158 我々がいつアベルのように祭壇を築こうとして苦労し、いつ我々がアブラハムやモーセやイエス様のように苦労したことがあるか。

159 イエス様の血と肉はただの血と肉ではなく、イエス様が抱いていた世界であり、天国理想であった。

160 終わりの日、神様から全体的な相続を受けるためには、神様が相続することができず保留して訪ねていらしたその因縁を、十字架上で心情的な条件を結んでおいて受けなければならない。ゆえに、終わりの日にはすべて保留した条件を実体的に心情をかけて立てねばならない。

161 歴史は神様の全体を真の御父母様に相続してあげるための復帰歴史であり、我々人類は真の御父母様と一体となって、神様のものを相続しなければならない。

162 イスラエル民族に対する神様のみ旨は世界的な理念で摂理なさったのだが、そのみ旨に対するイスラエル民族は、民族的なもののみで満足しようとしたために失敗してしまった。それゆえに、終わりの日、天宙復帰の理想の前に立った我々もその神様の理想と同行せねばならない。

163 知られざる苦労を、先生が分かってくれなければ、神様が分かってくださる。

164 今まで神様は眼鏡をかけて眺めていらした。御自分の子女を眼鏡をかけて見つめていらした神様がいかにかわいそうか。我々がその眼鏡を外してあげなければならない。

165 神様は人間を試練の中において打つが、これは悪を断ち切って、私の心を神様の心と一つとなるようにさせ、私の心情を神の心情と一つになるようにする基準にまで到達させるためである。

166 神様は公平であり、また愛である。いくら悪者だとしても、三度以上はその心を通じて行く道を導いてくださる。

167 神様の愛は互いに和合するところに現れる。復帰摂理の目的も、和合されない被造世界に和合され得る中心を立てて神様の愛の範囲を広め、凝固した恨みを晴らそうとなさるのである。

168 歴史上において最高の哀れみと口惜しさ、怒りの路程を歩まれた方が神様である。宗教はこのような哀れな神様を解放しようとするのであり、このような神様を父として侍って、絶海の孤島においてその島でできない物を植えてでも侍りたい心情があってこそ道人であるといえる。

169 先生は妄想的でも、空想的な先生でもない。実質的な先生である。掘っていけばいくほど心が縮こまってしまいそうな悲しい心情の埋もれているのが先生である。

170 真なる神様の子女たちは、祖先の歴史的な過ちに哀痛の心を抱く者である。

171 ノアは荒れ地のような世に初めて神様が錨を下ろすことのできる基点であったが、ノア自身はそれを知らなかった。
  アブラハムもモーセもやはり同じであった。我々の祖先たちは神様が尋ねてこられたこのような深刻なみ旨を知らなかったので常に失敗してきた。イスラエル民族も、イエス様はメシヤとして尋ねてこられたが、それを知らなかったがゆえに再蕩減路程を歩むようになったのである。

172 神様はその時を知って、その時機に合わせるため努力するという心情をもった人が現れて、神様の摂理の基点となってくれることを願っているのに、そのような人がいない。それでこの地上は神様から見ると荒れ地と同じようである。

173 我々は我々の立場を離れ、神様の立場になって考えてみよう。復帰の土台と人材が必要なのに、それがなされていないために、いかに切なく歯がゆい思いがするだろうか。

174 復帰歴史は、まず一つが収拾されて全体に摂理されていく。

175 父子の間の心情は革命を起こすことができない。それは神様もなすことができない。神様が父子の因縁を教えてくださるのが最後の目的である。世界を統一することのできる武器は父子の因縁である。

176 キリスト教は父を教えてあげようとしたが、明確に教えられなかった。

177 歴史のすべてはなくなっても、残らなければならないのは父と子である。あなたは私の骨の骨であり、肉の肉であるといえる子女をもつことが何よりも神様が一番願うことである。

178 イエス様の三十年準備期間は涙、三年の公生涯は汗、三日の復活期間は血を流す期間。

179 復帰歴史は象徴歴史、形象歴史、実体歴史の順になしてきたし、この一段階を上げるたびごとに神様は大きな革命を覚悟なさる。象徴歴史で数千名犠牲にさせても、形象歴史を引き継げる一人の人が貴く大切である。

180 あなたが必要なときに会う先生として考えるな。

181 神様の摂理の方向と個人や国家の方向が一致すれば、その個人や国家は栄える。

182 復帰摂理歴史は母子協助から始まる。しかし母子協助がある前に夫婦の協助がなければならないし、夫婦の協助がある前に父娘の協助がなければならない。

183 創造も一から始まったので再創造も一から始まる。ゆえに世の終わりには、今までの歴史的な因縁は全部分裂して分かれ、個人主義の思想が到来するのである。そうして、初めて新しい一つの世界をなすことができ  る。

184 復活節は過去を回想するのではなく、復活する未来を想像して覚悟をより高める記念日とならねばならない。心情復活の日宣布(一九六〇年四月十七日)
実体復活の日宣布(一九六一年四月十七日)

185 統一教会は死なずに休みなく発展するだろう。

186 時が貴重である。春に種を蒔かなければならないのに、秋蒔けば冬が過ぎるまでの苦痛を受けねばならない。

187 神様が真に私に願うことを見つけなさい! これがなければ、目的地なく航海する船と同じである。この願われることを見つけ、歴史の祖先たちがどういうとき失敗したかを知って、私は失敗すまいという決心をもって進まなければならない。

188 先生は今まで針先に立ったのと同じような、そのような霊的雰囲気の中で過ごしてきた。

189 各種の味がなければならないのと同じように、人も各種の人が必要である。辛い味、甘い味も度が過ぎれば嫌だが、そのどんな味も適当なときには素晴らしいものである。統一教会はこのようなものを中心として統  一しようとするのである。

190 復帰摂理の目的は、和合され得ない被造世界に和合し得る一存在を立て、愛の範囲を広め、個人、家庭、国家、世界にあるもつれを宇宙的に解こうとするところにある。

191 本性の心を取り戻すためには、世俗的な私を捨てて、天の前に不足な心で懺悔する柔和で謙遜な自我を見いださなければならない。

192 イエス様は、神様の栄光を一身に受けて、神様の代身として来られたが、自分の栄光のための努力はせず、堕落人間に、その栄光と希望のみ旨を現すために三十三年間努力されたのである。

193 勝敗の決定の場は現在にある。

194 祖先が立てておいた道を後孫が後退させるとき、蕩減が来るのである。ゆえに、祖先たちがもっていた以上の目的をもたねばならない。

195 なくてはならない群れになりなさい。

196 カナンに入って良い暮らしをするのも重要ではあるが、カナンの地にいる怨讐に勝利して恨みを解くことがより重要である。

197 すべての人は、自分の行動と自分の生命と自分の心情とに責任をもってくれる人を探し求めている。

198 神様が、歴史的な公売場に皆さんを連れていって公売に出そうとするとき、皆さんはどれくらいの価値になるだろうか。

199 涙が先にある場においては復帰の土台は明るい。

200 人間には一代の恨みしかないが、神様の恨みは歴史的な恨みであり、怨讐は歴史的な怨讐である。

201 たとえ足に穴があいたとしても、よろめく足になったとしても、行かなければならないのが皆さんである。

202 神様と私の心が一つになることが第一の対象であり、私の心と私の体が一つになることが第二の対象であり、神様と子女が一つになることが第三の対象である。

203 我々は善の主体とならねばならない。そうするためには、犠牲奉仕しなければならない。

204 廃墟になった家を収拾して再起しようとする主人がいた場合、それは何年でできるだろうか。一つの家庭でさえそうであるのに、いわんや一国家が、傾いた運勢を正すとすればたやすいことではない。

205 三千里(韓国全土)山河には統一教会の血と汗と涙がにじんでいる。

206 平安な立場において生ずるような蕩減というものはない。

207 先生ほどかわいそうな者はいない。心の置き場所がない。

208 我々が行く道は、父母を失ってしまった息子の行かねばならないような道である。ゆえに、墓前でするように心行くまで泣き、決意をしよう。

209 我々は、民族が育つことのできる温床になろう。

210 復帰していく原理は教えてあげることができない。それゆえ、自分が尋ね求めていかなければならない。

211 腐った木々を切り捨て、残った根をもって新しい歴史を開拓しようとするのが、統一教会の先生である。

212 愛したくても、愛されたくても、思いどおりにできずに行かれたイエス様の恨みを再臨主が晴らさなければならない。

213 目的の主人になり得る人がいなければならない。

214 霊的な流れと社会的な流れが一つになれば、世界に平和がもたらされる。

215 運動選手がスタートしてゴールラインに立てなければどれほどの恥であろうか。

216 過程で満足せず、未来に向かって走らなければならない。

217 現実を見て働くのではなく、歴史を見て後孫に及ぼすために働かなければならない。

218 世界的な運勢を開いておいてから死ななければならない。

219 復帰の心情と因縁で神様を父母とし、真なる子女の立場において、天と地と人間を身代わりした誓いをしなければならない。

220 宇宙の根本は「父母と私」である。

221 神様は十字架の道を直くする者を訪ねてこられる。

222 一片丹心で最後の峠を越え、勝利的主管者になろう。

223 サタンが口をあけ、サタン自らが敗北したことを告白する時まで、我々は闘わねばならない。

224 復活という名詞は、喜びを前提としてのみ成立する。

225 メシヤは歴史を正しく回す中心者として来られた方である。

226 救援はメシヤと共に行くのである。心においても心情においても生活においても不可分の関係になればなされる。

227 復帰の道は、実に恨みの多い道である。

228 皆さんは、実体復活を通して栄光復活まで行って初めて神様の前に出ることができる。

229 南北を指している羅針盤の方向を反対方向に巻き返そうとすれば、それよりもっと大きな強い力が必要であるように、堕落の世界を巻き返すためには、より大きな力がなければならない。

230 宗教は下層から上っていき、世界史は上流階級から下層階級へと下ってくるのである。

231 私は、残された歴史の因縁を相続し、背負っているということを固く心に刻み込んでおかなければならない。

232 皆さんが今残す歴史は、千秋万代にわたって追慕する後孫たちに残す理想世界の材料となる。

233 我々は悲しい歴史を相続したとしても、後孫の前には、希望の歴史を渡してあげるために努力する私たちとならなければならない。

234 絶対者の本質を中心として出発された方がメシヤである。

235 私のすべての恨みを苦痛と悲しみとを一つの矢の力に総結集して、怨讐サタンの胸に打ち込むという信念をもたねばならない。

236 荒野に生きている人は自分の人格的な尊重や体面を論ずることができない。我々は今荒野にいる。

237 責任を果たせなかった先祖が果たして先祖といえるか。アダム、エバの墓があったらどうなっていただろうか。子供たちに墓を踏まれないようにしなさい。

238 時を知ろう! 時が来てから見れば、その時は、既に過ぎているのである。

239 民主世界は共産世界より一段階進んでいるが、宗教人たちは、神様と共に生きる世界においても一段階進んでいなければならない。

240 神様は今も叫んでおられる、「人類の代わりに、神の代わりに闘う勇士はいないか」と。

241 他人に与えようと作戦を立てる者は、かえって与えられるものである。

242 人類始祖は、堕落しなかった心的基準をもって神様に侍っていても堕落したのに、我々がどうして人の力だけで救援されようか。

243 復帰原理を通して、残してくれたものと援助したものとを比較しなければならない。

244 神様のために忠誠を尽くすことを誓ったならば、彼は、たとえ今日生きている人であってもこの時代のみの人ではなく、歴史的な存在であり、彼がなすべきことは歴史的な使命である。

245 神様の内容を発表して、共産主義者までも泣かすことができれば、その力は共産主義をも克服して余りある。

246 メシヤとは、自体が信仰の目的体であり、希望の目的体であり、愛の目的体であり、または全人類の信仰の結実体であり、希望の結実体であり、愛の結実体である。

247 悲惨な世界で後退する人は、悲惨の向こうにある幸福を勝ち取ることはできない。

248 全世界のキリスト教徒が勝利すれば、来られるメシヤは終末史的な悲痛とは関係がなくなる。

249 世界の人類はアダム一人を復帰するための資料なのである。したがって六千年の歴史はアダムの復帰歴史であるといえる。しかしその目的を達成するためには死線を越えなければならない。

250 教団的な十字架の道は神が共にいて役事をすることができるが、民族的な十字架の道は神の協助なくして行かねばならない。そして教会が内的霊界となって外的な世界を救わなければならない。

251 み旨をなすときまでは食べても罪であり、着ても罪であり、寝ても罪である。いわんや働かなかったらどれほどの罪であろうか。

252 苦しく、悲しく、寂しく、悔しく、恨めしいことを喜んで堂々と受け止めることのできる信念と意志が必要である。

253 先生は綿入れのパジ、チョゴリ(服)がびしょぬれになるまで祈ったことがどれぐらいあるか知れないし、刀を握って誓ったのが何度あるか知れないし、死の峠を心に誓ったのが何千何万回あったか知れない。

254 ヤコブがヤボク川ですもうを取るときには、いかに深刻であったろうか。天使は一代の心情で対したのに、ヤコブは千年の心情で対したために勝利することができたのである。

255 蕩減条件は秒を刻む一瞬間であり、過程は長いが、完成のときは瞬間であり、完成したというその時から、人はどのように行くかが問題になる。

256 一日は八万六千四百秒である。この時間の中でみ旨を守り抜くために動員されたと自覚する人がいるか。その中の一秒でも私が責任をもつと思わなければならない。

257 敗者の結果を体験してみなさい。敗者になって感じる内容を今から内的に感じつつ進もう。敗者の嘆きがいかに悲惨であるかを出発の時に感じて進まない人には、勝利の栄光はない。

258 完全復帰されるためには神の同情、真の父母の同情、兄弟たちの同情を一時に一カ所において受けられなければならない。それによってのみ心情的な統一的三位基台がなされる

259 ほかの教祖は堕落した血統を受けたまま選ばれたのであり、イエス様は蕩減が晴れて、堕落と関係ない血統をもって生まれたのである。

260 戦いの命令は大統領がするが、終わったときの収拾は部隊長がするのである。

261 真なる父、夫、兄、息子、真なる母、妻、姉、娘、この八数の基準が真になされなかったのが恨みである。

262 イエス様の十字架は悲惨なものであった。しかし、神様はこれを誇りとして立たしめようとしたために復活の権限が生じ、万民の生きる道となった。それ以上のものを誇れればより広く発展する。

263 イスラエルは四千年間メシヤが来るという自信があったが、我々は今日自分の国に来られると自信をもつ国となっているだろうか。否である。この地に(メシヤのための)国家的な基盤がないためである。

264 神様は、
  ①人間を子女として愛することができなかった。
  ②その子女を聖婚させてあげることができなかった。
  ③そのような一つの家庭を愛することができなかった。
  これを復帰するのである。

265 メシヤ一人を探し求めるのにも無限な歴史的な苦労があった。その神様において、家庭、氏族を立てていくこと以上に喜ばしいことはない。

266 蕩減条件に順調な道はない。

267 歴史を抱き、宇宙を抱き、涙を流し、汗を流し、血を流さなければならない。

268 西洋の先進国家においては復帰を実感するのが難しい。しかし、韓国は歴史と境遇がこれを実感させた。

269 死を恐れては成功することはできない。怨讐に対し復讐せずに祝福を祈ってあげれば、そこに残れる道がある。

270 第一次七年路程は個人の伝統を立てることであり、第二次七年路程は家庭の伝統を立てなければならない。

271 神様は目標を達成するために、仕事をしている中において条件を立てて延長することができるが、人間は一生という一つの限界圏の中でそれを達成しなければならない。ゆえに、行けば行くほど忙しさを感じなければならない。

272 統一教会に入って荷をほどいて置くのでなく、荷を換えて負うのである。私が荷を重く背負えば背負うほどそれは万民のためである。ゆえに、神様もその人を通して万民に祝福を分け与えなければならない。その時、私は祝福の基となる。

273 キリスト教徒は「イエス様を信じて天国に行こう」と信じているが、統一信徒は統一教会を信じて世界を救わねばならない。そうして世界がかえって「あなたが必要です」と言って統一信徒を引っ張ってくれれば、その時になってやっとついていこうとするのである。

274 神様が全体の動機になって成してしまうと、そこには蕩減がついてくるようになる。

275 復帰歴史を相続し受け継ぐためには、霊界に行ってすべてのことを勝利したという基準を立てなければならない。来たり給う主は霊的な勝利の実であり、肉的な勝利の出発者である。

276 堕落した血統圏内に生まれたゆえ、完全に自己否定しなさい。そうすることによって初めて、完全なる復活が得られる。

277 復帰の歴史は一番嫌なところから出発しなければならない。

278 統一教会は宗教を中心とした生きた神の思想をもった社会をつくろうとするのである。このみ旨が遅れれば遅れるほど地獄に行く人の数が莫大になる。それゆえにできるだけ復帰の年限(期限)を短縮したいものである。

279 戦争の起こる動機は男、女、私、君がいるためだ。夫婦、兄弟に戦いはある。しかし父母の心には敵がない。神様は父母である。ゆえに神様の本質は愛である。

280 皆様は歴史的な実であり、時代的な中心であり、未来的な祖先である。

281 神の国に入籍しようとすれば、神様の愛を受けることのできる人でなければならない。言い換えれば、蕩減の道と責任分担を果たして、原理的な条件を完全に備えていなければならない。

282 神様は判事の立場であり、サタンは検事、イエス様は弁護士の立場である。したがって判事は被告を弁護することができず、ただ検事と弁護士の言葉を比較検討して判断を下すのである。ゆえに神様が人間を悪から救い出したい心情は計り知れないが、人間に対し弁護することができないため人間をただでは無罪にできない。ゆえにひたすら蕩減の道を行かねばならない。そのため神様も人間がサタンの讒訴条件に引っかかればどうすることもできない。

283 サタンの条件に引っかからない人は、神様から完全であるという認定を受けることができる。六千年間、男子を先に立てて復帰摂理をなしても恨みが晴れなかった。これからは女子が先立って神の恨みを晴らしてあげなければならない。

284 十字架によってキリスト教が生まれたのではなく、復活したゆえにキリスト教が現れたのである。

285 統一教会において食口という名称が使われるようになったのは、イエス様が父母、兄弟をもって共に愛することができなかった恨みを晴らすためである。

286 神様が願う前線は、世界に向かう道を模索する道において、世界の前線をかけて闘う道であるために、後ろを振り向いて、ついてくる者たちを心配することができない。

287 復帰の進路はあなたがやることも私がやることであり、私がやることはもちろん私がやることであると言って、互いが責任をもちたいという思いを中心として開拓される。

288 怨讐の間であるけれど心情的因縁を残す、そのような人になるときは歴史をもとがえして会うことができ、再び生きることができる。

289 蕩減復帰したのちにも、責任分担は残っている。

290 二千年の歴史を二十年で蕩減しようとするのが三次の七年路程である。

291 歴史は軸を中心として回っている。一つの軸は神様がもち、もう一つの軸は人間がもつ。














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指導者

祝福家庭と理想天国

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指導者


292 指導者は復帰の目的をなす期間を短縮させて導く者である。大きいことをしようとすれば大きく信ずることを知り、大きく譲ることを知り、大きく飛び越えることを知らなければならない。

293 偉大な指導者はお金が一銭もなくても、素晴らしいことを成し遂げる根性と天下を抱くことのできる無限大の心を所有した者である。

294 指導者は誰よりも苦労しよう、祭物になろう、哀れな事情の主人公となろうという心持ちと、実践が伴わなければならない。

295 不変の恩師の立場、不変の父母の立場、そして神様の前に不変の忠臣となって、指導者となり得る。

296 指導者は涙なしでは指導することができない。

297 押し迫ってくる民族の苦難と試練を知って、ここに備えることのできる苦痛を与え、試練を与えて鍛錬させる者が真なる指導者である。

298 指導者の不足を補いはぐくんであげなさい。指導者を批判する者はカインの王である。指導者の欠点を包み、責任をもとうとする者は、いつの日かアベルの立場に立つようになる。

299 従っている人たちが願わないところにおいて命令する指導者は滅びる。

300 指導者は利用物である。しかし絶対に滅びない。神様のため三千万の利用物となってごらんなさい。そうしたら三千万は私の掌の中にいるだろう。

301 歴史的な指導者となるためには、歴史と時代の難事にぶつかっても押し出すことのできる者とならねばならない。そしてどんな不利な事件も良く利用することを知る者とならねばならない。英雄というのは自分の敵を友人にすることができる人である。

302 たくさん泣かなければ、多くを泣かすことができない。

303 他人を支配しようと思う者はまず自分自ら支配を受けてごらんなさい。

304 荒野時代を恐れる者はイスラエルではなく、滅びて、倒れてしまってはげたかのえじきになる者である。

305 今までは消耗戦であった。ゆえに自体内において力が抜けたことは事実である。しかし、神様を基準として三年間耐えて進んでごらんなさい。天的な基盤が築かれるようになっている。

306 イスラエル民族の出エジプトからの全路程を今日世界的に越えていっている。今日世界的な荒野が民主世界であり、カナンの地が韓国となるであろう。

307 韓国は世界主義を立てるための訓練場である。

308 苦難を受けて踏みにじられても、ここに不変の民族性をもって天的主導権の一日を慕おう。韓国はむち打たれる場合には神様にすがって打たれなければならない。

309 先生は誰よりも私の家族を愛した人であった。にもかかわらず家族の前には復帰に関する原理のみ言を語ってあげることができなかった。中心が決定されるためには取りあえず四方性が整わなければならないことを知っているからである。復帰摂理の原則を見てみなさい。どこまでも外部から内部へと訪ねてくるではないか。まず他人と世界を自分の家族のように感じ、真実に通ずることができなければならない。

310 皆さんが心配する以前に、中心はそれより気を配ったがゆえに、中心の前では言うことがないだろう。そして皆さんの生命の問題に対しても、中心ほど考えた人はいない。

311 一番信じ難い層の人(二十代から三十代)を一番信じて摂理されねばならない神様の心情を慰めなければならない。

312 創造は一つの目的と一つの動機から始まった。ゆえに散った世界の再編成も一つの動機のもとに再び集まることによって始まる。

313 神様は、天宙的な大きな幸福を与えようとなさるのに、人間は目先の微々たる幸福のみ求めているので、与えようとしていた大きな恵みがかえって大きな災いとして我々に与えられる。

314 地上に住んでいる数多くの人間たちは、この時間、自分も知らずに、より良いものを探し求め彷徨しているのが事実である。地上に住んでいる人間がそうであるように、地上に対している天も同じである。

315 先生は今日まで食口たちに対して悪なる心を抱いたことがなかった。倒れれば世話をして葬式をやってあげたい心情である。このように他人を大切にして愛してあげる立場で真心を尽くせば悪なる人の心も転換してくる。

316 先生は内的な基準から外的な基準へと向かうのであり、皆さんは外的な基準から内的な基準へと訪ねてくるのである。ゆえに先生と皆さんが復帰の一点で会って夜通しで事情を分かち合うそのような誠をもたなければならない。

317 先生は歴史的な悲しみを払いのけてきたので、掘り下げていけば神様にまで悲しみが連結され、これを持ち出すとき、この民族と世界人類が痛哭せざるを得ないのである。

318 神学、哲学を研究する専門家よりも神様の心情を研究する専門家が歴史と世界を支配するだろう。神様の心情をアダムの堕落以後四千年ぶりに知ったのがイエス様であり、神様がアダムを失ったのち、四千年ぶりに探し求めた実体であった。しかし、今日ではイエス様が神様の心情を理解するほど、イエス様の心情を理解する聖徒がいないのが嘆かわしい。我々は聞いても見ても行うことが難しい。神様が無言の苦労を六千年間もしてこられたその心情はいかばかりであろうか。

319 統一教会は自由天地から始まったのではなく、最低の立場、監獄から出発したことを思いなさい。

320 国がなくては入籍することはできない。主権は神の主権を代行する場である。

321 神様が最後にこの地上でなさねばならないみ旨があるがゆえに、我々はこの地上で滅びる立場におかれても滅びずに残されてきたのである。

322 ヨセフがエジプトに訪ねてきた十一人の兄弟を許すことができたのは、自分がいない間、それでも父母を養った兄弟たちであることを思えば、許さざるを得なかったのである。それと同じように、我々に反対してきた既成教団を祝福せざるを得ないのは、それでも統一教会が現れる以前に神様に侍ってきた基準があるからである。

323 身体の目、耳、鼻、口などはみな、生まれる前にこの世にあるすべてのことを知って生まれたのである。しかし、人間自身がすべてを知り得ようか。それらすべてを知った存在は人間以上の全知なる存在であらざるを得ない。
  その存在が神様である。

324 木が大きくなればなるほど根は地下に深く入っていく。根の浅い木は枯れるか、あるいは風が強いとき、引き抜かれてしまうだろう。指導者とは根のような者である。

325 勝利的主管者となりなさい。勝利的主管者となるためには、信仰の分野と愛の分野で勝利者であることが認められなければならない。

326 指導者は天運に合わせて行かなければならない。天運を左右する主人公が神様である。

327 責任者になろうとすれば、
  ①立つべき立場を整えて環境を主管しなければならない。
  ②み旨の目的に向かっていく立場において先頭に立たねばならない。
  ③数においては負けても、全体を思うことにおいては勝たねばならない。
  ④食べる前にも眠る前にも、彼らを思い祈ってあげなければならない。
  ⑤彼らが私のためにいるのではなく、私が彼らのためにいると思わねばならない。
  ⑥神様が与えてくださったものの上に私がプラスさせようという心がなければならない。

328 イエス様が復活なさったのちに弟子たちを訪ねられたのは、彼らと立てた誓いを彼らは裏切っても、天は裏切ることができなかったので訪ねていったのである。誓いが果たされるまで責任者は責任を放棄することが  できない。

329 荒野時代のイスラエル民族はモーセを批判し、族長を批判し、責任をもった者を批判したので滅亡した。この群れをモーセが再び押し出し、打たねばならなかった。そのまま放っておけば死ぬので、刀を取ってでも  押し出さねばならなかったのである。

330 み言だけではいけない。汗を流す人が人を動かす。

331 聖人は神様を紹介して天の道を植えつけるために苦労する者である。

332 人を嫌う人は指導者になり得ない。

333 環境に引っ張られていくのではなく、私が環境を引っ張っていかなければならない。

334 自分自身を一度振り返ってみよ。私は後退しているのか、それとも前進しているのか。

335 先生は永遠に現役であると思う。私が八十の老客となったとしても、あなた方に引っ張られていくのではなく、杖をついても堂々とみ旨の旗手となって先頭に立つことを神様の前に誓う先生である。

336 指導者とは一刀両断する勇断の性格をもっていなければならない。彼は大きいときには泰山(注:高く大きい山)も見透かしてみなければならないし、また小さいときは髪の毛一本でもふいて調べるほどでなければ  ならないし、また厳しいときには自分の骨肉も顧みないで、それでいて慈愛を施す場合には虫も踏み殺せな  い人とならねばならない。

337 大きな恵みを食いつぶさないで、小さな恵みを育てることを知らねばならない。

338 天と地の前に威信と体面をもてる面目を整えたか。

339 千万人が喜んで用いることのできる材料となりなさい。

340 来なければ来るようにしなければならない。

341 小さい地域一つにも責任をもてない人が、どうして天と地に責任をもつことができようか。

342 敗残兵は再び精鋭部隊には立たせられない。

343 指導者は涙が涸れてはならない。

344 針になることができなければ、せめて糸にでもなろう。

345 真の主人になろうとすれば、
  第一に神中心の所有観念が確立されなければならない、
  第二は責任観念が強くなければならない、
  第三は他人のものではなく、私のもので祭祀を神様の前に捧げなければならない。

346 どうせ生きるなら素晴らしく生き、素晴らしく闘い、素晴らしく生を終えよう。

347 神様は二人の中の一人が必要である。第一は指導者が呼んで相談できる人であり、第二は指導者が命令できる人である。

348 引っ張られていく人とならず、歴史的に公的責任をもっていた数多くの人たちを呼び起こす動因となり、引っ張る人となりなさい。

349 蕩減水に引っ張られて出される排泄物とならず、実って残る実体となりなさい。

350 接待を受けても常習化されてはならない。常にそのあとには涙で祈らなければならない。

351 我々指導者は、神様のために気が狂ったと言える伝統を立てなければならない。

352 指導者は、日が暮れて夜が早く来ることが怨讐であるように感じるほどに、昼夜働かなければならない。

353 どんなに困っても食口の世話になるな。与えることができないのが悔しいという立場をとりなさい。

354 怨讐を打つ前にまず愛しなさい。

355 根は静かに深く張っていくように、先生は現れない。

356 高く貴重な立場にいればいるほど責任を感じ、未来に希望をつなぎなさい。

357 先駆者が成功すれば従う者も勝利するのである。

358 先生の青春時代を考えてみなさい。死を踏み越えてこそ生命の価値を感じることができる。

359 祭司長は祭物の代わりであるために所有観念があってはならない。

360 知ってみると多くの面において「あ! 足りないな」と言う、これが良い賜である。

361 指導者とは、人生の行くべき正道を発見した人である。そして六千年の苦労のふろしき包みを負わせてあげて、一日のうちにやり遂げても残りがありますと言って命令することのできる人である。

362 モーセは豪華なパロ宮中で生活をしたが、「これが何だ!」と言って民族をもっと思ったゆえに民族的な指導者になり得た。

363 百人がやることをやらねばならないし、百人がやる仕事の先頭に立たねばならない。

364 国の主権者は心のようで、民は体のようでなければならない。国は全体を統治する主体性が、個人は個体を統治する主体性がなければならない。

365 歴史を無視する人は現実の責任者になり得ない。現実の責任者になりたい人は歴史の相続者となりなさい。イエス様は死によって過去を相続し復活によって未来を収拾した。

366 聖日礼拝三日前から準備しながら、その日、万民のため祝福を与えるよう精誠を尽くさねばならない。

367 責任者は幸福なのではなく、極めて悲惨なのである。この世とぶつかっていって新しい歴史的伝統を立てなければならない。

368 開拓者は常に先頭にいるゆえに寂しいのである。二人で行く道でないからである。資料を収集してそれをつくっていくのである。ゆえに開拓者には歴史がなく因縁がない。

369 責任者として知らねばならないことは子供の心である。

370 母親が病になっても子供に乳を与えなければならないのと同様に、指導者には疲れとか自分の事情というのはあり得ない。
371 人に接するとき笑顔で対しなさい。それは自然な防御となるのである。

372 指導者につまずいて古い食口が出てこなければ、伝道の道は完全にふさがれる。

373 希望的な人は常に建設的だ。


実 践


374 正しいと思われたら、無条件に着手し、果敢に推し進めていけ。必ず神様が共に働くことであろう。

375 善なることなら損害を受ける覚悟でやってみなさい。絶対に滅びることはない。

376 自分が計画することは何でも果たすことができる。しかし、三つの峠を越えることのできる決死的な努力が必要なのである。

377 我々には武器がない。しかし、赤い血、赤い汗、赤い涙を砲弾として突撃戦を開始しよう。

378 同一なる実力をもっても勝つ秘訣はたくさん動くことである。

379 天は命令してくれることを待つ心情の上に運行なさる。

380 神様は人間が願いもせず、思いもしないことに対しては干渉なさらない。

381 我々は理念に燃えているし、神様の理念に向かっているし、天運が共にありさえすれば世界を動かすことは問題ではない。

382 一寸の土地、一人の人でも神側に探し出して渡そう。

383 目標がはっきりしなければ、生活が明確になり得ない。

384 私が汗を流す時、父の汗が混じっていることを感じなければならないし、私が涙を流す時、父の涙が混じっていることを感じなければならないし、私が血を流す時、父の胸の血が締めつけられるのを感じなければならない。この心さえもって神様をつかんでいれば絶対に滅びない。

385 あなたの若い血が尽きる前にこの民族を立てて神様の前に捧げることを祈りなさい。年を取って戦うよりは、若くして忠臣、孝子女となるように願いなさい。

386 引っ張られて歩む群れとなってはいけない。

387 み旨を知ったなら自らみ旨を中心としての目的を与えてくださいと言って、自らの道を開拓していかなければならない。

388 時の転換点における勝負は時間と努力が問題である。そしてこれを動かしていくためには勇気が必要である。強くて大胆な勇気は信念から生ずるのであり、信念は無責任な立場ではなり得ない。

389 自動的で、自進的で、自成的な者となろう。

390 関心あることを果たし得なかったら大きいことはできない。謎のようなことを多くやってごらんなさい。

391 士気を失うな。自信のないところに前進があるはずがない。自ら士気を呼び起こして、ことをなしていきなさい。神様は意欲がないところには協助なさらない。

392 我々は、原子爆弾を爆発させるボタンのごとく、人類の良心を泣かせるボタンとなろう。

393 やることがないとき、生命は死んでしまう。使命がないときには生命の権利を主張する資格がない。

394 一から全体までサタンより以上にやらなければならない。このような生活に徹しよう。そうしたら感動して従ってくるようになる。

395 十分な準備が必要である。イエス様も三十年の準備期間があった。十分な準備が整えば実践時代は短く、闘争期はより短くなるだろう。

396 考えないところに物事は起こらない。活動を前進させようとすれば自分を特殊化させよう。そしてそのことのため眠ることも、娯楽も、愛も、見物もすべて忘れて全力を尽くしてごらんなさい。

397 大きいことをなすためには冒険が必要である。そうするためにはまず体を鍛練しなさい。いくら貧しい食事をしたとしても、朝運動をしなさい。

398 神様は戦うときは戦わない者を除いて、戦う者を選んで用いる。生命を懸けてみ旨のため、先頭に立ちなさい。神様はいつでも命令できる人を探している。

399 自信のないところに完成はあり得ない。

400 良心が落ち着かない所なら、早くその場から去りなさい。その場にそのままいれば滅びてしまう。まず、み旨と一致した目的点を立てて、自分の良心点と結びつけ、正確な一つの方向を決めて、一直線上で努力し、  誠を尽くすことが重要である。

401 天と地のすべての精力を一つにかき集めることのできる秘法を研究しなさい。同級の同僚が同じことをするとき、自分が一番できないと思うときには、現在自分がやっている仕事のほかに、任せてもらえる仕事が何  であるかを知って、誠を尽くすのが神様の前に近づく秘訣である。

402 きょう何かの覚悟と決心があれば、これをきょうのものとして立てていかずに、未来のものとして立てていきなさい。

403 軍隊は征服して勝利するためにある。あなた方はすべての障壁を越えいく天の軍隊である。善をもって環境を広めていきなさい。これが我々の目的である。

404 あなたはサタン世界に監禁された捕虜である。サタンの包囲網を破って新しい道を開きなさい。そうしなければ死ぬ。

405 戦争に負けた者が味わわなければならないつらい結果を考えてみなさい。どうして我々が戦いに負けられようか。

406 これまで歩んできた苦難と涙の道は蕩減のためのもの、これからは勝利のための栄光の涙を流そう。蕩減の歴史の中で涙、汗、血を流したが今は復帰のための本物の涙、汗、血を流してこの民族、この地を神に捧げ  る貴い仕事をなそう。

407 我々は神様のための闘いをしよう。絶対に滅びない。イスラエル民族が荒野で倒れたのは、勝利しなければならないという信念がなかったためである。

408 時間を主管できる者は大物である。時間はすべてをもってきてくれたり、すべてを奪い去っていったりする。時間を主管することのできる人は人生を支配することのできる者である。

409 愚かな者とは、時を知りながらも実践しない者である。

410 今までの我々の苦労はいくらやってもサタンのため。神様が心配なさる復帰の苦労はしたけれど、神様が安心して喜ぶことのできる苦労はしなかった。すなわち蕩減的苦労はしたが、復帰的苦労はしなかった。

411 悪は今まで善をだまして悪にしてしまったが、善は悪をだまして善にできなかった。これが今日のキリスト教がみ旨を果敢になし得なかった理由かもしれない。

412 自分自らを刺激することができなければならない。

413 生きている者は発展するのが当然だ。生きた死体となってはいけない。

414 正しい考えを多くし、実践を多くなせば、人より先に進むようになる。考えてばかりいて滅びた人は多いが、実践をしていて滅びた人はいない。

415 楽しみを感じながら仕事をしなさい。

416 闘志力以上の財産はない。

417 食物をおいしく食べる方法を考えなさい。そして眠りを征服せよ。歴史的な人物たちは一日に三時間しか休まなかった。

418 良心を中心として準備し、実践しなければならない。我々の動きは良心が爆発して我々の側にならざるを得ない立場をつくっておこうとするのである。

419 人よりも多く考え、多く準備し、多く動きなさい。そして自分が行ったり来たりした所はプラスにはしたとしても、絶対にマイナスにはしないという信念をもって進まねばならない。

420 涙と血と汗が我々の武器である。

421 イエス様は神様のみ旨と理念を残した。皆さんも父のみ旨と理念を残さなければならない。そうするためには「見せてあげて誇り得る実績」がなければならない。

422 神様に対し話す言葉のある人は恵みを受けるであろう。

423 真実を連結させるのにおいては、人のものを借りてはならない。自分のものでなければならない。自分の実績でなければ後孫や後代を導くことができない。

424 内容だけもっていてはいけない。誰もが認め得る実績をもちなさい。

425 我々は神様と人類と民族と子女の前に少なくとも三つは分け与えることのできる、自慢し誇れるものをもたねばならない。

426 いかなる者もなし得なかったことを我々はなしておこう。

427 神様の命令があるとき、これに応じなければ神様は再び同じ命令はなさらない。

428 運命を怖がる人は運命に食われてしまう。しかしその運命にぶつかっていく人には運命が道を避けてくれるのである。

429 我々の生活においての勝利は眠ること、食べること、着ることを少なくし、この三つの上に努力を加えれば勝利することができるのである。人が眠るとき眠らずに、人が遊ぶとき遊ばずに、人が食べるとき食べずに働かなければならない。最後の決勝戦に向かって走るのに休む間がない。

430 神様の命令を受けるときから、神様の時は始まるのである。

431 時は知らないうちに尋ねてきて、知らない間に去っていく。我々がみ言を受けるその日から私の最後の日は始まり、願いの日は始まるのである。

432 春の日ざしは冷たい冬の雪の下でも準備をしている。今の時代を心配するより未来を心配すべきではないか。

433 批判する人は革命的なことを行えない。

434 小さな希望をもって大きな準備をしなさい。

435 イエス様は天宙的な純粋性と高潔性と敵愾心と和動心をもってこられた方である。我々もこのような理念をもってイエス様の代わりに実践しない限り、イエス様によって負わされた荷は永遠に下ろすことはできない。

436 これまでは父と子とみ霊の名で働いてきた。「私の名で働くときを与えてください」と言わなければならない。

437 信念が立たなければ実践にならない。

438 信念でもって制圧しなさい。忠誠でもって凌駕しなさい。行動でもって強力でありなさい。

439 三千万のために信念をもちなさい。忠誠を尽くしなさい。闘いなさい。

440 自分を信じて進め! ひたすら一人で行くという立場で結晶体とならなければならない。

441 見せてあげて自慢することのできる固い決心でもって前進しなければならない。

442 「この地よ! 今はこうであるが、何年後には見ていなさい!」という気概が必要である。

443 み旨と目的がいくら大事なものであっても、現せなかったら何の価値があろうか。

444 み言は実践によって語らなければならない。

445 神様は後退しなかったし、失敗しなかった。百年に一歩でも前進した。

446 闘おうとすれば自信と万全の準備がなければならない。

447 すべての創造の行為が歴史的発展をするためには、始めは考え、次には決定したことを準備し、最後には実践しなければならない。

448 いかなる環境に入っていくとしても、私の生涯において屈しなければ、最後まで残る群れとなる。

449 先生が「ダイヤモンド」の鉱脈を発見すればそれでよいのであって、掘ってくださいとまで言うのか。

450 自分の精力を一二〇パーセント注ぎなさい。そうして失敗するとすればそれは失敗したのではなく必ず協働者が現れる。

451 自信をもつためには思想が必要であり、思想は過去、現在、未来の歴史に通じなければならない。

452 最後の決勝戦に向かって走るので、休む間がない。

453 現実に重要な信念をもって実践する人が未来の主人公になる。

454 常に最後の場は自らが越えなければならない。

455 祈る前に実践することが祈ることより貴重な場合がある。

456 一生の間を区分し計画を立てていかなければならない。一生は短い。

457 現在の自分の位置を第二段階のための基地にしなければならない。無駄に過ごす人が多い。

458 犠牲は発展の原動力である。真なるものは弁明が必要ない。

459 「過去にも勝ったのでまた勝つことができる」という確信と信念だけが、最後の山頂を突破できる。

460 誓いを立てずに実践しなさい。

461 道の世界での約束は絶対に守らなければならない。

462 希望というのは現実的なものではない。未来的な夢であるが、その希望が現実的なものとして現れたときには、より多くの価値の喜びをもつことができる。

463 農夫が種を蒔くとき、元になる種まで蒔くことは愚かなようであるが、これは賢明なことである。それは現実を願ってやるのではなく、未来のより大きな収穫のためである。

464 神様の戦法は奇襲するのではなく、ゆっくりと正規の戦法を使うのである。もし激戦を始めたときには戦いに勝利したとしても全部使うことはできない。虜にした獲物には完全なものがない。しかし、ゆっくり戦うなら虜にした獲物もみな使えるのである。

465 戦いで始まった歴史は戦いでもって解決することができない。ただ和解する道しかない。

466 強く、また雄々しくあれとは、ほかの誰にでもなく自分に対して言うのである。

467 栄光の褒賞をもって多くの民に褒められることよりも、焦る思いでもって何代かの後孫の時代のために苦労する人がいればその人が成功する者である。

468 一心は父母の心情をたどることによってなり、統一は不幸な条件を共にすることによりなる。

469 追われる神様に侍って、反対に勝利の進軍をなしていく勇士とならなければならない。

470 天地を主管される万王の王であられる神様が記憶することのできる、追憶の日をつくれるなら、それが最高である。

471 後退することも前進することも、自分自身が母体である。後退する人は人も嫌うが神様も嫌うのである。


伝統・公義・責任感


一 伝 統


472 万民がひざまずいて痛哭しながら仰ぎ見ることのできる、生きた歴史の伝統を成し遂げよう。

473 先生の伝統が皆さんをつくり、皆さんの伝統が民族を構成しなければならない。伝統はこの民族が見習うことができ、世界万民が従っていける伝統でなければならない。

474 後孫たちが見て痛哭し得る資料をもちなさい。それが誇りとなる。

475 善のための闘争を生活目標としよう。そして闘争の過程を通して、勝利の栄光を仰ぎ見つつ進もう。個人的な勝利をしたといって喜んでいてはならない。個人を越え家庭、氏族、民族、世界を越えていく第二の闘争  に備える者とならねばならない。

476 あなた方は上にいなさい。我々は底から築き上げて登っていくから。しかし、我々が築いた誠の塔のほうがもっと高ければ、言うまでもなく踏みつけられるだろう。

477 天倫の方向を知らねばならない。あなたの指向する目的が神様の願いと時代と歴史の目的の前に一致しなければ、無慈悲に清算してしまいなさい。

478 花盛りの青春が過ぎ去る前に、天地が公認することのできる忠孝の立て札を立てておこう。

479 我々は歴史の運勢を引っ張っていく機関車となろう。

480 血を吐いて倒れるその立場でも決して背信者の後孫になるな。

481 お金に売られて歩いてはいけない。思想的な伝統を立てておいて人を復帰したのちには物質がついてくるようになっている。大韓民国を金でもって救うつもりか。我々の思想と伝統をもって救おう。

482 天と地が生じたのち、我々のみがもっているたった一つしかない誇りをもとう。千秋万代に公認されて誇ることができる伝統を立てよう。

483 先生は伝統と基準が立つようになるまでにお金がもうかるのが心配である。苦労するあなたたちを見るのを好むからだろうか。否、食べて、眠って、着るのを超越しなければ地獄までも復帰することができないからである。

484 根が深ければ大木が育つ。

485 天の願いと事情と心情に一致しなければならない。その内容、方向、目的観に一致しなければ破壊されてしまう。黒ずんだ出来物はかいて取り除くように、相対的な内容を整えず、原因と結びつくことのできる力を伴わなければ必ず破壊されてしまう。

486 我々は幸福の種を蒔こうと思わず、苦労の種を蒔かねばならない。

487 千年の大計を見つめて、今日を耐え忍んでいく祖先としての伝統を立てなさい。新しく入ってくる食口たちは先輩たちが歩んだ家庭的、氏族的な十字架の路程の伝統を引き継ぎ、残された国家的な蕩減路程を歩もうと自ら進んで出なければならない。

488 皆さんは死ぬ時、どこで死ぬのですか、どの分野において条件を立てて死ぬつもりですか。

489 すべてを捧げて喜びなさい。空いている所は必ず満ちるようになっている。これが創造原理である。あなたがすべてを捧げたその空所に何が来るのか考えてみたことがあるか。イエス様は三十三年の苦労と難しい環  境の中で体を捧げた空所によって、世界を生かす救いの基準を立てた。

490 知恵のある人は、飢え死にする立場においても、一枚のパンを自分が食べずに同じ立場にいる人に与えて、千年を食べていける報償をつくる人である。

491 神様の願いの扉を開く者は誰か。神様はその人を探しておられる。語る言葉があり、見せてあげるものがあり、残してあげるものがある者を。

492 涙はすべての腐敗と障壁をも崩す。そして真実な汗と涙と血とが結びつくとき、復帰摂理は早くなされるであろう。

493 「私は父の仕事を代行するにおいて僕の中の僕(神様が記憶なさる代表的な僕)です。養子の中の養子(代表的な養子)です。子女の中の子女(代表的な子女)です。統一教会の中の篤信者(代表的な信者)です」  という覚悟と生活感情をもちなさい。

494 人類の永遠なる勝利は、あなたの勝利がすなわち私の勝利であると言えるようにならなければならない。

495 見せてあげるには最高の苦労の基準を立てなさい。

496 伝統的な思想を受け継がなければならない。神様の内情を相続せずには伝統が相続されない。

497 統一教会は福地建設が主流思想である。このためには伝統が必要である。本郷を愛することを知らない人は国を愛することをも知らないのが常である。

498 伝統は風化作用によって変化されない。天孫的立場が絶対に確立されなければならない。伝統を忘却しないようにしよう。良心に立脚した伝統を確立しなければならない。

499 主流思想の伝統を立てなさい。その根源は父母の愛である。

500 伝統は過程を連結させるのには必要であるが、結果を結ぶのには必要でない。

501 皆様は統一教会を代表した展示品のような人とならなければならない。

502 歴史を伝統的に保存することのできる人には自由が与えられる。いつのときでも、その国の伝統を保存することのできる国民にならねばならない。

503 流れには、いくら大河であっても主流があり、先頭の流れが必ずある。

504 今日の私は過去の延長であり、現在の集約体であり、未来の出発体である。

505 恩師の生まれた日を記念するよりも、師のもつ生きた伝統をもたなければならない。


二 公 義


506 恵みは公的であるため、恵みを受けようとすれば、公的な祭物となって恵みを受ける条件を立てなければならない。公的な仕事に責任をもって立ち向かうことがいかに尊く貴重なことか。

507 公的な立場を守る父母が親不孝の子女をもつはずがない。

508 先生は公的に売られていく人である。

509 終わりの日には万民と万国を平等に(平準化)して再出発するようになさる。

510 自分には損害になっても公的なことにプラスさせなさい。公的なことは天的な恵みの土台となるものである。恵みは行くべき道をすべて歩み、戦いを終えたのちに訪れる。

511 善、幸福、義、恵みなどは公的なものであるので、これをもつためには公的過程を経なければならない。個人は過ぎていっても、公的な恵みは民族や人類のために残してあげなければならない。

512 公的本位に一貫して生きていく人が一番強く、恐ろしく、知恵ある人である。

513 公的なことというのは、歴史性、未来性を帯びていることを意味する。すなわち、歴史が保証し、時代と未来を自証できるものである。

514 今日、自分自ら公的な立場に立ったのではない。因縁は遠い我々の祖先たちの願い、環境、神様の公的利益のため、その位置をつかんだと思いなさい。ゆえに歴史的に因縁づけられたすべての霊人たちは我々の味方である。その公的使命を知って、公的信念をもって蒔かれた忠誠よりももっと祭物的な立場に立ちさえすれば、歴史的なすべての公的因縁が今日、現実の中に再現される。

515 先生は情の王者である。しかし公道、公的な立場に立てば無情であり、また厳格である。誰でも公的な面においては公憤の心情をもたねばならない。

516 私的な事情が通じるのもよいが、いったんみ旨を中心としては、私的な因縁は切らねばならない。「天情を立てるため、人情を切る先生となってください」と祈るのが真に先生を慰めることである。

517 歴史始まって以来、人類は公的な使命を完遂できなかったので、この人たちに代わって歴史的な公的使命者だという信念をもって戦いなさい。

518 公的な私を認識してみなさい。公的なものは上下、前後、左右の中央に位置しているために責任ある立場だ。その位置が変われば全体が崩れる。良心が正しいというのは、天と地とを結ぶ直線上にいるという意味である。ゆえに公的な存在は自分の思いによって動いてはいけない。

519 忠孝の公的道理は人も認める。その道へと行きなさい。

520 語る言葉をもった人、なすべきことがある人として何かを残して死ね。

521 国を愛することのできない者は決して神様を愛することができない。十度屈服すれば十度勝つようになる。世界がすべて反対すれば世界の恵みをすべて奪ってくるだろう。

522 公的な立場は祭物の立場である。祭物は存在意識と所有観念を超越しなければならない。

523 天が任せた責任に対しマイナスにはせず、与えられた恩賜としてプラスにしなさい。食口の前に心情的な負債を負うな。

524 公的な私の立場を固守しよう。

525 公的な権威をもつためには、
  ①信仰を与えてください(どんなことでもみ旨のためならやれる)、
  ②愛を与えてください(神様がいまだかつてやったことのない愛を)、
  ③知恵を与えてください。

526 先生は個人でありながら個人ではない。全体を代行し、歴史の代身者たる先生であるから、皆さんが一度引っかかれば手続きが複雑である。先生が公席上で大声をあげるのも皆さんが憎くてそうするのではなく、天法に引っかかれば、天と地を懸けて公席上で宣布しなければ蕩減とならないからである。それゆえ、公席上で宣布するときはもう既に先生が責任を負うのである。

527 神様が一番悲しい時は、祝福を与えようとしても眠っているために、彼らを目覚めさせて与えなければならない時である。

528 公的な品物を勝手に持っていったり、乱暴に扱ったりしてはいけない。その物を間違って扱えばその物によって自分が積んだ公的なものが全部崩れてしまう。

529 恵みを受ける前に、まず永遠に恵みを奪われない条件、サタンの讒訴を防ぐ条件をまず立てておかねばならない。恵みを保つための一番安全な方法はいつも公的立場において苦労することである。

530 公的というのは、歴史が保証し、時代が保証し、未来が自証し得る歴史性と時代性と未来性を帯びているのである。

531 公的な存在は私のものであると言うことができず、全体のものであるから最高のものである。

532 個人的な事情をもって全体の事情であるかのように適用する群れになってはいけない。

533 公的な義憤心に燃えなさい。

534 百人の人が自分を中心として思うなら、公的な思いが百以上なければならない。

535 み旨を先に立てて私的なすべてを超越して動けば神様が協助する。体の願うままに動いてはならない。

536 より大きな中心に相対的基準を立てることが公的問題である。

537 公的なことのために生きる人は、神様(天)に生命線がある者である。

538 誓いの条件は大きい。生命を懸けて誓い立ち上がるとき、神様は対さざるを得ない。


三 責任感


539 先生がこの道を歩みだしたとき、足を伸ばして楽に床に就いたことがない。なぜならば責任を果たし得なかった場合、どうして安らかに休むことができようか。それと同時に初めに父を大事にし、愛するという心情基準をサタンに奪われないために必死の闘いを続けてきた。我々に任せられた責任が重いと思うな。我々が五パーセントの責任分担をなすためにも神様は九五パーセント以上の苦労を既になさったということを知らねばならない。

540 責任に対して追及されるのが一番恐ろしいことである。

541 アベルは誤ったことに対する責任の追及は先に受けなければならないし、良くやったことは全体に帰さなければならない。

542 責任をもって仕事をするときは、自分の力量が量られる瞬間であり、審判を受ける期間であると思いなさい。

543 行動をなしたら責任をもちなさい。責任を死と取り替えることのできる者であってこそ天国に行ける。

544 責任をすべて果たせなければ、死後、その後孫たちが墓を掘り返すであろう。神様の栄光の園にサタンの前に倒れた者を置いておけるか。

545 勝利は戦わずにあり得ない。死ぬか生きるかという闘いの末に勝利は決定されるのである。

546 外的な環境に主管され、あちらこちらにさまよう人を、どうして大きな仕事を前にし、呼んで相談することができようか。現実の悲哀を逃避すれば既にその立場から押し出されるのである。

547 我々に与えられた使命が大きいほど、その使命に比例し試練と闘争も大きいだろう。試練と闘争を恐れる者には使命を授けることができない。

548 小さいことに目を奪われれば大きいことはなせない。

549 先生の命令を受けて自分の位置を離れる者は落第だ。神様は我々が担当しきれないほどの大きな責任を追及している。ゆえに我々は常に足りなさを感じ大きな力を与えてくださることを祈らなければならない。

550 責任をもった者はかわいそうな人である。時間は休みなく過ぎ去っていくので、心は不安で常に追われる生活が責任者の生活である。

551 先生がいると思うな。いなくてもいるときと同じ基準を保って、より発展することのできる心をもって歩まねばならない。

552 責任上から見るとき、神様のことはみ子が責任をもち、み子のことは聖霊が責任をもち、聖霊のことは聖徒たちが責任をもたねばならない。なぜかというとみ旨とは全体のみ旨であるから全体が責任を負わなければならないからである。

553 勝利の栄光はその戦闘の総司令官から始まるのであるが、共に参加した全戦友にもその栄光は平等に分配される。

554 六千年の歴史を蕩減しようとするからには、すべての分野においてなくてはならない第一人者が必要である。ゆえにいかなる分野においても、自分がなくてはならない責任分野を見つけなさい。そのような責任をもった者なら、神様は憎らしくともかわいくとも捨てることができない。その理由は、その人のみが担当し得るその分野の使命をほかの誰もできないからである。

555 習って、食べて、着て、地位に就くのは私のこととして終わるのではなく、み旨の要求があるということを知らねばならない。私がその要求の内容を果たせなければそれが私を讒訴する日が来るだろう。

556 死の場にまで自分を投げ出すことができるものでなければ、天の道を一代で越えることができない。

557 神様は私の父でいらっしゃるので父のことはすなわち私のことである。私がみ旨のために受ける悲しみと苦痛を、私が私のことで受ける悲しみと苦痛として実感し得ない限り、まだ私は真の子女の立場に立つことができないのである。

558 先生はいくら疲れたときでもやらなければならない責任を思えば、そのすべての疲れが一時に吹っ飛んでしまう。

559 古い歴史をもつのも重要であるが、瞬間を大切に過ごすのはなお貴重である。眠って食べるその一瞬間が歴史的な運命が決定されるその瞬間であることを忘れるな。一瞬間の失敗が一生かかって積み上げた功績を食  いつぶしてしまうことがある。

560 この世界とか人間は一度生まれて去ることができるが、み旨は一度去ってしまえば再び訪れないので、このみ旨をなすために責任をもって常に誠を尽くす生活をしなければならない。

561 善の世界を失ったのも人間であり、罪の種を蒔いたのも人間であるため、我々人間が責任をもって人類の罪を脱ぐことをしなければならないし、善の世界を探し出すこともしなければならない。

562 この瞬間、皆様はあすを開拓するか否かの厳粛な基点にいるのである。責任をもつことを恐れなさい。

563 皆様一人一人を呼んだのは神様の六千年のみ旨の代わりとして立てるためであるから、皆様は皆様一個人を通して、サタンの墓の中であえいでいる多くの民を解放すべき大きな責任を感じなければならない。

564 神様の前で「父よ、このみ旨のために私に責任を与えてください」と言える皆さんとならなければならない。

565 我々は絶対者の代わりに、真の父母の代わりに、真の主人の代わりに責任をもち、勝利の勇士とならなければならない。

566 責任をもった者は、そのみ旨に徹しなければならない。

567 仕事が小さいといっておろそかにしてはならない。目は小さいけれど一番重要なものではないか。命令してくれることを願う者となろう。

568 祖先たちが残していった歴史的な足跡を蕩減し、殉教者、先烈たちが残していった血の足跡に責任をもたねばならない。

569 山野に広がっている草木さえも、ある期間が過ぎれば各々創造の目的に対して、生長することによって報いてくれている。いわんや人間はどうなのか。

570 我々に加重された責任は、我々の一代において、悲しみをなくし、喜びをどれほど立て得るかということである。

571 栄光は神様の愛なくしてはなされない。自分の責任をなさずに神様の栄光を願ったのが堕落である。忘れてはならないことは、栄光よりも責任を完遂しなければならないことである。栄光は自分から始まるものではない。

572 名だけ先生の代わりにならずに、責任、心情において先生の代わりにならなければならない。

573 一度責任をもてば死ぬか生きるかである。

574 革新も反省も、私の生活の中で実践せねばならない。

575 神様は愚かではない。神様の前に弁明しようと思うな。神様は約束したことに対し損害があろうとも弁明しようとはしない。その責任をもたねばならない。














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苦労・祭物・従順

祝福家庭と理想天国

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苦労・祭物・従順


一 苦 労


576 楽な立場においては誰もが歩むことができる。一番困難なときにいかに歩むかという哲学が確立しているか。

577 苦労することはその地位、位置を確保することである。

578 苦労して植えておいた我々の根は、それ以上苦労する者でなければ引き出すことができない。

579 苦労の度合いは、繁栄の度合いに比例する。死なずに、くたびれずに、打たれても七代を掛けておいてその後孫に祝福を与えなさい。

580 先生は三十歳を過ぎるまでおなかが空かなかった日はない。神様に誓った基準がなされていないのにどうして安らかに食べて眠られようか。

581 歴史上に現れた全預言者、聖賢の苦労より、もっと苦労しなければ神様の前に立ち得る自分の位置を失いやすい。

582 我々は楽をするために入ったのではない。神様の代理としてむち打たれ、地獄と苦痛を共に引き受け勝利せねばならない。すなわち、神様の十字架を相続するために集った群れである。

583 天国は地獄の苦痛から勝利した者が行く所である。

584 当然受けるべきことを受けるのではなく、忍び難きことを受ける者は必ず勝利する時が来る。

585 苦生↓固生↓高生

586 萬苦之勝者
  榮高之王者

587 苦労した様子を表すな。そして隠れた宝を多く積みなさい。

588 神様の理念で全体を収拾しようとすれば高い位置ではできない。平均以下に低くならなければならない。

589 苦痛を克服しながら祝福を受ける地、約束された地を慕いながらその世界に向かって走っていきたいと、はしゃぐ群れとなろう。闘いの中で環境に押され倒れる群れとならずに、前進する心をもって残れる群れとな  らねばならない。

590 統一教会は理念の百科事典であるという事実が重大なのではなく、苦労の百科事典であるという事実が重大なのである。

591 あなたが食べられなくても、食べられない者のために稼いで与えなさい。骨髄までも響くであろう。誠を尽くして築いた塔がたやすく崩れることはない。(注:韓国の諺)それは神様も奪うことができず、サタンも奪うことができないだろう。

592 多く苦労をし、多く涙を流し、悔しいことを多く受ければ受けるほど、天のものとして残されるであろう。

593 現在あなた方を苦労させるのは永遠なる世界において永遠に残すことのできる財産として与えてくださるためである。

594 神様を迎え入れて涙しなさい。自分のためには、絶対に涙を流すな。

595 悲惨な事情があったら他人のことと思うな。そしてうれしいことがあっても自分だけのものと思うな。

596 苦難を受けても落ち着きなさい。窮地におかれても慌ててはいけない。

597 分かってくれることを望むな。苦労を密室に貯蔵しておきなさい。見えないことを見て喜びなさい。

598 心の基準がみ旨の基準と異なるとき、苦痛となって、生活基準に理念的な相克が起こるようになる。ゆえに宗教の道を通して犠牲になりながら耐える道を築いてきた。それゆえに善を築いてくるすべての人たちは、耐えることなくして善なる目的を達成した者は一人もいない。

599 おなかが空いてもみ旨を果たそうとする切ない心で空腹までも忘れて歩みなさい。我々が苦労するのは他人には苦労させないようにするための資料をつくってあげるためである。

600 堕落人間は、自分の存在目的のために心配せず、存在するために必要な要件のために気を配っている。しかし神様は公的な目的のために衣食住を顧みないで苦労する人に必ず干渉してくださる。

601 苦労だけが神とサタン、両方を屈服させることができる。

602 サタン世界で苦労をすれば災いであるが、神様の世界で苦労をすれば恵みである。

603 残れる道は苦労しかない。

604 我々が苦労した地を見て、万民が痛哭するその日を迎えてから死ぬという信念をもって戦いなさい。苦労しなさい。死なずにくたびれずに。

605 神様が我々に言い表せない苦労をさせるのは、復帰の道が難しいということを痛感させ、再び堕落を繰り返さないようにさせるためである。

606 イエス様は十字架上で「父よ、我が思いではなく、み意のままになさしめ給え」といった心情をもって苦労なさったし、神様はその心情を御覧になって、栄光の座まで導かれたので、イエス様は私と同じ心情をもって動く者はすべて私と同じ立場に立ててくださいと祈っていらっしゃる。

607 先生は監獄に入っていくとき、苦労をしに行くと思うより、実力を現せるのは今からだという信念をもって入っていった。

608 天地が共にこの人はみ旨のために苦労したと認め、したがって、同情することのできる基盤を築き上げなければならない。そうしてこそ、初めて神もサタンも、いかなることをやっても讒訴することができなくなるのである。

609 我々の道は神様のため、天宙と全人類のために歩む道であるため、その苦難の期間は人類歴史の全体の期間に匹敵する。

610 自分が苦労の道にいるときは泣いたり騒いだりするな。生きておられる神様は話を伝えなくとも、私がおかれている立場をあまりにもよく御存じだからである。それなのに私がまた涙したりして悲しく祈れば、神様はより悲しむ。二重の十字架を背負うようになるだろう。神様は今日まで、より大きな歴史的な悲しみと苦痛を知ってくれる者もなく、一人で受けてこられた。その父をまず慰めなさい。このような者は神様が抱えて痛哭なさるだろう。

611 皆さんの苦労は先生がよく知っている。しかし父母が百の孝行をしたとして、子女に五十ぐらいだけ孝行しなさいと言う父母がどこにいようか。父母より百の中の一つでも余計にやってくれることを願うのが父母の心である。

612 先生が神様の前に百の孝行をしたとすれば、皆さんは九十九までの苦労をしたとしても、神様の前に堂々と自慢することのできない先生であることを皆さんは知らねばならない。

613 み旨のため既に捧げた者たちが集ったところであるために、一つのみ旨を中心として一つとなって和動でき  ないはずがない。悲しく困難な立場から一つにならなければならない。

614 おとなしく打たれ、おとなしく踏まれ、おとなしく刺されても、完全に死なずに生き残る者となりなさい。

615 サタンは昼夜闘っているが、皆さんも昼夜闘っているのか。

616 我々によって天地の間に新しい涙を流せるようにしよう。

617 サタンも行けないという道を行かなければならない。サタンを追い払うためである。

618 神様が覚え得る苦労だけをしなさい。苦労することによって重みのある人になる。

619 讒訴を免れさせようとして苦労をさせるのである。

620 これからは喜びの涙を流していかなければならない。

621 宇宙的な堕落によって、心は希望を指向し肉身は現実を指向するゆえ、人間の苦痛の生活は不可避なのである。

622 統一教会の食口は打たれて大きくなろう。大きくなるには正しくまっすぐに大きくなろう。

623 仮に皆さんの苦労に対して給料を払うとしよう。その金は誰がくれるのか。そのようにすれば皆さんは神様の雇われ者でしかない。

624 足りない自分を自慢することができないので苦労をさせようとしたのである。サタンが讒訴できない立場におくためである。

625 苦難を避けていく者とならずに迎えていく者が神様の道を行く者である。

626 血、汗、涙がある限り我々の資本は残っている。統一教会の財産は血と汗と涙しかない。

627 迫害する人がいなければ、蕩減することができない。

628 先生は苦労の百科事典である。

629 苦労こそが神様の審判とサタンの讒訴を越えることができる。

630 勝利者の気持ちは闘ったことのない人は感ずることができない。

631 宇宙よりもっと大きな悲しみを知って神様を呼ぶ人がいるとすれば、神様はその人を「私の息子よ、娘よ」と呼ばれるであろう。

632 負わされている重荷と負債を解き放つために、サタンと結ばれている、兄弟と父子の因縁を切らなければならない。

633 犠牲はすなわち闘いである。闘いは統一をさせるための方便であり方法である。

634 神様は「あなたは私のものである」という基準に到達するまで苦労させる。

635 大きい人であればあるほど、絶えず進むことによってこそ一つの責任をもつ人となる。神様の心の中でアブラハムが忠臣と決まっていたのではない。その時に信仰を立てたのは、アブラハム一人だけであったので約束的に祝福をされたが、最終的な祝福をしたのではなかった。

636 イエスの苦労は三十三年の苦労であり、モーセの苦労は百二十年の苦労であるが、一人の方の苦労は天と地が屈服するものであり、サタンも痛哭するものであり、したがって世界はその一人の方のものとなるであろ  う。これが神様の苦労なのである。

637 聖徒たちが苦労をして、霊人たちが泣き人々が泣くようになってこそ人類に光明が戻ってくるのである。

638 皆様が受ける苦労を材料として、サタンに一言も言わせず屈服させようとするのが先生の作戦である。

639 現実の苦しみを無視し、未来の幸福のために絶えず進むところに発展は訪れる。

640 先生が初めて使命を受けていで立つとき、細胞が泣くほどの峠を越えなければと思った。

641 最低の場においてその環境をすべて忘れて、そこに満足し得る者がいれば幸福な人である。

642 先生は皆さんを神様の息子、娘にしようとするし、皆さんもまた神様の息子、娘にならなければならないゆえ、そこには必然的に産みの苦しみすなわち苦労をしなければならない。つくろうとする側が勝たなければならない。皆さんは無条件に負けなければならない。そのあとには神様の息子、娘であるといえる。そのあとには神様の孝子孝女となり、烈男烈女となって神様の忠臣として、神様の創造理想の一面を担当しなければならない。

643 苦労をさせても、もっと苦労をしなければならないという思想の所有者であれば、この国を指導していくことができる。

644 蕩減解怨は涙から始まるのである。栄光なる場に出ることを遠慮し、恥ずかしい場において神様が覚えるようにならなければならない。

645 忠臣と烈女と孝子は平常時には現れない。難しい立場において現れるのである。苦労した結果がすぐ出ないと言って落胆するな。外的に戻ってくる。どれぐらい精誠を尽くしたかが問題である。

646 我々は歴史的な苦労を相続しなければならない。範囲が広くなればなるほど、内情的な心情にその歴史性が加担されているゆえにますます難しい。

647 「私はどうしてこのような姿になってしまったのか!」と嘆くな。それが歴史的に認定され保証される道であったかどうかが問題である。

648 苦労と曲折のない平坦な路程を歩んだ人の生活より、複雑で曲折の路程を歩んだ人の生活が、より深く広い味がある。

649 神様(天)以上に耐えた方もいないし、神様以上に苦労した方もいない。

650 苦い物を食べていて甘い物に接するときは、その甘さがほんの少しであっても実に刺激的である。

651 川の主流は、戻らずに川の筋から最も近い所を選んで先にぶつかって先に傷を負うものである。

652 試練と苦痛は私の怨讐ではなく、輝かしい価値を決定してくれる材料である。

653 み旨を中心として歩んできた険しい過去の道に対して絶対に後悔するな。それは私の財産である。険しい道の中においても険しい道を選ばなければならない。

654 神様の前の孝子は誰でもなれる。寂しく難しいことに責任もった人の道こそ孝子の行くべき道である。

655 開拓の道は冒険の道である。たった一つの武器があるとすれば、すなわち努力と闘志である。

656 開拓者が追求する道は現実を主とするのではなく、常に未来の価値の内容を追求しながら行く道である。ここにおいてのみ発展と希望が永続され得るのである。

657 苦労をするなと言うのにその人が苦労をするとき、それを制止する法はない。

658 悲しみの極点を越えたときに最高の喜びが来るのである。

659 蛇は脱皮しなければ大きくならない。脱皮するためには石垣の間を抜けなければならないのと同じように、罪悪の皮をかぶっている人間は、蕩減の路程を歩まずしては皮を脱ぐことができない。

660 蕩減は自分の愛する人を通してやってこそ善であるので、神様は聖徒たちを中心として蕩減させていくのである。

661 幸福の国を願うなら、不幸な国において犠牲になることを知らなければならない。

662 冬を克服することのできる生命力をもたない種は、新しい春と共に新しい希望の出発を見ることができない。

663 世の中で学ぼうとしても学ぶことのできないことを学ぶ所が監獄である。なぜ? 監獄の中には貴重でないものがないからである。あらゆるものが貴いことが分かる。

664 み旨がなされたあとに後悔する涙を流さないために、今涙を流し後悔する道を行くのである。深い谷を行かずしては高い山頂が現れない。

665 苦労のない恵みは流れてしまうのである。


二 祭 物


666 不平を言うな。蕩減は従順を通してなされていくのである。

667 自分が生まれつきもった天性よりも、もっと悔しい立場に下がれば(祭物的な立場)、神様が哀れに思い、またサタンも打つことができない。

668 「悪いものは私のもの、良いものはあなたのもの」、「悪いものは我々のもの、良いものは民族のもの」、このような精神があってこそ世界を復帰することができる。

669 蕩減路程は祭物の期間であるため、存在することは存在するが、存在意識をもってはならない期間である。

670 「私の力でやれることはすべてなしました」という基準を立てるのが一番重要である。

671 心情的な生活の前に、祭物的な生活の前に、誰よりも清い祭物になった方がイエス様である。

672 お互いに難しいこと、嫌いなことを奪い合うために争わなければならない。

673 祭物は事情を聞いてあげては祭物となり得ない。

674 栄光を受けたければ、心配の包みを責任もって引き受けなさい。

675 み旨に責任をもった者は、初めから楽をしたいと思うな。神様はサタンよりもっと大きい力で締めつけ、サタンが侵入できないように鍛錬なさる。

676 苦労とつらさが加われば加わるほど、苦難のむちは短縮される。

677 祭物となった私は祭物を受け取られる神様が喜び、祭物によって恩賜を受けた人たちが喜んだあとに喜ばねばならない。

678 朝の初めの気持ちが一日を決定する。ゆえに、朝最初の祭物として神様が喜ばれることを見るように努めなさい。

679 僕と養子と子女の立場で苦痛の過程を歩むことは自分自身の蕩減のため不可欠なことであり、父の仕事を代身した栄光の条件となるのである。

680 イエス様は純粋な祭物として過ごして他界なさった方である。純粋な祭物は他人が触れることなく、他人に見せることなく、清い初物を意味するもので、精神と心と思いを尽くすにおいて清いものとして捧げることのできる者とならねばならない。使い残した精神、使い残した心、使い残した思いをもって捧げるときには、決して神様の愛は体恤することができないだろう。

681 神様の胸を感動で締めつけるようにしなさい。神様が同情してくださる立場に立てばいつも解けていく。

682 皆さんが捧げる生命に未練が残っているか。神様の前に捧げる祭壇の祭物としては、微塵の傷があってもサタンが讒訴することだろう。

683 無条件に天の前に捧げ、み意のままに任せる心が必要である。神様は私の父であるので私がいなければならない所を一番よく知って、私が一番幸福になり、満足を感じ得る場所に私を導かれる。

684 死んでいた私を無償で生かしてくださったので、この生命は今、私のものではなく神様のもの、すなわちいかに死ねば神様が喜ばれるか、という心で栄光ある死に場所を訪ねていこうとしなければならない。

685 統一勇士は生活意識(生活観)を捨てなさい。ぶち当たるのがすなわち私の生活であると思いなさい。

686 再臨以後の時代は雌牛の時代である。雌牛は主人のため、生きている間全忠誠を捧げ、そして繁殖を尽くし、のみならず死んでも骨、皮、肉、捧げないところがない。

687 善なるみ旨を抱いて踏まれるなら、絶対に損害を出さない。いつ、どのようになされたかも知らないうちになされる。

688 神様は個人が祭物となるよりは、全体が祭物となることを願われる。祭物になろうとすれば、全体的な生活、行動、理念統一が必要である。

689 祭物は従順と屈服の象徴である。ゆえに祭物は、自己という所有観念がなく、死の前においても反抗することを知らないのが祭物である。

690 神様は私一人の個体を立てるために六千年間泣いてこられたがゆえに、み旨を探した我々食口たちは何の報酬もなしに六年以上七年の苦労をし、涙を流しながら奉仕しなければならない。先生が十六歳の時から出発して四十年間を標準としながら死を覚悟して出発した道がこの道である。

691 統一の理念の前に誰がステパノになれるか。楽な心をもたず栄光に会う前に苦難を探して担当しなさい。そこに神様が働いてくださり、同志が生まれるであろう。

692 無条件に神様の前に利用される身となってみなさい。利用されるぐらい神様の心情の中に入ってこそ恵みを奪ってくることができるのである。

693 十年で返すものを一年で返し、一生を通して返すものを十年で返すことができるような、むち打ちと暴風の中に押し込んでも「有り難く受けさせていただきます」と言える者を神は尋ねていらっしゃる。

694 国のために死ねば、国が復活する時、彼も復活することができるし、世界のために死ねば、世界が復活する時、彼も復活するであろう。険しい道であればあるほど神様が一番信じる人を送ってくださった。これが神様の愛する人がたくさん犠牲になった理由である。

695 条件的蕩減条件において、人間が小さな価値の蕩減条件をもって蕩減するときには、残りの足りない条件に対しては神様が責任をもっているという事実を知らねばならない。そして神様はその残りの条件を立てる場合において時間が必要であるから、その条件を神様がすべて準備なさるまではその蕩減は全うされず延長されてきた。

696 人間的な蕩減は物質的に蕩減することができる。時が成就する前に物質をまいて善なることをすれば良い。

697 世界のため蕩減を受ける者は、世界が受ける恵みと自分が受ける恵みを合わせたものを受けるようになる。

698 蕩減はぶつかって戦わずにはなされない。

699 先生は蕩減復帰の道を行くのであり、皆さんは原理の道を行くのである。

700 「打たれて奪ってきなさい」。良くやったのにサタンが三度打つようになれば、その時からは神様が手をつけてくださる。

701 我々は祭物である。まず受け取られる神と贖罪を受けた万民が喜び、その後祭物が喜ぶ。

702 祭物は平和な立場において捧げるのではなく、常に第一線において捧げるのが原則である。

703 創建は祭物なくしてはあり得ない。再建は在るものをもってなすが、創造はないところから出発する。

704 祭物は罪を犯した人の負債を清算するためのものであるために、与える立場なのである。

705 物質をもって祭物を捧げることが旧約時代を蕩減するのであり、肉身をもって犠牲となることが新約時代を蕩減するのであり、心情をもって涙でみ旨を支えていくことが成約時代を復帰するのである。

706 統一教会に入ってきたのは福を受けようとするためではなく、全部取り出して麹をつくって世界に分け与えるためである。


三 従 順


707 命令に従順でありなさい。たとえその命令が正しくなくても従順であってみなさい。そうしたら、その命令を守ることによってその権限を代行するようになる。

708 神様が個人的な基準で命令したのにその命令を不履行したら、そのような人をおいていかに家庭的な基準で祝福ができようか。

709 絶対従順、絶対服従する場合には、自然と対象の立場に立つようになって相応するようになる。ねたみ、しっとなどは相克の立場を造成する。

710 忠臣と奸臣は本来同級の人物に属する。ただ忠臣は王様のみ意に従順であるが、奸臣は自分を立てようとする。忠臣は常に直線上を歩み、する仕事も始めと終わりが同じである。

711 心情からわきいずる心の前に頭を下げて、私をしてそのような心を呼び起こし、その方とそのみ言の前に申し訳ない心をもとう。

712 神様は歴史的な従順な者を探しておられる。それゆえ、命令に従順な者と、より大きい命令に待機する者になろう。

713 上の人の命令に頭を下げるのは普通である。しかし、子供の命令にも頭を下げて、恥ずかしがることを知らねばならない。

714 服従するのは主体と一つになって主体の栄光に参与するためである。

715 今まで神様は勧告はなさったが命令はなさらなかった。今は命令する時が来た。しかしその命令を受ける範囲はごく制限されるだろう。

716 成敗を決定する最後の方法は忠誠のみである。

717 忠誠を尽くす者は神様が絶対にそのまま踏み越えていくことができない。

718 最後の問題は知識や階級が問題でなく、神様が与えた環境を愛し、時を大事にする誠が問題である。柳寛順(注:韓国の独立運動を叫んだ少女の名)を見なさい。自慢する何ものもない。しかし民族が忠誠を尽くせないそのときに忠誠を尽くし、忠誠を尽くすことのできない環境におかれても忠誠を尽くしたために、民族の前に忠誠の指標として現れたのではないか。

719 忠誠する時代が過ぎれば最後に成敗を分ける祭物を捧げる時が来る。今日までの復帰歴史を担当していた聖賢たちは忠誠時代に失敗したのではなく、祭物時代に失敗したのである。

720 真なる喜びと栄光は一番悲しみ、一番哀痛し、また一番苦しんでいた立場から芽生え出てきたというのが真理である。我々の民族は一番悲しみ、一番哀痛し、また一番苦しんできた民族である。ここに希望がある。

721 国家の上下が一つの目的をつかんで涙で交流すれば滅びることがないのに、いわんや神様の涙と人間の涙が交流すれば人間が滅ぶはずがあろうか。どうせ終わりの日には悲しみの涙であれ、喜びの涙であれ、涙を流すようになっている。あなたはどの涙を流すのか。

722 天は忠誠と真心を尽くす人にはそれ以上で対してくださる。

723 誠を尽くした敬礼を先生はむやみには受けない。私の誠がそれより低ければかえって私が打たれる。

724 真実でなければ歴史に残れない。偽りなく与えなさい。イスラエル民族はカナン七族を滅ぼすときまでモーセに絶対服従しなければならない。終わりの日の皆さんも主様が一国の主権を立てて、その主権を通じて他国を復帰なさるまで絶対に服従しなければならない。

725 銀行に貯金をしておいてそれを再び出すにも手続きが必要であり、ややこしい順序がある。いわんや、既に死んだ生命を再び見いだす永生路程は、どれほど複雑であろうか。その手続きをすべて知らないがゆえ、また難しいゆえ、従順の道理が一番貴重であり、賢明である。

726 神様の前では冒険と忠誠と従順の三つの種類の人がいなければならない。この三つの中のうちの一種類にも属さずしては天国に入れない。

727 従順は誰もができるし、できなければならないのであるが、服従は誰もができるのではなく、服従を通して蕩減されるのである。

728 神様に対して不平を言うな。その不平は解くことのできない罪過となる。

729 あることで讒訴を受けるようになるときは、讒訴を受けたよりも、もっと大きい蕩減的な誠を尽くしなさい。


審 判


730 審判の基準は法の道理を立てて見せてあげてから審判する。審判は力でもってやるのではなく、血と汗と涙で神様の愛をもってやる。

731 審判は人を打とうとするのではなく、怨讐を打とうとするのであり、万物を解放しようとするのであり、また人を解放しようとするものである。

732 個人の審判は、物質、家族、心情をいかに解決したかにかかっている。

733 神様の前に審判を恐れるな。あなたが審判の使命を引き受けて責任をもって進む神様の代身者となることを願う。

734 審判をしなかったら、一番怨讐である人の子供が我々の側に来る。これよりもっと大きい審判がどこにあろうか。

735 イエス様は理念が異なった国籍をもった方である。イエス様の理念、言語、行動と同一であれば私も国籍が同じくなる。イエス様を信じ、体で投入し、その愛を実践せねばならない。

736 この世を貫けるほどの恨みがあるとしても、神様と因縁を結べなければ一代で終わってしまう。

737 善人が悪人を打って、その悪人が善人になったあとは、自分を打ってくれた人に無限に感謝する。しかし悪人が打つ場合には最後まで敵の立場になる。

738 神様が敵だと宣言なさる前に、あなたがどうして口を開いて怨讐視できようか。

739 あなたは死亡世界を切る剣となりなさい。

740 審判は罪人たちを全部地獄に押し込めるのではない。敵とサタンまでも復帰しようとするのである。

741 善と悪、神様とサタンは、方向が一八〇度異なる相克の世界である。ゆえに罪悪の世界で一番嫌がり悪口を言う所に行ってみなさい。そこに神様と神様のみ旨があるだろう。そして終わりの日に審判を免れる道も、サタン世界で一番良いものを捨てて、一番嫌がるものを取る者となればよい。

742 死の立場におかれても敵のため祈れたイエス様はどんなにか痛快だったろう。(征服した立場から)

743 神様が立ててくださる以前には安心せず、カイン・アベルの峠を少なくとも七つ越えなければならないことを忘れるな。

744 どんなとき、どんな瞬間に神様は私を中心として最後の結びを結ぶことを願うか分からない。人によって決定的な峠を越える時間はみんな異なる。

745 統一教会に入教してから死ぬまでのものはすべて審判を受ける資料となる。

746 過去が今日の善に符合しなければ、無慈悲に審判することができなければならない。

747 統一教会は過去の歴史を清算して未来の新しい歴史を創造するところである。

748 より打たれる者は残るし、より打った者は滅びる。

749 終末は収穫する秋の季節と同じである。各教団には数多くの種類の穀物が自分なりの価値でもって実を結んでいる。しかし、いくらよく熟れた穀物だとしても、主人のかまを握った手によって切られ、収穫されない物は秋の鳥たちのえじきになるしかない。ゆえにキリスト教は現在の立場で分かれ放題に分かれていく。それは穀物が訪ねるべき収穫の倉庫を見つけなければならない時だからである。

750 神様が六千年摂理なさったものを、種類を分けて納める収穫期が終末である。ゆえに私という個体はどのような実を結ぼうとしているかが問題である。

751 終わりの日に神様とイエス様の審判がある前に、聖徒たちによる審判が先に来る(コリントⅠ六・三)。ゆえに聖徒の証が貴重であるので、私を証してくれる三人がなければならない。私を証してくれるものは、悲しみと苦痛と喜びをどの程度共に分かち合ったかどうかによって決められるのである。

752 創造時になかった審判をしようとするので神様はひとり子(イエス)から打ってその条件でもってサタンを打つ。そうすればサタンは讒訴できないのである。我々は神様の前に「イエス様を打ったように我々を打つことにより、サタンを打ってください」と祈らなければならない。そして霊界にいる霊人までもこれを見て、かえって地上の人間たちに対し慰めの心情が生まれるようにしたなら、霊人たちの悔しい恨みも解かれる。
  しかし神様は打ったあとは涙していることを知らねばならない。

753 原理の条件が讒訴しないように原理基準の上で生活しなさい。

754 許される者が許しを得て感謝するより、許されざる者が許されて感謝するのがもっと大きい。先生はすべてを全部復帰したあとにはサタンまでも許せる心情をもっている。

755 死ぬ時に後悔と未練を残すかどうかを心配しなさい。

756 宇宙的な善の種を蒔いて、再び結実の実体を探し出そうとする日が、我々信者たちの前に恐怖と苦痛の象徴として残されている審判の日である。

757 神様の怨恨、万物の怨恨、人類の怨恨までも皆さんが引き受け清算することができない以上は、末世において言うに言えないほどの恐怖と嘆きと怨恨の大審判を免れることはできない。

758 死ぬ時に後悔の条件を残さない皆さんとなるよう努力しなさい。

759 完全に至れば、過程にあるものを審判できる。

760 天理の公法の前にサタンを置いて審判しよう。

761 公的な世界観をもってこられたので創造主は審判をしなければならない。

762 私をして神様の心情を再び誘発させる中において審判が決定される。

763 統一教会の歴史は短いが、数千年経た歴史の内容を審判するのに不足がないようにならなければならない。

764 世界を救うために、世界の審判のその日を待ってくださいと言う我々にならなければならない。

765 何も知らずにみ旨の道を歩んだ人よりもっと優れた道を行かずには、審判のその日をつくることはできない。

766 審判をするとすれば統一教会を先に審判して、次にこの世を審判するのである。


天 国


767 天国は子女のような心情、夫婦のような心情、父母のような心情で因縁づけられた世界が、一つの家庭をなした社会である。

768 天国を探し求めていく秘訣は家庭を尋ね求めていくことである。父母に侍り、子女を連れて、ヨルダン川を渡って勝利の歌を歌おう。

769 今日まで天国に入ることを願った人は多かったが、天国を責任をもって建てようとする人はいなかった。我々は天国の理念をもって、食べたり着たり飲んだり、その何よりもその国を先に考えなければならない。

770 天国は家庭生活の拡大である。

771 天国は地獄を通過していく道。

772 天国は家庭復帰。すなわち、神様を中心とした夫婦をなして四位基台を復帰しなければ入ることができない。

773 韓国を神様の前に、世界を神様の前に返して、天におられる父を地上に迎え、共に住める天国をなさねばならない。

774 人を一番愛し、高め、大切にできる所が天国である。

775 理想社会は愛の理想が完成した世界であり、神様の愛の実体たちが情の完全なる充足の中で生きる美しい世界である。ゆえに理想社会に住める者たちの顔は、永遠なる光の中にあるがゆえに美しく、醜いものがない。
  内なる人は完成すればみな同じである。

776 一つになろう。世の中にいるすべての父母、兄弟、子女を自分の実の父母、兄弟、子女として思えるならば彼は天国の門の鍵をもった者である。

777 本然の世界は条件を越えた自由の世界である。どうせ訪ねていかなければならないし、訪ねてこなければならないし、互いに会わなければならない因縁がある。笑顔で訪ねよう。

778 相克性を避けて、相応性をなしていこう。本然の世界は相応の世界である。相応性が最適の生活方法である。

779 天国生活は相談し報告する生活である。

780 他人同士が集まっても兄弟以上に愛さずには天国に入れない。神様を愛するごとく人を愛さねばならない。

781 天国は心情の世界である。我々は天国に行くためにイエス様を信じるのではなく、地獄の門を解放するためにイエス様を信じなければならない。

782 天国に行くとしても、自分のために行かずに、六千年間子女を失って天の宝座をサタンの暗黒権力に囲まれたまま、悲しみと孤独と苦痛を受けてこられた神様を慰めるため、私が天国に行かなければならないという心情をもって行かなければならない。

783 今日、キリスト教信徒たちは天国に行くことを願うが、自分が天国の民となって義務を果たそうとは思わない。

784 一生の間、神様のみ旨のためにいかに生活したかによって、天国における彼の座が決定する。ゆえに、天国に行くか行かないかは自分自身がよく分かる。食べたり、寝たり、好いたり、嫌ったり、行ったり、来たりするのを何のためにしたかによって天国に行くか行けないかが決定される。

785 七カ国の人と因縁を結んだ生活をしてこそ天国に入れる。

786 家庭生活で、社会生活で、神様に侍る生活で、すなわち三つの面において、サタンから神様の子女であるという証拠を受けなければならない。そうしてこそ天国に入れる。

787 心情……侍義の中心
  事情……生活の中心
  希望……社会活動の中心

788 天国に行ける人よりも、天国を築ける人でなければならない。天国に行ける人は神様に頼ろうとする人であり、天国をなせる人は神様の頼りとなってあげようとする人である。

789 天国に行ける証明書は神様を愛することが御飯を食べることより、眠ることより、自分の子女を愛することより、それ以上にあったかどうかを見ればすぐ分かる。

790 神様は天国を建設するために、み言による真理復帰運動と生命による愛の復帰運動とを展開しておられるのである。

791 天国は人間のものであると同時に神様のものであるから、個人より宇宙に至るまで人間を通して天国の理念をこの地上に建設しない限り、神様のみ旨はなされないのである。

792 本然のエデンの園は神様が楽しまれる園であり、永遠なる生命の園であり、愛の園である。

793 完全な愛には距離がない。永遠なる世界を管理することのできる本質は愛である。

794 我々は天国を建設する材料とならなければならない。

795 理想世界は「ために生きる」世界である。

796 三千里(韓半島)山河に天国をつくっておいて「どうぞおいでください」と言える我々とならなければならない。

797 幸福は勝利的な心情の権限をもってこそ獲得することができる。

798 天国はあすからでなく、今の瞬間からである。

799 何ももっていなくても一番立派な人のように食べているということが幸福である。

800 相対的なものによって幸福を探そうとするな。自分を見いだすことがもっと重要なことである。

801 イエス様が「私の思いどおりではなく父のみ旨のとおりなさしめ給え」と言った孝子の基準を立てたあと、サタンに「あなたの前に屈服いたしました」と言われて天国に入ることができる。

802 天国は神様の愛を中心として一体となった夫婦と、その子女が共に入っていく所である。相対的な要件が符合されればされるほど幸福なのである。神様も一人では寂しいのである。

803 天国の内容を知っている人は多いけれど、天国に行ける人はそう多くはない。まず原理の条件が讒訴しない基準に立たねばならない。

804 生活をし、教育をして伝統を立てることによって天国に行ける。自分を中心としたみ旨であってはならない。

805 過去、現在、未来が完全に一致され得ること自体が理想である。

806 家庭的天国をなせなければ天国に入れない。全家庭を救える救世主と同じ立場に立たなければならない。

807 神様を中心としてすべてを分神殿とし、社会化させてこそ天国になる。個人から家庭、国家まで自由に往来できるところが天国である。

808 迫害時代に食口たちを愛していた心を平和な時代に維持できなければ、永遠なる天国生活はできない。

809 天国は家庭からである。相対から善なるものを見いだせない人は天国に入れない。

810 天国は悔い改めるところから始まる。歴史時代において身もだえしたノア、アブラハム、イエス以上の悲しみを自覚することが悔い改めることである。

811 善なる父母の真の愛を中心として、善なる子女と共に幸福に生きることのできる基台の上に家庭の幸福がつくられ、その上に氏族と民族と国家がなされたとき、初めて天国がつくられるのである。しかし今までの宗  教は、個人を追い求める宗教であった。

812 世界の人々が三代(過去、現在、未来)を経て自慢し得る存在とならなければ天国に入れない。

813 中心は人間ではなく神様であるゆえに、人間を中心とした理想世界は成就されない。

814 人間の頭を中心として理想世界がなされるのではなく、神様の愛を中心としてなされるのである。

815 天国は神様の愛が中心となっている所である。

816 み旨が動機とならなければならない。私が動機となっては天国は訪れない。

817 体と心が水平をなすとき、心の天国が成就されるのである。

818 愛の世界は上下を区別しない。

819 人を愛することが天国の起源である。

820 天国に行くために信じるのではない。天国をつくるために信じるのである。天国をつくる道は平坦な道ではなく犠牲の道である。

821 サタンに勝利しなければならない。我々は、サタンを神様の息子の立場に立って主管しなければならないので、サタンに勝利しなければ天国は成されない。

822 天国は愛の軌道に乗っていくのである。

823 人情と天情の合一点が幸福の出発点である。

824 良心は神様の最前線であり、天国の起源である。

825 天国に行く手続きは地においてなさなければならない。

826 見たい所は行きたい所であり、行きたい所はいたい所であり、いたい所は住みたい所である。

827 神様の心に記憶される人が地獄に行くだろうか。死してもみ旨をなそうとする人であればこそ天国に行ける。

828 個人の悲しみが全体世界の悲しみとして現れるときが理想世界である。














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二 み言・人格・心情について

祝福家庭と理想天国

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二 み言・人格・心情について


み 言


一 み 言


829 神様のみ言は、創造の価値として現れねばならない。ゆえに、神様のみ言を宣布したあと、聞かなければ審判を受けるようになる。

830 み言は万民のもの。すべてを与えなさい。

831 み言が財産である。

832 み言がみ言として残っていてはならない。そのみ言が実践されることによって、初めて発展があり、世界の完全伝道が可能となる。

833 公的なみ言は、語る人にも責任があるし、聞く人にも責任がある。

834 生命の問題は、生命によってのみ解決する。み言に生命があるので伝えるときには、生命の火花が飛ぶ感じで叫びなさい。

835 み言を語るとき、歴史的な因縁を想像しながら、宇宙性を帯びて語りなさい。汗を流しても天宙復帰の心情で復活の汗を流さねばならない。

836 み言を伝えるとき、真心でもって受けたので、真心でもって与えなさい。私の心情に天の心情を加えて与えなければならない。

837 先生が語るみ言はたやすく語るようであるが、これを語るために解体してみたり、合わせてみたり、実験してみたりして、間違いないという結論が出たので、自信をもって叫ぶのである。それゆえに統一教会のみ言は「そうであるだろう」ではなく「そうである」と自信をもって語れるのである。

838 床に就くとき原理を抱いて休み、起きるとき原理を中心として起きなさい。今皆さんは原理を知ったとしても、原理の活用法は研究しなかった。原理を活用する人は原理的生活をする人である。

839 み言を心と頭だけで知るのではなく、体で分かって行いなさい。我々は、み言で武装された実体、すなわち、み言の原子爆弾とならねばならない。それゆえ爆発すべき目的地に行って不発弾となってはならない。

840 原理をどれほど知ったかが問題でなく、どのぐらい実践したかが問題である。

841 神様のみ旨を知って神様に代わって責任をもち、神様の歴史的な恨みを晴らさなければならない。

842 イエス様がみ言は、永遠に渇くことのない生命の泉だと言ったではなかったか。皆さんも単にみ言を供給してもらっただけ語る噴水のようにならず、み言の実体となって尽きることのない生命の泉を掘りなさい。

843 原理を中心として神様を中心として侍って進むときは、先生も責任をもってくださる。

844 いついかなるとき、生命を懸けてみ言を伝えたことがあるか。

845 世界復帰のため、我々のみ言が学問的、思想的な基準を中心として、具体化されねばならない。そうするためには、思想を中心として、世界の思想を克服し統一された一つの方向に導かなければならないし、教会を中心として多くの難題を解決しなければならない。

846 言葉は聞いて鑑定しなさい。始めと終わりが同じであるか。誰の利益のためにやって、誰によってなしたかによって鑑定しなさい。

847 言葉は縦的に広がらない。私を中心として横的に遠くまで広がっていくので、勝手に語ってはいけない。

848 言葉で全体に支障をきたせばそれは困る。

849 み言を頭だけで知らずに、心で感じ、行動に移さなければならない。

850 先生が語るみ言は全部遺言にして、残さなければならない。

851 み言と一体となりなさい。心がみ言と一体となって行動的な面へと進めば、必ず繁殖は始まる。

852 最高の善なる人格、最高の幸福の実体、最高の愛の実体をつくり得るみ言。

853 言葉を必要以上話すことによって、み言の意味を傷つける者となってはいけない。神様のみ言を先に語りたい心はもったとしても、神様のみ言を傷つけることはやめなさい。

854 豊かな史料をもちなさい。先生は歴史と共に闘って勝利した実談を語るのである。それゆえ、いつも実感がわき出るのではないか。

855 終わりの日は言葉一つで天と地が行ったり来たりする時である。アルファで始まった悪の歴史がオメガで終わる時であり、エデンの園で人間たちに聞こえた神側とサタン側の二種類の言葉が聞こえてくる時であるので、しっかりと分別して従わねばならない。

856 原理は神様に会える道を教えてくれたが、神様と共に生活することについては教えてくれなかった。ゆえに先生が必要なのである。

857 み言を通じた実体的な価値は、実践的な価値を要求している。

858 私の心にみ言が臨在することができると同時に、み言の実体であるイエスと聖霊が臨在することができ、み言の主体である神様が臨在することのできるその日が、摂理の目的が終結する日である。

859 万物は神様のみ言の象徴であり、地は我々の体の象徴であり、太陽は我々の心の象徴である。

860 み言と一つにならなくては、人格が形成されない。み言を実践しなくては、実体が現れない。

861 生命は愛がなくては生きていくことができない。

862 原理に添付されなければならないものは、統一教会の歴史と、その中に先生の歴史が入らなければならない。

863 病気になった人が、薬を飲まなければならないのは当然なことであるけれども、薬を嫌がるものである。医者の診察と投薬を有り難く思わなければならないにもかかわらず、堕落した人間は薬のような福音のみ言を等閑視している。

864 存在するものは蒔かれる時がある反面、収穫する時がある。収穫される時は、必ず結実を誓うようになり、新しく出発することができる動機的結実体になる。

865 いくら良いものをもっても、その価値を感じて効果が出るようにしなければ、何の関係もない。

866 貴いものをもちたいという人は、貴いものを愛することを知らなければならない。


二 法度(法律と制度)


867 原則を主張しなさい。原則は悪が永遠に主管することができない。

868 神様は今日まで闘ってこられたが無理な闘いはなさらなかった。天倫の法度を前に立たせた闘いであった。サタンに対して闘うことのできる法を悟りなさい。法に従わなければサタンも讒訴する。神様も認めることができない。

869 自分の前に天倫を先立たせていきなさい。そうでなければ倒れる。

870 自分を中心とするとかして天的法度に外れれば自然淘汰される。

871 怨讐は我々が直接打つ必要がない。天理原則に外れれば自然に滅ぶようになっている。

872 自分の前に理念を立てて、理念の前に天倫を立てなければならない。自分を天倫の前に立たせる者は、反逆者である。天倫を先頭に立てれば、サタンが天倫を打つことができないので、それが盾となるのである。

873 四数は三から生ずる。神様・アダム・エバ・子女を一直線にすれば三数であり、広げれば四数である。三数は一から生ずるが、その基本は三である。

874 三数の創造原則を立てる目的は円形を描くのと同じく、神様の実在の永遠性を立てるためである。

875 三数の縦が骨であり、横が肉である。

876 すべての真理は、天から探そうと努めないで地から探しなさい。すなわち、神様の真理は地上にある。さらに終わりの日には、み旨が地上になされるので地上で見つけなければならない。

877 奇跡というのは科学的な原理であるけれども、時間を短縮して一時に起こる現象である。

878 歴史的同時性から考察すれば、聖書の記者が各自異なるにもかかわらず、その方向性と目的が同一であるというのを見ても、神様の実在を否定することはできない。

879 歴史は偶然的に自然的にその方向性を取ってきたのではない。その背後に偉大な力が働いてその方向を決定してきたのである。

880 理念圏内に入ってくる神様は必要ない。人間の構想や論理でもって認めることのできる神様ではない。神様は有限なる人間の論理を超越しておられる無限なる存在である。


人 格


881 無限に与えることのできる人が、無限に受けることができる。我々は千万の人によく用いられる材料となろう。

882 み言で理想を与え、人格で実践を示してあげ、心情で愛を与えなさい。

883 神様にも「あなたなしには生きられない」と言われるような人格者となりなさい。

884 完全なる人格者になれば生活自体が祈りである。多く祈って無限な霊力に接しなさい。これが原動力となって、生活する者とならねばならない。

885 自ら、自分の人格を崇拝できる人となりなさい。万物に対しても恥ずかしくない崇拝を受ける感じがなければならない。その次に「私を見習いなさい」と言って、そののちに相対的な世界を見つめなさい。

886 万民を抱いて与える者は、万民から受ける者である。

887 人を恥ずかしく思わせる私となって、神様に褒められる私となれば、相互関係において喜びでもって因縁づけられる。

888 み旨の前に変わることのない者となろう。神様は永遠に信ずることのできる不変の子女を探しておられる。

889 神様にとっては、きょうでなく、永遠を誇れる人、その一人が問題である。

890 心と体が一致した生活をしたとしても、それだけでは最善の生活とはいえない。それが、さらに神様のみ旨と一致してこそ善だといえる。

891 勝利的主管者になるためには、最高に悲惨な立場で勝利しなければならないし、それでありながらも、敵を愛することのできる寛大さをもたねばならない。

892 善なる人とは、神様のみ旨と一致した生活をする人をいう。すなわち、神様のみ旨の方向と人間生活の方向性が一致したとき、その生活は善として現れるのである。

893 我々の体は、聖地に代わり、我々の心は天に代わり、我々の心情は天の父に代わって、自分が位置した所を尊くしなければならない。

894 世界の人類を三種類に分類すれば、善の基準を標準として見るとき、反対の人、善を知りながらも積極的に出て自分のものとすることができず、緩衝地帯に住んでいる人、そして、善を私の責任としてなそうとする人の三者に分けることができる。み旨の前には、最後の人が必要なのである。

895 人格者とは、自分のことを早く済ませて、他人のことをまず考える人のことをいうのである。

896 仕事をたくさんやって話が少なければ勝利し、仕事をやらないで話が多い人は失敗する。

897 熱い人、味のある人、必要な人、手本となる人、先犠後喜する人、情勢と使命を分別する人。

898 「神様を知ること」を生活の標語として、どこにおいても神様を探し、発見する生活をしなさい。

899 大木であるほど、各種の鳥が集まるように、糞をつけて歩いたとしても、内容を整えて歩めばよい。天地の拍子に合わせて快く踊れる素晴らしい人となりなさい。

900 体面を失うな。

901 先生は無一文である。しかし世界を驚かせようとする。先生に自慢があるとすればこれであろう。

902 私が食べて、寝て、なす一挙手一投足が何のためにあるかを常に考えなさい。

903 きのうを誇れる者、きょうを奪われない者、あすを待つ者。

904 人を判断するためには、三年以上研究しなさい。

905 百二十名の心に合わせることができて初めて、イエス様の家族の中に加わることができる。

906 天宙主管を願う前に、自己主管を完成せよ。これが私のスローガンである。神様の愛と生命と真理も自己主管の上で広げられていくようになる。

907 環境によって変わる葉となるな。

908 美しいものは単色ではない。多くの曲折をもってこそ人生は豊かになる。

909 み言より実体がもっと重要だと思って進みなさい。そして実体復帰運動に貢献しなさい。

910 人はこれからどうなるかが問題ではなく、私の心情・私の内的基準・私の主体的価値がどうなっているかが一番重要なのである。

911 自分が無限なる価値的基準の上で因縁を結んで立っていれば不変である。慌てたり性急な者は、大体相対的な価値や相対的になった目的のみを見つめているためである。

912 人間は神様の実体である。ゆえに神様は、私を通して喜ばれる。しかし私が、ねたみ・しっと・驕慢のような堕落性によって欠陥のある実体だとすれば、どうして神様が私を通して喜ばれることができようか。

913 私は私個人の所有物ではない。私は六千年歴史の結実体であるので、歴史的共同所有物なのである。

914 天も私の体、地も私の体、万民も私の体である。天と地と万民を私の体のごとく対することのできる人格がなければならない。

915 人より豊かな人生をもとうとすれば、人より豊かな(長い期間が過ぎても忘れられない)余韻をたくさんもたねばならない。

916 平坦な人生を歩もうと願うな。曲折が多い自然はかえって見るに美しいではないか。

917 人間は、まず必ず必要な人、いてもいなくてもいい人、いてはならない人とがある。

918 み旨の中で見物人となるな。祝いの席で不必要にうろうろする人は、全体に支障ばかりもたらす。

919 神様は私の生活を通して喜びを味わおうとして私を訪ねられた。

920 この世では、貧しかったら受けることを願うが、我々は貧しい中でも与えなければならない。

921 最後の勝利は、我々が一番貴重なものまでも無限に与え、無限に愛し、無限に犠牲になるところにある。今日アメリカが全世界を支配しようとすれば、自由陣営のみならず、その範囲を広げ、共産陣営にまで分け与えて屈服させなければならない。

922 この世を「コンパス」で測るごとく生きるな。

923 叱る前に、彼の立場に立って、彼よりは私がよくやるという自信をもつようになったとき、まず良い点を褒めてあげて叱りなさい。

924 我々は真理の開拓者であり、生命の開拓者であり、愛の開拓者である。ゆえに、私は新たに手に触ってみよう。この手を通して願いを果たそうとなさる神様がいらっしゃることを知ろう。私を通して、実体に触ってみたいし、兄弟を訪ねたいし、世界を救い出して、主管なさりたい神様がいらっしゃることを深く心に刻んで、目も鼻も耳も口も、全部私のものでなく神様のものであるという観念を徹底しよう。

925 天宙はあなたの材料。大きくて広いけれども、あなたの心の中に出入りする。

926 与えるべき時に受けようとすれば滅びてしまう。我々はもっているものがなくても与える心情で生活していこう。

927 我々は健康もお金もないが、他人を幸福にし、かつ善良にしよう。

928 神様は信仰の王様でいらっしゃるので、信仰の王子を尋ねられるのであり、神様は愛の王様でいらっしゃるので、愛の王子を探し求められる。

929 未来の私を誇れることと神様の前に立たなければならない未来の私を思いながら苦労をし、戦いなさい。

930 復活しなければならない私が残っていることを知って、未来に現れなければならない姿を重要視しなさい。

931 変わる善を中心としては一つの世界を成すことができない。中心は揺らがない。深いほど穏やかである。太平洋を見なさい。表面では嵐が起こり、波も立つが、深いところは静かである。それに学びなさい。

932 こまの中心は回るのか、回らないのか分からない地点である。この世がいかに混沌としようとも変わらない中心をもって生活していこう。

933 与えたものを覚えておくと、必ず返してもらいたいと思うようになる。与えながらも覚えまいと努めなさい。

934 天的な威信と体面と意地を立てようとしなければならない。

935 友人に与えると約束したものは必ず与えなさい。約束を破ることは、あなたの人格を損なうものである。

936 神様は無形の神様、アダム・エバは実体の神様。人間が完成したとしたら、神様の血と肉と心情をもった人となったであろう。最後の一番大きいものをもつ前には所有観念をもつな。

937 大きい器を準備しなさい。小さい器には早く水を入れることができるが、それからあふれ出る水は少ない。しかし、大きい器に水を入れるのは大変だが、黙ってあふれるときには莫大な水となる。

938 金の価値は、火の中に入れられても、その本質が変わらないところにある。人間の価値も同じである。もし苦労の道にぶつかって、その志が変質するとしたならば、人格者といえないだろう。

939 今日まで歴史はみ言を立ててきながら、実体を立てるための準備をなしてきた。しかし、我々は、み言と共に実体に対し、実体と共に心情の因縁を同時に結ぶことのできる環境圏内にいるので、歴史始まって以来一番恵まれた者だといえよう。

940 私が堂々と生きて堂々と最後を結ぶことは、ほかの何を得るよりも大きく、ほかの何を失うよりも貴いのである。

941 神様が求める人は無限に潤沢であり、無限に味のある人である。

942 ない中においてよく与える人なら、ありさえすればどれほどよく与えるだろうか。

943 私が因縁を結んでいく人には「マイナス」にならないようにしなければならない。

944 真理の神様として現れた聖霊、生命の神様として現れた聖子、愛の神様としておられる神様を遠い希望のところにおかないで、私の心を中心として引っ張ってこようとしなければならない。

945 柔和謙遜の高い価値の心の前に低い価値の人格がぶつかれば、壊されて吸収されるのである。

946 私が神様の性稟と型に合うためには、神様が悪人の心にも和合なされ得る高い価値の愛の本体であるので、私一個体もどのような悪人にも和合し得る人格を整えなければならない。

947 イエス様は麹であった。麹は和合の原料である。イエス様は神の愛を紹介しようとして来られた方であり、父の代わりになられる方であったので、サタンまでも愛して復帰しなければならない麹として来られた方である。
948 麹は和合の原料である。全体を溶かすことのできる麹となりなさい。

949 堕落した人間の最後の目的は、神様が本来の創造目的として下さった自我の自主性、尊厳性および価値性を回復することである。

950 一言誤って三週間祈ったことがある。

951 善なる人とは犠牲になる人であり、愛を誘発させる人である。

952 円満な人とは、四方性が整った人のことである。

953 十年でなった木の実は、十年間の木の精髄が投入されたのである。

954 沃土は種が完全に生長することのできる土地である。沃土は自分のためにあるのではなく、種のためにある。

955 「言ってあげることがある」、「見せてあげることがある」、「残してあげることがある」と言えるようになれば、世界を主管することができる。
956 見せてあげることができ、自慢し得る者となろう。

957 神様が願う価値的な存在とは、永遠に共に語り、共に生き、共に行動したい人である。

958 人格の中心は、真理にあるのではなく心情にある。

959 心の闘いに勝利できない者は外敵との闘いに勝てない。

960 先生は、死んでも怨讐に対する敵対感情はもっていない。ゆえにみ旨は勝利する。

961 貴い宝物を預けることのできる人とならなければならない。

962 天宙が好む人となろう。

963 皆さんが歩んだ道に対して、あとについてくるすべての人々が頭を下げて礼をすることのできる道を残していかなければならない。

964 現れない生命力をもって、現せる私とならなければならない。

965 我々の目標は、堕落前のアダムに帰ることである。堕落前のアダムは、神様だけを知って恐れがなかったので、我々も神様だけに侍って恐れを知らない立場に帰らなければならない。

966 我々はどのような人とならなければならないのか。神様の代わりに生きる人とならなければならない。

967 み旨のために闘い倒れて死ねば、そこに香木を植えて、その香木を摘んで万民に向かって香をたいてあげられる人とならなければならない。

968 歴史的にいくら偉大な人を望んだとしても、現実に現れた一人の価値を知らなければならない。皆さんはなくてはならない一人として、このみ旨の道を出発した。主体性をもった現実的な自我を整えなければならない。個性真理体は宇宙史的な現実の焦点と同じである。

969 千遍万遍死んだとしても、神様が自慢することのできる息子、娘になろうとしなければならない。神様(天)を輝かせるのに、私が肥料になり土台になろうとしなければならない。

970 生命の源泉がどこにあるのか。自分がもっている価値を知らずにいて、それがほかの人の手に渡ったら、もったいなく思って痛哭する者となってはいけない。

971 先生が知っていることは、神様が私に同情せざるを得ないという事実だけである。

972 耳、目、口、鼻が整った顔が美しい顔ではなく、心と体が完全に良く和合された人が世界で最も美しい人である。

973 全体目的は個体目的を支配する。しかし個体目的を遂行しなければ立つ場がない。

974 一番高い頂上を占領しようとするのも良いけれど、深い谷間を占領して抱いていれば永遠なる主人となる。

975 仕事をしたあとでも、神様が自分に対してくれることを申し訳なく思わなければならない。

976 人格者は、見て聞いて行う人である。善を中心として見て聞いたことを行うことができないとき、悪主権内に立つしかない。生涯において善なる結果を残すことができなければ、これまた負債を負った者である。

977 サタンの讒訴条件に引っかかることがなくて初めて、神様は自分の息子として立てて命令することができる。

978 個人的な自慢の実績がなくては「我々」の自慢をすることができない。

979 物質を主管することができなければ、大きいことをなせない。最も窮地に追い込まれたとき、そこにおいて小さな物質が生涯の全人格を破綻させることが起こるものである。

980 愚かな者は姿形を見て喜び、知恵のある人は内容を見て喜ぶ。

981 不義を見てそのままにしておく者は良心家ではない。

982 すべてのものを最も貴く思える人は監獄にいる。

983 人間が無限なる人格の場を自分も知らずに望んでいるのは、主体的な立場におられる神様が無限なる人格の主体としておられるからである。

984 言葉で人格を評価するときは過ぎ去り、これからは愛でもって人格を評価するときである。

985 自慢は歴史的な自慢をしなさい。天道というのは見えない権威がある。人格者は歴史性をもっている。

986 恐ろしい人は神様を抱いて耐え忍ぶ人である。

987 信仰者は変わらぬ人格をもたねばならない。


心 情


988 心情の負債を負えば、その時から引っかかってしまう。神様が見るとき、同情せざるを得ない立場に立ちなさい。私一人が犠牲になっても、全体を生かそうとする心で神様に対しなさい。

989 真理のみ言は戸を開くもの、その次は心情で育ててあげなさい。

990 心情は願いであり、目的であり、事情は生活である。神様の心情を中心として、生活を展開していきなさい。

991 神様が訪ねてこられる心の土台を引き継いで進みなさい。神様は偽りで訪ねてこられるのではなく、骨の中の骨、肉の中の肉、骨髄の中の骨髄の心情をもって訪ねられる。私の血肉にも、このような心情が埋められていなければならない。このような原則的な基準に符合しない食口が多ければ多いほど、混乱を呼び起こす。

992 善なる人は、自然を見ても、人と会っても、どこへ行っても、いつでも心情でもって包むことのできる者である。

993 神様が対することのできる新鮮で刺激的な味を匂わす心情的な材料を常に提示しなさい。

994 心情の世界には、発展がない。しかし何度反復しても嫌気のしない世界である。

995 心情を離れては生命がない。心情の谷間の道は苦痛で悲惨な道である。心情の谷間は、掘れば掘るほど涙であり、また自己はなくなってしまう。

996 神様は御自分がつくられた全地隅々までも訪ねたいと願われる。訪ねられるときは、子女が精誠の土台を築いて待っている所に行こうとなさる。ゆえに皆様は神様の子女として地の果てまで開拓して父を迎え入れなければならない。

997 これから神様の真の姿を知るように努めなさい。そして次には「お父様!」と叫ぶだけで痛哭する先生に学びなさい。

998 愛の主人公、心情の主人公として登場しなさい。いくら偉人が現れようとも人類の心情を征服できなければ失敗である。

999 堕落以後、摂理してこられた神様と因縁を結ぶのも重要であるが、堕落以前の神様と心情の因縁を結ぼうと努めるのがもっと重要である。

1000 知識の師を要求するより、心情の師を要求しなさい。

1001 先生が皆さんに対するのは、仕事の成果の問題を通してではなく、その心情的動機がいかなるかを見て対する。すなわち、自己中心的であるか、神様中心であるかが重要である。心情的基準が神様が立てたものと同じであれば、問題はすべて解決される。

1002 神様がいらして、私は彼によりつくられ、そして私は、神様と父子の因縁であるということを心と体で体恤するようになるとき、神様の心情を感じることができる。

1003 心情的な感覚をもってそれを実生活の中で骨髄にまで感じて生活する者でなければ堕落性を脱ぐことができない。

1004 神様の心情を中心として動いている人を批判してはならない。心情で武装された生活を大切に思いなさい。私より心情的な人は私のアベルである。

1005 み言や実践の時代には代わりがあり得る。しかし心情時代には代わりがあり得ない。

1006 み言の目的は実体であり、実体の目的は心情である。ゆえに、み言を伝えるとき、天の心情を伝えることにその目的をおかなければならないし、み言を聞く人もそのみ言を通して天の心情を知ろうと努めなければならない。

1007 終わりの日には宗教は心情宗教、哲学は心情哲学、主義は心情主義、思想は心情思想で各々解明されねばならない。

1008 心情世界と結ぶことのできる宗教は、神様が一番かわいそうな方であることを実感でもって教えてくれる宗教である。

1009 時が要求する心情の前に、先に立った者がその心情を失えば、遅く入ってきてもその心情基準となった者を呼び寄せて使うしかない。

1010 心情の王者とならなければ、権勢の王者にもなれない。

1011 恵みの永遠なる故郷は、神様の心情であるから、神様の心情の安息所を備える者となってこそ、そこに神様の恵みが運行する。

1012 敬天、人和、愛地の内的な心情基準を揺り動かされない者が恵まれた者である。

1013 侍る生活を通して天にほれられる者は、いつも天が指導してくださる。このような子女は、天の心情の瞳である。

1014 愛は与えて忘れなさい。

1015 愛は作用すればするほど、大きくなるのである。それゆえに愛からのみ永遠が生ずるのである。

1016 善なる人の道は、克服していく生活である。

1017 人間が最高のことを願うのは、本来最高の神様と関係を結んで生きるようになっているためである。

1018 愛の前に高低はない。

1019 常に神様の前に慟哭してのどが詰まる時が多くなければならない。

1020 愛の根は神様にある。父母の愛、夫婦の愛、子女の愛が完全に一つとなれば、その中央に神様が臨在なさる。

1021 願いの一致、事情の一致があってこそ、心情世界が始まる。心情の源泉となれる資料をもちなさい。

1022 神様の前に至誠を尽くすことは、人から聞いたり、学んだり、導かれたりしてなせることではない。自動的に心情がわき出るからするのである。ゆえに、忠、孝、烈は教えてできるものではない。

1023 皆さんは誠を尽くして、先生の世話にならずにかえって先生の世話をしてあげたいという心持ちをもって歩みなさい。

1024 与えることに飢えた者となろう。決して世話になるな。

1025 心情を蹂躙した罪は許すことができず、サタンもサタン視する。

1026 心情を中心として、その人格の前に屈服させることのできる人とならなければならない。

1027 神様がもっておられる心情と、先生が(神様に対して)もっている心情の間には、無窮なる差異があるのを知っているがゆえに、先生は行っても行っても新鮮で疲れることができない。

1028 人間の全性稟を吸収することのできる性稟とならなければならない。復活は愛の春の園で、全細胞が溶けてしまうのと同じような深い愛の因縁の中でなされる。

1029 神様の心情を誘発することの一番良い方法は誠を尽くすことである。三代が同じ心情で誠を尽くせば、神様が共に働いてくださって、その後孫が滅びることはない。

1030 自分の息子が死んだとしても、それによる自己のつらさよりも天の父の悲しみがいかばかりかと慰めてあげることのできる心情をもった者には、神様もどうすることもできない。

1031 父の願いだけが私の願いであり、父の事情だけが私の事情であり、父の心情だけが私の心情でなければならない。

1032 父母は子女たちに「あなたたちの兄さんを見習え」と言いたいのである。結局は心情問題である。

1033 心情は生命の源泉である。そのまま霊界に直結される。

1034 私はあなたたちと同じでないという心情をもたねばならない。

1035 イエス様が神様の切ない心情を身代わりして悲しんでいた、三倍以上の切ない心をもちなさい。

1036 神様の心情には、創造理想を失われた悲しみと、このみ旨をなすために預言者、聖人たちを送ってサタンと闘わせた歴史的な悲しみがある。

1037 神様の息子であるイエス様もこの地上で神様の心情に代わって生涯を捧げて闘い死んだので、私たちもイエス様に代わって証し、闘って死ぬ者となるべきである。

1038 母親を探し求める幼子の心情があれば、神様の道がいくら難しくとも行くことができる。

1039 アダム、エバが堕落するとき感じていた神様との悲しい心情的内縁を、凌駕してこそ喜びがあり得る。

1040 完全な愛は与えたことを記憶するのではなく、かえって恥ずかしいと思うものである。

1041 すべての問題を父の心情にかけて考えれば解けないものがない。

1042 相対基準という言葉は、心情を中心としていった言葉である。完成というのもすなわち心情の完成をいうのである。

1043 苦痛の事情を知らせたくなくて、悲しい姿を見せたくなくて、神様は伏してこられたのである。

1044 統一信徒がもつべき、たった一つの所有観念は、神様の心情である。

1045 この世のことは適当に越えていくことができるが、心情の世界ではそうはいかない。

1046 郷愁のような心情の歴史を整えておきなさい。

1047 愛の根本は、父子の情の縦的な愛と兄弟の情の横的な愛である。

1048 心情の境地においては、立派でない人はいないし、愚かな人はいない。

1049 心情の世界は時空を超越する。み言も祈りも究極には愛である。

1050 私よりももっと心情的に熱い人が主体である。

1051 食口として食口を知らなければ滅びる。

1052 先生は一日に三回以上涙を流した。涙でつづられた歴史であるゆえに涙で洗わなければならない。

1053 先生が受けた愛の基準を探し求めるために、眠ることもできずに身もだえしなければならない。

1054 心情の基盤がなければ不幸な者である。

1055 一番近ければあらを見いだすことができないのが鉄則である。ゆえに神様の一番近い存在となろう。

1056 悲しみに閉ざされた人を慰めることのできる人は、それ以上の悲しみを経験した人のみが可能である。

1057 内的には隠れて誰にも知られないように胸が詰まる痛さを感じながら、全体が同情し得る環境において、眠り目覚めることのできる生活の群れとならねばならない。

1058 先生は本部にいるが全国各地方をみな回ってみたいし、そればかりでなく全世界と天上までもみな回ってみたい心である。

1059 天地間に絡み合った心情を開拓することが、道の中の道を歩む人の道である。

1060 終末に処しているすべての人は最高の負債をもった者であり、孤独な者であり悲しい者である。これを解決する方法はただ心情だけである。

1061 すべての真という名詞は、心情を抜きにしては成立しない。真の孝子というのは心情を懸けて言う言葉である。

1062 涙を流したとしても、求めるための涙ではなく与えるための涙を流さなければならない。

1063 天が見せたいし地が誇りたいものは何であろうか。天地の心情的な因縁をもってつくられた「私」なのである。

1064 心情的な世界は平等である。天国は家庭の拡大であり兄弟愛の世界である。

1065 あなたと私と共に住みたいし共に語りたいし働きたい。これが神様の歴史的な心情である。

1066 国を愛したいと思えば人類を愛し、人類を愛したいと思えば神様を愛しなさい。

1067 私たちは理念と忠誠と行動で人類の心を征服せねばならない。

1068 心情的な基準を中心として、経済的な文化的な基準を整えなければならない。そうして世界的な主体性の公認を受けてこそ初めて理想世界がなされるのである。

1069 後孫たちが追慕することのできる源泉とならねばならない。残してあげるべきものは父の心情と、それを思慕する愛である。

1070 一番大きい山、川、地域を誇る国があるかもしれないが、それをつくられた神様の心情と一致しないで、サタンが喜ぶ心情であるとすれば神様が喜ばれるだろうか。

1071 統一教会は神様の愛の運勢に従わねばならない。

1072 天(神様)が前で引っ張っていくのではなく、真ん中におられなければならない。

1073 イエス様は悲惨な中においても、未来にまで広がるあふれるほどの希望があったので、十字架の峠を越えることができた。

1074 歴史的なすべての失敗を私の失敗として悔い改め、自ら従わなければ、歴史的な内情的心情を相続できない。

1075 いつ私が神様の仕事のためにふらふらになるほどの歩みをしたことがあるか、それが問題である。夫婦が年老いて一人の息子を生んだが死なせてしまった、そのような心情以上の思いが神様の心情である。

1076 先生は青少年期に既に願いの標準を立てて決心した。しかし、悲しいことにはアダムとエバがエデン時代に神様を父と呼べなかったように、先生も青少年時代に完成して、神様を父と呼べなかった。

1077 愛を受けなかったことを恨みとせずに、愛を授けられなかったことを恨みとしなければならない。

1078 因縁の世界を創建しよう。

1079 個人の涙は個人で終わるが、中心者の涙は歴史と共に全体に影響を及ぼす。

1080 主を愛していたよりももっと世界を愛する心がなければならない。

1081 愛を中心としては同等である。愛を中心として主管し主管される。愛は万人の希望の起点である。

1082 心情的に連結されている人が信ずる人より先に立つ。

1083 心情的な問題において専門家となりなさい。童心になって父母の胸に抱かれるような心情をつくってあげることができなければならない。

1084 出掛けてよくやることによって先生に褒められることが問題ではなく、内的な心情問題でいかに因縁を結ぶか、それが問題である。民族が誤っても責任は自分がもたねばならない。

1085 先生を神様が愛するのではなく、愛さざるを得ないようにやってきた。

1086 先生は千年後のことのために祈る。

1087 孝子は父母の前に最高の良いものを持ってきて差し上げながら、もっと良いものを差し上げることができないことを恥ずかしく思わなければならない。

1088 父母の前に二人の息子がいて弟が誤ってむちを受けるとき、兄が父母を止めればむちをやめるしかない。我々は兄のような立場に立って、人類に対するむちをやめさせるようにしなければならない。誤った弟をしかるのではなく、弟の分までやるからむちをやめてくださいと言えるようにならなければならない。

1089 先生は外的なことに関心をもつとすれば、皆さんは内的な先生に対して関心をもたねばならない。

1090 神様の息子になろうとすれば神様の心情に似なければならない。神様の心情は世界に植えられているゆえに、世界の人々を愛さねばならない。

1091 心情を占領する日には、体は自由には動けない。心情のままに動く。神様の心情を占領しよう。

1092 神様は万民を気が狂うほどに愛したい方であり、神様の息子は万民を狂ったように愛する人である。

1093 愛を中心として人類の祖先として来られた方がメシヤである。

1094 霊界は愛の世界であるゆえ、時空を超越する。

1095 「私よりもあなたの子女をもっと愛しなさい」という最期の遺言をする祖先が最高である。

1096 愛には盲目的な突破力がある。宗教は愛の道であるから生死を超越することができる。

1097 神様の念願成就は心情の世界においてなされる。

1098 サタンの讒訴条件に引っかかることがなくてこそ、神様は自分の息子として立てて命令することができる。

1099 この世で一番かわいそうな人は財産をもっていない人ではなく、妻と子をもっていない人である。そのために神様がかわいそうだというのは、愛することのできる対象をもてなかったことであり、愛することのできる子女をもてなかったことである。それが神様の悲しい事情であったゆえに、それを探し求めてきたのが神様であり、宗教の歴史である。

1100 神様は福を受けて分け与えることのできる人にこそ福を与える。今までの宗教人たちは自分のために福を受けようとしたために、いくら精誠を尽くしたとしても神様は福を与えなかった。

1101 女性は感性が豊かであるから神様を慰めることができる。女性から堕落が始まり恨みとなったゆえに、この恨みを女性たちが晴らしてあげなければならない。

1102 心情の基盤は家庭にある前に私になければならない。

1103 愛の根拠地は神様(天)である。神様から始まったのである。

1104 愛には克服と犠牲が伴っている。

1105 愛は新しい美をいっそう感ずることができるので、人の美しい美しくないは問題とならない。

1106 愛の主体であり、この上なく愛の豊かな神様がサタンを許すことができないのは、愛の怨讐だからである。

1107 生命よりも貴いものは愛である。なぜなら、愛なくして生命はあり得ないからである。

1108 主管は創造の権限をもたずにはできない。ところが、創造の権限は、権力や経済にあるのではなく、愛によって創造されているゆえに、世界は愛でもってのみ主管することができるのである。

1109 愛は統一の核心である。ゆえに愛によって統一することができる。

1110 イエス様は愛したという言葉を言うことができずに、かえって愛したかと問う立場に立った。愛そうとしても愛することのできない立場で逝かれた。

1111 怨讐だといってみんな悪いのではない。怨讐の立場から愛に回ってくるときには、かえって鑑になることがあり、学べる道がある。

1112 先生を愛する心があれば、三千万民族を握って先生の代わりに涙を流すことができなければならない。それが統一教会の食口たちが行くべき道である。

1113 勝利のその日を迎えて喜び賛美する人より、その日を迎えたら地に顔を伏せて痛哭するような群れを、神様はもっと探しておられる。

1114 子女たちが責任をなせずに死ぬことはあるだろうが、それを見て克服せねばならない神様がどれほどかわいそうであるかを知って、その悲しみを慰めてあげなければならない。

1115 心情は人を知るということだけでは感ずることができない。心情を知ろうとすれば共に愛し住んでみなければ分からない。

1116 父母の前における孝子の一言の反抗の言葉は、親不孝者の千の反抗の言葉よりも傷が大きい。

1117 神様の愛を現そうとしたのが人間創造の動機である。愛は知識を超越している。

1118 愛の場は同等であり、平等である。干渉を受けないものであるから素晴らしいのである。

1119 人間が無限なる愛を願うのは、神様の愛に到達しようとする本性の心があるからである。

1120 神様の悲しみを知って出発する立場は、たとえ倒れても死ぬことはない。

1121 聖書は神様の愛を紹介してくれるものとはなるけれど、それだけでは神様の愛を感じることはできない。神様の心情を知って体恤しなければならない。

1122 先に立った者として、あとの者のため、神様の前に「待ってください」と言える人が必要である。

1123 堕落した人間に神様が救いの綱を与えてくださることはできても、落ちた所まで直接行って引き上げることはできない。それゆえ、与えてくださった宗教の綱を捕まえて、自らの力を尽くしてぶら下がらなければならない。それが心情である。その心情がどれほど懇切であるかどうかによって距離が近くなる。

1124 神様の心情と、父母の心情と、個人の心情が一直線にならなければならない。

1125 宇宙の根本は人間であり、人間の根本は生命であり、生命の根本は愛であり、愛の根本は神様である。

1126 骨髄に染み込んだ情は法を越えることができる。
















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三 信仰について

祝福家庭と理想天国

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三 信仰について


教会・教会生活


一 教会・聖地


1127 教会は天国生活の訓練場である。

1128 教会に来たければ来なさい。そうでなければ食口に会いなさい。または他人を伝道しなさい。そうしなければ心霊が沈んでしまう。

1129 教会に入ってくれば心が切なくなる。それは、心の割礼を受けるからである。

1130 教会に訪ねてきた客を絶対に冷遇してはならない。

1131 三人以上は眠らないで教会を守りなさい。どんなときに、どんな命令が下るか誰も知らないからである。

1132 我々の教会は最高の栄光の立場にいる人と、最悪の立場で世界的な十字架を担う人がいる。ゆえに教会とは互いに敬い、互いに導き合うべき千態万象の人物が集った所である。

1133 統一教会に入ってくるときには歴史的な祖先の恵み(功労)をもって入るが、出るときにはもって入った恵みをおいて出てしまうことを知らねばならない。ゆえに最後まで残って天の祝福を受けて有終の美を飾りなさい。

1134 食口という名詞は時代が変わって世代が滅びてもなくならない名詞である。ゆえに真の食口とは国家的十字架のみならず、世界的な十字架を越えていかねばならない。ゆえに、現在、我々の教会で食口と呼ぶのは世界的な十字架を越えることを認めた上で呼ぶのである。

1135 教会を客観視するな。神様をほかの所において私が遠く離れた立場から眺めずに、その中に入っている心持ちをもちなさい。

1136 教会は我々の家であり、我々の本家である。本家が良くなるには分家がまず良くならなければならない。

1137 教会に朝早くから行きたい心が生じなければならない。
1138 我々食口は教会の看板であり、神様の看板である。礼拝時間はサタンの鎖を切って神様の世界に導いてくるための戦いの時間である。生命を復活させるために誠を尽くす深刻な時間であるので絶対に礼拝時間を破ってはいけない。礼拝時間に怠けると恵みを奪われてしまう。

1139 食口という名をもった者は、自分のものという所有観念を超えなければならない。すべてがお父様の名でなされなければならないし、父より再び分配を受けたそのような関係が結ばれなければならない。先生も私の体を自分のものとは考えない。ゆえに神の命令であれば何でもできるのである。

1140 集会のときには証と報告の時間をたくさんもちなさい。

1141 恵みがある所に行けば春の日のようである。新しい生命が芽生える時が春である。

1142 自分の生活をする前に教会の生活を考えなければならない。

1143 私一人を犠牲にして全体が生きることができるとすれば、誰もがその道を取ろうとしなければならない。そのような人が食口である。

1144 神様が勝利を認めて、勝利の栄光を万民に分け与えてあげることのできる統一教会の青年男女がいるか。

1145 三点が結び合ってこそ面積が生ずる。今は二点だけなので線にしかならない。今後は腰の紐をしっかり締めて決意しなさい。

1146 サタン勢力に支配されず、かえって押し出すことのできる主体的能力があってこそ、統一教会と関係を結ぶことができる。

1147 統一教会人となるためには、神様と先生の内情的な願いを相続しなければならない。

1148 教会生活において神様の公認を受けなければ、社会生活において神様のみ旨に代わる生活をすることはできない。

1149 本部は与える所であり、相手方は受ける所である。いまだに世界に食口が多くないのは本部の責任である。

1150 教会指導は手段方法でもってはできない。呼吸のような神様との生命が切れないようにしなければならない。根である本部と一つになりなさい。
1151 聖地は神様が訪ねてこられる中心の地。聖地は必ず買わなければならないし、そして売ることはできない地である。聖地にたびたび行きなさい。寝るのも聖地の近くで寝なさい。

1152 聖地は神様の子女たちの面会場所である。

1153 聖地は神様の保護を受ける地である。

1154 皆さんは死んだ肉体までも神様の聖地に埋めなければならない存在である。

1155 韓国で勝利した基準を世界まで因縁づけてあげなければならない。すなわち、韓国の子女によって全人類をアダム、エバの堕落直前まで昇格させてあげたので、ここに土地が必要なのである。これが世界に聖地を定めた理由である。

1156 聖地は三千里半島を縮小させたもの。

1157 聖地で所出される物は聖別しないで使える。

1158 聖地が自分のもっている土地より小さいときには讒訴を受ける。そして、聖地に対する我々の誠が、その村人全体がその地を大切にする誠よりもっと大きくなければならない。


二 生活指導


1159 指導者は食口に対するとき、関心と愛着をもって楽しく対しなさい。まず、自分自身がみ旨に酔っていてこそ相手の人に伝えられるのである。そして、食口に対する場合には恵みを高めるための貴い時間を失わず、時間観念を離れて最善を尽くしなさい。

1160 核心要員は夜を徹しても育ててあげなさい。このように三日間誠を尽くせばその人は一生涯忘れることのできない恵みの因縁を結ぶようになるだろう。

1161 人に対するとき、その長所を探し出して欠点をかばってあげれば人はついてくる。人の悪い面ばかりを見れば自分の心霊に損害を受ける。

1162 食口となれば、神様を中心とした生活の伝統と選民の伝統を確立しなければならない。
  ①生活信条とその体系
  ②先生の価値教育
  ③先生との因縁
  ④自己の存在位置

1163 指導者の生命は心情的にプラスになることである。千人の指導者は千人の心情よりプラスになっていなければならない。

1164 愛の溶鉱炉となれ。

1165 人を研究しよう。私のそばにいる人が怒るとき、眠るとき、最高に喜ぶとき、責任をもって活動するとき、結婚するとき、すべて良い材料を得られよう。

1166 教職者は十分の一の時間を天の前に捧げなければならない。その次には、自分の家庭を愛し、国を大切にしなければならない。自分の時間の三分の一は徹底して活動しなさい。そして少なくとも一日に二時間二十四分(十分の一日)は祈らなければならない。祈りの時間の三分の二は早朝やるのが良い。

1167 教会を導くには上と下の層の心だけ合わせれば全部引っ張られてくる。

1168 指導者の足りなさを補強して育ててあげなさい。指導者を批評する者はカインである。

1169 指導者の足りなさ、欠点を包み責任をもとうとする者はいつかはアベルの立場に立つようになる。

1170 たとえ実力がもっとあるとしても、真なる忠臣は君主を補佐してあげる者である。

1171 実力がないと言うな。実力がなければ実力者を兄のように侍って代わりに立てて活動舞台を提供してあげられる心情を整えなさい。社会で侍っている以上に侍ってあげ敬ってあげて、彼から第二の土台を築くようにしなさい。

1172 食口は肉、指導者は骨である。骨は現れないのである。肉はよくかばってあげなければならない。

1173 間違ったことを気づかせて打ちなさい。

1174 人を指導しようとする者は、その人よりもっと苦労しなさい。より祭物となりなさい。そして丁重で切ない心情で対しなさい。

1175 指導者は、その地方の祭司長である。眠りを減らしても恵みを祈ってあげなければならない。多くの生命を生かすために、祭物を扱わなければならないので、誠を尽くす苦労をしなければならない。祭礼は実体(指導者)と主人(神様)と祭物が一体となって神様が応答なさる。教会員(食口)が祭物ではなく、自分(指導者)が祭物である。

1176 罪を調べるときは秘密にやらなければならないが、罪を審判するときには公開してしなければならない。

1177 今はだらだらと生きる時ではない。心も体も環境も整理して訓練しなければならない。ねじをしっかりと締めておけば、それを解く者も、回せる者もいない。このようなときが必ず到来するだろう。

1178 我々食口はどこに行っても師の立場に立たずに友人の立場に立ちなさい。友人の立場に立ったとしても自分の価値を十分に発揮することができる。

1179 自分の代身者を立てるようになるときは、まず天の前に「父よ! 私自身がやらねばならないのでありますが、より大きい仕事をするために代身者が必要なのでありますから許してください」という心をもって人を使わなければならない。そして、自分の代身者であり、外的な自己であるので愛で接して、理解させ、一つとなって大切にしてあげながら使わなければならない。そして、別れるとき、涙を流してまた来たいという心をもつようにしなければならない。

1180 特別な集会があるときには「私の誓い(家庭盟誓)」を唱和すること。

1181 食口たちを多く動かせる指導者となりなさい。

1182 互いに是非を言い合うな。

1183 先生は誰が正しく、誰が間違っているかを全部知っている。先生の計画に従いなさい。

1184 教会が仕事をつくるのは自分を神様に接ぎ木してくれる機会である。

1185 感動の涙がなく、感謝することを知らない人は本部にいる資格がない。本部という所は天国建設の総本部であるので、万民にみ旨を中心として喜びを分け与えることができなければならない。

1186 神様が助けてあげなさいという以上に十倍、百倍助けてあげれば神様はその人に十倍、百倍の褒賞を与えるのである。

1187 多くの人間は知ってくれなくても、神様に、「あなただけは、私を知らないとは言えない」と言える者は最高の勝利者となるだろう。

1188 皆さんを修練するのは信者にしようとするためではなく、民族を救う愛国者にしようとするためである。

1189 誰からでも接するたびに新しく学ぶ者となりなさい。

1190 み旨の道を歩むときは、両側に父母をおいて侍るようにして共に行かなければならない。

1191 毎日毎日なされたこと、なしたことを父母に報告し喜ばせてあげようとするところに発展がある。

1192 誰でも本部に来るとき、供え物をもってこなければならない。供え物というのはほかでもなく、国を愛した実績のことである。

1193 皆さんの生活には、先生の生活があり愛がある。二人で合わせて蕩減条件を立てていかなければならない。

1194 報告を徹頭徹尾しなければならない。悪いことから先にしなければならない。

1195 生きている種とならねばならない。

1196 父母は子女が父母よりもっと善くなることを願う。子供は親に似なければならない。しかし先生は親として子供に似てみたいほどに愛する。

1197 生活的な屈服で環境的な屈服をさせなければならない。その次は人格に代わる言葉に注意しなければならない。

1198 過去は何かを探すために犠牲と悲しみの道を歩んだが、今は何かをもつためにその道を歩まなければならない。

1199 天下をくれても換えることのできない生活をしなければならない。理念的な生活をしなければならない。

1200 どうでもいいように生きるのはたやすいが、良心のため神様のため生きようとすれば倍以上難しい。

1201 私は名勝地に行っても、それが神様の運勢を中心としてどれぐらい価値があるかという立場に立ってそれを眺める。そして神様の運勢を中心として関係を結ぶようにする。

1202 自分が生まれた地を愛することを知る者は、自分の体を愛することを知る者である。自分の体を愛する人は自分の心を愛する人であり、自分の心を愛する人は神様を愛する人である。

1203 私が稼いで、自分は飢えながらでもそれをその国の人々に与えたとしたら、それは大きな影響を与えるだろう。

1204 何かのことに成功するということは、常に思いと関心をもたずしてはあり得ない。

1205 自信のない人の勝利は偽りの勝利である。

1206 誰かが忠告したら、一〇〇パーセント受け入れなければならない。

1207 決心は良いのであるが、その決心が失敗に終わるときは決心が私を拘束する。

1208 統一教会人が世界に出たときに、現実的な面、生活的な面から我々が必要とされればよい。

1209 過去と未来が連結され得るきょうが何よりも貴重である。きょうこの時間に誇れる何かをもとうと思わなければならない。

1210 誰を中心として好きであったか、それが問題である。全体に因縁を結ばなければ、芽が出て葉が出て花が咲き実を結べない。環境を無視して自分の自慢ばかりするのは滅びることである。

1211 他人に世話をさせる者は病人である。与えるために涙を流す者にならなければならない。

1212 知恵のある人は摂理の時をわきまえていく人である。環境を主として生きるのではなく、時を主にして生きるのである。

1213 時を予言するよりも、その時を私の時として迎え入れる人が、知恵ある人であり世界的な人物になり得る。

1214 私はどのような姿、どのような場において神様に出会うか。これを常に考えなければならない。

1215 鏡を見て自分の顔を眺めるたびに「誰々さん! 君は出発してからずーっとそのまま歩んでいるのか」と尋ねてみなければならない。

1216 環境に引っ張られていかずに、環境を私が引っ張っていかなければならない。

1217 出発したからには、勇ましく最後まで行きなさい。

1218 人生の交差路をすべて打破して、直行道を走る皆さんはどれほど素晴らしく幸福であろうか。

1219 思わないところで因縁を結ぶことはできないし、因縁を結ばないところに関係があるはずがない。

1220 信仰の道を行く人は自慢せず傲慢にならないようにしなさい。

1221 宗家の家の息子や嫁を務めるとしたら楽することができるか。宗家の家の子孫にならねばならない。

1222 現実の我々の内容が世界の何よりも価値があるという自覚がなければならない。現在の無限の価値を感じない人は、未来の無限なる価値を相続することができない。

1223 必ず与えなければならない。先に受けて与えるのは借金を返すことであって与えることではない。僕に対しては自分が食べなくても食べたとして与えるのが主人の立場である。

1224 与えて早く忘れなさい。そうしてこそ天に保管される。

1225 共に歩むとしても、最も成功する人は一人である。皆さんの周囲でも数多くの人が競争している。

1226 生まれたからには負債を残さず、世界に何かを与えていかなければならない。子女に対して父母が残してあげればその子女は死ぬときまで感謝する。

1227 無意味に日々を過ごす者はどこにも必要でない。

1228 入教年限が多いほど摂理的な現実を直視することを知らねばならない。

1229 気持ちの悪いことがあっても、それ以上うれしいことをやれば、すべての気持ちの悪かったことを忘れることができるから救われる。

1230 喜んで会った機会が喜びとして残らないときは、かえって会わなかったことよりも悪い。

1231 願望が遠ければ遠いほど希望は大きく長い。希望が近いところにあれば、それはすぐに終わってしまう。

1232 三人のうち二人が率直であれば争いはない。率直でないそれ自体が審判の基準となる。なぜならば二人でひそひそ話をするのは自分たちとは何の関係もないが、その人が来ることを好まないからである。

1233 良い立場において十の愛をもった人よりも、悪い立場において十の愛をもった人を万民は追慕し敬う。

1234 人が善をつくるのではなく、善が人をつくらなければならない。

1235 生活の中において人に会ったとき、神様を中心として心が合わないときはその場を離れなければならない。環境の支配から逃れなさい。

1236 ヤコブは未来主義者であり、エサウは現実主義者である。

1237 知らない人のために知っている人が精誠を尽くしてあげなければならない。

1238 父母が子女の前で僕の道を歩むのは、子女が父母を分かってくれるときまでである。

1239 根が抜かれたら風のせいにしないで、根を深く張ることができなかったせいにしなさい。

1240 最高の喜びを感じることができ、最高の懐かしさを感じることができ、貴いことと浅ましいことを教えてくれる所は監獄だけである。だから監獄だといってすべて悪いのではない。

1241 監獄においては怨讐がなく友達にならない人もいないので、道(悟り、修道)の教育を受けるならば最高の教育を受けることのできる所である。

1242 生きている時に忠と孝を尽くしなさい。死んだあとに忠孝をすると言って立派な物を供えても、それはずるいことである。

1243 別れるとき寂しい涙を流した人々が再び会ったとき、それ以上に喜びの涙を流すことを知らない人は人間生活を知らない人である。

1244 先生と三代を共に生きれば天下にない功臣となる。

1245 指導をしてみ旨がなされたとしても、時を知らなければ人にすべてを奪われる。

1246 先生の生活の三大指標は、
  ①宇宙主管を願う前に自己主管を完成しなさい。
  ②一つ一つ問うてから行動しなさい。
  ③命令によって行動しなさい。

1247 人の居間に出入りしようとすれば、その家の主人か息子の友達にならなければならない。

1248 喜ばしいことがあったら見上げないで下の方を見なさい。

1249 悲しんでいる人は悲しみでもって蕩減して喜びを迎えるし、喜んでいる人は喜びでもって蕩減して悲しみの方へ行かなければならない。

1250 率直でありなさい! 率直な人は残される。率直な人は環境を継承することができる。

1251 神様をもって立つことのできる装置が心である。心は奪われることがない。心は自分だけが知るのである。

1252 審判官は、法を守りながら闘う人が勝つことを願う。そのような人には勝てる秘訣を教えてあげることができる。

1253 幸福な国のために生きようとすれば、不幸な国のために死ぬことを知らねばならない。


三 カイン・アベル


1254 カインはアベルを通さずに、み旨の道を歩むことができない。

1255 アベルになる内的基準は「天を愛すること」、そして「天の仕事を愛すること」、そして「その仕事のために祭物になること」である。それゆえに、私がアベルの立場にいたら他人が避ける嫌がること、難しいことを全部受けて担当しても、良いものは自分にくれてもくれなくてもいい、という態度をもつことができなければならない。

1256 アベルを立てた理由はカインを救うためである。カインを救うためには、神様から受けたその愛を全部与えると同時に自己の愛までも合わせて与えなければならない。

1257 生活する中においてカイン、アベルを分別しなさい。ぶつぶつ言えばカインである。アベルを中心として団結しなければならない。

1258 アベルがカインを屈服できなかったのが失敗である。三年間は子女の名分を立てるときであり、四年はエサウを屈服させるときである。ヤコブがヤボク川で天使と戦って勝利したように肉的勝利の基準を立てなければならない。そうしてアベルを中心とした地を訪ねて、民族を訪ね、父母に侍って第三イスラエルの祝福を受けなければならない。このような戦いにおいて脅かしたり、殴ってはいけない。アベルが殴る法度があるか。

1259 アベルを立てようとしたら、カインを立てざるを得なかった。カインを立てたのはアベルを立ててアベルを育てるためである。

1260 キリスト教人は内的なカイン、民族は外的なカイン。これからカインを屈服させる仕事を始めよう。

1261 ヤコブと同じようにあずきがゆの知恵を学びなさい。飢えて苦労しても彼らを大事にしなさい。ヤコブが二十一年間稼いだ財産を惜しんだならば、打たれて死んだであろう。私が生きれば子女が生き、僕が生き、物質が生きる。

1262 アベルと祭物は神様に捧げなければならないし、その祭物が受け入れられたあとには、それを父母でいらっしゃるアダム、エバに返さなければならない。すなわち、アベルと祭物はアダム、エバの解放のためのものである。

1263 ペテロ(信仰の使徒)=アダムの立場(カイン)
  ヤコブ(希望の使徒)=イエスの立場(アベル)
  ヨハネ(愛の使徒)=再臨主(セツ)

1264 ペテロはアダムが天地の法度をひっくり返したことを蕩減するために、逆さになって死んだのであり、ヨハネは再臨主の型であるので死んではいけない。

1265 この世はカインの世である。カインが喜んで捧げてこそアベルのものとなる。


信仰生活


1266 信仰生活は、いつも春の雰囲気をもった生活である。

1267 寝ること、起きること、行くこと、来ること、与えること、受けること、全部が神様と共に隔たりなく平和な思いでやりなさい。

1268 統一教会の食口として一番安全な生活方法は、前線ですべての十字架を負って越えていく道である。これが統一教会の信仰の正道である。この路程で孝子、忠臣、烈女が決定される。

1269 我々は、自己の位置、前後関係、カイン・アベルの原則に神経を使わねばならない。

1270 アベルは自分の心配も引き受けたが、人の心配まで引き受けた人であり、カインは自分の苦痛まで人に譲ろうという人である。

1271 アベルになろうとすれば、第一に神様の愛を受けなければならないし、神様と一つにならなければならない。このために神様の思想を身につけなければならないし、伝道地に行ってその思想を実践しなければならない。
  その次には神様の愛を見習ってカインを愛して屈服させなければならない。

1272 カイン・アベル復帰は、互いが自ら進んで苦労しようと言って、涙を流しながら天の前に立つなら問題はない。

1273 神様を中心として、切ない人がアベルである。より少なく寝て、より少なく食べて、より苦労する者には不平を言う者はないだろう。

1274 アベルになるためには、カインの前に三大試練と三大迫害を受けなければならない。

1275 「私」という観念を超越して、贖罪者の使命を果たして善の土台を築きなさい。私は個人であるが歴史的な心情の復活体である。

1276 恵みは動的なので静的な自己をつくって、大きな恵みを受け消化していきなさい。恵みを受けても、節度なくはしゃげばむなしくなり、全部こぼしてしまうようになる。

1277 神様の前に権能よりも知恵を求めなさい。

1278 霊的な役事をする瞬間を飛行機に乗った場合に例えれば、その行く方向(目的観)を正確にして、再び着陸できる基地(自己整備)がなければならない。

1279 立体的な生活に引っかからない人となりなさい。まず霊的な勝利の基台をなしておいて生活しなさい。

1280 信仰よりももっと大きい力はないだろう。なぜか? 神様も一番怖がってみ業をなさるゆえに……真実に信じる信仰は偽を真なるものに変える力をもっている。

1281 人が分かってくれないと言って怒るな。先生は「『苦難』が染み込んだこの地を掘り進んでいったあとに天の宝座の前に出るとき、分かってください」と天のお父様に祈る。

1282 堕落性を脱ぐ道は千万人を全部アベルとして侍ることである。対してあげる価値を分かってもらえなければ、その人の恵みを奪ってくる。

1283 大きな願いをもった者であればあるほど長く忍耐する者である。

1284 恵みは生命の源泉である。

1285 目を覚ますときに見るもの考えること、すべてを神様と結びつけなさい。そうでなければ悔い改めなさい。最初の言葉を神様のために捧げなさい。

1286 悔い改める方法は、心ではなく体を打たなければならない。体を打つためには、体が嫌がる険しい道を行かなければならない。キリスト教は苦難の宗教である。険しい道を行くので、深くない宗教は全部折れてしまう。

1287 罪は歴史を占領してきているが、罪の拠点は人間の体である。肉の欲望を克服してこそ罪悪を退けられる。

1288 体を中心として占領されればサタン世界であり、心を中心として占領すれば天の側である。良心は神様が訪ねてこられる最前線である。

1289 平和と幸福の世界はあとに来るものである。まず、罪をなくしなさい。罪をなくさなければ平和と幸福の世界が追い出される。

1290 誰にもいかに小さなことでも、善なる言葉で気持ち良く接してあげなさい。十度やれば十人が私の味方になる。これが習慣になれば良い。そうすれば自分の信仰基準を失わないだろう。そうすることさえできれば祈りも必要なくなるのではないか。

1291 憂うつな表情をつくるな。常に心を明るくしなさい。平和な心、真実なる心で歩むとき真実と平和が始まるのである。聖書にある愛、恩恵、救いという言葉は実に恐ろしい言葉である。

1292 神様の愛の中には相克はあり得ないし、ただ相和相応のみがある。聖書に、平和をつくり出す人たちは神の子と呼ばれるであろう、というように記録された意味もこのような点において理解しなさい。

1293 恵みがあれば自慢せずに収拾する祈りをしなさい。そして一時間祈ったら三時間は収拾する行動がなければならない。

1294 信仰の道は船(航海)の道と同じである。艪をこぐことを信仰生活にたとえることができる。やめれば直ちに後退するのである。悪の社会ではいかなる条件も信仰それ自体には直接的に助けとなり得ない逆境ばかりである。

1295 私をしかるのは私を相手にしているサタンをしかるのであるから、私も同一なる位置で私を打たなければならない。

1296 堕落性を脱ぐのは従順屈服に限る。人間が神様のみ言に従順屈服にしなかったこと、天使長がアダムに従順屈服しなかったことが罪悪歴史をなしてしまったので、これを蕩減復帰する道は従順屈服のみである。従順屈服は一番嫌なことからしなければならない。

1297 信仰生活が秤と同じであるならば、一日一日の生活は善なる重さを重ねてだんだん高めていく生活とならなければならない。

1298 あらん限りの誠を尽くして、誠の種を蒔けば実を結ぶ。誠を尽くしたものは征服することができない。誠を尽くしたものは誠を尽くした人のものである。誠の基台は決してサタンも奪うことができない。

1299 死ぬとき、最小限度、自分自らを嘲笑しないようにしなさい。

1300 実が実り始めれば花びらは落ちてしまう。同じように心の中に神性が成長すればすべての弱点は落ちてしまう。

1301 自分を主として、自分が動機となるときには五パーセントの責任が必要であり、神様を主として動機となるときには五パーセントの責任は必要ない。

1302 自分たちだけで話し合ってうまくやったとしても、それだけでは絶対に神様の前に出られない。報告と連絡で神様の前に通達され、認定されねばならない。常に神様を中心とした四位基台を造成して働き、生活しなさい。

1303 心の動くままに生活すれば八〇パーセントは当たる。

1304 切ない神様の事情を知る者なら悔い改める前に身をおく場所を失って、自分の足りなさに涙するであろうし、お父様と呼ぶ前に痛哭するだろう。

1305 いくら敵が現れても腹立たしく思うな。「君(敵)は悔しさをもって現れるが、私は生涯の路程の中に勝利の一ページを記録することのできる材料と思って神様に感謝する」という心をもちなさい。

1306 虚偽の仮面の中に自分を隠すな。サタンに攻撃される良いすきまを与えることになる。

1307 私一人においても、私を大切にしてくれる人、私の代わりに蕩減を受ける人、私に反対する人の三つに区分されるのを知らなければならない。

1308 一日の生活が善の側に傾いているかを常に反省しなさい。

1309 恵みは神様の宝座の前にあるのではなく、サタンの前にある。

1310 惨めな位置に落ちて、それ以上下がらなかったら転換する。極と極は遠いようであるが互いに通じる。サタンの後ろには神様がいらっしゃる。

1311 本心が動くとき、これはアベル(善)的であるので、その本心が喜ぶ方向を失わず進んでいきなさい。

1312 自嘆のうめきが聞こえる所がすなわち地獄である。

1313 私が神様を信ずる前に、私を信じてくださった内的な因縁があったので、私が信じたいのである。ゆえに、恐縮し申し訳なく思いながら、み旨に対し信じて、愛して、忠誠を尽くしなさい。もし、み旨を抱いて後悔する者があれば、その人は理想世界で存在基台を探し出せなくなる。

1314 本物の宝は心の中においておくものである。ゆえに、最高の貴い神様を心の中に迎えるのである。

1315 恵みというものは世界を救うために神様が与えてくださる恩徳である。ゆえに、自分だけのものとして考えてはならない。

1316 誠を尽くした以上は欲張るな。

1317 我々は聖地のために、聖殿のために、祝福家庭のために、父母のために誠を尽くそう。

1318 死ぬとしても信じて死に、滅びるとしても信じて滅びよう。

1319 得たものも失ったものも知らない者には、それ以上の勧告は必要ない。我々の歴史は感謝感激の涙を流すところからなされた。

1320 全体の前にプラスになる人とならねばならないし、またプラスになる生活をする人とならねばならない。

1321 善なることをしては絶対に覚えておかず、世話になったことは絶対に忘れるな。

1322 一緒にしようとする心、一緒に集まろうとする心、一緒に一つの方向を取ろうとする心、その心が貴重である。その心を天の前に捧げなければならない。

1323 恵みを与えたのに、それに対する誠を尽くせなければ、その恵みは全部奪われていく。

1324 積善というのは、他人に与えて忘れてしまうことである。自分は思わないが、自分のために祈ってくれる人を多くもてば、その人は絶対に滅びない。

1325 最高の権威意識に上がった個人や社会は滅びるのである。高いところでは下がってくる準備をしなければならない。

1326 皆さんは侍義により救いを受けるということをどのぐらい実感して生活しているか。

1327 信仰の道は生きて死の道を行くのである。

1328 人間は最高のものを願う。

1329 人に見せてあげて「あなたもそのようになりなさい」という意図で誇ることは良いことである。

1330 生死の問題を超越できる力の主体性をもったものが宗教である。

1331 天使長は神様から完全な愛を受けたことがなく、完成したアダム、エバからも完全な愛を受けたことがなかった。そのために、サタンは今まで神様に対して反抗しながらきたし神様もそのように接するしかなかった。敵を愛しなさいという理由がここにある。

1332 神様が完全に捨てるときには、サタンが取る。終わりの日、一番かわいそうな者は、主を信じて従い、主から審判を受ける聖徒たちである。新郎を信じて生きてきて、彼から捨てられた新婦がいかにかわいそうか。

1333 信仰生活は冒険の道である。他人のできないことをしてこそ、歴史的天の系図に残るのである。

1334 信じるということは限界がある。ゆえに、信じることは一体化したあとには必要のない名詞である。

1335 キリスト教信徒が多いと自慢するな。今日のキリスト教信者は、イエス様を乗せて天国に行こうとする者はなく、全部イエス様の背中に乗って天国へ行こうと思う欲張りたちである。

1336 未来的復活の価値を保有する者となるために努めなければならない。

1337 生活は結びつけないで、解きながら進みなさい。

1338 信仰生活は、他人が感得できない中で一人で感謝する生活、一人で満足する生活をしなければならない。そうでないときには、私は罪人であります。私に逃れ得る力を与えてください、と悲しみながら悔い改める立場に入らなければならない。この二つを全部失えば信仰生活をしていくことができない。

1339 新しい心をもちなさい。信仰はいつも楽しくなければならないし、感謝しなければならない。祈って喜んで常に愛がわきいずる心が新しい心である。

1340 信仰の目的は地上で死亡を踏んで立つことである。死に対する意識が少なければ、信仰生活を力強くできない。

1341 死の主人は誰であろうか。そして、生命の主人は誰であるか。世の人たちは普通、生命の主人は知らないと言う。しかし、我々は生命の真なる主人である神様を知って、侍って、死の主人を現実の中で探して征服しなければならない。そうして、死が占領した所を整理して、そこに生命の旗を立てなければならない。

1342 死ぬ瞬間に恨みを残すな。

1343 地上で三人以上の敵をもって死ねば天国に行けない。地上で全部解いて三日以上祈ってあげなければならない。

1344 死と闘って勝利する道を行くのが宗教人である。寝床に就くときにも、これが私にとって最後の病床に横たわる瞬間だとしたらどうするだろうか。そして、朝、目を覚ますときにも、これが私にとって霊界に入って初めて目覚めるときだとしたらどうするだろうか。皆さんは一時も死に対する問題をおろそかにしてはならない。

1345 死は本郷を訪ねていく道である。行く場合に際して何を贈り物として持っていくか。このようなことを一度考えれば寸分たりといえどもおろそかにできない。霊界に行って合格できる人をつくるのが、我々統一教会の教育目標である。

1346 天国に入るためには、最後の談判祈祷を三度はして越えていかねばならない。

1347 我々は「どのようにすれば死亡線の前に素晴らしい勝利の決定をなして越えていけるか」という問題についていつも祈らなければならない。父がいらっしゃる本郷に対してどのぐらい考えてみたのか。我々の原因がそこなのに……。堕落した人間たちは自分自身の永遠なる生命問題を雑巾ほどにも考えないのに、誰が自分を尊重してくれることか。

1348 すべての人は各自の心霊状態に該当する霊界に行ってとどまるようになる。霊界に行けば普通の人は十二の峠の試験を経なければならないし、功労の多い人でも三つの峠の試験を経なければならない。第一、霊界に行けば、地上で自分の一番敵であった者が現れる。第二、歴史的な敵であるサタンが現れて讒訴する。あなたの祖先であるノア、アブラハム、モーセ、イエスがこのように忠誠をし、先生がそんなにもみ言を教えてあげたのに、あなたはそのみ言と一つになって、そのとおりに実践したのか。第三、天使界の試験がある。
  我々の道理と法度はこうなっているのに、あなたはそのような忠臣の道理を立ててきたか。その次に、主の子女の峠を越えるためにイエス様と聖霊との問答があって、これを越えて完成である。

1349 恵みを受けた人がもっと渇いてたまらなくなるのは、体のない霊と同じようなものであるので、実績を立てなければならない。そうできないときには恵みは離れてしまう。

1350 恵みを回復することのできる道は、一度祈ったことを十度以上実践するところにある。

1351 信仰の道には、信仰の真なる友が必要である。互いが支えることができ、愛することができる、そのような美しい姿をもって周囲の人々がうらやましがるようになれば、神様のみ旨は自動的に繁殖されるのである。

1352 信仰者は常に新しい心が生じてこそ発展する。朝も新鮮だから良いのである。

1353 信仰生活は呼吸をするように常に平穏で、正常的でなければならない。そして、信仰生活をするにも、私はこれ以上下がらないという線を引いておいて人に対し、対社会的活動をしなければならない。

1354 神様を病を忘れるほど慕い思えば、病も治る。

1355 先に入ってきた人がカインになることもある。入って間もない人でも、恵みを受けた人ならば、彼を前に立てて時代的蕩減の役事を復帰させることがある。そうだとしても、先に入ってきた人は寂しく思ってはいけない。

1356 罪を治めることができ、自己を平和に保つことができ、サタンを自然屈服させることができてこそ、天の人となることができる。

1357 歴史を抱いて、宇宙を抱いて、涙を流し、汗を流し、血を流さなければならない。

1358 誠を尽くしておいて後悔するのは、愚かなことであり、天法に引っかかる。

1359 先生のために誠を尽くそうとするならば、まず、先生の愛する国と人類のため誠を尽くし、そして実績をもったあとに、先生のために誠を尽くしなさい。

1360 死ぬとき、神様の前に感謝し、このみ旨の前に感謝し、先生の前にみ旨をなさずに行くことを恐縮に思わなければならない。

1361 死に対する恐怖が来るのは、この世でやるべきことを果たせなかったためであり、すべて果たせば何の恐怖も来ない。

1362 礼拝の時間に遅れて出るときには、頭を上げることができないほど悔い改めの心情をもって出なさい。讒訴を避ける道は死ぬほど苦労するしかない。み旨のために死ぬと覚悟し、涙を流すのに対して、誰が讒訴しようか。

1363 皆さんは、み旨を中心として復帰の責任をもってどのぐらいの期間戦ってみたか。この道は先生に従っていこうともがくか、一線についていくために身もだえするか、いずれかがなかったら行けない道である。

1364 朝笑いながら「お父様!」と言って床から起き、夜にまた笑いながら「お父様!」と言って床に就きなさい。

1365 細密な部分まで父と相談しながら生きる息子が孝子である。父母の手を固く握っていかなければならない。

1366 自分を低く見、世の中のすべての罪悪は私によって生じていると思って、これに対して心配しながら痛哀する心をもって、すべての責任をまとめて背負うことができる人となろう。

1367 イエス様を信じることを知りながら、イエス様の心を知らないようであってはいけない。

1368 歴史を支配してきた人間の理念と、天的な理念を一致させるために出てきたのが宗教生活である。

1369 天倫的な創造の理念を生活的な面で実践させるため、六千年間神様は摂理してこられたのである。

1370 怨讐サタンまでも歓迎して恵みを祈ってあげなさいというのが、キリスト教の教えである。

1371 礼というのは前後左右が整っていることをいう。

1372 信仰者は恥ずかしさの涙と、感謝の涙と、喜びの涙のこの三大涙を流さなければならない。

1373 絶対的信仰は運命を革新することができる。

1374 いくら苦労をし実績をあげたとしても、父と共にしなければならないし、自分一人でやればサタンがもっていってしまう。

1375 侍ることによって救われる。それをどれぐらい実感したのか。

1376 家庭のために与え、国のために与え、世界のために与えなさい。

1377 信仰生活の目的は自己完成をなして無限なる愛を感じ、それで無限な幸福を享受しようとすることである。

1378 信仰生活は心情の世界において懐かしさを連結させることである。

1379 一度しかない生涯なのに、なぜ負債をもっていくのか。負債を負わせていかなければ7

1380 自身の環境に勝つ者となってこそ神が共にいてくださる。

1381 罰を受ける人のために、呪わないで祈ってあげなさい。呪えばかえって呪われる。

1382 良心作用の目的は、神様の子女を完全な立場に到達させるためである。良心の安息所を探さなければならない。

1383 統一教会の食口は涙と汗の連結の中に生きなければならない。

1384 良心にすがって生きるのではなく、良心の土台を開発して生きよう。

1385 信仰の道は、立体的な世界だけを中心としては完成することができず、必ず相対的条件を備えて完成される。

1386 神様の前に近い場は極めて恐ろしい場である。

1387 「神様、あなただけは御存じでいらっしゃいます」と言える立場、これは人間の帰結点である。

1388 神様が人類を愛されたとしたら、どのような基準において愛されたのか。考えたことがあるか。

1389 信仰生活の基準はメシヤである。メシヤに似ることが信仰である。

1390 メシヤの受けた涙と痛哭の苦痛を引き受けるために、ゴルゴタについていく道が信仰の道である。

1391 皆さんは、六千年の血統的罪の結実体である。六千年罪悪史の展示品である。細胞には六千年の罪が入り交じっている。これをほどくために悔い改めが必要なのである。

1392 眠らず休まず祈ってゲッセマネの園を守る者となりなさい。

1393 私は死んだとしても一つの部分を残していかなければならない。死んだとしても私の髪の毛一本でも聖殿の近くに落とさせてくださいと言わなければならない。

1394 この地上を離れるとき、何をもっていくべきかが問題である。ただ一つの存在になるためには、すなわちもっていくものを備えなければならない。家庭においてただ一つの存在になるためには家庭の恵みを受け、国家においてただ一つの存在になれば国家の恵みを受ける。

1395 天が私をこのような立場に立たせてくださったのは、天の悲しみを払って買い入れたのであり、天の悲しみを払って交換したのであり、神様の悲しみを払って探し求めてこられたことを忘れてはならない。

1396 私を通して神様を慰めることができないのかと身もだえしなければならない。

1397 あることに当面したとき、それを自分のものとして解決せずに、神様であればどのように解決されるかを考えれば自然に答えが出てくる。

1398 東西洋の昼夜が異なることを考えてみた。皆寝てしまえばサタンが一時に占領するかもしれないから、寝る人を安らかに寝かせるため東西半球をつくったと思われるときもあった。

1399 統一教会に入ってくるときの喜び以上の喜びをもっていてこそ、今のあなたは、正常といえる。

1400 今あなたの心の中心がどこにあるのか! これが問題である。
1401 一週間節約し計画を立てて、食口たちが喜び得る何かを与える日が聖日である。

1402 信仰生活において力が出ないのは、神様の内的な臨在地を決定できないためである。神様の臨在地あるいは臨在点と一致しなければならない。中心に対する関心が宇宙より大きくあってみなさい。神様が離れると思うか。

1403 よく信じよう。よく信じようというのは、子女を愛し世界をよく愛そうということである。

1404 終わりの日の聖徒たちは、聖人たちができなかったことすべてを完成していかなければならない。

1405 率直であるという言葉はまっすぐに治めていくという言葉である。それゆえ率直な信仰者になるためには、心をまっすぐに治めていかなければならない。

1406 弁明することは私が目的とする道の前に何の助けにもならず、関係のない終着点に帰結される。十ぐらいの罪を犯したと見たとき、自分は百ぐらいの罪悪感をもってあえて神様の前に立つことができないというとき、神様は十ぐらいの忠誠として見てあげることができる。そのために信仰者は弁明する必要がなく、より率直でなければならない。

1407 開拓者は打ち寄せる試練と苦痛の前に不平を言わない。それゆえ信仰は人生の開拓であるから、信仰生活において不平を言う人は開拓者でもなく信仰する人でもない。

1408 希望があるところには発展がある。希望がなくなるときは、停止でなければ後退の一路にある。希望がないところには停止があるのであり、希望があるところには発展がある。それゆえ不幸と幸福は希望に左右される。あすの希望に向かって進む信仰者に希望がないとすれば、彼は極めて不幸である。それは言わば皮だけの信仰である。

1409 開拓者がぶつかるすべての事柄は思いがけないことであるから、深刻な立場において判断し分別することを身につけねばならない。

1410 神様が我々に霊的体験をさせるとき、神様が好むからそうするのではなく私をして絶対的な信仰をもたせるためにするのである。所望を連結してあげなければならないゆえに霊的な体験をさせてくださるのである。

1411 絶対的な信仰は自分を肯定する立場ではなく、自分を主張することのできない否定の立場である。信仰生活というのは我々の心の生活だけにとどまるのではなく、その心に感じられた事実が相対的な環境にいかに適応するかどうか、これが重要なのである。

1412 知識は生を支配することはできない。ただ宗教のみが生を主管することができる。

1413 医者になるのは病人を救ってあげるためと同じように、私がイエス様を信じるのは、信じない人を天国に行かせるために信じるのである。

1414 自分のためにやることは良いことであると言う人はいない。他人のためにやるとき、良いことであるという言葉が成立する。

1415 神様の救援摂理は楽な人から救援するのではない。苦労する人から救援しなければならないので信仰者たちは苦労し、貧しく、飢えている人が多いのである。

1416 信仰の生活は私一身のための生活ではなく、売られていった僕の生活と同じである。なぜなら僕は僕の子として生まれたので、僕としての生活を経て初めて主人の認定を受け、その後主人の愛を受けるからである。

1417 信仰は道案内の役割をする。門の前までは案内してくれるが、それだけで部屋に入ることはできない。

1418 神様が行く道は開拓の道であり、信仰者はついていく道である。

1419 信仰の道は長い期間が必要なのではなく、一日が問題であると同時に、その一日の一時間が問題である。

1420 信仰はみ言を通じた神様と人間との契約である。

1421 信仰は飢えのある信仰をもたねばならない。そうして常に不足な姿を自認しながら歩んだら不平不満がない。そうすることによって、指導者が疲れていたら後ろから押してあげられる人になりなさい。

1422 木が枯れるとしても一時に枯れてしまうのではない。枯れるかどうか感覚しないうちにいつのまにか死亡へと押し出されていくのである。信仰も同じである。

1423 涙のない人は正統の信仰の道を歩む者ではない。悲しみの涙、申し訳ないという涙、感謝の涙を流さなければならない。これが心情の土台を開発するのである。

1424 信仰の道においては、頂上から引っ張ってくれる人がいなければ、そばにいて捕まえてくれる人、あるいは下にいて支えてくれる人がいなければならないゆえ、信仰の同志が必要である。

1425 引っ張られていくのではなく先頭に立っていこう。

1426 若いときから深い信仰の土台をもった人は幸福である。信仰生活において一度力をなくしてしまえば、再びその道において蘇生することができない。

1427 信仰の道は心の中で千回万回誓って立たねばならない。頂上の峰を突破するために材料を収集する期間が信仰生活である。

1428 信念を生活を通して実践することが信仰生活である。

1429 命令されたから歩むのではなく、私が自分から行くべき道を代わりに先生が命令してくださるので感謝しますと思わなければならない。

1430 信仰者は打撃を受けるな。打撃を受けるようなことがあったときは、私の時が来たのであると思って謙遜に受け入れなければならない。















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伝 道

祝福家庭と理想天国

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伝 道


一 伝 道


1431 伝道は情緒が先立って万人を引っ張ることのできる心情的磁石とならねばならない。常に心情的な引力をいかに補充していくかを考えなさい。

1432 伝道は第二の私をつくることである。母が、子供を生んで育てるほどの誠を尽くせば問題ないことである。

1433 サタンの墓の中で呻吟する多くの民のうめき声を聞いたことがあるか。そして、彼らを解放させようとする公憤心をもったことがあるか。

1434 善なる人を救おうとする人は多いが、悪なるかわいそうな人を善なる幸福なる人として導こうとする人は少ない。罪悪の歴史が六千年あったので、私は一人の人を捕まえて少なくとも六カ月は誠意を尽くし、伝道しなければならない。

1435 先生が三千里隅々を訪ね歩きながら叫びたかったその心情を引き継いで、代わりに叫ぶ者は誰か。

1436 私を送った神様に、気をもませるような者とならず、「あなたは私の代わりに早く行きなさい」と言える実体となりなさい。このような実体となることが地上での栄光である。

1437 私は常に私の体を爆発させて、ある地域をひっくり返して、そこにお父様に侍る天の土台を建設する覚悟がなければならない。

1438 今の時は、世の堕落した人間たちの、救ってほしいという怨声が天地に響く時である。この声を聞くことができなければ復帰の心情を通過することはできない。

1439 自分の伝道任地に対しては骨と肉が溶けてしまうほどの感性をもたねばならない。「お父様! 私はこんなにも足りません。しかし私が出なければならなくて申し訳ありません」と祈る心情で壇上で語りなさい。自分を中心とせず、天の通牒文を持って出た天の精兵だと思いなさい。

1440 伝道の効果は霊的四〇パーセント、原理三〇パーセント、実践三〇パーセントとして表れる。

1441 伝道の任地では、その町民を全部集め、その町に生きていた霊人たちを全部集めて、その町のための忠誠大会を自信をもってやることのできる、信念と生活姿勢をもって歩まねばならない。

1442 高い木に登ろうと思えば、まず下から上がっていかねばならない。下の方は汚い。同じように一つの村を復帰するためにも一番悲惨な立場から解決してあげなければならない。

1443 自分が汗と涙を流した所から、一握りの土でも復帰しようと考えなさい。

1444 神様が与えてくださったこの期間中に神様の仕事を多くやった者は、これから神様の恵みを多く受けるであろう。ちょうど、学校の成績が自分の一生を付きまとうのと同じように、この一時の功が永遠について回るだろう。

1445 生死の頂点を共に越えることのできる三人を探し出して立てなさい。

1446 目で多く見てあげ、口で多く語ってあげ、耳で多く聞いてあげ、心情で大いに心配してあげ、その人のために多くをしてあげることが人を伝道する秘訣である。

1447 問題は「私」である。地方へ伝道に行ったときも、私は「乞食」として来たのか、「見物人」として来たのか、「主人」として来たのかが問題である。伝道に行くのは、世話になるために行くのではなく、世話をするために行くのであるということを明確に知りなさい。

1448 彼を利用しようとする心をもってみ言を伝えては絶対に道の基準が立たない。真実をもって与えなさい。

1449 かわいそうな人を見て泣きたい心、与えたい心があふれなければならない。このような心をもって伝道し、祈る立場は神様はどうすることもできない立場である。

1450 休むな! 休んでいては必ず地をたたきながら痛哭する時が来るだろう。

1451 できないと言うな。できなかったら無理にでもやってみなさい。必ず道がある。見つけだしなさい。

1452 「活動するな!」、この言葉はすなわち「あなたは必要ない」ということではないか。世の中で一番恐ろしい言葉があるとしたら、この言葉であろう。

1453 私はいない。私は既に罪によって亡くなった私であるので私を埋葬して進め。

1454 伝道ができないと嘆く前に、私自身が心と体が一体化され、万民の前にプラスになる実体となっているかということをまず嘆き反省しなさい。

1455 自分の基盤を築きあげるため、あるだけの誠意を尽くしなさい。そうするために、①み言を与えて、②行動と人格でみ言に対する手本を見せてあげて、③その人をして自分のすべてを直告することのできる心情的因縁を自分と結ぶようにさせ、④彼に信仰の道において忘れようとしても忘れられない数多くの追憶を残させて、⑤彼のために自分が動いたのと同じように彼もそのように動くようにさせ、⑥自分の代身者としなければならない。

1456 伝道がうまくいかないときは、望みを失わず備えておきなさい。時が来るまで誠意を尽くしなさい。そして善なる人を真心から慕いなさい。

1457 万民を救おうとするならば、万民の境遇を理解しなければならない。そのためにはその立場に立って考えなければならない。

1458 心苦しいときには、沈黙しなさい。そして計画を立てなさい。それでできなければ反対作戦も必要である。

1459 家庭はいつでも出動準備をなしておきなさい。先生は太平洋を越えなさいと言えば、死ぬことを知りながらも行く。

1460 こちらに来いと言わずに、こちらから出ていって伝道せよ。

1461 私はどれほど人を愛するために、人を救うために、涙したことがあるか。真なる犠牲なくしては、人を真に生かすことはできない。

1462 自分の親戚と親友から伝道しなさい。伝道は、昔は恵みを奪うためであったが、今は恵みを与えるために行くのであるから反対しないだろう。

1463 伝道するときには、その人の話を全部聞いてあげて、その人の事情を全部受け入れたあとに自分の事情を知らせなければならない。

1464 伝道は接ぎ木する業であるので、その人と、相衝突する要素を全部除去したあとに相通ずる要素をもって伝道しなければならない。その人の全事情、自分の父母や相対者にも言えない秘密を全部吐き出させるようにしたあとに伝道し始めなければならない。

1465 自分が誠意を尽くしたことに対して、たとえ結実がなくても後悔するな。神様のみ業は発展するものであるため、十年、二十年を耐えて誠意を尽くせば発展するようになっている。

1466 職場において働いても「何とかしてこの場までも神様の因縁を広めさせてください」という心情をもって働かなければならない。

1467 帰らなかったならば、もっといてくれたならば何でも与えてあげたい、という心情があってこそ人が伝道され、復興される。自分の救いのみを目的とする宗教は必ず滅ぶ。すべての人と共に救いを受けていかなければならない。

1468 善い祖先をもった人を伝道すれば、自分の祖先の功労がなくても善なる祖先をもった人の祖先の功労が自分に連結される。

1469 一番低い人に対し、一番最高の人と同じように伝道すれば神様も感動なさるだろう。

1470 我々食口たちだけに火をつければ、この民族は回転するようになっている。我々はこの地を自分の地、この民族を自分の家族と思って、民族の前にモーセとカレブのような立場に立たねばならない。

1471 床に就くときも「人類を復帰するための父のみ旨があるのに果たせずして、彼らのために力を尽くせずに寝る自分を許してください」と祈って寝なければならない。

1472 いつ生命を懸けてみ言を伝えたことがあるか。神様の事情、心情、願いをもって相手の事情、心情、願いに訴えるときに感動を受ける。

1473 私が行って伝道すれば神様、私、伝道を受ける人、このようにして三代のみ業がなされるので力が出る。

1474 先生の願いはこの民族と世界が先生と共に涙して泣ける時がいつ来るかということである。

1475 世界を心に抱いて進むのが天の生活である。

1476 イエス様のみ旨を世界的に広めることのできる弟子たちが多かったとしたら、悲惨な歴史は始まらなかっただろう。

1477 一時間伝道しようとすれば三時間は祈りなさい! 人を訪ねていく前に涙を流さなければならない。涙を流す人は神様が共に働いてくださる。

1478 夜遅くても、帰るのか、と思って心配するようになってこそ伝道できる。行ってしまえばいいと思えばできない。何でも与えたいし、食べさせたいようになれば発展する。そして誰よりも引っ張ってあげ、抱いてあげれば導かれる。夜、寝ずに祈れば、夜寝ずに訪ねてくるようになっている。

1479 特に親戚と親友を伝道しなさい。この地上で自分の親戚と親友を伝道しなければ、あの世に行って彼らの讒訴を免れることはできない。

1480 皆さんが先にみ旨の道に入ったことによって、天の門を狭める者、すなわち妨げる者になったか、それとも広める者となったか反省してみなさい。

1481 前線へ伝道に行って、心霊のショックを受け、神様の許しなしに後退するようになれば、後方に来ては絶対に心霊を回復できない。再び前方へ訪ねていかなければ。そして今まで自分が行っていた所より何倍も、もっと悪い所でも自ら進んで訪ねていける決意をもたねばならない。

1482 良心の呵責を受けながらも活動しなければ病気になる。

1483 統一教会に入ってきて伝道を一度もしないで霊界に行けばおしになる。

1484 伝道に行かせたのは蕩減させるための天の恵みである。善い祖先の後孫はサタンもその道を妨げることができない。妨げればサタンが蕩減を受ける。そのために助けてくれるのである。

1485 反対する人三人以上を屈服させておけば伝道は容易なものである。

1486 高い所からは必ず再び下がってこなければならないが、自分の力で下がれなければ伝道した子女を通して謙遜なる立場に下がってくることができる。

1487 三千万のこの民を追い立てて世界伝道に送ることのできる時となって初めて、我々の責任を全部果たしたといえる。

1488 牛も毒草を分けて食べ、屠殺場であることを知るのに、いわんや霊物という人間が自分の死ぬ所と生きる道とを知らないはずがない。生かそうとする切ない心情で対してあげたにもかかわらず、相手が受け入れてくれなければ、彼が築いてきた恵みをすべて奪ってくるし、彼の功労も苦労した者のものとなってしまう。

1489 伝道できなければ道がふさがれる。

1490 イエス・キリストも福音の道を出発するとき、家庭的生活環境、息子の立場、さらには自分の願望までも捨てて十字架の路程を歩まれた。

1491 人を無視するな。尋ねてくる人をいいかげんに扱えば道がふさがれる。

1492 伝えるときに応ずることよりも、伝えようとする心に応ずることのできる人が神様の食口である。

1493 み旨を受けるとき真心から受け入れたように、真心を込めて伝えなさい。

1494 人をしかったなら祈ってあげて収拾し越えていかなければならない。

1495 人に対して関心をもちなさい。愛しなさい。

1496 統一原理で伝道するのは、愛を探す運動である。

1497 生命を懸けて闘ってきた目標は、正しい人を探すことである。いかにして残り得る天倫の人物として立たせることができるか。

1498 あざ笑って与えれば滅びる。与えるにおいては涙で与えなければならない。

1499 歴史が悲しむことは、もっている人が与えることを知らず、学んだ者が教えることができず、見せてあげることができないところにある。

1500 み旨を伝えながらもオーバーを敷いて山の上で眠るようなとき「ああ! すてきな俳優になった。このフィルムが回る日、痛哭する瞬間がいつか来るであろう」と考えなさい。

1501 原理講義は神様の代わりに叫ぶ内情的な事実を講義しなければならない。講義より心情的な位置がどうであるかをもっと心配しなさい。

1502 祝福家庭は聖日は必ず伝道しなさい。

1503 昔、先生についてきながら忠誠を尽くした時と、皆さんを中心として活動する時は異ならなければならない。ついてきた時は霊的基準を復帰する時であり、今は引き受け繁殖する時である。

1504 一年に最小限三人は伝道しなければならない。

1505 死刑囚に一月に一人ずつ伝道しなさいと言えばできないだろうか。我々も何十年たてば死ぬしかない「自然死刑圏内」にいる。

1506 極度に反対する人三人が現れれば、味方になる人一人が必ず現れる。

1507 事業も、伝道のための条件的事業としてしなければならない。


二 信仰の子女


1508 信仰の三人の子女を立てなければ七年路程は無効になる。

1509 信仰の子女――公的な私をつくるための条件。

1510 信仰の三人の子女を立てて群れに加わる者となりなさい。信仰の三人の子女を立てれば家庭型をなすようになる。

1511 皆さんは先生よりも少ない年齢で信仰の子女をもつことができるというのが、いかに恵みであり感謝であるかをよく知らない。

1512 信仰の子女を生かすためには直系の子女を苦労させなければならないし、民族を生かすためには統一の食口たちを苦労させなければならない。

1513 信仰の三人の子女は三大祭物に該当する条件物である。それゆえに信仰の三子女がなくしては、神様の前に復帰されない。

1514 三つの家庭を結婚させてこそ父母の立場に立つ。信仰の三子女を見つけるのが問題である。

1515 信仰の三子女を立てておかなければ、自分の子女を愛することができない。

1516 信仰の子女が直系の子女に腹中から完全に侍るときに蕩減復帰は完全に終わって、サタンは我々の家庭から血統的に完全に切れてしまう。

1517 元来は信仰の子女三人を立てておいて子供をはらみ、腹の中から信仰の子女が完全に侍り得る立場を立てておいてこそ、天国に行ける子供を生むことができる。

1518 アダムの前には侍らなければならない三人の天使長があった。これを復帰するためには、子女を生む前に腹中から侍らなければならない三人の信仰の子女を立てて、絶対に屈服する立場を立てておかなければならない。

1519 信仰の三子女は、①私に代わって死を覚悟し死地に入っていける心情をもたねばならないし、②アベル的子女に腹の中から成婚するまで侍らなければならない。そうしてこそ、その家庭は完全にサタンの讒訴を離れることができる。

1520 信仰の三人の子女は、縦的には神様の前に、アダム・イエス・再臨主型であり、横的にはカイン・アベル・セツ、セム・ハム・ヤペテ、アブラハム・イサク・ヤコブ型である。

1521 イエス様も信仰の三人の子女を失ったので、試練を受けざるを得なくなったのである。

1522 信仰の子女を愛したことを教材として、自分の子女たちに教育しなければならない。

1523 イエス様が亡くなられるとき、三弟子が一緒に死んだとしたら、神様はイエス様よりも先に三人の弟子を復活させ、その次にイエス様を復活させて、イエス様は昇天しないで地上で霊的四位基台をなして聖霊を地上に迎え、み業をすることによって、地上では悲惨な血を流すことなく早くみ旨をなし得たはずであった。この三人の弟子が信仰の子女である。

1524 神様のために涙を流す子女を神様は訪ねてこられる。

1525 父子の因縁が天地の根本である。

1526 子女にとっていくら醜い母だとしても自分の母は一人しかいない。

1527 神様への最高の贈り物は(霊的に)死んだ子女を探してきて報告することである。

1528 三子女復帰は、①霊的には三大天使長を復帰させること、②父母の立場を決定するための絶対要件、③子女を完全な勝利の立場に立て得る絶対要件。

1529 統一教会に入って裏切って去った人たちの責任を、あとから入ってきた人たちは再蕩減しなければならない。

1530 信仰の子女に私の最高のものを与えることができるか。

1531 子女を三人生んだとしても、育てるときは一人を育てるように育てることができなければ心情的な統一を期することができない。

1532 一人に対しても最高の精誠を尽くさねばならない。


試験・試練


1533 試験にかからない秘訣は、私を中心としないで生きる生活である。

1534 私に押し迫るすべての苦難と試練は、それを通じて神様の過去の日々を正しく体恤させるためである。ゆえに苦難が押し迫るときには喜んで感謝しなければならない。それはすなわち、神様が私を愛してくださっている証拠である。

1535 神様は常に愛する子女を先に打って、その次にサタンを打つ。

1536 懲戒は天的な存在基台から離脱するとき(天倫の力を外れるとき)生ずるのであって、神様が直接打つのではない。

1537 ぶつかることを嫌がってはいけない。その範囲が広ければ広いほど勝算も大きい。

1538 善なる立場でありながらも、また打たれる立場(悔しい立場)に立てば、サタンはそれ以上に打つことができない。善でありながら打たれない立場にいれば、サタンは打ってみようと讒訴する。

1539 自分としては誠意を尽くしたのに、指導者が自分よりも劣る者を認めてやって、自分を認めてくれないとき、寂しく思うよりもかえってこのような祈りをしなさい。「お父様! 今私を認めてくださらなくてもいいのです。私のために痛快な笑いができる時に備えます。お父様が喜ばれない立場では認めてもらうことを願いません」。

1540 神様の前に同情を受け、記憶され得る自分になれば、自分を妨げようとする人よりも、神様のみ業が自分に大きく作用するようになる。

1541 このごろ、先生の祈りの題目は「悲惨な中においても耐え忍べる力を食口たちに与えてください」ということである。

1542 一番悲しく口惜しく、無念な立場においても責任をもちなさい。そのような心をもって進めばすべての試験が解かれる。

1543 サタンがいくら試験して寄ってきても、自分を犠牲にさせていけば問題ない。自分を弁明して立つときにはサタンが来る。

1544 宗教が殉教の闘争の中で発展してきたごとく、迫害を受けるときは腐敗しない。

1545 キリスト教は十字架で出発して、行く先々で打たれて血を流した。今日、キリスト教は世界から打たれる立場をとらなければ世界を主管することができない。見てごらんなさい。一番多く倒れたバチカンの丘にキリスト教の宮殿が立ったではないか。

1546 神様の戦法は打たれて奪ってくる。ゆえに打たれようとすればきれいに打たれなさい。

1547 先生は、この手首が何十回も手錠と挨拶した。しかし監獄に入ったぐらいで消える男ではない。

1548 へたばるな! 天理を外れなければ自動的に発展する。死なずに残りなさい。

1549 荒野路程で押し寄せる風を避けようとして逃げれば、荒い鳥のえさとなってしまう。荒野時代を恐れる者はイスラエルではない。

1550 今まで預言者が連続して打たれてきたし、個人が打たれ、民族が打たれてきた。しかし消化できれなければ屈服するようになる。

1551 荒野路程で環境に不平を言うな。私は女子であり、私は老人であり、私はこうであり、ああでありと言いながら、モーセのあとをついていけなかったなら、荒野で死を免れることができただろうか。

1552 創造本然の円満な相対基準と授受作用を結べないところに苦痛と悲しみが来る。ゆえに、悲しみや苦痛というものは、相応の立場を(特に万有の本体である神様に)とらないとき、実存の価値を立てる型を整えることができなくなるので生ずるのである。

1553 み旨を知って満三年を越えるときには大きな試練が来る。ちょうど、三年間主に従っていたペテロがイエス様を否認した立場を、各自が蕩減復帰していかなければならない瞬間である。

1554 サタンはほかの所にいるのではなく、まさしく私自身の中にいるのである。自分というものがあるために猜疑としっとと、過分な欲望と、血気が出てくるのである。自分を殺しなさい。「私」という字がついたものは全部サタンである。自分自身を嘲笑し審判しなさい。サタンはいつも私から一番近い者、一番好むことを通じて侵入してくる。

1555 信仰生活を通して試験をたくさん受けて、そこで勝利の基盤を築き、神様が信じることのできる硬い磐石をつくりなさい。

1556 一年に四季があるように、春の季節のように恵みを受ける期間があり、夏のように恵みが育つ期間があり、秋のように恵みの実を結ぶ期間を経て、冬のような試練が来るのである。したがって試練を有り難く思いな  さい。試練はサタンと我々を分離させるための神様の愛である。試練は冬に当たる期間であるから耐え忍ん  で乗り越えれば春のような新しい恵みを受けるようになる。

1557 倉庫に納めておいた穀物も収穫されることだけで終わるのではない。三度以上皮をむかなければならない。そして、もみすりする途中においてつぶれてしまっては、決して主人のおぜんに上がることはできない。同じように我々の信仰路程においても多くの試練と苦痛の中において、自分を鍛えなければならない。そこで折れてしまっては何にもならない。

1558 光が強く照ってきたら、それに比例し影も深くなるように、恵みが大きいと、その恵みに前後して試練も大きい。

1559 危機を克服するためには、深い信仰と緻密なる計画と実践するだけの信念がなければならない。

1560 「私」という存在は天の悲しみを与えて探されてきたものであり、買われてきたものであり、取り替えられてきたものである。これを忘れるときには歴史的な死亡の波を踏み越えて上がることはできない。

1561 先生はサタンの試験は受けてみたが、真の兄弟の試験、真の父母の試験、真の子女の試験を受けてみなかった。皆三つの試験を全部受けるので、そのような面においては、先生よりも勝っている。

1562 サタンの試験は最高の頂点、十字架上でなされる。この時は神も干渉することができない。

1563 神様が私に従って動き、神様の心情が私と共にあり、天地はすべて私のもとで左右されるという確固たる信念をもって生活してこそ、サタンの侵犯を受けない。

1564 自分自身で自ら条件物と期間を立てて越えていく人は、サタンの試験を受けないで越えていくことができる。

1565 ある人から負債を負えば、その人の僕となる。そうでなければ滅びる。反対しようとしても反対することのできない立場まで行って、そのときに初めて位置を確保することができる。

1566 刺激を受けながらも感じない者はその根が腐っていく人である。

1567 迫害を受ければ縦的に上がる。

1568 自分だけのための願いを抱く者は、暗黒となり陰となる時があるが、大きい願いを抱いて生きる人は何となく生き生きして価値があるように見える。

1569 古い食口の中には、苦労をした事実だけが頭に残って目的に向かっていこうとする力がなくなった人が多いが、このような人たちは死んだ人と同じである。

1570 常に信仰が大きいときには現実が小さく見えるし、信仰が小さくなるときには現実が大きく見えるようになる。

1571 十ぐらいの試練にぶつかれば、百ぐらいの試練を求めなさい。そうしたら反作用として打っていけるだろう。そして、自分が受ける試練以上に悲惨な立場を訪ねていけば神様が支えてくださる。

1572 すべての困難を自分一人で受けていると思うな。神様と共に受けていると思いなさい。そして、艱難(災い)を受けた時に、「父よ! 私の祖先からの過ちに対する蕩減を素直に受けます。以後はこのようなことがないようにしてください」と祈れば蕩減として越えてしまう。

1573 中心の峠と各自の峠を知って必死に越えなさい。

1574 試練、苦痛の路程を歩むためには、全体が私を捨てても私を分かってくれる一人の同志が必要である。

1575 どのような試練場においても勝つことができるまでは、勝利の月桂冠をかぶることができない。

1576 イエス様がサタンを屈服させる方法として「柔和謙遜になれ! 従順屈服せよ! 犠牲奉仕をせよ!」と教えてくれたのである。

1577 勝利者になるためには、第一に物質的な苦痛、第二に人による試練、第三にサタンの直接試練あるいはサタンの代わりに神様の試練を経なければならない。

1578 天と地の試練を克服しなければ善の基準を復帰することができない。第一は環境的な試練であり、第二は人間的な試練であり、第三は霊的な試練である。

1579 木も台風を受けるため根を深く張るように、「サタンの風よ吹いてこい」と言えるようにならなければならない。

1580 イスラエル民族は、エジプトの苦役を離れ自由の道に出てからもっと大きな試練があるということを知らなかったゆえに滅びたのである。

1581 恩恵を与えるのは、より大きな受難の道を行くことのできる道を補強してあげるためである。

1582 麻の上着を着ていたとしても走れば冬も勝つことができる。同じようにいくら難しい立場にいたとしても、常に走る心情があれば困難を克服することができる。

1583 未知の世界を尋ねていく人は最高の頂上に登ってみなければならない。そうしたらその向こうの未知の世界を観望することができるであろう。しかしその頂上まで登るには安易にはできない。受難と坂道を、あるいは茨の道を歩まなければならない。

1584 忍耐と克服は復帰途上の正常的な軌道である。


説 教


1585 説教は、血を流し、涙を流し、汗を流した生活のみ言である。

1586 説教するときには大衆をおいて説教すると思うな。一人をおいて説教しなさい。そこの一人が恵みを受けて涙を流せば全体に響いていく。ゆえにきょうの説教は誰のために霊力を消耗しようとするのか、その対象が確実に決定されていなければならない。

1587 先生は説教する前に、説教のために祈る時間よりも食口のために祈る時間を多くもつ。「お父様! 彼らを引き上げなければならないのに、どうすればよいでしょうか、これでありますか、あれでありますか」と深刻に誠を集中して、心の命令どおりに説教する。

1588 壇上に立つときには、神様が求めていらっしゃったその人に会うために立つ、という心をもって立たねばならない。

1589 教職者として説教を誤ったときには、三倍以上悔い改めて血と汗を流さなければならない。そして恵みを与えられなかったら、ほかの奉仕の方法ででも蕩減して、その代価を支払わなければならない。

1590 特に壇上に立つ人が肝に銘じなければならないことは、話をしてその内容を実践できないときは、実践する人にその恵みを奪われることを知らねばならない。

1591 骨と肉を溶かして、後代に見せてあげる無言の説教を残そう。

1592 説教は刑場に出ていく気持ちでやるのである。「父よ、今立ちます」と涙を流すことのできる場にならなければならない。

1593 教職者は、医者が重病患者を扱うときの心境と同じような心境で壇上に立たねばならない。

1594 人に会うために壇上に立つのである。説教の準備ではなく心情が問題である。

1595 三時間説教しようとすれば、三時間精誠を尽くしなさい。

1596 説教するには、み言の動機が私からではなく神様が動機とならねばならない。神様のみ言を入れられる器とならねばならない。

1597 準備をした説教には加工が加わる。それゆえ説教の題目を先には定めない。

1598 火をつけるときは火がよく燃えつくような紙が必要であるように、説教するとき心情の火をつけることのできる人を探さねばならない。

1599 説教はよくしようと思わないで真実にやりなさい。


祈 祷


1600 お祈りするときの心情は、子供がおなかがすいたとき、乳を恋しがるのと同じくらい切実で切ない心で祈らなければならない。

1601 祈る方法は、①神様の六千年の復帰の心情を私の心情として、②イエス様の言うに言えない心情を理解する心情で、③先生の抱かれているみ旨と、その成就のため切ない路程を慰めながら、④み旨のために出て戦っている食口たちの立場を考えながら、⑤私の反省と私の誓いを中心としてただひたすら祭物となった立場で祈りなさい。

1602 この世でも挨拶をするのにその方法があるではないか。祈りにおいても研究してやりなさい。

1603 祈りはその特定の人のためにする祈りと、また公義のためにする祈りとの二つの種類に大別され、その祈りを当事者が受けないときには、その恵みが自分に来るし、公義のための祈りは審判の時を短縮してくれる。

1604 祈りは深い水がめと同じである。祈りの雰囲気は我々の肉身生活における呼吸と同じようなものである。

1605 天に対して祈るときは、子供が父の前で頼むような純粋な心情で祈らなければならない。

1606 私の心と体を善悪に冷静に分別して、み旨に対して祈りなさい。また、天の前に自分の罪の自覚をして祈りなさい。

1607 今までは、「恵みを下さい」と祈ったが、これからは「私のものを差し上げますのでもっていってください」と祈る時である。

1608 神様を感動させることのできる立場に立ちなさい。おなかがすいたとき、自分を思って祈らずに、神様を思って祈りなさい。「お父様! 今日まで復帰の道を行くために子女たちがどんなにか飢えていたことか。そしてそれを見つめていらっしゃるお父様はいかに悲しかったでしょうか」。

1609 蒼白な顔にも祈りの生活をして霊的な実力を備えなさい。霊界を主管して、原理に精通するようになれば、自信をもつようになる。

1610 主に祈ることを多くしなさい。祈れば一人で生活しても絶対に寂しくない。祈りは呼吸するのと同じである。

1611 たくさん祈れば霊的に明るくなるし、善悪に対する分別力と感性が鋭くなる。

1612 常に祈りの生活をしなさい。往来しながら、み言のとおりに生きることを祈り、父のみ言が血と肉となって動くように祈りなさい。

1613 祈りは私個人のためだとか、自分の家庭のために祈るよりは、人類全体のために祈れば、人類全体が祈ってくれてなした結果が返ってくる。

1614 まず、心の中に平和をなしたあとに祈りなさい。

1615 先生が呼ぶお父様と、皆さんが呼ぶお父様とは名は同じであるが立体性は異なる。

1616 「お父様! 万民に与えてあげたいので、与えることができるようにしてください」と祈りなさい。

1617 神様と私が一体となること、天と地を糾合して、神様に侍ることが先生の祈りの題目である。我々が寝ても覚めても思うことは神様のための一つの主権、一つの人類、一つの国土を立てることである。

1618 祈りは誠を集中させること。

1619 祈りは自慢しに行く時間でなく、祭物を捧げるために行く時間である。私を祭物として喜びに変えてくださいと切に願わなければならない。

1620 祈るときは自分自身を中心として祈らず摂理歴史において願ってきた神様の心情を中心として祈らなければならない。

1621 物質のための祈りより、人のための祈りをしなければならない。物質のための祈りをしようとすれば自己の財物をすべて捧げて、それを条件として祈りなさい。

1622 先生は神様の前に祈った内容のなされることが恐ろしいときがある。祈りが果たされれば神様との因縁はいったん終わるが、その祈りがなされない以上は、神様は統一教会をつかんでいくことを知っているためである。

1623 祈るとき、自分の祈りの声に恵みを受けることができてこそ、それが恵みの源泉となる。

1624 祈祷はまず、私の心を呼び起こし私の心を通して私自身が祈ることのできる道を整えなければならない。そうしたらその上に父と子と聖霊の神性が、我々の心を通じて関係を結ぶことができるのである。

1625 祈祷には犠牲が介在し精誠が介在するのである。

1626 食口たちのために一日三度ずつ祈ってあげなければならない。特に早朝ごとに祈ってあげなさい。

1627 深い祈祷生活をすれば、心霊が明るくなる。

1628 食口たちを診断するためには祈らなければならない。そのようにして自分が真空にならなければならない。

1629 数多くの宗教人と道人たちが呼ぶ「神様」という声より、私が呼ぶ「神様」という声が一番大きいと感じなければならない。「お父様は私の言うことしか聞きませんよ」と言える祈りをしなければならない。

1630 「耐えて生きています」と祈れば力も与えられる。

1631 一度祈って千年間を待つことのできる、そのように精誠を尽くした民族があったか。

1632 最高に孤独な場、最高の冒険的な場において捧げる自信満々な勇者の祈りを神様も好まれる。

1633 与えて代価を求める人となるな。数万年後になしてくださることを祈りなさい。人を助けてあげて記憶しておくな。

1634 精誠を尽くしなさい。精誠を尽くす父母は、外地に行っている子女の不祥事を知る。

1635 実力は一面を照らすが、精誠は中心であるため全面を照らすことができる。

1636 子女の手を握って夫婦が早朝に起きて涙を流しながら祈らなければならない。それが知られるとき伝統となる。

1637 早朝に起きて祈るとき、心臓の鼓動を聞くことができなければならない。

1638 細密に教えられるためには祈らなければならない。一心でなければならない。

1639 祈りが早く成就されるかどうかということは神様の目的と一致しているかどうかにある。

1640 牧会者は説教時間の二倍以上祈りなさい。

1641 祈りというのは率直に報告する生活である。

1642 我々が精誠を尽くしたという立場は、天国に行く出発にすぎない立場なのである。

1643 公席において祈ることをはばかる人が先生である。日常生活に精誠を尽くさない人が、それ以上精誠を尽くした人の前で祈るということは恥ずかしいことである。

1644 精誠を尽くしたものは毒薬よりも恐ろしいのである。

1645 歴史に残る人とは、もともとの素質より以上に精誠を尽くした人である。

1646 人は東西南北のタイプがある。祈りもその人その人の恵みとなる時間が各々違う。


義務守則


1647 十一条(十分の一原則)は選ばれた子女たちの基本道理である。神様の数である一数を捧げることによって九数までも捧げたという条件が立てられ、この十の一数は残りの数よりも、もっと貴重に思わねばならない。

1648 聖日は十一条の日であるので、私の日ではない。ゆえに、神様の命令のまま服従する日なのである。神様のものを私のものとして使おうとするのは罪である。

1649 十一条はすべての面にある。学校も十教室中に一つの教室はかわいそうな子女たちのために無料奉仕の教室として使わなければならない。

1650 私の子女のうち、一人を神様の前に捧げなければならないし、そうすることができなければ、他人の子女でも勉強させて神様の前に捧げなければならない。

1651 教会の十一条生活も食口が十家庭あれば、指導者一人を養わなければならない。そうでなければ天民権をもつことができない。

1652 十人が生きておれば、神様の人一人を扶養しなければならない。

1653 お金を扱うにおいては人格が先立たなければならないし、言行審査が一致しなければならない。

1654 公金は種である。蒔けば実を結ばなければならない。結ばなかったらすべて奪われる。

1655 公金に対して不徹底であれば追放される。見ていなさい。先生は全部知っているが、時を待っている。

1656 先生の財布から出た公金は、勝手に使ったら困る。

1657 全体の前に見本とならなければ置いておかない。見ていなさい。民族的な勝利の基準が来れば清算する。今清算したら、民族の生きる道がないために耐えていくのである。

1658 聖塩は「麹」と同じである。物を買うときに聖別し、外の生活をして家に入ってくるときも門の所で聖別するのが原則である。

1659 聖別したものはサタン世界に分け与えるな。やむを得ないときは左手で与えなさい。

1660 聖別した不動産を処分しなければならないときは地域、地区、協会の三段階を通して許可を受けて処分するのが原則である。

1661 我々食口たちが聖別して入る地で、すべての地を占領していかなければならない。













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四 祝福について

祝福家庭と理想天国

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四 祝福について


祝 福


1662 祝福を受けた神の家庭は、既に恐ろしい名前であり恐ろしい立場である。それは実体と血統と心情に責任もった立場だからである。

1663 祝福家庭は永遠なる祖先であり、これからの誇りの条件は血統と実体と心情のみである。特に実体を誇るためには首から上、すなわち目と耳と口に気を付けなければならない。選んで見るし、選んで聞くし、そして口で消化させて黙っていなさい。権威と責任的位置で判定しなければならない場合以外は全部黙っていなさい。

1664 神様は祝福を受けた群れを糾合なさるが、祭壇、祭物の前で糾合なさる。それゆえに祭客となって祭物の惨状を感じながら、泣きながら立たねばならない。

1665 祝福は安らかな立場においては来ない。苦痛と十字架の峠を越えなければならない。今までの歴史は苦痛は大きかったが祝福は少なかった。しかし終わりの日には苦痛と祝福が正比例する。

1666 負債を負って祝福を受けようとせず、わら一つでもみ旨の前に加えて祝福を受ける心情の準備をしなさい。

1667 祝福家庭が祝福の内容を知らなければ千秋の恨みを残す。

1668 忠孝の道理を立てて讒訴を受けない基盤を築きなさい。その次には烈の家庭を誇りなさい。歴史上に忠と孝の基準は立てたかもしれないが、烈の家庭は見つからなかった。祝福は烈の家庭を立てるためである。

1669 これから皆さんはサタンが讒訴するのではなく、天使が讒訴し、歴代の聖人たちが讒訴するであろう。

1670 祝福を受けた人がたとえ足りなくとも、祝福してくださった神様がおられることを知って貴重に思わなければならない。

1671 祝福を受けた家庭を勝手に批判してはならない。神様の祝福を尊重してあげてこそ我々の歴史が生まれるのである。

1672 ある地方に巡回あるいは訪問したときには、まず祝福家庭を訪ねていき、その次に自分の仕事をしなさい。祝福を受けた人(家庭)はその地方の出入り口である。

1673 祝福家庭に対するとき、常に神様の立場で大事に接してあげなければならない。あとで本人が責任を果たせなければ、接してあげた人がその恵みを受けるようになる。

1674 地域のため真実に苦労していく祝福家庭を冷遇すれば、その村は打たれてしまう。

1675 祝福をなしたのち、それを奪おうとする試練がある。人々が、霊人たちが、イエス様と、神様までも……。

1676 先生は祝福家庭に対しては涙を流しながら祈るときが多い。なぜか? 祝福をしてあげたうえで、分別のため私が切らなければならないことがあるからである。先生は神様の前に面目がない。今日まで導いてきたのは、ある期間で神様の前に公認させるためであった。

1677 先生は皆さんが、もしかしたら統一教会史上に汚点を残して怨讐となりはしないかと心配する。

1678 忠は天使長、孝はイエス様、烈は我々。

1679 正常コースを経ない人を祝福してあげたために支障が多いのを知っている。しかし、皆さんは心情と実体と法度を相続し得る家庭となって新しい歴史をつくらなければならない。

1680 祝福家庭は今五パーセントの責任分担期にいる。したがって先生は試験官の立場であるので当面は敵と同じような立場である。しかし、先生がそうでなかったらサタンが試験をするのでどうすることもできない。

1681 祝福は最高の幸福と不幸が重なった地点である。

1682 祝福の場は神様を売っても解決することのできない場である。

1683 我々は天民である。選民とは神様を完全にはもたない民であり、天民は神様を完全にもった民である。我々は天民であるがゆえに、死んでもサタンがもっていけない。

1684 小羊の婚宴は二人の男女を立てておいて天下を相続させるために祝福を下さる尊い儀式である。

1685 真の父母様は世界をあげても換えることができないし、真の子女は万民をあげても換えることのできない価値がある。

1686 祝福の価値を知っているか。祝福はイエス様と聖霊が復活して、二千年苦労しても果たせなかった基準の上に立てられたものである。

1687 祝福を受ける立場は堕落以前のアダム、エバの立場である。

1688 神様が祝福してくださったのは自分たちのためにではなく、氏族復帰のため、民族復帰のため、世界復帰のため、天宙復帰のためにしてくださったのである。

1689 祝福は良くなれる恵みの基台を築きなさいということである。

1690 蕩減棒をもって打つのはサタンがいるためである。

1691 家庭が不和であればその中にサタンが侵犯する。

1692 祝福された家庭によって横的な世界が出発するのである。家庭がなければ縦的なことのみで終わる。

1693 神様の愛が地上人と因縁を結べる所が家庭である。ゆえに家庭は天国をなす基準となる。

1694 聖婚式は復帰原理を解くことである。

1695 祝福家庭は先生が血を吐きながら、神様の前に訴えたそのような道を行かなければならない。

1696 祝福のあとには大移動の歴史があるようになる。ヤコブも二十一年間で子女と万物を取ったのちカナンへの移動があり、モーセもカナン復帰、イエス様以後にもゲルマン民族の大移動、今からも全世界的な大移動があるだろう。

1697 祝福家庭は統一教会の主人である。

1698 「神様の前に心情の遺業、実体遺業、命令されたみ言を相続いたします」という祈りと生活をしなければならない。

1699 心情には縦――父母、横――夫婦、左右――兄弟の関係がある。

1700 祝福はすべてを引き継がせてあげるものである。

1701 統一教会の生活は尊い式典の連続である。礼拝や敬礼の時間は王に会う時間と比較できようか。

1702 祝福家庭は民族復帰の根本とならねばならない。腐った根に接ぎ木することはできない。

1703 祝福家庭が見本とならない生活をして讒訴の対象となれば、その恨みは千秋の恨みとなる。

1704 祝福を受けたあと破れたら収拾する道がない。人間として行くべき最後の焦点が祝福である。

1705 神様の救援摂理の目的は、お父様の前に養子でない直系の息子を見つけて立たせることであり、その手続きが小羊の祝福である。

1706 先生が経験してみると、神様が与えてくださった祝福の約束は高貴な立場であったが、その約束を受けて神様が導いてくれた所を見ると至賤な所であった。

1707 復帰の道は自分に良いのではなく、あとから従う者たちを良くするのである。先輩家庭たちが貧しくみすぼらしい生活をするのを見て厳かな気持ちをもたねばならない。

1708 先生は、三代にわたってイスラエル民族が荒野に倒れた数ぐらいの家庭たちを選んで、忠誠の標本として天宙に自慢していかなければならない。

1709 祝福を維持し得る方法は苦労である。

1710 願望の中で残していくのは、祝福、ただこれだけを受けるためである。イスラエルの祝福は決して静かに座っていて受けるものではない。

1711 神様の恵みを受けるために、あなたたちは何でその代価を払うのか。「孝子のわきあふれる愛で払います」と言わねばならない。

1712 祝福の地を懐かしく思わなければならない。ヤコブも、死んだのちに自分の故郷に埋めてくれと言った。

1713 祝福の地をもつために我々は世界的な理念をもたねばならない。

1714 祝福は約束であるが、その約束は未来にそれをなした者のものである。

1715 祝福の式は簡単であるが、背後の歴史の内容は驚くほど難しいことがあった。彼が笑えば万宇宙が笑える基準が祝福の基準である。

1716 祝福家庭は第二のメシヤの使命をしなければならない。お荷物になってはいけない。使命を果たせなかったら祝福が災いになる。


理想相対


1717 心情の因縁を通じた伴侶を最高に愛しなさい。

1718 夫婦が因縁を結ぶことは天宙が共に会うことであり、天地が共に会うことである。聖婚した夫婦は各々二性性相の神様の一性を代表した者であり、これからは彼らが子供を抱くときにはアダム、エバが天宙をつかんでいる心情で和しなければならない。

1719 理想相対は主体と一つとなって宇宙を引いていき、天父のみ旨をなす目的のもとで成立するので、自分の平面的な思いのためではなく、み旨を楽しみ、またその理念のために生きることを目的としなければならない。

1720 男子と女子は例えれば骨と肉のようである。男子は神様の身代わりであり、世の骨である。ゆえに威信と節度を失ってはいけない。

1721 理想相対はその動機と結果が神でなければならない。

1722 相対を思慕する前に神を愛し、兄弟と同胞を愛したという条件が立って初めて神様に接することのできる基準が立つ。

1723 新婦は新郎の前で所有権限がないのが原則である。新郎、新婦の理想を立ててきたキリスト教が、最後の日に神様に対する立場において所有の権限や自我意識があってはならない。

1724 六千年歴史以来初めておとずれた復帰歴史路程において、我々は節度と威信をもたねばならない。そして、神様の種とならねばならない。今の時を準備なさって、我々を通して神様の血統を残す予定でいらっしゃる。それゆえに今の時は貴重であれば貴重だし、厳しいといえば厳しい。以後は、復帰の運勢のない路地の突き当たりのような時になることを知りなさい。

1725 個人を立てる目的は一段階前にある家庭を立てようとする天的なみ旨があることを多くの道人は知らなかった。ゆえに家庭的な祝福があるようになれば、その祝福の目的は国家復帰にあることを知らねばならない。

1726 イエス様は三十三歳まで独身で過ごした。統一原理を知っている皆さんも、どんな所においても男女問題は神様が安心することのできる者とならねばならない。


家庭・家庭生活


1727 愛の法度は、相克に侵入されるのではなく、かえって相克を支配することができる。

1728 家庭における日常生活も正分合の現象を具現する。朝別れるときも喜びで別れ、夕方会うときも喜びで会わなければならない。また帰ってきては、その日なしたことを妻と子供たちに話して聞かせ相談して直すようにしなさい。

1729 愛で連結させ、笑いで全体を連結させなさい。そして夫婦の間でみ旨のために話をしてもこれ以上は秘密に保とうとすれば、それは永遠に秘密として保ち得るそういう夫婦とならねばならない。今までのこの世の夫婦はそうではなかった。

1730 子女たちが、我が父はいい! 我が母はいい! 父さんと母さんが喜ぶのを見てうれしいと言って誇れる、そこが子女たちの安息の巣である。

1731 妻に対して怒ったり、子供に対してむちを加えたなら、謝ってその何倍も愛してあげなければならない。

1732 祝福家庭が総合して新しい歴史をつくらなければならない時が来た。六〇年代は個人の十字架を負う時であったが、七〇年代は家庭的十字架を負っていく時である。自分自身を中心とした「父母の日」、「子女の日」、「万物の日」、「神の日」を自分の氏族を中心として見つけなければならない。これから家庭を導いてイスラエルの地を訪ね、勝利の決定権を立てなければならない。

1733 祝福家庭は神様に侍る生活において手本とならねばならない。聖日と一日が来るのを、体と心を整えて待つ生活をしなければならない。

1734 まずは父母様の前で子女として孝を尽くし、大きく成長しては夫婦として烈を感じる。これが内的な情的な舞台であり、外的基盤として表れるときは忠の秩序として表現されねばならない。

1735 子女を生んでから誠を尽くそうと思わないで、子女を生む前から誠を尽くさねばならない。子女の手をつかんで、夫婦が朝早く起きて涙を流しながら祈ってごらんなさい。

1736 父と母がどこかへ行っていないとき、その子女たちが父母を慕いたたえることができなければならない。昼でも夜でも不快な顔を見せず、笑いながら起きて働き、笑いながら床に就こう。

1737 夫婦の仲のバランスが傾けば心情と誠で補う誠実性をもちなさい。

1738 父母の心情で生活する者はそこに雑草が生えない。

1739 孝子は父母の心情をもった者である。この世的な知識と地位が問題ではなく、ただ一つ、天の心情を所有したかが問題である。

1740 これからは父の直接の主管のもとにいるので、すべてを父と相談してなさねばならない。そうするためには自分は公的な存在であることを知らなければならない。それゆえ、個人的な苦痛と幸福を無視してでも公的な苦痛と幸福に参与しなければならない。

1741 一番無難な道は同情を受ける立場でみ旨の道を行く道である。そうするためには神様が与えてくださる生活水準以下の生活をしなければならない。

1742 祝福を受けて生んだ子女たちが苦労するとしても、その子女に調子を合わせて遅らせてはならない。神様と世界と国の運勢に拍子を合わせて生活しなさい。

1743 世界の人々が韓国の祝福家庭を訪ねてくる日が来るだろう。その時に見せてあげるものがあり、語ってあげる言葉がなければならない。礼拝の日には、子女たちがうらやましがってついてくるように、夫婦が仲良く教会へ行きなさい。

1744 真新しい布団の上に夫の友達が泥酔して、靴を履いたまま寝転ぶとき、あなたはどんな顔で彼に対するか。寛大に思って、かえって有り難く思いなさい。その友達は夫をそれほど信じているのである。

1745 涙なしに生きる家庭はみ旨とは関係がない。

1746 報告して許可を得た生活でなければ、命令のままに生きなさい。

1747 祝福家庭はどのように生きるという生活基準を定めるな! 今、直ちに行けと言えばどんな所にでも行くことができなければならない。先生が行く先々に関心をもちなさい。今度の世界巡回をするとき、先生のために誠を尽くせなかった家庭は引っかかる。

1748 情的な最高の祭物が夫婦である。

1749 復帰過程の標語は父母と夫婦と子女である。これから父母の愛を立てる時が来たし、兄弟を愛すべき時が来たし、民族を立てて忠臣を探し立てなければならない時が来た。

1750 先生は夢うつつの境においても目が覚めればすぐ腹ばいになる。父母の心情を知った立場にいる先生が平安に休むことができようか。子女を育てる父母の心情をもって生活していけば絶対に良心の呵責は受けない。
  真なる孝子とは、父母の一番困難な部分を相続して万事に自信をもって臨む者である。

1751 孝子とは細密な面まで相談して生活する。孝誠からすべてを学んで進みなさい。

1752 み旨のために死の場へ夫が出掛けていくのを妻は喜び、またそのような道を妻が行くのを夫が喜べる心情的因縁を神様と結びなさい。

1753 父母の立場に立つ者は、子女たちが考えていない点を考えなければならない。

1754 男性は真の父の分身であり、女性は真の母の分身である。ゆえに夫が妻を無視すれば真の母を無視するのであり、妻が夫を偽れば神様を偽ることになる。

1755 先生が民族的な責任を果たすとき、皆さんはそのことに同調して、同時に自分たちの家庭を探し立てなければならない。民族はあるけれども、皆さんの家庭がなければ孤児の悲しみを味わわなければならない。

1756 イエス様が神様に対して「神様は私の父である」、そして人類に向かって「私は新郎であり、あなたは新婦であり、私の兄弟である」と言ったのは神様を中心とした家庭を立てるためであった。

1757 父母の心情は息子が自分より素晴らしくなることを願うのである。神様も人類の父母でいらっしゃるので、御自分が造られた人間が御自分より善くなることを願われるであろう。

1758 夫婦が一体となるのは家庭が一つとなるためであり、家庭が一つとなるのは父母様と一つになること、父母と一つになるのは氏族と一つになること、氏族と一つになるのは民族、国家と一つになるためである。

1759 公的な日を思慕する心をもたねばならない。このように伝統を立てておいてこそ、後孫たちの生活的伝統を立てることができる。公的な日は神様が喜ばれる中で互いが分け与え、楽しく過ごさなければならない。この日は家庭を中心にして天的法度を立てていく日である。

1760 民族がうらやましがる家庭、世界がうらやましがる氏族の家庭となることを願うことが父母の心情である。

1761 真なる天の家庭をつくる前には、真なる愛の世界は訪れない。我々は神様の中に深く潜んでいる御自身の愛に接する資格がないことを痛感して、神様の愛が慕わしくて行く歩みを催促しなければならない。

1762 神様を抜かしておいて先にやろうとするな。

1763 最後の単位は家庭である。家庭を中心とした教会、家庭を中心とした国家にならなければならない。祝福家庭は新しく誕生したアダム、エバと同じ立場である。家庭ですべての天的規範を立てて生活しなければならない。

1764 朝、夫と口喧嘩をしたときにも、夕方夫が帰ってくるときには、いつそんなことがあったかと言わんばかりに微笑で対しなさい。家庭は神様が通過なさろうとする関門であり、イエスや聖霊が通過しようとする関門であり、全人類が通過しようとする関門である。それゆえに、その関門は平和でなければならないし、幸福でなければならない。

1765 個人、家庭、氏族、国家から歓迎を受ける家庭となって、初めて家庭的に天宙主管を復帰することのできる道を出発するようになるのであり、その時がちょうど「家庭の日」が立てられる時である。

1766 イエス様が家庭を中心として氏族、民族を復帰しなければならない使命は子女の立場でなさることであった。我々は子女の立場で民族の基盤を築かなければならない。

1767 我々は長男の家(本家)であるので訪ねてくる人たちを食べさせる責任がある。昔、先生が夜寝ず、食口たちに対していたことを祝福家庭が代わりに責任をもたなければならない。

1768 原因があって初めて結果がある。我々が手本となり種となって子女たちを教育しなければならない。子女たちは父母の内的生活、外的生活の反映体である。

1769 子孫の前に恥ずかしい者となってはいけない。

1770 毎聖日、神様の前に敬拝するのをこれからは家庭ですべきである。

1771 朝の敬拝式は神様の前に生活を報告する儀式である。

1772 毎日曜日は子女たちが一番慕う日にならなければならない。夫婦が定めた時間に共に喜びの環境の中において、子女と共に迎えることができるようにしなければならない。

1773 侍る生活、子女を育てる生活、み旨を大切にする生活のため、家庭の三位基台同士が相談しながら生活しなさい。

1774 子女を愛するときには、個人的に愛するな。父母様の前に孝行し、理念の前に忠誠を尽くし得る子女として育てなければならない。そうするために私の子女たちは間違いなく忠臣、烈女、孝子、孝女になるという確固たる基盤をつくっておいて、初めて天国生活をすることのできる立場に入ることができる。

1775 先生は家庭復帰のためにいかにしたか。アダム家庭、ノア家庭、アブラハム家庭、イエス様の家庭の基準を立てておいて、その基準を通過した者を養子とした。四十年制限された期間内に、このすべてをなさなければならないので、いかに忙しく切ない心情であったか。このために最高の難しい環境の中においてもすべてのことを収拾してきた。このようにしてなされた統一教会であり、このようにしてなされた家庭である。

1776 私の身は既に父のものであるので(コリントⅠ三・一六)善なる場所でなければ行くことを慎み、善なることでなければ行ってはいけない。

1777 私を立ててくださった神様が悲しくて涙しないように常に祈りなさい。

1778 私たちは神様の息子、娘となるために、神様の国を支配するために、神様と共に生きるために統一教会に来たのである。

1779 孝子、孝女の道理を尽くす子女をもったら、サタンが屈服するのが原則である。(孝子、孝女の道理を尽くすアダム、エバと神様が一つとなったところは、サタン、天使長が屈服しなければならないところであるから)

1780 祝福を受けた食口として自覚するときが来た。これからは愛で対するときでなく法で対するときが来る。

1781 妻は情緒生活に負債を負ってはならない。夫に対して関心をもちなさい。

1782 妻が夫を操縦し得る方法は、み旨に徹底して先に立つ道しかない。

1783 情緒生活をおろそかにするな。夫の表情、衣服、体に対して関心をもって、化粧をし、笑顔をもちなさい。

1784 天情がとどまることのできる最高の起点と終点は家庭である。

1785 家庭の父母より国家的な父母、それより世界的な父母、それより天地の父母を大切にするのがもっと大きい孝の道である。

1786 この世で貧しく生きたとしても、天、地の理念をもって生きる人は一番恵まれた人である。世の中のものは変わるが、天と地は変わらないので天地の理念をもって生きるのが一番の恵みである。

1787 皆さんはみ旨の前にいかなる子女を養成して、いかに奉仕すべきかを考えなさい。

1788 良心の苦痛を受けて生活するのが最高の悪であり、自己自身、家庭、民族、国家、世界、神様まで滅ぼす者である。

1789 家庭の権威を立てるためには個体の権威を立てて、個体の権威を立てるためには、み旨に対する権威意識を高めなければならない。

1790 真の孝子とは、サタンに手渡したとしてもサタンは手を着けることができないで、あなたが言っていた孝子に間違いない、とサタンが神に言うことができてこそ真の孝子なのである。

1791 先生の家庭を中心としてカイン・アベル復帰の実践生活をしなければならない。

1792 子女たちがこのような面において、自分の父が第一である、自分の母が第一である、と言えるものを持たねばならない。

1793 夫婦は年を取っても昔の因縁を基準として、一生の間ひたすら変わらぬ愛を感じて生きなければならない。

1794 夫婦の間で子女が生まれるとき、心情的な一致点において生理的一致点を兼ねた立場において生まれれば最高である。

1795 家庭をもってからは、以前より三倍以上の感謝する生活をしなければならない。

1796 子女は言葉を語らずに父母を指導する師である。

1797 子女は父母の心情を探って自分を中心において働く者である。
1798 父母が子女に「神様を知る人となりなさい」と言えば、これは最高の教えである。

1799 宗教の最高の目的は真なる家庭建設にある。

1800 家庭は三代が伝統を立てなければならない。

1801 家庭は天国の母体であり、理想は愛にある。

1802 妻は夫を自分の父以上に愛さなければならない。夫はこの世の人が妻を愛することより劣ってはいけない。どんな孝子が母を愛するより以上に愛しなさい。子供が母を愛するよりもっとその妻を愛しなさい。妻はまた子供たちが父を愛するよりもっとその夫を愛しなさい。それが理想的家庭である。

1803 祝福家庭の三位基台は一カ月のうち三週目以内に連絡し合いなさい。三家庭を中心として生活しなければならない。

1804 復帰された家庭の中心は神様である。統一食口の願いは復帰の家庭である。

1805 六千年間神様は家庭を探すために摂理してこられた。この家庭といかに関係を結ぶかを教えてくれるところが統一教会である。

1806 本来アダム家庭は宇宙に影響を及ぼすことのできる家庭としてつくったのであって、影響を受ける位置につくったのではない。習慣的世俗的家庭であってはならない。今はこうでも将来においては良くなるだろうと言ってはならない。既に完全な家庭でなければならない。

1807 男子は主体である。主体は中心に立たねばならない。位置を守り得る中央に立たねばならない。これが神様の代わりの位置である。家庭が不和であれば男子が責任をもたねばならない。

1808 我々統一教会が世界歴史に伝統を残さなければならないとすれば、天宙の前に一致され得る家庭の基準と伝統をいかに残すかそれが問題である。

1809 忠臣は民を泣かすことができてこそ忠臣である。善王は万民から有り難く思われてこそ善王である。神様の願い、先祖の願い、自分たちの願いに合致する家庭とならねばならない。

1810 祝福家庭はすべての人々の願望の的である。しかし祝福を受けておいて、そこに負荷された責任を果たせなかったら落第である。

1811 自分たち夫婦は去ってしまっても、天道は残していかなければならない。

1812 霊通者たちが家庭を攻撃するのは悔しい。皆さんが基盤を整えておいてこそ先生が霊界に行って家庭編成することができる。霊界を地上に動員することのできる責任は皆さんにある。

1813 三位基台は生活も一緒にしなければならないし、生活感情も同じくしなければならない。

1814 三位基台は原則としては一つの家庭が三家庭の責任をもち、二つの家庭は出ていって仕事をしなければならない。

1815 神様が摂理される最後の基点は家庭である。怨讐の中においても最高の怨讐は愛の怨讐である。

1816 神様において最も近い立場は長男の立場である。

1817 統一教会が偉大であることは、すべての問題を「家庭」を中心として結論づけたということである。平常時の個人、家庭の生活過程が、最後の勝利の基礎とならねばならない。

1818 喜びと幸福は神様の愛と一致するところにおいてしかない。すなわち父母の喜びは子女から始まり、子女の喜びは父母から始まる。

1819 家はすべての因縁の始まりであり、終わりを終結させることができる所である。

1820 父母の事情と自分の事情が重なったとき、父母の事情が先に解決されることを願う心をもっている人は孝子である。

1821 個人は客車と同じであり、家庭は機関車と同じである。個人において失敗すれば復帰することは簡単である。家庭において失敗すれば破綻である。

1822 我々においては家庭が出発である。呼吸する穴(空気穴)のようなものが家庭である。

1823 孝子は笑うとしても父母の顔を見ながら笑わなければならない。















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第一章 創造理想と男女の愛

祝福家庭と理想天国

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第一章 創造理想と男女の愛


  

第一節 創造理想と人間の堕落

  

第二節 真の男女の愛

  

第三節 真なる結婚と真の愛

  

第四節 愛を中心とした終末の現象




第一節 創造理想と人間の堕落


1、神様のみ旨と四位基台完成


 多くの人たちが神様のみ旨について語っています。しかし、この話は簡単なようで、いざ「神様のみ旨とは何か」という質問を受けた場合、答えるのは非常に難しいものです。

 また、今日まで多くの信仰者が「神様よ、み旨を成さしめ給え」と祈ってきました。そして神様のみ旨を成すために現在、私たちも信仰生活をしています。しかし神様のみ旨が何であるかもよく分からないのに、神様のみ旨が成されることを祈り、またそのみ旨のために信仰生活をしているというのは、一つの矛盾だと言わざるをえません。

 それでは私が神様のみ旨に対して定義をしてみましょう。私は、神様のみ旨とは「創造理想を完成すること」だと定義を下します。

 それでは「神様の創造理想を完成する」ということは何でしょうか。それは人間の理想を完成することです。言い換えればアダムとエバを中心として、全被造世界が神様のみ旨の前に一体となり、アダムとエバの理想を完成することです。統一教会の言葉を使って言うならば、神様のみ旨は四位基台を完成することです。(1)

 統一教会で見る神様のみ旨、すなわちレバレンド・ムーンが知っている神様のみ旨とは何でしょうか。それは神様が宇宙をつくった創造理想、すなわち創造目的を完成することです。神様はすべての被造万物を創造するとき、必ず目的をもって創造されたので、そのような神様の創造目的を成すことが神様のみ旨です。その目的の中心は誰でしょうか。アダムとエバでした。それゆえに私は、創造の理想を実現すること、すなわちアダムとエバを中心とした理想を実現することが、神様の創造目的だと見るのです。

 では、その理想実現とは何でしょうか。それはまさに四位基台を成すことです。四位基台とは、神様を中心とするアダムとエバが、神様の愛の圏で離れようとしても離れられないように完全に一つとなり、理想的な夫婦となり、彼らが子女を繁殖することによってつくられる神様中心の家庭の基台をいいます。この四位基台が造成されれば、神様を中心としてアダムとエバが夫婦の愛で一体となり、神様の愛の圏から離れられなくなります。(2)

 神様の創造目的とは何でしょうか。アダムとエバをつくったのは、ただ見るためではありません。男性と女性をつくったのは、男性は男性として、女性は女性として年老いて死んでいくためではありません。彼らが成長し、互いに異性に対する相対的な心情を通して、神様を中心とした人類の真の地上天国を建設するようにするためでした。神様を中心とした愛の巣をつくるようにするためだったのです。ここにおいて男性であるアダムは天を代表し、女性であるエバは地を代表します。それゆえ彼らは二人ですが、彼らが横的に一つになれば、天と地が統一されるのです。神様の愛を中心に二人が統一されれば、天宙は自動的に統一されるのです。(3)

 神様はアダムとエバを創造されたその時点よりも、彼らを通して開かれる未来に、より大きい願いを置かれました。最も貴いものが来るようにしました。それは創造目的を完成することです。愛を中心とした四位基台を完成することです。(4)

 神様は個体の性稟を中心として、プラス的性稟の代表として息子であるアダムをつくられ、その息子を最高に愛されました。その息子を愛するのに、(男性的な愛だけでなく)、女性的な愛を合わせて愛されました。また娘であるエバを愛するのにも、男性的な愛を合わせて愛されたのです。

 このように分立した二人が一つになることによって、第三の出発の起源が生じるようになるのです。言い換えれば、第一相対の因縁を中心にしてアダムとエバが相対的に結合すれば、結合したこの新しい愛を中心にして出発の動機が現れるようになるのです。それが子女です。ですから子女はより新しい希望を触発させてくれる愛の対象であるというのです。

 アダムとエバは神様の愛と父母の愛を代身した実体として生まれました。したがって、彼らの息子・娘を神様も愛し、アダムも愛しエバも愛するのです。皆さんは三対象目的ということを知っています。その三対象目的はこうして成就されるのです。(5)

 人間に対する神様のみ旨は、創造目的を完成して創造理想を実現することです。創造理想実現は男女が結婚し、愛によって一つになることで終わるのではありません。そうなった後には息子・娘をもたなければなりません。なぜそうかといえば、天地の道理は上下、前後の関係が連結されるものだからです。きのうがあればきょうがあり、きょうがあればあすがあるのです。(そのように)連結されなければなりません。ですから夫婦だけでは、きょうはあってもあすがありません。あすがなければすべてが終わってしまいます。夫婦が上ならば下(子女)がいなければなりません。下がなければ終わりなのです。そして天地の道理には、上下があり、左右がありますが、夫婦が左右となるのです。

 そして父母はその息子・娘たちを結婚させてこそ、父母の責任を果たしたといえるのです。息子・娘が結婚して初めて、夫婦である父母と上下関係が成立するのです。上下関係が確立してこそ理想が成り立つのです。左右としての夫と妻が一体となっても、上下関係としての父母と子女がいてこそ、縦横が連結され、宇宙の理想的球形世界を実現することができます。またここに兄弟姉妹がいて初めて球形が生じます。そして理想実現(創造理想)を完成するようになるには、横的にも縦的にも連結される十字的球形を描かなければなりません。その二つの理想実現圏を男性と女性が感じるようになるとき、初めて、(その男性と女性は)おのずから理想的な位置で生きているということができます。それは何でしょうか。統一教会でいう四位基台です。それゆえに創造理想完成は四位基台完成だという言葉が出てくるのです。(6)

 人は自分だけにとどまってはいけません。自分から三段階を経ていかなければなりません。これが「私と相対と子女」なのです。神様を中心とした「私と相対と子女の関係」、これが四位基台です。そしてこの四位基台を完成することが神様の創造目的なのです。(7)

 統一教会の原理でいう創造目的完成とは人間にとっては四位基台を完成することですが、父母が愛で一つになり、神様の愛が臨在することができると同時に、その神様の愛が父母を通して子女に伝達される絶対的な愛でなくては、四位基台は完成されないのです。天から始まったすべての出発の順序に従って、私たちの「家庭」という中間駅を通して、子女に間違いのない系譜で愛が伝承されてこそ、神様の四位基台が完成されるのです。そのためには(私たちがすべての人に)神様を善なる神様として教えてあげなければならず、愛することを教えてあげ、女性としては夫を愛することを見せてあげ、子女を愛することを教えてあげなければなりません。夫としては神様を愛することを教えてあげ、妻を愛することを見せてあげなくてはならず、子女を愛することを教育で見せてあげなければなりません。これを統一教会では三対象愛の目的完成といいます。(8)

 人間始祖を通しての神様の理想は何だったのでしょうか。神様の理想は理想的な男性と理想的な女性が結婚して理想的な家庭を完成することでした。それでは理想的な家庭を成す中心は何でしょうか。それは男性でもなく女性でもありません。家庭とは結局、父母と子女、夫婦の結合によって成される一つの束ねで、その結ばれた中心は何かといえば、まさに神様の愛です。神様の愛を中心にして夫婦が結婚し、神様の愛を中心にして家庭を完成させることが神様のみ旨であるとの結論が出ます。(9)

 神様を中心としてアダムとエバが完全に一つになったならば、それは相対的な立場で絶対者と一つになる(という)ことなので、そのアダムとエバの愛は絶対的な愛なのです。その絶対的な愛の圏内で生まれた息子・娘は、その絶対的な愛を通して愛を受け、絶対的な愛の圏内にいるのです。

 絶対的な愛の圏には、矛盾や相反がなく、(そこに)順応することのできる位置に立てば、絶対的愛がともにあり、愛の支配を受けるようになるのです。

 そのような意味で、息子・娘は平和な愛の垣根の圏内に育つようになるのです。そのような息子・娘として育つので、そこに造成されるすべての雰囲気は、父母から、あるいは子女から、調和し和動することができ、互いが神様の愛を讃揚することのできる位置になるのです。これが統一教会でいう四位基台基準です。

 このように四位基台基準が成されれば、すなわちお母さん、お父さん、息子・娘が一つになるならば、絶対的な愛の圏が形成されます。この愛の絶対的価値を、立体的に絶対化させることのできる圏が天国となるのです。(10)

 四位基台を造成するには、まず夫婦の心情を経なければなりません。そうしてこそ子女の心情をもつことができ、父母の心情をもつことができます。(11)

 神様の創造理想は人間始祖であるアダムとエバが善なる子女を繁殖して、神様を中心とした一つの世界をつくることでした。(12)

 神様のみ旨とは一つの愛を中心とした家庭理想、すなわちサタンが讒訴できない家庭をつくり、神様の氏族、民族、国家、世界を建設することです。(13)


2、愛を通した創造理想実現


 神様がこの世界を創造されたのですが、私たちが神様に、何ゆえにこの世界をつくられたのかと尋ねるならば、神様は間違いなく「善のため」と答えるでしょう。「善」すなわち喜びのために、喜びを得たいがために、神様はこの世界を創造されたというのです。

 それでは善い状態、すなわち喜びはどのようにして得られるのかといえば、愛の形態を通して得られるのです。ですから神様は愛の実現を通して喜びを得ようと、この世界を創造されたとの結論を私たちは得ることができます。

 愛の実現のためにこの世界を創造された神様であられました。人間と万物が神様の愛を中心に一つとなり、和気あいあいとした愛の関係を築くのを見て喜ぶために、そして人間が神様の愛を中心に一つの真の夫婦の因縁を結び、一つの真の愛の家庭と氏族、民族、世界を成すのを見て喜ぶために、そして、そのような人間と愛で一つになることによって愛の喜びを味わうために、被造世界を創造された神様であられました。まさにそれが神様の創造の理想であったのです。(14)

 神様の夢はただ一つ、愛の理想を実現することでした。ところが愛の理想の実現は、神様お一人では果たせないのです。愛とか幸福、喜びなどは一つの個体のみによって成り立つようになっているのではありません。相対圏がなくては絶対に成立することができないのです。(15)

 神様は絶対的な存在ですが、愛の相対となる存在がなければなりません。神様の愛の相対者はまさに人間なのです。神様の愛の相対者としての人間が、完成した愛をもって神様の前に現れるとき、神様は幸福の神様、喜びの対象を得た神様となるのです。(16)

 宇宙は必ず授け受けする道理になっています。高くなれば下がらなければならず、受けたならば与えなければならないので、絶対的な愛、絶対的な主体となるには、より相対的位置に立たなければならないのです。

 ですから主体としての絶対者は、必ず相対のために理想を追求せざるを得ません。世の中でどんなに素晴らしい人がいても、世界的に権威のある学者、芸術家、政治家、聖人、すべてがどんなに高い位置にいたとしても、一人では喜ぶことができないのです。喜びとは相対的な要件を整えた位置において可能なことなのです。(17)

 神様の喜びはどこに現れるかを考えてみましょう。神様は絶対者なので終わりだとすれば最高の終わりです。また限界線の中心として立っているので相対的な面を追求せざるをえません。

 太陽が照ればある物体を中心として必ず影が伴います。これと同じように私たちは考えることができます。主体となるその方は高いもののために与えるより、相対的な低い万物のために与えたいのです。

 それゆえに、天地万物をつくったのはまさに神様の理想を実現するためだったのです。理想実現の対象は万物から動物、人間まで連結されるのです。もちろん自然も含まれますが、神様は小さいものから大きいものへとつくり始められました。

 ですから小さいものは小さいなりに神様の一部分の対象になるのです。ゆえに絶対的な神様には、相対的要件として小さいものが、愛することのできる手始めになります。(神様は)そこから徐々に次元の高い意味の刺激を感じられたのです。(18)

 無限なる神様の愛が、目的を中心として愛することのできる本心の基、これがまさに心情です。その価値は変わらないのです。神様の存在の価値を論じようとすれば、この愛をもって論じなければなりません。価値というのは相対的与件が満たされた中で決定されるものです。

 それゆえに喜びとは神様の心情から出発するものです。そしてその目的がどこで成されるかといえば人間において成されるのです。目に見えない神様の心情が、目に見える人間の心情に顕現されるのです。そしてその心情をもった人間が横的に拡大し、一つの家庭を成すようになれば、その家庭は世界的に拡大し世界の中心になるのです。そうした家庭を成せと、神様はアダムとエバに「成育し繁殖せよ」という祝福をされたのです。天宙主義は、成育し繁殖し万物を主管した、その基台の上に成立するのです。(19)

 神様はなぜ被造世界を創造されたのですか。神様は被造世界を通して喜びを味わおうとされたのです。神様がいくら絶対者だといっても、喜びを一人で感じることはできません。喜びは相対がいてこそ生じるからです。

 神様が必要とされるのは知識でもなく、お金でもなく、権力でもありません。神様ご自身が絶対的で全知全能なので、そのようなものを必要とはされません。科学がどんなに発達しても神様がつくられたものに追いついたり、越えたりはできません。膨大な宇宙は秩序の中に法度に従って運行されています。人間の思考と科学が及ぶことのできない膨大な宇宙を神様は創造され、運行しておられることを考えるとき、神様は絶対的な科学者でもあられます。

 世の中に存在する物の中で、神様と相対となる力はありません。神様の力は全知全能であり絶対的だからです。また永遠不変で自存的な方が神様であられます。そのような神様が願われることがあるとすれば何でしょうか。お金でもなく、知識でもなく、権力でもなく、何を願っておられるのかというのです。神様が必要とするものは何であるかが問題です。

 神様が絶対必要とするものが一つだけあります。それは人間に絶対的に必要なものであると同時に神様にも絶対に必要なもので、(それが)真の愛です。(20)

 神様には知識は必要ありません。知識を創造した方です。神様には権力も必要ありません。全知全能なる方です。神様にはお金は必要ありません。ダイヤモンドや金も思いのままにつくることができます。

 一体あなた(神様)に必要なものは何ですか。神様には必要なものがただ一つだけあります。それは何かといえば愛です。

 それでは神様お一人で愛を受けることができますか。神様はご自身で愛を思うままにすることができるのではないかというでしょうが、とんでもありません。

 神様において最も必要なものは、真の愛を分かつことのできる対象者なのです。これを知らなかったのです。(21)

 神様が絶対的な方ならば、その絶対的な方がなぜ人間をつくったのかというのです。お金のためにつくったのでもなく、知識のためにつくったのでもなく、権力のためにつくったのでもなく、(人間の創造が)神様の愛を(神様ご自身が)感じることのできる唯一の道ゆえに人間をつくったのです。

 この観点から見るとき、神様は父であり人間は息子・娘だということが一つの軸をなすのです。この軸が万一連結されたならば、人間と神様が愛で一体となった関係は、何が作用しても絶対に引き離すことができないのです。

 神様の本然の愛と絆を結んで、その愛の味を味わった人は(神様から)離れていくでしょうか。蜂は春に蜜を味わいます。蜜を吸っている蜂のお尻をつかんで引っ張るとお尻が抜けても、その蜂は蜜から口を離しません。

 皆さんがその味を味わったらどうでしょうか。離しても離しても戻ってきて、再びそこにくっつこうとするでしょう。この軸の愛に連結された全時空が作用する基準になっていれば、個人的に完成した男性と女性が一つになって、愛を中心とした人間の家庭の顕現が始まります。

 この愛を軸として氏族の顕現、民族の顕現、国家の顕現、世界の顕現が成されなければならないのにもかかわらず、何のゆえにか今日アメリカでは、いわゆる愛というものが利己的になり、道端であいさつ(外交)するように男女が交際する、そんな愛になってしまいました。(22)

 神様がなぜ人間を創造されたかといえば、一人でいては刺激がないからです。喜びとは相対関係によってわき出るものです。一人では喜びの刺激を得られません。神様の相対的位置に立つならば初めて最高の愛を受けられるのです。そうなれば神様の性相がそのまま実体化します。神様が悲しめば人間も悲しまざるをえません。それゆえに人間と神様の関係は離そうとしても離すことのできない不可分の関係です。どんなに研究してみても結論はここに到達するようになるのです。(23)

 神様には人間がなぜ必要なのでしょうか。神様の理想を実現するのに人間がなぜ必要なのかというとき、「神様の愛を完成するために必要なのだ」と言うことができます。神様の愛とは何でしょうか。それは、人間同士、永遠に見て愛するのはもちろんですが、神様をして人間を永遠に愛し得るようにさせるものだともいえます。人間はこのように神様の永遠の愛の相対者なのです。

 アダムとエバを創造されたその日から、神様は永遠無窮にアダムとエバを(どんなに)見ても、もっと見たいし、(どんなに一緒に)いても、もっといたいし、(どんなに一緒に)住んでも、もっと住みたい(という)対象として愛したかったのです。そのような対象をもつことが神様の創造理想です。(24)

 神様の愛はどのようになっているのでしょうか。統一教会の原理によれば、それは四位基台の完成であると結論づけます。それでは四位基台の完成とは何でしょうか。父母の愛は子女に伝達され、感じるようになっています。それを段階的に見れば父母の愛、夫婦の愛、子女の愛の三段階に分かれますが、平面的基準においては互いが一つに通じるようになっています。四位基台の中心である父母の愛を中心に子女と一つになり、男と女の愛が一つになり、最後に神様の愛と一つになるのが四位基台なのです。(25)

 アダムは神様と一つにならなければなりません。これを結合させるのは愛です。存在世界の平面的な代表者は人間であり、立体的な代表者は神様です。これを永遠に結合させる中心点がまさに愛という絆です。

 肉体をもつ人間が神様と一体となるとき、その心情と感情は無限なる体恤境と幸福感に酔うようになります。結局、愛によって神様と人間は一つになるのです。愛によって人間と世界が一つになれば、神様の創造目的、理想世界の実現はそこから出発するのです。(26)

 本然の人間とは、すべて神様と一体となり、愛を実体で感じながら生きていくようになっていました。サタンは実にこの愛の中心点を狙ってアダムとエバを堕落させたのです。それ以後、宇宙は愛とは関係のない反対方向に流れて、それこそめちゃくちゃになってしまいました。(27)

 神様を中心とした新しい愛、すなわち創造法度により決定された愛の基準から、初めて神様の理想が出発します。(28)


3、アダムとエバを創造された目的


 私たちが旧約聖書創世記一章二七節を見ると、神様の形状どおりに人間をつくり、一男一女をつくられたという聖句があります。(そこから)帰納的に推理すると、神様は一人の男性と一人の女性を合わせた方であるとの結論が出るのです。

 そういう神様が一人でいてはいけないので、対象を必要としてこの世界を創造せざるを得なかったのです。そういうわけでつくられたのが、一人の男性であり一人の女性なのです。(29)

 神様の性相は、男性格である父なる神様と女性格である母なる神様からなっています。ですから、神様からつくられた人間と被造世界が、男性と女性の二性の神様でもあります。(30)

 神様は第一に、体をもつためにアダムとエバを創造され、第二に愛を完成するためにアダムとエバを創造されたのです。このようなアダムとエバが完成し、二人が一つになることのできる愛の実体となれば、神様が臨在し、(彼らは)人類の完全な愛の父母となるのです。そして神様の形象的実体の父母になったアダムとエバが実体の子女を繁殖することによって、理想世界が成就されるのです。そうなれば人間を通して霊界と地上世界が連結されるので、霊界と地上世界を連結させることをも目的として人間をつくられたのです。

 そういうわけで、神様が愛を中心にしてアダムとエバに臨在されることによって、(神様は)人類の真の父母、実体の父母として存在され、アダムとエバが霊界に行けばそこでもアダムとエバの形状で、体を父母の位置に顕現することができるのです。ところがアダムとエバが堕落することによってこれが成されなかったという事実を皆さん方が理解してくださるようお願いします。(31)

 神様が男性と女性をつくられた目的は、二人が愛し合い一つになるようにするためでした。アダムはアダムのために、エバはエバのためにつくられたのではありません。アダムはエバのために、エバはアダムのためにつくられたのです。また神様ご自身の愛と喜びのために、アダムとエバをつくられたのです。神様がアダムとエバをつくられたのは知識、権力、お金のためではありません。全知全能なる神様は知識、お金、権力が必要だったのではなく、ただ愛が必要だったのです。(32)

 神様がアダムとエバをつくったのは知識を与えるためではなく、権力を与えるためでもなく、多くの財物を与えてよい生活ができるようにするためでもありません。彼らを創造した目的は愛の実体を立てるためだったのです。

 神様が人間を創造した目的は、家庭を通して愛の基盤をつくるためでした。愛のない被造世界は地獄であり、(神様)ご自身もまた存在価値が無意味になるからです。神様が人間を創造された目的は愛のためであったというのが、創造の絶対法であるのを知らなければなりません。(33)

 神様は天地をなぜ創造され、アダムとエバをなぜつくられましたか。それを知らなければなりません。なぜつくられたのかといえば、善しとされるためにつくられました。神様が善しとされるために創造されたのです。

 アダムの中に神様が入られて無形の父となり、アダムは有形の父になるようにされたのです。ゆえに、アダムは実体をもった神様にならなければならなかったのです。それでは神様は(なぜ)実体を必要とされたのでしょうか。ご自身がつくられた実体世界は無形では主管できないので、実体をもった神様が必要だったのです。

 それで実体の神様としてつくられたのがアダムとエバでした。だからアダムとエバは神様と一体とならなければなりませんでした。イエス様も神様と一体となるために来られたのです。神様と一体となるべきアダムがパンクしたので、それを直すために来られたのです。俗な表現ではありますが、失礼ではないでしょう。イエス様もたぶん(そのように表現しても)、よろしいと言われるでしょう。パンクという言葉を使うほうが実感がわくからです。事故だ、何だという表現よりパンクは俗っぽい言葉ですが、よく使われ、実感がわくので使うのです。(34)

 神様は見えません。その無形の神様が実体相をもつためにアダムとエバを創造されたのです。心の中に神様を抱いているアダムとエバが完成し、結婚して子女を生めば、神様は内的な父になり、アダムは外的な父となるのです。そうなればアダムは神様に完全に似るようになります。

 神様に似たアダムとエバが人類の父と母になれば、その姿を通して、いつも神様がおられることが歴史を通して認知されたことでしょう。万一そうなったとすれば、神様に対して疑いをもつはずがありません。堕落しなかったならば、いつも(神様を)見ることができ、呼べばすぐに現れるようになっていたのです。そのような基準になったら誰が神様を存在しないと否定するでしょうか。世界万民を総動員してもこれを否定することはできないのです。(35)

 アダムとエバの二人が愛するのを見る神様は寂しい存在ではなかったのです。ご自身の中に内在する愛の要素(素性)とはこんなにも強力なものだったのかと、相対的な喜びを感じるようになるのです。(36)

 神様にとってエバは未来の妻でした。なぜならアダムは神様と一体となるので神様自身なのです。神様の妻をサタンが犯しました。サタンは神様の怨讐であり、私たちの怨讐です。(37)


4、アダムとエバの成長期間


 アダムとエバは完成できる可能性をもった罪のない人として創造されたのです。そして彼らは神様の法則に従うことによって完成すべく、成長していました。彼らが男性と女性として完全になるように成長する間は、彼らの関係は兄と妹でなければなりませんでした。彼らは兄と妹として真正の伝統を立てておかなければならなかったのです。(38)

 男女間の愛は、思春期を中心として成熟してこそ始まるのです。そのときまで神様は完熟する愛の道を眺めながら、待っておられたことでしょう。そして統一教会の原理ではこれを原理結果主管圏といいます。(原理結果主管圏があるのは、)成長期間を通らずには完熟した愛の基を据えられないからです。神様が人間を愛で主管するために、待つ期間があるのですが、これが成長期間、すなわち原理結果主管圏なのです。(39)

 神様がアダムとエバを見て「取って食べるな」と言ったのは、彼らが愛することのできる時機になっていなかったからです。彼らは成長期にいたので成熟するまで待てとの戒めだったのです。(40)

 一人の人間が父母を中心にこの世に生まれる時は、新郎新婦として生まれるのではなく、息子・娘として生まれ、愛の教育を受けるのです。その愛の教育では、互いが一つになる教育をしなければなりません。

 それゆえに神様の愛を中心にして、神様の前に愛の教育を受けなければならないのです。愛の教育は、すべての価値の基準を知ることができ(るときまで)、成熟するときまで受けなければならないのです。

 この観点から見て、アダムとエバが神様の愛を受けて育ったかといえば、聖書にはそんな記録がないばかりか、堕落したという話から始まっているのです。

 それではアダムとエバが教育を受けられる姿勢とは何でしょうか。神様とアダムとエバは、父母と子女の間柄なので、その父母が行く所にはいつもついていかなければならず、主管を受けなければならないのです。にもかかわらず、(二人は)その立場を離れることによって本然の姿勢を離脱したのです。神様は絶対的な方なので、絶対的にその方に従って服従しなければなりません。神様はアダムとエバにとって生命の母胎であり、保護者であると同時に生命の脅威を防いでくれる方でした。それゆえにアダムとエバが互いに成熟して、自分たち同士が、神様よりももっと愛し合うのを神様は好まれるようになっているのです。なぜですか。神様は主体なので、相対が素晴らしい愛の実体として和するとすれば、その主体はよりよい愛の価値を感じることができるので、神様は喜びを感じるようになるのです。

 これは人間創造を中心にした第一法度なのです。それゆえ、堕落した人間は愛の教育を受けられなければ、その位置に出られないのです。(41)

 アダムとエバは万物の霊長として、父なる神様が定めてくれた時間、すなわち霊肉ともに成熟する時を待たなければなりませんでした。神様もアダムとエバに「生育し繁殖せよ」と言いました。それは肉体と霊人体が完全に成長した後に、夫婦となり愛し合い息子・娘を繁殖せよとのみ言なのです。

 アダムとエバが身体的に成熟しながら一緒に出歩くようになります。一緒に行き来していてびっくりするような場面を見れば、エバが「まあ、怖い!」と言いながらアダムの胸に抱かれたり、後ろに隠れることが起こるようになったのです。エバがアダムの胸に抱かれれば、怖かったのが安心でき楽になるのと同時に、アダムから強力な男性的衝撃を受けるのです。アダムもまた嫌な気もせず、エバから自身とは違う性的衝動感を受けたでしょう。このようなときアダムとエバのうち、性的モーションをどちらが先にかけたのですか。「怖い」とアダムの胸にかけ込んだエバがかけたのです。そのときから彼らには次第に愛の接線ができるようになったのです。

 神様は愛で被造世界を創造されました。それゆえアダムとエバは、神様の愛を中心にして被造世界を愛の組織体としてつくり、神様に連結させなければなりません。そのような任務をもったアダムとエバは、どんな姿勢をもって神様が許された愛を共有するようになるべきかを、考えていなければなりませんでした。この愛の問題は極めて重大なことで、彼らの生死を狙うものになりかねないのです。(42)

 人間は思春期を望みながら(その)一時を中心に出てきました。そのときまで待つべき理由がどこにあるのかを知らなければなりません。ただちに男性、女性が一つになり愛すればいいのに、なぜ待たなければならないのでしょうか。愛のゆえにそうせざるをえなかったのです。成熟することのできる思春期時代までの期間が必要であるため、その期間まで過程的な要件を整えなければなりません。(43)

 アダムとエバは、十六、十七、十八歳になれば自然と思春期になり、異性に目が開くようになります。花が一面に咲くとき、人が(その)香りに酔うように、アダムとエバが成熟すれば異性を考えるようになります。この香りに神様も一緒に引き込まれていくのです。神様の愛とアダムとエバの体と心、この三つが一つになれば宇宙の核が生じて、すべての愛をコントロールする本軌道に入ることができるようになります。ところがここで脱線しました。脱線しなかったならば完全に一つになったでしょう。このように一つになったなら、神様も離れられず、アダムとエバも離れられなかったはずです。そして子々孫々に連結され、氏族、民族、世界を形成したことでしょう。ここが素晴らしい世界、地上天国になるのです。(44)

 アダムとエバが十七、十八歳の思春期時代に堕落せず神様の愛で一つになったなら、心と体が絶対に分かれるはずがありませんでした。そして完全な生命と完全な愛をもち、真の環境で生きていける真の女性、真の男性になったのです。堕落した以後には自己がそんな位置に立った気分を……。一生の間その時の思いをもちたいし、捜したいし、生きたいし、愛したいし……。そんな所で生命をもちたかったのです。(45)

 神様と人間が完全に一体となり、人間が神様の直接主管を受けるようになる時はいつからですか。(それは)男女が個体を完成させ、愛を授け受けるときからです。また、すべての面で成熟した人間本然の愛と、(そして)主体と対象間の相対的環境を整えられる(ときからです。そして)、その位置をいうのです。そうなれば神様と人間が愛を中心にして混然一体となり、永遠なる正道の軌道を走るようになるのです。(46)


5、個人完成と愛の出発点


 人間の完成は知識や権力、あるいはお金によってなされるのではなく、愛によってなされるのです。その愛は俗化した愛ではなく本来の愛であり、その愛によってすべてが完成されます。

 私たちは視覚、聴覚、味覚、触覚、臭覚などの五感をもっています。その五感は愛の完成という基準から動き始めなければなりません。五感は完成した愛を中心にして、その機能を発揮しなければなりません。目であるとか耳、鼻、口、手などで感じられるすべての感覚は、愛を中心に完成すべきだと見なければなりません。

 そのように愛を中心に五感が一つになって相対世界を感じるのが、理想的なことだと考えることができます。一言で表現すれば酔って生きることです。愛に酔って相対世界に同化し、自身が環境に酔ってしまう境地のことです。

 その境地では、必ず一人でなく相対がいて、永遠に継続し互いに同化します。その相対はいつも異なることもでき、また感じも違います。拡大すれば無限に拡大され、縮小すれば一点に固まる力をもっているのが真の愛です。天上的な愛です。愛の目を通して見れば小さくても大きくても一つです。小さければ価値を縮小したのであり、大きければ拡大したのです。このような愛の世界を創造したかったのが神様の理想でした。(47)

 個体完成とは、本来神様がつくられた愛の型に従って、心と体が完全に一つとなった中で成長し成熟するように、授受作用を永続させていくことを言います。愛を中心にして出発し、愛を中心に成熟し、その上に愛の芽が出、実を結んでこそ完成するのです。このように愛の基台が立つようになれば、その中に神様は愛の因縁をもって臨在されるのです。

 愛が成熟しなければ、実を結ぶことのできる型を造成できないのです。

 すべての被造物は愛の法度によって創造され、また存在しているのです。植物を見ても花が咲けば、花の中のおしべとめしべが授受作用、すなわち循環運動(をすること)によって実を結ぶようになるのです。動物世界もそうだし、人間世界も愛の循環運動によって存在しているのです。このようにすべての被造物は愛の関係を経て完成するようになっています。すべての存在は愛を通してのみ完成できるといえます。

 人間は神様の愛の核と一致する位置に立ったとき、体と心が一体となるようになり、神様の愛の圏内に、体と心を一体化させて入っていくようになれば、成熟した人間となるのです。そのとき初めて、堕落しない本然の人間として、個人完成が始まるようになります。(48)

 個人完成とは心と体が一体となることです。心が主体となり、体が対象の位置で授け受けるようになれば、神様の対象になります。心は永遠に変わらずにいなければならないのです。(49)

 心と体において心は天を中心とし、体は世の中を中心とするのですが、この心と体が一つになったというとき、その理念はどういう理念だといいますか。天宙主義理念だといいます。天宙主義理念が何だか分かりますか。天と地、すなわち無形世界と有形世界が一致するようになる位置を成していこうという主義が天宙主義です。この天宙を支配しようとすれば、支配しようとする人は心と体が一体とならなくていいですか。一体とならなくてはここで滅びます。そして神様を中心にして心と体が一体となるとき、神様は内的な神様で自分は外的な神様になるのです。そうではありませんか。それで何を中心にして一つになるかといえば愛を中心として一つになるのです。(50)

 (自分)自身が問題です。それで自身が怨讐になることもあるのです。皆さんの心と体を一つにできなければ怨讐になるのです。(51)

 皆さんが常日ごろ言っている個人完成とは一体何を意味しますか。縦的に、父母と子息関係の信仰を結んでいくことをいいます。神様が私たちを愛されるのと同様に、私たちも神様を愛さなければなりません。愛は相対関係の間に成立するものなので、神様と、子女となった私たちの関係は離しておくことができないのです。(52)

 個性完成は神様と縦的な関係を結ぶところから出発するのです。(53)

 神様が皆さんを愛するのと同様に、皆さんも神様を愛さなければならないのは当然のことです。それは原理原則なのです。神様を縦的な中心として仰ぎ、侍るならば、父であられる神様の息子・娘として愛を受けるようになります。このように互いに愛する伝統が立てられなければ、個性完成の出発点が生まれてきません。(54)

 責任分担完成だけが人格完成の道なのを、皆さんは知らなければなりません。(55)

 神様が堕落した人間を眺めておられながら、その前に愛を差し出せないのは、堕落した人間が、優先的に人格の完成を成さなければならない過程が残っているからです。

 神様は真の愛の主体であられます。神様は愛の主体なので完成した対象が立ったとき、愛を授け受けることができます。

 人格の完成とは何をいうのでしょうか。それは責任分担を完遂できる人間になることです。すなわち、堕落する以前の状態に復帰され、人間の責任分担を遂行することのできる人格完成者になる人格革命なのです。

 人格完成は個人完成だといえます。人間に負わされた責任分担を成し遂げることができたとき、人格完成を成したといえるのです。神様の子女として成熟した人となり、神様の前で神様を讃揚し愛しえる立場に立つことができなければなりません。皆さんは、人格完成の後にこそ真の愛を所有できるということをはっきり知って、人格完成以外の道にとどまる場所がないことを銘記しなければなりません。(56)

 サタン世界では心情圏の連結がなされません。皆さんの場合も同様に、人格革命を経た後に真の愛と通じるようになっています。自身の世俗的貪欲とか、自身に対する執着、享有している文化的優越感など、自己中心の私心から離れなければ、絶対に完成に至れないことを銘記しなければなりません。

 アダムとエバが人格者として成熟するためには、完全な理想的宗教を中心にして、サタン世界のすべてのものを否定し、新しく出発しなければなりません。それゆえに、先生は多くの逼迫を受けながらも、完成した立場に立つために世俗的なものを否定してきています。(57)

 自己を中心に人生を考える人はすべてサタン圏にとどまっている者たちです。神様の心情圏を受け継いで人格完成の基準に至ったならば、神様の人格基準とも通じ、完成したアダムの人格基準とも一致するのです。私たちは本然の人格完成の基準に一致する人格完成者とならなければなりません。そのためには自らを自分の力で革新させなければならず、与えられた責任分担を完成させなければならないのです。この視点から断固として言えることは、この世の中のどこにも、自身を革新させ人格を完成させられる所はなく、あるとすればただ統一原理だけなのです。(58)

 世の中を改善するためには、百パーセント個性完成させなければ絶対に喜びの基準に到達できないのです。それは、堕落した人間をいくら救援したといっても、その人間が堕落の観念をもっており、神様が、人間は堕落したという観念をもっていてはならないからです。堕落したという観念までなくすためには、百パーセント理想の完成品にならなければならないのです。(59)

 愛の出発点であり基地であり安着点はどこでしょうか。皆さんの中のある人は、そこが自分自身の体と心であるならばいいと考える人がいるでしょう。事実皆さんの心と体がまさに神様の愛の安着点になることができるならば、皆さんは完全な統一基地になるでしょう。その次に皆さんが神様の息子となる日、天地の大業を相続する息子として神様の愛の対象となり、息子として神様の愛を全幅的に受け、神様が「私の息子よ」と言いながら目を閉じて感謝の涙を流すことのできる日、すべてが意のままになることでしょう。(60)

 愛はどこから出発するのでしょうか。個性を完成するところからです。原理で見れば個性を完成した後に愛するようになっています。思春期を経て異性に対することのできる資格を備え、天地の調和に一致して通過することのできる責任を担えるときに初めて、愛の因縁が始まるのです。

 ところがアダムとエバにおいてはそうではありませんでした。(彼らの)愛はどういう愛でしたか。天地のすべての万物を統一させることのできる位置での愛ではありませんでした。主体的な愛ではありませんでした。彼らの愛は主体的で必然的な愛でなければなりませんでした。ところが彼らは必然的な愛をもてなかったのです。それゆえに、今日の人類は、そのような愛を試みることのできなかった人たちの後孫なのです。愛という言葉はありますが、人間は真正なる愛の理念世界を知りません。そのような理念世界で、神様を中心として互いに愛することのできる一つの中心が整うとき、初めてここに神様が入ってきて愛されるようになるのです。

 言い換えれば、神様は自己の最高傑作品である人間同士が互いに愛するのを見るとき、愛さざるを得ないのです。そのような立場から、神様の息子・娘として愛の因縁を結ぶことのできるのが、今日の統一教会の祝福なのです。(61)

 太初にみ言としておられた神様は被造世界を創造され、最後の日に初めて人間を創造されました。神様は対象として人間を創造されたのですが、男性であるアダムを創造され、続いてアダムの対象であるエバを創造されたのです。

 神様を中心にアダムとエバが主体と対象の位置に立ち、愛で結ばれなければなりません。このとき、神様と人間であるアダムとエバは、各主体と対象の関係になります。ところが、アダムがエバと、主体と対象の関係を結ばずに、神様との主体と対象の関係だけを設定するならば、アダムは神様の永遠なる愛を所有できないばかりか、永遠に存続することもできないのです。アダムは神様との関係だけでは直線運動しかできないからです。これは(神様と)エバの関係でも同様です。

 永遠性と完全性をもつためには、直線運動ではなく球形運動がなされなければなりません。直線運動が球形運動に転換するためには、(アダムは)対象としてのエバとの関係を結ばなければなりません。一人では生命と愛の調和がなされないからです。

 宇宙森羅万象の位置は、三点を基盤に運動を継続することによって存続しているのです。三点を通過せずには完全性や永遠性はないのです。

 アダムは直線で神様の前に出るのでなく対象であるエバを通して神様の前に出なければならず、エバはアダムを通して神様の前に出てこそ球形運動を成すことができるのです。アダムがエバを通して回るときは、エバと愛の関係が築かれなければなりません。一人では回る力がないからです。(62)

 もしアダムとエバが完成したならどうなっていたでしょうか。彼らが完成して祝福を受けられる段階に入ったなら、すなわち男性・女性として完全に成熟したならば、どうなっていたでしょうか。一つの愛を中心にして全宇宙と母胎的な結合をなしたでしょう。これがなされることによって神様と一体となり、この宇宙、天地創造圏内で神様と人間が初めて一つの出発をするようになるのです。その出発点は何でしょうか。愛です。本来出発は愛から始まらなければならないのです。それではその愛はどのような愛でしょうか。まさに神様の愛です。(63)

 神様の愛を中心にした統一的な愛の起源はどこから生まれたのでしょうか。本来アダムとエバは堕落せずに成長して、天地のすべての万物を胸に抱き、幸福にあふれ、あすの希望にあふれ、未来の永遠万代を愛するに不足ないあふれる心をもって、神様の愛に酔うことのできる位置に行かなければなりませんでした。アダムとエバがその位置に行ったとき、初めて神様の愛を中心に一つになれる真の愛の起源が生じるのです。そうでなければ統一的な愛の起源は生じてきません。(64)

 個体完成、相対完成を成した後、神様を中心とする愛で公認を受けてこそ、真正なる理想が成就されます。(65)


6、アダムとエバを通した創造理想世界


 神様は一人の男性と一人の女性を創造されました。そして彼らが完成した状態に至った後に、彼らをして天的な結婚生活をするようにされ、一双の天的夫婦として立てようとされました。

 神様はアダムとエバをして、最初の夫と最初の妻になるようにされ、天国建設を始めようと計画されたのです。万一それが実現されたならば、「生育し繁殖せよ」と言われた神様の祝福はそのときに成されたはずでした。神様は彼らに神様の子女を繁殖できる力を賦与されたのです。そうなると、彼らの子女も罪のない完全な人間になったのです。

 彼ら(アダムとエバ)はまた、どのようになれたでしょうか。罪は絶対に人類に継承されなかったでしょう。そのような子女をもつことによって、アダムとエバは神様を中心とした真の父と真の母となり、人類の真の父母になったでしょう。(66)

 堕落せずに完成の位置まで上がったならば、アダムとエバは個人完成のみならず、宇宙史的な完成をしたことでしょう。また神様の愛を中心にした新しい家庭が出発したことでしょう。このように家庭から氏族、民族、国家、世界が成されたならば、神様に侍る一つの大家族社会ができたことでしょう。

 この大家族社会の中心は神様とアダムです。それで、その世界では神様を中心としたアダム家庭の生活や一生の路程が歴史的伝統として残ります。彼の生活方式、風俗、慣習、そして生活的な背景が歴史的伝統になるのです。それは神様の愛で結ばれた伝統にならざるを得ません。神様の愛は生命の根源でありすべての理想の源泉なので、その懐を離れようとしても離れられず、離れたとしても再び戻らざるを得ません。

 堕落したこの世界でも、父母のもとで生活していたものがその懐を離れたり、兄弟のもとを離れたら、いつも寂しく感じ、父母や兄弟を懐かしがるのを見ます。同じように、生命と理想の主体であられる神様の愛でからみ合っていたら、その懐を離れられないのです。離れれば寂しくなり悲しく、喜びがあるはずがないので、神様の愛の圏内で一つになるほかないのです。

 そのような位置で人間たちに自慢するものがあるとすれば、第一に「神様は私の父だ」ということであり、第二に「自分は神様の愛を受けられる息子・娘だ」ということであり、第三に「自分は神様が創造した宇宙の相続者だ」ということです。

 今日世の中の人たちは、金持ちの婿になっただけでもたいそう自慢します。ところが神様が私の父であられ、その父の愛を完全に受けられるならば、それ以上大きな自慢がどこにあるでしょうか。(67)

 アダムとエバが神様を中心とする理想家庭を築いたならば、神様のみ旨は成就されたでしょうし、アダム家庭は、上は神様を父として侍り、下は人類始祖の立場で、一つの結合した愛の起点を整えられる家庭になったでしょう。その家庭は、神様が創造したアダム、エバ理想を完成するために、愛の結合によって一体になることのできる基となったことでしょう。

 その基において築かれた夫婦の愛と子女の愛で神様のみ旨が成就されたならば、この地球上にはアダムを中心にした単一文化圏が形成されたのです。今日のように数多くの民族が各自異なる文化と文明を形成してきたのではなく、アダムを中心にして単一文化、単一思想、単一文明をもつ世界となっていたのです。このようになったならば文化、歴史、風俗、言語、伝統などがすべて統一されたでしょう。

 また神様の愛の圏内で理想的な家庭を築き、氏族を築き、民族、国家を形成して、さらに拡大して、アダムの理想を実現する一つの理想的世界を築いたでしょう。木の根、幹、葉が一つの生命として連結されているように、愛を中心に、上は神様(根)を父として侍り、下は万民(葉)を兄弟のように(考え)、一つの生命体のごとく変化するようにして、神様を中心とする永遠なる理想世界を築かなければならないのが、まさに神様のみ旨から見た世界観です。このような世界の人間たちには救いが必要なく、メシヤも必要ありません。なぜならば、その世界に生きる人間は神様の善なる息子・娘だからです。(68)

 もしアダムとエバが神様を中心にした最初の家庭を築くことができたならば、その家庭を中心にして神様中心の民族が築かれたでしょうし、神様中心の国家と神様中心の世界が築かれたでしょう。そのような所では唯一、神様が統治者になったのです。そうなれば太初から永遠まで完全な統治だけが成されたことでしょう。

 もしエデンの園でそのようなことが成就されたなら、今日私たちはこれほど多くの異なった民族と言語を見ることはなかったのです。私たちはアダムを中心とした一つの伝統のもとで、すべてがアダムの民族に属するようになったのです。アダムが使用した一つの言語は、全世界の言語になったのです。そして全世界は真に神様のもとに一つの国を築いたのです。また神様の計画どおりにすべての人間は、地上の天国で生まれるようになっていました。

 私たちはこの地上で天国生活を楽しめるようになっており、地上での肉身生活を終えれば霊界にある天国に入って生きるようになっています。そして私たちはそこで永遠に生きるようになっています。このようなことが神様の原初的な青写真でした。そのような世界にはサタンもいるはずがなく、悪もあるはずがなく、地獄もまたあるはずがなかったのです。(69)


7、アダムとエバの堕落


 全能であられる神様からつくられたアダムとエバが、どうして堕落したのでしょうか。これも神学的に重要な問題の一つです。

 ところで、多くのキリスト教信者たちは聖書に記録されたとおりに、アダムとエバが善悪を知る木の果という果実を取って食べて堕落したと信じています。もしそれが事実ならば大して問題にならないのです。ところが人間の救援摂理歴史が六千年もかかったのを見るとき、アダムとエバが善悪の果という果実を取って食べて堕落したのではないことが分かるのです。

 それでは、アダムとエバは何によって堕落したのでしょうか。一言で言えば、アダムとエバは愛の問題で堕落したのです。愛の問題によって堕落したので数千年の歴史がかかり、また延長に延長を重ねながら救援摂理をしてこられたのを知らなければなりません。このような事実を今まで大部分の信仰者たちは知りませんでした。

 それでは、誰が愛を蹂躙したのかといえば、天使長がアダムとエバの愛を蹂躙したのです。エバを誘惑して因縁を結び、アダムを蹂躙することによって、父母の愛を中心にした正道に従って神様を訪ねていかなければならなかったアダムとエバの愛の方向がずれるようになったのです。

 そして神様の血と肉を受け継がなければならない人類が、サタンの血肉を受けるようになったのです。このような事実に対し、大部分の信仰者たちは、(それを)夢にも思わずにいるのです。(70)

 聖書には、善悪の果を「取って食べるな」という内容が出てきます。そこには、人間と神様との関係を破綻させ得る内容がこめてあったからです。それで問題になるのです。原理ではこの事実を明確に解明しています。原理は堕落に対する事実がはっきり分からない人には偉大な福音です。苦痛を受けながら生きているすべての人々を救援することのできる偉大な福音です。

 善悪の果は文字どおり木の実だと見ることはできません。木の実ではありません。億千万代(にわたって)人類がこのように破綻の立場と闘争の路程で呻吟する状況をつくるような果実を神様がなぜつくられるでしょうか。先生が語る愛の内容を中心として現れた結果だというのが何よりも理論的だと考えられます。(71)

 堕落はどこから始まったのですか。家庭で堕落した(という)のは何(をしたの)ですか。善悪の果を取って食べたのですか。家庭的に堕落するというのは愛以外にありません。善悪の果を取って食べて堕落しますか。善悪の果を取って食べて原罪が生じますか。父親が善悪の果を取って食べたことが罪だというのですが、千代万代後孫が罪人になる善悪の果とは何でしょうか。これは血統的関係です。血統的に罪の根を植えておけば、遺伝の法則によって永遠に続くのです。そうであり得るのは愛の問題だけです。誤った愛が堕落の原因です。(72)

 堕落は、神様がお許しにならない左右と横に入ってくる不義なる愛の誘惑に引き込まれ、天倫を破壊したところから始まりました。(73)

 愛ということを知るようになるときには、すべてのものが通じます。地上世界の平面的な事実だけでなく、霊眼が開け立体的世界までも分かるので、神様を直接見て対することのできる境地に至るようになります。

 ところが愛の知覚が発達する前に堕落してしまいました。天使長と不倫の関係を結んだのです。これが宇宙を破綻させた根本原因になったのです。(74)

 愛のゆえに堕落が起こりました。愛の起点は目や口ではありません。男女が共にする愛の器官を通して堕落しました。堕落のゆえにすべてのものが壊れてしまいました。

 愛の結合点はすべての感覚を総合した所だといいます。ところが堕落によってその基準が壊れて、宇宙に被害をもたらすようになりました。(75)

 愛を中心に成長しなければならないのに、愛によって故障したときに、神様は後ろに退くようになります。このように見るとき、愛の事故以外には堕落があり得ないのです。ゆえに神様にも問題となり、人間にも問題となり、歴史に問題となり、宇宙の大事件として衝撃を与えるのは愛の事故しかありません。(76)

 サタンと愛の因縁を結んだのが堕落です。(77)

 堕落はサタンと一緒に堕ちて出ていったことです。(78)

 堕落は血統の不貞的動機から始まった事件でした。それゆえに堕落の結果が今日まで原罪として遺伝してきているのです。(79)

 先生のときになって、堕落が愛によりもたらされた結果であるという事実を明らかにしたことは、驚くべきことです。これは、歴史的背景を通して理論的に体系化されたものであり、否定することのできない内容です。(80)

 全知全能であられる神様が、アダムとエバの堕落を防ぐことができなかった理由は次のとおりです。

 アダムとエバは彼らの愛を、神様が願われる基準まで成長させなければならなかったのに、その成長過程で堕落したため、愛を絶対視しなければならない神様は、彼らの堕落を防げなかったのです。今日でも私たち人間が思春期という過程を経て青年期に入るのと同様に、アダムとエバも必ずある過程(成長期間)を経て完成し、そのとき神様の愛と一致できたのですが、その位置に到達する前に堕落したのです。(81)

 神様の前に立っていたアダムとエバ自身が神様の内情を察することができたなら、堕落しようにもできなかったでしょう。父母は父母として、子供に対して愛の心をもっていますが、子供は父母の深い心情までは分からなかったのです。もちろん幼くして堕落しましたが、その年齢のまだ及ばないことが堕落の動機になったのではなく、心情の未熟さによって堕落したのではないでしょうか。「あの方は私に対している。あの方は私と離れようにも離れられない」と言いながら、神様が一切のあらゆる問題に関係しているということを、もしアダムとエバが感じたならば、彼らは堕落できなかったのではないでしょうか。結局堕落(が起こったの)は心情の一致点をもてなかったからです。天の願いと自分たちの願いが食い違ったために、自己の考える方向が天の考えと食い違ったために、起こったのではないでしょうか。(82)

 堕落とは何でしょうか。天を見忘れ、地を見忘れ、神様を見忘れ、人を見忘れたことです。堕落は天と地を見忘れ、人を見忘れ、神様を見忘れ、人間を主とした愛を行ったところから始まったのです。それゆえに、どの社会でも、淫乱が膨脹した社会は滅びるのです。(83)

 堕落は天使長とエバが合わさって夫を滅ぼすようにしたことです。(84)

 堕落は男と女が別々になり、アダムとエバが怨讐になったことです。(85)

 罪の中で最も重いのは神様の愛を破綻させた罪です。そのような天理を私たちは知らなければなりません。明らかに、アダムは兄としての本分を誤り、エバは妹としての本分を誤りました。天使長が誘惑すればエバはアダムに尋ねなければならず、アダムは神様に尋ねなければなりませんでした。ところが、自分たちなりに判断して、堕落の道を行ったのです。(86)

 堕落とは何だと思いますか。堕落とは本然の理想的人間として、神様が願われた真の愛の夫婦となり、神様とともに愛を中心にして生きることができないことです。(87)

 堕落は、神様を中心としてアダムとエバが一つにならなければならないのに、神様の僕である天使長と一つになったことをいいます。神様の血統を受け継がなければならない人間が僕の血を受け継いだことです。ですから堕落した人間がいくら神様を「父」と呼んでも実感がわかないのです。

 これは、神様であろうと何であろうと関係なく、すべてを自己中心にだけ連結させて考える堕落性本性が遺伝したからです。それですべて相反した存在になり、氏族、民族をなしたとしたら、少しばかり時がたてば全部分かれるようになります。このようにして立てられたのがサタン文化圏です。二つに分かれ三つに分かれ、すべて分かれるのがサタン圏に属するものです。

 神様は分立した文化圏を一つにする統一摂理を展開してこられました。人間は誰でも、宇宙の中心存在に属そうとする本性をもっています。しかし、この世界の中心存在が神様でなくサタンとなっているので、中心を求めていけばいくほど幸福になるのではなく不幸になる、そんな悲惨な歴史が広がるようになっているのです。(88)


8、堕落の結果


 不倫な淫行関係によってエバは天使長と一つになり、アダムもまた、天使長と一つになったエバと一つになることによって、アダムとエバは結局神様を中心にしたのではなく天使長を中心にした夫婦関係を結び、家庭を築くようになりました。そのためアダムとエバの後孫であるすべての人間はサタンの血を受け継ぐようになったのです。

 したがって、本来のアダムとエバの息子は神様の長子、次子にならなければならないにもかかわらず、エバが不倫な情で天使長と関係を結んだため、その息子である長子と次子はサタンの所有物になってしまったのです。

 本来、創造理想の中では愛は所有を決定するようになります。愛の関係を結べば、その愛を中心に主体と対象は必ず互いの所有権を持ち合うようになるのが原理です。したがってこの原理的な基準でよく見るとき、エバが天使と不倫なる愛の因縁によって堕落するようになったので、エバの後孫として生まれる人間の所有権は天使長であるサタンにあるようになったのであり、サタンはその所有権を堂々と主張できるようになったのです。(89)

 ヨハネによる福音書八章四四節に、イエス様が悪い人々を眺めながら「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって…」と語られた内容があります。

 堕落によって人間は偽りの父であるサタンに屈服せざるを得なくなりました。人間は自分たちの父親を取り換えたのです。私たちは真の父である神様を捨て、偽りの父であるサタンと一つになったのです。それで最初の男性と女性はサタンの息子・娘になってしまいました。

 偽りの父、サタンのもとでアダムとエバは神様の祝福も、神様の許諾もなく、不法な夫婦となりました。そのようにして彼らが子女を繁殖すると、その子女たちもすべてが同じ偽りの父のもとにあるようになりました。その子女たちはすべて神様の子女ではなくサタンの子女として生まれるようになりました。それゆえにアダム以後、原罪をもつ子女を繁殖し、罪悪世界をつくるようになったのです。なぜならば人間が神様を中心にし得なかったからです。

 そこには罪の世界、不信の世界、犯罪の世界、そして嫌悪と戦争の世界があるだけです。そして国家と社会は互いに破壊的行為を行いながらも、少しも苦痛を感じられなくなってしまいました。これが地上地獄なのです。事実上この地上の主人公は神様でなくサタンです。そしてヨハネによる福音書一二章三一節にも「この世の君は追い出されるであろう」と記録されているのです。(90)

 私たちはこの宇宙が神様によって創造されたという事実を知っています。私たちはまた、神様が人間を創造されたことをよく知っています。しかし神様が私たちの主人になれませんでした。それは人間が主人を取り換えたからです。人間は神様に反逆し、偽りの主人であるサタンと一つになってしまいました。そしてこのサタンが、人類の父となってしまったのです。(91)

 人間始祖のアダムとエバは神様のみ言を不信し堕落したので、真正なる理想相対、すなわち真の夫婦関係を喪失しました。(92)

 神様の創造目的は、アダムとエバが善なる新郎新婦として結婚して夫婦となり、夫婦の因縁を通して父母の因縁にまで至ることだったにもかかわらず、(彼らが)堕落することによって、これがすべて壊れました。それで、救援摂理は子息であるカイン・アベルから始まったのです。これは私たちの人生において迎えなければならない歴史の出発ではありませんでした。私たちの生涯において、このような悲運の歴史をもって生まれた事実は無念なことです。耐えがたいことです。皆さんが祖先の前で抗議し、恨むべきことです。(93)

 アダムとエバが堕落することによって、神様は彼らを真の人類の祖先として、人類の父母として、ご自身の息子・娘として対することができなくなってしまいました。アダムとエバは神様の前にかけがえのない息子・娘であったにもかかわらず、神様が息子・娘として対することのできない位置に立ってしまったのです。神様はまた、アダムとエバが成人した後には夫婦として祝福し、慰労の対象にしようとされました。ところが彼らは、息子・娘としての慰労の対象になれないのはもちろん、新郎新婦としても慰労の対象になれませんでした。

 神様も願われた所願が大きいゆえに、彼らに無限なる価値を賦与し、眺められたのですが、彼らが堕落することによって、神様は(彼らから)、子女として慰労してくれる心情を感じられず、新郎新婦として、すなわち夫婦として慰労してくれる心情を感じられなかったのです。神様はアダムとエバが未来に希望ある祖先として、すべての人類の前に一つの王として、神様の前に忠孝の道理を立てる立場に立つことを願われたのです。しかしながらこのような(願いをもつ)神様の前に、彼らは慰労の対象となれなかった事実を、皆さんは知らなければなりません。(94)

 人間が堕落することによって何を失ったのかといえば、父親の真の愛を失い、夫の真の愛を失い、兄の真の愛を失いました。

 これを失った動機はエバが堕落したからなのです。それゆえに、このエバ(女性)たちは歴史過程でこれを取り戻すときまで多くの苦労をするようになるのです。(95)

 堕落することによって真の父母を失い、真の夫を失い、真の子女を失うようになりました。失うようになった動機はエバと天使長のゆえでした。

 この観点から見れば、この地に生きている女性は天使長的な父親、天使長的な夫、天使長的な兄に頼って生きているのです。だから女性は悲惨なのです。

 一例を挙げれば、金持ちの家の娘が自分の家の作男と住む(ような)ものです。つまり作男の血を受け継いで生まれたということです。

 それゆえに本来の夫、本来の父、本来の兄の愛を受けることのできない女性たちなのです。

 ですから、主として来られる方は、そのような(本来の)愛をもってこられるのです。父の代身、夫の代身、兄の代身、この三種類の愛の因縁を完成できずに、幸福な娘としての位置をつかめなかったのが堕落なので、その三種類の愛を総合して、この地上に取り戻さなければならないのです。

 このように愛の秩序が今まで蹂躙されてきたので、この愛の秩序を立てずには幸福な世界が来るはずがないのです。(96)

 サタン圏に属している人たちは神様の血統とは全然関係がありません。つまり善の父母の子女として生まれなければならない人類が、悪の父母と因縁を結んで生まれました。それで悪を中心にした家庭、氏族、民族、国家、世界に拡大されました。(97)

 堕落はアダムとエバに限定された問題のようですが、彼らは人類の祖先であり、根本となるセンターのような存在なので、個人、家庭、氏族、民族、国家、世界と未来全体に影響を及ぼしたのです。(98)

 アダムとエバの堕落は、アダムとエバだけの堕落のみならず、全般的な人類歴史を総合した立場での堕落です。言い換えれば、アダムとエバが堕落したことは善なる父母になれず、悪なる父母になったことをいいます。悪なる父母によって悪なる子女が生まれ、悪なる子女が生まれることによって、悪なる氏族、悪なる国家、悪なる世界が形成され、この世界圏内に三十億人類が存続しているのです。

 このような堕落圏内にある今日の人類歴史は、喜びの歴史ではなく悲しみの歴史であり、人類も喜びの人類ではなく悲しみの人類であるに相違ありません。(99)

 アダムとエバが堕落することによって神様の創造理想は成就されず、むしろ堕落した父母になったことによって、原罪のある子女を繁殖するようになりました。そして堕落したアダムとエバの家庭を中心にして氏族、民族、国家、世界へと発展してきたのが人類歴史なのです。それゆえに堕落以後今日まで、神様の本然のみ旨を完成した立場に立つ真の父母の理想が残されてきたのです。そして真の父母を中心にした真の家庭と真の氏族、民族、国家、世界は今でも理想として残っているのです。(100)


9、アダムとエバが堕落しなかったならば


 人間始祖が堕落しなかったならば、皆さんは誰の息子・娘として生まれたでしょうか。当然神様の息子・娘として生まれたのです。(101)

 堕落しなかったならば、すべての人間は神様の真正なる息子・娘になります。今日のように怨讐の前に弄ばれ、怨讐に支配される氏族ではなく、怨讐の前に讒訴される群れではありません。絶対的な権威をもった神様の息子であり、どこへ行こうと神様の全権全能を代表できる神様の息子です。その息子を中心に家庭を築くとき、その家庭は全宇宙の存在が屈服しなければならない神様の家庭となるのです。またその家庭を成した氏族が活動し出掛ける場合においては、あらゆる被造万物は彼らを擁護し、彼らに吸収されなければならないのです。ところが堕落したゆえに、人間たちは神様の息子・娘になるどころか、怨讐に弄ばれる群れになったのです。

 結局人間は神様の干渉を受けられる立場でなくなり、怨讐に完全に占領されました。(102)

 人類の始祖が、本来神様の法度を犯さずに神様と永遠に一体となったならば、その一体となった愛の因縁の中では誰も彼らを連れていけません。すでに息子・娘として生まれ、またすでに成人したのちに彼らを見て「やあ、おまえの父親は誰だ。あの人(天使長)がおまえの父親ではないか」と言って説明して、それ(神様が父であること)を否定できる理論や学説はないのです。銃剣を突きつけてもだめなのです。(103)

 もし堕落がなかったならば、エデンの園に天の最初の家庭が立てられたのであり、その家庭はサタンの讒訴とは何の関係もない神様の主権下に繁栄したのです。(104)

 アダムとエバは堕落することによって神様の心情が分からなくなりました。アダムとエバが育って人格を完成し神様の前に近づいていったならば、すなわち人格を完成した者として成熟した段階に入ったならば、神様は彼らを祝福してくださり、彼らにご自身の心情を相続させてくださったことでしょう。そのようにして神様はご自身の愛と心情に通じる天的な夫婦をつくって、血統的な家庭をつくろうとされたのです。(105)

 人類始祖であるアダムとエバがもし堕落しなかったならば、どんな世界になっていたでしょうか。神様の愛の中で保護を受け成熟し完成したならば、神様はアダムとエバを呼ばれて祝福(結婚)をしてくださったことでしょう。そうするために男性と女性を創造したのです。もしそうなったならば、堕落した人間祖先ではなく、神様の愛を受ける、罪なき完成した真の人類祖先が地上に生活したでしょうし、(彼らは)真の父母となったでしょう。その次には神様が真実愛することのできる真の新郎新婦がこの地上に誕生したでしょう。

 堕落しなかったならば、完全に神様のみ旨に協助し、その愛の中で真なる兄弟がこの地上に生まれたことでしょう。それによって神様を中心とした新しいこの地球星に家庭を形成し、罪なき父母から罪なき子女が生まれ、罪なき氏族と民族、国家と世界となり、名実ともにこの地球星は神様が主管する地となり、神様は全人類の王となったことでしょう。

 そうなれば救世主も必要なく、宗教と祈祷も必要ありません。救世主が必要となり、宗教と祈祷が必要になったのは、堕落の産物だということを知らなければなりません。(106)

 神様の創造した世界が堕落しなかったならば、どのようになるか考えてみてください。そこではアダムが真の父母となり真の子女となったならば、真の血族であるアダムの一族を形成するのです。したがってその文化世界はアダム文化世界です。その世界は統一された世界です。

 神様の愛に一致したものは引き離そうにも引き離すことができないのです。今日堕落した世界で(さえ)、堕落した人同士が愛するのを、生命を断っても離すことができないのに、ましてや堕落しない善なる世界で神様の愛の前に一つになったものを、誰が引き離しますか。そのようになったならば、体と心が分かれません。体と心は一つになるのです。このように(分かれるように)なったのはすべて、故障したためなのです。(107)

 アダムとエバが堕落しなかったならば、神様の完全な愛を受けたでしょう。このように神様の完全なる愛を受ける息子と娘として、(彼らが)神様の愛で結合したならば、神様の愛を中心とした息子・娘を生んだでしょう。そして真なる神様の愛の中で、夫としての伝統、妻としての伝統、息子としての伝統、娘としての伝統を立てることができたでしょう。そして神様の愛を中心とする家庭の伝統が確立されたならば、神様のみ旨は成就したことでしょう。(108)

 この世界は神様が本来願われた愛の園になり得ませんでした。アダムは神様の右側を代表した花の香りであり、エバは神様の左側を代表した花の香りでした。二つの側が一カ所で互いに出会う日、全天地は愛の香りが占領するようになります。しかし堕落によって悪臭が絶えない世の中になりました。私たちは絶対にそんな人になってはなりません。(109)

 もしアダムとエバが堕落せずに神様のみ旨を果たしたならば、間違いなくこの世界は神様を中心とした単一文化の世界、アダムとエバの文化の世界、アベルとカインの文化の世界になったでしょう。その世界は言語が異なるはずはなく、すべての伝統と文化が異なるはずがないので、神様に侍る一つの世界民族を形成したでしょう。(110)

 アダムとエバが堕落しなかったならば、どんな世界が築かれたと思いますか。直接主管することのできる国が築かれたでしょう。ところが、堕落によってサタンが支配する今日の世界が築かれたために、救援が必要であり、神様を信じて生活しなければならない宗教生活が必要になったのです。(111)

 アダムとエバは神様のみ旨どおりに完成して祝福を受け、家庭から出発した神様の国を築かなければなりませんでした。彼らの完成は、真の愛を中心として成されなければなりませんでした。神様に侍り、アダムとエバが横的な相対を成したならば、創造目的の世界が出発したでしょうし、その世界は拡大され宇宙にまで至ったことでしょう。

 アダムとエバが夫婦一体となり、一つになる伝統の中に一つの世界を築いたでしょう。しかし、アダムとエバは神様のみ旨に背いて堕落してしまいました。

 アダムとエバは創造され生まれた後に、万物を主管できるようにすべてのことを学び、覚えなければなりませんでした。自然の法則とその状態をすべて学んだら、善悪がどのようなものか分かるので、堕落行為はなかったことでしょう。

 神様は堕落したアダムとエバが築いた世界を、本然の世界に復帰させるための蕩減路程を歩んでこられているのですが、それがまさに摂理であり、み旨の道だといえます。(112)















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第二節 真の男女の愛

祝福家庭と理想天国

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第二節 真の男女の愛


1、創造本然の男女の愛


 神様の最高の傑作品としてつくられた美しい男性と女性が、神様を中心として愛することができるならば、それは最高の愛であり、超越的な愛であり、世俗的な愛ではありません。その愛は最高に美しい愛であり、愛の中でも代表的な愛であり、永遠に輝くことができる愛です。(113)

 男性と女性が愛し合っても、それが神様が立てようとされたみ旨と一致するか、また神様が人間に願ったその基準と一致するかが問題となります。男性と女性が愛するとき、神様が考えられるモデル的な愛と一致するかということです。神様を中心として最初の男性と女性が愛で一つになったならば、それは、愛を中心にした宇宙のモデルになったという結論が出るのです。

 神様も人間の前にそのような愛を願ったのです。男性と女性も互いに相手に対しそのような愛を願ったのです。そのような真の愛は、宇宙の核であらざるをえません。メートル法と同じ一つの標準型になるのです。(114)

 男性と女性の愛は、創造理想を中心とした愛でなければなりません。夫を愛し妻を愛すること、その愛は自分たち夫婦を中心にするのではなく、神様の創造理想を中心にしなければなりません。(115)

 神様を中心にして暮らしていく夫婦ならば、男性が住む世界のどこへでも行くことができ、女性の住むところどこへでも行くことができるのであり、神様が臨在する所はどこであっても行くことができるという結論が出てくるのです。(116)

 人間は誰のために生きなければならないのでしょうか。アダムが創造されたとき、女性であるエバがいなかったので、アダムの存在価値は完全ではあり得なかったのです。それで、アダムは永遠の存続のための相対として、エバを必要とするようになったのです。それゆえに、男性の相対的主体は女性だということができるのです。(しかし、逆に)女性を主管することができる人も男性であるのです。

 男性が女性を主管し、女性が男性を主管できる力は愛です。愛以外にどんな力も男女間にあって、互いを主管することはできず、ただ愛だけが主管できるのです。

 神様も二性性相として存在されます。互いに違う二性が愛を中心として授受作用をしているので(神様も)永存なさることができるのです。神様の愛が絶対的であるのは、神様の二性が愛で完全に主管されているためです。完全なる主管を可能にするものは、愛だけであるのを知らなければなりません。(117)

 神様は縦的な愛の相対圏を築くことで終わるのではないのです。神様は縦的な愛の相対圏をつくった後、横的な愛の舞台を形成するために、存在世界を創造されたのです。それゆえに、横的な愛の関係を連結させるために被造世界をプラスとマイナス、すなわち男性と女性に創造されました。それによって、神様は人間を中心とした被造世界を愛で主管されるようになるのです。(118)

 「私」の肉身を誕生させたのは地上の父母であり、永遠なる生命を下さるのは縦的な父母です。縦的な父母と横的な父母が一体となるのは、愛によってのみ可能なのです。完全なる男性と女性の愛が純粋な神様のみ旨の中で一つになり結合されるところには、神様の愛が臨在し、「私」の生命の起源が芽吹くようになるのです。(119)

 すべての被造物を相対的につくったのは神様の真の愛を受けさせるためなのです。一つしかない愛を受けさせようとするのです。そのために相対的につくられたのです。そのような男性、そのような女性が神様の愛を完成させて、神様の愛を自らに決定的に結びつけることができる姿になれば、(また)同じ立場で(互いに)愛し合うことができる位置に立てば、彼らは明らかにたった一つの理想的な夫婦になります。(120)

 神様の愛と人間の愛は本質的に同じです。愛は一つになろうとします。男女が互いに恋しがる理由は何でしょうか。男性は女性、女性は男性を通してのみ神様を所有することができるからです。愛とは、互いに愛し合うことです。(121)

 二性性相の母体が神様であることを考えるとき、男性と女性の尊厳なる価値をほめたたえると同時に、神様の尊い価値を一層ほめたたえることができる人にならなければなりません。(122)

 男性の心の中には神様が愛しておられる女性がおり、彼の相対である女性の心の中にも神様が愛しておられる男性がいて、共にたたえるようになる場合には、神様もそれを見て喜ばれるのであり、すべての万物も互いに喜ぶようになるのです。彼らが互いに抱擁する喜びの内容が、天と地が共に喜ぶ価値(ある内容)になります。男性と女性が互いに愛し合い抱擁するそのこと自体が、宇宙が一体となる場となるのです。神様の理想の中で成される創造本然の姿はそういうものなのです。(123)

 元来男性は自分が喜ぶことのできる女性を迎え(なければならず)、女性もやはり自分が喜ぶことのできる男性を迎えなければなりません。そればかりか、(人間の喜びの)その限界を越えて、神様も喜び、すべての万物が喜ぶ出会いでなければなりません。そうすれば、この世のすべての存在物がその夫婦のために動員され、彼らに主管を受けることを願うようになります。鳥たちは彼らのために歌を歌い、蝶は喜びひらひら舞うようになるのです。神様も喜ばれ人間も喜び、すべての万物も喜ぶようになるのです。このような立場で人間始祖が歴史を出発させていたら、それこそ創造本然の理想世界になっていたのです。(124)

 愛の所有者は一体誰でしょうか。愛の主人は誰でしょうか。男性の立場からは、女性がいなければ愛も何も存在することができません。愛の相対基準は男性にあっては女性です。女性にあっては男性です。しかしこれは相対基準であり愛の絶対基準にはなり得ません。通過過程の存在としては認めることはできますが、その主体としての価値を認めることができる存在ではありません。絶対的愛の所有者、主人公は神様なのです。神様の愛をみ旨のままに成そうとせず、中間で奪った泥棒が、エデンの園を犯したその犯罪人なのです。(125)


2、男性と女性が生まれた理由


 女性という存在が生まれた理由は、男性であるアダムの配偶になるためだったのです。アダムがいなかったら、エバという存在も必要なかったのです。アダムはなぜ存在するようになったのでしょうか。アダムもエバに必要な存在であるためにつくられたのです。(126)

 人間は男性も女性も自分のために生きるように創造されたのではなく、相対のために存在するように創造されたのです。

 それゆえに、男性が男性として生まれたのは男性自身のために生まれたのではありません。女性がいくら美人で、男性を嫌う女性だといっても、その生まれた姿を見てください。自分のためにそのように生まれたのではありません。私たちは自分のために生まれたのではなく、相手のために生まれたということです。生まれたのはそのように生まれたのです。

 父母は子供のために、子供は父母のために尽くすようになるとき、互いのために尽くし合うときに回転するのです。為に尽くせば尽くすほど早く回転することができるのです。それが理想の形です。四角形ではなく、立体的に丸いということです。互いのために尽くすことは、互いに押してあげることなので、互いに為に尽くし合えば早く回転し、回転すれば球形を成して永存するようになるのです。

 それゆえに、世の中は円形に似ているのです。顔も丸いのです。目も丸いのです。全部完全に授け受けしなければなりません。静脈も動脈も授け受けています。病気というものは与える道理があるのに受ける道理がなければ起こるものなのです。均衡が破れるところに起こるのです。それゆえに、動く存在物はために尽くす作用の原則を立てなければ、永遠に存在することができないのです。皆さんはこれを知らなければなりません。(127)

 本来男性が生まれた本当の意味はどこにあるのでしょうか。それは女性のために生まれたということを否定することができないのです。その反対に女性は女性のために生まれたのではありません。男性のために生まれたという事実を自らが確信できないところに問題が生じることを、私たちは知らなければならないのです。

 これを、天地創造の大主宰であられる神様が、創造の原則にしたために、その原則に従っていかなくては、善なる、真なる、幸福なる、平和な世界、また愛と理想の世界へ入ることができないのです。(128)

 男性は女性のために生まれ、女性は男性のために生まれました。自分という存在を主張するところには神様は共におられず、人を尊重する場合に神様が共におられるのです。原則的で原理的思考によって私たちは二本の足で歩いていくのです。(129)

 女性は男性と出会うために生まれ、男性は女性と出会うために生まれたでしょう。それが最高の真理です。だからこのような原則に従って祝福圏を探し出さなければなりません。最高の真理圏を離脱することは、最高の悪です。(130)

 男性と女性は生理的に全部反対です。女性たちは一方的なのに比べて男性たちは三方四方的です。また女性たちは家の中にだけ居ますが、男性たちはあちらこちら世の中を巡るのです。このように性格が全部反対なのです。こういう主体的な男性と相対的な女性が何を中心にして一つになるのでしょうか。愛を中心にして一つになるのです。人間と神様を一つにさせようとするのも愛なのです。(131)

 男性が生まれたのは何のためですか。学問やお金、権力のためではありません。女性のためなのです。女性のために男性が生まれたということなのです。男性の骨格が女性よりも大きいのは自分だけが稼いで生活するためではなく、子女と妻を養うためのものです。男性がもっている器官と女性がもっている器官はそれぞれ違います。それを誰のためにもっていますか。それは自分のために生まれたのではありません。男性のものは女性のために生まれ出たので女性のものです。女性のものは、もちろん逆に、男性のものです。そのように考えてみましたか。(笑い)笑い話ではありません。(132)

 男性と女性の愛の象徴は何ですか。愛の終着地点はどこですか。男女を一つの体に成さしめる性器官です。それは愛を中心として心と体が完全に一つになることができる通路となるのです。男性がもっているものは男性のものではなく、女性がもっているものは女性のものではありません。男性は女性の(ための)ものをもっており、女性は男性の(ための)ものをもっています。生まれたのは自分のために生まれたのではありません。相対のために生まれたということをはっきり知らなければなりません。(133)

 男性と女性について見ると、男性は男性のために生まれたのではなく、女性は女性のために生まれたのではありません。それは横的関係で見れば主従関係になっています。主体と対象関係になっています。男性も男性のためのものではなく、女性も女性のためのものではありません。互いのために生まれました。女性が女性の姿で生まれたのは女性のためではなく、男性が男性の姿で生まれたのは男性のためではありません。

 このように見るとき、(すなわち)男性のために生まれなかったのが男性であり、女性のために生まれなかったのが女性であるというとき、その女性のもつ目的はどのようにして成されるのでしょうか。女性だけでは成し得ないのです。それは不可能です。男性とともに成さなければならないのです。男性を通したときにのみ成されるのです。そこに男性の喜びがあり、女性の喜びがあるのではないでしょうか。それはとやかくいうことではない(当然のことな)のです。(134)

 なぜ男性と女性が地球上に生まれたのでしょうか。互いに愛し合うために生まれたのです。神様は知恵の大王であられるために男女の愛の器官をそれぞれ変えてくださったのです。男性のものだといっても、その主人は男性ではありません。女性の場合も同じことです。主人を差しおいて自分の思いのままに行動した人は、愛をたがえた審判を受けなければならないのです。法の中でも一番恐ろしい法の罰を受けることを知ったならば、自分の妻をさておいて、あえてとんでもない考えをすることができますか。反対に妻たちは夫をほったらかしにして、とんでもない考えをすることができますか。(135)


3、互いは絶対的に必要な存在


 皆さん、愛は絶対に必要なものでしょう。そうでしょう。その愛に絶対必要な要素は人間です。男性と女性です。女性には男性が必要であり、男性には女性が必要なのです。どれだけ必要なのでしょうか。大韓民国よりも世界よりも、さらには神様よりも必要なのです。また、女性がいなければ百年以内に人類はすべて滅亡するのです。それゆえ男性がいくら天下を統一したとふんぞり返っても、女性がいなければ百年以内にいなくなるのです。ですから女性は絶対必要なのです。(136)

 女性にとって一番貴いものは何でしょうか。男性です。どんな男性が必要ですか。偉いとか偉くないとか不具かどうかが問題ではなく、ある男性から価値ある愛を探し出すことができるかということが問題です。(137)

 世の中で一番よいものは何でしょうか。男性には女性、女性には男性ではないのかというのです。男性たちが好きな愛は男性のものではなく、女性たちが好きな愛も女性のものではありません。そうでしょう。皆さん、一人でいるときに愛したい気持ちが生じますか。生じないでしょう。(138)

 「人」といえば男性と女性をいいます。一人の男性を置いて見ると、女性がいなくてはならないのであり、女性を置いて見ても男性がいなければなりません。その男性は自らが願って生まれたのではありませんが、その男性にとって必要なその女性も、自分が願って生まれたのではないのです。生まれてみると男性になり、女性になっていたのです。女性として、または男性として成長してみて初めて、(互いに)夫婦として必要であることを見いだしていく道が、私たちの人生の道であることを知っています。(139)

 男性として生まれたとき、女性がいることを知って生まれましたか、知らずに生まれましたか。生まれてみて、男性一人だけだと気分が悪くないですか。また女性として生まれてみて女性だけだと気分が悪いのです。そうではないですか。だから女性が生まれたとき男性がいることを知って生まれましたか、知らずに生まれましたか。私は(それについて)たとえ知らずに生まれたとしても、私を生んでくださった方は知っていたというのです。私が女性として生まれたのは、私を必要とする男性がいるためなのです。同様に、私が男性としてこのように生まれたのは、私を必要とする女性がいるから、男性として生まれたのです。そうでしょう。すべて知ってそのように生まれたのです。(140)

 男性にとって絶対に必要な存在は女性です。神様を絶対に必要とする前に女性という相対的な存在がいなければなりません。人類歴史が不幸だったのは、男性たちが絶対に必要な存在として女性を正しく認識できなかったからでした。同様に、女性にとって絶対的に必要な存在が男性であることを知らなかったのです。

 真の愛の味を感じるためには、理想圏をもたなければなりませんが、(そのためには)男性には女性が必要であり、女性には男性が絶対必要なのです。真の愛を慈しむ絶対的な男性と女性は、一生懸命努力することによって結ばれ、絶対的男性と女性が一つに結ばれたとき、神様が二人の中に臨在されるようになることを知らなければなりません。(141)

 真の愛で結ばれた夫婦が別れることは神様も嫌いなので、絶対的男性と女性の愛は永遠なのです。神様は全知全能であられる方ですが、その絶対的な存在も、一人では何ら意味がありません。それと同様に、一人の男性が(いくら)美男で健康な人だといっても、女性がいなくてはその意味がないのです。自分の容姿や健康に酔って生きる男性は、どこにも使い道のない陰険な存在にすぎないのです。そのように自己陶酔に陥って生きる男性が世の中に多いということが問題であり、歴史が悲劇として流れてきた原因であるというのです。自己陶酔に陥ってしまっている世の中を改善し、変化させてきたのが、神様の摂理だったということを知らなければなりません。(142)

 男性が一人座っていくら愛を求めてみても、その人は狂った人としか扱われないのです。(143)

 女性にとって本当の幸福は永遠の主体者に出会うことです。(144)


4、愛は相対から来る


 愛は一人では成されないのです。愛はどこから出てくるのですか。「私」から出てくるのではなく対象から来るのです。対象から出てくるので、「私」が頭を低くして対象のために尽くさなければならないのです。「為に生きる」という天理が、ここから生まれるのです。極めて高貴なものが「私」に訪れるとき、それを受け入れようとすれば、気高くて、(そして)為に尽くさなければならないという「為にする哲学」を、築かなければならないのです。(145)

 愛は神様も一人で成すことができないのです。愛は必ず相対的基盤を通して成されるのです。愛はどこから始まるのかといえば自分から出るのではなく、相対から始まるのです。(146)

 人には愛があります。しかし愛というのは、「私」一人では現れません。男性が一人でいるときには、愛は現れません。男性の前に相対的な女性が現れてこそ、愛が生じてくるのです。このように相対が現れて初めて、愛が生じるのです。(147)

 父母の愛が素晴らしく、夫婦の愛が素晴らしいと言うとき、本当の愛は自分を中心とした愛ではありません。愛というのは、「私」から始まるのではなく、相対から始まるのです。皆さんはこれを知らなければなりません。夫から、妻から生じるのであり、息子から、兄弟から愛が始まるのです。愛は自分一人から始まるのではなく、相対から始まるのです。それゆえ、愛の主人は誰でしょうか。相対が愛の主人となるのです。(148)

 愛はどこから出てくるのでしょうか。相対から現れるのです。相対が醜くて憎ければ愛も後退しようとするし、相対がきれいで好きであれば、愛の作用もその分早くなります。相対の言語、美、香り、味など、相対の要素によって愛の作用が決定されるようになるのです。(149)

 愛は一人では絶対的に感じることができません。幸福も同じです。平和というのも一つの国だけで話すことではなく、相手の国家との間で成立する相対的関係をいうのです。(150)

 幸福も同じことです。一人で幸福を感じることができますか。相手側と同等な相対的関係を結びながら、互いに感動して愛し合うことができてこそ、真の幸福を感じるのです。

 自由もそうです。一人では本当の自由は成立しません。愛の中で、愛とともに得られる自由が本当の自由です。また愛の中でのみ無限なる自由が花咲くのです。真の愛の中では、たとえむちをもって独裁するといっても、それが拘束ではなくもっと深い喜びと喜悦をもたらすことができるのです。それは愛が、相手側のためにしてあげることであり、自分が犠牲になって人を生かすことであるためです。(151)

 愛の根拠地はどこでしょうか。愛の根拠地は「私」ではありません。愛という名詞は相対的観念からいうものです。相対がいなければ、いくら美男子であっても一人では愛することはできないのです。愛の根拠地は「私」ではありません。愛は「私」からだというのは、サタンが今まで利用してきた言葉です。愛の根拠地は「私」ではありません。愛の根拠地は自分だと考えますが、これを残らず改め直さなくては、歴史を変えることはできません。

 今まで妻は妻なりに自分が中心であり、夫は夫なりに自分が中心だから為に尽くせというので、破綻が生じるのです。愛の根拠地は「私」にあるのではなく、相対にあるので、その愛を「私」が見つけるためには、その愛の前で犠牲にならなければなりません。愛は必ず犠牲を要求するのです。また、愛は克服を必要とするのです。

 このような観点から見るときに、今日サタン世界を克服できる内容をもっているものは、この天地間において、ほかでは探すことができません。神様を中心とした愛の原則によってのみ見つけることができるので、神様は愛をしっかりつかんでいるのです。世の中で、慈悲という言葉も、愛がなくては出てこないのです。仁という言葉も、二人がいなくては出てこないのです。慈悲や仁という言葉も全部残らず相対的観念からいうのです。(152)


5、真の異性観


 男性は天を象徴し、女性は地を象徴します。二人が一つになって調和しなければなりません。

 男性と女性は互いに異なっています。男性の筋肉はごつごつしていて、女性のは滑らかです。男性はひげが生えますが、女性はひげが生えません。声も違います。男女を比べてみると相対的につりあっています。調和がとれているのです。

 人間という肉体的構造を見るとき、左右に対称的です。半分をぴったりとくっつけたからです。

 皆さん、高いだけ、あるいは低いだけでよいですか。調和を成すのがよいのです。水平線を中心に下には魚が住み、上には哺乳類、鳥類などが住んでいます。

 女性は一月に一度ずつ生理が生じます。月を中心にして潮が満ち引きするように、女性も同じです。呼吸作用と同じです。

 男性と女性が調和して平行線にならなければなりません。昇ったり降りたり回ったりする各種施設のあるディズニーランドのようなところを、人々がなぜ好むのかといえば、宇宙がそうだからなのです。男性だけで和動するのと、男性と女性が和動するのでは、どちらが気持ちよいですか。男性と女性が和動するほうがよいのです。宇宙がそうだからです。宇宙が陰陽の調和を成して和動するから、(人間が)拍子をとらなければならないのです。(153)

 異性間にあって愛の調和を成せば、一つの円形運動をするようになります。異性が愛で一体となって愛の実を結ぶようになれば、神様は降りて来られ、人間は上って行くようになり、中央で出会うようになります。神様はこの円形の求心点となり、球形運動が行われるのです。求心点から四方どこでも通じることができるのです。その求心点は愛の調和が成される所であり、生命が胎動する場であり、共同主義の始発点なのです。そこには愛の力があるからです。ですから、宇宙のすべての作用と包容する力は愛なのです。(154)

 女の子たちは、美男子がいると、見ないと言いながらこっそり見るでしょう。また、独身男性はきれいな娘がいればとても関心があるでしょう。それは堕落した世界の愛です。女性はいくら美男子がいても、まずお兄さんだと思わなければなりません。その次は「私のお父さんに似た二番目のお兄さん」、このように考えるべきです。その理由は、お兄さんが一番近いからです。一番近い男性を連想してみて、それよりももっと自分に対して近づくことができる男性として、さらに私のために尽くしてくれる男性として感じることができるところから、相対が生まれるのです。

 本来娘たちは、相対(夫)のことを先に考えるようになっているのですか。お兄さんが醜いとしても、その方は(娘たちが)困っているときやうれしいときに訪ねていって相談したい相手なのです。お父さんも同じことです。「それ以上に、私は夫に侍る」と言えば、どれほど素晴らしい考えでしょうか。

 そのように考えなければならない理由は、真の妹として私に対してくれるお兄さんの愛、真の娘として対してくれるお父さんの愛、それを誘発させて、それ以上の愛で連結させることができる、より高い愛の道が展開されなければならないからです。

 だから男性たちの中でお父さんよりも、お兄さんよりも(夫が)「私」を愛してくれるのです。それでこそ一段階上がることができるのです。そしてお父さんを捨て、お兄さんを捨てても娘たちがお嫁に行きたいという理由がここにあるのです。

 同様に、独身の男性たちは娘たちに対するとき、「愛する妹だ」という感情が浮かび上がらなければなりません。「愛するお姉さんのようであり、愛するお母さんの延長体だなあ」と感じるべきです。また、女性たちは男性を見るとき、(私を)世界と連結させる男性を考え、どの国の人でも愛せると言えなければなりません。黒人の男性までも愛することができるという心で発展しなければなりません。

 だから、結婚というのは縦的世界の男性と女性の愛の道を無限に伸ばすことができる訓練場です。子供を生み育て、春のようにすべての人々を愛する教訓をもって、幼い子供から年をとった(人まで、)すべての男性と女性を互いに愛することができる因縁の世界、それがより理想郷に近い世界ではないでしょうか。(155)

 女性が男性と出会うとき、相対原理に立脚して見ると、主体は誰ですか。心の主体は女性であり、体の主体は男性ですか。どうですか。二人とも主体ですか。男性が主体ですか。女性が主体ですか。愛情は誰が多いのかといえば、男性より女性がより多いのです。そのような面では女性が主体です。しかし、いくら愛情が多いといっても、その愛情が本当の愛情になるためには、男性と出会って侍らなければならないのです。そうでしょう。愛情の畑は女性であり、愛情の種は男性なのです。種があって畑があるのであり、畑があって種があるのではありません。種を中心として見れば、畑は対象なのです。(156)

 今日、堕落した世界において愛が一番危険なものになってしまいました。愛をよく管理できなければ天下が壊れて混乱に陥るというのは堕落したためなのです。人間は愛がなぜ偽りとなり醜くなったのかがよく分かりませんでしたが、その愛を守り保護しようとしたのは、真の愛が現れることを願う本能のためだったのです。(157)

 人間において愛は永遠なるものであり、二つではなく一つです。男性と女性の間が愛で結ばれれば、地上で夫婦が年をとるまで仲良く連れ添わなければならないし、死んでも永遠に共に生きていくようになっているのです。体は二つですが、一つとなって回転することによって、一体化するのです。二つの体が一つになれば神様のように回るようになり、愛の四位基台をつくるようになるので、それがまさに愛の理想世界なのです。そこには偽りの愛は侵犯することができず、ただ真の愛のみが臨在するようになります。

 神様を中心にして、男性と女性が祝福を受けて完成した位置に立ったならば、神様はいつでも訪ねてこられるようになります。愛の四位基台をつくるようになれば、相手側の体を通して心までも愛するようになり、心を愛するようになれば体まで従ってくるようになっているのです。(158)

 統一教会は六千年間秘められた愛の摂理を知って、神様の愛を中心にして創造理想の完成を成すために、祝福の足場を広げてきたのです。祝福を通して愛の至聖所をつくってきたのです。ここから生命が新しく生まれ出ることを知らなければなりません。(159)

 すべての肉的な細胞や霊的要素が、百パーセント一つになることができる中心は何なのでしょうか。それは男性と女性の性なのです。肉も成熟し霊も成熟できる思春期を過ぎ、愛の道を探していくようになるとき、霊と肉が完全に共鳴して完成するようになります。(160)

 愛の色はどんな色だと思いますか。夜には黒く、昼には白く、夕方ごろならば黄色だと思いますか。愛の色はどんな色だと思いますか。愛の中心の色には、平和と統一そして人類の平等思想を成就できる力があります。だから愛の至聖所にむやみに入っていこうとすれば焼け死んでしまうのです。

 統一教会の愛の理念は素晴らしいと思いませんか。今日の米国社会における愛の色は、一言で言えばおぞましい死の色です。男女間の愛を通して永遠なる創造理想の世界を築くのではなく、死のどん底に落ちています。祝福を受けるまで、男女は愛の至聖所を清潔に守らなければならないし、一度愛すれば守り続けていかなければならないのに、米国人たちは愛の至聖所を侵犯する悪党たちであり、悪女たちなのです。

 結婚を祝福として受け入れない米国の男女は、愛の目が遠くて、前を見ることができない患者たちばかりです。彼らは祖国創建の先駆者ではなく、祖国創建の破壊者たちなのです。米国社会がこのまま行けば、あすに対する希望もなく絶望が満ちているばかりです。結局は神様の審判によってではなく、人間性を失った人間たちによって自滅してしまうのが、火を見るよりも明らかなのです。(161)

 神様の至聖所はどこでしょうか。愛が宿る堕落以前の男女の性なのです。ここが天の至聖所なのです。(162)

 愛とは何なのでしょうか。愛は神様が臨在できる至聖所です。愛を通して、堕落した世の中をきれいに掃除させなければなりません。堕落とは、人間が思春期時代を正しく送らなければならないのにその時期を(正しく)過ごせず、脱線したことを意味するということをすでに明らかにしました。

 人間始祖エバがまず天使長と霊的に不倫の関係を結ぶことによって堕落し、それからエバがアダムと肉的な関係を結んで肉的に堕落したのです。それゆえ、彼らの罪の血統が後世の人間たちにまで遺伝してきているのです。

 サタンの痕跡が残っているところには、神様が絶対に臨在され得ないという事実を知らなければなりません。人間が神様の愛を受けるためには、死んでも再び生きなければなりません。人間社会でも、二度目に結婚した時、前の夫が忘れられない妻を、(新しい夫が)好きになれるはずがないではないですか。

 それゆえに神様も蕩減復帰を通して人間たちが罪を清算するようにさせ、救援摂理をしてこられたのです。(163)


6、男性は志操、女性は貞節


 皆さんはこれから、家庭を中心として天国理念を立てていかなければなりません。ですから皆さんは、家庭について深く考えなくてはなりません。家庭の王者とならなければなりません。歴史的な面においても主体の王者にならなければなりません。そのためには、男性が貞節を守っていなければなりません。男性が貞節を守ってこれを全うしなければなりません。

 今までは女性の貞節を強調したでしょう。エデンの園で誰が貞節を失ったのでしょうか。女性が失ってしまったのですか、男性が失ってしまったのですか。「女性です」。女性なのですか。男性も失ってしまったのです。エデンの中心である男性も失ってしまったのです。アダムがエバのところに誘惑されて入り、結局は本来根である男性まで切られたのです。女性であるエバが、男性であるアダムを堕落させたのです。それを蕩減するために、今まで女性が男性に蹂躙されたのです。そうでしょう。女性たちが男性たちに蹂躙されるのはそのためです。だから先生が女性を解放させるために、男女平等運動と女性解放運動をするのです。それは世界のどんな人よりも、後世の人々のためにしなければなりません。(164)

 新郎は新婦の前に何でしょうか。「烈男」です。世界的「烈男」なのです。烈女という言葉は聞いても「烈男」という言葉は聞いたことがないでしょう。イエス様は新婦となった万民に対して「烈男」でした。天と地が公認し、歴史が公認し、時代が公認し、現在と未来が公認する男性の中の男性でした。そのようなイエス様の前に新婦になろうとする人たちが、烈女という名詞を打ち立てることができないのでしょうか。烈女にもなれずに、イエス様の新婦になろうとするのは強盗のやり方です。乞食たちの洞窟に住む女性が、世界的な大統領を自分の夫だと言ったらどうでしょうか。「オー、ケネディ大統領が私の夫です」と言えば、みんな狂ったと言うことでしょう。

 キリスト教徒たちはそのようなことをしているのです。乞食のような立場から神様の王子に「オー、新郎さん早く来てください」と言っているのです。ぼろを着てイエス様に「ここに来て私と一緒に住みましょう」と言っています。それゆえに、恨み多いイエス様は今まで恨みを晴らすことができませんでした。イエス様が恨みを晴らすことができなかったのに、イエス様を送った神様の恨みが解かれますか。解けませんでした。神様も(恨みを)晴らすことができず、イエス様も晴らすことができなかったので、神様からつくられた天地万物も晴らすことができなかったのです。(165)

 世の中に数多くの男性たちがいても、わき見をしてはいけません。どのような男性でも、統一教会の女性を思いどおりにすることはできないのです。危急の時にはみんな命を断つか、刃物で相手の腹を突き刺して殺すか、二つのうち一つをとるのです、分かりますか。

 貞節は命よりも貴いものです。皆さんの夫が愛することのでき、息子や娘が愛することのでき、国が愛することのでき、世界が愛することのできる歴史の道、それが女性によって開かれるのです。このような、女性の美と高貴さと情緒的な伝統が輝きえる基盤を築いているという厳粛な課題の前に、皆さんは真実と真の姿をもって、ありったけの誠心を尽くさなければならないのです。(166)

 皆さんは今思いのまま愛することができるようになっていますか、できないでいますか。道で男性からふいに声をかけられて、ついて行くようになっていますか、なっていませんか。ついて行きません。皆さんはついて行くようになっているでしょう。(笑)そのような素質をもっていてはいけません。皆さんは時が来るまで、自分の体をよく守らなければなりません。純情を化け物のような男性にゆだねてはいけません。街頭で威張りちらして、ぶらぶらして役に立たずにいる男性たちは、全部化け物たちです。自分の運命をそのような男性にゆだねますか。これは簡単な問題ではありません。一生に一度しかないので、一歩踏み違えた場合には自分の人生が狂ってくるのです。そうでしょう。これは男性にもいえるのです。それゆえに、今までは女性に貞操を守れと言いましたが、これからは男性も貞節を守らなければなりません。そうしてこそ復帰されるのではないでしょうか。いくら世の中が悪く、せち辛くても、皆さんは行くべき正道からはずれる行動をしてはなりません。(167)

 青春時代に純情を失ってしまったアダムとエバの恨みを踏み越えて蕩減できる貴い時期である思春期に、純情を汚してはならないのです。その純情をきれいに貴く保存して「千年、万年一人で行っても、愛が蹂躙されることは絶対にあってはならない」という志操と決意をもたなければならないのです。民族を愛し国を愛さなければ、自分が愛することのできる人と出会うことができないのです。世界を愛さなければ、(自分が)愛することのできる人をもてないし、神様を愛さなければ、愛する人をもつことができないのです。これは統一教会の伝統的思想です。ですから神様を愛し、世界を愛し、民族を愛した後に、自分の妻を愛し、夫を愛することができるのです。これが原則なのです。(168)

 ある男性たちは自分の妻がいてもきれいな女性を見れば、自分の妻だったらいいのにと思うのです。このように二心をもった男性を指して、泥棒の心をもった(人)と言います。二心から始まったのがサタンなので、二心をもった男性を指して、サタンといっても間違いありません。そのような人々がいたら、サタンにほかなりません。(169)

 男性も貞節を守らなければならない時が来ています。男性が貞節を守ることができなければ、その一門がみ旨の前に重罪を犯すようになるのです。大臣だといっても、浮気をしてもいいようになってはいないのです。男性が間違えれば、その一門は滅びるのです。そのような時が来ているのです。統一思想を知るようになれば、そのようなことはできません。(170)

 これからは、男性も貞節を守らなければならない時代です。男性も貞節を守って歴史的な純潔の伝統を残さなければなりません。イエス様の血と肉を食べる儀式は、イエス様の純潔なる血と肉の伝統を立てるためのものです。(171)

 女性は貞節、男性は志操(度胸)という言葉があります。この言葉はどういう言葉かといえば、み旨(愛)を成就するための貞節であり、目的を果たすための志操なのです。ですから女性は貞節というからには、一つの愛のほかは知らないでこそ成され、男性は志操というからには、一つの目的だけのために精進してこそ成されるのです。

 アダムとエバを中心にして見るとき、自分が行く道を知り、志操と貞節を守らなければならなかったのに、守れなかったので堕落したのです。(172)

 男性は神様の愛を中心として女性を愛するときに、「完全に愛した。初めから終わりまで永遠に変わらず愛した」と言える立場に立たなければなりません。また女性はそのような立場に立つために、自分の身を固く封じなければなりません。数多くの花びらが幾重にも重なり合っている芍薬の花のように、固く埋めておかなければなりません。そして春という天地の調和に合わせ、そこに和合して新しい人生を出発しなければなりません。これを正しくしなければなりません。(173)


7、愛には発展も革命もない


 愛には革命もなく、発展も退歩もないのです。(174)

 愛には発展もなく、どんな革命もありえません。愛は原型そのままが完全なものであり、不変で永遠で絶対的なものです。(175)

 愛は発展もなく革命もないのです。愛が永遠で完全なことは、永久不変の真理です。ところで愛が発展すると考えて試験してみようと思えば、それは間違った考えです。愛を生活の手段として考える米国は、そのような意味から滅亡するしかないのです。神様はそのような米国の未来を祝福してくださるはずがなく、米国自らが滅びなければ先生が愛の爆弾を爆発させても滅ぼすのです。はっきりしていることは、愛が生活の一つの方便や手段に利用されては絶対にいけないということです。(176)

 夫は妻に対し、初めて愛した姿から、どんな革命や発展も望みません。それは女性が夫に対して願う望みでもあるのです。初めて愛を出発させたその純粋な姿を保つよう願うのは、夫や妻、みんなの願いであることをはっきり知らなければなりません。純粋な愛に、ある色が加味されることを願わなければ、革命を必要としないのです。純粋な愛、それ自体が永遠に保存されるのを願うことを知ってくださるようにお願いします。

 愛する人との間になぜ離婚という問題が生じるのでしょうか。離婚した人や、離婚をしようとする人たちすべてが、最初は生死をかけた愛の関係だったことを考えてみると、何かが間違っているのです。離婚をするようになった理由はいろいろありますが、結局何かが変わってしまい、二人の間が変化したことを意味するのです。彼らは愛を守り、育てることができなかったからです。愛それ自体は変わりませんが、人の心は変わるのです。(177)

 ある男女が夫婦となれば、「おまえと私」の間に不変的な統一をどのようにして築くかが重要なのです。そのように一つになった立場で幸福を謳うようになるとき、それは永遠なる幸福(といえるの)です。理想的な愛情も、やはり変化しない主体的な何かをもっている所にだけ、そのような基準が設定されるのです。(178)

 結婚するときはその男性が美男子だといって愛していたのに、一週間過ぎた後に事故が起こり、体が不自由になった場合、離婚しようとなっては真の愛とはいえません。偽物の愛です。

 ある離婚調査書を見たところ、離婚をした百名中六十名以上、その動機が女性(の方の問題)にあったというものでした。(179)

 今日、先進国家の白人たちは世界を主導して動かす高い地位にあり、黒人たちは大部分が被支配者として低い地位にあります。しかし父母が子供を愛する場合は、その濃度において白人と黒人の差はないのです。誰かが誰かの支配を受けることはないのです。またそれは、永遠に変わることがありません。父母が子供を愛する心、妻が夫を愛する心、夫が妻を愛する心、真に愛し合う人たち同士の愛する心は、歴史がいくら変動し、発展し、革命の過程を経ても、変わりえないのです。(180)

 真の愛は絶対的であり、不変であり、永遠なるものです。(181)


8、愛は極めて自然なもの


 先生の幼いときにあった話ですが、ある日、鳥を一つがい捕まえて、二羽のくちばしを口づけさせる遊びをしたことがあります。二羽が互いに口づけするのを見るために、巣を作って餌をあげながら観察したのです。その鳥たちが互いに愛し合って楽しそうに歌を歌うのを見たい子供心からそうしたのです。それはすべての自然の道理をはっきりと知るための、一つの好奇心、子供の実験のようなものでした。今考えれば、全く意地悪な行いを(よくも)続けたものです。愛は自然な中に築かれることを長らくして悟ることができました。

 愛は自然な中、最高の自由な雰囲気の中でなされるものが真の愛なのです。先生が愛について正しく知っているのは、長年の実験を経てはっきりと分かるようになったのです。(182)

 先生が幼いとき育った村は田舎だけに季節が変わるごとに渡り鳥が訪れ、季節ごとに違った花がたくさん咲く環境の中で成長したのです。先生が幼いときには韓国のどこに行っても季節がはっきりしていて、季節が変わるごとに美しい自然と出合うことができました。今日のソウルは一日中歩いても自然と出合うことができず、みな人為的景観のみを感じる索漠たる都会地になっていて、悲しみを覚えもします。このような都会の環境の中で育った人間は、情緒が不足し、自然の神秘や美を感じる機会がなく、乱暴だったり、個人主義の性格をつくりやすいことを知らなければなりません。自然との出合いの中でなされる交流は、人間をして多くのことを学び悟らしめるのです。(183)

 先生は自然の中で多くのことを学び習うことができました。その中からも、真実の愛がどんなもので、幸福がどんなものかについても私なりに悟りました。学校教育よりも根本的なことを学ぶことができるのが、自然の世界でした。

 季節が変わって美しい鳥が飛んで来たのを発見すれば、その鳥を追いながら、どのように巣を作ってどんな姿で住んでいるのかを観察しました。あるときは鳥の巣を探すのに一週間かかることもありましたし、鳥が卵を産んでひなをかえすのを見るために、十日間以上かかることもありました。お母さんに似たかわいくてきれいなひなを見ながら、神様の神秘と愛を深く確認することもしました。その鳥のひなは、進化して生まれた生命ではありませんでした。皆さんが卵を温めても、ひながかえりますか。鳥は、その父母の体温の中から、愛の中から、ひなとして誕生するのです。

 先生は鳥のひなを家に持ち帰って、精誠を込めて育ててみることにしました。こっそりひなを持ち出してきたのに、母鳥が私を見てしきりに鳴くのは、まさに自分のひなを返してくれと哀願して鳴く声だったのです。鳥の世界も母性愛が強く、侵入者が自分のひなを持っていこうとすれば自分の生命を捨ててまでも守ろうとしました。(184)

 愛の価値を失った人を、大学で教育させると、何が変わる(というの)でしょうか。彼らはみんな知識を蓄えるだけで、個人主義者になり、物質主義の信仰者のみをつくり出すだけなのです。テンジャンチゲ(注・肉、野菜などをみそとともに煮た煮物)は土焼きの器に入れられて、もろもろの味を出すのと同様に、人格修養も、愛を基にしてこそ所期の目的を達成することができるのです。

 世界文明は、美術的調和を整えた基の上で花咲かせなければなりません。焼きカルビは皿に盛らなければならないし、テンジャンクッ(注・韓国風みそ汁)は土焼きの器に入れられてこそ、もろもろの味を味わえるのと同じです。風味のよいテンジャンクッの味は、一度味わえばどこへ行っても忘れることができないのです。

 同じように、人間も風味よい味に似た、(そういう)愛を一度味わえば変わることがないのです。甘いだけのインスタント食品には飽きを感じるように、愛もインスタント食品のようにどこででも簡単に求めることができれば、それは真の愛だとはいえないのです。(185)

 最近はインスタント食品のように愛する人たちが、至る所に広がっていますが、それが問題なのです。香水風呂に入って沐浴したといっても、愛が深まることはありません。田舎に住みながら冷水に体を入れて洗い、寝床に入る夫婦の愛(の方)がもっと純粋で、長くたてば深まるものだといえるのです。

 夫婦がキスをするために歯をみがくとすれば、それは自然な愛ではなく、歯みがき粉のにおいのために、その人だけがもっている固有の体臭を味わうことができないのです。歯をみがいてキスをする人を見ていると、その人は愛を味わうために(キスを)するのか、それとも歯みがき粉のにおいを味わうためにするのか分からないほどです。最近の世相を見ていると、人間の幸福はどんなものなのか混沌となるほどに、計算的で、人為的で、虚飾的な愛が蔓延しているのを見ることができますが、そのような愛が、この世界を滅亡の道へと導いている主犯であるというのです。(186)

 皆さんが好きな、愛する人と出会えば抱擁したいし、口づけもしたいのは、自然な異性間の本能なのです。「私」が環境と接しているのは、この宇宙を好きになるためなのです。それは、相手を探し出すための人間の自然な行為なのです。

 すべての人間が相対的理念のもとで、男性は女性に対し、女性は男性に対するとき、ここには愛の秩序に違反する行為や事件はないのです。真の愛の秩序は、相対的な理念をもとにして男性と女性が出会うとき生まれるものです。

 しかし、このような愛の秩序に違反して環境圏を退け否定するところにおいては、愛の理想的な秩序が成り立ちえないのです。(187)















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第三節 真なる結婚と真の愛

祝福家庭と理想天国

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第三節 真なる結婚と真の愛


1、結婚の意義


 結婚とは幸福な宮殿の門を開けて入っていく儀式であるといえます。それゆえ、結婚は人生における重大事となるのです。愛は時空を超越し、人間にとって最も偉大なものであり、結婚はそのような愛を現して確認する儀式なのです。(188)

 なぜ結婚式を「祝福を受ける」というのでしょうか。私たちの原理において見るとき、アダムとエバが堕落せずに完成していたなら、祝福の席に参加していたはずです。言い換えれば、(アダムとエバ)は神様の実体対象として、神様が主体になれば対象的立場です。そして、愛の主体となられる神様から対象的な立場の愛を連結させることのできるその基台(祝福の基台)は、結局(アダムとエバが)完成することによって、成されるということを知っています。完成とは結局、結婚をいうのであり、結婚とは神様の愛の顕現をいうのです。

 言うならば、結婚がなければ、今日、人間世界においての愛というものが始まらなかったというのです。その愛の主人は誰でしょうか。人間ではなく神様であることを私たちは知らなければなりません。その神様の愛が人間の中に現れるようになるとき、神様の喜び、誇りとなり、神様の愛としてこれを感じることができるのです。

 愛というものは一人で成り立つものではなく、相対的関係において成り立つものなので、男性が愛を成就しようとすれば男性自体だけでは成せません。女性も同じです。このようにアダムとエバが愛で一つになることによって初めて、神様の愛を受けることができるのです。このような観点から見るとき、私たち人間は神様から生まれたものであることが分かるのです。(189)

 「私」が結婚をするのは「私」だけのためではなく、相対のためでもあります。結婚が自分より相対のために行われるというのはどういうことでしょうか。天地間のすべての道理が主体と対象からなっているように、男女が結婚するのも天地間の道理なのです。男性が右側なら女性が左側になるのは宇宙間の横的な関係を築くためであり、男性が主体なら女性がその対象となるのは、神様との縦的な上下関係を築くためでもあります。ですから結婚とは、男性だけのためでもなく、また女性だけのためでもない、天理の法度を合わせるためなのです。それゆえ、男性と女性は互いに違う形を備えています。天理の法度を一致させることができるように生まれたのです。(190)

 結婚というのは、愛する二人が寂しいときは慰め合い、うれしいときは共に喜び、困難なときは助け合うことのできる相対的な位置で授け受けしながら、神様の前へ出ていく場合において、神様の愛を土台として生活するために結ばれることなのです。これがすなわち結婚生活です。

 神様が男性と女性を天につくらず、地につくられたのは、平面的基準で神様の愛を横的に成すためです。すなわち、主体と対象の関係を造成し横的に一つになるとき、主体であり神様と、二人で一つになった愛が、縦的な愛の因縁を結び得るというのです。この事実は極めて重要です。

 二千年前、この地に来られたイエス様も男性として来られ、万王の王として神様の国を建てる前に、新郎として新婦を地上に迎えなければなりませんでした。イエス様はすべての愛の最高基準として来られました。彼は横的基準の前に一人の男性として現れ、一人の完全な女性を選び、神様が人間男性に賦与された百パーセントの本性の愛と、女性に賦与された百パーセントの本性の愛を中心として一つにならなければなりませんでした。そのようになるとすると、神様は、失われた威信と体面を捜して降りて来られるようになります。そのような本来の基準で天と地が一つになり、愛を授受するとき、そこにいるすべてのものは自然に和合することができ、相応できるようになります。(191)


2、結婚はなぜするのか


 結婚は何のためにするのでしょうか。創造理想を完成するためです。すなわち、創造目的を成就するためにするというのです。それでは創造目的は誰の目的でしょうか。アダムの目的である前に神様の目的です。ですから、アダムが喜ぶ前に神様が喜ばなければなりません。そうならなければならないのです。さあ、このように見るとき、結婚は誰のためにするのでしょうか。神様のためにするのです。言い換えれば、神様の創造目的というみ旨のためにするのです。み旨は創造理想を完成することです。

 創造理想は自分を中心として成就するものではありません。すべての心情が主体的なる神様と一体となり、彼(神様)が動じれば「私」も動じ、彼が静じれば「私」も静じ、心情的一致点を中心として内外が一つにならなければならないのです。このように神様の前に和合することのできる基準を立てなければ、創造目的を成就することができないのです。(192)

 「私」が結婚をするのは「私」だけのためではなく、相対のためでもあります。結婚が自分より相対のために行われるというのはどういうことでしょうか。天地間のすべての道理が主体と対象からなっているように、男女が結婚するのも天地間の道理なのです。

 男性が右側なら女性は左側になりますが、それは宇宙間の横的な関係を築くためであり、男性が主体なら女性はその対象になりますが、それは神様との縦的な上下関係を築くためです。それゆえ、結婚は男性だけのためでもなく、また女性だけのためでもなく、天理の法度を一致させるためにするのです。それゆえに、男性と女性は互いに違う形を備えています。天理の法度を一致させることができるように生まれたのです。(193)

 男性は女性を探すために生まれ、女性は男性を探すために生まれました。女性と男性は二人合わせて、より次元の高い神様の愛に接するために生まれました。一人ではその愛に触れることはできません。一人で接してもそれは一方的なのです。立体的で球形的な愛に接することはできません。

 それゆえ、男女がより高い次元の立体的な愛の圏内にジャンプするために結婚するのです。本然の世界にあっては、男性と女性が一つになればなるほど、その力の作用においては偉大な中心が生じ、球形になるのです。横的に連結されればされるほど、縦的な力の愛の母体が連結されて入ってくるというのです。そこにおいて体と心が一つになるのです。(194)

 女性が男性を迎えるのは、男性の世界を自分のものとするためです。女性が男性の世界を占領して何をしようというのでしょうか。女性が男性の世界を占領しようとするのは愛で一体となるためです。(195)

 結婚はなぜしますか。女性が男性を嫌だと思って(結婚)しないで済むのならいいのに、結婚をしなければ女性としての機能をもつことができず病気にかかるようになっています。女性のすべての循環器を中心として身体構造が、男性を迎え結婚生活をすることによって正常な機能を営むようになっているのです。女性が結婚をせずに独身で生きることは、正常な行動や考えでないことを知らなければなりません。ですから、女性は正常な過程の生活を通過していく道が理想的な行動といえます。

 正常な道とは何でしょうか。正常な道とはすべての面で平均をとって和合できる中庸の道を意味します。中庸の道とは、どちらか一方に愛情をもったり、偏ったりせず、(また)高低なしにすべての面で調和を成す正常な道をいいます。

 個人的に行く運命の道、男性なら男性、女性なら女性が行く運命の道は、どこへ行くべきでしょうか。運命の曲がった道へ行きたがる人は誰もいないはずです。人間本来の心理は、正しい運命の道へ行くことを望むのです。男性であろうが女性であろうが、運命に従順な家庭の道を選んで行くのを願うのです。(196)

 今日、独身の男女は将来素晴らしい人になれば、よい家庭を築き、その家庭の父母になろうとします。それゆえ、夫は夫なりに妻は妻なりに、男は男なりに女は女なりに、素晴らしい相対を要求します。それはなぜでしょうか。自分が不足だということを感じるからです。このようなことを感じる一方、素晴らしい息子・娘を願うのです。自分が不足な面を相対を通して補充し、もっと良くなることができればどれほど良いでしょうか。そのようなことを胸深くに固く抱いて愛したいのです。(197)

 皆さんに尋ねますが、統一教会はどこへ行くのでしょうか。モスクワへですか。それではそこへ行って何をするのでしょうか。簡単です。神様が願われる地上天国を尋ねていこう(建設しよう)というのです。それでは結婚はなぜするのですか。天国へ行くのに役に立つためにするのです。なぜかといえば、天国へ行こうとすれば結婚をしなければ行けないからです。それゆえ、天国へ行く資格者になるためには結婚をしなければならないのです。天国へ行く資格とは何でしょうか。神様に似ることです。どのようにして神様に似るのでしょうか。神様のみ言を実践する人になることです。神様の愛を「私」の愛にすることであり、神様が語る言葉を「私」の言葉として語ることができればいいのです。

 それゆえ、「私」は神様に代わり世界に向かって、「人類よ、おまえは天国に行かなければならない」と言うのです。その次には「天国に行くためには神様のごとく『私』が人類を愛して連れていく」、そうすればよいというのです。そういう人は、神様の人であり、天の側の人であり、天国へ行くことのできる候補者だといって間違いないのです。このようになるときには、結婚する資格が整うというのです。

 さあ、結婚はなぜすると言いましたか。天国に行くために。そして人類のため(です)。男性の前にいるその女性は神様の娘であり、人類の(女性を代表した)娘であることを男性たちは知らなければなりません。人類が愛する女性として愛することができ、神様が愛する娘として愛することができれば、夫になる資格がありますが、そうでなければ資格がありません。女性はその反対です。「あれは『私』の夫である」とは考えるなというのです。「私」の夫であるという前に神様の息子であり、人類の男性を代表した男性であると考えろというのです。

 人類が愛する以上に愛することができ、神様が愛する以上に愛することのできる女性になればいいのです。そして「私」が男性としての右足になり、女性としての左足になり、人類のため、神様のための愛の足跡を家庭を通して伝えるのだという考えをもって結婚をしなければなりません。右足は夫であり、左足は妻なので、結婚をしなければびっこになるというのです。また、左右の足が完全でなければなりません。どちらか片側でも完全でなければびっこになります。それゆえに完全な男性と完全な女性になってこそ円満な結婚をすることができます。

 そうして、夫を見て「私」が好きになるのは人類を好きになることであり、神様を好きになることであり、また夫を愛することは人類を愛することであり、神様を愛することなのです。(198)

 結婚の目的は、男性と女性の心の世界を一致させようとすることであり、男性と女性の愛の完成のためなのです。そして、結婚したということはそのような証拠を見せますと宣布したことなのです。結婚生活を通して愛の完成と心の完成を成したならば、家庭の理想を実現したと見ることができます。そして死ぬとき、これを成していたなら間違いなく天国へ行くというのです。(199)


3、真の結婚観


 結婚というものは創造原理、創造理想から見れば、完成基準で成されなければならないものです。

 アダムとエバがもし完成したとすれば、二人が一緒に神様の前に立って結婚式を挙げなければなりません。

 結婚式を挙げる基準を私たちは完成基準といいます。完成基準に立てば、神様に対して霊肉ともに一致するような価値をもつようになります。

 霊肉ともに一体を成すというのは、何によって一致するのかといえば、愛によって一体となります。

 愛によって一体となれば、アダムとエバが成熟して神様の前に行く前に、二人がともに、相手が自分の理想相対であることを自然に知るようになります。

 そのようになった場合、アダムとエバは横的な愛の基準に立ちます。横的な愛の基準が始まるところにおいて、アダムとエバが共に慕う立場に立つようになるのです。したがって人間の完成というのは、相対基準が造成された愛を基準として平面化された立場をいいます。

 それが平面化された場合、神様の愛は垂直線と同じなので直角となり、神様の愛に接するようになります。

 二人が一つになることは、神様の二性性相の実体対象であるアダムとエバが一つになることであり、神様の本形状と本性相、すなわち、プラスとマイナスが一つになることなのです。(200)

 本来、体と心が完全に一つになったアダムとエバが、縦的に完全に成熟し、新郎新婦として神様の前に喜ぶことのできる対象圏を成し、神様の祝福を受けることを通して神様の愛による家庭が形成されたなら、それが本来エデンで堕落せずに成されていた完成圏でした。その完成圏に現れたアダムとエバになっていたなら、その場所はどういう場所でしょうか。祝福を受ける場所です。

 福の中で一番貴い福は神様の愛です。その次は神様の創造の権限を引き継ぐことです。神様が愛を中心としてアダムとエバを創造されたように、創造的権限を賦与されるのが子女なのです。皆さんはなぜ子女を愛しますか。神様の創造の偉業を横的に実体圏で引き継いだのと同じであるため、アダムとエバをつくって神様が喜ばれたその喜びを代わりに感じるためです。

 その次は、神様が天地万物を主管されたように万物を主管させるために、横的な立場にいる私たちに神様は主管権を賦与されました。その権限をもって秩序的段階にとどまることのできる、そんな世界が理想的天国であると見るのです。それゆえ、結婚するそのときには、神様の愛を相続し、再創造の権限と主管権を、完成圏に立って引き継ぐようになることを皆さんは知らなければなりません。

 ですから結婚式というのは、愛の顕現をいうと同時に創造権と主管権を賦与されることなのです。(201)

 私たちの結婚観は宇宙の座布団を……。宇宙の座布団、分かりますか。宇宙で一番いい絹は何ですか。洋緞(注・高級な絹織物の一種)ですか。洋緞の布団、ねんねこを敷いておいて結婚生活をすることよりも、宇宙の洋緞布団を敷いておいて、その中で愛する。そのように考えるのです。愛を中心として、所有権を「私」一代で決定する瞬間だということです。ああ、「私」の当代に所有権が来る。その所有は女性という動物の所有が決定されるのです。その女性はどんな女性か。宇宙の半分です。これをひったくる日には、私の後ろに宇宙がぶらさがってくる。考えてみなさい。また、女性はなぜ結婚をしなければならないのでしょうか。男性にくっついて一八〇度と一八〇度が合わさって、二人で宇宙の価値と対等の作用圏をつくるために結婚する。このように考えるとき、統一教会の思想が素晴らしいというのです。

 そうして何をするのですか。皆さん香りのない花がいいですか。香りのない花は無関心です。皆さん、「私は花になるなら緑色の花になろう」、こうですか。緑色の花、緑色の花を見ましたか。私が今まで植物園に行ってみても緑色の花はありませんでした。木の葉のような花は咲かないのと同じでしょう。それを見れば天地の道理が……。それ一つを見ても、神様がいるというのです。葉がみんな青いのに、緑色の花がどこにありますか。それは何なのですか。緑色に近い花が一つあります。何かというと、唐がらしの花です。それも、じっと細かく見れば、真っ青ではないのです。内容を見れば赤もあり、みんなあります。それはなぜ。現れるために。なぜ現れますか。この世の調和圏に入っていくために。天地調和、創造法に適用されるためには現れなければなりません。さあ、私たちの結婚観はこんなに素晴らしいのです。そんな結婚、私たち統一教会の結婚観はどれほど素晴らしいでしょうか。

 それでは歴史的内容を経ていますか。このような理想的な一つの家庭を夢見ながら、神様は今まで何をしてきたのかといえば、今までそのような男性を……。今まで歴史時代にそのような男性を探してみたけれど、一人も探せませんでした。それを考える者を一人も得られず、このようなことを言う者も得られなかったのです。(202)

 神様から出発した愛の道が実を結ぼうとすれば、その同参者の事情を知らなければならないのです。神様と父母と自分は公義の場所から出発した生命ですから、結実を見ようとすれば、その公義を基盤として結実しなければ本然の場所へ帰っていく道がないというのです。これが統一教会の結婚観です。(203)

 結婚は私のためではなく相対のためにするという信条をもたなければなりません。結婚するとき、立派な人、きれいな人を得ようとするのは間違った考えです。人間は人のために生きなければならないという原則が分かったなら、結婚をするときも相対のためにするという観念をもたなければなりません。いくら醜い人だといっても美人よりも愛そうという信念をもつことが原則的な結婚観です。人間として生まれて相対を神様のように愛し、人類のように愛し、この世の誰よりももっと愛することができるという観念が確立しなければ、天の国に復帰することはできません。一人の男性として一人の女性を愛することができないなら、神様と人類を愛することはできません。(204)

 結婚は誰のためにするのかといえば、人類のためにするのです。人類の共同利益のためなのです。世界を代表したものです。その男性は世界を代表した男性であり、女性は世界を代表した女性です。それではどこから出発すべきでしょうか。世界を代表した場所から出発しなければなりません。結婚するのは人類が公的に願うみ旨のためなのです。(205)

 世間で行っている自由結婚は、サタンが人間たちを堕落させ神様の前に出ていけないようにする罠なのです。その罠に引っかかれば死に、サタンの支配を受けたり、えじきになるしかありません。今日、西欧社会、特に米国は自由結婚が盛んに行われることによって真の家庭が築かれず、家庭生活に失敗した人たちが日ごとに多くなり、いくらもしないうちに家庭をもたない人が多数を占めるようになるでしょう。そのようになれば米国社会は愛の干からびた社会になり、不信により不安と恐怖が支配する地獄のような社会になるだろうと、自信をもって確言することができます。このような時点に立っている皆さんに、このような社会の風潮を一掃して、米国社会に愛があふれる、神様の願われる社会を建設しなければならない義務と使命が賦与されていることを知らなければなりません。(206)

 結婚は自分のためにするのではありません。自分を中心とした結婚をして、ならず者のような子女を生んでごらんなさい。家の中は滅んでしまうことでしょう。このような結婚をして楽しく暮らすことはただの夢です。将来が問題です。(207)

 今日、私たち統一家は現在の立場にとどまるのでなく、発展しなければなりません。国家の運勢を抱き、世界の運勢を抱いて生まれることのできる後孫を生まなければならないというのです。結婚というのは新しい民族、新しい国家を形成するために、そうすることのできる人材を模索しようとすることです。

 今まで、世界の人たちは自分のために結婚をすると言いました。しかし我々統一教会の結婚は民族のため、世界のためにするのです。(208)

 結婚は何のためにするのでしょうか、国のためにするのです。(209)

 祝福はなぜ受けるのですか。福を分けてあげて、全世界まで回っていくようにするためです。(210)

 韓国の民法は同姓同本の結婚を禁じて異族結婚を奨励しますが、これは統一を思慕する民族であるためにそうだというのです。(211)

 我が国の旧式結婚式を見れば、互いが敬礼をします。なぜ、敬礼すると思いますか。互いが「為に生きよう」と敬礼するのです。互いが為に生きなければ、愛は逃げていってしまいます。(212)

 女性が嫁に行くときにも「私は女性として生まれたので一人の男性を訪ねていくのだ」と言う人もいるでしょうし、「私が嫁に行くのは国を生かすために行くのだ」と言う人もいることでしょう。しかし、女性が嫁に行くのは一人の男性と喜びを共にするためではありません。一人の男性に会うために行くのではありません。一つの家庭のために、または一人の婦人の幸福のために行くのではありません。「大韓民国のすべての女性たちを代表して、この国、大韓民国のために嫁に行くのだ」と言えば、それは偉大な人です。何の話か分かりますか。

 我が国を見れば、過去にそのようなことがありました。李垠親王(一八九七〜一九六九年)の夫人になった方子女史がいますが、その女性は日本から韓国に嫁に来ました。何のために来たのでしょうか。韓国の男性を愛するために来たのですか。国のために来たのです。そのような人は歴史に残るのです。韓日合邦以降、ある関係を結ぶために政策的な結婚をしたのです。その女性は日本の全女性を代表した一つの祭物として、その国の歴史に残るでしょう。そうですか、そうではないですか。それでは嫁や婿に行くのはみな同じなのに、なぜそれだけ歴史に残るのですか。価値が違うからです。

 それでは全天地間で誰が最も偉大な場所で、嫁、婿に行こうとしたでしょうか。イエス様です。イエス様は結婚するため、新郎として新婦を迎えにこられるとき、どのような立場で来られたのでしょうか。世界のために来られたのです。世界のために結婚しようとして来た代表的な人物が誰かというと、イエス様しかいません。(213)


4、思春期の変化と結婚の適期


 少年期には漠然とした夢の中で健康に育つことだけを望みますが、思春期になり身体的、生理的変化が生じるようになれば、異性に対する関心が高まり、瞳は好奇心と美しさできらきら光るようになります。体もおしゃれをするため、着物の身だしなみを整えるようになるし、顔もよりきれいにするために、整えることに余念がなくなるのです。そのようなときに唇を見れば彼が思春期に差しかかっているのか、そうでないのかを知ることができます。

 女性たちにおいても、思春期に差しかかれば月経が始まり、身体的に多くの変化が起こるようになります。お尻が大きくなり、胸がふくらみ、唇は赤くなり、瞳は神秘的に輝いたりします。そのような女性たちの変化は、どうして、誰のために起こるのでしょうか。

 女性の身体的変化は、直行した道をくるくる回るための変化なのです。くるくる回っていくことのできる運動を始めるための変化だというのです。直行する道には何の調和もありません。直行する道は二回行ったり来たりすればすべてのものが消耗され、何も残るものがないのです。直行する道を行ったり来たりすれば環境を破壊するだけで、環境の調和は起こりません。環境の調和と保存のためには回っていかなければなりません。それゆえ、すべてが回っていくべきです。回っていく場合は、自分を中心にしては回っていくことができないので相対を中心として回っていかなければなりません。

 回っていく場合は相対とぶつかってこそ、回っていくことができます。相対者とぶつかれば自動的に反作用が起こり回る運動が始まります。これは天地の道理です。それゆえ、女性が身体的に変化が起こるのは相対者と出会い、回っていくためです。ぶつかれば回っていくための力が生じるようになります。女性が化粧をしてきれいに飾るのは、自分のためというより相対のためであると言えます。(214)

 最も美しい花のような時期、花がぱっと開いた青春時代がいつかといえば、思春期時代です。その時期がまさに十八歳から二十四歳までの七年間です。この七年間は一生に二度とない愛の花が咲く時期です。一度しかない花のようなこの時代がどれほど貴いことでしょうか。

 皆さん、芍薬の花を知っているでしょう。その花のつぼみに色の違う黄色の花房があるでしょう。それは何枚から成っているでしょうか。花に全部しっかり取り巻いているのです。それをおし開くことができますか。たやすくおし開けないようにしっかりと取り巻いているのです。男性や女性もこれと同じです。皆さんの赤い愛、黄色い花のようなその愛のつぼみ、その愛のつぼみをいつ、ぱっと咲かせるのですか。天地の調和の中で美しさが最もよく現れるときがその時期です。人間として見るときにも最高のときです。神様の傑作品になり、最も中心の、絶頂としてきらめく期間です。そうではないでしょうか。

 大きくなりながら最もきれいな花のような時代、一番美しい時代が青春時代です。その青春期の姿は最高の花のつぼみです。それを十分に愛することのできる人がいるなら、その人は神様の部屋に招待を受けることができます。何の話か分かりますか。そんな愛を理解できますか。そのように愛することのできる男性と女性は神様の福を受けることができ、神様の部屋に招待を受けることができるというのです。それでは、皆さんは今そうできますか。それを知ったなら皆さんは、男性なら男性としてそのような準備をしなければなりません。(215)

 皆さん、思春期時代といえば、天下の王子になる気分なのです。そうですか、そうではないですか。そうだというのです。すべてのことを自分を中心としてひっくり返して考える時期です。このように思春期時代は反駁する時代なので自分を追いやれば、いくらでも別の道へ行くことができます。それゆえに今日、青少年たちの問題が世界的な問題になったのです。思春期時代はどんなことでも自分を中心としなければ気に入らないというのです。しかし自分と関係を結んだときは、それがいくら微々たるものであっても得意になるのです。

 二十歳前後の娘さんをじっと見ると、訳もなく「ひひひひひ…」と笑います。(笑い)秋に葉がすべて落ちた柿の木から、熟した柿がぽとんと落ちるのを見ても、「ははは」と笑います。それは何か分からなくとも通じるというのです。すべてのものが、全部自分と関係を結んでいるので最高の感情が誘発されるのです。ですから、思春期というのはすべてのものに接して因縁を結ぶことのできる転換点なのです。

 それはなぜでしょうか。神様の愛を中心として男性と女性を完全に百パーセント一つにするための創造本性が基盤となっているからです。ところが、これが誤ったために、へこみ、踏まれ、壊れ、まるで良い器にひびが入ったのと同じになったのです。

 本来人間は神様の愛を中心として一つになろうとする本性をもっています。神様の愛は無限のものです。神様の愛は天地のあらゆる生命の力です。この愛がすべての人々に投入されるなら、この世は道人が住む世の中になることでしょう。(216)

 いくらきれいな娘でも思春期はただ一時しかありません。その時は花の中の花であり、一生に一番貴いときなのです。それにもかかわらず、「私一人で生きよう」という女性がいるでしょうか。それは女性ではありません。そんな動物がいますか。(笑い)また、男性たちの中にも格幅よい十六歳前後の青春に、自分一人で生きようという者がいますか。そんなときには必ず相対を探すようになるのです。誰に似てそうなのですか。神様に似て、そうなのです。神様がそうでないのに、そんな人間ができるでしょうか。神様がそうなのです。一生のうち一番貴い時である若い青春時代に、相対を探していくのは男性でも女性でも同じです。そうですか、そうでないですか。そうでないなら一人で年老いて死になさい。(笑い)

 美人に「美人は薄幸だというので、あなたのような美人は一人で老いて死ぬべきだ」と言ってごらんなさい。いくらおとなしい美人でも顔から毒が飛び出すのです。それほどひどい悪口はありません。それを見れば美人の価値はどこにあるでしょうか。その美人は完全に鑑賞してあげ、天上の愛を因縁づけてあげることのできる男性がいてこそ価値があるのです。ですから、情緒の安定しない人は不幸ですか、幸福ですか。どれ、おばあさんたち、答えてごらんなさい。「不幸です」。不幸だというのです。これは間違いないのです。(217)

 愛はいつから連結されるのでしょうか。愛の力はいつから押し出してくれるのでしょうか。男女も思春期を迎え、すべての器官が百パーセント完成圏に到達するようになるとき、停止状態へ入っていくのです。すべてのものが飽和状態になります。運動というのは必ず飽和線を経ます。それで、(いったん)停止して、また回るようになります。そのような飽和状態に入っていって停止します。

 そのような飽和状態に入っていく前段階が前かといえば思春期です。思春期というのは「私」の肉体の発育において、すべての器官が完成した時期をいいます。気球でいえば空気がなくぺちゃんこの状態から、空気を入れてぱんぱんになり、破裂する直前になったということです。もう少し入れば破裂します。その破裂するとはどういうことでしょうか。それが愛が完成して破裂するのならどれほどいいことでしょうか。同じく人間も十八歳ぐらいになればゴム風船のようにはりつめてきます。そして破裂直前の立場まで行き、そこから見事に永遠に転がっていくことができます。(218)

 霊肉が完全に一体となるときは、本然の愛が私たちの中に訪れてくるときです。堕落した世界の人間たちの場合も、思春期とは霊と肉体の細胞が和合する平行線上に立つこのとできる時期であるというのです。思春期のときの霊と肉体の細胞は、すべての門を開き喜んで迎えるのです。

 神様を中心とした思春期時代に人間世界を眺めるとき、喜びと幸福のみが満ちるようになるのです。(219)

 皆さんのような思春期の独身男女がともに会って話をするときは胸がはずむのです。はずむでしょう。はずむのですか、はずまないのですか。分からないのですか。はずむというの、はずまないというの。「はずみます」。それみなさい。興奮するでしょう。そして興奮するようになれば心のうちに変化が生じます。ところが、その心が神様を中心とせず、反対の立場に立てば悪になるのです。心は誰を中心とするのでしょうか。神様です。その神様を中心とした心と心情が、一つになることのできる所に上がれるようにするのが愛です。何の話か分かりますか。このような立場で一つの生涯を送らなければならない人間であるために、人間は愛を中心とした理想と希望をもたなければならないというのです。

 そして、最後の場で輝くことのできるのが愛なのです。非良心的な愛は愛ではないのです。それが何の話か、今は分からないでしょうが、皆さんが結婚してみれば分かるようになります。(220)

 今、あなたたちは、男子学生は女子学生の顔を、女子学生は男子学生の顔を訳もなく見たくなるときが多いはずです。そうでしょう。今やそういう時が来たのですね。あなたたちはまだ年が若いからそうなのです。十五、十六歳になって、高校生になればね。考えが相手の方に行くのです。目がくるっと回るのです。どう、高校生たち、そうですか。正直に一度答えてみなさい。心がどうですか。男子学生たちがいるのは嫌ですか、よいですか。一度話してごらんなさい。

 さあ! 女性だから答えないのがまたいいのですね。男性たち、女学生がいるのは悪くないでしょう。「はい」。こんな時は思春期時代になるために、孝進も、女学生を見ればね……。事実を話しているのです。率直な話はすべてのものが協助し、どこにでも通じるというので率直な話をするのです。それをうそだというなら、うそだと思う人は間違った人です。私は率直に話をするのです。

 それで、「私」がどのように見るのか考えないで、女学生たちがどのように見るか考えているのです。また女学生もそうなのです。頭をちゃんととかないととか。服も手入れをしたり、鏡も見たりするのは、自分がどのように見るか考えてそうするのでなく、男子学生たちがどのように見るだろうかと思ってそうするのです。そうですか、そうではないですか。女学生たちは。では男子学生たちは。「そうです」。

 さあそうすると、その行動はよいし、そのようなことは自然な現象なのです。あなたたちがそんな考えをするからといって悪いことではないのです。しかし、芸術的な心をもって考えなさいというのです。(221)

 思春期になれば好奇心が多く、あちこち出たり入ったりするようになります。ところで、これから独身男性は花嫁が必要であり、花嫁になる人は独身男性が必要になるのです。そうでしょう。そうでないと考える者たちはやめてしまいなさい。(222)

 美しく身なりを整えた女性を見ると、(その女性が)男性を見る目はひときわ輝きます。自分の相対を見つけるため、自らをきれいに装うのは自然の現象といえるでしょう。しゃれた男性に出会うため、理想的男性に出会うため、心を焦がしながら歩き回るようになります。(223)

 神様は、人間たちが最大の幸福感を味わう時をいつだと考えられたのでしょうか。年老いた夫婦が互いに愛していると言って笑い、踊り回るのを見て、神様は私も実に気分がいいと言われるでしょうか。または、若い男女が体と心で愛し合いながら歌い、踊るのを見て喜ばれるのでしょうか。

 人間の幸福はどのようなものでしょうか。お金を多く持ち、ダイヤモンドを身に着ければ幸福だといえるでしょうか。派手に着飾り、香水をつけ、化粧をした姿で歌い踊るといって、幸福であるといえるでしょうか。もちろん、幸福は各自の感じ方によって少しは異なりますが、真実の幸福といえば、相対者と共に愛に酔って笑い、歌い、ささやくところで見つけることができます。そうすることのできる人を幸福な人というのです。

 愛する恋人からささやきの言葉を聞くことのできる人は、幸福な人であるといえます。耳元で愛をささやくことは、まさに夢を見るかのように幸福感を感じることができるからです。幸福なときとは年齢的に見ると、若さが最も華やかに咲くときだといえます。幸福が最も華やかなとき、最も趣のあるときとは、愛の力があふれる青年期です。愛によって力いっぱいつかみ、一つになることができるときが青春時代です。(224)

 全知全能の神様は、人間において華やかに花開くことのできる時間をつくられました。その時期が青春時代だといえます。神様は愛の青春時代を中心として、自ら幸福を培っていくようにつくられたのです。それゆえ、神様が存在する同一理想的な人間世界にあって、男女が華やかな青春の時期に幸福になることができる関門として、結婚という祝福をしました。この世に存在するすべてのものは、相対的理想を経なければ存在価値がなくなるのです。ですから人間が成長した後に祝福を受けて結婚をするのは至極自然の摂理なのです。(225)

 愛するようになれば幸せになり、愛に酔って感じる感情は、実に、のぞきめがねのようだといって、早く経験してみようととびつけば、それは大変なことだと言わざるをえません。愛の門は時になれば開くのであり、門が開く時を待って入らなければなりません。自分が愛の主体になったと思ったとき、堂々と開かなければならないのです。(226)

 結婚適齢期はいつごろだと思いますか。心と体が最も完成した力をもつときが結婚することのできる最適齢期であるといえます。青年期を越えればだんだんと気力が衰えていくために、いくら純情を保ったといっても相対者を求めるのが難しくなるのです。(227)


5、勉強と結婚


 人間において幸福の門の開かれるとき、それは結婚なのです。幸福の門を開くために勉強をするのは、とてもよい方法だといえます。ところが問題は、その勉強がお金を稼ぐため、権力をもつためにするのであれば間違ったことだといえます。勉強は真の愛を成すことができるように学ぶのでなければなりません。(228)

 皆さんは学校へ何のために行きますか。学校へ行って勉強をして、どこに使おうというのですか。それは幸福のためです。幸福は愛を除いては存在することができません。それゆえ、学校へ行くのは愛の道を短縮させるためだということができます。(229)

 若い女性たちが大学へ行って学士になろうとする、その結論は何のためですか。良い新郎を得るためです。それ以外には何もありません。そして、ある男性がどれほど素晴らしくなったとしても、その家庭が一つにならなかったならば、その男性は不幸な人です。(230)

 勉強するのも、真なる男性に会って真なる母になるためだといわなければならないのです。母になるためにはまず国のために勉強しなければならず、夫を真の男性として侍り、真の夫に侍る真の妻にならなければなりません。このような「私」になれなければ、真の夫に侍ることもできず、真の息子をもつこともできないのです。女性は真の妻になり、一つの家庭の主婦として、夫婦が年をとるまで仲良く連れ添わなければなりません。いい嫁になるために勉強するのなら、大学出身者たちは皆、夫婦が共白髪になるべきでしょう。ところが共白髪になる人が多いですか、離婚する人が多いですか。言うまでもありません。全く無学な者たちがより立派に長生きをするというのです。(231)

 男性や女性が生まれてから長い間の教育期間を経て、成熟した人格者になるのも、愛の理想的相対者に出会い幸福な生活を得るためのものだといえます。最近、世間では結婚の相対者に出会うために勉強するのではないといいますが、結局は素晴らしい相対者を得るためであり、相対者と美しく愛し合いながら幸福に住んでみれば、財物もついてくるし、名誉もついてくるものだといえます。(232)


6、思春期と初恋


 神様の愛を成すことが最高の理想的結論になりえるし、愛を完成する道が最高の理想郷に向かっていくことのできる道だといえます。女性が男性を探そうとする理由も神様の愛を探すためであり、男性が女性を探す理由も神様の愛を探すためであるという結論が出てきます。

 ところで心と体が一つにならなければ、神様の愛を探すことができないというところに問題があります。また心と体が一つになることができるのは愛によってのみ可能なのです。愛の道を尋ねていくとき、間違いなく心と体が一つになります。

 例えば、思春期には愛を探して心と体が衝動を引き起こすようになります。父母の言葉を聞かず、自分勝手に歩き回ります。心の目と体の目が一つになって動きます。また、愛の鼻をもてば、ふだん嫌いだったにおいまで好きになります。愛の口をもてば、ふだん嫌いだった味までも好きになります。夜を徹しながらでも愛の話を聞きたがります。愛する対象は、触れば触るほど、もっと触りたいというのです。このように思春期になり愛の感情に襲われるときは、目がおかしくなり、すべてのものを良く見ようとします。

 体と心が一つになり愛の銃を撃てば、愛という弾丸が相手の心臓に打ちこまれるようになるのです。男性のそのような愛、女性のそのような愛を願う人は手を挙げてみなさい。愛は消化できないものがありません。すべてのものをおいしく食べることができ、すべてのものをみな消化することができるのです。真実の愛をもったなら、いくらぶ男であっても美男に見えるようになります。愛は驚くべきものです。ですから、よくても悪くても思春期時代に結んだ初恋は、男性でも女性でも永遠に忘れることができません。(233)

 死んでも生きても、好きな恋人のいる女性が、父母の反対で別の男性に嫁いだとしたら、その女性は一生の間幸福でしょうか、不幸でしょうか。その女性は、自分が初めて愛した男性がたとえ鼻がつぶれ、目が不格好だとしても、花のように良く見えるのです。父母が決めてくれた男性は外見からしても学歴からしても、千人なら千人が皆いいと言える人であり、昔(自分が)心の中でささやき愛した男性は至って不出来なのにもかかわらず、その初恋の男性(のほう)がよいというのです。皆さん、この言葉は信じられるでしょう。「はい」。しかし皆さんは該当しないでしょう。(笑い)

 初恋はすべてを占領するのです。愛の主体は誰ですか。神様です。愛の主体が神様であるために、愛することができるのも神様一人しかいないのです。元来、初恋は神様とするようになっています。ところがそのようにできなかったことが堕落です。

 エバは誰と愛し合いましたか。「天使長としました」。ところが喜びながら愛さなければならないのに、顔をしかめて泣きながら愛したのです。皆さん、堕落するときエバが「ああよいわ、善悪を知る木の果を取って食べると本当においしい、おいしいわ」と言ったでしょうか。エバが天使長に強姦されたとき、その心はどうだったのでしょうか。良心の呵責を受け、嫌がりながら天使長の誘惑に引かれていったのです。すべての細胞がうれしくて花が早春を望むように愛すべきであったにもかかわらず、細胞が朽ち果て、心情が朽ち果てた場で(顔を)しかめながら愛したのです。(234)

 皆さん、初恋は貴いと思ったのですか。私はよく分からないが、皆さんはどうですか。「貴いです」。皆さんは私より優れているのですね。そう、答えた者は初恋をした経験があるようですね。(笑い)そんなことを言うときは黙っているものです。皆に聞けと一言言ってみたのです。もし、ここにいる女の子たちの中で、そんな答えをしたら気合を入れようと思ったのに、お化けみたいな男が答えたから、私は我慢したのです。とにかく初恋が良いということを聞いたでしょう。

 それでは初恋は誰としたのでしょうか。考えてみなさい。もし堕落しなかったなら、誰と(初恋を)したのでしょうか。神様としたはずです。アダムとエバの神様を中心とした初恋には、すべてがつまっているのです。初恋を中心とした父母の愛、初恋を中心とした夫婦の愛、初恋を中心とした子女の愛、すべてに神様の愛と根がしっかりくっついているのです。皆さんのように何千年の歴史的距離をおいて、個人復帰や家庭復帰という段階を経なければならない愛ではありません。いっぺんにぱっとくっつく愛です。父母の愛、夫婦の愛、子女の愛がひとまとめに全部くっつく愛なのです。(235)

 神様に対する初恋、この初恋を捨てた人間は神様の前に行くことはできません。神様との初恋を通してすべてのものを放棄することができ、神様を中心として生き死にしようと言える人は天国に行くことができるのです。男女間にも初恋が重要なのです。

 統一教会のレバレンド・ムーンが今まで善男善女を集めて合同結婚式を挙行したのは、神様を中心とした初恋を結んであげようとしたのです。国境を超越し、人種を超越して結婚するのも神様の愛を実現するためでした。それゆえ、(人々から、文先生は)狂ったという声を聞きました。初恋のためにそういう声を聞きました。

 このような観点から皆さん自身を反省してみる必要があります。「私」がどれほど憎むべき邪悪な心と体をもっているか、自らの心と体を欺いている憎むべき存在ではないのかというのです。そのような皆さん自身を発見するとき、「ああ神様、私を愛によって救ってください」と言う前に、皆さん自身を改めることが急務であるのを知らなければなりません。(236)

 最近の若い者たちは、やれ恋愛だ何だといって道端で浮気をしてまわる人たちがたくさんいます。統一教会に入ってからは絶対にそんなことはありませんが、教会に入る前はそうだった人もいることでしょう。

 今まで、ある男性を愛していた女性が、自分が愛する人よりももっとよい男性が現れた場合、心がさっと変わってしまい、今まで愛していた人に「グッドバイ、グッドバイ」と言うとしたら、気分がいいでしょうか、悪いでしょうか。「悪いです」。どれほど悪いでしょうか。たぶん、その女性を壊してしまいたいし、その男性をほうり投げてしまいたいでしょう。それが愛の心なのです。

 そうではないという人は男性ではありません。女性たちも同じです。自分の夫をそれほどまで愛してきたのにもかかわらず、夫が別の女性を愛するようになれば、その女性は気分がいいでしょうか、悪いでしょうか。もし気分がいいという人は、いっそのこと死んでしまうべきです。そんな人は一人もいないはずです。それを考えてみなさい。また男性の体面ゆえに、妻がそう(別の男性を愛)しているのに、それを黙って見ていられますか。刀で刺してでも女(妻)が手を引くのを見てこそ気がすっとするのです。ただ腹の中でだけくよくよ心配している男性は、男性ではありません。それは先生もたぶん同じことでしょう。(237)


7、心と体が一致しなければならない


 今日、私たちは人間の同一なる個体の中で、悪の欲望を達成しようとする邪心の指向性と善の欲望を成就しようとする本心の指向性が、各々別の目的を前において熾烈な闘いを繰り広げながら、心と体が分裂していることを知ることができます。このように人間の心と体が分裂している矛盾性はどこから始まったのかといえば、まさに人間始祖の堕落からでした。人間始祖が堕落することによって、常に心と体が闘争し分裂する矛盾性をもつようになり、家庭と社会、ひいては国家と国家同士が戦い、血を流す不幸を経ざるをえなくなりました。(238)

 心と体が一つになれない理由を、確実に知らなければなりません。神様がおられるなら、どうして心と体が一つになれないようにつくられたのかというのです。各自は人間がどういうものかを知らずに生まれ、男か女かも知らずに生まれました。男として生まれ、あるいは女として生まれて、一つになることのできる道が愛の道なのに、なぜ、本来一つになれる基盤をもたずに生まれたのかというのです。神様がなぜそのように創造できなかったのかが問題です。絶対的神様の愛が必要で、男と女をつくったのなら、なぜそのようにできなかったのかというのです。このように見るとき、正常な男と女の位置に立つことができず、正常な神様の位置に行けなかったという論理が成り立つのです。(239)

 私たち人間にとって最も重要なものが愛であるので、男性と女性は互いに相対的な愛を探さなければ神様の愛を探す道がありません。真の男性、真の女性の心と体が完全に一つになり、真の心と体が一体化して闘わない、そのような愛の場でなければ、神様の愛は来ないのです。(240)

 心と体が一つになり、真の夫の愛、真の妻の愛、真の神様の愛と連結した、真の子女を愛することのできる父母にならなければなりません。そうしてこそ完全な家庭が築かれるのです。心と体が一つになるところにおいて、真の愛が現れるようになります。夫婦の心と体の中に神様の真の愛が臨み、一つになって息子・娘を生まなければなりません。

 また、自分の夫よりも神様をもっと重要視しなければならず、自分の妻よりも神様をもっと重要視しなければなりません。皆さんにはそれが必要ですが、皆さんの息子・娘の時代には違ってきます。真の父母を皆さんの夫よりももっと愛する立場に立たなければなりません。その次に夫を愛し、息子・娘を愛さなければならないのが原理的内容です。(241)

 皆さん、三点、分かりますか。三点、この三点が一つになれる点は、神様とアダムとエバが一つになれる場です。神様がアダムとエバと一つになれる場は、彼らの心と体が一致する場です。心と心情も同じことです。

 それでは完成した人、すなわち完成した男性と女性が住むようになる場とはどのような場でしょうか。天の公的なみ旨を中心として神様の愛を受けることができ、心と体が完全に一つになり、神様を主体として侍ることのできる場です。このような場に住むようになるとき、完成したアダムとエバの立場に立つようになります。このような人々が家庭を築いて出発するのが歴史的な出発なのです。これが歴史的な人生航路の第一歩です。そのような場をアダムとエバが築くべきだったのに、堕落することによって成すことができませんでした。それゆえ、今日、皆さんはこれを復帰するために、このような道を尋ねていかなければなりません。(242)

 男性は、心と体が主体と対象の関係になっていますが、心と体は縦と横の作用を継続することによって存在の力を発生させます。女性もやはり心と体が縦と横の関係をなしており、存在の力が起こってくるのです。男性でも女性でもすべて縦横の相対的関係をもっていますが、その力は愛なのです。愛だけが心と体の理想的関係を永遠に成すことができます。(243)

 貧しい農夫として田舎で草を取り、農作をする場にいたとしても、その農夫の心と体にふくれあがる愛の情熱が燃えあがれば、心の五官と肉の五官が完全に合わさって、これ以上にない喜びを味わうようになるのです。

 このように神様の愛が皆さんに臨むことのできる安着点を皆さんがもっているなら、時計の振り子の振動のように、神様の心が一度揺れれば皆さんの心が一度揺れ、それゆえに皆さんと神様が一緒に回っていくというのです。一度回り始めればしきりに回っていきます。行けば行くほど加重された力、遠心力が作用して、家庭を愛せ、社会を愛せ、国家を愛せ、世界を愛せと要求するようになるのです。(244)

 皆さん自身の心と体が一つになる中で愛の門が開かれる時が近づけば、皆さん自身の心が宇宙に共鳴して小説家や詩人になったりするのです。愛を主題として詩や小説を書くことができるのもまた、一つの愛を美しく幸せに結んでゆく資質を発揮するようになるからです。

 人間が愛の目を開けるようになれば、自分の心と体は宇宙の中で立体的な関係を結びたくなります。そして秋風に舞う落ち葉を見て自然の道理を悟りほほえむようになり、春の園に咲く花の中に美しさを見つめたくなって、(自分が)一輪の花になったりするのです。(245)

 男性も女性もどうして愛を好むのでしょうか。人間の身体はおよそ四百兆にもなる細胞から構成されていますが、その細胞全体がいつ作動するかといえば愛するときなのです。人体のすべての細胞を動かすことのできるときが、まさに男女が愛し合うときであることを知らなければなりません。(246)

 心と体が一つになって恋しい涙を流すようになれば、骨が鳴り騒ぎます。動物の場合においても同じです。皆さんも知っていると思いますが、雌牛が発情すると、どうなりますか。食べることさえ忘れてしまいます。そのとき、すべての神経がそのことだけを願うようになります。それと同じで、心と体が一つになった場所で愛し、互いに恋しがるようになれば、体の中で動かない細胞はありません。細胞一切が本来の方向感覚を忘れてしまい一つに集中されます。こうして相対に出会うようになれば爆発するようになります。その爆発力はものすごい力になります。

 そのように愛して何をしようというのでしょうか。神様に似ようというのです。神様が喜ばれることに同参することのできる場に出ていこうとするのです。言い換えれば、神様が喜ばれることを共に感じようとすることです。(247)

 心と体を一つにしなければなりません。体が行く道を中心にして心を一つにするのか、心が行く道を中心として体を一つにするのかという二通りの道があります。その中で心を中心として一つにしなければなりません。変わりはしても、心を中心として一つにするのがいいのです。理想的な愛を探そうとすれば、不可避なその道を行かざるをえないのです。もう、心を中心として体が一つになるようにすべきであるという決断を下さなければなりません。(248)

 統一教会の食口たちは、いつも公的な思想を中心とした心の基準の前に体を完全に一致させられなければなりません。心が願うその目的を中心として、体はいつも動揺することなく、一つになって出ていかなければなりません。先生はいくら難しい環境の中でも一つの目標を達成するための決心をすれば、心と体は動揺しませんでした。いくら悲惨な場に行くとしても、その悲惨な場を克服して越えていく「遊び」をしてきました。その難しさを踏んで目標を成就するという思想をもってきたので、寸分も動揺することはありませんでした。

 それと同じように、皆さんは今から、心が打ち立てる目的、神様のみ旨、神様の統一世界、神様の創造理想を中心として、体はいくら犠牲になるとしても、それと一致させる努力をしなければなりません。もし、犠牲を甘受できる決意ができていなければ、病気になったり蕩減を受けるのです。

 このように心を中心として体が一つになるべきです。そのように心と体が一つになった男性と女性が、家庭を中心として一つにならなければなりません。(249)


8、真の愛の完成


 真の愛は愛の世界の最高峰です。それゆえ、真の愛は世界の一番てっぺんから始まるのです。稲妻が高い天から地へ落ちてくるように、真の愛も稲妻のように高いところから下へ落ちてぶつかるところで雷鳴を発するものです。

 人間の細胞が百パーセント運動し始めるのは、真の愛で愛するときです。堕落した世界にあっても男女が互いに愛するとき「ああ、電気が通る」と言います。そのとき生じる電気は天使長から始まるものなので単細胞なものです。本然の世界で生じる愛の電気は、宇宙的な愛の稲妻として強度が(稲妻の)数千倍を越えるだけでなく、一切の各器官の細胞が動く音も雷鳴の音と同じものです。本然の世界で真に愛する男女は、愛の稲妻が出会う接触点に向かって総力を結集しなければ、神様と出会うことができないというのが愛の原理観です。それが創造目的の完成でもあります。(250)

 すべてのものを包容して許す真の愛とは誰から始まると思いますか。真の愛は人間から出発しているのではありません。真の愛は主体であられる神様から始まります。神様は真の愛をもって人間を創造されました。そうして人間から真の愛を受けることを願われるのです。(そして、)その真の愛をもう一度人間に返してあげることによって、(神様と人間がともに)真の愛を完成するようになるのです。(251)

 この世で最も神聖なものは何ですか。世の中で最も神聖なものは真の愛です。真の愛は神様から出発します。神様が存在されるならそれ以外の道はありません。神様が心から願われるのは真の愛の道であり、真の愛の道を通らなければ、神様の前へ出ていくことができないということを知らなければなりません。神様は愛を通して、見て、聞いて、食べて、触れてみたいというのです。人間も神様から愛の口づけを受けたなら、内部が爆発するような喜びを感じるはずです。神様の願いはここにあるのであり、ダイヤモンドや宝石を所有してうれしいと言われるのではありません。(252)

 真の愛の前にはどんな力も溶け出します。それは見るだけでもうれしく、触れるだけでもうれしいのです。(253)

 宇宙の統一理想を完成させる内容が真の愛です。いくら名作であるといっても、その中に真の愛の味がなくなれば吐き出してしまうようになります。夫婦間に真の愛がなくなればそれまでです。(254)

 皆さん、女性にとって一番貴いものは何ですか。男性です。それでは、皆さんはどんな男性が必要ですか。見栄えが良い悪い、病身である(などという)ことが問題ではなく、ある男性から価値ある愛を探すことができるかどうかが問題です。女性においても同じです。真の愛をもった女性が真なる女性です。それではその真の愛とは何でしょうか。すべての愛の属性は良いものだけを愛そうというのではありません。とても低いものであっても、高いもの以上に愛することのできるのが、真の愛であると定義を下すのは妥当なことです。

 どうしてそうなのでしょうか。愛は力の作用です。高いものだけを眺める人は、高いものがなければ行くところがありません。ですからそれは真になることができません。愛は作用によって探すことができるために、高い所にいながらも低い所に相対することができてこそどこにでも通じることができ、永遠に作用することができます。そうしてこそ真になることができるのです。それゆえ低い愛を高い愛以上になそうとするところに、永遠という概念が出てきます。

 そのような理論から見るとき、神様はどのような存在でしょうか。神様はとても高いので、宇宙の国のような人だけを愛することができるという、そういう神様ではなく、あの、地獄の底にいる人までも愛そうとする神様なのです。神様はすべてのものを愛することのできる方でなければなりません。なぜ、神様は低いものを高いもの以上に愛することができなければならないのでしょうか。永遠の概念をもった神様であるので、このような作用の原則によってそうでなければならないのです。(255)

 真の愛とは何ですか。誰かに会って百年でも千年でも共にいたいという愛です。夫婦間においても永遠に愛したいという愛です。そこには地獄はありえず、サタンが付け込むこともできません。(256)

 人間の一身を見れば、人体は五官をもっています。人間は誰でも五官の認識によって、真の愛を感じ確認するようになっています。目が真の愛に向かっているなら、その目は真の愛に染まって酔うようになっています。酔った瞳の色はどれほど美しく光るでしょうか。

 口が真の愛に溺れているなら、ほほえむその唇はどれほど恍惚としたものか、考えてごらんなさい。人間の五官が真の愛に酔って動く姿、神様に向かって動く五官の調和がどれほど美しいだろうかと想像してごらんなさい。そのような美しさを通した喜びは、神様一人では体験することができないのです。そのような美しさは相手がいてこそ体験するようになるのです。そしてそれは神様が人間を創造された目的でもあるのです。

 真の愛に酔った瞳の手入れをしてあげたい、唇に口づけをしたい、心の旋律を一度奏でてみたいという美しい男性と女性がいるなら、神様はどのようにされるでしょうか。真の愛のエバがいるなら、そのエバの心情世界を一度は旅行したいという思いをもたれるはずです。美しいエバの心情世界、心情圏がどれほど広く深いかを確認したいという衝動をもたれるはずだというのです。

 神様は天地を創造した以上に美しい内容を所有しているアダムとエバの心情世界を旅行したいと思われることでしょう。神様は真の愛の人間に対して宇宙を旅行すること以上に、その心情世界を旅行したいと思われるのは確実であり、真の愛のアダムとエバの心情世界を永遠に離れたくないという思いをもたれるでしょう。

 神様が人間をつくられた後、人間の真の愛に溺れ、愛の迷子になったなら世の中はどのようになっていたでしょうか。人間の中に神様が住まわれるようになるでしょうし、神様と人間が一つになってつくりだした世界は、喜びと美しさが充満した世界であるのは確かです。(257)

 真の愛が完成したなら、感応の神様はその真の愛にどっぷりつかっても後悔なさらないはずです。真の愛の中でならどんなことが起こっても、ひたすら喜ばれる方が神様であられます。真の愛の世界で人類が生きるとすれば、一生後悔のない幸福な生涯になることでしょう。また世の中に戦争の歴史もないでしょうし、不満や不幸のない世界になっていたでしょう。(258)

 人類歴史において真の愛を完成すれば、政治、経済、文化の問題はもちろん、すべての紛争と葛藤の問題もきれいに解決できるはずです。今日、世界人類が抱えているすべての難問題は、真の愛の完成によってのみ、根本的な解決が可能なのです。(259)

 真の愛を探さなければなりません。真の愛はどこへ行けば出会うことができるのでしょうか。真の愛は昼も夜もなく、不変であり永遠なものです。「私」一人だけのためのものは真の愛となることはできません。真の愛が「私」個人の所有となることはできません。真の愛は万人のものであり、宇宙共有のものです。真の愛は家庭、社会、国家、世界、宇宙まで連結されるものです。(260)

 キリスト教での、「互いに愛し合いなさい」という言葉の意味は、互いが愛を受けようという意味ではありません。愛は相手のためのものなので、互いが「為に奉仕しなさい」というものです。すべての人が自分よりも相手と全体のために奉仕して、犠牲になるようになるなら、その世界はどのような世界になると思いますか。平和の世界になります。互いが真の愛で愛するようになれば、たとえ死の場であっても、そこには蘇生の火が燃えあがるようになります。互いが愛するようになれば、そこには喜びと平和の花が咲き、香りよい泉がわきます。真の愛が具現した世界はまさに人類の理想が実現された世界です。しかし互いが愛してくれと言えば、そこには闘争と対立と猜疑と嫉妬が生じるようになります。真理は決して遠いところにあるのではありません。まさに私たちの間にあるのです。(261)


9、真の愛の特権


 愛には同参権があります。父親が高ければ、子供が低い位置にいてもすぐに父親の位置へ飛び上がっていくことができるのです。同参権が愛に内在しているという驚くべき事実ゆえに、「私」がたとえ離れているとしても愛は永遠なのです。(262)

 神様と愛の因縁を結ぶようになれば、必ず主管性と独立権、その次には相続権をもつことのできる特権があるのです。(263)

 神様の愛を所有した人だけが、神様がつくられた天と地のすべての権勢を相続できる特権をもつことができます。(264)

 絶対的な神様の前に、「私」がどうすれば相対的な位置に出ていけるでしょうか。努力してですか。力を使ってですか。何をもってしても無駄です。しかし、愛の因縁を結んで出ていけば、いっぺんに同等の位置に出ていくことができます。(265)

 神様と対等の位置、同位圏の位置に立とうとすれば神様の愛を所有しなければなりません。(266)

 愛という力を、統一教会が神様の真の愛に連結させたなら、所有権の決定はすでに確定されたということを知らなければなりません。男性と女性が真の愛で因縁を結んだなら、男性の所有権はすなわち女性の所有権になるのと同じです。愛によって一つになった夫婦はすべての所有権を共有するようになるのと同じで、真の愛によって神様と連結された者は、神様の所有権を引き継ぐのです。(267)

 全知全能であられる神様と、制限的な存在である人間がどのように一つになることができるかが問題です。無形の存在と有形の存在が一つになれないなら、宇宙の統一は不可能であり、結局、人間がいくら宇宙の理想を懐かしがっても、統一は難しいのではないかという問題にぶつかるようになるでしょう。

 神様と一つになることのできる人はどんな人でしょうか。真なる人のみが神様と一つになれる人なのです。神様と一つになれる真の人とは真の愛をもった人です。

 「真の愛をもった真の人だけが神様と一つになることのできる人である」という結論に対して、誰も異論をもつ人はいないでしょう。歴史的な背景が違い、顔の色が違い、伝統と習慣など、言語と文化的背景が違う人であっても、その意見に対して反対する人は一人もいないはずです。(268)

 人間は神様の愛を中心として、神様と愛の関係を結ぶようになれば、神様と同位圏に立つことができるのです。アメリカのレーガン大統領の夫人であるナンシー女史が、アメリカ国民の前に、レーガン大統領と同じ位置で統治権を行使することができるのは何ゆえでしょうか。それはレーガン大統領と、愛を中心として、夫婦として一体関係をなしているためです。愛によって一つになれば、同参的権威をもつようになるのです。このように愛は同参権をもっています。

 愛は同参権に続いて相続権をもっています。それゆえ、神様と愛の関係に入っていくようになるとき、神様の前の座に立てるだけでなく、神様がもっておられるすべての所有権をもつことができるのです。人間には本来、神様がもっておられるすべてのものをもつことのできる特権があるために、すべての人間が最高の存在になりたいという欲望をもっているのは当然のことであると言えます。

 堕落した人間であるといっても、一番高い位置、最高の栄光の位置を望んでいるのです。学問のある人、ない人、黒人、白人の関係なく、最高の位置を望む人間の欲望は同じなのです。問題はそのような欲望を充足させてやることができるのは、愛だけであるということです。(269)

 愛の核を掌握するようになるときは神様をコントロールすることができます。素晴らしい夫の妻がたとえ醜くても、その妻が愛の因縁をもってひねれば、立派な博士も仕方なく引っかかってコントロールされるのです。愛にはそのような力があります。(270)

 わらぐつも履けない悲惨なところにいる田舎の純朴な娘であるとしても、結婚当時、何も知らずに大統領になれる人と愛の因縁を結んだならば、その国の大統領夫人として一時に飛躍できるのです。いくら米国の大統領が偉大で世界を怒鳴りつけるとしても、その夫人は何でもない人です。しかし愛の因縁を結んだことを通して、同参的資格を、どこででも所有できるのです。そのような能力が愛にはあるのです。(271)

 私たち人間が悲しむのは、神様がそのようになっているためです。この問題が今まで度外視されていました。人間のこのような本然の価値、絶対的な神様の前に絶対的な対象の価値をもって堂々と宇宙間に登場することのできる権利を失ってしまいました。

 それでは、そのような高い神様の前に「私」がどうしたら相対的位置へ出ていけるでしょうか。努力をもってしてですか。力を使ってですか。何をもってしても無駄です。愛だけが、愛の因縁の綱だけを持って出ていけばいっぺんに同等の位置に出ていけるのです。

 皆さん、世の中もそうではないですか。偉大な一人の男性がいれば、その男性を中心として、何の価値もない、人格や知識、すべての権限から見ても〇点に近いけれど、その主体になる男性と愛の因縁だけ結べば、一時に堂々たる対象的価値をもつのです。

 偉大な「ジョン」がいれば、彼女はすぐに「ミセス・ジョン」になるというのです。そのような夫をもった女性に、他の女性たちはついていくことができません。そうではないですか。神様と私たち人間が愛の関係で連結されるなら、神様と私たち人間との愛は世の中の父子の間の愛よりも高いのですから、その愛を中心として、すぐさま対等の位置に上がっていくことができない、という理由は成り立たないのです。

 愛は不変であり、永遠であるゆえに絶対的であるというのです。ここで私たち人間のこのような偉大な価値の根源を忘却してしまった今、私たちの一生の本然地をもう一度回復しなければならない時として見ているのです。(272)















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第四節 愛を中心とした終末の現象

祝福家庭と理想天国

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第四節 愛を中心とした終末の現象


1、終末とはどのような時か


 本来、終末という言葉は宗教から出た言葉です。仏教では終末を末法時代といっています。キリスト教では終末といいますが、この終末がどのようにして生じるのかという根本的問題を考えてみましょう。

 絶対的な神様の計画されるその世界は、永遠なものでなければなりません。いったん始まれば、永遠に行かなければならないのです。絶対的な神様が治められるこの世界に終末が生じたのは、神様が設定されたのでなく、人間の堕落によって生じたと考えざるを得ません。結局、善が永続できず、悪が出発したということが終末の生じた原因なのです。(273)

 善なる神様がつくられたアダムとエバは、善なるエデンの園に住んでいました。もしアダムとエバが堕落しなかったならば、善は永遠に続いていたはずです。ところが、アダムとエバの堕落によって善は出発しないまま終わりを見たのです。

 神様のみ言を正常な立場で信じることができたにもかかわらず、人間始祖はそのみ言を不信し、死亡がこの地上に生じたということを知らなければなりません。アダムとエバが神様のみ言を不信し、戒めを犯すように誘惑した、もう一人の主人が現れたのです。

 アダムとエバが神様のみ言を不信し、この主人の誘惑に引きずられていったことにより、サタンがこの世の主人になりました。堕落したアダムとエバは、サタンの対象になったのです。不信の結果、滅亡の世界、神様と関係のない死亡の世界が出発しました。

 このような立場に至った神様は、善で出発できなかったこの世界をそのままにしておくことができません。これを再び回復して、ある時期にもう一度善の出発をしなければならないのです。(274)

 終末はいつでしょうか。悪なる世界が始まったために、天の側の人が現れてこれを清算し、個人的に、家庭的に、氏族的に、民族的に、国家的に、世界的に、善なる世界に向かって帰っていこうとする時に、そのつど終末の現象が現れるのです。つまり悪なる世界のすべてを清算し、サタンのすべての讒訴条件と汚れたものから脱して、善なる世界に超えていける中心的人物が(現れ、)個人的に超えていくときが、個人的終末であり、家庭的に超えていくときが家庭的終末であり、氏族的に超えていくときが氏族的終末であり、民族的に超えていくときが民族的終末であり、世界的に超えるときが世界的終末となるのです。(275)

 歴史上数多くの先祖たちが現れては消えていきましたが、神様のみ旨に沿って責任を果たそうとした者はいつも完成を見ることができませんでした。それゆえ、神様は個人、家庭、民族、国家、世界を代表して勝利したという基準を一度に備えて、サタンの前に堂々たる権威をもって現れることのできる一人の世界的代表を送るという約束をされました。その方がまさしくメシヤなのです。

 歴史が始まって以来の悪なる世界を完全に清算して、善なる世界に超えていける時に主が来られるのです。それゆえ、終末とは一つの時代が終わり、新しい一つの時代が始まることをいうのです。終末になったからといって、神様がつくられた太陽や月が壊れ、地が滅んでしまったなら、それはサタンのゆえに壊れてしまったのですから、失敗した神様になってしまうのです。(276)

 終末はいつ来るのか分からないうちに来るのです。皆さんの時計が、十二時を示す「カーン」という音を鳴らせば、きのうは終わり、きょうが始まります。ところが間違いなく新しい日は今からだと言いながら迎える人がいるでしょうか。ここにそんな人は一人もいないでしょう。かといって終わる時間がなかったということでもありません。

 きのうの終わりときょうの新しい出発を分けるのは困難です。もう秋が過ぎて冬が来ます。ところがいつ秋が過ぎていつ冬が来るのか、一般の人が気づかないうちに来てしまいます。ここに年配の方が何人かいらっしゃいますが、一生の間たった一度でも秋と冬が代わる明確な限界線に出合った人がいますか。うっかりしているうちにすぐ冬になり、冬が過ぎたと思えばもう春になっているでしょう。かといって季節に終わりがないというのではありません。

 エデンの園でアダムとエバが堕落したときも、正しいことなのか間違ったことなのかはっきり判別できる目的観があったのでもなく、主管性があったのでもなく、判断できる能力ももっていなかったということを知らなければなりません。右に方向をとらなければならないのに、左へ方向をとったのが堕落です。アダムとエバはすべての事実をはっきり知らない混沌の中で堕落したのです。

 それではいつを終末と考えるべきかというと、今であると言うことができます。なぜなら、聖書がいうように終末になれば羊とやぎに分けられるからです。羊は主人のあるものを、やぎは主人のないものをいうのです。

 皆さん、共産主義は左翼であり、やぎです。左におくのはやぎだと聖書にあります。やぎは主人がいても主人を知りません。共産主義者たちが神様を知っていますか。民主世界は羊です。羊は主人を見分けます。民主世界の人々は神様を知っています。今日のすべての現象は聖書に表された終末を彷彿させます。

 終末がどういう時かと言うと、昼なのか夜なのか、正しいことなのか、うそなのか混沌として、どれもこれも見分けることができない時です。最近の様子を見ると、イエスを信じる人が良いのか信じない人が良いのか分別できません。むしろ信じない人が良いような場合もあります。また、世界的に民主世界と共産世界を比較してみれば、むしろ共産世界が民主世界よりも外的な面においてより堂々としていて、実質的であるようです。ですから判別できない時代に入ってきたのです。

 このようにすべてにおいて、どれがより良いのか見分けがつかなくなってしまいました。そのような時には必ず終末が訪れてくるということぐらい知らなければなりません。歴史は繰り返すといいます。蒔いたとおりに芽が出る、そのような時代になったのです。(277)

 復帰というのは人間が堕落してしまったために生じた言葉です。これは原理的な観点です。堕落した人間は復帰されなければなりません。すなわち、堕落する前の状態にもう一度上がらなければなりません。これが神様が今まで摂理してこられた主目的です。

 人間は何ゆえに堕落したのでしょうか。サタンの愛のために堕落したのです。それではサタンの愛、すなわち「堕落した愛」とは何でしょうか。それは下がれば下がるほど、すべて分離される愛です。個別的に分離された愛を示すのです。

 では、この世の終末とはどういう時代なのでしょうか。世界人類が個人の愛を絶対視する時です。堕落圏の愛を中心として世界の終末が起こるのです。つまり、世界の終わりとは個人の愛が絶対視される時代であり、国に対する愛、民族に対する愛、家庭に対する愛が否定され、自分を中心とする愛が肯定される時代なのです。倫理や道徳による愛ではなく、動物的な愛が地上に吹き荒れる時代です。

 現在、愛に対する観念はどの世代まで濁っているのでしょうか。幼い青少年の世代までが濁ってきています。これを見ると現在がこの世の終わりだということが分かります。

 青少年たちの乱れた愛の行為を父母も止められず、国も止められず、世界も止められない、そのような段階に来ています。国も収拾できず、世界も収拾できない、そのような時代なのです。

 なぜサタンはすべての人間をこのような破綻状態まで引っ張ってきたのでしょうか。それは神様が愛を中心とする復帰摂理をしてこられたからです。神様の摂理を妨げるためにサタンは否応なく家庭に対する愛、氏族に対する愛、民族に対する愛、国家に対する愛、世界に対する愛(、そういった愛)と反対の愛を人間に与えて、このような破綻状態にまで引っ張ってきているのです。

 人類を堕落させたサタンの願う最高の目標が何かといえば、人類の愛を余すところなく破壊してしまうことです。一方、神様は人間たちを創造本然の愛の世界に導こうとしておられるのです。(278)


2、終末の現象――青少年の堕落


 アダムとエバが堕落した時期がいつかといえば、十代すなわち青少年期でした。年を取った人たちではなかったのです。堕落において、何を中心として堕落したのでしょうか。愛を中心として堕落したのです。

 愛の問題を中心として堕落し、二種類の愛に分けられた堕落の種を蒔いたのです。二種類の愛が生じたのは悪が侵入したためです。悪が侵入した不倫な愛の結果によって、その種は世界中に蒔かれたのです。

 これが次第に拡大し、世界は二つの群れに分かれ、左右の問題が起こりました。愛を中心として、最高の先進国から最低の後進国に至るまで、世界中に台風が吹き荒れる時が、世界の終末であるのを知らなければなりません。そのように植えたのだから、そのように刈り取らなければ……。(279)

 アダムとエバはいつ堕落したのでしょうか。青少年の時期に堕落したのです。青少年の時期に偽りの愛が植えられたのです。原理的な愛が植えられたのではありません。その偽りの愛から人類は生まれたのです。それゆえ、それを刈り入れる時が来なければならないというのです。(280)

 今日、世界のどこに行っても、一番大きな社会問題は青少年の倫理問題です。植えた種が因果法則によってそのままの結果を結んだので、これを解決し、超えていかなければなりません。宇宙の法則がそのようになっているので、世界的にそのような現象が現れているのです。(281)

 現在青少年たちが木の陰に隠れるようにして堕落しているのは、アダムとエバが木の陰で父母の許しもないままに不倫の因縁を結んだためです。そのような種を蒔いたので、そのような刈り取りが必要となったのです。これが国境を超え、時代を超え、思想や主義を超えて世界的な共通の現象が起こる時が来るのですが、その時が終末なのです。ではそのような時になりましたか、なりませんでしたか。(282)

 今日、青少年問題が台頭しています。これは堕落論から見ても否定できない事実です。今日の大学の青少年、二十代とティーン・エージャー圏内にいる青少年の問題が深刻です。彼らは国を売ってしまおうという気持ちを抱けば、自分たちの思いどおりに売ってしまうほどです。彼らが反抗すれば国もうろうろするばかりです。そうでしょう。若者たちが反旗を翻せば国が右往左往します。このことは文化国だといって自負している鼻の高いアメリカの場合も同様です。共産党に弱点を見せたらそうなるのです。下手をすると大学の若者たちによって鼻がへし折られるというのです。今がそのような時です。フランスのような国でまた何が起こっているかといえば、あちらこちらで破壊とデモが起こっています。それらは、このような若者たちによって引き起こされているのです。

 また男女問題が提起されていますが、彼らが堕落するときはどのようにしますか。父母の許しをもらわずに自分勝手です。また夫婦が愛し合う時も自分勝手なのです。愛の法度は天倫の公法を根源とするにもかかわらず、そのような天倫の公法から外れて、すべての生命の原動力、生命の起源となる愛の法度が、街頭で一つの遊びになり、踊り狂ってへとへとになっている、このような世界の様子を見ると、終末が来るのは一目瞭然です。(283)

 今日、現実はどうなっていますか。すでに時遅く多くの青少年たちが麻薬中毒にかかり、サタンの愛であるフリー・セックスにおぼれています。このような現状はアメリカにだけ見られることではなく自由世界全体がアメリカの流行に押されています。言い換えれば、自由世界の先頭に立っているアメリカが悪の水で汚染させているのです。

 アメリカ人たちは世界中を行き来しながら、世界各国の女性たちを蹂躙しています。浮気心を引き起こしているのです。これを収拾できなければ、アメリカや世界が滅びるのです。ソドムとゴモラが滅んだのも、ぜいたくと不信と偽りの愛のためでした。ローマも外部の勢力によって滅んだのではなく、内部の原因によって滅んだのです。ローマを支えていたものは、家庭に対する愛、民族に対する愛、国に対する愛でしたが、これらがすべて崩れてしまったのです。愛が崩れたので民族の生命力が衰退して滅んだのです。このような観点から見ると、アメリカも例外ではないのです。(284)

 堕落した先祖の血統を受け継いで罪悪の種を蒔いてきた人類は、それを刈り取らなければならない時を迎えました。日本でも最近になって青少年たちの脱線行為が急増しているのを知っています。これはエデンの園で間違って蒔かれた罪悪の種を、世界的に刈り取るべき秋の時期が来ているのを示しています。このような時が到来すれば、理想的な新しい男女関係、理想的な相対基準を主唱する人あるいは動きが現れなければなりません。このような観点から見ると、理想相対を訴える運動がこの地上の一角に現れ話題になり始めたということは、世界に対して限りなく喜ばしい福音です。(285)

 アメリカも第二次世界大戦以後は、世界的カナン福地に向かおうという主張もせずに、「世界は我々のものだ」という考えで自国だけを中心として進んできたので、今日のような状況になってしまったのです。本当の目標がないのです。(286)

 私はニューヨーク市の五番街に行って涙を流したことがあります。エンパイア・ステート・ビルや世界貿易センターなどの高層ビルを建てて騒いでいますが、それでどうするというのですか。そこから神様が離れれば、事故が起きます。この国を祝福したのは……。高層ビルを建てるときも神様の名をもってしなければならないのに、むしろ反対の傾向が生じているというのです。腐ってきています。

 皆さんがラッシュ・アワーにふと道端を眺めるなら、そこにたむろしている若者たちはみな淪落に身をやつしているのを見るでしょう。神様がそう願って祝福してくださったのですか。世界に向かう新しいピューリタン運動を起こし、世界を救おうと覚悟している青年たちがいなければならないはずなのに一人もいないのです。

 たとえそうでなくても、一つの岩を置いてその岩に青年たちが集まり、それが未来の世界を救う祭壇だといいながら、泣いて祈祷すれば、むしろそれが幸福だというのです。

 今ニューヨークからは神様が離れて、居ないということを知らなければなりません。ニューヨークは悪魔の都市だと世界的にうわさされています。白昼に殺人事件が頻繁に起こり、白昼に強姦が行われるこの都市をつくるために神様が祝福されたのではありません。この国は滅びに至るすべての要因を内包しています。

 青少年たちは今堕落しています。若者たちの覚せい剤の問題が悩みの種になっているのを知っているでしょう。家庭は破綻し、人種問題はこれからより大きな問題に広がるでしょう。それに加えて共産主義の脅威や経済恐慌がやってくる可能性が濃厚ですね。なぜこうなるのかといえば神様が離れてしまうからです。

 アメリカの至る所に神様が臨在されなければならないのに、至る所から離れ始めました。皆さんの心から神様が去りました。家庭から、社会から、教会から、政府から神様が離れています。(287)


3、終末におけるサタンの正体


 サタンはいかなる神でしょうか。サタンは淫乱の神です。そしてサタンは終末に神様を否定し、神様の教会を否定し、神様の家庭的伝統を否定するのです。そのような現象が起こる時が終末(末世)です。現在、全世界的にそのようなことが起こっているのを見ても、共産主義がまさしくサタンの役事によって生まれた主義であることが分かります。

 共産主義は神様の存在を否定しています。また、宗教をアヘンだといって宗教を中心とする家庭を否定しています。これはサタンが、宗教や宗教を中心とする家庭を通してサタンを屈服しようとされる神様のみ旨を知っているので、共産主義を通して宗教や家庭を否定しているのです。サタンは神様を否定すれば自分も否定されることをよく知っていました。またいずれは人間たちが神様に帰っていくことも知っていました。それで自分が(人間から)侍られなくなるのなら神様も侍られないようにしようと、神様や宗教を否定したのです。このような悪の張本人がサタンであるのを皆さんは知らなければなりません。(288)


 アダムとエバの堕落は、心情的に未熟なときに神様の命令、つまり神様の指示がないところで心情的行動の第一歩を踏み出したことが動機となったのです。成約時代を生きる青年たちは堕落世界の環境がどんなに自分を誘惑してきたとしても、それに対して無関係、無関心の態度を取らなければなりません。そうでなければサタンは全人類を蹂躙しようと最後の知恵を絞り出すでしょう。

 共産党は「遊べ! 歌を歌い踊れ! 恋をしろ!」と言います。それは破壊の戦略です。サタンはそのような環境をつくって破壊しようとしているのです。(289)

 サタンが神様に「このように分裂した世界をあなたは統一できますか。あなたが数千年間導いてきたユダヤ教とキリスト教はめちゃくちゃになり、共産党の巣窟になっているのに、どうやって収拾するのですか」と嘲笑しています。また、「今日の宗教界を見ると、宗教界も社交的であるべきだといって踊り、男女はあらゆることをしていますが、あなたは臨在できるのですか。あなたと関係を結んでいる人がいますか。四十億人類の中であなたのみ旨を成就する宗教がどこにあり、そのような宗教人がどこにおり、そのようなキリスト教信者がどこにおり、そのような真理の本質をもった人がどこにいますか」と讒訴しているのです。

 また、「あなたが送るというメシヤはいったいどんな人ですか。メシヤは何をしに来るのですか。創造本然の愛をもってこの世界を一つにし、国を一つにし、天と地を一つにする責任をもってくるといいますが、メシヤがこの地に来てそんな仕事をすることができますか。神様もできないことを彼がどうやってするのですか」と言いながら神様を攻撃しているのです。

 このような観点から見るとき、今後、出現すべき宗教、神様が立てるべき宗教は愛を中心として、個人、家庭、氏族、民族、国家、天宙を統一するという強烈な力をもった宗教であるべきだという結論が出てきます。(290)

 皆さんは、サタンが皆さんのお尻に縄を結びつけて引っ張っているのを知っていますか。皆さんのお父さんやお母さんが引っ張り、皆さんの国が引っ張り、昔、互いに愛し合った人が引っ張っています。皆さんの中には「このように引きとめられ、先生に従っていくことに対して考え直そう。少し考えてみた上でついていこう。私のように賢い人がなぜ苦労の道に自ら進み、難しい生活をしなければならないのか」と考える人がいます。「余裕をもって人生を適当に楽しみながら生きたい。良い道であることは分かるがこんなにも忙しく生活するのは嫌だ」と言う人もいます。自分のお尻にサタンの縄が一つもかかっていないという人がいるなら手を挙げてごらんなさい。

 一人もいません。ですから大口をたたくわけにはいきません。皆さん自身が悲惨なのです。その姿をどう自慢して歩きますか。それで先生のようになれますか。皆さんの中には博士の学位をもった人もいますが、博士さえもこの縄を切って越えていかなければならないというのです。

 サタンに結ばれた縄を切って越えていく前に、男であれ女であれみんな愛の象徴をコンクリートで固めなさい。コンクリートで固めなさいといっても心配しないでください。天の国の春が来れば、どんなに固いコンクリートでも自然に溶けるのです。(291)

 愛には二種類の形があります。一つはサタンが好きな愛であり、もう一つは神様が好きな愛です。サタンが好きな幸福、理想、愛があり、神様が好きな幸福、理想、愛があるのを知らなければなりません。神様は永遠なものを標準とし、サタンは瞬間的なものを標準としています。さあ、それでは皆さんはどちらの幸福を選びますか。もちろん永遠の幸福を選ぶでしょうし、選ばなければなりません。永遠の愛を探すために努力し準備しなければなりません。瞬間的な愛を得るために転々とすれば、皆さんは死に至るでしょう。瞬間的な衝動や欲望が生じるときは、自分をむち打って死の暗やみを思い浮かべ、永遠の愛を求めていくという理念をもって祈祷し努力しなければなりません。(292)

 サタン世界、堕落圏を越えるのは、歴史上のどの戦争に勝つことよりも難しいことです。サタン世界を越えていく戦争は、神様が司令官になられて直接指揮され、進撃命令を下す最後の決戦です。そのような決戦をすべき時が来たのを皆さんは知らなければなりません。(293)

 先生が原理を知らなかったら、とんでもないことが起きていたでしょう。人間の誘惑だけでなくサタンの誘惑や試練がいくらでもあるでしょう。六千年間神様に対して讒訴し続けてきたサタンは、大きな力をもっています。大部分の人は大きな試練を受ければ倒れてしまいます。先生が今ここまで来たのは原理原則に基づく天の法度を知っていたからです。だから誘惑に巻き込まれずに済んだのです。皆さんはこれを誇りに思うべきです。(294)


4、世界的な分裂現象と統一運動


 堕落の結果、すべての世界には分裂がもたらされました。いくらこの世界に人が多いといっても、分裂した人間性ばかりを発見します。これが堕落によって生じた世界だということは否定できない結論になるのです。このように分裂した状態であるために混乱が生じているのです。これが現世の実情です。ここでは自分自身だけでは絶対に一つになれません。人間自体では理想を追求することはできません。

 無神論者たちは神様が死んだと主張します。我々人間は滅亡に瀕したので、希望や理想はみな捨ててしまえと主張します。神様や宗教などは人間がつくったものだと見るのです。しかし自分を中心としては、どう見ようと世の中を知ることはできません。自分自身や家族を通して見ても知ることはできないのです。どんなに深い知識をもっても分かりません。結局神様の側から見なければならないという結論が出ます。このような実情を見ても、真の愛を見つけることによってこの地上の堕落圏を克服しなければなりません。(295)

 今日、堕落した世界では自分の父母を殺した者もおり、または兄弟を殺した者もおり、親戚や近所の人を殺害した者もいます。兄弟同士が互いに殺し合い、また氏族同士が殺し合った縦的な数千年間の歴史的現状が、今日に及んで一度に横的にこの地上に現れています。そのような現状の中で、すべての人々が個人主義に陥っています。彼らには神様もありません。父母兄弟や近所の人たちに何の関心もない個人主義者、独裁者たちになってきているのです。それが今日の世界の現状です。

 皆さんもすべて個人主義に陥った人たちです。先進国家になればなるほど、個人主義の状況がひどくなってきています。個人主義者たちはサタン世界の最も先頭に立った機関車です。彼らの眼中には国もなく、家庭もなく兄弟ももちろんなく、ただ個人がいるだけです。個人主義者たちはアダムとエバを堕落させた天使長のような思考方式をもった者たちです。

 堕落した天使の世界には相対関係が許されません。人間が、堕落した天使長に似た個人主義者になれば、国も失い、家庭までも失ってしまいます。自分しか考えられないので、結局持ち物すべてを失ってしまいます。個人主義の状況がひどくなればなるほど分裂状況が現れます。(296)

 今日、全世界にある民主陣営の大部分の国民たちは、国に対する観念をもっていません。社会に対する観念、歴史に対する観念がありません。動物と同じく性(男性女性)の観念が彼らの頭を占めています。動物と同じように女だから男を好み、男は女を好みます。あれやこれやで一日ぐらい楽しめば終わりという観念が彼らを押さえつけています。朝、起きて御飯も食べず、あいさつもせずに、そのまま行ってしまっても何ともないと思うのが当然のようになっています。一例を挙げると、アメリカにおける倫理問題は本当に深刻です。滅びの前兆です。

 ですから、彼らに世界に対する観念を植えつけ、家庭観を再び植えつけてあげなければなりません。新しい家庭倫理体系を立て、それに沿って正常な道を行けるようにし、愛の道理を中心とする天国理念を植えつけなければならないというのが、まさに多くの人々が「狂った」と叫ぶレバレンド・ムーンの主張なのです。(297)

 今日、宗教人たちは「信仰生活をして善なる人になり……」と言っています。「私が善なる人になる」と言っても、一人の人が善なる人になって、この世界を救うという道理はありません。アメリカの牧師でさえ、ヒッピーたちに反対しながらヒッピーに従っていっています。我知らず自分を欺いているのです。神様に従っていくべきです。私がネクタイをはずしたなら皆さんもはずさなければなりません。そのような霊的影響力がないのならいっそみんな捨ててしまわなければなりません。どんなにやっても見せ掛けにすぎなくなってしまうのです。良心の呵責を受けながら罪だけ犯しているのを知らなければなりません。

 全世界からネクタイを買うためのお金を私のところに持ってきなさい。気の毒に飢えている全世界の人たちに寄付してあげればどんなに善いことか……。(298)

 アメリカに来てみると、牧師はすることもなく酒やたばこを好んでレバレンド・ムーンを好みません。天の息子・娘たちだと自慢しながら、サタンの武器として使用されたものを使えますか。ですから私たちはこの世界を正すべきです。レバレンド・ムーンは大きなことを言っているが、本当にできるのか。それに答えられなければみ旨も何も果たせるはずがありません。「はい」という答えを下せば、私個人をそのようにつくり、家庭的に、氏族的に、民族的に立て直して民族をつくり、世界的に立て直して新世界をつくり、一つの兄弟、一つの民族、一つの国家を形成するでしょう。(299)

 今の時は収穫の季節です。サタンが蒔いた種の実を見ればすべてが散り散りに散らばっています。限界に来ています。ですからすべてを一つにつくらなければなりません。そのような運動をしているのが統一教会です。

 この世界は個人主義の世界です。家庭も、父母も、子女も、兄弟も、氏族、民族も、すべてがばらばらになっています。しかし、統一教会は国家を超え、氏族を超え、家庭を超えて一つの世界を主張しています。サタンと反対のことをいっているのです。

 結婚にしても昔は、同じ民族の中で繰り返されてきました。しかし私たちは六大州から五色人種が集まってきました。日本人が夢にも思わなかった韓国人と結婚します。そして黒人と白人が結婚します。夢にも思わなかったことを、神様の愛を中心として何事もなかったかのようにするようになりました。そのようにしてすべてを一つにするのです。サタン世界は分裂し破壊され、滅亡の世界へと引っ張られていきますが、そのような渦の中で統一運動を展開し、神様の世界に巻き込んでいるのです。(300)


5、青少年問題と統一教会


 エデンの園でアダムとエバと天使長が神様のみ言を聞かずに出発した、そのような先祖の後孫が生まれ実を結んだ終末を迎えたので、誰の言葉も聞かなくなる時が来るのです。そして何をするのでしょうか。フリー・セックスを主張したのがエデンの園における堕落です。今日のアメリカの若者がその姿です。そのために人間の価値が動物より劣るようになりました。愛が肉体的満足だけを目的とした動物と同じレベルの愛に落ちてしまいました。

 サタンはこのようにして、人間が神様の前に帰ろうとしても帰れないように、人間を満身創痍にしておくのです。しかし、神様は愛の神様であるので、このような人間をかわいそうに思われ、人格のモデルを示して愛の秩序を立てると同時に、家庭の秩序と国家、世界の秩序を立て、天道圏内に一つの世界を形成しようとされます。その仕事のために送られた方がメシヤであるのを皆さんは知らなければなりません。(301)

 皆さん、統一教会が徐々に基盤をつくっていくに従って、世界は動揺し誰も手をつけられず、収拾することもできない段階が生じるのが今の時なのです。皆さん、見てください。世界の若い男女は使える人たちですか。使えそうな人は一人もいません。アメリカの家庭は正常ですか。どこの誰が、世界的な権威をもって収拾することができますか。家庭と国と世界が崩壊しているのだから、収拾できる権威をもった方がいなければなりません。その方でなければこの世界を収拾できないという結論が出てきます。(302)

 今日の歴史時代に終末はいつ訪れるのでしょうか。今日、アダムとエバが堕落した時のように、思春期の息子・娘たちは「お父さんもお母さんも関係ない。兄さんも姉さんも必要ない。私の好きなことだけが一番だ」と主張して出ていく時代です。それで今は、十代`ティーン・エージャーaが堕落してしまう現象が起きるのです。この現象は何でしょうか。父母が知らない間に、初恋をして堕落してしまうのです。このような青少年たちとは逆に、絶対そんなことはできないという群れが現れてこなければなりません。そのために統一教会では自由結婚は許さないのです。

 アダムとエバが堕落しなかったなら、誰を中心として結婚式をしたでしょうか。神様を中心として神様が仲人になったのです。アダムとエバは兄と妹という関係であることは知っていましたが、時になれば異性を感じるのです。これは心が体に命令するのと同じく、神様が私たちの心の中にいらっしゃって、その心は因縁を結ぶ動機となり、神様が連関を結んでくださるのです。(303)

 人類歴史は、アダムとエバが(数え年で)十六歳の少年、少女の時、神様の天道を離れて自分たちが勝手に愛した過ちから出発しました。世界的な終末である今日、青少年たちが腐敗しているのもその結果だといえます。秋を迎えれば実を刈り取ることができるのと同じです。青少年たちが自分勝手に堕落するのは先祖が誤って蒔いた種を刈り取っているのです。統一教会はそれらを完全に掃滅するために現れてきたのです。(304)

 二十世紀後半に入り、青少年問題がなぜこのようになったのでしょうか。すべて子供に対する愛がないからです。ところがその背後を見れば、すべての父母が自分勝手に生きているのです。それで子供もみんな街頭やあるいはダンス・ホールであらゆることをして過ごしています。そしてその末路には悲惨な姿が待っているのです。ですから、私たちはこのような世界のすべての問題を、私たちの時代に、責任をもって解決しようというのです。このような重要な責任を、皆さんが背負わなければならないという事実をはっきりと知らなければなりません。(305)

 現在、大学がすさんできている理由は、アダムとエバが十代、すなわち青少年期に堕落したのと同じ状況が生じているからです。今は、アダムとエバが蒔いた種の収穫の時期、すなわち、秋が来たのと同じ時期に当たります。それで世界的に堕落しているのです。先生はそれを全部復帰しようというのです。天地の法度に従って収拾しようというのです。(306)

 今日の世界では十代の青少年問題が深刻です。共産世界でも民主世界でも十代の青少年たちが腐敗する時が終わりの時です。すべてがめちゃくちゃになってしまうのです。父、母、兄、姉を問わず、すべて偽りの愛によって、ばらばらに分かれてしまうのです。夫婦が離婚するのも偽りの愛のためです。若者が旧世代に反発するのも、父母の愛を受けられなかったからです。偽りの愛によって父母の間も世代の間も、すべて壊れる現象が起こるのです。世界的にこのような現象が現れれば最後なのです。それゆえ、壊れたものを総合できる新しい種を蒔かなければなりません。そして新しい種が芽吹き、その芽が大きくなるときには、偽りの愛を壊してそれを肥やしにしなければならないのです。これが天地の道理です。一つの種を植えたなら、その周囲の雑草は刈り取って肥やしにするのと同じです。

 では今日の統一の方案は何でしょうか。統一教会の思想を中心として、その壊れたものを真の姿につくり直していかなければなりません。新しい分野で愛の秩序を立て、命の秩序を立てるのです。そうすることのできる世界が現れれば天国は実現するのです。天地開闢が起こるのです。それがすなわち統一思想であり、統一主義です。統一教会が果たすべき目的です。(307)

 世界の代表国家であるアメリカの青年男女が淪落すれば、全世界の青年男女にどれほど大きな影響を与えるかを知らなければなりません。フリー・セックスが何ですか! ヒッピーが何ですか! そういうわけで統一教会では若い男女が互いに手も握ってはならないというのです。私たちはサタンに狙われていることを知らなければならないし、これが怨讐を討つ方策であるのを知るべきです。アメリカ社会で男女の倫理を正しく導くことは、怨讐を倒すことになるのです。

 それで私たちは生涯をかけて神様の愛の怨讐、人類の苦痛と歴史的なすべての愛の怨讐を倒すために、共同運命の因縁をもって生まれたというのです。そのために国が反対し、世界が反対しても神様の怨讐を討たなければならないのです。失敗もできず、疲れることもできません。そのために朝起きたら「父よ! 私はこの怨讐を討つために今日も行きます」と言って、祈祷しながら一日を出発しなければなりません。先生は楽に生きたいとか適当に考える人ではありません。(308)

 アメリカにいるヒッピー、イッピーたちがカインのヒッピー、イッピーならば、皆さんはアベルのヒッピー、イッピーたちです。カインのヒッピーたちは道徳や性が乱れ、家庭や父母を離れています。アベルのヒッピー、イッピーは家庭と国と世界のために生きています。また、共産党をつぶすために先頭に立って働いています。私たちが三年半の間働けば、これらカインのヒッピー、イッピーたちを外的に完全に統一教会が収拾して一つにすることができます。その後で家に帰って皆さんのおばあさん、おじいさん、お母さん、お父さんを一度に救うことができます。今の時代はこのように原理どおりになっています。

 カインのヒッピー、イッピーは生活が乱れていますが、アベルのヒッピー、イッピーは骨が溶けるほど熱心に仕事をしています。男女間の恋愛もできません。彼らは神様の家庭、国、世界を探し求め、そして世界が歓迎し、国と家庭が歓迎する中で結婚して天国をつくり生きる人たちです。皆さんが一番大変な仕事をしているのも、それによって、一度に先生の基準において好きなすべてのものを受けることができるようにするためです。(309)


6、真の愛の運動と統一教会


 皆さん、人間始祖がどのようにして堕落するようになったかを知っていますか。自分を中心とする愛によって堕落したのです。自分を中心とする愛、すなわち愛の主人は神様であるにもかかわらず、人間自体を中心とした愛の結果が堕落を引き起こしたのです。だからこの堕落の動機となった、自分を中心とした思想と愛が、堕落した世界の実情をもたらしたのであり、まさにこのような実情が、今日の世界を精神的危機に追いやっているのです。

 では神様の愛とはどのような内容だったのでしょうか。自己中心の愛が堕落の動機となったのなら、本然の愛は神様を中心とした愛のはずです。

 したがって人間は、神様を中心として愛を出発させ、愛を実現させなければなりませんでした。神様を中心とした自我、神様と一体化した自分を自覚し確認して出発すべき人間でした。しかし自分を中心とした意識と自分を中心とした愛を追求したために、取り返しのつかない堕落の結果をもたらし、恨みの悲しみと苦痛の歴史をもたらしたのです。今、この悲劇の歴史を原点に復帰するためには、新しい革命が必要です。それはどんな政治的手腕や経済・社会改革でできるものではありません。何よりも根本的な意識の革命を通してのみ可能なのです。それは神様の愛を中心とした新しい愛の革命であるべきです。

 しかし、その愛の革命は、世界の他のどの革命よりも人間にとって最も難しく大変なことです。皆さん、考えてみてください。愛の革命は、自己中心の人間的愛から神様を中心とした神様的な愛に転換させる神様の革命をいうのですが、その仕事はどれほど大変でしょうか。しかしこの革命は神様だけでなく、私たち人間にも絶対に必要な運動です。歴史始まって以来神様と全人類が待ち望み、希望してきたその理想を実現することが、まさにこの愛の革命を通して可能になるからです。

 ではその理想を実現するためには、何をしなければなりませんか。まず自分中心の愛を、どうしたら他の人を愛する愛に変革させられるかが重要な課題です。神様は絶対に自分中心の愛をもたれません。相手を中心とした愛に徹しています。愛の基本は「相手のために」というところに成立します。相手のためのものでないとき、たとえどんな内容の愛であっても、それは真の愛ではありません。

 神様の愛は「おまえがまず私を愛しなさい」ではありません。「私がおまえたちを愛そう」というものです。天地万物をなぜつくられたのでしょうか。愛するためでした。ですから神様は天地万物を愛するためにつくられたという創造原則によって、再創造の過程でも愛の再創造をするようになります。神様のこのような愛の原則の方向と歩調を合わせて、神様との因縁を回復しようとするときにのみ、初めて神様と人間の本来の正常な関係が成り立ちます。

 失った神様と人間との関係の回復、それは相手のために生きる神様の愛によってのみ可能となるのです。(310)

 今日の世界はどのような様相を呈していますか。世紀末的な危機の渦中を脱け出せずにいるのが今世紀の実情です。このような今日の世界を救うには、新しい運動、すなわち真の愛の革命以外にないというのが、誰もが否定できない真理です。

 真の愛の運動を通して世界を救うには、まず皆さん自身が愛の実体にならなければなりません。皆さん自身が愛の花火となって咲き誇るのです。

 皆さんは神様の愛を核として、誰も崩したり壊したりできない原則の愛の法道者(道理を守る者)になり、神様に侍る中で万人と和動でき、万物と一致した愛の実体にならなければなりません。これが最も理想的な男性の姿であり、また最も理想的な女性の姿です。これは神様が人間を創造して後、願い求めてきた最も大きな望みであり、全人類の望みでもあり、万物の望みでもあるのです。ですから愛の実体となった「あなたと私」が愛し合い夫婦となり、神様の愛を連結させる子女を生み、神様を中心とした一つの堅固な家庭をつくることができれば、まさにそれが、この世界で何ものにも代えられないほど高貴な価値をもったものだと思うのです。

 天の真の愛を完成した家庭を土台として、真の愛の氏族圏が形成され、真の愛の民族圏、さらに進んで真の愛の世界圏を形成することができるのです。

 これが人間世界の基本的原則です。しかし今日のすべての人類はこのような内容を知らず、数多くの宗教もこのような事実を全く知らずにいるのです。(311)

 今は、アメリカ自体が自らの力では動けず、共産陣営も自力では動けない時代です。アメリカの若者たちの中には、自分たちの手でアメリカだけでなく、世界を救おうとする者がいません。また、共産陣営の若者たちの中にも、自分たちの手でソ連だけでなく、世界を救おうという者がいないのです。

 世界には数多くの宗教団体がありますが、その宗教団体の中にもないのです。しかしただ一つ、私たちの手でなければ腐ったアメリカ、滅んでいくアメリカを救うことができず、共産世界も救えず、世界も救えず、神様のみ旨も成すことができないという群れがあるのです。その群れはほかでもない世間が排斥し、世間から閉め出されているムーニーたちなのです。この驚くべき事実を皆さんは知らなければなりません。(312)

 アメリカは今やアメリカ自身を押し出していく力を失ってしまいました。これは科学者、哲学者、神学者すべてが一様に感じていることです。キリスト教自体でも行くことができず、誰も自ら行くことのできないひどい状態になってしまいました。腹はいっぱいでありながら精神的に凶作の年になったのです。草一株もむしって食べられなくなってしまいました。

 このような砂漠地帯に、草が生え、泉のわき出る一つのオアシスがあるとしたら、それがまさにムーニーの集団だと私は思うのです。(313)

 結局お金が問題ではありません。「愛の道」、私が五大洋六大州を走り回って必死に叫び回ったのが、まさしく「愛の道」でした。私は、この愛のない砂漠のような人類の前に、「愛の灯台」の光を投げかけたのです。人間が最終的に行かなければならない道が「愛の彼岸」だとするなら、人類の前に何よりも重要なものは、「愛の灯台」なのです。まさに「愛の灯台」だけが人間を本郷の地に導いてくれるのです。(314)

 皆さん、統一教会は何をする教会ですか。また、皆さんは何をする人たちですか。その答えははっきりとしています。統一教会員たちは愛の伝統を立てようとする人々であり、統一教会は神様とメシヤの盾になろうとする教会です。皆さんの中で「私は本当の統一教会員だ」と言える人がいますか。

 言い換えれば、生死を問わず愛の伝統を立てなければならないのが統一教会であり、私のすべてのものを犠牲にしてでも、神様とメシヤが願う、父母の愛を中心とした新しい伝統を立てるべき人たちが統一教会員なのです。これが統一教会と統一教会員の重要な使命だということを、皆さんは知らなければなりません。(315)

 皆さんは統一教会員とは何をする人たちなのかを知らなければなりません。サタンの愛を個人的にたたきつぶす鍵をもち、家庭的にたたきつぶす鍵をもち、国家的にたたきつぶす鍵をもち、世界的にたたきつぶす鍵をもっている人が真の統一教会員です。サタンの愛を追い出し、天の愛の鍵をもたなければならないというのです。(316)

 私は今まで五色人種を祝福しました。結婚問題は人生において最も重要な問題であり、世界にも任せられず、国にも任せられず、自分の親にも任せられない問題ですが、多くの人々がレバレンド・ムーンに任せて、レバレンド・ムーンが定めたとおりに行くと言っています。神様の国の愛のためにです。それが偉大なのです。

 なぜ偉大なのですか。神様の国の愛の圏内に飛躍して入ることができるからです。愛のロープにつかまるのが一番速いのです。皆さん、霊界に行ったら歩く速さは同じですか、違いますか。人によって差が大きいのです。それは人によって愛の程度と質が違うからです。

 皆さん、霊界に行っても先生と一緒に歩きたいですか。それなら皆さんは神様と先生の一致した心情基準を相続しなければなりません。そうでなければ速さが違うのです。

 神様の愛と完全に一つとなったならば、数千億個の星でできているこの大宇宙でも、一秒の間にどこにでも行けるのです。何の力で行けるのですか。愛の力で行けるのです。神様が天地を創造なさるときも愛の力でもって創造されたのです。

 人種を超越して天宙に到達できる本質的な愛の世界を追求していく道が統一教会の行く道です。統一教会こそが神様が終末に下さった人類への一番貴い贈り物なのです。(317)

 結婚においても統一教会がチャンピオンになります。性的堕落がひどく、家庭の中で七五パーセントが離婚する西欧世界で合同結婚式を挙行し、また離婚しないと誓うことは驚くべき事実です。健全な倫理、健全な家庭をつくる上において統一教会は勝利を得たのです。(318)


7、終末における望みの中心


 エデンの園においてアダムとエバを創造された神様の最高の望みは何だったのでしょうか。神様は永遠に愛することのできる、創造目的を完成した男と女、息子と娘を求めてきたのです。神様はもっているすべての望みを自分の息子・娘にかけて、さらには未来の発展を夢見ていたに違いありません。しかし、これらのすべてが堕落によって崩れてしまいました。

 その後救いの摂理を通じて、これを完全に復帰するために、老年時代から壮年時代、そして青年時代へと移しながら役事をしてこられました。そうして今の時代に至って、ついに青年層を迎えるようになった神様は、堕落前のアダムとエバを眺めておられたその希望をもって、皆さんを眺めておられるのです。(319)

 旧約時代にはノアじいさんとかアブラハムなどのおじいさんたちが伝統を立ててきました。ヤコブだけは例外でしたが、彼もかなり年を取っていたのです。モーセにしても老人でした。

 旧約時代から新約時代に移ると、伝統の相続は青年たちに引き継がれました。洗礼ヨハネやイエス様はみな青年です。言わば二十代と三十代の間にすべての天の伝統を受け継ぎ、それらを現実世界に結びつけようとした中心的存在が、イエス様と洗礼ヨハネでした。洗礼ヨハネがイエス様に侍り、天国理想を現実のものとしていったならば、それはイエス様を中心として後世に(まで残る)、永遠な伝統基準として立てられたはずです。(320)

 青年たちは心の中で決めたことをすぐに行動に移します。先生から教えられた内容をすぐに実行して、自分の中に積み上げようと希望するのも、まさに青年学生たちです。

 神様も、どうにかして老人よりも青年たちを立てて伝統を相続させたいと思われるのは明らかです。それゆえに成約時代は青年たちを中心として出発するのが原理的なのです。(321)

 一つの家庭を中心として見れば、その家庭の伝統を継承するのは老人ではなく若者です。一つの国家でもその国の伝統を継承するのはやはりその国の青年です。それは過去もそうでしたが、現在もそうです。伝統を受け継ぐ人、またそれを全体的に引っ張っていく人が、正統に伝統を受け継げなかった場合には、未来に予想できない結果をもたらすでしょう。すなわち伝統と異なる方向へ進んでいくのです。このような事実は当然の道理です。

 世界を引っ張り世界の新しい伝統を立てていくべき人々が青年たちです。神様の摂理を見ても、神様は伝統が青年たちによって立てられたらいいという、切実な希望をもっておられます。(322)

 成約時代において神様は、老年でも壮年でもなく青年を望んでおられます。

 ここに集まった人々はすべて青年です。まだ汚れていません。世俗的に汚れていない純真な心をもっています。新しい心に新しい決意をもたなければなりません。新しく決意を固め、心身が一つにならなければなりません。信念に満ちた姿になるのです。このように神様から愛を受けることのできる完成した男女になったならば、神様はどれほど喜ばれるでしょうか。(323)

 「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」という聖書のみ言が成就されるのが、まさに今なのです。その運動は誰がすべきですか。青少年層がしなければなりません。なぜですか。堕落は若者がしたので、神様を悲しませたものを蕩減復帰しようとするなら、若者が純粋に心と思いを尽くして蕩減復帰しなければならないのです。すべての精誠を若者の時代に天に捧げることは、より価値あることなのを知らなければなりません。(324)

 皆さんの年齢は、まさに成約時代のすべてのものを託された神様の望みの中心です。これは日本だけに限られたものではありません。世界的に統一教会の食口たちはすべて青年です。アメリカの食口の平均年齢は二十三歳から二十五歳です。この若者たちすべてが、一つのみ旨のために生涯をかけて前進するような決意と覚悟をもって毎日の生活を営んでいくならば、彼らを通して、間違いなく新しい伝統が樹立されるでしょう。このように考えてみるとき、成約時代を迎えて、皆さんはどれほど幸せな存在か分かりません。(325)















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第二章 真の父母と神の家庭

祝福家庭と理想天国

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第二章 真の父母と神の家庭


  

第一節 イエスと祝福

  

第二節 小羊の婚宴と最初の復活

  

第三節 真の父母と真の子女

  

第四節 家庭を中心とした復帰摂理


第一節 イエスと祝福


1、メシヤは誰か


 堕落したアダムとエバの後孫が生まれて以来、地上には堕落した家庭がつくられ、堕落した氏族、堕落した国家、堕落した世界がつくられたのです。神様はこの堕落した世界、怨讐の世界の中から一人の人を見つけなければならないのですが、神様は勝利した立場では愛する人を探すことができないのです。この怨讐の世界から神様が用い、立てることのできる人を見いだすためには、戦いの歴史を繰り返さざるを得ないのです。そのために、必ず神様は先頭に立って環境を開拓し、神様の内情を通告しなければなりません。このように、一人の人を探し出さずにはいられないのが神様の立場なのです。それで、神様は、歴史の背後において、罪悪に満ちた人類歴史を再び収拾するために数千年の間、一人の人を探し出す役事をしてこられたのです。(1)

 復帰摂理を見るときに、今まで数多くの宗教を動員して、一つ世界を模索し、善の世界をつくるために摂理されてきたその帰結点はどこにあるのでしょうか。その世界ができる前にまず国が現れていなければならず、国ができる前に民族、民族ができる前に氏族、氏族ができる前に家庭、家庭ができる前に一人の人が現れなければならないのです。

 すると、その一人には誰がなるべきでしょうか。女性でしょうか、男性でしょうか。誰でしょうか。男性です。創造原理から見ても人間を創造するとき、アダムを先につくりました。アダムからつくったので、アダム(男性)を通さなければなりません。聖書にアダムのあばら骨を取ってエバをつくったとあるのは、何を意味するのでしょうか。それは原型としてつくったということを意味します。(2)

 これまでの六千年の歴史を見ると、それは、男性を探し出す歴史でした。男性を探してきたのです。男性によって女性が復帰されるからです。創造のときも、男性の後に女性を創造したので、男性を探し出す歴史だったというのは動かし難い事実なのです。歴史の原則は変わらないのです。(3)

 メシヤという人間は一体、神様の前にあってどのような男性なのでしょうか。メシヤとは、神様の心の中にあったただ一つの愛、その愛の全体が凝結して、一つの出発点から同じ方向へ向けて総合された愛を受ける最初の人なのです。その人こそ神様の前に初めて生まれた長男です。

 メシヤは神様の愛によって初めて誕生し、神様の愛の前に立つ神様の長男です。ですからイエス様は自身を指して、神様の「ひとり子」と言ったのです。ひとり子とは、全体の愛を受けるという意味です。神様が絶対的な主体となれば、メシヤも男性として絶対的主体圏に立つのです。父子の関係です。したがって神様の全体の愛を個人に伝え、家族に伝え、氏族、民族、国家、世界に伝える人です。メシヤは、神様の長男として、すべての圏を超越した基準で、代表的な愛を受ける資格をもってくる人なのです。(4)

 キリスト教が主張するメシヤとは誰でしょうか。メシヤとは神様の愛を受け継ぐことのできる息子のことです。それで聖書では、イエスをひとり子と呼びました。ひとり子は神様のたった一人の息子です。それは神様の愛を中心として、初めて生まれた息子を言っているのです。(5)

 イエスはどのような方として来たのでしょうか。(イエスは)神様の息子、ひとり子として来て、神様の愛を受けたのです。初めて神様の愛を受けることのできたひとり子だったのです。それゆえ、キリスト教でいう「ひとり子」とは偉大な言葉なのです。

 人間始祖アダムとエバが、未完成の期間に、対象圏をつくれずに堕落したので、理想の愛を体恤する立場に立って、人類が願う祖先としての資格をもってきた方がメシヤなのです。メシヤを通す以外に、人間を解放する方策がないので、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」と結論を出すことができるのです。統一教会は、それを見据えていこうとしているのです。(6)

 私たちには神様の愛が必要です。未婚の男女が愛し合うとき、愛のためには死も恐れないのと同様に、神様の愛と一つになれば、神様の愛を実践できるようになります。そうなれば世界統一は自動的に実現します。私たち堕落した人間に必要なのは、神様の愛で愛することのできる人となることです。

 これが成就するのは、メシヤが来て神様の愛を連結させる時です。メシヤとはまさしく、体と心が一つになって、神様の真の愛が宿っている人です。(そして)神様の愛へ到達する時まで揺らぐことがなく、新しい道を備えることのできる人です。メシヤは世界、国家、家庭、個人を統一することのできる神様の愛をもってくる方です。神様のみ旨は、愛の主体となることのできるメシヤを送って、愛の世界を築くことです。神様は宗教を通してそれをなそうとされるので、宗教は必要であり、万民にとってメシヤは絶対に必要な存在です。まさにイエス・キリストが、「だれよりも私を愛しなさい」と教えた理由はここにあったのです。その点で、イエス様はメシヤとなることができるのです。また、イエス様は、「私は神様のひとり子だ」と言いました。これは、神様の真の愛を受けることができるという意味です。また、「私は花婿であり、あなたがたは花嫁です」とも言いました。これも同様に、真の愛を有する家庭の基準を築いておこうという意味なのです。(7)

 救世主とはどのような方でしょうか。人間は堕落によって真の愛を失いました。ゆえに、救世主は真の愛を探し出すために来られる方です。言うならば、失った真の愛を取り戻すために来られる方が救世主なのです。(8)

 メシヤとはどのような方でしょうか。(メシヤとは)人間の無限の価値、無限の宝を備えた、そのような人格を再現して来られる方です。この方は、天地を主管し、天地をもってしても代えることのできない比重と測量の位置を再選定して人間世界に来られる方です。(9)

 神様は人間が同伴者を必要とするのをご存じなので、かけがえのないメシヤを地上に送らざるを得なかったのです。神様は人類を愛しておられるので、人類と接することのできる一人の代表的な存在、友達のようでもあり、先生のようでもあり、さらには、父親のようでもある、最も貴い存在を送らなければならなかったのです。このような代表的存在が誰かと言えば、メシヤなのです。

 メシヤは私たち人間にとって二人といない友であり、二人といない師であり、二人といない父親であることを知らなければなりません。たった一人しかいない最大の存在としてこの地上に送られた使命者がメシヤなのです。そしてメシヤをつかんで涙を流し、メシヤのために生命を投じ、その方を自分の生命のように愛するならば、世界史的で、天宙史的な神様の生命と愛の圏内に突入することができるのです。これが、人間に与えられた神様の最高の愛の贈り物であることを知らなければなりません。(10)

 メシヤはまさに、神様と人間、そして万物の願ってきた真の人です。それゆえに、その方は真理の実体として来られ、真理のみ言を語られますが、(そのときは)神様の愛と一致した位置において真理を語られるのです。さらには真なる行動をしますが、愛を動機として行動するのです。その生活は規制に従って形式的に行われるのではなく、神様の真の基準において生きるのです。世界の救済に際しても、この世的な政略や手段方法によるのではなく、神様の真の愛を中心として救おうとするのです。そのような方がまさしくメシヤなのです。

 このような一人の人から真の愛の運動が全世界に展開するのです。このような真の人が一人の女性と夫婦の契りを結び、一つの家庭を築き、この家庭を中心として、一つの氏族、民族、国家、そして一つの世界を成就していくのです。これが、神様が望み、人類や万物が望んでいる「全体の願い」なのです。(11)

 イエス様はどのような資格をもってこられましたか。父親の資格をもってこられました。人類の真の父、すなわち真の祖先として来られたのです。しかし真の母を連れてくるのではありません。真の母がサタンに奪われたので、本来の人間(メシヤ)は、死を覚悟してまでも、サタン世界から奪い返してこなければなりません。

 最後の日に主が来られ、新婦を迎えるとき、新婦が解放されるのです。今日、先進国家では女性運動が起こっていますが、そこには中心がありません。したがって中心となるイエス様が再び来なければならないのです。(もし)イエス様の使命が人間の兄弟としての救いだけならば、イエス様が再び来なくても、救い主の役事はこの地上にいくらでも継続することができます。しかし、父親の使命を果たさなければならないので、イエス様は再び来なければなりません。父親が二人になることはできないので、必ずまた来なければならないのです。(12)

 イエス様はどのような方であり、なぜ来られたのでしょうか。イエス様は人類の真の父母であり、真の父の使命をもってこられた方です。アダムは堕落しなかったならば、神様の祝福を受けて人類の真の父となったはずであり、エバは真の母となったはずです。ところが、堕落により、その祝福が失われてしまいました。それで、それを復帰するために神様は、四千年の長い歴史を通して準備された基台の上に、イエス様を真の父の使命者として送られたのです。(13)

 神様は宇宙の中に、アダム一人をつくりました。アダム一人をつくることによって神様の願いは芽を吹き始めたのです。それから、アダム一人だけではいけないのでエバをつくりました。神様はアダムとエバをつくり、「ああ、見るに善い、好ましい」と言われました。神様とアダムという縦的な関係だけではいけないので、横的な対象を備えて、それが相対的因縁を結べばいいというのです。

 それゆえに、復帰摂理の中で、アダムと同じ存在が地上に再び出現しなければならないのです。それがメシヤ再臨思想です。アダムが出てこなければ、エバをつくることはできません。アダムが現れる前に人間がいたとしても、それは人間ではありません。土くれと同様です。人間と同じ格好をしていても人間ではないのです。それは神様の公認された創造理想の法度において、人間とは認定できないのです。ただ、アダムだけが神様の願われる人なのです。それを再び蕩減復帰することが再臨思想です。二番目に現れるメシヤなのです。そのようなメシヤが現れて初めて、神様の願われるエバ、新婦を迎えることができるのです。(14)

 将来、来られる主はどのような方として来られるのでしょうか。イエス様は第二アダムとして来られましたが、将来来られる主は、第三アダムとして来られます。

 第三アダムはなぜ来なければなりませんか。それはこの地上で過ったからです。この地上で事故が生じたので、それを修理しなければならないからです。だからこれを修理できる、故障していない新しい主人が来なければなりません。それゆえ、皆さんは新しい主人が来て、事故をいつ直してもらえるかと待ちこがれるべきです。

 第三アダムとは誰でしょうか。この地上に人類祖先の名をもってこられる三番目の方です。(15)

 私たちは、終わりの日に、再臨主が来られることを知っています。それでは、来られる主はどのような目的をもってこの地上に来られるのでしょうか。僕の時代が過ぎ、息子の時代が過ぎたので、将来来られる主は父親として来られるのです。父親の栄光をもってこられるのです。(では、)父親の栄光をもってこられて何をなさるのでしょうか。人間一人ひとりに父親の心を吹き込まれるのです。息子の心ではありません。イエスの心でもありません。父親の心だというのです。(16)

 救世主とはどのような方なのでしょうか。今日の堕落した世界においては、信仰と希望の実体なのです。皆さんの信仰の目的は、信仰の実体であるメシヤと一体となることであり、希望の目的も愛の目的もその方と一体となることです。人類を収拾して、エデンを復帰するために来られる方がメシヤであり、その方を完全に占有できる人は、その方の世界を占有し、その方の愛を占有できるのです。また、その方は神様を完全につかんでいるので、その方を完全につかむ人は神様をつかむことができるのです。(17)

 私たちが絶対に探し出さなければならない問題が、一つだけ残っているのを知らなければなりません。

 この一つの問題とは何でしょうか。その問題はどこで解けるのでしょうか。それは神様の愛によって解けるのです。神様の愛はどこから来るのでしょうか。神様の愛は偽りの父母からではなく、真の父母によってこの地上にはっきりと現されるのです。真の父母が存在するためには、まず真の父が来なければなりません。父親の人格と神様の愛を代わって備え、この地球星を訪ねてくる方が、今日宗教人たちが信じている宗教思想の中心的存在、すなわち再臨主なのです。(18)


2、イエス様と祝福


 今までの六千年歴史は、何を探し求めての歴史でしょうか。一人の男性を探し求める歴史でした。アダム家庭から今日まで、数多くの先知先烈たちの犠牲の代価を支払いながら探し求めてきたものは何でしょうか。すなわち、その苦労は何を探し求めてのものでしょうか。(それは)一人のアダムである男性を探し求めるためのものです。その男性を探し出した後には何をしなければならないのでしょうか。その男性を通して一人の女性を探し求めなければなりません。神様がアダムとエバを創造されるとき、アダムをまず創造され、次にアダムを通してエバを創造されたのと同様に、彼らは、まずアダムを探し求める歴史的責任を果たすために、今まで、神様を中心として闘ってきたのです。(19)

 アダムの代身として誕生したイエスとはどのような存在でしょうか。この世には男性が無数にいますが、神様の前に必要な男性は一人もいません。そのような男女が生きるこの地球星に、神様の愛の仲保として初めて生まれた一人の男性、その方がまさしくイエス様です。そのイエスは神様の愛を受けることのできる位置にいました。堕落したアダムの位置ではありませんでした。

 神様の愛を受けられない堕落したアダムの位置ではなく、神様の愛を完全に受けることのできる完成した位置から出発したのです。

 創造原理を見てみると、神様は男性をつくられた後に、アダムの姿を見本として、エバをつくられたのです。それゆえ、完全な神様の愛を中心として生まれることのできる完成した男性、すなわち、真の人が現れなければ、再創造の原則に従ってエバを捜し出すことはできません。ですから、イエスの誕生によって初めて、男性を主として、この地上に神様を中心としたエバを探し出す運動を起こすことができたというのです。

 では、エバはどのようにして探し立てるのでしょうか。アダムを通してつくらなければなりません。土でいいかげんにつくることはできないというのです。(20)

 アダム以後に失敗したすべてのことを蕩減するために、一人の男性として生まれた方が誰かというと、イエス様です。しかし、イエス様もみ旨をただ一人で成就することはできません。どんなにイエス様がイスラエル民族に対して摂理のすべての内容を相続させたとしても、イエス様一人では国家を形成することができないのです。イエス様が国家を形成するためには、まず、新しい家庭を編成しなければならないのです。

 新しい家庭を築くためには、地上にいる数多くの女性たちを代表し得る一人の女性を探し出さなければなりません。すなわち、国家的にも、世界的にも、全体にわたって、数多くの女性たちを代表し得る一人の女性を探し立てなければならないのです。(21)

 神様の愛する息子は、相対者を迎えなければなりません。相対者をどこで迎えなければなりませんか。天上で迎えるのではありません。堕落の結果としてエバは地上で失われたので、相対者もやはり地上で再創造されなければなりません。(22)

 アダムがエデンの園で堕落する前、すなわちアダムがエデンの園で創造され、結婚する前の立場を代表する人格者として来られる方が主です。堕落せず、結婚していないエデンの園のアダムの位置を代身して来られる主は、結婚式を挙げなければなりません。ゆえに、まず何をすべきかといえば、女性、すなわち母を探さなければならないのです。(23)

 アダムとしてのメシヤはどのような位置で来られるのかと言うと、長成期完成級の位置で来られます。長成期完成級とは結婚式を挙げるための位置です。(24)

 イエス様は、この地上に来られ、「私は花婿であり、あなたがたは花嫁である」と言いました。何のためにそう言ったのですか。新婦を探さなければならないからです。愛は男性と女性の二人に帰結されます。宇宙史的な男性の代表者と女性の代表者は、大きく胸をふくらませ、神様の愛を引き込むことのできる本然の契りを結ばなければなりません。(25)

 イエス様は新郎としてこの地に再び来ると言いました。では、新郎として来られるイエス様一人で、愛を完成できるでしょうか。神様が探し求めている完成した女性がいるなら、イエス様の相対者として完成した女性がいるなら、イエス様がその女性を愛したからといってどんな罪になるのでしょうか。イエス様が完成した女性と愛し合ったからといって神様がやめさせるでしょうか。(26)

 皆さん、考えてみてください。ある父母に愛する息子・娘がいたとして、その息子・娘がみんな成長したのに、めとれず嫁げず死んだなら、その父母の心はどうでしょうか。平安でしょうか、平安でないでしょうか。その父母は「ああ! こいつめ、妻もめとれずに死んでしまうなんて!」と言いながら嘆き悲しむでしょう。その父母は自分がしてあげられることなら、何千倍の心情を加えてでもしてあげたいことでしょう。それが父母の心です。神様も同様です。(27)

 神様はメシヤ、すなわちイエス様の誕生によって、エデンの園で失ってしまった息子が誕生したときの喜びを、再び感じることのできる時を迎えたのです。すると、その息子は生まれてから何をすべきでしょうか。けんかを上手にしなければならないのでも、お金を上手にもうけなければならないのでもありません。結婚しなければならないのです。ところが、イエス様は結婚しましたか。結婚できませんでした。なぜ結婚できなかったのですか。イエス様は新郎としての準備を十分立派に備えていましたが、新婦として備えられた女性がいなかったからです。(28)

 イエス様の願いは何でしたか。結婚することでした。この話を既成教会の人々が知れば驚きのあまりひっくり返ることでしょう。イエス様の願いはまさしく結婚することだったというのです。
 なぜ妻をめとらなければならないのでしょうか。人類の出発が堕落した祖先から始まったので、人類には今まで真の祖先がいませんでした。神様の創造理想は真の祖先となった人を聖婚させて、神様の愛と一体化させることでした。そのようにして、神様を中心とした直系の血統の家系をつくることが創造目的でした。ところが、血筋が違ってしまったのです。それゆえ、この地上に生きている人がどんなに篤く信じたとしても、養子にしかなれないのです。養子は血統が違うのです。(29)

 キリスト教徒が聞けばあきれ返るでしょうが、イエス様は結婚しなければならなかったのです。妻を迎えないなら、何をするために男性として生まれたのでしょうか。(それなら)中性的な、男性でも女性でもない姿で生まれたでしょう。男性でも女性でもなく、中性として生まれ、場に応じて女性としてはぶりをきかせたり、男性としてはぶりをきかせたりするはずです。

 今日、荒唐無稽なことを誓う人がたくさんいます。「主は雲に乗ってくるのでしょうか。雲に乗ってきてどうするのでしょうか」、このように問うと、彼らは「どうするって、何をどうするんです。主がすべてなさることに私は従っていくだけですから、それでいいでしょう」と言うのです。盗賊と同じです。自分の父親、母親に苦労させておいて、全部自分だけがいいと言うのです。考えてごらんなさい。堕落が地上でなされたので、復帰も地上でなされなければなりません。地上で失ったので、地上で捜し出すべきなのに、空中で失われたとでも言うのですか。荒唐無稽な話だというのです。(30)

 新郎となる主は新婦を迎えなければなりません。では、新婦を立てて何をするのでしょうか。家庭を築かなければなりません。先生がこのような話をすると、人々は統一教会を異端として追及します。しかし誰が異端であり、誰が正統なのか、誰が滅び、誰が栄えるのかは見てみなければ分かりません。(31)

 イエス様は男ですか、女ですか。イエス様がこの地上に来た目的も同じです。宇宙の公約である大宇宙の愛を完結させるためです。完結させようとすれば男が一人ではできないので、新婦を探さなければなりません。聖書の黙示録に「小羊の宴」と書かれているでしょう。(これは)結局、イエス様が新婦を迎えて愛し合うということです。神様が保障する愛、エデンの園でエバは、神様が保障する愛をもつことのできる主体になれませんでした。夫とすべきアダムを残したまま、サタンの罠に落ちたのです。このように女の心は(左右に揺れ動く)葦に似て信じられないのです。

 そうして、「(文先生は)イエス様が結婚しなければならないと言っている。文先生は異端だ」と(キリスト教徒たちは)言っているのです。イエス様が男性であるなら男性としての感情があるでしょうか、ないでしょうか。生理的イエスを否定して、迷信的な神様と同じ荒唐無稽なイエス、それは実質的なイエスではありません。キリスト教は荒唐無稽な宗教なので後退しますが、統一教会は実質的な宗教なので発展するのです。愛の核心はどこで探すのかというと……。完成した男性は、行く道で女性と出会わなければならない必然的な運命にあるのです。つまり、男が生まれたのは、女と出会うためです。だから男女は出会うようになっているのです。男女がいつも出会うとき、神様は雷のように臨まれるのです。神様が臨在することによって初めて、宇宙の愛の核心が成立するのです。この世で最も強い影響圏を及ぼす力は、愛の力なのです。(32)


3、本来のイエス様


 堕落とは故障したのと同じです。故障したら修理工場が必要であり、技術者が必要です。個人的に故障し、家庭的にも故障し、国家的にも故障し、世界的にも故障したというのです。

 それでは、本来、神様が完全であるように、完全な愛と完全な生命と完全な理想が一致した、故障していない人とはどのような人なのかを話してみましょう。その人は生まれたときから老いて死ぬときまで、神様の愛を受けながら、息子の道を行く人です。皆さんは神様の愛を受けていますか。受けてはいません。神様の愛を受けて生まれた息子・娘は大きくなって、神様の愛の中で結婚式を挙げなければなりません。その次に、罪のない息子・娘を生まなければなりません。皆さんは罪のない息子・娘を生んでみましたか。本来は罪のない子供を生んで、罪のない父親になるとともに、次には、罪のないおじいさんにならなければならないのです。

 次に、神様もこの地上に完全な王が必要であり、女王が必要ではないでしょうか。いつ神様はそのような一時をもってみたでしょうか。神様もサタンを追放して、そのような時を迎えなければなりません。個人的に、家庭的に、国家的に、民族的に、完全にひとまとめにして、神様が個人的に愛し、家庭的に愛し、国家的に愛し、世界的に愛することのできる、そのような国、国民、そのような息子・娘、そのような家庭をもちたいのは、当然の道理だと言えます。それらを私たちは成就できませんでした。

 私たちは堕落した祖先をもち、堕落した祖父、祖母、堕落した父、母、堕落した民族、堕落した国家、堕落した世界をもった一方で、堕落していない世界とは何の関係もない者となってしまいました。これらを一度に、個人的に修理し、家庭的に修理し、氏族的に修理し、民族的に修理し、国家的に修理するために立てた国がまさしくイスラエル選民なのです。

 イエス様の来た目的はそこにありました。イエス様は堕落していない完全な人間として来て、完全な家庭をつくり、完全な祖父となり、完全な王とならなければなりませんでした。神様はご自身の対象として、男と女の二人を創造しました。(ところが)この二人が堕落したので、二人とも再び修理工場へ預けなければなりません。 完全なアダム完成者として来られたイエス様には新婦が必要です。神様が祝福できる新婦が必要です。もし、イエス様が新婦を迎えて結婚していたなら、イエス様の息子・娘は生まれているでしょうか、いないでしょうか。

 イエス様の子供たちがいたなら、今日、ローマ・カトリックやプロテスタントなど数多くの教派が生じることはなかったでしょう。イエス様は王になりましたか。イエス様はこのようなみ旨を果たすことができなかったので、再び来なければならないのです。第一イスラエルであるユダヤ民族は、これを成就できずに滅び、キリスト教が第二イスラエルの使命を代身したのです。(33)

 (神様は)イスラエルの国を中心として、二千年間、預言者を通し、メシヤを送ると約束された上でイエス様を送られました。ところが、イスラエル国家と教会が一つとなり、イエス様と完全に一体とならなければならなかったのに、彼らが一体となれなかったことにより、イエス様は十字架で死ぬことになったのです。

 もし一体となっていたならば、イエス様はユダヤ教の大祭司長となったでしょう。その次には、ユダヤの国の王となったでしょう。

 ここにも問題があります。(イエス様は)祭司長となるときも独身であり、王となるときも独身でなければならないのでしょうか。そんなはずはありません。もし独身でなかったなら、どうなっていたでしょうか。イエス様を中心としてイエス様の家庭が生まれたことでしょう。そうなれば、アダムとエバが堕落せずに、真の父母の位置を確立すべきだった使命を、イエス様が代わりに成就していたのです。ここに、キリスト教を信じる牧師が来たなら驚くことでしょう。ここに立っている人(私)も長老教を信じ、イエスを信じた者です。ところが聖書の内容を解いてみると、以上のことが分かったのです。このような話をするので多くの反対も受けました。けれども事実なので否定することができないのです。(34)

 イエス様は個性を完成した位置にいたにもかかわらず、一人の主体的男性として、新婦となる一人の女性を迎えて、家庭的な次元の神様の愛の伝統を残しておくことができなかった、不運な方でした。そのため、今までこの地上に神様の真の愛を中心としてつくられた家庭が一つも現れることができなかったのです。メシヤの権威の上に築かれた真の夫婦の愛、神様が公認できる真の父母の愛と真の父子の愛の伝統が、成立しなかったのです。もしこのような家庭ができていたならば、自動的に歴史の過程を通し、この家庭を求心点として、横的に、また、縦的に発展し、神様の愛を中心とした一つの世界の成立が可能だったのです。

 しかし、私たちが知っているように、イエス様自身が神様の真の愛を中心とした家庭の伝統を立てられなかったために、神様が喜び、全人類と万物が喜ぶことのできる中心的基盤を築くことができなかったのです。神様の愛を基礎とした一つの家庭が築けなかったために、神様の愛を基本とした真の氏族の基盤が築けなかったのであり、真の民族的基盤、国家的基盤が築けなかったのであり、真の一つの世界が築けなかったのです。(35)

 二千年前、イエス・キリストは、メシヤ思想をもってこの地上に来ましたが、不幸にもその方は、その使命を果たせませんでした。もちろんその方がこの地上に来て、真の神様の愛を中心とする愛の運動を展開した、最初の神様の真の息子にはなったとしても、メシヤの愛を中心とする個人的人格を完成した基台の上に、真の愛を中心とする家庭を築き、そしてそのような家庭を基として、神様の真の民族と国家、世界を築いたかというと、私たちはこの事実を否認せざるを得ません。今日、キリスト教を信じる人々は、この言葉に反発するかもしれませんが、このことは誰も否認できない歴史的事実なのです。(36)

 旧約時代、新約時代の使命は何かというと、地上にメシヤの相対者を求めることです。メシヤのためにエバをつくるのです。

 絶対に服従するエバ圏を拡大し、すべてが歓迎する中で、愛の主体であるメシヤを迎えるようにすれば、自動的に全体が連結されるようになります。そのような環境、世界的環境をつくらなければならないのが、旧約時代の使命であり、新約時代の使命でした。(37)

 本来、イエス様はサタンの讒訴を受けなくてもいい立場で生まれたため、死んではなりませんでした。ところが、どうして十字架で死ぬようになったのかというのです。私たち人間の罪を背負って、罪人を救うために死なれたなどと言いますが、そんなばかげた話はやめなさいというのです。神様の息子が、死ななければ救えないのかというのです。(38)

 イエス様は地上に来られて、なぜ失敗したのでしょうか。イエス様が来られて三十余年、自らが語るべきみ言を、すべて語ることができなかったために失敗したのではありません。また、公生涯路程で、弟子たちや、あるいは親族と行うべきすべてのことができなかったために失敗したのでもありません。失敗の原因は、イエス様が祝福の場に出ることができなかったことなのです。また十字架を背負った直接的な原因もイスラエル民族が背信し、ユダヤ教徒が反対したためというよりも、ヨセフの家庭において、イエス様の祝福の一日を迎えられなかったところにあります。そのような一日を迎えていたなら、イエス様は十字架で亡くなりはしなかったのです。すると、すべてが帰一する十字架の原因と動機は何でしょうか。祝福を成就できなかったからです。それでイエス様は十字架で亡くなられたのです。(39)

 イエス様が家庭と完全に一つとなっていたならば、イエス様は個人の基準を超え、家庭基準の編成が可能です。父母や兄弟姉妹、さらに親族たちの祝福の中で結婚し、新しい善の子女が地上に生まれなければなりません。アダムとエバが堕落せずに完成していたならば、神様を中心として一体となった、理想的家庭が出発していたのです。

 イエス様は、アダム家庭を蕩減すべき使命をもってこられたので、イエス様の結婚もそれと同じ意味があるのです。しかし、イエス様は、ヨセフ家庭が責任を果たさなかったためにそのような基台を築けず、サタンの侵犯を受け、十字架につけられて亡くなったのです。新しい善の血統を受け継ぐ家庭は出発できなかったのです。それゆえ神様は、イスラエル民族の失敗を蕩減させるために、今までキリスト教を立てながら霊的に世界的基台にまで引き上げる役事をしてこられたのです。(40)

 イエス様が死なずに理想的相対者と出会い、神様と一つとなったその愛の中で夫婦となり直系の子女を生んでいたならば、今日の世界はどのようになったでしょうか。イエス様の直系の子女が生まれたからといって、神様が憤り、「罪を犯した」と言われるでしょうか。イエス様の後孫が誕生していたならば、今ごろは世界人口のかなりの部分がイエス様の後孫たちで占められたでしょう。あるいは、イエス様の後孫たちによって今日の世界はすでに天国となったかもしれません。

 神様は、一人の堕落人間を救うことも重要だと考えられるでしょうが、イエス様の直系の子女をもつこととは比べものになりません。堕落以後、神様は本当の神様の息子・娘、神様の孫・孫娘を相手にすることができたのかを考えてみなければならないでしょう。(41)

 イエス様は基盤を失った環境に立たれたために、洗礼ヨハネのもとを去り、サタン世界に行って戦い、家庭基盤と氏族基盤を再びつくらなければなりませんでした。その後も、ユダヤ民族がイエス様を不信したので、イエス様は神様を中心とした家庭を築くことができず、とうとう、「私は花婿であり、あなたがたは花嫁である」というみ言を残して、ゴルゴタ山上の死の場へ出ていくようになったのです。(42)


4、イエス様の恨み


 イエス様は人類の真の祖先の立場で、祝福を受けることができずに逝かれたのです。このことを皆さんはよく知っています。これが天の悲しみであり、イエス様の悲しみです。(43)

 二千年前、神様のひとり子としてこの地に来られたイエス様に恨みがあるとすれば、それは何でしょうか。結婚できなかったことです。「チャンガ:男が結婚すること」という韓国語は深い意味をもっています。「チャンガ」という単語の前後を入れ代えると「カヂャン:家長」になり、元に戻すと「チャンガ」です。男が結婚すれば家長となるのですから、つじつまが合う話です。結婚して家長となるには、妻が必要であり、また子女を生み、家庭を築かなければなりません。

 イエス様が妻を迎えることができなかったために、人類歴史は悲劇を迎えることになりました。特に、ザカリヤ家庭はもちろんのこと、ユダヤ教団やイスラエル民族が滅亡の道を歩むようになったのです。(44)

 イエス様が十字架で亡くなることによって、聖霊もまた失われてしまいました。イエス様のそのような死の裏づけとなるものは何でしょうか。イエス様は「私が願った相対的存在、すなわち私が探し求めた真の母の姿はこうでなければならない」と、心中に新婦の姿を描きながら死の峠を越えていきました。心中いっぱいに染みわたる一つの願い、すなわち聖霊を思い描きながら亡くなったのです。

 イエス様は、この地上に恨みを残して亡くなったので、その恨みを晴らすには、聖霊がこの地に来なければなりません。こんな話は聖書にもないでしょう。皆さんは、恨みを晴らすという言葉を聞いたことがあるでしょう。イエス様が晴らせなかった恨みは、この地上で晴らすべきなのです。イエス様は父母の因縁をもって万民を愛し、万民を通してイスラエルを救いたい心をもち、そのような理念をもって、恨みを胸に抱いたまま亡くなりました。そんなイエス様の恨みを晴らすために霊的役事をしてきたのが、今までのキリスト教発展史です。(45)

 イエス様は結婚しなければならないのか、結婚してはならないのかということが問題です。神様の創造原則と人間の本然の価値から見ると、イエス様は結婚しなければなりません。結婚して何をしなければならないのでしょうか。完全な新婦と出会い、完全に一つとなって、神様の創造能力を実現できる人間として、神様が人間を創造したのと同様に、息子・娘を生まなければなりません。しかし、イエス様はそれができませんでした。これが人間としての重要な責任だったにもかかわらず、できなかったので、イエス様の終生の願いは、「私は花婿であり、あなたがたは花嫁である」というものだったのです。新郎として新婦を探し求め、創造の遺業を継承して、神様の代わりに地上で全権を行使できるそのような国や世界を願いながら、今まで摂理してきたのです。(46)

 神様はイエスを男性として送ったため、イエス様も神様の祝福による結婚を願ったのです。また、理想的な家庭をつくって、「あなた(夫)」や「お父さん」という声を聞くことを願ったのです。このような因縁を結べずに亡くなったため、今日のキリスト教が現れるようになったという事実を、皆さんを通して知らせることによって、イエス様と神様の恨みが解けるという事実を知らなければなりません。

 つまり、ユダヤ民族の四千年歴史は、メシヤを迎える新婦のための基盤を備えておく歴史なのです。イエス様が亡くなるとき、新郎新婦の因縁をもってくると言ったために、キリスト教は二千年の間新婦の装いを整えてきたのです。(47)

 今日、キリスト教でいうひとり子とは一体どんな意味をもっているのでしょうか。また、ひとり娘とはどこにいるのでしょうか。イエス様がひとり娘を探し出していたなら、今日の摂理歴史は新しい転換点を迎えたでしょうが、ひとり娘を探し出せなかったことが歴史的な悲劇となったのです。

 再創造の歴史の中で、ひとり娘はどのようにして探し出すべきでしょうか。ひとり娘はアダムによって再創造されなければなりません。神様はアダムのあばら骨を取って配偶者をつくったという事実に留意すべきです。それは、実際にアダムのあばら骨を取ったのではなく、アダムに似せた相対者としてつくったという意味なのです。だからみ旨にかなうように育てなければならないのです。そのために、ヨセフ家庭とザカリヤ家庭、洗礼ヨハネ家庭とヨセフ家庭が必要だったのです。(48)

 イエス様は、新郎新婦の理念を成就して、神様の懐に抱かれなければなりませんでした。そうしてこそ、アダムとエバが人類の祖先として堕落したのを、完全に復帰することができるのです。なぜなら、二人で堕落したために、復帰も二人でしなければならないからです。それで、統一教会には、祝福があるのです。

 イエス様は死なずに新郎新婦の契りを結び、十二弟子と七十人門徒、百二十人門徒を地上で、神様の名によって祝福しなければならないのです。死んで霊的に祝福するのでは、だめなのです。ところが、イエス様はこれを成し遂げられずに反対され、追われる中で亡くなったので、恨みが残っているのです。(49)

 イエス様はご自身も家庭を築いて、善なる息子・娘を生んで父母とならなければなりませんでした。善なる息子・娘を生んで父母となっていたならば、イエス様の後孫が残ったはずです。イエス様の後孫が残っていたならば、今日、キリスト教は数多くの教派に分かれることなく、統一された教団となったはずです。(50)

 イエス様は霊界で、二千年間何をしてきたのでしょうか。イエス様を信じて霊界に行った人々は、いまだに結婚できない父親と同じ立場、イエス様の体中にある種と同じで、天国に行くことができずに楽園にとどまり、イエス様の新婦を待っているのです。天法がそうなっているからです。

 それではどうしなければならないのでしょうか。新婦が現れなければなりません。新婦の契りを通して、言い換えれば、新婦と契りを結ぶことができなければ、天のみ国を相手に、自分の国だとは言えず、天国を相手にして自分の生活的理想世界だと言うこともできないのです。イエス様は結婚しさえすれば、子供を生むことのできる完成した男性の位置にいたのです。(51)

 祝福は、神様、イエス、聖霊の願いです。これを解決してこそ、新しい歴史が出発します。だから祝福は、この全体の願いを果たしてあげるのです。イエス様はこれを果たせなかったために、再臨してこれを成就しなければならないのです。(52)

 再び来られる主は、完成したアダムの立場に立たれます。そのアダムは、地上に生まれ、エバを通して再び祝福を受ける路程を歩まなければなりません。それ以前には、完成したアダムの位置を求めることはできません。天においてではなく、地上において責任を果たさなければなりません。(53)


5、イエス様の祝福とキリスト教思想


 創造原理を見ると、アダムをまずつくられ、アダムを中心としてエバをつくられました。したがって、マリヤは息子を協助して、息子の新婦を探し出さなければなりませんでした。マリヤはそうしなければなりませんでした。イエスはもちろん、マリヤも協助して新婦を探さなければならないのです。

 この点から見ると、マリヤは責任を果たせなかったことが分かります。ある日、マリヤがガリラヤのカナの宴会場で、イエス様にぶどう酒がすっかりなくなったと言うと、イエス様は「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか」と言いました。その意味は、他人が妻を迎えるのにどんな関係があるのかというのです。つまり、イエス様が妻を迎えるべき時は来ていたのに、なぜ、マリヤは気づかずにいるのかというのです。結局マリヤは、責任を果たせなかったのです。

 イエス様が妻を迎えていたならば、イエス様の息子・娘は、神様の孫、あるいは孫娘となります。(イエス様の息子・娘は)神様の血族となるのです。「イエスは聖なる神様だ」と言う人がいますが、それこそ気が狂った者たちです。彼らこそ邪教中の邪教です。(彼らは、)イエス様が私たちと同じ世人として来て、妻をめとるとは何事か、「ああ、聖なる神様が妻を迎えるなんて」と言って失望しているのです。なぜでしょうか。妻を迎えれば、聖なるものではなくなるのでしょうか。男性でも女性でも一番聖なることは、めとり、嫁ぐことです。

 もし、イエス様が妻を迎え、息子・娘をつくっていたとしたら、教皇には誰がなるのでしょうか。ペテロのような人がならなければならないのでしょうか。(笑い)いいえ、イエス様の直系の息子・娘たちがローマの教皇にならなければならないのです。そうすれば、自然と世界の王になったでしょう。

 このように、地上に基盤を築こうとしたイエス様が死んだので、イスラエルを失ったキリスト教は、霊的イスラエルだけを築くようになりました。したがって神様には、基盤を整えることのできる国土がありません。教会はイエス様が所有できる王国でしょうか。だから、追われていったのです。

 統一教会がこのような秘密を握って現れてきたので、キリスト教徒たちは恐れて、今、私たちに反対するのです。反対するならしてみなさいというのです。私たちはじっとしていてもいいのです。まさに、共産党が組織をつくってブルジョアを打倒しようと出てくるのと同様です。見ていなさい。誰が押し出されるのでしょうか。彼らが押し出されるでしょうか、統一教会の文先生が押し出されるでしょうか。彼らの方が押し出されるのです。人の数が問題ではありません。たった一人の人間が問題だというのです。(54)

 イエス様はなぜ死ぬようになったのでしょうか。イエス様が妻を迎えたならば死んだでしょうか、死ななかったでしょうか。既成教会の婦人が来て、この話を聞いたらあきれ返るでしょう。「イエス様が妻をめとるなんて……」と言うでしょう。皆さん、イエスは男でしょうか、女でしょうか。「男です」。男として生まれたら、男の特性があるでしょうか、ないでしょうか。「あります」。それなら、よい女性がいれば自分の新婦に迎えたいという気持ちがあったでしょうか、なかったでしょうか。それは聞くまでもないことです。きょう時間があれば、皆さんが疑問に思っていることすべてに答えてあげたいのですが、時間がありません。この次に時間があるとき、もう一度会いましょう。このような内容は原理を通してよく分かるはずです。

 男性として生まれた以上、女性がいるだろうということは知って生まれたのです。それならば男性として生まれたイエス様は妻を迎えなければならないでしょうか、迎えなくてもいいでしょうか。「迎えなければなりません」。もし、神様の息子として来たイエスが妻を迎え、息子・娘を生んでいたなら、彼らは何になるでしょうか。神様の孫・孫娘になるのです。神様は孫・孫娘を見て嫌がられるでしょうか、好まれるでしょうか。聞いてみるまでもなく、好まれるのです。

 それでは、イエスが亡くなった原因はどこにあるのでしょうか。母マリヤがイエスのために妻を迎えてあげられなかったからです。それで恨みが残ったのです。それゆえ、イエスがガリラヤ人の婚姻の宴会場で、ぶどう酒が足りないと言ったマリヤに「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか」と批判したのです。愚かなことです。息子の行くべき道を整えずに、何が酒ですか。イエスの事情は追いつめられていたのです。

 ところが、キリスト教徒たちは、そのような内容を何も知らずに、ただ大まかに信じているのです。何、天国に行って新婦となる。そうなるには新郎の事情がどうであり、新郎の役事がどうであり、新郎がどのような悲しみを感じ、どのような苦痛を感じたかということを、すべて知って侍らなければならないのではないでしょうか。何にも知らずに、ただ、「イエスが苦労されたのだ……」と言うのを見ますが、それでは格好が悪いというのです。私たち統一教会員は、そのような既成キリスト教徒とは違うのです。(55)

 イエス様が、母マリヤの前に立って、三度痛哭しながら訴えたということを知らなければなりません。イエス様が三十歳になるまで、母マリヤは哀訴を聞き入れなかったので、(イエス様は)ふろしきを背負って家を出て、公生涯の路程を出発したのです。

 それでは、母マリヤがすべきことは何でしょうか。イエス様に妻を迎えることのできる相対的因縁を整え、歴史的基盤を備えなければならないのです。イエス様がそのような基盤を完結するためには、母子協助をして、息子が恨みの多い道を行くに当たって、母親がすべての責任を負うべきなのです。そして、イエス様の新婦を選び出してヨセフ家庭の基盤の上に、神様を中心とする聖婚式を挙げるべきでした。ところが、それが夢と消えてしまったのです。マリヤ自身は、生活問題、自身の相対問題に縛られ、暮らしていくのにきゅうきゅうとしていたのです。(56)

 これまでの、母子協助は、息子を探し求めるためでした。マリヤはどんな存在だと言いましたか。「僕です」。(マリヤは)息子を生みましたが、僕の体で生んだのです。ですから、イエス様には、新婦がいなければなりません。創造の原則に従って女性を創造しなければなりません。イエス様はアダムの立場で、失われたエバを探し出さなければなりません。そうしてこそ、結婚できるのです。

 ところが、イエス様はエバを探し出しましたか。探し出せませんでした。ですから、イエス様は再び来なければなりません。再び来て妻を迎えるのです。妻を迎えられずに死んだので、結婚するために再び来るのです。イエス様が妻を迎えるという思想はキリスト教の思想です。(笑い)

 ゆえに、再臨の主が来られるときには何の宴会が催されると言いましたか。「婚姻の宴会です」。婚姻の宴会とは何ですか。婚姻の宴会とは嫁ぎ、めとるという意味です。婚姻の宴会とは結婚の宴会です。そうですね。「はい」。こんな話をすると異端だと大騒ぎをします。(キリスト教徒は)無性にねたましくなるのです。

 婚姻の宴会、すなわち小羊の宴会をしようとするならば、イエス様の新婦が必要です。新婦を探し出さなければならないのです。その新婦とは誰かというとエバなのです。堕落する前のアダムと共にいたエバなのです。再臨の主は三人目のアダムです。イエス様は二人目のアダムであり、その後来られる主は三人目のアダムなのです。そして、三人目のアダムが堕落前のアダムの立場で来て、堕落前のエバを探し出さなければなりません。堕落していないエバを探し出して、小羊の宴会をしなければなりません。結婚して人類の父母となるのです。

 人類の父母となるはずだったアダムとエバが堕落することによって悪の父母となりました。したがって、私たちが堕落する前の善なる父母をもつようになれば復帰は完成します。それゆえ、人類には、善なる父母がいなければなりません。小羊の宴会をするのは、善なる父母として即位するためです。キリスト教思想は簡単です。これがキリスト教思想の骨子なのです。(57)

 イエス様を見ると、イエス様は家庭を愛することができませんでした。そのようなイエス様がどれほどかわいそうか、考えてごらんなさい。キリスト教徒たちはイエス様を救世主だと信じて、あれやこれや言いますが、そのイエス様がどれほどみじめでかわいそうだったかを考えてみなさいというのです。イエス様は家庭を愛してみましたか、国を愛してみましたか、天宙を愛してみましたか、神様を愛してみましたか。できなかったというのです。どんなにか、愛そうと心を砕かれたにもかかわらず、できなかったのです。(58)













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第二節 小羊の婚宴と最初の復活

祝福家庭と理想天国

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第二節 小羊の婚宴と最初の復活


1、小羊の婚宴を通した神様の理想実現


 皆さんもご存じのとおり、神様は最初から地上に神様の王国を立てようとされたのです。すなわちアダムとエバを通じ、そのみ旨を成そうとされたのです。彼らが真実に神様の前に従っていたならば、そのとき、彼らは完成したはずですし、神様は完成した彼らを結婚させ、地上に最初の家庭をつくられたでしょう。この家庭は、地上に立てられた天の国のかしら石(礎石)となったでしょうし、アダムとエバは全人類の真の父、真の母になったでしょう。エデンの園はこのような天国の象徴的表現なのです。そして、この世界は神様に喜びを捧げる世界となったでしょう。

 しかし、最初のアダムとエバは失敗し、神様の理想は残されるようになりました。神様は本然の天国を立て、喜びの世界を完成しようとされたのです。ですから四千年後に神様は、もう一人の完成したアダムを通して地上に神様の国を回復しようとされました。イエス・キリストはその完成したアダムでした。

 コリントⅠ一五章四五節にはイエス様を指して、後のアダムあるいは第二アダムという内容が記録されています。イエス様は二千年前に完成したアダムとして来て、失敗した最初のアダムの代身者の役割をされたのです。

 アダム一人の復帰では、天国は成就できなかったのです。新婦、すなわち一人の女性が必要であり、それはまた別のエバを選んだのです。そして神様は完成したアダムとして来られるイエス・キリストをして、彼の新婦、すなわち完成したエバを復帰するようにされました。そうなっていたなら、この家庭はエデンの園で失った最初のアダム家庭を復帰したでしょう。

 第二のアダムとエバの完成は、選民イスラエルの背信によって成就しませんでした。しかし、神様のみ旨は変わらないのでキリストの再臨を約束されたのです。

 イエス・キリストが亡くなられてから約二千年の時が流れました。すでに神様は第三アダムとしての息子を送る準備をしておられるのです。

 歴史路程を通して神様は、三次にわたる導きによって、目的を成就してこられました。三数は完成数なのです。今回こそは完成したアダムとエバを祝福しようと婚姻の宴を催され、地上天国の基礎を置かれることにより、長い長い歴史の目的を果たされるでしょう。

 このような終局的な最高の頂点が、黙示録に預言されています。これがすなわち「小羊の婚宴」です。再臨される主は、まさにその小羊であり、完成したアダムです。主は完成したアダムとして来られ、完成したエバを復帰されるでしょう。このとき、彼らは人類の最初の父母となり、神様の喜びも完全に成就するでしょう。(59)

 「小羊の婚宴」とは何かというと、神様が、愛と生命と理想の主体として完成した一人を、六千年前の罪のない父母の位置で祝福し、人類の前に善なる祖先として立てることです。

 人類の父母となられる無形の神様と実体の神様が一つとなって、息子や娘を生んでこそ、永遠なる霊をもつ実体の人が現れます。霊と実体が一つとなってこそ、息子や娘は永生できる霊をもって生まれるのです。

 霊的に父を呼ぶことができ、実体的に父を呼ぶことのできる息子・娘となるのです。

 このように神様とアダムとエバが永遠の生命と愛と理想を中心として、縦横において一つとなれなかったのを、人類の終末時代には必ず一つにしなければなりません。ですから霊的な神様と実体の真の父母が一つとなり、個人の霊肉はもちろん、天地が調和する場で子女の立場を復帰することにより、神様の愛を受けることのできる息子・娘の立場に帰るのです。

 罪のない父母から罪のない息子・娘、罪のない氏族、罪のない民族、罪のない世界として統一しようとされた方がイエス様です。しかし、イスラエル民族の不信により十字架で亡くなられたため、主はもう一度来なければならないのです。ですから神様の愛と神様の生命と神様の理想を、個人的に、家庭的に、氏族的に、民族的に、世界的に完成した世界となって初めて、この地上が天国になるのです。

 神様と主体、対象が完全に父子の関係としてみ旨の中で一致し、罪のない、聖別された、聖なる真の父母とともに真の子女、真の氏族、真の民族をつくり地上天国を建設することを願うのが、人間に対する神様の最大の願いです。したがって人間は、神様の永遠なる愛と生命と理想がどこにでも連結できる、地上天国をつくらなければならないのです。(60)

 キリスト教でいう「小羊の婚宴」とは何でしょうか。それは六千年前に神様が立てようとされた真の父母の姿を終末に再び立て、ここにもう一度兄弟の因縁と子女の因縁をつくろうとすることです。これが私たちの信じるイエス様の願いであり、私たちを導くため六千年間歴史とともに苦労してこられた神様の願いです。(61)

 アダムとエバが喜び神様が喜ばれる本然の世界を、悲惨な歴史の中から捜し出そうという救いの摂理が、すなわち「小羊の婚宴」の婚姻の場であったという事実を、皆さんははっきり知らなければなりません。(62)

 「捜し歩かれた父を慕い、父と呼べる息子・娘はどこに行ったのか」。そのような息子・娘を捜し出す日が願いの日であり、解怨の日です。その日を宗教の言い方を用いるならば「小羊の婚宴」と言います。(63)

 エデンの園で二人が神様と一つとなれず神様を裏切ったために僕となりました。ですから二人が完全に一つとなって初めて復帰が始まります。それが何かと言うと、「小羊の婚宴」です。聖書を見ると小羊の婚宴の日のことが出てきます。その小羊の婚宴の日というのは、二人が神様の愛を中心として初めて一つとなる、すなわち一つに結ばれる日です。またその日は永遠に祝すことのできる日なので、万民はその日を待ち望んできたのです。ですから、摂理の目的もそこに、人類の歴史もそこに、宗教の目的もそこに行って終結するのです。(64)

 統一は真の男性と真の女性が神様の公認を受ける立場に立ってこそ可能です。それがまさしく「小羊の婚宴」です。(65)


2、小羊の婚宴の意義


 人間始祖の二人が神様と別れることによって天宙の宴が無残に崩れ去り、歴史を台なしにしてしまいました。これを再び収拾しようとすれば二人が一つにならなければなりませんが、彼らが結ばれるその日が小羊の婚宴の日です。イエス様が再臨して新婦を迎え、新郎新婦の婚宴を挙げる日なのです。六千年前に神様を中心とした真の始祖が生まれなければならなかったのに、そうできませんでした。それゆえ、小羊の婚宴の日は、六千年後に初めて、接ぎ木と同じように再びつないだ立場に立つことによって、神様が願った基準に向かって出発でき、人類が堕落した世界から本然の世界に復帰できる日なのです。(66)

 小羊の婚宴とは、神様が六千年前罪のない父母として、完成した一つの愛の実体として、生命と理想の主体として立てようとされた、そのような人を召して、人類の前に善なる祖先として立てることです。(67)

 聖書は神様のみ言です。神様は「わたしはアルパであり、オメガである」と言っています。創世記で成そうとしたみ旨を成せなかったために、黙示録に至って完成するというのです。堕落しなかったならば、そのままで、天国に行ける息子・娘を生むことのできる家庭を築いていたのです。その父母こそ真の父母です。神様と一つとなった真の家庭です。その息子・娘は神様の家庭の後孫です。これを再び黙示録に至って新郎新婦の名を立て、再び一つにしようというのです。その新郎とは完全な真の父の資格をもってこられる方であり、新婦とは神様が愛せる真の母として登場する方です。堕落しなければ神様を中心としてアダムとエバが結婚式を挙げたでしょうが、堕落によりサタンと結婚式を挙げたので、これを再び探し求め、神様を中心として聖婚式を挙げることが黙示録の小羊の婚宴であるということを、はっきりと知らなければなりません。(68)

 この地上の摂理の内容は、堕落したアダムやエバよりも素晴らしい男性と女性が現れることであり、メシヤ思想を中心として、再臨思想を通じて新郎新婦が互いに出会うことです。それが黙示録でいう小羊の婚宴です。イエス様の願いは真の父母となることです。父母の道を経て、万王の王となることです。(69)

 神様は人間の霊的真の父母であり、心の真の父母としておられ、霊と心を合わせた父母の立場に立ち、内的な父母(真の父母)を捜して相まみえる日を人類の前に予告されたのです。これがキリスト教のいう小羊の婚宴の日なのです。(70)

 皆さんは小羊の婚宴をどのように理解していますか。小羊の婚宴とは、堕落せずに迎えなければならない真の父母を失ったため、これを復帰することによって、六千年前に成就しなければならなかった、人類の願いである真の父母を迎えようとすることです。これが神様の摂理です。(71)

 神様はあらかじめ人類始祖のために小羊の婚宴を設けられました。しかし、このような小羊の婚宴は誰でもできるものではなく、直系の息子や娘でなければできないのです。ところがキリスト教徒たちは、小羊の婚宴を挙げる、新郎を迎えると言って、祈祷しています。逆さまになっています、逆さまに。人間が堕落したことにより真の父母を失い、直系の子女となれなかったということが分からないためです。(72)

 小羊の婚宴は、人類歴史上初めて人間が祝福を受けて、家庭的な願いの基準を立てることを意味します。これが六千年の歴史が探し求めてきたことです。小羊の婚宴を挙げる新郎新婦は、真の父母の使命をもって現れるのです。(73)

 キリスト教の中心は何でしょうか。イエス様です。新郎であるイエス様が新婦を迎えることです。これがまさしく小羊の婚宴です。この小羊の婚宴とはイエス様と聖霊である一人の女性が実体をもって結婚式を挙げることです。(74)

 イエス様は再臨という課題を残して逝きました。それゆえに今まで数千年のキリスト教の歴史は再臨理想に従い、イエス様が再び来られるその時を待ち望んできたのです。その時の中心は何でしょうか。それはキリスト教でいう小羊の婚宴と見ることができます。それでは、小羊の婚宴とは何でしょうか。漠然としています。それは、神様と人間の一致した愛が出発を決めるのです。人として見れば、男性と女性が一つとなるのです。この二人の人が一つに結ばれて、理想的な世界に向かって神様の愛を探し求めることのできる土台を準備しなくては、神様の愛を中心とした世界的な目的を達成できないのです。(75)

 個人的なメシヤでは世界を救うことができません。世界を救おうとすれば、家庭的なメシヤにならなければなりません。ですから聖霊を迎え、父と子と聖霊の理念を立てなければなりません。新郎新婦の名で家庭を立てるのです。このような家庭をつくるために霊的に基盤を築いてきたので、今実際にそのような日を迎えなければなりません。その日が小羊の婚宴の日です。すなわち、イエス様が婚宴を挙げる日が小羊の婚宴の日です。既成教会の信者たちははっきり知らなければなりません。(76)

 小羊の婚宴の日は黒人にも必要であり、白人にも必要であり、韓国人にも必要であり、若い人だけでなく人類すべてに必要な日であり、霊界の霊人たちにも必要な日です。霊人たちも終わりの日には父母に侍らずして天国に入れないために、彼らにも小羊の婚宴の日が必要なのです。天国は、父が自分の妻子と共に入る所です。天の法則はそのようになっているのです。(77)


3、小羊の婚宴は地上で成される


 今後、世界で新しい歴史が進行し、天地が開闢する事件が起こるとしたらそれはどのような事件でしょうか。戦争によって世界が統一されるような事件ではなく、天地の大運勢により天の偉業を相続する男性の前に一人の女性が現れ、神様がその男性と女性に結婚式を挙げてくださるという事件です。その日は天地が開闢する日であり、キリスト教でいう小羊の婚宴の日です。これを人々は今日まで知りませんでした。

 堕落によって人類は偽りの父母の血統を伝えてきました。世間でいくら偉いといっても、大学の学長になって数多くの学生たちが「私たちの師」と頭を下げる人、「このくらいの姿勢ならいいだろう」と自分なりに資格をもったと自慢する人でも、根本を探ってみると、全部が詐欺工場で印刷した偽のレッテルです。このような言葉を聞けば気分が悪いのです。しかしどうすることもできません。このような言葉は国の公認を受けて言うものではありません。

 ですから救い主が現れなければならないのです。イエス様も完全な救い主となれなかったので新しい救い主が現れなければなりません。どんな救い主が現れるべきでしょうか。イエス様は霊的な救い主でした。しかしそれだけでは救いの目的は完全に達成できません。神様のひとり子となろうとするなら、相対がいなくてはなりません。したがって父母としての救い主が来なければなりません。堕落によって人間は偽りの父母の血統を受けて生まれたので、真の父母が来なければならないというのです。このような言葉をキリスト教徒が聞けば、また異端だと言うでしょう。(78)

 新郎が新婦を迎える、小羊の婚宴が開かれなければなりません。六千年前に神様がアダムとエバを中心として結婚式を挙げてくださろうとしましたが、彼らは悪人によって崩れてしまいました。それを再復帰して、初めて神様の立ち会いのもとで彼らを真の人類の父母に就かせる瞬間が、婚宴の時なのです。これがまさに再臨思想です。

 その父母は真のオリーブの木として来て、堕落した人間である野生のオリーブの木を切ってしまい、真のオリーブの木の枝を接ぎ木します。それによって、この世の野生のオリーブの木を、真のオリーブの木としてつくりかえ、地上天国を完成するのです。これが神様の創造目的ではないでしょうか。ところが雲に乗ってきてどんな千年の祝宴をするというのでしょうか。新郎となる主が来られたら、食べ物は何を差し上げ、衣服は何を差し上げるのか、準備もしないで婚宴をしようと考えるだけのキリスト教徒たち、本当に情けないことです。(79)

 神様の第一王子が新婦を伴って小羊の婚宴をしたあと、雲に乗って天に昇らなければならないのでしょうか。地上で暮らさなければならないのでしょうか。探し求めてきた方を見いだしたなら、その場で踊りも踊らなくてはならないし、見物も一度はするでしょう。なぜ来てすぐよく信じるキリスト教徒たちをみんな連れて昇っていき、空中婚宴をしますか。空中婚宴とは、どんな婚宴ですか。昇っていくとは、どこに昇っていくのですか。このごろは人工衛星に乗って昇っていけますが、結局また降りてこなければなりません。地球の周りを回るために昇っていくのであって、どこかに行くために昇っていくのではないでしょう。

 結局イエス様の目的は、新婦を得て家庭をもつことです。これを分からない人は、「統一教会に行ったところ、文先生という人が、イエス様は家庭をもたなければならないと言っている。聞いてみたら気分が悪い」と言うかもしれません。自分たちはたぶん一等新婦とか特等新婦になって雲に乗って天国に昇っていくだろうと思っているようですね。しかし、原則はそのようになっているのでどうしようもありません。(80)

 今日、キリスト教の信者たちが小羊の婚宴を願ってはいますが、この小羊の婚宴は、空中に昇っていって行う婚宴ではありません。アダムとエバが堕落して家庭的基準を失ったため、代表として完成したアダムが完成したエバと出会い、家庭をもつことが小羊の婚宴です。出産の苦痛を通じて救いが開かれます。堕落した父母の血肉を通して生まれたために、野生のオリーブの木を切り、真のオリーブの木に接ぎ木して、神様が主管できる真の実を結ばなければなりません。(81)


4、宗教はなぜ、独身生活を強調してきたか


 真の父母が現れるとするなら、まず真の男性が現れなければならないはずです。今までの宗教は、真の男性一人を探してきたのです。完成した真の男性を探し出す前までの愛は、天倫の法度が許さないため、独身生活を主張するのです。高等宗教であるキリスト教が、なぜ独身生活をするのでしょうか。仏教もなぜ独身生活をするのでしょうか。

 完全な男性が現れ、完全な女性に出会い、愛の法度を立てられなかったのに、ふしだらな男性たちと、ふしだらな女性たちが結婚することを神様が承諾されるでしょうか。いまだに本来の結婚式もできないのに……。堕落した結婚式をしたことが、神様の怨讐の中の怨讐であり、悲しみの中の悲しみなのに、そのうえ、ここでまた反発をするのかというのです。それゆえ高等宗教は独身生活を強調するのです。

 それでは、いつまで独身生活をしなければならないのでしょうか。神様の愛の前に完全に一つとなることのできる完成した男性、真の男性が現れて、真の女性に出会う時までです。このようにして現れたのが、真の父母です。それでキリスト教思想は、再臨思想なのです。再臨主は人類の祖先となる真の父として来られる方です。(82)

 宗教が現れて、してきたことは何でしょうか。神様のパターンによって、理想的な一人の男性を再び探し出すための基準に従って、その基準と一体となる対象(真の母)の実体を慕い描いてみるために、数多くの宗教の教祖たちは努力してきましたが、いまだにできていません。そのために、再臨思想があるのです。男性を一人も探し出せませんでした。男性を探し出せないこの圏内では、父母が立つことはできません。それで、独身生活をするようになるのです。国家は必要ありません。国家も真の個人から成就するのです。家庭も必要ないのです。真の男性と真の女性によってつくられた家庭が必要なのです。まず必要なのは、真の男性と真の女性です。歴史上では、とうとう真の男性と真の女性のモデルを探し出せなかったのです。(83)

 今まで、結婚に関する天の伝統が公表されませんでした。それは、人間始祖が結婚できなかったためです。偽りの子孫として生まれたので、真の父母の血統の因縁を立てることができませんでした。イエスは、生まれてもいないようなおまえたちが、結婚とは何事かと言いました。そのため、すべての人に独身生活を強調しました。(84)

 イエス様は、二千年前に、「わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない」、さらに、「自分の十字架を背負ってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない」と話しました。

 イエス様は、一体全体どんな方だったのでしょうか。イエス様は愛の王者なのです。天国の愛の王者なので、愛の王者に仕えるには、サタン世界の汚い愛の場で転がり回った、そのままの体をもってはできません。それで、それ以上に愛さなくては、行く道がないのです。それゆえに天を探す道は、この世に属する愛以上の愛でなくてはならないのです。そのような内容があるために、道理の道を行くには独身生活をしなさいというのです。独身生活は、嫌々ながらやってはなりません。それを越えて立つことのできる、天とささやくそのような道を行きながら、独身生活をしたとしても、不幸を感じない生活をしなければなりません。そうではなく、不幸や不満を感じながら、合わない独身生活をするようになれば、死んだ後には、地獄の中でも最も悪い所へ行くのです。(85)

 皆さん、ここに家庭をもった方もいますが、その家庭は誰の保護のもとにつくられた家庭でしょうか。ある人は、「私が今日住んでいる所がこれくらいなら、良心的であり、私は社会的に言っても、誰にも負けない人物である。だからどこへ行っても良心の呵責を受けず、やましくもなく、自信がある」と考えるかもしれません。しかし、その根本を暴いてみれば、人類始祖が怨讐の罠にかかり、その圏内で解かれずにいます。それなのに、そのような圏内でつくられた家庭が神様の公認を得ることができますか。それで宗教では、独身生活をしなさいというのです。ここにいる皆さんも、息子や娘をたくさん生みましたが、独身生活をしなければなりません。

 これは、統一教会の文先生の言葉ではありません。宗教がそのように教えているのです。皆さんがご存じのように、仏教もカトリックもそうです。なぜそうなのか知っていますか。神様に近づいていくために、そのように教えてくださったのです。人類の真の祖先となるべきだった人たちが、まだ結婚式を挙げられずにいるのです。それなのにどうして生まれてもいないような立場にいる人間たちが、結婚式をするのですか。堕落した後孫から生まれた息子や娘は、すべて救いの手にあずかって復帰の道を行かなければならないのです。(86)

 愛の理想をもっている天は、仕方なく歴史的に宗教を立て、独身生活を強調してきました。夫婦が真の愛に従って、天の基準の前に立つことができればいいのですが、間違えて天の愛を失ってしまう心配があったので、(もし可能なら)一人だけでも天の前に愛を受けることができるように、独身生活の原則を立てたのです。(87)

 カトリックの神父や修道女、仏教の尼僧はどのようになるでしょうか。これが問題でないはずはありません。では、その宗教が志向している目的が、間違ったのでしょうか。間違ったとすれば、その宗教が今まで苦労してきた基台や、その宗教の背後で役事してきた神様自体も、すべて否定されるようになるのです。歴史上にそのような現象が現れたのは、将来的に真の家庭が現れなければならないので、その家庭を迎えるための準備なのです。

 それでは、なぜ仏教とカトリックでは、独身を強調したのでしょうか。それが、完全に人間の幸福の基台だと言えますか。いいえ。この地上のいかなる宗教も幸福の基盤が何かを示せず、家庭の基台を中心とする計画もなく、そのような家庭自体も現れなかったのです。しかし、いつかはそのような家庭が間違いなく現れるという事実を知っていたために、独身を強調してきたのです。そうしてこそ人間たちは純潔な正しい家庭を建設することができるのです。(88)

 昔は、道を極める上で、結婚は許されませんでした。それはなぜでしょうか。父母がいまだに祝宴を挙げていないのに、僕でありながら祝宴を挙げることができますか。そのために、結婚は許されなかったのです。(89)

 天使長というのは、どんな存在でしょうか。天使長には、結婚が許されませんでした。皆さんが聖書を見れば、「一人の女性が七人の兄弟を夫として生活し、死んだ後、来世で復活する際に、その七人の夫の中で、誰の妻になるのでしょうか」と、サドカイ派の人たちがイエスに質問したとき、イエス様は、「霊界では、めとったり、とついだりすることはない」と言われました。なぜ、そんな言葉を語ったのかというと、天使長圏復帰の時代であったため、そう言わざるを得なかったのです。まだ結婚相手をもてないのが天使長圏です。天使長の使命圏内に立っているので、結婚相手を見つけてあげることができないのが、宗教の道でした。高等宗教であるほど独身生活を強調した理由が、ここにあるということを皆さんは知らなければなりません。(90)

 原理から見るとき、世の中の男性は天使長の後孫であるため、結婚する資格がありません。そのため、独身生活をしなさいと言うのです。いまだに、本然の父母が結婚できないのに、ふしだらで、下水の水たまりに入っていった人たちが自分勝手に愛せますか。その愛は非法です。そのため高等宗教は、独身生活を強調したのです。(91)

 天使には相対などいません。それでいまだに、(天使長的立場の)宗教では独身生活をするのです。本来は、比丘が原則です。妻帯僧は不合格者です。事実キリスト教会の牧師たちはすべて不合格者です。(92)

 女性たちが来たので、一言言わなければなりません。女性というのは、妖しいですか、妖しくはないですか。女性は今まで罰を受けましたか、恵みを受けましたか。「罰を受けました」。妖しいものだから、罰を受けたのです。今まで女性たちがなぜ苦労してきたのかというと、夫が自分の本当の夫でないために苦労をしたのです。分かりますか。男性たちは天使長型です。本来男性たちは新婦を迎えるようにはなっていません。そのため、レベルの高い宗教であるほど、独身生活を強調するのです。

 男性は天使長型です。本来、天使長には、相対が許されていませんでした。それにもかかわらず、その時非原理的に愛したのです。ですから、天使長が女性の夫ではありません。天使長は、自分の妻でないのに自分勝手に蹂躙したのです。そのため女性は、本当の夫でない天使長に不当な扱いを受けるようになったのです。そのようになったのです。(93)

 今日まで宗教が追い求めてきたのは、相対に対する不可侵圏でした。ですからすべての宗教が独身生活を強調してきたのです。家庭的相対理想は、先生によって初めて宣布された祝福です。(94)


5、最初の復活にあずかる者


 ヨハネの黙示録一四章一節を見ると、「小羊がシオンの山に立っていた。また、十四万四千人の人々が小羊と共におり、その額に小羊の名とその父の名とが書かれていた」と記録されています。すなわち、父の選びを受ける子女となるためには、小羊の名前だけではなく、父の名前までもっていなければならないのです。

 それでは、その十四万四千名に入っていく者は誰でしょうか。イエス様の印だけをもっていても無理です。皆さんは新郎となられるイエス様が新婦と呼んでくださっても、父が祝福してくださらなければならないのです。したがって、皆さんは、神様が手を取って、「この人はエデンの園で堕落しない永遠なる人類の主人公」と祝され得る人となって初めて、十四万四千の群れに加わることができるのです。(95)

 今日、サタンが主管している世界に、キリスト教徒がどれほどいますか。このキリスト教徒たちはすべて、主が来られる時最初の復活にあずかるべきですが、最初の復活がそれほどたやすいことですか。それも分からずに、どのように復活するのですか。彼らの中の何パーセントが復活しますか。その人たちだけ残しておいて、世界人類をすべて一掃しますか。そのような雲をつかむような信仰をもっては、絶対にいけません。地を救わなければなりません。地を救わなければならないのです。そのためには、まず地上で個人をサタン世界の中から完全に救い出さなければなりません。家庭も地上で完全に救わなければなりません。天の氏族、民族、さらに国家を地上で救わなければなりません。空中ではないのです。地上で救うべきなのです。堕落する時も、空中で失ったのではありません。地で失ったのです。復帰というのは、失ったものを取り戻すことを言います。失ったものは、失った所で捜すべきでしょう。地で失ったのですから、地で取り戻さなければなりません。

 実体を使って、体と心をもった人間が堕落をしました。それで、人間を中心として、サタンを完全に否認し、天の側に立って、神様の愛を受けることのできる息子・娘の立場にいたアダムとエバの代身者とならなければなりません。そのような人をサタンは支配することができません。サタンを支配するのです。サタンは本来天使長でした。天使長は、人間に支配を受けるようになっています。私たちは、そのような基準を取り戻していくのです。(96)

 今日、キリスト教徒と同じく、聖書をそのように信じてはいけません。また彼らが信じているとおりになるとすれば、人類の前に希望の神様となり得ません。万民が審判を受け、キリスト教徒十四万四千の群れだけが救いを受けること、それは利己主義の中でも並の利己主義ではありません。(97)

 今日、キリスト教徒たちが言う、十四万四千の群れ、天の印を受けた息子・娘、その言葉はいいけれど、解怨復帰の条件を造成し、天倫の摂理を代行する天の息子・娘は、彼らの言葉どおりでしょうか。知ってみるに、天が印を押せる息子・娘は、天の代わりに地に対し泣くことのできる心情をもっていなければなりません。(98)

 イエス様は神様の祝福圏内で過ごせる、一つの新郎新婦の理念を慕い希望されました。そして、神様の祝福を成就しえる小羊の婚宴を中心として、十四万四千の群れを抱き、息子(イエス様)と一緒に歓喜の歌と栄光を父の前に帰することを願われました。これが、イエス様の切なる願いだったのです。(99)

 今日、キリスト教徒たちが小羊の婚宴に来て第一次の復活にあずかろうとすれば、礼服を準備しなければなりません。礼服を準備するためには、精誠と忍耐が必要です。あらんかぎりの精誠を尽くさなければなりません。目で見る視線も精誠を尽くした視線で、鼻でにおいをかぐことも精誠を尽くし、聞くことも精誠を尽くし、そして肉身で感じるすべての感覚も精誠を尽くさなければならないのです。このように、精誠の関門を通過して、心が、精誠を尽くした体の前に感謝すると言うことのできる自身にならなければ、神様に仕えられないのが原理原則です。(100)

 これから、真の息子・娘が尽くさなければならない精誠は何でしょうか。現実的な生活舞台での精誠ではなく、希望の精誠、栄光の精誠、忠誠の精誠、侍ることの精誠を尽くさなければなりません。そのような精誠を越えていってのみ、天国が私の天国となり、天国の父が私の父となることができるのです。今までの精誠は蕩減途上での精誠でしたが、これからの精誠は天に仕えるための精誠でなくてはならず、仕える位置にあずかるための精誠でなければなりません。ここに同参する群れは、最初の復活にあずかる人たちなのです。(101)

 最初の復活にあずかることのできる資格を備えた人たちは、どんな人たちでしょうか。祝福の門を通過した人たちです。それで八十歳の老人たちも返り咲かなければなりません。変に聞こえるかも知れませんが、おばあさん、おじいさんも、また直接嫁いだり、めとったりしなければならないのです。なぜなら、第三イスラエル国家を形成するためには、また第三イスラエル国家の国民となるためには、祝福の門を通らなければならないからです。

 この過程を通過しようとしながら亡くなられたイエス様の希望が何か分かりますか。すると、それはイエス様一人だけの希望ですか。違います。それは、私たちすべての希望でもあります。また、神様の希望でもあります。それは小羊の婚宴です。神様の息子・娘に生まれて成長し、天地の間に初めて神様の希望を立て、個性を完成した一男一女となった後に、神様が「私の懐で永遠無限に生きなさい」とおっしゃりつつ結婚させてくださることが、小羊の婚宴です。皆さんはこれを知らなければなりません。(102)















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第三節 真の父母と真の子女

祝福家庭と理想天国

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第三節 真の父母と真の子女


1、真の父母とはどんな方か


 元来アダムとエバが堕落しなかったなら、人類の父母になり、神様を中心とした世界を形成したでしょう。ところが彼らは堕落することによって、サタンが主管する偽りの父母になってしまいました。したがって、本来神様の創造理想によって立てようとした真の父母がいなくなりました。真の人類の祖先がいなくなったというのです。(103)

 新しい父母はどんな父母でしょうか。昔、エデンの園で堕落したアダムとエバは、堕落した父母となりましたが、今後人類を再び生み直さなければならないその父母は、堕落していない位置、神様のみ旨と一致した立場で神様の公認を受けることのできる本来の父母なのです。堕落せずにみ旨を完成させ、神様の愛を中心として神様の懐で理想的な家庭を築き、そして善の子女を生み殖やすことができる、そのような本来の基準に立てる父母なのです。その父母は堕落とは関係がありません。(104)

 真の父母の位置とはどのような位置でしょうか。アダムとエバが、神様を中心として完全に一つになって、サタンの讒訴圏を脱け出した位置です。サタンが讒訴できる内容を残さずに、完成基準を越えた位置に上がっていって初めて、真の父母の起源が生じるのです。これが原理的観点から見た真の父母の起源なのです。しかし、その観点に相当する位置は簡単につかめるものではありません。(105)

 聖書は何を教えているのでしょうか。神様の核心である愛の真理を教えています。真の父母の理想を探してそれと一つになり、全人類を真の愛によって救わなければならないという教えです。イエス様は二千年前真の愛を完成できずに亡くなられました。創世記に生命の木と善悪を知る木があったと記されていますが、これは真の父母を象徴したものです。荒野に火の柱、雲の柱があったのも、父母を象徴するものです。十戒が二枚の石板に刻まれたのも、父母を象徴しています。(106)

 イエス様はこの地に来られて、神様を「私の父」と言い、「父がわたしにおり、また、わたしが父におる」と言いました。これは結局、全部一つになることを意味します。父と子は、血と肉が入り混じり一体となって動くことのできる、父子の関係をもたなければなりません。

 キリスト教の真理は簡単です。神様は父であり、イエス様は新郎です。だから新郎であるイエス様は、新婦を迎えなければなりません。そして、私たちは神様の息子・娘として互いに兄弟なのです。このような父と新郎、新婦、息子、娘が一体となり、サタン世界を清算してしまわなければならないのです。

 今までの歴史過程を見れば、イエス様は人類の祖先として来られました。アダムが堕落して失敗したために、イエス様が第二のアダムとして来られたのです。

 このようなイエス様は、この地上で神様を中心とした新郎の立場で新婦を迎え夫婦となり、人類の真の父母にならなければなりませんでした。(堕落ゆえに、イエス様を送り)反対に摂理したのです。(107)

 イエス様は神様が送ってくださった人類の第二の父母です。第二の父母が成し得なかったみ旨を完成しなければ勝利した第三の父母は生まれません。イエス様は、一番目の父母になるはずのアダムとエバが失敗した内容を、元どおりに復帰しなければ、第二の父母として勝利の基台に立つことはできません。イエス様は第一の父母の基準を復帰できず十字架の死の道を行かれたので、摂理は再臨時代まで延長されるようになったのです。

 再臨主は第一の父母になれなかったアダムとエバの失敗と、第二の父母の使命をもってこられたイエス様と聖霊が果たせなかったみ旨を蕩減復帰して、霊肉ともの実体的な勝利の基盤を立てなければ、地上に勝利した真の父母として現れることはできないのです。(108)

 真の父母は完成したアダムとして、アダムが失敗した第一の父母の基準を復帰しなければなりません。また、第二のアダムとして来られたイエス様が失敗した父母の基準を完成させなければなりません。

 再臨時代において、先生が苦労の伝統を立てざるを得なかったのは、イエス様が霊的基台だけを立て、霊肉ともの世界的な基台を立て得なかったからです。(109)

 イエス様は、人類の父母の位置に立つべき使命をもってこられましたが、そのみ旨を成就できずに亡くなられました。だから、再臨時代にはそれと同じ立場を蕩減復帰して勝利しなければ、それ以上の世界へ上がっていけないのです。そのことを今まで成してきたのが統一教会です。(110)

 歴史始まって以来、神様の名前をもち、人類の男性を代表して勝利した人がいませんでした。これまで、先生はそのような基準を立てるために闘ってきました。統一教会と先生は苦労をしなくてもよいのですが、このような原則を知っているので苦労をしないわけにはいかないのです。(111)

 アダムが堕落したために、その時の希望的なアダム家庭、氏族、民族、国家、世界、神様まで失ってしまいました。イエス様はこれを捜し出すために、四千年間準備してきた祭壇の上に来られたのですが、その祭壇と国と民族が反対したので、十字架を負って亡くなられました。そのためにイエス様が、再びその基準を立てようとして来る時が終わりの日なのです。その方は民族的、国家的、世界的な希望をもってこられます。だから、「新郎よ来てください」と言って、キリスト教徒たちは主の地上再臨を待ち焦がれています。創世以後の真の個人、男性のモデルのような存在が、まさに再び訪ねてこられる再臨主です。

 この方の使命は、個人的な基準を立てた後にエバを捜し出して家庭的な基盤を造成し、氏族と民族と国家を編成していかなければならないのです。(112)

 再臨主とは何でしょうか。第一のアダムが失敗したためにイエスは第二のアダムとなり、第三アダムとして来られる方が再臨主なのです。

 アダムは真の人類の祖先になるはずでしたが、堕落することによって偽りの祖先になってしまいました。このように偽りの祖先が現れたために(神様は)ユダヤ教をつくりました。このユダヤ教の上に真の祖先としてイエスが来ましたが、ユダヤ人が新婦としての因縁を結ぶことができなかったので、父母が現れることができませんでした。父母が現れなかったので祖先が現れることができないのです。それで、仕方なく、イエス様は霊的な父母としての役割を果たしたのです。

 男性は天の代身であり、女性は地の代身なので、霊的な立場で天を代表した男性の位置を探し出すためにイエス様は昇天し、女性神である聖霊は地を代表して地に来なければならないのです。

 聖霊は母性神です。この母性神が霊的に基盤を整え、実体の体をもってこられる主と実体的に出会う時がまさに小羊の婚宴の時なのです。

 それで六千年間善の父母が立てなかったのを、歴史的終末時代に、逆転させる立場で来られる方が真の父母なのです。(113)

 再臨される主は真の子女をもった真の父母になり、神様の愛を軸(センター)にして神様と縦的に一体とならなければなりません。神様の縦的な愛と横的な夫婦の愛が出合って接ぎ木される愛の爆発点をつくらなければなりません。

 夫婦の真の愛を中心として、神様の縦的な愛が夫婦の愛と垂直線の中央で接続されるその瞬間が、アダムとエバをつくって望みみた神様の希望の位置であり、真の父母が立たなければならない位置なのです。

 真の父母の位置はどんな位置でしょうか。真の息子と娘が罪意識をもたない善男善女として成長し、神様と同化できる位置と、東西に(横的に)一つになる位置です。それを立てなければなりません。(114)

 家庭の中でも最高に勝利した家庭を望み、最高に勝利した家庭の主人として来られる方が誰かといえば、キリスト教でいう再臨主です。結婚しようとすれば格好よくしなければならないのです。そのような観点から見ると、統一教会は発見をよくします。では、その方に名前を付けるならばどんな名前を付けるでしょうか。その方を呼ぶ上で、一番適切な名前は何でしょうか。その名前を統一教会の文先生は「真の父母」と付けました。どうですか。うまく付けましたか。この言葉は易くして簡単な言葉ですが、内容を知ってみれば偉大な言葉です。

 それでは、その方の生活の起点はどこでしょうか。家庭を中心とする場所ではありません。行動の起点は天地を中心とした所です。その方は天地でいかない所がありません。その方のすることは歴史的でないものはありません。彼のすべての行跡は、一から千万に至るまで、歴史の何よりも貴い価値のものとして永遠に残されるのです。その方が使った紙きれ一枚でも歴史的な遺産として残るようになるのです。このようにすべてが世界的であり、天宙的でないものはあり得ないのです。偉大な人は、種が違うために偉大な人になったのではありません。一代で世の中を救うために、自己の生命を捨てることがあっても、この道を行くと決心し実行していく人が偉大な人なのです。自分一代で行けなければ二代、三代、十代をかけてでも行くという人が偉大な人なのです。天運は人を通して動かざるをえないのです。ちょうど磁石の横に大きくて固い鉄の塊があれば、その磁石がじっとしていても自然に引かれていくのと同じ道理です。

 皆さんの先祖を見ると、一体善の先祖とはどんな人でしょうか。自分の子供たちだけを知り、自分の妻だけを知り、自分の夫だけを知り、自分の父母だけを知って、生きて死んだ先祖が善の先祖でしょうか。違います。善の先祖は自分の家庭を犠牲にしてもその隣近所のために、そしてその隣近所を中心にして面のために、そして、面を中心にして郡のために、郡を中心にして国のために犠牲になった人を言うのです。(115)

 真の父母というのは、今日私たちが考える父母とはその価値と意味を大きく異にしています。父母は堕落した世界に適用する価値にすぎないからです。日本の首長は天皇です。それと同じように、各国家ごとに国家元首がおり、国家を統治しています。今日、すべての国家の指導者たちは、世界を一つにするための政治をしているのではありません。世界を一つにしようとすれば、人類の真の父母を迎えなければなりません。一つの世界をつくることは、真の父母だけが成就できるのです。ゆえに、真の父母は人類歴史の希望の結実体であり、願いの結実体であり、すべてを蕩減した勝利の結実体です。ですから真の父母の価値は、世界の何ものにも代えられない、至高至大のものです。(116)

 真の父母がこの地に出現するまでには、その背後に皆さんが考えることさえできない、涙ぐましい事情が多かったということを知らなければなりません。皆さんが知り得ない所で、どれくらい多くの涙を流したか分かりません。その内容は神様だけが知っておられることでしょう。

 先生は過去を通して現在に至るまで血と涙を流してサタンと闘ってきました。その路程は涙なしには語れないいばらの道でした。神様が涙の道を歩んでこられたので、先生もその道をたどってきたのです。自身のために涙を流してたどってきたのではありません。

 皆さんは神様と真の父母のために涙を流さなければなりません。涙を流さずには、誰も復帰の道を行けないのです。それは、神様が今まで人間を救うために涙の道を歩んでこられたからです。(117)


2、真の父母は全体の希望


 私たちは、堕落した後孫として生まれたことを否定できません。ですから、自分の父母も善なる父母だと言うことはできません。これを拡大して考えてみれば、どの民族も善なる民族の基準を受け継ぐことはできませんでした。堕落の後孫である以上、神様によって出発したのではなく、サタンによって出発し、その圏内に私たちがいるという事実を認めなければなりません。このような環境を正してくださるように願うのが、堕落圏内、死亡圏内にいる人間たちの願いであるに違いありません。(118)

 真の父母とはどんな存在でしょうか。真の父母は、あらゆる全体の希望の象徴です。堕落した人類にあって、絶対的なる希望の象徴なのです。彼は歴史的な結実体であり、時代的中心であり、三十億人類が住んでいる今日、この世界国家圏の中心です。真の父母は、これからの理想世界に結ばれる、未来線上における出発点です。

 それでは、歴史時代の先祖たちは何を願うでしょうか。統一の世界が誰を探し出すことを願うでしょうか。真の父母を探し出すことを願うのです。言うならば、真の父母と永遠の出会いをしようとするのです。

 今日、万民が願うことは何でしょうか。世界、国家を迎える前に、真の父母を迎えようとするのです。また、未来の後孫たちは、誰から出発したいのでしょうか。皆さん方の新しい息子・娘は、皆さんの血統を通して生まれたいのではありません。真の父母の血統を通して生まれたいのです。ですから、真の父母は新しい未来の出発点になるのです。(119)

 神様は真の父母を絶対的に必要とされます。全能であられる神様も、真の父母なしには摂理を成就できないからです。霊界に行っている数億の霊人たちも、真の父母を絶対的に必要としています。真の父母が生まれない限り、天使長界の霊人たちは、地上でみ旨が成就できるように役事したかいがないからです。神様の前に立つためにも、真の父母が必要なのです。(120)

 今日、神様は何を願っておられるのかといえば、この終末時代にご自身の姿を現すことを願っていらっしゃるのです。ですから、完全に心情的であり、縦的に復帰された完成した男性、つまりメシヤとしてもう一度現れようとされるのです。完成したアダムに代わる、完成したエバに代わる中心人物が現れなければなりません。

 成約時代には、神様ご自身が真の父母の姿をして、万民の前に現れるようになります。統一教会が、政治によるどんな力を投入しても、主管されない偉大な力をもっているのは、まさにこのためです。生きている神様を、私たちが直接目で見、感覚をもって体恤できる圏内で、体験を重ねつつやっていくのが私たち統一教会の道なのです。(121)

 人間の願いは、真の父母に出会うことです。死の道を行っても出会わなければならない人が、真の父母なのです。歴史をすべて失い、時代をすべて失い、自分の後孫をすべて失うことがあろうと、真の父母に出会えば歴史を見いだし、時代を見いだし、未来を見いだすのです。このような方がまさに真の父母であることを、皆さんは知らなければなりません。(122)

 人間は、歴史時代に父母を失い孤児になってしまったので、一つとなる道がありませんでした。本然の父母の愛によってすべてが解決されなければならないのに、そうできませんでした。そのために、すべての人が必要とする方が真の父母なのです。(123)

 神様を中心として、父母の愛で一つになってこそ真の息子・娘が生まれるのです。祝福を受けた皆さんは、そのような位置に立ちました。父母と子女、万物が一つとなり、その中に皆さんが入ってセンターになるのです。(124)

 養子はどのようにすべきでしょうか。真の息子に接ぎ木されなければなりません。野生のオリーブの木を断ち切って、真のオリーブの木の芽を接ぎ木しなければなりません。野生のオリーブの木が真のオリーブの木となる運動をしなければならないのです。新生するためには、真の父母の血統を受け継がなければならないのです。ですから、人類が願うのは真の父母であり、イエスと聖霊が願うのは小羊の婚宴です。(125)

 真の父母は、歴史的結実の中心になる存在として、周囲全体が一つの家庭に帰結し、もつれたものすべてが、再び一つの起点に全部直結される中心なのです。

 ですから、真の父母を完全に愛せる者は、歴史を完全に愛すると言って立てる者であり、真の父母を完全に愛そうとする者は、世界を心から愛する者です。また、真の父母を完全に愛するすべを知っている者は、未来世界の後孫たちまでも愛する術を知る、そういう価値をもった人です。ですから、真の父母の愛を受けるために、自分の生命をすべて捧げ犠牲にしても、感謝の心を忘れてはなりません。そのような人は、真の父母の愛を相続する上で不足がないのです。皆さんは、このことをはっきりと知らなければなりません。(126)

 今日、皆さんは真の父母という言葉を語り、真の父母という名詞を知っています。この真の父母という言葉は、歴史上において誰も呼べず、誰も考えられなかったものです。ところが、今日私たちは呼ぶことができ、知ることができ、侍ることができる栄光ある位置に立ちました。このように、私たちは歴史上の誰よりも幸福な場所に立っており、誰よりも高貴な場所に立っていることを、皆さんは知らなければなりません。

 真の父母という名前とともに、歴史は今まで苦労の中を進んできたのであり、真の父母の勝利の基盤を整えるために歴史的な数多くの犠牲の代価を払ってきたということを思うと、真の父母という名詞こそ、今日私たち人類には、神様からの祝福のみ言の中でもとりわけ祝福のみ言だということを知らなければなりません。

 「真(の)父母」という名前の三文字を考えると、真の父母を通して歴史が治められ、真の父母を通して新しい世界に帰ることのできる起源が生じ、真の父母によってサタンを屈服させられる内的因縁が決定され、真の父母によって外的世界を占領しているサタンを征服し、初めて神様を解怨してさしあげられる中心が決定されるのです。ですから、真の父母とともに生き、真の父母の命令を頂いて行動できるこの驚くべき恩恵を、皆さんがまず感謝しなければなりません。(127)

 今まで呼び慣れたお父さんやお母さんは全部偽りです。そうでしょう。その偽りの世界を(真の世界へと)復活させなければならないのですが、そのためにはどうすべきでしょうか。打ち壊すべきでしょうか。打ち壊すのではなく、押し出さなければなりません。皆さんはそういう信念をもたなければなりません。(128)


3、真の父母は歴史的希望の中心点


 真の父母は、人類歴史において最高の希望の存在です。どんな民族も求めざるを得ない歴史的希望の中心点です。

 今まで歴史が歩んできたのは、どこへ向かってのものだったでしょうか。ある一つの国や世界に向かってきたのではありません。歴史が願ってきた標的は、ある特定の国でもなく、今日の世界でもありません。歴史の流れを外的に見ると、ある一つの国や世界に向かっていくように見えますが、それは決して外的世界に目的を置いているのではありません。

 神様の摂理は、世界を救うことが目的です。世界を救おうとするなら、善なる父母がこの地上に完全な基台をつくり、善なる後孫たちが生まれなければなりません。そうでなければ、世界を救う道は生じません。したがって、歴史の全体的な希望は結局、ある国が世界を捜し立てることではありません。歴史が追求してきたのは、何よりもまずこの地上に真の父母を探し立てることなのです。

 ここでは、既存の国家観や世界観などは許容されません。国家観も世界観も、真の父母の伝統を受け継いでから生ずるべきものです。真の父母の家庭が現れて初めて、神様を中心とした氏族を編成し、民族を編成することができ、世界を神様の側に復帰させられるからです。真の父母なしには、何も復帰できません。真の父母を迎えなければ、何も成就できないということをはっきりと知らなければなりません。(129)

 今日、歴史は何を探し求めてきたのでしょうか。時代は何を探し求めてきたのでしょうか。未来は何を探さなければならないのでしょうか。真の父母です。ですから、全体がここに帰結しなければ、幸福の基準を、歴史過程や宇宙の中に見いだすことはできません。(130)

 真の父母は歴史を超越しています。それは何かといえば、今まで歴史は真の父母を願い求めてきたということです。分かりますか。今まで歴史は、来るべき日を待ち望んできたのです。それは、希望が未来にあるという意味です。しかし、統一教会の希望は未来にあるのではなく、過去にあるのです。

 ここでの過去とは、世の中にない、歴史的過去を超越したものであり、現実を代表したものです。過去の結実であり、現在の中心であり、未来の出発起点です。全体を統合した中心なのです。そのために、歴史を超越しているのです。

 現在の人も、これから千年後に来る人も、またその千年後に来る人も、千年前のその望みを仰ぎ見て行くのです。ですから歴史を超越するのです。空間と時間を超越した立場から、その実体に生活圏内で侍ることのできる理念が、世界を統一できる理念なのです。(131)

 皆さんは「私たちは六千年歴史の結実です。私たちは全人類の中心です。これから私たちが起源となるべきだ」と言えば、大変深刻になるのです。これを知らなければなりません。今まで目的といえば未来を中心としました。目的を明日へ明日へと引き延ばしてきました。しかしその目的を未来から探す限り、統一世界は出てこないのです。今まで堕落したこの世界は、未来、未来、未来を叫んできました。共産党は世界が闘争によって発展するといいますが、目的の世界は、ある一時期に歴史的中心に立たなければなりません。これが立たなければ、一つの世界は成就されないのです。(132)

 私たちは、目的を千年後の未来から探すのではありません。私たちが探す目的は、未来の後孫たちも過去から探すのです。それは何でしょうか。真の父母です。これは過去のものであり、現在のものであり、未来のものです。これは永遠なるものです。分かりますか。

 これから皆さんは、この理念を中心として来るべき世界を歓迎するだけではいけません。真の父母を慕いつつ、侍っていかなければなりません。したがって、今日この時代圏内にいる皆さんは現在に生きていますが、過去の結実であり、未来の起源にならなければなりません。この三時代が一つになるべきだというのです。後ろには過去、前には未来を統合させられる現在の自分にならなければなりません。

 何をもって統合するのでしょうか。真の父母の愛で統合しなければなりません。誰に統合させるのでしょうか。息子・娘に統合させなければなりません。その息子・娘とは誰でしょうか。真の父母の愛を中心とした息子・娘です。言い換えれば、堕落しないアダムとエバが生んだ息子・娘と同じです。ここから天国の息子・娘になれるのです。ですから、今日三時代の愛の因縁をもって生まれた位置が、真の父母の息子・娘となる位置です。たとえ人間が堕落したとしても、歴史過程をさかのぼり、その位置を取り戻さなければなりません。(133)

 皆さんが祈祷するとき、「六千年の歴史の結実である私たち」と言いますが、皆さんはどうして六千年の結実なのですか。父母の前に、子女であるにすぎないでしょう。真の父母の因縁と通じる子女の位置にいるから、歴史的実りであり、歴史的結実であり、未来の出発の起源だというのです。

 ですから、皆さんの希望は未来にあるのではなく真の父母にあるのです。皆さんが真の父母と完全に一つとなる日には、世界も一つになるのです。それは時間の問題です。(134)

 皆さんの中心は誰ですか。イエスを中心とした真の父母です。歴史的なすべての民は、真の父母を中心として一つにならなければなりません。ここから未来の伝統の起源が立つのです。統一できる伝統の起源が、ここから始まるのです。三数の中心はここからです。(135)

 統一教会は、歴史が探し求めてきた中心である真の父母に侍ることのできる所です。時代が要求する中心である真の父母に侍ることのできる所です。未来の起源になりえる真の父母の因縁を、「私」が相続できるのです。したがって「私」は歴史的な結実です。「私」は時代的中心です。未来の起源になるのであり、先祖になるのです。真の父母の心情と一致する因縁を結んでこそ、そのようになるということを知らなければなりません。(136)

 皆さんが、真の父母と完全に一つになるとき、国家もあり、氏族もあり、民族もあり、家庭もあるのです。天地のすべての栄光の価値を総合した実体基準が真の父母です。真の父母を世の中のお金と取り換えますか。自分の命を与えて取り換えられますか。ですから、昔と違うのです。皆さんはどこに行っても、真の父母に侍るために大韓民国を訪ねてこなければなりません。皆さんの息子・娘も、千代万代の後孫たちもそうしなければなりません。だから統一教会は違うのです。

 天地に運動する数多くの存在物の価値基準を決定できる核心、中心が真の父母です。すべての存在の願いの価値を決定できる要因が真の父母なのです。ですから神様がいつも共にいらっしゃるのです。神様がそういうお方であられるからです。歴史的結実を追求する原理の原因となり、時代の中心であり、未来の主人となるのが神様なのです。ですから、真の父母は神様が臨在することのできる中心本部なのです。(137)


4、人類歴史とは真の父母を迎えるためのもの


 今までの歴史的な願いとは何かといえば、真の父母に侍ることです。神様がイスラエルの国とユダヤ教を立てられたのも、メシヤを迎えるためでした。メシヤとはどんなお方かというと、真の父母です。また、キリスト教とキリスト教文化世界をつくったのは、再臨主を迎えるためであり、再臨主は第三アダムとして来られる真の父母です。(138)

 歴史を区分してみると、旧約時代は万物を分別させる時であり、新約時代は人を分別させる時であり、成約時代は勝利したアダムとエバを中心として、アダムとエバが失った愛の家庭を分別させる時です。この時代は、完成時代です。言うならば、人類の父母を失ったので、人類の父母を中心にして分別させなければならないのです。この父母がこの地に来て、分別の過程を経るには、受難の道を行かざるを得ません。これは原理的見解です。(139)

 真の父母が来られる時になり、世界のすべての国は兄弟の因縁を結ばなければならないので、第二次世界大戦後に、戦勝国家が敗戦国家を解放してあげたのです。兄の立場で、弟を打ったので、弟に神様の祝福を祈ってあげなければ、来るべき父母に罰を受けるから、そういうことが起こったのだと見ます。(140)

 すべての歴史は真の父母を迎えるためのものです。宗教も真の父母を探してきたし、世界も真の父母を探してきたし、国家も真の父母を探してきました。真の父母を探し出す道を模索してきたのです。(141)

 キリスト教では、終わりの日を預言しています。終わりの日は神様の息子・娘の願いがかなう日です。

 キリスト教は、新郎新婦という理念をもっており、終末時代を一つの終着点にしています。新郎新婦という位置は、父母の立場に立てる位置です。メシヤ的な息子の使命を果たし、父母の使命を果たせる位置に上がるのです。終わりの日は、息子・娘の時が終わり、父母の時へと前進する時です。

 息子・娘の願いは、失った父母、出会えなかった父母と再び出会い、受けられなかった父母の愛をもう一度受けることです。今がその時なのです。それが、子女たちが願っている最高の時なのです。キリスト教で信じられているように、終末は、神様の命令ですべての世界が燃え、審判される時ではなく、子女たちが願う父母が現れて、神様の心情を中心とした天の家庭と天の人倫道徳を中心とした社会と国家と世界が形成される時であり、そういうことを父母から新しく教育される時なのです。この教育を通じ、父母の愛と一つとなり、父母と一つになった基盤をさらに横的に発展させ、新世界に交代させる一つの宇宙的転換の時期です。これが、終末に対する摂理的観点です。(142)

 今まで歴史時代に数多くの宗教が出現し、真理の光を照らしてきましたが、それは、真の父母を迎える基台をつくるためでした。真の父母は、完成したアダムとエバですから、真の父母以前に生まれた人々は、すべて天使長世界に属すのです。ですから、統一教会よりも先に現れたすべての宗教は、天使長的宗教です。こうした原理的事実に照らして見ると、統一教会の真の価値はどういうものかが分かるのです。(143)

 すべてのものは、どこに帰結するでしょうか。真の父母に出会うところに帰結します。人類の真の父母が現れるのが歴史の願いであり、国家の願いであり、思想の願いであり、摂理の願いです。ですから、真の父母が現れる時は、歴史上に一度しかない頂点の時であり、後にも先にもない時なのです。永遠の世界から見れば、人間の一生というものは、一呼吸する瞬間と同じです。

 皆さんは、運がよくてそうなのか、神様からの祝福があってそうなのか分かりませんが、こうした時代に生まれ、統一教会に入ってくることは意味のあることです。皆さんがこの場所に帰ってくるまでには、数多くの先祖たちの精誠があったことを知らなければなりません。先祖が精誠を尽くしに尽くし、千人、万人の因縁を経て、回り回って、日が昇れば高い山がまず照らされるように、天と因縁があって集まってきた人々です。

 人類歴史において、愛という因縁がまさに初めて現れたのです。また、生命の価値を賦与できるものは、ここから始まるのです。国と世界の主権をより価値ある内容に肯定させることのできる時もこの時です。この時は、歴史の起源になる時であり、希望の焦点になる時であり、永遠の生命が始まる時です。(144)


5、偽りの父母と真の父母


 本来、善と悪は一点から出発しました。一点から出発したのですが、その一点が何かといえば愛です。愛は、一人で愛し合うことができますか。二人で愛し合うものです。そして夫婦になり父母になるのです。ここから、愛の方向が悪の方へと曲がっていったために生じたのが悪の父母です。

 それで、神様は善なる父母の時を迎えるために役事をされますが、どのようにされるのでしょうか。今まで、強力に押し立ててきた父母と子供の間の人倫道徳を、時が来ればすべてあいまいにされるのです。ですから、世界的に子供たちが自分の父母を等閑視する時が来るのです。善が、悪なる世界の限界圏から分別されなければならないので、天がそのように役事をされるのです。だから、復帰されていけばいくほど、父母と子供の間の倫理道徳は一層あいまいになります。その代わり、別のもう一方、つまり天の側から誰が出てくるのかといえば、再臨主が出てくるようになります。すなわち、真の父母が現れるのです。そうして、そこから真の世界が出発し、新しい主義が始まるのです。

 それでは、そこでの中心はどこでしょう。悪の父母と善の父母がそれぞれ中心になるのです。(145)

 北韓では、金日成を父だと言っています。その名前を英語で分解してみると、金(gold:黄金)日(sun:太陽)成(accomplishment:完成)になります。私たち統一教会は、先生を父と呼んでいます。先生の名前を分解してみれば、文は真理を示します。それから鮮明は、とても澄んで清らかなもの、明るい光を示します。それから面白いことは、鮮の字で、さかな、魚は水を意味し、ひつじ、羊は陸地を示し、相対的になっています。すなわち世界を意味します。これを総合すれば、文(moon:月)、鮮(sun:太陽)が合わさって明るく(明)、光を放つ。すなわち、太陽や月と同じように、暗闇を明るく照らしてくれる真理の実体という意味です。

 一つの国が、二つの国に分かれ、父親が二人現れた国は、世界に韓国しかありません。互いに相反する立場に立つ二人がどちらも本物であり得ますか。あり得ません。

 それでは、今、私が金日成を恐れているでしょうか、金日成が私を恐れているでしょうか。正義に立脚していないものは偽者であり、偽者が現れる日には終わりだというのです。それをすべて暴露しているので、共産党はレバレンド・ムーンを嫌い、統一教会を嫌っているのです。今まではレバレンド・ムーンを嫌いましたが、今後民主世界は、レバレンド・ムーンを好きになるでしょう。すでに、アメリカがレバレンド・ムーンを好きになる時になりました。

 今後はアメリカ国民が、「私たちの上院議員よりレバレンド・ムーンが貴く、私たちの大統領よりレバレンド・ムーンが貴い」と言う時が来るでしょう。世の大統領は四年、長くて八年の間国を治めますが、レバレンド・ムーンを中心にすれば、永遠に保障される天国に向かうようになるのです。だからアメリカの誰よりも、レバレンド・ムーンをもっと尊重すべきだというのは妥当な結論なのです。(146)

 真の父母が二人存在できるでしょうか。北韓では、金日成を父と呼んでいますが、それは、統一教会でお父様と言うのとは質的に違っています。現在、金日成と私たちはぶつかり合っています。父、という名前は貴いものです。ですからサタンも神様も、互いに自分のものだと言って争っているのです。

 これを誰が裁決するのでしょうか。人間が結論を下すのです。人間たちが、「私たちの真の父母は、このような方でなければならない」と言いながら、真の父母を選定するのです。堕落した父母はこうであり、善の父母はこのような方であると、人間はよく知らなければならないのです。サタンも、人類が善の父母を探し求めてきたことを知っているので、自分がまず偽りの父母を押し立てて、神様が送られる善の父母に襲いかかろうとするのです。(147)

 悪いことと善いことの基準はどこで見つけなければならないでしょうか。これが問題です。例えば、善と悪、また美と醜の評価基準をどこで見つけなければならないのかというのです。日常生活の中では、善いこと(善)と悪いこと(悪)の基準が、いくらでも随時変わるのを私たちは見ることができます。

 私たちに必要なのは、そうした相対的基準ではなく絶対的基準です。ところが、不幸にも歴史上誰一人として、そのような絶対的価値基準を設定できませんでした。ですから私たちは、最も善いこととは何か、最も悪いこととは何かが分からないのです。

 最も悪いこととは何でしょうか。最も悪いという意味は、最も善いという意味の反対の意味です。それでは最も悪いこととは何ですか。最も良いこととは愛だと言いました。父母の愛、夫婦の愛、子女の子だと言いました。したがって最も悪いことは、その愛を奪い去ることだと見ることができます。ですから、善いことと悪いことの基準も、善い人と悪い人の基準も、愛を中心として決定されるのです。(148)


6、統一教会が主張すること


 統一教会は、一体何をする宗教でしょうか。統一教会は真の父母を唱え、真の子女を唱えており、これが他の宗教と異なる点です。今日、大部分の宗教は宗主を中心にした宗教を主唱してきましたが、統一教会は父母の宗教を主唱しているのが特色です。

 父母がまさに宗主になるというのです。その父母とは誰でしょうか。神様を中心とした父母であり、神様を中心として人類の父母の位置、代々父母の伝統を受け継ぐ、人類の祖先の位置に立つ方です。

 その父母は一つの時代だけを生きる父母ではなく、堕落した世界が完全に復帰される時まで、もう一度生み直し接ぎ木してくださり、子女としての資格を備えられないものは是正してくださり、また、名分を備えることのできる内容を教えて提示してくださる父母なのです。これが、統一教会がもっている内容なのです。(149)

 統一教会では、真の父母を唱え、父母の道理を教えています。父母は、民族的基盤が整えば世界的基盤を準備しなければなりません。教会の基盤が整えば国家的基盤を準備しなければならないのです。そのように、一段階次元の高い、環境的要件を準備する術を知らない父母につながった後孫は、滅びるようになっているので、統一教会が生き残り後孫が生き残るために、世界的環境を準備するのです。世界を生かすためには、霊界の環境まで準備しようというのです。このように霊界にまで影響を及ぼしています。

 一例を挙げれば、日本で仕事をする時にも、霊的な役事が起こるのに出合うでしょう。それは、彼らが先生を信じて走っているために起こるのです。そうしたことが起こるのは、私たちの団体が「神霊協会」だからです。統一教会を信じなければ、いくら説明しても分かりません。(150)

 統一教会では、父子関係を唱えます。この関係は、縦的な心情関係です。そして、父母となられる方は、地上に実体があり、肉身を使っていても、イエス様が行ったように、霊的現象が皆さんに起こるのであり、同じように新しい事実を教えてくださるのです。実体を用いていても、霊人たちができることを、地上で横的に展開させることができるというのです。統一教会の宣教師たちが、宣教地へ出掛け、監獄に入ったり、難しいことに直面する時には、直接現れて、教えを下さっていると証しています。アメリカ、日本のような国でさまざまな活動をする食口たちが、そのように苦労しながらも、疲れを知らずに懸命に実績を上げようと努力するのは、父母が直接先頭に立って、霊的に見せてくださり、実体的に教えてくださるからだということを皆さんは分かるでしょう。(151)

 統一教会では、「真の父母」と「真の子女」という言葉を使います。なぜそうなのか知っていますか。統一教会の運動は、神様の愛を中心に、全人類に真の父母を探し出し、真の子女の道を照らし出そうという運動だからです。(152)

 私たち統一教会員はどんな群れでしょうか。真の父母の教理を教わり、真の父母の息子・娘になる群れです。真の父母の息子・娘にならなければならないという教理を教える所は、統一教会のほかにありません。(153)

 初めに、エバは、天使長と偽りの初めての愛の因縁を結ぶことによって堕落しました。許されない夫婦の関係を結ぶことによって堕落したのです。そのように、非原理的、不法的な愛の因縁を結ぶことによって、誰を追放したのでしょうか。神様を追放し、その次には真の父母を追放しました。すなわち、人類の真の父母が偽りの父母に変わり、その子供は偽りの子供になりました。言い換えれば、真の夫婦、真の子女、真の家庭、真の氏族、真の民族、真の国家、真の世界、真の天宙、真の天使世界、このすべてを失ってしまいました。この法にはずれた愛によって、天倫の原則がすべて崩れ去っていきました。こんな滅びの女がどこにいるでしょうか。私がこういう系譜を暴いて、損得を勘定しようというのではありません。エバは正しかったのですか、失敗したのですか。「失敗しました」。法にはずれた愛の因縁を結んですべてを失ってしまったので、原則的な愛の因縁を結ぶことによって、これらすべてを再び探し出さなければならないのです。

 それで、今、統一教会では何をしようというのでしょうか。こんなにつぶれた歴史を、もう一度立て直すために、蕩減復帰していこうというのです。このような使命をもっていかなければならない道が、統一教会の行く道です。この道は、一人では行けないので、家庭を立てるのです。それで、原則的愛の因縁を中心にして、天が理想的夫婦として祝福してくださるのが、いわゆる統一教会の合同結婚式なのです。(154)

 イエス様は堕落しない真の父母として来ました。では、ヨセフとマリヤは何でしょうか。世間的に見ればイエスの父であり母ですが、み旨から見れば、真の父母であるイエス様の父母ではありません。イエス様は、失ったものを再び見つけ出すための理念をもってきたのであり、堕落しないで、神様が公認できる真の父母の使命をもってきたメシヤだったので、いくら彼を生んだ人でも、そのメシヤの前では子女となるのです。言い換えればイエス様は祖先だというのです。信じられますか。「天地開闢」という言葉があるでしょう。何が天地開闢でしょうか。私はこう思います。息子がその父の前で父となることが天地開闢だと見ます。この世にこのようなことが起こり得るでしょうか。

 したがって、メシヤの前に孝子はヨセフであり、孝女の中の孝女はマリヤであり、メシヤの前に忠臣はヨセフであり、メシヤの前に忠女はマリヤがならなければなりませんでした。イエス様のために死ぬとすれば、先に死ななければならなかったのです。そうなっていたら、弟子は要らなかったでしょう。

 ところが、イエス様はすべてを語れずに逝きました。父が子にすべてを語れずに逝きました。天的使命を負ったイエス様が、世間的には父で、内的には息子のような立場にいるヨセフにも、自分の秘密のすべてを話せず亡くなったのです。ですから、どれほど悲しかったでしょうか。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう」(ヨハネ一六・一二〜一三)と言ったでしょう。こんな聖句を見れば胸が詰まります。(155)

 天地開闢という言葉があります。天地開闢とはどういう意味ですか。国がひっくり返り、世界がひっくり返ることが天地開闢ですか。とんでもありません。母が娘になり、娘が母になることが天地開闢です。それ以上に天地が開闢することはあり得ません。父母が子供になり、子供が父母になること、これがまさに天地開闢なのです。びりが一番になり、一番がびりになること。前進する時にはびりでしたが、「後ろを向け」と言ったらどうなりますか。これが復帰、つまり天地開闢です。天地開闢は、一度起こらなければなりません。そして父が息子になり、息子が父にならなければなりません。では、おじいさんは何になりますか。孫になり、ひいおじいさんはひ孫になります。統一原理から見ると、歴史上、一番最後の孫は誰でしょうか。アダムです。後で生まれたのが、最後の孫ではありません。先祖です。つまり後代は孫ではなく、先祖なのです。分かりますか。これが天地開闢だというのです。(156)

 統一教会は何をする群れでしょうか。天地開闢運動をする群れです。ですからお母さん、お父さん、おじいさんが反対しないでしょうか。サタン世界では、決死的に反対をするのです。彼らから見れば、私たちはならず者の群れです。彼らは知りませんが、統一原理がそのようになっています。サタン世界にある威信や体面のようなものは何もありません。こうした腹をもって進む群れがまさに統一教会の群れなのです。本当にすてきでしょう。しかしサタン世界は、めちゃくちゃなのです。(157)


7、真の父母の息子・娘になろうとすれば


 人類が願うことは何でしょうか。真の父母に侍ることです。六千年前にアダムとエバが聖婚することによって、全人類が神様の後孫にならなければならなかったにもかかわらず、堕落によって人間はサタンの後孫になってしまいました。ですから今私たちは、六千年前に失った天の側の真の父母をもう一度この地上に探し立てて、真の父母の愛の因縁を通して、重生(新生)しなければなりません。そうすることによってのみ、天国の民になれるのです。(158)

 真の子女になるためには、この地上に真の父母が現れ、真の立場で再び生み直してもらわなければなりません。(159)

 真の父母と皆さんは、一体の関係を結ばなければならず、その関係が永遠に変わってはなりません。(160)

 人間は誰でも、心情的に神様と一つとなるようにつくられています。父である神様と子である人間は、まさに心情によってつながっています。(161)

 統一教会は、心情の道理を教える所です。皆さんは、神様の心情に接ぎ木されなければなりません。皆さんは、サタンの子として生まれたので、これから心情に接ぎ木されるにはどうしなければならないでしょうか。お父さん、お母さんが一緒に住みながら子供を育てるその場所で接ぎ木されてはなりません。息子・娘を生む前に、お父さんが結婚する前に、すなわち、お母さんを迎える前に、お父さんのおなかの中で種となったその時から、心情に接ぎ木されなければなりません。復帰歴史がそのようになっています。勝利はそこから始まるのです。(162)

 復帰の法度が原理です。この原理は、大学で教える科学の原理のようなものではありません。人間が堕落し父母を失ったので、その父母を捜し出すための公式を教えるのが原理です。それなのに原理を知らないでいいのかというのです。また、知ったならばどうしなければならないでしょうか。ただ知るだけで、見物だけしていればいいのでしょうか。実践しなければなりません。自ら学んで、実践しなければなりません。原理のみ言どおりに実践しようとすれば、原理に対する確信がなければならないのです。

 では、原理のみ言を聞いて何をしますか。父母が自ら、原理を中心にして実践したから法度になったのです。ですから、子女たちも原理のみ言を中心にして実践しなければなりません。

 実践する目的が何かといえば、第一はサタンを屈服させることです。言い換えれば、僕の父母であるサタンを屈服させなければなりません。その次には、養子の父母を屈服させなければなりません。その次に初めて、神様の直系の息子・娘になるのです。(163)

 皆さんの願いは何ですか。真の父母に出会うことです。逆転してしまったものを、反対にもう一度探していかなければならないのです。これが蕩減復帰です。したがって逆転して生まれた人間は、みんな逆の方向に行かなければなりません。世間が願うものとは違う、反対の道を行かなければなりません。このように行けば行くほど、堕落世界との関係が切れるのです。

 この世との因縁を全部切り捨てて行く道が宗教の道です。この道を通して初めて、本然の世界、すなわち天国に入っていくのであり、天国の民になるのです。このように、私たちはもう一度生まれなければなりません。この世の王や大統領でも、みんなもう一度生まれなければならないのです。(164)

 堕落は、長成期完成級で犯した、誤った愛です。では、完成期完成級の愛はどのくらい強いでしょうか。それは言葉では言い表せません。女性が統一教会に入ってくれば、今まで一緒に住んでいた世間の夫が、とるに足らないもののように感じるでしょう。統一教会に入ってくれば、強力な霊力を感じます。

 これは男性も同じことです。男性は、先生を世間のどの女性よりももっと慕わなければなりません。そうしてこそ復帰されるのです。原則がそうです。男性も、先生に会いたくて、三回以上大声で痛哭しなければなりません。今は皆さんが先生のことをさほど重要に考えませんが、過去にはそうだったのです。男性は、先生にあまりにも会いたくて、われ知らず切符を買いにいくことが起こったりしました。(165)

 皆さんは、実体の神様の立場にいる真の父母が慕わしくて泣かなければなりません。いつも会いたいと思わなければなりません。ごはんでも一杯炊き、水でも一杯くんで、侍りたいと思わなければなりません。そういう切ない気持ちをもたなければなりません。涙が先立つ心情をもっていればいいのです。そうすれば、先生を中心として、皆さんが心情一致して先生と共に呼吸することによって、先生の人格基準と、それを支えている先生の過去と、それにまつわる事情がどうなっているのかを知るようになり、ひいてはそれを相続し、受け継ぐことができるのです。(166)

 統一教会に通う婦人が先生に従うので、夫たちは、自分のそばに来ないといって騒ぎ、これと反対に、女性たちも、夫が先生に従うので、自分のそばに来ないと騒ぐのです。そうなっているのです。また、男性も、先生に会いたければ、涙を流さなければなりません。そうできない人は、統一教会の天国時代になっても、天国に入れません。

 神様の心情を感じられず、涙ながらに分かれていったアダムですから、涙とともに合わさらなければならないし、涙ながらに分かれていったカインとアベルの恨みを、涙によって解放しなければならないのです。その道でなくては、一つになる道がありません。世界的に、男性の中にも、先生に会いたいといって泣く人もいます。ところが、ここにそういう人がいますか。昔は皆そうだったのです。草創期にも、皆そうしました。

 統一教会がそういう条件を立てなくては、復帰の責任を負えないのです。昔は、いくら男であっても、先生に会いたくて我慢できないほどでした。恋の病というのがあるでしょう。その病にかかったのです。世間のどんなことも、みんな煩わしかったのです。先生から、何かをしなさいという命令を受け、仕事をしてこそ体がほぐれて力が出ますが、そうでないと力が出ないのです。そうでなければならないのです。皆さんもそうですか。(167)

 世間のすべての男は、全部天使長です。それゆえ、意のままに花嫁を迎えることができないのです。意のままに結婚する資格がありません。女性は、来られる主の前に新婦の立場であり、主の側です。世間の男性に属しているのではなく、来るべき主に属しているのです。

 女性が堕落する時、二つの過程を通して堕落したので、復帰する場合にも二つの過程を経なければなりません。ですから、女性は先生が好きになり、慕わなければなりません。嫌でもそうしなければなりません。嫌でも先生を好きにならなければなりません。統一教会の女性は、先生の言葉なら、どんな言葉にも絶対従順でなければなりません。それでこそ、先生を好む人だといえます。それでこそ、先生は、皆さんを結婚させようとすれば結婚させられるし、伝道に送り出そうとすれば出せるのです。先生は、皆さんを黒人と結婚させられるし、結婚させないようにもできます。また、アメリカ人と結婚させることもできるし、させないようにもできます。これはよいですか、悪いですか。悪いという人は、私と関係のない人です。よいという人たちだけが、私と関係がある人です。ですから、女性は、おばあさんまで先生の方へ来るのです。このように、乙女が先生の方へ来るので、世間の男性は気分がいいでしょうか。ですから、世間の男性が、統一教会の文先生を反対するのです。女性は、そういうことはありません。

 それでは、男性は今どうしなければならないでしょうか。死ぬほど、僕の生活をしなければなりません。僕の過程を経なくてはならないのです。僕の僕の扱いを受けなければなりません。男性は、神様の前で姦夫の立場です。神様の怨讐の一族です。それゆえ、僕の僕の役を務めなければならないのです。先生が「死ね」と言えば、「はい」と言って、死ぬことができなければなりません。そうでないと、復帰されません。世間で一番つらいことを、男性がしなければなりません。今までは、主人なき女性を思いのままに蹂躙しましたが、今後、主が来るようになれば、そのようにはできません。そうすれば、復帰ができません。これは先生の言葉でしょうか、原理の言葉でしょうか。はっきりと言ってごらんなさい。知性人だと自称する皆さん、これが恐喝するための先生の言葉でしょうか、原理の言葉でしょうか。「原理の言葉です」。それならば、皆さんは原理的にしなければなりません。ですから、男たちを献身させなければなりません。

 先生も、今まで惨めな扱いを受けてきました。五十余年の間、闘ってきましたが、いまだに先生に矢を放っています。皆さんがこういうことを見て、黙っていてはなりません。

 皆さんは、サタン側の天使長になってはなりません。天の側の天使長になり、このサタンどもを撃退しなければなりません。だから皆さんを先頭に立たせるのです。先生は、サタン世界の公席に現れますか。現れるのを見ましたか。できるなら現れずに、皆さんを代わりに出そうとするのです。サタンが天に反逆し、天地の原則を誤らせたので、皆さんが、天を支持する天使の立場に立ち、天の前に忠臣の道理を立てなければなりません。そうすれば、そこから初めて、新しい復帰の道が開かれるのです。だから皆さんを先頭に立たせるのです。(168)

 皆さんは買ってきた人々です。人類を与え、天宙を与えて買ってきた人々です。ですから、神様は皆さんをおいて、天地を審判なさりたいのです。神様は、サタン世界の奴隷の立場にいる皆さんを買って、神様の息子・娘としてお立てになりました。ですから皆さんは、神様からの祝福を受けた栄光の子女です。だから、全世界が皆さんを欲しいというとき、与えることのできる皆さんにならなければなりません。サタンにまでも与えられる皆さんにならなければなりません。

 皆さんは、先生の血と汗の代価で買ってきた人たちです。先生の体を与えて買ってきた人たちです。ですから、皆さんも先生と同じことをしなければなりません。先生は食口たちを自慢したいのです。このような立場で公約しましょう。(169)


8、失われた心情を復帰すべき私たち


 堕落した人間は、三つの心情を失ってしまいました。それも一度にです。アダムとエバは、神様の息子・娘です。ところが、堕落することで幼子としての心情、子としての心情を失ってしまいました。そして、神様の愛を中心にした兄妹間の心情を失ったのです。

 アダムとエバは、兄妹のような立場で成長しましたが、エバはアダムを誘惑して堕落させました。エバはアダムを殺したのです。善なる兄妹ではなく、悪なる兄妹になりました。善なる夫婦ではなく、悪なる夫婦になりました。善なる父母ではなく、悪なる父母になりました。神様の愛の心情圏である子女の心情、夫婦の心情、父母の心情を、一時に失ったのです。これをどうやって復帰するのかが問題です。

 私たちは、神様の心情圏に入って、子供のようにならなければなりません。互いに一体となり、失った兄弟の心情、夫婦の心情を復帰し、父母の心情と子女の心情を復帰しなければなりません。どうしても、切れた心情的関係をつないで道を通し、復活圏を築かなければ、堕落圏を抜け出せないのです。(170)

 神様は、心から愛する息子・娘を失いました。男女について見れば、神様を中心とした夫と妻を失いました。そして子供の立場から見れば、真の父母を失いました。堕落した行動一つで、この三つを全部奪われました。ですから、どうやってこの三つの心情を、原理によって一時に蕩減復帰して、神様が認定できる基準を捜し立てるのかということが問題です。まず、神様の前に、真の息子・娘として、神様を愛する基準を復帰して、その過程を通過し、婚期になれば、神様の愛を中心として夫婦の因縁を結び、ひいては善の子女を生み、神様が願われる四位基台を築かなければなりません。(171)

 イエス様の三十余年の生涯は、息子の使命を果たした生涯でした。次に、今までのキリスト教の歴史は、夫婦の愛を探し出すための歴史だというのです。夫婦の愛が探し出されれば、父母の愛が成立し、その愛が成立した後には、神様に代わって子女を愛せるのです。それを、「私」を中心として見れば、子女の愛、夫婦の愛、父母の愛、このように逆に上がっていくのです。神様を中心として、そのような愛を感じなければ、復帰ができないのです。この三つの愛を感じなければならないのです。(172)

 信仰の道で追求する最後の道を行こうとするなら、何がなければならないでしょうか。まず第一には、神様の愛を中心として、兄弟の因縁をもって現れる指導者の道理がなければなりません。その次には、主体と対象、すなわち夫婦の因縁を中心にして現れる指導者の道理がなければなりません。次には、父母の因縁をもって現れる指導者の道理がなければなりません。(173)

 元来、一人の人間は、相対を通して、父母、夫婦、兄弟、子女の四大心情を感じられなければなりません。そのために家庭が必要なのです。(174)

 神様の心情を中心に、横的蕩減復帰摂理が始まっています。失った心情圏を一時に復帰する摂理が始まったのです。そのために、統一教会があるのです。なぜ、統一教会の食口たちが、すべて心情的に一致し、先生の命令によって一糸乱れず動いているのか、誰も分かりません。皆さんが、先生と心情的に一致し、活動している原因を、世間の人々がいくら研究しても理解できないでしょう。

 統一教会の食口たちは、男性であっても、先生に会いたくて涙を流すぐらい、先生を好きです。先生に会いたくて涙を流してみた経験がなければ、その人は統一教会の食口ではないでしょう。それは、先生のためではなく、神様のために素晴らしい現象です。(175)

 先生は神様の愛を中心として皆さんを愛し、皆さんは先生を愛しています。皆さんは神様を愛し、皆さん同士も愛し合わなければなりません。皆さんが先生を愛するのと全く同じように食口たちを愛さなければなりません。先生が願うことは、先生が愛する以上に愛しなさいということです。そうなれば、隣人を、自分の父母、兄弟以上に愛せるようになるでしょう。(176)

 皆さんは、理論的に勝利を収めるだけでなく、それに先立って、実践的勝利者にならなければなりません。隣人を父母のように、兄弟姉妹のように愛する群れにならなければなりません。そうなれば人が、来るなと言っても、病気になるくらいに会いたくて訪ねて来るようになるでしょう。先生は、学生時代にもそうでした。友人はみんな先生のいる所へ押し寄せてきました。そして、誰にも話せない内容を相談してきます。そうすれば、神様の心情圏を相続できるみ言を聞かせてあげます。それを実践する理論があるので、神様と一つになれるようにしてあげられるのです。(177)

 近い将来に、人類を統一の世界、永遠無窮なる安息の福地に安着させられる根拠地がなければなりません。それはどこでしょうか。心情の世界です。心情の世界では、お父さんは子供がいなければ生きられないし、妻は夫がいなければ生きられない世界です。今後来るべき世界は、こういう真実の世界です。

 世間で「主義」というのは、良心基準において意識革命の段階に当たるのかもしれませんが、これからは、宿命的に勝利でき、最終的に勝利できるものが現れなければなりません。それが正に「心情」です。

 これからは、人類の心情を革命し、天道の基準を立てられる、新しい歴史観が出てこなければなりません。この歴史観を基準にして、新しい人生観と世界観を創建できる心情的な主義が出てこなければなりません。では、その主義はどんな主義でしょうか。それは、心情的な人生観、心情的な世界観、心情的な宇宙観を中心にしたものであり、さらに歴史が期待するものです。統一教会は、正にこういうことを教えてあげるのです。(178)

 私たちを生かすことのできる永遠の理念が、私たちを呼んでいます。永遠の思想が、私たちを待っています。永遠の思想を愛する人が、永遠に生きるのです。そうなるのです。そこに一致できなければ、それだけ制裁を受けるのです。制裁を受ける分だけ、霊界での位置と段階が決まるのです。(179)


9、歴史的な希望の日


 神様は、千辛万苦の末、アダムとエバをつくられました。彼らをつくるために、宇宙をつくられたのです。このように、神様は千辛万苦の末、被造世界をおつくりになったのです。これほどアダムとエバを苦労しておつくりになったので、その後の神様は、言葉に出せないほどうれしかったことでしょう。しかし、それ以上に喜べる時がなければならないのであり、その時とは、まさにおつくりになった息子・娘が一つになる時間、すなわち、アダムが新婦を迎える時なのです。こういう喜びが天地間に生まれたすべてのものに連結されるのであり、人類全体には、愛の中心が連結されるのです。ですから、そこから支派が生じ、爆発力と化せば、この世界はすべて巻き込まれていくほかありません。そうすると、皆さんはみんな神様に似て生まれるようになり、そうできない人たちは、神様に似ようとするでしょう。

 それでは、皆さんは神様に似て生まれましたか、似ようとするのですか。どちらですか。似ようとしなければなりません。神様に似て生まれたなら、皆さんが喜ぶべき日はどういう日でしょうか。神様が皆さんに似たのならいざ知らず、皆さんが神様に似て生まれたのなら、皆さんはどういう日を喜ばなければならないでしょうか。生まれた日を喜ばなければなりません。その次には、結婚した日を喜ばなければなりません。それから、息子・娘を生んだ日を喜ばなければなりません。これが歴史の起源であり、これを果たすために発展してきたのが歴史の実情であり、摂理の内容でした。(180)

 本然の父母を失ったのが堕落です。人間は、この堕落によって、父母を失ったと同時に、子女を失ってしまいました。子女を失うと同時に、万物を失い、万物を失うと同時に、神様を失ったために、これを全部復帰しなければならないのです。

 アダムとエバは、神様の真の息子・娘にならなければならず、次には、人類の真の父母になるべきでした。そんなアダムとエバに、すべての万物が主管を受けるべきだったのです。万物も、こういう栄光の日を迎えなければならなかったのです。

 万物主管は、一人ではできません。必ず父母が子女を生んで、家庭をつくり、四位基台が復帰された基盤の上に、万物を主管するのです。一人では主管できないのです。それゆえ、イエス様もこの地に来て、万物を主管し、この世界を主管しようとしましたが、果たせなかったのです。(181)

 神様は、アダムとエバを祝福してくださったのであり、アダムだけを祝福されたのではありません。ですから、必ず夫婦とならなければなりません。

 夫婦だけでもだめです。夫婦は、神様からの縦的な中心です。アダムとエバは、神様を中心として、天と地をつなぐ、内的、外的中心だったのです。霊的な二性性相が、実体的な二性性相として現れ、個人的な二性性相を整えて、心と体を中心として一人の男性になり、一人の女性になったのが、アダムとエバだったのです。ですから、彼らが一つになってこそ、初めて平面的四位基台の中心になり、中心基台が立つようになるのです。

 しかし、父母は中心ではあるけれど、氏族の基準を代表した横的世界の中心です。同時に、主体的な立場です。そのために対象が必要ですが、その対象は子女なのです。そうして四位基台ができ上がった時、初めて天と地はつながっていくのです。(182)

 今日、この世界には子供の日はありますが、子女の日はありません。父母の日や子女の日、万物の日や神の日というのは、統一教会で定めて発表した日です。このような日は、ただ適当に考えて定めたのではありません。先生の思いのままに、適当に「こうすればいい」と言って定めた日でもありません。全部、公式的な復帰路程を経て定めたのです。そうしなければ復帰ができないのです。ここには、必ず順序があり、その順序に従って復帰してきたのです。

 では、子女について考えてみましょう。子女が存在するには必ず父母が必要です。それゆえ、父母の日を宣布してから、子女の日を宣布するのが原則です。(183)

 本来、人間の理想の中には父母がいます。それゆえ、神の日が成立すれば、それと同時に父母の日が成立し、子女の日が成立し、万物の日が成立するようになっているのです。しかし、人間が堕落することによって、このすべてを失ったので、今日復帰途上においても、何から探し出さなければならないのかといえば、まず初めに人間を探し出さなければならないのです。それゆえ、父母の日が立たなければ、子女の日も立てることができないことを、皆さんは知らなければなりません。(184)

 歴史上、今まで探してきた、唯一の日がどういう日かといえば、真の父母の日です。子女の日よりも、真の父母の日が、この地上に誕生することを願ってきたのです。その日が現れなければ、皆さんは神様に対して、「お父さん」と呼ぶ資格がありません。

 たとえお父さんと呼んだとしても、審判基準を越えられない立場でのお父さんであって、審判基準を越えられる立場でのお父さんではないのです。今までは、審判基準を越えられる立場ではお父さんと呼べませんでした。

 審判の基準を越えて呼べるお父さんは、永遠の解放の父です。解放の父母だというのです。ここから、新しい国、新しい世界、新しい天地の出発がなされるのです。そのような世界が、サタン世界に包囲されたとしても、それはどこまでも広がっていくでしょう。また、広がっていくようになっているのです。

 皆さんが考えなければならないことは、皆さんが子女の日を迎えるためには、六千年の歴史を中心として、真なる道を行くことを決定しなければならないのです。そのためには、真の父母から因縁を与えられ、真の父母の祝福を受けてこそ、初めて越えられるのです。行く所へは蕩減条件を立てて越えていかなければならないのであって、そのままでは、越えていけないのです。子女の日を迎える前には、皆さんは、真の父母と何ら因縁がないのです。真の父母の骨髄を通しては生まれなかったというのです。(185)

 子女の日というのは、この世界の数多くの記念の日々を代表して、神様の前に、真の父母に侍り真の位置でもう一度生まれたという代表的な日を、世界的に、あるいは天宙的に設定してできた日です。(186)















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第四節 家庭を中心とした復帰摂理

祝福家庭と理想天国

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第四節 家庭を中心とした復帰摂理


1、堕落人間の願い


 人間始祖アダムとエバは、堕落することによって堕落の血統をつくってしまいました。彼らは神様が願う本然の理想世界、堕落していないその世界で神様と一体となり、神様の直系の血統を受けて息子・娘を生むべき真の父母の立場にありました。しかしサタンと因縁を結び、死んだ子供を生んだサタンの魁首になったのです。ですから今日人類は、全部偽りの父母に出会ったのです。ゆえに偽りの父母の血統を否定し、真の父母に出会わなければなりません。(187)

 堕落人間の願いは、神様の息子に出会うことです。カインの息子として生まれた無念さをもって嘆息し、神様の真の息子を探し、さまよっています。私たちは、神様の息子を探し出さなければなりせん。しかし、個人的な神様の息子、家庭的な神様の息子、氏族的な神様の息子、民族的な神様の息子、国家的な神様の息子を探し出そうとするなら、人類はどれほど苦労することでしょうか。

 そこで神様は、国家的基準の息子圏を代表したメシヤを送られたのです。ですから、人間たちがこのメシヤを迎える日には、個人的な神様の息子、家庭、氏族、民族、国家的な神様の息子まで探し出すことができるのです。このように、神様の国家的な息子まで探し出すことができるという喜ばしい知らせを伝えてあげるのが、メシヤの降臨だということを、皆さんは知らなければならないのです。(188)

 堕落の因縁をもって生まれた私たちは、サタンの讒訴条件を超越することができる、神様の息子に出会わなければならないのです。神様の息子に出会った後は、父母に出会わなければなりません。皆さんは、堕落した父母はもちましたが、堕落していない真なる父母はもてませんでした。それで、神様が愛することのできる真なる父母を探し出さなければなりません。

 次に父母の家庭を探さなければなりません。父母の家庭を探し出した後に、神様の愛を探さなければならないのです。そして、神様の愛を探し出した後には、神様に出会うのです。

 このように、堕落人間は、神様を中心として兄弟を探さなければならず、父を探さなければならず、母を探さなければならず、私の家、私の故郷を探さなければなりません。このような道を歩いていかなければならなかったのが、この地の人類だったという事実を、皆さんは知らなければなりません。

 それで、神様の愛を受けられる父母と、神様の愛を受けられる息子・娘が、神様の愛を中心に互いに愛し合う家庭を築くようになれば、「家和萬事成(家和して万事成る)」ということのできる環境において、愛の歌を歌いながら、自動的に栄えることができるというのです。そうなれば、自動的に神様を中心とした民族が形成されるのです。

 ところが、アダムがそのような家庭を失ってしまったので、宗教を通じてそのような家庭の基準を探さなければならないのです。家庭を探し出さなければ氏族や民族、国家、世界は捜し出すことができないというのです。(189)

 人間の理想、願い、希望は何かというと、次のように結論づけて言うことができるでしょう。第一に、神様を私の父として侍ることが最大の希望であるというのです。第二に、神様の愛を受ける息子・娘になることであり、第三に、神様が所有しておられる全部を相続することです。それ以上大きな人間の願いはあり得ないというのです。(190)

 幸福とは何でしょうか。父母を失った孤児のような民が、六千年ぶりに父母を捜し出すことです。これ以上うれしいことがどこにありますか。

 宗教をもつのは、こういう父母を捜し出すのに加担することです。死んだ父母が、永遠に死んだと思っていたのに、生きることができるというのです。父母が生きることができるとするならば、私たちは手段と方法を選べません。父母を捜し出すのに、財産が問題ですか。親戚が問題ですか。国が、世界が問題ですか。そのどれも問題になりません。すべてのことを脇において、父母を捜し出すためにあらゆる忠誠を尽くさなければなりません。世間でもそうではありませんか。自分の父母が死んでいくのに、土地やお金にすがって、喜々としている子供がどこにいますか。

 本性の因縁を中心とした本然の父母が死んだと思っていたのに、その父母がもう一度蘇生できるとすれば、その道を私が開拓するためには、言葉で言えない精誠を捧げなければなりません。また、誰よりも天の悲しみに胸が張り裂けるほど悲しみつつ無念さと口惜しさを感じるその立場で、忠誠を尽くさなければなりません。

 そういう心をもって、父母が生きかえることのできる道を整えなければなりません。それが子の道理であり、孝子の立場です。これが私たちの責任です。ですから、世のことを意にかけず、この道を開拓しなければなりません。この世の楽しいことや、この世の迫害と死の道も意にかけず、この道を開拓するために忠孝の因縁をもたなければならないのです。(191)


2、復帰摂理の最終目標


 堕落していないアダムとエバは、どのような存在でしょうか。神様の実体と同じです。ですから、内的には神様と一つとなり、外的にはアダムとエバが一つになってできた家庭はどのような家庭かといえば、まさに神様の家庭となるのです。そして、家庭で生まれた息子・娘は誰の息子・娘になるのかといえば、まさしく神様の息子・娘になるのです。

 ところがサタンがエバを強奪し、アダムまで堕落させたのです。数えで十六歳の、ティーン・エージャーのような分別をわきまえないときに、愛について何も知らないときに、サタンが侵犯したというのです。そうして、非合法な愛の因縁を結ぶようになり、神様が臨在されるべき位置に、サタンが入っていくようになったのです。(192)

 神様は、愛する真の息子・娘に愛をいっぱい与えたいのに、その子女を失ってしまいました。男女の関係について見ると、神様を中心とした一組の夫婦を失ってしまいました。そして、子供から見れば、真の父母を失ってしまいました。堕落の行動一つで、この三つをみな奪われました。

 それで、どうやってこの三つの心情を、蕩減復帰の原則によって一時に蕩減し、神様が認め得る基準を立てるかということが問題なのです。まず、神様の前に真なる息子、真なる娘として、神様が愛し得る基準を復帰し、その過程を通過して年齢が満ちれば、神様の愛を中心とした夫婦が結合するのです。そして、そこに再び神様が喜ばれ願われる四位基台を築くために、善なる子女を生まなければなりません。(193)

 今日、人間は、神様からつくられて生まれましたが神様の息子・娘として振る舞えずにいます。第一に、神様が、人間を息子・娘として愛することができません。神様が人間を愛し得ず、また人間は、神様の息子・娘としての愛を受けられないのです。第二に、神様の愛を受けた息子・娘としての聖礼式ができず、第三に、彼らは神様の愛を中心とした神様の家庭を築けないのです。この三つを彼らがすべて成就したなら、人間は今日のように悲惨にはならなかったでしょう。そうなっていたら、今日のような文化世界は、もうずいぶん前にできていたでしょう。ところが、そうなり得なかったので、復帰の路程を手探りしてきて、今になって、文化世界だ、何の世界だとやっているのです。

 ですから、私たちは最後に行って、出会わなければならないところ、最後に行って、とどまらなければならないところ、そこを探していかなければなりません。世界の国々が本然の祖国を探さなければならず、世界の数多くの人間が、本来の自分の故郷、本郷を探さなければならず、数多くの氏族が、本来の父母を探さなければなりません。これが、今まで神様がなしてこられた摂理の全目的です。(194)

 復帰の目標は、アダム家庭復帰にあります。神様は、アダムとエバが堕落するとすぐに救援摂理を始められました。しかし、カインがアベルを殺害し、アダム家庭を中心とした救援摂理はノア家庭に移されました。神様は、ノア家庭を中心として、世界のすべての人々を洪水審判で滅亡させ、サタンの侵犯条件を越えた家庭を立て、地上摂理の基盤を構築しようとされました。それが、再びアブラハム、イサク、ヤコブを経て、モーセ時代に移り、イエスにつながれ、私たちの時代まで来たのです。ですから、復帰摂理の最終目標は、失ったアダム家庭を探し立てることです。(195)

 今まで、神様は何を探してこられたのでしょう。主体を探してこられたのではありません。理想的な対象を探してこられたのです。神様を模範として、つくられた世界の内外の内容を備えているものを探してこられたのです。このような結果的な一つの基点は何でしょうか。家庭です。家庭よりも宇宙を代表できるものはないのです。(196)

 結局、神様が六千年の間復帰摂理をされたのは、何を探し出すためだったのでしょうか。一つの国を探し出す前に、あるいは、民族と教会を探し出す前に、何を探し出さなければならないのでしょうか。家庭です。つまり、自分の相対を探し出し、家庭を探し出すことでした。一つの国が形成されるためには、家庭がなくてはならないのです。ゆえに、全体の根本が何かといえば家庭です。(197)

 人類の祖先であるアダムの家庭が破壊されたので、これを復帰しなければなりません。イエス様は、堕落しなかったアダムとして来なければなりません。だから、イエス様は第二のアダムとして来られた方です。人類の最初の祖先であるアダムは堕落した祖先となったので、神様は本然のみ旨を立てるために、堕落していない真の祖先としてイエス様を送られたのです。そういう真の祖先を中心に、アダム家庭を探し出さなければなりません。(198)

 イエス様は、何をしにこられたのでしょうか。家庭を探しにこられました。救いの歴史は、復帰歴史です。病気になったら治さなければならないように、イエス様は、堕落した人間を救うために来られました。では、救いとは何でしょうか。家庭を失ったので、それをもう一度探し出すことです。もう一度探し出そうとすれば、どうすべきでしょうか。失った本来の場所に帰らなければ探し出せません。では、どういうわけで、人間が家庭を探し出さなければならないのでしょうか。イエス様は、どういうわけで、家庭を探しにこなければならないのでしょうか。それは本来の家庭を失ってしまったからです。病気になったので、病気を治さなければなりません。つまり、堕落したので、復帰をしなければならないのです。

 聖書を見ると、人類始祖が堕落したとなっています。それでは、その始祖が堕落する時、一人だけ堕落しましたか、二人が堕落しましたか。「二人とも堕落しました」。それが問題です。堕落したとしても、一人だけ堕落したというなら問題は簡単です。一人だけ堕落したとすれば、神様は創造の神様でいらっしゃるので、もう一度つくることができるのです。(199)

 今日まで宗教団体、特にキリスト教が目標とし、信仰してきた個人の救いは、完成ではなく、第一段階の始まりにすぎない原初的な救いなのです。

 救いの目標は、家庭の救いを単位とするのですが、その家庭の救いの基盤というのは、世界を指導でき、世界の救いまで責任を負える家庭のことをいうのです。そのような心情圏が確立された家庭を築くことが、信仰生活の最高の理想にならなければなりません。(200)

 歴史時代のすべての宗教は、今まで何をしてきたでしょうか。今まで宗教は、男性一人を再び探してきたのです。今までの宗教は、相対の理念を許しませんでした。新しいものを許しませんでした。相対の理念を許さず進んでいけば滅びるようになります。けれども、一人を探してくる歴史時代において、男性を見つけ出したといえる基準まで行くようになれば、その後には女性を探し出さなければなりません。女性を探し出すための運動を提示したのが、今日の統一教会です。ゆえに統一教会は何をするところかといえば、家庭を探し出す教会です。

 今まで宗教は、個人を探してきました。分かりますか。個人を探し出し、家庭の基盤を築けば、その家庭は氏族になるのです。また、その家庭は民族になれるし、国家を形成できるのです。だから、その家庭は国家を探し出す時まで、日がたてばたつほど一つになるのです。息子・娘を生めば生むほど団結するのです。鉄石のように結束するのです。

 そのようにさえなれば、復帰摂理を中心とした国を探し出すための運動はすでに始まったので、その時からは、世界を探し出すための正常なコースを走っていくのです。世界に伸びていかなければなりません。まず、復帰摂理を中心とした一つの家庭をつくり、一つの氏族を編成しなければなりません。その一つの氏族を編成する日、世界の運勢は違ってくるでしょう。歴史は今、その日に向かって前進しているのです。(201)

 今までの宗教は、個人の救いを標準にしましたが、今後新しい時代に、世界が喜ぶことのでき、神様が立てることのできる宗教は、家庭を救える宗教でなければなりません。

 それで、男性一人だけ救いを受ければ、女性はすべて続いて入っていくのです。また、女性が皆、蕩減するようになれば、男性は皆、ついていくようになるのです。そうなるのです。エバが堕落する時、アダムがついていったでしょう。そのように、女性の言葉を命懸けで死ぬほど信じる男性は、天国に行きます。また、男性の言葉を絶対的に信じる女性も天国に行きます。こうやっても天国に行き、ああやっても天国に行くのです。

 それだから、女性は、女性のために死ぬほど信じ、命まで捧げられる男性を得られればよいということであり、男性は、男性のために命までも捧げられる女性を得ればよいのです。そうできる人々が現れれば、彼らは、神様の息子・娘になるのです。(202)

 今までの宗教の目的は、個人を救うことでした。しかし統一教会は、個人の救いよりも家庭の救いを目的としているのです。救うのも家庭を救い、天国に行くのも、一人では行かないというのです。

 統一教会の救済観は、夫は天国に送り、妻は地獄に送ろうというものではありません。二人とも天国に行こうというのです。また、お母さん、お父さんを地獄に送るのではなく、お母さん、お父さんに侍り、息子・娘も連れて天国に行こうというのです。統一教会は、自分が愛する家庭、自分が愛する氏族までみんな連れて天国に行ける道理を教えてくれる宗教なので、他の宗教とは次元が違うのです。ですから、今までの宗教は、独身生活を強調しましたが、統一教会は家庭を重要視するのです。家庭を中心として行くのです。その家庭は世界のための家庭であり、神様のための家庭です。これが、統一教会の信徒たちが行くべき道であり、今後、皆さんが生活していくべき道であることをはっきりと知らなければなりません。

 父母より、夫より、妻より、子供より、神様と世界をより愛することがすなわち、父母に百パーセント孝行する道であり、夫を百パーセント愛する道です。また、妻を百パーセント愛する道であり、子供を百パーセント愛する道です。その愛の価値以上の場所に行く道が、この道のほかにないので、この道を行かなければならないのです。この道は、万民が行くべき共同の道なので、この道を行き、勝利の旗を揚げるようになる時には、天下を統一しても余りあり、天下を胸に抱いても余りあるという、天の国の王子、王女となるでしょう。ですから、この道が私たち統一教会の信徒たちが行くべき道であることをはっきりと知らなければなりません。(203)

 法を超越し、制度を超越し、環境のすべての背景を超越し、自分も超越し、永遠に共にいたい因縁を結ぼうというのが父母の愛であり、夫婦の愛であり、子女の愛なのです。これを無視した社会制度はあり得ないし、これを無視した国家は形成され得ないのです。ですから、統一教会は個人教会を願うのではなく、家庭教会を願うのです。統一教会は、個人の救いを願うのではなく、家庭の救いを願うのです。統一教会は、個人の救いを目的にするのではなく、家庭の救いを成就しようというのです。統一教会はこの点が違います。(204)

 神様を中心とした家庭を探し出せなければ、国も探し出せないし、世界も探し出せないので、イエス様も、この地に来て、神様が愛する家庭を築こうとしました。だから、一人の新郎として、新婦を探し出さなければなりません。一人の男性を中心として、真の父母も現れ、真の夫婦も現れ、真の兄弟も現れることができるので、これを決定的に成すと預言したのが、小羊の婚宴の時です。新郎新婦を迎えようというのです。(205)

 すべての人間たちが、最後にもつべき共同的な目標、行くべき共同的な関門は何でしょうか。国でもないし、世界でもありません。共産主義世界でもなく、民主主義世界でもありません。共産主義世界がある前に、本然の家庭がなければなりません。また、民主主義世界がある前に、民主主義世界を創建できる、本然の家庭がなければなりません。それでは、今までここに対する秩序がどこにあり、ここに対する教育がどこにあり、ここに対する目的、基準がどこにあったでしょうか。このような決定的基準が、この地上に現れなかったというのです。これが現れる前には、平和の王国、平和の理想国家、平和の国はあり得ないのです。

 だから、私たちが願うのは、このような理想的家庭、本然の家庭、生きるべき家庭、出会うべき家庭、探し出すべき家庭が、この地球上に必ず現れ、人類歴史と共に、運命を共にできる一時が来ることです。そうしてこそ、地に対する神様の摂理が成就されるのであり、安息の福地、安息の巣が出発するというのです。(206)

 家庭は、神様の理想が顕現できる基点であり、人類の幸福顕現の基点となるのです。人間としての仕事がすべて終わる位置であり、神様も、すべての仕事の完成を見る位置です。(207)


3、家庭を中心とした復帰摂理


 復帰は、家庭を中心としてするのです。(208)

 神様が堕落した人類をお救いになるための、最初の基点はどこでしょうか。ある文明を誇りにする、特定の国家でしょうか。違います。社会のある組織が理想的な組織だといって、それを中心にするでしょうか。違います。それでは、天才的な素質をもったある個人を中心としてするのでしょうか。違います。それでは、何でしょうか。このすべてのことを超越できる一つの基点が家庭だということを、皆さんは知らなければなりません。

 もし神様がいらっしゃるなら、神様もそのような家庭を探し出さなければなりません。ですから今日、人間はそのような家庭の門を通過した資格を整え、勝利者の立て札を掲げ、世界を目指す人にならなければなりません。そのような主義と思想に対し得る個体が現れなければなりません。(209)

 メシヤは、キリスト教個人、キリスト教家庭、キリスト教氏族、キリスト教民族、キリスト教国家を代表して来られる責任者ですが、その方がすべきことは、世界的なことです。その出発を、家庭からするというのです。

 なぜ家庭から出発するのでしょうか。すべての事件が、家庭から始まったからです。すなわちアダムとエバの家庭から始まったというのです。神様を失ったことも、天使世界を追放したことも、万物世界を失い、人間の価値を失い、人間の愛を失ったことも、すべてがアダム家庭から、男性と女性が誤って出会ったために起こったのです。

 したがって、これらをつなぐためにはどうすべきでしょうか。男性、女性が、正しく出会わなければならないというのです。誰と誰が正しく出会わなければならないのですか。神様と人間ですか。神様と人間ではなく、男性と女性が正しく出会わなければなりません。男性と女性が、誤って出会うことで、全部追放されたため、原理的に見れば、男性と女性が正しく出会ってこそ、もう一度蕩減復帰できるのです。(210)

 皆さん個人が完成するためには、家庭復帰路程を経ていかなければならないのです。アダムが堕落したとき、個人が堕落した後に、家庭を通して堕落が完結したため、皆さんが完成する場合も、個人だけ完成したのではいけないのです。家庭が完成しなければならないのです。(211)

 原理的に見ると、本来アダムとエバは、長成期完成級の未成熟な位置から堕落しましたが、堕落したとき、一人で堕落したのではなく、アダムとエバ、すなわち夫婦が堕落したのを私たちは知っています。結局、夫婦が一つになり、養子の位置、僕の位置、僕の僕の位置に落ちたので、復帰過程も、夫婦の因縁をもたなければ子女の位置を探し上っていけないという結論が出ます。(212)

 復帰摂理に因縁づけられた個人は、個人に終わるのではありません。ここには、必ず家庭がつながって入ってこなければならないのです。なぜでしょうか。堕落が、家庭に連結されたからです。堕落の動機は、個人であるアダム、エバにありましたが、彼らが、それを家庭に引っ張り込むことによって、氏族を引っ張り込んだ結果になり、国家を引っ張り込んだ結果になり、世界を引っ張り込んだ結果になったということを知らなければなりません。(213)

 元来、アダムとエバが、実体の父、母として一体となり、神様の創造理想である家庭の完成、すなわち愛の家庭理想を完成しなければなりませんでした。ところが、これができなかったので、それを完成させるために、イエス様が来られなければならなかったのです。そして、イエス様が来られ、新郎の位置で新婦を迎えなければならなかったのです。

 そうして、神様の愛と一つとなり、エデンの園で堕落せず完成することができた本然のアダムの位置を復帰し、その愛で結ばれる日には、誰も再び堕落させることはできないのです。(214)

 神様は、原理原則に従って運行される方であられるのを知らなければなりません。アダムを失ったため、サタン世界からもう一度探してこなければなりません。アダムが誤って、夫の役割を遂行できなかったため、アダムはエバを支配し治めることのできる位置にいたにもかかわらず、エバをサタン世界に奪われました。それで、サタン世界からもう一度探してこなければならないのです。

 ですから、エバを再び探してくるなら、闘わないですむでしょうか。国の基盤から教会の基盤、氏族の基盤、家庭の基盤を神様は準備されました。そうしてヨセフ家庭を立てられ、ザカリヤ家庭を立てられました。それゆえ、ヨセフ家庭のイエスと、ザカリヤ家庭の洗礼ヨハネが一つになったならば、短い期間に神様のみ旨が成されたはずです。

 洗礼ヨハネがイエス様を信じたならば、どうなったでしょうか。また、洗礼ヨハネの妹を、イエス様が新婦に迎えていたならば、どうなっていたでしょうか。み旨は成就できたはずです。このようなことを言えば、キリスト教徒たちは、すぐさま反対するでしょうか。大変なことになったと大騒ぎすることでしょう。しかし、いくら反対してみても……。皆さんが、今反対していますが、霊界に行ってみれば、レバレンド・ムーンがうそを言わなかったことが分かるはずです。(215)

 イエス様も、この地に来た時、天国を成すために、新婦を探し迎えなければならないという歴史的事実を知って来たのです。もしイエス様が新婦を迎えたなら、どのような生活をしたでしょうか。争い、離婚すると言って別れたでしょうか。これは仮説ですが、イエス様は最も美しく、すてきな家庭を築いたことでしょう。(216)

 神様のみ旨が何かといえば、男性完成の基準と女性完成の基準を立てておき、アダムとエバが神様の愛を中心として、神様の家庭を築くことでした。

 ところが、神様の家庭は築かれましたか、神様の家庭は築かれませんでした。イエス様は、このような神様のみ旨を知ったし、また信じました。しかし、ユダヤ民族の不信で、イエス様のための、イスラエル民族の四千年歴史の基盤とユダヤ教が崩れ、イエス様は十字架で惨めに亡くなられました。このような胸が詰まるイエス様の事情を今まで誰が知っていましたか。誰も知りませんでした。

 今日、この文という人が、このような話をしてあげるので皆さんが知るようになったのです。これが事実ならば、イエス様がどれほど喜んでおられるでしょうか。

 新郎になられたイエス様が、新婦になられる真の母を探し立てておかなければ、神様の家庭完成は不可能です。イエス様の家庭が築かれない限り、神様のみ旨は永遠に成されないのです。(217)

 原理的に見ると、夫婦でなければ、いくら素晴らしい聖人でも、いくら天のみ旨をすべて知る人だといっても、その人一人だけではいけないのです。

 その備えられた基盤を中心として、一つになれる家庭的基盤を準備しなければならないのが創造理想であり、あるいは復帰の理想であり、摂理時代を見上げてきた歴史的な願いです。

 その歴史的な願いを果たし、すべての悲惨な事実を清算するのが宗教の使命であり、目的であり、(家庭は)その目的を達成するために来られるイエス様自身がとどまることのできる、希望の基盤であるのを知らなければならないのです。(218)

 アダムとエバが偽りの愛の契りを結ぶことによって、悪の結果をもたらしたため、失った善の結果を、再び探し立てなければなりません。それゆえ、来られる再臨主は、アダムとエバが失った父母の因縁を、天の側と再び一つになった場所で代わって備えなければなりません。そうして、神様を中心とした愛の因縁を連結し、祝福の基盤を築かなければならないのです。そうなれば、真の父母の因縁が設定され、善の家庭的出発ができるようになるのです。アダムとエバが長成期完成級で堕落し、真の家庭を築く基盤を失ってしまったため、家庭も、長成期完成級の位置で真の父母の因縁をもってこそ探し出されるのです。(219)

 再臨主が地上に来られ、個人の勝利圏を立て、家庭の勝利圏を立てたならば、それは限定された環境の、一つの家庭ではありません。その家庭は、世界のキリスト教を代表した家庭となるのです。その基台の上に氏族が連結されるならば、それは一つの氏族にとどまらず、世界的氏族となります。(220)

 完全な個人、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙における中心は家庭です。それゆえ、神様の復帰摂理歴史においても、ノア家庭、アブラハム家庭、ヤコブ家庭、モーセ家庭、イエス様の家庭などの家庭が立てられたのです。中心家庭は、多くの家庭ではなく、一つの家庭であればよいのです。氏族を代身でき、民族を代身でき、国家を代身でき、世界を代身でき、天宙を代身できる、一つの家庭であればよいのです。神様の心情を中心として、一致した一つの家庭であればよいのです。そのような意味で先生は譲りません。個人としても優れた人にならなければならないし、家庭としても優れた家庭をつくらなければなりません。(221)

 今後の歴史が願うものは何でしょうか。それは優れた人ではありません。優れた国家でもありません。この天宙に通ずることができる愛の圏内に立った、一つの家庭です。そのような家庭だけが、神様の安息なさる基盤を用意することができるのであり、そのような家庭だけが、新しい世界を創建できるのであり、そのような家庭だけが、この宇宙に永遠なる幸福を宿すことができます。そのような家庭で私たちが安息するようになれば、幸福の基盤が準備されるのです。(222)

 私たちは、個人の救いを目標として行くのではありません。家庭の救いの基を立てなければならないのです。家庭は、社会形成の基盤となるのであり、国家形成の基盤となるのです。それゆえ、真なる家庭とならなければなりません。真は真同士、合わさるなと言っても合わさるのです。しかし、水と油はいくら合わせようとしても分離します。合わせようとすればするほど分かれるのです。

 このような立場から見ると、本質的に和合できる内容を整えた家庭、統一の要件を整えた家庭になったならば、そのモデル的な家庭によって、氏族形成が可能になるのです。その家庭は、今まで私たちが習慣的に生活してきた家庭とは内容が違います。それは、今までの現実的な社会制度や、世界情勢に観点をおいて、そこに一致することによって新しい方案を模索していくといった、そのような家庭とは違うのです。モデル的な家庭が一致しようとするのは、今日私たちが暮らしているこのような社会ではなく、このような環境ではありません。これを超越するのです。

 それは今まで人間が夢にも思わなかったほどに、天地の差です。人間は誰でも、家庭で泣いている父母よりは、笑っている父母に侍り、暮らしたいのです。笑って生きる兄弟と共に暮らしたいのです。それではどうすれば笑う父母に侍って暮らすことができ、笑う兄弟と暮らすことができるのでしょうか。世俗的な夫婦と、その父母を中心とした家庭ではなく、全人類と、全世界の父母を中心とした家庭にならなければならないのです。(223)

 今日統一教会の皆さんの時代は、真の父母と真の子女を中心として、真の家庭を築くようになれば、主管できる基準が立てられる時です。そしてこれから統一教会が行く道には、幸福の花が咲くことでしょう。この度、世界巡回をしてきたのも、家庭的な四位基台を復帰するためです。私たちは、イエス様が個人的に、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを中心として四位基台を復帰できなかったのを、世界的な家庭の四位基台によって復帰しなければなりません。

 それゆえ、韓国を基盤に、アメリカ、ドイツ、日本を中心とした平面的な四位基台の家庭基準を準備したのです。言うならば、世界的メシヤ理念の基準を立てておいたので、これからの統一教会は絶対に滅びません。今や、先生が死んでも、統一教会の理念は世界を征服しても余りあるのを皆さんが知らなければなりません。(224)

 今日、統一教会が提示する内容は何でしょうか。統一教会は家庭を提示します。これは父母を中心とした新しい家庭です。新しい家庭制度から新しく出発する息子・娘たちは、過去を清算して立たなければなりません。(225)

 統一教会の道は、個人として行く道ではありません。家庭的に行く道です。家庭を築き、食口と共に行く道です。分かりますか。食口には父母があり、兄弟がいるのです。食口同士、世間の兄弟以上の兄弟愛をもつことができなければ偽者です。そのような人たちは、今後蕩減を受けるのです。いくら避けようとしても、避けられません。結局は押し出されるのです。いくら頑張っても、押し出されるようになるのです。

 その次には、各自の家庭へ行きます。分かりますか。各食口たちにも家庭ができるでしょう。兄さんの家庭、姉さんの家庭、弟妹の家庭など、家庭ができるのです。もう、食口として行く時は過ぎました。今からは家庭単位で行くときなのです。家庭として行くことのできる段階に高めてあげるためのものが、何かといえば、祝福だというのです。それでは、食口として行くときと、家庭として行くときと、どちらが貴いでしょうか。家庭として行くときです。六千年歴史の全体の願いがこれです。(226)


4、復帰の家庭


 再び来られる主が、新婦を迎えることによって、初めて復帰の家庭という言葉が現れます。再び探し出さなければならない復帰の家庭、それは人類が願う家庭です。六千年の歴史の中で、信じ現れた数多くの宗教指導者たちが、数多い怨讐の執権者たちや為政者たちに犠牲にされながらも、懇切に願ったのは、主が来られ、自分たちの恨みと怨讐に報いてもらうことでした。しかし、彼らの怨讐を討つにしても、主一人ではできません。一人でできるのであれば、すでにやったでしょう。ですから、天の家庭が現れなければなりません。天の家庭が編成され、地上に新しい足場を築くのです。そうして、心情のダイナマイトをもって、サタン世界を爆破しなければなりません。(227)

 復帰の家庭と言いますが、その復帰された家庭の中心には誰がなるのでしょうか。神様がお探しになる真なる息子・娘によって築かれた一つの家庭が、神様の創造目的ですから、その家庭の中心は、神様の本当の息子・娘でなければなりません。では誰でしょうか。この宇宙を相続できる全権をもってこられる方です。その方が再臨主です。その再臨主が来て、家庭を築かなければならないのです。(228)

 今日、私たちの恨みは何でしょうか。アダムとエバがエデンの園で真の父母として、真の家庭を築き、歴史を出発できなかったことです。これは人類の恨みである前に神様の恨みです。神様が人間をおつくりになった目的は、そのような家庭を立て、この地上に平和の王国を創建することでした。それにもかかわらず、その家庭が壊れることによって、神様は六千年という長い歳月の間、恨みを抱き、復帰の歴史を繰り返してこられたのです。その過程で、数多くの恨みの峠を限りなく踏み越え、今までの歴史を築いてこられたのを、皆さんは知らなければなりません。

 そのような歴史に責任を負い、解決するために来られる方が、再臨主です。では再臨主は何をしなければならないのでしょうか。家庭を築かなければなりません。家庭を築くのも、空中でではなく、地上で築かなければなりません。そうしてこそ、そこから氏族が現れ、民族が現れ、国家が現れ、世界が現れるのです。主が新しい天国を建設するための役事をする場合には、再臨の権勢をもって、また、無数の鉄窓をもって世界を苦しめてはならないのです。再臨主が国家的基準を越えるとき、世界が一時に帰ることができる足場を固めていかなければなりません。まかり間違えば、イエスがこの地上で受けた悲惨な歴史が、ここに繰り返されえる事由が隠されているということを、皆さんは知らなければなりません。(229)

 来られるイエス様は、必ず神様が願われる家庭を立てなければなりませんが、その家庭は真の家庭でなければなりません。今まで人類は、真の愛を追求してきました。結局、偽りの愛の形態は、家庭や社会をだめにするのです。ですから、すべての万民が共有できる神様の愛を中心とした、人類全体が願う最大の愛を中心とした、一つの真の家庭が出発しなければなりません。そのような家庭が現れなければ、氏族を編成することができないのであり、そのような民族が現れなければ、国家や世界を築けないのです。それゆえ、神様が人類の前に提示した救いの摂理で、人間が対し得る最高の基準と、神様として願う最高の理想的基準点は、家庭にあると見るのです。(230)

 復帰の家庭はどのような家庭でしょうか。歴史的な願いの実体です。神様は、今まで六千年の間、この一つの家庭を探し出すために摂理されました。この歴史的な願いの実体は、どこで築かれなければならないでしょうか。とりもなおさず、この現世の、現実社会で築かれなければなりません。未来に築かれてはなりません。現世に築かれるのです。それが築かれるその時が終わりの日です。これが歴史的な願いの基準であり、現世万民の願いの基準です。人類の過去、現在、未来の願いの基準です。人間として生まれ、行き来した数多くの聖人、賢哲たちも、この家庭を慕いました。

 善のために死んでいった哀魂は、何のためにそうして犠牲になっていったのでしょうか。この一つの目的を助けるための一つの肥料として、善なる人々はそのように数多く犠牲になっていったのです。ですから、この願いがかなうとき、初めて歴史過程で犠牲になった聖人、賢哲たちも、恵沢を受けるようになります。聖書を見ると、義の冠、愛の冠、何の冠、このように出てきますが、それはみな、そのような恵沢をいうのです。そのような先祖たちを通して、この現世に残された後孫たちが福を受けられる中心となる所が、復帰の家庭です。それゆえ、現世で宗教を信じる人々が、この基盤を通して福を受けなければならないのです。歴史の恨みを解くことのできる一つの家庭というのは、現世のすべての恨みをも解くことができるし、さらに新しい歴史に向かう出発の一基点にもなり得るのです。(231)

 私たち統一食口の願いは何でしょうか。復帰の家庭になることです。私たちの願いもここにあり、アメリカの平和の起源もここにあり、天上天下の幸福の基点もここにあり、一つの摂理の基点もここにあります。また、天と地がひっくり返る天地開闢の基点もここにあり、すべての人生の価値の根源もここにあり、願いの出発もここにあります。全部ここです。では、復帰家庭の中心は誰でしょうか。真の祖先です。真の祖先は、父母でしょう。(232)

 人間たちは、堕落した縁で、お父さんとお母さんがもう一度生まれるのを見ることができます。世間で、お父さんとお母さんが生まれるのを見ることができますか。堕落の縁で、それを見られるというのです。胸の詰まる事実です。それゆえ、キリスト教では、新生しなければならないと教えます。母のおなかの中にもう一度入って、再び生まれなければならないというのです。しかし、母のおなかの中にもう一度入ることができますか。できないから接ぎ木をしなければなりません。首を切ってしまって、そこにイエス様を接がなければなりません。(233)


5、復帰の家庭になるには


 イエス様がこの地に来たのは、外的にはサタン世界を処理できる機能をもった王として来ましたが、内的には父母として来たのを知らなければなりません。

 イエス様が真の父母の位置に出ていこうとすれば、真の父母の条件を立てなければなりませんが、真の父母の条件は、権能をもってしてはいけないのです。愛をもってこそ可能なのです。(それは)どんな愛でしょうか。サタン世界の愛よりも、もっと大きく、深く、広い愛でなければならないのです。

 「サタン世界の王に対した以上に私をもてなし、サタン世界の父母に対した以上に私をもてなし、サタン世界の夫や妻、子供に対した以上に私をもてなせ!」。このような宣布をしなければ、イエス様はメシヤの資格がないとの結論が出る、ということを知らなければなりません。それで、イエス様はこのような内容として、「私を誰よりも愛せよ」と宣布しました。過去、現在、未来に存在するサタン世界のすべての人間たちは、誰よりも私を愛さなければ神様の前に行けない、という決定的な宣言が、イエス様をしてメシヤになり得る資格をつくったのです。イエス様は、言葉だけでなく、そのようにできるというのです。そのようにイエス様を愛する人を、愛することができるというのです。それをはっきり知らなければなりません。

 では、どのようになるのでしょうか。サタン世界の王よりも、イエス様を一層愛せば、天の国の王権を相続できる道が生じるのであり、サタン世界の父母よりも、イエス様をもっと愛するようになれば、神様の国の父母に侍ることができる道が生じるのです。サタン世界の妻子よりも、イエス様をもっと愛せば、神様の国の妻子を愛する道が生じるのであり、サタン世界の夫と妻よりも愛するようになれば、神様の国の夫と妻が見いだされるという話です。何の話か分かりますか。そのように愛せば、外的にそのようなことをすべて探し出すことができ、イエス様と神様をも迎えることができるというのです。

 それでイエス様は、「誰よりも私を愛さなければ、わたしの弟子となることはできない」と断言しました。その当時としては、人々の前で、刀で斬り殺されそうな言葉です。欲張りのようではないですか。妻のいる夫がその話を聞いて、自分の妻に、「行ってイエスを愛せ」、そう言うでしょうか。行ってばかりいると殺してしまう、と脅迫したことでしょう。

 ですから、最も難しい位置がメシヤの位置です。最も難しい仕事がメシヤの仕事だというのです。メシヤに一度なりたい人がいれば、手を挙げてみなさい。私が知るところでは、メシヤをやりたいという人は、全部狂った人です。自分がやりたいことをしていては、メシヤになれません。どれほど困難なことか、分かりますか。(234)

 神様の家庭を探し出そうとすれば、サタン圏の愛を退け、立つことができなければなりません。それでイエス様は、「あなたがたは、誰よりも私を愛さなければならない」と語られたのです。「あなたがたの父母や妻子、夫や息子・娘よりも私を愛さなければ、私にふさわしくない」ということです。このような話があり得ますか。

 しかしイエス様は、愛の独裁者という非難を浴びるだけの、そのようなみ言を語られました。これは、サタン圏内で父母や子女を愛する、その愛を超越しなければならないために、語ってくださったみ言です。それ以下になるときは、サタンの所有になるというのです。牧師や長老になったとしても、いくら世界的に有名な伝道師になったとしても、サタン主管圏内から抜け出せないのです。

 この驚くべき恐ろしい事実を、大部分の宗教者たちは知らず、とりわけ伝統的に伝わってきた歴史的な因縁を受け継ぐべきキリスト教徒たちは、夢にも思いませんでした。これがどれほど悔しく、無念な事実かということを、皆さんは悟らなければなりません。(235)

 家庭を探していく道は、平坦な道ではなく険しい道です。歴史過程に刻まれたすべての曲折は、家庭を通して始まったので、家庭を探し越えていくためには、数多くの恨みの峠と、絡み合った事由を踏みしめ、険しい峠を越えなければならないということを、私たちは知らなければなりません。(236)

 復帰の家庭に入ろうとすれば、どうすればよいでしょうか。統一教会と因縁を結ばなければなりません。統一教会で教えてくれる教理のとおり、行わなければなりません。それでは、統一教会で教えてくれる教理は何でしょうか。サタンを屈服させる方法を教えてくれるのです。歴史的に神様の怨讐の業を行ってきたサタンを追放しようというのです。この教理には、歴史上において、いつの時であっても現れ、サタンに向かって「やい、この野郎、怨讐サタンよ、退け」と言って、サタンを追放できる権威を備えた内容がなければなりません。サタンが支配しているこの現世において、サタンを屈服できる権威を備えた内容がなければ、絶対に統一することはできません。言うならば、エデンの園で、アダムとエバがサタンの支配圏に入ったのを、全部爆破し、サタンを屈服し得る権限の備わった内容を準備できなければ、復帰の家庭に入ることはできません。(237)

 今日、統一教会を信じる人たち、すなわち統一教会の教理を通してみ旨を知っている人たちは、どのような人にならなければならないでしょうか。歴史において、どのような闘いにも負けず、勝利者になれるという自信をもった人にならなければなりません。さらに今日、現世において、いくら険悪なこの地だといっても、ここで忠節を守って進み、悪なる世界を屈服できる主体性をもった人にならなければならないのです。

 今まで、サタンと神様が闘う戦争の度ごとに後退し、その度ごとに失敗した神様の歴史を、統一教会が責任をもって復帰できなければなりません。統一教会員は、そのような資格をもった人にならなければなりません。現世で、民主と共産が互いに争っていますが、その争いの過程の中でも、それを踏み越え、収拾し、打ち勝てる資格者にならなければならないのです。時代の支配を受けないで、時代を支配し、立つことのできる主体的能力があってこそ、天の家庭とつながることのできる資格者になるのです。(238)

 皆さんが社会生活をするにおいて、忘れてならないことは何でしょうか。皆さんの対人関係や生活の中で、そして対社会関係において結ばれるすべての事件は、歴史過程で神様をもてあそんだ怨讐の手錠が連結されている舞台なのです。それゆえ、皆さんは歴史的なすべてのサタンの罠を除去し、審判してしまうことのできる権限をもった人にならなければなりません。すなわち、歴史時代において、サタンの讒訴を受ける網に引っかからないようにしなければならないのです。言葉を一言言うのでもそうであり、生活するときにもそうなのです。どのような社会生活やどのような仕事をするときでも、神様のサタンに対する蕩減復帰歴史が、六千年もつながれて結実したのと同じ立場にある環境が皆さんを包囲しているので、そこで倒れない人にならなければなりません。

 そうして、サタンを支配できる人にならなければ、天の家庭とつながり得ないというのです。天の家庭とつながらなければ、天の氏族になれません。天の氏族圏内に入らなければ、天の民族に同参できず、天の民族に同参できなければ、天の国家の国民になれません。同様に、天の国家の国民になれなければ、天の国、地上天国に入れません。(239)

 天国世界はどのような世界でしょうか。そこは本然の世界なので、サタン世界から讒訴される個人や家庭や氏族は入れません。それゆえこれからの統一教会員は、すべて個人や家庭や自分の親戚である氏族と一つとならなければなりません。言うならば、三代が一つにならなければなりません。アダム家庭を見ると、アダムが一代、カインとアベルが二代、カインとアベルの息子が三代、このように三代が一つにならなければなりません。神様を中心として見ると、神様が一代、アダムとエバが二代、カインとアベルが三代になります。

 イエス様は、後のアダムとして来られ、第二の人類の祖先にならなければならなかったのに、そうなれなかったので再び来るようになりました。それで再び来られる主は第三のアダムとして来られるのです。この第三のアダムは、人類歴史を完成するために、すべての歴史を収拾しなければなりません。それゆえ皆さんも、三代を中心とした基準で、サタンの讒訴を受けない家庭をつくらなければなりません。そのような家庭をつくらなければ、天の氏族圏内と、国家圏内と世界圏内に同参できないということを、皆さんははっきり知らなければなりません。(240)

 復帰された家庭はどうすべきでしょうか。すべての人を愛し、すべての国を愛し、すべてのことを超越して愛した後にこそ、復帰された家庭として越えていけるということを知らなければなりません。復帰された家(家庭)には誰がいるのかといえば、神様がいるのです。この神様を愛せなければなりません。神様を愛するためには、どのような民族であれ、愛しても余りあるようでなければなりません。(241)


6、真の家庭主義と真の父母の宗教


 歴史はアダムとエバの争いで始まりました。詐欺から始まったのです。「取って食べると死ぬ」、そう言ったのに、「ああ、これは食べても大丈夫、目が開ける」と言って、こっそり誘って食べさせるという詐欺から始まったのです。始まりから誤ったのです。ですから私たちはそこに立脚して、ひどい苦労をしなければなりません。罪の代価を支払うのです。蒔いたとおりに刈り取らなければなりません。

 終わりの日になれば、兄弟の因縁がすべて切れます。今まで人類歴史の中では、天道や父子の因縁や、三綱五倫といったものが、この世界を収拾する一つの母体になったのですが、終わりの日には、それらのものがすべて壊れていきます。お母さんが何だ、子供が何だ、妻が何が、夫が何だというように、全部蹂躙する時になれば、世の終わりだということを知らなければなりません。父母が子供を包丁で刺し殺したというようなことが起これば終わりの日であり、兄が弟を刺し殺したという話が四方で入り乱れれば、終わりの日です。兄弟は唯一であるとか、父子は唯一であるとか、夫婦は唯一であるというのが、すべて自分を中心として有利にしようとする時世になれば終わりの日です。エデンの園で、堕落によってそのように植えられたので、そのような現象が世界的に起こり、堕落の実を収める収穫期が来るのです。今がそのような時ではないですか。この世が、そのまま流れていってはならないので、それを収めるための刈り入れの時、すなわち収穫期に入ってきたのです。(242)

 堕落した父母の因縁で、神様から離脱した伝統を受け、この世界がこのありさまになりました。ですから、真の父母が来て、新しい主義を立てなければなりません。それはどのような主義でしょうか。世界主義でしょうか。天宙主義でしょうか。真の家庭主義です。真の家庭主義が現れなければ、世界主義が現れ得ません。この真の家庭主義の代表者は、神様の真の息子でなければなりません。彼は、神様の心情的なすべてのことを相続する内情的相続者であり、外形的相続者、そして万物所有権の相続者にならなければなりません。言い換えれば、神様の心を相続できる方であり、体を相続できる方であり、万物を相続できる方でなければならないのです。そのような息子であってこそ、神様の代身者になれるのです。その息子が来てこそ、初めて天国が築かれるようになります。(243)

 真の家庭主義は、どのような主義ですか。真の家庭主義は、神様の愛の主義です。簡単でしょう。愛がなければ、いくら世界一だと腹を出して歩いても、その人は不幸な人です。そうですか、そうではないですか。真の家庭主義は、父母が行けば、息子・娘は父母の後を永遠についていく主義、また、兄さんが行けば、弟が永遠についていく主義、弟が行けば、兄さんが永遠についていく主義です。ですから、弟の国があれば、兄さんの国がついていき、兄さんの国があれば弟の国もついていこうと言わなければなりません。(244)

 神様の愛の主義は、どのような主義でしょうか。国境を超越し、このすべての平面的な世界を超越し、互いに授け受ける場合において、互いがまず与えよう、受けることは後にしようとする主義です。そのような主義の世界が、今後来る理想世界です。理想世界は何か大きな権勢をもって「この野郎たちめ」と怒鳴りつける世界ではありません。理想世界というのは、自動的に心が動いて神様の愛に和することができる、万民兄弟主義世界です。今後そのような世界になるでしょう。ですから、真の家庭が現れなければならないでしょう。(245)

 救い主というのは、メシヤのことです。メシヤ思想に、救い主という言葉があるでしょう。皆さん、キリスト教を信じる人々に、誰を信じるかと尋ねれば、イエス様を信じると言いますが、イエス様の家庭を信じると言いますか。また、仏教を信じる人にも、お前は誰を信じるかと尋ねれば、釈迦牟尼を信じると言いますが、釈迦の家庭を信じると言いますか。家庭を信じるという話を聞きましたか。

 しかし、これからはそのような宗教が現れなければなりません。家庭救世主の宗教が現れなければなりません。それが真の父母主義です。真の父母の宗教です。真の父母の宗教というのは、四位基台を成す真の父母の生活宗教です。そうなれば、お父さん、お母さんがその家庭の息子・娘の救世主になるのです。そうでしょう。

 皆さんが、黙示録の一番後ろを見れば、復帰歴史が出ています。だから聖書は偉大だというのです。このような復帰の原則があったので、聖書の終章に復帰の内容を入れるようになったのです。ヨハネの黙示録二二章一七節を見ると、「御霊も花嫁も共に言った、『きたりませ』。また、聞く者も『きたりませ』と言いなさい。かわいている者はここに来るがよい。いのちの水がほしい者は、価なしにそれを受けるがよい」と記録されていますが、花嫁、御霊が何であるか分かりますか。花嫁は、主の妻になるのであり、御霊は霊的なものなので、ここから霊肉が合わさった母が現れなければならないのです。イエス様は人類の父として、男性なので女性の中から母を探し出し、新しい世界へと救わなければなりません。これを、キリスト教徒たちは知りません。教えてあげると言っても嫌だと言い、かえって異端だと言うのだからあきれるでしょう。(246)

 天宙主義は、どのような主義でしょうか。真の父母主義です。結局、この二つの主義は父母の主義です。これはわが家主義であり、わが国主義であり、皆さん個人の主義です。人間が堕落しなかったならば、世界は誰の主義になったでしょうか。アダムの主義になるはずです。そのアダム主義が、まさしく真の父母主義です。お父さん、お母さん主義だというのです。これ以上のほかの主義はあり得ないのです。それゆえ、統一教会は心情的な問題を、この本然の理想的な家庭の枠内で、真の父母という理念を中心として、天の主義と結ばれるようにしなければなりません。このような理念で制度化された家庭の因縁が残っている限り、統一教会は滅びません。滅びてはならないというのです。(247)

 天宙主義とは何でしょうか。家庭についていえば、「私」が住んでいる家庭に、金銀財宝が天下をぎっしり埋めても余るほどあるといっても、そこに酔って生きるのではなく、それを忘れ、いつでも神様の愛に酔って生きられる、そのような家庭です。息子のものは父母のものであり、父母のものは様のものとして、そっくりつなぐことができなければなりません。(248)













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第三章 祝福の意義と価値

祝福家庭と理想天国

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第三章 祝福の意義と価値


  

第一節 新生の根本原理

  

第二節 新生と祝福の起源

  

第三節 祝福の意義と価値

  

第四節 祝福を受けるための蕩減条件



第一節 新生の根本原理


1、メシヤが必要な理由


 私たちにメシヤが必要な理由は、救いを受けるためです。それでは、救いに必要な根本的基点は何でしょうか。それは、神様の愛の接触点に帰っていくことです。

 ところで、人間は一から十まで、すべてが神様とは関係のないサタンの実体を携えた存在となってしまいました。これは神様の愛とは反対となるため、蕩減しなければならないのです。

 蕩減とは原罪を除去することであり、原罪を除去する場合、血統的なものが根本的に存在しています。血統的なものは、堕落人間には到底解決することができないのです。それで、メシヤが必要なのです。(1)

 イエス様はこの地上に来られて、霊的父の使命を果たし、サタンを霊的に防ぎ止めました。サタンに勝利して、逝きました。夫は天を象徴するので天に行かなければならず、女性は地を象徴しているので、地上でサタンと闘い夫のように勝利しなければ、新婦の位置に出ていくことはできません。エデンの園でサタンが男性、女性を蹂躙したのを、蕩減し勝利して、再出発しなければならないのです。

 皆さんは、聖霊を中心として、サタンが侵犯できる限界線を脱しなければなりません。イエスと聖霊の愛の力である、復活の能力、復活した生命の力を受けて、サタンと闘い勝利しなければならないというのです。このように一生を生きるのでなくては、天国に行くことはできません。(2)

 この地上のキリスト教徒たちは、主が来られるようになれば原罪を脱くのだと言いますが、原罪を脱ぐとはどういうことでしょうか。それは、サタンの侵犯を受けない心情的血統の回復を意味しています。最後の最後まで残るものが、これです。(3)

 血統が違うということは、父親が違うということです。ですから、父親の異なった血統をもって生まれた人間は、本来堕落していない本然の父母によらなければ、罪を蕩減することはできません。分かりますか。それゆえに、今日まで歴史は、堕落していない始祖となることのできる権利をもった、そのお一人が来られる時まで、宗教の理念を中心として連結させてきました。(4)

 堕落した人間の求める救い主とは、どのような救い主でしょうか。堕落した父母の立場でではなく、堕落していないアダム・エバと同じ立場で、神様のみ旨と一致し、神様の愛を受け、神様の祝福を受けることのできる真なる父母の立場で、人類を生み直してくれる救い主でなければなりません。そうでなければ人間は、原罪と関係のない立場に上がっていくことができないのです。(5)

 メシヤとは誰でしょうか。真の父母です。それでは、真の父母はなぜ必要でしょうか。真の父母の愛で再び、接ぎ木ということをしなければならないからです。それゆえ、メシヤである真の父母が現れなくては、堕落した人間が原罪を脱ぎ捨て、罪のない解放された立場から、完成段階の祝福を受けることのできる立場へと進んでいくことができないのです。(6)

 アダム一族において、真なる父母が生まれ出ることができず、罪多き父母が生まれ出たのを、蕩減復帰を通して、神様の前に、真の父母の役事を取り戻して接ぎ木するのがメシヤの思想であり、救世主の思想です。このようになったのは、すべて堕落のためです。(7)

 私たちは悪の父母と闘い、愛を中心に最後の勝利を果たさなければなりません。神様が送られたメシヤを通してのみ、悪の血統圏を克服できるのです。(8)

 人間たちの中に代々引き継がれてきたサタンの血統を、抜き出すことのできる人がいるとすれば、その人が真の父母なのです。このような真の父母が現れないとすれば、善なる神様との一致をなすことができず、善なる相対基準をなすことができません。(9)

 アダムとエバが堕落してしまったので、カインとアベルが縦的に一つとなる道がなくなりました。アダムとエバが堕落したのを、カインとアベルを通して復帰する立場に立っているので、アダムとエバも縦的に結ばれる基準がありません。

 神様の真の子女圏を願っている私たちは、それを縦的に結びつけてくれる真の父母に出会わなければなりません。堕落しなかった子女の立場を復帰できなければ、神様と一つとなって完成基準へ上がっていくことはできません。神様をどんなに信じているといっても、カインとアベルがどんなに一つになったといっても、堕落しなかった父母の基台を復帰しなければ、縦的に上がっていく道は生まれてきません。(10)


2、再び生まれることの真の意味


 もう一度生まれなければならないというのは、堕落したアダムとエバの後孫である父母の血肉を通して、もう一度生まれなければならないというのではなく、堕落とは関係のない父母の血肉を通して、もう一度生まれなければならないということです。そうしなければ、神様のところへも帰っていくことができません。罪の根本の根は、アダムとエバから始まったので、これを踏み越え、すなわち原罪とは関係のない立場で生まれたという資格を備えなくては、神様のみもとに帰れないのです。(11)

 神様が私たち人間を救おうとされる目的は、どこにあるのでしょうか。堕落圏以下では、どんなに救おうとしてみても、救いにはなりません。それで神様は、堕落しなかったアダムとエバ以上の、真の父母をこの地上に再び送って、その父母を通して人類を再び出産する路程を通過するようにされます。永遠にサタンと関係をなくし、(サタンが)讒訴しようとしても讒訴できないようにして、神様だけが主管し、神様だけが干渉できるようにされるというのです。こうした立場で、人類が再び生まれなければ、原罪をもった人間が、原罪のない立場に戻っていくことはできないのです。(12)

 ニコデモがイエス様に、「どのようにすれば、救いを受けられますか」と聞いたとき、「もう一度生まれ(重生=新生)なければならない」と言ったのです。これは、サタンの子供として生まれたので、救いを受けるには神様の聖霊を受け、もう一度生まれなければならないということです。今までサタンと結んできたすべての関係を清算し、神様と創造本然の関係を結ばなければならないということです。(13)

 ユダヤ人の指導者であったニコデモが、「どのようにしたら天国に入ることができますか」とイエス様に聞いたとき、「再び生まれなければ、天国に入ることはできない」と答えられました。もう一度生まれるというのは、悪の鎖を断ち切り、天国の人となるという意味です。(14)

 再び生まれるというのは、心が改変されなければならないということです。(15)

 今日、キリスト教を信じている人々の中には、「再び来られる主は、雲に乗って来られる」と信じている人もいます。何も分からない中ででも、信じれば救われるという思考方式では、真の信仰をすることはできません。そのように簡単に救いを受けられるとしたら、統一教会は、この世に必要な宗教ではありません。(16)

 神様の摂理で信仰を立てたと言っても、神様の子供として復帰するためには、接ぎ木されなければなりません。(17)

 真の父母が真のオリーブの木ならば、皆さんすべては、接ぎ木されなければならない、野生のオリーブの木です。若葉や若枝です。新しい枝が出てきて初めて、正常な生態作用をしていると見ることができます。

 人類が信仰と愛と実体を失って、何になったでしょうか。血統的に逆さまになってしまったために、ひっくり返しておかなければなりません。それでニコデモがイエス様に、「天国に入ろうとすれば、どうしなければならないのでしょうか」と聞いた時、「再び生まれなければ、天国に入ることはできない」と、最も重要な事実的内容をもって喝破しました。(18)

 野生のオリーブの木に、真のオリーブの木を接ぐ時は、枝を切って、そこに接ぐのではなく、木の根本から切って、根だけ残しておいてその上に接ぐのです。これは既成教会が、再び来られる主によって、既存の体制や制度、またはすべての儀式を変えて、新しく出発するようになるということを意味します。彼らが信仰生活を通して結んだ実は、野生のオリーブの木の実なので、真のオリーブの木の実を結ぶためには、木の本体を切ってしまって芽接ぎをしなければならないからです。もし接ぎ木できなければ、根まで抜き取って、火で燃やしてしまわなければなりません。そのまま置いておけば、野生のオリーブの木の実が畑にばらまかれて、数多くの野生のオリーブの木をつくり出してしまうからです。野生のオリーブの木を切るのは、真のオリーブの木の芽を接ぎ木するためです。

 問題は、真のオリーブの木の芽も野生のオリーブの木の芽も、芽として見れば全く同じであるために、その是非を正さなければならないということです。特に再臨主が来られる時には、多くの偽キリストが現れるために、真実を見つめる価値観と目に混乱が生じる可能性があります。ですから、「絶えず、目を覚まして祈りなさい」と言ったのです。

 野生のオリーブの木の根元を切って、真のオリーブの木を接ぎ木することによって、野生のオリーブの木はすべて刈り取られて、真のオリーブの木の畑となるでしょう。

 このような接ぎ木をレバレンド・ムーンがするというので、騒がしいのです。彼らは、自分の身が切られる痛さを恐れて、また、偽園芸師ではないかと思っています。

 摂理歴史の春とともに、野生のオリーブの木に接ぎ木する作業が始まりました。(19)

 再び生まれるには、アダムとエバより劣っていてはだめであり、また根本的復帰も不可能なのです。再び生まれる時も、個人が再び生まれなければならず、家庭、民族、国家、世界が再び生まれなければなりません。この事実を、今日のキリスト教徒たちは分からないでいます。(20)


3、血統転換の意味


 人が生まれるのは、男性から生命の種が女性に入ることからです。それならこの転換の道は、どこに行って、その交差点をつくらなければならないでしょうか。それは、女性の腹中です。歴史はずっとそこ、すなわち原点に戻る条件を立てる歴史でした。

 それなら、女性の腹中に胎児を懐妊するという時、そこには男性がいなければならず、結局、家庭が形成されなければならないのです。しかし、完全復帰ということを考える時、男性の骨肉の中に潜んでいる子供の種が出発点となります。すなわち、その男性の血肉の中にある子供の種の基準までも、神様の愛を中心として一致したという条件を立てなければなりません。その過程を通過しなければ、完全な血統的転換の基台のための条件を充足させることができません。(21)

 子供の種は、お母さんの腹中にあります。お父さんにもあるでしょう。お父さんのものは、骨の中にあります。ですから、お父さんの骨の中を通って、お母さんの腹の中を通って、子供が生まれてくるのです。

 では、子供はどのようにしてつくられますか。お父さんとお母さんを通してつくられます。皆さんは、お父さんの骨の中と、お母さんの腹の中を通してつくられたということを知らなければなりません。歴史というものは、おもしろいです。(22)

 イエス様を信じているキリスト教徒は、本然の基準を中心として、イエス様の骨髄から生まれる息子・娘の位置に入っていかなければならないのです。それがどういうことかと言えば、アダムが生まれる前に、息子の種をもっていたように、今日のキリスト教徒たちは、イエス様の骨髄から生まれる息子・娘とならなければならないということです。そうしようとすれば、イエス様と一つにならなければなりません。イエス様と愛の一体をなした後に、聖霊、すなわち霊的なお母さんを通して、再び生まれなければならないというのです。それでイエス様は、ニコデモに重生(新生)しなければならないと言われたのです。(23)

 イエス様はニコデモに、「だれでも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言いました。これに対してニコデモは、「人は年をとってから生まれることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか」と反問しました。するとイエス様は再び、「あなたはイスラエルの教師でありながら、これぐらいのことがわからないのか」と言いました。この時、イエス様は、まさしくこの原理を語っていたのです。

 キリスト教における復活と新生という言葉は、すべてこのような方法を意味しています。すなわち、血統の復帰は結局、お母さんを通して成されるのです。原罪は清算され、汚れた血統は天の血統へと復帰されるのです。

 しかし、私たちが完全な新しい生命として再創造され、根本的に再び生まれるのは、真の父の体を通してのみ果たされるようになります。真の父によってのみ、霊肉共に救われる完全な救いが可能となるのです。このようにして誕生した私たちの子女たちは、原罪がないので、救いの過程を通らないで天国に行くようになります。(24)

 キリスト教は今まで、人がどのようにして再び生まれなければならないのかについて、はっきり解明できませんでした。どこを目標として、復活の基盤を出発させるのか。それさえ、まだ把握できないでいます。今、生まれ育ち、三十歳でイエス様を信じたからといって、再び生まれるのだと考えれば、それは大きな間違いです。心情的な内容の発生地は、三十歳からではありません。歴史からです。それを引き継ぐ、心の相続をしたという条件を自分がもたなければ、重生の出発と動機は成立しないのです。これを知らなければなりません。

 血統的転換を成し遂げるためには、アダムの骨髄まで、骨肉の中心部にまで入って、将来の子供となるべきその種に、神様の愛と結束された勝利的条件を充足させなくては、将来、神様の子女として生まれることはできません。これは、理論的に間違いありません。聖書にそのようにしてきた記録がありますか。そうだとすれば、聖書は神様のみ言だというのです。(25)

 今まで、イエス様を信じるというのは、何を意味しますか。イエス様は男性として、堕落しなかった本来のアダムなのです。結局は肉的な父であり、霊的な父であられます。それゆえ、この父と一つにならなければ、再び生まれる道は全くありません。そのためキリスト教は、人間たちをして、イエス様の骨髄にまで入っていったという、イエス様を渇望するように慕い、イエス様の愛情と触れ合う、そのようなことを体恤させるただ一つの教えとして、イエス様を新郎として慕い迎え入れなさいといったのです。つまり、イエス様を新郎として迎え入れなさいと教えることは、二つの意味をもっています。一つは、その骨肉に入る子供の種になりなさいということであり、もう一つは、お母さんの腹を通過したという条件も得なさいということですが、これがまさに、新婦の立場です。(26)

 本来、人が生まれる時、霊人体と肉身が分かれて生まれるようにはなっていません。ところで、イエス様が死ぬことによって霊的復活のみ成したため、霊人体は生まれたけれど、肉身は生まれることができなかった立場にあるので、イエス様は肉身をもって再び来ざるを得ないというのです。それゆえに、イエス様を信じて霊界に行った人は、イエス様が再臨する時もう一度来て、お母さん、お父さんの腹中を経て再び生まれたという条件を立てなければ、生きる道がないというのです。言い換えれば、皆さんは、真の母を迎える前に、お父さんの骨の中に娘・息子の種として存在していて、お母さんを通して出てくるのです。聖霊を通して主を探すのは、真の父の骨の中の子供の種の立場に入っていこうとするためなのです。霊的にそのような立場を蕩減復帰するのです。

 それで、イエス様が再臨する時に、霊的にお父さんの骨の中に子供の種として入った者たちが、イエス様の肉身を通して一つとなり、お母さんを通して出てくることができるのです。それが復帰の道です。心情と血統を交換するためにあるのが復帰の道なのに、今日キリスト教徒たちは、このようなことは考えもしないで、ただ信じて天国に行こうというのですから、話が理屈に合いません。(27)

 皆さんは、真の父母と関係のない立場で、天の前から追い出された偽りの父母の血筋を引いて生まれたので、この血筋から脱するためには、血筋を踏みに踏んで、抜きに抜いてしまわなければなりません。そうして、血統を根本的に転換しなければ、天の国へ行くことはできません。(28)


4、重生(新生)しようとすれば


 新郎となられるイエス様の愛と新婦となられる聖霊の愛が一体となったその愛が、私の骨肉と一つにならなければなりません。すなわち、「わたしがあなたがたにおり、あなたがたがわたしにおるであろう…」というイエス様のみ言のように、愛の心情基盤が成されないでは、キリスト教でいう新生はあり得ないのです。

 皆さんも、重生(新生)しなければならないと言いますが、皆さんが重生しようとすれば、イエス様を誰よりも愛さなければなりません。堕落圏内で、すなわちサタンの愛の圏内で築かれるそのいかなる愛よりも、神様を中心として築かれる愛がより一層次元が高くない限り、神様と連結され得る道がないということを知らなければなりません。

 これが受難の道であり、宗教者たちの行かなければならない難しい道であるというのです。キリスト教徒たちもイエス様を日々思慕しており、イエス様が再臨されるのを首を長くして待っており、はらわたが張り裂けるほど「新郎イエスよ、来たりませ!」と、二千年間叫んでこなかったでしょうか。しかし、体が裂けていき、胸が引き裂かれ、骨髄が溶けるような立場、体の中にいるのか体の外にいるのか分からない境地、ただ神様やイエス様とのみ通ずることのできる境地に入るようになる時、初めて聖霊が臨むのです。

 そうして、聖霊が臨むことによって、霊的な赤ん坊として再生することのできる霊的重生の役事が展開するのです。皆さん、そのような体験がありますか。そのような体験がない限り、まだサタン世界の息子・娘だというのです。まだサタンの讒訴を受ける人間であることを皆さんは知らなければなりません。そのような人は、天国に行くことはできないのです。地獄に行きます。(29)

 血統を転換するのはメシヤがするかもしれませんが、転換されるように行動するのは、自分自身でなければならないと言いました。このような基準が成し遂げられない限り、私たちは救いの道に至ることはできません。それは決してたやすく成されるものではなく、死ぬか生きるかの境地を通過しなければなりません。四十日断食祈祷や、血を吐く死の境地に行って初めて、血統転換が可能です。(30)

 イエス様は弟子たちに、このように語られました。「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう」。

 サタン世界の生命に未練をもたず、神様のみ旨の前に自分の血と肉と骨がめらめらと燃えて粉となり香りとなって、天地に香気を漂わせるまで神様を愛し、宇宙を愛する人は地獄へは行かないというのです。彼は永遠に生きることができます。(31)

 「心と精誠をつくして、主なるあなたの神様に仕えよ」と言われたように、そこには私心がないのです。この言葉は、全体的な立場で公的であり、私的なものは受け入れられないということです。すなわち、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神様を愛せよ」と言われたのが第一の戒めです。これは絶対的な立場で公的であるということです。

 絶対的立場での公的という言葉は、「私」がないということです。全体を代表して、それを主体としなさいということです。この世は堕落圏内に入るので、全体を代表する一つの中心存在として神様に侍っておき、絶対的な主体として侍るのです。そこでは、「私」という観念をもってはいけません。「私」という観念をもつようになると、必ずサタン圏内の所有的条件として残されるのです。自分を絶対否定する立場で、絶対主体観念を中心とする外的な物質と体と心が一つとならなければなりません。このような立場で、祭物を捧げなければなりません。(32)

 イエス様はニコデモに対して、あなたが新しく生まれなければ、天国に入ることはできないと言われました。今まで生きてきた自分は、どうせ歴史的に否定されなければなりません。いくらうまくやったと弁明して自ら立てておいた何かがあるといっても、「私」自体は、否定されなければなりません。堕落人間であるために、そのような圏内から逃れられないというのです。否定されるべき生涯であり、否定されるべき生活であり、否定されるべき死んだ人生であったというのです。(33)

 世界万民は、真の母が現れる前に生まれたので、むなしく生まれたことになります。それゆえ、イエス様に接ぎ木された立場でイエス様の腹中に入り、イエス様が夫婦となった時、聖霊を通して再び生まれなければなりません。偽りの愛によって生まれたため、真の愛を通して再び生まれなければならないというのです。キリスト教で愛を強調する理由も、そこにあるというのです。(34)

 イエス様と一体となるには愛以外にはありません。真理でも正義でもありません。生命が存在するのに先立って、愛が必要です。愛は歴史をも飛び越えることができ、距離や空間の支配を受けないというのです。(35)

 神様は、愛を中心として創造本然の人間を結合させようとされました。自分の身の苦しみを忘れて、ただひたすら愛を慕い求めなければ、本然の人間へと飛び越えることはできません。(36)

 神様を愛し万物を愛する心をもつとき、堕落した愛を除去させることができます。創造本然の人間を追求する程度が、恋人同士愛し合う程度よりも勝っていて初めて発展します。神様を絶対的に愛し、再創造の愛の圏で人格価値を所有しようという目標を立てて前進しなければなりません。

 なぜ、そうしなければならないのでしょうか。非原理的愛で堕落したからです。傲慢な愛、自分中心の愛などで堕落したからです。それゆえに、本然の愛である神様の愛をもって初めて、前進することができます。自己の本然の人格完成を望む心が、未婚の男女たちの恋愛する心以上になって初めて、完成基準に上がっていくというのです。サタン的愛を、神様の愛で消化することのできる力がなくては、上がっていくことはできないのです。

 それゆえ、神様を敬慕しなければならず、理想的相対として来られる主を敬慕せよと教えるのです。これは、二千年の間新婦の立場で独身生活をし、新郎を待たなければならないキリスト教徒の生活の由来でもあります。このような内容を、キリスト教徒は理解できないでいます。(37)

 この世の夫婦が互いに愛し合ったり、父母が子供を愛したり、先烈たちが国を愛した、その程度も神様を愛することができずして、神様の息子・娘になれるでしょうか。神様の真の息子・娘になろうとすれば、まず神様と霊界、地上、そして後孫の前で称賛される者とならなければなりません。

 三点が合わなければなりません。三点が結合されて初めて、面積が生じます。二点では線にしかならないので、それだけでは足りません。(38)

 神様を信じることができずに堕落したので、救い主を信じて従っていかなければなりません。従っていって何をするのでしょうか。愛の安息所をつくらなければなりません。簡単ではないですか。そして、新郎となられたイエス様と実体的に一体化し、心情一体化しなければなりません。そうして復帰しなければなりません。そのようにして、神様と真の父母と真の子女とが互いに出会う場、すなわち神様が太初より願われたその場がこの天地間にできれば、そこから新しい天地が開かれるのです。(39)

 皆さん各自の血統的内容が異なり、背後が異なっているとしても、父母に似るためには、接ぎ木する役事をしなければなりません。ひっくり返して接ぎ木しなければなりません。接ぎ木したいのなら、皆さん自体に残された蕩減路程をすべて清算しなければなりません。それは父母から始まったので、父母を通して清算されなければなりません。それで、真の父母に接ぎ木しなければならないというのです。アダムが真の父母になれずに偽りの父母となったために、神様は今まで真の父母を捜してこられたのです。再臨時代に新郎新婦とか、小羊の婚宴というのも、すべて父母を取り戻すためです。(40)

 皆さん、精誠も真の父母を通じなくては、考えることができません。国のために地区に出ていって闘い、地区長となって忠誠を尽くすといっても、真の父母を中心としなければなりません。すべてのことは、真の父母の因縁を通さなければなりません。真の父母の因縁を通して苦労し努力し、実りを得て初めて、天のものとして収められるのです。そうしなくては、天のものとして収められません。

 それゆえ、成約時代は、侍ることで救われるのです。皆さんは、この世を慕う前にまず父母を慕わなければなりません。それが子供としての道理です。自分の花嫁を先に慕う人に、子供としての資格がありますか。父母のもとで育ち、父母が一番いい、という立場で成長するのが子供ではないかというのです。これが原則です。

 将来、祝福を受けても、相対との因縁はあとで結ばなければなりません。まず、父母を慕わなければなりません。父母がいなければ、昼も夜もこの世もなく、自己の存在価値がないかのような気持ちをもたなければなりません。父母に対する思慕の心情と敬慕の心情が、皆さんの生活のすべてを占領しなければならないのです。それでこそ、天の息子であり、娘だと言えます。

 そのような生活過程を通過したそのあとでこそ相対、すなわち妻なら妻、夫なら夫を迎えることができるのです。そうしなくて、どうして夫を迎え、妻を迎えることができるでしょうか。

 まずは、父母を心から慕わなければなりません。私の生命の動機も父母であり、私の望みの一切も父母であり、私のすべての理想と幸福の根源も父母であるという基準を中心として侍らなくては、救いを受けることはできないのです。皆さんは、そのように侍ってみましたか。偽者のようですね。皆さんはこれをはっきり知らなければなりません。

 それゆえ、皆さんは「私は真の父母と永遠に一つとなり得る息子、あるいは娘だ」という信念を、自身の存在意識を超越することができるぐらい固くもたなければなりません。そうでなくては、いけないのです。(41)

 真の父母に侍るには、一人ではいけません。男性なら男性、女性なら女性、自己の相対的な存在がいなければなりません。もし一人であるときには、父母の前に、その何かを報いることができ、捧げることができなければなりません。それによって初めて、皆さんは父母の愛を相続して、自分たちの後孫に血統的因縁を連結させることができるのです。血筋を通して、このような因縁を連結させることのできる価値的内容が決定されるのです。このように愛の土台を基盤として真の父母に侍ることができるのです。このように血統的な相対的価値を基準として真の父母に侍ることができるのであって、そうでなければ侍ることはできないのです。皆さんはこれを知らなければなりません。(42)

 統一教会の信仰は、自分が神様の息子・娘であることを実感するところから出発します。これは、神様の愛を中心として子女の立場を復帰することです。(43)

 真の孝子女となりたければ、父母の心情を通過すべきなのです。統一教会に入ってきて先生を知りたければ、先生の心情的世界に入っていかなければなりません。

 責任者たちや伝道師たちがこのような心情に入って、道を行きながら一日のうちに何度も、我知らずに神様の心情に息が詰まって、とりとめようもなく痛哭する境地を体験するようになれば、その教会はすべての事がうまくいかざるを得ません。(44)

 精誠を尽くす心情の世界では、先生と皆さんは一つとなることができます。心情の世界ではすべてが一体となれます。心情は距離を超越し、環境を超越し、歴史を超越するからです。時代を短縮させることもできます。

 ですから、皆さんは先生と同じ立場に立たなければなりません。先生が悲しめば、皆さんも悲しまなければなりません。呼吸を一つにしなければなりません。先生が息を吐けば皆さんは息を吸って、先生と一体となって、拍子を合わせていかなければなりません。(45)

 皆さんも、難しいけれど復帰の道を行っています。このような道を行っているのは、皆さんであれ私であれ、神様を知ったからです。不平があり恨みがあるとすれば、神様を知ったという罪しかありません。それゆえ、恨むことはできません。それは悪いことですか。神様を知らないためにすべてが滅んでいき、共産党がこの世をのみ込み、キリスト教が全部崩れていっているにもかかわらず、神様を知ったことが罪なのかというのです。どんなに悲惨であっても、この道が貴い道であるので行かざるを得ません。どうせ、すべてのものが崩れていくからには、死ぬほど忠誠を尽くして立派に行こうというのです。(46)

 真理を探求するにおいても同様です。既成教会のように聖書を読むからといって済むものではありません。どれほど膨大なはかりではからなければならないか、考えてみなさいというのです。実験する人が、あれこれ持ってきては合わせてみるように、真理や原理を探り出していくのです。それを考えれば、先生は多くのことを発見したことになるのではないですか。(47)















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第二節 新生と祝福の起源

祝福家庭と理想天国

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第二節 新生と祝福の起源


1、イスラエル民族を通した血統転換


 歴史は闘いから始まります。アダム家庭では、アベルとカインが闘いました。ところで、カインを弟の立場に立てなければなりません。お兄さんがどのようにして弟の立場になるのかと言うでしょうが、そうしなければサタンを引きずり出すことができないからです。この闘いは、生まれるときからの兄弟間の闘いでした。

 カインが一人生まれれば、アベルも一人生まれました。エサウとヤコブも双子として生まれましたが、大きくなった後に闘いました。この二人は、お母さんの腹中にいる時から闘いました。

 タマルについて研究すれば、原理のすべてを知ることができます。タマルは、舅と関係して息子を産みました。ところで、舅と関係して生まれた子供がどうしてイスラエルの血統を受け継ぐことができたのでしょうか。この世で、そんなことがあり得ますか。

 ソロモンの母は誰ですか。彼の母バテシバはウリヤの妻でした。ダビデ王がウリヤの妻を奪ったのです。ウリヤの妻は、言うならば妾でした。

 ここでダビデはアダムの立場であり、ウリヤは天使長の立場です。そして天使長の妻は、復帰しなければならないエバの立場になります。天使長がアダムの相対者であるエバを堕落させ、引きずっていきました。愛で占領して盗んでいきました。それを蕩減するには、そのような三角関係に立ってもと返さなければなりません。そのような原理的基準に立脚した条件を立てた基台の上で生まれた子供は、天の栄光の子供として生まれるのです。ソロモンは栄光の子供です。

 タマルは自分の舅と関係しました。ところで舅との関係における精神は立派なものでした。当時の法によれば、淫行を行った女性は、石で打ち殺すことになっていました。

 タマルは、最初の夫と二番目の夫とを失いましたが、血統を守らなければならないと考えました。そのため、体面や威信は問題ではありませんでした。神様の願われる血統を、どうすれば残せるだろうかということだけが問題でした。

 血統を愛したので、血統を復帰しなければならないという一念だけでした。神様の摂理圏に立ち帰る条件を立てるために、舅と関係をもつことができたのです。これを見れば、舅はすなわち、自分のお父さんなのです。

 腹中勝利を収めた基準は、ずっとイスラエルとユダヤ教の子孫に受け継がれ、発展していきます。なぜそれが、国家的基準に立たなければならないのでしょうか。それは、サタン世界に国家が建てられているからそうなのです。

 このような理由で、イスラエル選民圏が発展しながら内的、血統的勝利の基準が連結されてきたのです。体面や威信や社会的環境といったものはすべて忘れ、ただ神様のみ旨だけがすべてであるという代表的な心情をもった愛の娘がマリヤです。勝利を収めた基準を受け継いだ腹中では、サタンの讒訴できる内容がないというのです。その基盤の上で、マリヤを通してイエス様が懐妊されたのです。ですからイエス様は、歴史的な闘いを終わらせた勝利の神様の前に、生まれる資格、条件を完成させた基盤の上に生まれたのです。

 それでイエス様は、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」と言われたのです。このような血統的内容を抱いて生まれたので、イエス様は、歴史上初めて神様の前に愛を受けるひとり子となることができたのです。このような事実は、今まで誰も知らなかったのです。

 それで、今までさまざまな宗教があっても、すべて奴隷の宗教であり、養子の宗教圏に立たざるを得ませんでした。(48)

 新約聖書のマタイによる福音書は、旧約の創世記に代わる福音書です。それで太初に起こった人間の堕落が創世記に記録されており、その復帰路程がマタイによる福音書に記録されているのです。

 マタイによる福音書には、アブラハムからイエス様までの継代歴史が出ています。「アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図…」と、第一章第一節から出ています。三節を見ると「ユダはタマルによるパレスとザラとの父」と記録されていますが、どうして、ちょっと見ただけでは不倫な女性に見えるタマルを、最初の部分に記録したのでしょうか。また、「ボアズはルツによるオベデの父」と記録されており、「ダビデはウリヤの妻によるソロモンの父」と記録されています。

 その次の一六節に「マリヤからキリストといわれるイエスがお生まれになった」となっています。ところで、どうして人倫道徳から見ても不敬で受け入れ難い事実を、マタイによる福音書に記録したのでしょうか。私は、マタイ福音書の記者であるマタイは、イエス誕生の背後を知っていたと思います。しかし、考えてみただけでも気持ちの悪くなる事件まで、なぜ聖書の歴史として記録しておいたのでしょうか。皆さんはこれを知らなければなりません。これらの事件でなくても、聖書には一般の人々の理解できない悲運の歴史が数多く入っていますが、私たちはこれを究明して、キリスト教の伝統を確実に立てておかなければなりません。そうしなければ、全世界のキリスト教はちりぢりばらばらに分かれて、サタンの祭物として消え去ってしまうということを、皆さんは知らなければなりません。

 イエス・キリストは、このような蕩減歴史を経てマリヤという女性を通して誕生しました。マリヤは歴史的な恨みを解くことのできる国家的中心の女性として召され、神様のみ旨のために生死を顧みなかった信仰によってイエス・キリストを懐妊することができたということを知らなければなりません。

 そのようにして、四千年のユダヤ民族史、ユダヤ教の歴史を経て、神様は何を取り戻されたのかというと、堕落する前の血統、汚れなかった息子、すなわちアダムを復帰したのです。それで、コリント前書一五章四五節でイエス様を「後のアダム」であると言ったのです。この「後のアダム」とは、神様の救援摂理歴史が復帰摂理歴史であり再創造歴史であるために、神様が四千年の間苦労されながら、人間たちの理解できない復帰の道を開拓してこられ、初めて神様の愛を受けることのできる息子の立場を復帰した「ひとり子イエス」であるという意味です。(49)


2、イエスと聖霊を通した重生の役事


 イエス・キリストは、神様が四千年の間探し求められたただ一人の存在として地上に送られました。そのようなイエス様は、万民の前に善の祖先として、死亡の中にある私たち人間を重生(新生)させるために、真の父母の立場に立って苦労の役事を繰り返しています。(50)

 イエス様は、エデンの園における堕落していないアダムと同じですが、イエス様お一人で神様の理想が実現されるでしょうか。それで新婦を探さなければならないのです。新婦の家庭がイエス様の家庭とならなければならず、新婦の国がイエス様の国にならなければならず、イエス様の国が神の国とならなければならないのです。

 イエス様は神様の息子として一人来たというのです。ですから新婦の国であるユダヤの国がイエス様の国とならなければならず、その国の教会がイエス様の教会とならなければならないのです。そうして、ローマを支配できなければなりません。

 ところが、死んでしまったのでどうなるのでしょうか。地上に父母の基準が存在できないというのです。父と母がいれば、愛の条件をかけて、再び生まれたという条件を立てることができたのに、父と母が地上にいないので、父母の愛で再び生まれたという条件を立てる道がなくなってしまったのです。それで、イエス様が死んでから四十日以後に、聖霊がこの地上に臨むのです。

 その聖霊とは何でしょうか。母なる神様です。アダムとエバが堕落した後、初めて理想的実体のアダム型としてイエス様が生まれましたが、理想的実体のエバ型の基準がないので、理想的母型の基準を形態のない霊として送ったのです。それで聖霊を受けるというのは何かと言えば、母なる聖霊の腹中にもう一度入っていくことをいうのです。

 もう一度生まれるには、母なる神様である聖霊だけではいけません。聖霊を受けることによって自分が母の分身になり、また母なる神様である聖霊はイエス様の前にあって新婦なる神様なので、新郎イエスを思慕して完全に一つとなることのできる基準に入って初めて、霊的に再び生まれることができるのです。そうして初めて、「私」は霊的に救われることができるのです。それゆえ、皆さんはイエス様を新郎のように思い、聖霊を母のように思う、その理想の立場に進んでいかなくては、復活する道がないという理論がここに成立するのです。(51)

 イエス様が亡くなられて後、五旬節に屋上の間で、百二十名の聖徒たちが集まり祈祷した時、聖霊が降臨しましたが、この聖霊が誰かといえば母なる神様です。イエス様を父とするならば、聖霊は母なる神様なのです。夫を最もよく知っている人は、その夫の奥さんであり、夫と完全に通ずることのできる人は、奥さんしかいません。

 それでは、具体的に聖霊は、どのような方でしょうか。エバがもし完成したならば、実体の母となっていたはずでしたが、堕落することによってエバの霊性は、神様によって引き取られました。それでその霊性は、イエス様が地上で新婦を迎えたならば、その新婦に再臨して実体の形状をもとうとしましたが、イエス様の新婦の基盤がなくなることにより、その霊性は再臨することができず、イエス様は実体の父母の位置に進むことができませんでした。それで仕方なくイエス様は、聖霊と共に霊的父母の位置にだけでも進んでいかなければならなかったのです。そうしなければ、み旨を導いていける基盤も残すことができなかったのです。

 それで今日、キリスト教を信じる人々は、聖霊を受けなければならないと言っています。ところでなぜ、聖霊を受けなければなりませんか。女(エバ)、すなわち妻が罪を犯したので、女がお産の苦労をしなければなりません。それで、聖霊が役事しておられるのです。また、救いを受けたければ、イエス様の愛と共に聖霊の愛を受けなければならないので、キリスト教徒たちは聖霊を受けなければならないと言っているのです。(52)

 聖霊は完成した女性神です。聖霊の役割とは、アダムの内にもとかえっていくのを助けることです。それでクリスチャンはすべて、イエス様の体の内にある子女の種と同じ立場に帰らなければなりません。

 このような信仰をもっているクリスチャンは、果たしてどのくらいいますか。夢ででもそのように考える人はいますか。ただイエス様を無条件に信じて天国に行こうという人ばかりです。しかし、口だけで信じているといって天国に行けると考えるとしたら、大きな間違いです。イエス様の骨肉の中に入っていって初めて、完全な復帰ができます。

 このような摂理を広げなければならない神様の役割がどのようなものか考えてごらんなさい。このような過程では、数多くのサタンが陣を敷いていることを知らなければなりません。そのサタン圏を突破して入っていくには、数多くの犠牲が伴うようになります。犠牲を甘受しなくては、イエス様の骨肉の深いところまで行けません。

 このようにイエス様の内に入り、神様の愛に触れなければなりません。そして、真の父母の血肉に接することのできる内的因縁を立てたという条件を充足させなければなりません。そこから、イエス様と聖霊が互いに慕い合う愛の道をたどっていって初めて、再び生まれるのです。

 同様に、女性が男性を思慕し、男性が女性を慕うように、一致した愛の境地を通過して初めて、再び生まれます。聖霊は感動の役割をします。聖霊の感動を受けると、イエス様がとても慕わしくなります。イエス様は新郎であり、聖霊は新婦です。キリスト教の復活の原理は、まさに二つの実体が一つとなったとき新しくなるのです。(53)

 キリスト教では、聖父(父なる神様)は神様、聖子(御子)はイエスと言います。それでは、聖霊は何ですか。聖霊は母なる神様です。母なる神様である聖霊を受けなければ重生することはできません。母なる神様である聖霊が産んでくれなければならないのです。この聖霊はイエス様を慕うのです。どれほど慕わしいか、目の玉が飛び出るほど会いたいというのです。皆さんはそのような体験ができなかったでしょう。母なる神様である聖霊が、新郎たる夫の神様を思慕するその心が、人の体に現れなければなりません。そのような心をもって、もう一度生まれなければなりません。父母の愛を通さずに人が生まれる道理はありません。これが天理です。

 イエス様は父、聖霊は母、すなわちイエス様は新郎であり、聖霊は新婦です。皆さんの心に聖霊が臨み、聖霊が新郎イエスを思慕する力と皆さんの心が一致する時、火を受けるのです。逆転するのです。ですから、霊的父母の愛の因縁を通して新しい生命が注入されるのです。これがまさに、キリスト教でいう重生というものです。(54)

 イエス様と聖霊が今までなしてきた使命は、お産をする使命です。エバの内にある本然の母なる性稟の存在は、エバと相対基準を結べないことにより神様が引き取られましたが、それをイエス様の時代において主体の前に対象として送られたのです。ところが、体がありません。イエス様は体がありますが、聖霊は体がありません。しかし、母の使命を果たして私たち人間の心に入り、感動を与え罪を清める役事をするようになると、母が子供を育てるように、父の、すなわちイエス様の保護を受けて再び生まれたという条件となり、重生することになるのです。(55)

 キリスト教でいうには、イエス様と聖霊を通さなくては救われないそうです。イエス様は霊的な父をいうのであり、聖霊は霊的母です。霊的父母と一つになる立場で、息子の因縁をもって立つようになるとき、霊的復活という……。霊的ではあるが父母の関門を通る、接ぎ木する過程を経て復活圏が開かれるというのが、キリスト教の重生の原理です。父母を経なければ生命が誕生しないのです。このようにして、今まで救援摂理を発展させてきたのです。(56)

 イエス様は責任を果たせなかったためどのようにしたかといえば、その代わりに、霊的にその使命を果たしたのです。霊的にイエス様と聖霊を中心として、父、母の代理の使命をする基盤を築いたので、霊的に再結合するようになるのです。霊的にお産の役事をするのです。

 今日、堕落の後孫である私たち人間は、母の腹中を通して生まれるので、母の愛に抱かれて入らなければならないのです。これが聖霊の愛です。聖霊は母なる神様であるので、その母なる神様は愛という感情をもって、父であるイエス様を協助し、(私たち人間を)抱いてあげなければなりません。この愛によって、母なる神様が父を霊的に思慕するようになるのです。このように思慕するその愛の力が作用して、ぶつかる力を感じるのが、すなわち火を受けるということです。これを体験してこそ初めて、新しい生命が生まれるというのです。

 言い換えれば、母の腹中を通して父、母を中心とした愛の感覚を感じなければならないのです。その愛の感覚を感じなくては、新しい生命として生まれることはできません。愛なくしては、新しい生命が生まれることはできないというのです。これがキリスト教でいう重生です。

 イエス様はこのような原則を完結させることができず、霊的にのみ行ったので、このようなことを再度しなければならないのです。ですから、統一教会が、このような使命を再び行わなければならないというのです。

 それでは、この使命を完遂しようとすれば、どこへ入らなければならないでしょうか。来られる主はどのような人でしょうか。来られる主は父であるので、その父の腹中に入らなければならないのです。堕落した人間は、本来の父の中に入ったという条件を立てなくては、もう一度生まれることができないので、イエス様を新郎として侍る母なる神様の恵沢を受けて、男性であるイエス様の腹中に入ることができたというのです。しかし、実体でイエス様の腹中には入れません。それで、愛する心で入っていかなければならないというのです。愛する心をもって、通ずることができるのです。(57)

 今まで、全世界のキリスト教徒たちがイエス様を信じてきた理由は何でしょうか。母なる神様である聖霊の協助を受けて、イエス様の腹中に入るためです。イエス様は結婚しなかったので、独身なる神様と同様の立場です。そのようなイエス様の腹中にある子供の種の立場に、探し求めて入っていくために全世界のキリスト教徒たちは今までイエス様を信じてきたのです。このようにイエス様の腹中に入った後、復帰された新しい母を通して、もう一度生まれたという立場に立って初めて、重生になるのです。今日、実体を身にまとっている人間としては、これを行うことができないので、必ずこうした条件的内容を中心として、その条件を立てて連結させなければならないのです。(58)


3、真の父母と真の子女を通した重生の役事


 二千年前、イエス様は後のアダムとして来られました。イエス様は、人類を救わなければならないメシヤとして、真の父の使命をもってこられました。しかし、イエス様が十字架に釘打たれて亡くなられたので、肉身をもった真の父母が顕現できませんでした。その結果、霊的救いは成されましたが、肉的救いは実現されなかったのです。結局、今日まで霊肉を共に救ってくださる真の父母がいませんでした。

 ですから、私たちは真の父母の資格を備えてこられる再臨主によって、霊肉共にもう一度生まれなければなりません。私たちは条件的、あるいは象徴的に、母の胎内から新しい生命として新たに生まれなければならず、そのための道を私たちは歩いているのです。今日まで聖霊は、母の役割をしてきました。私たちは母なる聖霊を通して、そして父、すなわちイエス様の霊を通じて新しく生まれなければなりません。

 もちろん私たちは、母の胎内から生まれたのですが、より深くさかのぼって考えてみれば、生命の起源は父から出発するのです。母の胎内までさかのぼることで血統は交差して復帰されましたが、まだ父を迎えることができませんでした。そういうわけで、今日までクリスチャンたちは、母なる霊である聖霊の力によって生命の起源である父、すなわちキリストの中に戻ることを願い、その再臨を待ってきたのです。堕落する前に、既に息子と娘の生命は、すべて父アダムの体の中に一つの種として存在していました。息子や娘となる種は、父の体の中にあるのです。

 このように、根本的に考えてみれば、私たちは霊肉が共に生まれなければなりません。それゆえ、私たちは霊肉が再出発するために、種の立場にまで立ち戻らなければなりません。

 その摂理を成就するために、イエス様は真の父母として来なければならないのです。ですから、私たちは再臨主を通して、一つの新しい復帰された生命として生まれなければならないのです。皆さんは、先生が今まで語った内容を総合してみるとき、再臨する主、新しいメシヤが必要か必要でないか、はっきり分かるようになるでしょう。(59)

 再臨主は、霊的にイエス様の体の中にある、種の立場に立つキリスト教徒たちを、全部相続しなければなりません。キリスト教徒たちは、まだ完全に重生していません。彼らは、イエス様の体の中にある種と同じ立場にあると見ることができます。しかし、彼らがそのような立場に立っているのも、どこまでも霊的な面のみなので、実体の父として来られる再臨主を迎えることのできる基台を立てなければなりません。

 聖霊が母の使命をなしてこられましたが、実体の父が来なければなりません。真の母が現れる前に、真の父と一体化しなければなりません。ですから、皆さんは、まだ結婚していない完成したアダムの体の中にある種の立場に戻らなければなりません。本来の立場に立ち戻らなければならないのです。

 このように私たちすべてが、堕落していない真の父から新しく生まれなければなりません。堕落していないアダムの体から出発した種が、母の胎内で懐胎しなければならないのです。そこにある種は本物であり、私たちはその位置に戻らなければなりません。真にそのことが、統一教会によって成されています。(60)

 今日、統一教会においても同様です。みんな、先生に絶対的にほれなければなりません。男性も女性も、先生に会いたくて涙を流さなければなりません。自分の妻よりも、自分の夫よりも、自分の横にいる子供よりも、先生にもっと会いたいと思い、より愛することのできる心がなければなりません。そのような心が出てこなくては、神様と連結され得ないのです。私たちが一九五〇年代にみ旨の道を出発しながら、このような役事をしてきたのです。

 その時には、統一教会の食口たちは、母がいない時であるにもかかわらず、先生だけを中心として、先生が悲しめば自分も悲しみ、先生が喜べば自分も喜びながら、先生と共に同感することのできる心情的一体の場に入っていたのです。それでは、その原因はどこにあるのでしょうか。それは、父の腹中に入っている子供の種と同じ立場に入っていくためです。

 それゆえ、父が悲しめば子供も悲しまなければならず、父が喜べば子供も喜ばなければならないのです。そのような立場で心情的一致点を備えなければ、父の腹中に帰る道がないというのです。それゆえに、心情的体恤が問題だというのです。

 しかし、父の腹中にある子供の種になっただけでは不十分なので、ここに母の腹中を必要とするのです。すなわち、母の腹中を通してもう一度生まれなければならないのです。

 それで、先生が一九六〇年(一九六〇年四月十一日)に聖婚式をすることによって、真の母が立てられました。これによって皆さんは、父の腹中にいる時に感じた愛の恩恵を感じて、お母様を愛し侍り得ることによって再度お母様と因縁を結んだので、初めてそのお母様の愛の因縁と連結させて出生できるのです。このようにして出生する皆さんは、変わらなければなりません。(61)

 統一教会員たちは、自分の母、父を置いておき、なぜ昼夜、先生に付き従っているのですか。皆さんが、先生の骨の中における子供の種と同じ心情的因縁をもたなければ、条件的にもう一度生まれ得る道がないからです。お母様と先生を、全く同様に愛して生まれたという条件を立てなければなりません。真の父母に侍らなくては、もう一度生まれたという条件を立てることができないのです。皆さんは、そのような過程を経ましたか。このような話は初めて聞くでしょう。このような内容があるとは夢にも思わなかったでしょう。先生はこのような内容を知ってこのみ旨のために生きてきた人です。(62)

 皆さんが真の父母の息子・娘になるためには、蕩減法を通して、父母の骨髄を通って出てきたという原理的条件を立てなければなりません。そうしてこそ、息子・娘の位置に立つことができるのです。

 このような条件を立てる期間が、一九六〇年度を中心として、一九六一年、一九六二年度の三年間にわたった四十日伝道期間でした。この期間に麦飯を食べました。そうしたでしょう。なぜ麦飯を食べなければならなかったのかといえば、その三年の間が蕩減期間だったからです。この期間は、先生の直系の子女を中心として、四位基台を復帰し乗り越えていく期間でした。そして皆さんには、父母を中心としたカイン・アベルの関係を立てて、カイン・アベルを一致化させていく期間でした。どこから一致化させなければならないのかといえば、お母様の腹中から一致化させる立場に立たなければならないのです。

 その前段階として、一九六〇年以前には、皆さんが先生を中心として一つになる時でした。その時は老若男女を問わず、先生を本当に好きになりました。男性たちも、先生に会いたくて涙を流しました。世の中では、男性が女性に会いたくて涙を流すことはあるでしょうが、男性が男性に会いたくて涙を流すことはありません。男性同士慕わしくて涙を流す人はいないというのです。そんな話を聞きましたか。絶対にそのようなことはないというのです。それも、愛を中心として会いたくて涙を流す人はいません。

 しかし、統一教会の中では、そういったことが起こりました。男性たちも、先生に会いたい時は、自分の父母、兄弟、妻、子供をすべて捨ててでも駆けつけたいほど、そのように切ない気持ちをもっていました。

 それは、なぜそうなのでしょうか。アダムとエバが生まれる前には、誰の体の中で育っていましたか。エバの体の中で育っていましたか。アダムの体の中で育っていましたか。アダムの骨髄の中に、息子・娘の種があったというのです。愛を体験することはできなかったけれど、そこで子女の種が育っていたというのです。それが愛の因縁を中心として一致して、母を通して生命として誕生するのです。これが父母から子供が生まれる原則です。

 この原則と同じ立場で統一教会員は、老若男女を問わず、みんな先生を好きになったのです。女性たち、先生が好きでしたか、好きではなかったですか。あまりにも好きで、うわさがたくさん立ったでしょう。お婆さんであれ、乙女であれ、男性でいえば、おじいさんであれ、若い男性であれ、みんな先生だけが好きで、付き従ったのです。それは何でしょうか。心情的一致が成し遂げられたというのです。(63)

 アダムとエバの初恋を中心として、新しく父母の腹を通して誕生できる愛の因縁を経なくては、生命の因縁は始まらず、原則的な復帰をしなくては、完全蕩減にならないのです。それで皆さんは、み旨を中心として先生を愛し、先生の感情を中心として皆さんのすべての感情を先生と一致させようとする心情的方向が、意識的、無意識的に動いてきたというのです。

 それによって、皆さんが真の父母の骨髄の中で心情的に接ぎ木することをもって、真の母の腹中を通じ本然のアダムとエバの立場で生まれたという条件を立てるのです。そうしなくては、復帰にならないのです。分かりますか。

 ですから皆さんは、お母様を中心として復帰されていかなければなりません。先生の息子・娘がお母様の腹中にある時に、その胎児を中心として皆さんはカイン・アベルを復帰するのです。これを皆さんは、はっきりと知らなければなりません。(64)

 もちろん、既に肉身をもって生まれて成長してしまった私たちは、文字どおり完成したアダムの体の中にある種の立場に戻ることはできません。ですから私たちは、真の父母とその父母から生まれた真の子女と一体化することで、もう一度生まれるための条件を立てていくのです。

 カインがアベルに完全に屈服することで、その二人が共に復帰されるという原理があるので、この原理によって、カインの立場にある人はアベルの立場にある真の父母、真の子女と一体化しなければなりません。そうすることで、私たちは復帰された子女としての恵沢を受けることができるのです。真の父母を通じ真の子女として生まれるようになるとき、真の父母の聖体と同じ条件物を分けていただく立場を取らなければなりません。このようにして、私たちは真の子女の立場に参与する道を通過することになります。(65)

 皆さんは誰を通して真の子女と一体化し、新しく生まれた子女としての条件を立てることになりますか。

 父だけでは十分でありません。真の子女を通じなければ駄目なのです。どんなに父が重要だといっても、父だけではなく父母とその子女を通じなければならないのです。真の父母は、真の息子と真の娘をもつことになります。

 それでは女性たちは、誰と一つにならなければならないでしょうか。女性たちは皆、真の父母とそのお嬢様たちと一つにならなければなりません。男性たちは、真の父母とそのご子息たちと一つにならなければなりません。女性が先に堕落したので、女性の復帰がまず成された後、男性の復帰が成されるようになります。それでは、その最初に復帰された女性の立場に立つのは誰でしょうか。それは、真の父母から生まれるようになる最初の娘なのです。真の父母は最初に娘を生んで、その次、二番目は息子を生まなければなりません。このような内容は、至極原理的なのです。これについては、ごく簡単に説明しましたが、このような説明の背後には、とても長くて複雑な内容があるのを知らなければなりません。

 このような罪なき真の子女の誕生によって、歴史上初めて天的四位基台が復帰されたのです。サタン世界は、この基台に対して何も讒訴することができません。

 選民国家が復帰されなかったため、天的四位基台という、この一点から出発し、家庭、氏族、民族、さらに国家的基準へと拡大されなければなりません。その中心核となるのは、四位基台として復帰された天的家庭なのであり、その家庭を通して立てられる国家こそ、最も強い無敵の国家として、それこそ新しいイスラエルになるのです。その国家は、そのほかのすべてのサタン主権に勝利して、外的世界の中心となるでしょう。(66)

 皆さんは、お母様の腹中に入ることができないので、どのようにすべきかといえば、先生の子供たちと一つにならなければなりません。皆さんは三年の間、腹中の胎児の立場に立たなければなりません。それゆえに、先生が皆さんに三年間の標語を、第一に「生涯の中で最大の実績を残す年をつくりなさい」、第二に「神様の代身者となりなさい」、第三に「見せてあげて誇りなさい」と決めてあげたのです。ここで、見せてあげて誇りなさいというのは、四位基台復帰をいうのです。

 このようにして今日皆さんは、この三段階を中心として腹中にある胎児と共に、一緒に食べ一緒に生きるのと同じ条件を立てるのです。お母様も三年の間は、皆さんが麦飯を食べる時、同じように麦飯を食べ、皆さんが外に出て活動する時、同じ条件の活動をしました。譽進や孝進は、お母様が麦飯を食べて産みました。つまり、お母様も皆さんと全く同じ心情で生活したというのです。

 今や、皆さんは腹中から生まれたカイン的存在として、お母様を愛すると同時に、子供たちを愛する立場に立たなければなりません。そうして彼らと一致化することを通して、双胎と同じ立場に同参したという心情的条件を立て、彼らを中心として侍る立場に立たなければなりません。そうしてこそ腹中で二つの種が反発するのを防止できるのです。言い換えれば、反発した堕落の起源を防止できるのであり、ここから復帰がなされるのです。何の話か分かりますか。「はい」。皆さんの知らないうちに、このような役事をすべてなしてきたのです。

 皆さんは、譽進や孝進が生まれる時、汁をかけたご飯を食べました。お母様が汁をかけたご飯を食べたので、子供も一緒に食べるのです。ですから皆さんが、相対的に汁をかけたご飯を食べたのです。このような心情的一体の内容を蕩減できる、絶対的条件になったということを知らなければなりません。

 このように、復帰歴史は飛躍的に成されるのではなく、順次的に、水も漏らさないほど厳重な手続きを経て、今日の歴史時代にある皆さんと関係を結ぶために、すべての内的起源を立ててきたのです。このような内容はすべて、ただ何もしないでできたのではありません。このように苦労した歴史路程が、現実圏内にあるこの道を取り戻してくるまでには、六千年がかかったのです。同様に、歴史的に数多くの先知先烈たちが犠牲となる代価を払いながら、天地のその何物とも代えることのできない価値を備えた蕩減路程を経てきたというのです。

 このような難しい因縁を経て父母が四位基台を備えたので、皆さんも四位基台を備え、勝利の土台を築くことができなければなりません。これが祝福なのです。(67)

 先生は一生の間、命を懸けて闘ってきました。世の中での苦しいことは避けられますが、この道では避けることもできません。腕力や暴力をもってしても、成就することではありません。原理原則に従って行わなければ、四方から一度に飛んでくる矢を避けることができません。

 このような闘いは、神様が天地を創造なさることよりも、もっと難しいことではないかと思われます。そのようなことをするとき、蕩減の条件を立て内的基盤を磨いてきたとは、皆さんは夢にも思わなかったでしょう。そのような基盤を土台として転換点をつくったということは、天宙的な勝利だと言えます。(68)

 このように真の父母が出現するのが大変であり、真の息子・娘が生まれることが大変であろうとは、誰も知らなかったというのです。先生がこの位置に来るまで、どれほど歯を食い縛って我慢してきたか知らないでしょう。皆さんは、その心情を学ばなければならないのです。その愛の心情を受け継ぐことができなければ、先生の行く所、神様が住まれる所に行くことができないというのです。

 私が今死ぬとしたら、私のように神様を愛し、私のように人類を愛する人が、この地上に誰かいるだろうかという心配が先立ちます。そのような意味で、私は長く生きなければならないと思うのです。先生は、皆さんの中でそのような人が早く現れたなら、どれほどいいだろうかという目で、皆さんを見ているということを知らなければなりません。神様がこのレバレンド・ムーンに祝福をしてくださるとするならば、神様が私にそのような人を下さるのが一番大きな贈り物であり、祝福であると思うのです。今まで不信され受難を受けられた神様に対して、先生以上に愛し、先生以上に人類を解放してあげるために努力しようとする人が、この時間に出てくるとすれば、きょうは栄光の日となるでしょう。(69)

 血統的転換は誰がするのでしょうか。それは、誰でもできることではありません。先生がこのことをするために、涙ぐましい十字架の道を歩んだということを知らなければなりません。このような基準があるので、皆さんは何の功労もなく、祝福という新しい伝統を継ぐようになりました。

 転換の勝利圏を立てるには、数千年に及ぶ神様の苦労と、実体を中心とした先生の苦難の生涯がありました。これを土台として立った所が、まさに皆さんの立っている位置です。祝福というのは、接ぎ木することであり、接ぎ木することによって血統が変わることです。(70)

 皆さんは、復帰というものがどれほど難しい過程を経なければならないのかを知らなければなりません。先生は真理を発見するだけでなく、その真理の全部を成就しなければなりません。今、先生はそれを皆さんに無償で教えているのです。皆さんは、まるで何もしないで卒業証書をもらう学生と同じです。ですから、皆さんの立場が、どれほど貴重な価値をもつのかを知らなければなりません。(71)


4、歴史的犠牲の土台の上に成された祝福


 復帰歴史について見れば、神様は真に知恵深い方です。至極関心をもたなければ、分からないようになっています。ここに七七七家庭が集まりましたが、祝福が何か知っていますか。皆さんの知っている祝福と先生の知っている祝福とは、天と地の差です。(72)

 成婚祝福を受けるということは、恐ろしいことです。摂理的に見ると、神様の中心的思想は、アダムとエバの家庭から出発します。神様はそれをモデルとして、全く同じ家庭をつくろうとされました。一定の模型をつくって材料を投入すれば、一時に数千数万個が出てきます。先生はその模型をつくるために今まで苦労してきました。その模型が壊れれば、何にもなりません。

 神様の摂理の中心思想は、メシヤの家庭、復帰したアダムとエバの家庭、堕落圏を勝利した家庭をつくることです。ですから人間の中心思想は、堕落圏を越え、勝利圏にある神様と共に、愛を中心とした家庭を築くところに置かなければならないのです。(73)

 アダム家庭の完成は、家庭的完成の出発であり、氏族、民族、国家すべての始まりであり、天国の起点なのです。皆さんは、家庭を中心として氏族圏の使命を果たすのか、果たせないのか、民族圏の使命を果たすのか、果たせないのかという岐路に立っています。先生は世界的な使命をもっていますが、中心点は皆さんと全く同じです。(74)

 イエス様は氏族的基台をもつことができず、結婚できませんでした。その事実をはっきり知らなければなりません。ヨセフの家庭とザカリヤの家庭および洗礼ヨハネの家庭を中心として、氏族的基盤が造成されたなら、イエス様は伝道しなくても天国を築いていかれたでしょう。信ずることのできない大衆を導いて、騒ぎ立てながら活動する必要はないのです。家庭を中心とした四位基台を造成すれば、自動的にすべてのことが成就できるというのです。四位基台を中心として、歴史的な蕩減の内容を理論的に解明し、徐々に基台をつくっていったならば、死ぬ運命にぶつかることはなかったでしょう。家庭基盤をつくって子女をもったとしたら、キリスト教は変わっていたでしょう。イエス様の直系の子孫を中心として、世界を動かすようになったでしょう。しかし、そのような基台がすべて築かれ得ませんでした。(75)

 堕落した人間が神様を中心として祝福を受けるということは、夢にも考えられなかった事件でした。その一日を迎えるために、神様は宗教を通して今まで摂理を導いてきました。神様はイスラエルの民を選民として選び、メシヤ思想を教えました。そしてイスラエル民族を通して国家的基準の勝利圏を回復しようとしましたが、彼らの無知と不信によって挫折してしまいました。それでキリスト教が第二イスラエルの立場に立ちました。(76)

 ユダヤ教は、国家的な基盤の上に、世界的な中心使命を担当しなければならない立場に立っていましたが、イエス様を十字架で死なせたため、地上圏を失ってしまいました。それでキリスト教が二千年間、霊的天国に向かって血を流して開拓してきました。イスラエルは外的に血を流し、キリスト教は内的に血を流しながら来ました。

 今や再臨の時代を迎え、霊的基盤を肉的基盤に接ぎ木しなければならない時となりました。キリスト教が再臨主を迎えなければならない時となったのです。統一教会は、そのような中心的摂理のみ旨を継承し出発した教会です。(77)

 祝福によって、縦的な歴史を横的に蕩減できる起点をもつことができるようになりました。(78)

 神様は、堕落した人間が祝福を受けるその瞬間を迎えるために、長い歴史を通して絶え間なく犠牲の道を歩んでこられました。その間、個人はもちろん、家庭、氏族、民族、国家の数千数百万が犠牲になりました。それにもかかわらず、神様を中心とした祝福の段階までは迎えることができませんでした。統一教会がこのような目標を掲げて、日本、米国はもちろん、世界的に祝福の基盤をつくるようになったということは、歴史的に驚くべき事実だと言わざるを得ません。

 皆さんは、祝福を受ける前に、皆さん自身がこのような歴史的な苦労の土台の上にあるということを考えなければなりません。神様の摂理が今まで継続し、数千年の犠牲の歴史を経てきたのも、結局皆さんを救うためでした。数多くの預言者と先知者たちが祭物となり、多くの宗教が犠牲の道を歩んできたのも、皆さん一人ひとりを勝利者として立てるための神様の愛の中でなされたのです。(79)

 統一教会の歴史も全く同じです。先生がこのように苦労したのは、先生自身の道を開拓すると同時に、万民に全く同じ祝福の道を付与するためでした。結局、「私」自身のために神様がそのように苦労してこられたということを知って、無限に感謝を捧げなければなりません。皆さんは生涯をすべて捧げても、神様の前に完全に報いることができないということを知らなければなりません。一生を捧げても、神様を喜ばせてさしあげることはできないというのです。

 しかし、すべてを捧げ切った時、神様は、永遠なる世界と勝利圏の世界、すなわち栄光の世界で皆さんを勝利者として迎え入れてくださるでしょう。ですから皆さんは、歴史を背負った自分であるということと、現在を背負っている自分であるということを悟らなければなりません。現在、世界四十億の生命が、皆さん自身によって救われなければならないという、全体の生命と直結されている皆さんであることを知らなければなりません。

 そのような価値的存在となるように、神様が犠牲を払われたし、各宗教が努力をしてきました。歴史的に犠牲を払ったとしても、その価値的な存在を迎える場合は、すべてが変わり得ます。皆さんは、このような中心的使命をもっているという事実をはっきりと知らなければなりません。(80)

 先生は家庭を求めるために四十年苦労しました。神様は六千年間苦労されました。祝福の日を立てるために数多くの犠牲を払ったのです。イエス様と聖霊が求めたのも、まさにそれでした。(81)

 皆さんが堕落した後孫の家庭に生まれて、祝福家庭を成したということは、今まで歴史上になかった最初の貴重な事件であらざるを得ません。復帰の内容を理論的に明確にし、このような祝福をなした例は今までありませんでした。この時代になって、地上で初めて祝福をするようになったのは、不可思議な時代に突入したからです。(82)

 堕落は何かと言えば、サタンを中心として結婚したことですが、今日統一教会で、神様とご父母様を中心として皆さんが結婚式をすることができるというのは、驚くべき事実だというのです。別れていった立場とは反対に、すべてを一致させていくのです。ここにほんの小さなすき間があっても、サタンが侵犯するのです。このようなことをレバレンド・ムーンは知って、すき間なく策をめぐらせていくので、サタン世界が崩壊するのです。(83)

 今日、皆さんの立っているこの立場は、どのような立場でしょうか。六千年歴史の数多くの先知先烈たちがプラスされており、神様がプラスされており、その次には、先生の一代がプラスされています。先生をこの立場に立たせるために、神様は、先生の先祖から三代を経て準備してきたのです。これは今まで、統一教会のその誰も知らない内容です。今回、修練生に初めてする話です。時になったので話すのです。

 このような歴史を経なければならないのです。そうしなくては、蕩減復帰歴史に違反するのです。ぴったりと合わなければなりません。内外、ぴったりと合わなければなりません。そうでなくては、神様の前に救いを受けることができません。(84)

 信仰基台、実体基台、メシヤのための基台があるということを知っているでしょう。今や私たちは、原罪をするりと脱いで上がっていくのです。これは公式です。神様はこれゆえに、この一時を探し求めるために、六千年苦労されました。そして、イエス様以後二千年の間、数多くの国の人々が、この道に従ってきているのです。今日、皆さんがここに座って、短時間内にこのような事実を知ることができるというのは、驚くべき恩賜なのです。このように実を結ぶことのできる勝利の一団体が、このアジアの韓国の地を中心に立てられたという事実は、驚くべきことだと言わざるを得ないのです。み旨を中心として、世界のさまざまな国の人々がここ韓国に来て、結婚をするというのは、驚くべきことなのです。(85)

 祝福はどれほど難しいことでしょうか。式は簡単ですが、背後の歴史の内容はとてつもなく難しいのです。このような歴史の過程を経なくてはなりませんでした。彼が笑えば、全宇宙が笑うことのできる基準が祝福の基準です。不足な点を是正して、神様が願われた夫婦の義理を成さなければなりません。家庭に対する認識が不足しています。男性と女性は、天と地を代身して生まれました。(86)

 皆さんはそれを知らなくてそうなのですが、祝福はどれほど難しいでしょうか。天が家庭一つを探し求めるために、歴史過程において、どれほど多くの個人が犠牲になり、どれほど多くの家庭と民族と国家が犠牲になったでしょうか。このようにして探し求められたのが祝福家庭です。(87)

 内心で待ち焦がれ、必然的に顕現するようになるのを望んだその祝福が、我が韓国国土を中心として、統一祭壇で成し遂げられたという事実は、我が韓国に限った問題ではなく、世界史的な問題だというのです。このように世界的な舞台の上に開く祝福の一日を望みみて立つことのできる一人の男性、一人の女性がいるとするならば、彼ら自体は、歴史時代において相当な価値をもった者たちではないでしょうか。言い換えれば、失われたアダムに代わって、神様が召されるに少しも不足のない姿、失われたエバに代わって、探し立てられるに恥ずかしくない姿ではないだろうかというのです。(88)


5、祝福の日は歴史的所願成就の日


 今日、み旨を中心として祝福という言葉を考えてみるとき、この言葉は統一教会から始まったものではありません。この言葉は、今まで神様が復帰摂理をしてこられつつ、内的に心の中に保っておられた言葉です。神様はこれが実践されるのを願いながら来られたということを、私たちは知っています。

 神様がエデンの園でアダムとエバを創造され、彼らに祝福してくださり、それが成されるのを願われたのも、やはり同様でした。その祝福を今まで、その誰も実践できませんでした。このように神様は切ない立場で、祝福が実践されるのを念願中の念願として待ち焦がれつつ、今までの歴史過程を経てこられました。

 このような四千年の歴史過程を経た後に、神様が本来与えたかった祝福を、最後に決行するためにイエス様をこの地に送られました。神様はそのような摂理歴史をされましたが、イエス様もやはりその祝福の場まで進むことができず、亡くなられたのを私たちは知っています。それ以後にも、数千年のキリスト教歴史過程で、多くのキリスト教徒たちが殉教の血を流しながら闘ってきましたが、今まで、その神様の願いを果たすことができなかったという事実を私たちは知っています。

 ですからこの祝福という言葉は、私たち統一教会から出発したものではなく、創世から堕落以後の今日まで、歴史過程を通して神様の心の中に一つの願いとして、神様がいつもこれを追求し願ってこられたということを、私たちは知らなければなりません。

 そのような願いの一日を求めるために、神様は今まで受難の道を歩んでこられましたが、今までその日を見いだせませんでした。それゆえ、この一日を見いだせば、その日は歴史的な解怨を果たすことのできる日であり、神様の歴史的な願いを成就する日だというのです。このようなことを考えるとき、この祝福の場がどんなにとてつもない場であるかという事実を、私たちは知らなければなりません。(89)

 祝福は、歴史が追求してきた万民解放の門を開く鍵です。(90)

 恨みと悲しみで悲惨な歴史過程を歩みつつ、あまりにも退屈な絶頂を越えた神様においては、エデンの園で堕落しないでその日を迎えるよりも、その解放を迎える日のほうが、よりうれしい日です。神様はこの日を迎えるために、今まで数多くの先知先烈たちを死の道へ追い出したのであり、六千年の間引きずってきた祭壇の上で、勝利できる息子・娘をつくるために耐えてきたその立場を考えるとき、この日がどれほど感謝の日であり、どれほどよき日であり、どれほど喜びの日でしょうか。もしそのような人が現れることになれば、天地が動じ、天地全体が祝宴をするでしょう。小羊の婚宴だけをするでしょうか。解放の宴もしなければならないのです。人間が堕落して以後、今日まで感じてきた、死ぬことに次ぐもどかしさと痛みと苦痛から解放させてあげることのできるその日が、祝福の日であり、聖婚の日です。(91)

 私たち統一教会では、一九六〇年代を中心としてこの祝福というみ言が出てきたのですが、このみ言と共にこのような生活を皆さんに提示することになったのは、一九六〇年代に限った時代的な要求からだけではありません。歴史過程を通して摂理を広げる所ごとに、あるいはその時ごとに神様の願われる最高の所願は何でしょうか。それは祝福という一つの起点をつくることです。この事実を私たちは知らなければなりません。(92)

 祝福は神様の願いであると共にイエス様と聖霊の願いです。この願いが成されて初めて、新しい歴史が開かれます。祝福は、この全体の願いを果たすものです。ゆえに祝福家庭は、このような願いを果たす主体として立ち得なければなりません。

 イエス様は、この願いを果たせなかったので再臨して果たさなければならないのです。統一教会は、イエス様が果たせなかった願いに責任をもち、成してさしあげなければなりません。(93)

 祝福が成される今の時は、いかなる時でしょうか。今は、神様の願いが果たされる最高の時であり、六千年間苦労してこられた神様の恨みがおさまる時であり、この地に来られ苦労された神様の息子、すなわちイエス様の願いが果たされる時です。のみならず、その息子の家庭を中心として、愛が始まる時であり、万物の歓喜と尊貴と栄光を受けることのできる時です。神様もこの日がどれほど喜ばしいでしょうか。罪悪がすべて消え去り、光明の太陽がほとばしる明るい天地を迎える日、すべての自然が和動し、すべての動物が踊りを踊るうららかな朝、勝利の朝を迎える日です。(94)

 祝福の場は、過去から今まで記録されてきた歴史過程でのすべての悲しみを清算することのできる場であり、今まで成就できなかった神様の願いが新しく出発できる場であり、新しい未来が出発する契機とすることのできる一つの起点だというのです。(95)

 今まで人類が苦痛の中で呻吟している原因は、どこにあるのでしょうか。それは堕落して祝福の場に至れなかった先祖をもったからです。その悲運の歴史があったために、いまだに長く後孫たちが呻吟しているのです。それでは、全天下の人類が天の前に一様に願うのは何でしょうか。それは、祝福の一日です。これは、空前絶後の歴史的な事実です。(96)

 神様が太初にアダムとエバをつくられるとき、まず万物をつくっておき、その万物の中心であるアダムとエバを栄光の実体としてつくり、彼らが歓喜に満ちた勝利を誓うことのできる、祝福の一日をもつことを願われました。しかし、アダムとエバが堕落することにより、そのみ旨を成就できなかったため、その願いの一日を今日、私たちが私たち一代において完結できるようにしなければなりません。その勝利の栄光を高めて私たち自身が、あるいは夫婦が全天地の前に称賛を捧げなければならないというのです。そうすることのできる喜びの日を迎えるため、たった一度だけしかないこのようなとてつもない栄光の場に参席することが、どれほど神様から祝福されたことであるかを私たちは知らなければなりません。

 それでは、この祝福を願いながらイエス様が亡くなられたように、復帰摂理の途上で生まれては死んでいった数多くの人々、あるいはみ旨に対して自己の生涯を捧げながら闘っていった人々の過去を考えてみるとき、神様の前に一片丹心に、自己のあらん限りすべての精誠を投入し努力したそれらの人々の願いが何であったかと言えば、是が非でもこの祝福を成就することでした。霊界に行っている数多くの霊人たちも、今までこの祝福の因縁を結べなかったので、そこでも必ずこの祝福の因縁を結ぶようになるのを願っているというのです。

 聖書を見れば、義の冠、愛の冠という言葉がありますが、その冠の表象は何でしょうか。それは、神様の前に祝福の相対と共に、神様が許される国の民となることです。このような特権を神様から付与されることが、冠の象徴となっているという事実を、皆さんは知らなければなりません。

 今日、統一教会で成されたこのような事実は、平面的に制限された環境の場にのみ及ぼされるのではありません。経てきた歴史の過程を通して、現在を通して、未来を通して、あるいは霊界の数多くの霊人たちが必然的に追求し渇望してきた願いの起点がここでつくられていくというのです。このとてつもない祝福に臨んでいる当事者たちが、それを知っているのかという問題について考えてみるとき、皆さんは深刻な立場で自我を批判し、新しく決心しなければならないのです。(97)

 人間の先祖であるアダムとエバが堕落したその日から、人間は、神様が祝福してくださるその日を待ち焦がれてきました。(98)

 家庭は、本人たちと神様の歴史的な願いの結実点です。これが祝福です。(99)













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第三節 祝福の意義と価値

祝福家庭と理想天国

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第三節 祝福の意義と価値


1、祝福の意義


 祝福は、真の父母と真の子女が相まみえ創造目的を果たすことを意味します。(100)

 神様はプラスとマイナスの二性性相としておられます。これをプラスとして分立させたのが男性であるアダムであり、マイナスとして分立させたのが女性であるエバです。そしてアダムとエバを再び合わせた形態のようなものが子女です。このように神様を中心として一代二代三代が形成されるのです。

 それではこの三代の中で問題が起こったのが何代目かといえば、二代目であるアダムとエバの代です。アダムとエバが神様の愛を中心として一つになれなかったというのです。もしアダムとエバが神様の愛を中心として一つになっていたならば、神様が臨むことのできる因縁が決定されることによって、子女にも神様と関係を結ぶことのできる愛の基準が連結されていたはずです。それを祝福というのです。(101)

 神様の願いは、人間をつくられ、彼らが成育した後に祝福して子女を繁殖させることでした。イエス様も地上に来られて、新婦を迎えることが願いでした。今日、キリスト教が殉教の血を流しながら二千年間待ち望んでいるのも、新婦となり祝福を受けるためです。これほどまで、神様は祝福してあげる一人の男性と一人の女性を探して、摂理の道を歩んでこられたということを知らなければなりません。

 神様が見るとき、真の男性と真の女性は、つまり真の息子、娘と言い得るべきです。息子、娘になれと言ってくれたのであることを知らなければなりません。(102)

 祝福は天国の門を開くことです。子女を連れて入っていくのです。(103)

 この世の中には数多くの人がいますが、大きく二つに分けてみれば男性と女性に区別されます。これらが一つになることのできる秘法を模索するのが、私たちの根本目的なのです。今までそのような一つの結実的な家庭の起源が現れなかったので、私たちはそれを模索していくのです。そのような起源が現れ種を蒔けば、新しい木になるはずです。これが今日の統一教会の祝福です。(104)

 私たち統一教会では、結婚することを祝福と表現します。(105)

 統一教会の祝福とは何でしょうか。男性と女性が自分勝手に出会い祝福を受けるのではなく、神様を中心として、先生を中心として、正しく出会い祝福を受けるのです。男性と女性が誤って出会い全体を追放したので、男性と女性が正しく出会い、全体を再び復帰する基盤を築かなければなりません。そのような基盤を築くのが、統一教会の祝福であるのを皆さんは知らなければなりません。(106)

 男性と女性の愛の完成が、宇宙の完成なのです。この愛が壊れる日には、宇宙の秩序が破壊され、縦的な世界がすべて切れるようになるでしょう。

 ですから摂理的に見たとき、結婚がどれほど重要なことであるかを知らなければなりません。神様を中心として祝福を受ける位置は、地上天国と天上天国が相まみえる位置なのです。横的に永遠なる世界と瞬間的な世界が相まみえる位置なのです。男性と女性が真の愛で愛し合うことによって、永遠なる愛が中央地へどんどん短縮して入ってくるのです。男性と女性は、神様を中心として中央地で一つに結ばれるようになります。

 男性と女性が、神様を中心として愛を授け受ける運動をするとき、愛で完全に一つとなり、息子、娘を生むようになるのです。愛の結実として生まれた息子、娘が、神様と完全に一つとなった父母を中心として、愛の運動を続けて、四位基台を成すようになるのです。(107)

 人間歴史の流れを主導してきているすべての宗教は、祝福という意味を知り得ませんでした。大多数の宗教は、新婦となるために準備しながら、禁欲主義を勧奨してきたのです。統一教会が既成宗教と違う点は、真の父母の名で祝福行事を行っているということです。これは神様の摂理から見るとき、驚くべき事実だと言わざるを得ません。また、祝福の対象者が地球上のすべての人種だということもそうです。それは真の愛をもつことによって可能だからです。祝福は天地開闢のような事件だともいえます。(108)

 統一教会とはどのような宗教でしょうか。なぜ「統一」という名称を使うのでしょうか。神様の不変の愛を中心として縦的に神様と一つになり、横的には真の男性と女性が一つになって、一つの世界を成そうという意味で出発したので、「統一」という単語が用いられたのです。統一教会では堕落によって失った男性と女性を捜して、真の愛を中心として祝福してあげることによって、神様の第一次のみ旨を成し遂げました。これからはそのみ旨が繁殖して、一つの世界を成すことだけが残ったのです。今まで何回かの祝福を通して、五大洋六大州にいるすべての人々に祝福をしてあげたことによって、愛の伝統が立てられ、道が敷かれたといえるでしょう。(109)

 統一教会は青少年の倫理問題とサタンのすべての十字架まで負い、白衣を着せて、神様の国に入ることのできる教育をする所です。そうして、正しい人として復帰し、新しい男性、新しい女性をつくるのです。千秋万代の男性を代身できる一つの条件を立て、女性を代身できる条件を立てて、世界の若者を集めて新しい家庭を編成するのが統一教会の合同結婚式です。(110)

 統一教会で行う合同結婚式は、単純に男女が出会い、一つの家庭を築く婚礼式ではありません。今までの結婚式は自己を中心とするものでしたが、私たちの結婚式は神様に喜びを返し得る内容をもって、歴史を蕩減する貴い条件として、神聖かつ盛大に挙行されなければなりません。私たちの結婚式とは、アダムとエバの堕落によって始まった神様の恨みを解怨してさしあげ、イエス様が成せなかった新郎新婦の基準を通過することであると、原理ははっきりと説明しています。(111)

 今日まで皆さんは、真の父母と完全な因縁を結べませんでした。それゆえ、その因縁を結ぶためにしてくれるのが、統一教会の祝福です。(112)

 先生はこの日のために精誠を尽くして闘ってきました。祝福は真の父母の因縁を継承するものです。ゆえに、父母がサタン世界と闘った看板を掲げて祝福するのです。(113)

 祝福を受けた人は、霊界に行っても先生が永遠に責任を負います。先生が主管し指導します。祝福とはこのように先生と永遠の因縁を結ぶことでもあるといえます。(114)

 人間の先祖が堕落して男性と女性がエデンの園から追い出されたために、夫婦が共に歓迎を受けられない境地を越えなければなりません。それが祝福です。(115)

 今の時代は蘇生、長成の段階を越え、完成の段階に進む時代なのです。縦からなる何千年歴史を一遍に横的に越えていく時代なのです。すなわち、六千年の歴史を全部、一遍に越えていく時代なのです。ですから、サタンの侵犯圏内を脱しなければならないのです。それでは、祝福というのは何でしょうか。今までの歴史的なサタン圏を完全に越えるものです。(116)

 祝福が何であるかと言えば、神様と共に一つになることです。神様と一つになれば、全体を得るようになります。神様のすべてのもの、主体がもっている全体を受ける勘定になります。

 神様は永遠なる生命をもっています。永遠なる生命。そして普遍の愛をもっています。それから主体として、理想とする愛の世界観をもっています。この全部を相続するのです。それゆえ、祝福、結婚することは、結局全部を受けることです。

 まず、神様の愛を受けます。そうして神様の実体を、神様ご自身の実体を私たちは受けることができます。

 それだけではなく、すべてのものまでも、神様のものではなく自分のものになるのです。それゆえ、結婚というその問題は、すべてのものを相続することなのです。

 最も貴い愛を相続し、神様自体を相続し、そしてすべてのものを相続します。このような意味で祝福という言葉を使っています。祝福を得るというのは、福を受けることです。(117)

 三対象理想を完結した神様の愛の圏を形成した家庭をもってこそ、初めてその家庭圏内に神様が臨まれ、理想的に永遠に存在する家庭の形成が完結されます。家庭によって、神様を所有することができ、神様の愛と創造力を発揮し、主管権をもつことができるのです。それ以上、人間が望むものはありません。

 そして、神様の国のものは私のものとなり、神様のすべてのものは私のものとなるのです。本来、これが人間の願いなので、最高のものを望むのであり、このような基準が残っているので、願いをもつのを皆さんは知らなければなりません。これを完成させるのは、祝福を受けてこそ可能なのです。祝福がどれほど驚くべきことか分かりますか。(118)

 神様の愛は絶対不変であり、唯一です。絶対的な神様、永遠なる神様です。その神様の心情圏に立たなければなりません。ですから統一教会に入ってきて、出たり入ったりする者は信じられません。絶対不変の心情圏内には、神様の愛が共にあるでしょうが、それ以外の場所には神様の愛がとどまりません。永遠にとどまるようにしようとするならば、サタンを屈服させ、永遠不変の自我を実現しなければなりません。皆さんは、まだそのような立場に立っていません。そのような立場に立つためには、先生が成した勝利の基準を相続しなければなりません。

 日本に高層ビルがあるでしょう。それを誰が建てても、登記台帳に自分の名前を書き記せば自分の所有物になります。紙一枚でそのビルの主人になります。先生のすべてのものを相続するということも、これと同じようなものです。宇宙復帰の勝利圏を回復し、世界的に立派な建物を建てて台帳をつくり、譲り渡すのです。これを汚す者がいるときには、命懸けで闘うのです。ここにいる全員が主人です。今、全員が同じ競技場のスタート・ラインに立ったのです。走ってみなさい。必ず日本の中心氏族となることでしょう。

 私たち自身には何の価値もありません。ただ原理を宣布し、原理的な主張を広げられるだけです。そうすればサタンもどうすることもできません。そのような原理のすべてを伝授する伝授式が、まさに祝福です。

 祝福とは永遠の宝物です。子孫万代を今から出発するという一つの契約です。それを汚すときには、一族が引っかかります。イエス様を十字架につけるようになり、一つの国家が引っかかったのと同じように、一族が引っかかります。(119)

 先生が生涯で最も貴いものだと考えたものは、何だったでしょうか。祝福です。皆さんにおいても、人類歴史始まって以来の最高の贈り物が祝福です。(120)

 祝福をしてあげることは、天の全権を移し与えることを意味します。(121)

 統一教会の食口は、祝福を受けるのが原則だと知らなければなりません。また、祝福を受けることを喜びと思わなければなりません。堕落した世界全体を得たとしても、それは悲しみの世界です。だから、何をもっても替えられない喜びと感謝の位置で祝福を受けなければならないのです。皆さんの心はどうですか。皆さんは、祝福の価値を正しく知って受けるのではありません。(122)

 我が統一教会員は、祝福について自分の思いのままに考えてはなりません。この祝福は蕩減復帰の条件です。蕩減復帰の条件というのは、自分の家庭の運命に責任をもつために与えるのです。ですから、その家庭をすべて復帰して世界的なサタンを屈服させ、世界へ行く道を開拓すべきだと考えるのであって、自分自身が福を受けるという考えをもってはなりません。福を分け与えるための「私」になるべきなのであって、福を受ける「私」になろうとすれば、それは「私」を中心とするので、滅びる考え方です。これが非常に重要な問題です。ここから善と悪が分かれるのです。祝福は貴いのは貴いけれども、誤って受けたら滅びるというのです。(123)


2、祝福の価値


 皆さんは摂理的に見たとき、結婚がどれほど重要なことであるかを知らなければなりません。神様を中心として祝福を受ける位置は、地上天国と天上天国が相まみえる位置です。横的に永遠な世界と瞬間的な世界が相まみえる位置です。(124)

 聖書六十六巻のみ言はばらばらではありません。何によって定立されるかといえば、祝福という言葉で定立されるのです。聖書六十六巻をすべて解いて調べてみれば、祝福を受けた勝利の夫婦の前に全部合理化されるのです。(125)

 統一教会に入って皆さんが祝福を受けたということは、神様が四千年の間摂理された土台の上にイエス様を送り、み旨を中心に家庭を復帰したという勝利的基準に立ったのです。それで皆さんの後孫たちは、復帰摂理において何ら功労がなくても、皆さんの勝利の基準を通して、四千年復帰摂理において功臣となった先祖たちの恩恵を引き継ぐことのできる位置に入るようになるのです。(126)

 イエス様が来て四千年歴史を終結させていこうとしたものは何でしょうか。それは家庭でした。家庭があったならば、氏族は自動的に時間がかかろうと、横的な面において歴史を置いて蕩減できます。イエス様の一族が生まれただろうし、イエス様の民族が生まれただろうし、イエス様の一国が生まれたのではないでしょうか。そうすることのできる家庭をもつために、イエス様は三十三年間苦労したのです。三十三年間苦労をしてももてなかった家庭なのに、あなたたちに、祝福の価値が分かりますか。祝福は六千年間探してきた恨みの解決門です。(127)

 イエス様が二千年骨を折ってなしたかったのは、何だったでしょうか。婚姻の宴をするということですが、婚姻の宴とは何でしょうか。まさに祝福なのです。

 イエス様が二千年の間願ってきた所願成就の基準が祝福―婚姻の宴です。婚姻の宴をしようとすれば、新郎の前に新婦が現れなければなりませんが、それがキリスト教の終末です。ですからキリスト教を越えなければ天国へ行けません。(128)

 祝福は誰がまず受けましたか。イエス様と皆さんについて見ると、皆さんはアベル的な立場で長子の嗣業を復帰するので、その栄光の位置をまず相続していくのです。霊的な面では、イエス様が皆さんの父親格の立場に立ちますが、肉的な面では、皆さんは先生とかかわりを結んでいるのです。このように思いもよらない祝福を受けても、皆さんはその価値を知らずにいます。さながら貴い皇太子として生まれても、物心つかない幼い時にはそれを知らないのと同じです。今や皆さんもこれくらい育ったのですから、自分が天の王子であり天の国の群れであることを知って、自分のすべての環境に対する礼法を身につけ、自分の本分を遂行していかなければなりません。(129)

 祝福を受けたということは、メシヤが二千年間苦労して地上に基盤を築き、選ばれた民族と教団と自分の氏族を中心に、新郎新婦の名をもって出発することのできる時が来たということです。皆さんは氏族的メシヤになれますか。先生と父子の因縁が結ばれたので、サタンもどうすることもできないのです。このように、祝福は本当にとてつもないことなのです。(130)

 祝福の位置とはどのような位置でしょうか。祝福の位置は世界で最もよい位置です。その祝福の位置は、誰と関係を結ばなければならない位置でしょうか。皆さんは自分一人で完成するのではありません。純粋にご父母様の愛によって完成するのです。子供は父母の懐から生まれれば、できが良かろうが悪かろうが、その父母の形態に似るのです。それと同じように、統一教会では、真の父母の道理を教えてあげます。それが皆さんには福の中の福です。(131)

 祝福は全世界を与えても取り換えることのできない価値があります。時には、私が祝福してあげたことを後悔することがあります。祝福は、一人の男性、一人の女性が神様のみ旨を中心として、真の愛を実行する真の父(true father)、真の母(true mother)になれとして、与えたものです。(132)

 皆さんは衣、食、住の問題が難しいといって、やらなければならない使命を失い、神様が与えた祝福をお金で売るのですか。そうするつもりなのですか。神様の祝福は天と地を与えても取り換えられません。(133)

 国の君主でも国民でも「サイン」するのは同じですが、その内容においては天地の差があるように、祝福においても外的に見れば大した差がないように見えますが、その内容と価値について見れば、とてつもない差があるのです。(134)

 三・一運動に参与した人(三十三人)の中に、李甲成という人がいるでしょう。今その人一人が生きていますが、三・一運動について見ると、その人は大統領より偉いですか、偉くないですか。それは尋ねるまでもなく、偉いというのです。同じように先生を通して合同結婚式をした人は、世界的な栄光を受けるでしょう。何の話か分かりますか。たとえ最も最後に結婚したカップルが、夫婦共に目も一つなく、鼻も曲がっていて、耳一つなく、腕一つない不具者中の不具者でも、彼らは世界的な栄光を受けるようになるでしょう。そのようなことが問題ではなく、先生を通して祝福を受けたというそれ自体が問題になるというのです。分かりますか。それは何億ドルでも買えないというのです。我が統一教会の娘たち、それが分かりますか。どれくらい分かりますか。(135)

 祝福はたやすく行われるのではありません。何か記念行事や例年の行事のようになされるのではありません。祝福の価値を知れば、皆さんはお父様の愛と心情を相続しなければなりません。(136)

 祝福の位置は、とてつもない位置です。恐ろしい位置です。ここでは、適当に自分の感情を通してすることはできません。一つの生命の価値は、宇宙よりも貴いのです。それゆえ、一人に責任をもつことにおいても、永遠をかけて責任をもたなければなりません。このような問題を左右する位置が祝福の位置であることを、皆さんははっきり知らなければなりません。

 それゆえ、自己の一生にそのような一時をもったならば、その人は幸福な人です。このようなとてつもない祝福の位置に、皆さんが加担するためには、歴史的な決心をしなければなりません。(137)

 祝福は死ぬか生きるかの決定点です。(138)

 祝福は天地で最も貴いものです。同時に至極恐ろしいものです。万一、夫婦が互いに違う考えをするならば、それは相手を蹂躙することです。

 皆さんから、まず、善なる祖先、地、国が生まれるのです。ゆえに、祝福を受けた人は、目を開ければまず天地を考えなければなりません。祝福は他の人に福を分け与えるためのものです。(139)

 祝福はその価値を知って受けなければなりません。祝福を受けることによって、第三イスラエルの位置に立つようになるということを知らなければなりません。皆さん、祝福の意味と価値を知ってみると、祝福を受けない人は本当の統一教会員だと言えますか。結婚しない人々を大人扱いしますか。人間の世の中でも、未婚の娘が死ねば「処女の怨霊」と言い、未婚の男が死ねば「チョンガーの亡霊」と言います。それは誰かがそう作ったのではありません。天道がそうなっています。(140)

 エデンの園で男性の前に女性を創造しなかったならば、どうだったでしょうか。女性がいるという事実は、宇宙的な奇跡です。真理です。奇跡中の奇跡は、男女が存在するということです。片方だけ存在しても、人類は終わりです。統一教会の祝福の価値が、このような角度からも十分に理解され得なければなりません。一度相対者に出会えば、それは永遠と連結されます。宇宙を与えても、神様を与えても買うことのできない本然の夫婦の愛を感謝し、強く雄々しくありなさい。統一教会の真の愛を味わった者たちは、世界のどこに行っても、その愛の光が共について来るようにならなければなりません。人類を、全宇宙を真の愛を中心として愛さなくては天国に行くことができません。それで天国の門の鍵がペテロに与えられたのです。(141)

 天国は家庭を築いてこそ行けます。そのため統一教会では合同結婚式をしますが、その合同結婚式はどのようなものでしょうか。初めて来た人たちも「合同結婚式というのは、ばかげたことだと思っていたのに…。あっ!」と驚くはずです。そうです。素晴らしく、立派なのです。それゆえ初めて来た未婚の男女も、今や合同結婚式に入れないものかと、鼻水、涙を流して騒ぐようになっています。(142)

 以前には、自分の父母が嫁がせてやるといっても嫌がって、本部教会に逃げてきて隠れ住んだ人たちもいました。オールド・ミスというだけでも、胸が揺れ動いて、嫁がせてくれればうれしがるはずなのに、なぜ逃げるのでしょうか。それは文先生でなければ嫌だからです。どんな内容をもっているからでしょうか。それは真の父母の内容をもっているからです。先生の言うことを聞かなければだめなようになっています。

 八十歳を越えたおばあさんたちも、祝福を受けられずに死ねば天国に行けないという事実を知っているので、死んでいく最後の瞬間にでも、何千里外に男性がいて、何千里後ろに男性がいても、二人を絹糸で結ぶという祝福の条件でも受けたがります。統一教会ではこのようになっています。先生はこのようなことをやり遂げなければならないとは、運の悪い人です。(143)

 統一教会は、なぜ合同結婚式をするのでしょうか。これに対する話を全部するようになれば、おばあさんたちは骨が溶けてしまうでしょう。「私がもう一度、若いころに戻れたら、統一教会の合同結婚式をするだろうに…」。他人が悪口を言おうと言うまいと、涙を流すのです。人はうれしい時に、喜んで笑います。しかし、もっとうれしい時は、涙が出るのです。それは悪いことではありません。(144)

 今日、統一教会では合同結婚式をします。ここにいる皆さんの中でも頭の回転の速い人は、統一教会で合同結婚式をさせずに追放することほど恐ろしいものはないということを知っているでしょう。それを知っているので、アメリカ人も日本人も、私が来いと言えば、「はい、行きます」と走ってくるのです。大統領が反対しようが来るようになっているのです。このように鼻をつかまえて、世界をつかんで引っ張れば、世界が回るようになっています。(145)


3、祝福を受けるべき理由


 堕落が何かと言えば、神様を中心として結婚式をしたことではありません。サタンを中心として結婚したために、神様の名において結婚しなければなりません。その結婚は世界史的な結婚です。一つの民族の中での結婚ではなく、民族を踏み越え、サタン世界を超越した位置での結婚です。サタン世界を踏み越える一場面です。(146)

 我が統一教会を中心として成されるこの合同結婚式は、統一教会にだけ限定される結婚式ではありません。これは、すべての人類が必ず経なければならない公式的な路程なのです。私たちは、これをはっきりと知らなければなりません。

 それでは、これを行わなければならない根本的な原因はどこにあるでしょうか。それは、私たちの人間始祖が堕落したからです。万一、人間始祖が堕落しなかったならば、今日、私たちが祝福を受ける、このようなことはなかったはずです。しかし、堕落することによって、再び神様の主管圏に越えていかなければならない復帰路程が残るようになったため、私たちはこのような道をさかのぼらなければならないのです。今日、人間が宗教を信じるのもこれゆえであり、歴史が目指してきたのも、やはり同様です。

 結局、最後の目的はどこにあるのでしょうか。真なる家庭を探そうということです。これが、堕落した人間が捜し求めてきた最高の目的なのです。この真なる家庭を築くためには、真なる人が現れなければなりません。真なる人の中でも、真なる男性がまず現れなければならないのです。そうして、その真なる男性が真なる女性を捜し立て、神様を中心として聖婚式をすることによって、初めて真なる家庭が出現するようになるのです。

 人間が堕落することによって、このような起源をもてなかったために、私たちは今までのすべての家庭を否定して、新しく神様の摂理の意向に従って、このような家庭的基準を踏み越えていかなければならないというのです。万一、その基準を越えられなければ、堕落した人間は本然の世界に帰ることができないというのが、原理的な見解です。堕落した人間は、誰でもこの公式的な条件を経ていかなくては、神様の前に立てないということを知らなければなりません。(147)

 サタンをアダムとエバ、すなわち夫婦が引きずり込んだので、夫婦が追い出さなければならないのです。それは、彼らがサタンの侵犯を受けて偽りの父母になったので、真の父母が現れて復帰しなければならないということです。そのようにしなくては、天国に入れないのです。今でもイエス様が楽園で祈祷されているということは、いまだにサタンの讒訴圏内に残っているということです。

 これからは、統一教会を中心に第三イスラエルの民となるためには、祝福を受けなければなりません。過去のアブラハムの時代には、イスラエルの民になろうとすれば、割礼を受けなければなりませんでした。そしてイエス様の時代には、洗礼を受けなければなりませんでした。同様に、統一教会では、祝福を受けなければ第三イスラエルの民になれません。しかしながら、祝福を受けるための条件は簡単ではありません。先生もその条件ゆえに四十年の生涯を捧げました。一生をそのためにすべて費やしたというのです。(148)

 祝福はなぜ受けるのでしょうか。福を分け与えて、その福が全世界にまで回っていくようにするためです。(149)

 天国理想は、結婚して家庭をもたずには成されません。統一教会で、すべての善男善女が祝福を受けなければならないというのも、天国理想を実践していくためです。ですから、未婚者はもちろんですが、既に結婚した人だとしても、一定の基準を備えて再祝福を受けなければなりません。すべての人が祝福を受けなければならないというのは、創造理想の世界へ帰っていくためです。創造理想の世界は、真の男性と女性が祝福を受けてつくっていく世界ですが、堕落によって愛の歴史が一度も現れなかったのです。(150)

 人間は、その父母の位置に立つことによって初めて、天的な相続を受けることができるのです。それが、イエス様の小羊の婚宴です。言い換えれば、今日統一教会でいう祝福の位置を経なければならないということです。すなわち、神様から祝福を受けなければならないというのです。(151)


4、祝福は誰がしてくれるのか


 アダムとエバは、長成期完成級で堕落しましたが、これを復帰しようとすれば、堕落した反対の経路を通らなければなりません。彼らは愛の問題を中心として堕落したので、私たちの復帰路程においてもその基準に到達しようとすれば、必ず愛の問題を克服していかなければなりません。

 サタンを中心とした愛の問題を克服しようとすれば、神様の愛を中心とした真の父母の愛に連結されなければなりません。ですから、堕落した父母の血統を受け継いだ人類は、真の父母を迎えて縦的に一つとなり、堕落圏を克服する道を歩まなければなりません。これを克服することは、一人ではできません。必ず、男女が一つとなって解決しなければなりません。

 統一教会で行っている祝福は、そのような意味があります。ですから、祝福というのは、自分の思いどおりになるのではありません。父母を中心として始まらなければなりません。

 堕落の血統を受けて結婚するこの世の人たちでさえも、自分を中心とするのでなく、父母を中心としてきた歴史があります。復帰路程においても同様です。真の父母が現れ、真の父母を通した復帰摂理によって、アダムとエバが堕落した段階を初めて克服するようになるのです。(152)

 愛によって堕落したために、復帰も天を中心とした新しい父母の愛と関係を結んで行わなければなりません。それで、統一教会で合同結婚式をするときは、先生とお母様と二人でしてあげるのです。それが愛の伝授式です。ここでつくられた伝統は、永遠の伝統になるのです。革命は必要ありません。このように革命の必要のない新しい伝統がこの天地間に立てられるとき、ここから新しい家庭と新しい氏族と新しい民族、そして新しい国家と新しい世界が形成され、この地球星を支配できるのです。(153)

 ここは天道を立てる所です。命懸けで原理原則を立てるために自分の生活を捧げてきたのに、この結婚という問題について、皆さんの言葉を聞いて適当にする男ではありません。(154)

 祝福は誰がしてくれるのでしょうか。父母がいなければ他の人がしてあげることもできますが、父母が立派に生きている限り、他の人がしてあげることはできないのです。ですから統一教会では先生が祝福してあげるのです。ここにいる未婚の男女たち、私が結婚祝福してあげないと言えば、みんな動揺することでしょう。誰でも原理を知ってみれば、自分勝手に結婚しろと言ってもできません。先生がしてあげなければならないのです。原理がそうなっています。(155)

 エデンの園において、本来、アダムとエバの息子・娘の結婚式は、神様の命令によってアダムとエバがしてあげるのです。私たちの結婚式も同様の道理です。それで統一教会では真の父母の名で祝福してあげるのです。皆さん、今までこの世の中で、自分のお母さん、お父さんが結婚の主礼に立って結婚式をしてあげるのを見ましたか。そのような人はいないのです。それは、世の中には完成した人がいないということを物語っているのです。

 結婚式はまさに愛の伝授式です。神様の愛をもって父母が生きるように、皆さんも父母の愛を神様の愛の代身として受け、「このように生きなさい!」という愛の伝授式が結婚式だというのです。神様の愛を父母から伝授されるのです。ある名の知れた人から受けるのではありません。それは天使長がしてくれる結婚です。名のある人が夫婦の片方だけ来て結婚式をしてくれるのは、全部天使長から受ける結婚式です。(156)

 結婚の前には、自分の思いをもってはいけません。神様の思い、父母の思いに合わせるのです。そうしておじいさんと父母が良しというようになるとき、初めて祝福を受け、全体を相続するのです。

 私たち家族におけるおじいさんのような愛をあなたたちに上げるのであり、父母のような愛をあなたたちに上げるのであり、全体を相続する式が祝福です。その時から、「私」があるのです。「私」を立てることができるというのです。宇宙の中に「私」がいると言えます。同様に、皆さんが祝福を受ける時までは、自分の思いを中心に動くのではありません。(157)

 先生がなぜ皆さんにこのような話をするのでしょうか。今、何人かは格幅もよく、実力もあったりして、内外から見て統一世界でも用いられ得る人ですが、彼らに対しても、このような心配があるのです。彼らは自分を中心にして生活を決定します。自分を中心にして考える人は滅びるのです。そうでしょう。自分を中心にして考える人が、自分を中心にして考える妻を迎えるならば、二人一緒に滅びるのです。そうでしょう。ではどうすれば滅びないのでしょうか。結婚ということを消化でき、み旨を中心としてそれをしのぐことのできる実績基盤をもたなければなりません。これをもたなければ必ず滅びるのです。それは不可避なのです。それでは、それは誰がしてくれますか。先生がしてあげます。それで先生が今まで祝福をしてあげたのです。(158)

 誰も手を着けられないことに統一教会は着手し、再創造の道に導き出すのです。これが可能となる日には、世界が一つとなるのであり、悪なるサタン世界を天の国に転換させることができるのです。

 今日アメリカで、若者たちが自ら相対を求めるようになったのは異常なことです。キリスト教文化圏なのに、聖書で許さないことをしているのです。これは物質文明と共にサタンの侵食を受け、サタン的自由主義によってそのようになったと見るのです。

 ところで皆さんはなぜそうしませんか。サタンがしたことを私たちはすることができません。愛とは何でしょうか。神様から、父母から受け継いだ結婚をするのが原則であるにもかかわらず、自由結婚を提唱したことが堕落なので、これを根本的に根絶やしにしなければ天の国に帰ることはできません。(159)

 先生が世界を巡回しながら、アメリカ野郎、ドイツ野郎、フランス野郎、イギリス野郎、イタリア野郎――全部野郎です――を呼んでおいて「あなたたち、お母さん、お父さんが結婚させてくれるのがいいですか、統一教会の先生が結婚させてくれるのがいいですか。さあ、先生が血統転換させてくれたらいいという人は手を挙げて」と言ったら、「ああ、先生が結婚させてくれなければいけません」と言って、みんな手を挙げたのです。気分悪く……。しかし、手を挙げたのは賢明なことです。そうでしょう。気分が良くなるまで、手を挙げなければなりません。

 今まで、どの東洋人によって西洋人がそのようにしたことがありますか。何か有名などこかの大学を出て、ある学士コース、博士コースを踏んでいる人であっても、統一教会に入ってきていったんみ言を聞き原理にしっかり掛かれば、自分の思いどおりに結婚できないので、先生に侍って祝福を受けようとします。しかし、先生が行ってあげたらの話です。とてもおもしろいことです。

 アジア人、東洋人たちが行って西洋人たちを集めておいて「この野郎!」と言っても、彼らが「はい!」と言える基盤、死ねと言えば死ぬことができ、出ていけと言えば出ていくことのできる、そのような基盤を築いておいたのです。同じように、彼らは一生で最も重要な結婚問題を先生に任せて従います。自分の父親、母親の言葉は聞かなくとも、自分の国の大統領の言葉は聞かなくとも、先生の言葉は聞くというのです。先生が線だけ引いておけば、誰でもちゃんと従います。(160)

 この世的に考えると、そんな無礼な人がどこにいますか。息子、娘を連れて父母の承認なしに思いのままに結婚させるというのです。祝福を受けた人たちの父母が、先生に「先生、ご苦労様でした」とあいさつしなければなりません。しかしあいさつする暇がありません。忙しいからあいさつできず、式場で先生の顔だけ見て、「ああ、あの人が統一教会の文先生だな」ということで、万事オーケーになるのです。そうすれば、それでいいのです。

 これからアメリカ大統領の息子も私たちの教会に入ってくれば、その大統領を差しおいて、先生が思いどおりに結婚させてあげるのです。その時、その息子が先生の思いのままにするようになれば、その大統領もお祝いを言う客になって訪ねてこなければならず、どうしようもないのです。私たちはそのような素晴らしい点をもっているのです。皆さん、そのようなことを考えればわくわくしませんか。この世は眠っていますが、この世を目覚めさせ、歴史を変えてしまわなければなりません。今やお母様、お父様が共に立って主礼をするのが例になりました。これからは主礼をそういうふうにするでしょう。統一教会がそのようにすれば、従ってくるようになっているのです。(161)


5、祝福は宇宙全体のためのものである


 神様の祝福は絶対的に公的なものです。その祝福はある個人だけのためのものではなく、また、ある家庭だけの、ある国家だけの、ある世界だけのためのものではありません。神様の祝福は宇宙全体のためのものです。(162)

 皆さんが創造目的を完成したアダムになり、エバになろうとすれば、結婚しなければならないのですが、この結婚は誰のためにするのでしょうか。神様のためにするのであり、神様のみ旨のためにするのです。ところが、今までみ旨を中心にして見るとき、自分の思いどおりに行動する、なっていない人たちが多かったのです。自分の気に入らなければ、やるのやらないの、口数が多いというのです。こんな人たちは全部切って捨てなければなりません。み旨の前に寸分も許すことのできない者たちだというのです。

 今、私たちがしているこのことは、誰のためのものですか。神様のため、み旨のため、万民のため、世界のためのものです。自分自身を中心としてするのではありません。現在の皆さん個人個人、あるいは男性、女性たちも、自分自身のものではありません。自分のものである前に神様のものだというのです。自分のものである前に世界のものです。

 このように貴い新郎新婦の位置に出るための自分の存在価値を感じながら、四六時中、夜でも昼でも献身し、伝道する人になれば、神様の前に祝福を許され得るのです。(163)

 祝福は自分個人のためにしてくれるのではなく、その個人をして氏族、民族、国家、世界を代身した新しい家庭を成すためにしてくれるのです。その家庭は自分の個体、金氏ならば金氏だけのための家庭ではありません。その金氏だけの家庭ではなく、民族と国家を代身し、さらには世界を代表できる家庭です。このような家庭を築かなければ、祝福が成立できないという事実を、私たちは知らなければなりません。

 それはなぜそうなのかと言えば、人類の先祖アダムとエバは個体としては二人ですが、歴史的始発点に立っているので、その二人だけで終わるのではありません。その二人を通して新しい家庭が顕現し、また、新しい氏族が顕現し、さらには新しい民族、国家が必ず顕現するのです。このような世界的な基盤が決定される位置が、まさしく祝福の位置です。

 この祝福の位置を、アダムとエバが堕落することによって失ってしまったので、私たちがこれを再び復帰しなければならない立場に立っているのです。それゆえ、このような祝福は、私たち個人の祝福に限ったものではありません。したがって、この祝福の基盤である民族、国家の基準を越えることのできる立場で祝福を受けようと誓わなければ、復帰の完結を見ることができないという事実は、必然的なものだということを私たちは知っています。(164)

 皆さんが祝福を受けても、自分のために祝福を受けようという人よりは、世界のために祝福を受けると考えるならば、福を受けるのです。そのような考えをもって祝福を受ける人は歴史の中に残りますが、そうでない人はそのまま流れていってしまいます。(165)

 皆さんは今現在の立場で、氏族を中心として大韓民国と世界に連結されている、そのような立場に立っています。だから、世界人類を代身し、大韓民国の三千万民族を代身し、皆さんの氏族を代身して、祭司長の責任を担当すると宣誓しなければなりません。そうして、私たちの家庭は歴史時代において天を中心として残される家庭であり、世界の前に必要であった家庭であり、神様ご自身の愛の世界で必要な家庭だという、絶対的内容を残すという決意のもとに祝福を受けなければなりません。このような内容を知らなければなりません。(166)

 天地を中心とした新しい世界が展開されなければなりません。自分個人ならば、個人が「私はこのような息子となり、このような娘となります。この息子と娘が行く道は、あなたが願われる国のための道です。国のみならず、あなたが今まで追求してこられた世界のための道です」と言えなければなりません。行く途中には困難もたくさんあるでしょうし、困窮の曲折もたくさんあるでしょう。しかし、そのようなことが問題になるのではなく、いかにして、このすべてを突破して、国家を通過し世界へ行き得る夫婦となるかということが問題になるというのです。(167)

 一人の男性として、一人の女性として、一生を二人が同伴して生きること、それが祝福を受けるための基台ではありません。これは、新しい世界を形成するための運命を負っていかなければならない決定的な因縁を結び、継承する位置だというのです。その位置が、そのような祝福の位置であることを皆さんは知らなければなりません。この道は、自分の思いどおりに行きたいからといって行くことができ、行きたくないからといって行かなくてもよい、そのような道ではありません。必然的に行かなければならない私たちの運命の道です。この道は、私たちにおいてたった一度しか付与されない、二度とない道だというのです。万一、ここで失敗した日には、再び、復帰という名詞を探し立てることのできない最後の道であることを皆さんは知らなければなりません。(168)

 祝福の場に参席する人がいるとすれば、彼はただの一人の男性、あるいは一人の女性だという立場で参席してはいけません。その位置は、今まで六千年の間通り過ぎていった多くの男性、あるいは多くの女性を代表した位置です。その席に、皆さんが招請されたという認識をもたなければなりません。皆さんは、そのような事実を内情的な心情をもって体恤しなければなりません。(169)

 祝福の基点に現れた責任者、すなわち中心存在は、その時代という制限された環境にだけ処している存在ではありません。世界史的な内容を帯びた中心人物だというのです。それゆえに、祝福は夫婦の因縁を備えることだけで終わるのではありません。その祝福によって新しい家庭が形成されなければならず、新しい氏族、新しい民族、新しい国家が形成されなければなりません。そのすべてがここから始まるというのです。(170)


6、合同結婚式を挙行する理由


 合同結婚式は、神様の新しい家庭を探し立てるためのものです。神様を何よりも愛することができるようにするのです。(171)

 統一教会の誇りは合同結婚式です。しかも、同じ民族同士で結婚するより、東洋と西洋の人が一緒になって結婚式をするというのが、誇りだと言わざるを得ません。そのことは、統一教会でなければ誰もできないのです。大統領もできないのです。それは、先生が優れていてそのようなことができるのではなく、神様の力が作用しているからです。(172)

 合同結婚式は、ここに参加するすべての人が蕩減の歴史を通過するのです。皆さんはなぜ合同結婚式をするのか、それを知りたくありませんか。

 もし、エデンの園で祝福の行事が行われたならば、それは天宙的な大事件になるのです。しかし、人間の先祖の堕落によって、エデンの園で天宙的な基準を成せなかったのを、原理によって蕩減するために合同結婚式をするのです。イエス様も最小限ユダヤ民族全体が祝う中で結婚式を挙げなければなりませんでした。しかし、その誰もがイエス様の結婚に対して、関心をもちませんでした。

 イエス様のこの恨みを解いてあげるためにも、全国民の関心を促す合同結婚式をせざるを得ないのです。昨年に四三〇双の合同結婚式を挙行した時は、これが世界的話題になりました。それを、世界がいろいろな面で研究課題にするのです。神様の結婚式はそのくらい、世界的なものにならなければならないというのです。(173)

 私たちが合同結婚式をするのは、堕落が合同でなされたせいです。天使長とエバ、エバとアダムまで一緒に堕落しました。これを再び直そうとすれば、霊界が動員されなければならないし、女性世界、男性世界を動員しなければなりません。(174)

 歴史的な恨みを解くために合同結婚式をするのであり、これで本然の家庭が見いだせるようになったのです。天地運勢はこれを中心として回るようになりました。(175)

 神様が催した宴会は、サタン世界のどの宴会よりも大規模でなければなりません。しかし、個人としてはその基準に立てないので、歴史始まって以来なかった合同結婚式を挙げなければならないのです。(176)

 先生の聖婚式は、今までのどのような結婚式よりも盛大にしなければならないのに、苦難の中で行ったために盛大にできませんでした。ですから、これからは盛大にしなければならない条件が残っています。

 食口たちは自分を中心とした三代の中で、外的に最も結婚を立派にした立場に立たなければなりません。そうしてこそ、サタンの前に条件を立てることができます。それで合同結婚式をするのです。内的な面でも神様が喜ぶ結婚をするためには、祭物的な条件を立てなければなりません。(177)

 天の側の家庭が現れる前には、サタン側の家庭を天の側の家庭として接ぎ木することができません。それゆえに、そのような天の側の家庭を成すために、統一教会では合同結婚式をするのです。世の中の人たちは、統一教会は合同結婚式をするといって笑いますが、合同結婚式を通して神様が接ぎ木することのできる内容をもつのです。(178)

 神様は、正しい血統を継いであげるための役事をされるのです。統一教会の合同結婚式は、何代を経て誤った血統を切ってしまい、神様が願われるとおりに改種しようというのです。(179)

 統一教会の合同結婚式というのは、一個人の結婚問題を解決するためのものではなく、歴史時代に今まで数多くの先祖たち、あるいは民族、国家が、全部天と相克していた、その門を開放するためのものです。そうするために、一つのグループとなり、時代的な一チームの使命分担を一時負ったというのです。三六家庭ならば、三六家庭が一チームとなり、七二家庭、一二〇家庭、四三〇家庭が各一チームとなります。歴史的な結婚を中心として成してしまった家庭の失敗を蕩減し、一つの中心的な復活家庭として登場させたのが、合同結婚式をした祝福家庭なのです。

 祝福の式場は、金某、朴某が結婚する結婚式場ではありません。彼らは歴史時代に世界、国家、民族、氏族、家庭的代表だという基準を立て、家庭を中心としてひっくり返すのです。(180)

 神様を中心として世界民族を編成するために、統一教会では合同結婚式を行います。(181)

 私たちは大家族の因縁によって現れたので、結婚式の式典をするとしても、合同結婚式をせざるを得ません。(182)

 合同結婚式の目的は何でしょうか。それは世界を救うためのものです。この結婚式は、国境と人種と言語、文化、慣習を超越した国際合同結婚式でした。新しい神様の民が編成されるのです。したがって、この結婚式場は和解の広場でした。(183)

 本来エデンの園では、一人の男性と一人の女性の結婚式をもたなければなりませんでした。ですから、全世界の男性と女性を代表して、天地を代表した数を祝福するのが合同結婚式です。数がたとえ少なくても、この祝福基盤は年ごとに増えるだろうし、毎年加重されるでしょう。

 このようにして大韓民国の祝福家庭の数が三千七百万以上になる時には、大韓民国は自動的に復帰されるのです。もし私たちが一千万、五千万、一億になる日には、アジアを復帰しても余るのです。自動的にそのようになります。(184)













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第四節 祝福を受けるための蕩減条件

祝福家庭と理想天国

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第四節 祝福を受けるための蕩減条件


1、復活と蕩減条件


 堕落した世界では、いかなることにも、そこに蕩減条件を立てなければならない内容があります。蕩減条件を立てることは、自分が復活するために祭物を捧げるのと同じです。ですから、蕩減条件はありがたいものです。(185)

 復帰の道は人間が原状に戻る道なので、蕩減条件を立てなくては行くことができません。蕩減条件は神様がお立てになるのではなく、人間が立てなければならないのです。

 病気になった人が病気を治すためには、薬が苦くて飲むのが嫌でも、飲まなければなりません。良い薬は苦いのです。苦いのが本当の薬になるというのです。蕩減条件を立てることは、苦い薬を飲むように難しいのです。しかし蕩減条件を立てなければ、復帰され得ません。(186)

 堕落した私たち人間は、神様を中心とした直系の血縁関係をもって生まれることができませんでした。ゆえにこれを否定し、神様と新しい因縁を結んで本然の位置に戻らなければ、祝福の場に出ることができないのです。言い換えれば、私たちは堕落した死亡の世界で生まれたので、神様を中心とした生命の世界に帰っていくためには、復活しなければならないのです。もう一度、新しく生まれなければならないというのです。

 ここで生まれて、生まれたことだけで終わるのではなく、私たちが成長し得る過程を経なければなりません。それを経るためには、諸般の蕩減条件を立てていかなければならないのです。諸般の蕩減条件を立てていくに当たっては、個人的な使命のみならず、国家的な使命と世界的な使命も合わせて責任を負っていかなければなりません。このような責任を中心として、どのように蕩減してきたかによって、祝福という問題が左右されるという事実を私たちは知らなければなりません。(187)

 皆さんは、神様のみ旨を深く知れば知るほど、サタンによって汚されたこの肉体、サタンの汚れた血が流れる自分の肉体を燃やしてしまいたい思いになるでしょう。サタンに利用された手と足、この体全体を、一度に吹き飛ばしてしまいたい思いになるでしょう。サタンによって汚された自分の姿をそのまま保存していこうとするのは、とんでもないことです。皆さんは、そのような心情を体恤してみましたか。しかし、私たちはそうして死んでしまうこともできないため、私たちにはサタンとかかわり合った過去の自分を清算するための条件が必要です。(188)

 蕩減条件を立てる方法については、先生から教えを受けなければなりません。もし、昔日本でそれを知ろうという考えをもった一人の人がいて、日本全部と交換してでもそれを買ったとするならば、既に日本は世界を統一したかもしれません。世界でそれより良い事業はないでしょう。聖書に「人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか」というみ言があります。命とはそれほど貴いものです。私たちは蕩減条件を立てる方法を正しく悟って、自分の貴い生命を復活させていかなければなりません。(189)

 救いの道は蕩減して復帰する道です。蕩減とは、堕落した経路に従い、さかのぼっていくことです。逆に行くのです。(190)

 歴史的な蕩減条件をすべて立てて勝利した先生は、サタンが善に対して今まで使用してきた手段と方法によってサタンを攻撃したとしても、問題になりません。スターリンが宗教者たちを粛清したのと同じ手段、それと同じ作戦をサタンに向かって立てると考えてごらんなさい。先生にもそのような面があります。(191)

 完成は自動的に成るのではなく、蕩減によって成されるのです。ですから、堕落世界に生きている人間は、蕩減条件を立てなければ、人格の完成を成すことができません。

 自己完成は、蕩減条件を通して成されます。蕩減の峠を越えない人には、絶対に完成の道はありません。それは、内的な意味から見れば個人完成を意味しますが、神様の立場から見れば復帰だと見ることができます。蕩減完成のその基準を復帰完成ということができます。復帰は蕩減を通して成されます。それゆえに、蕩減復帰だというのです。ですから、蕩減と復帰はもう切り離すことができません。(192)

 「蕩減復帰」と言うとき、それは「復帰のための蕩減」です。完成を中心として蕩減復帰して完成します。蕩減された後に復帰をします。復帰をして完成の道を行きます。ですから、蕩減と復帰は一つだと考えればよいのです。(193)


2、蕩減条件は自分自身が立てなければならない


 人間が堕落することによって、どのような結果が現れたでしょうか。人間世界から神様が追放され、天使世界が追放され、万物世界を失い、その次には個人基準、家庭基準、氏族、民族、国家、世界基準をすべて失ってしまいました。失ってしまったというのは、結局、アダムとエバ自身が追放したということです。

 その責任は誰にあるのでしょうか。その責任は神様にあるのでもなく、天使世界にあるのでもなく、万物にあるのでもなく、人間にあるというのです。このような結果が現れたのは、どこまでも人間の責任です。

 ですから人間は、自分たちが責任を負って復帰路程を歩むべき運命に置かれるようになりました。ところで、復帰路程は一人では行くことができません。必ず再創造の原理を通して、神様と霊界の協助を受けながら行かなければなりません。また、協助を受けながら行かなければならないのが救援摂理であるので、神様と霊界が動員され、再創造のみ業をしているのです。なぜなら、神様は人間を創造される前に天使世界をつくられ、天使たちの協助を受けつつ万物をつくられ、その万物を材料として人間をつくられたからです。(194)

 堕落は人間がしでかしたので、蕩減復帰も人間自らがしなければなりません。罪を負った者が罪を蕩減しなければならないのが原則だからです。父母が偽りの父母となったので、真の父母が来て、そのすべてを蕩減してあげなければ、神様のもとに立ち帰り得る道がありません。このすべてを解決してくださる方が真の父母なのです。真の父母は皆さんの生命の数千万個、数億個を捧げるとしても取り換えることのできない価値をもっておられる方です。それゆえ皆さんは、真の父母を尋ねて、「命を懸けて従います」と言うことができなければなりません。

 イエス様は「死なんとする者は生き、生きんとする者は死ぬ」と言いました。出発点に向かって蕩減復帰していく道だからです。(195)

 蕩減条件は自分自身が立てなければなりません。他の人が、代わりに立ててあげられるものではありません。堕落は主管権を失ったことを意味します。

 復帰のためには、他人がどんな干渉をしたとしても、自分自身の確固たる主体性をもっていかなければなりません。他人がどのような道を行こうとも、自分の行くべき道が忙しいのです。横で何を言っても、そこに神経を使う暇がありません。夜寝る時間がありません。落ち着いてゆっくり座ってご飯を食べる余裕もありません。そのような切迫した心情をもたなくては、復帰の道を行くことができません。(196)


3、サタン圏(堕落圏)を脱するには


 皆さんが完全に救われるには、自分の罪を清算しなければなりません。皆さんの過去と現在のすべての生活を通じて犯した罪を清算するのです。罪を清算するには、原理原則に外れないことをしなければなりません。(197)

 悪とは、サタンの讒訴し得る条件を提示することです。罪とは何でしょうか。サタンの讒訴し得る内容をもつようになれば罪です。ですから、誰よりもまずキリスト教徒たちは、罪の根をはっきりと知らなければなりません。

 悪は、サタン自身は言うまでもなく、エバにおいても「私が主体になってみよう、私が中心になろう」というところから出発しました。

 神様の創造の原則は、「相手のために生きよ」ということであり、「私のために生きよ」というのは、サタンの根性です。皆さんは善悪の起源をはっきり知らなければなりません。悪なる人は、私に仕えよと言います。神様もこれを打ち砕こうとするし、イエス様もこれを打ち砕こうとします。それゆえ、おごり高ぶるな、他のために犠牲になれ、奉仕せよと教えてきました。(198)

 堕落して故障したので、故障したのを直そうとすれば、故障する前の原理原則に合わせなければなりません。また、創造の法度に一致できるようにするためには、再創造歴史の過程を経なければならないのです。堕落は相手のために自分を投入しないで、反対に相手をして自分に投入せよと言ったところから生まれたので、反対に投入することを通じなければなりません。それゆえに、宗教は自分を犠牲にせよと言うのです。(199)

 アダムとエバの堕落以後、人間がかかった病気は何ですか。サタンを中心として愛の病にかかり、間違ったその愛の病によってサタンの血統を繁殖してきたのです。言い換えれば、サタンの血統を受け、サタンの直系の子女として生まれたことが病気だというのです。

 ところで、その愛の病はどのようにして出発したのでしょうか。自分だけを中心として、自分だけを考えるところから出発したというのです。神様が立てた秩序と天地の道理、環境などすべてを否定し、自分を中心として愛したところから堕落の病が生まれ出たというのです。それゆえに、この病を治そうとすれば、自分を否定して神様だけを絶対的に中心として生きなければならないのです。天使長やアダムとエバが神様を中心とした愛を願ったならば、堕落しないで理想世界を築いたでしょう。

 天国は、神様を絶対的な中心として侍り、神様を通して愛の因縁を結んで生活する所です。神様はこの根本を正しく立てるために救援摂理をされるので、自分を主張するようになれば、絶対いけないというのです。(200)

 自分を中心とした堕落圏、すなわちサタン圏を脱するには、神様を中心とした観念をもたなければなりません。そうしてこそ、脱することができるのです。それ以外には脱する道がないので、不可避的にこのような道を選ばざるを得ないというのです。(201)

 皆さんが統一教会員として伝道やいろいろな活動をするようになるとき、「ああ、大変でもうできない」と言うようになれば、どうなるかご存じですか。それは、神様を中心としたものになり得ず、自分を中心としたものになるのです。

 このような原則を考えるとき、皆さんが統一教会に入って仕事をするに当たって、行けないとか、不平を言いながら仕事をする人がいるならば、不合格的な仕事をしたことになるということをはっきり知らなければなりません。自分を中心として統一教会で仕事をする人は、困難に出くわすことになれば、いくらも行かずにレバレンド・ムーンと統一教会に対して不平を言いながら、今まで統一教会に入って仕事をしたものは自分のものだと主張するというのです。

 私の行くべき道は困難であるけれども、私に先立っていかれる神様がいるし、私のそばで共に行く友達がいるし、私たちの兄弟がいるということを考えるべきです。また、人類が行くべき未来の運命の道が、いまだに私たちの前に残っているということを考えなければならないというのです。私の生命が尽きるまで行くという考えをもたなければなりません。そのような考えをもつことによって、サタンが自分を中心として堕落した基準を越えるのです。私を中心としたものではなく、神様を中心とした考えをもつことによって、堕落圏を越えることができるというのです。それゆえ、統一教会で一番難しい時だということは、まさに一番困難な堕落圏を退けて、解放され得る日が近づいてきていることを意味します。(202)

 元来、堕落とは死の境地に陥ったことなので、救いのためには死の境地に飛び込まなければなりません。どうせその過程を通過するべき運命にあるならば、男らしく喜んで臨む皆さんにならなければなりません。そのように決意を固めてみ旨の道を行く食口が多くなれば、世界は新しい方向に進んでいくでしょう。私たちはその母体を築く心情に燃え上がっています。皆さんの心の中には、生死の境地を超越できる信念がありますか。

 先生は数十、数百、数千、数万にもなる生死の境界線を見詰めながらサタンと対決してきました。名状し難い困難な環境が、波のように繰り返し繰り返し押し寄せてきても、先生が立てた基準は変わりません。たとえ足が折れたとしても、目玉が飛び出したとしても、首が折れたとしても、出発した時の心情基準から離脱しません。ですから、死にさえしなければ勝利します。(203)

 どのようにしたらサタン圏の愛とサタン圏の血統から脱出できるでしょうか。自分を愛し、自分だけを考えれば、いつでもサタンが引っ張っていくのです。反対に、「私」を否定し、神様を中心として考えて生活するようになれば、サタンは「私」を管理できず、神様が臨在して管理するようになるのです。こうすることによって、サタン世界の天使長圏から解放され得るというのです。堕落した天使長の立場から、堕落しなかった天使長の立場に上がっていくのです。(204)

 アダムは、単に一個人の立場で堕落したけれども、彼は全体の中心なので、世界を復帰しなければなりません。復帰しなければなりませんが、一時に復帰できません。一つ一つ復帰していかなければなりません。個人の立場を整備していかなければならず、家庭的な環境から氏族、民族、国家、世界、天宙的な環境まで整備しなければなりません。全部で八段階を経るのです。理想世界を探し求めていく人間は、必ずこのような問題を解決してこそ、愛の主体である神様に思いのままに出会うことができるのです。その中で、どこかがふさがれたならば、その基準以下には通じるかもしれませんが、それ以上の世界には通じません。絶対的な神様と一つになる道を得ることができないのです。ある段階まで行けば、蘇生圏と長成圏の霊界までは、霊人たちの協助を受けることができますが、神様と通ずるのは難しいのです。

 個人から神様に直通することのできる環境を、いかにして拡大するかというのです。これは、神様の悩みであり、堕落した世界にいる人間の悩みなのです。この二つの悩みは、結局、堕落した人間によって生まれたものです。

 人間は天使長によって堕落したので、これを正さなければなりません。これは、肯定する段階では絶対にそうすることができません。自己をまず否定しなければなりません。ですから、唯一絶対の主体を願う人は、絶対否定の位置を通過しなければなりません。唯一絶対の主体を願う人は、この環境圏内で否定という条件を充足させなければなりません。

 だから、蕩減復帰は肯定の条件が少しでも残っていれば成されません。絶対否定の条件によって蕩減条件が立てられます。そのように、絶対否定の基準が、個人、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙、神様に進む時まで立てられなければなりません。そうして八段階が充足されれば、人類歴史の理想郷に連結されます。その段階ごとに、必ず絶対否定の過程を経なければ、神様に通ずる理想郷を連結することができません。(205)

 神様はどこに現れますか。堕落していないアダムとエバに現れます。ここで私たちは神様を発見することができます。私たちはみんな、堕落以前のアダムとエバ、罪のないアダムとエバの立場に戻らなければなりません。そこで真の父母を迎え、真の氏族をつくり、真の国家をつくり、真の世界をつくらなければなりません。このような主張をするのは、統一思想以外にはないのです。

 ここまで到達しようとすれば、堕落した経路とは反対の経路を貫いていかなければなりません。蕩減の道は、堕落した者には原則として現れるのです。これを克服しなければ、原状に復帰することができないので、自己を清算しなければなりません。個人的な問題から、家庭、氏族、国家、世界をどのように復帰するのかという、はっきりとした理論体系をもっていなければなりません。(206)


4、祝福を受けるための基台


 罪悪世界は、個人から始まって、家庭、氏族、民族、国家、世界へと拡大されてきました。神様もそのような基台をつくっていこうとすれば、天使長圏、あるいは僕圏を広げていかなければなりません。そこから次第に、養子圏、実子圏にまで広げていかなければなりません。実子圏内にもカイン・アベルがあります。堕落した父母によって生まれたカインとアベルは、互いに争って落ちていきました。カインとアベルが完全に一つとなったという基準を立てなければ、堕落圏を越えることはできません。

 堕落圏は、実体基台を立てることによって初めて、克服することができます。そうして、完成基準に入ったといえども、サタンから受け継いだ血統的な原罪は、まだ清算されていない状態なのです。

 原罪を清算するためには、必ずメシヤが必要です。ですから、信仰基台、実体基台、メシヤのための基台は、堕落した人間に絶対に必要なのです。最後の問題は、メシヤのための基台を造成して、メシヤを迎えて自分の血統転換を成さなければならないことです。そうして、神様の真の子女の立場に立てられなければなりません。(207)

 祝福は、カイン・アベルの基準を復帰した立場に立たなくては受けられないのです。父母の前に戻ろうとすれば、カインとアベルが一つにならなければなりません。そうでなければ、父母のもとに戻れないのです。復帰がそうだというのです。アダム家庭において、カインとアベルが一つになって復帰するのが原則です。(208)

 私たちの統一原理で、信仰基台と実体基台を中心として成そうとするのは何でしょうか。堕落する直前は、約婚の段階であるので、堕落しなかったアダムとエバの立場に復帰しなければならないというのです。それでは、堕落する前の約婚段階に復帰するには、どのようにしなければならないでしょうか。

 アダムとエバが偽りの愛で堕落して偽りの父母になり、この偽りの父母を中心として三人の息子であるカインとアベルとセツ、そして彼らの妻まで含めて八人の家族が堕落した立場なので、この八人の家族の形態を復帰するための内外の内容が、すなわち信仰基台と実体基台だというのです。これを復帰した後に、天の父母に侍って越えていかなければなりません。

 ここで、天の父母が誰かといえば、すなわちメシヤです。ですから、実体基台を通過した後には、必ずメシヤのための基台が造成されなければなりません。堕落した人間の前に、このメシヤがいなくては、本然の位置に復帰できません。堕落したアダムとエバの後孫である人間は、誰かれを問わず、メシヤを迎えることができなければ、原罪を脱ぐことはできないのです。(209)

 人類の先祖であるアダムとエバは、自分たちを中心とした誤った愛で堕落しました。自分たち同士の愛を中心として、天使長を介入させ堕落することによって、神様を追放し、本然の真なるアダムの人格を追放し、本然の真なるエバの人格を追放した結果をもたらすようになったのです。

 このように神様の許さなかった愛の因縁を導入することによって、私たち人間には何が生まれたのかと言えば、原罪というものが生まれました。ですから、私たち人間はこの原罪を脱ぐことが問題です。ところが、私たち人間が偽りの父母によって生まれたので、真の父母の愛の因縁を再現させなくては、この原罪を脱ぐことができません。原罪は偽りの父母の愛によって植えられたので、この愛を否定するためには、真の父母を中心とした愛の基盤がなくてはならないのです。(210)

 原罪のある人は祝福の場に出られません。サタンの血統的内容を自分の体の中にそのままもっている立場なので、神様を中心とした祝福の場に出ようとしても、出るべき道理がないのです。ですから、必ず原罪を清算しなければなりません。この原罪は、偽りの父母の愛によって受け継がれたので、これを清算しようとすれば、真の父母の愛を中心として蕩減条件を踏んで立たなくては、脱ぐべき道理がないのです。この原罪を脱がなければ、完成した夫婦の立場での、神様の愛を中心とした祝福はあり得ないのです。

 生命は愛を起源として誕生するのですから、皆さんは真の父母の愛を中心として一体とならなければなりません。そうでなくては、復活の役事を体験できないのです。これを通過した後に、天国の法度を立てていくことのできる、堕落しなかったアダムとエバの資格を継承し、完成段階で神様から初めて「善なり」という公認を受けてこそ、祝福を受けることができるのです。それゆえ、このような三段階過程を経るのです。(211)


5、祝福を受けるための蕩減条件


 人々は祝福という言葉をたやすく使用します。しかしこの祝福の裏には、どれほど多くの苦難と苦痛があり、また、それが存在するまでの過程が、どれほど難しいものであるかを知らないでいます。

 私たちに祝福を下さる方は神様です。そして、その祝福を受けたのは私たち人間、すなわち皆さんです。ところで、堕落した世界においては、人間が祝福を受けられる適切な条件を立てない限り、神様が人間に祝福をしてあげることはできません。(212)

 統一教会の祝福について見るとき、問題は何でしょうか。祝福を受けるために、蕩減条件を立てることが問題です。ここには、悲壮な内容が結びつけられています。歴史的に見ると、皆さんは堕落の血統を受け継ぎました。それゆえ、祝福を受けるためには、堕落の血統を刈り取り、基本的な問題を解決することのできる天的な条件が必要です。そのため、統一教会は今まで迫害を受けてきたし、心情的に十字架の道を歩んできたのです。だから統一教会に入れば、今までの私的な因縁をすべて切ってしまうのです。全部切ってしまうのです。(213)

 祝福を受けようとすれば、蕩減条件を立てなければなりません。昔、汚れたことがあれば、洗い流してしまわなければなりません。しかし、これは自分の力だけではできません。助けが必要です。弁護士に助けてもらうためには、心の中の事情まですべて告白して許しを請う必要があります。そうすれば弁護士は、それが自分の問題かのような立場に立って、それを弁護してくれます。そうしなければ、助けを受けることができません。

 先生は、神様の前に皆さんの立場を代弁する弁護士です。ですから皆さんは、先生には誰も知らない自分だけの秘密を全部告白できなければなりません。皆さんは悩みの種がまた生まれたと思うでしょう。先生がそのような話をすべて聞いてあげるということのほうが、もっと悩ましいことです。しかし、祝福を受けるためには、このような立場を通過しなければなりません。汚れたものなら消しゴムで消して、きれいな白紙になったという条件が成立してこそ、初めて祝福が成り立つのです。(214)

 祝福の時とは、受難の道を経て蕩減条件を提示しておき、サタンの讒訴条件を越えて、苦難の後に無事に突破した忠節の志操をもっているところにおいてのみ、迎えられるようになっています。(215)

 私たちは心情的に三つのものを復帰しなければ、祝福の基準が認定されません。神様を中心として、上には父母の心情、下には子女の心情、そして夫婦の心情を実現できる自信のある男性、女性でなければ、祝福を望むこと自体が神様の規則に逆行することになります。

 「そのような立場に私は立っている」と自信をもって言える人は手を挙げなさい。日本には祝福を受けるべき者がいませんね。いかなることにも、そこには蕩減という一つの問題があるのです。それは、皆さんの復活のための「献身」なのです。ですから、蕩減条件を立てなければなりません。それについて「感謝します」と言わなければなりません。(216)

 祝福を受けるためには、個体の復活がなければなりません。イエス様がゲッセマネの園で祈祷したように、皆さんも祈祷しなければなりません。(217)

 イエス様は人類の真の父、真の父母として来られました。イスカリオテのユダがイエス様を売って十字架の死の道を行くようにしたというその行動は、結局、世界万民が行ったのと同じことになってしまいました。それは、子孫の一人として摂理圏内にあるすべての民が、自分の父母を売り飛ばした結果になってしまいました。これを蕩減する条件として蕩減献金というものがあります。

 一人の人の誤った行動により、真の父として来られたイエス様をこの地上から追い出した立場となり、神様の摂理は四方八方に完全にふさがれてしまいました。これを蕩減する条件として、四年間三数に該当する金額を、イエス様を売り飛ばしたその実体の代価として、神様に返さなければなりません。四年間というのは東西南北に匹敵し、韓国では一年に三千ウォンずつ、四年間にわたって納めるという条件で、一万二千ウォンずつを献金します。そのお金は、イエス様を売り飛ばした過誤を蕩減する条件としては、あまりにも少ないものです。しかし、神様の聖なるみ旨を考えつつ、血と汗と涙のこもった最高の祭物を捧げるという精神が内包されていなければなりません。(218)


6、祝福を受けるための蕩減期間


 祝福を受けるためには信仰の定期過程を経なければなりません。ところが、今までそうではない人を祝福してあげたあとで見てみると、結果が良くなかったというのです。必ずそれが的中していたというのです。(219)

 祝福よりもっと重要なことは、蕩減の路程が終わったのかということです。(220)

 今日まで先生が蕩減の道を歩み精誠を尽くしたので、半分ぐらいは皆さんが責任をもちなさいというのです。皆さんは見本どおりにやりさえすればいいので、簡単です。

 元来は三年半ずつ二回、すなわち七年の蕩減期間を経なければなりません。しかし、祝福を受ける前に三年半を経て、七数を経て越えていくのが蕩減復帰路程です。それが、すなわち再創造路程です。

 家庭を築こうとすれば、個性完成をしなければならず、そのあとに相対的な因縁を結ばなければなりません。そうして、相対的条件を成すことのできる位置に立って祝福を受け、三年路程を経ていかなければならないのが統一教会の原理です。

 先生が皆さんに伝道をさせるためだけにそうするのではありません。天法を守らなければならないのでそうしているのです。(221)

 皆さんもイエス様のように、死を覚悟して地上地獄の救世主として行きなさいというのです。そうして皆さんは、先生が歩んでいったその道に従って、同じ蕩減条件的道を行かなければならないのです。

 そのような理由で、先生が三十三年の間に歩んできたすべての蕩減の道を、今日、三年半、三年以内に、同じように従ってきなさいというのです。(222)

 三年半は、息子・娘を探し求め、その次には結婚して三年の期間探し求めて、その三年分立期間をつくっておいて息子・娘を生まなければならないというのです。それを七年間でしなければなりません。

 七数を完成できなかったことによって霊界と肉界を失ってしまったので、七年の期間で霊的肉的蕩減復帰を完成すべき使命があるという事実を知らなければなりません。そうしなくては、先生について行くことはできません。(223)

 先生は入教して三年以上になった人は、できる限りみんな祝福してあげようとします。それ以下の人は、先生もどうすることもできません。(224)

 皆さんは、祝福を受けるという問題について見ても、「三年路程を行かなければならないし、三人の息子をみ旨の前に立てなければならない」という程度の、常識的な使命だけを遂行するのではいけません。(225)

 統一教会に入った人は、修養の過程を経なければなりません。できなくても、七年以上の試練の過程を経るべきです。これから、これを公式化させるのです。(226)

 未婚の青年男女たちは、自分の体や自分の家庭のために血と汗を流してはなりません。ただみ旨だけのために三年以上、心から忠誠を尽くしてみなさい。絶対に滅びません。そうすれば、真に忠誠を尽くし得る立派な子女を生むことができます。(227)


7、修練の過程と七日断食


 統一教会では、二日修練と七日修練、二十一日修練、四十日修練を合わせて、原則では六カ月以内に七十日の修練を受けなければなりません。これはみ言であり、法の条項です。そうしてこそ、統一教会がどうであるのかが分かります。(228)

 統一教会に入ってくる人は修練の過程を経ます。二日、七日、二十一日、四十日の修練会をすべて経て、七十日間の修練を受けることが必要です。この修練を通して、無知により堕落した人々が、知ることによって復帰できるというのです。その時までもっていた思想観念を新しい方向に転換するために修練するのです。

 これは復帰摂理で見れば、復帰基台摂理時代と同じです。また、七日修練から蘇生時代に入ります。旧約時代の完成摂理圏に該当します。ここに入ることによって、新約時代のメシヤを迎えに行かなければなりません。七日修練は旧約時代に該当するものであり、蘇生の人格を回復する期間です。二十一日修練は新約時代に該当します。この修練を受け、イエス様を救世主として侍ることのできる人にならなければなりません。すなわち、実体的メシヤの前に、洗礼ヨハネ的人格を完成するのです。それは養子の資格を完成する立場です。ここでもう一度四十日修練を受ければ、成約時代に該当する立場となり、メシヤを迎えて接ぎ木する立場となるので、初めて天国の血統を継ぐことのできる息子の立場となるのです。このようにして、堕落しなかったアダムよりも優れた立場に上がった神様の息子の立場を引き継ぐのです。しかし、引き継いだだけで終わるのではなく、息子の資格を備えて初めて、天国に行くことができます。(229)

 百二十日修練を受ければ、統一教会の威信と体面を立てることのできる人になります。(230)

 百二十日修練を受けていない人は、統一教会の正会員として扱いません。(231)

 二日から百二十日修練までを制度化しておいたので、世界に行っても共通です。(232)

 終わりの日には三大審判を経なければなりません。三大審判は真理審判と人格審判と心情審判です。この三大審判を経て初めて、真の父母と因縁を結ぶ場に参席できる権限をもつようになるのです。

 原理にパスできなかった人は、祝福も受けられないのが原則です。神様のみ言が分からない人に祝福をしてあげて、自分の勝手気ままにありとあらゆる遊びごとをし尽くして回ればどうするのですか。法を知らない人を裁判官として立てれば、自分勝手に判決を下すというのです。それで、法を教えてあげるのです。(233)

 原理には三大審判があります。真理審判、人格審判、心情審判です。堕落が三大要件を犯したからです。先生はこれを通過して、皆さんに教えています。復帰の道は自分がまず成して教えなければなりません。なぜならば、ここに原則があるからです。父母がまず知らなければなりません。実行するのも父母がまずしなければなりません。父母が実行しなかったので、父母がまずしなければならないのが原則です。ですから原理は、先生によって既にこのようなことを成した基準が立っていなければ、教えることができません。

 皆さんは、原理にパスしなければなりません。原理にパスして原理基準に引っかからないだけの自分にならなければなりません。そうして、原理の実体者とならなければなりません。蕩減原則に外れる人の実体復帰は成し遂げられません。そのような条件が残っている場合には、サタンがいつでも自分のものだと言って引っ張っていきます。ですから、実体基準を立てようとするならば、サタンに正面から対抗して勝利しなければなりません。(234)

 私たちは怨讐の血を受けて生まれたので、この血を引き出してなくさなければなりません。それゆえに、宗教は「断食をしなさい。謙遜でありなさい」というように、自らの肉身を打つ役事をしてきました。(235)

 皆さんが霊界に行くとき、一週間以上天のために断食できなかったならば、あの世に行って入籍することができなくなります。なぜでしょうか。神様は六千年復帰歴史路程で苦労したので、それを考えながら断食をしなければならないというのです。それで、統一教会には七日断食の期間があります。それは、皆さんを苦労させようというのではなく、天の前に肉身を打ったという条件を立てさせるためのものです。

 それゆえに、肉身を打たなければなりません。私たち人間が、「この怨讐の体、この肉のかたまりめ! その中に血がうごめいているな」と言いながら刀で刺してしまうべきものを、有り難くもイエス様が代身して刺されたのです。では、イエス様は私たちに何を残してくれましたか。イエス様の血と肉を残してくれました。私たちはそのようなイエス様を代身できる人にならなければなりません。(236)

 昔は、信徒たちが祈祷する中でイエス様に出会おうとすれば、昼夜となく七年以上精誠を尽くさなければなりませんでした。そうしなくては、出会うことができませんでした。しかし、最近は七日だけ精誠を尽くせば、先生に出会うことができます。ある問題をかけて、七日の間だけ断食しながら精誠を尽くせば、先生が間違いなく教えてくれます。

 皆さんは、神様が訪ねてきた道がいかに苦労多き道であったかを知らなければなりません。先生はこの道を訪ねてはきましたが、訪ねてきた道を、さらに訪ねていかなければなりません。「私」を探し求めるために今まで苦労された神様に侍り、誤ったことを蕩減しながら行かなければなりません。それでは、神様に侍っていく時には、いかなる立場で行かなければならないのでしょうか。皆さんを中心として行くのではありません。霊界から天の因縁を通して決定された基準をもって、この世界の前に先頭に立って走っていくのです。(237)

 先生の生活に対して悪く批評する人は、先生の生涯を知らず、天の事情を知らない人です。先生の周囲にいる人々の中で、八〇パーセントは天に通ずる人でなければなりません。皆さんは、特別断食祈祷をしてでもその基準に上がっていかなければなりません。そうでなければ、先生の願う食口を探します。(238)

 皆さんの中で一週間断食祈祷をした人は手を挙げてごらんなさい。一週間断食祈祷をしてみた経験のない人には、七日目の夜の十二時三分前の気分がどうであるのか、数百冊の本を書いて説明してあげたとしても分からないでしょう。砂糖の味についていくら説明を聞いても、一かけらの砂糖をなめてみるのには及びません。十字架の道を信じようとする人は、十字架の道を実際に実行してみなければなりません。神様の心情が分からない人は、神様の分身のような立場に立たなければなりません。復帰摂理の中心人物になろうとすれば、自分の愛する人を怨讐に譲り渡しても、耐えられるだけの決心が必要です。(239)


8、信仰の三子女


 蕩減条件を立てるなら、まず信仰の三人の息子・娘が絶対に必要です。なぜなら、アダムとエバが堕落することによって、アダムの八人家族が堕落したので、その八人の家族を代表し得る基準を越えなくては、行くことができないのです。それを備えず、「民族のために、国家のために、世界のために」という言葉は、ただ形式にすぎません。このように見ると、出発基点からこの基準は絶対的だというのです。その絶対的基準を解決して行くべき運命の道にあるのが、祝福の位置であるのを、皆さんははっきりと知らなければなりません。(240)

 祝福を受けた立場は、アダムとエバが堕落する直前の状態に復帰された立場です。ゆえに、アダムとエバが成長する時、三天使が彼らに侍るべきだったように、三天使の実体である信仰の三子女から侍られる立場に立ってこそ、祝福を受けられます。ですから、祝福を受ける前に、必ず信仰の三子女を立てなければなりません。

 信仰の三子女は、アダム、ノア、アブラハム三時代の三子女(八人家族のための)と、この三時代のカインを象徴します。(241)

 まず三名の天使長が一体化した基準、すなわち三名の信仰の子女が皆さんの祝福のために協助し、準備してくれなければなりません。ですから、三名の信仰の子女がいなければ、復帰されません。三名の信仰の子女がいなければ、三名の天使長を完全に協助させた基準に立ち得ないので、そのまま堕落圏内にとどまるようになり、サタンがいつでも相対して引っ張っていけるようになるのです。だから、信仰の子女が絶対的に一体化した基盤の上で、すべてのものを犠牲にして、祝福を受けることのできる環境を造成しなければなりません。三名の天使長は、アダムとエバに仕えなければなりません。その段階を通過した後に神様の認定を受け、三名の天使長が「アダムは成熟したので、対象と祝福を受けさせてください」と言うことができなければなりません。ですから、三名の信仰の子女がいなければ、絶対に祝福できないというのが原理原則なのです。それをもたずに結婚した者は、まだ堕落圏内にとどまっているのです。(242)

 祝福を受けるためには、イエス様が失敗したその基準以上を乗り越えなければなりません。また同じように、イエス様が死ぬときに三弟子まで反対したので、皆さんは死ぬ境地に入っても三弟子と一つになり得る、そのような皆さんの四位基台をもたなければなりません。それがすべて公式的なので、皆さんも絶対的に信仰の子女三人がいなければ、祝福を受けられないのです。(243)

 統一教会で祝福を受けるなら、三人を伝道しなければなりません。イエス様も同様に、変貌山頂に登っていくとき三弟子と一緒にいましたが、その弟子たちと完全に一つとなれなかった状況で、「私は仕えられるために来たのではなく、仕えるために来たのである」と言いました。(244)

 祝福対象者は自ら資格を整えなさい。

 三子女復帰、勝利的復活体としてのアベルは、勝利的長子なので、第一の怨讐の子供を奪ってこなければなりません。三子女復帰は、

 ①霊的には三大天使長を復帰させること、
 ②父母の位置を決定するための絶対要件、
 ③子供を完全な勝利の位置に立てることのできる絶対要件です。これをもたなくては、天国に入れません。(245)

 ここで五年以上になる人は手を挙げてごらんなさい。日本から百五十名がロンドンに来ましたが、六〇パーセント以上が五年以上になったというのです。その間、み旨のためにどれほどの仕事をしたのかと聞いてみると、今までずっとみ旨のために仕事をしてきたというのです。実績は何かと聞いてみました。み旨のためにするということは、世界を救うということですが、み旨のために仕事をしたとするなら、全世界をみ旨の中に導いて、世界が救いを受けられるようにならなければならないのではないかと言うと、そうだと言うのです。それなら何人伝道したのかと聞くと、二人しか伝道できませんでしたとか、伝道はしようとしましたが、一人もできませんでしたという人がいました。それでみ旨のために仕事をしたと言えますか。入教してから五年以上になったという人は、何人伝道しましたか。祝福を受けようと準備した娘たちは、何人ぐらいいましたか。三人以上伝道できなかった人は、推薦状を書いてほしいと言うことができません。そのような人を協助していては滅びます。一線に立った将兵は、敗者がどれほど悲惨であるかを知っています。それを知る人は、死ぬなら死んだとしても、敗者にはなるなというのです。先生は敗者の悲しみを知っています。基盤がなく、実力がない人の肩をもってくれる人はいません。(246)


9、祝福の本来の基準


 人類始祖が養子圏である長成期完成級で堕落したので、その息子の外的な形態と因縁を備えて、もう一度つくって長成期完成級の位置にまで上げておいて初めて、実子圏を相続できるのです。すなわち、人類始祖が長成期完成級で落ちてしまったため、この長成期完成級に行ってこそ復帰できるというのです。(247)

 皆さんの姿を見ると、顔には目鼻耳口がすべて備わっています。また体には四肢五体がすべて備わっています。このすべてが合わさって神様の前に現れるようになるとき、神様は皆さんのどのような部分を愛されるでしょうか。神様は皆さんのある一部分だけを中心として愛されるのではありません。(神様が)そのすべてを愛することのできる息子となり、娘となることを、神様は願われるのです。神様が願われる基準は、五十点ではありません。六十点でもありません。七十点や八十点でもないというのです。百点以上を願われるのです。

 その百点以上の基準というのは何でしょうか。アダムとエバが堕落した基準の位置ではありません。堕落の悲しみを見てこられた神様の前に、そのすべてのものを蕩減復帰してさしあげられる、堕落した時の基準以上の価値を追求できる位置なのです。言い換えれば、エデンの園で堕落する前のアダムとエバ以上の価値を追求するのが父の心ではないだろうかというのです。

 もし、このような条件を成立させられなくては、今までの神様の威信は地に落ちることになるのです。サタンがアダムとエバを侵犯してその栄光の一日を蹂躙した事実について見るとき、それを凌駕する新しい祝福を受けられる夫婦を、神様はもたなければなりません。サタンが神様の息子・娘を訪ねていって、再び奪うことのできる立場になれば、神様は威信を捜し立てることができなくなるというのです。このようなとてつもない基準があるということを思うとき、ここにおいて皆さんが、自分のある事情をもって祝福を受けようとしてはだめだというのです。(248)

 復帰摂理を完成するには、歴史上に現れて未完成として残されたすべての内容を現実へ引っ張り出し、もう一度解明して蕩減し、復帰していかなければなりません。これを実現しようといって出発したのが統一教会です。先生の使命は、自らそれを実行し、あとに従ってくる世界のすべての統一食口に、これを実行するようにさせることです。皆さんの使命は、み言に従い復帰摂理の完成に向かって前進することです。男性は堕落前のアダム以上の基準に立たなければならず、イエス様を代身した体として不足なところがあってはなりません。女性は堕落前のエバ以上の基準の上に立たなければならず、イエス様の新婦として不足なところがあってはなりません。統一教会の使命は、そのような男女を誕生させることです。(249)

 神様の息子・娘としての権威をもって、いかなる逆境があっても、サタンの本拠地に堂々と立ち向かっていける基準を備えなければなりません。アダムとエバを犯した、そのサタンを屈服させられる過程を通過してこそ、祝福の基準を立てられるようになります。(250)

 統一教会に従ってきた皆さんは、真の父母の因縁だとか、新しい天の家庭だとか、祝福だとかという言葉を使いますが、その祝福というのは、死亡線内にあるものではありません。祝福は蕩減圏内で、死亡線以下で受けるものではありません。それは、エデンの園での堕落しなかった範囲です。これが祝福です。(251)

 食口たちが祝福を受けるのは、一九六〇年に先生が聖婚した基準に該当するものです。皆さんは、先生が完成基準で国家基台を立てた道をあとに従って歩んでいくので、迫害がないのです。

 皆さんが受ける祝福の基準は、イエス様が二千年間願ってきたことを、実体で成し遂げた立場です。ですから、結婚した食口を自分の氏族に戻らせるのは、イエス様が聖霊を地上に送って役事するのと同じことです。(252)

 失敗によって先祖たちがサタンの讒訴条件に引っかかったのですが、それを追放するものは何ですか。祝福です。祝福という勝利的条件を立て、サタンを追放するのです。サタンがアダムとエバの二人を侵犯したので、私たちが祝福家庭を成すことによって、過去のすべての先祖たちの失敗を蕩減し、地上で復活勝利圏に向かって出発することができます。それで、今まで霊界で讒訴してきたサタンの門を開くことができたのです。(253)

 堕落は長成期完成基準以下であり、祝福は長成期完成基準以上です。それゆえ、祝福はサタンと関係がありません。したがって、サタンは反対できず、侵犯できません。(254)

 成婚式というのは、夫婦が自分勝手にするものではありません。必ず、神様の真の愛を代表して、男性として完全に愛を受け、女性として完全に愛を受けることのできる位置でするのです。(255)

 今までの皆さんは、男女間で互いに手紙を書くのは普通であり、交際するのも普通でしょう。ウインクなどは、通りすがりに鉛筆を買うかのように平気な顔でしています。そのような人が祝福を受けようというのですから、先生は気分が悪いです。本来の祝福の基準は、そのように気分が悪いものではありません。原理的に見れば、皆さんには資格がないのです。したがって堕落した後孫として、本然の基準を取り戻さなければなりません。(256)

 神様がアダムの代わりに召命することのできる立場に「私」は立っているのでしょうか。あるいは、イエス様の代わりに召命することのできる立場に「私」は立っているのでしょうか。新しく来られる主を代身できる立場に「私」は立ったと認定できるのだろうかということが、問題にならざるを得ないのです。このような立場から見るとき、祝福を目の前に控えている皆さんは、自分の過去から現在に至るまで、自分の生活を批判してみなければなりません。

 今日、皆さんの中には、自分なりに考える人がたくさんいます。「教会で恒例として行うのが祝福だ。私自身もこれこれの条件が成立したので、または、教会に入ってから数年を越えたので、そこに該当し得る資格者になっただろう」と考えるでしょうが、そのように考えてはいけないというのです。

 この日には、神様が六千年の間願われた一日を迎えることによって、失われた息子を取り戻すことになるのであり、失われた娘を取り戻すことになるのです。彼らを通して、神様の愛を連結させ得る一致点がつくられるのであり、ここから神様のみ旨を広げることのできる横的な基盤がつくられるという、このとてつもない事実を私たちは知ることができます。このように、神様の内心に一致できる心をもって、祝福の一日を迎えるために準備する息子や娘がどのくらいいるのかという問題を、私たちはここでもう一度考えざるを得ないのです。(257)


10、祝福を受けられる資格基準


 皆さんを見ると、ぐれん隊のようなのに、何の資格がありますか。祝福を受けられる資格があるのかというのです。祝福を受けようといって、来て座っていますが、皆さんが統一教会に入って数年の間に何かしたことがありますか。祝福というものは、そのようにただ来て座っていて受けられるものではありません。千年、功を積み、万年の間、功を立てたその次に、その後孫たちが来て厳粛に千万遍のお礼を捧げながら、同様に天上世界と地上世界の万民が仰ぎ見つつ、その日の栄光を称賛する中で祝福を受けなければならないのです。果たして、皆さんはそうすることができるでしょうか。(258)

 明日に勝利の旗を掲げ、神様の前に称賛され得る孝子・孝女にどのようにしてなるのかという問題を中心として、内的外的にすべてを備え、サタンが讒訴できない人格をもって参席しなければならないにもかかわらず、じっと見れば、めちゃくちゃだというのです。ですから皆さんは、この場から新しい信念をもたなければならないというのです。分かりますか。

 イエス様の時のペテロ、ヨハネ、ヤコブのような背信者の末裔になってはなりません。もし先生が死地に行くとすれば、皆さんが果たして、ペテロ、ヨハネ、ヤコブ以上の立場を越えて、先生の死の道を防ぎ、代わりに死の道に行けるのかということを、自ら自問してみなければなりません。老若男女を問わず、間違いなくそのようにするという誓いが立っていなければなりません。そうでなくては、イエス様の恨みを解くことができません。イエス様の恨みを解けなくては、祝福の場に出られないのです。(259)

 今まで皆さんは、この程度だけすればすべてのことが成るだろうと考えてきたでしょう。ところで、今日、皆さんは先生に出会いましたが、先生と皆さんの間には距離があるのです。父母様に出会えばそこですべてのことが解決されるものと考えたなら、大きな誤算です。神様がそうであるように、先生もやはり、地上で十分に成し遂げなければならない責任を背負っているのです。持っていたものをすべて使い果たしてしまい、乞食の格好で帰ってくる放蕩息子のような立場ではなく、神様が願われる孝子の立場で怨讐を訪ねていき、自分の子女を復帰し自分の財産を復帰して帰ったヤコブのような立場にならなければなりません。そうでなくては、本郷に帰っても、神様の前に面目を立てられず、祝福を受けられないという事実を、皆さんは知らなければなりません。(260)

 皆さんは、家庭にあっては家庭的アダムであり、社会にあっては社会的アダムであり、国家にあっては国家的アダムです。各自の分野でサタンを屈服させなければならないアダム的な立場であり、エバ的な立場だということをはっきり知らなければなりません。サタンを屈服させて勝利した立場でこそ、天の祝福を受けられるというのです。成婚式をすることができるのです。原則はそういうものではないでしょうか。サタンを屈服させられなかった者が、どうして天の祝福を受けられるでしょうか。これが復帰歴史の大筋です。(261)

 堕落した人間が神様の祝福を受けられる位置に進んでいくためには、僕として忠誠を尽くしたという条件を立てなければならないのです。僕の立場で忠誠を尽くした後には、養子の立場で忠誠を尽くさなければなりません。

 養子の立場を経ていくためには、養子の基準をすべて立てたという条件がなければなりません。養子は相続を受けることができますが、血統を代身することはできません。養子の資格では、楽園級の霊界にしか行けません。それゆえ、養子の基準を乗り越えるために直系の息子・娘によって接ぎ木されなければならないのです。(262)

 自分の天国を成し遂げた後に初めて、祝福を受けられます。不平不満のある人が祝福を願うことは、その相対者を滅ぼす結果を招きます。

 自分一人の中にも天国を築けない者が祝福を願うとすれば、その人は盗賊です。蕩減の路程を終わらせることが、祝福よりもっと重要です。祝福を願う前に、蕩減の路程を終えることをより懇切に願わなければならないし、神様の恨みを解いてさしあげるべき子供としての道理を尽くさなければならないのです。(263)

 復帰の路程を完全に通過しなければ、祝福を受けられません。個人、家庭、氏族、民族、国家、天宙など、すべての圏内に入って、サタンに讒訴されない基準を立ててこそ、祝福の隊列に入ることができます。(264)

 サタンが痼疾(こしつ)的な血統的因縁を掲げて現れ、数千年の間神様に損害を与えて私たちの先祖をそのように蹂躙した鉄の鎖を、完全に断ち切ってしまい、解放の旗を掲げて自由・平等な立場で、万国、万民、全宇宙が互いに調和することのできる位置に、祝福があります。(265)

 私たちは心情的に三つの立場を復帰しなければ、祝福の基準が認定されません。神様を中心として父母の心情、子女の心情、そして夫婦の心情を実現させられる自信のある男性、女性でなければ、祝福に参与する資格がありません。(266)

 二十代に近い青少年として、汚されず染まっていない聖なる純情を大切に保管し、これをどこに供えるべきでしょうか。天が一番喜ぶことのできる祭壇に供え、神様が喜ぶことのできる純情をもった男性と女性が出会って一つに結ばれ得る聖なる位置が、新郎新婦の出会う場ではないでしょうか。(267)

 世の中の男性を伝道し、あるいは女性を伝道したとするならば、自分の弟妹のように育てなさい。アダムがエバを誤って育て、またエバが兄(アダム)に言葉を誤ってかけたのを、全部是正して天の公約を立てられなければなりません。ここにおいて自分の理想を超越して神様の公約を立て、兄さんと姉さんのような立場に立って、父母の前に父母の愛を中心として天理の法度に順応しようといって進むのが、今、祝福を受ける前の統一教会の食口たちの立場です。(268)


11、祝福を受けられるただ一つの資格


 私たちが立つ場は世の中とは違います。サタンの讒訴を防ぎ、勝利圏を成すことのできる内容を皆さんに教えてあげました。皆さんはどのような基準にありますか。長成期完成級の基準にも上がってこれなかったので、どうしたら祝福をしてあげられるかということが問題です。(269)

 今、皆さんは祝福を受けようとして集まりましたが、祝福というのは何でしょうか。今まで六千年の間、宗教は一人の男性を探し求めるための役事をしてきたので、女性として生まれた皆さんが統一教会に入ってこなかったなら、神様を中心とした祝福を受けられないのです。千年、万年いかに精誠を尽くしても、神様を中心とした祝福は受けられないというのです。統一教会が現れなかったならば、祝福ということもあり得ないのです。先生がいなければ、見当だにつかないことです。

 堕落とは何でしょうか。自分たち同士愛し合ったことです。サタンゆえにそのようになったのです。ですから、神様を中心として愛の因縁を結んだ新しい夫婦が、新天地で新しい歴史の旗を掲げて出発するのは、歴史始まって以来、この時代に初めてあることなのです。

 それでは、皆さんはここに同参する資格がありますか。ありません。ただ一つ、資格があるとすれば何でしょうか。真の父母を知ったということです。真の父母を知ったという、それがまさしくその資格なのです。

 今まで復帰摂理の途上で生まれ死んでいった先祖たちを中心として見るとき、皆さんがその先祖たちに対し得る立派な資格者になったのかと言えば、そうではないというのです。しかし、彼らは父母を知りませんでした。イエス様もこの地上に来られて、真の父母の資格を教えてあげられずに逝きました。昔の先祖たちは、すなわちアブラハム、モーセ、そのほか誰も真の父母を知りませんでした。

 今日、統一教会員たちが、彼らとただ一つ違うことは何かといえば、真の父母を知ったということです。だから、皆さんは、「私たちは真の父母の息子・娘だ。世の中の何者もこれを否定することはできない。これは神様も否定することができない。絶対的だ」という信念をもてばよいのです。(270)

 皆さんは先生が分かりますか。先生が分かりますか、分かりませんか。どう分かりますか。先生の何が分かりますか。顔だけ分かるでしょう。皆さんが分かる原理を教えるその程度の先生だと思いますか。皆さんが分かる原理は、イエス様までの原理です。先生の時の原理ではありません。先生の歴史が分かりますか。「分かりません」。分からないなら、何をしにこの場に来ましたか。皆さんは孝子になりましたか、なれませんでしたか。「なれませんでした」。孝子にもなれなかった者が、ここに来て座る資格がありますか。忠臣になりましたか、なれませんでしたか。「なれませんでした」。忠臣にもなれなかった者が、ここに来て座っているのですか。

 それでは、神様は先生について分かるでしょうか、分からないでしょうか。「分かります」。霊界に行った先祖たちは、先生について分かるでしょうか、分からないでしょうか。「分かります」。神様と先祖たちが先生を敬う以上に、先生を敬うことのできる皆さんにならなければなりません。どうだこうだと疑う者たち、そのようなつまらない偽者たちは、一名もここに座る資格がありません。

 先生は四十年の生涯を闘って、一九六〇年に聖婚式をしました。そうするまで、監獄にも数限りなく行きました。むちも無数受けたし、血も数十回吐きながら闘争してきたのです。ところで、皆さんはいつ冷遇を受け、いつ残忍にむち打たれ、いつ血を流しましたか。いつそのような迫害を受けてみましたか。生命を投入して数多くの国境を出入りしながら土台を築いたものを、この乞食の群れのような者たちに全部譲り渡さなければならないとは……。

 皆さんには祝福を受けられる資格は何もないというのです。サタンたちが皆さんの首を全部切って太平洋に投げ込み、水中の鬼神にしてしまっても(=皆さんがどんな犠牲の祭物になっても)、先生は皆さんを認定できません。仕方なく祝福をさせるのです。(271)

 皆さんは祝福を受けられる、そのような位置に立っていますか。「立っています」。立っていますか。「はい」。立っているとは、何が立っていますか。先生が今までみんな病身のような者たちを連れてきて、教えてあげてみ旨に従うようにし、祝福してあげたのです。だから、どれほど有り難い祝福ですか。

 サタンを打ち砕いて、終わりの日に天の前に栄光なる勝利を捧げ奉る人になると主張して出発しなければならない人たちであるにもかかわらず、何の準備もなく、裸の状態で来た人たちだというのです。それゆえに、皆さんは祝福に対する心情的な姿勢を歴史的な観点から看破し、自らの不足な点をもう一度再検討して分析しなければなりません。今まで自分自身がどれほど不足だったかを知らなければなりません。今までは、副作用がたくさんありました。許し難いことですが、先生は特権的な恵沢を付与して、許してあげたのです。(272)

 父母の心は、死地に向かう子供を呪うことはできません。十字架を背負ったとしても、子供を生かしてあげられる道をかき分けていくのが父母の心なのです。ですから、すべての十字架を先生が背負い、子供である皆さんを生かしてあげ、行かなければならなかったのです。しかし、それが伝統であるとばかり思っていれば滅びます。言うに言えない一文無しになるというのです。父母が愛の門を開く前に、自らを省みなければなりません。天地の前に出ても恥ずかしくない姿を、どのようにして備えるべきなのかを考えなければならないのです。(273)


12、私たちがもつべき信念と姿勢


 皆さんはここで、誰を中心として祝福を受けることができますか。父母です。絶対的に信じることのできる真の父母なのです。「私は真の父母の因縁を中心とした血肉をもって生まれた。いかなる力も、この因縁を断つことができない」と言える絶対的な信念をもたずに祝福を受ければ、罰を受けるのです。

 将来、皆さんがこの条件に引っかかって倒れる日には、悲惨なことになるでしょう。今まで祝福を受けた家庭も、見ていなさい。結果がどのようになるかというのです。その時が来るでしょう。そのような人たちは、サタン世界に帰りました。彼らの後孫たちは、将来どのようになるでしょうか。それは、今言いません。彼らの親族と霊界にいる先祖まで巻き込んでいくのです。このようなとてつもない問題がかかっているのです。

 皆さんは歴史を代表し、善なる先祖たちを代表して現れたのです。善なる先祖たちとこの時代の自分の氏族を代表して現れた、厳粛な立場にいるというのです。

 私たちが一九六〇年度に伝道しに行った時、しつこく統一教会に反対していた人々は、みんな罰を受けました。みんな(木のように)へし折られました。誰が何と言おうと、そのような人々はみんなへし折られたのです。私たちが地位を勝ち取る日には、見ていなさいというのです。私たちの家庭が地位を勝ち取る日には、烈火のような怒りが落ちるでしょう。彼らは自分勝手にからかったのですが、天は利用されないというのです。このようなとてつもない内的な約束のもとに、私たちは厳粛な行事をしているのです。

 私たちのただ一つの信念は何でしょうか。真の父母の血肉を受けて生まれたということです。それゆえ、サタン世界の億万のサタンが私たちを取り囲んでいるとしても、私たちを侵犯できません。私たちは昔のアダムとエバとは違うのです。私利私欲を中心として行く人々ではないというのです。

 自分の欲望ゆえに堕落の起源を残してしまった怨恨を踏み越えなければならないのが、私たちの運命です。それゆえ、そのような恨みの峠を越えて、復帰の聖なる日を迎えるためにいで立った私たちは、いかなる危険やいかなる死の峠が行き交うとしても、放棄することはできないという信念が確固たるものでなければなりません。このような信念もなく祝福を受けるのは、天をもてあそぶことです。そのような人は、むしろ祝福を受けないほうがよいのです。(274)

 皆さんの中で、祝福を受ける資格があると思う人は手を挙げてごらんなさい。原理的観点から祝福を受ける資格があると思う人は手を挙げてみなさい。(静まりかえる)では、今まで自分勝手に生きましたが、今からは先生のみ言を絶対的に信じつつ生きますか。「はい」。はっきり分からなければなりません。信じますか。「はい」。結婚した後に、妻を送り出しても有り難いと言えなければならないし、夫を送り出しても有り難いと言えなければなりません。喜んで行ってこなければなりません。そうしなくては、サタン世界を占領できません。先生も以北に行ってきたでしょう。一度だけ行ってきたのではありません。私が行ってきたので、皆さんも行ってこなければなりません。私が共産党員からむち打たれて血を流したので、皆さんもむち打たれ血を流さなければなりません。

 先生は三カ国から艱難を受けた人です。ソ連の共産党からまでも迫害を受けた人です。以北の金日成集団はもちろん、日本からも迫害を受け、大韓民国からも迫害を受けました。国でいえば、四カ国を出入りしながら受難の道を経なければならなかったのです。大韓民国は、三政権からの受難の道を経なければなりませんでした。数多くの教派の中で、三大教派以上から受難を受けなければなりませんでした。そこには数千万が動員されているのです。三千万以上が動員されているのです。そのような試練と苦痛を経なくては、蕩減復帰ができないのです。

 このような話をすれば、皆さんは目を丸くして、ぱちぱちさせるでしょう。先生のような道を経てきた人は、今までいませんでした。皆さんは、いつ夜を明かしながら、ご飯を食べずにみ旨のために心配してみましたか。生命を失うことがあっても、み旨のために誓いをしてみましたか。そのようにできなかったのは、神様に対する冒涜です。先祖たちに対する冒涜です。先生に対する冒涜です。背信行為です。堕落とは何ですか。自分を中心として生活するために、生活の巣をつくることではないですか。

 どんな男性、どんな女性に出会うとしても、いかなる苦痛や試練があるとしても、皆さんはまず、真の父母に対する絶対的な信念をもたなければなりません。絶対的な信念をもたなければなりません。「真の父母に向かう私の心は、何が誘惑をするとしても変わらない。私の生命を十回失うことがあるとしても、これを否定できない」と言える信念をもたなければなりません。それが問題です。こうなっていなければ、悔い改めなければなりません。何の話か分かりますか。絶対的信念をもちなさいということです。(275)

 先生は生涯を捧げて、さまざまな試練の路程を経ながら闘ってきました。それを克服しようとする心情、その一片丹心をもって闘ってきたのです。絶頂を越えるその瞬間を仰ぎ見ながら、聖なる本然のみ旨を中心として進んできたのです。怨讐の刀に千万遍倒れても、有り難く思うことのできる心を保ってきました。私の願う原則に外れることなく、絶対的な父母を中心として、真の父母の血縁を中心として兄弟の因縁を結んだのです。

 それは誰も侵犯できません。「あなたの兄弟は誰か」と言えば、「誰々です」と言えなければなりません。また、「あなたの息子・娘は誰か」と言えば、「誰々です」と言えなければなりません。そうであってこそ復帰できるのです。先生はそのような仕事をしたというのです。

 イエス様は、この仕事をしている途中で亡くなられたのです。ここにいる皆さんは、今、イエス様より優れた位置にいます。そうでしょう。父母に侍っているという特権的な恩賜を受けているのです。だから、皆さんは孝子になるべきです。兄弟たちの中で、誰よりも孝子にならなければなりません。放蕩息子になるのでなく、孝子になるのです。父母を中心として孝子にならなければなりません。放蕩息子になるのでなく、本当の意味で、真なる息子・娘にならなければなりません。

 そのようにして、兄弟たちの手本になるのです。兄弟たちのすべての十字架を一人で背負い、彼らが父の前に孝行できるように教えるため、身もだえする代表者となるべきです。ここに集まった皆さんが、そのようにならなければならないというのです。ぼんやりして、目だけぱちぱちさせながらただ楽に暮らそうとするでしょう。そのような人たちは、偽りの者たちです。怨讐の一族です。皆さんも自ら反省してみて、そういうことについて呵責を感じるなら、悔い改めてください。ご飯を食べますか。断食をしながら悔い改めなければなりません。分かりますか。

 それは神様に対する冒涜であり、先祖に対する冒涜であり、父母に対する冒涜です。三世界に対する冒涜です。天使世界とアダムの世界、そして本然の世界、すなわち本郷の世界に対する冒涜だというのです。そのような者は、許される道がありません。

 しかし、先生はこのような者たちを集めて約婚してあげました。子供を間違ってもった父母の悲しみを感じながら、皆さんに対しているのです。ところが皆さんは、このようなことは夢にも思っていません。

 それゆえ、皆さんは、ただ一つの信念をもたなければなりません。悲しみを受けても、真の父母の前に変わらない孝子となり、忠臣となりますという信念をもたなければなりません。分かりますか。それこそ重要なのです。今までそのような信念をもてなかったならば、悔い改めなければなりません。備えられなかった身でここに来たのなら、恥ずかしさを感じて自重しながら天の同情と哀れみを請う一念が必要なのです。皆さん自身について見れば、ああだこうだと言える余地はありません。

 祝福はこのようにとてつもないのです。先生もそこに引っかかって一生の間、闘争してきたのです。そうするために、花のような青春をすべて失ってしまいました。五十歳を越え、六十歳に手が届く今まで、白髪がなびく今まで、この仕事をしているのです。あきれ返るでしょう。

 先生がいなければ全部滅んでしまうので、第一次七年路程で残った群れがいるとすれば、彼らを引っ張って行かなければならない父母としての責任を締めくくるために、この仕事をするのです。それで皆さんも集めておいたのです。それゆえ、皆さんは、骨が溶けるようなことがあっても必ず行きますという信念をもたなければなりません。「私はここに属した人である。この法度と原則を通して、その国の創建のための役軍としてその国に向かって行くのである。天の仰せと命令により、忠臣のように死の道を自任しながらも、数多くの先祖たちの前に、神様の前に道理を立てていかなければならないのが、今日の私自身である」と新たに覚悟しなければなりません。そのようにして、この仕事は始められなければなりません。(276)

 祝福の位置は、天との一番勝負の立場に立って、神様が認定せざるを得ない位置から出発しなければならないのです。これが堕落人間として取るべき態度です。そうであるにもかかわらず、そうできない時には、敗者として残される位置がこの位置であるのを、皆さんは知らなければなりません。皆さんがこの位置で一度失敗することになれば、皆さんの億千万代の後孫が引っかかっていくようになるのであり、同様に、先祖まで引っかかっていくようになるのです。(277)

 祝福される前に、先生が皆さんを呼んで問答する時間は、皆さんにとって最も貴い時間です。将来、その多くの人々を祝福してあげるために、このような期間を本部でもとうと思います。そうしようとすれば、相当多くの時間がかるだろうと本部で心配しますが、数カ月かかるとしても、先生は毎日のようにその仕事をしなければならないというのです。それはたやすい仕事ではありません。だから、皆さんはその代わりに多くの祈祷をしなければなりません。精誠を尽くし、この場に来なさいというのです。(278)

 日本でも、祝福だ何だというので、男女関係が活発になっています。自分たちが勝手に約束しても、先生は知っています。知らせたくなくても、どうせ先生に告白しなければなりません。兄弟以上の男女関係で互いに会うのは、サタンの実体と同じです。そのようなことは絶対に許されません。そのような要素が少しでもあれば、切っていかなければなりません。(279)

 皆さんは、六千年歴史の血統的罪の総合実体です。六千年罪悪史の展示品です。皆さんの細胞一つひとつには、六千年の罪が絡み合っています。これを解くために、歴史的な悔い改めが必要なのです。(280)

 皆さんの血の中には、サタンの血がざわめいています。それゆえ、神様が近づくことのできる要素の全部を備えられなかった自分自身の恥ずかしさを自嘆し、これを呪い、踏み越えてきた後に、ここ、この場に来なければならないというのです。ところで、皆さんはそのような考えをしてみましたか。(281)

 皆さんが真の父母から相続を受けるためには、サタン世界でもっていた野生のオリーブ的な性稟が残っていてはならないということを、はっきり知らなければなりません。自分の欲心を充足させるために、善悪を見分けずに実行したりしてはなりません。そのような人は、神様とは無関係ですから、サタン世界の人であらざるを得ないのです。(282)













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第四章 祝福の過程

祝福家庭と理想天国

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第四章 祝福の過程


  

第一節 祝福の相対の決定

  

第二節 相対を結ぶ基準と私たちの姿勢

  

第三節 約婚事例

  

第四節 祝福の過程とその意義



第一節 祝福の相対の決定


1、祝福の相対は誰が決めるか


 創造の本質的原則から見ると、相対も神様と父母が創造したので、自分が探し出すのではなく、再創造の法度に従いお父さん、お母さん、神様が探し出してくれるのです。そこから私の夫が初めて創造されてくると見るのが、天理の公約です。これが統一教会の結婚観です。それゆえ統一教会では、原則的に神様、その次には先生が探し出してくれるのです。皆さんのお父さん、お母さんは、堕落した世界においてこのような天理を知りません。分かりますか。分からないというのですか。いいかげんなものです。

 けれども、統一教会の文先生はこのような原則、天倫の公約を中心として秩序を立てることのできる基準を知ったので、この基準に従って、このような理想を中心として、神様の保護のもとで真の父母として皆さんのお父さん、お母さんに代わって皆さんの結婚を執り持つことができるというのが、理論的創造理想です。これが統一教会の結婚観です。(1)

 相対基準を自分勝手に決定することは、絶対にあってはなりません。そのような決定権限を神様から引き継いでこられる方が、まさに再臨主です。ですから、理想相対の決定権をもたれた方が現れる時には、本心に近い人であればあるほど、その方の前に立てば、説明しなくても我知らず、心情的に引かれるようになります。(2)

 祝福を受ける場合に「私は誰それとなればうれしい」と、このように心の中で、自分の好きな相手と結んでくれることを願う人がいるとするならば、その人は神様を冒瀆する人です。エデンの園でアダムとエバが堕落した時と同じです。アダムとエバが長成期完成級で堕落した時、互いが自分の相対であることを、はっきり知らなかったというのです。はっきりと知りませんでした。知らない立場でサタンの誘惑によって、知らず知らずの間にそのような結果をもたらしたというのです。皆さんは、そのような道を避けていかなければならないのです。

 ですから、祝福される前に自分の相対が分かって祝福を受けにいくことができ、祝福される前に自分の相対を決定していけるはずがないというのです。祝福の相対の決定は、天がなさるのです。父母がなさるのです。すなわち、アダムの父たる神がなさるのです。こういうことを見るとき、韓国の伝統婚礼式が天法に該当する結婚方法だというのです。父母の承諾がなくては、絶対に結婚できないというのです。これは絶対的です。

 それゆえに、息子・娘となる人たちは、自分の好きな人がいて心にあるなら、その時、すぐ父母に報告をしなさいというのです。その人を好きだという言葉が口から出る前に、まず父母の公認を受けなさい。二人は付き合ってもいいと認めてくれれば、それは大丈夫なのです。報告して恋愛をするのは罪にはならないというのです。しかし、報告しないですることは、認められないのです。(3)

 世の中の人たちは、統一教会では結婚も独裁ですると言います。しかし、独裁ならどうだというのです。天はお二人ではあり得ないのです。二人ではなく、一人しかいなければ、その国家は独裁国家でしょうか。皆さんではない他の人は、ここに立つことができません。

 今日、哲学ならば哲学においても、その起源は一つです。唯心史観か、唯物史観か、これを中心として社会の成り立ちが変化するのです。自分のほうが絶対的だというのです。これが独裁主義です。それは二つを受容できないのです。ただ、それらの起源は一つなのです。統一教会の歴史観、統一哲学は、この二つを一つとして見ています。二つが合わさって一つになったものだというのです。

 原理に出てくる二性性相の内容を見てもそうです。二つが合わさり一つとなって好ましいのに、何が独裁かというのです。これは、統一教会の文先生が一人で行うのではありません。互いを良くするためにするのです。私が対する人(祝福を受ける人)に良いからするのであって、決して私自身を良くするためにするのではありません。すべての人に良いからするのです。そうであるなら、これがどうして独裁ですか!(4)

 子供が韓国人として生まれたなら、その子に食べ物を食べさせるとき、韓国の食べ物を食べさせるべきです。西洋の数多くの国の食べ物を食べさせるということは、あり得ないことです。韓国人として生まれたので、自分の父母を中心として生活しなければならないのが原則なので、韓国のご飯を食べなければならないのです。それは、絶対的です。皆さんが完成してしまうまでは、そのように(父母を絶対視)しなければならないのです。それを知らなければなりません。絶対に独裁という観念をもってはいけないというのです。皆さんもそのような観念をもってはいけないのです。皆さんがそのような観念をもっているとすれば、先生はそれを一番気分悪く思います。

 私が頭の痛いのは、陰でこそこそ言う者たちのせいです。そのようにして結ばれた者たちは、間違ったというのです。それは天法に外れるのです。それぞれの相対は、ただ天だけが決定できるのです。ですから、そのような人がいてはいけません。(5)

 皆さんには一生にただ一度しかないこの時に、天と「私」自身がどのような関係を結ばなければならないのでしょうか。これが問題なのです。これがすなわち、皆さんと天との問題です。男性なら男性と天との問題であり、女性なら女性と天との問題です。同じように、統一教会ではどのように先生と関係を結ばなければならないのでしょうか。これが問題です。先生と男性なら、男性と一対一の問題だというのです。女性なら、女性と先生と一対一の問題だというのです。

 その問題の解決点を見いださなくては、天の国、すなわち天国に入れないのです。なぜでしょうか。自分たちだけで解決したのが、堕落の原因だからです。それが天まで届く恨みになったのです。それが堕落の根拠ではないのかというとき、これを蕩減するためには、先生と解決をつけなければなりません。ところが、今まで解決をつけられなかったのです。

 それで、ここで宣誓をするのです。み旨の前で、問答をするのです。問答をして祝福が決定した後に、一生懸命に生きなければなりません。ところが、自分たちだけで集まって座り、誰は何がどうだこうだなど、こそこそ陰口を言っています。そのようにこそこそする人たちは、なっていない人たちです。今度の機会には、絶対にそんなことがあってはなりません。ここにいるおばさんたち、訳もなくつまらなく後ろに座って、誰が何をどうだこうだなどと、そういうことを言ってはいけないのです。私はそれが一番嫌いです。もし、そのようにして原則に外れる家庭があるとすれば、その家庭は良くないはずです。そんな人は天を助けてあげる立場ではなく、むしろ天使長のような立場です。(6)

 祝福を受ける場は、自分一代から永遠まで一度しかない最も貴い場です。その最も貴い場で、最も貴い方と共に決定し越えていかなければなりません。天がここに降り立たなければなりません。そのようにして、天と共に決定した最も貴い実体にならなければなりません。このような貴い実体を、自分の思いどおりに決定していくのは原則ではありません。これを誤ったために、堕落の恨みが今まで骨身にしみたということを知らなければなりません。これを蕩減していくべき私たちの立場から、どのようにこの貴い場を尋ねていかなければならないのかということが問題です。今まで祝福家庭は、そのような観点でぼんやりしていたのです。(7)

 これから世界を中心として祝福の時が来れば、どのようになるでしょうか。皆さんに祝福を相続してあげるのです。その父が所有しているものを息子に譲ってあげれば、それは息子に渡るのです。

 そこに、収穫のすべての結実を相続した人が管理するように、その相続した人がどんなに幼く自分より若くても、その人の管理の下で仲介を受けなければならないのです。ここでは美しい、醜いが問題となりません。将来先生がこれを引き継ぎしてあげるようになる時、皆さんはその相続した人がどんなに不具者だとしても、その人の前に行って祝福を受けなければなりません。そういう時がすぐ来るでしょう。このようなことを皆さんが悟り、この祝福の場が皆さん自身の一代において、ただ一度しかない最も貴い因縁を決定づける場であることを知ってください。(8)

 世界各国の青年たち(外国食口の場合)が、自分の結婚の相対者を先生に決めてくださいとゆだねるのは、信仰なのか、尊敬なのか、信頼なのか、どちらなのでしょうか。(9)


2、自分自身で相対を決定してはいけない


 皆さん自ら相対を決定してはいけません。特に、祈祷して決めてはいけないというのです。そのような人について見れば、良くないのです。先生が以前そういう二人に蕩減条件を立ててあげ、祝福してあげたことがあります。しかし、その二人とも良くありませんでした。その人たちは、誰だと言うことができません。ただ先生だけが知っています。原則がそうだからです。もちろん、先生が許してあげて、自分たちが蕩減条件を立てたとしても、結局は良くないのです。必ず自分の子孫の三代以内に、そういう現象が起こるのです。だから、統一教会は恐ろしい所です。

 皆さんが先生について考えてみると、先生は何でもないようですが、事実は恐ろしい人です。先生を苦しめる人たちは、みんなその仲間も同じだというのです。それゆえに、私自身がみ旨に対して働くとき、深刻です。無責任な中では何事も決定しないのです。事を決定する前にまず天と相談して、すべての基準を立てて決定するのです。それが天のみ意だというときは、世間がどのように見ようが問題視しません。(10)

 前に祝福してあげた時、こんな人がいました。先生が、ある人同士を祝福してあげようとするのですが、横で他の人が「あ、その人は、何がこうこうだそうです」と言うのです。「そう、それではあなたが良いと推薦する人は誰か」と言うと、自分が好きな人を紹介したのです。つまり、先生に推薦する人が、自分の心にある人なのです。可能ならば良い人を、自分が大事にする人に、立派な夫の候補者を迎えてあげたいという心でしょう。そうではないですか。ここにいるお母さんたちも、自分の婿の候補者を見れば、互いが良い婿を迎えようと、こそこそ陰口を言うのです。結局、その女性は先生の言葉を否定し、横で言う、そのような言葉を聞いて、その人と結婚をしました。しかし、その結果が良くなかったのです。(11)

 先生が祝福してあげる時、自分たち同士好きで、結婚したくてもどかしがる人を一〇双ぐらい組んであげましたが、あとで八割が良くありませんでした。だから将来、もう少し進めば、番号を打って、番号同士を合わせて祝福してあげるでしょう。ですから、皆さんはしたいならすればよいし、したくないならしなくてもよいというのです。数万、数千万双をそのようにしなければならないのです。対象者たちに番号を付けて座らせれば、その時は、先生のアンテナが変わるのです。その瞬間は、この世の人ではないのです。その時が来れば、先生が非常作戦を展開します。今までサタンと対決し闘った非常作戦を使うのです。そのためには、たくさんの精誠を尽くさなければなりません。もし二〇双を祝福してあげるとすれば、相対を決定するのは、十分以内にするのです。その代わり決定するためには、深思熟考してやるのであって、むやみにしてあげるのではありません。(12)

 皆さんは、今回祝福するにおいて、先生のみ意に従わなければなりません。今までそうでなく、自分たち同士が好きで結婚した人たちの中には、死別した人もいます。先生がだめだと言っても、自分たちがいいと、しきりにやってくれと言うのです。「死んでもいいのか」と聞いてみても、それでもいいと言うのです。それで「よし、やってみなさい」と言って、やってあげました。予想どおり、全部そのようになったというのです。(13)

 皆さんも絶対自分を中心としての立場を取ってはいけないというのです。ここにコンパスがあるとすれば、このコンパスはいつも神様のものです。このコンパスを、神様を中心としてぐるっと回しなさいというのです。自分を中心としてこのコンパスを回せば、副作用が起こるのです。その副作用はどれくらい大きく起こるでしょうか。自分を中心として回すので、後には死ぬ羽目に陥るようになるのです。そういう人たちは、だいたい十五日間だけそのままにしておけば、目が落ち込みます。目が落ち込むようになっています。このように見るとき、皆さんは神様を中心として、相対を求めなければならないのです。(14)

 文先生は絶対に、「私が何々をします」と言っても祝福してあげません。自分たち同士でこそこそして、先生の所に行って結婚を許してもらおうというのは、先生を結婚通過祭物として、結局は利用してしまおうということです。「さあ、私たちがいいのでやってください」と言えば、先生は絶対に祝福してあげません。それは、自分の因習的な意図であると同時に、サタンの意図です。それでは、誰の思いどおりにしようというのですか。あなたたちの思いどおりでなければ、文先生の思いどおりにするかどうかが問題となります。

 統一教会の文先生はその人自体のためにしてあげるのではなく、その後孫のためにしてあげるのです。観点が違います。(15)

 先生が皆さんを相手と結んであげるのは、その人たちがちょうどふさわしいからです。もし、自分の相対者がふさわしくないとすれば、そのどちらかが長く生きられず死んだかもしれないのです。

 結婚というのは、むやみにするものではありません。道端で通りすがりに出会った人同士でするものではないのです。自分たち同士気に入ったといって結婚すれば、結婚してすぐに異変が起こるのです。ですから、何かあるというのです。互いがふさわしくありません。松の木は、松の木同士接ぎ木をすべきです。互いにふさわしい形があるのです。こういうことを皆さんは知って、今回の祝福に新しい姿勢をもって臨まなければなりません。自分たちなりの立場で通過しようとする、そのような立場に絶対立たないようにお願いします。そうして、祝福というものは、国のため、世界のためにするものであることを知らなければなりません。同様に、それが必ず後代のためのものになるということを銘記しなければなりません。(17)

 相対を決定する場合は、喜びでするのではなく、無限なる苦痛の心で決定しなければなりません。決定してしまう時まで、出発した時のように注意深く行かなければなりません。皆さんにとって今回の二十日間は、六千年歴史と時を同じくする重要な期間です。

 無限な苦痛の立場で、同時にこの上ない悲しみの立場で、また死を覚悟した立場で決定しなければなりません。最高の苦痛と悲しみと死を味わう立場で決定をしなければなりません。だから、二度とこのようなことが繰り返されないようにし、不平を感じないようにしなければなりません。

 イエス様がこの門を通過するために、どれほど悲しまれ、どれほど多くの苦痛と死の峠を経ましたか。皆さんも最も難しい環境で、そのような苦痛を受けてこそ、新しい生命の道として行くことができます。この立場は、苦痛の門が閉められ、悲しみの門が閉められ、死の門が閉められる立場です。ですから、最高の苦痛、最高の悲しみ、最高の死を感じ越えていかなければなりません。そうしてこそ、再生の道が開かれます。

 皆さん自身が憂いから復活し、苦痛から復活し、悲しみから復活し、死から復活して相対を決定しなければなりません。(18)

 三数の基準をもって、すべてを決定しなければなりません。決定は、先生も神様もしてあげられません。ただ自分自身が決定しなければなりません。

 本来男性は、女性を創造しなければならず、女性は男性を創造しなければなりません。堕落した人間は、僕と養子と直系の子女を経て、真の父母の位置に出ていかなければなりません。それゆえに、祝福を受けた人を死ぬほど苦労させるつもりです。人は、生まれる時も一人生まれ、嫁婿に行く時も一人行き、死ぬ時も一人で死にます。父母も紹介だけしますが、決定は自分自身がしなければなりません。皆さんの中には、苦労をしないで、そのまま帰っていく人が多いだろうと思います。そのような人は、自分自身を静かに考えてみなければなりません。

 この期間は復活期間です。イエス様の相対すなわち聖霊も、イエス様が復活した後、五旬節に降臨しました。

 先生の考えと同じであれば、全員が二十日断食をしたらよいでしょう。そのようにして立っても、おなかがすかず残る者にならなければなりません。(19)


3、どうすれば理想相対に結ばれるか


 理想世界に行く同調者が、すなわち理想相対です。(20)

 理想相対とは一体どのようなものでしょうか。皆さんの前に、理想相対とは神様の愛を多く受ける人です。より公式に近づくことのできる立場に立った人が理想相対です。

 その公式に近づくことのできる人は誰でしょうか。歴史時代の願いに近い人です。過去の願いに近い人であり、現実社会が望む中心に近い人です。同様に、未来の出発があるからには、その出発に近い人です。そのような人を探さなければなりません。(21)

 理想相対という言葉が、この地上の一角に現れて騒がしいということは、世界に限りなくうれしい福音であり、神様がお喜びになり得る福音なのです。(22)

 理想相対基台というのは、サタンが犯すことのできない立場で結ばれた夫婦を言います。すなわち、縦的歴史を横的に蕩減復帰した基台の上で、神様の公義によって夫婦の関係を結ぶのです。ゆえに理想は、神様を中心にしなければなりません。

 アダムとエバが堕落する前の基台以上でなければ、新しい理想は出発できません。皆さんは、各自が闘ってサタンが侵犯できない位置に立ったのではなく、この理念を信じ従う立場に立ったのです。それゆえ、心情的な基台と実体的な基台を立てなければ、祝福も無為に帰するのです。(23)

 男性たちは美人を求めるために、美男になったらよいと言います。なぜ人々は美男や美人になろうとするのでしょうか。その理由は、美しければ美しいほど完全であるため、完全な理想的対象を求めることができるからです。最高の完成主体を完成対象と合わせて一〇〇パーセント喜び得る基準がつくられることによって、この宇宙の神様の愛に、完全であればあるほど、理想的であればあるほど、ぴったりと一致するのです。それで、美を追求し、完全なものを追求するのです。だから、宇宙の愛の核は、男性の前に女性を除いて、女性の前に男性を除いてはその核を求める道がありません。(24)

 今まで皆さんは、理想相対とはどのようなものか、と言いました。理想相対という言葉は、本当にいいでしょう。どんなに相対となる存在が優れていたとしても、皆さんがその素地を備えられなければ、その価値を発見することができません。何の話が分かりますか。優れているか、劣っているか、発見できる者がどこにいるでしょうか。自分自身が優れていなくては、それ自体が分からないのです。(25)

 理想相対というのは、あとです。まず自己を考えなければなりません。「私」がどのように完成するのかということが重要なのです。理想相対というのは、相対の意向を先立たせるもので、「私」が完全な主体となるのか、完全な相対となるのかということが決定されてこそ、完全な理想世界というものが現れてくるのです。(26)

 独身の男性、女性において、先決問題は何でしょうか。「私」自身の完成の可否が問題です。理想相対を考える前に、まず自分自らが父母の前に孝子となり、父母が孝子だと言うことのできる因縁をもたなければなりません。そのような意味で、完成されなければなりません。それが終わったのちに、理想相対が必要です。(27)

 今まで祝福をすぐに受けないで、統一教会で、いろいろな活動をしてきたのは、縦的な愛を指向させるためでした。約婚者を探したり心配しないようにと言ったのは、皆さんが縦的な愛を成すようになれば、約婚者は自然に来るようになっているからです。

 堕落とは何でしょうか。神様を中心とした縦的な愛を完成させないで、横的な愛を完成させたことです。ですから、縦的な愛を成す前に、約婚者に出会ったり愛そうと考えてはなりません。ここには約婚した人たちも多いだろうと思います。皆さんの中に、自信をもって縦的な愛を完成させたという人がいれば、手を挙げてごらんなさい。そのような人がいるとするならば、約婚者と共に暮らせるようにしてあげますし、祝福結婚を優先的にしてあげます。縦的な愛を完成させられない人を結婚させてあげる人も異端となるため、先生は今まで待っていたのです。(28)

 「私」の一生一代において、男女間で愛し合う愛よりも、まず世界を愛し神様を愛し人類を愛した後に、「私」を愛し得るそのような愛をもつ相対に出会おうとする人が、理想的な人です。(29)

 人間の最高の相対は何でしょうか。この地に来られたイエス様も、愛を中心とした家庭を見いだそうとされました。最高の相対は、愛を中心とした家庭なのです。それを見いだそうとすれば、自分がこの世の中で祭物の過程を経なければなりません。自分の体を中心として祭物の過程を経なければならないのです。サタン世界の愛を落としてしまい、天の世界の愛を蕩減復帰しなければなりません。自分から物質を超越し、体中心の欲望を超越し、欲情を超越し、今までの現実的で感覚的な要素一切を否定しなければならないのです。そのような過程を経なければなりません。(30)

 理想相対というのは何でしょうか。異想相対でもあり得るのです。相対を恨めしく思ってはなりません。相対を避けていくと言わないで、喜んで消化し、越えていかなければなりません。(31)

 福とは何でしょうか。よく食べてよい暮らしをするのが福ではありません。相対とうまく結ばれることが福です。天地の因縁に従い、天倫の法度に従い、夫婦の道を磨くのが福中の福です。それ以上の福がありますか。どんなに人気があり、権威があり、家門が立派だといっても、妻と結ばれ損なえば、その人は台なしになってしまうのです。経歴が良く、見掛けの良い人でも、妻と結ばれ損なえばどうしようもないというのです。また、どんなに美しい女性でも、夫と結ばれ損なえばやはり同じです。ゆえに、福の中で最も大きい福は何でしょうか。相対とうまく結ばれることです。それが最も大きい福です。相対とうまく結ばれてこそ、立派な子供を生むことができるでしょう。そうではないですか。(32)


4、相手はどこかにいるものである


 アダムが完成した真の父母として現れれば、この人に決めるかあの人に決めるか、比較するでしょうか。エバは神様がつくってくれたので、そうできません。エバが美しかろうと、醜かろうと、絶対的な愛で愛さなければなりません。アダムとエバが生きていた当時は、エバが大きくても小さくても、一人しかいない唯一なる存在であるため、比較することなく、絶対的な愛で愛するようになっているのが原理です。真の愛の味さえ感じれば、そのようなことは問題にならないというのです。

 真の愛は、不完全なものを補ってあふれるようにします。皆さんは、アダムとエバが美男美女だと思うでしょう。それは分かりません。人の美しさ、醜さは問題になりません。このごろは、自分の顔が醜くて、鏡を見るのを嫌う女性たちもいますが、そのような必要はありません。一生の間理想相対を尋ねていくと言ったのに、「あ! この女性か」と言うかもしれませんが、理想的なものは絶対的に一つしかありません。エデンの園で男性も女性も一人しかいなかったのと同じです。真の父母となる人は、この女性あの女性を見て、目をきょろきょろしてはなりません。雷は場所を見て打つのではありません。陰極と陽極が近くなれば、いつでも襲いかかるようになっています。マイナス極さえ現れれば、合わさってしまうのです。皆さんも神様の愛を中心としてそうできなければなりません。(33)

 世界的に見るとき、女性が一人しかいないのに、男性が十人も生まれれば、その中の九人は死ななければならないと思いますか。そのような心配をしますか。女性が「おぎゃあ」と泣いて生まれれば、男性はどこにいるかと探しますか。男性が生まれれば、娘がどこにいるかと探しますか。そうではないでしょう。相手はどこかにいるようになっているからです。そのようなことを心配するために息子・娘を生めないと考える人がいますか。そのために産児制限をすべきだと研究する人がいますか。そのような心配はしなくてもいいです。男性がいれば女性がいるのです。女性がいれば男性が生まれるというのです。(34)

 この世の中のすべての男性と女性は、堕落したアダムとエバの立場に置かれています。堕落したアダムとエバは、サタンの息子と娘になりました。ですから、このサタンの世界に行き、どのように神様の息子に娘を得るか、捜し立てるかということが問題です。それは原理によって成されます。完全なアダムが生まれれば、完全なエバが復帰されるというのです。完全なプラスが現れる場合、完全なマイナスは自動的に生まれるようになっています。それが創造の原理です。完全なマイナスが現れれば、完全なプラスが生まれるようになっています。ですから、世界的に男性と女性の比率はあまり差がないのです。空気がどんなに自分の思いどおりに疎通するように見えるとしても、それは気圧の平均を取るために作用するのと同じ道理なのです。完全な男性が生まれる時には、完全な女性が生まれるようになっています。これが聖書には、男性であるアダムによって女性であるエバがつくられたと、象徴的に書かれています。(35)

 神様の復帰摂理を見るときに、堕落したのは「私」ゆえではありません。相対的与件、いつも相対が問題になるということを皆さんは知らなければなりません。み旨に対して行くことは、再創造をしていくことなので、皆さんの前に相対し得る相対者が問題です。ところで、世の中の人々の欲心は、相対が大きいことを願います。相対が自分より良いことを願います。それは、復帰摂理路程にあり得ないことです。相対が自分より大きく、良いことを願うということはあり得ません。堕落したために、堕落した世界に(相対が)自分より大きいものとして現れるのを願うことは、間違いなのです。良い者として現れることを願うなら、自分がそれだけ努力し投入してから願わなければならないのです。(36)

 今日、堕落した人間の立場で見てみれば、結婚をするとしても、自分の相対は自分より良かったならいいという考えは、あり得ないのです。そのような環境はあり得ません。そのような環境になっているとすれば、それは全部偽物です。神様と関係ありません。相対は、必ず自分より低い位置にいなければならないのです。

 なぜでしょうか。再創造しなければならないからです。そうして、自分の力の投入の功労によって、それが変わっていき、対象的な圏として現れなければならないのです。神様が天地を創造したのは、その天地自体を見るためではありません。愛するために心情を前に置いて(=心情を中心として)つくるのと同じく、心情を前に出して行動するほかありません。たとえアダムとエバは小さくとも、その小さい者を小さい者と見ないで、心情の世界では大きい者として見るのです。(37)


5、相対的に創造された男性と女性


 人は男性でなければ女性です。神様が創造されたアダムとエバの延長がまさに「私」です。分かりますか。人と言えば、そこには既に実体があるのです。人の中に何種類が入っていますか。地が入っており、人が入っており、神様が入っています。(38)

 私たち人間は科学的に素晴らしく生まれました。それゆえ、もし女性たちが「男性がどうして、あのように生まれた」と笑ったり、男性が女性たちを見るとき「あの女性はおしりが大きくて、どうしてあのように生まれた」と言うとすれば罰を受けます。どんなに醜くても、その女性、男性は、創造主の最高の傑作品です。(39)

 皆さん、男性にひげがあるのがいいですか、ないのがいいですか。女性たち、話してみなさい。「あるのがいいです」。また、男性たちの考えはどうですか。「あるのがいいです」。それではなぜひげを伸ばしませんか。ひげのあるのがいい時もあります。今は忙しい時なので、ないのがいいですが、自然に遊ぶ時には、ひげを伸ばして遊ぶのが素晴らしいというのです。

 日本人は庭園を造るとき、刈って整えますが、アメリカ人は自然な庭園が好きです。皆さんは自然なものを好みますか、人工的なものを好みますか。「自然なものです」。このように自然なものを好むため、将来ひげを伸ばすようになれば、百ドルずつ俸給を受ける時が来るかもしれません。先生が法をそのように作る世界になれば、そのようになるかもしれないのです。将来ひげを伸ばすべき時が来るかもしれないというのです。

 それならば、女性にはなぜひげがないのでしょうか。神様はアダムがひげを伸ばした姿をご覧になり、気分が良くなかったために、エバをつくられる時には、ひげがないようにつくられたというのです。(笑い)したがって、神様の創造物の中で、最も傑作品は誰でしょうか。女性たちです。女性たち、気分がいいですか。この女性たちは、傑作品は傑作品ですが、誰のための傑作品でしょうか。まさに男性のための傑作品だというのです。(笑い)気分が悪いでしょうが、仕方ありません。

 それならば、神様は何ゆえにそのような傑作品をつくられたのでしょうか。男性を中心として、すてきな刺激を受けようとしてつくられたのです。それにもかかわらず、女性のような肌をもった男性を好む女性がいるとすれば、その女性は死ぬべきです! また男性のように頑丈で、味もそっけもない女性を好む男性がいるとすれば、その男性は死ぬべきです!(笑い)

 男性と女性は相対的です。女性は柔らかで男性はごつごつしているので、ごつごつした者たちは、柔らかな女性を好みます。また、柔らかな娘たちは、ごつごつした男性を好むのです。そのようになっているのです。(40)

 男性を見れば、大抵柔らかくなく、頑丈に見えます。男性の手は、セメントのようにごつごつとしていますが、そこにまたごつごつとした手が触れるとすれば、気分がいいでしょうか。柔らかい女性の手が触れればどうでしょうか。(神様は)天地の道理を、すべて互いに調和するように創造しました。回るモーターを見ても、回る鉄は強い鉄を使いますが、回る面は平たい軟らかい真鍮でできています。これは、あまりすり減りません。けれども強い鉄だけでつくれば、回れば回るほど火が出て、簡単にすれてなくなります。天地の道理は、すべて相対的になっています。それを見れば、神様は専門家です。

 それゆえに、男性の手の中に男性の手を載せておくよりも、女性の手を載せておくほうがよくなければならないのが天地の道理です。男性は男性の手が嫌いであるべきです。そうしてこそ、柔らかいのと強いのが一つになれます。そうでなければ、完全でありません。男性の手の上に男性の手が来て触れれば、気分が悪くならなければならないし、女性の手が来て触れる時には、気分が良くならなければなりません。でなければ、天地の道理が合いません。だから、女性の手は柔らかく、男性の手は分厚くあるべきです。男性は男性らしく、女性は女性らしくあるべきだというのです。ですから男性にはひげが生えたと思います。そのひげは、柔らかい面に刺激を与えるので、刺激的な愛を感じることができると思います。だから、男性として生まれた人は、男性として生まれて良かったのであり、女性として生まれた人は、女性として生まれて良かったという結論になります。(41)


6、女性の美しさと男性の魅力


 少し前、先生はイギリスで、女性の美しさは顔にだけあるのではないと言ったことがあります。普通の人は、顔だけ見て美人だ、美人ではないと言いますが、顔は体の一部分であるだけです。全体を見なければならないというのです。顔は美の基準の中で三番目です。人の美を評価しようとすれば、手、足、歩き方、音声はもちろん、前からも見て、横からも見て、すべての方向から見なければなりません。

 人間の美しさというものは、顔だけにあるのではありません。四方八方から見て感じることができます。美しさは、球のように立体的なものです。上から見ても、横から見ても、どんな方向から見ても、自分なりの完成された美しさをもっています。それゆえ、自分の妻の顔をむやみに批評してはならないのです。

 美人の中には貧しい人がたくさんいます。しかし、徳や福をもっている女性は違います。顔が美しい美人も、子供を二、三人ほど産めば、もはや顔が変わってしまう場合があります。ですから、子供を産んでも、美しさを維持できる人が美しい女性だと見ざるを得ません。(42)

 皆さんは、花の中で美しい花は何だと思いますか。皆さんがどのような花を好きなのか知りませんが、先生はラッパのようにできた花が好きです。なぜかといえば、ラッパのようにできた花は、香りを遠くに漂わせます。ラッパのようにできた花は何を意味するかといえば、深い愛を意味します。香りが遠くに広がります。ラッパのようにできていてこそ、香りが遠くに広がります。それゆえラッパ型の花であればあるほど香りが強くします。ですから、女性たちが花であれば、深い愛の心情をもたなければなりません。美しい香りをもった花は、万民が好むのです。そして、ユリの花は単調ですが、優雅な趣があります。清く優雅なユリの花が、花びらか茎か分からないほど同じ色で咲いているのを見れば、感傷的で情緒的な花です。歴史がある花だと思います。

 そのように娘たちはアサガオ、あるいはユリの花のようにならなければなりません。優雅で清い花にならなければなりません。(43)

 先生は、世界的美人は、真っ黒い頭に白い顔、そこに真っ青な目をもった人だと思います。鼻はぺちゃんこで、目もあまりくぼんでいなく、中間ぐらいであるべきです。ところで、西洋人は目があまりにもくぼんでいて、目なのかまつげなのか分からないでしょう。最近は、(付け)まつげを付けているので、本当に分かりません。何か塗って(=アイ・シャドー)おくではないですか。だから、先生のように目が少しだけくぼみ、まゆがこのように少し離れているのが理想的だと思います。(44)

 男性は、顔が滑らかなのよりは、少しでこぼこした人が、より男性的な魅力の所有者です。また、愛があるので、その愛はすべてのものを支配しても余ります。(45)

 女性は夫を得るとき、繊細で優しい人よりは、荒々しく見える人がいいでしょう。夫婦も相対的関係なので、荒々しいのと反対である妻は幸福になるというのです。荒々しい夫の胸に抱かれて愛を受けられる妻は、幸福な妻だということを忘れないで、選択するとき、荒々しい男性を選びなさいというのです。

 男性の力は、女性の前にはただそよそよした春風ほどしか力を使えないのが愛の道理です。男性の世界ではこぶしの力が左右しますが、愛する女性の前では、綿のこぶしのようにこの上なく柔らかいというのです。ですから、女性は荒々しい男性だといって怖がることなく、力が強い男性であればあるほど、さらに愛してみるべき価値があるという考えをもたなければなりません。(46)

 独身の男女を見てみると、娘たちはハンサムな男性が通り過ぎれば、片方の目はつむり、一方の目でこのようにして見るでしょう。そして、化け物のようなこの男性たちも、威張り散らしながら素早く女性を見るでしょう。ところでここに、外から見るとどす黒くまるで雷魚のようで、寝て起きて見ても魅力のない男性がいるとしましょう。しかしその男性は、全体的に見れば男らしいのです。そのような男性は、話すときも女性たちのようにこそこそしません。言葉より行動を先にします。女性たちは、これが気分悪いでしょう。男性が言葉でも一言言って、前奏曲があった次に行動をすべきなのに、前奏曲もなく突撃するというのです。

 そのような性格をもった人がいるとすると、最初は気分が悪いですが、千年万年そのようにできる人であるなら、女性が変わってきます。強くワイルドな性格が、この瞬間だけではなく連続的にそうであり得るとき、女性がもう一度考えるようになります。「他の男性たちはずるいから、秋になれば葉が落ちるように落ちて、冬になれば枯れてしまうだろう。しかしこの男性は、少し田舎者のようでも、圧縮され押されるピストンのように、自分が押さなければならないと思うことは最後まで押すだろう。死ぬまでそういう人だ」となれば、女性の考えが変わるのです。分かりますか。

 そのようになれば、男性を天のように愛するというのです。粗いのは粗いけれども、その殻の中から赤い愛を燃やし得る行動をするようになるときは、そこに巻き込まれていくようになるのです。ここの女性たちは注意しなさい。そのような事実が、映画や小説なんかに多いではないですか。そうでしょう。(47)


7、女性と化粧


 人間も自分を愛してくれる人を求め、装いをして心を整えます。特に女性が夜昼なく化粧台の前に座り、顔を鏡に映して化粧をするのは、自分を愛する人からもっと多くの愛を受けようという欲望ゆえです。

 永遠なる美しさを保つために身なりを整える女性たちの行為は、決死的です。まさに男性たちが戦場に出ていって敵軍とぶつかり、生命をかけ血を流しながら闘う戦場を思わせるのを見ると、一方ではかわいそうにも思えますが、美しさを永遠に保ちたがる努力に愛を感じたりもするのです。(48)

 私たち統一教会の娘たちは、化粧をしたりおしゃれをしないで、み旨を伝えるために東奔西走します。しかし、化粧をしたいし、おしゃれもしたい心はあるでしょう。相対者ができる前に自分の美貌にある程度満足した人も、相対者ができれば、自分の美貌にさらに神経を遣うようになります。相対者によく見せるためです。自分のおしりが大きすぎないか、腰があまり太すぎないか、背が低いとか顔が醜くないかという思いをもつようになります。そのような考えと行為は、相対者の前に美しい花として咲き、香りを漂わせたいという意味なのです。それで、リズミカルな身振りをし、魅力的に見せるために努力をします。これと同じく皆さんは、昔の多様だった生活的な面を、今からみ旨を中心として縦的横的に広げて相対者を迎えなければならないのが当面の課題なのです。(49)

 女性たちは、毎日新しくきれいな服に着替えたいでしょう。大多数の女性たちが、毎日きれいで美しい、新しい服に着替えることを願うのです。そうだとすれば、「私」の顔に、服を着替える以上の美しさをいつももとうと考えてみましたか。その美しい服を着て何をしたいですか。愛する人を訪ねて行きたいでしょう。服は豪華に着たとしても、顔をしかめて愛する人を訪ねて行くとすれば、どれほど見苦しいでしょうか。その時、服は讒訴するでしょう。どれほど服を美しく着たとしても、愛なく絶望した人の姿でいるようになるとき、その服は嘆息するという事実を知らなければなりません。たとえ服が豪華でないとしても、その人が満足感と喜びに満ちた顔をしているとすれば、その服は満足するでしょう。そういう時、その服というものは、愛の中で装飾した宝石のように輝くというのです。愛の中で装飾したそのすべての装飾品と同じだという事実を知らなければなりません。

 皆さんは、ダイヤモンドの指輪をつくってはめるとき、ただダイヤモンドだけで指輪をつくってはめた人を見ましたか。金の指輪なら、ただ金だけでつくるより、金の上に小さいダイヤモンドを付けてはめると、もっと美しい指輪になるのです。すべて世の中の道理はそれと同じです。(50)

 例えば、草花の花が咲き香りがするのは何ゆえでしょうか。その草花が、花や香りが好きだからあるのですか、でなければ、誰のためにあるのかというのです。人間が自分の顔を見ることができないのと同じく、花びらは自らを見ることができないのです。ですから、美しく花びらを咲かせたり香りを漂わせるのは、それ自体のためではなく、その花と香りを好み得る誰かのためにあるという結論を下すことができます。花と香りがあるのは、チョウとハチがやってくるようにするためです。香りがあるのは、それらがやってくることのできる方向を教えてあげるためであり、花が咲くのは、区別させてあげるためです。

 女性たちが美しい服を着て化粧をするのも、同じくこのような道理なのです。

 皆さんが美しい服を着て化粧をするのは、自分のためですか。でなければ、相対のためにしますか。最近、女性たちを見てみれば、まゆ毛をかき、まつげを付けて、青い化粧までします。(51)

 女性たちは、朝起きれば鏡を見ながら化粧をしますが、いらない化粧をよくします。誰がよくて化粧をしますか。相対のためですか。自分のためですか。元来、火葬(注・韓国読みは化粧と同じでファヂャン)は、火葬場でしてこそ本当の火葬です。(笑い)その化粧とは、その言葉からか、気分が悪いです。こういう気になれば、深刻な立場で化粧するでしょう。誰のためにそのようにするのですか。
 ソウル行きの汽車に乗って見ると、ソウル駅に到着する三十分前から化粧室が慌ただしくなり始めますが、ほとんどがスカートをはいた女性たちです。男性たちはおとなしいのです。だから、終末には男性より女性たちがもっと忙しいというのです。(52)

 見た目にいいものは、サタン世界で看板を掛けて宣伝するものです。このように宣伝している家に入って物を買っては、ふんだくられるのです。それを皆さんは知らなければなりません。宣伝のうまい所に訪ねて入っては、大多数がふんだくられるというのです。本物は宣伝をしないのです。同じです。今度祝福を受けに来るとき、新しい服を着て顔には紅を塗ってのさばる、そのような女性は相対にするなというのです。それはとんでもない結果をもたらすのです。逆に、地味で、一皮むけばまた一皮あるような、そのような女性に何かがあるというのです。(53)

 最近、娘さんやおばさんたちは、何か自分の顔に紅を塗ったり何を塗ったりしていますが、何のために化粧をしますか。サタンの子が、美しいと自慢するためですか。(笑い)笑いごとではありません。(54)

 神側に行っては化粧をし、サタン側に行っては黒塗りをしなさいというのです。ですから、皆さんが出掛けるとき、「私は神様の形状と愛をもっているので、神様を知らないあなたたちよりはましだ」という考えをもたなければなりません。(55)

 統一教会員が自分のために化粧をするよりも、その時間に全体のために清掃し洗濯することを、神様は、もっと好むのです。自分のために生活する人は、他の所に行くようになります。いくら出ていくまいとしても、統一教会から出ていくようになるのです。(56)

 いい服を着たりにおいをかいだり化粧をする時も、解放の一日を考えなければなりません。(57)

 祝福された女性たちは化粧できても、未婚の女性たちは化粧できません。(58)

 我が統一教会の教会員たちも、最近は化粧をよくしますね! それは私が許してあげます。お母様が化粧するから、嫁に行ったら……。しかし独身女性たちが化粧するのは誰のためにするのですか! その化粧品を買うお金があれば、私の所に持ってきなさい! 化粧して男たちと歩きながら妖しい考えをしようとするのです。独身女性は純朴でなければなりません。よろよろして……。テンヂャンチゲ(注・ミソナベ)とキムチチゲ(注・キムチのナベ)の味がいいのです。韓国人はそれが口に合うのです。マニキュアだか何だか! 嫁に行った女性たちはしなさい! それはなぜですか。競争をしなければならないから、夫の前では、夫人たちは他の夫人たちより劣ってはならないのです。また、嫁は他人の嫁より劣ってはならないのです。姑と舅は、優れたものを願います。ですから、劣らないためには、化粧しなければならないのです。その前はだめです。その前は、自分の父母の愛だけ受ければいいのです。(59)

 先生と共にみ旨の道を歩んできた皆さんの苦労が大きいということをよく知っています。一身の平安な生活をあとにおいて、み旨の成就のために苦労した統一の食口たち、特に、おめかしもしてみることができず生きてきた女性たちの功労が大きいことを知っています。その人たちのために、老いない化粧品を発明して分けてあげたい気持ちです。もちろん、地上の生活を終えて、神様と共に永遠なる愛の圏内で生きるでしょうが……。(60)


8、恋愛は絶対許されない


 信仰が深くなり、霊的な体験をするようになれば、いいかげんに行動できません。神様を押しのけて、自分たちの喜びだけのために互いに愛し合うのは、サタン世界の誤った愛です。

 今まで、自分はそのようなことをしてきたという人がいれば、先生の話を聞いた今から悔い改めなければなりません。アダムとエバは、神様にそっぽを向いて自分たちだけで愛し合うことにより、とんでもない結果をもたらしました。皆さんも自分たちだけで結婚したりすれば、新しい先祖になるどころか、とんでもない結果をもたらすようになります。ですから統一教会では、自由に恋愛することは絶対に許されません。神様にすべてをゆだねなければなりません。(61)

 祝福は、どこまでも神様を中心として愛の因縁を結んでいかなければならないのです。ところで「私はこのような人間です」と言って、自分だけを主張する人には絶対に天が同情しないでしょう。今まで、我が統一教会では、恋愛ということはあり得ません。認定もしないというのです。自分たち同士で気に入った人は、絶対に祝福をしてあげません。(62)

 皆さんは祝福を受けますか、受けませんか。統一教会の中で結婚をしますか、でなければ、勝手に結婚しますか。合同結婚式をするのは気分が悪いですか。統一教会の先生が決めてあげるとおりに嫁婿に行きますか。答えてごらんなさい。自分勝手に行きますか、先生が決めてあげたとおりに行きますか。そうするなら、自分勝手に愛してはなりません。愛の視線もむやみに送ってはなりません。これをはっきり知らなければなりません。

 ですから男性たちは、むやみに若い女性たちの手を握ってはなりません。若い女性の手を握る日には、もう独身男性ではありません。分かりますか。これは私の言葉ではありません。原理の言葉です。復帰摂理の言葉です。(63)

 道を行って美男子と出会ったとき、もう一度見たいという思いをもつようになりますが、それがまさに堕落の根性なのです。神様の息子・娘ならば、神様が決めてくれた配偶者でなければ少しの関心ももってはなりません。向かい合って見る、それ自体が罪悪ではありません。しかし、関心をもって眺めるようになるとき、強力な堕落性が作用するようになり、予期し得ない事故を誘発し得るからです。それゆえ、道を行って、美女や美男と出会ったとしても、関心に満ちた目で見てはなりません。

 このような心配と気遣いは、すべて皆さんのためにするのです。神様もアダムとエバのために、愛する意味で「取って食べてはならない」と言われたのです。(64)

 人間の先祖であるアダムとエバが堕落する時も、女性ゆえだったでしょう。それゆえ、女性はそうなり得る近い距離にいるのです。男性の知恵に乗せられる素質が多いのです。女性たちはどんな言葉にも心が傾いて、甘ければ無条件にいいと言って、へへへと笑います。(65)

 サタンの四大武器は、たばこ(気体)、酒(液体)、麻薬(固体)、そして、不倫の愛です。(66)

 先生が、結婚しない男女はできるだけ握手をしないようにと言うのも、つないだ手を通して愛の電流が流れるからです。愛の火花が相手方に心の傷を与えるからです。愛によってつくられた傷は、この世の中のどんな薬でも治癒させられないのです。(67)

 統一教会では、若い男女同士は手もつないではいけないと言っています。私たちは、サタンが見下しているということを知らなければならないし、これがサタンのあだを討つことだというのを知らなければなりません。(68)

 祝福される前までは、統一教会の独身男女は互いに手をつないではいけません。電気でいえば、百ボルトなら百ボルトが一遍にぶつかるべきであり、途中で漏電になってぼやけてしまってはなりません。(69)

 皆さんは独身男性たちですが、婿に行くとき、嫁に行ったことのある後家の所に行きますか、処女の所に行きますか。答えてごらんなさい。処女と結婚しますか、後家と結婚しますか。生命が投入され得るものは、初物です。だから、神様の前に初物を捧げるのは絶対的な基準です。それゆえ統一教会では、恋愛をしてはいけないというのです。統一教会の娘たち、独身男性たち、恋愛なんていったいどういうことですか。

 生命は初物から出発するのです。人が最初生まれる時、本来は初物として生まれたのです。お母さんのおなかの中から出てくる時、初物として生まれたでしょう、何の傷をもって生まれますか。そうではないですか。ですから、「私」の体も初物として生まれ、「私」の心も初物として生まれたのです。思春期を通して流れてくる春の香りをかぐことのできる青年の胸も、初物として生まれたのです。心身はすべて初物として生まれたのです。ところが、個人主義的な考えをもっているのに、それが初物になり得ますか。こんなものをみんなどこにもっていって捧げようというのですか。そのような体と心をもって生まれて、他の所でみんな消費できますか。蕩減法則により、そのようにしてはならないというのです。(70)

 二十代に近い青少年として、汚されず染まらない聖なる純情を大切に保管し、これをどこに供えるべきでしょうか。天が一番喜ぶことのできる祭壇に供え、神様が喜ぶことのできる、そのような純情をもった男性と女性が出会って一つに結ばれ得る聖なる位置が、新郎新婦の出会う場ではないでしょうか。(71)

 アメリカの父母たちは自分の息子・娘が十八歳になったのにデートの相手がいなければ、おかしく思い心配しますが、韓国ではその反対に三十歳を越えても、結婚する前までは、良家の独身男女は手首一つ握れません。目配せもできないのです。愛の観念を見ても、西洋ではフリー・セックスだの何だのといって、ありとあらゆる者たちがいますが、東洋はそうではないというのです。原理的に見ても、結婚する前には純真な処女、チョンガーにならなければなりません。(72)

 ラブレターを書くべきでしょうか、書くべきでないでしょうか。ラブレターを書く前に、父母に手紙を書くべきです。そして、父母の称賛を受けた後にラブレターを書くのであって、称賛を受けられない恋愛ができますか。できません。(73)

 我が統一教会の娘たちは、恋愛できますか、できませんか。「できません」。また、統一教会の独身男性たちは、恋愛できますか、できませんか。「できません」。それでは、先生が強制で恋愛するなと言いますか。「違います」。したければ、してみなさいというのです。しかし、できないようになっています。ですから、結局(統一教会は)恐ろしいというのです。そのようなことを、強制でできなくすれば、もっとするというのです。自分たちが試してみて、自ら抜け出さなければならないのです。(74)

 統一教会では恋愛をすることができません。絶対できないというのです。愛は、天から始まり天で終わらなければならないのです。(75)















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第二節 相対を結ぶ基準と私たちの姿勢

祝福家庭と理想天国

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第二節 相対を結ぶ基準と私たちの姿勢


1、組み合わせてくださるお父様の眼識


 先生は人の見方を知っています。私たちの風習に相性というものがあるように、松の木なら松の木同士接ぎ木すべきであり、松の木とポプラの木とは接ぎ木されません。(76)

 先生は、一度だけちらっと見れば、その人の性稟と運命がすべて分かります。(77)

 先生は福を受ける人々がどんな人なのか、見ればすべて分かります。どこか集会所に行ってみれば、この人が裕福に暮らすか、そうでないかが分かるのです。(78)

 先生は手を見てもその人の運命がすぐ分かります。彫刻の素質があるのか、文学の素質があるのか、楽器演奏の素質があるのか、泥棒の手をしているのか、すぐ探し出します。(79)

 先生は今まで多くの人々を指導してみたので、ある人が来て笑う表情だけさっと見ても、その人の長所短所をすべてキャッチできるのです。実際にある女性は、目が下に落ちるぐらい前にぽんと飛び出ています。そのような女性には、目がぼこんとくぼんで、ほおの肉がぽんと飛び出た人を迎えてあげなければなりません。そのような統一教会の女性たちは、自分が願う男性を夢にも考えてはならないというのです。自分自身も考えもせず、こういう人としてくださいと言えば、その人とできるだろうとは、何ですか。だめだというのです。先生はそのようにはできません。(80)

 先生が皆さんに、「この人はあなたとは天が定めた似合いの夫婦だ」と言って、さっと決めてあげれば、それは間違いないのです。先生は皆さんを相手と結んであげるために、夜もゆっくり寝れません。人の生命の問題、霊魂の問題に責任を負った立場では、これは簡単な問題ではないのです。また、見れば運の良くない人がいます。顔を見れば、何度か嫁に行かなければならないタイプの人がいるのです。そのような人は、間違いなく未亡人になるタイプです。目を見て、唇を見て、鼻筋を見ると、間違いなくそうなっているのです。その人に合う男性は、少なくとも数年間は気分悪く暮らさざるを得ない、ああだこうだと、いがみ合いながら暮らすタイプの女性がいます。そのような看板を付けているのです。ですからそういう人は、その理想の男性に出会うようにしてあげなければなりません。

 そのような男性が自分の新郎になれば、最初は全く怨讐のようです。怨讐のようだというのです。良く出発してはそれが壊れていくので、怨讐から出発して初めて、あとでよく合うのです。そういうことを先生は知っています。祝福については、どうすればいいのかを、先生と相談しなければならないのです。(81)

 先生が約婚をずらりとするときは、できればその人の輪郭をはっきり見ないようにします。二人の人をたださっと見ます。どのような感じがするだろうか。余裕があるとすれば、心をさっと比較してみるのです。この二人はどうだろうか。二人を見ると、我知らず瞬間的に一つになる感じがするというのです。これは間違いなく天が定めた似合いの夫婦です。また、ある人は二人が背を向けているというのです。それは間違っています。そして互いが関心をもつ表情、これは将来、時がたてば本当によい相対になります。(82)

 先生が今までずっと祝福してあげるとき、このカップルは間違いなく子供を一ダース生むだろうと言えば、必ず的中します。先生が今も考えることはそうなのです。先生が結婚させてあげるときは、いいかげんにしてあげるのではありません。先生が一日足らずで数十双を組み合わせてあげるので、世の中の人たちはいいかげんに組み合わせているのだと思っています。しかし、先生が間違いないということは、間違いないのです。だから四柱、観相、相性を見る人たちがそのカップルたちを見ると、最もいいと言います。皆さんが信じられないのなら、四柱、観相、相性を見る人たちに、直接行って尋ねてごらんなさい。間違いなくぴったり的中するというのです。

 先生が一日に数十双を組み合わせてあげるのにもかかわらず、彼らはみんな、四柱、観相、相性が最もいいと言います。観相家たちがやろうとすれば、一日中精誠を尽くしてせいぜい一双であるはずなのに、先生は一日に数十双を組んでもよく合う相だと彼らは感服し、我が統一教会を宣伝するのです。彼らが、我が統一教会宣伝部長の務めをよく果たしているというのです。このように、人生の根本問題を中心として一つの部分部分として組み合わさって、世界の運勢を握る役事がいつか瞬く間に起きるようになるでしょう。ですから、これからは祝福家庭が一つにならなければならないのです。(83)

 私は独身男女をたくさん祝福をしてあげましたが、わずか数分前まで気分が悪いことがあり、良いとか悪いとか言っていても、決定さえされれば、とても気分がいいのです。革命の中にもそのような革命はありません。「愛!」と言えば、天地がひっくり返るのです。今まで、良いとかどうだとか、何がどうだこうだとか言っても、一度決定をした次には、行くなと言っても自分たちだけで続けて訪ねていくというのです。その時会うなという人は、怨讐になるのです。(84)

 統一教会で祝福を受けて暮らす夫婦の生活すべてのことを見た結果、嫁をもらい損なったという舅、姑はいないというのです。また、婿をもらった人は、いろんな婿の中で統一教会で祝福されて得た婿が一番良いというのです。既に、このような事実が一般世論化し得る段階に入ってきたのです。(85)

 韓国に相性をよく見ることで有名な李某氏という人がいます。その人は私たちの原理を知ってから先生をとても尊敬しています。その人が、「今まで自分が韓国では名高く、自分の専業がそれだから、文先生が祝福をするにおいて自分が助けてあげなければならない」と言うのです。それで先生が「私は必要ない」と言いながら、「一体老人は、一日に何双でもすることができますか」と尋ねると、「一双しようとすれば、少なくとも一週間はかけなければなりません」と言うのです。そういう方式では、私に通じないというのです。その老人が「それでは文先生は一日に何双までされますか」と言うので、「最高記録が七二双で、一日に普通七〇双はしなければなりません」と言いました。

 先生がその老人に「今、あなたがしている方式と統一教会の文先生がしている方式と一度対決してみましょう」と言いながら、先生の資料をさっと出して見せました。そうすると、その人が感服して、「さすが先生でいらっしゃる。どうすればそうできますか」と言うのです。例えば、この女性はいざという時凶星に当たって死ぬ女性なので、天下でこの女性に合う男性を選ぼうとしても選べませんが、「あれまあ、このような男性を相手としてよく合わせたものですね」と言うのです。このように先生には何かがあるというのです。皆さんをさっと見ればすぐに、何か分からないけれど感じるものがあるというのです。先生は素晴らしい頭よりも、そのような特異な素質ももっているのです。

 それゆえ、先生が原理も探し出したのです。何か一つはっとすれば、すぐにその反応と結果がどのようになるか、それを感じようと考えるのです。そのような何かがなければなりません。先生は勉強をしても、絶対一冊の本を全部見ません。半分も見ずに、他の本を見ます。それで、人をさっと見れば、あの人はどのような人だから、その人の相対はこうでなければならないと素早く感じるのです。ですから、皆さんよりは先生が、あらゆる面で優れているというのです。(86)

 自分の息子・娘が統一教会に通うといって、そのようにまで反対した父母たちは、先生が息子・娘たちに祝福をしてあげたので、「統一教会の文先生は悪いのは悪いが、私たちの息子・娘の配偶者をあのようにうまく結んでくれたので、少しましだ」と言います。それでは、ましというのは悪いことですか、良いことですか。「良いことです」。良ければいいでしょう。それでも悪いと思ったので、悔い改めなさいというのです。このようにして父母たちがたくさん統一教会員になろうとします。

 以前七七七双の祝福式を挙行した時、ある父母が先生を訪ねてきて、「統一教会の文教主様、私たちの娘の名前は誰それですが、よい婿を選んでくださるように本当にお願いします」と言うのです。これは何ということか……。いつそのようになりましたか。統一教会の文先生がいつの間にこのように高い位置に上がってきました。世の中も変われば変わるもののようです。冬だと思っていたら、いつの間にか春だというのです。生きがいを感じるというのです。そのような面白みもないとすれば、どのようにして先生は生きていきますか。(87)

 神様は人を見るとき、心を見て、その次には過去を見て未来の歴史を見ます。皆さんも人を見るとき、そのような面から見なければなりません。(88)

 今、大変な美男子、大変な美女に出会って「あ! あなたのような人には初めて会ったので、私たちは結婚しましょう」と言うと、(相手も)「しましょう」と言いましたが、歴史を開いてみるとある殺人犯だったというのです。そういう時は、夢も希望もすべて砕けて悲惨になるのです。それゆえ、過去を知るべきだというのです。

 また、その人の先祖はどうで、どのような歴史を経てきたのか、そして今現在、父母がどうなのか、家庭がどうなのかを見なければならないのです。そして、この人が北へ行くだろうか、南へ行くだろうかを知らなければならないのです。このようなことを知らなければなりません。(89)

 先生は人を一度だけさっと見れば、この人が何をする人なのか、すべて分かる素質をもっています。すべて分かるのです。それゆえ、私が日本人に祝福をしてあげたとき、十時間で二三〇双すべての相手を結んであげました。十時間でみんな相手を結んであげたのです。ところで、その中に摩擦があって、合わないと言って私を訪ねて来る人がいました。そのような人たちに、「あなたは、このような歴史をもっているだろう。そうか、そうではないか」と尋ねれば、「そうです」と答えます。「だから、あなたにはこの女性が合い、あなたにはこの男性が合うのだ」と忠告すると、その時になって初めて「間違っていました」と言うのです。

 先生は人を見るすべを知る専門家です。今までこのために生命を捧げてきたので、さっと見れば分かります。それでも、分かっているふりはしません。ただ、分からないふりをしているのです。分からないふりをして後ろを向いても、においだけかげば分かるのです。ここにいる地区長が精誠を込めたのか、込めなかったのか、すべて分かります。私が地区長のために祈祷を少しすれば、すべて分かるのです。それゆえ、統一教会はかかしではないのです。(90)

 私は素早く勘を働かせて、心情検討をして相を見て、その人が何をしてきたかを知ります。(91)

 私は二日間、日本で一六〇〇双を約婚してあげてきました。十二時間半で全部組み合わせてあげました。そうだとしても、でたらめに目をつぶってしたのではありません。性格を合わせ、後孫と一生を見て決定しました。先祖を見て寿命まで計算して、死ぬしかない立場でも、二人が一つになる時その死を免れるように相手を組み合わせたのです。風がぶつかり合えば、零点になるのと同じです。このような内容を知って組み合わせてあげるので、先生が合わせた相対が、各自が選んだ相手よりも勝るというのです。瞬間的に選んであげるほうが勝るので、先生の言葉に従順なのです。(92)

 先生は愚鈍な人ではありません。先祖について、現実の社会について、また後世についても良いということはすべてよく知っています。地上で祝福を受け、自分たち同士互いに努力していくとすれば、必ず良い道に行くということをはっきり知っているので、皆さんを祝福の道に導いているのです。それを理解し、理解したその理論的基盤の上で実行し、その実行の基台の上に現れた結果が原則に一致したか、その是非を検討するのは皆さんの使命です。(93)

 先生の鼻は高く、つんとして特色があります。ユダヤ民族の鼻がつんとしているように、宗教的な素質をもっている民族はつんとした鼻をもっています。鼻はアダムを象徴します。鼻が高いということは、心が鋭いということです。芸術家や宗教的な素質をもった人は、大体鼻がつんとしているでしょう。なぜなら、目は神様を象徴し、鼻は人を象徴し、口は万物を象徴するからです。 

 顔の中で範囲を一番広く占めている部分が目であり、その次が鼻です。宇宙の中心が人ならば、口は万物、額は天を象徴します。そして、額から直線に降りてきてにょっきりそびえている鼻は、アダムとエバを象徴しています。それで鼻を中心として円形に溝を成していれば、うまく生活できます。(笑い)

 また鼻筋は、天を象徴する額から山脈のようにすっと高くなっていますが、これは天が人間として現れるのを象徴しています。口も形によって運命が大きく変わります。それで、先生が一度だけちらっと見れば、その人の性稟と運命が分かります。

 同様に、口の周りに畝が口を避けて降りていかなければならず、口の近くに真っすぐに降りてくれば苦労するのです。水が流れるとき、この畝に沿って直線に落ちれば駄目だというのです。口の周りを回って、口の近くに入ってこなければ、苦労しないというのです。

 私がなぜこんな話をしてあげるのかというと、すべてが天地調和に合うようになっているということなのです。また、顔は三段階になっていて、口が蘇生、鼻は長成、額は完成と見ることができます。それで、金持ちを見れば額が広いのです。そのような人は先祖の功績がたくさんあります。また、目、鼻、口が三層になっていて、宇宙の三段階法則に合っていると見ます。内臓も肺、胃腸、肝臓など三つから成っています。

 人間は、宇宙のあらゆる万物が備えている神秘的なものをすべて備えています。神様は散歩をしなくても、人だけ愛するようになれば、人間からすべてのものを感じることができると見ます。また男性は女性と交際するようになれば、あらゆる万物の女性性相を総合したものが分かるようになり、女性は男性を見いだせば、あらゆる万物の男性を総合したものをすべて見いだすようになるのです。ここに原則的なすべての要素を全部備えているからです。だから、一人の男性が一人の女性を頭のてっぺんから足の先まで全部愛することができるとすれば、宇宙の中心と通じると見ます。女性が男性を愛しても同じです。

 同様に、愛する人の目を見る時も、この目は宇宙のすべての人間の目を総合した目であり、最高のつぼみだと見ることのできる人にならなければなりません。愛する人の鼻を見ても、この宇宙の数千万の鼻を総合した鼻だと言うことができなければ、真の愛の目で見たと言えません。この口がこのように醜くても、世界人類の口の中でも最高の傑作品だと思うことができなければなりません。そうし得るのは愛の力だけです。(94)

 皆さんが笑う時、目が別に笑い、鼻が別に笑い、顔が別に笑いますか。それとも、一度に全体がみんな笑いますか。目が笑い鼻が笑うのに口が笑わない人は、食べるのに困ります。また、別のものはすべて笑うのに鼻が笑わずこわばっていれば、そのような人には子孫が少ないです。また、笑うのは笑いますが、目が笑わない人は、大体情のない人です。それゆえ、笑う時、全部思い切り笑うのが正常です。このような見地から、私たちの心が笑いたい時、顔全体が笑うのが正常であるように、宇宙万象も同じことです。神様を私たちの心に例えれば、見える宇宙はまさに私たちの顔に該当します。(95)


2、極と極の調和を成さなければならない


 先生が祝福をしてあげるにおいて、円満な家庭になるようにしようとすれば、極と極を結ぶようにしなければなりません。東と東、北と北を結んではなりません。北と南、東と西を結ぶようにしなければなりません。皆さん、背の高い男性に背の高い女性を与えなければなりませんか、背の低い女性を与えなければなりませんか。太った男性が太った女性を好むはずがありません。また、太った女性が太った男性を好むはずがありません。皆さん、ほっそりした男性が太った女性を好むでしょうか、ほっそりした女性を好むでしょうか。考えてごらんなさい。誰を好むでしょうか。太った女性を好むでしょう。太った女性を好まず、自分がやせているのに女性までもやせているとすればどうなりますか。山に大きな木だけでは醜いのです。小さな木もあってこそ良いでしょう。(96)

 美男、美女同士一緒に暮らすようになれば、その家庭は長持ちできそうですか。できないというのです。そのような人は、必ず反対にしてあげなければならないのです。天地の道理の全部がそうです。背の高い人は背の低い人と結んであげなければならないし、同じ背の高い人同士結んであげれば、彼らが暮らすのに面白みがないのです。そのことを知って、自分の顔が広い人は広い人をもらおうとせず、細い顔の人をもらうように考えなさい。それで、ラツパのような鼻の人は、わし鼻の人と結んであげなければならないのです。目を見て半分だけ開いたような人なら、大きな目をもった人と結んであげなければならないのです。また、ある人は口さえ開けば、夜でも昼でも(他の人が)不安に感じる人がいます。その人が口を開けば不安だというのです。そのような人には寡黙な人を結んであげなければならないのです。このように、こんなことあんなことを、すべて合わせなければならないのです。(97)

 先生は皆さんの配偶者を選んであげる時、基本原理に合うように組み合わせてあげています。先生が苦労したことも知らず、「ああ、私は嫌です」と言う人がいますが、そのような人は統一教会の原理を知らず、自分自身が不幸の道を行っているのです。背がさおのように高い人は小ぢんまりとした背の人と、体が太った人は細い人と結ばれてこそ、互いの弱点を保護できるし、関心と愛を相対のほうから受けるようになるのです。背がさおのように高い人同士結ばれたり、ドラム缶のように太った人同士結ばれるとすれば、それはどれほど不幸でしょうか。何よりも愛の相対者は、理想的な調和と均衡を成さなければなりません。(98)

 肉が薄い女性はあまり良くありません。顔のほおの肉が薄くなっている女性や、しなやかに振る舞う女性は軽々しく出し抜く癖があるのです。そのような女性と暮らそうとすれば、一週間に一回ずつはけんかをしなければならないというのです。ですから、一緒に暮らせる男性は、牡牛のような、岩の塊のような人でなくては、夫婦が年を取るまで仲良く連れ添うことができないのです。これを知って、そのような女性は美男子と結婚する考えをみじんももってはいけません。(99)

 例えば、三角形の顔をした人はどのような人と結ばれなければならないかといえば、反対の顔をした人と結ばれなければならないのが公式です。それが原形です。これを難しく考えないでください。これがまさに自然の道理です。物理的現象はそのままで比較できるものなので、そうなのです。同様に、顔の平たい人は平たい人を得て何になるでしょうか。これは、こっちでも、あっちでも全く必要ないのです。それゆえ、このような時、平たい顔の人は、ぐっと顔の突き出た人を、背の低い人は背の高い人を、顔の美しい人は(どうでしょうか)。佳人薄命という言葉があるでしょう。その言葉は正しいです。美しい人同士結ばれれば何が出てくるでしょうか。もっと美しい人は出てきません。その次は、がっくり落ちます。完全に満ちれば、衰えるのが原則です。美しい人同士でいっぱいに満ちたので、上がらなければなりませんか、下がらなければなりませんか。

 天地の道理は、上がったら下がるのが原則です。それで中庸の道という言葉も、すべて東洋哲学において、良い考えとしてこのようなことを言いました。美しい人同士やっていくと終わりが近いので、美男と醜女、美人とぶ男、このようにしておけば、展望が長いのです。このように考えるしかありません。(100)

 顔が馬のように長く見える人がいるとしましょう。さて、この馬面よりもっと長い顔は何ですか。ばった面でしょう。ところで、その人をばった面の人と結んであげると、彼らはどんなタイプの子女を生むでしょうか。どんなタイプの子女を生むか考えてごらんなさい。恐らく間違いなく、とかげのようなタイプの子女を生むでしょう。自然の道理がそうです。

 それゆえに、すべて反対のタイプを結んであげるのです。馬のような顔をした人には、かぼちゃやひさごを割って置いたように横に広がった顔の人を結んであげなければなりません。そうしてこそ、互いに反対型がよく調和して十人子供を生めば、その中の一人、二人でも役に立つ子供が生まれるのです。ところが、そのようにせず、自分がよいという人をそのまま結んであげれば、十人生んでも十人とも役に立たないというのです。(101)

 崔道淳(注・七二家庭の夫人)はどこにいますか。彼女の性格を見れば男性のようです。男性のような女性でしょう。その夫の性格は、おとなしい女性のような性格なので、夫婦同士うまく暮らしているのです。その夫は、天性が本当に良い人です。彼女の性格は、男性が誤って一度こぶしを振るったなら、手に取れる物があれば何でもつかんでたたくかもしれないような性格であるにもかかわらずうまく暮らしています。そのような性格の女性にそういう男性を結んであげたので、今までうまく暮らしているのでしょう。そうでなかったなら、もう……。崔道淳が「男はどうしてこうなの」とけんかをしかけてくれば、男性がこのように避けるのです。(笑い)それでこそいいのです。その夫婦の息子・娘は、また問題ないでしょう。娘は何人なの。(崔道淳氏に尋ねられる)。息子は何人なの。「三人兄妹です」。三人兄妹、何と備えるべきものはみんな備えましたね。四位基台まですべて成して……。(102)

 韓国人、ドイツ人、日本人、アメリカ人など数十カ国の人たちを、先生が直接国際結婚をさせてみました。ところで、韓国人は結婚相手に接する時見ていると、言葉は活発ではありませんが、相手方について、その人がいいか悪いかあらゆる計算をします。これでは(先生は)本当に死にそうです。姿を見ても、何を見ても、本人より優れていて、普通の人ならうれしがっても余るはずであるにもかかわらず、横にいる人がじれったいほどいらだたしい時がたくさんあります。そんな時、先生はどれほど息が詰まるでしょうか。先生が尋ねて、どう答えるのか見れば、ある人は一時間以上黙ってただ立っています。
 しかし、西洋人は違います。彼らを結婚させようとすれば、説明をまずしなければなりません。先生は、できるなら年を取った独身女性と年若い独身男性が結婚してこそうまくやっていけると説明してあげます。そうすれば、彼らは先生の言葉をよく聞きます。ところが、日本や韓国のような東洋人には、とても疲れます。東洋人の観念は、新婦の年が新郎の年より若いことを原則とします。これが伝統的な慣習です。しかし、西洋人たちは正反対です。これから結婚すれば、極から極にする人が一番いいのです。(103)


3、人間の四つの型と理想的均衡


 人間は、自分を中心として周囲に対する理解と愛をもたなければ、正しく立つことができず、正しく行くことができません。日が昇る東側だけが好きで、西側は嫌いだと言った時、西側に対する理解不足で片一方だけの人になるでしょう。同様に、東側は昼なのに、西側は真っ暗な夜であるという考えゆえに西側が嫌いだとするなら、その人は結局、昼の価値を本当に知っているとは言い難いでしょう。夜が分からずに、昼が分かり得ないからです。同じように、もし夜に閉じこめられれば、彼は永遠に夜を押しのけて出てくることができないかもしれません。昼は夜を経なければ来ないからです。

 人は自分が立った位置から東西南北の四方性をもっています。ですから、東側のみならず、南北に対して理解し愛することができなければなりません。(104)

 多くの人の中で勝手に相手を選びなさいと言えば、自分に理想的な相手を選ぶことはできないというのです。東側があれば西側があり、南側があれば北側があります。東側型の人が東側型の人と結ばれることになれば、西側がないので理想的な出会いになりません。また、南側型の人が南側型の人と結ばれることになれば、北側がないので理想的ではないのです。それゆえ、東側型の人は西側型の人を求めていかなければならず、南側型の人は北側型の人を求めていかなければならないのです。何の話か分かりますか。(105)

 一年に四季があります。春、夏、秋、冬がありますが、花の咲く春だけ好きで、寒く暗い冬が嫌いだとすれば、その人は本当の春の価値が分からないでしょう。冬は春が来るのに絶対必要な季節です。秋に実る果実は春に生命を開かせますが、その実自体では厚い皮を破ることができません。冬には地中が適当な湿度を保ちますが、冬の寒さで凍って、春になれば溶けながら膨脹する熱量によって実の厚い皮が破れ、実の中にあった生命体が芽を吹くようになるのです。ですから、冬は春が来るにおいて絶対必要な季節なのです。

 私たちの生活の中でも冬を有効に利用できます。春には花の香りを求めて山に野原に行くことができますが、冬には白い雪の上でスキーに乗って楽しむことができるでしょう。(106)

 人間的に本当に美しく、情的な面でとても温かで何でもよく吸収する人は、春の季節に該当します。また、とても情が深く涙が多い人は夏の季節に該当し、冷静で清らかに見え、あらがない人は秋の季節に該当します。次に冬の季節に該当する人は、かちかちにくっついて、引きはがそうとしても引きはがせない要素をもっている人です。皆さんは自分がどの季節に該当する人であるかを、区別するすべを知らなければなりません。

 秋の季節に該当する人は、相対的な人と結ばれなければなりません。すなわち、春の季節の人を求めなければならないのです。夏の季節の人は、冬の季節の人と結ばれなければなりません。あまり熱くて心配になる人は、冷たい人と結ばれて冷やさなければならないのです。そのようなことは、目を見れば分かりますし、また、その顔付きを見れば分かるのです。(107)

 人は、東側だけ好きだとか春の季節だけ好きだとすれば、結局その人は別の側と別の季節から孤立するようになるでしょう。人間の願いと関係なく東西南北と春夏秋冬になっているからです。同様に、人間にもそれぞれ四方性と四季節が好きな人がいるからです。北極にも人が住み、熱帯地方にも人が住んでいるという事実を考えれば理解できるでしょう。ですから、この地球の至る所に行ってみなければならないし、春夏秋冬、どの気候でも住んでみなければなりません。(108)

 相対がいなくては「私」があり得ません。相対を認めてこそ、相対から「私」の存在が認められるということを知らなければなりません。男性が夏を好むとすれば、相手側の女性は冬を好む人であってこそ、均衡を取ることができるはずです。

 きれいな女性が、女性のようにかわいい男性と結ばれるとすれば、どれほど気分が悪いでしょうか。美人が、美男よりも健康美が満々にあふれる男性を好むのも、すべてがこのような理由のゆえです。それでこそ、愛の調和を成すことができるのです。(109)

 春の季節の女性は、秋の季節の男性と結ばれて初めて、夏と冬を通過できるという事実を知らなければなりません。春の季節に該当する女性は夏を通過してこそ、秋の季節の男性と結ばれるようになるし、秋の季節の男性は冬を通過してこそ、春の季節の女性と結ばれ得るので、二人は結局、春夏秋冬の四季節を通過することになるのです。

 先生は皆さんの配偶者を選ぶとき、このような原理に合うように組み合わせてあげています。そういう先生の苦心した愛情も知らず「ああ、私は嫌です」と言う人がいますが、そのような人は、統一原理を知らないだけでなく、自分自身が不幸の道を行っているのです。(110)


4、「目の峠」を越えられなければならない


 皆さん、結婚する時ハンサムな男性、きれいな娘さんをもらいたいでしょう。みんなそのような考えをもつとすれば、皆さんの中に美男、美女がどれだけいますか。それゆえ、考えを変えなくては苦労の道を克服できないのです。目が嫌がる時には「目よ! それがお前の行くべきいばらの道だが、見たくないものを見て好み、神様のように愛してあげよう」と言うとすれば、それが美しい目です。また、他の人はそのように見ようとしても見ることができません。

 神様はそのように考えられます。神様は装って現れることにおいては、世界で一番のチャンピオンです。「私」の愛する相対として現れる人は、神様が本当に愛する息子だから、一番醜い顔で装って「私」を愛しに来ると考えてください。そのような目で夫や妻を愛するようになれば、神様の息子・娘を愛することになります。

 「私」の目に良い新郎新婦は、本来「私」を嫌いですが、神様が間違って選んで、「私」を惑わしに来たと考えてください。きれいな女性を見れば、「私」をおびき寄せに来た妖女だと考えてください。美しいより醜いほうが有利なのです。そして、あまりにも大きければ、神様が大きいから大きい人と結んでくださったのだな、小さければ、世の中に小さなものもつくった神様は調和のために小さい人と結んでくださったのだなと考えなければなりません。世の中では謀叛を起こすために美男美女を利用します。美男美女たちを立ててだましてしまいます。ですから、美男美女はサタンの道具になる可能性が高い危険な存在だと考えなければなりません。また、「私」はサタンの利用できない安全な相対と結ばれたと考えれば、どれほど誇らしいですか。

 黒人たちは、白人は傲慢だが、私たちはおのずから謙遜であるために黒い人になったと考えれば、神様に近づけるのです。さあ、では皆さんは「目の峠」を越える自信がありますか。(111)

 多くの娘たちの中は「私がこのようにかわいい顔をしているので、どんな男性が見てもぞっこんまいるはずなのに、私の新郎はどんな男性だろうか」と考える人がいるでしょう。「私がこのように美しくても、すべての男性たちの恨みを解くための神様の愛のみ旨があるとすれば、私を立てて、またとないぶ男でもいいから、その前に烈女の名を残せるようにすればどんなにいいでしょうか!」このような考えをもたなければなりません。(112)

 顔がどんなに醜かったとしても、それが重要なことではありません。心をどのようにもっているかが問題となります。

 それで、顔のいい妻を選ぶか、心のいい妻を選ぶかというと、どうですか。また、女子学生は格幅のいい男性を迎えますか、それとも心構えのいい男性を迎えますか。二つとも良いのならいいのですが、そのようなことはありません。それは上がりかけても割れてしまいます。風船に空気を入れて、天気がさえない曇った日に飛ばせば、高く飛んでも割れずに済みますが、天気がいい日、風船に空気をぱんぱんに入れて飛ばせばパンと割れてしまいます。天気がいい日は、反対に空気を少し入れ、ぱんぱんにならないようにしてこそ、割れずに済みます。

 心が良く顔が良いと、パンと割れてしまいます。それゆえ、心が良い人は顔がぺちゃんこになっています。心の良い人は顔が少しぺちゃんこになっているので、太陽が現れても割れず、ぱんぱんになりながらぶうんと飛び上がります。人を見るすべを知らなければなりません。(113)

 結婚していない娘さんとチョンガーの皆さんは、夢をもたなければなりません。一番醜い夫や妻と結ばれても「私」がうまくやるという原則を決めなければなりません。皆さんが美しい妻や夫をもらおうという原則を決めては、すべて壊れていくことになるでしょう。「私」はどんな男性、どんな女性と結ばれても感謝しながらみ旨の道を行こうと思う人には、本当に神様が祝福をもっとしてくださるでしょう。(114)

 結婚する時は、美女の夫になろうと思わないでください。この世で一番の醜女の夫になり、誰よりもうまく暮らせる夫になろうとしなければなりません。だから、この世のどんな美人からも仰がれる、そのような夫にならなければなりません。何の話か分かりますか。そうし得る観念をもって女性にうまく接していかなければなりません。(115)

 皆さんはどのような妻、どのような夫と結ばれて、嫁に行き婿に行きますか。最も醜い人と結ばれて烈男烈女になり愛そうという原則を立て、嫁婿に行って暮らすべきだということを知らなければなりません。

 愛の度合いが高ければ高いほど、無限なる宇宙で活動することができます。(116)

 世の中の人々と私の考えは違います。統一教会の合同結婚式で「私は美男子ですが、美人を下さい」と考えるのは、統一教会の伝統的歴史から見ると不合格者です。どんな男性、どんな女性と結ばれたとしても、この人が「私」の相対だと考えながらへばりつくことができれば合格です。

 真の愛は、日陰を克服しなければなりません。先生はいつも理想相対を考えるとき、黒人の女性に対しても「愛している」と言うことができると思いました。(117)

 これからは、美しい人は醜い人と夫婦にならなければなりません。私たちは彼らを崇拝しなければなりません。そのような時が来るのです。私たちの世界は、まさにそのような世界にならなければなりません。不具者と暮らす夫人や、そのような夫に対してその国の伝統を期待しなければなりません。そのような人は環境的に慰労を受けるべきではありませんか。今までそれができませんでしたが、これからは必ずそうなるのです。(118)

 皆さんは、皆さんの顔がどのように見えるか分かりますか。皆さんの顔は毎日のように、いや一日のうちにも数百回変わっています。その変わる顔の表情を鏡を置いて描けますか。皆さんは自分の顔をよく知っていると思うでしょうが、ある時は、自分も驚くほどに醜く変わりもします。皆さん自身の心がうれしい時は、顔もパッとほぐれますが、気分が良くなければ顔も醜くしかめっ面になります。自身の生活感情によって顔の変化が現れます。それは顔が心の表象だからです。心を中心として相対的姿で現れる顔は、心がうれしければうれしい顔で、悲しければ悲しい顔で現れます。それゆえ、自分の顔がこれだと言えません。自分の顔はどのようだということを推測できないからです。近くて一つとなっているので、自分の顔が分からないのです。

 ある物を目の近くに置いて見ると、よく見えない道理と同じです。皆さんが自分の手を握って触ると、第三者の手を握るようにはっきりとした感覚をもちますか。感じ間違えるというのです。それと同じように、皆さんの相対者、すなわち妻がこんな顔をしていると確定する人は、本質的な面で間違っているのです。愛する妻の顔は、自分の顔がどうなっているのか分からないように、「これだ」と言えません。自分の顔が変わるように、妻の姿も心の状態によって随時変わるからです。それで見る時ごとに違って現れ、見る人の心の状態によっても違って見えます。喜び笑う顔が印象に残れば、その笑う顔が妻の印象になるのです。また、夫の顔の様子から厳粛で謹厳さを感じたとすれば、それが夫の顔として記憶されるのです。笑う時、八重歯を出して笑ったとすれば、それがその人の顔の様子として記憶されます。そのような面で魅力を感じたということは、そのような表象を中心として全体的に拡大して考えるからです。それは、すなわち男性も女性も妻も夫も愛を中心として、無数の形状を備えているということを意味します。(119)

 結婚するにおいて、自己の愛を中心として相対を選ぼうとすれば、結婚の適齢期を逃し得るということを知らなければなりません。結婚するにおいて、女性の場合を見れば、学閥と経済力を前に出し、最も重要な愛と健康、そして能力的な面をおろそかにしやすいですが、それは誤ったことだといえます。愛を後回しにしたり、条件と利害関係のために愛がなおざりにされた状態で相対者を選ぶようになれば、その結婚生活は幸福になり得ないというのです。

 顔の美しい女性を優先的に選ぶ場合にもそうです。その顔は永遠であり得ないのですから、いくらもたたずに老けてしわが出るようになるでしょう。顔の構造は、目、鼻、口、耳から成っていますが、その位置と配列によって、その人がきれい、醜いという考えは、正しい考えとは言えないはずです。

 相対者が愛らしいと思えば、目が醜かったとしてもすべてが美しくきれいに見えるのです。ですから、愛する心をもっているかもっていないかによって、醜く見えたりもし、きれいに見えたりもするのです。昼には多少醜く見えても、夜になれば美しく見える場合もあるとすると、それは愛する心が大きくなったり、小さくなったりするからです。(120)

 人間において異性間の愛は、出会って理解と事情を取り交わす時、二人の間の愛は深まっていくようになります。「私」の約婚者は、この世の中で唯一で最高の伴侶だと思い叫んでごらんなさい、そうすればその約婚女性が本当に最高の恋人になるでしょう。

 「私の約婚者は目が大きくていい。私は目の大きいのがいい。どれほど目の大きい男性と結ばれることを待ったでしょうか」と考えれば、男性の目は一層大きくなり、愛情は行けば行くほど深まるでしょう。これは一つの理論であり、虚構ではありません。真実で理想的な愛情論であることを知らなければなりません。

 実際には目が大きいのに小さく見える人がいて、小さい目をもっているのに実際より大きく見える人がいるのは、すべてがこのような愛情観のゆえであるのを知らなければなりません。(121)


5、低くなろうとする者が高くなる


 統一教会員の皆さんに私が一つ尋ねましょう。皆さんは祝福される時、一番顔のいい人と結ばれたいでしょう。しかし私たちは、一度考えてみる必要があると思います。互いに似た人同士結ばれれば分かりませんが、統一教会で最も美しいという人が最も醜い人と結ばれたとすれば、その醜い人の立場から見る時、どれほど幸福であろうかというのです。もし神様がいて同情する人がいるとすれば、当然自分を高める人よりも自分を低めて醜い人と結ばれて暮らそうという人を、神様は同情するというのです。だから、聖書にも「死なんとする者は生き、生きんとする者は死ぬ」という言葉があるのと、同じ道理です。言い換えれば、「私」のような人は最も醜い人と結ばれてもいいと思う人は、最もいい人と結ばれるようになり、「私」のような人は最も美しい人と結ばれなければならないと思う人は、最も醜い人と結ばれるようになるのです。「私」のような女性はあのような男性が連れて暮らすにはあまりにも醜いと、自らを低めて考える人はもっといい人と結ばれるようになるのです。それは自ら低くなろうとする場合においては、高めてあげようという天地の原則があるので、その道理に従ってそのようになるのです。すべてが同じ道理です。一生の間、この醜い女性を連れて暮らすということが、どれほど苦痛になるだろうかという考えをもって、(女性が)自分を低くする位置に立つようになれば、天地の道理は動くようになっているので、その人(男性)をして心が引かれるようにするのです。また、神様はそのような人(女性)を愛するので、神様が愛する人は美しく見えるというのです。(122)

 先生が祝福をしてあげる時、私たち食口の中のある人をそっと見ていたことがあります。その人を私が一度呼んで、テストをしてみました。その人は女性でしたが、「あなたは、先生がどんな人を与えればいいか」と尋ねると、「私はこれこれの男性ならいいです」と言います。私が「こんな男性が何だ。欲も深い。あなたは嫁に行く運が良くない」と言うと、「そうですか」と言いながら、「先生が気に入る人を決めてくだされば、どんな男性でもいいです」と言うのです。それで「こんな人でもいいか」と言いながら、最もどん底から上がりなさいと言うと、「ああ! 良いも悪いも、いいです」と言うのです。そうすれば、先生はそういうどん底にいる人とは絶対に祝福してあげません。反対にしてあげるのです。天の事柄というものは、高くなろうとする者は低くなり、低くなろうとする者は高くなるようになっているのです。

 先生自身もそうでした。先生が結婚する時、自分より立派な相対をもとうと思いませんでした。自分より立派な相対をもって事を運ぼうとすれば、骨が折れるのです。同じように、立派な相対を得て暮らそうとすれば、骨が折れるのです。頭を下げて四五度以下を見つめつつ暮らすのが一番楽なのです。考えてみなさい。美しいという妻に仕えて暮らそうとすれば、どれほど骨が折れるでしょうか。ある男性は「ああ、私は勉強ができなかったので、妻ぐらいは大学を出た人が必要だ」と言う人がいますが、そのような人は間違っています。男性がすごく劣っているからといって、妻のひざの前に座って学ぶことを「どうだこうだ」と誇ることができますか。学べなかったとしても、いいというのです。

 では大学を出た女性たちは嫁に行くことができないということですか。そうではありません。嫁がせてあげるのは嫁がせてあげますが、心の中の大学という冠を脱いでしまいなさいというのです。学位があれば何をしますか。息子・娘を生むのに大学の卒業証書が必要ですか。「私」が学士だ、博士だ、これが必要ですか。そんなものは必要ないのです。歌にも、「大学を出ればこそ男か」という歌詞があるのと同様に、見掛けがどうであろうと、よく合えばいいのです。大学という看板を置いて見ると、結婚する場合に差し障りが多いのです。ですから、絶対そのような考えをもってはいけないというのです。(123)

 復帰路程を中心として見る時、先生自身もそう考えないでしょうか。「神様が六千年の間ご苦労された基台の上で、黒人の中で最高に真っ黒い人を先生の相対として決めてくださるとすれば、先生はどうするでしょうか」。先生は最初にこの道を行く時、そのように考えました。彼女を心から心から歓迎するでしょうか。本当に本当に彼女を歓迎できるでしょうか。皆さんはどう思いますか。皆さんはそこから上がらなければならないということを知らなければなりません。(124)

 統一教会の娘たちは、「私がこれくらい美しければ、どこに行っても劣らないだろう」と言いつつ、鏡をのぞき込んでどうこう言いますが、そんな人は、先生が出会えば許すことができません。それが恨めしければ、出て行ってください。(125)

 以前祝福する時ここに来てみると、ある人は目がおびえています。しかし先生は、最初約一週間そのまま自分たち同士ほうっておきました。そうすると、ある人は門前まで出てきて相手方を上から下までくまなく見回して大変です。まして一人で数百名の人を全部見回そうとするので、忙しくもなるでしょう。しかし、見回そうと思ってはいけないのです。最も醜い人と結婚しようという考えをもちなさいというのです。「私があの醜い人と結ばれるとしても、その人と幸せに暮らそう」と考えるのです。そう思って座っていれば、心が楽ではないかというのです。

 ところが、ただ見境なく自分一人、訳もなく心がぶうんと飛んで、この人に心が飛んでいき、あの人に心が飛んでいくのです。それでは困るのです。(126)

 皆さんは決して見向きもせず、下だけ見ていなさい。わき見をする人は泥棒のいとこです。なぜでしょうか。自分を偽ろうとする泥棒だというのです。自分一人、その相手方を紙切れに書いておいて決定を下す人もいます。女性たちは自分で、ある人を第一番に紙切れに書いておいて、その人が一週間選ばれて出ていかなければ、自分一人心の中で恋愛をしています。心で既に近づいているのです。その相手方が自分を好きだと言うようになれば、それこそもう、その人は自分の人だと思うのです。そうしてはいけないのです。紙切れには「一度書いてみることもできるのだ」、こう考えなさいというのです。(127)

 事実、体面と自尊心を前に出して祝福の機会を逃せば、自分だけではなく皆さんの家庭と子孫たちまで悲惨になるしかないでしょう。(128)

 道端に捨てられた売春婦でもむやみに手を出してはいけないのです。天地開闢が起これば、その売春婦が王様の夫人にもなり得るというのです。そうではないですか。ならないという法がありますか。王が、彼女でなければ私は死ぬと言うなら、どうしようもないのです。世の中を自分の枠に当てはめて見てはいけないのです。賢い人はそのような点で賢いのです。高いといって頂上だけ見てはいけないというのです。最もどん底にも無限に高い所があるのです。立体的な世界について見ると、そのように行く路程です。平面的な立場から見ると、ソウルにある南山が一番高いだろうと思いますが、以北(北韓)に行けば行くほど、南山より高くない山がないのです。そういうことがあり得るのです。(129)

 さあ! もう皆さんの立場が分かったでしょう。皆さんはサタン世界の王について行きますか、天の世界の僕について行きますか。天の世界の僕について行くというのですね。よろしい! よく答えました。

 統一教会にびっこの男性がいて、世の中の王がいて、結婚しようと言えば女性はどこに行かなければなりませんか。笑いごとではありません。どこに行くべきですか。統一教会のびっこをもらっていかなければなりません。彼はびっこですが、一度子供を生む日には何を生みますか。天の国の王子様を生むことができます。(130)


6、学歴よりもっと重要な条件


 望みの高い人たちを見ると、大学を卒業したから大学院を出ていなければ……。そして、博士でなければ。そうでしょう。しかし博士になった人を探しても、独身男性の中に博士になった人がいますか。ちょうど三十歳になって、こういう人はもぐら型の人たちでしょう。どんなに良いという人を見ても、振り返って尋ねてみれば、夫婦の情はないのです。それを一般の人は知りません。これは何の話かというと、願いを懸けても、その願いが保障されるだけの何の内容もないということです。(131)

 今私が三日間このようなことをしながら、一日半は女性たちと時間を過ごしましたが、いわゆる高等学校、大学を出たという連中がみんな欲張って立派な男性を願っていて、望みを下げるのは束の間であり、また欲張って良い人だけを探しています。

 一日半ぐらいは望みを下げていなさいと言っても、下げるのは束の間で、またひたすら欲張ってばかりいるので、男性すべてが自分の気に入りません。それで、駄目なので、仕方なくその次には取り返すのです。作戦変更がなされます。神様も仕方ないでしょう。磐石が出てくる前には果てしない荒野を放浪するものだからです。人間は、誰しもそういう作戦をするのが常識になっています。

 それでは、作戦をどのように展開しますか。皆さんが嫌なら、私は聖書どおりにします。私は原則どおり、つまり私の思いどおりにせず、父のみ意どおりにします。では父のみ意は何でしょうか。高くなろうとする者は低くなり、低くなろうとする者は高くなるのが父のみ意です。だから、この次には中学校出身は中学校出身以上を選びなさいと言うと、中学校以上の顔格好のいい娘たちはみんな、高等学校以上でも美男であればいいのになと言って、舌打ちをチェッチェッ……。こうして中学校を出た娘たちを中心として、高等学校を出た人たち(男性)と全部結んであげ、その次には大学(出身の男性)まで結んであげてみると、高等学校を出た女性、大学校を出た女性に残されたのは中学校と小学校出身だけです。しかし、こうしなければなりません。

 それは、統一教会の文先生が作戦上そうするのではなく、原理上そのようにしたということを皆さんは理解しなければなりません。だから、嫁に行く、行けないというのは私には責任がありません。それゆえ、この原則を中心として人事措置も取るのです。(132)

 今回も祝福を受ける者たち(一八〇〇家庭)は、自分の対象を選ぶのに深刻なのは深刻ですが、内容もなく深刻がっていました。

 内容を備えて深刻がっていたならば、無難に突破できたでしょう。自分を中心として深刻がれば、サタンのえじきになるのです。祝福を受ける群れが全部高卒、大卒出身たちですが、みんな上がろうとするだけとは、どういうことですか。まさしくそれは、零点より下にいるのです。(133)

 皆さんの中で愛のない判事の夫人になりたい人、手を挙げてみてください。一人もいません。なぜでしょうか。愛があった次に判事があり得ても、判事があった次に愛があり得ません。ところで神様も、世の中に対して先に愛して判事になるべきはずなのに、堕落したため判事を先にして、愛を尋ねてきています。

 それは、愛を探し出すために判決を先にしたのです。だから既成教会の神様は判決される神様だといいますが、統一教会の神様は愛するための判決をする神様です。(134)

 皆さんの中には「私は大学を出たので、私の相対は学士の学位を取った女性でなければいけないだろう」、または「大学院を出た男性でなければ私と合わないだろう」と言う人がいるでしょう。合うのは労働者でも合います。男性と女性は合うようになっています。ところが、自分たちが勝手に考えます。そのように考えてはいけません。(135)

 祝福対象者たちも同じです。祝福対象者の中に良い女性がいるとしましょう。うわべを見るにはすてきです。しかし重要なのは、これからみ旨の前に存在するだけの価値があるのかということです。そのような女性がどんな男性と結ばれるかということは、大変重要な問題なのです。

 ところで、祝福対象者の中で、ある女性が先生の前に来て「私は大学を出たので、相対は大学院以上は出ているべきではないですか」と言います。それで、先生はその女性に「そう、あなたは美しい。あなたは頭もいいし大学も出たし、だからあなたの相対は、あなたが勝手に気に入る男性を選んで結婚しなさい」と言いました。その女性がみ旨のために忠誠を尽くしますという心で、誰とでも結婚しますと言ったならば、どれほど良かったでしょうか。

 半面、今回の祝福対象者の中に小学校しか出ていなかった女性がいましたが、先生が呼んで「あなたは顔もそれくらいならいいのに、高等学校さえ出ていたならどれほど良かっただろうか」と言うと、涙を流しながら「私は小学校しか出ていないので、み旨のため何も言わず苦心奮闘している人なら誰とでもいいです」と言ったのです。それで先生が、高等学校出身の中で一番賢い地域長と結んであげました。先生がする方法は間違っていますか。天運が行く道はそうだというのです。(136)

 今回先生が日本に行った時に、日本の食口たちに「あなたたちが私の言葉を聞かなければ、七十年ないし八十年後に日本は必ず滅びる」と話しました。同様に、日本の独身の女性食口たちに、良い新郎をもらいたいか、悪い新郎をもらいたいかと一人ひとりに尋ねてみると、どれほど親しく温かく聞いたのか、うれしくてみんな涙を流しました。皆さんはどうですか。また、男性たちは良い新婦をもらいたいですか、悪い新婦をもらいたいですか。泥棒のような男性たちには聞いてみることもないでしょう。

 それでは、どのような新郎が良い新郎でしょうか。顔が良く、格幅が良く、一流大学出身、日本でいえば東京大学出身程度なら良い新郎でしょうか。そうですか。ある人たちは「そうだ」と言うでしょう。しかし、いかに一流大学出身の新郎候補者だといえども、統一教会を信じなければ、その人には絶対に嫁に行けないというのです。そうでしょう。皆さんは、統一教会を信じない一流大学出身の新郎候補者と結ばれたいですか。単なる農村の人夫ですが、死ぬか生きるか分からないほど統一教会に忠誠を尽くす人と結ばれたいですか。どんな人と結ばれたいですか。尋ねるまでもなく、統一教会に忠誠を尽くす人夫と結ばれると言うでしょう。そうなっているのです。

 それで日本の独身女性たちに、最も醜い人が統一教会に一番忠誠を尽くすとすれば、彼に嫁ぎますかと言ったら、答えるかどうかためらうのです。しかし、どうしますか。答えざるを得ないでしょう。結局、「最も醜い人の所に行きます」と答えました。人には間違いありませんからね。これは間違いない事実です。

 続けて「では、日本で最も信仰の篤い人とアフリカで最も信仰の篤い黒人がいるとして、アフリカの黒人は醜いですがその人が日本人より十倍以上統一教会を信じているとすれば、どこに嫁に行くべきですか。答えてごらんなさい!」と言ったら、小さい声で「アフリカに行きます」と答えたのです。(137)


7、結婚は後孫のためにしなければならない


 先生が組み合わせてあげれば、何を信じて結婚しますか。自分の目で見ていい人よりも、将来、良い息子・娘を生むために結婚しなさいというのです。息子・娘のために結婚しなさいというのです。もし、皆さんが互いに良いという人と結んであげて、世の中の男性や女性が誰も見向きもしない、そのような息子・娘を生んだならどうしますか。それ以上の不幸はないのです。それは、一生涯不幸になります。自分自身が不具の身だとか、または自分に何らかの欠陥があって感じる不幸よりひどいのです。

 それゆえ、私たちの結婚は後孫のためにするものです。だから、結婚する当事者たちの顔立ちはもちろんですが、彼らがもった良い点だけが似た息子・娘を生める人同士、どのように組み合わせてあげるかということが問題です。(138)

 愛は天から始まらなければならないものなのに、サタンから始まりました。堕落とは何でしょうか。サタンから、エバから、横的に始まったものです。皆さんは、その後孫ですから横的です。先生は皆さんに利用されているのです。それでも先生は、皆さんがどうなることを願っているでしょうか。良くなることを願っています。同様に、皆さんから悪い後孫が生まれないことを願っています。先生の目的は、ここにあるのです。(139)

 結婚も、自分を良くするためにするものではありません。劣った子女を生んでみなさい。家は滅びてしまいます。(140)

 統一教会の文先生が祝福をするのは、皆さん個人のためにするのではなく、皆さんの後孫のためにしてあげるのです。皆さんとは観点が違います。

 統一教会の文先生は、結婚は何のためにするものだと見ますか。結婚は国のためにするものだと見ます。国のためにすればどうなりますか。目的は、結婚して生む息子・娘たちを、その父母よりも立派に生むことができるかどうかにあります。一つの例として、顔が三角になった男性が全く同じ三角形の女性と結婚をすると仮定すれば、なるほど何が生まれるか想像できます。

 それでは、それが後代の国のためなのですか。それは国を滅ぼすのです。(141)

 娘たちは嫁に行くでしょう。嫁には何のために行きますか。「私」のために行くのではありません。嫁には千秋万代の選民を受け継ぐために、後代のために行くのです。自分のために行ったなら、全部滅ぼしてしまいます。そのような退廃風潮が世界を巻き込んでいますが、全部切ってしまわなければなりません。ここの若い娘たちがそのような思想をもったなら、私とは怨讐です。

 国を愛し得る主人にならなければ、妻になれないのが原理原則になっています。アダムが完成すれば、国の主人として完成できるのです。アダムは世界の中心主人として完成しなければなりませんでした。それゆえ、世界の主人を夢見、国の主人の責任を果たせる立場に立った男性と女性になって初めて、祝福を受けるのが原則です。それもできず、そんな考えももてずに恋愛できるでしょうか。とんでもありません。(142)

 先生が話をしたかどうか分かりませんが、水沢里修練所で修練会の閉会式をする時、ある人が所感を発表して、子供を産む時そのまま産めず、帝王切開で息子を産んだというのです。それなのに、なぜそんなに気分がいいのか、本当におかしいというのです。説明はどのようにもできませんが、気分がいいというのです。そうして、「先生が私たちにいつも四位基台の復帰をお話しになる時は、何も分かりませんでしたが、息子を生んで原理どおり四位基台を成してから分かった」と言うのです。事実、それが誇りだといえます。それで先生が、「あなた、四位基台だとか何だとか言わず、率直に気分がいいならいいと言いなさい」と言いました。そうだというのです。すべてのものを全部備えるようになればいいのです。しかし、自分がそれらを備えられないようになると、不幸だというのです。どんなに美人だとしても、一人で暮らすようになれば、それは不幸なのです。

 それゆえに、我が統一教会で結婚するのは、これから長生きして、自分の後孫のためにするのだと考え、自分の姿がどうだということを考えてはいけないのです。率直に、そうならなければならないのです。「私自身はこのように生まれたので、私はこういう男性をもらってこそ、私の後孫はこのような子供が生まれるだろう」ということを考えなさい。そして、ほおがこのように出た人がいます。また、目がぽこんとくぼんだ人がいますが、そういう人は間違いなく未亡人になるのです。(笑い)ですからそのような人は、反対に目が出ていて、ほお骨が出た人と祝福してあげなければならないのです。そのように、すべてが合わなければならないのです。何と言いましょうか、種子を改良して新しい種子を得るために、接ぎ木のようなことをするというのです。

 ですから皆さんは、相対が自分の気に入らなくても心配しなくてもいいのです。先生は今まで多くの人たちを指導してきました。今まで祝福してあげた人たちの息子・娘を見ると、大体においてそのお父さん、お母さんよりももっと優れているというのです。そのようですか、そうではないようですか。そうだとすれば、私が結合をうまくしてあげたという話になるのです。(143)


8、約婚のための真の父母の苦労


 三月から、全国にいる我が青年男女たちを呼んで、特別修練をさせる計画です。ところで七〇〇双を組み合わせてあげようとすれば、一日に五双ずつ決定するとしても、彼らは五カ月の間、眠る時や食事をする時も、常に祝福についてだけ考えるようになるでしょう。祝福という一つの問題をもって、約五カ月の間相撲を取るようになるでしょう。

 そうなると、独身男女たちは祝福を受けるんだといってうれしがりますが、これに責任を負ってすべて切り回すべき先生には、大変な問題です。それは、先生には、日帝時代に日本人たちの所へ拷問を受けに引かれていったような気分です。これをどのように通過するかを考えると、毒ガスがいっぱいに満ちた長い洞くつを通って出ていくような気分だというのです。

 それゆえ、これからあるはずの特別修練会に参席する人たちにお願いするのは、その時になって、どうか(先生を)傷つけないでということです。今日、皆さんが先生の誕生日を祝う意味で、先生のこの事情を分かってくれたならと思い、お願いをいたします。(144)

 世の中のどこにそのような結婚式があるでしょうか。そのとき十時に式を始めますが、八時半まで、夜も眠れずその行事(マッチング)をしました。このように結婚は、人の一生にとって重要だからです。

 日本では二日間に一六一〇双の配偶を選んで約婚式を主宰しました。皆さんは紙一千六百枚を作って組み合わせるだけでも疲れるでしょう。(145)

 皆さんも考えてみてください。八十三カ国から来た一万二千余名の独身男女たちに、国境を越えて愛の因縁を結んであげることは、言葉では易しいですが、実際にはどこが易しいでしょうか。そのようなことをして先生に何の利益があるでしょうか。六〇〇〇双を結んであげるのに、その間一時も楽に休めませんでした。祝福の行事が終わった今でこそ、少し休むには休みましたが……。ですから、体の楽な時間がどこにあるでしょうか。(146)

 このような面で、祝福という問題について見るとき、これから我が統一教会員たちも、天の祝福を受けるのに相当多くの問題があるだろうと思います。現在、先生自身がこれに責任をもち数カ月間この仕事をしてみて、どのような気分になるかといえば、炭鉱の坑に入っていく気分です。皆さんもその坑に入ってみなさい。そこは狭心症では入れません。初めに入れば暗く、どんどん入れば入るほど道が狭く感じるようになります。先生は今、そのような坑を通過している気分です。(147)

 今回、先生が外国を巡回しながら、西洋人たちを結婚させようとドイツ人に行ったら、四十二歳になった歯の抜けた独身男性が、結婚できずに先生を待っていました。統一教会の先生が結婚させてくれなければ、一人では絶対結婚しないというのです。自分の父母が結婚させてくれるのがいいですか、統一教会の文先生が結婚させてくれるのがいいですか。皆さんはどうですか。「先生がさせてくれるのがいいです」。これだから世の中の人々が騒ぎます。だから、その悪口は先生が全部食べます。皆さんが何をよくやったといって、先生が結婚させてあげるのでしょうか。先生は教えてあげて、ひどい目に遭っています。教えてあげなかったらこれをやらなくてもいいのに、真っ赤なのや黒んぼや黄色いのや、みんな頭を突っ込んで、先生に嫁婿に行かせてくれと言います。だから合同で結婚式をするのです。一年十二カ月、毎日のように宴会をするとしても余るようになっているので、合同結婚式しか方法がないのではないでしょうか。そうだといって、一生に一度しかない結婚式をむやみにすることもできないでしょう。それで今回も、アメリカで世界合同結婚式をして、一勝負しました。そして帰ってきました。(148)

 万民を本当に屈服させようとすれば、最も低い所から出発しなければなりません。もう、先生がどんな命令をするか分かりません。皆さんを祝福する時まで、どれほど内的な苦痛が多かったか皆さんは知らないでしょう。とばく場で最後の一枚を引く心で、皆さんを立てたのです。(149)

 十二時が過ぎ、二時が過ぎ、夜を明かしても、私の目は疲れることができません。忠誠をこの場で尽くさなければなりません。今もそうであり、昨晩も何時間と眠れませんでした。一時間ぐらいは眠ったでしょうか。人の生命に責任をもち、一生に一度しかない重大な問題を残して眠れません。
 皆さんが十年かけてどんなに選んだのよりも、私が瞬く間に数双ずつ選び出したものが、いかなる面でも優れているので、私がこの仕事をします。深刻です。滅びるしかない運勢圏を率いて世界にない一つの使命を成し遂げられるそのような秘訣を見つけ出したために、滅びずに統一教会が発展して勝利したという看板を掲げることができます。度量の小さい男になってはなりません。(150)













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第三節 約婚事例

祝福家庭と理想天国

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第三節 約婚事例


事例1:自分のために祈祷する者


 先生が彼らに自分の対象者(結婚したい人)を紙に書いて出しなさいと言ったら、ある人は五人書いて出しました。ここに参席した人の中にも多分そのような人がいるでしょう。だから先生は、今回十人以上書いて出しなさいと言おうかと思いました。しかし、十人以上書いて出しなさいと言っても、困るというのです。名前を知っていなければならないでしょう。十人を越すからといって、顔を丸く紙にかいて表示することもできないですからね。名前の三字をはっきり書き出さなければならないというのです。ですから、多くても困るのです。それで五人ぐらい書きなさいというのです。

 ところで、その紙に書いたものを見ると、本当に見物です。女性たちは、男性たちの中で一番ハンサムだという人にみんな集中しています。同様に、男性たちも、女性の中で一番きれいだという女性にみんな集中しているのです。五百人ならば五百人全部が、そのハンサムだという人に集中しています。そうかといって、一人に五百人全部を嫁にやることもできないので、四百九十九人は引き離さなければならないという計算が出てくるのですね。そうなれば、男性たちより女性たちが本当に困るのです。

 どうしても男性たちが考えることのほうが、女性たちよりもましなようです。先生が男性たちの書いて出した紙切れをさっと見て、「おまえが書いて出した第一該当者は、他の所へ飛んで行ってしまった」と言えば、男性たちはただそのように理解します。ところが女性たちに「書いて出した第一該当者は、他の女性の所へ飛んで行ってしまった」と言えば、女性たちはつんつんとして騒がしいです。これはどういうことですか、私は気分が悪くて死にそうです。飛んで行ってしまうのが当然な道理ではないですか。ところが女性たちは、五〇〇対一ということは、考えもしないのです。むしろ、「私が先生のために祈祷をしたので、先生は間違いなく私の祈祷を聞いてくださるだろう」と、こう思っています。そんな祈祷は千年しても何の役にも立ちません。そんな祈祷はやめなさい。その祈りは、自分の欲を抱いた祈りだというのです。これはいけません。そうではありませんか。四百名全部が「あの人に私を嫁がせてください」と祈るというのです。みんな祈祷をするというのです。それでは、神様は誰の祈祷を聞いてくださるでしょうか。祈祷をしなかった人に同情するというのです。先生が神様の立場に立っても、そうするしかないのです。

 ですから自分のために祈祷する人は、みんな欲張りです。むしろ、祈祷をせず、「あなたの前にすべてをゆだねます。劣った私が迎えるべき相対はいないでしょうか。ただ父の計らいのままになさってください。ただ一人老いて死ぬのなら喜んで生きて死にます」と考えなさい。それが最も気楽だというのです。

 ところがこのように考えないで、自分たちだけで、統一教会が何がどうでこうでとささやくのです。そういうのを先生は感じます。そうなれば、およそ一週間じっとほうっておきます。そうすれば彼らは、結果が出てこなければならないのに、出てこないので騒がしいのです。およそ三日くらい過ぎれば深刻になり、御飯も食べないのです。そのように一週間ほど過ぎて、この世的な目から解放され、再び生き返ったと先生が思った時、結果を発表してあげるのです。

 相対を決めてあげるにおいて、その相対が嫌だと首を横に振る者には、絶対先に決めてあげません。そのような者は、最後に決めてあげるのです。先生は決めてあげないのに、その者自身ではどうにもならないでしょう。ある人は、「私は祝福を受けるために水行し四十日精誠祈祷を捧げたので、先生が間違いなく初めに決めてくださるだろう」と考えますが、とんでもありません。その反対です。絶対そうではないというのです。自分を中心として精誠を尽くした人は、天罰を受ける人だというのです。

 しかし、「今回の祝福によって特別集会がありますが、神様、私の相対は誰になったとしても、あなたが喜ぶことのできる人の中で決めてください。その人が私の知っている人であれば、さらにいいです」と祈るようになれば、この祈祷は条件を懸けてするものなので、天と通じるのです。祈祷しようとすれば、そのような祈祷をしなければならないのです。ところが「私はその女性でなければだめです」と、みんなそんな祈祷をするようになればどうなるでしょうか。だめだというのです。(151)


事例2:写真結婚


 ここにいる女性たち、よくお聞きなさい。日本にいる食口たちは、今先生の特命であれば、どんなことでもすべてします。日本の食口たちは先生が特命を下して、こんなことをしなさいと言えば、するようになっています。「あなたは韓国人に嫁入りするか」と言えば、百人なら百人が皆承諾をします。アメリカ人もそうです。「あなたは韓国の男性のうち、労働する人に嫁入りするか」と言えば、「はい」と言わなければならないようになっています。嫌だろうと良かろうと、「はい」と言います。それは、初めは嫌ですが、会ってみれば嫌でないようになっています。

 これは統一教会だけがもっている特権です。太平洋の向こうに夫を置いて、太平洋のこちらに妻を置いて、結婚式ができるのが、統一教会の理念です。一人は日本の東京で、一人はソウルの真ん中で結婚式ができるのが、統一教会の理念です。どれほどすてきですか。私もそのように一度結婚してみればよかったです。人々は、統一教会の祝福家庭に「やあ、あなたは私より立派だ。あなたの夫が私より優れている。私ができないことをしたので、海の向こうに夫を置いて結婚をしたので、私より立派だ」と言うでしょう。

 人を見もせず、写真だけ見て結婚したので、それはどれほど素晴らしいでしょうか。いつ一度会ってみましたか、目を一度合わせてみましたか、言葉一つ交わしてみましたか。ただ写真だけを見ても夫に侍ることのできるその心は、どれほど豊かですか。韓国の男性たちは全部嫌だと言って、写真だけ見た日本の男性を訪ねていけば、その心情がどれほど切ないかというのです。すごく愛したので、写真を見て結婚するのだというのです。それこそ理想的な夫婦です。

 こういうこと(普通の人ができないこと)を、統一教会の先生がしているのです。それゆえ、世の中は十分に理解し同参し得ないのです。今回、一二〇双を市民会館に集めて結婚させる時も、父母たちに、「あなたの息子・娘を結婚させてあげます」という公文を出しませんでした。「あなたの息子・娘を合同結婚させてあげるから、どうか承諾してください」と頭を下げませんでした。それでも、なぜ人の息子・娘を連れていき勝手に結婚させたのかと抗議する人に、一人も出会うことができませんでした。誰がそのようにできるでしょうか。

 これを見るときに、考えある人は違うというのです。どの団体、どの国家の誰がそれをし得るでしょうか。どの国の大統領がそれをし得るかというのです。それは統一教会だけができることです。祝福を受けた人たちの父母たちは、今も先生を有り難く思っています。そんなものです。(152)


事例3:ある夫婦の話


 先生は少し前に全羅南道の巡回を終えてきました。そこに以前、祝福を受けるとき思い出すある娘がいました。今ここにその夫が来ているかもしれません。あるいはその娘も一緒に来ているかもしれませんね。その娘がどういう娘だったかといえば、他の人たちが皆選んでいって残った娘でした。ところで責任者としては、心情的にその人に同情せざるを得ませんでした。美しい人はどんなにほったらかしておいても、連れて行く人がたくさんいます。連れて行くなと言っても、けんかをしながら連れて行くというのです。しかし人は物と違って、嫌いな人は、拝んで連れて行けと言っても連れて行かないのです。全部選んでいって、一番あとに一、二人残りますが、その娘はその中の一人でした。

 男性の目は誰も皆同じく、美しい人物の見方を知っているのです。先生自身も、男性の立場でじっと考えれば、誰かにその女性と結婚しなさいと言えないのですね。ところで、その人にどう結婚を執り持ってあげるかというのです。もし皆さんがそのような人を執り持つべき立場であれば、どのように言葉を引き出しますか。女性でも男性でも一つのように先生を信じながら、自分たちに最上の相対を組み合わせてくれるだろうと思っています。ですから、みんな目が高くて願う基準はものすごいのに、それより下の基準にある人を組み合わせてあげられるかというのです。そうでないようにするには、最高の基準にある人を連れてきて組み合わせてあげなければならないはずですが、そうなれば、何にもなりません。だから、これをどうしなければならないでしょうか。

 それで何と言ったでしょうか。この女性と結婚するようになれば、間違いなく二世は素晴らしい美男と美女が生まれるだろうと言いました。ところが、この女性と結婚して、そういう子女を生まなければどうするでしょうか。その女性と結婚して一緒に暮らし、子供を生んだのに、自分たちに似ていたらどうしますか。間違いなく彼は、先生に抗議するだろうというのです。そうではないですか。統一教会の文先生が私をだまして結婚させたと、いくらでも抗議できるというのです。しかし、もし美人を生んだとすれば、すべてのことは簡単に解決されるのです。そのような深刻な立場で、彼らを組み合わせてあげたのです。

 ところでこの前、全羅南道を巡回してちょっと立ち寄る中間駅ですが、食口たちが出てきたというのでさっと見ると、その娘と夫が出てきていました。一遍に胸がわくわくするのです。赤ちゃんを連れて来たなと思ってその娘を見ると、赤ちゃんをおんぶしていました。それで、他の人たちがあいさつをしようとしまいとその娘の所に行って、「どれ」と、その赤ちゃんを抱いて見ながら、「こいつは本当に美しい」と言いました。そのようにして、その娘に勇気を与えて来ました。さあ、ですから、これに対しては笑って済まそうというのです。(153)


事例4:不具の一人の女性


 祝福するとき、女性の中に不具者がいました。そうかといって、その女性の顔、姿は醜いのではありません。背後の因縁や天性は良い女性ですが、生後父母たちの過ちにより病身になった女性です。さて、男性たちにその女性と祝福してあげるというと、みなその女性が嫌だというのです。事実誰が、病人を好きだという人がいるでしょうか。ところで、ある一人の男性をじっと見ると、目がぽこんとくぼんでいて顔立ちに欠点がたくさんありました。その欠点を補充してあげられる女性が、まさにその女性ですね。それで先生が説得工作に出ました。「あなた、この女性は見た目にはこのようだが、良い女性だ。生活していて見るのが嫌な時があるが、その時は目をつぶればいいではないか。けれども女性の顔は本当にきれいだ。また、あなたが結婚するのは何のためか。まさに後代のために結婚するのではないか。そのような立場で結婚すれば、これは統一教会の歴史に長く残ることではないか。先生の一生で、忘れられないことではないか」と言いながら、ずっと話をしてあげました。そして、「あなたがその女性と結婚して娘を生むようになれば、美人を生むだろうし、息子を生むようになれば、将軍を生むだろう」と言って、組み合わせてあげました。

 数年が過ぎたのち、先生が地方巡回に行きましたが、その夫婦がその場に参席しました。ところで、先生を見るや否や、彼が私の前に駆けてくるのです。その間、どうなったか心配だったところに出会ったので、彼らの子供を見ようと思ったら、案の定、本当に美人の娘を生みました。それで自分の娘を自慢するのです。先生がおっしゃったことは間違いないと言いながらです。だから、皆さんも人の見掛けが良いといって、その人がいいと思ってはいけないというのです。(154)

 万民は兄弟です。もし自分の兄弟の中に不具者がいれば、彼のために犠牲になるのが兄弟愛です。また、父母がそのような立場にあるとしても、その父母に服従し犠牲になるのが孝子の道です。それが原則です。他の人は、醜いといって見向きもしないほど顔が醜く背も低い子供がいるとしましょう。それでも父母は、その子供が言葉にならないほど不憫に感じられるのです。神様の心情をもって、誰よりももっとその子供を愛するのが親です。(155)


事例5:アメリカの精鋭の三人


 さあ、それを精細に話そうとすれば切りがありませんから、特別な事件だけ話します。アメリカには今、サンバ・クラスがあります。これはアメリカで私たちの教会を開拓した、表彰すべき女性たちの集まりです。彼女たちの年がどのくらいかといえば、今四十二、四十三歳です。結婚をしていたとすれば、みんな息子・娘もあるべき人たちです。この人たちを祝福してあげなければならないはずですが、相対をどこで求めるかというのが、ここ(韓国)から行く時からの先生の大きな問題でした。

 それで、先生がそこに行ってその問題をずっと説明したところ、よく理解したのです。それを見れば、西洋人はそのような観念をはっきり超越していました。四十二歳になった女性ならおばさんみたいですが、この娘に三十三歳になったチョンガーが結婚しようと言います。三十三歳であれば、四十二歳とは九歳差があります。

 イギリスの食口もアメリカにみんな来ていました。四十二歳の人と三十三歳の人が結婚すべきはずですが、それはだめだと考える人がいます。皆さんも自分ができるかどうかを考えてごらんなさい。静かに心で考えてみなさい。皆さんのおばさん、おじさん、お母さんが何歳か考えてみなさいというのです。子供を二、三人は産んだ年だから、顔がしわくちゃになって赤みはなくなっているでしょう。そんなおばさんのような娘と、花のような若い皆さんと結婚すると考えてごらんなさい。気分が出ますか、でませんか。男性たちは率直に話してみなさい。「出ません」。そのとおりです。気分が出ないという答えが原則です。

 では、先生が彼らを強制的に結婚させたのでしょうか。そうではありません。その人たちが見るのは、年一つだけ見るのではありません。その人たちは、名誉をとても尊重します。その人がどれだけ功績と実績をもっているかが、その人の人格を代身します。功績と実績がその人の全体を代表するというのです。そのような観念が東洋人とは違います。なぜそうでしょうか。その人たちは長く生きることより、短く豊かに生きることを重要視する考え方をもっているからです。そういう意味で、彼らには進んで事を成す面があるのを感じました。(156)

 これから独身男性たちは、先生に勝とうとすれば、十歳以上年上の女性と結婚できる広くおおらかな心をもたなければなりません。気分がいいですか。なぜ、よくありませんか。その国に一人しかいない王女でも気分が悪いですか。その国で一人しかいない女性でも気分が悪いですか。女性がたった一人しかいなければ、どうするのですか。男女の比率が一〇〇〇対一であればどうするのでしょうか。さあ、元気が出ますか、出ませんか。(157)


事例6:あるオランダ宣教師の信仰


 オランダを開拓した人の中にテディという人がいますが、彼はアメリカでかなり有名な技術学校を出た旋盤技術者でした。彼は先生に出会ってオランダへ伝道に行き、オランダ教会を開拓してオランダで一代目の祖先となりました。彼の話を聞いてみると、言い難い苦衷が多かったということが分かります。彼は自分がオランダに行って蕩減期間を三カ月以上過ごすと誓った人です。彼は自分のすべてのものを捨てて波止場に行き、ふ頭で労働をしました。彼はアメリカで一カ月に一千三百ドルぐらいもらう有能な技術者であるにもかかわらず、また合格証だけ持ってオランダのどこに行っても大変な待遇を受けられる立場であるにもかかわらず、それをみんな捨ててしまって波止場のふ頭労働者になったのです。

 先生が行ってみると、船員たちと一緒に食べて暮らしていました。暮らし向きが甚だ困難でした。手はひきがえるの手のようで、顔はくちゃくちゃな労働者の姿になっていました。乞食の中の乞食になっていました。食事の時に食べるのはかちかちのパンでした。お金は一日に三十八ドルしか稼げませんでした。食べて暮らすのに忙しいにもかかわらず、それを割いて通帳を準備し、そのお金で原理を翻訳、出版しました。そしてその本に血書を書いて先生に贈呈しました。それを見るときに、先生は感じるところが大変大きかったのです。

 彼が伝道しに行くとき歩いて行っているだろうと思って、オートバイを買ってあげようかと聞いてみると、オートバイは嫌だと言いました。オートバイが嫌なら、何を買ってあげようかと言うと、自転車を買ってくれと言いましたね。それで買ってあげました。自転車を四年前に買ってあげましたが、大統領であれ誰であれ、その誰が触っても大変だという思いで、乗って通わず、今も新しいのです。こんなにまで精誠を尽くした人です。

 今度祝福してあげるとき、ヨーロッパの人たちを祝福しないわけにはいきませんでした。それで対象者たちをみんな集めておき、あらかじめ責任者たちに名簿を準備しておきなさいと言いました。他の人は互いに希望する対象がいましたが、この人は誰も考えてみた人がいませんでした。あなたは誰と祝福されたいのかと尋ねると、自分がアメリカにいたときに、真にみ旨に忠誠を尽くして従ってきた人を知っていると言うのですね。それは誰かと言うと、ポルリンという女性だと言いました。彼女は三十四歳で入教して八年になった食口ですが、トリスという食口と三位基台を成した人でした。彼女は、我がみ旨のための三名の革命闘士の中の一人でした。

 彼がアメリカで彼女と共にみ旨の道を行くとき、耐えて開拓しながら積み上げた功労も多かったのですが、幸福な時も多かったようです。同様にオランダを開拓した彼は、彼女が今まで十年の間、どんなに難しい環境でも、その環境で一人開拓生活をしていることをよく知っているというのです。彼女が今まで結婚できなかったという話を聞いて、先生がドイツにいる時、彼女と結婚できないかと問い合わせてきました。

 世の中には美人が多く、オランダ教会にも娘たちがたくさんいますが、社会生活の経験のない女性は、これからオランダ教会を抱えてリードできる母になり得ないというのです。(彼は、)もちろんオランダ教会にも、きれいで私自身のために相当苦労した娘たちが多いですが、それは問題ではないというのです。オランダにおいてどうにかして統一運動の伝統を残すためには、オランダを愛し、陰に立ち内外のすべての嫌なことを全部抱いてリードできる、母のような人が必要だというのです。それで彼は、他の人がどう思うか知らないけれど、現在アメリカにいるそのおばさんのような娘と祝福してくれというのです。

 それで「そのおばさんのような娘は、顔つきも馬みたいに見える。馬が立って歩くような女性だ」と言ってやりました。皆さんがそんな言葉を聞けば、気分がいいですか、悪いですか。

 祝福の場で祝福を受けられなかった人を集めなさいと言った久保木も、そのおばさんのような娘と出会うや、ひどく驚いたというのです。「何でこんな女性がいるのか」と言ったというのです。そこまで醜ければ、本当に醜いというのです。顔が長く、額を出せばぶざまであり、背中は曲がり、鼻は大きく、背もまたどれほど大きいか、レスリング選手はあっちへ行きなさいというのです。この女性が笑うのを普通の男性が見るならば、たぶん驚いてふろしきを包んで逃げていくでしょう。それにもかかわらず、その男性はその女性と、年を取るまで仲良く連れ添うというのです。

 こういうことを見て、先生は気分が良かったでしょうか、悪かったでしょうか。まずは気分が悪かったのです。なぜなら先生は、若い青年に花のように美しい娘を抱かせてあげたかったからです。より良い未来の希望が膨らみ得る、見れば見るほど花の中の花が咲き、香りの中の香りが香る、夜に昼に「私の愛する人よ!」と言えるそのような人と結婚すればいいだろうというのです。ところが、もはやこのような私の考えの基準から遠くなっているので、気分が悪かったのです。しかるに気分が良くなった原因は何でしょうか。み旨のために、神様の民のために、三百万オランダ国民のために自分が頑丈な土台を築くというのです。またこういうことをするために、これから男性はそうあるべきであり、女性の権威を高めてあげられる男性にならなければならないというのです。そういうことをしなければならないという、彼の言葉に先生は手を上げました。

 先生は結婚式をする日、とことんまで彼の誓いを受けました。先生は「年を取った女性は、少したてば子供を生むことが問題になる。四十二歳になったから、子供を産める期間はもう四年しか残っていない」と言いました。しかし彼は生むことができると言ったのです。それは問題ないと言ったのです。「神様は私どもを誰よりも愛し、ヨーロッパの家庭の中でも最も幸福な家庭をつくってくださるでしょう。創造主であられる神様が私どもに四位基台を完成しなさいと、息子・娘を下さらないでしょうか」と言うのです。それぐらいなら、彼は年を取った男性をはるかにしのいでいるのです。

 私はテディに「本当に、君の夫人になる人を伝道に送るのか送らないのかを、もう一度考えてみなさい」と重ねて聞きました。そうすると、「先生は私をお信じになれませんか」と言いながら、気分を悪くするのです。ヨーロッパはそういう人がいて権威が立ちました。

 飛行機に乗りさえすれば、アメリカからも瞬く間に飛んでくることができます。それで、すぐ彼女が来ました。さっと入ってくる彼女を、私はその男性の立場で鑑賞してみました。「あ! 女性があのように見えるから」と、先生も関心が行きます。娘たちを開拓伝道に送れば心配しますが、このような女性は、み旨のために北極地帯に一人行っても千年万年絶対安心できるというのです。同様に、社会経歴が多く、家庭でも教会でも、母として内外に不足がないというのです。そして自分が年を取っているのを知っているので、若い新郎に侍っていくためには謙遜が彼女の生活哲学になるべきなのを知っているというのです。謙遜でなくてはならないというのです。(158)


事例7:蕩減復帰のための祝福


 皆さんはこんな反問ができるでしょう。「ではみ旨を成すためには、アメリカ人だとしても一緒に暮らしなさいというのですか」という反問を……。先生が暮らしなさいと言うときは、一緒に暮らすべきです。皆さんそうできますか、できませんか。どうしますか。韓国伝統の法は、それを受け入れられないでしょう。できないのです。しかし、み旨が成されるとすればどうしますか。ここのおばさんたち、答えてみなさい。どうしますか。暮らすべきですか、暮らさなくてもいいですか。皆さんはこれからこんな立場に立つようになるかもしれないのです。それでは日本人と暮らしなさいと言うときはどうしますか。蕩減復帰のための祝福というのは複雑なのです。また、おじいさんと暮らしなさいと言うときはどうしますか。そんなことはないでしょうが、もし暮らせと言うなら、どうしますか。「何、神様がどうして……」、そうでしょうか。そんな考えは自分の考えです。蕩減の道はどれほど複雑だと思いますか。

 聖書で見ると、タマルは誰と関係をもちましたか。タマルが舅と関係をもつことによって生んだペレヅとゼラが、天の祝福を受けた直系の祖先になったでしょう。同じように、バテシバの息子ソロモン王はどのようにして生まれましたか。そのソロモンは、ダビデ王が自分の忠臣であるウリヤを殺して、彼の夫人バテシバを通して得た子供です。自分の忠臣の夫人をもてあそんだため、ダビデ王は罰を受けて彼の子供は世の中を滅ぼし得る子供が現れるべきはずが、どうしてソロモンという栄光の王が生まれたのかというのです。どうしてそうなったのでしょうか。マタイによる福音書にラハブが出てきます。ラハブはどんな人ですか。遊女でしょう。ところで彼女は誰を助けてあげましたか。斥候を助けてあげました。それは、現実的には怨讐の国家のための仕事ですが、冒険をしたのです。天の公義のみ旨のためには、冒険をしなければならないというのです。自分の生命とすべての環境、そして自分の特権的なものをすべて否定しなさいというのです。そのようにするとき、歴史はそこから発展するのです。

 最近は、おばさんを抱えて暮らす青年たちがたくさんいます。しかも若い人々がです。自分のお母さんのような年齢のおばさんを抱えて暮らす人々がおびただしくいるのです。それはなぜでしょうか。皆さん、天地開闢という言葉があるでしょう。もともとまともな男性は、自分より年下の女性と結婚をしなければなりません。それが正常です。それでは、天地が開闢するということはどうなることでしょうか。逆になるのです。同年輩や兄弟間から一段階を跳び越えるのが天地開闢だというのです。自分より年を取ったお母さん級、おばさん級の女性と結婚して生きること、それが天地開闢です。

 若い人たちは老人たちに頭を下げなければなりません。ところが天地開闢のときは、老人たちが若い人たちに頭を下げなければなりません。なぜでしょうか。若い人を夫としてもらったなら、いくら年を取ったお婆さんのような女性でも、若い夫に頭を下げるのは仕方ないでしょう。天地開闢ではそのようになるのです。しかし、これは公式化された話ではありません。言わば、そういうこともあり得るということです。(159)


事例8:六〇〇〇双の約婚時にあったこと


 今回、六〇〇〇双の合同結婚をしたときも、結婚の相対者の中には資格を完全に備えられなかった人も多かったし、彼ら個々人の出身を見るなら、慶尚道、全羅道、京畿道、忠清道出身が集まり、また、五大洋六大州から集まってきたので、人種のルツボをほうふつさせたのです。色とりどりであるだけでなく、でこぼこまであるので、衝突事故が起きないようにするため、交通整理で汗をかなり流さなければなりませんでした。彼ら一万二千名が狂った愛のヘッドライトをつけているので、ほかのものを見ることも、考えることもできなかったのです。

 彼らを誤って組み合わせてあげるならば、彼らの将来だけでなく、み旨成就にもつまずきを与え得るために、慎重を期さざるを得ません。数日内に数千双を組み合わせてあげなければならないことは、言葉では易しいけれど、どこが易しいことでしょうか。一度考えてごらんなさい。世の中では、一双を合わすのにも、見合いを何度やっても駄目な場合がどれほど多いですか。

 ここでは、一般的な方法では到底不可能なので、隠しておいた秘蔵の方法を採択するしかないのです。彼らを一カ所に集めておいて、鼻が大きい人は鼻を、目が大きい人は目を、口が大きい人は口を動けなくするのです。ひざまずかせて何時間でも座らせておきます。初めは身もだえをしますが、彼らもいくらか過ぎればネギのキムチのごとくすっかりおとなしくなるようになっています。そのような姿勢でいくらか過ぎれば、「間違っていました。先生がやれと言われるとおりしますから、許してください」と、言葉だけでなく心から屈服するようになり、組み合わせてあげれば、不満なく有り難く思うというのです。そうなれば、一気に組み合わせていくようになります。

 彼らはまた、先生の異なった一面を初めて発見するようになるのです。それは、神様が愛の神様であるだけでなく、審判なさる神様だという両面性を発見し、怖がる心理のようなものです。どちらにしても、繊細で愛の豊かな先生だと思ってきた彼らは、また、先生の異なった一面を発見するようになるのです。

 先生が彼らを組み合わせてあげるため三、四日立っていれば、足が痛くありませんか。それで運動をしなければならないのですが、窮屈な所で足の運動をしようとすれば、彼らの向こうずねやおしりをけるしかないのです。このようにしてみれば、彼らはあきらめた状態で、先生がさせるまま何の異議もなく順応するようになり、事は易しく解かれるようになっています。

 そうだとして、先生がでたらめに彼らに相対者を合わせてあげるのではありません。世の中で誰よりも多くの男女に配偶者を合わせてあげるので、その方面には自信があるのも事実です。皆さんの心理が分かるのは、どの心理学者や心理学博士よりはるかに優れていると自負します。

 皆さんには安全ピンが必要です。人間は、千差万別の道を歩んでいっています。その世界において「私」が破綻せず、事故を起こさず、存在価値を喪失しないようにする安全ピンは何でしょうか。それは、自分の運命の道を随従し、行くことです。「私」の運命の道を行かなければならないというのです。(160)

 六〇〇〇双の合同結婚式に参席したソ連衛星国家のある食口は、写真だけ見て結婚をしました。共産国家で活動しているので、結婚式に参席できなかったからです。ところで、韓国の若者たち、特に娘たちは、先生が選んであげる人が気に入らないと拒否したりしましたが、外国の食口たちが見るので本当に心苦しく思いました。それは心情世界の逆賊と同じですが、もうすべて過ぎたことになったので、これからは絶対そのようなことが起こらなければと思います。(161)













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第四節 祝福の過程とその意義

祝福家庭と理想天国

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第四節 祝福の過程とその意義


1、約婚式の意義


 皆さんが約婚式をしたのちには、聖酒式があり、その次に結婚式があります。それではこの約婚式と聖酒式、そして結婚式とは一体何でしょうか。これはある典礼に従って行われる式ではありません。堕落したすべての内容を、もう一度象徴的に再現させ、それを蕩減するために行う不可避の行事なのです。

 アダムとエバはどの段階で堕落したのでしょうか。約婚段階で堕落しました。すなわち、完成という目標を望み成長する過程で堕落したというのです。それでは約婚の目的は何でしょうか。結婚です。アダムとエバが約婚した立場で結婚を誤り堕落したために、その誤った結婚を否定し、神様を中心として是正し越えなければならないのです。ところで、これを否定するときにも、いいかげんには否定することができません。堕落した内容の反対の内容をもたなくてはならないのです。(162)

 純粋な血統を継承する場合、必要な式があります。まず約婚式があります。約婚式は何のためにするのかを知らなければなりません。エデンの園でのアダムとエバは、約婚期間でした。今は、堕落した後孫が世界的に広がっているために、自分以外のある人、男性や女性たちに目が行きます。エデンの園にはアダムとエバと天使長しかいませんでした。天使長が堕落してサタンになったので、サタンに勝利しなければなりません。サタンに勝利するには、サタンがどのような者であるかを知らなければなりません。サタンとは、自己中心に愛をむさぼる者です。私たちは神様を中心として愛を立てていかなければなりません。皆さんはこのような基準で約婚するのです。(163)

 皆さんは、堕落によって汚された血統を継承したので、それを清算し、創造本然の善なる血統を復帰しなければなりません。六千年の歴史をすべて清算し、蕩減復帰する式をしなければ、祝福まで行くことができません。約婚式をもつのは、アダムとエバが約婚段階で堕落する前の状態に復帰しなければならないからです。(164)

 約婚式は、人間の先祖アダムとエバが約婚段階で堕落したのを復帰する式です。(165)

 祝福を受けた家庭や約婚祝福を受けた家庭は、真の家庭を築き、神様に侍り、真の父母の立場に立って万物の恨みを解怨してあげなければなりません。人間の恨みを解怨し、神様の恨みを解怨してあげるために、このような約束の日を出発するのが約婚式です。(166)


2、聖酒式の成立過程と意義


 堕落によって汚された血統を継承したので、それを転換しなければなりません。これをしなければ原罪を脱げず、原罪を脱がなければ真の子女として祝福を受けられる段階に上がることができません。原理がそのようになっています。堕落によって生じた原罪を脱ぐ血統転換、すなわち血肉を交換する式が聖酒式です。(167)

 聖酒式は、堕落によって血統的に汚されたサタンの血を抜いてしまうものです。言い換えれば、原罪を抜いてしまう式だというのです。(168)

 約婚した皆さんは、祝福式の前に聖酒式をするようになりますが、それは堕落の血を交換する血統転換式です。堕落した人間は、サタン世界の偽りの愛によって汚された過去のすべての愛を否定し、新しく神様の愛を中心として、真の父母の愛を再現させることのできる復活的な実体を備えずには、祝福の場に出ることができません。ですから聖酒式は、とりもなおさず、真の父母の愛の関門を通して新しい生命の基準を立てることを約束する儀式なのです。(169)

 堕落した人間は、真の父母を中心として血統的な転換をしなければなりません。今までの人間は、堕落の継承体です。ですから、私たちはどのようにしなければならないかといえば、今まで生きてきた過去を完全に否定しなければなりません。まず、「完全に否定しなければならない」という信念をもたなければならないというのです。

 「私」を生んでくれた今の父母は父母でなく、また今まで一緒に暮らしてきた兄弟も兄弟ではないというのです。さらに、現在私たちが暮らしている社会と国も、私たちの社会、私たちの国ではありません。神様が願われる社会、神様が願われる国ではないというのです。したがって、この全体を新しく復興して、新しい否定の起源から新しい自我を発見しなければならないし、覚醒しなければなりません。それは、私たちが信じさえすればいいというものではありません。ここに必要な条件を提示しなければならないのです。それがまさに聖酒式なのです。(170)

 聖酒式とはどのようなものであり、どう成立するのでしょうか。堕落した世界に住んでいる私たちの父母は、サタン側の父母です。その父母はサタン側のカイン的父母であるため、アベル的な父母がいなければなりません。そのアベル的な父母は、天の側にならなければなりません。その父母がイエス様の立場でいえばマリヤです。

 その次には、この地球上に堕落していない本然の立場の母がいなければなりません。言い換えれば、悪の血統を通じた堕落した愛の因縁を結んでいない、本性の母がいなければならないのです。そのような母がいなかったのです。それゆえ皆さんは、堕落した父母と堕落世界から復帰した父母、堕落していない父母、このように三代の父母をすべて取り戻し、その父母の因縁を一〇〇パーセント復帰してこなければなりません。そうしなければならないのです。

 アダムとエバの家庭が堕落したために、その家庭を否定し、神様が是認することのできる基準を立ててこられた方がイエス様です。しかしイエス様がその使命を果たせず失敗することによって、神様はこれを三次まで延長させて探し求めてこられましたが、それがキリスト教を中心とした再臨時代なのです。

 それでは再臨主は何をしに来られるのでしょうか。再臨時代は完成基準の時代であるために、再臨主は人類の母を探しに来られるのです。すなわち、新婦を探しに来られるのです。新郎であられる主がこの地上で探される新婦は、堕落圏内で探す新婦ではありません。堕落していない純粋な血統をもって生まれた方を探すのです。それでは、そのような新婦、すなわちその母とは、どのような基盤の上で生まれなければなりませんか。堕落した世界のアベル的な母の基盤の上で生まれなければならないのです。

 ですから、皆さんの母は堕落したエバの立場に該当するのであり、次の母はイエス時代においてのマリヤの立場に該当するのです。また、その次の母はイエス時代のマリヤの保護を受け、祝福のみ旨を果たすことのできる、罪の因縁とは全く関係のない処女として、母(真のお母様)の立場に立つことができなければならないというのです。

 これをイエス様を中心として成就させようとしましたが、すべてを果たすことができず霊的にのみ連結されたために、今日、復帰の終末時代に来て、これを再現させてもう一度一致させていく作戦を広げなければなりません。(171)

 堕落した家庭から生まれた皆さんは、どこを訪ねていかなければならないでしょうか。イエス時代に堕落した家庭から生まれた人々が、イエス様を訪ねていったのと同じく、今日、堕落した家庭から生まれた人間たちは、キリスト教を信じています。それでは、そのキリスト教徒たちはどこを訪ねていかなければならないでしょうか。堕落していない母の胎内を通過させることのできる道を経て、堕落していない父の骨髄まで訪ねていって再び生まれなければならないのです。そうでなければ、復活できないのです。

 元来、アダムの骨髄の中に宿っている子供の種が、神様の愛を中心として、真の母であるエバの体を通して新しく生まれるべきでしたが、そうできませんでした。これが堕落です。言い換えれば、神様が願われた新しい生命の誕生を見ることができなかったことが堕落だというのです。

 誤った立場で生まれたので、これを再び復帰しようとすればどうしなければならないでしょうか。訪ねていかなければなりません。真の母の胎内に訪ねていかなければならないというのです。それで今日、キリスト教ではイエス様を信じる人も聖霊を受けて初めて生まれ変わるというのです。聖霊を受けるということが何かというと、聖霊は母なる神様であるために、母なる神様の協助を受けて母と一つとなるということです。すなわち、真の母の体を経る役事をしなければならないのです。

 聖霊は母なる神様であるので、聖霊が臨むようになればイエス様を新郎として、すなわち父なる神様として侍ることができるし、思慕することができるようになるのです。その思慕の情熱が自分の生命以上の価値を感じられる立場に帰したとき、初めて新しい生命が誕生するのです。しかしこの生命は、霊と肉がすべて完成した生命となることができず、霊的生命だけが完成した基準にとどまっているのです。

 このような霊的復活体の基準にのみとどまってきたキリスト教は、肉的復活体の基準を尋ねていくべき時代的な使命があるのです。このような世界的使命が残っているので、今まで再臨の一時を求めてきたのです。(172)

 皆さんは堕落したアダムの後孫なので、蕩減条件を立てなければなりません。完成したアダムでなければ、蕩減圏を乗り越えて上がっていく道がありません。完成したアダムとは、愛の主体であられる神様の実体対象でなければなりません。再臨主は、その立場を完成するために来られるのです。完成したアダム格なのです。愛の中心として、万民を引き寄せるための磁石として来られるのです。磁石は他の極同士、互いに引き寄せる力があります。

 復帰の原則もこれと同じです。約婚のあとに堕落したので、約婚のあとに復帰摂理をするのです。磁石の公式のように、エバを中心として完成したマイナスの磁石になった女性が、完成した男性をつくる式をするのです。そのような条件を世界に立てるのが聖酒式です。霊的復帰式なのです。霊的に女性を生んで、その女性によって霊的にアダムを生むのです。(173)

 イエス様がパンとぶどう酒を見て「これは私の肉であり、血である」と言われたのと同じ内容が、聖酒に内包されています。だから聖酒式は真の御父母様と一つとなったという条件を立てるのです。真の父母と一体となれば、サタンが讒訴できません。永遠にサタンと関係のない立場になります。

 今から皆さん二人は、永遠なるエデンの園で、新しいアダムとエバとして地上天国をつくろうという覚悟をするのです。アダムとエバの堕落前の約婚期間を復帰し、何らの讒訴条件も残してはなりません。

 アダムが夫になり、エバが妻になり、互いに愛し合って暮らしたとすれば、創造理想が成就されていたでしょう。しかし、サタンを中心として愛の秩序が逆転してしまったために、それを原点に復帰しなければなりません。それを血統転換式と言います。アダムの立場では、主管性転倒式です。堕落によってエバはアダムを失ったので、どんなに苦しくとも、アダムを定立し、真なる夫として復帰しなければならないのです。

 ですから、今までの世界は女性が苦労する世界です。女性はどこでも苦労をしています。特に日本の女性は、悲惨な歴史をもっています。女性はみんな、堕落した天使が主管したのです。聖酒式には、それを復帰する意味があるという事実をはっきり知らなければなりません。(174)

 聖酒式は、イエス様を中心として見ると聖餐式と同じです。聖餐式では、肉と血の代わりにパンを食べ、ぶどう酒を飲みます。これは、私たち人間が堕落したため、イエス様の体を受けることによって、新しい肉体を受肉しなければならないということを意味します。それと同様に、人間が堕落した行路と反対の方向に帰らなければならないので、この聖酒式を行うようになるのです。(175)

 聖酒式は何をするものでしょうか。新しい愛を中心として、神様の体を自分の体の中に投入させる式です。何の話か分かりますか。堕落した体は一つしかないので、神様の愛を中心として入れ替える式です。これがまさに聖酒式だというのです。イエス様が、パンは私の肉を象徴するものであり、ぶどう酒は私の血を象徴するものだから、あなた方はそれをもらって食べ、飲まなければならないと言った言葉と同様に、愛を中心として、神様の実体を中心として、新しい血統を受け継いで原罪を清めることのできる式なのです。この式を経なくては、祝福の場に出られないのです。それゆえこの式は、血統を転換させる式です。(176)


3、聖酒伝授の意義


 聖酒には何が入っているかといえば、父母の愛を象徴するものが入っています。そして血を象徴するものが入っていなければなりません。ですから、それを飲めば父母の愛と一体となり、また血と一体となります。このようなことが聖酒の内容なのです。それでは、聖酒はどのようにつくられるでしょうか。それは地と海と天を象徴し、全体を象徴するものからつくられた酒です。聖酒には三種類の酒が入っています。それ以外にすべての万物を象徴するものが入っています。これを飲むということは、霊的に生まれ、肉的に生まれることを意味します。

 この式がなければ、原罪を脱いで血統を転換できません。血統が転換されなければ、完成基準を通過して神様の愛と一体となることができません。ですから、聖酒式はそのすべてのことを蕩減する式だということを知らなければなりません。(177)

 聖酒にはサタンの讒訴のない万物の要素がすべて入っています。その聖酒を受け、真の父母と一つとなった者が自分を汚す行為をすれば、サタンよりももっと恐ろしい立場に立つようになります。サタンは長成期完成圏を汚し蹂躙しましたが、祝福を受けた者が誤れば、完成期完成圏で神様の実体を犯した罪が残るので、永遠に許しを得ることができません。これは実に恐ろしいことです。(178)

 聖酒は言わば父母の血肉です。

 聖酒は愛の酒であり、夫の酒であり、母の乳であり、生命の水の代身であり、父母の血の代身であり、すべての栄光の表示であり、新郎新婦の愛であり、ここには父の生命力があります。

 聖酒によって父の心情、血統、実体を分け与えるのです。また、生命力を分け与えるのであり、ここに血統的な因縁が結ばれるのです。(179)

 体の汚れを清めるために、血と肉を一体とするために聖酒を与えます。聖酒は実体結婚(真の父母様)、形象結婚(三六家庭)、象徴結婚(七二家庭)を経てきました。(180)

 復帰過程はカインとアベル、エサウとヤコブ、ペレヅとゼラを経てきましたが、より根本復帰のために、主の胎内に入って出たという条件を立てなければなりません。

 そうして、お母様の胎内を通して生まれたのと同じ立場に立たなければなりません。これがアダムからイエス様を経たのちに再臨主に至り、お母様から生まれた一人の子供と、同時に生まれたという立場に立たなければなりません。

 そうして内的な母の体を経た立場に立たなければなりません。天地の度数を合わせた二十一種類の物でつくられた酒を、まず婦人に与えます。天使長がエバを惑わすことによってアダムを失ったために、女性をまず立て、男性を取り戻す立場に立てます。これは、父母の血肉として、婦人を通して受けます。この酒を飲むことによって、サタン分立の蕩減条件を立てるのです。(181)

 この時間は、生粋の独身男性が新婦の部屋に入っていくような時間です。神様を中心として左右が一つとなり、愛の目的を達成しなければなりません。

 ここにあるのは酒です。この酒に対する意義のうち一つは、劉孝元氏でも分かりません。この酒には、イエス様が、生命の水を飲む者は永遠に生きると言われたみ言と同じものが入っています。

 この時間の前と後では違います。この酒を飲むことは、新郎新婦が愛の因縁を結ぶことより重要です。これは生命的な因縁を代表できるのです。

 この酒は、酒ですが、生命の原核と同じです。この式ののちには、偽りがあってはなりません。過去を問わず、今から祝福の夫婦とならなければなりません。(182)


4、男性と女性の立場と復帰


 皆さんは世界を代表する男性であり、女性です。ここで女性は主人である神様の側であり、男性は天使長の側です。それゆえ、実際は男性が右側に立つのでなく、女性が右側に立たなければならないのです。しかし先生は少し違うというのです。

 天使長とエバが結婚することによって、原罪が植えられたでしょう。ですから刈り取るときも、結婚によって刈り取らなければなりません。そうでしょう。天使長との結婚によって植えられたので、誰との結婚によって刈り取るべきですか。アダムとの結婚によって刈り取るべきだというのです。では、アダムが結婚しようとすれば、誰がいなければなりませんか。エバがいなければならないのです。

 また、結婚するにおいては、誰が先に結婚しなければならないでしょうか。天使長が先に結婚すべきでしょうか、エバが先に結婚すべきでしょうか。「エバです」。なぜそうでしょうか。エバはアダムの妻だからです。それゆえ、エバが先に結婚しなければならないというのです。

 天使長は、エバが結婚するまで面倒をすべてみて、福を願い、僕暮らしを果たして結婚しなければならないのです。僕が僕暮らしを果たせば、子供が父母の前に出て「お父様! 僕も一人で生きることが寂しくてだめなので、相対をつくってあげましょう」と勧告して結婚できるのであって、その前には結婚できないというのです。分かりますか。

 では、エバが結婚をしようとすれば、この地上にエバの夫がいなければなりませんが、その夫は誰ですか。「来るべき主です」。その主が堂々と来られてエバと結婚するようになれば、その周囲にいる人々はどのようにしなければならないでしょうか。天使長は泣きわめくべきでしょうか。「喜ぶべきです」。

 イエス様が来る前には、天使長の妻の役をしてきました。しかし、イエス様が来ればどのようになるかといえば、天使長は自分の妻を奪われるようになるのです。そうでしょう。そうだといって、天使長が泣きわめいていいでしょうか。蕩減復帰の女性たちは、そのような道を歩んでいくことによって復帰してくるのです。それならば、統一教会の女性たちは誰の側ですか。(183)

 先生をどれほど好きになるべきですか。自分の花嫁よりもっと好きになり、自分の夫よりもっと好きになるべきです。まず母、父を自分の夫より、自分の花嫁よりもっと好きになるべきではないですか。まず父母の愛の因縁を根こそぎ私の愛としてから妻を愛し、夫を愛し、息子・娘を愛さなければならないというのです。そうでしょう。それゆえ、天の父母として来られる真の父母を、誰よりも完全に愛さなければならないのです。

 皆さんにはそのほかの愛は一切許されません。まだ生まれていないのも同じなのに、どうして愛という言葉を言うことができますか。皆さんは生まれてもいない立場だというのです。父母を知らなければ、生まれていない立場と同じなのです。(184)

 堕落した女性は、二人の夫に仕えたのです。そうでしょう。エバは霊的には天使長を、肉的にはアダムを夫として迎えたのです。ですから、夫は何人ですか。「二人です」。それゆえ、女性たちが復帰しようとすれば、二人の夫を迎えなければなりません。そうでなければ、復帰できないのです。それだから皆さんは、先生と自分の夫、このように男性が二人なのです。一人の女性が二人の夫に侍らなければならないような立場なのです。そうなっているのです。

 今日、統一教会を信じ、救いを受けようとするすべての女性たちは、新郎を探し求めてきた新婦であるため、霊的に誰と一つにならなければならないでしょうか。来られる主と一つにならなければなりません。アダムと一つにならなければなりません。神様と一つにならなければならないのです。すなわち、神様を中心として霊的に一つにならなければならないというのです。

 神様は無形であられるので、アダムが神様の形状として現れたのです。分かりますか。同じように、この地上にそのような人がいないので、先生が神様の形状として現れるようになったのです。霊的に堕落したので、霊的に復活の役事をするのです。ですから統一教会の女性たちは、熱心に祈祷して精誠を尽くせば、先生がお兄さんのように感じられるのです。また、もう少し熱心にすれば、霊的に約婚指輪もはめてあげ、花束もあげ、ウエディング・マーチも鳴り渡るのです。そのような霊的経験をしてみた人も多いでしょう。そのような霊的経験をしたことのない人たちは、全部偽物の信仰者たちです。霊的経験をしてみた人は、間違いなくこのような現象を見たというのです。ですから、自分の夫をこぶのような存在として感じるようになるのです。

 そのような経験によって、人間始祖が霊的な愛で堕落したことを復帰できる起源を備えるようになるので、初めてその愛が和合されるのです。アダムと天使長が相反したのを和合することができるというのです。ですから、皆さんが先生を中心として和合されるのです。このようになることによって、復帰された家庭が立つようになるのです。ここで霊的に見れば、皆さんが母なのです。女性たちが母なのです。

 ここで皆さんは、霊的な愛を通してアダムをもう一度産まなければなりません。堕落したエバの霊的愛の罪を通して、アダムも霊的に堕落しました。ですから、霊的に神様の愛を中心としてアダムを復帰した基準を立て、皆さんが精誠を尽くしたその基準を肉的に連結させることによって、アダムが復帰されるのです。分かりますか。このような系統を経てこそ、初めて本軌道に上がるのです。(185)

 復帰するためには逆さまにならなければなりません。堕落するとき、天使長がエバに与えたでしょう。次にエバがアダムに与えました。本来は、アダムが神様の息子の権限をもってエバを主管しなければなりませんでした。ですから、エバは父母のような立場で男性を産んであげなければならないのです。そのような原則的な本来の心情を復帰しなければなりません。

 それゆえ、女性は何でしょうか。母です。原理的に見れば、夫が妻に三年間母に対するように侍らなければなりません。三年間母に対するように侍ったという基準に立たなければ、愛することはできません。これは厳格な原理です。(186)

 男性が女性に対するようになるときは、母の代身、姉の代身、妹の代身として対する過程を経たのちにこそ、妻として対することができるのです。分かりますか。女性も同様に、男性に対するようになるとき、父の代身、兄の代身、弟の代身として対してから、初めて夫として対することができるのです。そのような愛をすべて受けたという基準を立てなくては、真の父、真の母になれません。

 それでは、誰の愛から始めなければならないでしょうか。男性からでしょうか、女性からでしょうか。男性の愛から始まります。来られる主の愛から始めなければならないというのです。ですから私たちは、来られるその主の縦的な愛を受けなければならないのです。縦的な愛を受けて、それと全く同じ愛が夫婦間の横的愛として伸びていかなければなりません。それゆえ、まず縦的な愛が必要なのです。

 先生は昔、そのような縦的な愛を施したので、先生に従う人がたくさんいました。皆さんも先生が好きですか。霊界に通じる人たちは、霊界では先生が兄のように、新郎のように、父のように協助するというのです。それは公式です。それゆえ、男性を見るときには、世の中のどの男性よりも先生を中心として見なければならないのです。霊界を通じて見れば、実感がわくでしょう。皆さんの中で、祈祷や夢に現れた啓示の中で先生と出会った人は手を挙げてごらんなさい。統一教会に通う女性たちとして、そうでないという人は、統一教会員としてまだ遠いのです。(187)

 神様を中心として見るとき、神様は息子を愛してみることができませんでした。息子の中でも長男、次男を愛してみることができず、その次には新郎になった息子を愛してみることができませんでした。同じく神様は、父として息子の愛を受けてみることができませんでした。だから皆さんが子女の愛、夫婦の愛、父母の愛を復帰しなければなりません。それを復帰するには父母の愛、夫婦の愛、子女の愛の順に復帰しなければなりません。このように逆に愛することによって復帰するというのです。

 それゆえ、女性は母の立場で男性に尽くしてあげなければなりません。ですから、女性たちは愛を受けるべきですか、愛を与えるべきですか。「与えるべきです」。そうすれば、皆さんが愛したよりもっと多くの愛を受けるのです。それでも女性たちは、嫁ぐや否や「あなた、私を愛していますか。愛しているとすれば、どのくらい愛していますか」と言いながら、愛を受けようとだけするというのです。それが女性の本能だというのです。ここのお婆さんたち、昔結婚したとき、そのように聞いてみましたか。

 それゆえ統一教会の女性たちは、男性を愛さなければなりません。誰のように愛さなければならないのかといえば、父のように、兄のように愛さなければなりません。私は、皆さんにとって父の代身の立場であり、兄の代身の立場であり、また霊的には新郎のような立場です。そのような心情的基準を、先生がもっているのです。ですから先生は、父の立場、兄の立場、新郎の立場なのです。天使長が霊的に堕落したのを、この体を中心として復帰しなければなりません。ここにおいて皆さんは、絶対に先生のみ言を聞かなければいけません。そうですか、そうではないですか。先生のみ言をよく聞いてこそ、嫁げるというのです。(188)

 統一教会の女性たちは、嫁いで愛を受けようとしてはなりません。そんな女性たちは、絶対に女性の体面を立てられません。上品であるべきです。それでこそ、男性が妻の部屋に泥棒のようにむやみに入って来れないのです。承諾を受けて入って来なければならないというのです。勝手に入って行けないというのです。私が、時が来れば細密に教えてあげるでしょう。このくらいで、大体分かるでしょう。

 ですから二人が出会えば、必ずまず祈祷しなさい。「お父様、きょうは天地が動き私の心が動きますので、女性の心も動くようにしてください」と、このように祈祷して、息子・娘を生んで暮らしてみるのです。その家柄は悪くありません。男性がその程度はしなければならないというのです。(189)


5、祝福式の意義


 約婚式と聖酒式は、サタン世界で生まれた人間が、真の父母によって再び生まれるという条件を立てる蕩減儀式なのです。女性が先に堕落したので、女性が先に復帰され、男性を再び産むようにする過程を内的に通過する式が聖酒式なのです。そして結婚して四十日以後に、それを外的に通過する式があります。これらが全部蕩減儀式なのです。

 このようにして、堕落前のアダムとエバが処していた長成期完成級を経て、完成基準に到達しなければなりません。神様を中心として、絶対的自分だという位置を確保したのちに、愛の基準を結び結婚が成立するのです。(190)

 堕落から復帰された母、堕落しない立場の母の腹中に入ったという条件を立てなければなりません。それは何によって成るかといえば、愛を中心として成るのです。愛を中心として堕落したために、愛を中心として復帰されなければなりません。私たちが復帰されるためには、再び腹中に入らなければなりませんが、実際そうすることはできないのです。ですから、愛を中心として一体となり、復帰された条件を立てるのです。そのように、復帰したアダムの前に行って一体となり、血統を受けなければなりません。

 最初、エバは堕落するとき、サタンを中心として霊的な堕落をしました。その次に、アダムと一つとなり、肉的に堕落しました。それゆえ、それを復帰するため、完全に復帰されたアダムを迎え、霊的に一つとなる式が聖酒式なのです。愛の因縁を復帰する式です。そのような条件を立てなければなりません。そのように霊的に一つとなって、神様の前に行く女性となり、実体として男性を復帰するのが結婚式です。(191)

 結婚式は、まさに愛の伝授式です。神様の愛をもって父母が生きるように、皆さんも父母の愛を神様の愛の代身として受け、このように生きなさい、という愛の伝授式が結婚式です。

 神様の愛は父母から伝授されるのです。ある有名な人から受けるのではありません。それは天使長がしてくれる結婚です。名は知られていても、夫婦の片方だけ来て結婚式をしてくれるのは、全部天使長から受ける結婚です。(192)

 結婚式というのは、愛の顕現をいうと同時に、創造権と主管権を付与されることをいいます。(193)

 きょうのこのような聖礼式は、神様の願いであり理想でした。

 アダムとエバが成熟すれば、成し与えようとした聖礼式なのです。創造理想の心情の中にあったものとして、実に歴史的なことです。こういう式典は、創造以後初めて開かれたものであると、深く感じるべきです。イエス様の時の三弟子は、その師と生死を共にすべきでした。これからは、皆さんの体が皆さんの体でないということを銘記して進みなさい。祭物の立場だという心情をもって進みなさい。(194)

 主礼の前に歩いていくことは、六千年の摂理路程を歩むことです。

 蘇生、長成、完成を意味する路程に二十一人、十二人の付き添いを立てます。これは三数を代表するのです。

 七歩行って蘇生を越える条件として、三回敬礼をしなければなりません。この路程はアダムから今までの歴史路程です。特にアダム、イエス様、再臨主の三時代の過程なので、この付き添いの中を経て、真の御父母様と出会うことを意味します。

 付き添いを立てるのは、十二支派、二十四長老の霊的基準を立てるためです。敬礼をすることによって、蕩減条件を立てるのです。

 真の御父母様は聖水を振りまきますが、これは蕩減復帰した立場に立てるためであり、その条件を立てるためです。

 同様に、霊界の先祖たちの基盤を越える条件を立てるのです。(付き添いを経なければ、祝福は受けたとしても、祝福家庭には入れません。実例:四三三双の時、一家庭が漏れた)(195)

 真の父母が聖水を振りまくのは、皆さんが蕩減復帰したという条件を立てるためです。同様に、霊界の先祖たちが磨いておいた基盤を越える条件を立てようとするのです。(196)


6、四十日蕩減期間


 結婚した場合、四十日の蕩減期間があります。それはイエス様の霊的復活ではなく、死なずに復活の祝福圏に入るための蕩減として、経なければならない期間です。夫婦が互いに愛し合うことのできる立場になろうとすれば、ある規則を通過しなければなりません。このような難しい蕩減の道を勝利するために、自分勝手に男女関係だとか、そのような気分だとか、そのような話をしかけるとかということを、きょうの夜からは一切してはいけません。(197)

 男女が交際をするとき、初めは気分が悪くなることもあり得ます。しかし、それ以上に信念を高めて将来を眺めれば、理想が育ちます。それが、すなわち祝福です。ところで、それが通じないのは皆さんが感謝しないからです。サタンは祝福の基台を崩壊しようと、先生に生涯をかけて挑戦してきました。天の法度を中心として世の中と対決すれば、何よりも不屈で強いものが残るようになります。ところで、自分の妻を信じられない男性が先生に会いたいということ自体が恥です。(198)

 神様の心情を破壊するそのような位置で男女が愛し合ってはなりません。それによる結果は、原理で見て悲惨になるということを知っている先生です。だから、論議する余地がないというのです。(199)

 世界で最も問題となるのは男女問題ですが、その原因となる家庭破綻の主体は、許すことができないのです。彼らは、地獄の中でも最も恐ろしい地獄に行くでしょう。統一教会員たちは、そうなっているということを理論的にすべて知っているので、そういうことをしなさいと言ってもしないのです。(200)


7、蕩減棒行事と三日行事


 ヤコブにもイスラエル民族を立てるために、天使をして腰の骨を打ったあとに初めて祝福を与えました。

 イスラエルが重大な誓いをするとき、腰の骨に手を当ててしました。

 歴史以来、すべての男女は腰の骨を誤って使ったために、男性は女性に、女性は男性に恨みを抱くようになったので、この恨みを解かなくては、恨みを解怨した本性の夫婦として立つことができません。

 女性によって生じた恨みであるので、男性がまず女性を打ちます。三段階、三時代を表示する三次の激打です。(201)

 祝福を受けて四十日が過ぎたのちには、三日間にわたって実体的な復帰式があります。この四十日期間は歴史的であり、総合的な蕩減期間なのです。

 人間が愛を中心として復帰の権限をもつようになるのは、蘇生期でもなく、長成期でもありません。完成期に入らなければならないのです。ですから、アダム時代と次の時代は、失敗の時代です。その結果、旧約時代の神様の蘇生的な愛の圏を継承することができず、キリスト教を中心として、神様の長成的な愛を受け継ぐことができませんでした。その蘇生、長成の愛の圏を受け継いだあとでこそ、完成的な成約時代圏に立つことができるようになるのです。そのような条件を立てるのが蕩減式です。

 最初の日は、旧約時代の復帰です。堕落したアダム、旧約圏を復帰するのです。

 二日目は、新約時代のイエス様の立場を蕩減復帰するのです。

 三日目は、イエス様を代身した新郎として、新婦を再創造するのです。そこから初めて正式軌道に乗って出発することができます。このように、具体的に蕩減条件を立てることは複雑です。(202)

 聖酒式は、三人の母から生まれた条件を立てる式です。聖酒には、言わば蕩減の血とでも言うものが入っているのです。聖酒を飲むことによって内的に清くさせ、聖巾で体をふくことによって外的に清くさせようというのです。(203)

 今から実体の子女たちを繁殖しなければなりません。父と心情的な因縁を結び得る子女を生ませてくださいと祈祷しなければなりません。心情的な祭司長となり得る子女を生むために祈祷しなければなりません。

 先生は、天地を代身することのできる心情的基準の上で子女を生むことを願います。先生は、一度祝福をすれば責任を負います。私たちは世界を代身して、世界的立場でさらに祝福を受けなければなりません。ですから、条件的な結婚です。その間の四十日間は、四千年を蕩減する期間に該当します。事実、結婚生活はきょうからです。今までは蕩減期間でした。(204)


8、祝福後の三年動員路程


 皆さんも、祝福を受けましたが、男性女性が出会って神様のみ旨の前に召命を受けたその日、祝福を受けて夫婦になったその日から、夫婦の生活が始まるのではありません。三年の公生涯路程を行かなければならないのです。

 三年路程は、なぜ行かなければならないのでしょうか。今まで祝福家庭が現れる前に、人間が堕落した歴史的な背景と蕩減条件が残っていて、また、私たちが暮らしている世の中には、偽りの愛で因縁を結んだ家庭、すなわちサタン世界の家庭が多いからです。言い換えれば、私たちが生まれる前にこの世的な個人があり、私たちの家庭が生まれる前にこの世的な家庭があり、私たちの国がある前にこの世の国が形成されていたからです。(私と、)この世の家庭と国との因縁が切れれば、世界を救うことができないので、三年路程を行かなければならないのです。すなわち、二重の責任を負わなければならないのです。私の家庭に対する責任を果たすのも重要ですが、全体世界の家庭を救う責任はもっと重要なのです。

 それでは、この世の家庭と皆さんの家庭は、どのような関係があるでしょうか。皆さんの家庭は内的家庭であり、この世の家庭は外的家庭です。蕩減復帰の術語で言えば、祝福家庭はアベル家庭であり、この世の家庭はカイン的な家庭です。祝福を受ける前には、個人的なアベルと個人的なカインがありますが、祝福を受けたのちには、家庭的なアベルと家庭的なカインがあるのです。(205)

 自分の息子・娘も愛したことのない人が愛そうとするなら、祝福を受けて三年の間、伝道任地に行って愛を学びなさいというのです。息子・娘を生む前に人を愛する法を学び、息子・娘を生んで愛そうというのです。

 人を愛する法を体得した人は、自分の夫を誰よりも愛するでしょうし、自分の妻を世の中のどのような女性よりも愛するようになるでしょう。世の中の人たちを愛する法を学ぶ間、たくさんの苦難と迫害を受けたために、愛の貴重さを知るようになり、自分の夫や奥さんを誰よりも愛することができるようになるのです。そうして、「私」の夫を誰よりも愛し得る心をもって、自分が生んだ子供を一層愛そうというのです。これはどれほど素晴らしい真の愛でしょうか。

 反対と迫害を受け勝ち抜けば、災いとなるのでなくむしろ福となるでしょう。種が芽吹こうとすれば、寒い冬を勝ち抜かなければなりません。寒い冬がなくては厚い皮を破って芽が出ることができないように、迫害と反対がなくては真の愛を味わうことができないのです。(206)

 統一教会が今まで祝福ののち三年の間公的生活をするようにしたのは、すべてが真の愛を味わわせるためでした。先生が迫害と反対を押し切って世界を巡回し、み言を伝えるのは、どの家庭より真の愛の美しい家庭をつくるための訓練をするためです。

 私たちが、この世からの激しい迫害と虐待を物ともせずみ旨の道を行くのは、息子・娘たちを愛する心からです。私たちの息子・娘たちを美しい神様の国に住まわせるためです。世の中の人たちが自分の息子・娘を愛するその愛より、私たちはもっと息子・娘を慈しみ愛さなければなりません。

 私たちが行く人生の戦いで、夫でも妻でも迫害され反対されるとき、憤懣やるかたない悔しい心以上に、私は息子・娘を愛そうと誓わなければならないし、そうなるように迫害と反対の中で愛の訓練を受けなければなりません。

 これほど愛の訓練を受けた妻は、夫が一言言ったとして、機関銃を使うように食ってかかるような争いはしません。夫もやはり、妻を無視したり力で押さえつけたりしません。愛の訓練を通じて、夫と妻がどれほど貴重な存在であるかを感じたからです。(207)

 復帰の道では、祝福を受けると妻が夫の前にアベルの立場となります。ですから公式路程の三年間は、妻の前に服従する立場に立たなければなりません。女性と共にいながら服従するよりは、離れて活動するほうがむしろ易しいでしょう。男性として朝晩女性にあいさつをしたりする、いろいろな式が必要だからです。今まで明らかにしませんでしたが、先生も直接そのような過程を経てきました。だから別居して、勝利的基盤を築いて、三年後に女性の前に現れるほうがむしろいいのです。祝福を受けたのちの三年路程というのはそのような期間です。(208)

 今女性たちは、みんな皆さんに属しているのではなく、先生に属しています。ですから近い人から命令するのです。近い人たちを犠牲にするのです。天は近い人を犠牲にします。皆さんの息子・娘たちよりも、皆さんの妻が先生に近いです。ですから近い人たちを犠牲にするのです。(209)

 妻や夫は、自分のものではなく、神様のものであり宇宙のものです。愛とは、自分のものではありません。神様のものであり人類のものです。ですから三年間、神様のために力いっぱい走らなければなりません。愛の心情を高めて走らなければなりません。神様に属している妻を愛することは、神様を尊ぶことになるのです。

 愛が不足するとき、神様は働いてくださいません。周囲から模範的家庭だという言葉を聞けないのは、今まで愛が不足していたからです。女性も同様に、神様を尊ぶように夫を愛さなければなりません。神様に触れるような愛の授受作用が成り立つとすれば、そのような家庭は自動的に四位基台が成り立ちます。すべてが自動的に回るようになります。

 こまの先を、真っすぐに立てて回せばよく回りますが、先を真っすぐ立てられずに回すとゆらゆらします。ですから、中心が立ったこまを作り、真っすぐ回るようにしなければなりません。そうすれば、すべてが解決します。そのような愛を中心として、四位基台の家庭をつくらなければなりません。(210)

 夫は神様を思い、万民を思い、妻を思いながら、三位一体であられる神様を中心として夫婦が一体となるように努力しなければなりません。アダムとエバはそのような基準を立てることができず堕落したので、私たちはまず、その基準を立てるために努力しなければならないのです。私たちは自己を犠牲にしながら、神様を愛し万民を愛するために生きているのです。そのために祝福を受けたと考えてください。そうすれば、アダムとエバの約婚期間に生じた堕落圏は、何らの讒訴条件もなく蕩減復帰されるのです。原理的にいえばそうです。堕落世界とは、自分を中心とする世界です。神様の愛であるとか、人類、後孫、万物、宇宙など、すべてを考えなかったのです。私たちはそれを、常に念頭に置かなければなりません。(211)

 今回、祝福家庭の婦人たちには、誰に限らず以前に伝道した所に出ていきなさいと言いました。男性たちには、出ていきなさいという話はしませんでした。分かりますか。

 けれども妻は、夫と心が互いに一つとならなければなりません。夫の心をすべて導いていける妻にならなければなりません。言い換えれば、自分の夫を祭物にしなければならないということです。分かりますか。それを知らなければなりません。そのためには、精誠を尽くして夫に報告しなければなりません。そうして、夫と心が一つにならなければならないというのです。そのようにして、家庭から母一人出て伝道しますが、家では夫と息子・娘が一つとなって、勝利して帰ってくる母を喜びで迎えなければなりません。そうでなければ、この地上に、堕落したエバの息子・娘を復帰する条件が立たないのです。それを蕩減復帰するために、このようなことをするのです。(212)

 この三年期間はどんな期間でしょうか。イエス様(注・ここでは信仰の子女)をもう一度産む期間です。イエス様は公生涯三年だけで死んだでしょう。誰のゆえに死にましたか。エバゆえに死にました。女性ゆえに死にました。だからイエス様をもう一度産んであげるべきなのです。そうしてイエス様が再び生まれて、母と母子協助し、相続を受けて「私」の息子・娘たちに譲ってくれてこそ、「私」の息子・娘たちが初めて、イエス様より優れた息子・娘になれるのです。これが原則です。

 ここでイエス様を代身した存在として立てるのが何かといえば、信仰の息子・娘です。イエス様は結婚できずに死んだため、独身の男女のような立場にいるのです。天使世界のような立場です。すなわち、イエス様は天使長の立場に立っているというのです。分かりますか。ですから、信仰の息子・娘たちを復帰し、彼らが「私」自身の息子・娘と一つとなって相続を受けなければなりません。「私」の息子・娘が生まれて相続を受けたという条件を立ててこそ、父と母が救われることができ、カインの立場である信仰の息子・娘も救いを受けることができるのです。これが原則です。

 イエス様がどのように生まれたのか知っているでしょう。皆さんはイエス様より優れた息子・娘を生まなければならないというのです。そうしようとするなら、ペテロ、ヨハネ、ヤコブのような三弟子を育てておかなければなりません。死の谷間でも、「私」のために生命を捧げることのできる信仰の息子・娘を育てておかなければならないのです。そうしなければ、怨讐に打たれて死ぬというのです。それが、まさに皆さんの信仰の息子・娘です。

 皆さんは信仰の息子・娘がいますか。この信仰の息子・娘は誰が生むべきですか。信仰の息子・娘は、女性が生むべきです。この期間が、こういう原則的な全問題を解決するための重要な期間であることを、皆さんは知らなければなりません。

 この三年路程において、失われたペテロ、ヨハネ、ヤコブのような三弟子を探し立てなければならず、彼らを中心として十二弟子を探し立てなければなりません。同様に、彼らを中心として七十人門徒、百二十人門徒まで探し立てなければなりません。氏族を中心としてこのことをしなければなりません。

 それゆえに百二十名を……。皆さん、十人を束ねて伝道しなさいというのは、何のためでしょうか。ここでの十人は、十支派を代表するのです。原理的に見れば、十支派は十二支派に該当するのです。そうでしょう。皆さんは、イエス様を中心とした使徒たちの妻格です。その立場で信仰の息子・娘を探し立て、イエス様の氏族をつくるのと同様の立場に立てようとするのです。そうするための期間が、この三年期間です。(213)

 家庭を中心として、三年路程を通じアダム家庭で失われた八人の家族、ノア家庭で失われた八人の家族たちを、完全に復帰しなければならないのです。三年路程の間に復帰できなければ、大変なことになるというのです。だから先生も、三年路程を中心として三六家庭、七二家庭、一二四家庭を祝福してあげる行事をしたのです。(214)

 祝福家庭が祝福を受けたのち、乞食をしながらでも三年以上だけみ旨のため死を覚悟して闘ったならば、この国は既に復帰されたでしょう。神様のため、三年以上忠誠を捧げた人に反対する者は、神様がただでは置きません。(215)

 三年間は活動しなければなりません。そしてその間、十二名以上伝道するのです。イエス様には十二弟子がいました。十二名は、イスラエルのヤコブ圏を復帰する人です。

 そして、ヤコブを中心としたイスラエル民族には、七十人の長老がいました。彼らは民族的イスラエルを代表します。元来は七十二人です。七十二人は十二人の六倍です。それを合わせば、七段階になります。ですから七十二人を復帰しなければ、氏族的復帰をすることができません。

 周囲から侵攻を受けない、自分の家族の永遠なる安息の基盤を決定するためには、十二家庭を復帰しなければなりません。三位基台は、天国に入る東方の三つの門を通過する資格と同じです。ですから天国に入ろうとすれば、十二名に奉仕し、彼らを屈服させた勝利圏を得なければなりません。そのためにイエス様は、三年かかりました。十二弟子を集め、その時から心情一致させるのに三年かかりましたが、失敗してしまいました。自分の生命よりも、信仰の子女を尊重する立場に立たなければ、復帰はできません。統一教会はそのような条件を立て、現在復帰をしています。ですから、最小限十二名は伝道しなければなりません。

 三名を中心にしたのはどういうことかといえば、中心があれば東西南北、四方が決定されますが、その四方の中で東方の一方しか出入りができないのです。太陽は東から昇ります。ですから、霊界で東方は春を意味します。春の季節を得た立場です。だから再び春が来るには、夏と秋、冬が過ぎるのが原則です。ですから、永遠にサタンの讒訴を受けない立場に立とうとすれば、十二数の完成基準が必要です。(216)

 イエス様は、三年公生涯路程で氏族的メシヤになれませんでした。今この時代は、数多い人類全体が氏族的メシヤの立場を相続できる時代となりました。もう、どの国も例外がありません。統一教会の人々は故郷に帰らなければなりません。約婚段階三年までは、カインを一人つくらなければなりません。その次に、故郷に帰って、妻を中心として故郷のカインと一つとなり、真の父母の立場に立つ期間が三年です。七年期間は、誰でも行かなければならないのです。統一教会は、約婚と結婚後に三年路程が残っています。これは公式です。(217)

 祝福を受けた食口たちを地方に送るのは、イエス様と聖霊の使命を果たさなければならないからです。今は夫人たちが聖霊のような苦労をしなければならない時です。割り当てられた地域が小さくても、そこは天宙の縮小体であるので、そこで耐え忍べば、その地域の復帰は七年を越えないようになります。(218)


9、祝福は最後の道である


 民族は二つあり得ません。皆さんは民族のための夫婦なので、結婚を一度しかできないのです。同様に世界も二つあり得ず、皆さんは世界のための夫婦なので、結婚を一度しかできないのです。また神様もお二人はあり得ず、皆さんはその神様のための夫婦なので、結婚を一度しかできないというのです。このような観点で皆さんが考え、この行事に参席しなければなりません。(219)

 一度結婚すれば、別れることはできません。別れる場合には、サタンよりひどい立場になるのです。その時はサタンが讒訴するのです。サタンがサタン視します。サタンが「えい、この野郎、私は長成期完成級で堕落したが、おまえは完成級にいる先生を引っかけて倒れるのか。この野郎、そんなおまえが天国に行くって。話にもならない」と言って、サタンが讒訴するのです。サタンよりもっと悪くなるというのです。分かりますか。恐ろしいことです。恐ろしいことです。そんなことがあってはなりません。霊界に行けば、間違いなくそういう場合に引っかかるでしょう。

 そんな内容がないとすれば、何ゆえに先生が今まで苦労をしてきたのでしょうか。先生が皆さんより足りなくて、このことをするのかというのです。このことが絶対的であるから行うのです。堕落した者を復帰しようとすれば、絶対的な信念と絶対的な原則を立てておいて、越えなければなりません。(220)

 祝福を受けて失敗すれば、必ず蕩減があります。間違いありません。そこには許しがありません。ですから統一教会は、恐ろしい所です。これは脅迫ではなく、原理がそのようになっています。

 原理の計画圏には、みじんの許しもありません。この世的な愛を屈服しなくては、神様の理想は果たされません。蕩減条件を徹底的に立てて天宙を復帰すれば、サタンも、讒訴し批判することができません。(221)

 先生は、今まで新しい祝福、新しい家庭のための蕩減条件を皆さんが立てられるようにしてあげ、皆さんの重い荷物に私が責任をもとうとしてきました。しかし、先生が責任を遂行したにもかかわらず、皆さんが天法を犯したとするならば、その罪は数十代の子孫にまでかかる恐ろしいものです。

 もし、統一教会の心情圏を土台として主張してきた人が、自分勝手に交際し、結婚して子供を生んだとするならば、原理の限界を越えて誰が彼らの責任をもつでしょうか。神様も責任をもちません。旧約聖書では淫行や姦淫の罪は、石で打ち殺すようになっていました。それ以上のことはどうしますか。ですから日本においても、そのようなことはもっと徹底しなければなりません。(222)

 祝福家庭である皆さんが天の法度に背けば、不具者を生むでしょう。神様が祝福した胎内の子供を勝手に堕胎した者たちは、どのようになるか、霊界に行ってみなさい。(223)

 祝福の過程を通過した人と、既に霊界に行った多くの人たちとの価値はどのように違うでしょうか。信仰の基準で見るとき、それは相手になりません。このような天的な恩恵を無にするようになる場合には、サタンが皆さんを讒訴するようになります。天使長は長成基準でサタンになりましたが、皆さんは完成基準で堕落したために、サタンが審判するようになります。(224)

 祝福は最後の道です。ただ無責任な世の荒波に押し流されてする結婚だと考えるとすれば、大きな間違いです。この時は、天宙の心情を中心とした貴重な時であるからです。神様の愛を中心として人格を完成し、完成した男女が明瞭な目的観をもっているとき、苦しみや悩みはすべて消え去ります。そのような基準に立つとすれば、この地上に堕落というものはあり得ません。

 今からは、堕落しなかった創造理想の心情圏に満たされ、生涯をかけて感謝の心で過ごさなければなりません。つらいことがあっても、それは皆さんを苦しめるためのものではありません。天に積んでおいた無限な祝福を、より多く恵み与えるためにつらい道を行かせるのです。これは、有り難いことだと言わざるを得ません。

 心情的な愛によって結ばれた夫婦は、愛情で生活圏を形成しなければなりません。永遠なる神様の国に入ろうとすれば、明瞭な目的と信念をもって、神様の創造目的を成す夫婦とならなければなりません。(225)

 私たちが統一原理によって学ぶようになったのは、心情圏です。この心情の基準は、堕落する前の人間始祖の基準を越えたものです。ですから、私たちがもし堕落した場合には、長成期完成級の基準にあったアダムとエバを堕落させたサタンよりも、その罪がもっと重いというのです。サタンもその人を呪います。彼らには救いの道がありません。そのように、大変恐ろしい最後の道があることを知らなければなりません。

 人間の先祖の堕落は、父母圏が確立される前、成長過程で成立しました。しかし今日、皆さんは真の父母と出会いました。ですから、皆さんが堕落するようになるとすれば、それは歴史の限界を超越した結果となり、サタンよりももっと悪い立場になります。皆さんの位置がどれほど貴重な立場にあるのかを、今初めて知ったでしょう。(226)

 祝福は、最も貴いものであると同時に、最も恐ろしいものです。恨み多き歴史路程で願われたのが祝福です。ところが、祝福を受けて、神様の願われる基準と地において祝福してくださった方の願われる基準からずれるとき、神様の讒訴と祝福してくださった方の讒訴を受けるのは当然です。そうなれば、霊界と肉界の讒訴を受けるので、立つべき位置がなくなるというのです。僕の勝利的主管権、養子の勝利的主管権、子女の勝利的主管権を蹂躙したために、彼は三重の犯罪者です。審判を受けるとすれば、彼らから受けなければなりません。それゆえ、今統一教会は、勝利的主管権を回復する運動をしています。(227)

 統一教会で祝福を受けた人たちの中には、こういうことを言う人たちがいます。心霊は上がったり下がったりし得るため、(相対の心霊は)醜くも美しくもなり得ますが、男性の前で女性の顔が醜いのは、どうしますかというのです。何の話か分かりますか。祝福もいいけれども、顔も美しくなければならないのではないかというのです。しかし先生は、それに対しては説明をしません。どれほどものすごく、とてつもない歴史がかかわり合っているか……。このようなとてつもないみ旨を知るようになれば、どんなに醜い女性と結ばれたとしても、彼女が逃げ出すのではないかといって心配するでしょう。大変なことになるというのです。男性はどっちみち、その女性がいなくなれば大変なことになるというのです。

 ところが祝福を受けて、自分勝手にしますか。私が復讐するときを、見ていなさいというのです。天のものは天のものとして残るでしょうし、サタンのものはサタンのものとして消えるでしょう。もし祝福を受けた人たちが、他の所へ嫁に行ったり、妻を迎えて子供を生むようになれば、この地上から消えるようになるでしょう。何の話か分かりますか。ですから祝福を受ける人が、異なった心を抱いて生活を行ってはなりません。このような問題をどう処理すべきでしょうか。これゆえに先生は頭を悩まします。先生が最大の努力をしてでもその道をふさぐことができるとすれば、私がまた十字架を負うことがあるとしても、それをふさいで行けばいいでしょう。しかしそのようにできません。

 そうたやすく捨てることのできる人でないのを知っているので、ただ思いどおりに捨てられないのです。もしそのようになれば、(その人は)裏切り者の辱めを受けなければなりません。それでは、それ(その人が間違ったこと)を正当化させられる一つの基準がどこにあるでしょうか。何の話か分かりますか。そこまで考えながら、悩んでいる先生なのを知らなければなりません。

 この世では、裏切った人に復讐をし、あだを討つのが一つの道理です。神様も御自身を裏切った者たちに復讐する役事を展開させ、サタンを屈服させてこられたのに、許してあげる法度を先生が自ら決定できるかというのです。これが本当に苦しいのです。皆さんはそのようなことを知らなくても関係ないかもしれませんが、先生はそのようなことを直接的に責任をもたなければならないのです。皆さんが誤れば、将来、祝福を受けた世界が全部讒訴を受けるようになるでしょう。思いもよらない結果をもたらし得る恨みの基台が残るというのです。それでは、それをどうしなければならないでしょうか。そのような人たちをどうすべきでしょうか。彼らを死の道に送り、数倍の苦難に出遭わせても、蕩減の条件を立てられるようにしてあげなければなりません。先生はそのような問題まで心配しています。(228)













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第五章 完成のための公式路程

祝福家庭と理想天国

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第五章 完成のための公式路程


  

第一節 完成期七年公式路程

  

第二節 再創造のための子女たちの責任分担

  

第三節 信仰の三子女を通した家庭復帰



第一節 完成期七年公式路程


1、三時代を一時に蕩減する七年路程


 復帰の道は、一人で行くことのできる道ではありません。必ず祝福という関門を通して、堕落前のアダムとエバの立場である長成期完成級の基準を克服しなければなりません。そうなれば、完成期に上がることができるというのです。そこから祝福を受けた家庭は、七年という期間が必ず必要です。

 蘇生、長成、完成期間をそれぞれ七段階として見れば二十一年になるので、完成基準を立てるためには、七年という期間が必要だというのです。ですから、統一教会に入れば、必ず七年路程を通過しなければなりません。

 私たちは、この七年路程を通して真の父母の心情を継承すると同時に、失われたすべてのものを復帰する条件を立てなければなりません。アダムとエバは、堕落によって万物を失い、サタンにより実体を汚され、心情を奪われてしまいました。このすべてのものを蕩減復帰しなければなりません。すなわち、万物の問題、実体の問題、心情の問題を、神様を中心として完全に結束させて完成期を通過しなければなりません。(1)

 祝福を受けてから七年期間に万物を復帰し、実体を復帰し、心情を復帰しなければなりません。これを横的に見るとき、万物は蘇生であり、実体は長成であり、心情は完成です。これは今までの歴史的な縦的摂理を、横的に全部蕩減する内容となります。

 万物の基準は旧約時代に該当し、実体基準は新約時代に該当し、心情基準は成約時代に該当します。三つが完全に一つにならなければなりません。旧約時代は万物を中心として蕩減し、新約時代は神様のひとり子であられるイエス様を通して実体を蕩減する時代でした。それが勝利的結果となり、心情的基準が生じるようになっていたのです。そのような家庭基準が、祝福を通して地上に初めて立つようになるのです。(2)

 完成基準に上がっていくまでの七年期間は、人類歴史六千年に、再臨主の降臨とともに千年王国時代が来ると言われている、その千年をプラスした七千年の歴史を蕩減する価値があります。この七年間に夫婦が共に勝利した基準を探し立てなければならないのです。(3)

 神様は今まで、六千年の恨み多い罪悪歴史を耐え忍んで摂理してこられました。そして今は、その基台の上に千年王国をお立てになろうとしています。ですから、私たちは七年路程を通してこれを蕩減しなくては、神様の前に立つ資格がありません。六千年の歴史をどのようにして七年間に縮小して蕩減し、これを心情的に引き継ぐことができるでしょうか。これは易しいことではありません。

 先生がここまで来るには、蕩減のためにどれほど多くの代価を支払ったか分かりません。また、瞬間瞬間がどれほど真剣だったかしれません。監獄が問題ではありません。拷問が問題ではありません。首がなくなるのが問題ではありません。そのような中でも、来るべきその一時のために黙々と数十年間、全生涯を歩いてきました。その真剣さは神様を感動させて余りあるものでした。ですから、神様は先生に同情なさらざるをえません。今は先生が黙っていても、全世界の霊能者は先生のために働いています。世界の所々で先生の成功のために霊界が総動員されています。(4)

 この問題は再創造期間です。神様が七日の期間に創造完成できなかったことが恨みとなったので、それを復帰するためには、最小限七年が必要なのです。ですから、その七年は誰でも行かなければなりません。先生は二十一年を経てきました。(5)

 七年路程を行けなくなれば、どうなると思いますか。二十一年路程を行かなければなりません。なぜ二十一年かかるか分かりますか。七年路程を行けないのは、七年を退いていくのと同じです。ですから再び上がろうとすれば七年かかるでしょう。そこに再び七年を行かなければなりません。だから二十一年かからざるをえないのです。何の話か分かりますか。ゆえに、次の七年は生死の血判を押す期間です。(6)

 皆さんが嫁に行き、妻を迎えてこのような闘いの場に出るようになれば、支障が多いです。それゆえ、できる限り七年路程を終えてから嫁に行き、妻を迎えるのがいいでしょう。今まで嫁に行き、妻を迎えた人々は全部よくありません。それでは、嫁に行き、妻を迎えた人々が多いですが、そのような人々はどうなるのでしょうか。今まで嫁に行き、妻を迎えた人々は、歴史的な蕩減の祭物になるというのです。ですから今、娘たちは、七年路程をすべて終えなければなりません。神様のみ旨どおりに、韓国が歓迎することのできる時代にさえなれば、皆さんは一級の婿に出会うことができます。(7)

 この世の人生では、倒れても再び立ち上がって行くこともできるでしょうが、私たちが行く道では、一度倒れれば再び立ち上がって行くことができません。どんなによく信じ、どんなによくできると大声を張り上げる人も、完成の峠を越えなければならないのです。そうでなくては、本郷の地で定着して生きることができません。その本郷の地に入るには、父母の心情を基盤として生命体が復活しなければなりません。そのためには、父母の心情が中心とならなければならず、自分が中心となってはならないというのです。(8)

 原理の道を探していかなければなりません。復帰の道を探していかなければなりません。しかしすべて探し出した後には、原理の道であるので、それ以上探す必要はありません。今まで失敗してきた六千年の復帰歴史は、七年路程を通してすべて蕩減されるのです。ですから、先生が提示した七年路程をみ言どおり実践していかなければならないのです。

 皆さんは、イエス様が十字架を負ってゴルゴタに行く道の上に立ったように、苦難の道は行きますが、死にはしません。個人の荷、家庭の荷、氏族の荷、民族の荷、国家の荷、世界の荷を負って七年間に勝利して、この荷を下ろすことのできるとき、解放の万歳を叫ぶことのできる希望が待っているのです。七年間に僕の立場から養子の立場、息子の立場など、すべてのものを経てメシヤの立場まで行くようになるのです。そのような心をもってこそ、あの世に行っても多くの霊人たちから素晴らしいという言葉を聞くことができるし、高貴な位置に座ることができます。

 この時機がどれほど貴いときなのか、すべてを説明するすべがありません。先生が四十年の路程を行っているのに、皆さんは七年も行けないということはあり得ないことです。(9)

 私たちは、僕の僕から出発しなければなりません。先生はしなかったことがありません。神様の名をかけ、復帰という名のもとに探して行かなければなりません。そうでなければ、僕から養子に代を引き継ぐとき、誰が祝福をしてくれるかというのです。

 僕から養子になる道、この道はたやすく行くことができません。養子から息子になるのはたやすくありません。神様を中心に、息子として来たイエス様も新郎になれなかったのに、私たちがその峠を越えていくことが易しいかというのです。どんなに死を覚悟して行っても、困難な道です。

 また、皆さんが天の国で善なる先祖となり、善なる父母となって、宗教を信じなくても天国に行ける子女を生むことができますか。易しいことではありません。

 また、王のようにあの世に行って、民族的霊界にいるすべての霊人たちに対して、彼らを主管でき、新しい善の先祖としての位置を備えることができるかというのです。

 皆さんは、このことをするために、このような資格を備えるためにこの場に来たのです。レバレンド・ムーンは僕の僕、僕、養子……。すべてのものを経て、この道を歩んできました。私が四十年間の道を歩んできたのに、皆さんは七年も行けないのかというのです。

 今年、私の年は五十七です。私は十六歳でこのみ旨を知り、四十年間この道を歩んできました。(10)

 先生はこの道を開拓するために、一日も楽な日がありませんでした。しかし皆さんの行く道は、先生の苦労によって障害物がすべて除去されました。

 車は工場で造りますが、運転は皆さんが直接すべきです。運転技術を習わなければなりません。先生が車を供給しますが、ガソリンは皆さんが入れて運転をすべきです。それが嫌だとすれば、行く道がありません。同情してあげません。(11)


2、七年大患難と七年路程


 人間が長成期完成級で堕落したために、完成段階が残っているのです。その完成段階の期間が七年です。蘇生、長成、完成の三段階に七年ずつを全部加えると二十一年、満では二十年になります。韓国の年で見れば、二十一歳、満で見れば二十歳、このときは人間が成熟期に入っていくときです。成熟期に入っていくようになれば、愛の神様が自動的に結婚させてくれるようになっています。

 アダムとエバは、神様を中心として祝福を受け、人類の真なる父母として公約を受けなければなりませんでしたが、それを受けられなかったのです。すべて認められない圏内で堕落し、このような段階を残しておいたために、七年の恨みが残され、六千年歴史に千年王国を加えて七千年歴史の恨みが残されるようになったのです。一年が千年、七年が七千年にまで延長されてきたのです。

 私たちはこの七日を中心として七年で蕩減するのです。これが七年路程です。聖書で一日を一年で蕩減するのを見ることができます。七年路程、これがキリスト教でいう大審判、すなわち七年大患難です。堕落圏内にある家庭が復帰して上がってきて、初めて堕落圏内とは関係のない天の家庭となるのです。そのために迫害を受けるのが大患難です。神様が共にいてくださり得る家庭が迫害を受けるのは、歴史上初めてです。だからこれが大患難だというのです。歴史上初めてであるこのような家庭が、迫害を受ける、試練を受けるのが大患難です。この七年路程で責任を果たせない家庭は滅びる家庭です。上がっていく家庭ではありません。

 祝福家庭が責任を果たせなくなれば、七年路程は延長されるのです。アダムとエバが原理結果主管圏、すなわち間接主管圏で堕落することによって、人間が行くべき圏内をサタンが侵犯し、したがって間接主管圏全部をサタンが主管するようになりました。七年大患難というのは、迫害を受けるべき人が受けるのではなく、迫害を受けてはならない家庭と人々が受けるのです。これが七年大患難であり、歴史上初めての患難です。これが統一教会でいう七年路程です。(12)

 父母が誤って、人類の前に苦難の基準が立てられたのです。ところが、先生が父母の立場で責任を完結したので、子女の立場に立った皆さんは、すべての迫害と讒訴の基準を越え得る立場へと出発できるのです。この期間がまさに七年路程です。

 この七年路程は、誰もが皆行かなければなりません。優れた人、足りない人、その誰を問わず、皆行かなければなりません。堕落した後孫として生まれた人間ならば、誰しもこの路程を歩まなくては、絶対天国に行けません。(13)

 聖書には出ていませんが、元来はイエス様も、二十七歳から三十三歳までの七年間を中心として出発したのです。そこから四十歳まで第二次七年路程であり、イエス様が二十歳から始めていれば、それが三次七年路程になります。そのようにしてイエス様は四十歳までに世界的な基盤を築かなければなりませんでしたが、民族が従わなかったことにより死んでいったので、それが聖書に七年大患難として残っているのです。

 ところが今日、キリスト教徒たちは聖書の七年大患難が何であるかも知らずに、ただ七年大患難が起きるといって騒いでいます。イエス様はダビデ王の代身です。それでダビデ王四十年、ソロモン王四十年、サウル王四十年、このように四位基台を中心として役事しなければならなかったのです。それゆえ、四十数を満たさなければならなかったのです。

 先生も統一教会を中心として、満四十歳の時である一九六〇年度を中心として、天的なプログラムの向きを変える基盤を築きました。それゆえに、世界は一九六〇年度を中心として新しい歴史時代に入っていくというのです。歴史家たちは外的な結果だけ見ているのであって、その内的な動機がどうなっていたのかを知らずにいます。それで、この七年期間に世界がすべて混乱状態に入っていき、共産世界が滅び得る運勢圏まで到達するのです。民主世界と共産世界が全世界を指導することのできる権限を喪失し得るときが、七年路程ときっかり合うのです。ですから、日時が少しかかるでしょうが、これからは神様だけが世界的に発展し得る時代になったのです。皆さんはもう活動をしても怨讐と闘わなくてもよく、皆さんが活動したのを、直接皆さんの収穫として収めることのできる自由な環境に置かれました。(14)


3、祝福を受ける位置は完成した位置ではない


 祝福はその人を祝福するのではなく、その位置を祝福するのです。(15)

 祝福をしてあげるとき、まず第一に「あなたたちが失敗するときは、あなたたちが責任を負うか」と尋ねているのです。それゆえ、条件的な祝福です。なぜ、条件的な祝福でしょうか。皆さんに万物を主管せよといえば、まだサタンが讒訴するというのです。祝福はそのような人々にしてあげるものではありません。サタンを屈服させた人々に祝福してあげるのです。それが原則です。しかし、皆さんがそのような基準まで行けなかったので、仕方なく条件的な祝福をするのです。ですから皆さんは、将来もう一度祝福を受けなければならないのです。(16)

 勝利的主管圏の切符を受けるのが祝福だというのです。先生が祝福した家庭は、三年路程だけではなく、四年路程も経なければならないので、まだ完全な祝福を受けたのではありません。この四年路程の中で闘って倒れてはなりません。ここで引っかかってはならないというのです。それだけでもいけません。その次には、世界的な路程を完全に越えなければなりません。そのような過程を経ていってこそ、三次の祝福を受けることができるのです。(17)

 皆さんに祝福をしてあげたのは、氏族的基準からしてあげたのです。皆さんは、一つの国を代身して祝福を受けました。三次の祝福を受けなければなりません。皆さんがつまずいても、それが、子供たちに影響を及ぼしてはいけないので、子供たちは先生が祝福しなければなりません。第二段階を越えてこそ、先生が安心することができます。(18)

 一つ皆さんが知るべきことは、皆さんが祝福を受ける位置は、完成した位置ではないということです。父母が歩んでいった十字架の橋があるならば、その橋をそのまま歩んで行かなければなりません。飛んでいくことはできないのです。山の頂上に登るには橋を渡らなければならないというとき、危険から逃れるためにその橋を鉄筋で完備することができるかもしれませんが、橋の上を行くことは、どうすることもできないというのです。それゆえ、先生が歩んでいった七年路程は、永遠に残されるのです。個人的七年路程と家庭的七年路程があるのです。この道は永遠に残されるのです。人間は長成期完成級で堕落したために、そのまま完成段階に上がることはできません。私たち人間が長成期完成級で堕落したために、堕落したその線以上に上がっていってこそ、初めて原罪を脱ぐことができるようになっているというのです。長成期完成級で脱ぐのではありません。そうではありませんか。

 したがって、きょう皆さんが祝福を受けようとしているこの場は、完成期完成級ではなく、長成期完成級だという事実を知らなければなりません。堕落したアダムとエバを中心としてカイン、アベル、セツと、彼らの対象を含んでアダム家庭の八人家族が、すべて離れて下がっていったために、神様の前に蕩減条件を立て、再び完成級に向かっていく立場なのです。

 そこでは父母の愛を感じなければならないのです。生命の起源は、父母の愛を通して生まれたのです。このような生命の価値を世界のその何よりも尊重視することのできる、その立場を経ることによってのみ、新しい道を行くことができるというのです。原理がそのようになっています。(19)

 統一教会の七年路程は、どのような人であろうと行かなければならないと言っていますが、それは何ゆえでしょうか。まだ人間が行くべき完成期が残っているからです。原理主管圏内には、三段階の成長期間がありますが、その期間は完成期間まで二十一年、すなわち二十数に該当する期間です。したがってアダムが完成するためには、完成期までの二十数に該当する満二十歳を中心として、完成期まで上がっていかなければならないのです。しかし長成期完成級で堕落したため、完成期完成級まで上がっていこうとすれば、七年が残っているのです。

 成長期間は三段階であり、一段階は七年に該当します。言い換えれば、アダムとエバが長成期(二段階×七年=十四年)から完成期まで上がっていって完成しようとすれば、七年が残っているのです。まだ七年路程が残っているというのです。ヤコブが七年ずつ三回にわたって、二十一年路程を歩んだのも、み旨に対することのできる一つの家庭的勝利の基点になる期間が二十一年だったからです。このように完成期までの期間が二十一年路程だというのは、ここからすべて証明されるのです。

 それでは、今後人間が行くべき路程の前には、何が残っているでしょうか。真の父母を迎えることによって大勝利をすることではありません。真の父母はどこまでも完成期で現れるのではなく、長成期完成級で現れなければならないので、この七年という過程を経なくては、完全勝利の結果をもたらすことができないのです。これは原理的な内容です。それゆえキリスト教で主張する七年大患難という言葉が出てくるようになったのです。ここで統一教会員が知るべきことは、七年路程は嫌だろうと好きだろうと行かなければならない路程だということです。(20)

 「私、祝福を受けたからいいだろう! じっとしていれば天国だ!」。そのように座っていては撲殺されるのです。祝福を受けても完成段階ではありません。皆さん七年路程を学んだでしょう。このような複雑な内容を知って責任を果たしてくれる人がいないので、全能であられる神様も仕方なく今まで引っ張られてきたのです。

 皆さんが祝福を受けるとき、「私たちは神様の原理原則に従って祝福を受けた。きょうから一つになった」と言いますが、一つですか。再び夫婦が再創造しなければなりません。互いに再創造しなければなりません。怨恨の夫婦の深い溝を埋めるべき道が残ったのを、統一教会の祝福を受けた者たちが忘れてしまったなら滅びるのです。先生がいくら滅びないといっても滅びるようになっています。夫婦二人は、神様が願う理想的復帰完成の夫婦を目指して、再び再創造の過程を経なければならないのです。それで統一教会では、個人復帰完成、その次に家庭復帰完成をいうのです。(21)

 「私」一代においては、「私」個人の十字架、妻に対する十字架、子供に対する十字架、この三代の十字架が厳然として残っているということを、皆さんは知らなければなりません。イエス様もここに引っかかって亡くなられました。「私」個人の信仰の道は、易しいようですが、死ぬことより難しいのです。ですから、信仰の道は副業ではありません。信仰の道は副業ではないのです。今日、副業をする人が多いです。この人たちは全部、賃金労働者です。市日が変われば、場所を変える人たちです。賃金労働者になってはなりません。商売をするとしても、その場所に定着しなさいというのです。誰も侵犯できない固定された場所を占めて生活しなければなりません。「おまえ、統一教会に来て死ぬつもりか」と言えば、「考えてみなければならん、生きるのは今であって、死ぬのは後だ」と言ってはなりません。この生命が死ななくては、生き返ることができないのです。(22)


4、父母の位置を復帰するための七年路程


 堕落した人類の前には復帰の過程が残されているので、その過程を父母になり得る人が全部修めなければなりません。その次にはこのような過程を、ある中心家庭が現れ、世界を代表して修めてくれなくては、皆さんが神様の前に帰っていく道がないのです。だから、皆さんは公式路程を経ていかなければなりません。公式だけ知って、そのまま行えば解かれるのです。

 皆さんは祝福を受けましたが、息子・娘がなぜ必要ですか。長成期完成級から完成期完成級までの七年期間は、皆さんの息子・娘を立てておかなくては上がっていけないというのです。本来、堕落しなかったならば、アダムが神主管圏内から完成期完成級まで行くことができました。それで、堕落しなかった立場に立ったアダムとエバと同じ息子・娘を立てなくては、行くことができないのです。そうしながら、天使と同じ実体的三子女、すなわち霊的子女を、その父母はサタン世界の誰よりも愛しながら、三年過程を経て上がっていってこそ、父母を中心として一つとなることができるのです。そのようにして、息子と父母が一つとなり、天使が一つとならなければなりません。そうしてこそ、上がっていけるのです。堕落した父母の立場ではなく、堕落しなかった父母の立場に立ち、堕落しなかった息子・娘を生んで完成期完成級まで上がっていかなければなりません。

 この完成級というのは、息子と父母、そして天使もすべて復帰された立場なのです。だから天使の立場、父母の立場、息子の立場、この三基準が横的に一つとならなければなりません。横的にそのような道を修めることによって復帰されるのです。(23)

 本来、アダムとエバがつくられたとき、神様と天使長の協助を受けてつくられたのと同じように、復帰過程においても神様と天使長とアダムが一つとなって初めて、神様の息子・娘を復帰することができるというのです。それによって、父母が復帰されるのです。

 この父母はどんな父母かといえば、息子を生むには生んだけれども、サタン世界にも接することができ、天の世界にも接することができる、その境界線に立った父母となりました。その境界線で子女を生んだので、完成級を目指していくことのできる、すなわちアダムが堕落しなかった圏内に立ったのと同じ立場で、子女と夫婦が出発しなければならないというのです。そこから七年間を行かなければなりません。蘇生期七年、長成期七年、完成期七年の中で、これは完成期七年に該当するので、七年間に越えていかなければなりません。そうすることによって天使長を復帰し、その次に堕落したアダムを復帰するのです。

 アダムとエバが堕落圏内から長成期完成級を越えたことが父母復帰です。堕落によってサタン主管圏に落ちましたが、堕落前の立場に立ったというのです。堕落するとき夫婦同士堕落したので、復帰された夫婦と同じなのです。

 ここからこの復帰された夫婦が父母の立場に上がっていこうとすれば、息子を仲立ちにしなければなりません。自分一人では上がっていけないのです。息子を仲立ちにして上がらなければなりません。なぜそうなのかといえば、今日皆さんが二つの世界に関係をもっているからなのです。だから息子・娘を探し立ててこそ、祝福を受ける立場に出ていくのです。それが復帰の過程です。(24)

 直系の子女であるアダムとエバが愛を失ってしまいました。アダムとエバ二人が失ってしまったので、二人が愛を中心として生みながら復帰しなければならないのです。統一教会の祝福は、この立場に二人を立て、子女を繁殖しながら上がっていくのです。これが祝福なのです。完成圏は直系の子女の名で上がっていく圏です。

 そこに上がっていくには、七年路程を行くべきです。ですから七年路程を行くべきですか、行かなくてもいいですか。行きたくない人は、やめてもいいです。(25)

 真の父母の分身体となり、堕落圏(サタン主管圏)を越えなくては、復帰されないのです。ここにいる皆さんも、皆さんの氏族の前には真の父母格です。皆さんの氏族と宗族を中心として見れば、皆さんは真の父母の立場なのです。これは理論だけではありません。実際がそうなのです。(26)


5、霊界と肉界を蕩減復帰するための七年期間


 皆さんは伝道も何も構わずに、先生だけについてまわればいいでしょう。しかし、それは先生が願いません。そのような人が付いてくれば憎み、手荒にあしらいながら、行けとけり出さなければならないというのです。なぜそうでしょうか。蕩減がいまだになされていないというのです。サタンから「この人は神様の息子・娘であり、地上天国から天上天国にいける資格を備えた」という公認を受けることができないというのです。

 さあ皆さん、先生だけにただついていきますか。サタン世界に出ていきますか。また、行ったとしても、サタン世界でうまく生きようとして行くのですか、死の絶頂の道があっても耐えて行こうというのですか。神様を愛するのと同じように、または、レバレンド・ムーンを愛する以上に、サタンを愛するといっても神様とレバレンド・ムーンは讒訴しません。なぜでしょうか。そこに皆さんの霊的息子・娘がいるからです。

 霊的息子・娘を探し出せなければ霊界を解放することができず、実体の息子・娘をもてなければ肉界の堕落圏を抜け出すことができないので、神様やレバレンド・ムーンよりもサタンをもっと愛する立場に立ったとしても、神様とレバレンド・ムーンは反対せず、歓迎するということを知らなければなりません。だから、三年半は霊的息子・娘を探し、その次には、結婚して息子・娘を生まなければならないというのです。これを七年間にしなければならないのです。

 七数を完成できなかったことによって霊界と肉界を失ってしまったために、七年期間において霊界と肉界を蕩減復帰しなければならないという事実を知らなければなりません。そうでなくては先生についていけないというのです。この公式に従わなくては、絶対に先生が行く天国についていけません。先生もこの公式に従っていかなければならないので、苦労をしながらこの道を行くのです。(27)

 サタン世界は何かというと、天使世界であり、堕落したアダムの世界であり、堕落したアダムの息子・娘の世界です。ところで、彼ら三人が一つとなって神様の前に敬拝することによって、その世界に行って探し得る道が生じるというのです。そのようにしておいてこそ、皆さんの後孫と人類が皆さんに従ってくることができるというのです。同様に、自分の氏族と民族と国家と世界が、自分が修めた道に従ってくることができるのです。先生が死んだ後にも、百年、千年、これが復帰されるときまで、この公式が反復されて一つになっていくことができるというのです。(28)

 レバレンド・ムーンはこのような道を歩んできて、このように生きてきたのです。個人的に、家庭的に、氏族的に、そのような路程を歩んできて、国家的に、世界的にそのような道を歩んでいっており、天地をかけてそのような道を行っているのです。だから、ここから解放という言葉が言えるというのです。個人解放、家庭解放、民族解放、国家解放、世界解放、天宙解放を完遂し、後には神様まで解放してさしあげると、宣布をすることができるという結論が出てくるのです。そのような言葉が信じられますか。

 そのような内容があるので、天使圏が解放され得る基盤を築くことができました。そのような霊的基盤を中心として、実体世界にも天使圏、父母圏、子女圏を築いておかなければならないのです。(29)

 父母と子女は、実体世界に行って探してこなければなりません。霊界には、アダム世界がありません。天使世界だけ復帰されています。それで、肉的父母、肉的息子が地上に来て、肉的天使世界、肉的父母世界、肉的子女世界を探し立てるようになれば、これが新しい地上天国圏です。堕落することによって失ってしまったので、天使長と父母と息子・娘が一つとなれば、そのようになるというのです。

 だから、統一教会員は三年間に霊的な子女、三人の息子・娘を立てなければ、祝福を受けられないということが、ここではっきり分かったでしょう。メシヤは、地上にこのような基盤を構築するために、再び来なければならないのです。キリスト教で信じているように、雲に乗ってメシヤが来たならば、人類が滅びるというのです。

 堕落は霊界でしたのではありません。霊界で病気になったのではなく、地上で、肉身で病気になったのです。天国を地上で築いて行く前には、天上天国は絶対ありません。地上天国を築く前には、天上天国に行って住むことはできないのです。

 それゆえイエス様は、天国の門の鍵をこの地のペテロに与えたのです。だからマタイによる福音書一八章一八節に「あなたがたが地上でつなぐことは、天でも皆つながれ、あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれる」と記録されているのです。この原則を知らなくては、聖書を解く道理がありません。統一教会は、神様が立ててくださった権威と自負心をもって、この世界からサタンを追放してしまい、サタン世界から人類を解放しなければならないのです。

 病気になったので、病気を治すためには、薬が苦いとしても、それを飲んで治さなければならないということが分かったでしょう。

 このような理論的な根拠による神様の救援摂理の公式がありますが、今日、キリスト教徒たちが信じ、天国に行こうという考えは誤りなのです。統一教会が異端ではなく、そのような誤った信仰が異端です。だから、本物が偽物のようで、偽物が本物のようであるのが、終わりの日の現象です。先生は科学を勉強した人です。数学を勉強した人です。盲目的に信じないのです。(30)


6、ご父母様の七年路程と子女たちの七年路程


 皆さん自身を中心として見ると、皆さんに七年路程がいつあったでしょうか。先生が七年路程を立てたときから家庭的な七年路程をすべて行くまでの期間が、先生にとっての二十一年路程です。アダムとエバが長成期完成級で堕落したために、長成期完成級の位置までは、家庭が行く路程ではなく個人が行かなければならない路程なのです。先生の立場では、個人として行くべき第一次七年路程と第二次七年路程を既に経たために、家庭を中心として完成期に向かって第三次七年路程を行かなければならないのです。このようにして立てられた七年路程だということを、今日、統一教会の信徒たちは忘れてはならないのです。わが統一教会が六〇年度に出発した第一次七年路程は、先生個人を中心として見ると第三次七年路程でした。

 このようなことを推してみると、皆さん自身の七年路程期間はいつでしょうか。人間は、誰でもこの七年路程を行かなければなりません。これは絶対的な公式です。この七年路程は誰が行かなければならないのでしょうか。家庭が行かなければなりません。この七年路程を経て長成期完成級を越え、神様の直接主管圏まで上がっていかなければならないのです。これは一人ではだめなのです。長成期完成級で人間が堕落することによって、神様と人間が互いに分かれてしまったのです。ですから、神様を中心として結束しなければなりません。先生にはそのような基盤があるので、皆さんの家庭が滅んだとしても先生の家庭は滅びません。言い換えれば、完成圏内に立った先生の家庭は、完全に神様に侍ることのできる基準にあるというのです。先生が完成圏内に入ったその日が、誰でも平面的に迎えられる父母の日であり、誰でも迎えられる子女の日であり、誰でも迎えられる万物の日であり、誰でも迎えられる神様の日です。ですから、個々人が迎えることのできる日だというのです。これを皆さんははっきり知らなければなりません。(31)

 今までの祝福は、完成基準での祝福ではありません。

 先生を中心として神の日、父母の日、子女の日、万物の日が、世界的、天宙的に決定されました。皆さんはその圏内において祝福に参与することができても、その道をまだ行きませんでした。実際は皆さんを中心とした父母の日が出てこなければなりません。新しい氏族の先祖としての、真正な父母の日を迎えられなければならないのです。木村さんなら、木村さんによって父母の日が生まれてこなければなりません。そして木村さんを中心として、子女の日と万物の日を立て、そのような基台の上で神の日を決定し、勝利の旗を立てて永遠にはためかし得る日を迎えなければならないというのです。このような旗を揚げて出発したのが、第二次七年路程です。

 私たちは、長成期完成級で勝利した者、すなわち堕落しなかった立場に立っているのです。神様の権勢をもってサタンを退け屈服させていくのが、私たちの叫んでいる「全面的進撃」です。これは先生だけに限られた路程ではありません。全世界の食口たちが行くべき路程です。男性も女性も、老いも若きも、皆が行くべき路程です。第二次七年路程を通して全面的進撃を敢行しなければなりません。(32)

 二次七年路程とは何だと思いますか。復帰された家庭を立て、七年路程を行かなければなりませんが、これが第二次七年路程なのです。

 それでは、なぜ二次七年路程を行かなければなりませんか。統一教会が家庭を探さなければならないからです。分かりますか。統一教会は家庭のための宗教なのです。個人のための宗教ではありません。今までの宗教は個人のための宗教でしたが、統一教会は家庭のための宗教です。それでこそ新しい国を建てることができるのです。過去の宗教は一人、すなわち個人を主としていたために、国を探すことができませんでした。家庭を築くことができなかったために、国を建てることができなかったというのです。霊的な国しかありませんでした。この地上に国の基盤を立てることができなかったのです。それゆえ、先生が二次七年路程を越えていったのです。

 今、神の日を決定しようとすれば、先生が三次七年路程を越えていかなければなりません。完成段階の基準をもって、神様の愛を証できなければならないのです。そのような段階を越えてこそ、神の日を決定することができるのです。(33)

 先生はサタンと対決し、家庭的段階を越えることのできる一つの基盤を立てたのです。これは世界史的な勝利です。今こそ、天下を私の麾下に置き、神様に向かって行くことのできる自由な時代に入ったのです。しかし、第二次七年路程を行かなければならない皆さんには、家庭的十字架を負うべき基準がいまだに残っています。ですから、皆さんは先生と一つにならなければならないというのです。先生を信じてついてこいというのです。三年期間だけ絶対服従して過ごしてみなさいというのです。ところが、この期間に服従できず従順になれなければ、いろいろと複雑な問題が生じるようになるのを、皆さんは知らなければなりません。

 皆さんが家庭的受難の道に入ったために、先生が皆さんに苦労しなさいと言ったのです。苦労しなさいというのです。皆さんが個人的な受難の道を越えて家庭的な受難の道を迎えたので、これが福でないのかというのです。皆さんはそれを知らなければなりません。(34)


7、個人的七年路程と家庭的七年路程


 皆さんは先生を通して祝福を受けなければなりません。これが蘇生祝福なのです。この祝福は完成級の祝福ではありません。堕落圏内において長成期完成級を越えるためのものです。祝福を受け、信仰の三子女がいれば、長成期完成級を越えるのです。その次に七年路程があるのです。祝福を受ける前にも七年路程があり、祝福を受けた後にも七年路程があるのです。先生もそのような路程を経てきました。(35)

 家庭的七年路程がある前に、皆さんの個体の七年路程がなければなりません。歴史過程で家庭を築くための長成期完成級までの成長過程があったのと同様に、準備された期間がなければならないというのです。歴史はそのような期間を中心として編まれてきました。

 今までの六千年の歴史は、七千年の歴史へと越えていくための神の復帰摂理時代に該当する期間です。神様はこのような七千年の歴史を経て、一人の完全な男性を捜し出すのです。それゆえ、七年路程を行かなければならないのです。

 しかし、堕落した人間たちは七年だけで終わることができないのです。蕩減する七年期間がなければならず、成就させる七年期間がなければならないというのです。何の話か分かりますか。

 言い換えれば、堕落する前の基準まで捜して上がっていく七年期間があり、そこから闘って完成の立場まで行くべき七年期間がなければならないというのです。蕩減するための七年期間と成就するための七年期間が残っているというのです。(36)

 ここにいる皆さんは七年を越えましたか、もう一度七年路程が残っていますか、残っていませんか。皆残っているのです。これが今祝福を受けた家庭が行く、まさにその路程なのです。この道を行くことができなければ、皆さんは祝福を受けても天国に入籍され得ません。天国の門はすべて開いていますが、この七年路程を越えられなければ入ることができないのです。礼服を整えられなくては、入ることができないのです。行けないというのです。

 先生が皆さんにこのような原理の内容を教えてあげたにもかかわらず、もし皆さんがこれを実践できなくなるとき、先生は責任を負いません。皆さんが原理的見解をもって原則的な責任を負う立場に立つとき、先生が皆さんの責任を負うのです。分かりますか。

 祝福を受けた後に、一度は別れなければなりません。だから今回、先生が祝福して少なくとも六カ月間、全部引き離そうと思います。皆さんは全部南北に別れて、今、自分が復帰され得る道を探し越えていかなければなりません。これをしなければ、祝福を受けても天国に行くことができないのです。これは原理的です。分かりますか。(37)


8、家庭完成を要する時代


 今まで皆さんは個人的な蕩減時代を経てきました。そして皆さんが個人的蕩減時代を経てくるとき、先生は家庭的蕩減時代を既に経たのです。家庭的蕩減時代を経たので、神の日、万物の日、子女の日、父母の日が現れたのです。しかし皆さんは、今までそのような基準を備えることができませんでした。皆さんは家庭を中心とした巣がありますか。父母の日、子女の日、万物の日、神の日がありますか。ないというのです。ですから皆さんは、今まで個人的な蕩減路程を歩んできたのです。

 今は、家庭を完成しなければならない時代です。統一教会の完成圏には、歴史上のその誰も加担できず、参席できなかった聖なる立場があります。そのような聖なる立場に皆さんが加担できるのは、祝福の恩賜を受けた家庭だからです。祝福家庭でなくては加担できないのです。

 完成基準に入るようになれば、堕落しなかった父母の日を迎えるようになるのです。人間始祖が長成期完成級で堕落し、家庭的に下がっていったので、これを再び探して上がっていくためには、個人ではない家庭が探して上がっていかなければならないというのです。個人は入っていくことができないのです。言い換えれば、完成し得る復帰的な家庭を備えて参席しなければならない立場が完成段階なのです。それゆえ、その立場は一人で参席することができないということを、皆さんははっきり知らなければなりません。

 たとえ腕がなく、足がなく、目がつぶれ、鼻がつぶれたとしても、私たちは相対の理念をもって参席し得る特権的な内容を付与されたために、今は家庭的に蕩減することのできる世界史的な勝利を立てて行くのです。(38)

 今日、イエス様を信じる人は全部天国に行くと言いますが、彼らが言う所は天国ではなく楽園です。イエス様が今までどこに行っているかといえば、楽園に行っています。新婦を待ち焦がれ、望む、そのような基準が残っているので、天国に行けないのです。天国に入れるその道を望みながら、今まで来ているのです。

 本来、創造原則による天国は、家庭を中心として入っていく所です。父母が入り、子供が入り、自分の一家全体、一族が入ってこそ幸福なのであって、父母は地獄に行き、子供だけ天国に行けば、それが何の天国でしょうか。

 ですから、統一教会がこれから天国に行くことのできる道を築くにおいて、家庭的な基準を立てなければなりません。そうでなくては天国に行けません。家庭を中心として、サタンが讒訴し得る基準から脱しなければなりませんが、歴史的な讒訴基準、時代的な讒訴基準から脱しなければなりません。そのためには、このような復帰の公式路程を経なければならないということを知らなければなりません。迫害がなく自由な、この平面的な環境で、皆さんがそれを解決し得る期間が第二次七年路程だということをはっきり知らなければなりません。(39)

 皆さんが個人的な十字架の路程を経てくるとき、誰が先に開拓しましたか。女性たちがしたでしょう。それでは、完成段階の基準は誰ゆえに狂ったでしょうか。エバによって狂いました。それで家庭を中心にした十字架もエバが負わなければならないのです。ですから皆さんが涙して行くその路程を、息子・娘も喜ぶでしょう。復帰の道を行くべき血涙流れるこの路程で、後方にいる幼い子女たちと力を合わせて心情的十字架を後押しし、一つになり得てこそ、家庭がうまくいき完成段階に越えていくことができるというのです。

 このように天の国に完成級を橋渡しすることのできる女性として登場したという条件を立ててこそ、来られる主の前に愛を受け、天の法度を立て得る親族の圏に入っていくことのできる条件を、初めて蕩減できるというのです。

 このような使命が女性たちに残っているのです。この結婚を通してなされるのではないというのです。皆さんは長成期完成級段階にいるのであって、完成段階を越えたのではありません。このすべてが、女性たちが蕩減すべき内容です。

 それでは、どのように蕩減していくべきでしょうか。今までの復帰歴史過程と同様に、母と子供が母子協助過程を通して行かなければならないのです。それゆえ、皆さんは赤ん坊をおぶってでも苦労の道に出なければなりません。この限界を超えるために、先生が七〇年度から皆さんを苦労させようとするのです。(40)

 民族的な使命のために内外の因縁を備えていかなければならないので、祝福という名詞をかけておき行くのです。七年路程は苦労する期間なので、祝福家庭を三千里津々浦々に散らしたのです。(41)


9、摂理の先頭に立つべき女性


 過去、イスラエル民族においては男性たちが祭司長になりましたが、今日、我々の時代において、どうして女性たちを先頭に立てたのでしょうか。過去に、第一次イスラエルにおいて、ユダヤ教は天使長の国家型であったため、男性を中心として祭司長の責任を果たしましたが、今日、復帰時代においてはエバが祭司長の責任を代身しなければならない時代圏内に入ってきたので、統一教団においてはどんな時代にもなかった、すべての女性たちを代表して、その誰もができない世界的な祭司長の責任を果たす立場に立てられたということを、皆さんは知らなければなりません。

 エバが堕落することによって、人類を滅亡のるつぼに追い込んだすべての事実を再び蕩減するために、エバを一緒に立てておいて、アダムになり得る人々はここに一つになるようにさせるのです。その夫婦が歴史的な全体人類を代身し、祭司長の責任を果たし得る立場に立たなければならないということを皆さんは知らなければなりません。

 その夫婦だけでなく、育っている自分たちの子女まで、自分の母(が苦労する)ゆえに心配をし、自分の父ゆえに心配し得る立場に立ったので、天の前に祭司長の責任を果たす四位基台、言い換えれば、歴史上になかった祭司長の家庭的責任を果たすことによって、今日、民族的家庭復帰の土台が築かれるのを私たちは知らなければなりません。

 このような重大な使命を果たすために、今日、婦女子が一線に出ているのを知って、統一教会の食口ならば精誠を尽くさなければならないのです。彼女たちよりよく食べ彼女たちより楽に暮らす人がいるとするならば、その内実において、彼女たちよりも苦痛をより感じ、心でより精誠を尽くすその何かがなければなりません。それがなくて彼女たちより楽に過ごす人がいるとするならば、この人は統一教会員だということができないのです。

 このような立場から見ると、夫は妻以上の精誠を尽くすべきであり、今ようやく話せるようになった赤ん坊までも、祈祷をもって「私たちのお母さん、お父さんが願うそのみ旨を、天よ、成してくださいますように」という家庭が、統一教会の祝福を受けた家庭の中になければなりません。その数が多ければ多いほど、これは新しい歴史を復活させ得る四位基台の土台になるのを皆さんは知らなければなりません。(42)

 復帰時代において誰がまず先頭に立ったでしょうか。エバがまず先頭に立ちました。(43)

 女性たちを通して、男性たちが初めて神様の血族圏内に入れます。(44)

 このときにおいて家庭が果たすべき責任は、堕落がエバによってなされたので、男性ではなく、妻が果たさなければなりません。(45)

 家庭を一線に出すにおいては、夫より妻を出さなければなりません。(46)

 我々祝福を受けた婦人が先立たなければなりません。(47)

 復帰摂理を見ると、個人的に女性が前途を開拓しなければならず、その次には教会を代表した家庭の女性が一線に出てサタンと闘わなければならず、その次には民族を代表した女性が先頭に立って闘うべき時があります。(48)

 処女時代、六〇年代は開拓を処女たちがしました。七〇年代は開拓を家庭の女性たちがしなければなりません。七〇、八〇年代に入っては、大韓民国の女性が全部一つにならなければなりません。人民軍を屈服させるのは、統一教会の女性がしなければなりません。国が一つになる日に、一千五百万の女性をすべて動員するようになれば、人民軍を一気に全部屈服させることができます。統一教会の思想だけがそのようにすることができるのです。だから蘇生(処女時代)、長成(家庭的女子時代)、完成(国家的女性時代)、南北を統一するにおいて、エバが国家的な伝統を立てるにおいて、世界的な伝統を立てるにおいて、(エバが滅ぼしたので)女性が貢献しなければなりません。今まで縦的な役事は男性がしてきました。ですから、横的な役事を女性が開拓することによって、女性が初めて縦的な責任を果たしてきた男性の前に相対として立つことができるのです。

 そうでなければ、女性がいつ、天の前に何の功があるといって立つことができるのでしょうか。だから統一教会の女性を動員したこの思想は、大韓民国において主婦がすべき伝統的な思想として残るのです。それゆえ、正しく植えなければ大変なことになるのです。既成教会の夫人を動員し、この国の国民の夫人を動員し、国の大統領夫人からすべての長官夫人まで動員し、国を生かすために三十八度線を転覆させ得る、決意ある軍事訓練をさせておけば、以北の共産党が問題ではありません。(49)

 女性たちも共産党を解放させなければならず、我執におぼれた宗教人を解放させなければなりません。韓国の歴史を見ると女性が先立って闘った場合が多いです。(50)

 太初に、エバは神様と一つになれなかったために堕落したのです。生命を失ってしまう恨みがあっても、神様の命令に順応しながら、死の道も快く行っていたなら堕落はなかったでしょう。ですから今日、わが統一教会の女性は死を覚悟し、神様をつかんで行かなければなりません。(51)













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第二節 再創造のための子女たちの責任分担

祝福家庭と理想天国

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第二節 再創造のための子女たちの責任分担


1、再創造時に必要な条件


 皆さんに必要なのは本然の状態です。そこには神様と天使長、アダム、エバ、万物がありました。このすべてのものは、結局何を中心として連結されたのかはっきり分かったでしょう。愛でなければならないというのです。

 「私」を中心として真の愛をもつためには何が必要かというと、三天使が必要です。男性は女性が、女性は男性が必要です。しかしサタンが介入し、この世界は神様の愛ではないサタンの愛によって連結されています。

 これを蕩減するためには、失ったときの反対方向へ探していかなければならないので、信仰の三人の息子が必要です。三人は三天使を意味します。またアダム家庭で八人の家庭が堕落したので、三人の息子と三人の娘を復帰する立場に立たなければなりません。それで統一教会では、信仰の三子女が必要だという言葉が出てくるのです。

 その次には万物を探し立てなければなりません。統一教会で行う万物復帰は万物を探し立てるための条件になるのです。サタン世界に属している万物を天の側に探し立てるのです。神様が万物をおつくりになりアダムとエバを創造されたので、アダムとエバの再創造には万物がなくてはならないのです。それでサタン世界に行って万物を取り戻してこなければなりません。それも、最も精髄を抜き取ってこなければなりません。

 世界が反対し迫害する立場から万物を探してきました。本来、万物は真の愛の土台の上で所有するようになっています。「私」が万物に対して真の愛で愛したので、すべての物を伝授された、というと、サタンも讒訴できないというのです。それでサタンが愛する以上に愛してあげなければなりません。

 十一条はこのような条件を立てるのです。神様の前にすべてのものを探し立てる条件として十一条が現れるようになりました。九は三掛ける三で九段階、すなわち天の側を意味し、十数は天の側に帰ることを意味します。そのような意味から、サタン世界に行って取り戻してくることを意味します。

 「私」は、人類を愛し、世界を愛し、神様を愛するにおいて、サタンより勝るという条件を立てなければなりません。再創造するには万物が必要です。(52)

 万物復帰をしなければ、万物を愛したという条件を立てることができず、信仰の息子・娘三人がいなければ、「私」が天使長を愛したという条件を絶対立てることができません。堕落しなかった本然の位置まで行ったという条件を立てなければなりません。万物を愛し、天使長を愛した土台の上で、神様に対し得るその位置を探していくのです。このようにして、アダム家庭で失ってしまった八人家族を再び探し立てるのです。このような条件が成立されることによって初めて、神様を中心として上がっていくことができるのです。(53)

 堕落は、天使長がエバを愛し、アダムを愛したことによってもたらされた結果でした。原理的には、アダムがエバを愛し、エバが天使を愛さなければならないのです。その結果、堕落した天使長がサタンで、アダムとエバはその後孫の立場になりました。それで、復帰時代には天の側の天使長を探し立てなければなりません。

 このような条件を探し立てる期間が、統一教会でいう七年路程です。実際は、七年路程を歩む前には結婚できないのです。皆さんは三年の間伝道し、信仰の三人の息子・娘を結婚させなければなりません。まず万物を愛し、天使長を愛し、その後に神様を愛するのが本然の形態です。堕落することによって、人間は万物より低い位置に落ちたので、まず万物を探し、天使長を探して、それらを愛せる立場に立った後に、初めて神様を愛することができます。今日、統一教会はこのような公式どおりを歩んでいます。(54)


2、再創造のための私たちの活動


 神様がこの世界を創造なさるとき、まず万物をおつくりになりました。復帰時代で私たちは再創造の道を行くので、万物を創造し、次に伝道を通して人を再創造するのです。この二つを糾合して、世界を神様の前に探してさしあげるために主導的な役割をするのです。このようにして、主体的立場に立つとき、神様の真正の息子・娘になるのです。

 救援摂理は復帰摂理であり、復帰摂理は再創造摂理です。人間は神様がつくっておいたすべてのものを堕落させました。人間が復帰するためには、神様がつくった万物を再創造しなければなりません。また、神様が失ってしまった息子を捜し、その次には天使圏のサタンを屈服させなければなりません。これが原理的な方法です。(55)

 聖書を見ると、物質と神様に兼ね仕えることはできないといいます。しかし、キリスト教国家のアメリカに物質的な祝福をしてあげるのは、再創造の法度を完成させなければならないからです。アメリカは、物質をもっている天使長の立場にあります。今、アメリカの物質を動かすことができなければなりません。

 今は、物質によって動く物質主義の世界になりました。黄金万能主義になりました。このお金を持つようになれば、世界の人々を思うままに動かすことができるようになるのです。物質だけもてば、ヤコブがエサウを動かしたときよりもっと簡単に、世界を動かすことができる世の中になったのです。(56)

 どこに行こうが、伝道をしようとすれば外交がよくできなければなりません。外交的な能力がなくては、伝道できません。社会の責任者になるためには説得力がなければならず、サタン世界を溶かしきろうとすれば、外交を上手にしなければなりません。手腕がなければならず、説得力がなければならず、そこに理論体系が立っていなければなりません。言い換えれば、責任者になるためには経済的な問題を解決でき、その次には外交問題を解決できなければならず、また説得力、大衆を指導し得る能力がなければなりません。(57)

 統一教会員の中で伝道をしてもうまくいかないという人がいます。なぜそうなのか分かりますか。この世でも、息子を生むためにあらゆる精誠を尽くす女性がどれほど多いですか。また、主に会うといって精誠を尽くす人がどれほど多いですか。ですから皆さんが伝道しようとすれば、彼ら以上の精誠を尽くさなければなりません。それ以上精誠を尽くすようになれば、神様が必ず助けてくださるでしょう。

 「私」とは関係ない神様のようですが、その立場に立って「お父さん」と言えば、ずっと遠い所から答える父ではなく、すぐ後ろから答える父を発見するというのです。「私」が疲れて倒れれば、神様が「私」を抱いて寝かせるのを発見するようになります。手を挙げてみれば、手から光が出るというのです。そのような驚くべき事実が起こるようになるということを知らなければなりません。(58)

 一九七〇年代までは、天使世界を復帰しなければならないので、外的活動に重点を置きませんでした。時でなかったので、この民族が全部霊的にみ旨と接することのできる環境をつくるために力を注いできました。

 その次に、一九七〇年から五年間にかけて多くの万物復帰をするようになったのです。その次には、人を立てなければなりません。まず彼らを受容しうる教会がなければならないので、教会を造ってあげました。その次に、伝道活動のために国際機動隊を連れてきました。彼らを中心として、協会長まで出て講演をしながら風を呼び起こしたのです。復興会、希望の日集会をしなから整地作業をしました。

 また、超教派運動に多くの予算を編成して支援しています。この超教派運動も腹をもって力強くやれば、成功するでしょう。このように再創造の役事をするにおいては、物質を投入し、その次には天使長を投入するのです。(59)

 「私」の手で万物を創造(復帰)し、「私」の手で息子、娘を創造し、「私」の責任でもって父母の位置に行かなければなりません。皆さんの手でできますか。さあ、だから「私」の手ですべてのものを創造し抜くという(神様の側に復帰しぬく)、このような心情と信念と資格を備えなければなりません。統一教会が行く道がそうです。

 その次に復帰路程ですべきことは何かというと、失ってしまったアダム家庭の復帰です。ノア家庭の八人家族も、アダム家庭の八人家族を再現した方です。だからイエス様も三弟子を一番弟子としてもちました。イエス様と弟子たちが結婚するようになれば、八人になるのです。その原則があります。分かりますか。皆さんもそれをしなければなりません。三天使長復帰、三人の息子をサタンの世界から伝道して取り戻してこなければなりません。アダムが失ってしまったので、アダムの代わりに取り戻してきてこそ、アダムよりいい祝福を受けられるのです。それで伝道期間が必要だというのを知らなければなりません。物質と子女を探して、完全に天の前に捧げた後に、それを再び受け、「私」が子女に祝福をしてあげ得る資格を備えた父母の位置に行かなければなりません。分かりますか。それが復帰歴史です。(60)


3、真の父母の愛の圏を相続するための訓練


 皆さんが万物復帰をするのは、万物を通して父母と接近するための心情的絆を結ぶことなので、いかに困難な場でも探していかなければならないのです。そのようにして集められた献金は、一文でも千金万金と同じ価値として使われるのです。そのお金を見て「お前はどれほど多くの人々の手を経たのか。ご父母様を通して神様の前に帰ることをどれほど願ったか」と言い得なければなりません。皆さんは、辱めを受けてもそのことをしなければなりません。それは訓練です。そのお金が多かろうと少なかろうと、真の父母を通して天にすべて捧げなければなりません。

 また、皆さんは開拓伝道に出なければなりません。そこで人を愛する法を学ぶようになります。皆さんは伝道対象者たちに「あなたたちは真の父母を通して天に帰ることをどれほど願ったか! 私が橋渡しをしてあげよう」という心情で活動しなければなりません。だからこの村あの村を休む暇もなく動かなければなりません。このような訓練をするのは、わが父母を誰よりも一層愛するということです。これが父母の前に真の孝行をする道です。このような訓練を終えて帰り、自分の父母、自分の兄弟を誰よりも愛するために訓練したといえば、反対する父母はいないでしょう。天と地が絶対歓迎するでしょう。三年間、愛の訓練を通して最高の愛の実績を上げて自分のすみかに行くべきなのです。「私」の愛する人が、「私」を生んでくれた父母を代身し、宇宙の父母を代身し、人類の父母を代身し、真の父母を代身した立場に立つようになるとき、父母が嫌がり兄弟が反対する理由がないというのです。

 その次に、皆さんは神様の前に帰るために霊界の訓練を受けなければなりません。霊界をどれほど愛したか、霊界とどれほど一つになったか、神様をどれほど愛することができるかという訓練を経なければなりません。この訓練はこの地上におられる真の父母を通してなされるようになります。霊界と神様を絶対的に連結させる使命をもって来られる方がメシヤなので、メシヤは人間にこのような霊界の訓練をさせるのです。そのメシヤは人類の真の父母として来られ、歴史上に現れたどの人よりも、人類を本当に愛し、堕落によって分かれたこの世と霊界まで統一させる仕事をなさるのです。真の父母が死なずに生きて、実体をもってこのことをしなければならないのです。

 真の父母は神様を代身してこのことをするのです。それで、一人の人間が死んだ後にも数千万年間訓練すべきなのを、真の父母に侍り心から愛することによって、短時日のうちに神様の前に進んでいき得る霊界の道を立てるようになるのです。真の父母の前に絶対服従すれば、神様の命令の前にも絶対服従したという条件が立つようになります。だから天の国の父母と天の国の民、そして天の国の兄弟と一つになり得る伝統を立てるようになるのです。そのようにすることによって、霊界の訓練をパスするようになります。(61)

 真の父母に侍らなければならない理由は、霊界と神様を代身した第一父母、第二父母、第三父母などと心情的絆を結び、このすべてのものを代表し得る心情的勝利圏に同参する資格を得るためです。

 堕落することによって「私」が万物の父母(=万物)を愛し得る孝子になれず、「私」を生んでくれた父母の前に孝子になれず、霊界と神様の前に孝子になれませんでしたが、真の父母に侍ることによって孝子の資格を代わりに付与され得るので、皆さんは粘り強くついていかなければなりません。一国の大統領がサインをすればその国のどこでも通過できるのと同様に、天国のすべてのことを通過するためには、真の父母が絶対必要だという結論が出るのです。

 万物復帰は、真の父母の愛の圏を相続するためであり、伝道をさせるのも、この愛の圏を相続するためであり、霊界に対するすべての訓練は、全体を相続するためのものであるのを知らなければなりません。このように全体的な問題を理論的な基準で完結し得るということは、驚くべき事実です。(62)


4、万物復帰


 レバレンド・ムーンがなぜ万物復帰をするのか分かりますか。創造本然の世界では、被造万物が神様のものでありアダムのものなのに、サタンが奪っていったので、再び取り戻さなければならないというのです。それで万物復帰のためにどんな経済人、どんな会社の社長が努力する、それ以上に全力を投入しました。神様を愛し人類を愛する心をもって仕事をしたということを知らなければなりません。私のために万物復帰をしたのではありません。

 また、統一教会の人々を精誠を尽くして育てたのです。自分の子供のように思い育ててきました。神様の息子・娘になり得るキリスト教が衰え落ちていき、すべての宗教人たちがサタンの罠に落ちてしまうので、精誠をつくして愛によって再び編んだのです。(63)

 アメリカは、世界的な代表国家であるので、自分の息子・娘よりも自分の同族よりもアジア人よりももっと愛さなければならない原則があって、そのようにしたのです。そのようにすることによって、世界を救い得る平面圏が生じたのです。

 それは神様の愛を連結させる仕事でした。私がそのような仕事をしました。私が辱めを受け、おろかな人として扱われ、悔しく憤懣やるかたないですが、耐えながらこのような基盤を立てるために苦労してきたのです。アメリカ人たちが、アメリカの青年たちが笑って暮らしているとき、私は泣きながら暮らしてきたということを知らなければなりません。アメリカ人、アメリカの青年たちが遊んでいるとき、私は休まず活動してきました。反対に暮らしてきたというのです。このアメリカの解放のためには、監獄暮らしまで覚悟している人です。私は、かわいそうだとすれば、最高にかわいそうな人だというのです。

 このようにかわいそうな人を石で打ち、つばを吐くならば、神様が黙っていないということを知らなければなりません。しかし皆さんは、アメリカ人ですが統一教会の人たちなので、「神様よ、この者たちがアメリカ人なので、この者たちを見てお許しくださいますように」と祈祷をしているのを知らなければなりません。アメリカがその負債を負っているのを知らなければなりません。それゆえ、いつか統一教会に負債を返すべきなのであり、統一教会の人々に負債を返さなければならないのです。(64)

 私がきょうはっきり話しますが、愛する統一教会の食口を愛することができなかったということを、皆さんは知らなければなりません。愛してはならないことを知っているので、死ぬべき場に送って犠牲にしてきたのです。神様自身が愛する人を犠牲にして救援摂理歴史を編んでこられたのを知っているので、統一教会の人々を私が愛したくても、愛することのできない立場にいるのを皆さんは知らなければなりません。(65)


5、神様を痛哭させうる内容


 皆さんは万物復帰をして足げにされ、ほおも打たれてみなければなりません。皆さんの顔につばを吐く人にも会ってみなければなりません。それが昔現れたすべての先知先烈が歩んだ道のりだったからです。

 皆さんに一つ話をしましょう。この世の人たちがつばを吐き、彼らが悪口を言い、残忍なむちを打っても先生は痛くありません。むしろすべて許すことができます。ところが、統一教会を信じたのに出ていった人たちがつばを吐き、足げにするのは、胸が詰まることだと言わざるをえません。これを見るとき、十字架の上でイスカリオテのユダとすべての怨讐たちを許し、裏切る弟子たちを収拾していかれたイエス様の心情を感じることができました。過ぎし日、先生に付き従った人の中の一人は、先生が西大門刑務所に収監されているとき、耐え難い謀略をしました。いまだにそのことが忘れられません。そのような経験は一度、二度ではありません。(66)

 私が祈祷をすれば、涙が止まりません。私が(苦難に)遭うように、神様も遭ってこられたのをよく知っているからです。神様は私が遭ってきたのを知っておられます。そのような道を、父母も知らず兄弟、妻子も知りません。私は弱いとすれば至極弱く、足りなかったとすれば至極足りませんでしたが、大きく私を信じようとし、この世よりも宇宙よりももっと大きく信じようとなさる神様を見るときに、身の置き所を知りません。そのような経験を私はもっているのです。

 天宙を創造された神様が、宇宙を思いのままにできる神様が、どうしてアダムとエバによってこのようになられたのかというのです。皆さんが祈祷をしたり、霊界に深く通ずる人々からレバレンド・ムーンを知るようになれば、皆さんは先生を思ってたくさん泣くことができるでしょう。霊界に通ずる人々が祈祷をして神様が教えてくださるようになれば、痛哭するようになります。また先生のために祈祷すれば、痛哭しかないというのです。

 皆さんは原理を通して、この膨大な内容をどこから手を着けて解いていくべきなのか、考えてみなければなりません。すべての摂理的内容を縮小し、これくらいの秩序と組織をつくり、このような基準まで皆さんが理解できるようにつくったという事実は、簡単なことではありません。(67)

 先生は涙をあまりにたくさん流したので、太陽を見ることができないときがたくさんありました。そのようにしてこの道を立ててきたのです。そのように難しく経てきた事実を、皆さんにすべて教えてあげることはできません。それは私が責任をもとうというのです。皆さんは、先生が教えてあげない道は、行かなくてもよいのです。易しい道を行けるように教えてあげるのです。

 わが統一教会で古い韓国の食口たちは、霊的にこのような困難を体験して、その境地を知っています。皆さんがいくらかはこれを知り、また感じ、決心し、努力しなければならないと考えて、このような話をするのです。今、皆さんがこのような努力を通して体験をすれば、霊界に行っても相当助けになるでしょう。ここでそのような経験をすれば、何千年、何万年、助けになるでしょう。(68)

 宇宙を復帰し人類を生かす仕事をしているのに、お金を何文稼ぐかは重要ではありません。神様の身の上が痛ましく、胸が詰まるというのです。このお金は一銭だとしても、ここには神様の心情が込められているので、またすべての万物を代身し得る祭物のようなものであるのを知っているので、「私」がこれを天の前に捧げるというとき、問題になるのです。だから、「私」の心の中において、千倍、万倍、億千万倍の心情を捧げると言えなければなりません。たかが一文ですが、「私」の心情は何千万の心情を備えて捧げなければなりません。それで「神様が品物を受けて祝福をしてくださいませ」と言えなければならないのです。そのように考え捧げるならば、皆さんがどれほど聖なる立場に立つようになるか分かりますか。(69)

 ある人が皆さんと出会って、主に出会ったように、失ったお母さん、お父さんに出会ったように、うれしくて痛哭することが皆さんの生活の中に多くなければなりません。先生にもそのようなことがたくさんありました。(先生は)若い娘が娼婦村に行ってその中に落ち込んでいこうとするのを、救ってあげたときがありました。その女性の事情を聞いて痛哭したのが、つい先日のようです。

 そのようなことは、祈祷することよりももっと貴重なことです。皆さんが万物復帰をして、お腹が空いて道端に座ってサンドイッチを食べるというとき、それはすべて神様を痛哭させ得るよい祈祷の内容になり得ます。皆さんは、新聞を売りながらありとあらゆる人に出会うでしょう。しかし、悪口を言ってはなりません。皆さんは道行く人の前に現れて、その人の道を行くのに妨害になり、その人の嫌だという原因になるからです。

 対人関係ほど難しいことはありません。それで皆さんに、最も難しい立場で対人関係の訓練をさせています。皆さんは知りませんが、その訓練をさせています。そのような道は、先生が既に行った道です。(70)

 「私」の怨讐は誰だと言いましたか。この世ではなく、カインが怨讐ではなく、ニューヨーク・タイムズやワシントン・ポストが反対しても、彼らが怨讐ではありません。彼らが反対するのは、そうし得る素性を私から取ってしまうために、サタンが讒訴するのだと思わなければなりません。

 皆さんさえ完全ならば、讒訴した損害賠償を請求できるのです。それゆえに滅びません。皆さんが万物復帰をするとき使う手が、神様のための手か、サタンのための手かということを考えてみましたか。神様のためにするというとき、その人を世界的な代表者として信じてあげるのです。「私は世界的なことをするためにあなたを訪ねてきました! あなたにも世界的な仕事に同参しうる恵沢を受けさせるために来たので、万物復帰するのを後援してください!」このような考えをもって、しなければなりません。このようなときは、十人に排斥されても、我知らず涙が出るのです。天が泣くのです。

 皆さんがうれしいとき、何が先に喜びますか。人々が同情をしてくれれば、まず心が感じるというのです。これは天が喜ぶのです。そのような中ですれば、十二時が過ぎて、一時、二時になっても足が軽いです。そのような事実を知らなければなりません。レバレンド・ムーンも、そのような世界を経てきました。

 今、「私」の怨讐は、「私」の体だということが分かったでしょう。この体を「私」が調整しなければならないという考えをもつことが、少なくとも三年間は必要だと見ます。こうしてこそ、習慣的に心が体を調整し得るというのです。(71)

 先生は学生時代、人を勉強させるために夜間の仕事をしました。それで友人の学費を出してあげました。その学費を出してあげようとすれば、一文、二文、集めなければなりません。なぜこのようなことをしたのかといえば、神様を知ったからです。私がこの道を行かなかったなら、この世の人として、今日、堂々と生きていくでしょう。どの社会に行こうと、賢い人として認定され、一国を動かし得る立場まで行ったかもしれません。先生はそのような能力がある人です。

 今も私が一生の間に誰のために涙を流したか考えると、神様を知り神様のために涙を流したことを否定できません。迫害を受けるのも、レバレンド・ムーンが足りないからではありません。神様が一層苦難の道を行かれたのを知ったので、耐えることができました。先生だとて、個人的な希望と欲望がなかったでしょうか。青春時代には美しい夢がありました。しかし、すべてのことを無慈悲に切ってしまった後には、再び個人的な夢を見ませんでした。

 そうしてみると、今日のようなレバレンド・ムーンになりました。直ちに千万ドルでも動かすことのできる能力をもっていますが、お金が一文もない社長と同様の立場に立っています。お金を使っても皆さんを考えます。自分のためにはお金を使わないようにする人です。どこに行っても喫茶店に寄らず、昼食のときも外に出て買って食べないようにします。服も買って着ないようにします。

 私にお金があれば、私自身のために使おうとするのではなく、アメリカのために、世界のために使おうとするのです。皆さんが苦労をしながらも、先生に対して不平を言えない理由がここにあります。(72)


6、月一人伝道の意義


 イスラエル民族の指導者モーセを中心として見れば、十二支派長と七十二長老がいます。聖書には七十二、あるいは七十となっていますが、七十二でなければなりません。なぜなら、十二の六倍なので、七十では二名が欠けている数字です。

 七十二家庭を完成しなければなりません。イエス様が天国を築くことができなかったのは、十二弟子が一つになれず、七十二門徒が一つになれなかったからです。ですから、イエス様は七十二名に追われ、十二弟子に追われ、最後には三名の弟子にそっぽを向かれて、一人で十字架に釘打たれました。父母に追われ、家族に追われ、イスラエル民族と国から追われて三年間闘ってこられたにもかかわらず、彼らの不信によって天国を実現することができなくなってしまいました。

 私たちがそれを再編成して、イエス様の実体基準を蕩減復帰しなけば、天国は絶対にやってきません。これが原理の骨子です。

 十二弟子と七十二門徒でなければ、イスラエルの六十万を動員できません。問題は十二弟子と七十二門徒です。(73)

 昨年から先生が命令したのは、一月に一人ずつ伝道しなければならないということです。これは至上命令です。これを実践してください。先生は何の準備もなく皆さんに話したのではありません。イエス様は三年ないし三年半の間に、霊肉が一つになった基準を立てようとしました。それがユダヤ民族の不信によって、失敗に終わりました。

 私たちがイエス様と同じ立場を蕩減復帰しようとすれば、霊的復帰のために三年以上費やさなければならず、肉的復帰のために三年以上を費やさなければなりません。そうでなければ、霊肉ともの勝利の基台を立てることができません。それで七年という歳月が必要になりました。この七年期間には、みんなが神様のみ旨、天国建設のために努力しなければなりません。皆さんは七年間、何をしますか。イエス様が失った十二弟子と七十二弟子を、家庭を中心として探し立てなければ、天国をつくることができません。

 十二名と七十二名を足すと八十四名になりますが、七年を十二で掛ければ八十四になります。十二弟子と七十二弟子を、私たち各自が編成しなければ、イエス様が世界的に築いた天国の橋をつくることができません。私たちが生涯をかけてこの橋を結合できなければ、天国に連結されないという事実を悟り、各自使命感に燃えなければなりません。一月に一人ずつ伝道すれば、七年かかって初めて、八十四名になります。ですから最小限度、一月に一人伝道しなければならないという結論は、世界的な基準の核心になっています。

 全世界の統一教会の食口たちがこのような信念で武装し、その目的に向かって一致団結して行くならば、サタンの権勢は余地なく崩れてしまうでしょう。(74)

 各自が一月に一人ずつ伝道するその実績の基台の上で、天国の門が社会的に開かれるでしょう。これは間違いない原理原則として、至上命令として下すみ言です。死んでもこの基準を解決できなければ、行くべき道がありません。イエス様もこの問題に引っかかりました。先生も生涯を捧げてこの問題を解決してきました。これを解決しない以上、神様の心情の怨恨を解くべき道がありません。(75)

 今から先生が命令します。十日に一度ずつ自分の父母、兄弟に手紙を送りなさい。皆さんが社会で活動する三分の一の努力でも氏族復帰は可能です。氏族の基台を中心として十二弟子と七十二門徒を探し立てることが、天国をつくる基盤になります。それがなければ、社会を統率できません。世界的な基盤を立てようとすれば、百二十名を探し立ててください。先生はそれをしてきました。(76)

 皆さん、考えてみてください。死亡率が一パーセントだとすれば、一年に、百名のうち一人が死ぬのです。そして、三十六億のうち三千六百万名が、一年に死んでいくのです。三千六百万名が地獄に行きます。これは神様の立場から見れば、大きな損害です。サタンの立場から見れば、大きな勝利です。み旨の伝播が一年早ければ、三千六百万名が救われます。十年早ければ、三億六千万名が救われます。

 このように考えてみれば、全世界に原理を伝播することが、いかに急を要することかということが、自然に分かるでしょう。神様がそれをどれほど願っておられるか、毎日毎日生活の中で実感し、最善を尽くしてくれることを願います。(77)

 今皆さんは、サタンの讒訴を受けず自由なエデンの園でアダムとエバが育った、その立場を蕩減復帰すればいいです。言い換えれば、病気になり破れて穴があいたので、それを継ぎ合わせふさぐ条件だけ立てればいいというのです。

 そのためには、信仰の三人の息子・娘を立てなければなりません。そうすれば、家庭的に天の前に立つことができます。その次に、十二人を立てなければ、霊界と肉界を連結させられません。霊的な世界において数多くの先祖たちが絡み合っているのを、解放できないというのです。霊界と地上を解放できなくては、堕落した世界においての復帰の責任を果たし切れないのです。外的世界、内的世界を復帰しなければならないのに、この二つの世界の責任を完結できないというのです。

 それゆえ、必ず十二数を満たさなければなりません。それで地上にも、四方を中心として東西南北があり、十二数を中心として十二カ月があるのです。天地度数も同じです。天もそのようになっており、またそのように動いています。東西南北を代身した四大門があり、十二真珠門を代身した十二使徒がおり、二十四節気を代身した二十四長老がいます。このように天の運勢である天法や地上の運勢が、すべてぴったり合わなければなりません。この度数を合わせなくては、もし皆さんが天国に入っても、三人の息子・娘だけでは東側なら東側、一方向しか行けません。四季節のうち、春にだけいるのと同じです。その門のほかには往来ができません。これは何かというと、天国全体が自分のものにならないということであり、一方向性しかもてない立場なのです。

 イエス様が十二弟子を選んだのも、その四方性を経ていき、四方をすべて支配しなければならないからです。それで三年間イエス様は、十二人のふさがった壁を壊す役事をしました。彼らの心を全部一致させてあげて、完全に統一させる仕事をしたのです。(78)

 地上天国が完成されるときまで、三年半以上、七年期間が公式路程として連綿と連なるようになりました。ですから、結婚前三年と結婚して七年の公式路程を行かなければなりません。イエス様は三年路程で家庭を探し立て、七年路程を行こうとしました。公式的に、三年期間に三子女と十二子女を復帰して祝福し、七年路程を歩まなければならないというのが、原理的な観点です。イエス様は、七年間にかけて、イスラエルの国とユダヤ教が世界に向かって出発できる基台を立てられませんでした。これを私たちは一度に蕩減復帰しなければなりません。それが私たちに付与された使命なのです。

 その七年間には、一カ月に一人ずつ伝道して、八十四名を伝道しなければなりません。十二弟子と七十二門徒を中心として、氏族圏を形成しなければなりません。七十二長老は民族的指導者です。そうなれば、家族圏の三弟子と氏族圏の十二弟子を立てることができます。(79)

 イエス様を代身して、霊肉ともに実体基台を立てるために血と汗と涙を流し、家庭的に実体の十字架を負っても、その責任を遂行すべき使命が皆さんに残っています。ですから統一教会は、結婚した後にも家庭的十字架の道を行っているのです。イエス様は十字架で亡くなられた後復活し、十二弟子と七十二門徒を中心として、再び霊的復帰路程を出発しました。私たちが十字架にかかる前にその使命を果たさなければ、天国に行く道がなくなってしまいます。天国につながる橋がなくなってしまいます。それを再び完成させるための闘いをしなければならないのが、七年路程です。私たちはこの七年間、一カ月に一人ずつ伝道して、八十四名を伝道しなければなりません。これは原理的なことであって、適当につなぎ合わせたのではありません。(80)

 わが統一教会は父母に侍っています。兄弟ももっています。私たちは血肉をともに受け継いで生まれたものよりも、もっと近い兄弟姉妹にならなければなりません。私たちは国を超越して、超国家的心情基準を備えなければなりません。天国は国境を超越して成ります。ですから、超国家的心情基準をもてない人は、天国に入れません。天国を建設し得る人になれません。

 先生はそのような道を歩んできました。皆さんは今から、十二弟子を探し立ててください。そして、さらに七十二弟子を探し立ててください。そうでなければ、天国は築かれません。それが皆さんに与えられた使命です。(81)

 最初は、三名の子女を立てなければなりません。アダム家庭を復帰しなければならないので、八名が家庭編成をしなければなりません。その家庭を守るには、十二名の兄弟をもたなければなりません。ヤコブの十二子息も同様です。それが氏族の基盤になりますが、その氏族を拡大して民族の基盤にしなければなりません。その民族的基盤を指導し得る中心的な人物が七十二長老です。イエス様を中心として、それが成されたとするならば、イエス様は絶対に死ななかったでしょう。それが蕩減路程に残っています。先生もその公式的な道を歩んできました。三家庭と、一二家庭ずつ三時代を代表する三六家庭が現れるようになって、七二家庭、一二四家庭、四三〇家庭、七七七家庭、一八〇〇家庭を立てました。六数の三倍は十八であり、この祝福は、サタン圏が及ばない基準に到達したという条件の祝福です。皆さんは絶対的にこの道を行かなければなりません。(82)

 今から皆さんが伝道に出掛ける道には、迫害がないでしょう。誰だろうと、迫害する者は滅びるようになります。今からは、皆さんが蒔いたものは皆さんのものとして収穫されます。(83)

 世界人類は一つの兄弟です。神様は父母だということを考えるとき、神様の愛を中心として、世界人類は一つの兄弟です。だから、失った兄弟のために、父母の命を受けて兄弟を捜しに出掛けるのが、伝道の道です。それが信仰の道です。

 だから伝道するとき、人に出会えば、失った兄弟を捜すようにうれしがり愛することによって、父母の懐に再び帰ってくることができるというのです。失った父母を知らないので、それを教えてあげてうれしがらせなければならず、好きになるようにしなければなりません。彼らは兄弟であるにもかかわらず、そのことを知りません。教えてあげて、抱き合い痛哭し得るその立場でのみ、初めて兄弟を捜し出すことができるというのです。そのような心をもって伝道しなければなりません。夜を徹して伝道しなければなりません。

 そのような愛の因縁が連結されて、天国が築かれるというのです。神様が人間を捜すにおいて、切ない心をもっているように、そのような父母の心をもって伝道しなければなりません。

 自分の妻や夫よりも、失った人を愛しながら捜そうという人は、父母の心情を受け継いだ人です。だから祝福を受けて生きられなくても、一人の生命でも救ってあげることが貴いのです。それがもっと神様の祝福を受けるのです。なぜなら、その夫は死んで天国に行って会いますが、その兄弟は、救ってあげなければ会うことができないのです。兄弟が讒訴すれば、引っかかるというのです。夫婦の愛と父母の愛が普遍化された、そのような愛の圏が地上に築かれるとき、それが地上天国だということを知らなければなりません。(84)


7、霊界生活のための地上訓練


 良いことをしたとき、その人はアメリカでも歓迎され、ソ連でも歓迎されるでしょう。真の愛は、ワシントンでも歓迎され、モスクワでも歓迎されるというのです。

 人のために犠牲になる人は、世界のどこにいっても偉大な人として迎えられるようになるでしょう。また、地上世界で歓迎される人ならば、霊界に行っても歓迎されるようになるのです。これは真理なので、どこででも適用されるのです。

 このような原理を知っている先生は、皆さんに、隣人のために、祖国のために、世界人類のために、犠牲的に奉仕しなさいというのです。この道でのみ神様と霊界から歓迎され得るので、統一教会が生まれてから今まで、この一つの道を歩んできたのです。また、この道を行ってこそ救いに至るのを知っているので、皆さんに行くことを勧めてきたのです。

 地上に生きながら、為に生きる訓練をしてこそ、死んで霊界に行っても為に生きる生活が自動的に継続されるので、そのような訓練を反復させているのです。(85)

 アメリカ人の食生活はパンやチーズですが、霊界に行ったとき、ご飯にキムチやとうがらしみそだけ出てきたならば、どうしますか。皆さんは全くなじめない韓国式食生活ゆえに、霊界に行けば健康を害してしまうでしょう。それで統一教会では、皆さんがどんな環境に処するとしても、健康な生を持続できるように苦労をさせ、環境に適応できる適応力を養うための訓練をさせているのです。難関に出遭ったとき、自分がこのようなときに対備するため、勝って越えていき得る訓練を積んできたと、自信をもつことのできる人をつくる教育を実施しています。

 皆さんが伝道活動をし、家庭教会運動を実施し、経済活動をするのも、すべてこのような訓練を通してある困難に出遭ったとき、勝って越えていけるように習慣化するためなのです。(86)

 苦労の道は、先生が先頭に立って先に歩んできました。血と汗と涙に点綴された道を歩んできたのです。埠頭労働と土を掘る土方をはじめとして、あるときは罪人として追われ、刑務所でいばらの道を歩んできました。そういうときであればあるほど、神様の心情を体恤し、涙で祈祷して夜を明かしたりしたので、この地上においてなされている、どのようなこともできないことがなくなりました。あまねく渉猟したからです。それでどのような環境圏に処したとしても、たやすく適応できるようになったのです。(87)

 人はどのような環境に処しても、自分の主観を失わず、自分が主体になって対象を求め授受作用をすれば、できないことがないのです。酒場に行っても伝道の対象者を求め伝道することができるならば、酒場はもはや危険性が除去された場なのです。酒場でコカ・コーラを飲みながら、彼らと対話を続けることができるでしょう。酒場に行くと、必ず酒だけ飲まなければならないという考えは、危険な観念なのです。酒を飲んでこそ気分がよくなると考えるならば、その考えは間違ったものだといえます。

 私たちはある環境に処したとき、その環境で最善の方法が何であるかを考えなければなりません。環境が違うといってあきらめるならば、彼は失敗者になってしまうでしょう。労働者は、労働を通して仕事をする喜びとお金の価値を感じることができるでしょう。(88)













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第三節 信仰の三子女を通した家庭復帰

祝福家庭と理想天国

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第三節 信仰の三子女を通した家庭復帰


1、信仰の三子女


 信仰の子女とは一体何でしょうか。これは失ってしまった三名の天使長を意味します。アダム、エバは、三名の天使長が互いに協助する圏内に立てなかったために堕落しました。これを蕩減しなければなりません。ですから、三名の天使長に該当する三名の信仰の子女が一つとなって、アダムに生命を捧げる立場に立たなければなりません。皆さんは信仰の子女に対して、アダムとエバの立場に立ちます。三名の天使長の代身に立った信仰の子女は、その信仰の父母に対して生命を捧げても何の未練もない心情圏をつくらなければなりません。教育を通して、そのような関係をつくらなければなりません。

 神様が天使長を創造された目的は、彼らをしてアダムとエバが家庭をもつことのできる心情圏を確立する日まで、教育をさせ、世話をさせることでしたが、反対に問題を引き起こさせてしまいました。この事実がまさに堕落だったのです。ですから心情圏の復帰は、三名の天使長に等しい信仰の子女三人が一体となって、皆さんのために生命を捧げても惜しくないという立場に立つことによって成されるのです。そうすることによって、初めにアダムが三名の天使長を一致させられなかったその基準を、蕩減復帰した立場に立つようになるのです。(89)

 私たちには信仰の子女が絶対に必要です。アダムとエバの前には、三名の天使長がいました。アダムとエバは、この天使長を自分のために一生涯奉仕する僕の立場に立てられなければ、完成した神様の子女になることができませんでした。

 しかし天使長ルーシェルが、自分の存在位置を離脱し、アダムとエバを堕落させました。私たちはこれを蕩減復帰しなければなりません。信仰の子女三人は、平面的には三天使長の立場になるのです。これが完全に一つにならなければなりません。

 元来は、天使長が神様と一つになったところからアダムとエバが創造されたのです。天使長が先につくられ、神様と一つになってアダムとエバを創造したのです。私たちはその基準を復帰しなければなりません。ですから、信仰の子女を先に探し立てなければなりません。

 信仰の子女があらかじめ準備された基台の上に祝福を受け、息子・娘を生まなければならないのが原則です。(90)

 皆さんは三大天使長のような型を創造しなければなりません。神様が天使長をつくり、万物をつくった後に息子・娘をつくったのと同様に、アダムとエバが失った道を再創造する過程を経ていかなければなりません。信仰の三子女を立ててこそ、三天使長を復帰した条件になるのです。

 その天使長が生命を捧げ協助することのできる立場に立ってこそ、アダムが創造され得るというのです。天使長たちは、神様の前に使いと頌栄の対象として、協助者としてつくられたのです。ところが、アダムとエバが堕落することによって、天使世界と宇宙の物質を失ってしまいました。ですから、失ったものを復帰しなければならない、再創造しなければならないというのです。天使長とはサタンのような存在であり、カイン的立場にいる信仰の息子です。(91)

 信仰の子女三名を探し立てなければなりません。イエス様を中心として一体となるべき弟子が、イエス様を背信する立場に立ったので、これを復帰させる条件として、三名の信仰の子女を探し立てなければならないのです。そして、失った十二弟子、七十門徒を復帰しなければなりません。これが、私たちが蕩減路程で遂行しなければならない課題です。私たちは三名の信仰の子女を立て、彼らを中心として十二弟子、七十門徒、百二十門徒を立てなければなりません。これが、先生が今まで成してきた二十一年間の路程でした。(92)

 皆さんは信仰の三子女を探し立てなければなりません。信仰の三子女を探し立てたということは、三天使長と、アダムの三人の息子と、サタン世界のカイン型の兄さんを探し立てたという条件になるのです。旧約時代は民族時代、新約時代は国家時代、成約時代は世界時代です。旧約時代にはイスラエルの六十万大衆がカナン福地を見いださなければならず、新約時代にはイエス様が国家を中心として世界的カナン福地を探し立てなければならず、成約時代にはわが統一教会が世界圏内で天宙的カナン福地を探し立てなければなりません。このような意味で、三段階、三子女が必須的です。

 また、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、このように三代として表示し、第一アダム、第二アダム、第三アダムといい、また三名の天使長がいたように、信仰の子女三名を探し立てなければなりません。それでイエス様も三弟子を必要としました。わが統一教会も、三家庭を先に立てました。その基台の上で十二家庭をつくって初めて、四方に連結され、「私」がセンターに入っていくことができます。イエス様も十二弟子を中心として十二家庭をつくってこそ、イエス様の家庭が保護されるようになっていました。信仰の子女がどれほど重要なのか、分かりますか。

 また世界のカインを救わなくては、「私」が天の国に入れません。三時代、すなわち旧約時代、新約時代、成約時代を連結させるために、それは不可避なのです。三時代の代表者を探し立てた立場に立って、それが一つになるようにすることによってサタン世界の方向が変わり得るのです。(93)

 統一教会で最も警戒すべき言葉は、「伝道をするな」という言葉です。「伝道をしなくてもいい。信仰の子女がいなくてもいい」という言葉は、サタンが最も望む言葉だというのを知らなければなりません。(94)


2、八人の家族がいなければ復帰できない


 父の最高の願いをかなえてさしあげたという基準を立てようとすれば、蕩減条件を立てなければなりません。蕩減条件を立てるにも、条件だけを立てるのではなく、実体を立てなければなりません。父の怨恨が何ですか。アダムとエバを中心として、三人の息子と彼らの相対、すなわち八人の家族を失ったことです。ですから、その恨みを解いて差し上げようとすれば、三人の息子・娘を立てなければならないのです。三人の息子・娘を探し立てれば、男性、女性を合わして八人家族になるというのです。

 この八人家族を立てていくことが、孝行し、忠誠を尽くし得る第一の道です。この三人の息子・娘を立てなくては、神様に帰り得ないのです。この死線を越えなくてはならないのです。

 堕落が何かといえば、偽りの父母を中心として八人の家族を失ったことです。言い換えれば、悪の父母を中心としてカイン、アベル、セツと、彼らの相対まで合わせて、八人の家族を失ったのが堕落だというのです。ですから、八人の家族を再び探し立てなければなりません。死線を越えて立つためには、八人の家族を備えなければならないのです。(95)

 信仰の息子・娘を早く立ててください。女性は三人の娘、男性は三人の息子を立てなければなりません。元来は、伝道した人が自分の信仰の息子・娘の中で、仲間同士結婚させてあげなければならないのです。何の話か分かりますか。天下に残るべきものは祝福しかないのです。祝福しかありません。それも、先生がすべて立証するから可能なのです。(96)

 男性なりとも女性なりとも、三人以上伝道しなければなりません。すなわち、十二人の中から三弟子を選んで彼らを中心として家庭の基台を築こうとしたイエス様のように、皆さんもそのような内容を中心として、他人の子供ですが、自分の息子・娘のためにするよりも三倍以上の精誠を尽くし、彼らを祝福させ、彼らが生んだ息子・娘までも、福を受けられるように責任を果たさなければなりません。このような責任を果たせなくては、天の国に入れないという事実を、皆さんがはっきり知らなければなりません。(97)

 結婚は一人でするのではありません。信仰の父母は、自分が伝道した三人の息子・娘がいるならば、男性が伝道した三人の息子と、女性が伝道した三人の娘を、第一、第二、第三として、そのまま、そのとおりに結婚させなければなりません。そうして八人の家族を探し立てなければなりません。アダム家庭の八人家族を失ったので、この八人家族を探し立てられなければ、復帰の道に至れないのです。ノアのときも、八人家族になったとき審判しました。八人家族がいたので、掃き捨てることができたのです。八人家族がいなければ、復帰できないのです。

 イエス様も八人家族を立てるために、そのことをしたのです。三弟子を立てたのも、イスラエルを立てるのに八人家族が必要だったからです。イエス様の三弟子は、三時代を代表した天使長型です。言い換えれば、アダムが間違ったのを、イエス様個人が三時代にわたって一瞬に蕩減復帰するのです。霊的に失った三天使を、全部復帰するのです。(98)

 イエス様の三弟子も、イエス様に代わって死ぬことができなければなりません。実際は、天使長には子女がいません。しかし、人間が堕落することによって、天使長系統の子女の立場に立つようになりました。ですからその関係を否定し、神様の心情と連結させて、原点に復帰するための道を歩まなければなりません。(99)

 イエス様が誕生するとき、東方の博士三人がなぜ来ましたか。それは霊的世界の天使長の復帰型として来たのです。彼らは異邦の人として、イエス様とは何らの関係もありませんでした。そのような東方の博士三人が来て、黄金と乳香と没薬を捧げたのは、霊的サタン世界、すなわち天使長のすべてのものを捧げることを約束したのです。それによって、イエス様がアダム的な存在として出発したのです。

 ここでサタン側の代表者たちがすべてのものを捧げたので、天の側の代表者であるイスラエルの三大祭司長たちが屈服しなければなりませんでした。そうしたならば、イエス様は十字架で亡くなられなくてもよかったでしょう。しかし、そうできず、すべて失ったので、イエス様は十字架で亡くなられたのです。霊界から訪ねてきた天使長たちは、全部どこへ行ったのですか。国の代表である祭司長たちは、どこへ行ったのですか。すべて失ってしまったというのです。その次に、洗礼ヨハネを中心として、イエス様を証しなければならなかった新興宗教の代表者たちは、どこへ行ったのですか。彼らもすべて失ってしまいました。ヨセフ家庭も、最後の三弟子までもすべて失ったので、イエス様の行くべきところはどこだったでしょうか。どこにもなかったというのです。ですから、死ぬしかなかったのです。(100)


3、信仰の三子女を通した家庭編成


 三名の信仰の子女がいなければ、祝福をしてあげることができず、また受けることもできません。しかしそのような条件を立てられず、祝福を受け生活している人もいます。その人たちも早く三名の信仰の子女を立てなければなりません。祝福を受けた後にも、三名の天使長がその夫婦、その家庭を協助したがらなければなりません。自分個人のためには、三名の天使長格である信仰の子女が協助しましたが、家庭と夫婦のためには協助しなかったといえば、だめなのです。その協助の基台を築くために、三年という期間が必要なのです。

 このような方法で夫婦が一つになれば、信仰の子女がそれぞれ三名になるので、夫婦を合わせてみんなで八名になります。だから、天使長の立場にいる人々が、信仰の父母と完全に一つになったという条件が成立することによって、そこでアダム家庭の八人家族の立場に復帰されるようになります。互いに信仰の子女をもっている男女が組み合わされて、夫婦が相互に愛し合って一つになったという基準に立ち、私たちの内部で神様に逆らう要素を発見し得ないという立場に立って、初めて生活圏に入るようになれば、天使長の立場にいる三人が養子圏に入るようになります。

 堕落したアダム家庭の八人家族は、サタンの子女の立場の圏内に立つようになりました。ですから、堕落した人間が復帰されようとすれば、直接、神様の直系の子女の立場に入りえず、養子圏を通過しなければならないのです。養子圏では父母と一つになり、再び長成期完成級の基準から、七年間にわたって成長して上がっていかなければならないのです。

 皆さんはまだ完成基準には上がれていません。神様の直接主管圏内に上がろうとすれば、完成基準を越えなければならないというのが原理の教えです。今は、まだそのようになっていません。それを総合したのが長成期完成級の基準です。アダム家庭は長成期完成級で堕落しましたが、私たちはここを中心として七年間、完成基準を目標として上がっていかなければなりませんが、それが家庭編成のための七年間です。(101)

 アダム家庭の堕落によって、世界のすべてのものが堕落した結果となってしまったので、信仰の父母と一つになり、世界復帰を目標として生きていく家庭にならなければなりません。堕落により、アダム家庭の八人家族がサタンによって無原理圏に陥ったので、今、その反対の経路を通して信仰の父母と信仰の子女が一つになって生きていくことによって、サタンの子女の立場から神様の養子圏基準に上がるようになります。ですから、この八名が完全に一つとなって世界復帰のために犠牲の道を行かなければならないのです。

 サタンは周囲を犠牲にする道を行きながら堕落させましたが、私たちは自分自身を犠牲にしながら、この世を救うために実践しているのです。サタンはこの世を滅ぼすために、自分を中心として堕落させてきたので、私たちは自分自身を犠牲にさせながら、反対に、この世を救っていかなければならないのです。この原則は動きません。復帰された家庭を編成することによって、サタン世界の家庭と復帰された父母の家庭に分立されます。(102)


4、家庭復帰のための公式路程


 天の家庭を築こうとすれば、信仰の三人の息子・娘をもたなければなりません。そうして祝福を受けて、生まれる直系の息子・娘を、信仰の息子と娘たちが自分たちの生命を代身して腹中から侍り得る基盤を立てなくては、家庭の基盤を備えたということができないのです。これは先生が適当に言う話ではありません。天法がそのようになっているのです。

 それゆえ、イエス様も最後の死の場まで三弟子を抱いていこうとしましたが、その弟子たちが全部逃げてしまったのです。それでイエス様は、そこで昇天しなければならなかったのです。もし三弟子がイエス様と共に死んだとするならば、イエス様を復活させる前に三弟子を先に復活させたでしょう。そうなったとするならば、聖霊だけが地に来ればよかったでしょう。それで霊的な基盤が地上に築かれたならば、信徒たちがたくさんの祈祷をしなくても、霊界と直接、接することができるようになったでしょう。けれども、この地上に父母になり得る基準が一つもなくなってしまったので、父なるイエス様は天を代表して霊界に行かなければならず、母なる聖霊は地を象徴するので地に来なければなりません。

 そうして、父と母が分かれた立場にいるので、その子女になるのがどれほど難しいでしょうか。これはイエス様の三弟子が地上で勝利的な復帰の基台を立てられず、イエス様と生死を共にした条件を立てられなかったので、そのようになったのは確かです。これが法度なので、これからこの家庭を築かずには天国に入れないということを、統一教会員ならばみんな知るべきなのです。イエス様もそのために死に、先生もそのために二十一年間苦労し、神様は六千年間それを見いだすために、今まで役事されているのです。これは、これから原理を学ぶ人ならば、誰でも行かなければならない公式路程です。この公式路程には許しがありません。どんなに先生をよく知っているといっても、それはどうすることもできません。(103)

 皆さんは今、家庭復帰をしなければなりません。そのためには、信仰の三人の息子・娘を探し出さなければなりません。そうして、その息子・娘が四位基台を築き、「私」自身を中心として外的な信仰の四位基台を築いて、「私」自身の直系の息子・娘に完全に侍りうる基台を立てなければなりません。この信仰の三人の息子・娘は何かというと、霊界における三天使長に該当します。アダムとエバがつくられるときから三天使長が侍っていたのと同様の基準を、祝福を受けて生まれる子女に腹中から侍った基準を、復帰しなければなりません。これが何かというと、アダムが創造される前から創造されて成人になって成婚式をするときまで、天使長が協助すべきその基準を、皆さんがこの地上で蕩減復帰するのです。それゆえに、信仰の三子女は絶対必要です。(104)

 時代で見ると、アダム時代、イエス時代、再臨主時代、このようになりますが、ここでアダムは一番目の息子であり、イエスは二番目の息子であり、再臨主は三番目の息子です。この三時代において復帰の役事を誰が反対したかといえば、カインがいつもアベルを反対してきました。カイン型の復帰をしなければならないのですが、(そのためには)三大天使長がまず復帰されなければなりません。そうして、皆さんが祝福を受けて生む赤ん坊を、腹中から完全に侍り得る基盤をつくらなくては、皆さんの後孫が天の民になれません。これが天法です。

 イエス様もこれを成せなかったので死んだのです。そうでなく、皆さんが考えるように簡単ならば、なぜ死んだでしょうか。そのとき、何、花嫁たちがいなくて死んだでしょうか。このような天法のプログラムに合わせなくてはならないからです。それが天国に入る公式なので、公式路程を踏まなくては絶対に天国に入れません。天国は個人的に入るのではなく、家庭的に入るのです。(105)

 誰でも、サタン世界を離れなくては神様の国に入籍できません。それで真の父母、真の兄弟を探して出会わなければならないのです。統一教会は、すべての不純な愛をきれいに清算しなければならず、エバが一代に三つの愛を失ったので、一代に三つの愛を復帰しなければなりません。父母と兄弟が喜ぶ立場で夫婦にならなければなりません。

 皆さんが家庭を築こうとすれば、三人を伝道しなければなりません。伝道された三人は、三天使長です。父母、兄弟、夫婦、天使まで備えてこそ、家庭が出発できます。偽りの愛を行えば、原罪が根を下ろします。したがって、二度と罪悪に染まるなというのです。理想的家庭から理想的氏族が編成されていくのです。皆さんは真の家庭、理想的家庭を築くようにお願いします。(106)


5、信仰の子女と直系子女の関係


 皆さんは、入教する以前にはサタン世界にいました。そうして、神様のみ旨を知るようになって入教しました。皆さんも、本来は生まれながらにして一つの絶対基台をもつべきでした。堕落しなかったアダムとエバの立場に立っていなければなりませんでした。しかし、堕落した血統をもって生まれたので、本来のその基準を復帰しようとすれば、神様のみ言を信じ従わなければならないのです。皆さんは、統一教会に伝道されることによってカイン・アベルの基台をつくるようになりました。生まれる前からそのような基台をつくったのではないので、蕩減条件を立てなければなりません。

 蕩減条件をどのように立てるかといえば、祝福家庭の信仰の子女たちは、信仰の父母の子女たちに希望の相対として侍らなければなりません。さらに彼らの赤ん坊が生まれるのを心待ちにし、妊娠をすれば腹の中(にいるうち)から侍らなければなりません。これを確実にしなければ、復帰の道は行けません。信仰の子女が「私」自身の子女に腹の中から侍ることをもって、一つになったという立場に立たなければ、天使長がアダムと一つになったという立場に立てません。(107)

 皆さんは祝福を受けて赤ん坊を生むようになります。祝福の赤ん坊を懐妊するときには、三人の信仰の子女が、「私」自身の腹の中にいる祝福の子女と完全に一つになる基準を立てなければなりません。そのようにして、祝福を受けた父母から生まれた赤ん坊は、二十一歳以上になって結婚するまで、堕落しないように信仰の三子女が保護し、守らなければなりません。それは天使長が、アダムとエバが成長し理想的な夫婦になるときまで保護し、守ってあげるべき使命をもったのと同じです。祝福の赤ん坊は自分の信仰の父母が生んだので、その赤ん坊は神様からつくられたアダムとエバと同じなのです。(108)

 祝福を受ければ、子女を生むようになります。その前にまた、信仰の子女がいます。イエス様と同じ外的な実体の立場が信仰の子女です。直系子女は再臨した実体の子女と同じ立場です。(109)

 信仰の子女は、人類が歴史的に再臨主が顕現されるのを願いにしてきたように、信仰の父母を通して真の子女が生まれるのを願わなければならないのです。すなわち、信仰の子女はひたすら信仰の父母を通して真の子女が生まれるのを待望しなければなりません。そして、真の子女が腹中にいるときから、尊敬しなければなりません。天使長がアダムとエバに対して貴く考え、すべてのことを相談して協助するようになっているように、信仰の父母が真の子女を懐妊するそのときからその子女を愛し、自分の生命よりも貴く思わなければなりません。そして、その子女が生まれる日を何よりも貴い希望をもって待たなければなりません。そして、生まれたときには、自分の財産をすべて捧げなければ、天使長基準の所有権を復帰する道が生まれません。(110)

 信仰の父母の腹中に懐妊された子供が、宇宙と取り換えることができないほどの喜びと希望をもって生まれたとき、信仰の子女は自分のすべての成功を成し遂げた喜びをもって迎えなければなりません。そして、その子供を結婚させて定着させることをもって、天使長がアダムとカインとアベルを愛せなかったすべてのことを蕩減復帰した基準を立ててこそ、サタンはその完成基準を中心として完全に分立されます。そのようにしなければ、サタンをもとに立ち戻らせるべき道がないのです。皆さんはいつも蕩減復帰について話をしますが、いつ蕩減復帰を完遂しましたか。それは祝福家庭を中心として、このように徹底して分別する原理があるので可能なのです。ですから、信仰の子女は絶対に必要です。(111)

 独裁は最善に通じ、永遠にも通じます。絶対というのは最高の独裁です。独裁を用いても、平地をつくらなければなりません。それゆえ、家庭の使命はとてつもないのです。皆さんが家庭で信仰の三人の息子・娘を立て、腹中にいる子供から整頓しなければなりません。「腹中にいる赤ちゃん! どうぞ早く誕生してくださいませ」と言い得る信仰の息子・娘をもたなければならないのです。そうでなければ、完全蕩減にならないのです。(112)

 信仰の三子女は、三天使長の復帰型です。三天使がアダムとエバの創造時代から敬い協助したように、信仰の子女は、信仰の父母の祝福実体の子女を腹中から侍り育て、結婚までさせて初めて、自分たちが復帰され得る基準を立てることができるのです。(113)

 カイン的な息子・娘が探し立てられ、彼らが、(信仰の父母の)実体の息子・娘を生まれるときから敬い育て、後には結婚させてあげられなければなりません。(114)

 イエス様が三弟子を抱え、死んでも生きても同苦同行されたのも、「信仰の子女」という原則があるからです。その原則を私たちが今まではっきり理解できなかったので、サタンがこの世界を蹂躙し、自分の思いどおりにすべてを卑賎にしておきました。アダムとエバを愛さなかった天使長、アダムとエバが懐妊するその子女を愛さなかった天使長をサタンといいます。(115)

 イエス様が聖婚式をもったなら、子女が生まれるでしょう。そうなれば十二弟子の家庭は、生まれたイエス様の子女たちと完全に一つにならなければなりません。(116)

 天使長圏を復帰しようとすれば、信仰の父母であるアダムとエバを愛するのと同時に、腹中に懐妊された子供を愛した基準を通して、その子供が生まれ再びその子供たちが結婚する日まで責任をもたなければならないのが、原理原則の道です。これを先生の家庭で見るならば、先生の子女を先生自身が直接干渉して育てるようになっていません。三家庭が責任を果たさなければならなかったのです。(117)


6、復帰された父母の立場に立とうとすれば


 今は霊界のキリスト教と地上のキリスト教が一つになっていません。霊的キリスト教圏、すなわち楽園と、地上のキリスト教圏が一つにならなければなりません。これを再び一つにすべき使命が皆さんにあります。

 自分の直系の子女と信仰の子女は、原理的に密接な関係を結んでいます。自分の子女は実体圏を意味し、アベルの立場です。信仰の子女は霊的象徴であると同時に、カインの立場です。それは天使長圏にいることを意味します。アベルというのは、アダムの立場では地上圏を意味するのです。(118)

 地上と霊界に分かれたのを一つにしようとすれば、皆さんの信仰の子女と直系の子女が完全に一つにならなければなりません。それがだめならば、霊界のキリスト教圏と地上のキリスト教圏が絶対に一つになり得ません。カインとアベルが一つになってこそ、理想的な父母が生まれるようになります。カインとアベルが一つになれなければ、父母復帰は成され得ません。

 地上で蕩減の条件をもって信仰の子女と直系の子女が一つになれば、堕落する前の天使長とアダムが一つになった立場になります。そのような立場に立てば、神様からいつも愛を受けるようになります。信仰の子女と、自分が祝福を受けて生んだ直系の子女が完全に一つになれば、神様の理想の中に立てられた真の父母の位置が、初めて復帰されます。(119)

 統一教会食口の皆さんは、祝福を受けるために三名の信仰の子女を探し立てなければなりません。信仰の三子女は、信仰の父母が祝福を受け赤ん坊を懐妊すれば、その赤ん坊が腹中にいるときからよく侍らなければなりません。これはアダムを創造するとき三天使が協助し、侍るのと同じです。そのような基台を蕩減復帰しなければ、完成基準の立場に立った家庭が生まれません。(120)

 根本的な復帰は、祝福を受けて生んだ赤ん坊を通して成されていかなければなりません。そうしようとすれば、三人の信仰の子女がおなかの中から祝福の赤ん坊に絶対的に侍り、その子が生まれれば、結婚するまで精誠を尽くしてすべてのことを協助しうる伝統を立てなければ、完全復帰は成され得ません。この復帰の道を先生も行かなければならず、皆さんもすべて行かなければならないのです。(121)

 アダムとエバを天使長が堕落させたのが神様の恨みです。祝福の赤ん坊に侍らなくては、天使長の立場に立っている信仰の三子女が行き得る復帰の道が生まれません。祝福を受けた信仰の父母と、信仰の三子女は、祝福の赤ん坊を中心として侍る因縁を結ばなければなりません。祝福の赤ん坊を中心として初めて、父母も復帰された父母の立場に立つことができます。結局、堕落したアダムとエバがアベルによって復帰されるように、祝福を受けた父母も二世たちによって完成されるのです。ですから、信仰の子女がないまま、自分の赤ん坊を懐妊してはならないという事実を知らなければなりません。信仰の子女がいないまま、祝福の赤ん坊を愛することもできず、救いを受けることもできないというのです。(122)

 皆さんは祝福を受ける前に、必ず三人の信仰の子女を探し立てなければなりません。それは自分を中心として見ると、メシヤを迎えるぐらい大きな問題です。皆さんが神様から愛を受けた立場に立つためには、アベルの立場に立つのです。アベルという立場は、アダムを代身した立場なので、その前には三人の天使長がいなければなりません。三天使がアダムに完全に服従する基台が立てられてこそ、堕落せず完成したアダムの立場に復帰され得ます。しかし、祝福を受けたといっても、信仰の三子女がなかったり、三天使がアダムを主管する立場になるならば、祝福を受けたと言いますが、蕩減復帰は絶対に成され得ないのです。(123)


7、信仰の父母の使命と愛の公式


 サタン世界で三人のカイン的な存在を探し、信仰の子女として立てなければなりません。信仰の子女は、自分の生命を懸けて奉仕し得る人でなければなりません。アダムが完成するときまで、命を懸けて身辺を保護してくれる天使長の立場に立てなければなりません。堕落した世界で三人を探し、復帰された勝利的カインの立場に立てなければなりません。

 イエス様が十字架に釘打たれて死ななければならない環境に処しているとき、逃げてしまう者になってはなりません。死の道を行くイエス様を守らなければなりません。イエス様に先立って、死を覚悟して立ち上がり、自分が代身して行くと言わなければなりません。そのような人になることができなければ、完全な勝利を収めた、三天使の立場を復帰した信仰の子女になり得ません。信仰の子女をして、絶対的な信仰をもつように育てるのは、自分が生んだ実の子供を育てるよりも三倍、あるいは七倍以上、一層難しいということと銘記すべきでしょう。(124)

 人類の罪悪歴史は、サタンになった天使長から始まりました。罪悪の歴史を復帰するためには、堕落した天使長を先に復帰しなければなりません。復帰された天使長の立場である信仰の子女を愛し、自分の方に帰ってくるようにするのです。それで先に信仰の子女を愛し、その後に自分の子女を愛することによって、父母の立場に復帰されるのです。(125)

 愛をサタンに奪われたので、サタンの愛の圏から愛を奪い取ってこなければなりません。本来の愛をサタンが奪い取っていったので、これを天の側で取り戻してこなければならないというのです。三名の信仰の子女を探し立てて、彼らが天使長の立場で絶対的に服従するようにしなければなりません。そして、自分が神様と同じ立場で彼らを絶対的に愛したという立場に立たなければならないのです。偽りの愛によって真の愛を失い堕落したので、それ以上の心からの愛を投入しなければなりません。(126)

 この世の父母が自分の子供を愛する以上に信仰の子女を愛さなければ、彼らを復帰できません。愛によって引かれていった人は、愛でもって引っ張ってこなければならないのです。そうして勝利を収めた愛の基準の上に立てられた三名の信仰の子女を基盤として、自分の子供を愛することができるようになるのです。これは愛の公式なのです。

 先生もそのような生活をずっとしてきました。その公式を通さなければ、完成基盤は生まれません。それゆえ、信仰の子女を完全に立てられなかったときには、いくらかわいい自分の子供がいるといっても、自分の家で一緒に暮らすことができないのです。(127)

 信仰の子女を育てるにおいては、この世の父母が自分の子供を愛するよりも数倍以上愛さなければなりません。信仰の子女を愛さない者は、自分の子供を愛すべき資格がありません。それは復帰の道であるので、誰もどうしようもありません。(128)

 カイン的な息子・娘を育てるためには、皆さんがご飯に飢えてもご飯を食べさせ、夜を徹してもみ言を伝えなければなりません。先生が今まで皆さんに対して与えたように、皆さんも彼らのためにそのようにするのです。(129)

 祝福を受けた家庭は息子・娘を生んだといって、愛してはならないのです。愛せないようになっています。皆さんも先生と同様の立場なので、信仰の三人の息子・娘を立ててアダム家庭の基準を復帰できずに、自分の息子・娘を愛してはならないのです。祝福家庭も、先生がこの道を出発したときと同様の立場だというのです。それゆえ、皆さんも信仰の息子・娘を早く復帰しなければならないのです。(130)

 皆さんの腹中にいる赤ん坊は三時代を経ますが、カイン的な三名の信仰の子女を探し立て、彼らが腹中から赤ん坊に屈服できるようにしなければなりません。そうしなくては、自分の子女を愛することができません。すなわち、エデンの園のアダムとエバが腹中にいるときから天使長が侍り、僕の役をしたのと同様に、皆さんはカイン格の三名の信仰の子女を立てて、皆さんの子女に腹中から侍らせなければなりません。家庭が行く道にこのような事情と内容があります。(131)

 自分と血縁的に近い人たちを先に愛してはならないのです。それよりも反対する人、サタン側に属した人、カイン的な人を、先に、自分の父母兄弟以上に愛する基準を立てなければならないのです。これが原理の道なので、そのような道を歩んできた統一教会は大きく発展しているのです。自分の実の父母、兄弟以上に愛し自然屈服させなければ、蕩減復帰は成され得ません。ですから、カインがいなければ、アベル自身の救いも成され得ないというのです。

 自分の実の子供以上の心情で、自分に孝行し、精誠を尽くしてくれる人をつくらなければ、蕩減復帰にならないので、そのような立場を立てるということがどれほど難しいことでしょうか。食べることも忘れ、眠ることも忘れるほどにカインを愛さなければ、彼らは心情的に屈服しません。先生はそのような環境をずっと広げて、勝利圏をつくっているということを知らなければなりません。(132)

 神様の立場で見るならば、蕩減復帰のためにひとり子であるイエス様を地上に送りましたが、イエス様と一緒に死ぬことのできる信仰の子女を探し立てられなかったので、彼を十字架に差し出すほかなかったのです。ですから、自分の子供のために犠牲になり得る基台を立てなくては、自分の子供を愛する道が生まれないということを知らなければなりません。信仰の子女がいなければ、摂理の完成も、自分の救いも成し得ないというのです。(133)













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第六章 ご父母様の聖婚と祝福家庭

祝福家庭と理想天国

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第六章 ご父母様の聖婚と祝福家庭


  

第一節 ご父母様の聖婚と七年路程

  

第二節 祝福家庭に対する摂理的意義

  

第三節 祝福家庭の価値と使命

  

第四節 国際祝福家庭の使命



第一節 ご父母様の聖婚と七年路程


1、患難と迫害の最高峰になった聖婚式


 一九六〇年にあった先生の聖婚式の背景には、アダム以後イエス様のときまでの四千年期間と、イエス様から今日に至るまでの二千年という歴史過程にあったすべての内容を、蕩減条件を立てて解決しなければならない内容がありました。その行事は世界的であり、天宙的な大きな意味を備えているにもかかわらず、現実的には、わずかな人々によって成されました。

 それを準備するための期間だった一九五三年から一九六〇年までは、想像を絶する迫害の時期でした、その期間には、少なくとも三百六十万名を超す人が反対し、三つ以上の教派と国家が迫害を加えてきました。そのような状況の中で、蕩減条件を立てて勝利の旗を立てたのが、一九六〇年にあった先生の聖婚式でした。その日が統一教会の運命を決定した最初の日でした。

 統一教会の聖婚式は、地上において永遠に記念すべき世界的、天宙的大事件です。世界的に解決すべき縦的な蕩減条件を横的にこの地上で解決する実体として、霊肉ともに勝利の基準を成した日です。(1)

 先生を中心として再創造の役事が起こるようになりました。個人的なヤコブの立場から出発し、闘って勝利した家庭基準が現れなければなりません。それで、解放後十四年目の一九六〇年に家庭の出発がなされたのです。言い換えれば、イエス様が失敗したのを復帰しなければならないので、長成数に該当する十四年という期間を越えなければならないという結論が出てきます。解放後の一九六〇年は、歴史的な年です。ヤコブも十四年目に家庭を完全に捜し出しました。同じことです。だから、十四年後に家庭基盤を固めたのです。(2)

 先生が出発しようとした三年路程が失敗に帰したので、それを収拾するために満十四年を通じて、一九六〇年度に初めて聖婚の日ももつようになったのです。そのときに、初めてこの地上に神様が願われる家庭が生まれたのです。そのときは、ちょうどイエス様が十字架で亡くなられたのと同様に、キリスト教と政府が一つになって統一教会をなくそうとしたのです。先生が聖婚式場に出ていく前日まで、警察署に呼ばれていって調書を作成し、警察と闘わなければなりませんでした。イエス様の十二弟子が不信したのと同様に、統一教会をよく信じていた十二弟子のような人々までも反対をしました。統一教会側であった人も反対し、キリスト教も反対し、国も反対しました。ユダヤの国とユダヤ教団とイスカリオテのユダが一つになってイエス様を殺したのと同様の運命に追い込まれたのです。

 一九六〇年四月が、患難と迫害の最高峰でした。もう一歩行くか、行けないか、ここで新しく出発するか、できないか、という境界線に立っていたのです。そのような状況で歴史的な新しい事を成就させたということは、神様に最高の喜びと栄光を捧げ奉った結果になるのです。イエス様が語られた歴史的な花嫁の日を迎えたのです。これが聖婚式です。

 ここから神様を中心として環境を復帰して、急進的な発展をはかり始めました。イエス様は新婦を探し立てられず亡くなられましたが、今、新婦を探し立てることによって、破り捨てられたすべてのものを収拾することができるようになり、本格的に復帰摂理が成されるようになったのです。(3)

 先生の聖婚式を中心とした統一教会の祝福行事は、既成教会をはじめとしたサタン世界から迫害の対象になりました。

 イエス様は、ユダヤ民族とユダヤ教団から追われながらも、祝福の秩序を立てなければなりませんでした。しかしイエス様は、十字架に肉身を出すことによって、そのような祝福の秩序を立てられませんでした。イエス様が立てられなかった祝福の秩序を、先生が立てることによって神様のみ旨を復帰していくようになるや否や、サタンは自分のすべての勢力を総動員して反対し始めました。

 聖婚式をもつ前まで、サタンのすべての勢力は、反対する投書を通して行事を阻止しようとしました。既成教会を中心としてすべての民族的な勢力と国家的な勢力が反対する中で、聖婚式が始まりました。聖婚式は祝祭や慶事ではなく、サタンとの天下分け目の闘いでした。聖婚式が失敗するか、成功するかによって、サタンと神様の勝利圏が交差するようになっているので、緊張感が漂う中でやり遂げられたのです。善悪の気流が交差する聖婚式をもつことによって、神様に栄光を帰することができるようになりました。(4)

 イエス様は愛の家庭と愛の世界を主張されました。ところで、先生の時代に来て初めて、神様の愛を中心とした心情的歴史時代に向かって出発するようになったというのは驚くべき事実です。内的な摂理が外的に展開され、ここから出発を見るようになったのです。これはアダムとエバが祝福を受けることによって、横的な世界が展開されるのと同じです。(5)

 メシヤが来られて迎える新婦は、個人とはいえ個人ではありません。全世界を代表した新婦として中心点で出会うのです。ですから、サタン側は国家の主権を総動員して妨害するのです。メシヤと新婦が出会い、中心を握る日には、サタン側のカイン世界は完全に壊れるので、サタン世界は主権を総動員し、力を総動員してメシヤの家庭を壊そうとするのです。

 宗教も、全部が一つになってメシヤの家庭を支持しなければ、サタン側に移っていきます。支持せず黙っていても、サタン側に移っていきます。ですから、すべての宗教の中心宗教であるキリスト教が支持できなければ、それによって全体の宗教と全体の国家がサタン側に帰するので、サタン側はキリスト教がメシヤを支持できないように、総攻撃をするようになります。

 ですから、メシヤと新婦は攻撃を受ける立場で、全国家が反対する立場で出会うのです。位置を確立して挙げる聖婚式ではありません。歴史にない闘いの場で位置を確立しなければならないのです。先生が一九六〇年度にそのような闘いの渦中で聖婚式を挙げたのを知らなければなりません。(6)

 複雑な蕩減路程を通過し、今まで歴史になかった望ましい夫婦が誕生しました。数千年の間、推し量ることのできない多くの死の境地を克服し、サタンとの息詰まる接戦の末に、初めて神様が願う理想相対が成立しました。長い歴史を通して願ってきた真の父母を、神様がこの地上に探し立てられたのです。そこから、神様の心からの愛によって、尊厳で称賛し得る実体基準としての四位基台が出発するようになるのです。(7)


2、三弟子を先に探し立てたご父母様の聖婚式


 イエス様には三弟子が必ず必要でした。アダムとエバには三名の天使長がいました。ところが、彼らは互いに、アダムとエバに一体になり侍ることができませんでした。その結果として堕落世界が築かれたので、完成された父母の立場に立つためには、完全に服従し得る天使長的な三弟子がいなければならないのです。そうでなければ、サタンを地上から追い出すことができません。霊界の三天使長を象徴し、堕落圏内の三時代(旧約時代、新約時代、成約時代)を通過しながら、アベルに従順屈服しないカインの立場を完全に蕩減する人物が必要です。この三人が、旧約、新約、成約に連結されてきた縦的な歴史を一時に横的に蕩減復帰するために来られた再臨主に、完全に従順屈服しなければなりません。(8)

 先生が聖婚式をもつためには、イエス様に反逆した三名の弟子を復帰して立てなければなりませんでした。

 聖婚式のもう一つの目的は、アダム家庭を蕩減する条件を立てるところにあります。アダムとエバは、夫婦関係で堕落しました。堕落は夫婦を通して成されたものなので、復帰は一人ではできません。男性一人では復帰をすることができません。男性一人では救いが完成されません。女性一人でも天国に行けません。したがって、二人で解決していかなければならないのです。堕落したアダムとエバの立場を復帰し、真の父母の基準をこの地上に立てなければなりません。そうするためには、三天使長のような人物、すなわち三弟子を立てて、彼らを中心として問題を解決していかなければならないのです。(9)

 アダムの代身はイエス様であり、イエス様の代身は再臨主です。そのアベルに従う三名の信仰の子女をもたなければ、真の父母の立場に上がれないようになっています。自分の生死の境を越えて立ち、迫害の真っただ中でもついていき得る孝子になりきれる三人の弟子をもたなければなりません。先生がそのような三弟子を探し立てたのは、一九六〇年四月でした。

 その基台の上で家庭圏を成していかなければならないのですが、ヤコブの家庭のような十二名の子女を基盤にしなければなりません。三名の弟子、三名の息子を中心として、徐々にそのような基準を立てていかなければならないのです。

 アダム家庭の三人の息子、すなわちカイン、アベル、セツの復活体として、相対基準を築き、その約婚(三弟子の約婚)の立場を越えて実体的に父母の立場を決定したのが、一九六〇年の聖婚式です。この聖婚式は、アダム家庭の三人の息子が父母と一体となれず神様の恨みとして残されてきたものを、歴史的に蕩減復帰した重要な行事です。歴史始まって以来初めて神様を中心としたこの聖婚式が、一九六〇年四月韓国で挙行されたということは、世界的な事件であり、この時から新しい歴史の運勢が回り始めたといえます。(10)

 一九六〇年、長成期完成級に三子女を立てました。三子女はペテロ、ヨハネ、ヤコブをも象徴します。(11)

 一九六〇年、先生の聖婚式をもつ前に三六家庭の中で三家庭をまず約婚させ、先生の聖婚式を挙げるや否や三家庭を祝福しました。三家庭の祝福は、イエス様を中心としてペテロ、ヤコブ、ヨハネが一度に神様の理想圏に立ったという条件を立てるためのものでした。それによって、サタンが侵犯しても分立されない勝利的基盤が立てられるようになったのです。(12)

 聖婚式の前に三家庭を立てるのは、イエス様の三弟子が死なずに生きて新郎新婦の理想を立てる立場として、平面的に勝利的基盤を構築する意味があったのです。それは結局、イエス様が死なずに生きて勝利を成していく立場に立つようになったことをも意味します。また、三家庭は、人類歴史のすべての家庭を蕩減する中心家庭になるのです。(13)

 ご父母様を中心として三つの家庭を祝福するので、八人家族になります。この三つの家庭がアダム、ノア、アブラハムを代表した家庭であり、カイン型を復帰した家庭です。ここから直系の子女が出てこなければなりません。またこの三つの家庭は、イエス様の時代に反対した弟子を代身し、再臨時代の子女として立てられたカイン型の人物です。だから、再臨主に侍ることによって、復帰した天使長の立場に立たなければなりません。ですから、三つの家庭は天使長を復帰した型の家庭になります。(14)


3、父母が責任をもち開拓する時代


 一九六〇年は、統一教会が堕落したアダムとエバの立場、すなわち長成期完成級に上がった年です。その基準を中心として完成期まで上がろうとすれば、七年の期間が必要です。それが第一次七年路程です。完成基準に上がり立てば、神様の直接主管圏内に入るようになります。直接主管圏というのは、神様が私たちの心情と生活圏を直接主管される段階をいいます。(15)

 父母が責任をもって開拓する路程が、第一次七年路程です。先生が、先生の家庭に対して讒訴し得るすべての内外の基準を整理して、家庭を中心として発展しても、心情的な面でサタンが讒訴できないように、完全に決定しなければならない期間が七年路程期間なのです。この期間には、先生とお母様が完全に一つになって世界人類を代表し、分かれた複雑な問題を心情的に総合し得なければなりません。世界をつなぐ心情の土台の上に立たなければならないので、そのようなことをしてきたのです。先生はこの期間にイエス様とイエス様の家庭とイエス様の氏族が行くことのできる道を蕩減復帰してきたのです。その基台の上で神様を中心とした一つの氏族圏を世界的に連結させるために、合同結婚式である祝福行事を開催してきたのです。

 それで、一九七〇年までに国家基準を越えて世界基準を成就させるようになったのです。一九六七年までに国家基準を完全に勝利し、一九七〇年度には世界的な基準まで連結させたのです。言い換えれば、祝福を通し勝利したその伝統に、世界の氏族が従っていき得る土台を立てたというのです。(16)

 統一教会では、堕落しない父母を真の父母といいます。ところが、アダムとエバが真の父母になれず、堕落した父母になることによって、人類には六千年間、闘いの蕩減歴史が残されたのです。それは、父母が誤ったからです。

 その責任は、誰がもたなければならないでしょうか。子供に譲るのではなく、父母がもたなければならないというのです。父母が誤ることによって、個人、家庭、氏族、民族、国家、世界まで讒訴され得る基盤となりました。これを全部父母が蕩減条件を立てて、断ち切っておかなければならないのです。これを断ち切っておく期間が、第一次七年路程期間である一九六七年の終わりまででした。

 そうして、第二次七年路程に入ってからは、皆さんの前にサタンが讒訴し得る道がふさがってしまったのです。それで皆さんは、無事通過圏内に入ってきているのです。(17)

 第一次七年路程は、誰が行かなければならないでしょうか。父母が行かなければなりません。アダムとエバが長成期完成級で堕落したので、父母がその道を行かなければならないのですが、誰を中心として行かなければならないでしょうか。男性なら男性を、女性なら女性を中心として行くのではなく、完全に神様を中心として行かなければならないのです。どんなにここで祝福家庭の形態を備えても、その家庭の形態は、一人の男性、一人の女性を主とするものではなく、神様を中心としたものでなければなりません。もしみ旨と食い違うようになるときは、互いがどんなに近いといっても、その近い要素を除去し、越えて立ち得る立場に立たなければなりません。この道は、女性的事情や男性的事情を互いが提示して、それを公正な立場で通過させ、行くことのできる道ではありません。完全に天の側に立って行かなければならない道です。

 一人の男性が主体になっていれば、女性は彼の前に絶対的に服従しなければなりません。ここでは男性と女性を中心として、カインとアベルの立場と同じ内容が生じるので、男性がアベル的立場に立てば、カイン的立場である女性は、彼の前に絶対的に服従しなければなりません。ここに異議があってはなりません。異議があれば、それだけ支障が生じてくるのです。神様はこのような役事を今までしてきています。

 先生が経てきた七年路程も、このような過程だったのです。このような過程を経て、初めて実体的な勝利の条件を立てたのです。この七年路程を蕩減条件を中心として経なければならないので、この期間、先生は国家を中心として数多くの民族と対抗し、闘ってきました。また数多くの教団を中心として闘ってきました。

 ここで勝利の条件を決定し、彼らを屈服させた土台の上に父母の基準を決定しなければなりません。そうした後に、神の日を宣布することができます。(18)

 七年路程を経ていくには、アダムが主体になったのと同様に、お母様は必ず先生を中心として完全に一つにならなければなりません。先生の前に絶対的に服従しなければならないのです。ここには異議があり得ません。ところで、女性なら女性としての感情もあるでしょうし、家庭においてはお母さんの立場で生じるたくさんの事情もあるでしょう。しかし、その事情は二次、三次的な問題であり、一次的な問題になり得ません。このように先生を中心として一つになるにおいて、一次的な問題には、女性の情緒的な問題などのいろいろ複雑な内容がかかっています。

 これを打開するために、先生が七年間闘ってこの峠を越えてきました。その間、先生は教会のために仕事をしませんでした。皆さんは民族のために外的に闘ってきていますが、その背後の根を造成するのがこの基準です。この基準を決定しなくては、どんなに民族的な勝利の土台、国家的な勝利の土台を立てたといっても、その勝利の土台はそのまま残され得ません。ですから、問題はどこにあるでしょうか。真の父母の土台にあるのです。(19)

 イエス様は自分の親戚と自分の兄弟と父母まで捨てていきながら、この世を救うために生涯を捧げました。それで先生は、七年路程期間に自分の親戚と氏族に対して伝道をしてはならないのです。そのときは、イエス様が父母や兄弟の前に、神様のみ旨どおりに行う者が私の父であり私の兄弟だと言った、そのような心情をもって、出て闘う時です。(20)

 先生の七年路程期間においては、先生の一族が以北で多くの犠牲の代価を支払いました。イエス様の家族が責任を果たせなかったのを蕩減すべき歴史的な内容があったので、サタンによって死の道に引っ張られていくこともあるでしょうし、惨めに踏みにじられることにもぶつからなければならないということを知っていました。

 私が平壌から出てくるとき、わずか一時間ほど行けば両親に会うことができましたが、駆けつけることができませんでした。両親が死の道を行っても、かかわることのできない道、他の氏族を探していくべき運命の道を出発し、南韓に下ってくるようになったのです。誰よりも私を愛したお母さんと、誰よりも私を愛したそのお兄さん、お姉さんたちが、共産治下で犠牲になっていったと見ています。私が愛する家族を捨て、血族を捨て、出会おうと言った人々が皆さんです。(21)


4、ご父母様の家庭的十字架路程


 一九六七年までは、先生の家庭を中心とした摂理が別にあります。この法度の中では、神様も先生もどうすることもできません。最も困難なとき、最も信じ得る環境をつくらなければなりません。(22)

 六千年の歴史は、個人的に十字架を負って来た歴史です。しかし、家庭的に十字架を背負っていくべき期間が残っています。それでは、その家庭的十字架を誰が負いますか。今までその十字架を、誰も負おうとしませんでした。イエス様も民族と国家を代身した十字架を負い、家庭を築いて世界に向かって進んでいかなければなりませんでした。しかし、民族と国家の十字架を背負って亡くなられたので、再蕩減しなければならないのです。それによって、個人的な十字架の道が残されるようになり、家庭的な十字架の道が残されるようになったというのです。このように六千年歴史が石の峠(=とても困難な)道を経てきたので、両面的な蕩減をしていかなければなりません。これをするために、先生が六〇年代まで個人的な十字架の道を歩んできたのです。

 この十四年路程は、ヤコブが歩んだ十四年路程と同じ期間です。その期間を越えてこそ、家庭を築いてその家庭の四位基台を中心として地上に基盤を確立し、伸ばしていくことができます。

 個人的な十字架の道において、誰が自分に同情してくれても、その同情を受けては絶対いけません。同情することができないだけでなく、同情されることもできない蕩減路程を歩んでいかなければなりません。

 先生がこのような個人的な蕩減路程を果たし、家庭として生活の土台を備えた六〇年代からは、家庭的十字架の道に突入するようになりました。それで、先生が皆さんを直接指導する仕事を中断したのです。先生は一九六四年の夏まで、この場で聖日の礼拝の説教をしました。ところが、なぜそれをやめたのでしょうか。それは、外的な問題より内的な問題がもっと切迫したからです。先生が六千年の歴史を蕩減すべき使命を負っているので、皆さんと教会より、家庭的十字架をどのように蕩減するかという問題を中心として来たのです。このような事実を皆さんは知らなければなりません。このような過程を経て「父母の日」を策定し、「子女の日」を策定し、「万物の日」を策定し、「神の日」を策定したのです。先生が一九六〇年から始めて、一九六八年度一月一日を期して、神の日を宣布するときまでの内的な受難の路程を、皆さんは知らないでしょう。永遠に知らないでしょう。先生がこの道に来ながら今までどのような過程を経てきたのか、皆さんは知らないでしょう。(23)


5、お母様を通した七年路程


 堕落は、女性のエバから始まりました。聖書にははっきり記録されていませんが、当時エバの年は、いろいろな状況から見て十六歳ぐらいに推定されます。エバは少女時代に堕落することによって、神様が信頼すべき人類の母の基準を喪失しました。ですから復帰の原則に従って、真の母になるべきその方は、二十歳になる前に選ばれなければなりません。そして先生の聖婚式は、四十歳を越えてはなりません。そのような関係で、先生は若い妻を迎えて、娘のように愛しました。(24)

 エバは堕落することにより、神様の前に愛する娘の本分を果たせず、アダムの前に妹の本分を果たせず、妻の本分を果たせませんでした。ですから先生は、お母様を娘のように育て、兄の立場で愛してあげ、新婦として対さなければなりませんでした。堕落によって偽りの父母、偽りの兄の愛を受けたので、お母様になるべき人には、偽りの父母、偽りの兄がいてはなりません。

 お母様は、妹のようで妻のようで娘のような人でなければなりません。どんなに困難なことがあっても、自分の父母や兄など、訪ねて訴えることのできる家族や親戚がいてはなりません。(25)

 聖婚式以後、最初の七年間は、お母様を育てる期間として天的な家門と家法に従った教育をしてきました。先生はこの期間、夜も寝ず、ずっとそのことのために祈祷しました。(先生は)お母様もよく気づかないうちに、このようにして、堕落の結果として失ってしまった神様の娘と、その相対基準と、真の父母の基準、この三つを実体として復帰しました。これは堕落した人間始祖の後孫であれば、誰もが行くべき道なのです。(26)

 先生はお母様を迎えましたが、ほかの人の家に送って、初めの三年間苦労をさせました。それで、初めは気にくわないといって憎んでいた統一教会の女性たち、おばあさんから女の子たちまで全部、「ああ先生、あんまりです。お母様をお迎えになって一緒にお暮らしになればいいのに、なぜ外に出して苦労をおさせになりますか」と言いながら、同情するようになったのです。全部お母様側になったのです。そうして、再びもとの位置に、位置を確立して帰ってくるようになったのです。

 蕩減復帰摂理は、どうすることもできません。お母様も強く大胆に七年間の蕩減期間を経なければならなかったのです。ところで、お母様が立派なのは、自分のお父さん以上に私を信じようとしたことです。私がおじいさんのように感じられたといいます。このようにおじいさん以上、お父さん以上、お兄さん以上、百パーセント信じてきたのです。このように塀を越え谷を通りながら、全部位置を確立してきたのです。

 男性が勝利した後には、女性が勝利しなければなりません。それで、反対するこの社会と国家で七年間蕩減の過程を経なければならなかったのです。

 聖婚式を挙げた以後、父母の日、子女の日、万物の日、神の日まで探し立てたのです。(27)

 神の日は、お母様が責任を果たしたので設定することができました。世間にどんなことがあっても、七年間、お母様の私に対する心は変わることがなかったというのです。死んでも変わることなく、夫が行く道をついていこうという覚悟と姿勢で、七年路程を越えました。

 エバが神様を信じることができない立場で堕落したので、代身して蕩減する立場で神様が信じることのできる立場に立たなければならず、また、エバがアダム(夫)を堕落させたので、夫が百パーセント信じることのできる立場に立たなければならなかったのです。ところで、お母様は不信の人類歴史の中で、初めて神様と夫が百パーセント信じてくれる立場に立つことによって、その心の基台の上で、神の日が設定され得たというのです。

 そのときが一九六八年でした。男性の蕩減復帰基準と女性の蕩減復帰基準を立てて、アダムとエバが長成期完成級で堕落したのを復帰する七年過程を経て、八年目を迎える一九六八年に初めて完成期完成級で夫婦の資格、夫の資格を備え、この地上に現れることができました。

 そうして家庭を率い、息子・娘を率い、国家基準を越え世界に向かって出動することができたので、そのときアメリカに渡ったのです。(28)

 第一次七年路程期間は、お母様の受難期でした。娘をもった数多くの統一教会の女性たちが、お母様を憎んだのです。それで三年間、お母様を外部世界の他の家で暮らすようにしました。そうすることによって、統一教会の女性たちがお母様に協力し得る環境を造成しました。強制的方法によってではなく、自然に従順屈服しなければならなかったのです。そのような七年期間を経ることによって、本然のお母様の位置に上がるようになったのです。

 お母様を探し立てるための第一次七年路程が終わって初めて「神の日」を宣布することができました。

 その期間中に「父母の日」、「子女の日」、「万物の日」を宣布し、「神の日」を宣布したのです。「神の日」を宣布しつつ、神様に対し得る家庭的ひとときを迎えたのです。(29)


6、一九六〇年代の摂理的標語


 一九六〇年度は長成期完成級に該当します。完成期は七年です。(30)

 一九六〇年代の私たちの標語は何でしたか。まず「生涯中、最高の実績を残す年にしよう」というものです。次の年には、「お父様の代身者になろう」、その次の年には「見せてあげて誇れる者となろう」、その次の年には「勝利的主管者となろう」というものでした。それは先生を置いて言った言葉でした。先生の生涯最高の実績は何でしょうか。神様の復帰歴史を中心として見るとき、最高の実績を残した年が一九六〇年代だというのです。それゆえ、神様の代身者となって使命を果たさなければならないのです。神様の代身者となるためには、見せてあげて誇る基準がなければなりません。それには、四位基台を復帰しなければならないのです。三年の間に、四位基台を復帰するのです。それをしたので、勝利的主管者となろうという四年路程の標語が出てきたのです。

 これが今まで先生がしてきた闘いでした。ですから、皆さんもこの標語を中心として、皆さんの生涯の最高の実績を残すために七年路程に入っていかなければなりません。その次には、神様の代身者とならなければなりません。蕩減復帰するためには、サタンと闘って(サタンに)押されてきた、神様の歴史的な悲しみを全部解怨してあげることのできる勝利者、すなわち神様の息子・娘にならなければなりません。そうすることによって、神様の代身者となるのです。そのような立場でサタンを屈服させてサタンが讒訴したのを防いでおき、神様の息子・娘として立つならば、神様はこの息子・娘を天地間に見せてやり、誇らなければならないというのです。

 四位基台の完成は、創造目的の完成なので、サタン世界を屈服させる原則になるのです。ですから私たちは、サタンを自然屈服させ得る勝利的主管圏をつくらなければなりません。それをつくり、大韓民国と世界に出ていこうというのです。皆さんは知りませんが、これは全部公式的なことです。皆さんはそのような標語をもって出ていき、生涯最高の実績を残さなければなりません。それでは、皆さんの七年路程の出発はいつでしょうか。一次七年路程を全部成したというのは、全体を中心として言う言葉です。皆さん個人の七年路程をいつ出発するようになりますか。それは皆さん各自がみんな違います。(31)

 七年路程の初年の標語は「生涯中、最大の実績を残す年にしよう」であり、二番目の年は「お父様の代身者となろう」であり、三番目の年の標語は「見せてあげて誇れる者となろう」だったのです。その次の四番目の年から七年路程が終わるときまでは「勝利的主管者となろう」という標語で貫くようになったのです。また、前の三年期間には、連続で三六、七二、一二四家庭の成婚式を挙行し、南韓各地に任地を与えて固定配置しましたが、これはイスラエル民族がカナンを復帰した後、十二支派を中心として新しい地を分配したのと同じ意味があるのです。(32)

 一九六〇年代から、新しい歴史時代に入ったという事実を知らなければなりません。新しい歴史時代に入ることによって、新しい氏族がここに顕現するでしょうし、新しい国家、新しい世界の形態がここに現れるようになるというのです。今までこのような起点を中心として、統一教会では数次にわたって祝福行事を挙行したのです。

 このような行事によって、彼らが祝福を受けることだけで終わってはならないのです。このような行事を経て、民族の前に、世界の前に、復帰摂理の路程の前に、一つの勝利の盾、勝利の起点を広げてきたという事実を私たちは知っています。(33)

 一九六〇年以後、歴史がこのように急変するのは、統一教会を中心とした神様の摂理があったからです。なぜこのような大転換期に入ったのかということを、現代の歴史家は理解できません。皆さんは、皆さんに施す祝福が、すなわち模範を見せてあげるためのものであるのを忘れてはなりません。(34)

 霊界は今まで大混乱が続いてきました。川の水が流れて海に集まれば、大海を成すようになります。しかし、霊界は谷間谷間ごとに流れる水をせき止めてダムをつくっておいたのと同じです。それによって、水が海に流れ得ないようになっているのと同じ立場です。今は築いた堤を壊してしまうべき時代です。六〇年代以後からは、堤を取り壊す役事が起こっており、それによる大混乱が始まりました。

 決定的な勝利を占めるのは、霊界にかかっているのではなく、地上にかかっています。元来、堕落は夫婦が共にしたので、夫婦が協助してその立場を克服し、息子・娘が協助しなければなりません。復帰時代は、家庭を中心とした摂理を行うようになったのです。ノアの八人家族をはじめとして、アブラハム、イサク、ヤコブの三代を経て蕩減基盤を形成してきました。

 六〇年代前までは、家庭ではない個人を中心とした仕事をしてきました。先生は、個人的にたくさんのうわさと反対を受けながら越えてきました。六〇年度に初めて家庭をもち、神様の愛を横的に展開させるようになったのです。それ以後に祝福を通して基盤を広げてきました。祝福を受けるためには、家、父母、自分よりも、神様をもっと愛さなければなりません。祝福は愛の十字架を越えていくことなので、「父や母や妻子を私よりも愛するものは、私の弟子となれない」というイエス様のみ言のように、祝福を受けるために家庭を逃げ出してくることが生じたのです。アブラハムがカルデヤのウルを去ったのと同じく、神様の召命を受けて故郷を去るようなことが生じました。それによって悪いうわさが流れました。このようなことは誰かがさせたのではなく、個人の内的な刺激によって生じたのです。(35)


7、三六、七二、一二四家庭の祝福


 一九六〇年代の合同結婚式のときは、大韓民国の人全部が反対しました。統一教会の文先生を拘禁しようと十四名か、十五名かが行列をつくって裁判所に投書をしました。このように全体が反対する立場に立たなければ、蕩減にならないのです。合同結婚式を挙行するとき、式場が修羅場となって、警察官たちが来てけんかを止めました。大門を閉ざし、外では騒ぎ立てて戦場のようでしたが、中では結婚式をしました。そのような結婚式は歴史始まって以来初めてだったでしょう。先生が三年間にこのことをしてしまったので、夢のようでした。それは、そうしなければならない。理由があるからです。先生がどのような人よりも計算できないからではありません。先生は損をする商売は絶対にしません。(36)

 先生の家庭と三六家庭は、堕落した父母たちの家庭から許しを受けて結婚してはなりません。(37)

 一九六一年、三六家庭の祝福式のときも騒乱が起こりました。ゆえに、見張り番を立てておき、結婚式をするほどでした。(38)

 統一教会の三六家庭を祝福するとき、その父母たちが全部反対しました。自分の息子・娘を出せと騒動を起こしました。神様のみ旨で見ると、人類歴史が偽りの父母によって始まったので、真の父母の立場ですべてのことを導かなければならないというのです。国は国なりに反対しました。先生が裁判所に行って交渉しながら、結婚式を挙行しました。全部反対する立場で冒険をしてきました。(39)

 アダムとエバが堕落するとき天地が真っ暗になったので、それを蕩減復帰するために統一教会の祝福(三六家庭)も真っ暗な夜中にしなければならなかったため、門を閉めて成婚式をしたのです。そのとき、「私の息子を出せ、人の息子・娘を連れていって何をするか」など、ありとあらゆる声をみんな聞きました。自分の子供を嫁がせ、めとらせるのは父母の勝手なのに、統一教会の先生が独断的にするというので、騒ぎ立てました。まさに、サタン世界の父、母だからです。神様の息子・娘をサタンが奪っていったので、先生が再び奪って蕩減復帰するのです。歴史的に失った息子・娘を再び捜し出して蕩減復帰するためでした。それで、式を早く済ませたのです。蕩減復帰歴史なので、どうすることもできませんでした。

 統一教会の原理を見れば、神様が統一教会と共におられざるを得ないというのです。

 統一教会に反対して、死んでやると言って哀願したその父母たちが、最近になっては、そのときの合同結婚はよくなかったけれども、よい婿をもらったと言います。結婚はよくなかったのに、よい夫をもらったとしたら理屈に合う話ですか。最近、私さえ見ればそういうことを言います。(40)

 次に子女の問題があります。アベルの闘いで、天使長の立場にいるカインがアダムの立場にいるアベルに服従できなかったことにより、今まで歴史が延長されてきました。それを蕩減しようとすれば、先祖の家庭である三六家庭の前にそれぞれカインとアベルのような二つの家庭を立てなければなりませんが、これが七二家庭です。(41)

 三六家庭はアダムからヤコブまでの歴史的な先祖の立場であり、七二家庭は三六家庭をそれぞれカイン・アベル家庭として立てて復帰した立場です。イエス様の家庭を中心としたカイン・アベルの霊的形態まで備えた条件となったので、世界的代表である一二〇家庭を祝福し、その基台の上に聖地を選定するようになりました。ですから、一二〇家庭は世界すべての国家の代表型です。五旬節に百二十門徒が一つになってイエス様が世界的な新しい出発をしたように、世界史的基盤を立ててきたのです。(42)

 再臨主はアダム家庭の立場を蕩減復帰しなければなりません。したがって、アダム、ノア、アブラハム型の家庭を探し出して、先祖として立てなければなりません。そのためには、まずアダム型十二家庭を探し、次にノア型十二家庭とアブラハム型十二家庭を探して縦的な先祖を立てなけれなりません。それで、先生が三六家庭を立てました。この先祖たちを中心とした、カイン・アベル型の家庭として探し立てたのが七二家庭です。そして、一二〇家庭は世界百二十カ国の指導者を象徴するのです。(43)

 三六家庭は先祖の立場であり、七二家庭は三六家庭の前にカイン・アベルを復帰した型です。すなわち、三十六先祖の前のこの七二家庭は、カイン・アベルが一時に蕩減復帰された型です。一二四家庭は全世界百二十国家を代表した型です。(44)

 三六家庭は堕落した人類の先祖たちが復活した型であり、その次に、七二家庭はその先祖たちの息子・娘が復活した型であって、一二〇家庭は世界の人々が復活した型です。だから、彼らが一つになれば、結局は家庭と息子・娘、そして世界まで一つになるというのです。これから、一二〇家庭までは、私が直接責任を負わなければならないと考えます。(45)

 三六家庭は人類の先祖復帰型です。七二家庭はカイン・アベル復帰(子女復帰)型です。一二四家庭は世界国家を代表します(その中には既成家庭の四家庭も包含)。その基盤の上で聖地を選定したので、それが世界四十カ国の百二十カ所の聖地です。(46)

 三六家庭から七二家庭、一二〇家庭までは引き離すことのできない一つのチームです。三六家庭は歴史的な、歴代の先祖を意味するものです。その次に、七二家庭は息子・娘を、一二〇家庭は世界国家の祭司長をいうのです。一二〇家庭はまた十二支派の世界的分派型をいうのです。それで、先祖とカイン・アベルが一つになり、そこに十二支派が一つになればいいのです。それを探すのが復帰歴史でした。

 三六家庭が先祖ならば、七二家庭はカイン・アベル型になりますが、これが一つにならなければなりません。そうすれば、家庭が一つになる型が整います。十二支派と同じものを世界的に拡大させたのが一二〇家庭であり、百二十門徒です。(47)

 神様を中心として四位基台を成すようになれば、サタンは後退せざるを得ません。真の父母を中心としてこの地上に世界的な発展の基準を立てた統一教会に、七二家庭の祝福に続いて一二〇家庭の祝福がありました。一二〇家庭は世界万国の代表たちを象徴したものです。イエス様は世界的な摂理の出発のために百二十門徒を立てられました。イエス様は霊的な立場で彼らを前に立てて、今まで救援摂理をしてこられました。先生にはこれを実体的に探し立てなければならない使命があったというのです。

 それが成されたので、次には万物を祝福しなければなりません。神様が願われる人を探し出したので、次に万物を探し出さなければなりません。先生はこのような条件を立てるために一九六五年度に世界を巡礼して、四十カ国を中心として百二十カ所の聖地を選定しました。世界的に選定された聖地は、運勢を大きく転換させるポイントになりました。(48)

 イエス様は三弟子を中心として十二弟子、七十門徒、百二十門徒をして地上で相対理想をなすようにして、理想家庭の編成をなそうとされたのです。しかし、イエス様はそのような相対理想を成せず、亡くなられたのです。このように理想家庭の編成をなせなかった神様の恨みを解怨してさしあげ、第一アダムと第二アダムが失敗した相対理想圏を地上で復帰し完成しなければならないのです。

 摂理の次の段階は、万物主管圏復帰です。人間の堕落によって万物主管圏を喪失したので、それを復帰するために一九六五年に世界的に百二十カ所の聖地を選定したのです。韓国で勝利した摂理的基台を世界的に拡大する意味で、世界各国を巡回しながら、韓国から持っていった土と石を選定した聖地に接続させました。万物の基台が復帰されなければ、世界的に活動することができないからです。

 神様が摂理することのできる基台を造成するため、四十カ国を中心として百二十カ所の聖地を選定しました。それは、四十年間築いた真の父母の勝利的基台を世界的に拡散させる摂理でもありました。四十カ国を中心とした百二十カ所の聖地の選定によって、世界的な万物を復帰する天道が開かれたのです。韓国の土と石で接続された聖地で祈祷をすれば、世界の国家圏を復帰し得る道が開かれるようになるのです。

 万物復帰のための聖地選定によって、この地上で初めて神の日を迎えることができる道が開かれるようになりました。このように第一次七年路程を勝利をもって終えた後、一九六八年に神の日を宣布するようになったのです。(49)

 子女としての義務と責任が、いかに大きいかということを知るべきです。三六家庭、七二家庭、一二四家庭の責任遂行の可否は、本当にその影響が大きいです。この子女が天の前に責任を果たすことによって、現世人と霊界人の解怨成就になります。(50)


8、失った日々を探し立てた期間


 今日、統一教会が世界にない名節である神の日、父母の日、子女の日、万物の日をもっているというのは誇りです。これを解こうとすれば、歴史を解かなければならず、これを証そうとすれば、愛を中心とした天の家庭の根本を全部解いてこそ解決できるのです。皆さんは、統一教会がこのように祝福された所だということを知らなければなりません。(51)

 皆さんが原理を通して知っているように、人類の先祖アダムとエバが堕落しなかったならば、神様の愛を中心として祝福を受けて父母になるその日に、神の日、父母の日、万物の日が決定され出発をするようになったでしょう。そうなったならば、このすべての日がその一日に帰結されたでしょうが、アダムとエバが堕落することによってそうならなかったので、私たちがこの七年路程という期間をおき、これを復帰してきたというのです。そうなったこと自体が、この堕落した世の中での悲しみであることを皆さんは知らなければなりません。(52)

 神様は完成基準を残しておき、一九六〇年に初めて祝福をしてくださいました。しかし、アダムとエバの堕落によって、いまだに人間たちはサタンの主管圏内にいます。この主管圏内からサタンの勢力をつぶす人物が現れたので、サタンはその家庭に対して総攻撃をしてきました。それで、サタンと血戦を起こし、蕩減条件を立てて神の日、父母の日、子女の日、万物の日などを決定しました。このすべての日は第一次七年路程期間に探し立てたのです。(53)

 神様はサタンに奪われた日々をすべて復帰したので、地上に完成基準を立てることができるようになりました。それによって新郎と新婦がサタンを退け、互いに出会うようになりました。そうし得る一日を迎えるのが神様の願いであり、二千年の歴史をもったキリスト教の願いでした。新郎はイエス様と天を指し、聖霊は女性神として地を指していますが、空間のサタン勢力を撃破し、この二人が互いに出会うことによって天地が一つになり得るようにしたのが、統一教会なのです。(54)

 聖婚式は、神様が初めて理想的相対を祝福してくれる儀式として、人間においては真の父母をもつようになる歴史的な婚礼式なのです。それによってこの地に神の日、子女の日、万物の日が設定されるようになりました。このようなすべてのことが、第一次七年路程の勝利を通して成し遂げられるようになったということを知らなければなりません。(55)

 今まで、人類は堕落した父母をもったことが恨みでした。ところが、天の側で勝利した父母の日を探し立てることによって、初めて神様の前に出ることのできる父母の因縁をもつようになりました。それで、ここから祝福を受けた統一の血族たちが出発するようになったのです。(56)

 神の日はどのような日ですか。神様のみ旨、神様の理想を成す日です。神様の理想を成す日が神の日ですが、この日は神様の理想だけではなく人間の理想を成す日であり、万物の理想をも成す日なのです。そのようになるのです。(57)

 神の日を策定したということは、神の日であると同時にアダムとエバの日であり、アダムとエバの日であると同時に万物の日であり、万物の日であると同時に宇宙の日になるというのです。今までは、復帰路程において万物を復帰し、子女と父母を復帰してきましたが、それは、父母がすべての十字架を霊的に負うのです。イエス様と聖霊がそのような迫害を受けてくる時だというのです。キリスト教までは、そのようになりましたが、わが時代にはこれを逆に立ててこなければなりません。

 父母の日を策定するのは、十字架の長成的段階を越えて立つことをいい、子女の日もやはり同様です。万物の日も同様であり、このようなことをすべてしておいた後に、神の日が現れなければならないのです。蕩減をして父母がいて子女が生まれ、子女がいるので万物を主管するのです。このような形態をつくっておいたのが父母の日、子女の日、万物の日であり、これが一つになって神様と連結されることによって神の日になるのです。この七年期間に長成、完成過程を全部正して七年の峠を越えなければならないのです。

 エデンの園においては、父母と子女を中心として万物を主管するようになっているので、そのような形態の基盤を正しておかなければなりません。本来は、神様を中心として基盤を立てた後に、神様の直接主管圏内に越えていかなければなりません。それゆえ、一九六八年一月一日を中心として神の日を設定したということは、エデンの園においての家庭的基盤を中心として、父母と子女と万物が神様と一つとなって本来の主管圏内に越えていくという、その基準を一致させたのです。そのような基盤を立てたので、国家的基準を中心としてそこから直接神様の主管圏内に入り得る先生を中心として、祝福家庭と統一教会の三段階が成立するのです。

 先生の家庭と統一教会の祝福家庭とその次の統一教会は、蘇生、長成、完成の段階として、それは何を象徴するかといえば、再臨主の家庭とキリスト教の家庭と全世界の、象徴的な中心になるのです。全世界は蘇生であり、キリスト教は長成であり、来られる主は完成です。このような基盤を立てていきながら、この七年間に国家的影響まで広げてきたのです。これを世界的基準とどのように連結させるかという問題が大きいので、二次七年路程に入りながら、祝福家庭を中心として世界と連結させるのです。(58)

 先生の一代にこのとてつもないことを収拾してきたのは、奇蹟的なことです。それなら、奇蹟の先祖は誰でしょうか。モーセが紅海を渡ったことが問題ではありません。紅海を渡ったら何をしますか。イエス様が行ったいろいろな奇蹟が問題ではありません。最も貴く、最も驚くべき、最もとてつもない、最も世界的な思想、神様が六千年の間にも決定できなかったものを、私の一生の数十年の生活路程の期間に結びつけたという事実、これは簡単だったでしょうか、複雑だったでしょうか。

 先生がある新しいみ言を語れば、それはただ語る言葉のようですが、先生は既に前からすべて考え、調べて言う言葉です。考えてみてください。先生が子女の日、父母の日を宣布するとき、皆さんがそれを知っていましたか。先生の三人の息子・娘がどうなるのか分かりましたか。すべてしておいた後に、説明をしてあげたので分かったでしょう。そうでしょう。また、全く思いも寄らない心情復活の日、実体復活の日、万物の日、神の日は何でしょうか。どうですか、それが原則に合いませんでしたか。原則と順序は合っています。そうではないですか。あきれ返るぐらい釣り合っているというのです。その釣り合った事実を目標として定めておき、今まで実行してきたのです。(59)

 第一次三年路程期間には、真の父母を中心として三六家庭、七二家庭、一二四家庭を設定し、世界的な横的基盤を立てました。そのような土台の上で、第二次、第三次路程を出発する家庭には、この民族を代表して完全な横的基盤を立てるべき責任があります。それにもかかわらず、いまだにその責任と使命を完結するところまでは、距離を残しているという事実、これが限りなく悲しいことなのを知らなければなりません。

 皆さんは統一教会として立てた父母の日だけではなく、皆さんとして立てた父母の日、すなわち自分の氏族を中心とした父母の日をもたなければなりません。また、自分の氏族を中心とした子女を日をもたなければならず、自分の氏族を中心とした万物の日、自分の氏族を中心とした神の日をもたなければなりません。これが統一家の祝福家庭の責任だということを知らなければなりません。(60)













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第二節 祝福家庭に対する摂理的意義

祝福家庭と理想天国

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第二節 祝福家庭に対する摂理的意義


1、第三イスラエルの意義


 イエス様は人類の真の父母になられるべき方でした。ところで、真の父母として来られたイエス様がサタンから侵害されたということは、真の父母によって生まれ変わるべきすべての人類がサタンの侵害を受けることになります。父母が侵害されたので、父母から生まれるすべての後孫たちは、その父母の基準を凌駕できないのです。ですから、神様とみ旨だけを考えて出発することができなくなった人間たちは、イエス様の十字架のもとに集まるようになりました。そのような人間が、今世界的に広く信仰しているキリスト教徒たちです。

 今日、キリスト教徒たちは、霊的には個人、家庭、氏族、民族、国家、世界的に勝利的基盤をつくりましたが、肉的には何の基台もつくれずにいます。ですから、再臨のとき、主と一つになり、主の前に絶対的に服従して肉的な基台を築かなければなりません。そのためには、神の圏の氏族を立てて、彼(主)を中心として作用しなければなりません。

 今日、私たちは世界的な時代圏で生活しているので、民族を超越した基準で肉的な基台を探し出す仕事を果たさなければなりません。イエス様の氏族を中心として失った基台を蕩減復帰しようとすれば、それ以上の内容を提示しなければなりません。そのためには、氏族自体の基準を越えなければなりません。

 第三イスラエルは、神様の心情を相続した群れです。再臨主によって心情的実体基台が世界的に拡大されなければならず、その基台を通して蕩減復帰していかなければなりません。そうして、復帰された家庭の基準をつくらなければなりません。(61)

 今まで、霊界の道と地上の道を開放するために摂理してきています。個人を代表してある程度行けば家庭代表を立て、また、国家代表を立てて復活させてきました。それで、個人勝利代表者、家庭勝利代表者、民族、国家勝利代表者を立て、ここに道を築いてきたのです。また、国家を代表した特定先祖の形態を受け継いできた民族がイスラエルでした。(62)

 キリスト教が霊と肉を中心とした完全な立場に立っていることができなかったので、すなわち、肉的基準を除外した霊的基準だけを中心として第二イスラエル圏を築いたので、肉的基準までも築かなければならないのです。この肉的基準を築く日が再臨の日なのです。

 この一日を願ってきたキリスト教徒たちは、第二イスラエルの霊的基準の上で再び来られる主を迎えて、第三イスラエルの世界的な選民圏を築かなければならないのです。(63)

 イエス様は、霊的には勝利されましたが地上にイスラエル圏を築くことができなかったので、霊界のイスラエル圏を地上に築くために再臨されるのです。再臨主が、地上のイスラエル圏を立てるのも、個人から始められます。(64)

 今日、全世界を見ると、二千年前の国々のように疲弊していっています。このような国の中でも、イスラエルのような国として韓国を立て、ローマのようなアメリカを立てて摂理しておられます。この二つの国家さえ一つになれば、世界を一つにし得る基盤が築かれるようになっています。霊的なキリスト教の世界的基盤の上に共産世界を吸収して、地上天国が完成されるのです。それゆえ、再臨主には、共産世界と民主世界を一つにすべき責任があります。

 それでは、今はどこまで来たかというと、すでに世界的基盤を越えたというのです。それで、わが統一教会は、個人、家庭、氏族、民族、国家、世界の完成基盤をすべて立てました。それゆえ、五色人種が一家族になっているというのです。第三イスラエル民族は、世界的な国の基盤の上に霊界と肉界を中心とした天の国をもつことのできる民族なのです。だから、私たちは新しい第三イスラエル民族になっているというのです。(65)

 統一教会は、アダムとイエス様が侵犯を受け、立てられなかったその絶対基準を立ててきています。聖婚式は、一九六〇年、先生の家庭を中心として始まりました。それ以後には、家庭圏の編成を越えて氏族圏を編成しなければなりません。

 氏族圏を成すために、イエス様を中心として弟子たちが一つになった立場に立たなければなりません。イエス様が弟子たちと相対基準を結んで家庭をつくったならば、その弟子たちも相対基準を結んで家庭をつくらなければなりません。そうして、ユダヤ教内で新しい氏族圏を編成するのです。イエス様が聖婚式を挙げれば、十二弟子は聖婚式を挙げない立場で、まずイエス様の家庭と完全に一つにならなければなりません。その次にイエス様の家庭を中心として祝福を受け、霊肉ともにサタンが侵犯できない勝利圏をつくらなければなりません。

 祝福を受けて新しく編成された氏族とは、堕落した立場から復帰された養子圏とはまるっきり違います。それは、初めて神様の息子から始まった氏族圏が出現することを言います。(66)

 アブラハムは供え物をもってイスラエルを形成しましたが、統一教会では祝福をもってイスラエルを形成するのです。ゆえに第三イスラエル入籍は、祝福によってのみ可能なのです。(67)

 韓国を見ると、神様を不信する人々は第一イスラエルであり、既成教会は第二イスラエル、統一教会は第三イスラエルに該当します。ですから、サタンがこの摂理の中心を攻撃するのです。(68)

 統一教会の祝福家庭は、昔、イスラエルを中心としてユダヤ教を通してメシヤを望んだ立場ではなく、メシヤを迎え、新しい氏族編成をして一段階さらに前進した立場に立っています。(69)

 世界は一つの心情の動きによって一つの形態を備えてきて、天の心情とイエス様の血と肉を通して歴史が流れてきましたが、今日、実を結ぶことのできる一つの実体が皆さん自身であるのを知らなければなりません。

 皆さんはイエス・キリストの切ない心情と血気盛んな心情を所有する相対者になってこそ、第三イスラエルとして残され得るということを知るべきです。イエス様がそのような心情を抱き供え物になられて第二イスラエルをつくったので、今日、私たちはこのような覚悟をもってのみ、第三イスラエルの先祖になり得るというのです。また、いわゆる地上天国、すなわちエデンの園の本然の子女になるでしょう。(70)

 第三イスラエルは、悲しみから復活した民族です。喜びの立場から復活したのではなく、悲しみの立場から復活したのです。悲しみの世界でサタンを屈服させたという、これが違うというのです。私は先日、龍媒島事件(韓国動乱で文先生が北韓から下ってこられるとき、朴正華氏を背負って海を渡ったときの逸話)を話しましたが、そのようにするのは難しいことです。しかし、避難の道を行きながらも、この三千万民族の中で最高に難しい避難の道を行こうと心に決めました。それで、「死ぬまでこの道を行こう! 私の脈拍が止まるときまで行こう! まだ、息が絶えていないので行かなければならない」という決心をして行ったのです。(71)

 第三イスラエルの先祖になるべき終わりの日に処した皆さんは、最後のみ言は神様の愛のみ言だということを知らなければなりません。神様の愛に基づいたみ言……。ですから皆さんは、神様のみ言はみ言なりにあり、皆さんは別にあり、そうであってはならないということを知らなければなりません。神様のみ言の見える実体にならなければなりません。神様の内的心情が皆さんの内的心情にならなければなりません。すなわち、本心の実体にならなければなりません。

 皆さんは、神様のみ言を繁殖させ得る第二創造主の使命を果たさなければならず、すなわちみ言の繁殖体にならなければならず、生命の繁殖体にならなければならず、実体の繁殖体にならなければなりません。だから、愛を中心として一つになってこそ、神様に永遠に侍ることができるのです。

 このような基準が第三イスラエルの基準です。こうしてこそ、み言を植えてあげることができ、実体を植えてあげることができ、生命を植えてあげられるのです。

 神様への侍り方を知り、み言を読んで感じるすべを知るみ言の実体、生命の実体、六千年の心情を代身した実体になって、第二イスラエルを再創造する使命を完遂しなければなりません。そうしてこそ、神様の内的心情に完全に通じた息子・娘になることができ、そのような神様の真の子女になってこそ、神様の愛を中心として永遠の栄光の中に暮らすことができるということを銘記しなければなりません。(72)


2、祝福家庭を通した第三イスラエル圏の編成


 神側では、祝福家庭を誕生させることによって、新しいイスラエル圏を編成しなければなりません。だから、一九六〇年からは、神側の運勢が上がっていきます。そこから家庭、氏族、民族時代を経て世界時代に向かっていきます。

 ヤコブのような先生が、家庭を中心として、エサウのような皆さんと一つになって氏族と民族を編成しなければなりません。

 三六家庭は、三段階の十二数を代表した人々です。さらに、カイン・アベルを合わせた数に該当する七二家庭が現れました。カイン・アベルは失敗しましたが、七二家庭が現れることによって、失った歴史的家庭が探し出されたのです。

 イエス様の時代を見ると、最初にイエス様の三弟子が現れました。そのような基準を立てるために、まず三家庭の祝福がありました。その次には、十二数を満たして祝福しなければなりません。これは過去、現在、未来の三段階を経ていくべきなので、これを横的に延長させたイエス様の十二弟子型が三六家庭です。

 三六家庭をカイン・アベル型として二倍にすれば、七二家庭になります。このようにして一つになるのです。三六家庭は家庭を代表し、七二家庭は氏族を代表しています。その次には、イエス様がマルコの屋上の間で百二十門徒を中心として世界に向けて出発したように、一二〇家庭は世界を代表する家庭です。イエス様が百二十門徒を祝福してイスラエルの国と連結させ関係を受けたならば、神様のみ旨がその当時成されたでしょう。イエス様は、三年間にこのような基盤を立てなければならなかったのです。

 その次に四三〇家庭の祝福がありました。四三〇は、四数と三数、七数に該当します。四十三数は、解放という問題と連結されます。イスラエル民族は四百三十年目に解放されました。イスラエル民族が四百三十年目に出エジプトしたのと同様に、統一教会は韓国歴史で見るとき、約四千三百年目に国家的であり、世界的な救援摂理を出発したのです。四百三十年目に、イスラエルは民族型の時代を迎えましたが、今は四千三百年目に世界を探し出す時代が始まったのです。

 四三〇家庭の祝福のとき、世界のどのような民族や氏族でもすべて入ってき得る道を開いておきました。相対的立場で四十三数に該当する数を、西側で合わせておけばいいのです。それで、一年後にアメリカ、ドイツ、日本などの地で、四三家庭を祝福してあげました。

 七七七家庭の祝福は、十カ国が参加して世界的な基準を立てておきました。

 その次に一九六〇年以後十四年目に一八〇〇家庭の祝福をしたのです。本来一九七四年にしなければなりませんでしたが、一九六〇年度の四月から本格的な摂理が始まったので、一九七五年四月以前ならば構わなかったというのです。それで、第二次七年路程終了とともに一八〇〇双の祝福をすることによって、完全に世界的基準に向けて基盤を立てて越えていくことができたのです。

 六数に六数と六数を足した十八数です。これはサタン数六数を完全に制圧するという意味です。その間立てた基盤を中心として世界を動かし得る時代に入っていくという結論が出てきます。

 統一教会は、一つの新しい民族として国家を形成してきています。伝統を受け継ぐべき皆さんは、この事実を知らなければなりません。(73)

 先生の家庭を中心として結合された祝福家庭は、一つの新しい氏族です。これが日に日に発展していけば、一つの新しい民族になります。もっと発展すれば、国家、世界圏を築くようになります。すなわち、新しい民族、第三イスラエル民族が形成されるのです。日本人でも、今までの日本の歴史過程に現れた先祖から血統を受け継いだ子女ではなく、新しく神様による血統圏を受け継いだ子女になれるようにするのが、統一教会です。(74)

 霊的な第一、第二イスラエルを連結して、第三イスラエル圏を地上に築かなければなりません。そのために再臨主は、第一イスラエルを代身した第一家庭(アダム家庭)と、第二イスラエルを代身した第二家庭(ノア家庭)と、第三イスラエルを代身した第三家庭(ヤコブ家庭)を探し立てなければなりません。ゆえに、三六家庭は人類の先祖にならなければなりません。(75)

 神様の摂理は、内的に家庭基準を立てて国家基準まで上がっていくのを、皆さんは知っているでしょう。それで、六〇年代から家庭編成を始めました。三六家庭、七二家庭、一二四家庭、四三〇家庭、七七七家庭を立て、その家庭を中心として勝利圏を確保することができました。このようにして国家基準で勝利圏を立てたので、先生は世界に向けて出発することができるようになりました。(76)

 祝福家庭の版図が広がるということは、神様を中心とした主流の家庭圏が拡大されるということであり、神様の氏族が形成されるということです。このように真の父母の因縁と天倫の内的な心情を受け継いだ家庭が生まれ出て、横的に拡大されるということは、神様を中心とした氏族が形成されることであり、民族、国家が形成されるということです。さらに、一つの国家の形成で終わるのではなく、神様を中心とした世界を形成するのです。(77)

 本来、統一教会の祝福家庭は、一つの国家の形成を目標として始まったのではありません。神様を中心とした善の世界を目標として出発したのです。それゆえ、統一教会の祝福家庭は、全民族的であり、全国家的です。神様のみ旨を中心として出発したので、皆さんの家庭がたとえ一つの家庭であり、皆さんが金某、朴某という個人だといっても、統一教会の祝福家庭は個人だけを代表した家庭ではなく、全世界人類を代表した家庭です。言い換えれば、国家を超越し、民族を超越し、氏族を超越して、全体を代表した家庭だというのです。(78)

 統一教会は、他人同士が集まって新しい家庭を形成し、今までの氏族観を超越する新しい氏族を形成しなければならず、多くの氏族を合わせて単一民族を形成しなければならず、多くの民族を合わせて、自分の民族を愛する以上に愛することができるようにならなければなりません。これが統一教会と統一教会員が行く道です。(79)


3、三六家庭祝福の摂理的意義


 三六家庭は、第一家庭、第二家庭、第三家庭で構成されています。第一家庭は旧約時代を象徴します。旧約時代は、神様の許しなく結婚した立場の時代です。第二家庭は新約時代を象徴します。新約時代は、初めて神様が選んでくれた地で結婚を願った時代です。しかし、失敗しました。第三家庭は成約時代を象徴します。成約時代は、完成の時代として神様が家庭の出発を願う時代です。

 今日の勝利は、ヤコブが勝利した象徴的な復帰摂理を経ています。ですから、先生は、僕の時代と養子圏時代を蕩減復帰し、神様の真の子女時代を築かなければなりません。この三時代の路程を象徴的に復帰するのが三六家庭です。復帰摂理は、十二支派を中心に、十二数や十数を中心に成されてきています。(80)

 三六家庭中、第一家庭は既成家庭として旧約時代に該当し、イエス様の時代は結婚を願ったけれども成せなかった時代として、第二家庭がそれを象徴します。第三家庭はすべての苦難に勝ち勝利したヤコブのように、成約時代を象徴します。特に三六家庭は、先生を中心として一代に旧約時代、新約時代、成約時代を蕩減する勝利的基台になるのです。さらに、家庭勝利の完成によって、三時代を横的に一代に蕩減した歴史的意義をもつのが、三六家庭の祝福だといえます。(81)

 摂理的に見れば、三六家庭の第一家庭は、アダム家庭を復帰した立場です。アダム家庭のカイン・アベルを含めて、ノアまで十二数でつながるので、これを蕩減するために十二家庭を立てたのです。

 第二家庭は、ノアからアブラハムまでを復帰したことを意味します。アブラハム家庭にサタンが侵犯することによって、イサクとヤコブに延長された十二代を象徴します。

 ヤコブは十二人の息子を通して、歴史上初めて、縦的な摂理を横的に蕩減復帰しましたが、三六家庭において第三家庭がそれを象徴するのです。ヤコブが築いた個人的勝利の基台の上に出発した家庭は、成約時代を象徴したものです。(82)

 アダムからノアを経てヤコブにつながる二千年の縦的な歴史を、アダム、イエス、再臨主の路程で対比してみれば、イエス様の時代はノアの路程に該当し、再臨主の時代はヤコブ路程に該当するのです。このような摂理の数的な基準と同時性の歴史を象徴するのが、三六家庭であるのを知らなければなりません。(83)

 三六家庭の祝福は、摂理的に私たちの先祖たちが復帰路程で神様に召命を受けても責任を果たせなかったのを勝利することによって、サタンにより今まで蹂躙された歴史が、神様によって復帰されたということを意味します。今日、人類は、神様の摂理によって心情的伝統を継承した、完成された人間にならなければならないのです。それを成す摂理の過程で、三六家庭が神様の心情を中心として、最初に勝利した先祖の基準を地上に確立したのです。ですから三六家庭は、復帰された人類の先祖を象徴しています。(84)

 ここに祝福家庭がいます。三六家庭が成されるときまで……。三六家庭は、数千年の歴史的な因縁を通じた、神様を媒介としてなされるようになったものであることを忘れてはならないのです。今日、この困難にぶつかるのは、歴史的な蕩減路程において必然的な運命に責任を負ったからです。これを甘受すべき三六家庭であるのを知らなければならないのです。死に至るとも、それを天とともに迎えるべき運命に立っているのです。(85)

 皆さんは、自分がどれほど重大な使命をもっていて、どれほど重要な位置にいるのかを知りません。したがって、恐ろしい立場に置かれているのです。三六家庭の中で、ある一家庭でもご父母様に侍って生きなければなりません。(86)

 処女、童貞として先生から祝福を受けた家庭は、先生と連結され得る基準が立てられています。それゆえ、これから家庭的基台においての中心は、処女、童貞として祝福を受けた家庭です。このようなことを知って、皆さんがこれから家庭の秩序を立てていかなければなりません。三六家庭をおいて見るときも、第一家庭、第二家庭、第三家庭の中で、第三家庭が中心になるのです。(87)

 三六家庭は、歴史的な先祖です。勝利して失敗しなかったという条件を立てなければなりません。喜びの土台を築くべきなのが三六家庭です。(88)


4、七二家庭祝福の摂理的意義


 先生がアダムにならなければならず、ノアにならなければならず、アブラハムになって供え物を捧げる立場に進んでいかなければならないのです。そうして、心情的な基台を相続しなければなりません。

 それで、三十六代が失敗したのを復帰した基準を立てたというのです。そのようにして先祖になったのですが、先祖だけではだめなのです。闘いがどこから始まりましたか。アダムとエバから始まりました。アダムとエバの息子であるカインとアベルから闘いが始まりました。それで、この世界をこのように滅ぼしておきました。それは何の話かといえば、その後孫たちが全部闘いをする世界をつくったというのです。これを蕩減復帰しなければなりません。そうするためには、三十六代の息子・娘が、神様の前で闘わずに一つになったという条件を立てなければなりません。それで、カイン・アベルに分立した数、すなわち三十六を二倍にした数である七二家庭を立てたのです。

 この七二家庭が立てられることによって、カインとアベルが闘わず四位基台を成しうる歴史的な先祖の土台を立てたのです。それで、サタンを防備し得る絶対的な基準が立てられたというのです。分かりますか。皆さんは、七二家庭がどれほど深刻な位置に立っているか知っていますか。(89)

 七二家庭は、三六家庭の祝福を土台として立てられました。七二家庭は、アダム家庭を中心として復帰されたカイン・アベル家庭を象徴します。

 アダムとエバが神様の前に立とうとすれば、カイン・アベルが完全に一つになった基台の上に上がらなければなりません。アダムとエバが人類の先祖として完全な父母の立場に立つためには、カイン・アベルが完全に一つにならなければならないのです。

 三六家庭は先祖格であるアダム家庭を象徴しています。ですから三六家庭は、カイン・アベルが一つになった家庭の基盤の上に立ってこそ、父母の資格を備えるようになるのです。七二家庭が三六家庭の二倍になるのも、カイン・アベルの立場だからです。

 七二家庭は、イエス様の時代において七十門徒に該当します。七十門徒が一つになったということは、地上で蕩減圏が立てられたということをも意味します。このように神様の摂理は、地上でだんだんその基台が拡大されていくのです。

 三六家庭に続いて七二家庭を祝福したということは、先祖の家庭が完成されたということを意味します。そして、神様の摂理が完成された家庭を基台として、氏族と民族の基台に拡大されることをも表します。このように祝福家庭を立てることによって、神様を中心とした四位基台が地上に平面的に完成されるようになったのです。

 七二家庭の祝福は、縦的に神様を中心として四位基台の完成を成したのであり、地上に神様が摂理することのできる中心点を構築したということを表します。摂理を完成させ得る四位基台が築かれたので、神様は横的に摂理を拡散させていく基台をもつようになったのです。この摂理的基台を土台として一二四家庭の祝福があるようになったのです。(90)

 一九六〇年度、三月(陰暦)には父母の日、十月(陰暦)には子女の日を宣布しました。それゆえ、子女を中心として、すべきことがあります。十二子女を探し出さなければなりません。その次には、蘇生、長成、完成の三時代別に三六家庭が出てくるようになっているのです。その次には、先祖になった立場の三六家庭が、カインとアベルを立てて蕩減復帰しなければならないので、七二家庭が出てくるようになっています。そうして、一つの家庭を中心として、家庭的な環境を越えて立つ国家形態、世界形態につながらなければならないのです。(91)


5、一二四家庭祝福の摂理的意義


 原理的な見解で見ようとすれば、個人が復帰されて安息するためには、家庭が三代以上を経なければなりません。三代以上を経るためには、子女を生んで四位基台を復帰しなければなりません。この四位基台は、息子・娘を生んだといって成されるものではありません。その息子・娘が父母を代身し得る立場に立たなければならないのです。それで、完全に一つになって、その家庭がアベル的な家庭になって、カイン的な三家庭を復帰しなければなりません。その三家庭は、信仰の息子・娘として繁殖されなければなりません。その三家庭を中心として十二数、十二方向を備えた十二家庭をつくらなければならないのです。その次には、さらにこの十二家庭を中心として七二家庭をつくらなければならず、この七二家庭を中心として一二〇家庭をつくらなければなりません。この一二〇家庭が何かといえば、世界の基盤に向かって行くことのできる氏族的な基盤なのです。そのような基盤を通して、世界に向かっていくことができるのです。統一教会には、一二〇家庭があります。この一二〇家庭が何かといえば、一つの氏族の代表です。彼らは民族のために犠牲にならなければなりません。それで、皆さんを若い時代に地方に追い出し、民族のために犠牲になれと言ったのです。この三年伝道期間は、イエス様が歩まれた公生涯路程だと知って、任地でどのような迫害に遭っても、ふろしきを包んで逃げてはならないのです。(92)

 イエス様が七十門徒を派遣しながら立てようとされた世界的理念を、地上で立てることのできる基準が生まれました。イエス様の七十門徒と七二家庭が連結されたでしょう。十二弟子を選んだのは、アダムから失ってしまった三十六代を生かすためですが、十二弟子を失い七十門徒を失うことによって、先祖も失い、息子・娘まで失ってしまったので、どこへ行って訴えますか。それで、復活した後に、百二十門徒を中心として世界基台のために出発したのです。

 それでは、百二十数は何の数ですか。十二数は蘇生を象徴する数であり、七十数は長成を象徴する数であり、百二十数は未来の世界の国家を代表する数です。キリスト教理念を中心として結成された国連に百二十カ国が加入するようになれば、終わりの日が近づいてきたことを知るべきです。今、百二十三カ国が加入しています。一九六七年の絶頂を中心として百二十四カ国が加入しなければなりません。統一教会は一二四家庭の数と百二十四カ国の数も、すべてぴったりと合わなければなりません。そうなっています。これは偶然の一致ではありません。神様がそのようにつくっておかれたというのです。そうならなければ、統一教会の原理がすべて壊れていくのです。それでは、百二十門徒の百二十数は何を意味しますか。世界各国の君主の数です。ですから、国連に百二十カ国が加入するようになれば、終わりの日が近づいているのです。(93)

 イエス様は十字架の死以後に復活され、四十日間弟子たちとともに生活して昇天されました。昇天されてから十日後、すなわち十字架で亡くなられてから五十日目の五旬節に、イエス様の十二弟子を中心とした百二十門徒は、聖霊の降臨を迎えることにより、キリスト教の国家時代を出発するようになったのです。聖霊の降臨は、イエス様が国家的な基台の上で新婦を霊的に迎える役事でもあったのです。

 聖霊を迎えた百二十門徒は、百二十カ国を象徴するものとして、ローマを中心とした西洋社会が神側に立つときには、世界的に百二十カ国以上の基台が生まれるということを意味します。そのような象徴は、一九六七年から一九六八年にかけて百二十カ国が生まれ出たことで成されるようになりました。私たちは人類歴史の流れの中で、そのどれ一つ、神様の摂理と無関係のものがないということを知るようになるのです。このように祝福を受けた一二四家庭は、世界のすべての国家を象徴しています。

 世界のすべての国家を復帰する象徴として祝福したのが、一二四家庭ですが、一二〇家庭に四家庭を加えたのは、今まで祝福を受けた家庭の回数に該当する数字です。三家庭、三六家庭、七二家庭、一二〇家庭を表す四家庭の象徴の数字を加えなければ、祝福を受けた家庭が神様の国に帰る道が開かれないからです。そして、四双の家庭は、東西南北の門を象徴します。一二四家庭は、人類が今まで願ってきた理想国家、すなわち神様の国を復帰する意味と、そのような価値をもっているといえます。(94)

 一二〇家庭は、イエス様を中心とした百二十門徒を代身したものです。四家庭は、すでに結婚した既婚家庭です。四方の門を開いてあげなければなりません。(95)

 勝利した家庭的イスラエル圏から、世界的イスラエル圏に相対的理想圏を拡大し、氏族勝利の基台を横的に拡散させることが、一二四家庭の祝福からなされるのです。(96)


6、四三〇家庭祝福の摂理的意義


 この韓国内に祝福家庭が生まれましたが、国家基準の蕩減の因縁は生まれませんでした。蕩減の国家基準を立てるのが、四三〇家庭の祝福でした。

 四三〇家庭を祝福した年は、韓国が四千三百年の歴史を迎えるときであり、イスラエル民族が四百三十年のエジプト苦役を終え、出エジプトをする期間の数字でもあります。ですから、四三〇家庭の祝福は、イスラエル民族の解放を願う数をも意味します。

 四三〇家庭の祝福は、韓国国民をして、神様を中心とした理想を立て得る道を開く契機になりました。今までの宗教は、個人の理想に合わせましたが、四三〇家庭の祝福によって統一教会は、全国民が神様を中心とした理想を広げることができるようにしたのです。縦的摂理を一代を通じて横的に完遂しなければなりませんが、四十三数はすべてを充足させてくれます。四数は四位基台の数として東西南北を象徴し、三数は蘇生、長成、完成を象徴した数です。結局、四数と三数は、蕩減復帰の絶対的な数です。四三〇家庭を祝福したのは、蕩減復帰の勝利的基台を表したのです。四三〇家庭の祝福によって、韓民族が誰でも統一教会に入れば、祝福を受けることのできる国家的基準を造成したのです。(97)

 四三〇双の祝福家庭は、地の数と天の数を合わせたものを意味します。(98)

 四三〇家庭の四百三十数は、何を意味するかといえば、韓国歴史四千三百年を意味するのです。また四百三十は、イスラエル民族がエジプトで苦役期間を蕩減復帰する数なのです。そうではないですか。イスラエル民族が四百三十年目にカナン復帰路程を出発したではないですか。ですから、世界史的なカナン復帰路程の出発も、四三〇家庭を中心として始まるようになったのです。(99)

 四三〇家庭を祝福しましたが、この四百三十という数字は、世界的なカナン福地に向かった第三イスラエルの世界的出発型を意味します。その道を開く立場になったのです。イスラエル民族が四百三十年目に民族的に出発したように、韓民族が四千三百年目に世界的な摂理を出発したのです。だから、世界的なカナン福地に出発したというのです。

 四三〇双を中心として世界に連結させるために、外国でその相対型として四三双の祝福をしてあげるようになったのです。それによって、韓国のどんな氏族とも連結することができ、どの国とも連結することができるようになったというのです。(100)

 四三〇家庭の祝福によって国家的基準を立てたので、一九六九年には、その基台を世界の国家の中に相対的に連結させる仕事をしました。それは、第二次世界巡回のときに四三家庭を祝福してあげたことです。相対国家の祝福も、内的摂理に従って十カ国で四三双を選択して祝福することによって、勝利的相対圏を世界に広げる摂理を成したのです。(101)

 四三〇家庭は何かといえば、韓国に朴さん、金さん、李さんなど多くの名字の人々がいるのと同様に、世界には数多くの名字の人がいますが、世界の人々が四三〇家庭を通して連結され得る道が開かれたのです。だから、国内には四三〇家庭があり、国外には四三家庭があります。この四三家庭は、日本とアメリカとヨーロッパの中心家庭を合わせた家庭として、韓国の四三〇家庭の相対圏に該当する家庭です。全世界五色人種を合わせて、四三〇家庭の相対的な家庭として四三家庭を結んでおいたのです。

 韓国は世界を代表する国家なので、四三〇家庭は、罪人でも強盗でも監獄に入っている人でも、誰に限らずすべての韓国人が地上で天国に入り得る一つの門です。四三〇家庭が形成されることによって、四数が復帰されて全世界のすべての民族が連結され得る基盤が立てられたのです。(102)

 四三〇家庭を祝福することによって、平面的に統一教会は世界民族圏に発展するのです。四三〇双と四三双を世界的な版図で家庭的基台に連結させたということは、超民族的、超国家的基準において、新しい超民族形成の出発をしたのです。(103)

 今、私たちは団結しなければなりません。敗北ではない勝利のための団結をしなければなりません。こうして「勝利的統一戦線」という言葉が出てきたのです。その中心は何でしょうか。家庭です。ですから、家庭同士が一つにならなければなりません。それで四三〇家庭を立てたのです。(104)


7、七七七家庭祝福の摂理的意義


 世界の運勢が統一教会の摂理に従って動き始めたのは、一九七〇年に挙行した七七七双の祝福に始まりました。七七七家庭の誕生によって、世界的な運勢が統一教会と関係して流れるようになりました。四三〇家庭までの祝福では、国家的運勢が先生に向かって動きましたが、七七七家庭の祝福で世界の運勢が韓国に集まるようになりました。

 七七七家庭の祝福は、世界が家庭的理想を中心として神様に帰ることのできる道が生まれるようになったというところに、その価値があるでしょう。七七七家庭の中には、摂理的に重要な十カ国が含まれているからです。ですから、世界の運勢は、統一教会の運勢と一致して動くようになったのです。

 七七七家庭の祝福を起点として、世界的に南北、左右が対決の様相を一層はっきりと現すようになります。この祝福行事によって世界復帰の道が開かれ、世界の中に神様を中心として新しい民族を編成することができるようになりました。(105)

 七七七家庭は世界的です。世界のどのような民族でも連結することができるというのです。(106)

 七七七家庭を祝福することによって、世界のすべての家庭と氏族と民族を、神様と連結させることができるようになったのです。七七七家庭はそのような門を開いたのです。だから七七七家庭についていけば、全部どこに行くでしょうか。天国に行きます。

 それで統一教会では初めて、七七七家庭の祝福がなされた一九七〇年代から世界に向かって出発することができたのです。一九七〇年は新しい紀元を成す年になりました。(107)

 七七七家庭は一九七〇年度を中心として三に七を掛けた二十一日にありました。これが七数を合わせる最後の結婚式です。摂理的な数を中心として結婚式をするのは、最後でした。七七七家庭を祝福することによって、どのような民族同士でも血統的に結ぶことのできる超民族的な時代に入りました。このときから統一教会には、民族的な次元を越えて新しい種類の一つの民族形成が世界の人類を通して成され得る基盤が立てられるようになったのです。もし、統一教会で系図をつくりあげるならば、個人ではなく家庭を主として系図に名前を載せるようになるでしょう。必ず家庭を通して載るようになっています。社会では、個人が生まれれば氏族の系図に載りますが、統一教会は家庭を主とした系図時代に入ります。

 七七七家庭を祝福することによって、世界民族の編成をし得る超民族的、超氏族的時代を越え、統一教会は世界的な出発をしなければならないのです。それで、七七七家庭の祝福があるや否や、祝福家庭が迫害を受けるべき段階に入りました。(108)

 七七七家庭は、一体どのような意味をもった家庭でしょうか。七七七家庭は、摂理的な数のための結婚式としては最後の家庭です。(109)


8、一八〇〇家庭祝福の意義


 今回、先生が考えるには、一八〇〇双の合同結婚式問題は、かなり大衆の前に驚異的な感じを与えるだろうと思います。二次七年路程の運勢が四月までなので、今年の春に、私たちはこのような計画を立てたのです。完全蕩減すべき一つの条件を提示したのです。(110)

 一九六〇年以後、十四年目に一八〇〇家庭の祝福をしたのです。本来、一九七四年にしなければなりませんでしたが、一九六〇年度の四月から本格的な摂理が始まったので、一九七五年四月以前であれば構わなかったのです。それで、第二次七年路程終了とともに一八〇〇双の祝福をすることによって、完全に世界的基準に向かって基盤を立てて越えていくことができたのです。

 六数に六数と六数を加えた数は十八です。これは、サタン数六数を完全に制圧するという意味です。その間立てた基盤を中心として、世界を動かし得る時代に入っていくという結論が出てきます。(111)

 一八〇〇家庭を見れば二十五カ国が集まったので、世界的な祝福です。民族を超越した伝統を立てるにおいて、皆さんが韓国を代表して恥ずかしい人々になってはならないのです。多くの家庭が祝福を受けたので、主体国としての輝かしい伝統を立てなければなりません。ほかのことはしなくても、この伝統は立てなさいというのです。皆さんの家庭の行くべき道を立てておかなければならない責任が、皆さんにあります。もし、皆さんがそれに外れれば、皆さんの一族が滅ぶのです。(112)


9、六〇〇〇家庭祝福の意義


 今回、十月十四日、六〇〇〇双の国際合同結婚式がありましたが、私がその計画を発表したのは、わずか二十余日前でした。ですから九月二十四日、世界宣教本部を通して通達を出しました。「今から二十日以内に、ソウルで合同結婚式を挙行するでしょう!」このようにだけ指示したのです。こうしてわずか二十日の間に、六〇〇〇双の合同結婚式が準備されたのです。(113)

 世界各国の宣教本部では、祝福がいつどこであるかについて、長く待っていたのを知っています。祝福の日にちが発表されるや否や、世界各国の若者たちが韓国に集まってきました。祝福をしてあげるのは、彼らに新しい使命である氏族的メシヤの資格を付与してあげるためでもあるのです。イエス様が願った、新郎新婦の理想を完成した立場に立て、神様を代身した立場に先生が立って、彼らに横的なメシヤの使命を付与してあげるのです。新郎新婦を、メシヤの理想を完成した小メシヤとして、各国に神様の特使として派遣するのです。それが、六〇〇〇双の合同結婚式がもった意味でもあります。(114)

 八十四カ国の若い群れがここに飛んでくるというのは、易しいことではありません。私がお金を出してあげたのでもありません。それでは、彼らは何が慕わしくてそのように苦労して訪ねてきたのでしょうか。神様がとても願った本然の愛の世界に行くためでした。

 本質的な愛の世界に行くためには、愛の本質的な男性と愛の本質的な女性を中心として本質的な家庭を形成し、氏族を形成し、民族を形成し、国家の形成を経て世界に行くようになるのです。このようにして、本質的な愛の主体である神様を解放することのできるその日まで、永遠なる使命の標柱として集まったとてつもない群れが、六〇〇〇双の群れであるのを大韓民国は知らないでいます。

 六〇〇〇双という各国八十四カ国の群れを収容しながら、けんかもせず事故もなく、このようにきれいに終え、出発することができたのは、何ゆえだったのでしょうか。村の祝宴をしても、問題が起こって争い死に、大騒ぎなのに、五色人種が集まって結婚式をしても、静かに終えることができた原因はどこにあったでしょうか。このすべてが神様のみ旨なのです。(115)

 韓国の食口は、外国の食口たちの前に心情の指導者になって、彼らの信仰を正してあげなければならない重大な責任があるのを知らなければなりません。韓国の悠久なる歴史の中に伝統として継承されてきた礼儀と美徳を土台として、心情世界の根のような役割をやり遂げなければなりません。

 韓国の食口たちは、世界の食口たちの前に、模範的な侍る生活を見せてあげなければなりません。神様の恨みを解怨してあげるために、心情の伝統を相続しなければなりません。特に、今回祝福を受けた韓国の六〇〇〇双は、心情の負債を少しでも返そうという覚悟のもと、韓国の復帰のためにみんなが動員されなければなりません。次の時代の統一教会を主導していくべき位置にある若者たちが、率先して動員に応じなければなりません。年老いた人のように、家の中に落ち着き、座っていてはなりません。

 皆さんの一生のうちで、三年だけでも真情なる神様の心情の中で生きることができるということは、大きな祝福だと言わざるをえません。韓国を愛される神様が下さった祝福を、皆さんが分割してもつようになるという結果になるからです。また、皆さんが動員されていく道は、これからすべての統一教会の食口たちが伝統として行くようになるでしょう。それなら、人より前に立っていく人が、より賢明な人になるのです。韓国のことわざに、「打たれるべき鞭なら、早く打たれろ」という言葉があります。

 今回祝福を受けた六〇〇〇家庭の動員令は、先生が韓国と韓国食口たちを愛するゆえになされた決定であるのを知らなければなりません。その道は、統一教会員たちが行くべき道として、先生が譲ってあげた伝統です。先生が皆さんに譲ってあげる伝統は何でしょうか。それは天運が行く心情的主流思想です。(116)













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第三節 祝福家庭の価値と使命

祝福家庭と理想天国

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第三節 祝福家庭の価値と使命


1、祝福家庭の価値


 祝福家庭は、自分によって成されたのではありません。神様、そして先生を中心とした歴史性をもっています。自分たちによって成されたのではなく、他意的に成されたというのです。ここに神様の願いがありました。先生によって祝福家庭が由来しました。イエス様もこのために来られました。

 神様は、神様が知る家庭基準以上の家庭が現れることを願われます。(117)

 祝福家庭は、長成期完成級から出発します。祝福家庭は、ご父母様の赤ん坊たちのように、新しく生まれた立場です。(118)

 祝福家庭とは、堕落したアダムとエバが侍ることのできなかった神様に侍り得る中心土台であり、アダムとエバが天使世界と結ぶことのできなかった関係を、実体生活的な基盤の上で横的に直接連結し得る土台であり、万物を復帰することのできる基盤です。そして、神様の息子・娘の立場、すなわちアダムとエバの完成基準の上に立っているのが祝福家庭です。(119)

 至聖所のような立場に立てたのが祝福家庭です。祝福家庭を、神様は六千年間探してこられました。数多くの預言者たちとイエス様を通して探してこられたのです。

 神様が名状しがたい惨状にぶつかりながらも、皆さんを探し出すために苦労してこられたので、皆さんの個体は、歴史を与えても取り換えることのできない存在なのです。(120)

 祝福家庭は、天地の運勢とも離れることのできない因縁をもつようになります。神様が億千万世、とこしえに大切にしまってきた先祖だといわれ、根の中の根であり、種の中の種だといって、とても貴い立場に立てようとなさるのが祝福家庭です。(121)

 神様の歴史から悲しみを除去するのが祝福家庭です。(122)

 今日、愛を中心として勝利の家庭の因縁を連結させ、この地に再現させたのが、統一教会の祝福家庭です。(123)

 祝福を受けた天の家庭は、すでに恐ろしい名前であり、恐ろしい位置です。それは実体と血統と心情に責任を負った立場だからです。(124)

 私たち祝福家庭とは何でしょうか。つえと同じです。何のつえでしょうか。世界的な死亡の世界を渡っていくことのできる橋であり、そのような道に導くつえだというのです。祝福家庭がそうだというのです。(125)

 すべての縦的な歴史を、横的に蕩減することのできる天の祭壇が家庭なのです。

 家庭を中心として子女を備えて、自分の全所有物を持ち神様の前に臨むとき、初めて縦的な歴史を総合した横的な実体になるのです。神様の前に出るためには、祝福家庭にならなくてはなりません。(126)

 歴史的な縦的因縁を越えたという条件は何でしょうか。祝福家庭を成して、その基準を通過したというのです。(127)

 皆さんは知らないでしょうが、祝福がどれほど難しいでしょうか。天の家庭一つを探し出すために、歴史過程においてどれほど多くの個人が犠牲になり、どれほど多くの家庭と民族と国家が犠牲になったでしょうか。このようにして探し出されたのが、祝福家庭です。(128)

 祝福家庭は宇宙的な家庭であり、縦横の歴史を総合した家庭なので、全体が一致団結して、神様の子供になった道理としてサタン世界を完全に倒さなければなりません。それによって、家庭が天国になり得るのです。(129)

 男性と女性が一つになって家庭を築いてこそ善いことがあるのです。このような立場は神様の有史以前の理想であり、以後の理想でもあります。私たちは地上に暮らしますが、本来地上天国で暮らすはずだったのです。天国(理想)は歴史以前にあったのであり、歴史以後にも残っているのです。(130)

 今日、祝福を受けた家庭は、歴史時代に神様が必要としたどのような特定の個人よりも高貴な存在です。外形的に見ても、具体的な内容をもっているというのです。これは歴史時代を代表し得る天の家庭であり、イエス様が探してこられた家庭であり、数多くの先祖たちが願った家庭です。みんながこの一つの基盤を立てるために闘ってきたのです。このような事実をおいて見るとき、神様が祝福家庭を高次元的な立場で見ておられるということを、皆さんは知らなければなりません。(131)

 統一教会は、今まで家庭救援の目的をもって来ました。ですから、祝福家庭は統一教会の中心です。(132)

 祝福家庭とは何でしょうか。神様を中心とした理想的な家庭を追求するものです。その家庭は、来られる主がもつべき家庭であり、これからの後代の人々ももつべき家庭であり、ここにいるあのおばさんももたなければならない家庭です。(133)

 人類の先祖であるアダムとエバが堕落したので、後孫が血を流し、苦難を経た悲惨な歴史を残してきました。しかし皆さんは、堕落の後孫のような立場ではなく、罪を受け継がない新しい次元での善なる後孫を残すようになるでしょう。ですから、生涯どのような犠牲を支払っても、感謝しなければならず、不平を言ってはなりません。(134)

 今、皆さんの立場はどのような立場でしょうか。皆さんは、神様が四千年の間準備したイスラエルの国を占有した立場であり、イエス様に任せようとしたユダヤ教団を皆さんが相続した立場であり、ヨセフの家庭に与えられたすべての条件を全部占有するようになった立場です。それだけでなく祝福家庭は、イエス様が追われに追われながらも探し出そうとした、新郎新婦の位置を決定づけられた立場です。このようなとてつもない位置にいるので、内外で迫害されるのです。

 私たちは、亡くなられたイエス様が二千年間の苦労を経た後、この地上に再び来て成すべき小羊の婚宴の位置を越えた立場にいます。このような位置にいる私たちは、教会、民族、氏族を失った立場ではなく、かえってそれらを探し出し得る立場にあるのです。このような時なので、祝福を受けた家庭に「民族的メシヤになれ」と言うのです。(135)

 祝福家庭の立場はどのような立場でしょうか。昔、イスラエル民族がユダヤ教を中心としてメシヤを望んだ立場ではなく、メシヤを迎えて新しい氏族編成をして、一段階前進した立場に立ったのが統一教会の祝福家庭です。これを考えると、個人が問題ではありません。その祝福家庭が総合して、新しい歴史をつくりあげなければならない時が来たのを知らなければなりません。(136)

 父母の理念を中心として統一教会を見るとき、祝福を受けた家庭は天の氏族を形成しているのであり、祝福家庭を中心として全体の食口たちは、天の民族を形成しているのです。そのようにしてこの三千万民族に対しているというのです。ここは民族基準だけではなく、氏族基準、家庭基準、個人基準が含まれているのです。そのような縦的な基準が、横的に展開された立場で進んでいるのです。(137)

 祝福家庭は個人のための家庭ではなく、どこまでも民族を代表した家庭であり、世界を代表した家庭であり、天と地を代表した家庭です。このようなことをもう一度自覚しなければならないので、家庭的な試練と蕩減が私たちの前に近づいているのです。(138)

 祝福家庭の立場は、全体を代身した立場です。祝福は、未来世界に対する約束です。祝福家庭は、神様がおられる家庭となって、万民に福を分けてあげることのできる立場に立たなければなりません。(139)

 祝福家庭の価値はとてつもありません。(140)

 統一教会に祝福家庭がいるということはありがたいことです。(141)

 祝福を受けた家庭が先生と同じ心情をもっているならば、その家庭に反対していては、へし折られていきます。(142)

 神様が背後で協助する祝福家庭に反対するようになれば、これからは即時に災いに遭うようになるでしょう。

 神様の愛を中心とした家庭は、サタンが侵犯できないというのが原理観です。(143)

 神様が祝福した心情ほど、祝福を受けた食口を尊重視してこそ福を受けます。祝福を受けた食口たちは、神様の前に出る出入り口です。彼らを通して出たり入ったりするのです。(144)

 ある人は、「文先生はそのような家庭に対してたくさんお話をされますが、統一教会の祝福家庭と私たちの家庭とはどう違いますか」と聞きたいでしょう。祝福家庭でもほかの家庭でも、男性と女性が共に暮らすのは同じです。それでは、何が違うというのですか。また、韓国で一番貧しい者と一番富裕な者を互いに比較してみれば、何が違いますか。同じように目があり、鼻があり、口があり、耳があるというのです。韓国で一番の金持ちでも、こじきの服を着せておけば、こじきのように見えます。こじきではなくても、こじきの役をすれば、こじきに見えるというのです。しかし、こじきの服を着た金持ちが死んだならば、この世の人々は金持ちが死んだと言いますが、こじきが死んだとは言いません。このように表に現れた格好は同じだとしても、その内容が違うというのです。これと同様に、統一教会が違うというのも、その内容が違うというのです。(145)

 今までは、皆さんは家庭を軽視してきました。軽視していた家庭が、知ってみると、皆さんに必要な家庭だったというのです。「捨てた石が隅のかしら石になった」という言葉と同様に、皆さんが今まで無価値なように感じた家庭が、今は絶対的な権威をもって現れる時が来たというのです。このような訳で、祝福が貴いというのです。(146)


2、祝福家庭はご父母様の指導を受けなければならない


 ここにいる婦人たちに一つ聞いてみましょう。夢での啓示や祈祷の中で、先生に時々出会う人、手を挙げてみてください。下ろしてください。特に女性たちは、全部先生の指導を受けなければなりません。皆さんが精誠を尽くせば、教えてくれるようになっています。皆さんは、先生と連結されていなければなりません。それは、思うだけではいけません。祈祷すれば、必ず教えてくれるようになっています。夫婦が一心同体になって祈祷すれば、教えてくれるのです。先生に会いたくて涙し、本部に行きたくて気をもむ心、皆さんが思春期に感じたような、そういう心が生活圏内に深く根づいている、そのような家庭になってみてください。そうすれば、その家庭に神様が共におられるのです。

 婦人食口たちは、必ず先生の指導を受けなければなりません。そして、男性食口たちも、時々でも重要な問題に対しては、先生の教えを受けなければなりません。そうしなくては、神様の家庭になり得ません。そうしようとすれば、祈祷し、精誠を尽くさなければなりません。精誠を尽くすときには、神様の心情を中心として、神様が復帰摂理をする場合どのような面に重点を置かれるかということを知って、精誠を尽くさなければなりません。精誠を尽くしても、神様が教えてくれ得る方向と一致した立場で精誠を尽くさなければならず、かけ離れた立場ではいくら精誠を尽くしても通じないというのです。それゆえ、本部で起こる出来事を早く知りたがる気持ちが誰よりも切実な人は、神様と近い立場を探していくことができるのです。(147)

 家庭が今まで本部を遠ざける生活をしてきたならば、それは間違った生活です。み旨を中心として生活する人ならば、いつでも自分の夫よりも、自分の妻よりも、み旨と一致して先生の家庭を中心として行かなければなりません。そうすれば、先生が直接指導してあげるというのです。これがほかの教会と違う点です。国家と民族を超越して、そのようなことが起こるというのです。それで、わが教会が世界的に発展するのです。(148)

 統一教会員たちは、祈祷や夢での啓示の中で、先生から指導を直接受けなければなりません。わが食口たちの中には、どこに行ってもその場で先生の指示を直接受ける人々がたくさんいます。

 イエス様のとき以上に、実感がわくことがたくさん起こります。わが統一教会員たちは、先生に直接侍って暮らすというのです。統一教会では、イエス様のときよりもすごいことが、時々あるのです。そのようなことがあるので、世界が統一教会と一つになることができるというのです。(149)

 日本の食口たちは、半分以上の約六五パーセントが霊的に先生の指導を受けていました。それを見れば、心霊生活で、彼らが皆さんより前に立っているというのです。祈祷生活を皆さんよりも多くし、切ない気持ちが皆さんより多かったというのです。そうなれば、皆さんは彼らより劣ります。それがなくてはならないというのです。(150)

 今は昔とは違います。昔は縦的な時代でした。縦的な関係を中心として縦的なものを発展させる時だったので、心霊が発達しました。過去には、キリスト教を発展させるために多くの人々が殉教に遭いました。そのような土台の上に、長い歴史を経てキリスト教が世界的に発展しました。しかし、今は違います。東でちらっ、西でちらっとするというのです。分かりますか。先生は今ここにいますが、世界各国を指導しています。ある国は、今この時間が夜の国もあるでしょう。東でちらっ、西でちらっという言葉が合っているというのです。このような役事を今までしているのです。(151)

 これから皆さんが、家庭生活において重要視すべきことは何でしょうか。先生が(皆さんの)妻や子供たちの夢の中に現れて、何か教えてくれたならば、それを信じなければならないというのです。自分の娘が教えを受けたならば、その娘の言葉を神様のみ言のように尊重視し、その教えを絶対視し、そのみ言と一つになって従っていくことのできる家庭環境をつくらなければなりません。夫がその教えを受けられなければ、妻を中心として必ず教えてくれるようになっています。そうなれば、自分の家庭に神様が近づいてくださるということを知って、妻の言葉を神様のみ言と同様に思うのです。そうするのがいいことなのか、悪いことなのか、時がたてば分かるでしょう。

 それを教会の区域長の所に行って鑑定してみれば、一遍に分かります。だから、先生がどのような表情をするので、うれしいことが起こったというのを研究していかなければなりません。祈祷する人には、必ず教えてくれるようになっています。夢や祈祷の中に先生が現れるとき、うれしい表情をすればなぜ喜ばれるのか、悲しい表情をすればなぜ悲しまれるのかを鑑定しなければなりません。悲しい表情も、正面から現れるときと横から現れるときとは違います。また、右側から現れるときと左側から現れるときとは違い、上から現れるときと下から現れるときとは違うというのです。そのようなことを全部鑑定しなければならないのです。

 そのようなことがあれば、それを中心として統計を出してそこに合わせていけば、今、神様が自分の家庭に対してどのように動いておられ、これから自分の家庭がどうなるかをすべて知って行くことができるというのです。自分の家庭に先生からそのように教えを受ける食口がいれば、その食口を中心として夜を明かしながらも、食口全部がその話を聞き、何をどのようにどうしていかなければならないかを決定し誓い、積んで上がっていかなければならないのです。

 このように一人を中心として、そこに同調するようになれば、その人が必ず教えを受けるのです。完全なプラスがあれば完全なマイナスが生じるのと同様に、それがその家庭に一度、二度、三度だけぴったり的中すれば、夫だとかあるいは息子・娘が、それを一番気にするようになるというのです。そうして霊的基盤を広げていくのです。ところが皆さんは、今までそのような夢も見ずにきたでしょう。ですから、祈祷しなければなりません。精誠を尽くさなければなりません。そのような経験があってこそ、神様がおられるということも分かり、信仰生活もうまくいくのです。そうなっているのです。(152)

 皆さんの中で、祝福を受けた家庭は手を挙げてごらんなさい。本当に多いですね。この祝福家庭は、何を中心として生まれましたか。朴氏なら朴氏、金氏なら金氏の氏族が豊かに暮らせと、祝福をしてあげたのではありません。愛する夫と妻が、体は二つであっても一つだと言えなければなりません。しかし、夫婦が一つになるにおいて、愛なく一つになり得ますか。また、民族を統一し民族が団結する場合、民族を愛する愛国精神なくしてできますか。愛を無視し、手段方法によって一つになれという、そのような主張があるならば、それは滅ぶべき主張です。

 共産党の主張がまさにそのような主張です。共産党は脅威、恐喝、脅迫をして強制的に従わせます。ここに立ち向かえば、打たれるので無理にでも一つになるのです。仕方なく外的にでも一つになります。しかし、そのように一つになったものは、強制力さえなくなれば、すぐに背を向けるようになるのです。背を向けますか、背を向けませんか。必ずそのようになるときが来るのです。わが統一教会がそれを操縦しようとします。

 私は、そのような家庭が築かれることを願っています。皆さんは私より優れているので、そのようなことを願わないでしょう。私は皆さんより劣っていますが、そのような家庭を願っていきます。皆さんは今の家庭そのままがいいでしょう。そのような家庭を願っていきますか。皆さんもそのような家庭を願っていますか。そのような家庭になることを願わなければならないと思いますか。それなら、寂しくても私の話を聞きなさい。このような家庭になることを願うなら、私の話を聞くのです。私が金脈を知っているので、皆さんは、私の言うとおりにしてください。崖に登るときにも、私が逆さまに登れと言えば、皆さんは逆さまに登るのです。必ずそのようにしなさい。頂上に行くときまでは、独裁をするように見えるでしょう。誰が苦労して行きたいでしょうか。しかし行ってみれば、「おう!」と、感嘆するようになるのです。

 皆さんの中にも、牛を育てながら飼い葉を食べさせてみた人がいるでしょう。梅雨や天気の悪い日には、牛に飼い葉を食べさせるのが本当に嫌です。私も昔、牛の飼い葉を食べさせにいって、牛にむちを打ちもしました。今笑っている人々は、そのような経験があって通じるようですね。私だけそうしたのではないというのです。父母が、牛を引いていって飼い葉を腹いっぱい食べさせ、何時まで帰れと言ったのに、平地には草が一本もなかったらどうしますか。そのようなときには、「えい、知るものか。裏山にお父さんが一番愛する草原があるから、そこに行って食べさせよう」と、その険しい山に引いて登っていくのです。ところが、この牛が登らず、中間でわずかな草を食べようとするのです。そうしたら、「この牛の野郎」と言って、いきなり強く打ち、棒でたたくのです。それでも、かわいそうではないのです。そういうことを感じてみましたか。このように無理やり引っ張って、川を渡り山に登らせ、ぱっとその場で放してやれば、その牛はどうするでしょうか。食べるなと言ったなら、食べないでしょうか。そのときは、舌はもちろん、唇、耳、目まですべて、ありがとうと言いながら、一心不乱に食べるようになっているのです。

 先生がそうすることのできる所を知っているので、今まで皆さんを押し出しながら行くのですが、皆さんはそれを知らずにいるというのです。皆さんは、そのような所があるということも知らないのです。皆さんがそのようなことをはっきり知っていれば、むしろ押し出してくれるのを願うでしょう。何の話か分かりますか。(153)


3、祝福をしてくださった理由


 皆さんは、統一教会で祝福を受けなければなりません。先生が今まで世界的に祝福をしてあげたのは何かといえば、皆さんが世界に出ていき得る道を立てておいたのです。すなわち、イエス様が一代で成さなければなりませんでしたが、その責任を果たせなかったのを、先生が全部復帰させておいたというのです。ですから、もう統一教会は滅びません。先生がちまたで客死することがあっても、統一教会の思想は世界を支配して余りあるでしょう。(154)

 統一教会では、善男善女に公的な立場で世界の標本的な家庭になるようにと、祝福をしてあげました。(155)

 統一教会で善男善女が一定の資格を備えれば祝福をしてあげるのは、永遠の神様の息子・娘になれということです。(156)

 この世では仲人が仲立ちすれば、贈り物ももらいますが、私は私のお金を使いながらしました。皆さんを結婚させてあげたのは、皆さんからお金をもらおうと、結婚させたのではありません。誰よりも豊かに暮らせと、してあげたのです。(157)

 統一教会員たちはどこに行くのでしょうか。皆さんを祝福してあげたのは、両腕、両足になって、民族のために闘いいく夫婦になれと祝福してあげたのです。(158)

 統一教会の文先生は、皆さん個人のために祝福をしてあげるのではなく、皆さんの後孫のために祝福をしてあげるのです。(159)

 皆さんが祝福を受けた家庭になったのは、天が苦労された功績の土台によって許された福です。天がそのような福を与えるのは、その福をただそのまま継承してその場で幸福を享受するために与えるのではありません。氏族を探し出す責任を担うために祝福してくださったことを知らなければなりません。(160)

 祝福をしてあげるのは、彼らに新しい使命である氏族のメシヤの資格を付与してあげるためであるともいえます。イエス様が願われた新郎新婦の理想を完成した立場に立て、神様を代身した立場に先生が立って、彼らに横的なメシヤの使命を付与してあげるのです。(161)


4、祝福家庭の使命と責任


 神様の祝福を受けた者は、神様の代身者なのです。したがって、皆さんは祝福を受ければ家庭を備えて、サタンを屈服させなければなりません。サタンを審判しなければなりません。そして、その次には四位基台を復帰して勝利的主管者にならなければなりません。(162)

 祝福家庭は天の最も貴い愛を受け、生命を受けたので、サタン世界を天の側に復帰するために、無言の従順と祭物の思想をもって、後世万民が痛哭し望むべき天の伝統を立てていかなければなりません。(163)

 統一教会で祝福を受けた若い家庭は、伝統を立てなければなりません。堂々たる伝統を立て、これを家庭、氏族、民族、国家、世界にまで拡大させなければなりません。その伝統を誰かに壊されないようにするためには、最高に難しい立場で立たなければなりません。

 先生の一生を顧みれば、悲惨なことの連続でした。だから物議が多く、痛哭すべきことが多く、あきれたことが多いです。これが人間生活の面白さだということを知らなければなりません。輝かしい伝統は、その中に埋められているからです。(164)

 統一教会が行く道において、個人的な十字架を先生が負ってきています。家庭的な十字架の道までも先生が負ってきました。皆さんはその内容を知りません。これを知ろうとすれば、原理を詳しく知らなければならず、祈祷を十年以上はしなければなりません。父母が苦労した内容を話さなければ、子供は知りません。父母が言葉に表すことのできないそのような事由が宿っています。このような先生の家庭を中心として、統一教会の祝福家庭が氏族になり、この地上のすべての民族を復帰しなければならない使命を負っています。このようにどんどん大きくなっていくのです。(165)

 祝福家庭は家庭の父母としてとどまるのではなく、最低、氏族と民族の父母にはならなければなりません。信念をもち民族を愛することができなければ、災いを受けます。イエス様は理念をもって天と地を抱きました。(166)

 この国を守るべき人は誰でしょうか。私たちが守らなければなりません。そのような信念を誓い、天の前にきょうを守ることのできるわが祝福家庭になったかという問題を考えてみなさい。(167)

 祝福家庭は、復帰路程で誰よりも先頭に立って蕩減の道を行かなければなりません。その道は、自分の蕩減条件よりは国家と民族が立てるべき蕩減条件を背に負って行く道なので、後孫の前に誇るべき先祖になるのです。神様の国を立てるときまでは、祝福家庭が先頭に立って、地上の安息とともに永遠なる霊界の安息の基準をつくらなければなりません。そのような伝統が立てられたならば、祝福家庭は関心の的になるでしょう。(168)

 私たちの使命は大きいです。天と地を復帰するための使命と蕩減を背負い、祭物的な場に行かなければなりません。(169)

 人類の前に、先に愛によって召命を受けた統一教会員たち、その中でも先に祝福を受けた家庭は、絶対的な責任感を痛感して、神様の心情とみ旨を隣人と社会に伝え、成すべき使命があります。(170)

 私たちは、近い将来に世界を制覇するときが来るという信念をもって行かなければなりません。もし環境がそのようになっていないといっても、そのまま信じて行くことができなければなりません。そうして、勝利の旗を高らかに掲げ、前線の王者王女になって、天の国を創建しようという信念をもって行かなければなりません。今から、天国建設は祝福家庭の使命だということを、皆さんははっきり知らなければなりません。(171)

 神様の六千年の苦労と再臨主の苦難にわが祝福家庭が責任を負い、この地と万民と天を私たちのものにしなければなりません。そうして、創造理想を実現しようとするところに、祝福の意義があるのです。ですから、私たちがその苦痛に責任を負わなければなりません。(172)

 祝福家庭の責任は、とてつもなく大きいという事実を知らなければなりません。何千年目に訪れた天の恩賜を受け、それを永生福楽の自分の資源として引き継ぐことができなければなりません。(173)

 祝福は決してただで来たのではありません。必ず責任を伴うのです。(174)


5、祭司長の使命を果たすべき祝福家庭


 祝福を受ければどうなりますか。アダムとエバが堕落する直前の段階に復帰するようになります。それでは、何をすべきでしょうか。完成すべき段階が残っているので、神様の心情を悟っていかなければなりません。この過程で、神様が堕落した人間を救うために苦労された内的な事情を全部体得しなければならないのです。神様がこの地上に愛するひとり子を送られ、復帰歴史に責任を負って行かせたのと同様に、祝福家庭も自分の子女たちを祭物として、サタンの世の中に出さなければなりません。自分の息子・娘をおぶって行き来しながら、ヨセフとマリヤがイエス様を抱き、エジプトに行って避難したのと同じ生活をしなければならないのです。この人類のためなので、「私たちを愛されるお父様が守ってくださるだろう」と言わなければなりません。そうすれば、神様は彼らを通して、この世に実体として来られる主のような立場にお立てになるでしょう。ですから、最後まで残って責任を果たさなければなりません。「私は祝福家庭なので、もてなせ」と言っていると、へし折られていきます。(175)

 祝福を受けた私たちは、何をしなければならないでしょうか。イエス様がこの地上で果たせなかったことを果たさなければなりません。そのような立場を越えられなければ、神様の息子になれません。イエス様は、責任を果たせず死ぬことによって神様の息子になりましたが、私たちは生きて神様の息子になれるというのです。そうなれば、イエス様より私たちが勝るという結論が出てきます。そうではないですか。

 イエス様は十二弟子を従えましたが、氏族と民族を編成できず、十二弟子を糾合し引っ張っていくべき三弟子までも失ってしまったので、仕方なくサタン世界から追放されざるを得ませんでした。このようにイエス様は、国から追われ、教会から追われ、家庭から追われ、弟子たちに追われ、しまいには三弟子にまで追われたので、一番どん底のサタンの前に祭物になるしかなかったのです。(176)

 祝福家庭は数多くの民族の前に模範となり、数多くの教会の前に模範とならなければなりません。ヨセフの家庭が責任を果たせなかったのを、皆さんの家庭が立派に果たすことによって蕩減復帰し、ヨセフの家庭が責任を果たせずユダヤ教が責任を果たせなかったのを、私たちが教団的に蕩減復帰して越えていかなければならないというのです。そうして、家庭的失敗、氏族的失敗を国家基準を中心として一時に蕩減復帰し、越えようというのです。それが昨年の冬、皆さんの家庭がしたことでした。それは誰が責任を果たせなかったからですか。マリヤが責任を果たせなかったからです。(177)

 神様があなたたちの家庭でなければと、立ててくれるのを願う前に、神様が呼び立てることができるように悔い改めの涙を流し、自分の家庭を神様の懐に抱かせ捧げる使命を果たさなければならないのが、統一教会の家庭です。それにもかかわらず、そのような価値を知っている祝福家庭がどれほどいますか。(178)

 わが祝福家庭が、自分たちだけが出ていって住もうと考えれば、それは大きな誤算だというのです。自分たちが祝福を受けたのは、先生の家庭のために、アベル的な立場を相対的に防御するために祝福を受けたのです。(179)

 家庭はただ、来られる主の家庭と生命と財産を保護するためにあるのです。彼らの生命と財産そのすべてのものは、主の家庭と主の生命が発展するためにあるのです。発展するためにはどうしなければならないでしょうか。このような者たちを肥料として吸収しなければならないのです。発展の原則がそうです。発展しようとすれば、必ずほかの分野から補給してやらなければなりません。補給してやらなくては、発展していくことができないのです。そうではないですか。補給を受けなくては、発展することができないというのです。(180)

 祝福家庭は、祭司長の使命を果たさなければなりません。祭司長は、神様が下さるもの以外には分配されるべき所有物がありません。一万名が精誠を尽くした供え物を処理するためには、一万名の中のどの人の精誠より勝る誠意をもたなければなりません。そうでなければ法度に引っかかります。(181)

 今から二千年前に、ユダヤ人が個人的にイエス様を神様の内的なみ旨と一致し得る立場で守れなかったので、イエス様は個人的な基盤を立てられずに逝ったのです。

 その次には、ヨセフの家庭やザカリヤの家庭が、イエス様が立つことのできる家庭を守れませんでした。そのことをしなければなりません。個人だけでなく家庭的にも、先生の家庭が歩むべきすべての受難の道を外的であろうと内的であろうとどこまでも責任を負おうという、守ろうという家庭がなければなりません。(182)

 今、皆さんは生きていくにおいて、父母と一つになること以外にありません。その次には、ご父母様の家庭の四位基台と一つになるのです。それでは、皆さんはこれからどうしなければならないでしょうか。天の伝統を立てるためには、カインはアベルの行くべき道を立ててあげなければなりません。また、天使長は、アダムが暮らすことのできる環境や法度を立てるにおいて忠臣の道理を果たし、神様のみ旨の前にずれない道を行かなければなりません。

 これと同様に皆さんは、先生の家庭の赤ん坊たちが将来天の国の生活をすることのできる環境を用意しなければなりません。ですから皆さんは、すべての面で彼らの模範にならなければなりません。皆さんが「ああ、先生の息子は行儀が悪いな」と思うのではなく、そのようにしなければならないというのです。何の話か分かりますか。

 皆さん自らの言葉や行動が彼らの前に模範となり、彼らが、天の息子として差し障りのない完全な立場で万宇宙を代身するようになるとき、皆さんは天使長の立場で忠臣になり得るのです。天使長は忠臣として幼いアダムとエバを育て、天法に一致できるように行動をもって模範を示してあげるべき使命をもっていました。このように皆さんは、自動的に模範にならなければなりません。(183)

 堕落したアダムとエバの家庭では、カインも父母の伝統を受け継ぐことができず、アベルも父母の伝統を受け継ぐことができませんでした。これがどれほど悔しく憤懣やるかたないことでしょうか。それゆえ、彼らはかわいそうです。父母がいても父母の伝統を受け継ぐことができないので、あきれ返るというのです。

 しかし、皆さんは先生を中心として、カインも伝統を受け継ぐことができ、アベルも伝統を受け継ぐことができるのです。皆さんは、そのような恵沢圏内に生きているという事実に、ありがたさを感じることができなければなりません。この立場は本当に恐ろしい立場です。皆さんがある手段や方法を通して上がってきた立場ではないというのです。この立場は、父母の特権的な恵沢によって子女を生んであげる立場なのです。それゆえ皆さんは、心情的一致点を中心として生死のすべてを共にすることができなければなりません。「私」が死んだとしても、父母を二度殺してはならないのです。(184)

 ペテロ、ヨハネ、ヤコブ、この三弟子には、イエス様がお父さんのような立場でした。それにもかかわらず、彼らはお父さんが死地に行くのを見て、逃げ出しました。親不孝極まりない者たちだというのです。

 このような恨みの歴史を顧みるとき、皆さんはご父母様の前に横たわっているいかなる死の道をもふさぎ、孝行の道理を果たさなければならないと決意しなければなりません。自分が破綻するとしても、当然行くべき道として行かなければなりません。そうでなければならないのです。(185)

 家庭が教会を助けてあげなければならないのです。統一教会がいかに大きく、統一教会の思想がいかに偉大だといっても、理想的な家庭の思想を飛ばしては考えることができないのです。しかし、今までそのような基台が築かれなかったので、皆さんの家庭がこれを強固にしなければなりません。だから、サタンが引き離そうとしても引き離すことのできない家庭的な基盤を、皆さんが闘って固めなければなりません。すなわち、蕩減復帰すべき五パーセントの責任を果たすべきだというのです。(186)

 悲惨なことを先に受ける人は祭司長です。ですから、祝福家庭が先に悲惨なことを受けなければなりません。(187)


6、三時代の使命に責任を負うべき祝福家庭


 皆さんはたとえ一時代に生きていても、三時代の使命に結末をつけておかなければなりません。なぜそうしなければならないのでしょうか。本来、人間が堕落しなかったならば、過去、現在、未来が一点から始まるはずでした。ところが堕落することにより、これがそれぞれ隔たるようになったのです。すなわち、私たちには過去に事件があり、現代に事件が発生し、未来に事件が発生し得る足場が残っているのです。

 ですから、これを全部統合させ、天の一家庭を中心として解決したという条件を立てなくては、先祖から今まで残された氏族を、その後孫たちが地上で蕩減復帰することができないのです。ですから、金某が祝福を受けたならば、その金某の一家庭を救うために祝福を受けたと考えてはなりません。彼は自分の氏族全体を代表して祝福を受けたので、その氏族と連関された責任があります。その責任は縦的には過去、現在、未来が連結されています。これを皆さんが一時に蕩減復帰しなければならないというのです。縦的な歴史を横的に蕩減復帰しなければならないというのです。(188)

 皆さんは三時代の使命を、皆さんの当代に解決して行かなければなりません。これが祝福を受けた家庭の責任です。皆さんが誤れば、霊界にいる先祖たちが引っかかっていくのです。自分の先祖だけでなく現在の氏族や、親戚全部に支障を与えるというのです。(189)

 祝福を受けた家庭の立場は、イエス様を中心として見れば、イエス様の願いを代身して果たした立場です。それゆえイエス様のときに、イエス様によって旧約時代のすべての霊人たちが再臨復活し、長成級に上がっていくことのできる特別の恩恵を受けたのと同様に、皆さんの先祖たちは今まで、復帰摂理の路程には何らの関係もありませんでしたが、祝福を受けた皆さんを通してそのような特別の恩恵を受けることができるというのです。それは皆さんが祝福を受けることによって先祖たちと関係を結び得る内的勝利の条件を備えておいたので、その先祖たちは復帰摂理の途上で協助しませんでしたが、この道にさえ従ってくれば、皆さんが結実した価値を標準として、み旨の前に実を結ぶというのです。それは六千年の因縁を経て結ぶ実です。

 先生を中心として関係して結ばれた実がアベル的な実ならば、彼らはカイン的な立場で相対的関係をもつというのです。このように相対的関係をもつことができるので、アベル的実の因縁を、カイン的実の価値基準として主張することができるというのです。

 皆さんの先祖たちはみ旨の前に協助した人々でもなく、蕩減復帰摂理時代においての功臣でもありませんが、彼らは皆さんの活動いかんによって、昔み旨の前に協助した功臣たちと対等なる価値をもって、地上に対することができるのです。

 言い換えれば、アブラハムの直系の血統を受け継いだ者たちだけが地上に再臨できるのですが、皆さんが祝福を受けることによって、皆さんの先祖たちが皆さんを通して再臨できる、特権的な恵沢が与えられたというのです。すなわち、皆さんの先祖たちが、イエス様の来るときまでみ旨の前に忠誠を尽くした忠臣の列に同参した資格をもって、皆さんの家庭を通し横的に再臨復活の役事をすることができるというのです。(190)

 皆さんは何の苦労もしませんでしたが、数千年歴史を経てきたイスラエル全体の祝福の権限を相続しうる実体になったという事実、これはどんなにとてつもないことですか。そのようなことを知れば、動かないでいようとしても動かざるを得ず、失敗もできないというのです。ところがこれを知らないので、風にゆすられ、行ったり来たりするのです。

 もし皆さんがこのようなみ旨を知っても責任を果たせなくなれば、皆さんの先祖たちが騒ぎ立てるというのです。先祖たちが、皆さんに対して騒ぎ立てるのです。それゆえ、み旨を知ってもみ旨の前に責任を果たせない人々は、将来、名前も分からない病気になるだろうと思います。その先祖たちが来て、生きられないようにするというのです。

 皆さんは三時代の中間の立場に処しているので、今日、皆さんの家庭が標準になり、また、皆さんの家庭が責任を果たせば、歴史を生かし、現在を生かし、未来を生かすのです。しかし、皆さんの家庭が誤れば、歴史を滅ぼし、現在を滅ぼし、未来を滅ぼすのです。すなわち、責任を果たせば三時代を生かすのであり、誤れば三時代を滅ぼすのです。このようなとてつもない三時代の責任を果たすか果たせないかということが、皆さんにかかっているので、貴いというのです。それゆえ、先祖たちがここに屈服するのです。(191)

 皆さんが過去、現在、未来をすべて占有するためには、皆さん自体が過去、現在、未来を通じた心情的な代表者にならなければなりません。家庭がそのような心情的な代表にならなければならず、氏族がそのような心情的な代表にならなければなりません。そうなれば、そのような個人、家庭、氏族は世界を指導できるのです。(192)

 今日の生活は、私自体だけのための生活ではなく、歴史的に延長されてきた生活であり、人類を代身した生活であり、未来の生活を保障するための生活だということを自覚しなければなりません。歴史を輝かせ、時代を立て、未来のための定礎石を残しておくべき立場であることを自覚し、自分の一日の生活を通して生涯の路程を開拓する人にならなければなりません。(193)

 皆さんには過去、現在、未来の三時代を解放しなければならない使命があります。後孫たちに蕩減の苦役を残さないためには、確実な勝利の伝統を残さなければなりません。祝福を受けた立場は、過去はもちろん、全人類が見つめる立場であり、重大な使命をもった立場であるのを知らなければなりません。(194)


7、氏族的メシヤとなれ


 今まで長々と続いた歴史過程で、復帰摂理の使命を担当して行き来した数多くの人々が願ったことが何だったかといえば、個人が天と一体化することでした。その次には、この願いの基準を拡大させ、家庭が神様と一つになることです。ところが家庭が一つになったとしてもそれで終わるのではありません。絶対的な中心の相対になった後には、第二の主体の立場で、自分の氏族を率いて永遠の中心と一体化させるべき問題にぶつかるようになるのです。(195)

 統一はまず夫婦が一つになるのです。男性メシヤがいれば、女性メシヤもいなければならないので、家庭的メシヤとして主は来られます。堕落はアダムとエバ二人でしたので、復帰も二人がしなければなりません。氏族的メシヤになるのです。(196)

 家庭は家庭にとどまるのではなく、氏族が必要です。先祖として責任を完成しなければなりません。祝福を受け、公職にいない人は脱線したのです。(197)

 皆さんは今どのような立場にいるでしょうか。イエス様は聖婚、すなわち小羊の婚宴をすることができず、家庭的な基準を立てられないで十字架で亡くなられました。それゆえ、二千年間待ち焦がれたその基準を、今日、祝福を受けた家庭が勝利した家庭の立場で、氏族、民族、国家に対し得る基準を立てなければならない立場に立っています。すなわち、氏族的なメシヤとして使命を果たすことのできる時が来たということを、皆さんは知らなければなりません。(198)

 氏族的なメシヤになるにおいて、神様の愛と一つにならずになれるでしょうか。神様の愛と一つになれなければ、メシヤになれません。そのような基準に立った男性と女性になってこそ、祝福を受けて家庭を築くことができるのです。聖霊とイエス様が一つになる役事をすることによって信仰の息子・娘が生まれ出るように、皆さんも実体で一つになる基準を立て、平面的な立場で息子・娘を繁殖できるようになるのです。そうすることができてこそ、氏族的なメシヤだといえるのです。(199)

 皆さんは、自分の息子・娘に影響を及ぼすことのできる父母にならなければなりません。これが第一の使命です。そうしようとすれば、教会生活や公的生活を徹底的にしなければならず、私的生活において模範にならなければなりません。これは子女をして、今後み旨の道を行くことができるように教育するために絶対必要なのです。分かるでしょう。

 その次には、一九六八年度に四三〇家庭を祝福するとき先生が指示したように、氏族のメシヤになれというのです。その使命を果たさなければなりません。先生を中心として最初の三六家庭が組織されているように、金氏なら金氏の家門で先に祝福を受けた家庭を中心として、金氏の家門の三六家庭型がなければなりません。分かりますか。三十六家庭をつくれないなら、皆さんは十二家庭型の先祖にでもならなければなりません。それは皆さんが父母なので、皆さんの息子・娘を中心として、三位基台を成してその基準をつくっていかなければなりません。

 そうして、皆さんが皆さんの氏族の先祖になり、皆さんの家庭を中心とした新しい支派の編成をすべきではないですか。それが十二支派型ですが、それを形成すれば、その十二支派圏内に全部入るのです。十二支派の形態と同様に、十二弟子がいなければならず、十二弟子が中心になって七十門徒になり、ひいては百二十門徒と同じ形態を備えていかなければなりません。これが直系氏族です。(200)

 これから、皆さんが実績を積み上げれば、積み上げたすべてのものが皆さんのものになります。蕩減が必要のない時代が来ました。今からは、兄嫁の親族の八親等まで訪ね回りながら、伝道しなければなりません。こうすれば、たやすく一年以内に十二名以上伝道できるでしょう。皆さんを中心とした四方を築き、四季節に三名ずつ、十二名を探せというのです。霊界の十二真珠門を代表的に通過できる、代表的に門を守るべき人が必要です。そこには、兄さん、姉さん、弟などみんな親戚なので、イエス様を売り飛ばす弟子のような人は出てこないでしょう。皆さんはイエス様と違い、家庭的にそのような環境をもつことができるので、イエス様よりもっといい立場にいると見ることができます。また、皆さんは外部に出ずに家庭をもてることがイエス様よりましです。皆さんは、蕩減条件を立てずに世界まで行くことができます。このような道を経るためには、天の国に十二真珠門があるように、地上に十二弟子がいなければなりません。それが蘇生ならば、七十二門徒は長成格で百二十門徒は完成格です。これが三年以内にできると見ます。

 先生は蘇生十二家庭、長成十二家庭、完成十二家庭を合わせた三六家庭と七二家庭、一二〇家庭、四三〇家庭、七七七家庭、一八〇〇家庭を祝福しました。三六家庭は旧約、新約、成約時代を代表した十二家庭を合わせたものです。三家庭はアダム、ノア、ヤコブ家庭を代表しています。皆さんはそのような数字を探し、結婚はさせてあげなくても、その形態はすべて合わせなければなりません。皆さんが私より立派ならば、外部の人にそのようにすることができるというのです。先生は、皆さんがうらやましいです。先生は迫害と反対を受けながら、このようなことをしてきました。いつも生死の境を行き来しながらこのようなことをしました。(201)

 皆さんが氏族復帰をすれば、そこには三家庭がおのずとあるのであり、十二家庭もおのずとあるのであり、三六家庭も七二家庭もおのずとあるのであり、一二四家庭もおのずとあるのです。それゆえ、氏族復帰をしなければならないというのです。このような使命が皆さんに残っているのを知らなければなりません。

 氏族復帰をする道が天に行く道であり、氏族復帰をすることによって、世界に行くことのできる道が開かれるのです。寝ても覚めてもそのために努力することによって新しい国が建てられるのであり、自分を栄光でもって迎え侍ることのできる国が現れるようになるのであり、今までの自分の苦労を称賛し得る国が現れるようになるのです。これを考えれば、寝ても覚めても食べても、家庭が越えるべき試練をどのように越えるかということが問題です。食べて暮らすことが問題ではないというのです。私に任せられた課業をどのように完遂するか、これが問題なのです。(202)

 祝福を受けた家庭を中心として、金氏なら金氏の宗会(=一族の会合)をつくり、朴氏なら朴氏の宗会をつくり、文氏なら文氏の宗会をつくるのです。そうして、これから何をするのでしょうか。文氏の宗会を相続しなければなりません。そして、この宗会がほかの宗会の前にアベルの宗会にならなければなりません。

 それでは、これから宗会を収拾する作戦をどのようにするのでしょうか。金氏なら金氏全体が合わさって、金氏の宗会を生かすために、金氏の宗会を発展させるために、努力の限りを尽くさなければなりません。教育機関もつくらなければなりません。ほかのいろいろな仕事もしなければなりません。だから、皆さんの門中が社会に影響を及ぼし得る足場をつくってこそ、天上世界にいる先祖たちが地上に再臨し得る足場が広げられるのです。

 霊人たちが地上に再臨し協助するにおいて、金氏の先祖が朴氏の家門に行って協助するのは、ほとんど不可能だというのです。通ずるべき道がないのです。このように皆さんには霊界と肉界を連結させ蕩減復帰すべき重大な責任が残っているのです。(203)

 今からは祝福家庭を中心として、氏族ができ上がってくるようになります。ですから皆さんは、氏族的なメシヤとしての使命を果たさなければなりません。これからの教会は族長を中心として築かれます。祝福を受けた人々は、全部族長たちです。(204)

 皆さんの家庭には、氏族を復帰しなければならない、とてつもない使命が賦課されているということを知らなければなりません。氏族を復帰するためには、皆さんが昔、愛した人々や友達に手紙を出した以上に手紙を出さなければなりません。倍以上の精誠を尽くさなければなりません。女性たちも自分のお母さん、お父さんを恋しがるそれ以上の恋しい気持ちをもって、自分の親族に精誠を尽くさなければなりません。それでこそ、復帰されるというのです。彼らに対して愛の心情を再誘発させなければ、復帰がなされないのです。そうか、そうでないか、霊界に行けば良く分かります。(205)

 地獄という所は、一度引っかかって入れば永遠に抜け出ることができない所です。それでも皆さんは、自分のお母さん、お父さん、そして親戚が地獄に行くということを実感できません。ただ、どうにかなるだろうと、そのままにします。しかし、愛する父母が、本当に地獄に行くと考えてごらんなさい。この世の監獄でさえ、入るといって泣きわめきながら、ありとあらゆることをし尽くしても引っ張り出そうとするのが人情なのに、まして天情で結ばれた息子・娘が、自分の父母と親戚、兄弟と姉妹すべてが永遠に出てこられない監獄に行くということを知るならば、そのようにしますか。

 皆さんはいまだに何も知らないのです。地獄があるのかないのか、原理があることはありますが、どのようなものなのか知らずにいるというのです。皆さん、本当に分かりますか、分かりませんか。はっきりしないでしょう。間違いなく、はっきりしないでしょう。しかし皆さんが死んでみれば、分かるのです。死んでみれば、一遍に分かりますが、そのときにはもう遅いというのです。

 それで今、死んだ父母たちが霊的に現れ、伝道をたくさんします。自分たちが統一教会に通う息子に反対し、死んで霊界に行ってみれば、大変なことになったのですからね。それで霊的に現れて、伝道する霊人たちがたくさんいます。そうしなければ、三世界で引っかかるからです。分かりますか。自分の息子・娘が統一教会に行くのを反対し、行けなくすれば、三世界で引っかかるというのです。(206)

 先生は今までみ旨の道を歩んできましたが、氏族復帰の使命を果たせませんでした。これは、国家基準を越える前にはなされません。イエス様が国家基準に引っかかって倒れたので、その基準を越える前に、自分の家庭を先に愛するようになっていません。イエス様がヨセフの家庭を中心として愛することのできる基盤を失ってしまったので、これを再び捜し出すためには、国家に追われたのを蕩減復帰し、戻ってこなければならないのです。このような基盤を先生が立てておいたので、皆さんはその基盤の上で、皆さんの当代に祝福とともに氏族的基盤をもつことができるというのです。ですから、どれほど栄光ですか。これを知って感謝しなければならないにもかかわらず、その責任を果たし切れなくなれば、その家庭は責任追及を受けないのかというのです。責任追及を受けるというのです。このような立場から、家庭の責任もありますが、これからはその家庭が氏族的メシヤの使命を果たし切らなければなりません。(207)

 今、新しい家庭と氏族の基盤を立てたので、皆さんの時代には氏族復帰という歴史的に驚くべき恵沢圏内に入ってきたのです。そうして皆さんには、お父さん、お母さんに伝道でき、お兄さん、お姉さんの前に伝道できる時が到来したのです。

 復帰歴史は家庭を探し出すためのものですが、ほかの家庭を復帰するよりも、自分の血縁を通して復帰すれば、どれほど早いでしょうか。皆さんが父母や兄弟たちを伝道しろという話を聞くことができるのは、先生一代においては夢のような話です。(208)

 皆さんが、み旨を知った立場に立って本当の意味の統一教会員になろうとすれば、一線に出て個人的、家庭的、氏族的に勝利しなければなりません。少なくとも氏族的に勝利しなければなりません。それゆえ、祝福を受けた家庭は、氏族的なメシヤの使命を果たさなければなりません。それをしなければならない期間が第二次七年路程です。ですから、この期間に伝統を立てなければならないのです。

 七年路程には、この使命を中心として生き、この使命を中心として闘い、この使命を中心として死ななければなりません。勝敗の条件が七年路程を中心として決定されるのであり、全面的な進撃もこの七年路程を中心としてしなければならないのです。ですから、皆さんもここで伝統を確立しなければなりません。(209)

 祝福家庭の男性はイエス様の実体の立場であり、女性は聖霊の実体の立場です。すなわち、イエス様と聖霊がイスラエル民族を救おうと立ち上がったように、生きてこの民族を救おうと、ためらわず立ち上がる立場がまさに祝福家庭の立場です。ですから、祝福家庭は氏族的なメシヤとして出発できます。(210)

 皆さんは家庭を導き、イスラエルの地を探していかなければなりません。皆さんには、そのような責任があります。イスラエルの十二支派が、自分が分配される地を探していったのと同様に、皆さんは今、家庭を導き氏族的な土台の相続地を探していかなければなりません。その期間が一九七〇年度から一九七二年度までですが、このときは世界的に一つの分水嶺を越えていくときです。(211)

 先生の家庭生活と皆さんの家庭生活は同じです。先生を中心として一つの氏族的な生活と皆さんの氏族的生活も同じであり、民族的、国家的、世界的、宇宙的な生活様式も、範囲が広いだけでその公式的内容は同じです。ですから先生は、皆さんに氏族的メシヤになれと頼むのです。(212)


8、既成祝福家庭の使命


 既成祝福家庭には問題があります。その既成家庭が問題になるというのです。霊界に行くようになれば、違うというのです。正式に童貞、処女が祝福されたのと、既成家庭が受けた祝福は違うというのです。霊界は三層になっています。現社会にも上中下があるように、霊界でもそうだというのです。それなら、三六家庭を見るとき、言い換えれば、それぞれ十二家庭としてアダム家庭、ノア家庭、ヤコブ家庭を代身した三六家庭をおいて見るとき、どの家庭が最も貴いかといえば、一番最後の家庭が最も貴いのです。これからは、そのような家庭に仕えなければならないというのです。今はそのような時ではないのでそうですが、すべて差があるのです。違うというのです。

 それは、なぜでしょうか。堕落した世界を救うためです。今まで自分勝手に結婚して暮らし、死んでいった霊人たちがたくさんいます。そのように死んでいった人々が多いので、後孫がその門を開かなければなりません。その門が開かれれば、彼らが生きられるというのです。それが蘇生段階です。次が長成段階、その次が完成段階、このように三段階があります。これを規範化させなければなりませんが、まだそこまでは行っていません。(213)

 皆さん、既成祝福を受けた家庭と、処女、童貞が祝福を受けた家庭と、同じですか、違いますか。違うというのです。霊界組織で見ようとすれば、皆さんは蘇生期に該当します。それなら、将来皆さんの息子・娘はどのように結婚をしますか。これが問題になるのです。既成家庭も祝福家庭だといって、三六家庭やほかの家庭の子女たちと結婚するようになっていません。原則的な秩序に従って結婚をしなければならないのです。そうではないですか。

 祝福家庭にも三段階がなければなりません。三つの類型の家庭がなければならないのです。その家庭を中心として、将来全国的に支派編成をしなければなりません。それなら、皆さんはどこに属するか分かりますか。皆さんは、どこまでもアダム家庭を中心とした第一家庭に所属する家庭です。(214)

 み旨から見れば、二つの世界に関係を結んでいる人々は天使長型です。本来、既成家庭を処理してあげるのは、先生の責任ではありません。完成基準で、祝福という基準を立てた先生です。(215)

 本来真の父母は、処女、童貞を中心として祝福してあげるようになっているというのです。既成家庭を祝福してあげるのは、世の中を救ってあげるために橋を架けることなのです。皆さんは世の中を救うための橋です。ところが、世界の人々が橋を渡ってくるとき、この橋が崩れ壊れてもいいですか。皆さんは橋の責任を果たすことができなければならないというのです。

 今、全世界を見れば、家庭と家庭ではない世界からなっています。また、わが教会を見れば、既成家庭と既成家庭ではない家庭によってなっています。これを全部吸収し得る道をつくらなければなりません。(216)

 走るにおいて誰よりも犠牲的であり、殉教すべきことがあれば、皆さんが殉教しなければならないというのです。何の話か分かりますか。死ぬべきことがあれば、皆さんが死ななければならないというのです。第三家庭に属する処女、童貞として祝福を受けた連中が死んではならないのです。(217)

 これから皆さんをものすごく苦労させなければなりません。ところが、苦労の道が嫌で、垣根越しに眺めているだけでいいでしょうか。だめだというのです。このような立場から見るとき、これから子女教育をしっかりすべきなのはもちろんであり、早く祝福を受けさせなければなりません。皆さんの家庭の三代が祝福を受ければ、しっかり結びつけることができるというのです。分かりますか。皆さんが死ぬ前に三代が祝福を受けなければなりません。そうして、越えていかなければならないのです。

 イスラエル民族もアダム家庭、ノア家庭、アブラハム家庭、この三つの家庭を中心として全部連結されたのと同様に、皆さんも三代の基準を連結させなければなりません。(218)

 アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と、そう言ったでしょう。これが三代の神様の立場です。これがどこで実を結んだかといえば、四代目のユダ支派です。そのユダ支派を中心としてイエス様が出現したのです。だから、四代目の家庭から出発するのです。それでは、どうしてイエス様がユダ支派から生まれたのでしょうか。これは天理原則が四位基台の四数を中心として成っていたからです。

 それゆえ、三代を祭ってあげるのです。三代を解放するようなことをしてあげなければならないというのです。そこから、神様と関係を結ぶようになっているのです。これが原理的見解です。皆さんがこのようなことを知るようになれば、今まで暮らした、そのように暮らしてはならないのです。ですから、氏族的メシヤの使命を果たさなければならないというのです。既成家庭には、このような二重の使命を果たし切るべき重大な責任があるということを知らなければなりません。(219)

 皆さんの氏族の中には、既成家庭もいるでしょうし、婚約をして破棄したとか、恋愛関係をもったけれども愛を結べなかったとかいう、問題が複雑な中間の人もいるでしょうし、また純粋な処女、童貞もいるでしょう。彼らを一まとめにして縦的な歴史を横的に蕩減しなければならないのです。三代を中心として一つになったといえる立場に立って、一番最後の代の長男、すなわち完成級に立った孫が代身して供え物を供えて、贖罪の祭祀を捧げなければなりません。そうでなくては、一つになれないというのです。(220)

 既成家庭の息子・娘が祝福を受ければ、それがどれほど福であるかしれません。地上では縦的な歴史を横的に蕩減するでしょう。ここで皆さんが蘇生級ならば、息子は長成級であり、その息子を通して完成級の息子も出てくることができるので、地上で授け受けできるのです。縦的な関係ではこのように授け受けできますか。できません。授け受けるのは、横的な関係として授け受けなければならないのです。そのようにして横的に蕩減復帰していかなければなりません。それゆえ、三代を経なければならないというのです。(221)


9、祝福家庭が行くべき必然的運命の道


 皆さんは「祝福を受けたならそれでいいのに、伝道とは何か、死地に行くとは何か、受難の道を行かなければならないとは何ということだ」と言うでしょう。私たちがこのようにしなければならないのは、今日私たちの祝福を受けた立場が、堕落した世界を脱した立場ではないからです。私たちは堕落した世界の中で祝福を受けたのです。

 だから、私たちが家庭圏を築いたといっても、その前にサタン側はすでに氏族圏を築いており、私たちが民族圏を築くといっても、サタン側はすでに国家圏を築いており、私たちが国家圏を築くといっても、サタン側はすでに世界圏を築いているというのです。

 祝福はサタン側の世界で受けたので、サタン圏の世界と祝福を受けた私たちの家庭とは、あくまでも行くべき段階的距離があるのです。すなわち、越えていくべき峠が残っているというのです。個々の祝福家庭をおいて見れば、その家庭には越えていくべき氏族的峠が残っており、民族的な峠が残っており、国家的な峠が残っており、世界的な峠が残っており、天宙的な峠が残っているというのです。(222)

 皆さんは、祝福を受けたならばすべてだと考えるかもしれませんが、その祝福を受けたのは、この世の中を脱して受けたのではなく、世の中から勝利して世の中が福を祈ってくれる立場で受けたのではありません。サタン側の世界、カイン圏の世界でアベル的家庭として立てられたのです。そして、外的な面から見れば、カイン側の世界はアベル家庭を祝福してくれないというのです。むしろサタン側は、必ず天の側を迫害するのです。過程では、それゆえ迫害を受けるというのです。

 先生自身も一九六〇年に聖婚式を挙げましたが、世の中に完全に勝利し、霊界や肉界で完全な勝利の基盤を立てた土台の上に聖婚式を挙げたのではありませんでした。先生の家庭は、国家圏内で患難を経験したイエス・キリストが完成できなかった、その立場を引き継ぎ出発したのです。ですから、新しい氏族と民族と世界を形成するために出発した家庭は、サタン世界から迫害を受けるようになっていたのです。(223)

 先生の家庭や皆さんの家庭が行くべき必然的な運命の道は、世界を克服して越えていく道です。世界をどのように克服するのでしょうか。これは、私たちが死んで行く道ではなく、生きて、生前に「蕩減」という道を通して行かなければならないのです。

 蕩減の道には、ある期間がなければならず、条件物がなければならず、アダムの代身の存在であるアベル的な中心存在が必要だというのです。先生自身も、世界史的な蕩減期間内に、必ずある条件を立てなければならないのです。その条件が何かといえば、国家と世界を愛し、国家と世界のために生きたという実績を残すことです。

 それで、アベル的な立場で、カイン側の個人たちから、カイン側の家庭と民族と国家と世界から激しい迫害を受けながらも、むしろ彼らのために生きてきたのです。その過程で倒れず、生き残って勝利の基盤を立てる前には、アベルを中心とした理念をサタン側の個人、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙にまで伝播し越えることができないというのです。(224)

 私たち家庭はすべて、一切の願いをどこに置かなければならないでしょうか。国家と世界のための家庭だという信念をもたなければなりません。そして国家と世界を形成し得る神様の代身者だという責任感をもち、またこのような心をもって、一切の行動をそこに結束させられなければなりません。

 皆さんが限られた環境で仕事をするとしても、誰の命令を受けてしているかが重要です。神様の命令を受け、あるいは世界と国家の召命を受けてしているという信念をもたなければなりません。世界を代身した仕事を限られた環境でしているのです。国家を代身した仕事も限られた環境でしているというのです。個人を中心とした仕事も同様です。同様ではありますが、命令を受けた背後が違うことによって、その仕事の結果も違うというのです。それを知らなければなりません。

 世界を代表して私が仕事をするというとき、私の個体でする仕事ととりわけ差がないようですが、世界の命令を受けて立って私がするというときには、世界に結束されるのです。同じように国家の命令を受けて立ってするというときにも、制約された環境は同じですが、これは国家の前に寄与するのです。(225)

 皆さんには六千年がプラスされるのです。今まで六千年間男性を探してきたので、皆さんには六千年がプラスされるというのです。さあ、皆さんは探し出された男性たちですか。サタンと闘って勝ちましたか。霊的サタンと闘って勝ちましたか。勝ちましたか、勝てませんでしたか。皆さんには資格がないのです。資格がありません。

 サタンを屈服させなくてはならないのです。民族的サタンと国家的サタンと世界的サタンを屈服させなければなりません。それを誰がしたでしょうか。先生が一人でやりました。倍達民族(=韓民族の古典的、または歴史上の称)が反対し、大韓民国が反対しても、先生一人でその仕事をしてきたのです。

 皆さんは先生が東へ行けば東に行き、西に行けば西に行き、南に行けば南に行き、北に行けば北に行って、いつも一緒に行き来しなければなりません。ついていく自信がもてなければ、勝利の栄光をもつことができないのです。

 したがって、皆さんは先生に感謝し、報いることのできる内的な決意をし、またそれを外的に実行しなければなりません。内的にどんなに決意したといっても、それを外的に表せなければ、役に立たないのです。皆さんが心でだけみ旨のために行かなければならないというなら、それはだめなのです。心がしようとするとおりに行動しなければなりません。内外が一致しなければならないのです。(226)

 皆さんはこのために祈祷しなければなりません。赤ん坊に乳を飲ませるたびに、「この国、この民族をこの赤ん坊より愛しているか」と、反問してみてください。そして「私が夫を好み愛する以上に、この民族を愛してみたか」と、自問してみなさい。また、夫たちも「自分の妻と子供よりも、この国とこの民族をより愛したか」と、自問してみるのです。そうしなくては、天の国に行けません。そのような伝統的な思想とそのような条件を立てようとするので、家庭を捨て国のために行かなければならず、世界のために行かなければならないというのです。皆さんはこれを知らなければなりません。(227)

 御飯を食べた後も、「お父様! 私は大韓民国に向かって、ひいては世界に向かって行きます」と言いながら出ていかなければなりません。行く途中には明らかに怨讐がいるでしょうが、この怨讐を強制屈服させるのではなく、どのようにして自然屈服させるかということが問題です。これがたやすいことですか。皆さんはたたき壊すことは簡単だろうと考えるかもしれません。しかし、たたき壊すことで終わるのではありません。天は打たれて奪ってくる作戦をしてこられるので、これによってけりをつけなければならないのです。方法はそれしかありません。それで統一教会員たちに苦労させるのです。(228)

 私が行く道は、大韓民国の三千万民族がついてくるべき道です。世界人類もついてこなければなりません。そのためには、御飯を食べるのもそのために食べ、生きるのもそのために生き、死ぬのもそのために死ななければなりません。

 そうでなければ、神様のみ旨に対して侍る生活ができないのです。そのための命令があれば、その命令に向かって直行しなければなりません。遠回りしようと考えてはならないのです。

 死と生命がかかる一つの焦点に立って行くのが孝の道理であり、忠の道理なのです。この話が何かといえば、それは、生きている最大の価値と死ぬことのできる最大の価値を表し得る立場に立って、死を覚悟して行かなければならない道だというのです。この立場を経なくては、孝の道理を立てることができず、忠の道理を立てることができません。この道は、死を覚悟して行く道です。死を覚悟して進んでいって、どこかで倒れたとしても、それは問題になりません。どうせ死ぬからには、直行して死のうというのです。(229)

 父母が死に、家が滅びる局面なのに、指先に少し血が出たといって大騒ぎを起こしてはならないのです。「血よ、出るなら出ろ、私はやるべきことがほかにある」こうでなければならないのです。何、辛うじて御飯だけ食べて生きている、何、子女たちが学校に行けずにいる、何、自分の夫、自分の妻がどうだとか、こうしている余裕が私たちにはないのです。今、国が滅びるか、滅びないかという局面なのに……。

 今、国が滅びるか滅びないか、世界が滅びるか滅びないかという、このような困難な時点に置かれているので、私たちは心を合わせて精誠を尽くし、「私」の生命が犠牲になってもみ旨のために忠誠を尽くし、忠誠が足りないのでもっと忠誠を尽くすべきだと誓わなければなりません。(230)

 世界を復帰するためには、家庭よりは氏族を一層愛し、氏族よりは民族を一層愛し、民族よりは世界を一層愛さなければならないというのです。ですから、世界復帰のために急がなければなりません。(231)

 世界を復帰するにおいて、自分の息子・娘一人を犠牲にするのは問題ではありません。その一家を犠牲にするのは問題ではないというのです。だから先生は、皆さんを苦労させようと思います。そうしなければ、皆さんは大韓民国を生かすことができません。そうしないで、平和の世界を成せると思いますか。世界のための皆さんになるとき、役事が起こるのです。このような作戦をなぜ促すのでしょうか。皆さんがこのような過程を経てこそ、完全な蕩減条件が成立するからです。(232)

 統一教会はどのような教会でしょうか。皆さんはこれを知らなければなりません。皆さんは夫を犠牲にしても、世界を愛さなければなりません。世界のために夫を犠牲にする女性は、世界的な女性です。世界のために息子・娘を犠牲にし得る父母は、世界的な父母です。同じように、世界を愛する燃える心をもって死の道を行った息子・娘がいるならば、彼はその父母を中心として見ても、孝子の中の孝子になるのです。分かりますか。皆さんはこのような道を行かなければなりません。世界的でなければならないというのです。(233)

 天国は家庭から成されます。個人の路程を越えたので、今から統一教会が行くべき主流的路程は、民族復帰のために家庭的な供え物を捧げる家庭の路程です。そのためには既成教会を糾合すべきです。祝福家庭は先生が責任を負わなければなりませんが、既成教会は統一家で責任を負わなければなりません。これさえ成せれば、民族復帰は問題ありません。このための条件として四三〇家庭を祝福して立てました。ですから、私たちが団結して押し進んでいけば、三年あれば成ります。(234)

 今までは、個人的な忠臣が多かったけれども、これから統一時代においての忠臣は、家庭がならなければなりません。それゆえ、忠臣家庭が出てこなければなりません。忠臣家庭が出てこなくては、忠臣氏族が出てくることができません。神様の表彰を受けられるイスラエル民族、神様の表彰を受けるに値するイスラエル国家が出てこなければならないというのです。そのために、私たちは行くべき道を確実に行かなければならないのです。(235)

 復帰の道は民族から補充させるものではありません。自分の血と肉を加えてやり、自分を否定する立場で、自分の血族を再構成して補強していかなければなりません。それによって、自分一人行くのではなく、自分の家庭が行ったという条件が立てられるようになるのです。これが愛なのです。(236)

 祝福家庭の食口たちは、全部歯を食い縛らなければなりません。楽しく暮らそうとは考えないでください。先生の家庭はたった一日でもそのようなときがありませんでした。困難な道を通して基盤を立ててきたのです。先生の家庭と同様に、皆さんの家庭もそうでなければなりません。これがすべての家庭の責任です。(237)

 今日、祝福を受けた家庭は、祝福を受けて生まれた子女たちが貴いと、かばおうとしますが、それではいけません。祝福を受けた家庭の子女たちを供え物にすることができなければなりません。その子女たちを国よりも愛してはなりません。今日の大韓民国ではなく、神様が探していかれるその国のために犠牲にすることができなければなりません。それゆえ、神様の国を立てるために彼らを犠牲にするという覚悟で行かなければなりません。これが統一教会の信徒たちが行くべき道だということを、皆さんは知らなければなりません。(238)

 神様を愛する道が、まさに皆さんが歩まなければならないみ旨の道なのです。そのみ旨の道は、家庭を中心として神様を愛する氏族、民族、国家、世界をつくっていくのです。ひいては、神様の国のために霊界の解放圏と地獄の解放圏が残されているということを知らなければなりません。そのようなことは、堕落の結果として残された課題なのです。ですからそれらを、ごみ箱を掃除するように、きれいに片付けなければなりません。(239)

 皆さんが寝ても覚めても考えるべきことは、夫を愛する以上に父母を愛さなければならず、夫を愛する以上に兄弟たちを愛さなければならないということです。自分の家庭を愛する以上に民族、国家、世界を愛さなければならず、神様を愛すべきなのです。このように愛の秩序が立てられなければ、行くべき道がどこにもないということを知らなければなりません。(240)

 私たちが願う家庭は、お父様が願われる家庭にならなければならず、私たちが願う国は、お父様が夢の中でもお忘れになれないその国にならなければならず、私たちが願う世界は、お父様の愛の中で、お父様と私たちが喜び踊る天国にならなければなりません。(241)


10、祝福を受けた夫婦が行くべき道


 今日、祝福を受けるにおいて、常習的な観念でその過程を経る者がいてはなりません。過程だけ経てはならないというのです。そこには、その複雑な事由や因縁がどれほどすさまじく絡み合っているかということを知らなければなりません。それを知って行くようになれば、世界が左右されるのです。ですから、一つの目的に向かって方向を合わせていくようになれば、世界がその方向に向かっていくようになっているというのです。

 それゆえ、祝福を受けた夫婦たちは、自分たちの勝手に生きることができないのです。神様の公約のために、あるいはその国の公約のために生きなければならないのです。自分の相対が優れている、劣っているなど問題ではなく、行くべき目的性が問題だというのです。すなわち、自分たちが生きて、後孫が行くべき正常な道をどのように立てておくかということが問題なのです。(242)

 皆さんを見ると、夫と妻が互いに自分を愛せと言いますが、そのような立場は間違いだというのです。そのような愛は認定できないのです。ですから、自分を愛せと言う前に、まず国家を愛し世界を愛せと言わなければならないのです。そうしてから、自分を愛せと言わなければなりません。これが祝福を受けた家庭として行くべき道です。これは夫でも妻でもみんな同じです。すなわち、私を愛する代わりに国を愛し、世界を愛し、天を愛せと言えなければならないのです。ところで皆さんは、いつ天を、世界を、国を愛しましたか。これが問題です。

 もしアダムとエバが堕落しなかったなら、彼らの愛は、天と地を代身した愛になるのであり、世界を代身した愛になるのです。また、国家を代身した愛になるのであり、民族を代身した愛になるのです。全部それによって始まるのです。

 しかし、この復帰の道に向かって訪ねていく皆さんが、いつ国を愛する立場に立ち、いつ世界を愛する立場に立ったでしょうか。また、いつ天を愛する立場に立ったかというのです。そのような立場に今まで立てなかったというのです。そのような立場は、自分を中心として愛してくれるのを願い、自分を中心として関係を結び幸福の要件を立ててくれという立場ではないというのです。このような考え方をもっては、祝福家庭が行くべき正常な道を行くことができないのです。(243)

 祝福家庭は本来、人間始祖が堕落して天に対してなせなかった愛を探すべき運命であり、世界に対してなせなかった愛を探すべき運命であり、国に対してなせなかった愛を探すべき運命です。また、民族と氏族に対してなせなかった愛を探すべき運命です。それゆえ、国家を越え世界を越えて、天を愛さなければなりません。

 ここで天を愛したという公認を受けて世界を愛さなければならず、世界を愛したという公認を受けて国家を愛さなければならないのです。また、国を愛したという公認を受けて氏族を愛し、氏族を愛したという公認を受けて家庭を愛さなければなりません。このように家庭まで愛したという公認を受けたとき、すなわちそのような内容を天の前に認定された後に、初めて夫婦同士愛し合わなければならないのです。このように、逆さまに愛するようになっているというのです。

 ところで、祝福家庭が仲が悪く、夫婦同士どうのこうのと言う家庭は、自分を中心とした家庭だというのです。そのようなことは、み旨を忘れ去った立場で起こることではないですか。ゆえに、妻は夫に「あなたは私を愛する前にまず天を愛さなければなりません。その天を愛したという認定を受けて世界を愛してください。世界を愛したという認定を受けて国を愛してください。国を愛したという認定を受けて氏族を愛してください。氏族を愛したという認定を受けて家庭を愛してください」と言わなければならないのです。(244)

 自分だけを愛してくれとか、あなたは私のものだなど、今までこの世の夫婦が慣習的に言い得るそのような言葉を、祝福家庭は言ってはならないというのです。ですから、妻になった人は、時間さえあれば、そのような夫にならないように精誠を尽くさなければなりません。また、夫になる人も、時間さえあれば、そのような妻にならないように精誠を尽くさなければなりません。互いに力を合わせて助けてあげ、導いてあげなければなりません。その道を行くにおいて心を痛めないように、互いが勇気を与え、互いが導き導かれるべき責任をともにもっているのが夫婦であり、家庭だというのです。(245)

 祝福家庭は、自分の家庭より民族を一層愛さなければならず、氏族を愛さなければならず、ひいては国と世界を愛さなければなりません。そして、自分の親戚と祝福を受けた同僚たちを愛さなければなりません。こうして互いに連結された一つの家庭があるならば、その家庭は千人、一万人の家族の中にあるとしても、さっと見れば分かるのです。男性と女性が一つになって結合したその家庭からは、国家を愛する姿、世界を愛する姿、天を愛する姿が現れるというのです。このように夫婦は一つにならなければなりません。(246)

 もし、夫婦が探し立てるべき国を探し立てられなくなるとき、その夫婦は別れて探し立てなければなりません。そうでなければ、二人合わせてでも必ず探し立てなければなりません。こうしなければ、この地に再び来て協助しなければならない無念の事実が残るのです。ゆえに、天が行くことのできる道を開き、世界が行くことのできる道を開き、国家が行くことのできる道を開いておきなさい。反対に下りてくるのです。神様の前にそのような公認を受けて出発しなければなりません。そうするためにも、夫婦が心を一つにして世界と国のために闘ってきたか、その国のために常に忠孝の道理を果たしたかということが問題だというのです。(247)

 祝福を受けた家庭は、祝福を受けたその日から、各自二重の十字架を負っていかなければなりません。男性は、自分の世界だけではなく女性の世界までも責任を負わなければならず、女性も同じく、自分の世界だけではなく男性の世界までも責任を負わなければならないというのです。このように二人が責任を負って行く道において、サタンが讒訴し得る内容を残してはなりません。これが祝福を受けた家庭が行くべき道なのを皆さんは知らなければなりません。(248)

 統一教会の祝福家庭に教訓があるとすれば、それは何でしょうか。大韓民国を愛せということではなく、大韓民国を中心として探し出すべき世界を愛せということです。夫もそのためにあり、妻もそのためにあるので、世界を先に愛した後に家庭の巣をつくろうというのです。そうしてこそ、天国が始まるのではないかというのです。国のない民族は哀れな民族です。いくら家庭同士が命懸けで努力したとしても、国の主権がなくなるときには怨讐の銃剣に倒れていくのです。(249)

 個人が安息しようとするなら家庭的な土台がなければならず、家庭が安息しようとするなら氏族的な十字架を蕩減しなければなりません。だから、その氏族を垣根にしてその土台の上に平和な場を確保して安息するようになるのです。ですから安息するためには、一段階より大きな環境を収拾すべきであり、苦労すべきなのです。(250)

 皆さんが祝福を受けて行かなければならないその道は、自分たち夫婦のための道ではないというのです。夫婦のために行く前に氏族のために行ってこそ、夫婦として安息できる場が生じるのです。同様に、氏族は国家のために行ってこそ、氏族が安息できる場が生じるのであり、国家は世界のために行ってこそ、国家が安息できる場が生じるというのです。

 このような観点から、祝福ということ自体が皆さん個人のためのものではないのを知らなければなりません。皆さん各自が「祝福は全体を代表するものだ」という信念をもっていくべきです。そのような立場で、互いが一つになって家庭を形成するようになるとき、初めてその家庭は世界に向かうことのできる家庭になるのです。(251)

 天国はどのような所でしょうか。皆さんはこれを知らなければなりません。今まで既成教会を信じていてここに来たおばさんがいるなら、よくお聞きなさい。天国はどのような所でしょうか。神様と同じ立場で世界の人々を自分の息子・娘のように愛する人たちが行く所です。それはどういう意味でしょうか。皆さんの夫よりも世界を愛さなければならないというのです。皆さんはこれを知らなければなりません。

 神様のみ旨を中心として見るとき、夫をより愛すべきか、世界をより愛すべきか、これをわきまえなければなりません。どうしなければなりませんか。「世界をより愛さなければなりません」。分かることは分かるのですね。自分の夫を供え物としても、世界を生かし得る女性が、神様が愛し信じることのできる娘になるのです。また、自分の妻を供え物としても世界を生かそうという男性が、神様の息子なのです。これが神様のみ旨です。(252)

 祝福を受けた夫婦は、祝福を受けたその日から果たすべき責任があります。その責任は、夫婦が一つになって家庭を形成し生きるのではなく、二人が一つになって民族あるいは国家を形成しなければならないのです。それが問題だというのです。祝福を受けた人が十人いるなら、十人の家庭が一つになって新しい世界観をもち、一つの新しい氏族を編成しなければなりません。新しい国家を形成しようとすれば、まず新しい氏族を編成しなければならないのです。その氏族は、分裂した氏族ではなく、一つに統一された氏族でなければなりません。

 ですから、祝福を受けた十人の目的は、互いに同じでなければなりません。この家庭は、サタン世界から探し立てられた少数の家庭なので、いつもサタン世界の攻勢を受け得る立場にあります。それゆえ、いつも一つになって団結し、その環境に圧倒して入ってくる外部の力を、凌駕し得るように自体内を結束しなければならないのです。その力を凌駕しようとすれば、自体内の完全な統一が成されなければならないのです。こうして一つとなった姿になるならば、いくら外的にサタンの侵犯を受けたとしても、うまく勝ち抜くことができるのです。このように団結結束した実体を備えたところから、サタン世界の侵犯を受けない新しい氏族が形成されるのです。そのような団結した氏族を通して民族が形成され、その団結した民族を通して新しい国家が形成され得るのではないかというのです。(253)

 祝福を受けた夫婦は、自分の家庭を通して国家のみならず、その終着点である世界までも抱き得る、その日まで行かなければならないのです。皆さんが行かないようにしても、結局そうなるというのです。

 皆さんがもし、この地上で祝福を受けた家庭として行くべき道を行けなかったというときは、霊界に行って暮らせません。自分たちが祝福を受けた夫婦として、天上に行って幸福に暮らせるだろうと思っていますが、実はそうなっていません。その祝福を通して、自身は万代の存在世界で栄光の実体の中心にならなければならないのです。それが創造本然の姿勢です。ところが堕落世界では、そのような姿勢を備えた人がいないのです。

 世界には韓国があるのと同時に日本があり、また数多くの国々が各所に広く散らばっています。サタン世界でこのような国々が怨讐陣営になっているので、天を代身してこれを全部勝利の決定圏内に探し立てなければなりません。だから、神様の前に栄光と称賛を捧げ奉ることのできる立場に立たなければなりません。このような本然の位置に皆さんが立てない立場で霊界に行けば、自分が安息することのできる位置を確保できないというのです。ゆえに皆さんの夫、あるいは妻だけではなく子供たちまでも導いて、必ず、世界を復帰するために協助できるようにしなければならないのです。そのような立場に立った家庭が、まさに祝福家庭だという事実を知らなければなりません。(254)


11、世界的な家庭的カナン復帰


 統一教会がほかの宗教と違うのは何でしょうか。今までの宗教は、個人の救いを目標としています。すなわち人間完成、理想的な人格完成を目標としているというのです。しかし、統一教会はそれだけでなく、家庭を完成するために出てきたのです。だから、個人の救いを標榜する宗教は、個人の犠牲的な生活を個人救援完成の要件と見なしましたが、家庭の完成を標榜する統一教会は、家庭を犠牲にできてこそ、神様を中心とした家庭完成の要件が造成されると見るのです。(255)

 イスラエル民族がエジプトから出てカナンに帰るときは、家庭がありませんでした。そのときには、家庭をもてませんでした。み旨的な立場で見れば、そのときには家庭もサタン圏に属していました。ですからそのときは、個人的なカナン復帰をする時代です。(256)

 イスラエル民族がカナン福地に入ろうとした時代は、家庭を主として入る時代ではなく、個人を主として入る時代でした。しかし、今は家庭を主としてカナン福地に入る時代です。それで、統一教会のすべての家庭が、今カナン復帰路程を歩んでいます。(257)

 統一教会がいうカナンはどこでしょうか。地球星です。地球全体にカナン福地が築かれ幸福に暮らすようになれば、それを地上天国というのです。イスラエル民族のカナンは、特定地域に限定されていますが、私たちのカナンはこの地球星、すなわち世界を意味します。次元が違うのです。(258)

 統一教会の時代はどのような時代でしょうか。歴史始まって以来現れることのできなかった家庭的カナン復帰運動を、世界的に展開する時代なのです。現時代は、家庭的大移動の時代です。それで今、韓国の祝福家庭である皆さん自身もそうであり、日本の祝福家庭もそうであり、アメリカの祝福家庭もそうであり、統一教会の家庭はすべて動いているというのです。地球星を中心として動くジプシーの群れ……。統一教会員たちは、このようなジプシーの群れです。このように統一教会の群れは、いまだに定着できずにいます。(259)

 私たちは今、カナン復帰のために二十一年路程を歩んでいます。私たちがこの期間に生死を意に介さず押し通せば、世界的カナン福地に到着して基盤を立てることができ、四十年期間を経れば、全世界が太平天国になるだろうと見るのです。私たちが責任だけを完遂すれば、一九六〇年度から始めたので四十年を経て二〇〇〇年代になれば、この地上に天国が完全に実現されるでしょう。(260)

 統一教会は今、世界的な家庭的カナン復帰時代に処しています。ですから皆さんは、ふろしき包みを重く包めば包むほど損だというのです。それで、三次七年路程が終わるときまで家を買ってはならないと言ったのです。それは、ふろしき包みを大きくするなという意味です。(261)

 今は、自分の所有物を持ってはならないようになっています。世の中のすべての物は、自分の所有物として認定される前に、まず神様の所有物として認定されなければなりません。その次に、真の父母の所有物になって皆さんに相続されなければなりません。国家以上の基準でそのような整備の基準がまだ成されていませんでした。統一勇士は今、国を救うために彷徨しています。その目的を果たせなければ、皆さんの分配地、所有権は生まれません。カナンを復帰しなくては、十二支派に対して土地を分配することができなかったイスラエル民族の歴史とも同じ歴史をもつようになるのです。(262)

 先生もアメリカに行って、初めて家を買ったのです。韓国では家もなく暮らしました。アメリカでは、家もなく闘えば神様の威信が立たないので、初めて家を買ったのです。

 私たちは家をもつにはもつが、国を探し立てた後にもたなければなりません。国を探し立てられずに家をもつようになれば、いつ盗まれるか分からないのです。また、国を探し立てるだけではいけません。世界を探し立てなければなりません。世界を探し立てられず、国だけ探し立てておいて、福を受けたと喜んでいては、いつまた敵の攻撃を受けるか分からないのです。

 それゆえ、私たちは大韓民国が完全に復帰され、神様のみ旨の前に立つようになったとしても、再び大韓民国が犠牲を覚悟し世界を生かそうという考えをもてるようにしなければなりません。少なくとも世界を生かし得る土台をつくっておき、大韓民国に入ってきて休んでこそ、大韓民国が安息できる天国福地になるということを皆さんは知らなければなりません。ですから、皆さんは世界的な責任を完結した後にこそ、地上天国が建設されるということを知らなければなりません。(263)

 皆さんは神様の名とともに、先生の名とともに……。子供たちにはたとえ粟飯や麦飯を食べさせても、ご飯を食べさせるほかの人より喜び、「神様、民族が生き得る道と国が生き得る道があるならば、わが家族が供え物になります」と言うことができなければなりません。それが貴いのです。(264)

 統一教会は、第三イスラエル国家のカナン福地を大移動する民族です。それゆえ、家を捨て韓半島を歩き回らなければなりません。自分の故郷の地に血と汗と涙を流し、祭壇を残し、異邦に行って帰ってこなければならないのです。十二支派を代表した弟子を残したその地(韓国)において天の約束を残してこそ、再び行って帰ってくるとき、故郷に錦を飾り得るイスラエルの国が生まれるようになっており、祭壇を残せずに行っては、帰ってくるべき道がないのです。

 それゆえ、統一教会の文先生も今までそのようにしたのです。アメリカに行って帰ってくることのできる祭壇を残したので、イスラエル圏内に入ったのです。それを個人的に、氏族的に、民族的に、国家的につくろうというのが、今まで血のにじむ先生の闘争路程であるのを知らなければなりません。このようにして、外国に行って帰ってくることのできる道をつくってきたというのです。そうでなければ帰ってこれません。イスラエルがないのに、どうして帰ってこれるかというのです。もし、そうなっていないのに、帰ってくるのを誰かが歓迎するなら、歓迎する群れは私を生け捕り利用するための群れなのです。

 それゆえ、そのようなイスラエル圏を立てるために、韓半島、この民族を中心として祝福を受けた家庭に全部大移動命令を発したのです。(265)

 祝福を受けた家庭は、指定された地に訪ねていかなければなりません。なぜなら、エジプトの地からカナンの地に訪ねていくのが復帰歴史だからです。エジプトの地を退け、カナンの地に行かなければならないのが復帰歴史であるゆえに、エジプトの地にある今日の統一信徒たちは、カナンの地に行かなければならないのです。そのような荒野路程は、各自にみんなあるのです。しかし、家庭を捨ててカナンの地に行けというのです。「行け!」家が問題ではなく家庭が問題ではありません。どうせ行かなければなりません。時がたてば分かるでしょう。行かなければなりません。具体的な説明はしません。わが統一教会が韓国内では国家的な移動をしています。すなわち、道的な移動であり、面的な移動ですが、これが将来世界的な伝統になって歴史的な世界の大移動が起こるでしょう。

 なぜこのようにしなければならないのでしょうか。神様はサタン世界の痕跡さえ見るのを好まれないからです。サタンを中心としたものはすべて、神様は見たくないのです。そのようなサタンを殲滅してしまおうとするので、恐ろしい神様になるのです。神様はエジプトで苦痛を受けた以上の苦労をさせるでしょう。苦労をするときに、エジプト苦役時代を考えてはなりません。荒野では神様のみ旨だけを考えなければなりません。神様はそのような考えをもたせるために追い立てるのです。先生自身がそのようにしてきています。(266)

 カナン復帰路程は、一種の戦闘路程です。それで、モーセがイスラエルの六十万の大衆を率いたのと同様に、統一教会の祝福家庭を先生が率いているのです。すなわち、先生がモーセの使命を果たしているのです。祝福家庭は、先生がこちらに行けと言えばこちらに行き、あちらに行かなければならないと言えばあちらに行かなければならないのです。

 自分の息子のために行けないと言ってはなりません。自分の妻ゆえに行けないと言ってもならないというのです。滅びるのです。谷を越えろと言えば谷を越えなければならず、川を渡れと言えば川を渡らなければならず、泳いで渡れと言えば泳いで渡らなければなりません。泳いで渡って死ぬかもしれないので、死なせないようにするために縄で首をくくって向こう岸から引っ張るとしても、引っ張られていかなければならないのです。川を渡らなければ死ぬというのです。どうせ渡るべき川は渡らなければならないというのです。

 イスラエル民族はヨルダン川を渡れずに滅びたということを知らなければなりません。ヨルダン川が何だと思いますか。ヨルダン川とは天の世界とサタン世界の境界線です。すなわち、境界の川なのです。

 ですから、夫が先に川を渡ったら、妻の首に縄を縛ってでも引っ張って渡らなければなりません。もし死ねば、人工呼吸をして生かそうという心たりとももってこそ、家庭が救われるということを皆さんは知らなければなりません。父母たちは子供のために、そのような冒険をしてもヨルダン川を渡るべき時だということを皆さんは知らなければなりません。

 皆さんの家庭は、み旨を中心として夫と妻が一つにならなければなりません。共同の生を営む生きた姿として、これから先生と完全に一つにならなければなりません。(267)

 男性と女性が一心同体になり、父母と子女が一つになり、神様と先生が完全に一つの心、一つの意志になって「最後の命令はこれだ」と言えば、家庭全体がその境界線を越えなければなりません。そのような時が目前に迫ったということを皆さんは知らなければなりません。「ヨルダン川を渡れ」という命令があれば、一時に渡らなけばなりません。イスラエル民族が紅海を渡るときも、そうではなかったですか。神様が海水を分けて、渡れと言うとき、瞬間的に渡らなければならなかったのではないですか。そうではなく、その瞬間を逃せば、すべて滅亡するのです。(268)

 今日、私たちは家庭的な世界カナン復帰時代に処しています。その路程にはヨルダン川が横たわっています。ですから、皆さんの家庭をヨルダン川の向こう岸、勝利の天国、本郷の地に移しておかなければなりません。その責任が皆さんにあります。移しておくことができなければ、千年の恨み、万年の恨みが残るでしょう。

 モーセはヨルダン川を眺めながら死んだでしょう。イスラエル民族の一世は全部荒野ではげたかのえさになったでしょう。そのような歴史が私たちの前に置かれているということを知らなければなりません。先生はそれを知っているので、死を覚悟してこの道を行っているのです。

 痛いといっても痛がる暇がなく、休むといっても休む暇がありません。体が痛くても、み旨のために働いて死ねば、生きて責任を果たせなかった恨みを残すことがないので、このまま死んだらという考えをもつときがあります。それなら、責任を果たせないのをあの世に行って弁明もできるでしょうが、み旨を果たせず行けば、弁明すべき道さえないのです。(269)

 皆さん、きょう子女たちをたくさん連れてきましたが、子女たちがどれほど愛らしいですか。子女たち以上にみ旨を愛さなければなりません。先生は過去、み旨のために子供を後に残し、妻を後に残して家を出たときがあります。米一粒なく、お金一文残っていないのに、神様は出発命令を下されました。神様もみ旨を置いては、無情です。妻が苦労するという思いをもち、子供がかわいそうだという思いをもてば行けないのです。

 先生がそのような道を行ったなら、皆さんはそのような道を行くことのできる姿勢なりとももたなければならず、まねなりともしなければならないのです。皆さんが今祝福を受けてもこのように苦労しているのに、世界のために苦労すれば世界に代わって福を受けるのです。福は天のてっぺんの楽な寝床で受けるのではありません。悲惨で、血を流す十字架の場で受けるのです。どこで福を引き継ぐかといえば、家庭的十字架の頂上、生死が交差する場で引き継ぐという事実を皆さんは知らなければなりません。(270)

 皆さんがよい夫、よい妻になって、子供たちに手本を示さなければなりません。「お前たちのお父さん、お母さんが一つになったように、これが神様が喜ばれることなので、お前たちもこうしなければならない」と言って、子供たちをよく教育し、皆さんの家庭に祭壇をつくって神様に侍り奉らなければなりません。そうしてこそ福を受けるのです。そうすれば、絶対飢えません。食べるものはいくらでもあります。神様がサタン世界をも食べさせ生かすのに、神様の祝福を受けた家庭、神様のみ旨のために忠誠を尽くそうという家庭を飢えさせ見捨てるでしょうか。絶対飢えさせません。(271)

 先生もみ旨の道を歩むにおいて、国のために闘い世界のために闘うにおいて、とても胸の詰まることがたくさんありました。妻にも話せず、子供たちにも話せない苦しく胸の詰まることがたくさんありました。狂った人のようにあえぐ歩みをどれほどしたか分かりません。そのようなときごとに神様が、私の心配する以上に助けてくださったので、この道を歩んできたのです。

 皆さんは、神様を心配する前に子供たちを心配したり妻を心配しました。しかし、そうではありません。み旨は家庭を犠牲にして氏族を救い、氏族を犠牲にして世界を救い、世界を犠牲にしてでも地獄を撤廃するのです。行かなければならない道がこのようにはっきりしているにもかかわらず、自分の子供たちや妻を心配する心にとらわれて活動できなければ、滅びるのです。(272)

 どのような困難、どのような苦難があるとしても、神様とご父母様を中心として行かなければならない道が統一教会の道です。イスラエル民族が行くべき方向を失い荒野で彷徨したように、今日世界人類は、砂漠のようなこの世の中で行くべき方向を失い彷徨しています。航海をする船が羅針盤を失えば、北極星を見て方向を捕らえていくように、人が生きていくべき方向を失ってしまったこの砂漠のような世の中で、北極星のような役割をしなければならないのが統一教会です。(273)

 アダム家庭が天使長を中心として堕落し没落していった基準を、養子圏の家庭を中心として真の子女と一体になって完成基準、すなわち神様の直接主管圏に向かって七年間を通過して越えることができます。しかし、その基準を越えたといっても、その信仰の子女の連結体、すなわち、個人、家庭、氏族、民族、国家、世界の復帰は、アダムとエバの使命です。それと同じく、祝福家庭の家庭自体が、世界を復帰しなければならない使命をもっているというのです。ですから祝福家庭は、世界を復帰するまで犠牲にならなければなりません。皆さんが遂行すべきこのような使命を先生が代身し、全体的な蕩減路程の代表的基盤を、家庭、氏族、民族、国家、世界に順に拡大させてきたのが第三次七年路程です。ですから、信仰の子女のような立場にいる皆さんは、養子圏の位置で一体になった心情でもって真の父母に侍り、世界的基準に発展できるように一貫した精神で行かなければなりません。そうすれば、世界完成圏を越えることができます。

 皆さんはその時まで、家庭を安着させようと考えてはなりません。私たちはまだ、世界的な荒野路程の中で彷徨しています。まだカナンの地に定着できる時期になり得ていないと見ることができます。ですから、皆さんが家庭的に定着をするといっても、それは永遠な定着ではありません。(274)

 先生は生涯をかけて世界的蕩減条件を立てました。先生が九五パーセントを払ったので、次は皆さんが五パーセントの蕩減条件を立てなければなりません。それによって父子関係が決定し、そこで初めて天国への入籍という問題が出てくるのです。皆さんはいつか天国に入籍しなければならないでしょう。天国への入籍は霊界に行ってするのではなく、地上の完全なアダム一族により決定されるのですが、その入籍の基盤はまだ築かれていません。ですから、一つの国を中心として早く入籍の基盤を世界的に準備しなければなりません。そうでなければ、世界は滅亡してしまう運命に処するようになります。皆さんは入籍をしましたか。今からの先生には、はっきりした天の憲法をつくらなければならないなど、多くの問題が残っています。ですから、先生がどれほど内的に焦燥しているか分かりますか。一日も、一瞬も休む暇がないのです。(275)


12、新しい時代の主人になる者


 新しい時代の主人とは、国を越え世界に行き得る新しい思想をもった世界的な指導者でなければなりません。大韓民国がそうし得るなら、大韓民国がそのような主人の位置に立つというのです。ですから先生や皆さんは、大韓民国だけのために生きようとしてはいけません。世界を主導すべき大分水嶺のような立場にいるのです。ですから、そこに必要なすべてのものを備えなければなりません。分水嶺の中でもカインとアベルがあります。過去にはカインとアベルが分かれて闘いましたが、今は一つにならなければなりません。そのためには、民族観念を超越しなければなりません。そうしなければ、再び分かれるようになります。

 それでは、「私」自身はどうしなければならないでしょうか。「私」自身も世界のための供え物にならなければなりません。また、自分の家庭も供え物になるべきであり、統一教会は一つの氏族ですが、その氏族全体も供え物になるべきであり、三千万の韓国民族全体も供え物になるべきでしょう。このような結論が出てくるのです。その次に、霊界全体までを復帰するためには、世界人類が供え物にならなければなりません。世界三十億人類全体が一緒に供え物にならなければならないという意味ではありません。代表者たちを立て、彼らが犠牲になったという条件さえ立てればいいのです。それによって、霊界も解放され得るのです。何の話か分かりますか。私たちは、このようなとてつもないことをしていくのです。(276)

 自分の国を愛せない人は、世界を愛することはできません。自分の国を愛するのは、何をするためにでしょうか。大韓民国なら大韓民国だけを愛するためではなく、世界を愛するためにです。アメリカならアメリカの為政者やその国民がアメリカを愛しアメリカを好むのは、世界をより愛し世界をより好きになるためにです。今まで、人々はそれを知りませんでした。共産党もそれを知りませんでした。今はそれを知らなければ滅びるのです。

 それでは、私たちは何をしようというのでしょうか。このすべてのことを清算してあげようというのです。分かりますか。そのために先生がこれから世界最高の諜報活動をしようと思います。興信所をつくり世界的な情報網を組織して、このようなことを清算しなければならないというのです。困難なことは私たちが責任を負うのです。世の中はすべてサタン世界なので、必要なら売ってもしなければなりません。

 先生は、サタンを殲滅するために最高の険しい谷間でも入っていき、サタンと対決をして勝利する部隊を、派遣すべき責任をもっています。このような話をすると、先生が「この時代に対して闘っていこう」と扇動するようですが、原理がそうなのです。(277)

 先生が来たといって喜ばないでください。先生は無情な人です。皆さんが赤ん坊を連れてくることを、私が祝福してあげましたが、それを今、快く思いません。彼らを苦労させなければなりません。大韓民国のために使命を果たしたなら、世界の舞台に立てなければなりません。イサクが祭壇の上に捧げられ、生きて下りてきてアブラハムの前に立つようになったとき祝福を受けたように、この大韓民国のために供え物として捧げられたのに、その供え物が死ななかったならば、その供え物の前に万民はもちろんであり、霊界にいる霊人たちまで頭を下げるのです。祭壇に捧げられた供え物が来られる主を迎えて、その精誠を尽くした忠誠心によって祝福を受けることができるというのです。そうし得る民族があるなら、その民族は世界を支配するでしょう。それが復帰歴史の運命の道です。(278)

 歴史に残される人々はどのような人でしょうか。個人を中心として死んでいった人が、その時代の人間たちの前に崇敬の対象になり歴史過程に残され得るかといえば、そうではないというのです。個人よりも家庭のために死んでいった人が、数多くの個人の崇敬の対象になり得るのです。家庭よりも宗教を中心として民族のために死んでいった人は、すべての家庭の崇敬の対象になるでしょう。さらには、宗教の名をもって世界のために死んでいった人は、その宗教を追求する民族の前に崇敬の対象になるでしょう。(279)













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第四節 国際祝福家庭の使命

祝福家庭と理想天国

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第四節 国際祝福家庭の使命


1、神様を中心とした一つの世界主義


 今日、統一教会は合同結婚式をします。民族を超越して異民族同士、または皮膚の色が違う人種同士が結婚します。人種差別が一番ひどいアメリカでも、白人たちが黒人と結婚しようと、先を争い出てきます。このような現象は、民族と国家を超越した一つの世界主義、神主義でのみ可能です。

 私はこの前アメリカで話しました。わが統一教会員は何の一族かといえば、愛の氏族です。ラブ・レース(love race)。何の愛の氏族でしょうか。神様の愛でもって結束し一致した氏族です。その氏族が大きくなれば何になるでしょうか。愛の民族になります。

 今、大韓民国の人口が四千万ほどになるでしょう。統一教会員が四千万を越えるようになれば、大韓民国を凌駕できる力を集めることができ、献金も大韓民国の税金以上になるでしょう。なぜなら、彼らにとって統一教会は彼らが属した家庭や社会、そして民族や国家以上に真なる信仰の祖国であり、精神的な母国だからです。いや、彼らは自分の生命よりも一層愛する神様お一人を中心として、堅固な城のように結束した一つの愛の氏族であり、民族だからです。ここには、父母であられる神様お一人を中心とした神主義しかありません。神様を中心とした一つの世界主義、兄弟主義しかありません。(280)

 普通、世界主義といえば、民族と国家を無視して全世界を一つの国家、全人類を一つの同胞として見るという意にとどまりますが、統一教会で唱える世界主義は、家庭からその壁を飛び越え超越します。父母であられる神様お一人と、血肉の兄弟も同然である全人類が一つの世界を成すという世界主義です。これはどれほど素晴らしい主義でしょうか。

 このような思想をもった統一教会なので、統一教会運動が結局、世界的な運動に拡大していっているのです。(281)

 私たちは基本的に二つの調和の愛をもっています。一つは人類の愛、すなわち人間性の愛であり、ほかの一つは神様の愛です。この二つの愛は、一つの愛の中で調和されなければなりません。

 円はある点を中心として回転しています。この円運動が中心点へ来れば、再び中心点の外へ行かざるを得ません。自由に内と外を動くのに障害がないのです。この円運動の中心点は運動の中心、核心です。そして、この位置を占めるためにメシヤが来られるようになるのです。メシヤによって天的愛が中心から招来され、私たちは外に向かっていくことができるのです。

 今日まで、この人間と神様の愛が完全に調和された理想社会は、単純に理想として、あるいは夢の世界に存在するものとして考えられてきました。メシヤはこの不可能だと考えられてきた現実を、実際的なものになるようにする方なのです。そして、それが今は手の届くところにあるのです。統一教会はこの目的を達成するために誕生しました。レバレンド・ムーンの最大の貢献は、一つの共同目標のもとに人類を一つに結び、神様の愛によって一つの調和的理想を実現していくことです。(282)

 全世界の人種が一つになる一番速い近道は、国際結婚しかありません。二つの全く違う文化圏と環境から選択された男女が神様の愛によって仲良く一つにならなければなりません。これが完全な調和と統一なのです。

 このような理想を実現するのが私たちです。偉大なことを成就するために、私たちは巨大な愛の力を探し出さなければなりません。ただ最高の愛の力によってのみ、そのような力を発揮するのです。社会の動きと環境によってほんろうされる程度の愛ではありません。最高の愛だけが国境を越え、人種の境界を越え、文化の境界を越え、知識の境界を越えるのです。(283)

 女性たちを見れば、「ああ、私は韓国の人のところにお嫁に行くつもりだ」と言いますが、このような観念を超越してください。また、男性たちも韓国の人でなければ結婚しないと言います。そんなつまらない考えはおやめなさい。西洋の人や黒人ならどうですか。神様だけ愛すれば大丈夫です。すべての人々が、まさに世界的な境界線を越えることのできる私の同伴者です。そして、私たちが指向する最高の善の理想形が、まさにそれだということを知らなければなりません。(284)

 人類歴史上数多くの民族が分裂し、互いに怨讐になって闘ってきましたが、これを解決しようというのです。新しい心情的つながりを開拓して、はしごをかけてみようというのです。それで白人を愛し黒人を愛そうというのです。また、統一教会は氏族を越えて国際合同結婚をし、国際的な塀を壊して飛躍的な理想的心情の蕩減基盤を高めようというのです。

 これをジャンプし得る足掛かりとして、地上地獄から天の国の宮殿にジャンプしようというのです。(285)

 出会うことは思いどおりにできても、別れるのは思いどおりにいきません。皆さん、男女が出会うときに、数多くの人々の中で出会ったということは奇蹟です。ですから、出会ったということは、たやすいことではありません。その上、統一教会に入って出会ったということは、地上でだけでなく天まで関係あるでしょう。摂理だけではなく天国まで関係あるでしょう。摂理歴史の中で出会ったということは、二重の奇蹟的な出会いなのです。普通、白人なら白人と(結婚)するはずなのに、白人の女性がなぜ黒人男性と結婚したのでしょうか。滝で言うなら、逆さまに上っていく滝になるためにするように見えますが、それは違います。世の中の人々は普通逆さまだと考えますが、私は正しいと見るのです。

 黒人と結婚できる雅量をもった女性になったなら、そこに素晴らしい息子・娘が生まれます。皆さんは鶏がひよこを抱くように抱かなければなりません。二人が出会うにおいて、複雑な内容を消化し越えていけば、よく調和できるのです。このようなことを消化することによって、もっと大きくなるのであり、これからの未来は希望的だと思います。

 もし、イギリスの女性が日本の男性と結婚して日本の后になったというときは、イギリスが困難なとき、助けを受けることができるのです。国が興り得る道もそこから生じ得るというのです。将来、世界は一つになり得ると見るのです。このようなことがないと断言することはできません。(286)


2、すべての人類は一つの兄弟、一つの家族


 原理によって復活した人々が、国家を超越し世界を超越して一つになれば、すべてが兄弟なのです。そこには白人もなく黒人もなく黄色人もありません。考えてごらんなさい。黒人だといっても、皮膚の色が違うだけですべて同じです。骨も同じであり、肉も同じであり、血も同じであり、心も同じです。皮膚の色が少し違うだけなのです。それは気候と環境のゆえに変化したので、どうしようもないのです。

 その例として松をごらんなさい。極寒地帯から温帯圏にかけて種類がだんだん変化します。松が立っている地域的な環境によってだんだん変化し、またそれが出発した基準とは、歴史を通して種類が変化するようになります。また、熊をごらんなさい。北極の熊は白熊です。白色にならなければなりません。それはその環境のゆえです。保護色が白色だからです。

 白色人種は何かというと、北極の白熊と同じであり、黒色人種は暑い所の温帯地方の黒熊と同じなのです。ただ、その差だけです。それなのに、黒熊と白熊が互いに「お前は白熊だから」「お前は黒熊だから」と言いながら、一緒にいられないと言うことができるでしょうか。

 白色人種がそのような思想をもっているなら、黄色人種と黒色人種に数字的にもぶつかってしまいます。その白色人種は、全人類の三分の一程度にしかならないからです。共産主義が猛威をふるっているこの時代を迎え、そのような考えをもっているなら、それは容赦なく攻撃対象になるしかありません。ですから、そのような考えは一日も早く清算しなければなりません。(287)

 ここには東洋人、スペイン系、白人、黒人など五色人種を網羅し入っていきます。各人種の色を合わせれば何色、何の色彩になるでしょうか。どんな色になってもいいというのです。統一教会はこのように人種を超越しています。

 春には数多くの花々が咲くようになりますが、画家がどんなに絵を上手にかいたとしても、その花以上の美しさを表現することはできません。のみならず、美しい花を描いた絵を持ってきて立てておいたとしても、本来のその花ほどの価値を表すことはできません。花ならば、何の花でも美しいというのです。その花が黒色でも、白色でも、すべていいのです。七つの色があるならば、その色を合わせて回せば一つの色になるのです。

 このように、それぞれ違うものだといっても、よく授けよく受ければ、統一できるのです。白色は平和を象徴します。互いに和解しようというのです。本来白人は、平和をもってくる人種を象徴しました。しかし、白人はその責任を果たせませんでした。

 白人は主に肉食をしてきました。皮膚の白色は、保護色だと見ることができます。本来白人は、スカンジナビア半島と北極地方で暮らした人々です。彼らは雪と氷の上で狩りをし、食べて暮らしました。農耕をして食べるのではなく、肉食をしてきました。だから、ほかの国を侵略する根性をもっています。

 しかし黒人たちは、南方地方で木の実を摘んで食べたり、草食をしながら暮らしました。侵略はたくさん受けましたが、他を攻撃したときは少ないです。その代わり、果実などを摘んで食べ、遊び回るのが日課でした。食べ物があるので、彼らには欲がありませんでした。ですからよく信じれば、黒人たちが福を受ける時が明らかに来るでしょう。

 しかし、白人たちは狩りをしなければ、すぐ食べ物がなくなりました。彼らは狩りをし、他を侵略もしました。神様は復帰過程で白人たちの役割が必要だったので、彼らを召命しました。特に彼らはキリスト教の信仰をもっていたので、世界的な人種になりました。そうだといって、黒人たちは落胆することはありません。白人たちが自分たちを自慢しますが、彼らは他の国を侵略した歴史をもっています。

 一方、東洋人は宗教的性向をもっています。果実一つを摘んで食べながらも、座って考えます。

 このように見ると、高い低いはあり得ません。カラー(color)が問題ではありません。根本的な内容が、どれほど歴史的伝統と一致でき、どれほど神様と一致できるかということが問題です。(288)

 すべては一つにならなければなりません。統一教会は結婚式も国際的にやります。西洋人と東洋人が結婚します。白人と黒人が結婚したりもします。人種を超越して互いに愛し合う姿、それは歴史にもない美しさです。そうならないところに問題があるのであって、それは最も美しいのです。このような主張は、今から十年、二十年、三十年後には、必ず先見の明がある主張だったと評価を受けるでしょう。このような主張を訴える世界的思想がなければ、人類は滅亡してしまいます。神様を中心として見れば、人間はすべてが兄弟です。神様の前では、すべてが一つになれないわけがありません。(289)

 この部屋の中には今、国籍の違うたくさんの人々がいます。もし、誰かが「私は黒人に関心がなく、黄色人種にも関心がない」と言うならば、その人はもはや神様に背くのです。なぜなら、神様はすべての氏族を一つにまとめることを願われるからです。それゆえ、誰かが「ほかの人たちに関心がない」と言うならば、彼は神様と並行するのではありません。(290)

 統一教会の世界的な運動の中で漏らすことができないのが、合同結婚式です。結婚を通して、世界の人は一つの兄弟だという思想を植えてあげています。黒人たちの中にも、神様の性稟がそのままあり、神様の血が流れています。東洋人でも、アフリカの人々でも、一つの心をもっています。一人の体全体には、血が流れています。においがする足の指の間にも血が流れているように、この世界の人の血管の中には、神様の血が流れています。統一教会で国際結婚をする理由は、世界の塀を壊すためなのです。結婚することによって世界のどの国でも行けるようになれば、とても高かった塀が壊れるようになっています。世の中で最も大きい力は、愛の中に入っています。今回、イギリスで一一八双の合同結婚式をしましたが、多くの夫婦が国際結婚を志願しました。このような運動が拡大すれば、世界は自動的に一つになるでしょう。(291)

 黒人と白人が結婚することが罪だと考えていますが、極と極が一つになるのが理想です。私たちは今、そのようなことをしています。もし、これから先、白人たちに理想的な夫婦を探しに行けというとき、全部黒人の所に行くならば、その国は興るのであり、天国だといえるのです。このようなことは、統一教会と先生でなければできないことです。神様のみ旨で見て、白人の純粋性がなくなっても嫌いにはならないでしょう。白人の純粋性がなくなっても人間の純粋性を探し出し得るなら、神様はもっとお喜びになるでしょう。み旨で見た私たちの家庭は、そうできなければなりません。

 ここに集まった黒人食口たちを見れば、白人社会に行くとき萎縮していますが、もうみ旨を知ったので、恥ずかしがることなく胸を張っていかなければなりません。(292)

 あるドイツの娘のことです。祝福を受けるのに、アフリカの男性と結婚するというのです。まだアメリカ社会には、人種差別があります。しかしその娘は、社会的世論より神様を考え、真なる愛の意味を悟ってアフリカの男性と結婚しました。そのような心をもつことが、すなわち神様のみ旨と愛を体恤することだと言いたいです。人種を超越して、すべての人を食口として見る心が重要で価値があるのです。

 私たちは天国建設の難しさを知っています。一般的で普遍的な方法によって天国を成すことはできません。天国建設は、ひたすら自分を犠牲にし、神様の事情を知って全体のために個人を犠牲にするという信念がなくては成すことができません。そのような信念で行動するとき、背後で神様は祝福し助けざるをえないでしょう。結局、永遠なる幸福は、神様が共にいる人の中にあるはずです。ですから、永遠なる天国を建設しようという人に、永遠なる神様の愛と永遠なる幸福があると結論づけることができます。その永遠なる幸福は、永遠なる理想を中心としているのです。(293)


3、国際合同結婚式の意義


 愛の力は原爆の威力よりも大きく偉大です。愛は、人間に死から新しい生命を付与しますが、原爆は人間にただ死を与えるだけです。それは創造ではなく、審判であり、破滅を意味するのです。アメリカやソ連が地球を数千回破壊することのできる原爆を保有していながら、世界の人を統一し一つにできないのは、それが死をもたらす武器であるだけで、新しい生命を与える愛ではないからです。

 世界を一つに一致させるには、武力を随伴した力ではなく、真の愛が必要なのです。武力によって一時的に統合が可能であるかもしれませんが、それはいつ爆発するかしれない爆弾を胸に抱き生活するようなものです。(294)

 統一教会では、愛を武器として世界の一致を実践に移していっています。その中の一つが国際合同結婚式です。人種の互いに異なる人々が愛の夫婦関係を築いて、互いの立場と環境を理解し、愛を土台として手を取り合うとき、世界は必ず一つになるでしょう。

 法秩序を公平に運用するようにして、弱小民族に平等に制度的恵沢が帰するようにし、資源を搾取するのではなく愛と技術を提供して経済的自立を助けてあげ、科学文明の恵沢をすべて等しく受けさせるとき、世界の人は真実な心を開き平和を立て、戦争と貧困をなくすようになるでしょう。そのような環境的雰囲気が造成された土台の上に、神様の愛が花開き実を結んで地上天国が建設され得るのです。統一教会の活動はそのようなことに焦点を合わせているのです。(295)

 神様を絶対的に信仰する人は、負けることなく勝利できます。そのような思想をもって氏族を越え、世界まで克服しなければなりません。統一教会で国際結婚まで自由化されているのは、このような理由からです。統一教会では、将来世界は五色人種まで一つにならなければならないと主張します。神様の愛は一つであり、神様がつくられたこの地のどこでも関心と愛情は異なり得ないからです。だから、超民族主義の結婚観は、一言で言って神様の愛の表示であり、意志なのです。世の中でも愛には国境がないというのに、まして神様については言うまでもありません。これは力の歴史がつくった悲劇的な愛情の結合とは根本的に違います。自分の安全と利益のための行為ではなく、神様と世界と人類のために行く献身的愛の道だからです。(296)

 愛とは世界的に公益性を帯びた無形の秩序であり、平和であり、幸福の要諦です。世界人類のための共同の財産であり、神様の意志と力の象徴です。

 統一教会から、この世界には新しい形態の民族観が立てられています。世界人類は神様の前にすべて平等だという原則のもとに、超民族形成という秩序が立てられています。大韓民国を世界のために貢献することができ、愛を分配してあげることのできる国にしなければなりません。そうすれば世界の中の大韓民国になるのです。「私」が愛するその愛が、自分の家庭だけのための愛ではなく、家庭を犠牲にしても世界を救う愛なのです。(297)

 ムーニーたちは、アメリカ、韓国、日本、ドイツ、アフリカなど、世界各国の人種で構成されていますが、彼らすべてが一つの世界を築こうという目的のもとに動いています。もし、私たちが神様の世界のために働くといっても、人種の壁を越えられず五色人種のムーニー同士互いに闘うならば、神様は私たちと共におられないでしょう。神様がそのようなムーニーたちの活動をごらんになり喜ばれないのを知っているので、先生は五色人種たちをまぜ合わせて混成部隊を編成し、活動させたのです。

 世界を一つの世界になさろうという神様の摂理を知っているので、ムーニーたちがもった人種の壁を壊し、一体感をもたせるためにです。ムーニーたちがまず人種の壁を越え一つになれなくては、世の中に出て歴史と文化、伝統がそれぞれ違う世界人類を一つに糾合させる仕事をすることができないでしょう。(298)

 ムーニーたちを一つに結び連結させるためには、どうしなければならないかが問題です。ロープで縛るといっても完全にはできず、お金の綱、権力の綱、思想の綱をもっても、完全に結び連結させることができないのです。彼らを一つに結ぶには、ただ一つ、愛以外に方法がありません。

 愛によって結ぶ方法が祝福ですが、白人を白人と祝福するのではなく、白人を黄色人や黒人と祝福するのです。同様に、黄色人も白人や黒人と祝福して世界を一つにするので、それがまさに愛の綱なのです。愛の綱で黒人、白人、黄色人を結べば、第二世は点々としていても、一つの人種になるのは明らかです。先祖が黒人と白人ならば、後日白人同士が結婚するようになっても、子孫たちの中には黒人が出てき得るというのです。父母が白人ですが、彼らの血の中には黒人の遺伝因子があるからです。(299)

 白人たちが黒人と結婚し、白人たちがアジア人と結婚しようと騒ぎ立てますが、このように誰がしましたか。レバレンド・ムーンがしましたか。真の愛がしました。(300)

 黒人や黄色人と結婚した白人の女性が双子の子女を生むのに、黒人と黄色人の子供を生んだなら、それをごらんになる神様の心情はどうでしょうか。「見るのが嫌だから、お前たちの家庭には共にいない」と言われるでしょうか、でなければ「本当に見るによく、無限にうれしい」と言われるでしょうか。黒人と黄色人の子供を両側に抱いてお乳を飲ませる場面は、地上でのどのような風景よりも美しい場面だと言わざるを得ないでしょう。人類歴史がつくった最高の美しさでしょう。黄色い花に黄色いチョウチョだけが飛んでくるより、白いチョウチョ、赤いアゲハチョウ、黄色いチョウチョが一緒に飛んできてこそ、見るによく美しさが加わるのと同じ道理です。(301)

 一つの心が集まる所には、一つの愛が始まります。心が一つになれば、愛というものがお出ましになることができます。愛が貴重に思われ得るそのような環境を、まずつくっておかなければなりません。それゆえ、心が行く所には、愛が行くようになっています。ある家庭で父と母の心が一つになっているとき、愛の天国が可能です。

 また、ある家庭で白人と黒人が一つの家族を築いているときは、白人だけが住む家庭より先に天国が訪れ得ると見ます。なぜなら、白人同士の心が一つになるのは、家庭的天国は成し得ますが、世界に行く天国はまだ不可能だと見ることができるからです。

 黒人と白人が一つになった家庭があるならば、その家庭の前には世界に行くことのできる道が広々と開かれているといえます。だから、これから天国は国際結婚をした夫婦が暮らす所で成されると見るのです。アメリカで離婚する人の三分の二は、女性が問題になっています。エデンの園での堕落も、女性が先にサタンの誘いを受けてそうなったのです。しかし、どのようなことにも女性がいなくてはなりません。だから、女性たちに対する真の教育が必要です。この教育は有名な宗教人、有名な学者に任せても効果を上げられずにいます。このようなとき、国際結婚がアメリカだけでなく全世界の話題になっています。統一教会の理念は、人種を超越して国際結婚をさせています。(302)

 統一教会は、文化背景と生活背景が違い、複雑な関係が絡んでいる世界のすべての問題を解決すべき使命をもって現れました。それで皆さんは、世界を代表して心情の十字架を負い、どのような難しい問題も解決できなければなりません。そのような意味で、人種間の壁を壊してしまい、国際結婚で築かれた家庭はどのような家庭よりも偉大な家庭です。国際結婚でよく暮らす家庭には、神様の愛が訪ねるでしょう。その家庭は、世界の十字架を代身して負っており、統一教会の威信がかかっているので、厳粛な道を行く家庭です。後日、同族同士で結婚した人は、プレゼントを買って国際結婚した家庭を訪ね、祝ってあげる日が来ることを知らなければなりません。(303)

 女の子たち、白人たちとだけ結婚すると言うならば、それはサタン世界の考えです。私は韓国人ですが、韓国だけのためにとか、韓国だけを立てるというように、韓国にだけ局限された人ではありません。この世界をまず考える人です。私たちはそのような伝統をつくらなければなりません。超氏族的な立場でこのような家庭を築き、五色人種が互いに愛し合い一つになり得るならば、それが神様が願う最高の栄光の新しい朝になるということを知らなければなりません。(304)

 今日、統一教会員たちは国境を越え国際結婚をたくさんしました。全く言葉が通じない人同士で結婚した人もたくさんいます。言葉の通じない人々が出会って人生の全部を投資し、青春をかけて出発するというのです。このように、たった一度しかない貴い青春を投資するのは、誰のためにでしょうか。世界が国境という怨讐の塀によってふさがっているので、この塀を壊し切るためにです。それゆえ、私たちはこのような受難の道、曲折の道を先に行くことによって、この民族と他の民族が一つになり得る神様の土台をつくらなければならないのです。それが必ず「私」が行くべき道であるのを知ってありがたく受け入れる人は、歴史的に、世界的に勝利した人だといえます。(305)

 人種戦争、性的堕落を克服するため、皆さんは国際的な合同結婚をしました。(306)

 先生は数多くの民族を代表した立場にいる人です。だから先生は、韓国の男性たちと娘たちを、世界各国にめとらせ嫁がせるのです。この道が世界を愛する最もよい道だからです。(307)

 大韓民国が世界的な競争圏内で発展を模索するように、統一教会も世界的な舞台で新しい統一思想を中心とした文化圏を創設するために、世界的な舞台に立たなければなりません。新しい世界の主体思想を確立させるべき使命が横たわっているのです。それで結婚式も世界的に挙行する国際結婚式をもつようになるのです。(308)

 将来は、皆さんの一族全部が一つになって先生に侍ろうとするでしょう。そのとき私は、できれば国際結婚した家から訪ねていくでしょう。国際結婚した人は、心情的革命を成した人です。(309)


4、東西文明の差異と国際結婚


 偉大なものは何でしょうか。「愛」。本当にそうですか。「はい」。そうです。そのような愛はどこにありますか。愛は縦的なものですか、横的なものですか。「縦的なものです」それでは、愛は回る力でしょうか、直線で飛ぶ力でしょうか。「回る力です」。

 それゆえ、縦的な愛もありますが、横的な愛もあります。それでは、どれが先でしょうか。「縦的なものです」。なぜでしょうか。人を見れば、片方片方が互いに一つになって(=左右対称)、また目と目の間に鼻が物差し(=基準)になっています。

 また、西洋人は左から右に横書きで書きますが、東洋では天地の道理に結ぶために、誰が始めたのか知りませんが、上から下に書きます。

 それでは、どこから世界が一つになるでしょうか。西洋思想が東洋思想を中心として動き始めるとき、世界が一つになり得ると見ます。これは西洋人たちが東洋に来て一つにするのではなく、東洋人が西洋人たちを完全に一つにするところから始めるでしょう。

 今日皆さんは、東洋人である先生と一つになって、先生に従うことを願っています。このようなことは、歴史上初めてのことです。

 西洋人たちは、自分にはいつも昼だけあると思っていました。彼らは夜が来ようとしているので、大変なことになったと言いますが、夜が来て初めて一回りするようになり、生きる道が開けるようになります。昼と夜を知ってこそ完全な人になります。

 絵にも白黒の明暗があります。それがあってこそ、調和が生じます。そういうことを知らない人は、芸術を知らない人です。これから、先生が理想とする芸術作品は何でしょうか。絵を中心として見るとき、白黒が争っては傑作が生まれることができません。

 白人たちが白色だけいいというならば、白いペイントだけ持って絵をかいてごらんなさい。どんな傑作が生まれますか。そのように見るとき、黒人、黄色人など五色人種がすべて必要だと思います。絵の背景を単色よりは多色でかくとき、美しく見えます。また、絵において立体的に見えるためには、さまざまな色が調和しなければなりません。(310)

 西洋人の顔と東洋人の顔は、相対的に創造されました。西洋人の鼻は高く、東洋人の鼻はぺちゃんこです。西洋人同士が口を合わせるとき、鼻が触れ合うので、横に口を合わせるのを見ます。しかし東洋人と西洋人は、一人の鼻は低く一人は高いので、直線的に口を合わせることも可能です。それで神様も、東洋人と西洋人が相対的な立場で調和を求めることを願ったはずです。だから先生は、できれば国際結婚をさせようとします。これがむしろ素晴らしく、円形に近づき回るようになります。

 なぜそれを好むのでしょうか。天地の道理がそうなので、西洋と東洋を国の力によっても引き離すことのできない愛の基盤を固めて、一つになるようにしなければなりません。それが、統一教会が歴史上長く残り得る道になるでしょう。このような基盤さえもてば、世界は自動的に一つになり得ます。(311)

 皆さんは平地を好みますか、山を好みますか。山には調和があり、神秘の象徴があります。平面は一度見るだけで疲れてしまいます。それでは、白人は平面に近いでしょうか、山に近いでしょうか。

 西洋の文明は低いです。低いので平面に近いです。アメリカ人たちは、なぜアンティーク(骨董品)を好みますか。アメリカ人たちは、新しいものを持って殴り、アンティークをつくろうとします。なぜでしょうか。それは深く高いところを求めようとするからです。アメリカ文化を観察してみると、そのような面が多いというのです。

 しかし、東洋文化は深く高く神秘的です。西洋人がいくら研究しても、分かるのは困難です。それゆえ、西洋人は東洋人が分かりません。西洋人は、合わなければ「決闘しよう!」と言いながら、戦争によって高い低いをえり分けようとします。しかし、東洋人は思索で、あるいは思想的にえり分けようとするというのです。合わないことがあれば、我慢しながら様子を見ます。

 だから、戦争を好む西欧人の文明は、戦争によってアジア文明を吸収しなくてはならないというのです。世界戦争は、白人たちがたくさん起こしました。白人たちは、北極で狩りをして熊を食べる狩猟民族でした。このような白人が世界文化史において戦争の歴史を導いてきました。(312)

 相対的な関係にある二つの物体が一つになるとき、強い力を出すことができます。人について見ても、女性同士が集まれば、近所を引っかき回すという言葉がありますが、女性と男性が一つになるとき、どこにも見ることのできない強い力を出します。同様に、反対の性格をもった東西洋が愛によって一つになるとき、永遠なものになり得ます。だから最近は、西洋人が西洋より東洋を好むようになり、東洋人が西洋を好むようになっているのを見ます。それは、冷たい水と熱い水がぶつかれば爆発するように、東洋人が西洋に、あるいは西洋人が東洋に住むとき、刺激をたくさん感じるというのです。だから、これからの結婚は、国際的な結婚をしなければなりません。そのような意味で、先生はそのようなことをするにおいて世界的な旗手になっています。(313)


5、国際結婚時代の開幕


 今回、祝福も日本とアメリカとドイツをしてあげました。本来は、一九六七年に祝福をしてあげようと日本に行きましたが、できませんでした。それで一九六八年に四三〇家庭の祝福をしてあげるとき、日本の代表として久保木を連れてきて、先に祝福の条件を立てたのです。まず日本を祝福してあげ、次に、アメリカを祝福してあげました。そして、サタン側のアダム国家であったドイツを中心として、四大国家に神様の祝福のいかりを下ろし得る立場に立ちました。したがって、全世界の国家を代表した全体が蕩減条件を立て得る、勝利の土台になったということを皆さんは知らなければなりません。このようにして帰ってきたのです。(314)

 世界的基盤を立てなければならないので、四三〇家庭を祝福してあげた後に、十カ国の人々が国際結婚をしました。ところで、ここに韓国が抜けてもいいでしょうか、いけないでしょうか。「いけません」。それでは、外国人たちが韓国の男性と結ばれるのは栄光ですか、栄光ではありませんか。「栄光です」。韓国の女性と結ばれるのは栄光ですか、栄光ではありませんか。「栄光です」。では、万民を栄光に浴させるその国はよくなりますか、悪くなりますか。「よくなります」。ですから男性たちは、栄えある妻になろうという人と結ばれるために、国家を越えて相対を得なければならず、女性たちは、栄えある夫になろうという人と結ばれるために、国家を越えて相対を得なければなりません。(315)

 三六家庭は、キリスト教歴史の中で失敗したすべてのものを、私たちが再び勝利しようという立場で祝福するようになったのです。キリスト教の中心思想を再現するための使命があります。

 七二家庭は、カインとアベルが一つになれなかったのを、一つになった形態として結んでおいたのです。一二四家庭は、世界的な代表形態です。四三〇家庭は、大韓民国が四千三百年になった年に祝福をしました。この祝福があった後からは、大韓民国の国民は誰でも天を信じれば、天国に行くことができるという条件が立てられたのです。この時からは、特定時代ではない普遍時代の門が開かれるようになったのです。世界の人は、一つの兄弟だということを教えてあげたのです。一九六九年に、世界の数多い国家の中から四十三名を選んで祝福をしてあげましたが、これは韓国における四三〇家庭と同じです。それで、四三〇家庭以後からは国際結婚の時代が開かれるようになったのです。国際結婚をすることによって、ある限定された国家の国民ではなく、世界的な食口の立場に立つようになるのです。(316)

 七七七双合同結婚式以後は、結婚の国際連合時代です。今回、イギリスで三二〇双約婚式をもちましたが、イギリス人同士結婚した人は二パーセントしかいません。二十五カ国の青年男女たちが国際的な約婚をしました。これからは、合同結婚式の次元を越えて、世界の人の国家別貧富、貴賎を問わず天の人だという主体性をもって統合結婚をする時代になるでしょう。統一教会に反対する時代が過ぎれば、統合結婚の時代になります。

 皆さんの中で、苦労を一番多くする人が神様の福を受けるようになるでしょう。皆さんはすべて個人でいるようですが、個人ではありません。個人の次元を越えて、神様を代身して生きなければなりません。(自分のためだけに生きたくて)統一教会が嫌なら、出ていってもいいです。更に、統一教会だけのために生きるという人がいるならば、今すぐにでも自分の行きたい道に行きなさい。なぜなら、世界と神様は、世界と神様のために働くことを願っておられるからです。私たちは、社会と国家のために生きた人を忠臣といいます。また、世界人類のために生きた人を聖人といいます。個人のためにいくら大事を成したといえども、それは何でもありません。秋風に散る木の葉のように、無意味に落ちて腐ってしまいます。全体のために生きる人は、充実した実になって永遠に残る、社会の中の素晴らしい主人公になるのです。(317)

 今回の祝福は、全部国際結婚でした。アメリカ人はドイツ人と、オランダ人はイギリス人と、すべてこのように国際結婚をさせ、自分の国の人々同士は結婚させませんでした。世界を復帰するためには、民族感情や思想を超越して世界的な感情をもたなければなりません。それで全部国際結婚させたのです。それでもみんないいと言うので、それを見る先生の気分もよかったです。そして先生が祝福をしてあげてから、彼らに「韓国のために何をするか」と聞きましたが、彼らはみんな、何でも命令どおりにしますと答えました。

 歴史上において、アジアの一人の若者としてヨーロッパ世界でこのようなことをした人は、今までありませんでした。このようなことを見てみるとき、統一思想がどれほどのものかを再び感じるようになります。(318)

 大韓民国がチャンピオン国家だというなら、その相対的な国家はどういう国でしょうか。日本です。それゆえ、たくさんの日本食口たちが、「大韓民国の人と結婚しなければならない」、「先生と最も近い位置にいる人と結婚しよう」と言うのです。ですから、先生のもとに来ようと努力するのです。その道しかないので、結局は国際結婚が自動的に盛況を呈するようになるのです。なぜでしょうか。統一教会の行く道が最も近い道だからです。(319)

 今までサタン世界が歩んできた道の上に、サタン世界に勝利した個人、家庭、氏族、民族、世界圏を編成しなければなりません。統一教会の祝福家庭は、すでに超民族圏内に入っています。今度、祝福してあげるときは、国際結婚をたくさんさせる予定です。そうなれば民族的な次元を越え、他の国に対する認識も変わるでしょう。今回、ヨーロッパ二十七カ国の人が集まる中で約婚をしましたが、自分の国の人同士結婚した人は二パーセントしかありません。それ以外は、みんな考えもしなかった人と結ばれました。しかし、彼らは互いに言葉が通じず、怨讐の国同士結ばれた人もいますが、喜ぶのを見ました。互いの風習が違って気まずそうですが、無事通過です。それで、ヨーロッパで大きな話題の種として登場しました。先生がアメリカからイギリスに逃げてきたと思ったのに、ヨーロッパに若い男女たちを集めて結婚させてあげたといううわさが立ちました。夢にも思わなかった国の人同士、縁が結ばれたというのです。彼らは生まれて初めて見る人同士結ばれましたが、先生が結んでくれたといって喜ぶのを見るとき、この内容を知らない人はとてもいぶかしげに思います。西洋人たちはそれを見て、催眠術をかけるとも言います。(320)


6、国際祝福家庭の使命


 皆さんは、祝福を受けなかったなら韓国に来る道がありません。結婚すれば国境を越えることができるように採択された国際公約は、「神様が加護したから」だという事実を知るべきです。この土台をつくるために数多くの宗教人たちが犠牲になり殉教の血によって、後代の人間たちが真の家庭を探し立て得るように採択された便利な公約をもって、神様が準備したものであるのを知らなければならないというのです。(321)

 今日、皆さんが先生に出会い、国境を越えこのように集まったのは、後にも先にもない事実です。先生が国家と国家の障壁を越えるにおいて、偉大なことをしたというのです。卑近な例で、第二次大戦時、イギリスとドイツが怨讐の間柄として戦争をしましたが、二つの国の未婚の男女たちを結婚させることによって、愛で授け受ける歴史的なことを始めたのです。言葉は互いに完全に理解できませんが、愛の基地から生まれた赤ん坊を見るときは、互いに喜ぶのです。ここから、ヨーロッパの天地に統一の心情圏が結束されてくるという事実は、驚くべきことです。

 個人から、家庭、氏族、民族、国家、すなわち五大洋六大州にいる人々が、互いに言語や生活風習は通じませんが、愛によって歴史的な塀を出入りし、神様と真の父母の着陸基地を築きました。ですから、統一家の国際結婚こそ偉大な課業なのです。(322)

 統一家の理念は、為に生きることです。自分を犠牲にして兄弟のために生きようという思想なのです。自分だけを主としてこの滅んでいく世のために生きようという孤高な群れが、天地の大主体であられる父なる神様の前に集まり、家庭、民族、国家、世界、天宙のために生きようと決意したのです。十字架が幾重にも重なり合って横たわっていても、無難に突破しようと決意した群れの喚声が、地の果てまで響き渡り得る運動になったという事実は、歴史上画期的であり、革命的な提唱だと言わざるを得ないのです。これを誇らしく思わなければなりません。(323)

 皆さんは、国境を越え何を訪ねてきましたか。夫や妻が恋しく、ご父母様が恋しくて訪ねてきました。

 皆さんは歴史的背景をもった各自の文化と領土、そして父母のそばを離れて韓国になぜ住もうとして来ましたか。

 神様は今まで、本然の夫と妻を探し出すための道を、求道の目標として立て役事してきました。それで、皆さんはサタンに因縁づけられた国家の基盤を離れ、ただ本性が慕う真なる夫と妻に会おうとして来たのです。真なる男性と女性は、真なる父母の因縁を通して成長するので、真なるご父母様に侍るために訪ねてきたのです。お金のために来たのではありません。アメリカ人、ドイツ人であるのを誇るためではありません。自分の夫と妻、そして真の父母を、天下の何よりも誇るために来たのです。真の父母が歴史上、まだ悲しみの道を脱し得ていないので、その父母を愛するために来たのです。このような心情的決定をつけて訪ねてきた群れが、韓国に来た国際祝福家庭だと先生は考えているのです。(324)

 皆さんは従順と愛の心を備えて、愛を訪ねてここに来たのです。結ばれた夫が不具者だといっても、神様とご父母様が決定したのです。生涯をすべて捧げ、命が絶えるとしても、愛のエキスである一つの実を残して逝こうという願いの中で息子・娘が生まれなければなりません。そのような息子・娘が生まれましたか。(325)

 今日、皆さんが韓国に来て息子・娘を生んで、懐でお乳を飲ませるのに、「何のお乳を飲ませましたか!」と聞きたいです。神様の愛と真の父母の愛を中心として因縁づけられ祝福を受けた男女が、一つになった愛の花を咲かせた息子・娘として抱き、お乳を飲ませるのかというのです。皆さんの財産の中で最も貴いものがあるとすれば、(その)息子・娘です。(326)

 過去の自分の生がお金や知識、名誉を探し歩いたなら、それらは偽物の人生です。たとえ乞食の道に立つとしても、愛する夫や妻を真をもって迎え、真なる父母の道を立てるために「私」が来たと言うことのできる国際家庭になるならば、その家庭は神様が責任をもつのです。そのような家庭は飢えて死に得ず、隣近所の注目の的になって、後ろ指をさされなければならない非難やあざ笑いの中に消えることができないというのです。先生の生活と同様に、その環境が遠からず屈服するのです。

 世界のすべての人が、全部反対しても、レバレンド・ムーンは真なる兄弟を探し、真なる氏族を探していった人です。真なる氏族圏を探し出した後には、真なる民族を探していく道を行きました。真なる民族を探し出してから、真なる国家を探していく道を行きました。真なる国家を探し出しては真なる世界、真なる世界を探した後には真なる霊界、天国……。地獄がない、統一された一つの愛で充満したその世界を探していく代表者が、レバレンド・ムーンだったというのです。(327)

 皆さんは、祝福がどれほど貴いものか知らなかったでしょう。神様に称賛を受けるだけではなく、愛を受けるにふさわしいと言い得る息子・娘を生み、国際祝福家庭を代表して、「二つの国が統一され得る一つの旗手が生まれ、二つの国の王子として育てなければならない」と考えてみましたか。そうし得ていなければ、この時間、みんな悔い改めなければなりません。

 生活態度を根本的に変えなければなりません。愛の版図を確定するための世界史的な責任を負い、苦痛の十字架が横たわっている受難の道を甘受しながらも、幸福を探し求め千里遠征するのです。真なる愛の道を開拓するために世界各所から飛んできた群れだということを忘れるなら、罰を受けるということを知らなければなりません。皆さんの国が罰を受けます。

 ただ流れていく人々が出会い集まって国際結婚したのではありません。権力ゆえに知識ゆえに、経済力ゆえに生じた東西の分立と南北の格差を解消させて、その上にそびえ立つ愛のエベレストをつくるべきなのが、統一の子女たちのもつべき伝統的使命です。(328)

 日本食口の中に、韓国に来てみ旨のために殉教しようという者がいましたか。黒人と結婚しても、韓国人とは結婚するなというのが、日本人たちの気性なのです。私は知っています。先生も、日本でどれほどぞんざいに扱われたかしれません。その腹いせをするとなると、こん棒で日本人の骨をへし折っても、怒りが解けないでしょう。しかし、神様の愛を悟り天道を知ったので、このようにするのです。そうでなければ、目に火花が散るのです。私が拷問を受け血を吐きながら生死の絶頂であえいだ事実は、死んでも忘れられないでしょう。そのような後孫を呼び集め、神様の息子・娘にするのはたやすいことでしょうか。

 韓国に訪ねてきたからには、今から韓国の伝統を学びながら、皆が責任を完遂すべきです。先生が今後、統一の園(在・水沢里)のような墓地に行くようになれば、皆さんも先生の墓の近くに埋められるでしょう。皆さんが、先生が埋められた園に埋められたならば、その先祖と後孫たちがどれほど誇るでしょうか。玄界灘に建設されたトンネルを利用し、数多くの後孫たちが訪ねてきて泣きながら追慕する日は遠くないでしょう。歴史に跡を残すという恐ろしさを体験し、生きなければなりません。(329)

 夜も昼も努力すべきなのが統一家の伝統的運動であり、統一家の伝統的行動です。(330)

 夫となる韓国人たち、妻となる日本人たち、皆さんが行くべき道は、韓国のためではありません。韓国と日本が一つになる世界的愛の開拓者として来たのです。(331)

 韓国で韓国語を学べば、日本食口たちはみんな満州やシベリア平原に行かなければなりません。あるいは中共に行くための準備をしなければなりません。日本人たちは、中共の人以上に中共を愛することができてこそ、民族を越えて国家を越えて、世界に行くことのできる道が開かれるのです。

 神様のみ旨は、皆さんを犠牲にしても神様の真なる愛の種を植えることです。日本から来た皆さんとその息子・娘を中心として、将来、大陸圏を開拓し得る神様の先発隊が生まれることを先生は願っています。皆さんはこのような課業のために集まりました。(332)

 歴史的な召命を受け外国から韓国に来た皆さんは、もう日本人やヨーロッパ人として生きるのではなく、韓国国民以上の受難の道を歩むとしても、神様の国の伝統を立てるにおいて先発隊として出発しなければならないという事実を、この時間再度決意しなければなりません。

 先生が世界的基盤を立てているこのような環境で、皆さんが信仰の祖国に来たので、先生以上に汗を流し、苦労しなければならないのです。アメリカに行って苦労する日本食口以上に活動しましたか。日本の女性食口たちは、日本で苦労した以上に活動しなければなりません。ヨーロッパの食口たちは、自分の国でしたのより、もっと熱心にしなければならない責任があります。どんなに困難でも、この道を行くべきなのが、皆さんの義務であり、目標です。(333)

 信仰の故郷の地に来て心情的に一つになり、韓国語を完全に学べば、皆さんの国に送って韓国語の先生として立てるでしょう。各国がそれを必要とするでしょう。教育の先発隊として皆さんを夫婦に結んであげたのです。ラジオの放送をすべて聞き取れますか。時間表を立てて、毎日のように夜遅くまで勉強しなければなりません。将来、韓国語を世界に広めることのできる皆さんにならなければなりません。韓国で心情的紐帯を結び愛の夫婦、父母の因縁を経て、自分の国を解怨して神様の国に連結させ得る太いパイプの役割をしなければなりません。

 これから、韓国人を夫として侍ることを誇るときが来るでしょう。神様を中心とした統一圏をつくって、勝利の天国門を開門しようとして努力するこの時局に、韓国に来た外国の女性食口たちが、追われていく人になってはなりません。韓国の夫たちは、その妻が追われていかないように、愛でよくかばってあげなければなりません。

 今回、組、班を編成してホーム・チャーチ活動の主力部隊になり、深く高い心情の因縁を体恤しなければなりません。神様が韓国に下した祝福の恩賜圏を中心として、愛のいかり綱をぴんと縛りつけ、皆さんの地(故郷)に帰って統一圏を拡大しなければならないことを、この時間、はっきり知らなければなりません。(334)

 同じ国の人同士、み旨を中心として死のうという家庭と、怨讐国家間で一つになって死んでも愛のみ旨を立てようという家庭の中で、誰が神様の前に、より祝福を多く受けるでしょうか。それは国際結婚をした人々です。そのように知って、これから韓国人たちの見本になれるように、愛の使者としての責任を完遂しなければなりません。(335)













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第七章 真の夫婦と理想家庭

祝福家庭と理想天国

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第七章 真の夫婦と理想家庭


  

第一節 真の夫婦

  

第二節 理想家庭

  

第三節 祝福家庭の生活

  

第四節 真なる父母と子女

  

第五節 子女教育



第一節 真の夫婦


1、創造本然の夫婦関係


 一男と一女は、無形であられる神様の実体対象として現れた息子・娘です。男は神様のプラス(+)の性稟を、女は神様のマイナス(−)の性稟を代身した実体対象です。創造理念は、両性の中和体としておられる神様の性相を二性に分立し、再び神様の本性相に似た姿に合成一体化するものです。一人の男と一人の女は、おのおの神様の一性に似て現れました。したがって、彼ら一男一女の結合は、神様のプラス(+)の性稟とマイナス(−)の性稟が一つになることです。すなわち、神様に似た中和体となるのです。それゆえ、人間の二人、すなわち夫婦は神様の全体を表象する結合体です。

 男は神様のプラス(+)の性稟を代身することによって真の父の分身となり、女は神様のマイナス(−)の性稟を代身することによって真の母の分身となるのです。彼らはおのおの神様の代身者でもあります。愛で一つになることは、天宙を抱くことと同じです。これは宇宙的な出会いです。

 夫は多くの男性を代表して現れた存在ですから、夫であると同時にお父さんの代身でありお兄さんの代身であり、妻は多くの女性を代表しているから、妻であると同時にお母さんを代身し、お姉さんを代身しているので、互いに愛し合い尊重せざるを得ないのです。(1)

 男性は神様の陽性的形状であり、女性は神様の陰性的形状です。夫婦は天下を一枚のふろしきに包んだのと同じです。ゆえに夫婦は、神様の理想的な愛の心情を感じることができます。(2)

 男性は天を象徴し、女性は地を象徴します。二人が一つとなって調和を成し、平行線を成さなければなりません。(3)

 男性と女性の愛の完成が、宇宙の完成です。この愛が壊れる日には、宇宙の秩序が破壊され、縦的な世界がすべて台なしになります。(4)

 男女が一つとなることは、天地が一つとなることです。(5)

 男性と女性が互いに好きになって抱擁するそれ自体が、宇宙が一体を成す場となります。神様の理想の中で成された創造本然の姿はそうです。(6)

 アダムの願いは、天宙を支配することでした。アダムが抱き愛した夫婦の価値は、世界の中心価値を代身したものではないでしょうか。そのような立場で愛を占有すべきであったのに、今日の堕落した悪の社会相をごらんなさい。肉的な満足だけを求めているでしょう。そのような退廃的な皆さんとなってはなりません。(7)

 堕落しない神様のつくった本然の人、すなわち本然の男性と女性を中心としたその愛が、どれほど神聖で価値があるかを、はっきり知らなければなりません。(8)


2、復帰されるべき真の夫婦の理想


 結婚をすれば、妻は自分の夫を神様の代身者だと思わなければなりません。妻は夫のもとで娘の立場とならなければなりません。神様が失った娘を、夫として復帰しなければなりません。神様は堕落によって三つを失いましたが、そのうちの一つである神様の娘の立場を、夫を通して復帰しなければなりません。そして、妻は夫をお父さん以上に信じなければなりません。今まで自分の体験を総合した価値よりももっと貴い価値を発見し得る基準に立って、向かい合わなければなりません。そのような心情基準を復帰することができなければ、サタンが破壊した理想相対の基準を取り戻すことができません。

 その反対に、夫は妻に自分のお母さんのような心情で対さなければなりません。そして、互いに離れては一日も過ごすことができないほど、夜も昼も絶対的に必要な間柄にならなければなりません。このように夫婦が一体となっていかなければ、復帰の条件は立てられません。(9)

 神様は堕落によって三つを失いました。それでその一つである神様の娘を、夫の立場で復帰しなければなりません。そして、妻は夫をお父さん以上に信じなければなりません。自分の今までの体験を総合した価値以上の価値を発見した基準に立って、向かい合わなければなりません。そのような心情基準を復帰することができなければ、サタンが破壊した理想相対の基準を回復することができません。

 それと反対に、男性は自分の妻に対して、自分は妻の息子だという心情をもたなければなりません。妻に対して自分のお母さんのような、自分は息子のような心情がわき上がらなくてはなりません。また、一つは、もし「私」がいなければ、一日も過ごすことができず、夜も昼も絶対的に必要な私たちだという心情をもたなければなりません。そのようにして、夫婦一体とならなければ、復帰の条件は立ちません。(10)

 男性には妻がお母さんの分身であり、お母さんの結集体です。同時に、お姉さんの結集体であり、妹の結集体です。そして、宇宙を代表した女性の結集体です。そのような内容をもっている妻を愛することは、すべての人類を愛した結果となります。それはまた、すべての女性を愛した立場に立つようになり、自分の家のお母さんとお姉さんと妹を愛したことになります。

 同様に、女性において、夫はお父さんの分身です。また、お兄さんの結集体であり、弟の結集体です。これが、私たちが成すべき家庭の理想です。(11)

 男性は真の父の分身であり。女性は真の母の分身です。それゆえに、夫が妻を無視すれば、真の母を無視するのであり、妻が夫を欺けば、天を欺くことになります。(12)

 妻は夫をお父さんのように思い、さらにはおじいさんのように思い、その次にはお兄さんのように思い、弟のように思わなければなりません。(13)

 妹のように育て、妻のように愛し、お母さんのように仕えてあげようという心持ちが必要です。愛は妹から、すなわち妹として愛し始めて、妻として愛さなければなりません。妹、姉、新婦、母のように愛さなければなりません。そうしてこそ、人間が堕落することによって失った、神様が果たせなかった愛をすべて復帰することができます。(14)

 結婚はなぜするのでしょうか。世界を愛する訓練を受けるためです。また、万民を愛することのできる資格をもつためです。(15)

 祝福は誰のために受けるのでしょうか。神様と世界のために受けるのです。それでは、愛するのは誰を愛するのでしょうか。世界を愛するために、世界を代表した一番近い人を愛するのです。

 女性は男性を、お父さんを代身し、夫を代身し、お兄さんを代身し、弟を代身した立場に立てて愛さなければならず、また男性は女性を、お母さんを代身し、妻を代身し、姉を代身し、妹を代身した立場に立てて愛さなければなりません。この四つの立場を代身し、世界を愛する心をもって一番近い立場で愛し尊敬しながら、相互いにその刺激を感じるように結んでくれる因縁が夫婦です。

 世界を愛する代身の立場として、世界的な愛を授け受けることのできる一番基本の単位的な基盤が夫婦です。その基盤をイエス様が立てられなかったので、それを立てるために世界を代表した立場で愛することのできる二人の男女が新郎新婦の名で出会う場が、小羊の婚宴をする場です。

 それゆえ、結婚すれば、妻をお母さんの代身として、お姉さんの代身として、妹の代身として愛さなければなりません。また、夫をお父さんの代身として、お兄さんの代身として、弟の代身として、それ以上愛する心をもち、愛さなければなりません。これが、理想相対を中心とした家庭的な夫婦の愛です。公式がそのようになっています。(16)

 皆さんは妻をお母さんのように思う心が必要です。そうしようとするなら、皆さんが子供にならなければならないでしょう? 子供になれというのです。子供になって悪くないというのです。女性たちは、男性が子供のように甘えればうれしがるのです。うれしがるか、うれしがらないか、やってみてください。子供のように、御飯も食べさせてくれとだだをこねてみなさい。幼子のようにしてみるのです。そうしたとしても、神様が物心のつかない奴とはいいません。復帰途上ではそのようにしなければならないので、仕方がないのです。ですから、妻に「母さん、御飯ちょうだい!」と言えば、女性は気分がよくて「ああ、大きな赤ん坊が現れたね!」と言いながら育てるというのです。そうしなければならないのです。

 堕落によって失った女性の愛を、皆さんの一生の間に復帰しようという心をもたなくては、本然の家庭基準を復帰できないのです。分かりますか。

 神様は一人に対して、父母の愛、夫婦の愛、子女の愛、この三つの愛のすべてを成せなかったことが恨みです。それゆえ、そのような愛を一人に対してすべて誘発させる立場に立ってこそ、心情的な天国を復帰するのです。ですから、愛する問題しかありません。そうでしょう? 結果的に愛が問題だというのです。(17)

 新しい歴史は新郎新婦から始まるのです。そして、イエス様を信じることによって真に純粋な、純情な因縁を結ばなければなりません。そこから約婚段階にとどまるのではなく、彼は「私」の夫であり、彼女は「私」の妻だということのできる夫婦とならなければなりません。その夫婦は、過去の歴史を審判し、新しい先祖として新しい歴史を厳粛に出発することのできる立場に立たなければならないのです。そうする前には、人間として行くべき道をすべて行ったということができません。(18)

 新郎新婦が個人的に蕩減復帰をして、天地の法度を代身した夫婦となれば、神様が「お前は私の肉の中の肉であり、息子の中の息子であり、孝子の中の孝子、忠臣の中の忠臣だ」といえる、そのような夫婦となるのです。そうして、万国を代表する基準を立てることのできる資格者となります。(19)

 ここに祝福家庭がたくさんいますが、家庭生活はどうですか。夫婦げんかもしますか。人の夫や妻になるということは、易しいことではありません。神様が地上に自分の相対を捜すことが、どれほど難しいことであるかを知っていますか。息子・娘を失った後に、今まで歴史過程を経てきながら、とても大きな犠牲の代価を払って地上に宗教を立ててきました。その犠牲の代価をもって、皆さんは呼ばわれ、皆さんを愛する心で祝福をしてあげたのに、そのありがたさも分からずけんかをするなんて、あり得ることですか。一つの国の大統領は易しいかもしれませんが、一家庭の夫となり妻となることは、決して易しいことではありません。家庭において夫は、神様を代身する存在となります。結局、地上に神様が実体として現れるのが夫です。また、男性が天の代身だとすれば、女性は地を代身した実体なのです。そのような道理で見るならば、互いが一つとなってこそ調和が生まれるようになります。そこには理想が成就し、歌と喜びが充満するようになるのです。愛の力は無限なものであるがゆえに、神様の愛に酔うようになれば、神様と一体となって直接主管を受けるようになります。

 皆さんを祝福してあげたのは、神様の愛を受けられる相対的な家庭になるためなので、けんかをしてはなりません。妻が間違ったことに対して夫に責任がないのではなく、妻は悪いが夫だけは立派だということはありません。その夫に、その妻に、この国のどのような人よりも、この世界のどのような人よりも、神様を代身して侍ることができなければなりません。(20)

 統一教会の女性たちは、夫を神様の代身者と思わなければなりません。夫もまた同様です。夫に神様のように侍る人が真の愛をもって生きる人です。

 その次には、自分の夫に主のように侍らなければならないというのです。主は万王の王であるので、王のように侍ろうとしなければなりません。

 皆さんは、神様の代身であり、王の代身である夫と生きることが幸福でしょう? それゆえ、夫を見るとき、神様を見るように喜ばなければなりません。愛は変わらないがゆえに、何でもすべて通じることができます。愛の道……。愛は個人から家庭と国、そして世界を経て神様まで越えていくがゆえに、全部通じることができなければなりません。

 夫に出会うとき、妻が主に出会うように喜び、王に出会うように喜べば、その女性は神様の相対のような価値をもつようになるのです。神様の相対のように思えば、神様のような価値が現れるようになっています。夫はこのような立場で妻を愛せというのです。国を愛し、主と神様を完全に愛したというとき、この愛はどこでも通じるというのです。それゆえ、この三つの愛は、水晶体と同じです。真の愛は森羅万象を統合させることができます。

 そのような愛をもって霊界に行けば、神様と一つになることができるのです。なぜなら、真の愛は境界線がないからです。だから、あなたの夫はどこから来たかと尋ねるとき、神様の愛の包みを担い、神様が送ったので来て、主と王が送ったので来たと言うことができるのです。そのように来る客は、美男であろうとぶ男であろうと、自分の夫です。そのように思わなくては、結婚する資格がありません。だから、このような愛をもって四方に連結されるとき、世界がその愛の圏内に入るようになるのです。だから、王のように民を愛し、主のように世界の人を愛し、神様のように宇宙を愛するのです。そのように生きる人が天国に行くことができます。自分の妻と夫を愛するように、主を愛するように世界人類を愛するようになれば、そのような人が行く所が天国となるのです。結局は、神様と主と王、愛の面で三つは一つです。(21)

 世界が一つとなり、宇宙が一つとなる道はどこからでしょうか。それは男性と女性が一つになるところから始まると見ます。男性は天を象徴し、女性は地を象徴しています。そして、男性は主体的な立場にあります。また、男性は誰かの干渉を受けることを嫌います。しかし、愛と真実は、どのような人でも支配することができます。また、女性たちは愛されることを好みます。だから受動的です。そのようなことを見るとき、男性は与えるタイプであり、女性は受けるタイプだということができます。そのような意味で、男性と女性が一つになることは、天地が一つになることと同じです。だから、自分の相対は、宇宙よりももっと大きいと思わなければなりません。なぜなら、愛だけが宇宙を支配するからです。自分を貴く思ってくれる相対を迎えたいのが人間の望みであり、目的となるのです。(22)

 人を愛さなければなりません。男性が男性を、女性が女性を愛するのではなく、男性は女性を愛し、女性は男性を愛するようになっていますが、その男性の代表と女性の代表が夫婦です。夫は、大韓民国の男性の中から一人を選んで、すべての男性の代表者として送ったのであり、妻は数多くの女性の中の代表として送ったのです。その範囲を広げるならば、世界の男性と女性は、歴史以後霊界まで、億千万の男性と女性を代表して出会うようにしました。(23)

 これから天国を築こうとすれば、夫婦同士が愛するのと同様に、結婚した男性は、世界のすべての女性たちを、自分の妻を愛する心をもって愛そうとしなければなりません。その「世界のすべての女性の中で、代表的な伴侶として私が妻を選び出したのだ」と、このように考えなさい。また女性たちは、自分の夫に対して、全世界の男性たちの中から代表として選び出した人だと考えるのです。(24)

 国を愛するためには、まず何を愛さなければならないでしょうか。国を愛そうとすれば、まず男性は一人の女性をこの国の代表的な女性として認め、愛することができる者とならなければなりません。分かりますか。女性なら女性、男性なら男性の中で一番代表的な人として認め、愛すればよいというのです。

 女性が男性を愛するときは、三千万を代表した男性として認め、愛さなければなりません。このように代表者の立場に立った男性と女性が一つとなって家庭を築くようになれば、この家庭は天の国の家庭となるのです。(25)

 未来に天国の感情を紹介し、これを教えてあげるために夫婦の愛が必要なのです。(26)

 統一教会の家庭は、家庭天国を築かなければなりません。家庭天国を築くようになれば、間違いなく地上天国が築かれます。なぜ、そうでしょうか。未来の天国に対する実感を現在の立場で刺激しようとするので、不可避的に相対が必要ですが、家庭で相対によってその刺激を受けることで、未来の天国理念を今日の生活感情から体得することができるからです。それを体得するために、夫婦が必要なのです。分かりますか。その刺激によって、夫婦が永生することができます。発展は刺激がなくてはできないのです。

 夫婦の愛は、理想天国を建設することのできる刺激を与えるのです。言い換えれば、未来の喜びを現在圏内に引き込み、刺激を与えて推進力を補給し、その場まで行くようにするのが夫婦の愛です。その愛の中には、国の愛も入っており、世界の愛も入っており、神様の愛も入っています。したがって、その愛はどこでも無事通過です。

 結局、天国には互いに愛し合う夫婦だけが入ることができます。それゆえ、この地でそのような思想をもって互いに愛し合う夫婦は、いつも天国生活をしているのです。イエス様は「天国はあなたの心の中にある」と言ったでしょう?

 けれども今日、統一教会では、「あなたの家庭に天国がある」というのです。家庭で天国を築くことができないというときは、統一教会のみ旨が成されないのです。けれども、築くことができるというときは、そのみ旨が成されます。このような観点から、皆さんは原理を中心として正道の道を選んでいかなければなりません。(27)

 皆さん女性がどうしなければならないかといえば、一人の男性を愛しますが、ただの男性として愛するのではなく、世界の男性を代表した男性として愛さなければなりません。その男性はお父さんを代表し、お兄さんを代表し、夫を代表するのです。

 それはどういう意味でしょうか。夫をお父さんのように思わなければならず、さらにはおじいさんのように思い、その次にはお兄さんのように、弟のように思わなければならないということです。このような因縁を通してお父さんを愛し、おじいさんを愛し、お兄さんや弟を好きになることのできる、そのような女性こそ相対を迎えることができるのであり、「お父さんも嫌い、お兄さんも嫌い、おじいさんも嫌い、弟も嫌い、みんな嫌い、ただ自分の夫だけ好きだ」、それは神様の公約を外れた立場です。

 だから、どうしなければならないかといえば、全世界のすべての男性をも全部愛することができる心を内包し、その結実のような男性を「私」が抱いて愛するのは、全世界のすべての男性を代表して愛することだという観念をもたなければなりません。「私」のお父さんのように、「私」のお兄さんのように、「私」の弟のように万国を超越して、国境を超越して愛し得る心をもつようになれば、その人は神様の息子、娘だと言うことができます。これが統一教会の思想です。(28)

 死ぬにおいても、家庭のために死のうとする人に、家庭を捨て国のために死ねと言えば、それは福を受けるという話です。その話は誤っていますか。誤った話でなければ、しなければなりません。生活に疲れている男に、家庭を犠牲にしなさいと言っても構わないというのです。家庭よりもっとよい、天国の門が開門され得る東方の曙光が差してくる土台があるとすれば、それが民族です。「私」の生活よりも民族の生活のために尽くしたというとき、その人を民族が擁護してくれるのです。彼が飢えれば、民族が涙を流すときが来るでしょう。家庭を越えて、民族と世界のために犠牲になったという群れが現れるようになるときには、間違いなく争わず世界を支配することができるでしょう。天はこの作戦を使ってこられたのです。

 それでは、鏡の前に自分の顔を映してみるとき、「お前は自分のために今までどのような夢をもってきたのか」と尋ねてごらんなさい。その夢は「私」のための夢ではなく、天のための夢であり、世界のための夢であり、人類のための夢でなければなりません。「私」の一生一代に、男女間で愛する愛よりも、世界を愛し、神様を愛し、人類を愛した後に、「私」を愛してくれ得る人を相対として迎えたがらなければなりません。そのように愛する人が理想的な男性であり、理想的な女性です。国はどのようになっても、今私たちが出会ったので、二人は別れてはならないといって、その人が忠臣となり得る歴史を編んできたにもかかわらず、妻が立ちはだかって妨害をしたならば、その妻は悪いのです。それゆえ、あなたの家の家族が怨讐だといったのです。天国に行くことのできる峠道で、首を切る人が愛する息子・娘であり、妻であり、父母なのです。(29)


3、祝福を受けた夫婦の立場


 神様の性相は、男性的な父なる神様と、女性的な母なる神様でなっています。ですから、神様からつくられた人間と被造世界が、男性と女性格の二性でなっているのです。エバは、縦的な神様の前に横的なアダムの妻として、母なる神様でもあります。

 縦的な神様と横的な父なる、母なる神様が出会うときがいつでしょうか。縦的な神様と横的な神様が出会うときが、まさに祝福結婚をするときであり、場所は家庭なのです。神様と人間が一つになる条件ができるのが、家庭が形成されるときなのです。

 家庭が築かれる時と場は、縦的な神様だけでなく横的な父なる、母なる神様がすべて喜ぶのです。この出会う場は、枝と葉のように自然に同化されるようになっています。これが神様が理想として望まれる愛の種子なのです。(30)

 祝福結婚した家庭で、男性は神様のような権威をもって、女性は神様の妻のような権威をもって暮らさなければなりません。神様を中心として縦的に男性と女性が一つになれば、霊界に行っても、宇宙の中で愛をもって出会い、暮らしていくようになるでしょう。アメリカ人の男性と女性たちが授け受ける愛とは、根本的に違うといえます。

 真の愛をもち、男性と女性が神様の権威をもって暮らすことは、神様とこの宇宙の全体の関係に属することです。根本と結果が一つの愛であるからです。そのような愛の関係は、縦的愛の原則であり、横的愛の原則なのです。(31)

 エデンの園でアダムとエバが堕落することによってもたらされた、人類の悪なる父母の起源を越えて立ち、これを反対にたどって上がり、善なる父母の基準を決定し、善なる世界の善なる先祖の権利をもつ特権的な恩賜をもって現れたのが、祝福家庭を成す夫婦です。ですから、その夫婦が喜ぶことは、天と地が喜ぶことだと言えなければなりません。このような家庭とならなければなりません。(32)

 問題はどこにあるでしょうか。サタンがイエス様に「あなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい」と言ったのは、あなたが神の子であるなら、堕落圏を越えなければならないのではないか、あなたが神の子であるなら、私の試験に勝利しなければならないのではないかということです。それはイエス様が神の息子としてこの地に来たのなら、神様の復帰摂理の過程にあった受難のすべての要件が、イエス様の中に一つもあってはならないということです。

 このような立場で、アダムを再び復帰するために訓練してきたのが、今までの六千年の歴史です。それでは、アダムを復帰した後には、何をするのでしょうか。エバを創造するのです。それでもって、エデンの園のアダムとエバのようにほうっておいてはなりません。よく管理をし、よく主管をしなければなりません。彼らが東に行けば東に行き、西に行けば西に行って、いつでもそばでよく管理しなければならないのです。皆さんが今そうです。現在、祝福を受けた家庭が、アダムとエバと同じだというのです。(33)

 エデンの園で兄妹が堕落したため、夫婦は兄妹のように神様の前に精誠を尽くし、神様の公認を受けて、蕩減の峠を越え、サタン世界を越えて解放圏内に入らなければなりません。だから、神様の愛を中心として再び春を迎えなければ、その夫婦は天国に入れません。それゆえ、今までの宗教を信じる夫婦たちは、すべて霊界に行くとき、互いに別れるというのです。

 しかし統一教会は、地上でも別れず、永遠なる世界でも共に暮らすことのできる方法を教えてくれます。先生がこの仕事をするのです。それが祝福なのです。(34)

 今日サタン世界のすべての人間たちは、全部天使長たちです。堕落した天使長と同じです。それゆえ、サタン世界の女性は、アダムを惑わしたエバの立場であり、サタン世界の男性は、反対にエバを惑わした天使長と同じ立場です。だから、堕落したエバと天使長と同じ立場から、堕落する前のアダムとエバと同じ立場に立ったというとき、彼らの管理をどのようにするかが問題です。

 皆さんもまた、そうです。広い広い天宙に人が多いと考えてはなりません。世界には人類が三十億いますが、彼らは全部私たちの怨讐です。ここで皆さんは、神様を中心とした父母の子女として四位基台を成しているのです。ですから私たちが、霊界や肉界から堕落の要素を全部引き抜いてしまわなければなりません。ここに向かってサタンが総攻撃をしますが、その攻撃を私たちが食い止めようとするなら、それ以上の力がなければなりません。

 そうして、アダムが堕落したのを復帰することのできる立場に立っている自分を自覚したとき、復帰されたエバの立場も見いだすようになるのです。そうして、解放された夫婦として、神様に侍ることのできる天道を正さなければなりません。天道を立てなければならないというのです。そうすれば、そこから新しい氏族が出発するのです。(35)

 今までの歴史過程においては、神様と父子の関係たる愛の法度、息子・娘との愛の法度を見せてくれましたが、男女間の愛の法度は見せてあげられませんでした、イエスと聖霊、新郎新婦が愛することのできる、その法度的内容は見せてあげられなかったというのです。このような新しい事実を、私たちが見せてあげなければなりません。それを見せてあげれば、その基準を中心として生活していけばよいのです。(36)

 神様が、六千年間愛する息子・娘を探してこられながら、愛の姿勢を見せてくださいましたが、男性が女性に、女性が男性に尽くす愛を、万民に見せてあげられなかったというのです。神様は縦的な基準で、ご自身の息子と娘である人類を愛するその心を中心として、愛の価値を見せてくれましたが、横的な基準で、男性と女性が愛することのできる、男女間の愛の価値を立てられなかったのが恨みだというのです。

 それゆえ、イエスと聖霊の実体を立て、万国が歓迎し、万民が侍る中で愛の価値を全天上世界に輝かせ、全宇宙いっぱいに証すことのできる土台を備えることが神様の望みなのです。これを成すことができなかったことが神様の恨みであり、イエスと聖霊の恨みだということを知り、皆さんの時代に、そのようなイエスと聖霊の恨みを解いてさしあげなければなりません。

 皆さんは、新しい時代にそのような一つの伝統を立てなければなりません。そのために女性を探さなければならないのであり、男性を探さなければならないのです。(37)


4、理想的夫婦


 なぜ神様は、男性の前に女性が必要なようになさり、女性の前に男性が必要なようになさったのでしょうか。それは、一人を立てて自ら生活できるようにするためではなく、二人を立てて、彼らが完全に一つの望みを中心として神様の愛をもち、未来の世界に向かって共に暮らせるようにするためです。生活を引き込んで、現実の生活で互いに感知しながら暮らしていかなければなりませんが、そうすることのできる存在が何かといえば、夫婦だというのです。

 そのような家庭で互いに手を取り合い、幸福を歌いながら未来を約束し、未来の世界を確約しながら、現実を否定し、未来の世界を肯定していくこのような夫婦がいるなら、どのような生活環境であっても彼らを支配できないでしょう。現実の生活がいくら困難であっても、それが未来の世界の前に支障をもたらすのではなく、困難であれば困難であるほど、それは未来の世界に対するビジョンを加えてくれるようになるのです。そうなるときには、どのような現実の困難であっても、彼らを拘束できないということを知らなければなりません。

 男性と女性が皆そうすることのできる立場に立って、未来を愛し、互いに尊重し合いながら、未来のための心で生活し、ここに自ら未来の価値を同伴させ、尊重視することのできる夫婦の因縁を備えたとするなら、ここから幸福の土台が築かれるでしょう。

 神様はアダムにはエバが必要で、エバにはアダムが必要なので、彼らを理想相対として立てたという事実を知らなければなりません。その相対たる存在は、現実的に主体と因縁を結ばなくては、未来と連結させることができないのです。イエスと聖霊を主体と対象の立場に立てておいたのも、この天宙の事由に通ずるための内的事情があったからです。これは誰も否定することができません。(38)

 家庭を中心として見るとき、互いに主管圏を広げるために相対を求めて結婚するのが夫婦なのです。(39)

 心情的な愛によって結ばれた夫婦は、あふれ流れるその愛情が生活圏を越え、生涯を越えて、神様の目的と一致したに違いないという家庭を築かなければなりません。そうでないならば、永遠の神様がおられる天国に入ることができません。それが結論となるのです。これが創造なさった神様の目的なのです。(40)

 神様は縦的二性性相であり、人間は横的二性性相として、二つが一つとなって完全なるまろやかなリンゴのような形を成し、四つの性相形態をもった東西南北に、愛の理想を引き付けることのできる母体を結ぼうというのが、夫婦の理想です。(41)

 夫と妻が互いに愛し合うにおいても、神様の代身者として夫なら夫、妻なら妻を愛さなければなりません。人間的な立場で愛するようになれば、互いに足らない面が現れるようになって、結局は離婚する事態まで起こるようになります。(42)

 夫婦間において、夫や妻が非を犯したといって、みんな離婚をするならば、家庭制度も破壊され、社会秩序は混沌に陥るしかありません。その非の軽重によって、蕩減期間を与えて反省するようにし、分からなければ教えてあげて、家庭の調和を成していくべきでしょう。だから、再びそのような非を犯さないよう、導いていかなければなりません。(43)

 真の妻、真の夫とはどのような人でしょうか。人はある程度成熟すれば家庭を築くようになりますが、自分の相対を永遠なる愛の相対として考え、初恋とともに日がたてばたつほど、その初恋にプラスされる愛の家庭を築かなければなりません。その家庭的な愛が拡大され、氏族を成し、永遠に愛を拡大させていくことのできる、永遠なる愛の実体としてつながれるようになるとき、そのような夫婦は真の夫婦であり、真の妻と夫となるのです。また、夫婦が神様の愛に同参できるのです。(44)

 真の夫は「私が生まれたのはあなたのためですから、あなたのために生き、あなたのために死ぬでしょう」と言う人です。真の妻も同様です。このように相応しながら、自らを越えて相対のために生きる原則をもつことのできる家庭なら、この家庭こそ理想的な家庭であり、幸福の家庭であり、平和の家庭であらざるを得ません。(45)

 ここに来られた皆さんは、バーミンガムでも重鎮であられる方ですが、今まで自分が社会でこれほど出世したのを、男性たちは全部が自分ゆえだと考えるかもしれません。しかし男性がいくら優れているとしても、男性が生まれるようになった動機は、男性自身にあるのではありません。女性ゆえに生まれたというのです。女性がいなければ男性がこのように生まれることができますか。その反対に、女性はいくら美しい化粧をし、「私」がアメリカのある俳優だと誇っても、その女性は女性ゆえに生まれたのではありません。だから男性は肩が大きく、女性はおしりが大きくて、それを持ってきて合わせれば、よく合うようになっています。

 それゆえ、真なる愛の妻、真なる理想的な、幸福なる妻と夫はどこにいるのかといえば、「私」のためにではなく互いのために生き、またそのような心が一致するとき、理想的な夫婦が現れます。それは間違いない事実です。このような原則を置いてみるとき、理想的な愛や、また幸福で善なる人をどこで探すことができるかといえば、自分のために生きようとするところでは探すことができず、人のために生きようというところに根拠を置いてこそ探すことができるのです。この原理原則を、今日人類は知らなかったというのです。(46)

 夫は妻のために生命を捧げることができ、妻は夫のために生命を捧げることができなければなりません。その夫婦は神様の愛の圏内に連結され、直接的な保護を受けるので、堕落はあり得ません。夫婦間において「私があなたをもっと愛しているでしょう、あなたは私をもっと愛しますか」という言葉は必要ありません。(47)

 真なる父母は、子供のために生きて死にます。そこには愛が成り立っているからです。同様に、真なる愛の妻と夫、幸福な妻と夫は、互いのために生き、愛で一つとなるときに現れ得るのであり、また、それが理想的な夫婦です。(48)

 この世の夫婦関係においては、夫がお金を稼いでくるときに力が生じます。妻は夫が稼いできたお金を見て力が出るし、力がわき出る妻を見て夫も力が出るようになっています。だから、彼らはお金を稼げなければ、不安で夫婦関係が壊れたりもします。

 真なる夫婦は、神様を中心として愛の一体を成さなければなりません。(49)

 新郎新婦はお金や権力、名誉を中心として一つとなるのではなく、神様の本然の愛を中心として一体とならなければなりません。(50)

 愛を中心として、漸進的発展を成していかなければならないというのです。妻は夫のために生き、夫は妻を愛する中、二人の夫婦が神様を愛する家庭をつくりあげていかなければならないというのです。(51)

 統一教会でいう理想的夫婦とは、どのような夫婦でしょうか。最高の芸術を実体をもって展開させられる夫婦です。最高の文学を展開させられる夫婦なのです。最高の理想、世界最高の文化世界に触れる前に、最高の愛で夫婦が授け受ける甘い愛が、世界最高の芸術作品とならなければならないのです。それ自体が最高の文学作品であり、それ自体が文学の実体とならなければならないのです。(52)

 妻の目には夫が最高であり、一番に見えなければなりません。夫の目にも妻がそのように見えなければならないのです。初恋で結ばれた因縁が最高の因縁です。人が何を言おうと最高です。このようなものは何億あげても買うことができないのです。このような世界を自分が永遠にもつことができるなら、これはどれほど素晴らしいことでしょうか。すべての人がその程度にはならなければならないというのです。

 妻は夫によく従い、よく助けなければならないのです。そのようなことが、文学作品や映画の一場面にだけ現れてはいけません。現実で一生の間そのように暮らさなければならないというのです。最高の歴史と最高の文化が崩れたので、先生はそのような世界を立てるために、そのように暮らすために新しい歴史を創造してきたのです。(53)

 夫婦が互いに愛し合うにおいて、いつまで愛し合うのかと尋ねるとき、若いときだけ愛すると言うなら、気分がいいでしょうか、悪いでしょうか。いつまで愛することを願うでしょうか。「永遠に」ともいいますが、死ぬときまで、その次に永遠に愛することを望むというのです。永遠は未来を中心として、全体を代身するのです。死ぬときまで愛するということは、自分のすべてのものを根こそぎ与え、愛するということです。そうでしょう? 「永遠に」は全体的であり、「死ぬとき」まではすべて愛するということです。そうしてこそ(相対が)喜ぶのです。

 ここの娘たちは、今から嫁に行くようになれば、夫に間違いなく「あなた、私を愛しますか」と聞いてみることでしょう。愛すると言えば、「私をすべて愛しますか、少し愛しますか」と、このように尋ねたとき、すべてを愛すると返答してこそ、気分をよくするというのです。男性もそうだというのです。仕方ありません。神様の調和がそのようになっているというのです。(54)

 人々は結婚するとき、互いに死ぬまで愛するといいます。愛するという言葉を語るとき、ただ死ぬまで愛すると言うのと、百年、億万年愛すると言うのと、どちらを願いますか。女性たち、返答してごらんなさい。ただ死ぬまで愛すると言うよりも、億万年愛すると言うほうが喜ぶことでしょう。

 これが十年、百年、千年、このように長くなるほど、もっとよいというのです。夫が妻と出会い、「ずーっと」、その次に十年が過ぎても「ずーっと」、また五十歳、年をとっても「死ぬまで愛する」と言うことができるなら、その妻は、自分の年とった旦那さんがどれほどいいか分からないと言うでしょう。そういうものです。おなかが出てきても、喜ぶというのです。(55)

 男性が女性一人を扱えなければ、死ななければなりません。ところが、女性だといって無視してはなりません。「私の愛はこうだ」というのでは、通じないというのです。だから、互いの間をあまねく研究しなければなりません。神様がごらんになるとき、聖別された生活ができず、家庭復帰がうまくいかないでいるなら、だめだということを知らなければなりません。(56)

 本来、孝子は心が変わらずに父母に真っすぐにいく人であり、忠臣は心が王に真っすぐいく人です。同様に、聖人は心が変わらずに神様に真っすぐいく人です。言い換えれば、死の場に出ていくとしても、その心が変わらずに真っすぐであってこそ孝子であり、忠臣であり、聖人となることができます。

 このように見るとき、真なる夫婦は、妻の心が夫に、夫の心が妻に真っすぐにいくことができなければなりません。だから統一教会の運動は、東洋の人でも西洋の人でも、みんな神様に向かう心が変わらないように真っすぐに立てようという運動です。それゆえ、先生に対する東西洋の食口たちの心は、皆同じだということが分かります。(57)

 夫は妻が貴く、妻は夫が貴いですが、互いに自分たちだけで出会った相対ではなく、公的な天道を前に置いて出会った人々です。そのような道であるほど、精誠を尽くして神様の前に節義と気概をもって行くようになれば、必ず私たちの行く道は打開されます。(58)

 み旨のために神様のために、「私」が世界のために行かなければならないというとき、早く行きなさいと激励する群れとなってこそ、理想的な夫婦だといえます。(59)

 とてつもない天理の軌道の前に輝く太陽と満月のように輝ける夫婦となるべきであり、真っ暗な天地や真っ黒な雲に覆われた日の光や月となってはなりません。(60)

 純粋な男性と女性として赤い愛の情熱の心をもち、天地を代表することのできる男性と女性、そのように束ねられた夫婦を天は探しています。

 再び先生に会うときまで、愛らしい記録の内容を残しなさい。そのような夫婦の愛をもち、そのような愛で息子・娘を育てなければなりません。(61)

 父母としての心情を備え、神様の垣根になることのできる夫婦とならなければなりません。(62)

 経済問題を中心とした困難が、夫婦の因縁にひびを入れることはできません。有識と無学が夫婦の愛を曇らせることはできません。「私」の夫は何かの勉強をしなければならないと考える妻がいるかもしれませんが、先生はそのようには思いません。(63)

 最近済州道の娘が嫁ぐとき田畑を与えれば、登記するのに娘の名でするというでしょう、いつでも夫と別れれば自分の主張をするために。それは本当に理想的な夫婦でしょうか。お金を使っても、これは夫のお金……。女性たちはそうするでしょう。お金を持っても、つるつるしたのは自分のお金、しわが寄ったお金は男性のお金……。

 それは愛ではありません。お金の包みを広げておいて、使っても「どうなった?」「私が使った」「そう? よいときに使ったわね」これでこそいいのです。口をぷるぷる震わせ「ああ、また使ったわね!」これは落第者です。

 それゆえ、いつも与えても、無限に与えることができ、いつも思いのまま深い所でも低い所でも、夜でも昼でも授け受けることができるようになるときに、幸福なのです。それゆえ、与えようとしても与えることができないときは不幸なのであり、受けようとしても受けることができないときは不幸なのです。目配せをすればさっと受け止め……。気分がいいですか、悪いですか。

 幸福とは何でしょうか。無限に与えたいときに与え、無限に受けたいときに受けることが幸福です。それが事実なら、今日人間もこの世界のために、与えたいときに与え、受けたいときに受けるのが幸福なのです。(64)


5、夫婦の愛


 夫婦の愛とは、男性と女性の愛が一つとなることをいいます。夫婦の愛は、父母の愛を中心として子女の愛と一つとなって、その愛を中心として神様の愛と一つとなることができるのです。完全なる夫婦愛の起源が成されるときは、神様の愛が宿るようになるのです。(65)

 夫婦が神様を愛し、人類を愛する心の基盤の上で、爆発するように互いに愛し合うならば、その家庭によって神様が酔い、宇宙が酔うことができるようになるのです。その愛は、神様のための愛であらざるを得ないのであり、人類のための愛であらざるを得ないのです。

 その愛の根はどこにあるのでしょうか。自分にあるのではありません。神様の愛が根源であり、人類の愛が根源なのです。(66)

 ハトも互いに「クックックッ」と声を出して呼び合いますが、皆さんも夫婦だけで会うときはどうしたらいいか分からないでしょう? 本当に愛し合う人同士が出会うときの音があるとすれば、雷が落ちる音より決して小さくはないことでしょう。

 そのような観点から、神様の愛を中心として強い愛をもったとするなら、この世で反対し迫害することは、楽しみにしかならないというのです。初恋にはダイナマイトのような力があります。アダムとエバは最近の若者たちのように、結婚もしないまま生きてみたでしょうか。真の愛は初めであるとともに終わりであり、永遠です。そのような強力で理想的な愛を求めているというその心が、いつもすべての困難をかき分けていくことのできる力となるのです。そうして愛の場にだけ出ていけば、サタンだけでなく、すべてのものをみんな退けることができます。(67)

 堕落とは、縦的な愛と横的な愛が出合って一つとなれる中心(センター)を失ったことです。それゆえ、堕落した世界において、夫婦の愛は現実で一瞬に別れ得る不安定な位置に置かれるようになりました。今日、夫婦の愛が死よりも濃いといっても、一言で三六十度背を向けるのが現実なのです。それは夫婦の愛が到達すべき所がどこなのか知らないからです。今日の世界が滅亡に向かって走っているのも、夫婦愛の秩序が壊れたからだといえます。(68)

 本当の愛は、体全体が一つとなり、心情と血管が全部一つとなって愛し合うのです。このように愛し合うことのできる人は誰でしょうか。夫婦です。夫婦のいない世の中に、生きる面白みがありますか。(69)

 いいのはすべていいですが、その中で一番いいのは何でしょうか。相対者しかありません。自分が「おい」と呼べば、相対的に「はい」と返答し、「やあ」と呼べば、「うん」と返答するのです。夫が愛する妻に、親しくもの柔らかく「お前」と呼べば、親しくもの柔らかく「何ですか」と返答します。けれども無愛想にして呼べば、同じように「何よ」と返答するのです。山びこと同じように、すべて相対的だというのです。(70)

 相手方を愛するとき、女性が男性の胸深くに入っていくときには、男性は反対しません。そのような女性を好むのです。愛するためにすべてのものを犠牲にし、全体を投入し、向かっていくそこには、すべての塀が崩れていくのです。同じ道理です。(71)

 神様も夫婦が情熱的に愛することを願うでしょう。だから、処女、童貞が結婚する前に手を握るなというのは、百ボルトなら百ボルトで愛し合うために、漏電する行動をしてはならないということです。

 そうなれば、全精誠を尽くして夫を愛することができるでしょう。どの程度かといえば、自分の夫が遠く離れていても、その妻は、自分が夫のもとに行こうと考えるより先に、夫のもとに行ってしまう程度にならなければなりません。夫が遠くに離れていても、何も言わずその夫についていくのです。(72)

 私たち個々人は体と心が相反しているので、心を中心として体を一つにし、心の中に神様が臨在できる相対的基盤を造成しなければなりません。このような男性と女性が祝福を受けて、完全な愛を授け受けながら喜びを享受するとき、神様がごらんになるに、地上に咲いた花のようだというのです。

 また、彼らの愛によって築かれたすべての調和の万象は、神様には香りのようなものです。このような美しい花と香りの中に神様は暮らしたくて、訪ねてこられるというのです。神様の愛が訪ねてくることのできる土台が、すなわち夫婦愛の場だというのです。その場は、すべての万物と宇宙が調和する場となることでしょう。このような内容と道を教えてくれるのが統一教会であり、統一原理です。(73)

 神様が最高に喜ぶメロディーが何かといえば、男性と女性が互いに喜ぶ永遠なる夫婦の笑い声なのです。そのような夫婦が世の中を理解して抱くことができ、宇宙全体を受容できる心で生を営むとき、笑いは自然発生的となります。そのような男女の美しい姿が、神様の前に一輪の花でなくて何でしょうか。これは単純な理想でも抽象でもありません。本来の世界を語っているだけです。(74)

 夫婦同士、家の前にある山を眺めながら、あの山が生まれたのは誰のためかを尋ねてみて、全宇宙を考えながら、この宇宙が生まれたのは誰のためかを尋ねてみます。そうすれば、自分のためであると同時にあなたのために生まれたのだと答えるのです。夫婦はまさにこのようなものです。この宇宙の存在価値を重要視することが、夫婦が一つとなる道です。

 夫婦は心を中心として、人格を中心として、愛を中心として話をするのです。夫婦は同じ道に行くのです。そうでしょう? 田舎者の娘だといっても、大臣と結婚すればどうなりますか。同じ道に行くのです。同じ道に行きますか、行きませんか。その田舎者の女性が小学校も出ていないといっても、すべての人が大臣の奥様だと言いながら、頭を下げなければならないのです。下げますか、下げませんか。下げます。このように夫婦はともに行くのです。夫婦に「あなた」の愛が別にあり、「私」の愛が別にありますか。「あなた」の愛であるとともに「私」の愛なのです。「お前」の愛であるとともに「私」の愛なのです。夫婦が互いに、あなたが私をどれほど愛するかと聞くとき、どれくらい愛するなら気分がいいですか。一番たくさん愛すると言ってこそ、気分がいいのです。そうでしょう?(75)

 愛に酔った人々の笑いを見れば、それも相対的です。男性は笑うとき目を一層大きく開けるのに、女性は笑うときそっと(目を)閉じます。夫の目が大きくなり、妻の目がだんだん小さくなれば、彼ら夫婦は愛に酔った幸福な夫婦だということができるでしょう。(76)

 愛する夫婦同士、一般的に相手方の顔がどうだと規定しないようにしなければなりません。自分の相対の顔が一つの様子としてだけ感じられるとするならば、そのように飽きが来ることはありません。相手方の顔は、喜ばしい心でいれば、喜ばしい状態として現れ、愛の心をもって見るときは、美しく見えるのです。水が流れるとき、曲がりくねるように、一つ曲がりくねるごとに新しい形が現れるのと同様に、いつも相対の顔を新しく感じなさい。(77)

 男性が幸福なときはいつであり、女性が幸福なときはいつだと皆さんは思いますか。二人が相対を成して愛を授け受けるときを、幸福なときだということができます。男性が女性に対するとき、こぶしを振り回したり物理的力を動員するなら、彼ら夫婦は決して幸福であるとはいえないでしょう。男性が女性に対するとき、力で胸に抱いて保護しながら愛するとき、女性は本当の幸福を感じることができるでしょう。男性と女性間の愛において、力だけでもだめであり、心で愛するといって、(それだけで)いいのでもありません。愛する心を、力をもって確認してあげたとき、女性は本当の幸福感を味わうことができるでしょうし、また、女性が男性に対して体と心で愛を返すとき、本当に幸福な夫婦となるでしょう。(78)

 愛はいつも刺激が必要です。幸福は刺激なしには築かれません。刺激がなければならないというのです。いつも食べるご飯も、食べるときごとにおなかがすいていてこそ、味が新しいように、夫婦間の愛も同様に、いつも新しくなければならないというのです。妻と夫が互いに見詰め合えば見詰め合うほど、もっと見詰めたいし、一日中共にいたくなければなりません。そのためには、「私」に対する研究をしなければならず、神様に対する研究をしなければならないというのです。(79)

 一番いいことは何でしょうか。食べることでしょうか。それが一番いいことではありません。御飯を見れば食べますが、そのようなことは一時的だというのです。いやと言うほど食べた後は、食べ物を与えたら嫌がります。

 けれども、自分が愛している人に対しては、そうではないというのです。愛する人を「私は忘れてしまいたい。嫌い」と言う人がいますか。見ても見ても限りなく見たくなるのです。そうでしよう? 見ても見てもまた見たくなるのです。だから互いが、お前が前に立ち、私が後ろに立つと言いながら、車輪のように回るというのです。ここから統一が始まるのです。(80)

 子供たちも嫁に行けば、夫を迎えるようになります。嫁に行く前は「ああ! 意地悪なこの男、私がどうして必要でしょう?」と言っても、一度嫁に行って、愛にがっちり掛かってしまえば、「ああ、あなたでなければ……」と、男性にしがみつきます。なぜそうでしょうか。愛がどうだということを知ったからです。知ってみると、自分より貴かったというのです。そのようなことを発見したので、そうなるのです。(81)

 結婚後の家庭生活は、神様を真ん中に奉り、その神様がともに喜ばれる姿を見ながら、互いに愛し合うことのできる関係になってこそ、本当の喜びを感じることができます。男女が結婚して互いに愛し合うことは、本来恥ずかしがることでもありません。これは最も尊厳なことであり、神聖で美しいことであるにもかかわらず、神様の戒律を犯したために、愛の歴史は、罪悪によって恥ずかしい方向に流れていきました。(82)

 エデンの園で裸になって踊りを踊るのを誰が見たでしょうか。ですから人がいない所では、そのようなこともできるのです。部屋で夫婦が裸になって踊りを踊るといって、それが心配することでしょうか。しかし人が見る前でそうであるなら、それは社会から非難を受けて当たり前なのです。夫婦だけでこそ、裸になって踊るのみでなく、どういうことをしたとしても誰が干渉するでしょうか。ですから祝福家庭も、二人で裸になって踊りを踊ってみなさい。夫婦同士なのに何の問題がありますか。(83)

 この世に男性と女性がいくら多いといっても、私たち二人しかいないという心をもたなければなりません。精誠を尽くすその女性しかいないという思いの中に、精誠を尽くすのが原理です。(84)

 愛は互いに恋しがるとき、価値があります。口があれば口を開け、目があれば目を開けて愛をくれと言ってこそ、愛を与える人も気分がいいのであり、ぼやぼやしていると、愛がやって来ても逃げていくことを知らなければなりません。愛する人が深刻でなく、消極的に現れるとき、どれほど気分が悪いでしょうか。

 皆さんは愛する人同士が一緒にいるのがいいですか、離れているのがいいですか。近くにいるほどいいのです。どうしてですか。すべてが、一度に作用するからです。(85)

 愛する人が互いに出会って「ああ! 私はあなたを愛します」と大声で叫ぶよりも、無言で愛を示すほうがもっといいでしょう。言葉に出さず、心で深い愛を抱いているなら、それが貴いでしょう。

 西洋式愛は積極的であり、行動的な愛です。反面、東洋式の愛は内で、心で愛します。水深が浅い所では波が高く、深い所は穏やかなように、愛の水深も深いほど静かです。このように見るとき、はっきりと現れる愛より、見えない愛が貴いのです。もし、愛がはっきり現れるなら、どうなるでしょうか。もし、歩き回る神様がちょうどお一人でおられるなら、各国で互いにその神様に仕えますといって、争いが起こるかもしれません。しかし貴いものであるほど見えず、見えないものほど価値的です。私たちの心は見えませんが、見えない心の中に神様がおられるので、神様は貴いお方です。だから、心の中におられる神様を奪っていく人がないと見ます。

 愛の中でも見えない愛が最高の愛です。愛が見えるなら、おもしろくないことでしょう。愛は見えないので、最高に高くもなれるし、最高に広くもなれるし、深くもなれます。だから、「愛はロッキー山脈のようだ、愛はナイアガラの滝のようだ」という話は合っています。見えない愛がこのように貴いように、見えない所におられる神様も貴いお方です。その貴い神様を見いだすためには、無我の境地に、すなわち「私」のない境地に入らなければならないというのは合っています。神様は私たちが見ることのできるものよりももっと深い、見えない静かな世界におられます。(86)

 皆さんが暮らしているアメリカ式愛は、とても熱いように見えますが、実はぬるいのです。アメリカの人々を見れば、夫婦同士、朝起きて互いにキスをしますが、過ぎ行くハエが軽くとまってから行くようなものです。東洋の人々の夫婦を見るとき、夫が妻にキスをしてあげるとなると、愛する目で向き合って、恥ずかしくて顔を赤らめ、頭をそっと下げますが、その姿が絵になるようにすてきです。また、夫がどこかに旅行に行くときには、(妻は)カバンを持って後ろに従いながら、愛らしい心で見送るのも、とても甘く神秘的な姿なのです。ところが、アメリカの女性たちを見れば、部屋からついて出ていかず、あるときは顔も向けずに見送る光景が見られます。ですから、西洋をよく知っている東洋人たちは、アメリカの女性を妻に迎えようとはしません。(87)

 愛する夫婦間の対話を聞いてみるなら、この世のどのような詩よりも美しく、その姿はどのような絵よりも美しいのです。また、「愛する人同士、我々同士、我々二人で」という言葉は、どれほど美しくすてきな言葉でしょうか。(88)

 神様は人間をおつくりになり、祝福してくださるとき、夫婦が幸福になれるようになさいました。そのような祝福の門を開いて入った夫婦は、入るや否やけんかをしはしません。愛の門に入った夫婦は、二人でささやくのに余念がないというのです。「私はあなたに会うために、このように待ってきました。私の生命はあなたを通してその価値を花咲かせるでしょう。あなたを愛するために生まれ、また、きょうのために待ってきました」などなど、互いが讃揚し合う甘い話だけだというのです。この世に愛の蜜語ほど甘ったるいものは存在しないでしょう。

 夫婦が寝床に入っても、ささやく蜜語はこの世のすべての疲労と憎しみを溶かす清涼剤となるのです。夫婦がささやく言葉の中で、「あなたは私を愛さなければ、だめ」とは言えないのです。愛が自然なように、愛の蜜語も柔らかく美しいものであるからです。(89)

 愛を知った妻は、夫の胸に頭をうずめて昼寝を楽しみたいという衝動が起こりもします。それは幸福に酔って、精神を正しくもてないからなのです。結婚する前には、恐ろしくて気持ち悪く見えた男性が、結婚して夫となってからは、会いたくて一日に何度も見なければだめなほど、心境の変化を引き起こすのが女性です。だから、電話をして、昼食の時間にちょっと家に立ち寄りなさいと呼び出したりもします。

 愛を知った男性も、同様です。暇さえあれば、妻のひざをまくらにして眠りたがります。だから昼食の時間やコーヒーを飲む時間はもちろん、時間が空けば家に飛んできたりします。また、結婚する前には「そのようなことは女性がやることだろう、男がすることか」と言いながらしなかったことも、妻が願いさえすれば、ためらいなくしたりします。このようなことが、愛を知った男性と女性においてよく起こる変化だといえます。(90)

 男性と女性が神様を仲保として出会うとき、どのように愛の表現をするでしょうか。愛の発展過程を見れば、最初が口であり、二番目が胸であり、三番目が生殖器です。女性が初めて男性に出会って愛し始める前に、恥ずかしさを感じて隠すのは口であるので、手を口で覆うのです。愛の始まりが口づけだからです。

 愛が次第に成熟すれば、その結実として息子・娘が生まれるようになるのです。女性において生殖器は、愛の聖所ですが、その門を開けることのできる鍵は、夫だけがもっているのです。夫が愛の聖所を開ける鍵を二つ以上もっているなら、その夫はサタンです。また妻の聖所が開くのは、夫がもっている鍵だけでなければならないにもかかわらず、どんな鍵でも開くならば、それもまたサタンなのです。

 夫がもった愛の鍵が妻の聖所を開けて入れば、そこから世の中で最も貴く価値のある息子・娘が誕生するようになるのです。その息子・娘の価値は、この世の何ものとも取り換えることのできない愛の結晶体なのです。息子・娘を通して、神様が人間の先祖であるアダムとエバを創造された心情を体恤するようになるのです。だから父母は、息子・娘を見ながら「こう見てもわが愛する人、ああ見てもわが愛する人……(パンソリ『春香伝』の「愛の歌」の歌詞)」と歌い、喜ぶようになるのです。

 愛で生まれた赤ん坊が、何をしても憎くなくてひたすらかわいいのは、その赤ん坊が自分の血と肉で、そして愛でつくられた分身体であるからです。小便をし、大便をし、鼻を垂らしても、ひたすらかわいく愛らしいのみなのです。それらの中に愛が染まっているからです。

 夫と妻の関係でも、強力な愛で結ばれたなら、相対がどのようなことをしても、うれしく、愛らしく感じなければならないのです。夫の体から出るにおいが嫌だと言ったり、妻の身振りが嫌だと考えたり、感じたりするのは、二人の間に完全な愛が築かれていないからです。そのような夫婦は、目的のために利害関係で結ばれたからです。(91)


6、夫婦の運命の道


 結婚とは何でしょうか。夫婦が行くべき運命の道を尋ねていくことです。現在の個々人の運命の道を越えて、加重された運命の道を追求することをいうのです。一度の結婚によって、二人の男女が一つの運命の道に束ねられれば、自分の思いどおりにできないのです。

 男性として生まれれば、男性の運命の道を行くのであり、女性として生まれれば、女性の運命の道を行くべきで、自分の思いどおりに運命の道を逃れて行くことはできないのです。自分の思いどおりにするのは、通じないというのです。運命の道を自分の思いどおりにできないので、嫌であろうとよかろうと、横に行こうと逆に行こうと、運命の道を行かなければならないのです。

 一度結婚をした後には、自分の思いどおりにできません。結婚して家庭をもった運命の道は、生命を懸けて行かなければならないのです。(92)

 人間が行く心情の道、男性と女性が一つとなって行く心情の道を拡大すれば、その焦点が神様の正道の道と連結され、一致しますが、それが男性と女性が一つとなってつくった家庭的愛の理想の決着点です。

 男性なら男性として、行くことのできるその一点を求めなければならず、女性なら女性として、神様の心情に帰着することのできる一点を求めて、それを延長して家庭的愛を中心として、夫婦が共に行く決着点を求めなければなりません。(93)

 愛が成される瞬間から、皆さんは二人ではなく一人なのです。夫婦となれば、独自的な行動はできませんし、連帯責任を負わなければなりません。(94)

 夫婦は対だと見ることができます。顔がおのおの違うように、人の運も異なります。一生の運命が異なります。夫の運命が悪くても、妻の運命が良ければ、それによって夫の運が良くなり得ます。反対に妻の運命が悪くても、夫の運命が良ければ、それによってやはり良くなります。ですから、夫婦の運命は、山と谷を崩して平地をつくるのと同じだと考えることができます。平和をつくり、そこに夫婦の理想をもって、木を植えたり、畑を耕したり、いろいろな計画を推進することができるのです。

 そのような道理を考えてみるとき、相対を外面的にだけ見て、結合してはならないのです。結婚とは恐ろしいのです。(95)

 結婚がうまくなされなかったときには、男性が死んだり、女性が死んだり、二人が一緒に死ぬ場合があります。このようなことは、いくらでも見ることができます。皆さんが知らない所で、このような法則が適用されているということをよく知らなければなりません。そして、自分一代が繁栄するといって、これからもそうだとはいうことができません。少なくとも三代、七代以上を見なければなりません。そう考えたとき、皆さんの目で見たときは互いに合わないようですが、三年以上暮らしてみれば分かります。先生は歴史を置いて、伝統的側面からこのような話をしているので、夫婦が一つとなるよう努力しなければなりません。(96)

 皆さん夫婦は、昔のイエス様と聖霊の立場と同じです。皆さんが一つとなって、神様を中心として生命を懸けて痛哭すれば、必ず繁殖がなされるのです。そうか、そうでないか、やってみなさいというのです。そのようにならなければ、私の話はうそです。ですから皆さんはみ旨の前に自分の生命を懸け、残すべき後代の栄光のために、み旨の栄光のために一致団結し、一心に統一され、神様と授け受けることのできる基盤をつくるのです。完全に授受作用をすれば、繁殖が起こるのです。これが原理です。そのような原理的な生活を、皆さんの実体生活で培ってみてください。できますか、できませんか。そうできなかったから、今までこうなっているのです。(97)

 相対的な自分の愛を先に完成しなくては、絶対的な主体の愛の圏に到達できません。人間たちにはこのような運命が、創造のときから付与されたのです。ですから、その目的を果たせなければ破綻が生じるのです。(98)

 夫は体と心が変わってはなりません。一度約束すれば、千年万年であるべきであり、適当にごまかすなら、誰が審判するでしょうか。霊界に行けば、神様が審判するのではなく、妻が審判するのです。妻も、同様です。体と心が一つとなった状態、神様と一つとなった状態、夫と一つとなることのできる心、三段階を経て現れるとき、原理を完成した人です。(99)

 愛はただ一つしかありません。(100)

 夫婦として行くことのできる心情基準は、一つしかありません。(101)

 夫婦とは、百年だけでなく、永遠まで一心同体でなければなりません。(102)

 人間において、愛は永遠なものです。愛は、二つではなく一つです。男性と女性の間で愛が結ばれれば、地上で夫婦が年を取るまで仲良く連れ添わなければならず、死んでも永遠に共に暮らすようになっています。体は二つですが、一つとなって回ることによって一体となるのです。二つの体が一つとなれば、神様と回るようになって、愛の四位基台を成すようになるので、それがまさに理想世界なのです。そこには偽りの愛が侵犯できず、ただ真の愛だけが臨在するようになります。(103)

 祝福を受けた人の中に、自分の相対が気に入らないといって、自分は不幸だと嘆息する人がいるかもしれませんが、もし、そのような人がいるなら、その人は未来の天国のために歩んでこられた、神様の悲しみが分からない人であると言わざるを得ません。数多くの家庭の中で、もし「私」の相対がそのような立場にあるならば、神様はその相対の基準と「私」の基準の差を知っておられるので、その相対は満足しなくとも、自分が満足する心をもって神様の前に感謝を捧げるなら、神様が遠くない将来に福をくださることのできる一つの絶対的な条件となるのです。ですから、私たちはそのような人とならなければなりません。(104)

 最初、三年間は、接ぎ木しようとしても、一つとなるときまでは合いません。家柄が異なり、風習が異なり、礼節が異なった男性と女性が一致するのは何ですか。合わせるようにしてこそ、合うようになります。(105)

 妻というものは、夫に対して順応し、彼のために助けることのできる人とならなければなりません。もちろん、そのようにしようとすれば、夫が責任を果たさなければなりませんが……。夫は妻に対して、原理がどのようなものであるかを教えてあげなければなりません。だから、結婚して三年間は、互いが神様のみ旨に一致することを望み、訓練する期間だと先生は考えています。神様を中心として一つになろうとすれば、どうしても三年はかかるだろうと私は見ます。

 神様のみ旨と原則に立脚し、恥ずかしくない父母の形態を備え、息子・娘を生んでみましょう! そうして家庭生活をするのが原理形だと見るのです。

 父母の役をするのも易しくはありません。夫の役、妻の役、すべてそうです。皆さんは統一教会の伝統を受け継がなければなりません。(106)

 女性がもっているすべてのものは、人のものです。したがって、女性には人のものをよく保管すべき責任があるのです。

 考えてみなさい! 女性の乳房、おしり、陰部などすべてそうではないですか。

 お客さん、使いの人、召使などは、すべて女性の立場です。初めは人の家に召使のような立場で入って、夫や舅・姑に仕えるような立場を経て、お客さんになって、最後には女王になります。

 女性は元来、男性の平均の声以下の声を出さなければなりません。女性はその声が愛のささやきのようでなければなりません。(107)

 東洋では、女性が話を聞かなければ、夫が殴ってでも癖を直すこともあります。アメリカの女性たちであれば、一遍に離婚するでしょう? そのような愛で愛して何をしますか。殴られても、「ああ、そうするな」と、つかんで泣くことができてこそ、愛するといえるのです。「私」の首を断ち切られたとしても、あなたを捨てることができないと言ってこそ、真の愛だといえます。私は皆さんをそのような女性にしたいです。

 皆さんはどのような女性になりたいですか。げんこつを一発食らって離婚する愛をもちたいですか。いくらそうだとしても、生命を捧げ愛そうという女性になりたいことでしょう。そうなりたい女性、手を挙げてみてください。本当にそうなら、アメリカの男性たちは、みんな統一教会の娘たちと結婚しようとすることでしょう。そうなれば、外部のいい新郎を求めますか、統一教会内にいる男性の中で新郎を迎えますか。統一教会から迎えたいはずです。なぜそうかと言えば、あだを討つのに、同参者となることができるからよいというのです。

 この世には名が通り、立派だという男性たちがたくさんいますが、愛のあだを討つにおいて、同参者となることができません。その神様の愛を求め、神様の愛をもつようになるときは、この宇宙が平和な世界になるというのです。(108)

 私たちは何の因縁をもっている人々ですか。愛のあだを討つべき因縁をもっているというのです。(109)

 人生世界の因縁を結ぼうとすれば、男性と女性は世界の平和のために出ていかなければなりません。一人だけ立派にするといって、平和は来ません。男性と女性の力が合わさって回らなければなりません。回るには、中央に突進しなければなりません。中央に向かって突進する力は、愛の力です。相対が現れれば、愛そうとする心が生じるのです。(110)

 胸が詰まるほどの痛みを感じるとき、誰もそれを解くことができません。神様ご自身もそれをどうすることもできません。しかしただ一人、自分の心情を理解する横的相対がいるなら、どれほど貴いことでしょうか。そして、相対に欠点があれば、神様に感謝できる条件となります。それは神様の重い荷を減らしてさしあげる条件となります。相対が一から十まで自分より足らないときには、かえって神様の前に、自分を表すことのできる条件となり得ます。(111)

 個人が滅びるのは構いませんが、家庭が滅んではなりません。

 夫においては妻となる人が、妻においては夫となる人が、世界で一番必要な人です。互いに勧告してあげながら、つえとなり、同役者とならなければなりません。(112)

 対象は、いいときでも悪いときでも対象なのです。夫が死ぬ場に行けば、妻も死ぬ運命にぶつかるのです。夫が死ぬ場に行ったのに、「あなたは死ぬ場によく行った」と言う、そのような人は滅びる妻です。夫も、同様です。

 為に生きる対象や為に生きる主体は滅びません。為に生きる主体がいるのに、為に生きる一人の対象がいないといっても、その対象は現れるようになっています。また為に生きる対象がいるのに、その主体がいなくても、最後まで行けば現れるようになっています。皆さんは、これをはっきり知らなければなりません。何日かやってみて、やめてはなりません。始めたので「死ぬときまで、私の一代でだめなら、何代か、かかってもなるだろう」という心をもたなければなりません。何代か待てば待つほど、悪いのではなく、それは世界的な祝福を天がしてあげようと待っているのです。「粘り強い一族だから、お前の後孫はだいたい十代でも二十代でも待って、世界的な、歴史的な四季をお前たちの家庭にしてやろう」と、天はこのように考えるのです。(113)

 人間は堕落によって、神様の愛を失ってしまいました。神様の愛がない状態で関係を結んだのが堕落なので、今日私たちがこの世で結ぶ愛の因縁は、本性の人間が慕うことのできない愛です。その愛は、全部地上で溶けてなくなる愛です。

 それゆえ霊界に行けば、地上でいくら仲むつまじかった夫婦も、他人になってしまいます。間違いなく別れます。しかし、もとから堕落せず、神様の愛で結合して出発した夫婦なら、永遠に別れ得ないのです。(114)


7、愛する人が死ねばなぜ悲しいか


 愛する人が死ねば、なぜ悲しいのでしょうか。愛する人が死ねば、それを即時に感じますが、それはこの宇宙に満ちている超人的な力の作用によってです。人は自分にこの力が入ってくれば入ってくるほど、神様との縦的関係を中心として、宇宙的な力を感じるようになるのです。ところで、愛する人が死ねば、その力が自分から離れるようになります。そして、離れた結果を即時に感じるようになるのです。

 これは悲痛なことです。自分が完全な合格品にならなければならないのに、それによって不合格品に決められるのです。私たちの人生は、完成を追求します。ところが、それと反対の不合格の要素をもつときは、そこに比例する要件を宇宙の力が追い出すのです。そうなれば、それが苦痛として現れるのです。皆さんはこれをはっきり知らなければなりません。(115)

 地球上から消えるということは苦痛であり、痛みです。夫がいなければ、かえっていいと考えるのも、相対的な原理原則に外れ、宇宙公法に反するのです。それゆえ、夫が死ねば、私も死ぬと言うようになるのです。それがとりもなおさず苦痛です。すべての相対的な要件に符合するほど幸福なのです。いくら懇切であっても簡単なら面白くありません。(116)

 皆さんの夫や妻が死ねば悲しむことでしょう。なぜなら、宇宙の原則は父母と夫婦と子女……。三段階が一つとなって、神様を中心として四位基台を形成するようになっています。この宇宙の原則によって、不合格者は合格圏内から追放されるので、苦痛と悲しみを感じるようになるのです。なぜなら、三段階を中心として、神様とアダム・エバを中心として、縦的横的世界が生じるからです。これが公式です。だからアダムとエバ、息子・娘がいてこそ、横的世界が生じます。これが広がれば、横的な世界は自然に生まれていくのです。だから体を中心とした、体の横的基準が息子・娘であり、心の横的基準が霊界です。すなわち、二つが一つとならなければなりません。そこから、初めて神様が霊肉界を一つにすることができるので、地上に天国が実現するのです。(117)

 皆さん、妻が死ねば、夫がなぜ涙を流すのでしょうか。第三目的である、息子・娘を得ることのできる道がつぶれたからです。それを成すことができなければ、倒れるしかありません。死ぬしかありません。ですから、泣くしかないのです。電気を見れば、陽(十)電気と陰(−)電気がありますが、この二つのうち一つがなくなれば、残りのものも何の作用もできないのです。人が行く道もそれと同様です。(118)

 いくら幸福をうたい、何がどうだといっても、一人で生きるのが幸福ですか。夫婦で暮らしていて、一人が死ねば悲しいと、わあわあ泣きます。一人で自分の行く道を準備できるでしょうか。なぜ片方がいなければかわいそうだといいますか。天地が喜ぶことのできるすべての重要な日々の前に、不合格者であるからです。天地法度の規律の前に外れたというのです。明らかにその法度を通してだけ、天地の運勢は回り、幸福の要件とその動機が決定されるのです。悲しいというのも、それだけ法度から遠のいたからであり、そのような悲しみの基準に限っては、天地法度が順応しないというのです。心がうれしく、いいというのは何ですか。その人を世界で歓迎してくれる場があるということです。悲しいのは追い出される立場だからです。喜びと悲しみがそのように分かれるようになっているのです。(119)

 新所帯を構える夫婦が、「あなたと私は天が定めた似合いの夫婦であり、誰も隔てることができない。一つだ」と言って、面白く暮らして夫が死んだなら、妻一人で、その夫の愛を見いだせるでしょうか。女性自身が一人で夫の愛を見いだせるでしょうか。できないというのです。その愛を回復することのできるたった一つの道があるとするなら、それは死んだ夫が生き返る道しかありません。(120)

 女性においては夫が亡くなれば、生命がないのです。人心の良い村に入って暮らすとしても、一人で暮らすようになれば、誰でもみんな来て、手を出します。だから、稼ぎの悪い夫でも必要です。(121)

 愛する父母を失ってしまえば、言葉にできない悲痛さを感じてこそ孝子です。父母も子供を失ってしまえば、悲痛さを感じます。夫婦同士も、同様です。私たちの後孫たちも、同様です。これは千年万年変わらないのです。(122)

 夫を失えば、女性はどうして泣くのでしょうか。恋しい人を失ったので、悲しくて泣くようになるという、そのような漠然とした理由のためだけではありません。愛は四方性を備えなければなりません。そうしながら、立体的に前後左右と相関性を備えなければなりません。このような愛であるので、夫はその女性と左右の側で、相対として愛の四方性を成すようになるのです。したがって、このような妻は夫がいないことによって、全宇宙が保護するその立場から、保護を受けられない立場に落ちることになるので、宇宙から受ける力が苦痛に感じられるようになるというのです。

 病気になればどうして痛いのでしょうか。授け受けることのできる道がふさがることによって、与えたくても与えられず、受けたくても受けられないようになることにより、その破壊された程度を予告するためのものが、痛みとして現れるのです。それがまさに病気だというのです。(123)

 愛する妻を見れば、なぜいいのでしょうか。一人だけでいるときは、宇宙の球形的な四方から保護され得る基準に立てなかったのに、相対がいることによって、その相対と授け受ける横的な愛の関係を結び、縦的な宇宙の力と接することのできる場をもつようになり、宇宙の保護力によって、その相対をもつ者は無限にうれしくなるのです。だから、愛する妻を見れば、全精神が統一され、その妻しか見えないというのです。だから、踊りを踊り、歌を歌うようになり、ともに一団となって回るのです。

 踊りを踊り、歌を歌って喜ぶ、そのようなことをなぜ、何のためにするのでしょうか。保護圏を拡大するためです。多くの人々が、レバレンド・ムーンに反対しますが、そのようなレバレンド・ムーンがアメリカに行って、アメリカの若者たちと夜を明かし、彼らを教育し、運動をさせながら、時には彼らと共に踊りを踊り、歌を歌って楽しむのは何ゆえでしょうか。保護圏拡大が私と関係するからです。宇宙保護圏の拡大作用が私とともに始まるので、反対を受け監獄に入るようになるとしても、恐れることなく押し続けていくのです。(124)

 夫婦が共に暮らして、一人が先に死ねば、泣くようになります。なぜそうなのかといえば、この宇宙の公法の前に不合格な基準に該当すれば、この宇宙の公的な力がその人を押し出すようになり、また、そのようになるときに、悲しみの度合いが強くなるからです。

 それでは、喜びはどのように生じるのでしょうか。そのような宇宙公法に一致する自分となれば、宇宙の力が彼を抱こうとします。その力が大きければ大きいほど、強く抱き締めるようになり、強く抱けば抱くほど、彼はその内的な中心に入っていくようになるので、喜びが来るというのです。ですから、悲しみと喜びは、どこから生じるのでしょうか。皆さん自身から生じるのではありません。これは力の原則、すなわち宇宙の公法を中心として生じます。

 それでは、その宇宙の公法とは何でしょうか。男性と女性が最初から最後まで一致していく道であり、またこの道は、天運が行く道です。一人で行くのではなく、男性と女性が一致して、すなわち夫婦が一心となって行く道です。皆さん、今までこのような話を聞いたことがありましたか。

 ですから互いに争い合い、泣きわめき、死んでやると大騒ぎをする人々は、早く除去されます。公的法度圏内で、合格品でない不合格品として見なされるのです。そうして、どこに行きますか。ごみ箱に行くというのです。心はそれを知っているので、それに対しては、即時に悲しみを感じるのです。(125)

 自分の息子・娘がいなければ、不幸を感じるのです。「息子・娘がいなければ、夫婦だけ仲良く過ごせばいいだろう」と考えるかもしれませんが、そうではありません。天理法度が四位基台原則になっているために、男性と女性が出会って一つとなったなら、必ず息子・娘を生んで、四基位台を成さなければなりません。これが宇宙の公法です。四位基台を成せなければ、合格できないのです。また、息子だけいてもいけません。息子だけならば、息子に対する愛の味は分かりますが、娘に対する愛の味は分からないからです。

 皆さん、蜜の味がどうだと、誰かが説明して分かりますか。それは、説明だけではだめなのです。説明する前に、直接口を開けて食べさせてあげてから、これが蜜の味だと教えてあげなければならないのです。

 それでは、息子がいなければなぜ寂しく不幸だというのですか。娘だけをもった人は、息子をもった人を見れば、この世でそれ以上望むものはないと言います。西洋の人々は、そのような面で少し鈍いです。彼らは個人主義思想を強調して、そのような感情はすべて失ってしまったのです。失ってしまったために、再び捜さなければなりません。だから、今それを再び捜すために、東洋思想に帰ってくるようになるのです。

 ですから、夫がいて、妻がいて、息子・娘がいる家庭とならなければならないというのです。そうして、彼らが完全に一つとなって、初めから目的地点まで天運と歩調を合わせていけば、この家庭は永生するというのです。これが理論的な原則です。そのような家庭こそが永生するのであって、一人では永生できないのです。たとえ永生するとしても、永遠の世界で苦労というふろしきを包んで、行き来するようになります。幸福という要件を受けることができません。このような観点から見れば、イエス様は永生の世界に入れませんでした。すなわち、神様の国、理想世界に入れなかったというのです。(126)


8、真の夫婦の協助


 妻は職場から帰ってくる夫に、夕食を整えてあげることで、夫に対する義務を果たしたと思ってはならないはずです。夕食のおぜんのそばに座って、愛の蜜語を交わしながら和気あいあいな時間をもつことが、何より重要なのです。初めて出会ったときに親しくささやいたその声で、愛の姿そのままで、一日の苦労を慰労してあげたなら、夫の疲労は洗ったようになくなるでしょうし、愛もまた深くなっていくことでしょう。(127)

 先生が七十歳に近い体で「海に出掛ける」と、お母様に話せば、お母様は海に出掛けるすべての準備と精誠を尽くしてくれます。海に出て一晩寝て帰る準備をしてくれながら、海に出掛けるみ旨が成されることを、祈ってくれさえします。これはどれほど味がある美しい内助者の姿でしょうか。(128)

 先生はお母様に対して、内外的にこのような使命を遂行するにおいて、すまないと思うことが多くあります。女性としての気持ちをよく知っています。盛りの年ごろに、女性としてやりたいことが多いことを知っています。仕方がなかったので……。かえって、誰もできない愛情の代価をもって浮上するのです。疲れて眠るとき、見詰めながら、涙を流しながら、深く敬拝をします。そのような心情が必要なのです。このような部屋は、幸福な部屋です。花が咲きこぼれ、香りがする……。そのような花の香りの中で神様はお住まいになるのです。

 夫が帰ってきて、夕食も取らず、話もせずにいびきをかいて寝てしまったなら、そのいびきをかく音を聞きながら、そのいびきをかく音以上に泣く声が、自分の胸からわき上がる女性とならなければなりません。そのような家庭を見たいのが、先生の願いです。もし、そのようなことを見られないなら、先生の苦労はむなしいものとなってしまいます。神様の六千年の犠牲は、むなしい犠牲となってしまうでしょう。皆さんはそれを知らなければなりません。(129)

 人はともに暮らさなければなりません。何のために? ある目的のためにです。それではその目的とは何でしょうか。愛を感じながら生きようということです。男性でも女性でも、存在するすべてのものはみんな同じです。男性と女性が互いに異なる目的のために動いてはなりません。互いに一つとなるべきなのです。夫が外に出て働くとき、妻は家の中で働かなければならないのです。体は互いに異なりますが、心は同じでなければなりません。このようなことを、皆さんは知らなければなりません。(130)

 夫が巡回に行くのに、「行ってきて。私は疲れたので眠るわ」と言ってはなりません。夫が巡回に行って帰ってくるときまで、妻も共に精誠を尽くさなければなりません。子供たちもその父母が帰ってくるときまで、待たなければなりません。心で父母の幸福を祈らなければならないのです。そこには、誰も引き離すことのできないものがなければなりません。それは天地運勢であり、宇宙が基準とする愛を中心とした基本的な形態です。これが壊れる日には、絶望です。(131)

 統一教会の女性たちは、夫が主体であり、妻が対象だということを知らなくてはなりません。このような基台を造成した土台の上に、夫と妻が一つとなって新しい主体に侍り、対象の立場に立つようになるのです。すなわち、神様と愛の関係を結ぶことのできる、相対格となるのです。愛は主体と対象関係が成立しない限り、訪ねてきません。(132)

 皆さん! 男性はプラスですか、マイナスですか。「プラスです」。女性はマイナスですか、プラスですか。「プラスです」。みんなプラスだと言いましたが、それゆえ皆さんは夫婦同士、互いに愛を受けようとするだけであり、与えようとはしません。男性、女性が完全なプラスと完全なマイナスとなって、男性は女性に与えようとし、女性は男性に与えようとすれば、くるくると回ります。アメリカの女性たちの病気が何かといえば、夫から愛だけを受けようということです。アメリカでの家庭の主人は、女性です。男性が家庭に入れば、身動きできません。男性に女性が服を着せてあげるのではなく、男性が妻に服を着せてあげます。反対になっています。夫が外から帰ってくれば、妻は家ですべき仕事もしないでいて、「ああ、夫が来た! これ、こういうふうに、こういうふうにしてください」と、やらせます。

 夫が外から入ってくれば、妻は喜んで迎え入れ、おなかがすいているから早く食事をしようと、互いに慰労し、愛し合う所に幸福と喜びがあります。(133)

 妻は夫を出世させなければなりません。すなわち、内助を上手にしなければなりません。み言の完成者(実体的、心情的、生活的)になりなさい。み言を中心として、神様の愛を花咲かせたものが家庭です。(134)

 男性が出世しようとすれば、女性が優れていなければなりません。そうですか、そうではないですか。今の時代は、女性が運に乗る時です。かわいそうな女性たちが喜ぶべき時が来ました。統一教会の文先生がこのように道理的に明らかにしてあげるので、女性たちが喜ぶようです。(135)

 このひとときに女性として生まれたなら、歴史を代表した凛々しい勇士の夫人とならなければなりません。(136)

 女性は天道に従い順応して、女性として行くべき道を行かなければなりません。夫が共に死のうといえば、死ぬことができなければなりません。死んでもあの世に行って共に暮らせばいいのです。夫の命令を絶対視し、夫の命令に従順になった後には、解放され得る道があるのです。人倫世界の道徳観において、悪なる堕落圏内にいるとしても、三綱五倫を中心として順応する人々、絶対従順という基準を立てた人々は、再び解放され得る道が依然として残っているのです。(137)

 自分がいくら美人であり、楽に暮らせる立場でも、神様の愛を受けることのできる夫なら、苦労しても世界の狭間までも、従っていくことができなければなりません。いくらぞんざいに扱われても、自分の体を通して神様を愛し、地を愛し、世界を統治することのできる息子を生めるなら、どこまででも従っていくことができなければなりません。もし、世界で一番できの悪い夫と結ばれても、神様の愛がその夫に侍り暮らす家庭に訪ねてくるなら、そのような夫と結ばれ精誠を尽くすようになるとき、必ずその家庭に神様が愛することのできる聖人が現れるでしょう。三代を犠牲にして精誠を尽くすとするなら、必ずその家庭に聖人が現れるでしょう。(138)

 わが夫は世界を代表した夫だと思わなければなりません。この原則に立脚して、皆さんが息子・娘を生む日には、その子供たちも偉大になります。(139)

 女性たちが夫を聖人のように思い、来られる主の代身の存在として認め、彼のために生命を捧げて死のうという環境的因縁が生じれば、そこから国を探し出すことのできる人、世界を探し出すことのできる人が現れるでしょう。(140)

 神様は男性よりも女性をより愛されるでしょう。なぜ? お父さんという男性たちは、神様の体と同じで、女性は相対的な立場にあります。神様が一番最後につくった傑作品である女性が、男性より愛を受けることのできる立場にあり、その次にはお母さんになることができるのです。そして、子供たちを見れば、お母さんを好みます。

 お父さんは遠方のことを考えますが、お母さんは近いことを考えます。女性たちは現実主義者です。赤ん坊を産んで育てるということが、大きいのです。赤ん坊を身ごもれば、つわりをし、苦労をします。苦労をするので思いやります。神様は女性がなぜつわりをするようにつくったのでしょうか。つわりをしなければ、女性が赤ん坊を身ごもっても、男性は関心をもちません。神様もどれほど関心をもつでしょうか。

 女性は赤ん坊を抱き、骨を折ってお産をしようとすれば困難なので、深い愛を女性に与えるのです。なぜ易しくせず、困難にしたのでしょうか。易しくすれば、愛が分かりません。苦労をしながら赤ん坊を産んでこそ、その赤ん坊がかわいく、神様に対する心情も感じることができます。このような観点から見るとき、女性は神様が愛することのできる相対としてつくられました。女性は赤ん坊を産むことによって、父母の愛を知るようになり、夫の愛を知るようになり、子女の愛を知るようになります。そして、お父さんよりももっと愛と連結されるので、女性は貴いのです。(141)

 お父さんがいくら子供を愛するとしても、お母さんの愛にはかないません。お母さんが骨を折ったとすれば、誰よりも骨を折り、苦労をしたとすれば、誰よりも苦労をしたので、愛するとすれば、誰よりももっと愛すると見るしかありません。

 そのような意味からも、女性たちが男性たちより情緒的な分野において、高く貴い位置を占めています。お父さんがいくら赤ん坊を愛するといっても、お母さんほどには赤ん坊に対する愛が分かりません。それゆえ、天国に行くなら、女性たちが心情の天国に行くでしょう。そのような観点から、女性として生まれたことは悪くありません。また、神様は公平だということが分かります。(142)

 女性たちが花ならば、朝顔のように愛の香りを遠くに広げなければなりません。(143)

 夫婦の間で、夫がすることに干渉するなと言ったならば、妻が干渉しなければいいでしょうか。妻も夫と対等な立場に立つことができるのです。夫がいないときは、妻でもその立場に立つことができなければならないのです。(144)

 皆さん、妻たる人は、夫の前に負債を負ってはなりません。(145)

 家庭が安定するにも、女性たちがよくしなければなりません。(146)

 妻は夫の言葉を百パーセント受け入れる姿勢になっていなければなりません。言葉だけでなく行動まで、彼が東に行けと言えば、東に行くと言うことのできる内的因縁を結ばなければなりません。夫が行く所に、妻が行かなければ、それは妻ではありません。(147)

 嫁に行く娘が、初夜に新郎の前で、新郎が聞けばどのように答えようかと考えるように、皆さんも愛するその人の前に一生を捧げる最初の瞬間に、自分がどのような言葉を語ったかを考えてみなければなりません。このような真摯なる心をもち、夫に従順になろうという娘は、嫁に行って、必ず夫の愛を受けるようになるというのです。そのようなことを考えてみましたか。妻は夫のために答えることのできる、そのような人とならなければならないのです。そのようなことが必要です。(148)

 「耳の険山」を越えようとしなければなりません。毎日のように悪口を言い散らす夫を得たら、どうしますか。それを、神様のように聞くことができなければなりません。朝から悪口を言う夫に、「朝食でも食べて、言ってください」、昼食のときまでもそうなら、「昼食でも召し上がって、また言ってください」、夕食を食べてまたそうであるなら「寝て、言ってください」と、こうでなければなりません。そうすれば、四十日もたたずに、サタンがみんな逃げます。面白くないからです。(149)

 夫と結ばれればよいと思ったのに、悪いときもあるというのです。いいことばかり望んではいけないのです。二十四時間ずっと日の光だけ浴びればいいですか。夜があるべきであり……。そうでしょう? 高ければ低くなるのが原則ではありませんか。(150)

 妻は暮らせないといって悲しがらず、着られないといって物足りなく思ってはなりません。夫は着れないのを知らないのではありません。心中で済まなく思っているところに深い愛が込められており、ダイヤより高価で貴い宝物が隠されています。(151)

 夫が横になって寝ていれば、なぜこう寝てばかりいるのかと言って、起こそうとする妻となるよう勧告したいです。(152)

 妻たちは、自分自身の幸福よりも、夫の幸福を願います。それが自分との関係を決定するからです。夫でなければならないようになっています。女性が生まれたのは、男性を迎えるためです。また、男性も女性を迎えるために生まれました。(153)

 家庭の基準を実感しなければなりません。男性は主体です。主体は主体的な立場に立たなければならず、相対的な位置に立ってはなりません。中心に立たなければなりません。この中心が、ずれてはなりません。位置を守ることのできる中央を守らなければなりません。これが神様の代身の位置です。(154)

 動機と原因が主体から始まります。喜びと幸福は主体から始まります。家庭が不和となり、不幸なことは、男性が責任を負わなければなりません。堕落の責任も最初が神様、二番目にイエス様、三番目に聖霊が負わなければなりません。(155)

 理想世界を成せば、男女平等の世界とならなければなりませんが、そこでの主体は誰でしょうか。絶対的な責任を永遠に負う所でだけ、平等が可能です。主体は対象に対して、責任を問いません。主体としての責任を果たしてこそ、責任を追及がきます。神様も人間が完成するときまで、責任を追及しません。すなわち、人間が完成するときまでは、そうすることのできる雅量があります。

 そういう意味で、男性が主体なら、すべてのことに責任をもたなければなりません。すべての責任を円満に相続させられる、公約を履行する代表者は主体となります。(156)

 男性には活動的で、征服的なものがあるのです。(157)

 男性は仕事をしなければなりません。どのような仕事をするのでしょうか。開拓的な仕事をしなければなりません。人間は万物の霊長だといいます。「霊長」といえば、男性のような気分が生じます。小さなこぶしを持っており、また顔も面長でひげもない小さな女性が、「万物の霊長は私からだ!」と言えばどうでしょうか。考えてみなさい。か細い声でいくら叫んでも、女性の声です。男性が現れて、太い声で「万物の霊長は私からだ!」と叫んだなら、どうでしょうか。それは、女性でも、男性からだと言わざるを得ません。男性たちが争っているのに、女性が行って「やあ! どけ!」と言うなら、どうでしょうか。男性がこぶしをぐっと握って「おう! この野郎たち、どけ!」と言えば、それでも頼もしいところがあります。

 そのように見るとき、霊長の立場の、第一番を誰が占めるのがよいでしょうか。それは男性であらざるを得ません。何か一つでもより多くもった人がいなければなりません。男性を見れば、ひげ一つがより多いです。男性が霊長の主体となることのできる資格がどこにあるでしょうか。男性はひげ一つを多くもちました。それを見れば、神様は本当に数理的なお方です。道士というときは、ひげが長く伸び、つえを平然とつき、とぼとぼ歩いてこそ、威風があるように見えます。女性が帽子をかぶり、ひげもなく、道人であると言えば、柄に合いません。このようなことを見るときに、万物の霊長の主体は男性です。(158)

 少しだけ慰労すれば、女性はすぐに怒りが解けます。(159)

 自分の妻の誕生日になったなら、その町内のおばさんたちをつれてきて、妻をこの上なく愛する心で、妻のために彼らの前で踊りでも踊り、歌でも歌ってあげられなければなりません。(160)

 妻に対して怒ったり、子供に対してむちを加えたなら、謝り、その何倍も愛してあげなければなりません。(161)

 愛をたくさんもった夫は、その家の中で悪口を言っても、これはすべて愛の刺激となり得ます。愛のない夫の一言は、それが身を切るような破壊の動機にもなるのです。愛があれば、むちを打ってもよいのですが、愛がない所では、何でも嫌なのです。(162)













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第二節 理想家庭

祝福家庭と理想天国

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第二節 理想家庭


1、理想家庭


 神様を中心とした永遠なる父母の愛、永遠なる夫婦の愛、永遠なる子女の愛、この三つの愛があるのが理想的家庭です。(163)

 ある人がこれくらいなら天上天下にうらやむものはないといって、幸福を歌うとしても、そのような外的なものは幸福になり得ません。幸福を見いだす条件にはなり得ますが、幸福それ自体にはなり得ないのです。それでは何が決定すれば、幸福を感じることができるでしょうか。愛する父母がいて、夫婦がいて、子女がいなければなりません。これはどこの誰もが否定できません。ここで一つしかもたない人は、そこに該当する比例的な悲しみを感じるでしょうし。比例的な不満がその胸の中に残されざるを得ないでしょう。(164)

 家庭には必ず父母がいて、妻子がいなければなりません。そうしてこそ、その家庭が幸福の土台となるのです。神様が人類を探し求めてきた目的も、神様ご自身の幸福を模索するためであることに間違いありません。それゆえ、神様が幸福の土台を探し求めるには、人間を離れた場では、そのような理想があり得ないというのです。人間とともに関係を結んでこそ、その一致点をもたらすことができるのです。私たちが家庭で、情緒的なすべての内容を備えた立場で幸福を感じるのと同様に、神様もまたそのような立場で幸福を感じるのです。(165)

 不幸はどこから出発するのでしょうか。愛の巣がなくなるようになるときから始まるのです。幸福な家庭は、その家の垣根となる父母に侍って暮らす家庭です。その家庭は、上には天を代表する父母に侍り、横には家庭を代表する他人同士が集まって暮らすその因縁の愛を夫婦として結び、この夫婦たちが天倫の法度を奉じ、その代を継ぎながら暮らす家庭です。(166)

 幸福はどこから来るのでしょうか。鼻歌を歌いながら迎えることのできる、そのような環境はどこから来るのでしょうか。家庭から来るのです。家庭の幸福は、情緒的に問題があれば成され得ません。また心情、愛がなくても、成され得ないのです。(167)

 公式とは、ほかでもありません。一つの関係を維持させるため、全体に適用させることのできる主体的な内容をもったものがあれば、それが公式となるのです。一つの要件を全体の要件として代身して、帰結させられるようになるときに、それが公式として登場するというのです。原則がそうです。公式とは、中心を言います。中心は、すなわち縦的な基準です。ですから縦的基準は、二つではありません。一つです。

 一つの家の中を見ても、その家の中心は誰でしょうか。年のいった人、すなわちひいおじいさんが生きていれば、そのひいおじいさんが中心です。死ぬ時が来たといって、家族たちがそのおじいさんを無視すれば、縦的な世界を無視するのと同じです。たとえもうろくしたとしても、その家庭の中心は、ひいおじいさんです。食べるものがあっても、その人に先に持っていって差し上げなければならないのです。いくらお父さんがその国の大統領だとしても、おじいさんに先に差し上げなければならないのです。なぜなら、息子は横的だからです。(168)

 皆さん、家で一番いい人は誰ですか。父母でしょう? なぜ父母が一番いいですか。愛を中心として、一生涯に関係を結ぶことのできる一番近い立場にいるからです。

 その次は、愛する夫と妻になるでしょう。その夫と妻の愛は、ある条件的な愛ではなく、無条件的な愛です。その愛は永遠に絶対的な愛です。神様がおられるなら神様と直接的な関係ではなくても、神様の愛と相対的な関係を得ていくことのできる夫婦間の愛の土台が一番よいものではないかと見るのです。

 その次は、父母に対する子供の愛、父母のための子供の愛です。絶望ではなく、あすの望みとして芽生えることのできる理想的な環境を慕いながら、肯定的な姿勢で子供が父母のために犠牲になり、愛することができたなら、その子供の愛は、その家庭の幸福のための純粋で真実な価値としての愛となるでしょう。

 このように父母の真の愛と夫婦の真の愛、そして子女の真の愛が完璧に具備された家庭があるなら、その家庭は私たち人間世界上で、最も理想的な家庭だと言わざるを得ないでしょう。(169)

 一つの家庭を中心として、一番いいものが何かというとき、その一番いいものは、皆さん自身で決定されるものではないというのです。それでは、家庭での最上の価値は何になるでしょうか。父母です。皆さん一個人を置いてみても、皆さんにある権力や知識、また名誉やお金も貴重なものとなり得るでしょうが、そのすべてのものよりも、もっとよいものとしては「父母」以外にないというのです。その次には、皆さんの妻や夫になるでしょうし、またその次には皆さんの子女になるでしょう。

 事実、皆さんの家庭で、皆さんの父母や妻、そして子女よりももっと大切で価値あるものがありますか。ないというのです。

 それでは、なぜ父母がいいものになるでしょうか。そして夫と妻、子女がなぜいいものになるでしょうか。「愛」があるからです。父母の愛、これは子供において絶対的に必要です。夫婦の愛、これは夫と妻において絶対的に必要なものとなります。そして兄弟間の友愛であるとか、子女が父母に対してもつ親思いの心も、一つの家庭で絶対的に必要なのです。(170)

 皆さん、考えてみてください。一つの家庭を中心として眺めるとき、もしその家庭の父母が病気になったなら、子供たちはどうするでしょうか。子供たちは最善の精誠を尽くして、全財産を売ったとしても、父母の病気を治療してあげようとします。なぜそうでしょうか。愛の因縁ゆえに!

 誰かが強要しなくても、何とかして病気にかかった父母を生かそうとするのが愛の力です。愛する夫婦の間においても、同様です。どちらか一方が死ぬような病気にかかれば、どんなことがあっても、どのような手段と方法を通してでも治そうとするのが夫婦間の愛です。父母と子供の間でも同様です。これはどこの国、どこの誰が否定しようとしても、否定できない普遍的な真理です。(171)

 真の愛とは何でしょうか。父母の愛、夫婦の愛、子女の愛です。愛は互いが犠牲になる伝統を備えなければ、長くは持続できず、壊れる定めです。そうでしょう? 父母が子供のために犠牲になるがゆえに、父母が子供を愛する因縁は壊れないのです。そして、真なる父母の愛を受けて育った息子・娘なら、自分の父母に絶対に不孝をすることができないのです。また、夫は妻に、妻は夫に対して「あなたは私のために生きた」という立場で、互いが為に与え、一層犠牲になる立場が広がるようになるとき、その家庭には福が訪ねてくるのです。そのような家庭が、神様が訪ねてこられる福地なのです。(172)

 理想的な愛は、家庭から成されます。しかし、神様は真の息子・娘をもつことができませんでした。真の兄弟をもつことができず、夫婦をもつことができず、また父母となれませんでした。ゆえに、このようなことを成そうとするのが、神様のみ旨です。このような所にこそ、愛がとどまるのです。このような愛が成される所には、人々がこの世のすべてのものを捨てて訪ねてきます。(173)

 いくらもじゃもじゃ頭のお父さんでも、第三者が見て人相がしかめっ面であったとしても、そのお父さんの心にぎっしりつまった愛の包みが入っているときには、見たくないお父さんも、見栄えがよくなるのです。人が何分と見ていたくないそのようなお父さんでも、その顔を見詰めれば見詰めるほどいいのです。

 神様も愛があることによって、神様の権威もあり、父母の役をすることもできるのです。

 また、夫婦同士を見ても、花嫁が花嫁の役を果たせるのも愛あればこそです。愛がなくて花嫁の役が果たせるでしょうか。愛がなくては夫の役を果たせるでしょうか。果たせないというのです。

 愛がなくて花嫁の役を果たそうという女性は、女性ではありません。愛がなくて夫の役を果たそうという男性は、男性ではありません。愛があることによって、男性は夫の役を果たすことができ、愛があることで、女性は花嫁の役を果たせます。

 また、息子の役を完全に果たそうとすれば、愛なくしてできますか。娘の役を完全に果たすためには、愛なくしてできるでしょうか。できません。(174)

 子女間の愛はどうしなければならないでしょうか。何を基準として愛さなければならないでしょうか。父と母が愛するように、兄弟たちも愛さなければなりません。愛は誰から学ぶのかというとき、それは父母に学ばなければなりません。(175)

 息子・娘たちが父と母に対して「私たちのお父さんとお母さんは、世界で一番いい人です。神様の代身存在だ!」と言えなければなりません。夫婦間の変わらない心と愛が、終始同じなのを見て、子女たちが「その愛に倣って、子女たる私たちも一つになろう!」と言うとき、理想的な家庭が築かれ得ると見ます。

 また、子供が成長して思春期となれば、心情が一つとなる相対を求めるようになります。これは結婚を通して成すことができます。だから相対側をこの上なく尊重し、愛と心情の基準を立てるために努力することが、男性の行くべき道であり、女性の行く道です。だから母と父も神様の心と神様の愛に一致し、子供たちも父母に似て、神様の心と神様の愛に一致し得る家庭とならなければなりません。(176)

 父母の愛を中心として、兄の立場に立った人が自分を犠牲にしながら、父母を代身して弟妹たちを愛するのが愛の秩序であり、伝統です。兄という立場は、兄弟たちの中で一番苦労をたくさんすべき責任がある立場です。

 父母の立場も、同様です。子供を代身して、子供たちよりも一層苦労する立場が父母の立場です。父母が愛を中心として、子供のためには涙が交差する場だとしても離れたがらないなら、子供たちも涙を流しながらも、その父母についていきたがるのです。(177)

 神様を中心として一つとなるとき、千態万状に回るようになるのです。ですから、兄弟間で愛し合うのも、父母が子供を愛するのに倣って、兄は弟を愛さなければならないのです。そのように愛しながら一円化した家庭には、家庭愛が花咲くことができます。これがまた、社会愛となり得ます。ひいては民族を愛する民族愛となります。このように愛せば、世界愛となるのです。ところが、今日これが漠然としているのです。(178)

 皆さん自身が父母の愛を受けるのは、何のためでしょうか。夫婦である父と母が相互いに頼り合い、相互いに愛し合うその動機が、皆さんによってなされているからです。分かりますか。ですから、その動機を中心として、兄弟同士が互いに愛し合うその愛は、変わらないことでしょう。それを中心として、隣人を私の体のように考えながら生活するとき、正しい社会環境が開かれるのです。家庭を中心として見れば、その家庭が蘇生であり、社会が長成であり、国家が完成です。必ずそのような過程を経なければなりません。

 家庭と家庭を、全部合わせなければなりません。そうしてこそ、その中から愛が生まれるのです。そうして、国家の範囲でも一つに合わされるのです。ここで、社会はいろいろな階層に分かれるようになっています。会社には社長という代表者がいるでしょう? そうでしょう? 国家の責任者は今何人ですか。一人でしょう? 一人の責任者がいます。このように形は統一されるのであり、形態だけ大きくなるのです。このように、分かれていながらも一つになるのが、四位基台の原則です。(179)

 万物は愛のために存在するのです。歴史全体が何に帰結されるのかといえば、物質と子女と父母、言い換えれば、家庭の基準に帰結されるのです。これが宇宙の根本です。父母がなくては、子女が生まれることはできません。父母から生まれた子女が、父母を中心として、万物を主管しなければなりません。アダムとエバも、万物を主管しなければならないのです。これが全部一度に適用されるのです。(180)

 愛の包みは、何の包みでしょうか。本郷の国に行って、その包みを解いてみれば、理想的な夫が飛び出し、理想的な妻が飛び出します。また、理想的な家庭が飛び出すポケットです。ここから出てくるのは、一等の復帰です。だから、個人も一等、家庭も一等、氏族も一等、民族も一等、国家も一等、世界も一等だというのです。全部一等なら、互いに高低がありません。ですから、兄弟も家庭も、復帰されるのです。このように統一的な基盤を造成していくために、宝物のつぼである愛の包みが必要だというのです。

 この味を知ってしまえば、家庭が問題ではありません。反対する夫が問題ではなく、反対する妻、親戚、先生が問題ではないのです。学校の問題は何でもありません。ただ自動的に「私」の心から火の玉がわき出るのです。このような心情の火山帯をつくって、生動する生命をほとばしらせ得ることが起こったなら、そこから何が出てくるでしょうか。この世の人々は、神様もこの愛に火がついたなら、爆発的な衝動を引き起こされるということを知りません。(181)

 「家庭」これは永久不変の紀元であり、要所です。これはお父さんも変えることができず、兄弟も変えることができず、どの国のどのような制度でも変えることができません。また、世界的にも変えられず、天と地も、神様も変えられません。それゆえ、家庭というものには、永遠に革命という名詞が必要ありません。なぜなら、家庭は愛の場であるため、革命が必要ないというのです。

 男性が女性を、女性が男性を愛するにおいては、昔おじいさんとおばあさんが若かったときに互いに思慕し合ったのも、きょう現在の若者たちが互いに思慕し合うのも、違いがありません。同じだというのです。思春期に感じることは、同じだというのです。ところで、家庭を成す型は、千態万状に変わっています。愛する心は同じなのに、家庭として安定するその形態は変わっているというのです。これは結局滅びるようになります。

 革命の要素を加えることのできないそのような型で成された家庭は、どのような主義や思想にも吸収されません。かえって主義や思想を支配し、凌駕します。このような基準が立てられた家庭は、十年、百年、千年たっても、永遠に変わらず、民族と国家の形態を維持させるようになります。(182)

 お父さんとお母さんは、愛なしには一つとなることができないのです。皆さんはなぜ愛を好みますか。好むまいとしても好まざるを得ないようになっているからです。お母さんとお父さんが相互いに愛し合う力が、個体のための力より強くなるほど、一層理想的なのです。お母さんとお父さんを完全に一つに縛りつけるのは、愛の綱です。鉄の鎖は、時間がたてばさびがついて切れますが、愛の綱は永遠なのです。そして、父母と子供の間は、御飯でもお金でも縛りつけることはできません。ただ、父子関係の愛でだけ縛りつけることができます。(183)

 お母さんが子供を愛し、子供がお母さんを愛するのに、お父さんがその妻を見て、「あなたは私の愛する息子を愛さないでください」とは言わないのです。自分以上に息子を愛すれば喜びます。また、子供がお父さんよりもお母さんを愛するとしても、お父さんがその子供に、「お前は、お母さんより私をもっと愛しなさい」とは言わないというのです。そのような教育法はありません。

 このように、自分よりももっと愛することを好む立場を、どこでもつことができるでしょうか。その場所は家庭です。そのようなことは、家庭を離れてはもつことができないのです。ほかの所ではあり得ないのです。(184)

 真なる家庭は、自分のお母さんのように妻を愛し敬い、自分のお父さんのように夫を敬い愛し、妹と兄のように互いに愛し合う所です。その次には、神様のように自分の妻を愛し、神様のように自分の夫を愛し尊敬する世界が、理想家庭が暮らす天国です。このような伝統がこの地球上に立てられなければなりません。(185)

 幸福な家庭は、夫が出掛けて帰ってくれば、外であったすべてのことを妻と共に話し合い、新しく開拓することのできる要因を発見する家庭です。互いが力を合わせて研究する家庭が、幸福な家庭だというのです。父母がそのようになれば、子供たちもそこに力を加えて、私たちもこのような家庭をつくろうと、同調するようになるのです。(186)

 天の国の家庭は、無理やりにできあがるのではなく、自動的に喜びの中でなされるのです。愛するときも、受けようとだけせずに、互いに授け受ける作用がなされてこそ、理想的な愛が成立するのです。(187)

 お父さんとお母さんが一つとなる日には、その家庭は発展するのです。子供と父母が一つとなる日には、より次元の高い家庭に発展することを知らなければなりません。それでは、家庭と親戚間において一つとなる日には、どのようになるでしょうか。そこには新しい民族の正気が起こるでしょう。それがより高い次元に向かっていこうというときは、環境的に全部結束し、国家基準まで忠臣の血族として残されるようになるということを忘れてはなりません。(188)

 父母の前に子女がいないときには、その父母の幸福はあり得ません。子女に父母がいなくても、子女の喜びはないというのです。あるいはある男性がいれば、相対たる女性がいなくてはならないでしょう。女性も同様です。

 ある夫婦がいれば、その夫婦の願いは、彼らの主体と対象の関係をおいて、より高い次元で愛を維持することです。そして、夫婦の前には必ず子女がいなければなりません。そうしてこそ一つの家庭が築かれます。上には父母がいて、下には子女がいなければならず、また夫婦がいなければなりません。

 このようにして、一つの家庭は縦と横に一つとならなければならないのです。それでは、誰を中心として一つとなるのでしょうか。人間だけでは不可能です。

 人間だけでは、より高い価値を追求することができないので、絶対的な愛の主体がいるなら、その主体を中心として、父母は一つとなることを願うでしょう。そこで、夫婦と子女がその主体を中心として愛で一体となった場が、幸福の場であり、望みの場となるでしょう。

 すべてのことを一つに帰結させ、より価値的で、刺激的な面で統括させなければなりませんが、それは、私たち人間の愛だけではいけないのであり、絶対的な立場でこそ可能なのです。(189)

 完全な家庭を築くためには、絶対的基準に立たなければなりません。堕落したので、二人はそのまま一つにはなれません。男性と女性が二人とも絶対的基準に立たなくては、共に行くことができないようになっています。堕落しなかったなら、二人が一つとなって家庭を築けたでしょうが、エバがまず堕落し、前後関係をつくっておいたために、横的な関係、すなわち左右関係をもてなかったというのです。

 平面的基準から神様と一致してはじめて、横的基準が一致され得る家庭、このような家庭は世界が壊すことができず、天と地が壊すことができません。その家庭から新しい歴史が開かれるのです。(190)

 体と心を収拾して、完全な個人とならなければならず、夫婦が一つとなって、完全な家庭を築かなければなりません。(191)


2、三時代が連結されている家庭


 歴史を抱き、時代を抱き、未来を抱くことができるのが家庭です。だから、神様が今まで六千年を経ながら探してきた最後の起点は何でしょうか。家庭です。その家庭は愛が連結された、愛で結束した家庭です。存在するすべてのものは、ここに主管を受けるのです。根源的な愛、絶対的な愛との関係を離れることはできません。このような家庭をつくることが、創造当時にアダムとエバに与えられた本来の使命ではなかったでしょうか。

 神様は男性アダム、女性エバとして終わるのではなく、互いに結合した新しい家庭を夢見られたのです。これが、神様が男女をお立てになった第一次的な出発の起源です。ですから、家庭を探し、家庭圏内で神様の愛を中心として、この世の中で充足を感じることのできる場に入って暮らしてこそ、天国も無事通過するのです。そうしてこそ、この世界も越えて立つことができます。皆さんは、そのような立場で闘う存在とならなければなりません。このような運動が新しい歴史時代に現れるべきであり、そのような運動を提示するために現れたのが統一教会だということを、はっきり知らなければなりません。そうして、自分の家庭で神様に侍り、神様と一つとならなければなりません。そして、「私」が主体の立場に立って、横的にも完全に一つとならなければなりません。このようなことを祝福家庭がしなければなりません。(192)

 愛の家庭圏を形成するためには、絶対的でなければなりません。父母は歴史を代身することができるのであり、夫婦は時代を代身することができるのであり、子女は未来を代身することができるのです。「私」が一時代に一相対を愛するのは、神様が世界に対されるのと同じなのです。ここから父母と夫婦と子女が一致し、天宙を代表して、私たちの愛をまねなさいと言うことができ、後孫たちに対して、私たちには倣いなさいと言うことができ、内外ともに主張できる心の本郷、天情が通じるその場所は、天地に記憶されるでしょう。完全な主体が決定されれば、完全な対象は自然に生まれ出るようになっているのです。(193)

 父母と一つとなることは、歴史と現実が出合うことです。ここで「私」は、自分一人を中心として、父母を愛することによって過去を愛することができ、相対を愛することによって現実を愛することができ、子女を愛することによって未来を愛することができます。ですから、「私」は三時代の愛を体験することができるのです。三つの愛が結集した核心体が、まさに家庭です。(194)

 父母を愛することは、歴史と現在を連結させることであり、神様が訪ねてこられ得る道を築くことです。ですから、父母を愛さなければなりません。歴史的な存在と時代的な「私」を連結させること、すなわち過去と現在を一つにすることが、父母を愛することです。また、自分を中心として子供を愛することは、現実と未来を連結させることです。このような愛を、千年万年讃揚させようとする思想が統一思想です。これが、統一教会が行くべき道であり、この道は誰も阻めません。(195)

 過去、現在、未来が連結され得る最小限の基準とは何でしょうか。それは家庭です。家庭は世界の縮小体と同じです。そこでは、過去と現在と未来が連結されるのです。それが何の話かといえば、家庭にはおじいさんとお父さんと息子が共存するという話です。お父さんがおじいさんの立場に上がるようになれば、自分がお父さんの立場に上がって、息子・娘をもつようになります。おじいさんからお父さん、自分の三代が一つとならなければなりません。すなわち、過去、現在、未来、この三つの因縁が一つとならなければなりません。そのような家庭は、世の中がいくら揺れたとしても、揺れる社会の侵犯を受けず、幸福の土台をもつことができます。(196)

 お父さんが喜べば家庭全体が喜ぶのであり、妻が喜べば家庭全体が喜ぶのであり、子供が喜んでも家庭全体が喜ぶのです。一時に宇宙全体が喜び得る場が、家庭だというのです。(197)

 私たちには、これからどのような社会、どのような世界でも、革命ののろしを上げざるを得ない時代が来るでしょう。私たちはそこに対備して、その時代を凌駕することのできる鍵を準備しなければなりません。ところで、何によってそれを準備するのでしょうか。それは家庭です。理想的な愛を中心とした家庭なのです。私たちはこれを絶対視しています。これはどのような社会制度でも、どのような時代でも、革命することはできません。

 私たちが主張する理想的な家庭、言い換えれば、神様を中心とした創造理想の家庭は、歴史を代身することのできる家庭となり、時代を代身することのできる家庭となり、未来を代身することのできる家庭となるのです。(198)


3、家庭は真の愛の訓練道場


 家庭において父母は縦的な軸を完全に継承し、そこに合わせなければなりません。その次に、夫婦は軸に横的に九十度の角度で合わせなければなりません。その基準は国家でも同様です。愛の軸の位置は一つしかありません。それゆえ、この軸を中心として、家庭は小さいですが、氏族、民族、国家、世界はだんだん大きくなります。愛の軸を中心として、拡大するようになっています。拡大、縮小の因縁関係を全部四方に拡大させるところに、理想圏が広がるのです。だから、今世界を一つにするために私がするのが、軸を正す仕事です。ですから、方向設定をするためには、思想的王者の立場を占領しなければなりません。占領するにおいては、強制ではない、愛で消化しなければなりません。(199)

 家庭は、天国を成すことのできる教材としてつくったのです。おじいさんのような年齢の人を、自分のおじいさんのように愛すれば、その人は天国に行くようになっています。父母と同年配の人を、自分の父母のように愛すれば、万国共通で霊界にも境界線が生じません。息子・娘の年齢のような万国の若い人たちを、自分の・娘だと考えることのできる心さえもてば、天国のどこにでも行くことができます。天国に十二の真珠門があり、方向がありますが、どこにでも通ずることができるのです。家庭とは、天国全体に因縁を結ばせる教材です。すなわち、テキスト・ブックだというのです。

 その軸を中心として、それを国に適用すれば、愛国者となるのであり、世界に適用すれば、聖人となるのです。天と地を中心として適用すれば神様の息子・娘である聖子となるのです。それが人間の価値でした。(200)

 真の愛の訓練道場はどこでしょうか。その愛の訓練道場は、きょうのみ言の題目である「神様とわが家庭」です。神様と私たちの家庭で、エホバは縦的な神様であり、アダムは横的な神様なのです。(201)

 家庭とは、人類愛を教育する代表的な修練所です。心情の中心を立てる代表的な広場です。そこで、互いに信頼しながら幸福な生活を営めば、全宇宙の中心として立つようになり、幸福を享受するようになるというのです。それが理想圏の始まりです。愛なくしては、何の存在の意味もありません。(202)

 この宇宙の中心は、どこにあるでしょうか。「家庭」にあります。真なる愛が定着することのできる基地はどこでしょうか。皆さんが暮らしている家庭だというのです。ですから、本来の家庭は、宇宙愛を掌握し、宇宙の保護様相を体得しながら、宇宙愛圏を拡大させ、家庭を越えて国家を愛する愛国の道を行かなければならず、ひいては民族と国家を越えて世界を愛する道に行かなければなりません。家庭を愛する人を孝子、または烈女といい、国を愛する人を愛国者というなら、世界を愛する人を何というでしょうか。その人を、まさに聖人というのです。(203)

 皆さん! 家庭がなぜいいですか。それはご父母様の愛を中心として、自由活動の基地となるからです。同様に、神様が自由に活動できなければなりません。いくら見た目にはみすぼらしくても、輝かしい愛の核をもった、そのような内的な人間によって成り立つ社会となったとき、神様は自由です。

 皆さん、そうではないですか。ある家にお客として行けば、不自然でしょう? なぜ、そうでしょうか。それは愛の因縁がないからです。愛の因縁が四方性を備えられないでいるため、ぎこちないのです。だから私たちが行くべき道は、人格の道です。(204)

 家庭がなぜいいでしょうか。家庭は、互いに愛を自由に授け受けることのできる土台であるため、栄えることができていいのです。それゆえ、人は故郷を慕い、父母と兄弟がいる所を慕うのです。(205)

 真なる家庭は、自分のお母さんのように妻を愛し敬い、自分のお父さんのように夫を敬い愛し、妹と兄のように互いに愛し合う所です。その次には、神様のように自分の妻を愛し、神様のように自分の夫を愛し尊敬する世界が、理想家庭の住む天国です。

 このような伝統が、この地球上に立てられなければなりません。自分の妹やお兄さんを捨てることはできません。自分のお母さんも捨てることはできません。誰も捨てることはできません。ですから、離婚という言葉はあり得ません。夫はお父さんの代身であり、お兄さんの代身であるため、お父さんを捨てることができず、お兄さんを捨てることができないので、妻も夫も捨てることができません。

 そのような愛を抱き、世界を愛さなければなりません。お父さんのような年齢の人を見れば、お父さんのように愛し、お母さんのような年齢の人は、お母さんのように愛さなければなりません。(206)

 皆さんはどこに行っても、そのすべての人を他人ではないと思わなければなりません。皆さんの家族だと思わなければなりません。ひいては、たくさんの老人たちを見れば、自分の父母のように思い、彼らに悲しいことがあれば、彼らをつかみ、共に痛哭することのできる心がいつもなければなりません。(207)

 お父さんとお母さん、夫婦、子女で形成された家庭は、世界の縮小体です。家庭的愛を拡大して、すべての人を愛さなければならないのが、人類が生きていく道であるのを知らなければなりません。年を取った人はおじいさんとおばあさんのように、中年はお父さんとお母さんのように、自分より少し年を取って見える人はお兄さんとお姉さんのように、若く見える人は、弟妹のように思い愛さなければなりません。

 だから、真の人とは、父母と年齢が同じ人は父母のように思い、お兄さんと年齢が同じ人はお兄さんのように思い、妹と同じ年齢の人は妹のように思う、このように全部自分の家族のように思いながら、世界的なすべての障壁と境界線を超越して、人類を愛することのできる心情をもった人です。それでこそ、本当に(自分の)お父さんとお母さんを愛することのできる資格があります。

 自分は白人として生まれたが、今度は黒人のおじいさん、黒人のおばさんに侍ってみなければならない、また困った人がいれば、自分の父母のように侍らなければならないという環境になっていれば、それは理想的な環境であらざるを得ません。(208)

 健全な家庭生活とは、祖父母、父母、子女をもって生活することです。もし、一つの世代がいないなら、この家庭は不具と同じです。ここで理想家庭を築けば、その一家庭は、地上天国を築くれんがとして奉仕しなければなりません。

 私たちはこの理想家庭を地上に築くべき使命をもっています。祖父母の深い愛を享有する子女が社会に現れれば、例えば、彼がニューヨークの街に現れれば、目上の人にとても親近感をもつようになるでしょうし、目上の人は彼らを自分の孫のように対するでしょう。いずれにしても、互いに話をしたいし、親近感をもつようになるでしょう。家庭で祖父母に仕えた若者は、助けが必要な目上の人を見れば、追いかけていってでも助けてあげるでしょう。

 もし、父母の愛を受けた子女が外に出掛けて、お父さんとお母さんのような人に出会えば、彼らにとても親近感を感じるでしょうし、話をしたいし、助けたいでしょう。また、兄弟姉妹間に美しいつながりをもった人が社会に出れば、周囲の隣人とより一層親密な関係をもつでしょうし、よく調和するでしょう。兄弟姉妹と上手に暮らす人が、外に出て異性と交際するとき、とても自然にできるでしょう。肉欲的な、不健全な感情をもたずに兄弟姉妹のような感情をもつようになります。地上天国は、神様を中心としたこのような愛の関係を本当に経験することのできる家庭をいうのです。(209)

 ここで年を取ったおじいさんとおばあさんが好きな人、手を挙げてみなさい。では好きでない人、手を挙げてみなさい。挙げない人が多いですね。皆さん、五百歳のおばあさんとおじいさんを連れてこられたならば、どうするつもりですか。そうしてもいいですか。年を取っている人ほど好きな人は、神様を好きな人となるのです。なぜかといえば、この世界で一番年を取ったおじいさんが誰かといえば、神様です。だから、神様を愛する人は、おじいさんでもおじさんでも息子でも、言うまでもなくみんな愛さなければなりません。すなわち、神様の家庭を愛さなければなりません。神様の家庭には、日本人でも韓国人でもアメリカ人でも、どこの国の人でもみんな入っていくのです。人種差別をする人は、神様の家庭を愛さない人となるのです。その差別がなくてこそ、理想世界ではないでしょうか。理想世界とは何でしょうか。

 理想的になろうとすれば、単色よりもまだらなのが理想的になります。そのような意味から見るとき、五色人種が一つとなって暮らすのが理想的でしょうか、五色人種がそれぞれ暮らすのが理想的でしょうか。どうでしょうか。みんな一緒に一つの所で調和して暮らすのが理想的です。それゆえ、そうなっていないのは、改めなければなりません。

 「レバレンド・ムーン」がこのように現れて、こういうことを改めるのを、神様が嫌がるでしょうか、好まれるでしょうか。神様はそのような人を後援されるのです。ですから皆さんが、今年から神様のような心をもって、その父母の伝統を継承し、人類を愛する天の家庭的なこの心情のつながりを、どのようにして拡大するかという、ここに力を注がなければなりません。(210)

 私たちは、神様が望まれる家を中心とした父母、夫婦、兄弟たちとならなければなりません。(211)

 アメリカでは六十歳ぐらいになれば、ふろしきを包んでどこかに行きます。息子の家や隣の家に行くのではなく、養老院を訪ねていきます。老人たちは、孫と孫娘の家を訪ねていくのが理想的です。おばあさんは、孫の家を訪ねていくのと養老院を訪ねていくのと、どっちをより好むでしょうか。

 これから統一教会で祝福してあげた家庭は、黒人の父母、黒人のおばあさんまでもてなし、仕えることができなければなりません。皆さんは、舅、姑、夫の祖父、夫の祖母、弟妹たちがたくさんいる家庭に嫁ぎますか。それとも、ただ二人でいる家庭に嫁ぎますか、舅、姑、夫の祖父、夫の祖母がみんないる家庭に行って、彼らに侍ることが、宇宙の公法にかなうというのです。(212)

 アメリカに行ってみれば、おばあさんとおじいさん同士で暮らしています。年老いた親たちだけで暮らしています。彼らに「あなたたち、幸福ですか」と聞けば、「息子たちの家に行きたい」と言います。それは息子たちの家に勝手に行けないということでしょう。また、「孫に会いたいですか」と聞けば、会いたくないという人はいません。彼らは不幸な人々です。(213)

 この世界を審判することのできる絶対的権限をもっているものは何でしょうか。個体ではだめです。真なる家庭です。サタンも何を打ってくるでしょうか。家庭を打ちます。だから、家庭を築いて一つとならなければ、破綻するのです。父子間に、夫婦間に、家庭全体に破綻をもたらすというのです。そして、家庭を築いて破綻した人の傷は、永遠にいやすことができません。いくらその人を慰労しても、無駄なことです。(214)

 神様の息子になろうとすれば、神様の心情に似なければなりません。神様の心情は、世界に植えられています。ですから、世界の人を愛さなければなりません。距離の関係で愛せなければ、その国を愛し、氏族を愛し、家庭を愛し、父母を愛さなければなりません。それは、父母は神様、夫婦はアダムとエバ、子女は世界人類を代表した立場だからです。(215)

 人間の価値は何に置かなければならないかというときに、理想世界に置くのではなく、理想の人に置かなければならないのです。だから、世界を愛そうとすれば、人を愛さなければならないのです。

 愛する方法は、男性(夫)が女性(妻)を愛するように、女性(妻)が男性(夫)を愛するように、愛さなければならないのです。(216)

 国と世界を愛するには、その代表的中心が何であり、誰から愛さなければならないかといえば、それは個人から愛さなければならないのです。

 個人から愛するには、どのように愛さなければならないでしょうか。もちろん、男性対男性、女性対女性同士の愛は、ある目的観を中心として愛し合うのであり、情緒的に愛し合うのではないのです。けれども、男性対女性においては、ある目的観ではなく、それ自体を中心として愛し合うのです。それゆえ、これは動機的愛なのです。

 このような立場で見るとき、世界を愛するにおいては、自分の相対を心から愛さなければならないのです。すなわち、男性は女性を、女性は男性を愛するのです。このような夫婦として、自分の相対を愛した心をもって世界を愛さなければなりません。女性は自分の相対を愛する心で世界の男性を愛し、また自分が男性から愛を受ける存在であるように、世界の女性をそのような位置に立てておいて愛さなければならないのです。

 男性も世界の女性を、自分の妻のように愛し、また世界の男性を、自分の妻が自分を愛するそのような立場に立て、愛さなければならないのです。そのようにすることによって、家庭が国家形成の基準となるのです。いくら大きな世界を形成するとしても、家庭の形成が不合理ならばいけないのです。

 このような立場で統一教会は、今日、天宙主義を唱えるのです。すなわち、天の家庭主義を言うのです。この家庭主義は、愛の結実体であることを意味するのです。(217)

 一家庭は社会の倫理的基盤であり、人間社会で最も手本となり、根源的で一次的な組織です。このような家庭で「愛」が最善の価値基準になるというのです。(218)


4、家庭は天宙主義を完成する最終基準


 神様は人間を神様ご自身に似るようにおつくりになり、人間は自分に似た世の中に発展させています。このような観点から見るとき、人々はなぜ世の中で出世しようとするのでしょうか。それは広い世の中が人に似ているからです。人自身が主体的な立場で世の中に相対的に対するのが、原理的な鉄則です。だから、出世もすべて、社会を通してしようとするのです。そして、それは国家に帰結され、その国家を越えて世界に帰結されるのです。

 したがって、すべてのものは一つから多くのものに分かれ、結局一つの大きなものに総合されます。このように発展するのです。一つからいろいろに分かれ、一つに統合されるのです。ここでまた分かれ、より一層大きなものとなるのです。より大きな一つの世界の中に全部入るという話です。(219)

 家庭を中心として天宙主義を成さなければなりません。天宙は天と地を総合したものです。天と地は、人間においては体と心と同じです。体と心が一つとならなければなりません。一つの主体があれば、一つの対象が必要なように、一人の男性には一人の女性が必要だというのです。男性と女性が一つとなるのが家庭です。(220)

 天があれば地があるはずだし、天と地があればこれを象徴する男性と女性がいるはずです。これが立体的な面で一つになることのできる心情的な基準は家庭です。この家庭は、目的世界のための絶対的な基準として、どのような過程も突き抜けていくことができます。そこから新しい歴史、新しい世界、新しい天宙の基盤が築かれるというのです。(221)

 天宙主義というのは、体と心を合わせた後、神様の愛の本体となる家庭を成して、その理念を霊界と肉界に連結させる主義です。天宙の宙の字は、家の宙の字です。家の宙、そうでしょう? だから天宙主義という言葉を使うのです。天宙は無形世界と実体世界を合わせたものです。これが私たちとどのような関係があるのでしょうか。私たちには家庭が必要です。皆さんが家庭で一つとなれなくては、天宙主義とは関係ないというのです。家庭が天宙主義を完結させる最終基準となるのです。ここで平和の歌を歌うことができず、幸福を讃揚できない人は、この地上でも霊界に行っても不幸な人となるのです。(222)

 家庭というのは、世界を縮小した横的な基盤です。ここから国家と世界がつくられるのです。家庭とは何でしょうか。家庭は世界の横的な縮小形として、絶対的な中心の前には相対的な基準です。それでは、「私」とは何でしょうか。絶対的な中心がとどまることのできる足場です。(223)

 世界が家庭に似て現れました。どのような世界でも、すべてそうです。これからの理想世界は三位基台、家庭の三位基台を中心として成されなければなりません。

 それでは、創造目的とは何でしょうか。四位基台を完成することです。人間は、まず四位基台を完成しなければならないので、全部家庭を築くのです。

 人間は神様に似、人間を中心とした社会は神様を中心とした人間に似るのです。統一教会の先生が、今まで世界に統一教会を立て、そのようにつくっていっています。世界がすべて、そのようにならなければならないということを知っていますが、それを表せずにいます。けれども、このような原則を通して、世界がそのようになるというのです。理想世界というのは、全世界が一人の人の様を形作る世界です。そこにおいては、国家と民族を超越します。(224)

 人の一生において最も重要なときがいつかといえば、生まれるとき、結婚するとき、死ぬときです。それでは、生まれるときにはどのように生まれなければならないでしょうか。正しく生まれなけれなりません。わが統一教会でいえば、心情の因縁を中心として生まれなければなりません。その次には、結婚するときです。結婚とは、生きるためにするのです。すなわち、四位基台を成すためにするのです。このような宇宙の公法を地球上に立ててはじめて、神様のみ旨が成され、人間のみ旨が成されるというのです。このような宇宙の法度が指向する内容を備え、その形態を備えるためのものが家庭です。(225)

 家庭は小さな社会に立脚した小さな国家です。小さな国家であり、小さな世界であり、小さな天宙なのです。ですから、家庭を離れては何もすることができません。このような家庭を教えてあげるので、統一教会は偉大だというのです。(226)

 天国はどこから成されるのでしょうか。私たちの家庭から成されます。それでは、私たちは何主義でしょうか。家庭主義です。私たちが標榜する天宙主義は、天国の天の字に家の宙の字、すなわち天の家主義だというのです。このようになってこそ、天宙という意味がはっきりするのです。

 聖書六十六巻は、全部理想的な家庭を願ったみ言です。また、万民が願うことは何でしょうか。理想的な妻を迎えることです。そうですか、そうではないですか。そうではないという男性は、人でなしです。また、女性も生まれて最も願うことは、理想的な夫と出会うことです。

 女性がいくら学があり博士になって、世界に大口をたたいたとしても、彼女の願いは理想的な男性に出会うことです。愛することのできる理想的な男性と出会って、福々しい息子・娘を生むことです。これが幸福の根です。このような家庭に統一教会の教理を打ち込んでおいたので、抜ける人がいないというのです。

 統一教会の理想は、ほかの所にあるのではありません。出発も家庭であり、結論も家庭です。いまだにこのような問題を解決した人がいないので、それを望んできました。そして、そこに幸福があるため、これを体系化させ、天宙化させて無限なる価値を表したので、統一主義が公認されたのです。したがって、この主義を嫌う人がなく、みんな頭を下げて好むようになれば、世界は自動的に統一されるのです。(227)

 今からでも、皆さんの家庭を通して天倫の法度を見せてあげ、伝統を立てる核心的な内容を残すために、聖なる出発をしなければなりません。

 それゆえ、皆さんは兄弟の立場で互いに兄弟のために生き、その兄弟の立場で夫婦の運を備えることのできる立場に立たなければなりません。そうしてこそ、神様が兄弟として愛することができなかったのを愛し、夫婦として愛することができなかったのを愛し、子女として愛することができなかったのを愛したという、三大愛の原則を復帰するようになるのです。このような三大愛の原則が、皆さんの家庭を中心として完全に一致するようになる日に、神様の愛を授け受けることができるのです。このように家庭を中心として、神様の創造理想を実現しようというのが、まさに統一教会でいう天宙主義なのです。

 神様の愛が人間の三大愛を中心として、ともに花咲くことのできる一つの家庭を成すことが世界の願いであり、人類の願いであり、未来の願いだというのです。これが、初めて天地の法度の前に歴史の香りを漂わすことができ、新しい花として登場することのできる、貴く美しい夫婦の愛だということを知らなければなりません。(228)

 この世界は、結果として見れば、男性と女性です。この男性と女性を束ねてくれるのが、相対的愛です。夫婦が生まれたのも、自然的に生まれたのではありません。伝統的に自分の父母から因縁づけられ出てきたのです。男性と女性が結合する標準的な伝統基準を相続して現れるのが家庭です。この家庭にはお母さんとお父さんがいますが、このお母さんとお父さんに全部が糾合されます。相対的な男性と女性の圏内で、この世界は糾合されるのです。世界の人を全部糾合したものが家庭だというのです。だから、私たちが父母と一つとなることは、根源的な主体と関係を結ぶことです。父母を完全に愛そうという人、父母に孝行をしようという人は、神様と通じます。

 それでは、父母はどのような存在でしょうか。自分と最短距離にいる存在であり、絶対理想の愛の圏と関係を結んでいる絶対者の結果的な存在です。そして、「私」と確かな関係を結ぶことのできる存在です。それでは、「私」はどのような存在でしょうか。その父母の前に全人類を糾合する現実的な結果的存在です。このようになるのです。(229)

 家庭は、神様の理想が顕現することのできる起点であり、人類の幸福が現れる起点となるのです。人間としての仕事がすべて終わる場であり、神様もすべての仕事の完成を見る場です。

 家庭がなぜいいでしょうか。それは父母の愛を中心として、自由な活動の基地となるからです。(230)

 幸福の要因や恨みの要因も、家を中心として国家と世界に広がっていきます。(231)

 神様が望まれる出発点と決着点は家です。しかし、私たちは神様が理想となさる家を築けませんでした。かえって、目的に近くなるほど破滅と不幸に近づいているのが、今日、私たちが暮らしている家であることを知らなければなりません。(232)


5、息子・娘をなぜ生まなければならないか


 皆さんのお母さんとお父さんを通して、皆さんが生まれようとすれば、先にお母さんとお父さんの愛が芽生えなければなりません。相対的関係が成立しなければなりません。だから、その愛の環境で生命が連結されなければなりません。そして、夫と妻が互いに嫌だという場ではなく、互いに懇切に慕い合う場でなされます。このようにして夫婦が愛を結び一つとなるその場が、真なる夫婦の場です。そのようになるとき、妻の立場で、夫の愛は自分の愛であり、夫の生命は自分の生命であり、夫の理想は自分の理想となるのです。

 夫の立場でも同様です。そのように一つとなった場、そのように統一された愛の場で生まれるのが子供です。

 その息子・娘は、お父さんとお母さんの愛の実現体であり、愛の投入体です。子女は、お父さんとお母さんの生命の延長体です。お父さんとお母さんの理想の具現体です。

 父母は、子女に対して「これは私の愛の実体であり、生命の延長体であり、理想の具現体であり、第二の私」として感じます。子女は出発から愛と生命と理想的な基盤から生まれたので、父母はその子供を見れば見るほどいとおしく、見れば見るほど生命が躍動し、見れば見るほど理想的な相対として登場するというのです。(233)

 父母が愛を通して一つとなることによって、神様のような立場で創造的能力を発揮してつくったのが子女です。(234)

 二人の男女が出会って愛し合う目的は、どこにあるのでしょうか。彼らが願う愛はどこで結実されるのでしょうか。愛する場合には、必ずその結果が全体の因縁に結ばれ得る、そのような何かを望むのです。それが子女です。二人の夫婦が互いに愛するのみで終わることは望みません。愛する目的が果たされたものが子女です。それゆえ、この目的が果たされなければ、二人の夫婦がいくら愛し合う仲であっても、彼らの願いを果たしたとは見ることができないのです。(235)

 愛する父母の前に、子供というものは世界的な代表なのです。(236)

 この世に生まれた赤ん坊は、まさに夫婦の愛そのものです。「私」という人間は、父母の愛の同参者であり、愛の実として父母の愛を成熟させる実体なのです。

 子供は父母の無形的な愛を確認させる実体として、父母をして夫婦の愛を促進成熟させる連結体なのです。父母は夫婦間の無限なる愛を、子供を通して一層固めるようになります。このような愛の力学関係は一層拡大され、個人的愛、家庭的、氏族的愛だけでなく、民族、国家、世界、宇宙的愛に拡散され、ひいては本質的神様の愛まで連結されるようになるものであることを知らなければなりません。(237)

 横的な愛、すなわち夫婦が愛し合うようになって、互いが徐々に近づけば、そこに力が縦的に動くようになります。それゆえ、夫婦が完全に純潔に愛を築くようになれば、そこには必ず神様が臨在されるようになるというのです。

 すなわち、夫婦が横的に愛し合うようになったとき、そこに縦的に現れるその接点で、神様の愛は九十度の角度として現れるようになります。そして神様の愛の相対側からは、息子・娘がまた一つの愛として現れるのです。

 ですから「私」という存在は、父母の愛の同参者だというのです。「私」とは誰でしょうか。純情を抱き、互いに愛し合う父母の愛の同参者だというのです。なぜ同参したのでしょうか。縦的な宇宙の愛の本体たる神様の愛に同参するために……。そこから生命が生まれるのです。(238)

 神様において、一番の栄光のときは、肉(体)を使うことのできるときです。その次には、愛することのできる人(夫婦)をもつときであり、その次には、孫を愛することのできるときです。息子・娘より孫を愛することのできるときが、一層栄光の時だと見ます。

 ところで、神様がアダムをつくって、どんなによかったかということを、どのように教えてあげたでしょうか。「やあ! 私はお前をつくって、こんなによかった」と教えてあげなければなりませんでした。それは、息子・娘を生むことによって教えてあげることができます。分かりますか。わが孝進も、今は父母の愛がどうだということを知りませんが、後に家庭を築いて赤ん坊ができるようになれば、父母の愛がどのようなものかを知るようになるのです。私たちの父母が私を育てるとき愛したなと、知るようになっています。それゆえ、子女が相対を得る日が栄光の日であり、その次には、その息子が子女を得る日が栄光の日です。(239)

 創造の偉業をおいて見るとき、完成がどこから始まるでしょうか。アダムからではなく、彼の息子・娘から成されるという話が成立します。アダムを中心とした四位基台の完成を見てはじめて、一つのみ旨、創造目的完成の起源が成されるのです。(240)

 創造理想は神様の愛によって生まれた息子・娘が蘇生、長成、完成の基準圏を通過するのが原則です。神様の愛によって息子・娘が成長過程を経、結婚して生まれる赤ん坊によって完成時代が初めて開かれるようになっていたのです。(241)

 子女がなぜ必要でしょうか。神様の愛を知らなければなりません。父母の愛を知り、父母に侍ろうとしなければならず、夫の愛を知り、夫に侍ろうとしなければなりません。子供の愛を知り、子供に侍ろうとしなければなりません。子供に命令だけするのではなく、侍ってみようともしなければなりません。敬おうともしなければなりません。そうしてこそ、神様の愛が理解できます。子供がいなくては、未完成状態です。神様の愛を知ることができません。神様が人間を、子供をどれほど愛したか分かりません。また、夫になってみなくては妻が分からず、妻になってみなくては夫が分かりません。子供も、父母になるときまでは、父母の愛がどのようなものかが分かりません。だから、息子・娘がいなければ、真なる夫婦となれません。(242)

 皆さんは子供を生まなくてもいいですか。子供がいなければ、自分は滅亡します。何も残りません。子供は父母の分身であり、継承者です。それゆえ、結婚して子供をもとうとするのです。(243)

 父母が子供の結婚を願うのは、子供たちに父母の愛をすべて相続させてあげたいし、伝授してあげたいからです。父母は死んでも、後孫にその実体を残しておきます。ですから、後孫が必要なのです。

 愛は永遠に続くのです。愛は人間の最高の願望なので、万民が両手を挙げ、相続しようとします。その愛を残しておくことによって、霊界でも堂々と神様の前に出ていくことができます。そのような愛を完遂できる所が家庭です。家庭を通して天国に行くということは、すなわち愛の一体圏が成されるということです。(244)

 人間は原理原則に従っていかなければなりません。春になれば種を蒔き、夏になれば生い茂り、秋になれば実を結び、冬になれば全部整理して、新しい生命の根源を自分の内心に備えなければなりません。そうしてこそ、再び春を迎えるようになれば、またこれが植えられ得る種になるのです。これは何の話かといえば、これから皆さんは父母となり、皆さんのような息子・娘を生まなければならないというのです。分かりますか。皆さんの息子・娘を、皆さんのように育てなければならないのです。(245)

 皆さん、息子・娘がいなければ寂しいでしょう。それはサークルラインを形成できないからです。鳥たちがひなにえさを食べさせてあげるのを見たとき、この上ない愛を知るようになります。同様に、人間は息子・娘を生み育ててみてはじめて、愛を体恤して確認するようになります。西洋人たちは知りませんが、東洋では大人より子供たちを好みます。大人たちに向かっては礼儀正しく敬いますが、息子・娘たちには愛を惜しみません。息子・娘を生み育てることによって、父母が子供をどれほど愛したのかを悟るようになります。(246)

 人間は誰でも、結婚をした後に子女を生み育ててみなければなりません。そうしてこそ、子供の愛と父母の愛をもつことができます。しかし、西洋の人々はそうではないようです。息子・娘を生み育てることを忌避しています。息子・娘が離婚の妨害になるという考えゆえに、自分の子供をもつことをはばかっています。

 しかし、人間は生まれて四位基台を成せなければ、神様が人間を愛する心情を知ることができないので、天国に行けないということを知らなければなりません。(247)

 アメリカ人にも、息子・娘が必要でないという人が相当に多いようです。息子・娘を生み育てながら、深い愛を知ってこそ、夫婦の愛も深まり、離婚しなくなるでしょうに、息子・娘がいないために、夫婦が真実な愛より偽りの愛に生きるようになり、それで離婚を反復しているのです。このようなサークルがあるので、アメリカ社会が倫理的に滅亡の道に駆け登っているのです。(248)

 イエス様は「私を新郎であり、あなたがたは新婦である」と言われました。それでは、新郎新婦は何をしようというのでしょうか。何をするかといえば、嫁ぎ娶るのです。結婚しようというのです。それでは、結婚して何をしようというのでしょうか。家庭を築こうというのです。家庭を築いて子供を生もうというのです。息子・娘を生めなければ、その家庭は、家庭の数にも入りません。息子・娘を生んでおいてこそ、家庭がしっかり築かれるのです。花嫁が憎くて、事のついでに離婚したくとも、息子さえ生んでおけばその新郎も仕方がないというのです。どうすることもできずに、一緒に暮らすしかないのです。ですから、家庭を築く場合には、子供がいなければならないのです。(249)

 先生は、ベリータウンで産児制限に関する話をしたことがあります。皆さんは産児制限に対してどのように考えますか。もし、ヤコブの時代に産児制限があったとするなら、ヨセフは現れなかったことでしょう。また、神様が人間たちの中に、テレビジョンを通じて神様を見ることができるように研究できる人を準備しておいたのに、産児制限をすることによって不可能になったなら、霊界や人類の前に申し開きができないでしょう。(250)

 天の息子・娘は、サタン世界のその誰よりも幸福に暮らし、サタン世界のその誰よりも息子・娘をたくさん生まなければなりません。皆さんはたぶん十二人は普通に生むでしょう。ひっきりなしに生めというのです。統一教会員たちは産児制限できません。十名以上は生まなければなりません。私がみんな稼いで食べさせます。(251)

 誰かが結婚して子供をもとうとするとき、娘を先に生むのがいいでしょうか、息子を先に生むのがいいでしょうか。ここにおられる皆さんは一度答えてごらんなさい。最初に息子を生むのがいいですか、娘を生むのがいいですか。「息子がいいです」。息子がいいというのは、またどうして学びましたか。誰に学ばなくても、よく知っています。どろぼうの気質をもった男性たちには聞いてみることもありません。(笑い)最初に息子を生めば、話もせず、よだれを流しながら喜びます。最初に息子を生んだ人に、無理押ししておごらせても差し支えないというのです。このようなことがらを見れば、わが韓国の風習はいいのです。このように男性でも女性でも、どうせ生むなら、最初に息子を生むことを願います。(252)

 男性や女性は、愛でもって四位基台を築かなければなりません。四位基台を築くためには、いい夫と妻となって、息子・娘をつくらなければなりません。いい息子・娘とは、宇宙の好む男性と女性が、宇宙の好む愛を中心とした力に連結されて生まれる息子・娘です。

 統一教会の男性や女性は、そのような息子・娘を生まなければなりません。それは神様が望むことですが、先生が望んでいる欲念でもあります。自然を愛し、人間を愛し、神様を愛する息子・娘たちが生まれることを待ち望んでいるのです。そのような息子・娘たちは、愛を中心としてどこにでも行けなければなりません。(253)

 皆さんは従順と愛の心を備え、愛を求めてここに来たのです。出会った夫が不具だとしても、神様とご父母様が決定したのです。生涯をすべて捧げて死ぬにしても、愛の津液(生物体内から染み出る液)である一つの実を残してから逝こうという望みの中で息子・娘を生まなければなりません。そのような息子・娘が生まれましたか。(254)

 すべての問題が漠然としてはなりません。皆さんの夫をどれほど愛してみましたか。わが夫は世界を代表した夫だと思わなければなりません。この原則に立脚して皆さんが息子・娘を生む日には、その子供たちも偉大になります。統一教会のお父さんとお母さんはむちゃくちゃですが、このような原則によって生まれるその息子・娘は素晴らしいのです。それゆえ、子供たちを見て、父母の信仰を測定することができます。統一教会には道運があります。(255)

 私たちの子女は、私たちがみ旨のためにどのくらい忠誠を尽くすかによって、いい子女が生まれるのです。(256)

 夫婦の間に子供ができるのも、心情的な一致点と生理的な一致点を兼ねた位置で生まれれば最高です。(257)

 息子・娘が生まれるとき、知識が豊かな人はその父母の知識が血統的根本となって、父母の知識のひさごを被って生まれますか。そうですか。それとも、自分のお母さんとお父さんの骨格に似て生まれますか。どのようなものに似て生まれますか。いくら父母が無知だとしても、先祖が善なら、善なる息子・娘が生まれるのです。しかし、いくら知識があっても、悪辣で心がゆがんだ悪い人には、悪い子供が生まれるのです。(258)

 祝福家庭の中で、誰の息子・娘が立派に生まれるでしょうか。伝統的原理に一致し、崇高な愛を求めて国境を出入りしながら、犠牲的に真なる愛の因縁を残そうという夫婦には、天の国の知恵をもち、大王の権威を引き継ぐことのできる子供が生まれるのです。貧しい暮らしゆえに、赤ん坊をおくるみに包んだけれども、天下の大富豪となって経済権を統治することのできる子供として生まれ得るのです。権勢でいえば、世界を治めることのできる大統領が生まれ得るのです。(259)

 もし女性たちが「私がそうできないから、結婚して先生以上に仕事のできる息子・娘でも生まなければならない。神様の日を記念する私としては、そのような息子・娘を生まなければならない。どんなことでもする女性になろう」という信念をもてば、そのような息子・娘を生むことができます。(260)


6、祝福子女の価値


 統一教会で祝福を受けて生んだ息子・娘は、父母より優れています。(261)

 カインがアベルを殺すことによって、歴史が逆さまになったので、人類はサタンの子供となったのです(ヨハネ八・四四)。僕の子供となったのです。彼らは、本来は王子王女でしたが、僕の子供となったので、神様の心はどれほどふさがったでしょうか。だから、メシヤとなったイエス様が、本然のアダムと同じ立場で、神様と霊肉が一つとなり、愛を中心として一体となることのできる発光体のような使命者として来るので、その方が来る日には、サタン世界の男性や女性が全部引っ張られるのです。説明は必要ありません。だから、歴史は蕩減歴史です。(262)

 皆さんは蕩減路程を経なくては、神様の前に出られません。しかし、祝福された息子・娘は、条件なくして出ていくことができるのです。質が違います。堕落した後孫たちであるため、皆さんは堕落した世界の根を中心として生まれて、接ぎ木してもらって結実した実です。すべての根は、サタン世界にそのままあるというのです。しかし、皆さんの息子・娘たちは、神様を中心とした新しい実なのです。神様が根であり、真の父母が根となって現れたその息子・娘を抱くことは、マリヤがメシヤを抱いたよりも高貴だということを知らなければなりません。皆さんが生んだ息子・娘は、神様が四千年間準備して送ったイエス様よりも勝るのです。イエス様のお父さんとお母さんがいるとすれば、祝福を受けて懐妊したでしょうか。皆さんの子女たちは、真の父母を通して祝福を受けて生まれたのです。(263)

 これから生まれる祝福の子女たちは、神様の息子・娘として天運に乗って生まれるので、皆さんよりいい息子・娘たちが生まれます。皆さんより運に富んで生まれるので、幼いといってぞんざいな言葉を使ってはなりません。(264)

 統一教会の子女たちは、天地の運勢に乗って生まれます。(265)

 祝福家庭の幼児たちは、父母たる皆さんよりももっと輝くことのできる貴い存在です。ですから、絶対むち打ってはいけません。夫婦げんかをしても、幼児たちの前では笑顔で対しなさい。(266)


7、家庭天国


 天国の起点は個人ではなく、国家でもありません。家庭なのです。それゆえ、イエス様は新郎新婦の因縁を尋ね、この地に来られるのです。個人が天国の起点ですか。家庭が天国の起点だというのです。(267)

 家庭は天国完成の基本単位です。天国は一度行けば帰りたくないし、十遍、百遍会っても、また会いたいその方がおられる所です。万民が共通にそこに行きたがり、その方に会いたがり、その方と共に暮らしたがるなら、世界は統一されるでしょう。そこに向かって歩んでいるのが統一教会です。しかし、それは一度に成されるのではありません。まず個人の基台が立ち、その次に家庭の基台が立ち、その次に民族、国家、世界に伸びていかなければならないのです。(268)

 皆さんの家庭は、天の国の主権を代身した立場であることを知らなければなりません。父母は主権を代身するものであり、子女は国民を代身するものであり、物質はその国の地を代身するものであるため、父母に孝を尽くすことが国に忠を尽くすことであり、父母に孝を尽くすことが聖人の道理を果たす道と通じるのです。今、家庭があらゆる醜態に満ちたものの起源となっていますが、神様は家庭が聖なる土台となることを望んでおられます。ですから、堕落圏内にいる腐敗した家庭を収拾すべき使命が私たちにあるのです。この地の家庭は破綻していますが、その家庭を否定することのできない立場にあるのを知らなければなりません。(269)

 人間たちは、必ず家庭をもたなければなりません。家庭を中心として見れば、家庭には父母がおり、子供がおり、物質があります。それでは、旧約時代、新約時代、成約時代においての縦的な歴史全体を、横的に展開させて代身することのできる実体とは何でしょうか。万物と子女と父母です。すなわち、父母と子供と彼らの所有物です。これらは家庭の一つの囲いの中で必要なものです。(270)

 夫婦の中で、男性はどのようにしなければならないでしょうか。男性は教会と関係をもたなければなりません。また、女性は物質と関係をもたなければなりません。これは環境的にはそのようになっていますが、家庭的にはどうなるでしょうか。お父さんとお母さん、息子・娘、この三人が一つとならなければなりません。ここから家庭天国が始まるのです。ですから、人を中心とした天国を成すためには、四位基台を築かなければなりません。(271)

 神様の愛を中心として二人が一つとなる所でのみ、夫婦天国は成されます。一つとなったものを、その誰も引き離すことができないし、別れたり離れる心配がありません。

 皆さんはどのような愛を求めましたか。神様の愛を求めたなら、皆さんの心と体が完全に一つとなって、神様の愛が臨むことができなければなりません。だから、夫婦天国が生まれ、家庭天国を成さなければなりません。お母さんとお父さんが完全に一つとなって愛し合うようになり、その息子・娘もお母さんとお父さんのような対象を得てこそ、家庭天国が実現されるのです。父母がプラスとなり、息子・娘がマイナスとなれば、家庭天国となるのです。(272)

 昔、先生が統一教会を始めるときと同様に、友達が皆さんの家に来れば、「やあ、わが家より、ここがもっといい。麦飯を食べてもいいし、おかゆを食べてもわが家のご飯よりもうまい。もう一晩だけ泊まらせてくれ」と言い得る家庭をつくるのです。訪ねてくる人、訪ねてくる友達ごとに、自分の家を捨ててその家に来たがる家庭となってこそ、その家庭が天国家庭となるのです。(273)

 私が今、教会をつくらないのは、すべて考えがあってのことです。教会にたくさんの人が必要なのではないからです。天国は教会から成されるのではなく、家庭から始まるのです。家庭、すなわち新郎新婦から始まるというのです。女性は男性に巡り会うために生まれ、男性は女性に巡り会うために生まれました。赤ん坊が眠りから覚め、初めて目を開けながら呼ぶのが、「お母さん」です。赤ん坊がお母さんを呼ぶ以上に、夫は妻を呼ばなければなりません。

 このように呼んでみなかった人は、かわいそうな人です。また、妻も夫以上にそう呼ばなければなりません。分かりますか。互いがそうできる夫婦として対さなければならないというのです。琴瑟之楽(=夫婦仲がとてもよいこと)の夫婦として、互いにそのように呼び合いながら暮らさなければならないのです。そのように千年万年暮らせば、老いても青春がうらやましくないというのです。将来、祝福家庭の夫婦が八十歳の老人になれば、先生が世界一周をさせてあげることでしょう。(274)

 これからは、わが統一教会で礼拝を捧げるのも、説教形式ではなく、報告形式でしなければなりません。報告の内容は、その家庭が誇ることのできるものでなければなりません。ですから、家庭全体が来て、礼拝を捧げなければならないのです。そうしながら、立派な家庭を見ては倣い、劣った家庭を見たならば、うまくいくように導いてあげなければならないのです。そうして、家庭天国を建設しようというのです。家庭天国を先に成せなければ、地上天国は成されないということを、はっきり知らなければなりません。(275)

 天国は家庭を中心として成されます。家庭の食口として守るべき誇りを忘れてはなりません。(276)

 天国生活はどこから始まるでしょうか。家庭からです。ほかの所から始まるものではありません。天国は家庭を立体的に拡大させただけであり、家庭圏を外れたものではないというのです。それゆえ、皆さんが自分の妻や夫を抱くときに、これは世界の男性と女性が一つとなるのだという考えをもたなければなりません。このように世界人類を愛したという条件を立てることのできる場が、まさにこの家庭です。(277)

 み言の時代を経て、実体の時代を経た後に初めて相逢の一日が成されるのです。そして、相逢の一日が成された後に初めて、天国生活をすることができるのです。相逢の一日には、彼の心が「私」の心であり、彼の心情が「私」の心情であり、彼の姿が「私」の姿であり、彼の困難が「私」の困難であり、彼の傷が「私」の傷として感じられ得る境地にまで入らなければなりません。そのような境地に入って、彼の心も「私」の心であり、彼の心情も「私」の心情となってこそ、天国家庭が成されるのです。これがこの地で完結されてこそ、天国家庭が生まれるのです。(278)

 今、先生は家庭に対する規範、天国家庭としてもつべき生活に対する規範を教えてあげなければならないと感じています。ところで、復帰の路程を歩むべき人々は、原理を中心として教えてくれる人がいるので、その人々を通して教えを受けなければなりません。先生が直接そのような問題に責任を負う時代は過ぎ去りました。一家庭、一家庭を中心として、再び収拾しなければなりません。わが統一教会の組織は、家庭組織です。家庭を主とするのです。個人を主としてきたのを、家庭を主にするというのです。(279)

 天国はどこにあるでしょうか。空中からどさっと落ちてくるのではなく、お父さんとお母さん、そして子供の間に授け受ける、その生活的な舞台を育て、またその中にあるすべての被造物を私たちの生活に利用し、私たちの理想の条件に利用する面白み、その面白みを百パーセント享受することのできる所が天国です。(280)

 神様の創造理想世界はどのような世界ですか。真の父母圏を通して、地上天国と天上天国が成された世界です。天国は愛の基盤を通してのみ成されます。堕落した世界には、真の父母の愛を受けてみた人が誰もなく、現れた痕跡もありません。霊界も同様です。真の父母の愛を受けて逝った者がいないからです。

 神様を中心とした創造本然の家庭的基台には、男性の愛、女性の愛、息子の愛、娘の愛、父母の愛、神様の愛がすべて入っています。このような調和された立場で父母を愛し、夫を愛し、息子・娘を愛すれば、誰でも天国生活をするのです。(281)

 私たちの家庭と天国は、雛型のようなものです。私たちの家には父母がおり、夫婦がおり、子女がおり、兄弟がいます。私たちの家は愛で一つにすることができます。ここでは統一が成され、生命が連結され、理想を実現させることができます。だから皆さんは、夫婦の愛を尊重することができ、父母の愛を尊重することができてこそ、天国に行くことのできる資格者となり得ます。祖父母は父母の前に愛を相続させてあげ、父母は夫婦の前に愛を相続させてあげ、夫婦は子供の前に愛を相続させてあげています。ここでどの愛を否定しても天国は成されません。自分たち夫婦同士が愛し合う以上にお母さんとお父さんを愛し、自分のお母さんとお父さんを愛する以上におじいさんとおばあさんを愛さなければならないという結論です。これがすべての天国の核心となり、理想的モットーとなるというのです。(282)

 今日、世界が統一教会を恐れるのは、原理より、祝福家庭がいるからであることを知らなければなりません。祝福家庭は三代の愛を連結させるところです。神様の愛を中心として、メシヤと祝福家庭が愛で一つとなるのです。地から見れば、メシヤと祝福家庭、そしてその子女の三代が愛で連結されるのです。次に、祝福家庭と子女、そして孫の三代が愛で連結されるのです。このように三代に連結することのできる所が統一教会です。

 統一教会の原理でいえば、四位基台は三代愛の圏をいうのです。三代が一つの家で暮らしながら、愛で和睦して幸福であるとき、天地創造の理想が実現されるのです。夫婦が愛し合わなければならないのはもちろんですが、子女たちに愛で祈祷してあげ、精誠を尽くした心で世話をしてこそ、家庭が和睦し、幸福となるのです。これが縦的に成り、横的に連結されるときに完全な愛となります。いとことまたいとこまで愛で一つとなってはじめて、愛の原型となり、完全になります。

 統一教会では、天国は氏族圏内から成されると見るのです。おじいさんを中心として、父母と兄弟が一つとなり、いとことまたいとこまで一つに連結されるとき、完全な三代が成り立ちます。このような氏族圏の愛が地に立てられ、神様と一つになるなら、すべての世界は神様と一致する愛の世界となり、天国となるのです。女性が嫁いでも同様です。夫のおじいさんやおばあさんは、神様の代身の立場であり、夫の代身の立場なので、愛で侍らなければなりません。また、夫の弟や夫の姉妹とも愛で和睦しなければなりません。このような愛の関係が社会に拡大され、民族と国家、世界に拡大されるなら、この世界は罪悪と戦争の代わりに平和と愛で満ちるでしょう。ですから、その世界がまさに、神様の理想が実現された一つの天国であり、理想世界です。(283)

 家庭天国は男性と女性が完全に一つとなってこそ成され、個人天国は体と心が完全に一つとなってこそ成されます。家庭天国は神様のみ旨を中心として、夫婦が一つとならなければならず、子女と一つとならなければなりません。そのみ旨の目的は、万民のために生きるのです。そして、そのみ旨の中心は誰でしょうか。神様です。だから、神様を中心として万民のために生きる所で、家庭天国が連結されるのです。

 神様だけのために生きなければならないのではなく、神様を中心として万民のために生きなければなりません。神様はそのような家庭を探そうとするのです。世界が復帰されるときまで、そのような家庭を探し立てなければ、万民を救うことができず、万国を救うことができず、すべての家庭を救うことができないので、そのような家庭をつくるために祝福家庭を立てたのを、皆さんは知らなければなりません。

 神様は家庭の中心となる方であり、この世界は神様の国です。祝福家庭は、神様の国を連結させることのできる家庭となり得るように、努力する生活をしなければなりません。神様を代身して為に生きる生活をする所から、氏族が生まれ、民族が生まれ、国家が形成され、世界が形成されます。だから、家庭は神様を中心とした世界を形成する責任を果たさなければなりません。

 氏族と民族と国家と世界に、どれほど影響を及ぼしたかということが、神様の祝福を受けることのできる基準となります。そのような内的な価値、内的な実績の差異によって、祝福の内容が変わるということを、はっきり知らなければなりません。

 先生を中心とした統一教会は、一つの氏族と同じであり、一つの民族と同じなのです。五色人種が合わさって単一民族を形成し、誰よりも世界のために生きることのできる国家を形成することが統一教会の目的です。それが、先生がしようとする目的であり、神様が先生を通して成そうとなさる目的です。(284)


8、天国に入る秘訣


 天国とは何でしょうか。極楽または天堂に行くと言いますが、自分一人で行く所ではありません。自分の父母と兄弟が一緒に行かなければならない所が天国です。(285)

 天国に行く秘訣は何でしょうか。天国は個人だけが入るのではありません。家庭的に入らなければなりません。家庭的に入らなければならないだけではなく、血族を率いて入らなければなりません。この地で神様の前に多くの血族をもったということは、福を受けることです。ある家庭に息子・娘が多く、財物が豊かなら、福を受けた家庭だというでしょう? このように福を受け、天国に入ろうとすれば、個人が一人で行くのではなく、家庭的に入らなければなりません。(286)

 天の国には絶対個人的には入れません。先生が探ってみると、天国は今までキリスト教徒たちが信じてきた、そのような妄想的な所ではありませんでした。本来、天国は家庭単位で行くようになっている所です。家庭が行くようになっているのです。お父さんとお母さんと息子・娘が共に行って、神様を中心として共に暮らすことのできる所が、理想的な世界なのです。ところで、お父さんは地獄に行き、お母さんは天国に行き、姉は地獄に行き、弟妹は天国に行く、そのようになれば、自分が天国に行ったとして、うれしいでしょうか。天国は家庭として行くのです。家庭が行くのです。(287)

 天国とは、人間が堕落せずにこの地上で神様の愛の懐において聖婚をして、神様が好まれる息子・娘、神様が喜び得る孫たちを迎え、神様の愛を受けてその家庭がみんな一緒に入る所です。子供が入ることができなくても、自分だけ入れば天国ですか。しかし、楽園はいくらむつまじい夫婦や父母、子供でも、別れて入る所です。家庭とは何ら関係がありません。そのような所が天堂ですか。父母に侍り、全家族すべてが入り、神様を中心として授け受けることのできるその世界が天国です。息子が地獄で死ぬと騒いでいるのに、父母は天国で満足に生きればいいのですか。そのような所が天国ですか。(288)

 統一教会でいう天国は、一人で入る天国ではなく、家族が一緒に入る天国です。神様の創造理想を見るとき、男性と女性が別れて入る所が天国でしょうか。違います。二人で入る所が天国です。お父さんが入ればお母さんも入り、父母が入れば子供も共に行く所が天国だというのです。天国にお父さんとお母さんが一緒に行ってこそ(天国)であり、お父さんは天国に行くのにお母さんが地獄に行けば、天国になるでしょうか。このような立場から、わが統一教会は歴史的な宗教です。(289)

 本来神様は、夫が天国に入り、妻が地獄に入るように創造なさったのではありませんでした。創造当時の理想の主人公たち、すなわち、お父さんとお母さんと息子と娘が、氏族を成し、民族を成し、国を成そうというものでした。それでこそ、いいのではないでしょうか。ところが、人間が堕落したために地獄が生じたのです。(290)

 天国はどのような所でしょうか。男女が一緒に家庭を築いて入る所です。ところで、イエス様はこの地に来られ、新婦を探すことができず、息子・娘をもうけることができずに亡くなられたので、今まで楽園で二千年間祈祷なさりながら、聖霊をして役事させてこられたのです。

 罪は女性が先につくったので、女性神である聖霊が来てお母さんの実体として現れ、罪を清め、この地をきれいにしてこそ、イエス様は再び新郎として、新しい種をもち、再臨することができるのです。再充電して新しい天地の真の父母の血族として、神様を中心とした新しい世界をつくろうというのが神様の目的です。このような世界が成されてこそ、神様の計画がみ意のままに、すべて成されたということができるのです。目的もなしに六千年間摂理してこられた神様ならば、そのような神様は信じる必要もないのです。(291)

 四位基台は地上天国と天上天国の礎石です。天国は一人では立てられないのです。ゆえに、イエス様も一人ではだめなので、聖霊が降りて来なければなりません。(292)

 家庭から天国を成さなければなりませんが、イエス様も家庭を築けなかったので、天国に行けず楽園におられるのです。楽園は天国に行くための待合室のような所です。地獄は人間が堕落したため、生じたのです。最初から神様がおつくりになったのではありません。(293)

 一人では天国に行けません。絶対に一人では天国に行けません。アダムとエバが二人で堕落して地獄の門を開けたので、一人では天国に行けません。だからイエス様も天国に行けず、楽園に行っています。イエス様も新婦に出会ってはじめて、天国に行くようになっているのです。今日、キリスト教徒はこのようなことを知ることもできずに、全部イエス様に従っていくといいます。そうなれば、彼らは行って、再び来なければなりません。家庭を築き、家庭的な復帰の基準を立てなければ、天国に入れないというのです。だから、統一教会で祝福をしてあげるのです。分かりますか。(294)

 本来、創造原則による天国は、家庭を中心として入る所です。父母が入り、子供が入り、自分の一家全体、一族が入ってこそ、幸福なのであり、父母は地獄に行き、子供だけ天国に行けば、それが何の天国でしょうか。

 ですから、統一教会がこれから天国に行くことのできる道をつくるにおいて、家庭的な基準を立てなければなりません。そうでなくては、天国に行けません。家庭を中心として、サタンが讒訴できる基準から脱しなければなりません。歴史的な讒訴基準、時代的な讒訴基準から脱しなければなりません。(295)

 天国は一人で行けません。祝福は天国の門をぴょんと越えるのです。天国は家庭的に入る所です。三代の因縁をもって入る所です。ヤコブの七十家族も、三代が合わさったものです。そのようにしてエジプトに入ったのです。(296)

 天命を受け、この怨讐の世界で見本たる家庭となってほしいのが、お父様の願いであると考えるとき、天国に行くためには、家庭を通さなくてはならないということを知らなければなりません。(297)

 天国復帰は誰がするのでしょうか。み旨のためには、十字架に向かっても感謝することができ、絶対夫婦、絶対信仰、絶対実践、絶対心情を主張することのできる夫婦から、初めて天国の門が開かれるのです。(298)

 皆さんは、天国がどのような所だと思いますか。天国は一言で言って、完成した人が入って暮らす所だと言うことができます。天国は真なる愛を備えた完成した人が入る所であるなら、その真の愛を備えた人とは、どのような人でしょうか。

 人間は男性と女性で成り立っています。神様の理想的愛の完成が、地上でどのように成り立ち得るかをみるとき、男性と女性を離れては成り立ち得ないという結論に至るようになります。完成した愛の主体性を備えた男性と女性でなくては、神様の愛が完成されません。(299)

 天国には独居する人は絶対に行けません。独居する人には、天国は絶望の風景です。寂寞の風景には希望がありますが、絶望の風景は希望もない状態ではないでしょうか。(300)

 祝福を受けた人々は、横的な愛の基盤を立てるために、神様が必要とされるので、横的な姿勢よりも縦的な神様を重要視しなければなりません。縦的な愛を中心とした愛を成してこそ天国に入れます。最近の霊的な証を例に挙げましょう。

 ※朴普煕総裁が説明:劉孝元前協会長が、霊媒者のある女性に現れて言ったそうです。

 「私は地上にいるとき、先生の一番弟子として長い間協会長をし、み言を受け、原理講論を執筆して、世界的経典となるようにしたので、霊界で最も高い位置を占めるようになるだろうと思いました。ところが、先生が霊界の三位基台を編成しましたが、李起錫、劉孝元、朴鐘九の順でした。私は失望して不平を吐きました。先生は、『ここは愛の世界なので、知性の競争ではなく、愛の競争がある所だ。李起錫が愛をより多く所有したのだ。だから、三位基台の一番兄さんは李起錫になったのだ』と説明をしてくださって、理解するようになりました。私はまだ天国に入れていません。今、向かっているところです。今までは、知性的な面に偏って仕事をしましたが、地上にいる妻と共に、懸命に心情的に仕事をします。現在、天国には興進様がおられます。その方も、祝福を受ける前は天国に入れませんでしたが、四位基台を立ててはじめて、お入りになったのです。霊界は愛の世界です。(301)

 天国に行く人は、どのような人でしょうか。神様よりも自分の息子を愛する人は天国に行けないのであり、自分の妻や自分自身を神様よりも愛しては、天国に行けないのです。(302)

 皆さんは、夫婦の愛と父母の愛を尊重することができてこそ、天国に行ける資格者となります。夫婦同士が愛し合う以上にお母さんとお父さんを愛し、自分のお母さんとお父さんを愛する以上におばあさんとおじいさんを愛さなければなりません。これが天国の核心であり、理想的モットーとなります。(303)

 皆さんの心の中に、皆さんの生活の中に神様の愛が流れ、ぽとぽと落ちなければなりません。愛がぽとぽとと落ちれば望みがありますが、愛が干からびるようになるなら、皆さんとその家庭が滅びるしかないということを知らなければなりません。愛が干からびた人は、愛の国の国籍から除名されるという事実を知らなければなりません。愛の伝統世界から除外されるしかない運命に処すということを、はっきり知らなければなりません。(304)

 皆さんが知るべきことは、地上で天国の愛を体験できなければ、天上天国に行けないということです。カイン的な人を心から愛してみたことがありますか。天国に行こうとすれば、サタン世界での父母の愛、夫婦の愛以上に愛さなければなりません。もし、堕落世界で父母が子女のために死んだとすれば、私たちはそれをより超越して愛さなければならないのです。(305)

 「私」一人では天国に行けません。それゆえ、一人の男性は一人の女性と一つとならなければなりません。そのためには、一人のアベルは必ずカインとともに一つとならなければなりません。このように人は相対的環境を必要とするのです。夫婦を迎える前に、兄弟同士が相対的基準をもたなくては、復帰され得ないというのが統一思想なのです。(306)

 人間の堕落とは何でしょうか。堕落した子女とは何でしょうか。すなわち、彼らは神様を彼らのお父さんとして、とことん感じることができません。彼らは心の中に神様という概念をもっていないのです。皆さんは次のような体験と悟りがなければなりません。すなわち、「私は生まれ変わって新しい生命を得、真の父母によって新しい生活を営んでいる神様の息子・娘だ」という事実を実感しなければなりません。

 第二に、「私は神様の国の資格ある市民」だということを実感しなければなりません。第三に、皆さんが国と世界を見るときに、神様の慈悲を感じなければならず、「神様がこの世界を遺産として下さったので、神様の子女としてこの世を所有する権利がある」と考えなければなりません。

 このような覚醒と実感が、一九七七年度の私たちにおいて最も重要な課題なのです。第一に神様の直系子女であり、第二に天国市民、第三にこの世界が神様の下さった遺産だということを悟らなければなりません。神様はこのようなすべてのものを、神様の子女たちに祝福として下さったのです。このような実感をもった一個人は完成に向かっているのであり、この人こそ天国家庭の一員、あるいは中心となる資格と権利を賦与されるでしょう。(307)

 神様が喜ばれ、この地に定着してはじめて、被造物も安息の土台が生まれるのであり、神様が定着できずには、被造物の安息の土台が生まれないのです。家庭で父母の心が安らかでなくては、父母を中心として幸福な家庭を築けないのと同様に、天宙の大主宰としておられる神様ご自身が、その心と体に自ら幸福を歌うことができ、自由な環境の中で自己主張できる権限が備わっていなくては、この世界に新しい秩序が成り立ち得ないのです。(308)

 今日、皆さんがいくら個人天国を成したとしても、それを家庭に適用できなければ、個人が安息できる安定した位置を決定することができないのです。また、いくら家庭天国を成したとしても、氏族的な環境の基盤を勝利的に立てておかなくては、安定した家庭天国の基盤を築くことができないのです。また、氏族が安定した位置を得るためには、民族を中心とした基盤を決定しなければならず、民族が安息できる基盤を立てるためには、国家を中心とした基盤を立てなければならず、国家が安息できる位置を得るためには、世界を中心とした基盤を造成しなければなりません。皆さんはこのように発展していく過程にあるのです。(309)

 父なる神様と言うとき、神様は父母です。本来、堕落しなかったなら、アダムとエバが父母であると同時に、国の王となるのです。天国の王となるのであり、宇宙の王となるのです。だから、(父母を)愛する孝子、(国を)愛する忠臣は天国に行けるというのです。夫を神様のように、主や王のように侍り、真なる愛をもって生きる人は、天国に行けるのです。父母を愛し、その国と世界を愛さなくては天国に行けないという論理が、ここから成り立つのです。

 また、家庭は国の中に入り、国は世界、世界は宇宙の中に入るので、家庭や世界を捨てるとしても、神様のために愛したとすれば、すべて愛したという立場に立つというのです。

 だから、統一教会の皆さんは、世界のために生き、神様のために生きなさい。皆さんが先生を好きなぐらい世界を愛し、人類を愛するなら、天国に行くことができるというのです。(310)

 家庭に縛りつけられて生きている人、今までの形式や習慣から逃れられない人は、天国に行けないというのです。そのような立場にいる人には、自分の心にある爆発的な革命を起こし得る天的な贈り物が必要です。その天的な贈り物、心に爆発的な革命を起こすことができ、刺激することのできる所はどこでしょうか。統一教会です。統一教会にその動機と源泉があるというのです。それは千人、万人が全部違わず同じです。(311)

 先生は、統一教会員たちに、地上に天国を成さなければならないと言いますが、その天国はそのまま自然に成されるのではありません。地上天国を成そうとすれば、氏族の長孫とならなければなりませんが、その長孫になろうとすれば、本家に嫁ぐか娶るかして、その家で名分を立てなくては長孫になれないのです。(312)













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第三節 祝福家庭の生活

祝福家庭と理想天国

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第三節 祝福家庭の生活


1、手本となるべき祝福家庭


 イエス様が慕った家庭を築かなければなりません。言い換えれば、エデンの園でアダムとエバが堕落することによって神様が去ったその家庭を、本然の家庭に復帰しなければなりません。神様はエデンの園にアダムとエバをつくって喜ばれながら、彼らが蘇生、長成、完成の成長過程を経て、神様の直接主管圏内で家庭を築くことを待ち焦がれておられました。

 しかし、アダムとエバはそのような家庭を築けなかったので、皆さんがそのような家庭を築いて、神様に「神様が望まれるこのような家庭を築きました」と言えなければなりません。(313)

 皆さんは家庭の手本とならなければなりません。六千年間神様が探してこられた家庭の道です。イエス様を中心として願う基準を探し立てることができず、二千年間開拓してきた恨みがこびりついた受難の道がなければならなかった原因も、神様が探してこられた家庭を立てることができなかったからだということを知らなければなりません。ですから、祝福家庭はこのとてつもない復帰の基準となるのであり、天地の運命を解怨成就することのできる祭壇だということを皆さんが知って、祝福家庭の神聖さを讃揚しなければならないのです。

 天を代身した男性であり、地を代身した女性として、過去、現在、未来の歴史がここでひっくり返って回っていくのです。勝敗を決定し、永遠なる勝利の基盤を神様に謙遜に捧げ奉ることのできる、真なる家庭の父母とならなければなりません。(314)

 一つの家庭の夫と妻は、神様と同行できなければなりません。また、先生に従わなければならないのです。深い深い場を暴いて、千年万年生きたいと言えなければなりません。「神様、私たちがここで楽しく暮らしていますから、共にいてください」と言える家庭とならなければなりません。誰よりも家庭がそうならなければならないというのです。分かりますか。神様を中心とした土台を築きなさい。(315)

 先生は今まで凄涼な一生を経てきましたが、感謝すべきことが行けば行くほど多くなることを知っています。それはどこから生じるのでしょうか。家庭から生じるのです。だから、先生が皆さんに相続させてあげるものが何かといえば、家庭的勝利圏です。それを相続できる家庭はどのような家庭でしょうか。世界を代表する家庭、メシヤ的使命を担う家庭です。

 皆さんの家庭は世界を代表する家庭として、すべてのものを抱き上げることができ、切り回すことができなければなりません。そして、世界万民を往来させることのできる中心家庭とならなければなりません。五色人種がその家庭に深く入っていこうとし、その家庭と関係を結びたくなるようにしなければなりません。

 そのような中心家庭となれば、万人がその家庭を通すようになるでしょう。天国も、真なる中心家庭、核心家庭がなければ成り立たないというのです。(316)

 もし皆さんが結婚して暮らす間、ひどく貧しく困難であるとしても、この世で最も悲惨な生活をするとしても、落胆してはなりません。惨めな生活をしていても、自分の家庭が歴史路程にあった数多くの家庭を救うことのできる、救い主の家庭となることができるということを知らなければならないのです。ですから、困難な立場でいかに不幸せに暮らすとしても、それを嘆息してはならないのです。その立場はこの世のすべての人々を蕩減復帰させるために、また霊界にいる霊人たちやこれから来る後代の後孫たちのために代身して道標となり、行くべき道を開いてあげる主体者となる立場だと思うことです。そのような救い主の立場に立つために、「私」が今生きていると思わなければならないのです。(317)

 家庭には、家庭としての願いがあります。家庭の願いが何であるかというとき、私たちの家庭だけは、すべての家庭の手本となれたならと願います。また、これを発展させて一つの氏族となれば、その氏族がすべての氏族の中で最上になることを願うでしょう。このように、より大きな願いを仰ぎながら拡大されたのが一つの国です。(318)

 皆さんは公的生活においての模範を示さなければなりません。言い換えれば、教会生活に徹底しなければならず、公式活動にも徹底しなければなりません。この二つが問題となるのです。

 皆さんは、町内なら町内のある班に所属して暮らすでしょう。そこで皆さんが生活するにおいて、その班全体をみ旨の前に吸収するためにどれほど努力するかということが、子女教育にこの上なく大きい影響を及ぼすというのです。み旨の中心として生きた後の生活的な差異、すなわち町内でどれほど模範的な生活をし、対人関係においてどれほど模範的な関係を結んだかということが、子女たちの批判の対象とならざるをえないのです。ですから、公的な生活を強固にしなければなりません。

 その次には、皆さんの私的生活です。夫婦が家庭でみ旨の生活をするとき、祝福を受ける前と祝福を受けた後で異なることが何かありますか。夫は夫なりに腹芸を使い、妻は妻なりに腹を立ててがみがみ言うのが昔よりひどいなら、子女たちの手本にならないというのです。昔とは異ならなければなりません。格段に変わらなければなりません。変わって、子女たちに尊敬され得る与件をどのようにしてつくるかということが重要な問題です。ですから、私的生活においても模範とならなければなりません。(319)

 公的な欲心はどこでも通じます。しかし、自分自身を中心とした欲心を出してはいけません。国を生かすために「私」がこのようにしなければならないと言わなければならず、「私」が生きるために国で何かするというときに、だめなのです。国が自分の思いどおりに動いてくれますか。そんなふうであるなら、神様までも自分の思いどおりに動いてくれたならと、願うようになるでしょう。それは、すべて「私」を中心とした考えです。ですから、皆さんはいつでも公的な生活をしなければなりません。お金を稼ぐときでも、活動のときでも、行動するすべてが、国を生かし世界を生かすためのものとならなければならず、「私」がお金を稼ぎ何かをしようという考えをもってはなりません。(320)


2、祝福家庭の家庭生活


 家庭宣誓

 天宙の中心たる我らの家庭は、上下を連ねる兄弟姉妹として、新しき天の前に真の父母の血肉として、天が命令された伝統と家法を遵守し、責任的活動において自分の位置を失わず、勝利者の栄光を備えることを、真の父母様の前に宣誓致します。宣誓致します。宣誓致します。(321)

 人間は本来、今宣誓した内容(家庭宣誓文)の因縁をもって生まれたので、この宣誓の内で生きて死ななければなりません。何の呵責もなしにこの宣誓文を読めなければならないのです。(322)

 今まで私たちはむやみに生き、言葉もむやみに使ってきました。しかし、今から、私たちの家庭にも規律を立てなければなりません。父母が腹が立つといって、自分勝手に棒を取ってたたいて、子女に「こいつ、滅びてしまえ」と言うような、この世的な野卑な言葉を使ってはなりません。今、すべてが一新されなければなりません。神様を中心として、言葉から、態度から、生活から、一新された立場に立たなければならないのです。(323)

 祝福は、一個人の一代だけでは何の価値もありません。一人の男性と一人の女性が暮らすことにすぎません。それでは、一個人として家庭的な祝福を受けることは、どのような摂理的な内容があるのでしょうか。祝福家庭は自分の本心によって生活しさえすればいいのではなく、神様を中心として四位基台を成さなければならないのです。なぜなら、サタンを中心として堕落した人類の歴史であるため、神様を中心として復帰しなければならないのです。堕落した人間には、これが不可避なことがらです。(324)

 本家が栄えようとするなら、先祖から伝わってきた家法や礼法をしっかりと受け入れて実践しなければなりません。そうでなく、「そんなこと何、なるようになれ、それが私と何の関係があるか」という人は、本家の子孫になれません。もし、そのような人が本家の長孫として生まれたとしても、本家の長孫にはなれないのです。(325)

 私たちは神様から受けた純粋な血統を、どのようにして保有するかが問題です。堕落し得る血統ではなく、純粋な血統をいかにして保存するかというのです。そのために、心から気を配らなければなりません。

 汚染されていないエデンの園にいてさえ堕落したのに、この罪悪世界で清くなるということは、とても困難な問題であらざるを得ません。ここにいろいろ問題があります。罪悪世界で生まれた父母は苦労をしても、今から祝福を受けて生まれる子供たちには汚染されていない環境をつくってあげなければなりません。私たちが犠牲になるとしても、二世たちのためにそのような環境を早く準備してあげなければならないというのが先生の考えです。急がなければなりません。(326)

 罪の世界から解放されようとすれば、アメリカ国民でもアメリカ国民だという観念をもたないようにしなければなりません。韓国国民でも自分が韓国国民だという観念をもたないようにしなければなりません。アメリカまたは韓国の国民だと考える前に「私は神様の人だ。天の民だ。天の人だ」という観念をもたなければなりません。

 世界が使っている言語や、着ている服、履物、女性が使っている化粧品、このような風習や習慣の中に染み込んだ罪の根性を、いつかは無慈悲に切ることのできる短刀を研ぐ生活をしなければなりません。これが罪の世界から解放され得る生活です。この世の歴史、習慣、環境の悪習に勝利しなくては、罪の世界を主管する道がありません。

 真なる人になりたく、真なる国を見いだしたく、天国に行くことを願うなら、このような環境的なすべての悪条件から解放されなければなりません。(327)

 習慣的で世俗的な家庭であってはなりません。「今はこうだが、後日にはよくなるだろう」と考えてはなりません。すでに完全でなければなりません。現在が問題となります。過去と現在が完全であってこそ、未来も完全であり得ます。

 エデンの園でも、このような一日をもてなかったのが堕落の証左です。過去、現在、未来が一致し得る立場が理想的な立場です。

 現在を捧げ奉ることができなければなりません。地上の永遠なる足場となり得るか、これが神様の願いです。これが歴史的な総合点です。(328)

 皆さんが真の神の日に精誠を尽くした、その精誠の基準で一年を生き抜くなら、毎日の生活に影響を及ぼすはずです。また、こんなふうに精誠を尽くし、家庭の伝統として導いていけば、皆さんの息子・娘は絶対に滅びません。(329)

 イスラエル民族がカナン復帰を果たした後に滅亡したのは、彼らが既存の環境に習慣化されたからです。彼らはより豊かに生き、よく食べ、ぜいたくな生活をすることにのみ心を使ったので滅亡したのです。異邦人といえど、お金持ちの家なら結婚をしました。また、権力をむさぼり、知識を好みました。彼らは結局、既存のカナン文化に同化し、選民の精神を売り飛ばしたので滅亡したのです。(330)

 習慣化されてはなりません。習慣は一番病み付きの悪い癖です。皆さんが結婚後、子供たちを育てながら習慣的な生活をするようになれば、それが体に凝結してしまいます。そのような環境の中では、特別な精誠や祈祷をする時間がないのです。子供たちがそばで騒ぎ立てるので、祈祷できる時間がないというのです。(331)

 祝福家庭は、全体を左右するという使命を感じなければなりません。家庭には夫婦と子女がいます。習慣性のある家庭になってはなりません。家庭が四位基台を成すことのできる起点です。ここには夫婦の一体化が要求されます。神様が望む本来の基準の前に一致しなければなりません。(332)

 家庭的な基盤を立てるにおいて、夫に妻が心を合わせてあげれば福を受けるのであり、妻に夫が心を合わせてあげれば福を受けるのであり、子女が一つとなれば福を受けるのです。今は、家庭救援時代なのです。(333)

 家庭を復帰しなければなりません。これ以上の伝道はありません。夫婦が明け方に起きて、子女の手をつかみ、涙を流しながら祈祷しなければなりません。そうすることによって、お父さんやお母さんがどこかに行っていないとき、子供たちが父母を待ちながら、恋しがり歌うことができなければなりません。(334)

 これからは短刀を持って、切るべきものは切り、解剖すべきものは解剖しなければなりません。皆さんの思いどおりにしてはならないのです。統一教会は天国を成すべき教会なので、個人ではなく家庭を見いださなければならないのです。分かりますか。これからは、わが協会本部で家庭部が一番重要な部署となるでしょう。家庭生活で手本となれない人は、世界的なつまはじきを受けるでしょう。全天宙的なつまはじきを受けるでしょう。(335)

 祝福とは、責任を果たしてこそ貴いのです。男性はこぶしを振るったり、女性は悪口を言ったりしてはなりません。この世的な悪口を言ってはなりません。何かが異ならなければなりません。すなわち、家庭は小教会です。天の代行機関として働かなければなりません。天が訪ねていきたい家庭とならなければなりません。最小限、三家庭は一つの生活をしなければなりません。特別にきょうを機会に語ってあげたいことは、第一にたくさんの人々が往来できる家庭とならなければなりません。人の和が最も重要です。そして二番目は、天の家庭同士団結しなければなりません。最小限、三位基台たる家庭同士だけでも、完全に一つとならなければなりません。(336)

 私たちは個人を主とするのではなく、家庭を主とします。そうだといって、家庭だけを中心としてすべてのことを清算するのではなく、全部連結しなければなりません。それゆえ、昔一人で生活をしたときの努力だけではいけません。昔、努力したことの何倍も努力しようという決意と覚悟を添付させなければなりません。

 悪に対して挑戦していく生活は、ともすれば疲れ、後退しやすいのです。家庭をもったときは、一人のときより何倍も努力しなければなりません。

 家庭は中心をつかむ場です。私たちは現実を避けることができません。前後、左右、上下の関係を家庭で築かなければなりません。

 過去の信仰形態をもってしてはなりません。過去の一方的な信仰態度をもってしてもなりません。(337)

 一人でいるときには、祈祷すればすべてのことが成就しました。しかし家庭では、反対する人がいれば、その十字架を負い、本然の基準まで貫かなければなりません。

 一人は客車と同じであり、家庭は機関車と同じです。個人が失敗したことを復帰するのは簡単です。しかし、家庭的に失敗すれば破綻します。(338)

 家庭は重要です。一人が失敗すれば補充もできません。処女と童貞が出会って、互いに愛し合うようになれば、大抵、理想も何もみんな忘れてしまうようになります。私たちには、家庭がすべてのことの出発です。互いに自分だけ主張して争えば、国が滅び、天と地が滅びます。私たちにおいて、気管のようなものが家庭です。(339)

 個人の信仰は、いい指導者にさえ出会えればそれで済みます。しかし家庭では、相互いに指導者とならなければなりません。

 家庭の誰のために、何のために生きるかが問題です。(340)

 子供たちが「うちの父さん好き! うちの母さん好き!」と、お父さんとお母さんを、そんなに好きで自慢する、それが子供たちの安息の場です(341)

 家庭を中心として、お父さんが「ツー」と言えば、息子も「カー」と言える基盤が必要です。しかし、子供がいたとしても、国がなければ何になるでしょうか。国がなければ一等であろうと何であろうと、何にもならないのです。(342)

 昔、忠臣の家庭では、いいものが手に入ればまず王の前に捧げました。これが韓国の忠臣たちの生活法です。

 そのような観点から見るとき、韓国の礼法は、どのような国にもない天国の中心内容だというのです。分かりますか。儒教では孔子の教えに従いますが、その孔子の教えを中心とした礼法を見ると、天法に近いものが多いです。

 将来、皆さんの後孫たちが、皆さんに対して祭事を執り行うようにしなければなりません。今までは、生活規範や商売をする手続きなどは、わが原理を中心として定められてはいませんでしたが、将来その礼法が現れるようになれば、そのときからはいいかげんにしてはなりません。今から皆さんは、どんな内容でも神様が共にいてくださるという心を中心として、自分の環境を克服し、根を深く打ち込んで、どのような風霜にあっても育ち得る生命力を備えなければなりません。そうなれば、神様が法を定めることも問題にはなりません。しかし、それがそうならなければ、問題だというのです。(343)

 今までの私たちの先祖たちを、先祖として対してはなりません。アダム以後、来ては逝った数多くの先祖たちの中にはいい先祖もいたでしょうが、彼らも神様を不信したので、先祖として取り扱わないようにしようというのです。先祖扱いしないようにしましょう。

 それでは、私たちの先祖は誰ですか。堕落した先祖たちは、一つになれなくなってしまいました。しかし、その中でずば抜けて特出した選民の先祖たちがいました。神様の仕事を担った後孫たちの系列に立っている方たちを尊敬しようと聖書に現れたアダム、ノア、アブラハム、モーセ、イエスのような先祖たちをつかんできたのです。ですから、そのような先祖たちを中心として、私たちが彼らと一つになろうというのです。彼らが呼んだお父様、彼らが侍ったお父様、彼らが敬ったお父様を、私たちのお父様として侍りましょう。(344)


3、祝福家庭の夫婦生活


 祝福家庭は、今までの生活観念から抜け出さなければなりません。本来、神様が理想とされた一双の夫婦は、神様に栄光を帰し奉らなければなりませんが、堕落によって栄光の代わりに悲しみを返しました。ここには、アダムとエバの責任だけではなく、天使長の不忠もあります。天使が先に神様に忠孝の道理を立てなければならないのに、その道理を果たさず堕落したのです。したがって、復帰摂理は、忠孝烈を立てるものです。

 ところで、私たちがいくら忠孝烈を尽くすといっても、本来の基準に到達することはできません。怨讐が介在した立場での忠孝烈だからです。私たちは忠孝烈を慣習的に語り、考えやすいですが、本然の忠孝烈はそうではありません。それゆえ、一つの中心が必要です。

 神様が忠孝烈の心情の中心を立ててこられたので、すべての宗教と道も、これを立ててくるようになっています。すべての道人たちは、これを探し立てるために現れたのであり、イエス様も忠孝烈を立てるために家庭を探してこられたのです。神様がイスラエル民族を立てられたのは、このような家庭を探すためであられました。イエス様がまず忠孝烈の道を立てなければならず、忠孝烈を立てるための祭司長になってはじめて、サタンを屈服させることができました。

 本来、子女が成熟すれば、神様の理念と実体を代身しなければなりません。

 祝福家庭は忠孝烈を立てるにおいて、誰にも負けてはなりません。忠も孝も烈も、家庭から始まらなければなりません。祝福はお父様の望みを相続するものです。今まで神様に対する忠孝はありましたが、烈の家庭はありませんでした。真の神の日が来る前には烈を立てることができず、サタンの讒訴が残っているかぎり、烈は立てられません。(345)

 ここに集まった男性たちは、自分の妻を愛するにおいて、この世のどのような男性が自分の妻を愛するよりも愛さなければなりません。女性たちも自分の夫を愛するにおいて、この世のどのような女性が夫を愛するよりも愛さなければなりません。それが祝福家庭を成した夫婦が守るべき倫理なのです。(346)

 統一教会で祝福を受けた夫婦たちは、縦的な愛を中心として横的な愛を成してはじめて天国に入ります。(347)

 皆さんが妻や夫に対して、天と地を代表した、万民を代表した人としてその人を愛することができるなら、その家庭は今日、祝福家庭を代表することができるのを知らなければなりません。(348)

 「わが家庭はわが家庭のためのものではない」というのが、統一教会の主流思想です。女性たちが夫についていくのが妻の行くべき道のように考えますが、それは統一教会では通じません。自分の家庭のためにだけ生きる夫を後に置いてでも、国のために生きる道があるなら、家庭を残しておき、家を出て国を求めるのが烈女の道です。(349)

 家庭の伝統を立てなさい。夫婦のうちどちらか一人がまず神様の前に立てば、その人を中心としてついていきなさい。

 家庭の中でどのような家庭が模範家庭でしょうか。家庭が使命を果たせなければ、家庭全体が引っかかります。そして、霊界にいる先祖も協助できなくなります。

 家庭が、イエス様と聖霊の実体としての伝統を立ててこそ、民族、国家、世界の伝統が立てられるのです。

 み旨の中に立った夫婦のうち、どちらか一人が先に死んだとしても、悲しがってはなりません。(350)

 統一教会で祝福を受けた夫婦は、自分の妻、あるいは夫が先に死んだとしても嘆いてはなりません。自分勝手に再婚してもいけません。そのように自分勝手にしては、霊界で引っかかるのです。必ず天の前に報告し、天が指導するとおりに行かなければならないのです。ところが、今日見てみれば、そのようにしない人々がいます。その結果はどのようになるでしょうか。これは地上では現れません。けれども、霊界に行ってみなさい。間違いなくそのような人は、サタンよりも悪なる立場に立つのです。(351)

 各自の過去を先生は知っているので、尋ねるなら教えてあげます。新郎新婦は過去を尋ねますか。でなければ、過去を全部きれいにして不問に付しますか。(全員不問に付すと手を挙げる)先生が皆さんの過去を忘れることにしたので、皆さんも忘れなければなりません。(352)

 きょう、家庭をもった男性は、先生と完全に一つとならなければなりません。ここには罪の観念がないのです。完全に一つとなって、先生の分身として、主体的な立場で出発しなければなりません。このときに対象である夫人は、主体と一つになって、彼の前に絶対的に順応しなければなりません。(353)

 結婚した皆さんはもうすぐ家庭をもつはずですが、夫は公的生活、すなわち奉仕の生活をし、妻は家庭の生活を担当しなければなりません。代表的家庭、模範的な家庭になりますか。ムーニー(moonies)は反射体であり、サニー(sunnies)は発光体であり、キンギー(kingies)は包括体です。したがって皆さんは、キンギーすなわち包括的な家庭とならなければなりません。理想というものは、神様を通じ人間を通じて実現されなければならないのです。(354)

 皆さん、負債のある人は栄える道理がありません。家庭において世話になるのが好きな家族がいるなら、それはみんな嫌うのです。為に生きる人は、その両親よりも家族たちのために生きるようになるときには、その父母もすべての権利をその子供に移してあげるのが、人間世界の道理ではないかというのです。皆さん、妻となる人は、夫に負債を負わないようにしなければなりません。夫も同様です。互いに負債を負わせまいとする家庭から、永遠なる平和の世界が来ることを知らなければなりません。(355)

 家庭自体もやはり、二人が行くべきみ旨の道と一致する場です。あなたもその道を行かなければならず、私もその道を行かなければなりません。行くまいとしても行かざるを得ず、別れようとしても別れられないその道です。それはいくら遠回りしようとしても、ほかに道がないのです。この道を行かなければならないのです。(356)

 皆さんが農村で働くべきときにも、一人で出ていって働くようにはなっていません。夫婦が共にその日の仕事を神様の前に報告し、出ていって仕事を始め、終えて帰ってきても神様の前に報告してからご飯を食べるようになっています。そのようなことをすべて規範化させる、神様を基準とした生活がどれほど厳格であるかということを知らなければなりません。

 女性にも女性として守るべき家庭生活の規範があり、男性にも男性として守るべき家庭生活の規範があるのです。このようなとてつもない天的な規範を体系化させ、生活するのが皆さんの行くべき路程であるにもかかわらず、その路程を行けなくなれば、とんでもないというのです。(357)

 家庭のために与え、国のために与え、世界のために与えなさい。これが三対象原則です。

 歩くにも、男性は右足を先に踏み出し、女性は左足をまず踏み出さなければならないのです。どこかに行って座るにも、男性は東側に座り、女性は西側に座るのが原則です。おぜんを置くこと、服を掛けることなど、すべてのことに方式があるのです。(358)

 男性は女性を上から見下ろし、女性は男性を下から少しずつ見上げなければなりません。女性は水が流れてくる方を見上げるのではなく、流れていく方を見下ろさなければなりません。水が流れる方に向かって見上げる女性は、浮気をするタイプです。

 元来、男性が座る席を女性がつくってあげなければなりません。洋服だんすを使うときも、男性が右側なら女性は左側のものを使わなければならず、男性が上なら女性は下を使うべきです。例えば、男性のチョゴリ(上着)の上に、女性のスカートや下着を置いてはならないのです。男性の服の上に女性の服を載せてはなりません。(359)

 責任者の妻は、夫が門を出るとき、絶対がみがみ言ってはなりません。妻ががみがみ言うことによって、夫の心を曇らせる波が、世界を曇らせるのです。がみがみ言うのは夕方にしなさい。そうすれば、すべての問題が夜の間に解決するでしょう。男性は朝、闘いにいくのです。そのような夫のために、妻は朝早く起きてよくサービスをしなければなりません。(360)

 夫にたたかれても、感謝の祈祷をしなければなりません。「夫として、妻を一度たたいてみれなくて、いいでしょうか。ありがとうございます」と。(361)

 おしろいを塗り、香水を振ってでも、女性はいつも美しくしなければなりません。女性は情緒生活で負債を負ってはなりません。また夫の体や衣服などについて、いつも関心をもたなければなりません。夫が家に帰ってきたとき疲れて見えれば、洗面の水も汲んであげ、歯磨きする準備もしてあげ、足も洗ってあげ、髪もといてあげなさい。

 女性の笑いは家の中の花です。円満な家庭を築こうとするなら、女性は悲喜劇の一番の俳優にならなければなりません。夫が喜ぶときにも完全に溶かしておき、悲しいときにも完全に溶かしておかなければなりません。(362)

 服は少なくとも三日に一度は着替えなければなりません。髪もそのようにしょっちゅう洗わなければなりません。そして、いつもほほ笑みなさい。ほほ笑みは心の花です。いつも花を咲かせ、香りを漂わせなさい。

 頭のスタイルや化粧で相対をテストしようとしなければなりません。自分の顔やスタイルで相手の心を喜ばせられないなら、趣味でそれを代身しなければなりません。音楽だとかすべての芸術を総動員してみなさい。雑誌のようなものを見て、女性の生理について説明してあげてもいいし、文学書籍を読んでそれを説明してあげてもいいのです。夫が子供のようにスカートに包まれて生きるようにしてあげなさい。(363)

 夫婦はどうせ出会ったのだから、両手をつかんで死のうが生きようが、共に行かなければなりません。どうせ行くからには、格好よく行きましょう。(364)

 結婚した後において、皆さんは勝手に行動することはできません。結婚以後、どこに行かなければならないでしょうか。神様の愛を担わなければなりません。人間が男性、女性に生まれたのは愛ゆえです。愛は夫婦となって一つとなることにより、実を結ぶことができます。

 皆さんは神様の愛が二性性相によって分立した実体なので、分立した実体が合成一体化するために、神様の愛を尋ねていかなければなりません。

 神様の愛に出合おうとするなら、男性と女性が愛で一つとならなければなりません。男性と女性が一つにならなくては、神様の愛に出合うことはできません。神様の愛に出合うことによって、私たちは神様の同位圏にとどまるようになるのです。同位圏とは、神様の横に立つことのできる位置をいいます。(365)

 夫婦が完全に神様の愛を中心として一つとなるようになれば、皆さんは神様の位置まで出ていけるということを知らなければなりません。神様の位置に上がっていけるだけでなく、神様がもっているすべてのものが自分の所有圏内に入ってくるようになるというのです。愛の力はこのように驚くべきものです。神様が皆さんに同参的権威を許諾すると同時に、皆さんは神様がもっておられる全体の所有権限を伝授されるようになるのです。(366)

 互いがみ旨を忘却し、自分たち同士だけで愛し合いながら生きたなら、天の前に恥ずかしさを感じなければなりません。これが祝福家庭の夫婦生活なのです。み旨の前において自分たち同士が因縁を結んだのに、自分たちだけの幸福を求めて家庭を切り回していく立場に立てば、発展できないのです。絶対に発展できないというのです。したがって、家庭にいいことがあれば、それは国とともに、世界とともに、天とともに関係を結ばなければならないのです。その家庭の喜びは、国の誇りであり、世界の誇りであり、天の誇りでなければならないのです。(367)

 今日、祝福家庭が赤ん坊を抱いて愛そうとするなら、その息子・娘たちが何ゆえに生まれたかということを銘記しなければなりません。神様ゆえに生まれたということを知らなければなりません。神様という因縁を通して生まれました。夫が貴く妻が貴くて秘密裏に何の話をしようと、その相対は自分たち同士で出会った相対ではありません。公的な天道を前において出会った人です。神様を介在させておいて出会った人です。そのような自分たちが悲惨になれば悲惨になるほど、神様が悲惨になることを私たちは知らなければなりません。(368)


4、祝福家庭のみ旨にかなう生活


 家庭を築く夫婦は、自分たちが全体のみ旨のためになり、神様のみ旨を成就させる一員であることを知らなければなりません。もし祝福を受けた家庭が、これから神様のみ旨のために生きる生活をせず、自分の家庭の利益と安楽さを求めるなら、その息子・娘たちが悲惨になるということを知らなければなりません。(369)

 皆さんがみ旨を前において行く場合に、自分の欲を張っていけば、前に行くのでなく逆に行くということを知らなければなりません。そのような事実が多かったのです。そこには自分の欲を介入させることができないのです。もし祝福を受けてから、互いに自分の利益のために欲を張って生きる夫婦がいるなら、その夫婦はアダムとエバが堕落した姿を、もう一度再現することになります。堕落とは、欲心から始まったのです。自分の主体性だけをもって、そこに屈服するのを望む、そのような立場で祝福が成り立ったなら、その祝福は正当なものではないというのです。(370)

 きょう皆さんは、この山頂まで何のために来ましたか。み言を聞いて、皆さんが偉くなろうという考えで来たのなら、滅びなければなりません。しかし、み言を聞いて自分の隣近所や国と世界、あるいは天のみ旨の前にプラスになるために来たのなら、よく来たと思いましょう。先生を見にきたのなら、ありがたいけれど、それは流れていってしまいます。だから、皆さんのすべての仕事は、天の利益のためにしようという基準が立たなければなりません。(371)

 夫婦が神様の理念を引き継ぎ、徹頭徹尾心情的な一体の基準を立てれば、未来の後孫たちが永遠に讃揚するでしょう。その讃揚の基準は、一民族や国家圏にだけとどまるのではなく、世界万民が追求できる心情の土台として準備されなければなりません。そのために、私たちの家庭はどのような困難な環境でも克服できるという信念をもち、出発する家庭とならなければなりません。(372)

 皆さんはどのような道を歩んできましたか。息子・娘、三、四名のために東奔西走しながら生きてきたのなら、その人は霊界に行って神様に出会うことができないでしょう。神様は人間を失うことによって、すべての被造世界を失ってしまったということを知らなければなりません。ですから、今日私たちは、息子・娘を生んで暮らしますが、私たちの精神は神様を愛し、神様のみ旨を成すために生きなければならないのです。私たちの父母が神様のみ旨を成すために迫害を受け死んだというとき、その息子・娘は、その父母の一生に対して栄光に思うでしょう。(373)

 皆さんは「ああ! 難しいのに……」と言いますが、先生はあらゆる所で暮らしてみました。自分が悲惨な場に行けば行くほど、天がともにあるということを知らなければなりません。あるときは、目をぱっと開けると天で光が輝いています。天がともにあれば、そのような現象も起こるというのです。その全景がどれほど美しいでしょうか。この世には美男美女も多いですが、そのようなものは比ではありません。夢の国で見られるものとして、その美しさが百パーセント表現され得る所が、私たちの望む理想世界、すなわち天国です。もしこの朴貢緒(四三〇家庭・劇団「家族」代表)のような人々がそのような現象を見れば、感激してとても大きく口を開け、息を吸い込んでおき、それを吐こうとはしないでしょう。そうなるというのです。(374)

 神様のために、黙々と自分のもっているすべてのものを犠牲にするときは、神様が「私」を擁護します。神様は必ず「私」の味方となります。(375)

 皆さんの家庭は、愛の家庭とならなければなりません。そして、皆さんは愛を中心とした公的な夫婦となり、父母とならなければなりません。自分たちを中心とした私的な夫婦や父母になってはなりません。

 アメリカの家庭は、大部分公的な夫婦でもなく、公的な父母でもなく、公的な息子・娘でもありません。公的な愛の道を行くのではなく、私的な愛の道を行っています。だから、夫婦も互いに自分を中心として愛し合っており、父母たちもそうであり、子女たちもそうです。このように愛すれば愛するほど、国を滅ぼし、世界を滅ぼすのです。

 世界を愛し、世界のために犠牲となって世界の中心となれば、そのときには自動的に個体的な愛で愛し合えるようになるのです。その次には、神様が愛されるようになっています。(376)

 大きな人物だという人は、自分の家の中だけを切り回した人ではなく、自分の国だけを切り回した人でもなく、世界のために生きて切り回した人です。それよりももっと大きい人はどのような人物でしょうか。この世界の生活を切り回すことよりも、絶対者である神様がいるなら、その神様の生活までも切り回そうという人でしょう。

 このように見るとき、聖人という人は、人の生活を中心として夢を見たのでなく、神様の生活を中心として夢を見た人々です。結局聖人たちは、宗教の宗主であるイエス、孔子、釈迦牟尼、マホメットのような人々で、人間の生活よりももっと次元の高い理想的な生活の本体となる、天があるということを知ったため、その理想を慕ってきた人々です。(377)

 皆さんはみ旨の中で召され、祝福を受けました。それは大いなる神様の愛のゆえであって、皆さん自らが探し出したのではありません。皆さんは無条件の神様の愛によって、代価を払わずに生命を得たのです。そのような事実をおいて見るとき、皆さんすべては、神様に心情の負債を負っているのです。神様は負った心情の負債を返せとはおっしゃいませんが、私たちが天のお父様の子女だと自任するなら、その方の事情とみ旨に同参するのが子女たる道理なのです。父母と子供の間に利害関係は介入し得ません。ただ、愛のみが存在するだけです。父母に負債を返すために働くのではなく、父母の仕事がすなわち子女の仕事なので同参するのです。(378)

 祝福を受けて家庭をもつようになった私たちが、どれほど天のお父様の事業に同参したかを反省してみなければなりません。祝福家庭が、お父様の仕事は自分とは関係ないというなら、誰がお父様の仕事を相続しなければならないでしょうか。

 皆さんが統一教会に入教し、先生に出会うことによって天のお父様を見いだすようになったのなら、感謝しようとしなければならないでしょう。み旨から見るとき、祝福は簡単に成されることがらではありません。何かの記念行事や例年の行事のように成ることではありません。祝福の価値が分かるなら、お父様の事情と心情も相続できなければなりません。(379)

 偉大なお父さんの息子として生まれた者に責任があるなら、それはお父さんのすべてのものを継承することです。

 人が立っている中心点は同じでも、その範囲が家庭的なのか、あるいは氏族、民族、国家、世界的なのかという差異点があります。中心点は、先生が立っている所と皆さんが立っている所が同じです。二つはあり得ないということを、はっきり知らなければなりません。先生が世界的な使命をもっているとするなら、皆さんは個人的な使命、または家庭、氏族、民族、国家的使命をもっているでしょうし、努力によって自由にその範囲を拡大することができるでしょう。(380)

 祝福を受けるとどうなるでしょうか。皆さんが行くべき世界は、先生が行くべき世界です。お父さんが行くべき国は、子供が行くべき国でしょう? 同様に、お父さんが享受すべき栄光は、子供が享受すべき栄光です。

 それなら皆さんは、今まで先生が何をしているのか、どれほど研究してみましたか。「成和誌」が来るのを待って、先生にどんなことが起こり、先生の家庭にどんなことが起こったかを知りたいと、徹夜をして読んでみたことがありますか。「成和誌」が来れば何ページ読みますか。つまらないサタン世界の因縁のある本ばかり読み、つまらないものもろの研究は全部したかもしれませんが、果たして先生についてはどれほど研究したかというのです。自信がないでしょう。(381)

 私たちはみ旨のために生きたのか、でなければみ旨によって生きたのかを知らなければなりません。祝福を受けた人々と受けていない人々をおいて、どのようになるか見守る人々がいます。神様は赤ん坊が「お父ちゃん」と呼ぶとき、その声を一人の赤ん坊の声として聞くのでなく、すべての赤ん坊の声として聞くのです。

 神様は試練を経た後に恵みを与えられます。先生は頭が白くなったのを見るたびに、この年齢に至るまで、この程度の仕事しかできなかったことを悲しく思います。お父様が十遍涙を流せば、私たちは一遍でも涙を流さなければならないでしょう……。お父様に出会う場で流す血と汗と涙は、歴史的に流してきた血と汗と涙とは違うのです。国を探し求めてきたお父様にその国で出会い、抱きしめて涙を流しましょう。(382)

 昔、み旨を知らなかったときの、そのような夫婦となってはなりません。恵みを受けることができ、神様から相続を受け得る道においては、自分の財産をすべて消耗させてでも、それ以上の価値があるので行かなければならないと考えて出ていかなければなりません。財産を一方に隠しておいては、立ちどころに罰を受けます。それは祭物を盗むのと同じです。分かりますか。祭物を盗んだ泥棒は罰を受けるのです。これが一番恐ろしいのです。犯罪だというのです。(383)

 皆さんの家庭は、皆さんの家庭のためだけではなく、三千万民衆のための家庭とならなければなりません。また、皆さんの体は皆さん自身の体ではなく、三千万民衆を代表して燔祭として上がるべき体なのです。それゆえ、この道を行くためには、まず物質に対することを神様に任せなければなりません。先生もそうでした。(384)

 「私」が持っているすべてのものは、「私」のものでなく神様のものであり、宇宙のものです。宇宙圏内にある万物は復活すべき万物であり、自分が育てる息子は、自分の息子でなく神様の息子であり、宇宙の息子として育てなければなりません。夫婦というものは、自分一人に局限された夫婦ではありません。天と地を代表した夫婦だということを知らなければなりません。(385)

 自分の家庭のためだけに心を砕かないで、国のために心を砕こうというのです。先生が皆さんに人格的に接して過ごすので、皆さんは先生を統一教会の先生としてだけ理解していますが、統一教会だけの先生ではありません。それだけではないというのです。これからの十年を見てみなさい。(386)

 祝福家庭は貴いものです。しかし祝福家庭は、エデンの園のアダムとエバのような立場で出発しなければなりません。アダムとエバのように服もなく出発しなければなりません。しかし皆さんには、服はあります。エデンの園でアダムとエバが服を着ましたか。ただいちじくで覆っただけです。家もありませんでした。そのようなことを考えれば、今の祝福家庭が困難だとはいえません。わが祝福家庭に家がないですか、服がないですか。(387)

 生涯路程で祝福を受けて幸福の鼻歌を歌うことより、億千万年の青史の前に勝利を誓うことができ、その幸福を誇ることのできる後孫を残すことが福となるのです。皆さんが今、楽によく食べ、豊かに暮らすために統一教会に来たのなら、ふろしきを包んで出ていきなさい。それでは滅びるのです。必ず滅びるというのです。子供を心配し、妻を案じては、み旨が成されないのです。滅びるというのです。(388)

 皆さんが統一教会に入ったのは、一日に三度の御飯を食べるためですか。一日に三度の御飯を食べるために、一生を苦労して死んでいこうと、み旨の前に来て祝福を受けたのでは決してないはずです。神様の事情を代身して「その国と義を求めよう」という初めの誓いが、うそでなかったのなら、ためらわないようにしなければなりません。未練によってためらっては、塩の柱になるという事実を忘れてはなりません。

 先生は、腹いっぱい御飯を食べるために統一教会をつくって、今日までののしられ迫害を受けながら耐えてきた人だと思いますか。一生を顧みても、一日一食たりとも腹いっぱい食べ、一晩も安らかに寝たことがありません。私が腹いっぱいで気楽な生活におぼれれば、人のひもじさを忘れてしまいそうで、ずっと腹をすかせてきたし、苦労をいとわずに先頭に立ってきたのです。

 自分の腹を満たすために仕事をして死んだ人は、神様の国に入ることができません。先生がもし腹いっぱい食べ、安らかに寝るなら、世界に散らばっているすべての統一教会食口に負債を負った者となってしまうでしょう。そのような生活がまさに罪なのです。(389)

 自分のために生きればどうなりますか。世界を失ってしまうのです。民族も氏族もすべて失ってしまうのです。また、自分のために生きる人が家庭をもつことができますか。公的な家庭ももてないのです。家庭をもてないだけでしょうか。後で自分自身も滅びるのです。完全に滅びるというのです。国もなく、氏族もないので、少しずつ滅びるのです。少しずつ滅びる群れが探し求める所はどこでしょうか。地獄です、地獄。統一教会員の中にも地獄に行く人々がたくさんいます。それゆえ、自分のため生きてはならないというのです。皆さんはこのために祈祷しなければなりません。今は個人のために生きてはなりません。全体のために生きなければなりません。(390)

 食べる物があっても世界のために節約する生活をし、また自分が楽に食べて生きることができても、世界のために遊ばない人であればあるほど、神様の同情と愛を受けることができるのです。

 例を挙げていえば、一人の妻が夫のために苦労をたくさんしたとするならば、その苦労の目的がすべて成され、夫が栄光の位置を占めるようになるとき、妻をまず前に出したい心が生ずるのと同様なのです。

 また一つの家庭で、ある目的を成就するために相互いに協助し出ていって、そのことが成就したとき、その家庭にお父さんがいるなら、自分よりも息子、あるいは娘を讃揚したいし、その讃揚とともに永遠にありたいのです。それがお父さんの心なのです。これと同様に、神様のみ旨を中心としたそのような息子・娘がいるとき、神様が先に立つのでなく、その息子・娘を前に出して讃揚すると同時に、共にいたいのが神様でしょう。(391)

 皆さんの中に「うちの息子・娘の学費をちょっと助けてください」と、先生に助けを要請しようとする人々がいるのを知っています。先生は、皆さんよりも飢饉で倒れ、墓も掘れずに死体を積み上げている第三国を考えています。それゆえ、ネクタイを結ばない主義であり、冬にも肌着を着ない主義です。

 神様を解放し、ご父母様を解放し、私たちの兄弟を解放しておき、自分は死の道を行こうという人は、神様の懐に抱かれるので、死のうとしても死ねないという事実を知らなければなりません。(392)

 皆さんの責任は重大なものです。早くに選ばれ、先生から愛と教育を受けた皆さんが責任を果たさなければ、歴史的に讒訴を免れる道はないでしょう。皆さんの後孫たちから讒訴を受けないようにするには、任せられた責任を果たさなければなりません。皆さんは苦労をいとわず責任を果たすことによって、伝統を立てていかなければなりません。皆さんの業績の前に後孫たちが頭を下げ、歴史をおいて讃揚できる先祖とならなければなりません。(393)

 父母が天に行く道で脱線しないようにありとあらゆる精誠を尽くすなら、子供たちは絶対に不孝をすることができません。(394)


5、祝福家庭の信仰生活


 祝福家庭の中で、聖日に礼拝時間前に来て準備する人が、何人ぐらいいるか考えてごらんなさい。讃美歌を歌い終わり説教する時間ぴったりになれば、そのときに合わせて入ってくるというのです。そのようにする人々を、どうしてみ旨に従う人々だといえますか。そのような人々は、いくら弁明しても公的生活ができず、私的生活をしているというのです。そのような人々には、ある希望をかけ、期待する何の内容もないというのです。それゆえ、皆さんは今度の集会を通して新しくみ旨の前に覚醒し、公的生活の徹底化、私的生活の模範化を決意していかなければなりません。

 ですから、祝福家庭は一人も欠かさず礼拝時間前に来て、礼拝に参席する数多くの生命に恩恵の雰囲気をつくってあげ、恩恵を及ぼしてあげなければなりません。そうして地区長なら地区長、地域長なら地域長が壇に立つ前に、そのような心情的基盤をつくって後押ししてあげるようになれば、教職者が説教をするにおいて、食口たちの懇切なる表情を見渡して刺激を受けることができるのです。そのような要員が多ければ多いほど、その教会は発展するのです。

 そして、教会の公式的な記念日、あるいは何かの集会があるなら、それを生命視して動かなければなりません。そうでない家庭は、祝福家庭として落第となるのです。(395)

 早朝の敬拝、礼拝時間を厳守できずに自分の息子・娘がよくなることを望んではなりません。したがって、先生を中心として四位基台を成さなければなりません。そして、ここから後孫を立てようとすれば、父母がしっかりしなければなりません。(396)

 早朝の敬拝時間だけでも天と直線上で立ちましょう。その時間は、本当に深刻な場です。その時間に一秒だけ遅れても悔い改めなさい。その時間には、聖物としてあめ一粒ずつでも準備して、子供たちに分けてあげなさい。ちょうど聖餐のときするように……。(397)

 聖日は一週間を節約して計画し、わが食口たちが喜ぶことのできる内容を与える日です。また聖日には共に集まって、準備してきた食べ物を分けて食べ、各家庭が互いに自分の夫や妻を誇らなければなりません。(398)

 公式的に礼拝を捧げる聖日になれば、礼拝時間を迎えるために早朝から精誠を尽くして、その日を神様の前に捧げ奉ることを生活化するのを子女たちに教育しなければならないにもかかわらず、自分たちがしたいことはして……。み旨の生活をすると言いながらも、祈祷もせず、精誠も尽くさず、原理の勉強もせず、伝道もせず、何もせずに、聖日の礼拝時間が十時三十分なら十時三十分、その時間に合わせて参席するためには、九時三十分だとか十時に出発してこそ礼拝時間前に到着するはずなのに、時間になってから家を出発し、礼拝中に入ってきてこっそりと座るというのです。このようになれば、必ず批判されるのです。いくら父母の立場で子女を教育したところで、従ってくれないというのです。

 そのためには、父母たちがみ旨の生活において模範とならなければなりません。家庭での祈祷生活だとか、家庭礼拝だとか、どのような面でも既成教会に負けない信仰生活を子女たちに見せなければならないでしょう。また、敬拝の時間がどれだけ重要であるかということを、認識させてあげなければなりません。その時間には敬拝式だけで終わるのでなく、み旨を中心として、父母として子女たちを教育しなければなりません。(399)

 食口はどこに行っても、まず神聖な所、すなわち聖地や教会をまず探すか、そうでなければそのような条件でも立てなければなりません。

 皆さん各自は個人といっても、個人だけにとどまる存在でないということを銘記しなければなりません。また、皆さん各自は先祖の立場に立たなければなりません。(400)

 祝福家庭がソウルに来れば、必ず本部に寄り精誠を尽くさなければなりません。毎日、神様と国家と自分の家庭のために精誠を尽くさなければなりません。世界の食口が毎週日曜日ごとに本部に向かい精誠を尽くしているのに、皆さんはそれに対して報いようとしなければなりません。これができなければ家庭の行く道がふさがります。(401)

 祈祷をしなければなりません。祈祷するにおいて、男性と女性が同じ日、同じ時間にするのではありません。男性と女性の性格が相対的な場合には、共にすればいいですが、相対的でないときには、祈祷時間を異にしなければなりません。祈祷時間を定めるときには、早朝に祈祷してみて、朝にしてみて、昼にしてみて、夕方にしてみて、夜にも十時にするか十二時にするか、いろいろしてみます。そのように長年の間祈祷生活をしてみて、何時から何時まで祈祷するのが自分に一番合う時間かを知らなければなりません。それを知って、自分に合う時間に精誠を尽くすのです。

 そして、できれば恩恵の基準が高い人を中心として、その人が祈祷する時間に他の人々も共に祈祷するのです。そうすれば、その人によって恩恵を受けます。もし夫が自分より恩恵の基準が高く、信仰生活でも模範になるなら、その夫によって恩恵を受けるようになるのです。そのように恩恵を受けるようになれば、夫がこの世にまたとない美男に見えるのです。また、夫が妻を通して恩恵を受けるようになれば、その妻がこの上もなく美人に見えるのです。自分のお母さんよりも懐かしく、自分の姉よりも懐かしい。この世の女性の中で一番だというのです。元来、夫婦はそうでなければなりません。

 だから、目を開けさえすれば眺めたく、夜を明かしながらひそひそと話したくなるというのです。それは滅びることがらではなく、栄えることがらです。(402)

 これから皆さんは、生活の中で祈祷生活を重要視しながら、先生に直接指導を受け得る雰囲気をつくっていかなければなりません。このような霊的雰囲気をどのようにしてつくるかという問題を、夫婦同士、あるいは子女たちを集めて、互いに議論することのできる環境をつくるよう努力しなければなりません。もしそのような因縁をもった人がいるなら、その人を尊重視するのです。息子がそうなら息子を尊重視し、娘がそうなら娘を尊重視してみなさい。信仰を中心として、その人を自分の家の信仰の先祖のように思い、協助していきながら育てるのです。そうすれば、一番精誠を尽くした人にすべて与えるようになっています。

 皆さんはこのような霊的生活の雰囲気を備えて、さっき話した公的生活と私的生活において模範を示し、氏族的なメシヤの責任を果たしていかなければなりません。これは霊的基盤なしにはできないのです。このような基盤をもつためには、体験をしなければなりません。その体験を尊重して、生活に適用し分析し、統計を出して、それがいいのか悪いのか、または発展するのか後退するのかを選んでいかなければならないのです。また対人関係でも霊的に選んでいかなければならないのです。このように皆さんが分析してみるとき、いつもいいことがあるか悪いことがあるかを、霊感ですべて感じるようになるというのです。そのように暮らさなければならないのです。ところで、罪がいっぱいで、サタン圏内に落ちるときにも、それがいいか悪いか分からずにいれば、いつどのように滅びて落ちていくか分かるでしょうか。それゆえ、このようなことを選んでいくためには、精誠を尽くさなければならないのです。(403)

 各家庭は白い座布団をつくりなさい。そして、きれいな場所を準備しなさい。そうして、その座布団に座って精誠を尽くす時間をもつようにしなさい。(404)

 精誠を尽くすときは「絶対信じます」という立場に至らなければなりません。「神様を絶対信じます」、み旨ならみ旨に対して「絶対信じます」という立場に至らなければなりません。そのような立場でだけ神様が協助なさるのです。祈祷しながらも、つまらなく祈祷が成るか成らないか、疑ってはならないというのです。「お父様! 私だけ残りました。私でなければこの国がなくなり、私でなければこの世界がなくなってしまうでしょうに、お父様、あなたが六千年の間苦労してこられたこの一境地に、この境界線に私一人残りました。あなたが成就させるべきみ旨の近くにいる者が、私しかいないではないですか。私という存在がこのように重要ですが、私はまだ備えることができないでおります。それでも、そのような私にご命令なさいましたので、私がそうすることのできる条件、そうすることのできる基盤を備えて、全体、この民族を代身いたします。これが復帰摂理ではございませんか」と言えなければなりません。

 皆さんは今からでも涙を流し、骨髄が溶けるほどの深刻な境地に入り、一対一で是非を決めなさい。そうして、私が涙するとき神様も涙し、神様が涙するとき私も涙する、そのような、従順な心で神様と授け受けることのできる境地に至らなければなりません。どんなことでも、そのようにして、しなければなりません。そのためには祈祷をしなければなりません。根がなければならないというのです。その根は祈祷です。(405)

 根は外に現れません。木が大きければ大きいほど、その木の大きさに比例して根が深く幅を広げていくのと同様です。

 先生はこのような公式の席上でいつも新しい言葉を語りますが、この新しい言葉は、そのときそのとき語るのではありません。全部根があります。皆さんが知らないこともたくさんあります。大きな木は、普通の木が追いつこうとしても追いつくことのできない深い根をもっています。

 皆さんは祝福を受けた家庭として、根がどれほど深いですか。根が深くてこそ、息子・娘が健やかに育つのではないですか。そうでしょう? 原理としての豊かな根をもって沃土に植えられた環境に、神様が肥料まで与えてくれるので、育たずにいられるでしょうか。

 このような点をおいて見るとき、問題は何でしょうか。神様とともに一体たる境地で、一人の夫を中心として一人の女性が、一つの夫婦を中心として一つの家庭が精誠を尽くすか、尽くさないかということであり、霊的な根を中心として接ぎ木するか、接ぎ木しないかということです。

 そして、皆さんの家庭にいいことがあれば、必ず神様と関係を結ばなければなりません。そうしてこそ、それが皆さんには落ちずに残され得る信仰の基盤となるのです。皆さんは個人的な立場ですが、家庭と連結されうる基盤をつくつておいてこそ、それ以下には落ちないのです。そうすれば家庭が上がるとき、それに付いて上がるのです。それを結んでおかなければならないというのです。(406)

 いつも祈祷する生活をしなくては、み旨の道を行けません。皆さんは生活するにおいて、お金を考えず、み旨を先に考えなければなりません。(407)

 祈祷しなければなりません。掃除をしなければなりません。心の掃除、生活の掃除をしなければなりません。そのために祈祷しなさい。早朝でも起きて祈祷しなさい。祈祷するときは、心臓の鼓動の音を聞こうとしなければなりません。動脈と静脈、ここで天地の調和が起こると想像しながら、心臓の筋肉を考えなさい。そうすれば健康になります。(408)

 祈祷しなさい。祈祷は心情の補給倉庫です。時間がなければ、する仕事を通じてでも祈祷できなければなりません。(409)

 洗濯をしながらも、道を行きなからも祈祷しなければなりません。倉庫にずっと積まれなければならず、空であってはなりません。(410)

 先生は統一教会の祭司長と同じです。祭司長が自ら祭物となる羊を養って祭事を捧げる道理がどこにありますか。行事のときには、全部私のポケットを通して行事をしているのですが、これは大きな間違いです。祭司長が自分のお金で祭事を捧げるのは、身のほどもわきまえない祭事です。そのように誠意もなく精誠も尽くさずに貴い日を迎えては、皆さんの後孫が罰を受けるようになるでしょう。そのような場からは、神様も去ってしまわれるでしょう。神様が去った真の神の日がどこにあり、真のご父母様が去った真の父母の日がどこにあり、真の子女の日がどこにあるでしょうか。

 皆さんはこのような因縁を中心として、自分の精誠の因縁を億千万代にまで残そうという立場に立たなければなりません。そしてこのような日々(神の日など)は、精誠を尽くす心をもって涙で対すべき日であることを知らなければなりません。今まで知らなかったとしても、今後はこういう立場で精誠を尽くしてくれることを願います。(411)

 精誠を尽くして皆さんの父母を伝道しなければなりません。一つのみ旨の前に共に天の祝福を受け、祝福家庭の垣根をつくるようになれば、それ以上の幸福はないのです。(412)

 皆さんは神様を背景にもつことのできる、神様の息子・娘となったでしょうか。神様を背景にしようとすれば、いつも神様が共にあり、皆さんが神様と共にあり得る人となっていなければなりません。子犬のように親の懐を離れ、一人で歩いては親の保護を受けられません。

 エデンの園でエバがなぜ堕落したでしょうか。神様のみ言を考えることができず、一人で行動して堕落しました。神様と共にあったなら堕落しません。それゆえ、学生は自分の学校を背景として行動しなければなりません。(413)


6、祝福家庭の侍る生活


 侍る生活とはどのようなものでしょうか。至誠を尽くす生活です。昔は霊的に神様と対し、精誠を尽くしましたが。今日は実体的なご父母様の前に誠心を捧げるのです。その誠心を至誠を尽くして捧げる道が、国に対して忠誠を尽くす始まりであり、この万国を代表する聖人たちが行うことがらです。ですから、今日、この平面的な立場で父母に侍り、誠心を捧げるということは、国のために生き、世界の聖人の精神を受け継ぎ得る価値あることです。

 それゆえ神様の前に、あるいは真の父母の前に孝子の名をもって、孝子の公認を受けるということは、何よりも偉大で驚くべきことです。その立場はイエス様もうらやみ、今までの歴史時代の道人たちもうらやむのです。分かりますか、何の話か。それゆえ、今から皆さんは真の父母と鉄石のような連関を結んで、この世のどのようなものによっても、切ろうとしても切ることのできない一致した生活伝統をもたなければなりません。

 自分の父母に対して、説明をもって、そう(=父母)ではないという論理があり得ますか。それは天下において神様もできないのです。それと同様に、皆さんが精誠を尽くし、真の父母と一つになれば、誰もそれについてくることはできません。そこで自分だけの最高の精誠ある基盤をもつことによって、神様の愛が父母を通して皆さんに宿るようになるのです。

 このような立場から、皆さん自体は原理で教えてくれる愛によって、神様を中心として真の父母に侍べることで、はじめて愛を通じた四位基台を完成することができます。これが統一教会の侍る立場だというのです。ほかの道はありません。神様の愛を受けなければなりません。神様の愛を受ける道は原理的です。(414)

 皆さんの中で聖日の朝に御飯を食べない人、手を挙げてみなさい。いくらもいませんね。それでは、聖日の朝に御飯を食べる人、手を挙げてみなさい。もっと多いですね。これだから、もはやだめだというのです。また、聖日の早朝に家庭で敬拝式をする人は手を挙げてみなさい。皆さん、ごらんなさい。敬拝式は日曜日の朝にだけするのではありません。本来は毎日しなければならないのです。

 皆さん、蕩減復帰をするためには、家庭を中心とした孝の道理と、国を中心とした忠の道理を蕩減しなければなりません。今、私たちがそのような仕事をしなければならないというのです。父母の前には孝行をしなければならず、国の前には忠誠を尽くさなければなりません。

 一国の君主と臣下の間においても、必ず毎朝、朝会があるのです。韓国の家庭を見れば、朝、父母が起きれば嫁が布団も畳んであげ、部屋の掃除もしてあげ、ご飯もつくってあげ、父母が出入りするときにはあいさつをします。これが韓国の法度ではないですか。皆さんは法を蕩減しなければなりません。韓国のすべての歴史時代を蕩減するためには、法中の法、孝行する法なら孝行をする法の中でも最高の法度を立てなければならず、国家においても最高の基準を越え得る法を立てなければならないというのです。

 ところで、皆さんのようにしてよいと思いますか。毎日のように地区なら地区長、地域なら地域長を中心として、本部に向かって敬拝式をしなければなりません。それが公式的な礼式です。しかし、毎日そのようにしてみれば副作用があるため、副作用を避けようと思うので、その条件を掲げておいて聖日の早朝にだけしているのです。元来は毎日しなければならないのです。

 この世でも父母が死んで三年の喪に服すときには、毎朝夕に御飯を供えて、出掛けるとき、帰ってくるとき、霊座に告げてあいさつする法度があるではないですか。皆さんはそれ以上にしなければなりません。皆さんが今していることは、み旨から見るとき、天の格式にぴったり合った生活でしょうか。違います。とんでもないというのです。(415)

 サタン世界の父母が亡くなっても、三年の喪に服すのが韓国の風習です。ですから、この地で三年以上精誠を尽くして父母に侍ってみなくては、天上世界に行って大韓民国の後孫だと言えないのです。何の話か分かるでしょう。皆さん、家で父母に三年以上精誠を尽くして侍りますか、侍りませんか。

 昔、孝子たちが父母の三年の喪に服すときには、墓場に穴蔵をつくり、そこに身を寄せながら孝の道理を履行したのが韓国の礼法ではありませんでしたか。私たちはそれ以上にしなければならないというのです。それ以上していますか。祝福家庭の中でそのような生活をしている人は手を挙げてごらんなさい。全部でたらめです。そのような皆さんが、天に侍ると言うのですか。あきれ返ってしまいます。先生のみ言が理解できますか、できませんか。おかゆを食べて(粗末に)暮らしたとしても、そのような心をもたなければなりません。夫婦同士さえよければ、祝福家庭ですか。互いのいい面を備えて、父母に侍る生活をしなければなりません。(416)

 月初めには早朝五時に各家庭で、夫婦が共に本部に向かって敬拝しなければなりません。喜ばしい雰囲気の中でしなければなりません。

 日曜日にも早朝五時に敬拝しなければいけません。そのときには、一週間の間のすべての生活を報告しなければなりません。日曜日は早く回ってくることを望む喜びの日とならなければなりません。(417)

 家庭の伝統を立てる最も早い道は、先生が生きているときにすることです。元来は、毎朝斎戒沐浴し、十里外から歩いてきて先生に敬拝を捧げなければなりません。このような伝統を立てられなければ、自分の後孫たちが滅びるようになります。(418)

 このたび祝福を受けた老人が一人亡くなりましたが、その息子が、亡くなったお父さんを静かに考えてみて、もの悲しかったようです。生きておられる間に、うどん一杯ごちそうできなかったことを、亡くなった後にはじめて気づいたようです。このように亡くなった後に後悔するのが、堕落した人間たちの習性なのです。

 先生はそこに行ってきて、感じたことがたくさんあります。もう皆さんも、先生も遠くなく霊界に行くはずなのに、そのときにはどうしますか!(419)

 皆さんが鏡を見ながらも、「この目がどれほどご父母様を見たくて涙を流し、この口がご父母様の解怨成就をどれほど叫んでみ、この手がどれほどご父母様の地で血を流し仕事をしてみたか。私の体が粉々になるまでご父母様が願う土台の上で仕事をしてきたか。それができなかったことが恨みだ」と言えなければなりません。そのような心を感じながら、その道を探していくことが幸福な道であり、その道で天とともに因縁を結ぶことが幸福な仕事であることを知って行く人は幸福な人です。そのような人は、誰も支配する人がいません。その人を動かし得る人は父母だけであり、その人を感動させられる人も父母だけであり、その人を幸福にできる人も父母だけです。また、父母を幸福にさせることのできる人も、その息子以外にはありません。父母の望みがあるとすれば、父母自身にあるのでなく、その息子にあるのです。(420)

 農業をしても「ご父母様が来られれば、これをご父母様に差し上げなけりゃ」、これが天地の道理です。天は空、地は地面をいうので、天地とは二つが一つに成りゆく道、すなわち愛の道をいうのです。そうではないですか。愛があればすべてのものが幸福になり、愛がなければすべてのものが不幸になるというのです。愛があればすべてのものが和動し、愛がなければすべてのものは索漠とした荒野になるのです。そうでしょう? 問題はここにあるのです。

 ソウルからご父母様が来られれば、ご父母様の話が聞きたくて百里の道も駆けていくことができなければなりません。教区長や教域長、教会長を通して伝達する便りがあれば「私」がまず行かなければならないと言える人にならなければなりません。そうすることのできる心を今後私たち教会員は、生活舞台で備えなければなりません。

 これだけ備えれば、外国の食口たちの前に出たとしても恥ずかしくないでしょう。御飯を食べるのも水を飲むのも、座るのも立つのも、誰かに対するのも、ご父母様の前での幼子のような心情を彼らの前に見せられればそれで満点です。知識や学識が多くて通じるのではありません。それはけんかでも収拾するとき必要なものであり、暮らしていくときに博士の学位をもって生きますか。神様の前に「私は誰それ博士です」。そうして生きますか。事実それは必要ありません。

 それゆえ、神様の愛を「私」がどのようにして導き得るでしょうか。たった一つの道は「至誠天に通ず」これ以外にはありません。何を見るにもご父母様を考えなければなりません。(421)

 孝行する人は、自身の生活の中でいいことがあれば父母を先に考えます。いいものも見たのに、自分の夫や妻を先に考えるのは、堕落した世の中ですることです。自分の父母に貴いものを先に買ってあげなくては、自分の妻に買ってあげることができないのです。三十六家庭の中には、このような話を聞いて引っかかる人が多いでしょう。自分の妻に服を着せようとすれば、父母にまず買って着せてあげなければなりません。そうしなければ、妻にも着せられないのです。その妻も、自分の夫が父母にしてあげられなかったにもかかわらず、何の洋装が欲しい何が欲しいと言いながら、「これが気に入っているけど、あなたが私を愛しているなら一つ買ってよ」とは言えません。女性たち、分かりますか。食べるのもそうです。男性たちも同様に、自分が服を買って着ようとすれば、父母にまず買ってあげてから、買い、妻にもしてあげなければならないのです。御飯を食べるときも、父母に侍って食べなければなりません。(422)

 父母に侍りたい懇切なる心をもって毎日のように待ちますが、父母が来れないということをよく知っているので、愛する天の兄弟たち、天の息子・娘たりとも、自分の家に来ることを待ち焦がれながら、朝から夕方までお客様を接待するために準備する人が、天の福を受ける人です。昔、韓国の人士たちの中には、通りすがりの旅人が泊まっていけるように舎廊房(=客間に使う主人の居間)をよく整え、お客様を接待する部屋として使いました。このようなことは、韓国だけがもっていた歴史です。この法度は、天の法度をあらかじめサタン世界の歴史路程で象徴的に見せてくれたものです。

 ところが、皆さんは自分の家に誰か来そうで心配をすることもあるでしょう。皆さんは、お客様が家に来るのを願いますか、来ないのを願いますか。「来るのを願います」。来るのを願うですって? 先生が三カ月ぐらい、毎日のように皆さんの家に行けばどうですか。「ああ、うんざりする」と嫌がるでしょう。そうでないという人は、手を挙げてごらんなさい。手を挙げた人が少ないのを見ると、そうだという人がもっと多いということではないですか。「先生はああだこうだ」と言う話が本当に多いです。そのようなことをすべて知っている先生は、あきれ返るでしょうか、あきれ返らないでしょうか。あきれ返るという言葉がそれで出てくるのです。このように皆さんは、自分の威信も知らず、身の振り方も知らないでいるのです。ですから、このようなことを教育しなければならないというのです。(423)

 天国とは難しい所でなく、神様に侍りお父様に侍り愛を受けて暮らす所です。互いに愛し合う所です。また、父母は兄弟同士互いに愛し合うことを望みます。父母には孝行すると言いながら兄弟同士けんかをするなら、その孝行は役に立たないものとなってしまいます。それゆえ、父母は自分のために尽くすことよりも、兄弟のためにもっと尽くすことを好みます。兄弟を父母以上に愛している人々は、天国の境界線内で永遠に生きることができるのです。兄弟を父母のように愛せない人は、ここから外れるのです。これを私たちは知り、食口同士が一つとならなければなりません。(424)


7、三位基台を中心とした生活


 今日、わが教会において男性三人、女性三人、このように三位基台をつくりました。なぜこのようにしたのかといえば、今後主に侍るべき私たちにおいては、アダム家庭でのアダム夫婦と彼の三人の息子と三人の嫁の型を代身できるひな型を備えなければならないからです。

 それゆえ、この三人が一つとならなければ、また破壊されるおそれがあるというのです。特に三人の男性が一つとならなければなりません。死のうが生きようが霊的に一つとなり、体で一つとなることができなければなりません。だから、ある時間的な現在圏内の基台ではなく、時間性を超越した主体的な一つの型を備えなければなりません。そうでなければ、再び来られる主の前に立つべき面目がないということを皆さんは知らなければなりません。

 もし、三人が一つとなってみ旨を代身できる原則的な足場をつくるなら、言い換えれば、天が変わるとしても私たちは変わらないという覚悟をもった三位基台になっているなら、天はこのような基台の上でみ旨を成されるでしょう。このような内容を備えるために、皆さんを中心として三位基台を組織しました。(425)

 三兄弟が一つとなれなかったのが堕落でしょう? そうでしょう? 三人が一つになれなかったのが堕落なので、復帰の原則に従って三兄弟が共に生活をして一つとなれなければ、天国は絶対に成すことができないのです。(426)

 皆さん三位基台に属した三人が、互いに心を合わせられなければだめです。このような人は天国に行けません。統一の理念はここから始まります。三人の心を合わせられなければ、天国に入ることはできません。入門もできず天国の見物もできません。また、三人が一つとなって、これを単位として十二人の心を合わせて一つとなることができなければならないというのです。(427)

 信仰の道は一人では行けません。信仰の同志が必要です。三人以上が一つとならなければなりません。だから、三位基台が必要なのです。人間の性稟の主体であられる神様も、三つの基準を望んでおられます。

 神様は人間が誤っても、直接お教えになることができません。しかし、縦的には教えることができませんが、三人が一つとなれば、一人の人が誤っても二人が誤らなければ、その人の誤りを教えてあげることができます。イエスと聖霊を送った理由がここにあります。

 山での祈祷も三人以上が共にしてこそ、恩恵が早く降ります。祈祷後には自分たち同士互いに論議すべきです。けれども、他人と議論すればサタンが侵犯します。

 三人が心から頼ることのできる美しい姿を備えるようになれば、それを見て周囲の人々がうらやむようになります。そうなれば神様のみ旨は自然に繁殖されるのです。神様が助けてくれなくても、三人が一つとなればそこから新芽が出るようになります。(428)

 この世でも三人が合わさればできないことがないというのです。わが教会は八人の食口が動かなければなりません。いくら大きな迫害を受ける教会でも、指導者とその夫人、そこに三人の男性と三人の女性が合わさった八人の食口が一つとなれば、誰も壊すことができません。これは鉄則です。このような復帰型を各自備えるべき使命があるために、三位基台を組織しました。(429)

 四位基台を備えるためには、横的基盤を中心とした形態を備えなければならないので、社会環境において人と教会と物質、そして家庭が一つとならなければなりません。だから、三位基台を組織したのです。本来、三位基台の使命は、家庭で模範にならなければならず、教会の標本にならなければならず、経済にも責任を負わなければならないのです。この三位基台が完全に一つとならなければならないのです。これがひび割れる日には、将来の天国の理念は台なしになるというのです。皆さんの家庭も三位基台の組織があるでしょう?

 それでは、この三位基台は今からどのようにしなければならないでしょうか。三位基台を中心として、その家庭の中で代表され得る家庭を選ばなければなりません。その家庭は、絶対的な天の家庭として神様が理想とされた家庭であり、先生の家庭を代表した家庭であるので、その家庭の命令に絶対に順応し得る伝統を立てておかなければなりません。そして、三位基台を成した家庭は、教会を指導するにおいてどのような教会の指導者よりも忠誠を尽くさなければなりません。また、物質管理においても、どのような人よりも倹素でなければなりません。ですから、今後体系化された組織を備えた社会制度と経済的な体制を備えることが、私たちの理念が指向する社会なのです。(430)

 今後、代表的な家庭を選定するときが来るでしょう。地区ごとに一家庭を選定するようになれば、その家庭を中心として三位基台を成さなければなりません。永遠に共に暮らしていき得る三位基台を中心として、出ていかなければならないのです。

 そこから地上天国がつくられるのです。それが原理的な世界です。そのような地上天国を成すために、歴史は発展していくのです。共産党が党を絶対視するのも、中心を中心とする面において一理あるのです。党の命令によって死に、党のために存続するのは、一面一理あるというのです。

 皆さんは地方でこのような原則を中心として、その使命と責任を完遂しなければなりません。自分が祝福を受けて、これから後代の前に、天と地の前に中心家庭となるために準備していかなければならないのです。

 これからのこの時代において、神様の前に正常な責任を負うことのできる強固な基盤を、自分の家庭を通して築いておこうという心をもって出ていかなければなりません。そうしてこそ、原理を中心とした生活法度に外れないということを銘記しなければなりません。(431)

 先生は三位基台を編成しました。それは各自を中心としたものではなく、先生を中心とした三位基台です。実のところは、各自の信仰の子女で三位基台をつくるのがいいのです。内的に先生を中心として父子関係になります。そのような意味で三位基台をつくりました。(432)

 祝福家庭は三位基台を編成して暮らさなければなりません。その家庭に息子が生まれれば、四位基台が成されるのです。

 三位基台の家庭の中に息子のいない家庭があれば、その家庭に自分の息子を養子として送ることができなければなりません。しかし、その家庭で息子を生めば、自分の息子を再び引き取ることができます。(433)

 もし、三家庭の中で一家庭でも息子・娘を生めなければ、息子・娘を生んだ家庭が、生めなかった家庭に息子・娘を生んであげなければならないのです。そのようになっています。(434)

 三位基台の三人の中で一人の夫が死ねば、三位基台がその家の暮らしに責任を負わなければなりません。これからは、三つの家の暮らしをひとまとめにするのです。一人で暮らすのではありません。今後、時になれば三つの家の暮らしをひとまとめにするのです。(435)

 先生のみ言を絶対に生命視しなさい。み言に絶対に服従すればいいのです。

 元来、三位基台は三年以上ともに暮らさなければなりません。三位基台は子供を取り換えて暮らしても、同じに感じなければなりません。それを煩わしく思えば、落第生です。三位基台の中で、一家庭の夫が死んでも心配してはなりません。そのようなときは、残りの二家庭がともに責任を負わなければなりません。(436)

 「カインをアベルのように愛しました」とサタンが公認し得る基準を立ててこそ、サタンが離れていきます。

 三位基台の家庭の赤ん坊たちを連れてきて育てるなら、自分の赤ん坊より二倍、三倍精誠を尽くして育てなければなりません。

 三位基台が一つとならないのに、どうして世界を統一できるでしょうか。

 三国が一つとならなければなりません。

 主を愛したよりも、もっとこの世を愛さなければなりません。

 先生は三国家、三時代、三主権の迫害を受けました。

 三位基台は一つの兄弟です。ゆえにこの三人が一つとなれば、先生を代身して行事をすることができます。三位基台を忘却し、自分の家庭を主とすれば滅びます。名前だけ先生を代身するのでなく、責任と心情において先生を代身しなければなりません。

 原則は三位基台中、一家庭が三家庭の生活に責任を負い、二家庭は出ていって伝道しなければならないのです。(437)

 わが統一教会は「食口」という名詞を使います。三位基台を中心として全部兄弟です。分かりますか。皆さんは、今までそのようにしてこれなかったことを悔い改めなければなりません。(438)

 三位基台を中心として生活も共にし、生活感情も同じでなければなりません。三年なら一年ずつ順番に三位基台の責任を負って暮らさなければなりません。だから、天宙主義なのです。家庭天国を成せなければ、天国に入れません。皆さんはあらゆる家庭を救うことのできる救世主のような立場です。

 三人が(子供を)生んだとしても、一人が育てるかのように育てることができなければなりません。そうしてこそ、心情的な統一を期することができます。先生の心情とアダムの心情、そしてイエス様の心情が一致しなければなりません。皆さんもそうできなければ、天国に行って立つことができません。

 自分の息子・娘を中心として三家庭が争ってはなりません。もしそうなら悔い改めなければなりません。一カ所に住みながら、十二方向を動かさなければなりません。(439)

 祝福家庭の三位基台は、一カ月のうち三週間を越えずに、互いに連絡しなければなりません。三位基台を中心として生活しなければなりません。

 一つの節気の間は、三位基台中、一家庭が責任を担います。すなわち、一家庭ずつ回りながら責任者となって、三家庭の生活を主導しなければならず、家を建てるとしても、三家庭が共に暮らせるように建てなければなりません。だから、三位基台はなくてはなりません。(440)

 三位基台を中心として、教会において手本になり得る人、万物復帰において手本になり得る人にならなければなりません。お金に支配されては絶対だめです。お金に支配される民族と国家は滅びるのです。また、自分の家庭と個人の欲心を満たすために国をだませば、その家庭は滅びるのです。(441)

 女性たちは妖邪なところがあるでしょう? その妖邪な女性が、これからは反対に(=いい意味で)妖邪にならなければならないのです。女性は皆、新郎新婦だけで暮らそうとするでしょう? この思想を崩さなくては、世界的な統一の伝統を立てられないのです。分かりますか。皆さんはこれを知らなければならないのです。

 家族が一緒に暮らせないのは、婦人たちのせいです。今日、この滅びるべき世の中……。舅、姑が嫌だという嫁たちは、将来悲惨な姑になるでしょう。そうではないですか。これは互いが悲しみを介在させることゆえに、全部反対にへし折らなければならないのです。

 皆さんは、三位基台の三夫人たち同士で一つとなることができなければだめです。だから今、一つとなるよう訓練させるのです。将来は十二家庭が一つの家で暮らさなければなりません。その次には百二十家庭、あるいは千二百家庭が全部一つの家で暮らすのです。一町内で暮らすとしても、けんかをしてはならないのです。もし、けんかをするようになれば、族長会議を開き、争った人々の尻を打つときが来ます。けんかをしては、とんでもないというのです。将来、そのような時が来るというのです。(442)

 皆さんを全部家庭的に訓練していくのです。将来、家庭的に訓練するアパートが生じるのです。文化住宅、アパートのことです。七家庭以上適合した生活をすることのできる家をつくるのです。だから数カ月ずつ入って、共同生活をしながら、文化生活をすることのできるそのような訓練住宅、アパート訓練所が生じるというのです。分かりますか。

 皆さんは全部その訓練所を経なければなりません。そのアパートで三世帯が一緒に暮らすのです。御飯も共に食べ、勉強も共にするのです。父母を中心として八人家族となってこそ、天国に入るでしょう? 八人家族になれなくて、天国に入ることができますか。

 父母と三位基台を合わせればみんなで何人ですか。八人です。この八人家族が一つとなったという基準に立たなくては、天国に入ることができません。これが原理でしょう? 原理ですか、原理ではないですか。原理なら原理どおり生きなければならないのです。(443)


8、祝福家庭の共同生活


 統一教会は、神様と悲運の歴史的なすべての聖賢たちを代身して、父母を教えてあげる教会です。今まで父母を教えました。父母がいなければ、神様も必要ないのであり、聖賢も必要ないのです。すべて必要ないのです。父母を完全に探し立てて兄弟の因縁を備え、一つとなることによって新しい家族、新しい家庭の出発が始まるのです。それゆえ、皆さんは三位基台をつくらなければなりません。(444)

 皆さんには必ず信仰の父母がいることでしょう。その信仰の父母に信仰の三人の息子・娘がいるなら、その三兄弟から一つになれというのです。そうできなければ、皆さんはみ旨の前に立てません。皆さんと伝道した人がつくった三位基台兄弟(霊の兄弟)を知っていますか。また、彼らと一つになりましたか。全部偽物たちです。

 皆さんはそのような因縁を結べなかったので、どうしなければならないかといえば、先生の家庭を中心としてそのようにするのです。先生の家庭の、この三兄弟を代身して、代表者として立てたその人々と一つになりなさい。彼らと一つになったなら、自分の家庭の三人の息子・娘よりも、先生の息子・娘を中心としてカイン・アベル的基準で兄弟の因縁を結ぶのです。それもできなかったではないですか。

 自分の体が寒ければ寒いといって服を着ようとし、腹が減れば食べようとしたのであり、いつ先生の家庭の子供たちが飢えているのかどうなのか、考えてみましたか。先生が先生の息子・娘を連れて生活するのを見れば、公式路程なのです。三年の間そのまま侍りなさい。絶対的に侍るのです。夜でも昼でも、死ぬほどそうするのです。

 皆さん、そのように暮らしましたか。全部堕落したサタンのなりで、自分を中心として生活するというのです。それは深刻な問題です。私たちは苦労していますが、「神様が何だ。先生が何だ。本部にいる人々が何だ。地区長が何だ」と言いながら、いいかげんに、自分の気ままに遊んで食べる連中のように行き来していいのですか。まさか、そのような連中がここにいるのではないでしょう?

 すべてのことを原則に符合させなければなりません。原則的基盤に符号させ、出発しなければなりません。兄弟同士愛し合おうとすれば、そのような基盤がなければならないのです。食口というのは兄弟です。イエス様はこの地上に生まれて、父母の愛を受けられませんでした。兄弟の愛も受けられませんでした。親戚の愛も受けられませんでした。

 皆さんには食口がいるので、兄弟同士、愛を授け受けることができ、互いが為に与えることのできる人とならなければなりません。そのような模範食口にならなければなりません。統一教会なら、教会食口全体が敬うことのできる男性、女性とならなければなりません。皆さん、そのような男性と女性になりましたか。言う必要もないでしょう。ありとあらゆる人々が皆集まりましたが、その中で食口という名前を売り飛ばした人がいないかというのです。そのような者が祝福を受ければ、家庭という名前を売り飛ばさないかというのです。祝福を受けたといって、のらくらする浮浪者もたくさんいます。このようなつまらない家庭、清算するしかない留意家庭などをつくるために、私が今まで苦労したのではありません。(445)

 家庭は全体を代身した最小単位です。この誤りは全体の誤りとして連結されるので、個人の誤りは受け入れられますが、家庭の誤りは受け入れることができません。個体の喜びを全体の喜びとなるようにしようという心情が充満しなければなりません。

 個人的な事情と主観と望みを抜き捨て、全体の事情と主観と望みを立ててこそ、より大きなものに融合することができます。家庭は全体を生かすためのものです。ゆえに、家庭は送電線と同じです。家庭を通じて全体に和していけるようにしなければなりません。ゆえに、三位基台は一つの家で暮らさなければなりません。今は、家庭を再整備すべき時です。(446)

 統一教会では社会から追われ迫害を受けましたが、(社会は)もっとよい友と兄弟を得るようにしてくれました。すなわち、一つの父母の血筋を受けなかった、兄弟でない兄弟を、祝福家庭を通してもたらしてくれました。(447)

 統一教会の親戚は、統一教会の祝福を受けた家庭です。(448)

 十二家庭が一つの型、枠にならなければなりません。互いに疎通し、連絡し、会いたがらなければなりません。(449)

 これからは家庭修練会をしようと思います。また文化生活をするときは、およそ百世帯が入ることのできる土地を買い入れ、アパートを建てて全部が集まって暮らしながら、修練をしなければならないというのです。ただ、いいかげんに暮らしていく姿をそのままとどめていいでしょうか。今から皆さんは、神様が皆さんの家庭に対して望まれる内的外的基準と、皆さんの家庭の生活を一体化させる問題を、深刻に考えなければなりません。(450)

 祝福家庭が鉄壁のように一つとなれば、天のみが主管しうる中心国家として立つことができるのであり、世界はこの運勢の中で新しく動き始めるというのが原理的な観点です。(451)

 「私」でなければお前はありえず、お前でなければ「私」が生きられない。血と肉が因縁づけられた中で、一つの縦的な土台をつくるのが統一の家庭です。ですから、互いが力を尽くして神様の栄光の土台をつくって輝かそうとし、そこに「私」が肥料となり土台になろうと、先を争って立つことのできる生活的な基盤を誇らなければならないのが、統一の理念をもって行く家庭です。(452)


9、後孫が福を受ける道


 天国は何ですか。通りすがりの乞食たちも入ってきて寝たがり、通りすがりの犬も入ってきたくて門前をうろうろし、飛ぶ鳥たちも来て巣をつくってすみたがり、ふんをするとしても、その家に来てしたがる家庭を築かなければならないというのです。わが統一教会の祝福家庭はそうですか。それでこそ天国なのです。手本にはなれなくとも、村々を回りながらもめごとなどを起こす人となってはなりません。

 そのような天国家庭をつくってこそ栄え、神様も共にいてくださるのです。なぜでしょうか。神様の愛が宿る所には生命をもったすべての存在が集まってくるようになっているからです。また神様の愛が宿る所が、すべての存在の平和な安息所であるからです。

 ここにいる夫人たちは、かわいそうな人が来れば「ああ、わが家の暮らしも難しいのに、なぜ来たのか」と、そうでしょう? 訪ねてきた人が服がなければ、自分の上着を脱いで与え、下着たりとも脱いで与えながらお客様の接待をすることを、義務として感じようとしなければなりません。それでこそ、その後孫たちが重ね着もし、ズボン下もはき、綿入れも着、肌着も着ることができるのです。それでこそ後孫が繁栄するようになるということを皆さんは知らなければならないのです。(453)

 先生の家には、昔から伝わる家訓があります。それは何かといえば、通りすがりのお客様たちを、絶対空腹にして送ってはならないというのです。だから、わが祖父も寒い冬に乞食が来て、「物ごいに来ました。朝飯をもらいに来ました」という声を三言でも聞けば、大変なことになるのです。すぐさま(祖父の)激しい叱責の声が下るのです。そして、自分が食べていたお膳を丸ごと持っていって、食べなさいと言うのです。

 そのように渡して、戻ってこられては祖母を叱りつけるのです。「あなたが乞食になってみろ。寒い冬の日に、人の家の門前に行って御飯をくれということがたやすいか。御飯一杯は何文にもなりはしないが、物ごいをするということがどれほど難しいことか」と言うのを何回も聞きました。

 貧しかったとしても、神様が下さった生命なので、その前に不忠、不孝を残して死ぬことができないから、生命を保存するために、そうしていると考えなければならないというのです。人間の苦衷を人間が思いやらなければ、誰が思いやりますか。

 乞食に御飯を遅く持っていったといって、祖父が激しく叱りつければ、祖母は気に入らなくて「妻が貴いの、通りすがりの乞食が貴いの?」こう言いながら抗議をします。子孫万代を考えれば、乞食が貴いというのです。

 わが祖父もそうしたし、わが父もそうしました。わが文家家門の法度がそのようになっていました。絶対に乞食の口から三言以上言葉が出る前に、ご飯を持っていってあげなければなりませんでした。母があげなければ、父たりともお膳をそのまま持っていって接待をするのです。そうすると、またわが母の性格が男のようで、父とけんかが始まります。

 もし、夫人が訪ねてきた人をよく接待しなかったなら、その責任は家長が取らなければなりません。家長が接待をよくできなければ罰を受けますが、夫人がそうなら、家長が責任をもって直しておけばいいのです。(454)

 かわいそうな人に会えばお金一文を与えながら、「若い人が何たることだ」と言ってはなりません。「少ない一文ですが、これで千倍万倍福を受けてください」。このような言葉はいくらでも言っていいのです。近所に食べられないかわいそうな人がいたら、お米一升たりとも買ってあげるために、夜を明かしながら縄でもなって草履を作り、それを売ってでも同情するという精誠を尽くすなら、後代の子孫たちは万代に誇り得る祝福の場に立つようになります。近所に貧しい人が赤ん坊を生んで飢えているとき、牛でも売って与えることのできる立場に立たなければなりません。神様の側ではすべて兄弟です。(455)

 先生もそうです。韓国の協会長も、外国の食口たちが来ればよく接待しなければならないのです。外国から食口たちが来たのに知らないふりをし、家に行って足を伸び伸びと伸ばして寝れば、その足が腐るというのです。それを知らなければなりません。いくらご飯がなくて飢えて暮らしても、ご飯一杯が生じれば近所の人々と分け合って食べようとしなければなりません。そうすれば、その近所の人々が福を祈ってくれるのです。飢えれば、誰かが夜中に米のかますをこっそり持ってきておくという出来事が生じるのです。そのようになれば、絶対に滅びないのです。(456)

 天が皆さんを慈しむのと同様に皆さんが天を慈しまなければならず、また先生を知ったなら、先生が皆さんを慈しむように、皆さんが食口を慈しまなければなりません。そのような問題において皆さんは何になったかといえば、泥棒のようになった人がたくさんいます。天のものにも手をつけ、食口たちのものも強奪してしまう一番恐ろしい者となれば、皆さんの後孫は七代も続かず皆殺しになります。

 さあ! 皆さんは世話になる人になりましたか、世話をする人になりましたか。もし、世話になる人にとどまっているのなら、発展しなければなりません。なぜなら、そうしてこそ天が協助するからです。(457)


10、死ぬときも四位基台を備えなければならない


 皆さんが死ぬときに、誰をつかんで死ぬのかということが問題です。創造理想は何ですか。創造目的は何だというのですか。人間を中心としていえば、四位基台を完成することです。創造理想には死ぬ法度があるでしょうか、ないでしょうか。死ぬ法度があれば、その第一法度は何であり、第二法度は何であり、第三法度は何なのか、考えてみましたか。死ぬとき一番近くで見守ってくれる人は誰でしょうか。死ぬとき一番因縁の近い人は誰ですか。死ぬときそばで涙を流しながら泣いてくれる人は誰でしょうか。「子女たちです」。そのほかには誰がいますか。「配偶者です」。そのほかには誰がいますか。「父母がいます」。それでは、彼らが流す涙の中で誰の涙の度数が一番高いでしょうか。「父母が流す涙です」。涙は相対的です。ここには縦横の涙があるのです。誰の涙が一番てっぺんから落ちるかといえば、父母の涙なのです。

 それなら、皆さんは死ぬとき何を中心として死にますか。愛をすべて忘れてしまって死にますか、しっかり抱き寄せて死にますか。「しっかり抱き寄せて死にます」。愛の中でも、誰の愛をつかんで死にますか。父母の愛を先につかまなければなりません。その次に夫婦の愛と子女の愛をつかまなければならないのです。死ぬのも四位基台原則に符合しなければならないのです。(458)

 人々が死ぬときにまず誰を呼びますか。神様を呼びます。最高に難しい立場で神様を求めるのは、その個人においては最高の真実です。死ぬ時、心から神様を呼んで死ぬ者には、許しを受ける道が開かれます。なぜそうなのでしょうか。死の道理がそのようになっているからです。その原則に近い立場で、その原則だけをつかんで死ぬならば、蘇生することのできる道が開くのです。

 それゆえ、すべての人々が死ぬ場に行っては「ああ神様!」と、神様を求めるのです。これは教訓の中でも真実なる教訓です。人が死ぬときは、それでも正しい言葉を語って死ぬのが普通でしょう? そのようなことを見るとき、誰が教えたのか知りませんが、よく教えたというのです。それは正しい言葉の中でも最も正しい言葉です。

 それゆえ死ぬときには、父母にまず侍っておいてから自分の夫や妻を求めてこそ、天道が立つのです。また、自分の妻が夫を呼んだのちに子女たちを呼んで遺言をしなければならず、自分の夫や妻は来ることができないようにし、子女たちだけ来させてはなりません。サタン世界では、今まで妻より子供が先でした。それは人間が堕落するとき、エバが失敗した張本人であるためにそうなのです。けれども、復帰された世界では父母に侍っておき、自分の配偶者を呼んだのちに子供を呼ばなければなりません。それが理想的です。

 ですから、死ぬときも四位基台を備えなければなりません。四位基台を備えられずに死ぬ人は、死の道も正しく行くことができません。それゆえ、死んだのちにも霊魂が行ったり来たりするのです。

 それでは、このような原則を知っている皆さんは、死ぬとき誰をつかんで死にますか。「神様です」。その次には? 「真の父母です」。生まれるときもその方を通して生まれ、死ぬときもその方を通して死んでこそ、霊界でも永遠に共に生きるのです。その方を通して現れ、その方を通して結末をつけるのです。全部この原則のもとに生きていくのが孝の道理であり、忠の道理なのです。このような孝と忠の道理を尽くした人が、人生航路においてなすべき責任を果たして逝く人だという結論が出てくるのです。人生は、このように暮らさなければならないのです。(459)

 今、皆さんが考えるべきことは、将来皆さんの子供にどのような遺言をするのかということです。どのような遺言をするつもりですか。父母がしないで子供にしなさいと言うことができますか。そのような父母は、子供を利用してしまおうという父母です。ですから、皆さんがまず実践してから、死ぬ前に息子・娘に「私はこのように恥ずかしくない生き方をしてきたので、お前たちもこのように生きなさい!」と遺言をすれば、その遺言は神様が永遠に守ってくれるのです。皆さんは死ぬときに、後孫たちにそのように遺言する自信がありますか。これは深刻な問題です。(460)

 皆さんの家庭において夫婦が遺物を残すなら、子女教育や物質的な財産ではなく、家庭が一つとなって、国と世界のためのその何かを残さなければなりません。(461)

 将来、子供たちに墓を踏まれないようにしてください。「そんなやつが祖先か」と言いながら讒訴します。アダムとエバの墓があったなら、私がまず掘ってしまうことでしょう。(462)

 皆さんは、これから成長する子供たちの前に何を残すつもりですか。「私は民族のために、世界のために生きたことしか残してあげるものがない」と言うとき、これが最も偉大な遺業です。物質や学者博士の看板が問題ではありません。「世界のために生きなさい」、そのような遺言を子供に残さなければなりません。「お前は大韓民国で生まれたが大韓民国の人ではない。お前は世界人であるので、世界のために生きなければならない。それだけでなく、天と地のために生きなければならない」と言わなければなりません。これは天宙主義です。このようなとてつもない理念をもっており、また、聞いて分かったという人がつまらない者になってはなりません。(463)

 将来、皆さんが家庭に残すべき遺物があるとするなら、世界のための骨董品を残さなければなりません。金相哲(三十六家庭)も、神学校で学長を長く務めましたが、世界のための骨董品を残さなければならないのであって、学校のための骨董品を残してはなりません。

 歴史の遺物をどう残さなければならないかを知らなければなりません。学校の博物館には、世界のための功績が盛られた遺物を持ってきて置かなければなりません。皆さんの家庭において夫婦が遺物を残すなら、子女教育や物質的な財産ではなく、家庭が一つとなって、国と世界のための何かを残そうとしなければなりません。

 財産というものは、自分を中心として生きているものの中にあるのではありません。それより高い次元で受けたものだけが財宝になると思います。(464)













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第四節 真なる父母と子女

祝福家庭と理想天国

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第四節 真なる父母と子女


1、真なる父母と子女


 父母は子供のために存在するようになっています。もし、父母のために父母がいるとすれば、父母という言葉は出てきません。これからは我が統一教会の原理を中心として倫理観が形成されるのです。父母はどう存在しなければならないのでしょうか。子供を生んだ父母は、子供のために存在しなければならないのです。それが倫理の第一条です。それは説明の必要がありません。息子のために存在しようという立場は、不幸な立場ではなく幸福な立場です。(465)

 父母が子供のために犠牲になるのは、父母として子供を通して神様に帰りたいと願うからです。子供を愛する中で父母の愛を体恤するようになり、さらには神様の愛を感じ悟るようになるのです。これは本然の発露なのです。子供をもてない人は、父母の愛を感じることができないだけでなく、神様に対する愛まで悟ることができないため、その人がもっている愛はいつも不完全なものとなるでしょう。(466)

 父母は、自分が最も好きなものをまず与えたがるのです。最もいいものを与えたいのに与えられないのは、管理ができないからです。それを与えれば、もらった者が害を被るというのです。刃が研ぎ澄まされて、よく切れる刀を与えたくとも、与え損なっては、その人自体が滅び、その家族が滅び、全体が滅びるのです。それゆえ与えないのです。父母の心は、いつも最高のものを与えたがるのです。皆さんは父母のこのような立場を知り、見習って、父母が伝道に行きなさいと言う前に、本人が悟って出掛けたがる立場に立たなければなりません。(467)

 自分の子供に間違ったことを教える父母はいません。しかし、師は弟子に間違ったことを教えることもできます。怨讐の立場にある師であれば、滅ぼすように教えることもできるというのです。師には二種類あり得ます。兄弟にも二種類あり得ます。けれども、父母はただ一つです。いくら悪い父母だとしても、子供には正しく教えてくれるのです。(468)

 お母さんとお父さんが子供に勉強させるときに、「坊や、我が家はこんなに貧しいので、お前は母さんと父さんの運勢を変えるために勉強しなさい」と言う父母と、「お前が勉強するときは、母さんと父さんのことは考えずに、お前の兄弟と家庭のためにしなさい」と言う父母がいるとするなら、どちらの父母が善なる父母ですか。そして、「お前の家庭は考えずに、国のために生命を捧げて闘うために勉強しなければならない」と言う父母がいるとき、家庭のために忠誠を尽くしなさいと言う父母と、国のために忠誠を尽くしなさいと言う父母と、どちらが善なる父母ですか。「国のために忠誠を尽くしなさいと言う父母です」。それは間違いないでしょう?

 それでは、「お前は世界のために生命を捧げ尽くし、人間たちが果たせなかった聖人の道理を果たしなさい」と教え勧告する父母がいるとすれば、その父母と、国のために忠臣となりなさいという道理を教えてくれる父母のうち、どの父母がより善ですか。「世界のために生きなさいと言う父母です」。世界のために犠牲になりなさいと教えてくれる父母が、より善なる父母だというのです。これを皆さんは知らなければなりません。統一教会はこの観念がしっかりと備えられています。(469)

 皆さん自身は誰のものですか。父母のものであるとともに息子のものです。そうなれば、父母は誰のものですか。父母は子供のものであると同時に神様のものです。

 それゆえ皆さん自体は、まず神様のものとなり子女のものとなったのちに、皆さん自身のものとなるのです。そうなる時、初めて完成するのです。それゆえ、父母を敬うその法度が地上に残っており、人間生活に残っているのです。ここから父母を敬い、子供を愛せよという言葉が出てきたのです。

 父母がいなければ孤児です。父母の愛を受けてみて、子供を愛してごらんなさい。そうしてこそ「私」という人が四方をわきまえようとし、上も下もわきまえようとするのです。(470)

 皆さんは父母によって生まれました。それゆえ、生まれてから話すことのできる対象は誰でしょうか。父母です。そうではないですか。自分が生まれて一番先に話すことのできた人は誰でしょうか。お父さんとお母さんです。それ以外に誰がいるでしょうか。自分が呼ぶお父さんとお母さんは、昔、人間が本然の立場で呼んだお父さんとお母さんです。面白いことです。皆さん、お父さんとお母さんを千遍、万遍呼んでごらんなさい。お父さんとお母さんの味がどのようなものかを探ってごらんなさい。その味は無窮無尽でしょう。お父さんとお母さんを呼ぶのに、そのお父さん、お母さんが答えないでしょうか。呼べば答えるようになっています。なぜなら、主体と対象がそのようになっているからです。(471)

 新郎がいいか、息子・娘がいいかと言うとき、新郎よりは息子・娘がいいのです。夫婦は別れることもできますが、息子・娘とは別れることができません。族譜から取り除いたとしても、血筋を受け継いだため、別れることができないのです。新郎新婦は離婚して別れれば忘れてしまうこともできますが、息子・娘は時間がたてばたつほど、一層懐かしく会いたくなるのです。このような事実は、子供をもってみた人なら誰でもよく知っているでしょう。サタン世界で生きている父母たちも、それだけは否定できないでしょう。それゆえ、神様も息子・娘を好まれるのです。(472)

 統一教会の人々は、結婚をしても新郎新婦に会うのではなく、お父様を中心として三位基台を成すのです。新郎新婦の関係より、父母と子供の関係を一層重要視します。式をしたあとにも、新郎新婦はけんかを一回すれば別れることもできるでしょうが、お父様と息子・娘は絶対に別れられないのです。

 それでは、そのお父様が息子・娘にうまく出会ったのですか、息子・娘がお父様にうまく出会ったのですか。どちらですか。その息子・娘がお父様にうまく出会ったのです。このように息子・娘はお父様にうまく出会ったのに、それが大ばか者なら、息子・娘を見て喜ぶべきそのお父様はどれほどかわいそうでしょうか。

 神様が六千年の間失っていた息子・娘を捜し出したというのに、六千年の間この上もなく苦労して捜し出したその息子・娘がこの姿、このありさまだとは、神様の心情はいかばかりでしょうか。六千年の間苦労のつえを突いて捜してこられた神様が「むしろ、捜さなければよかったものを……」と言ってお嘆きになる「私」の姿となっていなかったかと考えるとき、皆さんは自信がありますか。(473)

 祝福家庭の皆さんは死ぬ前に、そして子供を生む前に、家庭的伝統を立てなければなりません。これは、子供を生んでから精誠を尽くそうとするのではなく、生む前から精誠を尽くしなさいということです。子女たちが、我が父母はある面でだけは「他のどんな父母よりも勝っている」と言うことができなければなりません。外的な面で不足すればするほど、ある独特な面での権威をもたなければなりません。

 子女たちが「天下に我が父母しかいない」と言うことができなければなりません。

 世界の人々が模範家庭を探して韓国を訪問するでしょう。その時に、見せてあげるものがあり、語る言葉がなければなりません。(474)

 皆さんは真の父母という言葉を使いますが、真の父母という名称は、息子・娘を愛してこそ可能なのです。苦労する時も、子供を愛する時も同じことです。霊界に行っている人々が「あのような父母はいない」と称賛しなければなりません。真なる父母は、とどのつまりは自分の息子・娘を苦労させてでも人類を愛さなければなりません。そうすれば、歴史的な主人になるというのです。皆さんの子供は神様の息子・娘、この宇宙の子女とならなければなりません。そうして、神様の愛の相続権をもたなければなりません。そうしてこそ、神様の苦痛を解いてあげることができるのです。(475)

 お父さんはどのようにならなければならないでしょうか。友の中の友とならなければならないのです。お父さんが現れれば、友を捨ててお父さんに飛びつかなければならないのです。そして、師の中の師とならなければならないのです。その次には、心情において中心とならなければならないのです。

 それゆえ、できるなら「私たちのお父さんは大統領よりも勝っている。一番です。神様の次だ」、このように考えなければなりません。「どんな友達とも取り換えられない私たちのお父さんだ。どんな師をくれても、取り換えられない私たちのお父さんだ。私は愛する妻を捨てるとしても、お父さんは捨てられない」。このようにならなければなりません。

 今、私たちの譽進を見れば、自分のお母さんほど大きくなったのです。今までどんなに遅く帰ってきても、部屋に訪ねていってキスしてあげたのです。できるならば、子供たちに対してそうします。物心がつくときまで、あるいは眠れないとき、お父さんが来て自分をこのようになでてくれれば、何かを感じることでしょう。そのような何かが必要です。このような生涯の伝統をつくらなければなりません。

 それゆえ、「この世の大統領なんか問題でなく、うちのお父さんが最高だ」、このようにならなければなりません。「先生なんか問題でなく、友達なんか問題ではない」、これでこそいいのです。(476)

 先生はどこかへ行って家に帰ってきたら、必ず眠っている子供たちの顔をなでてあげます。父母の役割を果たすのは易しいことではありません。そのようにして「うちのお父さんが私を愛するように、私も息子・娘を愛さなければならない」ということを、自動的に植え付けてあげるようにします。また、「うちのお父さんが世界で一番だ」ということを知らせなければなりません。(477)

 お父さんやお母さんがどこかに行って、いないとき、その子供たちが父母を慕いながら歌を歌うようでなければなりません。(478)

 幼い子供が外から帰ってきたとき、お兄さんやお姉さんがうれしそうに話しかけ笑ってあげても、もしお母さんがいないなら、その子供は「家に誰もいないの?」と尋ねます。実際には楽しく親しいお兄さんやお姉さんがいてもです。それはお母さんがいないからです。つまり、お母さんが愛の主体者だからです。愛の中心、中心軸がそこにあるので、みんな満たされて無心に行動することができるのです。(479)

 ここにいる中年以上の皆さんに「昔、若かった時に自分の相対を求めるに当たって、自分より劣った人を求めたかったですか、それとも自分より優れた人を求めたかったですか」と尋ねるなら、答えはその誰もが同一のはずです。劣った人ではなく、優れた人です。それは、東西の誰に尋ねても、そのような結論が下されるでしょう。さらには、愛する父母が子供に対するときは、その子供が父母である自分よりも劣ることを望む父母はいないのです。

 ある美男・美女が結婚をして、初めて赤ん坊を生んだのに、その赤ん坊の顔が父母の顔に比べればこれは何でもない、なるままになった顔だったとしても、その父母に対して「あなたの赤ん坊はあなたよりも出来がいい」と称賛すれば称賛するほど、その父母は気分がとても良くなるのです。それは間違いありません。(480)

 人は誰でも立派な息子をもちたがります。それでは、立派な人に育てるためには、どのように教育しなければならないでしょうか。ある人々は幼稚園から大学まで学校がたくさんあるので、そこで教育すればいいと言うかもしれません。しかし、教育は一生の間しなければなりません。精誠を尽くさなければなりません。父母が精誠を尽くして育てた子供に家門を任せるとき、すなわちその代身者として立てるときには、父母の心と一致させるようにして、その父母の因縁に従わせながら代身者として立てるのが常例です。(481)

 父母は子供が自分より勝るとき、幸福を感じます。それゆえ、女性として生まれて、自分よりも劣った息子・娘を生むことになれば、天の国に入る体面がなくなります。お母さんとお父さんが自分を愛する以上に、自分の息子・娘を愛することができなければなりません。また、子女もこのような考えをもつとき、自動的に愛の世界が現れ、天国が成ることでしょう。(482)

 父母の愛が永遠に持続するためには、その伝統を継承する誰かがいなければなりません。明らかに子女たちが相続者です。私たちが子女たちをそのような伝統の相続者となるように教育しなければなりません。そして、その伝統をより高い価値に向上させ得る方法が、私たちには必要です。

 各世代ごとに既存の伝統の重要さを認識しなければならず、その伝統を継承するだけでなく、未来に向かって発展させなければなりません。そのような伝統は、いつも自らの子女たちが自分たちよりももっと優れていることを熱望する父母たちのいる、真なる家庭でのみ出発できます。このような熱い望みをもった父母たちは、絶え間なく子女たちに注意を傾け、激励してあげることでしょう。そのような父母たちは、子女たちが彼らよりも立派になり得るその日を待ち焦がれながら、子女たちに可能な限り最善の与件を準備してあげようと精誠を尽くすことでしょう。このような父母たちは、子女たちの幸福のためにすべてのことを犠牲にするでしょうし、甚だしくは子女たちを父母よりももっと立派にしてあげる方向に喜んで強要したりもするでしょう。

 それに対して、子女の反応はどうあるべきでしょうか。子女はそのような父母に「あなたは独裁者です。だから私はあなたが嫌いです。私は干渉されるのは嫌だから、ただほうっておいてください!」と言うべきでしょうか。そう言うのが子女たちとしての姿勢ですか。でなければ「お父さん、お母さん! 私たちは父母の意志を悟ったので、父母の伝統を大切にし、最善を尽くしてその伝統を相続するだけでなく、それを発展させていきます」と言うべきでしょうか。(483)

 どのような父母も家庭の責任を任せるために、自分の代身者を立てるときは、自分よりも劣る者を立てることを願いません。なぜでしょうか。子供が自分より優れてはいけないと考える父母は、絶対にいないからです。また、国を中心として見るときも、やはり同じです。国の主権者は、自分の理想の代身者が現れることを望む主権者とならなければなりません。家庭においても国家においても、その誰に限らず、自分より立派で、自分よりもさらにあらゆるものを備えている後継者が現れることを望まなければならないのです。これは歴史の変遷を超越して、永遠に近い要求条件です。

 子供が父母より勝ることを望むのは、家庭の要求です。民族も同様です。それにもかかわらず、今までの主権者たちは、そうではなかったというのです。今までは、自分を凌駕し得る人がいるといえば、いつも首を斬りました。そのような悲惨な歴史がつながってきたのです。(484)

 その国が栄えようとすれば、どのようにしなければならないでしょうか。歴史を相続しなければなりません。年取った人を好む人は歴史を相続することができますが、相続するには幼い時から相続しなければならないのです。それゆえ、子供たちは昔話を好みます。幼い子供たちは、木でいえば新芽と同様なので、歴史的なエキスをそっくりそのまま受けなければならないからです。昔を好むことは、そのような意味に通ずるのです。

 鼻水をだらだら流しながら泣いている子供たちに「泣かないなら、昔話をしてあげよう」と言えば、すぐ泣きやんで「して」と言います。それは本当に好きです。お乳を飲む時間以外では、それが一番いいようです。なぜそうでしょうか。歴史を相続して受け継ぐからです。天地の道理がそうなっているからです。(485)


2、真なる子女の道理


 皆さんは父母の愛に報いなければなりません。父母が子供を育てるときに、父母は食べられなくとも、食べる物があれば自分のひもじいおなかをわしづかみにし、舌をかみつつ飢えを克服していきながら、それを子供に与えます。その愛は父母のために、そのようにすることのできる子供として育てるためのものです。

 父母がまず苦労の路程を行ってこそ、子供が父母を慰労することのできる苦労の路程を行くのです。父母のその苦労が元となるのです。皆さんがまず父母を慈しむことのできるそのような心情をもってこそ、皆さんの息子・娘たちもそうすることができるのであり、そういう息子・娘をもってこそ、善なる血族として残され得るというのです。自分自身だけを主として、父母を知らないとするなら、その人は絶対に孝子となることができないのです。

 それでは、どのような人を孝子というでしょうか。父母が子供のためにしたと同じように、子供が父母にすることができれば、その子供は孝子だと言うことができるのです。それは、天とも通じます。父母は中間で精誠を尽くして育てたにもかかわらず、その子供があずかりしらないと言うなら、その家庭は滅びるのです。授け受けする道理において、相対的基準が造成されてこそ返ってくるのであり、またそのようになって初めて、神様がその場に臨在なさることができ、天国を成していくことができるのです。

 それでは、天国に残され得る子供はどのような子供でしょうか。父母の愛情によって負った負債は自ら返さなければなりません。父母が年取ってもうろくしたときは、自分が幼かったときに大便を漏らし小便を漏らしたのをふいてくれたその父母の心ですべてのことに耐え、困難を感じないで父母に侍ってこそ孝子となるのです。分かりますか。(486)

 父母を知ったなら、その父母の前に何をしなければなりませんか。孝行をしなければなりません。孝子にならなければなりません。また、その父母を中心としてその国の忠臣とならなければなりません。その父母が国を率い、世界を率いてきたからです。忠臣となる前に孝子とならなければならず、孝子となる前に真の兄弟をおいて誇ることのできる食口とならなければなりません。食口は兄弟の間に讃揚することのできる圏を表した名前です。そうではないですか。

 それでは、孝子とはどのようにするのでしょうか。昔、男性と女性が結婚して夫婦となり、家庭を率いて父母の前に孝行した以上の孝行をしなければなりません。嫁ぎ娶る前には、真の孝子孝女となれません。真の孝子孝女には、結婚してこそなれるのです。嫁ぎ娶って夫婦となって、その父母の前に、夫の誠心に妻の誠心をプラスさせ、二人で父母を敬う誠心の土台を備えてこそ、真なる孝道圏が成立するのです。

 忠臣も一人でなるのではありません。統一教会でいう忠臣は、一人でなることができないのです。家庭を築いた夫婦だけが忠臣となることができます。それゆえ、皆さんが忠臣という立て札を立てるためには、孝子を生まければなりません。(487)

 子供が父母から「上手だ(=ほめ言葉)」と言われたとして、その基準を中心として行動し世渡りするのは愚かなことだというのです。父母が上手だと言うのは、父母が望む愛の圏内に子供を接近させるための、一つの方便として利用するのです。(488)

 父母がやれと命令をしてやるのではなく、自分の意志によってやり、父母の心を知って、その理想までも責任を果たそうと志願することのできる子供が現れなければなりません。そうして初めて、全人類のお父様として復帰摂理全体に責任を負った神様の秘密を相続させ得る基盤が、地上に立てられるようになるのです。(489)

 サタンは自分の誤りには気づかず、他人の誤りにだけ気づきます。しかし、神様は自分が誤れば、口を開くことができない方です。ですから、皆さんも家で何か問題があれば「ああ、私が間違っていました」と言いなさい。父母に食ってかかったり、ブレーキを掛けてはなりません。自分を主管しなければなりません。そうすればするほど、神様は共にいてくださるでしょう。(490)

 子供が父母に負債を負うまいと努力するようになるとき、父母もやりがいを感じます。(491)

 自分のお母さんとお父さんに世話になってはなりません。(492)

 皆さん! 父母は子供のために生命までくれました。子供も父母のために生命まで捧げなければなりません。生命は愛から生じたので、本質的な愛の前に生命線を犠牲として行くのが理論的な結論です。矛盾した理論ではないというのです。(493)

 愛の伝統の中で育った子女たちが、自分たちの父母が離婚を願うとき、それに対して無関心でいることができるでしょうか。絶対にそうできません。

 子女たちは皆、「私は父母の子女です。私は父母の結合体です。私のために父母はどんな妥協でもしなければならず、私にとって立派な父母となってくださらなければなりません。私には父母が必要です」と主張するでしょう。私たちは若者たちに、父母とは彼らの子女たちのために離婚する権利がないと、父母の責任を教え悟らせてあげなければなりません。

 父母は子女に対する愛ゆえに、離婚を考える権利すらないのです。若い皆さんが、この国で離婚反対運動を展開しなければなりません。(494)

 統一教会の皆さんには、離婚した父母たちを再び捜し出す仕事をしようという話も成り立ちます。神様の愛を中心として、皆さんのお母さんとお父さんを捜し出さなければなりません。(495)


3、伝統を相続してあげる父母となろう


 人は伝統の中で暮らすようになります。イギリスにある伝統が立てられたなら、国民たちはその伝統の中で相互関係を結びながら暮らすようになります。その中で愛したりもし、喜んだりもします。ところで、そのような伝統が立てられる普遍的な場は、死と生が交差する所です。言い換えれば、受難の場、苦痛の場で伝統が立てられるというのです。具体的に言えば、一国の伝統は、滅びるか栄えるかの場で、滅びずに残されるようになるとき立てられます。

 伝統は困難な場で立てられますが、個人のための困難な場ではなく、全体のための困難な場です。

 子供たちが父母の所有を相続するときも、同じことです。父母の精神的な遺産と物質的な財産を相続するためには、父母の苦労を理解し、父母の苦労よりも苦しいという場を克服できるとき、真なる相続者となることでしょう。真の相続者は、父母の相続物を消耗させる人でなく、全体のためにうまく活用しようとする人です。これは至極当然な事実です。(496)

 真なる父母は、愛の伝統を継承させようと心を砕くことでしょう。それは東洋人であれ西洋人であれ、関係ありません。種族を超越してすべての父母たちが立てようとするのが、まさに普遍的な愛の伝統です。人は誰でも自らの家庭を完全にむつまじく結合し、幸福で平和な生を営もうとします。

 東洋、西洋にかかわらず、すべての人々はそのような人生を渇望します。このような場合に、伝統は本質なのです。なぜなら、伝統だけが未来と連結されているからです。伝統の重要性さえ悟るとするなら、どのような犠牲を払ってでも、その子供たちに伝統を継承させてあげたいのが、全く当然な父母の道理なのです。(497)

 父母が、今後育っていく息子・娘に、父母の思想をどのように伝統的に植え付けてあげるか、これが問題です。神様には、復帰摂理のために六千年の間ご苦労されながら、サタン世界から御自身の子女たちをどのように選び出すかということが問題となるのと同様に、皆さんには、サタン世界でどのように息子・娘を教育するかということが問題です。このような二重の十字架を、皆さんは甘受しなければなりません。(498)

 先生が心配するのは、どうすれば統一教会の名を後世に残せるかということではなく、どうすれば先生の伝統を受け継ぐ人々を後世に残せるかということです。それゆえ、今まで伝統を重要視せよという教育をしてきているのです。(499)

 未来を豊かに暮らすとはどういうことでしょうか。「私」が豊かに暮らすことが問題ではありません。後孫を教育しなければなりません。後孫の前に手本を残さなければなりません。今まで、統一教会を指導する私自身もそうですが、皆さんも荒野路程を歩み、避難民として落ち着くことができませんでした。今から私たちは定着しなければならず、定着しようとすれば闘って勝たなければなりません。カナン七族を滅ぼしたように、闘って勝たなければ定着はできません。この民族を中心とした闘いで勝たなければなりません。(500)

 のちに、皆さんの子女たちが、「お母さんはその時に何をしたの? 伝道したの、逃げ回ったの?」と尋ねるとき、誇れるか、恥ずかしがるかをいつも考えなさい。学校が休みの時(=夏休みなど)、子女たちに皆さんの昔の伝道地を訪ねさせるのも、子女たちに教育となります。スクラップ・ブックを持って子女たちに教育するとしても、先生の立派な点を教育しなさい。(501)

 今後近い将来、皆さんの子女たちが「母さん父さんはその時何をしたの? 立派なことをしたの?」と尋ねるでしょう。そうすれば皆さんは「一度そこへ行ってみよう」と言って、子女たちを連れて昔の伝道地を訪ね、「あの時、母さんはお前を抱いてここに座り、父さんはあそこに座った。そして、あそこ、あの家で御飯をもらいながらみ旨を伝えたんだよ。だから、(あの家は)こんなに福を受けるようになったんだ。その時、母さんと父さんに反対した家はあんなに暮らし、助けてくれた家はこんなに暮らしているんだよ」と、教訓を与えることができなければなりません。(502)

 子供たちが「うちの父母はいくら難しいことがあっても、それを実行する。時間を超越している。また、環境を超越している。貧困を超越している」と言うことのできる父母とならなければなりません。また、子供たちが父母の命令ならどのような環境でも行動することのできる伝統を、家庭に立てなければなりません。そうして、子供たちが「この道は父母が行った道だから行かなければならない。すべての与件で見るとき、実行できることではないか」と言えなければなりません。また、夫婦が父母のためにすることを、その子供たちにもまねさせなければなりません。そして、後世たちを教育させ得る基準を立てなければなりません。(503)

 み旨のために生きて傷つくことは、のちのちまで自分にとって教育となり、後孫にも立派な教育となります。(504)

 皆さんが精誠を尽くして一文、二文集めたものは、宇宙を与えても取り換えることのできない愛が、そこに宿るのです。そのお金を使う妻が、とんでもないことを考えることはできないというのです。皆さんは、後代の自慢の種とならなければなりません。我が父母が天の心情をもってみ旨のために生きたということを知るようになるとき、刺激を受けないはずがないのです。

 子女たちを教育するとき、お前たちはお母さんお父さんのようにならなければならないと、教育できなければなりません。皆さんが伝道期間中、食べられず貧しくとも、ぼろぼろの服を着たとしても、恥ずかしいことではありません。後代にとって、千金万金を与えても買うことのできない教育資料となるでしょう。(505)

 昔、先生は興南刑務所にいましたが、労働しながら着た服以外は持って出てこようとしませんでした。肥料工場で強制労働するとき着た服なので、塩酸アンモニアが染み付き、ひざが破れて継ぎ、その上をまた継ぐ、継ぎはぎをしてぼろになった服。そのうえ臭いがしてひどいものでした。それは、乞食の服の中でも最たるものです。あかが染みて、扱い損なえば粉々になるのです。

 それは統一教会で歴史的な記念物となるものでした。それを捨てることができず、布団の綿を抜き、その中に巻いておきました。

 北韓から出てくるとき、持ってきた財産といえば、ぼろの包み一つ、それを興南から平壌まで背負って出てきました。そうして、平壌で、ある食口にあなたが持っているすべてのふろしき包みはみんな捨てたとしても、それだけはよく保管しておくようにと言いましたが、持って避難しているうちに失ってしまったというのです。

 それ一つだけ持っていれば、その時の先生を説明する必要がありません。天下を与えても取り換えることのできない貴い宝物を、億千年、口を開いて雄弁に語ったとしても感銘を与えられないかもしれませんが、それだけ持っていれば感銘を与えることのできる、そのような宝物を失ってしまったことを考えると、今も胸が詰まります。同様に、み旨を中心とした公的な生活をする時に経験したことに対して、多くの材料をつくっておかなければなりません。(506)

 苦労は素晴らしいことです。ですから私たちは、千秋万代の後孫が誇ることのできる伝統を立てておかなければなりません。(507)

 今後、皆さんが後代において社会に出て語るとき、教材となり得る骨子のような伝統を立て、何も言わずに教育できなければなりません。そのように考え、この期間がどれほど貴いかを知って精誠を尽くさなければなりません。(508)

 皆さんはどう考えるか知りませんが、我が祝福家庭の息子・娘たちが、三代をどのように先生と共に暮らせるかということが大きな問題です。分かりますか。三代が共に功臣となるなら、天下にない、あの天上世界の功臣となるということを考えてみましたか。

 ですから、自分の息子・娘たちを抱いて出てきて、今から教育し、そのような思想を投じるために精誠を尽くさなければなりません。(509)

 先生の年がもう六十に近づいてきました。私は死んでいきますが、伝統を残さなければなりません。皆さんを、私より熱烈な一生をもって立たせ、闘い前進する勇士にしようというのが先生の考えです。父母が子供に伝統を継がせるためには、そのままほうっておいてはなりません。苦労をさせてでも、伝統を残せるようにするのが父母の責任であり、愛です。それゆえ、苦しくとも、先生は皆さんを犠牲の道に追い立てるのです。(510)

 神様のみ旨の道とは何でしょうか。個人を犠牲にして氏族を救うための道であり、氏族を犠牲にして民族を救うための道です。大韓民国が天の前に立てば、大韓民国を世界の前に祭物にして、世界を救おうとするのがみ旨の道です。世界を犠牲にして、あの天上にいる我が先祖たち、霊人たちまで救うためのものです。霊界と肉界を犠牲にして神様の解放を願うのが、今日、堕落した悲しい歴史であることを私たちは知りました。このような立場で召命を受けたので、私たちは死ぬとしても行かなければなりません。

 行くには、そのまま行ってはなりません。伝統を残して行かなければなりません。何の伝統を残さなければならないでしょうか。血涙を流しながらも、人類を愛するために苦労したという伝統を残さなければなりません。

 その次には何を残すべきでしょうか。後代のための教育をしなければなりません。そうして、いい後孫を残していかなければなりません。それゆえ、皆さんが子供を生むのは、「私」のためでなく、未来の世界のためであるということを知らなければなりません。

 伝統を残さなければならず、その次には善なる立派な後孫を残さなければなりません。小心者の後孫ではなく、自分より強く大胆で立派な後孫を残さなければなりません。そのようになれば、その国は滅びるべき運勢圏にあるとしても滅びないでしょう。滅びるべき立場で新しい圏が立てられるのであり、追われる立場で新しい勝利の旗が付いてきているという事実を、皆さんは知らなければなりません。

 残すべきその伝統は、大韓民国だけでなく、万民が喜ぶことのできる伝統とならなければならず、善なる後孫をも残さなければならないというのです。これができないとき、天の前にもっていくべき礼物がなくなります。(511)

 夫婦が死ぬとしても、天道は残していかなければなりません。その家庭は何のためにあるのでしょうか。自分の子女のためにあるとしても、まず神様のために、国のためになければなりません。それが結局は、自分の子供のためになる道なのです。それでこそ、子女たちが神様の運勢と世界の運勢と共にあり、国の運勢とも共にあり得るからです。ですから、祝福を受けて生んだ貴い子女たちが苦労をするとしても、その子女たちに拍子を合わせるのではなく神様と世界と国の運勢に拍子を合わせなければなりません。(512)

 皆さんは一代のために生きる家庭になるのではなく、世界と永遠のために生きる家庭とならなければなりません。また、愛の土台を広げ、万民の心情を集めてろうそくの火をともし、香をたき手を合わせて祈り、天と地、万民と共同の因縁を結んで生きて死のうという家庭とならなければなりません。そのような家庭となれば、どのような患難が近づいても、神様がその家庭を保護してくださることでしょう。天が種子として残しておくというのです。(513)


4、子女に対する父母の愛


 神様の愛を受けられる立場はどこでしょうか。愛は一つです。ですから、その立場もまた一つしかないのです。愛を受けられる立場があり、愛を受けられる道があるなら皆さんは行きますか、行きませんか。それが何かといえば、父母の前にある子供の立場です。(514)

 父母が子供を愛する愛のその起源的な動機はどこから始まったのでしょうか。男性と女性を中心とした愛は変わる愛なのに、そこから生まれた息子・娘を中心とした愛はなぜ変わらないのでしょうか。これはその男女を中心としてなされた愛ではありません。変わらない愛は、横的な夫婦の因縁によってなされたものではなく、縦的なある流れの起源を通して関係するようになったものであるに違いありません。そのような縦的な主体は誰でしょうか。そのような主体を私たちは神様と言うことができます。

 その愛は、夫婦が勝手にできる愛ではありません。その愛の前に、「私」がしたければし、したくなければしないというような立場に立つことはできません。それは、切ろうとしても切ることができません。横的な因縁をもっては、どうタッチすることもできません。それゆえ、父母が子供を愛するその愛は、永遠不変です。

 今日、民主社会において、個人主義思想が膨脹したこの時、子供たちが語る言葉は新時代と旧時代では次元が違うと言います。子供たちはそのように変わりましたが、その父母の心は、旧時代だとか新時代だとか唱えるとしても、「お前がそうだから、私もそうでしょう」とはなっていません。父母の愛はそうではないというのです。それは動物でもそうです。子を愛するにおいては、自分の生命を凌駕するのです。(515)

 父母の愛がなぜ貴いのでしょうか。これは縦的な愛ですが、縦的な愛で終わるのでなく、横的な愛が宿るように努力するので貴いというのです。父母の愛は、子女が誤りはしないかと、生活を通して子女の道しるべになろうという内容を備えています。

 それは何でしょうか。縦的な愛は必ず横的な愛を創造するようになっています。父母の愛もこのような原則によって、神様の愛を中心として縦横に集約され成り立ったものです。このように縦横の要素に責任をもったのが父母の愛なので、自分の貴いものをそのまま子供に与えようとするのです。そのまま受けさせ、縦横に広げようとするのです。愛の本質はそのようなものです。(516)

 お母さんの愛やお父さんの愛は、人間世界において最も偉大な愛の中の一つです。この世で大きな位置を占めている人も、自分の子供の前ではどうすることもできません。父母の愛は子供の前において無条件的であり、無限定です。父母の愛は愛の母体だからです。それゆえ、父母の愛を受けられずに成長した孤児たちは、何よりも父母の愛を渇望するようになるのです。

 孤児たちは、寝る家があり、食べる物があるとしても、彼らの胸の中にいつも物足りなさと恋しさがありますが、それが何かといえば、父母の愛です。ですから、彼らが孤児院でいくら楽しい時間を過ごしているといっても、それは心から幸福な時間ではないことでしょう。幼い孤児たちが歌を歌い、踊りながら遊ぶ時も、自分の父母を思って恋しがり、眠る時、目を覚ましている時にかかわらず、父母に対する愛を恋しがるのです。それは、すべての人間が愛の懐で成長するようになっているからです。

 何千年か前に生きていた父母が子供に対する愛も、今日の父母が自分の子供に対して注ぐ愛も同じものです。歴史の変遷の中でも変わらないでいるのは父母の愛です。(517)

 何よりも父母の愛が初めなのです。その愛を動機として愛され円満に育った人なら、愛がどのようなものであるかということが分かるようになります。お父さんとお母さんを愛しているので、父母の間の愛がどのようなものであるかということを、父母を通して学ぶようになります。それが子供たちには二つとない喜びとなるのです。愛を体恤することは、父母をもった立場でなくては成し得ないことです。

 一人の息子は、父母を通して男性の愛を受けることができ、女性の愛も受けることができます。お父さんは世界的な男性を代表したものであり、お母さんは世界的な女性を代表したものです。単にその時代だけでなく、歴史をおいて見れば、彼らは数多くの歴史的な男性であり、歴史的な女性です。誇りたい女性がいるとすれば、それはお母さんだと言いたいのであり、父親の立場も同様です。そのような立場が父母の立場なのです。

 この世に優れた男性がいるなら、自分のお父さんと比較するようになるのであり、優れた女性がいるなら、そのお母さんと比較するのが子女の立場です。また、子供の立場から父母に対する心も、やはり同様です。愛することのできる心があるというからには、最高の心情を注いで父母に対したがるでしょうし、どのような時でもそのように対してあげるのではないですか。このようなことを考えてみるとき、父子の関係は宇宙の根本であらざるを得ません。

 喜びの根本がそこから芽生えるでしょうし、悲しみが始まるとすれば、それ以上の悲しみの場がないということを、私たちは結論づけることができるのです。父母に対するその喜びは、世界を代表した喜びとならなければならず、子供に対する喜びは、父母においては世界を代表した欲望を充足させる場であらざるを得ません。他の問題をすべて忘れてしまったとしても、父母として幸福に暮らすために望むことはただ一つ、子供と共に暮らしたいということです。(518)

 私たちが愛というものを中心として見るときに、父母が子供に向ける愛の限界点はどこでしょうか。父母は子供が幼い時にだけ愛してあげようとするのでなく、生涯を通じて、ひいては永遠を通じて愛そうとするのです。愛することによって生きがいを感じることができ、愛することによって一層価値を感じることのできる父子関係が結ばれるなら、無限の力と無限の刺激と無限に新しい何かが、その関係圏内から発生するというのです。そのような因縁が備わっていない父子の関係は、ある一時に必ず中断されてしまうのです。(519)

 皆さんは愛する父母の子女として生まれました。父母の愛を受け、養われ育ってきたことを(私たちはみな)知っています。父母はその子供が年取ろうと若かろうと、いつもその子供を愛するようになっているのです。

 もし、七十歳になる息子がいるとしても、昔自分が育てたその基準をもって、いつも子供を眺めるのが父母の心なのです。年齢は多くなっても心情は少しずつ近くなり、息子に対する責任が大きくなるほど、息子を慈しむ心が一層広くなることを、私たちはこの世で子供に対する因縁を見るときによく分かるのです。だから、父母のいない人はかわいそうです。ひいては孤児とも言うのです。

 孤児がなぜかわいそうでしょうか。愛を受けようとしても受ける道がないからです。また本当の意味で愛することのできる道をももつことができません。孤児が普通の人と違うのは、生まれながらにして受けるべき父母の愛を受けられず、物心がつくころから父母を思慕し、同情し、欽慕することのできる心情的因縁を感じることができない点です。ですから、愛を中心として受けることができ、与えることができるその道は、父母が最初なのです。(520)

 子供に対する父母の愛は、そのまま生活的な因縁だけを通して生じる愛ではなく、骨髄からわき出る愛なのです。忘れようとしても忘れることができず、切ろうとしても切ることのできない愛の心を父母はもっているのです。だから、生命の余力が残っている限り、父母は子供を愛するのです。子供と生命の因縁が結ばれているということを感じるとき、父母からは子供を愛する心が自然にわき出てくるのです。あの子は「私」の息子だから愛そうという、意識的な心が先に立って愛するのではなく、その心よりもその因縁よりも先立った自分の生命力が子供と連結されているため、愛すまいとしても愛さずにはいられないというのです。このような事実は、私たちが家庭生活でよく感じていることです。(521)

 ある父母に息子が四人いるとすれば、その父母がその四人の息子に愛の差をつけるでしょうか。長男だからこれくらいの愛を与え、弟たちはそれぞれこれくらいの愛だけ受けなさいと、その差をつけるかというのです。

 お乳を飲ませる時、子供たちに差をつけて飲ませる父母はいません。それは、子供たちに血と肉を供給してあげることです。ですから、すべての子供たちにいちいち供給してあげるようになっています。お母さんは乳飲み子がお乳を吸うのを見て喜びます。子供がお乳を飲みながら、お母さんの首をつかむのも、とても喜びます。お母さんは、子供に自分のお乳を与えながらも喜ぶのです。お乳を与えるといっても、きょうまではいくらで、明日からはいくらだと、お金を請求するお母さんは世の中にいません。

 もう一つ面白いのが何かといえば、そのお母さんの顔に女らしいところが一つもなく、顔も醜いといっても、息子・娘を愛するときは深刻です。お乳を飲む赤ん坊に対して愛するときは、誰よりも深刻だというのです。自分の赤ん坊を愛するにおいて、誰に負けるでしょうか。負けないというのです。(522)

 いくら父母が苦しい立場にいるとしても、愛する子供が「母さん、おっぱいちょうだい!」と言えば、胸元を開けて愛する子供にお乳をくわえさせるのです。事実、子供は父母が苦労するのに、乳首をくわえて吸っているので、盗みをするのと同じですが、その父母は、子供がお乳を飲むのを見るだけでもいいのです。真の愛の圏内に入っているということは、まるで台風圏に入っていて、その台風の影響を受けるのと同じです。(523)

 父母は愛する子供のために骨髄が溶けるほど苦労をするとしても、疲れを知らないのです。なぜでしょうか。愛するからです。自分の血肉を削り与え、その値打ちがいくらなのか帳簿に記録しておきますか。しないでしょう。むしろ、根こそぎ与えることができずにもどかしく思うのです。

 ここのおばさんたちもそうでしょう? 赤ん坊にお乳を飲ませるのに、飲まなければなぜ飲まないかともどかしがります。それは、実際にはホースを持ってきて当て、自分の血と肉を抜いて持っていくことではないですか。考えを変えれば、泥棒の中で最高の泥棒ではないですか。それでもお母さんは、赤ん坊がお乳を飲まなければもどかしがるのです。なぜそれほどにまで好むのでしょうか。愛の法度だからです。(524)

 自分の胸元に吸いついている赤ん坊に父母の愛を感じさせ、また赤ん坊を抱くことによって自分の幸福よりも天地が平和の境地に入っていくのを感じ、全体の雰囲気によいものが芽生えるということを感じるとき、その赤ん坊がいくら吸いついても、さあさあ飲みなさいと言える雅量が生じるのです。それゆえ、父母は子供を無限に愛することができるのです。ある面から見れば、その赤ん坊がホースを当て、血肉を吸ってもっていく怨讐だというのです。しかし、そのように考える人はいないのです。それはなぜかといえば、お母さんとしての新しい望みの刺激、夫に対する新しい刺激、その赤ん坊によって見いだされる新しいことが多いからです。そのようなときには通ずる何かがあります。その境地は、誰かが思うままにすることができないのです。それはどういうことかというと、絶対的な愛を中心として、神様を慈しみ、全体を慈しむ愛をもって誓う立場は、何よりも強い基準となるというのです。その基準に立たずに、言葉でだけ聞いて、見て、約束するのはいけません。いつでも変わり得るのです。東西南北は異なり、春と秋は異なります。春に植えたものが秋の季節になっても、その生命の因縁をそのまま受け継いで、正常な生命を中心として完全に一致する生命の種として残されるときは、春夏秋冬を包括できる基準をもつことができますが、それが欠如すれば、全部分散されてしまうのです。(525)

 子供をたくさん育てた父母は、何だか知らないけれど愛の心情が広く大きいのを私たちは垣間見ることができます。子供をたくさん育てる人は、悪い怨讐を討つことができないのを、自ら感じることのできる人となるのです。それほど広い土台に立っており、広い法度をもって際立っているのではないでしょうか。最高の愛の主体たる天と「私」が関係を結ぶにおいて、今までの個人と家庭と氏族と民族と国家と世界をすべて飛ばして、「神様と私だけが愛し合おう」このように考えやすいのです。天はそれを望むでしょうか。私一人だけを中心とした、そのような道を望むでしょうか。天が父母なら、その父母は公平な心をもち、主体的な立場で共同的な愛を分配したい心をもっていなければならないのです。そのような心があってこそ、十人なら十人の父母ではないでしょうか。これは当然の話だと言わざるをえません。(526)

 父母は自分の息子・娘のために働きます。自分が食べるために仕事をする父母はいません。子供の多い父母が農村で、あるいは工事現場で骨の折れる仕事をすること、貧しいけれど背負子を担いで草取りをし、畝間あるいは田んぼで草取りをするのは、千年万年、子供の幸福のためなのです。父母の額から流れる苦労の汗水は、自分のためのものではありません。その汗の結実が、子供を愛する心とともに絡み合うようになれば、そこには新しい創造の歴史が始まるのです。いくら畑で草取りをし、現場で背負子を担いでも、その足取りには新しい歴史が宿っているのです。(527)

 父母が子供に「おい、なにがし、苦労したことを少し話そう!」とは言いません。「私がお前のためにこのように涙を流したのだから、お前も一度流してみて……」そうではありません。そのようなことをすべて超越するのです。これを統一化させ、帰一させ得るものは、ただ父母が子供を愛する心、子供が父母を愛する心をもってのみ可能なのです。それは否定できないのです。人間が金力をもって、人力をもってすべてやってみましたが、到達すべき所には及ばなかったというのです。このような凄絶な絶望の壁にぶつかった運命を眺める私たちにおいて、この問題を克服することのできる一つの案あるとすれば何でしょうか。「お前と私と話してみよう」という事由をもってはだめでしょう。(528)

 妻がいて愛したというならば、それだけで終わるのではありません。妻を愛する内容をもっているなら、その愛の内容を、子供がいれば、子供への愛にプラスして愛したい心があるのではないでしょうか。それでは、子供を愛する心があるなら、その心が妻を愛する心よりも低い位置で愛したいでしょうか。そうではないでしょう。愛する子供だから、妻に愛を感じた刺激的な本質を一層加重して、新しい面で子供を慈しみ、愛したいのです。愛するにおいては、過去に妻を愛した真摯な立場より薄らいだりはしません。一層真摯に、深い立場で、より一層価値ある愛の内容を追求しながら愛したいという欲望があるときは、そのような道に行くことを誓うのではないでしょうか。(529)

 この世でも還暦を越えて生んだ息子、すなわち晩年に得た子、七代続けての一人息子が死ぬと考えれば、絶望の中の絶望でしょう。若ければまた生むこともできますが、晩年に得たその七代目の一人息子がうまく育たずに死ぬとするなら、七代圏を継承しようとした先祖たちの心はどれほどでしょうか。

 先祖たちは自分の後孫、自分の血筋を通して世界にない万福を受けたがります。ですから、子供が死ぬなら、その父母は後を追って死にたいでしょう。ところで、アダムは七代目の一人息子どころではない、永遠の一人息子です。一人しかいないアダムを中心として家庭を築かせ、天地の大業を立てようとされたのに、そのアダムが死んだのです。神様の心はどうだったでしょうか。このように事が失敗したとき、どうだったでしょうか。「私」が結婚したいのに結婚できないときの切なさと比較できるでしょうか。父母は千年万年共に暮らしたいのに、七代目の一人息子が今悪い病気にかかり、命が寸刻を争っているとするなら、その父母の心情はどうでしょうか。皆さんの息子・娘が今、息を引き取ろうとしていると一度想像してごらんなさい。父母は声を張り上げますか、声を張り上げませんか。その父母は、死にゆく子供を生かす方法があるなら、体面と威信をすべて捨ててその方法を使うでしょう。ある怨讐がいて、彼の永遠の僕となるとしても、自分の息子・娘を生かすことができるなら、父母はそのようにするでしょう。それが理解できますか。その子供を生かす方法があるとするなら、父母は威信や体面を考えないのです。(530)

 夫が死の間際にいて再び生き返るなら、その妻は生き返った夫を、前よりも千万倍も貴く思うでしょう。それだけでなく、愛する子女が死んだのに、再び生き返る可能性があるなら、その父母は子女を生かすために自分の死も辞さないでしょう。その父母は、死んだ子供が再び生き返って出会う喜びと、一身が犠牲となる悲痛さを比較して見るとき、自分自身が犠牲となることよりも、子供が生き返る喜びのほうが強いというのです。このような力は、ただ愛が内包された立場でのみ成立するのです。皆さんは、日常生活を通してこのようなことを感じたでしょう。(531)

 今日、私たちの理念を知る人は、息子と嫁が互いに愛し合うのを喜び、讃揚しなければなりません。自分の息子を嫁が好めば、踊りを踊りながら喜ぶべきなのに、なぜ妬み嫉妬するのですか。息子が生まれた日の喜びの中には、息子に対する愛とともに嫁に対する愛もあるというのです。二人がかわいく並んで愛し合うのを見るとき、それを神様の立場でいえば、神様はアダムとエバが互いに好きになるのをごらんになられ、「やあやあ、通行の邪魔になる。どけ!」と言って嫌がられるでしょうか。高速道路上だとしても「いくら交通のじゃまをしてもいい!」と、神様自身がよけていくようになっているのであり、押しのけていくようになってはいないのです。(532)

 全人類が求めていくべき最後の真の愛の定着地、言い換えれば、神様の真の愛の基準点を私たちはどこで探し出すことができるでしょうか。

 新しい「父母の愛」、これがまさに人類が探していくべき最後の愛の定着地であらざるを得ません。「真の父母の愛」これによって人間は、初めて永遠不変で絶対的な真の愛の基準点を探すことができるのです。

 ここから人間的な愛が次元の高い愛に昇華されていくことができ、また天の真の愛と連結され得るものだと私は思います。(533)


5、子供は父母の愛を受けなければならない


 子供として生まれたなら、父母の愛を百パーセント受けなければなりません。そうでなければ不安が生じるのです。皆さんもそうではないですか。父母が子供を愛するとき、その父母の愛の包みを数字で表示してはいけませんが、父母が一千ほどの愛をもっていながら、子供に九百の愛を与え、百ほどの愛は残しておいたとすれば、いくら愛を受けたとしても子供は愛されなかったように思うのです。九百の愛に、残り百ほどの愛をすべて満たしてあげて、初めて愛を受けたと満足感を感じるというのです。

 皆さんがこれから結婚し、花嫁や新郎となる人が「あなた、私を愛してるの」と尋ねたとき、「九九パーセントだけ愛してやる」と言ってはいけません。「百パーセント愛してる」と言わなければならないのです。それはなぜかといえば、愛だけが全部の因縁を結ぶことができ、愛だけが全体を与えることができ、全体を受けることができるからです。全体を与え、全体を受けてこそ一致するのです。そうなってこそ一つとなるのです。ここで統一ができるとするなら、完全統一ではないかというのです。(534)

 アメリカでは、生まれたばかりの赤ん坊が病院の育児室から出てくれば、家に来て、すぐに他の部屋に移ります。赤ん坊たちは、父母と共に眠ることはあまりありません。だから父母の愛のぬくもりを感じることができません。また、母乳を飲ませることもあまりありません。父母と共に眠らなければ、子供たちは愛玩動物とあまり異なりません。皆さんの子女をそのように扱ってはなりません。

 二、三人の子供たちが父母のもとに来て共に寝るのは美しい光景なのです。それはいいことです。彼らを受け入れなさい。もし場所がなければ、一方の頭はこちらに、ほかの頭は反対にしてお休みなさい。もう少しうまく配置してごらんなさい。子供たちは体の大きな父母の間で眠るのは不便なようですが、気分がいいのです。子供たちは父母の体温を感じなければなりません。(535)

 現代社会で青少年問題が、大韓民国だけでなく世界的に物議を醸し出しています。それでは、彼らがそのようになった動機がどこにあるでしょうか。その動機の八〇パーセント、九〇パーセント以上が情緒的な問題にあります。それはよい父母をもつことができないところから、よい兄弟をもつことができないところから、男女関係で欠如した事情などが原因となって、そのような結果をもたらしたというのです。このような事実をおいて見るとき、このすべての病弊を是正することのできる基準となるものは何でしょうか。これはやはり家庭にあるというのです。(536)

 今日、青少年問題であるとか、すべての社会問題の内容を暴いてみると、その由来が全部そこから始まったのです。そうだといって、彼らに父母がいないのではありません。父母がいるにはいますが、父母の心が息子・娘の心深くにないというのです。言い換えれば、父母の情が子供たちの骨髄に深く刻み込まれていないのです。ですから、そこから父母と子供の間に溝が生じるというのです。(537)

 心に愛をもたずに憎しみをとどめながら成長すれば、大きくなっても事故を起こしやすいのです。気立てが優しく善良な乙女は、嫁に行っても、いい環境をつくることができますが、気難しくて意地の悪い乙女は、嫁に行けば不幸になりやすいのです。私たちはよく、自分の不幸な環境を前にして、なぜ私だけが不公平に生まれたのかと、恨む人をたくさん見かけます。けれども、それは不公平でそうなったのではなく、自分の先祖が誤ったのを償うために蕩減の祭物としてそのように生まれたということを知らなければなりません。


6、愛のむち


 ヨハネの黙示録を見れば、冷たいか熱いかでなければならず、生ぬるくてはだめだとあります。愛の世界で生ぬるい態度はだめなのです。愛の心をもてば、むちを持ってもいいというのです。子供を育てるとき、愛を与えたのに失ってしまったときは、冷たく対してあげるべきときもあります。皆さんが誤ったとき、しかってあげなければ分別力を失うようになります。先生は優しそうに見えても、一方では恐ろしいということを知らなければなりません。悪に対しては無慈悲です。しかし、善に対しては、何千度の溶鉱炉のように熱いのです。(539)

 最近、学校で先生が学生を殴ったという理由で監獄に行ったという話を聞いたとき、「アメリカはもう滅びたな」という思いをもちました。自分から進んで「殴ってでも善なる方向に導いてください」と言わなければなりません。皆さんが先生に殴られて不平を言いますか。

 「統一教会員になったことだけでも憤懣やるかたないのに、その上殴られる」と不平を言いますか。

 韓国のことわざに「憎い人にはご飯をもう一杯あげ、かわいい人にはむちを取れ」という言葉があります。正しい伝統を継がせるためには仕方がありません。父母の愛のむちを通して痛さを感じ、その愛の前に涙を流すことのできる人とならなければなりません。(540)

 愛のためにはむちまでも貴いのです。愛の中でなされるものは、むちであれ、苦痛であれ、受難の道であれ、全部が貴いのです。愛だといっても、いいことだけいうのではありません。(541)

 世の中でも子供が疲れているといって勉強するなという父母は、本当に子供を愛する父母ではないというのです。むち打ってでも、眠らず勉強しろと言わなければなりません。なぜそうでしょうか。今うまく行かせようというのでなく、将来うまく行かせようというのです。父母は子女の未来に大きな夢をかけてそうするのです。(542)

 自分の子女をより良い道に導くためにたたくことだとか、または友達が悪い所に行こうとするとき殴るのは、善であり、愛です。このようなすべての原則を知って、個人からすべてのことが善なる基準と一致しなければならないのに、まだそうできないことを知らなければなりません。(543)

 子女を生み育てるにおいては、真の愛をもって育てなければなりません。そうして、家庭が一つとなり、家庭を中心として国を愛せば、彼を愛国者だと言います。それゆえ、父母は子供の成長を見守りながら教育をし、正しく成長せよと「愛のむち」を取ることもあります。間違ったという理由で父母にしかられたり打たれたといって、不満をもったり抗議してはなりません。それを教訓としてひそかに自重しながら反省し、奮闘努力して間違った点を直していくべきでしょう。そのような人は正しく成長し、神様がおられるセンターに接近していくことができるでしょう。(544)

 愛をもった父母にむち打たれたり、しかられたとしても、その子供はうれしいのです。(545)

 この前、先生はある人をしかったことがあります。涙を流しましたよ。その人のことが記憶に残っています。次回もしかられて涙を流すかどうか見なければなりません。そのように三回、四回目も涙を流せば、「ああ! 私はその人にはしかれないな」このように考えるでしょう。蕩減条件の道はそのように行くのです。父母が子供をしかりとがめるのは憎しみではありません。深い愛情ゆえにそうするということを皆さんも知っていると信じます。

 愛というものを中心としてむちが行き交ったとしても、たたいてから痛哭する父母に対して、子供が食ってかかって悪口を言うことができますか。だから、調和の両面的価値をもったものが真の愛です。死んでも、また死のうとするのが真の愛です。(546)

 皆さんが家で、あることで妻に大声を出しても、妻は「はい」と答えます。ほかの誰がそのようにするでしょうか。自分の妻だから「はい」と言うのです。もし、隣近所のおばさんを見てしかりつけるなら、明らかに腹を立てるでしょう。ですから、自分が関心をもってその人を好きになれば好きになるほど、深く干渉するようになり、とがめたとしても良心の呵責を受けないのです。そうでしょう?

 人が親しくなればなるほど、賞金を与えるのではなく、「こいつ、なぜそうした」と言って、むしろひどい目に遭わせるようになります。隣近所の青年であれば、しくじっても知らないふりをするでしょうが、自分の子供であれば、「ふくらはぎをまくれ」と言って、たたきながら「こいつ、それは正しいことか、間違いか」と言うようになります。それはたたくよりも、思ってあげるほうが多いからです。しかし、思ってあげる以上にたたけば、それは罪です。自分が思ってあげるよりも多くたたけば怨讐となります。怨讐の中でも大きな怨讐になるというのです。(548)

 夫が離婚をしてから妻をたたけば、大変なことになるでしょう。そのような人を見ましたか。そのようにしては、刀で刺されます。離婚する前には、妻が夫をぞんざいに扱ったと言いながら夫が妻をたたけば、妻が悪口を言われますが、離婚した後であれば、夫が悪口を言われます。愛するといっても、棒を手にしたことよりも、もっと愛することができない立場でたたいては、全部崩れていきます。けれども、それ以上愛する立場でたたけば大丈夫です。つまり、十ほど愛して五ほどむちでたたけば、五ほどの愛が残っているのでありがたく思うというのです。(549)

 不良のような子供を悔い改めさせるためには、子供が受け入れなくても、昔の愛よりももっと大きな愛をもって愛せば、悔い改めて立ち直ることができます。しかし、子供に対して自分が育ててきた功を誇りながら、とがめれば、三回くらいで、その子供はふろしきをまとめるのです。けれども、その子供に対して骨髄が溶けるほどの涙を流してより大きな愛をもって愛するとき、その子供は立ち直るのです。より大きな愛は小さな愛を全部消化統合させることのできる主動性があるのです。(550)

 昔、6・25動乱が起こったとき、避難する途中で私は次のようなことを多く見ました。お母さんが五歳くらいの子供をおぶって立っていましたが、物心がついていないので、戦争が起こって避難するのも分からず、どこかに行けると鼻唄を歌いながらうれしそうについて出発するのです。ところがおぶっていたお母さんは力がなくなって子供を下ろして歩かせました。すると、子供は「お母さん、嫌、私はおぶってくれなきゃ行かない。おぶって、おぶって」と言うのです。

 このようなときに、子供を愛する父母はどうしなければならないでしょうか。おぶってあげなければなりません。それが正義です。しかし、おぶってあげれば二人とも死ぬのです。それでは、どうしなければならないでしょうか。歩かせなければならないのです。歩かないと言えば脅かし、ほほをたたいてでも行かせなければならないのです。そうして避難所まで行かなければならないのです。

 皆さんがその父母ならどうしますか。捨てて行きますか、殺しますか。でなければ、強制的にでも引っ張って連れていきますか。どのような方法が一番いいでしょうか。捨てることでしょうか。それが嫌ならどうしますか。どのようにしてでも引っ張っていかなければなりません。耳をつかんで切れたとしても、鼻の穴に鎖を通してでも引っ張っていかなければなりません。

 それが本当の愛です。そのようにして無事に連れて到着すれば、自分の友はすべて死んだのに自分だけ助かった、「ああ、お母さんありがとうございます」と言うのです。ところが、耳が裂けたことが美人の顔に傷となって嫁に行けないと不平を言う女性がいるなら、雷に打たれて死ななければなりません。その裂けた耳を見れば見るほど、「お母さんの愛は偉大だったな、父母の愛は恐ろしいな」と、千年万年、自分の父母を尊敬し得る標的とするのです。

 皆さんは「先生が御飯だけ食べれば、私たちを苦労させようとする」と言うでしょう? そうです。私は皆さんに対して情けがありません。仕事をさせるときは情けがありません。しかし、共に暮らすときには情けがあるというのです。

 仕事をさせるときには、無慈悲に鼻に鎖を通してでも引っ張り出さなければなりません。困難で行けないと言えば、むちでたたいてでも追い立てなければならないのです。これは正当な方法です。この話、理解できますか。そこのおじいさん、李ポンウン長老、理解できますか。「はい、理解できます」。白髪の老人もたたいて追いやってでも行くようにしなければなりません。何十年共に暮らしたおばあさんに失礼になってでも行かせなければならないのです。これが私たちがすべき仕事です。

 なぜそうでなければならないのでしょうか。神様の最高の愛を受け得る圏内に入っていくためにです。今まで、どのような宗教者も越えられなかったその基準を越え、どのような団体も尽くせなかった精誠を尽くし、どのような国も備えることのできなかったその国の形態を備えて、神様が今まで愛したくてもある団体を愛することができず、ある国を愛することができず、ある世の中を愛することができなかった、その愛をすっかり独り占めにするためにです。それゆえ、これは正当な教育であり、正当な作戦なのです。これに異議がありますか。そのようにして滅びるなら復讐しなさい。私はそのように生きてきても滅びませんでした。(551)


7、後孫のために精誠を尽くそう


 神様が求めるその家庭の基準は、皆さん自身の家庭にだけ局限されたものではありません。神様が探し立てた家庭は、世界に行くことができるというのです。国家を代表することができ、世界を代表することができ、天を代表できる家庭をつくるために求めきた歩みが祝福の歩みであるので、天の父母の家庭を通して祝福を受けなければなりません。そして、祝福を受けた後に、精誠を尽くす家庭としての正常な道を行くときに、その息子・娘たちは統一教会の大運をもって生まれるでしょう。

 そのお父さんとお母さんがいくら足らないとしても、彼らの子女たちは天の運勢をもって生まれるというのです。ですから、天の運勢をもって生まれ得る後孫を、どのようにして残しますか。それは父母が精誠を尽くす基準に従って、その内容が決定されるということを知らなければなりません。すなわち、国のために、世界のために、天のためにどれくらい忠誠を尽くし、どれくらい切実に至誠を尽くしたかによって、これから生まれる後孫の運命が左右されるということを知らなければならないのです。(552)

 神様が望む家庭、教会が望む家庭、皆さんが望む家庭、そのような家庭から精誠を尽くして生まれる子孫は、立派に生まれるでしょう。

 父母はこの上ない苦労をしても、天の運と先生の運に従って生まれるでしょう。(553)

 祝福の中で一番いいことは、お金でも名誉でも権力でもなく、息子・娘が立派になることです。祝福の中で一番いいことは、息子・娘が天の愛を受けられるように生まれることです。それが立派に生まれることです。(554)

 三代が自分以上にだんだん発展するようになれば、そこでは天において一世代を飛躍することができるのです。福の中の第一の福は、お金でも権力でもなく、天の愛の中で立派な息子・娘をもつことです。(555)

 父母は自分の後孫のために精誠を尽くさなければならないのです。自分の後孫たちもすべて祝福してあげ、豊かに暮らせるようにしてあげて逝こうと言わなければなりません。そのような家庭は滅びません。そのような団体があるなら、その団体は滅ばないのです。そのような団体を責任もって指導する立場にある人は、明日のより大きなみ旨のために、神様と新しい因縁を結ばなければなりません。そうでなく、自分が一人で責任をもとうと先走って失敗すれば、神様に祈祷もできなくなるのです。祈祷するでしょうか。どのような面目で祈祷しますか。神様の前にこうだと言う祈祷もできないというのです。(556)

 父母の前に孝子なら、子供を生んでその孫を父母に抱かせてあげなければなりません。それなら、どのような息子・娘を生んで抱かせてあげるべきでしょうか。自分のお父さんより、おじいさんをもっと重要視し得る息子・娘を生んで抱かせてあげるべきです。自分よりも福を受けられる息子・娘、天の前により近くなり得る息子・娘が生まれるようにしなければなりません。そうしてこそ復帰摂理が発展するのです。自分より劣った息子・娘が生まれれば滅びるしかないのです。皆さんはこのような内容を注視しなければなりません。(557)

 神様の心情を誘発することのできる一番よい方法は、精誠を尽くすことなので、三代が同じ心をもって精誠を尽くせば、神様が共にいてくださり、その後孫が滅びる道理は一つもありません。(558)

 ある人は「私が統一教会のためにこれくらい働いたのに、先生なぜ私を分かってくれないの?」と言いますが、それは考えるべき問題です。精誠を尽くしてくれば、その人のために祝福してあげるのでなく、後代のために祝福してあげるのです。(559)

 福を無限に受けたいなら、無限に耐えて準備しながら、当代だけでなく数千代を経るとしても福を受けるために耐えることのできる教訓を残していかなければなりません。(560)

 堕落した人間においては、自分の家を建てる前に教会を建てて、それから自分の家を建てなければなりません。それで先生は、自分の家を建てる前に教会の土地を手に入れました。そして、後代のために生きなければならないので、大学の敷地を買っておいたのです。そうだといって、自分がよい生活をするために買っておいたのではありません。今の皆さんのためではありません。(561)

 統一教会を信じて従う後孫たちを愛しているので、学界と政治界、経済界、言論界、思想界にまで関心をもち、投資と経営をしていることを知らなければなりません。(562)

 皆さんは、メイフラワー号がニューイングランドに到着したときのことをよく知っておられます。冬に到着しました。十一月に到着したので、寒くて食糧がなくなり、みんな飢えて死ぬ事態が起こりましたが、彼らが立派だったことが何かといえば、食べるものがないのに、次の年の耕作のためにその種子を残しておき、飢えて死んでいったというのです。そのような事実を皆さんは知っておられます。

 彼らは、未来において神様が自分たちの行くべき道を開いて、自分の民族を通して神様が願う祝福の国と自由天国を成してくださることを願ったので、将来の後孫のためにその種子を残しておかなければならないという心をもち、死の道も喜んで行ったのだと思います。このような苦労の道をたどりながら、後代のために福を祈ることができたのは、その人々にただ神様を愛する信仰心があったから可能だったのです。(563)

 私たちは善の行路を開拓すべき開拓者です。このような開拓者として踏み出した歩みが神聖なので、その過程も神聖でなければならず、その結果も神聖でなければなりません。最後に倒れるとしても一つの種として埋もれ、そこから一つの新しい芽が芽生えるときは、尾根の岩の裂け目に立った木ではなく、沃土で育つ木となり、自分が望んだ結実を自分一代で取り入れられなければ、後孫を通してでも取り入れようという望みをもって生きる人とならなければなりません。このような心をもち、未来の幸福のために闘う人は恐ろしい人です。未来の勝利のために自らを犠牲にしようという群れは恐ろしい群れです。もしそのような民族があるなら、その民族がたとえ少数だといっても、未来の二十一世紀、あるいは三十世紀、五十世紀には、世界を支配するようになるということを、皆さんは知らなければなりません。(564)













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第五節 子女教育

祝福家庭と理想天国

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第五節 子女教育


1、家庭教育


 真理の内容とは何でしょうか。真理の内容がいくらいいといっても、自分のお母さんお父さんを代身することはできず、また自分の夫や妻、息子・娘を代身することはできません。真理の中の最高の真理は何でしょうか。それは父母であり、夫婦であり、子女です。それ以上はないのです。それでは、真理の中心は何でしょうか。愛です。このような原則を中心として見るとき、真理の最高の中心は何でしょうか。人々は、「神様が真理の本体であり、善の本体であり、愛の本体であり、生命の本体だ」と言いますが、それは何の話ですか。みな同じ言葉です。真理が成立するためには、愛と生命がなくてはならないのです。(565)

 家庭がなければ世界は形成され得ないのです。家庭が誤れば、その国は滅びます。だから、家庭教育はその国が今後福を受けられるかどうかという運命を左右するのです。国のための公的な法理によって暮らしている家庭が多ければ多いほどその国は栄えるのであり、私的な基準で暮らす家庭が多ければ多いほどその国は滅ぶのです。(566)

 子女は父母を中心として必ず一つとならなければなりません。カインとアベルのような兄弟間の悲惨な不詳事が消え去るよう、今は、父母に孝行をすることによって、兄弟たちが一つとなることができなければならないのです。そのような立場から、皆さんが手本となり、子女たちを教育しなければなりません。今までは学校教育に依存していましたが、これからは父母が教育をしなければなりません。父母が一つとなって手本を見せてあげることにより、兄弟の間でもその手本に従って相互に伝統を立て、新しい家庭を形成するようになるのです。(567)

 皆さんは、皆さんの息子・娘に何を話してあげるつもりですか。皆さんは公的な生、それも模範的な公的な生を生きることによって、皆さんの息子・娘にそれを見せてあげ、その伝統を受け継ぐことができるように教育しなければならないのです。

 人はもともと、自分の父母から教育を受けるようになっています。学校に行くだけで教育を受けるのではありません。とりわけ伝統を受け継ぐ教育は学校では学べないのです。かえって学校で受ける教育は、お母さんとお父さんの前にすべてもってきて捧げ(=報告し)なければならないというのです。これが何の話か分かりますか。(568)

 人間が育つ成長期間は、どのような期間でしょうか。完全な愛を受けられるようになるための訓練期間です。完全な愛を受けさせるための訓練期間です。それなら、どうしなければならないでしょうか。神様が喜ぶように、神様が行けば(共に)行き、来れば(共に)来る、そのようにしなければなりません。人間アダムとエバには神様しかいなかったなら、アダムとエバは誰と生活をするでしょうか。アダムとエバの子女たちも、父母がするとおり学ぶようになるのです。教育が必要ないのです。

 父母がするとおり、父母が知っているとおりに知っていくようになっています。父母が行動するとおりに従っていくようになっています。父母が喜ぶとおりにするようになっています。そのほかに何かを夢見、何かを行うようになれば、ここには堕落圏が支配するようになるということを皆さんは知らなければなりません。それゆえ、神様の取って食べるなという戒めが生じざるを得ないのです。(569)

 子供たちは、すべての存在の価値を父母を通して探します。家庭で育っている子女は誰に似るでしょうか。父母に似ます。その子女たちは誰に従っていくでしょうか。父母に従っていきます。このようになっているのです。(570)

 父母の愛は、自己中心的であってはなりません。息子の行く道が少し危険だといって、行けないようにするなら、その息子は将来意志力も独立心もない無能な息子になってしまうでしょう。無能な息子にするのが決して父母の愛ではないのです。父母なら息子を理解し、息子が行く道が堕落の道でないなら、後援してあげ、激励してあげなければならないのです。(571)

 父母たちが「よし、お前のいいようにしなさい。寝たいなら寝、食べたいなら食べなさい、私はかかわらない」と言うのは、明らかに易しいことです。しかし、真なる父母なら、そのようにはしないでしょう。真なる父母は、子女たちが他の人々を尊敬するように指導してあげたいし、兄弟姉妹同士で争うよりは、より良い生の方式を見せてあげようとするでしょう。子女たちが互いにけんかをするように教える父母がどこにいるでしょうか。(572)

 父母が勉強しなさいといって勉強させるのは、息子・娘のためなので、子供は不平を言いません。父母は子供のために泣きながら祈祷し、胸が痛くて夜も眠れないのです。それが真の父母の心情です。(573)

 家庭で父母たちが童話の本を読んであげ、信仰の心を備えていろいろ面白い話もしてあげ、家庭に対して建設的な面から批判もし、議論もしたりして、子女たちが最も近い友達よりも、自分の父母ともっと近く対せるようにしなければなりません。このようにして、子女たちに信仰を根付かせてあげなければならないのです。(574)

 子供を育てるときは、子供を高めてあげようとしなければなりません。「こいつ、何がどうだこうだ」と言いながら、しょっちゅうしかりつけてはなりません。(575)

 人間の間違った癖や習慣は直すのが困難です。だから、韓国のことわざで「三歳の癖が八十歳まで行く(三つ子の魂百まで)」と言います。ですから、特別に青少年時代に正しい習慣を身につけさせなければならないのです。だから正しい習慣をもたせるために、幼い時から徹底して教育をさせるのです。問題は間違った習慣をもった既成世代をどのようにして正すかということです。ここに大きく、小さく、またはいろいろな形をもった木の彫刻があるというとき、建築に必要な規格品を見本として、のこぎりや刃物、おのなどの道具を利用して合うようにつくることができます。同様に、間違った人間たちの習慣も、愛の秩序を基準として間違った部分を正すことができます。

 れんがが一個だけのときは、ただのれんがですが、そのれんがを建築設計どおり積み上げるなら、ビルや家が造られるのです。人も間違った習慣を直して神様の本然の愛の道と一致させるとき、力が生じ、神様の永遠の愛の軌道で走っていくようになります。ですから、生きている間に必ず間違った習慣を直して、正しい信仰の道を歩まなければなりません。(576)

 皆さんの子女たちが二十歳(=数え年)になる前に、教育と関係を結んで信仰を根付かせてあげなければなりません。言い換えれば、高等学校三年生になるまでに、中学生の時から高等学校の一、二学年の時に根付かせてあげられなければ、その息子・娘は台なしになるのです。それは我が協会で出した統計に現れたものです。十七歳までに家庭や教会において根付かせてあげなければ、その息子・娘たちは社会に流れていってしまうというのです。これは重大な問題です。(577)

 いくら祝福を受けた家庭の子供でも、二十歳になるまでは父母に従っていきます。ゆえに、父母が誤れば子供も誤るようになるのです。(578)

 祝福家庭も、夫が誤ったときには妻がしからなければならず、妻が誤ったときには夫がしからなければならないのです。そうすれば、その家庭は神様の福を受けます。むちを打たれることは、後世を諭すことのできる材料となるのです。このバットがなかったなら、このように間違ったでしょうが、バットの恩徳でうまくいったというときには、むちを打たれて涙を流したその環境が、結局は後世を教育することのできる教本として残されるのです。このような教本を残して死んだ人は偉い人です。(579)

 誤りがあるとき子女を生めばその誤りは遺伝します。(580)

 家法を備えなければなりません。子供の教育基準など、家庭の規範をつくらなければなりません。誤ってから子供たちの追求を受ければ、面目がありません。(581)

 統一教会に来ているおばさんたちは、皆が天の国の法度を知っているはずですから、祝福を受ける娘に、家庭教育をしっかりとしなければなりません。(582)

 自分が生んだ息子・娘は他人に任せてはなりません。父母が体が弱くてほかの人に子供を任せる場合には、子供を自分の長男のように愛してくれる人に任せなければなりません。子供を育てるのは、国と世界のために育てるのだという考えをもたなければなりません。

 先生の子供は精誠を尽くした父母たちが育てなければなりません。(583)


2、真なる子女教育


 子女を教育するためには、父母がまず実践しなければなりません。父母が見本となって、み旨の前に忠誠を尽くさなければなりません。そうして、父母がどのようなことを言っても、子女たちが一言半句も口答えしないで、父母を敬意し得る立場に立たなければなりません。そうしなくては、子女たちがついていかないのです。

 子女たちが自分の知っているみ旨と原理を中心として見るとき、教会生活をするにおいて父母たちが本部で指示する原則を等閑視し、その指示に従って生活しないのに、子女たちにだけ原理原則どおり生活しなさいと言えば、あざ笑うというのです。(584)

 父母になったなら、どのようなことをしても息子・娘が統一教会の正道を行くようにしなければなりません。そして、自分自身も正道を行かなければなりません。自分がまず行ってから、子供に教えなければならないのです。子供を教育するためには、自分がまずそうしなければなりません。そうしたのちに子供を教育すべきであり、自分は何もしないで教育しようとするのは、天道と食い違うことです。

 先生が皆さんに話すすべてのことは、先生がまず実践して勝利の基盤を立ててから教えてあげています。信じられなければ祈祷してごらんなさい。うそか事実か、祈祷してみてください。(585)

 祈祷するときには、私がこうするので私の子供もこうするようにしてくださいと祈祷しなければなりません。自分がまず手本となったのちにこそ、子供をそのような位置に立てることができます。自分がまずそのような位置に立てば、神様は自然にその子供もそのような方向に導いていくのです。ですから、ここで私たちが、私たちを中心としてその方向を変えられなかったなら、霊界に行っても責任追及を受けるようになるでしょう。(586)

 子女たちを教育するとき、お前たちもお母さんやお父さんのようにならなければならないと教育できなければなりません。(587)

 私は今回帰国するとき、孝進と仁進を呼んで、「お父さんとお母さんはお前たちに思う存分会ってあげられないが、これは神様のみ旨のため、祖国のためなのだ。だから、お父さんとお母さんがする仕事を、これからはお前たちもしなければならない」と話してあげてきました。父母の立場から見れば、思う存分会ってあげられないのがかわいそうなのです。子供には、父母と共にいたい気持ちがあるのです。

 「私たちのお父さんとお母さんは苦難を押し切りながらも、神様のみ旨と祖国のために生きている」という思想が、子供たちの心にぎっしりと満ちていなければなりません。「(父母は)自分の利益のために、自分が楽するために生きているのではなく、全体のために生きているのだ」という考えを、子供たちがもてるようにしなければなりません。そういう時に、子供たちの見本たる父母となるのです。(588)

 皆さんは子供たちに「お前のお父さんとお母さんがみ旨のために生きるのを、いいことと思わなければならない。お前のお父さんとお母さんは、普通のお父さんとお母さんとは違う。普通の家庭は、少しだけ困難でも争って別れるのがお決まりだが、私たちはこんなに困難でもそうではない。私たちがこのように耐え、互いに愛し合うのをまねて、お前たちも一層神様の前に感謝し、希望をもって暮らしなさい。お父さんお母さんと一つとなり、み旨のために忠誠と精誠を尽くす所に神様の福が臨むのだ」と訓戒してあげられなければなりません。そうすれば、子供たちがまねて、その伝統を受け継ぐでしょう。そうなれば、子孫万代が栄えるようになるでしょう。(589)

 父母はどうしなければならないのでしょうか。お母さんとお父さんが互いに愛し合うのと同じく、兄弟同士愛し合うことができるよう教えると同時に、「私が国を愛するので、お前たちも国をこのように愛しなさい」と教えなければなりません。そのようにさえなれば、ほかの教育は必要ありません。(590)

 子供は父母の心情を学ぶのです。(591)

 自分の子供を教えるときは「お前、立派な人になれ」と言うだけでなく、「立派な人となるためには、このような道を経なければならない!」と言わなければなりません。

 お父さんはお父さんなりに責任を果たし、兄は兄として責任を果たさなければなりません。姉は姉としての責任を果たさなければなりません。言い換えれば、真なる男性、真なる女性の道を行くことのできる、真なるお兄さん、真なる兄弟、真なる夫婦、真なる親族の因縁を維持していこうとする、法度に食い違わない皆さんとなってこそ、順理的な路程を経て、一国の民となり得る道が生じるのではないでしょうか。(592)

 「お父さん」という言葉は恐ろしい言葉です。「真」でなくては子供を養い生かせないのです。子供に血の功績と善なるものを食べさせなければなりません。誤ったものを食べるときには、涙を流しながら指導してあげなければならず、福を祈ってあげなければならないのが父母です。ゆえに父母は子供に世話をかけないのです。

 「私」が使うお金は、天と地が知らなければなりません。(593)

 父母が、生活が厳しくて思う存分に物質的恵沢を子供に与えられなくても、骨の中からにじみ出る愛の心をもって子供を慈しむようになるとき、彼らが父母に負債を負うのです。だから孝子は、かえって貧しい人の家庭から多く出るのです。父母がそのような伝統を残しておいたので、その子供が負債を負うまいと努力し、そのようになるとき、父母も生きがいを感じます。(594)

 今後、皆さんは父母として子供を抱き、天法に従っていかなければなりません。皆さんの生活がいくら苦しく、皆さんがいくら困難に悩まされながら生きるとしても、子供に涙を見せてはいけません。絶対いけません。

 先生は今まで、多くの子供を引き連れなければならないお母さんに、子供の前で涙を見せてはならないと教育しました。父母として子供を育てるときには、苦しくて涙が出る時がたくさんあります。しかし、いくら苦しくて涙が出そうでも、子供がお母さんとお父さんに涙を流しながら訴えるときには、きれいさっぱり苦しかったことをなかったものとして、「よし」と言いながら、過ぎし日に喜んだお母さんとお父さんの姿に戻らなければなりません。そうできなければ、子供を教育する資格がないのです。(595)

 皆さんの家庭で、子供たちに「うちのお母さんとお父さんは世界のどんな王宮の王や王妃よりも立派だ」と思わせなければなりません。また子供たちに、お母さんとお父さんの仲が世に類例のない親しい仲だということを見せてあげなければなりません。祝福家庭の皆さんがそのような伝統を立てなければなりません。そうして「うちのお母さんとお父さんは世の中の誰よりも誇らしいお母さんとお父さんだ」と言えるよう、子供たちの骨髄にその伝統を植え付けてあげなければなりません。(596)

 この世の父母たちを見れば、子供たちがその横で「お母さん、お父さん、なぜけんかするの!」と言っているのに、騒ぎを繰り広げます。その時に、涙を見せなかった皆さんの家庭で育った子供たちが、そのような世の中の姿を見て、「やっぱり、うちのお母さんとお父さんは世の中で一番だな! 本当に立派で神聖な人だな」と感じられるように、皆さんは子供に手本を見せなければなりません。子供たちの骨髄から流れ出る心情を通してあこがれることのできる父母の因縁を立て、無言の中で天の家訓、家法を立てていかなければならないというのです。そうすることによって、子供たちも後代において、「うちのお母さんとお父さんのような立場に立とう」と言うのです。

 このような伝統を何によって立てることができるでしょうか。統一思想を通して立てることができます。このようなことを知って、統一思想の前に絶対服従できる家庭的な教訓を今から立てていかなければなりません。子供たちがこれを見るとき、自然に服従するようになるというのです。(597)


3、真なる愛国教育


 皆さんは、天の国のためにみ旨の前に忠臣となり得る道理を、皆さんの息子・娘に教えてあげなければなりません。大韓民国なら大韓民国のために息子・娘が泣くときには、お前たちは国なき民族である、お前たちが暮らしているこの大韓民国はお前たちの本当の国ではなく、さらに仕えるべき一国があるということを、手をつかみ涙をのんで教えてあげることのできる父母とならなければなりません。懐に抱いた赤ん坊の息遣いを感じるように、天の気遣いを共に感じながら涙を流し得る場で教育しなければならないというのです。そうしてこそ、恨みを残した父母として教育の幅が加わることでしょう。(598)

 皆さんはこのようなことを知らなければなりません。自分の息子・娘を教育するときに、お父さんとお母さんだけを愛する息子・娘になれと教えてはなりません。「私はこの国を愛する忠臣だ。愛国者だ。お母さんとしての愛国者ではなく、愛国者としてのお母さん、忠臣としてのお父さんだ」と教育しなければならないのです。

 孝行を教えるにも、父母が孝行する姿を見せてあげなければなりません。そうできない人は、秋風に散り落ちる木の葉のようになるのです。(599)

 「お父さんが家庭で孝行するように、お前も孝行しなければならないし、お父さんがその国のために追われながらも闘争の歴史を編んできたように、お前も忠臣とならなければならない」と教えなければなりません。私はこれを、皆さんの前にどのようにして残してあげるかということを、今まで一生の目標としてきました。(600)

 皆さんを愛してくれた父母のその愛の心をもって、皆さんが三千万を愛せよというのです。そのようにしてこそ、国を主管することのできる望みの基が広がるのです。それが原則的な指導方法ではないでしょうか。皆さんは三千万の一員ではなく、三千万の父になりなさいというのです。三千万の母と父になり得る、そのような息子・娘になりなさい。(601)

 もし、父母が子供に「私がお前を愛し、お前のために気遣い、お前のために苦労して汗を流すのは、私のことを考えず、この国を一層愛せよという意味からだ」という愛国志士の心情をもって教育すれば、そのような父母のもとで愛の教育を受ける子供は、父母が願う愛国志士となるために努力することでしょう。彼は父母の愛を回想するたびに、三千万民族を考えることでしょう。そして、民族を慈しむ立場で勉強をするであろうし、自分の民族の悲惨さにぶつかるときは、自分の父母以上に悲惨さを感じることでしょう。しかし、そのような立場に立っただけで、愛国者になるのではありません。そのような立場に立って、築いた土台がなければなりません。それでこそ、それが国民が千年万年欽慕することのできる要因となるのです。そうでなければ、それはすべて過ぎ去ります。このような問題を考えるとき、深刻です。(602)

 皆さんの学校に、どのようにしてでも自分の弟子たちに正しい思想を引き継がせるために心を砕く師がいるなら、彼は大韓民国という国家の運命を心配しながら皆さんの手をつかみ、涙を流しながらこのように勧告するでしょう。「私のために順応せずに、国に対して順応しなさい。私のためによくやるよりも、国のためによくやってくれるように望む」と。このような教えを受けた弟子たちは、その師が成せなかった志を成すことでしょう。このように師が自分の生涯を捧げて弟子たちのために精誠を尽くし、父母が自分の価値よりも国家と世界の価値を貴く思いながら子供のために精誠を尽くすなら、その師の弟子とその父母の息子・娘たちは、棟梁之材(一国、一家を支える重大な任務にある人)となるでしょう。(603)

 教授たちはいつ為に生きてみましたか。先生(=教授)たちは弟子たちのために血涙を流し、骨髄からにじみ出る心情をもたなければなりません。未来の世界を、探し立てていくべき本然の世界を忘却したその無知な群れを前におき、涙なくして壇上に立つことができないのです。億万個の細胞が震えるのです。罪悪感と自責の念を感じながら、壇上で涙を流して生徒たちと後代のために講義してみましたか。レバレンド・ムーンは、今まで血を吐き涙がわき出る中でこの仕事をしました。今まで(文先生を)隣近所に名高い首謀者だと思い、滅びるだろうと思ったのに、今では自分の東西南北の四大門をすべて開けておき、(文先生に)「夜だろうと昼だろうと、入ってきて主人になってください」と言います。あなただけいれば、かぎも必要なく、すべてのものが必要ないというのです。そのような所でだけ、天国が再び春を迎えられます。そのような哲学は今までありませんでした。(604)

 どうすることが国を愛することでしょうか。これに対して教育する人がいません。税金を納めるだけで、国を愛し尽くしたと思っています。これだから、国を愛する道をどこで学びますか。それは家庭でなされなければなりません。それでは、父母はどうしなければならないのでしょうか。お母さんとお父さんは互いに愛し合い、兄弟同士互いに愛し合うことができるように教えると同時に、「お前たちを愛するように、私が国を愛するから、お前たちも国をこのように愛せ」と教えなければならないのです。そのようにさえなれば、ほかの教育は必要ありません。そのように生きることが愛国心だということが分かるようになるのです。このような伝統は、アメリカの国務省がなくなり国防省がなくなったとしても残さなければならないのです。

 そのようにさえなれば、大統領が「さあ、我が国民は今一つとなり、怨讐をたたきつぶそう」と言うとき、すべての国民が一つとなり、どのようなことでもできるのです。それゆえ、国に困難なことがあれば、死ぬべき道を行こうとも、忠誠を尽くさなければならないという教育をしなければならないのです。(605)

 アダムが誤ったこの因縁を、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、イスラエル民族を中心として復帰してきましたが、全部失敗しました。失敗したこれをどのように復帰すべきでしょうか。スカートをはいたおばさんだといって、家のためにだけ生きてはなりません。皆さんが御飯を食べるのも、子供を育てるのも、全部明日の民族のためにするのでなければなりません。(606)

 一国においてどのような人が愛国者でしょうか。よく食べ号令する立場にある人ではありません。末端の立場でぼろの服を着、塩の汁に麦飯を食べ貧しく暮らしながらも、その麦飯の膳を、通りすがりの外国の人々が見そうであれば恐れ、国の威信を考えながら自分の姿を見つかりそうであれば、こっそり隠れるようとする心をもった人が愛国者だというのです。自分の国家の体面と威信を考えずに、ねたみしっとし、行動してはなりません。たとえ自分がそのような姿をしていたとしても、国家の威信と体面を立てようと、私たちの国には私のような人はいないと言うことができ、自分の国を少しでも美しく価値あるように表そうと心を砕く人が愛国者です。そのような人が死ねば、後孫も愛国者となり、その家に愛国者が生まれるのです。(607)

 息子を生むことを待ち焦がれていた夫婦は、息子を生んだとしても、そのことだけを喜んではなりません。どのように価値ある息子として育てるかという問題をおいて心配しなければなりません。このような心配をしながらその息子を愛する人であってこそ、天理を知る人です。しかしこのような心配もなく、ただ息子を生んだことだけを喜ぶなら、その人は出発から間違った人です。この息子をどのようにすれば国のために必要な人として育てることができるかということを心配できなければなりません。そのような息子として育てるために息子を願ったとするなら、国のために出発したという条件になるのです。これが重要な問題です。(608)

 自分の息子・娘のために祈祷し、その息子・娘が生まれたなら、「お前は私のように息子・娘のために祈祷する人とはならず、民族と国家のために祈祷することのできる人となれ」と教えてあげなければなりません。

 神様が福を与え息子・娘を贈ったのは愛するがゆえでもありますが、皆さんの息子・娘には皆さんの意志があると同時に、神様の意図があるということを知らなければなりません。もし、精誠を尽くして息子を生んだなら、神様はその息子を、国を代身して救ってくれる人として送るようになります。だから、その父母が自分の子供に、国のために行くことのできる道を教育できなければ、その息子を途中で連れていきます。(609)

 愛国者も一朝一夕でなるのではありません。自分の先祖から教育を受けなければなりません。父母から国を愛さなければならないという教育を、骨髄深く染み込むほど受けた因縁がなければならず、そこから生涯の指針を立て、目的を定めなければならないのです。自分が動機となるのではありません。

 どのような愛国者も、自らが動機となって愛国者となったのではありません。必ず自分の先祖から教育を受けたか、あるいは良心の深い所である衝撃的な感動を受けたことが動機となって、生涯路程全体がその動機による結果を求めていくようになるとき、愛国者として登場するようになるのです。これを皆さんは知らなければなりません。(610)


4、世界と共に生きることのできる教育


 宗教は宗なる教えです。神様の宗なる教えは、人類を教え、人類を愛してみようというものです。それ以外にはありません。だから、真なる父母は子供に対して、世界が喜び、神様が喜ぶことを教えてくれます。(611)

 神様のために、世界のために家庭を犠牲にすることは問題ではありません。先生も息子を捨て、以北に入ったのです。まず神様を愛し、世界を愛しなさい! 神様のみ旨は世界を救うことです。神様のみ旨を中心とした家庭が生まれたなら、その家庭は、家庭のために生きる家庭となってはなりません。世界のために生きるのです。これが私たちの伝統的道です。神様を愛せと教育を受けなければならない、これ自体が恨めしいのです。それは堕落のゆえだというのです。息子・娘に「お前、神様をよく信じなければならない。み旨を貴び、教会をよく守らなければならない」と教育する、それが恨めしいのです。本来はそのような立場ではありません。神様はいつも心の中におられ、すべてを指導なさるのです。人間が自分のお母さんとお父さんを紹介する必要がないように、神様を紹介する必要がないというのです。(612)

 人類は父母を愛し、夫婦同士愛し合い、子女を愛しなさいと教えます。皆さんは誰ゆえに父母を愛さなければならないかを考えてみましたか。誰ゆえに夫婦同士愛し合わなければならず、誰ゆえに子女を愛さなければならないかを考えてみましたか。

 愛することに責任をもってくださる主人公を失ってしまった人間です。神様は無限なる愛を語られました。最後に残るものは愛だと語られました。その愛は神様の愛です。皆さんは慕う目的を知らなければなりません。愛する目的がなければなりません。誰ゆえに愛しますか。神様ゆえにです。神様ゆえに愛さなければなりません。自分ゆえに愛する者が死んでごらんなさい。そういう人がどこへ行くでしょうか。

 皆さんは子供を産んで、乳を飲ませながらかわいいと言いますが、誰ゆえにかわいがりますか。それは、天と地を代身してかわいがらなければならないのです。この国、この世界ゆえに、神様ゆえにかわいがらなければならないのです。神様の愛に従う天倫の運勢は、世界を越えて天地を包容するために動いています。ところが、その因縁を通して生まれた息子・娘を私ゆえに愛するなら、それは受け入れられないというのです。子供を抱き乳を飲ませる婦人たち、天と地を代身して神様の愛する息子・娘を抱くという徹した心情で自分の息子・娘を抱かなければなりません。(613)

 皆さん、福を受けることを願いますか。永生することを願いますか。それを願うなら、公的な人とならなければなりません。子供を教育するにおいて、私の息子・娘としてだけ愛してはいけないというのです。世界の人のための祭物的な息子・娘として愛する父母とならなければなりません。そして、子供を懐に抱き乳を飲ませるときは、この地球星の人類を代表したお母さんの立場で、人類を代表した赤ん坊に乳を与えるという心で飲ませなければなりません。そして、自分の子供にだけかわいいといって乳を飲ませるのではなく、他人の子供も私の子供と同じだという心情で対するお母さんとなってごらんなさい。そのようなお母さんの乳を飲んで育つ赤ん坊は、必ず偉大な人となるでしょう。すぐにはだめでも、一代、二代を経ていく間に、必ずその後孫の中に世界を支配し得る人物が誕生するでしょう。これが公式です。そのようになるのです。(614)

 子女たちを教育するときには、どうすればみ旨に対する使命を全うする人として教育できるかを考え、乳飲み子に乳を飲ませるときにも、このような考えをもちながら飲ませなければなりません。(615)

 父母なら誰でも、子供に「お前は国のために、国の偉大なる人物とならなければならない」と教えるでしょう。しかし、今日は世界が我が目前に近づいてくる時です。「お前は国の人物となれ」と教える時代はもう過ぎたというのです。今からは「お前は世界的な人物とならなければならない」と教育しなければなりません。そのように教育しますか、しませんか。そのようにするようになっています。「世界と共に生きなさい!」。皆さんの心理がどうであるか私が知っているので、このように結論をつけて話をするのです。(616)

 私が滅びる場でも滅びなかったので、これから皆さんにどのような教育をさせるかといえば、世界と共に生きることのできる教育をさせるでしょう。これが重要です。歴史は何を探してくるのでしょうか。世界と共に生きられるその時を探してくるのです。皆さんもその時を中心として行き、闘い、努力し、教え、死ななければならないのです。そうすれば、結局その場でも死ぬことは死にますが、再び新しく復活するでしょう。(617)

 善は何ゆえに動くのでしょうか。「私」ゆえにではありません。御飯を食べるのも「私」ゆえに食べるのではなく、天宙ゆえに食べなければなりません。めとるのも「私」のためにではなく、み旨のためにめとらなければならないのです。世界を目標としなければならないのです。経験をするのも世界を中心としなければならないのです。そのようにする人は、無粋なようですが、すてきな人です。七十年または八十年のまばたきするほどの一生を越えれば永遠に生きる道があるのに、人間はそれを知らずに生きるのです。永遠に生きる世界の時間圏内に入って、その世界と連結させることのできる道を知るなら、その永遠は「私」のものとなるのです。(618)

 御飯は粟の御飯を食べ、まとった服はたとえみすぼらしくても、ふろしきのようなものを被って座ったとしても、世界を中心として「昔、家がこうだった時、このような人はこのように生き、このようになった」と言える、幅が広く限りのない話の種をもっている人が暮らしている所なら、そこにいる子供たちは、優秀な人になるというのです。(619)

 今日、この地では多くの人々がお金をもうけようと、夜昼なく飛び回っています。そのような人々を見るとき、そのお金を誰のためにもうけるのでしょうか。そのお金は自分の子供のためにもうけると言うことでしょう。それではその子供は何をするかという問題を考えてみるとき、その子供たちは自分の生存だけのための道を行くのではなく、国のための道を、ひいては世界のための道を行かなければならないということを知らなければなりません。そのような道を行かなければ、その氏族は必ず滅びるようになり、他の氏族の支配を受けるようになるという事実を私たちは知らなければなりません。(620)

 悪に接し得る要因を多くもっているか、善に接し得る要因を多くもっているかということを見るときに、全体は悪に接し得る要因で取り巻かれています。

 悪が行く道においては、教育が必要ありません。教育を受けなくても、誰でも行くことができるのです。悪から始まった歴史であるため、教育を受けなくても誰でも行くことができるというのです。悪の道を行くように教育する必要性がありますか。自らそのようになったため、今日、人倫道徳を中心として良心の基準の前に見分けていきなさいと教育するのです。

 何を中心とした教育でしょうか。善を中心として、良心を中心として教育をしたにもかかわらず、その教育の基準に即した人がどれほどいるでしょうか。悪いことは学ばなくても、誰でも皆できるのです。誰でも皆、満点になり得るのです。

 このような環境の中で生きている私たちに、良心はいつも善良であれといっています。私たちの心はいつも善なる人になりなさいと、休まず「私」を刺激し、「私」に勧告するにもかかわらず、善なる「私」になったでしょうか。このような問題を考えてみるときに、きょうも嘆息であり、明日も嘆息であり、今年も嘆息であり、青春時代も嘆息であり、中年時代も嘆息であり、老年時代も嘆息であるので、嘆息で一生を終えるのではないでしょうか。言い換えれば、悪なるものとして終わりを告げるのではないかというのです。このような結論をつけるしかないのです。悪から生まれたので、悪でうごめいて悪で逝くのが、今までこの世の中に生まれては逝った数多くの人間たちの生涯であり、今この地に生きている数多くの人間たちの行路だというのです。(621)

 皆さんと摂理はどのような関係があるでしょうか。皆さんは全体を指向する目的の中で生まれたのです。生まれること自体、摂理歴史の中で生まれました。言い換えれば、公的に生まれたというのです。公的な摂理の中で生まれた皆さんであるがゆえに、父母に感謝をしなければなりません。ですから、自分の後孫たちのために、世界と宇宙のために生きなければなりません。皆さんの父母は知りませんでしたが、宇宙を代表する息子・娘を生んで育てたのです。また皆さんも同じように子女を生み育てるとき、このような考えの中で生み育てなければなりません。(622)

 素晴らしいお母さんたちは、子供を懐に抱き、「世界を動かすことのできる善なる存在となるためには、どのような難しい立場でも耐えることができなければならない」とその子供に教えます。それは、お母さんたちが善は滅びないという天理に通じたからです。(623)

 先生の幼い時の母親はそうできませんでした。ただ子供が苦労するのを嫌いました。子供が抱いたみ旨と理想は問題とならず、肉体的な苦痛を受けることを心配しました。先生が神様のみ旨を広めていて、北韓の共産党員たちに捕まって監獄に入った時、千里の道が遠いと言わず何回も面会に来ましたが、母親の心配はただ子供が苦痛を受けているという事実だけにとどまっていたのです。

 母親は、先生が行く道を捨てて、父母に仕え平穏に暮らすことを願いました。それだから、先生は父母のそばを離れるしかありませんでした。興南収容所から平壌に到着して四十日間いたときも、故郷まで二百八十里の道でしかありませんでしたが、父母を訪ねなかったのです。避難する途中に故郷に立ち寄っていたなら、父母と兄弟たちが共に自由を得たかもしれませんが、先生のみ旨を理解できず、むしろ障害になったため、父母と兄弟たちに会わなかったのです。

 故郷に残った父母と兄弟たちは、金日成一味に生命を奪われたでしょう。共産集団は、反動分子の家庭を秋毫の容赦もなく虐殺する殺人集団で、彼らの生理を誰よりも先生がよく知っています。先生は一・四後退の時に、父母と兄弟をあとに置き、平壌からみ旨に従ってきた食口たちと収容所で探し立てた弟子だけを背負い、避難の道についたのです。

 父母と兄弟が先生の道に反対したときは彼らを捨てることができましたが、大韓民国が先生を反対して監獄にまで送ったといって、彼らを捨てることのできないのが先生の立場です。この民族と国家が先生に反対し迫害するのは、先生のみ旨と理想が分からないからなのです。ですから、彼らが迫害しても、彼らを愛し彼らに教えてあげなければなりませんでした。(624)

 神様のみ旨は自分の血肉だけを中心として、自分の家庭だけを愛せよというものではありません。それではこの世界を救うことができません。今日この世界を救うためには、自分が愛する子供を祭物として捧げなければなりません。これが天の摂理なのです。皆さんはそれを知らなければなりません。(625)

 現在より未来の世界のために自分の息子・娘を神様に祭物として捧げまつることのできる人は、未来の勝利の基盤を現在に引き込むことができるのです。アブラハムは、自分の息子を未来の世界のために祭物として捧げました。自分の息子・娘を愛するのは、その時代の何ものよりも未来のどのようなものよりも愛するけれど、万民をその息子よりももっと愛することのできる心があったので、自分の子供を祭物として捧げることができたのです。

 そのような心をもって行くようになるとき、神様はそこに共におられます。そして、ここで天国に行ける人か、行けない人かということが決定されます。皆さん、天国に行ける人はどのような人ですか。自分を中心として欲張る人は天国に行けません。自分を中心としたものを捨て、自分を犠牲にし、祭物にしようとする人だけが天国に行くのです。

 それでは、神様の愛を完全に占領できる人は誰でしょうか。自分の体はもちろん、自分の息子・娘までもすべて祭物として捧げ、万民を救い愛そうとする主体的な心をもった人です。そのような心がまさに神様の心です。

 神様は今まで摂理をしてこられるとき、怨讐を打って推進させてきたことはありません。怨讐を打って摂理することよりは、自分の愛する存在、一番近い存在を犠牲にし、摂理を推進させてきたのです。神様はこのように摂理を発展させてきたというのです。その発展は、天国に向かって発展するのです。(626)

 今日、統一教会は天宙主義を語っています。それでは、その天宙主義とは何でしょうか。天と地と共に生きようというのです。このような話をすれば、皆さんは「やあ! これはすてきなのはすてきだけど、とんでもない話だなあ」と言うでしょう。どうです。夢のような話でしょう?

 統一教会は、既成教会よりも一段階高い世界を追求していこうというのです。既成教会が平面性を帯びていけば、統一教会は立体性を帯びていこうというのです。

 それでは、どこがより偉大でしょうか。このようにいえば、自画自賛かもしれませんが、どちらがより偉大ですか。統一教会と既成教学と、どちらがより偉大ですか。統一教会がより偉大です。天宙主義がより偉大です。統一教会は「天宙と共に生きよう」というのです。

 それゆえ、我が統一教会は三時代の使命を完結しなければなりません。霊界に行っている霊人たちを解放し、今日、この罪悪の世に暮らしている人々を解放し、今後来るべき後代の人々もここから解放しようというのです。このように三時代の解放圏をもって現れるのです。(627)

 皆さんは何に責任をもたなければならないでしょうか。第一には霊界に責任をもたなければならず、第二には世界に責任をもたなければならず、第三には後孫に責任をもたなければならないのです。この道が、今日統一教会員たちが背負って行くべき復帰の道であり、統一教会が背負って行くべき運命の道です。(628)


5、信仰と勉強


 私たちが宗教生活をするのは、お母さんが赤ん坊にお乳を飲ませて育てるように、神様が下さる生命のお乳を飲もうというのです。赤ん坊はおなかがすけばお乳をくれと泣き散らすように、皆さんの心霊が渇くときは、教会を訪ねて生命のみ言を聞かなければなりません。

 真実に赤ん坊を愛するお母さんは、お乳だけを飲ませません。訓練もさせ、運動もさせ、嫌だということもさせなければなりません。大きくなっていくほど、世の中で倒れない人をつくりたいのが父母の心です。そのように、私たち人間も神様を失い、宇宙のすべてのものを失ってしまったために、再びそれを捜し出すためには訓練が必要です。

 宗教がすべてのことを教えてくれ、悪の垣根を越えられる人間になったなら、ここから復活が成り立ち得ます。

 神様が真実に人間を愛しながら宗教を導いてこられるなら、そして宗教を通して復活した人間となることを願われるなら、迫害と圧力がなくてはなりません。それは訓練です。だから個人、家庭、国家、世界が迫害するとしても、その中で勝利できなければ復活することができないというのです。(629)

 子女たちの信仰教育が学校教育よりも重要です。お父様の考えはみ旨を中心とした考えであり、皆さんの考えは個人的な考えです。信じて行う者には創意力が生じます。(630)

 結婚の重要さに比べて、学校や社会では結婚問題に対して教育をしません。問題の重大さに比べて、その教育は大きい比重を占めません。男性は女性に対して、女性は男性に対してよく知らないのに教育しません。結婚以後の問題に対しても教育がおろそかです。夫婦がどうすれば幸福になり得るかという問題や、子女の教育はどのようにしなければならないかという問題も、おろそかに取り扱われています。そのような問題よりは、科学や数学の問題がより大きな比重を占めます。このようなことは、一つの奇形的な教育の現状だと言わざるを得ません。(631)

 きょうの皆さんが明日の皆さんとして発展していくためには、習慣化されてはなりません。今日の統一教会は、三十六家庭から始まり六〇〇〇家庭に至るまで世俗化されています。彼らは世俗的な風習に習慣化されているため、問題があるのです。すべての家庭の父母が、「我が息子・娘たちには勉強させなければならない。勉強をしてこそ出世をする。お金をもうけてこそ子供たちに勉強もさせることができ、そうしてこそ出世することができる」などと考えます。

 先生はそのように考えません。知ってこそ出世するといいますが、そうではありません。国をどれほど愛するか、神様をどれほど愛するかが貴いのであり、どれほど知っているかということが貴いのではありません。知っていることをもってしてはだめなのです。(632)

 知識を多くもたせるために人を創造したのではありません。創造理想が知識によって成されるものではないことを、はっきり知らなければなりません。

 創造理想のみ旨、私たちの理想の目的は、知識や権力またはお金によって成るのではありません。ただ愛によって決定されるということを知らなければなりません。皆さんにただ勉強だけが出世する尺度だと教える父母は、大きな間違いを犯しているのです。(633)

 もしかしたら、皆さんの中には一流大学に通っている、またお金をたくさんもうけていると威張る人がいるかもしれませんが、それは愚かなことです。皆さんが学校で学ぶ知識も重要ですが、それより重要なのが愛です。知識は何日かかけて、また何カ月、何年かかけてもつことができるかもしれませんが、愛は絶対にそうすることはできません。愛は絶対的で永遠な価値であるため、生涯をかけて学んでも全部学ぶことはできません。三十年、四十年学んでも卒業証書をもらうことはできません。この世の知識は何年か学んで専門家となり、博士の学位を受けることもできるでしょうが、愛の領域は無限で無量で、誰もその専門家になることはできず、千年をかけても博士の学位を得ることができないというのです。

 しかし、その代わり愛は飽きがきたり嫌気がさしたりしません。愛するようになれば、この世の何ものよりも幸福でうれしい感情を感じられるのであり、無限に感謝したくなり、堂々となるのです。(634)

 心情によって私たちの心は無限に大きくなることができますが、知識では無限に大きくなることはできません。愛の心情は宇宙を包含しても余りあるため、このように偉大な本然の地を開発すれば、神様もその中に来て昼寝をしたがります。知識で神様を包括できないために、そこから統一教会の心情が偉大だということを知らなければなりません。(635)

 先生は勉強するのもそのような気持ちでします。勉強をするときに、なぜ疲労を感じるのでしょうか。自分のために勉強をするので疲労を感じるのです。しかし、三千万人が死ぬか生きるかという問題がこの一ページにかかっており、この文句にかかっていると考えてごらんなさい。一単語を加えることによって三千万人が生き、一単語を減ずることによって滅びるという心で、もっと精誠を尽くしてその一単語を加えようという深刻な心で勉強してみなさい。頭が悪いのはなぜですか。皆さん、深刻な立場で起こったことを忘れることができますか。命懸けでしなさい。皆さんはどくんどくんと打つ心臓の鼓動の音を感じる時があるでしょう? 深刻であればそうです。そのような深刻な立場で、皆さんは決心したことを忘れることができますか。頭が悪いというのも、すべて程度の問題だというのです。

 心が散漫なために記憶できないのであって、死地で自分が死ぬ時間が近づくのに、生きることのできる妙案が浮かぶという時、その妙案を記憶できるでしょうか、できないでしょうか。皆さんが勉強をする時に、本一ページなら一ページをつかんで、命懸けでそこに投入するのです。私は聖書を見るとき「これが何であるか」と深刻に考えるようになると、その問題を解決するために一年、二年、三年でも精誠を尽くします。「あ、それはこうなのだな」という時まで精誠を尽くすのです。(636)

 立派な人になろうすれば、数多くの師たちの立派な教訓を全部自分のものとしなければなりません。そうでなくては、立派な人となることはできません。幼稚園から小学校、中・高等学校、大学校、大学院を出て学者や博士になったとしても、世界的に権威ある学者たちのすべての知識を全部自分のものとして吸収して、その総合的な価値を自らの生命の要素とし、ここに異色な一つの新しい善の実体として登場する立場に立たなければなりません。そうしてこそ世界的な学者となることができるのであり、世界的な思想家となることができるのです。これは善のみ旨を成していく道においても同様です。(637)

 人が発展するためには、そしてある目的を達成するためには、必ず刺激を受けなければなりません。百という目的を達成するためには、百だけの決心がなければならず、それくらいの時間的距離を通らなければなりません。すなわち、ある期間を経なければならないのです。その時間を経ていくには推進力がなければなりません。その推進力は、しばしば刺激を与えてこそ生じます。刺激を与えなければならないというのです。(638)

 近ごろ祝福家庭、特に三六家庭を中心として先輩家庭の子女たちが続けて進学するようになり、先生に奨学金問題について取り計らってくれるよう望んでいるようですが、それは誤っているのではないかというのです。もちろん理由は多いでしょう。ところが、子女たちの進学問題に父母たちが深く溺れてしまえば、み旨の道を行くのに大きな支障が生じるようになっています。父母は進路だけ提示してあげ、彼ら(子女)をして解決していく方法を選ぶようにしなければなりません。先生も苦学を通して学業を修めました。虎は子供たちに野性を育て、山中の王として育てるために、過酷な試練と残酷な訓練をさせるということを知らなければなりません。鉄の固まりが焼くほど強くなるという原理も、子女たちを教育するのに一度ぐらい考えてみなければなりません。(639)

 人が生きるということは、競争するということです。競争なしには発展できないのです。競争で負ければ悲惨になります。ところで、競争で勝とうとすれば、実力がなければならないのです。実力を備えるためには、準備過程を経て基盤を築かなければなりません。旧約時代の準備過程を経てイエス様が来られ、新約時代の準備過程を経て再臨主が来られるのと同じです。

 学生が準備するということは、勉強することです。特に青少年時代には、大きな夢をもって準備しなければなりません。皆さんは今後統一家の責任者となるべき人たちですが、そのようになるためには何よりも準備が必要です。思想的準備をしてこそ、精神的勝利者となり得るのです。基盤を築き、備えられた実力をもって行動に移さなければなりません。すなわち、闘争を通じた勝利を収めなければならないのです。弱い者は吸収され滅びるのが原則です。自信をもって実践するためには、昼夜の別なく努力しなければなりません。今回の修練会の目的も準備のためなのです。

 先生は米国に渡ってきて、一九七四年から一九七六年の間に最も大きな反対を受けながら、神学大学院を建て、神学者たちを糾合して米国の教会一致のための準備をしてきました。だから、今日のキリスト教と宗教の連合運動が可能になったのです。それだけでなく、先生は経済、文化、言論など各分野で多くの準備をしてきました。準備の中でも、経済的自立が一番重要なのです。そして、指導者は説得力がなければなりません。先生は一生涯準備する生活をしてきました。二十七歳からはみ旨のための闘争の生活をしてきたのであり、四十歳からは立ててきたみ旨を実践してきました。(640)

 先生が今まで二世たちに大学院に行くことを許諾しないのは、神様を愛したのちに、国家を愛したのちに、自分の氏族と家庭を愛したのちに、勉強が必要だとすれば大学院に行ってもいいと考えるからです。

 対外的な活動基準がみ旨の道と一致するためには、愛をその尺度と見なさなければなりません。コリント人への第一の手紙にも愛の章があることを、皆さんも知っているでしょう。信仰と希望と愛の中で、一番は愛であるといいました。(641)

 皆さんが学び身につけたという知識が、これからどこにどれほど役立つと思いますか。どの大学の法科、どの大学の経済科で学んだ知識が、み旨の道を行くにおいてどれくらい必要なものだと思いますか。そのようなものはみ旨の道を行くにおいてはさほど使い道がないのです。第二次世界大戦を引き起こした日本が敗亡した時、どうなりましたか。日本が崩れていく所に、日本の経済学、日本の法学がすべて崩れていったのです。

 ですから、これからはただみ旨を成すために神学を勉強しようと、没頭して努力しなければならないというのです。きょう、この場に集まった皆さんの考え方に問題があります。皆さんは大変な考え違いをしています。皆さんが学んだ経済学に先生が従いそうですか。その政治学を参考にでもしそうかというのです。神様もそうですが、先生もそのようなにおいさえかぐのは嫌だし、姿を見るのも嫌です。(642)

 大学院に行くのは暫定的に禁止します。先生の息子・娘たちが大学院に行かなければ、皆さんも行けないようになっています。原理がそのようになっています。先生の息子・娘たちが行けないので、そのようにするのでは絶対ありません。それは一つの法度です。

 木の枝の芽がまず育ってから小枝や葉が生じるのと同じ道理です。芽が高く伸びてこそ、小枝が伸びたり、木が正常な発育をすることができます。木において大木の芽より小枝が多ければ、その木は何の役にも立たない雑木になってしまうでしょう。それは自然の道理なのです。

 本来はまず伝統を受け継ぐことのできる男女になって、先生の息子・娘たちがまず大学や大学院に入れば、ついて入らなければならないのです。皆さんは孝進兄さんを見て、早く勉強しなさいと激励してあげなければなりません。現在、孝進は統一教会と統一教会員たちが責任を果たすことができなかったために、揺らぐ心を正すことができないでいます。

 皆さんの父母たちは、皆さんがただ良くなることを望みながら、皆さんの教育にだけしがみついてきました。先生の場合はどうですか。先生が子女たちの教育にだけしがみついていましたか。先生は皆さんと世界人類のために、神様のために、今まですべての力を振り絞ってきました。ですから、教育にいつ関心をもつことができたかというのです。ところが、皆さんの父母たちは祝福を受けた家庭として、ただ自分の家庭と子女たちの教育にだけしがみついてきたので、先生と天の前に大きな間違いを犯したのです。それだから、皆さんにも共同の責任があるのです。

 皆さんは孝進兄さんだけでなく、ほかのお兄さんとお姉さんたちにまで特別な関心をもって協助しなければなりません。それが原理の道を行く道理なのです。(643)

 仏教やカトリックのような宗教では結婚しない戒律を守ってきました。仏教には僧と尼がおり、カトリックには神父と修道女がいます。彼らは結婚するのが嫌でそうなのではありません。摂理の時がまだ結婚すべき時ではないからです。同じ道理で、先生が皆さんに大学院に行ってはいけないと言うのも、皆さんを学校に送りたくないからではありません。(644)

 本来、父子という言葉は、本然のお父さんと息子・娘を言います。このような父子がいなければ、その国も成り立たないのです。万人は平和の世界を望んでいます。その世界は、今日、世界の先進国家が追求しているそのような文化を通して成されるものではありません。真の父母を通して成されるのです。真の父母がいくらむしろを掛け、ぼろのふろしきを背負い、模様があせた擦り切れた服を着ていたとしても、また、背たけの千倍万倍もの深い穴から気力が尽き果てて出てきたとしても、人間はその真の父母を中心として神様の心情を学ばなければなりません。(645)

 祝福家庭から生まれた二世たちは、天の国の民として不足のない教育と心情的伝統を相続しなければなりません。ですから、二世たちのための教育の道を準備しています。幼稚園から初、中、高等、大学課程を踏むことができるように教育機関を設立しなければなりません。外国の祝福家庭の二世たちも留学し、共に履修できるようにしなければなりません。(646)

 第二世を中心として、統一文化の新しい幕が開かれるようになるでしょう。そのすべてのものは、真の父母の心情的伝統を相続する内容をもって成され、その他に知識と機能を習得する教育道場となるでしょう。皆さんが何も知らない間に、世界的な蕩減復帰の道が開かれ、そのすべての基準が立てられました。(647)

 皆さんは真の愛の根を探し出さなければなりません。その根をもって地上に芽を出す家庭があるなら、世界を支配することができるでしょう。その家庭から愛が芽生え出れば、人類先祖の文化が創造され始めるのです。そこで使われる言語は、世界の言語となります。現在使用されている言語は何であろうと、すべて必要ありません。英語が審判を受ける時が来ることでしょう。

 いずれにしても、子供になろうとすれば、愛の社会で一父母を通して生まれ、その父母が使う言葉を学ばなければなりません。そうして、その民族を通して新しい世界に向かって出発しなければなりません。そこから愛を中心とした文化が発達することでしょう。その文化は世界的な文化となるでしょうし、他の文化はその地を通過しなければならないのです。そこの文化は世界を代表する文化なのです。(648)


6、愛は学んで分かるものではない


 お母さんとお父さんが子供たちを愛するのは、学校で学んで分かることですか。そのようなことを教える学校を見ましたか。また、それを学んでみた人がいますか。それは学ばなくとも分かっているのです。男性と女性は、出会って赤ん坊を生む方法を学びませんでした。家庭においても、他人同士が出会い、夫婦の因縁を結んで一家庭を築けるのも、誰かに学んでするのではありません。愛は誰かが教えてくれて分かるものでもなく、「このようなものだ」と、もってきて食べさせてくれてその味が分かるものでもなく、実験をしてみて分かるものでもありません。

 昔も、このようなことを教えてくれる所はなかったし、今から数千万代の後孫にもこれを教えてくれる学校が出てくることはありません。(649)

 皆さんが結婚し、年を取って死ぬまで子供をもてなければ、子供に対する愛は千年万年たっても分からないのです。子女に対する愛は千年万年勉強しても分かりませんが、息子・娘がおなかの中から出てくるや否や、瞬く間に分かるようになるのです。(650)

 赤ん坊が生まれればすぐお母さんのお乳を探すことや、動物たちが生まれて母親のお乳を探すことが、教育と訓練を受けなくても自然に行為に移されるのは、まさに愛の力が作用しているからです。(651)

 真実な愛は、天理法度であるので教育される以前に自然に成り立つのです。けれども、今日、人間社会で真実な愛を見いだせないことや、教育と訓練を通して学ばされるのは、すべてが堕落した結果としてもたらされた悲劇なのです。

 父母の愛は、生まれた子供の顔が醜かったりかわいかったりすることによって大きく現れたり、小さく現れたりしないのであり、父母が偉いか劣っているかによって、父母に対する尊敬と愛を異にする子供はいないのです。あなたの顔が醜いので、私のお母さんではないという子供がいますか。お前は私がたとえ生んだといえども、顔が醜かったので私の子供ではないと言う父母はいないでしょう。もしそのような父母や子供がいたなら、彼らは人間でないだけでなく、畜生が間違って人間の体をもって生まれた一介の怪獣でしょう。(652)

 イエス様はどのような方だったのでしょうか。イエス様の論法はどこから出てきたのでしょうか。良いことをして生きよ、正しいことをしてこそ天国に行けるというみ言は語りませんでした。その方は、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ一四章一六節)と言いました。このようにイエス様は、学べと言うのではなく、従ってきなさいと言いました。従っていけば、キリスト教徒たちもイエス様に似るようになるのです。(653)

 皆さんは家庭で愛する方法を学びましたか。どんなお父さんがその子女に「お父さんから愛する方法を学びなさい」と言いますか。そのように教育を受けましたか。また、お母さんもその子女に「お母さんから愛する方法を学びなさい」と言いますか。また、父母が子供を愛する方法を誰に学びましたか。皆さんは誰から新郎・新婦はこのように愛さなければならないと学びましたか。学んだことはありませんが上手にします。本当に不思議なことです。すべての人間たちは、学ばなくても上手にするというのです。(654)

 皆さん、空気があるということを知っているでしょう。皆さんは毎日空気を吸いながら生きていますが、「あ、これは空気だ」と言って生きていますか。毎日呼吸しながら生きていますが、空気を考えもしないで生きています。また、すべての人々が太陽の光を受けて生きていますが、朝夕に日の光の有り難さを知って、あいさつしてみたことがありますか。あいさつする方法を学びましたか、学びませんでしたか。答えないのを見ると、それも学ばなかったようですね。

 水も同じです。誰かから、「水を飲む時はこのように飲まなければならない」と学びましたか。学びましたか、学びませんでしたか。それも学ばなかったでしょう。一番貴いものに対しては学ばなかったというのです。

 それでは、一番貴いという日の光について考えてみましょう。もし、この地球上から太陽が二日だけなくなればどうなるでしょうか。想像でもできるでしょうか。また、空気もそうです。「今、人間たちが大きなことを言っているが、彼らの勢力はどれほど大きいか、私たちが約十五分間だけ地球上から消えよう」と、空気が同盟ストをするならどうなるでしょうか。このようになる日には、世界統一を簡単に成すことができます。統一教会という看板をつける必要がありません。簡単です。十五分でなく、十分以内に世界統一は成されるでしょう。

 皆さんは空気や水を飲む方法を学びましたか。それは学ばなくとも自然に分かるようになっています。この世で貴いというものは、全部そうなっています。神様がおられるなら、それらよりはるかに貴いお方でしょう。人間たちはその方をどのようにして知ることができるでしょうか。同じように、学ばないで神様を知るようになっています。本来は、神様に対することも、学ばないで分からなければならないというのです。(655)


7、愛を中心とした人生行路


 生命が先か、愛が先かという時、互いに先だと言うことができますが、果たしてどちらが先でしょうか。愛が先です。宇宙の根本は、存在起源に先立って愛の流通がなくては、存在価値が出てくることができません。(656)

 「私」は誰でしょうか。「私」という存在は、「私」という起源はどこから生じたでしょうか。父母の愛から生まれました。「私」がなぜ貴いでしょうか。父母の愛に同参したからです。そして、そこから宇宙と世界に同参しなければなりません。(657)

 人がなぜ生まれたかということを知らなければなりません。人は、知識や権力ゆえに生まれたのではありません。人は、愛ゆえに生まれました。また、愛から生まれました。

 それでは、愛は何ゆえにそのように偉大なのでしょうか。それは生命の源泉であるからです。皆さんは父母の愛の中から生まれたのです。お金を数えたり知識をうたう所から生まれたのではありません。このように愛の中で生まれたので、愛によって結実しなければならないのです。だから、子供が必要なのです。夫婦が一つとなり、息子・娘という相対がいるとき、完全なのです。(658)

 人間自身も愛を離れては存在することができないのです。ですから、「私」の存在は、愛を元として生きていくといえます。

 すべての万物も、その存在の始まりは神様の愛から出発しています。万物の存在が愛を元として始まったとするなら、被造世界の中心存在である人間は、より一層愛によって出発した存在だということを否認することはできないのです。

 人間は愛から出発し、愛によって円熟するため、愛の基準を離れては生きることができない存在なのです。(659)

 私たちの生命の起源がどこにあるのかを見れば、生命が先か、愛が先かが問題です。今までこれを見分けられませんでした。生命が先ではなく、愛が先です。先となったものの前に、次となったものは順応しなければならないので、愛のためには生命を捧げるのが当たり前なのです。このように、これは収拾しておかなければなりません。そうすれば、人生を真に生きる道はどこなのかという結論が出てきます。人生が愛から生まれたので、愛の道を行かなければならず、愛のために死ななければならないという結論が出てきます。小宇宙ではなく大宇宙が歓迎できる愛を探して、神様が公認し、天使世界が公認し、万物が、ひいては我が父母が公認できる大宇宙愛の中に現れ、その中で愛し死んでいくのが人間が生まれた目的だと見るのです。(660)

 人間とは、自分が希望して生まれた存在ではありません。それなら、お父さんとお母さんの希望によって生まれたのでしょうか。そうではありません。神様の希望によって生まれたのです。神様の代身である父母の愛を通して生まれたのです。神様の代身である父母の愛を通して、新しい生命体として生まれたのが「私」です。そして、愛は全体を創造する力をもっています。宇宙の愛のすべてを受けて、全天宙の中心的な存在として生まれたのがまさに「私」です。愛によって生まれ、愛によって育てられ、愛によって生き、また愛を残すのが人生において最高の目的です。天宙あるいは世界を制覇することより、自分の家庭で、天宙の中心である愛の使命を果たすことがもっと価値あることです。(661)

 自分のために生きる存在は相対圏を保護できません。創造も、神様が相対のために創造したのです。同等な価値基準と同等な所有の権限を付与する愛、すなわち為に生きながら与えようというのが、人生でどれほど幸福な道でしょうか。神様はそのように為に生きながら与えようという人に天地宇宙を相続させるのです。その道を探していくのが一生の行路です。(662)

 存在するすべてのものは、必ず運動します。これが存在物の基本的な存在法則です。生きて動く生命体はもちろんですが、動かない物体や無生命体もこの運動の法則性をもちます。運動性は無秩序なものではなく、必ず秩序的であり、法則的だというのです。なぜなら、秩序と法則はある目的を前提としなくては考えることができないからです。したがって存在するすべてのものは、必ずある目的によって秩序と法則性をもって動くようになるというのです。

 「私」が生きて動くこと、すなわち「私」が活動するのは無意味なことではなく、ある目的があるからです。その目的が何かといえば、愛の世界を具現することです。このように人間は、愛の具現のため、愛を成さなければならないという目的によって存在するのです。人間の生の目的が真の愛の具現にあるので、人間の存在価値もこの真の愛によって決定されるようになります。これはどれほど素晴らしいことでしょうか。(663)

 人間存在の原因は何でしょうか。人間存在の原因は愛から始まりました。それから、人間の存在の目的はどこにあると考えますか。人間存在の目的は愛の理想を完成することです。人間が愛を原因として存在するようになったので、愛の基台を成して、拡張し、連結して完成することが目的となるのです。すなわち、出発が愛なので、目的も愛をもって到達しなければならないというのです。そうしながら、その中で完成という枠を備え、ここから愛を中心として前後左右上下に交流することのできる自分自身とならなければなりません。(664)

 私たちがいくら絶対的な存在を確定し、いくら絶対的な目的を確立したとしても、そこでうれしくなければ何の役にも立ちません。生きて生活するのがうれしくなければなりません。生活するのは目的のためにするのです。その目的を成就したとき、そこには存在以上の新しい何かがあることでしょう。

 それは何でしょうか。男性なら男性、女性なら女性を中心として見るときに、彼らに何よりも最も貴いものは何でしょうか。愛です。愛だけがこれと連結させることのできる幸福の要因となるのです。人が目的をいくらよく立てたとしても、その目的を主管すべき主体的な愛の権威を立てられないときには、再び新しい目的を追求しなければなりません。目的の限界点が愛より上にはなり得ないのです。(665)

 皆さんは何ゆえに生きていますか。食べるためにと答える人もいるでしょうし、あるいは仕事をするために、または何の目的もない生を生きていると言う人もいるでしょう。

 人間は何のために生きるのでしょうか。人のために生きると言うなら、どれほどすてきな答えでしょうか。人間は愛の結実として生まれ、愛し合いながら生き、永遠なる愛の神様の懐に帰るようになっているのが、創造本然の生なのです。(666)

 愛のために生きる一生は、生産的な結実の生であり、愛を知らずに生きる一生は、消耗的な滅亡の生なのです。神様も人間も宇宙も、愛のための生を生きることを願うのが本然の生なのです。(667)

 生命は愛から生まれます。愛から生まれ、父母により愛を受け、愛をもって成長して、愛する妻に出会ってまた愛し合い、その愛の中に死んでいきますが、これが人生だというのです。ですから、哀しみと苦痛があり得ないのが本来の人生なのです。(668)

 本来の宇宙の根本位置は、愛を中心として総合的に縦横に同時に結合することのできる基準となることによって父母の愛と夫婦の愛、子女の愛が結合することのできる根本位置となります。その位置は全宇宙が集中する位置となり、全宇宙細胞の方向が集中する位置となります。霊界のすべての神々が全部ここに集中します。それだけでなく、この位置を誰も侵犯できないよう、保護するようになっているのです。ですから、この位置が破壊されるなら、大変なことが起こるようになります。だから、完全に保護されるためにはある形態が必要なのですが、その形態が統一教会の用語で四位基台というのです。(669)

 人間は胎児でいる時は、お母さんから供給される栄養を受けただけでなく、愛を供給されたことを忘れてはならないでしょう。それと同じように、地上で暮らしている人間たちも、宇宙(自然)から物質的な栄養を供給されるだけでなく、生命の本質的要素である愛を神様から供給されているのです。(670)

 すべての植物が太陽の光を生命の要素として吸収するのと同様に、人間たちには愛が生命の要素となるのです。私たちの希望は、永遠に愛と共に欽慕しながら暮らすことのできる地上天国や天上天国が建設されることです。(671)

 人間は愛によって生まれ、生まれてからは愛を受けながら成長するようになります。しかし、成長するようになれば、父母の愛だけではだめなので、縦的な愛を中心として横的な愛を広げ始めるのです。すなわち、天地の愛が心棒の位置に根付けば、その次に横的な愛が必要となるために思春期があるのです。思春期に現れる現象は愛の横的な現象です。父母の愛から生まれて成熟すれば、横的に愛し合うことにより総合的な愛の圏内に進入するようになって、初めて愛の中心を探していくことができるようになるのです。(672)

 男性や女性が行く道は、愛ゆえにあるのであり、愛のためにあります。「私」の道は愛の道です。愛を得るために、愛を守るために、愛の環境圏を成すために行くのです。

 女性が化粧をしたり、マッサージをするのも愛ゆえです。何かを願うのも、仕事をするのも、すべて愛ゆえなのです。高貴な愛を得るために苦難を勝ち抜いていくのです。(673)

 私たちは生まれる時から父母の愛を受けるのであり、父母が生存している限り、少年時代、青年時代、壮年時代、どの時代を問わずに愛を受けるのです。父母の愛を受けて成長するようになれば、横的な夫婦の愛が各自に生じるようになっています。(674)

 結婚とは何でしょうか。男性は女性について知らなかったことを学ぶために、女性は男性について知らなかったことを学ぶために家庭という学校に入学するのです。すべての履修単位がAプラスになってこそ、夫も喜び妻も喜ぶことでしょう。息子・娘を生むのは、世界を愛する法を学ぶためなのです。息子・娘がいなければ未来と連結されません。未来の世界と連結することのできる教育の材料として息子・娘を与えるのです。そして、先祖たちやおじいさん、おばあさんの前に孝道を行くのは、霊界に対する教育を受けるためであることを知らなければなりません。

 このすべてのものが愛を中心として連結されます。おじいさんとおばあさん、夫と妻、息子・娘が愛を中心として全部連結されているのです。この愛をもてば霊界の千万代の先祖までも上がっていき、降りてくることができ、遠い後孫までも通じることができるのです。血管のような組織が霊界の組織であり、宇宙の組織だということを知らなければなりません。愛の僕となり、愛の奴隷となるのが最大の幸福だということができます。

 この宇宙において、一番偉大で驚くべき権勢をもった者は誰でしょうか。愛をもって、より僕の道を行った人だという結論が出てきます。これが神様の哲学であり、レバレンド・ムーンの哲学であり、ムーニーの哲学です。(675)

 私は霊界での体験をたくさんもっていますが、霊界は愛の成分で覆われている所です。地球は空気で覆われていますが、霊界は愛で包まれている所です。人間は地上で空気を吸ってガスを吐き出しますが、霊界では愛を吸って生きるようになっています。霊界は、今日の人間の世俗的な愛を中心として授け受けるようになってはいません。霊界で授け受ける愛は、真なる愛なのです。(676)

 皆さんはなぜ結婚しなければならないでしょうか。父母の愛、夫婦の愛、子女の愛を体験するために結婚するのです。それでは、それがなぜ必要でしょうか。そのような愛の空気が充満した所が霊界です。霊界の拍子に合わせる訓練をするために、家庭をもたなければならないということを知らなければなりません。分かりますか。

 これを感じないで行く人は、あの世に行って拍子を合わせることができません。このような愛の空気をかぐことのできる鼻がない人と同じだというのです。(677)

 皆さんが神様の愛を一度探ってみなさい。実に愛を何と表現することができるでしょうか。それは、さながら暖かい春の日和に、空には白い雲がふわりと浮かんでいて、地にはかげろうがぼんやりと立ちのぼり、虫が出てき、アリたちも世の中を見物しようとちょろちょろと出たり入ったりし、さらさらと流れる小川のほとりにはコウライ柳がもえいで、カエルは春の日和の新しい歌を歌い、群れになって飛んでくるハチ、チョウが喜ぶ、そのような環境と同じです。そのような環境に酔って眠り込むようですが、眠り込まず、気分がよくて永遠にいいと言うことのできるそのような味だというのです。神様が探される理想相対を中心として感じる気分は、チョウが飛び、ハチが飛んでくる花の園のようなものです。これは考えただけでも気分がいいですか、悪いですか。この鈍い男性たちはそれを知らないでしょう。それは気分がいいというのです。

 懐かしい人に会えば、手をぎゅっと握って握手をします。握手するとき、懐かしくて「ああ、これは久しぶりだね」と言いながら手をぎゅっとつかめば、気分がいいですか、悪いですか。気分が悪いという人がいたなら「えい、こいつめ」と言って、足でけってしまいなさいというのです。懐かしければ、手をぎゅっと握りますか、握りませんか。皆さんはそうすれば喜びますか。「喜びます」。そのようにうれしくてつかめば、手をほどくことができないというのです。

 ここにいる女の子たち、嫁に行って夫が自分を愛してくれれば気分がいいでしょうか、悪いでしょうか。一度考えてごらんなさい。人は率直でなければなりません。愛してくれるなら、この世の中にそれほどうらやましいことはないのです。初めから夫の横にぴったりくっついて暮らすのです。男性が牛の前足のような手で、女性の手をぎゅっと握ってあげることはいいことです。映画を見るにしても、そのような映画を見たくなります。女性が男性に「まあ、あなたの手は本当にきれいね」と言えば、気分が悪いというのです。そのようになっているのです。
 それゆえ、愛は永遠なのです。愛は二つでなく一つです。一つになるということです。男性と女性がカップルを成して愛し合えば、ぴったりくっついてしまうのです。そこまではいかなくても、これ以上の心情まで行くというのです。それがまさに神様の愛なのです。そのような愛をもって暮らすなら、一つになるでしょうか、ならないでしょうか。考えてごらんなさい。全部一つになるようになっているのです。(678)

 神様がおられる所には愛が充満します。与えれば与えるほどもっと与えたく、受ければ受けるほど、そこに千万倍加えて与えたい所です。ですからそこが天国ですか、地獄ですか。「天国です」。そこではもっと与え、もっと受けることができるので、爆発的な刺激を感じるようになるのです。全細胞がはち切れるような刺激を感じるのです。神様の愛はそのようなものです。

 皆さんがそのような愛を体験すれば、女性たちは嫁に行かないようにし、男性たちは嫁をもらわないようにすることでしょう。その愛に酔えば、アヘンが問題ではありません。お酒が問題ではないというのです。田舎の両班たちは、土焼きの器でどぶろくのようなものを一息に飲んで酔いますが、そのようなものに酔って生きるようにはなっていません。人は愛に酔って生きるようになっているのです。分かりますか。

 皆さんがそれだけ分かるようになれば、愛のために行く道が苦しくとも、苦労ではないのです。自分が愛する人のために精誠を尽くしに尽くし、さらに尽くすのは誇りであり、栄光なのです。(679)

 男女の間で愛し合うようになれば、ありとあらゆることが起こります。そうでしょう? しかし、神様を尋ねていく道を知り、神様の愛を本当に味わうなら……、その神様の愛はこの世のどのようなものとも比べられないのです。そのような愛を味わった人がいるなら、どのような苦難も彼を占領することはできないし、どのような悲しみも彼を占領することはできないでしょう。そのような絶対的な解放の圏があるのではないでしょうか。これを探すことが問題となるのです。(680)

 皆さんが霊界に行ってみれば、その世界は次のようになっています。すなわち、父母、兄弟姉妹、夫婦、子女に対する愛を十分にもった者、すなわち家庭生活で深い愛の経験をした人は、多くの自由を享受することができるでしょう。彼はどこでも何の制限もなくどの方向にでも行くことができます。その反対に愛の経験がない人は心が狭く、霊界でも自分一人孤立していて、自由が全くありません。

 父子間の愛は縦的な関係であり、夫婦間の愛は横的な関係であり、兄弟姉妹間の愛は旋回して取り囲む関係なのです。この三つの関係は、互いに異なります。ですから、地上でこの三つの互いに異なる方法で深い愛の経験をもってこそ、制限なしに縦的、横的、円で旋回することができます。

 例えば、父母が早く亡くなることによって父母の愛を味わえなかった人は、とても重要な愛の経験ができなかったために、多少悲劇的な人であり、同じように家庭生活すなわち夫婦関係を経験できなかった者は、生の重要な部分が不足するために霊界ではとてもみすぼらしい人になります。また、兄弟姉妹がいない人は、すべての分野の欠乏で完全な生を生きられないので、霊界でみすぼらしい立場に立つようになります。(681)

 故郷とはどのような所でしょうか。「私」の心情を四方に、立体的にすべて引き上げておく所です。その心情を何で縛りつけるでしょうか。愛で縛りつけるのです。上にはお母さんとお父さんが縛りつけ、左右には夫婦の因縁が縛りつけ、下には息子・娘が縛りつけ、親戚が……。このように立体的な愛でかちかちに縛りつけている所が本郷です。人は愛を中心とした幸福の起点を最高として望むので、本郷を懐かしがらざるを得ないのです。(682)

 人間はなぜ永世するのでしょうか。なぜ誰でも永世を求めるのかというのです。絶対的主体者であられる神様の前に、愛の対象圏の価値を備えることができ、絶対的な愛の神様の前に永遠であらざるを得ないために、「私」は永遠なる愛の対象圏を探すようになるのです。この位置に立つようになるときは、上でも下でも同じです。神様であると同時に「私」となります。愛で一体にさえなれば、神様が「私」のポケットの中に入ってこようとすれば、入ることもできるというのです。(683)

 人間は、お母さんのおなかの中にいてから生まれ、一定期間を地上で生きてから死を迎えるようになっています。ですから、大部分の人間は、老いていくほど死に対する恐れをもつようになります。人間が老いていくほど死に対する恐怖や不安を感じるのは、死後の世界に対する信仰がないからです。

 人間はこの世に生まれる前には、お母さんのおなかの中で十カ月を過ごします。おなかの中にいる時、胎児の自由には限界があります。彼はお母さんの栄養をへその緒で引いて育つとき、二本の手を伸ばしたり引っ込めたり、口を開けたりつぼめたり、二本の足でばたばたするのが精いっぱいです。しかし、その胎児には、お母さんのおなかの中が自由天地であり、生の全領域であることでしょう。その胎児は十カ月目にこの世に生まれて育つようになりますが、それ以後の世界が今日私たちが生きている現在の地上世界であり、人間社会なのです。ですから、今、私たちはお母さんのおなかの中にいる時の生活の記憶はありませんが、どれほど息苦しく限定された生活だったかを推量することができるでしょう。

 この世に生まれた人間は、胎児の時のお母さんのおなかの中に比喩される宇宙での生を生きているのです。一言で言って、お母さんの懐のような宇宙で、人間は百年の生涯を生きているのです。胎児がお母さんのおなかとは違う人間の世界を知らなかったように、今日地上世界で生きている人間たちは、死後の無形実体世界に対する実在が分からずにいるのです。お母さんのおなかの中では人間世界について分からなかったが実在として人間世界があったように、死後の世界もあることだろうと、ただ漠然とした心証をもっているだけなのです。けれども分明なことは、人間の死後の世界に対する心証的な存在可否にかかわりなく、死後の世界は確実に存在しているということです。しかし死後の世界は、人間が感知することのできる五官作用外にあるので、宗教を通した信仰をもって不信を克服しなければならないというのです。(684)

 数千年前の人の心も、今日の人の心も、みな同じように何を慕うでしょうか。心の幸福の世界を追求していくのです。心の幸福の世界を追求すると同時に、心の理想の相対を、心の理想の家庭を、心の理想の世界を追求していくのです。(685)

 皆さんはお父さんとお母さんから生まれました。その次にもっと根本的なことは、お父さんとお母さんのおなかを借りて、神様から生まれたという事実です。皆さんは宇宙の父母を通して、肉身の父母を通して、真の父母を見いださなければなりません。肉身の父母は、通過の父母です。だから死の瞬間は、真なる父母に会いにいく歓喜の時間です。そこには、真なる父母の真なる愛があります。そこを天上天国と言います。

 そこの構成要素は愛であり、そこは父母の愛で充満しています。その愛は「私」のためのものではなく、奉仕と犠牲の原則のもとに、一般的な法度を通ることのできる愛です。そこに合格するためには、宇宙を愛し、人類を愛さなければなりません。地上生活は、そのような愛のための訓練の場所です。皆さんは、このような内容が宇宙の根本であることを知って、生きている間にこのような観念をもち、愛を実践して、合格したのちにそこに行けば、間違いなく神様の元に帰るという結論が出てきます。(686)

 一生の間愛のために生きる人には、万物も祝福を送ることでしょう。花もその家の庭で咲くことを願うでしょうし、一羽の鳥もその家の庭園の木に巣を作り歌を歌うことを望むというのです。それは万物の価値を知っているだけでなく、万物を心から愛してあげるからです。(687)

 皆さんが霊界に行けば、間違いなくやったとおりに返してくれます。ここにいる祝福を受けた家庭は、先生が祝福してあげたので、天国に行く門は開きますが、前進するにおいては、心情の軌道に乗って行けば行くほど、あちらから引き寄せてあげなければなりません。その世界は神様の愛の世界なので、「私」の心情がそれと和動できてこそ入ることができます。だから、今後そのような世界が現れる時が来れば、皆さんは多くの審判を経るべき運命ではないかと(先生は)考えます。(688)

 「私」がなぜ生きるのか考えてみましょう。皆さんは会社の社長になるために生きたり、寝て食べるために生きていますか。そうではないでしょう。また、生きるために生きたなら、そのあとにはどこに行くのでしょうか。御飯を食べたあとには、どこに行くのでしょうか。学校や職場に行きますか。そうでなければどこに行きますか。愛というアンテナを尋ねていくのです。皆さんもそのように考えますか。

 今日、アメリカ式の愛はどうですか。最近、カリフォルニアであった一つの調査によれば、九〇パーセントの人々が離婚をした経験があると答えたというのです。そうだとすれば、それをどのようにして愛だということができるでしょうか。

 貴く価値ある物であるほど変わりません。宝石がなぜ価値があるのでしょうか。金やダイヤモンドは変わらないため、貴く価値があります。この世で一番貴重なものは何でしょうか。金でもダイヤモンドでもない、真の愛(true love)です。

 真の愛は変わらない愛です。そこに異議がありますか。皆さん、アメリカの青年たちの中に父母を嫌う人がいますが、それは父母の変わらない愛を得られなかったからです。

 夫と別れて家庭が壊れたとしても、子供に対する愛には変わりがあってはなりません。それが真の愛です。夫が死んでも、愛する子供のために犠牲になるのがお母さんの愛なのです。そのようにすることによって、夫に対する愛も残され、子供に対する愛も残されるのです。もし夫が死んだとして、子供まで捨て、自分だけのために再婚をするなら、夫に対する愛も壊れるのであり、ひいては、子供に対する愛も壊れるようになることを知らなければなりません。

 夫が死んだとしても、子供のために犠牲になる人は、その愛が残されるのです。夫を失ったという事実によって不幸な妻の立場にいるように見えるでしょうが、息子を通して、夫から受けたそれ以上の愛を子供から受けることができるのです。そのような道が、夫が死ぬことによって継承され得るという事実を知らなければなりません。その息子は、自分のお父さんがお母さんのために与えることのできなかった何倍以上、お母さんのために生きようとするのです。その中に夫と妻の愛よりもっと貴い愛があることを知らなければなりません。

 反対に妻が死んだとしても同じです。妻が死んだとしても、子供を、妻を愛したそれ以上に渾身の力を振り絞って愛さなければなりません。そのように変わらない愛がある所には、永遠に和動することのできる本質的な秩序があるのです。(689)

 愛する人同士は、互いが自分を表さず、相手のために与え、称賛してあげるのです。そのような夫婦が、本当に愛らしく生きていく人々であることでしょう。そのような愛がある所には、電気が流れる電線に「ウーン」という音が出るように、あらゆる音が出るでしょう。愛の雷が落ちるなら、その音がどれほど大きいでしょうか。千年の間寝ていた人も、あわてて目覚めるでしょう。目覚めて驚くのではなく、起きるや否や、踊りを踊って喜ぶでしょう。ある誰かがさせるから踊るのではなく、自動的にそのようになるのです。

 一言で結論を下すなら、すべてのものがなぜ在るのかといえば、真の愛のために存在するということができます。そのような結論が最も論理的であり、普遍で妥当性があり、理想的な結論でしょう。数多くの男性と女性たちは、真の愛のために存在します。歴史の中で「私」のような女性たちが、一度も真の愛を受けられなかったので、それを蕩減復帰することのできる一人の男性に出会うために、「私」がこのように生まれたと考えればいいのです。その時には、「私」が女性の中で最も偉大な女性となるでしょうし、その人になくてはならない最も尊貴な女性になることでしょう。(690)




以上 祝福家庭と理想天国 2004.02.19 裏道














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