真の御父母様の生涯路程 2

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目次
  1. 第一節 解放を前後した摂理的基台
  2. 第二節 韓国解放とキリスト教を中心とした摂理の出発
  3. 第三節 興南監獄の受難
  4. 第四節 興南から釜山まで自由南下
  5. 第五節 釜山避難時代

第一節 解放を前後した摂理的基台

真の御父母様の生涯路程 2




第一節 解放を前後した摂理的基台


       

一九四五・八・一五 前後



一 第二次世界大戦とキリスト教文化圏



世界のキリスト教歴史の主流



 キリスト教文化圏は、女性文化圏、新婦文化圏です。東洋文化圏は、新郎文化圏です。すべての教祖たち、新郎たちは、東洋から出てきました。新郎であられるイエス様は、東洋文化圏内のすべての宗教圏、インドの仏教や中国の儒教など、東洋の宗教文化圏を吸収しなければなりませんでした。ローマは女性と同じなので、声だけ張り上げても、吸収するようになっていました。

 しかしイエス様は、死んで体を失ってしまったために、霊的な国家基準のみを代表するようになったのです。死んだので、アジア大陸を失ってしまったのです。再び来る時は、これを取り戻さなければなりません。復活させなければならないのです。

 そして、イタリア半島で誤りました。ローマ教皇庁、ローマ民族を選び立てたのは、ローマ民族第一主義のためではありません。ローマ民族を選び、ローマにキリスト教王国を立てたのは、世界を救うためだったということを知りませんでした。ローマのためのキリスト教文化圏ではなかったのです。

 この文化圏は、新教と旧教の戦いによりイギリスに渡っていき、そこで基盤を築いたのです。それでイギリスは一時、「五大洋六大州に日の沈むことのない帝国」というほどになったのです。世界のどこでも、自由自在に動ける版図をもつようになったのです。これはイギリスを通して、世界を救おうとする神様のみ旨があったからです。それをイギリスは知らなかったのです。

 ところで、そこにおいて、再び新教と旧教が戦うと新教の清教徒たちは大西洋を渡り、アメリカに行き、そこで新教の独立国家を立てたのです。それは神様が立てたのです。それでアメリカは二百年間に、欧州のすべての精髄を抜いてきました。人脈から信仰の骨髄を全部抜いてきて、太平洋を望みながら、女性文化圏、キリスト教文化圏を中心として、二百年間で二千年歴史を、もう一度新たに結実させたのです。


キリスト教文化圏と民主世界



 このように今まで二千年の歴史を経ながら、個人から家庭、国家、世界圏をつくり、今日アメリカという国を中心として一つの新教国家を建設することにより、ここから新たに霊的世界を動かすことができる勝利的土台を築いた、と見るのが原理観なのです。

 それでは、アメリカとは、どのような国なのでしょうか。霊肉を中心としたキリスト教の犠牲の代価として、結実された国です。アメリカがそのような国であるため、神様の摂理は、ここでキリスト教をどう統合するか、ということを考えざるを得ないのです。

 ところで、イエス様当時のローマは、「反対することができるローマ」でしたが、今日、アメリカは、キリスト教を中心とした世界時代圏内に入っているのです。ですから「支持することができるローマ」と同じ形態になったのです。その当時は国家時代であったために世界の基盤ができていませんでしたが、今日は世界時代であるので、世界の基準が天側に立つことができる、讒訴圏を越えた段階に来た、ということを知らなければなりません。そこが違うのです。それは、キリスト教の功労です。キリスト教世界の外的環境によって、神様の主管圏内に入ってきたために、それが可能なのです。ですから世界圏内にメシヤが来るのです。

 それで、全世界のキリスト教文化圏を中心とした民主世界は第二イスラエル圏になり、キリスト教は第二イスラエル圏の思想的な指導を受けもつ立場、すなわちイスラエルの国の前のユダヤ教と同じ立場になります。イスラエルとキリスト教は、そのように霊的に連結されるようになっているのです。


国際連盟失敗と第二次大戦勃発



 近代史に至っては、世界は二回にわたる世界大戦を行いました。一九一四年、サラエボでオーストリアの皇太子を暗殺した一発の銃声により点火された第一次世界大戦では、たちまちのうちにヨーロッパ全域を火の海にして、十六カ国が参戦した中で、三千万人の死亡者を出すという凄惨な戦争となりました。

 このヨーロッパの惨状を見て世界の指導者たちは、いかなる代価を払っても、再び戦争を引き起こしてはいけないという骨身にしみた覚醒から、アメリカのウィルソン大統領の提唱により、「国際連盟」(League of Nations)を結成しました。しかし、「国際連盟」は、四十余種の国際紛糾を処理しましたが、強大国間の紛糾の処理に失敗し、ウィルソン大統領の遠大なる夢は跡形もなく消え去り、アメリカ上院の批准も受けられないまま、結局失敗して、幕を下ろしてしまったのです。戦争を防ごうとする人類の渇望は、挫折しました。

 そして、それから二十年もたたずして、再び世界は第二次大戦の惨禍の中に巻き込まれていきました。


第二次大戦の摂理的意義



 宗教の目的とは何でしょうか。アダムを完成することです。また神様の救援摂理の目的とは何でしょうか。アダムを完成することです。神様の目的や天使長の目的がアダムを完成することにあるので、その基準を世界において、霊界と肉界において再蕩減しなければなりません。霊肉を中心として、サタン世界と天側の天使圏が戦って勝敗を競うというのが第二次大戦であったと見るのです。聖書から見れば、ハルマゲドン戦争なのです。

 その第二次大戦がどんな戦争かといえば、イギリスとアメリカとフランスが連合して、日本とドイツとイタリアに対して戦った、世界的な戦争です。

 さて、堕落する時に植えたとおりに刈り入れなければなりません。すなわち、アダム・エバ、その次にはカイン・アベルが蒔かれました。したがって天の側もサタンの側も、アダム・エバ、カイン・アベル、というように二組に分かれるのです。

 それで天の側ではイギリスはエバ、アメリカはアベル、フランスはカインです。サタン側では日本はエバ、ドイツはアベル、イタリアはカインです。このように対が生じたのです。日本は女性神の天照大御神を信じながら、ドイツはゲルマン民族を中心として、イタリアもファシズムを中心として、世界を制覇しようという夢をもって出てきました。

 それでキリスト教文化圏の抹殺運動をしたのです。ヒトラーはユダヤ人六百万人を虐殺し、イタリアもプロテスタント抹殺運動をしました。完全にサタン側です。それは歴史的事実なので、否定できません。

 ところで、ドイツは大陸国家であり、日本は島国で、イタリアは半島国家です。そしてアメリカを見れば、アメリカは大陸に属しており、イギリスは島国に属しており、フランスはイベリア半島に属する国です。大きく見れば、そうなるのです。それゆえにこれは、世界史的な、地球の全体を総合した戦争です。海までも全部連結させた戦いです。そして、この民主主義陣営の三国と同盟国の三国とが戦って、民主陣営が勝たなければならないのです。


連合国勝利の摂理的結果



 今日までの歴史は、長子権復帰の歴史でした。これを省いては、なんにもなりません! 第二次大戦直後に、その長子権を復帰することができた基盤になったのです。その時を見れば、天の側の母を中心として天の側のアベルが長子になるのです。天の側のアベルが長子になって、サタン側(カイン圏)がアベルのあとに従ってくるようになっていました。負けたから屈服しなければならないのです。天の側の母であるイギリスと、長子圏を復帰したアメリカ、そしてカイン圏のサタン世界の版図です。カイン的な世界が、弟の立場に立って従うようになったので、父母が来るのです。歴史始まって以来、キリスト教文化圏を中心として長子権復帰形態が完成し、統一世界になったのはその時が初めてでした。

 第一次、第二次世界大戦で、どれほど多くの人々が虐殺され、犠牲になったでしょうか。そのような勝利的基盤を築いて、第二次大戦以後に、アメリカを中心として一つの世界形態をつくり、何をしようとしたのかというのです。それはメシヤのためです。ただメシヤお一人を迎えるためです。

 したがって第二次大戦が勝利に終わったという事実は、霊界の天側の天使圏と地上の天使圏が、サタン世界に対し勝利したということです。ですから、アダムが現れることができる時が来るのです。それで第二次大戦直後に、再臨主が顕現する時代が来るのです。


アメリカの戦後処理責任



 第二次世界大戦は、大西洋のみならず、太平洋までも大の海にしました。数千万の人々が殺傷され、ついに二発の原子爆弾の投下により、ようやく終結しました。世界が再びそのような生き地獄になるのを防ぐために、今度は、一九四五年四月二十五日、サンフランシスコで、「国際連合」(United Nations)、すなわち国連(UN)を創設するに至りました。

 国連機構が出てくることにより、弱小民族の解放が起こります。歴史上に、そのようなことはありませんでした。それでは国連機構が出てきて、なぜそうなったのでしょうか。真の御父母様が来られる時であるためです。

 カインがアベルを打った歴史を、ある一時において、カインがアベルを愛したという条件として立てなければなりませんでした。そのため、敗戦国家を解放してやることにより、初めて歴史的な解怨成就を通して解くことができる一時を、歴史の終末時代に準備しなければならないのです。

 そして、国連が何をしなければならなかったのかといえば、キリスト教を中心として新しい党をつくらなければならなかったのです。キリスト教民主党を中心とした国連機構が生じなければならなかったのです。そのような背景のもとに、国連は世界の党であるキリスト教民主党を支持する機関にならなければならなかったのです。それは全世界のキリスト教国家の国会なのです。

 神様のみ旨から見れば、本来国連は、キリスト教精神を中心とした世界の国、が、結束する本営にならなければなりませんでした。共産主義国家を含む国連は、絶対に神様のみ意ではありませんでした。

 ところでアメリカは、戦争に勝ったのち、戦後処理を誤りました。第二次大戦に勝利した連合国と、敗戦した同盟国が統治していた国々まで正しく保護して、天のものとして管理する責任がアメリカにありました。もし、アメリカが神様のみ旨を正しく知っていたならば、その時は、サタン側国家であるソ連を堂々と制圧して、世界中の自由国家を集めて民主世界へ結束させ、神様のみ旨の中で全世界を復帰できる、良い機会だったのです。しかし、アメリカは、当時のアジア諸国と東欧衛星国家を共産側に渡し、韓国とドイツを両断する悲劇を招来させてしまったのです。


摂理圏のアジア委譲



 第二次大戦によって、アジアの全域を掌握することができました。全体を掌握することができたのです。そうして何をするのでしょうか。イエス様がアジアを中心として成そうとしたそのみ旨を、キリスト教がアジア圏を中心として、世界を一つにする運動をしなければなりません。それにより、ここに再臨主が来て、これを肉的基盤に連結させて、全世界解放運動をされるのです。今、世界のすぺての人々は、「太平洋文明圏時代が来る」と言っていますが、それはなぜでしょうか。歴史の起源がここにあるのです。イエス様が体を失ってしまったために、霊的キリスト教を中心としたアメリカが、太平洋を渡り、アジアに行かなければならないという歴史的な使命をもつために、このような時代が来るということは、必然的な結論です。

 それゆえに、イギリスのような島国に回っていこうするので、イギリスに匹敵するアジアの国がどの国かが問題なのです。それが日本なのです。日本が百二十年間アジアを制覇したのは、イギリスが全世界に影響を及ぽしたことと同じで、アジアに影響を及ぼす圏をつくらなければならないために、日本がこのような文明の恵沢を受けるようになったのです。それゆえに、近代日本文明は、イギリスからそのまま受け継いだものです。

 その次には、イタリアのような半島を蕩減できる所がどこかというのです。摂理的に見れば、どのようになっていますか。怨讐の国を通じなければならないのです。ですから日本の基地を中心として、韓半島を訪ねていく道しかないという結論が出てくるのです。

 それゆえに、韓国は昔のローマ文明のような新しい文明を中心として、神様の前に霊的なものだけでなく、霊肉を中心として貢献できる、そして、西欧文明がアジアに訪れてくる時に、その文明を受け継ぐことができる一つの拠点だということを、摂理観的な立場で結論づけることができるのです。それで肉的な立場で、教皇庁のような使命をしなければならない所が、韓半島なのです。


二 韓民族の日帝四十年の受難とキリスト教



新しい選民、韓国



 国家から世界へ出発するその基準が、本来メシヤが行くことができる道です。ところがその道を形成できなかったために、終わりの日には失敗したことを必ず復帰して、勝利の基盤を準備しなければなりません。そうでなければ、世界的勝利圏を連結させることができる基盤が生じないのです。

 それゆえに、イスラエルの国と同じ特定の民族が出てこなければならないのです。そのようなある特定の民族が出てきて、イスラエルの国とユダヤ教ができなかったことを、新たに果たさなければなりません。新しいキリスト教が、その民族を中心とした国を中心として、使命を全うすることができる受難の路程を経なければなりません。終わり日には、そのような特定の国が登場しなければならないのです。天は特定のその国を通して、一次イスラエル圏の失敗を再び収拾するための地上摂理をせざるを得ないのです。その国が、どの国でしょうか。今日、私たちの原理で指摘しているように、韓国がその国にならなければなりません。

 韓国はいくつかの点から見る時、唯一の特性をもった国です。第一に、韓国民族は単一民族です。第二に、韓国人は非常に宗教的です。韓国人は天性的に宗教を深く理解しています。第三に、韓国人は苦痛を理解します。韓国人は、歴史を通して限りない試練と困難を経験しなければなりませんでした。このような条件のもとで、韓国人は忠誠と献身ができる精神で、不滅の霊的基台を発展させてきました。これらすべてのものが、神様が選択する民族がもつべき、最も重要な特性です。それは、神様の性稟と符合するのです。


四十年の民族的受難



 第二次世界大戦の間、韓国は日本の統治下にありましたが、韓国の愛国志士たちの中には、日本の圧制に対抗して戦った人々がたくさんいます。

 皆さんが原理を学んで知っているように、神様は四位基台を失ってしまいました。それゆえ、神様の復帰摂理の目的は、四位基台を復帰することでした。それで聖書と神様の摂理の中に、四数が多いのです。聖書には四十年と四百年の蕩減期間がたくさんあります。すべての復帰、蕩減が、この原理に従って成されました。

 日本は、どのように四十年間、韓国を支配したのでしょうか。サタン側のエバは、将来、天の国のアダムが来ることを知っていたのです。すなわち、四千年歴史を終結することができる真の主人が来ることをサタンが既に知っていて、これを滅ぼすために、四十年間占領をしたのです。それでアジア大陸を侵略したのです。

 そのように見れば、摂理的な歴史において、韓国が中心国家となる天のみ旨があるために、そして、真が現れる前に悪が現れることが発展的路程の原則になっているために、悪なるサタンが四十年間支配して、アジアを蹂躙したことを知ることができます。

 今後、半島を中心として、中国を越えて、イスラエルまで大陸を統合する時代が歴史の終末時代に訪れることを知っているために、サタンは崩壊作戦を準備してきたのです。それで韓国の十二歳から四十歳になる、最も中心になる女たちを挺身隊に引っ張っていき、韓国の民族性に汚点を残そうとしたのです。根本的に荒廃化させようとしたのです。


キリスト教の受難と愛国運動



 イスラエルの国とキリスト教が、霊肉を中心としてサタン圏で支配を受けながら戦ってきたのと同じように、韓国も四十年間、肉的な面で怨讐に支配を受けながら、霊的な面でこの国のために生命を捧げることを覚悟する群れを中心として、独立運動をしてきました。このような精神を中心として、神様は摂理の因縁を立ててこられたと、私たちは見なければならないのです。そうして民族を糾合して結束させて、キリスト教を主とした人々が指導者となって、国を立てるようになったのです。

 そのようにキリスト教の信者たちが、霊的な面で日帝四十年の弾圧の中で、国もない中で死の道を自ら進んでいきながら、国を愛する忠節の道理を立てたことは、摂理史的に重大な意義があるのです。

 時が第二次世界大戦の終末に近づくに従って、圧迫はより一層過酷になりました。日帝末期に、日本人は圧迫を加重して、キリスト教徒たちに神社参拝を強要しました。篤実なキリスト教徒たちは、神社参拝を拒否して地下に隠れました。ある人々は満州に行き、ある人々はソ連に行き、ある人々は山に行って隠れて生活しました。神様を信じながら、日本から解放されるその日を渇望する多くの人々がいました。日本政府と内通していたキリスト教の牧師たちも、たくさんいました。彼らは、日本の指示に従って行動しました。しかし一方では、地下で、山で、変わらずに信仰を守り、解放のその日を待ちながら戦った、愛国的で篤実なキリスト教徒たちが、たくさんいたのです。

 一九四四年末ごろになると、日本政府からキリスト教に対する迫害がピークに達しました。日本政府が一九四五年八月十五日に降伏したのですが、その時、もし三日後の十七日を過ぎて降伏していたならば、キリスト教徒がおよそ二十万人近く虐殺されていたはずです。日本が、十七日ごろにおよそ二十万近いキリスト教徒を虐殺しようと計画していたので、十五日より三日間だけ過ぎていれば、大虐殺が起きたはずです。完全にキリスト教をなくそうとしていました。そのように、サタン世界の極悪さが最高の基準に至ってこそ、天はいつも転換点をつくってきたのです。


神霊役事とキリスト教の内的復興



 韓国が日本の支配をどんなに受けたとしても、解放を中心として、ここに必ずアダム的な主体の権限をもって現れる役事がなければならないのです。それがいかなる役事かというと、正に神霊の役事です。このような役事をする集団が、必ず現れなければなりません。エバ国家である日本に圧制を受ける韓国でしたが、未来にアダムの特権、ひいては神様の権限をもって日本に対して備え、立つことのできる摂理のみ旨があったがゆえに、圧制を受ける基盤内でも飛躍的な復興をもたらすようになったのです。キリスト教が、その期間に発展しました。

 西洋の宣教師たちが、最初に我が国に入って伝道した一九一〇年代、一九二〇年代には、彼らは人としての扱いを受けられずに、追い回されました。その後、一九三〇年代に入り、一九三六年度までが全盛時代でした。

 神様は今まで、韓国の地で、既成教会を中心として神霊役事をしてこられました。解放前、一九三〇年代と一九四〇年代を中心として、神様は準備してきました。

 不信してイエス様を追放した使徒たちが活動して、再び信任できる基盤を築いたその基盤の上に、再臨歴史が始まらなければならないのです。それゆえに、解放を前にして、霊界に通じる人々が、自分はペテロだ、ヨハネだ、パウロだ、あるいはアブラハムだ、などと言って、歴史上に生きて逝った数多くの預言者を代表する人々が一度に、この平面的な韓国の神霊界を中心として現れるようになるのです。それでエデン復帰派が、たくさん出てくるようになったのです。

 特にエデン復帰派として、旧約エデン復帰派、新約エデン復帰派、成約エデン復帰派があったのです。そのような準備を中心として、人間が犯した罪を清算するためのすべてのプログラムを全部教えてあげ、悟らせて、その峠を越える役事をするのです。

 この三種類の人々が、全部表面上に現れたのです。彼らは互いに一つにならなければならないのに、互いに「自分たちを中心として神様のみ旨が成される」と言っていました。


男女相対的な役事



 この韓国の地を中心として、ある天的な摂理があるとすれば、この地で内的使命を果たす運動が始まらなければならないのです。その中で、外的使命は男性たちが責任を負わなければなりませんが、内的使命は女性たちが責任を負わなければなりません。堕落した型を見れば、エバがアダムを主管したがゆえに、復帰路程では婦人がアダムに代わって内的使命に責任を負ってきます。アダムがエバの主管を受けたがゆえに、男性たちは復帰路程で外的使命を担当して、堕落した当時の基準を尋ねていくのです。

 しかし全般的な内外のすべての内容を収拾して、勝利の基準を築くためには、必ず決定的な権限がなければなりません。これは再び来られる主、すなわち第三次アダムとして来られる主だけが解決することができる問題です。

 韓国の地は東と西に分けられます。東側には山が多く、西側は平野が多いのです。韓国の東側は男性的な姿をしていて、西側は女性的な姿をしています。神様の摂理も韓国の地形と同じ形態を取りました。すなわち、東側部分には男性的な特質を、そして西側部分に女性的な特質をもたせたのです。

 それゆえに、西側の鉄山では婦人たちが神霊役事をし、東側の元山を中心として男性たちの神霊役事が展開しました。

 女性たちを中心として、三代の女性が天の摂理に備え、それを迎えるための準備をしなければならないのです。なぜでしょうか。エバが堕落したために、エバが天の前にまず呼ぱれて、女性として、今後、主がどのように来られるかを知って、これを三代を経て準備しなければならないという、摂理史があるためです。そのような混乱期において、皆さんが知っているように、金聖道から、許孝彬から三代を経てきたのです。

 すなわち女性を中心とした摂理は、金聖道、許孝彬、主なる神の夫人だと主張する朴老婆につながり、男性を中心とした摂理は、白南柱、李龍道、金百文につながりました。


神霊教団と既成教団



 神様がユダヤ教を中心として役事された内容と、ヨセフ家庭を中心として役事された内容とは、大いに異なります。それと同じく、キリスト教を中心として今まで役事してこられたことと、韓国で成された新しい神霊役事も違うのです。神様は、み旨を立てるべき様々な神霊団体をして、ヨセフ家庭と同じ使命を果たすことができるようにさせました。

 言い換えれば、歴史的なすべての蕩減条件を引き受けて出ることができる家庭的基盤を準備するために、このようなものを一〇〇パーセント準備したのです。しかしその当事者たちは現れる結果は分かりましたが、その内容を理解して責任を負って出る人はいませんでした。

 数多くの歴史路程を通じてこの時代圏内に現れたその集団の歴史は十余年にすぎませんが、その歴史の背後には六千年の長い摂理の内容が連結していたのです。それゆえ彼らが新しく来られる主と完全に連結され、すべての社会と環境をここに一致させ、一つの盾となり、完全な軸となって、その周囲を完全に守ることができる基盤になっていれば、そのような基盤の上で新しい歴史を出発させることは難しくなかったでしょう。それが実現さえすれば、キリスト教が信じようが信じまいがそれは問題になりません。

 それゆえ結局、神霊集団がキリスト教を引っ張っていかなければなりません。キリスト教と神霊集団が、カインとアベルの立場に立つようになるのです。神霊的集団がアベルならば、神霊的でないキリスト教はカインです。既成教団の神社参拝をしたすべての者は、サタン側に行きました。そのような俗化されたキリスト教は、カインの立場にいるのです。サタン圏内の支配を受けたために、これを一つにしなければなりません。それでそのようなことを連結させるために天は様々な神霊的団体をつくったのです。


三 金聖道氏の聖主教と白南柱牧師



「新しい主」金聖道女史



 皆さんは、鉄山の金聖道ハルモニをよく知っているでしょう。この金聖道氏が、ほかならぬ鄭錫温氏の母親です。その金聖道氏が、韓国におけるエバ格の使命、すなわち韓国復帰の使命を果たすことにおいて、開門した代表的な女性です。その女性は、普遍的な系統を踏んで嫁に行って、家庭を成してはならないようになっているのです。間違いなくそうなっています。それゆえ鄭錫温氏には、母親が二人いなければなりません。分けて別々のものにして摂理されるために、必ずそうした血統に従ってこなければ復帰できません。二筋ならば、一つは天側、一つはサタン側です。

 新しい主とは、新しい主人をいうのですが、婦人を指して「主」と言ったのです。なぜそうだったのでしょうか。創造理念から見る時、夫婦は一体になるように造られたために、一体理念を中心として役事するのです。新郎新婦の立場は、創造理念が成された立場であるために、その最高の基準を中心として教えてくれるのです。主はすなわち天であり、地は婦人なのですが、夫婦は一体なので、地で「主だ」と言う者がいるのです。それで婦人なのに、「主だ」と言う人がたくさんいるのです。


金聖道女史の信仰と神様の啓示



 その婦人の夫は、彼女がキリスト教徒になることを良く思いませんでした。しかも彼女は常に、夜中の一時に起きて朝方まで祈祷をしました。知らない者には、そのような行動は理解できませんでした。夫の迫害にもかかわらず、そのようなことを続けました。信仰のために命を捧げる準備ができていました。それで霊界によって、その当時、韓国で特別に篤実なキリスト教徒として認められました。

 神様と直接的な対話をもち、直接啓示を受けました。すなわち、その婦人は天から多くの教えを受けました。韓国解放の正確な日を聞きました。再臨主が肉身をもった人間として、韓国に来るであろうということも聞きました。さらにまた、主によって韓国が特権をもった国になり、韓国によって全世界が神様に復帰されるということを知りました。

 天が、鉄山を中心として、このような基盤を築きながら準備をしてきたのです。ここにおいては、エデンの復帰がどのようになされ、エバがどのように堕落したかということを、詳細には教えてくれませんが、大体その輪郭的な内容は霊界から教えてくれたのです。


感謝の歌



 彼らは感謝する集団です。こうでも感謝し、ああでも感謝するのです。よく考えてみれば、それは正しいことです。感謝することのできる人には、サタンは侵犯できません。サタンが侵犯しかけても、逃げていくのです。たとえサタンの侵犯を受けても、「全体を蕩減させるために、神様が私に試練を与えたのだなあ」と、このように考えるのです。

 このような観点から、今日の韓国キリスト教の新興宗派の中から、鄭錫温の母親である金聖道を中心とした感謝集団が現れたのです。このような事実は、今日私たちの信仰生活に、戒めと悟りの心を高めてくれます。必ず感謝の生活を履修しなければならない絶対的な二乗団を代表して、彼らが出てきたという事実を知らなければなりません。ですから、こうでも感謝、ああでも感謝しなければなりません。そのようにできる皆さんになって、父の前に生涯をみな捧げる時には、神様は、皆さんが死の中にいるとしても、復活させて、天上世界に立たせて自慢されるのです。


夫、鄭恒俊氏の激しい迫害



 夫人がこのような役事をする時、その夫は全力を尽くして反対したのです。それはなぜでしょうか。蕩減原則が、そうなっているためです。もともとサタン側の主管を受けていた女ですが、天側に奪われる立場に立ったために、サタンはとても激しく反対をするのです。しまいには、のどに刀を突き付けることまでするのです。そうしなくては、復帰になりません。普通の女では耐え抜くことができない悲惨な運命にぶつかり、天命による志操を立てなければなりません。

 すなわち、神様が選んだ新しい娘の立場で、歴史時代の女性に代わって、その志操と忠節を全うしなければなりません。そうして、神様だけが愛することができるという認定を受けなければなりません。そのような苦難の道を、二十年以上行かなければなりません。

 このように反対を受けるところにおいて、この金聖道ハルモニが果たすべき責任とは何でしょうか。反対するのを、完全に占領しなければなりません。必ず占領しなければなりません。この男は、女に屈服させられなければなりません。なぜなら、エデン’の園でエバがアダムを主管したために、この復帰摂理歴史の過程で、そのおじいさんは夫人に従っていかねばなりません。夫人のスカートの端だけつかんで、言われるままにしぶしぶでもするならば、これは天地の福を受けるのです。蕩減復帰の原則がそうなっています。

 ところでそのおじいさんは、天の前に度が過ぎた反対をすることによって、この地で正常な死の道を行くことができませんでした。「薬を飲んで死んだ」と言ったでしょう。そのようになります。


二人の息子、鄭錫天、鄭ピョンファと長男の嫁、崔愛善



 ところで、この金聖道ハルモニには息子がいなければなりません。少なくとも二人以上の息子がいなければなりません。この家庭を中心として、エデンの園でアダム家庭が失ってしまったカイン・アベルの蕩減役事をするのです。長子と次子になるのです。

 もしここで、その息子の兄弟が母親と完全に一つになって、母親に侍っていたならば、その家庭の代を継いで、来られる主を迎えるための準備をすることができる基準を立てたはずです。ところで、ここで誰が責任を果たせなかったかというと、鄭壽源の父親である鄭錫天長老です。それにより、その家庭はどうするのでしょうか。母親、父親を中心として、再蕩減役事をしなければならないのです。

 長男の嫁は、ある牧師の娘でした。その牧師は、非常に篤実な牧師でした。その嫁も同様に、霊的な体験をたくさんしました。それでその嫁は、姑が天から受ける啓示を理解しました。長男は、彼の母親がすることを信じはしましたが、そのことに積極的に関与しませんでした。その老いた婦人は、彼女の息子と嫁に「夫婦生活をしてはいけない」と言いました。しかし、息子は、母親の話に服従せず、妻と共に生活しました。その結果、霊界が彼女を連れていきました。その当時、その老いた婦人は蕩減の原理を知りませんでしたが、夫があまりにも自分を過酷に迫害したために、夫の行動を蕩減するために、そうなったと考えました。


白南柱牧師と聖主教団認可



 元山の白南柱氏は、スウェーデンボルグを研究し、彼の本を翻訳した人です。彼は、主が韓国に来られるという啓示を受けて、主の役事をし、その苦難を蕩減するために、鉄山の金聖道のところに裸足で歩いて行き、会って、金聖道集団を「聖主教」という名前で、総督府に登録をしてあげました。彼は、韓国における最初の洗礼ヨハネ使命者でした。

 またそこに、その男の相対だった一人の女がいました。名前は劉明花でした。彼女にイエス様が現れて、彼女を通してイエス様が白氏に語り始めました。彼女は、「主が私と共におられて、主が私を通して語られる」と言いました。それで白氏はひざまずいてその婦人に言いました。「あなたが語りたいことを私に語ってください」と。それから問題が生じ始めました。

 その二人に起きたことが牧師たちに伝えられ、牧師たちはそれを聞いて、その二人を迫害し始めました。それで、そのような霊的な団体と既成教会が、戦い始めました。たとえ彼らが啓示を、またみ言を受けたとしても、彼らは霊的な運動の内部は分かりませんでした。それゆえに彼らはそのような霊的現象をコントロールできなかったのです。


金聖道女史と白南柱牧師の決裂



 サタン世界において、女一人で国家を中心として戦ってはなりません。必ず男と二人で、一つとなって共同作戦をすることによって、一つの基盤を成さなければならないのです。白南柱氏が聖主教の登録をしてくれました。ところで、ここで金聖道氏と完全に一つになるべきであったのに、そうできませんでした。この白南柱という人も、霊界の啓示を通して、今後、韓国が神様の特別な摂理の役事を奉ずることができる国になるということは知っていたのですが、その具体的な内容は知りませんでした。鉄山を訪ねていき、鉄山の側と死のうが生きようが一つになって、相談しながら行くべきであったのに、そうした使命を果たすことができずに分かれてしまいました。

 それゆえ、復帰摂理の第一代的な基盤に問題が起きました。それで、この使命は他に移されます。鉄山の金聖道女史を代表して、開拓者の基盤を中心として基盤を築こうとした神様のみ旨が成されないことにより、一代においてはみ旨を解決することができず、二代に移っていくようになりました。

 完全に二つに分かれてどちら側にも立てなかったのです。神霊役事側にも、真理側にも、それが全的に神様のみ旨だということを確定できなくなったのです。


聖主教の受難と金聖道女史の他界



 家庭で起こったその女性の事件が、教会の牧師を通して社会に連結され、それがのちには国の問題にまでなるのです。この鄭壽源のおばあさんの金聖道氏も、そのような場合に該当するのです。家庭で迫害されたのが、教会と牧師に迫害されるようになって、これが国の迫害まで受けるようになると、監獄まで連結する問題が起こるのです。

 すべての既成教会が、彼らを迫害し始めました。それは、日本人の圧迫が最もひどい時でした。しばらくして、日本人が滅びるようになるだろうと啓示を受けました。彼らに啓示されたことを、彼らは何年もかけて伝播しました。これは広く知らされました。そのようなことが牧師たちの耳にまで入っていきました。牧師たちはこの集団を滅亡させようとして、日本政府の官吏の所に行き、そのようなことを話しました。その牧師たちの告発によって、その老いた婦人は投獄されました。彼女はむごい拷問を受けました。それで釈放後に、彼女は死にました。


四 李龍道牧師の「新イエス教」と許孝彬女史の「腹中教」



李無道牧師の復興運動



 次の摂理は、西側は許孝彬氏に移っていき、東側は李龍道牧師に移っていくのです。白南柱はアダム型ですが、この人が責任を果たせないことによって、李龍道牧師が出てきます。彼は許孝彬氏とは派が少し異なっていました。本来、彼らは一つにならなければなりません。ところで、一時は一つになりましたが、再び分かれてしまいました。そうして、李龍道牧師は何をつくったのでしょうか。イエス教会をつくったのです。

 中央神学校校長だった李浩彬牧師や朴在奉牧師は、韓国キリスト教に火を付けた人たちです。一九三〇年代に、李龍道牧師は韓国に、正にエリヤ的な火をもってきたのです。この人が講義をすると、数多くの群衆が天の役事に浸るようになるなど、天の恩恵を水を注ぐように降り注いでくれました。

 なぜ水を注ぐように恩恵を注いでくれたのでしょうか。イスラエルとユダヤ教が一つになって、ローマに反駁すべきであったように、韓国においても、キリスト教が韓国を完全に背負っていき、反対する日本を退けて、天の権威を立てるべき戦いが残っていたためです。

 天は彼に強力な火を与えて、全キリスト教が一つになり得る道を模索しようとしたのです。そうして、全キリスト教が完全に一つにさえなっていたならば、絶対に神社参拝をしなかったはずです。全部一致団結して、日本に反対して出れば、鉄刀を突き付けることができないようになっていました。なぜですか。アダムの権限を主張できる位置に立つためです。


既成教会の反対と李龍道牧師の他界



 ところで、このような特定の使命を担って来た人々に、反対する者が出てきました。その反対した代表者が誰かといえば、金麟瑞(一八九四〜一九六四)です。この人が、李龍道牧師に反対して現れました。挙国的な煽動をしました。天が使者を送り全国のキリスト教を統一させようとしたのに、このようなことをしたのです。もちろんその背後に、キリスト教の幹部たちが加担していたのですが。

 そうして平壌を中心として出発し、新イエス教運動をした李龍道牧師は、一九三三年に死にました。その時の年齢が何歳かというと、三十三歳でした。イエス様の年齢と同じです。彼が三十三歳の若い年齢にもかかわらず、韓国キリスト教界に旋風を巻き起こした事実は、神様の役事でなくては到底不可能なことです。

 霊的な運動も、二種類の形態に分けられました。すなわち、一つは内的であり、もう一つは外的でした。その時、これらの二つ教会、すなわち「腹中教」と「新イエス教会」を統一せよという、天からの教えがありました。それで西側集団が一つになるために、東側集団がいる所に行ったのですが、東側集団は彼らを受け入れてくれませんでした。これら二つの集団の統一を成すことに失敗することによって、神様は一つの新しい運動、新しい分野の開拓者を必要としました。それで神様は、御自身の指示を受け入れることができる、別の一人の人をもつことを願われました。その人が金百文氏でした。


李龍道牧師のために追悼した女性たち



 ここでおもしろい事実が何かというと、神霊に通じる人々がこの地に責任を負って来たのち、逝く時には、彼のために祈祷する人がいるということです。李龍道牧師は一人寂しく元山で死んでいきましたが、彼が亡くなる瞬間、神様が選んだ人々は遠い距離を超越して、天の前に特別な祈祷を捧げたのです。世の中のキリスト教徒たちは、うれしいと踊りを踊ったかもしれませんが、彼が死んだのち、三日間、白い服を着て追悼を捧げた人がたくさんいるのです。

 それは神様が、この国とこの民族を捨てまいとされる摂理、隠れたみ旨があったからです。それを、皆さんは知らねばなりません。そうしたみ旨を尊んで、他人が知らない中で精誠を込めた婦人たちがいたがゆえに、摂理の代を継いで続いてきたのです。

 先生は、数多くの教派の神霊に通じる人々に対して探究するのです。そうして彼らの役事を知るようになるのです。吉善宙牧師や李龍道牧師の摂理に対しても、すべて知っています。その人たちがどんな時代に、どんな使命者として来たのか、ということをです。その人たちの使命期間が終われば、必ずこれを引き継がなければなりません。


許孝彬女史夫婦と腹中教



 鄭氏家門の天的な功績が大きいので、天は彼らを愛されて恩賜を下さったのですが、その息子、娘たちがそのみ旨を信奉できなければ、彼女に従っていた信徒が引き継ぐようになります。そうなると、すべてのものが移るようになります。それで、その使命を引き継いだ人が誰かといえば、そのお母さんに精誠を尽くして侍った一人の婦人でした。

 彼女が、許氏の夫人です。その時は、一段階下がります。自分が主だと証するのでなく、主の新婦だと言って、主を生むと言うのです。腹中を通して主が生まれるというのです。それは復帰であるために、そうなっているのです。それはマリヤ的使命です。最初の金聖道氏はエバ的使命であり、その次の許孝彬氏はマリヤ的使命です。

 本来アダムとエバは、神様の体です。神様が、彼らの直系の父にならなければなりません。それゆえに、神様を中心として見る時、その夫の李一徳は、奸臣と同じ立場に立っているのです。これを蕩減復帰するためには、その夫は地上で男としては到底できないことでもしなければならないのです。今まで、女を蹂躙して利用してきた男の世界のすべてのことを蕩減復帰するために、ありとあらゆることをさせるのです。甚だしくは、その夫によって、裸になって追い回されるようなことまで命令するのです。

 それでは、この夫婦のなすべきとこととは何でしょうか。この夫婦はヨセフとマリヤの型です。それで、ヨセフとマリヤがイエス様を信奉できなかった怨恨、また洗礼ヨハネが信奉できず、ユダヤ教団とイスラエルの国が信奉できなかったすべての怨恨が天上世界に積もり、神様の心に積もっているために、これを解かなければなりません。解放前にそのような基盤を築かなければなりません。それでその婦人が日帝時代に、サタン側のエバ国家である日本と戦いました。サタン側のエバ国家と、天側のエバが戦うのです。


許孝彬女史に降りたイエス様の啓示



 ところで、啓示が、許孝彬氏の腹を通して伝達されたので、その集団を「腹中教」と言ったのです。「腹中教」という名前は、自分たちの集団でつけたのではなく、その時のうわさによって作られた名称です。

 彼らは、金女史の仕事を受け継ぐことを願いました。それで彼らは、金女史を通したこの仕事が神様の真の摂理として信じながら、熱烈に祈祷しました。その時に、イエス様が彼女に現れました。イエス様は、この夫婦に啓示を下ろし始めました。イエス様は彼らに、どんな境遇にあってもすべての困難に耐え抜いて、自分のみ旨に奉じることを頼みました。

 その婦人は、生活のすべてを主を中心としてなしてきました。そうすると、天は一番最初に、罪を脱ぐ方法を教え、その次には、生活する方式を教え、またその次には、主が来られたのちに子女を育てる方式を教えてくれます。順序がそうです。

 その許氏の夫人は、主を迎えて生活する法度と、全体的な規範を立てて準備しました。マリヤ的使命なので、許氏の夫人はイエス様を生んで育てる体験をしたのです。イエス様が生まれて、過ごしたすべてのことを体験したのです。イエス様が三十余年を過ごされながら、この地上でみ旨を成し遂げられずに逝かれたので、そのすべての恨を解くための一切の準備、蕩減的な一切の準備をしなければならないのです。


腹中教の侍る訓練と準備



 腹中教の仕事が、それです。主を迎えることができる完全な準備をすることです。ですから、イエス様の時の、すべての恨を解いてあげられる準備をするのです。その次には、主がこの地上に来て、最高の生活ができるようにしなければならないのです。誰をもうらやむことのない、イギリス王室さえもうらやむことのない生活をしなければならないのです。事実、そうでしょう?ゆえに、それを準備するために、主が着る服の寸法とか、すべてを教えてくれるのです。

 彼らは、「イエス様が幼い時から三十三歳の時まで着る服を作れ」という啓示を受けました。イエス様が三日ごとに着替えられるほど多くの服を、一度は韓国服で、そして一度は洋服で、三日ごとに着ることができるようにしました。また、彼らがその服を作る時に、ミシンを使うことができませんでした。彼らは「一度に三針以上縫うな」と言われており、また、服を作るために彼らは、部屋中をきれいに清掃しなければならず、一着すべて作るまでは、立ち上がることができませんでした。

 トイレに行くことも許されませんでした。「たとえお前たちがそのような代価を払っても、お前たちは主を迎えることができないだろう」と、天は彼らにそう言ったのです。そして、彼らが何かで間違った時には、天から過酷な罰を受けました。それで彼らは、天の指示に従わざるを得ませんでした。服の大きさは、イエス様の成長に従って、だんだん大きくなりました。そして、彼らがイエス様の服を作り終えると、次は、「来られる主のための服を作れ」というみ言を受けました。彼らは、「その主の服を作るにはもっと多くの精誠を込めよ」という啓示を受けました。彼らは三食を、あたかも宴会の膳のように準備しました。一日に三度、肉を供えました。

 その婦人は、主の学問的な背景をはじめ、すべてのことを天から聞きました。それで彼らは、主に会う日を待っていました。主を迎えることを、毎日毎日待ちました。そして、その婦人に従う者たちは、もし命令を受ければ、いつでも倒れて死ぬことができるぐらいの覚悟ができていました。彼らは、自分の生命を捧げる準備ができていました。

 すべての摂理が、エバの役事を中心とした歴史時代のすべての摂理と連結させた因縁を中心として出てくるのです。それゆえ、金聖道氏の代を許孝彬氏が継いで、許孝彬氏の娘が主を迎えるように準備されたのです。そこで十二弟子のような、そのような準備をしたことを見れば、本当に不思議なことです。

 また敬礼を、どれくらいしたのでしょうか。三千回は普通で、七千回までしたのです。敬礼を三千回しようとすれば、五時間ないし六時間かかります。七千回しようとすれば、十時間近くかかるのです。ところで、朝から、あるいは明け方から始めて、御飯も食べないで七千回敬礼をしながら侍る訓練をした集団が、その行く道をつかむことができずに、みな壊れていったのです。


解放前後の腹中教の受難



 また彼女は、日本が一九四五年八月十五日、陰暦では七月七日に降伏すると証言しました。彼女は、天から受けた内容を度々、公然と話しました。彼女が日本の警察により釈放される前日、彼女は、天皇の頭の上に一人の天使が立って、天皇に「お前たちは天の怨讐、だからお前たちは滅亡するだろう」と言っている幻想を見ました。彼女はまた、「次の日何時に天皇が放送するだろう」ということも聞きました。正にその翌日、日本の天皇はラジオ放送で、降伏すると語りました。

 彼女が天から受けたすべてのことが、そのまま実現されたので、彼女のすべての弟子たちは、彼女に従わざるを得ませんでした。そのようにして彼らは解放の日を迎えることができました。彼らはまた、「日本が滅亡する時、お前たちは再臨主に会うだろう」という啓示を受けました。彼らは監獄から解かれた時、うれしくて踊りを踊りました。しかし、彼らは相変わらず既成教会から迫害を受けました。

 結局、韓国で婦人として、初めて役事を始めた人は金聖道ですが、これを蘇生として、許孝彬を経て、朴老婆につながりまし。


五 氏族的信仰基盤と真のお父様



真のお父様の内的な準備完結



 私が育った時は、日帝の圧制を受けていた時代でした。それゆえに、どんなに大きな抱負をもち、どんなにあふれんばかりの希望を胸に抱いていても、自分のすべての内的心情を吐露できる環境が与えられていませんでした。新しい何かの話、奇抜な何かの考えをもっていても、その目新しい話や考えを話すには、必ず周囲を注意深く見て、内外でそれを鑑定しなければなりませんでした。そうして安心できる結果が感じられなくては、いくら立派な思想や理念をもったとしても話せる時代ではありませんでした。すなわち、不自由な時代でした。

 そのような環境で、先生は他人が知らない復帰の路程、原理の中に現れた復帰路程をたどって戦いながら、準備をしてきました。

 私はその時、原理を宣布してはなりません。原理は天が最も求める人に最初に宣布しなければなりません。原則がそうなのです。この原理は誰のためにこの地上に立てられましたか。私がこのような原理を探し立てたことは、すなわち天の代わりにこのようなみ旨を立ててきたことは、誰のためでしょうか。その主人がいるために、主人に会う以前には口を開くことができないのです。具体的な話はできません。


従祖父文潤國牧師



 私の従祖父(祖父の弟)であるおじいさんは、李承晩博士と友達でした。三・一独立宣言文を起草した五人の中の一人です。崔南善とも友達です。この方は平壌神学校を出て、英語も上手で、漢学にも堪能な人なのです。そのおじいさんは男前でした。李昇薫氏が五山学校を設立する時は、背後で私のおじいさんが共に動いて建てたのです。

 そう、定州から今まで人材がたくさん出てきたのは、この五山学校があったためですが、ここから愛国的な思想を中心として抗日闘争の思想的基盤が準備されました。

 そのおじいさんは牧師でしたが、三・一運動当時、北側五道の代表でした。それゆえに本来、三・一万歳運動の時、三十三人の中に入るはずでしたが、李明龍氏という私のおじいさんの教会の長老だった人が、代わりに、その三十三人の中に入りました。

 天は、本当に家庭的によく準備しておいたのです。私の従祖父が、私と共にいたならば、孫から全部教育を受けて、牧師でも何でも、すべて辞めていたはずです。


忠母様と大兄様



 私の母は、私をどれほど愛したか分かりません。母の心は、自分の心ではありませんでした。私がこのような人になることを母は既に知っていたのか、身内で私しか信じる人がいないと思って、私が何か言えば、母はどんなことでもしたのです。ですから蕩減復帰も知らずに、母子協助が、すべてなされたのです。

 また、私の兄は、弟である私に対しては絶対的でした。カインの立場で完全に蕩減できる基台が自然に造成されたのです。歴史上に数多くの兄がいて数多くの弟がいましたが、兄は弟である私に対して、他のことは分からなくても、自分の弟は歴史的な弟だと知っていました。ゆえに、私が何か言うことに対しては、絶対的に従順でした。

 私が「こうだ」と言えば、そのまま一〇〇パーセント信じ、疑いがありません。ゆえにカイン復帰がなされました。また母子協助も終わっていたのです。


崔氏新婦と妻の実家の信仰



 先生は何かと言えば、旧約の完成、新約の完成、成約の出発です。そうして旧約エバ、新約エバ、成約エバが出発できる基盤をつくるために、聖進のお母さんと結婚式を挙げたのです。そのため、そこにはいくらかの危険と負担を抱えて、出発せざるを得なかったということを知らなければなりません。

 では、聖進のお母さんは何の代表だったかといえば、神霊女性集団の代表的な女性でした。その代表的な女性を選んだのです。その集団の責任者が、この上なく愛する人を引き抜いたのです。

 そのお兄さんは、その時まで神社参拝した既成教会を信じ、母親とこの娘は、再建教会を信じました。それはカインとアベルです。再建教会を信じる人々は、神社参拝をしなかった人たちだからです。このように韓国の教会から見れば、お兄さんは蘇生であり、母親は長成であり、聖進のお母さんは完成として、ぴたっと連結されたのです。聖進のお母さんは私に属しているために、蘇生、長成、完成になるのです。

 その当時、聖進のお母さんに、今私が皆さんに話してあげるみ言をみな教えてあげていたならば、すぐに信じたはずです。そして聖進のお母さんが、全キリスト教の基盤の上に立つ母の立場に立ったならば、それが可能だったのです。しかしキリスト教全体を代表した基盤の上に立ち得なかったために、全体の基盤を築く時までは教えてあげられないのです。

 エデンの園で、男が女の主管を受けることによって完全に堕落したために、今度は女が男に無条件に屈服して、無条件に従うことができる基盤を立てなければならなかったのです。そうでなくては復帰できないのです。

















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第二節 韓国解放とキリスト教を中心とした摂理の出発

真の御父母様の生涯路程 2



第二節 韓国解放とキリスト教を中心とした摂理の出発

        

一九四五・八・一五〜一九四八・二・二二


一 解放直後の摂理の概観


一九四五年八・一五解放の日


 希望がない中、絶望の中で、新しい希望の日を迎える民族になり、希望の日を迎える家庭になり、希望の日を迎える個人になって、国の希望と家庭の希望と個人の希望が平面上で一度に一つになれば、国家基準を中心として勝利できる基盤になるのです。このような時が、一九四五年を中心とした韓国独立の日なのです。これはイエス様の当時に国を失ってしまったことを取り戻すことができる希望の日であり、氏族を失ってしまったことを取り戻すことができる希望の日であり、家庭を失ってしまったことを取り戻すことができる希望の、その日になるのです。

 解放されると、世界に広がっていた愛国志士という人々が入ってきました。いわゆる日本系列、中国系列、アメリカ系列、ソ連系列の人々が入ってきたのです。皆さんも知っているように、共産党の金日成が現れ、金九先生、李承晩博士、さらに中国派を中心として戦いが繰り広げられる、このような混乱時代になったのです。そこでは私は、万歳を叫べませんでした。人々はみな、解放されたと喜んでいるのに、手を挙げたくても手が上がらないのです。

 韓国民族が、八・一五解放後にうれしいと踊りを踊りましたが、先生はそれを眺めて、小部屋で涙を流しながら祈祷しました。

 先生は日本人から多くの拷問を受けました。しかし戦争が終わるとすぐ、拷問したその特別高等刑事に復讐を計画している友達を全部集めて、「哀れなのは敗れた日本である。既に主権を失ってしまい、ひざまずいてわびる人を殴る者は、神様が罰する」と諭し、また韓国で追われている日本人をひそかに呼んで、「拷問される前に早く帰りなさい」と言って、荷物を整理してあげたりもしました。

 一九四五年は、大韓民国においては解放を迎えた喜ばしい年ですが、日本においては戦争に負けた悲しい年です。それゆえ世界的に共に喜ぶことができる日、このような時をもたなければならないのです。


解放直後の七年期間(一九四五〜一九五二年)


 解放直後は軍政時代でした。主権を立てようとすれば、三年の期間がなければなりませんでした。政府樹立が一九四八年なので、解放直後より三年間の緩衝期間があったのです。この期間にキリスト教と統一教会が連合して復興しなければなりませんでした。

 第二イスラエル圏は、第一イスラエルの基盤の上に立たなければならないのです。キリスト教の代表国、第二イスラエル国であるアメリカを中心として、韓国の独立がなされたのです。そうして、第二イスラエル圏の独立したその基盤で、第一、第二イスラエルを収拾して、その上に立つべきなのが韓国独立であり、韓国の情勢だったのです。そうであったのにキリスト教が反対してきたのです。

 統一教会を中心として、キリスト教が歓迎し、韓国が歓迎していたならば、どのようになったでしょうか。瞬く間に、およそ七年の路程で、新教のアメリカを吸収できたのです。七年路程を中心として一九五二年に世界史的な出発ができたならば、先生が四十歳にさえなれば、世界のいかなる為政者も一つにまとめて、一つの方向に向かって、地上天国の理念に移されていったというのが全般的な摂理観なのです。

 今までキリスト教が四千年の歴史を通して、世界的版図、統一圏をつくってきたのです。キリスト教が先生に侍って一つになったならぱ、世界が統一天下になったのです。


韓国に入ってきた米軍政の失策


 それでイギリス、アメリカ、フランスなどが、統一天下の環境を中心として戻ってこなければならないのです。二人の息子、娘を抱えて戦っていた群れが、帰ってこなければならないのです。全世界的に見る時、天側の長子圏とサタン側の長子圏が一つとなって再臨する国を訪ねて来るのですが、何をしに来るかといえば、種を受けに来るのです。偽りの種を受けた凶悪な群れが、それを解消して天上世界の本然的道理の生命を受け継ぐためには、本然的国を訪ねてこなければなりません。

 ところで、米軍がこの韓国に進駐した時、第八軍司令官であるアーノルド軍政官を中心として、大韓民国行政処を掌握して全部収拾していたのです。

 ところで、外的に神社参拝していた既成教会の代表がみなどのような者たちかといえば、外国に留学した人たちです。皆、日帝の手先のような者たちです。結局は米軍政府が生じたとき誰が通訳官になったかといえば、牧師をしていた人や、牧師と関係して神学を勉強した人々が、通訳官として入っているのです。通訳官として入って、神様のみ旨の中において、アベル圏の宗教集団形成をしてくる歴史的基盤を無視して、彼らは国を中心として一つになってしまったのです。韓国キリスト教の混乱はこの時から始まったのです。

 このような難しい問題が起きたのです。歓迎と祝福と栄光の宴から勝利の天国に進展できる再臨理想の踏み台が、キリスト教文化圏と、韓国キリスト教と、韓国主権者と、アメリカ主権者と、アメリカ宣教師たちが誤ることにより、崩れ始めたのです。長子圏の立場にいるのがアメリカなのに、そのアメリカが、韓国における父と母の基盤を中心として復帰できる祭物的責任を果たすことができませんでした。


韓国政界とキリスト教指導者の不信


 神様はまた、キリスト教が反対する可能性がある立場にいることを知って、内的に、霊的に、数多くの団体を準備したのです。しかし、どんなに内的団体を準備したとしても、外的なキリスト教が国の形態を整えて反対する日には、イエス様に反対したユダヤ教とイスラエルの国と同じように、さっと回ってしまうようになっています。同じ運命の結果になるのです。

 大韓民国において、自由党の時だけ取り上げてもそうです。その自由党を編成した五人の中の一人が、私であったのです。私は、政治的体制を中心として、基盤をつかまなければならないことをよく知っていたのです。

 先生はその時、二十五、六歳の若者でしたが、この国の高位層の人々と手を結んで出発しようとしたのです。皆さんが知っているように、その時の国防長官であった申性模を中心として、全般的な基盤をもって出発しようとしたことが外れたのです。最高の基準で出発し、世界的な舞台に行こうとしたことが外れたのです。もし、李承晩博士とその一派の何人かだけが、すなわち三人から十二人だけでも結束していたならば、その時必ず民主世界の主導国家であるアメリカが、この国に連結されて動くことができました。

 最高の立場で出発することが神様から許された位置でしたが、二名の牧師ゆえに、すべてふさがれてしまったのです。そして最高の牧師から切られてしまうことにより、最下位の道から復帰しなければならなくなりました。

 その時、先生と因縁を結んで、先頭に立って仕事をした人が既成教会の有名な牧師でしたが、彼は自分が、将来権力を握ろうという考えをもったために、先生を裏切りました。

 このように歴史は、一人や二人の人によって分かれたり、合わさったりするのです。時代の革命的な変革期も、多くの人から始まるのではありません。


神霊教団の分裂と既成教団の勢い


 韓国の大統領になる人は、アベルの代表にならなければならないのです。天に侍るアベル的な立場から、神社参拝した牧師を使ってはならないのです。そのような牧師は除去して、獄中や地下で苦労した人々をアベル的教団に立てて、再教育して国を立てることができる業をしなければならなかったのです。その時、私は長官級の人は、すべて知っていました。地下で運動する有名な人々に、私がみな会ってみたのです。その人々は、私が誰なのかを知っているのです。ですから、そのような環境にさえなっていたならば、どのようにしようが、その時、自動的にアベル教団を中心として、民族主体思想を中心として、新しい方向、世界に進む新しい道を主張して出発することができたのです。

 そうして、地下教会と再建教会が一つになりアベル圏に立って、カイン圏の既成教会と一つになってこそ、国を収拾することができたのです。

 今になって回想してみるとき、その時、そのように戦った張本人たちは、すべて消え去ってしまったのです。このような戦いは、特定の牧師階級から長老階級を通って、一般信者階級にまでつながって下りてきました。

 そして、旧約時代の神霊派であるエデン復帰派は、自ら新約時代のエデン復帰派に従っていかなければならないのに、それを知らないのです。自分第一主義なのです。東と西で役事をするのは中心を求めるためであって、中心が現れなくなる時は、この全部がぶつかるようになるのです。南と北がぶつかり、東と西がぶつかるのです。先生は、そのような人々を連結させました。一人の食口でも連結しなければならないのです。


氏族と家庭の責任


 私の三番目のおじいさんに、政治的な風土があれば良かったのですが、純真なキリスト教の牧師でした。李承晩博士が帰ってきて国を立てたのですが、私のおじいさんを必要としたのです。旧学問に精通し、新学問に精通しているので、旌善にいる時、ヘリコプタ、で三度も迎えに来たのです。そのようにしても「あー、私は政治はしないよ。信仰する人が政治をすることは……」こう言ったのです。こうして李博士と一つになれなかったのです。もし李博士と一つになっていれば、どんなに素晴らしかったでしょうか。私が理論を中心として私の従祖父を説得しさえすれば、李博士一族と環境与件、キリスト教幹部のすべてのことを消化するのは問題なかったでしょう。

 ヨセフ氏族圏内にイエス様を中心とした家庭が入らなければなりません。それでこそサタンが讒訴しても、氏族圏内で讒訴するのであって、家庭圏内には入ることができないのです。それで氏族が絶対に必要だというのです。

 ところが、大韓民国と既成教会が一つとなって、聖進のお母さんを前に立てて反対しました。私がこのような世界的使命を担った、ということを知りませんでした。

 自分の母親と組んで、「主が人として来るというのは、偽キリストだ」と言ったのです。結局は、洗礼ヨハネが天から教えてくれることが信じられなくて、イエス様に従えなかったことと同じようになりました。すなわち摂理のみ旨の中で、先生はキリスト教を代表した一人の女性に会いましたが、その女性が洗礼ヨハネ以上に先生を信奉し、蕩減復帰摂理時代の新婦の使命を果たすべきであるのに、できなかったのです。こうして、ここから問題が生じたのです。時が来たから出発をしなければならないのに、出発するところにおいて、反対する環境的与件が徐々に生じ始めたのです。


摂理の挫折と再蕩減路程


 反対するようになるとサタン側の世界に戻っていくのです。それゆえ、先生の一生の中で、世界的版図をもって行動すべき使命を担った統一教会は、荒野に追われた群れのように、世界を失い、国を失い、民族を失い、氏族を失い、家庭を失ってしまった立場から、新たに収拾してこなければならない運命に立つようになったのです。それが統一教会が歩んできた道なのです。

 それゆえに、解放から十四年(一九四五〜一九六〇)、これは七年と七年を合わせたものです。旧約時代七年、新約時代七年、その次に成約時代七年(一九六〇〜一九六七)になるのと同じです。長成期完成時代に、家庭的に堕落したのです。それゆえに、摂理史的見地において、解放後十四年たったのちに成婚式を挙げたのです。七年、七年を越えてきたのです。

 それでアダム時代、イエス時代、再臨時代、三時代を経てきたために、三段階の歴史路程、三次七年路程を連結するのです。それぞれ別々に別れていたものを一つにするのです。それで、統一教会から三次七年路程(一九六〇〜一九八一)が出てきたということを知るべきなのです。この二十一年期間で、絡み合ったすべてのことを解いて、どのように個人から氏族、民族、国家、世界的に連結させる天のハイウェイを築くか、道を築くかというのです。それで家庭を引っ張って、全部この世界舞台まで出るのです。

 それで、今や第二回三次七年路程(一九八一〜二〇〇二)を宣布できたという事実、これは驚くべき歴史的事件であることを、皆さんは知らなければなりません。

 本来は一九四五年から一九五二年までの七年間で、キリスト教文化圏を統一しようとしたのが神様のみ旨だったのです。すべてのキリスト教文化圏が天のみ旨を知らずに一つになれないことにより、四千年歴史を再び先生の一代を通して、一九九二年まで蕩減して上がってとなければならないのです。

 これが何かといえば、世界的な荒野四十年路程です。一九四五年から四十年が過ぎて一九八五年までですが、それが七年が過ぎて一九九二年になりました。この期間が統一教会の受難路程であり、イスラエル民族が追われた路程です。


七カ国統一圏造成と共産主義克服の課題


 神様が復帰摂理路程において、一度選び立てた人を再度選んで使ったでしょうか。そのようなことは神様ができないのです。それは誰ができるのでしょうか。アダムはできるのです。先生のために立てたものが失敗したために、先生が責任を負えば可能なのです。それで、サタンが一番愛する日本を、イギリスの代わりに立て、その次に、ドイツをフランスの代わりに立て、アメリカをアベルの立場に立てたのです。

 四十年間祈祷したことが何かといえば、韓国・日本・アメリカ・ドイツ・イギリス・フランス・イタリアです。これは、夢の中でも祈祷したのです。私が病院で手術する立場にあっても、この言葉が出てくることでしょう。四十年間(一九五三〜九二)、毎日一日に五回ずつ祈祷してきたのです。それを越えなければなりません。

 そしてなぜ、韓国がこのように二つに分けられたのでしょうか。それは、アメリカの責任です。イギリスとアメリカとフランスが、使命を知らなかったためです。その間隙をぬって共産主義が生まれ、北韓に偽りの再臨主である金日成が父母という名で現れたのです。スターリンは、神主義の世界を、撲滅させようとする魁首でした。

 北朝鮮はサタン側のアダム国家であり、中共はサタン側のエバ国家であり、ソ連はサタン側の天使長国家なのです。それでサタン側と神側の双方が敵対視しているのです。

 ドイツは何でしょうか。ドイツの半分はサタン側がもっていき、半分は天側に属したのです。これを抱くことなしに、アダムの国に入ることはできません。これが一つになる時まで韓国も混乱が起こるのです。このように一度侵害を受けたために韓国も半分を明け渡しました。それが一つは韓国のアダム的国家の一部分であり、もう一つはサタン的アダム国家の一部分です。天側の天使長もサタン側の天使長に半分を譲って半分をもっているのです。この二つの国だけ統一されれば世界舞台はすべて解決されるのです。


二 金百文牧師のイスラエル修道院を中心とした摂理
     (一九四五・一〇〜一九四六・四)


解放直後の定州郭山支署収監事件(一九四五・一〇、一週間ほど)


 先生は四十年間に、六回も監獄に出たり入ったりしました。監獄で五年以上暮らしたのです。悪口を言われることにおいても、天下に、歴史始まって以来、私以上に悪口を言われた人がいないのです。粟の入った俵を持ってきておいて、その粒を数えられないように、それと同じくらい悪口を言われたのです。涙を、血と汗をどんなに流したか、皆さんは知らなければならないのです。

 北側に行って、監獄に入って出てくるのが三度です。三度まで監獄暮らしをしましたが、その時は、お金のために引っ掛かって入ったのです。貨幣問題のために引っ掛かったのです。それはお金に対する未練を、全部切るためなのです。一切を否定させるための神様の作戦でした。


金百文牧師と「イエス教イスラエル修道院」


 李龍道牧師を中心として三代を継いで続いた人が誰かといえば、金百文です。この人が、信仰生活において、最高の立場まで上がっていました。この集団は、洗礼ヨハネ格の集団です。

 彼は、天から「一つの修道院をもて」というみ言を聞き、そして「再臨主を迎えることができる勢力を準備しろ」という啓示を受けました。

 金百文氏と私は、カインとアベル、洗礼ヨハネとイエス様のような立場にあったのです。金百文という名前が、それで出てきたのです。ある人々は、先生が金百文の弟子だとか何だとか言いますが、先生が彼の弟子になるとはなんですか。その人は、キリスト教の信仰をしていましたが、キリスト論ではイエス様が神様と同位の人だといいます。根本をよく知らずにいます。けれども、その人は神霊の面では、当時の既成教会の、最高の信仰基準にあったことだけは間違いありません。

 そして、当時、金百文は李承晩博士と近い立場にあったので、彼を洗礼ヨハネの立場に立ててみ旨を成すことができたのに、そのようにできませんでした。


イスラエル修道院上道洞教会


 その集団に神様のみ旨があることを知って、先生が訪ねていきました。その時が、解放直後の、一九四五年十月でした。

 先生が、一番最初にこの道を出発した時は、一九四四年から一九四五年です。その時は、上道利教会で教会員たちを指導しました。

 先生がその集団に行って、六ヵ月以上の期間、何をしたでしょうか。僕の暮らしをしたのです。み旨はすべて知っていますが、その相続を受けるために、誰もできない精誠を込めるのです。皆さんが想像もできない懇切な心情をもって、祈祷をしたのです。その時、先生が祈祷した床には涙が染みついて、乾く日がありませんでした。

 ここでは、この世のように工作して、人をこっそり引き抜けないのです。真は真であるゆえに、真の価値を知ることができる時を待って、神様の復帰の内容を備えることができる人的資源を、その集団から発掘しなければならなかったのです。それゆえに、その集団の中で、無言の僕の暮らしをしました。


三人の女性の証と金百文牧師の祝福


 もし、先生がその霊的集団から一人の男と、そしてその男と一体になった三人の女を復帰することができていれば、それによってエバの復帰のためのすべての条件を立てることができたはずです。旧約時代は老いた女、結婚した老いた女に比喩でき、新約時代は、婚約はしたが結婚できなかった女に比喩できます。

 一つの家庭では、その老いた女は、おぱあさんに比喩でき、新約時代の女は、お母さんに比喩できます。そして成約時代の女は、娘に比喩できます。その女は、イエス様の姉妹を意味します。金氏が先生を祝福する前に、そこで先生を証した三人の女性がいました。

 六ヵ月後に、金氏は天から啓示を受けて、彼は先生の頭に自分の手を載せて、全世界のソロモン王の栄光が先生に臨むようになることを祝福しました。

 三月の復活節を迎えて、彼の食口を中心として天の役事が起きたのです。それで、自分に従うすべての食口たちの前で、先生を祝福してくれたのです。洗礼ヨハネがイエス様に引き継いだのと同じ役事が起こったのです。白い服を着て祝福をしてくれたのです。

 原理観から見る時に、アベルは、カインを一つにしなければ行く道がないのです。これが一つになれば、男の世界を統一して、旧約時代、新約時代、成約時代がぴたっと連結されるのです。そうなれば、今までの縦的な歴史時代を横的に立てて、完全に蕩減復帰した勝利の基盤が生じると、そのように見るのです。


祝福後の責任分担


 金百文が先生にそのように祝福をすると、その集団で神霊的恩恵の役事をする婦人たちや食口たちすべてが、「金先生に従わず、文先生に従え」という啓示を受けるのです。その時、先生は先生自身を前面に立てたり、弁解したりせずにじっと待ちました。その時神様は、前後をすべて備えておいたのです。

 金百文は、先生に対して「ソロモン王のような使命を受けた方だ」と祝福をしましたが、彼はその真の意味が分かりませんでした。そして、先生に一言半句尋ねることもしませんでした。しかし先生は、そのことを自ら進んで言うことができませんでした。

 彼は、すべてのことを悟るために、先生に質問をしなければなりませんでした。それが彼の五パーセントの責任分担でした。とにかく先生は彼から祝福を受け、それで先生は、彼がもっていたものを相続したのです。

 新しい霊的運動を受け入れるところには、常に人間の責任が伴います。二千年前に、ユダヤ人たちにはイエス様を受け入れるのに必要な、人間の責任である、謙遜な姿勢がありませんでした。彼らが受け入れられなかったのは、人間に責任分担があることを知らなかったためです。

 しかも、その人の非行や誤ちを私はみな知っているのですが、話しません。知っている人は、保護してあげなければならないのではないでしょうか。なおかつ、それが、宗教人、道義の道を行く人々の態度ではないかというのです。


金百文教団の不信の結果


 もし、金氏の集団が先生と一つになっていたならば、正にそれが完成段階の集団になったでしょう。先生はその集団と既成教会の牧師を連結させなければなりませんでした。そののちに連結すべきものが政府です。それで、それが三数をつくります。それは金氏の集団が完成段階になるという意味です。それは縦的な摂理が終わりの日に横的に復帰されなければならないためです。

 三人の女性たちが、先生を証しました。その後、彼らは先生と一つになるべきであったのですが、先生に従いませんでした。それで、先生は北韓に行かなければならなかったのです。

 北韓で先生は、そうした三人の女性と一人の男を復帰するために、すべての条件を通過しなければなりませんでした。

 金百文が受け入れようが受け入れまいが、先生としては忠告して清算しなくては、心情的な再出発をすることができませんでした。それで先生は、彼に十八枚の手紙を書いたのですが、彼はそれをみな破いてしまったのです。その後、先生は責任をみな果たした立場で、平壌へ出発しました。この日がなくては、平壌に行くことはできませんでした。


三 天命に従い平壌に(一九四六・五・二七〜六・六)


「三十八度線を越えろ」(一九四六・五・二七)


 先生は今や、自分は自分としての行くべき道を決めたので、最後のあいさつを兼ねて、当時金百文氏が修道院を造って、特別集会を開いていた沈山へ出発しようと考えました。それでも人間の道理があるのです。人が会ったのち、別れる時は、「行きます」というあいさつでもして行かなければならないのです。

 その時、私はソウルにいました。ソウルの上道洞に家が今もあるでしょう。その時、鹿島組というのがあったのです。日本では大きな電気会社でした。当時、会社にも通い、教会も預かっていましたが、解放直後だから米がないのです。

 先生はその時、黄海道の白川に米を買っておきました。それで、その米をトラックに積んでこようとして、行く途中、車の中で「三十八度線を越えろ!」という天の命令を受けたのです。五月二十七日に命令を受けて出発して、六月六日に平壌に到着しました。

 ある朝突然、行くべき道に出発したのです。その時、聖進が四月二日に生まれて、私が五月二十七日に出発したので、一ヵ月と少しになるでしょう。

 出発する時、三十八度線を越えるのが難しいので、全部天が教えてくれるのです。このような話をすれば信じないでしょうから、すべては話さないのです。三十八度線をどこから越えるか、直接案内を受けて北側に入ったのです。

 三十八度線を越える時、虹が前を導いてくれました。十二里の道を、直接導いてくれたのです。


天の命令とみ旨だけに従い


 神様のみ旨、命令に従って、先生はすべてのものを捨てました。

「このようなところに、神様の命令が必ずあるはずだ」ということを、私は知っていたのです。

 家庭のための道を行くのか、公的な神様のための道を行くのか。そこで、すぱっと切って「天のための道を行くのだ」と言って、神様の命令に従って北側に行ったのです。そのような峠があるのです。

 二つをすべてもつことはできないのです。二者択一です。安楽な家を捨てて、死の道を求めていったのです。

 そこには、援助があり得ません。神様のために、世界のために、家庭を犠牲にすることは問題になりません。「ああ、うちの息子、娘のために行けません」、このようなことは通じないのです。先生は何のためにそのようなことをしたのでしょう。可能ならば、先生は子女を捨てて北側に入っていかないのです。

 先生は、ただカナンを復帰しようという神様の理念にだけ徹していたのです。祝福が受けられる民族、祝福が受けられる地がどこか、それを探し迷ってきたのが、今までの先生の立場でした。


最低の立場、サタンの本拠地に


 下がっていく時は、必ず最低の立場まで下がっていかなければなりません。そのため、北側に行って、再び上がっていかなければならなかったのです。イエス様がヘロデ王に追われる時、イスラエル民族とユダヤ教が一つになってイエス様に侍り、ヘロデ王の意志に反対しなければなりませんでした。しかし、彼らが神様の前に果たすべき天的な使命を果たすことができなかったので、イエス様がエジプトに行ったのと同じように、先生もやはりそうした路程を歩まざるを得なかったのです。

 北側に行った時も、相対がいませんでした。いつも一人でした。

 リュックサックを担いで、「愛する妻子を残しておいて、私は行かなければなりません。行かざるを得ません」と祈祷した時を、先生は今も忘れることができずにいます。旅人の行路を歩む、天の道を探していく青年の姿は、追われ追われる一匹の羊と同じです。

 先生が北側に行ったことは、サタンの本拠地に行ったということです。それは、世界的なサタンです。共産圏に、死を覚悟して入っていったのです。

 怨讐の本拠地を訪ねていったのです。韓国キリスト教を中心としたみ旨の基盤がサタン側に帰してしまったがゆえに、それを取り戻すために、サタンの巣窟である北側に行ったのです。

 神様は、カインに対せなかったことが恨であり、カインを愛せなかったことが恨であり、カインの祭物を受け取れなかったことが恨でした。それゆえに、先生が聖進を捨てて、三十八度線を越えて北側に行ったのです。それは内的に子供を捨てて、三十八度線の北側にいる人々を愛したことになるです。


七年間の家庭的犠牲


 先生が家庭をもつようになったのは、教会を連結させ、国を連結させるべき神様のみ旨があったためです。ところが、国と連結されず、教会とも連結されませんでした。それゆえ、再び初めに戻らなければなりませんでした。

 分立する業をしたのです。そしてこの分立した基準を中心として再び取り戻す時まで、蕩減条件を立ててきたのです。

 手紙が来れば門前で、全部送り返したり、破いてしまいました。私に便りが来ることを怨讐のように思ったのです。

 聖進のお母さんも、聖進をおぶって歩きながら、りんご売りもしたのです。警察に追い回されながら、いろいろなことをしました。そのような話を聞きながらも、私は心が動きませんでした。

 これを知ってみると、聖進のお母さんも、すべて、一つの峠を越えながら再び取り戻してこなければなりませんでした。七年路程を歩まなければならないのです。赤ん坊と共に母子協助しながら、この地上において、エバの運命は、縦的基準を立てられなかった夫を探していくのです。この地球上において、七年間、赤ん坊を抱いて、その赤ちゃんを、この地上のどんな王子よりも大切に育てなければならないのです。国家を代表して世界を代表して越えるべき七年路程が残っているということを、私は婚約段階でみな話したのです。「このような私であるが、このような公的な道を行く人であるが、この道を行くことができるか」と、その時すべて話しました。それが実際そうなるだろうとは思わなかったでしょう。しっかりそのとおりになったのです。


四 「東洋のエルサレム」平壌開拓伝道
     (一九四六・六・六〜一九四八・二・二二)


キリスト教信仰の中心地 平壌


 平壌は、「東洋のエルサレム」と言われるほどキリスト教徒が集中した所です。それゆえに、平壌に行って、この道を出発したのです。

 当時、平壌では解放を迎えて、新しく教会を再建しながら、歴史的な使命を果たすために新たに出発した時でした。このような環境にある時、先生が平壌に行って新しい原理運動を展開したのです。当時、キリスト教界では、この民族の前に訪れた解放の喜びとともに、日帝時代に圧政を受けながら悲しい信仰生活をしてきたすべての恨を取り除いて、新しい望みと希望に満ちあふれ、教会の再建と信仰の新しい革新運動が起こっていました。

 そのような環境の中で先生が伝道をしていると、既成教会の中心になる信徒、あるいは特別な恩恵を受けた人たちが、所属していた教会に行かずに先生の前に集まり出しました。そのため、当時平壌で問題視され始めました。その時は、先生は西門に近い景昌里で伝道をしながら、統一教会の出発の基盤を立てていた時でした。


景昌里集会所


 私が平壌に行ったのが、二十六歳の時でした。とても若い青年でした。聖書を教えるのですが、ローマ書だとか黙示録を解釈するので、みな目がひっくり返ります。世上万事(世の中で起こるすべてのこと)に関して現在までその人々が生きていたならば、「いやー、文総裁! 千年史をみな知っていたんですね。どのように知ったので、みな当たったのだろうか」と、そう言うことでしょう。

 賢い人を引き抜くのです。引き抜けというのです。うまくいかなければ、直接会って説得するのです。このようにして青年会長たち、言葉の巧みな人々、熱心な執事たち、賢い人々、全部選び抜くのです。一つの教会から四、五人だけ引き抜けば、その教会が崩壊するのです。

 平壌で章臺?(山偏+見)教会という大きい教会がありました。昔、吉善宙牧師がそこで復興会をしたり、祈祷をして恩恵を受けた所です。その教会には千から千五百名近く集まるのですが、そこから賢い人を十五名引き抜くと、崩壊したのです。ですから、長老たちが「大変なことになった」と大騒ぎしたのです。そのようなことをして、平壌で私は悪口を言われたのです。

 「ここに天が引き抜くほどの人がどれくらいいますか。義人が五名だけいてもソドムとゴモラを滅ぼさないと言われましたが、その義人になれる人がどれくらいいますか。いなければ、何ヵ月か待ってください、私がつくり出します」。ですから、どんなに忙しいでしょうか。


子供を愛する


 先生は、二十六歳の時から論難の対象になりました。平壌に行けば平壌が大騒ぎになり、ソウルに行けばソウルが大騒ぎになるのです。その時、私が行く所すべて、問題になったのです。

 それは、なぜ論難の対象になったのでしょうか。町に行けば町の人たちが寝ないで、私がいる部屋にだけひっきりなしに来ようとするので、論難の対象になったのです。

 なぜ、そうであったのかというのです。子供たちに会えば、本当におもしろい童話を聞かせてあげるのです。ひたすら、御飯を食べることも忘れさせてしまうのです。御飯を食べることを忘れて楽しく遊んだのです。一日で何十種類、何百種類のことを考案して、子供たちを連れて、楽しく遊んだのです。

 平壌で、下宿した家に行って、そのようなことをみなしたのです。三歳になる子供と出会えば、敬礼したのです。幼子に対して、天のように侍ったのです。幼子のようでなければ天国に行くことができないために、子供たちからしたのです。彼らが涙を流して「そのようにしないでください」と言うことができる立場まで高めてあげながら……。

 幼子を愛しなさい。天のようにあがめながら愛せというのです。それゆえに、幼子に対して詩を詠んで、歌を歌って、神様の息子であると称賛できるためには、尊敬語をもってほめたたえることができなければなりません。そのようにすると神様の公認を受けてその子がほめたたえることができるのです。それで相対的圏をつくっておいて、彼らが喜んでそのようなことを相続して、行うことができる基盤になったために、初めて私は先生の位置に立ったのです。


食口たちのための精誠と恋しさ


 先生が平壌にいる時、サタンの役事がどんなに多かったか分かりません。そうした中でも先生は、食口のために精誠を込めました。朝、ある食口のために祈祷をして、その食口が来るか来ないか待ってみれば、間違いなく来るようになっています。

 先生が平壌にいる時、食口が恋しくて、一日中、門の外を眺めながら待ったことがありました。

 先生は、年を取ったおじいさん、おばあさんを連れて、夜を徹して話してあげられるのです。我々統一教会の若い指導者たちは、「ああ、年を取った者は嫌だ」と言いますが、人間の待遇をそのようにできなくては駄目なのです。人が精誠を尽くすために来た時、私が精誠で対してあげられなければ、私が負債を負う者になるのです。

 先生は、ある特定の摂理的なおばさんを引き抜くために、一年半の間、その家に訪ねていって、その夫とその家の家族全員を伝道したこともあります。夫が、「殺してやる」と、とても憎んでも、反対できませんでした。間違ったことがあればこそ反対するのです。腹の中ではうんうんうなっているのですが、息子や娘がみな、先生を好きになるようにしておいたので、反対すれば、結局お父さんが悪いという結論が、ぱっと下されるのです。それで一年半の間、その家の御飯を、さじでぎゅうぎゅう詰めて、ぱくぱく食べながら伝道しました。


霊界の導きで訪ねてきた人々


 先生がこのようなことをしながらも、本当に有り難いのは、神様が、既に先生のために一生を懸ける人々をたくさん準備していたということです。先生が生まれる前に先生を見て、生まれる前から先生に侍って、この道に準備した人々がたくさんいるのです。

 私が北側の平壌に行っている時のことです。私より年齢が高い一人のおばさんに会いました。私よりも約二、三十歳年上です。

 そのおばさんが堂々と、「私が先生に会ったのは、霊界で教えてくれたからです」と話すのです。そして、「自分にはそれが謎だ」と言うのです。「自分が二十四歳の時、先生の指導を受けた」と言うのです。先生が、まだ生まれもしなかった時なのにです。それは平面的には、理解できない話です。

 心情を主管する神様は、未来でも会うことができる因縁を常にもっているために、霊界は時間を超越しているのです。未来が今であり、今が永遠なのです。そのような心情の世界観があるために可能なのです。

 私が平壌にいる時、おぱあさんたちが霊界から全部教えられて、統一教会に入ったのです。霊界で教えてくれて集まったおばあさんたちは、先生の服のすそを、ほんの一度触って行くようになれば、その日は帰って踊りを踊ったりしたそうです。服のすそでも一度触って行くようになれば帰る時、ひらひら飛んでいくようだと言うのです。なぜそうなのでしょうか。それは、何かの妖術を使うからではありません。真なる愛の雰囲気に浸って、そうなるのです。


平壌時代に因縁を結んだ食口たち


 玉世賢ハルモニにしてもそうです。誰かが伝道したのではありません。主が来ると祈祷して、大騒ぎして、霊界を通してみると、「主は雲に乗って来るのでなく、人として来る」と神様が教えてくれるのです。ですから誰かが信じるなと言っても、絶対信じるようになっているのです。

 その時、景昌里で由緒ある金持ちの家の長老の奥様として、十人の息子、娘たち抱えて、羽振りよく暮らしていた身分の高い人でした。ところで先生に会ってからは、その夫をけって、自分の息子、娘をけって、従ってきたのです。

 章臺?(山偏+見)教会といえば平壌で有名な教会ですが、その教会の長老夫人がこのようになるので、その家門は滅びたと、平壌が突然ひっくり返ったのです。

 この池承道ハルモニも無学なおぱあさんです。先生が彼らを連れて今まで何十年、共に来ましたが、今も証してくれるのです。私が誇らなくても、そのような人々が誇ってくれます。それを見ればおもしろいでしょう。けれども、そこから新しい創造が起きるのです。

 そのような人が先生のところに来て、先生の手をつかんで「ああ! 恋しい!」とキスをするのです。この世的に考えれば、それはどんなに気持ちが悪いことでしょうか。

 「私が若い時には、一日に三度、先生に会わなければ狂うほどで、御飯も食べられなかったのですが、今もそうなのです。なぜそうなるのですか。今も私は一人で生きられません。先生に会わなければならない」と、そのようにしているのです。

 また金仁珠もそうです。先生が平壌に行っている時、このおばさんの舅はキリスト教の長老ですが、頑固な長老でした。「長男の嫁が出ていって、統一教会の文総裁に狂って、自分の家門を滅ぼす」と言って、手錠をかけて、むちで打つのです。

 そのような中でも、統一教会に行き、先生の服のすそでも見ようと、泣いて夜を明かすのです。そのようなことを、皆さんは知りません。それをどうしてさえぎることができますか。愛の道は遮ることができないのです。

 そして、皆さんは知らないですが、歴史的背後において摂理の内容と一致した点があるために、金元弼を私が今まで伴っているのです。それは霊界だけ知っているのです。そうして鄭達玉、その父親も牧師で、お兄さんも牧師だったのです。そのような家柄です。父親であるおじいさんの牧師が来て、どれほど達玉を迫害したか知れません。

 逸話が本当にたくさんあるのです。そのように過激に反対した怨讐の娘を、私が一番愛する人と祝福をしてあげたのです。それが、怨讐世界を一つにするための一つの始まりだったと、このように見るのです。金元弼より八歳も年上です。そのように歴史的路程を経てきながら、先生のみ旨にたくさん協助して、苦さ、甘さ、すべて味わったのです。ひたすらに忠実な人です。


懐かしき過去の因縁


 ここにおいて、この人たちは自分の子供よりも何よりも、国のために、そして公的な面のために尽くすことにおいて、「私たちは死んでも行かなければならない」という心情が芽生えるようになったのです。むちで打たれて、足が折れて、頭が割れて、見るも哀れなそのような立場でも、「私は死んでも、私たちは滅びても、先生が願うみ旨を、神様が願うみ旨を成すべきではありませんか」と言ったのです。復帰は、ここから出発します。

 今は、昔、過ぎし日に因縁をもった人が懐かしいのです。数日前、私は、誕生日の膳を前にして、「そのおぱあさんたちが生きていたら、私が牛を何十頭つぶして、全国の山河に膳を整えて、そのおぱあさんたちに、一度、よくもてなしをすればどんなにいいだろうか」と、そのような思いをもったのです。

 統一教会の昔を思えば、そのような人がたくさんいます。先生が監獄で苦労している時には、監獄に訪ねてきたりしました。そのような歴史的事実が、走馬灯のようにすーっと過ぎていくのを思う時、私は多くの人の前に負債を負った人であると思うのです。

 先生が今までこの道を来るのにおいては本当に孤独でした。孤独だったのです。この世に友達が一人もいませんでした。その時の食口たちは、本当に悲惨で、あまりにひどい時に出会ったので、私はその因縁を残してあげようと思っています。


五 平壌大同保安署の受難と腹中教(一九四六・八・一一〜一一・二一)


大同保安署に拘束(一九四六・八・一一)


 先生は一九四六年八月十一日、北韓の共産党により、宗教と称して詐欺をしたという罪名で、大同保安署に投獄されました。

 動機がどのようになって、このような問題が起きるようになったのでしょうか。皆さんの中でも、腹中教について聞いたことのある人がいるでしょう。

 一九四六年六月、共産党は、北韓全域において新しい宗教団体に対する弾圧を始めたために、それと類似した団体があれば糾弾しなければならない立場でした。

 許孝彬氏の集団が摘発されました。純粋な国民に宗教という美名のもとに詐欺を働いたというのです。なぜなら、財産を売って作った服が、トラック数台分になるからです。そして、その神霊集団の許孝彬氏ゆえに、私が引っ張られて入ったのです。

 また、私が南側から来たから、李承晩の手先だとか。しかしどんなに調査をしてみても根拠をつかむことができませんでした。それで、男の巫女であるとか、社会の風紀を乱すとか言って、捕まえて閉じ込めました。

 蕩減復帰の原理に従って、先生は、先生を待ちながら準備しているその集団に会いに行くことができませんでした。もしその準備された集団の指導者だったその許夫人が、主がおられる所を知るために神様に祈祷したならば、神様が彼女にそこを教えてくれたはずです。それで先生は、彼らが来る時まで待っていました。

 そうこうするうちに先生はその集団に人を送り、許夫人に、「先生の集団が何であるか、祈祷して調べてみなさい」と言いました。しかし、その時、許夫人は、一つの大きな兆候を期待したのであって、一人の若い男などには期待もしませんでした。それで彼女は、彼を送り返しました。そののちに、先生は一人の若い女性をその集団に送りました。しかしその集団からは、何の反応もありませんでした。

 しかし神様は、準備したその女性に責任を負わなければならないために、先生を監獄に入れるようにしました。一九四六年八月十一日から十一月二十一日まで収監されている間、先生は彼ら集団の幹部たちや、その婦人の夫、その集団の協会長のような人に会って、彼らが行くべき所を教えてあげました。


腹中教徒釈放のための獄中措置


 監獄に入ると、その婦人と相対になって、教育して、全体に責任をもっていた黄元信という人が、その部屋にいました。その時が一九四六年八月十一日ですが、十一時ごろに私が入ったのです。ところが、その翌朝、その人が私の所に来て、敬礼をしたのです。それで私がどうしてそうするのかと聞くと、「私は知っています。私は申し上げなければなりません」と言って、自分の集団に関するすべてのことを話すのです。「霊界から知らせてくれたので、この方だけには報告しなければならない」というのです。

 それで私は「これはあなたの責任だから、このように処理して、このようにして、許孝彬氏に早く出るように言いなさい」と言ったのです。出なければ、全部この監獄で倒れるというのです。それで黄元信が一人出たのです。その後、私が監獄から出たのちに訪ねてきたのです。訪ねてきて言うには、「信徒たち一同に、いくら勧告しても聞こうとしない」というのです。

 その人が釈放されたのちに、許夫人の夫が先生の部屋に来ました。先生は夫に、先生がその人に言ったことを話しました。しかし夫は、「自分は妻に従うつもりだ」と言いました。そうして彼は、先生の話を受け入れようとしませんでした。

 最後に、先生自身が一通の手紙を書きました。それは九月十八日の朝でした。先生は食事の時に、御飯を配る人に、その手紙を許夫人に渡してくれるように頼みました。彼女は、その手紙を読んでから破いてしまおうとしたのですが、その時、彼女は共産党の監視員に見つかってしまいました。それは、その紙を持っていってくれた人が、看守に知らせたためでした。それで先生は拷問を受けました。それは一九四六年九月十八日午後二時のことでした。

 その時、奥歯にひびが入ったのです。机の足に、打ちつけられたのです。何のスパイかというのです。その時逆さに倒れてこの歯が割れたのです。


むごくひどい拷問


 先生が共産党に捕らえられ、むちで打たれる時、そのむち打ちがとても激しかったのですが、踏ん張りながら、どんなに打たれても倒れないと決意しました。

 袋だたきになって、東西南北の十二方位を全部打たれても、ひたすら無言で打たれなければならない時が、一度や二度ではありません。牛の陰茎棒というのがあるのです。そのようなもの、知らないでしょう。牛の生殖器で作った棒です。それは革のようです。革よりもっとすごくて、溝がすーっと入っていて、このくらいの長さです。これで強く打つと、肉をえぐってしまうのです。一遍に、そこに血のあざがつくのです。そのようなもので打たれても、「打ってみろ、こいつ!」としたのです。

 先生がそのような辱めを受ける立場で流した汗は、どんな汗でしょうか。ありったけの声でわめき散らしたならばそれ以上で、血を流したならばそれ以上だということを知らなければなりません。涙を流したならばそれ以上だというのです。一週間の間座って泣いたのちには、太陽の光が見られなかったのです。なぜでしょうか。神様がこのようにかわいそうであるのか、初めて知りました、歴史始まって以来。

 先生は、それを知ったがゆえに、監獄で血を流して拷問を受け、死ぬようになる場でも、「神様、安心してください。私は弱い者ではなく、サタンのどんな威圧にも勝利できる男です」と神様を慰労してあげたのです。

 先生はソ連の共産党に、一週間、眠ることのできない拷問も受けてみたのです。「こいつ、お前が耐えるか、私が耐えるか」としながら、おもしろい時間だと考えるのです。普通の人々は一週間も過ぎれば、全部こうして、寝ながらすべてを話してしまうのです。先生は、目を開けたままでもよく眠るのです。それを研究したのです。その時に訓練を受けたので、今も眠気が来れば、その方法を利用するのです。

 真っ赤な部屋に座らせて、御飯も与えずに、一週間閉じ込めておくのです。真っ赤な部屋にずっと座っていると、狂ってしまうのです。何も見えなくなります。ですから、私のような人は目を開けて眠るのです。よく見ると、目は開けているのに眠っているのです。

 それで、文総裁は男の巫女だといううわさが立ったのです。「あの人は閉じ込めておけば、鍵を開けて出てくる」と言って、七人が広がって、二十四時間見張るのです。


慰労と同情の差し伸べられた手


 先生が、忘れられないことは……。監獄で拷問を受けて、一人で体を支えることができない境地で呻吟する時に、本当に多くの体験をしたのです。神様がその場に共にいてくれて、神様自ら抱いて共に夜を過ごすことを感じるようになる時、どれほど神様が私を、親しく愛しているかということを感じたことがあるのです。そうした死の境地で保護してくれた神様が、私をそのように保護された神様が、皆さんと共にあることは間違いない、ということを私は知っているのです。

 死の道に入っていっても、必ず恩人が現れるようになっています。私が共産党の世界に行った時、一人の者が、「死ね」と、やたらにたたいたり殴ったのですが、ある人が、何か買ってきて侍りながら言うには「なんとかさん、あの刑事のやつの性格がああなので、あなたがひどく殴られました。だからといって保安所員が、みなあの人と同じだろうとは思わないでください」と言って慰労しながら、餅も買ってくれ、おいしい物を買ってくれるのでした。ひそひそと話をしてきて、使いまでもしてあげようとするのです。悔しさを受ける絶頂には、必ずそのようなことがあるのです。

 先生が今も忘れられない人は、その時に捜査を担当した洪という人と、仕事全体の責任をもって指導した朴チャンヂョンという人です。この人たちも、ある時が来れば、みな会うのです。


釈放(一九四六・一一・二一)と腹中教の結末


 その時、先生は韓国にいる米軍のスパイとして告発されて、ソ連の調査官によって尋問を受けましたが、無罪だということが判明しました。

 先生は、十一月二十一日に釈放されました。その時先生は、血をあまりにたくさん流していたので、ほとんど死んでいました。それで先生に従っていた人々は、先生が死んでいくと考えました。先生が再び生き返ったことは、一つの奇跡でした。

 許孝彬集団の失敗のゆえに、先生は他の人々を探さなければなりませんでした。先生は条件的な数を探し立てられる時まで、そこで伝道をしました。監獄から釈放されたのち、先生は他の集団と関係を結び、またその集団の人々を指導しました。しかし一九五〇年に韓国戦争が起きた時、彼らはすべて虐殺されました。

 許孝彬氏以下、すべての監獄にいた人々を、順川だったか、そこから共産党たちが後退する時、連れていって全部虐殺してしまったのです。

 その時の腹中教は、夫の李夢龍に再び会って解怨成就、解放される、その日を待ち望みながら、獄中で待つ春香の心情のような、正にそのような状況だったのです。私はそのように伝道したのですが、私の話を聞かずに、みな死んでしまったです。

 それゆえ、いつも謙遜な立場に立たなければなりません。自分をまず主張することは、危険なことです。

 彼らは、カイン的な立場で死にました。それゆえ彼らは、この時代に統一教会が出てくるまで、霊界の哀魂になっています。それで、アベル的立場の私たちが彼らを復活させなければなりません。復活させるには、彼らの業績までも復活させなければなりません。


受難前後、継続的な迫害の克服


 北韓の共産治下で、キリスト教会がキリスト教連盟をつくり、共産党と一つになって反対するという、そのような環境で戦いました。キリスト教が、なぜ私に反対したのでしょうか。信仰の篤い人々賢くて信仰の篤い人は、みな先生のところに来るためです。しかしながら、先生が出現した背景が天にあり、キリスト教を動かせる内容を備えていたという事実、そのことを世の中は知りませんでした。

 北側では、すべてが怨讐です。敵国でした。国と教会はもちろん、一般市民までも先生を殴り捕まえようとしました。そのようなところで、生きられる方法とは何でしょうか。げんこつで対するようになれば、滅びるようになるのです。ですから仕方なく、犠牲となり奉仕をしなければならないのです。十回殴られても、彼らのために福を祈ってあげ、千回冷遇されても、彼らのために祈祷してあげる作戦をしたのです。千回、万回悔しいことをされても神様を愛しているゆえに、神様が耐えてこられたがゆえに、そうしなければならないのです。先生はこのことを知っていたので試練を受けても今まで克服してきたのです。千年の恨めしい事情が一年の間で回ることを願いながら、黙々と克服していくのです。


六 「主なる神の夫人」朴老婆を中心とした摂理


「主なる神の夫人」出現の意義


 その時、先生は二十六歳の年齢でしたが、霊的な世界のプログラムをすべて組み立てていたのです。「復帰の道はこのように行くのである」と、はっきり組んでいたのです。霊界においてある程度までの基盤を築いて、実体の世界に向かって出るのです。

 男から祝福の相続を受けたならば、女からも祝福の相続を受けなければなりません。そのため、金百文の集団を中心として、男性の前で祝福を受けたので、女性からも祝福を復帰しなければなりません。そうでなければ、今まで韓国の全土で神様が築いておいたすべての摂理の基盤の相続を受けられないのです。

 そのために、「私は神様の夫人である」と言う、地上において神様が直接導ける婦人が出てこなければならないのです。そうすれば、その婦人を神様が直接導くために、神様を中心として連結される霊的世界が、ここに動き入っていくのです。そうして、初めて地上に着陸できる基地を、一人の婦人を通して、すなわち「主なる神の夫人」だという婦人を通してつくるのです。

 エバとは何かといえば、アダムの夫人なのですが、神様の外的な夫人であるというのです。体的な夫人だというのです。それは正しい話です。神様の夫人だとか、主の新婦だとか何とか、そういう人が現れて、相対的に実を結ばなければならないのです。

 解放されたその年に、先生が南にいながらシオン派、新約的エデン復帰派である金百文集団に入って、六ヵ月の間そこにいました。大韓民国の神霊的、人々と全国にすべて、通じる所です。そこで「あるおばあさんが神様の夫人だと言っている」と言って、金百文一派が嘲弄するのです。私は、その話を聞くや否や、北側に行ったのです。


善悪の中間立場の役事


 その婦人が、朴氏(朴ウルリョン)ハルモニでした。その婦人は、復活したエバであると同時に、堕落直後のエバの身代わりの役事をしているために、二つの側の役事をする人でした。ある時は神様も入ってきて役事され、またある時はサタンも入ってきて役事をする、緩衝型の実体です。

 その夫は、韓氏の姓をもった地方の有力者でした。

 またその家に十人の息子がいたのですが、その息子たちが、どれほど、たちが悪かったか知れません。その家は、平壌で一番の金持ちだという人の、妾の家です……。

 主管性を転倒したエバにおいて、悪は悪なりに、善は善なりに収拾しなければならないのです。天が蒔いた善を、一時に収拾しなければなりません。そうしようとすれば、数多くの僕、天国の卑しいはしため、浮気者、淫女たちから収拾して上っていかなければならないのです。悪いものは全部整理して、別々にしておかなければなりません。真なるものは真なるものとして全部まとめて、女性を代表できる一人の母の代身者を、再創造しなければなりません。


最低の立場で絶対服従し仕える


 天的な使命を担って、天のプログラムがどのようになっていき、どのように帰結されるかということをすべて知っていた先生は、何も知らない小さな子供のようにして、そのおぱあさんが死ぬ時まで、精誠を尽くして侍りました。

 そのおばあさんの僕になるのです。完全に僕の暮らしをしたのです。そのおぱあさんを伝道したのではありません。先生は、その息子、娘たちに敬礼までしました。人々が先生に従い侍りたくて、何でも貴いものを持ってきてくれると、先生は、おばあさんの家族たちの前に、すべて持っていき、捧げるのです。

 息子、娘が見張っていて、夜も寝かさずに仕事をさせようとするのです。しかし、それをすべて克服しなければなりません。

 私は、その家の子供たちが大便を漏らしたものまで、みな片づけました。その時、五十七歳になったそのおばあさんの月経のものまで私が洗ってあげたのです。何、家に帰って寝るですって? 「寝ろ」と言う所に行って寝なければならないでしょう。「納屋で寝ろ」と言えば、そこで寝なければならないのです。

 さるまたまで作って、着せたのです。「しろ」と言えば、しなければならないのです。絶対服従しなければなりません。

「風呂に入れてくれ」と言えば、入れてあげなければならず、その家から背負子を背負って十里の道、百里の道を行ってこいと言えば、行ってこなければならないのです。

 それゆえに、愛をもって行くところには垣根がありません。どこへでも行くのです。その愛は良いのは良いのですが、行く道は悲惨だというのです。二律背反です。犠牲奉仕です、犠牲奉仕。


段階的な証と祝福


 僕のように扱われるその位置で、精誠を込めれば、次々に復帰されるのです。この期間は、先生が「原理は必ずこうだ」ということをはっきり提示する時まで、実験する期間です。

 僕から上がっていきながら、「あー、ここに神様が愛する僕が来た」、その次には「養子が来た」、そうしながら、どんどん上がっていって、祝福を復帰しなければならないのです。主管圏を転倒させることによって、女性の前にアダムが押さえつけられて堕落したのと同じように、この主管圏を再び転倒して、そのおぱあさんを通し、僕から養子、庶子、息子の位置まで上がっていけば、「天の国の総理大臣である」と証をするのです。その次には「天国の全権を代表したイエス様の位である」、その次には「神様の対象実体である」と、はっきり証をするのです。

 天の総理であると同時に、イエス様の身代わりであると同時に、神様の身代わりであると、はっきり祝福するのです。宣布するのです。その宣布する式がぱっと終わった次には、自主権をもって、反対にひっくり返すのです。アダムの権限を蹂躙したのを、アダムがここで蕩減的条件を立てて復帰したので、アダムの位置に立つためには、完全に反対にしなさいというのです。


主管性復帰と朴老婆の不信


 そうしたのちにこそ、先生が「私があなたに仕えたのと同じように、あなたも私に仕えなさい」と言ったのです。今まで僕の僕の立場から、誰も成し得ないことをしながら自分に仕えていた人が、自分が言った一言の証とともに、権威を立てて「すぐに私がしたように私に対してもそのような僕の業をしなさい」と言うので、彼女には青天の鼻息と同じです。先生は、証をするその言葉を受け、即座に「敬礼しなさい」と言いました。それが、復帰するための主管性転倒です。

「今までこれこれこのように先生に従っていき先生に仕えようとしたのに、こうまで自分に容赦なく命令することができるのか。僕に対するように命令できるのか」とひっくり返るのです。人間的な考えでしょう。天の定めた標準になっていれば、きのうの弟子でもきょうの師匠になり得るし、天の国の王子の位置にも上っていけるのです。自分の息子、娘がみな、一夜にして王妃になり、皇太子妃になれば、そこに頭を下げなければならないのが父母の立場なのです。


朴老婆の不信の結末


 そのようにして、二つの群れに分かれるのです。おばあさんに同情する連中と先生に従う群れ、二つの群れにすべてが分かれるのです。おばあさんも先生に従わず、おばあさんを支持した人たちも先生に従って来ないので、そこで分かれるのです。

 こうして、すぐにそのおばあさんは精神異常になったのです。そして「文なにがしという人は天国の逆賊であり、世の中のすべてのものを奪っていき、自分のすべてのものを盗んでいった」と言うのです。

 ゆえに、完全にサタンが発動するのです。そうして、ありとあらゆることが起こったのです。おじいさんを連れて歩き、息子、娘を連れて歩きながら、梶棒で私を殴り殺そうとするのです。そうこうするうちに、そのおじいさんがぽっくり死にました。天に対して自分の責任を果たせない時は、そこにサタンが侵犯できるのです。それは本当に恐ろしい死に方でした。私を殴って追い払おうと、杖を持って出てこようとしたところで倒れて死にました。全身が青くなって、腹が張り裂けて死んだのです。棺に入れられないくらいに膨れていました。

 私がその人の話をみな聞いてあげて、その人の仕事を助けてあげたならば、その次には私の話を聞いて、私の仕事を助けてくれるのが人間世界での礼法であるのに、そのようにしないのです。そうなると、その女性が今までどんなに多くの精誠を込めたしても、無駄になるのです。私は、その女性が精誠を込めたものを、私にすべて移して、くくってきたのです。それゆえ、天から始めたか地から始めたか、すなわち、神様中心か自分中心かということを分別できなければなりません。


四十日霊界勝利と神様の御印


 どのような試験まであったのかといえば、四十日の試験期間がありました。その時は、霊界のすべての霊人たちが、みなそのおぱあさん味方になって、責め立ててきます。イエス様までも先生の所に来て頼みながら、「そのおばあさんは主なる神の夫人であり、神様が愛する娘ですから、どうか侍らなければならない」と言いました。けれども、先生は天理の原則をもって彼らと戦いました。先生は一人で四十日間、今まで来て逝った数多くの霊界の道人たち、イエス様と神様まで全部が動員された全霊界と戦いました。

 戦場の天地にしてしまうことができないので、天は、四十日の期間が満ちれば、結局判定を下してあげなければならないのです。

 天理の原則でなければ天と地が滅びるのです。先生が探してきたこの道は、間違いありません。先生は最後の決戦で、勝利したという判決を受けました。イエス様以下数多くの霊人たちが、逆賊として追い込んで反対した文という人の主張が、復帰の恨を解く原則であり、天倫の秘訣の中の秘訣であるという判決を受けて、勝利の基準を立てたのです。

 「文総裁は洗礼ヨハネで自分が再臨主だ」と言いながら、「自分が再臨主、メシヤだ」と言う人々がたくさん出てきたでしょう。みな、やってみなさい。「しるしがあるか」と尋ねられれば、どうしますか。メシヤならば、霊界の総決議により公認を受けな神様からのしるしがなければなりません。


女性心情の代の伝授と獄中暮らしの苦しみ出発


 このような業をしながら、そのおぱさんのような通じる人を再び立ててくるのです。神様の夫人から始めて本然の母の位置を取り戻すためには、八十歳から再びするのです。八十歳から七十歳、六十歳、五十歳、四十歳、三十歳と、そのような基準を中心として、これを再び延長して、母の時代まで、お母さんの年齢まで下りてくるのです。それを、みな収めなければなりません。

 朴氏ハルモニが先生に反対したので、代わりに他の人を立てるようになりました。エバは再創造できる原則があるためです。家庭的な基準を立てられなかったことにより、先生は平壌で一九四八年二月二十二日に収監されて、二年八ヵ月の間、獄中にいました。それは洗礼ヨハネが使命を果たせず、イエス様が十字架の道を行かれたのと同じことでした。獄中には、ラケルの立場である金氏が共に収監されていました。金氏はラケルの立場、朴氏ハルモニはレアの立場であり、さらにまた羅氏という婦人がいました。この三人の婦人が先生に協助しなければならなかったのです。失った娘、姉、母、この三代の心情を復帰するために、おばあさんから二十代の年齢の女性に至るまで、みな復帰しなければなりません。先生は、三時代の女性を復帰する基準を立てなければならないので、心情の十字架を背負う道を行かなければなりませんでした。それに比べると外的苦難はなんでもありません。

 そのような復帰の基準、主管性転倒の基準を築いたならば、実際に行って取り戻してこなければなりません。人類の僕の僕まで取り戻してこいというのです。それを取り戻すために、最低の場である監獄にまで行くのです。監獄から門を開けて、出てくるのです。

















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第三節 興南監獄の受難

真の御父母様の生涯路程 2



第三節 興南監獄の受難

      

一九四八・二・二二〜一九五〇一一〇・一四


一 平壌での三ヵ月受難と興南移送(一九四八・二・二二〜五・二○)


「平壌内務署」拘束(一九四八・二・二二、日曜日午前十時)


 先生が教会運動をするとすぐに、食口たちが増えました。しかしその当時、北韓政府の政策は、すべての宗教を抹殺することでした。また、既成教会の牧師たちは、彼らの教会の多くの信徒たちが先生の所に来たために、先生を告発しました。それで先生は、(北韓で)三度目の投獄をされました。その日が、一九四八年二月二十二日でした。

 南韓のスパイとして追い込まれ、李承晩政権の手先だとか何だとか言いながら、ありとあらゆる話、あることないことすべてをかぶせたのです。「北側政権を略奪するためのスパイだ」など、あらゆることを言ったのです。

 先生は監獄に入ったその日、腕に手錠をはめられながら、「これは神様が私を愛されているというラベルを貼られることだ」と考えました。

 結局、世界的な荒野に追われたのです。四千三百年の歴史を、四十三年で再蕩減しなければならない、つらく悔しい事実……。国と世界の版図を、神様が六千年間苦労して残した功績を、すべて失って、興南収容所を訪ねていった先生の悲痛な事情を皆さんは知りません。天と地の未来の希望としての解放の民族が、私を歓迎しようとしたその群れが、雲の中の地獄に消えていき、暗黒の世界に消えていくのを見ながら、痛哭して、再び会おうと叫んだことが、きのうのことのようです。「お前たちは消えていったが、私は再び私の行くべき道を行き、そして、光明なる朝日を抱いて、お前たちを訪ねて行き、再び解放を与えよう!」と宣言したことが、きのうのことのようです。手錠をはめて叫んだその声を忘れません。困難なたびに祈祷したその姿を忘れることができません。


剃髪(一九四八・二・二五)


 既成教団のねたみと共産当局の宗教抹殺政策により、二月二十二日に先生は内務署に拘禁され、二月二十五日には頭を剃られました。

 私の頭を剃りあげた李なにがしという人と、その日を記憶しています。伸ばした頭が剃られて落ちた、その監獄でのことを忘れることができません。

 先生は監獄に入り頭を剃られる時、神様の前に祈祷しました。「私が望んで髪を剃るのではなく、怨讐の手に引かれてきて無理やり頭を剃られるのです」と。その時、先生の目の色がどんなに光ったか分かりません。離れて落ちる髪の毛を見ながら、私が願った幸福を捨てながら、さらに怨讐の前で頭を剃られることが悲しかったのです。復帰の事情をつないでいく路程では、そのすべての逆境が恨めしいのです。


過酷な拷問、取り調べ


 私は血を吐く拷問の場で、何度も倒れながら、意識をすべて失ってしまう場でも、「お父様、私をどうぞ救ってください」とは祈祷しませんでした。「お父様、心配しないでください。まだ死にませんでした。いまだに死にません。あなたに約束した志操が、そして責任をもつべき使命が私にはあります。同情を受ける時ではありません」と、このような祈祷をしたのです。

 私は孝子になって慰労する立場にあるので、血をぬぐい、姿勢を整え、拷問を受けて戻ってきて、監房に月の光がない夜でも、天を慰労した昔の生活を忘れませんでした。

 拷問を受けて倒れるその瞬間が、神様の声を聞ける瞬間であり、今にも息が絶えそうなその場が、神様に会える場なのです。統一教会のこの真理が出てくるまでには、皆さんが知らない深い背後があり、谷があり、トンネルを通ってきたという事実を皆さんは考えもできないでしょう。「レバレンド・ムーンよ、どうやってここまで来たのですか」と、そう言える場であったということを、私は知っているのです。

 私がむちで打たれるのは、私のために打たれるのではなく、民族のために打たれるのであり、私が流す涙は、この民族の痛みを身代わりした蕩減の涙だったのです。

 サタンに対して「こいつ!」と言って、実体のサタン圏に対して「こいつ、打て! 打て!もし時が来れば、私がこの七倍以上をお前たちに浴びせるだろう。その良い材料を収拾する場だ」と言いながら、拷問台に上がっても「打て!」と言うのです。

 服を脱げば、この道に乗り出してきて生じた傷跡が、何箇所もあるのです。それを眺める時、この傷跡は人類と天が私に与えた勲章であると思うのです。「お前、その時に決意したことを、お前が死ぬ時まで命をかけて行くと言ったその誓いを、忘れてしまったのか」と。その傷跡を見るたびに、朝、昼、晩、眺めながら誓うのです。「この傷をもったお前は勝利しなければならない!」、「勝利しろ」と激励するのです。


法廷公判(一九四八・四・七)


 北にいる時、裁判を受ける日が本来は四月三日であったのですが、共産党が教会を弾圧する口実をつくっているうちに期日が遅れ、四月七日になってようやく裁判を受けました。この日が、拘禁されたのち、満四十日になる日でした。

 先生がキリスト教に追われる立場で公判を受ける期間であり、共産党員たちに、宗教がどれほど悪く、阿片的なものであるかということを見せるために、その公判を延期したのでした。

 私が北で公判廷に立つようになった時、北にいる誰、という牧師たちが来て、ありとあらゆる悪口を言いました。そのような、他人が知ることができず、他人が感じることができない衝撃を、今なお忘れられないのです。

 刑務所に行き、法廷に立つその気分、私は生涯その気分を大切にしまっておきます。きょう公判廷に行って、自分の一言で運命が決定するという時は、悲壮なのです。

 共産党までが、あざ笑ったりしたことを、私は話さないのです。私の歴史は、お前たちの難詰などによって消えていくものではないというのです。私は無言で行くけれども、いつか、お前たちが私の手の中で、人類の難詰を受ける時が来るだろうと思ったことが、きのうのことようです。

 それは共産主義に対して、これっぽちの未練ももてないようにするための天の作戦であり、共産圏内にあるキリスト教に対して関心をもてないようにする神様の作戦だったのです。一切を否定させるための作戦でした。


食口たちの見送り


 公判廷で判決を受けて、刑務所に行く道でも、食口たちの前で、手錠の音を鳴らしながら手を振ったのですが、その音が今なお耳に残っているのです。

 手錠をはめて、じゃらじゃらとさせながら、グッドバイしたことが今でも忘れられないのです。じゃらじゃら鳴った音が。そこから歴史的な後代の栄華が生まれ、後代の数多くの若者たちが決意を固められる誓いの基盤として爆発するのです。

 きょうの悲しみよりもあすの希望の歌を歌う声がもっと強いからには、きょうの悔しさよりもあすの希望に満ちあふれるその胸がもっと大きいからには、どんなに暴悪な怨讐が自分の腕に手錠をかけたとしても、その手錠をはめて愛する教会と愛する食口たちに対し、「元気でいなさい」と言ったその時は、歴史に対して審判できる立て札が打ち込まれる瞬間であったのです。男として、もう一度築かなければならないその道を、意気揚々と行かなければならなかったのです。本然の価値としてそのような道を探すことができるという事実を思って行くその男の前に、獄中が何の問題か、死の道が何の問題かというのです。

 その時、平壌に残った食口たちが、手を振りながら見送ったことが忘れられません。私は涙を流さないのに、子供が死んでいくのでもなく、夫が去るのでもないのに、彼らがひたすらすすり上げて涙を流すのを見る時、それがどんなに悲壮ですか。先生はそれを見ながら、「天を求めていく人は不幸な人ではない」と思いました。

 先生が監獄に囚われていく時の悲痛であったその時の声、身もだえしたその情景を、いくら忘れてしまおうとしても忘れてしまうことができません。それが苦痛です。考えれば一面では苦痛です。


平壌刑務所に収監(一九四八・四・七〜五・二〇)


 先生は、四月七日に手錠をはめられて平壌刑務所に行きましたが、希望の中で訪ねていったのです。この過程を経て出る日には、どのようになるだろうかと、本当に気になるのです。

 刑を受けて監獄に行く時は、むしろ希望に満ちた足どりでした。なぜなら、刑務所にも神様が予備しておかれた人がいるはずだからです。

 先生は、「また、私の一つの山を埋めるためのものが、来るべきものが来たな。このあとには何が来るだろうか」ということを考えるのです。その事件よりも、そのあとに何が来るかを考えます。

 先生が監獄のような所に入っていけば、監房長と親しくなることにおいては選手でした。二言言三話せば、すぐに親しくなりました。そして、でんと座って、そこに入ってきた人たち、一人一人の心理を分析して、「この人はこのような顔をしているので、このようになるだろうし、あの人はあのような顔をしているので、あのようになるだろう」と話せば、嫌々ながらも認めます。

 顔を見ながらほんの一週間、いや、三日だけ話をするようになれば、そのまま何の話をしても良いというのです。私が一番隅っこの狭い所に座っていると、しきりに引き上げようとします。監房長が「上がってこい」と言うのです。嫌だと言っても、しきりに引き上げるのです。誰でも友達になり、誰でも同志になるのです。

 獄中に行った話をするようになれば、一年十二ヵ月の間、長編小説をいくらでも編纂して出せるのです。笛の音が聞こえてくれば、その音に私の曲調を合わせると、その環境がすべて共に遊びだすのです。一つの心、一つの意志で精誠を込めて、そのような世界にしっかりと綱を結んでおいて往来すればこそ、天下に自分の名を残す男になるのです。


反対主謀者の面会


 先生が監獄にいる時に、怨讐が謝罪をしに面会に来たことがありました。会ってあげるか、会ってあげないかということは、一つの試験でした。

 先生を監獄にほうり込んだ主謀者がいました。私を監獄に入れるために先頭的役割をした、そいつがぱっと現れたのです。すっと対した時、気分が悪かったのです。ですが、とぽけました。「どなたか私にはよく分かりませんが」と言いました。その人の目を見ると、昔は醜く険しかったのですが、その目が穏やかになって、だいぶ人間らしくなって現れたのです。そうして、「過ぎたことはみな水に流して、訪ねてきたことを悪いように考えるな」と言うのです、自分がした事実があるからです。

 そして出ていく時、食べる物を買ってくれて行きました。ところで、それを食べるか食べないか、それが問題でした。監獄のような所では、食べ物が本当に貴重なのです。それを昼食時にもらって、夕食時まで食べずに深刻に考えた時がありました。愛の原則を発見しなくては、受け取ることができません。それを深刻に考えて、分け合って食べたことが思い出されます。

 その上、彼は共産党の幹部なのです。そこでは保安隊といいますが、看守たちの前で恥をかくことも考えたはずです。その人は、それでも将来性がある人だと、深刻に考えてみたことがあります。怨讐の間柄ですが、その心情的因縁を残した人になる時には、歴史の中で再び会うことができ、再び生きられるということを、今も考えています。先生自身、監獄で、孤独な時がどれほど多かったことでしょうか。孤独な場にいる時、来て、慰労してくれた事実がいつも忘れられません。


興南本宮特別労務者収容所に移送(一九四八・五・二〇、午後三時ごろ)


 今から数十年前の、五月二十日が思い出されます。この日がどんな日かといえば、平壌内務署に捕らえられて行って、裁判を受けて、興南の監獄に移送されて行った日です。

 むちで打たれ、無念さと、悔しさで、泣きかけて、天に、恥ずかしくて顔を覆い、姿勢を正す時がいくらでもあるということを知らなければなりません。それゆえに、私が監獄に行くようになる時は、殺人囚と手錠をかけてくれと言いました。私は殺人囚の友達になりました。

 手錠をはめて、興南に行くのに、十七時間かかったのです。ところで、車中で何を思ったでしょうか。あぜんとするのです。私があぜんとなれば、神様はどれほどかわいそうかというのです。それで、決心して窓辺を眺めながら、すべての山野の景色を眺めながら、どんなに深刻であったでしょうか。私一人で行けば逃げやすいのですが、その時一番悪い強盗と二人で組になって手錠をはめられて行きながら、考えたことがどんなに息が詰まったことでしょうか。

 興南の監獄へ移送されて行く時、山の谷間にさしかかって、谷川の道に沿って歩いたその時が、本当に新たに感じられるのです。くねくねした山の谷間の道を歩いていったその時が、今も忘れられません。その歩みは、新しい世界に向かって出発した歩みでした。監獄生活をどのようにしていくのか。難しいけれど、私は行くのです。その時が新しい自我を覚醒できる良い機会になったのです。

 監獄に入っていく時、先生は、サタン世界から神様の世界へ移っていける一つの結果をもってくるためには、このような現象が起こるのだと考えました。そのような所に行っても、正体を明かさず、内外に変わらないと考えました。


二 興南肥料工場での強制労働


興南徳里特別労務者収容所に投獄(一九四八・六・二一〜一九五〇・一〇・一四)


 一九四八年六月二十一日、この日は先生が収容所に入っていった日なのです。

 先生は北韓の共産党の監獄に入っていき、二年八ヵ月の間、重労働をしました。どんな労働だったかといえば、肥料工場の仕事でした。

 ソビエト革命後、多くのロシア人たちは強制労働に苦しめられました。共産主義の理論では、彼らの前にどのような有産階級や反共産主義分子たちもいてはならないのです。彼らは、心の中ではすべての反対者たちを殺したいと思っているのですが、世界の世論のゆえに、それができません。

 それで共産党は彼らを、強制労働に動員させるのです。そして困難な労働でもって彼らが死ぬ時を待つのです。北韓で監獄にいる時、先生は強制労働収容所に閉じ込められました。金日成はソ連の経験を見本にして、すべての囚人を三年の間、困難な労働に動員し、彼らを死ぬまでそのままにしておきました。


朝の身体検査と一里の道を徒歩で労役に(四:三〇〜九:○○)


 朝、労役に出発する時、監房からみな出てくるのです。広場に出て、不法な所持品がありはしないかと全部点検するのです。身体検査をするのです。こうして、九時に作業が始まるとすれば、一里の道を行くのに一時間ないし一時間二十分かかるのです。それゆえに、御飯を食べてからすれば、二時間以上かかります。ですから労役に出発するには、普通、明け方四時半に起きて、九時に作業に就くようになるのです。それで、出ていって、さっと座ると、頭がぐるぐる回るのです゜頭がぐるぐる回って、立とうとすると立ち上がることができないのです。

 二時間も身体検査を受ける時は、身を切るような寒さに遭いました。むしろ仕事場に出て行って仕事をするほうが、どんなに自由であるか分かりません。

 興南は、海からの風が吹くと貝殻石が飛んでくる所です。射るように入ってくる風がどれほど怨讐なことか。我知らず、「ウオー」と声が出るくらいに震えるのです。いくら声を出すなと言っても、そうなるのです。

 先生はその場で、「うむ、もっと寒くなれ、もっと寒くなれ、もっと寒くなれ」、と思いながら、それを克服するための戦いをしたのです。

 毎朝、監獄を出発する時、手と手をつないで四列に立たなければならず、横には小銃と拳銃で武装した警備員たちがいます。もし、ゆるんだり、手をつながなかったことが発見されると、脱出しようとする者とみなされて、告発されるのです。自分の頭をまっすぐに上げることはできませんでした。

 また朝食を食べて出かけるのですが、行きながら何度も足が空を踏むのです。四キロメートルを歩いていくのに、足が空を、五、六回、ある時は十回以上も踏むのです。力が出ないのでそうなるのです。その足を引きずっていって仕事をするのです。先生はそのような歴史があるために、困難な時はいつもそれを考えます。そのような時、気が遠くなる時、私は天の人であるという命題を立てておいて、終わりまで越えて行きました。


「朝鮮窒素肥料株式会社 興南工場」強制労働(九:〇〇〜一七:〇〇)


 私たちが仕事をした工場が、興南肥料工場でした。その肥料工場に行けば、アンモニアがコンベヤーを通って降りてきて、山のように積まれます。それは熱いものですが、時間が多く経過すると、溶けて、氷のように固まります。

 コンベヤーを通じて大きな広場の真ん中に積まれるのですが、その姿は正に滝のようです。滝の水が落ちるように、真っ白いものがざーっと落ちるのです。これは、高さが約二十メートルになります。そのような肥料の山があるのですが、それを袋に詰め込むのです。大きな広場に八百人、九百人が出て行いますが、大体、大きな山を二つに分けて置いたようです。

 本当に骨の折れる重労働でした。一組の一日の責任量は千三百かますであって、八時間以内に終えなければ、食糧が半分に減るようになっていました。

 一組が十人なのですが、十人の責任量として、四十キロ入り、千三百かますをつくらなければなりません。指ぬきをはめるのですが、かますをくくっていると穴が開いて、抜けてしまうのです。

 一日の責任量が一人あたり百三十個としたら、それは重労働です。一般社会の人は、七十個、八十個もできないのに、「倍の基準でしろ」と言うので、それは「死ね」と言うことと同じなのです。

 そのようにして、それを港で待っているソ連の船に積むのです。数万トンずつ積むのですが、それを毎日計算してしなければなりません。

 体は硫酸で害を受けます。髪の毛が抜け、皮膚を絞ってみれば水が出てきます。六ヵ月が過ぎると、必ず喀血します。大概、肺病だと思って落胆するので、死んでしまいます。せいぜい一年半か二年しか耐えられません。

 肉が全部裂けて、骨が見えるほどになり、血が出るのです。それでも毎日のようにアンモニアの肥料を運んだのです。普通、制服は木綿のようなものだと一週間以内で全部ぼろぼろになります・そのような所で、半年ほど仕事をすれば、細胞がみな死んで、しぽると水が出るのです。

 朝には、血がぽたぽた流れ、皮膚が裂けるのです。

 一日で、昼食時になる前、中間に十五分休み、それから昼食時に一時間休み、それから午後の中間に十五分休みます。こうして一時間半くらい休む時間があるのですが、昼食時になるとすべてを解体して、自分の班同士で御飯を食べます。

 便所はどうかというと、そのような大きい工場では、くぽみにセメントをさっと流して溝を作って、底のほうに廃水が出ていく水路を作っておくのです。それを便所にするのです。

 しかし、現場に行って大便をしたくなれば、仕方なくアンモニアの肥料の山をシャベルで深く掘って、そこに座り込んでするのです。それもやはり肥料になるので、ほうり込んでおくのです。ぱっと座り込んで大砲を射つようにするのです。「プダダダッ!」と。それは瞬間にするのです。


全心全力を投入した作業


 先生は、興南監獄で肥料かますをつくりあげながら、そこが最後の前線だと考えました。

 労働する中でも、労働しているということを意識しません。労働時間が、祈祷の時間でした。

 先生は、そのような仕事をするために生まれたのだと考えました。先生は常に、あたかも復帰摂理をするかのように、すべての心情とすべての誠意を、その仕事に注ぎました。先生は作業する間、いつも、霊界で経験したことを思いながら、後日、先生の後孫たちと、先生に従う人々に見せてあげる映画の中の主人公であると考えました。先生は、休息時間を告げるベルが鳴っても、聞こえませんでした。

「先生は、鉄筋のような男だ」というような言葉をたくさん聞きました。私が手をつける仕事は、本当に楽しくてするのです。誰よりも喜んでするのです。それだけであって、他のことはないのです。

 結局は、乗り切っていったのです。どんなに困難な監獄でも、貫いていかなければなりません。私はここで死んでも、「お前は負けずに勝って死んだ」という、そのような思想を残さなければならないと考えたのです。

 その時の体重は、十九貫三百(七十二キログラム)でした。他の囚人たちはすべてやせ細っていくのですが、先生はやせなかったのです。それで、すべて、研究対象でした。

 先生は監獄に三年近くいながらも、一度だけマラリアを患った以外には、病気というものは知らなかったのです。しかし、先生はどんなに具合が悪くても、薬をのむどころか、断食までしながら仕事をしました。その時、マラリアを二十四日間患いましたが、少しも休まず仕事をしました。骨の折れる仕事を避けようという人はその仕事に耐えられません。


最も困難な仕事を自ら進んで引き受ける


 監獄での生活が、どんなにつらいとしても、他人から情けを受けてはなりません。それが頂点に立ち得る方策です。他人から恵みを受けることは、蕩減の道では許されません。

 それを知っていたがゆえに、監獄に入るや否や、「どこの誰もできない一番困難な仕事に私が責任をもつ」と決めたのべ最初の決意でした。そして「何倍まで責任をもつ」と考えたのです。

 肥料の山をどんどん掘っていくために、遠くからそれを秤のある所まで運んで載せようとすれば、時間内に責任を果たせないのです。約四メートルくらい掘っていき、秤に一度上げようとすると五分以上かかるために、すぐにはできないのです。それゆえに、誰かが入っていって向こう側に投げなければならないのですが、そんな骨の折れることを誰がしますか。それで、先生がそれに責任をもったのです。

 そのうちの三〇パーセントは私がしました。一番困難な仕事をしながら、班員たちを取りまとめて、五時に終わる仕事を、いつでも十二時半に終えてしまうのです。

 千三百かますの責任量に合格さえすれば、その次には遊ぶのです。十二時までに終えて、昼食を食べて休む時の、その快感というものは、やってみなかった人には分かりません。私のような人は、そこにおいてチャンピオンになったので、仕事をする人がみな私の後ろについて回ったのです。

 監獄において救世主になれない者が、平和な時代に「救世主だ」と言えば、彼は偽りの救世主です。「獄中の聖者」だと言って、興南監獄にいた人が私について書いた本(金仁鎬、「ソウルに来る道」)があることを私は知っているのですが、牢獄は私にとっては恐ろしい所ではありません。むちがどんなに恐ろしく、その環境がどんなにむごいとしても、愛を欽慕する心を占領できませんでした。神様の名を呼び、父の名を呼び、神様を思う心をくじくことはできませんでした。その力を中心として私は、縦的な段階を解放できる基盤を強固に築いたのです。


素肌を隠す


 興南監獄に入って肥料工場で仕事をする時、非常に蒸し暑い真夏にも、テニム(注:ズボンの裾を結ぶひも)を結んでしました。すねも出しませんでした。私の体を通して汗を流し、そして神様の前に捧げるべき神聖な道が残っているために、神様のために精誠を尽くすところでは、誰にもこの体を見せたくなかったのです。

 硫酸といえば、知っているでしょうが、窯で蒸したように湯気がぽっぽと立ちのぽります。ですから冬至の月にも服を脱いで、皆パンツ姿で仕事をしなければならない状況です。そのような肥料工場で仕事をしながらも長ズボンをはいてしたのです。

 そのような暑い所でも、私は下半身が見えないようにしました。貞操を守る女性以上の、そのような訓練をしてきました。私が知っている本郷の家に向かって、故郷の伝統に向かって、どれほど監獄暮らしが険しくても、私の行くべき道を遮ることはできません。

 サタン世界で、神様が願うその基準で一身を捧げるのでなければなりません。そしてそれを守っていかなければならない男としての貞操があるのです。女だけに貞操があるのではありません。男にもあるのです。


模範労働者賞を受賞


 私は、責任量を果たせなかったことがないのです。そうして監獄に入った人としては、所長からも特別接待を受けてもみました。話はしませんでしたが、皆が仰ぎ見たのです。

 仕事をする人々は数十名でもない八百名、千名以上であるのに、彼らが私一人を中心として、私を選定し、数百名の実績を上げられる材料としたのです。

 数カ月後、先生は最高の労働者と称されました。班員たちは、脱出の陰謀を企てないように毎日替わりました。班が替わる時、すべての囚人たちは、その最高の労働者がいる所に来ることを願いました。先生の後ろには多くの人たちがいました。

 それで毎年、模範労働者賞をもらいました。労働者としての血筋が別にあるわけではありません。

 その賞は、どうなったか分かりません。そのようなものは持っているのも嫌で、管理もしませんでしたが。

 それは、私が望んでもらったのではないのです。全部彼らがくれたのです。共産世界の監獄に入って、模範労働者として一等になったので、世界のどこに行っても問題がないのです。


三 残酷な飢えとぽろをまとう


御飯を思い描きながら死んでいく囚人たち


 一日にくれる御飯は、小さな茶わんで一・七杯ぐらいです。おかずは何もなくて、汁は味噌汁ではなく塩水です。それを食べて八時間労働をするのです。食べるものが少なくて、大きい口なら三口で終わってしまいます。

 汁として、大根の葉と塩を入れたものをくれます。それがすべてです。

「豚が川を渡って行った水」という言葉がありますが、そのようなものです。ある時は汁が、どんなに塩辛いことか! それを御飯と混ぜて食べると塩辛くて食べられません。それでも、死んでもその汁を拾てたくないのです。

 仕事に出ないと、御飯が半分になります。御飯を半分しかもらえないその悲惨さは、言葉にできません。御飯を半分しかもらえない悲しみと苦痛は避ける道がありません。それで死にそうな人でも、その御飯一握りのゆえに仕事場に引かれて行きます。御飯一握りが欲しくて、引かれて行き、生死の境でさまよって、帰ってきます。

 そうして御飯茶わんを受け取るや否や、無意識のうちに御飯を口の中にほうり込みます。自分が食べたということを忘れてしまい、ほかの人が御飯茶わんを受け取るのを見て、自分の御飯茶碗が空になっているのに気がつきます。それで時々、隣の人とけんかをしたりします。「お前が私の御飯を食べただろう!」と言うのです。

 御飯を自分の口の中にほうり込んだところ、のどが詰まってすぐに死んでしまった人もたくさんいました。一人の囚人が、自分の御飯を全部食べる前に死ぬと、他の人々が、その死んだ人の口から御飯粒を取り出して食べるために争います。

 ある時は人がいるのにもかかわらず、自分の箸が他人の御飯に行くのです。行きかけて、主人がいることを感じる時のその心情が、どんなにあきれたものであるか、皆さんは知ることができないのです。

 つばがガムのように、つーっと伸びます。はったい粉(注:穀物を煎って粉にしたもの)を持ってくれば、それを練って餅を作ります。石に粉がくっつけばもう、争ってそれをはがして食べます。

 肝油に水を注いで飲むのですが、その香ばしいことは、到底言葉では言い尽くせません。また生の豆を食べる時も、どんなに香ばしいか分かりません。

 たまに豆御飯にしてくれる日には、その豆一粒が、この世でいえば黄金の塊になります。むしろ金より貴く感じられます。御飯を食べている途中で豆一粒が落ちれば、横からすぐに拾って食べてしまうのです、あいさつもなく。体面もなく。

 御飯一粒、米一粒が落ちると、互いに拾って食べようとします。はえがつき、うじ虫がついても、そのようなことは考えにもありません。そのような死の谷間です。

 一年も経てば、千名のうち、四〇パーセント以上が死んでいったのです。ですから、毎日葬式を執り行うのです。毎日、裏口から棺が出ていくのを見なければならないのです。

 三年ないし四年たてば、みな死ぬのです。脂気がすべてなくなる時まで、死ぬ時まで、こき使おうと、そのような政策を用いてくるのです。無慈悲にも、冷酷なことにも、限界線があるのです。ところがこれは、限界線を越えに越えていたのです。


名節と鯖の給食


 刑務所は豆御飯がふさわしいのです。その次には、雑穀御飯であるほど良いのです。正月一日とか五月一日とか北側で守る名節がありますが、その時は必ず白い御飯をくれるのです。それで皆が抗議するのですが、それが何かというと、「名節の日も私たちには豆御飯を下さい」と言うのです。豆御飯はそれでも歯ごたえがあってよく、また脂気があって、食べると粘り気があります。白い御飯は食べると、するっと下っていくのです。それで一番嫌な日が名節の日なのです。

 また、名節の日になると豚をつぶして食べるのです。もちろん、「囚人たちのために与える」と言ってつぷすのですが、肉は全部看守たちが食べるのです。それが以前からのしきたりですが、ある日、正月の一日に、雄豚の、睾丸が一つ入っていたのです。それを分け合って食べた思い出が、今も忘れられないのです。その時、それが汁に入っているのを見つけた時の、その喜びは世の中の何ものにも比べられないのです。ですから、どれほどおなかがすき、飢えていたのかということを皆さんは知らなければなりません。

 一年に二回、五月一日と正月一日に果物をくれます。そのりんごを配ってもらうと、普通の人々は、もらうや否や、がつがつと、ほんの一分もせずにすべて食べてしまうのです(笑い)。しかし、先生は「この光はなんと美しいことか、この光を食べよう!」と考えたのです。「光を食べて、その次に味わおう」と、そのような考えをもったのです。

 興南の前の海は、鯖がたくさん取れる所です。一度取れると、山のように取れます。そうすると全部肥料にするのです。鯖の季節は一番安く、干した大根の葉の値段よりもさらに安く、何ものよりも安いので、トラック、台分買って、大きな釜で蒸して、「ええい、食べたければ食べたいだけ食べろ」と言って、バケツをいっぱいにして突きつけるのです。ところで、一年の間、飢えるだけ飢えて、はらわたは細くなるだけ細くなり、脂気が全く抜けたところに、脂気のものをもってきて入れたら消化できますか。消化できないから、そのまま無事通過なのです。そうすると、座った場所があるのですが、なま温かい水がたまり、ある者は「うーん」として、行く所がないから、そのままします。それで言葉ができたのです。「春になれば一度しなければならない」。何をするというのですか。一度垂れなければならないというのです。


御飯についていった牧師たち


 先生が監獄生活をする時、社会的な名士とか、宗教的な代表者だとかいう人たちと一緒に生活してみましたが、その人たちは、みなパンのために生きる人たちです。

 とにかく有名な牧師なのですが、彼が言うには「腹が減ったその場で、いくら神様を探し求めても神様はいる感じがしない。影さえも現れない。神様は降参をしたのか。神様は逃げたのだ」というのです。監獄暮らしをする中で、唯物論者になってしまった牧師がいます。

 ある地方で有名な牧師が、彼の婿と一緒に監獄に入ってきたのですが、その婿がマラリアを患うようになりました。この病気は、毎日ある時間になると高熱が出る病気なのです。そのように重い苦痛を受けている娘婿がいるのに、その牧師は、マラリアの薬を持っていても与えませんでした。その薬を、第三者のはったい粉と交換してしまいました。

 その牧師は、今も生きています。私は名前を明らかにしません。マラリアの薬一つをはったい粉一袋と交換する商売をするのです。それこそ正に御飯牧師でした。この御飯牧師の集団が育てている天の羊を、誰が解放させるのでしょうか。


三週間の半分の食事


 先生がそのような環境の中で、どのように生き残ることができたのでしょうか。先生は精神力の重要性を知りました。先生は精神的に、特別な決心をしました。それで先生は「先生が食べる食事の半分でも生きられる」と、心に確信をもちました。それでその次の日から、先生は他の人たちに先生の食事の半分を与えることを始めました。それを三週間続けました。先生は「半分の食事を食べても、作業量を完遂できる」と確信するようになりました。その時から先生は、先生に分け与えられた食事をすべて食べるようにしました。そして「先生の食事は半分で、残りの半分は神様によって与えられたおまけだ」と考えました。

 このような訓練をして、それからは、差し入れのようなものがあっても、それを食べないのです。はったい粉のようなものを入れてくれれば、行き詰まって、飢えているので、どんなに食べたいことでしょうか。しかし、それを貪ったらいけないのです。それを欲しがってはいけません。そのようにしたら死ぬのです。そのようなものを食べないで、はっきり決心したその圏内で自分を支える、自分が生きる道を開拓していかなければならないのです。


そば飯(一九四九・一二・一四〜二八)


 御飯を食べていても、それを思い出すとのどが詰まって食べられません。そう、私が記憶している日があります。十二月十四日から二十八日までです。

 そぱがあるでしょう。そのそばは、三分の二も挽いてありませんでした。半分しか挽いてなかったのです。そのようなものを配給され、それで食事をしたのです。それを最初の日に食べると皮膚がむくむのです。腹は減っているのですが、それは食べにくいのです。それで、そのままぐいぐいのみ込んで、皆病気になったのです。先生は、それをあらかじめ知っていたのです。それでその時、そぱを一粒一粒、全部皮をはがして食べたのですが、それが一生忘れられません。

 御飯は捨てられないし、食べなければならず、それで、御飯の食べ方を研究したことが思い出されます。その御飯を食べて消化ができず、下痢をして、苦痛を受けたことが監獄生活において一番忘れられないのです。それゆえに、そば飯を食べたことを思うと、今になっても、すっとお膳を受けると、「いつの時か、そうだった。おかずがないと不平を言うことができるか。これも有り難い」。そのように思うです。


御飯の真価


 ひもじい時の御飯一粒がどれほど貴いものか、今でもはっと我に返ります。御飯一粒が、それほどまで全神経を刺激できるのかということ感じ、それに対する無限の価値を感じることができました。腹が減って、御飯を恋しがりつつも、それを忘れようと努めながら、神様をより一層恋しがろうと、涙を流しました。

 米の御飯ではなく、麦だけの御飯、小麦の御飯も良いのです。また燕麦というものもあるのです。咸鏡道の山奥や山頂で取れるものですが、そのような燕麦で御飯をつくって食べても感謝しなければなりません。そのような御飯を食べることに、王座で米の御飯に豪華な食事をすることよりさらに感謝するならば、その人が逆になるのです。そして、私は今でも、おかずなしで御飯をよく食べます。おかずなしのただの御飯の味を知るところにおいては、統一教会の文先生が「王」です。

 塩の汁を数年の間飲みながらも、涙で感謝しながら生きたのです。

 麦飯に対する時にも、先祖たちがひもじかったことを思いつつ、この御飯は私たちの烈士、先祖たちの血がずっと続いてきて結ばれた結実であって、私がそれを食べていると考えました。その弁当は、木の箱なのです。その御飯を食べようと、枝の箸ですっとこうすれば、かすがこのようにくっついてきます。そのような時、神様のみ旨と神様の威信と体面を知っている私ですが、そうかと言って、それをかき出して食べませんでした。そのあるがままをすべて食べるのです。深刻なのです。麦一粒が、私たちの先烈たちの血の結晶体だというとき、深刻なのです。

 また、監獄にいると、この鼻がどんなに鋭敏になるか知れません。シェパードはここでは、いとこにもなれないのです。一里ほど離れた村で、牛をつぶして牛肉汁を煮て食べているのが、座っていて、すべて分かるのです。

 世間では学べない御飯の価値を教わることができる場所は監獄しかないので、監獄が一番良いのです。

 腹が膨れている時は世界が大きいと思ったのですが、腹が減っている時には、御飯一粒が地球数個よりずっと大きいのです。それは言葉だけ聞いては分かりません。そのような場で、御飯の峠を越えて世界をつかむということは本当に難しいのです。


食べ物を分ける


 自分の家族とか誰かが面会に来る時には、何かを持ってくるので、どんなに愛する妻であっても、恋しいお母さんだとしても、来た人の顔を見上げるより先に、持ってきた物に目が行きます。面会に来て、はったい粉を持ってこなかった時ぐらい悲しいことはありません。

 私が興南監獄にいる時に、一ヵ月に一度ずつ、はったい粉を受け取って食べました。監房に約三十余名いたので、それをたくさん分けてやることはできず、新聞紙の切れ端に一さじずつすくって、皆に分けてあげました。このようにはったい粉を分けてあげる日は、宴会の日です。

 先生は、それが惜しいといって一人では食べませんでした。絶対一人では食べません。このはったい粉を練って、はったい粉餅を作って、新聞紙に包んで、作業場に持って行きます。

 昼食時まで汗を流して仕事をするため、はったい粉に汗がしみ込んでしまうのですが、昼食時、それをちぎって食べさせてあげると、彼らはもらって食べながら、涙を流したのです。そのような生活がどれほど貴い生活ですか。

 そのような場で、私の御飯を分け与えながら、しっかりつかんで、母親の代わり、お兄さんの代わりに友達になってあげたのです。


愛の服


 監獄に入ると、そこはオンドル部屋ではありません。外は日の光がさすので、むしろ冬は監獄の方が寒いのです。監獄という所は、昼も寒く、夜も寒い所です。監獄に住む人は、絹織物のような服は必要としません。そのようなものは全部ほうり投げて、分厚い布袋を、我先につかんで自分のものにしようと争う所が監獄です。布袋でなく、かますの片側でも良いのです。ですから、監獄に行けば何でも価値があるのです。服に対する価値を、本当に知ることができる所が監獄です。

 先生は常に、一番古い服を着ていました。良いものは他人に与え、擦り切れれば竹で針を作って、縫って着ました。

 先生に良い服があれば、例えば、食口たちから良いズボンとかチョゴリを差し入れてもらうと、一番かわいそうな人に持っていって着せてあげます。そこではかますのようなものを縄で括るので、手が切れます。けれども先生はその手でテントの生地を全部ほどくのです。テントの生地をほどいて服を作るのです。ズボンを縫って、面会者の来ない人にあげるのです。それはどんなに手間がかかるでしょうか。そうすると彼らは喜ぶのです。私は風がびゅうびゅう吹く時、服が全部破けて尻が見える服を着て歩いても、監獄にいる人の中にそのような人がいれば、私の服を持っていって彼にあげました。

 それから、パンツのようなものの型を取るのも、私がみな教えてあげたのです。ふろしきが手に入れば、それを丸ごとたたんで、そのまま型を取って、日曜日ならばパンツ十枚も作れるのです。

 私は、食べずに監獄にいる人に食べさせてあげようとし、寒くてぶるぶる震えながらも、着ないで、震える人に着せてあげようとしたのです。彼らの世界にも、愛の綱を結んでおかなければならないからです。そうしてこそ、手綱をつかんで投網のように引き寄せれば一時にみな掛かってくるのです。


針一つの真価


 刑務所で針を配給してくれますか。絶対してくれません。自分自身で解決するのです。

 針がどこかに一つあるというと、交渉をします。それで、どこかの監房で針が一つあるというと、それは話題の種になります。先生もその時、針を見て「これ以上の価値をもったものがどこにあるだろうか」と思ったほどでした。

 必要ならばガラスを割るのです。むちで打たれても、制裁を受けても、手かぎをほうり込むふりをして、斜めに投げれば、あの工場の上にある物が落ちることもあり得るのです。それでひげそりもして、お箸も作ったりしたのです。そこにおいては、私は先生なのです。ワイヤーをさっと曲げて、そのガラスでかさかさかさかさとこすれば、とがります。そうすると、立派な針になるのです。

 先生の前歯にひびが入ったのは、興南監獄にいる時、針を作ろうとして傷めたものです。そのようにして作った針が、どんなに貴いことでしょうか! 神様が探し求めようとする人もそのように貴いということを悟りました。


四 収容所の受刑生活


獄中祈祷


 絶対愛です。それしかないのです。レバレンド・ムーンは、共産党により監獄に入れられ、ありとあらゆることをされても、神様を最後まで愛しました。神様を信じるのですが、絶対的に信じるのです。私が約束すれば、私が約束したことは絶対的です。神様が私に命令すれば、それに対して絶対的に責任をもつのです。難しいとか易しいとか、それは問題になりません。監獄でも、孝子は孝子の本分を全うしなければならないのです。忠臣は忠臣の本分を監獄に入っても全うしなければならないのです。

 雨が降る軒先から滴がぽたぽた落ちて、岩に穴をあけるということを考える時、「私の愛の涙の滴が、神様の胸の中に絡み合った恨の岩に穴をあけることができるならば」と思いつつ、そのような滴を見て痛哭した事情を皆さんは知らないでしょう。

 また、困難になる時は、絶対に祈祷しませんでした。一週間でも一ヵ月でも話をしません。難しければ難しいほど、「私の最高の知恵を尽くして、最高の精誠を込めて、どのようにこの困難な環境を、神様が私によって溶かし出すことができる道を模索するか」と考えたのです。この困難な心情的動機に関連させて、神様を痛哭させ、悔しさと無念さが深く心にしみ込んだ、強く打つことができる業をどのようにするか。言い換えれば、怨讐の敵陣を撃破させることができる心情の爆発力をどのように刺激するか。そのような面を考えたのです。「ああ、私は早く出なければならない」と、そのようには考えませんでした。

 先生は、興南監獄で三年近い歳月を送りましたが、その中でも何人かの食口たちのための祈祷は、御飯を食べる時から眠る時まで、毎回、してあげなかったことがありませんでした。たとえ離れて出っていった人であっても、彼のために続けて祈祷してあげました。そうすれば、霊的に先生を訪ねてきて、哀れに涙を流しながら、離れて出っていったことを報告するのです。「肉身が弱くて、やむなく先生から去らなければならない」とあいさつをしながら去っていく、その悲惨な情景は、同情するまいと思っても同情せざるを得ないのです。そのように離れて行っても、その人のために継続して祈祷してあげなければなりません。その人が責任を全うできず行ったがゆえに、その継承者が出てくる時まで祈祷してあげなければならないのです。

 監獄に入っていても、三年近く、そのような人々のために、心の中で一日に三度ずつ祈祷してあげました。

 ある時には十二時間、または二十四時間、祈祷しなければならない問題がありました。

 強盗をした者がいたのですが、ある朝、世の中でしていた行動を、そのようなことを監獄に入ってきてもするので、私が道理にかなった話をしました。その不遜なことを、前後を問いただしてめちゃくちゃに攻撃しました。

 ところで、そのようにしてからは祈祷をしても祈祷がつかえて通じないのです。本当に、そのような地獄はないのです。真っ暗な天地に一つしかないろうそくの火まで消えれば、どんなに息が詰まるでしょうか。正にそれです。そうして、一週間ぶりにそれを再び取り戻すようになる時のその喜び、それは天下を得ても、それと換えられないのです。皆さんはそれをしっかりとつかんでいなければいけません。生命の綱! 神様もどうすることもできず、サタンもどうすることもできない、その何かをもっていなければいけません。私だけが守ることができ、私だけが大切にすることができる生命力を皆さんはもたなければばなりません。


便器の隣の席


 先生が暮らしていた部屋には、三十六人が住んでいました。夏には、水が出てきます。私は、そこの一番暑い所、一番においのする、最低の場所で過ごしました。そこで何を思うのでしょうか。寒い冬を思うのです。冬の主人になれる人が、夏を支配できるのであり、夏の主人になれる人が、冬を支配できるのです。

 糞尿桶の隣で寝ても、アダムとエバよりは良いと考えるのです。アダムとエバは地面に糞をしましたが、私は瓶でできた糞尿桶を使っているのでアダムとエバよりましなのです。

 糞尿桶の一番そぱにいると、下痢をしている者たちがみな、尻をもち上げて、ぱぱぱっと振りまきながら垂れるので、糞まみれになりますが仕方ないでしょう。

 それでも、「ちょうど良かった。将来、我が身を輝かせることができる、人類歴史を導くことができる、良い機会が今ではないか」と、考えるのです。


体の管理と寝床の礼法


 どんなに困難な環境であっても、天に仕えるべき責任があるのです。地獄に行っても、そこから天国への道が輝かなければならないのです。獄中で水をくれると、小さな湯飲みに三分の一にしかなりません。それが配当水です。その水を飲まずに、手ぬぐいに浸して、体をふくのです。第一には話をしない、第二には寝ない、寝ても夜明けになれば、人が寝ていようが寝ていまいが、必ず約十五分前に先に起きるのです。見つかると大変なことになります。

 一番苦労することが何かといえば、見つからずに起きることです。見つかった日には、制裁を受けるのです。寝る時間がはっきり決まっているので、いくら起きたくて目を開けていても、起きて座れないのです。このような監房において、約十分ないし十五分前に、一人で起きて、冷水浴をするのです。さらに、運動をしなければなりません。自分の体力を保持するためには運動をしなくてはなりません。それで、先生が考案した運動方法があります。相当に効果があるのです。

 どこかに座る時は、体を汚さないように必ず聖別して座り、立ち上がる時は、必ず聖別して立ち上がったり、そうしたのです。

 一人寝る時も、腕や足を広げて寝ることはしませんでした。上に神様がいらっしゃるのです。寝る場合にも、礼法があるのです。

 土曜日の夕方と日曜日は、それでも自由をくれるので、みなその場で食べて寝るのです。ところで先生は、三年近くいましたが、昼寝を一度もしませんでした。絶対昼寝をしないのです。最初に決心した時間どおりにしました。決めた睡眠、決めた食べ物以外には欲しがりませんでした。

 ですから、「先生が寝ているのを見ることができなかった」という話を残しているのです。

 本当に眠気が来る時は、目がくらくらとして、やたらに疲労が押し寄せてきます。けれども、決心をしたならば、その決心を守らなければなりません。そうした過程を経てくると、さっと伏すや否や、天が抱いてくれる感じがします。どんなに醜悪な監獄でも天は共にいるのです。

 疲れて、服も脱ぐことができずに倒れて寝るのですが、寝ている途中に便所に行く時、目が見えるようになりますか。便所に行こうとすれば、暗くて行けません。ところで、便所に行く道がはっきりと見えるのです。手が明かりになるのです。そのような道があるのです。その世界に接しなければなりません。


看守たちと監獄の囚人たち


 監獄に入って暮らす時も、「ああ、私が間違った道に行くのではないかと案じて、むちを持った天使長が見張っているので感謝だ」と考えました。「エデンの園でアダムとエバを堕落させた天使長よりも、もっと、過ちを犯すのではないかと、棍棒を持って私を見張る天使長がいるのだなあ」と思いながら、見張っている看守たちを、有り難い方々だと思ったのです。

 これくらいの部屋に、三十名から三十五名が入るのです。そこには、殺人者や強盗がいませんか。あらゆる質の悪い囚人がいるのです。そのような人たちと肌をこすり合わせながら、ある時は、二人で抱き合って寝たり、あらゆることをしたのです。

 寝ている途中に、便所に行こうとすれば、足を踏みつけませんか。足を踏んで転びませんか。あらゆるエピソードがあります。それはどれほど階級が平準化されているか知れません。

 御飯を食べている時に、糞尿桶にまたいで座り、びちびち音を出して垂れませんか。それでも文句を言わずに食べなければならず、飲まなければならず、また、出ていって、仕事をしなければならないのです。

 先生が監獄に入るようになると、そこにいる人々を、三日以内に、みな部下にするのです。それは何かと言えば、それは小さいけれど一つの社会と同じで、そうした世界をよく知っているためです。そこに入ってきた人たちの背後をよく知っているためです・そうしながら、そこにおいて、かわいそうな人たちを見ては、彼らをつかんで泣くこともでき、同情することもでき、心情的に自分の家族と同じ立場で彼らに対することができる、そのような訓練が必要なのです。


死刑囚


 獄中生活は私に悲しみを与えませんでした。そこは私にとって、この上ない、一番の道場でした。人間を真心で愛せるか、怨讐を真心で愛せるか、死刑囚と鼻を突き合わすことができ、息を交わすことができるかということを、考えることのできる道場でした。

 そのような人々と共に、腕を枕に寝たりしました。彼らは夜寝ている途中でも、二時、三時になれば、やたらに空想をして「ふうーっ」とため息をつくのです。生命への愛着、生涯への愛着がどんなに強いか分かりません。

 死刑囚たちは自分の名前が呼ばれるだけで、顔が真っ青になります。自分の名前が呼ばれると、ため息をついた、その表情が、形容できないほど悲惨なのを、私は何度も見たのです。名前を呼ばれることが最後かもしれないためです。

 その心の中で、いつも考えることが何かというと、「私がもう一度生まれたら、こうならなかっただろうに」ということです。

 死刑囚たちに助かる道があるとすれば、彼らはできないことがないはずです。生かしてさえくれるならば、「コップに水をいっぱい入れ、額にのせて、ソウルを一周しろ」と言っても、するはずです。

 その人々を慰労してあげ、「私が監獄を去る時に、父母が自分から去ることよりも、もっと切ない心で涙を流す場を彼らに残してあげられなくては、復帰の使命に責任を負うことができない」ということを悟って、そのような心をもって活動してきました。

 私が手をぎゅっと握って、慰労してあげたことが思い出されます。「人はこの生だけが生でなく、永遠の生命というものは、このような道から芽生える」と、話してあげるのです。


懐かしく、うれしいこと


 監獄に行ってみれば、解放の一時間が、どんなに貴いか分からないのです。無期刑を受けた人には、無限の価値です。

 監獄にいる時は、「面会に来た」という言葉が、本当にうれしい知らせです。「誰かが面会に来た」と言えば、目がぱっと見開くのです。先生もそうでした。

 監獄という所は、人が恋しいのです。「ひそひそと話ができること、それがどんなに恋しいことか。そのような時間が私にあれば、どんなに幸せだろうか。どんなにうれしいだろうか」。そのように夢の中で恋しがり、心の中で思慕するということを、皆さんには想像できないでしょう。

 日の光は何かといえば、飴の筋と同じです。蜂蜜の筋というか、何と表現すべきか分かりませんが、いずれにしても良いものなのです。ですから、太陽の価値を本当に知る人は監獄にいるのです。なぜですか。太陽を一番愛することができる人が監獄にいるからです。

 国を失ってしまい、家を追われ、迫害を受ける悲しい立場にいる時、「月よ月よ明るい月よ、半白が遊んだ月よ、あそこ、あそこ、あの月の中に……」というその歌、「青い天の天の川……」という歌が、どんなに懐かしかったことか、分かりますか。夏は、虫の声を聞いて、虫をうらやましがりました。

 刑務所に入り、牢屋の身になれば、はえがうらやましいのです。鉄格子の窓をさーっと飛んで、自由に出入りできるはえが、うらやましいのです。先生はそのような世界をよく知っています。「神様はなぜ、私にこのような道を歩ませるのだろうか。ああ! 私にそのような人の事情を理解させてくださるためにそのようにされたのだなあ」と考えると有り難く思えるのです。

 友達がたくさんいました。何の友達ですか。しらみの友達です。それから、のみの友達、南京虫の友達、蚊の友達、はえの友達です。これらを捕まえておいて、運動させるのです。

 そうしたものたちと対話したこと、そのようなことを全部文章に書こうとすれば、数百巻の本を出せるのです。


読報会


 共産党の組織で一番の核心組織になっているのが、刑務所組織です。監獄に労働者収容所という名称を付けています。そこの所長だという者が、服役者たちが食べて、着て、生活する様子を見張りながら、毎日のように、前に現れては「金日成父母首領が我々を愛してくださり、毎日、御飯を与え、肉の汁を与え、このように豊かに暮らすようにしてくれているのに、それを感謝しているのか」と、問うのです。問われれば、服役者は、「はい、そのとおりです!」と答えるようになります。

 また、そこには「読報会」というものがあり、自己批判をするのです。組織は単一体制ですが、監視は単一体制ではありません。そこに「党」が入っています。「党」が入って、若い者たちを前面に立てながら、保安隊を組織して、すべての行政要員を監視しています。

 そうしながら教えては、その講義に対する各自の感想文を書かせます。彼らはそのような報告書をもって本を作ります。良い感想文を書いた人々を選抜して、囚人たちの前で朗読させました。

 その中で最も難しかったのは、毎日感想文を書けということでした。先生は書きませんでした。しかし、仕事においては、成すべきことはしていたので、問題になりませんでした。いつも白紙で出しました。

 それで一等労働者にならなければならなかったのです。生き残る方法は、それしかありませんでした。

 先生は、誰よりも北朝鮮をよく知っている人です。共産治下の監獄にいながら、先生が研究したことが何かといえば、北朝鮮の実情です。それゆえに共産党の本質がどうであるということをよく知っている人です。


忠母様の面会


 千里の道を訪ねてきた母を面前に置いて、北韓の地の鉄格子の中から秋霜烈日のごとくに怒鳴りつける時、恥ずかしさで「私がお前の母だ」と言って、ただ口をぶるぶる震わせながら、涙を手でぬぐって背を向けた母が、私は忘れられません。

 その時、母に向かって話すのです。「私は金なにがしの息子ではありません。金なにがしの息子である前に、大韓民国の息子であり、大韓民国の息子である前に、世界の息子であり、天と地の息子です。彼らを愛してから母の話を聞き、母を愛すべき道理を知っています。そのような小心者の息子ではないことを知って、その息子にふさわしい母の行いをしてください。これは何ですか」と攻撃をしました。

 咸興に行く道は、ここ龍山を回って行く京元線しかないでしょう。ですから、京義線に乗ってソウルに来て、京元線に乗り換えて来なければならないので、どれほど長くかかりますか。約二十時間も汽車に乗って来なければならないのです。それでも「息子だ」といって忘れられず、共産党治下のその貧しい北側で、はったい粉を作るために、姻戚の八親等の家まで行って、米を一握りずつ借りて、「息子を助けてあげよう」と一生懸命に来たのに、その場で全部広げて分けてあげたのです。面会する場でそうしたのです。ですから、どれほどあきれるでしょうか。

 私が結婚する時に着た絹織りのズボンのようなものを、「着なさい」と持って来てくれると、それを全部分けてあげました。そうして私は、ほとんど擦り切れて足の肌が見える合い着を着ているのです。下着のようなものも、全部そうしました。ですから父母の目から血の涙が出るでしょう。

 ですから母が、どんなにあきれることでしょうか! 文龍基という長老がいるでしょう。母がその家に行っては、両手を広げて、「この子は、父母がこのようにしているのに、そのようなことができるのか」と痛哭したのです。私はそのことを知っています。すべて知っています。


五 獄中での弟子伝道


獄中で共にいらっしゃった神様


 私が監獄にいる時、そのような困難な場でも、私は神様に向かって「私に協助しないでください」と言ったのですが、神様は私に協助したのです。私が困難な場で自信をもって決心することも必要ですが、環境的にまとめてくれる、そのような基盤がなければならないために、それをつくってくださったのが神様であったということを、あまりによく知っているのです。

 監獄でも、またそれよりひどい、深い所に閉じ込められたとしても、そこには無限の神様の慰労があります。孤独で、孤独で、哀れな立場、外的に見れば誰一人として関心ももってくれない立場ですが、無限な霊界と無限な希望の世界のすべての主体の原動力が、自分と共にありたがるということを体験するのです。静かな夜更けにも、あるいは息が詰まる中であっても、最後の息が絶えるその瞬間であっても、神様の救いの手は差し伸べられているのです。その中に、いつも、静かに浮かび上がる神様の指示があるのです。いつも一身の信念にあふれて、我れ知らず涙ぐむ深刻な立場に立ち、何でも聞いて確かめる心情で神様に向かって進めば、いつの間にか、既に解決の限界を越えた自分を発見するようになるのです。

 それで、一言言うようになると、そのとおりになるので、監獄で先生は問題の人物になったのです。最も深刻で困難な場所において、神様に会えるのです。そこは最も隠密な場所です。


雲界の役事で弟子を伝道


 獄中生活において、イエス様が追われ、弟子たちが反対した立場を蕩減復帰しなければなりませんでした。先生はその監獄生活の中でも、霊界が協助して十二名の弟子たちを伝道したのであり、それによって新しい摂理が出発できるようになったのです。

 霊界は天使長圏であるので、天使長としてその使命を果たすことができなければ、アダムの栄光圏と関係をもてないので、協助せざるを得ません。

 私がひもじい時、天から見て痛ましければ食べる物を持ってきてくれるのです。エリヤにはからすに命じて食べる物を持っていってあげましたが、私の場合は人に命じたのです。見知らぬ人の夢うつつの中に神様が現れて「お前、なにがしが監獄にいるのだが、彼に食べる物を持っていけ!」というのです。「そうしなければいけない」というのです。それで私は御飯も餅もたくさんもらって食べ、物もたくさんもらって使ったのです。

 先生の囚人番号は五九六番、(韓国語の発音で)「オ・グ・リュク」番だったのです。ある見方をすれば、「オグル」な(韓国語でぬれぎぬを着せられて無念だという意味)番号なのです。ある人の夢に先祖が現れて「何号室に五九六番なる方がいらっしゃるのだが、お前がもらったはったい粉を、少しも手を付けずに、その方に持っていって差し上げろ」と命令したのです。それでも「こんな荒唐無稽な夢が何だ」と言って、聞かないので、二度、三度言い、しまいには首を締めながら、「こいつ! やるか、やらないのか」と言ったので、「はい、いたします」というようになったのです。

 そのようになって、先生が話さずにつくった弟子が、数十名になりました。ですから話をして弟子をつくったならば、どんなに多くできたことでしょうか。

 皆さんが知っているように、朴正華とか金元徳とかいう二十四名のメンバ、たちが、獄中で天命によってひそかに結束して、出発したのです。

 私の言うことであれば命を懸ける、「脱獄しよう」と言えば脱獄もできる人々がいました。


出役時間の緊密な目のあいさつ


 そこに家屋が何棟あるかといえば、六つあるのですが、全部連結されています。

 労役に出発する時間になれば、共産党の厳しい監視の中でも、その人たちが先生に会おうとしました。すべての人々が仕事をしにいくために廊下に出てきてひしめいているところで、もちろん、看守たちが銃を持って見張って立っているのですが、その看守が立っている床をはってくるので、分からないのです。天が選んで会わせてくれた人たちは、そのようにはってきてでも先生にまずあいさつしようとしたのです。

 朝、彼らが監房から狭い廊下に出てくる時、四列に並びます。その廊下は狭いのですが、その人たちが先生の所に来て、ウインクをするようにして先生を抱き締めました。それが最も印象的でした。

 見つかった日には、逃走を計画するといって、小銃の台じりでめちゃくちゃに殴られて、独房暮らしを一週間ないし三週間しなければならないのです。三度見つかるようになれば刑が加えられます。そのような中でも、彼らは先生に会ってあいさつしていくことを、一日の栄光と思い、そのようなことをしたのです。

 これが一日や二日ではなく、数ヵ月になるので問題が起き始めたのです。それで私は冷や汗を流したのです。お互いに、立ってあいさつをするのではありません。ひれ伏してするのです。それは物悲しく哀れなことですが、その時のその悲劇的な味は皆さんに説明しても分かりません。いくら説明しても皆さんには分かりません。お互いの眼差しが重なり合う心情的な情というものは、その場にいなくては分かりません。百科事典の千万巻を学んでも、分からないのです。それを神様が御覧になられて「やあ! こいつらを見ろ!」と言いながら、にっこり笑うことのできる場面であるかもしれないのです。


作業場に隠し持ってきたはったい粉餅


 興南刑務所にいる時、私に従っていた食口たちがいたのです。その人たちが、はったい粉を紙に包んで、先生と分けて食べようと思って、汗の臭いのする股のところに入れて、持ってくるのです。それは、どんな豪華な晩餐よりも、もっと印象的です。それが一生残るのです。すべての認識器官がそこに浸っていかなくてはならず、そこで体恤された感触をもって霊界に行くべきなのです。それが祝福です。

 目配せをして「便所に行く」と言って、便所の隅で「先生、これ一人で食べるのが申し訳なくて持ってきました」と言いながら、餅をくれるのです。

 「先生と昼食時に一緒に分けて食べようと、我慢してきたその解放の心を、先生は分かるでしょう」と言えば、「うんうん、私が分かっているし、お前が分かっている」と言うのです。そこで合図するのは通信の中の最高の通信です。愛する人が百年の間別れていて出会う時の合図のように、ちらっと見ればもう、すべてが分かります。そのような世界が分かりますか。我々統一教会の信徒たちの中で、そのような誠意をもって先生に餅一箱でも作ってあげようと考えた人がいれば手を上げてみてください。今でもその世界が懐かしいです。

 本当に、涙ぐんだそのような場で、はったい粉餅を分け合って食べたその印象が、今でも忘れられません。世の中から見ればそれはなんでもないことですが、そこには絡み合った精気、そこにしみ込んでいる力は想像もできないのです。


誕生日にはったい粉を持ってきた人


 私が監獄にいる時、忘れられないことがあります。先生の誕生日でのことでした。監獄は、かなり殺風景が漂う所です。そこに平壌の人がいたのですが、その人が私の誕生日であることを知って、朝、自分が食べ残したはったい粉一杯を、ぶっきらぼうにくれたことが一生の間忘れられません。いつかは何千倍にして返してあげねばならないと思うのです。世話になれば必ず返さねばならないのです。

 私の一生において、過ぎし日の、ある獄中、ある一時に、そのようなことがあったならば、そのことを私は記憶していて、そのすべてのことを、私は忘れたことがないのです。「これは私の一生で返そう」と思ったことで、返せなかったことがないのです。もしその人がいなくなれば、他の人を通して、そのような条件をかけて何倍にして、全部返してきたのです。死んでも、負債を負って死んだという墓を残したくないというのが、先生の生活哲学なのです。人生観なのです。


六 韓国動乱勃発と興南監獄出監(一九五〇・一〇・一四)


韓国動乱勃発(一九五〇・六・二五)


 神様の復帰摂理を見る時に、神様は、終わりの日になれば、西欧文明をアジアに連結させるために、摂理を導いて来たのです。血と肉と体と心と精誠と、すべてのものをもって入ってこなければなりません。ところがそのようになっていなかったので、韓国動乱を中心として、十六カ国にのぽる異国民が、ようやく一九五〇年度にアジアの接戦地である韓国を選んで入ってきたのです。

 メシヤが生まれる場所は祖国なのです。祖国の主権を回復するのために、独立軍として犠牲になった人たちが韓国動乱の参戦勇士たちだったのです。韓国動乱は、神様の摂理から見るとき、祖国の主権回復に血を流すための世界的な動員であったという結論が出るのです。それで、韓国動乱当時にイエス様が空中に現れたというような話も、それを裏づけしてくれる材料です。イエス様の顕現とともに、韓国動乱は、神様の聖殿を取り戻すための神聖な戦争なのです。また、韓国は摂理的重要性をもつ国として、ここに真の父母が現れれば理想的祖国になるために、祖国主権復帰のために、天がすべての民主世界のキリスト教思想をもった国家を動員して犠牲にさせたのです。戦わせたのです。

 もし韓国が統一教会を受け入れていたならば、韓国動乱が起きたでしょうか。起きなかったのです。三年間もあれば完全に国家基準を全部収拾したはずです。そして七年路程もすれば、世界に完全に道を築いたはずです。一九五〇年の六・二五動乱は、七年の過程で起こった戦いです。キリスト教が支持しないことにより、サタンが浸透して打つことができる基盤ができたためです。それにより二つの怨讐が生じたのです。それらが共産世界とキリスト教です。そのようにして共産世界が世界的に登場するのです。共産世界は韓国を足場にすることができなかったならば、あのような勢力をもてなかったことでしょう。その時、私の手の中で全部溶けたことでしょう。その時、マッカーサー将軍の言うとおりにしたならば(マッカーサーの中国本土空襲の主張を意味)、一九五二年六月までに終わったのです。解放以後、七年目に終わるのです。韓国動乱でトルーマン大統領が国連軍を投入したことはよくやったのですが、トルーマンが歴史的な失敗をしたのです。


B−29の興南一帯の爆撃(一九五〇・八・一)


 一九五〇年八月一日、百機ほどのB−29機が総攻撃して、興南監獄を激しく爆撃しました。先生はこのようになることをあらかじめ知っていただけでなく、直径十二メートル以内は神様が守ってくださるということを知っていたので、近くの人々にみな先生の周囲にいるように言い聞かせました。先生はそのような中で、黙って瞑想をしていました。爆撃のようなことは考えませんでした。今後の理想世界について考えていました。このように復帰の使命を果たすような人を霊界に連れていけば、神様には天宙的な損害です。神様はどんな犠牲を払ってでも防備しようとしたし、そうせざるを得なかったのです。

 他の人々はただ口をつぐんで心配しますが、私はそのような考えをするのです。興南工場をひとしきり爆撃する時、他の人々は死ぬといって動揺しているのですが、私はそのような世界に入っていました。死の峠が問題ではないのです。


囚人たちの一線投入


 共産党は、六・二五動乱が起こるや否や、すべての一線に誰を動員させたかというと、収容所にいる囚人を全体動員したのです。その時、興南監獄の千名近いすべての囚人たちに「十二里の道を行軍して集合しろ」という命令が下されたのです。上部で我々を一線に出動させるための集合命令を下し、我々はその命令を受けて出発しました。

 その時、約八百余名が興南から元山、定平まで行きました。もともと、汽車が通っていたのですが、その時は、爆撃を受けてレールが絶たれたため、約十二里ほどを歩いて行かなければなりませんでした。その時、残された服役者たちはいくらにもなりませんでした。約七、八十人しか残さずに、全部連れていったのです。

 その時、先生も引っ張られて行ったのです。夜八時に出発して、夜通し歩いて行って明け方を過ぎるまで、六里か八里ほど行きました。昼は、爆撃のために歩くことができないのです。このようにして、汽車もやはり夜の時間を利用するために、四時前に到着するようにしておきました。ところで、中央から下ってきた汽車に、途中で事故が起きました。それで、仕方なく何日かそこに停車して、とどまるようになったのですが、そこにはかなり支障が多いのです。自分たちはわずか数名しかならず、囚人たちは多いので、問題が生じるのではないかと案じて、引き返してきたのです。引き返してきて三日後に、再び行ったのですが、その八百余名の囚人を全部連れて行き、私一人を置いていったのです。私は別れて、そこに残り、さっと出てきたのです。


国連軍の興南上陸と劇的な出獄(一九五〇・一〇・一四、深夜二時ごろ)


 最後には、どうなるのでしょうか。監獄の門は開かれているのです。監獄の門が開かれて、出ていかなければならないのです。

 国軍は、元山を一番先に奪還しました。平壌には一九五〇年十月十九日に入城しました。ここ興南を北韓地域の中で一番先に奪還しました。そうして、彼らが逃げたので先生が出てきたのです。

 それは、神様が急いで救わなければならない一人の息子が、そこにいるためでした。十月十二日、刑期が七年以上である囚人、およそ七十名ほどを、三里ほどの山の中に引いて入っていき、全部殺してしまいました。その当時、先生の刑期は五年であったために、その次の、次の日が私が引っ張られていく番でした。ですから、神様はお忙しかったことでしょう。十三日、夜道を見渡すと既に事態が変わっていました。国連軍が興南に上陸したのです。そのようにして、ついに十月十四日、共産軍が退いて、すぐ私たちは監獄から抜け出てきました。

 その日の夜、総攻撃があって、夜中の二時ごろから逃げました。

 私の場合、刑務所から出てこようとすれば、判事が許可してくれるのではありません。サタンがしてくれたのです。サタンの公認を受けてこなければならないのです。

 先生は、先生がすることになっていたすべてのことを完遂したので、天使長国家(アメリカ)と国連軍が北韓を攻撃して、先生を解放させました。それで先生は監獄を出てきました。

 一九五〇年十月十四日です。先生の死刑執行予定日の前日、マッカーサー元帥の連合軍が、先生をそこから救出してくれたのです。それは、全く神様の恩寵でした。

 国連軍が上陸することによって先生が監獄から出てくることになったこと、それが民主世界が恵沢を受けることができる条件になったのです。言い換えれば、国連軍が上陸して、監獄の門を開いて、先生を救出するようになったために、そこから民主世界が救いを受け、後援を受けることのできる因縁が残されたのです。

 十月は、統一教会の解放の月です。十月四日(西大門刑務所出監日)がそうであり、十月十四日(興南収容所出監日)がそうです。それを思うと、とめどなく涙が先立つ月です、私においては。その期間に民族をみな失ってしまいました。私が愛する家庭も失ってしまい、愛する妻子までもみな失ってしまいました。


監獄暮らしの歴史と伝統


 先生が出監した日を、皆さんの家庭で記念していますか。先生が監獄暮らしを通して、どんな苦役を受けたのかということを証しなければなりません。

 先生が生涯において何時、どんな苦労をしたか、監獄に入った日とか、監獄から出てきた日とか、そのようなすべての事実をはっきりと知って、一覧表に書いておいて、そのような日々を記念しなければなりません。血の代価に代えて献金でもして、後代の人の前に、世界の人の前に、それをまいて食べさせようという考えをもって、準備をしなければならないのです。それが私が知っている天の国の伝統です。

 先生が世界に出て、何かをしたその日を知らず、記念すべき出獄日まで全部忘れてしまって、自分勝手に生きているのです。北に入っていき、共産党の法廷の前に出ていって侮辱を受けた、そのような事実を知っていますか。監獄でどんな生活をしたのか知っていますか。

 小学校の四年生から聖地を参拝させなければなりません。四年生の時に行く聖地を定めて、必ず参拝しなければならず、五生年は五生年の時にいく聖地を定めて、必ず参拝しなければならず、六年生は六年生の時に行く聖地を定めて、必ず参拝しなければなりません。その次に、高校了年生、二年生、三年生ももちろんであり、大学四年生まで、すべて巡礼コースを定めて、参拝しなければならないのです。先生が残した歴史的伝統を、一歩、一歩、通ったという解放感に、驚くべき自身を発見する時、その決意と誓いがどんなに貴いことでしょうか! それで金日成に、「私の故郷を開放しておきなさい」と言ったのです。興南は、私の生まれ育った故郷は、何年か修練を受けながら参観して教育できる場所になるはずだから、差し出しなさいというのです。

 興南監獄は私に不幸をもたらしませんでした。統一教会の教理が広がる世界各地において、統一教会の原理のみ言を聞く若者の胸に、興南の監獄生活を通した先生の生涯路程が、新しい蘇生の爆発力を再発させることができる力をわき立たせる役事をしているのです。

 それで、先生は世界一の刑務所を造ろうと思います。ここで一年八ヵ月くらい、死なない程度に、公式的に一度ずつしてみるといいのです。

 人を再創造することができ、新たに再評価をすることができる場所は、監獄しかありません。それゆえ若い人々を一度ずつほうり込んで、公式的な訓練をさせてこそ、世界を統一できる人々を育てあげることができると先生は考えるのです。

















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第四節 興南から釜山まで自由南下

真の御父母様の生涯路程 2



第四節 興南から釜山まで自由南下

       

一九五〇一一〇・一四〜一九五一・一・二七


一 平壌帰還十日(一九五〇・一〇・一四〜二四)


再出発の決意


 三十歳といえば、相当に若い時です。その当時、先生も今と比較すると相当に青年時代でしたが、その時、監獄から出てきながら再び決心したことが何かというと、再出発だったのです、再出発です。いかなる困難が北韓の地であったとしても、そこであったすべての困難を忘れ、その困難であった事実が、私が行く道に損害をもたらすのではなく、私をして第二の出発をする際の、一つの刺激剤として、歴史路程に残ることを思いつつ、再出発したのです。

 私はいかなる道を通っても、み旨の道を完成しなければならない責任感を感じたがゆえに、監獄から出てきた三十代の若者の体の中には、新たに出発するという決意が強くあったのです。

 先生が獄中から出たのちは、実体で復活した立場と同じなので、原理をそのまま発表するようになりました。


四名の獄中弟子と文正彬氏


 私が監獄を出てくる時、私をつかんで痛哭する人々をたくさん見ました。そして私が北韓から監獄を出てくる時に、四名の人が、自分の父母と妻子を捨てて、私についてくることも起きたのです。

 その中に文氏が一人いました。それで、文氏の中にカインが一人生じたことになったのです。

 この人(文正彬)は、咸興道庁で課長をしていた人です。道課長をしていて、その部下が間違いを起こしたので、引っ掛かって監獄に入れられたのです。彼は私と同じ監房にいたのですが、霊界から教えを受けて先生と因縁をもったのです。興南から平壌へ出てくる時、私の後について出てきたのです。

 その人は、自分の妻もあり息子も二人いたのですが、私が監獄にいる時から面会に来て、私が出てくることを願っていました。それで、私が出てきて平壌に行かなければならないのですが、急いだ道を行く途中、その家の前を通ることになったので、その家に入ってあいさつでもして行こうと、入って別れのあいさつを告げて出てくると、彼が飛び出してきて私についてくるのです。それで、「なぜ来たのか」と言うと、「自分が行くべき道は妻と子と共に暮らすことではなく、先生に従って行くことです」と言いながらついてくるのです。


ぼろぼろの囚人服


 私は興南監獄に約三年いたのですが、その時労働しながら着ていた服があります。ワイシャツ、ランニングシャツ、パンツなど、すべて綿でできていました。硫酸アンモニアの肥料工場で仕事をしたので、綿に硫酸やアンモニア酸がつきます。すると綿は酸に弱いので、引っ張ると破れてしまいます。長く着ていると腐って穴が開きます。それは乞食の中の乞食の姿です。それはにおいがしてどうしようもなく、引っ張って、もむと粉になってしまうのです。しかし捨てられないので、全部布団の中にぎゅうぎゅう突っ込んだのです。そして寝る時、それをぱっと敷いて寝るのです。そのようなぼろ布を、布団のわたを抜き取って、代わりに全部突っ込んだのです。

 出てくる時、持ち出す財産が何かありますか。咸興から平壌まで十日間、それを背負って行ったのです。そうして、それをある食口に預けて、「あなたの絹織物のチョゴリ、スカート、高級絹織物の布団を全部捨たとしても、これだけは間違いなく私のところに持ってきてくれなければなりません」と言ったのに、それを先に捨てて自分たちのものを持っていったのです。大切なものをなくしてしまったのです。もし今、その材料があれば、先生が説明をする必要はありません。天下をもらっても換えられない、貴い材料なのです。雄弁をして感動をさせることより、もっと偉大な材料をなくしてしまったのです。今も、考えればあきれ返るのです。どこに行って捜しますか。買うことができますか。できないのです。

 それと同じように、皆さんがみ旨を中心として公的な生活をする時、一枚の紙切れ、ただの新聞の切れ端も大切にして、それを全部とじておくのです。食べ物がなくて干した大根の葉っぱの切れ端を食べながらも、それを写真に撮って残しておくのです。そうすれば息子、娘に骨髄的な伝統を黙って教育できるのです。


北朝鮮の戦争準備確認


 興南監獄から出て、歩いて来ながら、北韓の実情をよく調べました。私はそのような分野に関心をたくさんもっているのです。橋をどのように渡してあるかというと、最初から二車線くらいに拡幅できるようにして、橋を渡してあったのです。高速道路のように、軍事道路が造ってありました。北韓はセメントが多いので、コンクリートで厚くしてありました。関心があって調べてみると、戦車が通り過ぎても壊れないようになっていたのです。

 三十トンの戦車が移動してもびくともしないように橋が渡してあったのです。興南から出る道は、東海岸では重要な幹線になり得る道路ですが、既に軍事道路としてそのように準備をしたのでしょう。それを見て、これは韓国侵攻のために計画したことだと思いました。ソ連の極東政策によって、背後でKGBがそそのかしてそのようにしたと見るのです。

 そのため、興南で産出する肥料をすべてどこに持っていくかと言えば、ソ連に持っていくのです。そこで肥料と武器を取り替えるのです。その武器はソ連では十年から二十年過ぎた安いものです。それと肥料を取り替えて来るのです。そうして、三十八度線に配置して、韓国の侵攻のための訓練をするときに消耗されます。高級な重装備は必要ないのです。そのため、安い軍事重装備を準備してきたのです。そのように興南肥料工場の肥料をすべてソ連に送るのです。一日に何台かの車に載せて運びます。それがすべて武器になってきて、三十八度線に配置されたのです。それを私はすべて知っていたのです。彼らは、大移動できる軍事道路を拡張しなければならなかったのです。

 そのように興南から平壌まで、セメントコンクリートで橋を架け、道路工事を全部完了しておいたのです。そして、いつでも拡張できる計画がすべてできていたのです。


二 平壌滞在四十日(一九五〇・一〇・二四〜一二・四)


故郷を顧みず食口収拾


 先生は東海岸にある興南から西海岸地域の平壌まで歩いて帰ってきました。先生はかつて先生に従ったすべての人たちに、先生が帰ってきたということを知らせる人たちを送ったのですが、大部分の人は来ませんでした。けれども先生は何人かの人を集めることができました。

 平壌に出てきて、四十日間いたのですが、そこから二十八里も行けば私の故郷です。二日もあれば故郷に行って来れました。しかし、故郷にいる父母や兄弟たちを訪ねていかず、み旨に対した人たちは、一人も残さず訪ねていきました。天を抱いて誓った人々に会うために、歩き回ったのです。

 その時、故郷に行けなかったのは、私が監獄に入る前に従っていた食口たちが、どこに散らぱっているのか心配で、記憶している人々に会い、その人たちを収拾して、みなに伝えてから故郷に行くべきであると思ったからでした。それが、天に従っていく正道なのです。

 先生が監獄に入る前に「先生を信じます」と誓っていて、「離れます」と報告もせず、知らせもしなかったのですが、師たる責任が私にはあるのです。その人に直接会ってみて、その人が迫害する時は、天もやはり彼を放棄するのですが、それまでは師として誓った責任を負わなければなりません。それゆえに、散らばったすべての食口を探しました。私が直接行けなければ、金元弼に命じて行かせました。そうしていれば、故郷に行く暇がありますか。ある人は、一週間さまよっても捜せませんでした。

 その人自体は背いたとしても、その後孫は救わなければならないために、裏切り者たちを見分けても清算できないのです。そのようにしていたら、四十日が過ぎてしまいました。


神様が背を向けろと言われる時まで


 私が興南監獄に入っている時、毎月訪ねてきては泣きわめいていた母を北韓に残したまま、訪ねて行くことができませんでした。平壌で従っていた食口を探さなければならなかったからです。八十歳以上になる老人まで訪ねて行き、「死んだ」という知らせを知ってこそ行こうとするので、遅れたのです。

 み旨の中で結ばれた同志、食口たちを糾合し、取り戻すために、老いた人から若い人々に至るまで、思いつくすべての人々を訪問しました。

 訪ねて行って、一度門前で裏切られ、二度門前で裏切られても、三度まで行くのです。十二月二日の日が沈むころまで人を送りました。私としては神様が「背を向けろ」という指示をする時まで、最高の精誠を込めなければならないのです。捨てられないのです。そのようにして、私が成すべき責任を全うしたのです。心情の理念をもって踏み出し、心情に傷を受けた私の胸の中に植えられた傷をすべて取り除いて、新たな心情を神様の前に連結させられるという自身を取り戻して初めて、そこから出てきたのです。

 そうして、その日の夜、平壌を発ったのです。指導者は、そのように慎重に責任を負うのです。死の境地でも、神様から任せられた責任分野を締めくくってから行かなれけば、行く道がふさがってしまうのです。そのため、その時に因縁を結んだ人との関係をすべて解決しておいて、私が天と地の前に、彼らの先祖や後孫や、現世や来世において彼らの先祖も同情し、彼らの後孫も同情することができる位置に立たなければならないのです。そんなことを考えたので、そのような位置を築いておいて出てきたのです。それゆえに、私が過去を振り返っても、少しも良心に引っ掛かりません。


腹中教訪問


 私が北韓から出て来るときに、その許孝彬氏の母親に会いました。そのおばあさんが教団すべてを指導していたので、私も一度訪ねて行き、初めて会ったのです。私が行くと、既に「景昌里にいる先生を粗末にもてなしてはならない」という啓示を受けていて、従っていた人々がみな白い服を着て迎えてくれたのです。その時でも、彼らが完全に私が言ったとおりしていたならば、先生は苦労をしません。その神霊団体は大きかったのです。

 その人たちは、既に長年の間準備をしてきていたので、主が来て何をされるかを心得ていて、一気に駆け出すことができるのです。聖主教から、腹中教、新イエス教は一つの系統なのです。これらが私を歓迎したならば、問題なく一つになるのです。なぜかといえば、原理があるためです。しかしその人々は、ばらばらになっているので分かりません。どんな意味なのか解釈できないのです。


反対した牧師たちの結末


 先生が北韓の共産世界に入っていった時、既成教会の牧師八十余名がみな「統一教会の文なにがしを捕らえて殺そう」と、署名、捺印をしました。そうしたのち、「やっと文先生が死ぬようになってすっきりした」と言っていたのですが、先生が死ぬですって、どうして死にますか。結局は、先生を殺そうと謀議した人々は、全部死んで、いなくなってしまったのです。共産党が、すべて殺したのです。殺そうとして監獄に押し込んだ人は生きて出て、生きようとして私を殺そうとした人々は死んだのです。

 あまりにも冷酷な結果です。一人一人をつかまえて事情を解き、その怨讐を自ら愛したと誇れる一つの道を模索しようと調べてみたら、すべて跡形もなく死んで、いなかったのです。

 平壌で、私を監獄にほうり込んだ人が南という牧師ですが、その牧師の子供たちまで、すべて死にました。そのような業を見ました。それは、天がみな清算したのです。

 そうかと言って、「お前は罰を受けろ」と、そのように考えてはいけないのです。その後孫が残ったならば、「天よ! ぜひ今は手を引いて、これからはこの残りの後孫にも私によって福を引き継がせてください」と言わなければなりません。それが義人たちが行く道であり、それが神様が行く歩みだということを、皆さんは知らなければなりません。


み旨に背いた食口たち


 先生が今までみ旨の道を歩んでくる過程で、多くの人々が先生を否定しました。平壌から現在まで歩んでくる中で、天の前に誓いながら離れて出ていった人々を、私は指を折って数えることができます。現在、彼らが何をしているか、私はすべて知っています。過去に誰がどのような誓いをなし、その人が今はどのようにしているかということも全部知っています。

 私が興南監獄に入っていく時には、従う女性たちもたくさんいたのです。先生のためには、「天上で死んだならば、再び再臨復活し、よみがえって、数代を生きてでも、先生のために所願成就をする女性であって、花ならばゆりの花、バラの花であって、かぼちゃの花ではない」と言って、どんなに誓ったことでしょう。

 ある人は、「白頭山の天池の磐石を耕して、じゃがいもを植え、先生を養い奉ることがあったとしても、私は先生を裏切りません」と言っていたのに、どうしたことか、「死の道を行かなければならない」という時には、「えっ、もうちょっと考えてからにしましょう」と言うのです。信じられないのが人間です。

 先生の前には、裏切った女性たちがたくさんいます。神様の前に裏切った人が、どんなに多いかというのです。アダムとエバも裏切り、天使も裏切り、今まで裏切りの歴史をつづってきたのですが、絶対的愛をもってきたために、神様は怨讐に恨みを晴らすことができないのです。「神様はなぜそんなに待っているのですか」と尋ねれば、「そのようにはできない」というのです。

 絶対的に愛したので怨讐に恨みを晴らせず待っているのです。そして首を長くして「このまま見守らなければならない。私は待ちながら行く」というのです。絶対的愛をもって待つのです。そのような天がどんなに哀れで、どんなに悲惨かということを、私たちは知らなければなりません。どれほど耐えて、どれほど悲惨だったかというのです。


平壌時代を代表する四人の食口


 先生は、北韓で女性三人(池承道、玉世賢、鄭達玉)と男性一人(金元弼)を復帰しました。このような基台がなければ復帰摂理は成し遂げられません。

 神様は、三代の基準にわたって女性を失ってしまいました。それゆえ、その三代圏の女性の型を復帰できなければ、真正なる夫婦を兼ねた子女を、カインとアベルとして一体になった子女を、迎えることができません。そのような蕩減的な女性たちが必要なのです。先生もそうした内容を定めて北韓に行き、行って復帰してきたのです。

 先生が三人の女性を連れてきたのは、三時代の女性たちが誤ったことを蕩減するためです。また、金元弼が二十歳前に先生に侍ったということは、この上なく歴史的な意義があるのです。共産圏のカイン世界を代表したカインの立場であるために、先生に対して絶対服従しなければならないのです。そこには異議がないのです。それで私が監獄に入っていった時も、金元弼が全部世話をしたのです。

 金百文氏の立場にいる一人の人を復帰する条件を立てるには、先生に従っていたメンバ、たちの数は、先生が監獄に行った時と同じように、先生が戻ってきた時も、全く同じくそのまま残っていなければいけませんでした。

 その金氏の役割をした一人の人がいました。それが金元弼でした。またそこに三人の女性もいました。一人の男性と三人の女性をもつことによって、先生が金百文氏集団から復帰することを願った四人の人を、復帰させたことになりました。

 北韓の怨讐圏に行って四位基台を取り戻してきたのです。闘争して得たその基盤を中心として、その息子、娘を中心として、復帰の基盤を広めてきました。原理的観点から見れば、そうでなくては新しい出発ができなかったのです。


獄中の弟子四人を代表した朴正華氏


 それで先生に従う四人の人ができるようになりました。また、先生に監獄から従った四人の人がいましたが、先生が韓国に越えてくる時、彼らの中の一人を連れてきました。先生はそのような数の人を復帰したために、韓国で霊的な業を始めることができました。そこから統一教会が始まりました。それで、その後の摂理は新しいものとなったのです。

 私が監獄から出てくる時、四人を連れて出て、平壌に来てから、「自分の故郷に行って来なさい」と全部送り出しました。「何日の何時までに戻ってくるように」と言ったのですが、ちょっと日を逃すことによって、南へ後退する際に、皆は従ってくることができませんでした。

 それで、結局、どんなことがなったのかと言えば、監獄で共にいて先に出てきた、足の折れた朴正華という人を連れていくことになりました。足が折れていたために、彼の兄弟が南に下っていくとき、置いていかれたのです。その家には、その人と家を守るシェパードしかいませんでした。その家を訪ねていって、足の折れた人を自転車に乗せて下ってきた思い出が、忘れられないのです。

 また私が、平壌に留まったのち、北韓から出てくるとき、母のところに人を送って、「出て来なさい」と言ったのです。結局、お互い別れるようになったのですが、子の道理として、北韓の実情が長久化し得る何かがあったので、人を送って「来なさい」と言ったのですが、行く途中、捕まったか、どうかしてしまったのです。

 それでやむを得ず、文正彬という人を、金元弼のお母さんを連れに行かせたのです。ところが、歩いていっても一日か二日もあれば帰ってこれる距離なのに、帰ってこないのです。事態はだんだん不利になっていき、完全に包囲されるので、やむを得ずその地を発ったのです。そうして、それこそ私のために生命を捧げると言ってついてきたその文氏という人は、出て来れなかったのです。

 その方たち二人が生きていたならば、その夫と二人で暮らしていたとしても、そのような歴史の背後があるために、祝福したものとしてみなしてあげなければならないという考えまでしたのです。


三 平壌からソウルまで(一九五〇・一二・四〜二七)


平壌出発(一九五〇・一二・四)


 平壌の都から、みな避難して行ったのちに私が出発したのです。そうして、足が折れて自分で歩けなくなっている人を私が自転車に乗せて引いてきました。人民軍、八路軍(=国民革命軍)、中共軍を三里後ろにして、一番最後に出てきたのです。私は死んでも神様の前に言うべき言葉があるのです。私は約束したとおりにする人です。

 先生が北朝鮮を出発した時は、一九五〇年の冬でした。一九五一年に、南海岸にある釜山まで下ってきました。

 十二月四日に出発した時、先生は数えの三十一歳でした。

 避難してくる時には、何か着る服がなければならないでしょう。それで、北韓から持ってきた中学高校時代に着ていたオーバーを着ていました。ボタンがずらっと付いています。そのオーバーを着ているのですが、私のこの腕が本当に短ければ良かったのです。寒いのです。それで、袖に腕をこのように入れて、道を歩きました。そうして歩くと、みながじろじろ見ます。それはどんなに素晴らしいことでしょうか。そのような立場にいても「今日、数多くの人たちはこのような塗炭の苦しみの中で天を恨み、自分の一生を恨むでしょうが、私はそのようにはしません」と言ったのです。


平壌から青丹に


 後ろからは中共軍が追ってくるのに、連れて行く人は足が折れています。しかし捨てては行けない事情があり、連れて行こうとするので前途はふさがりました。過ぎ行くトラックは全部軍需物資でいっぱいで、道は二重三重にふさがっていました。私より大きな人を連れて行くのに、背負って行くことができず、自転車に乗せて行こうとするから大変でした。行こうとしても行くことができず、死のうとしても死ぬことができない、というようなことになったのです。それでも、死を覚悟して行きました。先生は避難民の中で一番苦労する人になることを願ったのです。そうすれば、我が国に訪れだ災難の中で、一番苦労した人に神様が福を与えるとすれぱ、統一教会の文先生を除いては福を与えることができないのです。先生は、そのように決心をして行きました。

 道路は軍需物資と車両が後退するのに使われているので、民間人が利用できる道は小道でなければ田んぽなのです。そこを通って行かねばならないのです。その苦労は到底語り尽くせません。それで途中で朴正華が、こうしていては共に死んでしまうので、先生を愛しているからといって、自殺しようとしたのです。それを私に見つけられて気合いを入れられたのです。そのようなこともありました。

 近道を選び、深い山の中の田舎道を通ってきたのです。そのようなところ歩いてきたのです。すべて神様が指導してくださり、守ってくださったのです。


避難の道のりでの炊事


 その時のエピソードがとてもたくさんあります。避難するときの一番の問題が何かといえば、御飯をおいて食べることです。荷物を背負えば、米まで背負って歩けなかったので、やむを得ず、その時は盗みをするのです。みな避難した家の中を探すのです。私たちが探さなくても、中共軍が来て荒らして行くからです。それで、夕方になると近くの家に入るのです。あすの朝の御飯にしようと、米を探すのです。私が米を持ってくるときには「最初に見つけた米を持って来なさい」と言いました。米を選んで回っていては、本物のどろぽうになるのです。また天と地が見る時、「やあ、こいつらは他人の米を持っていって食べたとしても、何かがある者たちだ」と言って同情をするのです。それゆえに、「米のかめを開けて、そこに粟でもとうもろこしでも、最初に見つけたものを持ってきなさい」と言ったのです。それを出しておいて、他のものを持ってきてはいけないといいました。ですから家にぱっと入っていけば「米がめ、米がめ、米がめ」と言いながら探し回るのです。

 御飯を炊こうとすれば、米は十分にあるのですが、なべが一つしかないので、一つしかできないのです。避難暮らしするのに、普通の暮らしをするみたいに、がらがら持って歩けますか。どこに行っても木を折って箸を作ればいいので、なべだけ一つ持って歩くのです。そうして御飯を炊いて、いつでも三人が輪になって座れば、本当に、窮状がとても幸福なのです。恋しくないものがありません。恋しがることができる、その巡り合わせ、それが大変な幸福です。イエス様が、「飢え渇いた者に福がある」と言ったのは、すべて一理がある話です。おなかがぐうぐう鳴るので、その窮状に恋しくないものがないのです。食べる物が麦を蒸した餅であっても、王様の豪華な食事よりも恋しいのです。まずいものがないのです。


御飯のさじを先に置く


 統一教会の文先生の今までの生活哲学は、あとから食べ始めて、先にさじを置くということです。さじを持つ時は最後に持ち、置く時は一番最初に置かなければならないのです。

 また、食べる物があれば、良い物があっても、一番悪い物から先に箸をつけるのです。避難をしている中でも、そうだったのです。従ってくる人々のために、腹が減っていても、いつも私が先にさじを置いたのです。

 先生と三人で避難をする時のことです。避難する人は、誰もが同じく腹が減っているので、御飯を炊けば、そのまま全部食べたいのです。全員が腹が減っているのです。そんな状況で「先生より私が一度先にさじを置かなければならないはずなのだが、御飯を食べ始めると、いつでも先生が先にさじを置くからたまらない」という話を聞いたのです。

 食べていた御飯をそのまま置いて、誰が先にさじを置くか。先にさじを置く人が、その場を主導する人になるのです。さじを先に置く人が、主人になるのです。


龍媒島一・五里の干潟道の往復


 北韓の監獄から出てきて、三十八線を越える時、「間違いなく三十八度線の南側に行かなければならない」と考えました。情勢を見て、静かに霊的に考えてみると、事態が不利になっているのです。心がしきりに韓国に越えて行こうとするのです。皆さんにはそれが分からないでしょうが、先生には何かがあるのです。そうして境界が接する地帯までぴったり来たのですが、オンドルのたき口に近い部屋には見張り隊、警備隊員がいて、私たちはたき口から遠い部屋にいました。

 一日目の夕方に越えて行こうとして越えられず、二日目の夕方にも越えられず、三日目に荷物をまとめて逃げたのです。そのような時には機転が利かなければならず、勘が鋭くなければなりません。そのような時は、荷物をまとめるにも、先にまとめなければなりません。

 そのようにして龍媒島に行き、一番最初に船に乗ったのですが、群衆が押し寄せてきて、大騒ぎになったので、どうなったかといえば、軍隊と警察の家族でない者は引っ張り出されたのです。そのような状況になってしまいました。ですからやむを得ず追い出されたのです、他にすべがありますか。龍媒島に行った第一の旗手が結局、再び戻されることもあったのです。環境に追われてそのようになったのです。間違いなく先頭で南側に出てくるところでした。

 そのように龍媒島を通って韓国に向かう船に乗ろうとしたのですが、その時は警察官たちもみな後退するので普通の人がどうして乗れますか。そうして龍媒島に行ってから船がないので再び引き返してきたのです。そして再び三十八度線を越えて行ったのです。

 龍媒島に行くために、海の中を渡る時、この道を渡っていくことができなければ、天が滅びると考えました。「ここで倒れれば、天の父はどこに行くのか」という考えです。行けない所がどこにありますか!


郷土防衛軍の検問・検索


 避難して来ながら、様々なことがたくさんありました。金元弼は、防寒帽をかぶり、誕生日に着るマゴジャ(チョゴリの上に重ねて着る上着)だったか、寒いのでこのようにぐっと祈り込んで、私の後ろについてくれば、私は見るからに男性ですから、私の妻に見えるのです。顔もそうだし、話すのを聞いても女性の声なのです。その時は、ひげも生えていませんでした。

 どこに行くにも、男の身なりをしたのですが、そのような格好をしているので女だと思われるのです。行く所すべて、調査される時は、いつも金玉を調べられるのです。なぜ笑いますか。そのように言えば実感がわくでしょう。「立って服を脱げ!」というのです。何度もそうだったのです。女性のようなのです。本当に女のようでした。そのようなエピソードがたくさんあります。

 それゆえ、皆さんには分かりませんが、歴史的背後において摂理の内容と合致した点があるために、金元弼を私が今まで伴っているのです。それは霊界だけが知っているのです。


夢の啓示を受けて準備した食事で歓待(一二・一九〜二〇)


 出獄したのちは、何も持たない旅人でした。平壌から韓国までの約三ヵ月間は黙々と乞食をしました。ある時は言葉では表現できないほど食べたい時もありました。そのような放浪の生活をしました。だからと言って「神様、きょう食べるものがありません。何でもいいから下さい」という祈祷は絶対にしませんでした。むしろ神様を慰めて寝たものでした。

 ある時は、「あすは間違いなく、ある美しい婦人が道で何かくれるだろう」と、そのように思えば、次の日に、間違いなく思ったとおり、真っ白い服を着た婦人が道端で待っているのです。「実は、昨夜万全の準備をして待てというみ言があって、このように待っていました。どうか召し上がってください」と言うのです。そのようなことが、たくさんありました。そのように援助してくれた部落には、時が来れば恩を返そうと思っています。

 皆さんが、その時の先生の心情を感じるようになるならば、皆さんは涙を禁じ得ないことでしょう。神様もそうであられます。先生と神様が互いに抱き合って泣いた悲しみは、地上の人々は誰も知りません。その深い深い神様に向かった心情は、計り知ることができません。それを考えるとすべての細胞がしびれてくるほどです。


真夜中に強行軍で臨津江まで(一九五〇・一二・二〇〜二一)


 このように、様々な問題を経ながら避難してきましたが、夕暮れ時になって、共に避難してきた人たちが、歩き疲れているのです。疲れ切ってしまっているのです。それで、村に入って寝ようとしたのです。しかし先生は、夜を明かしてでも臨津江を越えなければならないと感じたのです。他の人々がみな寝るのに、先生が行こうと言うので、「先生は何であんなに意地っ張りなのか!」このように思ったはずです。膨れっ面をしていました。夜、他の人々が全部寝ているのに、私たち三人は自転車を引っ張って臨津江まで出てきたのです。臨津江の川岸に来てから寝ました。午前一時半か二時くらいに到着したのです。

 三十八度線から青丹まで八里の道のりです。その道のりを月夜に歩いた、そのことが忘れられません。どれほど疲れてだるいことか、この人(金元弼)は荷物を担いで歩きながら居眠りしていたです。分からない人はそうなのです。しかし先生にはその一歩が忙しいのです。今晩中に臨津江の先端まで行かなければいけないという、そのような何かがありました。そのような時には、先生は非常作戦、非常措置をするのです。アンテナを最高に立てるのです。

 そこに家が一軒ありましたが、そこから足を一歩動かせば韓国でした。そこには人が住んでなく、いろんなにおいを放っていたのですが、そこが福なる地だと思いました。そのような危急を要した中、あと一歩だけ足を移せば、先生は韓国に行くようになっていました。


臨津江を渡りソウルに(一九五〇・一二・二一〜二七)


 その次の心配が何かと言えば、臨津江を渡っていこうとすれば水が凍らならけれぱなりません。その時、気温が下がって、臨津江が凍ったのです。そうして、明け方早くに起きて出発したのです。臨津江が凍りついていて、結局川が渡れたのですが、私が一番最後に渡っていきました。そのあとはカットされたのです。カットして全部送り返されたのです。このようにして韓国の地に来ました。

 国連軍が撤収すると同時に、私たち一行を最後に、封鎖されてしまいました。そのあとの人々は全部、戻っていったのです。こんな時、一分でもうろうろしていたら、どうなっていたことでしょうか。人の運命は、時間の問題ではありません。すべて滅ぼしてしまうのです。そのようなことは、私たちの人生においてもたくさん起こるのですが、天道をわきまえていく道の前に、それがないだろうかというのでず。どんなに深刻かというのです! それを皆さんは知りません。

 一つの峠だけ越えれば生きる道があるとすれば、わき目も振らず追い立てて行かなければなりません。「行かない」と言えば、ぶん殴らなければなりません。胸ぐらをつかんで、無理やりにでも引っ張っていかなければならないのです゜それが愛です。


三十八度線の祈祷


 私は、三十八度線を越える時に祈祷した言葉を忘れません。「天の父よ! 私は韓国の地に行きます。私は北韓に来てみ旨を成すことができずに敗者のつらさをもったまま、獄中の身を免れることができませんでした。そして今、追われる群れの歩みに従って南に行きます。しかし、またこの地を訪ねてこなければならないことを知っています。たとえ私が、三十八度線の北側に行くことができなくても、私の思想を植えて後孫を行かせます。彼らが行くことができなければ、私に従う弟子を送って行かせます」と、そのような決心をしてきたのです。

 そして十年の歳月を一日のごとく、今まで戦ってきたのです。私が天の前に誓って出発した歩みは皆さんとは違うのです。

 両手で三十八度線の土をすくい、「必ずこの手で共産党を消化し、何年かのちには必ず戻ってくる」と決意しました。

「私のこの手で自由世界を収拾し、糾合して、北韓を解放するぞ」と祈祷したのが、きのうのことのようです。

 三十八度線に両足でまたいで立ち、泣きながら「南北を私の手で統一します」と誓いました。

 目に涙をためて祈祷したことは、一緒に来た人も知らないのです。私が悲しみを残して、私のために精誠を尽くした故郷にいる母と父と兄弟を後ろに残して来ながら、「この親不孝者が再び帰ってくる日を待っていてください、死なずに待っていてください」と念じ、北韓の地を離れてきたことを、私は忘れないでいるのです。


四 ソウルに一週間滞在後、釜山に
     (一九五〇・一二・二七〜一九五一・一・三→一・二七)


兵役招集の身体検査(一九五〇・一二・三一、ソウル秘苑前)


 私が北韓から出てくる時、髪が剃ってありました。ソウルに来ると昌慶苑がありますが、そこに若い軍人たちがいました。今思えば、それは海兵隊でした。若い軍人が、そこに来る人々を選り分けていました。「こっちに行け、あっちに行け」と。「小さい人はこっちに行け、そうでなければあっちに行け」とです。私は、監獄から出てきたばかりでしたが、このように太っていて、やせっぽちにはみえませんでした。

 そうして兵役調査をしたのですが、頭を丸めているので、「どこから来たのか」と聞くのです。髪が剃ってあるということは軍隊にいたはずなのです。軍隊の逃亡兵でないかと疑うのです。それで「どこから来たのか。逃亡兵ではないのか」と聞くのです。最近になってこそ逃亡兵というものが分かるのであって、その時にどうして分かりますか。「どこから来たかって? 北側から来たに決まっているだろう」と答えると、「北側?」と言うのです。その時は大勢の人が避難していた時なので、スパイなのか軍人なのか、紛れ込んでいても分からないのです。それで、スパイではないかと考えたのです。

 スパイを軍隊に入れたら自分の首が飛ぶのです。ですから調査してからどうなったかたというと、丙種(注:軍隊で徴収を免除される等級)です。落第の印鑑をしっかり押してくれたのです。それでそれを持っていれば、どこに行っても万事、都合良く運ぶのです。証明書はそれしかないのです。その票は丙種ですが、どこに行ってもすべて通過できたのです。

 数年後のことですが、住民登録をしてから暮らしているうちに、問題が起きて監獄(西大門刑務所)に入りました。「何だ、兵役忌避したな。丙種だって?」と言って、逮捕するために、ありとあらゆることをどれほど調査されたことでしょうか。丙種は、私が盗んでそうしたのですか。丙種にしてくれたのでしょう。ですから、手錠を掛けることができますか。このようにして多くの邪悪なうわさが立ったのですが、三ヵ月後(一九五五・七・四〜一〇・四)には無罪となり、釈放されたのです。


布団を売って餅を作って食べる(慶尚北道店村の農家)


 ある家を見ると、全部避難したようだったので、入って見たら、おばあさんとおばさんが二人で住んでいました。それで「私たちは通りすがりの者です。一月になって寒くなりましたが、私たちは少しくらい寒くても、凍え死ぬような状態でもありません。そこで、布団が荷物になるから売ろうと思います。これは、こんなでも綿も良いもので、掛け布団もいいものです。黒ずんではいますが、元はいいものですから、米と取り換えましょう」と言うと、「米はない」と言うのです。それで「それではもみと取り換えましょう」と言って、もみ二斗と交換しました。

 釜山まで行こうとすれば、布団の包みが荷物になるので、全部売ってもみ一かますと換えたのです。その時、米はどこにありますか。米がないのでもみと交換して、汗をだらだら流しながら足で踏んで脱穀したのです。その時、共に下ってきた人々と、「一度、食べたいだけ食べてみよう」と言ったのです。それをすべて餅にして、三人で座って食べました。一杯ほど残して、主人のおばさんにもあげました。それまで、あまりにも食べることができなかったので、そのようにして思い切り食べたのです。

 そのようにして、三ヵ月近くたったのです。三ヵ月の間、避難生活しながら着てきた、この綿のズボン・チョゴリが、どんなに聖く美しいことでしょうか(笑い)。しかし、仕方がないのです。そこに少しいて、釜山に行きました。


永川で破いた手紙(一九五一・一・一八、慶尚北道永川鉄道の堤防)


 私がアメリカに行くとき、皆さんに「一月十八日が何の日であるかを祈祷して調べてみなさい」と言ったことがあるでしょう? その日は、先生にとって最も悲しかった日です。

 その日が何の日かと言えば、私が精誠を込めて彼らのために、神様に祝福の祈祷をしてあげ、彼らと約束をなした日です。ところが、彼らはみな背いたのです。彼らが先生に背いたとしても、先生は「神様の愛はこうだ」という事実を中心として、万丈の手紙を書いて三度も連絡をしました。ところが、その最後の手紙を持っていってあげたにもかかわらず、それを送り返してきたのです。先生は突き返されたその手紙を持って北韓から出てきました。慶尚北道永川に行ってみると、橋があります。その橋で一月十八日に、その手紙を読みながら破いてしまいました。その永川という言葉はとてもおもしろい言葉です。そのようなことが皆さんは分からないでしょう。

 そこに列車が通っていく堤防がありましたが、その堤防に座って過ぎし日を思い、手紙を破きながら決心をしました。人には、そのような何かがあるべきです。話はしなくても、その目標、その表題を中心として、怨讐を私の手で屈服させることができるその日のために、昼も夜も投入しなければなりません。夜は毎日訪れてくるし、昼も毎日訪れてきますが、勝利の日を迎えることができない時には、彼は敗北者として歴史と共に去っていくのです。

 その手紙を、多分二十枚は書いたはずです。ページがめくられて新しいプログラムに転換された時です。どんなに深刻だったのかを、皆さんには分からないことなのです。そのような未知の事情が、たくさん埋まっていることを知らなければなりません。


あらかじめ準備した食事の歓待(慶尚北道月城乾川)


 私が釜山に下ってきた時、避難民として包みを背負い、平壌から歩いてきました。咸興から歩いてくるのに、およそ五十七日かかりました。御飯ももらって食べ、歩いて行くとき、おもしろいのが、天は本当によく知っているということです。腹が減って本当に疲れるようになると、すっと分かるのです。「あすかあさって、鶏が手に入る」と思うようになると、あるおばさんが出てきて「来られましたか」と言うのです。それで、「どなたですか」と言うと、「実は、昨夜、私の何代目のおじいさんが現れて、きょう尊いお客様が来られるので、鶏をつぶして餅を作っておきなさいと言われたのです。それで、餅を作っておきました」と言うのです。

 また、そのおばさんが「それでは、その方がどのような顔つきか御存じですか」と尋ねると、「外見は、みすぽらしい旅人として来られる」とおじいさんが答えたのですが、見ればそれが「先生の顔に似ている」ということなのです。それが信じられますか。そうして餅ももらって食べ、鶏ももらって食べ、そのようなことがたくさんあります。今もそうです。


南で聞いた最初の歌(慶尚北道慶州)


 その次に、私が韓国の地に来て、「私の前で歌う人が誰か」と、そのようなことを考えました。ところで慶州に来てのことですが、作男が出てきたので、彼に「南の地に来て、一番最初の歌を聞きたい、歌を一つ歌え」と言ったところ、彼が歌ったことが思い出されます。一番最初に聞いた歌を、一度歌いましょうか。

 釜山に行くのに、車道があるでしょう。慶州までくればもう、車が止まる停留所がありました。その時、慶州までは大体二つくらい停留所が残っていました。


貨車に便乗して釜山まで(一九五一・一・二七、慶尚南道蔚山駅)


 ここまで来れば、あとは大したことはないのです。機関車でも客車でも貨物でも、何でも乗ってみるのです。よく見ると貨物があったのです。それで、それに乗るのです。どこに乗るかといえば、一番前の機関車のところに行って乗るのです。そこで運転手とけんかをするのです。そうして、追い出されても、後ろの車両には乗るのです。「さあ、面倒はかけないし、荷物を積む時は私が必要になるはずだから、機関手の隣にちょっと乗せてくれ」というのです。そう言わなければ、ぐずるのです。その次には、機関車の一番前にあるバンパ、のところに上がっていって座るのです。

 そのようにして、約二カ月かかって、慶州を経て釜山に到着しました。

 ここはどこですか。釜山の何洞ですか。(草梁一洞です)。この草梁一洞には、昔、釜山鎮駅があったでしょう。ここは、昔のことが思い出される場所です。一九五一年、その時私がここに到着した日が一月二十七日でした。草梁駅に降りたことが昨日のことのようですが、既に多くの歳月が流れました。その時は、先生が何歳の時でしょうか。二十一です。相当に若かった時です。

















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第五節 釜山避難時代

真の御父母様の生涯路程 2



第五節 釜山避難時代

       

一九五一・一・二七〜一九五三・九・一七


一 哀歓が秘められた避難民生活(一九五一・一・二七〜八月)


釜山到着時のいでたち


 もし、先生が平壌から釜山までまっすぐに下ってきたならば、十日しか、かからなかったことでしょう。先生のその路程は四ヵ月の長い時間がかかりましたが、皆さんは先生のその服がその間にどんなに汚くなったか想像できないでしょう。

 その時は、先生は北韓の監獄から出てきたばかりで、頭も短くひどい姿でした。絹織りのズボンと上着があまりに黒くなり、表ははげてしまったので、カーキ色に染まった内側を表に出して、裏返して着たのです。絹織りの上着は二カ月間着ていたので、すっかりなるようになっていました。体の脂や垢が染み着いて、雨が降れば雨の滴がころころと転がっていくのです。こうしてほとんどみじめな乞食の姿になって、ひどい格好で釜山に到着しました。

 作業靴や運動靴は、くつ底がなくなるまで履きました。御飯をもらって食べる立場なのに、靴を買って履くことができますか。足の指の間に土が入るのですが、それを履いて歩くのです。

 そのようにしながら、避難時代、一着の服で一年間暮らしました。

 しかし、たとえぼろぼろの服を着ていたとしても、そのような時には、「このぼろぼろの服が、将来の希望の日において、千万の人が仰ぎ見るものではないか」と考えるのです。「私が行く道はこうこうこのような道であり、私は歴史的な使命を担っている。そして、この地上にその時代を迎え、それが全体化される環境が整うようになる時には、今日のこのような場面を再現し、演劇を作ることだろう」と、そのように考えるのです。そうすれば、実際の劇の主演になるのです。それで、ぽろぼろの服を着て、さっそうとお出ましして、御飯をもらいに行くのです。歴史を創建する主演者の心情をもって行くのです。それが不幸だとは思わないのです。考え方一つにより、千態万状がみな異なるのです。


ひもじい避難生活


 私が金元弼に会った時、彼はまだ頭がばさぱさの青年で、十九歳でした。それから四年が過ぎて二十三歳になったのですが、何かすることがありますか。それで食堂のボーイもさせたり、あらゆる仕事をさせました。御飯ももらって食べてみて、昼食の代わりに釜の底のお焦げも食べたりしました。そうかと言って私が御飯のためにそうしたのではありません。あらゆる仕事をほとんど経験してみたのです。とても劇的で印象的であり楽しいことでした。

 寒い時は、人々がみな日なたに集まります。そうすると、顔をしかめて行って、「腹が減って御飯を食べなくてはならない。我々をいじめるようなことはしないで、どうか入れてくれ」と言います。「皆さんは朝飯も昼飯も食べたではないか。我々は朝飯も食べられなかったのだから、朝食をする人を冷たくあしらわないでくれ」と言って、日なたにぐるっと輪になって座って御飯を食べたりもしました。そのようにして御飯を食べるととても楽しいのです。そこには、他人の分からない哲学があるのです。人々がみな、私の友人です。感情が通じるのです。

 先生は、乞食稼業もしたのです。御飯をもらってくることにおいては誰も私にかないません。機転が利いてこそ、もらって食べられるのです。人を見るのです。お金をくれなければ、「やい、こいつめ! お前の度量はこれくらいか」と気合いを入れて、「我々のような通りすがりの人を援助してあげると、いいことがあるものだ」と言うのです。それで、私がファンダレイジングの先祖です。


援助してくれた故郷の友達


 釜山の道は、一方にだけに通じた道です。韓国全土の人に、みな会うことができます。一つしかない道なので、一週間も行ったり来たりすれば、みな会うのです。そう、釜山に来て寂しいので、その一つしかない道を歩いていたところ故郷の友達に会いました。

 その名前も忘れません。私の村から遠い所にいて私を知っている人ですが、私に会って、その時のお金で一万ウォンをくれたことが思い出されます。

 それで、私は、「これを何百倍にして返してあげよう、私がいつの日か何百倍、何千倍にもして返してあげよう」と、そのように固く思っていたのに、その何年かのち、その人の妻が、この統一教会を訪ねてきました。訪ねてきて、「いつだか、私たちが文先生をこれくらい援助してあげたのだから、今は私たちを助けてくれるべきでしょう」と言うのです。私はそれを聞いてとても気分が悪かったのです。

 私は、お前たちの息子、娘が食べていけるようにしてあげよう、厚徳をもって報いてあげようという心情で天の前に祈祷し、会うことを願っていたのに、このように妖しげに現れるのかというのです。どんなに気分が悪かったか知れません。

 「その時、一万ウォンもらったから、その利子を計算してすぐにあげて追い出してしまえ」と言いました。「一年でいくらずつの高い利子で計算して払ってあげろ」と言ったのです。私がずっと懐かしく思い出しながら、善良であると褒めたたえていたその基準が、避難時代において一番刺激的な、生涯において記念することができるその目印が、すべてくじかれてしまい、どんなに気分が悪かったか知れないのです。


埠頭労働と草野潜伏


 釜山に下ってくると、そこは黒山の人だかりになっていました。穴のある所はすべて人が入って占められており、どこでも住めるようなところは、軒先まですべて満員なのです。ですからどうしますか。夜は夜の仕事に出て、昼寝るのです。そこで足をどんどんと踏みならしながら、夜に震えた思い出が今も遠くかすかに思い出されます。そのような時でも先生は、「天の父よ心配しないでください。嘆息されながら歩んで行かれた父のみ跡を喜びと希望で、つなぐことができる私になります」と、祈りました。

 夜には出ていってお金を稼ぎ、昼は十時から二時まで寝るのです。その時は日なたの所に行って、雉みたいに場所をとって入って行き、寝ればいいのです。寝て起きて、服をさっと着た時には、金サッカ(注:朝鮮王朝末期の放浪詩人)の歌が思い出されるのです。

 先生は自然的な人です。そのような心をもちながら、庭に行っても庭で寝て、岩に座ってもそこで寝るというような生活を、本当にたくさんしたのです。なぜそうなのでしょうか。私が岩に座っていて、去ろうとすれば、岩が悲しむのが分かるのです。そこで寝ればそれが岩ではないのです。自分の家よりも貴いのです。

 昼は山に登って林の中に寝床を定めて寝たり、一人の時間をもったりもしました。先生は、そのようなことを好んでしました。夜、再び仕事場に行けば、先生は旋風的な姿になりました。すべての人々が、私の周囲に集まりました。先生が興味深い話をしてあげれば、彼らは食べ物を持ってきて、分けて食べるのです。

 それゆえに、皆さんが雪の降る日、あるいはみぞれの降る日に、道端にいる労働者の、その物悲しく哀れな身の上を見るようになれば、その人が先生であることを連想しなければならないのです。「私たちのお父様が、あんな仕事をされた!」というようにです。先生が軒下で夜を明かしたことが、どんなに多かったか知らなければなりません。


あずき粥売りのおばさん


 私が避難してきて、ここ草梁の釜山鎮四埠頭に仕事をしに通ったこと、それからあずき粥を売るおぱさんたち、それから蒸し餅を売るおばさんたちのことが思い出されます。

 仕事をして、お金をもらってくるのですが、どこに行っても寒いのです。ですから、あずき粥を売るおばさんのところに行くのです。草梁駅に行くと、あずき粥の商売をするおばさんたちがたくさんいます。ぽろ布団でくるんで、おけが冷めないようにして来て売りますが、そのあずき粥のおけを抱き抱えるのです。そうしたからと言って、そのおばさんが何か言うのではありません。

 三十分も話せば、「あずき粥を食べなさい」と言うのです。そして、あずき粥売りのおばさんのところに三日か一週間も行けば、あずき粥を売ったお金を、私に任せるようになるのです。

 最近も、それを食べたい時があるのです。その時、どんなにそれがおいしかったことか、その当時は誰もが飢えていたから、世の中で一番おいしい物でした。その垢だらけのおばさん、ただ粥を売るために回生懸命なそのおばさんの顔と姿が懐かしく、その手でよそってくれたお粥がどんなにおいしかったことか、今も忘れられません。そのころ、避難していたころは、防空壕に行って寝たりしました。避難時代に家がありますか。あの山の尾根に登っていき、オーバーを掛けて寝たのが、きのうのことのようです。その時、そのおばさんの家は、小さな家でした。夫と子供たちと住んでいましたが、子供たちを見れば、かわいそうで、わびしくて、そのような環境でしたが、そこに足でも一つ入れて住んだならば、それがどれほど誇りですか。そう、粥を移し換えて釜の底に残ったお焦げでももらっておいしく食べたことが、どんなに思い出されることでしょうか。そのようなこともあったのです。


生活体験と原理原本執筆開始(一九五一・五・一一)


 数人の食口を中心として、死線を越え韓国の地に一九五一年に下ってきて、原理原本を作ったのです。

 草梁に労務者収容所があって、そこの小さな部屋で私が原理原本を書いたのが思い出されるのです。これくらいの部屋で、まっすぐに横になることができません。それゆえ、「く」の字になって横にならなければならないのですが、「く」の字で横になっても壁に足がつきます。そのような部屋で過ごしたのがつい先日のことのようなのに、歳月のたつのは早いものです。

 その期間において、人間として自立して生きるために、経済的問題だとか様々な解決すべきことを自ら解決しなければならないので、あらゆることをしたのです。先生は臨機応変だというのです。臨機応変にその環境に適応できる素質を多くもっているのです。自然に備わった素質よりも、訓練させた素質なのです。自分を訓練して、どんな環境であっても自立できる主体者にならなくては、このような途方もなく大きなみ旨を成就させることができないのです。

 私は、この聖なる人生行路、男児一言(男児一言重千金:男子の一言は千金のごとし)の行路において、人が行くことができなかったそのような曲折の路程を行くことができる、一つの記録を残すという、人間哲学をもっているのです。人生哲学ではありません。人間哲学だから、生活と、すべてのごみの穴も全部掘るのです。生活分野の特別なそのような面で、曲折のすべてのことを解決していく、それはどんなにすてきなことでしょうか。


韓国に避難してきた避難民たちの哀歓


 釜山に来ると、私はいつもチャガルチ市場のことを考えます。避難時代に、そのわびしい時代に、その界隈に何度も通いました。その当時に避難してきて、釜山に集まった人々の願いが何だったでしょうか。故郷に遣ることを願わなかった人がいたでしょうか。

 何の基盤もなくて、基盤をもっている南側の人々のところに来て、そこにくっつきながら自分たちの生計のための基盤を築くには、南側に住んでいるどんな人より困難な立場に身を置かなければいけないのです。それが避難民の生活です。そのようにして、定着しなければならないのです。先生も一人の避難民として、避難生活をしました。その過程の曲折というのは本当に悲惨なのです。どのくらい悲惨か。それは基盤をもったどんな労働者よりも、監獄に入っている人よりも悲惨なのです。

 しかも故郷を離れ、故郷に帰ることができず、その後孫たちの前に故郷を見せてあげることができず、故郷を紹介できない立場に立ったならば、それがどんなに悲惨かというのです。それゆえに北韓から来た人々がこちらに来て経済的基盤ももちましたが、自分が北韓の地の故郷に帰る時には、敗者ではなく勝者のように、成功した人のように、権威を身につけて登場したいのです。

 そうして、故郷に帰って自分の威信を立て、すべての精誠を込めた価値あるものを、その故郷の地に植えることができ、残すことができるならば、避難暮らしの過程がどんなに困難であっても、構うことなく、ひたすらその日を望んで生きているのが、避難してきた同胞たちの事情であることを知らなければなりません。


二 ポムネッコルの土壁の家から再出発準備

     

(一九五一・八〜一九五三・一)


土壁の家の建築(一九五一・八)
      釜山市東区凡四洞一五一三番地


 韓国の地でも釜山凡一洞、そこに、それこそ穴を掘って家を建て、一人で第二の出発を準備しました。

 そこは共同墓地の近くで、石だらけの谷のほかには、何もありませんでした。そのような所に、先生は豚小屋のような仮設の建物を建てました。

 凡一洞の谷に、私が荷おけをかついで砂利石を運び、土をこねて家を建てた思い出は歳月が過ぎても、なお鮮やかによみがえるのです。

 釜山で一番外れでした。家を建てるにはシャベルが必要でしょう。シャベルを借りようとしても、相手が貸してくれなければならないでしょう。「避難民たちは金になるものは全部売ってしまうので貸してあげない」というのです。そしてシャベルがあっても貸してくれないのです、台所に持っていって隠してしまうのです。それで、仕方なく十能(注:炭火を盛って運ぶ道具)でしたのです。

 それが、これくらいのものですが、ここがこのように割れて落ちて、ここは取れてしまったのです。そのようなものを使ってしたのです。本来は、つるはしが必要でしょう。しかし、そのようなもの(十能)を使って凡一洞の地をならしたのです。また、れんがを作る機械が必要でしょう。それで米軍の部隊に行くと配給箱があるでしょう。それを持ってきて開いて広げて、土を入れるのです。土がとてもたくさん要るのです。これくらいの土を持ってきて、こねてみてもひと塊にしかなりません。

 誰が土地をくれますか。ですから山すその急斜面を削って、そこを横に切り開いて、土地をつくるのです。雨が降れば、その部屋から泉がわき出ます。ですから、地面を一尺くらい掘って、石を持ってきて水門をつくるのです。水門をつくって、その次に、その上にオンドルを敷きました。そのオンドルの下は水が流れるのです。そのような有名な家です。

 壁と屋根を泥と岩で建てたとてもみすぼらしい住居でした。先生には家を建てるほどの土地が一坪もありませんでした。山すその急斜面に小屋のようなものを建てたのです。使い古しの箱で臨時の屋根を作りました。


懐かしい一間の部屋


 小さな部屋でも、そのような小さな部屋はないでしょう。岩の所に家だといって、造っておいたのです。入ってみれば岩が一つあって、それから小さなテーブルが一つあって、それから絵を描くカンバス、その二種類しかないのです。それがなんの宝物ですか。それは悲惨なものです。

 けれども、その中で寝る時も、この地上のいかなる宮中で栄光を享受して生きる人よりも、神様の息子として孝行ができる、一番の道を歩んでいました。そして、誰もまねることのできない、深い内心の基準に到達することが願いでした。

 私は、いくら軒下や穴ぐらの家にいたとしても、「私が神様に侍るのに、まだ精誠が足りない」と考えました。

 また、立冬の季節が訪れてくると、不便なことがたくさんあります。雨が降るし、風は吹くし、風邪ぎみにはなるし、冷たい部屋で鼻水がずるずる出るし、果たすべき責任はたくさんあるし、腹は減るし、着る物はないのです。その時が、一番不便な時なのです。しかし、その時に希望を失うなというのです。この道は、私たちの師が歩んだ道であり、先生がみ旨をつかんで行く道なので、皆さんも、心情の一致点をそのような基準で探し求めていかなければならないのです。

 ある時は、部屋一間がどんなに慕わしかったことか知れません。先生は世界の誰よりも部屋一間を慕わしく思った人なのです。「ほとんど倒れかけの納屋のような部屋の一間であっても、誰より愛することができる部屋として、王宮以上の貴い部屋として私が住むのだ」と思いながら、慕わしく思った人なのです。また、とても小さな土地一かけらでも慕わしく思ったのです。「神様が選んだ私の地で、私は精誠を込めよう。サタン世界の地で精誠を込めるのは嫌だ」と思ったのです。それで、どんなに精誠を込めたか知れません。


土壁の家時代の身なり


 その時まで、そのぼろぼろの服を四ヵ月の間そのまま着ていました。洗濯する所がなかったからです。その時は、しがない存在の中でも一番貧しい存在でした。ズボンは韓服のズボンでした。それは綿を入れてないあわせズボンですが、それさえも大事に着ようとして内側の布と外側の布を別々にして、青く染めて着ました。上は米軍の作業服である青い服を着て、靴は運動靴をはいていました。その運動靴は日本人が持ってきたものです。そのように三カ国の服を着て歩いたのです。そのようにして歩きながらも、「これはみな蕩減復帰だ。蕩減復帰しようとするからアメリカのぽろ服、韓国のぽろ服、日本のぽろ靴を着て歩く」と思いました。それがどれほどかっこいいですか。そのように着て歩きながらも、恥ずかしがるとか、そのようなことはなかったのです。

 その当時は、先生は外見的に見るとなんでもありませんでした。一銭の価値もない人間のようでした。ひげがぽうぽうと生えて、顔は黒くなり放題に黒くなって、服装は東洋服と西洋服を混ぜて着ていました。しかしそのような話は、今日、すごい力を発揮します。大砲よりも原子爆弾よりもその力が強いです。


釜山港を眺めながら


 そう、凡一洞で、私は山に登って祈祷をしましたが、サタンののど首をつかんで、腹を刃物で刺して戦う、このような立場に立ち、霊的に多くの激闘をしました。「この戦いでお前たちが勝てない限り、お前たちはいつか、屈服する日が来るだろう」と言いながら戦ったのです。このようにして出発したのです。

 どうしようもなく哀れなその立場で、血を流し、涙を流し、汗を流しました。その悲痛な歴史的時代に、民族理念が行く場のない恨みのその限界線で、太平洋の海に入るか、入らないか。その防波堤になるという立場で、民族を代表して祈祷するという心情をもって、一人その孤独な道を開拓したという事実があります。

 その多くの船が入ってきて、「ボーッ、私を見上げろ!」と言いながら煙を吐くのを見る時、「私も私の手であのような船を造って、釜山港に還故郷する、錦衣還郷(故郷に錦を飾ること)できる時が来るはずだ」と祈祷したことがきのうのことのようです。

 そのようにして座って、「あの大海を渡り、私が心から期待した心情の因縁をあの国に行って、種を蒔いておかなければならない」と考えました。釜山の海を眺めながら、そのような祈祷をしたのです。

 神様は、いたずらがとても好きな方です。「おい、お前、見ろ。今後世界がこのようになるのだ」と言われながら、大きい商船、天の商船に私を乗せて、数多くの群衆が歓呼するのを見せてくださりながら慰労されたのです。

 釜山のポムネッコル聖地で、先生が岩をつかんで悲痛に祈祷した心情を知らなければなりません。その時、武器を運ぶ貨物船で満杯になった釜山港を眺めながら、どんな祈祷をしたのか分かりますか。それを知らなければなりません。それがすべて成し遂げられたのです。


戦時状況を感知


 この凡一洞で起居したことがきのうのことのようですが、その時にしても、六・二五事変が続いていた時です。一九五三年に休戦協定が成されたのです。その時、アメリカから入ってくる軍需物資の船団が列を作って、この港にいっぱい入ってきました。毎朝起きると、先生はそれを数えるのを趣味にしたのです。一、二、三、四……。普通五十隻で、ある時は百隻を超えることもあったのです。そのような時、戦時状況がどのようになるかということを知ることができました。軍需物資を補給する船の数が多くなったのを見る時、「ああ、この戦争は熾烈になるなあ」と考え、船が少なくなると「ああ、この戦争もまあまあどうにかこうにかなるだろう」と考えました。そのようにしたことが、きのうのことのようです。


原理原本の執筆と弟子に対する精誠


 金元弼が、「自分がお金を稼いで来ます」と言うので、先生は「そうか」と言いました。その当時、私は原理原本を書いていたのですが、同志がどんなに貴く、従う一人の人がどんなに貴かったか知れません。それゆえ、金元弼が会社に出かける時は、約一キロメートル以上、必ずついていったりしたのですが、そうすれば気持ちが楽になるのです。また、夕方になり、帰ってくる時分になれば必ず迎えに出たのですが、その会う時の気分は到底言葉では言い尽くせません。

 心情的な基準が問題なのです。心情は恋しさが途切れないのです。先生は金元弼を連れてポムネッコルで生活した時が良かったと思っています。その時が良い時であったのです。

 私がその時、原理原本の草稿を書く時だったのです。それゆえ、その時のその印象は今も忘れません。その金元弼が先生に対して有り難くしてくれたこと、避難してきて孤独で悲しくて、共に月を眺めながら暮らしたこと、その時の印象は除き去ることができないほどに残っているのです。その時、金元弼が会社に行って家に帰ってくることが、自分の恋人が訪ねてくることよりも、もっと楽しかったのです。

 「お前、ちょっと家で休んでいなさい」と言っても、「え! 私は嫌です」と言って、先生にだけつき従ったのです。先生が便所に行き三十分も座っていれば、便所の戸をたたくのです。便所に行って居眠りすることが多かったの」です(笑い)。それだけ心情的に近くなっていたのです。それゆえに、避難してくる時も、自分の母親と家を全部捨てて出てきたのです。「そこにいなさい」と言っても、すべてほうり投げて、先生に従ってきたのです。


米軍たちの肖像画を描く副業


 私が凡一洞で住んでいた家、テーブルはこのくらいで、悲惨なものでした。

 そこで、米軍部隊の兵士たちのために肖像画を描きましいるのです。普通の人でも、専門家の三倍努力すれば、ついていくことができるのです。彼らは早くしますが、私は精誠を込めてゆっくりするのです。

 私は昔、大工仕事しているのを見たことがあるので、見よう見まねでもってするのです。すぐに分かるのです。最初の日に行って、全部するのです。

 建築現場に出掛ければ、家を建て方がどうなっているか、一遍に全部分かるのです。教わってするのではありません。原則を明らかにしてすれば、すべてが通じるようになっているのです。


食口を待つ恋しさ


 先生が釜山の凡一洞で神様と因縁をもった食口たちを恋しく思った時、先生はあらゆる精誠を尽くしながら彼らを待っていました。霊的に見れば、彼らは来るのですが、実際には近くに来てはいませんでした。ですから、時が来るのを待つしかありませんでした。

 すべての人は神様の愛を中心として、その行くべき道を探すのです。しかし、ある期間、仕切りが崩れなかったのです。それが崩れ始めれば、道が開けるのです。そのように、ある蕩減期間が存在するのです。個人の蕩減期間があり、村の蕩減期間があります。

 その時がまだ来ていないがゆえに、待つ時だというのです。白紙一枚で遮られていました。「先生! 先生! お父様! お父様!」と叫ぶ喚声が聞こえるのです。数多くの群衆が叫ぶ声が聞こえるのです。これくらいの穴だけ開けておけば、どっと噴き出てくるようなのに、そこが幕で遮られているのです。それが一年、二年と、年が過ぎればだんだん近づいて来るのです。そのような時、神様が愛することができる息子や娘に会いたいと思う気持ちはどれほどでしょうか。朝起きてちらっと遠くの山を眺めれば、数多くの群衆が行列をなして来るように見えるのです。

 朝、山に登れば夕方まで、昼食を忘れて待つのです。神様が六千年間、失ってしまった堕落した人間を待つ、その心情的体恤が必要なのです。夕暮れになれば「来ないか」、朝になれば、鶏が鳴く前に「来ないか」と、寝ても覚めても忘れられない心情にならなければならないのです。

 今日、皆さんが「先生が恋しい」というのは、そのような動機の起源が天上世界に基盤として残っているからです。皆さんは知りませんが、この三千里半島(韓半島)に、この運気の中にそうした基盤が残っているためです。そして、その運気圏内で生きている人は、先生に会いたがり、先生のことが我知らず思い起こされるのです。思うまいとしても、ふと思い出されるのは、すべてそのような動機の起源を蒔いておいたためなのです。


過去の食口収拾


 南韓の地に再び戻ってきた時、先生を恨んで背いたその群には、まだ天の悲しい歴史の事情が残っているために、その事情を分かち合おうと訪ねていきました。

 ある家を訪ねて、入っていくと、母と娘が二人々先生の目の前で「その道を行くなと止めたのに、行ったので、結局は乞食のようになって訪ねてきた」と、お互い目配せをしながら、せせら笑いました。先生がその家を訪ねていったのは、御飯が欲しくて訪ねていったのではなく、天的な因縁を中心として、共に涙を流し、共に事情を分かち合った天の因縁があったからです。そして、「その因縁を神聖に蒔いたので、蒔いた物は神聖に刈り入れなければならない」という心情で訪ねていったのです。

 また先生には、何よりも忘れられなかった同志がいました。その人は事業を始めて会社を設立し、ソウルで名が知られるようになりました。先生は一週間顔も洗わず、歯も磨いていない惨めな乞食の姿をして、その家に訪ねていきました。その人が先生をどうもてなすか見てみようというのでした。彼もやはり先生に背きました。

 先生はあれこれ、あらゆる曲折の路程を経ながら、まず同志たちを探して回ったのです。他の人であれば、再び南韓の地に訪ねてくれば、妻子を先に探していくのが人情の常でしょうが、先生は同志から探していったのです。近い同志から探し始めて遠い同志まで、また北韓から先生に従ってきた食口をはじめとして、先生と因縁をもった同志たちを探すのに、二年かかりました。この池承道ハルモニはそのことを知っています。彼らをみな探し出したのちに初めて、探しに探して彼らにみな会ったのちに初めて、家に連絡をしました。天はそのように訪ねて来るのです。

 残った人は金元弼、池承道ハルモニ、玉世賢ハルモニです。李奇完氏のような人は南韓にいる時、昔から知っている人です。その人々を中心として、南韓に来て、凡一洞から教会を出発したのです。その時は、すべてが反対です。すべてが反対したことを北韓から南韓まで蕩減条件を立てながら世界的基準まで蕩減できる基盤を築いてきたのです。


『原理原本』脱稿と伝道の開拓(一九五二・五・一〇)


 皆さん、村に原理の本を持って行く時には、過度なくらいに大事にして持って行かなければいけません。仮にこの本が一冊しかないと考えてみてください。ですから、先生がこの本の原稿を起草する時、その原稿の管理をどんなに深刻にしたことか、考えてみてください。もし、それがなくなって、私が死ねばどうなりますか。世界が行ったり来たりするのです。皆さん、そのようなことを考えてみましたか。

 一人で、私が『原理原本』を書いたものを蒔く時、これが世界の霊的な糧となり、万民があがめ奉ることができる原理のみ言であると、誰が知っていたでしょうか。

 先生が最初、釜山でみ旨の道を出発する時、他の人たちとその姿は同じでしたが、内的には大きく異なっていました。

 たとえ、服はぽろぽろで、御飯に飢える境遇ではありましたが、思いだけは「この世界を征服して天の国を必ず成し遂げるのだ」と思って、そうできると、大きなことをどんどん言いました。

 一番最初は、凡一洞に家を建てて、三人で集まり、伝道したり、祈祷したりしました。当時、彼らと話をする時、先生は三人の人を置いて話すとは考えませんでした。「今この人々に話をするが、本当は数億のキリスト教徒と、人類に向かって話をしているのだ」と考えました。

 その洞内に井戸がありましたが、そこに水をくみに来た人々が、「あの家では争いがないと思っていたのに、近ごろはけんかをしている」と、うわさをするのです。その身なりを見ればどうしようもない格好をしており、お化けが出てくるような家に住んでいるのですが、「世界を一手に掌握し、天と地がひっくり返り、韓国が一遍に世界をすべて統一する」という途方もない話をするから、うわさが立ったのです。

 「あの家に行ってみたら、井戸では無口だったあの人が、ものすごかったよ」といううわさが立ち、人々がひっきりなしに集まってくるではありませんか。ある時は、どこかの神学校に通っている人たちが来て、「歴史上に、あなたよりも立派な人がたくさん来て、統一世界を夢見たのに、みな果たすことができなかった。ところが、あなたが統一するですって?」と言うのです。その時、私が話をしながら、よく考えても、本当にわびしかったのです(笑い)。水が流れるように溝を掘り、その上に家を建てたので、オンドルの下ではチョロチョロと水の流れる音がするのですが、そのような家に座って、そのような途方もない話をするので、誰が信じるのかというのです。

 そのころ、「あの山頂にいる美男子は惜しい人だが、狂ってばかになっていく」と、そのようなうわさが立ちました。それでも私が美男子のように見えたみたいです。それで私を見物しに来ようとする人までいたのです。「ある美男子が修道している途中で狂ってしまったそうだが、あの入らしい!」と見にきたのです。


姜賢實伝道師入教


 さて、そのように夢をもって辛抱してことをなす人がいるので、神様が御覧になる時、どんなに同情されることでしょうか。それで「おいこら、お前、レバレンド・ムーンを訪ねていけ!」と、すべての天側に属している人を呼び出し、命令を下して訪ねてこさせるのです。このようなことを見れば、神様は私のことが好きなようです。そのように命令され、人を送るのです。それゆえ、現実は厳しくても、未来の夢をもって、現実を未来のことと思って生きている人は、天の人となります。「神様が記憶する人となる」ということを知るべきなのです。

 この姜賢實が、初めてポムネッコルに訪ねてきた時もそうでした。山に登っていけば、失ってしまった子を恋しがる心があるでしょう。塀を心情で壊したのです。堕落の心情でふさがってしまったものを、天の心情で壊したのです。ですから追い込まれて、入ってくるのです。

 そうして、姜賢實伝道師が入ってきたのです。そのようにして、一人、二人と、み旨に合う人を天が送ってくれ、再び糾合しました。

 姜賢實という、凡一洞の天幕教会の伝道師として責任を負っていた人が、あの山の谷(その当時「凡一洞の山の谷」といえば、その上には寺しかなかったのですが)の、一番外れの家におかしな青年がいるといううわさを聞いて、「伝道しよう」といって訪ねてきたのです。訪ねて来たときの私の格好といえば、このように三層の服を着ていたのです。その時のことがきのうのことのようです。それでその時、み言を話したのですが、神様が役事して毎日毎日訪ねてくるようになったのです。そうこうするうちに、その教会を捨てて、統一教会を信じる決心をしました。

 そのように霊界で伝道するのです。それゆえ、行こうとして足がくっついて行けなくなれば、霊界が働くのです。そのような伝道をしました。統一教会の起源がそうなのです。聖書以上の内容があります。あらゆる奇跡や不思議な道を通って来たのです。


聖進様母子との再会


 私が南韓に来た時、聖進と聖進の母親がどのように暮らしているのかすべて知っていたのです。どこに行けば必ず会える、ということも分かっていましたが、行かなかったのです。私が会うべき人、神様の前に誓い約束した何人かの人に会う時までは、待たなければならないのです。そして、その人々に会うや否や、連絡をしたのです。連絡をすると、すぐに来ました。

 この世的に見れば、私が夫だというのに、子供が七歳になって初めて会ったのです。その時は、食口たちと共に暮らしていた時でした。おばあさんたちを連れていた時でした。ところで、私の息子が来たと私が喜んで迎えては、条件に引っ掛かるのです。アベルはカインを通して紹介してもらい、愛さなければなりません。カインが「そうか! あなたが聖進君か」といって「先生、聖進君が帰ってきました」と抱いて、愛の表示で一つになって迎えなければならないのです。それが原理の法度です。

 聖進と聖進の母親が私のところに来た時、先生は「この子が聖進か」とだけ言って終わりました。そのことが、聖進の母親には一生の間恨みになっているのです。「入ってください」という言葉は、食口たちが言わなければならないのです。私は原理的に生きようと、そのように、今までありとあらゆる悲惨な境地をすべて経験したのです。

 今まで聖進の母親は、先生を「ああ! 木石のように人情を解さない人だ」と言います。それは事実です。み旨を知らないから、そう考えるのです。

 その母親が私に対して、「その間、どんなに苦労をされましたか。人が理解しないこの道、追われる道、み旨のための受難の道を行くのに、どれほど大変だったことでしょうか。その間、私にとって苦労は苦労ではありませんでした。私を迫害する人も多く、妨げる人もたくさんいたのですが、死なずに、追い出されずに生きてこれたので、感謝するだけです」と、そのようにまずあいさつをしたのちに、その母親の口から息子に、「私が教えてあげた、立派なお父さんです。ごあいさつしなさい」と言える妻を願ったのです。そうすることができる息子の姿を願ったのです。

 それを見れば、先生は父母として哀れな人でしょう。夫としては悪い夫でしょう。

 天道が食い違った位置で、神様が悲しむその位置で、子供がいれば何をして、妻がいればどうするというのですか!


反対と迫害の高まり


 ここ、釜山の凡一洞は、語り尽くせないほどの迫害を受けながら、み旨の道を出発した場所なので、恨めしく思えば、恨めしくもある所です。

 私が凡一洞で、どれほど悪口を言われたか知れません。凡一洞といえば、皆さんは何か喜ばしい所だと思っているかもしれませんが、先生にとっては先生の頭の中に、みな記憶できないほどに反対を受けた忘れられない場所です。うれしくて忘れられないのではないのです。

 既成教会が反対するので、聖進の母親が反対するようになっていくのです。その時の話をすれば、歴史になかった迫害を受けたのです。それで私は、口をつぐんでじっと黙っていたのです。会ってから一年にしかなっていません。しかし、原理どおりになるのです。そして、ありとあらゆることをしたのです。「殺してしまわなければならない人だ」とか、ありとあらゆるうわさを流したのです。また、「み旨であれ何であれ、私があなたを一番愛しているし、あなたが仕事をしなくても私が全部食べさせてあげる」と言うのです。

 また、先に入ってきたおばあさんたちに、「あのおばあさんたちが私の夫を奪った」と言いながら、おばあさんたちを殴りつけたり、ありとあらゆることをしました。女性の食口たちが来ると、胸ぐらをつかんで「この娘たち、なぜ来た?」と言うのです。そうすればするほど、反対に、その女性たちが、「このきつねのような女。私があなたの夫を擁護してあげなければいけない」、というようになるのです。

 ところで、聖進の母親が盛んに反対する時、聖進は七歳だったのですが、母親を捨てて父を訪ねてきました。母親が、それこそ金よ玉よと愛しながら、七歳の時までおぶって育てたのに、そんな母親を捨てて、自分のために何もしてくれない父を訪ねてきたのです。そして、母親が反対すれば、前もって全部、来て知らせてくれるのです。

 私がそのような聖進に済まなく思っていることは、その子に一度も教育してあげられなかったことです。「原理はこうだ」と、一度も教育してあげられなかったのです。


三 水晶洞の受難と伝道拡散(一九五三・一〜九・一七)


南韓の生活適応の三年期間(一九五一〜一九五三)


 私が避難暮らしをしていた時のことです。北韓で監獄暮らして南韓に下ってきてみると、あらゆる物がなじみませんでした。その環境を詳しく調べることだけで、三年以上かかったのです。三年以上たつと、その環境が自然に感じられるようになりました。三年以上かかって、ようやく普通になったのです。それを思うとき、イエス様も三年の公生涯路程が、絶対必要な期間であったと感じるようになりました。人間世界と天の世界は、伝統と習慣が違うので、それが慣れるためには三年が必要なのです。

 そのように、北韓に行き、何年間かそこにとどまったのち、再び南韓に戻ってきてから、北韓のすべての感情を解消するのに、少なくとも三年以上はかかるのです。そのように感じたのです。そのような観点から見る時、私たちの習慣性がどんなに信仰生活に妨害になり、それによって信仰の道がどんなに歪曲されてしまうか知れないということを、私たちは知るべきです。


頻繁な引っ越しと身を隠すこと(一九五三・一〜二〜三〜一一)


 先生は、皆さんが先生よりも、もっと立派であることを願っています。皆さんが、先生の立派でない点を習ったとすれば、それは何ですか。逃げ回ることでしょう。先生は今まで、避難をたくさんしてきました。イエス様もそうでした。

 先生は御飯もたくさんもらってたべました。しかし、ひもじいなかで一晩寝るような時にも、腹が減ったとは考えません。「きょう精誠を尽くし、祈祷する時間になった」と祈祷します。「腹が減った」と言う人は、絶対天が助けてくれないのです。

 「この村に来たので、この村の人のために福を祈ってあげよう」といって、夜寝ないで祈祷すれば、その家の霊が発動して、「なにがしの家にこのようなお客様がいるから、ごちそうをこしらえて、何時にお招きしろ!」と命令が下ります。そのようなことを知っていますか。それで先生は、御飯もたくさんもらって食べ、お金もたくさんもらって使いました。ですから神様を信じて生きる人は、洪吉童(注:小説の主人公)おじいさんでしょう? どのように生活しているのか分からないように生きるのです。


食口伝道と神霊集団訪問指導


 私は、韓国の神霊集団の中で、訪ねていかなかった所がありません。さらに神霊に通じるという女性たち、姜賢實もその中の一人でしょう。その人たちを通して、男性を訪問させたのです。寺にいる人々を呼んでおいて、全部尋ねてみるのです。会って話をする時にも、私が精誠を尽くして対しているのに、彼らが悪党の心をもって異端として対したのちには、彼らがもっている福を私が根こそぎ取り込むのです「そうして、アダム・エバ自体を再び作り出すことができる天的な基盤を天下に広げておいたのです。そのためには八十名以上の人々に対して、彼らを呼び集めなければならなかったのです。

 霊界を通して因縁を結んで出会った食口たちが、みんな急ぎ足で、その時一人で住んでいた先生を訪ねてきたことが、きのうのことのような気がします。そのような食口たち中には既に霊界に行った人も何人かいます。一人で始めて、何人かの食口を集めて動きながら、全国で最も神霊に通じる人々を訪問させました。その中に、大邱に伝道に行かせた姜賢實伝道師がいたのです。


大邱開拓伝道派遣(一九五三・七・二〇:姜賢實、八月中旬:李耀翰)


 当時の例を挙げてみれば、その時、あの高神派に通う激烈分子の婦人伝道師が統一教会に鞍替えしたと言って、高神派の韓尚東を中心として、その一派が一丸となって、「文なにがしというのは狼の群れだ、異端だ」と大騒ぎしたのです。

 そのような時、大邱は韓国のエルサレムだという地域なので、姜賢實を大邱の伝道に送りました。その時、何も持たせずに送り出したのです。旅費も与えず、「どのようにしようが、行って伝道しなさい」と送り出したのです。

 ですから、霊界がたくさん役事しました。霊界でコーチして、会うべき人に会うようにしながら、大邱教会の出発がなされたのです。そのような事情があります。

 本来、伝道に送り出す時は、お金のようなものはすべて取り上げて送らなければならないのです。お金を信じていくのではないのです。お金があればお金を信じるのです。お金よりも神様を信ぜよというのです。イエス様が弟子たちに「お金を持っていくな」と言われたことが、そのまま現在にも適用され、神様が生きておられ、そのような人々が行く道を保護されるのを、間違いなく皆さんも体験するはずです。

 それで、お金を持って行くなら、「私が使うお金でなく、届けるお金である」と考えなさい。「人々にあげるために持っていく」と、考えなければならないのです。そうすれば、必ず皆さんの行く道は祝福を受けるであろうと考えるのです。

 李耀翰牧師! 今でも李牧師が訪ねていかなければなりません。牧師たちを訪ねていって、彼らを消化して、私をお兄さんのように侍って、従ってくるようにしなければいけません。復帰の道はそのようになるのです。

 李牧師は何歳ですか。み言を語っていれば、すべてが恩恵で満たされるから力が出るのです。愛を与えるのに忙しく、愛を受けるのに、感じるのに忙しければ老けないのです。


韓国動乱の休戦(一九五三・七・二三)


 韓半島の休戦ラインは、共産独裁体制と自由民主体制が対立し、悪側の左翼と善側の右翼が対決しているのであり、唯物論と唯心論が、無神論と有神論がぶつかり合っている対峙線なのです。韓半島は世界の縮小型であり、世界は韓半島の拡大型です。また旧約時代のヘブライズムの流れを受け継いだキリスト教文明と、ヘレニズムの流れを継承した共産主義文明が、この休戦ラインで対峙しているのです。十字架上の善側と悪側の対立で象徴される、現実のすべての対立と闘争の状況は、韓半島の休戦ラインがそのまま集約的に表現しています。

 この民族が、このようになったのは誰のせいですか。三十八度線が解決されていないではないですか。トルーマンがマッカーサーの話を聞かなかったことにより、一九五三年七月に終わってしまいました。一人の人の誤ちで歴史がこのようになることを誰が知っていたでしょうか。しかし、知る人は知っているのです。このような恨の多い事情を知っている人は血が沸くのです。

 私は休戦に反対していました。私が李承晩博士の立場ならば、絶対に休戦しなかったはずです。どんなことをしてでも休戦をしません。仮に休戦しても、また北伐しようという主義です。李博士が大きく出ながら、なぜ譲歩をしたのか分かりません。そこにおいて後退するようにはなっていなかったのです。後退しても、「南韓各地の破壊されたものを復旧してくれ」とでも言わなければならなかったのです。

 南北の悲運は世界史的な悲運です。したがって、韓国とアメリカが責任を果たすことができないことによって、アメリカ自体の墜落、イギリス自体の墜落、民主世界の墜落が起こったのです。


四 釜山ポムネッコル聖地


釜山凡一洞


 釜山と言えば釜のてっぺんではなく、釜の底だと考えるのです。なぜ釜山の港が良いのかといえば、深いためです。釜の底で火をたいてこそ運が開くのです。それゆえ、釜山は火がついてこそ発展するのです。

 チャガルチ市場が何度も火事になったので、市場が良くなったのです。一度火事になれば、少し良くなって、また火事になれば、もう少し良くなってきたのです。なぜかといえば、釜の底だからです。それゆえに、絶えずふいごで風を送ってこそ発展するのです。

 それで、釜山が発展するためには、火をつけなくてはなりません。分かりますか。慶尚南道が発展するためには釜山から火をつけるのです。

 釜山は釜の底であるために、私はまず、ここを訪ねてきました。釜山は八金山でしょう。そのように釜山には意味があります。凡一洞という言葉もそうです。「凡」とは何ですか。普通でないということです。

 八金山の凡一洞。釜山で一番の谷です。


凡一殿開館(一九七八・一〇・二九、日曜日)


 今日、ここ凡一洞に再び来てみると、昔の思い出が鮮やかによみがえります。ここにあるのは岩です。この岩は、凡一洞の谷に数多くある岩の中の一つです。この岩は、どこの誰も大切に思わず、仰ぎもしなかった岩でしたが、私という人と共に関係したそのような因縁によって、その岩が今から、世界的な、歴史的なものになったのです。人類歴史とともに、あるいは神様の摂理とともに、価値的内容において、一つの条件物として因縁を結んだのです。

 このようなことを考える時に、皆さんが岩の中でも、どんな岩になるかということが問題です。皆さんが見るには、なんの価値もない自分自身ですが、天の心情世界において厚い因縁を残すことができる皆さんになるならば、皆さんは歴史的な記念物になるのです。歴史だけでなく、摂理史的な記念物になるのです。皆さんは岩より価値ある人間であるために、皆さんがより価値ある記念の対象になることを、真心から祈祷しなければなりません。

 今日、凡一洞で開館記念日といって、凡一殿堂も建てたのです。

 それできょう、私はあの凡一洞にも行ってきたのですが。何、「朴判南が苦労した」と言っていましたが、私が見るには、そうでもないのです。「まあまあだったな」と称賛をして、記憶されればよいですが。

 昔は、この岩が聖地になって、あんな家をかぶせられるだろうとは夢にも思いませんでした。主人は、それよりもっと惨めな所で住んでいたのです。その岩は、毎日のように雨に打たれて、星が出れば、私がズボンを乾かしたりしたものなのに、それが今では昔の私より立派になっていたのです。


涙の岩


 人が知らないことを知っている人たちを、今後、私たち統一教会の歴史を研究する人が訪ねてくるのです。凡一洞に行けば、涙の岩があります。それは先生が祈祷した場所ですが、先生だけが知っている所があるのです。先生だけが知っている所を誰かが一言でぴたりと言い当てれば、その人の権威が立つようになるのです。

 それゆえ、木で言うならぱ、東西南北にあらゆる根がありますが、一番深い根が、全体の歴史の歩調を左右するのです。それを誰かが知って、事実として連結したすべての内容を説明するとき、その人が、歴史時代に最高の学者になるのです。

 先日も、ある人が涙の岩に行ったところ、痛哭してしまい、「ああ、聖地は一つだと思ったのに、世界に二つあるとは、釜山聖地」と言ったというのです。




2004.06.27 了
















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