真の御父母様の生涯路程 1
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目次
第一節 真のお父様の誕生とその背景
- 真の御父母様の生涯路程 1
- 第一節 真のお父様の誕生とその背景
- 一九二〇年・陰暦一月六日
- 一 平安北道定州郡徳彦面上思里二二二一番地
- 失郷民になった人類
- 人類の本郷として定めた村里
- 平安北道定州郡
- 徳彦面上思里
- 生家二二二一番地
- 真のご父母様に侍って本郷の地に
- 「故郷無情」と「大韓八景」
- 二 南平文氏の家門の伝統と家庭環境
- 南平文氏の起源と伝統的性格
- お客さんと乞食接待の家風
- 曽祖父文禎?先生(一八四一・陰一一・三〜一九一八・一一・二六)
- 祖父文致國先生(一八七〇・陰九・二〜?)
- 従祖父文潤國牧師(一八七七・陰一・三〇〜一九五八・陰一・二)
- 父親文慶裕先生(一八九三・陰七・一一〜一九五四・一〇・一一)
- 金慶継忠母様(一八八八・陰一〇・一五〜一九六八・一・七)
- 文龍壽大兄様(一九一五・陰三・五〜?)
- 天が準備した長孫(直系の子女)の血統
- 三 歴史的な大混乱時代と真のお父様の誕生
- 第一次世界大戦三年後
- 民族の試練と三・一独立運動
- 家門に迫った憂患
- 天の玉のような男の子(文龍明)誕生(一九二〇・二・二五、陰一・六、子の刻)
- 真のお父様のお名前「文鮮明」の意味
第二節 幼少時代と初期学習
- 真の御父母様の生涯路程 1
- 第二節 幼少時代と初期学習
- 一九二〇〜一九三八・三
- 一 自然探求と農村生活
- 故郷の山河
- 植物探求と木登り
- 鳥たちの生態観察
- 昆虫たちの生態探求
- 狩りと魚取り
- 家畜への愛
- 好奇心と探求力
- 農村環境の生活経験
- 懐かしい故郷の味
- 二 生まれつきの同情心と家族愛
- やるせない童心の涙
- 貧しい家庭を助ける
- 同情心と義侠心
- 家族に対する愛情
- 三 恐ろしい闘志と義憤心
- 正しい事に対する固執
- 勝負根性
- 正義感と義憤心
- 四 注目された少年
- 天賦的な霊的感覚
- 一族と村の評価
- 五 初期学習と信仰入門
- 漢文書堂で勉強(一九二六〜一九三二)
- 圓峰の学院で受講
- 三つ以上の博士学位という夢
- 定州私立五山普通学校三年編入(一九三四)
- モルム村の徳興長老教会入教
- 定州公立普通学校四年に転校(一九三五・四〜一九三八・三・二五)
- 卒業式の時に特別所見を発表(一九三八・三・二五 第二十九回卒業)
第四節 ソウル黒石洞中学時代
- 真の御父母様の生涯路程 1
- 第四節 ソウル黒石洞中学時代
- 一九三八・四〜一九四一一三
- 一 京城商工実務学校電気科修学 (一九三八・四・一二入学〜一九四一・三・八卒業)
- 黙々と率先垂範
- 執拗な探求力
- 自己準備の精誠
- 体力鍛練
- 言語訓練
- 音楽に心酔
- 熟練したワンマンショー
- ソウルの学生時代の追憶
- 二 自ら堪え忍ばれた苦行
- 自炊生活
- 一日二食と誕生日の断食
- 孤独な時に訪れた温情の手
- 真冬の冷たい部屋の生活
- 古着を着て自立訓練
- 初めての夏休みに故郷に帰らず
- 映画館前を避けて行く
- 路地裏の調査
- 電車費を節約し困った人を助ける
- 漢江の橋の下の貧民街
- かわいそうな隣人を助ける
- 三 体恤信仰の深化
- 徹した涙の祈祷
- 民族解放のための祈願
- 明水台イエス教会と西氷庫教会
- 幼年日曜学校の教師
- 校友たちとの親交
- 伝道活動
- 学生時代の日記帳
- 四 ソウル黒石洞聖地
- 懐かしい黒石洞の昔の面影
- 光明の基盤として白石洞になるべき
第五節 日本東京留学時代
- 真の御父母様の生涯路程 1
- 第五節 日本東京留学時代
- 一九四一・四〜一九四三・九
- 一 涙で出発した留学の道
- 留学手続き
- 京釜本線列車「ひかり号」(一九四一・三・三一)
- 関釜連絡船「昌慶丸」 (一九四一・四・一、午前二時四十分発)
- 二 早稲田大学附属早稲田高等工学校電気工学科修学
- (一九四一・四・初〜一九四三・九・三〇)
- 悲壮な志
- 電気工学専攻
- 命を懸けた深刻な勉強
- 執拗な質問
- 日本語を早くしゃべる訓練
- 運動能力の錬磨
- 下宿生活
- 三 原理究明と思想定立
- 原理究明と体系化
- 宇宙の根本は父子の関係
- 相応相補作用の原理
- 思想定立と理論闘争
- 進化論問題
- 愛の哲学者
- 四 抗日地下学生運動
- 将来に備えた調査活動
- 韓国人留学生会地下活動
- 要注意人物
- 愛国愛天
- 五 自己主管修行
- 一日二食で腹が減った日々
- 古着で地面を見ながら歩く
- 不便な寝床
- 誘惑克服と情欲主管
- 人情を乗り越えて
- 自己主管完成課題
- 六 最低から最高までの生活体験
- 全面的な体験と激しい訓練
- 品川の貧民街
- 新宿の路地裏
- 銀座通りのリヤカー引き
- 川崎鉄工所と造船所
- あらゆる人間生活の現場体験
- 心理鑑別訓練
- 全人(注・知情意の完全に調和した人格者)的な人格訓練の課題
- 七 怨讐を愛する実践
- 日本人を愛する
- 弱者側の代わりにけんか
- 差別のない人間待遇
- 社交力と親密感
第六節 解放直前の最終準備
- 真の御父母様の生涯路程 1
- 第六節 解放直前の最終準備
- 一九四三一一〇〜一九四五一八
- 一 早期卒業と帰国
- 早稲田高等工学校卒業 (一九四三・九・三〇、電気工学科二十五回)
- 関釜連絡船「崑崙丸」撃沈事件(一九四三・一〇・五)
- 本家の騒動と母情の極致
- 帰国(一九四三・一〇・中旬)
- 二 ソウルでの就職と家庭出発
- 定州郡郭山の崔氏新婦
- 見合いをしに夜道を七里
- 見合い後に婚約(一九四三・一二)
- 「満州電業」行きの変更と郭山訪問(一九四四・二・初旬)
- 鹿島組京城支店電気部就職(一九四四年三月ごろ)
- 成婚と家庭出発(一九四四・五・四、戸籍上一九四五・四・二八)
- 三 京畿道警察部での受難(一九四四・一○〜一九四五・二)
- 日警の苛酷な拷問
- 拷問を受ける心情と祈祷
- 命を懸けた黙秘権
- 怨讐の許しと祝福
- 危険防止策
- 監房の中の寒さ
- 母親の涙
- 釈放(一九四五・二)
- 四 解放直前の内的な準備の仕上げ
- 日帝治下で内的な準備
- 解放前夜の祈祷
- 全国の神霊集団を踏査
- 解放の時を予知
真の御父母様の生涯路程 1・はじめに
真の御父母様の生涯路程 1
発刊の辞
―真の御父母様の生涯―
真の御父母様とはどのようなお方かを規定するには限界があらざるを得ません。その方と我々は質的違いがあるためです。しかし、あえて試みるならば、真の御父母様は人類の善の祖先であり、創造本然の真の愛と真の生命と真の血統の根であられます。見えない神様を現した「啓示の完成体」であられます。
神様は御自分のお姿のとおりに被造世界を創造されたため、私たちは被造世界を通して神様を知るようになります。ここで発見された神様は「創造主としての神様」です。さらにまた人間が神様のみ言を守らず堕落するようになるや、神様は堕落した人間を救援される「救いの神様」となります。そして歴史を通してその聖業を成してこられたので「人類歴史は神様の救援摂理の歴史」です。ゆえに、歴史は救いの神様を啓示してくれます。神様の摂理歴史に現れた人物と事件はすべて人間を復帰してこられる神様のみ業の記録です。しかし、その一つ一つの事件と人物たちはすべて完全な啓示ではありません。その例として、旧約では神様は堕落人間を審判される「審判主」の姿で啓示され、イエス様と新約を通しては「救いの主」として啓示されました。しかし、真の御父母様を通しては、神様は失った子女を探し、数千年を一日のように摂理してこられた「父母の姿」として示されました。
神様の隠された心情の世界、苦痛と恨の心情はひたすら真の御父母様を通して啓示されたために「神様が解放された」という意味あるみ言を聞くようになります。ゆえに、その方に依存して私たちは神様の実存と心情、そして歴史の総体的意味と本然の「生」を知るようになります。
真の御父母様はこの地に来られて摂理の道を行かれながら完成と勝利を成就されました。そして、御自身の生涯は戦勝記であると自らおっしゃいました。ここに神聖さと偉大性があるのです。
我々は本書を通して、そのような内容を深く知ることができるようになりました。一生をただひたすら一つの道、摂理の道を歩んでいかれた真の御父母様が自ら語られた内容のみをもって、誕生の背景から幼年期、学校時代、天の召命、そして解放後み旨の道を歩んでこられながら、その数多くの迫害と苦難を貫いて勝利された内容を、生き生きとまとめました。これは宣布されたみ言ではなく「真理それ自体」として、父母様の壮絶な人生を言語に表したもの、すなわち「生の表れ」です。
それゆえ、本書が永遠の生命の道しるべになるであろうと確信しています。我々の人生の中で真の御父母様の人生が再現され、我々がつくる摂理的事件を通してこの世の果てまで、子々孫々にまで伝承されるようにして、恩恵に報いる真の子女となることを願います。
一九九九年六月一日
推薦の辞
神様の復帰摂理歴史は、真の御父母様を立てるための歴史であるとも言えます。そして、これまでの人類の歴史的願いも、真の御父母様を迎えることでありました。
真の御父母様は、堕落により、サタンの愛とサタンの生命とサタンの血統を受け、神様の怨讐となった個人と家庭、氏族、民族、国家、世界をきれいに清算し、本然的神様の真の愛、真の生命、真の血統を受け継いだ真の父母の息子、娘のみが暮らす天国を成し遂げるために来られました。そのように生きてこられた真の御父母様の八十年の生涯は、形容することができないいばらの道であり、闘争と逆境の道でありました。ただひたすら、神様のみ旨を成してさしあげようという一念で初志貫徹された生涯路程でありました。真のお父様は、ご自身の生涯を次のように話していらっしゃいます。「天におわします人類の父は、子女を失った父母の断腸の悲しみで、その恨がしこりとなっているということを本人は発見したのです。本人の人生の目標は、神様のその恨を解いてさしあげることでした。その悲しみの神様を、悲しみと孤独と苦悩から解放してさしあげようとすることが本人の生きてきた目的でした」(一九九〇・二・一)。
それゆえに、神様の解放と人類の救援のために生きてこられた真の御父母様の生涯路程を通してのみ、私たち人間が行くべき生涯の道も知ることができるのです。
本書は、真の御父母様が蕩減復帰摂理の前人未到の路程を勝利していかれながら、見せてくださった戦勝記であると言えます。神様と共に一片丹心、一筋の道を歩んでこられた真のお父様の路程をはじめとして、真のお父様ご自身が直接語られた内容を中心として、真のお父様の幼年時代、学生時代、天の召命を受けられたそのときから、今日に至るまで、み旨の道をかき分けてこられながら受けられた、その計り知れない迫害と苦難でつづられた人生を、このように生き生きとした記録でまとめました。
皆さんはこの『真の御父母様の生涯路程」を通して、真の御父母様の心情と人格、そして生活観、国家観、世界観を学ぶようになることでしょう。私たちはみな、そのすべてを相続し、真の御父母様の生活が私の生活であり、真の御父母様の理念が私の理念であり、真の御父母様のことが私のことであり、真の御父母様の愛の圏が私の愛の圏であるといえる実体として、生まれ変わらなければなりません。
ひいては、真の御父母様が典型的路程として勝利された生涯の記録を訓読することによって、真の御父母様ご自身が実践で立てられた伝統を継承する真の子女となり、この時代に成し遂げるべき責任と使命を完遂する神様の愛を受ける孝子、孝女、孝夫婦となられることを懇切に祈願するものであります。
二〇〇〇年一月
日本語版発刊によせて
訓読会の摂理的時代において誰もが待ち望んできた『真の御父母様の生涯路程』の日本語版がいよいよ出版されることとなりました。私たちは真の御父母様の生涯についてできる限り詳細に、深く学ばなければなりません。真の御父母様の歩まれた路程は万人の歩むべき公式路程であるという復帰原理的な理由からも、また私たちが子女として父母に似たものになりたいと願う心情的な理由からも、真剣に学ばなければならないのです。
真の御父母様が歩んで来られた道については、これまで私たちは「現代摂理史」あるいは「主の路程」というようなタイトルで、さまざまな証しや解説を聞く機会をもってきました。しかしながら、いかなる第三者が語る御父母様の路程についての解説よりも、真のお父様御自身が、自らの歩んでこられた道について口ずから語られたみ言ほど正確で深いものはあり得ません。
この本は、既に出版された真のお父様のみ言選集二百四十巻の中から、真の御父母様の生涯と関連したみ言を時代別・主題別に整理して編集したものです。少年時代のエピソードをはじめとして、御父母様の路程について詳細に知るための貴重な第一資料であると同時に、御父母様のものの捉え方、感じ方など、その心情世界が行間からにじみ出てくるようなみ言があふれています。本書の中には一度も聞いたことがなかったような新たな事実や、深い心情の世界が披瀝されており、驚きと感動なくしては読むことができません。今後は「この本を読むことなくしては、誰も真の御父母様の生涯について語ることはできない」と言われるような必読書となるであろうと確信します。
真の御父母様の路程について知ることは、私たちが信仰生活における幾多の試練を乗り越え、神様の深い心情に至るためには不可欠な「信仰の源泉」であると言えます。この本の恩恵が、多くの方々に降り注がれるように願ってやみません。
二〇〇〇年一月
まえがき
「真の御父母様の生涯路程』は、訓読会の摂理的時代に応じて、切実な要請により光を見るようになった。人間として想像さえできない、神様だけがご存じであられる摂理路程を歩んでゆかれた真の御父母様の生涯を、言語形態でもって表すということは、実に不可能なことに近い。しかし、お父様が直接語られたみ言の脈絡に従い、真の御父母様の生涯路程の一つの側面を整理できることは本当に幸いなことだと考える。
この本は、既に出版されたみ言選集二百四十巻から、真の御父母様の生涯と関連した内容を抜粋整理したものである。最初に真の御父母様の生涯と関連したみ言を選定して摂理的路程に従って分類した後に、再び一年単位で細分して、各年度に該当する内容を主題別に整理した。そして、このように整理した内容を、再び七年単位の摂理的時代でもって再構成して編集した。
一九九九年一月一日、このようにして仮製本して出版した本、一、二、三、四巻を、ウルグアイのモンテビデオに集まった食口たちの前で訓読なさった後、真の御父母様は、この本十二巻が出版される予定であると語られた。
この一連のシリーズに記した真の御父母様の路程は、限られた紙面の関係上、全体路程の一部分だけを扱わざるを得なかった。もちろん、真の御父母様が語ることのできなかった摂理的内容もたくさんあるであろうが、語られたとしても、当時の摂理的路程をすべて構成し載せることは容易ではないからである。しかし、語られた摂理的内容はできる限り細密に整理しようと努力した。また、当時の「状況」をより詳細に知りたい読者のために本の末尾に索引を設け、その一助とした。
この本では真の御父母様の摂理路程に現れた事件を年代記的順序に従って整理し、可能な眼力事件の集権された言及を避けた。それゆえ、ときおり、読者たちが摂理的に重要だと考える事件が簡単に叙述されている場合や、その反対の場合も発見できるはずである。終わりに、この本の出版にあたり動機づけをしてくださった郭錠煥会長と、激励を惜しまれなかった朴洪祚理事長、そして、難しい中で昼夜を分かたず苦労を惜しまなかった歴史編纂委員会の全職員に深い感謝を捧げる。
一九九九年五月一日
第一節 真のお父様の誕生とその背景
真の御父母様の生涯路程 1
第一節 真のお父様の誕生とその背景
一九二〇年・陰暦一月六日
一 平安北道定州郡徳彦面上思里二二二一番地
失郷民になった人類
本来、神様が人類に許した故郷は一箇所です。そこが、アダム家庭の住む所でした。そして、その故郷の主人は、神様です。また、神様を中心とした、その時の真の父母です。アダム・エバは、堕落しなければ、その時代に真の父母になり、神様と一つになったのです。そして、真の父母の愛の圏が生まれ、その愛を中心とした出発の基地が、人類の故郷になったのです。
そうなったならば、お父さん、お母さんが一つになり、神様と完全に一つになり、息子、娘が完全に一つになったのです。ところが、これが反対になってしまったのです。堕落することによってエバがアダムを引きずり込み、二人とも死の道に引き出され、またカインが弟であるアベルを殺して、そこを戦場に変えてしまったのです。ですから、偽りの父母から出発したのです。偽りの故郷から出発したというのです。偽りの国ができてしまったのです。偽りの世界ができてしまったというのです。
そのようにサタンが支配する世界になってしまったので、故郷を復帰しようという善なる人々の天の役軍が来れば、すべて捕まえて殺してしまったのです。それゆえに、宗教は迫害されるということが当たり前になったのです。そして今日まで、荒野でさまよいながら苦労したアブラハム、ヤコブ、モーセ、イエス、イスラエル民族、そしてキリスト教まで、すべてが放浪者になったのです。自分の祖国がないので。殺され、追われて犠牲になったのです。
知ってみると、サタンの愛によって失郷民(注・故郷を失い異郷で暮らす人々)になっていたのです。サタンの愛によって、サタンの生命を受けるようになったため、神様の前にいることができなくなり、神様は彼らを追い出したのです。それで失郷民になったのです。神様の生命を受けなければならないのに、悪魔の生命を受けたのです。父母の愛によって受け継いだ生命なのに、それが、まぎれもなく悪魔の生命になっているために、追放されたのです。その次は何でしょうか。悪魔の血によって汚されました。悪魔の血統を受け継いだために、追放されて失郷民になったのです。
それでは、神様の恨とは何でしょうか。故郷! イエスの恨とは何でしょうか。故郷! 数多くの義人の願いとは何でしょうか。故郷! その次には、祖国を探すことです。これを知らなければならないのです。これは人類の希望であり、宗教人の希望であることを、皆さんは知らなければなりません。
人類の本郷として定めた村里
エデンを受け継ぐ人とは誰かというと、真の父母なのです。その真の父母が生まれた所がエデンですが、堕落によって故郷の地を失ってしまったので、代わりに二番目の真の父母として生まれたお方が、エデンの園の主人になるのです。それゆえに、真の父母の生まれた所が人類の故郷になるのです。人類の後孫として生まれた皆さんにとって、ご父母様の生まれた所が故郷にならざるを得ません。
先生が生まれた所が、摂理からいえば皆さんの本郷です。神聖な所であり、本郷だというのです。それゆえに、本郷の地には本然の心情を植えるべきです。本然の心情を本郷の地に植えよう! 本然の心情を植えることができる本郷とはどこですか。(定州です)。なぜ定州ですか。定州がなぜ本郷の地になり、定州を抱えている大韓民国が、なぜ本郷の国にならなければならないのですか。そこに神様のみ意があり、終局的なすべての世界を収拾して帰ろうとするためです。
心情の出発点も一つであり、帰結点も一つです。過程も均衡的に通じるようになっていて、偏頗的、偏向的には通じないのです。定州、名前がいいでしょう。定めた村里。誰が定めましたか。神様が定めました。先生が定めたのではありません。韓国の人々が定めたのでもありません。神様が定めた村里、それゆえ、そこが故郷の地に一番近い道であることに間違いないというのです。
定州という言葉は、本当にいい言葉なのです。すべての人の故郷になることができる、そのような内容があると言うことができるのです。
平安北道定州郡
平安道の人々は「猛虎出林」(猛虎が林から出てくる)のような性格です。ソ連や中国など、国境をよく出入りして、どこでも歩き回ります。平安道の人々は外交が上手で、やり方がうまいのです。国境を出入りする人々です。
平安道の人に、なぜ官職をさせないか知っていますか。それは、完全に総なめにするからです。ですから、平安道の人を見くびらないでください。今日、韓国で経済の実権を握っているのは北韓出身の人たちですが、ほとんどが平安南道、平安北道の人です。もちろん慶尚道の人や、江原道の人も何人かいることはいるでしょう。しかし、それは神様が保護してくださり、すべて等しく分けてあげなければならないからであって、例えてみれば、彼らは魚のしっぽをもらって食べている立場なのです。
平安道の人は、頭がさえていました。なぜさえていたかというと、ここが韓国のキリスト教の本拠地であり、西欧文明を先に吸収したからです。考えが早いのです。
人材は、平安北道の定州から、たくさん出てきました。定州郡は有名です。独立運動を主導した所はソウルではありません。キリスト教の背景を中心として、共産主義と闘争したというのです。闘争する境界線には、力のある将軍が集まるのです。それと同じです。それゆえに、平安南道、平安北道から人材がたくさん出ました。多分、今も定州郡には人材が多いでしょう。定州郡だけ動けば、平安北道を動かすことができ、平安北道を動かすようになれば、北韓全体を動かすことができるのです。それゆえに金日成が、平安南道にある平壌において全部を動かしてしまうのです。
徳彦面上思里
平安北道定州郡に徳彦面という所があります。先生が生まれた面(注・地方行政単位の一つで、郡と里の間)です。その徳彦面に住んでいた人々の中で、六百世帯が避難してきた人たちです。六百世帯ならば、三千名くらいになります。その徳彦面という所は、五山学校を中心としていたために、インテリが多いのです。そのため、避難民ですが水準が高いのです。
ところで、彼らは、ここで面民会をつくりました。その面民たちが団結して、徳彦面に避難してきた人の中で、貧しい生活をしている人がいれば助けてあげようと、学資金を準備したのです。しかし、誰かの家に訪ねていって、「あなたがこのように貧しい状況にあるので、面が学資金を用意して手助けしようと思います」と言えば、その貧しい生活をしている人も、「なぜ私たちが面の助けを受けるのですか。私たちには必要ありません。私たちは絶対他人の助けを受けずに、私たちなりにやっていきます」と言います。
また、米をかますごと、貧しい人に与えても、絶対受け取らないというのです。「なぜ、私が面の後援を受けるのか」と言うのです。このようにして、米のかますが余り、学資金が余るというのです。それを私は有り難く思ったのです。その徳彦面という所は、私が生まれたからそうなのでしょうか。徳彦面から博士が十二人輩出し、事業家も多いのです。
ところで、統一教会の文先生は、昔はそのように思わなかったけれども、今では世界的な偉人になったといううわさが立ったのです。それで面民たちが、面民会の名簿集を作って、その郡で最も有名な人、われこそはという人はすべて載せて、私たちはこのように誇り得る面に生まれたという宣伝をしようと考えたのです。それで、私は「世界に宣伝しなければならないのであって、面だけに宣伝するようにはなっていない」と言いながら、「載せるのはやめなさい」と言いました。
この面民たちは、団結して「他人の世話にはならない」と言う人たちです。ですから今後、その面民たちに「統一思想」さえ入れば、現在の統一教会の教会員たちは面目を失うのではないかと思います。私はそれを見て、また、その定州の人の、徳彦面の人の、人となりが良いというので、感動しました。
本来私が生まれた所は、平安北道定州郡徳達面徳星洞です。定州郡の地方のある村で徳が達し、その次に徳星洞、徳が星のように輝くというのです。これがのちにどのようになったかといえば、徳彦面、士人を表す彦の字です。士人の彦の字は、知識を表すのです。上思里、上を考える里に変わったというのです。徳がある星とはどういうことですか。それは主を象徴することではありませんか。それが徳彦面、上思里になったのです。全部発展してきたのです。それでは今後、どのようになるでしょうか。定州郡、それから統達面にならなければならないのです。それから何の里ですか。統一里です。そうしてこそ、心情圏がそこに連結されるのです。
私の村は上思里といいますが、この部落は南韓の部落だといううわさが立ったのです。やれということは皆一番よくやるけれど、一固まりとなって共産党を嫌うのです。それは私に似てそうなのです。上思は「上」を「思う」ということです。上を思うから神様を考えなければなりません。地名がそうです。上思部落ですから南韓の部落にならなければならないのです。私のような人もそこで生まれたので、上を思う人にならなければならないのです。自分であれ誰であれ、家を思わず全体を思うのだなあと、そんな話も通じる言葉なのです。
生家二二二一番地
故郷という題目を中心として、永遠に安息して暮らすことができ、幸福の基台を無限の世界に拡大させて、再び無限な世界に縮小させることのできる、力の母胎である愛の王宮があると言うならば、私はそこに行って暮らしたいと思うのです。私は、そのような世界で暮らしたいし、そのような本郷の地、本郷の故郷をもちたいのです。
皆さんは、一方向性の世界に行って定着しようと思いますか、四方性、立体性の世界の故郷に行って定着しようと思うのですか。それが、皆さんの人生に残された課題なのです。皆さんの心の、本来の心情的度量というものは無限なのです。東西南北、前後左右、球形体を拡大して宇宙までも接触することのできる本性をもっているのです。それが無限に拡大しようとするのですが、それがまさに私であり、私の本性なのです。それにもかかわらず、皆さん自身が愛の本性の拡大にどれくらい協助したのかというのです。深刻な問題なのです。
東に、西に、南に、北に、前後左右に広がっていこうとする本性の愛の心情圏が私の本性であるにもかかわらず、どのくらい私自身が力を与えてあげ、広がっていくことのできる援助者になっているのか、あるいは反対者になっているのか、どちらですか。援助者になる時は、宇宙全体が私の故郷になるというのです。それが制限されたのです。平安北道の定州が私の故郷です。定州でも徳彦面上思里二二二一番地の一点ですが、これを拡大すれば無限に大きくなります。
真のご父母様に侍って本郷の地に
人はどんなに遠くにいても、根本を離れることはできません。変わらない心情的、情緒的な根本から、離れられないようになっているのです。これは、根がそこから広がっていったためです。根を越える存在がないために、故郷に対して懐かしく思ったり、心が向かうのは不可避なのです。このように見る時、故郷というものは、私の人生において重要な教育の材料を八〇パーセント以上供給する所なので、人間から故郷の因縁を切ってしまうことはできないのです。皆さん、そうではありませんか。
先生が祖国を訪ねれば、どうでしょうか。金浦空港に降りるや否や、どこへ行きたいでしょうか。ここは祖国ですが、金浦空港を訪れたのではないのです。ではどこを訪ねていきますか。韓国の中心地はソウルですが、ソウルを訪ねていくのではなく、ソウルを過ぎ、中心地を過ぎ、あの田舎の平安北道の定州の山と海辺にある家、そこを訪ねていこうとするのです。そうするようになっています。それはなぜでしょうか。そこから出発したので、そこに行って会わなければならないと、帰っていくのです。何を中心としてでしょうか。情緒的な基準を中心として、帰っていくのです。
ですから、文総裁はどこへ行く人ですか。何をする人ですか。故郷を訪ねていく人です。簡単です。「どこへ行く人ですか」と尋ねるならば、故郷を訪ねていく人だというのです。どんな故郷でしょうか。偽りの故郷でなく、真の故郷です。故郷を訪ねていくのです。
そうして先生が生まれた故郷の地、昔私が育ったその庭、私が遊んだその村で、それらを実際の教材にして教育したいのです。その山河で跳ね回ったその時、その時代を、皆さんが死ぬ前に、直接先生を通して説明を聞くようになる時に、先生の歴史をはっきりと知る皆さんになるということを知らなければなりません。そこに行ってみなければ、霊界に行って恥ずかしくなるのです。今後「統一思想」を身につけた人々は、そこをイスラム教のメッカのように、キリスト教のエルサレムのように考えるようになるのです。
それで、「初めから私は真の父母に侍った。出発から侍って、あとにも侍った」と言うことができてこそ、天国の民になって、天国の皇族が生じることができるのです。ですから父母様に侍って、出発した所へ帰るのです。
これは、人類歴史上、一度しかないことです。先生と一緒に、先生の故郷に行くことができ、人類の本郷の地に行くことができる立場に立てるのは、一時代しかありません。これをほめたたえなければなりません。先生を中心として、行くべきか行かざるべきかといえば、死ぬことがあっても行かなければならないという、決定的価値の内容が宿っているという事実を知らなければなりません。
統一教会において、先生が生まれた故郷は、それこそ聖地です。その聖地を奪還しなければなりません。南北統一をすることと同時に、本郷の地に足を踏み入れ、その先祖の基台の上に心情圏を築いて、そこに一つの摂理の因縁を結んで、自分が宣誓をして新しい決意をすることができなければならないのです。
「故郷無情」と「大韓八景」
歌を一つ歌いましょう。私が三十八度線を越えてくる時、天の前に祈祷したことがあります。私は三十八度線以南に行きますが、南韓に行って必ず体制を整えて世界的な反共戦線を結び、この三十八度線を再び越えてきて、この北韓にいる共産党を追放しなければならないという、そのような祈祷をしたのです。
その一念をもって、今まで闘っているのです。きょうもそうであり、残った余生も、その目的を完成する時まで前進しなければならないのが、一つの使命だと思っています。今は緩衝地帯であるということを思うたびに、いつそこを過ぎていくのかと思うのです。韓国の歌の中にそのような歌があるので、その歌を一度歌ってみます。
一、雲も泣いて越える、泣いて越えるあの山の麓
その昔、私が暮らしていた故郷があったのだが、
今は、どこの誰が暮らしているのか
今は、どこの誰が暮らしているのか
谷間の水が乾いて
瑞々しい肥えた田に雑草が生えているなあ
二、鳥も家を探す、家を探すあの山の麓
その昔、私が暮らしていた故郷があったのだが、
今は、どこの誰が暮らしているのか
今は、どこの誰が暮らしているのか
海には船だけが浮かんで
漁師たちの歌声が消えて随分たつなあ
もう一度歌いましょうか。(アンコール)。「大韓八景」の歌を一度歌ってみます。私は、世界の多くの所に行ってみました。名のある所にはみな行ってみました。世界を回ってみましたが、韓国のように美しい国はありません。
神様がいらっしゃるならば、地球星を眺めてみる時、自然が最も美しい所は韓国だと考えられるのではないかといつも思っています。その韓国の山河、素晴らしい山河の中で暮らしているということを、皆さんは幸せだと感じてください。
一、えヘー、金剛山一万二千 峰ごとに奇岩であり、
漢拏山 高く高い 名勝のこの山河よ
えヘー、良いな良い えヘー良いな良い
名勝のこの山河よ 誇りだなあ
二、えヘー、石窟庵 朝に見れなければ恨になり
海運台の夜の月は 見るほど有情だ
えヘー、良いな良い えヘー良いな良い
名勝のこの山河よ 誇りだなあ
三、えヘー、白頭山天池淵は 仙女の夢が深く
鴨緑江の夏の季節には 筏が景概だ
えヘー、良いな良い えヘー良いな良い
名勝のこの山河よ 誇りだなあ
二 南平文氏の家門の伝統と家庭環境
南平文氏の起源と伝統的性格
統一教会の文先生は、どこの産ですか。どこの産かといえば、平安道産でしょう。それでは平安道文氏の根本先祖はどこですか。全羅道の人です。南平文氏です。羅州の横の、南平という所が本郷です。このように本郷を探求してみれば、私も全羅道の人です。全羅道の人々の恨を一度解いてあげなければならないので、私がこのような話をしたならば、「南平郡が本郷の文総裁は私たちの側であるので、慶尚道に行ってそのような話をしたとしても、それは気分が悪いことではない」。そう言うのではありませんか。
私が文氏の先祖(文多省公)を注意深く見てみると、文氏は私生児から出発しているのです。族譜を明かしてみると、新羅時代の慈悲王が啓示によって、「この国に特別な赤ん坊が生まれたので探せ」という命を受けて、南平にある文巌という岩で泣いているのを探し出して、そこから出発したというのです。花郎道(注・儒仏仙の三教、三徳の精神を尊び、五戒を信条とする花郎の道理)思想の発想者が誰かというならば、文氏です。今はそれを知らずにいます。そのような複雑なことがらが絡み合っているというのです。
文洪権(七十二家庭)が来て話すには、李太祖の二番目の息子がそう言ったというのです。文氏は忠臣が多いのです。それゆえに、「文氏宗族は今後、絶対奴婢として使うな」という勅命を下したといいます。そのような文献があるというのです。李朝時代に、文氏を奴婢として使わなかったというのです。「摂理的に見れば、その話も妙に一理ある」と思って聞いたのです。
また、文氏を見ると、賢いから、重要機関にみな入っていたのです。文氏は、頭がいいのです。また頑固さも並大抵ではありません。どんなに貧しくても、片意地を張るのです。全羅道に行っても変わらず、満州に行っても変わらないのです。そのような執念があるのです。文氏は本当に両班なのです。李朝時代には、官職につきませんでした。官職につけなかったのでなく、つかなかったというのです。わざと科挙試験も受けませんでした。それを見れば、骨のある一族でしょう。気概がある人たちなのです。
そのように、文氏は良心的です。不義とは妥協しない、恐ろしい頑固さがあります。そのような何かがあるのです。そのような文氏の宗族が、今はおよそ四十万になりますが、その宗族の血統をもって私が生まれたのです。
文洪権、孔子は文氏の家門から何が出てくると言ったのですか。(聖人が出てくると言いました)。では一度話をしてみなさい。私は、それが孔子の話なのか、何なのか分かりません。(はい、文氏の遺跡がたくさんあるのですが、その遺跡ごとに伝えられてきた不思議な伝説があります。南平でもそうですし、公州(忠清南道)の中始祖忠粛公(文克謙)の墓がある所でもそうですし、山清(慶尚南道)の文益漸おじいさんの墓がある所でもそうです。門中から聖人たちが出てくるという、このような話が伝えられています)。
お客さんと乞食接待の家風
先生の家門の伝統、代々伝わる伝統は、「腹が減った人を絶対手ぶらで送り返すな」というものです。お客さんが訪ねてくる時は、絶対そのまま送り返さないのです。宴会の日でも送り返すなというのです。そうした家訓があるのです。
韓国全道のたくさんの人々に、御飯を食べさせたのです。日帝時代には、日本人が搾取するので貧しくなり、韓国全道の多くの人が満州に避難して行ったのです。我が家はその道筋にあるので、私の母は、その人々に御飯をたくさん出して食べさせたのです。お母さんが毎日、三十、四十名に御飯を出して食べさせるのです。一生の間そうしながらも、不平を一言も言わなかったのです。
牛馬に引かせて穀物をひく臼の置かれた小屋があるのですが、そこに砕けた米が出ていかないように、穴を一つ開けておいて防ぐ所があるのです。冬には、炭火を入れた小さいものを一つ入れておけば、そこはオンドルの部屋よりももっと暖かくなるのです。その小屋にいつも一人二人居候するのです。世の中をいくら歩き回ってみても、この家ぐらい御飯を与える所はないから、乞食たちが仕方なく来るというのです。それで私は乞食と親しかったのです。
私のおじいさんもそうです。伝統がそうなのです。冬に乞食が御飯をくれと言えば、御飯を食べかけていても、台所からお母さんとか嫁が素早く出る準備をしていなかったならば、自分の食膳を持って出るのです。御飯を食べることができません。乞食に御飯を与えて、自分は食べられなくてもいいというのです。
韓国全道の人に御飯を食べさせたその家門は、滅びません。韓国全道で歓迎を受けることができる後裔が生まれるというのです。それでレバレンド・ムーンのような人が生まれたのかもしれません。私もそうなのです。私も世界中の人に御飯を食べさせる者です。御飯を食べているとき、食べていない人がいれば、私のスプーンが動きません。ストップするのです。
先生一代において買ってあげた服だけでも、数万着になるでしょう。御飯を食べさせてあげたことは言うまでもないのです。なぜ、そのようなことをしたのでしょうか。愛の平準化、生活の平準化をいつも考えなければならないためです。
曽祖父文禎?先生(一八四一・陰一一・三〜一九一八・一一・二六)
先生を中心として見る時、先生の歴史、先生の先祖の長い間の歴史がありますが、特に先生の四代上の先祖である曾祖父の話をしないわけにいきません。
そのおじいさんの時代から先生まで、四代を中心として見れば、私の曾祖父の時に、今の上思里に新しく引っ越してきました。夫婦が故郷を離れ、引っ越してきて、本当に難しい環境で出発したのですが、天が祝福してくださり、その当代に成功し基盤を築いたのです。
その方に、三人の息子がいました。その三人の息子の中で、私のおじいさん(文致國氏)が長男でした。その次には文社長のおじいさん(文信國氏)、その次には城州のおじいさん(文潤國氏)がいました。我が家が本家でしたが、曾祖父の時には本当に豊かに暮らしたといいます。天から多くの財産を祝福されたために、その近隣地域では有名な家門でした。
祖父文致國先生(一八七〇・陰九・二〜?)
私のおじいさんについて言うならば、おじいさんは一字無識(注・文字を一字も知らないこと)です。学校も行かず、書堂にも行かなかったのに、『三国志』を、一番最初のページから最後のページまで全部、一度誰かが話してくれれば、それをそのまま繰り返すことができる能力をもった人でした。一度聞けば、そこまでできるのです。
我が家は国道の横にありましたが、全部「どこどこ村の文氏おじいさんの家に行ってみろ」と言うので、ある時は客間におよそ三十人が集まったこともあります。私のお母さんは強い性格なのに、舅に侍って、一生の間食事の仕度をして、汗を流しながらも不平を一言も言えなかったのです。
また、おじいさんがいるので、みな酒やたばこをたしなまないのです。おばあさんも年を取って、一人で暮らしていて寂しいために、たばこを吸い始めましたが、もともとは吸いませんでした。なぜでしょうか。それをたしなむお金があれば、それで一杯でも人に施そうというのです。
従祖父文潤國牧師(一八七七・陰一・三〇〜一九五八・陰一・二)
私のおじいさんの代を見れば、三兄弟がいましたが、末っ子のおじいさんは牧師でした。このおじいさんは、三・一独立運動の平安北道の総責任者として、全国の責任者たちと内密に計画をしてきました。そして、五山学校の職員と生徒および教会信徒、五山住民たちを率いて、万歳示威運動を繰り広げました。この時、主謀者として日本の憲兵に逮捕されることによって、獄中で苦しい生活を二年間されました。獄中の苦しみから放免されてからも、故郷で楽に暮らすことができず、一生の間他郷暮らしをされました。日本の警察の迫害から身を避けながら、江原道旌善で生涯を終えられたのです。
すべての財産が、おじいさん(文致國氏)に相続されたのですが、そのおじいさんの牧師だった弟(文潤國氏)が、その財産を担保に取られ、すべて使ってしまったので破産してしまいました。それこそ、私の家は一瞬にして破産してしまったのです。そのことによって、私の家の人々は、苦労をたくさんしました。
そのあとには、そのおじいさんの弟が他人の鉱山まで売ってしまったといううわさが立ちました。その当時、信徒の中に鉱山をもっていた人がいたのですが、その信徒の鉱山まで売ってしまい、なんの音さたもなく消えてしまったというのです。
ですから、おじいさんも甥たちもそのように思っていたし、文家全体、村全体、近くの村までも、そのように思っていたのです。ところが、そのおじいさんの弟がもっていたお金がどこに行ったのかというと、上海臨時政府に行ったのです。
その時のお金で七万円ならば、相当に大きいお金ですが、そのお金を全部上海臨時政府に送ったのです。そのようなことをしながら、結局外地で世を去りました。そのようなことをしたので、天が愛することのできる立場に立つことができたのです。それこそ自分のすべてを犠牲にし、信徒を犠牲にし、門中を犠牲にする立場に立って、国のために一生、放浪者として過ごしたのです。
先生が韓国に下ってきた時、親戚といえば、その方しかいませんでした。夢に、その方が血族の従弟(文龍基長老)に現れて、どのようにして亡くなられたのか、一部始終を説明して住所を知らせてくれたので、その住所をもって従弟の龍基がそこを訪ねていきました。訪ねていったところ、その時は既に従祖父は亡くなられていて、すべてのことが夢に現れたそのままで、間違いないとのことでした。
私の従祖父は、死んで旌善の谷間に埋められたのですが、それがどのようにして分かるのでしょうか。多くの試練の中でも国を愛し、監獄に行ってもどこに行っても、国を愛する一念を中心として、国の相対的基盤を備えるための教育をしました。そのような基盤があるので、いつ来ても活動できるのです。ですから、直接来て教えてあげることができるのです。そして、文龍基長老も啓示を受けて、従祖父が暮らしていた住所を教えてくれたので、探し出して城州に迎えたのです。
私が幼い時のことです。数えの七歳か八歳くらいの時でした。従祖父が日本人たちに捕まえられて、二年近く監獄生活をして出てきました。従祖父が監獄生活をしているので、独立軍の軍資金の調達に支障が生じ、どれほど困難に遭遇したのか、従祖父が出てきたという消息を聞いて、独立軍たちが夜中の一時、二時にも人目を避けて訪ねてきました。
母と父は、私たちのような子供は布団をかぶせて見ることができないようにし、そばを煮込み鶏を料理して彼らを接待しました。そのようなことがきのうのことのように、目にはっきりと浮かびます。その時、私が考えたことは「あのように立派な従祖父が、国のために生きてきたのに、なぜ監獄に行かなければならないのか。日本よりも韓国がもっと強かったら、このような姿に、このようなことにはなっていないはずなのに、力がないのでそうなのだなあ」と結論を出したのです。
父親文慶裕先生(一八九三・陰七・一一〜一九五四・一〇・一一)
私の父について言うならば、父は法律がなくても生きられる方でした。もし、父がどこからか急に借金をしてきた場合、その借金を返すのに約束した日に利子まで返してあげなくては耐えられない方でした。どんなことがあっても、その約束を履行する人なのです。約束を遂行することにおいては模範的な方でした。法律がなくても正しく生きる人なのです。
世の中が利口だという人は、そこから下りていくのであり、世間ずれしていなくて善良な人は、そこから後孫を通して上がっていくのです。そのような意味では、私の父のような人は代表的な人物なのです。誰かにお金を貸してあげれば、踏み倒されることはできても、無理やり取り戻すことはできないというのです。また、誰かからお金を借りてきたら、絶対に利子を一文もまけてもらおうとはしないというのです。何日にお金を返してあげると約束すれば、その日にもしお金がなければ、牛も売り、牛だけでなく家の柱でも抜いて、それを売って返すというのです。ですから、お金のやり取りをするなら誰々、またお金を借りるなら誰々、そのように名前が通ったのです。世の中が見る時、他人が見る時、人があまりにも良いのでそうなのだという、そのような家中から私のような人が生まれたのです。
私が幼い時、父がした話をします。親戚の中のことですが、親戚の中に頭が良くてこざかしい人がいて、その人が私たちの財産を自分の名義にしようとしたことがあったというのです。大きい問題が起きるところで……。そのとき父が言ったのは「浅知恵では、すべての真理は動かない。真理というものは浅知恵の支配を受けない。大義による支配を受けるのである。そのようなことは何年もたたずに明らかになる」というものでした。そのように考えていたのです。
父は四百ページある賛美歌を持っていますが、これを一度さっと見ておいて、教会に行く時は持っていきません。「お父さん、なぜ持っていかないのですか」と尋ねれば、「それを持って歩けば煩わしいのに、なんで持って歩く? 失ってしまったりするだろうから置いていこう!」と言うのです。「ではどのように賛美歌を歌いますか」と言えば、「どう歌うかだって? ほかの人が歌う時、ついて歌えばいいし、分からない時は、前に立っている人のものを見て歌えばいいだろう」。そのように言いながら、賛美歌を一人で頭にみな入れてしまいました。
先生は体も太っていて、力も強いのです。父は、稲を入れた俵一つを、このように持って、階段を上がったのです。そのような良い血族に生まれたので、七十を越えた今でも、びくともしないではないですか。
私の母は活動的で、父は学者タイプでした。根本的に違うのです。何をするにしても、考えてするのです。ですから合わないのです。そのような中で先生は生まれたので、高い所と低い所をすべて測定できるのです。同じならば、高い所しか分かりません。高いものと低いものの間には、通じない所がありません。これを調和させて、すべて消化させることができるのでレバレンド・ムーンになったのです。
金慶継忠母様(一八八八・陰一〇・一五〜一九六八・一・七)
私の母について言うならば、女傑なのです。大活躍をしたのです。活躍という言葉はちょっと悪いですけど。私はお母さんに似ました。前後がふっくらして、横から見れば、平べったくないのです。そして力があります。力持ちです。
母は、性格の強い人です。むちで打って降参しなければ、死ぬまで打つ性格です。私もその母に似て、とても強情なのです。一度始めれば、相手が降参するまでは後退しようとはしないのです。そうなのです。
我が家について言えば、娘が六人で、息子が二人です。兄さんが一人いました。母は十三人を産んだのです。それを見れば、子供をたくさん生む血筋だということです。死んだ兄弟も多いけれど、十三人の中で八人(大きいお姉さん、小さいお姉さん、龍壽、孝淳、龍明、孝心、孝壽、孝善氏)が残りました。娘六人を嫁がせるのに、母がどんなにつらい目に遭ったでしょうか。嫁に行く日になれば、行かざるを得ないから行きますが、父母が苦労し、一家門中が苦労するのを見ると、娘に生まれたことが、本当に恨めしいようでした。
私の母は、仕事をたくさんしました。子供たちが多くて、その子供たちを結婚させるためには、木綿を織らなければならないのです。木綿を織るためには、綿の木から綿を取って、そこから毛を抜いて糸車に入れて、糸を伸ばさなければなりません。それを平安道の言葉では、「トッケンイ」というのです。このようなものを十反、十一反、十二反……。二十の縫い目を一反とするのです。十二反ならば、一反が二十丈ですから、二百四十丈でしょう。それが本当に、粗織りの木綿のようにきれいなのです。
ここのことは知りませんが、婚礼をする時、その家柄を評価するのは、平安道では礼緞(注・進物として送る絹織物)だと言いました。婚礼に必要な品物、服などをいろいろと送ります。昔、平安道では、最高の高級木綿を誰が何反くらい持っていくか、それを自慢します。それによって、その家の家門がどれほど自立、自足できるかを評価しました。食べて暮らすには、着ることが重要だからです。その時にナイロンの服がありましたか。服というものは、全部婦女子たちが綿を摘んで糸を作り、機を織らなければならなかったのです。
そのようなことにおいては、私の母はチャンピオンでした。お母さんの力は強いのです。一日に十本縒りならば、二日で二十丈を織ってしまうのです。普通の女性が三丈、四丈織るのに、二十丈を織るのです。私の姉が嫁に行く時、最も忙しい時には一日に一反を越えました。忙しいから、いつ休む間がありますか。ばたばたとしてしまうのです。私もそのような性格に生まれついて、ぱたばたと上手です(笑い)
故郷の母が、私を本当に愛しました。すべてのお母さんが子供を愛するでしょうが、特別に母は私を愛しました。それをしばらくの間話せば、涙を流す場面が多いのです。
文龍壽大兄様(一九一五・陰三・五〜?)
兄の信仰は徹底していました。兄は六・二五事変が起きることもあらかじめ知っていたし、私たちの民族が解放されることもあらかじめ知っていました。すべての難しい問題を、霊界の指示を通して解決する信仰の態度をもっていました。兄には持病がありましたが、それはどうすることもできないものでした。しかし、兄は薬を使って治すという心は、夢にももちませんでした。ただ祈祷で、信仰で病気を克服していきました。そのような信仰基準で、その病気を治したのです。
私の兄は弟の私に対して、他のことは知らなくても、歴史上には数多くの兄弟がいたけれど、自分の弟は歴史的な弟だと知っていました。それゆえに私が何か言えば、絶対的に従順でした。その頼みがどんなに難しいことでも、そのことを行うのに躊躇しない兄でした。
このような兄と、別れるようになりました。南北が分かれたのです。間違いなく、兄は北傀の手で殺されたのです。私が韓国の地に出てきて、このようなことをしているために、北韓の地に残っている私の一家、親戚は、言いようのない受難と逆境の中で亡くなったか、今もそのように生きていることでしょう。歴史的過程を中心として見る時、必ずそのような過程をたどらなければならないのです。
天が準備した長孫(直系の子女)の血統
私は種子がちょっと違います。大韓民国の種子とちょっと違うと思うのです。私はそのように考えます。私の先祖がちょっと違うのです。ちょっと残念でしょう。ここにいる文家、手を挙げてみなさい。文氏、手を挙げてみなさい。
祝福家庭の子女だといって、先生の前で「なぜ私たちをぞんざいに扱いますか」このようには言えません! 先生は、天が生まれるようにする時に、そのような皆さんの条件を越えて生まれました。天が私を生まれるようにする時に、既に血統を通して準備したのです。その基準は、皆さんが祝福を受けた父母から生まれたことよりも、優れた位置だというのです。
その先生が、すべての未知の世界を暴くために、皆さんが想像できない受難の道をたどり、苦痛の道まで行きました。そのような恵みを、なんの価値もなく相続できません。そのような道理はありません。その家門の息子として生まれたならば、その家門を代表した父母ならば父母、王ならば王を誰よりも愛して、その愛する標的が、永遠万代にほめたたえられる立場に立ってこそ、その代を継ぐことができるのです。これが相続伝授の原則であって、適当にしてはいけないというのです。
したがって、先生の一族を愛さなければならない時が来るというのです。文氏を尊重視しなければならない時が来るというのです。皆さんと共に、先生に同じ立場で侍りながら、天の側に立って、天に祈祷できる伝統的基準を立てなければならないのです。天国の長孫(注・直系の子女)がいなければならないというのです。長孫! 世界を連結させようとするなら、文氏が国家版図において、国家的基準が開かれていなければならないのではありませんか。長孫たちが、上の人々が祭司長の立場に立って、世界の郷里に祭司長を代表して、韓国の宗氏(注・同姓で親戚でない人)が行って、文氏の宗義(注・親族)が祭司長の業を一日でもして行かなければならないというのです。このようにして全部連結させて、伝授しなければならないというのです。
より「ため」に生きる人が何になるのですか。中心存在になるのです。大韓民国において、公的な面を中心として、より「ため」に生きる文氏一族になれば、文氏一族が天運を受け継ぐことのできる時が目前に来るのです! 宗族の長と共に、私はそのように生きてみるという人、両手を挙げて誓ってみましょう。
三 歴史的な大混乱時代と真のお父様の誕生
第一次世界大戦三年後
皆さんは、近世史において、第一次大戦以後から今までは混乱の世界、戦争の時代が連続していることを知っています。歴史的路程というのは偶然に成されるのではなく、人類史という巨大な歴史をおいて、蕩減を払って行く道だということを、皆さんは原理で習いました。
世界のすべての知性人たちは、今は急変する世界だと言っています。このように急変してどこに行くのですか。一般の人々は、このように急変すれば絶望の世界に到達する危険性が大きいと思っています。希望の世界に到達すると思っている人は、とても少ないということを知っています。近代文明を指導してきた西洋文明は、既に没落しただけでなく、もう夜の世界に入り込んでいると言う人もいます。西洋文明を指導するにおいて、精神的な支柱であったキリスト教はもちろんのこと、キリスト教を中心とした家庭であるとか、社会であるとか、国家が傾くだけ傾いたというのです。
さあ、それではこれからの世界は、どのようになるのでしょうか。世界の若い人々の中で未来を考える人たちは、なおさら、とても暗澹とした立場で悩まざるを得ないという時代に来ています。このような実状の中で、もし神様がいらっしゃるならば、神様はそのような絶望の終着点に向かって、そのまま走らせるのではなく、これを整備し対処させて、新しい次元の世界に、希望の場に連結させる道を考えざるを得ないという結論に到達するのです。
そのような観点から見る時、神様は必ずこのような歴史的な終末、この混乱時代に、新しい歴史を創建するための準備をせざるを得ないというのは自然な結論です。それゆえに第一次大戦を中心として、世界的な問題が展開されると同時に、その後の歴史で、世界人類がだんだん興亡を分ける方向に行くということを、私たちは予測せざるを得ないのです。
そのようなことを考えてみるとき、西洋社会が没落に向かうならば、西洋思想が傾く道に向かうならば、神様は必ずその反対の東洋を起点として、傾くことのない道を模索するのです。地球が丸くて、太陽が朝昇って夕方沈んで、それを繰り返して回っていくように、歴史も回るのです。このような道理をもって考えてみるとき、西洋社会が滅亡に向かうのならば、神様は必ずアジア社会を中心として新しい朝に向かうことのできる道を模索するのです。このように見るとき、今日、西洋社会が求めているのはアジア文明であるというのです。
そのような立場から見るとき、東洋において神様は、いつからそのような準備を始めたのでしょうか。第一次大戦を中心として始めました。戦いが始まったそののちから、このことが始められたというのです。
大概大きい事件が起きたのち、三年以内にすべてのことが現れるようになるのです。そのような立場から見るとき、レバレンド・ムーンが一九二〇年に生まれたという事実を考えてみましょう。
これが三年、三数。一九一七年から三年後の一九二〇年を中心として、レバレンド・ムーンという人が出てきたというのです。今はレバレンド・ムーンですが、その時にはレバレンド・ムーンではなかったのです。何でもなかったのです。
民族の試練と三・一独立運動
その時韓国という国は、日本の占領下にありました。ですから、日本を通して生まれたことと同じになったのです。韓国は四十年間、日本の統治下にありました。すなわち、韓国は日本の支配を受けていたということです。ですから、結局先生は日本治下から出てきました。韓国から今後アダムが現れるということを中心として、日本が韓国にあらゆる圧迫を加えたのです。
先生が生まれるその時、一九二〇年代の韓国は、三年の凶年になって、この上なく難しい時でした。そうした三年期間を中心として見るとき、一九一九年に三・一運動が起きて、日本に対して反旗を翻し、新しく闘争が始まったのです。そのような刹那、二番目の年、一九二〇年に先生は生まれました。そのような試練の過程で、先生一家が独立万歳事件を中心として、試練を経験したその基盤の上で、先生が生まれるようになりました。
三・一運動をリードした人々は宗教人です。プロテスタントと天道教を中心としたメンバーが、これをリードしてきました。このようして、新しい方向に、日本帝国主義の方向ではなく、アメリカの方向に! アメリカについていくようになります。このような方向を経ていくことにより、キリスト教文化圏が急進的な発展をしたのです。
十六歳で殉国した柳寛順烈士は、堕落しないエバと同じ立場にありました。アダム国家におけるエバと同じだというのです。そのエバの立場にあった柳寛順烈士の体を、サタンが六片に分けてしまいました。六数はサタン数です。柳寛順烈士は、国家に忠誠を尽くしながら、一身を犠牲にしながらも解放運動をしたのです。
独立運動が最盛期だった一九一九年に、先生は母の腹中にいました。独立しない地で、そのまま生まれることはできなかったので、先生の生命を中心として、そのような戦いがあったのです。その時から十ヵ月後の一九二〇年に、先生が生まれたのです。堕落したエバの罪を蕩減するために、天の側の心情圏をもって、この地上のすべての女性を代表して、韓国の地を守りながら死んでいった人が柳寛順です。
摂理史で見る時、条件的に国の基盤を中心として、日本から独立するために天は摂理をしたのです。
家門に迫った憂患
私が母の腹の中にいる時、母は松の木のソンギ(注・松の内皮)をむいて食べて過ごしたという話も聞きました。これを今日見れば、神様が文先生を愛しているようなのに、生まれる時は、なぜそのように歴史的に追いつめて、一番の患難、谷間にもっていって責めつけたのでしょうか。また私が生まれる時は、我が家門にいろいろなことがあったのです。そのようなことがみな摂理歴史なのです。私が蕩減法を知っているために、そのようなことをみな理解するのであって、そうでなければ、みなうそだということになります。
我が家門、従兄弟から七親等まで、全部が蕩減を受けるのです。事が起こり始めれば、一回りするまでいいことはなく、全部打って過ぎていくのです。それで我が家は、私一人生まれることにより廃虚になったのです。私が数えの十五歳になる前まで、そうした災難が家庭から離れませんでした。こっちで苦しめられ、あっちで苦しめられて、むちゃくちゃに責め立てられたのです。
天の玉のような男の子(文龍明)誕生(一九二〇・二・二五、陰一・六、子の刻)
五色人種が集まって、レバレンド・ムーンの誕生日を祝っているのを見る時、神様が嫉妬しますか、しませんか。なぜ神様が喜びますか。レバレンド・ムーンは神様の息子だからです。それで神様は、レバレンド・ムーンを祝うのを嫉妬せず、愛するのです。世の中で父母が子供の誕生日を祝い、誕生日が来れば準備して喜びますが、神様も同じだというのです。世の中に数多くの存在と、数多くの歴史的人物が生まれては逝きましたが、私の誕生の祝賀が世界に及んで一つになる時には、神様の誕生日を祝賀してあげようと、レバレンド・ムーンが考えているので、神様は喜ばれるというのです。
産児制限して産まなかった息子、娘が、歴代の先祖を代表して、二国の天運を代表して代行できる息子、娘になると誰が分かりますか。私の母と父が産児制限したならば、文総裁が生まれたでしょうか。私の母は、子供を十三人生みました。
文総裁の骨相を見ることのできる人は、ちょっと見てください。二国の大統領の相ではありません。目がこのように小さいために、宗教指導者の素質があるのです。カメラの絞りを絞ってこそ、遠くが見えるでしょう。また鼻を見なさい。誰かの話を聞くようになっていますか。
私は、私たちの村では、「五山の家の小さな目」で通っていました。目が小さいためです。村で「五山の家の小さい目」と言えば、私だと分かります。目がどんなに小さいか、母が私を生んで、目がないと言ってしばらくの間見入ったとか。それで開いてみると、ぱちぱちしたというのです。それで安心したそうです。そのような目が必要なのです。
私が幼かったときは、顔が本当に良かったようです。私をおぶって汽車に乗ると、私の顔が見えれば、人々がのぞきに来て、抱きたがったというのです。そのように何時間かしていて、汽車から降りたという、そのような話をしていました。
昔は田舎に病院がなかったので、汽車に乗って行かなければなりませんでした。定州から宮川という所に行くのですが、そこにはキリスト教理念で建てた病院があるのです。親切だと言われている病院です。そこに、具合の悪い赤ん坊の私を抱いて行くと、その横に座った人が赤ん坊を見るや、「このように器量の良い赤ん坊を一度抱いてみたい、恵みを受けて我が家が良くなるはずだ」と言ったというのです。多分、赤ん坊を産めない、息子を待ち焦がれる女性なのか知りませんが、そう言ったというのです。
今でも、これくらいならば、どこに行っても利用するのです。アジア世界でももちろんそうですが、西洋世界でも私が劣ることはないのです。力でいってもそうなのです。先生は、よく育った野菜の中でも一等品目、まんまるの大根、先生を見ればそうでしょう。
そうなのです。そして、東洋の人のように足が短くないのです。そのように育ったのです。さっと見れば、東洋の人ではありません。東西に通じる共通の祭物として適格者だというのです。東洋人と西洋人の祭物を選ぶとすれば、私のような男性を選ぶだろうというのです。
真のお父様のお名前「文鮮明」の意味
私のまた従弟に、文昇龍がいます。本来私の名前の真ん中の字は「龍」の字だったのですが、それを捨てたところ、拾って昇均が昇龍に化けたのです。
先生の名前は文鮮明です。「文」は何かというならば、真理です。「鮮」は、きれいに、はっきり現れて、照らすのです。はっきり現れるのです。「鮮」の字は陸地と海、その次に「明」の字は何ですか。日と月、これは相対的です。これを真理で一つにしなければなりません。真理で日と月を一つにし、真理で海と陸地を一つにし、一つの世界をつくるのです。名前も、それで「鮮明」なのです。
鮮明という言葉は、澄んで、きれいで、傷がなくて、秩序的だという意味です。内外のすべてにおいて、規範に従い、それを評することができない清潔な内容をもったものが、鮮明なものだというのです。
では、真の父とは何ですか。世界人類の父です。皆さんは人類の父を愛することにより、何になるというのですか。人類の父の相続を受けるというのです。その次に先生は何ですか。お父さんであると同時に何ですか。世界王圏をもって来ませんでしたか。大韓民国の天下を号令できる王圏が成立されてこそ、世界王圏がなされるのです。
先生が「真の父母」という名前を宣布する時まで、神様がどれほど苦労し、宗教がどれほど血を流したのか知っていますか。きのう、『格菴遺録』というものを見ました。この本は『鄭鑑録』よりあとに出てきたものですが、それを見ると、既にその時から文総裁の名前が予言されて出ているのです。
第二節 幼少時代と初期学習
真の御父母様の生涯路程 1
第二節 幼少時代と初期学習
一九二〇〜一九三八・三
一 自然探求と農村生活
故郷の山河
先生は幼いときから山を見て、「あの山の名前は何だろうか。あの山に何がいるだろうか」と考えました。そのように考えれば、必ず行ってみました。また村中、およそ二里内外にあるものを詳しく調べました。その時は山河にあるすべてのもの、見える山ならば山のその向こう側には何があるか、知らずにはいられないのです。性格がそうでした。
活動範囲が大きくて広かったのです。見える野原の中には行ってみなかった所がなく、山頂の高い所へは行ってみなかった所がありません。その向こう側までも行ってみるのです。それでこそ、朝の日の光に映える、あの中には何があるか、ということが頭に入るのです。そうして、それを眺めるのであって、行ってみずに眺めるのは嫌でした。そのため、どこにいても座っている時がないのです。そのようなすべての所で、先生は信仰的な情緒を育てたのです。それが故郷の山川です。故郷の水であり、故郷の木であり、故郷の大地であり、故郷の春風であり、自分の過去のすべてのことが、生き生きとしているのです。
韓国人として、韓国の故郷の山河にあるすべての動植物、自然界のものを教材として、自分の内的な人間が育ち、豊かさを備えるようになるのです。その多くの材料を残す所が故郷ではないでしょうか。それゆえに、故郷の山河が懐かしいのです。私は自然を本当に好みました。
植物探求と木登り
私は幼い時、山に通いながら、花という花を調べてみました。知らない花がありません。家の裏の小山に行って、自然があまりにいいので家にも戻らず、日が沈むまで自然と交じわり、歩き回って、疲れてうつぶして寝たところ、夜十二時になって、母と父が捜しにきて、連れていくというようなことが多かったのです。自然をそのように好みました。
また、草も数百種類を採集して、どんなものが毒草で、どんなものが薬草であるか、また、その構造はどのようになっているかということを知るために、熱心に研究しました。それゆえに、山菜のようなものも、私の知らないものがないのです。姉と、あるいは村のおばさんたちと山菜取りに行っても、いつでも先頭に立って山菜を取ったことを思い出します。
そのうえ、幼い時自分の家の近くにあった木、例えば栗の木や、アカシアの木がありました。そのアカシアの花が咲くようになる時、その香りは本当に高尚ではありませんか。そうすると、そのアカシアの木も、眺めているだけではないのです。枝ごとに上りました。
先生は、村で誰も上ることができない一番高い木があれば、それも上ってしまいました。夜でも眠らずに、そこに上るのです。
我が家に行けば、大きい栗の木があります。およそ二百年になる美しい木です。私は申年生まれなので、木の枝ごとによく上りました。いが栗のある所に、ひたすらに上るのです(笑い)。枝が曲がって落ちれば、その下の枝に届くことを考えるのです。ですから、落ちる時は、他の枝に引っ掛けて落ちるのです。
わざわざ枝の端に行って、枝が届く所まで行く試験までするのです。そのように行き来しながら、小さい木で杖を一つ作って、それでこつこつとたたい、ていが栗を取れば、本当におもしろいのです。その栗を落とさずに取ることがどれほどおもしろいか、それがとても新鮮なのです。これは、田舎で育っていない人には分かりません。その枝が数十本あって、その栗の木がものすごく大きいのです。
それから私は五葉松を愛するのです。木に実がなければならないでしょう。五葉松には実があります。これは植えても、凍って裂けなければなりません。そして五つ葉です。これは、東西南北を中心として、一つの中央線をもっているのです。そのような意味で、先生は五葉松を愛するのです。また、この木はとてもよく伸びます。まっすぐに成長するからです。根もまっすぐで、芽もまっすぐに上がります。
また、先生は竹を見る時は、本当に気分がいいのです。いくら風が吹いても、竹は折れません。「松竹のような何だ」と言うとき、なぜ、松を先にしたのでしょうか。竹松と言ったらいいでしょう。松は折れるのです。そして、また育つのを見れば、竹は一度に育つのです。一度に育って完成するのです。少しずつ少しずつ育つのではありません。一度に大きくなるのです。それを知っていますか。すっかり大きくなってから、枝が伸び始めるのです。竹を見てください。竹は芽が出て、すぐに大きくなるのです。一番最初は、枝もないのです。一年ですべて育つのです。
鳥たちの生態観察
先生は幼い時、美しい鳥を見れば、その鳥に対して深い関心をもちました。その鳥が何を食べて生きるのか、どこに巣を作って雛をかえすのか、そのようなことを、何日かかっても、くまなく探して、必ず突き止めてしまいました。
山に見えるすべてのもの、飛び回るすべての鳥は、私が鑑定してこそ飛び回るようにするのです。かわいらしい渡り鳥が来れば、初めて見るので、この鳥の雄はどのような姿で、雌はどのような姿か、それを知りたいのです。しかし、それを知ることのできる書物がありますか。ですからやむを得ず、渡り鳥を探して研究するのです。一週間、御飯を食べないで待つのです。
ある時、かささぎが卵を産んだのですが、毎日のようにそれが気になるのです。それをはっきり確かめるまで、夜も眠れないのです。前日の夕方に巣のある所まで上ってみて、また明け方に、かささぎが出てくる前に、こっそり上ってみるのです。そのように上ってみると、卵を一つ産んで、二つ産んで、三つ産んで、毎日卵が増えるのです。そのように、毎日のように上り下りするので、かささぎと親しくなりました。初めは、死にそうだとぎゃあぎゃあとやたらに騒いだのに、毎日のように上がってきても支障がないから、知らん顔をしていました。それでひなに、何を捕まえて食べさせ、何をするのかを全部観察しました。
「ああ、先生は意地悪な先生だなあ!」と言うでしょう。私は意地悪なのです。意地悪なところもあるのです。鳥を捕まえて、カップルはみな、キスしないものもキスしろと、向き合わせたのです(笑い)。いくらやってもキスしないのです。「お前たち二匹で、喜んでキスして、ちゅんちゅんと歌を一度歌ってみろ、歌ってみろ、歌ってみろ!」と言いながら、いくらおいしいえさを持っていってあげて待っても、寒いのではないかと囲いをしてあげて、ありとあらゆることをしても、駄目だというのです。愛は、自然に成されなければならないのです。最高に自由な環境で、授け受けするのが愛だというのです。そのようなことは、先生がすべて実験してみて学んだことなのです。
かささぎの巣を見れば、すぐにああ、今年は風がどこからどこに吹くなあということが分かるのです。東風が吹きそうであれば、方向をさっと変えて、行ったり来たりしながら穴を開けて、枝を引っ張ってきて巣を作ります。それを見れば、本当に誰が教えてあげたのか、傑作品を作るのです。
これは枝を編んで作ったので、雨も漏れるのではないですか。ですから、あとで何をするかというと、土で下をすべて塗るのです。風が入り込まないように、このようにしておいて、本当に不思議なくらいに、雨が降れば、端の一箇所にすべて流れていって、雨が巣の中に落ちないようにするのです。端をできる限りそのように集めておくのです。雨が降れば、雨水が流れてそちらに落ちるようにするのです。これを誰が教えたのか、本当に素晴らしい腕前なのです。私たち人間が、そのような家を建てようとすれば、おそらく何年も学ばなければならないでしょう。ところが、枝を口にくわえて、さっさっさっとそのようにするのです。
うぐいすの巣は、このように枝にぶらさがっているのです。それを見れば、本当に不思議です。どこからか絹糸のようなものをくわえてくるのです。うぐいすは、普通の木の枝に巣を掛けません。高い所、本当に高い所、はしばみの木のような頑丈な所に巣を掛けるのです。また、うぐいすが一番よく食べる虫は何かというと、松毛虫です。おいしいものの中でも、松毛虫が一番おいしいというのです。
ひばりのようなものは、巣を作れば、私が十メートル前に座ります。ひばりは野原に巣を作ります。人に見つけられやすいため、芝の間に、本当に分からないように作るのです。普通の人には見つけられません。その横に行っても分からないのです。きっちり三角に作って、出入り口は二つ作っておくのです。
すずめを見れば、誰が教育したのか、小さいすずめの雄と雌が出会って巣を作り、そして子供を産むのですが、子供を産むと母鳥は、自分は食べるものも食べずに子供にすべて食べさせてあげるのです。それを、誰がえさだと教えてあげたのですか。それを誰が説明できますか。
また、小さいすずめたちを、じっと見てください。これがちゅんちゅんちゅんと言うと、子供たちがただのおもちゃだと思って捕まえて殺そうと思えば、思いどおりにできるすずめなのですが、このすずめは家を作ることができるのです。子供を産んで育てて、子供が危険になる時には、自分の生命を超越することができるのです。それは千年方年過ぎても、変わらないのです。
本当に、子を愛する動物の強い母性愛、父性愛というのは大したものです。ある時は、そのことを考えるといじらしいのです。そのようなこと一つを中心として、すべての鳥ならば鳥に対し比較して、生態を研究することができます。そのように教材が多いのです。
鳥たちの歌には、三つの種類があります。一番目は、おなかがすいた時に合図する歌で、それからお互いに愛する相手のために歌う歌で、それから危険な時に歌う歌があります。それは、みな違うのです。普通の人には分からないのですが、自分たちの世界では、すべて知っているというのです。おなかがすいて鳴けば、すぐに分かるというのです。そのようになっているというのです。毎日の生活が何を中心としてなされているのですか。おなかがすくのは、一度食べれば終わるのです。だからといって、毎日のように危険な場所にいるのでもないのです。大部分の歌は、何を中心としているのかといえば、相手と受け答えする関係において、歌が行き交うのです。
おもしろいことは何ですか。鳥を見ても雄と雌がいるのですが、じっと見てみると、鳥は雄のほうが美しいのです。雌はおめかししていないのです。きじを見ても、雄が美しいでしょう。ああ、これはどれほど素晴らしいでしょうか。とさかも色とりどりで、ここは紫色に光って、首にはネクタイをして、どれほど豪華にしているでしょうか。それはなぜですか。どうして、そのようになっているのかというのです。鳥たちは、たくさん繁殖しなければならないのです。繁殖するほど良いというのです。それゆえに、雄が訪ねていくのではなく、雌が訪ねていくというのです。
昆虫たちの生態探求
さあ、鳥はこのように、私たちに愛を教えるための教材なのです。動物世界、植物世界はすべて教材なのです。ちょうが飛ぶのも、このように愛しなさいという教材なのです。すべての自然世界は、愛の教材です。
虫たちや昆虫たちが生きていること、あるいは動物たちが生きているのを見れば、すべてカップルであるということを知ることができます。このように見ると、自然は何かというと、神様が人間を愛の対象として、相対理想を教育させるために展開させておいた教材、博物館だというのです。
動物もそうではないですか。春になれば、みな愛の相対を求めてさまようのです。鳥もそうであり、昆虫もやはり同様なのです。夏になって昆虫の鳴く声を聞いてみてください。その鳴く声には、二つしかありません。一つはおなかがすいて鳴く声であり、他の一つは相対に会いたくて鳴く声です。合図は簡単なのです。
先生は田舎で暮らしたので、昆虫をたくさん捕まえました。捕まえたことのない昆虫はいないほどです。
せみが鳴く時は、晴れるのです。蒸し暑い夏にひぐらしが鳴く時、そのひぐらしの声がどれほどすがすがしいでしょうか。それをじっと見ていると、汗が流れることも忘れてしまいます。どれほどすがすがしいか知っていますか。天地の調和は、すべての環境に合うようになっているのです。せみの声を愛さなければならず、ひぐらしの声を愛さなければなりません。
私のいる部屋の前に柿の木がありました。便所の前にあった大きな柿の木なのですが、その葉の光沢がどれほど青々しかったか分かりません。柿の木の葉がつやつやしていて、そこにひぐらしがいるのです。その近所では、そこが一番高い所なのです。そのひぐらしは、高い所で鳴かなければならないということを知っているのです。高い所で鳴いてこそ、効果があるのであって、穴の中で鳴いてなんの効果がありますか。それが鳴くのですが、ある時は、どれほど気分がいいか分かりません。どれほどすがすがしいか、一度聞いてみてください。
そこには、針仕事をする女性たちが、暑さを忌む心を忘れ、針仕事の手を止めて引き込まれていく、そのような境地があるのです。どのようなせみがそうなのか、一度探してみたことがありますか。先生は、関心が旺盛で、そのようなことをたくさんしました。「ああ、このせみは、こうして鳴くのだなあ」と、捕まえてみたことのないものがありません。関心が旺盛なのです。
それでは、彼らの歌は何ですか。愛を盛り上げようというのです。自分一人で「ミンミンミン」と鳴くのはなぜかというと、自分の相手もそうですが、天地のすべての環境的条件を和合させるためです。その環境の中で暮らす人々も、私たちのように歌いながら喜び得る理想をもって暮らしなさいというのです。それゆえに、自分が生まれた故郷の実を食べ、故郷の水を飲み、故郷で自然の動物たちを愛することのできる人にならなければなりません。そうなってこそ、世界的な人になるのです。
昔、蟻を見たのですが、小さい蟻にも手があるのです。蟻のようなものにも、人間が感じることのできない所までも感じることのできる、敏捷でもっと高次的な繊細な器官があるというのです。イギリスのロンドン博物館が大きいと言いますが、博物館が何百個あっても、それは説明できないのです。小さく生まれたものが、博物館何千個を背負って歩き回っているということを考えてみてください。ですから、道理というものは恐ろしいのです。
ふんころがしを知っているでしょう。この欲張りなふんころがしは、後ろ足や前足でしきりに糞を転がして大きく作ります。それを私は、よく楽しんで見ていました。ふんころがしを眺めていると分かりますが、作業するのがとても賢いのです。それをさっさっと丸めていくのです。率直に言うと、実に、素晴らしいというのです。この虫は、じっと見ていると、どんどん大きく作るのです。このくらいのものが、このくらい大きく作るのです。欲張ってです。大きくすると、押しても駄目なので、その次からは後ろに蹴っていくのです。そのようにして、それがごろごろ転がるようになると、それを離さずに一緒に転がっていくのです。
私は養蜂もたくさんしましたが、アカシアの蜂蜜が本当においしいのです。アカシアの花に蜂が留まって、味わったならば、頭を押し込んで、吸い込む時は前後の足を突っ張って、尻は下に支えて吸い立てるのです。そのような時、ピンセットで尻を引っ張ると、尻が落ちても放さないのです。どんなにひどいですか。尻が落ちるように引っ張る者もひどいけれど、その味を知って放すことができないほうが、もっとひどいというのです。それを見て、「やあ! これは、私が教えられた。私もこのようにしなければならない」と思いました。
狩りと魚取り
また、捕まえなかった動物、獣がありません。虎は捕まえてみることができませんでしたが。山猫から、たぬき、うさぎなど、みな捕まえたことがあります。興味津々です。それらは一匹で生きるだろうと思ったのに、みな相手がいました。全部カップルです。
昔は雪が降れば、数里離れた小山を、夜でも杖を持って行き来しながら、いたち狩りをたくさんしました。昼にはうさぎ狩りをたくさんしました。うさぎがいなければ、その村の犬でもほえながらついてくるようにしておいて、一つ峠を越えると「やあ、あの後ろに行って棒で殴りつけろ」と言って犬を追い立てました。うさぎがいないので、犬でも追い立てるのです。そうして叱られたりしました。犬を棒で殴れば、足が折れざるを得ないのです。ですから、吠える犬をよく訓練しました。
すずめの肉は本当においしいのです。食べてみたことのない肉がありません。ひくいながいるでしょう。ひくいなから、きじから、あおさぎ、蛇、捕まえたことのないものがありません。蛇というのは全部、毒蛇でも何でも、現れれば捕まえるのです。毒蛇が私をかみますか。私が毒蛇をかみますよ(笑い)。
また、鳥の卵も、色とりどりなものが、本当にいろいろあります。それを焼いて食べたくなれば、一つ持ってきて焼いて食べてみました。鶏の卵と鳥の卵は同じです。何の卵でも、味は同じです。
田舎に行けば大きいあまがえるがいます。子供たちが、はしかのようなものにかかれば食べることができず、熱病を患えばやつれるでしょう。そうすると、そのようなものを五匹くらい捕まえます。それは足の肌につやがあって、ぴんとしているのです。
その皮をはがして、かぼちゃの葉に包んで焼くのです。三、四重に包んで焼けば、二枚目以上は焦げません。蒸し器で蒸したようです。どんなに柔らかいか分かりません。その味が最高です。また、腹が減った時も、かえるを捕まえて焼いて食べれば、どんなにいいでしょうか。食べるものが多いのです。一人で生活するならば、御飯を炊いて食べる、そのような必要はありません。
私たちの村に行ってみれば、故郷は定州ですが、黄海の海は、我が家からおよそ一里行けば見えます。高い山に登れば、みな見えます。ところで、海に連結するその中間に、ずーっと池があり、小川があるのです。そこの焦が、四季ごとに変わります。それを取った話からはじまって、よく分かったでしよう。
海に行けば、何でもできます。海の下にはどのようなかにが住み、どのような魚が住んでいるのかみな知っています。海が先生の故郷から少し離れているので、海を学ぶためには、長期の休みがある時、毎日のように海に出かけるのです。海辺に行って、汚水のにおいがする池から、泥沼から、うなぎを捕まえるとか、かにの穴をつついて、ありとあらゆる所をみなひっくり返すのです。そのように広々と知って、その次には釣りをするのです。どのような魚がどこに住んでいるのかを知っていて釣りをするのです。かにも捕まえるのです。田舎に行けば、しなもくずがにがいるのです。釣りのようなものをみな習いに通うのです。
うなぎを捕まえるのは、先生がチャンピオンなのです。お客さんが来るとかして、うなぎの煮たのが食べたいといえば、三十分、一時間あればいいのです。先生は、早く走ることもできます。一・五里の道を走っていき、ある池で、およそ十五分あれば、うなぎを五匹くらいずつ捕まえてくるのです。
夏休みの時に行けば、一日にうなぎを四十匹以上は毎日のように捕まえました。うなぎはこれくらいなのです。そのようなのがどこにいるのかというと、あの深い水の中に……。そのうなぎを見ると身を伏せているのは嫌うのです。保護してくれる穴がぴたっとふさがっている、そこに頭が出て、尾が出ていても、体を覆うことができれば、安定感を感じるのです。生理的に、生態的にそのようになっているのです。それで穴を探して入っていくのです。かに穴のような所を見れば、そこにいるのです。そのような穴をそっと見ると、穴が横に通っていて……。それはさっと触れば分かるのです。手をこのようにしてみれば、分かるのです。それに関しては専門家になりました。うなぎに対しては、それは間違いありません。
家畜への愛
昔、私は牛に草を食べさせることが本当に嫌でした。それで、向こう側の村の野に結んでおくのです。そして半日くらい過ぎれば、自分に食べさせてくれる人が出てくるはずなのに出てこないから、牛が「モー」と鳴くのです。けれども牛は、主人が出てこないといって、向かってくるのではなく、遅く行ってもひたすらに懐かしがるのです。それで私は、み旨の前に、あのようでなければならないと考えたのです。
皆さん、屠殺場に行ってみなさい。昔、私は屠殺場に何度も行ってみたのです。物心のつかない時は、おもしろいからです。私たちの村から、およそ四キロメートル行けば屠殺場がありました。誰かが牛を連れて行くというならば、朝から行って待つのです。屠殺屋が出てきて、鉄のハンマーを持って入ってきて、横から牛が入ってきて立つと、いつぶんなぐったのか分からないうちに、ぶんなぐってしまい、見るとあっという間に倒れるのです。すると、目がひっくり返るのです。それから、皮をはいで、足を取っても、その部分がぴくぴくぴくと動いているのです。そのように犠牲にするのです。かわいそうなのです。
また、私が本当に愛していた犬がいたのです。この犬がどんなに利口か、私が学校から帰ってくる時間になれば、既にそれを知っています。本当に利口だったのです。人より優れているのです。三十分前に、さっと出てきて待つのです。遅くなる日には、きっちり知って遅く出るというのです。それは、どのようにして分かるのでしょうか。おそらくにおいをかぐのでしょう。そして、さっと来れば、私はいつも右手で触ってあげるのです。ですから、左側から来ても、右手の方にさっと回って触ってくれと、このようにこすりつけてくるのです。このように触ってあげ、顔をなでてあげないといけないのです。そうしないと、きゃんきゃんきゃんきゃんとついてきて、ぐるぐるぐるぐる回るのです。「やあ、愛が何なのか、お前もそんなに愛がいいか」。そのような思いがしました。
私は昔興味があって、豚が子を産むのを見ました。一度「うーん!」と言えば、すーっと出てくるのです。本当なのです。私はそのようなことにとても興味があって、猫が子を産むのも、犬が子を産むのも、みな見たのです。私がそれらをみんな愛したのです。
皆さんは、めんどりがひなをかえすために卵を抱いているのを見たことがありますか。目をじっと開け、足で抱えて一日中座っているのです。そうしていると、おなかのところの毛がすべて抜けてしまうのです。毛が抜けるほど座っているのですが、それは気分が良くて座っているのでしょうか、気分が悪くて座っているのでしょうか。(良くて)。私が幼かった時は、本当に関心が旺盛でした。毎日、のぞき込みました。最初は追い出そうとしたのですが、一日に三度以上のぞき込むと、追い出そうとはしなくなりました。そうでなければ、自分が逃げ出さなければなりませんが、それをしないのは、めんどりが卵を愛しているからなのです。何だか分からないままにもです。
愛している卵に何かが起これば、黙っているでしょうか。見てみれば、堅い卵を抱いて、カチャカチャさせているのです。しかし、座っている姿勢は、「天下の誰であっても触ってみろ。容赦しない。許さない」と、大王の権威をもってにらんでいるのです。めんどりの権威には、おんどりも勝手にはできません。おんどりに、「その卵を抱け」と言ってみてください。おんどりでは、三時間もせずに逃げ出してしまうでしょう(笑い)。めんどりだから、抱いているのです。それは何の力ですか。愛の力です。
好奇心と探求力
先生は数えの十二歳の時、曾祖父の墓を見ました。幼い時、墓を掘って死体を移葬するのを見て、はっと驚きました。「あ、人が死ねばあのようになるんだな。あ、この目と肉はみななくなって、このように骨だけになるんだな」とです。皆さん、骸骨を見たことがあるでしょう。「あれが人の骨なんだな」と感じました。母と父が、あるいは祖母と祖父が、「ああ、曾祖父はこのような人だった」と言っていましたが、それらの骨を見ると、形もありませんでした。「お母さんとお父さんがあのようになるのなら、私もそうだな」と、そのようなことで相当に悩みました。
知らなくては我慢できません。村で高齢のおじいさんが死んだならば、何の病気で死んだのかと尋ねてみるのです。なぜ死んだのか分からなくて気になれば、必ず葬儀を行っている所に行って聞いてみるのです。どのようにして亡くなられたのかと。ですから村のことを詳しく知るのです。
このように方事に興味津々なのです。ある村に行っても、ふん尿をくみ取るおじいさんがいれば、そのまま通り過ぎません。他の人々は、みなにおいがするので鼻をつまむのに、そのおじいさんの鼻はどのようにできていてにおいを感じないのだろうか。おじいさんの鼻はどうかなっているのだろうかと気になるのです。それで尋ねてみるのです。「おじいさん、においがしますか、しませんか」と尋ねてみると、「においがすることはするさ」と言うのです。それでは、「においは良いですか、悪いですか」と言うと、「良くもないし、悪くもない」と言うのです。それはそうだというのです。
母が、りんごやまくわうりをくれても、母に「このまくわうりはどうしたのですか」と尋ねてみます。そうすると母は「どうしたかって、お兄さんが買ってきたんだ」と言います。そうすると、「どの畑で買ってきましたか。畑で買う時おばあさんが取りましたか、おじさんが取りましたか、でなければその家の兄さんが取りましたか、姉さんが取りましたか」と、また尋ねてみるのです。それが、とても気になるというのです。まくわうりでも、誇ることのできるまくわうりなら食べるのであって、盗んで売ったまくわうりなのかどうか、分からないではないですか。それをはっきり知らずに食べれば、気分が悪いというのです。私は、飢えて死ぬなら死ぬのであって、そのようなものは食べられないというのです。それで、食べずに過ごす時もありました。
先生には、姉さんがたくさんいました。六人です。六人の女たちですが、ふろしき包みを持っていない人がいなかったというのです。一つの家に住みながらも、みな持っています。二重上の姉さんは、これくらい大きいのです。順序どおりに大きかったというのです。私は中間なので、それをひっくり返して見るのが、どんなにおもしろかったか分かりません。このはずくの巣を見ると、ないものがないのです。本当にそうです。それと同じように、姉さんのふろしきには生地でいえば、大きいものから、みな入っているのです。
農村環境の生活経験
農村に行けば、できないことがありません。田を耕すことも、畑を耕すことも、田植えも、草取りも上手でした。草取りの中で、一番骨の折れるのは粟畑です。種をまいたのち、普通三度は草取りをするのです。三度草取りをする時、こんなに大きいものを抜くのです。粟畑が最も草取りが難しくて、次には綿花畑が難しいのです。
どのようにすれば豆がよくなり、稲がよくなり、とうもろこしがよくなるかということを、みなよく知っていました。掘り出して置いてあるさつまいもを見れば、それが泥土で育ったのか、どこで育ったのか、直ちに分かるのです。泥土で育ったものはおいしくありません。泥土が三分の一程度混ざった砂場に植えれば、それは本当に甘いのです。
ですから、どのような地に豆やあずきを植えなければならないのかということが、はっきりと分かるのです。土地を一目見て、「ここには、さつまいもがよく育つのに、なぜこれを植えたのですか」と言うと、「あなたはどうしてそれが分かるのか」と言うのです。どうして分かるのかといえば、それは経験を通して分かるのです。先生が農村に行けば、農夫の中の農夫なのです。
私は農夫なのです。昔、お兄さんの仕事を手伝った時は、手で糞をこねて粉を作った人です。人糞は、とうもろこしには一番いいのです。それを運ぶことも私がチャンピオンでした。
田植えのようなことも、先生は本当に上手です。大慨ここでは、苗を縦横に整然と植えるでしょう。平安道のような所では、南より農地が相当に発展しているのです。キリスト教の文物が先に入ってきたためです。苗を一つの棒に十二間間隔に置いて、それに印をつけて、二人がそれぞれ六列ずつ移動しながら植えていくのが早いのです。ここでは、列を作って一列に人が何十名ずつ入っていって、ざぶんざぶんと行ったり来たりするので、足跡がついて困るというのです。足を踏み締めるのに、二指尺の間隔を、きちっと守ることができるように訓練しなければならないのです。そこで、誰が多く植えたでしょうか。先生が早いというのです。本当に早いのです。ですから、農作業の季節に、苗を植えてあげれば少々かせぐことは問題ないというのです。学費も問題ないのです。
また山に行って落葉をかく時、普通の人はこのようにかくでしょう。先生はこのようにつかんでかくのです。一方の手でこのようにつかみ、他の一方の手でこのようにつかむのです。全部研究したのです。それゆえ、今も落葉をかくのに誰も私についてこれません。桧の木畑に行って、落ち葉をかき始めれば、他の人が一時間かかるところを、私は四十分で終えてしまうのです。研究するのです。そのような生活背景が、今、世界を動かすこの時代に、敷石となり、材料となり、原料となっているのです。
くつしたや服のようなものは、みな私が編んで着たのです。寒くなれば、帽子も、さっさっさっと、作ります。私の姉たちに、編物を私がみな教えてあげました。パンツのようなものも、大きな綿の布をもってきて、型を書いて片側だけ縫ってきれば、自分にぴったりになっているのです。母のポソン(注・韓国固有の足袋)も作ったのです。それで、母が「やあやあ、ポソンの形をどのようにしたのか、いたずら半分にするのだろうと思ったのに、ぴったり合うもんだ!」と言ったのです。ポソンはふつう周りをこのように切らなければなりません。前をまっすぐにして、ここは少し高めにするのです。ここだけ短くしておけば、ぴったりと合うのです。足がさっと入れば、ぴったり合います。
また、先生が田舎の寺の手洗いに行って、大便をするようになればですね、その落ちる音が「どぽーん! どぽーん!」そうなのです(笑い)。それはじっと聞いてみると、どんなに詩的か分かりません。「どぼーん!」という音と、風鈴の「チリン」という音が合わさって、どんなに詩的かというのです。三十分、一時間、ある時は二時間ずっと座っている時があるのです。とてもおもしろいのです。少しずつぽたり、ぽたり、ぽたり……。それはすべて詩的なのです。いくらその音を聞いても、あきないのです。詩がそこに含まれているのです。お坊さんもそのにおいのする所に三十分もいることができないのです。十分もいることができないのです。私は三十分以上いたのです。そうです、出てくる時には私が一等です。便所も「お前、私を知っているだろう。私が一等だろう」と尋ねれば、便所が「そうだ」と言うのです。便所も幸福に思うのです。ですから、友達がいないのではありません。考え方次第なのです。すべてのものが私の同志になり私の友達になるのです。文学の友、芸術の友に、すべてなるのです。
懐かしい故郷の味
先生は、生のきゅうりも、なんでもよく食べます。とうもろこしもよく食べ、生のじゃがいもも、よく食べることができるように訓練をした人です。生の豆まで食べる訓練をしたのです。生豆が、どんなにおいしいかしれません。
母の実家が二里離れた所にあったのですが、そこに初めて行った時に、さつまいもを初めて見ました。そこではさつまいものことを、土地の果実という意味で、「地果」と呼んでいました。幼い時、母の里で歩き回っていてふと見ると、つるが伸びているものがあるので、「これは何か」と聞くと、「さつまいもだ」と言うのです。「さつまいもとは何ですか。初めて聞く名前ですが、どのように食べるのですか」と聞くと、掘って蒸して食べるということでした。それで、「それをゆでてください」と言いました。初めて食べるので、そのさつまいもの味がどんなに食欲をそそったでしょうか。それで、一人でみな食べる」と言って、さつまいもをざるごと持っていって、座って食べました。
その翌年からは、さつまいもの季節になれば、待ちきれないと、夕方になれば二里の道を「お母さん、私ちょっと出てきます」と言ってマラソンをしました。それで、さつまいもを食べてきたりしました。
田舎に行くと、五月ごろは、じゃがいもの盛りです。じゃがいもばかり食べて、それから麦めしを作るのです。その麦めしも、最近の平麦めしではなく、丸麦めしです。丸麦の精麦を、水におよそ二日ふやかして御飯を炊けば、さじでぎゅうぎゅう押さえてすくっても、粒ごとに離れ出ます。それを唐辛子みそで交ぜ合わせて食べたことを思い出します。それが今も懐かしいのです。他のもので混ぜてもおいしくないのです。ひりひりする唐辛子で混ぜて、赤みがかったものを口に入れると、歯の間からどんどん出てくるのです。それで、口をつぐんでもぐもぐ食べたことが、今でも懐かしいのです。
苦菜もおいしいのです。苦菜知っていますか。苦菜のたれを少し塩辛くして、唐辛子みそで和えて食べるとおいしいのです。この苦菜を食べるのに、口に入れる時に、ぴたっと息を止めて、息をするなというのです。甘い味が出てくるのを待つのです。すると、甘い味が出てくるのです。それを食べてみなさい。それがあれば、御飯一杯をおいしく食べられるのです。度胸のない人は、一度も食べられないのです。食べてみなさい。においをかいだりするから駄目なのです。そのままさっと飲み込んでしまえば、おいしいのににおいがする余地がありますか。
二 生まれつきの同情心と家族愛
やるせない童心の涙
物心がついてからは、鳥たちに食べるものを持っていってやり、井戸を掘ってやったのです。私が精誠を込めて泉の水を掘り、「鳥よ、お前はここに来て水を飲みなさい」と言えば、来て飲んだのです。私が食べるものを持っていってやればそれを食べて、私が行ったり来たりするのを見ても、飛んでいきませんでした。鳥は人を好むようになっています。
ある時は、水たまりを掘って、魚は水の中ではみな生きるだろうと思っていたのです。このようにしておいて、捕まえて入れて、一夜たったらみな仰向けになって死んでいました。それで「精誠を込めてお前を生かしてあげようとするのに、なぜ死んだ?」と言いました。事情も知らないでです。それを見れば先生は情的な人です。魚を見て、「やあ、お前のお母さんが泣くだろうなあ」といって泣くのです。「私が泣いてあげるよ」といって一人で泣くのです。
先生の幼い時のことですが、私の父は、犬を捕まえて食べることを一番嫌っていました。ところが、ある時、私が学校から帰ってくると、村の人々が母を押し立てて、私が愛する犬の首に縄を掛けてつるしているではないですか。その犬が死にそうになりながらも、私を見て、自分の首が引っ掛けられているのも忘れ、ひたすらに喜ぶ姿を見て、私はその犬をつかんで痛哭しました。この時、「人間は信じられないけれど、犬は信じることができるな」と思ったのです。
先生は木石のような男ではありません。情的な人です、涙の多い人です、同情心の豊かな人です。幼い時代に、弱い友達を困らせる意地悪い友達とけんかしでも、その友達の服が裂ければ、先生の服を脱いで着せてから帰った、そのような心をもった人です。
貧しい家庭を助ける
先生は天性がそうであるからでしょうが、冬に震えて過ぎ行く乞食を見ると、家に入って御飯を食べることができず、眠ることができませんでした。そのような性格があります。母と父に言って、その乞食を奥の間に連れてきて、たくさん食べさせて送ろうとしたのです。そのような素質は、天が愛することのできる素質ではないでしょうか。
村で、御飯に飢える人がいるといううわさをよく聞きました。聞かなかったならば別ですが、聞けば、どのように助けてやるかと、夜眠れないのです。それで母に話すのです。そうすると母も父も、「お前は村の人まで全部食べさせるのか」と言うのです。そのような時には、私は母と父に内緒で、米びつから米をすくって、持っていってあげました。
陰暦の十二月十五日になって、村ではどこでも宴会するのに、貧しい人々は、もちを食べたくても、食べられるでしょうか。そうすると、内緒で餅米を持っていってあげたり、魚を持っていってあげたりしたのです。村での悲しい事柄を認識して、貧しい人が赤ちゃんを産んだのにわかめがなかったり、米がなくて御飯を炊けない人がいれば、持っていって、あげたのです。
その時、数えの十一歳くらいでしたが、米を一斗売って、誰かを助けると父に宣布しました。また、父に内緒で米を一斗担いで、二里の道を歩いたことを今も思い出します。それを持っていくのに、縄や綱がないので、そのまま背負って行くのですが、心がそわそわしているために胸がどれほどドキドキするか、数えきれないほどドキドキします。それが今も忘れられません。一生の間忘れられないことです。そのすべてのことが、み旨のために行くことのできる立場に立たせたのです。
我が家は、その時貧しくはありませんでした。養蜂をするのに、数百の養蜂箱をもっていました。原版の切れ端に姫萩の芽を挿しておくのですが、そのようにしておくと、そこに蜂が押し寄せてきて巣を作り、蜜を貯蔵する所を作るのです。巣は自分が作るというのです。原版の元になるものは高いのです。それをキャビネットのようなところに積んでおきます。
田舎に行けば、油がなくて、火をつけることができない所があります。ですから家にろうそくを置いていました。石油はあげることができなくても、ろうそくの火でもつけてあげなければと思うと、心が安らかでないのです。それを我慢できるでしょうか。それでそのキャビネットの扉を開け、大騒ぎをしてこね回すのです。全部養蜂箱を散々にこね返して(注・昔蜂蜜を集めたあとに出る残りかすを集めて、ろうそくの代わりに灯をともし代用したりした)、いちいち配給をしてあげたのです。その当時、それがお金でいくらするか、その時私は世間知らずだったのです。それで結局、父に叱られました。
自分の家を中心とした故郷の村があります。そこには友達もいます。その村の中に文氏だけが住みますか。他の姓の人が入ってきて、李氏も、金氏もいます。そうすると、故郷の大人たちはみな、よそ者をないがしろにするのです、一軒しかないですから。しかし、父や祖父が何かを貸してあげることができなければ、私が担いででも持っていってあげたのです。
その時、私がこのみ旨を知る前から考えていたこととは何かというと、村なら村のかわいそうな人の友達になろうということです。貧しく暮らす人に関心をもったのです。子供に対しても、豊かに暮らす、その近辺で勢力の強い家の子とは親しくなろうとしなかったのです。反対の生活をしたのです。
村に貧しくて、御飯を食べられない人がいれば、私は寝ずにどんなことをしてでも、それを解決してあげようとしたのです。そのようにすべての人の友達になり、すべての人の友達以上の道を行かなければならないと考えたのです。
同情心と義侠心
また名節の時になれば、同志の中に、他の人と同じようには服を準備できない環境にいる同志がいれば、そのような貧しい同志たちのために積極的に動く少年でした。
村にいる貧しい友達が、弁当に粟飯や麦飯を包んできて食べれば、それを見て、私は御飯をそのまま食べることができません。取り換えなければ、食べないのです。また友達のお母さん、お父さんが具合が悪くて、病院に行くお金がない時には、私は母や父に涙を流しながら、誰々の友達の家のお母さん、お父さんが病院に行けるようにお金を出してくださいと言います。「出しますか、出しませんか」と言って、出さない時には、母と父に「私はお金を使う所があります。これこれの物を持っていって売るから、そのつもりでいてください」と宣布するのです。
また、もちのようなものですが、田舎に行けばポンボクトク(注・穀物の粉にかぼちゃなどを混ぜて糊状に炊いたもち)を蒸しかごにたくさん作ります。それを木のようなものでこのようにしておいて、犬や猫が誤って上がらないようにしておけば、冬になるとかちかちに凍るのです。それを、御飯を弱火で蒸す時、釜ぶたの下にさっと入れておけば柔らかくなるのです。それを子供たちにあげて、みんなで食べるのです。1ヶ月分を作っておくのに、数日でなくなるのです。それで大騒ぎになるのです。
友達や多くの人を本当にたくさん助けてあげたのです。ですから、誰がどのように暮らしているのか詳しいのです。その村だけでなく、数里内外のことは詳しいのです。私の性格がそうなので、知らないでは生きていけないのです。
私は数えの十二歳の時、賭博場に通ってチッコテン(注・花札などでする賭博の一つ)を全部せしめたのです。三局すれば、最後の局に取ってしまいます。一局すれば、その時のお金で百二十円を取るのです。日本帝国主義時代の百二十円ならば、大きいお金です。その時の大学生たちの一年の学費が、八十円から百二十円でした。その時、牛一匹が七十円から八十円でした。米一斗は一円十銭でした。
この人たちは、父親からもらったお金で何をするのかというと、賭事をするのです。名節の時や、十二月の大晦日と正月の十五日は、近所の賭博場の全盛期です。家ごとに巡査が来て、それを見ても捕まえません。そのようなところに、私は明るいのです。小さい私が尋ねていき、場を見て具合が悪ければ、後ろに行って寝るのです。そして、明け方に起きて、三度だけするのです。「賭けなさい」と言うのです。「私が勝つ」と言えば、間違いなく勝つのです。
それで、私は村のかわいそうな貧乏人の子供たちのために、博打でお金をもうけて、水飴を瓶のまま買い、「お前も食べていけ、お前も食べていけ」と、みんなが食べることができるようにしてあげました。悪いことはしませんでした。
ところで叔父は欲が深かったのです。村の子供たちが行ったり来たりする道に、まくわうり畑がありましたが、毎日このまくわうりのにおいのためにみな気も狂わんばかりでした。しかし、番小屋を道端に造って見張っていて、一つもくれないのです。それで私はある日、「まくわうりを食べてみたい子供たちは、全部布の袋を持って、いついつに来い!」と言いました。夜十二時ごろになって、「一献ずつ全部抜き取れ」と言いました。「このようにして萩の畑に持っていって積んでおき、何時に来て食べて行け」と言えば、朝早くから来て思いきり食べて行くのです。そうして、大騒ぎになりました。いくら考えても、甥の私しかいませんからね。「私がしました。叔父さん! 食べたがる人々に、時折まくわうり一個ずつあげるべきですか、絶対あげてはなりませんか」と言うと、「あげるべきだろう」と言うのです。
それから、姉の夫たちが来るようになれば、財布にあるお金を勝手に取り出して使っても、認めるように約束したのです。そして姉の夫たちに頻繁に来いと言いました。来ればあらかじめ約束をしたために、お金が必要ならば取り出して、村のかわいそうな子供たちに大きな飴玉も買ってあげ、水飴も買ってあげたのです。そのようなことは悪いことではありません。
家族に対する愛情
私のおばあさんは本当に純粋だったのです。人が良くて、例えば餅を作って市場に行って売るとすれば、そこで餅売りの商いをするのではありません。朝に広げておいてどこかに行き、夕方に来れば誰かがお金を置いていってくれるだろうと思うおばあさんなのです。餅はみななくなって、お金は一銭もないことも関係なく、そのようにするのです。そのような面では、とても善良な人なのです。そのようなおばあさんが蔑視されれば、私は夜眠ることができないのです。私はそのような人なのです。
私は、おばあさんと母の心を、何度も溶かしてしまいました。何をもってでしょうか。愛をもってです。おばあさんが年老いても一番好きなのは、どういうことでしょうか。昔、子供を育てていた時の心を忘れないのです。おばあさんが寝ていたら、気づかれないようにさっと入っていって、おばあさんの乳首を触りながら吸うと、おばあさんは「こいつ」とは言わないのです。おしりを軽くたたいてくれるのです。そうしてから、おばあさんのポケットにあるお金もそのまま自分のポケットに突っ込むのです。おばあさんの目を見て笑いながら、ここに入れたり、あそこに入れたりと、そのようにするのです。そうするとおばあさんは、「しょうがないわね、ふふふ」と言いながら、喜んでいるのです。舌を出して喜ぶのを見たのです。それは実験した、経験したことなのです。
私はそうでした。よその土地に行って帰ってくると、母親のところに行って毎日赤ん坊のようにしたのです。昔は私が母親の乳をたくさん吸ったのです。乳を吸うと「この子は、気味が悪い」と言うのですが、喜ぶのです。今でもしてみてください、私の言うことが本当なのか、そうでないのか。
そして、私の一番上の姉がいるのですが、病気になり、私が半年、夜通し治療をしてあげたのです。皆さんはお灸のやり方を知っていますか。
私の家には姉妹がたくさんいたのです。上に四人いて、下に二人いました。そして長期の休みに入れば、姉が住んでいる村に行くのです。姉たちはみな、田舎では中流以上の家に嫁に行きました。姉の家に行けば、食べるものもあり、海で使う網もあり、投網もあり、船もあって、すべてあるのです。行けば、じっとしていないのです。一日中近辺に出ていって、姻戚のいとこを呼び出し、そこで大将になるのです。そして魚を捕まえるのです。田舎の子供たちも、魚はうまく捕まえることができないのです。それで私が魚を捕まえて、一たらいずつ配給してあげると、「姻戚のお人!」と言うのです。
このようにしていとこ、親戚まで呼んで、「おい、お前の家では餅を作れ! お前の家では鶏を捕まえろ!」と言うのです。そうだからといって、誰かの家で毎日のように鶏を捕まえろとか、餅を作れとか言うでしょうか。一度言ったら、それで終わりです。そのようにして、仲間を集めて十日ずつ、姉の嫁ぎ先の三軒に行って遊べば、一ヵ月になるのです。姉妹の夫の家がたくさんあるので、長期の休みになれば、家にいる時間がありません。
また、私の妹が数えの十三歳の時、私はよくからかったのです。「おい、お前の新郎になる人がこのような男だったらどうするのか、まぶたがこうで、何がこうで……」と言うと、「ええ、何ですって!」と言ったのです。ところが、数えの十八歳くらいになった時、遠い親戚にあたるおばさんが来て、「仲立ちしてあげるから、嫁に行くのなら会ってみなさい」と言うのです。母が「あすくらいに誰かが見合いに来るかもしれないから、そのつもりでいなさい」と言うと、翌朝、先に起きて髪の毛をくしでとかし、おしろいまで塗るのです。服も着替え、それだけではありません。家の内外を一人ですべて掃除するのです。なぜ、そうするのでしょうか。嫁に行きたいからなのです。
三 恐ろしい闘志と義憤心
正しい事に対する固執
先生は泣き始めると、一時間では終わりません。それであだ名が何かといえば、「一日泣き」です。一日中、泣くので、「一日泣き」というあだ名がつきました。村のおじいさん、おばあさんたち、みな出てきて見物しろというのです。このように、すべての村を騒がせては、寝ていた人々まで覚めるように泣いたのであって、穏やかに「えんえん」と泣きはしませんでした。大事が起きたように、泣き続けました。それで、のどがはれてかれるようになり、のちには声が出ないほどでした。それから、じっと座って泣くのではありません。しきりに跳び跳ねながら、傷ができ、肉が裂け、部屋が血だらけになるようにしました。それくらいなら、先生がどんな性格かということが分かるでしょう。
譲歩しません。骨が折れても譲歩をしません。死んでも譲歩をしないというのです。物心がつく前、十代になる前です。母が明らかに間違ったのに、子供に忠告すれば「いいえ!」と言うのです。例えば、私を見て、「一方通行はいけない」と言うならば、張り合って争うのです。すさまじいでしょう。「間違った」と一こと言いなさいと言っても答えないのです。間違っていないのに、なぜ間違ったと答えるのですか。母の性格も大変なものです。一度何かをすれば、最後まで見届けなければならないのです。「どこの子供が、父母が答えなさいと言っているのに、答えないでいいと思うのか」と言って、激しくたたくのです。その母親の子供として生まれた私は、その母親よりももっと激しいのです。後退することができますか。耐えるというのです。何と言ったらいいでしょうか。大したものでしょう。一度はどれほどたたかれたのか、私は気絶してひっくり返ったのです。そのようになりながらも、降伏しないのです。ですから、家で夭折(若死に)したと大騒ぎしたのです。何時間もたたいて気絶したので、父と母が私の前で「オンオン」と泣いたのです。その時私は、「間違っていたのなら、泣くのが当然でしょう」と言ったのです。
おじいさんもそうでした。祖父も私から忠告を受けたのです。孫を教えるといって、キセルを持って何とか言うので、「おじいさんが孫を訓示するのに、キセルを持って訓示できますか。それがこの家門の伝統ですか」と激しく言い放つから、祖父もどうすることもできないのです。幼い孫を侮ったのですが、「お前の話が合っている。片づけよう」と言うのです。それゆえ、既に数えの十二歳の時から、祖父、母と父、兄弟をみな、私の手で掌握して暮らしました。
勝負根性
私は誰にも負けない粘り強い性質をもっていたのです。幼い時には戦って降参させきれなければ、三ヵ月、四ヵ月、眠れなかった人です。その人のお母さん、お父さんまで降参しなければ、その家をそのまま置いておきませんでした。しつこい男なのです。恐ろしいといえば、誰よりも恐ろしい男なのです。他人に負けることを絶対嫌う人です。負けたことがないのです。どんなことをしてでも、必ず勝つのであって、負けることは考えもしません。前もって、負けること勝つこと、すべて分かるのです。私が一度手を出せば、死ななければ勝つのです。そのような性格の所有者なのです。
「五山の家の下の子、そいつは一度決心すれば必ずやる」と言ったのです。「家にも火を付ける」と言えば、火を付け、「おので柱を切る」と言えば、切ってしまうのです。「牛を殺す」と言えば、殺すのです。「する」と言ったならば、必ずします。そのように知られているのです。それゆえに、私が乗り出せば屈服しなくてはなりません。おばあさん、おじいさんから三代が来て屈服してこそ、私の気持ちが晴れました。
私は数えの八歳の時、一度ある一家にむちで打たれたため、その一家を屈服させた人なのです。「火を放つ」と言うならば、火を放つのです。どんなにすごい人なのか分かりません。目を見なさい。もぐらの目のように空が見えないくらいに小さいのです(笑い)。
一度、ある者が、私に鼻血を出させて逃げてしまったのです。それで、その家の門前で三十日間待って、ついには彼のお母さん、お父さんを降参させました。また、餅まで一かごもらってきました(笑い)。
私たちくらいの年齢の人は、昔めんこ遊びが本当に上手でした。めんこを打つのを知っていますか。めんこ遊び、本当に上手なのです。また銭打ち、お金を壁に打って遠くに行くようにするものと、穴を掘っておいて、たたき入れるもののチャンピオンです。「ある村の誰々がうまい」と言えば、その子と試合をするのです。お金を賭けて村同士の団体戦をするのです゜ある時は、鶏を何羽ずつ賭けてそれを殺し、そばに入れて食べたこともあります。平安道に行けば、鶏を殺して、冷麺に入れて食べます。
私が若い時は、私の同年輩の者と腕相撲して負けたことがなく、相撲をして負けたことがありません。このくらいならば男として、使いどころがあるでしょう。その例を挙げてみましょう。
私より三歳上の者が、私たちの村にいましたが、彼と相撲をして、私が一度負けました。田舎で住んだことのある人たちは知っていることですが、アカシアの木は、春になれば水分を吸い上げて、皮をはがせば、松の皮がはがれるように全部はがれます。これが固いのです。それで春になると、ひたすら曲げて、皮をずーっとはがして、負けてから六ヵ月間、このアカシアの木と相撲をしたのです。「こいつ! 私がお前を組み伏せるまでは御飯を食べない!」と言いながら、六ヵ月以内に彼を組み伏せて、ようやく寝たのであって、その前には御飯を食べることも忘れてしまい、眠ることも忘れてしまったのです。そのように、忍耐強い人です。
正義感と義憤心
先生が幼い時は、他人と請け負いげんかをたくさんしました。村に行って、大きい者が小さい者にげんこつを振るうようになれば、私が代わりに引き受けて戦いました。
道を通り過ぎるとき、けんかをする者がいれば、しばらく見て、聞いてみて、間違った者が優勢ならば、私が引き受けて戦ってあげるのです。「こいつ。お前が間違っている。これは駄目だ」と言うのです。正しいとなれば、私は命懸けで戦う人なのです。村で私をみな恐れたのです。村で威張り散らす子供がいれば、その子のおじいさん、おばあさんの腹を私がこのように小突きながら、「おじいさん、孫にこのように教えてあげたのでしょう」と忠告をしたのです。とても有名だったのです。
数えの十歳にもならなかったころ、村の二里内外にいる子供たちは、全部私の手下でした。「やー、いついつにお前たちの部落に行く」と言って、子供たちを全部集め、集団で行ってけんかをしたのです。そのようなこともしました。むちで打たれて、悔しくて泣きながら親分が誰だと私に報告をすれば、「そうか」と言って、夜寝ないで一人で行くのです。行って呼び出すのです。「こいつ、お前、誰をどのように殴っただろう。何回殴っただろう。こいつめ」と言って食ってかかるのです。
年を取った独身の男たちが、通り過ぎる乙女をひやかすとかすれば、それを私の妹のように思い、「こいつ、お前の妹であれば、そのようにできるか」と激しく反対しました。
昔、私たちの村に、クァンソクという、目がちょっと不自由な人がいたのです。私の親戚になるのですが、その人は、還暦の日だとか祝宴の日になれば、誰の許しもなく、ずうずうしく、さじと箸を持ってきて座っているのです。昔、田舎には、宴会の膳に餅を盛る、木製の四角い盆がありました。木製の器ですが、「こいつ」と言って、それで彼をぶん殴ったのです。数えの八歳の時ですが、それが忘れられません。何親等かの兄に当たります。そのように強く殴ったのですが、この男は客間で昼寝しているのです。それで、また「この男、昼寝までしているのか」と言いながら、襟首を激しく締めてたたくと、その男は殴られて鼻血が出たのです。そして、「その家に火を付ける」と言ったのです。私が「火を付ける」と言ったら、本当に火を付けることを知っているのです。ですから、その母親の一族がみな許しを請うので、私が許してあげたこともありました。私は、そのようなことを見ると、我慢できない人なのです。
性格がせっかちで激しいのです。正しいと判断すれば絶対待ちません。私は、決定してしまってこそ眠るのであって、そうでなくては眠れません。ですから、仕方なくどのようにするかというと、部屋の壁を引っかくのです。一度、二度。それでこそ忘れてしまうのです。部屋の壁を引っかいて、壁をみな壊してしまうのです。
四 注目された少年
天賦的な霊的感覚
幼い時、私が「きょう雨が降る」と言えば、雨が降りました。「一週間以内にこの村で人が一人死ぬ」、「あの上の村で、おばあさんが一人死ぬだろう」と言えば、死にました。そのようなエピソードが多いのです。
幼い時から既に人と違っていました。村にちょんと座って、「きょう、あの上の村の誰々の家のなにがしおじいさん、具合が悪そうだな、病気になりそうだが」と言うならば間違いありません。みな知っているのです。私は数えの八歳の時から、村中の見合いをさせてあげるチャンピオンだったのです。二枚の写真を見てあげて、「この人と結婚すると悪い」と言えば間違いありません。結婚してみなさい。全部、がらがらと壊れていくのです。そのような歴史があるのです。
写真を持って見て、投げれば悪くて、置けばいいということです。つかんで投げられた者と結婚すれば、必ず急死します。みな悪いのです。そして、そのまま置かれた人と結婚した人は、みな息子、娘をよく生んで、豊かに暮らしました。それを、数えの八歳からし始め、今は八十歳近いので、どんなにかこのことの専門家になったでしょうか。私は見れば分かります。取って見るとは、何を取って見ますか。においをかいで全部分かるのです。さっと見ればみな分かります。さっと座るのを見て、笑うのを見て、はっきりとみな分かるのです。
皆さんも、自分が行くべき道を知らなければなりません。ありも長雨が降ることを知っているではないですか。ありが行列を作って引っ越しするのを見たでしょう。ですから冷静になってみれば、人は心の深い所に心が落ち着く場があるのです。心が集中することのできる所があるのです。その所まで入って行かなければならないのです。そこで集中して、そこから元に戻る時には鋭敏になっているのです。その時に雑念を抱かずに精神を集中すれば、すべてのことが通じるのです。
「ああ、きょうは父と母は間違いなく出掛けるだろう!」と、学校から帰ってくる前に、父と母が家にいるかいないかみな分かるのです。五時くらいに終わるなら、四時半くらいに精神をさっと統一して調べてみるのです。それで分かるのです。「どこに行ってきたのだな」「今、けんかしているようだ」と分かるのです。それを何度かしてみるのです。そして、私が一言でも言えば、父と母は私を恐ろしがるのです。
精神統一は、本当に恐ろしいのです。私の姉が何をしているのかと思いながら見ると、すべて見えるのです。それゆえに、兄弟たちは私のことを好きでありながらも、一番恐ろしがったのです。いつも自分たちが必要な時はさっと現れて「私が必要か!」と言うのです。
牛もそうです。販売場で「あの牛は悪い」と一言言うと、それは売れないのです。私は牛も見ることができるのです。牛は、首筋の形が良くなければならなず、前足の形が良くなければならず、後ろの形が良くなければならず、腰の形が良くなければなりません。この四つの形が良くなければなりません。昔、父が牛を買いにいけば、私がさっと鑑定してあげるのです。その事実を父は知らないのですが、話をしてあげると「お前、それをどうして知っているのか」と言うのです。私は、既に腹の中から学んで出てきたのです(笑い)。それゆえに、今日、世界で誰もできないことをしているのです。
一族と村の評価
私は、二番目ですから、五山の家の下の子です。「五山の家の下の子は、今後私たち門中を生かすことができ、門中で誇ることができる天のかわいい子として生まれた」と言ったのです。聞いて見れば、みな分かります。
私の一族、私の叔父の家までも、自分の息子、娘よりも、私を尊重視しました。歌の上手な龍基、その彼のお母さん(金慶基氏)は叔母になりますが、自分の息子、娘より私をもっと愛したのです。学校に行ってくれば、自分の息子、娘が大きい飴玉を買ってくれと言っても買ってあげないのに、お金をさっと数えて、ぱりぱりしたお金を私も知らないうちに持ってきます。私が、「これ何」と言うと、「何とは何だ。お前の学費にしろと私があげるのだ」と言うのです。「自分の息子、娘は勉強もさせられないのに何ですか」と言うと、「私の息子、娘はそこそこだから、お前がうまくやれば私の息子、娘が福を受ける」と言うのです。
ある観相を見る医者のおじいさんが、私が書堂(注・漢文などを教える私塾)に行くと、私をちらっと見て「やあ、あのような男がいるのか」と……。その医者のおじいさんは、書堂の年老いた先生に「あの子はあなたの息子か」と尋ねるのです。それで「近所の誰々の家の息子だ」と言うと、うちのおじいさんを知っているので、「ああ、そうなのか」と言うのです。そして私を婿にするというのです。「私の娘が数えの十八歳なので……」。十八歳ならば、私よりも二つ上です。「私の娘は風采もよく美人だが、あの若者を見ればほれるだろう、婿にする」と言うのです・その時ヽ私は十数歳でしたが、気分は悪くありませんでした。
文社長のお父さん(文慶天)が、私の五親等で、父の従弟です。背が低くてずんぐりしていました。我が家が本家であり、私が二番目、下の者なのです。その父の従弟が、「本家の下の者は、時代を誤って生まれた。あれは、王でなければ逆賊にしかなれない。なのに、王になる道はなく、逆賊になるしか道がない」と言ったのです。文社長(文昇龍)も時々話すでしょう。
皆さん、「生而知之 学而知之」という言葉を知っているでしょう。私は幼い時も、理解が早かったのです。
私の親戚は多かったのです。私は、我が家の八人兄弟姉妹の中ではもちろん、村でも一番優秀でした。頭も良くて、相撲も上手ですから。相撲も強いのです。運動はもちろん、万事に一番なのです。それで、近所に私のために、嫁に行かないという娘たちが多かったのです。
五 初期学習と信仰入門
漢文書堂で勉強(一九二六〜一九三二)
本来、韓国は儒教に近いでしょう。先生も儒教の『論語』、『孟子』を、みな読んでみました。多方面に素質のある人なのです。絵を描いても、上手に描くのです。私は、数えの十二歳で書堂(注・漢文などを教える私塾)に行って、手本の字を書いてあげた人です。
私が数えの十歳の時、書堂に通った時には、本を一日に一ページだけ学べばいいのです。それはもう三十分以内で、みな学んでしまうのです。しっかり精神を集中してすれば、三十分で、みな頭に入れられるのです。そうしてから、訓長(注・書堂の先生)の前に行って、ごにゃごにゃ唱えればいいのです。三十分だけすればみな覚えるのに、それを一日中、「孔子曰く、孟子曰く」と言って座っていられますか。訓長は骨が折れるから、昼寝をよくします。訓長が昼寝をする時、私は山を歩き回るのです。
私は、昼食を食べずに暮らす人になりました。なぜですか。山に行って、食べられるものがどこにあるのか、どんどん分かるようになったので、そこで多くのものを取って食べたのです。このようにしていると、夕食の時までおなかがすかないのです。ですから、昼食がどうして必要であり、夕食がどうして必要でしょうか。そして、疲れれば、その山で寝るのです。すると、家では大変なことになったと言って、明かりをともして捜し回ったのです。そして、私を発見して起こすと、私は有り難く思うのではなく、「誰が明かりをともして捜しにくるのか。私は気分良く寝ているのに。人が気分良く寝ているのに、なぜ、起こして大騒ぎするのか。私が虎にかみつかれるなんてことはないのに。あなた方のように悪い人でもなく、愚かな人でもないのだから、虎が来たら、においをかいですぐに逃げ出すはずなのに」と言ったのです。
私が書堂に通った時、そこでは訓長が、大概『論語』のようなもの、『孟子』のようなものを数枚さっと書いて講義をするのです。翌朝必ず、私は習った文章を先生の前で暗唱させられるのです。暗唱することができなければ、むちでしりやふくらはぎを打たれます。とにかく、むちでしりやふくらはぎを打たれたことが思い出されます。その時は、先生の挙げた手が、ぴたっとくっついたらいい、このように思うのです(笑い)。ぶるぶる震えて、それを手放したらいい、ありとあらゆることを考えるのです。
圓峰の学院で受講
昔も、学校に行くための予備校(学院)がありました。ソウルにも、大学に入るための予備校があるのと同じようにです。その時で言えば小学校です。国家が認める、そのような学校に入るための前段階として、中間教育機関として予備校がありました。その予備校に行って勉強して、編入試験を受けなければならなかったのです。その予備校に行くために、従弟をそそのかして革命をしたのです。
四月には学校に入らなければならないので、学校に行く前に調査をしました。しかし、母と父は書堂に「訓料」、学費のようなものをみな支払ったのです。その時は「訓料」と言いました。その月謝金をみな出したのに、一年にもならないで逃げようとするからには、母と父から説得しなければならないのです。それで、母と父を説得して、祖父まで説得したのです。従弟まで説得しました。「他の人々は飛行機を飛ばしているのに、孔子曰く、孟子曰くでは駄目だ」と言ったのです。全部私が開拓したのです。
三つ以上の博士学位という夢
皆さんは今、自分なりに多くの夢をもっていることでしょう。石垣を積もうか、何々の壁を積もうか、と。先生にも夢が多くありました。三つ以上の学位を取れなければ生きていかないと、刀を腹に当てて決心した人なのです。先生の性格は、三つ以上の学位を取らなければ、誰にも教えず何も話さない人なのです。
先生は欲張りなのです。「私が生きている間に、博士を三つ以上取らなければ死ぬ」と考えた人なのです。ところで今見ると、博士が一番易しいのです。このごろは、何かの栄誉博士だか、名誉博士だか、博士学位を与えるという所がとても多いのです。
みな計算して秤で計ってみると、それが包括性がないために、みなほうり投げて、統一教会の文先生という仕事をするのです。
私が自分を見ても、頭は悪くなく、何の勉強をしても世界的な学者になっていただろうと思います。そのような頭をもっていたので、私が勉強して世界に名の通った学者になったなら何をするのか、このような問題を深刻に考えたのです。学者になっても、黒板の前で白墨を吸い込みながら、一生腰が曲がるほど、ただ研究に明け暮れて死ぬのではないか。そのようにして、すべての根本問題が解決するのかというと、解決しないというのです。そのような問題を考えてみる時、人間として行くべき道の中で、どの道が一番難しく、困難な道なのか。「行くのは困難な道だ」という道を、私は行きたかったというのです。「人間として、今まで歴史時代において過去、現在、未来のどこの誰もできないことを、私が一度しなければならない」。そのように考えたのです。
定州私立五山普通学校三年編入(一九三四)
それで予備校に入って勉強して、その時で言えば普通学校に入ったのです。五山小学校、その時は五山普通学校です。その学校の三年に、編入試験を受けて入りました。そこで一年勉強しますが、熱心にしないわけにいかないでしょう。命懸けでしたところ、成績が良くて、五年に飛び級できる許可を得たのです。
私は、小学校には、二里の道を歩いて通ったのです。それは、どのくらいの距離でしょうか。八キロメートルです。八キロメートルを毎日のように歩いて通ったのです。それゆえに、中間くらいに住む子供たちは、私がきっちりその時間に通り過ぎるから、その時出てくれば絶対遅刻しません。みな科学的なのです。それで、ずーっと峠ごとに、子供たちが待っているのです。私は、道を本当に早く歩くのです。八キロメートルを一時間以内に、四十五分で行くのです。さささーと行くのです。そうするとあとからついてくるのが忙しいのです。
私にそのようなエピソードが多いのです。母と父が、学校に行きなさいと準備することなく、私が全部準備したのです。学校の校長先生のところで、口述試験を受けるのも私がみな交渉してしたのです。全部開拓したのです。
夕方くらいになれば、おなかもぺこぺこです。二里を行こうとすれば、かなりの道のりです。ある雨の日、仲間はみな行って私が一人残りました。その時に何を買って食べたのかというと、中華料理屋に入っていき、まんじゅうを買って食べたのです。その小豆まんじゅうがどれほどおいしかったか! その時は、五銭したのです。十五銭で三つ買って食べました。三つ食べるとおなかが一杯で、それ以上食べられません。お茶とその三つをもってそこに座り、少しずつ食べて時間を過ごしながら、雨がやむのを待つのです。そうして十一時くらいになると、何度も追い出されました(笑い)。
ですから、十一時を越えたら走るのです。峠を越えて……。その時は、狼も多く、虎も多かったのです。ある山中で誰かが捕まって食べられたという、そのような時でした。平安道には虎が多かったのです。そのような田舎道を走り回りながら、学校に通いました。今考えると、それはすべて訓練でした。
その時、訓練したので、先生は今でも道をきちんと歩けるのです。するするとです。おそらく、今でも皆さんはついてこれません。
モルム村の徳興長老教会入教
先生は北朝鮮にある、地方の篤実な儒教の家庭で生まれました。十歳余りの時、全家族がキリスト教に改宗しました。先生は改宗と共に深い感銘を受けました。先生は、この新しい信仰に愛着をもって、以前に誰かを愛したことより、もっとイエス様を愛しました。
先生が幼くして教会に通った時は、礼拝時間に遅れれば、顔を上げることができませんでした。数日間悔い改めなくては、顔を上げることができずに歩くほどでした。それが今も記憶の中から消えません。遅い時間に行けば、多くの人が礼拝を捧げるのに失礼になるのではないかと思い、いつも礼拝が始まる前に、先に行ってプラスになるようにしました。
定州公立普通学校四年に転校(一九三五・四〜一九三八・三・二五)
過去、我が国(韓国)は、アジアの小さな半島の一国として、日本治下にあった悲惨な実情の国だったということを、皆さんはよく知っています。先生は少年時代を、大韓民国の自主的国家圏内で育つことができず、日本の圧制圏内で、日本の統治下で育ちました。二十五歳までそのように育ちました。ですから、徐々に世の中を知るようになって、若者として過ごすことができる、難しいすべての事情を測定できる、そのような重要な時期に、国のない民として育ったので、その時代が回想されます。
ところが、よく見てみると、五山小学校では日本語を話せないようにするのです。日本語を使えないようにします。皆さんが知っているように、三十三人(注・三・一運動の時、独立宣言書に署名した三十三人の民族代表)の中の一人とともに、日本の怨讐の立場で闘争した代表的な人である李昇薫氏が建てた学校であり、そのような学校の伝統があるために、日本語を話せないようにするのです。
私がよく考えてみると、問題は私たちが相手を知らなければならないということでした。相手を細密に知らなくては、戦おうにも対策を立てることができないという気がするのです。それで定州普通学校(注・公立普通学校)に、編入試験を受けて、四年に入りました。そこに入って、日本語を流暢に話すようになって卒業をしたのです。そのような過程を経ながら、信仰の道だとか、人生の根本問題だとか、難しいすべての問題を考えるようになったのです。
学校に行くようになれば、全部日本語を習わなければならなかったのです。カタカナ、ひらがなを勉強したことが、きのうのことのようです。一朝一夕にみな覚えてしまいました。そうしてから、雷のように一年、二年、三年、四年のすべての本をひたすらに読み、半月でみな覚えてしまいました。そうしてしまうと、耳で分かるようになったのです。
また私は最初に行って、絵を描いたものを貼り付けました。習いもしなかったのに、既に三等分して測定するのです。あの絵が、あの平原に、何等分の中に入っているなとぴったりつかみ出します。センターを中心として測定していくのです。この画用紙が三倍だから、三倍をぴったり定めて、センターを中心として、三倍に全部ちょんちょんちょんと点だけ打てば、絵がみな描かれるのです。
先生が幼かった時、ノートを使うときには、線が引かれた部分から使うのでなく、一番上から使いました。ある時は、一枚に二度ずつ書いたりもしました。そうすると、ノート一冊にたくさん書くことができるのです。物を惜しんで使わなければなりません。
そして、本を読めば、その後ろ側まで見えたというのです。昔、小学生の時……。日本語国語読本というものを五、六年の時は二巻ずつ学んだのです。一巻が百八十ページなのですが、それを一晩ですべて覚えてしまいました。人間とは、そのように恐ろしいものなのです。
皆さん、灯火を知っていますか。油に火をともして勉強したことが、きのうのことのようです。二時、三時、夜を明かして勉強すれば、母と父は、「もう寝なさい。体を壊してはいけない」と言いました。いつもそうだったのです。その時、私が一番友達としたのは夜の虫たちでした。夏には、夜の虫を友達としたのです。このようにでんと座って、二時、三時までいたのです。静かな夜に……。田舎の夜は、本当に静かなのです。虫たちが月夜に鳴くその声は、とても神秘的なのです。山をさっと歩き回っていたことが、きのうのことのようです。
卒業式の時に特別所見を発表(一九三八・三・二五 第二十九回卒業)
今も忘れられないのは、その定州普通学校での卒業式の時のことです。その時は邑だったのですが、その定州邑の有志たちや多くの父兄と先生が卒業式にお祝いのために集まりました。その卒業式では、校長の訓示があって、その次にお客さんの祝辞がありましたが、その次に私が志願してその壇上に立ち、日本に対して反駁したことが、今でも忘れられません。人々がたくさん集まったその前で、そうしたことが、今も記憶に残っています。そのようなことを見れば、少年時代の気質が、普通でなかったようです。
先生は、そのような場を望んでいました。それで、堂々と壇上に上がりました。そして、言いたいことがあると言いながら、少年時代の教育に対する批判と今までの学校の先生に対する批判をすべて言ってしまいました。「この先生はこのような性質があります。歴史の先生はこのような性格で、これこれこのような思考をしているので、このような結果にしかなりません」と言い、先生たちを批判しました。そして、時代的な批判もし、また、「この時代の責任者は、これこれこのような覚悟をもたなければなりません」と、一時間近く話したのですが、それが大問題になりました。学校を卒業する学生が、そのようなことを言うとは誰も考えることができませんでした。それで先生は、その時からレッテルが貼られたのです。警察から目星をつけられるようになりました。
第三節 神様の召命とみ旨の道出発
真の御父母様の生涯路程 1
第三節 神様の召命とみ旨の道出発
一九三五・四・一七
一 召命を前後した蕩減役事
祝福後に受ける蕩減
先生自身を中心として見る時、また、今まで先生の家庭が生活してきたのをずーっと振り返ってみるならば、神様は、ある時には祝福をしてくださるけれども、残忍で、無慈悲であられるというのです。
先生の家庭は、曽祖父の時に神様の祝福を受けました。しかし、祖父の時になって蕩減を受けました。祝福を受けたのちには、必ず蕩減を受けるようになるというのです。必ず蕩減の役事が起こるのです。イスラエル民族も祝福を受けたのちには、必ず蕩減を受けました。十ほどの祝福を受ければ、必ずその程度の蕩減を受けなければならないというのです。あるものを維持して、その種を残すためには、蕩減を受けなければなりません。しかも、家庭のための種でなく、氏族のための種を残そうとするならば、その家庭に祝福した以上の試練を、サタンが浴びせるのです。言い換えれば、十の祝福を与えるためには、二十あるいは百の試練を与えなければならないのです。必ず蕩減を受けなければなりません。
それゆえ、先生が神様の召命を受けるまで、先生の家庭に相当な混乱が起きました。一家の財産を使い果たしてしまい、人命の被害もありました。それだけでなく、私の側にいる人々に、混乱が起きたりもしました。当事者である私から始まって、全部打たれたというのです。
そのように祝福を受ければ、神様がその家庭を絶望的な状態に至るまでサタン世界に差し出すのです。そうすると、サタン世界が激しく打つのです。例えば、先生がこのみ旨を探し出してくる時まで、その背後には三代に該当する蕩減の因縁が関係されていました。祖父の代で蕩減を受け、父の代でも蕩減を受け、私の代では兄まで蕩減を受けました。おじいさんの代においても悲しいことが起きなければならず、父の代においても悲しいことが起きなければならなかったのです。これを経ていかなければ、蕩減にならないのです。
これは、私自身を滅ぼそうとする摂理でしょうか。いいえ。これは完全な勝利の基点を願う、神様の愛であることを私は知りました。堕落した血統を受けて生まれた、歴史的な摂理をおいて見る時にも、これは不可避な事実でないはずがないというのです。いついかなる時、サタンがその先祖を通して、家庭を通して、兄弟を通して、自分を通して入るか分からないのです。それゆえ、それを清算できる内容をもって、天の側を代表して出ていくことのできる背後をもつことなしには、蕩減の場に出ることができません。その当事者が知っていようがいまいが、蕩減の因縁は来るのです。
一族の次子たちの客死
先生の家がそうです。おじいさんが三人いましたが、二番目のおじいさん(文信國氏)が客死しました。三人のおじいさんの息子たちの中で、二番目の息子たちは全部客死しました。龍基のお父さん(文慶福氏)も客死し、文社長の家のおじいさんの二番目の息子(文慶勲氏)も、ソウルに来て勉強していて、病気になって死にました。また三番目の坡州のおじいさんの二番目の息子(文慶浩氏)も、フィムン高校に通っていて、やはり病気になって死にました。そうしながら、その期間に私の家門がめちゃくちゃになったのです。これはもう、サタンの総攻勢を受けるのです。
そして、私たちの代になって、私が二番目です。本家の二番目だから、私を打たなければならないはずなのに、私は倒れなかったというのです。昇均も二番目で、龍基も二番目で、みな二番目が残りました。ですから、サタンがありとあらゆることをしたのです。
ですから、賢い人を勉強させれば早く死ぬと言って、学校に送らなかったのです。私たちの門中で最高である私を保護するために、そうしたのでしょう。
そうした家門的基盤が、既に神様の蕩減法を中心とした摂理観と一致し得る路程を経てきたのです。原理がそうなので、否定できないのです。ですから私たちの家庭が、どれほど不思議なほど当てはまっているでしょうか。
また、私がこのみ旨の道を出発し、一番受難に遭ったのはいつだったでしょうか。第二次、二番目の道でした。もちろん最初の道もそうでしたが、二番目の道はより一層そうでした。そのような過程をたどらなければならなかったのです。
さて、このように見る時に、摂理史はカイン・アベルの戦いであり、カイン・アベルの戦いは、カインがアベルを打って、摂理のみ旨をいつも妨害してきたというのです。いつも摂理のみ旨は、カイン世界を占領して、アベル世界を拡張させるためのみ業をしてきた反面、サタンはカイン側の地上人たち、すなわち主権者を通して、いつも宗教を迫害してきました。この戦いは、今日まで人類歴史の出発以後、ずっと反復されてきたのです。
私たちの代でも、そうではないですか。劉孝元前協会長も、三家庭の中で二番目です。うちの喜進も、二番目の息子です。お母様の時代では、二番目の興進も客死しました。うちの恵進も、二番目の娘です。生まれて八日後に死んだのです。蕩減法がそうです。
天理の公法においては、因果原則が変わることはないことをよく知っている人なのです。それは、人間がとってつけたものではありません。私は、それを知っている人です。それゆえに、私がこの道を行っていなければ、既にサタンに奪われていたのです。どこかに行って死んでいたかもしれません。それを知っている人なので、死を越え、死を目の前にして行く道を、人知れずそれ以上前に行こうとするのです。そうするうちに、今ではもう峠をすべて越えてしまいました。
休む間もない家族の災難
霊的な現象は見えない世界で起きるのではなく、実際に見える所でいろいろな現象を起こすのです。ですから、サタンはすべての手段を使って、先生の一家を滅ぼす計画をしたのです。その渦中に、兄(文龍壽氏)と姉(文孝淳氏)が狂って、とても大変なことになりました。若かった時、そのような霊的な背景と霊的世界の問題があったのです。狂ったと思っていた兄が、よく見てみると、何か話をするのです。その内容が途方もないことでした。話す時も、兄が一人でずーっと話しますが、語る方法が違います。一日中、数名の霊人たちが来て話をするのです。それを先生は正しく知ることができました。
ありとあらゆることが起こったのです。祖父が絶命してからよみがえったり、混乱が起こったのです。お化けたちが無法な振る舞いをするのです。息子、娘を結婚させる時に使う礼緞(注・進物として贈る絹織物)というものがあります。それは、十二本縒り以上、十五本縒りになるもののことです。それを織物の反といいます。糸車で抜くもののことです。それを全部瓶に入れておいて、一反になれば、その機を織るのです。機を織って木綿を作りました。そのようにして積んでおいたものを夜に全部解いて、私の家におよそ百五十年以上生きている栗の木がありますが、そこからあの上の村の朴氏の家に大きい栗の木があったので、そこまで空中にどうにかして白く干し並べるのです。昇均、それ覚えていますか(はい)。
ありとあらゆる不吉なことが起きました。お化けがいないのではありません。また、平安道の田舎に行くと、「壁門」という、壁にやや小さい門があるのです。母が台所で火をたけば、その火がパンと鳴って、その空気を出すために開けておいたやや小さい門から抜け出して、軒先に火がつくのです。それが信じられますか。
叔父(文慶球氏)の犬が赤ちゃんの耳を食いちぎり、大きい豚が一遍に水に溺れて死に、牛が死に、馬が死に、そんなことが起きましが。私一人のゆえに、一家が全部、なんというか。私が数えの十六歳の時、この道を出発するようになる時には、十三人家族の中で、五人だけ残り、一年の間にみな死にました。
兄として、妹が喜ぶことがあれば、どんなことでもしてあげなければならないと考えたのに、その期待までもみな断たれてしまいました。妹だけでなく、愛する弟も連れていきました。
私の弟は数えの七歳の時に死んだのですが、その子は私よりハンサムで、とても関連で、「やー、あいつ、一つ大きなことをしそうだな。俺もお前に負けない」と言っていた、本当に愛らしい弟でした。名前が「龍」の字と「官」の字で、龍官です。それが、ほうそうにかかりました。その時は日帝時代でした。薬を求めることができたでしょうか。種痘がなかったその時において、ほうそうにかかって熱がぶり返すから、かっかと熱いのです。ところで、その便が甘いならば死に、苦ければ死なないとかで、母がその便の味を見るのを私は見たのです。今もそれが忘れられません。
天が切った因縁
先生自身においても、一番近かった友人たち、天で祝福してやることができる立場にある友人たちは、みな連れていかれました。みな除去されてしまいました。世の中で信じ頼ることができるものは、みな断たれてしまいました。彼らの中には平安北道の人もいたし、黄海道の人もいました。誰よりも一番近かった友人を、みな連れていってしまいました。
なぜ彼らを霊界が連れていったのかということを、今考えてみると、先生が彼らと私情を交わすのではないかと心配で、そのようにしたというのです。神様のすべてのみ旨に責任を負っていく先生が、彼らと私情を交わす恐れがあるためだったというのです。神様は、先生が世の中で関心をもつものは、すべて連れていったというのです。このようなことを先生がよく知っているために、他の道に行きたくても行くことができないというのです。
幼い時から私が他の村に行くようになれば、その村で人が死ぬとか、病気になるとか、そうでなければ馬が死ぬとか、牛が死ぬとか、そのようなことが必ず起こるのです。一生の間そうでした。ある村に静かに入っても、その村に騒ぎが起きるのです。馬が死に、犬が死に、鷲が来て一日に鶏を数羽ずつ奪っていくというようなことが起きます。そのために私は、何度も村から追い出されたのです。風変わりな人、あれが村に来たところ、そのようなことが起こったと、妖邪な人だといって追い出すのです。個人でもそうで、家族が全部そのように生きてきました。
二 イエス様との霊的出会いとみ旨の道出発
(一九三五・四・一・朝、定州の猫頭山)
根本問題の悩みと談判祈祷
先生が生まれた一九二〇年は、この地が日帝の植民治下にありました。そのころ先生は、強大国に蹂躙される弱小民族の苦痛と悲しみが何かを、痛切に感じる体験をしたのです。先生が青少年時代だったその当時には、この悲惨な戦争と罪悪の世界を救う道が何かを、深刻に悩まざるを得ませんでした。
そのような難しい国家的事情があるために、他国の統治権内において民族が受ける悲惨さを子供のころから心深く感じ、「このような環境的条件をどうにか打開していくことができないか」という問題を考えていた子供のころを思い出します。
混乱した世界情勢を、誰が責任を負って収拾するのでしょうか。個人生活が困難で、家庭生活が困難でした。村ならば村のどの家庭を見ても、幸福そうな家庭がないくらいに、混乱が支配していた時でした。さらには、部落を越えて国がそうであり、国を越えてアジアがそうであり、アジアを越えて世界がそのような混乱期だったのです。
また、少年時代から人生に関し、次のような、いろいろな基本的な問題などに対して悩み始めました。「私は誰であるか。私はどこから来たのか。人生の目的は何か。死んだのちに、私たちの生命はそのまま続くのか。また、神様は果たして存在されるのか。神様は全能であられるのか、あるいは無力な存在であられるのか。もし神様が全能であられるなら、神様はなぜ人類世界の問題を解決してくださらないのか。この地球上には、なぜ多くの苦痛が存在するのか」。
過去のことをすべて振り返ってみる時、今においては追憶の一言になるかもしれませんが、その時においては本当に深刻でした。自分の生涯の未来をかけて、どのように行くべきかという問題を談判する時期でした。
これが人間だけの決定では駄目だという事実を知っていたために、「神様がいらっしゃるならば、神様のみ意によって、人間たちの考えを越えて、決定的な路程を取ることのできる道を行かなければならない」と考えたのです。そのように、信仰の道において苦しんだすべての追憶が、生き生きとしているのです。
十六歳(数え年)の復活節の朝
先生は数えの十六歳の時に、非常な経験をしました。復活節の朝、長時間の涙ながらの祈祷の果てに、イエス・キリストが先生に現れて、多くの啓示と教示を下さいました。イエス様は、奥深く驚くべきことに対して、多くのみ言を語ってくださいました。「苦痛を受けている人類のゆえに、神様が悲しんでいらっしゃる」とおっしゃいました。そして先生に、「地上での神様の役事に対する、特別な役割をしてほしい」と要求されました。
先生が、幼い時体験したこの経験を、言葉で皆さんにみな表現するというのは、大変難しいことです。一言で言って、霊的な世界が突然本人の前に広がり、先生は自由に、その霊的な世界にいる聖者たちと思う存分通信できるようになりました。北朝鮮の地、静かな山中で、先生は何度もイエス・キリストと直接対話をしました。その時に啓示された真理の内容が、今の「統一原理」の核心になるのです。
それが啓示の始まりでした。その特別な出会いがあった時から今まで、私は生きていらっしゃる神様と、イエス様を含めた霊界のすべての聖賢たちと、絶えず対話をしてきました。その内容は、言葉ではすべてを表現することはできません。
ところで、皆さんが霊的にイエス様を見た時、イエス様が笑いながら、「ああ、いい!」と言いますか。そのようなイエス様を見ましたか。そのようなイエス様に会ったことがありますか。先生も会ったことがありません。いつも深刻で沈うつな姿で現れます。そうするしかないのです。天をよく知っているためにそうなのです。先生もそうなのです。
本来の復活節、四月十七日
この四月は皆さんが知っているように、イエス様がこの地へ来られ、受難の道を経て復活された期間でもあります。私たち統一教会では、四月十七日を復活節として過ごしています。四月は春の季節の中でも、すべての人の愛を受ける月であることを知っています。
この日は、二千年前に来て逝かれたイエス様が、復活された復活の日です。今日まで、この世界にはキリスト教徒たちがたくさんいましたが、イエス様が復活されたその一日すら知ることができずにきたことを考える時、皆さんはこの復活の一日を知ることのできない人間に対する天の心情が、どんなに苦しく、どんなに悲しいかということを考えてみなければならないのです。
そしてここにいる皆さんだけは、天と万民の代身として、誰も知らないこの一日を祝わなければならないのであり、この時間、イエス・キリストの心情を感じる、彼の内的・外的の友達にならなければなりません。そのような意味で、今日皆さんが座っているこの一つの場所は、天と地とすべての万物が注視する、貴い場所であることを感じなければならないのです。イエス様が現れ、きょうが自分の復活の日であることを証してくださったことが思い出されます。
責任感と未来のための決意
私がこの道を歩み出すようになった時は、皆さんよりもっと年齢が幼い時です。二十歳前に、この道を出発したのです。その時は天真爛漫な時代でした。良い何かがあれば、その良いものを全部自分のものにしたいし、また、村に少し風変わりなものがあれば、それを探ってみたいし、関係を結びたい、そのような心がとても強い時でした。
そのような時代に、この途方もない天のみ旨を知り、天的な大命を受けた、その日がありました。そして、この途方もなく大きいことを、神様が約束すると同時に、それを感じ、それを願いとして行かなければならない自分は、その大きいことをそのまま受け入れて、そのままそれをのみ込むことのできる自分自身にはなっていないことを知りました。支えるにはあまりにも大きく、それに従うためには内外にすべてのものを備えなければならない自分自身の責任が、どんなに大きいかということを痛感せざるを得ませんでした。
私がイエス様から使命を受けた時は、「その大きい責任をどのようにみなやり遂げるか」ということが大きな問題でした。私は、ノアやアブラハムやモーセが、どのようなことがあっても、目的とする道に行くという力が、誰よりも強かったということを知りました。
賢い人とは、難しい道を通して、未来の希望を抱いて行くことを決定した人であり、愚かな人とは、当面の幸福のために、未来を夢のように捨てる人です。先生も若かった時、そのような考えをしたでしょうか、しなかったでしょうか。青春時代は一度しかないのです。どんな道を選ぶかというのです。賢い人が選ぶべき道を選んだのです。そして、進んでいくにおいて、私が幸福になることのできる道を選ぶのか、国が幸福になることのできる道を選ぶのか、世界が、神様が幸福になることのできる道を選ぶのか。高い次元に比例して、その人格の価値だとか、歴史を支配する人間像が変わるのです。
今日の皆さん自体が問題なのです。果たして私は、自分自身があすを約束することができ、あすを保障することができる自らのその立場を決定したか、この問題が何より重要だというのです。きょう楽しむことより、未来に希望をうち立てることができる自らの覚悟と、自らの決意になっているかということが何より重要なのです。
召命を受けてみ旨の道を行く人が考えなければならないのは、「いつでも精誠を尽くしながらみ旨の目的を尋ねていかなければならない」ということです。いつでも尋ねていくために、努力しなければならないのです。先生自身も、復帰摂理の全体的な問題を中心として行く道は、平坦ではありません。ここには、私自身も考えられないほど、いらだつ立場が多いのです。
執念が必要なのです。この先生も、やはり執念をもった人なのです。私は永遠のために出発しました。執念をもたなければなりません。それが絶対に必要なのです。それから何かというと、克服が必要です。
三 召命と内的な準備(一九三五・四〜一九四五・八)
神様の実存と原理の探求
神様は御自分の時刻表に従って私を選択し、任命されたのです。ところで、なぜそのようにされたのでしょうか。問題は、神様に直接的にお伺いしてみなければなりません。私が明らかに知っていることは、そのような使命が私に付与されたということです。
救いの歴史に多くの事情を残しながら、今まで歴史の峠を越えに越えて、解決できないまま、門前まで神様が訪ねてきたというのです。すなわちレバレンド・ムーンが少年の時、神様が門前まで訪ねてきて通告しました。それがレバレンド・ムーンがこのみ旨を知り、出発した時だったのです。
道を歩いていて、偶然誰かの話を聞いてこの道を出発したのではありません。ある牧師から感動を受けて、このことを始めたのでもありません。誰かに伝道されて、この道を行っているのでもありません。それでは、その動機の出発点はどこですか。それは神様です。
私がこの道に進む時にも、「神様いますか」と最後まで探し求め、神様がいらっしゃることをはっきり知って出発しました。次には「神様に願いがありますか」と尋ねて、神様に願いがあることを知りました。また、「神様、私が必要ですか」とお尋ねして、私が必要なことを知りました。「それではどれくらい必要ですか」と問い詰めました。
このように私が一度尋ね求めると、神様は、答えてくださるか、でなければふろしきを包んで他の所に行くか、しなければなりませんでした。
そうしながら、十代後半には、信仰的路程でいろいろ悩みもしました。そうしながら、「日本に行ってみなければならない。日本を経てアメリカに行ってこなければならない。現地に行って、弱小民族が悲しみに遭い、迫害を受けるとはどういうことかを体験しなければならない」と考えました。
そして、神様がいるならば、み旨を成就させることのできる冒険をする代表者として、神様が登場しなければならないと考えたのです。
では、神様を知るには、どの程度まで知らなければならないでしょうか。神様の内情から事情、神様が行かねばならない目的地まで知らなければならないというのです。それで、このような問題を中心として、キリスト教の聖書から、すべての経典を探求してみました。
先生がみすぽらしい立場で、神様を知るようになる経験をし始めたのは数えの十六歳の時からでした。それから九年間、先生はいつも全能なる神様、そしてイエス様と共に暮らしました。先生は何回にもわたり、霊界に入ってみました。順次に神様は、驚くべき真理を教えてくださいました。それはあたかも、長い長い暗い夜が過ぎ、朝日が昇るようなものでした。その真理のなかで、私は光栄なる新しい文化の曙光を見ることができました。
新約聖書に基礎をおいたこの特別な啓示は、ユダヤ教の教えよりも、もっと立派なのです。この啓示は、すべての宗教を包摂して一つに結ぶことのできる力と能力をもっているのです。先生が受けたこの啓示は、今日「原理」と呼ばれていて、先生は神様から、この「原理」を地の果てまで伝えなさいという指示を受けました。
ここで教えてあげたことは、全部ふたで覆われていた未知の事実です。今まで人類歴史において覆われていた膨大なふたを全部開けて、それを連結して一つの理論的な体系を作って、それに実際的な事実と真理的な歴史的内容に一致させることができる結論を付けられるようにしたという事実は、驚くべきことなのです。
全国遍歴
私は世の中をよく知っています。この国の事情もよく知っています。私は数えの十五、十六歳の時、この三千里半島をすべて踏査した人なのです。自分の国を考えることができなければなりません。その国が立てられたならば、世界はどうなるでしょうか。
既に数えの十五、十六歳の時期に、韓国一帯をみな遍歴した人です。全羅道がどうで、慶尚道がどうで、家を回ってもらい食いもしてみたのです。そのようなことをしながら、民族が悲運に消えてはならないのであり、悲運の運命、天の前で退歩したその悲運の歴史は、私たち先祖の血筋を通して今日私にまでつながってきて、終着点を立てることを願っているに違いないと考えました。それで、寝入っている民族の前に、私が旗手となり、爆発的な民族の魂を世界に誇ることができる、そのような何かがあるならば、大韓民国は生きる道があると思ったのです。
その国が幸福で平安であったなら、それほど印象的なこともなかったでしょう。しかし、貧しく暮らす村々を経て、あるいは山野をさまよいながら感じたことは、「このかわいそうな民族」ということでした。そのような思いは、今でも忘れることができません。
そのように思いながら、私はこの民族の中の一人として生まれ、そのかわいそうな民族であると同時に、その当時は日本統治時代でしたが、外勢に踏みにじられながら、自分の心中と自分の生活環境を誇ることのできない悲惨さを思いました。そのすべての内的な苦汁が大きければ大きいほど、環境の困難な民族を見る時、その衝撃的な、あきれるほどの事実を忘れることができなかったことを、今思わされます。
学生時代、青少年の数えの十七歳の時に、全国において行ってみなかった所がないのです。夜を明かしてトラックに乗って回ったのです。トラックの運転手が乗せてくれなくても、それでもかき上がって乗るのです。運転席に乗れなければ、荷台にでも上がって乗るのです。乗って座っているのです。私を殺して行け、というのです。私一人が乗ったからといってパンクはしません。
そうしてトラックに乗って行き、その翌日の夕方に降りて、「おじさん、私が夕食をごちそうするよ」と言えば、「そうか」と言うのです。それで、夕食を食べながら、ひとしきり話をし合うのです。そうすると話にすっかり乗せられてしまい、私が夕食をごちそうするといった言葉も忘れてしまって、代わりにお金を取り出して自分が支払うのです。
また私は、田んぼで仕事をする自分の夫の食事の仕度をして、かごを頭に載せていくおばさんを道端に立ち止まらせて、その御飯をごちそうされた人なのです。それゆえに、臨機応変が必要です。
死も覚悟した深刻な出発
先生が初めてこの道を出発する時、どんなにたくさん考えたか分かりません。この道のために、血の汗を流して、命を懸けて祈祷しながら、一生を捧げてきた人です。
先生は今まで神様に対しながら、私が正しい、正しくないという考えをしてみたことはありません。既に死ぬ覚悟をしてこの道に乗り出したのです。私が死なず、倒れなかったので、今なお私の行く道が残っていて、経ていかねばならない約束の道が残っていると考える人です。そのように考えるので、よしあしを考える余裕がありません。
先生は一つしかない青春をすべて捧げたのです。一つしかない生命を捧げているのです。私は、頭が間抜けでそのようにしているのではありません。逃げようとしても、逃げる道がないのです。ですから仕方なく、この道しか行く道がないので行かざるを得ないのです。皆さんが深刻に考えたのなら、皆さんよりもたくさん考える先生は、どれほど深刻に考えただろうかと考えてみてください。命を懸けて、どれほど深刻だったでしょうか。
神様が人を召命されるとすれば、その人はどんな人でしょうか。その人は外形的に体格が優れた人ではなく、内的に信念が強い人でもありません。その人は真をもった人です。弱そうに見えても、愛の刀をもって、愛の心情をもって、これらすべてのことにぶつかるようになる時に、それらを切って残ることができる人です。このような人にならなくては、私たちの召命の目的地に向かって行くことができないのであり、召命された方の前に、私自らが行くべき道をみな来たと認定を受けることができないのです。
すべての問題を、先生一人で解決してきたのです。それは誰かに相談しても分からないのです。先生が将来行こうとするその道に対しては、父母も知らず、誰も知らないのです。話してみたところで、理解もできないのです。話をすれば、みな妨害にだけなるのです。
先生が十代の青少年のころ決意したことにより、今日歴史的な復帰の恨を越えて、勝利の天国の門を開門できる位置まで来るようになりました。それを知るようになる時、一人の若者が決意したその能力は、偉大なものだというのです。
故郷と氏族に顔を背けたみ旨の道
公義のみ旨、世界のみ旨を受け継ぐためには、神様を知り、神様が人間の父母であるということを知らなければなりません。それゆえに、人道に従って天道が左右されるのではなく、天道に従って人道が左右されるのです。すなわち、人情に従って天の情が動くのではなく、天情に従って人情が動かなければならないのです。それゆえに天情を立てようとする人は、人情をなくさなければなりません。天道を立てるためには、人道を吸収しなければならないのです。
それゆえに先生は、私をそんなにも愛する父母に、ハンカチ一枚、履き物一足も買ってあげられませんでした。今もそのようなことを考えれば、人間的には親不孝者です。しかし先生は、父母の前に不孝をしたとしても、神様の前には死んだとしても、不孝の立場には立たないと身もだえしながら来ました。先生は、そのような決心ですべてのものを主管してきました。そのため、゛その決意が成されるその日までは安息しない」という心をもっています。
先生は実の兄弟を救うことができませんでした。世界的カインを愛し、そして世界的カイン国家まで愛して、その方向を天の側に向けるまでは、自分の故郷に行って収拾することはできない、というのが原理観です。
それゆえに、神様は今まで、近い人々を、一番愛する人々を霊界に連れていったり、犠牲にして、カイン世界の復帰運動をした伝統的内容をもっているのです。先生は母と父に「原理」のみ言を一度も伝えることができませんでした。先生の兄は、すべてに通じる人でした。日本から解放されることも知っていたのです。そのような兄でした。
私たち一族すべて、姉や弟や妹も霊感を受けた人々です。「原理」のみ言を聞いたなら、直通できる素地が多かったのです。しかし「原理」のみ言を聞けなかったのです。話をしようとすれば、口がくっつきました。時があるのです。
統一教会の皆さんは、召命を受け、レバレンド・ムーンを通してみ旨の道を出発したのなら、召命を受けた者として、「何のために召命を受けたのか、私はどこに行くのか」をはっきりさせなければなりません。「私はこのように行かなければならない」と決心したのなら、その道において何分のいくつ、あるいは尾根の何合目にいるのか、ということを知らなければなりません。人が一度決心したならば、その決心したことを中心として、決定しなければならないのです。イエスか、ノーか、答えなければならないのです。
それは先生も同じです。天の前に私が約束をして、「これこれの道は必ずや行かなければならないので、同じ志の者が裏切っても、私の父母が裏切り、妻子が裏切っても私は行きます。私の民族が裏切り、私がいる統一教会自体が裏切るならば、これを掃いてしまっても私は行きます」と、そのように召命を受けたその日から、私は行っているのです。今も行っているのです。あすも行くのです。その道は、早く行くほど良いのです。
み旨の道出発時の回想の祈り
お父様、今から数十年前、分別もつかない幼い者を呼び、お父様が命令されたその時がきのうのようでございます。数多くの歴史的な峠を越えた今日、昔を悔いて生涯をもう一度考えることができる、このような時間を許諾してくださったことを感謝いたします。
何も分からないまま、父の前に訴えたその時に、静かに命じられたあなたの声が鮮やかに思い出されます。鼻歌を歌いながら幸福を感ずるその場よりも、涙と血を流す場で唇をかみつつ、お父様の前に誓ったその時間が懐かしく思われます。人間同士交流するその場よりも、追いに追われながらも天の因縁を誇ることのできる場が、懐かしく思われます。現在のこの地上の人間たちは知りませんが、私たちは、天を訪ねていく子女の道がそうであり、子女たちが行くべき因縁がそのような場にある、ということを知ったものです。私たちが死の道を自ら進んで行くことを決意するたびに、天はその道を再び生きることのできる復活の道につなげてこられたことも、また知ったものです。
み旨の道を知った時に、そのあわれで難しかった事情を前にして、身もだえし、あえいだその時を忘れることができません。統一家の伝統的背後には、多くの涙の交差路が絡み合っていることを知っています。今この場に帰って考えると、それが避けることのできなかった回生の一念になっています。日帝時代を経て、北朝鮮の地をたどり、韓国の地をたどり、アメリカの地をたどり、世界を行き来しました。天が行く道はそのように迫害が伴った事実を、その由来を知ってみると、天の前に感謝する道しかありません。そのような生涯の道を歩んでくるようにされたことを、再度感謝いたします。
第四節 ソウル黒石洞中学時代
真の御父母様の生涯路程 1
第四節 ソウル黒石洞中学時代
一九三八・四〜一九四一一三
一 京城商工実務学校電気科修学
(一九三八・四・一二入学〜一九四一・三・八卒業)
黙々と率先垂範
皆さんを見れば、ほとんど数えの二十歳前後、十七歳以上、二十一歳未満です。先生も過去、皆さんのような年齢の時代に、このような道を探していくために、新しい開拓者の立場に立ってもがき苦しんだ、その時代が思い出されます。
中学校の時、ソウルに来て学校に通いました。ソウルに初めて来てみると、自分の故郷に住んでいたころと、環境がどんなに違うことか。定州は、言うならば田舎です。その環境で生活したのちに都市に来ると、それはどれほど違うことか。一八〇度違います。またどれほど範囲が広いか。そこに拍子を合わせながら過ごした、あらゆることが思い出されます。
先生が皆さんのような年齢の時には、絶対に話をしませんでした。私が行くべき道を探すにさいし、道理を明らかにできず自分が立っていないのに、何の話をしますか。口を開ける日には天下が私を阻むことができないような自分に育てていかなければなりません。騒いで彷徨する場では、自分を育てることはできません。根がありません。深い根がないのです。
謙遜な人、自分に実力があっても驕慢に振る舞わない人がいます。そのような人は、むやみに触れられないというのです。何だか分からず、その人から威圧感を感じるというのです。その人には主管性が宿っているのです。先生も昔、そのような何かがありました。先生は、学生時代にはあまり話をしませんでした。学校に行っても、べらべらと話したりはしなかったのです。一日中話をしない日もありました。それで同級生たちが私に、本当に気兼ねをしたのです。学校の先生より、もっと気兼ねをしました。かといって私は、彼らを恐喝したり脅迫をしたこともなく、げんこつを振るったこともありません。それでも彼らは、私にむやみに接することができませんでした。
その上、どんなことまであったかというと、学校の手洗いで友達が小便をしようと待っていても、私が行けば、場を明け渡してくれるのです。また悩みがあれば、すべて私の所に来て相談しました。謙遜にすれば、彼らの心をすべて占領できる位置に立つようになるのです。
そして中学校時代には、清掃を私がみなしました。全学校を私が先頭に立って愛したい心があるために、全学校を代表して私が掃除をしようと考えたのです。そのような時は、他人が助けてくれるのは嫌だというのです。一人でやりたいのです。ですから、他の人がしたことを、再びするようになるというのです。そのように何度かしてみると、友達がみな、「じゃあ、お前一人でやれ」と言うのです。「俺たちはこのようにやりたいのに、お前が一人で何度もそのようにするから、お前一人でやれ」と言うのです。それで、自然に一人でするようになるのです。
その時間は、心と楽しむ時間なのです。世の中から見れば、孤独な立場のようですが、心と友達になる時間なのです。なすべきことをして、座って瞑想でもしてみなさい。深い祈祷の境地に入っていくのです。他人の分からない深い世界に入っていくのです。そのようなことが必要なのです。
話をしないけれど、彼らの近い友達になりました。あらゆる難しいことは、私を訪ねてきて相談するのです。また家からお金がたくさん送られてきて、それを保管できなければ先生の所に持ってくるのです。私に任せておいて「盗まれてしまってもいいから預かってくれ。そうすると安心だ」と言うのです。世の中のどこにそのような道理がありますか。「なぜそのようなことをするのか。こいつめ。面倒くさい」と言うと、「だめ、だめ」と言うのです。これはどういうことですか。私に預けておけば、それを泥棒が盗もうとしても、その人の手が震えてできないだろうと、そのように思うというのです。それは、人間世界にはない新しい周波、新しい周期で環境を連結させていくということです。新しい舞台を開拓して生きることができる、そのような力が真なる愛にあるということを知らなければなりません。
執拗な探求力
私の学生時代に、私の質問に返答できなくて逃げていった先生が、どんなに多いか知っていますか。私はしきりに質問するのです、「物理学に出てくる公式や定義を誰が決めたのですか。私は信じられない。私に分かるように説明してください」と。そのような人なのです。
自分が検証する前には、どんなことも信じませんでした。学校で数学の先生が公式を教えてくれれば、それを中心として、先生をやり込めた人なのです。誰がこのような公式を作ったのか、というのです。私が作る前に作ったので気分が悪いのです。私が作るべきなのに、と(笑い)。暴いては追い詰め、暴いては追い詰め、追求し、また追求するというようなことをしたのです。適当にではありません。
そのように私は中学校時代から先生をやり込めた人なのです。激しくかみついたのです。そうして答弁ができなければ、私が図書館に行ってすべて勉強して、「こうでなければなりません」と言ったのです。
勉強をしても、試験の前日にぱっと見れば、それが間違いなく的中します。先生が講義したものの中で、最も試験に出る確率が高いもの、二番目に高いもの、三番目に高いものをずーっと取り出して、ほかは見ません。それだけに丸をつけるのです。私が講義をするならこのようにするだろうと、心理的に分析して準備すれば、間違いなく七〇パーセント以上は合うのです。一、二、三、四、五、六……という先生の暗号があります。普通の人は、見ても分かりません。試験の時は、一枚の答案用紙に数字だけをさっさっと書いておけば、寝ながら書いても、七十点以上取れます。熱心に勉強したとしても、全部は頭に残らないのです。全部そのまま流れていくのが普通でしょう。
自己準備の精誠
祈祷をすると、なぜ良いのですか。精神力を集中すると、観察するのが早いというのです。学校の先生が講義をすると、既に試験に出る問題が分かるのです。試験に出すか、出さないか、先生の心のうちが分かるのです。なぜそうなのかというと、それはアンテナを高く上げているのと同じだからです。アンテナを一段高くして聞けば、小さい音も聞こえるのです。それと同じで、精誠を尽くす人は、必ず未来の世界が連結されるのです。それで、啓示や預言は、すべて精誠を尽くす人から出てくるのです。
そして、試験勉強のために精誠を尽くし、勉強して点数を取ることは、今後の発展のためだと思い、人類のために、神様のために、全体のために勉強しようとすれば、その試験にはすべての善なる霊たちが、その分野の専門的な善なる霊たちが来るのです。間違いなく来るのです。
ですから、精誠を尽くして自分が神秘的な境地に入れば、文章を書いてみなさい。文章を書けば、名文になるのです。そのような境地では、絵を描いても良いのです。自分の手だけで絵を描くのではなく、「この手に一人の偉大な画家が来て私を協助している」と考えて、精誠を尽くして描けば、感嘆の声が上がるのです。そうして良い作品を貼りつけておくのです。そのようなことが起きるというのです。
精誠を尽くさなければなりません。いつも精誠を尽くさなければなりません。精誠は、一度尽くして使ってしまうものではありません。刀は、いつも磨いていなければなりません。刀を一度使って磨かなければ、どのようになりますか。ですから、磨かなければならないのです。心も一度激しく怒ったなら、よく磨いておかなければなりません。それが問題なのです。静かに心の位置をつかんでおかなければなりません。
そうすれば、皆さんがしなければならないことが、すべて分かるのです。それをしなければなりません。役に立たないことを考えて、若い女性のおしりについていき、どうしたこうしたと、よこしまなことをしていてはいけないのです。皆さんは、方向感覚をつかんで、それを中心としてそこに行かなければなりません。方向は細くとがって、一つしかありません。
皆さんは、万全の準備をしなければなりません。毎日のように、押し進めていかなければなりません。自ら押し進めていくことのできる、推進力をつくらなければなりません。それは、自分一人だけではできないのです。数えの十八歳になれば、自分はどのような人間なのか、すべて分かるというのです。白分だけの力をもってしてはできません。ですから、いらだちやすいのです。友達の力や、師の力や、神様の力が必要になるのです。
御飯を食べるのなら、「この御飯よ、私が準備する肥料になっておくれ。消耗する頭脳に、消耗するすべての細胞に、力を補給しておくれ。悪に対して判断し得る正義の力になっておくれ」と、そのようにしなさいというのです。一度間違えば、天地が滅びるのです。準備しなさいというのです。
体力鍛練
世界にないこのような一大革命を私が夢見て、神様から「お前が健康でなければこのみ旨を、この偉業を完遂できない」という天命を受けたその日から、激しい訓練をした人なのです。
私には力があります。一人、二人くらいは軽く相手にする能力もある人です。また、私がしてみなかったスポーツはありません。数えの二十二歳の時まで、夜昼なく体のために運動をしました。
ボクシングもしました。昔の日本の家のようなものは力を込めて打てば、一発で壊れるのです。今でもそうです。道を歩いていて、悪い者がいれば転がしてしまうのです。男は自分の保護術を学ばなければなりません。今、太っていても、駆けていって跳び上がり、塀を越えるのです。そのような訓練をしたために、先生がこのすべてのジェスチャーをしても、白然でしょう。
相撲をしても負けません。サッカーでも有名です。このような体格をしていても速いのです。昔、若い時には鉄棒もして、いろいろな運動で鍛練をしておいたのです。今でも、他の人々が知らない運動をするのです。いろいろな運動を先生が開発しました。それを教えてあげましょうか。
体の訓練をすれば、精神的世界の土台が既に位置を占めるようになるために、流れていかない男になるのです。そのような武術を考案して、外的にそれを準備しておかなければなりません。君たちみな、力がなくて追い出されてもいいですか。正当防衛、三度だけ打て! 私の手が出るのです。長子の権限をもって凛々しくしなさいというのです。
言語訓練
先生は、言葉を早くしゃべれば、皆さんが一言いう間に、十言いいます。そのようなチャンピオンになるための訓練をした人です。平安道の人は、「赤ちゃん1」と言ってから、何を話すか十回は考えます。次の言葉が出るまで「赤ちゃんやー」と言ったきり、次の言葉を考えているのです。ソウルに来てみると、私の下宿屋の主人のおばさんは、唇がこのように薄っぺらで、小さい目を鷹の目のようにぎらぎらさせながら、ぺらぺらと町内の説明するのですが、息もつかないのです。やあ、私はあのおばさんにも勝たなければならないといって、そのための訓練をして勝ったのです。発音の一番難しいのは「ティ」の発音です。それでカル、ナル、タル、ラル、このように全部ハングルで書いておき、朝夕にぺらぺらと訓練をしたのです。
そのように話を早くする訓練もした人です。なぜでしょうか。話し始めれば、言いたいことを、あっという間に浴びせるためです。頭の先からつま先まで、みな浴びせるのです。それで六ヵ月間、小さな部屋に入って「キオク、ニウン、カ、ギャ、コ、ギョ」から、全部発音練習をやり直しました。発音が全部できるまで訓練をしました。それで言葉が早くなったのです。話し方も矯正できるのです。
先生は、膨大なみ言を限られた時間内に伝えなければならないので、威厳をもって話すことができません。そのようにすれば、言うべきことをすべて言うことができません。それゆえに、先生が一時間話したことは、他の人が五時間話したことと同じです。忙しい時にはたたみかけるのです。しっかりしろというのです。そのようにしたので、今まで復帰の前線が滅びずにきたでしょう。そのようにしてきたので、先生が滅びずに復帰摂理を引っ張ってきたのです。
音楽に心酔
先生は、青少年時代には音楽が本当に好きでした。私が下宿していた家の主人は、y車を運転していた人ですが、江原道のある豊かな家の長男なのです。その当時は、運転手であれば、とても優れた人なのです。その人は、韓国の山河で行かなかった所がありません。彼は民謡ならば知らないものがなく、数百枚のレコードをもっていました。それで、その主人の奥さんに、私の願いをかなえてもらうための作戦を練ったのです。
毎日のように、主人とあいさつして、夕方には食膳も運んであげました。主人の奥さんが何かを頼めば、してあげ、言うとおりに、みなしてあげるのです。このような作戦をするのです。それを計画どおりにしたところ、数日以内に、主人の奥さんが私を娘婿にできればよいと思うほどに、ほれ込んでしまったのです。
そうすると、そのレコードを私にみな持ってきてくれたのです。それで、そのレコード盤を全部聞くのです。主人が来て見ても、ばれないのです。盤を数枚ずつ持ってきて、それを聞いてしまうと他のものと取り替えて、全部聞きました。そして奥さんに、「あなたの御主人は、あのレコード盤を何枚くらい聞いてみましたか。すべて聞きましたか、聞いていませんか」と尋ねました。主人よりももっと良く聞かなければならないではないですか。私は数日以内にみな聞こうと、二十四時間、ずっとかけて過ごしました。夜も聞きながら寝たのです。
歌を上手に歌えば本当にいいのです。孝子は、お母さんの背中をたたいてあげながら歌い、青春の男女が愛し合っている心情を歌おうとすれば、その境地に入っていくのです。復帰の責任を負って先頭に立って行く者として、所願成就をいかにしてもやり遂げなければならないのではないでしょうか。これが道なのです、道の境地です。寝る時はどのようにするかというと、初めから小さい音で、布団をかぶって聞いたのです。私は、そのように積極的なのです。私は、何かをしようとすれば、誰にも負けないようにするのです。歌も習っておきなさい。
熟練したワンマンショー
神様は、本当に熟練された方です。悪口も上手です。「こいつ! ずうずうしくできているな」と、悪口も言われるのです。いたずらも、とてもお上手です。ユーモアの大王が神様です。悪口が上手なことにおいても大王です。私もそれに似て、ユーモアも上手で、機転がきくのです。
私は、中高等学校時代にはワンマンショーのチャンピオンでした。学芸会の時は、私が出るというと学生の父兄たちが、「あのなんとかという青年出てくるか」と言って、出てくるとなれば、ぞろぞろ集まったのです。そのような何かがあるために、今まで統一教会の教祖をするのであって、その教祖が易しいと思いますか(笑い)。
統一教会の人々は、外に出れば悪口を言われるけれど、教会内に入ってくればおもしろいでしょう、私がワンマンショーが上手だから。ワンマンショーでなく、「実際の人」の「実マン」ショー、「実マン」劇をするのです。
ソウルの学生時代の追憶
先生は昔、漢江の穏やかな波の上に石を投げる遊びをたくさんしましたが、朝よりは夕方のほうが味わいがあります。夕焼けが出るころならば、人々が船に乗って帰っていく光景と、一日の太陽が静寂な波の中にまさに沈まんとするのを見れば、とても美しいのです。そのような時、平べったく丸い石ころを水平に投げれば、石ころがさーと飛んで行って、水面に触れるたびに弾むのです。石が大きすぎてもいけないのです。その石が飛んでいって、一回、二回、三回……。そのように弾んでいって、終わりにはそのまま水に乗って進むのです。そのような気分、感じられますか。
学生時代の夏に、友達と漢江の川辺に行き、水面に石を投げてはじかせる遊びをしたのですが、友達は十回くらい弾かせました。うまくやるためには、様々な条件がよく合わなければなりません。石もいい形でなければならず、投げるのも本当にうまく投げなければなりません。角度を少しでも違えば、一度もはじかせることができずに水中に入ってしまいます。先生はうまく投げようと角度を合わせて力いっぱい投げたのですが、指先を岩にぶつけていまいました。そうなれば、水遊びができるでしょうか。気分が悪くて、血が流れる指先を、約四十分くらいずーっと川の水で洗っていました。そのようにしていると、唇がはれたときのように、どんどん指がはれていきました。それで、ワイシャツを破ってふき取りました。夏だったので、三時間か四時間過ぎると乾いてくっつき、何日かするときれいに治りました。
ところで、意欲の中には、すべての探求心が存在しています。「漢江にはどのような鳥がすんでいるのか。ああ、ここは夏になると暑いが、あの山の頂上はどれほど涼しいだろうか。どれくらい涼しいか、登っていって風に当たってみよう。やあ! そこで首都のソウルを見れば、どうだろうか」。そのような心に染み込んだ意欲が多ければ多いほど、置かれたすべての環境を克服することは問題ありません。
私の故郷には柿の木がありません。柿の実は見たけれど、その親は見たことがありませんでした。柿の親は何ですか。木ではありませんか。木は種から生まれるのです。私は熟した柿を本当によく食べたのです。先生が食べ始めると、‘一つで終わることはありません。それが家にあれば、全部なくなるまで食べたのです。食べるのが趣味です。
ところでソウルに上京してみると、柿の木があったのです。見ると下ががっちりしていて、本当にすてきなのです。その木を触ってみると、とても堅いのです。しかし大きくはありません。あの紫霞門の外に、友達がいたので行ったのですが、柿がとても赤くなっていました。赤くなって本当においしそうです。それで彼とこっそりそこに入りました。「やあ、これはおいしそうだ」と言って、取るなりひたすらに食べたのです(笑い)。
そして、私がソウルに来て、ついていなかったことがありました。ソウルのパラムトク(注・風餅:こねた米の粉を薄く伸ばし、あずきや豆などをあんにして入れ、半月形に作った餅)を見て、「ああ、こんなきれいな姿の餅を初めて見た」と言いながら、餅の好きな私が一つつまみ、二つつまんでこのようにぎゅっと握ると、これがべたりと空気が抜けてつぶれるのです。「ああ、ソウルの人々は、まさにこうなんだな。それで『ちゃっかり者』という言葉ができたんだな」と思いました。
二 自ら堪え忍ばれた苦行
自炊生活
先生は、七年間自炊生活しました。お金がなくて、したのではありません。女性たちのすることを調べようとして、そうしたのです。絶対にお湯は使わないのです。ひたすらに釣瓶で井戸から冷たい水をくんでするのです。そうすると冷たい釣瓶の鎖に手がぺたぺたくっつきます。そのようにして米をといだり、いろいろなことをたくさんしてみました。
ソウルに来た時は寒かったのです。平均して零下十七度から二十一度まで上がったり下がったりしたのです。私たちの若い時はそうだったのです。自炊しながらも、豊かに暮らす人のようにはしませんでした。一番貧しい人から始めました。冬の寒い部屋で暮らして、食事を作るのですが、冷たい水で作るのです。今でも、そのことが忘れられません。山の尾根に掘った井戸なので、十歩分以上掘ってあるのです。この井戸の水が本当に良いのです。釣瓶の綱は切れやすいので、鎖でつくってあるのです。それをつかんだ時、手にくっつくので「フーフー」と暖めたことが、きのうのことのようです。そのようにして、すべての家事をしてみました。女性たちが何をしているのかということも、すべて知っています。
多くのおかずは必要ありません。いつも簡単で、おいしくて、実質的で、実用的なものが一つあればいいのです。いつも一食に一つのおかずなのです。おいしいおかずが一つあればいいのです。それゆえに、最近、食卓におかずがたくさん置いてあるのを見ると、本当に面倒だというのです。
また、包丁を使うのを見れば、その人が新米なのかどうかみな分かるのです。私は、まな板の上で包丁を使うのも上手です。トントン、トントン(笑い)。おかずを作るのを見れば、腕前がいいのか悪いのか、すぐに分かるのです。夫人たちが御飯を炊いたり、おかずを作るのをさっと見れば、御飯の水はどれほど注ぎ、ほうれんそうのお浸しにはどんな薬味が入り、もやしのお浸しにはどんな薬味が入ったかということがみな分かります。何のおかずはどのように和えたものか、みな分かるのです。
一日二食と誕生日の断食
先生がソウルでの学生時代に、皆さんのような年齢の時には、昼食を食べずに暮らしました。御飯がなくてそうなのではありません。腹のすいていた父母の歴史があれば、腹のすいていた父母の事情を知らなければなりません。腹のすいた立場で、その父母に孝行することができなかった自身をとがめ、腹のすいたその時代に孝子になることができる自らを準備しなければならないのです。
空腹でなければ、神様が分からないのです。私はそのように考えたのです。腹のすいた時間が一番神様に近いのです。そのような時は、過ぎ行く人があれば、もしやあの人が私のお母さんではないだろうか、あの人がお姉さんではないだろうか、そのように考えられるのです。私を助けてくれる人ではないだろうか。そのように考えられるのです。そのようになれば、千万人を慰め、千万人を迎えてあげることができる心が生じるのです。
さらに、国もないのに、御飯を三食も求めて食べる資格があるかと思って、そうしたのです。御飯が慕わしい生活を、本当にたくさんしました。御飯を恋しがると同時に、民族を恋しがる道を行ったのです。「御飯より民族をもっと愛さなければ、国をもっと愛さなければ」と思い、故郷を離れソウルに来ていながら、昼食を食べませんでした。ポケットにお金がなくて、そうなのではないのです。お金があれば、かわいそうな人々に分けてあげたのです。ですから断食を頻繁にしました。三十歳まで、昼食を食べませんでした。一番腹のすいた時です。家を離れて、ずっと二食主義でした。
一番大変なこととは何かというと、同窓生と同じ部屋にいたのですが、この友達が昼食を持ってきて、しきりに「食べよう」と言うことでした。それに打ち勝ったことが、今思い出されるのです。「私にはなすべきことがある。宿題が多い。これを清算しなければならないから……」と言って、食べなかったのです。
私のように腹をすかせてみた人はいないのです。腹をすかせて救いの手を願う、飢えながら解放を願う人々のうめき声が聞こえてきます。そうすると、御飯を食べられないのです。修養する者たちは、一生を通して、平素から修養しておかなければならないのです。
誕生日には、断食するのが常でした。自分の個人的勝利の基準も越えることができず、家庭的勝利の基準も越えることができず、民族、国家、世界の勝利の基準も越えることができない者が、誕生日を祝いますか。誕生日をどのように祝いますか。踊りを踊って、ダンスをすることができますか。できないというのです。天の前に天命を受けた責任を果たしたのちに、そのようなものをするべきなのです。先生は、そのような生活をしたのです。皆さんは、先生が敷いておいた道を進んでいるので、本当に楽なのです。皆さんは、先生がそのようにしたので、先生がしたとおりに従っていくのですが、実際は、先生がしたとおりにまだ誕生日を祝うようにはなっていません。
孤独な時に訪れた温情の手
先生がどこに行こうと、涙を流して祈祷するそのような立場にあったために、その事情が何か分からないながらも同情する人が多くいました。また、皆さんが先生に対するように、行く所々で、そのように対してくれる人々が多かったのです。下宿屋のおばさんが、名節(注・韓国固有の盆や正月)のような時に、夜を明かしながら準備したその食膳を、あるいは夫のために準備したその食膳を、先生の部屋に持ってこなくては奥の間に入ることができない場合もありました。そのまま奥の間に入るようになれば突然目の前が暗くなる、というのです。自分たちにも、なぜそうなのか分からないのです。神様は、婦人たちの精誠を込めたその食べ物を先生に食べさせるために、彼らの心を動かしたのです。そのような役事が多かったのです。それゆえに先生は、神様の愛を夢にも忘れたことがありません。
私が今ソウルに来てみると、忘れられない夫人が一人います。宋さんという貧しい夫人です。その時、貸間で娘一人を連れて暮らしていましたが、夫がいるのでもありません。小さい雑貨屋をして、やっと娘一人と食べて暮らしていたのです。私は学生時代に下宿をしていたので、下宿屋でも朝飯をくれ、昼飯をくれ、夕飯をくれればそれで終わりではないですか。でも、学生たちはそれだけでは、おなかがすくのです。それで、この宋さんというおばさんはとても貧しいのに、それが分かるので、自分が何かを売ってお金が残れば、食べさせようともってきます。なぜですかと聞くと、私くらいの自分の弟がいたそうです。その弟が思い出されるというのです。それで私がここにいるのが他人のようではないというのです。たぶん霊的に何かがあったのかもしれません。こうして、何かあれば自分の口に入っていくべきなのに、その手がこっちに行くというのです。
一度、二つの教会が漢江のほとりで合同礼拝を捧げたことがあります。その砂浜は今はなくなりましたが、西氷庫前でした。昼になると、みな昼食を食べるのに、その中で一人座っていて堪えられるでしょうか。それで一人さっと後ろに抜け出て、石が積み重ねてある所に行って、考える時間をもちました。昼食を食べずに、砂利を積んでおいた石の小山の後ろにいたのですが、その時に、宋夫人がアイスクリーム二つと、パン二つを持ってきてくれたのです。そのことが、いまだに忘れられません。一つが一銭したのです。それをすべて合わせても、四銭ですが、そのパンとアイスクリームを持ってきてくれたことが、永遠に忘れられないというのです。ですから、その時その場が、どんなに深刻だったかというのです。
そのように世話になったことは、永遠に忘れられません。「いつどうで、いつどうして……」と、私のために苦労し、私のために施してくれた恩徳は、永遠に忘れないというのです。その忘れられないということは、誰のためですか。それは、自分のためではなく、世界のためなので、世界の人のためにそれを返そうと思うのです。神様が返すことはできないのです。
恩徳を返そうとしても、いつその人に再び出会うでしょうか。その人を探す気持ちはもたなければなりません。しかし、世話になったその人に出会うことができないので、その心をもって、「いついつ私が受けた恩徳を、この人に与えますので、代わりに返す条件として、神様、受けてくださり、代わりに返すことのできる立場においてくだされば良いと思います」と言わなければなりません。そのような懇切な心をもたなければなりません。言い換えれば、恩人に出会って与えるのと同じ気持ちをもって与えれば、その恩人の心はどうでしょうか。このような雰囲気の生活体制を成そうと思うのです。
それゆえに、孤独な時に訪問することが、どんなに貴いかということを知ったのです。好きなことのできる人同士が愛するのは、みな流れていきます。しかし、難しくて耐えることができない場に訪ねていって慰めることが、どんなに貴いかということ、それをそこで習いました。その宋のおばさんは、顔も悪く、おしりや腰も曲がっていて、見た目に、苦労したように見えるのです。その顔で何かを運ぶのを見ると、憎めないのです。そのような情緒的な面に関係しているすべてのことは、忘れることができません。
真冬の冷たい部屋の生活
私が二十代を前後したその時は、ソウルも寒かったのです。普通零下一七度です。漢江が凍らない時がありませんでした。そのような時、部屋で火をたかないで暮らすのです。このようにして、支那緞子(注・絹織物の一種)のねんねこを敷いて、寝て起きれば、ぺたぺたと型が写るのです。そうすると、その写された型が、いつまでも消えないのです。これが六ヵ月も残ったりします。それが印象的です。それがみな記憶に残ります。
あまりにも寒くて、電球をつけて火鉢のように抱き抱え、布団を引っかぶって眠っていて、電球の熱でやけどして薄皮がむけたこと、そのようなことがみな印象的です。それで、「ソウル」と言えば、そのたびに、私はそのようなことを思い出します。今も風呂に入って洗うときになれば、「ああ、あの時代……」と思い出します。
そのように罪人のように、人と共に行こうとしても行くことのできない苦労をしたのです。歴史的な師たちが生きた苦痛、神様の歴史的苦痛を流してはいけないのです。私の心の深い愛の場所に入れ、あの世に行って会ったならば首を抱いて、「あなたが悲しかった事情をみな知って、私もその度数に合わせて生きようとしたけれど、及びませんでした。これを許してください」と言いながら涙ぐんで、痛哭する心が先立つようになる時は、神様をつかんで痛哭しても、神様も共に泣いてつかんでくださるのです。そのような日がなくては解放がない、と考えながら生活してきている人です。
そのように冷たい部屋に住みながらも、孝子は孝子の役割を果たさなければなりません。冷たい部屋にお迎えする父母の悲しい心情を察しながら、天地をかけて愛することができない、その不忠を悔い改めることができる心をもたなければなりません。そのような心をもってこそ、天に到達できる道に近いという事実を知らなければなりません。
古着を着て自立訓練
先生は三十代まで、皆さんが着ているそのような服を着たことがありません。日帝時代はすべての人がそうだったでしょう。古物商に行って、垢が真っ黒にこびり付いて、てかてかした、においのする、そのようなものを買って着ました。
ぱりっと着こなして歩けば、とても騒々しくて耐えることができないのです。そうすれば、いろいろな若い女たちが毎日付きまといます。それゆえに、そのようなことを避けるために、わざとぽうぽう頭の独身の男として、目立たない道を通いました。男として生まれて、ある誓いをしたならば、誓った目標を達成できる基盤を築かなくてはなりません。
私は編物が本当に上手です。セーターもみな作って着ました。足袋のようなものもよく作りました。パンツや股引も一人でよく作りました。私は、女性がいなくても一人で生きると、すべてのことを研究した人なのです。一生の間独身生活をしても、このみ旨を私の終生の事業として決めて出発した人なので、できないことがないのです。私が帽子をさっと編めば、とてもかわいく編んでかぶることができます。手袋を編んでも、本当に早く編んだのです。
そうしながら、私が女性の服を着て、ソウル市内で通ってみなかった所がありません。いかしています。そして、つきまとってくる男を「こいつ!」といって、路地に入って殴り付けるのです。「こいつ、女だと思ったのか。この悪いやつ!」。私がさっとかぶって、こうすれば、姿は悪くありません(笑い)。雨が降れば、傘を持ってさっとさすのです。なぜでしょうか。世の中の暮らしを知ろうとしてです。暗行御史(注・朝鮮王朝時代に地方行政や民情を探るため潜行して回った勅使)にならなければなりません。世の中を調べようとするなら、くまなくしなければなりません。そのような歴史が多いのです。
初めての夏休みに故郷に帰らず
故郷を離れて、ソウルに来て迎えた学校の最初の夏休みには、家に帰りませんでした。他の人々は、先を争って切符を買っていましたが、私はひっそりと一人でいました。再び帰ってくる日を待つ母と父には、私にはこのような事情があって行くことができないと通告したのです。なぜ、そうしたのでしょうか。サタン世界と違う道を行かなければならないためです。
学生たちは全部ふろしきを包んで家に帰ったのに、私は「懐かしい父母に会いたいけれど、それよりも父母を生かしてくれる天が慕わしい」と涙したのです。その慕わしさを抱いて、国のために、私の行く道のために精誠を込めたのです。
すると、知り合いたちが騒いだのです。「帰ってこい」と大騒ぎになったのです。「家に重大なことがあるから帰ってこい」と言うのです。けれども行きませんでした。友達が、行って帰ってきて、「どうしたんだ」と言うのです。先生は、彼らをつかんで「千年の歴史を編んできた貴い時代を、遊び騒いで、ふらふらして生きるとは何だ。こいつ!」と叱りつけました。先生はそのように生きたのです。
映画館前を避けて行く
私は青少年時には、どんなに映画館に行ってみたかったことか。私たちのような人が映画を見れば、どんなに衝撃的だったか分からないのです。おもしろくて叫んでしまう気質をもっていたのです。しかし、私は絶対行かなかったのです。
先生は、それも初めから絶対に行かなかったのではなく、ひっきりなしに毎日行って、一日に映画を五回も見たのです。それは、行かなければいいのではなく、一番多く行ってみて、二重相克になり得る体験をしたので、それからは行かないのです。体験もできなくて行かないならば価値がないのです。それで一日に五回ずつ通った後では、きっぱり切ってしまったのです。「こいつ、行かない」と言うのです。
先生が皆さんのような年齢の時に、うらやましいことがなかったでしょうか。皆さんは映画観賞をしようと映画館にもよく行くでしょう。先生は映画を見ることもせず、映画館の前にも行かなかった時があったということを知らなければなりません。それはなぜでしょうか。私が、映画館とかこのような所にどんなに通っても、そこに引っ掛からず、行って寝て住んでも、そこで犯罪をし得ない線を越えてしまわなければならないためです。このごろ私が「映画館に行きなさい」と言うのも、行って染まることのない立場で行きなさいというのです。その次には、それを越えれば、完全開放なのです。
皆さんが映画館に行って映画を見る時にも、深刻な立場に立ち、それが他人事ではなく、自分のことにように感じなければなりません。映画に信仰の道を行くにおいて、障害となる怨讐のような悪なる群れが出てくる時には、捕まえて片付けるという心をもって映画館に行けば、罪にならないのです。そのような心をもって行けば、映画館ではなく、それよりももっとすごい所に行っても大丈夫です。
悪党が住む巣窟に行っても、詐欺のようなことをしてでも、彼らを引っ張ってくることができるという確信をもって行けば、また怨讐を 一刀のもとに片付けるという決意をもって行けば、神様の勇者として立てられるのです。そのような人は、天下のどこに行っても話題の人物になるのです。
路地裏の調査
昔は鍾路三街のような所は全部遊郭でした。それを私が調べなければならないと思ったのです。なぜきれいな女たちが、あの行いをしなければならないかというのです。あれがもし自分の姉妹ならばどうしますか。自分の娘ならばどうするのですか。父や兄さんになればどうするのですか。問題が深刻なのです。そのような若い女たちに対して、夜を明かして話してあげたことが思い出されるのです。そのようなことをすべて経ていかなければなりません。国を愛さなればなりません。人を愛さなければなりません。この世の世情を、はっきりと知らなければなりません。
先生はそのような世界をよく知る人なのです。知らずして、どのようにその世界を救いますか。その深層分野に隠された、哀訴に浸ったそのすべての事情を知って、彼らを救ってあげなければなりません。
けれども根がなく、葉だけになっていいのかというのです。その場に出る時は、私がどのようなことをしても引っ掛かり得ない内的な決定を受けて現れるのです。統一教会に入った人々もそうですか。そのような修養過程を経なければならないのです。修養過程がなければならないのです。
今はそうではありませんが、昔は私のもものつけ根を見た人はいません。友達にも見せずに暮らしました。志操を守って新郎を迎えなければならない乙女のように、自分の一身を大切に守ったのです。私が十字架を背負うようになっても、傷のない体で背負う、歴史時代に初めて純情の花が咲く、そのような立場で十字架を背負おうと思って過ごしました。
電車費を節約し困った人を助ける
私が黒石洞にいる時、市内に行こうとすれば、電車賃が五銭でした。五銭出せば電車に乗って市内に行けるのです。けれども市内まで歩いていきました。和信(百貨店)まで四十五分あれば行きました。早いのです。早く歩く人です。普通の人は一時間半かかります。夏の日、学生服を着て汗を流しながら歩いたのです。そのお金でどうしたかというと、かわいそうな人にあげたのです。「千万金でも与えたいし、皆さんに福地をつくってあげたい心は切実ですが、今民族に代わってあげるのだから、これを受けてぜひ福の種にしてください」と言ったのです。
私はその時、鷺梁津にしばらくいましたが、そこから学校まで五銭あれば電車に乗れるのに、電車に乗らず、その五銭を入れて歩いてきて、降りる所あたりで積善して、帰りは鷺梁津で積善して、そのようにして通いました。そのように歩きながら、「私がこの国を復帰して大声で叫ぶ時まで、よく育ちなさい。死なずに私と共に大きくなろう」と言いながら、木をたたきながら歩いたことが思い出されます。その時の、そのプラタナスの木がみななくなっていました。
皆さんは、先生が少年時代に、真夏の最も暑い時期にも、汗をだらだら流しながら歩き回ったことを考えてみてください。電車やバスあるいはタクシーに乗って楽に来たとしても、過ぎし日に先生が歩いて通った基準を考えて、先生がこの国、この民族の恨みを晴らしてあげ、この国、この民族が神様に抱かれることのできるその日を切なく待った、そのような心を抱いていかなければなりません。
漢江の橋の下の貧民街
先生も昔、貧民窟に入っていって、ぼろの服を着て生活してみました。しらみが行列をつくって、明け方から陣をつくるのです。そのような経験もあります。
先生はこの道を、高官たちを中心として出発したのではありません。道端を歩く人や乞食たちを中心として出発したのです。貧民窟が先生の活動の最初の舞台でした。彼らには涙が多いのです。しかし、高い権威をもった人々には涙は少ないのです。貧民窟の人たちの中には、先生が一言話しただけでも涙を流して激しく痛哭する人が多いのですが、高い権威のある人たちは十回話しても、百回話しても痛哭する人はいないのです。復帰路程は、痛哭することなしには行くことのできない道なのです。ゆえに、どちらの人がより近いかというと、貧民窟にいる人たちがより近いのです。
先生は、乞食が暮らしている所に何度も行ってみました。そこにはありとあらゆる人がいるのです。彼らは、昼間に御飯をもらってくるのですが、お互いにもらってきた食べ物を聞き合います。中には、「私は祝宴をしている家で豚肉をもらってきた」と言って踊る人もいます。そのような環境では、それがまた誇りになるのです。数十名が御飯をもらいに行ってきても、一人が少しでも基準が上なら、それをもって大騒ぎするのです。
「真の父母」ならば、貧民窟に行けばその人たちの前で、はえがついたものでも食べなければなりません。そのようにしなければなりません。はしでなく、ただ手でです。便所に行ってきても手を洗いません。そこにいる人たちが触れば指の跡がつくのです。垢がついているからです。そのような手で持ってきてくれたなら、精誠を尽くしてくれるのに、「食べない」と片付けてしまわなければなりませんか。もらって食べなければならないというのです。
かわいそうな隣人を助ける
そして、四月上旬に家から学費が送られてくれば、五月にはその学費を、みな使ってしまいます。みな、かわいそうな人に分けてあげるのです。エピソードが多いのです。そのようにしては何をするのでしょうか。新聞配達をしたり、ありとあらゆることをするのです。商売もするのです。そのようなことをよく覚えています。
また、先生は、故郷から送ってきた1ヵ月分の学費を持って、学校に登校する途中で、道端で死にそうな患者に出会い、その患者に全部お金をあげて、入院させ、治療してから送り返した、そのようなこともしたのです。そうして学費を出せなくて督促を受けたその思い、そしてその時、友達が同情してくれたことなどは、一生の間忘れられないのです。そのような一時のことが、先生の一生にどんなに大きな影響を及ぼしたのか、私は知っているのです。
それは三月の終わりごろでした。新学期が始まり、学費を持ってきた時でしたが、よく聞いてみると、その人は息子もいないかわいそうな人でした。天安に自分の娘の家があるといっていました。学費をありったけはたいて、旅費もあげ、病気を治療できるようにしてあげました。それを見ると、その人の先祖は悪い人ではないのです。その時、私の足が離れないのです。背を向けることができなかったのです。
そのような人に出会うように天がさせたのなら、天が同情してあげなさいという以上に同情してあげたとしても、絶対に損害を受けることはないのです。天が十助けてあげなさいというのに、百助けてあげれば、九十は天の前に公的なものとして扱われるようになるのです。天が十を助けてあげることを願っているのに、五だけ助けてあげてはならないというのです。
皆さんもそうです。天が十助けてあげることを願う時には、十以上助けてあげなければならないのであって、十以下しか助けてあげなければ、皆さんの恩恵の道がふさがれるのです。それが原則なのです。公式がそのようになっているのです。私は、財布にあるお金をすべてはたきました。本を買うお金、学費をすべてはたき、それを持たせて送り出したのです。そこから約三キロメートルくらい背負っていったことが、きのうのことのようです。
そのようなことをしてきたということは、先生の生活的心情の背景だということでしょうか。そのような生活をしてきたので、天が必ずそのような人を必要としたようですね。そのような人は滅びないというのです。
三 体恤信仰の深化
徹した涙の祈祷
祈祷をする時には、背が曲がって、ひざにたこができるほどにしなければなりません。先生のひざには、昔祈祷しながらできたたこが、いまだに残っています。祈祷は床の上でしなければならないのです。涙も流さなければなりません。先生は祈祷しながら流した涙のあとが乾かないほどに、涙を流す峠を何度も越えた人です。
人生の行く道を解決することができなくて、死んでいく人々が多いことを知って、それを解決するために、目を赤くしながら、いつも祈祷したのです。祈祷しながら涙をあまりにたくさん流したので、日の光を見ることができないほどになりました。そのようなことをしながらこの道を探してきたのです。
先生は絶頂期には、ひれ伏して、十八時間、十七時間、普通は十二時間祈祷しました。昼食を食べません。そうして痛哭するのです。そうでなければ生きることができません。四方が完全にふさがって、出口がありません。祈祷をしてこそ、針の穴が見えるのです。そのような試練の過程を経て、原理を探し出したのです。皆さん、原理の本をつかんで泣きましたか。一生は重要なのです。一度過ぎれば、二度と来ないのです。
「念入りに築き上げた塔が崩れようか(注・真心を込めてしたことが無駄に終わるようなことは決してない)」という言葉があるでしょう。神様のために真心を込めなければならないのです。神様が恋しくて狂わんほどに徹した境地にまで入っていかなければならないのです。神様のいらっしゃる所が地上ならば、一日に千回も行き来したい気持ちがありますが、地上でないために仕方なく先生を送ったのです。
そのような何かがあるために、皆さんが先生を愛さなくてはならないようになっているのです。そのように情が行きますか。涙を流して祈祷する時に、真冬に綿のパジ・チョゴリ全部を涙で濡らすような時があったのです。どんなにすさまじいか考えてみてください。刀を立てておいて談判祈祷する時が、一度や二度ではなかったのです。
民族解放のための祈願
日帝時代、私が国のために流した涙は、愛国者に負けないのです。今も黒石洞の道が思い出されます。今は龍山まで道ができていますが、惜しい感じがします。その時は、ポプラもプラタナスもあったのにと、その時の印象が残っているのです。あそこ、あの明水台、ノドゥル河などが懐かしいのです。その時は日帝時代です。その時、涙を流して国のためにたくさんの祈祷をしたのです。
その漢江を渡っていくと、中島というものがあります。そこで漢江の水を見て嘆息したことが生き生きとよみがえります。「お前は千年万年流れているけれど、どんなに熱い心をもってこの国、この民族を抱くために流れるのか。命綱になることができるのが水なのに、この肥沃な韓国の山河を美しく飾ることのできる泉、お母さんの乳のような漢江の水になるべきなのに……。お前はできなくても、私はすることだろう」と言ったことが、今でも生き生きとよみがえります。その時は、橋が一つしかなかったのです。そこを渡りながら、そうしたことが思い出されます。
勉強している若い学生たち! 昔先生が勉強する時には、一ページを読んで涙を流しました。一ページ一ページごとに、民族の運命を左右することができる秘密が合まれているのではないか、と勉強をしたのです。祈祷もそのようにするのです。
こぶしを握ってみなさい。昔、先生は祈祷する時にあまりに握って、あとで広げれば手が痛かったのです。どんなに力を入れれば、そうなるのでしょうか。汗が出ても、ぎゅっと握って、誓いをしたのです。
明水台イエス教会と西氷庫教会
昔は西氷庫前に砂浜がありました。今は、そこをみな掘ってしまい、砂浜がないので残念です。皆さんはそうでありませんか。ビルディングを建てることはいいけれど、砂浜のなくなったことが、この上なく残念です。思い出の多い所なのにです。
皆さん、明水台(黒石洞)に行けば明水台教会がありますが、その教会は、先生と何人かの同志たちで建てた教会です。一度その砂浜で、西氷庫教会と明水台教会が合同礼拝をしましたが、その時のことが思い出されます。
そこは、風が吹けば、ほこりが舞ってとてもやりにくいのです。ですから日曜日になれば、砂利石の山の間の砂場に行って、全員が集まり、座って礼拝を行いました。
幼年日曜学校の教師
その時、学校に通いながら、日曜学校の学生たちを指導したのです。黒石洞教会でもそのようにし、西氷庫教会でもそうしました。その時は漢江が凍りました。夜は、寒いから川が凍って、氷の割れる音が、「パン、ジジジジジ」とするのです。そうすると、一人でいると怖いのです。そのような漢江を渡って通いながら、西氷庫にいる日曜学校の学生たちを教えました。
私は、日曜学校の学生たちをよく教えたのです。今は話をおもしろくできませんが、その時はおもしろくしたようです。私が涙を流して話せば、毎回、全員わんわんわんわん泣いて大騒ぎです。一度泣けば嫌がって、もう泣かせないようにと願うはずなのに、「またしてほしい」と言うのです。付きまといながらです。そのように話してあげたりしました。
先生は、学生たちを私自身の希望の相手だと思って、幼年日曜学校を指導した名指導要員なのです。彼らを誰より愛しました。その子供たちが先生に、むちゃくちゃに夢中になったのです。学校にも行かずに、先生のあとを付きまとおうとしました。
それは、そのようなブームが起きて当然なのです。「学校も何も全部嫌だ」と言って、先生について回るのです。今、ソウルに、昔私が指導した若い男女がいるのです。私が以南に来てその若い男女に、「おい、来なさい」と言えば、みな来て先頭に立って走ることのできる人たちです。しかし、その人たちを連れてきて統一教会の重要なメンバーにはしませんでした。それはなぜでしょうか。カインを愛する歴史を開拓するということが先生の使命だからです。
校友たちとの親交
先生は、今までそのようにしてきたのです。幼な子にも侍り、小学校の生徒にも侍り、中高生にも侍り、中年にも侍ったのです。彼らに対して私が一番愛する人のように侍ったのです。お母さん、お父さんのためにするよりも、もっと侍ったのです。食べるものがあれば、彼らにあげようと包んで行ったのです。
また、年のいったおばあさんたち、腰の曲がったおばあさんたちが、楽しそうにくっついてきました。自分の夫よりももっと面白く話をするので、「ああ、私の夫よりも良い」と言いながら、行くなといって、ついてくるのです。
どのような環境でも、心をよく合わせてあげるのです。おばあさんと友達になり、おばさんと友達になり、子供と遊んで友達になります。みなにそうするのです。遊ぶ時は幼稚園の先生のようになって、誰よりも愛する心をもてば、誰も忘れることができません。今もそうです。
私はイエス教の朴在奉牧師とか、李浩彬牧師とかいう人々の背後をよく知っています。その人々の背後に対してよく知っていますが、今まで私の口からその人たちの欠点について一言も話したことはありません。彼らにも従う人があります。彼らと彼らに従う人々とは因縁があって出会ったのです。神様が百ぐらいの因縁を中心として出会うようにしてくれたのに、それを五十くらいの因縁に引き下ろせば、引き下ろした人が責任を負わなければならないというのです。いったんその畑に植えたものは、その畑で取り入れなければならないのです。
伝道活動
先生が皆さんのような年齢の時は、帽子をかぶって歩いたのですが、ズボンの後ろのポケットに本を入れて、公園のような所に行って演説をよくしたのです。「私の話をちょっと聞きなさい」と言ってです。それが訓練です。将来、多くの人を指導するための訓練なのです。たくさんしてみなければなりません。たくさん質問してみて、たくさん答弁してみなければならないのです。それは、みな経験なのです。
ある時には、こういうこともありました。昌慶苑の花見の時のことです。そこには多くの人々がいました。そこで伝道をするのです。服を脱いで、反り返って、このようにしてです。私が大衆の前に現れてそのようにしたけれど、それが私であるとは、誰も気づかないのです。教室では話もしないので、そうだろうと誰が分かるでしょうか。「ヒャー、あれ文なにがしのようだけれど、あのようにできるか」と言うのです。朝、学校に行って会ったのに、私を見分けられないのです。昌慶院に行ってきた人々を、私は伝道しながら見たので、私は知っています。しかし、学校に行っても、彼らはそれが私であることを知らずにいるのです。話もしなかった人が、大衆の前でそうするとは、思いも寄らなかったのです。
私は黒石洞で住みましたが、上道洞との境に松が茂っていて、その向こう側には草花を栽培する日本式の家がありました。そしてずーっと回れば田んぼがあり、その向こう側には村があったのですが、そこに開拓伝道に通った家がありました。
学生時代の日記帳
日記を書いたのですが、ある日、三十枚つづりのノートを一冊使いました。その時の心情を、すべての悲壮な事実をもって書いたのです。しかし、日帝時代に事件が起こり、それが全部資料になりました。その記録の中にあった名前の人、兄弟たちやかかわっていた人が、全部連累者になり、芋づる式に連行された経験があるために、その時から日記を書かないのです。それで今まで手帳も持たずに歩いたのです。重要なことは、すべて頭に記憶するのです。
その時代に私が毎日書いた日記があれば、宝になったことでしょう。金銀財宝を出しても買うことができないのです。山をたどりながら、村々をたどりながら、その育った時代の心情世界を描いた材料を、日本の刑事たちに引っ張り回されるので、みな燃やしてしまったのです。そのようにいろいろな事情が多いのですが、その事実が、結局は自分という人間をある目的に引っ張っていくための、その過去において残された遺物だったのです。
全部、私の手で燃やしながら涙を流しました。「今後この道を行くようになる時に必要な歴史的な資料が、塗炭の苦しみの中で呻吟する若者たちに解放の道を照らすことのできる記録が、ここにあるのに、これを焼こう」といって、のどを詰まらせた記憶が今も生々しく残っています。文先生は、青春時代にひもじさを克服し、民族の求道と世界の求道と神様の求道のために努力した人です。
四 ソウル黒石洞聖地
懐かしい黒石洞の昔の面影
先生は数えの十九歳の時に故郷を離れ、今まで故郷を失ったまま、サタン世界を収拾するために一生を経てきたのです。故郷から離れてソウルに来れば、ソウルは外地です。そうすれば平安道定州が故郷の地になります。では、外国に出るようになる時は、どのようになりますか。ソウルが故郷になるのです。
私は、ソウルの黒石洞にいましたが、昔の考えをもって何度か行ってみました。ところで、ソウルはどんなに変わったことでしょうか。黒石洞に来れば自然の風景もあって、追憶の中に印象づけられています。しかし行ってみて落胆したのです。やあ、発展するのもいいけれど、こうであっていいのかと思ったのです。昔をたどることのできる、基礎になることのできるものが、一つもありません。
高い山に上がって見てみると、想像もできませんでした。どれくらい掘り返して家々を建てたのか。昔はその山の谷間が深かったのに、どのようにみな埋めて家を建てたのか、寂しさを感じました。それでも、その中で昔あった家を探してみました。黙って、そしてあれこれ見ていると思い出したのです。
昔住んだ黒石洞の家を、当時の姿そのままに、どこかに模型でも作って置けば、どんなにうれしいでしょうか。それゆえに、忘れられない、意味ある物は追憶として残そうとするのが、人間の本性の要求だということを知ることができます。なぜそうなのかといえば、情緒的な因縁をもって生きる人間においては、そのような追憶の資料によって、再度刺激を感じながら、より一層発展するためです。それゆえに博物館が必要なのです。それと同じように、皆さんもそのようなものを、皆さんの家門ならば家門に残すべきだというのです。
光明の基盤として白石洞になるべき
私は自ら、天が行くことのできる道を築いてきた人なのです。それゆえに今でもここ黒石洞に行き、そのような時に黒石洞の山において座って涙した岩があるのを目にすれば、懐かしいのです。その木は、みななくなったそうです。
私が七十歳になりつつあるので、昔学生時代に住んだ家を何年か前から探そうとしたのですが、探すことができない家があります。それで、今回黒石洞に行って、その家をずーっと探してみてから、統一教会がどこかと見ると、統一教会は一番小さな家です。
それでも、ここ統一教会の歴史を尋ね聞いた人が、この黒石洞を探してくるようになるでしょう。ですから、黒石洞が白石洞になるべきだというのです。そのように考えます。黒い岩の谷間のここ、私が昔住んだここが、世界万民に光明の陽光を照らしてくれる伝統の基地にならなければならないと考えるのです。
「ノドゥルの川辺」もそこにあったのです。しかし、昔の姿は一つもありません。教会がないというので教会も買ってあげたのですが、なぜ買ってあげたのでしょうか。それは、統一教会の教会員が多いから買ってあげたのではありません。黒石洞に住んでいた昔、その時代に住んでいた人には会うことができないけれど、数的に見る時、後孫たちが多いというのです。そうすればその後孫たち、父母が先生と関係のあったその息子、娘に会えば、どんなに感激的でしょうか。そこから歴史が復活するのです。
昔を話しながら歴史を復活させて、時代を花開くようにするのです。そのようなことが起こるために歴史を学ばなければならず、偉人を尊敬しなければならないのです。高く貴い宝物は、宝物を買った主人以外には分かりません。
第五節 日本東京留学時代
真の御父母様の生涯路程 1
第五節 日本東京留学時代
一九四一・四〜一九四三・九
一 涙で出発した留学の道
留学手続き
私は小学校を卒業する時、式場で大雄弁をしました。警察署長、郡守たちを前にして、「日本人はふろしきをまとめて出ていけ」と言いながら、激しく攻撃しました。小学生の時からそうしたのです。そのために捕らわれていき、警察署長に談判した人なのです。「これこれこのようなことが正しくないのに、そのような場合に黙っていられますか」というように。その時からレッテルを貼られたのです。
そのようにして、私が日本に行くために校長先生の推薦を受け、渡航証を出して手続きしなければならないために警察署長に会いに行くと、「あっ、これは要注意人物だ」と言うのです。それで争ったことがありました。署長と激しく言い争ったのです。そうでなければならないのです。そのような何かがなければなりません。
京釜本線列車「ひかり号」(一九四一・三・三一)
先生が一九四一年度に日本に留学するために、釜山に向けてソウル駅をたつ時、ソウル市内を眺めながら、かわいそうなこの民族に誰が責任を負うかを考えながら、たくさん涙を流しました。その当時、日本に行く鉄道に、ひかり号という列車がありました。ソウル駅でその列車に乗りながら、「私は敗者の愚かな男として流れていくのではない。国を救うための熱い心を抱いていく男の道は天が保護する。私が帰ってくる時は、お前は希望にあふれんぱかりであろう」と思いました。それゆえに、第二次世界大戦の時、韓国は一度も爆撃を受けなかったのです。
ソウルから釜山に行く時、「私が日本に行って学んでくることは何か。この国を解放して、育っていく私たちの二世たちが希望に満ちて前進的出世をすることができる道を、自主的独立国家を備えて出世できる道を私が開いてあげなければならない」と思ったのです。このようにして龍山駅をたって、昔の漢江橋を過ぎながら、手すりをつかんで涙を落としたことが、とめどなく涙を流したことが、今も思い出されます。
孤児のようなこの民族をおいて出ていく時、外套を引っかぶって、ソウルから釜山まで痛哭しながら行きました。そのとき日本人のおばさんが、汽車の中で泣いている私を見て、「若い人、お父さん、お母さんが亡くなられましたか。そのような悲しみは、人間ならば誰でも遭うことではないですか」と言いました。しかし私の悲しみは、ただ国を愛する心でぎっしり詰まっていたのです。
涙が止まらず、目がはれ、鼻と口がはれるくらいに泣いたことが、今でも忘れられません。その涙、天を愛さずにはいられなかったその事情、この民族に植えつけたかった若いころのその哀切な訴えが、この民族の前に必ず残る、ということを先生は知っていました。それが統一を願う若者一人ひとりの胸に、統一を願う男一人ひとりの胸に残ってくれと、先生が願っていたということを皆さんは知らなければなりません。
関釜連絡船「昌慶丸」
(一九四一・四・一、午前二時四十分発)
この民族のためにどれほど涙を流したかといえば、先生はどの愛国者よりももっと多くの涙を流しました。先生が日本留学に出発した一九四一年四月一日早朝二時に、釜山の埠頭で、韓国を眺めながら祈祷したことが忘れられません。「私は、今祖国を離れるけれども、祖国であるお前をより一層愛し、お前のためにもっと多くの涙を流そう」と約束したのです。
釜山から船に乗って日本に行ったのですが、その時、釜山から連絡船に乗りながらとめどもなく涙を流したことが、きのうのことのようです。その時は日帝時代です。かわいそうなこの民族を、誰が束縛から救ってくれるのでしょうか。私は夜を明かして星を眺めながら、この民族の解放の一日のために精誠を込め涙を流しながら、この民族のために神様の前に、「私は今旅立ちますが、帰ってくる時まで、神様、この民族を守っていてください」と祈祷しました。早朝二時四十分に出発しましたが、その時の心情を、私は忘れることができません。
涙と共に行く道に、愛国があるのです。涙と共に行くところに、孝子がいるのです。忠臣も同じです。聖人が行く道も同じです。涙と共に生涯を経ていくところに聖人の道があるのです。世界を動かすことができる歴史、伝統を残して、受け継ぐことができる歴史があるならば、涙と共に残してあげた歴史です。その伝統の歴史は世界を支配するのです。統一教会は、世界を治めることのできる涙とともに、伝統を受け継いでいくという姿勢を忘れてはなりません。
二 早稲田大学附属早稲田高等工学校電気工学科修学
(一九四一・四・初〜一九四三・九・三〇)
悲壮な志
私が怨讐の国に行って足を踏み入れたその時から、私は涙まで収めたのです。そこから私の行く道を定めました。私は、日本の名勝地に一度も行ってみることができませんでした。国のない民が、そのような看板の付いた所には行かないというのです。私が日本に行っている時、家からお金を送ってくれなくてお金がなかったのでもありません。日本人が見ているところで、その怨讐の前で、自分の威信と体面を立てようとはしなかったのです。目立とうとはしなかったのです。
日本に行って、良い所を見物して回るということはしませんでした。ですから、富士山にも行かず、熱海、箱根、日光にも行きませんでした。神様が願われる美しい地にも、神様が御覧になって喜ばれ、「あそこは良い所だから行ってみよう」とおっしゃられたあとでこそ、行きます。そうでなければ、絶対行きませんでした。これが先生の主義です。
早稲田大学の高田馬場の道を、一日に二度ずつ歩きました。よく歩きました。皆さんがそのような心で、早稲田の戸塚町を高田馬場から歩くことを願います。そこにある曲がった道、そこにある電信柱など、皆さんが記憶できる所には、先生の涙が染み込んでいると考えても間違いありません。
世の中の地獄を自ら進んで訪ねていかない人は、新しい世界をつくって神様の前に捧げることはできない、という結論が出てくるのです。若い青春時代は、一時です。青春時代は一時だというのです。レバレンド・ムーンは、最も貴い時を正しく越えた人なのです。
どちらがプラスになりますか。若い時に、遊びたいように遊び、デートでもして踊りを踊り、無益なことに流されるよりも、迫害を受けて嘲弄され、真なるものを本質化するための道を行くべきです。先生の路程は、過去もそうであり、未来もそうなのです。この道は、いつでも同じなのです。
電気工学専攻
「私はどんなことをする」という、そのような「観」がなくてはならないのです。二十歳にもなったなら、一つの「観」をもって、「私は何々をするのだ」と、ぴたっと決めて、一生の間、闘っていってこそ、その人は歴史的な人物になるか、何かを残すというのです。人目を気にしながら、環境に適当に拍子を合わせて生きることに神経を使う人は、流れていってしまうのです。
びしっと決めてからは、その目的のためにはどのような困難があったとしても、闘争していくことのできる勇猛心がなければなりません。それを嫌だと言わずに、すべてを消化することのできる度胸がなければなりません。
一番重要な時が数えの十八、十九、二十、二十1、二十二、二十三、二十四歳までの期間です。二十四歳までには完全に、自分の全人生を懸ける目標を定めなければなりません。それは、皆さんが修養をして精誠を込めれば分かるようになっているのです。
先生は、電気、科学を勉強したのです。科学を勉強しましたが、私の行く道を知っていました。私が科学の勉強をし、電気方面に手をつけたのはなぜでしょうか。大事をしようとするならば、数学的な計算が早くなければなりません。鑑定力が早くなければならないのです。
それは見えないものを管理することなので、宗教と通じるということができます。すべての現象世界では、運動するすべてのものに電気現象が発見されるのです。
今や、現代の科学文明を全部知らずには、今後の新しい宗教理念を立てることができないために、そのような面で勉強したのです。その勉強したことが、相当に助けになりました。
先生は頭が数理的です。学生時代に、帽子工場に二度も行って注文したのに、それでも小さくて半分ぐらいは破ってからかぶりました。そのように頭が大きいのです。それゆえに脳細胞がたくさん入っています。それで、なんでも一つのことに集中すれば、普通の人が十年かかることを三年以内にしてしまいます。
命を懸けた深刻な勉強
先生は勉強するのもそのような気持ちでします。勉強をする時に、なぜ疲れを感じるのでしょうか。自分のために勉強をするから疲れを感じるのです。しかし三千万の生死の問題が、この一ページにかかっており、この一つの文にかかっていると考えてみてください。一つの単語を加えることにより三千万が生き、一つの単語を減らすことにより三千万が滅びるという心で、より一層精誠を込めてその一つの単語を覚えようとする、深刻な心で勉強してみなさい。頭が悪いといいますが、なぜ悪いのですか。皆さん、深刻な立場で起きたことを忘れることができますか。命を懸けてしなさいというのです。
私が勉強するのも、世界のためです。私は自分のために勉強はしませんでした。世界を活かすためにという考えをもって勉強したのです。それで、先生は大学を立てようとしているのです。
私がしていることはすべて、自分のためではなく、国のため、世界のために、神様のためにすると思わなければなりません。勉強する時も同じです。先生は、本の一ページを何カ月も研究し、一つの題目をもって何カ月も深刻に打ち込んだこともあるのです。重要な人生の根本問題、実存問題をおいてそのようにしたのです。
そのような問題は、命をすべて懸けて立ち向かわなければなりません。それが解決すれば、私個人だけでなく、万民を解放することができ、天地の解怨成就を成すことができるということを考えながら、命を懸けてするのです。
執拗な質問
私は、電気工学を学んだ人なのですが、学校に行って、学校の先生に質問すると先生たちがみな困るのです。私の顔さえ見れば、「こいつはまた、どんな質問をするか」と思うのです。ひっきりなしに質問するので、自分の手に負えないのです。
学生時代に、私は先生を理論的にコーナーに追い込んで、いつもひどい目に遭わせました。ですから、先生は講義しながら、私がいつ立ち上がるかと、ちらちら見ていたのです。普段は話をしません。しかし、先生に一度質問し始めると、答えることができなくなるまで質問するのです。私が一度立ち上がって質問を始めれば、先生の顔が真っ赤になるまで質問するのです。特に理論や弁論のような時には、先生くらいは問題になりませんでした。友達も相手になりませんでした。
「これをどのように考えますか」と頻繁に尋ねるので、私を見ると隅の方に行くのです。質問をしないようであれば真ん中にいるけれど、そうでなければ先生が隅の方に行くのです。私を見ないようにして講義をするのです。根本を究明するにしても、最後まで究明しなければならないのです。また物理学を学ぶ時、「この公式を誰が作ったのか。どうして信じることができるか」と、こうだったのです。ですから学校の先生はどんなに苦労したでしょうか。
日本語を早くしゃべる訓練
先生は頭が悪くないのです。日本に行っている時にも、日本人と競争をしても、先生より早く日本語を話せる人はいなかったのです。ですから、頭が良いのです。記憶力が優れているのです。
訓練をしました。研究をしたのです。将来、日本の青年まで私の手で消化して、世界のためになる者にしようと誓ったことがあります。普通の日本人以上に、常識のある弁論ができる能力をもたなければならないと、訓練をしたのです。
日本に来て日本語を学びながら、日本人と一分間に誰がよりたくさん話せるかという競争をしました。負ければ、先生は眠れないのです。
日本語を話すにおいて、スピードを出すことで一番になりました。争う時も日本語で、他の人の二日に対して、三言を言います。研究したのです。それゆえ、指導者になることは簡単ではありません。
運動能力の錬磨
先生の学生時代には、日本に双葉山という相撲のチャンピオンがいましたが、今も生きているでしょうか。もし先生が相撲をしたならば、一度競ってみたかったのですが、暇がありませんでした。先生は相撲が上手です。中高生の時代には全校で一番でした。
高等学校の時、先生は相撲のチャンピオンでした。高跳びとか、どんな運動でもできないものがありません。ボクシングまでしました。悪い人は、とんと押せば、すっと転がっていくのです。そのような訓練までしたのです。なぜそうしたのでしょうか。けんかをするためではありません。偉大な革命をしなければならない、世の中を正して、天理に合う平和の世界をつくってみようという所信をもった以上、それには体が健康でなくてはならないのです。大きなことができません。
皆さんに、自己保身法も教えてあげなければなりません。忙しければ、瞬時にたぐり寄せて転ばせるのです。そのような訓練をすべてしたのです。それはなぜですか。自分がたくさん食べて豊かに暮らすためですか。国を活かすために、世界を活かすためにです。怨讐が、悪党がもし道をふさげば、脇腹をけってでも行かなければなりません。行くべき道が決められていたなら、絶対に行かなければなりません。
下宿生活
先生が日本の地で下宿を探す時、門前払いに遭ったことが多かったのです。それを思うと、「日本」という言葉だけ聞いても、頭が痛いほどです。けれどもサタンの子を、神様の理想的な子女より、もっと愛さなければなりません。それが神様の心情です。そのように考えながら、一人で何千回も忠告しながら、ここまできたのです。それは本当なのです。
先生は以前、先生が下宿したいろいろな所を思い出しながら、その中の一つの下宿屋を訪ねました。そして下宿屋のおばさんに会ってきました。
その時の百円というのは大きいお金です。その時代に下宿代がいくらだったか知っていますか。一ヵ月に十一円でした。
先生は留学時代に下宿で過ごしましたが、今も忘れられないことがあります。下宿のおじさんが毎日酒を飲んで遅く帰ってきて、夫人をやたらに殴るのです。そしてその夫人も、性格や気質がそんなに従順な方ではありませんでした。そうなれば夫人も神経質になって「ああ!」と叫べば、町内全体が騒がしいのです。先生も寝ていて、そのために目覚めたことが何度もありました。
それでおばさんを呼んで、「なぜ殴られながら暮らしますか。故郷に帰るとかしたらどうですか」と言うと、けんかをしたあと、わびて愛するのは、結婚してみない人には分からないとか言いました。それはそうだというのです。けんかしてからは、愛そうとしてひたすらに謝るのです。一、二発殴られることは恐ろしいけれども、習慣だからと考えればいいし、そのあと何日も愛してくれるのがおもしろい、というのです。その味で暮らすというのです。
三 原理究明と思想定立
原理究明と体系化
文総裁はこの原理を探すために、満身瘡痍になって、一日に十二時間も十四時間も祈祷したことが何年も続きました。その悲惨な姿を、皆さんは知っていますか。原理の本には血と汗と涙が絡み合っています。一ページごとににじんだ先生の血と涙が、皆さんのような若者たちに訴えているということを知らなければなりません。先生が、青春を犠牲にして投入したのです。血と涙が皆さんに訴えているというのです。
先生は、聖書だけを見て原理を探したのではないのです。「創世記が堕落の章ならば、黙示録は復帰の章だ。生命の木がこのようになったならば、生命の木に復帰されることだ。それが合わなければ聖書は間違いだ」と考えました。なぜでしょうか。種から出たものは、種に返るのです。これが合わなければなりません。種から出てくる芽が同じでなければならないし、それが上に伸びていかなければならないのであって、横に伸びていってはならないのです。
そのような観点から見る時、今日の原理の教えは、推理的方法を通して摂理史観に一致するというのです。宗教の中の主流宗教はキリスト教であらざるを得ないということを知ったがゆえに、私のように賢い人は「キリスト教のてっぺんを引き抜いてみよう。根を引き抜いてみよう」と考えたのです。そうしてそれを引き抜いてみたところ、天地創造がどうで、神様が何をして、神様がなぜ愛を好むかということが明らかになったのです。
最初から、聖書という冠をかぶり、聖書を標本としていたなら、このような道を開拓できなかったでしょう。妥当な理論を中心として、私たちの心情世界に関係する内容を中心として、最高に深い谷になることのできるものが何かということを探り出してみる時、そのとどまることのできる錨の中の最高の錨になるのが、まさに心情なのです。
誰かが私に教えてくれたわけでもないのに、一人でこのようなことを体得して体系をつくって、ぎゅっとつかんで袋に詰め込んだのです。夢のような話です。神様は、私には愛する神様ではありません。無情な神様であり、無慈悲な神様です。同情してくれません。同情すれば、サタンが讒訴するからです。死の場においても、自ら開拓するようになっているのです。教えてくれないのです。
そのように難しいことです。それを全部掘り下げ、体系をつくらなければならないのです。私のような人は、ものすごい人なので、そのような体系をつくったのです。その世界がどんなに膨大であるか、とても手を付けることができないのです。
数多くの哲学者がいて、数多くの聖賢がいたけれど、このような問題を解決できませんでした。霊界の具体的な内容を知って、昔の道人たち、教祖たちにみな会って、討論しながら、天上世界のすべてのことを体験して、天法によって善悪をすべて明らかにし、彼らを屈服させなければなりません。そうして、最後には神様の所にまで行って、定義に立脚して弁論し天上世界の印を受けなくては、地上で統一できません。
宇宙の根本は父子の関係
先生は、神秘的な境地に入って、「宇宙の根本は何か」について調べた時がありました。神様からの返事は、「父子の関係だ。父と息子だ」でした。結論がそれなのです。
「神様はいらっしゃるのか」と考えていた、昔の記憶を振り返ってたどってみると、真剣になるのです。神様を考えるためには、まず自分自身を考えなければなりません。「自分はどこから来たのか。母親から来た。それでは母親はどこから来たのか。母親の母親から……。どこまでさかのぼっていくのだろうか。人間のいちばん初めはどのようになっていたのだろうか。本当に神様が造られたのだろうか。数多くの人種が生きているが、私はどの系統なのだろうか。人々とは、どのような関係になっているのだろうか」。このようなことは、すべて吟味しなければならない問題なのです。一から十まで、すべてそうなのです。
それでは、神様と自分はどのような関係を結ぶのでしょうか。歴史的関係だろうか、時代的関係でしょうか、未来の関係でしょうか、どのような関係なのでしょうか。人間と神様の関係、その関係は何を中心としており、何をキー・ポイントとしているのでしょうか、それが問題です。
神様を知れば、自分の位置と価値を知るようになります。また関係をはっきりと確認することができるのです。神様がいらっしゃるなら、神様とは何でしょうか。神様の希望とは何でしょうか。神様の願いとは何でしょうか。私たちの生活のように、神様にも事情があるはずですが、神様の事情とは何でしょうか。神様が喜ばれる心情の世界は、何を中心としているのでしょうか。神様の目的とは何でしょうか。この希望や心情などの問題をすべて総合して結論を下せば、「人間」というものになるのです。
それでは、人間と神様の関係は、何によって連結されているのでしょうか。それは、心情基準を通過しなければ分かりません。奥深い所に入っていって祈祷してみなさい。祈祷して尋ねてみなさい。宇宙の根本とは何でしょうか。「父子である。父母と子女。最初の基準として、人間と神様が父子の関係である。天的心情、天的血統を中心とした父子の関係が宇宙の根本である」と答えるのです。
「天のお父様!」と叫べば、宇宙のすべてのものが、そこに集まるのです。「お父様」という言葉は、全体に対する一つの定義です。すべての存在の表象の中心語として感じてくるのです。そのような立場にまで入っていかなければなりません。自分の心にどのような思いがわき出ても、神様が自分の父母であるということを否定することはできません。そして、神様も自分に対して「そうだ」と言われるのです。そこに至って、疑うことのできない父子関係を結んでいくのです。
そのように宇宙の根本は父子関係なのです。万物は子女のための庭園です。神様をはっきりと知れば、創造原理が自然に出てくるのです。「私の心と体はこのような関係になっている。神様を中心として相対基準を造成して四位基台を維持することができる。それを連続的に維持するためには授受作用をしなければならない」。そのように神様をはっきりと知れば、創造原理を自然に悟るようになるのです。
それで、先生は没頭したのです。宇宙の根本は何かという問題に対して、九年間も身もだえして解決しました。知ってみるとどんなに簡単であるか、「やあ、このように簡単なことが分からなかった。みなもっていたのに分からなかった」と思いました。
相応相補作用の原理
学者たちは、宇宙は相応相反作用でできていると言いますが、そうではありません。相応相反作用ではなく、相応相補作用をしているというのです。これは革命的な言葉なので、「盲言」といえば、そういうこともできます。
電気の原理を見ると、プラスとマイナスは互いに一つになりますが、プラスとプラス、マイナスとマイナス同士では反発するでしょう。暗雲が押し寄せてにわか雨が降る時、ピカピカと稲妻が光り、ゴロゴロと鳴るのは、数億ボルトの陽電気と陰電気がぶつかるのです。その時、数億ボルトのプラスの電気とマイナスの電気が一度に現れるのですか。それをどのように説明するのですか。それが、私が博士になるために書こうとした論文内容です。
数億ボルトのプラスと数値ボルトのマイナスが一度に出てきて、バーンとぶつかるのですか。プラスとプラス、マイナスとマイナスが合わさらずに一度に現れるという、そのような論理はあり得ません。プラスとプラスの電気が互いに合わさり、マイナスとマイナスの電気が互いに合わさって、それからぶつかるのです。そのような論理を立てなければ、解説の法がないのです。
それでは、電気の理論でいうプラスとプラスは反発し、マイナスとマイナスは反発するという理論は、どのようになるのでしょうか。電気の理論から見れば、合わさるという論理は矛盾のようですが、そうではないというのです。定義が違います。
プラスとマイナスが完全に相対を決定した時は、保護しなければならないのです。それを破壊すれば、宇宙の公約を侵犯するのです。それゆえに、保護しなければなりません。保護しようとするので、一つの完全な主体と対象の前に他のプラスが来たり他のマイナスが来たりすれば、それをけ飛ばしてしまうのです。
それゆえここから出る結論とは何でしょうか。宇宙公約の中で主体と対象を中心として絶対的に一つになれば、それを保護するためにプラスとプラス、マイナスとマイナスは互いに反発するけれど、反発するその作用は反作用でなく、保護の作用だというのです。
思想定立と理論闘争
先生は人々に、先生がどんな思想をもっているか全く話しませんでした。友達も知らないのです。先生は聖書の研究をしたり、宗教関係の書籍や普通の人たちが読まない哲学書を持ってきて読みました。
早稲田大学の政経科に通っている友達がいましたが、その友達は共産主義を勉強していて、その友達と激論を繰り広げたことがありました。また路傍で大声で演説したこともありました。桜の花が満開になり、多くの人が集まった時、そこでもしました。その時代に対する批判をしました。「あすの青年は、このように行かなければならない」と叫びました。その時予言したことが、今みな当たっています。その時に友達が、ぶらぶらと見物に来て、「どういう若者があのように熱烈に訴えているのだろう、いったい誰だ」と、頭を突き出して見てみると、「おい、彼じゃないか!」とびっくりしたのです。しかし、先生は教室では話さないのです。話さないので、誰も先生のことを知ることができませんでした。
私は共産主義をよく知っている人です。皆さんのような二十代から闘争した人です。共産党の親分たち、北に入って官僚になった者たちの中には、私の友人もいます。日帝時代に、「学生時代には、お前と私は共に闘争するけれど、未来には決裂するのだ、こいつめ」と思ったことが実感されるのです。私が今日このように共産主義をたたきのめす魁首になるとは、彼らは考えもしなかったのです。しかし私は既に知っていました。
進化論問題
チャールズ・ダーウィンが書いた『種の起源』を見れば、彼は進化論に基づいて弱肉強食という論理を提唱して、力をもって世界を制覇し、新しい文化圏を形成することを正当化しようとしたのです。
では、種の起源とは何かというのです。根本問題に入っていくのです。それを考えるとき、神はいるかいないかという問題、今日の哲学的な観点からは、意識が先か物質が先かということが大きな問題として台頭しているのです。人間の根本とは何ですか。狼から始まったのでしょうか、また他の何かの種の起源があるのでしょうか。このような根本問題を解決しなければなりません。
この目は物質で構成されています。しかし、目はどのようにして生じたかというとき、ただ理由もなく、生まれたかったので生まれたと考える人は、狂った人なのです。鼻はじっとしているのに、目はなぜ動くのですか。「目はなぜ動くのか」と言うときに、「動きたいから、動く」と言うのが進化論式であり、弁証法式なのです。目の目的は見ることです。見るということに目的があるので、動くのです。目的を達成するために動くのです。鼻はほこりがついてもじっとしているのに、目はなぜ、このようにしきりにぱちぱちするのかというのです。なぜそうなのですか。なぜそうなのかというと、水分が蒸発して乾くので、水分をまいてあげるためにそのようにするのです。まぶたはなぜできたのですか。ほこりを防ぐためにできたのです。まぶたに「なぜ、そのようになっているのか」と聞くとき、そのようになりたくてなったのだ……(笑い)。それは、そのように簡単ではありません。
ですから、太陽があり、空気があり、ほこりがあり、水分が蒸発するという天文学的、博物学的知識の基盤の上で、目は存在し始めたという事実を、私たちは否定することができません。理論的に否定することができません。それゆえに、物質が先か意識が先かというとき、どちらが先ですか。
人間の根本がどこから出てきたのかという問題を考えるとき、人間の意識というものは、それ自体の発展によってそのようになったのではありません。必ず、根本的な作用があり、方向性があり、目的観があったということを認めなければなりません。そのように見るとき、人間やすべての万物は、自分勝手に進化発展したのではなく、必ず作用がこうでなければならなず、方向がこうでなければならず、目的がこうでなければならないという意識の決定的な目的実体として存在し始めたということを、私たちは論理的に否定することができません。
そのような内容をもって、先生は学生時代から共産党と闘ったのです。「おい、こいつ! 進化論が何だ? チャールズ・ダーウィンの種の起源が何だ? この狂ったやつ!」と、その時から闘ってきたのです。
愛の哲学者
先生は、今までどのようにしてきたでしょうか。先生はこの道を開拓してきながら、慕うものがあるとすれば、神様以外にはなかったのです。
神様を慕い、公義の主人になることのできるこの国の主人を慕い、世界の主人になることのできる聖賢たちを慕い、尊重しました。神様を無限に尊重すると同時に、歴史を支えることのできる中心的な思想の主人公がいれば、その主人公を尊重しました。尊重することのできる対象を探すことに、あくせくしていたというのです。そのようにしている中で探し出したのが、イエス様でした。したがって、神様を愛し、イエス様を愛し、神様とイエス様が愛したいと願われる万民を愛しなさいというのです。
どの程度まで愛さなければならないのでしょうか。自分の意識がもうろうとするまで、愛しなさいというのです。その愛に狂ってみなさいというのです。そのようにして滅べば、神様はいないのです。極にまで行ってみなさい。再び帰ってくるようになっているのです。
レバレンド・ムーンといえば、愛の哲学者になっているのです。レバレンド・ムーンの哲学は愛の哲学です。愛の哲学はレバレンド・ムーンに尋ねてみなければならないのです。それでは愛の哲学を作り出したのでしょうか、発見したのでしょうか。作り出したのではありません。発見したのです。
先生は、愛の哲学者です。天地愛の哲学者です。初めて先生の時代に来て、愛を中心としてすべて家庭から氏族、世界まで解いていったのです。
私が知っているのは、これしかありません。どんなに霊界を探して、世の中の歴史をみな探してみても、これしかなかったというのです。またこのようにすれば悪魔が退いて神様が歓迎するので、これを誰かが知らせてあげなければならないでしょう。それを知らせてあげるようになるまで、四十余年かかりました。
四 抗日地下学生運動
将来に備えた調査活動
私は二十代のころに、神様の前に「この民族を救おう」と誓いました。日本国民が天皇のことを思う心よりも、私が韓国の三千万を代表した立場で神様を愛する心が、もっと強いと信じました。それゆえに、日帝は滅びると信じました。
日帝が先に打ったから、滅びるしかないというのです。偽りが真を打てば、残る法がありません。ですから私は心の中で、「打ちたいだけ打ってみろ。これ以上打つことができないという日には、ひっくり返るだろう」と思いました。
先生が東京で勉強している時に、先生は東京をたくさん歩き回りました。行ってみない所がありませんでした。将来の計画があったためです。「今から数年後には、日本の若者たちが必ず立ち上がるだろう」と考えながらです。
学者はどうであり、労働者はどうであると、全部実地調査するために、先生は路地裏の道を、たくさん歩いたのです。全部密使のように行ってきたというのです。だからといって、犯罪を犯すのではありません。この国はいつまでに滅びなければならない、天の復帰摂理のプログラムにおいて、時が来れば、その時に該当し得る期間になれば、滅びなければならないというのです。そのような心をもって、東京駅に降りる時から戦ってきたのです。話はしないけれど、道を行きながら、「私が歩いている道よ、お前は知っているだろう、韓民族が行く道を」と語りかけ、木を眺めても、「怨讐の地にある万物よ、お前は天に属するものであるから私を知っているだろう」と語りかけて歩いたのです。
神様の息子が一線の将兵になり、サタン世界を征服するためのゲリラになっていたのです。それゆえに、先生は知らないことがありません。学校に行くようになれば、事務所の責任者に会って、学校の秘密を調査しました。日本がどうだということをみな知って、どこまでもつだろうか、ということを占っていました。
それから、大学総長から高位層の大臣の家庭の仕事までしました。私が字を上手に書いたので、それが可能だったのです。それで日本の背後の黒幕だとか、腐敗した内容をよく知っているのです。
韓国人留学生会地下活動
皆さんは、国を失ってしまった悲しさを経験していません。先生はそれをよく知っています。大韓民国が日帝の下で呻吟している時、先生も日帝に対抗して戦ったことがあります。
私は、日帝時代に地下工作をした人なのです。その時、「何か問題があれば、全部私に罪を押しつけなさい」と言いました。私はその時、留学生を管理していました。責任者だったのです。そうして、「死の境地に行くなら、私に罪を押しつけなさい」と言ったのです。
文先生は正義のために、首を既に投げ出してしまったのです。気の小さい男ではないのです。皆さんは知らないけれど、玄界灘を渡り、釜山から安東まで列車の下に張りついて行くようにして、上海の臨時政府に派遣する、そのようなこともしました。安東まで汽車で行くのに八時間から九時間ですが、そのようなことまでしたのです。そうして北京で金九先生の指揮下に入った者たちは、最近の情報によると、中国でも有名な人たちになりました。そのような地下運動をしたのです。
日本の帝国主義をどのように克服するか。そのためにいろいろな工作も行い、地下運動もして、最高の実力者たちにも連結して、そうした道を開拓したのです。きのうのことのように、忘れられません。先生の心全体を投入したために、忘れられないのです。
私は、学生時代には共産主義者とも友達でした。日本の帝国主義を打倒するために、闘争するところにおいて、共同目標のもと、共同戦線を広げていきました。その時は彼らが友達の中の友達であり、なくてはならない同志の中の同志でした。ところで、今はなぜ分かれたのでしょうか。彼らと私たちが行く方向と目的が相反するために、分かれたのです。
要注意人物
先生の後ろには、いつも刑事たちが付いて回りました。私が韓国に来るようになれば、彼らが前もって電話をして、「なにがしが今韓国のどこに行く」と連絡をします。そのようにして、先生が駅の改札口を出れば、願わない人々が来て、今来られたか」と言います。
先生は学生であっても、要注意人物でした。しかし普通の人は、先生をよく知りませんでした。先生は何度も留置場に引っ張られました。東京にいる時には、一ヵ月に一度は警察署に呼ばれました。その警察署は、早稲田通りをはさんで早稲田大学の反対側にありました。
二十代の時に日本の警官によって拷問も受けました。そして戦ってきました。むちで打たれ、拷問されながらも、先生は堂々としていました。そのようなことを忘れることができません。四ッ谷の橋の欄干の柱を抜いて、戦った青春時代を忘れることができません。
愛国愛天
国を愛することのできない人々が、天を愛することができますか。私は今や全部再審査をしようと思います。国を愛することができない人は、絶対に天を愛することはできません。
日帝時代には、憲兵と警察が付いて回ったのです。北韓に行っては、共産党と戦ったために共産党が付いて回ったのです。南に来ては、大韓民国がそうだったのです。先生の運命がそうなっているようです。私が、垣根を越えて略奪行為をしたのでしょうか。誰よりもこの国、この民族を愛し、誰よりも大韓民国のために祈ったのです。私がこの国のために流した涙は、瓶にいっぱいになるのです゜いかなる愛国者と呼ばれている人も、私はうらやましくありません。
国の問題を念頭においたときは、堂々と愛国者にならなければなりません。そうすれば、それを越えて忠臣の中心になるのです。そして忠臣の峠を越えて、聖人、聖子になるのです。国のために命を捧げることのできない人は、忠臣になることはできません。聖人になることはできません。先生をよく理解しなさい。日本のことが分からない男だと思っては、大間違いです。
五 自己主管修行
一日二食で腹が減った日々
先生は、三十歳まで空腹でなかった日はありませんでした。ですから腹が減った切なさが私には本当によく分かります。なぜそうしたのでしょうか。天の前に誓い、天が下さって受けた使命があるのに、そのような責任を担っていく男として、誓ったその基準をある基盤まで築くことのできない私が、天の前に責任を果たすことのできない私が、どうして御飯を食べることができますか。御飯を見れば、御飯が「こいつ」と怒鳴るのです。そのような世界が分かりますか。御飯が怒鳴りつけるのです。ですから死なない程度に腹をすかすのです。それゆえ、三十歳までおなかのすかなかった日はなかったのです。
御飯を食べるのも自分のために食べるのではないのです。私がおなかをすかしているのはなぜなのかということを、問いただしてみるのです。公的なことのために血と汗を流したので、おなかがすいているというのなら、どれほど真なる意味で血と汗を流したのか。自分のためだったのか、公的なことのためだったのか。そのように自らを批判してみて、「公的なことをした」ということができなければなりません。そして、食膳に対した時、「よし、お前を食べて、きのうの朝に食べた御飯よりも、もっと輝く公的なことをしてやるよ」と思えば、御飯が笑うというのです。御飯が大声を出して喜ぶというのです。そうなのかどうか、皆さんは分からないでしょう。御飯が早く早くそのような日が来ることを願うのです。そうなのです。御飯を食べる時間は、とても神秘的な時間なのです。
良いものをもつために、良いものを食べるためにやっているのではないため、食堂も高級食堂には行きませんでした。食堂に行っても、一番末席に座るというのです。お金がなくてそうなのではありません。どんな立場の誰よりも、神様の前に誇ることのできる条件をどのようにして立てるかと考えつつ、そのようなことをしてきたのです。
その時は、米が不足していたころなのですが、若い人たちが行って食べれば限りがありません。私が何皿まで食べたのかというと、十一皿まで食べたのです。そのように食べたのです。茶碗のようなもので食べ始めれば、十一皿もあっという間なのです。
ある日、「どれくらい食べることができるのか、試験してみよう」と思い、やってみました。戦争時代のその時には、食券というものがありました。その食券があったので、「何杯くらい食べられるか、よし、一度食べてみよう」と友達を連れて食堂に行きました。高田馬場をずーっと下りていけば寺がありますが、そこから食堂がずーっと立ち並んでいます。そこで先生は、親子丼を七杯も食べました。七杯も食べてたので首が回りませんでした。それは、腹が減ることよりももっと苦痛でした。動くこともできませんでした。そのようなこともしてみました。しかし、先生が常にそのようにしたと思えば、大きな間違いです。
先生は常に腹が減っていました。しかし、なぜそのようにしたのでしょうか。自分の腹だけを満たしていれば、自分から民族が遠く逃げてしまうためです。神様も自分から遠く逃げてしまいます。腹が減って食べたいけれど、それ以上に民族と神様を愛さなければならないと考えました。それが真理であり、先生の信条でした。
これからおよそ四年間、二食主義を実行しなさい。みなしなさいというのです。先生は三十歳まで、高等学校時代から二食主義です。三食を食べずに暮らしました。それで腹の減らない日がありませんでした。御飯一食を世界のために犠牲にしなさい。それは貴いことです。
古着で地面を見ながら歩く
先生を見れば、着る服は古着屋で買った安いものでした。その服を見ればテカテカとつやがあります。人々はみな気分を出して、頭にはポマードとか何かをつけます。風が吹いたり台風が吹くと髪の毛が風になびくためだ、と言いながらつけます。しかし先生はそうしませんでした。先生は、どんな春の日や夏の日でもつけませんでした。また歩く時には、下から四五度以上、上を見ませんでした。
頭につける油も、数えの三十歳までは塗りませんでした。一番最初に髪の毛を上げる時は油を塗りましたが、それからは塗りませんでした。ですから、ひっきりなしに髪の毛が下がってくるのです。できる限り頭を下げて歩きました。地面を見て歩いたのです。行くべき道が残っているがゆえに、成すべき責任があるがゆえに……。
先生は、数えの三十歳になるまで、皆さんのように新しい服を着てみたことがありません。すべて古物商に行って、古着を買って着たのです。天命の責任を全うできない男が、どうしてずうずうしく備えるものをみな備え、大通りを闊歩しながら歩くことができるかと考えていました。天理の公法の前に、払わなければならない代価を清算できない立場では、そのようにすることはできないというのです。
そして、電車に乗れば、学生たちの中で、よく着飾った学生たち、見た目にいい女子学生、男子学生たちを眺めながら、比較したのです。「お前たちの笑いの傍らで、お前たちの青春が流れていき、お前たちの一生が流れていくけれど、私の沈うつな考えの中で、私の一生が光輝き、将来の希望の太陽が昇る」と考えたのです。「私には未来が保障されて希望があるけれど、お前たちには未来の希望はない」と考えたのです。
そのように先生は三十年の生涯の間、一つの服も買って着ませんでした。全く新しい服を買って着ませんでした。なぜでしょうか。潜伏しなければなりません。現れてはならないのです。時があるのに、現れていいかというのです。それゆえに、路地裏の古物商で一番悪い服を買って着て、帽子も一、二箇所破れたものをかぶって歩きました。
不便な寝床
中学、高校時代には、冷たい部屋で寝ました。その時は、今より寒かったのです。寝る時も、楽に寝てはならないというのです。先生がこの道を築いていく時には、すべてのものが未完成だったので、まっすぐに寝転がって寝ることができず、横になって寝ました。私が父のみ旨を知ってからは、私の体をむやみに見せませんでした。足を伸ばしては寝ませんでした。まだ道を極めることができず、責任も果たしていないのに、足を伸ばして寝ることができますか。先生はそのようにしてきました。
過ぎし日を回顧してみれば、よく食べて、よく寝たことは記憶に一つも残りません。寒い所で、新聞一枚、かます一枚をかぶって、神様のみ旨を考えながら涙したことが残るようになるのです。自分に財産となるのは、それしかありません。人間は堕落したために、それさえもなければ、あの世に行って差し出すものがありません。差し出すものを積んでおこうとするなら、苦労をしなければならないのです。
先生は、しょっちゅう哀れな乞食のような生活をしました。寒い時、新聞一枚が絹布団以上の価値があることを、切実に感じました。それは、体験してみなければ分かりません。事実を言うから、事実に通じるのです。それが必要です。私たち、統一の青年たちには、そのような訓練をさせなければなりません。
先生は、そのような生活をしてみたことがないと思いますか。すべてしてみたのです。布団を一組持っていき、四、五人で仲良く寝るので、本当に良いのです。寝ていると、足が口にかかってもたたく人はいないし、口に足の指が入ると、それを乳首だと思って吸う人がいるのです。情が通えば、それも良いのです。
誘惑克服と情欲主管
東京を巡回する電車があるでしょう。山手線です。先生は高田馬場から渋谷まで通ったので、それに乗ったのです。乗れば、女の子たちが、くっついて歩くのです。その時は、先生はこざっぱりした格好はしていないのです。頭はこのようにして、見苦しい姿をして、襟もすみずみが垢じみていて、何年着たのか、ひどいにおいがする服を着ていたのです。そのようにしていても、不思議なのです。女性がみな誘惑してくるのです。
不思議なのは、私が映画館のような所に行ったときのことです。においがする制服を脱いで、きれいに着替えています。制服はにおいがするでしょう。髪の毛は垂らして、口はぎゅっと閉じて色気もないのに、二十代、三十代の女たちが横に座れば、我知らずに先生の手を握ります。「なんですか。あなたの手が私の手を握りませんでしたか!」と言えば、「そうですか。あっ!」と言って、すぐに手を引きます。我知らず、そうするのです。
若い時には、先生が一度でも目配せをしてあげれば、女性たちはみな好感をもってついてきたのです。どこにでも、立ち食いの寿司屋に行っても、女性が隠れているのです。そして「あなたが来るのを待っていました。あなたが好きで、どうしようもありません」と言うのです。それで「何が好きだ、この女め!」と言ったのです。そのようなことが多くありました。そのようなことを話し始めればきりがありません。
先生のために、血書を書いた女もいます。有名な財閥の一人娘です。そして学校に行くと、黄海道の一番大金持ちの娘がいて、毎月テーブルの引出しの中に、私がいない時に、お金を入れた封筒を持ってきて、積んでいくのです。
世の中の男性ならば、「しめた、福のひさごが落ちてきた」と言うでしょうが、使うものではありません。一ヵ月、二カ月、三ヵ月と積んでおくのです。それがそのまま積まれていくのです。それを見ても回収しなければ、六ヵ月後に私が呼んで座らせるのです。そして、真顔で訓戒してあげるのです。母親と父親の立場で、「民族の運命がこのような立場にあるのに、あなたは女性として、このような行動をすることができるのか。愛国の心情をすべて捧げても、この国が蘇生することのできない悲惨な運命の道に立っているのに、この日本に来て差別を受け、卑屈な環境を避けることのできないあなた自身が、どうしてそんなことをすることができるのか」と言ったのです。すると、その女性は、「とても忘れることはできない」、「兄のように侍ります」と言うのです。そのような女性を私が婚約までさせてあげようと努力したのですが、卒業する時期になったので、私は卒業して出てきたのです。そのような歴史が多かったのです。
女性たちは、私をたぶらかすために、あらゆることをしました。先生が日本にいた時も、女性たちが裸になって、布団の中にこっそり入ってくることが、何度もあったのです。けれども私は、日本の女性たちの前に罪を犯しませんでした。
そのようにして、世界のすべての女を任せてもいい男として、使命を果たすことができるようになるのです。そうした正しい伝統を汚す愚かな人にならないようにしなければなりません。そのような基盤を立てるために、先生がどれほど苦労したのか、皆さんは知りません。
自分の性欲をコントロールしなければなりません。美人たちの間に入っていっても、生殖器が起きてはなりません。コントロールできる者にならねばなりません。そのような道を行くために、どれほど先生が闘っただろうかと考えてみなさい。言葉だけではありません。その道を行ったのです。そのような道が統一教会の根になった、ということを知らなければなりません。善なる父にならなければならないでしょう。私は、息子、娘の前でも、誰の前でも恥ずかしくありません。父として、天地の前に堂々とし、お母様の前にも堂々としているのです。先生は言行の一致しない人ではありません。言ったとおりにする人なのです。それで、統一教会の根が深いということを知って、その根に皆さんが接ぎ木され、育ってこそ、青い園で先生のような木になるのです。
人情を乗り越えて
先生は数多くの国の人々のために、服も数千、数万着もそろえてあげました。家も買ってあげ、テレビも買ってあげ、車も買ってあげ、あらゆることをしてあげたのです。しかし、私の母と父には……。私の母は、本島に私を愛したのです。私を誰よりも愛した母でしたが、ハンカチ一つも買ってあげていません。今ではもう、みな霊界に行ってしまったことを私は知っています。
日帝時代、靴がなくてわら草履をはいている時、私は日本に出入りし、靴をいくらでも買うことができる立場でありながらも、わざと靴の一足も買ってあげませんでした。私が孝行することのできる孝の位置は違うのです。
先生は、日本で勉強していた学生時代にも、絶対に電報を打ちませんでした。駅から生家までおよそ二里あります。風が吹く寒い日、または雨の降る日に家まで歩きながら、静かに祈祷してみると、「本当に、立派なお方が世の中をつくったんだなあ!」との思いがわくのです。
ところが、駅に父母や兄弟たちが迎えにきて、言葉を交わせば、故郷の味をみな忘れてしまいます。けれども、一人で帰りながら、日が傾いて夜になった時、または白い雪が降った夜の道の追憶は、一生の間忘れられません。小さい贈り物ではあっても、両手で持っていく時、父母がどんな顔で迎えるかと考えればとても感傷的な時間でした。そのように考えると、その学生時代が、どんなに幸福な期間であったか分かりません。
自己主管完成課題
天と地、宇宙の統一が問題ではないというのです。一番の先決問題が心と体の統一です。私の心と体が闘っているのに、世の中が一つになったとしても、何のかかわりがありますか。そのような私が、どこで使いものになりますか。
文総裁はそこに、誰よりも血の汗を流した人です。「宇宙主管を願う前に自己主管を完成せよ」というのが私の標語でした。宇宙主管を願う前に、世の中のすべてのことと関連をもつ前に、自己主管を完成せよというのです。
私が自分を思いどおりにコントロールすることができれば、私は世界をコントロールすることができるのです。笑っていても、途中で完全にストップすることができるのです。そのような訓練をしなければなりません。「目がパチパチすることにおいても、コントロールしなければならない」と思えば、それも訓練になるのです。普通の人は耳が動かないのですが、「耳も動かなければならない」と思えば、みな動くのです。すべてコントロールすることができるのです。私がこのように手を挙げている時に、誰かがくすぐっても、私は訓練したので笑わず、動くこともないのです。そうであってこそ、不法な愛も主管することができるのです。女性がいて、我知らずに引き込まれていく立場にあっても、それにブレーキをかけることができるのです。食べること、おなかがすくこと、眠らないことも……。いつでも公的でなければなりません。
その方法は、心を強くして体を弱くするのです。断食して体を打つことは、どんなに難しいでしょうか。ですから心に何倍もの力を加えるのです。精誠を込めなければなりません。そのように力を加えて体を引っ張って歩き回りながら、三年ないし五年間で習慣化しなさいというのです。
一番難しいことは何でしょうか。眠りを主管することです。その次には腹が減るのを主管することです。その次が性欲問題です。これが三大怨讐です。それゆえに、夜を明かしながら、飢えながら、一人で暮らしながら、修養の過程を立ててきたというのです。
最初は空腹に耐える訓練、それから眠らない訓練をしなければなりません。それから見たいものを我慢する訓練をしなければなりません。おなかがすくこと、眠ること、それから情的な関係です。「ああ、私の父母は、私をどれほど愛してくれたか、ああ誰が誰が……」という思いを分別する訓練をしなければなりません。そして、何をしなければなりませんか。そのように鍛練されたこの体でもって、闘いが起きたとしても、先鋒の将軍として立つことのできる、責任をもつことのできる人にならなければなりません。そのような人が必要なのです。
真を求めていくのならば、絶対に心のために生きることのできる体にならなければなりません。一つになって、天地に神様を中心として九〇度で連結されれば、東西南北、上下高低、どこに行っても分かるのです。自動的に霊界に通じるのです。学ばなくても、すべて分かるのです。
文総裁のような人は、どのようにして天地の秘密を知ったのでしょうか。その境地に入っていくので、すべて分かるのです。真の愛を中心として、心と体が共鳴する境地にさっと入っていけば、すべて見えるというのです。神様も見え、天上世界も見え、歴史が見え、すべて見えるのです。なぜですか。真の愛を通して関係を結び、因縁を結んで理想的な生活をすることのできる環境的与件が、本来の神様の創造理想の原則なので、その境地に入ってみると、通じない所がないのです。霊界の先祖も、呼べばすぐに出てくるので、会って何でも尋ねてみることができるのです。
それゆえに、統一教会は真の愛の理想をもって、神人と心身を統一する所なのです。統一教会の使命は簡単です。神様と人間を統一し、心と体を統一するのです。
六 最低から最高までの生活体験
全面的な体験と激しい訓練
ありとあらゆる人間が経ていく、生活の裏面を知ることができなくては、大きいことをすることはできないのです。それで先生は貧民窟の生活から、乞食に至るまで、してみなかったことがありません。そこで神様の心情を体恤することができ、神様が長い間、なぜみ旨を成就しようとされたのか、その事情を悟るようになったのです。そのようにしながら、解放される時まで待ってきました。先生は解放の日が来ることを知っていたのです。
先生はあらゆることをしてみたというのです。そして人間の苦楽がどんなものかを、みな調べたのです。そして私がなさなければならないこととは、その苦楽を味わいながら生きている人間を解放する責任者になって、彼らを完全に解放してあげることだと考えたのです。
それで、様々なことをしてみました。人間のごみのような一垂下の立場から、人間の最高の栄光の立場まで、すべて研究してみました。どこに行っても友達ができます。やはり大きいことをするためには、革命をするためには、いろいろな環境にぶつかり、それを切り抜けて目的地まで行かなければなりません。
先生にはできないことがありません。ですから、いつでも食べることには心配のない人なのです。しかし、仮に私がある仕事場に行って仕事をしたとしても、「ああ、統一教会の先生が御飯を食べるのに困って、こんなことをするのだなあ」と思えば、それは大きな誤解です。私は、すぐにでも、どこに行っても、この体でもって何でもすることができるのです。
先生も、皆さんに負けないくらい望みが大きかったのです。しかし、数多くの人々を僕の道に追いやらなければならないために、先生自身がまず、僕の体になりました。そうでなくては、皆さんに僕の暮らしをさせる資格者になれないのです。
統一教会の文先生は、この道に来る時、あなた方のように歩き回り、見物したいものはすべて見物し、食べたいものはすべて食べてきたと思いますか。そうではありません。多くの人々の中で、最も劣った生活をしてきたのです。私はお金がなくて、そうしたのではありません。兄弟がいなくて、そうなのではありません。運命が古物を買うようになっているのです。悲惨だというのです。日の光を見て暮らす人ではありません。頭を下げて、罪人のように生きてきたのです。そのような訓練を受けてきたのです。
品川の貧民街
日本留学時代に、先生は貧民窟から売春宿に至るまで、行ってみなかった所がありません。かといって、悪い行動をしたというのではありません。
先生は品川の貧民街を、総なめしたことがあります。そのようなことが先生に、非常に優れた価値観を形成させたのです。記憶に残ることは、貧民窟での生活です。そこでぼろを引っかぶって、しらみを捕まえた記憶が今もとても生々しく残っています。そのように先生は、乞食の巣窟に行って親分の役をして、御飯ももらい食いしたり、ありとあらゆることをしてみた人です。
栄光の神様だけではありません。悲惨な神様にもなるのです。ですから、そのような神様を知るためには、そのような位置に行かなければなりません。栄光の神様を知ることは易しいのです。しかし、悲惨な神様を知ることは簡単ではありません。
また、日本の国を知るために、貧民窟から始めたのです。ところが、今回行ってみると、その昔の痕跡はなかったのです。それでも、何箇所か残っていました。日本留学は怨讐の国である日本民族を滅びるようにするためではありませんでした。この本が終われば、第二巻には日本民族を愛さなければならない道があるというのです。ですから、この本の第一巻において、怨讐だという記録を残すことはできないのです。記録として残すことができず、行動の実績を残すことができない道を、黙々と行かなければならないのです。
新宿の路地裏
先生は日本にいる時、新宿の路地裏などをずーっと回ったりしました。どこにでも入っていって、女性たちの過去をずーっと尋ねてみます。ビールを持ってこさせるのです。しかし、酒は飲みません。そして、横に座って話をするのです。「なぜ、このような所に来たのか」。ずっと顔を見ながら、「父母がいないようだね」、「母親がいないのではないか」と言えば、だんだんと心を開いて、「そうです」と話し始めるです。そのようにして、ずっと研究しました。
どこに行っても自分にプラスになるようにするのです。悪い所に行っても、消化することのできるものは消化するのです。先生は、そのような主義です。良い環境を訪ねて回る人ではありません。
そのような場で、彼女の父母以上に悲しみ、彼女の兄さん以上に痛哭できる心情をどのように誘発させるかを考えました。そのようにしなければならないというのです。
街頭の女性たちに対して、訪ねていって悪いことをするのではなく、事情を聞いて、そのような女性をどのように解放するかと、涙の同志になることができる道を探してさまよった、そのような男でした。
また、娼婦の巣窟に入っていき、彼女らを悪の巣窟から引き出してやることもしました。ありとあらゆる誤解を受けながらも、そのようなことをしました。このような階層にいる人たちを、先生は心配しなければならないので、そのような複雑な役事がなされたのです。先生は、本当に彼らのために生きたのです。
銀座通りのリヤカー引き
私のような人は、していないことがありません。家からお金を送ってくれれば、すべて貧しく暮らす人たちに分けてあげたのです。仕事場でリヤカーを引いたこともあるのです。厳徳紋氏は、そのようなことはできないでしょう。(はい)。先生は、してみなかったことはありません。それゆえに、東京の都内はよく知っているのです。
先生が昔、皆さんのような年齢の時に、東京にいて、二十七の区域をリヤカーで配達する配達夫の仕事をしました。それをするために、運送会社を訪ねたのです。お金が必要だったからではありません。訓練が必要だったのです。そうして運送会社ならば運送会社の人々を説得しなければなりません。知らなければ、説得できません。
先生には、今も忘れられないことがあります。東京には銀座という繁華街があります。その通りは善男善女たちがとてもよく着飾って歩く、日本で一番華やかな所ですが、先生が学生服を脱ぎ捨てて、電信柱を積んだ荷車を引っ張っていきながら、「こいつら、道をあけるか、あけないか見てみよう」という考えで仕事をしたことがありました。
夏に電信柱を載せてリヤカーを引いていくとき、それが横になると、大変なことになるのです。十字路を越えていくとき横になったので、リヤカーがぐるっと回りました。そのとき、男女の別なく逃げていったことが、ありありと目に浮かびます。そうして、どうのこうのと悪口を言われたりしたことが忘れられません。先日、行ってみると、その昔の姿は一つもありません。追憶の足跡は残っていますが、現状は昔とは違うのです。それを見る時、寂しく思いました。
川崎鉄工所と造船所
今は、ほかの所に移っているかもしれませんが、川崎の鉄工所とか造船所に行って先生は労働もよくやりました。川崎造船所には、「バージ」という石炭を積んで通うポンポン船があります。その百二十トンになるものを三人が引き受けて、明け方一時までに終えなければなりません。他の人々が三日かかる仕事を、一時までに終えたのです。韓国人の腕前を見せなければなりません。
それを一日にいくら、と請け負うのです。仕事をする時には、会社の労働者と対決しました。「あなたたちは、これを何時間でするのか」と言うと、「私たちは六時間で終わらせる」と言うのです。そこで若い人たちを集めて、「四時間以内にしよう」と言って、必死にやるのです。「きょう一日やって死んでもよい。彼らに負けてはならない」と、激しく激励して始めるのです。「四時間でやる」と言えば、三時間ですべてやってしまいました。そして帰ってきて、三日間くらいはぐっすり寝るのです。若い時には、そのようなことが必要なのです。
会社の良い所、悪い所をすべて通過しながら、そこで証明書をもらわなければなりません。自分がもし大きいことをしようとするなら、自分自身が大衆を動かすことができるようにしなければならず、すべての階級の人たちをすぐに指導することができるようにしなければなりません。
私は、労働者の中の労働者になってみました。労働者の友達です。愛を中心とすれば兄弟です。兄弟ですが、弟の立場で犠牲になり、彼らを慰労するために夜も明かしてみたし、血の汗も流してみたし、労働してこなかった体で労働する現場に行って、一生の間労働してきた人々に負けないように、身もだえしながら働きました。その時、彼らと競争をして、勝って賞金をもらった時のその幸福感! 今も忘れられません。
休日には、川崎にある会社に頻繁に行きました。そこには硫酸タンクがあり、労働者がその硫酸タンクの中に入って、浄化するために原料を流し込みます。その装置は、数年間使えば使えなくなってしまいます。硫酸が染み込みません。そうすると、装置を交換するために、タンクの中に入ります。その中では十五分以上仕事をすることはできません。そのような所で、戦いながら仕事をしました。
そうかと思えば、雪の降る日や台風が吹く日には学校に行かないで、下層労務者たちの飯場に行って仕事をしました。そのような時は、本当に気分が良かったです。台風が吹き荒れていた時なので、手が真っ黒になっても、雨に当たってすぐに流れ落ちて、きれいになってしまうのです。そのような中で、汗を流して仕事をします。その気分は、本当に爽快なのです。
修養するには、必ず静かで森厳荘厳な所や深い山のような所に入っていかなければならない、というのでは話になりません。静かな所でなければ勉強にならないというのは、先生には通じません。工場の数百万馬力のモーターやエンジンが回る所でも勉強します。そのようなことが上手です。いろいろなことをしながら準備するのです。
あらゆる人間生活の現場体験
労働者の中の労働者にならなくては、労働者の父にならなくては、労働者を救うことができないのです。また農民の父にならなければなりません。農民の父のような愛をもって農作業を愛するのです。漁村に行けば漁夫の中の漁夫です。
ですから、皆さんが田舎に行って牧童を見れば、先生にも牧童の時代があったことを考えなければならず、農夫や労働者を見れば、先生にも農夫や労働者の時代があったことを考えなくてはなりません。
人生哲学ではなく、人間哲学を知らなければならないというのです。そうするためには、労働者にもなり、農民にもなってみなければなりません。私は何でもできる人です。仕事場に行って労働もすることができ、大工仕事も上手です。塩田に行けば、塩をすき起こすことも上手なのです。できないことがありません。車も上手に引き、穴を掘っても、上手に掘るのです。すべてやってみたのです。「オンドルを敷け」と言えば、敷くことができ、「壁や塀を建てろ」と言っても建てることができ、「煙突を建てろ」と言っても、すべてできるのです。何をしてでも、決意すれば食べていくことは問題ないというのです。
山中に入っていって、炭を焼くことまでみな習ったのです。坑道の坑木を組むこともみな習いました。また、のこぎりを持てばなんでも作ります。してみないことがありません。それゆえ、どこに行こうが、背広を脱ぎ捨て、服を着替えれば、何でも手伝うことのできる人になります。
日本に行っても、行かなかった所がないのです。苦労する所にはどこにでも行って、ありとあらゆることをしてみたのです。大きな会社の小さな仕事から始まって、みなやりました。長官や大臣の秘書までしたのです。言葉が早いために、気に入らない者に会えば、やっつけるのです。有名人の代わりに文字を書く仕事もしました。また外交もしたのです。
会社に行って仕事をしたり、文字を書いて売ってみることもしました。ある時は会社で、現場監督もしてみました。何でもしろというならば、できないことがありません。甚だしくは四柱を見てやることまでしました。話の上手な人々に会えば、話の上手な人になって、理論家に会えば、理論家になります。学者世界に行っては、学生時代から教授たちを痛い目に遭わせて、お腹がすいた時には教授を訪ねていって、昼食をごちそうしてくれと言ったのです。かといって、無理やりではありません。
心理鑑別訓練
先生は、このごろはそうでありませんが、昔は人間の鑑別をよくしました。道に出て、過ぎ行く人を見て、どんな感じが来るか調べてみるのです。「あ、あの人は間違いなくこうだ」と思った時、それが本当に合うか合わないか、ついて行きながら打診をしてみるのです。「あなたはこうだったでしょう」と尋ねてみるのです。それは霊界が教えてくれるのではなく、私の心が既に知っているのです。それで、「あなたはこのような人でしょう」と聞いてみれば、「どうして分かるのですか」と驚くのです。間違いなく当たるのです。じっと座って、あの部屋に誰がいるか、善いことをしているか悪いことをしているか、善い人が住んでいるか悪い人が住んでいるか、ということを一遍に知ることができます。皆さんもアンテナをだんだん高めて、そのように発展させなければなりません。
それゆえに、宇宙のすべての因縁に従って鑑別する鑑別士の生活が、信仰者の生活です。今から人間に対して研究しなさいというのです。あの人はマイナスになり得る人なのか、プラスになり得る人なのか、さっと見れば分かるのです。第一印象で分かるのです。そのような面においては、先生は早いのです。体恤信仰というのは、霊界で協助してすることより、生活圏内で鑑定して発展させていかなければなりません。
それゆえ、人を見ればすぐにキャッチします。皆さんを見ただけでもすぐに分かります。見るや否や、「あ! この人はどこが足りない」と考えます。鼻がこのようになっているな、肩がこのようになっているな、耳がこのようになっているなと、直ちにキャッチします。そのような訓練をしているのです。
人に対して研究しなさい。目の博士になろうとすれば、目を見て、その人のすべてのことを評価することができなければなりません。目の種類が何種類くらいになるかというと、何千種類なのです。まぶたを取れば、みな同じようですが、まぶたをつけると、みな違うのです。瞳が行ったり来たりしながら、うれしい時はこのようになり、泣く時はこのようになるではないですか。目を見れば、みな違うのです。目を見て調べることは、簡単ではありません。
それでは、それがどのようにして分かるのでしょうか。私の隣人の中で、あのような目をもった人はあのような環境をもっているということを考えて、そのような目をもった人を選び出すという方法を身につけるのです。誰々と同じ目をした人を探し出すのです。耳を見ても、鼻を見ても、目を見ても選び出すのです。すべて似ているというのです。そのようなものを見て、十箇所中三箇所が同じならば、その人に対して五〇パーセント以上は分かるのです。顔には目、口、耳、鼻の四つしかないのですが、その中で三つ同じならば、半分以上は当たるというのです。それを見て、悪い人なのか、良い人なのか見分けるのです。そのようにはかりをもって研究をするのです。皆さんも、今先生に研究材料を提供している方たちです。
全人(注・知情意の完全に調和した人格者)的な人格訓練の課題
私が筆を持って、過ぎ去りし場面を記録するようになれば、今後来るべき二〇〇〇年代の若者たちの胸の中に花を咲かせることができる、新しい思想の麹になるのです。それは素晴らしいのです。そのように見る時、先生は歴史上にない、一番の俳優だというのです。皆さんも、そのように生きなければなりません。
人生において深刻な立場にぶつかってみてこそ、人生の価値を発見することができるのです。あなたは労働者なのですか、どのような人なのですか。その位置とは、どのような偉大な英雄や偉人が雄弁に説教をしたとしても、その価値を発見することができない素晴らしい位置なのです。力いっぱいに地を踏み締めて立つその一つの足跡には、歴史が祈り目をつけるということが起きるのです。汗を流しなさい。大変でも、より上に行くことのできる道があれば、汗を流して行きなさい。それが生きた哲学なのです。
そのような立場にいる統一教会の教会員に対する先生の指導方法は、三十歳までは苦労させることです。絶望のるつぼに入ってみなさい。その絶望のるつぽの中で、新しいことを発見して「ひや1」と歓喜の喚声を張り上げながら、「きょうがなかったならば……」と言いつつ、決意を新たにし、喚声を上げる男や女になれば、新しい歴史を創造できるというのです。
一箇所だけを見てはならないのです。上も見ることができ、東西南北すべてを見ることができなければなりません。人生というものは、七十年、八十年、すべて同じなのではありません。一度しかない人生なのですが、その期間を成功するかしないかということは、目がよく見えるか見えないかにかかっているのです。そのためには、経験が多くなければなりません。ですからどんなに難しい環境においても、余裕ある人間味と融通性を有する自主性が絶対必要なのです。
そして、上がっていけば、また下りていく人格者をつくろうというのです。社会では上がったなら、絶対に下りていこうとしません。しかし、私たちは他の一面の人格をつくらなければなりません。上がったといって、ずっとそのまましていてはなりません。そのような場合は、昔の良かった時を思い出しながら、高い所から自然に低い所に下りていく人格者にならなければなりません。上に上がって下りてきて、また上がる人格者でなければ、天の側では使いません。
多くの人を指導しようとすれば、そのようなことをすべて消化しなければなりません。若い時期に、すべての経験をしなければなりません。このような事実を知らずに、先生はただ座っていて役職について旅行でもする人だと思うなら、大きな誤算です。先生は、人生哲学の過程において、すべての科目を通過した実績のある人なのです。
みなしてみなさいというのです。百科事典の一ページから最後のページまであるものをみな経験してみて、「私は今なお生き残った。もうすることがない!」というようになる時は、自分の主観が残るのです。主体性が残るというのです。「全国をみな回ってみて、私をくじく人がなく、私と戦って私にかなう人がいない」という時は、その次には自信のあるものを一つつかんで、一気に押して出るのです、一生の間。そうすれば成功するようになっています。
み旨のために、苦労哲学の博士、苦労哲学の王になることが、世界を占領することのできる秘法なのです。そのような人が天の国の栄光を独占する人になるのです。
七 怨讐を愛する実践
日本人を愛する
日本に行けば私が戦うのは日帝であって、日本の民ではありません。神様が戦うのはサタンであって、サタンの指揮下にいる人ではありません。それは確かだというのです。日本に行っても、日本人を誰よりも愛しました。日本は神を知らない国でした。本然の主人、父の愛を教えてあげなければならないと考えました。
先生は、お金があれば全部友達に与えました。「誰よりも日本を愛する条件を立てよう」と考えました。いろいろな所に行きました。大きな杉の木を抱き締めて、涙を流して泣いたこともありました。
飢えた友達に会えば、先生は飢えても彼に食べる物をあげたし、飢えた苦学生に会えば、抱き締めて痛哭しました。彼らに食物がない時には、食物をあげるために学生服を脱ぎ、埠頭で労働をし、石炭の運搬をしました。先生は、そのような若い同志たちを愛するために闘ってきたということを、皆さんは知らなければなりません。
日帝時代にはみな腹が減っていたのです。それで苦学する人々がいれば、「お前たち、腹が減っているだろう? 私の家に来い」と言って、食券が出てくれば、一ヵ月分を全部集めて、「食べろ、食べろ。思いきり食べろ」と言うのです。そうして、だいたい三日もすれば、みななくなってしまいます。
彼らを私の兄のように、私の母のように愛することができる心をもつことができなければ、神様の心情圏に入っていけないことを知ったがゆえに、そのような修練過程を経るために、民族を越えて日本に行ってそのようなことをしたのです。労働現場に通って金をもうけて、私が学費を出してあげた友人たちがいるのです。
学校に行けなくなった学生を卒業させるために、私が数カ月間学校を休んで、彼らのお母さん、お父さんの代わりのことまでしました。私には夜も特にありませんでした。明け方二時に起きて、そのようなこともしたのです。
弱者側の代わりにけんか
すごい連中が弱い者を困らせる時には、彼らをすべて一人でやっつけます。戦うのです。一人でやるのです。それは公のためです。会う時は一人です。殴られる時のその気分、これはすべて人生哲学において必要な問題です。
時には、他人のことを引き受けて、けんかもしました。自ら進んで「こいつ、なんだ」と、いってやりました。青年時代には、そのような気質も必要です。そのような人をつくりたいのです。
労働現場には組長がいて、搾取をし、三割を取ります。それで「そのようにさせない」と、強力に抗議しました。先生は恐ろしい者に対しても「そのようにしてはならない」といって、彼らの言葉に従いませんでした。そのようなことをよくやりました。
先生には、そのような力があるのです。先生が学生の時に、三銃士の友達がいました。その時、日本の組合が留学生や学生から搾取していたのです。それで、「どこどこで搾取している」という話を聞けば、三銃士が走るのです。「私はこのような人だ。あなた方が悪いということは、うわさですべて聞いて知っている」と言うのです。そして、「きょう仕事をしに来るから使ってくれ。使ったとおりに払え!」と言い、「駄目だ」といって、言うことを聞かない時には……。そのようなことをしなくてもよいのですが、先生はそれを知れば、怒りを抑えることができないのです。
そのような者が、統一教会の教祖になり、聖人になりました。先生は温柔ですが、厳格なのです。足げりも上手なので、話して素直に従ってこなければ、け飛ばすのです。
差別のない人間待遇
万物を慕いながら歩き回った、歴史的伝統としての先生の精神! 今、万宇宙に向けて叫んでいます。私の相対になる者は、日本の地の、どこにでもいるのです。そうだというのです。人を愛して倒れる立場においても、慕いながら涙を流し、四方八方に歩き回りながら、神様を慰労することのできる、そのような親孝行な息子、娘を探すその姿! 雨が降っても、雪が降っても、風が吹いても関係なく、限りなく日を越え、月を越え、年を越えて生涯を越えていくその姿は、万宇宙万象が尊敬せざるを得ません。そのように思うのです。
国と世界のために、先生が流した涙は、床をいつもぬらしていたのです。周囲に誰かが、かわいそうな境地にいれば、走っていって父母のように助けてあげ、兄弟や子女に対するようにしてきたのです。
ところがこの娘たち、このような娘たちが電車やバスに乗って、汗くさく、何かにおいがするこのような労働者が横に来れば、しきりにこのように押しのけるのです。統一教会員たちがそのようなことをするなら頭をたたき割ってしまいましょう。なぜ、そうしなければならないのでしょうか。考えてみなさい。先生も労働者のような生活をしたのです。私の母は、私がそのように生きるのを見る時、どんなに痛哭したことでしょう。この上なく愛する息子、金よ、玉よと育てた息子がそのように生きるのを見る時、どんなに痛哭しただろうかというのです。そのような人々を見れば、「ああ、あの人にもお母さんがいるのであり、父母がいるのだ。その父母があのように生計を切り盛りする息子の立場を見るならば、その父母の心はどんなに痛いだろうか」という気がするのです。
また、それだけでなく、おじさんをよく見れば、そのおじさんを命懸けで待つ、そのおじさんの妻がいるのです。「夫はなぜ帰ってこないのか」と思いながら、一日に何銭かを稼いでくる、そこに命を懸けて精誠を尽くし、高潔に勝利して一銭でも多く稼いでくることを願っている、そのような妻がいるのです。それだけではありません。幼い息子、娘たちは、彼に対して「お父さん」と言うのであり、お父さんは彼らを「息子、娘」と言うのです。そこにはどのような差があるでしょうか。私たち統一教会の人たちは、それを考えなければなりません。絶対に人を無視してはならないのです。人間を正しく待遇することができなければなりません。着る物は何を着て、まとう物は何をまとったといって、それがどうだというのでしょうか。心掛けにおいて、他の人がもつことのできない心掛けをもっていたなら、その息子、娘は滅びないのです。この時代にはこのように暮らしていても、三代を過ぎて七代のその後孫たちは、必ず堂々と歩ける時が来るというのです。それを体験しなければなりません。
社交力と親密感
日本にいる時、韓国に行かなければならないのに、お金がなくて、東京駅に行って貴族の夫人に会って説得をしたことがありました。「私は日本に来てこれこれこのようなことをしました。私はお金がいくら必要です。あなたのハンドバッグにいくら以上あるはずですから、三分の一を貸してください」と言ったのです。その話があまりにも真摯だから、そのおばさんはお金を貸してくれたのです。それで汽車の切符を買ってきて、あとからその三倍を私が送ってあげました。そのような歴史が多いのです。
また、先生が友達と交わろうとするならば、必要ならば一遍に交わるのです。また、どこかに行けば、よく遊ぶのです。「歌を歌え」と言うならば歌い、「踊りを踊れ」と言うならば踊り、「拍子を取れ」と言うならば拍子を取ることもでき、みなできるというのです。それゆえに、これはいい意味で、八方美人なのです。
日本の友達もたくさんいました。その時は帝政時代だったでしょう。日帝を滅亡させようとあらゆる手段を講じていたそのような事情を抱えながらも、友達に対しては、すきまなく対してあげたのです。そうすると、その友達はいろいろ難しい事情があると、先生に相談しに来たのです。「韓国はどう?」と言いながら、多くの友達が訪ねてきました。
彼らは先生を友達の中の友達だと言いながら、白分の秘密を告白したりもしました。「この事実をお前にだけは話さずにはいられない」と、ありのままに告げる同志たちを残したことを、皆さんは知らなければなりません。
どこに行ってもひざを交えて、互いに話しながら交際しなさい。「自分の胸の深い所に、みなを引き込まなければ過ごすことができない」と言える男にならなければなりません。そのようになれば、すべての秘密を私の胸の中に受け入れて、彼らを心安らかにしてあげる男になるのです。
第六節 解放直前の最終準備
真の御父母様の生涯路程 1
第六節 解放直前の最終準備
一九四三一一〇〜一九四五一八
一 早期卒業と帰国
早稲田高等工学校卒業
(一九四三・九・三〇、電気工学科二十五回)
私は東京に行って学校を卒業しましたが、その時は学徒兵に出ていくために半年短縮して卒業しました。
日帝の末期において、私たちが卒業する時は、工科系の学生たちは、六ヵ月先に卒業したのです。
先生の卒業当時は大東亜戦争中だったので、兵役問題もあって六ヵ月短縮し、九月に卒業しました。関釜連絡船で帰り、何時に到着すると電報を打っておきました。しかし、事情によって、切符を取り消して行くことができなくなりました。
関釜連絡船「崑崙丸」撃沈事件(一九四三・一〇・五)
学校を卒業して、私が下関を経て韓国のソウルまでのチケットを買いましたが、その時、乗らなければならなかったのが崑崙丸です。
崑崙丸という船が沈没しました。まさにその船に私が乗るようになっていました。その時が十月四日だったと思いますが、その船に乗るはずだったのです。
何時に船に乗ると電報を打ったので、その船に乗るようになっていたのです。ところが、駅に行って汽車に乗ろうとするのに、足が動かないのです。その船に乗ったならば逝くのでしょう。それで、天が先生に行かせないようにするのです。それがよく分かる人なのです。心が、あとに戻れというのです。それで、すぐには行くことができないという連絡をせずに、帰ってきて、友達と登山に行きました。その時が秋でしたから、富士山に行こうといって、登山に行きました。私が登山に行ったために、数日が過ぎました。一週間いて帰ってきたのですが、それから電報を打つでしょうか。そのため、故郷では大騒ぎになったのです。
本家の騒動と母情の極致
故郷では大変なことになったのです。息子がその船に乗って、何日何時に来るというのに来なかったから、大変なことになったのです。大騒ぎになったのです。母親はどれほど子供を愛するでしょうか。母は気がおかしくなりそうでした。平安北道の定州で、警察署に二日間も、ひたすら出たり入ったりしたのです。婦人がチマもはかずに下着一枚で走っていけば、それはもうすっかり狂ってしまったということではないですか。正気ではなかったのです。ですから、裸足だとかチマを脱いだとか、それを考える余裕がどこにあるでしょうか。
先生の故郷の村から定州の中心地までは二里です。母はその二里の道を素足で走ったのです。そして釜山まで行ってきたのですが、履き物であれ服であれ何であれ、考える気持ちがあったでしょうか。私の息子が死んだと裸足で走り出たまま、釜山の水上警察署で調査をしても名簿にはなくて、どうにも確認できないのです。母は間違いなく息子が死んだと、そのように思い詰めた心をもったので、裸足で走る時、その足の裏にアカシアのとげが刺さったことが分からなかったのです。刺さったとげが、うんで張り裂ける時まで分からなかったというのです。それから私が半月後だったか、とにかく十日間くらい過ぎたのちに帰ってきました。帰ってきてそのような話を聞いた時、「ああ! 私がやり過ぎたなあ」という気がしました。そのような母でした。
定州からソウルはどんなに遠いですか。汽車では十時間はかかるのです。そして釜山まで来ようとするから、どんなに気が気でない思いをしたでしょうか。
ですから偉大な父母だというのです。そうした母に対して、先生は孝行をすることができませんでした。先生は、誰よりも息子を愛する母をもった人なのです。その母に孝行をすることができなかったのです。なぜそうだったのでしょうか。あなた方を愛そうとしたからです。
帰国(一九四三・一〇・中旬)
先生は、日本の皇居を通り過ぎていく時に、国を失い、民族を失った恨を抱いた孤独な男として、その皇居を見つめながら、今から二十年後には、天が韓民族を中心として勝利の旗を掲げる日が来るということをあらかじめ知って、神様に祈祷しました。「今は、日本が私たちの民族を迫害していますが、今後は反対に私が命令すれば、日本の若者が先生のために、世界のために立ち上がる日が来ます」と、そのように誓ったのです。それが二十年後の一九六五年に成し遂げられました。
先生は日本を出発しながら考えました。「二十年後には私が間違いなく帰ってくるから、その時再び会おう。今は日帝に恨みを晴らせず、我が民族の恨みを晴らすことができずに行くけれども、今度はこの国の青年男女たちが世界に役立つように私が教育する時が来るであろう。その時再び会おう」。そのように考えました。
その後、先生は二十年ぶりに日本に行きました。行くや否や一香気になったのは何かというと、我が教会に青年男女がどのくらいいるかということでした。若い男女がおよそ五百名集まりましたが、彼らは全部金持ちの家の子女たちでした。彼らに話したのは、「日本は私たち韓国の怨讐だが、私はあなた方を生かすために資金まで出して、特使を送ってあげたのだ」ということでした。そして、そこに集まった若者たちに、「あなたの国の罪は何か知っているのか」と尋ねると、「知っています」と言うのです。そして、「統一教会とは何か知っているのか」と尋ねると、「知っています」と言うのです。
彼らに「それでは今後どのようにしなければならないか」と尋ねたら、みな「先生の言われるようにします」と言うのです。それはどんなに素晴らしいことですか。「統一教会と統一教会の文先生が勝利することを願います」と言うのです。
二 ソウルでの就職と家庭出発
定州郡郭山の崔氏新婦
先生がみ旨を知ってから、聖進のお母さんと結婚したのも、私の好きなようにしたのではありません。霊界から指示があってしたことです。霊界の指示のもとで会ったのです。その人の名前が崔先吉です。
名前が男のようですが、どうして崔先吉としたのでしょうか。霊界から教えてくれたのです。先に吉というのです。女として先に吉という言葉は、神様の摂理の中で誰よりも祝福を受ける女性になることができるということです。そのような名前なのです。
聖進のお母さんは賢い女なのです。とてもまっすぐで、家門もいいのです。崔氏の門中といえば、定州郡では有名な門中なのです。そこの本家の娘なのです。また、とてもつましい女なのです。へこたれない女です。これっぽっちも世話になりたがりません。
彼女は、小学校出の、七年ないし八年の過程の学歴しかない人なのです。それで天のみ旨の中で会った人なのです。まず世の中から見る時、夫は自分の夫しかいないという人でなければなりません。すべての面において自分が不足なので、夫がすることに順応できる与件が大きくなければならないのです。また、自分は大きなみ旨を抱いて行く夫の道において、どんな苦労でも有り難く受けなければならないというのです。個人的にいろいろ見る時、そのようなけた違いな差があればあるほど、それがみ旨の前に助けになるゆえに、先生は小学校しか出ていない聖進のお母さんを選びました。
彼女は、キリスト教信仰が篤くて、信仰的代表だというのです。そのような観点から見れば、全世界を代表すると同時に国家を代表して、男の洗礼ヨハネの立場でなく、女として洗礼ヨハネの使命を果たさなければならない立場にいた人が、聖進のお母さんでした。キリスト教の使命とは何かというと、新婦を提示して、新婦を天の前に連結させることですから、そのような観点から見る時、そのような意義があるというのです。その時、聖進のお母さんは、神社参拝の問題を中心として監獄暮らしまでした経歴をもっていました。そのような女性を探したのです。そのような乙女を探したのです。
仲人が言うには、私が二十四番目だそうです。新郎を見つけるために、新義州からどこどこ何十里内外から、優れた男をみな探したのです。聖進のお母さんの家も祈祷して、みな霊通する人たちなので、先生の写真を見て祈祷すると、霊界から教えてくれたというのです。本当に霊界から教えをたくさん受けました。
東西の方向から二つの大きい鏡が現れて、天の真ん中に来て一つになったとか、その中に太陽が昇って世界を照らすのに、天地の東西南北の星と月がずーっと囲んでいたというのです。その月の光がさして、万国が花畑になったとかです。彼らは、夢のような、そのような啓示をたくさん受けたというのです。
祈祷をしてみるとそのようになるから、その女性が他の男性に心が行くでしょうか。死んでも「私の愛する人」と言うようになっているのです。
見合いをしに夜道を七里
母方の叔母だから何親等になるでしょうか。七親等です。親等で見れば一段階下がらなくてはなりません。その叔母が、ひょっこり現れたのです。この方は、仲人としては有名な方です。それで、「この甥の仲介は自分がする」と言うのです。私はいたずらも好きですからね。その叔母さんを、からかうのが本当におもしろいのです。夜に腹が減れば、うどんも買って運んで、「仲介が上手ならば一度してごらんなさい」と言ったのです。
私はその後、故郷を離れました。そうして、行ったり来たりしていて一年八ヵ月が過ぎて、再び故郷に行ったのです。私もそのことに関心がなかったし、その間に、その娘が嫁に行っても当然だったのです。ところが行くや否や、叔母にあたる人が、ぎゃあぎゃあ大声を出しながら、「大変なことになった」と言うのです。独り身の乙女をお前が放っておいたので、その娘は「死んでも他のところに嫁に行かない」と頑張っているから、大変なことになったというのです。家に来るや否や「行ってみよう」といって、叔母が先に行くのです。その次には、うちの村で私は話題の種ですから、叔父など五人が出発したのです。夜を明かして歩いたのです。
夜にソウル駅に着き、夜道の七里を寝ずに歩きました。小さい砂利石を埋めただけの、舗装しない道だったのです。靴を履いて七里の道を行ったことを考えれば、今もぞっとします。夜が明けて、少し離れた所の人を見ることができるくらいに明るくなると、茶屋が見えたのです。そこに行って、「ここのなにがしの家はどこか」と尋ねると、「すぐ前の家だ」と言うので、見ると、良い瓦屋根の家だったのです。その村で一番大きい瓦屋根の家でした。
「通り過ぎの客が大変失礼します」ときっちりと礼儀をわきまえて……。全く、そのように失礼なことがどこにありますか。けれども夜通し歩いたから仕方なく「部屋を一つ貸してください。私は三日三晩眠ることができませんでした」と言ったのです。それで母と母方の叔母は離れの部屋で寝て、叔父は別の所の広間で寝て、私は新郎であるから一人部屋をくれなければならないでしょう。
ところで、朝御飯を準備したけれど、これが十二時になっても目を覚まさない! このようにして、一時半か一時四十分ごろに起きました。その次に顔を洗いますが、人の家で不便な所に来たのでござを広げ、洗面器に水と塩を注いでいて、見ると二時半になりました。そうすると、御飯を食べずにいられますか。果たして御飯が整えてありました。あっという間に、一つも残さないで、みな食べてしまったのです。そして、反応がどうなのかを見てみたのです。水まで「もっとくれ」と言って、その次には「果物はないか」と言ったのです。ないものを探して言ったのです。
そして「新郎が見合いをしに来た」と言って、うわさが村中に広まったのです。その村は、およそ百五十軒からなる大きな村です。その復氏の村に、数分の間にうわさされたのです。まあ、どのように寝たとか、どうのこうのとうわさが立つのです。
それで、この家にどんな肝っ玉があるか見ようと、私は「鶏を捕まえろ」と言ったのです。それだから鶏を捕まえないわけにはいきません。そこにいる鶏を全部捕まえました。姻戚関係の八親等の家の鶏まで合わせて何羽になるか、およそ五十羽捕まえたのです。捕まえて、「お前も食べていけ、お前も食べていけ」というのです。
それから夕食を食べたのですが、娘との見合いをしに来た人なのに、娘と見合いをするという話は一つもしません! (笑い)。おもしろい話だけを続けるのです。東京がどうで、日本人の暮らしがどうでこうでと話すのです。二時まで話したのです、夜の二時までです。
見合い後に婚約(一九四三・一二)
そうこうするうちに、見ると三時を過ぎたのです。それで「では、このように遅くても、あなた方の娘さんがどうか一度見ましょう」と言ったのです。夜三時に見合いをするという花婿候補は私くらいで、歴史的なことです。それで、呼んで座らせておいて、「みな出ていくな」と言うのです。「出ていくな」と言って、一つ一つ面白く押し進めるのです。学校はどうでこうでと。
そうしてから、「ではあす会おう」と言って、その翌日、本格的な試験をするのです。その次に三日目です。見合いをしに来て、三日間も留まっていけば悪口を言われるのです。それでその翌日、私が統一教会のこのような道を行くことを話しながら、全部条目ごとに尋ねてみたのです。
そうしながら、少なくとも五年間、七年になるかもしれないが、結婚しても一人で生きる覚悟をしなければならないことなど、その時にみな話をしたのです。「くれ」と言うとおりに、代価をみな支払うようになっているでしょう。彼女は「何でも、そうします」と言いました。このようにして婚約をしたのです。そして婚約式をきっぱりして、家に帰ってきました。
そのようにして十二月に婚約をしたのです。二十歳を越えていない、十八歳未満、韓国の年齢でいえば十九歳にならない人でなければなりません。聖進のお母さんも数えの十九歳で婚約したのです。
「満州電業」行きの変更と郭山訪問(一九四四・二・初旬)
ハルピンの北にハイラルという所があります。日本から帰ってくる時、満州電業という電気会社に就職して、そこへ行って住もうとしたのです。そこに行こうとしたのは何のためだったのでしょうか。ソ連の言葉を習い、中国の言葉を習い、蒙古の言葉を習おうとしたのです。アジアにおける大陸基地のことを考えて、三年間、言葉を習うために行こうとしたのです。
満州の安東に満州電業がありました。その後、その支店に行こうとして、よく見ると、情勢が不安定なのです。満州に行ってはならないのです。それで安東に、就職したすべてのことを取り消しに行きました。行きもせずに辞表まで添付して、費用までみな持って安東に行き、支店長に会って清算して出てきたのです。
郭山は定州の次です。定州と宣川の中間です。その時は二月だったと思います。結婚式の日を決めるために立ち寄ったのですが、汽車の時間が合わないために夕方になりました。郭山に降りると六時くらいでした。日がまさに沈まんとする時です。そこからが一・五里の道です。その時が二月の初めですから、雪が降っていました。平安道では三月まで雪が降ります。雪が降り始めたのです。ですから、下りて探して、行くのです。婿が、婚約した嫁の所にです。
ところでどのようなことが起きたかといえば、妻の一番上の兄が出てきて、「私たち崔氏の門中では、結婚する前に新郎自身が訪ねてきてこのようにする法はない」と言うのです。「だから自分の門中では迎え入れることができない」と言うのです。「帰れ」と言うのです。それを見れば、良い家門でしょう。いくら何であっても、伝統的な基準を中心としてしたことだからです。それで七里の道を再び帰らなければなりませんでした。ぼたん雪が降って、とても詩的な場面が展開されたのです。
私が去ったのちに、妻の母が帰ってきて大変な騒ぎが起こりました。妻の母が来て見ると、問題が大きいからです。「このままでは婚約破棄になる」と言って、息子を叱りました。なぜそんなことをしたのかと問い詰めたのです。そうして聖進のお母さんがそれを知りました。本家にいて、その話を聞き、すぐさま身なりを整えて出たのです。普通の女性ではありません。
私に追いついて、「どうして帰ってしまいますか」と言いながら、「自分の家へ帰ろう」と言うのです。「家のすべての問題は自分が責任を負うから帰ろう」と言うのです。その時私は、聖進のお母さんの性格を知りました。とても肝っ玉が大きくて、この女は普通の女ではないな、とです。しかしそのような立場で、どんな顔で妻の家に再び入りますか。それで「行かない」と言いました。「行かない」と言うから、五里の道をついてきたのです。定州まで五里の道を、夜を明かしながらついてくるのです。そうしながら、自分の事情をずーっと話すのです。
定州邑に私の叔父がいました。そこに行って、「朝食の仕度をしてくれ」と言って食べさせて、汽車の時間に合わせて送ろうとしたのに、「絶対帰らない」と言うのです。それで叔父のお母さんに、「証人になって、どうか本家に連れていってください」と言いました。仕方なく叔父のお母さんが連れていって、私の家に一週間いて、帰りました。
さて、一週間過ごす間、母と父がじっと見ていると、愛想が良くて、太っ腹で物事の筋道もわきまえています。ですから、母、父、姉、妹たちが手放しでほれ込んだのです。そのように作戦をしたのです。
鹿島組京城支店電気部就職(一九四四年三月ごろ)
その時、あの鹿島という会社があったのです。日本に行けば、その本社は大きい電気会社でした。私は昔、鹿島組の電気部に勤務していました。
先生は職場に行くにも、一番早く行って、一番遅くまで仕事をしたのです。そのような訓練をしたのです。一番にならなければ気分が悪いのです。あとには、一番貴い者になるのです。その人が引き継ぎ者、その人が主人になるのです。同じなのです。天のみ旨に対して朝早くから起きて、一生をそのようにする人が主人になるのです。天の国の主人になるのです。
成婚と家庭出発(一九四四・五・四、戸籍上一九四五・四・二八)
先生が結婚式をしたのは解放前です。それは天の命令によってしたのです。皆さんも知っていますが、その人が聖進のお母さんなのです。
結婚を突然するために、母と父が二カ月以内に木綿を十余反作らなければならないのです。そのようなことをするので、エピソードが本当に多かったのです。先生の一生は全部開拓でした。結婚までも、私が全部開拓したのです。馬を用意することまでもしたのです。その時は、タクシーがなかったのです。七里離れた娘の家で結婚するためには、馬に乗って行かなければならないのに、日帝時代には禁止されていました。歩いていけないので、馬を求めることから先生がみなしました。
結婚する日時を決めたのに、結婚する一週間前に妻の父が亡くなりました。四月十七日は復活節であるため、やり過ごしました。五月四日、嫁が来る日は雨がどしゃ降りだったのです。そのように、すべてのことに困難が多かったのです。蕩減の道です。曲折が多かったのです。
イエス教の李浩彬牧師、韓俊明、朴在奉牧師など、幹部たちを私はよく知っています。このような人々が、先生と本当に近かったのです。それゆえに、聖進のお母さんと結婚する時、新イエス教に行って、その李浩彬牧師を私が引っ張ってきたのです。それほど近いのです。なぜ近いかといえば、平壌の新イエス教の日曜学校の学生が千名近くいましたが、私が立ち寄ることができれば、いつでも日曜学校の教育をしていたからです。私はその学生たちの間でうわさになっていたのです。そのように牧師たちと親しかったために、李浩彬牧師ともよく知る間柄になったのです。それで聖進のお母さんと結婚する時、李浩彬牧師が主礼をしたのです。
三 京畿道警察部での受難(一九四四・一○〜一九四五・二)
日警の苛酷な拷問
先生は学生の時にも、監獄の出入りを当たり前のようにした人です。また日帝の拷問台の前で、図太く振る舞った人です。そのような歴史が多い人です。日本人たちに、たくさん拷問を受けました。彼らの拷問はとてもひどいものでした。若者たちを捕まえて、焼きごてを当てたりしながら拷問をすれば、服のままで大便をしながら、自分がしていないことまでも、「した」と言ってしまうというのです。
日本人が悪いことをしたということを、すべてよく知っているのです。私は、監獄暮らしもしました。日本の高等刑事や特課刑事たちにむち打たれて、水を飲まされ、ありとあらゆることをされた人です。
全四肢に死亡の血が回るほど、また血が何杯もあふれ出るほど、むちでたくさん打たれました。日帝時代には、軍靴を履いた足で腹を蹴られる拷問も受けました。二人が左右から手をつかみ、二人が上から踏むというのです。そうすれば腹の皮がどのようになりますか。破れますか、張り裂けますか。それで便所に行って、一度座ってから立ってみなさい。それは、どんなにつらいことでしょうか。
先生は日帝を滅ぽすと言ったために監獄に入れられて拷問を受けましたが、一番つらいことは何かといえば……。一度やってみなさい。角材を持ってきてここに置いて……。日帝時代には軍隊で履く革靴があったのです。鋲を打ってカツカツと音がするその革靴で踏むのです。それは、やられてみない人には分からないのです。
日帝時代に、先生はどんなに監獄に入れられて、飛行機の拷問をされ、電気の拷問をされても、びくともしませんでした。「打て、こいつら! 打て! お前の棒が強いか、私の決心が強いか、ためしてみよう」と、そのような闘いをしてきたのです。監獄に入っていき、一日中たたかれ拷問される立場にあっても、板の破片に縛りつけられ、ねじ曲げて絞られる時にも、「こいつら、やってみろ、こいつら」と思いながら、耐えたのです。
血を吐く場で、十本の指から血を出す場でも、これが十個の国家の血に代わり、十個の民族の血に代わる祭物として捧げることができるならば、どんなに栄光だろうかと祈祷しました。
日帝時代、私が十二時間近く拷問を受けて血を吐いたこともあり、十五分間で人を狂わせる、生涯忘れることができない拷問も受けました。それを十二時間も受けながら、奇跡的に生きて出てきました。殴られて後ろにばたっと倒れ、死ぬほど血が流れ出ても、「打ってみろ! その棒が折れるか、私の骨が折れるか」と、耐えたのです。
一度は十四時間も取り調べを受け、拷問をされ、はって二十メートルも行くことができないほどになって、何度も気を失っては覚める、そうした過程がくり返されても、私は口を開きませんでした。
拷問を受ける心情と祈祷
日帝時代に監獄に行って、血と涙が入り乱れる拷問を受けながら出した悲鳴は、人類への神様のみ旨が成され得る頂上の場を追求しながら出した声でした。その悲鳴の頂上に上がることができなくては、不平を言うことができないのです。
父と本音を吐露できる立場で「父よ!」と呼びながら、「神様! 私の血は昔の先祖たちの血とは違います。裏切りの心情を抱いて、神様を恨む中で血を吐いて倒れ死んだ者たちのような男ではありません。私に同情なさらず、民族と国家と世界人類に同情してください! 霊界にいる霊人たちの恨を解いてあげられるようにしてください! 私を先に立たせて、彼らの生きる道を開いてください!」と、血を吐きながら祈祷してきたのが先生の道でした。
「ぶん殴れ、私が大韓民国を愛する愛国心が大きいか、お前が日本を愛する愛国心が大きいか」、そのようにしながら、とても意義深い戦いをしたのです。先生が監獄に入った時は、日本の帝国主義時代でした。それで、その時、先生は国を裏切る逆賊の立場に立たずに、かえって監獄に入ったことを感謝しましが)゜私が救いを受けるより、私一人が死んで国の恨みが解け、国が解放されるならばどんなにいいだろうかと考えたのです。これが統一教会の伝統的思想です。
日本の監獄に入ったゆえに、私は韓民族の悲惨さを知りました。日帝がどんなに悪いかということを監獄に入って知りました。監獄に入って拷問を受けて、血を流す過程で同志たちと共にありながら、初めて韓国の悲惨な姿を知るようになったのです。このような民族を誰かが解放しなければならないという義務を感じたことも、監獄に入ってからです。監獄は、先生にとって偉大な先生になりました。復帰摂理路程において、誰も触れることのできない基礎を築くことのできる一時だったというのです。
命を懸けた黙秘権
先生は血を吐いて、生死の境を何度も行き来しました。しかし監獄では、共に仕事をした同志たちに対する責任と義理のために、命を懸けて「私一人で戦った」と言いました。殺すと威嚇されても口を割らなかったのです。話さないといえば話さないのです。
百余名の命が私一人にかかり、生死の問題がかかっているので、舌を切るならば切ったのであって、話すことができますか。話さないのです。「話さないぞ。打ってみろ。お前は打つけれど、私は殴られることにおいてお前に勝たなければならない。それが私の責任だ」と考えたのです。机の足四つが全部こなごなに折れていくように殴られて、全身に真っ黒い血のあざができても、二日も白状しなかったのです。「こいつは死ぬまで話さない」と言うくらい話しませんでした。いくら拷問されても、一言も話さないのです。責任者としての自分の秘密を守るのです。
角材で身の毛がよだつような拷問をされた時も、話しませんでした。義理を守ることができなければならないのです。一度約束をしたならば、自分が滅びても守らなければなりません。そのように拷問をされて、一夜過ぎれば、その日は悲しい日であると同時に、忘れられない日として残るのです。
今でも、名前を覚えているのです。道警察局の拷問担当者がいくら拷問しても、白状しないのです。「白状しない」、それで終わりです。三百六十五日、いくらでもしてみろというのです。何度、気絶して起きても、「なぜ起こすのか。少し寝かせてくれ」と冗談を言うのです。「もう少し寝ようと思っているのに、どうして起こすのか、こいつ」と言うので、拷問しても友達になったのです。誰が来ても、私は「おいおい、そうするから痛くない。痛いようにしろ、痛いようにしろ」と言ったのです。それでも解決しないことは明らかなのです、一こと言えば済むのですが…。「お前たちは無理やり印鑑を押したが、裁判所に行けば私は真実を話す」と言ったのです。男ならば、自分の思いどおりにしなければならないでしょう。先生はそのような男なのです。
先生が取り調べ官ならば、一番の取り調べ官です。日帝時代に多くの熟練した検事、判事の前でただの愚か者のようなふりをして、みなのみ込んでしまったのです。調書を作成する時に、愚か者のふりをしたのです。それで、「いやー、あのような者が、一介の責任者になることができるのか。幼稚園の子供のようだ」と言われました。そのようにすれば、重要なことは隠して越えていけるのです。そして、調書を作成して印鑑を押せば、何でもないというのです。そのような作戦をしました。愚か者のふりも、時にはしなければなりません。そのように先生は熟練した男なのです。
怨讐の許しと祝福
私を監獄に閉じ込めても、私の心と私の理念は閉じ込められません。私を打てというのです。打てば今まで私が神様の前に歩いてきた道と、神様が築いてこられた道とが連結されるというのです。ですから、怨讐を愛することのできる心がどんなに強いか鑑定しろというのです。打つならば打て! 私がお前を憎むか、憎まないか。むちで打たれて血を吐きながらも、「ああ! よく打たれた。歴史的なすべての怨恨の人類に代わって殴られた。私は殴られても忘れよう。記憶しないようにしよう」と思いながら、「神様! 彼らを許してください」と祈ったならば、それはどんなにすてきですか。その立場を越えなければならないのです。そのためには、私自らを殺す立場に立てなければなりません。そうすれば簡単だというのです。
昔、日帝時代、監獄で私をひたすらに踏んでは殴った人がいました。その時私が考えたことは、怨讐を愛せというけれど、踏んで殴られると、私の性格ならばすぐに足でけり返してしまうはずなのに、「こいつ、さあ、お前やってみろ。耐えてやろう。死ぬ境地に行っても耐えてやろう」と、そのように考えたのです。
私は彼らに怨讐のようには対しませんでした。彼らに福を祈ってあげるべき責任が私に残っているために、彼らの何を見て福を祈ってあげるかを研究しました。監房で悩みながら研究したのです。しかし人には良心があるので、朝、人々がみな出たあとに、誰にも分からないように私に謝罪するのです。それが人なのです。それを見れば、人間は誰でも同じだというのです。彼らも良心は欺けないというのです。
危険防止策
拷問される場に出ていっても死にません。拷問される時は、必ず血を流さなければなりません。水を飲ませて拷問するのです。そして腹でもどこでも、ぎゅうぎゅう踏みます。それゆえに、それに耐えるためには浣腸をしなければなりません。おしっこの代わりに、おしりからみな抜き出さなければならないのです。血を出さなければなりません。血を出せば破壊が起こらないのです。爆発しません。破れないのです。それゆえに、神様がどんなに知恵の王であるか分かりません。
皆さん、とても疲れると鼻血が出るでしょう。鼻血が出なければ脳出血になるのです。鼻血が出るのは、その防止策です。疲れてだるくなる時、血圧が高くなるので、切れて出てくるのです。それと同じように、拷問される時は、必ず血を流さなければなりません。ですから、唇をかむとか舌をかむとかして血を流して、穴を開けなければなりません。そのようなことを私が教えてあげて、多くの人々を救いました。私のような人の生涯路程は、平安なものではなく、易しい道ではありません。今まで、数多くの死の道がありましたが、その峠をすべて越えてきたのです。
監房の中の寒さ
先生は監獄生活をたくさんしたために、いろいろな経験をたくさんしました。監獄は寒いのです。日帝時代には、本当に寒かったのです。火をたいてくれないのです。火鉢がないのです。十年そこに住むようになれば、十年間服を着て暮らさなければ生きられません。ですから、いつも暖かいわきの下は何の停留所なのか知っていますか。何の安息所なのか知っていますか。しらみ、しらみです。ここには縫い目があるのです。ここから、さーっとやって、ここから下りていく縫い目をこうして押すと、真っ赤になるのです。寒い所でこれを捕まえて放っておくと、二十匹くらいいると、お互いに口をぶつけ合いながら集まってきて、それが丸くなるのです。一度やってみてください(笑い)。私はその専門家です。私の話が信じられなければ、やってみてください。
それは、そうなるのではないですか。寒いのですから。皆さんも、寒ければ身を縮めるでしょう。同じことです。彼らも口が外に出るのを嫌がるのです。みなおしりだけ出すのです。おしりは丸くなっているので、寒さをあまり感じないのではないですか。
しらみの足や口が出れば、どんなに寒いか。ですから、しらみたちが潜り込み、しきりに中に入ろうとするのです。栗の実のようになるのです。それを一度口に入れてジャキジャキ……(笑い)。性悪な人は、どうなるか知りませんが、それまでも食べることができます。
母親の涙
ないお金を集めて外国まで送って勉強させたのに、監獄に引かれていくのです、監獄へ。日帝時代から、母が監獄に訪ねてきて涙を流すとき、母のことを考えれば、そのようなことをしなければよいのですが、母は何も言うことができなかったのです。母は何も言えなかったというのです。
「私は母の息子として間違ったことはしていません。文なにがしの家門に生まれて、その家門を汚すようなことはありません。大韓民国固有の伝統的思想を中心としてみる時、良心の呵責はありません。私は、たとえ獄苦を味わう身になったとしても、息子がかわいそうだと涙を流すような母を願いません。ここで忠告をし、激励して、『あすの希望のために行きなさい』と言うことのできる母が、私には必要です」と言いました。
親不孝です、親不孝。そのような親不孝がありません。日帝時代にひたすらに監獄暮らしをしたのです。日本から帰ってくれば、警察署が、すぐに私を呼び出すのです。私を恐れるのです。かといって私が拳骨を振るうのではないのです。父母が来て涙を流すようになれば、私は青天の霹靂のように号令するのです。「あなたの息子である文なにがしという人は気の小さい男ではありません。私の目にこびりつくものは、お母さんのためよりも世界と神様です。その悲しみを解くためです」。それで、この道に来ていると言いました。
釈放(一九四五・二)
出る時は、彼らに親切にして出てこなければなりません。およそ五、六時間ひどく拷問を受けて気絶して、ばたりと仰向けに倒れる時、その時むしろ彼らから同情の気持ちがわいてくるのです。その時の気持ちが本物なのです。彼らは「ああ! あの時の、なにがしはどこにいるか」と思い出すのです。享楽を追求する人には、このようなことをどんなに説明をしても、絶対通じません。
皆さんのように、若い時は本当に良い時なのです。苦労しても、苦労した跡が残りません。私がよく知っています。先生が皆さんぐらいの時、拷問もたくさん受けてみました。いくらむちで打たれ、水で拷問をされて体が張り裂けたとしても、死にません。およそ二週間過ぎると、すべて元通りになりました! 二週間よく食べると、以前と変わらなくなったのです。ですから、苦労は老いてするのではなくて、赤ちゃんを生む前にしなければなりません。
ここに立っている文なにがしは、一生の間、数回監獄を往来しましたが、滅びませんでした。漢江のほとりに立って、私が痛哭したことを誰も知りませんが、私は知っています。
四 解放直前の内的な準備の仕上げ
日帝治下で内的な準備
韓国は、四十年間日本の支配を受けなければなりませんでした。日本は、サタン側の女性国家でした。四十年期間に日本は韓国のすべての文化的伝統、そして甚だしくは韓国の言語までなくそうとしました。先生自身も、その期間に日本人たちによって投獄されました。そのように日本政府によって投獄され、抑圧を受けた韓国人たちがたくさんいました。神様によって召命されるために、その人々は愛国者、孝子、または社会に献身する人々にならなければなりませんでした。愛国者たちは、国のために彼ら自身を捧げると決心した人々です。神様の摂理のためにも、そのような人々が必要でした。神様が摂理のための基台を探して広められる時は、常にサタンの反対の下で役事されます。その時先生は、一人の青年として、迫りくる公生涯のために自らを準備したのです。
一九二〇年代を中心として神様は既に準備されました。先生が生まれて人生問題に呻吟しながら、道理、天理を明らかにして、宗教問題、愛の問題を明らかにするための歩みをしながら、解放の時代まで越えてきたのです。解放の時代、その時、私は何歳だったのでしょうか。数えの二十六歳でした。
先生においては、個人の患難時代がありました。私自身に対する患難です。そのような患難の瞬間がありました。深刻な瞬間でした。み旨の道を行くことができるのかできないのかという問題がありました。未知の世界を開拓しなければならないのですが、幾重にも泰山峻嶺によってふさがれている所を越えて、また越えてその世界を明らかにすることができるのか。歴史時代にそのように身もだえしながらも通り過ぎていった人は、どれほど多いだろうか。そのようなことを考える時、深刻なのです。その時、間違って決定していれば、今日の統一教会はなかったのです。自分のことを考える一念が、少しでもあったとしたら行くことができなかったのです。そのようにしながら、未知の世界を開拓してきたのです。
その時先生は、皆さんが今習っている原理のどんなことも決して話すことができませんでした。なぜなら、先生が韓国の解放直後にこの仕事を始めることを神様に約束したために、その時には話すことができませんでした。神様のみ旨は、一人によってのみ成就されることはありません。共に働くことのできる対象がいなければなりません。
解放前夜の祈祷
ソウルを中心として高い山の頂きに行き、悲壮な涙を流して痛哭した時がありました。この大韓民国は、どこに行くのか。「ため」に生きる天理の大主宰であられる神様の懐を離れて、どこに行くのか。また、私は、解放前に北岳山から始めて全部歩いた人なのです。それで、「大韓民国よ! 悲しむな。世の中は滅びても、お前は滅びないだろう」と、頭を下げて祈祷しました。私がいる限り滅びません。我が国の先祖たちの怨恨が多く、神様の怨恨が多いのです。
ソウルに来るようになれば、私が三角山に行ってそのように歩き回りながら祈祷した、その時が忘れられません。皆さんには、そのような何かがありますか。世の中は分からないけれど、愛の道、愛の塔は高く積まなければならないのです。
解放前の最後の日を送りながら、国のために神様の前に懇々と身もだえしながら祈祷した事情や、世界に対して身もだえして祈祷した事情を、みな打ち明けたい心が切実であるけれども、言うに言えない胸痛い内容があるというのです。
全国の神霊集団を踏査
私がこの道を出発するようになる時、韓国の有名な牧師たちにみな会ってみました。熟したか、熟していないか、みな調べてみたのです。誰が何点で、誰は何点か、点をつけて出発した人です。その人々は私を知りません。うわべだけで見れば、私は若者であり、頭もぼうぼうなので、過ぎ行く旅人としか考えなかったでしょうが、私は彼らの中身を見抜いて、すぐに天の報告書に記録して出発したのです。報告して出発をしたのです。
先生は、少年時代を経て、青年時代を経て、分別がつき始めた時から、聖書の内容を中心して深く探求していくと、神様の摂理はこうだということがすべて分かるようになったのです。そして、二十五歳で、解放とともに新しく出発するようになったのです。
先生はまず、地下教会を遍歴しました。日本の神社を参拝した汚された人々が現れるために、解放の三年前から、つまり数えの二十三歳から、地下教会の遍歴を始めたのです。「神霊的な人たちは、どのような道を行くのだろうか。神様の摂理はこうこうでなければならないはずだ。そのために準備団体が必ずなければならないはずだ」と考えて、地下教会を探査し、有名だという神霊的な人々にすべて会ってみました。しかし彼らも神様のみ旨を知らずにいたというのです。神様のみ旨の方向を知らずにいたのです。
既に二十代の前に、あらゆる有名な復興師たちを訪ねてみました。「堕落はどのようにして起こったと思いますか」と、堕落論を見て尋ねるのです。誰も彼もすべて訪ねてみました。また日本に行き、優れているというものはすべて目を通してみたのです。その結果、「お前たちは天の秘密を知らない。将来、私の手帳の中にある秘密の記録が出る時、お前たちはひざをついて降伏しなければならない」と、そのように考えたのです。天の秘密はこうだということを、私はよく知っていたので、すべて訪問したのです。鶏龍山やあらゆる所の人々を訪問したのです。優れているという者たち、何人かは全くの無知で、「鄭道令になる」と言っていたのです。
真なる信仰団体は、みな地下に入っていました。その時先生は、たとえ年齢は幼かったとしても、地下運動していた信仰団体だとか、すべての韓国の実情をよく知っていました。
解放の時を予知
文先生は賢い人なのです。文なにがしという人は、そのように未熟な人ではないのです。あらかじめ千里を見通して生きる人なのです。既に十代に、少年時代に、国がどのようになるかを知っていた人です。きのうも、私の従弟(文龍基氏)が話していました。「なんと! 一九四五年になれば四月にはドイツが滅びて、八月には日本が滅びると話していたことがみな当たって、自分が思うに、大学さえ出ればあのように天下をみな知って、未来まではっきりと分かるんだな」と考えたというのです。
先生が今日語っている原理は、二十代にすべて準備していたものなのです。見てください。五十年前に語ったことが、今日すべて成就しているというのです。今になって話しているのではありません。その時は、韓国という国もなかったのです。そのような歴史を見れば、恨が多いというのです。
2004.6.26