統一教会と食口たち

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目次
  1. まえがき
  2. 宗教の意義と使命
  3. 宗教の役割と使命
  4. 統一教会
  5. 統一教会の主張と思想
  6. 統一教会の使命
  7. 統一教会の活動
  8. 統一教会員
  9. 統一教会員の道
  10. 統一教会員の使命と時
  11. 統一教会員の信仰生活
  12. 統一教会員の生活

まえがき


統一教会と食口たち



まえがき


 「統一教会と食口たち」が日本語で出版されることは、必ずや重要な意味を持つことになるでしょう。既に韓国で一九九一年に、出版されましたが、今日本語に翻訳されたのは、ある意味では遅れた感もあります。この本は、一八〇巻まで出版された御言葉選集の内で、統一協会と食口たちという主題に合う内容を抜粋し、編集しています。

 我が協会の公式名称である、世界基督教統一神霊協会という意味をすべて知るということは、実際に堕落の素性のある限り、まさに不可能とも言えます。

 このように「統一教会」は、その歴史性が貴く、世の中を整理し、この世に勝るべき責任もまた大きいのです。また、創造理想を成就すべき摂理の中心基盤でもあります。私たちは、本文の御言葉を通じて、真の御父母様の、至高でありこの上もなく貴い基準を悟り、統一教会と食口に願われる高い次元の価値と格位を習い、これを生活化しなければなりません。

 そして、御父母様の御言葉に立脚した私たちの姿勢と、望ましい生活像にも確然と出会えることでしょう。

 今や、この本との心情的交感により、生霊の糧を得、真の子女の道を捜し出すように願います。終わりに、神様と真の御父母様が、大いなる栄光を抱かれることを祈願いたします。



















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宗教の意義と使命


統一教会と食口たち



第一章 宗教の意義と使命


第一節 宗教の意義と目的


一 宗教の意義


1 宗教の語義


 宗教と言えば、韓国、東洋の言葉としては棟となる教えです。家で言うならば、棟を言うのです。すべての教えに、すべての学びにおいて原理的で、原則的で、中心となる教えだという意味です。家を見れば、家のビーム(beam=大梁)を言うのです。センター・ビーム(centerbeam=中心の大梁)を言うというのです。それゆえ、神様を取り除けば、全宇宙が完全に崩壊してしまうというのです。宗教というものは家を、新しい宇宙の家を作るための摂理の基盤であるとみるので、土台を築き柱を立てて、すべてのものを備えても、この棟木を上げておかなければすべてがものにならないのです。(一九七九・一・一、ベルベディア修練所)

2 宗教の根本となる教えは


 今まで世界的に多くの宗教がありますが、その宗教は何を教えてあげなければなりませんか? すべての宗教では一番最初に神について教えてあげなければなりません。神について教えてくれない宗教は宗教ではありません。神について教えてあげるのにも漠然と教えてあげる宗教は確かな宗教ではありません。

 それでは、どのように教えてくれる宗教が真なる宗教でしょうか? 神様がおられるとするならどのようなお方としておられるのか、神様の人格はどのようなものか、また神様の愛はどのようなものかなどについて教えてくれる宗教が真なる宗教です。(一九六七・五・二八、前本部教会)

 宗教が初めに教えてくれるのが何でしょうか? 神様を教えてくれます。その次には何を教えてくれるでしょうか? 神様の目的を教えてくれます。また、その次には何を教えてくれるでしょうか? 神様の愛を教えてくれます。宗教の教えからみると、人間は神様の目的の実体にならなければなりません。すなわち、神様のものとならなければならないのです。そのような因縁の中で良心が永遠に安息することのできる基地を準備して、その場所に永遠にいたいというのが私たちの心です。それゆえ、皆さんが復帰されつつあるということを知らなければなりません。このような事実を知ってみれば、良心は真にありがたいものです。だから、初めて教会に入ってきた人は「ああ! 人生の価値はこうなんだなあ!」と感銘深く感じるようになります。(一九六五・一二・二六、前本部教会)

 人間の良心は世界を征服し、天と地の上に神様の目的を成し、また神様まで征服するとしても満足できないのです。神様まで征服した後でも、満足することができないというのです。一つの目的世界の主権者であられる神様をとりこにするとしても、また足らないという事実を皆さんは知らなければなりません。それでは、何まで征服しなければならないでしょうか? 神様の心情の中に隠れている愛まで征服しなければならないのです。良心は休もうとしません。それゆえ、今日の宗教はそれを教えてあげなければならないのです。(一九六五・一二・二六、前本部教会)

 宗教は神様の愛を占領しうる方法を教えてくれます。それは宗教の教えを通してだけ可能なのです。一番近い神様と人間の愛の内容を、より徹底的に教えてくれる宗教であるほど高次的な宗教であり、世界的な宗教なのです。このような観点から宗教を比較してみると、キリスト教がそのような内容を最も多く含んでいます。

 キリスト教では神様を「父」だと教えます。またイエス様は新郎で、私たちは新婦だと教えます。新郎・新婦になるなら神様の息子・娘になるのです。このように神様の愛を中心として家庭を立てようとした宗教はキリスト教しかありません。それゆえ、キリスト教は名実ともに神様が立てた世界的な宗教だという結論が出てくるのです。

 宗教は神様がおられることを明らかにし、神様の愛を占領する方法を教えます。(一九六七・八・一三、前本部教会)

 宗教は何を教えてくれるのでしょうか? 神様の愛を教えてくれ、神様の愛の目的を達成すべき使命を持っているので、宗教は犠牲を教えてくれるのです。それは当然なことです。宗教が自体を中心として世界を制覇しようとしてはいけないのです。
 統一教会は犠牲になれと教えています。統一教会員たちをすべて束ねて、統一教会より大きな国のために犠牲になれというのです。この国、この民族に今まで現れた以上の犠牲の心を持って、国のために犠牲になるようになれば、今まで歴史上に現れた以上の愛国精神がここにおいてはっきり現れるようになるのです。分かりますか? 国民を愛する新しい伝統がここに立てられるようになるとき、その伝統を立てた団体は滅びないのです。それは理論的です。盲目的ではないというのです。今日統一教会が国のために生きるのは、国を完全に抱いて、その国をして世界のために犠牲になるようにさせようというのです。(一九七二・五・二一、前本部教会)

 宗教の教えとはどのような教えを言うのでしょうか? 堕落で二つのレールが生じたので、悪の道に行くのを行けなくするというのです。自分を主張することのできる方法を考えようとするので、それを完全にできなくするためには、「やあ、お前は死地に行け。他人のために死ね」と言うのです。他人のために死んだというようになれば、世界まで直行するのです。分かりますか? 生命を捧げて、公的な問題を中心として犠牲になったと言うときには、世界のどこにでもはばかりなく行くことができるのです。

 それゆえ、イエス様がこの地に来て教えるのには、死のうとする者は生き、生きようとする者は死ぬと言ったのです。これをこの世的に考えれば、ばかみたいな話だというのです。それは気抜けした人の言葉のやり取りだというのです。しかしながら、この原則を踏まえて(暮らして)みれば、「やあ、これが(本当に)こうなったんだなあ」と言うことでしょう。死のうとする者は生き、生きようとする者は死ぬというのです。(一九七二・五・一四、水澤里)


3 真なる宗教とは


 真なる宗教とはどのような宗教でしょうか?
 第一には、神様の愛を独り占めする宗教です。それでは、その宗教を主管する存在、または神様の愛を独り占めできなければなりませんが、神様の愛を独り占めにできる存在とはどのような存在でしょうか? 人間は自分が作った創作品を愛します。それゆえ、自分の作品を愛し好む人がいるなら、(作者は)その人をやはり好み愛することでしょう。同じように神様もご自分の創作品をご自分以上に愛し好む人がいるなら、その人を一番愛されるでしょうし、その人にすべての財産と権力、そして愛までも完全に相続させようとなさることでしょう。

 ところが、神様のすべてのものを神様以上に愛し大切にしてくれる存在は、神様の息子しかいないはずです。それゆえ、神様が最も愛する存在は、神様にお父さんとして仕える息子であり、その息子は神様の愛を独り占めできる存在です。

 神様の愛を独り占めする息子は、神様と同等な主管権を持つのです。それゆえ、エデンの園のアダム、すなわち人類の真の父となる存在は、神様と同等権を持つ神様の実体であることが分かります。このような息子の宗教、神様の愛を独り占めする息子の宗教が一番真なる宗教なのです。

 第二に、神様の愛を独り占めする傑作品を探そうとする宗教が真なる宗教です。すなわち、神様の息子を探し、彼と因縁を結ぼうとする宗教が真なる宗教だというのです。新しい因縁を結ぶために、心を中心として体を否定し、新しい因縁を中心として過去の因縁を否定し、新しい家庭、新しい民族、新しい国家、新しい世界を中心としてこの世を否定する宗教が真の宗教なのです。

 第三に、神様の愛を知らせてあげる宗教が真なる宗教です。神様の愛を父母の愛として知らせてあげ、夫婦の愛として知らせてあげ、子女の愛として知らせてあげる宗教が真なる宗教だというのです。

 それでは、神様の息子を探すためにこの世を否定し、神様の愛を知らせてあげる宗教とはどのような宗教でしょうか? それはキリスト教です。イエス様は神様を「父」だと宣布なさり、ご自分は神様の「息子」であるとおっしゃいましたが、これは悟りの深い境地を言ったのです。またイエス様は「私に従う者はすべてを捨て、十字架を負うて従え」と話され、「だれよりも私を一層愛せよ」と話されました。

 また終わりの日に万王の王として、父の栄光をもって、そして愛をもって再び来られると言われたのをみると、キリスト教が一番真なる宗教であることが分かります。それゆえ、私たちは真の父母の名によって祈祷するのです。(一九六九・五・一九、春川教会)

 宗教のうち最も真なる宗教はどのような宗教なのでしょうか? 神様を中心として父子の関係を結ぶようにし、さらにその上に兄弟の関係を結ぶようにして、世界を神様を中心に一つの家庭として作り上げるという、そのような真理の内容を備えた宗教です。そのような宗教であればあるほど神様が願われる偉大な宗教であり、人間が主張する最高の宗教だというのです。

 さあ、今、私たちは真なる宗教の核心的な内容を記憶しなければなりません。仏教もここに合格とならなければならないし、回教もそうであり、キリスト教もそうです。どの宗教であれ、ここに近づくことのできる宗教が神様の前に近い宗教です。そのような宗教は神様がおられる限り、世界的な発展をすることでしょう。その宗教は世界を動かすことのできる基盤を築くことでしょう。これは最も理論的です。(一九七七・二・二〇、ベルベディア修練所)

 宗教の中でどのような宗教が最高の宗教でしょうか? どのような宗教が真なる宗教でしょうか? 真の宗教になろうとすれば幸福の与件を完全に具備しなければなりません。幸福の与件を具備しなければならないというのです。その幸福の与件とは何でしょうか? 幸福の絶対与件とは何でしょうか? 神様の愛です。そうなるでしょう?(はい)神様の愛を中心として完全な内容を具備することのできるこのような与件を備え、教えてあげる宗教でなくては、それが真なる宗教となることができない、そのような結論が出てきます。(一九六九・五・一七、清州教会)


二 宗教の必要性


1 宗教が必要な理由


 皆さんも宗教人の一人です。宗教の中にはいろいろな宗教がありますが、わが統一教会はその中の一つの教派だとみるのです。数多くの宗教の背景はその文化と環境的基盤に従って、歴史的な変革を経てきたことを私たちはみることができます。
 では一体このような宗教がなぜ必要なのでしょうか? これはあらゆる万物の中で人にだけ必要なのです。宗教というのは何を主体として行く道なのでしょうか? これは人だけを中心として行く道ではありません。神を中心として、神と人間との関係の中で成されたものが宗教だというのです。それでは宗教を人がまず始めたのでしょうか、神がいるなら神がまず始めたのでしょうか? それはいろいろと考えが異なります。どちらでしょうか? 神です。

 本来、堕落がなかったならば、宗教は必要ないのです。それでは、堕落はだれがしたのでしょうか? その宗教をもたらしたその主動的な存在は何かという問題を踏まえてみると、人に帰結されるのです。それでは堕落した人を神様の前に・・・。神様との関係を結ぶために、この事を始めたということを考えてみると、それは人間ではなく神様がまず始めたという話も成立するのです。

 このように見ると、おおよそ宗教の発生の重要な要因は何でしょうか? もちろん人間が堕落することによってそのような原因を提示したと見ることもできますが、神様が提示する、そのような根本的な動機が主動的な動機になっていると私たちは見ざるをえません。(一九七七・四・二四、ベルベディア修練所)

 人間が堕落したので、宗教も必要であり救世主も必要なのです。人間が堕落しなかったなら、イエスも救世主も宗教も皆必要ないというのです。一気に神様と一つとなって永遠な神様の愛を中心としてこの地に生きるでしょうし、そのようなお母さんとお父さんから生まれた息子・娘、後孫、その国が全部天の国に入るのです。そのように地上で生きてから天の国に入るので、地上天国から天上天国に入るのです。人間の堕落によって地獄が生まれ、イエスや救世主や宗教というものが生まれたのです。(一九七二・三・四、米・サンフランシスコ)


2 宗教は万民に必要


 では宗教というものは万民に必要なものでしょうか? でなければ、ある特殊な人にだけ必要なのでしょうか? どうでしょうか? ある人は年老いて死ぬようになったとき教会を訪れて、ひたすらイエス様を信じてから天国に行けばいいと言う人がいます。そのような人は絶対に天国に行くことができません。神様は統一された神様として数千年を引き継いでこられたので、神様の善の要素と一致することのできない人は、統一された世界である天の国に行くことができないです。

 手段と方法をもってでは、その世界に接近することができないのが天理です。それゆえ、神様が人間世界の傷悼(=胸が痛いほどとても悲しいこと)を解決し、人間を救うための一つの方便として立てておいたのが宗教だというのです。

 それでは宗教はどのような人に必要なのでしょうか? 今日の大学教授たち、あるいは知識層にいる人たちの中の何人かの人々は宗教とは弱者が信じるものだと言います。その人々を本質的な立場で分析してみれば、彼らは人でもありません。彼らは大部分、統一の与件に反対する悪党たちなのです。そのような人々が存在する限り世界平和はありえません。

 宗教は特別な少数の人にだけ必要なものではなく、万民に皆必要なのです。また現在の人にだけ必要なものではなく、過去の人にも必要だったのです。しかし、彼らはこのような内容を知らずに死んでいっただけです。また未来の人々も知るべきであり、彼らにも必要であるはずです。(一九六七・八・一三、前本部教会)


三 宗教の目的


1 宗教の目的は


 宗教を立てた目的は何でしょうか? 全世界の野生のオリブの枝をなくすためです。今までこれを知らなかったというのです。これを宗教が知らなかったというのです。ゆえに、宗教者たちの使命とは何でしょうか? 野生のオリブを真のオリブとして完成させることが数多くの宗教の責任であり、宗教者たちの使命です。それで何をしようというのでしょうか? 神様から離れて罪人となったので、善人となって神様のもとに帰ろうというのです。神様に帰る運動です。それゆえ、宗教の目的とは何でしょうか? 人類を救って神様のもとに帰ることです。

 では、宗教者たちが信仰生活をするその個体目的はどこにあるのでしょうか? 今まで宗教者たちは「ああ、私が宗教を信じて救いを得て、私がうまくいきたい」と、こうでした。さて、私が宗教を信じるのは世界人類を救うため、人類を連れて神様のもとに帰るためだというのが正しい信仰者の道です。

 真なる宗教者、真なる信仰者たちとはどのような人でしょうか? 「私が宗教を信じるのはこの国を神様に帰し、この世界を神様に帰するためだ。私の息子・娘、私の子孫をまず救うのではなく、国をまず救い世界を救おう」という人です。これをまず解決して私の息子・娘を見いだそうというのです。国家が救われれば、私の家庭と息子・娘がすべて救われるのです。世界が救われれば私の国も一度に救われるのです。

 それゆえ、真なる宗教は人類を救おうとする宗教です。人類を救って、その人類を連れて神様のもとに帰ろうとする人が真なる宗教者です。神様はこの世界を救うにおいて、アメリカの国をまず救いたいでしょうか、世界をまず救いたいでしょうか?(世界をまず・・・)(一九七五・一〇・二三、米・シカゴ)

 では、真なる宗教をどのように区別するのでしょうか? キリスト教も長老教会なら長老教会が正しいと言い、メソジスト教会ならメソジスト教会が正しいと言い、このようにキリスト教の四〇〇の教派が互いに争い、カトリックもカトリックが正しいと、ありとあらゆる・・・。だから、宗教戦争で五十余万名が虐殺され、互いに皆正しいといって争うのに、どれが真であるのか分かりますか? また仏教、儒教、回教全部自分たちが一番だというのに、どちらが真なる宗教者なのか分かりますか?

 真なる宗教とは何でしょうか? 本然の世界に帰ろうと主張しなければならないのです。神様の救援摂理が・・・。救いとは何でしょうか? 病気になった人を救うということは、病気になる前に戻るということです。今まで、救いの目的が何かということをだれも知らなかったというのです。定義を下せなかったのです。このような混乱した世界において統一教会は宗教の定義を下しました。

 だから、救援摂理とは何でしょうか? 救援摂理は復帰摂理である! 復帰という言葉を発見したというのは偉大な発見だというのです。復帰はどのようにするのでしょうか? アダムとエバが罪を犯す前、神様の愛を直接受けることのできるその世界に帰ろう! これが救援摂理の究極的な目的です。それは万民だけではなく天と地まで全部が・・・。それゆえ、神様の救いの目的やメシヤの救いの目的や私たちが救われるようになる目的は一つだというのです。皆同じだというのです。

 私たちが宗教を信じる目的は何でしょうか? 罪のない世界、神様と本然の世界を捜していくため以外にないというのです。世界人類は兄弟です。兄弟だというのです。彼らとともに一つとなって、いっしょに帰ろう、神様の愛の世界に帰ろうというのです。(一九七五・一〇・二三、米・シカゴ)

 神様が救援摂理をする目的は、この世界を取り戻すことです。では、メシヤをなぜ送ったのでしょうか? メシヤを送った目的もこの世界を取り戻すことです。今、宗教の目的が分かったというのです。宗教は世界のために・・・。それを見いだして、その次にはメシヤのために・・・。だからメシヤが来て、ここにいる人々に全部息子・娘の資格を与えてはじめて・・・。天国は本来、神様の息子・娘となってはじめて入るのであって、養子が入るのではありません。息子・娘の資格を備えてこそ入るようになっているというのです。(一九七五・一一・二、ベルベディア修練所)


2 宗教が指向する最高の目的点


 それでは、今まで創造主が人間に与えようとされた遺業とは何でしょうか? 人間たちが暮らしている地球ではありません。この地球ではありません。私たちが相続すべきものは、この地に限定されたものではありません。この地を土台として永遠無窮な世界、広大無辺な世界を私たち人間に相続させようとなさるのです。それだけではありません。天と地はもちろんのこと、天宙を創造された創造主まで与えようというのです。真の宗教の目的地はどこでしょうか? 地ではありません。地ではないのです。全部一つの中心である唯一神を指向します。宗教を立て、それを指向する個人、家庭、社会、民族、国家の形態として歴史を導いてこられました。

 このような神様はいまだに天と地、そこに神様ご自身まで合わせて、「このすべてのものを永遠にお前たちに与えり」という祝福をなさることができませんでした。祝福をなさることができなかったのです。

 選民思想を誇ったイスラエル民族に神様は何を与えようとしましたか? 神様ご自身を与える前に、ご自身の息子を与えようとなさいました。ところが、彼らはその息子を打ち殺しました。神様の選民だといって、その息子を通して遺業を全部与えようとなさいました。ご覧なさい、イスラエル民族を立てるまで神様がどれほど苦労をなさったか。民族を立てておいて何を与えようとしたでしょうか? 神様の愛するひとり子を与えようとなさいました。そこで終わるのではなく、後には神様ご自身までも与えようというのです。これが信仰の最高の目的点です。(一九六〇・一一・二七、前本部教会)




















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宗教の役割と使命


統一教会と食口たち



第二節 宗教の役割と使命


一 宗教に与えられた使命と目標


1 宗教は絶対者と因縁を結ぶ方便


 宗教とは何をする所でしょうか? 神様と連結して神様の根源と目的を連結させるための使命を果たす所です。(一九七六・一一・一四、アメリカ)

 私たち人間はこの世のものによっては満足を感じることができません。天と地をとろかしうる絶対者に侍る所でだけ、最高の幸福を得ることができ、最高の価値を賦与されえます。このために人間たちはきょうもあしたも向かっているのです。宗教というものはこの絶対者と内的に因縁を結べるようにするのです。外的な面ではなく、内的な面で摂理してくるのが宗教です。外的な面は悪が支配し、内的な面は善が支配しています。この善を中心として理念の世界を成さなければなりません。善の理念は内的な反映によってなされるのです。内的な面を無限に追求して理念の世界を探し、最後には創造主を見いだして永遠にそのお方に侍り、そのお方とともに喜び生きようとするのが、宗教が追求することです。(一九六一・二・一二、前本部教会)

 今日、宗教の本質的根本を追究してみればそれがまさに神であり、その心情世界の主体的な立場にいるのが神様であるのに、その神様がどのような立場に立っているのかを知らずに神様のみ旨をどのように成し、また神様のみ旨を成しておいたところで、それでどうしますか? 役に立たないというのです。(一九七六・三・三、水澤里中央修練院)


2 宗教とは善の一つの中心を捜していく歴史的な道


 今までの歴史が、(すべてのものを)率いうる一つの中心を探して行く過程の歴史なら、受け入れる余地がありますが、そうでない歴史なら壊してしまわなければなりません。今皆さんもそのような過程にあるなら幸いですが、そうでないなら絶望です。

 (すべてのものを)率いうる一つの中心を探せと良心は命令します。催促しています。それでは皆さんは率いうる一つの中心を探して、彼が願うままに率いられうる適当な基準となっていますか?

 目的は一つでなければなりません。良心は一つの目的に向かって進んでいますが、体はその反対の方向に向かっているので、その広がる角度が苦痛として現れるようになるのです。

 天地の目的があるならその目的の主人はだれでしょうか? 皆さんは目的のその主人が皆さんを導いていることを知っているはずですが、その目的の主人はだれでしょうか? 万民の良心がとどまることのできる一カ所がなければなりません。その中心は人間よりももっと高次元的な存在でなければなりません。その目的の中心は悪を受け入れません。

 善でなければ率いることができず、善でなければ一つとなることができません。目的に向かって進んでいる皆さんは善なのでしょうか、悪なのでしょうか? 自分の何パーセントが善で、何パーセントが悪でしょうか?

 私たち自身は善と悪の中で闘う中間存在です。今、人の世で善に属することのできる資格者がいますか? いません。だから、人間たちはすべて率いられなければなりません。

 自分の全部を捨てて、他人とともに行こうとするのが善であり、全部を持って一人で行こうとするのが悪です。心では善を願い喜びますが、肉身は嫌います。善を指向する過程で一番の怨讐が肉身です。

 善の創造主がいるならば、そのお方は人類を救うために心を砕かなければならず、人間の良心作用に力を加えるために心を砕くお方でなければなりません。それでこそ創造主になれるのです。良心作用に力を加え、伝わってきた痕跡が歴史上に残っていますが、これが宗教です。

 宗教! 善の神様が弱い人間の良心を動かし摂理したという歴史的な痕跡が宗教です。それゆえ、歴史が変わり世界が変わっても、善の根本中心は変わりませんでした。文化圏の発展史を見ても、善の創造主のおられることが分かります。歴史以来、宗教を中心とした多くの文化圏がありましたが、それらは歴史の流れに従い一つの目的に向かって発展してきました。

 現在ではキリスト教文化圏、回教文化圏、ヒンズー教文化圏、仏教文化圏の四大文化圏がありますが、これらもキリスト教文化圏を中心として一つとなっていく過程にあります。これは否定できない事実です。(一九六二・一二・一六、清州教会)


3 宗教が提示すべき重要な基準


 今日、宗教というものは一体何をするために現れたのかという、このような問題を踏まえてみると、宗教は今日人の世に、歴史的な人間世界の前に、一つとなれない人間たちを一つにする責任を果たすために現れたと見るです。

 では、宗教が主張するのは何でしょうか? 宗教は何を主張しなければならないのでしょうか? 私たち個人を一つにしなければなりません。一つにするにおいては心と体を一つにしなければなりません。ところが、今まで人間の心の方向は個々人が持つ思想や観念に従い全部異なりました。ある学者として自分の専門分野を研究する立場で自分の生涯を捧げていく人は、その専門分野、学問ならば学問に向かった心の方向を持ち、そこに体を一致化させることをするのです。それなら神様を中心として人間たちが願う最高の天国というものは、何が基準となっていなければならないでしょうか? 変わらない心の基準です。

 どんなに歴史が発展し変遷するとしても、発展せず変わらない心の基準、どんなに環境が急変し時代が変遷するとしても、そこに支配を受けずいつも変わらない絶対的な一つの心の基準を持つことが必要なのです。

 その心の基準は私なりの心の基準ではありません。それは人類共通な心の基準でなければなりません。それだけでなく、天地を創造した絶対者がいるなら、その絶対者の心の基準と相対的な関係を結ぶことができ、もしくは一体となりうる内容を備えることのできるものでなければなりません。そのような立場で、一つの主体的良心基準を立てなければならないと見るのです。

 それゆえ、宗教は神様を中心として私たちの良心基準を一致化させることをしなければならないのです。神というお方がいれば、その神の前に私の良心基準が変わってはならないのです。ですから、絶対的な神の前に絶対的な不変の心の基準をどのように立てるのかということが、宗教が提示すべき重要な基準だと見るのです。

 万一、これが食い違えば、時代に従い、もしくは自分の事情に従い、これが変遷するなら、神のみ旨を成すべき一つの宗教としての使命を果たせないと見るのです。そのような意味で、絶対的な神と私たちとの良心基準が一致するようにすることが、人類社会の歴史過程を経てきた宗教の使命だと見るのです。(一九七六・二・一、前本部教会)


二 宗教とは故障した人間を再生する所


1 宗教とは故障した人間を修理する修理工場


 堕落によって私たち人間は体と心が闘う人となりました。私の中で二つの目的を指向する要素が闘っています。家庭を築けばこれが四つになります。十人になれば二十人になるのです。このように見ると、この世界は不幸の世界だということを否定することができません。このような人間たちとなっているのに、絶対的な神様がいるなら、このような人間をそのままお見捨てになることはできません。万一、そのまま見捨てる神様であるなら、神様はいないのです。人間がこのように故障したので、神様は人類歴史の背後でこれを修理するための修理工場をつくり始めたというのです。それが何でしょうか? それが宗教です。宗教は神様の前に帰れと教えるのです。神様を、神を中心としない宗教はないのです。

 神と関係がうまくいっていないので、関係を結ばなければ帰る道がないのです。だから、文化が違い、伝統が違い、人種が違うそのような背景を通して、数多くの宗教形態を広げておいたのです。そうして神様を中心として神様の目的、神様が願う目的を指向していくのです。(?)

 神様が私たちに高貴なその偉業としてくださった愛の理念、絶対的価値の理念を喪失してしまい、今日私たち自体は反対する二つの現象世界で呻吟して生きる悲惨な人間だということを知らなければなりません。言い換えれば、故障した人々となっているのです。ところが、絶対的な神様は人間に相対するしかないので、この人間をそのままおいておくことができず、歴史過程を通して再生させる運動をしなければならないというのです。すなわち、修理工場をつくらなければならないというのです。それが何かと言えば、宗教だというのです。(一九七二・二・三、前本部教会)


2 故障した人間を再生する再生倉庫


 それでは、神様は善なるお方ですか、悪なるお方ですか?(善なるお方です)善なるお方なら良いお方です。善であるなら良いお方ですが、良いお方なら、人類が争っているのを見物している方が良いお方になることができますか? 良いお方となることができますか、できませんか? できないというのです。ですから、神様が善なるお方なら堕落した人間たち、体と心が争うこのような悪党連中の争いを止めなければなりません。

 それを是正し、もう一度修理するためにこの地の歴史的な摂理路程の上に神様が改造運動をするのです。これを一つにする運動をした実績があってはじめて神様がいると言うことができます。それを一つにする運動をする機関が何かと言えば宗教です、宗教。

 では、人に宗教が必要でしょうか、必要ではないでしょうか? 絶対に必要なのです。ここにはじめて来た人々、あちらの女学生たちは、「人に何の宗教が必要なの? それは弱い人たちが信じるのであって」と言うかもしれません。近ごろ、何、いわゆる知識層にいる人々は「私たちのような人々は皆この世で指折りの立場にあるのに宗教が何だ? それは皆弱者が信じるのであって。神様が何何? 私が神様だ」と言います。それはそうなっていません。

 宗教の力・・・。宗教は何をするためのものでしょうか? 神様が宗教というものを立てて、何をしようとするのですか? 故障した人間を再生するためなのです。再生するためなのです。再生産する所なので、それは再生倉庫です。再生倉庫であればどうなるでしょうか? つくり直さなければなりません。そのままでじっとしておいて修理することができますか? 修理しようとするなら分解しなければならないのです、全部。分解しなければならないでしょう? そのままじっと、いいように置いておきますか? 全部分解して直しておかなければなりません。(一九六八・八・一一、馬山教会)

 では、今まで宗教を通して何をしてきたかと言えば、故障したものを改造してきたのです。個人改造、家庭改造、国家改造、世界改造、全体改造運動をしてきたのです。神様がいるなら歴史時代にこれをしてきた跡が必ずあるべきだということを私たちは否定することができません。そうでなければ、神様と人間とは関係がないというのです。

 だから、見てみれば宗教というものがそのような使命を果たしてきたのです。神様を中心として、人類を中心として拡大して文化圏を形成してきたのです。それで、宗教的に見れば、四大宗教文化圏があります。西欧社会を中心とするキリスト教文化圏、インド社会を中心とするヒンズー教文化圏、儒仏仙の三宗教を中心とする極東文化圏、イスラム教を中心とする回教文化圏など、全部地域的に何千年の長い歴史を中心として、その基盤を世界的に拡大してきたのです。(一九七七・一〇・一、米・ロサンゼルス)


3 統一教会は総合修理工場


 宗教の目的は体を全部サタンの前に渡すためのものではありません。そうでしょう? 宗教の目的は心を中心として体まで支配して、その体も天の側の完成圏内に神様の愛を受けるようにしようというのです。ところがキリスト教はどのようになっているかと言えば霊的なものだけです。心的人だけを世界型として集めておくのです。だから、体を全部一つにして愛しうることが起こらなければならないのです。新しい思想で体と心を統一することのできる統一方案を備えなくては一つにすることができないので、来られる主は天下を一つにするために来られるのです。

 一つにするには強制でするのではありません。雙和湯(疲労回復に用いる煎じ薬)のように、雙和湯、天地雙和湯として来るのです。皆さん、雙和湯が何だか知っていますか? 二つ(雙)が互いに和する湯です。だから、薬になるのです。そのように、来られる主も堕落によって天と地が分かれたのを全部和合して一つにしなければならないというのです。

 では、一体統一教会とは何でしょうか? 統一教会で主張する統一の方案はどこから実現するでしょうか? 個人からそれをして、それを家庭にそのまま適応させ、家庭に適応させたのを社会に適応させ、社会に適応させたのを民族に適応させ、民族に適応させたのを国に適応させ、国に適応させたものを世界に適応させながら間違いなく終わりまでそれをすることのできる思想を持った所です。そのような統一教会なら、統一教会は間違いなく統一教会となることでしょう。統一教会は間違いなく統一教会となるということです。それが何の話か分かりますか?

 修理工場は神様がつくったのですが、四大宗教文化圏として広がっているのを全部引き入れて修理工場で・・・。そのまま修理をするなら、足をつくり手をつくり全部ずたずたになるので、一番最後、終わりの日になれば、それを総合して修理する総合修理工場が出てこなければなりません。総合修理工場、分かりますか? その総合修理工場の使命を果たそうというのがいわゆる統一教会です。はじめて来た人たち、分かりますか? 統一教会は何をする所ですか? 総合修理工場だというのです。

 では、総合修理をするにおいて個人だけ修理するのでしょうか? 違います。個人も修理しなければならず、家庭も修理しなければならず、氏族も修理しなければならず、民族も修理しなければならず、国も修理しなければならず、世界も修理しなければならず、共産党も修理しなければならないというのです。分かりますか? 全体を修理する使命を持ってきた修理工場が統一教会だというのです。

 それゆえ、統一教会に入って修理が完全にできたと言うときは、その個人をサタン世界に投げ込んでも退かずサタンに勝つ個人になるというのです。家庭的に見捨てても滅びる連中にならず、神様の愛を受ける家庭になるというのです。そうして、子どもたちを産んでも神様が愛する息子・娘になりうるというのです。違うというのです。

 だから、氏族たちが一つになって民族を形成し、民族が一つになって国家を形成し、国家を一つにして世界を形成しようというのが統一教会です。統一教会の思想だけ完全に持ったと言うときは、いい加減に放っておいてもサタン世界とは関係がなく、個人として雄々しく立って家庭を築き、その家庭において息子・娘を産んでもサタンが侵入できず、その息子・娘を中心として金氏なら金氏一族をつくってもサタンが関係を持てないのです。そのような氏族をつくることのできる教会になろうというのが統一教会です。サタンが侵入できない氏族が一つになれば民族となります。このように永遠に滅ばない民族をつくり、永遠に滅ばない天国をつくろう! これが統一教会思想です。(一九七二・五・一四、水澤里)


三 神様のみ意の世界をつくる所


 一体宗教とは何でしょうか? 宗教が何をする所かと言えば、神様のみ意の世界をつくるために働く所です。骨子はそうです。骨子を出そうとすれば、題目はそうなるというのです。み意の世界。(一九七六・三・四、全州教会)

 宗教というのが何かと言えば、理想の、神様の愛の世界を捜していくための訓練道場です。そこで一段階高めて本然の位置まで導いていく使命を分担されたのが世界的宗教だというのです。

 人間の先祖が堕落せず神様の愛と一つとなったなら、これは永遠なる幸福の基点となっていたでしょうが、これを失ってしまったので再び捜し出して合わせなければなりません。失敗したのを再び持ってきて合わせるために、人類の先祖の代表として来るその中心存在がだれかと言えばメシヤであり、それを果たさなければならないのがメシヤの使命だというのです。(一九七六・六・二、アメリカ)

 宗教の使命が何かと言えば、来られる真の息子のために彼が必要とする家庭を準備し、彼が必要とする氏族、民族、国家、世界を準備し、サタン国家を全部征服して、これを全部率いることができるように準備するのです。これが宗教の使命です。メシヤがこの世界だけ持たなければならないでしょうか、この堕落した世界全体を持たなければならないでしょうか? 全部持たなければなりませんか、部分だけ持たなければなりませんか? どちらですか? 全部持たなければなりません。

 私たちはここで宗教の意味、救援摂理の意味が何かということを知ることができます。救援摂理の意味は全世界を救うことです。神様が人を愛する息子としてつくってから、神様がたたき殺すことができず、地獄に送れないことを知らなければなりません。それゆえ、救援摂理はサタン世界内に一人も残さず完全に救ってサタンを追放し・・・。サタン世界内にサタンだけ残るようにし、人という種は全部神様が連れていこうというのです。(一九七五年一一月二日、ベルベディア修練所)

 それでは善とか宗教とかいうものが願うのは何ですか? 何をしようというのですか? 宗教が何をし、善が何をしようとするのかというのです。善をしては何を持とうというのであり、真なる宗教をしては何を持とうというのですか? 絶対的な一つの世界のために生きるのにおいて助けになることのできる条件を中心として、大きな善とか小さな善とかいう制度が全部分別されるということを知らなければなりません。

 善というものが個人主義を強要するところにありますか? あの人がよい人だと言うとき、自分のためにすべて働く人を見てそうですか? 全体のために生きる条件圏内で自分が占めることができ、持つことのできるその範囲が決定され、広く大きい開きによって気高い人格、さらに価値ある存在が決定されるのです。そうでしょう? それはなぜそうですか? 神様と連絡して神様とともにいて、神様と一つになろうとするのです。それを知らなければなりません。

 善を追求するすべての主義は全体主義に属するというのです。神様を中心とした全体主義の中に。私たちはこのような観念をここで捜し出すことができるというのです。だから、偉大な宗教は世界的です。民族を超越しています。その宗教を持っていることは国家を超越しているので、国家も干渉することができない、としておいたというのです。

 それでは、神様が宗教を通して何をしようというのですか? 宗教を通して世界を神様の主権圏内に追いこもう、神様の統治圏内に追いこもうというのが神様の目的であらざるをえません。だから、それで何をしようというのですか? 神様の下に置くと同時に人間の下に置こうというのです。人間を通して支配しようというのです。(一九七七・五・一五、ベルベディア修練所)


四 本郷の法度を教えてあげて訓練させる所


 私たちの本郷の世界が、その本然の世界が神様のおられる、天地の大主宰たるお方のおられる所であるので、その本郷の法度に適することができるように訓練させるための場所が何でしょうか? いわゆる、宗教だということを知らなければなりません。今日、宗教の使命が何かと言うときに・・・。教権主義者たちのように自分の教派のために生きるのが神様のみ意ではありません。自分の教圏を越えたとしても、神様のために人類のために生きる教派とならなければなりません。自分の教会のために生き、自分の教会のために闘うのではなく、サタンを相手にして闘い、人類のために行く教派とならなければなりません。皆さんがこれを知らなければなりません。

 それゆえ、今日宗教というものはその本郷の世界に入っていけるように、その法度に合うよう訓練する所です。ですから、歴史以来、神様のみ旨に従った数多くの宗教は自分自らを否定することをしました。「犠牲奉仕せよ!」これがなぜそうなのかを今まで知らなかったというのです。なぜ犠牲奉仕をしなければならないのか、分からなかったというのです。それは本然の世界がために生きることのできる本郷であるからです。ですから、その世界に行くためにはそこに行くことのできる訓練と準備を整えなければなりません。したがって、高次な宗教であるほど犠牲奉仕を強要したのは、歴史時代において神様が歴史過程を通して摂理してきたという歴史的な事実であることをここで公認することができます。神様がいるということを公認することができるというのです。(一九七五・四・一四、ソウル奨忠体育館)

 では、神様がおられるあの天国、神様がおられるあの霊界はどのような組織になっているのでしょうか? その組織構造は簡単だというのです。天国に行くことができ極楽に行くことのできる人々は、自分のために生きた人々ではありません。そのような人は行くことができないのです。全体のために生まれて全体のために生きた人の行く所が天国だというのです。

 皆さんは霊界を体験した経験がないかもしれませんが、私は天の恩賜によってたくさんの霊的世界を体験しました。その世界に入っていけば、自分のために生きる人は一人もいないというのです。神様のために生き人類のために生きた人々が全部あの世界に行っているのです。

 神様がこのような理想的原則、理想起源を立てたので、その起源たる本郷の地はその法度によって成された世界であることに間違いありません。それゆえ、その世界を捜してこようとする数多くの人類に対して、そのような本郷の法をこの地上に教えてあげざるをえないのです。

 地上にその法を教えてあげるために訓練させる舞台がどこかと言うと、これがいわゆる宗教だというのです。宗教は何かと言えば、本郷に入っていくときに、その故郷の法を生きている間地上で訓練されてその法度に適応することのできる人格を訓練されるためのものです。これが今日宗教生活の道理であることを知らなければなりません。

 高次な宗教であるほど自らを強調しないのです。高次な宗教であるほど温柔謙遜を強調するのです。さらには犠牲奉仕を強調するのです。なぜそうしなければならないのでしょうか? 本郷の地の法則がそうであるからです。人間はどうせ本郷の地を捜していく旅人のような身の上なので、本郷に行って暮らすその法度に適するように訓練しようとするので、高次な宗教であるほど犠牲になれというこのような教訓を教えてきたのです。歴史的な宗教がこのような使命を引き継いできた事実を踏まえてみるときに、神様は歴史過程で宗教を通して摂理してきたという事実を、私たちは否定することができないのです。(慶北室内体育館)




















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統一教会


統一教会と食口たち



第二章 統一教会


第一節 統一教会の摂理とその背景


一 統一教会の公式名称


 私たちの教会の名称を見れば、「世界基督教統一神霊協会」です、世界基督教統一神霊協会。「世界基督教統一」と言えば、世界のキリスト教を統一するということであり、その次に「神霊協会」に「神霊」が入っていますが、神霊は人間世界ではありません。霊的な世界です。世界のキリスト教を統一したその基盤の上に神霊なる役事が起こるというのです。神霊なる役事を成して世界を一つにしようというのです。それゆえ、万一、神霊を外せば何ですか? 既成教会と同様です。「世界基督教統一神霊協会」から神霊を外せば「世界基督教統一協会」になるでしょう? 神霊を外せば何にもならなくなります。(一九八七・九・二七、本部教会)

 統一教会の公式名称は「世界基督教統一神霊協会」です。何の協会だというのですか? 神霊協会です。統一原理教会ではありません。もとが違います。神霊を離れては統一が起こりません。(一九七三・七・二九、前本部教会)


二 統一の真なる意味


 ここは何教会ですか? 統一教会! 何教会ですか? 統一教会? 同一教会もいいにはいいです。「同一の同」の字、ともに一つになりうるのが「同」の字なので似ているでしょう。ソウルに行けば、同一教会があるというのです。いつか新聞を受けとってみると、統一教会に来たのですが、同一教会のものが入ってきました。それで私がじっと考えてみると「あ、同一教会も統一教会と似ているなあ」という思いがしました。そうでしょう? 「同一の同」の字に「一つの一」の字なので、ともに一つになりうるという意味は似ているというのです。

 ところが、「ともに一つになること」は、互いの主張が違いうるのです。ともに一つになるのには主張が違いうるというのです。同一、ともに一つになる場合は、一つとなる教会はちょっと違います。これは横的です。

 「統一」というのはそうではありません。「統一」というのは、お前でなければ私です。それはどういうことでしょうか? 二つあるはずがないというのです。「統」の字が何の統の字かと言えば「率いる統」の字です。率いるのです。主体性があるというのです。

 私たちが何教会ですか? 統一教会です! 統一教会と言えば、キリスト教だけを統一しなければなりませんか? すべて統一しなければならないでしょう、統一教会と言えば全部しなければなりません。そうでしょう? 関係がそうです。(一九六七・四・二、清州教会)

 「統一」という名前は素晴らしい名前です。「統一」というその言葉は率いて一つにするという意味です。率いて一つにするというそのような教えの集まりが統一教会です。

 そして、率いて教えるためには銃と剣を持って武力でそのような立場に立つのではなく、涙と血と汗と愛の心情を持って、多くの人が同情せずにはいられない立場に立って率いて指導できる主体者となることによって、本来の統一教会の原因が生まれるということを知らなければなりません。また、それを見せてあげ、それを教えてあげうる主体者として登場することによって、本質に妥当する統一教会の群れとなることができます。

 このような立場に立つためには、統一教会の文先生だけをもってではだめなのです。また統一教会の文先生がそうすることのできる立場に立つためには、その個人が行く所において、個人を基準として行くのではなく、世界を代表した立場で世界を基準として行かなければならないのです。個人が勝利した土台の上に家庭がまたそのような立場を代身しなければならないというのです。教会がそうならなければならないというのです。教会によって国がそうならなければならないというのです。その国によって世界がそのようになるときに、地上に幸福の天国が訪れるということが原理を通した教えであるのです。(一九七二・一〇・一四、水澤里)


三 世界基督教統一神霊協会とは


統一教会とはキリスト教を連結させて、今日新しい世界の次元で歴史の希望圏に向かって進展すべきそのような責任を負ったのです。それゆえ、統一教会の理念は世界のキリスト教を一つにしなければならないということだ、このような結論が出てきます。分かりますか?

 なぜ「世界基督教統一」という言葉が出てくるのでしょうか? ある人が言うには、よく知っている方たちの中で一人は私を見て「やあ、文先生、どうして世界基督教という言葉を入れて、そのように反対を受けるのか? なぜそれを思い通り取ってしまわないのか?」と言う人がいます。世界基督教という言葉を取ってしまえば、これをだれが反対しますか? 統一教会をだれが反対するだろうかというのです。世界基督教という言葉を頂上に持っていってつけておいたので、このキリスト教徒たちが、牧師や長老は言うまでもなく全部「世界の基督教を統一する?」と言うのです。それも世界の数多くの国家基盤を持った、何、ローマ法王のような看板を持ったレバレンド・ムーンというならば分からないが、これ、くずのようなやつが世界のキリスト教を統一するとは? それを考えれば、朝考えても気分が悪く、何、昼に考えても気分が悪く、夕方に考えても気分が悪く、寝ながら考えても気分が悪く、夢で考えても気分が悪いことだというのです。

 だから、「キリスト教を何、統一する?」こうです。歴史時代に今まで数千年の間、このように争って三、四百、数百教派に広がったものを何で統一するのか? 銃剣で? 学んだものがあるのか、何でするのか? 銃で、暴力で、独裁的な手腕を持って? このような立場に立つことにより、何がどうだこうだと言いながら、自分なりのあらゆるうわさが立ちうるというのです。

 だから、世界のキリスト教を統一するには何かと言えば神霊で統一するというのです。神霊協会だというのです。分かりますか? こぶしで統一するのではなく、銃剣で統一するのでなく、何で統一するというのですか? 神霊です。神霊とは何ですか、神霊(シルリョン)とは? 少し発音を間違えば実力(シルリョク)のようでしょう? 実力でなく神霊です。何で統一するのでしょうか? 人間の力を持ってではできません。これは霊的世界を動かしてこそ可能なのです。

 霊界を動かそうとすれば、地上を動かすのよりもっと難しいのです。人間を動かそうとすれば、動かすことのできる内容がなければならないでしょう。だから、霊界を動かそうとすれば、霊界を動かすことのできる内容がなければなりません。その内容とは何でしょうか? キリスト教を統一することです。その内容とは簡単なことです。

 キリスト教を統一しようとすれば、統一できなかったキリスト教の内容を完全に除去させ、統一されうる内容だけ残しておけば統一されます。言葉は簡単です。そうでしょう? 統一することができないものを除去させて、統一することのできるものだけ残しておけばそれは統一されるようになっているでしょう。それゆえ、ここには全世界のキリスト教が整えることのできない新しい真理体系、旧約聖書から、新約聖書から今後未来に連結されうる聖書体系において、新しい観点を形成しなければならないという言葉が成立するのです。その観点自体が神様が見る観点であり、霊界が眺める観点でなければならないというのです。

 霊界の協助を受けようとすれば、神様が協助しようと乗り出さなければなりません。神様が霊界の王としておられるならば、王が「ううん」と言っているのに、手下たちがいくらしようとしても、それはだめなのです。その王であられる神様が興奮して「それなら、そうだろう! 私のときが来た」このように気分が良ければこそ、その手下の霊界が皆従って一つとなりうるのであり、神様が反対しているのに霊界が協助することができないというのです。神様が心の中で旧約聖書と新約聖書の内容を骨子として選んだものを鑑定してみられるとき「ああ、そいつは正しい。統一教会、それは悪くない」というそのような何かがなければならないというのです。

 さて、その霊界を動かすことのできる内容は、神様を中心としたものであることはもちろん、その次にはこの地に生まれては逝った数多くの聖人たち、数多くの宗教指導者たちが慕い、そうしうることを願った内容と一致しなければなりません。仏教の釈迦牟尼に、「あなたが提唱した仏教経典の中で、その内容がこうこうこのようなもの」であり、あるいは儒教の孔子ならば孔子、イエスならばイエスに、「あなたの内容はこうこうこのようなものですが、ここ、足らないのがこうなるべきではないですか」と言うとき、全部が「はい」とならなければなりません。「そうでございます。そうでございます」と言いながら、これが通じなければならないというのです。それ、そうみたいですか?

 だから、ここで問題となるのは、新旧約聖書を通したすべての宗教のみ旨を代表することのできるこの息子の宗教を中心として・・・。その息子の宗教は僕の宗教と養子の宗教と通じるのです。それが連結されうると同時に、その息子の宗教を通じて、この父母の宗教圏を通し、霊界と神様の世界までこれが公認されうる一つの体系形成を願うのです。そのようになると、世界のキリスト教は自動的に統一することができない! (できます)そのように考えると、世界のキリスト教は統一できます。できると言うので、そこで自信をさらに持てばできるというのです。このような内容を持って看板を「世界基督教統一神霊協会」としました。それを知らなければなりません。

 「世界基督教」と「統一神霊協会」と言えば「世界基督教統一神霊協会」です。キリスト教統一のための神霊の協会だ、このように見るのです。ある人は「統一協会」だと考えるところですが、世界基督教を取ってしまい統一協会と言えばどれほどいいですか? しかしその統一協会ではありません。世界基督教統一です。統一のための何協会ですか? 神霊の協会です。(一九八一・五・一、本部教会)


四 神霊とは


 統一教会(の正式名称)は「世界基督教統一神霊協会」です。神霊というのが必要だというのです。この神霊を取ってしまえばどれほどいいでしょうか? ある人たちは「ああ、統一教会がなぜ騒々しいうわさを出すのか」と言いますが、それはこの神霊という言葉を入れたためです。だから、化け物連中のようだという話をするようになるのです。「神霊とは何か? 化け物連中だ」こうなのです。化け物もいるでしょう。化け物が行く道もあるというのです。化け物というのは変化無双な人を言います。「あの化け物のようなやつ」と言うでしょう?

 化け物というのは変化無双なものを言います。前後が合わない行動結果が八方に現れるそのような連中を化け物のようなやつだ、このように言うのです。

 そのような化け物のような神もいますが、観を持って生きる神、永遠に人間よりも素晴らしく生きる神がいるならば、その神は人間が従わなければならない神だ、このようになるのです。そのような神の種類が天の善なる霊界にあるのであり、その種類の親分たるお方が神様だというのです。そのように全部整理をしておかなければならないのです。(一九八七・九・二七、本部教会)

 世界基督教統一何ですか? 神霊協会。何で統一するというのですか? 神霊で統一しますが、父子関係の神霊で統一するというのです。その神霊が何でしょうか? その幻のようなものは何をするのですか? 愛を中心とした霊的世界と人間世界の調和を起こしうるものを神霊と言うのです。分かりますか?

 神霊は目の見えなかった盲人が目を開けるのが問題ではないというのです。ふさがった耳が開かれるのが問題ではないというのです。近ごろキリスト教が何、能力が豊かな全知全能たる神様にはできないことはないと言いながら、「足なえよ立ち上がれ」と、こうですが、それは何でもないというのです。神様はそれが必要ではありません。愛の神霊、愛の神霊だということを知らなければなりません。

 聖書でも、礼拝をするときは霊と真理をもってしろと言いますが、それは何の真理でしょうか? 何か物理学のピタゴラス原理ではないのです。何かニュートンの原理ではないのです。そのような真理ではないというのです。愛の真理です。その愛の真理の最高が何でしょうか? 父親と息子・娘、このように見なければならないというのです。神様が必要とするのはお金、権力、知識が必要なのではありません。愛が必要なのです。

 なぜ愛が必要でしょうか? 神様がお喜びになろうとするには、相対がいなくてはだめなので、人間をおつくりになりました。人間を喜ぶことのできる相対としてつくったので、人間の価値は愛をおいては被造物ですが、神様と対等な権限を取ることのできる能力があるというのです。これを知らなければなりません。今日、キリスト教信者たちは「創造主より被造物が後」だと言いますが、ばかげた話はやめろというのです。それでは、神が何のために万物をつくられたのでしょうか? それをはっきり知らなければなりません。

 神霊協会とは何ですって?(愛)何の愛? 父子関係の愛、父子関係の愛を中心として調和を生じさせるのです。この調和だけあれば、地上でほんの少しだけ起こっても、これの波紋は宇宙的です。電気なら電気、放送局がどんなに小さくても電波を送るのは宇宙的です。弱いだけで宇宙的に波及するのです。それと同様に愛の調和の圏というものは、範囲が小さいが宇宙と連結されうる内容を持っているということを皆さんは知らなければなりません。(一九八一・五・一、本部教会)


五 統一教会の旗


 宇宙のすべては授受の因縁でもってつくられていますが、この旗は、その宇宙をたとえており、太陽を中心にしてすべての天宙は神御自身を象徴しています。中心にはわれわれの理想等のすべてがつながっています。

 旗(上の絵)には中心から十二の線が放射状に出ていますが、太い四本の線は四方を意味しています。一つの存在が中心として立ちうるためには、四方が定まらなくてはなりません。いわゆる四位基台です。次に十二本の線は、四方に東西南北を中心とした年月を表し、これが授受関係で回っています。全体を見れば、舵を表しており、われわれ自身でこの天宙を運転しなければならないことを意味します。このように、この中にはわれわれの理想の創造原理のすべてがこめられています。

 元来、旗というものは、国家を象徴するものです。この統一旗は今は教会を代表するものですが、われわれの理想は教会だけでなく、すべての歴史の希望であり、現在のまた未来の希望である唯一の世界、そして神の心情にかなった世界、一つの世界という、神の創造目的を達成しうる、その御国の象徴として、来る輝く日のためのものです。ゆえにこの旗をいつも皆さんの心に抱き、そうして、神の心情とともに生きるものには、すべてのサタンの試練とか反逆と対決する力の象徴として、その役目を果たしうると先生は信じます。皆さんもそう信じて、勇気に勇気を持って進めば、いかなる地に行っても神は旗とともに君たちに働いてくれます。(一九六五・一・二八、東京教会)




















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統一教会の主張と思想


統一教会と食口たち



第二節 統一教会の主張と思想


一 統一教会が追求するもの


1 統一教会出現の目的


 今日、この統一教会が現れたのは人間が堕落したからです。堕落がなかったなら、統一教会が生まれる必要がないのです。堕落したので統一教会が生まれたのです。それでは、統一教会が生まれた目的は何でしょうか? 堕落しなかった本然の世界を復帰するのです。復帰しなければなりません。では、復帰するにはどのように復帰していくのでしょうか? 本来、万物が人間の下にあるはずでしたが、人間が堕落することによって、アダムとエバ、父母とその次に子女となりうる人々は万物よりも低い所へ落ちたというのです。無原理圏の世界に落ちてしまったというのです。(一九八六・一一・二、本部教会)

 神様がおられるなら、神様のみ旨と一致しうる教会がなければなりませんが、既成キリスト教会が神様のすべてのみ旨を全体の分野で代身して成就させることのできない宗教だということを知ったので、これはある一時は変更しなければならないということを予想しました。そうして、その時に必要な責任を果たすことにより、神様のみ旨を引き継ぎ、世界に発展することのできる教会を神様が願うことでしょう。そのような意味でわが統一教会という名前も出てきたと私は考えるのです。(一九七五・三・三、ベリータウン修練所)

 わが団体が創立されたのは、ある個人の目的を達成するために創立されたのではありません。神様のみ旨の完成のために、神様のみ旨の成就のために、この団体が始まり出発したのは言うまでもありません。

 では、神様のみ旨の全面的なその内容とは何でしょうか? それは再創造歴史過程を経てアダム完成を期することであり、アダム完成の勝利的基盤を築いたその土台の上にエバ完成をし、エバ完成をしたその基盤の上に家庭と子女完成を成すのです。その子女完成を成しうる基盤を連結させるために、ここには氏族圏というものが、あるいは民族を代表した実体的氏族圏が形成されなければなりません。これが救済摂理の中心であり、また救済摂理完成の主流の内容だということを皆さんは知っているのです。(一九八一・五・一、本部教会)

 統一教会にはどのような使命があるのでしょうか? 歴史以来、天の前に背反したすべてのことを完全に清算し、罪のない状態の下で、神様の理想の出発を地上に再現させるために統一教会は生まれたのです。(一九八六・五・一、本部教会)

 統一教会がなぜ現れたのかと言えば、何文にしかならない人々を天地の大主宰であられるお方の堂々たる息子と娘にするために現れました。すべての人に神様を信じさせるために、先生が統一教会をつくったのです。皆さん、統一教会がすべての人々を統一させる可能性がありますか、ありませんか?(あります)(一九七一・一・一五、麗水教会)


2 統一教会が追求してきたもの


 理想と言うと、真なる・・・。この理とは中国の字で言えば、王の里を言うのです。王たちが暮らす里だと言うのです。では、王という存在はどのような存在でしょうか? 「その国で一番よいことだけ責任を持つのが王である」そうですか、「一番悪いもの全体に責任を負うのが王である」そうですか? どちらが王になるのですか?(悪いことに責任を負う・・・)善なる王とは何でしょうか? よいことは欲しくなく、悪いことに責任を負おうと言いながら暮らしていくのが善なる王だ、このように見るのです。

 では、この宇宙の中で王の中の王はだれでしょうか? 神様です。神様はどのような方でしょうか? よいことだけに責任を負おうという方ではありません。歴史の中で一番悪いことに責任を負ってくる王です。それゆえ、神様は王の中の王です。その王の前ではいいことを私がいいと言うといけないのです。何の話か分かりますか?(はい)王が暮らす里(理)には、そのようなことに責任を負う人となってこそ入ることができるというのです。

 さて、この想という字は木に目(芽)があるという意味です。木の目(芽)の中に思いがあったよというのです。木には目(芽)があるというのです。木の芽、分かるでしょう? 高い所にあっても、低いところにあっても、四方にあっても全部同じです。その木の芽を思ってあげる心を持ったと一度考えてみなさい。何ごとでも全体を思わないのではなく、全体を考えるのです。そうなれば「王が全体を思う里の家だ」これが理想だというのです。それが何かと言えば、アイディアル・ハウス(ideal house=理想の家)です。それはどういうことでしょうか? 神様がいるならば、神様がそのような方だというのです。さあ、それでは私たち統一教会が一体何をする所でしょうか? 「理想的な家を築いてみよう」それが私たち統一教会の目的です。統一教会の目的は理想的な家を求めていくとか、理想的な家をつくってみようということです。(一九七九・一一・四、ベルベディア修練所)

 それゆえ、私たち統一教会が追求してきたのは何でしょうか? 天運を中心とする家庭を追求してきたという事実を知らなければならないのです。また、これから来られる再臨主も結局は宇宙公法において天運を中心とする家庭を築き、世界に向かって行く立場に立たなければならないのです。また、すべての人がこのような家庭を築かなければなりません。

 その家庭は、自分の氏族のための家庭ではありません。自分の親せきとの前後関係を中心として動くのではなく、天運に従って動くので、彼らと行く方向が違うのです。だから、ここで大騒ぎになるというのです。国家と行く方向が違うので紛争が起こるというのです。国家の指弾を受け、親せきたちの指弾を受け、自分を教えた師たちの指弾を受けるというのです。そうだからと言って、直ちに滅びるのではありません。なぜなら、そこには天運と一致しうる方向性が必ず残っているからです。皆さんはこれを知らなければなりません。(一九六九・八・一七、前本部教会)


3 統一教会の目的


 私たちの目的とは何でしょうか? 統一教会が指向する目的とは何でしょうか? 天国実現です。地上に天国を成すことが統一教会食口たち全体の目標です。天国と言うとき、漠然とした天国ではなく、具体的な天国はどのようなものかを私たちは知らなければなりません。天国は私とどのような関係になっているのか? 私を中心として私の家庭があり、私の家庭を中心として氏族があり、その次には民族があり、国家があります。その国家を中心として世界とどのように連結されているかということを知らなければなりません。

 私たち統一教会教会員たちは、この世界があると同時に、霊界があることを知っています。それでは、その霊界と天国とはどのような関係があるでしょうか? 地上に天国が実現され、霊界に天国が完成されるならば、その次にはどうなるのでしょうか? それで終わるのではなく、神様とはどのような関係になっているのかというのです。これは天国を成そうとする人々においてはこの上なく重要な問題とならざるをえません。すなわち、成就すべき内容となるのです。その内容がはっきりしなくては、私たちが現実においてその内容を実践することができないので、それを私たちは知らなければなりません。

 天国を成すにおいて重要な一つの基準が何でしょうか? 天国を成すことのできる一つの要因が何でしょうか? それは統一だというのです。統一という原則過程を経なくては天国は実現されえないのです。こうなるのです。一つになる所でだけ天国が成されるのです。今日、人間たちが願う平和や、もしくは幸福とかいうすべての要件もどこから成されるかと言えば、一つになる所で成されるのです。私たちが知っているように、体と心が一つとならない所では、どんなに私が幸福になろうとしても幸福になることができないのです。どんなに平和の基準を維持しようとしても維持することができないのです。それゆえ、ここ(地上)で一つになることが何よりも重要だということを知らなければなりません。(一九七六・二・一、前本部教会)

 皆さんが先生を愛しているのを私は知っています。私も皆さんを愛しています。ところで、私は皆さんを愛しますが、神様を中心として、神様の愛を通して愛しています。その神様の愛というのは、世界人類の中にとどまる愛であり、統一教会の内にとどまる愛ではないというのです。世界にその愛を残してあげ、その愛を植えてあげるためには、皆さんを立たせてそのようなことをせざるをえないというのです。

 皆さんを犠牲にし、皆さんを苦労させて、この愛に貢献することのできる貢献者をつくるのは、世界を代表した愛の結実をもたらすのに貢献することによって神様の愛を受けることができ、人類の愛を受けることのできる統一教会の人をつくるためなのです。その運動を今しているということを知らなければなりません。神様の愛を受ける人をつくり、人類の愛を受ける人をつくるのが統一教会の目的だというのです。人類の愛、神様の愛を・・・。(一九七五・一二・三一、ベルベディア修練所)

 統一教会の目的とは何でしょうか? 人類を相手に神様とメシヤと地球星で踊りを踊り、サタンまでも皆福を受けるように一度してみようというのです。これが統一教会の道です。偉大でしょう?(はい)どれほど偉大ですか? それが統一教会です。そこまで行こうというのが統一教会です。さあ、話を聞いてみると、統一教会が素晴らしい所ですか、つまらない所ですか?(素晴らしい所です)そうですか? この世の人々は統一教会がどうだとか、異端だとか、邪教だとか言いますが、私たちは何とも思いません。神々しい人々が道を行くのに町内の犬がほえたのだ、このように考えるのです。(笑い)(?)

 私たちが生まれて住んでいる故郷は皆さんがよく知っています。けれども、人間が捜し出すべき本郷の地はまだ現れていません。

 元来、私たちの人間始祖が堕落しなかったなら、その本郷はどこでしょうか? アダムとエバが住んだエデンの園であり、その村であり、その山川であることに間違いありません。今日、堕落した父母の血統を受けて生まれた人間たちは「本郷!」と言えば、自分たちが生まれた所を考えますが、それでもって今日人類が追求し慕っている理想的な本郷を考えるにはあまりにも掛け離れています。

 今日、私たち統一教会が捜していく最高の目的地はどこでしょうか? 私たちは失った本郷を捜していかなければなりません。その本郷には父母がいて、兄弟がいて、親せきがいます。彼らが悲しみの中で私たちを迎えてくれるのではなく、永遠なる喜びと幸福の中で私たちを迎えてくれうる所、そしてその喜びが一時的な喜びで終わるのでなく、永遠に継続しうるその本然の場を私たちは捜していかなければなりません。(一九六九・五・一一、前本部教会)


二 統一教会の教理の骨子


 統一教会の教理の骨子とは何でしょうか? 神様を父母として侍ろう、人類の根本の父母としよう、心情の根本たる父母として求めようというのです。その次には何をしようというのでしょうか? 先祖を捜し出そうというのです。ここで帰結点を見るのです。これが統一教会で願うことです。私たちは堕落した父母を持ったので、偽りの父母の後孫として生まれたので、これを否定し、そのような歴史的な実情を、世界的な実情を結んだこれを否定し、神様を中心とした愛の起源の下で、一つである神様の愛を受ける相対的立場の人類の真なる父母を捜し出そうというのです。ここが統一教会が行くべき最後の目的地であり、これを追求すべきなのが統一教会員たちの心情生活ではないか。

 そのような観点から見るときに、今日統一教会はこの地上に人間を中心として心情的問題を論じるのではなく、天から私たちの先祖を起源とした心情的歴史を論ずる立場にあるので、心情の世界を見つめてくるのを皆さんは知らなければなりません。私たちは神様の心情と関係を結ばなければなりません。心情の世界を成さなければなりません。それは次元が違うのです。既成の次元とは違います。これは革新的な次元であり、より高次的な次元です。そこから関係を結んで出発したものは、平面的な情緒でなく、立体的な情緒的内容を持って出発したものです。(一九七二・八・二〇、前本部教会)

 さあ、それではレバレンド・ムーンが今行う骨子の事業は何ですか? レバレンド・ムーンが皆さんにさせる骨子の仕事が何でしょうか? これが問題です。一体皆さんに何をさせるかというのです。統一教会は一体何をするのでしょうか? それをして何をするのですか? それが何の関係がありますか? 統一教会と何の関係があるのですか? 関係があるのかないのかということをはっきり知らなければなりません。

 第一に、何をしようと?(神様の心情を実現させることです)統一教会では原理を教えてくれるのです、原理。一体その原理が何ですか? その原理とはオリジナル・トゥルース(original truth=本然の真)ということです。真と同じだというのです。私たちが言う真の原理というのは何か科学を踏まえて言うのではありません。人間世界を中心として言う言葉です。神様の原理観を中心として言う言葉であるのを知らなければなりません。そのような観点で見ると、摂理的原理だというのです。

 それで、ディバイン(divine =神聖な)とは何ですか? ディバインは神を意味します。神様を意味するというのです。神的摂理という言葉、プロビデンシャル・プリンシィプル(providential principle=摂理的原理)という言葉が成立するでしょう。その言葉は何かと言えば、プロビデンシャル・オリジナル・トゥルース(providential original truth=摂理的本然の真)です。その道を教えてあげるのです。摂理的原理を教えてあげるのです。それを知らなければなりません。

 では摂理的原理とは何でしょうか? 第一がオリジナル・ゴッド(original God=本然の神様)、その次がオリジナル・マン(original man=本然の人間)、その次がオリジナル・アークエンジェル(originalarchengel=本然の天使長)このようになるのです。その次が何かと言えば、オリジナル・オール・シングス(original all things=本然の万物)、このようになるというのです。本然の神様、本然の人間、本然の何?(天使長)本然の何?(万物)そうなるのです。このオリジナルというものは互いに通じなければなりません。通じないものがあってはならないというのです。皆通じなければなりません。

 それらが互いに運動しながら、神様の愛であるとか、理想的主体・対象を描きながら和動することのできる統一圏を愛でもって成すというのです。神様もそのような本然の理想を考えることができるというのです。その理想というのは何ですか? 理想というのは一つと通じるものを言うのではありません。全体が通じなければなりません。分かりますか、何の話か? そうしてこそ、この全体が・・・。理想はこのようにも通じることができ、あのようにも通じることができるのです。皆さんの目を通してもいいし、鼻を通してもいいし、心を通してもいいし、どこでもすべて通じるのです。これが理想です。神様がそれを願うなら、人間も願い天使も願い万物も願うというのです。程度は、その内容は違いますが、そうだというのです。

 統一教会では何だと言いましたか? 統一が何だと言いましたか?(本然の神様)その次には何ですか?(人間)オリジナル・マンが何ですか? トゥルー・ペアレンツ(true parents=真の父母)、その次には何?(天使)その次には何?(万物)万物です。そこにはすべて入るというのです。神様に会い、天使に会い、万物に会い・・・。堕落前のアダムのような立場を言うのです。そうなれば、思いのままだというのです。サタンだけ追放すればいいのです。(一九八二・二・二一、アメリカ)

 しかし、今日、全世界の人類は救済摂理も知らず、復帰摂理も知りません。また、その中で特別に宗教という名前を持って天に侍って進む数多くの宗団(=宗教または宗派の団体)がありますが、その宗団自体が復帰摂理ということを知らないのです。復帰していくということも知らず復帰摂理をしていくのに、再創造の原則に従って行うということを知る宗教もないのです。

 今日、統一教会が現れて宗教摂理歴史を究明するのに、復帰摂理だという言葉で究明したというこの驚くべき事実、その復帰摂理は再創造の歴史であるので、本然の創造原則で進んでいくというこのような特異なみ言を語ったということは歴史的な宣布です。

 ではどこに帰るのでしょうか? 本然に帰るのです。堕落とは何でしょうか? 彷徨の道に乗り出したのです。だから、堕落した人類は本郷を忘れてしまい、全世界は彷徨する状況に置かれているのです。彼らが道を整えて、隊列を整えて帰るべき運命の道を模索せずしては帰ることができません。

 そのような意味で世界人類の前に帰るべき新しい道を模索して宣布するのが統一教会が宣布するみ言であり、そのみ言は復帰の方向を捜していかなければならないというみ言です。その復帰の方向を捜していく場合には峠がどこにあり、山がどこにあり、川や谷を渡ろうとすれば何の橋を渡らなければならないという原則を提示して、真っすぐ事故なく本郷に帰ることのできる道を全世界の前に宣布するのが、統一教会の運動だということを知らなければなりません。

 帰るという言葉を中心としてみるときに、救済摂理は復帰歴史です。その復帰歴史は堕落によって生じたので、堕落歴史は神様を否定する歴史です。人間本然の理想を否定する歴史です。それゆえ、堕落の始まりは否定的父母から始まったのです。これを知らなければなりません。私たち人類始祖アダムとエバは否定的父母になりました。すなわち、神様が願う父母にならず悪魔が願う父母になりました。(一九八六・四・九、本部教会)


三 統一教会が提示するもの


1 真の父母の思想を提示


 今日、人間は堕落したので、神様が原理的に人間を再創造しなければなりません。原理的に再創造しなければならないのです。無原理圏の土の塊のような人間をどのようにしなければならないでしょうか? 神様が土の塊でアダムとエバを創造したのと同様の立場で、神様のみ言と一つとなることをしなければならないのです。み言は漠然としたものではありません。原理による、原則に通じたものです。人の目はこのようになって、鼻はこのようになるという原理原則、設計図がみ言なのです。その設計図に一致することができる人とならなければなりません。そうしてこそいいのではないですか?

 このような立場でありがたくも、私たち統一教会では何を提示しているでしょうか? 私たちは絶対的な価値観を提示するとともに真の父母を提示しているのです。私たちが望む絶対的な価値のその基準がどこでしょうか? どこが終着点でしょうか? 真の父母の息子・娘となることです。永遠なる生命を持つことができ、永遠なる愛を持つことのできる神様の息子・娘となることです。そのほかには道がありません。そうではないですか? (一九七三・七・二九、前本部教会)

 皆さん各自の血統的内容が違い、背後が違っても、父母と似るためには接ぎ木する役事をしなければなりません。ひっくり返して接ぎ木しなければなりません。接ぎ木しようとすれば、皆さん自体に残された蕩減路程をすべて清算しなければなりません。それは父母から始まったので、父母を通して清算されなければならないのです。だから、真の父母に接ぎ木しなければならないというのです。アダムが真の父母となることができず、偽りの父母となったので、神様は今まで真の父母を捜してこられたのです。再臨時代に花婿花嫁だとか、小羊の婚宴だとかいうのも、すべて父母を捜し出すためなのです。(一九六九・八・一〇、前本部教会)


2 家庭を提示する


 今日、統一教会が提示する内容とは何でしょうか? 統一教会は家庭を提示します。これは父母を中心とする新しい家庭です。新しい家庭制度で新しく出発する息子・娘たちは過去を清算していで立たなければなりません。

 未来の世界の前に希望を提示するためのすべての革命の目標は、国家ではありません。世界ではないというのです。このような歴史過程において国家の革命観を提示し、世界の革命観を提示した人はいましたが、家庭の新しい基盤を準備するために家庭の革命観を提示した主体勢力はなかったというのです。

 では統一教会は何をしようとするのでしょうか? 家庭の革命がある前に氏族の革命がありえず、氏族の革命がある前に民族の革命がありえず、民族の革命がある前に国家の革命がありえず、国家の革命がある前に世界の革命がありえないのです。それゆえ、個体の完成とともに家庭的な革命をしようとするのです。(一九七〇・一〇・二五、前本部教会)

 女性がどんなに学博士になり、世界に大口をたたいたとしても、その願いは理想的な男性と出会うことです。愛することのできる理想的な男性と出会って福々しい息子・娘を産むことです。これが幸福の根っこです。このような家庭に統一教会の教理を打ち込んでおいたので、抜く者がいないというのです。

 統一教会の理想は他の所にあるのではありません。出発も家庭であり、結論も家庭です。今までこのような問題を解決した人がいないので、それを願ってきました。そして、そこに幸福があるので、これを体系化させ、天宙化させて無限なる価値を表したので、統一主義が公認されたのです。したがって、この主義を嫌う人々がなく、すべてが頭を下げて好きになれば、世界は自動的に統一されるのです。(一九六九・一〇・一八、大邱教会)


3 サタンに公認される方法を教えてくれる


 統一教会は何を教えてあげる教会でしょうか? サタンに公認を十分に受ける方法を教えてあげる所です。ところで、サタンから公認を受けますが、霊的にだけ公認を受けてはなりません。霊肉を合わせた実体で公認を受けなければならないのです。今まで六千年の間、受難の中で血と汗を流し、祭壇を導いて血のにじむ逆境の路程を歩んできたキリスト教の歴史が、今日、霊的基準しか成就できなかった立場に立っているというのです。ここに霊肉を一遍に完成することのできるそのような天倫の道があるなら、私たちはどんなに難しいことがあるとしても、その道を行かなければなりません。多くの人々は自分たちだけで押し進めていってもその道を行くことができると信じていますが、そのようにはなりません。そのような人々を見れば、考え観察するのが不足だと感じられます。どんなに優れていて、何かしたという人でも、皆こっけいに見えます。(一九六六・一二・一一、前本部教会)

 今日、統一教会が現れてこの世に何を提示したでしょうか? 皆さんにお金をあげたのでもなく、皆さんに社会的な成功を持ってきてあげたのでもありません。皆さんの本性の中に宿っている善の要件、すなわち神様と関係を結ぶことのできる善の中心が啓発されうる内容を提示しました。ほかのことを提示したのではありません。(一九六九・一〇・五、前本部教会)


四 統一教会が教えてくれるもの


1 原理原則を教えてくれる


 今日、私たちはどのような立場にいるのでしょうか? 今日、統一教会という教会が現れて何を教えてくれたのかと言えば、原理原則をはっきり教えてくれたというのです。天使世界はどのような立場に立つのかと言えば、私たちに支配されなければなりません。分かりますか?(はい)その次に、この世界は神様のみ意の中で私たちに支配されなければならないというのです。完成した人から支配されなければならないというのです。未完成なものは完成するのが目標なので、理想であるので、完成基準に立った人の前に未完成なものは完成に向かって進んでいく道が残っているので、支配されなければならないというのです。指導を受けなければならないのです。(一九七六・二・二二、前本部教会)

 統一教会は何をする所でしょうか? 人間の目的を知らない人間たちの前に、人間の目的を教えてあげる所です。神様の目的を知ることのできない人間たちの前に、神様の目的を教えてあげる所です。神様の目的と人間の目的が相馳(=物事などが食い違うこと)するのではなく、相合(互いに合致すること)する、一致するというのです。神様の目的と人間の目的が一致だけすれば、人間は間違いなく神が求める息子・娘となり、神様が成そうとする世界の主人公となれるということを教えてあげる所が統一教会です。その次に何を教えてあげるのでしょうか? 神様の側から見る過去の歴史、神様の側から見る現世、神様の側から見る未来を教えてあげているというのです。その次に神様の側から眺める世界観、宇宙観を教えてあげます。分かりますか、何の話か? (一九六四・三・二三、大邱教会)


2 神様を教えてくれる


 天国はどこから始まりうるのでしょうか? 神様の悲しみを解かずしては天国に入ることができません。堕落した私たち人間が、堕落して以来今まで悲しい歴史を編んできたので、悲しい歴史のすべての因縁を直接尋ねなければなりません。アダムとエバから六千年歴史において、その因縁を尋ねなければならないのです。そのような悲しみの神様を教えてあげるのが統一教会の原理です。この世の人々は悲しみがあれば皆嫌だと逃げます。そのどのような悲しい内容の事情よりも、もっと悲惨な神様の悲しさを教えてあげるのが統一教会の原理です。この世であれば、悲しいことがあると、全部回避して逃げていきますが、統一教会の原理はこの悲しい所を越えていこうとするのが母体です。この世では悲しいことがあると、全部避けていこうとしますが、元来人間はそうできないようになっています。神様に対する悲しみを知れば知るほど、実際において統一教会は強力な力が出ます。神様の悲惨な内容を知れば知るほど、それを解こうとする力の源泉は無限に爆発的に作用を起こす動機となります。これが統一教会が持った偉大な力です。(一九六八・一一・一七、前本部教会)

 私たちは過去の神様の目的が何であったかを知らなければなりません。過去の神様の方向が、事情が、心情がどのようであったかを知らなければなりません。そうして、現在の神様の目的、方向、事情、心情を知り、未来の神様の目的、方向、事情、心情を知らなければなりません。これだけ通過すれば、人間が自動的に完成するのです。

 それで、統一教会では何を教えてあげるのでしょうか? 摂理的な面で過去の神様、現在の神様、未来の神様の目的と方向と事情と心情を教えてあげているのです。目的は理念の完成を言い、方向は行動を言うのです。ですから目的と方向は互いに一致しなければならないのです。また、事情は生活を言うのであり、心情は通じることを言います。(一九六六・一・二、前本部教会)


3 神様のみ旨を教えてくれる


 統一教会は何をする所でしょうか? 神様のみ旨を教えてあげる所です。個人のみ旨がこうで、家庭のみ旨がこうで、氏族、民族、国家、世界のみ旨がこのようなもので、世界を救うには民主主義の趣旨を持ってもできず、共産主義の趣旨を持ってもできないで、病人たちや腕に障害のある人まで全部駆けつけて、「そうだ」と言うことのできる趣旨、万民がすべて喜ぶ趣旨、すなわち神様のみ旨を教えてあげる所です。(一九六五・一・一〇、前本部教会)


4 神様の愛と心情を教えてくれる


 神様は人間を中心として地上を愛そうとされます。私たちは神様のみ旨(願い)と事情と心情を知り、知った立場で神様と永遠に一つとならなければなりません。この三つを教えてあげようとするのが統一教会です。今まで人間たちは神様のみ旨と事情と心情を知ろうとしましたが、知ることができませんでした。だから、統一教会はこれを教えてあげようとするのです。私たちの体を千回、万回捨てるとしても神様を捨てることができないのです。(一九六二・七・一一、京畿道安養)

 では統一教会は何をする教会でしょうか? 私の願望では、最高の教会だと言いたいです。神様も生きていれば、「や! 今までそんな教会を見たことがなかったので、最高の教会に一度なってみろ!」と要求することでしょう。統一教会は何をする教会でしょうか? 統一教会に初めて来た人々がいるはずです。統一教会が何をする教会でしょうか? 神様の事情と神様の願いと神様の心情を教えてあげる教会が統一教会です。

 また、神様は永遠前から今まで来られた方ですが、過去の願いが何であり、過去の事情が何であり、過去の心情が何であり、この時代において神様のこの時代に対する願いが何であり、この時代に対する事情が何であり、この時代に対する心情が何であり、またこれから来る時代に対する神様の願いが何であり、神様の事情が何であり、神様の心情が何でしょうか? その内容まで教えてあげることのできる宗教であってこそ、万国を包摂することのできる宗教となることでしょう。万民を贖罪することのできる宗教となることでしょう。(?)

 終わりの日に生まれた私たちがなすべき仕事は何であり、解決すべき要件は何でしょうか? そのような要件を解決することのできる人にさえなれば、神様は冷遇することができません。天国の門を訪ねて入るのに歓迎しなければ、天地法度にはずれるというのです。

 だから、終わりの日のこの時代において統一教会がなすべき使命は「神様の願いが何か? 人類の願いが何か? 神様の愛が何か? 人類の事情が何か? 神様の心情が何か? 人間たちの心情が何か?」ということを教えてあげるのです。そのために現れた教会です。そのような世界を教えなければなりません。事実、そのように教えてあげることができ、千人万人皆教育させるとなれば、この理念圏内の世界は統一すまいとしても統一されざるをえません。(?)

 統一教会で教えるその骨子内容が何かと言えば、神様の心情だというのです。神様も見えず、神様の内にある心情も見えないでしょう? 見えない神様の心情をどのように教えてあげるのでしょうか? これは問題が大きいです。皆さんはハチミツを食べたことがあるでしょう、ハチミツ? ハチミツを食べたことがあるでしょう?(はい)ハチミツを食べてみた人は味を説明することができますか、できませんか?(できます)(一九八八・五・二〇、全州教会)

 さあ、結局問題はどこにあるのでしょうか? いわゆる統一教会で言う心情というものは一体何でしょうか? 心情というものが一体何でしょうか? これは神様の完全なる愛の根本を言うのです。すべての創造はそこからわき出たのです。すべての理想もそこからわき出たのです。すべてのものの完全なる根本を言うのです。すべての完全なる完成は、そこからわき出るのです。それを離れては完全なる完成がありえないというのです。(一九七六・二・一、前本部教会)

 この地球上で一番高い理想的な主義がどの主義かと言えば、統一教会の主義だというのです。それを知らなければなりません。なぜ? 宗教を中心として追求する愛を紹介し、愛の母体である神様を父として紹介し、皆さんの父親以上、皆さんの国以上に愛することのできる実質的内容を提示したので、統一教会はどんな宗教よりも偉大な宗教だというのです。心情を中心とした不変なる神様の愛を教えてあげています。(一九七七・七・三、アメリカ)

 私たち統一教会で言う心情とは、人類がともに願う希望の心情であり、万民が因縁を結ばなければならない心情であり、神様が今まで捜してこられた心情です。その領域においては天地を全部包括することもでき、全体を抱いても余りある心情を言うのです。それゆえ、天の勇士となろうとすれば、第一にこの心情に通じなければなりません。その次に人が問題です。(一九六四・一〇・三、大邱教会)

 今日、統一教会では神様の心情を話していますが、これより高次的なものがありません。神様がおられるか、おられないかも知らない世界では、この話が気の狂った人々が話す話として聞こえるというのです。神様がおられるか、おられないかも分からないのに、神様の心情をどうして分かるでしょうか? この話自体が神様がおられるか、おられないかを明らかにする次元を通り越したものです。

 心情問題というものは生活圏内で起こるのです。そうではないですか? 父母の愛や、夫婦の愛や、兄弟の愛などというのは全部生活圏内で起こるのです。生活圏内に展開するものを言うのです。それゆえ、神様の心情を語るとするなら、次元が違うというのです。(一九七〇・八・一六、前本部教会)

 だから、統一教会は心情の人格観を言い、心情の家庭を言い、心情を中心とした氏族、心情を中心とした民族、心情を中心とした国家、心情を中心とした世界、心情を中心とした天を言います。心情を中心としてこのようになるとき、すべてのものに開放が起こるのです。そうなれば、それは不可侵圏です。これが完成されることによって、地上にいても天国なので地上天国生活をすることができるのです。愛を成して生きることができるので地上天国が形成されるのです。(一九七八・一〇・二八、大邱教会)


5 真の父母との関係を教えてくれる


 では、統一教会というものは何でしょうか? それを知らなければなりません。統一教会とは何でしょうか? 統一教会は何を教えてあげるのでしょうか? 創造主とこの願いを望んできた人々を中心として、ここで真なる父母の前にどのように収拾の手続きを踏まなければならないかということを教えてあげるのです。分かりますか? 収拾の手続きをどのように踏んだらその父母の息子・娘となれるのか? どのようにすれば真なる父母に接ぎ木されうるかというのです。

 今日、真なる父母として来たものは真のオリブであり、偽りの父母から生まれたものは野生のオリブです。真のオリブの実を見るために植えたのに、野生のオリブになったというのです。では野生のオリブをどうしなければなりませんか? 真のオリブを接ぎ木しなければなりません。接ぎ木しようとすれば切ってしまわなければなりません。切ってしまおうとすれば、思想やすべての宇宙観やすべての知識や観念をすべて切ってしまわなければなりません。だから、真の父母として来る方の真なる思想を手本として、生活や世界観を全部そのままその通り移して植えつけなければならないのです。そうしようとすれば、今までのすべての野生のオリブの根を切ってしまい、真のオリブの木の芽を、芽でももらって接ぎ木しなければならないというのです。だから聖書に接ぎ木することが出ています。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である・・・」と出ています。接ぎ木をしなければなりません。

 では、統一教会とは何でしょうか? 神様を中心として真の父母と堕落した人間たちを・・・。真のオリブとして今日、堕落した野生のオリブをどのように切って、どのように接ぎ木するのかというその方法を、手続き手順を教えてあげるのが統一教会だというのです。分かりますか?(はい)それで、野生のオリブが真のオリブとなるので統一されるというのです。

 そうすれば、今日善くなりうるというのです。今までの悪なるこの世に真のオリブを植えるとどうなるでしょうか? 野生のオリブになるでしょう? ですから野生のオリブを切って真のオリブを・・・。悪なるこの世に、善がない、真なるものがない私たちの前に、真なるものがはじめて、一つのオリブが来て、これらを切ってしまい、ここに芽を持ってきて接ぎ木をすることにより、はじめてこれらと同じ立場で一つとなるというのです。このような手続き、手順を教えてあげるのが統一教会です。それゆえ、悪なる人も善に参与することができます。そこから統一という名詞が出てきます。分かりますか?(はい)(一九六八・五・一九、馬山教会)

 今、私たち統一教会は世界人類に何を教えてあげなければならないでしょうか? 真の父母について教えてあげなければなりません。真の父母はこのような方だということをはっきり教えてあげなければなりません。のみならず、真の息子・娘はこのような息子・娘であり、真の兄弟はこのような兄弟であり、真の氏族はこのような氏族であり、真の民族はこのような民族であり、真の国家はこのような国家であり、真の世界はこのような世界だということをはっきり教えてあげなければなりません。これを教えてあげるのが統一教会の原理です。(一九七〇・七・一九、前本部教会)

 今日、統一教会を中心として何を教えてあげるのでしょうか? 統一教会の活動を教えてあげるのではなく、先生と皆さんとの関係を教えてあげるのです。その内的な関係を中心として外的な関係に拡大させるためのモデルを形成するのです。それが絶対視されうる価値あるものとして確定されない限り、環境的絶対的な相対圏は形成されないというのです。こうなるのです。それゆえ、これが教会生活において最も貴いものだというのです。(一九七五・二・二、前本部教会)


6 神様の孝子・孝女になれと教えてくれる


 宗教とは何でしょうか? 孝子・孝女の道理を教えてあげる所です。今日、統一教会は何を教えるのでしょうか? 孝子・孝女になれと教えます。(一九六三・一〇・一八、光州教会)

 統一救会は何を教えてあげる所でしょうか? 「神様を中心として真の息子・娘となる道を教えてあげる所である」そうでしょうか、そうではないでしょうか? だから、皆さんは真の子女だと言っています。神様の息子・娘だと言っている群れが統一教会の群れだというのです。説明をくだくだしようとすれば限りがありませんが、そのような結果に立ったものが統一教会の群れです。だから、皆さんは全部名札に神様の息子だという名前をしっかりと付けました。(一九七二・六・五、中央修練院)


五 統一教会の思想


1 統一思想の根源


 統一思想は漠然とした立場を取るのではありません。神様を中心として垂直の方向を取っていくのです。その垂直の方向はどういうものでしょうか? 心情の拠点です。(一九七一・一一・一、南山聖地)

 私たち統一教会の思想は四位基台思想ですが、その思想の土台となることのできる要因は何でしょうか? それは神様の心情です。それは始まりであると同時に過程であり、過程であると同時に結果です。その結果は、悪くなりうる結果ではなく、喜ぶことができる結果です。(一九七一・一〇・二四、中央修練院)

 統一教会は心情の歴史、心情の世界を教えています。なぜ心情の歴史かと言えば、縦的な心情の世界を横的な心情の世界に展開するためです。これが統一思想であるのを知らなければなりません。(一九七〇・一〇・二五、前本部教会)

 思想統一は何の思想の統一ですか? 統一教会の思想を踏まえて言うのでしょうか? 統一教会のレバレンド・ムーンが何と言うのでしょうか? 思想統一ですが、心情を中心とした思想統一だというのです。そこに註釈を付けたというのです。愛を中心とした思想統一だというのです。それが違うというのです。分かりますか? だから、「ああ! その結論は素晴らしい!」と言うのです。私が統一教会を宣伝しようとするのではなく、事実なので話をするのです。分かりますか?

 思想は思想ですが、統一は統一ですが、絶対的愛を中心とした心情、統一教会で言う固有名詞である心情を中心とする思想統一だけが平和の天国と平和の王国を建設しうるのです。人間が願うユートピア的地上天国を完成させることができるというのです。(一九八〇・一一・一、本部教会)

 私たち統一教会は統一思想を主張するのです。この思想がどこから出てきたのかと言うと、人から出てきたのではありません。その思想の骨子は何でしょうか? 愛です。私たちは愛を主張したのです。どういう愛かと言うと、民族を越えた愛です。自分を中心とした家庭の一元化運動ではなく、神様を中心として、家庭を愛するにおいてこの地のどの家庭を愛する度数よりも高い次元の愛を強調して現れたのです。これが可能となれば、これによって新しい家庭を中心とした倫理観が形成されることでしょう。歴史上になかった倫理観が形成されることでしょう。強い愛で結合した倫理形態で家庭の紐帯が横的に発展すれば、これは氏族を越えて民族もしくは国家を形成し、世界に影響を及ぼすことのできる主体的な心情的愛の起源を持って現れることでしょう。それは全世界が公認するに違いありません。そのような意味で私たちは心情の世界を主張したのです。(一九七二・八・一八、清平修練所)

 今日、統一教会を中心としてみると、新しい統一文化の理念が発展していますが、この伝統的な思想の起源はどこにあるのでしょうか? まさに神の日にあります。神の日を捜してこられるお父様がどれほど苦労なさったか? 私一人と出会うためにどのようにご苦労をなさったか? その歴史的な心情、時代的な心情、未来的な心情を通さなければなりません。苦労したお父様に対するのに不足のない孝子・孝女となるためには、お父様の事情と内容を知って慰労して差し上げ、さらにそこに対するすべての責任を負うことができなければなりません。

 したがって、今後の統一教会の思想的な根源はどこにあるでしょうか? 神の日と父母の日と子女の日、万物の日にあります。今まで万物が六千年間嘆息し、神様の息子・娘とたくさんの人類の先祖たちが六千年間呻吟しながら苦労しました。(一九六九・一・一、前本部教会)


2 統一教会は何主義か


 統一教会は何主義を好みますか? 先生の主義ではありません。神主義です。神主義ですが、どういう主義でしょうか? 何、相撲をしてかけっこをしようという、そのような主義ではなく、神様と愛し合うための主義です。永遠に愛し永遠に愛されうる主義、これを夢見る連中が統一教会の連中です。「連中」と言えば気持ちが悪いでしょう、憤敗(=惜敗)を思い出すから。そのような人々が統一教会の連中です。愛はすべてのものを統一させうる原則です。(一九七二・六・四、前本部教会)

 統一教会は何主義でしょうか? 神主義です。このように見るのです。神主義、その観念を通じた個人はどこに放しても心情が通じます。観念的な神様に侍るのではなく、生活的な神様に侍ろうというのです。統一教会では神様の心情を論ずるというのです。(一九七二・七・九、前本部教会)

 世界を支配し新しい歴史を創造する主人はだれでしょうか? 国境を超越して、自分の民族より世界人類をより愛することのできる主義を持って現れた思想があるなら、その思想は世界を制覇します。分かりますか? アフリカの小さな国からそのような主義を持った人々が現れるなら、実際そうすることのできる人々が世界に現れるなら、その人々の主義の前に世界は完全に屈伏するのです。

 では統一教会の主義、先生の主義は何でしょうか? 先生の主義は大韓民国を主とした主義ではなく、世界を主とした主義です。今大韓民国を必要とするのは、世界を愛するためです。また、既成教会を必要とするのも大韓民国を愛するためです。橋を架けるためです。結局は世界を愛し、天地を愛するためです。(一九七〇・八・二一、前本部教会)

 では統一教会は何主義でしょうか? 標準主義です。配達夫の役をしようという主義です。何を配達する配達夫でしょうか? 神様の愛を配達する配達夫です。世界万民が、神様の愛のふろしきを持ってくるのを待ち焦がれますか、待ち焦がれませんか?(待ち焦がれます)それゆえ、皆さんは全部配達夫の役をしろというのです。愛の配達夫は天国に行くのです。(一九七〇・九・一三、水原教会)


3 統一教会の主流思想


 だから、先生が今まで統一思想の伝統的基盤を成立させろと頼んだのです。今まで頼んだのがそれだというのです。それを築いた基盤の下で家庭が成立されなければならず、国家が成立されなければならないのです。その主流思想は何でしょうか? それは自分を中心とした思想ではなく、全体を中心とした思想です。そうしながら、自分は全体のために犠牲になる道を行かなければなりません。これが統一教会思想の主流思想だというのです。分かりますか? そうですか、そうではないですか? (一九七一・八・二八、清平修練所)

 ある国が世界のために政策を立て、世界のために国民が一文なしになり、世界のためにその国が滅びたとしましょう。そうだといってその国が本来に滅びますか? そのようにして滅びた国があるなら、その滅びた国は未来の世界を指導することのできる伝統的な思想を立てるようになるのです。それゆえ、その国は滅びるようですが、世界の伝統を立てたので、その国とその民族によって世界は支配され、救われることでしょう。二十世紀末において国がないと嘆息するなというのです。世界を指導することのできる国民性を持ち、世界を指導することのできる一つの思想を持って、その国の民族と国民が希望の場で死んでいくというとき、実践するというとき、彼らには必ず理想天国世界に行って永遠に生きることのできる道が連結されるのです。そうなるのです。だから、私たち個人は家庭を代表し、家庭は氏族を代表し、氏族は民族を代表し、そして民族は国家を代表し、国家は世界を代表しようというのです。それゆえ、私たちの家庭は、統一教会の祝福家庭は、私たち祝福家庭のための家庭ではありません。これが統一教会の主流的な思想です。(一九七二・五・一四、前本部教会)

 それゆえ、神様は悲惨な神様、神様は孤独な神様、神様はこの上なく悲しい神様ですが、この神様を開放させるための旗手となり、一線の将兵となり、血を流そうとも正面で受け、血を流して倒れても、いっしょに倒れようと言うことのできる信念を持って、祖国光復のために、その世界を一つに収拾するために行く勇士の隊列が次第に大きくなるなら、ここから神様の喜びが始まることでしょう。

 そうでなくしては神様はかわいそうな神様となるのです。統一教会の文先生もかわいそうな男と・・・。しかしながら、私が死んでもこの地を中心として鉄石のような闘いのために、また第二次をもって挑戦することでしょう。それが統一教会を指導している統一教会の文先生の主流思想であることを、皆さんは知らなければなりません。(一九七二・一一・一二、中央修練院)

 では統一教会の主流思想とは何でしょうか? 今までの歴史過程を見るとき、他人を殺して自分が出世しようという思想が主流を成してきましたが、これが今までの歴史を台なしにした思想です。この人類歴史は戦争史ですが、その戦争の動機は何でしょうか? 私一人よく暮らすためには、たくさんの人を犠牲にするのも意に介さず、発展を追求してきたのです。(一九七一・一一・六、光州教会)


4 統一思想の理解


 その次に統一思想というのは何でしょうか? この宇宙の根本問題に対して、唯物史観か唯心史観かという二つの史観に分かれるようになったので、この根本的で哲学的な問題を扱い、この問題を解決するための方案を講究し、体系化したのが統一思想だというのです。すべてのものを統合し、新しい世界観、新しい人生観を提示する目的で、新しく定立し、新しく編成したのが統一思想であることを知らなければなりません。(一九七三・三・五、ベルベディア修練所)

 皆さん、健康な人は、普通の人が消化できないものを消化します。ですから、だれでも健康な人は皆好きです。人が健康な精神を持った、精神が健康だというとき、何でも消化してのけるというのです。民主主義も消化し、共産主義も消化し、何でも皆消化するというのです。では統一教会は何主義ですか?(ゴッディズム=神主義)ゴッディズムよりもユニフィケーショニズム(=統一主義)です。ユニフィケーショニズムが簡単ですか、それが?(いいえ)皆さん、見なさい。私たちの四肢百体を見ても、この体には目があり、耳があり、鼻があり、手足があり皆あるというのです。ここに一つの生命が連結され、統一されなければならないというのです。そうしようとするなら、これが一つとなってこうであるためには、「ああ! 私は目が嫌いだ、どこが嫌いだ」それでいいですか? すべて好きだ、すべて好きだとしなければなりません。すべて消化しなければならないというのです。(一九八一・二・一、アメリカ)

 統一教会の思想は物質主義ではなく、神様へと引き上げる主義なので、神様が引き上げることができるのです。しかし物質主義は引き下げる主義なので、下りていくようになれば滅びるというのです。(一九八〇・一・一、アメリカ)

 今、統一教会が闘う闘いがどれほど大きい闘いですか? この戦争がどれほど大きいでしょうか? レバレンド・ムーンが今、起こしておいた戦争がどれほど大きいかというのです。ここに共産党が掛かっており、アメリカの首が掛かっています。日本も掛かっており、皆掛かっています。それゆえ、レバレンド・ムーンが段々有名になります。何をするために? 有名になってからは何をしますか? 有名になって何をしようというのですか?(宇宙創造)何をするためにそうですか?(宇宙創造統一)宇宙創造統一ですか? 宇宙創造は神様がして、統一は私たちがするのでしょう。(笑い)宇宙創造統一なら・・・。創造もするのですか?

 皆さん、それを知らなければなりません。私たちはどこに生きても、あなたが消化されるのか、私が消化されるのかという・・・。共産党と会っては、「共産党、お前が私に消化されるのか、私がお前に消化されるのか?」これです。
 世界で言えば、世界は簡単です。二大思想、二大路線、民主主義世界あるいは共産主義世界、左右に分けて言うのですが、左右に分けて言う左翼は左側、右翼は右側です。それでは、頭はどこにありますか、頭は? 頭がありません。左右という言葉があり、右翼と左翼という言葉はありますが、頭翼と言うか、頭翼はどこにありますか? 足翼はどこにありますか? この腕(=両翼)、腕だけで大騒ぎです、足もなく、これが人ですか?

 ですから、私たちは何翼ですって?(頭翼)「統一翼」です、統一翼。その統一翼を人で言えばこれが何ですか? 頭翼、頭翼の連中。このように言えばまた新しい言葉が生まれ出るというのです。頭翼の連中という言葉がまた何であって? 「あ、一九八六年十月五日の最初の聖日に青坡洞で統一教会の誇りという題目の中で、頭翼という言葉を語った。それ一つまず分かる人は世界的大学者だ。これを知らない人は私に屈伏しろ」そういうときが来るというのです。統一教会は何の連中ですって?(頭翼連中)(笑い)それでは足翼が何ですか? 足翼の連中は何ですか? 足翼連中はあのアフリカ地方の人が足翼連中だと考えます。左右翼があるので、頭翼があり、上翼があるので下翼があればいいのです。

 ではこれを何が、手や足が、左右に動くのが、右手が頭を動かすことができますか? 右手が四肢を動かすことができますか? できません。左手が動かすことができません、どんなに成長しても。右翼が生きるためには・・・。自分一人では生きられません。「ああ、右手がかゆいのでかいてみよう」といってかくことができますか?(できません)その話は何かと言えば、右翼で患ったものは治してあげる道がないというのです。他から来なければなりません。左翼でかゆく患って痛いのに、これをかくことができますか?(できません)こいつたち、左腕がかゆく痛いときには、右腕があんまもしてあげ、ちょっとかいてあげ、注射も打ってあげなければならないというのです。

 世界を眺めれば、世界は左右が闘っています。この左右の闘争をすべて遮って、私たちが責任を果たすのです。それが統一教会の連中が果たす使命です。分かりますか、分かりませんか?(分かりました)これが統一教会の誇りです。(一九八六・一〇・五、本部教会)


5 天宙主義の解説


 統一教会は何を持っているでしょうか? 統一教会思想を持っています。それが誇りです。それがどれほど大きいでしょうか? いわゆる天宙主義という思想を持っているのです。これは驚くべき話です。霊界と肉界を永遠に統一しようというのです。そのポケットがどれほど大きいか、世界が入っても片隅しか埋まりません。霊界まで、宇宙まで押し込めてこそ満たすことができる主義だというのです。それが盲目的な、そのような主義ではありません。公式的な過程に連結された、漸次向上的な法度基盤の上に立った主義だというのです。これが難しい言葉なので、はじめて聞く人々は何のことか理解ができないでしょう。(一九八六・九・二一、本部教会)

 皆さんは息子主義という言葉を聞いたことがありますか? 父母は息子主義の立場に立つべきであり、息子は息子主義の立場に立って一つとならなければならないという、そのような話がありますか? その主義は家庭主義の圏内にあっては通じません。家庭主義というのは、家庭を合わせて国家の形成をしようとするので必要なのです。国家主義の前にはこの家庭主義が吸収されるのです。そして国家主義は世界主義の前に吸収されるのであり、世界主義は天宙主義の前に吸収されるのであり、天宙主義は心情主義の前に吸収されるのです。そのような観点から見るとき、今日、統一教会は何主義ですか? 何主義ですか?(心情主義です)統一教会の主義は心情主義です。

 「天宙主義」と言うとき、天宙の「宙」の字はどんな「宙」の字ですか? 天宙主義という言葉に何の必要があって「家の宙」の字を使うのかというのです。天大主義、あるいは天王主義にするとか、天主主義にするとかすればいいのに、なぜこの天宙という言葉に「家の宙」の字を使ったのでしょうか? これは家、家庭を意味するのです。何の宙の字ですって?(「家の宙」の字です)なぜ「家の宙」の字を使いますか? それは天の家から現れたからです。(一九六九・八・二四、前本部教会)

 家がなくては理想的土台とならないからです。皆さんがこの世でつらい仕事をした後に疲れた体を引っ張ってどこに行きますか? 会社に行きますか? どこに行きますか?(家庭です)家に行くというのです。家はすべての幸福の巣であり、世界の出発の起点であり、万福の動機になる基礎です。先ほど話しましたが、天が主体ならば、地は対象です。その主体と対象を中心として見るときに、対象的な立場にある人間の中で愛を論じるようになるとき、アダムならばアダムを中心として、アダムの主体になっている神様の前に完全に垂直関係として一致点に糾合することのできるその点を代身できるのが家庭です。そうでしょう? 宇宙の中心軸がはじめて地上に定着するように決定しうる所が家庭なので、家庭を捜し立てなくては宇宙の中心が立ちません。だから、天宙主義だというのです。なぜ「家の宙」の字を使うのか分かったでしょう? (一九七二・五・二九、中央修練院)

 統一教会の主義は天宙主義です。天宙主義はもちろん天と地を一つに合わせる主義ですが、天宙の宙の字は「家の宙」の字です。言い換えれば、家庭主義だというのです。男性は天であり、女性は地です。この二人が一つに統一されれば、天地が統一されるのです。そうでしょう? それは何の話かと言えば、心情を中心として氏族、民族、国家、世界を超越して、家庭を金城鉄壁のように束ねていかなければならないというのです。民族が問題ではなく、氏族が問題ではなく、人種が問題ではないというのです。これを束ねることができるとなれば、世界は一つになりうるというのです。(一九七〇・一二・二二、前本部教会)


六 統一思想の威力


 それゆえ、統一教会は何をコーチするのでしょうか? 今日、死亡圏に流れ落ちるこの歴史の方向をふさいで、新しい方向を提示しよう、統一方案を提示しようというのです。国のために涙を流し、血と汗を流すにおいては二番目になるなというのです。ご飯を食べず腹をすかせながらも、あるいは夏に犬の飯を食べつつも、「国を生かすために、愛国愛族をしよう、私たちが話すことのできる時と環境が備えられているので、私たちが大きくなれば自然と悪いものは全部なくなるようになるのだ」こうして今まで来ました。

 これからにおける統一史観は何でしょうか? 大韓民国の三千万民族がこの思想とともに一つとなって、世界のためにそっくりそのまま犠牲になることのできる旗を掲げ、アメリカがそこに同調することのできるムードを造成するようになるときは、万国はこちらに来るなと言っても来るようになるのです。(一九七一・九・一二)

 私たち統一教会の理念はだれも飲み込むことができません。共産主義も飲み込むことができません。どんな主義も飲み込むことができません。神様をどこのだれが飲み込むことができるでしょうか? 事実、歴史を通して見れば、神様はでくの坊のようです。いつも踏まれてだけ来られました。しかし、結局はサタンを屈伏させてしまうことでしょう。(一九六一・一〇・二九、前本部教会)

 統一教会の理念はだれも飲み込むことができません。皆さんを教育させて何に使おうというのでしょうか? 天地をとろかそうというのです。天地にあるサタンを一切なくそうというのです。皆さん! ここに立っているこの人がなかば狂ったとか頭がおかしい人でないなら、問題は大きいです。二十七億人類が統一教会に反対する日が早く来なければなりません。反対しても統一教会を屈伏させることができなかったならば、終わりです。

 そのためには勝利することのできる心を待たなければなりません。涙と汗と精誠で民族を越え、世界を越え、神様をとろかそうという心を持たなければなりません。このような心を持ったことがありますか? 涙を流しても神様をとろかそうという心で流し、闘っても神様をとろかそうという心で闘えば、皆さんは天国に行っても余りあります。(一九六一・一一・五、前本部教会)

 統一教会は世界主義ですが、(この世の)世界主義と言えば、民族主義的であったり、国粋主義的であったり、偏ったりする主義を破壊させ、否定するのですが、統一教会はそれを吸収しようというのです。

 ある学者は「ああ! 統一教会の主義は世界主義だ、立派だ、家庭にも通じ、社会にも通じる。社会発展論理、国家発展論理に通じるそのような内容を持って、愛の道理を主張するのを見ると立派だ」と言うのです。(一九八三・五・一、リトル・エンジェルス芸術会館)

 統一教会が偉大なのが何かと言えば、統一教会の思想で四十日もあれば、世界を教化することができるというのです。私たちの言論機関を通せばです。それが偉大だというのです。方向がぴたっと変わるようになるというのです。そうなりうる世界観を持っているという驚くべき事実を知らなければなりません。(一九八五・一二・二九、本部教会)




















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統一教会の使命


統一教会と食口たち



第三節 統一教会の使命


一 世界の三大難問題と統一教会


 統一教会は何をしようと言うのですか? 私たちの欲望は国ではなく、世界ではなく、神様の荷を背負おうということであるのを知っています。では神様がいるならば、神様はどうですか? 考えるでしょうか、考えないでしょうか? 神様において重荷は一体何ですか? 考えてみたことがありますか? 皆さんは神様において重荷が何であるのか考えてみたことがありますか?(はい)何ですか?

 第一に何かと言えば、滅びていくキリスト教とたくさんの宗教が問題だというのです。宗教をどのように一つにするかということが一番の問題だというのです。神様は宗教をどのようにして一つにするかということゆえに、頭を痛めておられるのに、メソジストが「父なる神様! 他のキリスト教はやめて、わがメソジストに福を与え給え」と言えば、それが神様の耳に入るでしょうか? 四百余りの宗派の中の一つの宗派であるのにです。そういうのを見ると、神様は「えい、こいつら! この教派主義者たちめが! お前たちのために祈祷する前に、まずキリスト教を一つにしろ! 一つにして祈祷しろ」そのようにお考えになることでしょう。「そうすれば、私が一度祈祷を聞いてみよう」このようにお考えになるでしょうか、ならないでしょうか?

 キリスト教が一つとなった立場で「神よ! われらキリスト教を通して、あなたの一番頭の痛い重荷たる宗教を一つにする仕事のために、私たちに力をお与えください! 能力をお与えください! 一つにするようお助けください!」と言うとき、天が「ああ、お前の祈祷が正しい」と言われるのであり、「えい、こいつ、欲が深い、そんな祈祷はだめだ」そうおっしゃるでしょうか? 「お前は長老派を信じ、お前はカトリックを信じ、教派を持って私に祈祷しなければならない」そうおっしゃるでしょうか? ゆえに、神様は教派を壊すことのできる人が現れることを願われるというのです。教派を壊して一つにすることのできる人が現れることを待っておられるというのです。(拍手)そうです。神様に一番問題となるのは宗教です、宗教。

 その次、二つ目は世界の国をいかにして一つの国にすることができるかということです。そのように見るとき、アメリカが「ああ、神よ! 二百年の間わが国を祝福なさり、キリスト教圏をつくって、このように栄え、世界で第一にしてくださったので、神よ! 世界のことは全く知りません。世界を皆放棄してアメリカだけを中心として、アメリカだけに福をください!」と言えば、(神様は)その祈祷を聞かれるでしょうか?(いいえ)神様はどうなされるでしょうか? 耳を当てられるでしょうか、背を向けられるでしょうか?

 白人、黒人、黄色人種を意に介さず、世界の国を神様のみ名によって一つにしようというような人が現れ、「神よ! この世界の人類を一つにしてください。キリスト教を一つにし、キリスト教を通して世界を一つにしてください!」というそのような主張をすれば、神様はぱっと元気が出るでしょうか、出ないでしょうか? 氏族を超越し、黒人でもいいし、白人でもいいし・・・。アメリカでは「神の下の一つの国」ということは教えてくれましたが、「神の下の一つの世界」ということは教えてくれなかったというのです。神様の難題は世界の人々をどのようにして一つにするか、世界の国をどのようにして一つにするかということです。それがとても難題です。考えてみなさい。神様はそういうことを考えるのであり、他に何を考えられるでしょうか?

 その次、三つ目は何でしょうか? 三つ目として神様に一番の重荷は何でしょうか? どのようにして地獄を解放するか、霊界と地獄をどのようにして統一させるかということが問題だというのです。そうしてこそ神様は愛の神様でしょう。考えてみなさい。神様があの御座におられるとするなら、地獄に行って苦しくてたまらないと言いながら、「私を助け給え」と言う霊人たちを見るとき、神様が「おい! お前はそれでも当然だ」と思われるでしょうか、「あの者たちはかわいそうだ」と思われるでしょうか?(かわいそうです)地獄を開放しなければなりません。

 だから何をしなければならないでしょうか? 真なる愛は宗教を超越するのであり、真なる愛は世界を超越するのであり、真なる愛は地獄を超越するのです。すなわち、真なる愛で愛すれば神様と対等な立場に進むというのです。(板書されながら話される)分かりますか、何の話か? それゆえ、真の愛を持てば宗教も一つにすることができ、そのような真理を通して世界も一つにすることができ、地獄も開放することができるのです。神様はそのような能力を持っているというのです。だから神様の愛を中心として対等な立場に進むことができるのです。

 そのような真なる愛を模倣し、地上にその基盤を築こうとするので、愛を中心として文化圏が違ういろいろな形態の宗教をつくりました。宗教も世界的な幼稚園のような宗教があり、世界的な小学校のような宗教があり、世界的な中学校のような宗教があり、世界的な高等学校のような宗教があり、世界的な大学のような宗教があり、世界的な大学院のような宗教があり、世界的な博士コースのような宗教があるということを知らなければなりません。分かりますか?(はい)神様の目から見るとき、そうだというのです。反対するようにはなっていないというのです。分かれば反対するようにはなっていないというのです、互いに。大きな大学であるほど東洋研究科、西洋研究科、アフリカ研究科などいろいろ分科があり、何学科だ何学科だと、学科が多いのと同じように、そのような組織になっていかなければならないというのです。宗教も同じだというのです。

 それでは統一教会は何ですか? 高等学校ですか、中学校ですか、でなければ大学ですか、大学院ですか、博士コースですか? どれですか? 難しいほど、博士級であるほど易しいので人々が多く行くのですか?(違います)(笑い)けれども幼稚園と小学校は難しいのでだれも行けない!(違います)違います。よく知っていますね。いいです。(笑い)そう、統一教会はだれでもが入ってこられないというのです。ここはだれでも入ることができないのです。だれでも入れるでしょうか? 入ってこられないのです。さあ、これを勉強するのも、ああ、難しく、活動するのもそうだし、ああ、ああ・・・。(笑い)(一九七八・五・七、ベルベディア修練所)

 神様において一番頭の痛い問題が何かと言えば共産党です、共産党。共産党をどのようにこの地球星で神様のみ名によって食い止めるかが、一番頭の痛い問題なのです。次に二つ目の問題は、疲弊し、落後して滅亡に至りつつあるこの既成教会をだれがまた再建するかというのです。三つ目の問題が何でしょうか? 今、このアメリカの青年たちを見なさい。全部くずになったというのです。これは全部ごみ箱に入らなければなりません。全部皆麻薬中毒になって・・・。この民は滅びるのです。だれがこの青少年たちをここから新しい倫理体制を中心として神様のみ名の圏内に救ってくれるだろうか? 神様が頭を痛めるこの三大問題にだれが責任を持つのでしょうか? それをだれがするのでしょうか? 今のアメリカ政府にできますか? アメリカ政府もだめであり、国連もだめであり、だれもだめです。皆だめだというのです。神様が頭を痛めるこの難問題を解決できずに進み続ければ、地球星にいる人類は全部滅亡するようになるという結論が出てくるのです。

 このような三つの難問題に今日、レバレンド・ムーンを中心とした統一教会員たちが責任を持とうと乗り出したことを、皆さんは知らなければなりません。それゆえ、皆さんは神様のみ旨を徹頭徹尾はっきり知らなければならないのです。神様のみ旨は人類を解放するのです。人類解放のためのみ旨だというのです。ところが、このような難問題を処置しなくては解放がありえないので、このような問題に手を付け始めたのが統一教会だということを知らなければならないのです。(一九七六・一二・二五、マンハッタン・センター)


二 摂理的使命


1 復帰を通した救援の使命


 統一教会とは何でしょうか? 神様の目的を達成しようとする教会ですが、それがどういう教会でしょうか? 昔に帰って再び出発しなければならないと叫ぶ教会です。だから復帰をするための教会が統一教会です。

 本来の世界には神様がおられ、人がいました。ところが、神様と人とが分かれました。決裂したというのです。だから、(目標に向かって)撃ってみることもできなかったというのです。堕落したので撃ってみることもできなかったというのです。ですから、撃ってみることのできなかったその目標がここにあると言っても、それは必要ないというのです。それは落第です、落第。全部落第だというのです。だから、人が神様に侍っておき、ここに立って再び出発点を計って撃つ道しかないというのです。このように見るとき、統一教会とは何でしょうか? 復帰の原点をはっきりさせる教会であり、目的をはっきりして撃ち、その目的に向かって行くことのできる役事をする教会です。分かりますか?

 では、この直線は何でしょうか? 何を通してこの直線を描いていくのでしょうか? それが問題です。何を持って直線の道であると言えるのでしょうか? ここで全部が確実に百パーセント的中し、それが連結していっても、一直線に結論に到達しうる道が何かというのです。それが何でしょうか? 歴史を指向するその指向性が、本来撃つ本来の線が何でなっているのでしょうか? 力を持って撃てばそれが当たるかというのです。さあ、お金を持って撃ったとして当たるかというのです。次に知識を持って撃てば当たるのでしょうか? このようなことが問題だというのです。

 それゆえ、統一教会が人々に「本来の出発点に帰れ」とお話しするのが歴史的な善であり、世界的な善であるというのは間違いないということを知らなければなりません。それは間違いないでしょう?(はい)

 ここに行ってオリジナル・ポイント(=原点)がなければ何をするのでしょうか? 撃つ場合に何を持って合わせるのかというのです。出発点から撃つのにターゲット(=目標)が世界ほどのターゲットだとするなら、その直線距離を延長した場所に小さいターゲットを立てておいても、それは全部同様です。これくらいのターゲットを置いて撃ったとしても、当たればそれはこの世界ほどのターゲットに通じるというのです。(黒板に絵を描きながら語られる)これくらいの看板を置いて撃ったとしても、この中心はここと通じるのです。
 ここでこの世界的ターゲットに向かって撃てといって、当てたときはどうなるでしょうか? これは宇宙全部を意味します。目的を全部成したというのです。こうなりうる何かがあるので、神様と人間との総力を通して・・・。神様も「ダーン」と撃つのです。銃でするか、何でするかしてです。(一九八五・一・四、ベルベディア修練所)

 復帰の道を変更することができたなら、神様が今まで苦労する必要もなく、この地上に多くの聖人たちを送って、血を流させる必要もなかったのです。ゆえに、統一教会は何をする教会でしょうか? 復帰の道を真っすぐ行こうという教会だというのです。それを知らなければなりません。(一九七八・三・四、米・パサデナ教会)

 今、新しく出発すべき時代が来ました。統一教会において貴いものは何でしょうか? 誤って出発した恨みを解くことができるというのが貴いのです。この恨みを解くことのできる、天地が一致しうるその願いの基準は皆さんの個体ではありません。個人を越え、世界全体の国家を連結させうる使命を果たさなければならないのです。

 この使命を成就するときまでは命を懸けても最後まで残り、この道を開拓しようという信念を持って、先生は歩んできました。先生の個人の目標を掲げて現れたのではないというのです。ですから、皆さんはこの道に同参しなければならないのです。この道の途中においてより貴いと思えるものがあるなら、死ぬときまでも従っていかなければなりません。そうでなければ罪悪の世界をだれが収拾できるでしょうか? 皆さん自身が収拾し、世界を料理できなければなりません。(一九六八・七・一四、前本部教会)


2 イエス様の恨みを解いて差し上げようという宗教


 私たち統一教会でするのは何でしょうか? 統一教会がしようとするのは何でしょうか? イエス様の恨みの積もったものを解いて差し上げようというのです。それが目的です。イエス様は国家から歓迎されなかっただけでなく、民族の前からも歓迎されなかっただけでなく、氏族と家庭、兄弟からも歓迎されませんでした。そうでしょう? ヨハネの福音書を見なさい。イエス様の兄弟たちが仮庵の祭に、(公に)現れることを願いながら、「はっきり世にあらわしなさい」と言ったでしょう? イエスの恨みが積もったというのです。(一九七八・九・二五、本部教会)

 私たちの責任というのはどこから果たさなければならないでしょうか? 外的なことからするのではなく、内的なことからしなければならないというのです。外的な人格体制を私たちの責任だとしてはなりません。内的な人格を装ってこそ・・・。外的に、見せるために動くことはすべて一掃してしまい、内的に隠れて、人知れず胸が張り裂けるような痛みを感じながら、全体が同情しうる環境で寝入り目覚め、その場を浸食していく生活をする群れとまずなるべきではないかというのです。家に帰って気ままに暮らしてから現れては・・・。そんな憎たらしい群れが多いでしょう? それゆえ、外的な責任が問題ではありません。外的な責任は全部流れていくのです。

 今日、統一教会ではイエスの内的な心情を解怨し、神様の内的な心情を解怨しなければなりません。これがこの時代においてイエスが何よりも願うことです。神様の前に痛い心情を残した、不孝なる死の道を行ったイエスの心は、今日この時代において(神様を)私たちによって解怨して差し上げるのを願うのではないだろうかというのです。だからイエスが後援してくれ、天が後援してくれ、使徒たちが後援してくれ、キリスト教が後援してくれ、歴史的な先祖たちが後援してくれてこそ成されるのではないかというのです。(一九七二・六・一、前本部教会)

 神様はイエス様を死の場に立てるようになるとき、どれほど胸がお詰まりになったでしょうか? イエス様を死地に放り出したのは神様の解怨をするためではありません。人類の解怨をするためにイエス様を死地に放り出したのです。神様の解怨は人類によってなされるのではなく、神様の息子によってなされるものであるにもかかわらず、人類が神様の息子であるイエス様を背信し反対したので、神様がこの人類を再び救うことのできる道を築くために、イエス様を人類の罪を蕩減してくれる祭物的立場で渡したのです。言い換えれば、人類を解怨させてあげるためにイエス様を渡したのです。

 では神様の恨みはだれが解いてあげるのでしょうか? 人類は解いてあげられないのです。イエス様が解いて差し上げなければならないのです。イエス様がその怨恨を解くことができるのは国でもなく、世界でもなく、まさにこの体です。この体を中心として解いて差し上げなければなりません。体に連結されているサタンの根本の根を抜いてしまう勝利の基盤を築き、神様の前に堂々と進み出て、愛される息子として神様を慰労して差し上げる責任がイエス様にあったというのです。ところが、イエス様は神様の恨みを解いて差し上げられなかったのです。それゆえ、過ぎ去った歴史を踏まえて再臨予備期という数千年の期間を経て現れたという事実を知らなければなりません。

 それでは今日私たち統一教会の使命とは何でしょうか? イエス様が解怨成就して差し上げられなかったその責任を私たちが代身しなければならないのです。ですから、私たちの使命は人類のために犠牲となる祭物の立場に立つのではなく、神様が今まで悲惨な歴史を経てこられながら解怨成就できなかったその恨みを解いて差し上げ、神様を喜ばせて差し上げた後に人類を喜ばそうというのです。これが統一教会が背負った使命なのです。一般のキリスト教とはその使命が違うのです。分かりますか?(はい)(一九七一・八・一九、中央修練院)


3 三時代の使命を完結すべき統一教会


 統一教会は歴史的使命を背負ったのを知らなければなりません。原理の勉強をしたでしょう?(はい)原理の勉強、それは全部信号にしかなりません。その背後のすべてのことは分からないでしょう? 皆さんは「きょう食膳に良い料理を出したね」と言ってご飯を食べますが、その背後で料理を作るためにけんかをしたのか何をしたのか皆分からないではないですか? 食べるのがおいしいといってつまんで食べるでしょう。食べる人はそれで通じますが、作る人はそれでは通じないのです。事情全部が。同じだというのです。

 ご飯をどのように作って、そのお米が盗んだものなのか、どこから持ってきたものなのか、仕事をする女性たちがどんな女性たちなのかということも知らないのです。そのご飯は自分の妻の怨讐が作ったご飯にもなりうるし、悪党である怨讐たちが作った、因縁のあるような品物を持ってきてご飯を炊くこともできるのです。そういうことがすべて分かるようになれば食べられないのです。神様は皆ご存じなので、それを隠さなければならないのです。神様は全知全能なるお方なのでそれを皆知っているのです。それゆえ、サタン世界で天を求めていく人々はそれをすべて知って、きれいに整備しなくては、浄化させなくては天の前に行くことができません。(一九八六・一・二一、本部教会)

 再臨時代は世界的基準です。国家的基準ではなく世界的基準です。それを知らなければなりません。だから、五色人種を中心として全部、アフリカや南米やアジアを問わず全部万物復帰しろというのです。全部皆出掛けろというのです。全部皆犠牲になれというのです。悪口を言われろというのです。

 それゆえ、統一教会は旧約時代の復活であり、新約時代の復活であり、そして成約時代の復活なのです。分かりますか、何の話か? だから実体とならなければなりません。ここで失敗してはならないのです。三時代に侵犯された歴史的なすべてのものを蕩減しなければならないのです。それは理論に合っていますか、合っていませんか? 合っていますか?(はい)この蕩減復帰をするのでサタン世界は退き、天の世界が誕生するという理論的根拠が、ここで確定されるということを知らなければなりません。

 それが統一教会の使命です。それがレバレンド・ムーンが中心としてする仕事だということを知らなければなりません。統一教会員たちは、今まで自分のものを持つようにはなっていないのです。私も今まで私のものがありません。(?)

 統一教会は既成教会よりも一段階さらに高い世界を追求していこうというのです。既成教会が平面性を帯びていくなら、統一教会は立体性を帯びていこうというのです。

 ではどこがより偉大でしょうか? このように話をすれば自画自賛だと言うかもしれませんが、どこがより偉大ですか? 統一教会と既成教会とどちらがより偉大ですか? 統一教会がより偉大です。天宙主義がより偉大です。統一教会は「天宙とともに生きよう」というのです。

 それゆえ、私たち統一教会は三時代の使命を完結しなければなりません。霊界に行っている霊人たちを解放し、今日この罪悪の世に生きている人々を解放し、これから来る後代の人々もここから解放しようというのです。このように三時代の解放圏を掲げて出てきたのです。

 これは膨大でとてつもないことです。このように夢のような内容が事実として現れればどうなるでしょうか? 目が真ん丸く開き、口はとめどなく開き、耳をそばだてるでしょうが、頭は下げるようになっているというのです。

 どこかに急いで走っていくときに、腰をぴんと立てて走る人は今まで見たことがありません。皆腰をかがめて走ります。今、統一教会が行くのは何かを見物しに行くのではありません。急進的に走っています。走るので人々は統一教会の教理やみ言はいいのですが、行く方法が間違ったと言います。その道に従っていこうとしましたが自分の足が裂けそうだからです。

 ところでそれがなぜ違うのでしょうか? 現実と違うからです。しかし、私たちは世界的な足取りで行かなければなりません。このように生きれば滅びません。そのように生きたのに滅びるならば、この世に神様はいないというのです。

 それがなぜそうなのでしょうか? 私が世界とともに生きるからです。これが素晴らしいのです。(?)


三 宗教統一


1 すべての宗教が求めていく目的は一つ


 この世にはたくさんの宗教があります。その宗教は最高の目的を願い、またそれを追求していっているのを私たちは知っているのです。これは真なる人によって成されるのです。真なる人々が一つになって真なる目的を追求するために、歴史上には多くの宗教が現れました。

 それなら真だとか、あるいは宗教の目的だとかいうものがいろいろになってはならないはずです。歴史の流れに従ってある時代圏内に宗教があるとしても、その宗教はその時代を経ていき、未来に連結される善の目的を中心として見るとき、その宗教が行く道はいろいろあり、宗教があるとしても、一つの道を通してのみ一つの目的の世界に帰結されるのは間違いないのです。

 ところがキリスト教について見てもたくさんの宗派があります。仏教も宗派がたくさんあります。私たちが知っている世界的宗教を中心として見ても、たくさんの宗派が生じているのです。では多くの宗派が生じるようになった目的は何ですか? それはより善なる目的を誓い、より善なる目的を現実的に自分たちの宗派圏内で成就させる内的な要求から出発したのは間違いないのです。

 それゆえ、宗派間の紛争をするとしても、それは現在前進している立場を後退させるのではなく、より次元を高めて革新するための紛争にならなければなりません。それにもかかわらず、そうできなくなるときには、紛争する二つの宗教の目的観は相反する立場に立つのです。

 どんな大きな宗教でも、その宗教は一つの最高の目的を指向して行くのは間違いありません。宗教の目的、あるいは宗教を中心として行くのは、絶対的な神を中心として出発したものであるのを私たちは知っています。自分たちが崇め尊ぶ神だけが、この宇宙で最後に勝利の神として登場することのできるお方であり、そしてその方が自分を通して、自分の宗団を通して提示しておいた教理、あるいは経書に紹介されたその道を通して必ず一つの勝利の世界に帰結されるという、そのような信仰生活をしているのです。ところが、神というものは二つありえません。一つしかありえない神ではないか。その神が願うのは一つの目的であり、一つの結果を固く誓うことであらざるをえないのです。(一九七二・一〇・一、前本部教会)


2 神様のみ旨は宗派や教派の救いではなくこの世の救い


 では真なる宗教、真なる宗教はどんな宗教でしょうか? 簡単だというのです。神様のみ旨のままに行う宗教です。神様のみ旨は何でしょうか? 神様のみ旨は宇宙を救うことです。言い換えれば世界を救うことです。キリスト教徒たちはこれを知らなければなりません。神様のみ旨はキリスト教、何、長老教会の大韓イエス教長老会を救うことではありません。世界を救うためのものです。イエス教長老会を犠牲にしても世界を救わなければならず、キリスト教を犠牲にしても世界を救わなければなりません。これが神様のみ旨です。(一九七五・四・一四、奬忠体育館)

 聖書にあるではないですか? ヨハネの福音書三章十六節は日曜学校のときからすらすらとそらんじるように皆教えます。ヨハネの福音書三章十六節では何と言っていますか? 神はそのひとり子を賜わったほどに、わが長老教会を愛して下さったと言いましたか、そのひとり子を賜わったほどに、メソジスト教会を愛して下さったと言いましたか、そのひとり子を賜わったほどに、カトリック教会を愛して下さったと言いましたか? そうではありません。神様は何とおっしゃいましたか? 「この世を愛して下さった・・・」この世です。その教えをすべて無にして、教会第一主義、教派第一主義を主張するよこしまな群れたちは終わりの日にがちゃんがちゃんと全部破綻するというのです。それゆえ、教派主義は皆壊れていくのです。ローマ教皇庁の教派主義、全能権を行使するすべてのもの・・・。統一教会の文先生は何を? 「神はこの世を愛して下さった・・・」 イエスが来たのはこの世を愛するために来たのです。イエスが死んだのはこの世を救うために死んだのです。長老教会の人だけのためではありません。

 このような思想的根拠が全部食い違っているというのです。これを革新しようとするので、反対されながら(不変の)心で行くのです。真の道は反対されながらも歩んでいくのです。すべての宗教の和合運動を今私がしているのです。例を挙げてみれば、イスラム教はいろいろな教派があります。三大教派に分かれて闘っています。彼らを一つにするために、私がお金をあげて統一運動をさせているのです。なんとまあ、そんなことができますか? キリスト教が争っていますが、その教派統一運動を私がさせているのです、反対されながら。(一九八六・四・二四、春川教会)

 キリスト教の本然の使命は神様のみ旨を成すことですが、神様のみ旨を成すためには、人類救道の責任を果たさなければなりません。できなければ審判台の前に立って、行くべき道を行くことができません。私が知ってみたら、そうだというのです。皆さんはこれをはっきり知らなければなりません。真なる宗教はどこにあるのでしょうか? 人類のために自分の国はもちろん、自分の教団や自分の教会を投入することのできる主張を持った宗教です。このような宗教は滅びません。滅ばないというのです。二段(イーダン=異端)がとても多く、三段(=異端に掛けた言葉)がとても多い信じられないこの現実社会で、私たちがわきまえて行くべきことは・・・。だれがより国のために、だれがより世界人類のために生きるかという原則を踏まえてみるときに、真と偽りははっきり分かれるのを皆さんは知らなければなりません。(一九七五・四・一四、奬忠体育館)


3 宗教統一の必然性


イ)絶対的神は一つ


 皆さん、統一というその言葉はだれでも皆願う言葉でしょう?(はい)今日、教会に宗派が多くて、何がどうだこうだと言いながら争い、社会の指弾を受けて騒々しいでしょう?

 皆さんも考えてみなさい。宗教は神様を中心として進むのですが、その神様は何人ですか? 神様が何人にならなければならないでしょうか?(一人です)一人です、一人。絶対的神は一人です。一人でなければならないのに、長老教会の神様、メソジスト教会の神様、何、ホーリネス教会の神様、今日の統一教会の神様、また何か仏教の神様、儒教の神様、イスラム教の神様があるので、どうなっているのですか? 絶対的神の位置を喪失し、相対的神の位置にいる、そのような「宗団の神」に侍るそこでは、絶対的価値の理想郷というものは見いだすことはできません。そのような結論が出てくるのです。

 そのような宗教を通じて人類の救道や、理想世界や、地上楽園や天上楽園などというものを夢みるのはすべてたわごとです。イスラム教の神も神様の属性の一部分に属する、神の属性を表す神であると主張できるかもしれませんが、それは可能でしょうが、絶対神として代置することはできません。絶対的神の位置は一つしかないのです。

 それゆえ、絶対神と言うことのできる神様の前に出ていくためには、すべての宗教は一つに帰結されなければなりません。そうならない限り、そのような宗団は終わりの日になればなるほど、皆壊れていくというのです。それゆえ、相対的神を追求する宗教では絶対的価値で成り立つ一つの世界は現れてこないというのです。このような宗教概念を持った宗教圏内に立っているなら、その宗教も再び革命の運命を避けられない立場に立っていると結論づけることができます。(一九八二・一〇・二四、リトルエンジェルス芸術会館)


ロ)神様はいろいろな宗教を必要としない


 神様はいろいろな宗教を必要としないというのです。仏教があることを願ったり、イスラム教があることを願ったり、儒教があることを願ったり、キリスト教があることを願ったりはしないというのです。神様は宗教があるとするなら、その宗教が神様のみ旨に基づいて相互いに一つとなり、世界の解放のために生き、この地上の悪を撤廃させ、善の世界を成すにおいて一つの目的を中心として前進していくことを願うのであり、宗派的な立場で争い、世界はどうなるのか、世界を忘却したような宗教は願わないというのです。

 こう見るとき、高次的な文化が低級の文化を吸収したのと同様に、高次的な宗教は低級の宗教を吸収するようになります。強制的にそうなるのではなく、自然にそうなるしかないというのです。なぜなら、それは善い世界に発展するために不可避なのです。そのような観点で神様のみ旨、神様を中心として見るとき、神様が中心なら、神様は必ず地上に宗教を立てて世界救援摂理をすると私たちが考えるとき、必ずその宗教は世界性を帯びるというのです。一つの宗教を模索しなければならないのです。その宗教の教理は一つの世界を成すという内容でなければならないというのです。一つの世界になるというのは神様と関係のない一つの世界ではありません。神様を主体として天と地が完全に密接した、一つとなったそのような宗教的教理を持った内容がなければならないはずです。そしてすべての主義、思想と闘うのではなく、それを自動的な立場で消化させうる主体的能力がなければならないはずです。

 そこでは自分の側の人、自分の民族だけ、自分の文化背景だけを持ったそのような内容とともに一つになるのではなく、別個の、反対のすべての内容を吸収することができる、消化的な能力がなくては不可能だというのです。ですから、そこでは自分が好きな人だけ一つになるのではないというのです。自分の怨讐は除去してしまい、自分の仲間だけ一つになるためのそのような主張ではなく、怨讐までも逃さず一つになろうというそのような宗教の内容がなければなりません。このような宗教を神様が願うでしょうし、イエス・キリストはそのような宗教を目標として来たはずです。(一九七七・六・一、アメリカ)


ハ)最後にはすべての宗教が一つとなってこそ


 神様は摂理の中で、そのみ旨を成すために数多くの屈折の歴史過程を経てきたのです。歴史過程の数多くの人々は風習と習慣が違うと同時に、地域的な環境あるいは気候の差による環境であるとか、いろいろな環境に伴う文化背景を異にして生きているのです。

 それゆえ、神様は救援摂理を完成させるためにこのすべての人類の背後において、私たち自身では推し量ることはできませんが、その文化背景に適当な摂理の道を選んで行きながら、その環境に生きている個人を収拾し、家庭を収拾し、社会、国家を収拾してきたと見ざるをえません。このような立場で見るとき、神様の摂理のみ旨の中において歴史が発展するならば、その発展する歴史過程に神様の摂理歴史を成就することのできる主流あるいは非主流の摂理路程がありそうだということは、当然の結論なのです。

 こう見るとき、世界には数多くの宗教があります。まず最初には不完全な迷信宗教をして歴史過程を経て神を求めるようにしながら、だんだんに高次元的な宗教に連合させ、最後には一つの宗教理想を通じた救済摂理の完成時代に至るようにするのです。この世を愛される神様であるなら、そのような摂理をしてこられなければならないという結論が成り立つのです。(一九八二・一〇・三〇、リトルエンジェルス芸術会館)

 世界の数多くの文化の背景であるとか民族的な環境が違うものを中心として、そこに合うように数多くの宗教をつくって集めて、手の指、足の指のように広がっているものをだんだんに統合して、今は四大宗教文化圏として形成されたのを皆さんは知っています。これがキリスト教文化圏、仏教文化圏、イスラム教文化圏、儒教文化圏です。人間たちは非真理の宗教は追い払いました。最後には一つにならなければなりません。

 すべての結果は蒔いたごとくに現れるのです。私たち人間の先祖が体と心が分かれて争う悲劇を蒔いたので、それと同じ結果の世界が現れなければならないので、心の人を中心とした世界と体の人を中心とした世界が成立したのです。結局は先ほど話したように、心は神様の居住地になりました。反対に体は悪神の居住地になりました。善神と悪神は共存することができないのです。共存する限りいつまでも闘うのです。

 それゆえ、今日の世界を見れば、民主世界でも共産世界でも、新しい一つの世界を模索することのできる指導者を願っているのです。数多くの宗教も自分なりに再臨思想があって、全部皆、世界人類がよく暮らして、宗教を一つにさせることのできる指導者を願っているのです。
 今後において世界の問題は何でしょうか? 宗教問題です。思想的な問題をどんなに解決したとしても、宗教問題を解決できない思想ではだめなのです。このような複雑な問題を解決する場合において、盲目的にしては解決できません。原則に従ってしなければなりません。神様がおられるなら、その神様は原則に合う公式路程に従って解決しうる道を模索しなければならないのです。(一九七二・三・九、米・クレアモント・ホテル)

 今日、私たち統一教会は何をする教団にならなければならないでしょうか? 教会を統合できる教団にならなければなりません。教会を統一できる教会にならなければなりません。そうするためには、統合させて一つにするためにはどうしなければならないかという問題を踏まえてみるときに、まず神様の前に責任分担を完遂することができるという信念を持って立たなければなりません。そうしなくては、統一教会の名前を持った統一教会としての使命を果たす道がないのです。(一九七二・一〇・二二、前本部教会)


4 宗教統一の方案


 ここに立っている文さんという人は、世界統一教会とか、世界統一神霊教会とか、でっかい名前をつけました。一体、統一は可能なるものでしょうか? キリスト教にしても、四百以上の教派が互いに、歴史的に闘ってきたということは、歴史の事実でみんな知っていることだと思います。

 こういうような結果において、キリスト教自身なりに、もうすでに崩壊の段階に立っております。こういう限界に立っているのにかかわらず、統一教会、ミスター文という男はちょっと頭がどうにかなっているのではないかと考える人がいるかもしれません。私としてそう難しいとは思いません。この鉄則でもって「為に存在する」というある教派があったら、他の教派に対して、その教派以上に尽くせ。そうすれば、そこにおいては一つになる。あるいは異教の信徒に対して、その宗教が主張するその精神以上の尽くし方をするならば、その宗教まで一つとすることができるのです。

 この文という男はできないけれども、神様がそういうお方であるから、主体なる神様がそういうお方であるから、そういうお方の相対的位置を保つようになれば、それは自然に、神様のところにおいて、一つになるということは、理論的であります。(一九七四・五・七、帝国ホテル)

 皆さんが何かユニフィケーション・チャーチ(=統一教会)という言葉を聞けば、「おお、そのユニフィケーション・チャーチというものが、それが何か歴史時代に数多くの人々が夢を見、やってみようとして失敗したことなのに、今になってすべて失敗した後なのに、ユニフィケーション・チャーチとは何か」と嘲笑するかもしれませんが、「(統一教会が)どのようにするか」という方案に対しては考えはしなかったはずです。しかし、この「為に生きる」という原則を中心として最後まで出ていく群れがあるならば、キリスト教が四百教派になるとしても、それは一つになることでしょう。

 今のアメリカが世界のために、このアメリカがなくなるときまで真に世界のために存在するとするなら、このアメリカを中心として世界は一つになることでしょう。一時ではなく永遠を基準とするのです、永遠を。そのような国があれば、その国は世界を指導するのです。それだけでなく、神様までも私たちを歓待することができるというのです。(?)

 私が統一教会を中心として統一しようとする秘法は何でしょうか? 問題は簡単だと思います。私は複雑には見ません。簡単に見て複雑に分析すべきだというのです。どのように簡単に見るのでしょうか? 二人いれば額を突き合わせて私の教派が正しいだのお前の教派が正しいだのと言って争う場合に、相手が「異端だ、サタン、悪魔だ」と言っても絶えず訪ねていこう、絶えず会おうというのです。一年過ぎ、二年過ぎ、三年過ぎ、そうして、よくよく考えてみると、あまりにもやり過ぎたのです。人には良心があり、三度以上過激に対した後には自分の良心の声が聞こえるのです。「やあ、こいつ! 道義的な面でも考えなきゃ、人間というのは、そういうものではないじゃないか? やり過ぎた」こうなのです。そのように自ら悟るようになるのです。(一九八三・五・一、リトルエンジェルス芸術会館)

 考えてみなさい。ローマ・カトリックとギリシア正教とが九百五十年間ほど闘いました。こうして今混乱の渦中で一つになろうとしますが、一つになるのは不可能なことだというのです。また新教がいろいろな宗派に分かれて、四百余派ががんとして互いに(自分が)優れていると言いますが、互いに(自分が)優れていると言うので、これが一つとなる道はないというのです。
 では、統一教会はどのようにして統一するのでしょうか? 簡単なのです。統一方法は簡単なのです。既成教会の牧師が信徒を愛するより以上に、統一教会の文先生が(既成教会の)信徒を愛すれば、一つにすることができるというのです。問題はそこにあるというのです。さらに既成教会の信徒が牧師を愛するより以上に、私たち統一教会員がその牧師を愛すれば、一つにすることができるのです。これがイエス様が残してくれた真なる教訓の道理ではなかったかというのです。「アバ、父よ、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」自分の意志がありえないというのです。百パーセントために存在するそれ以外には天倫を立てることができないのがキリスト教の骨髄だというのです。探ってみると、霊界に行って全部試験してみると、それしかないというのです。(一九七五・四・六、慶北室内体育館)

 宗教を統一しなければなりません。何で? 拳で? 脅迫恐喝で? 独裁力で? 違います。簡単なのです。それを教えてあげましょうか? 方法は簡単です。そうなるときまで努力を続ければできるのです。成るまで努力を続けるのです。人が寝るとき寝ず、人が食べるとき食べず、人が遊ぶとき遊ばなければできます。そうして一人が二人となり、二人が倍倍倍・・・。掛けて掛けて千万になり、一億が越え、数億になるときには終わるのです。既成教会も間違いなく統一教会の手先となることでしょう。私がそのようにすることでしょう。とうていできないと言ってみろというのです。そのあらゆる人々を私が皆調査しているのです。

 ではどのようにしてするのでしょうか? 簡単です。彼らができないほど彼らの宗団のためにしてあげるのです。簡単なのです。今私が超教派運動をしながら既成教会のある宗団が一年に支払うお金の何倍かを使っているのです。私たち統一教会のために一カ月に四千四百万ウォン使います。それは私の何日の費用にもなりません。ところが超教派のためには数十億を使ったというのです。それが正しいことですか、間違いですか?(正しいことです)間違いでしょう。生活できないのです。統一教会が今までしたことの中で統一教会のためにしたのは・・・。統一教会を今見なさい。地方の教会を見なさい。ただ国と世界のために・・・。(一九八八・一・一、本部教会)

 それゆえ、天の法度は何でもある程度育った後にぴゅうっと吹きつけるのです。吹きつけるとき、生命の源泉、愛と生命力が伝統的基準と一致すれば、そこには大きな節目が生じるようになり、また育って・・・。そのような節目を突破して出ていくことのできるその節目の道を・・・。交差するその点が・・・。これに従っていこうとすれば全部滅びます。このように行き、このように行き、これはどこに行くか分かりません。けれども愛はこの中心をもって突破して行くというのです。迫害は顔負けだというのです。

 そのような道理を知ったので、統一教会は滅びる運勢圏内でも持ちこたえて、今日の発展を誇るだけでなく、明日の栄えある発展の世界を夢見て希望の道を走っています。これが統一信徒たちが行く道です。だから、安着するようになるときは王宮に住む輩となります。分かりますか?(はい)本宮を中心とした東西南北の宮、本宮に住めなくなれば、支宮(本宮から離れた宮)で住むことのできる愛のろうそくをともしているのです。ろうそくの火は同じです、大きいか小さいかだけで。それでは、このろうそくをさらに大きく集めれば、これが宇宙を照らすことのできるろうそくと化すというのです。

 統一は愛から来るというのです。それゆえ統一教会です。統一教会が既成教会、宗教を統一し、万民族の雑多なすべてを統一することができるのは、ために生きに生きて忘れてしまい、またために生きて忘れてしまい、またために生きて忘れてしまい・・・。角度が一度二度三度四度・・・。三六〇度すべて満たすようになって〇に帰るようになるときには、これが新しい立場で三六〇度の度数が逆になるのです。このようにして反対の理想世界に転換させることができるのです。これは必ず愛の王宮的な王と王妃と王子・王女たちの愛の圏を成して、連続させることが可能なので、このようなことを知って皆さんがどんな立場に置かれるだろうかという問題は・・・。(一九八八・八・一、本部教会)


5 霊界の協助と宗教統一


 私たちは教派を統一しなければなりません。教派を統一するにおいては正しいか正しくないかを分別できる能力がなくては統一できません。むやみに統一を主張してはなりません。統一させることのできる内容を持っていなければならないというのです。また思想を統一しなければなりません。ところが、教派を統一できなくては思想を統一することができません。そのような意味で統一教会は世界史的な責任の旗を掲げて現れたことを知らなければなりません。だから、教会を統一しようというのです。

 教会を統一するにおいては、霊界が協助してくれます。このような事実は統一教会に来た人々であるなら皆分かるはずです。皆さん分かりますか、分かりませんか? 霊界が統一教会を協助しているのが分かりますか、分かりませんか? 霊界がどれほど大きいでしょうか? 霊人たちがどれほど私たちの仲間になってくれているでしょうか? 約三十二億になるでしょうか? 今まで地上に来ては逝ったすべての人々は、皆霊界で引っ掛かっています。逆さまに引っ掛かったり横に引っ掛かったり、どのように引っ掛かっているにしても、皆霊界に行って引っ掛かっています。彼らが今後皆、統一教会を協力するようになっています。協肋しようとしても参与させないので(霊人たちは)心配だというのです。だから今霊界では大騒ぎです。皆さん、そのような内容を知っていますか?

 霊界には仏教を信じていた霊人もおり、儒教を信じていた霊人、イスラム教を信じていた霊人などあらゆる宗教を信じていた霊人たちが皆集まっています。このような群れたちが協助するようになっています。霊界に統一の運勢が起こっています。こうなれば、地上でもどんなに嫌だといっても統一の運勢が来るようになるというのです。

 冬が過ぎ春が来るようになっているのに、春が来たらいけないので春を防御しようといって、来る春を阻むことができますか? 冬の間に防御するといってもだめです。春はほかの所から飛んでくるようになっています。自体内では解決できません。解決しようとするなら、自体内ではなく、ほかの所でしなければならないのです。統一教会が統一しようと主張はしていますが、その統一の方案は自体内にあるのではなく、ほかの所にあるというのです。そのほかの所がまさに霊界です。統一は必ず成さなければなりません。キリスト教を統一しようというのです。統一できそうですか、できなさそうですか?(できます)

 皆さんみたいでできるでしょうか? 統一できると思う人、手を挙げてご覧なさい。そうするためには私たちすべてが代身者とならなければなりません。問題はそこにあります。(一九六九・八・二四、前本部教会)

統一教会が先に立って教派統一をしなければなりません。韓国で私たちが悪口を言われましたが、統一教会を皆があくどい所であると言っていますが、新聞記者たちも統一教会が超教派運動の雰囲気を造成するのに実力を持っていることは認めざるをえないというのです。霊界が背後で間違いなく協助してくれるということを知らなければなりません。(一九六九・八・二四、前本部教会)


6 宗派間の和睦は世界平和に向かう必須条件


 この世俗的時代に宗教のできることが何であるかを尋ねる方がたくさんいます。それに対する私の所見は、世界の宗教が価値観の普遍的かつ不変的な土台、すなわち絶対価値を提示して、すべての政府がその上で真なる調和を遂げるようにすべきでしょうし、科学技術が正しい価値観の下で人類に有益な方向に進んでいくよう案内すべきでしょうし、地上のすべての文化圏が神中心の伝統下に昇華され高揚され万人に共有され、道が後代に伝承されるようにすべきだというのです。

 真に、私が言うこのような理想は、地上に神様の王国を立てることだと言うこともできます。そして、私はこのことが可能だと信じています。ある方々は私がとても理想主義的だと評していますし、私もこれを認めます。しかし、私には他の選択の余地がありえません。神様が私をお呼びになり、このような使命をお与えになったからです。

 私は今まで神様の理想を教えることだけにとどまったのではなく、地上に神様のみ旨を実現することに生涯を捧げてきました。これまで私が推進して来た宣教、教育、学術、勝共、宗団および教団間の和解、社会奉仕などの活動がそれです。この中でも特に強調したいのは、宗団および教団間の和解運動です。
 今日人類が当面している一つの大きな問題は、間で、いろいろな世界の宗教の間で、そして各世界宗教の内部でもたらされている相互不理解の現状です。この問題を解決しようとする多様な努力にもかかわらず、宗教共同体間の対立と敵対感は相変わらず継承されています。過ぎし数世紀の間に起こった宗教戦争は、今日も終わらないでいます。相互一致のための数多くの運動が試みられて来ましたが、篤実な信仰者たちの間にはいまだ不寛容、宗教的偏狭および宗教的高慢の風潮がみなぎっています。だから、大部分の宗教が同じ神様に仕え、甚だしくは同じ教理を持っている場合が頻繁であったにもかかわらず、宗教人たちは相互弾圧と敵対行為を継続してきました。

 私たちは神様が教団主義や教理や党派主義を超越しておられるという事実を悟らなければなりません。神様の目的はいつも全人類を救われるところにあって、特定民族や人種や宗教団体だけを救われようというものではなかったし、これは今この時間にも変わりはありません。宗教人として私たちが相互間の闘いと敵対行為を終息させないなら、この世を救われようとする神様を助けることができません。多くの宗教指導者たちがこれを痛感してきましたが、さまざまな複雑な理由のためにこの問題の解決はいつも挫折してきました。

 私が強調してきたのは、世界平和のための必須的な条件がまさに宗教間の和睦だというものでした。今まである一つの宗教が神様を完全に代弁することは不可能だったので、宗教が持っている多様な見解は必然的な産物です。しかし、私たちすべては一つの天の父母の子女たちであるがゆえに、私たちは一つの大家族の中の兄弟姉妹たちなのであり、したがって宗教間の葛藤と憎悪は不必要なものです。(一九八四・八・一三、ロッテ・ホテル)


四 世界の救いと世界統一


1 世界を救う使命


 どういうものが神様のみ旨でしょうか? もちろん一個人を救うのも神様のみ旨でしょうが、世界を救うのが神様のみ旨です。また、ある個人が救われ神様の前に立てられても、神様には世界のために天を信じて救われようという個人が必要です。

 家庭の代表者を願いますが、世界を救うための家庭の代表者として立てたいのです。民族の代表者を立てますが、その単一民族だけのためでなく、世界のすべての民族を指導することのできる代表者を立て、国家の代表者を立てますが、世界のすべての国家を救ってあげうるそのような使命を果たそうという国家的代表者を願うのではないでしょうか?

 今日、そのような神様のみ旨の立場から見れば、私が個人的に救われても、世界を救うために救われなければならず、家庭的に救われても、世界を救うために、氏族的に、民族的に、あるいは国家的に救われても、世界を救うために救われようというそのような家庭と個人がなければならないのです。(?)

 統一教会が何をしようというのですか? 世界を一つにしようというのです。一つにして滅ぼさせようというのですか? それなら、それは悪党でしょう。一つにして善なる世界に、善の世界に到達しようというのです。それゆえ、理論的に見るときにも、必然的な宗教として統一教会は現れなければならないというのです。この統一教会でなくても理想的で理論的に合う教会は現れなければならないのです。このような教会が現れうるとするなら、そのようなことが顕現するなら、神様がいるというのは間違いない事実だというのです。そうではないですか? その神様がいるという側面で、神様の愛を表せば、すべてのことが解決するというのです。では神愛、神様の愛の顕現をどのようにして実現させるのでしょうか? これが統一教会の宿命的課題だということを知らなければならないのです。(一九七七・一〇・九、ベルベディア修練所)

 もし主が来られるなら、一つの国を救うためには来ません。一つの国を救うためには来ないのです。世界を救うために来るのです。そのようなときが近づけば、終わりの日なので国家を越えてより愛することのできる世界を発見し、国家を越えて天の人をより尊重視し、国家を越えて神様を愛することのできる運動をしなくては、世界は滅びるという結論が出てくるのです。これが今後、世界人類が願いうる統一の道であり、思想の道だということを私たちは知らなければなりません。

 ここでは皮膚の色が問題となるのではありません。ここでは文化の背景が問題となるのではありません。神様を愛し、神様のみ旨の世界のために一つとなることだけが私たちの望みであり、私たちの目的となるのです。そうして、世界が一つになることによって、神様と人間が願う理想世界が生まれるだろうと見ているのです。したがって、個人として行く道、家庭として行く道、氏族として行く道、民族として行く道、国家として行く道、世界として行く方法を教えてあげるのを統一教会の使命と思っているのです。(一九七二・二・四、リンカーン・センター)

 私たち統一教会は世界を救うための宗教です。キリスト教とアメリカを犠牲にしても世界を救わなければならないという、このような伝統的思想を統一教会は主張したのです。統一教会で私が教えて語るその伝統は、レバレンド・ムーンの伝統の伝統ではありません。すべてのものが神様の伝統だというのです。今、皆さんがレバレンド・ムーンの思想を受けましたが、神様の伝統とレバレンド・ムーンの伝統を受け継ぐために、不可避的に行かなければなりません。これは運命です、運命。(一九八四・一・二九、ベルベディア修練所)

 私たち統一教会は今苦労しているのです。私たちは苦労をだれのためにするのでしょうか? 「私」のためですか?(いいえ)世界のためです。目的が違うというのです。私が救われようというのではなく、世界を救って死のうというのです。今私たちがする仕事は霊界の霊人たちがする仕事と同じです。霊界で霊人たちは何をするのですか? 世界を救おうとしています。そこに合わせて地上でそれをしようというのが統一教会です。したがって、数千年の間このような代価を支払ってきたのを、数十年の間に圧縮して引き上げるべき責任が統一教会の責任です。(一九七四・六・九、ベルベディア修練所)

 神様は一つの国を犠牲にしても世界を救うことに目的を置いています。結局、国家観念に固着し、間に合わせの国家観念に処しては世界を復帰することができないというのです。それゆえ、私たちは世界を復帰するために国家的な観念を超越しなければならないというのです。

 このような思想が中心とならなくては、世界がみ旨の前に帰ってくるとしても、自分の民族を中心として、自分の氏族を中心として、自分の国家を中心として再び争うというのです。昔、争った民族的感情を持って「イギリス野郎、ドイツ野郎、フランス野郎」これではみ旨を成すことはできないというのです。世界がみ旨の前に一つとなれば、ドイツも救われ、イギリスも救われ、皆救われるのです。そうでないときには、自分の国を主張することによって皆壊れていくというのです。

 私たちの目的は、国家観念を超越して世界を愛してこそ生きるという信念を投じるのです。(一九七二・三・二三、独・エッセン教会)

 皆さん、統一教会は世界的な使命を背負い、これを人類の前に渡してあげるべき最後の恩賜を受け継いで行く道に立っているのです。これはとてつもない恩賜だというのです。皆さんがこの時点において担った責任を全うし、環境的に切迫する世界的なあらゆる世の荒波と数多くの歴史過程を越えに越え、今日に出会ったという、この驚くべき事実は、皆さんが一つの国を持つことよりも、世界を占領して治めることよりも、天地をすべて持つことよりももっと驚くべきとてつもないことであるのを知らなければなりません。(一九七一・五・二、前本部教会)


2 東西文明の結束を通した中和文明の創建


 アダムは自分を中心として考えて堕落しました。アブラハムも自分の福を夢見て滅び、イスラエル民族も自分の民族的な福を夢見て滅びました。今日、キリスト教もこの世界においてキリスト教だけを中心として夢を見ては滅びるのです。世界を踏んで立つことのできる新しい文化を創造して、その上に福地を求めて出発していくことのできるある噴火口をつくっておかなければなりません。これが統一教会が指向するものです。今後、統一教会という名詞の通りに、この世界が統一されうる日が来ることでしょう。その日が終わりの日です。(一九六六・三・一三、前本部教会)

 統一教会が東洋と西欧文化圏を連結する橋の使命を果たさなければなりません。統一教会にはそうすることのできる内容が十分にあります。そのような時が必ず来ることに備えて、私たちは主体性を備えていかなければなりません。民族と国家と世界の前に展開されうる母体をつくらなければなりません。私たちが活動体制を強化すべき理由がここにあるのです。(一九六九・一二・一四、前本部教会)

 統一教会とは何でしょうか? 精神の下に物質を置きます。これが一つにならなければなりませんが、今、西洋と東洋とは異なっています。反対です。これがどのようにして一つになるのでしょうか? これが分かれていったのですが、どのようにして一つになるかというのです。

 さあ、それでは精神的分野を代表した東洋が西洋に来ておんぶされなければなりませんか、物質的、外的分野を代表してきた西洋が東洋に行っておんぶされなければなりませんか? どうしなければなりませんか?(西洋が東洋に行っておんぶされなければ・・・)それはなぜでしょうか? 心が中心です。心を中心として、心に体が従わなければならないのです。心の前に体が一つとならなければならないというのです。心は中心ですが、中心が行っておんぶされるのは破壊的です。中心は立っていて、体が来て一つとなって、この中心を中心として回らなければならないのです。その話は正しいですか?(はい)私が東洋人なので西洋を屈服させるためにこのような話をするのですか、道理がそうだからこのような話をするのですか?(道理がそうだからです)(一九八六・八・三一、ベルベディア修練所)

 では、終局に行って文明は何によって結実するでしょうか? それは宗教を通じて結実するのです。政治によってなるのでもなく、経済あるいはその何かによって結実するのではありません。文化というものは必ず宗教思想を基盤として発展してくるので、宗教によって結実しなければならないのです。(一九七五・六・一〇、前本部教会)

 統一教会は四大文化圏を消化して立ってこそ中央に入ってくるのです。それが統一教会でいう中和文明、レバレンド・ムーンが主張する中和文明圏だというのです。中和文明圏というのは中心文明だというのです。四方の角度を合わせてそれが主体的立場で調整支配できる主体的な能力を持った圏を言うのです。お分かりですか、何の話か?(はい)結論は簡単です。天の作戦は何ですって?(打たれて奪ってくること)奪ってくるのです。(一九八一・五・一、本部教会)


3 五色人種を一つの兄弟姉妹として


 統一教会が今後、世界を統一できるかできないかという問題は、だれも愛せずにいる五色の人類を愛するか愛せないかにかかっています。愛する場合には個人を犠牲にして氏族を愛し、氏族を犠牲にして民族を愛し、民族を犠牲にして国家を愛し、国家を犠牲にして世界を愛し、世界を犠牲にして天地を愛することができるか? 徹頭徹尾そうすることができると結論づけることができれば、このような運動は世界的に永遠に残されるのです。

 だから、今日統一教会が天宙主義だという話をするようになったのです。統一教会が新しい言葉を多く作りました。天宙主義というのは世界を一つの家にしようというのです。では、この家にはお母さんお父さんがいなければなりませんが、ここで天はお父さんで、地はお母さんです。その次に兄弟がいなければなりません。父母は天地であり、兄弟は人です。それゆえ、統一教会員たちの行く方向はほかの人たちと違うというのです。(一九七〇・一二・一三、前本部教会)

 統一教会とは何ですか、統一教会とは? 統一教会とは何をするところですか? 何をしようというのですか? 一つにしようというのです、一つ。一つにするのです。白人が正しいと言って、黒人がそうではないと言えば、これは一つになったのですか? ですから一つになろうとすれば、黒人をこうしてもオーケー、白人がこうなって黒人が下になってもオーケー、どのようにしてもいいとならなければならないのです。そうしなくては統一された世界、統一を見ることができません。統一の世界、平和の世界、一つの世界、それは皆妄想です。ありえません。(一九八七・一・一、世界宣教本部)

 私たち統一教会が何かと言うと、「五色人種が一つになれ。全部消化しろ。ハーモニー(=調和)になれ」と言って騒がしいでしょう。統一教会は宗教だけ信じればいいのに、何、船を造り、何もして何もして、海に出ていって魚も捕まえ、なぜこの騒ぎですか? 海に行って魚を捕まえるのは朝飯前だというのです。これからは鉱山に行って全部石炭を掘るだろうし、ダイヤモンドを掘るだろうし、金を掘るだろうというのです。そうなればどうしますか? トンネルを掘っても何千フィート、何百マイル掘って入らなければならないのです。(笑い)(一九八一・二・一、アメリカ)

 現世で生きる私たちが、今後民族性を超越し、人種性を超越することのできるそれは何でしょうか?今日の国家観ではできません。国家観だとか、今日この世の主義では不可能です。神様を中心とした愛でなくてはだめだという結論が出てくるのです。
 それゆえ、真なる宗教だけが国家を超越することができ、人種を超越することができます。すなわち、神様を中心とした愛から始めなければならないというのです。そう見るとき、私たち統一教会が一度やってみようというのです。

 神様の側からこの世界人類を縦的に見れば全部階級がありますが、横的に見ればどうなるでしょうか? 皆兄弟です。兄弟だというのです。そう見るとき、これは神様の息子です。兄弟です、兄弟。父母を喜ばせ、父母を中心として一つになろうとすれば、どうしなければならないでしょうか? 兄弟たちが互いに愛し合わなければなりません。一人の兄弟が貧しく、着られず、哀れに暮らすなら、裕福に暮らす兄さん、その次の兄さん、全部分けてあげて、その弟を自分たちのようにしてあげなければなりません。これが一つとなる役事です。(一九七六・三・二八、ベルベディア修練所)


4 神様を中心とした一つの世界建設


 今日、キリスト教は名実ともに世界的な宗教になりました。ところが、世界的な宗教となったキリスト教の前に世界的な障壁が残っているのです。真正な意味で世界を愛し、世界のために闘ってきたでしょうか? 一つの基本的な障壁が今日全世界のキリスト教が行くべき途上に塞がっているというのです。単にキリスト教だけではなく、数多くの宗教の前にそのような障壁が残っているのです。

 この障壁をどう打開すべきでしょうか? これが現時点におかれている宗教人たちが、または宗教が解決すべき重大な問題だというのです。この障壁をかき分け越えていこうとするには、どうすべきでしょうか? 自分の民族を主張する宗教になってはなりません。自分の一民族を主とする宗教を持って、世界的なみ旨を成就しようとするのは到底不可能だというのです。自分の民族や国家を越えなければならず、自分の民族の伝統的な社会制度や文化、その他のすべての慣習を全部打破してしまい、世界人を中心とした社会、神様のみ旨と一致しうる一つの世界を模索しなければならないというのです。そこにすべての心情を一体化させ、生活全体を一体化させなければなりません。人生観なら人生観を、世界観なら世界観を一体化させる役事を断行しなくては宗教として残ることはできないでしょう。

 このような観点から、今日統一教会が、このような問題を提示する重大な責任を負わなければならないというのです。民族を主とする宗教的な闘いを展開するのではなく、世界を主とする宗教的な闘いを展開しなければなりません。民族を主とする幸福の理念を見いだそうとするのではなく、世界を主とする幸福の理念を見いだそうとする統一教会にならなければなりません。歴史過程の宗教を中心としてみるときに、現在がそのような時点だということを、私たちは知らなければなりません。

 自分を主とする観念、自分の家庭を主とする観念、自分の国家、すなわち大韓民国なら大韓民国だけを主とする観念を持っては世界化はできません。世界化を可能にしようとすれば、大韓民国内からそうすることのできる人が現れなければならないというのです。統一教会がそうなるためには、神様を中心として、世界化できる生活的な基盤が皆さん自体内においてどれほど強固化されるかという問題が解決すべきでしょう。(一九六九・一二・一四、前本部教会)


五 地上天国建設


1 神様のみ旨は地上に天国の王権を立てること


 神様のみ旨とは何でしょうか? この世界人類をご自身が愛する民にし、この地球星をご自身が愛する国土にし、この国土と民を合わせて一つの主権国家をつくり、理想世界をつくることです。分かりますか、何の話なのか?

 その理想世界の主権をだれが来て処理するのでしょうか? 来られる主と神様が合同して永遠不変なる一つの理想的な主権国家をつくることでしょう。そのような場に入っていくようになれば、皆さんが直接主管圏内に入るので、そのときになれば神様を知らないと言う時代ではなく、だれでも霊界を通して神様を感じるようになることでしょう。心までは神様がいたとしても、神様が能力を一度も発揮できなかったというのです。

 今までは神様がいてもサタン世界からいつも追われ、犠牲になり追い回されたのであり、このサタン世界を支配し、サタン世界を審判する神様とはなれなかったというのです。なぜそうでしょうか? 国がないからです。サタン世界の国よりも優れた国がないので、神様が神様の役を果たせなかったのです。

 イエス様を送られたのはサタン世界の国家よりも優位に立てる一つの世界的な国家基準を中心として、サタン世界の天使長国家よりももっと優れた一つの主権国家を持たせるためでした。そうしてこそ主人たるアダムが支配することができ、本来の威信を立てることができるようになるのであり、神様が主管しても体面を立てることができるのであって、サタン世界の国より劣る国、あるいは氏族、家庭の位置に入ってきて成りすます神様であるなら、そのような神様は体面と威信を立てることができないというのです。(?)

 今日、統一教会の使命は何でしょうか? 私たちはたとえ地上世界に生きていても、天上世界である天国の王権を中心とした恨みを解怨する道を築いているのです。神様が霊界から見ると、霊界は天宙史的なそのような先祖たちでいっぱいであるべきなのにもかかわらず、天国は空いていて、全部楽園や地獄がぎっしり詰まっているというのです。それをご覧になる神様がどれほどつらいでしょう。

 ですから、再臨のひと日が来れば、天国ではない楽園と地獄のそのどん底に新しい理想園をつくっていくのです。地獄のどん底に連結されたそこでカイン・アベルを捜して、新しい神様の家庭圏を形成するのです。新しい神様の氏族圏、新しい神様の民族圏、新しい神様の国家圏、新しい神様の世界圏を成して、地上にいる人々を全部蕩減復帰しなければなりません。地上でカイン・アベルを中心として蕩減復帰をし、すべてのものを吸収・消化して統一された世界を成し、空いている霊界を地上世界で編成してひっくり返して合わせなくては、神様が天国を中心とした願いのみ旨を解怨成就できる道がありません。

 だから、イエス様も「あなたがたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、地上で解くことは、天でも解かれるであろう」と言いました。地上に天国を成さずに天上世界に天国が生まれるでしょうか?(いいえ)地上に天の国の主権を立てなくては霊界で善なる主権を回復できないというとてつもない事情が内在しているというのです。(一九八六・三・一五、西光州教会)


2 教会の目的は国を救うところにある


 教会の目的とは何でしょうか? 教会は国を救うためにあるのです。しかし、キリスト教はこれを知りません。キリスト教では教会が存在する目的を天国に行くためだと言います。それもだれを中心としているかと言えば、自分個人を中心としているというのです。結局、アメリカのような個人主義の国をつくったのです。

 このような世の中を新しく開拓しようというのが統一教会です。統一教会員たちが伝道するのは統一教会をうまくいかせるためではありません。国をうまくいかせるためです。国の中にとどまっている宗教であってはなりません。ユダヤ教がイスラエルの国を救うことのできる主導的な役割を失ってしまったので、ユダヤ教が滅びたのです。

 国のためにしようというのが統一教会の方針です。統一教会が多くの宗教を統一しようとすれば、多くの信徒を愛さなくてはなりません。私たちが他の教会を、その信徒たちが愛するより以上愛さなければなりません。統一教会の統一方針が何ですか? 愛です。愛さなくてはこの悪の世界を征服することができないのです。イエス様は右の頬を打たれればどうしろと言いましたか?(ほかの頬をも向けてやりなさい、と言いました)だれのためにそうしろと言いましたか? お前と私は天国の民であり、お前と私の前には越えるべき死の道が残っているというのです。このように天の国を中心として愛すれば許すことができるのです。分かりますか? 甲と乙は個人個人ではありません。お前もかわいそうな人であり、私もかわいそうな人ですが、かわいそうな人同士闘うべきでしょうか? 皆が国のないかわいそうな立場で国を取り戻していくべき立場にあるので、私がまず知ったならむち打たれながらも取り戻してあげるべき責任があるのです。それゆえ、右の頬を打たれたら、ほか(左)の頬をも向けてやってでも、その国を取り戻さなければならないというのです。(一九七〇・九・二〇、春川教会)

 統一教会は何をしなければならないでしょうか? これが重要です。宗教は国家を指導しなければならず、世界を指導しなければならないと見ます。世界を指導しなければならないというのです。それゆえ、統一教会は国を救おうというのです。国のために働かなければならない、世界のために働かなければならないという観念がはっきりしているというのです。(一九七四・八・一六、ベリータウン修練所)

 私たち統一教会の願うものが何かと言えば、善なる一つの国をどう神様のみ旨の前に立てるかというのです。もし一つの国がみ旨の前に立つ日には、いくら暴悪で、いくら悪辣なサタン世界圏であっても必ず善なる国の前に屈服しなければなりません。それが本来、天地創造の原則なのです。だから、メシヤを送るのです。(一九七五・一・五、前本部教会)


3 祖国光復を成すべき統一教会


 私たち統一教会が統一という名詞を掲げて現れたのは何ゆえでしょうか? 私の個体の福のためではありません。私たちの心にある一片丹心の願いは何でしょうか? 祖国光復(祖国の主権復帰)だというのです。神様が願った祖国、イエス・キリストが願った祖国、聖霊が願った祖国、歴史的な数多くの私たちの先祖たちが願った祖国、その祖国が私たちの中心に位置を占めるようになり、その祖国を成すために神様が築いてきた道のため忠誠を尽くし、孝行することのできる個人と、孝行することのできる家族と、孝行することのできる氏族と、孝行することのできる民族をどのように立てるか? これが現下の統一教会の使命です。(一九六五・一〇・三〇、大邱教会)

 統一教会は何をしようというのですか? 何を統一しようというのですか? 統一の宗教ですから宗教を統一しようというのです。そうして何をしようというのですか? 祖国光復を神様のみ名によって、地球星の祖国光復を神様のみ名によってしようというのです。それゆえ、私たち統一教会員は、宣教師なら、もはやその国に骨を埋めなければならないということを知って、骨を埋める覚悟をして行くのです。行って、その民族に、その国においての祖国創建のための部分的使命を担当し、郡と道と行政組織も逆に編成してきたのです。それで今、どこまで行ったのかと言えば、今後、世界で政治をする連中が、私たちの手を経なくてはすることのできない時代圏まで今上がってきているというのです。今、数がどんどん増えているのです。

 私たちは、天と地が統一されたそのような原則によっては憲法を備えることができませんでした。大韓民国の憲法に、神様のみ名によって天の国の憲法と地上の理想天国を中心とした統一世界の基準を抱えることのできるそのような法に一致しうる内容がありません。一致しうる内容になっていません。神様がいません。何の話か分かりますか?(はい)

 ですから、私たちはそのような使命を背負っているのです。私たちの定着地は地球星です。私たちの兄弟は五十億人類です。それゆえ、私たちは合同結婚式をするのです。愛の縁をどこでもより遠い所に錨を下ろすことを願うのが人間の欲望です。それが神様の願うことです。(一九八六・一〇・五、本部教会)


4 私たちは国を持った国民とならなければならない


 今日、私たちが生きているこの国とこの世界は、エデンの園の復帰型なので、罪のない世界、平和の世界として天が喜びうる世界とならなければならないのに、そうならなかったがゆえに皆さんは考えなければなりません。「ああ、私が持つべき世界にサタンが仮住まいするのを見ると、私が忘れずに国を持って誇るべきなのに、国を持って誇るべきなのに・・・」こう考えなければなりません。皆さん、国を持って誇ってみましたか? サタンは国を持って誇りますが、私たちはサタンに対して氏族だけを持った立場にあります。国を持ったサタンの前において優勢な立場でのふるまいができないので、いつもサタンの前に追われる立場に立つようになったのを、皆さんは知らなければなりません。

 このような天宙の恨みを解こうとすれば、私たちは国を持った国民とならなければならないのです。堂々と天の国に戸籍を載せて入籍した基盤の上に、皆さんの息子・娘が堂々たる国の権威を割り当てられ、天の保護の下で天の国を愛する忠臣の道理をわきまえることのできる環境を持たなければなりません。そうしてこそ、はじめて本来の人として行くべき道を求め、行くことのできる家庭の基盤を成して、復帰された位置に接ぎ木することができるのです。これを今日カインである皆さんが知らなければなりません。

 「何、息子の教育問題もあり、また妻が何で・・・」こうですが、もちろん経済復帰も考えなければならないでしょう。しかし、家庭が協助して国に責任を持たなければならないというのです。国を生かすためには民族が犠牲にならなければなりません。国を生かすためには氏族も犠牲にならなければならず、国を生かすためには家庭も犠牲にならなければならないのです。そのような立場から見ると、統一教会自体はその国を取り戻すために正常的に、原理に立脚した活動を展開しようとするのです。分かりますか? それゆえ、滅びません。そのような立場に立ったことをはっきり知り、今後はその一つの一念を中心として進まなければなりません。(一九七二・六・一一、中央修練院)

 では私たち統一教会信徒たちにおいて統一教会の国がありますか? ありますか、ありませんか? 統一教会はありますか、ありませんか? 教会はあるでしょう? この教団自体が死のうとするときは? どうですか? 生きるでしょうし、生きようとするときは死ぬでしょう。キリスト教、あなたがたは死のうとするのでしょうか、生きようとするのでしょうか? 終わりの日に来ては、それを比較することでしょう。国のために教団を犠牲にしようとする教団は国とともに生きますが、国を避けて行く教団は国とともに滅びるのです。これは歴史的な鉄則です。ですから今日私たちはこれを標準としていで立つ群れであることを、堂々と悟らなければなりません。何の話か分かりますか?(はい)(一九七二・五・九、中央修練院)


5 天の国の市民にしようとする所


 では統一教会とは何ですか、統一教会とは? 統一教会が何をしようというのですか? 理想国家を建設しようというのです。
 皆さん、ユニフィケーション、ユニフィケーション・チャーチが何ですか? ユニフィケーションといえば主体性を持ったものですか、これが相対的な立場で従っていくのですか? 「統一」と言えば、「統」の字は「率いる統」の字です。率いるという意味です。それが何の話か分かりますか? したがって、ユニフィケーション・チャーチといえば、すべての教会を一つにするというのです。教会は家庭を代表しながら国を代表するのです。だからこれ自体が氏族と同じなのです。氏族圏内だというのです。中間の立場です。ここに国家を代表したすべての氏族を全部集めておいたのです。

 神様がこのような教育機関をつくっておいた目的は何でしょうか? ここにすべての人種を集めて教育訓練を・・・。これが訓練場所です、訓練場所。精神的な訓練場所、未来の国民と未来の家庭のための訓練場所だというのです。教会が家庭の行く道、氏族の行く道、国の行く道を正しく教育しなければなりません。このようにして過去のすべての預言者たちは、その国の責任者を、君主が誤れば君主を全部引っ張っていくのです。控訴して引っ張っていくのです。だから、神様は教会という母体を中心として、未来の家庭と未来の氏族と未来の世界の民に、市民にしようというのです。

 どのような市民にするのでしょうか? 神様が理想とする国の市民にしようというのです。神様の理想の国の家庭をつくり、理想の国の氏族を通して理想の国の市民をつくろうというのです。それが、神様の理想的市民というものが、過去のある市民ではなく、現在の市民ではなく、未来に存在しうる市民だということを知らなければなりません。

 また白色人種、黄色人種、黒色人種を中心として神様はどのように考えるでしょうか? これを三兄弟にしてみよう、三兄弟にしようというのです。それが統一教会の神様です。私はほかの教会の神様は知りません。ほかの教会は知りませんが、私が知っている神様が一番いいというのです。(拍手)違うと思います。(一九七九・一一・一一、アメリカ)




















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統一教会の活動


統一教会と食口たち



第四節 統一教会の活動


一 この世との差


 統一教会とは何ですか? ユニフィケーション(=統一)という言葉はどういう言葉ですか? 今まで考えることが違い、話すことが違い、行動することが全部違ったというのです。私たちはだれに似ようというのでしょうか? 私たちは主体に似なければならないというのです。神様に似ようというのです。(一九七六・三・二八、ベルベディア修練所)

 統一教会が良い教会なのか悪い教会なのか、どのようにして一遍に分かるでしょうか? 私たち人間の本性、堕落性ではない本性と関係を持つことのできる教会か、そうでないかということは何を見て分かるでしょうか? この世のようにしなければならない? そうですか? 何を見て分かりますか? この世と同じでなければならない?(いいえ)この世と異ならなければなりません。どれほど異ならなければならないでしょうか? 百パーセント異ならなければなりません。(一九七一・五・七、中央修練院)

 統一教会はこの世と同調して一つとなるために現れたのではありません。何かが異ならなければなりません。ですから、理念的な基準で人類の本心をもって追求することのできる内容を持って現れなければなりません。本来人間が行くべき最後の目的地が、エデンで堕落する前の人間として復帰し、そこで定着して生きていくことなので、人間がたとえ堕落したとしても、本心の心はいつもそこに向かって私を引っ張って行っているのです。(一九六八・七・一四、前本部教会)

 私たち統一教会の理論を踏まえてみるときに、私たちが指向するその世界というものはサタン世界ではありません。天の国、神様が志される世界です。神様が志す世界はサタン世界と本質的に違うというのです。質が違うというのです。一つが西に行けば、一つは東に行かなければならず、反対だというのです。一つが南に行けば、一つはどこに行かなければなりませんか?(北)北に行かなければなりません。

 では男性と女性を踏まえてみると、男性がすることを女性がすべきで、女性がすることを男性がすべきだという論理も成立するのです。人はご飯を食べて寝ますが、私たちは働かなければならないし、人は遊ぶのに私たちは闘わなければならず、人は休養に行くのに私たちは徴用に行かなければなりません。徴用、分かりますか、徴用? 徴発されて奉仕しにいくのを徴用というのです。すべての思考方式が違うというのです。(?)

 この世界は怨讐の世界なので、怨讐野郎たちが良いという道とは絶対に妥協せず、絶対に反対の道に行こうとするのが統一教会です。統一教会とこの世とは反対です。それを知らなければなりません。私たちはがむしゃらにこの世が行くままに行くのだ、そうですか?(いいえ)ではどうしますか? がむしゃら反対に行くのです。人が寝るときに私たちは?(寝ません)人が寝ないときには?(働きます)(笑い)さあ、みなさい。この世では食べて寝て、こうしていきますが、私たちが人のように食べて寝て、こうしては六千年かかっても復帰できません。

 ですから、皆さんはこれを考えなければなりません。人のように食べて人のように暮らしながらこの道を行こうという人は、本当に気がふれた人です。それは外的に狂ったというのです、外的に。人が食べるときに食べず、人が着るときに着ず、人が寝るときに寝ず、前もってすべてやってのけるのです。これが先生式です。分かりますか?(はい)(一九七二・五・三一、中央修練院)


二 反対と迫害


1 反対の結果


 統一教会というものは何でしょうか? 統一教会を主張するので全部反対します。全世界が反対します。黒人も反対し黄色人種も反対し、かのアフリカの人たちも反対し、全部反対するというのです。アメリカという国は、総合の国でしょう? 雑種株式会社のような国です。私が代表的に来て反対されれば、ここは全世界の人が皆入っているので、ここで反対すればそれが反映して全世界が反対し、外的世界も全部わけもなく決起して「レバレンド・ムーン、悪党! マフィアよりももっと悪く、ギャングよりももっと悪い。スターリンより悪い」こういうのです。(笑い)世界で一番悪い役職は私に持ってきてかぶせたのです。そうだったでしょう?(はい)それで私が「蹴ってみろ」と言ったのです。ひっくり返るかと思ったのに、ひっくり返らなかったのです。(一九七九・一・一、ベルベディア修練所)

 今まで悪口を言われ反対され、二十世紀の代表的な迫害を受ける教会団体として登場したのが統一教会ですが、この統一教会が反対されるのは人々が憎くてそうしたのではありません。世界的なサタンが発動してそうしたのです。これを見れば、そうなったのが今はたくさん上がったでしょう?(一九六六・五・二五、全州教会)

 統一運動を備えて現れる宗教の背景、基盤には神様がともにあるので、サタン側のすべてが動員され、それを反対するようになります。サタン側に属するすべての団体が動員され反対する運動が起こらなければならないというのです。だから、統一教会が歴史時代にたくさんの宗教人が迫害されたのと同様に、その歴史的伝統を引き継ぎ、世界史的舞台の上で過去すべての宗教人たちが迫害されたのを代表して、この時代のすべての宗教、すべての人種、すべての国家から反対される役事が起こらなければなりません。

 統一教会一つに対して民主主義世界も反対し、共産主義世界も反対し、それだけでなく共産主義と民主主義が一つになって反対しました。互いに他の教派も一つになって反対し、宗団も自分たち同士は分かれていますが、統一教会を反対するのには全部一つになって反対するというのです。これを知らなければなりません。それが不思議なことだというのです。民主世界でも全部自分たち同士争いながらも、統一教会に対しては一つになって反対し、共産主義国家でもそのようなことが起こるというのです。

 そうしながら、天の側である統一教会を打ちながら、自分たちはどんどん崩れていくというのです。今に来ては民主世界をだれも収拾する道がなく、キリスト教ならキリスト教を収拾する道がありません。共産世界も世界的共産主義でしたが、今は民族的共産主義でもありません。氏族的共産主義に落ちてきました。自分たちが収拾できず、すべてのことを反対した後は、全部壊れていきます。崩れていくというのです。(一九八七・二・二二、ベルベディア修練所)

 神様が今まで二千年の歴史を通して蕩減の道をたどってきたのは、現世において民主主義世界とキリスト教を代表した再臨主を送って一つにするためなのです。ところが、もし再臨主が来られるときその基準で目的を果たすことができず、反対した場合には大変なことになります。再臨主は世界を代表して特定なる地域で、その国家の民族性を中心として生まれるに違いありません。その国のキリスト教は世界を代表します。その国の主権は世界を代表します。そのような立場です。そのような立場が統一教会で言うなら、韓国であり、韓国のキリスト教です。

 ですから、それが統一教会に反対したということは、統一教会だけに反対したのではありません。歴史的な神様の摂理全体に反対したのです。そうだとすれば、歴史的使命を完成させるために立てた教会が再臨主を迎えずに反対したことになるので、すべてのキリスト教はここに引っ掛かってしまいます。その背後の文化圏、すなわち国まで全部引っ掛かってしまいます。そうなれば、どのような結果になるでしょうか? サタン世界に巻き込まれることでしょう。だから、今日の民主主義国家とキリスト教国家は共産党に巻き込まれていく段階に来ています。(一九七二・四・二三、東京教会)

 統一教会にぞっとするほど反対しますが、なぜ? 全体が反対すればするほど、一時に全体舞台に正当化させることのできる一つの道があるので・・・。全世界が反対すること、統一教会の文某の一代の間において、この全世界が反対することは悪いことではありません。全一代の路程の上に統一教会を正当化させることのできる世界的基盤を許容するためです。そのような意味で、どのような世界的宗教指導者よりもレバレンド・ムーンがチャンピオンだというのです。一代でこれほどの基盤を築いたのを見るときに・・・。反対した国と反対した世界が仰ぎうる基盤を持つことができるようになりましたが、それがどれほど驚くべきことですか?(一九八〇・一〇・二六、本部教会)

 皆さん、風船が好きでしょう? 風船に空気をどんどん入れれば入れるほど大きくなるでしょう? これが割れれば大変なことになります。私たちは割れない風船だというのです。私たちは風船と同じです。どんどん大きくなるのです。反対の風に乗ってどんどん大きくなるのです。とても大きくなり、次には反対に(反対する人を)連れて上がっていくというのです。世界を知らず統一教会だけ反対していて、自分が(風船で)持ち上げられ、「ああ、助けてください、降伏します」というようになるのです。

 統一教会は反対すれば反対するほどどんどん大きくなるのです。そうなりうるでしょうか? そうなりうるというのです。どれほど大きくなるでしょうか? 何か部屋ぐらい大きければ「それは私たちもつくることができる」と言うでしょうが、世界的に大きくなれば、世界の人が全部接着され、神様も「やあ、あいつを見ろ、見学するだけの価値がある」そのようになるのです。皆さん、それ自信ありますか?(はい)ですから、「どんどん反対しろ。反対しろ。反対する以上に私は立つだろう」こうです。そうなれば、既に勝利は皆決定しておいて闘うのです。(一九七六・五・三〇、ベルベディア修練所)

 ある人が話すのに、彼は世界的に名の知れた日本人ですが、日本で第一人者だという人ですが「ああ、文先生! なぜ統一教会と言いましたか? 世界基督教統一神霊協会といったので・・・。互いに争うキリスト教が統一されるって何ですか? 全部かみつこうとするでしょう」と言うのです。それは合っている話だというのです。私が何、頭が悪くて、そうしたと思いますか? 私は分かっています。わざとでもそうしなければなりません。反対されるために送り出さなければなりません。そうでしょう?

 また、さらに、世界基督教統一神霊協会と言わず近ごろは統一教会と言いますが、「統一教会と言えば宗教統一だといって、仏教も統一し、イスラム教も統一し、全体を統一するという教会なので、泥棒のような文某ではないか?」と言って、ここ韓国で仏教が反対したと言い、儒教が反対したという声を聞いて、私は「よかった! よかった!」と言ったのです。

 さあ、統一教会が反対されたことはよかったのですか、悪かったのですか?(よかったです)皆さんの気持ちは「ああ、いつ反対が終わるだろうか」と切に切に待ちましたか、待ちませんでしたか? 蕩減にもならないその立場で「ああ、反対よ過ぎ去れ。私たちが勢いを得て、この世を一度思い通りに動かすことのできるときとなってください」と言えば泥棒たちです。悪質な強盗たちです、悪質な強盗。(一九七八・一〇・二二、本部教会)

 歴史をおいて数多くの宗教人たちが文先生に反対しましたが、それは何のためでしょうか? 今日、悪なる世界のすべての制度とすべての主権とすべての文化背景を全部否定してしまい、再び見いださなければならないからです。否定した後、否定されたその位置で一つとなって、肯定を捜していかなければならないのです。一度に全部否定されるなら、かの果てから個人たちが肯定して入ってくるのです。これは打たれて奪っていく神様の戦略です。それゆえ、宗教は迫害があるとき発展します。歴史的にすべての人々がなぜこのような定義を下すのかと言えば、これが原則だからです。

 統一教会は反対されるとき発展しました。今、反対をしなければどうなりますか? ここでしっかりしなければなりません。世界が統一教会を歓迎する時はどうなるでしょうか? 大変なことになります。その時が統一教会の一番恐ろしい時期です。私はそれを知っています。ローマが天下に号令する時が一番危機でした。ローマの法は世界のためのものなので、世界を動かすその時に、ローマのすべての財力や国力を世界に分けてあげる役事をしなければなりませんでした。そうしたなら、ローマはこの世界を征服したことでしょう。(一九八五・一二・二二、本部教会)

 統一教会は反対されながらそのように発展しましたが、歓迎されるならどれほど発展したでしょうか? 四十年の間、世界がレバレンド・ムーンの思想を中心として歓迎したなら、どうなったでしょうか? 私が、私を反対する世界を私の手でつかむことができるようすべて押し込んだのですが、大韓民国が歓迎し、キリスト教とアメリカが統一され、私をして顧問に立てたなら、大韓民国とアメリカがどうなっていたでしょうか? 共産党は私の手で皆なくなったことでしょう。それを失ってしまったので、ここで成せなかったのを収拾しなければなりません。同じです。西欧社会に入っていって収拾し、戻ってくる場合には全部それを蕩減しなければなりません。だから、キリスト教文化史を中心として統一圏を四十年前に失ってしまったので、四年間をおいて再び戻ってきて、受難の道を中心としてアメリカに行って収拾し、イギリスが責任を果たせなかったので日本民族を立てて教育しました。「お前たち民族が生きうる道は、アジアを制覇した独裁国家としてではない。だからお前たち民族とお前たちを犠牲にして世界のために生きうる民族となれ」と教育したのです。(一九八六・一・二八、シェラトン・ウォカーヒル・ホテル)


2 迫害の価値


 歴史発展と同様に十年の迫害過程において、統一教会は世界的基盤を築いてきました。その期間にまた、神様が世界的基盤を築くことのできる統一教会の宗教基盤を形成するために、どれほどたくさんの協助をしたかという事実を否定することはできません。ですから、迫害はサタンがし、祝福は神様がしたという話です。迫害はサタン側がし、祝福は天の側がしたというのです。このような観点から見るときに、統一教会は世界的宗教となりうる十分かつ満ち足りた内容を備えているということを知らなければなりません。(一九八三・一・一、世界宣教本部)

 これから統一教会には人の雪崩が起こります。今までは天が、多くの人が統一教会に入ってくるのを嫌ったというのです。なぜ? 多くの人々が入ってくれば、多くの人の蕩減をしなければならないからです。分かりますか? 蕩減するのには多くの人々が必要ないというのです。それゆえ、先生を中心として蕩減してきたのです。

 個人の責任分担、家庭の責任分担、氏族の責任分担、民族の責任分担、国家の責任分担、世界の責任分担、天宙の責任分担がすべて残っているというのです。アダムとエバが失敗した以後、地上から神様の御座の下までサタンの占領圏になっているというのです。これを突破して上らなければなりません。突破して上るためにはアダム自体がサタンの讒訴条件を除去しなければなりません。

 これを除去するためにはどうしなければならないでしょうか? 除去する方法において・・・。これを完全に歓迎してはなりません。全部否定し、全部切ってしまわなければなりません。全部切ってしまわなければならないのです。私が切ってしまったといっても、切れるでしょうか? 切れません。切れないのをサタン側で打ちたたくのです。迫害をするのです。怨讐が迫害するのです。このように間接的な迫害を受けることによって、切ったという立場に立って蕩減をするのです。迫害が悪いことではありません。やあ! 迫害が福を伝受させることのできる一つの公式になっているという事実を先生は知っています。分かりますか? サタンを否定しないでサタン世界に対して肯定的な条件を持てば、サタンの讒訴を受けるというのです。(一九八五・一二・二四、本部教会)

 それで、今日見てみれば、社会もそうですが宗教も同じです。宗教もやせた骨だけ残っているのです。私の生命を讃揚する歌がどこにあり、生命を謳歌する詩がどこに介在しているでしょうか? その威力を誇ることのできる時が訪れますが、そのような時に自分の威力を誇ろうと出しゃばれば犠牲になるのがお決まりです。そのような時代です。時代の環境がそれゆえ既成宗団も同様であり、既成宗教も同様であり、既成キリスト教も同様です。どのような宗団もそのような運命にぶつかるのです。そこに現れようとすればぶつかるのです。

 このようなことを考えるとき、統一教会もやはりそのような歴史的な運勢圏内で生まれたので、ここに頭を高く上げて現れてはいけないのです。神様が愛されるので現れられないように迫害を与えたのではないか。このように考えればありがたいというのです。現れるなというのです。皆死ぬのです。神様が摂理なさったすべての内力とすべての因縁を通した津液(=体内から染み出る液)があるなら、その津液を全部一時に集結させなければなりません。(一九七一・一〇・二四、前本部教会)

 統一教会から迫害が去りませんようにと言わなければなりません。迫害の道を避けていく宗教は敗退するのであり、迫害を受けてもそれを消化することのできる力量を持ち、自分の期待を目標とするのではなく、高次的な国と世界が期待することを目標と定めるとき、天がともにあるのです。それゆえ、統一教会は迫害を受けましたが、滅びずに発展していくのです。皆さんはこれを知らなければなりません。(一九七二・七・一六、鍾路教会)

 見なさい。私たち統一教会は社会団体とは違います。社会団体は法的制裁によって全部消えうせますが、宗教団体は法的制裁によってさらに爆発的な復興をするというのが歴史的事実だというのです。分かりますか?(はい)私に迫害を加えれば加えるほど、彼らの目玉が飛び出るというのです。筋肉がこわばるというのです。それを知らなければなりません。(一九七七・一一・六、ベルベディア修練所)

 今日サタン世界で統一教会が、本当の教会がなぜこのように反対されているのでしょうか? 迫害され反対されるのは何を意味しますか? 否定すべきことを否定しようとしないので、世界が合わさって強く打つことによって否定される立場に立てたのです。否定される立場に立って「お前たちが私を打つことで、お前たちと一つになれだと? こいつ! その反対の道を私は行くのだ」と言いながら、断ち切る立場に自動的に立てるのです。そうするために宗教は迫害の歴史を歩んできたということを知らなければなりません。分かりますか?(はい)妙な話でしょう。このようなことを文先生が知っているというのです。そのような話ははじめて聞くでしょう?

 歴史家たちが言うには、宗教は迫害されてこそ復興するというのです。「なぜ?」と尋ねれば、「なぜだか分からないが、そうだ」と言います。「なぜだか分からないが、そうだ」というのがどこにありますか?(笑い)それは雲のように流れていくのです。なぜ?(宗教が)否定していくべき道を否定しないので、(宗教会から)否定されるべき人々(=この世の人々)が強く打つことによって否定をした(=サタン分立)という立場に立てるのです。これが神様の戦略による戦術的作用です。(一九八六・一・三一、漢南洞公館)

 では統一教会が反対されるのがいいですか、悪いですか?(いいです)それを知らなければなりません。真なる立場で迫害を受け(勝利す)るなら、壮士の中でもこれほど壮士はいないということを知らなければならないのです。真に対して打った者、打って屈伏しない者はいないというのです。それゆえ、今年に入っては全世界がレバレンド・ムーンに反対し、ソ連共産党までレバレンド・ムーンに反対するのです。今年に入って全世界がレバレンド・ムーンに反対するのがいい症状ですか、悪い症状ですか?(いい症状です)なぜ? いい症状ですか? 一度に屈伏することのできる原点が生じたという話です。見なさい。ワシントン・ポスト紙がニクソンを一年間でたたきつぶしましたが、レバレンド・ムーンについては五カ月以内にたたきつぶそうと考えたというのです。

 真は原子爆弾より恐ろしいものであり、どんな謀略よりも、どんな迫害よりも強いということを知らなければなりません。それゆえ、そのような意味では今や世界を・・・。世界が私をなぐったので、私が世界を打てば神様から許されるでしょうか、許されないでしょうか? どうですか? 私がもし世界を打ったならばというのです。私がもし誤って世界を打つなら、神様がだれの側になるでしょうか? こうしても勝ち、ああしても勝ちうる両面作戦をすることのできる驚くべき立場に立ったので、私たちはいつでも勝利するのであり、いつでも発展するのです。(一九七六・四・二五、ベルベディア修練所)

 それゆえ、反対されるのは悪くないというのです。反対されれば間接的に(自分が)善であることが証明されるのです。反対される以上のことをすればいいのです。悪い意味で反対を受けましたが、いい意味のこと以上をすれば、悪いことは蕩減し、この原則と同様に、蕩減して残れば上がるようになっています。同様の道理だというのです。それゆえ、統一教会は反対される場合に不平不満を言わないで、それを百パーセントうまく消化してきたのです。分かりますか?(はい)どんなに反対を受けても反対に全部消化してしまうのです。消化だけしてしまえばその人は三度以上の・・・。(一九七五・一・一二、前本部教会)

 深い谷に入った人は高い山に登ることができます。分かりますか?(はい)山の頂は谷と連結されるのです。頂と頂が連結される道理はありません。頂は全部谷と連結されるので、苦労する人は成功するようになっています。それが宇宙の原則です。

 近世において、宗教団体としてこのように世界的に谷にほうり込まれたのは統一教会がはじめてです。統一教会がここからはって上がるか、上がれないかというのです。上がれますか?(はい)どれほど? どれほど行ってやめるでしょうか?(終わりまでです)易しくないというのです。だれかが上ってそこに鉄柱を打ち、その次に網をかけて、橋をかけたりケーブルカーを作ったりしなければならないというのです。

 私たちは谷に落ちたので、谷から上らなければなりません。上ることは易しいですか、難しいですか?(難しいです)人間歴史の一番の谷間に私たちは降りてきているというのです、一番の谷間に。人間の歴史において私たちが持った高い思想のような思想はなかったというのです。天宙主義・・・。神様の愛を全部独占しようという主義はなかったというのです。これは世界で一番難しい道です。それを知らなければなりません。分かりますか?

 ここにケーブルカーを作っておいたとき、世界の人がここに来て上ろうとする行列がどれほど長いでしょうか? 歴史上で一番長い行列が生まれるでしょう。世界にない一番長い行列となることでしょう。そうなりそうですか?(はい)私たちが今そのような工事場に来て、工事をしているというのです。そのような工事場でレバレンド・ムーンが総監督であり、総責任者です。(一九七七・六・一九、アメリカ)


4 統一教会は悪口もたくさん言われた


 では私たち統一教会は一体どんな宗教でしょうか? 統一教会は何のために現れたのかというのです。今日、二十世紀後半において問題の宗教として登場したというのです。統一教会を指導するレバレンド・ムーンがどのような人ですか? 今、世界的に悪名高い問題の組織だというのです。滅びそうで、なくなりそうなのに、なぜなくならないかというのです。それが問題だというのです。行く所ごとにぶつかり、行く所ごとに統一教会、ムーニーだ何だと言って、皆つばを吐くのですが、滅びそうなのに、影も形もなくなりそうなのに、そうしながらもどうして生き残ったのかというのです。それが謎です。(一九七八・一〇・一、本部教会)

 統一教会をおいて一時世の中がどれほどざわついてさわぎを起こしましたか? 先生は監獄に入ってもご飯をよく食べます。監獄に入っても麦飯であれ何飯であれ、くれるままに食べることができます。しかし、それが問題ではありません。どこに行ってもただ一つの心配は、私が誤ることによって蕩減の道にマイナスとなる結果が現れないかということでした。それが恐ろしいことであり、ほかのことは恐れるべきことではありません。

 先生がはじめて監獄に入ったとき、企画課にいたやつらは今でも忘れないでいます。初めて先生が入っていくと、やたらと顔面に指を指しながら「何、お前が統一教会の文某だって。何だこいつ」と言ったのです。(一九六八・一・一、前本部教会)

 統一教会は悪口をよく言われました。今後春の季節になれば、ぐるぐる回って包んであったのを一皮ずつむいて既成教会の牧師たちにあげるというのです。このように一重ねずつ得て退けという時局です。何も分からずにつかみ捨てた数十年前の自分たちのふろしき包みを見れば、それを抱いて痛哭することでしょう。その時は同情することができないのです。万事休す、行く道をすべて行った後だからです。後の祭りだというのです。(一九七〇・一二・二七、前本部教会)

 統一教会を信じるといって悪口を言われても臆さないでください。悪口は入ってきては出ていくので心配ありません。悪口は風に揺れる木のようなものです。悪口を少し言われて立ってこそ気分が良く、称賛されて立てば問題になります。他人が違うということをやっておいてから、大言をはくことが男の気質に合うのであり、初めから従順だけするのは男の気質に合ってもいないし、おもしろくもありません。このような立場から見ると、統一教会の道は文先生の気質にぴったり合っています。(一九六七・八・一三、前本部教会)


三 神様の作戦


1 神様はどのような作戦をなさるのか


 私たち統一教会はどうしなければならないのでしょうか? 「大韓民国を生かすためには統一教会を犠牲にしろ!」これが統一教会の道であり、善が行く道だというのです。分かりますか? 国が救われるときまで、国に悪いものがなくなるときまで、終わりまで行く日には、統一教会は逃げようとしても大韓民国は従ってくることでしょう。そのような時が必ず来るのです。

 見なさい。それゆえ、統一教会は迫害を受けながら滅びるのではなく、迫害を受けながら発展してきたのです。分かりますか? 天の作戦は打たれながら奪ってくるのです。サタンはたたいて占領しますが、奪われる場合には自分が損害を賠償して返済してくれるのです。これが素晴らしいというのです。これを知らなかったというのです。悪はまず打って、奪われるときは損害賠償を添付してすべて奪われるのです。こうなるのです。そうではないですか? 善なる人を侵犯したら損害を賠償するでしょう? それと同様に、悪は打って占領しては、必ず返してあげなければならないのです。返してあげる場合には損害賠償を添付して返してあげなければならないのです。

 それゆえ、神様は宗教人たちを立て、打たれて全部奪ってきたのです。ローマがキリスト教を打って、結局はキリスト教にのまれてしまったというのです。全部そうでしょう? 今日、大韓民国も初めはキリスト教を打ちましたが、第一共和国政府がキリスト教によって成立したというのです。全部そのようになるのです。

 皆さんはこれを知らなければなりません。善の作戦は打たれて奪ってくる作戦であり、悪の作戦は打って占領してから失ってしまう作戦です。それゆえ、悪は滅びるようになっており、善は栄えるようになっています。これを知らなければなりません。分かりますか?(はい)

 神様は知恵の王であられるので、そのようなことをすべて知って、そんなにまで緻密に間違わず今まで計画してこられたのです。それゆえ、最後の勝利は私たちのお父様(=神様)がするのです。気分がいいですか、悪いですか?(いいです)最後の勝利はだれがしますか?(お父様です)お父様がした後、その次には? お父様が勝利した秘法を学んで「私」も勝利しうるのです。今まで歴史的な聖人たちはその秘法を知らずに勝利できなかったので、勝利できなかったすべての聖人たちも私たちに指導を受けなければならないというのです。(一九七二・五・一四、水澤里)

 統一教会は反対されながらどうなるのでしょうか? 神様の作戦とサタンの作戦がどうなっているかと言えば、サタンは打って失ってしまう作戦をしてきて、神様は打たれて奪ってくる、取り戻してくる作戦をしてきたのです。これを知らなければなりません。善の側と悪の側が闘うところにおいて、神様の作戦とサタンの作戦がどう違うかを皆さんは知らなければなりません。この世はそれを知りません。悪の側は打って占領しようとしてから奪われてしまうのであり、善の側は打たれながら占領してくるのです。反対です、全く反対です。打たれながら、罪なく犠牲になりながら奪ってくるのです。蕩減して損害賠償を請求し、拡大させてきます。この二つの作戦が展開するのです。

 一つの父母の前に兄弟同士でもそうではないですか? 悪い子どもが、どんな子どもかと言えば、先に打った子どもです。これが一つの公式になっています。神様の作戦法とサタンの作戦法は違いますが、天は打たれて奪ってくる作戦をし、サタンは打って失ってしまう作戦をします。(一九八七・二・二二、べルベディア修練所)

 これからの統一教会はどうでしょうか? 今まで統一教会に対しては全部悪いと言いました。共産党より悪く、民主世界より悪く、ヒッピー、イッピー(=過激な反戦派の若者)よりも悪いと言いました。それは何でしょうか? 天の側においては保護するための作戦だったということを知らなければなりません。染まらないようにするための作戦であり、サタン側においては警告作戦だったというのです。それを知らなければなりません。二つの作戦が展開されるというのです。(一九八三・三・二〇、ベルベディア修練所)

 神様は私たちの血と汗と涙を備え、打たれて奪ってきます。打たれて奪ってくる作戦法を使うのです。天の作戦法はそうなのです。先生は剣を持って闘えと言ったらできないと思いますか? そのように闘ったなら、既にすべて片付けたことでしょう。私が死んでいきながらであっても、既に片付けたことでしょう。しかし、そうなっていないのです。打たれて奪ってくるのです。

 だから、今まで統一教会が打たれたでしょう。打たれるときは皆さんの個体は、家庭単位としても打たれませんでした。統一教会の先生が打たれるときは、大韓民国のために打たれました。天地のために打たれました。天宙をかけて打たれたのです。そのような天宙的な基盤を築いたため、サタンは今や後退すべき運命にあるので、皆さんは幸福の中の幸福です。それを収拾しなければなりません。この世界に散らばっているサタンは全部敗残兵と同じです。(一九六三・一一・一五、前本部教会)


2 打たれながら勝利する


 そういうふうにたたかれ、そういうふうに踏みにじられたら、なくなるのが原則でありましょう。しかし、統一教会は、その間において世界的基盤をつくってきました。(一九七四・五・七、帝国ホテル)

 韓国なら韓国で私に対してどれほど反対しましたか? しかしながら、私は聞くふりも・・・。それは私の責任です。日が沈み暗くなれば光を知るというのです。それゆえ、韓国が複雑で、日本が複雑で、アメリカが複雑であれば複雑であるほど統一教会が必要だ、統一教会が必要だ、このような話が次第に現れるようになるのです。(拍手)

 そうするためには、勝利の過程を経なければなりません。統一教会は打たれながら勝利してきて、追われながら勝利し、発展してきました。発展は勝利を意味するということを知らなければなりません。そうですか、そうではないですか?(そうです)アメリカで今レバレンド・ムーンを反対しますが、私たちは発展しますか、後退しますか? どちらですか?(発展します)なぜ? 真であるので。金が汚水に入ってももとの光を失ってしまわないのと同じです。(一九七六・四・二五、ベルベディア修練所)

 統一教会は打たれても倒れないというのです。(笑い)分かりますか? 打たれるには打たれますが、倒れないというのです。私が三十年間打たれましたが、いまだに耳一つ不自由になっていないというのです。心に少々傷だけ負いました。寝床の夢だと思います、夢。一篇の夢だと思うというのです。「その夢みが悪かったな」そう考えるのです。ですから、やられますか? 自分(=打つ方)はひたすら歯を食いしばって打っても、こちらは「ほほほ」と笑うのに・・・。そのようにして、私はその人々を怨讐と考えないというのです。私を育ててくれ、私を宣伝してくれるための一つの生きたポスターだと考えるのです、ポスター。その人々がいなかったなら、私が有名になれないでしょう。(一九七六・二・二二、前本部教会)


3 追われながら発展した


 私たち統一教会が今までどんな宗教団体も知ることのできない、現実的起点をはっきり持ち、その現実の起点から確実なる価値的な内容を、より次元の高い所に引っ張っていくことのできるこのような方向性を備えたので、統一教会の文先生が行くところは追われながらも発展するのです。そうではないですか? 国家的に反対され、世界的に反対されながらも統一教会は根を下ろすのです。

 腐った所で、それを収拾し・・・。木の葉が腐って何になるのですか? 肥料になります。腐ったにおいがする所に根を下ろせば、そこで発展的生力素を摂取することができるのです。それゆえ、少し行けば飛躍的な発展をすることでしょう。しなければ私がそのようにさせることでしょう。そのようにする自信があるでしょう?(はい)ここに初めて来た方々、私が自信ありげに見えるでしょう? そのような自信を持った男がいわゆる文某という男です。何、青坡洞の谷間で裸になって踊りを踊っていると思いますか? それは考え違いだというのです。(一九七五・一・一二、前本部教会)

 レバレンド・ムーンが、統一教会が今、追われているというのです。追われています、どこに足を付けますか、どこに? ですから、私たちは早く兄弟にならなければならないというのです。サタン世界にいる人も知れば兄弟です、兄弟。兄弟だというのです。弟であり兄さんであり、姉であり兄です。ですから、そのような話をするのです。「サタン、お前が二十四時間動けば私は二十五時間動くだろう」このような心を持ってこそ奪ってくることができるのです。「お前が憎めば私は愛で対決するだろう」こうでなければなりません。とてつもないというのです。(一九七九・一・一四、ベルベディア修練所)

 「われら統一教会の前に激しい狂風よ吹いてこい。火山よ飛んでこい。ふさぐであろう」このような闘いを先生自身もしてきたというのです。たとえ大韓民国が滅んでも、統一教会は滅ばないだろう、このような信念を持って、大韓民国が消化できずにいる共産党まで私が消化させることでしょう。(一九七六・三・一、慶南教区)


四 統一教会の活動目的


1 統一教会を立てた目的


 統一教会を立てた目的は統一教会自体だけのためではありません。ですから、その対象が大きければ大きいほど神様は喜ぶというのです。(一九七二・一一・一二、前本部教会)


2 統一教会は何のために働くのか


 では、統一教会は何のために働いているのでしょうか? 皆さんはそれを知らなければなりません。統一教会のために働くのではありません。統一教会は統一教会のために働くのではないというのです。統一教会を犠牲にして統一教会を指導している天のみ旨を尋ねているのです。(一九七一・九・五、前本部教会)

 それでは、統一教会なら統一教会自体は何をするのでしょうか? 統一教会なら統一教会自体も統一教会のためにあるのではなく、どこまでも神様の対象として、神様のためにあるのです。そうでなければなりません。一切のすべてのものを統一教会の勝手にしてはなりません。神様が願う通りに、東に回れば東に回っていき、西に回れば西に回っていかなければならないのです。また、前に押せば前に行かなければならないのです。前に押す場合に落ちるのは・・・。皆さん、雪が降った後に、雪かきで押すのと同じだというのです。押して進むにおいて、横に流れていく雪になってはなりません。どこまでも中にくっついて追われいくことができるのと同じ立場に立たなければなりません。(一九七二・一一・一九、前本部教会)

 良い人のためには、ために生きてあげることができるのです、良い人のためには。では、神様と私たち人間を考えると、神様は良い人にもよくしてあげ、悪い人にもよくしてあげるというのです。ところで、今問題が何かと言えば、失ってしまった一匹の羊を捜さなければならないというのです、九十九匹の羊を残しておいて。
 さあ、それでは統一教会は統一教会のために生きてはいけないという話です。失ってしまった羊を捜し出すために、世の中のために生きなければなりません。(一九七八・一二・一〇、アメリカ)

 統一教会は何のために働くのでしょうか? 統一教会のために働くのではありません。世界のために働きます。世界の前に福を分けてあげなければならないというのです。(一九八四・七・一〇、ベルベディア修練所)


3 統一教会は人のために働いている


 統一教会では今まで泣きわめき、ありとあらゆることをたくさんしました。それはだれゆえにそうしたのでしょうか? 統一教会自体ゆえにそうしたなら、統一教会は滅びるのです。それは同情されません。しかし、国のために、世界のために、神様のために泣き叫んだなら、神様も後になって、「ああ、お前はよくやった。どうしてそんなことができるのか。(世界のために、神様のために)お前が泣くのは一日だけではなく、千年でも泣くだけの価値はある」と言いながら慰労してくれ、他の人々も来て皆こうしてくれるのです。そうなるというのです。(一九七一・一一・一八、前本部教会)

 さあ、これがだれのゆえにそうなのですか?(神様)私ゆえにするのではありません。統一教会のためにするのではなく、神様のために世界のためにするのです。もし、統一教会のためにするなら、それは引っ掛かるのです。文先生のためにすれば引っ掛かるのです。私でもなく統一教会でもなく、私たちは世界と神様のためにするのです。他人のためにするのです。統一教会は他人のためにしているというのです。

 他の宗教は、既成教会は働くならだれのためにするでしょうか? 既成教会のために働くのであり、世界のために神様のために生きるそのような観になってはいないというのです。ですからそれが違うというのです。他のことが違うのでなく、それが違うというのです。

 先ほど話をしたように、どのようなことがより公的でしょうか? 統一教会が、統一教会自体のためにするのは公的ではありません。統一教会を犠牲にして世界のためにするのでそれが公的であり、神様のためにするのでそれが公的だということを知らなければなりません。(一九七六・六・六、ベルベディア修練所)


4 統一教会は国と世界のために


 では今日、統一教会はどこに立っているのでしょうか? 統一教会が捜すのは、統一教会それ自体ではありません。統一教会より高いものを捜しています。統一教会より劣ったものではなく、統一教会よりも高い次元のために、より優れた次元のために捜していくのです。

 それでは、より高い次元の基準とは何でしょうか? 統一教会それ自体よりも統一教会員たちは、団体が大きければ大きいほどこの世で数多くの団体を消化することのできる能力が必要です。そこで学んで再び私の栄養素として飲み込むことのできる資格を持たなければなりません。そこに同化されるのではなく、私が同化させなければなりません。それが一元化され、三千万民族を越えて南北韓の国民性として提示されなければならないのです。そうでなくては、国が形成されたとしても、その国の主権は困難を被ることでしょう。それゆえ、国の主権以前に国民がまず必要だというのです。

 統一教会は国よりもまず国民のために闘わなければなりません。民族のために闘わなければなりません。ところが民族を見ると、南北に分かれています。民族が分かれていれば、主権があっても南北韓が平和統一をすることのできる主権となれません。一方的な主権にしかならないのです。何よりも一番重要なことは、南北韓を凌駕することのできる民族的精神基準をどう一元化させるかということです。これが今後の統一教会が力を尽くしていくべき課題だと考えるのです。

 それをつくっておかなければ、祖国という言葉が現れないのです。そうでなくては、祖国という名が現れたとしても、傷を負った祖国となってしまうのです。権威と信念を持ってつくった祖国ではなく、さまざまな傷を負い恥じをかく祖国であることでしょう。そのような祖国は迎えてはならないのです。

 それゆえ、今日統一教会の若者やあるいは志のある人であるなら、統一教会の発展よりも、統一教会は滅びても、統一教会の願う国が栄えることを願わなければなりません。統一教会が滅んでも統一教会の願う国は栄えなければならないというのです。そうするためには統一教会が犠牲にならなければならないのです。二つとも発展すればいいでしょうが、そうできないので、統一教会が犠牲にならなければならないのです。

 「祖国よ明けてこい」という思いと希望を持った皆さんだとするならば、祖国が明けてくる場合にはどのように明けてこなければならないでしょうか? 日が暮れる黄昏や夜中を楽しく迎えることのできる心がなくてはなりません。今日、次第に近づく世界的な終末時を眺めるとき、私たちはここで暗たんさを感じるのではなく、「来るべき現実が来た。夜よ来い、夜が来れば私は走っていく」と言えなければなりません。その夜を避けていくよりは「輝かしく明けてくる朝を迎えるために、私は夜中に向かって走っていくだろう」と言うことができなければならないのです。

 夕方の黄昏があればまた早朝の未明も来るので、その過程には間違いなく漆黒のような午前零時があるのです。そのときはすべてのものが眠りに入っているときです。すべてのものが停止するときなのです。だれもが行動するのを嫌がるときなのです。(一九七一・一〇・九、中央修練院)

 今、この世界が必要なものは何かと言えば、アメリカが必要なのではなく、共産主義・民主主義が必要なのではなく、統一教会自体が必要なのではありません。何が必要なのかと言えば、地上の天国が必要なのです。この膨大な責任を統一教会がしようとすれば、統一教会は犠牲にならなくてはならないのです。それが鉄則なので、犠牲の道に送らざるをえないのが神様の事情です。レバレンド・ムーンがそのような責任を分担したならば、その責任を遂行するためには、皆さんをたたいて追わなければ師の資格がないという事実を、皆さんは知らなければなりません。

 統一教会をなくしても天の国を地上に残しておこうというのが神様のみ旨なので、統一教会をなくし、天国をつくることのできる教会を捜していこうとするので、このような道を行かなくては不可能だというのです。これが最後の道であり一番良い道なので、この道を選ばざるをえないという事実を知らなければなりません。何の話か分かりますか?(はい)これは万民が願う、また神様が願う神聖な・・・。このような責任を負った集団もしくは教会、国の神聖な義務なので、この義務を果たすことによって、神様が私たちと百パーセント一つになるのです。何の話か分かりますか?(はい)

 皆さんが天国建設に髪の毛を何本持ってきて補ったり、汗を持ってきて補ったり、お金を持ってきて補ったり、頭を持ってきて補ったり、涙を持ってきて補ったり、何であっても全部補ってこそ天国になるのであり、全部取っていけばできないようになっているのです。天国がないというのです。国がないので・・・。全部取っていくのでなくなるでしょう。(一九七六・五・一六、ベルベディア修練所)

 既に世界情勢は言葉にできないほど混乱と、解決できない混沌とした情勢に巻き込まれています。これをどのように収拾するかというのは神様だけが知ることですが、統一教会は神様だけが知るその方向を中心として帰結点を一致させるための役事をしているのです。これは統一教会のみ旨のためにするのではありません。統一教会も統一教会の国、統一教会の世界に入らなければなりません。神様のみ旨の国、み旨の世界に入っていかなければならないのです。ですから、統一教会は教会のために働くのではありません。統一教会が願う国と世界のために働くのです。(一九七二・九・一七、大邱教会)


5 統一教会の活動


 今日統一教会が活動しているすべての道というのは何をしようというのでしょうか? 再現しようというのです。万物を愛し、微小の動物から万物を愛し、人間を愛し、その次にはこの大韓民国なら大韓民国を愛し、世界を愛そうというのです。どのような立場で? 昔のその立場ではないというのです。今日、創造的な本質を中心として見るとき、神様の愛と連結されるようになっている私たちであるからには、その愛を中心として越えていこうというのです。越えていくのです。越えていけば必ず帰ってくるのです。因縁を結べば必ず帰ってきますが、どこに入ってくるのでしょうか? 中央に来るというのです。中央に。分かりますか? そこは犠牲の道となり、奉仕の道となるのです。(一九八一・四・二六、本部教会)

 私たち統一教会が今まで闘ってきたのは何のためでしょうか? 外的なカイン世界をアベルの前に屈伏させるためです。そのために個人的な闘いから家庭的な闘い、氏族的な闘い、民族的な闘い、国家的な闘いへと発展させてきたのです。(一九七一・一・一、前本部教会)

 私たち統一教会が動くのは平面的な世界だけでなく、立体的な世界と関連しているという事実を、皆さんはよく知っています。(一九八四・一・一五、アメリカ)

 今まで統一教会が活動したのは、サタン世界の外的な環境を崩壊させるためのものでした。私たちが反対する環境にあったので、そのような環境で民族を捜し出すための作戦に過ぎなかったのです。だから、統一教会自体に消耗が多かったのです。消耗戦をしたのです。(一九六九・六・八、前本部教会)

 では統一教会はだれを中心として動くのですか?(神様です)初めも神様であり、過程も神様であり、終わりも神様ですが、何をしようという連中ですか? サタン世界を売り飛ばそうというのです。売り飛ばしてしまわなければなりません。では、売ってだれに持っていってあげるのでしょうか? 真の父母です。真の父母は泥棒ではありません。真のご父母様のほかは皆泥棒に近いですが、真のご父母様だけは泥棒になりえないというのです。その方に担せればどうなるのでしょうか? 皆天の前に帰っていくのです。(一九八五・一二・一五、本部教会)


五 統一教会の能力


 統一教会がどれほど強力ですか? 私たちには武器がありません。しかし、問題になることはありません。私たちに武器はありませんが、もっと強力な武器を持っています。それはどこのだれも持つことのできないもので恐ろしいものです。一度決心すればサタンも恐れます。私たちは神様のような立場になります。その力がどれほど強力なのか皆さんは知りません。(?)

 統一教会は精神的に強いですか、強くないですか?(強いです)共産党よりも強いのです。これがどのくらい世界的に強くても、経済的にめちゃくちゃならば滅びるのです。分かりますか?(はい)これが私たちの生活哲学です。存在の哲学だというのです。(一九七八・一・二、アメリカ)

 統一教会は終わりの日において一番弱い宗教になりたいか、強い宗教になりたいか? 一番強い宗教になりたいですか?(はい)本当ですか? 「世界の数十億の人類が来い、歴史時代のそのだれも来い、また未来においても私たちしかいない」と言えなければなりません。(一九七二一一・一、前本部教会)

 私たち統一教会はもちでできたわっかだというのです、もちのわっか。一度くっつけば、自分が落ちてしまいますか、くっついてしまいますか?(くっついてしまいます)間違いないでしょう?(はい)(一九七五・一・一二、前本部教会)

 韓国では統一教会をとてもしぶといと言うでしょう? それで、皆さんはしぶといですか? そのようにしぶといですか? しぶとい統一教会とよく合うでしょう? それ、だれがしぶといですか? 統一教会の文先生がしぶといというのです。(一九七二・九・一七、前本部教会)

 統一教会は一番という言葉が似合うのです。統一教会は一番になろうという教会です。しぶとい教会です。しぶとくなければ一等になることができないというのです。だから、統一教会はしぶといのです。子どものころ、村で問題を起こすことで一等になるやつもしぶといやつです。しぶといので一等になるのです。何をするにもしぶとくなくては一等になれないのです。では、しぶといの反対は何でしょうか? 間抜けと言いますか?

 それなら、統一教会はしぶとくなければなりませんか、間抜けでなければなりませんか? しぶとくなければなりません。(一九七〇・一一・二九、前本部教会)

 今日、私たちの教団は今までサタン世界に押し流されてきた、そのような宗教とは違います。ぶつかれば壊れていくというのです。打てば壊れていきます。「私たちがお前たちの前に行けば、お前たちが私たちをのみ込めないが、お前たちが私たちの前に来ればのみ込んでしまう」そのような自信を持たなければならないというのです。真と悪が対決すれば、悪が負けるのです。このような局面です。(一九六五・一・二一、女性会館)

 今日この世界に向かって、そのような暴風雨が吹いてきて、混乱した環境がぶつかってきますが、統一教会はこのすべての闘いで二千年前のローマ帝国に勝利すること以上の力を持って闘う理想と思想を持たせてあげることができるでしょうか? そうなれば、この統一教会は間違いなく世界を消化させても余りあるでしょう。その一部分を満たそうとするので、私が仕方なく嫌だというこのような若者たちに仕事をさせるのです。(一九七七・一〇・一、米・パサデナハウス)

 統一教会は悪いものを食べて太ろうというのです。悪いという所に私たちが行って、それを銃や剣で掃討するのではなく、真の愛ですべて痕跡もなくのみ込んでしまおうというのです。それを肥料として消化させうる能力があるかということが問題になるというのです。それゆえ、自主力を持って芽を育てなければなりません。(一九七〇・八・二三、中央修練院)




















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統一教会員


統一教会と食口たち



第三章 統一教会員


第一節 統一教会員とは


一 統一教会員の入教背景


1 み旨的な背景


 一度考えてみなさい。皆さんにどういう風が吹いて統一教会に転がり込んだのかというのです。(一九六七・二・一四、前本部教会)

 皆さんがこの教会に入ったときを考えてご覧なさい。教会に入るとき皆さんの勝手に教会に入ったのではありません。私はそう思っています。ここは血のにじむ涙の歴史があるのです。(一九六三・八・一一、前本部教会)

 私たちは歴史的にものすごい使命を背負ってここに召されました。私自身を顧みると、だれが私を選んだのでしょうか? 自分の過ごした歴史過程を振り返ると、摂理史的なとてつもないみ旨の前に呼ばれうる何の内容も備えられなかったということを自ら感じるようになることでしょう。そのような事実を感じれば感じるほど、自分が呼ばれたという事実を否定しないで、間違いない事実として確信し、不足だった私自身をお呼びになった神様に感謝しなければなりません。また、高く貴い神様が、低く卑しい私を訪ねてこられて、因縁を結ぼうとなさる過程に、どれほど悲惨な歴史の死の道が横たわっていたかという事実を忘れてはなりません。

 私たちがここに呼ばれるようになるときまでには、(1)アベルの血が訴えたのであり、(2)ノアの百二十年の恨みが宿っていたのであり、(3)アブラハムが神様に侍るために故国の山川を離れて寂しい放浪生活をした、流れ者の身の恨みが秘められていたのであり、(4)イサクが神様の前に祭物になるのを決心し、アブラハムの前に順応したその恨みが込められていたのであり、(5)ヤコブがハランの地で二十一年間イスラエル民族を復帰しようという心情を中心として故郷の地を慕った心情が宿っていたということを知らなければなりません。

 また、(6)イスラエル民族がエジプト苦役四百年間を過ごし、カナン福地に向かって行きながら四十年の間に多くの民たちが荒野で病み倒れた恨みがあったのであり、(7)そこで残った二世たちがカナンの地に入り、新しい聖殿理念を中心としてメシヤを迎えるまで多くの蕩減条件を経、異邦民族の侵略を受けて国のない民族の悲しみをこうむったその恨みがあったということを知らなければなりません。

 そして、(8)新しい希望の一日を迎えるために、ローマの属国たるイスラエルに来られたイエス様が、ローマを屈伏させるべき歴史的な使命を果たさなければならなかったにもかかわらず、その使命を成就できなかった恨みが残っているということも知らなければなりません。それだけではありません。(9)イエス様が亡くなられた後、今まで二千年間多くの私たちキリスト教先祖たちの血を流した歴史的な恨みがあったということを知らなければなりません。このようなすべてを限りなく高い神様が、低い私自身と連結させてくださったということを知らなければなりません。このような歴史的な恨みの条件、悲しみの要件、血の代価を支払った土台の上に皆さんが連結されたというとてつもない事実を皆さんが決して忘れてはなりません。

 このような心情を備え、私がたとえ不足であっても私を立てて私によって歴史的な代価を結実させようとする神様の隠れたみ旨があったということを知らなければなりません。かわいそうな神様になられ、かわいそうな歴史になったので、かわいそうな歴史を持ったお前と私が必要だったという事実を知らなければなりません。

 それゆえ、私たちは自分の全体の力に百倍、千倍、万倍の力を加えて神様に忠誠と孝行を尽くさなくては、自分の生が終わるとしても死ぬことができないという懇切な心情を皆さんの心と体の中に備えていなければなりません。そのような心を備えていないとするなら、皆さんは神様のみ旨に対する背信者であり、歴史的な先祖たちの願いの前においての背信者であり、この時代的な使命の前においての背信者だということをはっきり知らなければなりません。

 高く貴い神様がこの上なく卑しい私自身を訪ねてこられるために、どのようになさったのかという事実を知れば知るほど、皆さんは襟を正し、ひざを屈して合掌し、神様の前に千回万回感謝の敬礼を捧げても足らないということを知らなければなりません。神様がこの体を召してくださったのも、天の善なる闘いに必要だからです。ですから、私自身が善なる闘いの一線に行って闘って、その場から後ろに背を向ける敗残兵の身には絶対なってはなりません。むしろ死んでしまおうと決心する統一信徒たちにならなければなりません。これが私たちが持つべき態度であり、このような立場に立つべき私たち自身だということをはっきり知らなければなりません。

 足らないからには、その足らなさを補いうる決心をしますが、その何倍の決心をしなければならず、すべての与件を備えた人と自分を比較してみるとき、自分が足らなさを感じれば感じるほどさらに決心を倍加しなければならないのです。このような立場に立っている統一教会信徒たちであることを知らなければなりません。(一九六九・一・二六、前本部教会)


2 先祖たちの功績の結実


 皆さん自身はさして功績がありませんが、皆さんの背後には今まで歴史上に生まれては逝った先祖たちの功績の土台があり、皆さんは知りませんが数多くの氏族の中でも皆さんの先祖たちが積み上げた功績が多いので、この功績が積まれに積まれてその結実として生まれた群れが皆さん自身であったことを知らなければなりません。このように呼び集められた群れが先祖たちの功績の結実として収められた群れに間違いなく、数多くの氏族の中で神様が束ねてくださった群れであるならば、このような背後を持った群れが動く通りに国運が左右されるのです。(一九六九・一・二六、前本部教会)

 今日皆さんが統一教会に因縁を結ばれたという事実は、皆さんの一生の中で何年あるいは何カ月を中心として因縁を結ばれたのではありません。この場は歴史的な場であり、希望の場です。実際に私が生きていく起点になりうる歴史的な因縁を経た場です。では皆さんの人生でその歴史を見ることもできなかったし、因縁を持てもしなかったのに、どうして自分が歴史的因縁に連結されうるのでしょうか? そして、またどうして歴史的な因縁を持って統一教会と連結されうるのでしょうか? それは大なり小なり皆さんの心の方向に、先祖たちの心の方向が時代の流れとともにいっしょに方向を合わせようと努力したその基準によってなされたのです。すなわち、(先祖たちが)どれほど(復帰歴史の目的に)近くともにいようと努力したかによって、統一教会に近く接することができるようになったのです。

 そのような観点からみると、今日皆さんが置かれているこの時点は、金だれそれなら金だれそれというある個体によってなされたのではありません。歴史的な因縁を通してなされたのです。今日、私自身は堕落しており、またなるままになっていますが、その歴史的な因縁の中で数多くの私たちの先祖たちが歴史の目的に向かって忠誠を尽くした、その目的と一致することのできる功労の基台があったので、その功労の因縁で今日皆さんが立てられたのです。(一九六八・一一・一七、前本部教会)


3 私たちは善なる先祖株式会社の社長


 現在の皆さん自身とは何でしょうか? 歴史的結実体です。そうでしょう? 結実体は結実体ですが、皆さんは歴史的氏族を中心とした結実体だというのです。分かりますか? 皆さんは善なる先祖たちがいて、その先祖たちの功績によって先生に出会ったのです。皆さん自身が先生に出会いたいと言って出会ったのではなく、皆さんが偉くて出会ったのではないというのです。皆さんがだれを通して生まれたとしても、その先祖が大韓民国の公的な歴史の仕事の分野と関係しているのです。悪なる国でもそこにより悪なるものとそうでないものとがあるのです。ですから、いくら悪なる国でもその背後にそうでない側があるのです。天はそうでない側を中心として役事してこられたのです。

 それゆえ、皆さんは公的な分野で善を中心として先祖の功績があるその血統的因縁に従って、遺伝法則によってその先祖の素性に多く似て生まれたそのような因縁があるので先生に出会ったのです。皆さんが偉くて出会ったと考えるなというのです。

 皆さんの目一つも皆さんの目ではありません。だれでもその顔を見ればその母親に似たか、その父親に似たか、おじいさんに似たか、彼らの姿から一部分くらいは似たというのです。それを全部分析してみれば、皆さんの数千代の先祖の血筋がすべて絡み合っているのです。どの細胞も全部そうなっているというのです。先祖たちがそれを全部奪っていけば皆さんはないのです。

 ですから、皆さんは善なる先祖株式会社の社長だというのです。その社長の命令には全部服従しなければならないというのです。そうなっているのです。では、その社長が優れた人であるべきでしょうか、愚かな人であるべきでしょうか? 優れなければならないのです。それなら、優れた社長とはどのような社長でしょうか? 過去の歴史的伝統に逆らわず、時代的な活動舞台においても先頭に立ち、未来の後孫たちに手本となりうる人が優れた社長だというのです。(一九七一・八・一三、清平修練所)


4 先祖たちの協助と再臨復活


 では、このような位置にいる皆さんは歴史的な因縁を受けた私自身として、きょうの自分が生活の中で歴史的な因縁を輝かせうる姿になっているでしょうか?(一九六八・一一・一七、前本部教会)

 昔、イエス様の時、イエス様が地上に来られることによって、それ以前に生きては逝った善なる先祖たちが霊形体級霊界から生命体級霊界に入っていけたのと同様に、皆さんの先祖たちも、地上にいる皆さんを条件にして再臨できる特別な恵沢圏内に入ってきました。何の話か分かりますか? 皆さんがこのようなみ旨を知って勝利の枝になれば、一つの生命体を成すことのできる立場なので、皆さんの先祖が皆さんを協助するのです。このように皆さんは数千代の善なる先祖たちが再臨できる基台にならなければなりません。

 イエス様当時には、霊界から条件的に生命体級復活のための協助をした時代でしたが、今は霊界が無条件的に生霊体級復活のための協助をする時代です。このような時代が来たので、これ以上の恵みはないのです。何の話か分かりますか? 言い換えれば霊界から協助するというのです。

 それゆえ、これからは氏族を訪ねる役事が速くなることでしょう。歴史的な因縁が備わっているので、協助できる条件が備わっているので速くなるというのです。

 私たちが地上で再臨復活を起こせる役事をすればどれほど偉大でしょうか? 皆さんの先祖の中で忠臣がいたり烈女あるいは孝子たちがいるなら、皆さんが祈祷で彼らを呼べば来るようになっています。なぜなら今は先祖たちが皆さんを協助しなければならないからです。そうなっています。逆になっているというのです。(一九六四・四・一九、大邱教会)


二 入教後の望ましい姿勢


1 統一教会に入った目的


 皆さん、統一教会に入るとき統一教会がよくて入りましたか、悪くて入りましたか?(よくて入りました)よくて入りましたか?(はい)ここにもちを置いておき、「入ってこい」と言いましたか、何を置いておき、「入ってこい」と言いましたか? 何を置いておき、「入ってこい」と言ったでしょうか? もちではありません。皆さんの出世を置いておき、「入ってこい」と言ったのではないというのです。神様の公約を置いておき、「入ってこい」と言ったのです、公約を置いておき。

 なぜ皆さんが統一教会に入ったのでしょうか? 神様の公約を置いて入ったというのです。その最高の公約が何でしょうか? お金でもなく、知識でもありません。お金を支配することのできる愛、権力を支配することのできる愛、知識を支配することのできる愛です。神様も好み、天使世界も好み、万物も好み、人間もだれもが好みうるその公約、それが何でしょうか? 宇宙に関する公約です。(一九七六・二・八、前本部教会)

 皆さんがここに来た目的は何でしょうか? それはある環境的な問題を解決するために来たのではなく、人間の根本問題を解明し、絶対者から認定を受け、確定を受けて、その絶対者の前に立ちうるために来たのです。(一九六一・九・二〇、前本部教会)

 皆さん、統一教会に入った目的は何ですか? 蕩減原理を学ぶために入ったでしょう?(はい)蕩減を学ぶために入ったでしょう?(はい)ほかではありません。神様の息子・娘になろうとすれば蕩減原理を知らなくてはなりません。蕩減原理を学びに入ったのです。私は蕩減原理を教えてあげる先生です。そうでしょう?(はい)先生は蕩減原理を教え、実践させるべき責任があります。ですから、実践する皆さんは苦労するのです。簡単なのです。苦労はありがたく、うれしいことでしょう?(はい)それで皆さん、食を断ちながら苦労するとき「ははは」と笑いましたか? 感謝しましたか? ありがたくなく、うれしくなかったようですね。後で感謝することでしょう。(一九六三・陰一〇・一、前本部教会)


2 入教後現れる現象


 皆さんが統一教会に初めて入ったときに、体がブーンと浮かび上がるような体験をしたことでしょう。体験したでしょう? 無性にうれしいのです。わけもなくうれしいというのです。それがなぜそうなのか分かりますか? 皆さんの心と体が互いに授け受けることのできる土台になったからです。私たちの原理から見ると、主体と対象が一つになれば、そこにもっと大きい主体たる神様が相対として授け受けるというのです。そのように高次的な力の作用があるので、それ以前に感じることのできなかった感覚的作用が強力に生じるのです。その強力な作用の力が理想的な力なので喜びの感情が生じるというのです。ただ漠然としたものではありません。全部、原理的なのです。原理的なのです。(一九六九一二・一四、前本部教会)

 統一教会に来て一番初めは、み言を聞きブーンと浮かんで飛び回ります。足が何か地に着いているのか分からないというのです。心がどんなにうれしいのか、食べなくてもいいし、悪口を言われてもいいし、打たれてもいいし、お尻にこぶができてむずむずしても気分がいいというのです。(一九八八・一・一〇、本部教会)

 皆さん、統一教会に初めて入った時、うれしくて口を開けて入ったでしょう? 悲しくて泣きながら入りましたか? どうであれ入るには入ったのですが、胸はうわついて、風が吹くところにふいごを向けたのと同じように、無性に道を歩いていても笑うようになるというのです。ですから、変だというのです。これをじっと見れば何か素晴らしいものがあるというのです。教会の建物こそはそのくらいのほったて小屋でも悪くないし、洞窟だとしても悪くないというのです。先生さえいれば皆来るようになっているというのです。(?)

 皆さん、そんなことを体験してみましたか? してみられなかったですか? 統一教会に入るとき希望に満ちて入ったでしょう? ところが、歴史の流れの中でピンセットの端がつくかつかないかの焦点上(=歴史の一点)に立ったような運勢なら運勢、因縁なら因縁の中に立っている自分を見るとき、これがうそではないかという疑いを持ったかもしれません。私もそうでした。しかし否定しように否定できない生きた証拠を天が提示してくださったので、認定すまいとしてもせざるをえないのです。ただ無条件にうれしかったり、感謝したりもするのではありません。(一九六六・一一・六、前本部教会)

 私たち統一教会員たちは、教会に入って一番初めにみ旨に対したときは喜びの中で出発しました。世の中のすべてのものが私を中心として生まれたと感じたことでしょう。恵みを受ければ受けるほど、自分を中心としてすべてのものが復活し、自己を中心としてすべてのものが関係を結ぶようになると感じたことでしょう。それゆえ、自分が喜べば万物も喜ぶように感じ、自分が悲しめば万物もともに悲しむと感じた時があったことでしょう。

 そのようなときには、いくら悪なる世の中でも悪なる世の中として見えるのではなく、いくら悲しい世の中だとしても悲しく見えるのではありません。その悲しい世の中に喜びが宿りうるのを眺めて、あすの希望とあすの責任を誓う生活をするようになるのです。皆さんは過去にそのようなことを体験したことでしょう。(一九七〇・八・三〇、前本部教会)

 皆さんがみ旨を通して感じたその心情を回復しなければなりません。皆さん、そうではありませんか? 学校に通う学生たちも、統一教会に入れば家より教会に先に寄りたくなるというのです。それは皆さんが全部体験したはずです。それはなぜそうでしょうか? 病気になったのです。六千年ぶりに初めて春の季節を迎えることのできるひととき、数千年の運勢圏内に巻き込まれてきたのです。何年の運勢ではありません。数千年の運勢だというのです。数千年の運勢に乗れるひとときに集まったのでそうなるのです。その心情はとても貴いのです。それを蹂躙するときは、歴史を蹂躙するのであり、天倫を蹂躙することになります。(一九七一・一一・二八、前本部教会)

 そう、皆さんは統一教会に来たいですか? それ、おかしいです。統一教会のみ言を一度聞くようになれば、家に向いた足取りが統一教会に来るというのです。放課後には家に帰るのが学生の義務と思い、本分と思い、責任と思うのに、統一教会のみ言だけぴたっと聞くようになれば、家に向いた足取りが統一教会に来るようになるというのです。家を見れば粗末で谷間にある教会ですが、ここに来れば「ここから行かないでご飯を食べて暮らせばいい。いたい」という思いになるのです。そうなれば統一教会は本物だというのです。いたいなら、次にはどうしたがるべきでしょうか? 暮らしたがらなければなりません。永遠なる神様の愛を持って互いに一つとなり、兄弟として暮らしたい思いを持たなければならないのです。それを成さなければ理想世界は来ません。(一九七二・一〇・一、前本部教会)

 皆さん、統一教会を信じるようになればそうです。統一教会を信じるようになれば福を受けると思いますが、福を受けるよりむしろだんだんにもつれていくのです。じっと見ればうまくいきそうなのにかえってもつれていくというのです。それはなぜそうでしょうか? それは愛ゆえです。ですから、もつれていかなければならないのです。統一教会を信じてきながら十ぐらいの欲を持ったとして、百ぐらいの物(=お金など)が生じたとき、また百ぐらいを願ったとすれば永久にずれた道を行ってしまうのです。

 十ぐらいの欲を持ったとすれば、その十ぐらいのものも刻ってしまうのです。それを刻り捨てることによって、十ぐらいの外的な欲を打つことによって、内的な神様と十ぐらい密接させうる不可避な結果になるので、神様は福を与えるのです。世の中の人々が福だというものを持ってきてあげるのではなく、世の中の人々が嫌だというものを持ってきてあげるのです。そうして、世の中の人々が笑って好むことのできる環境の因縁を持って暮らすのをただそのまま公認するのではなく、そのようなことをすべて破たんさせるのです。

 もし、破たんさせなければ彼らが私をかみちぎるのです。切るまいとしても切らざるをえないように、彼らがすべてかみちぎるのです。ですから、彼らがかみちぎる前に、切るのが嫌でも切る役事をしなければならないのです。それゆえ、背馳が起こります。ここでこのようなことが起こらない宗教は真なる道を求める宗教ではないということを私たちは推して結論づけることができるのです。
 皆さんが知るべきことは、神様と私たちの行く道が食い違っているということです。それだけでなく、神様は私たちの前に立ち、六千年間私たちの人生の道を塞いで神様の摂理をつぶし破たんさせてきたサタンと対決して闘っているというのです。(一九七一・一一・一四、前本部教会)


3 入教後備えるべき姿勢


 統一教会の皆さんが召され、レバレンド・ムーンを通してみ旨の道にいで立ったとするなら、皆さんは召命された者として何のために召命をされたのか、私はどこへ行くのか、私はこのように行かなければならないと決心したなら、その道で何分の何に、あるいは何号目の中にいるのかということを知らなければなりません。人が一度決心したなら、その決心したことを中心として決定しなければならないのです。イエスかノーか、答えなければならないというのです。

 それは先生も同じです。天の前に私が約束をし・・・。「これこれの道をきっと行くからには私の同役者が背信しても、私の父母が背信し、私の妻子が背信しても、私は行くことでしょう。私の民族が背信し、私が生きる統一教会自体が背信すれば、これを一掃してでも私は行くことでしょう」このように私は召命を受けたその日から進んでいるのです。今も進んでいるのです。あすも進むことでしょう。その道は速く行けばいくほどいいのです。遅いほど悪いのです。そこには数千万の生命が地獄行きの列車に乗り、皆地獄に落ちています。(一九七八・一〇・一、本部教会)

 今日、統一教会に入った皆さんは原理を学んでいます。アダム家庭を中心とした原理を学んでおり、ノア家庭を中心とした原理を学んでおり、アブラハム、ヤコブ、モーセ、イエス時代に対する原理を学んでおり、今まで歴史の背後で摂理された神様に対する原理を学んでいます。しかし、皆さんはどこまでもついていく存在です。ですから、皆さんは原理に従い休むことなく歩んでいかなければなりません。
 そうして、アダム家庭を私が収拾して立てよう、ノア家庭を私が収拾しよう、アブラハム家庭を私が収拾しよう、収拾するだけでなく私が彼らに命令もしようと言えなければなりません。皆さんが今日、この暗黒の世界で神様に召され、世界的な使命を果たすべき総責任を負ったからには、モーセに「イスラエル民族を導くときはこうこうしなくてはならなかった」と言うことのできる立場に立たなければなりません。(一九六三・五・一五、前本部教会)

 入教以後、誓いをしたとするなら、それはどんな基準でするのでしょうか? み旨に対するその誓いが真なるものであったなら、それが外的には現れなかったとしても、長く耐えることができて、内的にはたくさん成長していなければなりません。アブラハム当時にアブラハムは知りませんでしたが、霊界の聖徒たちが役事し、天使世界が協助していました。

 神様のために忠誠を尽くし、誓った人がいるなら、たとえ彼がこの時代に存在するとしても彼はこの時代の人として終わるのではなく歴史的な人です。また、彼がすることは歴史的なことです。「歴史的だ」ということには、すべてのことが皆含まれます。(一九六二・一二・一七、前本部教会)


4 入教後、注意すべき点


 今日、皆さんは宗教という名詞を知って信仰の道を進んでいますが・・・。統一教会に入ったなら統一教会のいいものを受け入れることのできる、皆さん自身がそれを果たすことのできる資格ができているでしょうか? 果たせない人は良い世界の因縁を持てないのです。責任を負えるでしょうか? 責任を負えない人もやはりそこに、その世界の良いものとは関係を結べません。分かりますか?(はい)それゆえ、人は必ず責任を負わなければならず、責任を負い、果たし切らなければなりません。そのような後に彼もよく私もよくてこそ、それが善の結果になるということを私たちは知らなければなりません。(?)

 神様の前に召されうる人、すなわち神様の責任を負える人は一日、二日でできるものではありません。そのような人は飢えに浸かり、血に浸かり、神様の心情に伴うことのできる人でなければなりませんが、これは一日、二日でできるものではないというのです。三、四年以上の年限を経なければならないというのです。(一九六六・一一・六、前本部教会)

 最近、初めて入った人々を見れば、猟犬のようににおいをかごうとします。においをかぐのも正常にかぐのではなく、口を引きずり回しながら駄犬のように、くそのにおいばかりをかごうとします。統一教会に入ったなら先生を中心として問題を解決しなければならないのに、くだらない不良仲間とつるんで何をしますか? そんなくだらない不良仲間に対すること自体が愚かなのです。先生がこんなことを言うのは、新しい姿勢を確立するべきときが来ているからです。

 それゆえ、皆さんが信仰者として、統一教会の信者として持つべき新しい姿勢を備えなければなりません。ここで一番重要な問題は、中心に対する確固たる信頼を持つことです。そのような信念を持つ前にはいくら覚悟をしても何の役にも立ちません。この道を行くにおいて、あることにぶつかるようになれば私はどうなるでしょうか? 自問自答してご覧なさい。(一九六九・一一・三〇、前本部教会)

 統一教会の信徒だと自負する皆さん、勇猛な気迫を持って天のために立派に闘おうという覚悟をしたなら、それをその何とも取り換えてはなりません。人間がいいと言う何かをくれるといっても「いや」、ある主権をくれるといっても「いや」、殺されても「いや」と、ただ神様のみ意のままにする場合にだけ「よし」と言うことができなければなりません。

 一で終わらなければ十まで、十で終わらなければ千まで行ってでもサタンの牙城を突破すべき堕落した人間たちです。ところが人間たちはこれを知らずにいます。皆さんが統一教会を訪ねてきたのはありがたいです。しかし自分の要求と欲望は入ったその日から捨てなければなりません。皆さんが持っていた欲望や欲求をすべて埋葬してしまった後にこのことを始めなければならないのです。摂理的に見てもそうです。イエス様がそうなさったし、数多くの預言者たちが怨讐の槍に血を流しながらも歯を食いしばり天に向かって泣き叫んだからには、皆さんはその人たちのその声を聞こうとしなければなりません。「お父様! 恨みをお解きください」と言ったその人たちの決心が、皆さんの心に染み込まなければなりません。(?)

 統一教会に入ったことを寂しく思わないで、ここに入れば、先生が話す論理的なすべての結果として立てておいた愛の法度と秩序がここにあるというときは、永遠に行くべきであり、永遠に安息すべきだというのが間違いのない事実である!(アーメン)そのような人が真なる人です。真の姿を分かったでしょう?(はい)これからは皆さんが忘れずに行かなければなりません。(一九八六・一・三一、漢南洞公館)


三 食口とは何か


1 統一教会で言う食口とは


 私たち統一教会員たちは互いに食口と言うでしょう? 食口という言葉の意味は何ですか? 漢文を解いて言えば「ご飯を食べる口」という意味です。ですから、食口とは一緒にご飯を食べる兄弟であり、一緒にご飯を食べる家族です。皆、お母さん、お父さん、兄弟だというのです。(一九六四・一〇・三、大邱教会)

 今日、私たち統一教会の教会員たちが集まったものは何でしょうか? 私たちが言うには食口と言います。そう言うでしょう?(はい)食口とは何でしょうか、食口とは? ご飯を食べる口という食口ではありません。食口というのは何でしょうか? 兄弟の因縁を備えなければならず、父母の心情をともに備えて生まれなければなりません。そうしてこそ食口になれるというのです。(一九六五・一〇・三〇、大邱教会)

 今日、私たち統一教会は食口という名を持っています。ところが皆さんの家庭でもその一員を食口(=韓国では家族の意)と言うのです。では私たちは何を中心として食口という言葉を使うのでしょうか? 神様の愛と、神様の人類を愛したい高貴なその因縁とその関係、そして神様の本来捜そうとなさる創造理想を中心として食口と言っているのです。(一九六九・一〇・五、韓・秘苑)

 私たちは皆さんがよく知っている通り統一教会の食口です。食口と言えば、もちろん任されたところの職責は違うでしょうが、行く道や生活する感情においては環境とある立場を離れて同一なる生活路程を行かざるをえないのです。父親と息子・娘がいるとするなら、その父親と息子・娘のすることは違っていても情緒的な生活分野においては同じなのです。父親が悲しめば、その息子・娘も立場は違っても悲しい心を感じてこそ、当然その父母の子女として身を置くことができることを私たちは知っています。

 このような観点から見ると、私たち統一教会の教会員たちは、「私たちは食口」と言っていますが、その食口が行くべき本然の道、その道がもちろんみ旨のために行く目的に一致するでしょうが、そのように一致するのも重要でしょうが、情緒的な生活においても違っていてはなりません。

 さらにその一族の困難に遭いうる場にいるというようになるときは、その食口は一つにならなければなりません。父親が悲しむ立場に立てばその子どもたちも、ともに暮らしている食口たちも悲しみに浸るようになるのです。

 その悲しみを解決しようとすれば、現在自分に任された職責だとか自分がしているその仕事が重要だと言って、そちらをより重要視する立場に立ってはなりません。そうなる場合は、父母と一つになった立場に立ったとは見ることができないのです。そこから情緒的な生活が分立されると見ざるをえないのです。けれども、外的に身を置いている環境がいくら変わるとしてもそれをすべて捨て、またそれがなくなるとしても父母と一つの心、一つの志になって、当面している悲しみに対して体と心がともに苦痛を感じる立場にたったなら、その家庭がいくら持っているものがなく、できる仕事もなく、自ら誇るべきものがないとしても、ここから誇ることのできる新しいことが始まるのです。ここからはどんなときよりも目新しい方向を選んでいくことができるのです。そこで決意していで立つときには、死線であっても越えることのできる新しい道が模索されるということを私たちは知っています。

 私たちはよく食口と言っています。では食口を中心として見るときに、父母の悲しみは言うまでもありませんが、その反面、子女たちの悲しみも子女だけの悲しみではないのです。子女の悲しみは父母の悲しみと直結されるのです。子女が多く食口が多いといってもそれが問題ではありません。多くの食口の中で一人が悲しみに遭うようになれば、食口全体がその一人の悲しみに包括されてしまうのです。そこに融和されてしまうのです。悲しみを中心としては二つでなく一つになるのです。一つになったそれがその家庭の誇りであり、その家庭の力であり、その家庭の生命の源泉だということを私たちは知っています。

 一人の食口の悲しみをその人の悲しみとしてだけ考えるなら、十人の食口がいるとき、その十人の食口が皆そのように考えるなら、その十人の食口は一つになれないのです。その十人の食口が心で平和を願い、あるいは幸福を願い、安息を願うとしても、彼らの中には安息がありえないのです。ある個人が安息を願うなら、個人の安息として見いだされたその何かがあったとしても、その安息は全体が安息できる基盤とはなりえないのです。十人なら十人が各自自分のための立場で見いだした個人の安息所があるとするなら、それは互いの不安の基盤となり、不和やあるいは不幸の根本となるという事実を、私たちは生活を通し、私たち食口たちの周辺の事情を通してはっきりよく知っているところです。

 食口という立場でこのような内容を中心として考えてみるときに、私たちは一般の世の中の食口とは違っているのです。世の中の食口は、一生の間ともに暮らしながら互いにために生き、互いに慰労の対象となって一つの心情を見いだしていくことのできる幸福の道を探したなら、その食口は幸せでいられるのです。だから人生においてだれよりもどんな家庭よりも誇れる食口になり、家庭になるのかもしれません。しかし私たちが言う食口の観念は違っているのです。世の中を中心として言うのではなく、天を中心として言うのです。天の父母を中心として言うのです。天の父を中心として言うのです。その天の父母は一時的な時代を主管する父母ではないのです。歴史を支配し歴史を主管する父母であり、この時代を支配し主管する父母なのです。のみならず、今後の時代、すなわち未来までも主管しなければならない父母なのです。そのような天の父母に侍っている私たちが今一度考えると、天の父母は堕落した人類に対していることを知っています。その堕落圏内で完全に解放を迎えられなかった自分たちであることを知っているのです。(一九七二・八・一、南山聖地)


2 食口という言葉の設定背景


 今日、私たち統一教会では「食口」という言葉を言います。そうでしょう? この食口という言葉は何を中心として言う言葉でしょうか? イエス様を中心として言う言葉です。

 ではイエスを中心とした食口がいたでしょうか? 母親は食口ですか? イエスの行く道と一つになった立場に立てなかったその母親が食口ですか、食口ではないですか? その母親は結局はともに行くでしょうか、分かれるでしょうか?(分かれます)父親がそういう立場にいれば分かれるでしょうか、ともに行くでしょうか?(分かれます)兄弟も分かれ、父親も分かれ、氏族も分かれ、国も分かれ、教会も皆分かれるのです。イエスと永遠にともに死ぬことのできる、一つの道を行くべき家庭であるにもかかわらず、イエスが育った家庭にイエスの食口がいたでしょうか? 食口なら、父親と母親がおり、妻と夫がおり、子女がいるのです。統一教会の言葉では四位基台だと言うのです。それがイエスの食口です。

 ではイエスが愛することのできる食口がいたでしょうか? イエスが母親を愛しましたか? 愛せなかったというのです。父親を愛しましたか? 父親は義理の父親だったというのです。弟妹たちを愛しましたか? 弟妹たちも愛せなかったというのです。だれを愛したでしょうか? 愛の主人公として来た張本人であるにもかかわらず、母親と父親をだれよりも愛そうとしたのに愛せなかったのです。本来のアダムとエバが神様から愛の教育を受けられなかったので、イエスがそのような愛を母親・父親に「このように愛さなければなりません」と教えようとしたというのです。けれども、彼の母親と父親はイエスの言葉を聞きませんでした。

 愛を教育するにはユダヤ教の礼法を経た立場で、神殿理想を完成した立場でしなければなりません。イエスは神様の代身として、父親の代身、新郎の代身、兄の代身、愛の主人公として来たので、マリヤ家庭全体はイエスに神様の代身として侍らなければならなかったのです。イエスはヨセフに対して「おい! ヨセフ」こうでなければなりませんでした。ヨセフが父親ではないというのです。またマリヤに対しても「マリヤ!」こうでなければならなかったというのです。

 彼らが教育を受けなければならなかったというのです。彼らが教育を受けるようになっていたですって? 人情を通して見るときは父子の関係でしたが、天情を通して見るときはイエスが主体なので、その愛の道理に従って彼の父母から彼の兄弟まで皆イエスに教育を受けなければならなかったのです。父親と母親はこう生きるべきであり、兄弟たちはこう生きるべきであり、兄弟の中で私の相対はしかじかの女性であるべきだと教育をしなければならなかったというのです。ところがイエスはそのように教育してみましたか? 聖書にそんな話がありますか? これは真の葉は全部省いて子葉だけ持って天国に行こうと騒いでいるというのです。よこしまなことをしているというのです。

 イエスはいつ父親を愛してみたでしょうか? イエスが愛したかった父親、イエスが愛したかった母親、イエスが愛したかった弟妹たち、あるいは兄さん、近所のおじさんたちがいたでしょうか? いなかったというのです。それがイエスの恨みだというのです。また、イエスが愛せる国とイエスが愛せる民族とイエスが愛せる教会とイエスが愛せる氏族とイエスが愛せる家庭とイエスが愛せる相対がいたでしょうか? いましたか? 国が責め立て、民族が責め立て、教会が責め立て、氏族が責め立て、親戚が責め立て、父母が責め立て、兄弟が責め立てるので死ぬしかありません。すべて失ってしまい、胸が詰まって死んでいったのに私のために死んだですって? 好きで死んだですって? こんなおかしな連中が世界には多いというのです。自分たちが殺しておいて自分たちのために死んだと・・・。皆狂った者たちだというのです。だから私たち統一教会はこの場で食口の因縁を実現させなければならないのです。(一九七一・一一・二一、前本部教会)

 皆さん、統一教会に入った人を食口と呼びますが、その名称がどれほど貴い名称ですか? 先生が以前にも話しましたが、食口とはどんなものですか? だれをおいて食口という言葉を立てたのでしょうか? これは皆さん自身を中心として言った言葉ではありません。万宇宙を与えても替えられない天上天下に唯一なる価値であり、無限なる宝の実体として来られた神様のひとり子、すなわち神様が愛されたイエス様を中心として言った言葉です。

 神様はその方を愛さずにはいられません。また神様の愛が現れるとするなら、その方として現れることができるのであり、神様の勝利の道が現れるとするなら、その方から現れるのであり、天地の出発基準が現れるとするなら、それもやはりその方によって現れることができるのみです。その方を通さないでは神様の何も表すことができないほどその方は絶対的な方です。

 その方を中心としてこそ食口という言葉を語れるのです。食口という言葉は現在の統一教会の教会員たちを中心としたものではありません。イエス様のそのような価値的な因縁、その人格的なものを中心として食口というのです。イエス様を中心として見れば、年の多い人はイエスの父母であり、似かよった人々はイエスの兄または弟たちになります。このようにただ一つしかない唯一なる価値、無限なる宝物の位置に立ったイエス様を中心として言うのだということを皆さんは知らなければなりません。(一九六六・一一・六、前本部教会)

 統一教会で今言っている食口というのはどのようなものでしょうか? イエス様のみ旨を相続された、天の前に真なる息子・娘の立場で呼ぶ食口であり、兄弟であり、一つの家族だというのです。

 では、今日私たち食口同士、兄弟同士は、どうして行かなければならないでしょうか? イエス様は生まれるその時間から育つ生活の中において・・・。イエス様はもちろん弟妹もいました。弟妹もいたし父母もいましたが、父母と兄弟に対してイエス様は本当に天が願う父母、天が願う兄弟として考えたのかと言えば、そうできなかったというのです。彼は理念的な父母を考え、理念的な兄弟を考えましたが、その当時においてイエス自身を中心として見るとき、果たして自分が愛することのできる弟妹、自分が愛することのできる父母になったかと言えば、なれなかったというのです。(一九六五・一二・七、春川教会)

 今日、統一教会ではなぜ食口と呼び、またその名詞はどこから出てきたのでしょうか? 特に若い人々がこれをはっきり知らなければなりません。イエス様は弟妹がいたけれども弟妹を愛せなかったし、父母がいたけれども父母を愛せなかったし、親戚がいたけれども親戚が愛せませんでした。教会があり、国と民族がありましたが、それらを愛せなかったイエス様の恨みを解いて差し上げなければなりません。(?)


3 だれが真なる食口であろうか


 今日皆さんが食口という言葉を使っていますが、その言葉は実に恐ろしい言葉です。もし皆さんが信仰路程で誤れば、イエス様が神様のみ旨を証したその立場を遮る怨讐になるのです。イエス様がサタンと闘われた立場を遮る怨讐になり、十字架に行き人類を贖罪なさろうとしたそのみ旨を遮る怨讐になるというのです。

 ではどのような人がイエス様の食口なのでしょうか? それはすべての人にみ言を伝えてあげたかったイエス様に似た人であり、イエス様がサタンと闘われるときご苦労されながら憂い心配し嘆息したそのすべての心情を体恤できる人であることでしょう。それゆえ、イエス様が十字架の道を行かれるときにただついていくだけの人はイエス様の食口ではなく、十字架の道に進んでいくときまでのその心情を知ることのできる人がイエス様の食口だということを、皆さんははっきり知らなければなりません。

 そして皆さんは、イエス様がこの地に来られて三十余年の生涯の路程で真なる証し人の使命を帯びて現れたとき、ご自身を代身して証しする真なる食口を持つことができず、サタンと闘う場においてともに闘ってあげることのできる食口、ゴルゴタの十字架を負って進む道においてともに行ってあげられる真なる食口、さらに天と地の前に誇れる真なる食口を持てなかったのが、最も大きなイエス様の切なさだったということを知らなければなりません。

 それでは、今日皆さんは何をすべきでしょうか? 二千年前にイエス様が神様のみ旨を証すために切ながられたように、今日皆さんもあらゆる精誠を傾けて神様のみ旨を証さなければならないというのです。また当時ユダヤ教団とイスラエル民族の反対を顧みずに悲壮な心情と覚悟を持ち、サタンと対決し闘われたイエス様の事情、天のみ旨成就のために心配されたイエス様の心情を持ち、代身してみ旨を成して差し上げられる人にならなければなりません。

 さらには天のみ旨を成就するために、進む道を遮るすべてのものを除去するためには生命も捧げられるという覚悟をされたイエス様のその悲壮な心情を、皆さんは感じようとする人にならなければなりません。また皆さんは自ら民族を代身して十字架を負おうという祭物の精神をも備えようとする人にならなければなりません。

 皆さんはまたイスラエル民族を代身して生きた祭物になるだけでなく、二千年前のイエス様の心情に通じることができ、イエス様の人格を備えることのできる人にならなければなりません。皆さんはサタンの前に屈伏する死んだ祭物になってはならないというのです。イエス様の心情に徹して神様のみ旨を証ししてから落胆してはならないし、サタンと闘って敗北する人になってもいけないというのです。

 それゆえ、終わりの日に身を置く皆さんは、死の峠を踏んで立ち、怨讐を神様の愛の懐に導こうという悲壮な覚悟と心情を備えた人になってこそ、イエス様の真なる食口になりうるのです。

 それでは、イエス様が神様のこの上なく大きなみ旨を代行して進まれるときに、だれがイエス様の心を悲しませたのでしょうか? イエス様と最も近い人々がイエス様の心を悲しませました。準備されたイスラエルの民が反対したのが悲しみではなく、ユダヤ教徒が反対するのが悲しみではなかったというのです。三年間も従った弟子、その愛する弟子たちが信じるべきときに信じることができず、死ぬべきときに死ねなかったその一つの事実がイエス様に最も大きい悲しみとなったのです。これを皆さんがはっきり知るようお願いします。

 では、皆さんがどうすれば天の真なる食口だと言えるでしょうか? まず皆さん各自の心が一つの心に和合して動いていかなければなりません。そうして、一つの目標(み旨)に向けて闘おうとしなければならず、またその一つのみ旨、すなわち神様のみ旨を成就するために死を覚悟して進もうとする人にならなければなりません。またイエス様が二千年前にこの地上に来られ、天のみ旨をすべて成せずに亡くなられたことによって結ばれたその怨恨を解いてあげ、慰労してあげる人にならなければならないというのです。このようなすべてのことを成すときに、皆さんを天の真なる食口と言うことができるということを肝に命じるようお願いします。

 では、今日自分の信仰路程で何を持つ人になるべきでしょうか? 皆さんは真なる食口を持つ人にならなければなりません。皆さんが家庭に帰ればその家庭で真なる食口を持たなければならず、教会に行けば教会でも真なる食口を持たなければならず、社会に出ればその社会でも真なる食口を持たなければならないというのです。

 また皆さんはイエス様が神様を代身して証しし、神様を代身してサタンと闘いつつ神様を代身して亡くなられたのと同様に、そのようなイエス様のために (1)証さなければならず、イエス様のために (2)闘わなければならず、イエス様のために (3)死ねなければなりません。(一九五七・一〇・一八、前本部教会)

 それでは、私たちは今どの段階にまで来たでしょうか? 私たちは統一教団をつくりました。これは失ってしまったユダヤ教を再び捜し立てたことと同じです。また、今日統一の一族たちは失ってしまった氏族を捜し立てたのと同じであり、失ってしまった兄弟たちを再び捜し立てたのと同じです。そのような意味で、今日統一教会の私たちは一つの兄弟です。その兄弟の因縁を経なくては氏族が形成されないのです。また、兄弟の因縁に連結させる前には教会も民族も現れえないのです。国家も形成されえないのです。

 それゆえ、この兄弟の因縁を中心として連結させるべき使命が私たち統一教会にあるというのです。そのような意味で食口という名詞が成立するのです。食口を通してこそ兄弟の因縁が結ばれるので、この食口という言葉こそ天国を造成するにおいて下地になりうるのです。それだから、統一教会の教会員たちは食口という言葉を使用するということを、皆さんは知らなければなりません。したがって今日統一教会の食口同士は、互いがイエス様が愛せず、愛されなかったその愛を授け受けなければなりません。

 年長の人は幼い人を見るとき、イエス様の母親と父親がイエス様を愛せなかった立場を代身して、その幼い人をイエスのように愛さなければなりません。そのような立場で愛することによってユダヤ教が愛せず、イスラエル民族が愛せなかったその年長者の立場を復帰するようになるのです。

 兄と弟の立場にいる食口同士は、またイエス様の兄がイエス様を愛してみることができなかったのを復帰しなければなりません。イエス様が兄と愛を分かち合えなかったことが神様の恨みであり、イエス様の恨みです。ですから兄の年齢の人は弟のような人をイエス様のように考え愛してあげなければなりません。それによって初めて、愛することができずに積もった神様の恨みが解けるのであり、兄を愛することのできる場を持てなかったイエス様の恨みが解けるのです。

 神様の願いは、神様が準備しておいたイスラエルの国とユダヤ教とヨセフ家庭をしてイエス様を愛させることでした。そしてイエス様の願いは、愛を受けてから彼らを愛することでした。このように神様の願いは愛させることであり、イエス様の願いは愛することでした。しかし愛させようとする神様の願いと、愛そうとするイエス様の願いが十字架によって壊れていったので、神様の恨みを積もらせイエス様の恨みを積もらせました。したがって今日これを再現させ、再蕩減しなければ復帰にならないのです。

 だから今日、私たち統一教会員たちの中で年長の人たちは、自分より年の若い人に対するとき、イエス様の兄がイエス様に対するように愛せというのです。また、弟のような年齢にいる人はイエス様の弟がイエス様を兄として愛せなかったので、兄のような人をイエス様を愛するように愛せというのです。イエス様のおばあさんがイエス様を愛せなかったので、イエス様のおばあさんのような立場にいる人たちは孫のような統一教会の食口たちをイエス様のように愛せというのです。また、孫のような年齢にある人はおばあさんを愛せなかったイエス様の恨みを解いて差し上げるために、おばあさんをイエス様のおばあさんのように愛せというのです。

 このように少年から青年、壮年、老年に至るまでの私たち食口たちは、全体がイエス様お一人を置いて因縁を結ばなければならないというのです。イエス様を愛すべきイスラエル民族、イエス様を愛すべきユダヤ教、イエス様を愛すべきヨセフの氏族たちがイエス様を愛せなかったのを解怨するために、一つの囲いの中に集められたのが、今日この統一教会の教会員たちなのです。

 イエス様を愛すべきなのに愛すべきイエス様がおられないので、目下の人をイエス様のように愛せというのです。また、目下の人はイエス様が目上の人を愛せなかったことが恨みなので、これを解いて差し上げるためにイエス様の立場で目上の人を愛せというのです。そうしてこそ神様の恨みが解かれ、イエス様の恨みが解かれるのです。

 これが連結されて新しい国と新しい教会と新しい氏族と新しい家庭を編成していくとき、初めて神様がこれらを喜びで迎えることができ、イエス様も喜びで迎えることができるのです。それによって新しい天国の門が開かれるということを皆さんははっきり知らなければなりません。(一九七〇・一二・二五、前本部教会)


四 本然の食口が持つべき姿勢


 今日統一の群れたちは困難な道を行っています。歴史上において初めて私たちは食口という名前を呼んでいます。兄弟姉妹という名詞を使っているというのです。この聖なる名詞! 天地がなくなるとしても、この名詞はなくなってはならないというのです。歴史は審判を受けて倒れるとしても、この時代は審判を受けて倒れるとしても、この名詞とこの実体たちは残されなければならないというのです。悪は清算されても、この希望の食口と希望の家庭と希望の兄弟は残されなければなりません。

 そうするためには、この希望の食口たちが残されるためには世界的な十字架の道を越えなければならないというのです。ですから、今日私たちに個人的十字架はもちろん、家庭・氏族・国家・世界、さらには天宙的な十字架が残っているというのです。(一九六五・一二・七、春川教会)

 統一教会教会員たちの「私たち」というのは、「食口」というその名詞はどこから出発したのでしょうか? 十字架の伝統から、血が流れ血涙がつづられる、そのような立場から出発したということを知らなければなりません。それゆえ、何を与えても、忘れてしまおうとしても忘れられず、何を与えても、替えようとしても替えることができない私たちの因縁なのです。父母が反対すれば父母の縁を切ってでもこの道を行かなければならず、民族が反対すれば民族の縁を切ってでも行かなければならず、天地が反対すれば天地の縁を切ってでも行かなければなりません。死んでもこの道をつかんで死ななければならず、生きてもこれをつかんで生きなければならず、この恨みが世界的な恨みとして結ばれているので、世界的な恨みを解くとき、これをつかんで涙を流して行くべきそのような歩みが統一教会の歩みであり、統一教会の師が行く歩みであることをはっきり知らなければなりません。(一九六三・一〇・一八、光州教会)

 今日私たちが言う食口という基準は高次元的なものです。ここに至れば自分の血統的な因縁が問題になるのではありません。氏族的なそのような血族が問題になるのではありません。この立場は血族でない血族が兄弟以上の因縁を持つことができ、父母でない父母に父母以上に侍ることができ、家庭でない家庭に家庭以上に侍ることができるそのような立場です。(宗廊)

 皆さんは教会の門を勝手に出入りしますか? そうはできません。ここで呼ぶお父さんという名前がそうたやすく呼ぶことのできるお父さんではありませんし、ここで呼ぶ食口という名詞がそうたやすく呼べるものではありません。何千万の聖徒が血と汗を流した基盤の上で立てられたものです。

 この聖なる場に来たそれ自体が問題ではありません。言い換えれば、説教を聞く自体が問題ではなく、私自体が問題なのです。因習的な信仰観念や習慣的な生活が再び継続される傾向がなくはないか、自ら批判しなければなりません。(一九六二・七・一、前本部教会)

 今日、私たちはこのようなすべての内的な事情を知り、この使命を成就し、このようなみ旨を立てるために内心、今一度さらに誓わなければなりません。

 皆さんは食口がどれほど貴いものであるかを知らなければなりません。食口一人がいなくなるときは、六千年の歴史過程で捜してこられた神様の前に、イエス様が愛することのできる個人を持てなかったのであり、イエス様が愛することのできる家庭を持てなかったのであり、イエス様が愛すことのできる兄弟を持てなかったのです。一人を愛すると言ったときのその一人は、個人ともなることができるのであり、家庭においての一人ともなることができるのであり、兄弟の一人ともなることができるからです。(一九七〇・一二・二五、前本部教会)

 皆さんは神様を中心とした一つの食口だということを徹底的に認識しろというのです。そして、統一教会の食口という言葉がどれほど貴い言葉であるかを皆さんが考えてみなければならないというのです。(一九六一・五・一八、前本部教会)

 ここに集った多くの子女たちは統一教会の勇士たちでございます。統一教人と申します。統一教会の食口と申します。食口という名称の中に隠れているこのとてつもない天的な意義を、私たちが忘却しないようにしてください。その食口がいなくては各自が兄弟の因縁を持つことができず、兄弟の因縁を備えられなければ父母に侍ることができないというこのとてつもない事実を知り、一つとなってお父様のみ旨の前に謙そんにひざまずき、あなたの日を欽慕し、出て闘うことのできる天の精兵たちとなるようにしてくださいますことを、お父様、懇切にお願い申し上げます。(?)


五 統一教会員の価値


1 私たちは歴史的結実体である


 今日統一教会の教会員たちが祈祷するとき「ああ! 私たちは六千年の歴史的な結実体です」と祈祷するでしょう? 六千年の歴史の結実体なら、良い先祖の津液(=生物体内からしみ出る液)も悪い先祖の津液も影響しているでしょう? ですから、そのような実体自体はそのような影響を必ず受けるようになっているというのです。それゆえ、皆さんの心霊状態が均等でないのは、そのような霊的な善なる先祖と悪なる先祖の結実体だからです。

 それゆえ、今のときは、この位置は堕落しましたが、全体の歴史において悪いことも良いことも全部ここで交差されるのです。交差するのにどうすべきかと言えば、良いものは刈り入れ、悪いものは捨てなければなりません。何の話か分かりますか? 今のときは良いものは全部刈り入れ、悪いものはすべて捨てるというのです。(一九七一・一一・二八、前本部教会)

 皆さんは知りませんが、一人がここに訪ねてくるまでその背後の歴史的な苦労が多いというのです。数多くの先祖たちの功労が積まれたのです。皆さん、秋に結実を取り入れる主人が鎌で刈るときは、歌が流れ出るのです。讃揚の歌のふしが流れてくるのです。ところが収穫しながら、「ああ、これは大変だ!」と言って嘆息する人がいるなら、彼は主人ではないというのです。収穫の刈り入れをする農夫の仕事場は、一年の苦労が栄光として現れるその日を喜んで迎えることのできる場であって、呻吟と悲痛と嘆息で実を結ぶ場ではないというのです。苦痛と苦労はすべて流れていってしまい、かえってその鎌で刈るのに鼻歌が流れてくる、希望の明日が約束された場ではないでしょうか? 私たち自身においても同じです。(一九七一・一○・三、前本部教会)

 草取り鎌の柄をつかんでトラジを掘って食べながら、山奥の火田民(=焼き畑をして暮らす民)として一生を生きるとしても、その鎌の先で天地を釣るという心を持たなければなりません。天地の度数の因縁に従って結ばれるすべての穀物の実は、歴史的で人為的な因縁を全部総合した結実体だということを知り、皆さんはこのようなことを讃揚できなければなりません。このような人はたとえ山の中で草家住まいをしていても、後にはその国の指導者になるという事実を、皆さんは知らなければなりません。このような点から見るとき、今後統一教会は世界的な金持ちになるというのです。何の話か分かりますか?(一九六九・一〇・一八、大邱教会)

 今日収穫の結実体として現れた私たち統一の群れ、それこそ自ら自信を持っていて、自らが天の前に誓ったことを実践しうる実体となったなら、この実体こそ貴い存在だということを知らなければなりません。私たちは彼らを讃揚しようとしなければなりません。私たちは彼らの甲斐のある価値を認定し、歴史路程のだれの前にも恥ずかしくない、讃揚された姿で立たせなければなりません。この時代、三十億人類の前に、あるいはどんな先進国家のどんな特定の民の権限を持った人々の前であっても、勇ましく立つことのできる自信を持たなければなりません。それだけでなく、後世に生まれる私たちの善なる後孫たちの前に、この伝統を見習えと主張することができなければなりません。このような自らの決意を誓うことのできる季節が収穫の季節であり、讃揚の季節だということを皆さんは知らなければなりません。

 このような観点から見ると、私たち人間だけでなく、私たち統一教会の信徒たちだけでなく霊界にいる数多くの霊人たちまでも、やはり歴史的な収穫の結実として立てられ刈り取られた群れが統一の群れだと言うときは、今日の人類だけでなく、歴史過程を通して殉教の祭壇で犠牲の祭物として血を流していった数多くの霊人たちは、善なる哀魂たちは私たちを眺めつつ全体の恨みを解いてくれと言っているということを感じなければなりません。私たちの喜びを、彼らは自分の勝利の一日を誓って捜しておいたのよりも、さらに大きな喜びとして感じることでしょう。そのような数多くの善なる先祖たちが霊界にいるということを私たちは忘れてはなりません。(一九七一・一〇・一、南山聖地)

 今日皆さんが祈祷するとき「私たちは神様の六千年摂理の歴史的結実です」と堂々と自信を持って語ります。それは正しいです。それなら、じっとよく見れば、その中には総合された歴史の光が輝かなければなりません。歴史に失ってしまい捜し出せなかったものを、新しい価値として収拾することのできる生命の要因が宿るようになるときは、自分がどこに行っているとしても、その本性は実を通して次に迎えることのできる春の日の新芽を中心として、新しい世界を迎えることができるのが自然の道理です。そこに何か特別に考慮や思いというものは必要ありません。自然にそうなるのです。だれが分かってくれるとかくれないとか、不平を言うとか喜ぶとかいう余地がないというのです。(一九七二・七・二、前本部教会)

 自分が結実体になろうとするなら冬の季節を通らなければなりません。この時代は収穫の時代であり、結実期です。
 冬の季節になれば北風寒雪(=北風と冷たい雪)が吹きつけてきます。そのような中で黙々と地の中に埋もれて新しい生命を繁殖させなければなりません。

 そのようにして実を結ばなければ、切らなければなりません。イエス様は結実がない無花果(いちじく)を呪いました。終わりの日のようすを見せてくださいました。終わりの日には切って新しい枝に接ぎ木しなければなりません。(一九六〇・一一・一三、韓・泰陵)

 皆さん自身を踏まえてみると、「お前はだれか?」と言えば「私は歴史的な実だ」と言うことでしょう。それは知っているはずです。しかし、何の歴史的な実ですか? 歴史的な実というのは、自分を中心として言うのではなく、来られる主を中心として、その方を標本としてその立場に代身して立つことのできる条件を備えなければならないのです。
 そのためには、内外な基準と絶対的に一つにならなければなりません。先生がいくら困難なときでも、神様を中心として絶対的に一つになったのと同様に、内的基準と一つにならなければなりません。もしその基準が希薄するときは、皆さんがすべてのものを除去させ、希薄するような基準をもう一度犠牲にさせなければ、どんなに仕事をしても効果が出ないことでしょう。(一九六六・七・四、本部教会)

 私たちは歴史的な結実体です。私たちが何ですって?(歴史的結実体です)その次には時代的な結実体であり、未来的な結実体です。とてつもないですね! そう、皆さんが歴史的な結実体だというのです。

 皆さん、それではこのような結実体が、ウジムシが食べ、虫が食って穴がぽかんと空いた果実ならいいでしょうか? ぱっと開けてみると真っ黒な種がころりと転がり出るリンゴがいいですか、その種がねばねばしてくっ付いたリンゴがいいですか? 実がよく熟したリンゴになりたいでしょう?(はい)分かるには分かるんですね。

 それで皆さんをぽかんと割れば、よく熟した果物の種のようなものが出てきそうですか? 皆さんの二世が間違いのない天の実になると思いますか? 皆さんの心の中を割ってみれば、よく熟した統一教会が出てきそうですか?

 その六千年の結実体が落果のように熟すことができずに落ちていいでしょうか? ただ風が吹くかと心配しながら「ああ、私が落ちそうだ。もうちょっとだけ吹いたら落ちそうなので、先生、揺らさずじっとしておかなければなりません」と言っていいでしょうか? ここにそんな連中もいることでしょう。反面、「先生が斧で強く殴って、枝を勝手に揺らしても枝が裂ける前には絶対に落ちません」という群れもいることでしょう。皆さんはどちらの連中に属しますか? 風が吹きそうで心配する連中ですか?(違います)ではどんな連中ですか?(揺すっても落ちない連中です)揺すっても落ちない連中?(はい)それ、よく言いました。本当にそうですか?(はい)笑う連中は駄目になってしまうのです。(一九七一・八・一三、清平修練所)

 ぜひ骨のある人として、骨のある男として、最後の結実体として、統一教会の結実体として、レバレンド・ムーンの結実体として、神様の息子の結実体としてだれにも恥ずかしくない堂々たる男になれというのです。


2 計り知れない恩賜の立場に置かれた私たち


 今日統一教会の教会員たちは「私は統一教会員だ」と言いますが、統一教会が現れるまでの歴史を見れば、受難の過程を経てきたということを知ることができます。人類の始祖が出発するその日から今まで、歴史的因縁を統合して現れたのです。統合する場合は悪い因縁を統合したのではなく、善なる人々の歴史的因縁を統合してその因縁を直系的に継承してきたというのです。これが神様が復帰摂理歴史をしてこられたみ旨だというのです。

 それゆえ、この道を行けばどうなるでしょうか? この道を行けば来られる主と出会うのであり、この道を行けば来られる主とともに天国に行くのであり、この道を行けば主とともに天国の王宮に行くのであり、この道を行けば天の国の息子と娘になることができるのです。ですからこの道が現れるまで、天はその背後で歴史的な受難と善の代価をどれほど多く払ったかというのです。蒔くのに比例してその結実になるのと同じく、受難の道を経てきながら、また蕩減復帰の歴史路程を経てきながら、どれほど多くの代価を払ったかというのです。このようなことを私たちは考えてみなければならないでしょう。ここには個人が動員され、家庭が動員され、氏族が動員され、民族が動員されているだけでなく、国が栄えるか滅びるかという問題が介在しており、またさらには世界が栄えるか滅びるかという問題が介在しています。(一九七一・五・二、前本部教会)

 今日統一教会員たちは、先祖たちがこのみ旨を残すためにどれほど多くの精誠を尽くしたかを知らなければなりません。今日原理が教えてくれる内容が事実であり、そうだと言えるまでは、その背後に数多くの聖賢たちが精誠を尽くし、生命を犠牲にして、今までこの一つの目的を持って一つの終着点に向かって歴史を走らせ、時代を収拾してきたというのです。このような立場にまで連結させてきて、最終的な交差点で互いに出会ったのがまさに皆さんだということを知らなければなりません。ですから奇跡があるとすればこれ以上の奇跡はないのです。

 原理の備えた内容が大変歴史的で、あまりにもとてつもないものなので、ここに一致しうる人格を備えられない人がこれに従い、これを心配しその周囲でうろうろするなら、それは恵みとして残されず、むしろその恵みが離れながらすべてのものを持っていくでしょう。これは決して簡単に考えてはならないことです。

 今日この恩賜は個人として消化させることのできる恩賜でなく、国と世界とともに消化すべきとてつもない恩賜なのです。これを考えるときに、「私がこの恩賜をどれほどありがたく考えるか」というのです。私がこの恩賜に対して腰をかがめるようになるときに、この恩賜が、先祖たちが百回千回腰をかがめて努力した土台の上に連結されたものなら、自分は千回万回腰をかがめても足らないということを感じようとする心を持たなければならないのです。そのみ旨を愛し慕うにおいて夜でも昼でも時間を加えるのに努力し、血と汗を流そうという努力があってこそ、先祖たちが私たちを訪ねて、その精誠を集めて受けた恩賜を私たちに任せるのではないかというのです。その恩賜が今日私たちを訪れた恩賜であり、そのような責任を負った私たちだというのです。(一九七一・五・二、前本部教会)


3 見事で誇らしい


 皆さんは外的に見ると、顔が平べったく耳がぼこんと落ち込んで薄幸に見えますが、霊界では皆さんを福っ子だと思っています。さらに十代圏内にいる先祖たちは気をもんでいます。なぜなら復帰歴史は十代を中心として成されるからです。ところが、もし悪い後孫が現れれば、十代圏内にいる先祖たちが「こいつ! お前が私たちを滅ぼそうとするんだな」と言って審判します。

 それゆえ、善なる先祖を持った後孫がここにいれば、先祖たちが積極的に協助するというのです。そのような立場に皆さんが立っているのです。そのような立場にいる皆さんが意気揚々と見事に闘って行く所ごとに、百戦百勝の戦績を立てるときに、霊界では永遠に永遠に喜ぶのです。このような皆さんになれば、雑神が現れても驚いて倒れることでしょう。そうなっています。それゆえ、このような先祖たちは皆さんに、王に侍るように侍ることでしょう。皆さんたちはこのような感触を感じなければなりません。(一九六四・四・一九、大邱教会)

 私たちは真のご父母様を中心として一つの真なる子女になったことが私たちの誇りです。ムーニーになったのが誇りです、ムーニーになったのが。今、皆さんがそうですか? 今後ムーニーとなることを誇るべきです。(一九八二・一・一、世界宣教本部)

 私たちは素晴らしい人たちです。世界がうらやましがり、天と地がうらやましがり、霊界のすべての聖人と賢哲たちがうらやましがることのできる堂々たる生涯を歩んでいる、天が捨てることができず、天が称賛するだけでなく訪ねてきて愛そうということのできる、そのような背景と内容を備えて生きる素晴らしい男たちだというのです。(一九八七・一二・五、漢南洞公館)

 皆さんは高い夢を持った人たちです。夢を探して前進している人だということを知らなければなりません。ですから、この時間きょうも、今年も、来年も、未来も一生の間夢を探して前進するのです。これがどれほど素晴らしい夢かというのです。この夢は世界と歴史において通じないものはなく、この夢の実現を歓迎しないものはないというのです。そのような夢の実現者として、一つの旗手として旗を掲げていで立つ人が統一教会の群れだということを、誇らしく思わなければなりません。(一九八一・一二・一、アメリカ)

 それで、今、どこに行きますか? 真っすぐ行かなければなりません。正しく行かなければなりません。行こうとすればぐずぐず行くのでなく堂々と、足取りも堂々と行かなければなりません。「私は自分中心的な人より統一教会の教会員がもっといい」と言い、額に「統一教会」を付けて行くのです。どれほど素晴らしいですか? どれほど素晴らしいかというのです。世界にはこんなことはないのです。どれほど素晴らしいですか!

 統一教会の世界になって神様が「お前、だれそれだな! お前、統一教会の活動を誇らしくやったか、恥ずかしくやったか?」と尋ねれば、そのとき神様の前で答えなければならないというのです。先生はくさい服を来ても誇らしく行くのです。私が以前、この靴がすっかり擦り切れたのです。それを私が誇らしくはいて行ったというのです。私が魚を取りにいっても誇らしく行き、どこに行くにも誇らしく行きます。私がだれも知らない冷遇を受けて行きますが、私の後には数多くの人がついてくることでしょう。間違いありません。来るなといってもついてくるというのです。何の話か分かりますか?(はい)どれほど素晴らしいですか?(一九八二・三・七、世界宣教本部)


4 幸福なる立場である


 皆さんがみ旨を知ってみれば無限に高いものであり、み旨を知ってみれば間違いなく天の息子・娘として天の皇族になるとはいえ、行く方向をどこに定めるのでしょうか? 祝福を受けることのできる立場で生きるときが近づいたのに、福を守れずに皆奪われればこじきになります。私たちは福を奪われる所に落ち着くのでなく、福を受けられる所に落ち着かなければなりません。その圏内に入らなければなりません。このように信じる部分から天が基礎を開くことができるのを先生は知っています。

 統一教会に入ればすぐに福を受けるのではありません。先生もやはり飯をもらい食いする苦痛も経験したし、また門前ばらいを受けるときもありました。

 皆さんは師の行く道が真であることを知りました。そして天が偽りでなく真であることも知りました。それなら、天に真実に侍らなければなりません。おなかのすく場に行けばおなかのすく人のように食べず、死ぬ場に行けば過去に忠臣たちがそのような場に行って切なかったのよりももっと切なく、彼らよりももっと懇切でなければなりません。そのような心情の主人公にならなくては天倫に対することはできません。(一九六四・三・一五、前本部教会)

 では、今統一教会の皆さんと昔のノアやアブラハム、あるいは洗礼ヨハネを比較するとき、だれがより幸福でしょうか? だれがより幸福ですか? 統一教会の皆さんが幸福だというのです。幸福な時が来るには来たというのです。見なさい。貴く育った洗礼ヨハネが毎日いなごとはちみつを食べました。しかし洗礼ヨハネがじっと座っているのにいなごが口にすっと入るでしょうか、飛んで入るでしょうか? ですから畔のような所にやたらに捕まえに通ったというのです。考えてみなさい。それが立派に見えますか? こんな姿を彼の母親と父親、親戚たちが見れば、あきれ返りますか、あきれ返りませんか? 考えてみなさい。どれほどあきれ返るでしょうか? はちみつを取ろうと岩の割れ目をどれほどさまよい歩いたでしょうか? 話を聞いたら格好よく見えるでしょう? 実際にやる格好を見れば狂った男だというのです。(一九七二・六・五、中央修練院)

 皆さんはイエス様よりも、神様よりも、先生よりももっと福を受けた人です。なぜそうかと言うと、先生は一生の間やったけれど、皆さんは六カ月以内にも全部できます。反対せず「統一教会全部、ムーニーはいい」という日には、何、半年もかかりません。反対せずに統一教会をいいという日には、何、半年もかからないのです。(一九七八・一二・二四、アメリカ)

 さあ、今からは統一教会の教会員になったことを・・・。もしレバレンド・ムーンの言葉が間違いなければ、統一教会の教会員になったのを栄光と考えるべきですか、絶望と考えるべきですか?(栄光と考えるべきです)(一九七五・一一・三、ベルベディア修練所)


5 幸福なる所である


 さあ、統一教会がなぜ幸福でしょうか? 私たちは宗教人であるので幸福だというのです。神様を中心として愛をモデルとして崇める宗教人だというところにおいて統一教会員は幸福な人だというのです。宗教人だといって幸福だという話は初めて聞くことでしょう。哲学とか科学とかいうのは、神様を中心として永遠で真なる愛を追求できません。ところが、真なる愛を追求する神様を差し置いては幸福はありえないので、神様を信じ、真なる愛を信じて立つ人はより偉大な人になるのです。ここで神様を発見し、神様の愛を発見できるというのです。ここで神様を発見し、神様の愛を発見できるという結論だけ出せば、歴史にない偉大な革命と偉大な新しい転換期をつくれるというのです。なぜ? 世界を幸福にすればするほど偉大な文化を創建できるというのです。それ、理解できますか?(はい)

 そんな意味で私たち統一教会員たちは幸福だというのです。本当のハッピー・ピープル(=幸せな人)ですか?(はい!)なぜそうですか、なぜ? なぜ?(愛)神様が私の愛の主体だと思っているので・・・。神様がいくら優れているとしても私の主体です。どうやっても私の主体以外にはなれないというのです。私がいくら優れているとしても私の主体以外になってはならないというのです。気分がいいですか、悪いですか?(いいです)それがどうして可能でしょうか? 天地を創造した神様の前で何も分からない私がどうして私の主体以外になれないと言えるのかというのです。真なる人という銃弾だけ打ち込んでおけばいくらでも可能だというのです。愛の本質は統一世界、一つになることです。(一九七七・五・二二、アメリカ)

 私たち韓国人たち、今統一教会の教会員もそうでしょう。統一教会の教会員である皆さんは今全部幸せですか? 幸福ですか?(……)幸福ですか、不幸ですか?(幸福です)不幸ですか、幸福ですか?(幸福です)

 問題が大きいです。幸福とはどんな幸福でしょうか? 幸福も千万通りです。小学校の子供たちはあいうえお、何、あ、か、さ、た・・・。それを試験問題に出すのに、「あ」を書いて次にさっとカッコして、そこに何を書けとしたときに「か」を一つ書いて百点もらえば喜ぶのです。それが幸せなのです。そうでありませんか? おなかのすいた人は、おなかのすいた人はご飯一杯で幸福なのです。

 けれども、その幸せは何の幸せでしょうか? 一日一日の幸せではありません。一カ月の幸せではありません。人生の幸福ではないというのです。ではどんな幸せを求めるのでしょうか? 永遠なる幸せ、永遠なる幸せです。その永遠なる幸せは耳にだけ聞き良くては駄目です。「それが歌のようで永遠に耳にだけいいんだな!」それは駄目だというのです。目にも良く、鼻にも良く、次には口にも良く、触っても良く、感じるにも良くなくてはならないというのです。そんな幸福を・・・。その幸福は少しの間でなく永遠なる幸福だというのです。(一九八七・四・一二、本部教会)

 この世の人々は、自分が好きな人を愛し、嫌いな人を嫌いますが、私たちはそうならないようにしようというのです。私たちは一方的ではなく四方的だというのです。統一教会の教会員がなぜ幸福でしょうか? このような意味で、神様の愛の理想を見習おうというので、どんな人よりも幸福な人だというのです。

 ではそうなのか調べてみましょう。皆さん、神様が本当にお父さんですか?(はい)皆さんが本当に神様の息子・娘ですか?(はい)その立場がいかなる立場ですか? いかなる立場ですか、その立場が? その立場をいかなる基準で願うのですか? 堕落する前、アダムとエバ以上の立場を私たちは願うのです。分かりますか? アダムとエバが堕落する前以上の立場でのお父さんであり、そのような立場での息子になろうというのです。私たちがそうですか? 私たちがそうですか、本当に?(はい)本当にそうですか?(はい!)

 宗教歴史において、だれも考えないそのような基準を私たちが希望しているので、それが成される日にはどれほど幸福でしょうか? それゆえ、幸福だというのです。それが成される所はサタンの讒訴もなくなる所だというのです。サタンと関係のない所だというのです。その立場で神様と愛の因縁を結べば、その息子・娘をだれが離していきうるでしょうか? そのような意味で統一教会の人々は幸福な人々だというのです。これが事実だということを私たちは知らなければなりません。今日、人類歴史で思いもよらず、体験できなかった神様の愛の深い世界を所有しようといで立った群れが間違いない群れなので、彼らは幸福であらざるをえないという結論は、当然な結論だというのです。(一九七七・五・二二、アメリカ)

 今日、私たち統一教会の教会員たちが統一教会に入って幸福感を感じるというのです。「ああ! 幸せだ!」と。けれども、その幸福が今入ったその立場で保障されるのではありません。その幸福を保障させるためには、必ず出発とともに結果まで全部自分の主管圏内でこれを消化させることができなければなりません。そのような主体的存在とならなくては結果的幸福を占めることはできないのです。幸福は勝利した基盤の上で保障されるという結論が成り立ちます。(一九七五・三・二、ベリータウン)

 さあ、それゆえ、幸福というものがどこにあるかという問題を私たちは考えざるをえないというのです、ここで。さあ、み言がある所に幸福があるのではなく、実践することに幸福があるのではなく、最後に勝利した後ではじめてすべての幸福は現れ、因縁を結ぶのだということが分かるというのです。聞くこと、暮らすことが幸福ではないというのです。(一九七五・三・二、ベリータウン)


6 食口の価値


 神様は永遠であられるお方です。ですから、そのお方がお立てになった法度を永遠にするために動くのです。これと同様に、私たち統一教会が一度出発したなら、永遠に、どんな困難があっても押し通し、その目的が成されるときまで死を覚悟して努力しなければなりません。そこに甲斐のある統一教会食口としての価値があるのです。皆さん、そう? そう、そうでない? そうですか、そうでないですか?(そうです)では、そうしますか、そうしませんか?(そうします)(一九七六・三・四、光州教会)

 では一つ尋ねてみましょう。統一教会に入って「ああ、私は統一教会に余計に入った。この世に出ていってもう一度暮らしてみたい」このように思ったことのある人は手を挙げてみなさい。そのような人がいないはずはないでしょう? いるでしょう?(いません)何の話か分かりますか? 皆さんが統一教会に入ったとき、間違いなく自分の生命とすべてのものと闘って奪って勝利して入ったかというのです。境界線がないというのです。皆さんはどうですか?(勝利してです)見なさい。皆さんがここに入って、統一教会に入っているのを実は知らず、統一教会も知らず黙っているのと同じように、どんな境界線もなく入って座っている人はいつでも出ていくことができるのです。

 先生は三十年の間、闘ってここまで来ているというのです。どれほど苦労し、どれほど非難され、どれほどなぐられ、どれほど嘲弄され、どれほど困難な道を耐えて訪ねてきたでしょうか? どんなに難しくても、死んでも行こうとしてこそその道を行くのであって、そうでなければ行くことができません。死んでも、どんなに難しくてもこの世に出ていってしまおうとは考えません。とても苦労し闘ってきたので、苦労し闘って来たこの立場なので、死んでもこの世を考える道理はないというのです。ここで死のうとするでしょう。ところが皆さんはそうではないというのです。皆さんはそうではないでしょう。ん? 皆さんはそうではないでしょう?(はい)なぜそうではないかというのです。生死をかけて自分のすべての努力で闘って勝っていないので、「出ていこう、何・・・」と言うのです。

 統一教会の価値を一番よく知っているお方は神様です。その次には?(先生)先生です。二番目によく知っている人が先生です。それなら、ここに千人いれば千の階級があるというのです。分かりますか?(はい)自分の感じたこと、自分の受けたことそれ以上の価値を感じることができないというのです。分かりますか、何の話か?(はい)統一教会から出ていって再び戻ってきた人はしりませんが、皆さんは統一教会から出ていっても少しも憤り、惜しく思うことがないでしょう。統一教会の価値をそれぐらいしか分からないのです。それが統一教会の教会員だというのです。(一九七七・六・一一、世界宣教本部)

 今からははっきり知りなさい。これをはっきり知らなければなりません。現在がどれほど重要であるか分かりません。私たちは天の軍隊であり、人類の軍隊です。善なる軍隊です。分かりますか?(はい!)このためにお父様が四十年間どれほど考えたか分かりますか? 時間ともたくさん闘いました。いつも忙しかったというのです。神様はご存じです。レバレンド・ムーンがどれほど悲惨であったか。それ以外はだれも知りません。はっきり知らなければなりません。皆さんは歴史的な重要な時点に来ています。お父様とともにこの時期に行動することが、どれほど価値あることかしれません。(一九八五・一一・一三、アメリカ)


六 統一教会を信じてから離れて休む場合


1 休むのは分からないから


 皆さんは今何かを論じる状況ではありません。することなく適当に散歩にでも出掛けるために来た連中ではありません。生死の決断をするために来た連中です。皆さん、そうですか? イエスの側で死にますか、皆さんの夫、皆さんの息子・娘の側で死にますか? ここのおばさんたち、どちら側で死にます?(イエスの側です)あなたたちも? イエス兄さん側で死にますか? どうですか? 「ああ、嫁にも行ってみずに死んでいいだろうか?」という人がいるでしょうが、何が結婚ですか? 皆ほうり出せというのです。神様が喜ぶことのできる土台にならなくては滅びるようになっています。

 先生が今まで一生を捧げて受難の道を行きながら迫害されたのも、それを知ったからです。「風よ吹け。吹く風が押しつけても、私は倒れない。暴風よ、吹きまくれ。私は戻ることを願わない。直行する」そんな暴風に苦しめられましたが、まだ気力と余力は堂々としています。この道を行ったのが、疲れて離れていった人がいますが、倒れていくのを私の目で直視しながらも、倒れることに同情せずに私は行ったのです。そうしながらこのくらい歩んできました。ここでもこれから多くの脱落者が生まれることでしょう。

 だれのために動くのかというのが問題です。自分のために統一教会を信じる人は離れるのです。「私は世界のために生き、私は国のために生きる。その国が生きる前には私は生きられず、その世界がみ旨を成した国を持てなくては私は生きられない」という心を持って、「私が死んでも一日も早くその国とその世界のみ旨のために私は行く」そう言える人でなければならないのです。(一九七一・一〇・三一、前本部教会)

 先生は粘り強い男です。粘り強い男です。皆さんのようなら、皆退いたことでしょう。このごろ統一教会に入ってきて離れた連中が反対し、やることを見れば・・・。その連中も私を見れば「ああ、素晴らしい男だ」と言います。市場に行っても一番最後に買い物をして、見物も全部してだれがよりきれいにしたかといって場所を振り返って来る人がその市場の主人になるのです。そうでしょう? 市場の主人になるのです。同じです。道の世界において統一教会に入ってきたなら、統一教会員以上の人になりたかったなら、統一教会の文先生が死んで統一教会が過ぎ去ったあとに、それを全部清算して葬儀をしてあげ、その次に私が行こうと言わなければなりません。そういう人は統一教会員以上の福を受けられるのです。人はそうでなければなりません。(一九七五・一二・三〇、前本部教会)

 統一教会に通ってから離れていく人は統一教会について三分の一しか分かりません。どういう意味か分かりますか? 統一教会に通って「ああ、私はもうくたびれた。大学院にでも行こう。出世がいい。神様が何だ。いるようでもあり、いないようでもあり、どうして分かるか? 霊界に行ってみなければ分からない」と言いながら離れていった人たちは、統一教会について三分の一も分からずに離れたのです。

 なぜ三分の一しか分からないというのかと言えば、先生について分からないというのです。そうでしょう? ですから、神様についてはもっと分からないというのです。分かるのはイエス様を中心として教えてあげたその内容しか分からないというのです。原理はイエス様を中心とした内容だけ教えてあげたのです。原理が教えている基準がどこまでかと言えば、イエス様を解怨して差し上げることです。分かりますか?

 イエス様を解怨してあげる内容を教えてあげたのであり、統一教会の文先生を解怨してあげる内容は教えませんでした。教えましたか、教えませんでしたか?(教えませんでした)ですから、分からないでいるというのです。それが分からないので、神様を解怨して差し上げるべき内容も分からないというのです。それゆえ、統一教会を信じてから気落ちして離れた人たちは、統一教会について三分の一も分からずに離れた人たちだというのです。点数で言えば、三三・三三三・・・点にもならないというのです。分かりますか? たとえば、ある人が大学を卒業しようとすれば、一年生を経て二年生、三年生、四年生課程を皆終えなければなりません。ところが、一学年半くらい通ってやめたなら、その大学と関係がありますか、ありませんか? 関係ないというのです。(一九七〇・一二・二二、前本部教会)

 学生が勉強せずに落第するといって、その有名な学校が悪くなるのではありません。落第生が多いほど有名な学校だと思わなければなりません。統一教会から人々が多く離れるといって、統一教会が悪いのではないと私は見ます。それを知らなければなりません。分かりますか?(はい)今離れていきますか?(いいえ)パスですか?(はい)多くの人々が離れていきました。多くの人々が落第の道を選んだのです。私が多くの困難を与えたのは、彼らを落第させるためではありません。(一九八一・一・一一、アメリカ)


2 離れてもまた入ってくる


 統一教会に一度味を占めれば離れられません。統一教会に一度味を占めたら離れられないというのです。男性が女性を捨てるなら捨てるでしょう。統一教会は捨てられないというのです。そんなあやしい力があります。それ、認めますか?(はい)(一九八八・二・一四、本部教会)

 だから統一教会に入ってきて、統一教会に味を占め、良心の本当の作用を持った人は出ていってもまた入ってくるようになっています。また入ってくるのです。入ってこずにはいられないというのです。後で悲惨になるというのを知っているので、離れられないというのです。出ていけないのです。(一九八四・五・四、イースト・ガーデン)

 統一教会を信じてから離れた人々がつらくて生きられないのはそれゆえです。これをさっと洗ってしまえば、洗い落とされればいいのですが・・・。み旨のために入ってきたなら、出ていくときはそれを洗わなければならないというのです。それが洗い落とされずに出ていくようになれば、(み旨に)引っ張られるのでいつも安らかではないというのです。(一九七一・一一・二八、前本部教会)

 統一教会に入ってきた人々は、どこかに出ていって生きることはできないというのです。今度、私が韓国に行ったら、統一教会から離れた人が、先生が来たという知らせを聞いて「ああ、自分の心では会いたく思うのに行けないんだな」と言いながら泣いているという知らせを聞きました。それは何の話か分かりますか?(はい)統一教会が水がいい(=新鮮だ)とかどうとか言いますが、これが新鮮な水ですか?(はい)(一九七八・一一・一九、ベルベディア修練所)

 統一教会に通った人が統一教会を離れたとしてもほかの教会には通えません。出ていっても宗教を持つようになれば統一教会にまた帰ってくるようになっています。それはなぜそうかと言えば、統一教会の行く道が、ついていくには大変でもやりがいがあるのに、他の宗教はばからしくて信じる味がでないので、行く所がないというのです。もしほかの所にでも行くことのできる道があるなら、先生が先に行ったことでしょう。(一九七〇・一〇・四、前本部教会)


3 離れて休む食口たちの事例


 今日、統一教会に入ってきた人たち、じっと見れば離れていく連中とはどんな連中でしょうか? 「ああ、み旨はいいけどいつみ旨が成されるのか!」という人たちです。お化け(=おかしな人)です、お化け。(一九六八・二・四、前本部教会)

 先生が統一教会を信じてから離れたある人から悲壮な報告を聞きました。この道はどうせ行くべき道なので、仕方なく帰ってきたと言いながらまた受け入れてあげるのかというのです。

 み旨を中心として見るとき、ここには答えることのできない内容があるというのです。世の中を全部回ってみて、あらゆることをしてみましたが、行く所がなくてまた帰ってきたというのです。しかし、今でもまた帰ってきたのはいいけれど、彼が行く道には受難があるのです。過去に困難だと思ったそれ以上の困難があるはずなのに、どうやってそれを越えるかというのです。

 そこに対する責任を負えるのか自ら考えてみて、自問してみろというのです。その責任を負えるのなら私は十回でも許してあげることのできる雅量を持っています。けれども、責任を負えないときも許してあげれば、彼に二重の罪を負わせることになります。だから私は答えられずに黙々としているだけでした。何の話か分かりますか? 出ていくときには立って出ていきましたが、また帰ってくるときにはそうできないというのです。(一九七〇・七・二八、前本部教会)

 さあ、最近エックス・ムーニー(=統一教会を信じてから離れた人)たちがインタビューしたのをラジオで放送したのですが、エックス・ムーニーが言うのに「私たちエックス・ムーニーもレバレンド・ムーンを支持する。レバレンド・ムーンが私たちを認めてくれることを願う」と言うのです。では、その人たちがなぜ離れたのでしょうか? 昔、皆離れて、自分が誤ったとは言わず、統一教会が悪いという話をするのがエックス・ムーニーでしたが、今は自分が悪くて離れたと言うのです。そんな話は初めて聞きました。(一九八二・五・二三、ベルベディア修練所)

 統一教会を信じてから出ていった人たちを、今も・・・。先生がいつか道で一度出会いました。私は平気です。彼が出ていったとは考えません。いつでも帰ってくれば受け入れる姿勢をして行くのです。ところが、彼が私を見てくるっと背を向けるので、横に私が行くと涙を流しながら「先生、私はこうなりました」と背を曲げてのどをつまらせて泣くのです。なぜそうでしょうか? 愛に対する背信者は宇宙力の作用によって自分の姿勢を正しく扱えないのです。偉大な力がそこに作用しているというのです。

 それゆえ、統一教会を出ていった人々は、先生に対して反対する人がいません。協会長が憎くて、だれかが憎くて私が出ていく、統一教会のそいつを見るのが嫌で・・・。そう言っているというのです。彼らは原理のみ言を聞き、自分の家庭を飛び出して、母親と父親が反対するので塀を乗り越えて行き来した人たちです。(一九八八・一・一、本部教会)




















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統一教会員の道


統一教会と食口たち



第二節 統一教会員の道


一 三つの類型の道


1 善悪を中心とした三つの類型の道


 人間は大体、三つの類型の道を行っています。その一つは、善に逆らいながら善と反対方向に行くのであり、また、一つはこれでもあれでもない緩衝地帯のような道を行くものであり、また他の一つは善の目的を指向しながらその責任を負おうというものがまさにそれです。言い換えれば、善と反対する道を行く人、無害無得な道を行く人、善の目的のために生命まで捧げる道を行く人がいるというのです。

 では私たちは、今どんな道を歩んでいるのでしょうか? 過去にはどうであり、現在はどうであって、今からはどんな道を行くべきなのでしょうか? 善の目的のために、生命を捧げる道に行かなければなりません。そうして、ある一時が来れば葬送曲を歌って、この人間世界にある悪の要素を追放させなければなりません。

 皆さんはとても難しい道に入ってきました。一旦入って知るべきことを知ってみれば、行くまいとしても、行かざるをえない道だということが自ら分かるのです。この道は中間状態の道でもなく、善と反対する道でもありません。絶対者と因縁を結んでいくべき道であることを悟らなければならないのです。

 宗教的に見れば、悪を指向する反逆の道、ただ良心的な道を標ぼうする道、そして最高の善を指向する道があります。ここで良心的に生きるのは神様のために生きることとは違います。過去の歴史を通して見るとき、悪の道もあったし、良心に立脚した人倫道徳の道もありました。このような歴史的な背景は、私たちをして因習に染まって絶対的な道を行けなくさせます。過去の習性から抜け出られないようにします。皆さんはこのような習性を果敢に切ってしまい、いで立たなければなりません。

 どうせ人間はどこかに行かなければなりませんが、どこにどう行くべきなのでしょうか? 言うまでもなく、神様のための、絶対者のための道を行かなければなりません。これは、天地が変化するとしても、決して変わることができません。ところが皆さんは、今だに自分の一つの問題からも抜け出せずにいます。体は悪に近く、心は良心に近いです。まだ数多くの人々は、果たして神様がいらっしゃるのかと疑う立場にあります。しかし神様は妄想的な存在ではなく、実存され、活動されるお方です。

 三通りの道がありますが、この中で第一歩はどこに行くべきでしょうか? もちろん人は神様のため、絶対者のための道に行かなければなりません。それなら、神様のための道を行くのに、どう行くべきなのでしょうか? 国のために生きるにもいろいろな分野があるように、天の道を行くのにもいく通りかの道があります。僕の道もあり、養子の道もあり、子女の道もあり、父母の道もあります。では、どういう道に行くべきなのでしょうか? もう少し高尚に、もう少し価値あるように行こうとすれば、どういう立場を取るべきなのでしょうか? 僕の立場を取ることもできます。しかし、すべての犠牲を覚悟して進むときは、僕の立場で行きたくないはずです。神様もやはりそのように行けとは勧告されはしないでしょう。兄弟の立場? それでもありません。養子の立場? これもやはり神様も皆さん自身も願わないのです。(一九六一・一〇・二九、前本部教会)


2 三つの愛を成していく本然の人生の道


 今、行く道は三つの道があります。三種類の道があります。皆さんが父母の道をどう行くのか? それを知らなければなりません。私たちの復帰歴史がそうです。その次には新郎新婦の道をどう行くのか? その次には子女の道をどう行くのか? そうではないですか? その三つの愛が神様が訪ねてこられる重要なポイントだというのです。

 それゆえ、父母の愛、夫婦の愛、子女の愛、この三つの道を通して見るとき、皆さんは今どんな道を行っているのかというのです。それをいっぺんに行くことができないなら、子女として行くことのできる愛の道を行くとか、その次には先生を夫として皆さんは妻のような立場で夫婦の愛を持って行くことのできる道を行くとか、あるいは自分が父母の心情を持って代身して子女を育てるような愛の道を行くとかしなければなりません。このような三種類の愛が統一教会にあるようになっています。分かりますか、何の話か?(はい)(一九七二・一〇・一五、前本部教会)

 前に話した三つの道の中で、どういう道に行くかというのは、皆さんの決心いかんにかかっています。皆さんは十分に自分の行くべき道を行くことができなければなりません。

 「お父様、私のところにおいでください」と言うことのできる子女が多く現れなければなりません。来たくても子女がいなくて来られないお父様であられます。「今までサタンゆえに来ることができなかったお父様! 早くおいでください。どれほどご苦労されたでしょうか? 来られて栄光をお受けください」と言うことのできる勝利の王子にならなければなりません。そのような王子として神様の前に敬拝を捧げられる者であってこそ、天国に入ることができます。神様の来られる道を築き、ねぐらを用意するために、「お父様、私たちと相談され、私たちを指揮してください」と皆さんは進み出なければなりません。

 神様はこの美しい三千里綿繍江山(=韓国)を限りなくお訪ねになりたかったのに、サタンゆえに来ることができませんでした。今、皆さんが天国をつくっておき、「早く、おいでください」と言わなければなりません。そうしたいですか?(はい)ではそうしましょう。

 皆さん、これだけは忘れないでください。三通りの道があるということ、そして私たちは神様のみ旨を中心とした善の世界に責任を負う道を行かなければならないということをです。先生もこれを知ったので、今までこのことをしてきたのです。私は決してただでは死にません。たとえ私が死ぬとしても、小さな横枝が伸び、新芽が生えてみ旨は成されることでしょう。それなので、このみ旨の道を行くにおいて、先頭に立つのを少しも躊躇しないようにしましょう。(一九六一・一〇・二九、前本部教会)


二 統一教会員が行くべき道


1 神様と統一教会員の道


 統一教会が行く道は文先生のために行く道ではありません。皆さんは今まで文先生についてきましたが、文先生についてきたのではありません。神様についてきたのです。神様についていかなければならないのです。ここで神様を否定するようになれば怨讐です。もし文先生の前から神様を取ってしまえば、死ぬほうがましだというのです。文先生の前から人類を取ってしまえば死ぬほうがましだというのです。

 それゆえ、順応の法度においては、神様を中心としてこう行くべきだ、世界的に個人はこう行くべきだ、家庭はこう行くべきであり、氏族はこう行くべきであり、民族はこう行くべきであり、国家はこう行くべきであり、世界はこう行くべきだということを、論理的な思想体系をもって展開させるべき使命を背負ったのが、この文化世界に対する統一教会であることは間違いない事実です。文先生の終着点を踏むのを願うのではなく、神様にどのように出会うのかというのです。(一九七四・四・二八、前本部教会)

 神様は皆さんが行く道の前で、闘いに責任を負い、皆さんを引っ張って行くべき責任を負っているのです。それが易しいでしょうか? その闘いがどんな闘いなのか考えてみなさい。私一人の個体を守るためにはどんな闘いをしなければならないでしょうか? 世界を防ぎ止めなければならないのです。そうではないですか? 世界だけではなくその国を防備しなければなりません。また、国だけではなく氏族とか、家庭の環境を防備しなければなりません。それらを防備する前には神様が私を連れていけないのです。ですから、神様は私一人を導くために世界的な戦線を死守しなければならないのです。(一九七一・一一・一四、前本部教会)

 今、レバレンド・ムーンが教え、レバレンド・ムーンが行きたいのは、神様が宇宙とともに作用し、宇宙とともに住み、宇宙とともに一つになりうるその道です。その道を捜し出そうというのです。それが統一教会です。分かりますか? それは理論的に認定しないわけにはいかないのです。摂理ということ、分かるでしょう? 摂理はこのような道を言うのです。(一九八二・二・二一、アメリカ)

 神様が行く道と人間が行く道は、異なることができないのです。もちろん、サタンと人間は違います。(一九七一・一一・一四、前本部教会)


2 統一教会員が行くべき運命の道


 今日、皆さんが行くべき道はどんな道でしょうか? 失ってしまった歴史的な私の祖国解放のために、祖国光復(=祖国の主権回復)の日を迎えるために、失ってしまった本郷の地を訪ねていく道です。その日を迎えることは、古今東西を問わず、歴史的なすべての人の願いであるので、文化の最高の目的であり、人類の望みの中の望みであるので、その日は必ず来なければなりません。神様ゆえに来なければなりません。(一九六四・一〇・六、全州教会)

 宗教を信じる人々は、神様の国を成すために行く群れたちです。それゆえ、犠牲を本質にしない宗教は偽の宗教です。さっとこんな結論が出てくるのです。分かりますか? これを知らなければならないのです。「ああ、私的なことはこのようになっているな・・・」体は地獄に直行する何ですって? 鉄道、レールです。心は天国に行く何ですって? 鉄道です。もう、分かったのです。ですから、今、鉄道運転手にならなければなりません。そうなろうとすればどうすべきでしょうか? 人のために犠牲になっていかなければならないというのです。運転手になるのに、個人的に運転し、個人を早く通過すべきでしょうか、個人にとどまるべきでしょうか? 個人を通過しなければならないというのです。

 個人が犠牲にならなくては家庭を引き継げず、家庭が犠牲にならなくては氏族を引き継げず、氏族が犠牲にならなくては民族を引き継げず、民族が犠牲にならなくては世界を引き継げないのが原則です。それゆえ、宗教は犠牲になるようになっているのです。終わりの日までです。世界的な宗教国家圏が成されるときまで、耐える者は救いを受けると言ったのです。

 私たち統一教会はこの公式的な法度に従うのです。個人は家庭のために犠牲になれというのです。サタン世界の家庭ではありません。神様が理想とする家庭のために犠牲になれというのです。神様が理想とする家庭というのは、今日大韓民国圏内にあるそんな家族ではありません。そんな意味から、統一教会では世界的な国民たちが一つになって祝宴をするのです。家庭をつくるのです。違っているというのです。(一九七二・五・一四、水澤里)

 統一教会員たちはどこに行くのですか? どこに行くのですか? ああ、統一教会の教会員たちはどこに行くのですか? どこに行くのですか? 自分の運命のふろしきがまだらなのは、すべて個人の運命ですが、統一教会に所属すれば、統一教会の運命の道を行かなければならないのです。それは正しいですか、正しくないですか?(正しいです)正しくないです、この人たち。本当に、合っていますか? 私もよく分かりません。本当に合っていますか?(はい)

 そう、それでは本当にどう合っているのか少し話してみなさい。それ、合っているというのです。今、話した内容をよく見れば正しいでしょう。統一教会の運命の道は、皆さんがふろしきを包んで行く個人の運命の道と違うというのです。ところが、個人の運命の道で私が青い眼鏡をかけたので、統一教会員も青い眼鏡をかけなければならない!」こんなのではありません。

 多くの宗教は全部、天国に行って自分の福を受けるためのものですが、統一教会の運命の道は違います。福を受けて行くのではなく、罰を受けて行くのです。どうしますか、それが運命なのに? 分かりますか? 福を受けて行きたいのですが、罰を受けて行く運命ならばどうするかというのです。

 さあ、皆さんたちはどこに属していますか? 自分の運命の道に属していますか、統一教会の運命の道に属していますか?(統一教会の運命の道)統一教会の運命の道。分が時間に属していますか、時間が分に属していますか? 分が?(時間に)分かるには分かっているのですね。また、時間が日に属していますか、日が時間に属していますか?(時間が日に属しています)時間が日に属しています。また、日が月に属していますか、月が日に属していますか?(日が月に属しています)分かるにはよく分かっていますね。そうなのです。(?)

 統一教会員たちが座って「全部、伝道に出て開拓伝道をし、ああ、それ、なぜ毎日するのか。それをしなくてもいいのに、何、先生に全部ついていけばいいじゃないか。ああ、私は蕩減復帰、嫌だ。蕩減復帰、嫌だ。ただ、人のように暮らして、世の中で人のように、やることをすべてやりながら行けば、どんなにいいか。それ、何、いたずらに統一教会、蕩減、蕩減! それは足らなく、間抜けなやつがして、私たちのように利口で、博士のような人は何、やれない」と言うのです。しかし、こんな運命の道を私たちが行くのです。(一九八一・一〇・一八、本部教会)

 私たちは行ってから背を向けることができません。どうせ、永遠を置いて世界の果てまで行ってから回り回ってもとに帰らなければならないのです。回り回ってもとに帰ってくるようになっているのであり、果てに行けなくては、回り回ってもとに帰ってくるようになっていないのです。それが神様の愛が作用する法則です。分かりますか? ですから死んでも行かなければなりません。死んで霊魂があったなら、その霊魂も行かなければならないというのです。これをパスしてこそ神様が創造した本然の理想天国に入るのです。死んで再臨復活してやりますか、今やりますか?(今です)(笑い)

 さあ、この公式が分かりました。私を愛し、お前を愛し、あの人たちを愛して、その次にはどうしなければならないでしょうか? このような愛、すなわち父母の愛、夫婦の愛、子女の愛、この三大神様の愛を家庭の垣根の中に持つのではなく、世界全体に作用するのが、統一信徒たちの生活様相だということを知らなければなりません。

 皆さんは、ユニバース(=宇宙)をもっと愛さなければなりません。夫よりもユニバースを、子女よりもユニバースをもっと愛さなければならないのです。「ああ、私をもっと中心にしてしてほしい」これでは、神様の愛が来ないというのです。私を中心にしては、神様の愛に到達できません。神様の愛に到達するために私たちは行くのです。それゆえ、お金をもうけても、子どもたちのために私たちの家のためにもうけるのではなく、世界のために宇宙のために神様のためにもうけなければならないというのです。これはどんなに素晴らしいですか?

 ユニバースが生きれば私たちの家庭は自然に生き、神様が喜べば私は自然にうれしくなるのが原則です。愛を中心としてすべて与えたので、そこから私に補充してくれるようになっているのです、自動的に。分かりますか、何の話か?(はい)
 その原則は間違いありません。絶対的にそうなっています。これが統一教会の教会員たちが持つことのできる公式です。(一九八三・三・一三、ベルベディア修練所)


3 復帰の道と原理の道


イ)復帰の道とは


 この世界をただそのままにすれば、神様が立てようとされた創造理想の永遠なる愛の世界を成せないので、絶対者であられる神様は、本来意図された創造理想を実現させてこそ、神様の本来の権威を取り戻すことができるので、その立場を基準にし、悪なる世界を収拾して本来理想とした本然の世界に導いてこられるのです。これが堕落した世界に対する神様の摂理なのです。

 このような摂理路程に必要なのが復帰の道だということを皆さんは知らなければなりません。言い換えれば、堕落した人間は、復帰の道を行かなくては個人完成の道を越えることができないのであり、復帰の道を行かなくては家庭完成のみ旨を立てることができないというのです。また、家庭完成の道を越えなくては、民族完成や世界完成はありえないのです。復帰の道を通じてのみ個人、家庭、民族、国家、世界が完成されるということを考えるとき、この復帰の道を行くことが堕落した人間においては、必然的な運命だということを知ることができます。これを私たちは原理を通して習っているのです。(一九七二・一〇・一四、水澤里)

 復帰の道を行こうとすればメシヤが必要なのであり、病気が治るためには条件物が必要なのです。こうなるのです。分かりますか?(はい)復帰するには医者が必要であり、その次には条件物が必要であり、期間が必要です。「薬を三日は飲みなさい。一週間治療をしなければならない」そうですか、そうではないですか? そうなっているのです。それなら、病気になった人はメシヤを代身して、救い主を代身して、信念を持てというのです。代身者になれ。分かりますか? 救い主が言う言葉、医者が言う言葉を自分の言葉以上に信じなければなりません。

 それゆえ、私たち統一教会の原理を見れば、復帰するためには祭物が必要です。祭物には期間が必要で、その次には条件物が必要です。その次には、アダムを代身する存在が必要だと言ったでしょう? 息子の代身の存在、メシヤの代身の存在、それを代行できる存在、それは何かと言えば・・・。

 医者が指示したことを死んでも守ることのできる人になれば、彼はアベル的な存在になるのです。実感できますか? 実感しますか、しませんか?(します)それゆえ、統一教会の文先生が嫌いでも、好きでも、先生が言う言葉を絶対視し、「私は先生の代身者だ」というようになれば、統一教会のアベルになるのです。

 その次には何をしなければならないって? 条件物を立てなければなりません。薬を飲まなければなりません。薬を飲むとき、横になって飲めと言えば横になって飲み、跳ねながら飲めと言えば跳ねながら飲まなければならないのです。なぜ、跳ねながら飲めと言うのか、それは自分がその立場に置かれてみる前には、分からないのです。医者に直接なってみる前には分からないのです。そうでしょう? かんで飲めと言えばかんで飲み、中身を取り出して飲めと言えばそう飲まなければなりません。夜に飲めと言えば、夜に飲まなければならず、あのポプラの木のてっぺんに上がって飲めと言えば上がって飲まなければなりません。(笑い)なぜ笑いますか? 条件物を立てる場合は、絶対順応しなければなりません。このようにする場合は期間が必要です。これを皆さんが知らなければなりません。

 復帰する場合は救い主が必要であり、すなわち医者が必要であり、その医者の言葉を中心として絶対条件を、期間を・・・。これが統一教会で言う、いわゆる蕩減復帰の道です。分かりますか? 復帰する場合はただ復帰しないのです。何をすると言いましたか? 蕩減復帰をするのです。十ぐらい使えないようになったなら、それを直すためには十ぐらいの苦労をしなければなりません。十年かけてかかった病気なら、その病気が治るためには、十年以上の年月がかかったとしてもしなければなりません。

 では、復帰するにはどうするのでしょうか? ただするのではなく、原理原則に従ってするのです。条件を提示するときは医者が勝手にするのではありません。薬を調剤するとき、この薬、あの薬気ままに入れるのではありません。原理原則に従って入れるのです。このように行く道が復帰の道です。そうなるのです。

 さあ、もう結論を出しましょう。復帰の道を行こうとすれば、どう行かなければならないでしょうか? 一人で行けないのです。分かりますか?(はい)復帰の道を訪ねていかなければなりませんが、一人では行けないので、メシヤに出会って訪ねていかなければならないのです。分かりますか?(はい)

 そのメシヤに会ったらどうしなければならないでしょうか? 復帰の道に入ったら原理原則を選んでいかなければならないのです。救世主、医者に出会った後は、その医者の言葉を中心として原理原則を選んでいかなければならないのです。復帰の道は訪ねていくべき道であり、原理の道は踏んでいくべき道である、結論出ました。分かりますか、何の話か? このようにしなくては、神様の理想世界、あるいは神様が喜ばれうる理想的な相対世界、愛の世界は私たちの妄想に過ぎません。これを知らなければなりません。

 ですから復帰の道に入った私たちは、その道を訪ねていかなければならないのです。では、皆さんは復帰の道をどう行かなければならないでしょうか? 復帰の道には、個人を復帰するための道があり、家庭を復帰するための道があり、国を復帰するための道があり、世界を復帰するための道があります。天と地、霊界でもため息をついています。統一教会の術語で言えば、天宙復帰すべき責任があります。そして神様がどんなお方なのか、神様をよく知らなければなりません。神様を復帰してこそ神様の愛の段階まで行くのです。復帰の道がこのように残っていたんだ、というのです。分かりますか? 「何、私はイエスを信じて天国にさえ行けばいい」と言うのは、幼稚園だけ行けばいいという話と同じです。

 人間が堕落することによって、復帰の道を行かなければなりませんが、その復帰の道を行くためにはメシヤを捜さなければなりません。ところが、メシヤに似ている者たちがたくさんいます。けれども真は一つです。神様が個人を中心として世界代表、歴史代表、あるいは人類代表の道として行くことのできる道は一つです。その道は一つであり、二つになることができますか? 一つだというのです。そのような一つ、一番最高を中心として糾合してきたのです。

 今日、堕落した世界では似たものはたくさんありますが、真なる一人の人が現れなかったために再臨理想があるのです。終わりの日に来られるそのお方は過去を代表し、現在を代表し、未来を代表して個人完成の標準として来られるのです。そうして、個人完成することのできる調剤と投薬の方法を教えるのです。その次に家庭完成し、氏族完成、民族完成、世界完成の方法を教えるのです。そんな総責任を負って来られるお方がメシヤです。分かりますか?(はい)

 個人が完成をするためには、個人的な十字架の道を行かなければなりませんが、その十字架の道は祭物の道です。もし、皆さんがその十字架の道を嫌だと言えば、個人完成の道を見いだせないのです。(一九七二・一〇・一四、水澤里)

ロ)復帰の道を行くためには


 復帰の道を行くためには、どう行かなければならないでしょうか? 復帰の道はむやみに行けません。必ず神様が願われる復帰の目的を達成するためには、まず個人の完成のための標準型を立てて行かなければならないのです。その標準型は本来意図した基準をすべて越えたものでなければなりません。神様は、標準的な個人を通して、標準として立てることのできる家庭と、標準として立てることのできる国と、標準として立てることのできる世界を願われるのです。このような道が今日、復帰の道において神様が私たち人間に追求なさろうとするみ旨の道だというのです。(一九七二・一〇・一四、水澤里)

 神様はどう生きるのでしょうか? 神様は全世界のために生きるのです。神様はどう愛するのでしょうか? 全世界を同様に愛します。神様はどう幸福なのでしょうか? 全世界の人々が授け受けながら喜ぶのを見て幸福に思います。それが神様の生きる方式です。神様もこのようにしてくるのです。

 だから復帰路程は反対に上がっていくのです。堕落しなかったなら、ここからこれが全部このように出てくるでしょうが、堕落したために筋が分かれました。ですから、これを殺してしまってこれを肥料にして、ここから逆さまにして、ここにくっつけなければならないのです。これを反対に発展させようとすれば、私よりも全体のためにしなければなりません。私より以上に全体のためにすることのできる理想がなくては、逆さまに上がっていく道がないというのです。私たちは個人的に強力でなければならず、家庭的に強力でなければならず、氏族的に強力でなければなりません。そうして、反対に突破して上がっていかなければなりません。(一九七五・八・三、アメリカ)


ハ)復帰は個人から


 今日、皆さんが復帰の使命の分野を拡大してみれば、個人復帰の使命の時代があります。まずは、個人復帰を完成しなければなりません。個人復帰を完成することは個人復帰完成のみで終わるのではありません。個人復帰を完成するのは家庭復帰完成のためです。そういうことです。お尻にぶら下がったものを全部、引っ張り出さなければならないのです。私一人、引っ張り出したなら、それを拡大させて家庭を引っ張り出し、氏族を引っ張り出し、民族を引っ張り出さなければなりません。これがサタンを追い出す方法です。すなわち、奪い取ってくるとか、追い出すとかしなければならないというのです。(一九七三・九・二三、中央修練院)

 統一世界観はどこから出発するのでしょうか? 皆さん個人から出発します。個人もやはり分かれています。体と心に分かれていますが、いつも害を加えるのが何かと言えば、体です。いつも害を加えるのが体なので、心が体のしようという通りに従っていけば、必ず心の世界は征服されてしまいます。いつも害を被らせるのが体だというのです。(一九七二・五・一四、前本部教会)

 神様に目的点を置くにおいて、「ああ、私はこの宇宙を訪ねなければならない」と言いながら宇宙から始められるでしょうか? 違います。それなら宇宙まで行くにおいては、一番直短距離がどういう道かということを考えてみましょう。どこから出発しなければなりませんか?(個人から)個人が問題なのです。では個人が出発するにおいて個人が勝手に出発できますか? 違います。神様がいるなら、神様と個人は墨糸を弾くのと同様に・・・。これは目的点であり、これは出発点だというのです。

 ですから、一番直短距離がどこでしょうか? ですから、どんなに広いといっても私個人からです。それならば、私の心が一つにならなければなりません。だから、神様が私たちの心に「世界復帰のために体と一つになれ」と命令するのです。
 心と体が一つにならなければ、心は心の通り行き、体は体の通り行き、別に行き来するのです。それでは一つの目的地に向かって行けません。ああしたりこうしたりする人は、成功できません。ですから、皆さんが遠い所を出発する前にまずすべきことは、体と心が一つになることです。

 それゆえ、私たちが行くべき道において、初めの段階が何かと言えば、体と心が一つになることです。心は体の道を通して行くのです。そうして、どこに行くべきでしょうか? 方向がどうなっているかというのです。一番近い方向がどこでしょうか? 家庭です。家庭には父母がおり、妻子がいるということを知らなければなりません。これらが一つにならなければなりません。これが一つにならなければなりません。相対圏が一つにならなければならないという結論が出てきます。(一九七四・一・六、ベルベディア修練所)


二)復帰の道は定められている


 復帰の道は本来、しっかり定められています。そのプログラムは、たった一歩も譲歩できません。一歩も譲歩できません。それを知り、皆さんの中に適当に考えて自分が出世しようと考える人がいるなら、消え去るのです。私がそこに巻き込まれません。先生が初めは、いくらか足並みをそろえてあげますが、結局後で彼が利用されたという結果に陥るようになるならなるで、私が利用され、ひっくり返りはしないというのです。だからと言って、統一教会の文先生個人の目的のためにそうするのではありません。世界と天と地のためにです。この思想を皆さんが持って進んでいかなければなりません。

 皆さんが個人標準とか家庭標準をすべて達成することはできません。果たしきれません。皆さんの一生の間に、それをすべて果たせますか? このくらい来るのに六千年がかかりました。数千年の間、天と地が人類を動員して成してきたのを、一代に果たしきれないというのです。ですから何をしなければならないでしょうか? もっと大きな世界のために死ね、み旨のために犠牲になれというのです。神様のみ旨のために犠牲になろうというのです。犠牲になってからよい暮らしをしようというのです。よい暮らしをしますが、「私一人よく暮らすのは嫌だ。お父様と全体がよい暮らしをしなければならない」と言わなければなりません。これがみ旨の道です。そう生きる人は、犠牲になりになって、さらに犠牲になっても、滅びそうでも滅びないのです。(一九七一・六・二七、前本部教会)


ホ)三段階復帰の公式


 皆さんはサタンから自らを分立してサタンに勝たなければならず、神様の愛圏内に入らなければなりません。そうしてから神様が皆さんの隣人と兄弟と全世界を救われるために皆さんを犠牲にさせようとなさるその心情を体恤しなければなりません。この三段階が神様の公式です。(一九七一・一二・一四、カナダ・トロント)

 皆さんは三段階の公式を記憶しなければなりません。すなわち、 サタンから自らを分立させた後に神様の愛圏内に入って 他の人のために自らを犠牲にしなければならないというこの三段階公式を記憶しなければならないのです。勉強をするときにも、皆さん自身だけのためにするのではなく、神様のために全世界を救う目的で勉強しなければなりません。(一九七一・一二・一四、カナダ・トロント)


ヘ)復帰の道は開拓していく道


 復帰摂理の道は悔しい道であり、恨めしい道であり、かわいそうな道です。その上、善を訪ねていく者には犠牲の道です。このような道に私を導くために、天は先にどれほど多くの苦労をしたでしょうか? 今、皆さんたちはこれを知って、神様と直接的な関係を結ばなければなりません。また、神様を推してみるときに、どれほどかわいそうな神様であられるかを知らなければなりません。かわいそうな神様、その神様の哀れさがどれほどでしょうか?

 また、神様のみ旨を抱き、万民を救うためにこの地上に来られたイエスの悲しみは、どれほどのものだったでしょうか? 憤まんやるかたないイエスであり、かわいそうなイエスでした。どんなに悔しく、どんなにかわいそうだったか分かりますか? そのイエスに従った聖徒たちもかわいそうな道を行きました。ですから、どれほどかわいそうですか? これを皆さんが思い出さなければなりません。

 皆さんは神様と統一教会の関係を考えないで、神様と皆さんの関係を考えつつ行かなければなりません。(一九六三・一〇・一六、大邱教会)

 皆さん、統一教会に入ってどれほど深刻になったことがありますか? 深刻になったことがありますか、なったことがありませんか? 先生はこの道を開拓するためにどんなに深刻になったでしょうか? それは分からないでしょう? 原理を探す道がどれほど深刻であり、それを探して知った後に、それを実践する過程でどれほど困難を選んできたか・・・。男が決心をしたなら、それを実践しなければならないのです。実践過程において億万のサタン、見えない霊界のサタンが動員され、サタンの操縦を受ける見える実体が動員されて総攻撃をしました。そんな過程を乗り越えていくべき復帰の道を考えるとき、先生は胸が詰まったでしょうか、詰まらなかったでしょうか?(一九八七・一一・一、龍仁研修院)

 復帰路程は下から出発しなければなりません。打たれて奪ってくるのです。打たれるということはめちゃくちゃになるのです。いわば、存在価値を失ってしまうことを意味します。しかし、自分の本性以下に下りていけば、サタンが打つことができません。自分の本性以下に下りていった者は、天が哀れに思うからです。そんな人を打つようになれば、天が対策を立ててくださいます。

 万宇宙を復帰するためには、福を復帰しなければなりません。福は公的な物です。ですから、皆さんは世界的な公的基準で祭物にならなければなりません。先生はこじきを見ても同情しませんでした。しかし、今からは彼らの話に同情して、彼らに新しい道を開いてあげようと思います。(一九六一・一一・一、前本部教会)

 皆さんは「真の生命を与えようとする。受けたそれ以上の数百倍のものを与えようとする」と言わなければなりません。また、「サタン、お前もこれを知っているので、讒訴できないだろう」と言わなければなりません。このような条件を立てておいてこそ別事がないというのです。

 復帰は受けてするものではありません。復帰の道は開拓していく道です。サタン世界のものを受けては復帰の歴史を成せません。天の物を与えなければならないのです。与えるときは、何を与えなければならないでしょうか? 真なる心情を与えなければならないのであり、真なる人格を与えなければならないのであり、真なるみ言を与えなければならないのです。(一九六四・四・一九、大邱教会)

 復帰の道には、値引きというものがない。私たちがこの世の中に来るときは一人で来たけれど、行くときは一人では行けないのです。たくさんの人たちをつれていかなければなりません。人間は社会を離れて生きられないのです。イエス様が、裏切った弟子たちを訪ねていった理由もここにあるのです。強盗一人だけをつれていくしかなかったイエス様の悲しみを、私たちは知らなければなりません。このような事情を知る立場から、私たちは自らを整えなければなりません。(一九六四・六・二〇、東九陵)

 個人が犠牲を覚悟し、前後左右の歴史的な存在を生かすために、個人を無慈悲に打って追いやるべき運命の道が復帰の道であり、今まで神様が訪ねてくる行路になっているというのは、歴史に照らしてみるとき、否定できない事実です。

 民族を動かすなら、民族を動かして世界的な闘争過程に、世界的な舞台の上に立たせて私たちは世界に散らばっている怨讐を早く待ち受けようというのです。打たれるときはどう打たれるべきでしょうか? 非難、嘲笑、すべて受けろ、無視されろ、蔑視、疎外されろというのです。(?)


ト)原理の道は一つだけ


 レバレンド・ムーンは「私は行く」と言うのです。どこに行くのでしょうか? 一つの道を訪ねていくというのです。では統一教会の教会員たちはどこに行くのでしょうか? 一つの道を訪ねていけますか?(はい)皆さんが原理の道を訪ねていくことができますか? 皆さんはついていかなければなりません。ついていくのです。「ついていくのに、夜になろうと、どうなろうとおなかがすけば、ご飯でも食べてついていこう」と言えば、だめなのです。夜、ご飯を食べたらサタンの条件に引っかかるというのです。これは大変です。夜、ご飯を食べたら条件に引っかかって、パスになったとしても落第するのです。そうしてもいいなら、私が夜、はなっから宴会をしながらこの仕事をするのであり、夜眠らずに目を赤くしながら狂った人の役割をなぜするのですか? 条件に引っかからないためにです。これを知らなければなりません。

 統一教会を創始した文某が行くべきそのような道があるのです。その道は前にだれが行くのでしょうか? 神様が行くのです。そして後ろにはサタンがついてくるのです。サタンは条件さえあれば、引っかけて打つというのです。この条件をどう逃れるかという闘いです。言い換えれば、三十八度線を越えるためには地雷でも、何でも、すべての妨害物を踏まずに行かなければなりません。それ、ために生きようというとき、自分勝手に行くべきですか? 地雷があるというときは、地雷がないところに回っていくべきであり、勝手に行ってはならないのです。

 その道は一つしかありません。天国に入っていく道は、二つではありません。一つしかありません。今日、堕落した世界において、この世界を全部収拾して一つの道に行けるよう、天の使者を送って道を築くなら、その築いた道は二つの道ではありえないのです。統一教会の道が二つありえないのです。お分かりですか、何の話か?(一九八五・一二・一五、本部教会)

 統一教会は、こうしても一つの道を行かなければならず、ああしても一つの道を行かなければなりません。どんなにくるくる回って行ったとしても、結局はその道を行かなければなりません。千年万年億万年かかったとしても、この道を行くべき人生であるのは誤った話ではありません。

 堕落した後孫は、その編み針の先に全部かかっています。ここで生きて行けない日には、死んでも行けないのです。それをはっきり知らなければなりません。千年万年かかっても、回り回っても行かなければなりません。分かりますか?(はい)

 原理の道が一つであるからには間違いなく・・・。この道を行く場合は一つだといって、勝手に行けません。勝手に走っていけません。雲の柱が導き、火の柱が導いて荒野を経ていった歴史的事実を知らなければなりません。

 神様が前に立たなければなりません。その民族にサタンの讒訴条件があるときは、神様が前に立てないのです。それを知らなければなりません。民族を引っ張っていくにおいて、民族が、サタンが讒訴しうる落とし穴に引っかかっている限り、引っ張っていけないというのです。

 イスラエル民族が四十年の間、荒野に停止したのは・・・。イスラエル民族は神様が立ててくださった絶対的な目標、カナン復帰を中心として一心団結し、千年万年の事情を踏み越えることのできる決意の下で、その距離が遠くても突破しようという決意を誓うべき民族でした。それにもかかわらず、民族的決意が鈍るようになったとき、サタンが侵犯するようになって、すべての大衆が前進できなかった歴史的事実を知らなければなりません。

 だから原理の道を踏んでいかなければなりません。六十万という群衆が行くときは、モーセが行くその歩みに合わせて行かなければならないのです。分かりますか? 自分勝手にする人は落後者になります。落後者になれば、荒野時代が再び回って来なくては、霊界で行く道がないということを知らなければなりません。それが周期的に回ってきます。何百年ぶりに、あるいは何年ぶりに。待ってから行かなければならない霊界のむごたらしい実情をはっきり知らなければならないのです。それを私がはっきり知っているのでこのことをしているのです。(一九八五・一二・一五、本部教会)


4 七年路程


 私たち統一教会の教会員たちは、だれかれなしに七年路程を越えていかなければなりません。聖書に七年大患難があるでしょう? 個人的な七年大患難、家庭的な七年大患難、民族的な七年大患難、国家的な七年大患難を経なければなりません。この七年大患難を一度に収拾して個人的、家庭的、民族的、国家的、世界的に越えていく期間がまさにこの期間です。(一九六三・八・一一、前本部教会)

 七年大患難、その大患難という言葉が本当に合うというのです。そのとき、耐えて残される人がないというくらいに本当に難しい道です。皆さんがもしその道を始める日には一遍に迫害がきます。一遍に迫害が来るというのです。すべてのことが自分の思う通りになりません。全部、反対です。だから僕の立場、僕のような人になるまいとしてもならざるをえません。なるまいとしてもならざるをえない立場にまで追い込むというのです。それでこそ終わるのです。(一九七七・五・一、ベルベディア修練所)

 今日、統一教会の信徒と今後この理念を訪ねてくるたくさんの人々は、すべてこの七年路程を越えなければなりません。行かなければならないというのです。そうでなくては、失ってしまった天的な心情を取り戻してくる復帰の心情を継いでいくことができません。神様がそうしてきたし、先祖たちがそうしてきたし、先生がそうしてきたので、皆さんもその道をたどっていかなければなりません。これが国家的な基準まで越えれば、短くすることができます。七年が七カ月になりうるし、七カ月が七日になりうるというのです。この使命が完結される前までは、世界史的な七年大患難が残っているのです。

 皆さんが、この七年期間にすべき使命は何でしょうか? 個人的な勝利の主管権を備えなければならず、家庭的な勝利の主管権を備えなければならず、氏族的な勝利の主管権を備えなければならず、民族的、国家的な勝利の主管権を備えなければなりません。しかし、堕落した後孫である皆さんは直接七年路程の道を行くことができません。だから、神様は主を立てて、霊界と肉界にそのような道を築くようにし、皆さんを行かせるのです。復帰路程がこのようになっているという事実を皆さんは知らなければなりません。(一九六五・一・一、前本部教会)

 統一教会の食口たちにおいて七年路程は、先生が民族の運命を決定づけることのできるアベル的な路程に同参する期間です。先生が東に行けば東についていき、西に行けば西についていって、皆さんは葉になっても、枝になっても、落ちずに折れずにいなければなりません。(一九六六・一二・一一、前本部教会)

 「統一教会に入ってから何年になりましたか?」「入ってから十年になっただろう」「十年になったなら年数は私より多いけれど、何をしたの?」「何をするって、統一教会を信じたさ」「信じたけどどうなったの?」「どうなったって、何がどうなる、おいてみればただそのままだ」えい、こいつ! 信じないより劣るというのです。こぶを取らなければなりません。そして膏薬を張らなければなりません。嫌でもよくても引っくり返さなければならないのです。じっとしていていいでしょうか? だめなのです。

 それゆえ、統一教会が行くには、個人が行く道、家庭で行く道、氏族で行く道、国家で行く道、世界で行く道、天地で行く道、神様の愛で行く道、このようにさっと出ているというのです。間違いなく、選んで行かなければならないのなら、世の中は統一されずにいますが、霊界に行っては何億千万年かかったとしてもその道についていかざるをえない原則になるのです。

 ところが、死んでから行けば億千万年かかるけれど、生きて行けば七年の間に行ける! どちらを選びますか? 生きて? 生きて行くのにただ笑って踊りを踊りながら行けばどれほどいいでしょうか? そうなってはいません。(一九七二・六・四、前本部教会)


三 天の道を行くための私たちの姿勢


1 先生が見られた統一教会員の道


 統一教会の信徒たちが訪ねていくべき道はどんな道か? いわゆる人間たちが唱えている、平和の旗が翻ると主張するそのような場ではなく、人間たちが一番嫌う場、人間たちが一番避けていく場を訪ねていかなければなりません。訪ねていくときはどんな格好で? 六千年間訪ねてこられたお父様の格好を代身して訪ねていかなければなりません。私たちが涙を流すときともに涙を流されながら、涙を流す私たちを慰労しようとするお父様であることを知らなければなりません。ですから皆さんは、涙を流すその心情を抱きしめ、皆さん自身がたとえ涙を流す場に置かれているとしても、涙を流すかわいそうな者を抱きしめ、「泣くな、お前の前途には希望があるので泣くな」と慰めながら彼らに幸福を、彼らに希望を、彼らに事情を、彼らに心情を移してあげることのできる群れにならなければなりません。それでこそ、天の相続を受けることができます。天地の相続を受けることができるというのです。そうしてこそ、地と天の権勢はもちろん、地獄の権勢までも支配できるのです。

 それゆえ、私たちは行かなければなりません。歴史的な思潮が私たちの目前に近づいているのが事実であるからには、皆さんは行く所ごとに、心と思いと精誠を尽くして行かなければなりません。心と思いと精誠を尽くす所には、どんな問題もすべて解決されます。世の中のすべてのことが皆解決されるという話です。そのほかのことは問題がないというのです。(一九六一・二・一二、前本部教会)

 今日、私たち統一教会の教会員たちはどうすべきなのでしょうか? 開拓していかなければなりません。開拓していくときは個人的な願いの道を開拓し、個人的な事情の道を開拓し、個人的な心情の道を開拓しなければなりません。そうしてこそ、家庭の道、氏族の道、民族の道を・・・。それでこそ、来られる主が一段階先立っていくというのです。先立っていけば、その後ろ盾になるため、民族的時代を迎えたなら、自分の氏族的な責任を完結して天の願いの基準を中心として一体化しうる統一された位置に立っていなければなりませんが、それがまさに統一教会員たちが行くべき道だということを、はっきり知らなければなりません。(一九六四・五・一、前本部教会)


2 統一教会員の道は難しい道


 統一教会は「世界を復帰しよう! 世界を導き、神様を先に立たせて行こう! 神様が統一教会を導いて行くのと同時に、統一教会は世界を導いて行こう!」と言うのです。ですから、大変だというのです。易しいことですか、難しいことですか?(難しいことです)どれくらい難しいことですか? 「私一人は犠牲にならなければ。私一人死んで世界を生かさなければならない」全部がそうであるべきです、全部が。統一教会の連中は、「私一人犠牲になって世界を神様の前に導けるようにしなければならない。神様にあの人たちがついていけるように、世界のために私を犠牲にしてもそれをしなければならない。夜でも昼でも一生の間、私を投入して生きながら、死ぬときまでしなければならない」そうであるべきです。そんな結論が出てくるのです。分かりますか?(はい)

 統一教会を信じることが易しい道だ、難しい道だ? どうですか?(難しい道です)どのくらい難しいですか?(とてもです)耳を塞がなければならず・・・。五官のすべての感覚が生きていてはぶつかるというのです。生きて死んだしかばねのように行くのです。生きて死んだ人のようになったので、いつでも行くのです。死のうとする者は生き、生きようとする者は死ぬと言ったのがその話なのです。(一九八一・四・五、アメリカ)

 これから私たち統一教会の教会員たちはどんな方向に引っぱっていくのでしょうか? ここで先生は、皆さんに率直に話します。統一教会の行く道はついていくのが難しいので、固く腰ひもをしめなければなりません。はらわたがあるのかないのか分からないくらいに、しめなければならないようになっています。そうして、何か、いい服を着ては行けないようになっているのです。家庭なら、家庭の女中の足の一番端から出発です。皆さん、女中をよく使うでしょう? 「おい、水持って来い!」、「はい、王様」それをすべて改めなければならないのです。そのような新しい思想的な何かが出て来なければならないのです。あの糞尿を汲み取る人たちの足もとから出発しなければなりません。そこからどこまで出て行くのでしょうか? そこから自分を磨いて、どこまで? 世界の端まで行ける、このような試験過程を経なければならないのです。それゆえ、ここに入ってきてよくよく知ってみれば行かざるをえません。(?)

 さあ、統一教会の行く道が易しければ、皆さんが残っていそうですか? 皆さんのように、足らない者たちがです。それを知らなければなりません。(一九七八・一一・一九、ベルベディア修練所)

 神様を訪ねていく道は難しい道です。難しくなければいけません。そうでしょう? 難しい道が福を受ける道です。難しいことに私が責任を持つと言うのが、神様の息子、娘になる近道です。先生も労働をしてみたし、物乞いをする人にもなってみたし、袋だたきにも遭ってもみたし、冷遇を受けてもみました。貧民窟に入っていって暮らしてもみたし、乞食を助けてあげたりもしました。とはいえ、安物の先生ではありません。(一九六一・七・一七、前本部教会)


3 天の道を行くとき、取るべき心の姿勢


 統一教会の教会員として真なる道を行く人は、天をつかんで地をつかんでおこうとしてもおけません。神様の息子・娘になる道を訪ねて行く人は、統一教会の文先生がいくら意地悪くしたとしても、放そうとしても、放すことができません。また、神様もこの世界を復帰するためには、文先生を放そうとしても放すことができないのです。手をつかんだとするなら、しっかり握れというのです。しっかりと握ってこれを成さなければならないというのです。世界の人たちもそうしなければなりません。(一九七一・六・二七、前本部教会)

 皆さんが愛せない人に対して「私が神様の名前でだれよりも愛する」として、天地に対して宣言することができる自己を発見できる境地にまで、歯を食いしばって行かなければならないというのです。接することのできない人を真心で接することのできる立場まで私が行こうと、神様の名前で行くことができると言って、努力しなければなりません。(一九七六・六・一三、ベルベディア修練所)

 皆さんは人が分からない迫害の道を自ら進んで訪ねてきました。出発した道が滅びる道ならしりませんが、そうではないと言うならば、この道をはじめて進み出たその日の決心を捨てないでください。その日の決心を・・・。

 この道を行くところには暴風雨が強く吹き寄せ、いばらの道があるでしょう。しかし皆さんが望んでいくその道には、天の血痕がにじんでいるのを知らなければなりません。皆さんが行く道は、決して皆さん自身だけが行く道ではありません。皆さん自身は初めて行く道ですが、神様はその道を何千万回も歩まれました。その道にはその方が歩かれながら流した血痕があるということを知らなければなりません。

 アブラハムもその道を行ったし、ノアもその道を行ったし、モーセもその道を行ったし、イエスもその道を行ったし、イエス以後に数多くの聖徒たちもその道を行ったとするなら、皆さんはその道を行くのが嫌ですか? それなら、天上に行って罰を受けなければなりません。その道を行こうとすれば、天的な伝統を立てるという心情がなければなりません。一歩を踏み出す度ごとに、先祖の血が煮え返るということを感じ、とげが私の体にかするときには、先祖の血肉を裂いたそのとげが私の体を裂くのを感じなければなりません。

 そのように行った人は、時代的な個人とはいえ、一時代にとどまる人物ではありません。六千年の間、父とともに行った者になるのです。ですから皆さん、この道を行ってから手錠に縛りつけられて捕らわれの身になったとしても、恐れ多く涙を流す人になるようお願いします。「あなたが訪ねられたこの道、この場に不肖で滅亡するしかない罪人の後孫であるこの身が、こんな栄光なる場に参席できるとは、恐れ多く存じます。数多くの殉教者たちが神聖な血を流したこの基盤の上に、汚らわしいこの身が足を入れることができるとは、恐れ多く存じます」と言わなければなりません。(一九六〇・一〇・二、前本部教会)

 先生の命令ゆえに行くのではなく、皆さんが行くべき道を行くのです。それゆえ、「先生が命令してくださるので感謝します」と言わなければなりません。(一九六九・一二・二二、前本部教会)

 私たち統一教会員たちは自ら進んでその道を行かなければなりません。神様が追いたてて行くよりも、自ら進んで行こうというのです。イエス様は弟子たちが責任を果たせず悲しかったので、私たちは自ら進んで責任を果たそうというのです。自ら進んで家庭を離れ、自ら進んで教会を離れ、自ら進んで国を遠ざけるようになれば、それがすぐみ旨のために闘う一線になるのです。(一九七〇・一二・二〇、前本部教会)

 では、天の聖門に行くには行かなければなりませんが、それをどう訪ねていきますか? どのように訪ねていくのかというのです。ですから、絶望であり、失望です。いつ、どこでも行けと言えば、行かなければならないのです。行かなければならないのです。このようにすべて準備しておいたのに、行くのが嫌ですか? では、泣きながら行きますか、笑いながら行きますか?(笑いながら行きます)落胆して行きますか、希望に満ちて行きますか? どうなのですか?(希望に満ちて行きます)仕方なく行きますか? 無理やりに行きますか、自ら願って行きますか?(自ら願って行きます)返答はうまい! そこに行くときには勇気がなければないのです。(一九七九・一一・一一、アメリカ)


4 天の道を行く秘訣


 私たち統一教会が行く復帰摂理の道において、その骨髄の思想は何でしょうか? 祭物についていく道です。これを皆さんは知らなければなりません。祭物はどんな物でしょうか? 「あなたは心をつくし、思いをつくし、精神をつくして、主なるあなたの神を愛せよ」といいました。心をつくし、思いをつくし、精神をつくせというのは、どういうことでしょうか? 首を差し出せというのです。結論は簡単です。首を差し出せというのです。生命を差し出して神様を愛するのです。

 生命を差し出すときに嫌がりながら無理やりに差し出すのではなく、気が狂うほど喜んで差し出せというのです。(一九七一・九・五、前本部教会)

 どうせ、人間が行かなければならない本然のその道を行くために乗り出した私たちは、すべてのものを捨てて行かなければなりません。まずは物質を捨てなければならず、次には父母と子女、すなわち家庭を失ってしまわなければならず、そして国家と世界まで失ってしまうという道を行かなければなりません。(一九五七・九・二二、前本部教会)

 皆さんが統一教会の原理を聞いたとして統一教会員になるのではありません。そんな人は順番にも入れません。統一教会員になろうとすれば、どうしなければならないでしょうか? 直行しなければなりません。原理のみ言を聞いて直行して復帰すべきことを全部踏んで上がっていかなければなりません。皆さんが原理のみ言を聞けば何をしなければならないでしょうか? 活動をしなければならず、命令に順応すると同時に先生について研究しなければなりません。先生の胸をつき抜けて直行できなければ、神様の前に行ける直行の道を捜せないのです。(一九六九・九・三〇、前本部教会)

 いずれにしても、皆さんはこの道を行かなければなりません。行くときには直行しますか、回り道をしますか?(直行します)回り道をするのはだれでも行けます。そんな道は、そのまま行けるし、だれも干渉しない道です。けれども直行する道は峠の道です。直行する道は待ってあげる時間がないのです。(一九六九・一一・一五、前本部教会)

 先生自身も生活をしていくときに、信仰をしていくときも必ずある標準を中心としてそこに一致しうる行路を歩いていかなければなりません。それは絶対的な標準なので、絶対的な立場、深刻な立場で対していかなければなりません。万一、その標準と方向が行き違うようになるときは、統一教会も長くないということは言うまでもないのです。

 それゆえ、私たちの生活環境においても、歴史時代においても、いつでも個人が一つの標準を中心として、一体にならないときには、除かれるのが原則です。万一、甲という人がある標準を中心として出ていって、その標準と一致しえず、中間で断ち切れるようになるときには、自分よりその標準にもっと近い立場で一致しうる人がいるなら、その人にその立場を譲ってあげなければなりません。このようにして、発展していくのです。

 今日、私たち統一教会の行く道を中心としてみるとき、ここには、個人として行くべき道があるでしょう。個人個人として信仰していくべき道があるでしょう。その次には、家庭が行くべき統一教会のある標準があるでしょう。統一教会の食口なら食口として、氏族なら氏族として。統一教会員たちが行くべき道の標準があるでしょう。のみならず、統一教会員たちが成すべき社会があるなら、社会としての行くべき道があるでしょうし、統一教会員が成すことを願う国として行くべき変わらない標準があるでしょう。その基準に一致しうる国家がなければならないでしょう。統一教会が夢見る理想の国、すなわち地上の天国がなければならないでしょう。歴史とともに変わるのではなく、歴史は変わったとしても変わらない確定的な、個人、家庭、氏族、民族、国家、世界が行くべき絶対的な標準が制定されるべきでしょう。

 それなら今日、私たちが統一教会員として行くべき道をどう行かなければならないでしょうか? 個人が行くべき、個人はこうこう生きるべきだという個人の標準があるでしょう。家庭はこうこうに生きるべきだという家庭の標準があるでしょう。あるいは、国家ならば国家の標準があるでしょう。その世界の標準と神様の標準が一致するとき、神様のみ旨の成就と私たち人類のみ旨の成就が一致するのではないのかというのです。

 このような問題をおいてみるときに、皆さんが統一教会員として個人的標準に一致しうる生活をするのか、家庭的標準に一致しうる生活をするのか、あるいは、氏族が行くべき標準に一致しうる生活をするのか、あるいは民族として行くべき標準、国家として行くべき標準、世界として行くべき標準の中のどんな標準に一致しうる生活をしているのかというのです。このような問題が信仰者にあっては重要な問題でないはずはないのです。(一九七一・六・二七、前本部教会)




















▲ 目次へ

統一教会員の使命と時


統一教会と食口たち



第三節 統一教会員の使命と時


一 統一教会の連中とは何か


 私たち、統一教会の連中は全部、何をしようとするのですか? 何をしようとして皆集まったのですか? 皆さんは何をしようと集まりましたか? 世界と授け受ける愛の生命を与えるために来ました。結論が出ました。その生命力を中心として神様と交流し合えるというのです。その愛を持って神様と対等な立場に立つことができます。どれほど偉大かというのです。それがレバレンド・ムーンが神様から受けた人類歴史上、最初の一つの是認なのです。それは歴史以来にだれも受けられなかった歴史的な贈り物です。それを伝授しようというのです。何の話か分かりますか?(はい)(一九七九・九・二三、ベルベディア修練所)

 「ムーニーは何をするのか? 何をするのがムーニーか?」と尋ねてみれば、「酒を飲まず、タバコを吸わず、とてもすっきりとして、化粧品も使わず節約して、退廃的なアメリカの若者たちよりも節約して、世界を助ける、これがムーニーだ」と言うとき、どうなるか考えてみなさい。この運動をすれば世界は、どのようになりますか? それがいいですか?(はい)(一九八二・五・九、ベルベディア修練所)

 では、統一教会の教会員たち、神様が願うのが何であり、私が願うのが何ですか? このように集まって何をするのですか? 集まって何をしようというのですか? 真の愛を持った真の父母がいないので、真の父母を訪ね、真なる夫婦がいないので、真なる夫婦になる訓練をし、真なる子女がいないので、真なる子女になる訓練をしようというのです。そのほかにはないのです。ここに一回かかって入れば、永遠に、永遠に・・・。永遠なのです。永遠に愛するというのです。(一九七七・三・二七、ロサンゼルス)

 では統一教会は一体何をする連中なのか? 統一教会は何をしようとする連中なのか? 統一教会は神様を中心として生きようという連中だというのです。神様を中心として生きる場合は、商売をしながら生きようというのですか? 生きるのもいろいろなのです。何をして生きようというのですか?(愛)愛しながら生きようというのです、愛しながら。だれと?(神様)神様とだけ? 愛しながら生きるには神様を中心として、私の体と心が、私自身がうれしく生きようとしなければならないのです。こうなります。(一九八七・五・三、本部教会)

 さあ、このムーニーたちは何かと言えば、レバレンド・ムーンの弟子ですが、何になりますか? 羊になるべきですか、山羊になるべきですか?(羊です)(笑い)異議がないのです。(一九八三・一・九、ベルベディア修練所)

 統一教会が何をする連中かということを知らなければなりません。サタンの秘密を、サタンの愛を個人的になきものにするキーを持っていて、家庭的になきものにするキーを持っていて、国家的になきものにし、世界的になきものにするキーを持っているという連中が本当の統一教会員です。サタン世界で勝利して天の愛のキーを持たなければならないのです。(一九八四・一・五、アメリカ)


二 内的使命とその使命の価値


1 内的使命


 終わりの日の皆さんにはどのような使命があるのか? 宇宙的な価値を代身できる実体復帰のために、準備してきた歴史的な天的な価値を引き継いで実践するべき責任があるのです。(一九五七・七・二八、前本部教会)

 私たち人間が今日するべきことは何か? まずサタンの讒訴を免れなければなりません。そして「さすがあなたは神様の息子であり、神様を所有できる資格があり、神様と一体的な関係を成す神様の息子」であるとイエスのように証されうる一日を迎えなければなりません。(一九五六・六・二七、前本部教会)

 今日、統一教会について来ている群れたちの使命が何かと言えば、心情の鎌で裂けた自分を統一させ、分離された天情と人情を統一させることです。私たちの体全体は鈍い鎌の刃先であるとも、収穫するときに使われる道具としての実体にならなければなりません。このような私たちの実体を通して今日、滅び行く世界を正しく導き、神様の心情を中心として新しい世界に越えていかなければなりません。それが統一教会の教会員たちの使命だということを知らなければなりません。(一九六八・六・九、前本部教会)


2 とてつもない私たちの使命


 今まで韓国の地で迫害の路程を歩いてきた取るに足らないこの統一教会の群れが神様が、現在、世界をおいて眺められる所願の中心となる一つの自体であると考えてみるとき、これはみ旨を中心とした現在の立場から見ると、この上なく貴重で驚くべき恩賜だと言えば恩賜だといえる反面、恐ろしいことだと言えば恐ろしいことだと言わざるをえないのです。

 今日、統一教会がそのような立場に立っているとするならば、統一教会の現在は貴重でとてつもない、世界的な事件を迎えた立場だというのです。私たちが今まで歴史を回顧してみるとき、その歴史は悲しみの歴史として連続されたけれど、今日この統一教会を中心として現れた現在は悲しみの歴史として連結されてはなりません。悲しみを転換させて喜びの結果を誓わなくてはならない、それでこそ歴史時代にない一番重要な現在、この時点にならなければならないのではないかというのです。

 では、流れ去った歴史時代にみ旨の道、あるいは摂理のみ旨に従ってきた歴史上の数多くの先祖たちと、今日このみ旨に対して現れた統一教会の私たち食口を比較してみるとき、過ぎし日の先祖たちが精誠を尽くし、忠誠を尽くしたそのすべては、結果的に神様の願いの前に期待できない歴史を残し、むしろ悲しみを加重させたことになってしまいました。それゆえ、今日、天の喜びと願いを再現させるべき使命が統一教会にあるとするなら、統一教会員の個々人に任された使命というものは、とてつもないものであらざるをえません。ゆえに、私たちはどんなことがあったとしても、神様を再び落胆させてはならないのであり、喜びと願いの一念を神様の前に提示しておかなければならないのです。私たちにはこのような歴史的な使命があるということを今一度悟らなければなりません。

 過去にたくさんの先知先烈たちが来ては逝きましたが、彼らが自分の過去を回顧してみるなら喜びはしないでしょう。それはすべて流れてしまうべき過去です。また、歴史時代に自分の民族が素晴らしかったと自慢できる文化圏を持った民族だとしても、そのよかった過去は自慢するものにはなりません。それはすべて神様の悲しみの中で消え失せてしまう事件に過ぎないというのです。

 ですから、私たち統一教会は、歴史時代の貴いすべての文明と数多くの先知先烈たちがみ旨に対して忠孝の情熱をすべて注ぎ、死の道を行ってまで苦労して築いておいた、そのすべての事柄を神様の深い心の中で喜びとして残せる回顧の条件として残すことができなければなりません。このような責任が私たちにあるとするなら、今日統一教会の一員として受け持ったところの責任はとてつもないというのです。(一九七〇・一二・二七、前本部教会)

 私たちがこの民族の前に鞭を打たれるのは私たちが悪くてではありません。歴史上に来ては逝った悪なる先祖の血族に生まれたために迫害を受けるのではありません。だれよりも成功する時代的な運と歴史的な因縁を持って生まれましたが、神様はこのような少数の群れを打って民族が受ける悲しみを蕩減させるのです。すなわち、世界の思潮に拍子を合わせて滅ぶしかない群れのために、私たちが代身、打たれることによって民族が打たれるべきものが蕩減されるからです。

 今日、私たちはこのような内容が分かるので、悲しいときや困難にぶつかったとき、自分を中心として涙を流さないために地を叩きながら誓って出てきました。飢える場に入っていき、生死の交差路に入っていくときにも、自分が死んで行くのが惜しくては、涙を流さなかったのです。私たちが死ねば、この民族の行く道がどのようなもので、この民族の前途がどのようなものかという問題を中心として涙を流してきた厳然たる歴史的な事実を知らなくてはならないのです。

 きょう、統一教会に初めて来た人たちがいるかもしれませんが、統一教会がこんなとてつもない使命を持って出発し、このような使命に立脚して闘ってきた歴史を持っているという事実をはっきり知らなければなりません。私が打たれ、追われ、迫害されるのは、統一教会が打たれ、追われ、迫害されるのは、私たち自身のためなのではありません。これはこの民族が打たれるべきものを代身して打たれるのです。また、神様が善なる立場で私たちを叩かれることによって、民族を許してくださるための、聖なる愛のみ手なのです。(一九六九・一・二六、前本部教会)

 今日、統一教会はこのような二十世紀後半期において新しい理念を唱えて来ました。この群れが天の復帰歴史路程を代身してきたとするなら、一つの作戦計画において新しい時代の使命を担ってきたとするなら、打たれなければならないというのです。追われなければならないというのです。世の中のさまざまな迫害と苦痛を受けなければならないのです。

 このような立場に置かれている今日、この統一教会の教会員たちの責任と使命が見た目には何でもないようです。しかしながら内的な意味においては至大なるとてつもない天的な責任を担っているということを皆さんは知らなければなりません。(一九六四・七・一七、前本部教会)


三 統一教会員の使命


1 サタンを追放しなければならない使命


 真の父母が、この地に来たのですが、真の父母の家庭と真の父母に従うすべての統一教会の教会員は何をしなければならないのか? 地上にサタンが讒訴しうる権限を解消しなければならない歴史的な使命があります。(一九八六・一・一、本部教会)

 では、サタンを追放すべき責任をだれが負わなければならないのか? 私が、統一教会の教会員の私が負わなければなりません。サタンを屈伏させた後にこそ、神様が干渉することができるのです。これを知らないのです。分かりますか?(はい)この怨讐を叩きのめした後にこそ、「私の息子だ。私の娘だ」と言えるのです。その時こそ干渉するのです。天理がそのようになっているのです。

 今日、世の中でも自分の子息が罪を犯したので、その父、母が代わりに罪を負えますか?

 その父、母が自分の息子が死刑囚になったとしても、「我が息子・娘の代わりに私が死刑になるので許して下さい」そんなことができますか?(できません)そんな天理は受け入れられないのです。罪を犯したら、罪を犯した人が蕩減しなければならないのです。罪は神様が犯したのではなく、人間が犯したので、人間が天理天倫に背いたそのような許されえない罪を犯したので・・・。(一九七六・三・三、春川教会)


2 イエス様が関係した使命


 イエス様がこの地でどのような生涯を送られましたか? お生まれになるときも、馬屋で生まれられ、お暮らしになるときも、追われて冷遇を受けながら、亡くなられるときも、十字架に釘を打たれて亡くなられました。ですから彼が「十字架の道」を通過したその心情を感じなければならないことが、今日統一信徒たちの前に置かれた課題なのです。(一九五九・六・七、前本部教会)

 天国に国境がありますか? この世界は我が父の地であり、私は父の息子・娘なのでこの世界はまさに、私たちの地なのです。これは、愛でもってだけ可能なのです。このように愛するときは、食口から始めなければなりません。そうできる愛の出発点が食口なので統一教会では統一教会員を信徒と言わないで、食口(家族)と言うのを皆さんは知らなければなりません。

 それでは、統一食口の使命が何なのか? そのように愛さなければならないのです。家庭においての愛、教会においての愛、国においての愛、この三大愛の恨が結ばれたものを私たちが解いてさしあげることによって、私たちは神様の息子であるイエスの代身者になれるのです。神様は、イエスのゆえに恨を心に抱きました。イエスが恨を抱かせたそれ以上の立場で、恨を解いて差し上げなければならないのです。ですから生きて天国を成さなければなりません。分かりますか? 皆さんをいたずらに祝福してあげたと思いますか? それによってイエス様が新郎になれないのを、自分の息子が見られないのを蕩減するようになるのです。これが統一教会の骨髄思想です。このように横的に全部蕩減するのです。本当に素晴らしい内容でしょう?(一九七一・二・一六、成東教会)

 今日、私たち、統一の勇士たちは、全世界に広がっているキリスト教徒たちに対して、数多くの宗教に対して新しい旗じるしを高らかにあげて、過去に恨み多かったイエスの恨を解いて、神様の復帰天国の恨を解かなければなりません。復帰天国の恨を。(一九六四・一〇・三、大邱教会)

 統一教会員たちもイエスの恨を解いてあげなければなりません。イエスが失敗したのを蕩減復帰しないでは、イエスの理念を引き継げないと言うのが、原理観です。分かりますか?(はい)イエスの恨を解怨成就せずには、これを復帰しておかなければ、イエスが願った家庭が現れないのです。また、イエス様が願った民族が現れず、イエスが願った国が現れず、イエスが願った世界が現れません。それはなぜ、そうなのか?

 アダムが8食口を中心にして落ちたために、ノアの審判の時に8食口を残して上がっていかなければならなかったのです。それをするのです。統一教会も同様です。そのようなことをしなければならないのです。

 ですから、統一教会員たちは、イエスの恨を解いて差し上げる道を行かなければならないのです。では、イエス様の恨は何ですか? それは、神様が公認される真なる息子・娘になって祝福を受けることです。そのためにはイエスが失ってしまったものを捜さなければなりません。(一九六七・一二・三一、前本部教会)


3 愛の秩序を立てるべき使命


 統一教会の教会員の私はだれなのか? サタンを捕まえなければならない責任がある私です。私は完成したアダムとエバなので、サタンをこの地球上から追放しなければなりません。神様のみ旨の前から追放しなければなりません。そうですか?「はい」 ニューヨークの街を通りながら悪い奴らを見れば、知らないふりをしてじっとしているのですか、こいつらをひねって、それを清算する人になるのですか? アメリカの若者たちが全部淪落してフリーセックスとか何とか言って、動物のような行動をするのをみてじっとしているのですか、それを捕まえて整理する人になるのですか?(整理する人になるのです)(一九七七・一・二三、ベルベディア修練所)

 私たちはこのような新しい伝統を立てて、アメリカ社会を荒らすサタンの武器を根本的に撃破し、腐っていく世界の若者たちのすべての愛の要所を全部撃破してしまい、新しい秩序を立てなければならないのです。これが天的意義を持ったムーニーの使命だということを知らなければならないのです。それでは、なぜムーニーは苦労しろと言うのですか? ファンダレージングとか伝道をなぜするのか? より深く真なる愛の道に接するためにです。目的がそうなのです。立体的で、内容的に深くて広い、真なる愛に出会うために私たちはこのようにいく、それがどれほど素晴らしいか。(一九八三・一・一、世界宣教本部)

 私たちは青少年たちの退廃的な風潮を切ってしまわなければなりません。いかなるものによっても占領できない権限を持って、そのような世界の風潮を遮って取りなくしてしまい、サタンが引っ張っていく死亡世界の因縁をことごとくすべて切ってしまい、死亡の勢力を防止しなければならないのが私たちの使命です。統一勇士としてこのような責任と使命を完遂するにおいて、個人的にするのではなく、世界的に天と地を中心にして、そのような責任と使命をなしおえられる時始めて、この天宙は神様の前に完成した結実体として収められるのです。(一九六八・六・九、前本部教会)

人間世界の罪の包みを掃除できる掃除婦はだれがなるのか? 統一教会の群れたちがならなければならないのです。先生はアメリカの罪悪の包みを掃除する掃除夫の役割をしてきました。(一九八八・一・一〇、本部教会)


4 五色人種を連結させるべき使命


 ムーニーは何かと言えば世界のために生きようというのです。生きるのには、何を中心にして? 愛を中心にして生きるのです。世界を愛そうとすれば個人も愛さなければならず、家庭も愛さなければならず、氏族も愛さなければならず、民族も愛さなければならず、国家も愛さなければなりません。民族を愛せない人は世界を愛せず、家庭を愛せない人は氏族を愛せません。原理のすべての法度がそうです。

 ですから、「愛を中心にして世界を愛そう」と言っていくのでそんな観点から見るよき、ムーニーたちは白人が黒人を愛して、黒人が白人を愛するのは問題ではないというのです。それは何によって証されるか? 結婚問題まで問題視しないのです。違うのです。それはレバレンド・ムーンが独裁者になって目をむき出して、人に干渉して邪魔をしろと言ってするのではないのです。私は目を閉じていてもつかみ引き寄せるというのです。だから統一教会のムーニーがですね、ムーニーが愛を中心にしてこのようなはしごをおいて、世界に向けて伸びていけるこのような立場にあるという事実は、宇宙的な問題の種だというのです。分かりますか? だから、この愛で、個人の錨を吊らなければならず、家庭の錨を吊らなければならず、社会の錨を吊らなければならず、国家の錨を吊らなければならず、世界の錨を吊らなければならないのです。(一九七九・六・三、ベルベディア修練所)

 それでは、その間統一教会の教会員たちは何をするのか? 先生が世界的舞台まで行く時に、大韓民国においてですよ、そんな歴史的因縁と世界的因縁を連結させなければなりません。民族圏と世界圏を今、連結させないでおいたのですからね、全部。先生ついている人たちはこの大韓民国の人だけではなく世界人なのです。五色人種が全部連結されているのです。分かりますか? それゆえ今、皆さんがこのような責任を担っていくようになるときは、天使世界が協助するのです。(一九七八・九・二五、本部教会)

 統一教会の教会員たちは国境を超越しました。私たちの教会で結婚させてくれるのを祝福というのです。祝福です。ドイツ人、ヒットラーの直系後孫になる娘と、イギリスの紳士と・・・。言葉は一つも分からないです。ドイツ女性はドイツ語しか知らず、イギリスの男性は英語しか知らないのです。それで、結婚するのです。それがどんなに素晴らしい結婚ですか? 大人たちはそんな結婚できないでしょう。死んだとしてもできないようになっているのです。さあ、そのように結んであげて話すのです。「あなたたちが結婚するようになれば初めの息子はこんな息子が生まれるので、暮らしてみろ。そうでなければ私の言葉が嘘なのでその時になってみろ」というのです。真に素晴らしい息子が生まれるのに、何、その時までは暮らしてみるのではありませんか? 暮らしてみればそのようになるのです。

 国境を克服することができるのです。日本にいるたくさんの統一教会の教会員たちは韓国解放のために「日本政府が阻んだとしても玄海灘を渡っていこう」といって潜航艇を乗ってでも来て加担できるようになっているというのです。それ、信じられますか? 国境解放!

 ドイツ人、世界で一番知性的と言って、天才的で数学的な頭脳を持ったと自信をもち、肩に力を入れて生きるドイツ人たち、この人たちの頭にレバレンド・ムーンの思想、神様の思想が入っていくようになる時は、ドイツ産、何人になるのですか? ドイツ産、何人? ドイツ産韓国人になるのです。何の韓国人? 南北を統一しようとする韓国人になるというのです。

 五色人種はもちろんです。五大洋、六大洲のすべての人種たちが、人種が多いけれど、彼らがレバレンド・ムーンを知り、レバレンド・ムーンが教える思想を持つようになるときは、そのすべてが五大洋六大洲に散らばっているけれど、国境が違うけれど、彼らはその地域で生まれた韓国人になるのを栄誉と考えるようになるのです。分かりますか? それ、国境が問題というのです、国境が問題。神様の前では人種が問題になりません。宗教が問題にならないです。(一九八七・五・三〇、リトルエンジェルス芸術会館)


5 宗派統一の使命


 では、“私たちの使命”といったのですが、皆さんの使命は何か? カインを救ってあげることです。個人においては個人的アベルなので個人的なカインを救ってあげなければならず、家庭的カインを救ってあげなければならず、氏族的なアベルになれば氏族的なカインを救ってあげなければならず、民族的なアベルの統一教会ならば民族的なカイン教団を救ってあげなければなりません。それでこそ、そこで始めて国家に対しうる資格者になるのです。分かりますか?(はい)

 それでは、今一番急を要することは何か? 統一教会が発展するのが問題ではありません。統一教会を発展させるのが問題ではないのです。どのようにアベルになるのか、それが問題です。そのようになれば統一教会の望いこそ、いっぺんにすべて成ります。もう、復帰路程が分かりますか?(はい)個人アベルは個人カインを復帰しなければならず、教団アベルは教団カインを復帰しなければなりません。そうでしょう? きっちり、そのように合うようになっています。(一九七一・八・一三、清平修練所)

 今日既成教会では、全部自分たちが天国に行くと言うけれど、長老教、天主教、全部騒いでいるが、みていなさい。ここに立っている人は何をするのかと言えばね、八大教団を統合する運動をしています。そこにユダヤ教、天主教(カトリック)、新教(プロテスタント)が入るでしょう。その次には、仏教、回教が入り、ヒンズー教が入ります。その次には、儒教が入り、その次には統一教会、八個教なのです。統一教会を抜きにして、七個教団が全部分かれて争っているのです。その教団を統合する運動をするために、私が資金を当てているというのです。世の中にそんな法がどこにありますか? そんな話、聞いたことがありますか? ところが、既成教会の人たち、何、長老教会の人たち、「お、文某異端」このように言っています。それは、世界を知らないのです。すべての教団を統合するための運動をして、その教主たちが私と闇取引をして秘密に書類交換をして、そうなのに、世間知らずな彼らは、全部、何、どうで、どうで・・・。宗教が問題になっていますか、なっていませんか?(なっていません)だから宗教会議をつくって私が今、思う通りに行き来できない人になったので恨でしょう。その集会だけ見たとしても・・・。この間も、宗教議会の世界大会をするとき、優れたという人、だいたい八百名が集まったのです。その人たちは全部私が一回、自分の教団に来てくれることを願っているけれど、そのように思う通りに行き来できない事情があるのです。

 複雑多端な宗教を背後から収拾して「一つの神様のみ旨がある。永遠に一つだ」という主張をして、そのみ旨と帰結させるための仕事をしているという事実は、歴史以来に驚くべき事実です。だれの名前で? 文某の名前ではなく、神様の名前で、神様の名前で! そのような意味から、ギリシャ正教の大主教のような人・・・。ローマカトリックは、今反対しているのです。私の側の枢機卿たちがざらにいるのにですね。それも幾日かたたずに、消えていくようになるのです。

 人間の力で不可能な連合宗教・・・。歴史のどこのだれを問わず、宗教を統一したくない人はいないのです。しかし、神様が願って神様が指示する道が分からないので・・・。(一九八七・五・三〇、リトルエンジェルス芸術会館)

 この天地間に神様の側からこのような責任を担える信仰生活を教えてくれることができる宗派はどういう宗派なのか? 捜さなければなりません。そのような思想の下から自分の信仰生活に希望的な観に従って、天の前に奉献させることができる家庭、そのような信仰を教えてくれる家庭は、どういう宗教を信じる家庭なのか? それを捜さなければなりません。そんな家庭たちが合わさって、血統的なすべての因縁を切ってしまい、世間的な因縁を切ってしまい、一つになれる因縁の情を通して、新しい氏族的な因縁をもって民族、国家、世界を復帰すると、責任をもって身もだえできる思想的な因縁を備えられる団体を捜さなければなりません。そうでなくては、復帰の新天国に入っていけません。希望の福地に行けません。

 今日、統一教会では、すべて統一をしようと言います。ある人はこんな言葉を聞けば気分が悪いのです。「何、統一する? アイゴー、昔のりっぱな歴史的な聖人たちもできなかったのに、この時代において悪なる連中たちである統一教会が現れて統一するって?」と気分を悪くするでしょう。気分が悪くても仕方がありません。気分の悪い奴が滅びるか、気分を悪くさせた人が滅びるか、見ていなさい。この二種類中、一種類が押されていくのです。「何、世界基督教統一? 世界基督教統一と言えばいざ知らず、神霊まで持ってきてつけたのか」と言うでしょう。見ると嫌なこぶまで持ってきて付けておいたのです。(笑い)それ自体が今、なったのか、ならなかったのかと言うことを問う前に、統一できる冒険を始めたのか、始めなかったのかということが問題です。何の話か分かりますか?(一九六八・二・四、前本部教会)


6 思想統一の使命


 統一教会の教会員たちは決定をしなければなりません。終わりの日には共産世界も滅び、民主世界も滅びます。今が滅びうる可能性が目前に展開されてくる時代です。こんな時は、早く決定しなければなりません。初めから滅ぶようなら、風呂敷をまとめて、ここで一度に滅ぼうという、こんな決定をしなければ、二つとも滅びます。こんなことにもなるのです。今がそんな時なのです。

 共産世界は共産世界がよいとして、民主世界は民主世界がよいと言いながら、互いが塀にこつんとぶつかってぐるぐる回っているのです。今そうだとして、何か一つつかまえてこそ、相対がいればこそ嬉しいと言ったのですが、何か一つつかまえなければならないのです。ところが、統一教会がこの時出て来たのです。宗教からは、統一しようと乗り出してですよ、共産党も世界統一しようと出て来て・・・。それが相対的関係になるべきなのです。(一九七二・一〇・八、前本部教会)

 皆さんが統一をしようとすれば・・・。一人だけいる所では統一という言葉が成立しません。統一と言えば、状態が違うものを・・・。事情が違い、立場が違います。そこには自分たちが主張する立場が異なり、自分たちが今まで伝統として唱えてきた凝り固まった習慣の環境が固着しているのです。こんなことをすべて清算してしまい、その事情をすべて除去し、今まで方向が異なったものを全部、逆につかんで型にはめて、一つになるようにしなければならないのです。

 そうしようとすれば事情が異なる二人より、力が強くなければなりません。十人を一つにしようとすればその十人より力が強くなければなりません。十教派を一つにする立場に立とうとすれば、十教派よりも力が強くなければなりません。それでこそ、なるのではないですか? 言葉は易しいでしょう。そうでなければなりません。

 皆さんが統一教会に入ってくるようになるとき、見せ物と考えて入ってきてはならないのです。そのように入ってきたなら誤って入ってきたのです。数多くの霊界を統一し、数多くの思想を統一するためには・・・。今日、全世界的な思潮をみるとき、民主と共産が対決するこの時にあって、これも一つは左足で、一つは右足で踏んで越えていかなければならないのです。どんなに屈強な思想と、どんなに屈強な信念を持った信仰者がいるとしても、そのすべてを越えていかなければならないのです。こんな余裕満々の信念を備えて、四方に伸ばして殴り飛ばせば、ぐるぐると巻かれて入ってくるようにできる実力がなければならないという話です。それでこそなるのではないですか? それでこそ、統一するのです。ふらふらして統一しようというこのような人たちではないのです。風に押されていく、かかしのようなその類いの人たちは統一できないのです。(?)

 今日、民主世界に多くのキリスト教があり、地上に数多くの国民がいるけれど、神様のために「神様は正義であり、神様は生きていらっしゃり、世界の統治者だ」という主張のできる者は一人、二人なくなっていくのです。こんな運命の寸時にあって、神側に立って主張する人がイエスの運命のようになくなりうる環境です。全く同じです。右側の強盗が弁明して、左側の強盗を屈服させたのと同様に、世界の民主世界を代表して、キリスト教を代表して、唯、統一教会だけが終わりまで、「神様は生きている。私たちは神様の息子・娘だ。神様のためにしなければならない」と言うのです。「共産党は、こうなので滅ばなければならない」として、今日、勝共という名詞をかけておいて、一線に立って闘おうと言うのが、統一教会の運命なのです。分かりますか?(はい)世界が韓国にこのように集中されているというのです。

 イエスが十字架で釘を打たれて亡くなる時に神側に、イエス側に立った右側の強盗の立場に立って共産党を叩き潰して、共産党を説得させて、「お前はこうなので、悪だ」と言えるこんな説法を持って、神様が公認した神様の実存性を認定できる団体は神側になるのです。その側がだれか? 統一教会です。

 それゆえ反共という思想をもって現れたということを知らなければなりません。分かりますか?(はい)神様の息子・娘として、神様の心情を持って現れたのです。十字架の苦難の道も越えて天のために、「共産党は滅ばなければならない! これらは悪だ」として死を忘れながら天側のために、右側の強盗が死ぬ時まで、イエスの側になって、楽園に行ったのと同様に、地上でそのことを実践することによって、地上天国を開門しようとするのが統一教会の理念です。

 こうすることによって、この国には世界的な光復の日が訪ねてくるでしょう。カイン・アベルの闘いが世界史を中心にして初めて終結し、万国に向かって行進できる第二次解放の日が韓国に訪ねてくるのを祈るのです。(一九六九・五・一五、光州教会)

 今日、この世界には神様がいるという思想と、いないという思想が対決しています。一つは物質を中心にする世界であり、一つは精神を主とする世界です。神様がいるという世界は神側であり、神様がいないと言う世界はサタンと悪魔の世界です。この二世界がぶつかるとき、その結果は神様の存亡を決定するのです。だから、共産主義を打ち倒すこの闘いは、すなわち、神様の闘いになるのです。(一九七五・六・七、ヨイド広場)

 天国がどのような所なのか? 地上天国がどのような所なのかというのです。私たち、統一教会の食口のような人が全世界に住むのです。それが地上天国です。この地上のすべての人たちが統一教会の食口のように生きれば、それが地上天国です。その世界は何か? 教会が永遠に、神様といっしょにいる世界であり、共産党がいない世界です。だれも神様がいないと言わず、神様に対して疑いません。神様を私たちの父と言いながら、全部一つになる世界なのです。その次に、サタンの誘惑・・・。サタンがいないのです。神様が主管する世界、それを地上天国というのです。神様が私たちと住むのです。(一九七五・九・二一、ベルベディア修練所)

 だから、私たち統一教会でも父母の心情で、僕の体をもって、血と汗と涙で復帰の使命を完結づけようと言うのです。統一教会が越えなければならない試練があるので、それは世界のどのような主義や思想も越えられない峠の道、民主世界や共産世界が越えられない峠の道です。彼らが行けない道を私たちが行き、彼らができないことを私たちがしなければならないのです。(一九六六・三・一三、前本部教会)


7 その国を訪ねる使命


 今、私たちが知らなければならないことは、私たちの父母の怨讐を晴らさなければならず、私たちの親戚の怨みを晴らさなければならず、私たちの民族の怨みを晴らさなければならず、我が国の怨みを晴らさなければならず、私たちの世界の怨みを晴らさなければならず、私たちの天と地の怨みを晴らさなければならないのです。皆さんの国があるでしょう? 今まで国があったでしょう? 宗教を中心とする圏内の人は国がありません。国がない民です。民族というある基盤を持って・・・。民族のない民です。風が東から吹けば、西側に押されていかなければならず、西風が吹くようになれば東側に押されていかなければなりません。四方八方から吹く暴風雨に苦しめられて、その方向に憔悴した、暗闇の圏勢の暗い道を手探りしていかなければならないのが、宗教人たちでした。(一九六六・一・九、前本部教会)

 人々は「私は天国に行かなければ」と言うのです。しかし天国に行こうとすれば天国を地の上に作っておいて行かなければならないのです。そのまま天国に行けば、天国はだれが作っておきますか? 神様が作ってくれるのを願いますか? 歴史的に価値ある生活をしなければならないのです。先祖に仕えて後代のための生活をしなければなりません。先祖の恨を解怨成就して差し上げて、後代の所願を達成させなければならないのです。

 それでは、今日皆さんはそのように暮らしていますか? 統一教会員たちが願う理想は私たちの国なのです。人はだれでも自分の国で暮らさなければなりません。それは人間に付与された絶対的な条件です。一人ももれなく、その国とその義のために、希望に満ちた義の生活をしなければなりません。考えで、理想郷を、そして生活で義の法度を立てながら、その国とその義のために生きろというのです。

 皆さんはそんな国がありますか? ないので、その国を捜して作らなければならないのではありませんか? その国は、何の国か? 理想の国、統一の国なのです。万民が行ける国なのです。この国を成すには、例外がありえません。ここには家庭も協助し、氏族も、民族も、世界もすべて協助するのです。そうして統一でき、家庭、氏族、民族、国家、世界を統一できるのです。(一九六七・六・八、前本部教会)

 私たちは統一教会はありますが、統一の国はありません。ですから「統一前線守護」というのは何かと言えば、統一教会を保護しようというのです。アメリカでは評判になっています。そして、それは韓国に影響を及ぼし、韓国政府と私たち統一教会を一体化させる力を加える作戦にもなるのです。ですから、世界各国で今後、私たちは闘って復帰するのではありません。自然復帰をしなければなりません。これが問題です。サタン世界は、打って占領するのです。神様の戦法は追われ、打たれながら自然屈服させるのです。そのようにして、天に従っていかなければ、神様の権威を復帰することができないということを、私たちははっきり知らなければなりません。

 このような立場から見たとき、現世に私たちがすべきことは、国を捜すことです。私たちには、神様の国がありません。国のない人が本籍を持てるでしょうか? 本籍地がありません。日本人は日本の国があるので、日本に本籍地を持っていますが、神様の摂理から見たとき、神様の国がないので、神様の国としての主権国家がないので、国民として登録ができません。宗教登録一つしか持っていないのです。

 復帰が成りたつためには、カインとアベルが一つにならなければなりません。それは統一の発展の公式になっています。カインかアベルだけでは、救われないのです。カインを救ってあげ、カインが前に立って前進するように押してあげ、後ろで防備圏を作らなければ、帰っていけないのです。それが原理の教えです。ですから、カイン、アベルが一つにならなければ、父母を迎える道がありません。宗教は、アベルの立場で、その国はカインの立場です。だから、カインがアベルを殺したように、歴史的に国家主権者は宗教を迫害しました。

 宗教を中心にして、国を自然屈服させ、勝利の国家を成さなければ、天国は地上にできません。それを成そうとしたお方がイエス様です。イエス様を中心にしてユダヤ教とイスラエル民族が一つになったなら、それでアベル国家を形成できたのです。(一九七二・四・二三、東京教会)

 さあ、私たちが暮らしたい所は天国、天国で暮らしたいというのがあっています。天国に境界線がありますか?(ありません)天国に言葉が二つですか?(いいえ)人種の差がありますか?(ありません)では、天国は何ですか? 人は全部、神様の懐から生まれたので、人類は全部が兄弟です、兄弟。神様を中心にしてみれば、神様の息子・娘なので全部兄弟であり、地上天国を中心として見れば、民です、民。地上天国の万民、国民だというのです。民だというのです。

 国を形成するのには、三大要因があるのです。国になるためには、まず主権がなければならないというのです。その次には、民がいなければならないのです。次には、国土がなければならないのです。この世界が神様の統治する世界になりましたか?(なりませんでした)そして、この全地球星が、私たちの国になりましたか? 神様の国になりましたか? 世界の民が、全部一つの国の民になりましたか? なっていないのです。皆さんは天国について語りますが、天国はこれらが一つになった後に成立するのです。これが成り立たなかったために、いまだにカイン・アベルが残っているために闘い続けるのです。私たちは安息できないというのです。やりきれないというのです。(一九七三・五・一六、ベルベディア修練所)

 皆さんの願いは何でしょうか? 皆さんの願いはこの国を捜すことでなければなりません。第一次イスラエルの時において、国が一つになれずに国を失ってしまったので、その失ってしまった国を私たちの時代に再び捜して、そこに来られるメシヤを迎え、追い出す国ではなくて、歓迎できる国になってこそ、地上に神様の願いとみ旨が成されうる時になるのです。

 その時を標榜していく群れが、統一教会の群れなのです。分かりますか?(はい)それがはっきり分かりますか?(はい)横的に世界舞台に向かって行くのがメシヤの使命であり、国のために闘うのがメシヤの使命ではありません。(一九七二・六・一三、光州教会)

 韓国の政府高官たちが外国に出たり入ったりして、統一教会を初めて知ったという話もあります。恥ずかしいことです。ある人がアメリカに行ったのですが、アメリカの著名人が「あなたは韓国から来ましたが、統一教会を知っているか」と尋ねて、「知らない」と言って、恥をかいたという話を聞きました。灯台下暗しということを知らなければなりません。このような状況で、私たちは新しい覚醒をしなければなりません。世界的な第三イスラエルとして、特権的な権限を持つのに恥ずかしくない姿勢を持たなければなりません。韓国の精神と倍達民族(=韓民族の古典的または歴史上の称)の血と魂を継いで生まれたので、この民族の悲惨像を除去し、新しい伝統を残さなければなりません。これが統一教会の信念です。ゆえにこの民族には統一教会の活動が、必ず必要なのです。

 それゆえに、私たちは差して来る太陽の光を眺めるとき、自由の天国を慕わなければなりません。万民はもちろん、山川草木までも喜ぶことのできるその日を、心から慕わなければなりません。そして、明日のその日のために、今日の私の努力を惜しまないと誓う皆さんにならなければなりません。そうでなければ、統一信徒になる資格がないということを、はっきり知らなければなりません。

 ご飯を食べるためにさじを取るときも、この地の上の悪党たちを追い出そうという決意をし、はしを取るときも、この地の上のすべての悪党たちを処置しようという決意に燃えなければなりません。いつでも、善の天国、第三イスラエルを創建するために乗り出す隠れた勇士であり、天の密使だということを肝に銘じなければなりません。第三イスラエル創建のために、行く道を急ぎ立てなければならないのが、私たち統一勇士の使命であることをはっきりと知らなければなりません。(一九六八・一一・一七、前本部教会)

 皆さんは愛を受けるために来たのではなく、愛するために来たのです。分かりますか? 愛するために来たのです。分かりますか? 天を代表した私が主体的な立場に立とうとすれば、愛さなければなりません。相対的立場にあれば、愛を受けなければなりませんが、主体的な立場に立とうとするのが、今日の統一教会の思想であり、私たちの立場ではありませんか? それゆえ、主体というのは、愛さなければならないのです。

 では、愛するのはどのような立場で? 立っている場所から愛せというのです。統一教会の教会員を愛せ。統一教会を愛せというのです。統一教会は国を愛するために狂え。その国は、単純に国を愛するために狂うのでなく、世界を愛するために狂え。そうすれば、その国は発展するのです。世界は、世界を愛するために狂うのではなく、天宙を愛するために狂え、天宙は天宙自体を愛するために狂うのではなく、神様を愛するために狂えというのです。(一九七二・七・二、前本部教会)

 その国とその義が成り立つ世界はどういう世界かと言えば、互いに与えることを楽しむ愛の世界であり、神様のみ旨のために奉仕し、犠牲になる生活が輝く世界だということを皆さんは知らなければなりません。それゆえ、その世界は今日、私たちが暮らしているような、こんな世界ではないというのです。(一九五七・一〇・一三、前本部教会)


四 私たちと時


1 今の時


 では、今この時はどのような時でしょうか? よくもあり、悪くもあり、難しくもあり、易しくもある時です。全部が一度に私たちの目前に世界的にぶつかって来る時です。私たちがこれを消化しようとすれば、これを克服しようとすれば、どうしなければならないでしょうか? うれしいことだけを持って難しいことを消化できる人が現れなければなりません。そのような人が現れずには、そんな世界を受け継ぐ人が現れません。こうなります。何の話か、分かりますか?(一九七二・一一・一二、前本部教会)

 さあ、では今は、どういう時でしょう? 皆さんが全力を尽くして、統一教会の真なる姿を見せてあげる時なのです。分かりますか? 真なる姿を見せてあげる時です。(一九八四・陰三・一、ベルベディア)

 さあ、私たち統一教会を、今、時代的に、摂理史的時代の立場から見るなら、統一教会はすでに、夜のような受難時代は過ぎ去りました。朝が来るのです。春のような時代が来るというのです。そこには、すべてのことが変わらなければなりません。春が来れば変わるでしょう? すべての植物というものは、全部新芽を出します。その新芽を出させるその光自体も美しいけれど、新芽を出すことのできる環境も美しいということを知らなければなりません。

 この環境と吸収的な調和を起こすここにおいて、すべての自然の美しさが作られていくのと同様に、皆さんたちも今、新しい春を迎えて皆さんの心をふくらませて、愛の世界に、この環境の世界が悪ければ、それを消化しなければなりません。人々はそうではないですか? 木は炭素を摂取して酸素を出しますが、人間は酸素を摂取して炭素を出しています。互いに授け受けるのです。こうしながら共同協助していきながら、調和を成します。言い換えれば、環境と因縁を結んでいきながら、互いが共存するのです。それと同様の時が来ました。

 さあ、私たちが新しくならなければなりませんが、どう新しくならなければならないでしょうか? きょうこの朝、皆さんの習慣化した過去の信仰を蹴飛ばし、新たに立ち上がらなければならないというのです。夜に対したそのような生活態度を捨て、春を迎えられる、新しい環境を迎えられる私としての主体性を持ってこの環境を吸収、消化しなければなりません。

 ところが、春になったので今は休まなければならないといって、追われていって「春になるのでいい。もう、何、ここも春が来たので休もう!」と言えば、その人には実とか何かを望めません。春から夏を経て、秋に行かなければなりません。ですから、春から定着して休もうとするのを、そのままにしておいてはだめです。だれかがまた、追い出さなければならないのです。一体だれが追い出さなければならないでしょうか? 統一教会の外部の人は追い出せないのです。ですから、仕方なく先生が追い立てなければならないのです。どこに? 秋の季節に向かって行けるように。放っておいては行けないので、仕方なく棒でぶん殴ってでも秋という方向に合わせるようにして、追い込む道しかないというのです。(一九八六・四・二七、本部教会)


2 時の兆し


 ですから、歴史は交差時代に入っていきます。それが、地上の交差だけではなく霊界の交差にもなるために、今日、六〇年代以後において、アメリカの大多数の若い人たちは霊的体験をするのです。それをノイローゼというのです、ノイローゼ。それを知らないために、ノイローゼだというのです。(一九七五・一・五、前本部教会)

 私たちは自分自らの正体をはっきり知らなければなりません。切迫した使命が私たちの前に近づいてきているにもかかわらず、現在のこの時代と共に流れてしまい、跡形もなく滅びうる環境に踏み込んで引っ張られていく統一教会の連中は、極めて愚かな人です。そんな人は統一教会の連中になれないのです。

 環境が乱れれば乱れるほど、私たちの時が近づいてくるのです。聞こえてくる噂がだんだん切迫するほど、私たちの終わりが来るのではなく、私たちの時が近づいてくることを知らなければなりません。この障壁を破っていく日には、世界は私たちによって新たに出発するのです。(一九七一・三・七、前本部教会)


3 自分の時を一致させよ


 今日、皆さん自身が神様の心情的因縁を持って生まれたなら、皆さんはこの時代においてこれを決定づけなければならないのです。過去にもなかったし、この時代の世界の中にもない、そのようなひとときを私たちだけが持ったという事実は、途方もなくもそして無限な恩賜であり、何物にも代えがたい価値を付与されたことを皆さんは知らなければなりません。この時を逃せば、千年待っても再び迎えることができません。それゆえ、私たちが人生を生きていくこの時代が、どれほど貴重なのかを皆さんは知らなければなりません。

 私たちがみ旨を中心として十年、二十年、三十年、あるいは五十年を生きていくとき、その一生は必ず七年路程から入門しなければならないというのです。私たちの一生がこの七年路程を中心として入門するとするなら、一生においてこの七年路程はどれほど尊いものですか? もし、この七年路程が神様のみ旨と完全に一致させられなければ、神様を中心として行かなければならない生涯路程で、神様のみ旨とともに、神様の愛の圏内で生きていけないというのです。このような点から考えるとき、私たち統一教会で言うこの七年路程期間こそ、億千万のお金をあげても買えない、一番尊い時であることを知らなければなりません。

 この時を逃した人には、真なる生涯の路程がありえないというのです。たちまち消えてしまう朝露のように、瞬間的な七年期間が私たちの前に訪ねてくるまで、どれほど多くの苦労があったかを皆さんは知らなければなりません。このひとときが訪ねてくるには、楽に眠る場で、ただ訪ねてくるのではないのです。神様は私たちの前に、このひとときを合わせてあげるために、今まで無限な苦労をされたというのです。

 このひとときを持てなければ、真なる息子・娘として因縁を結べないのを知っておられる神様は、このひとときを合わせるために、無限な苦労をしてこられました。また、神様だけではなく、悟りの道を通して善を追求してきた聖人賢哲、先知先烈たちもこのひとときを迎えるために、今まで犠牲になってきたのです。しかし、彼らは遂にこのひとときを迎えられませんでした。

 そのようにして、今日私たちが迎えるようになったのは偶然の一致ではなく、規定的な一致、必然的な一致によるのです。この時が来なくては、必然的な家庭、必然的な国家、必然的な世界、必然的な天宙は現れないのです。み旨が望む家庭、国家、世界が偶然に生じえないというのです。そのような家庭と国家と世界が生じるためには、必然的な条件もってそのひとときを迎えなければなりません。

 それゆえ、堕落した私たちの人生に最後の運命を決定することのできる基準になるひとときがなければならないのです。そのひとときをただ送ってはいけません。そのひとときを起源として一生の間押し通してこそ、真なる生涯が残されうるということを、皆さんは知らなければなりません。(一九六九・一〇・一九、大邱教会)

 自分の時をうまく合わせることによって、このひとときを迎えられる人は、このみ旨を知っている私たちしかいません。これからみ旨を知らずに生まれる人類がどんなに多いとしても、その人たちは余分な人たちだというのです。この時代において、後孫たちの前に真の姿を立てるべき私たち個体の運命、そのような生涯路程を歩まなければならない運命を中心として、未来の後孫たちの前にどのような姿で現れるのでしょうか? その時に顕現されるその価値を、今この時に、皆さん自身が思いえがいていかなければならないのです。

 み旨を中心として東に行き、西に行ってみ旨の前に精誠を尽くし、忠誠を尽くすすべてのことはどのだれのためではありません。国以前に自分自身を立てるためのものであり、世界以前に自分自身を立てるためのものです。どこまでも、自分の時をうまく合わせるためのものです。自分の時をうまく合わせることによって、その時が人類の時になりうるのであり、自分の時をうまく合わせることによって国家の時を代身でき、世界の時を代身できるのです。(一九六九・一〇・一九、大邱教会)

 先生の若さに皆さんの若い情熱を加え(プラスさせ)て、働かなければなりません。再創造の偉業に加えて、栄光の条件を備えられるのは、このひとときしかないということを肝に銘じなければなりません。私たちは、徹頭徹尾何を感じなければならないでしょうか? 第一に「私はお前たちと同じではない」という心情を備えなければなりません。お前たちは、やってのけられないのか? 私はできる! こんな精神をいつも備えていなければなりません。(一九六〇・二・二一、前本部教会)


4 時を失わない方法


 時を逃がさず、時を失わず、仕事を奪われるなというのです。それを失ってしまわない方法は、今先生が話した二つしかないのです。むかつくような人にならず、人を愛する人になって・・・。その二つだけやれば、それを絶対失ってしまわないのです。それだけパスすればいいのです。それしかありません。私が調べてみたらそれしかないのです。(一九七七・七・三〇、アメリカ)


5 今は活動する時


 今までは祈祷する時でしたが、今後は宴会の日が近づいてくるのです。宴会の日を迎えては、思う存分食べてお腹がふくれて昼寝をしても大丈夫です。ところが今は苦労してその敷居を越えなければならない時なのに、宴会しようと準備するために、煎(=薄く切った材料に小麦粉のころもを被せて焼いた物)を焼き、餅をつく音も聞こえるのに、寝られますか? それでも寝ている人は、狂った人です。

 今、皆さんがそのような立場だというのです。皆さん、走らなければなりませんか、どうしなければなりませんか? 宴会しなければならないと、全部村じゅうを駆け回りながら噂を立てなければならない時が来たというのです。言い換えれば、伝道をしなければならない時なのです。それにもかかわらず伝道しにいけと言えば「またあの季節が来たのか。夏休みにはちょっと休むべきなのに」と言う人たちがいます。無条件、休んでばかりいたら一体何が残りますか? (一九七〇・七・二八、前本部教会)

 私がダンベリーに行くことによって、世界的な総蕩減をしました。ダンベリーに行ったことは、地上世界全体が反対するのを代表する立場で十字架を担いで行ったのと同じです。その十字架を負った目的が何でしょうか? 十字架を担いだ目的は、霊界の統一と地上の解放のためです。統一が目的なのです。ですからその時、私がダンベリーに行く時はアメリカをはじめとして、地上のすべての団体で動員されないものがなかったというのです。ユダヤ教からキリスト教、宗教全部が、その次にはアメリカから、共産主義者から、世界各国全部が・・・。とにかく、CIAを通して二十五カ国を調査したので。こうして、条件があれば、引っかけて捕まえようとしました。そうして、全世界的に自分の持てる力を尽くして、反対したのです。

 それなら、私たちが打たれるのは何のためか、その目的は何かというのです。それは霊界争奪にあります。霊界争奪が目的なのです。私たち統一教会の基盤を打って崩そうと、破壊させようとしました。そこで、先生とアメリカ政府は、一対一でした。アメリカ合衆国が原告になり、私が被告になって闘ったのです。そうして、これを覆して打ち込みました。覆して打ち込んだという事実は何かと言えば、霊界が統一圏に入ってきたのです。

 だから、霊界に統一圏が生じたので、地上と歩調を合わせていかなければならないというのです。これからは、仕事をするのは皆さんがするのではないのです。この皆さんの後ろには、数多くの霊人たちが全部連結されています。もちろん、皆さんの先祖が連結されていますが、特別に信じている宗教があれば、その宗教の教主を中心として、今回、皆さんが動くのに完全に集中するようになっているのです。それゆえ、信じて打てば崩れていくのです。ですから、自分一人だと思うなというのです。数万、数百万の霊人たちが動員されているのです。

 ですから、四千万が問題ではないのです。霊界の何千億になる霊人たちが、全部地上で左右を中心としてゴールをもらおうとするのです。ゴールをもらおうとするというのです。だから、ゴールをもらおうとすれば・・・。堅い畑を耕そうとすれば、行くすきのへらが堅くなければなりません。その次には、牛が強くなければならず、その次にはその牛を扱う人が、力強く押してあげなければなりません。牛がいくら強くて、すきのへらがいくらしっかりしていたとしても、扱う人が力強く押してあげなければならないのです。

 ところが、牛とすきのへらはすべて準備されているというのです。今、霊界が牛のように引いてくれるのです。すきのへらは私たちのみ言を中心として打ち込んであげなければならないのです。それなら、これをだれが押してくれるでしょうか? これは皆さんの責任者が押してあげなければなりません。それでこそ、深く耕せるというのです。これは、皆さんの信仰いかんによって左右されるのです。それを知らなければなりません。(一九八七・五・一四)




















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統一教会員の信仰生活


統一教会と食口たち



第四節 統一教会員の信仰生活


一 真なる信仰生活


1 信仰者の願い


 私たち統一教会員は人並はずれた道を進んでいます。世の中の人々は堕落しているとも知らず、またその中で信ずるという人々も、堕落がどのようになされたかを知らずにいます。すなわち、本然の人間がどのようなものなのか、その基準もはっきり知らずにいるのです。漠然と神様を信じ、神様を中心と漠然たる息子の立場で信じれば、救いを得るというのが一般的な信仰観です。

 では、信仰しながら望む願いは何でしょうか? あるいは救いの目的が何かという問題をおいて見るとき、それは言うまでもなく、真なる男性、真なる人になるべきだという結論に到達するのです。真なる人、その中には、男性女性がいます。

 では、神様の側から問うとき、どのような答えをするでしょうか? 神様の願いは何でしょうか? やはり神様も真なる人、真なる男性と真なる女性を願われるのです。当然のことです。それを願われるしかないのです。

 信仰者として最高に望むことは何でしょうか? 今日統一教会の術語で言えば、完成した人です。完成した人はどの様な人でしょうか? それは真なる人です。神様が救いの摂理の目的を推進させてきたその目的はどこにあるのでしょうか? これもやはり、完成した人と同時に、真なる人にあるのです。(一九七三・八・五、前本部教会)

 私たちの願いは何でしょうか? 真の愛の神様に侍ることであり、神様の愛を中心とする真の父母に侍ることであり、その次には神様の真の家庭を中心とする、真の息子・娘になることです。私たちが真の家庭を成して連ねることが私たちの願いではないですか。(一九八五・七・二〇、ベルベディア修練所)


2 信仰の基準が必要な理由


 今日、信仰にも「こうするべきだ」というある基準があるのです。基準がなければなりません。今日、堕落した人間を中心として、男なら男、女なら女を中心として神様が「女はこうあるべきだ。男はこうあるべきだ」といって望まれる基準があるのです。神様が願われる基準、男性はこうであるべきで、女性はこうであるべきだという基準を中心として今日、世界人類が分けられています。その基準を中心としてこの世界が東西南北、四方に分けられています。

 その基準を中心として毎日のように発展を願いながら生活してきていますが、その基準の前に一致させられる一つの基準があるはずです。このような問題は当然なものであらざるをえないのです。そのような絶対的な基準を中心として、神様は摂理目的を推進させていかれるのです。神様が願われるある絶対的基準があるのです。神様がある特定宗教を立てられたなら、その宗教を立てられた目的にも、必ずある一つの基準があるのです。その基準はまだ及ばない時の基準ではなく、完成した時の基準、変化させられない基準、度外視できない基準なのです。

 その基準と、今日私たちがどれだけ一致するかということが幸福になりうるか不幸になりうるか、あるいは事を成すことができるか、及ばないかという問題を決定する要件とならざるをえません。それにより、私たちは神様が願われるその基準に常に合わせなければならないのです。方向もある一つの方向を中心として合わせなければならないのです。磁石が変わらない限り、故障しない限り、それが純粋な磁石ならば、いつも北極を向いて方向を合わせるのと同じです。もし方向が反れるようになるなら、その本質においての方向が反れるのではありません。環境的な要件によって、障害物によって方向が変わっただけであって、本質的には変わらないのです。

 このように見るとき、神様もやはり同じです。神様にも必ず、個人なら個人、家庭なら家庭、氏族なら氏族、民族なら民族、国家なら国家に対する絶対的基準があるのです。その基準とともに一致していくか、いかないかによって、その人が完成できる道を早く行くか、行けないか、近道を行くのか、もどるのかという問題が生じざるをえないことを、私たちが知らなければなりません。

 このような観点から見るとき、信仰の基準というものは、最も尊いのです。(一九七一・六・二七、前本部教会)

 個人なら個人が、こうして行くことが絶対的な基準の生活だという、その基準が現れているでしょうか? 現れていません。家庭なら家庭がこうしていくことが家庭の絶対的基準だとどの宗教が教えてくれたでしょうか? 教えられませんでした。あるいは、民族なら民族がこうしてするのが民族の絶対的基準だということを教えられず、国家なら国家がこうすることが国家の絶対的基準だということを、教えられなかったというのです。

 このように見るとき、自分なりには信仰生活をするといっても、自分個人の前の信仰の基準に対してどのように追求し、自分が対象の立場でその追求される目的をどのように成すべきかという問題が分からないまま、今まで信仰してきた人たちが大半ではないかというのです。

 その結果はどうなるでしょうか? 知れたことです。個人の基準に個人が一致できないときには、個人の基準を中心とした審判があるのです。また、個人的には完成圏内にいても、家庭の基準を中心として努力し、そこに一致できないときは、家庭の基準を中心として審判を受けるようになっています。こんな立場にいるということを、私たちは否定することができません。

 それならば、私たちがこれを避けていける道はないでしょうか? これを越えていける方法はないでしょうか? 善なら善、ある信仰の基準なら基準と一致させられる共通的な信仰方法、その道を行くならこうであるべきだ、こうしなければならないという方向があるはずです。これが問題です。その方向をどのようにつかんでいけば、私たちが個人の基準を無難に越えられ、家庭の基準に接近できる要件を多く備えられるでしょうか? 家庭から氏族に、氏族から民族に、民族から国家に接近できる共通的な方向の道は何でしょうか? 私たちはこれを考えざるをえません。そして信仰の基準に接近できる一つの方法があるなら、それは何でしょうか? 目的を自分に置かないことです。目的は私の目的ですが、それを相手に置くのです。目的のために私が犠牲になればその目的が成就するのであって、目的のために相手を犠牲にさせたならば目的は成就しないのです。そうではないですか? 十くらいの目的のためには、十くらいの目的の前に十くらいの犠牲の代価を私が付加させるべきであって、そこから引っ張り出してはいけないのです。それゆえ、信仰の基準に接近できる一つの方法は、その絶対的目的を自己自体に置くのではなく、必ず第三者に置くことです。

 また、私たちが信仰者としていつも考えなければならない問題は、必ず神様が私たちに要求される基準があるということです。個人なら個人を中心として望む基準、家庭なら家庭を中心として望む基準、社会なら社会を中心として望む基準、国家なら国家を中心として望む基準、世界なら世界を中心に望む基準があるのです。その基準の前にどのような群れが残るでしょうか? 残ることのできる群れはどのような群れなのでしょうか? これが問題です。(一九七一・六・二七、前本部教会)

 善は、人間が生きる一生、百年なら百年以内の生涯で尊敬を受けることのできる人格を中心とした内容よりも、歴史の先哲を越え、時代的な環境に支配されるのではなく、これを支配できる特権的な地位を、永遠を中心とする内容を材料としています。このような事実をおいてみるとき、それには人間だけではなく、必ず神が介入していることを私たちは知ることができます。それである特定な宗教を中心として見るとき、その宗教の教主がいれば、その教主の人格も人格ですが、その内容には必ず神が介在しています。

 神は時代によって変わる神ではありません。歴史の変化があったとしても、その変化を動かし、完成に導くことのできる神です。複雑多端な社会環境から主体的な権限を失う立場にいる神ではなく、社会環境がたとえ複雑多端だとしても、どのようにしてでも主体的な基準を中心として収拾し、一つの目的圏を成すことのできる主体力を持つ神なのです。宗教がそのような神を信仰の母体としているという事実を私たちは知っています。このように見るとき、信仰には必ず基準がなければならないのです。(一九七一・六・二七、前本部教会)

 信仰の基準が何かと言えば、人格を追求し神様の愛まで連結させることです。(一九七二・八・一八、清平修練所)


3 望ましい信仰の基準


 では、信仰の基準をどこに置くべきでしょうか? 信仰の道は無限な価値を中心として行く道であるので、漠然とこの世の人間たちが相対できる相対物にその基準を置くのではありません。言い換えれば、信仰の基準はお金でもなく、この地のどのような栄光でもないのです。無限な価値の中心は神様です。それゆえ、その中心たる基準を神様に置いていくことが信仰の道です。神様以外には一切を認定しないのです。(一九七三・七・二九、前本部教会)

 私たちの信仰生活において、第一の問題になることは信仰の対象、神様です。その次には何でしょうか? 信仰の主体たる神様は人を対象にしているのです。私たち人間は、神様を信仰の対象にしていますが、神様は人を信仰の対象にしているのです。これが食い違うのです、違います。それにより、私はこの門前に立っているのです。だから私たちは神様に対して私自身が残さなければならない一つの骨髄的な思想を備え、生死を共にしなければならないのです。それと同時に人に対しても同じです。(一九七二・七・二三、前本部教会)


4 信仰生活の意味


 神様が人間を創造される時、無限な価値的な対象の存在として作ろうという信念を持たれたことは間違いありません。しかし、今日神様の対象として、理想的な価値を持とうとする信念を持てない人間たちが、どうして対象的な立場で無限な信念をもち、無限な価値の存在に向かって行けるでしょうか? これが最初に問題になるのです。

 その価値の中心を神様と設定しておき、無限な生命を慕っていくのです。この地上での有限圏内の生命を否定し、無限圏内の生命、すなわち永生を基準として天国を目標に定めておき、その無限な天国の理念に一致させられる生命の要因を、生活を通じ吸収していこうとするのが信仰生活なのです。無限な生命を再現させて、それで終わるのではなく、無限な地上との一致点を描いていくのです。(一九七三・七・二九、前本部教会)

 私たちの信仰生活もやはり同じです。私個人が信仰生活をするということは、ただその通りこの地の上に生きるのではなく、神様のとても大きな摂理に一つの基準があって、その基準の中で、自分自らが合わせなければならない焦点があるというのです。そういう生活的な焦点、その次には生涯的な焦点・・・。生活は一日一日をいとなんでいくのであり、生涯というものは一生をおいていうのです。そういう生涯的な焦点があるのです。(一九八八・六・一、本部教会)

 今日、私たち自身に必要な信仰生活は何か? 結論は簡単です。それは、神様の願いと接することであり、神様の事情と接することであり、神様の心情と接することです。(一九六三・八・一八、前本部教会)

 皆さんはどこに行くにも、どのような場に処してどのような仕事をするのか、その日その時間に処した環境、いつも誓いの条件物として立つために努力しなければならないのです。このような生活がまさに信仰生活なのです。(一九五七・一・六、前本部教会)

 皆さんが今現在歩んでいる道は、何をする道なのか知らなければなりません。今現在の状態の思いのままそのまま死んでいくと考えてみろというのです。「あー、神様が私を保護してくださる。神様が私を導いて下さる」と、考えますか? あきれたことだというのです。

 それゆえ宗教生活をする人々は、死の問題が一番、闘争の癌です。信仰生活は生きて死の問題を解決しようというのです。「私が歩む道がこうだ」という決定を下すとしたら、その人は不安な人です。

 皆さんは死刑囚について知らないでしょう。先生は、死刑囚たちと共にたくさん暮らしてみましたが、その人々は自分か死ぬ、その刑の前に、どれほど深刻か分かりません。八月、お盆になれば、その八月のお盆を歴史にない最後の月として感傷する、その心情は気が詰まるものです。風が吹き、台風が来ても、それを感傷するというのです。「あー、私が生きている間、この台風が最後になるだろう」というのです。すべての万象を、新しく鑑定できる深刻な心情で、喘ぐのを感じるというのです。

 そんなことを考えて見るとき、信仰の道を歩む人の中にこのように深刻な立場で、天の生命を、このように価値あるように計りながら、一日の生活を誓って歩む者がどれくらいになるのかというのです。これは深刻な問題です。先生もそんな深刻な立場にいるのでこんな道をずっと歩むのです。他の人たちが不真面目でいいかげんでも、先生はいい加減ではありません。精神をまっすぐに整えろというのです。(一九六八・一二・二九、前本部教会)

 私たちの信仰生活は、死んで審判を受ける道ではなく、生きて審判を受けながら歩む道だということを、はっきり知らなければなりません。(一九六五・一〇・三、東京教会)


5 信仰生活の目的


 今、この地に生きている人々は、善なる神様から出発したのではなく、全部悪から出発したので、根こそぎ切って、善なるオリーブの木の枝に接ぎ木しなければなりません。それで人間世界の前に再臨思想、メシヤ思想、すなわちこの万民を救うことのできる救世主思想が現れなければならないのです。

 では、その救い主は何をするべきでしょうか? 真のオリーブの木として来て、野性のオリーブであるこの世界の人類を根こそぎ切り捨てて、接ぎ木してあげなければなりません。それにより、悪から出発した人間が悪を審判してしまい、善から出発したという条件を備えさせてあげなければなりません。それで養子の道理を果たし、直系の息子・娘になったという位置に立たせなければなりません。その位置に上がることが、まさに、信仰生活の目的です。それでは皆さん、切るべきですか? 切らないべきですか? 切るならばどこを切らなければなりませんか? 脚だけ切ればいいですか? 脚だけ切れば死にません。首を切らなければなりません。そうすればこそ死にます。(一九六六・一・二、前本部教会)

 信仰生活において私たちの目標は現実ではなく、神、神様なので、現実とは相反していることを感じるようになります。私たちの日常生活においては、実際問題を対象にしているので、すべての面においてぶちあたる事々の結果が必ず早く現れるようになるのです。そして、私たちの実際の生活においては、ある望みがあれば、その望むことに対し、だれかと議論することもでき、その解決方法も速いですが、信仰的な世界はそんなことが自由にはできないのです。(一九七三・三・一八、ベルベディア修練所)

 皆さんが信仰生活をし、神様を呼び、神様のみ旨を唱え、神様の理念を捜し、神様の栄光のために戦う目的はどこにあるのでしょうか? 初めは、自分が確固不動になるところにあります。歴史的な悲しみが私を占領できず、時代的な逆境が、私の心と体に確固と立っている基盤を占領できないといえる信念がない限り、そういう位置を備えおかない限り、いくら歴史的に忠誠をつくし、時代的に自信を持ったと自認する者がいたとしても、天はそれを信じ摂理することができず、それを立てて時代を収拾することができないことを知らなければなりません。(一九六三・八・一一、前本部教会)

 信仰の目的は何か? 善なる体と心と心情を中心として、世界的な舞台、さらに、善の価値をたたえることのできる天宙的舞台に出ていくのです。(一九六〇・九・一八、前本部教会)

 信仰という言葉は、真なる人間になるためのものです。真なる人間とは何でしょうか? 神様と遊び神様と休み、神様と眠り、神様と生きようという人間が最高の真なる人間です。神様はどのような人を捜すかといえば、そのような真なる人間を捜します。同じように、私たち人間が真なるものを捜し出し、真なる世界を捜し出すのに、神様と一緒に生きる世界が真なる愛の世界であり、真なる幸福の世界だというのです。そこで始めて、私たちの理想郷が顕現するのです。(一九七二・八・一八、清平修練所)

 私たちの信仰の目標は何かといえば、神様の国の人民になることです。その国の民にならなければ、その子女として、自由自在に万民、あるいは万物世界に誇り、愛される道は現れないのです。国のない者は、いつも攻撃されるようになるのです。かわいそうな立場に立つようになります。どうしようもなく受ける場合がいくらでもあります。それでは、神様が願う国はどこにあるのでしょうか? 神様の足掛かりとなる国はどこにあるのでしょうか? これが問題です。(一九七二・四・二三、東京教会)


6 信仰生活の第一条


 皆さんは歴史的な罪の結実なので、歴史的な悔い改めをしなければなりません。これが統一教会を信じる信者としてわきまえていくべき信仰生活の第一条です。何の第一条だと言いましたか? 歴史的な罪の結実体ということを自覚することが信仰の最初の出発です。それゆえ、悔い改めなければならないのです。「アイゴー、私が何の罪を犯した? 私は何の罪もないのに」しかし、見ろというのです。腐りかけた古い松の木の枝を見れば、腐りかけているのでかたよって影響を受けている、それと同じことだというのです。

 皆さんは、今、青い葉のようですが、途中まで行って落ちることもあるのです。秋になり実を結ぶのに役に立つ、そんな葉としての存在ではなく、実とは何の関係もない葉として、途中で落ちる葉に過ぎないのです。それゆえ、皆さんは歴史的な罪を悔い改めなければなりません。そう、罪という言葉がここから出るのです。罪、分かりますか? 何の罪だって? 歴史的な罪を感じなければなりません。

 それゆえ、私には歴史的な罪を断つべき責任があります。それゆえ、無慈悲に清算しなければなりません。「首をおさえろ、このやろう」自分と闘えということです。自己にある権威と権勢をすべて投入して、自己を征服するのに第一線に立って「おまえは、私の命令のままにしなければならず、私の望みのまましなければならない」としながら、自分に対して号令する歩みが信仰生活の第一歩です。(一九七三・八・五、前本部教会)

 私たちが統一教会に入り信仰生活をするときに、最初の出発点は何かといえば、自身が神様の子女だと実感することであり、それで神様の愛を中心とした子女の立場を復帰しようとすることです。神様から愛される人が、この偉大な神様のみ言を自慢とし、天宙にそれを叫ぶことのできる心情になっていないならば、その人は神様の息子・娘として立つことができないのです。(一九六九・二・四、東京教会)


二 統一教会の信仰の特性


1 統一信仰の三大要素(絶対信仰、絶対否定、絶対愛)


 アダムが堕落したことにより、アダムが私たち人類の父母なのですが、堕落のゆえ、アダム家庭は破綻したというのです。家庭が破綻しました。だから宗教を立て、破綻した家庭を復帰しなければなりません。本然の家庭に復帰しなければなりません。

 アダムの堕落がどのようにしてなったのでしょうか? 不信して堕落したのです、不信して。不信が一番の原因なのです。その次は何かといえば、自己主張から堕落したのです。自我主張、自己を中心とすることをいうのです。自己を中心とする立場で堕落したのです。その次には、自己を中心とする愛圏を要求したのです。これが堕落の三大要素です。不信、その次は? 自我主張、自己を中心とすること、その次には、自己を中心とする愛圏を夢見たこと、これがサタンの足掛かりなのです。堕落した天使がそうなったというのです。

 では、これを蕩減復帰しようとするならば、それを否定しようとするならば、どうしなければならないのでしょうか? 反対、反対にすべきです。絶対信仰! だから絶対的信仰が出てくるのです。私たち人類の先祖が不信して堕落したので、これを踏んで上がらなければなりません。私たち先祖が堕落したその線以上に上がらなければなりません。絶対信仰をしなければなりません。絶対信仰は何を言うのでしょうか? 死ぬまで、死んでも、死にながらも行こうとすることです。皆さんは絶対信仰が分からないでしょう? 絶対信仰の限界がどこかというならば・・・。それを、私たちの実感的な生命体を持つ私自身と比較して言うならば、死にながらも行くということです。死にながらもその道を行くというのです。死にながらもその道を行こうとすることです。私は死ぬとき横に倒れるのではなく、前のめりになるのです、前に。そのような意味から、私の信仰を否定すれば、死の道を選ぶのです。

 さあ、統一教会がそうですか、統一教会の食口たち? 蕩減復帰するためには反対の経路を通じていかなければならないので、自己認定、自己肯定から出発するのではありません。完全否定です。完全な宗教は、自己否定から、堕落した世界の否定からです。それゆえ、世界を否定し、国を否定し、氏族を否定し、家庭を否定し、妻・夫、男性・女性自体を否定し、私の体と心自体を否定しなければなりません。否定の版図がどれだけ大きいか知らなければなりません。私の心を中心として、体まで否定しなければならないのです。

 サタンの第一の居所はどこかというと、肉体です。これが境界線、体と心の境界線になったのです。体と心が闘争するようになったのは堕落したからです。闘争するようになったのは堕落したからです。ヘーゲルのような人が闘争概念を捜し出したのは何でしょうか? 堕落した自体を置いて、批判して見るとき、人間に闘争概念があるというのです。ところがそれが本来の人間にあるものだと考えたのです。しかし、それは堕落を知らなかったからです。この背後においては、善神と悪神が錨をぶら下げ、網を投げているというのです、網を。分かりましたか? ここ、韓国の中線を見るならば、大きな綱に、網をかけているというのです。ところが錨綱を知りません。錨を知りません。網だけおいているのです。そこに入っている魚の子が人類です。惨めなことです。惨めなことだというのです。惨め、惨め、惨めです。どうにも解決する方法がないのです。いくらつっついて見ても出る穴がないのです。その網を破裂させなければなりません。堕落圏のサタンの網を破裂させなければなりません。世の中をすべて否定しなければならない。肯定ではなく破裂させてしまわなければならないというのです。こっぱみじんにしなければなりません。このロープも錨までも切ってしまい、こわしてしまわなければなりません。

 宗教は肯定概念から始めることはできません。先祖がそうしたから。それを否定する第一条件は何かといえば絶対信仰です、絶対信仰。分かりましたか? そう、お前さんたち、絶対信仰を持ちましたか?

 それゆえ、苦行の道をなぜ行くのか、その原因を暴いて見なければなりません。今日、文某が来て、宗教の秘密の世界をすべて、暴くのを望むでしょう? 「なぜ苦行の道を行かなければならず、犠牲にならなければならないのでしょうか? なぜ、なぜ絶対信じなければならないのか?」と、牧師たちをよんで三言だけ言っても、答えられずその信仰で「それは、その信仰ですべての救援を・・・」というのです。そんな妄想的なサタンの煙幕戦術にだまされるなというのです。(一九八三・四・一〇、本部教会)

 絶対信仰! このごろの先生の祈祷がそうです。ペテロの信仰が問題ではないのです。そう、絶対信仰、分かりますか? その次には何ですか? 犠牲! 絶対何ですか? 犠牲です。私は神様と私との関係を良く知る人だというのです。(?)

 第一が何ですって? 絶対信仰です、絶対信仰。絶対信仰が、どうですって? 死にながらも行かなければならないのです。監獄は何でもありません。死にながらも行かなければならないというのです。イエス様が祈祷するのに「できるならば、この杯を私から過ぎ去らせてください、しかし、私の思いのままにではなく、父のみこころのままになさって下さい」と言ったその父のみこころのまま・・・。客死の死体として倒れても、自己のために死なず、父のために死んだというのです。分かりますか? 栄誉なる死体になったのです。分かりますか? その限界点が分かりますか?(はい)

 死の場でも大胆でなければなりません。死ぬと堅く目を閉じ「私は死んだ」としていればすでに別の世界に移っていたというのです。分かりますか? 飛躍が起こったのです、飛躍が。統一教会はそうして発展してきたのです。そうして、発展しました。あっけにとられ、あきれて、四方がしっかりと締めつけられ、地に入ることも、天に跳ね上がることもできないその立場を、死を覚悟し踏み越えたなら・・・。

 生きておられる神様は、間違いなく顕現する方です。それゆえ、私には神様がいるいないというのは問題にもならないのです。分かりますか? そんな役事が本当に多いのです、夢のような役事が。分かりますか? 神様は工作どおりされる方です。絶対信仰を持っていく人には・・・。

 第二は何ですか? 自己否定です。百パーセントこの目を否定しなければなりません。今日、統一教会の食口たちは劇場にもよく行くでしょう? 私は劇場に通いませんでした。青年の時にも電車に乗らずに通いました。私が鷺梁津(ノリャンジン)にいながら市内に通うとき、歩いて通いました。そしてそのお金を、道端で物乞いをする人たちにあげました。その一人が、この次に三千万民族に代わって、このような神様のみ旨を咲かせることのできるその日のために全力を尽くして下さいと、涙を流して小銭をこの三千里半島に蒔いた事実を知らなければなりません。

 私が日本に行く時、ここ・・・ソウルその時は京城でしたね・・・から釜山まで行くのに、オーバーをかぶり痛哭して行った人です。民族の解放の日と共に世界の解放になるときは、この民族が代表できる・・・。内的、精神的姿勢が喪失し、民族的方向を失ってしまったこの民族がどうなるのかということを心配しながら、反日闘争のために立ち上がったのです。国を愛せない人は・・・。

 犠牲の橋の角材になり、板切れになってでも橋を架けようとする思想が宿っていればこそ天は訪ねてくれるのです。自体否定です。私の見たい目、私の食べたい口! 三十歳までお腹がすかなかった日はなかったのです。私がこれを知っても私自体を否定するのです。お腹がどれくらい空いたか知れません。お腹が空いたときは深刻です。聞きたいすべてのものをすべて切ってしまい、楽な寝床をすべて切ってしまうのです。(一九八三・四・一〇、本部教会)

 自己否定しなければなりません。自己中心思想を捨てなければなりません。自己を中心とした考えを捨てなければなりません。絶対、何ですって? 信仰。その次には? 絶対否定、自己否定です。その否定する手段は何でしょうか? それをじっと座ってするのでしょうか? 頭を下げるのです。頭を下げろ。

 そして、なぜ否定しなければならないのでしょうか、怨讐、怨讐を消化しなければなりません。怨讐を愛さなければなりません。その道は容易ではありません。自体否定を何十回、何百回するだけではなく、怨讐を愛することのできる私の位置まで行かなければなりません。そうでなくては、私は神側に永遠に立つことができません。サタン側に対し、サタンの前に立つようになるでしょう。サタンの前に立てば常に引っ張っていくのです。常に引っ張っていくのです。これが境界線です。

 絶対否定、その次には何ですって? 第三は絶対愛、絶対愛は、それです。怨讐を消化してこそ・・・。怨みを晴らすのが許しではありません。怨讐自体が自ら進んで、自己の国と自己のすべての権限、長子の嗣業までも、すべて譲らなければなりません。譲り受けなければならないのです。(一九八三・四・一〇、本部教会)

 残るものは、絶対信仰も去り、絶対服従も去るけれど、最後には絶対愛が残るというのです。信仰と愛と希望、この三つはいつもあります。この中の第一は何ですか?(愛)信仰も去り、希望も去るけれど、最後には愛が残るというのです。同じです。絶対信仰もすべて去ります。(一九八七・一〇・二九、漢南洞公館)

 絶対信仰というものは何でしょうか? 自分が信じている一つの宗教の指導者がいたら、その指導者と私は歴史的に数千年という遠い距離を置いていますが、信ずる心を中心としては、それと平面的に対等な時代圏内に入り、立つことができます。それゆえ、絶対的に信じろというのです。絶対的に信ずるとき、その人と共にいるということが分かるようになるのです。また、その人と共に生きているということが分かるようになるのです。このようなことを新しく認識させ、刺激させるためのものが信仰だということを知らなければなりません。

 皆さん、絶対的な信仰をしなければなりません。統一教会を信じるのかというとき、絶対的に信じていくと言わなければなりません。(一九七一・七・二五、前本部教会)


2 体恤信仰


 統一教会はどのような道を行くのでしょうか? 統一教会を指導する文先生という人はどのような道を行くのでしょうか? また、文先生を指導される神様はどのような命令をするのでしょうか? これが問題です。この道は喜びをたたえながら行く道ではありません。真なる意味の悲しみを感じるために行く道です。自分が感じる胸の痛い悲しみは、当事者以外は分からないものです。それゆえ、統一教会では体恤的な信仰を強調するのです。神様の心情を体恤しようというのです。

 なぜ体恤的な信仰を強調するのでしょうか? 神様の悲しみを知らずしては、神様の前に行くことができないからです。子供が父母へ孝行するためには父母の悲しみを完全に知り、それ以上の心情を持って悲しみを除去させてあげられる実体になればこそ、孝子になることができます。心情が父母と共にできないならば、孝子になることができないのです。

 忠臣烈女の心情と一致できる基盤の上にどれだけいたでしょうか? そんなことが何回になるでしょうか? そのような人になろうとする回数と、そのような時がどれだけ多かったかにより、信仰は決定されるのです。(一九七一・四・一八、前本部教会)

 天上の審判はどこで決定されるでしょうか? 皆さんは、天のための功労と苦労が多いといって威張るものではありません。それにより決定されるのではありません。ただ神様の心情とイエス様の心情が、皆さん自身の体で体恤され、結実され、それが神様やイエス様と切っても切れない因縁になったそれだけが永生不死なる条件になるのです。(一九五八・三・一六、前本部教会)

 皆さん、信仰生活で、生活圏内で、神秘的体験、あるいは霊的に神様がいることをみんな体験していますか? 皆さんの中に霊的にとか、祈祷の中でとか、夢の中で先生に度々会い、先生の指導を受ける人は手をあげてみなさい。百パーセントそうならなければなりません。それは私たちだけが持っている力であり、私たちだけが持っている誇りであり、私たちだけが持っている宝物なのです。今まで宗教は体験的な課程を経ることができなかったため、戸惑い、世俗化されてしまいました。けれども、統一教会は最後の場に立つ神様であることを知るゆえに、波風や洪水が押し迫ってもこれを散らして、死ぬことがあったとしても、明日の希望を遺言に残して死ぬことのできる勇士と婦人になっているという事実は、驚くべきことです。(一九七六・六・二、アメリカ)

 今日、統一教会員たちは全部天に引っ張られ、行ってきましたが、天が去ってしまえばくたびれてしまいます。それはなぜそうなのかといえば、体恤信仰の重要性を知らないからです。信仰というものは、生活圏内で勝利的結果、すなわち生活圏内で神様の目的を中心とし、そのような結果を打診できる価値的内容が、私が対する前より、対した後にもっと良い結果を探し出すときはいくら迫害が来てもそのまま進むのです。絶対屈服しません。けれども、その行なった結果がマイナスになるときは、いくら力を出そうとしても後退するようになります。

 ですから、後退しうることは絶対してはならないのです。その被害はどうでしょうか? 一度後退した次にそれを正すということは、どれだけ大変か分かりません。一度失敗するようになれば、それを補充するのがどれほど大変かを考えるならば、落ちうる、すなわちマイナスになりうることは、考えすらしないというのです。そんなものは見ようともしないのです。また、そんな人は相手にしようともしないのです。

 それゆえ、初め恵みを受けるときは人を多く嫌うようになります。物もむやみにあれこれ接することができず、単調な物だけに対するのです。その人が日常的に欲を持って動ける物は、絶対対することができないようにさせます。そうではない物、すなわち無関心に対した物だけ、対するようにします。対するようになれば欲が先立つ物は、絶対対せなくさせます。言葉も、そうです。自分を弁解しようとする言葉はできないようにさせます。

 実際、信仰生活において、霊的体験はそうしておいて起こるのです。皆さんはそのような霊的な体験はできなくても、生活で感じられる感じを分析する回数を上げていかなければなりません。どういうことか分かりますか?

 このような段階に至れば、どのような現象が起こるでしょうか? 三角的な関係から直接的な結果を一度に皆捕らえることが多く起こります。この話がなんのことかといえば、第三のこととして現れ、何ら関係がないにもかかわらず、関係を結ぶことによって計画的なことではないけれど、偶然に体恤的な感情を感じることができる体験をするようになります。こうして努力するようになれば、第三点のことから現れ関係のないことでも、パッと感じる感じを通して、関係を結ばなければならないと考えるようになります。このように生活圏内において発展することのできる動機をいくらでも見付けることができます。(一九七一・二・七、前本部教会)

 体恤するためには必ず祈祷しなければならず、精誠を尽くさなければなりません。これを知らなければなりません。そこから現れる、啓示や夢での啓示を絶対無視するなというのです。それを調整し、現実的生活圏内に、実践舞台に、どのように適用させるかということが信仰生活において一番重要です。(一九七五・二・二、前本部教会)

 先生が地方巡回に行ったときの話です。ここからどこに行くのかという話をし、電話をしてはだしぬけに他の所に行ってしまうのです。それは電波と同じなのです。ミサイルと同じなのです。ミサイルは引っ張り込むことのできる、何か鉄の小さなかたまりだけあれば引かれていくのと同じで、そんな作用が起こるというのです。それゆえ天国に送ってくれと考えるなというのです。天国に行く行かないということは、統一教会の文先生にかかっているのではないというのです。分かりますか? 行く行かないということはだれにかかっているのですか? 皆さんにかかっているというのです。

 体恤信仰において一番重要な要件は何か? 主体と対象関係です。「神様は常に主体だ」としながら、私を愛される神様ゆえ、私が深刻ならば深刻なだけ、神様は私のことを忘れられない、傍観できない、ここに共におられるということを感じなければなりません。それで祈祷に先立って感謝できる生活形態が起こるようになるとき、そこは天が共におられるのです。それが一番初めには感じませんが、ある段階に入れば感じるようになるのです。(一九七二・六・二五、前本部教会)

 皆さんは生活過程を分析し結果を打診しなければなりません。自分が結果を打診しなければなりません。私が感ずることは何パーセントは合う、何パーセントは間違いないという、こういう内的な因縁を皆さんが環境圏内で結び打診できる、そんな結果を測定できる立場に立たずしては、神様が共にいらっしゃるのか、悪が共にいるのか、分析することができません。だから、必ずこういう信仰態度が必要です。こういう信仰態度を育てていけば間違いなく体恤してきます。そうなれば、道に出るとき、祈祷をしなくても大丈夫です。初めの歩みを踏み出すとき、この道がどのような道なのか、良い道なのか、行けば神様が喜ばれる道なのか、寂しい道なのか・・・。最初に感じてくる思いが「あー、これは良い、悪い!」という思いがあるというのです。悪いと思うときは行かないのです。これを鑑定する仕方を知らなければなりません。ですから皆さんは、環境的体恤信仰に対することを開発するために努力しなければなりません。(一九七一・二・七、前本部教会)


3 統一教会をなぜ信ずるのか


 では、皆さんはなぜ統一教会を信ずるのですか? 統一教会をなぜ信じるのでしょうか? おじいさんの道理を習うためです、おじいさんのみ旨を。分かりますか? おじいさんがどうですって? 神様がおじいさんではないですか? 本当に神様がおじいさんですか? 皆さん、何を、神様に対しておじいさんだというのですか? 皆さんの家にいるそのおじいさんではなく本来のエデンの園で、おじいさんが何だって?(神様)神様であり、アダム・エバがお母さん・お父さんであり、私が孫であり、三代だというのです。

 それでは、統一教会をなぜ信じるのでしょうか? 私たちは再創造、復帰の過程ですべて集まり、何をしなければならないかという話です。父母様の愛を受け、神様の愛を受けられる道をならしていくのが統一教会の行く道です。さかさまにするのです、さかさまに。本来生まれるとき、神様の愛を受け生まれるのです。生まれるやいなや神様の愛を受けるのです。そして父母の愛を受け・・・。ところが、これが堕落する時さかさまになったのです。生まれたのにどうしますか? さかさまに父母の愛を受け、父母の愛を受けた次には、兄弟どうし愛さなければならないのです。家族どうし愛さないでは愛される道がないというのです。そういうものなのです。(一九七六・二・八、中央修練院)

 イエス様の御言の結論がこれです。死のうとする者は何だって?(生き)生きようとする者は何だって?(死ぬ)先になる者は?(後になり)後になる者は?(先になる)それが何か。それがここで起きています。牧師たちはそれが分かります。これから牧師たちが涙を流すことが多いでしょう。ここの既成教会を信じた人たち、既成教会と統一教会とは千里万里の差が出ます。既成教会は幼稚園にもならないのです。こうして言うと大変高慢だと、傲慢だというでしょうけれど、統一教会はすでにそんなレッテルが付いています。偽物ではありません。死んでみろというのです、私がうそを言ったか。

 イエスを信じ福を受けようとする奴らは狂った奴らです。神様が今死ぬか生きるかと、イエス様も天で死ぬか生きるかという局面にいるのに福を受けようというのですか? 考えてみなさい。イエス様の心が楽だと思いますか? どれほど大変で、死ぬ時「父よ、私の思いのままにされないで父のみ心のままにされます様に」と言ったでしょうか? まだ祈願成就をなせないでいるではないかというのです。もう一度来ることができる環境を作りおくことができず、来ることもできないこの立場を知るとしたらイエスを信じ、福を受けようとしますか? 逆にイエスを信じ死ぬと言わなければなりません。死のうとする者は福を受けるのです。福を受けようとする者は?(死にます)統一教会を信じ福を受けようとする人は来るなというのです。統一教会を信ずるならば、福を受けるのではありません。(一九七一・九・五、前本部教会)

 それでは、統一教会をなぜ信じますか? 統一教会をなぜ信ずるのですか? 皆さん自体を置いてみるとき、私が喜ぶために信ずるのですか、統一教会を良くするために信ずるのですか? また、統一教会は何ゆえに統一教会を作ってこうなのですか? 統一教会がいいために?(違います)違います。統一教会の教会員を良くするためにです。統一教会の教会員は、統一教会のために、統一教会は統一教会の教会員のために・・・。こうなれば回っていくのです。回っていくというのです。回っていけばどうなるというのですか?(理想が起こります)理想が起こるのです。運動する時もこのように直線に行ったのがさっと回るのが簡単ですか、円形にこうして除々に回るのが簡単ですか? 円形に回るのが簡単なのです。(一九七六・三・一四、前本部教会)

 統一教会を信じ福を受けようと考えるなというのです。福を与えようという考えをすべきです。統一教会自体内の福を、国と世界のため、もっと大きなもののために与えようとしなければなりません。そうしていくようになるときは、レバレンド・ムーンが皆さんの進路に責任を持つのです。皆さんの足を私が引っ張りません。そんな人たちになるべきです。(?)

 統一教会に入ってくるのは、福を受けるために入ってくるのですか? 福を受けるために統一教会を信じますか、死んで世界の人に福を与えるために信じますか? ほー! 早く答えなさい。賢く答えなければなりません。自分はそうではないのに間違えて答えるなら讒訴条件に引っかかるのです。統一教会を信ずるのが、自分が福を受けるために信ずるのですか?(福を与えるために信じます)女たち、この女たちは?(福を与えるために・・・)どう、確かではないですか? 何をするために信じますか?(福を与えるために信じます)はっきり答えなさい。何をするために?(福を与えるために・・・)福を与えるために。そう、福を与えました? どうですか?(笑い)(一九七八・一〇・一、本部教会)


三 真なる信仰姿勢


1 信仰者の態度


イ)待ち焦がれる心情が必要である


 信仰者の態度はどうしなければなりませんか? 待ち焦がれる心情がなければなりません。因縁を持っているゆえに、待ち焦がれないようにしても待ち焦がれざるをえないということを、皆さんは知らなければなりません。それでは天は何を待ち焦がれるのでしょうか? 信仰者を待ち焦がれるのではなく、生活の中で実践する者を待ち焦がれています。私も信仰者になることを待ち焦がれるのではなく、生活の中で実践する者になることを待ち焦がれています。希望の国を待ち焦がれるのではなく、その国で生活できる人を待ち焦がれているのです。

 今日、私たちは信仰という名詞を掲げておき、待ち焦がれていますが、そういう段階を越えて生活的な信仰をしなければなりません。すなわち、天と共に生活する食口、天と共に生活する民、天と共に生活する教会にならなければなりません。そのように生活しながら楽しむことができ、讃えることができ、栄光を返し捧げられる信仰生活をしなければなりません。天はこれを待ち焦がれています。

 歴史過程の数多くの私たちの先祖たちの前に、信仰という名詞を立てておき、神様が彼らに対して待ち焦がれたものは何だったのでしょう? その場で闘っている信仰者としてのそれ自体ではなく、終わりの日まで残り、父と共に生きることのできる人を待ち焦がれておられたことを皆さんは知らなければなりません。天が私たちを待ち焦がれていたということを知らなければなりません。神様が待ち焦がれていたのは信仰のために喜んで消えていくことができる私、信仰のため死んで復活することのできる私、死亡圏を抜け、生命圏内で復活の価値を讃えることができ、永遠の世界で神様を父と呼び生きることのできる、そんな私を待ち焦がれていらっしゃいます。これを考えるようになるときに、天が待ち焦がれた私、その私を慕うすべを知り、その私を探すため、その私に会うため喘ぐ皆さんたちにならなければなりません。(一九五九・三・二九、前本部教会)

ロ)負債を負った者の姿勢を持つべき


 終わりの日に処している今日、信仰者たちの態度は何でしょうか? 歴史的で厳粛な全体の材料は、人類だれでもすべて希望する材料であり、天が望む材料ですから、こんな内容の材料を一人で相続を受け、自己の身を通しこれを表すことができ、一身を通してこれを相続し立ててあげられる、そんな人にならなければならないのです。これが信仰者の望む願いとなっており、天が望む願いとなっているのです。(?)

 信仰者の態度は、いつでも負債を負った者の姿勢でなければなりません。皆さんはそれを知らなければなりません。信仰者として一番重要な姿勢は何でしょうか? 負債を負った者の姿勢です。皆さん、負債を負ってみましたか? 負債を負ったことがなければ負債をちょっと負い持ち、鍛練してみなさい。負債を負った者の苦労がどのようなものかということを知ってごらんなさい。負債を返済できない立場に立ってみろというのです。本当に惨めです。(一九七一・四・二五、前本部教会)

 私たちには重大な使命があります。今日信仰生活を通じ、皆さんは私の一つの自体に及ぼすすべての周囲の環境の中で、負債を返済しなければなりません。返済こそしなければならないというのです。ですから、生活の中で私が当然に負債を返済する生活をしているのか、自ら検討しなければなりません。

 今日、皆さんが信仰生活する中でも、永遠なる神様の負債と、父母の負債と夫婦の負債、そして万物の負債と関係を結んでいます。皆さんはこのすべての負債を蕩減する時代と因縁を持っているので、皆さんがどのような心を持たなければならないのか考えなければなりません。(一九五六・六・一〇、前本部教会)


ハ)固い覚悟を持たなければ


 正しい信仰者の態度は、自分というものをすべてなくすことです。死の峠までも越えてこそ天と喜びの因縁を結び、消え失せるその時間に「父よ、イエス様のようにすべて成しました」と言え、今まで結んできた悲しみと怨恨の因縁を終結させ、喜びで絡む因縁をうたうことのできる瞬間を所有できなければなりません。このような者たちが所有するのが永遠なる国であり、このような者たちが住む所が天の国であり、このような者を探すためのものが神様のみ旨であることを私たちは知らなければなりません。(一九五九・三・二九、前本部教会)

 皆さんは、最後の勝利の決定線で最後の一歩を降ろすその線を切ってこそ、皆さんに新しい希望が現れるのです。皆さんが新しい日を迎えるのです。新しい理念を皆さんのものとして所有するのです。その新しい理念を皆さんのものとして因縁を結ぶためには、そのような道を行くべき天的な条件が残っているのを私たちは知らなければなりません。ですから、こんな歴史的な運命を前において進んでいる私たちは固い覚悟を持たなければなりません。

 今、このような見地から皆さん自身を振り返り反省してごらんなさい。私は果たして信仰者の態度を備えていますか? 望みの心を立て出るための信仰でしたか? それを願った私でしたか? 古びた信仰を持ち、すべてなると思い、すべてのことを解決しようとすれば、その道を行くことはできません。

 正しい信仰の態度を備えていくべき私たちなるが故に、今私たちに、死亡の威力がぶつかってきたとしても、その死亡の力を清算しても残りがなければなりません。残る痕跡がなければなりません。私の情熱もそうであり、私の忠誠もそうであり、私の努力もそうであり、私のたえるところもそうであり、私に属するすべてのものが残る分野がなければなりません。これが天の相続の第一基準になるということを知らなければなりません。

 今日のこの複雑な有形を経て進むためには、その望みを訪ねていかなければなりません。歴史的な因縁と、時代的な因縁と、未来的な因縁を心に抱き、望みの私ひとりを待ち焦がれながら、これを訪ねていかなければなりません。これを訪ねていくのに無限な怨讐たちが立ちふさぐであろうし、これらと闘い、また闘わなければならず、進んで、また進んで行き、ぶつかり、またぶつからなければなりません。そうして、忍耐の祭壇を私の肩で支え、腕で支え、手で支え、体で支え、頭で支え、忍耐の峠を越える覚悟をした生きた祭物にならなければなりません。そうでなければ、真の信仰者の態度を身に付けた者と見ることができないでしょう。天の御旨と、天の真理を探し出す者と見ることができないでしょう。(一九五九・三・二九、前本部教会)

ニ)ぴんと張った心情的態度が必要


 歴史は個人の生活路程を記録したものであり、個人の現実的な生活を探し出していくものだと私たちは見ています。今までの歴史は、理想郷を捜し出す道だということを私たちは否定できないのです。理想郷を捜し出すにおいては、必ず過去を清算し、新しい理想と一致できる内的因縁を、再び追求しなければならないのです。それにより、絶対的な価値を中心として揺れないようにしなければなりません。揺れる者になってはいけません。絶対的な生命を備えるにおいては、寸毛の行き違いもない、自信ある立場、信仰の基台を完結させる位置に立たなければなりません。その位置は、一致点を成すことのできる位置でなければなりません。無限な生命が一致する、その位置が私たち人生の歴史路程になければならず、その歴史路程にある前に、私たちの中のある個人から、始められなければならないのです。(一九七三・七・二九、前本部教会)

 皆さんが信仰生活をするにおいて悔い改める時があり、恩恵を受ける時があり、恩恵を受けては分け与えなければならない時があるのです。悔い改めることによって恩恵を受け、恩恵を受けたことをただ持っているのではありません。その次には分けてあげなければなりません。

 信仰生活は必ず第三者の立場を脱皮しなければなりません。皆さんが、今、先生についていますが、先生を中心として信仰生活するのではありません。皆さん自身を中心として信仰生活をするのです。それゆえ、信仰生活をする人は、他がどうあれ、私ひとりで守っていかなければならない信仰の道があるのです。そんな信仰生活は・・・。近い人も体験できない深い心情世界で、天を中心としてひとりで感謝できる生活、ひとりで満足する生活ができなければならないのです。この世がいくら悪くても天地を望みながら「感謝します。私は幸福です」と言える信仰生活をしなければなりません。そうできなければ、そんなことを感じられないでしょうから、その反対の立場で、ひどく悲しい立場で「私は罪人です。私は不足ですから勇気を与えて下さい」と決意する、悔い改める自らの期間を必ず持たなければなりません。(一九六三・一一・一五、前本部教会)

 それでは信仰者として第一に注意することは何でしょうか? 事に対するにおいて、些細な事であれ大きな事であれ、どのようなことでも個人的に対してはいけないというのです。言い換えれば、皆さんの心がぴんと張っていなければならないのです。ぴんと張って空気を入れ、完全に丸くなったボールのような心の姿勢を持てというのです。へこまず完全にぴんと張ったボールのような心の状態にならなければならないのです。そうではなく不安な心だとか、あるいは個人の欲を中心とした邪心を持つなら、丸いボールのような心に角ができます。

 この心が回るときには平面的にすべて接触しなければならないのに、角が生ずれば角がでた先の部分から接触します。そうなれば全体を円滑に刺激させるのではなく、全体に反対的な作用をするようになります。そのような場に処すれば処するほど、私たちの良心は呵責を受け、良心の基準が段々削減するということを考えなければなりません。

 それゆえ、常に円満なボールのようにぴんと張った心情態度が必要です。それでこの心に、ある刺激が入ってくれば、心全体が共鳴できなければなりません。固有の振動数が互いに同じ音叉二つを置き、一つを鳴らせば他の一つは打たなくともその音波に刺激され、同じ振動数で鳴らすのと同じで、私たちの心も共鳴体になれる円満な心を持たなければなりません。それで、常に一つの主体から伝達されて来る霊的な波動を感知しようと努力しなければなりません。

 それゆえ、信仰生活をする人には瞑想の時間が必要なのです。良いことを描きながら瞑想をしなさいというのです。瞑想するときは心の門を開け放し、その心を丸くして神様ならば神様を中心とし、神様の本性と私の本性が、春の季節に該当する人は、春の季節の主体なる神様といっしょにその性稟を完全に与え受けることのできる、完全に共鳴できる心の姿勢を備えなければなりません。こうして、共鳴する内容を中心とし、自己が要求する目的に対するようになるときは、必ず神様が共におられます。これを皆さんは知らなければなりません。

 そして、そんな共鳴を感じられない位置で、あることに対するようになるときはこうして考えればいいのです。「神様がこのことをながめていらっしゃる。私と直接的な関係を持っているのを私が感じられないが、関係を持っている。このことに神様が先に介入していらっしゃる。神様の御旨がここに打ち込まれている。今はその御旨を中心に私が接する瞬間だ。」と考えればいいのです。事ならば事を中心として見るときに、そこには必ず神様の御旨が先に成立しているのです。(一九七一・二・七、前本部教会)

 信仰生活をするにおいて、皆さんの心の中に爆発的でもあり、刺激的な力を持ち、御旨の世界に向かって弛まず行こうとする余力がありますか? そんな心があれば、それは神様が皆さんと共におられるという証拠なのです。反面、そんな力がないなら、神様が皆さんと分離されているという証拠です。

 皆さんに人類を愛する心がほとばしり、人類といっしょに自己の生命を分けてあげたいという心が絶えないということは、自身が天に属していることを証すことで、自体を主とする愛と、自体の価値を誇る生命力として終わるなら、自身からすでに神様は離別しているという事実を証すことを知らなければなりません。そんな人の行く道は、天ではありません。そんな人は自分を主とする限界点に到達するでしょう。私を中心とする限界の世界は、神様の御旨の世界とは違うのです。(一九七〇・六・一四、前本部教会)

 このような問題を置いてみるとき、概して人が善悪の道を選んで行くときにおいて、徳望の友を多く持てる道、あるいは目上の人の前に認められる道、或いは目下の人の前に信頼される道は弁明ではないというのです。分かりますか? 皆さんが全部すべて打診してみて、比較してみろというのです。大体弁明する人たちは損害を被ります。ですから、事件が起きたら弁明するなというのです。先生は死んでも弁明はできない人です。食ってかかり、「事実がそうです」とすれば、万一、方法上他に答えなければならないときも、目でもひそめて答えるのであって、弁明はしません。先生の生活習慣がそうなっています。それを見るとき、大体に見るとき、正直な人は残るのです。そんな人はその環境を継承することができるのです。

 このような観点から見るときに、より「率直な信仰者」になることは何よりも必要です。では、率直な信仰者はどこで分けられるのでしょうか? 現在の立場で分けられるのです。それにより、善と一致できず、悪の侵犯を受けたときは即刻処理しなければなりません。それゆえ、先生は何か事が生じたら、三時間以上を越えません。絶対越えません。越えてはいけないのです。それで、すでに気分の悪いことがあればそのまま流してしまうのです。気分の悪い心を持って大衆の前に出て、ああだこうだというのは、偽物です。こう考えるとき、問題が深刻なのです。こんな問題を置き、私たちの人生を見るならば、信仰生活でもそうですが、大体に日常生活にも率直な生活哲学を守っていく人は残ります。そのような人は、歴史的な面において貢献を残していく人だということを皆さんは分かるように願います。(一九七一・七・四、前本部教会)

 皆さんは幼な子の心情で信仰しなければなりません。(一九七一・八・一三、清平修練所)


2 忍耐が尊い


 今日私たちが、耐えて耐えなければならない原因がどこにあるのでしょうか? 私たちが耐えられなければ私たちが負った負債を返せず、天が抱き耐えてきた恨みを晴らすことができないからです。

 天地の運勢は神様の摂理とともに回っているので、皆さんは神様が憤るときは、共に憤るすべを知り、神様のくやしさと神様のうっぷんに対し味方したなら、サタン世界は審判されるというのです。今日、信仰路程を進んでいる私たちに対し、天が温柔謙遜し、腹を立てず、耐え、我慢しろというこのようなすべての教えが、すべてそのようなわけなのです。(一九五六・六・一〇、前本部教会)

 祈祷してみると神様は「お前はお前を殺さなければならない。そうすれば福を受けるだろう」いつもそう答えてくれるというのです。耐えれば福を受けるのです。公的か、私的か、そんな話はしないのです。「耐えろ、耐えろ」というのです。いつも耐えろというのです。それが公的な道だというのです。分かりましたか? 東洋には耐えるということば(忍)は、心に刃を突きつけてでも耐えるという意味です。心に刃を差したらどれだけ痛いかというのです。千回耐える人は千回闘いに勝つことができるという希望を持つことができると見るのです。分かりますか? もう分かりました。

 もう一回考えて、もう一回考えて行動し、その次にもう一回考えて耐えなければなりません。行動も、もう一回考えて行動するというのです。分かりますか?(はい)先生は耐えることをするのです。「偉大なる祖国」という言葉は聞きたくない言葉ですが、最も貴い言葉だというのです。そんなときごとに、一つ考えなさいというのです。大変ですが、一つ考えてみなさい。耐える事が難しい問題が生じたならば、私が耐えることにより何になるのでしょうか? その人が持っている福を、私が全部引き受けることができると考えるのです。(一九七七・六・一二、ベルベディア修練所)

 それで聖書にも、終わりまで忍ぶ者は福があるといいました。終わりまで忍ぶということが簡単なことではありません。その終わりというのが、私ひとり死にうる立場で死んでいったとして、終わりではありません。家庭が全部犠牲になりうる家庭の終わりもあるのです。あるいは民族ならば民族、国家ならば国家の終わりもあるのです。また、世界の終わりもあるのではないでしょうか。

 それで、終わりまでという言葉は家庭的な基準で闘える立場に立つ、そのような終わりではなく、それを越えて立つ立場で、民族的な闘い以内での終わりではなく、その一番終わりからながめる、それでもって世界に向かう路程を残す立場での終わりではなく、世界の終わりを過ぎて、もうこれ以上ないといえる立場での終わりではないでしょうか。

 このような問題を見てみると、信仰の道に従って神様と共に個人を越え、家庭を越え、氏族を越え、民族を越え、国家を越え、世界の終わりまで行く時までのその受難がどれほど大きいのか。その道を一生の間、あるいは生涯を通じていかなければならない、必ずや行かなければならない、そのだれかがいなければならないということを考えるとき、その道を模索する人は平安や、安息や、希望や、願いや、栄光とかいうことを望む心を持っては、その終わりまで到達できません。(一九七一・一一・一四、前本部教会)

 それゆえ、福を受けようとする人は長く耐えなければなりません。かわいそうな人に会い同情するときは、銅銭一文をあげながら「おい! 若い人がどうしたのか?」絶対そんな言葉を言ってはいけません。小さな一文でも、千倍万倍尊んで、今日この時間以後に福を受けなさい、そんな言葉はいくらいっても良いです。「この野郎! お前は今日以降に千倍万倍福を受けろ」といえば「ヒヒヒヒ、あーうれしい! おじさん、どうせなら、この野郎というそれをのければ本当に良いです」そうだというのです。喜びながらそういうのです。長く待つことを知らなければなりません。待つすべを知らなければなりません。

 このごろ春になったので、最近あの耕うん機、耕うん機というのかな何というのかな? 耕うん機ではなくて耕牛機としなくてはですね。牛の代わりにするからです。それがあってすべて仕事をするからそうではなかったですが、昔は牛をつかまえて「こら、くすくす」と言って田に行くとき、気分が悪いときが多いではないですか。そんな時は牛の尻をぶんなぐりながら「この牛め、お前どうしてこうなのか? 私が精誠を尽くしここしばらくの間使おうと育てたのに、これはどうして言うことを聞かないのか?」と言いながら鞭で容赦なくぶったたく、そうするよりも「おい、冬の間良く休んだお前を、挨拶もせず春の日に引っ張り出してきて良く食べさせもせず、使って申し分けない」と考えて、牛よりももっと忍ぶ心を持ちぴちゃぴちゃするなら、返って天が見る時その人をもっと近くにするというのです。それが何のことか分かりますか?

 すばしこくすぱすぱと臨時のことにも適当に処置をよくするよりも、純情な心を持って福を待たなければなりません。そうして幸せな心を持ち、幸せな生活をすることのみ福が訪ねてくるようになっているのです。分かりますか、何のことか?(一九八三・五・五、中央修練院)

 どこまで忍び、我慢すべきかといえば、終わりまで忍び我慢しなければなりません。それゆえ、神様は六千年の間我慢してこられた方です。皆さんはそれを知らなければなりません。その方はだれですって? 私たちの父です。私たちはその父の天稟と血肉を受け継いだので、その父のようにならなければなりません。それゆえ堕落した世界での生活哲学は、忍び我慢することでなければなりません。だれのためだというのですか? 神様のためです。ここから孝の道理が始まるのであり、忠義の道理が始まるのです。ここから国も世界も解放の運動が起こるのです。ここには良い世界も歓迎されるのであり、悪い世界も歓迎されるので地獄はなくなるのです。そうでしょう? こういう原則下で、忍び我慢しなければなりません。

 昔、こんな話があります、五代一つの家に住むある本家の長孫の嫁として暮らすおばあさんがいました。そのおばあさんにどのようにして五代になる家族たちと共に暮らすのか、その秘訣を聞いて見ました。すると、そのおばあさんは、小部屋に入ると、瓶を開けて見せたというのです。そこに、耐える忍ぶの字が三、四瓶にぎゅっといっぱいあったというのです。皆さんはこんな話を聞いたことでしょう。耐えるの忍の字、耐えることだけしますか? 耐えて我慢したのです。

 我慢するときは目的がなければなりません。目的がなければ我慢することはできないのです。神様の怨讐、人類の怨讐を捕らえて殺すために命をかけて、怨讐を根こそぎ包囲し全滅させなければなりません。そうすることによって世界を代表し、主を再び探さなければならないのです。そうするためには忍ばなければなりません。そのような目的観念が強くなければならないのです。

 次には、耐え、我慢するだけではいけません。耐え、我慢だけして「あー、疲れた」といえばいいですか? 耐えて我慢しても、耐えて我慢していないように感謝し、賛美して差し上げなければならないのです。分かりますか? 耐え、我慢するにも感謝する心と美をたたえる心を持ち、耐え、我慢しなければならず、不平を言いながら耐え、我慢するならば、神様が来られても逃げていくのです。耐え、我慢するときは何が必要なのでしょうか? 何ですって?(感謝する心です)感謝する心がなくては耐えられません。感謝する心が支えにならなければ、耐えてもそこには神様が共におられません。(一九七一・五・四、中央修練院)


3 克服が貴い


 皆さんがあるとても大きい目的を定めておき、その目的をなすためには必ず時間と過程が必要ですが、その過程をどのように克服して現れるのかということが問題になるのです。そうしようとするなら、その目的を中心として毎日のように生活環境で、目的に対して対象的な刺激をどのように受け続けるのかということが重要な問題になるのです。

 それをある程度の期間までは、自分が決心して持続し続けていくか分かりませんが、その刺激が目的を果たすのに相対的要件として残し続けられなくなるときは、そこに堕落が起こり、後退が起き、失望が起き、失敗の要因が造成されることを私たちは良く知っているのです。それゆえ、私たちも日常生活においてや実際生活において、この刺激というのが、すなわちうれしい刺激とか理想的刺激がなければならないのです。色々な面でぶつかる環境においては、良い面の刺激は絶対必要なのです。(一九七三・三・一八、ベルベディア修練所)

 表面は良いけれど、中では頭を振る人がいます。こんなことを見るとき、性稟を良くもって生まれなければならないのです。

 信仰の道において、自己と闘い勝つということは、世界を克服することよりもっと難しいことです。このような観点から見るとき、第一次十字架、すなわち自我を克服しなければならないのです。(一九七一・七・二五、前本部教会)

 信仰者は十大災難のような山道を克服しなければなりません。信仰の道は克服の道です。克服しようとするならば、分からないのでむやみに・・・。むやみに越えようとするので、死ぬようにならなくてはなりません。それで、犠牲になりなさい、奉仕しなさい。頭を上げるなら大変だというのです。そう見るので、「あー」といって生きようとする人は死に、死のうとする人は生きると言ったので、死のうと唯全力を注ぎ込んでみると、十大災難のような克服路程がすべて解けていくのです。このような無事通過の方法を無知な人の前に教えてあげるのです。そんなことを教えてあげるにも、間違えて教えたなら世の中を終わりにしてしまうのです。その秘密を教えてあげる仕事を今まで宗教がなしてきたのです。(一九七一・八・二二、前本部教会)

 メシヤが来るようになれば、自分の国を中心に世界を制覇し栄光を受けようとしたというのです。自分たちの行楽だけを夢見たのです。悲運の歴史において悲しみと共に消え失せる、数多くの人類を考えることのできなかったイスラエル民族は滅びてしまったのです。それゆえ、私たちの信仰路程においても、克服という過程を経ずしては勝利することはできません。

 それでは克服は何をもってするのでしょうか? それは手段をもってではなりません。どんな才能をもってでもだめです。ただ精誠だけで克服できるのです。それゆえ、神様をどのくらい精誠尽くし侍ってみたか、どのくらい精誠を尽くす心を持って慕ってみたか、どのくらい精誠を尽くす感動を通じ感じようとしたか、また、そのような体恤的な父と息子の因縁をどのように捜すのかということが問題になるのです。(一九七一・三・一四、前本部教会)


4 平凡なことに感謝しなければ


 今まで神様が苦労されたのは私のためにされたのであり、これから行かなければならない世界的な開拓路程の九十五パーセントの使命も、私のためにしていらっしゃるということを考えれば、私たちは神様に感謝せずにはいられないのです。
 それで信仰生活の本質は何でしょうか? 神様に感謝する心なのです。そのような心があるときに、そこに神様と私が、堕落した因縁を越え、一つの因縁で結ばれることができる材料になるのです。

 私がこの世の中で良い立場にあるときだけ感謝すべきでしょうか? 違います。神様が今まで良いときだけ私たちのために苦労されてこられたのではありません。難しいときであるほどさらに苦労されることを固く誓ってこられました。それゆえ、今日私たち自身も、神様を私たちの父として侍るためには、私の代わりに仕事をされ、闘って来られた神様を、良い位置で感謝するよりも、難しい位置でさらに感謝しなければならないのです。従って、過重な十字架の途上で神様に感謝できるのも、こんな原則を理解するとき、可能なのです。(一九七〇・三・一四、統一産業寄宿舎講堂)

 それではどのように感謝するのでしょうか? 見てみなさい。私よりもっとかわいそうな人がどれだけ多いか。下を見て生きるというのです。上を見上げて生きるのではありません。「私はそれでも統一教会を信じ神様を知り、死んだとしても神様のために死ぬというのに、統一教会に入りもせず、み言も知らない人がどれだけ多いか? だから私は幸せな人だ」といいながら感謝しなければなりません。神様の前に賛美を捧げなければならないのです。

 感謝の心と賛美の心を前に置きながら耐え、我慢するところに神様は涙を流して訪ねて来られるのです。これ以上にも耐えようとするときに、神様が訪ねこられ「おい、某よ、もうこれ以上耐えるな。この道をもう行くな」と言い、停止させることが復帰の立場です。感謝と賛美の心を持ち、耐え我慢する日には、神様が涙を流し訪ねこられ「世の中にお前のような息子がどこにいるか? 今、お前がする仕事を他の人にさせる」と言われ、彼を安息の位置、天と地にない福を受けられる位置に移し置こうとされることが、父の心だということを知らなければなりません。分かりますか? それにより神様に感謝と賛美を捧げなければなりません。

 皆さん、鄭錫温老人、知っているでしょう? 鐵山にいた感謝党の娘、彼らは感謝の連中で、鞭打たれても「鞭打たれて感謝です。迫害を受け感謝です。姑から悪口を言われて感謝です」全部感謝ですね。「私の愛する息子・娘を神様がつれていったから感謝です。我が夫と離ればなれになって感謝です」(笑い)知ってみると本当に感謝するのです。そうでなければいけないようになっています。ですから、感謝すべきなのです。ひたすら感謝し賛美しなければなりません。

 朝から婦人がぐちをこぼし、家から出ろと声を張り上げながらけんかし合って死ぬというときも「家族ひとりが腹を立てて感謝です」(笑い)そうしてみなさい。三人だけそうしてみなさい。いくら腹が立っても十分を越えるでしょうか。「行くところに行きなさい。あーわからない」こうなるのです。そうして互いに刺激になれば、前よりも仲が良くなるというのです。

 それでその町内では、彼らを「感謝の連中」というのです。ここでは鐵山の感謝の連中の教団と言います。それで私が「あはー、彼らは大韓民国に大きな教育をするために現れた教団だな」と考えました。そうではありませんか? 解放後にも追われ、追い回される惨たらしい環境に、多く当面してきたこの民族の前に、こんな教団があることは感謝すべきことです。神様の祝福を受けられる道が近づいたからです。そんなことを見るとき、韓国の国民は滅びない国民だということなのです。それゆえ、神様の前に感謝と賛美を捧げなければなりません。

 それでは、耐えて忍んで感謝と賛美だけして、じっとしていればいいのでしょうか? それで終わるのではありません。その次には何をしなければならないのでしょうか? お互いに助け合わなければならないのです。自分に良いことがあれば助けてあげ、助けを受け合えというのです。共に生き共に行こうというのです。ここに初めて統一が起こるのです。分かりますか? 助け合って頼り合えばこそ統一が起こるのです。天の国はこうしてなされるのです。(一九七一・五・四、中央修練院)

 皆さんも知っているように、鄭錫温さんの母親は金聖道さんですが、金聖道さんと鄭錫温さんは感謝する連中です。このようにしても感謝、ああしても感謝する連中です。じっと考えてみるとそれは正しいことです。感謝するすべを知る人には、サタンは侵犯できません。サタンが侵犯したとしても逃げていくのです。仮にサタンの侵犯を受けても「全体を蕩減させるために神様が私に試練を下さったのだなあ」こう考えるのです。こんな人に一度対し、二度対し、三度対し、・・・。相手をすればするほど自身が滅びることなので、サタンは相手をしろといってもしないのです。しかし、これを避けていこうとすればするほど、サタンはそれについて行くのです。(一九七〇・八・三〇、前本部教会)

 世界のために自己を犠牲にしようという人は、乞食のような姿でも恥ずかしくないのです。統一教会の群れはパンもちを食べても、麦もちを食べても、水を飲みながらでも「あー、今朝、冷茶がすばらしい御馳走よりもおいしい!」と言いながらくちゃくちゃ喉を鳴らしながら「感謝です」と言うならば、天下が泣くのです、天下が。天下のためにそのような立場に立つなら、主体がないので、天下が自分よりもっと低いものなので、天下がくっつくのです。全部近くに来るので、高い位置に上がって行く・・・。分かりますか?(はい)




















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統一教会員の生活


統一教会と食口たち



第五節 統一教会員の生活


一 生活の意味と目標


1 私たちの生活がもつ意味


 今日皆さんの生活は、ただ皆さん個人に局限した生活ではありません。全体を代身する生活なのです。(一九五七・一一・一、前本部教会)

 皆さんの生活は時代的な生活であると同時に世界的な生活です。それで救いも個人的な救いではなく、個人を越え、家庭を越え、民族を越え、世界を越え、天宙的な救いでなければなりません。(一九六一・二一一・五、前本部教会)


2 生活統一


 統一教会は生活統一を成さなければなりません。(一九六五・一・二七、前本部教会)

 生活の統一をしなければなりません。生活は戦時態勢のようにしなければならないのです。(一九六三・陰三・一、前本部教会)

 皆さん、私たちの教会はどんな教会ですか?(統一教会です)統一教会でしょう? (はい)それでは統一教会ですが統一ができましたか?(できませんでした)私たち統一教会が今まで主張してきたことは何ですか? 何、理念統一とか、何の行動統一とか、心情統一とか、その次に何ですか?(生活統一)生活統一。こんな統一的な理念を目標にして進んでいるのに今見るなら、すべての私たち食口自体もそうだし、み旨の前において私たち全体に対して見るとき、果たして統一された群れだと見ることができるかというとき、それは疑問です。そうではないですか?

 そうであるなら、統一教会、すなわち統一の道を主張して行く私たちにおいてはまず目的が同じだというのです。この目的が一つの目的です。本来、私たちは、生まれるのはそれぞれ生まれたけれど、その因縁の幹には一つの目的を中心にして同等だというのです。同じ因縁を持っています。その因縁は父子の因縁と同じなのです。本来、天と地を中心にして、私たちが本然の基準から見るとき、父子の因縁を持って生まれなければならなかったのに、それを人間が堕落することによって失ってしまったのです。(一九六五・一・二八、前本部教会)

 すでに皆さんは神様の心情と通ずることのできる心、神様の法度に通ずることのできる自分の体を持たなければなりません。そうなればここにはどんな間違いも摩擦も起こりえません。ただここには神様を中心とした理念統一、行動統一、生活統一だけがあるのです。同じくそうなるとき、神様がこの地上に臨在され、永遠の安息所を訪ね、人間と一緒に永遠に楽しまれるのです。(一九五八・一・一二、前本部教会)


二 真なる生活


1 統一教会員の生活観


 統一教会員たちは、かわいそうな孤児のような立場にいるこの民族と世界人類を、心から同情しながら愛さなければなりません。兄の立場で、姉の立場で、さらに父母の立場で愛そうというのが統一信徒たちの聖なる思想であり、生活観であることを知らなければなりません。のみならず、神様が頭を下げ同感し、神様の慈悲と栄光が宿ることができ、無限な価値と無限な尊さが宿ることのできる、たった一つしかない願い、統一教会が主張するたった一つ願いは何か? それは、失った真の父母を探そうということです。真の父母を探し、父母と出逢い、孤児の身を免れる喜びがあるなら、父母に会うその場には自分の権威のようなものは問題にならないのです。同じく、父母に会えるその国がどの国であれ、それが問題にならないのです。世界の何であれ問題にならないのです。(一九六九・一・二六、前本部教会)

 では、今まで皆さんの生活観はどうだったでしょうか? 自己を中心とする生活観、自己のための生活観だったでしょう。「あー、大変なのに私が話して何をするのか、何、他の人がするならして、お前たちしたいようにしろ」と言い、自己の責任をだれに譲れるのですか? 「私は朝食を食べなくてもいい。あなたが私の代わりに朝食を食べてくれ」としたら死ぬのです。絶対的な責任があるのです。自己が一生に守っていかなければならない責任、これは絶対不可侵権です。個性真理体に付与された特権です。(一九七二・八・一八、清平修練所)

 私たちの生活権はこうならなければなりません。お金が生ずればそれを何のために使わなければならないでしょうか? その国のため、その世界のため使わなければなりません。お金を稼ぐのもその国のため、その世界のために稼がなければならないのです。目的がそこにあるべきです。

 全部世界のみ旨、神様のみ旨のため生活しなければならないのです。神様は、ある民族を中心にして、この世界を統一しようとするのではありません。善なる人を中心に世界を統一しようとするのです。

 苦難と対決する姿勢を中心にし、彼らと私たちを見るなら、彼らと私たちとの価値は違います。彼らはこの道を逃避しようとしますが、私たちは受けながら行きます。ここから主人と僕が分けられるのです。(一九六九・一二・一四、前本部教会)

 私たち人間において、生活と生涯がありますが、生活と生涯は違います。生活は、毎日を描いていくことですが、生涯というのは、少年、青年、老年の時代を経てゆくのです。ところが、生活の目的と生涯の目的がぶつかる生活をする人は不幸な人です。なぜそうなのですか? 今日の生活は永遠を結ぶための一つの細胞と同じだからです。(一九八八・三・一三、本部教会)


2 生活の法度


 皆さんは、皆さんの父母が好きで必要とします。いつでも父母に会いたがり、共にいたがります。それはなぜでしょうか? 何ゆえですか? 年齢から見ても差があり、また、秩序的段階を見ても、これは上下の関係があるからです。それで、そこには礼を備えなければならないのです。複雑な礼を備え尊敬し、孝行をしなければなりません、このようなすべての社会生活の人倫道徳的な内容を備え、上下関係において一つは主体であり、一つは相対の位置に立たなければなりません。ここには、ある面で親孝行者になろうとすれば、従順とか服従という内容を介在させ、私が会いたがらなければならないのです。これが父子関係です。(一九八一・四・一九、本部教会)

 今、皆さんは生活の中に法度を守るすべを知らなければなりません。皆さんは、天が要求される、天国建設のための天国の法度を守るすべを知らなければなりません。また、天国法度を守るすべを知ると同時に、天国生活をするすべを知らなければなりません。そして天国生活をするすべを知ると同時に、天国の愛で一つにならなければなりません。

 では、神様が天国を復帰するために今まで役事してきたのに、私たちは何を中心にして天国の法度を守らなければならないのでしょうか? イエス様を通じ私たちに伝えてくれた聖書のみ言を中心にして、天国の法度を守らなければなりません。み言が即ち天国の法度であり、み言を中心に生きなければなりません。ここに皆さんの道があります。特に皆さんは聖書のみ言を通じ、内的な事実を証す原理のみ言を中心にし、天国法度を守り生きなければなりません。(一九五六・一二・三〇、前本部教会)

 私たちは超民族的な超国家的な伝統を立てて行かなければなりません。その伝統を立てるのには、私たちの勝手にするのではなく、神様が望むように、伝統の相対的基盤をならしていかなければなりません。ですから、皆さんたちの習慣性であるとか、過去の風習であるとか、現在盛行する流行であるとかいうことに歩調を合わせるのではありません。違うのです。完全に違うということを、皆さんは知らなければならないというのです。そうですか、そうではないですか?(そうです)

 そのような観点から見るならば、皆さんが振舞うことであるとか、座ることであるとか、すべてのことが法条化されなければならないのです。先生に対するときの挨拶法のようなものは、法条化されなければならないのです。先生に対するときの挨拶法のようなものもすべて・・・。すごいのです。それはすべてあることではないですか? そうではないですか? 一軍隊もそんな法がすべてあるのに、そうではありませんか? そうではありませんか? 皆さんは、勝手にこうして座って、あるときはこうして机の上に脚をばんとのせて・・・。それ、どうやって座るのか考えてみるべきだというのです。アメリカの風習を見るなら、テーブルのようなところに足もこうして上げて座るのです。こうして座って・・・。(笑い)それ、すべて通ずると思いますか? それ、すべてどうなることなのか考えてみなさいというのです。

 その世界を見るなら、すべてがハーモニーになるようになっているのです。ぎこちないところがないように自然らしくありながらも、全部和合するのに一つの刺激的な動機になりうるようになっているのであり、そのように見たくないのに注目するようにはなっていないのです。

 例を上げて言えば、私がここで話すとき、皆さんが来てさっと座るときは、自分の角度が先生との間に何度になるかを測定しなければならないのです。測定して対する法があるというのです。こうして対するには(身振りで説明されながら)体をこうしてするか・・・それで体をこうして・・・。これはいけないのです。すべて法があるのです。何度なのか見てからその角度に合わせるようになっているのです。

 そのような何かがあるのではないですか? 何か基準があるのではないですか? 堕落する習慣に対するすべてのことを是正するための新しい法が、私たちの前にはたくさんの法的過程が待っていることを皆さんは知らなければなりません。それを越えて行かなければならないのです。(一九七三・五・一六、ベルベディア修練所)


3 真なる生活


 数多くの人たちが神様のみ旨を賛美しますが、私たちは神様が苦労された功を賛美しなければなりません。同じく、私の一切を忘れてしまい、神様による私の感情と生活全体にならなければなりません。どうすれば一時的でない永遠な因縁で残れるのかという問題を中心に、自己の生活を秤りにかけながら生きなければならないということを忘れてはいけません。

 真なる生活は真なる一日から始まり、真なる一日は真なる瞬間から始まります。それにより、真なる瞬間のような一日、真なる瞬間のような一年、真なる瞬間のような一生をどのように継続していくのか、ということが皆さんの生涯に残された課業です。

 ある者は自分勝手に「こうして生きるのが私の一生だ」といいながら、一時しかない青春時代をむなしく流し送ってしまいます。そのような生活は大変ありふれた生活です。そのような人はサタンも嫌います。サタンも嫌うことを神様が好む訳がありますか? サタンもうらやましがり、神様もうらやましがる生活をするなら残ります。(一九六九・一〇・一九、大邱教会)

 それゆえ、真なる生涯を残さずには従っていけません。霊界に行けば、自分の一生がありのままに明されるようになっています。私が小さいときはどうであり、育ったときはどうしたかという内容がスイッチさえ押せば全部現れるのです。このようなことを見るとき、天上世界の人や、今後数多くの後孫たちもうらやむことができ、涙を流しながら自慢しないではいられない尊い生涯を残して行く人は、偉大な勝利者というのです。そんな勝利者になるために、真なる生涯を残そうと覚悟して行く皆さんにならなければなりません。分かりますか?

 一瞬、一瞬、死の決意をする皆さんにならなければなりません。神様が今まで訪ねこられたこの一時を、無意味に失ってしまう人になってはいけません。これは千年史を置いても変えられない価値を持っているので、これを逃せば大変です。この世すべて失ってしまい、探したものをすべて逃しても、これだけは絶対逃さないと誓う皆さんにならなければなりません。私の生命がなくなってもこれだけは残して行こうと、もう一度誓いながら、あらゆる精誠をすべて尽くしながら行かなければなりません。

 皆さんには、ただ一度だけしかない七、八十年の生涯ということを知らなければなりません。私たちの生涯にあって苦労の路程がいくら長いといっても、永遠に比べれば、ひと息つく時間にもならないという瞬間なのです。そうでしょう? (一九六九・一〇・一九、大邱教会)

 それでは、金某なら金某、朴某なら朴某は、いつから真なる生活を始めるのですか? 生活はまさに一日一日を中心に生きて行くのです。一日一日の生活の中で、真なる生活をいつも連続させなければ、真なる生涯にならないのです。真なる生活を通じ、無限な生の価値をたたえ、無限な勝利を誓えない人は、生涯の真なる価値と、生涯の真なる勝利を誓えないのです。(一九六九・一〇・一九、大邱教会)


4 生活の基準と基盤


 皆さんたちの個人の生活も、先生の生活基準に基づき測定されるべきです。先生の生活が自己を中心とする生活ではありません。皆さん個々人、金某個人としての男、金某個人としての女が、全部自分の利益を追求してはいけません。天上世界に行ってみろというのです。(一九八七・六・七、本部教会)

 神様は、私たちの体を認めません。なぜならば、堕落の後孫であり、堕落の血統を持って生まれた私たちの体だからです。また、神様は、皆さんが今まで持っている良心をある程度は受け入れられますが、全体的には受け入れられません。皆さんの良心は、環境の支配を受けています。神様が立てた本然の良心の基準は、今皆さんが持っている良心が基準ではありません。神様の良心が基準です。また、体も皆さんの体が基準ではなく神様の体が基準です。また、生活も皆さんの生活が基準ではなく神様の生活が基準です。この生活を通じた環境があり、環境を通じた理念の世界があるのです。(一九六一・二・一二、前本部教会)

 今日皆さんは皆さんの回りに起きている、すべての事実を鑑別するすべを知らなければなりません。農夫が収穫期を迎え、穀物とエノコロ草、稗と穀物を分別するすべを知らなければならないように、皆さんも神様とサタンの行為を分別し、その結果を鑑別するすべを知らなければならないのです。

 今、皆さんはどんな人にならなければなりませんか? 収穫の喜びを味わう人にならなければなりません。皆さん自身が父の前に潔く立てられる人にならなければなりません。エノコロ草の実を結ぶのではなく、真の穀物の実を結ばなければならないのです。それゆえ、今日皆さんは、真の穀物として育つことのできる天の恩賜を正しく受けられなければならないのです。

 そして皆さんは、天が恩賜を下さるその時を知らなければなりません。神様が堕落した人間を救援するための新しい摂理の時がどの時なのかを知らなければならないのです。皆さんは、神様の新しい摂理の時を迎え、エノコロ草のような立場にならず、真の穀物の実として実るため、すべてを正しく分別できなければなりません。

 ところで、人間は六千年の歴史の中で、まだ真と偽りを正しく分別できません。人類歴史を代表し、真の穀物として実を結ぶ者がまだ一人もいないのです。歴史以来、たくさんの人間たちが一様に願った実を結ぶ人がいないのです。唯それを取り入れるため生きられた方がいるなら、その方がまさにイエスキリストだったことを皆さんは知らなければなりません。

 今日皆さんは、人間がどのみち結ばなければならない実がどんな形で結ばれるのかを心配し、渇望する心で、生命の道を目指して行くべきです。それで自身が生命の道にさしかかり、新しい第二の生命を誕生させられる姿にならなければならないのです。

 皆さんの心には常に真のものだけがあるのではありません。皆さんの心という畑には、真の穀物が植えられもし、エノコロ草が植えられもするのです。単純に皆さんが留まるその環境にだけエノコロ草が植えられているのではなく、皆さんの心の材料に堕落の要素が残っているのです。それを除去させ、自身の心をならすため、犠牲の道を行かれた方がだれだったかといえば、まさにイエスキリストだったということを、今日皆さんははっきりと知らなければなりません。

 それでは、皆さんの生活はどうですか? 皆さんが一日一日の生活の中で一度動けば、その行動が真でなければ偽り、二つのうち一つになります。皆さんが見、聞き、言い、感ずるすべてのことが真でなければ偽りだというのです。このように皆さんは自身を中心に起きる、一つひとつのすべての事実が真と偽りとして分別される別れ道に置かれていることを感じなければなりません。

 今日皆さんの心には、カイン的な面とアベル的な面があります。また、皆さんの心にエノコロ草と真の穀物があるのです。それで皆さんがある行動をすれば、常にそれがカイン的だったのか、でなければアベル的だったのかを反省するようになるのです。

 このように、すべてのことはカインとアベルの立場、または縦横の四方性を備え存在しているのです。それゆえ、今日皆さんはどこに行こうともアベルのものはアベルのものとして、カインのものはカインのものとして探し立て、分別できなければなりません。下等動物も自分が食べる草が毒草なのかそうでないのかを分別するのに、万物の霊長である人間が自身にぶつけられるすべての事実を正しく分別するすべを知らずにはいけないのです。だれがカインでだれがアベルなのかをはっきり分別しなければならないのです。(一九五七・一一・一、前本部教会)

 統一教会の食口たちの中には、偽の物差しを持つ人が多いです。もしここに物差しがあるとすれば、実際一メートルはこのぐらいなのに自分勝手に物尺しを作って「このぐらいが一メートルだ」と計ってはいけません。自分勝手に計ってはいけないのです。物差しは必ずメートルの原器を中心にして製作されたものでなければなりません。それで計らなければなりません。言い換えれば、中心を置いて比較した位置で評価しなければならないのです。それでこのような話をしたとしてもそれを中心に計らなければなりません。行動したとしてもそれに合わせてしなければなりません。そうすれば平和の基盤がつくられるのです。統一の圏が開かれるのです。

 統一教会の食口だといいながら、自分勝手に物差しを作って計るのです。それゆえ、皆さんは一日に何度ずつでも中央に来て間違えなかったか比較してみなければなりません。一度計ってみて鑑定し、二度計ってみて鑑定しなければなりません。計りは相対がだんだん変わるのです。

 それゆえ、終わりの日になればなるほど「集まりに力をつくせ」「合わせることに力をつくせ」と言いました。集まり、何をするのですか? 食べて遊ぶのですか? その中心とどのぐらい基準が合い入るのか、平面的だけでなく立体的に一体になっていくのかということを計って見なければなりません。いつも中心との垂直関係を中心にして比較してみなければなりません。その基準を皆さんの生活舞台や活動の基盤のために、一つの中心モデルとして立て、そこに基準を置き、一切を決定していかなければならないのです。万事をすべてそうしなければなりません。

 それゆえ、み旨をはずれた考えは間違いなのです。み旨を脱した行動は間違いなのです。大概、人間世界において、寝て、起きて、来て、行って、良くて、悪くて、この六つの種類に世の万事がすべて入ります。そんな一切の動きをこれを母体にしなければなりません。自分勝手にできないのです。

 皆さんがそんな核心的な基準を中心にして一体化された立場に立ち、世界どこにでも、あるいは高かろうと低かろうと、悪かろうと良かろうと、その心情に適応できる不変体になるときには、永遠な神様の息子であり、神様の娘になるのです。そんな家庭になるときには、永遠な神様の家庭であり、そんな氏族になるときには永遠な神様の氏族であり、そんな国になるときには永遠な神様の国になるのです。(一九七一・一一・一、南山聖地)

 それゆえ世界に散らばっている私たち統一教会の信徒たちが生活するその生活は、別個の生活ではありません。行動的な一致であり、心情的な一致であり、理念的な一致の位置にいるので、これを中心にして生活しなければならないのです。その生活圏内にあって、統一されたこのような過程を経て行かなければならないのです。良くても共に良く、悲しんでも共に悲しみ、泣いても共に泣き、十字架を負っても共に負う、こんな立場に立てなければなりません。(一九六五・一二・七、春川教会)


5 神様と共に生きなければ


 私たちは神様と共に、世界と共に、この宇宙人類と共に存在しようとするのです。私は、私の個体のために存在しようとしないのです。私は韓国人として存在しようとしないのです。統一教会を指導する人として所属されようとするのです。それ正しいですか、正しくないですか?(正しいです)

 そんな存在意識と様式は、初めに愛を持って同じところに向かって犠牲を投入するのです。このような生活様式をもたなければなりません。(一九八三・一〇・一、世界宣教本部)

 皆さんは涙の谷間で、父を呼ぶとき応答を受けられる息子・娘にならなければなりません。涙する立場で「父よ」というとき「よし、私がここにいるから耐えなさい」、血と汗を流す苦痛がしみ通る立場で「父よ」というとき「私が耐えたのでお前も耐えなさい」、死が迫るその瞬間にも「私がいるから安心しなさい」という言葉を聞ける皆さんにならなければなりません。そんな立場でどれだけ父に侍り、どれだけ父と共に相談し、どれだけ父と共に暮らしたかというのが問題になるのであり、永遠の立場では父をどんなに呼んだとしても問題にならないのです。なぜなら、今だに父は永遠の日を見られないからです。(一九六一・二・一二、前本部教会)


6 一日の生活の重要性


 私たちの生涯というのは一生を置いて言うことで、生活は一日一日を置いて言うことです。それでは真なる生涯を残すためにはどうしなければならないのか? 真なる一日一日の生活をしなければならないのです。もし一日の生活が失敗に終われば、一生失敗の要因を持つことになるのです。それにより私たちが生きていく一日一日の生活がどれだけ緊張する生活でなければならず、どれだけ多くの決判の闘いをしなければならない生活なのかを、私たちは知らなければなりません。(一九六九・一〇・一九、大邱教会)

 私たちが一日一日生活するときにおいて、その瞬間を置いて見てもその瞬間は現在でだけ連結されていないのです。現在と言うとき、この現在を切って見れば必ず過去が現在の尖端まで連結されていることを知ることができます。今、私が話しているこの瞬間、ここには必ず過去が連結されているのです。また、この瞬間には未来、今私が考えている未来が連結されているのです。

 こうして考えれば、真正な現在の基点はどこでしょうか? このとき私たちは、一つの線で表示できるものと、線で表示できない観念的な境地までの現在を考えずにはいられません。このような現在、ないならなく、あるならあるような現在の一点が、現在の一線が今日私たちの日常生活の方向を左右しているのは、恐ろしくも驚く事実であらざるをえないのです。

 一日を置いて見れば、そこには昨日があり、明日があるのです。ひと月を中心にして見れば、先月があり来月が来るのです。一年を中心にして見れば、去年があり来年が来るのです。青年時代を置いて見れば少年時代があり、未来の壮年時代があるのです。こうして、現時代を中心にして見れば、過去時代があると同時に、未来時代が連結されるという事実を私たちは否定できないのです。

 今日というこの日、現在の位置というのは、過ぎ行く過程にあるとも見ることができると同時に、これから考えない未来を迎える瞬間点にあるとも私たちは考えられるのです。過去と現在と未来というのは一点で動いているのです。それゆえ、その現在は過去を否定する現在になりえず、未来を否定する現在になりえないのです。

 それでは、現在に輝く価値の基準はどのようなものでしょうか? 輝く過去を受け継ぐ位置であり、輝く未来を立てられる位置でその方向を正しく指示することのできる位置です。そのような位置にならずには、輝く現在の位置を占めることができないのです。(一九七三・八・一、前本部教会)

 私たち人間の一生も幼年時代があれば、少年時代があり、青年時代があり、壮年時代があり、老年時代があります。小さかろうが大きかろうが、ともかくその形態においてはそのような過程を経由しているのです。

 生涯だとするならば一生をいいます。生涯というのは長いことをいいます。生まれ、少年時代を経て、青年時代を経、壮年時代を経、老年時代まで、即ち生まれてから死ぬまでの過程を言うのです。その過程が生活を通じ、連結されるのです。その生活というのは、私たちが一日一日を生きて行くことをいうのです。

 それゆえ、生活が誤るときには、生涯も誤った結果をもたらすのです。いくら立派な生涯を残そうとしても、一日一日の生活が誤るときには、その生涯が必ず誤った結果に到達することはどうすることもできない結論なのです。

 これを置いて見るとき、信仰者として一番重要視しなければならないことは何でしょうか? 自己の一生を中心にして神様のために捧げようと誓っても、その誓うことが問題ではなく、どれだけ正しく捧げる一日一日の生活だったのかが問題なのです。その基盤を引き続けられる一日の生活を生涯のどんな価値より、より重要視せずには、甲斐ある生涯が現れないのは言うまでもないのです。

 こう見るときに、私たちは一日を何気なく始めますが、この一日は私たちが望む永遠なみ旨の目的と方向が行き違って行くのか、正しく行くのかということを決定する一日だということを常に考えなければならないのです。考えもしない不意の行動により、永遠なみ旨の道の前に反逆者になりうることも一日の生活の中で起こるのです。これをもっと細分して見れば、一時間圏内にもそのようなことの境界線が左右されるのです。その一時間、あるいは一分、一秒が問題なのです。その一分一秒が間違えば、この方向が永遠に行き違うこともありうるのです。こんな重大な問題が、今日一日よりは一時間、更には一分にあり、一瞬に左右される事実を考えるときに、今日一日を重要視することより一時間を重要視しなければならず、一時間を重要視することより一分、一秒を重要視しなければならないのです。こんな問題が私たちにかけられているのを考えなければなりません。

 私たちが永遠な世界に行き、永遠に神様のみ旨の中で生活するようになるときに、盲目的であり、無秩序で、無方向である立場でするのではなく、永遠なあるみ旨を中心とする生活から永遠な生涯が始められるのではないかというのです。このような問題を考えるとき、私たちが生きている一日の生活というのがどれだけ深刻な生活なのかというのです。死ぬ事も一瞬間に決定するのです、生まれるのも一瞬間に決定するのです。私たち人間が生まれ、死ぬのが、一瞬間に起こり、私たち人生の運命が一時間、一分、一秒、一瞬に左右されるとするとき、私たちが生きる一日の生活自体が最も重要だということを知らなければなりません。

 私が悲しむのもこの瞬間から始められるのです。一日を計画し、その計画どおり悲しむのではありません。もちろん悲しみの動機はあるでしょうが、悲しいという事実は瞬間に結論づけられるのです。嬉しいというのも、やはり朝のように、昼のように、夕のように、夜のように過程を経るでしょうが、その喜びというのが終点を見ることのできる視点は、瞬間ではないのかというのです。このような問題を置いて見るとき、私たちが一回呼吸をし、一回動作するのもみ旨と共に一致させられるようにしなければいけないのです。

 事実、私たちの一生をグラフで描いて見るなら、ありとあらゆる絵が描かれるのです。皆さんの一日をグラフで描いて見るとします。どんな事をしたのでしょうか? ある時には友達と会い、ある時にはだれかと会い、どこでだれと喧嘩をし、こんなことをグラフで描いたらそれこそ万物相を描きながら生きるのではないでしょうか。また、見て聞く一日のすべての感じと行動する全部が違うのではないでしょうか。それを総合して見るとき、その方向がどこに向かっているのでしょうか? その方向が決定される生活をしているということを、私たち人間は忘れやすいのです。「左側にどの位来たから、右側に行こうとすれば何度の角度で来たから何度の角度で折り返し帰らなければならない」ということを今日の人間たちは考えるでしょうか? 考えません。私は当然に正しい方向に一致した位置で出発し、今も進んでいるという習慣的な観念にとらわれていることが私たち人間の生活ではないのでしょうか。それが弊害です。

 羅針盤のように、どの位角度が違ったかということを知り、これを自然に操縦できる作用をすれば分かりませんが、操縦できなくなるときには、私が故意にその作用をして方向を合わせることをしなければならないのではないのでしょうか。これがこの世界の人間の中で、彼らとは違う生活をしている信仰者の生活ではないのかというのです。(一九七二・六・四、前本部教会)

 皆さんのひと足跡、ひと足跡にもサタンの道があり、天の道があるのです。二股です。見るもの、聞くもの、万事が二つに分けられているのです。それで、皆さんたちが入ったり出たりするのです。では、そんなに入ったり出たりすれば前進しますか、後退しますか?(後退します)(一九七九・一・一七、ベルベディア修練所)


三 生活方法


1 どのようなことが豊かに暮らすことか


 今の皆さんは前後関係がなく、行く道が広く果てしないのです。生きる方法を知りません。話し方も知りません。習うことはすべてサタンから習うのです。

 人々は世の中を悲観します。それは、どのように生きていかなければならないかを学べなかったからです。堕落し、父母を知らなかったからです。それで今、天地の父母、上下前後を教えられる父母の因縁を知らなければなりません。(一九六二・一〇・一九、前本部教会)

 皆さんは、今、統一教会を信じ、豊かに暮らさなければなりませんが、どんなことが豊かに暮らすことですか? 何、車でも乗り回し、何、御飯やら食べれば、豊かに暮らすのではありません。神様が皆さんを見たとしても恥じることがないようでなければいけません。(一九八七・四・一八、漢南洞公館)


2 中心を探し生活しなければ


 それでは、統一教会員はどういう生活をしなければならないのでしょうか? 統一教会で生きる方法は何でしょうか? 何によりどういう生活をしなければならないのでしょうか? 原理生活ですが、愛を中心とした原理生活なのです。ご覧なさい。神様、アダムとエバ、三段階ですが、この三段階が横的に展開されなければならなかったのに、それがなされなかったのです。アダムとエバは縦的になり、天使長は横的基準で、平面的基準を所有できる位置に立とうとしたのです。ところが堕落したゆえに・・・。それが縦的にいこうとしたために裏返しされたのです。そこから故障したのです。

 軸がいつでも南北に立っていなければならないのに、この軸が位置をとれず南北にもなり西北にもなって、全部・・・。軸がないのです、軸が。軸がなく回るのは破壊されるのです。宇宙から除去されるのです。

 それですべての生物やすべての存在は、元素世界も必ず軸を中心にして、軸と浮体を中心にして、球形的軸と、球形を従えられる横的な基盤を連結させうる軸の位置を中心として回っているのです。一つの垂直線、水平線をきっかりと合わせ、回っているのです。微生物も、そうなっているのです。このようにして宇宙は、一つの理想的愛の縦横の和動できる理想圏に存続するようになっているのです。それが全部堕落により方向をつかめずにいるのです。この軸が人間と神様と連結されないのです。(一九八八・八・二二、漢南洞公館)

 ところで今日、この世界を見るなら、この世界には中心がありません。世界人類が行くべき中心になるところがどこなのか、ということを知らずにいます。どんなことが善なのか、どんなことが悪なのかを見分けられずにいるのです。個人が行くべき善の位置がどんなところで、家庭が行くべき善の位置がどんな位置で、民族と国家が行くべき善の位置、世界が行くべき善の位置がどんなものなのかを知らずにいるのです。(一九七二・五・二九、中央修練院)

 皆さんは、中心を失った人間です。これを宗教的な用語で言えば堕落の応報だと言えます。くやしく恨めしい堕落の報いです。(一九六〇・一二・一一、前本部教会)

 私たち人間の願いが何ですって?(中心を捜すことです)堕落で中心を失ったために中心を捜すことが願いではないですか。もちろんそれは個人完成、家庭完成がすべて願いですが、世界史的な塔を築くのにおいては中心、基点を捜し戻すことが願いではないですか。その基点は世界の基点になるのであり、国の基点と通じることができるのです。その次には民族の基点になるのであり、氏族の基点になるのであり、家庭の基点になるのであり、天の基点になり、妻の基点になるのです。

 ところで皆さんは、必ず毎日のようにその基点と共に「私は何度出た。今何メーター出た」という過程で生きているということを知らなければならないのです。それゆえ、これを知らずに生きる人は中心を持てない人です。統一教会を中心にして見れば、統一教会の中心存在がだれかというとき、憎かろうとやさしかろうと先生だというのです。それでは先生がどこにいるのですか? アメリカに行っているときは、アメリカに向かい、統一教会の教会員たちは全部回らなければなりません。

 先生を中心にして見れば、先生はアメリカにいても、青坡洞を中心にして、今何キロメーター出たのかと考えます。また、清平へ行けば何キロメーター行ったのか、南側なら南側、北側なら北側にどれだけ出たのか、いつでもその中心に侍り、中心と上がるのか、下がるのかを考えなければなりません。毎日のように中心を考えなくてはならないのです。だからといって、先生を考えなさいというのではありません。先生を考えるなら考え、考えないなら考えず、それはいいですが、神様のみ旨とすべての事例においては、中心がなければなりません。

 十回回ったとするのは何を中心に言うのかというと、出発基点から中心を中心にして、その中心が十回転回れば端も十回転回るのです。回り始めるとき、何が初めに回らなければならないのですか? 表面が初めに回るのではなく、中心が初めに回り始めれば、一つになるのです。こまが中心を取らない状態で回ったなら、それは千回まわるとしても一回まわったとみなせないのです。中心を取ってひと回りでも回ればこそ、一回りと言えます。こうなるのです。分かりますか、何の話しか?(はい)

 世界は中心がありません。キリスト教で見れば、キリスト教の中心であるイエスからみな離脱したでしょう? アメリカがキリスト教を中心にして回る時は栄えました。中心がなければ壊れるのです。人が中心なのですか? 人を見なさい。人の心は朝夕に変わり、山の色は昔も今も同じだというように、人の心は朝夕に変わるのです。一日に十二回も変わるのです。そうでしょう? 皆さんの心を皆さんは信じられますか? そう、人の主張を信じられるのかというのです。それゆえ、どんな学説でも時代に伴い変わりうるのです、真理が決定される前には。

 地には中心がないではないですか? それゆえ、そのような中心を天は送ってあげなければならない責任があります。そうでなければ天はないのです。だからそんな時を迎え、中心の前に相対できる私として準備しなければ、その中心に会ったとしても関係を結ぶことができないのではないのでしょうか。私たち人類の願いは何ですか? 中心と会うことです。人類が中心と一つになれば、人類は家庭も捜すことができ、氏族も、民族も国家も全部捜すことができるのです。(一九七二・一一・一、前本部教会)

 神様の生命と神様の愛を押し出せるのは、この地の上に何もありません。そして、私たちが真理に近ければ近いほど、真理に心酔するほどその真理は一層だれも奪って行けない中心になるのです。千万回混乱する地といえども、宇宙が不意に破壊されるとしても、そんな中心を心に確実に立てた人は決して変わらず、動揺もしないのです。(一九五七・三・一七、前本部教会)


3 為にする生活をしなければ


 先生の理論の中で一番重要なのが、「為に」です。愛を中心にしては神様も為にするために自己のすべてのものを投入します。完全に投入するなら、ここは完全真空になりそこは完全に高気圧になり、くるっと回って行くのです。分かりますか? 高気圧圏が完全に投入するなら、低気圧になるでしょう? 高気圧が完全に与えれば、ここは低気圧になるでしょう? そこは高気圧になるというのです。それではどうなりますか? 回って行くのです。それは完全に与えようとするときはすべてのものを占有する、そういうことです。(一九八七・一〇・三一、漢南洞公館)

 成功しようとする人は、相対世界を成功させなければなりません。分かりますか? それゆえ、このような観点で統一教会では「為に生きろ!」そういうのです。為に生きるために生まれました。創造は神様自身全体の投入で、神様も愛を中心にして、愛のために創造したというのです、ために。世界が今まで「私のために生きよ」としてきました。それが罪です。堕落です。出発から誤ったのです。為に生まれたのです。全部そう考えるのです。私の生は父母のために生まれたのです。全部そう考えるのです。私の生は父母のために受け継ぎ、夫は妻のために受け継ぎ、兄弟のために受け継ぎ、この国のために受け継いだのです。為に生まれたのです、世界のために。

 それゆえ、レバレンド・ムーンの思想が、今後、今から二十世紀をすぎ、二十一世紀において主体思想として登場できるのは、今まで「自分のためにしろ」という世界で反対に「為に生きる」という世界を発見したからです。論理的観においてその反対の世界が顕現するみこみがある不可避な結論です。それゆえ、希望は統一教会しかないのです。自己のために生きようとする世界でなく、為に生きようとするこの群れの後を二十一世紀以後の数千、数万年世界はついて行くのです。為にしろという世界はついていきません。嫌だというのです。(一九八七・一〇・二五、本部教会)

 統一教会の主流思想は何ですか? 為にしようというのです。神様が為に存在するのと同じように、私たちも為に存在する日には、民族が反対しても、世界の為に生きることができるのであり、世界が反対しても神様の手に救われて生きられることが分かったので、今日統一教会は今までこうして出てきたのです。(一九七五・四・一四、奬忠体育館)

 神様はなぜ、どうして為にするという原則を立てざるをえなかったのでしょうか? その内容的要件を私がいくつか話してみましょう。なぜ為に生きる原則を立てなければならなかったか。これが問題です。ご覧なさい。私が皆さんに一つ尋ねます。心から自分の生命を掛けて皆さんに世話をした人がいるとします。それで、皆さん自身が百パーセントの世話を受けたなら、その恩を返すのに、五十パーセントくらいは取って自分のポケットに入れ、五十パーセントだけ返したいですか、それとも百パーセント以上返したいですか? 皆さんの本性はどうですか? それはいうまでもなく、百パーセント以上返したい本心があるゆえ、今日私たちはその本心に従って、救いを受けられる見込みがあるのです。

 もし、このミスター・ムーンという人が、ある李氏なら李氏、金氏なら金氏に、心から生命を尽くし恩を与えたとするとき、その李氏や金氏が私に返すときは百パーセント以上返すというのです。それでプラスになり増えるのです。彼が本心で、百パーセント以上を私に返せば、私ももっとそこにプラスして百二十パーセントを返してあげたいのです。

 このような観点で見るとき、与え受けるなら与え受けるほど減退するのではなく、ますます加重することによって、ここから永遠という概念が設定されるというのです。永遠というのがここから帰結されるのです。自己のためにする立場で百パーセントを返したとすれば、与え受ければ与え受けるほど、七十パーセント、四十パーセント下がり、のちにはすべてなくなってしまいます。

 それゆえ、知恵の王であられる神様は、為に生きる原則を立てずにはいられなかったという事実を私たちはここで知らなければなりません。為に生きるときは、永生するだけでなく、そこに繁盛がおこるのです。そこから発展するのです。ここの若い青年たちは知ってみれば簡単なのに、これを知らなかったというのです。皆さんそうでしょう? 世話をかけたら、恩を返すのに適当に返すはずがありません。心から生命をかけて、それ以上返したい本心を持っているというのです。そのような心があるゆえに、天国に行けるということを知らなければなりません。

 また、為に存在する原則に立てずにはいられない二番目の要因は何ですか? 例を挙げて言えば、皆さんの家庭に、ある八人家族があるとしましょう。お父さんとお母さんを中心にして兄、姉、弟妹合わせて八人家族が住んでいるのですが、その八人家族の中で最も幼い弟が家庭の為にするのにおいて、父や母、あるいは兄や姉よりもその家庭をより一層為にするようになるときにはどんな位置になるのでしょうか? ますます尊敬を受け、中心的存在として登場するというのです。(一九七五・四・一四、奬忠体育館)

 皆さんは霊界の事実に対して知らないでしょう。このレバレンド・ムーンは、霊界に対しては専門家なので、あの霊界がどうなるのか・・・。霊界の組織、原則がどうなっているのかというと、為に存在する人だけが行くというのです。それが、その世界の本質だということを、根本であることを皆さんは知らなければなりません。

 私たちが生きているこの世において、私たちは旅人ゆえ、本郷の道を訪ねていかなければなりません。本郷に行くなら本郷の法度を習っていかなければなりません。それゆえ、その法度に一致する秘法を、神様は教えないわけにいきません。ですから、それを教えてくれる宗教を通じて、歴史を開拓してこられたのです。

 どんな高次的な宗教も為に生きろと、犠牲になれと、奉仕しろと教えてくれるのは、その原則の世界に帰るための訓練として、そのようなことだという事実を置いて見るとき、歴史過程で、神様が摂理し、神様が原則を適用させたという事実を置いて見るとき、歴史過程に、神様がいたという事実を認定しないわけにはいきません。

 では、そのような観点から見るとき、皆さんは一生において自己のための生活が多かったか、他のための生活が多かったかという比例に従って、かの国での位置が決定されるということを、私は確実に知っています。(一九七四・一二・七、米・ペアモントホテル)


4 愛の中心は犠牲


 それでは、宗教をご覧なさい。キリスト教を見ても漠然と愛を唱えました。キリスト教で「神様の愛!」といいますが、神様の愛がいったい何ですか、それ? 愛が何かというのです。愛は愛じゃないか・・・。(笑い)キリスト教ももちろん、仏教も慈悲を語り、全部愛を語るのです。どんな宗教でも愛を中心にしなければ宗教の部類に入れないのです。世界的宗教になれないのです。

 それでは、愛を中心にして信仰生活して行く宗教は、この愛の道を成すために、より大きな愛のために何を強調するのかというと、犠牲を強調するのです。愛の道をより輝かせ、愛の因縁をより表すためには犠牲になる道を行かなければならないことを知らなければなりません。それはなぜそうなのか? なぜ犠牲を強調しなければならないのかというのです。なぜ、どうして犠牲を強調しなければならないのかです。それは色々です。なぜそうなのかという問題を置いて見るとき、矛盾した私たちの体の中においての・・・。二つとも矛盾だというのです。心と体を置いて見るときどちらがより矛盾するのですか? ここには差があることを知らなければなりません。この「ボディ(体)」は、この体は何かというと絶対犠牲を嫌い、温柔謙遜を絶対嫌うのです。絶対服従するのを嫌うのです。そうですか?(はい)

 それゆえ、この中の一つを叩きつぶさなければならないのです。無力にしてしまわなければならないのです。それでこれを弱化させればどうなりますか? 心と体が一つになれる材料が大きくなるのです。分かりますか?(はい)どんな宗教でも犠牲を強調し、温柔謙遜を強調することはなぜですか? 信愛の世界に接近できる一つの方便としてそうするのに、そうすることによって体と心が一つになることが可能な基準が起こり、その可能なほどの神の愛が、真なる愛が宿ることができるのです。このような理論的な根拠を捜せるというのです。(一九七七・一〇・九、ベルベディア修練所)

 統一教会の中心はだれですか?(御父母様です)父母様の中心は何ですか?(神様です)神様の中心は何ですか? 神様の中心は愛です。愛の中心はだれですか? 愛は犠牲と共に対をなすものです。こうなっています。犠牲がないところに愛がありますか? 愛があれば犠牲になるようになっています。それゆえ、統一教会の中心は先生です。先生の中心は神様です。神様の中心は何ですか? 愛です。愛の中心は何ですか? 犠牲です。犠牲がない愛は愛ではありません。(一九七二・五・一八、大邱教会)

 それでは、歴史的な伝統として残せる実績は何ですか? 犠牲精神による実績のみが今日の堕落した世界に残されてきました。見なさい。そうかそうでないか。そうでしょう? そのような人たちが聖人として、歴史的な義人として、あるいは忠臣として残されました。そのような犠牲精神の底からのみ、功績が残されるのです。ですから、犠牲になることは、そのようなことを残すためのものだということを皆さんは知らなければなりません。

 必ず犠牲になることによって・・・。もはや他のために与え・・・。与えることは何ですか? 再創造するにおいて、神様が創造時に自体を消耗させた立場と一致します。私を投入するということは、第二の私を作るためのものであるから、神様が創造するとき、自身を投入されたのと同じです。再創造歴史が蕩減復帰路程であるから、蕩減は再創造歴史を通じてするので、自身を投入するところでのみ、再創造が起こるので、犠牲になるのは不可避だということは理論的な結論です。(一九七六・陰一・一、前本部教会)

 それゆえ、歴史に世界的な使命を負ってきた預言者たちは、その時代に犠牲にならない人はなく、迫害を受けない人はいません。これは歴史的な実証だというのです。なぜそうなのですか? 堕落した世界だからです。堕落した世界はだれが主人なのかというと、善の主人なる神様が主人ではなく、善の怨讐、神様の怨讐なるサタン、悪魔が主人です。善なる人が来るのは、サタン悪魔の世界を処理するために来るので、サタン世界は彼を百万、怨讐視し、その首を切ってしまおうとしないわけはないのです。これが悪なる世界の主権が行使する道ゆえ、数多くの宗教者たちは、悪なるサタン世界の主管圏内にあって多くの犠牲を受けました。様々な悲惨な死の道を行ったことを私たちは知っています。

 それでは、死ねばそれで終わるのですか? そうではないのです。神様がいる限り、損害賠償請求法があるというのです。一人の人を犠牲にすれば、三人から七人あるいは百二十名、千二百名を奪う蕩減法があるのです。その死ぬ悲惨な状態に従って賠償するときも差が起こるのです。こうなるのです。それゆえ、犠牲になるのであって、悲惨に犠牲になるほど賠償の高さが高いですか、低いですか?(高いです)少ないですか、多いですか?(多いです)統一教会では、犠牲というその言葉を便宜上、蕩減という言葉で代置するのです。

 それゆえ、善なる道を行く人たちは、常に犠牲になるようになっています。それで私たちは犠牲になれと教えるのです。「他のためにしろ」というのが商い屋の言葉で犠牲ですか、利益を得るのですか? 犠牲です。自己投入です。投入するのはどの程度までですか? 極端に達することができるその基準まで投入しろというのです。生命までも捧げろというのです。(一九七五・五・四、水澤里)


5 福は苦労から


 天国に行く公式は簡単です。天と地を愛したという条件さえあればいいのです。このために苦労しなければなりません。いまだに本当の意味で働いた人は一人もいません。(?)

 真なる宗教は、人間世界を引っ繰り返して作るのです。それで断食をしなさい・・・。皆さん、断食するのが好きですか? 断食するのが好きな人は手を上げてみなさい! 私たち統一教会では苦労しろ、苦労しろ・・・。統一教会に入ってくれば、博士号か何かでも取るための苦労をさせるようにします。入ってくれば苦労させようとします。

 なぜそうなのですか? 皆さん、蛇が殻を脱ごうとすれば、ただそのまま殻が脱げますか? 石の隙間に頭が入らなければ、ただ尾だけでも入ってさかさまに、はっ、こうしなくてはなりません。(身振りで表現される)それと同じだというのです。殻を脱がなければならないのです。(一九七六・二・一、前本部教会)

 苦労しなさい! これが皆さんたちが持つべき最初の条件です。苦労をするが、自己の目的で苦労をするのではなく、天と地と神様のために苦労しなければなりません。骨のある人にならなければなりません。「私が今父の恨みを解いてさしあげられなければ、死んでも解いてさしあげる」という精神で闘わなければなりません。(一九六三・三・一六、前本部教会)

 福はどこから?(苦労するところから)福を受ける人も与えられず苦労をしなければなりません。(?)

 これをした後に、統一教会に万物祝福時代が来るだろうと先生は知っています。その前にはぎゃあぎゃあ苦労しなければなりません。ぎゃあぎゃあ苦労しなければならないのです。(一九六三・五・一五、前本部教会)

 それで統一教会は他人が好きなことをしないのです。では何をするのですか? 「あー、死ぬ。私はできない」といえる程度のものでなければなりません。私が倒れるくらいするというのです。み旨があってするならできないことがありません。

 それで統一教会は「苦労しなさい。とてもひどく苦労しなさい」というのです。脊髄が飛び出し、せむしになり、脊髄からうみが出ても追い立てるのです。「死ぬとしても何歩かもっと進んで死になさい」これです。そのように進んで死ぬのを神様が来てご覧になるとき、だれが一等ですか? 一歩でももっと行き、一寸でももっと進んで死ぬ人が一等です。統一教会員が死ぬときは一歩でも、もっと進んで死ななければならず、退いて死ぬなというのです。(一九七〇・九・六、前本部教会)

 私たち統一教会は、良く食べ、豊かに暮らしながら行こうというのですか、食べられず、苦労しながら行こうというのですか? どちらですか?(食べられず苦労しようというのです)だれのためにですか? 統一教会の文先生のためにですか? だれのためにですか? 神様のためにです。神様を溶かし出す方法はそれしかありません。(一九七一・二・一九、西大門教会)



2004.04.30

















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