世界経典 Ⅱ
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目次
第1章 神様
- 1) 神様に関する知識
- 1. 被造物に含まれている神様の痕跡
- 2. 人間自体に内在する神様の姿
- 3. 歴史の背後の神様
- 2) 唯一の神様
- 3) 無形、神秘
- 4) 超越的実在
- 5) 主権と全能
- 1. 全能であられる神様
- 2. 人間社会の出来事を主管する主人
- 6) 全知性と遍在性
- 7) 内在性と心への臨在
- 8) 不変と永遠
- 9) 最初の原因
- 1. すべての存在の原因者
- 2. 歴史の背後の原因者
- 10) 神様の善
- 1. 人間に対する神様の善
- 2. 被造物に顕示された神様の善
- 11) 神聖な愛と慈悲
- 1. 愛:神様の本質
- 2. 神聖な慈悲
- 3. 人類を愛する神様の心情
- 12) 創造者
- 1. 太初に
- 2. 人間の創造
- 3. 愛と犠牲がこめられた創造の役事
- 13) 天の父母
第3章 人生の目的
- 1) 神様の完全な喜びのために
- 1. 人生の目的は神様に仕えること
- 2. 人間を見て喜ばれる神様
- 2) 神様の形状
- 1. 人間は神様にどのように似たのか
- 2. 家庭で完全に現れる神様の形状
- 3) 神様の聖殿
- 4) 神様の子女
- 1. 神様の子女としてもって生まれた権利
- 2. 神様の子女の尊厳性回復
- 5) 人生の価値
- 1. 黄金より貴重な人間
- 2. 宇宙的価値をもつ人間
- 3. 殺人、自殺、そして堕胎は生命の大逆罪
- 4. 人間の本然の価値具現
- 6) 良心と、もって生まれた善
- 1. 善に基づく本心と心情
- 2. 自分の良心との闘争
- 7) 完全性
- 1. 完全性は心と体の一致から始まる
- 2. 完全性は神様と一致すること
- 3. 完全性は神様のように愛すること
- 8) 喜び
- 1. 天の喜び
- 2. 感覚的喜びを超越する神聖な喜び
- 3. 楽しい生活
第4章 神様の創造と人間の創造性
- 1) 自然の神聖さ
- 1. 自然界に内在する神性
- 2. 意識ある生は目的が賦与されたもの
- 3. 母なる大地とその子女
- 2) 生命尊重
- 1. 生命体に対する畏敬と保護
- 2. 神聖な牝牛
- 3. 菜食主義
- 3) 教師としての自然
- 4) 小宇宙と大宇宙
- 5) 被造世界の主人
- 1. 万物の主管権を賦与された人間
- 2. どの被造物よりも優れた人間
- 3. 被造物を完成させ崇められる人間
- 6) 自然保護
- 1. 被造物の保護
- 2. 保存と持続的発展
- 3. エデンの園の復帰
- 7) 美しさ
- 1. 自然美
- 2. 人間美
- 8) 創造性と芸術
- 1. 芸術の霊性
- 2. 調和
- 3. 霊感
- 4. 芸術と道徳
- 9) 健康と疾病
- 1. 体の治癒力
- 2. 心の治癒力
- 3. 医薬
- 4. 優れた衛生
第5章 死以降の人生と霊界
- 1) 霊界
- 1. 霊界と肉界の一致
- 2. 霊界の様々な階層と領域
- 2) 不滅の霊魂
- 1. 霊魂と肉身
- 2. 死:新しい生命に転換
- 3) 永生のための準備
- 1. 永遠の時間において刹那のような地上生活
- 2. 天に宝を貯蔵しなさい
- 3. 地上の生活様式どおりに暮らす天上生活
- 4. 死の終着地
- 4) 希望の世界
- 5) あの世界への通路
- 1. 第2の誕生
- 2. 死後の人生の最初の瞬間
- 6) 審判
- 1. 人生の回顧
- 2. 天国と地獄の区別
- 3. 審判の法廷
- 4. 自らの審判
- 7) 天界
- 1. 恩寵の世界
- 2. 聖人と先祖の親交
- 3. 天国の歓喜
- 8) 地獄
- 1. 地獄の苦痛
- 2. 地獄に関する警告
- 3. 地獄の霊魂救済
- 9) 天使
- 1. 天使の正体と使命
- 2. 天使の争い
- 3. 天使に対する人間の優越性
- 10) 死んだ者の霊魂
- 1. 生きている者と共にある霊魂
- 2. 霊魂の守護と霊的功績
- 11) 生まれ変わり
- 12) 霊的誤謬と秘術
- 1. 堕落した霊魂は偽りの案内者
- 2. 秘術の危険
- 3. 霊魂を相手にする知恵
- 13) 天と地の結合
第6章 悪、罪、そして人間の堕落
- 1) 人間の堕落
- 1. アダムとエバの犯罪
- 2. 人間堕落の悲劇的結果
- 3. 性的愛の堕落
- 2) カインとアベル
- 3) 悪魔とその活動
- 1. 天使の堕落
- 2. 悪魔の行跡
- 3. 告発するサタン
- 4. 善悪に対する人間の選択
- 4) 罪
- 1. 罪の意味
- 2. 罪の浸透
- 5) 遺伝罪と業報
- 1. 過去の人生の遺産
- 2. 悪の業報の断絶
- 6) 連帯的罪と歴史的罪
- 7) 利己的欲望と堕落性
- 1. 利己的欲望と情念
- 2. 堕落性
- 8) 内的闘争
- 9) 利己主義と慢心
- 10) 無知と無神論
- 1. 神様に対する無知
- 2. 神に対する誤った見解
- 3. 霊的無分別と幻想
- 11) 偶像崇拝と物本主義
- 12) 苦痛
- 1. 悲しみの世界
- 2. 人生無常
- 3. 涙の道
- 13) 神様の悲しみ
- 1. 人間の堕落と罪悪の状態に対する神様の悲しみ
- 2. 人類救援のための神様の苦難
- 3. 神様の涙を身代わりする
第7章 救援、解放、覚醒
- 1) 恩寵
- 1. 救援に必要な恩寵
- 2. 放蕩者のための恩寵
- 2) 赦し
- 1. 神様の赦し
- 2. 浄化
- 3) 贖罪
- 1. 贖罪の原理
- 2. イエス・キリストの犠牲による贖罪
- 4) 覚醒
- 1. 真の真理の光
- 2. 内的覚醒
- 3. 第3の目が開かれる
- 5) 解放
- 1. 内的自由の状態
- 2. 宇宙的解放
- 6) 空、涅槃
- 7) 霊的合一
- 1. 神様と合一
- 2. 愛によって合一した神様と人間
- 3. 万物と合一
- 8) 治癒
- 1. 肉身と霊魂の治癒
- 2. 奇跡
- 9) 精錬の火
- 1. 火の審判
- 2. 天の訓練
- 10) 協助と救援
- 1. 苦難に直面した者に対する協助
- 2. 危険と死から救援
- 11) 逆転と復帰
- 1. 大逆転
- 2. 反対方向に進んでいく復帰
- 3. 本然の状態に復帰
- 12) 重生
- 1. 神様の息子、娘として新たに生まれる
- 2. 昔の姿を断絶しなければならない重生
- 3. イエスと聖霊を通じた重生
- 13) 復活
- 1. 死亡から生命に
- 2. 聖人の復活:最初の復活
- 14) 永生
- 1. 神様の中で永生
- 2. 愛:永生の土台
- 15) 宇宙的救援
第8章 宗教
- 1) 宗教の目的
- 1. 救援の道を提示する宗教
- 2. 善良な性稟を育てる宗敎
- 3. 宇宙的共同体を促進する宗教
- 2) 真理に至る多様な道
- 1. 同一の神様を崇拝し、その方の偉大なみ旨に仕えるすべての宗教
- 2. 個別的違いの背後にある普遍的なもの
- 3) 寬容、宗教的自由、そして宗教一致
- 1. 他の宗教者に対する寛容
- 2. 宗教の自由
- 3. 宗教共同体と宗教間の紐帯
- 4) シャーマニズム、多神教とアニミズム
- 1. 自然神崇拝
- 2. 様々な神々を越えて勝利した人間
- 5) 仏教
- 1. 仏教の価値
- 2. 仏者の覚醒
- 3. 仏教の知惠
- 6) 儒教
- 1. 儒教の倫理
- 2. 儒教の天の概念
- 7) ユダヤ教
- 1. 選民
- 2. ユダヤ人の苦難
- 3. ユダヤ教とキリスト教の関係
- 4. イスラエルの地
- 8) キリスト教
- 1. キリスト教の核心的伝統 : 愛と犠牲
- 2. キリスト教の一致
- 3. 世界に対する教会の使命
- 4. キリスト教の歴史 : 勝利主義、腐敗と更新
- 9) イスラーム
- 1. 信仰と正義の宗教
- 2. 既存の宗教を訂正し、立ち向かう宗教
第9章 神様の摂理歴史
- 1) 創始者、預言者と聖人たち
- 1. 神様のチャンピオンとは、メッセンジャーたちも
- 2. 預言者と聖人の苦難と迫害
- 3. 宗教創始者の伝統固守
- 2) ノア
- 1. ノアの洪水
- 2. ハムの失敗
- 3) アブラハム
- 1. アブラハムの絶対信仰
- 2. アブラハムの祭物失敗
- 3. アブラハム、イシマエル、そしてイスラームの根
- 4. ソドムとゴモラのためのアブラハムの嘆願
- 4) イサク
- 5) ヤコブ
- 1. ヤコブとエサウの競争
- 2. おじラバンの家でのヤコブの苦役
- 3. ヤコブと天使の格闘
- 4. ヤコブとエサウの和解
- 6) ヨセフ
- 1. 夢見る者ヨセフ
- 2. 監獄から王宮へのヨセフ路程
- 3. ヨセフと兄弟たちの出会いと和解
- 7) モーセ
- 1. モーセの民族解放への熱望
- 2. 律法を伝授し、ヘブライ人の荒野路程を導いたモーセの苦難
- 8) 聖書の女性たち
- 1. サラ
- 2. リベカ
- 3. ラケルとレア
- 4. タマル
- 5. ラハブ
- 6. バテシバ
- 7. マリヤ
- 8. マグダラのマリヤ
- 9) 仏陀
- 1. 真理修行のために俗世を離れた仏陀
- 2. 仏陀の覚醒
- 10) 孔子
- 1. 召命意識をもったまま苦難と挫折を経た孔子
- 2. 孔子の宗教的信仰
- 11) イエス
- 1. 罪悪の人類を救援するために来られたイエス
- 2. イエス : 神様の息子、み言の実体
- 3. イエス : 真の人、原罪のない第2アダム
- 4. キリスト降臨の準備と洗礼ヨハネの責任
- 5. キリスト降臨の世界的準備
- 6. 家族の誤解
- 7. 荒野での三大試練
- 8. イエス様の比喩的教え
- 9. 弟子を集め、天国を教えたイエス
- 10. 奇跡に対しても不信される
- 11. 人類のために流したイエスの涙と不信に対する哀痛、信仰の弱い一番弟子
- 12. キリストの情熱と十字架の苦悩
- 13. 十字架で私たちの罪を赦されたイエス
- 14. イエスを排斥した人類の悲劇
- 15. イエスの復活
- 12) ムハンマド
- 1. ムハンマドに下さった神様の啓示
- 2. イスラームを立てるために迫害と苦難を克服したムハンマド
第10章 終末論とメシヤに対する希望
- 1) 苦難
- 1. 末世に現れる信仰と道徳の堕落
- 2. 戦争、自然災害、蔓延する惨状
- 3. 悪魔と悪霊の襲撃
- 4. 野獣、反キリスト
- 2) 最後の審判
- 1. すべての罪悪が現れ、審判が履行される
- 2. サタンの束縛
- 3. 世の中の変化と神様の中での生命の蘇生
- 3) 新しい啓示
- 1. 完全な真理の出現
- 2. 新しい真理が以前の真理を代替する
- 4) 主の日に対する認識
- 1. 臆測は多いが終わりの日が分からない
- 2. 準備しなければその時を知ることはできない
- 3. 第7の千年王国安息
- 4. 時代的徴候
- 5) メシヤ
- 1. すべての宗教が約束した メシヤ、救世主
- 2. メシヤの使命 : 罪悪の清算と神様の王国創建
- 3. メシヤの使命 : 真の人間と真の家庭の回復
- 4. メシヤの苦難路程
- 5. メシヤのユダヤ教徒・キリスト教徒・ムスリムのための中東平和定着
- 6. メシヤの東方降臨の預言
- 6) 天国
- 1. 神様主権の世界
- 2. 喜びと平和の新世界
- 3. 内的天国を所有した天国人の世界
- 4. 地上世界と天上世界を一つにした王国、死のない所
第11章 成長、責任、そして運命
- 1) 霊的成長
- 2) 人生の季節
- 1. 児童期と青少年期
- 2. 成熟と老年期
- 3) 善の啓発
- 1. 実践的生涯を通した善の啓発
- 2. 善はより良い善を導くが、善を無視すれば悪に陥る
- 4) 決断
- 5) 善と悪
- 1. 善は利他的なものであり、悪は利己的欲望を満たすこと
- 2. 善悪は心の意図によって決定される
- 3. 善悪は個人の生活様式に現れる
- 6) 個人の責任
- 1. 各個人は自分自身に対して責任をもつ
- 2. 責任は人間に対する神様の贈り物であり配慮
- 3. 責任をもつ人は不平を言わずに生活環境を消化する
- 4. 公的責任は個人の責任から始まる
- 7) 予定
- 1. 神様の絶対予定
- 2. 外見上は偶然のような事件も実際には運命による作用
- 3. 運命と自由意志の関係
- 8) 恩寵と努力の効果
- 9) 準備と素晴らしい出発
- 1. 挑戦に対する準備
- 2. 第一歩
- 10) 不屈の忍耐
- 1. 忍耐、辛抱と我慢
- 2. 決して放棄してはいけない、最後まで耐えなさい
第12章 道徳性
- 1) 姿勢
- 1. 自分に勝て
- 2. 自己修練 : 内部の野獣性の平定
- 2) 抑制
- 3) 真実
- 1. 原理的生活
- 2. 自分の義務を遂行する真実な人
- 3. 環境によって左右されない真実な人
- 4) 正義
- 1. 自分を犠牲にして悪に対抗する義人
- 2. 義人は公的に生き、自分の福祉と公共の善を同一視する
- 3. 義人は民族の守護者
- 5) 誠実と確実
- 1. 誠実は心情から自動的にわきでる
- 2. 行動する以前に精誠を尽くしなさい
- 6) 正直
- 1. 他人と神様と真実を語る
- 2. 約束履行
- 7) 用心と警戒
- 8) 慎重な言葉
- 9) 中庸
- 10) 貞淑
- 1. 貞淑な身なり
- 2. 貞淑な品行
- 11) 純潔
- 1. 最も深刻な罪、姦淫をしてはならない
- 2. 青少年の婚前禁欲
- 3. 触ったり見たりするのも禁止されるのか
- 4. 同性愛 : フリーセックスの極致
- 12) 禁酒と節制
第13章 愛
- 1) 真の愛
- 1. 真の愛の本質
- 2. 哀れみと慈悲
- 3. 愛の円形運動
- 4. 信仰と品性に由来する真の愛
- 2) ために生きる人生
- 1. 人のために生きるのが人生の根本道理
- 2. 何かの見返りを願わずに人に仕えよ
- 3. 宇宙創造ですべてのものを投入された神様
- 3) 犠牲的愛
- 1. 愛する人のために命さえも捧げる
- 2. 窮乏した人を助けるために苦難と悲しみ求める
- 4) 普遍的愛
- 1. すべての人を愛する心情
- 2. 自分の家族を愛する心情で人を愛する
- 3. 特に異邦人、外国人、社会が蔑視する者を愛しなさい
- 5) 怨讐を愛しなさい
- 6) 赦し
- 7) 正しい心
- 1. 愛-親切
- 2. 愛する心の根は神様の心情
- 8) 正しい行動
- 9) 与え合うこと
- 1. 施す道とその報い
- 2. 品格を備えた授受の循環
- 3. 条件なく過去を記憶せずに与えること
- 10) 慈善
- 1. 神様に導き、神様の愛を表す慈善
- 2. 慈善の姿勢
- 11) 善意
- 12) 偉大な戒め
第14章 知恵
- 1) 教育の根本目的
- 1. 教育の根本目的 : 徳性教育
- 2. 教育は心を拡張し、新しい発達の可能性を開いていく
- 2) 知識探求
- 1. 神様と神的原理は理解の出発点
- 2. あなた自身を知れ
- 3. 教師の権威ではなく、自らの包括的な研究によって理解せよ
- 4. 主題に対するあらゆる側面の探求
- 3) 伝統
- 4) 経典と解釈
- 1. 経典の規則的探求を通じた教訓修得
- 2. 比喩で教える経典
- 3. 霊魂の通路にすぎない経典の文字に執着してはならない
- 4. 経典は天の真理の限定された部分を教示
- 5) 理性的知識と霊的知恵
- 1. 救援の助けにならない理性的知識
- 2. 霊的知恵の習得
- 3. 霊的知恵の欠乏と高度に発達した知識の危険
- 6) 師
- 1. 立派な師の資質
- 2. 学生の価値を引き出す師
- 3. 神様と共に教える
- 7) 弟子の道理
- 1. 立派な師の弟子になること
- 2. 自我を適切に啓発しない理解は根源に至ることができない
- 8) 学びと実践
第16章 祈祷と崇拝
- 1) 祈祷
- 1. 祈祷にお答えになる神様
- 2. 悪から保護してくれる祈祷
- 3. 心情からわき出る祈祷
- 4. 祈祷の方法
- 5. 祈祷は休まず昼夜に
- 6. 利他的祈祷
- 2) 瞑想
- 1. 主一的集中
- 2. 宇宙的リズムに合わせて呼吸する
- 3. 心を落ち着かせ、静かな状態に入って自らを空にする
- 4. 注意集中 : すべての思考と感情の自覚
- 5. 視覚化と幻想
- 3) 賛美
- 1. 賛美の価値
- 2. 賛美の歌と詩
- 4) 献身
- 1. 神様とそのみ旨に献身する行為
- 2. 神様のための愛と憧憬
- 3. 新郎のために生きる新婦として神様への献身
- 5) 純粋な意図
- 1. 心の純粋と誠実
- 2. 礼拝の基準としての誠実
- 6) 献金と十分の一献金
- 1. 純粋で献身的な心で捧げる献金
- 2. 十分の一献金
- 7) 儀式
- 1. 典礼と崇拝
- 2. 安息日
- 3. 聖餐式
- 4. 割礼
- 5. 洗礼と沐浴儀式による浄化
- 6. 巡礼と聖地
- 7. 象徴、聖像、そして聖物
- 8. 食事の礼法 : 食べ物を神聖に思う
- 8) 儀礼を超えて
- 1. 最善の儀礼は愛の心と義の行動
- 2. 時代の変化によって慣習的礼式は純粋な献身の形態に代替される
第18章 謙遜と自己否定
- 1) 謙遜
- 1. 温柔な者は福がある
- 2. 幼子のように純真で謙遜な心
- 3. 自分は低い位置に、人は高い位置に
- 2) ほかの頬まで差し出しなさい
- 3) 懺悔
- 1. 罪の認定、告白、そして懺悔
- 2. 国家的罪の悔い改め
- 3. 本当の悔い改めは行動の変化を伴う
- 4) 人を裁いてはならない
- 5) 自己否定
- 6) 肉的欲望の統制
- 1. 肉的欲望の制御
- 2. 体に対する嫌悪感と腐敗した感覚
- 7) 富と財物に超然とした人生
- 1. 没落の原因であるお金
- 2. 喜捨と知足安分
- 8) 出家
- 9) 世俗の分別
- 1. 世俗のやり方に従わない
- 2. 世俗的安楽の否定
- 10) 苦行、修道生活、そして禁欲生活
- 1. 修道者の苦行
- 2. 断食
- 3. 独身生活
- 4. 禁欲問題 : 愛の欠乏
第19章 家庭
- 1) 人生の基本形態
- 1. 家庭理想
- 2. 家庭は愛と美徳の修練場
- 3. 完成した家庭は球形を成す
- 2) 孝
- 1. 孝は徳の根源
- 2. 父母と子女の不可分の絆
- 3) 兄弟愛
- 4) 友情
- 1. 真実な友人と偽りの友人
- 2. 友人選択の知恵
- 5) 夫婦愛
- 1. 夫婦愛と愛情
- 2. 男性と女性を完全にする結婚
- 3. 本当の夫婦の愛によって男性と女性、そして神様が一つになる
- 4. 結婚は二人を神様の姿と一致させる神聖な結合
- 6) 結婚生活の倫理
- 1. 夫婦愛の核心倫理 : 夫婦は互いに服従しなければならない
- 2. 両性関係 : 責任は異なるが愛において同等
- 3. 夫婦の良し悪し
- 4. 離婚は神様が呪う : 夫婦は死のあとまで信実でなければならない
- 5. 一夫多妻制の問題
- 7) 父母愛
- 1. 子女の本質的価値
- 2. 堅実と愛で子女を養育
- 3. 先祖の伝統による子女の教育
- 8) 祖父母愛
第20章 社会
- 1) 社会の土台としての家庭
- 1. 健康な家庭が堅固な国家を形成する
- 2. 家庭の徳目は社会の徳目の土台
- 2) 社会の道徳的基盤
- 1. 道徳の基盤
- 2. 教育の基盤
- 3. 神様と宗教の基盤
- 3) 愛国心と社会奉仕
- 1. 国家に奉仕する市民の任務
- 2. 王、国民、そして国家のための愛国者の犠牲
- 3. 支配権威の尊重
- 4) 労働
- 1. あらゆる仕事は神聖であり、天に奉仕すること
- 2. 勤勉、誠意、そして自助の徳目
- 5) 自由
- 1. 神様とその創造から具現した自由の礎石
- 2. 道徳法によって自我を主管するとき、自由を享有する
- 3. 個人主義を離れ社会的連帯を要求する自由
- 6) 平等
- 1. 共通父母、共通人類、そして神的可能性による平等の土台
- 2. 人種平等
- 3. 天の国には人種や階級の差別がない
- 4. 平等基準による人生
- 7) 女性の権利
- 1. 男女平等の土台
- 2. 男性支配の原因としての人間堕落
- 3. 男女平等の追求
- 8) 正義
- 9) 経済的正義
- 1. 窃盗と公的財産の濫用
- 2. 共同財産の分配と経済安定
- 3. 富者は自分の財産を国民に分かち合うべき
- 4. 市場資本主義の徳目 : 正直な労働と「見えざる手」
- 5. 共産主義とその誤り
- 6. 地球化と資本の平準化
- 10) 和合と共同体
- 1. 神様の民と家庭として和合
- 2. 公共の敵に対抗する一致団結
- 3. 人間の体をモデルとした相互依存
- 11) 世界市民
第1章 神様
神様
1) 神様に関する知識
人間はどのようにして究極的実在を知ることができるのか。哲学者たちは、常にこの問題に対して探求してきた。ある人々は、神様の存在に対する証拠を提示するかと思えば、ある人々は、神様の存在に関するいかなる知識も得られないという懐疑主義的な立場を見せる。たとえこのような論議がこの選集で具体的に扱われなかったとしても、ある宗教の経典にはこの論議が登場することもある。神様は御自身の存在に対する証拠をどこかに残したのであり、もし人々が知ることを願えば、神様を知る道は備えられているのである。
神様に至る第1の道は、被造物の中に潜む神様のみ手を探すことである。多くの科学者たちは自然に関して研究すればするほど、自然を設計したある制作者の存在を証せざるを得ないと言う。発明家のトマス・エジソンも次のように述懐している。「断言するが、宇宙には宇宙的知性が満ちている。この世界の背後にある存在がいることを確信しないまま、自然の神秘さと緊密に交感したり、科学を探求したりすることはできない。ある超越的な宇宙的知性が明らかに存在する」」。
神様に至る第2の道は、神様の実在を感知できる内面的自我を通して到達する瞑想の道である。神様は、知性ではなく、神秘的な方法によって感知される。ブレーズ・パスカルは、「神は理性ではなく心情で感知される」と語った。文鮮明先生も、神様を最も本質的な人類の父母だと教える。したがって、私たちが自分の父母を知るのと同じ方法で、神様を直接体恤しなければならない。
神様に至る第3の道は、超自然的な道である。ごく少数の特定の人々だけがこのような超自然的な源泉に接近することができ、私たちは、そのような体験をした人たちを信頼するにふさわしい宗教的指導者とみなす。彼らこそ、霊的世界を旅行した宗教の創始者たちである。
1. 被造物に含まれている神様の痕跡
― 宗教経典 ―
神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。
ローマの信徒への手紙1.19 ~ 20(キリスト教)
われは、わがしるしの真理であることが、かれらに明白になるまで、遠い地方において、またかれら自身の中にそれを示すであろう。
クルアーン41.53 (イスラーム)
かれが、土からなんじをつくりたまえるは、かれのしるしの一つである。見よ、その後、なんじら人間は地上に散らばる。またかれが、なんじら自身からなんじらのために配偶をつくりたまえるは、かれのしるしの一つである。なんじらはかれらによって慰安を得、なんじらの間に愛と情けの念をうえつけたもう。まことにその中には、反省するものへの種々のしるしがある。
またかれが、諸天と大地を創造したまい、なんじらの言語と、はだ色が異なっているのは、かれのしるしの一つである。まことにその中には、知識ある者への種々のしるしがある。またかれが、なんじらを夜と昼に眠らせ、またかれに恩恵を求めさせたもうのは、かれのしるしの一つである。まことにその中には、聴く者への種々のしるしがある。
またかれが、恐れと希望のいな光りをなんじらに示したまい、天から雨を降らせて、死んだ後の大地をよみがえらせたもうのは、かれのしるしの一つである。まことにその中には、思慮ある者への種々のしるしがある。またかれが、その命令によって天と地をうち建てたまえるは、かれのしるしの一つである。そこで、呼出しを、なんじらに一声呼びかけたもうとき、大地から、見よ、なんじらは真っすぐに出て来る。
クルアーン30.20 ~ 25(イスラーム)
インドラはかれのマーヤーの力によって多くのかたちあるものとして現われる。かれの百の十倍の馬どもは軛を結びつけられて〔準備ができている〕。
リグ・ヴェーダ6.47.18(ヒンドゥー教)
われはこのように、天と地の王国をアブラハムに示し、それでかれは悟りがひらけてきた。夜の暗黒がかれをおおうとき、一つの星を見た、かれは言った。「これがわたしの主である」と。だが星が沈むにおよび、かれは、「わたしは沈むものを好まない」といった。次いでかれは月がのぼるのを見て、言った「これがわたしの主である」と。
だがそれが沈むにおよび、かれは「わたしの主がわたしを導かれないなら、わたしはきっと迷った衆のたぐいになるであろう」と言った。次いでかれは太陽がのぼるのを見て、言った、「これがわたしの主だ、これは偉大である」と。だがそれが沈むにおよんで、かれは言った「わたしの人びとよ、わたしはあなたがたが、主に配する者と絶縁する」。「わたしは天と地をつくりたまえる、かれに端正に顔を向けて、純正に信仰し奉る。わたしは多神教徒のたぐいではない。
クルアーン6.75 ~ 79(イスラーム)
見よ、すべてのものにはそれに似たものがある。すべてのものは、現世にかかわるものも霊にかかわるものも、わたしのことを証するために創造され、造られている。すなわち、上の天にあるもの、地の上にあるもの、地の中にあるもの、地の下にあるもの、上のものも下のものも、すべてのものがわたしのことを証するのである。
高価なる真珠、モーセ書6.63
(末日聖徒イエス・キリスト教会)
天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。昼は昼に語り伝え、夜は夜に知識を送る。話すことも、語ることもなく、声は聞こえなくても、その響きは全地に、その言葉は世界の果てに向かう。(注3)
詩編19.2 ~ 5(キリスト教)
あまりに多くの人々が創造主に関して微視的に考えている。もし彼らが、単に自然自体に見られる神の素晴らしい作品と宇宙の自然法を研究しようとするなら、彼らは偉大な技術者に関するはるかに広範囲な考えをもたなければならない。事実、私は、科学で神の存在をほぼ証明できる。宇宙が知性で満ちていることは確実だ。誰であっても、あらゆるものの背後に最高の知性が存在することを確信しないまま、自然の神秘と緊密に交感することはできず、科学の研究をすることはできないだろう。
トマス・エジソン
― み言選集 ―
無形にいます神の神性を、我々はいかにして知ることができるだろうか。それは、被造世界を観察することによって、知ることができる。そこで、パウロは、「神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない」(ロマ1・20)と記録している。
あたかもすべての作品は、その作者の見えない性稟の実体的展開であるように、被造世界の森羅万象は、それを創造し給うた神の見えない神性の、その実体対象として展開されたものなのである。それゆえ、作品を見てその作者の性稟を知ることができるように、この彼造万物を見ることによって神の神性を知ることができるのである。
原理講論、創造原理1.1.1
人間の体は神様の神秘の王国だという事実を知らなければなりません。数十万、数百万人がいても、いまだに分からないことがたくさんあるのです。ですから、眼科の医師は、「もう研究するものがない。やめなさい」とは言えません。目に関してすべて分かるまで、何段階くらいのところに行ったでしょうか。入り口に入ったところです。そのような科学者たちが、「神様はいない」とは言えません。
(95-123、1977.11.6)
目が生まれるとき、「私はこのような形に生まれたい」と思ったからといって、目自体がそのように生まれることができますか。「私は回らなければならない。まぶたが瞬きするその中に入っていかなければならない。水をまいて湿らせなければならない。空気にはほこりがあるから、まつげでスクリーンを作らなければならない」、このように目が考えて生まれたのでしょうか。まつげがあるのを見ると、まつげがこの世の中に空気があると思って生まれたでしょうか、ないと思って生まれたでしょうか。このようになっていることを既に知ってそのようにつくったという事実を、目自身が知らなければならないという結論が出てくるのです。
既に目として生まれるとき、この宇宙の空気にほこりがあることを知って生まれたことを知らなければなりません。風が吹き、ほこりがあることを知っていましたか、知りませんでしたか。目自体が知って生まれましたか、知らずに生まれましたか。知らずに生まれたのですが、それ自体を誰かが知って、目自体を保護するために、そのようにつくったのです。そして、この地球上に生じた幅射熱によって水が蒸発することを知って、それを防御するための装置をつくったということです。それでは、目自体がそれを知ることができますか、目自体が知っていたのですか。知ることはできませんでした。ですから、目が生まれる前に、この宇宙的な知識をもつ背景的観念があったという論理を推理できるのです。
(117-78 ~ 79、1992.2.1)
神様を想像しながら、神様と関係を結び、神様とかかわりをもとうとする世界的な組織とは何ですか。宗教です。世界的な国家とはどのような国家ですか。それでは、宗教を分析してみると、そのようなものがありますか。なければ、それは神様でも何でも、いないというのです。宗教の中にはそのような思想がなければなりません。
そのような思想を何よりも強力に主張し、内的な内容を備えた、そのような世界的で超民族的な愛国思想をもち、超民族な父子関係の孝子思想をもち、「民族を超越し、世界のために行こう」と主張する宗教がなければ、神様のみ旨も、神様もいないという結論が出てくるというのです。
(95-53、1977.10.23)
2. 人間自体に内在する神様の姿
― 宗教経典 ―
眼をもっても、語をもっても、その他の感官をもっても、苦行をもっても、あるいは祭儀をもっても捉えられず。智の澄浄によって本性の清浄となれる時、瞑想裡にあってこの渾一なるものを照観す。
ムンダカ・ウパニシャッド3.18 (ヒンドゥー教)
「道」というものはおぼろげで、とらえようがない。おぼろげでとらえようがないが、そこには形がある。おぼろげでとらえようがないが、そこには何物かがある。計りがたく見えにくいが、そこには本質がある。本質は実に純粋で、そこには生き生きとした真実がある。昔から今日に至るまで、「道」という名前のものがないわけではなかった。我々はそれによって万物の始まりを見る。万物の始まりはこれによってわかるのだ。
道徳経21(道教)
では、わたしは説ききかせよう、最も聖なる一方がわたしに仰せられたことばにして、人々にとって聞くに最勝なる物を。その物のために、われ(ザラスシュトラ)に聴従と敬意をささげるものは、だれでも完璧・不死に到るであろう、〔かれらの〕善思の行動によるがゆえに――とマズー・アフラが〔仰せられた、その最勝なるもを〕です。
アヴェスター・ヤスナ45(ゾロアスター教)
誰がこれを真実に知らんや、また如何なる道が悉く神々へと導くかを、誰が今宣言せんや。至高の神秘なる次元に在るもの達の、最も低き面を見能うのみなり。
リグ・ヴェーダ3.54.5(ヒンドゥー教)
孔子が言われた、「鬼神の性情功効というものは、何と盛んなものか。じっと見ても見えないし、じっと聞いても聞こえないが、物の本体となっていて、取り残されることはできない。(鬼神は)天下の人に、その雑念を払って身を清め盛美な祭服を着てお祭りに奉仕するようにさせる。流動充満して、その上にあるかのようであり、その左右にあるかのようである。『詩経』に言われている『神の来ることは、計り知ることはできない。ましてや、いとうて良いものか』と。そもそも、(鬼神が)隠れていて明らかであり、誠(の現れ)を覆い隠すことができないのはこのようである。
中庸16(儒教)
― み言選集 ―
「神様がいる、神様がいる」というのは言葉だけではありません。原理を通じて主体と対象の関係を中心として見る時に、神様は不可避的にいなければならないという立場ではなく、神様は、私が考える前にいらっしゃったのです。私のすべての感覚、私の一切を主管するのが天の立場です。それを認識することが何よりも重要な問題です。知って認識するのが原則ではなく、認識して知るようになっているのです。
私たちは、寒ければ寒いことを知って感じるのではなく、感じて知るのではないですか。これと同じように、神様がいらっしゃるなら神様がいらっしゃることを皆さんが感じなければなりません。細胞で感じなければなりません。その境地が問題なのです。言い換えれば、体恤的立場をどのように私たちが確定するのかという問題、これが問題なのです。
(58-291、1972.6.25)
神様は生きています。悪魔も生きています。神様と悪魔が生きていることを、どのようにして分かりますか。共産主義で言う観念と実在が哲学で問題になるのです。見えないものはすべて観念です。抽象名詞です。良心も観念と見るのです。いわば愛も観念です。抽象名詞といいます。ところが、愛は観念ではありません。実生活のあらゆる面で接触しているのです。
(186-67、1989.1.29)
皆さんは愛をもっていますか。生命をもっていますか。血統と良心ももっていますか。そうだとすれば、愛を見たことがありますか。生命、血統、良心を見たと言えますか。
存在することははっきりと知っていますが、これらを触ることも、見ることもできないという事実を認めざるを得ません。ただ心で感じて初めて知るのです。同じ論理で、神様がいるかいないかと言うとき、あるいは、神様を見たのか見なかったのかと尋ねるとき、いないとも、見なかったとも言えないでしょう。心の中に神様が入ってきていらっしゃれば、心が知っています。
(447-154、2004.5.1)
子女を生んでみて、初めて父母に本当の意味の孝行ができるのと同じように、自分自ら実践してみることによって、私たちが行く道に対する価値を感じることができ、神様が共にいらっしゃることを体血できるのです。
(29-198、1970.2.28)
人類が堕落しなかったならば、神様がいるのかいないのかを問う必要もありません。それは本心によって分かるのです。人類が堕落しないで本性の善なる父母を通じて生まれていたならば、神様がいるのかいないのかという弁論は必要ではなかったはずです。生まれながらにして自然に分かるというのです。赤ちゃんがおなかの中で、お乳を飲む方法を習ってから生まれますか。生まれてすぐに目の前にお乳があれば吸うようになっているのです。自動的に分かるようになっているのです。
人類が堕落しなかったならば、神様との関係を自動的に知り、自動的に解決し、自動的に行かなければならない立場であることを知るようになっていたはずです。ところが、堕落することによってすべて忘れ去ってしまったのです。それで神様がいるのかいないのかを疑う、結果の世界になったのです。これは悲惨な事実です。
(20-306、1968.7.14)
陽子を中心として電子が回っているのと同じように、神様と人間の関係もこれと同じです。電子のような私たち人間の心が、陽子のような神様の心の核心と関係を結んで作用しているので、神様が人間に対して復帰摂理をなさることができるのです。このようなことを推し量ってみるとき、私たちが一人でも真理のみ言を探し求めていけば、私たちはそこで神様の生命が躍動していることを感じ、神様の愛が和合していることを感じられます。このように、真理の道を経て神様の生命と愛を探し求めていく道が、価値ある私になれる道なのです。
(2-137、1957.3.17)
皆さんが心情で描く世界はどのような所ですか。その世界は、外界の感覚を通して入ってくる、五官を通して入ってくる、認識世界でつくられる世界ではありません。神様の愛の世界、情的な世界を描いているのです。その世界は、ごく小さな一つの微粒子を通しても、神様の愛を感じられる情の世界です。それを理解しなければなりません。イエス様も、「耳のある者は聞きなさい」(マタイ11・15)と語られました。通念的な感性では、主体的で原型的な理念世界を感じられません。
(7-255、1959.9.20)
成約時代には、本伝統はどこにあるかというと霊界です。神様の創造理想の本故郷がどこかというと霊界です。霊界を知らなければ、天の国と関係を結べません。霊界を知ってこそ、神様が分かります。神様を信じ、神様を知っているというとき、神様が暮らしていらっしゃり、活動できる霊界を知らなければなりません。
(365-302、2002.1.14)
3. 歴史の背後の神様
― 宗教経典 ―
いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。(注5)
ヨハネによる福音書1.18(キリスト教)
高い丘の上、山々の頂で、またすべての緑豊かな木、すべての茂った樫の木の下、あるいはかつて、あらゆる偶像に宥(なだ)めの香りをささげた場所で倒れるとき、お前たちは、わたしが主であることを知るようになる。わたしは彼らに向かって手を伸ばし、この地を荒廃させ、荒れ野からリブラに至るまで、彼らが住むすべての地を荒れ果てたところとする。そのとき、彼らは、わたしが主であることを知るようになる。
エゼキエル書6.13 ~ 14(キリスト教)
主よ、造られたものがすべて、あなたに感謝し、あなたの慈しみに生きる人があなたをたたえ、あなたの主権の栄光を告げ、力強い御業について語りますように。その力強い御業と栄光を、主権の輝きを、人の子らに示しますように。
あなたの主権はとこしえの主権、あなたの統治は代々に。主は倒れようとする人をひとりひとり支え、うずくまっている人を起こしてくださいます。みながあなたに目を注いで待ち望むと、あなたはときに応じて食べ物をくださいます。すべて命あるものに向かって御手を開き、望みを満足させてくださいます。主の道はことごとく正しく、御業は慈しみを示しています。
詩編145.10 ~ 17(キリスト教)
― み言選集 ―
この絶対者は、決して観念的存在ではなく、歴史を通してそれ自体を現してきた実在的存在です。私たちは歴史上に数多くの宗教指導者または聖賢たちが時間や場所を変えて出現したということを知っており、彼らは一様に人間の良心と心情に訴えて隣人への愛を実践することを促しました。彼らの教えに一つの民族や国家が順応する時、平和と興隆を享受したのであり、そのようにできない時に混乱と衰亡に陥ったりしたのです。
今日も、多くの人たちは、この世界的な混乱の中で人類を救うことのできる現代的な聖賢の出現を、意識的にも無意識的にも待望しています。このような事実は、すべて愛の主体であられる絶対者がいて、歴史や現実の背後で宗教指導者や聖賢たちを立て、彼らを通して自らの愛を具現し、道徳的価値の世界を実現しようと計画していることを示していると言えるのです。
(69-238、1973.11.26)
2) 唯一の神様
神様の統一性と唯一性は、この節に選定された章句の主題である。これらの章句は、唯一神論的なアブラハム系列の伝統信仰で明白に現れるものだけでなく、東洋の伝統宗教など、様々な宗教に由来する。神様の統一性は、現象世界の多様性のもとに隠れてしまうこともあるが、現象世界の秩序と意味を賦与する唯一の源泉や原理は、明確に存在するのである。特に、世界宗教の様々なな経典は、究極的実在の多様な姿とは、唯一の神様の様々な側面にすぎないと断言する。
文鮮明先生の教えも、世界宗教の究極的根源が唯一の神様だと断定する。さらに、そのみ言は、多様性の中の唯一の神様に対する真理はもちろん、倫理的な教訓も強調している。
― 宗教経典 ―
聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。(注6)
申命記6.4(キリスト教)
言え、かれは神、唯一者であられる。神は、自存者であられ、かれは産みたまわず、また産まれたまわぬ、かれに比べ得る、何ものもない。
クルアーン112.1 ~ 4(イスラーム)
あなたは、唯一至高の存在、永遠の顕現、万有を創造し、これに内在する実有、恐れのない者、憎む心を出さない者、無私、無形の自存者、あなたは、聖なる師の恩寵により実現される。
グル・グラントサーヒブ、ムール・マントラ(シーク教)
唯一の神は一切生類の内に潜在し、万物に遍満し、一切生類の内在我なり。行業の監視者なり。彼は万物の内に鎮座す。照観者なり。性徳なき独一の思惟者たり。
シヴェータシヴァタラ・ウパニシャッド6.11 (ヒンドゥー教)
人は〔それを〕インドラ、ミトラ、ヴァルナ、アグニと呼ぶ。されどそれは翼美しき天的鷲(太陽)なり。霊感ある詩人たちは、唯一なるものをさまざまに名づける。アグニ、ヤマ、マータシュヴァンと彼らは呼ぶ。
リグ・ヴェーダ1.164.46 (ヒンドゥー教)
天と地のよろずのものは、かれの有(もの)である。またその側近のある天使は、かれに仕えて高慢でもなく、疲れることもない。かれらは夜ごとに、かれをたたえ、たゆむことを知らぬ。それともかれらは、死者をよみがえらすことのできる神々を、地上から得たのか。もし天地のあいだに、神以外の神々があったならば、それらはきっと混乱したであろう。それで玉座の主、かれらが唱えるものの上に高くいましたもう、神の栄光をたたえまつれ。
クルアーン21.19 ~ 22(イスラーム)
賢人は「一」をしっかりつかみ、天下の模範となる。
道徳経22(道教)
パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、「知られざる神に」と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。
また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。皆さんのうちのある詩人たちも、「我らは神の中に生き、動き、存在する」。
使徒言行録17.22 ~ 28(キリスト教)
彼の名(及び)彼の相は、畢竟(ひっきょう一究極、至極、最終などの意)じて有ることなく、但是れ妄心の展伝する分別のみ。是の如く観察して、乃ち〔能〕覚をも滅するに至る、是を如如と名づける。大慧(だいえ)よ、真実に決定して、根本の自性を究竟せば、是の如如の相を得べし。我及び諸佛は随順に証入して其の実相の如くに開示し演説す。若し能く此に於いて随順に悟解せば、断を離れ常を離れ、分別を生ぜずして自証の処に入り、外道二乗の境界を出でむ。是を正智と名づける。(注7)
楞伽経83、(仏教)
神はイスラエルに言われた。「あなたは、多くの似像の中にわたしを見たのであって、多くの神々がいるのではない。そうではなく、常に同じ神である。すなわち、私は主なるあなたの神である。」ラビ・レビは言った。「神は、多くの顔を映すことができる鏡のようにみえる。千人の人々がそれをのぞくと、彼らひとりひとりが見えるようにである。」神がイスラエル民族に話される時、各々は神が個人的に話し掛けられたと考えるのである。
プスィクタ・カハナ109 b ~ 110a (ユダヤ教)
ヒンドゥーとムスリムは同じ一つの神に仕える。
グル・グラント、バイロー、p.1158 (シーク教)
人種や宗教が何であろうとも、世界の人々は、一つの天の源から霊感を受けた一つの神の民であるということに何らの疑いもない。彼らの守っている掟の間の相違は、それが啓示された時代の種々の要求や緊急度によって起こるのである。人間の我欲の結果から起こるいくしつかの例外を除けば、それらは全て神の定め給うたものであり、神の意志と目的の反映である。
バハオラ落穂集111(バハイ教)
どこでも無秩序よりは秩序が、不均衡よりは比例が、混雑よりは整列が完璧な調和を成して存在している。したがって、その中に調和を創造され、万物を圧縮して一つに結ばれる主なる神を発見できなければならない。例え私たちの目には見えなくても、万物の秩序と調和を見れば、統治者、整列者、王であられるその方を感じることができる……。宇宙の秩序と調和の中に万物を統治なさっていることを知ることができ、ほかの誰でもない主お一人で主管されていることを知ることができる。
アタナシウス(キリスト教)
― み言選集 ―
存在の根源は何ですか。神様から始まったというのです。神様は、お一人しかいません。唯一無二の絶対的な存在です。
(262-51 1994.7.23)
天地間に真なる方がいらっしゃるなら、その方は誰でしょうか。「絶対者」です。この「絶対者」を、今日私たちの韓国語で言うと、「お一人しかいらっしゃらない御主人様」ということです。一人(韓国語でハナ)しかいらっしゃらない御主人様をもっと縮めて言うと、神様(ハナニム)になります。お一人しかいららしゃらない御主人様が、神様だということです。(注8)
(39-302、1971.1.16)
神様に対する名前はたくさんあります。しかし、名前が問題ではありません。その神様は、二人になることができないのです。根源は一つなので、一つの神様です。各国の言語が違うので一つの神様を表す名詞は違っていますが、その本体は一つなのです。神様が志向される目的は、宗教を通して現れます。したがって、どんなに数多くの宗教があるとしても、各宗教が行く道の目的は、一つの帰結点に帰着しなければなりません。その帰結点とは何でしょうか。それは、平和と連結され得る、天国と連結され得る理念に間違いありません。(210-199、1990.12.23)
新しい宗教のための本体論は、従来のすべての絶対者が各々別個の神様ではなく、同一の一つの神様であることを明かさなければなりません。それと同時に、神様の属性のほんの一部を把握したものが各宗教の神観であったことと、神様の全貌を正しく把握して、すべての宗教は一人の神様から立てられた兄弟的宗教であることを明らかにしなければなりません。
(122-304、1982.11.25)
本体論というのは、絶対者に関する理論を意味します。宗教ごとにその教理が成立する根拠としての絶対者がいます。ユダヤ教の絶対者は「主なる神」であり、キリスト教の絶対者は「神様」であり、イスラームの絶対者は「アッラー」です。儒教や仏教は絶対者を明示していませんが、儒教の徳目の根本である「仁」は天命と連結されるので「天」が儒教の絶対者と見ることができ、仏教では、諸法は常に変化し、真理は諸法の背後にある「真如」から見いだせる(注9)としているので、「真如」が絶対者だと見ることができます。
(122-301、1982.11.25)
宗教紛争の根本原因も、やはり本体論の曖昧さにあります。絶対者はただ一つであって、二つも三つもあり得ないにもかかわらず、各宗教の指導者たちは、自分の絶対者だけが正しい神様であり、それ以外の神様は真の神様ではないと見ているので、結局宗教ごとに絶対者がいることになり、絶対者が多数いるという背理が成立するのです。
したがって、すべての宗教の神様は相対的な神様にすぎないという結論になり、各宗教を通じて立てようとした絶対的価値観、すなわち神様の愛と真理に関する理論は相対的なものにとどまっています。すなわち、これまでの宗教は、混乱を収拾できる絶対的価値観を立てることができなかったという結論になるのです。これは、すべての宗教が絶対者に対する正確な解明ができなかったために生じた、必然的な結果だと言わざるを得ません。
このような状況下で絶対的価値観を確立しようとすれば、文字どおり唯一、絶対の神様に関して正確かつ正しい解明をしてくれる本体論をもった新しい宗教の出現が必然的に要求されるのです。従来の様々な宗教は、神様が立てた宗教なので、これらの宗教を通して絶対的価値が実現されてきたと、いったんはみなしてきましたが、今日、宗教紛争が起きていることを見れば、各宗教の神が絶対神になり得ず、従来の宗教を通しては絶対的価値観が立てられないことを確認できるというのです。
(122- 303 ~ 304、1982.11.25)
各宗教は、自らを浄化させなければならず、宇宙的な原理によって昇華させなければなりません。宗教の中心価値は、神様の真の愛です。真の愛は、人のために生きなさいという教えで説明できます。個人は家庭のために生き、家庭は社会のために生き、社会は国家のために生き、国家は世界のために生きるのです。
同様に、自分の宗教は、ほかの宗教のために生きなければなりません。これは原理の中の原理です。宇宙的原理の根源は神様であられます。宇宙の創造で、神様は自らの創造物のために、自らの全体を投入されました。
また、歴史を通して、自分勝手に生きる堕落した人類を救うために、絶えず犠牲になってこられた方が、正に神様です。神様のみ旨を知った預言者、聖者、そして哲人たちは、自らの人生の中で神様の原理に従いました。
(234-222、1992.8.20)
神様の思想には怨讐の概念がありません。怨讐の概念があれば、二元論になります。神様にはこのような概念がないので、争いません。
(225-123、1992.1.5)
3) 無形、神秘
神様は無形であり、見えない。人間のいかなる概念も超越し、隠されており、不可思議である。「私の考えはあなたの考えではなく、またあなたの道は私の道ではない」。伝統的な唯一神の宗教において、神様を形状化できないように禁止したのは、神様の超越性を陳述するためである。無限者である神様は、形状化することによって有限者として表現することはできないからである。いかなる言語や思惟概念も、究極的実在の本質をあるがままに表すことはできないというのが東洋宗教の同一の主張である。どうして人間の有限な知識で、純粋精神の源泉であり、全知なる超越的存在を感知し得るだろうか。
文鮮明先生は、神様が無形であり目には見えないとし、人間の知識を超越するという点を認めるが、ここにそれ以上のあるものを示唆する。すなわち、神様は、超越的存在としてのみ存在することに満足しないということである。見えない神様の究極的な目的は、見える人間の形態として御自身を顕現することである。したがって、神様は、私たちをいつも無知の中に放置されず、終末には自らの胸深く隠しておいた事情のすべてを表す。さらに、私たちは、神様の神性を完全に実現するようになり、地上で神様の具現体になるところまで至るようになるのである。
― 宗教経典 ―
視覚では、かれを会得することはできない、だがかれは、目いろをも会得したもう。またかれは、よろずのことを微細によく知りたもう。
クルアーン6.103 (イスラーム)
語りうる「道」は「道」そのものではない、名づけうる名は名そのものではない。名づけえないものが天地の始まりであり、名づけうるものは万物の母である。だから、意図ある者はそのあらわれた結果しか見れない。この二つは同じものである。これらがあらわれて以来、名を異にする。この同じものは神秘と呼ばれ、神秘から神秘へとあらゆる驚きの入口となる。
道徳経1(道教)
この不滅なるものとは即ち不可見、不可捉、無血統、無姓階、無眼、無耳、無手足、常恒、普遍、遍一切、極小、不変にして、賢者が生類の胎宮(根源)と認むる処のものなり。
ムンダカ・ウパニシャッド1.1.6(ヒンドゥー教)
究極的霊魂は、長くもなく短くもなく、円でもなく三角でもなく、四角でもなく球形でもない。それは、黒くもなく、青くもなく、赤くもなく、黄色くもなく、白くもない。
それは、良いにおいてもなく、嫌なにおいてもない。それは、つんとすることもなく、苦くもなく、すっぱくもなく甘くもない。それは、硬くもなく軟らかくもなく、重くもなく軽くもなく、冷たくもなく熱くもなく、ざらざらしてもなくすべすべしてもいない。
それは体がない。それは生まれない。それは執着から自由である。それは、女性でもなく、男性でもなく、中性でもない。それは、清浄な知識であり直感である。それを把握できるいかなる例えもない。それは無形の存在である。それは、いかなる言葉でも説明することができない。それを把握できる言葉はない。それは、音でもなく形態でもなく、昧でもなく触覚でもない。ただ私はあまりに多くを語る。
アーヤーランガ・スッタ5.126 ~ 40、(ジャイナ教)
シャーリプトラよ、この世においては、物質現象は実体がないのであり、実体がないからこそ、物質現象で(あり得る)ある。実体がないといっても、それは、物質現象を離れてはいない。また、物質的現象は、実体がないことを離れて物質現象であるのではない。(このようにして、)およそ物質現象というものは、すべて、実体がないことである。およそ実体がないということは、物質的現象なのである。これと同じように、感覚も、表象も、意志も、知識も、すべて実体がないのである。
般若心経(仏教)
まことにあなたは御自分を隠される神。
イザヤ書45.15 (キリスト教)
あなたは神を究めることができるか。全能者の極みまでも見ることができるか。高い天に対して何ができる。深い陰府について何が分かる。神は地の果てよりも遠く海原よりも広いのに。
ヨブ記11.7 ~ 9(キリスト教)
まったく別のものがある場合には、一方のものが他の一方を見、一方のものが他の一方のにおいを嗅ぎ、-方のものが他の一方のものを味わい、一方のものが他の一方のものを話し、一方のものが他の一方のものを聞き、一方のものが他の一方のものを思考し、一方のものが他の一方のものに接触し、一方のものが他の一方のものを認識するであろう。
しかし、かれにとってすべてのものがアートマンとなったとき、〔かれは〕なにによってなにを見るのであろうか。なにによってなにを嗅ぐのであろうか。なにによってなにを味わうであろうか。なにによってなにを聞くのであろうか。なにによってなにを思考するのであろうか。なにによってなにを触れるのであろうか。なにによってなにを認識するのであろうか。
それによって〔人が〕この世のありとあらゆるものを認識するそのものを、〔かれは〕なにによって認識することができるのであろうか。ああ、認識の主体をなにによって〔かれは〕認識できるのであろうか。(注10)
ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド4.5.15(ヒンドゥー教)
かたちによって、わたしを見、声によって、わたしを求めるものは、まちがった努力にふけるもの、かの人たちは、わたしを見ないのだ。
金剛般若経26(仏教)
わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。
イザヤ書55.8 (キリスト教)
それで神に対し、同類を考え出してはならぬ。まことに神は知りたもう、だがなんじらは知らぬのである。
クルアーン、16.74(イスラーム)
モーセが、「どうか、あなたの栄光をお示しください」と言うと、主は言われた。「わたしはあなたの前にすべてのわたしの善い賜物を通らせ、あなたの前に主という名を宣言する。わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ。」また言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」
更に、主は言われた。「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。あなたはその岩のそばに立ちなさい。わが栄光が通り過ぎるとき、わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、私が通り過ぎるまで、わたしの手であなたを覆う。わたしが手を離すとき、あなたはわたしの後ろを見るが、わたしの顔は見えない。
出エジプト記33.18 ~ 23(キリスト教)
あなたたちは自らよく注意しなさい。主がホレブで火の中から語られた日、あなたたちは何の形も見なかった。堕落して、自分のためにいかなる形の像も造ってはならない。男や女の形も、地上のいかなる獣の形も、空を飛ぶ翼のあるいかなる鳥の形も、地上を這ういかなる動物の形も、地下の海に住むいかなる魚の形も。
また目を上げて天を仰ぎ、太陽、月、星といった天の万象を見て、これらに惑わされ、ひれ伏し仕えてはならない。それらは、あなたの神、主が天の下にいるすべての民に分け与えられたものである。しかし主はあなたたちを選び出し、鉄の炉であるエジプトから導き出し、今日のように御自分の嗣業の民とされた。
申命記4.15 ~ 20(キリスト教)
太初に神がいらっしゃり、今もいらっしゃり、あすもいらっしゃいます。誰が神の形をつくることができるだろうか。神は無形であられ、御自身の口から出てくるみ言であられます。とどまることなく消えてしまうがそれでも生きている、正にそのみ言!ゆえに神であられるのです。
ピグミー族の賛歌(アフリカ伝統宗教)
― み言選集 ―
皆さんが霊界に行っても神様を見ることができません。神様は見えないのです。神様はエネルギーの本体なので、霊界に行っても見ることができません。
(105-193、1979.10.21)
神様はどのような形ももっていません。大きいと言えば無限大です。小さいと言えば無限に小さい方です。
(35-157、1970.10.13)
愛がどのように生じたのですか。愛がきちっと四角になっていれば、角張った人ばかりが喜びます。愛は空気のように形態がないので、どのような形態でもすべて満たすことができるのです。
空気のように大きくて丸いものを真の愛で長く引っ張れば、千里、万里とずっと伸びていきます。それでも空気は、「ああ! なぜこれを引っ張るのか」と不平を言いません。引っ張りすぎてぷつんと切れても、「そうなればどれほどよいか。早く切れるようにしてほしい」と言うのです。
愛には異なる概念があります。反対の概念があるのです。空気のような形態の愛がぷつんと切れれば、それを引っ張っていく神様は、その愛を体に巻きつけていきます。「神様をこのように長く伸ばさなければならない」と言っても、神様は喜ぶというのです。
(167-115、1987.7.1)
神様はどれほど重いですか。それを考えてみましたか。神様がどれほど重いですか。斤目で量れば、何斤くらいになりますか。何億万トンになるでしょうか。重ければもち歩くのに大変ですが、神様は無形でいらっしゃるので、理想的です。無形なので、財布に入れて歩いても重くないのです。また、無形なので、いくら狭い所に行ってももっていけます。そうではないですか。いくら狭くても、針の穴よりもっと狭い所も、人間が思いどおりにもっていけます。思いどおりに運搬できます。大きければ、大きい所も思いどおりに運搬できるのです。
(136-107、1985.12.22)
全知全能の神様、すべての天下を料理される神様がここにいるとしましょう。力で言えば太白山も吹き飛ばし、地球に穴を開けることもできる能力の神様なのですが、そのような神様を皆さんの目で見ながら生きるとすれば、生活できると思いますか。神様が見えなくて良かったというのです。見えれば、皆さんは神経が衰弱して、1時間も我慢できないのです。
(38-245、1971.1.8)
神様は知恵深い方です。それで、見えない主人になろうと考えることができるのです。人々がいくら追いつこうとしても追いつくことができず、見ようとしても見ることができないようになることが最も便利な方法でしょう。そのように主人の役割ができれば望ましいのです。210億光年にもなる宇宙を「私の懐に抱かれよ」と言っても、体をもった神様であれば、どのようにして神様の役割をするのですか。神様に心があれば、その心の距離がどのくらい遠いでしょうか。心と体が訪ねていこうとすれば、どれほどかかりますか。神様が見るときも、あきれてしまうでしょう。
そのようなことを考えるとき、知恵の神様、全知全能の神様は、中央で思いどおりに振る舞うことができる無形な存在としていらっしゃりながら主管することが、一番便利だと考えられたのです。神様は無形なので、存在世界を思いどおりに突き抜けてきたとしても少しも支障を感じません。皆さんには体がありますが、神様が来て思いどおりに過ぎていかれたとしても皆さんには分からないのです。神様が、こくりこくりと居眠りしている皆さんの体を、思いのままに踏んでいかれたとしても分からないのです。それはどんなに便利でしょう。
ですから神様は、見えない神様としているのが一番便利だろうと考えて、見えない神様になったという論理が妥当です。皆さんは空気が通ることを知っています。しかし、空気が通ってもそれを感じられません。空気が通ることも感じられないのに、神様が通ることを感じられるのかというのです。それで、仕方なく神様は無形の神としていらっしゃるのが最高に便利な方法なのです。
そして、この大きな宇宙を支配することができ、この宇宙を風呂敷で包んで余りある神様でなければなりません。無形の神様ですが、無形の神様の心は、この宇宙も小さいと思い、もっと大きなものを要求しているのです。もし神様が、皆さんの一挙手一投足を、いちいち顕現して指摘し、干渉されるとすれば、どのようにして生きていくのですか。皆さんの目で直接神様を見ながら生きていきなさいといえば、生きていけると思いますか。恐らく神経衰弱にかかって一日も生きていくことができないでしょう。
皆さんは今、この場に座っていながら、ものすごい量の空気が皆さんの体の中を出入りしているのを見ることができないのに、ましてや無形で存在される神様が皆さんを通過して役事されるのをどうして見ることができますか。神様を見せてくれれば信じるという愚かな主張をするのではなく、神様が私たちの目に見えないことをかえって有り難く思わなければなりません。
(138-168、1986.1.21)
天宙の大主宰である神様が人間の目に見えるようになれば、その神様をお互いが奪い合おうとしてけんかをするでしょうか、しないでしょうか。このけんかを防ぐ道がないのです。神様が見えなくて良かったのです。
もし神様が見えたとすれば、アメリカとソ連がお互いに自分の神様だと争うでしょうか、争わないでしょうか。争うのです。その争いを誰が止められますか。神様は全知であられ、このような争いが起こるかもしれないので無形でいらっしゃるのです。神様が見えることを願うのは、ばかげたことなのです。見えなくて良かったのです。
(41-287、1971.2.17)
ここには、二つの考えがあります。摂理を主管する神様の考えと、摂理に対している私たちの考えです。それが現場において、どのような差があるかということが常に問題です。それでは、ここで考えるべきことは、神様はどのような神様なのかということです。神様は堕落前にもいらっしゃり、堕落後にもいらっしゃいますが、今摂理に対している神様の考えは、堕落した人間を救うことです。これを私たちは、いつも忘れてしまいやすいのです。
それでは、問題は、神様が堕落した世界に入ってきて働く、その目的がどこにあるのかということです。この人たちの考えを中心として人間化するのではなく、神様が本来理想としていた考えを中心として神様化しようというのです。そのような救援摂理の運動だということをはっきりと知らなければなりません。
(161-110、1987.1.11)
神様は、見えない無形の神様でいらっしゃいます。無形の神様が有形の神様として顕現するためのものが創造理想だというとき、神様の実体は見えない世界の実体にもなりますが、また見える世界の実体になったと思わざるを得ないのです。
(298-106、1999.1.1)
さあ、アダムはどうしてそうでなければならないのですか。今皆さんが霊界に行っても、神様を見ることができません。神様は見えないのです。皆さん、力が見えるでしょうか、力が見えますか。神様はエネルギーの本体なので、霊界に行っても見ることができません。体がないのです。
ですから、実体世界を指導して主管するためには実体をもたなければならないのです。神様は、どのような神様ですか。アダムが堕落しないで完成して地上で暮らし、天上に行くようになれば、アダムの形状をもった神様になるのです。それで、見えない神様と見えるアダムが一つになるのです。そのようになれば、アダムが「ははは」と笑うことは、神様が「ははは」と笑うことになるので、それはすなわち宇宙が「ははは」と笑うことだというのです。
無形の神様が実体をもった神様として登場するというのが、アダムとエバの創造です。アダムとエバを創造したのは、無形の神が実体の神様として登場するためなのです。それはどういうことでしょうか。南極と北極のような極を描いてこそ、一つの磁石となれるのです。ですから、目に見えない神様と目に見える神様が調和を成せる、このような原理が現れます。そうして初めて、これが回る作用をなし得るのです。
(105-193 ~ 194、1979.10.21)
4) 超越的実在
超越性は、絶対者の本質的属性である。神様の栄光は、世界に満ちあふれるほど現れ、尽きることがない。神様は、存在の土台であり、あらゆる被造物の原子と生命の中に内在するエネルギーの源泉である。それは、宇宙の中心であり、万物の秩序を維持する。しかし、世界の中に関与する神様の超越性と絶対性は、決して制限されたり棄損されたりするものではない。
どのようにして有限な存在である人間を超越的な神様と結びつけるのか。ある章句では、私たちが人に対するにおいて、国家と民族の限界を克服することによって私たちの日常生活の中に現れた超越の意味を適用させなければならないという。また、ある章句は、私たちが、絶対的存在自身がいる所として選択した、私たちの心の最も深い内面世界と接触しなければならないという。
― 宗教経典 ―
聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。
イザヤ書6.3 (キリスト教)
神、かれのほかに神なく、永生者・自存者であられる。仮睡も熟睡も、かれをとらえることはできない。天にあり地にあるよろずのものは、かれの有(もの)である。かれの許しなくして、だれが、かれのみもとで執り成すことができよう。かれは人びとの、前のことも後のことをも知りたもう。かれの御意にかなったことのほか、かれらはかれのみ知識について、何も会得するところはないのである。かれの玉座は、あまねく天と地をおおうてひろがり、これを守って、疲れも覚えたまわぬ。かれは至高者・至大者であられる。
クルアーン2.255 (イスラーム)
手のひらですくって海を量り、手の幅をもって天を測る者があろうか。地の塵を升で量り尽くし山々を秤にかけ、丘を天秤にかける者があろうか。主の霊を測りうる者があろうか。主の企てを知らされる者があろうか。主に助言し、理解させ、裁きの道を教え、知識を与え、英知の道を知らせうる者があろうか。
見よ、国々は革袋からこぼれる一滴のしずく、天秤の上の塵と見なされる。島々は埃ほどの重さも持ちえない。レバノンの森も薪に足りず、その獣もいけにえに値しない。主の御前に、国々はすべて無に等しく、むなしくうつろなものと見なされる。
イザヤ書40.12 ~ 17(キリスト教)
プルシャは千頭・千眼・千足を有す。彼はあらゆる方面より大地を蔽いて、それよりなお十指の高さに聳え立てり。プルシャは、過去および未来にわたるこの一切(万有)なり。また不死界(神々)を支配す、食物によって成長するもの(生物界、人間)をも。彼の偉大はかくのごとし。されどプルシャはさらに強大なり。一切万物は彼の4分の1にして、4分の3は天界における不死なり。プルシャは4分の3を備えて上方に昇れり。彼の4分の1はここ(下界)に再び発生せり(現象界の展開)。これ(4分の1)より彼はあらゆる方面に進展せり、食するもの(生物)・食せざるもの(無生物)に向かって。
リグ・ヴェーダ10.90.1 ~ 4(ヒンドゥー教)
これは火神なり。これは太陽なり。これは風神なり。これはまた太陰なり。これは明浄なるもの(星)なり。これは梵なり。これは水なり。これは生主神なり。汝は女子なり。汝は男子なり。汝は童子なり。はたまた童女なり。汝は老人にして、杖に杖ってよろめき歩む。汝は生まるるや一切処に現わる。汝は青羽の鳥なり。紅眼、緑羽の鳥なり。汝は電を胎児とするもの(雲)なり。汝は季節なり。海なり。汝は初めなくして、しかも一切に遍在す。これによりて万物は生じたるなり。
シヴェータシヴァタラ・ウパニシャッド42 ~ 4(ヒンドゥー教)
唯一なる〔アートマン〕は動くことがない〔けれども、しかも〕思考作用よりもより早く、〔それが〕先駆けるとき、神々はそれをとらえられなかった。それは〔じっと〕とどまりながら、走っている他のものに追いつく。マータリシュヴァン(摩擦によって火を作り出すときに出る煙、または風)はそれに水(風がすべてのものを乾燥させるからか?)を置く。
それは動き、それは動くことなく、それは遠方にあり、それは遠方にあらず、それはこの世のあらゆるものの内にあり、一方、それはこの世のあらゆるものの外にある。かれ(アートマン)は、身体をもたず、そこなわれることなく、腱がなく(身体的な力がなく)、清浄であり、悪につらぬかれない、精液に入った。〔かれは〕賢明なる太初の詩人として、遍在せるものとして、みずから生じたものとして、つねにひきつづく年のためにものごとを適切に配置した。
イーシァ・ウパニシャッド4~ 8(ヒンドゥー教)
形はないが、混沌としたものがあり、天と地より先に存在していた。音もなく、空漠。あらゆるところに充ち、疲れることがない。それは天下の母だといわれる。その名は知られておらず、「道」と呼ぶだけである。もし私が名をつけようとするなら、それを「大」と呼ぼう。「大」とは無制限に広がっていくことである。無制限に広がるとは遠ざかることであり、遠ざかるとは「近くに」返ってくることである。
道徳経25(道教)
夫れ神とは天地に先立ちて、而も天地を定め陰陽を超えて、而も陰陽を成す天地に在りては神と云ひ、万物に在りては霊と云ひ、人に在りては心と云ふ。心とは神なり故に神は天地の根元、万物の霊性人倫の運命なり、当に知る心は即ち神明の舎、形は天地と同根たる事を。
吉田兼倶神道大意(神道)
諸感官の上に意あり。意の上に至上の喜徳(覚)あり。喜徳(サットヴァ)の上に大自我あり。大自我の上に至上の非変異あり。しかも、非変異の上に神我あり。遍在にして、個別性なし。(注11)
カタ・ウパニシャッド2.3.7 ~ 8(ヒンドゥー教)
菩薩大士はどんなふうに如来・応供・等正覚を知見すべきかといふに、菩薩大士はまさに如来の具足し成就したまへる無量の功徳を知見するがよい。なぜなら、如来・応供・等正覚は一法・一行・一身・一国土・一衆生の教化でないから。それゆえに菩薩大士はまさに如来の具足し成就したまへる無量の法・無量の行・無量の身・一切衆生の教化を知見するがよい。
仏子よ、たとへば虚空は一切の色のところ、非色のところに、処として至らぬと云ふことなく、しかも至るでもなく、至らぬでもない。なぜなら、虚空には形色がないから。如来の法身もまた此のごとく、一切のところ・一切の国・一切の法・一切の衆生に至って、しかも至るといふことはない。なぜなら、もろもろの如来の身は、身であってしかも身でないから。如来は応化する所にしたがってその身を示現したまふ。(注12)
大方広仏華厳経37・(仏教)
「道」は無によってはたらき、
満ちあふれたものではない。
それは深いところで、
すべてのもとになるものである。
鋭さをにぶらせ、
もつれを解きほぐし、
光を和げ、
地球を一つにしながら
それは残っている。
道徳経4(道教)
― み言選集 ―
神様は、超越した場所にいる方です。世界的であり、宇宙的な方です。神様の愛は、宇宙的であり、世界的なものとして、超越した場所で価値のある内容を備えたものであることを知らなければなりません。
(94-282 ~ 283、1997.10.9)
絶対的な神様がいるなら、その神様は、天地創造の時の宇宙の起源になられる方です。その方によらないものがないというのです。その方に属しているために、その方に属した全体は、その方と共に感じ、その方と共に因縁をもっているのです。例を挙げれば、私たち人間は400 兆個の細胞をもっていますが、すべての細胞自体がどのような分野であろうと感じさえすれば、直接頭脳に連絡されます。
天地創造の創造主を中心として連結されるすべての存在も、それと同じだというのです。しかも、人間として生まれ、意識をもって生き、善良で、より次元の高い価値のものを追求しながら悲哀を感じる、そのすべては人間から始まったのではなく、人間の根源から始まったのです。
(140-123、1986.2.9)
自分の生命は、父母や社会や民族、国家を通じて生まれたのではなく、それを超越した絶対者である神様から始まったと言うべきです。動機を、絶対的な立場にある超越的な動機と結びつけなければなりません。
時代的な因縁とか、環境的な因縁、あるいは社会的な与件に結びつけてはいけません。超越的な原因に結びつけ、超越的な目的に結びつけてこそ、飛躍して、超越して、脱出できるのです。
私の命を超越的な動機に結びつけなければなりません。私の命の出発は、私がら始まったのではありません。絶対者、神様から出発したのです。自らを超越的な動機に結びつければ、死んだとしても、超越的な過程で神様のみ旨によって死ぬようになるのです。
(36-64、1970.11.15)
神を中心として完成された被造世界は、ちょうど、心を中心として完成した人間の一個体のように、神の創造目的のままに、動じ静ずる、一つの完全な有機体である。したがって、この有機体も性相と形状とを備えなければならないわけで、その性相的な存在が神であり、その形状的存在が被造世界なのである。
原理講論、創造原理1.1.1
あらゆるものは回るようになっているものです。空気やあらゆる素粒子を見ても、すべて丸いのです。分子なら分子、電子なら電子も、やはり陽子を中心として回っているのです。じっと座っているものを中心として回るようになっているのです。
太陽を中心として太陽系も回ります。銀河系も全体が一つの核を中心として回るようになっています。そのような連関関係を中心として、この宇宙は一つの千態万状の大きな包みです。大風呂敷の宇宙と言えばすべて入ります。大風呂敷の宇宙も、すべてが一つの核を中心として回ります。それは誰に似てそのようになっているのかというと、主人に似てそのようになっているのです。その主人が誰かというと、万有の根源であられる神様です。
(173-134 ~ 135、1988.2.14)
その方は、天地を創造された方であり、今日、この世の存在の起源になる、最も母体であられる方です。その方は、存在価値め起源です。その方がいらっしゃることで、今日、この現象世界が始まりました。そのような絶対的な方は、ある時代に変化があったとしても、変わる方ではありません。絶対的なものは、変わることはありません。また、時間や空間に制限を受けることもありません。すべての制限を超越した立場に立って、すべての制限を主管される方です。
(21-249、1968.11.24)
人間は、神様と完全に一つになってこそ、完全な人になるのです。人は、たとえ小さな一つの個体だとしても、全体の歴史の代身としての存在であり、未来のあらゆる因縁の代身としての存在なので、天宙的な価値をもっている存在です。
それでは、人類歴史は、何を成すために今まで流れてきたのでしょうか。私たちの大勢の先祖たち、預言者、烈士たちは、何を願ってきたのでしょうか。堕落した人間なので、遠いところから因縁を結び、中心を求めて入ってきています。すなわち、氏族主義時代から部族、民族を経て、国家時代と国際時代、世界的な連盟時代を経てきているのですが、ここで天は、一つの代表的な人、すなわち歴史的な因縁と時代的な因縁と未来の因縁を兼ねた土台の上に、神様の心情を結びつけ得る一人の人を求めてきたのです。
第1次大戦当時は、物質を中心とする闘争時期でした。この地のあらゆる人たちが自身の心を後回しにして、ひたすら物質ばかりを求めようとしていたのです。このこように全世界が物質万能主義を叫んでいた時がありました。ところが、これがあらゆる時代にすべて通じるのかというと、そうではありません。人は、自分の生涯の因縁を求めていくにおいて、自分の心を中心に迎えていかなければなりません。これが天倫の鉄則です。心の命令に服従しない者は、天が打ちます。
今まで天は、歴史路程において、人間に自身の心を中心に善側に属し、良心のとおりに生き、物質的な悪の条件に引っ掛からないように生きなさいと言ってきたのです。それでは、人間の良心の基準は、天倫の心情を100 パーセントそのまま受け入れられるようになっているのでしょうか。そのようになっていません。数多くの障壁が横たわっているのです。皆さんが願う希望峰、すなわち天国の関門の前に曲折の門が横たわっているというのです。
キリスト教的に言えば、これは審判の関門です。今日、私たちは、恐怖と不安と混乱の時期を迎えています。中心をつかもうとしても、つかむことができない時代です。今日の私たちは、物質をたくさんもっていてもいけません。なぜかというと、神様が人を造るとき、物質的な体を先に造ったのちに霊を吹き込み、私たちは霊と肉から成っているのですが、霊が中心だからです。
この世界が物質的な権限を中心として一つになって動くとき、どのような闘争の時期が現れるのかというと、思想闘争の時期が現れるのです。実際に、そのような現象が第2次大戦以降に色濃く現れています。そして、心を中心とする思想の時代が現れるのです。それでは、思想は、どのような思想でなければならないのでしょうか。物質を貫き、心を貫き、霊を中心とする思想でなければなりません。霊を中心とする思想の時代を求めていくのが復帰路程です。人間たちは、これを失ってしまった状態にいまだにとどまっていて、霊と良心と体の調和を失ってしまった状態に今もとどまっているのです。
(4-268 ~・269、1958.8.3)
5) 主権と全能
神様は宇宙の主権者である。神様は、男女、人間社会のあらゆる出来事を主管し、彼らの運命を決定する。また、人間は、神様の主権に服従するか否かに対する自由意志をもつが、私達の人生に対する彼の権能を認め、彼を私達の主として受け入れるのが適当である。
人間の自由意志は、神様の主権が絶対的でないこともあり得るという疑問を提起する。この世界で、神様が常に悪を罰し、善に報いることによって正義を立てるという主張は、支持され難い。それにもかかわらず、神様の究極的な主権が具現するというのは確実である。文鮮明先生はこの問題に対してより深く言及し、人々が放縦にならず、神様の統治に完全に服従できる状態にあるときにのみ神様は主権者でいることができるが、人間の堕落のためにこの状態が成し遂げられなかったという原理を提示した。しかし、結果的にサタンが人間の心情を蹂躙することによって、この世界を支配するようになった。したがって、この世界から悪の勢力を追い出し、神様が何の制限もなく統治できる主権を立てることが急務である。文鮮明先生は、今その日が切迫していると断言する。
1. 全能であられる神様
― 宗教経典 ―
かれこそは天と地の原始の創造者であられる。かれが一事を決めたまい、それに有れと、仰せになれば、すなわち有るのである。
クルアーン2.117 (イスラーム)
天と地における、よろずのものは、神の栄光をたたえまつる。まことにかれは、偉力者・英明者であられる。天と地の大権は、かれのものである。かれは、生を授けまた死を賜う。かれはよろずの事物の上に、全能であられる。かれは最初の方であり最後のかたであられ、外に現れる方でありまた内在したもう方であられる。かれはよろずの事物を、熟知したもう。
かれこそは、天と地を六日間で創造され、それからしたしく玉座に鎮座したもう方であられる。かれは地にはいるもの、それから出るものを知りたまい、また天から下るもの、それに上るものを知り尽くしたもう。なんじらがどこにいようとも、かれはなんじらと共にいましたもう。神はなんじらの行うすべてのことを知っている。天と地の大権は、かれのものである。一切の事物は、神のみもとに帰される。かれは夜を昼のなかに没入させ、また昼を夜の中に没入させたもう。また胸に秘めることを熟知したもう。
クルアーン57.1 ~ 6(イスラーム)
もしかれのみ心ならば、なんじらを追放して、その地に新しい創造物を、なんじらの代わりに連れてこられよう。それは神においては、むずかしいことではない。
クルアーン14.19 ~ 20(イスラーム)
あなたは不変であり、永遠の教法(ダルマ)の守護者である。あなたは永遠のプルシャであると私は考える。始まり、中間、終わりのない、無限の力を持ち、無限の腕を持ち、月と太陽を眼とし、燃火を口とし、自らの光輝によりこの全世界を熱しているあなたを私は見る。天地の間のこの空間は、ただあなた一人によって遍く満たされている。そして一切の方角も……。偉大な方よ、あなたのこの稀有で恐ろしい姿を見て、三界は戦慄(おのの)いている。
パガヴァッド・ギーター11.18 ~ 20(ヒンドゥー教)
人びとよ、なんじらは神に対し求め請う者である。だが神こそは、自足者であられ、賛美さるべき方であられる。
クルアーン35.15 (イスラーム)
― み言選集 ―
神様はいったいどのような方でしょうか。全知全能で、遍在され、ただの一言で世界を葬ることも、生かすことも……。そのような神様を私達は必要としません。私達が神様と関係を結ぶことができる人になっているというのです。私達の本心は、どのような神様を願っているのでしょうか。「愛をもち、私の父母以上の愛で愛さざるを得ない方だ。私達の国に義の国王がいれば、義の大統領がいれば、その大統領以上の方だ」、このような方を願うのです。
(147-273、1986.10.1)
全能の神様が、それほどまでに苦痛の場から抜け出せず、歴史の背後で受難の道に甘んじて耐えてこられたのは、神様が愚かで能力がないからではありません。堕落によって失ってしまったアダムとエバの本然の位置、すなわち完成した「後のアダム」の顕現を待たなければならない、復帰摂理にまつわる、言うに言えない事情があったからです。いかに全権をもった神様でも、自ら永遠の基準の上に立てた天理原則を無視することはできなかったのです。
平和神経平和メッセージ1、2005.9.12
多くの人たちが、絶対者の神様、全能であられる神様、栄光の神様と簡単に言います。しかし、私が求道の過程で発見した神様は、そのような立場にいらっしゃる神様ではありませんでした。人類始祖の堕落によって、神様は愛する子女を失った父母になりました。子女が監獄生活をしているのに、栄光を享受する父母がいるでしょうか。神様の心情は限りなく痛むのです。
また、堕落によって人間のためにつくった宇宙万象までも、すべてサタンの主管圏に差し出してしまいました。真の愛の主人であられる神様は、その愛の対象を失った瞬間から、限りなく孤独な神様になられたのです。万有の主宰者としての権能を一度も主張してみることができませんでした。愚かな堕落人間たちも自分を誇って生きているのに神様は創造主の威信を一度も立ててみることができませんでした。あらゆる生命の主人でありながら、それらの前に自ら至尊さを現すことができなかったのです。
原理の主人であられるので、非原理世界に落ちた結果世界でどうして自由に行き来されるでしょうか。あらゆる不信と反逆の道を歩む人間たちは、無形の真の父母である神様を、いないと言い、死んだとまで言いながら無視して生きてきました。神様は、恨を抱いて長い歴史を生きてこられたのです。とても長い間、耐えてこられたのです。
(343-197、2001.1.29)
終わりの日になればなるほど、それこそ超越的な神様が必要です。悪も超越し、あらゆる物を超越して絶対的な権限を行使できる神様、悪魔がいれば、その悪魔の妨げを受ける神様ではなく、あらゆるものを超越して自由自在にできる神様が必要だというのです。そのような神様を発見するまでは、今日のこの闘いの場を克服できません。言い換えれば、今までつづられてきた歴史時代、現世において内的な役割を果たす宗教の歴史時代では、新しい文化を克服できないと見るのです。
悪神が闘うそのような神様ではなく、悪神が介在できない、唯一の絶対的で超越的な神様を中心として出発できる自らを発見し、そのような自らを中心とするようになるとき、初めてこれが今日の世界を収拾できる起源になると考えるのです。それでは、ここで神様はどのような神様なのでしょうか。超越的な神様の立場に立ち、摂理歴史を、人類歴史を指導される神様になることができていないのです。
人間が堕落したからです。神様は、これを治してあげる医者としての神様です。修理する立場にいる神様です。完全な人、絶対的な人が出てきて、その人が完全に絶対的な位置で一つの方向に向かって導いていくようにする神様になれなかったというのです。(140-18 ~ 19、1986.2.1)
主人がいないこの天地に、お父様が主人にならなければなりません。今後行くべきこの国の運命に責任をもち、指導できる中心もあなたがならなければなりません。私達の家庭や個々人が見つめていく希望の中心も、お父様がならなければなりません。世界でも必要とし、国でも必要とし、家庭でも必要とし、個人も必要とするのが、全天地をつくられた主人であられるあなたであり、お父様であられることを、私達ははっきりと知らなければなりません。
あなたは無限の能力をもたれた方であり、時間と空間世界のいかなる制裁も受けない全能であられる方だということを、私達は知っております。あなたによってつくられていないものはなく、あなたはすべてのものの原因の内容を備えられた主体であることを知っています。存在するすべてのものは、あなたの因縁によって存在することを私達は知っており、存在するのは主体であられるあなたの前に、相対的目的をもっていないものがないことを知っています。そのような位置に立った個人であり、家庭であり、国家であり、世界にならなければならないことも知っています。
日の光が照らされれば、すべての存在がその日の光を通して生命の目覚めを願い、それと一致しようとするのを私達が見つめるとき、微々たるものも一つの中心に向かってそれと一緒に動く現象を私達自身が見つめるとき、そのような位置で、あなたは私達生命の主体であられる父であり、私達の行くべき道と方向を明らかにしてくださる父であることを知って、あなたと一体となり、あなたと一つにならなければなりません。そうでなければ、生命の道がふさがることを考えなければなりません。
(59-65 ~ 67、1972.7.9)
2. 人間社会の出来事を主管する主人
― 宗教経典 ―
天と地と、その間の一切の事物は、神の大権に属する。かれは、よろずのことに全能であられる。
クルアーン5.120 (イスラーム)
主は代々限りなく統べ治められる。
出エジプト記15.18 (キリスト教)
統治者、王、領主、宰相、臣下たち、このすべてが神の創造であるがゆえに、彼らの意思が神に服従し、すべてが神に頼っている。
アーディ・グラント、ビラヴァル・キ・ヴァール6 M.4、p.851 (シーク教)
さて、御身を、マズダーよ、わたくしが、始元にして終末にましますと、心をもってみとめ奉ります。
アヴェスター、ヤズナ31.8 (ゾロアスター教)
天の怒りを敬み、戯れはしゃぐことなかれ
天恵の変ることを畏れ
気ままに振舞ふことなかれ
天つ神明らかにして、汝とともに出でまさむ
天つ神明らかにして
汝とともにゆきまさむ(注13)
詩経、254 板(儒教)
マズダーは企てを最もよく銘記し給うもの。まことになされたことを御心にとどめてくださるよう、そしてまた諸天と諸人によってなされるであろうことをも御心に記してくださるよう。その判決者におわすアフラーそのかたが望み給うとおりに、してくださるよう。
アヴェスター、ヤスナ29.4 (ゾロアスター教)
謙遜な者と従順な者たちを虐待する者は誰でも、極めて厳しい主が彼を火で燃やすだろう。創造者は完全な正義を行われ、主に献身する者たちを保護されるのである。
アーディ・グラント、ガヴリー、M5、p199 (シーク教)
人々が恐れをもたないとき、「根本的な恐怖」を経験する。
道徳経72(道教)
主の大いなる日は近づいている。極めて速やかに近づいている。聞け、主の日にあがる声を。その日には、勇士も苦しみの叫びをあげる。その日は憤りの日(注14)苦しみと悩みの日、荒廃と滅亡の日、闇と暗黒の日、雲と濃霧の日である。城壁に囲まれた町、城壁の角の高い塔に向かい角笛が鳴り、鬨の声があがる日である。私は人々を苦しみに遭わせ、目が見えない者のように歩かせる。彼らが主に対して罪を犯したからだ。
彼らの血は塵のようにはらわたは糞のようにまき散らされる。金も銀も彼らを救い出すことはできない。主の憤りの日に地上はくまなく主の熱情の火に焼き尽くされる。主は恐るべき破滅を地上に住むすべての者に臨ませられる。
ゼファニア書1.14 ~ 18(キリスト教)
― み言選集 ―
今まで私達は、観念的に神様と呼んできました。宗教的な主体としてのみ神様を呼んできたのです。しかし、それは違います。神様は、生命の主体であると同時に生活の主体であり、生活の主体であると同時に理念の主体です。
(11-87、1961.2.12)
自分を完全に知って自分を解明するためには、比較して判断できる相対的な条件がなければなりません。それは人間が信仰の対象としている絶対者です。その絶対者と私が関係を結び、その差を比較して論断するとき、自分がどのような存在だということが解明されるのです。ですから、この心を支配して動かす絶対的な存在、あるいは主体となるその何かがあるという事実を、皆さんはまず感じなければなりません。
(7-207 ~ 208、1959.9.13)
サタンの全権時代が倒れ、神様の全能時代が来るのです。サタンが好きなようにできません。自分が発揮できる限界内で権能を使用しましたが、能力の位置に立てなかったのです。思いどおりにできる基準になれなかったのです。しかし、神様は、全般的な勝利の基盤の上に、全般的な権能の役事をすることができます。
(349-179、2001.7.19)
人類は歴史的な転機を迎えています。今の時は、見えず、無力で存在していないかのように思われた神様の権能が、人類の生活の中に示現する時になりました。万象と宇宙に厳存する神聖な秩序と、合法の主人であられる神様の絶対権を、人間たちが自分の日課の中で体得する、驚くべきことが起きる時になったということです。
歴史を通した神様と真の父母様、そして義人たちの犠牲と無条件的な愛の実践基盤の上で成し遂げられた神様の善の相対基台が、堅固に造成されたために可能な、奇跡のようなことです。人類は今、だんだんと神様を感知し、霊界と霊人たちの役事を知っていくようになります。
人々は、自分の内なる人である霊人体を自覚し、霊性が啓発されるでしょう。こうして人間は自然に宇宙の公法を体得し、明確な人格変化を起こし、真の人になることができるのです。これを通して人類は、宇宙の存在秩序と人間関係が利己的、自己中心的になるのではなく、利他的に人のために生きながら暮らすようになっていることを学ぶようになるでしょう。
(404-322、2003.2.6)
今までサタン圏は、国家基盤に限定されていました。これからは、それを越えていくのです。それは、サタン圏を越えていくことです。宇宙基盤と天宙基盤を神様が主管するのは問題ありません。それで、この地上にサタン圏は消え去り、新しい天の主権が出てくるのです。神様が上で、サタンは消え去り、新しい天の主権が出てくるというのです。神様が個人から宇宙まで主管できます。そうして神様が初めて主権をもっようになるのです。
全体、全般、全権、全能の神様が思いどおりにする時が来ました。全般は、サタン世界の全体を神様が主管する世界になるということです。全能は、サタン世界の全権を神様が握り、思いどおりにできるようになるということです。サタンの全権は、国家基盤を越えられません。世界基盤は神様が握っているのです。
(295-254、19989.8)
6) 全知性と遍在性
神様は万事を洞察されるため、何事もその視野を抜け出すことはできない。神様は、宇宙の過去、現在、そして未来を洞察する。神様は、どこにでも遍在するため、その目を避けられる所はない。したがって、私達は、慎重に考え、注意深く行動しなければならない。神様は、私達がすることすべてを直観するだけでなく、私達の人生の苦難を見て同情する。彼はあらゆる人生の状況において私達の友であるがゆえに、私達は決して孤独ではない。
(第11章7.「予定」参照)
― 宗教経典 ―
東も西も、神のものであり、なんじらはいずれに向かっても、神のみ前である。まことに神は、遍在者・全知者であられる。(注15)
クルアーン2.115 (イスラーム)
座るのも立つのも知り、遠くから私の計らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け、私の道にことごとく通じておられる。
詩編139.2 ~ 3(キリスト教)
主よ、まことにあなたは、私達が隠すことと現すことを知りたもう。また地にも天にも、神に対し何も隠されたものはありません。
クルアーン14.38 (イスラーム)
「詩経」にいう、「汝が室に(独居して)いるのを見るに、願わくば、屋漏で恥ずかしくなくあるべきだ」だから君子は、まだ動かない前にも、慎んでおり、まだ言わない前にも誠実である。
中庸33(儒教)
次の三つに留意せよ。そうすれば、あなたは決して罪のわなに引っ掛かることはないだろう。あなたを見つめる目があり、あなたが語る言葉を聞く耳があり、あなたのすべての行動は天の書物に記録されていることを銘記せよ。
ミシュナ、アヴォート2.1 (ユダヤ教)
神、まことにかれのみが、審判の時を知りたまい、かれは雨を降らせたもう。またかれは、胎内にあるものをも知りたもう。だが人間はだれも明日、何をかせぎだすかを知らず、だれもいずこの地で死ぬかを知らぬ。まことに神は、全知者・通暁者であられる。
クルアーン31.34 (イスラーム)
世の果て超えて見はらかす、神の長(ヴァルナ)の目曇りなく、ものみな近し。人知れず、忍ぶとすれど神は知る。立つも歩むも這い行くも、隠るるも逃るるも、王者ヴァルナはこれを知る。ひそかに二人相逢うて、見る人なしと語ろうも、知らずやヴァルナここにあり。大いなる地も果てしなき、大高きみ空を御世(みよ)しろす、王者ヴァルナが国の内。二つの海をさし挾む、神とし見れど僅かなる、水の滴もその住処(すみか)。
天の空の果て超えて、この世の外に行かば行け。ヴァルナの咎め逃れえじ。神の探偵(みつけ)は久方の、天よりここに降り来て、百千(ももち)の目もて地を見張る。王者ヴァルナは天地(あめつち)の、内外(うちと)のことを見守りて、人の瞬く数をさえ、知る神なれば三界に、秘めしことなし、賭博者が、骰子(さい)の勝目を数うるがごとし。恐ろしの罠、なが下す数は七十し、ヴァルナよ、三重(みえ)に解かれつ。偽りを語ろう輩(やから)残りなく、罪の縄目に縛(いまし)めよ、真を語る人は赦して。
百の縄目に縛めて、偽り語る痴者(しれもの)を、ヴァルナよ、赦すことなかれ。箍(たが)切り取りし桶のごと、水気に腹のふくらみて(神罰としての水腫病)悩むはおのが罪のため。ヴァルナの罠、縦なるもまた横なるも、国の内なるも、国の外なるも、神々の罠、人間の罠。
アタルヴァ・ヴェーダ4.16.1 ~ 8(ヒンドゥー教)
なんじは、天にありまた地にあるよろずのものを、神が知りたもうことを考えないか。かれが第四者でなく、三人で秘密の相談をすることはない。またかれを第六者とせぬ、五人の相談はなくそれより少なくともまた多くとも、かれらがどこにいようとも、かれはかれらと一緒にいましたもう。
クルアーン58.7(イスラーム)
どこに行けば、あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます。曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも、あなたはそこにもいまし、御手をもって私を導き、右の御手をもって私をとらえてくださる。
詩編139.7 ~ 10(キリスト教)
どろぼうしようと、水の中に潜るように隠れる者よ、この世のいかなる王も、お前を見ることができないとしても、天の王はすべてのことを見ている。
ヨルバ族の格言(アフリカ伝統宗教)
― み言選集 ―
神様は、人を見るとき、心を見通し、その次に過去を見て、現在を土台に未来を見ます。
(100-93、1978.10.8)
神様は、時間を超越した方なので、24時間を超えた位置にいらっしゃるのです。
(171-27、1987.12.5)
神様の心は、神様のみ言の中にだけあるのではなく、神様がつくられた万物の中にもあるのです。天と地のどこに行っても、そこに神様の心があります。ですから、天はいらっしゃらない所がない、すなわち遍在すると言ったのです。
(8-182、1959.12.13)
真の愛は、センターにあります。個人を中心とするセンターにあり、家庭を中心とするセンターにあり、氏族を中心とするセンターにあり、民族を中心とするセンターにあり、国家を中心とするセンターにあり、世界を中心とするセンターにあり、天宙を中心とするセンターにあるのです。真の愛は、すべてのセンターにあります。このセンターにすべてまとまるのです。そのような意味で、神様もこのような愛の場に遍在されるのです。
(195-244、1989.12.1)
神様の愛は、宇宙を抱いて余りあるのです。中心的な基盤をもっています。最も大きな基盤を包容する愛の中心者が神様です。もし、神様が動く場合には、小さいものもすべて従って動かなければなりません。一つの大きな円の中にすべて入っているでしょう? それで、神様が全世界、全宇宙をカバーすると言っても、理論的な言葉になるのです。
(205-33 ~ 34、1990.7.7)
神様がいなくなれば、宇宙がすべて空になるのです。空と同じです。しかし、神様がいれば、宇宙はいっぱいに満ちるのです。なぜですか。愛があるからです。ですから、私が一人でいても神様がいることを知れば、宇宙はいっぱいに満ちるのです。どこにでもいらっしゃるのです。どこにでもいらっしゃることを感じるようになるのです。しかし、私が神様を分からなくなれば、すべてのものが空になるのです。
(91-323、1977.3.1)
それでは、皆さんは神様の遍在性をどのように感じるのでしょうか。空気を神様の息のように感じなさい、台風が吹きつければ、それを神様の鼻息のように感じなさいというのです。流れる水があれば、それを神様がこの世界のために受難の道を克服してこられながら流された汗のように感じなさいというのです。太陽を見つめれば、その太陽がこの宇宙全体の生命の要因を象徴していることを理解して、神様の愛を太陽から学びなさいというのです。
神様の心情を体恤するにおいて、一つの教本であり、教材として展開させたもの、愛する息子、娘を喜ばせるための教材としてつくっておいたものが自然です。木の葉を見て自分の息子、娘のように思い、独りでつぶやける人がいれば、彼は聖人に近いのです。(59-102 ~ 103、1972.7.9)
この宇宙全体に生きている人の主人がいると考えてみてください。死なずに生きて永遠に見つめる父母がいるなら、霊界でも肉界でも、いつでも見つめ得る父母がいることを一度考えてみることを願います。生きている地上生活はもちろん、永遠の世界まですべて見つめ得る父母がいると考えてみなさいというのです。
(118-38、1982.5.2)
7) 内在性と心への臨在
神様は心の中にいるため、私達が悟りさえすれば、極めて近い所にいることが分かる。聖書でエリヤの啓示に現れた神様の臨在は、ものものしい地震や暴風を操って現れるのではなく、「静かで小さな声」で現れた。私達は、信仰と謙遜を通して私達の中にいらっしゃる神様の臨在を感知できる。大部分の人たちが神様の現存に対して耳が遠く、目が見えない状態にいるとしても、神様は私達全員の近くの周辺にとどまっている。
アブラハムの伝統宗教において、神様の顕現は純粋な霊魂の自己具現に帰結すると言うことはできないが、東洋の伝統宗教では、一貫して神性の内在性概念を教える。スーフィー(イスラーム神秘主義者)たちは、クルアーン(コーラン)に出てくる灯火の比喩を、体を照らす光として心の中に現れた神様の臨在として解釈する。ヒンドゥー教において神性の内在は存在論的である。すなわち究極的実在は自我、つまりアートマンである。仏教において神性の内在は、如来または仏性と呼ばれる真の内在的本質を心によって実現することである。
しかし、このような内在性の概念は、決して利己心によって遮られ、眩惑された自我である個別の霊魂と神様を同一のものとして扱わない(第7章4「覚醒」参考)。内在的な神様の完全な具現は、一つの可能性であり理想である。それは、神様が人間に与えた存在目的だからである。文鮮明先生の教えのように、神様は、宇宙を完成し、神様の心情を体恤するようそれぞれの人間を創造した。
― 宗教経典 ―
まことにわれは人間をつくった、それでその魂がかれにささやくことを知っている。われは人間の頚動脈よりもかれに近いのである。
クルアーン50.16 (イスラーム)
実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。
ルカによる福音書17.21(キリスト教)
神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。
更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、私達は自分のことを申し述べねばなりません。
ヘブライ人への手紙4.12 ~ 13(キリスト教)
この地のあらゆる民に命を付与しようという心、それが正に私を大きくする心である。
荒木田守武世中百首(神道)
彼はどうして神を求めて森に行くのか。神はすべての人の心の中で生きており、また彼と共にいることを知れ。香りが花の中にとどまるように、事物が鏡の中に映るように、神が万有にいるがゆえに、その中に神を求めよ。
アーディ・グラント、ダーナスリー、M 9、p684(シーク教)
高く、あがめられて、永遠にいまし、その名を聖と唱えられる方がこう言われる。私は、高く、聖なる所に住み、打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり、へりくだる霊の人に命を得させ、打ち砕かれた心の人に命を得させる。
イザヤ書57.15(キリスト教)
黄金作りの極上の匣(はこ)の内に、汚れなき、渾一なる梵あり。このきらめく、光の中の光こそ、自我を知る人の証得する処なれ。そこには日も照らず、月も、星も、電光さえも輝かず。まして火をや。万物はこの自ら輝くものに映じて輝き、その光耀によりて燦然たり。
ムンダカ・ウパニシャッド22.9 ~ 10(ヒンドゥー教)
神は、天と地の光りであられる。かれの光りをたとえれば、ともし火を置いた、壁龕(へきがん)のようなものである。ともし火はガラスの中にある。ガラスは輝く星のよう、祝福されたオリーブの木からさす、東の産でもなく、西の産でもないこの油は、火がほとんどそれに触れぬのに、光りを放つ。光りの上に光りをそえる。神はおぼしめしの者を、かれのみ光りに導きたもう。神は人びとのために、比ゆをあげたもう。まことに神はよろずのことを知りたもう。
クルアーン24.35(イスラーム)
彼は聴覚、視覚、触覚、味覚、嗅覚、及び思考器官に依存して、諸々の対象を享受する。〔身体を〕離れ、またそこに止まり、諸要素を伴って、〔対象を〕享受している彼を、迷える者は認識しない。しかし知識の眼をそなえた人は認識する。努力するヨーギンは、自己のうちに宿る彼を見る。
バガヴァッド・ギーター15.9 ~ 11(ヒンドゥー教)
私が父の内におり、あなたがたが私の内におり、私もあなたがたの内にいることが、あなたがたにわかる。
ヨハネによる福音書14.20 (キリスト教)
馬祖は、大梅が、「仏とは、どんなものですか」と尋ねたので、「ほかならぬこの心が仏だ」と答えた。
無門関30(仏教)
法・化・報の三身仏は、自己の本性のうちにあるのだ。世の中の人には、自分の心を見失っているがために、自己の本性のうちにあるものに気づかないで、外に向かって三身の仏を探し、自己の中に過去・現在・未来の三世の仏がいることに気がつかないものが多くいる。諸君、私の話をよく聞くがよい。諸君に、自分の中に、自己そのものとしての三世仏があることに気づかせよう。この三身仏は、諸君の本来の真性から出てくるもので、外からは得られないのだ。(注16)
六祖壇経6(仏教)
主は、「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と言われた。見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。(注47)
列王記上19.11 ~ 12(キリスト教)
― み言選集 ―
神様は、どこにいらっしゃるのでしょうか。霊界にいるのではなく、私達の心、その中心にいらっしゃるのです。
(145-310、1986.6.1)
神様は、観念的な神様ではなく、自分の生活圏内に生きていらっしゃり、皮膚で感じる神様です。私は、神様の脈拍を聞いて暮らしています。神様と呼吸を共にし、神様の体温を感じて暮らしています。私は、神様の心情を知り、その心情の中に堕落によって人類を失ってしまった悲しみがいっぱいに満ちていることを知って、川のような涙を流した人です。
(234-233、1992.8.22)
御飯を食べるのも忘れ、眠るのも忘れて、お父様に対する慕わしさをもって「お父様!」と言えば、お父様が見えなくても、お父様の手を握れます。そのようなことがあります。夢のような事実が起きるのです。「お父様!」と言えば、お父様の懐に抱かれます。このような体恤的感情をどのように体得するかということは、信仰生活において何よりも貴いことを知らなければなりません。
愛の心情をもったならば、どこに行っても、「私がこれをしなければならない」と思うとき、「天よ、共にいてください」と言う前に、既に神様は共にいらっしゃるのです。そのようなことを感じるようになるとき、「有り難い神様」と思うようになるのです。
(58-299、1972.6.25)
神様はどのように愛するのかと言うとき、答えに困るでしょう。神様は無形の神様なので、どこでも通ることができることを知らなければなりません。若奥様の目の中にも入っていき、どこにでも行けないところがないのです。すべてに通じるのです。
それでは、神様はどこに住んでいるのでしょうか。神様のお住みになっている家は、私達の心の真ん中です。男性の心には神様の男性的心情がとどまり、女性の心には女性的心情が入って暮らすというのです。
(128-325、1983.10.2)
今日、多くのキリスト教信者たちは、神様は唯一無二の方であり、絶対的な方であり、創造主であり、神性自体として至高の場にいらっしゃるので、人間、すなわち被造物と創造主は関係を結ぶことができないと思っています。被造物は俗なるものであり、創造主は絶対的で神聖な方だと思っています。
しかし、愛の概念を中心として見るとき、いくら至高、至善であられる神様でも、いくら低俗な被造物だとしても、愛の関係を結ぶためには、人格的な内容が同じでなければなりません。心情的内容が同じでなければなりません。すなわち、人格を備えた人と性稟が同じでなければならないというのです。
(138-247、1986.1.24)
私達がいるこの宇宙は、神秘に包まれています。その大きさが210 億光年にもなる大宇宙です。……最高の宝物である神様をどこにお迎えするのかを自問するとき、「私達の心しかない」という結論が自動的に出てくるはずです。私達の心より安全で、安らかにお迎えできる所はないというのです。神様の対象の位置に立ち、球形運動をしながら永続できるのが心なので、人間は永生できるというのです。
(447-155 ~ 156、2004.5.1)
巨大な神様ですが、人間は小宇宙なので、私が神様の中に入っていくことによって、その巨大な神様が私の中に入ってきたことを感じるのです。そのような感覚を受けてこそ、神様の中に私がいて、私の中に神様がいらっしゃると言うことができます。それで、イエス様もそのような話をされたのです。無限に大きい神様ですが、人間がその中に入っていってこそ、神様も作用されます。
(31-210、1970.5.31)
摂理的な恵沢によって、生きていらっしゃる神様が、私達の至近距離にいらっしゃいます。これからは、人類がかつて経験したことのない霊的な経験、すなわち超越の世界とたくさんの交流をするようになるでしょう。
頻繁に起きる霊的役事によって、人類は直接、間接に大きな影響を受けるようになるのです。特に、神様と善霊の役事による感化を経験した人間は、神様を中心として霊性の啓発とともに、決定的な人格変化を起こすようになるでしょう。このように、天道にふさわしい人格に変わった人が、正に神様が願われた真の人です。
(404-323 ~ 324、2003.2.6)
お父様は、遠い相対の世界にいらっしゃるのではありませんでした。私達の心の中にいらっしゃり、私達の体を囲んでいらっしゃいました。私達の周囲に空気があっても、あるのかないのか分からないように、お父様は私達の生涯全体を覆っていらっしゃいますが、気づくことができなかったことを私達は悟らなければなりません。私達を包み込んでいるその力を受けるとき、無限の力がそこに動じるのであり、その力を吸収するとき、永遠の力によって私達に新しい衝撃と新しい刺激を下さることを知っております。
(27-41 ~ 42、1969.11.23)
8) 不変と永遠
不変と永遠、すべての宗教で絶対者はこの属性をもつものとして描写される。これとは異なり、世界に属するすべての生物と事物、そして現象は、はかなく無常であり、相対的である。このような観点から、それらは絶対者と相互関係をもつことができない。人間は二つの類型の性向をもつ。私達は不変の要素を価値のあるものとみなしているが、同時に私達を信頼できないようにさせる可変的要素ももっている。したがって、堅固で変わらない信仰の所有者になることは、絶対者と関係を確立するにおいて核心的な要因である。
この点に関する文鮮明先生の教えは、上にて言及した不変、絶対、永遠の属性をもつ真の愛に焦点を置く。文鮮明先生は、神様にも被造物と真の愛の関係を結ぶためのこのような属性が存在すると説明する。さらに、神様が一貫性なく気まぐれな人間と関係を結ぶとき、人間に対する神様の愛の渇望は、常にその不変性を試験される。
― 宗教経典 ―
かれは最初の方で、また最後の方で、外に現われる方でありまた内在なされる方である。かれは凡ての事物を熟知なされる。
クルアーン57.3 (イスラーム)
私はアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。
ヨハネの黙示録22.13 (キリスト教)
イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。
ヘブライ人への手紙13.8 (キリスト教)
仏性は勇猛にして毀壊すべきこと難し。
大般涅槃経220(仏教)
ブラフマンは、この偉大な、不生の、不老不死で、畏怖がなく、死ぬことのないアートマンである。
ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド4.4.25(ヒンドゥー教)
モーセは神に尋ねた。「私は、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、私をここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」神はモーセに、「私はある。私はあるという者だ」と言われ、……。(注18)
出エジプト記3.13 ~ 14(キリスト教)
スブーテイよ、実に、もしも誰かが「如来は去り、あるいは来り、あるいは住し、あるいは坐り、あるいは床に臥す」と、このように説くとすると、その人は、スブーテイよ、如来と言われるものは、どこへも去らないし、どこからも来ないからである。それだからこそ、如来であり、尊敬さるべき人であり、正しく目ざめた人であると言われるのだ。(注19)
金剛般若経29(仏教)
主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。
ペテロの手紙二3.8 (キリスト教)
梵天の昼は一千世期(ユガ)で終わり、夜は一千世期で終る。それを知る人々は、昼夜を知る人々である。昼が来る時、非顕現のもの(根本原質)から、すべての顕現(個物)が生ずる。夜が来る時、それらはまさにその非顕現と呼ばれるものの中に帰滅する。この万物の群は繰り返し生成し、夜が来ると否応なしに帰滅する。昼が来ると再び生ずる。しかし、その非顕現のものよりも高い、別の永遠なる非顕現の存在がある。万物が滅びる時も、それは滅亡しない。その非顕現の存在は不滅と言われる。最高の帰趨と言われる。人々はそれに達すれば、回帰することはない。それは私の最高の住処(様態)である。
バガヴァッド・ギーター8.17 ~ 21(ヒンドゥー教)
地にあるよろずのものは消滅する。だが永遠にかわらぬものは、尊厳と栄誉に満ちたなんじの主の慈顔である。
クルアーン55.26~27(イスラーム)
以前にも以後にも創造主がいたがゆえに、永遠のその方に対して何が実有たり得ようか。また、その方以外に何が永遠なのか。
アーディ・グラント、ジャプジー1、M1、p.1(シーク教)
肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが、私達の神の言葉はとこしえに立つ。
イザヤ書40.6-8(キリスト教)
いとも麗しき国王の車も朽ちてしまう。身体もまた老いに近つく。しかし善い立派な人々の徳は老いることがない。善い立派な人々は互いのことわりを説き聞かせる。
法句経151 (仏教)
それでは、どのように説いて聞かせるのであろうか。説いて聞かせないようにすればよいのだ。それだからこそ、「説いて聞かせる」と言われるのだ。現象界というものは、星や、眼の翳(かげ)、燈し火や、まぼろしや、露や、水泡や、夢や、電光や、雲のよう、そのようなものと、見るがよい。
金剛般若経32(仏教)
僧侶たちよ。まだ生まれぬもの、まだならぬもの、まだ作られぬもの、まだ合成されぬものがある。僧侶だちよ。もし、これがまだ生まれぬものでなく、まだならぬものでなく、まだつくられぬものでなく、まだ合成されぬものでなかったならば、ここには、生まれること、なること、つくられること、合成されることからの逃避はないことになろう。しかし、まだうまれぬもの、まだならぬもの、まだつくられぬもの、まだごうせいされぬものがあるゆえに、うまれること、なること、つくられること、合成されることからの逃避がある。(注22)
感興偈80(仏教)
― み言選集 ―
神様は永遠であられます。過去にも、現在にも、未来にも、いつでも永遠であられます。ところが、神様がいくら永遠であられるとしても、その位置から下りたり、世の中と天地に損害を与えるなら、そのような神様は、私達人間が願う永遠の存在にはなれません。過去、現在、未来を通して永遠であられる神様は、私達人類、あるいは被造世界に必要で、適切で、価値ある内容をいつでも補給してくれる立場で、永遠であられるのです。
ですから、神様は、過去にも必要だったのであり、現在にも必要であり、未来にも必要だということを知らなければなりません。もしそのような内容が私達になければ、永遠の神様は私達と何の関係もないのです。また、私達が神様を仰ぎ、神様に属することを願い、神様と共に関係を結ぼうということ自体が矛盾にならざるを得ないのです。
(22-317、1969.5.11)
永遠を時間で捕捉することはできません。永遠の中に時間があるのです。
(41-288、1971.2.17)
神様は絶対的であり、永遠の生命の中心であり、神様の理想はもっと永遠なものであり、その理想の中心が正に真の愛の理想です。その愛の相対が私です。
(216-115、1991.3.9)
愛するようになるとき、永遠、唯一、不変の責任をもつのです。神様がそうでなければ、私達が神様をどうして信じますか。神様は、私達のように変わりません。それでは、神様が人と関係を結ぶためのものが何ですか。真の愛しかありません。真の愛の主体がそうなのに、真の愛の相対が毎日のように変われば、どうして信じて向き合えるでしょうか。
(124-97、1983.1.30)
永生というものは、本質的な愛の属性です。神様も宇宙を創造されるとき、自ら絶対信仰、絶対愛、絶対服従の基準を立ててなされたのです。愛は永遠無窮であるように、もっと大きく投入できる心をもって生きる方が神様なので、神様を絶対・唯一・不変・永遠の主人として侍ることができない存在、相対的理念をもった存在はないということを知らなければなりません。
(330-262、2000.8.18)
神様は、どれほど年を取っているでしょうか。何億万年の間待ち、しかたなく年を取りました。そのおじいさんが、男性であれば、ひげがつま先まで伸びるでしょう。大きければ、世界の誰よりも大きいでしょう。何がそのようにするのかというのです。愛しかありません。
(111-77、1981.1.25)
人間の一日一日の生活が瞬間的な生命の価値を備えているとすれば、永遠と関係を結ぶことができないというのです。ですから、永遠無窮であられる神様の愛と関係を結ぶ生活をしなければなりません。そのようにするときに、永遠であられる神権が人間と共にいらっしゃるのです。
(2-13. 1957.1.6)
神様は一度決めれば、億千万年が過ぎても変わらずに行わざるを得ない方です。しかし、皆さんの心を見れば、一日に何度も変わります。朝には「このようしにしなければならない」と決心しても、夜になると「ああ、違う」と思うのです。皆さんが修練を受けるとき、み言を聞くとき、そのようにしなければならない」と決心しますが、帰って何日もせずにすべて流れてしまいます。
皆さんが今、何かの決心をしたとしても、その決心を何年持ち続ける自信がありますか。神様は一度決心すれば、それを何千年でも、永遠に大切に保てる方です。行きながらあちこちふらふらするのではありません。皆さんが、今は「私はみ旨のために行く」と思っていますが、今年の末、あるいは3年後、あるいは10 年、20 年、一生、そのように行けますか。その基準が下降しやすいのです。また、「私がよければ行くが、悪ければ行けない」、このようになるのです。
真というものは、私が死んでも生きても真なのです。それは死の上にいることができるものであり、変わらない不変の立場に立っています。ですから、そのような私、死の上にあるそれを所有できる私になるためには、死を克服しなければならず、変わらない真を模索しなければなりません。言い換えれば、変わるものと変わらないものは明確に違うのです。その二つがぶつかれば、変わるものは壊れていきますが、変わらないものはそっくりそのまま残ります。死と生がぶつかるのです。そのとき、死を克服し、生き残らなければなりません。そのような過程を越えてこそ、神様と関係を結ぶというのは、定められた道理です。
(66-43 ~ 44、1973.3.18)
神様は、御自身が唯一の神様であり、絶対的な神様だということを標準としてきたので、「あなたは本当にそうですか。十度テストしてみましょう」と神様が世界的、歴史的なテストを受けているというのです。
また、サタンもテストします。変わらない神様をサタンが変わらせると大騒ぎします。それでも神様はびくともしません。変わりません。そこで動揺すれば、変わらない神様ではありません。ですから泰然としています。
したがって、絶対的な神様がなぜサタンに讒訴されるのかを考えてみれば、「変わらない神様なので、変わるサタンに対して変わらない位置をもつためにそのようにしているのだなあ。それが神様の位置なのだなあ」と思わざるを得ません。
そのように見るとき、サタンの人格は変わる人格であり、唯一でない性格であり、絶対的でない性格をもっています。神様とはすべて反対です。それでは、人間を中心として見てみるとき、変わる心と変わらない心があれば、どちらがより神様と近いでしょうか。変わらない心が神様とより近いのです。
絶対的だ、相対的だということを見てみるとき、皆さんは絶対的なものを好みます。それは神様の性格がそうだからです。似てこそ神様の相対になるので、そうだというのです。また、神様は誰のために永遠だというのですか。永遠という概念は、誰を中心として語る言葉ですか。唯一という概念は、誰を中心として語る言葉であり、不変という言葉は、誰を中心として語る言葉でしょうか。
神様御自身を中心として語る言葉ですか、あるいは相対を中心として語る言葉ですか。これを知らなければなりません。自分を中心として語ったのでしょうか、相対的な概念をもってそのような性格を立てたのでしょうか。
その概念は、自分を中心に始まるものではなく、相対を置いて設定したものだというのが理論的です。このように見るとき、世の中の人たちがいくら変わろうとしても、神様はじっとしていなければならないという結論が出てくるのです。
それで、悪なる世界の人たちが悪口を言っても黙っていて、足でけ飛ばしても黙っていなければならないことを知らなければなりません。今、私達人間が真の愛の道を訪ねていこうとすれば、どのようにしなければならないでしょうか。私達人間も、絶対、唯一、不変、永遠のものを願わなければなりません。
自分独りでは、絶対的なものは必要ないのです。自分独りでは、唯一なものや、変わらないものや、永遠のものはすべて必要ないというのです。それは相対という概念を置いて始まったという事実を知らなければなりません。
神様もそうだったのであり、人間もそうなので、神様と人間の間に主体と対象の関係が設定されて、愛することができるのです。その愛は永遠の愛だ、このようになるのです。それが真の愛だ、このようになるのです。
(123-330 ~ 332、1983.1.9)
お父様! 人間がもっているあらゆる主義や主張と、人間がもっている権利は、すべてなくなってしまうという事実を知っております。ゆえに、私達の心と体が永遠に存在できる根本の立場に入っていき、新たに爆発して来る力と復活の目を、私達の心に備えることができるようにしてくださり、自分を中心とする生活を捨て、天宙を中心とする生活に戻してくださることを、懇切にお願い申し上げます。
(4-65、1958.3.9)
9) 最初の原因
あらゆる存在の最初の原因は、太初に世界を創造されただけでなく、創世以来、世界を自らの力で作動するように堅持する。神様は、世界を維持し、作動させ、たえずあらゆる実体を存在するようにする。さらに、究極的原因者である神様は、万物の存在目的と自然的本性を規定する。これと関連し、文鮮明先生は、人間の原因者である神様が自分と似た人間を創造しだ人格的神だと教える。
いかなるものも、神様が規定した存在目的を離れて存在することはできず、あらゆるものは、神様の見えない手によってその目的に向かって動く。これはまた、神様が歴史の原因であることを意味する。文鮮明先生は、歴史が神様の目的、すなわち一定の法則によって主導される神様の摂理によって進行し、明らかな目的を指向すると教える。世界がその摂理の目的を達成するとき、原因者である神様と結果物である人類は一つになるだろう。
1. すべての存在の原因者
― 宗教経典 ―
また、万物の種子、それは私である。アルジュナよ。動不動のもので、私なしで存在するようなものはない。いかなるものでも権威があり、栄光あり、精力あるもの、それを私の威光(光輝)の一部から生じたと理解せよ。
バガヴァッド・ギーター10.39、41(ヒンドゥー教)
私達にとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、私達はこの神へ帰って行くのです。
コリントの信徒への手紙- 8.6(キリスト教)
愛情深い賢者は、その中に宇宙が一つの家庭をもつようになるあの神秘な存在を望む。全体はその中で一つになり、そこから出てくる。主は被造物たちの基本的要素である。
白ヤジュル・ヴェーダ32.8 (ヒンドゥー教)
かれこそは原始の創造をなされ、またそれを繰り返したもう方であられる。かれは、寛容者・博愛者、栄光に満ちた、至高の玉座の主であられ、かれのお望みのことを、遂行したもう。
クルアーン85.13 ~ 16(イスラーム)
絶えず彼が贈り物を分けてくれるのだから、ついにこれを受けた者は、これ以上何を求め、何を受けるというのか。森羅万象が彼から糧を受けるのだから、彼は至って厳かな主宰者。彼の命により全宇宙が運行する。ナナク曰く、彼は永遠の至福であり、永遠に満ち足りている。
アーディ・グラント・ジャプジー3、M1、p2(シーク教)
神が手を収めれば、世の中は終わるだろう。
アカン族の格言(アフリカ伝統宗教)
― み言選集 ―
身体の目、耳、鼻、口などはみな、生まれる前にこの世にあるすべてのことを知って生まれたのである。しかし、人間自身がすべてを知り得ようか。それらすべてを知った存在は、人間以上の全知なる存在であらざるを得ない。その存在が神様である。
(御旨の道、指導者)
神様はこの宇宙の原因的な存在です。このようなすべての作用の原因的な存在であり、このような力を注ぎ込む原因的な存在であり、方向を提示する原因的な存在であり、目的を提示する原因的な存在です。
このような存在がいるということは、不可避の結論なのです。私達はその方を人格的な神様であると言うのです。人格的な神様です。それはなぜかというと、必ず動機を中心として方向を定め、目的を提示するからです。それが一つの確実な立場なので、人格的な神様であると言うのです。ですから原因を通して方向を経て、目的の世界に出て行くのです。
(89-75、1976.7.11)
神様が人間を造ったのですが、神様は第一原因的存在です。その神様が人間をどのように造ったのでしょうか。神様に似せて造ったのです。造るときに神様の形状をかたどり、その形状どおりに造りました。それはどういうことかというと、私が神様に似ていると同時に、神様も同様だということです。私が父に似ていると同時に、父は誰に似たのでしょうか。私に似たというのです。それで答えになります。ですから、神様を私達が模索して見てみるとき、神様はどのような方でしょうか。「私のような方だ」と言えば、(頭に)すっと入ってくるのです。
(127-233、1983.5.15)
この地のすべてのものが存在するためには、存在できる原因がなければなりません。今日、私達が生きている社会、私達が過ごしているこの国、私達が見つめるこの世界も結果の位置にいるのです。このようなすべての環境の因縁が備えられるためには、その環境が備えられ得る動機がなければならないことを、私達は否定できません。
また、一つの社会形成、一つの国家形成、一つの世界形成について見てみるとき、それを受け継いでくるのは、もちろん私達人間です。しかし、人間が形成され得る根本原因には、人間自体がなることはできません。人間は、どこまでも結果的存在の立場を避けられません。それゆえに、私達人間が形成され得る動機と内容がなければならず、原因が必ずなければなりません。個々の人間には無限の希望があり、無限の欲望があり、無限の理想があります。結果である私達人間がこのような存在になるためには、まずそのようになれる原因がなければなりません。その原因が正に私達が言う神様だというのです。
神様は人格的な神なので、人間の全体的な動機であり原因です。その原因である神様がそのような内容を備えていらっしゃるので、結果である人間もそのような内容を備えざるを得ないのです。したがって、原因である神様と結果的な人間が、互いに切っても切れない一つの帰結点が、人間世界を中心として現れなければなりません。これが人間を尋ね求めてきた神様の希望なのです。
(28-282 ~ 283、1970.2.11)
2. 歴史の背後の原因者
― 宗教経典 ―
思い起こせ、初めからのことを。私は神、ほかにはいない。私は神であり、私のような者はいない。私は初めから既に、先のことを告げ、まだ成らないことを、既に昔から約束しておいた。私の計画は必ず成り、私は望むことをすべて実行する。東から猛禽を呼び出し、遠い国から私の計画に従う者を呼ぶ。私は語ったことを必ず実現させ、形づくったことを必ず完成させる。
イザヤ書46、9 ~ 11(キリスト教)
その日われは、書いた書き物を巻くように諸天を巻き上げる。われが最初創造し始めたように、ふたたび繰り返す。これはわれの定めた約束である。われは必ずそれを完遂する。われはモーゼに訓戒を与えた後、詩編の中に、まことにこの大地は、わしの正しいしもべが継ぐであろう」と、しるした。
クルアーン21.104 ~ 105 (イスラーム)
私が証するが、あなたがあらゆる被造物の主になり、見えるもの、見えないもののすべての存在の教育者であられます。私が証するが、あなたの能力が宇宙全体を網羅し、地の群れが決してあなたを失望させることはできず、万民と国の主権が、あなたがあなたの目的を成し遂げるにおいて妨害になり得ません。私は、あなたが全世界の刷新と全世界の民の統一、そしてそこに暮らすあらゆる人の救い以外に他の欲望をもっていないことを認めます。
バハオラ落穂集115 (バハイ教)
― み言選集 ―
世界のあらゆる宗教は、宇宙の根本原因を創造主、あるいは神様という方を第一原因として認めるところから出発します。そのような神様がいらっしゃるなら、その神様は善であられ、永遠、不変であられ、唯一であられ、絶対的な方でなければなりません。神様がこの世の中をつくられたのなら、そこには必ず創造目的が先行したでしょう。そして、その創造目的もやはり永遠、不変、唯一、絶対的でなければなりません。
(100-241、1978.10.19)
人間自体を論じるとき、人間はどこまでも結果的な存在であって、根源的な存在ではありません。私は第一原因的存在だと主張する人は、一人もいません。原因は分かりませんが、結果的な存在として生まれました。人とは何かという問題を考えるとき、結果的に生まれた人には、人になれるようになった動機があることは間違いないので、第一原因的存在として提示するその誰かがいなければなりません。
ですから、神様に対する問題について、私に対するはっきりした答え、神様に対するはっきりした答えを下すことができなけれなりません。そのような基盤の上においてのみ、私個人の人生観が設定され、家庭がどのように生きていき、社会がどのように生きていき、国家がどのように生きていき、世界がどのようになるのか、これからこの世界の終末がどのようになるのかの方向を設定できるのです。それは私だけの方向ではありません。
(141-234、1986.2.26)
流れていく歴史の中のすべてのことが、あなたの摂理と関係なくなされることはございません。
(140-62、1986.2.1)
歴史の方向は悪に向かっていくように思われますが、そうではありません。人間が自分の心を中心として体を抑制し、新しい覚悟と新しい決心で進むべき方向を選ぶように、歴史も、歴史自体で指向するのではありません。
ある一時と時期、世紀を、歴史の背後にいらっしゃる神様が干渉し、支配する過程を経てきているという事実を知らなければなりません。
(4-191、1958.4.20)
神様は永遠の存在でいらっしゃるので、過去、現在、未来を通して摂理してこられます。ですから、神様の歴史的な心情の曲折は時代を通じ、時代的な曲折は未来を通して連結されるのです。
(16-253、1966.6.19)
10) 神様の善
あらゆる宗教の経典は、神様の善を賛美する。その中の大部分は人格的な用語で絶対者の善を描写する。神様は、慈悲深く、愛が深く、美しく、恩恵に満ち、同情心に厚く、信実である。ところで、絶対的善の基準は(人間の)日常的な善の基準を超越する。偏頗的でなく、普遍的で、すべてのものを抱く神様の善は(人間の)善悪に関係なく、あらゆる人々に及ぶ。それゆえ、神様の善は、あらゆる所を等しく照らす太陽と、どこにでも降る雨の有り難さに比喩される。創造の多様性と豊富さは、神様の善に対するまた一つの証である。善の真ん中にとどまることを願いながら、善の神様は自然や人間の心の中、すべてのものに善を広げられる。
1. 人間に対する神様の善
― 宗教経典 ―
主は恵みに富み、憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに満ちておられます。主はすべてのものに恵みを与え、造られたすべてのものを憐れんでくださいます。
詩編145.8 ~ 9(キリスト教)
神は親切であり、親切な者を愛する。
神は清く、清い者を愛する。
神は寛大であり、寛大な者を愛する。
ハディース914.2 (イスラーム)
このヴィシュヌは、この大地を跨(また)ぎ越えたり、〔人間の〕領土となさんがため、人間を満足せしめつつ。彼の人民は、微力の者〔すら〕、安固たり。よき出生をもたらす彼は、広き住所を作れり。
リグ・ヴェーダ7.100.4 (ヒンドゥー教)
かれは、私をつくられた方で、私を導きたまい、私に食料を支給し、また飲料を授けたもう方、また病のとき、かれは、私をいやしたもう。私を死なせ、それからふたたび生かしたもう方、審判の日には、私の罪過を許したもうよう、こい願う方であられる。
クルアーン26.78 ~ 82(イスラーム)
常に彼は創造万物を大切に思われ、あらゆるものの繁栄を図る。主よ! あなたの恩寵は実に尊く、あなたの寛大さは果てしない。
アーディ・グラント、キールタン・ソーヒラーM.1、P.12 (シーク教)
われは、かれに道を示した、かれが感謝するか忘恩であるか(はかれの意志いかんによる)。
クルアーン76.3(イスラーム)
自然の道にえこひいきはない。それはつねに善人の側につく。
道徳経79(道教)
「道」はあらゆるものの底に隠されている。立派な人はそれを尊重し、価値なき人はそれによって護られるものである。
道徳経62(道教)
あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせでくださるからである。
マタイによる福音書5.45 (キリスト教)
私は肉体的存在ではない。
宇宙的慈悲が私の聖なる体である。
私の力は、肉体にあるのではなく公正さにある。
私には知恵が与えるもの以上の
いかなる宗教的透視力もない。
私には平穏な幸福感の成就以上の
奇跡はない。
私には寛容の実践以外に
そのいかなる法則もない。
住吉神社の神託(神道)
神もまた、それが善い者である以上は、けっして多くの人たちが語っているようにあらゆるものの原因なのではなく、人間にとってわずかな事柄の原因ではあるが、多くの事柄については責任がない(原因ではない)ということになる。
プラトン国家2(ヘレニズム)
― み言選集 ―
神様は、喜怒哀楽の父母を身代わりする方になれます。私が悲しむとき、慰労の場を用意してくれ、私が困難なとき、私を保護してくれる主人の位置に立っている方です。神様は愛を中心として見るとき、歴史以来、お一人しかいない絶対的な父母なのです。真の愛を中心として、絶対的な父母の位置に立っている方が神様です。
(203-228、1990.6.26)
神様がいくら永遠であられるとしても、その位置から下りたり、世の中と天地に損害を与えるなら、そのような神様は、私達人間が願う永遠の存在になれません。過去、現在、未来を通して永遠であられる神様は、私達人類、あるいは被造世界に必要で、適切で、価値ある内容をいつでも補給してくれる立場で永遠であられるのです。ですから、神様は、過去にも必要だったのであり、現在にも必要であり、未来にも必要だということを知らなければなりません。もしそのような内容が私達になければ、永遠の神様は私達と何の関係もないのです。
(22-317、1969.5.11)
神様の創造目的は喜びです。喜びを享受しようと人間と世の中を造られました。ところが、その喜びはひとりで感じることはできません。喜びを享受しようとすれば、必ず対象、あるいは相対が必要です。主体と対象が互いに相対基準を成して授け受けするとき、初めて喜びを感じられるのです。そして、最高の喜びは、愛を授け受けするときに感じることができます。それで神様は、私達人間を対象として造られ、その対象と共に無限の愛を授け受けされながら、永遠に喜びを享受しようとされたのです。それがすなわち創造目的だったのです。
(100-241、1978.10.19)
私達個人はもちろん、地上に暮らしている数多くの人間たちの中に、善であることを願わない人はいないことを、私達はよく知っています。今まで歴史の方向も、善を指向してきたのであり、教育者たちや信仰者たちも、善の基準を立てるために努力し、闘ってきたことをよく知っています。ですから、生まれるのも善のために生まれなければならず、生きるのも善のために生きなければならず、死ぬのも善のために死ななければならないのが人生の目的です。人生の目的だけでなく、人間生活をつづってきた歴史の目的だということを、私達は否定できません。
(24-13、1969.6.22)
堕落した私達人間は、どのように再び善であられる神様のところに行くことができるのでしょうか。まず良心を通して、本体の善に似ていかなければなりません。次には、神様のみ言に従って行動し、神様の本体の善と、み言の価値を現さなければなりません。そのようになるとき、神様は被造万物をつくられた善の理想である喜びを取り戻されるのであり、善の目的を指向してきた人間たちも、神様の善の価値を感じる善の実体になるのです。
(2-321、1957.7.21)
天の国の理想的人間は、どのような人間でしょうか。その門からどろぼうが入っていっても、誰が入っていっても、好きなように通ることができる人でなければなりません。神様は、そのようにしていらっしゃいます。
世界のありとあらゆる殺人強盗でも、その門を出たり入ったりするのをほうっておくのです。どろぼうが暮らしていても、神様の所有、神様の版図圏内にいるということです。それは自分の所有圏内にいるのです。物品をもっていっても、それは自分の所有圏内で移動しているものと考えるのです。これを見るとき、天国に壁があり、鍵をかけるでしょうか。そうではありません。
(224-328 ~ 329、1991.12.29)
2. 被造物に顕示された神様の善
― 宗教経典 ―
かれは層また層に、七天をつくりたまえる方である。仁慈者の創造には、いささかの不調和もないことを見るであろう。それで改めて観察せよ。なんじは、何か欠陥を見るか。それでいま一度、目をあげて見よ、なんじの視力は、ぼんやり疲れはてて、己れに返るであろう
クルアーン67.3 ~ 4(イスラーム)
神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。
創世記1.31 (キリスト教)
世界は庭園、主はこれを育てる庭師、すべてを大切にし、そこつがない。
アーディ・グラント・マージュ、アシュタパディー
M.3、P.118 (シーク教)
稔りゆたか黍も z(いね)も
高ぐ積みあげし米倉
萬十萬さらに千萬
酒に作り甘酒に作り
み祖に烝めまつる
お祭りの限りをつくし
神のみ恵みあまねし
詩経、279 豊年(儒教)
かれこそは、なんじらのために天から雨を降らす方で、それによってなんじらは飲み、木は成長し、それによって牧畜する。かれはそれでなんじらのために、穀類・オリーブ・ナッメヤシ・ブドウその他各種の果物を生産したもう。まことにこの中には、思慮深い者への種々のしるしがある。
かれは夜と昼、日と月をなんじらのために奉仕させたもう。群星もかれの命令に服従している。まことにこの中には、理解ある者への種々のしるしがあり、またかれがなんじらのために、地上に繁殖されるよろずの物を、多様の色彩と性質になしたもう。まことにその中には、感謝して訓戒を受け入れる者への一つのしるしがある。
かれこそは、海洋を人間に使役させたもう方で、それによってなんじらは鮮魚を食べ、また服飾に用いられるものをそれからとり、またかれの恵みを求めるために、なんじらはその中に波を切って進む船を見る、おそらくなんじらは感謝するであろう。……なんじらは、たとえ神の恩恵を数えても、到底数え尽くすことはできない。まことに神は、寛容者・慈善者であられる。
クルアーン16.10 ~ 18(イスラーム)
大いなる「道」はすべて普及する。そして、あちらへ、こちらへと行く。万物はそこにとどまり、成長する。そして、それから閉め出されるものは何もない。仕事を完成しても功績を求めない。万物を養っても支配することはない。意図をもたないから小さなものと呼ばれ、万物がそれに向かっていても、それらを所有しないから、大いなるものと呼ばれる。だから、賢人は偉大になろうとしない。ここから、その偉大さが達成されるのである。
道徳経34(道教)
無始以来、存在してきた悟りと涅槃の清浄な統一の根本原因は、統合する慈悲の原理、清浄さ、調和、相似、律動、永遠さ、そして平和の統一の原理である。それ自身の本性、光輝の中にあるこの原理を吸収することで、その統一の精神はあらゆる多様な条件の中で発見され、進展し、また実現される。
首楞厳経(仏教)
それでは、生成する事物すべてと、この宇宙万有との構築者がいったいどのような原因によって、これを構築したのかということを話しましょう。構築者はすぐれた善きものでした。ところが、およそ善きものには、何事についても、どんな場合にも、物惜しみする嫉妬心は少しも起こらないものです。そこで、このような嫉妬心とは無縁でしたから、構築者は、すべてのものができるだけ、構築者自身によく似たものになることを望んだのでした。
まさにこれこそ、生成界と宇宙との最も決定的な始めだとすることを、賢者たちから受け入れるなら、それが一番正当な受け入れ方でしょう。すなわち、神は、すべてが善きものであることを、そして、できるだけ、劣悪なものは一つもないことを望み、こうして、可視的なもののすべてを受け取ったのですが、それはじっとしてはいないで、調子外れに無秩序に動いていましたから、それを、その無秩序な状態から秩序へと導きました。
それは、秩序のほうが無秩序よりも、あらゆる点てより善いと考えたからです。ところで、最も善きものには、最も立派なこと以外に他のことをするのが許されないのは、かつてもいまも変わりのないことです。だから神は、推理の結果、次のようなことを発見しました。すなわち、本性上可視的であるような事物のうち、どんなものも、それぞれ全体として考えられる場合には、理性なきもののほうが理性あるものよりも、すぐれて立派なものとなることはないだろう。ところがまた、理性は魂を離れては、何ものにも宿ることはできないということです。
そこでこの推理の故に神は、理性を魂のうちに魂を身体のうちに結びつけて、この万有の造作をまとめ上げましたが、それは、本性上最も立派で最も善き作品を完成したことになるようにということだったのです。さて、このようにして、かのありそうな言論に従えば、こう言わなくてはなりません。この宇宙は、神の先々への配慮によって、真実、魂を備え理性を備えた生きものとして生まれたのである、と。
プラトン・ティマイオス(ヘレニズム)
― み言選集 ―
神様が誰かといえば、真の愛を中心として根だというのです。根は、トランク(注:幹)を通して芽と通じるのです。そして、枝は東西南北に伸びます。東西南北に伸びれば伸びるほど、芽も育ち、幹も育ち、根も育つのです。それで、神様は、私達人間世界に、真の愛を中心とした縦的なお父様だということを発見できます。縦的な真の愛を中心とした父が創造主であられるのです。
(203-352、1990.6.28)
すべての存在は、小さなものは大きなもののために、大きなものはもっと大きなもののために生きるようになっています。このように見るとき、弱肉強食という言葉は、チャールズ・ダーウィンが、「種の起源」で語ったそのような話ではありません。本来、そのようになっているのです。宇宙を造った主人が人のために造ったので、人は何を食べても罪ではないのです。
(217-204、1991.6.1)
神様は、知恵の王であられ、全能のお方なので、人類世界の真の愛と真の幸福と真の平和と真の理想を、主体と対象関係の中で、主体を中心とした方向にその起源を決定するか、そうでなければ客体を中心とした立場にその起源を定めるか、どちらかにしなければなりません。
神様が、その永遠の理想世界を望まれながら、それを決定しなければならないというのです。もし神様を中心として主体だけのために生きるものになれば、また、そのような伝統的な基準を人間がつくりあげたとしても、そして、すべてのものが自分を中心として奉仕しなければならないとすれば、そこでは大変なことになるのです。
そのような所では、一つであるとか、統一という問題、あるいは融合や発展という原則を充足させられません。ですから、主体を中心に客体が侍るのではなく、神様御自身において、客体を中心にして神様自体が存在するという立場をとらざるを得ないという事実を、私達は理解するようになるのです。
そのようになれば、すべてのものが一つになります。すべてのものが発展の原則に従うようになるので、全知全能であられる神様は、この平和と幸福、理想と愛の本源の基準を、「ために存在する」というところに定めざるを得なかったというのです。
(72-14、1974.5.7)
11) 神聖な愛と慈悲
神様の属性の中で、愛は最も魅力的で、感服せざるを得ない属性である。大部分の人たちは、神様の愛と慰労と恩寵を感じる神秘な経験を契機として神様を信じる。さらには、心の真ん中に疑心をもっていても、神様の愛は心を動かし、信仰が生じるようにする。創造者の愛によって、この被造世界は生命を維持し、保護される慈悲に満ちた世界になる。善の創造は、実に善の愛の表現である。
愛は神様の本質である。いや、愛は神様の本質それ以上である。文鮮明先生の教えのように、愛は神様の創造の動機それ自体である。それこそが神様の「創造理由」である。愛はまた、神様が数多くの苦難の道を通して救援摂理歴史を追求してきた理由でもある。愛は、はるか前に道を失い、聖霊の慈悲深い呼びかけに耳がふさがった私達、無知な人間たちに対して忍耐し、赦す神様を教えてくれる。耳が遠く、目の見えない私達であるにもかかわらず、神様は、私達を懐に抱いて前に進むように導く摂理を決してやめない。
1. 愛:神様の本質
― 宗教経典 ―
神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。
ヨハネの手紙一4.16 (キリスト教)
われの慈悲は、よろずのものを包容する。
クルアーン7.156(イスラーム)
信愛により彼は真に私を知る。私がいかに広大であるか、私が何者であるかを。
バガヴァッド・ギーター18.55 (ヒンドゥー教)
大悲は菩薩の生処である。
華厳経、入法界品(仏教)
主よ! あなたは懇請の有無と無関係な救世者であり、理由なく慈悲を施す方であり、祈りがないときも喜んで聞いてくださる方であり、関係がないときも温かい友であられます。
ヴィータラーガ・ストゥティ13.1 (ジャイナ教)
露(あらわ)にして、しかも幽(かく)れ、玄洞(心臓)の内に逍遙するものと称(よ)ばれる所の偉大なる天地の基底、その内にぞ、ありとあらゆる蠢(うごめ)くもの、息づくもの、瞬くものは収められてあるなれ。汝等がこの有体にして無体なる善美なるもの、智慧才覚を超えたる、生類中の最勝のものとして知れるもの、光輝あるもの、微なるよりも微なるもの、諸々の世界(果報)と世界を得し輩とがその根基とせるもの、これぞこの不滅なるものなり、梵なり、生気なり、はた語なり、意なり。これこそこの真実なるもの、不死なるもの、射抜くぺきものなれ。友よ、これを射抜けよ。
ムンダカ・ウパニシャッド2.2.1 ~ 2(ヒンドゥー教)
カーマは最初に生まれたり。神々は彼に達せざりき、父祖たちも、また人間も。これらより汝は常に偉大にして勝れたり。いかほど広く天地が〔拡がるとも〕、いかほど水が流るるとも、いかほど火が〔燃ゆるとも〕、これらより汝は常に偉大にして勝れたり。吉祥にして幸運に富む汝の形態、カーマよ、それにより汝の選ぶところの実現する〔形態〕、それにより汝はわれらに入れ。禍々(まがまが)しき思想は他の所に送りやれ。
アタルヴァ・ヴェーダ9.2.19 ~ 25(ヒンドゥー教)
善男子、慈は即ち大梵、大梵は即ち慈、慈は即ち如来なり。善男子、慈とは能く一切衆生の為に父母と作る。父母は即ち慈、慈は即ち如来なり。善男子、慈とは乃ち是不可思議諸仏の境界なり。不可思議諸仏の境界は即ち是慈なり。當に知るべし、慈とは即ち是如来なり。善男子、慈とは即ち是衆生の仏性なり。是の如きの仏性は久しく煩悩に覆蔽せらる。故に衆生をして覩見することを得ざらしむ。仏性は即ち慈、慈は即ち如来なり。(注24)大般涅槃経259 (仏教)
法(達磨)の雄牛は慈悲の所産であり、心の満足が創造を抱きかかえる。(注25)これを知る者は誰もが悟りを得るがゆえに雄牛の背に載せられた荷の重さは実に驚くべきものだ。
アーディ・グラント、ジャプジー16 M.1、p.3 (シーク教)
おお人の子よ! わが太古よりの存在と、わが本質の不変の永遠性に包まれて、われ汝への愛を知った。さればこそ、われ汝を創った。汝の上にわが面影を刻み、汝にわが美を表わした。
バハオラ隠されたる言葉3(バハイ教)
― み言選集 ―
愛の主人は神様です。愛を宇宙化させて、愛を永遠化させるために神様がいらっしゃるのです。
(298-304、1999.1.17)
神様はどのような方でしょうか。情緒的な問題を中心として見るとき、神様は愛の母体です。愛の母体なのです。ここから父母の愛がわき出てきたのであり、子女の愛がわき出てきたのであり、兄弟の愛がわき出てきたのであり、親族の愛、民族の愛がわき出てきました。愛の分岐というものは、根幹から伸びていく枝や葉のように、波が波打って出ていくのと同じように、遠い所に行けば行くほどだんだんと感度の差が出てくるのです。
(50-267、1971.11.08)
神様は、愛の神様です。パウロは「他のどんな被造物も、私達の主キリスト・イエスによって示された神の愛から、私達を引き離すことはできないのです」と言いました。キリストも、神様の愛がなければ何でもありません。それで私達は、神様の愛を何よりも好むのです。神様の愛は生命の源泉であり、幸福の源泉であり、平和の源泉です。霊的体験をしてみれば、これが分かります。
(24-325、1969.9.14)
心情というものはいったい何でしょうか。これは神様の完全な愛の根本を意味するのです。あらゆる創造はそこからわき出てきました。あらゆる理想もそこからわき出てきたのです。あらゆるものの完全な根本を意味するのです。あらゆる完全完成はそこからわき出てくるというのです。それを離れて完全と完成はあり得ません。
(82-292、1976.2.1)
神様は心情の主体であられます。ですから、神様も無限に喜びの心情をもっていらっしゃり、無限に悲しみの心情ももっていらっしゃいます。神様だからといって、喜んでうれしい感情ばかりもっていらっしゃるのではありません。
悲しければ、人間たちが到達できないほど深く、広い悲しみの心情をもっていらっしゃる方です。
(11-89、1961.2.12)
神様はなぜ生まれたのかという時、それは愛のために生まれたというのです。愛の神様になるというのです。そして神様の愛になるのです。それゆえに、神様は愛のために生まれたという論理を知らなければなりません。神様は、愛のために生まれたのです。愛のために生まれて生きる神様は、愛のために生きるのです。神様のために生きるのではありません。愛のために生きるのです。すべての万物も愛のために生まれたので、愛の世界には自分のために生きるという概念はないのです。
(303-287、1999.9.9)
神様は、知らないものがありません。知識の大王であられ、能力の大王であられ、全知全能であられるというのです。また、遍在されます。いらっしゃらない所がありません。この方が必要なものとは何ですか。ダイヤモンドですか。それはいつでもつくれます。黄金ですか。宝石ですか。神様が必要なものは愛です。神様が一人でいて「ああ、愛があってとてもいい」と言いますか。神様が必要なものとは何ですか。神様も人格的な神様ならば、口があるでしょう。鼻もあり、目もあり、耳もあり、手足もあり、心もあり、心情もあるでしょう。人格的な神様ならばです。
(142-31、1986.3.3)
愛の本体であられる神様は、愛のために人間を創造されました。愛は独りでは成立しないものです。したがって、神様が絶対に必要とした唯一のものは、愛を施せる対象、すなわち神様が愛し得る対象なのです。必ず相対がいてこそ愛せます。愛と心情の本体であられる神様は、愛が動機となって宇宙を創造されたのであり、特にこの期間に、創世記第1章27 節のみ言どおり、神様に似た実体対象として人間を創造されたのです。したがって、万民において神様は永遠な無形の内的父母であり、完成したアダムとエバは永遠な有形の外的父母になるのです。
(135-11、1985.8.20)
神様が必要としたものが愛だとすれば、神様が愛するにおいて、神様に似たものと愛するでしょうか、神様と似ていない動物と愛するでしょうか。似たものと愛するのです。ですから、神様はどうなのですか。神様が喜ぶことができ、愛を分かち合うことのできる相対的なものを必要とするのです。ですから、人間がそのような相対であれば、人間を中心として見るとき、神様は人格的な神様でなければならないという結論が出てきます。そうして、そのすべての要素が100 パーセント和合しなければなりません。心と体の素性において、すべてが、和合できる神様でなければなりません。ですから、知情意をもった神様でなければならないのです。
(162-274、1987.4.17)
愛は神様から始まるのではありません。相対から見いだされるのです。相対がいなければ探しだすことはできません。ですから、神様が最高の貴いものを成就させるためには、相対が必要なのです。神様も相対がいなければならないのです。それで相対を造られたのです。神様御自身も相対から絶対的な愛を成し遂げることができるように相対を訪ねていきます。
ですから、神様も愛のためにいるというのです。神様も人のためにいて、人は神様のためにいるのです。それで真の愛というものは、ために生きるところから始まります。本来、人間はどこから生まれたのでしょうか。神様の愛から始まったのです。愛ゆえに生まれました。愛が起源なのです。
私達人間が受け継いだ生命が貴いのではありません。神様の愛の理念を通して生命が出てきたので、生命の前に愛が先です。愛に根ざして人間の生命が流れてきたというのです。それで愛で生まれ、愛で育ち、愛の相対に出会わなければなりません。神様が1代ならば、2代でも、それと同じように立たなければなりません。神様が自分の息子、娘を愛するように、その愛を体恤できる立場に立ってこそ、神様の前に完全な愛の相対になれるのです。
(143-310、1986.3.21)
2. 神聖な慈悲
― 宗教経典 ―
神は最もよくかれを守りたもう、かれこそは、慈悲者中の最大の慈悲者であられる。
クルアーン12.64 (イスラーム)
神は、そのしもべに対して、仁愛であられ、み心にかなう者を給養したもう。
クルアーン42.19 (イスラーム)
私達が誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を否むことができないからである。
テモテヘの手紙二2.13 (キリスト教)
自分が聞いた侮辱を、神よりよく忍耐する者がいない。
ハディース(イスラーム)
神は尻尾のない雄牛のためにはえを追い払ってくださる。
ヨルバ族の格言(アフリカ伝統宗教)
神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。
コリントの信徒への手紙一103(キリスト教)
神は何人にも、その能力以上のものを負わせたまわぬ。その行なったことで己れを益し、その行なったことで己れをそこなう。「主よ、私達がもし忘れたり、あやまちをおかすようなことがあっても、とがめないで下さい。主よ、私達以前の者に負わされたような重荷を、私達に負わさせないで下さい。主よ、私達の力で、かなわぬものを、になわせないで下さい。私達の罪障を消滅なされ、私達を許し、私達に慈悲をたれたまえ。」
クルアーン2.286 (イスラーム)
― み言選集 ―
神様はどのような方でしょうか。絶対的にために生きようとされる方です。
(175-158、1988.4.16)
神様と私達について見てみるとき、私達がいくら苦労したとしても、ただの一生、80何年、100年未満です。ですから、3万6000日です。皆さんが100歳まで生きても、3万6000日しか生きられません。3万6000日は一瞬です。それを耐えることができませんか。神様は何万年、何億年継続してきたのです。いくら人間世界がそうでも、神様は神様なので、泰然自若としていなければなりません。
その中には千万の事情がひしめきあっていますが、泰然としていなければならないのです。もし、神様が口を開いて、その事情が通じることのできる話をすれば、千年でも万年でも痛哭できる事情があるのです。それは神様自身のために痛哭するのでしょうか。人類のために涙を流さざるを得ない神様だということを知らなければなりません。
(124-59 ~ 60 1983.1.23)
神様はどのような方でしょうか。「お前たちが私を愛しなさい!お前たちが私のために犠牲になりなさい!」、このような神様ならば、どうなるでしょうか。それは、神様ではありません。神様が伝統を立てるためには、御自身が先に赤ん坊のおしめを取り替えてあげ、父母の下の世話をし、先に犠牲奉仕して、温柔謙遜な教育テキスト(教材)のセンターにならなければなりません。
(116-90 ~ 91、1981.12.20)
神様は、すべての被造世界を自分がつくったのなら、つくったその歴史を愛するのです。どのようにつくり、どのように生まれ、どのようにしたということを愛するというのです。そのような原則によって立てた愛を中心として偉大な愛を成したので、人間が堕落したとしても、その愛を忘れられないのではないかというのです。そのような基準を中心としていたのに、悲惨になったものを見るとき、「ええい、この者たち!あなたたちがこれでよいのか」と言うのではなく、かえってもっとかわいそうに思うのです。ですから偉大なのです。
(115-320 ~ 321、1981.11.29)
3. 人類を愛する神様の心情
― 宗教経典 ―
まだ幼かったイスラエルを私は愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。私が彼らを呼び出したのに、彼らは私から去って行き、バアルに犠牲をささげ偶像に香をたいた。エフライムの腕を支えて、歩くことを教えたのは、私だ。しかし、私が彼らをいやしたことを、彼らは知らなかった。私は人間の綱、愛のきずなで彼らを導き、彼らの顎から軛を取り去り、身をかがめて食べさせた。
ホセア書11.1 ~ 4(キリスト教)
生死の険しい道に入り、苦しみは連続して断えることがない。深く五欲に執着すること、ヤク(牛)が尾を巻きこんで大事にするようである。貪愛によって自分を覆い、盲目となってなにも見えず、偉大な力のある仏を求めず、苦を断ち切る教えを求めない。深くもろもろの邪見に落ち入って、苦によって苦を捨てようとする。このような生ける者たちであるから、私はかれらに大悲心を起こした。
法華経2(仏教)
― み言選集 ―
皆さんは、自分の子供一人を教育することも大変でしょう? その子供は、自分の血肉を受け継いだ息子、娘です。母親が涙を流せば、心が通じて共に涙することができるのが息子、娘です。父親が涙を流して悲しめば、共に悲しむ心が自然に生じてくるのが息子、娘であるにもかかわらず、彼らを指導し、教育しようとすれば、非常に難しいのではありませんか。
それを見るとき、今日、私達人間は、神様の息子、娘ではないというのです。神様がどれほど泣かれでも、見て見ないふりをします。神様がどれほど悲しまれても、見て見ないふりをするのです。
これは、人間がサタンの血肉を受けて生まれたからです。むしろ、神様が悲しまれるのを見て、褒めたたえるのです。滅びる者を見れば、喜んで笑うというのです。神様は、このような人間を指導し、彼らに開拓の方向を教えてあげようと、どれほど苦労してこられたでしょうか。
しかし、1から100、1000、万までために生きようとする心、哀れに思われる心が神様になかったとすれば、今まで神様が摂理歴史を抱き抱えてくることがおできになっただろうかというのです。
(42-257、1971.3.21)
神様は、アダムとエバをつかんで復帰摂理を始めざるを得ませんでした。そうしてカインとアベルを選ばれ、ノアを選ばれ、また、そのほかの大勢の家庭を選び立てられて、復帰摂理をしてこられたのです。
このような摂理歴史を導いてこられた神様の心情は、とても言い表すことのできない切ない心情だったのです。しかし、そのような心情を抑制しながら、きょう、この時間まで耐え抜いてこられました。それでは、神様が今まで耐え抜いてこられたその切ない心情を感じ、神様にしがみついて涙を流す人が、今日のこの地上に何人くらいいるでしょうか。
この地上にこのような神様の心情を知って涙する人がいれば、その人は、神様が天地万物を創造されるときに喜びがあった反面、人間の堕落による神様の悲しみが全天地、万物を覆ったという事実を知ることができるでしょう。
この地上に、このときまで耐え抜いてこられた神様の心情を身代わりする人、または神様の悲しみを共有して泣いてあげることができる人がいれば、神様も創造主の体面を忘れ、創造主の栄光も権勢もすべて忘れ、その人と共にとめどなく涙を流されることでしょう。このような事情に染まった神様の心情を、皆さんは知らなければなりません。
(4-239、1958.5.18)
神様は4000年間人間に対してどのような心をもってこられたのでしょうか。自分のために生きようという心をもってこられませんでした。すぐにでも死んで当然な人間であり、苦痛を受けて当然の人間でしたが、神様は人間たちに対して心を尽くす立場で忍耐の4000年の歴史路程を歩んでこられたのであり、思いを尽くして4000年間、サタンを分別する闘いの路程を歩んでこられたことを知らなければなりません。このように不変の愛の心をもって4000年間耐えてこられ、闘ってこられ、愛してこられた神様の性稟を知らなければなりません。
(1-78、1956.5.27)
人間が罪を犯したといって「お前、なぜ罪を犯したのか」とおっしゃるだけの神様ではありません。罪を犯した事情をよく知っていらっしゃる神様です。御自身の事情は考えずに、人間の事情を知ってくださろうとする神様です。悲しい者には悲しい事情をもって訪ねてこられ、苦痛を受けている者には苦痛の事情をもって訪ねてこられ、悔しくやるせない者には悔しくやるせない事情をもって訪ねてこられました。
皆さんは神様とどれだけ事情を通じたことがありますか。神様は私達の生活環境の中にもそのように訪ねてこられました。それだけではなく、心情をもって訪ねてこられました。お前が私を裏切ったとしても、私はお前の父親だという心があったがゆえに、6000年という歳月を訪ねてこられたのです。
(9-232、1960.5.29)
お父様、私達は孤児のようにうろうろと、目的も、方向も分からず、どのような環境にいるのかさえも分からないまま、歴史の流れとともに身もだえしながら、生命の中心をつかむことができないまま、追いに追われながら今日まで来たかわいそうな姿であることを知っております。
反面、このような私達をつかんで、私達が悲しむとき、一緒に悲しまれたお父様がいらっしゃる事実も知らなかったのであり、死亡圏内に捕らわれ、呻吟する私達を取り戻すために、昼夜を意に介されずに苦労してこられた主人公がいらっしゃるという事実も知らなかったのでございます。このような事実を知ることができ、感じることができる喜びの心情は、天と地に通じることよりも貴いということを私達が分かるようにしてください。
(5-337、1959.3.8)
12) 創造者
創造者として神様を扱うこの節は、世界の創造と人間の創造に対する古典的な説明を含む。ある章句はみ言による創造を描写するかと思えば、またほかの章句は、絶対者の中にある意志による創造を語る。
ある経典では、無からの宇宙創造を語るかと思えば、またほかの経典では絶対者から流出した世界、すなわち絶対者の一部の属性が虚空に流出し、形状と質量の性質を備えた世界になったと語る。ある経典では、世界の霊魂の発現として創造の根源を語りながら霊魂がとどまる所として、その次に物質をつくったと語るのに対して、ほかの経典では、愛の創造の動機を語りながら、愛それ自体を現すために非存在から存在を分離したと説明する。(一から流出した二つの相克の相互関係による創造に関しては第2章6.「二重属性」に含まれた章句を参照)。最後に、ヒンドゥー教と道教の経典では、神様の自分の空と犠牲の創造を描写する。
このような創造の説話は、太初にどのように事物が生じたのかを説明するためだけではない。この説話は、創造の始めから適用されていた同一の創造原理によって、今もこの世界を主管している神様の歴史を教えるためのものである。聖書神学者である、ルドルフ・ブルトマンが語ったように、「創造説話の真の目的は、神様がそのときどきに常に役事することを教えようとしているのである」(注27)。言い換えれば、その説話は、私達に現在の自分のひととなりを指し示してくれる。文鮮明先生自身は、神様が創造過程に投入した苦労と愛について強調する。もし私達が神様の子女たちであるのなら、創造過程で精誠と苦労を尽くした神様と同じように、私達もまた被造物として自身の潜在力を完全に実現できるよう、あらゆる精誠をすべて注がなければならない。精神を軸として物質の創造が進行されるように、私達もまた心を中心として生きていくとき、宇宙的秩序に符合できるようになる。神様が愛を動機として、共に喜びを感じることができる対象を求めるために世界を創造したように、私達は、神様の心情に喜びを与えることのできる愛らしい子女になるために努がしなければならない。
1. 太初に
― 宗教経典 ―
初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。神は言われた。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ」神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。
神は言われた。「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ。」そのようになった。神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神はこれを見て、良しとされた。神は言われた。「地は草を芽生えさせよ。種をもつ草と、それぞれの種をもつ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」そのようになった。地は草を芽生えさせ、それぞれの種をもつ草と、それぞれの種をもつ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て、良しとされた。夕べがあり、朝があった。第三の日である。
神は言われた。「天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。天の大空に光る物があって、地を照らせ。」そのようになった。神は二つの大きな光る物と星を造り、大きな方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせられた。神はそれらを天の大空に置いて、地を照らさせ、昼と夜を治めさせ、光と闇を分けさせられた。神はこれを見て、良しとされた。夕べがあり、朝があった。第四の日である。
神は言われた。「生き物が水の中に群がれ。鳥は地の上、天の大空の面を飛べ。」神は水に群がるもの、すなわち大きな怪物、うごめく生き物をそれぞれに、また、翼ある鳥をそれぞれに創造された。神はこれを見て、良しとされた。神はそれらのものを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ。」夕べがあり、朝があった。第五の日である。
神は言われた。「地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。」そのようになった。神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て、良しとされた。神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」神は言われた。「見よ、全地に生える、種をもつ草と種をもつ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。
地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった。神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。天地万物は完成された。第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。
創世記1.1 ~ 2.3(キリスト教)
この方こそは、幽玄界と現象界のよろずのことを、知りたもう方、偉力者・仁慈者であらせられ、かれの創造された一切を、最も善美にしたもう方であり、(注29)またかれは、土から人間の創造を始めたもう。
クルアーン32.4 ~ 7(イスラーム)
「道」はすべてのものを生み出し、「徳」がそれらを養う。ものはそれぞれの性質によって形づくられ、関係ある状態がそれらを満たす。だから、あらゆるものはすべて「道」を敬い、「徳」を尊ぶ。「道」が敬われ、「徳」が自然に尊ばれるのは、誰かが命令するのではなく、自然にそうなるからである。
道徳経51(道教)
喩えば、蜘蛛が糸を吐き、またこれを収むるが如く、あるいは地上に草卉の生い茂るが如く、あるいは生ける人間より毛髪の生ずるが如く、かくの如くにごの不滅なるものより此の世にある万物は生ずるなり。このものこそ真実在なれ。苦行によりて梵ははぐくまれ、これより食生ず。食より気、意、真実、諸世界、及び諸業における不死生ず。かの一切知者、一切明者なるものの苦行は知より成る。これよりこの梵、名色、食は生ず。
ムンダカウパニシャッド1.1.7~9(ヒンドゥー教)
聖なるその方は、天地を創造されるときまで、造ったり壊したりを反復された。そして、創造後に「見て良し」と語られた。(注31)
創世記ラッパー9.2 (ユダヤ教)
― み言選集 ―
本来、神様の創造というものは何でしょうか。今日のキリスト教徒たちは、「神様は全知全能でいらっしゃるので、み言でつくられた」と言うのですが、そのように何か妖術を使うようにしてつくられたと思いますか。そうではありません。あらゆる精誠を尽くして自分の一身をすべて投入する、このようなことをせざるを得なかったのです。ですから愛するというのです。精誠を尽くさず、血と肉を投入していないものを愛することができますか。私の骨の中の骨であり、肉の中の肉であり、私の思想の中の思想であり、私の全体の中の全体を投入したので、希望の対象とすることができるのです。
(78-111、1975.5.6)
神様が被造世界を造るとき、そこには喜びがありました。造ってから、見て「良し」と言われました。喜びがあったということです。喜びとは何ですか。ある目的を成し遂げたときに感じるものです。造られた万物に神様の目的意識が内在していたがゆえに、創造された万物に神様は喜びを感じられたのです。
(9-168、1960.5.8)
動機のない結果はあり得ません。すべてのものは動機を経て、過程を経て、結果が出てくるのです。これが自然科学の現象です。人間がそのようにつくったのではありません。天理原則がそのようになっていて、神様の法度がそのようになっているということです。突然変異というものはありません。秩序的なものです。動機を中心として、原理原則的な過程を経て、実体的な目的体が形成される世界が創造理念世界です。
皆さん、成功する人たちは、心の固い覚悟がなくて成功しますか。心の動機を中心として環境を開拓し、変わらずにそれを押し進めていってこそ、目的地に到達するのです。
私達個人が成功するにおいてもそうであれば、大天地を創造された神様が目的を成し遂げられるときにもそうではないでしょうか。それもやはり同じなのです。
(9-227、1960.5.29)
皆さんが見つめるこの被造世界、あるいはこの自然には、様々な被造物たちが存在しています。存在する万象はいかなる過程を経て創造されたのでしょうか。それは創造主の精誠を込めた心情の過程を通してつくられたのです。いくら微々たる存在でも、神様の愛の心情を通して、神様が願われる愛の心をもった、そのような立場でつくられたことは間違いありません。
(20-248、1968.7.7)
神様の創造のための精誠と投入はこの上ないものでした。自ら絶対信仰、絶対愛、絶対服従の基準を立てておき、絶対投入するものでした。被造物は、すべて神様がこのように精誠を尽くし、投入してつくった愛の対象体です。
(400-81、2002.12.27)
皆さんは、愛の相対が自分より優れていることを願います。神様も、自分の愛の相対が自分よりも優れていることを願われるのです。神様が100パーセントだけをもっていて、その100パーセントを投入すれば、100パーセントのものしか出てきません。だとすれば、1000倍を願うならばどのようにしなければなりませんか。これを忘れてしまわなければなりません。1000回投入して、その1000回を忘れてしまわなければなりません。
それ以上を願い、何万倍を願うのなら、何万倍投入して忘れ、投入して忘れ、何万倍を投入しなければならないという論理が形成されるのです。
(254-266、1994.2.15)
2. 人間の創造
― 宗教経典 ―
主なる神は、土の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。
創世記2.7(キリスト教)
それからわれは、その精滴を一つの血の魂につくり、ついでその魂から肉魂をつくり、ついでその肉魂から骨をつくり、ついで肉でその骨をおおい、それからかれを他の造化につくりあげた。最もすぐれたもう創造者、神を祝福し奉る。
クルアーン23.14 (イスラーム)
自ら宇宙を創造したが、これに引っ張られることなく、あの慈悲深い主は、また神聖な中心(人間)を造られた。空気、水、火を混ぜて肉身の要塞を造られ、(感覚の)九つの場所を一つ一つ定め、十番目の所に、量り知れない自身の居所を定められた。
あの無限な主が、無自性の空のままで力を備えられた。無限な存在であられる主は、自ら束縛されず、創造力を広げて、空から命のない存在を創造され、また風と水を生み出すようにされた。創造を起こしたのちに主は体の要塞の中に君主としてとどまるが、主よ!(体の)火と水の中に主の光彩がある。空でできた主の根底に、見えない創造の力が敷き詰められている。
アーディ・グラント、マール・ガウラーM.1、p.1037(シーク教)
― み言選集 ―
人を造るために先に土で、(体を)造っておき、外的なものを基盤として内的なものを立てていくのです。それが天地創造の道理なのです。現在のものよりも大きいもの、無価値なものから、より価値のあるものを求めていくのです。道埋がそうです。今日、人間創造を考えると、人間を造るときに体を先に造っておいてから霊を造ったのです。
(152-319、1963.8.18)
この体は、神様があらゆる精誠を尽くし、土の塊のようなものを収拾し、永遠な理念の生命体、すなわち霊人体が育つことができるように造られました。芸術品でも、これ以上の芸術品はありません。ただ神様が、「おい、いでよ」として造られたものではありません。最大の精力を注いで造られた体です。そこに霊人体を吹き入れ、一人の人を造られたのです。
(8-80、1959.11.8)
人間が存在する目的はあくまでも神を喜ばせるところにある。では、人間がどのようにすれば神を喜ばすことができ、その創造本然の存在価値を完全に現すことができるのであろうか。人間以外の被造物は自然そのままで神の喜びの対象となるように創造された。しかし人間は創造原理において明らかにされたように、自由意志と、それに基づく行動を通じて、神に喜びを返すべき実体対象として創造されたので、人間は神の目的を知って自ら努力し、その意志のとおり生活しなければ、神の喜びの対象となることはできないのである。それゆえに、人間はどこまでも神の心情を体恤してその目的を知り、その意志に従って生活できるように創造されたのであった。
(原理講論、人類歴史の終末論1.1)
もし目がこの足のつま先にあればどうしますか。口が後ろにあればどうしますか。「どうでもよい」ではありません。秩序が重要なのです。口は自分の位置になければなりません。なぜかというと、目でよく監視するたのです。そして、口がそこにあるとき、手が運動するのに一番よいのです。
一度考えてみることを願います。手が後ろにあればどうしますか。後ろですべて監視しようとすれば、どれほど鋭敏でなければならないか考えてみてください。皆さんがみな好むレバレンド・ムーンでも、しかたなく「いやあ、神様は科学者だなあ。神様は素晴らしい方だよ本当に素晴らしい!」、このように言うのです。
鼻と口の間に、両側に線ができているのですが、私は東洋の人には線があり、西洋の人には線がないと思っていました。なぜここに断崖をつくったのですか。汗が流れて口に入れば大変なことになるからです。そして、口が引っ込んでいるのではなく、突き出ています。そうでなければ大変なことになるところでした。そして、鼻が逆さまになっていればどうなっていたでしょうか。雨の降る日は大変なことになります。
(104-207 ~ 208、1979.5.6)
3. 愛と犠牲がこめられた創造の役事
― 宗教経典 ―
空の精神的現実はいつも存在する。それを受動性の神秘と呼ぶ。その入口は宇宙の根源である。止めることなく、それはいつまでも残る。汲み出しても尽きることはない。
道徳経6(道教)162
そのとき(太初において)無もなかりき、有もなかりき。空界もなかりき、その上の天もなかりき。何ものか発動せし、いずこに、誰の庇護の下に。深くして測るべからざる水は存在せりや。
そのとき、死もなかりき、不死もなかりき。夜と昼との標識(日月・星辰)もなかりき。かの唯一物(中性の根本原理)は、自力により風なく呼吸せり(生存の徴候)。これよりほかに何ものも存在せざりき。太初において、暗黒は暗黒に蔽われたりき。この一切は標識なき水波なりき。空虚に蔽われ発現しつつあるもの、かの唯一物は、熱の力により出生せり(生命の開始)。
最初に意欲はかの唯一物に現ぜり。こは意(思考力)の第1の種子なりき。(注33)詩人ら(霊感ある聖仙たち)は熟慮して心に求め、有の親縁(起源)を無に発見せり。彼ら(詩人たち)の縄尺は横に張られたり。下方はありしや、上方はありしや。射精者(能動的男性力)ありき、能力(受動的女性力)ありき。自存力(本能、女性力)は下に、許容力(男性力)は上に。
リグ・ヴェーダ10.129.2 ~ 5(ヒンドゥー教)
神々がプルシャを祭供(供物)として祭祀を執行したるとき、春はそのアージア(グリタ)なりき、夏は薪、秋は供物〔なりき〕祭祀そのものたる彼を、バルヒス(敷草)の上に、彼らは灌(そそ)ぎ清めたり、太初に生まれいでたるプルシャを。
神々は彼をもって祭祀を行なえり、サーディア神群も聖仙らもまた。この完全に行なわれたる祭祀より、プリシャッド・アージアは集められたり。これより彼ら(神々)は、空飛ぶもの、森に住むもの、また村に飼わるる獣を作りたり。
この完全に行なわれたる祭祀より、詩節(讃歌)と旋律と生じたり。韻律もそれより生じたり。祭詞もそれより生じたり。それ(祭祀)より馬生まれたり。両顎に歯あるすべての獣〔生まれたり〕。牛も実(げ)にそれより生まれたり。それより山羊・羊生まれたり。
月は意(思考器官)より生じたり。眼より太陽生じたり。口よりインドラとアグニ(火神)と、気息より風生じたり。臍(へそ)より空界生じたり。頭より天界は転現せり、両足より地界、耳より方処は。かく彼ら(神々)はもろもろの世界を形成せり。(注34)
リグ・ヴェーダ10.90.6、~ 10、3 ~ 16(ヒンドゥー教)
― み言選集 ―
神様はどのように天地創造をしたのでしょうか。神様は愛の対象者をつくるために120 パーセントを投入しました。天地創造の根源的思想基盤が「ために生きる」ことでした。
ですから、宗教は犠牲、奉仕と従順を強調するのです。それでは、なぜ「ために生きる」ようにしたのでしょうか。「ために生きる」原則を立てたというのは何ですか。
空気で言えば、平準化された空気の中で完全真空状態に入っていきなさいというのです。絶対真空圏内に入っていけば入っていくほど、高気圧は自動的に低気圧のほうに巡回します。神様自身が愛の相対を求めるために投入して、投入してみると、その場にいたとしても、自然に戻ってくるのです。このような論理的根拠を中心として被造物をペア・システムで創造したのですが、前進的に次元の高い上部のレベルを通して人間と神様の理想的足場をつくるために天地創造をしたのです。
(199-276、1990.2.20)
神様がなぜ天地を創造されたのでしょうか。それは、いくら絶対者であっても独りでは喜びを感じることができず、仮にうれしいと思っても喜びの刺激を感じることができないので創造されたのです。絶対者がいくら、「私は絶対者だ。私は愛の主人公だ。生命の主人公だ」と言ったとしても、絶対者独りでは愛の刺激を感じられず、天地が私の体の中にあるという生命の刺激を感じられないのです。
(38-152、1971.1.3)
神様がなぜ天地万物をつくったのでしょうか。皆さんはそれを知らなければなりません。つくったという事実は、このようにつくったという事実は、力を投入したということです。力の投入です。力の投入は、自体の消耗を意味します。いくら全知全能の神様でも、力をすっかり出し切ったので、それが戻ってこなければ、神様は消耗するのです。
皆さんが朝、御飯を食べ、激しい労働をすれば、早くおなかがすくでしょう?早く疲れるでしょう? なぜですか。力を投入すれば、主体なら主体自身においてはマイナスになるからです。世の中の万事において損害を受けて喜ぶことはありません。必ずプラスになるところで喜ぶのです。ですから、神様が天地万物をつくられたのは、泣かれるために、悲しまれるためではありません。喜ぶためにつくられたのです。
したがって、そこには必ずプラスになり得る何かがなければなりません。それでは、プラスをいつ探し出すのでしょうか。いつそれを探し出せるのかということが問題です。
ここには被造物の完成という標準があるのです。「この時まで投入すれば、その時から戻ってくる」というものがあるのです。商いをしてもそうです。「このくらい努力すれば、その時からは利益が出る」というのと同じです。
勉強をするときもそうです。「このくらいの限界点まで一生懸命にして、それさえ完全に通過すれば、その次には私に利益が戻ってくる」、そのように思いながら勉強ではないですか。国家試験でも何でも、何かをしようと希望をもって努力し、その限界点を進んで越えていくようになるとき、必ず戻ってくるのです。これが宇宙の法則です。
神様も同じです。人を造られたのなら、なぜ造られたのかというのです。造られたのは、神様の力を投入したのです。自分自体を消耗しました。しかし、人を中心として投入できるものを完全に投入して完成した日には、どのようになりますか。その次には戻ってくるのです。このような原則を私達は考えなければなりません。ところが、戻ってくるときに、100 を投入したのに、100 よりも小さな価値のものとして戻ってくるのなら、神様は創造の遺業を継続されなかったでしょう。
100 を投入したのなら、戻ってくるときには200、300、このように、より次元の高い価値のものとして戻ってこなければなりません。無限のものとして戻ってこなければなりません。このようになるとき、その創造は投入しながらも喜ぶのです。したがって、戻ってくるときにどのように戻ってくるべきかという問題を中心として見るとき、より次元の高い価値のものとして戻ってこなければなりません。そのような価値のものとして戻ってくるとき、喜ぶことができるものとは何ですか。これが愛だというのです。これを知らなければなりません。
(65-22 ~ 23、1972.11.13)
神様が御自身だけを思ったとするならば、天地創造をしたでしょうか。創造とは力の投入を意味します。芸術家は最高の作品を作ることが願いです。芸術家は傑作品を作るために、ありとあらゆる精誠を投入します。すべてを投入したところからのみ完全な傑作品が出てきます。不完全投入ではありません。完全投入、これ以上できないというときに初めて傑作品が生まれるのです。
(78-111、1975.5.6)
神様がこの宇宙をつくられるとき、神様は絶対信仰をもってつくったのです。それから、2番目は絶対愛です。創造主としてパートナーを絶対愛でつくりました。そして、絶対服従です。絶対服従は何かというと、自分自身までもすべてなくなるのです。完全投入です。投入して忘れてしまい、投入して忘れてしまうことなのです。自分の概念まですべて投入するのです。それで神様はゼロポイントです。信仰もすべて注いだためにゼロポイント、愛もすべて注いだためにゼロポイント、従順もすべて注いだためにゼロポイントです。
(313-233、1999.12.19)
13) 天の父母
絶対者は、子女に対する父母の因縁で人間と関係を結ぶ。ユダヤ教とキリスト教の経典は、神様を天にいらっしゃるお父様と呼び、「法華経」で釈迦は、「世間の父」と呼ぶ。一方、ある伝統宗教では、絶対者が神聖な母と見なされていることもある。さらには、神様に対する家父長的イメージを常に適用してきた宗教においてさえも、母性の側面、すなわち養育者、慈悲の泉、保護者として神様を描写する。デズモンド・ツツ主教は、「神の本質には人間の男性と女性に該当するある性稟がある」(注35)と言う。神様の父性と母性は、あらゆる生命体を創造し、滋養分を供給しながら互いに協同する天と地になぞらえて見ることができる。
神様の父母の役割は創造の行為に限定されない。それはたゆまず持続する情緒的心情の役割と関連している。愛ほど神様の父母の側面をよく表しているものはない。その上、神々が実際にその子孫をもつこともある多神論に対して強く否定する立場をとりながらも、神様を神聖な父として公表しないイスラームでさえも、息子に対する父の愛をほのめかして神様の愛を語る。
文鮮明先生は、神様の父母の性稟について語るとき、愛が核心だと教える。すなわち、「神人の父子関係は宇宙の根本である」。それは、私達が神様の心情を体恤することによって本当の父子関係を確立することができ、当然そのようにならなければならないと教える。神様は、親密な抱擁で自らと出会うことのできる子女を常に求めているのである。
― 宗教経典 ―
天におられる私達の父よ、御名が崇められますように。
マタイによる福音書6.9 (キリスト教)
おまえたちは、皆これわが子であり、私は父である。永いあいだ多くの苦しみに焼かれているおまえたちを、私は皆、救い出して三界から出て行かせたのだ。(注36)
法華経3(仏教)
私にとって大ブラフマンは胎{ヨーニ}である。私はそこに胎子(種子)を置く。それから万物の誕生が実現する。アルジュナよ、一切の母胎において諸々の形態が生まれるが、大ブラフマンがそれらの胎である。私は種子を与える父である。
バガヴァッド・ギーター14.4 (ヒンドゥー教)
あなたは父であり、母であり、友であり、兄弟。いつ、どこでも、私と共に、私をかがんで見つめられるあなた、私に何の恐れがあろうか。
アーディ・グラント、マージュ、M.5、p.103 (シーク教)
世界中の神のたあにハみなわがこ
一れつハみなをやとをもゑよ
にち/\にをやのしやんとゆうものわ
たすけるこもよふばかりをもてる
おふでさき4.79、14.35 (天理教)
私達の父、これはあなたの世界であり、あなたのみ旨です。私達を平和にされ、人間の霊魂を冷徹にしてください。あなたは私達の父、私達の人生の道ですべての悪を除去してください。
ヌエル族の祈り(アフリカ伝統宗教)
天地は万物を創造する父母、人間はその万物の霊長である。
書経5.1.1、泰誓(儒教)
魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。
マタイによる福音書7.10 ~ 11(キリスト教)
ある日、ある男が息子と共に預言者のところにやって来た。預言者はその少年を抱きしめて言った。「彼を限りなく思っているか」、父は「はい」と答えた。すると預言者は言った。「主はあなたよりもっと彼を思っていらっしゃる」。
ブハーリー・ハディース(イスラーム)
愚かで知恵のない民よ、これが主に向かって報いることか。彼は造り主なる父、あなたを造り、堅く立てられた方。遠い昔の日々を思い起こし、代々の年を顧みよ。あなたの父に問えば、告げでくれるだろう。長老に尋ねれば、話してくれるだろう。いと高き神が国々に嗣業の土地を分け、人の子らを割りふられたとき、神の子らの数に従い、国々の境を設けられた。
主に割り当てられたのはその民、ヤコブが主に定められた嗣業。主は荒れ野で彼を見いだし、獣のほえる不毛の地でこれを見つけ、これを囲い、いたわり、御自分のひとみのように守られた。鷲が巣を揺り働かし、雛の上を飛びかけり、羽を広げて捕らえ、翼に乗せて運ぶように、ただ主のみ、その民を導き、外国の神は彼と共にいなかった。
申命記32.6 ~ 12(キリスト教)
天の下のすべての者たちよ! 天を父と、地を母と思い、すべての万物を自分の兄弟姉妹と思いなさい。(注37)
熱田神宮の神託(神道)
母なる地球よ、私達を哀れみ、私達に食べる糧を下さい! 父なる太陽よ、私達の子孫たちに福を下さり、私達の道をまっすぐにしてください!
ブラックエルク族の祈祷(アメリカ先住民の宗教)
吸えども尽きることのないあなたの乳房、それは喜びに満ちて元気づけ、すべての貴重なものを豊かに恵み、宝玉を授け、財物を見出し、幸運を恵む。その乳房を開いてください。われらの身を養うために。
リグ・ヴェーダ1.164.49 (ヒンドゥー教)
母がその子を慰めるように、私はあなたたちを慰める。エルサレムであなたたちは慰めを受ける。
イザヤ書66.13 (キリスト教)
全(女性)世界を擁護するイムパの母よ! あなたは私にはあまりにも驚くべき母です。おお、母! あなたは柱であり、避難所! 自らの住居に帰る前に、皆が賛美し、ぬかずく母! 私の母、あまりにも誇らしいです。厳かに近づき、万物に水を下さる方!
ヨルバ族の祈り(アフリカ伝統宗教)
― み言選集 ―
神様とは、私の友人です! 最も尊い友人だというのです。そして、お兄さん、お父さん、王であり、創造主です。この事実がどれほど誇らしいでしょうか。
(293-161、1998.5.26)
神様御自身がなぜ宇宙をつくったのかというとき、愛を中心として父子の関係を結ぶためです。ですから、宇宙の根本は父子の関係だという結論が出てきます。
(118-290、1982.6.20)
私達を造られた創造主は、どのような方ですか。私達の心と体の主人であることはもちろんであり、私達の理念や私達の感情世界の主体の位置、主人の位置に立てる方であり、さらには、私達の心情の主人であり、主体であられる方です。私達には、このような神様が絶対的に必要です。私達の意識や認定によって観念的に必要なものではなく、絶対的に必要です。そのような主人を失ってしまったことが悲しみです。単に主人だけでなく、さらに一歩進んで神様はどのような格位にいらっしゃるのかというと、人間の父としていらっしゃいます。
天地を造られた神様が、人間を造っておいて主人としてのみいらっしゃるのではなく、父としていらっしゃるのです。私はあなたの父であり、あなたは私の息子、娘だという因縁を明確にし、そのような関係で幸福を謳歌しようとされます。これが父の生活の中心であり、理念の中心であり、神様が人間を創造された目的だったということを私達は知らなければなりません。
(7-48 ~ 49、1959.7.12)
神様をお父様と呼ぶべきです。その父は、皆さんを生んでくれた父です。人間が堕落したので、再び生むという言葉が必要なのであって、その方は本来皆さんを生んだ父です。肉身の父は、皆さんを橋渡しした父です。霊界に行けば、その父は「父」と呼ぶのではなく、「お兄さん」と呼ぶようになっています。母に対しても、「お母さん」とよぶようになっていないのです。
父母の根をもった人たちは、神様を何と呼びますか。すべてが、キリスト教で呼ぶように、神様を「父」と呼びます。一つの家の中で、おじいさんも神様を父」と呼び、お父さんも神様を「父」と呼びます。孫もやはり神様を「父」と呼びます。家の中の家族すべてが、神様を「父」と呼びます。このように、神様はすべての人間の父になられる方です。それゆえ、神様は人間にとって父となられ、人間は互いに兄弟になるのです。
(21-249、1968.11.24)
天は父を象徴し、地は母を象徴します。第一の母は皆さんを生んでくれた母であり、第二の母は地だというのです。地はすべてのものを与えて生命を育ててくれます。それで地は女性の立場です。すべて与えながらも不平を言うことがありません。いくら汚れたものも消化できるのです。それで、すべての存在物を育ててあげることができるのです。したがって、地は第二の母だというのです。その次に聖霊が第三の母です。
(279-171、1996.8.4)
本来、地上でアダムとエバが堕落しなかったならば、誰が先に死にますか。息子、娘が先に死にますか、父母が先に死にますか。父母です。それでは、アダムとエバが天上天国に上がっていけば何になるのでしょうか。彼らが神様の位置に立つようになります。
その後、神様が実体をまとった、アダムとエバの体に変化した霊的な主体的主人公として現れるようになるのです。霊界に行けば、父なる神様だけがいるのではありません。母なる神様がいるようになるということです。父と母がいなくて生命体が出てくることができますか。そのような父母のように、アダムとエバの背後には、神様が分かれて出てきて一つになっているのです。
ですから、母を通してもそうであり、父を通しても天の国に行ける道が生じるという話になるのです。そのようになったならば、あの霊界の天上天国の主人公は誰でしょうか。実体をもって生きていた私の父母が、あの国に行って永遠の天国の王になるのです。
統一教会に入ってくれば何が違うのですか。統一教会に入ってきて皆さんが霊的体験をするときは、必ず先生とお母様が現れて役事するのです。そのようなことを見るでしょう。それが皆さんの生活圏内に切っても切れない主流的な思想として固着してしまうという事実を感じるでしょう。
ですから、神様は誰の体を、誰の形状をまとってこの地上にいる人間たちの前に現れることができるのでしょうか。先生の形状とお母様の形状をまとって全世界の子女たちの前に現れることができることを知らなければなりません。
(90-196 ~ 197、1977.1.1)
人間にとって、失ってしまったその神様は誰かといえば、私達の父母です。人間の一番上の先祖です。その神様は誰ですか。宇宙の永遠から永遠まで、ただお一人しかいらっしゃらない王です。王であられることを知らなければなりません。
それでは、皆さんは何ですか。神様の息子、娘です。宇宙を支配する王の息子、娘です。王子、王女だというのです。それでは、その王子、王女とは、何をするのですか。その王権が統治するところで、愛を中心として教育を受け、そこで生活しようというのです。それがその世界の理想なのです。
(10-526、1979.7.8)
神様の創造目的は何でしょうか。神様が人間と共に生きることができる理想的な家庭を築くことです。人類は、堕落したとしても、心では神様がその家庭の父として、または人類の父として、人間がその家庭の家族として暮らせる日を待ち焦がれています。
神様を永遠の父として侍り、私はその家庭の家族になり、神様と共に永遠に暮らすことができれば、希望そのものであり、理念そのものであり、生活そのものであり、幸福そのものである神様と共に永遠に暮らすことができれば、私達が希望する目的は完結するのです。
(7-264 ~ 265、1959.9.27)
皆さんは神様に侍るだけでなく、神様の対象的位置に立ち、その対象的な価値を立て、「お父様、私が来ました。6000 年間どれほどお待ちになりましたか」と言わなければなりません。「どれほど泣かれましたか。私が来ました。どれほど願われましたか。私が来ました。どれほど慕われましたか。私が来ました」と言う、その一言を神様は聞きたいと思われるのです。神様がそのような息子、娘に出会って、天と地上のすべてのものを主管しなさいと祝福したのち、6000 年の恨を忘れてしまい、「きょうが私の誕生日であり、私の歓喜の一日だ!」(注38)と言いたいと思われるのです。
6000 年の恨を記憶せず、新しい天地で新しい息子、娘と情的な歌を歌って暮らそうという方が神様であり、神様が今日の私達の父であり、その父の息子、娘が正に私達だということをはっきりと知らなければなりません。
(7-171、1959.8.30)
第2章 真理と宇宙の法則
真理と宇宙の法則
1) 永遠の真理
永遠のみ言、真理、または神聖な知恵は、宇宙が創造される以前から存在した。み言は宇宙に満遍なく遍在している。それは宇宙創造の牽引力だったのであり、自然法則として持続的作用をする。それは物理的法則と道徳法則、そして霊的法則として作用する。ある人たちにとって真理は理性的に把握されるが、ほかの人たちにとって真理の本質はみ言として把握される。ところがそれは、ただ完成人間であるキリストの中で完全に成育したみ言なのである。
み言は、宇宙にその目的を付与する。そして、その目的は、神様が宇宙を創造した理由に関する神秘さと関連したものである。全知全能の絶対者として、神様が彼とは異なるある対象を創造することによって、何を得ることができたのだろうか。この節の末尾の章句は、創造の根本主題が愛だったことを示唆していしる。ただ関係を結ぶときにだけ現れる愛は、プラスとマイナス、男性と女性という普遍的な二元性の特徴を備えながら宇宙に遍満している。愛の喜びを享受したいと思われた神様も、愛の関係を結ぶために自分とは別個の対象を創造したのであろう。ここに創造の目的、すなわち創造の青写真の中に隠されていた神様の根本的な意図を読み取ることができる。
1. 太初のみ言
― 宗教経典 ―
太陽と月は、一つの計算に従い運行し、草も木も、仁慈者に叩頭(こうとう)しまつる。かれが天を高く掲げ、はかりを設けたもうたのは、なんじらが、はかりに公正を犯さぬためである。
クルアーン55.5 ~ 7(イスラーム)
かれは真理によって、天と地を創造なされたのである。
クルアーン16.3 (イスラーム)
主の知恵によって地の基は据えられ、主の英知によって天は設けられた。主の知識によって深淵は分かたれ、雲は滴って露を置く。
蔵言3.19 ~ 20(キリスト教)
天則に従ってアーディトヤ神群は安定し、月神ソーマは天に現はれ……
リグ・ヴェーダ10.85.1 (ヒンドゥー教)
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。(注1)この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
ヨハネによる福音書1.l ~ 5(キリスト教)
最初にこれが宇宙の唯一の主だった。至高な主のみ言が彼と共にあったが、このみ言が彼の二番目だ。彼はよくよく考えた。そして語った。「私がこのみ言を導き出し、それによってこの世界をつくり、維持するようになるであろう。
ターンディヤマハー・ブラーフマナ20.14.2 (ヒンドゥー教)
御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。
コロサイの信徒への手紙1.15 ~ 17(キリスト教)
主は、その道の初めに私を造られた。いにしえの御業になお、先立って。……大地の基を定められたとき。御もとにあって、私は巧みな者(注2)となり、日々主を楽しませる者となって、絶えず主の御前で楽を奏し、主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し、人の子らと共に楽しむ。
蔵言8.22 ~ 31(キリスト教)
王がたとえ宮殿を建てたとしても、それも結局は建築士の技術によって建てるのである。建築士が使う概念も、やはり彼の頭から出てくるものではない。彼も木材と門を置こうとすれば、図表を描き、設計図を描かなければならない。したがって、この世の中のすべては神様がトーラーを通して教えながら建てられたものである。
創世記ラッバー1.1(ユダヤ教)
道というものは、それが実在するという確かな真実性をもちながら、何のはたらきをするものでもなく、また形をもたないものである。それは心から心へと伝えられるものではあるが、形あるものとして手に受け取ることはできない。これを体得することはできるが、これを目に見ることはできない。それは、みずからのうちに存在の根拠をもち、みずからのうちに根ざして生じ、天地がまだ存在しない太古から、すでに存在するものである。
それは鬼神や天帝に霊妙な力を与え、天や地を生じさせるものである。天のきわみにある太極の上においても高すぎることはなく、六極の底深くおいても深すぎることはない。天地に先立って生じながら、時間の長久さを覚えることがなく、太古より以前から存在し続けながら、老いることのないものである。
荘子6(道教)
おおよそ天がその事物を生み出せば、それぞれの事物にはその道理が備わっている。
朱熹(儒教)
― み言選集 ―
創造するとき、何によってするのでしょうか。初めに神様のみ旨がありました。神様の考えがありました。神様の考えと共に計画がありました。人間を創造し、これこれこのような人間世界をつくろうという、本来の神様のみ旨と計画があったことが分かります。ですから、いくら人間が堕落したとしても、今日、神様の救援摂理圏の人間たちは、どのような位置に立たなければならないかといえば、今日の神様のみ旨の中で、神様のみ旨と計画圏内に立たなければなりません。そうでなければなりません。
(76-92. 1975.2.1)
神様は知識の大王です。この宇宙世界は、秩序を通じた法によって動きます。それがすべての相対理念を備え、因縁と因縁を通して関係を結び、連関性をもって運行しているのです。膨大な大宇宙がそのようになっていることを見るとき、ここにはあらゆる公式、理論、原則を超越する理想の知識が内包されています。ですから、神様は知識の大王であられると言っても、誰も反対する人がいません。
(127-11、1983.5.1)
世界にいくら偉大な科学者、偉大な学者がいたとしても、その学者の知識というものは、ごく小さなものにすぎないのです。深い所に前進すれば前進するほど、そこには無窮な法を中心とする原理原則的作用が継続しています。
この事実を勘案してみるとき、このすべてのものは、漠然と自然にできたものではありません。ある内容と根源を通して必ず作用していて、宇宙に背馳する方向性ではなく、全体目的に一致し得る方向性を備えているのです。
その事実を考えてみるとき、ここは無限に広大で、無限に微妙な法則世界だというのです。また、このような宇宙をつくられた神様は、知恵の王であられ、知識の王であられると言っても、「違う」と言う人はいません。神様は誰でしょうか。全知全能であられる方です。
(127-11、1983.5.1)
神様は天地万物を造り、人間を造る前には、自分を中心として動いていたのです。それで、神様に似ている私達も自分を中心として考えるときがあるのです。そのような神様が天地万物を創造し始めたということは、対象の世界を展開させるためだというのです。また別の自分の相対存在をつくろうというのです。それで、神様御自身を投入しました。見えない神様から見える神様に展開させようというのです。
(69-81 ~ 82、1973.10.20)
創造をするにおいては、人間を中心に、人間をモデルとして東西南北、四方に広げて橋を架けてつくったのです。
(173-212、1988.2.18)
神は人間を創造する前に、未来において創造される人間の性相と形状とを形象的に展開して、万物世界を創造された。それゆえに、人間は万物世界を総合した実体相となるのである。
(原理講論、創造原理3.2)
神様が創造以前に最初に考えたものが真の父母だということを知らなければなりません。真の父母、真の夫婦、そして真の子女が一つになる所が家庭です。
(339-212、2000.12.26)
2. 絶対的真理
― 宗教経典 ―
正しい裁きは御座の基、慈しみとまことは御前に進みます。
詩編89.15 (キリスト教)
神のことばには変更はない。それこそは、偉大な幸福の成就である。
クルアーン10.64 (イスラーム)
彼はブラフマンのただ中よりブラフマンを抽出せり。彼は低くまた高く、みずからの本性(svadha)に向かいて立ちあがれり。
アタルヴァ・ヴェーダ4.1.3 (ヒンドゥー教)
真実のみ勝つ。虚妄はしからず。真実によりて天神の路も作られたり。この路を辿りて、聖者達はその願望を成就して、真実在なる至上の宝蔵のある処(至上界)へと登りゆくなり。
ムンダカ・ウパニシャッド3.1.6(ヒンドゥー教)
神聖な法によってあらゆる形象が顕現したがゆえに、法は実に説明するすべがない。神聖な法によって万有が生じたために、法によってあるものはかぶせられ、法によって高潔さと卑賤さが分けられ、法によって彼らの幸、不幸を推し量る。その法によってあるものには恩寵が、またあるものには生死輪廻の果報が巡ってくる。すべてがその法によりかかっているがゆえに誰もこれを抜け出して逃げることはできない。ナーナクが言うには、法の権能を知れば、自ら我慢を脱ぐだろう。
アーディ・グラント、ジャプジー2、M.1、P. (シーク教)
だから至誠は(うそ偽りが無く)間断がない。間断が無ければ、内において常に誠を保持する。内に常であれば外に効験がある。外に効験があれば、ますます悠遠で窮まることがない。悠遠であれば、広博深厚である。広博深厚であれば、その発現は高大光明である。博厚(の徳)は物を背負い載せるものである。高明(な功業)は万物を覆うものである。長久(な行い)は、物を成就するものである。(これを至誠の徳という)。(聖人の)博厚(な徳)は、地と並び立ち、(聖人の)高明(な功業)は、天と並び立ち、長久に行って極まりないのである。このような者(聖人)は、示さないで明らかであり(配地)動かないで変じ(配天)、なすことなくして成るのである。
中庸26(儒教)
「本性の法性」とは、なにかといえば、すなわち、マハーマテイよ、かの古い(本性の)法性の道は、金と銀と真珠の産地の如し。マハーマテイよ、それらもろもろの如来が世に出ずるも、もろもろの如来が世に出でざるも、住している。それらもろもろの法の法性と法住性と法決定性とは、古城への道の如し。たとえば、マハーマテイよ、或る人が荒野をさまようて、規則正しい道の随入している古城を発見するときに、かれはその都城へはいるであろう。マハーマテイよ、(かれが)そこにはいって、都城に住して、都城に事用と楽とを受けるとき、(かれが)都城にはいった、かの道と都城の種々相は、実にかの人の生じたものである、と汝は思うか。」マハーマテイはいった。「世尊よ、そうではありません。」世尊はのたもうた。「実にマハーマテイよ、かくの如くに、わたくしともろもろの如来とによって証得された、かの法性と法住性と法決定性と如性と実性と真性とは住する。
桐伽経(りょうがきょう)61(仏教)
― み言選集 ―
そのお方は、永遠であり、不変であり、唯一的な存在であられるので、そのお方が願われる理想もそれと同じであり、愛もそれと同じであり、平和と幸福もそれと同じであることは間違いありません。
(74-161、1974.12.7)
神様は絶対者であられます。ですから、天使長が堕落したとしても、神様は被造物を御自身の立てられた法則、規則に従って主管せざるを得ません。
(52-87、1971.12.22)
真の愛の生活とはどのようなものでしょうか。一言で言えば「ために生きる生活」です。人が自分のために生きてくれることを願う前に、先に人のために生きる生活です。自分のために生きてくれることを忘れてしまう生活です。イエス様も、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と言い、「高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と言われたのです。全知全能であられる創造主の神様だとしても、御自身が立てられた創造原理を無視して、願いのまま無条件に創造と破壊を繰り返すことはできません。(注3)
(433-179 ~ 180、2004.1.27)
宇宙の構成体自体が盲目的になっているのではないのです。この膨大な宇宙が、相対的、主体と対象の関係において対応しながら、授け受けする運動をしながら、永続的なその法度の軌道に従って永続するのです。法度の軌道に沿っていってこそ永続するというのです。法度の軌道に沿っていかなければ、永続するのではなく破壊が展開します。私達も、御飯を食べて消化が正常にされ、栄養素が正常に血管を通じて普及されて、初めて永続が展開するように、正常に普及されなければなりません。良く授け、良く受けてこそ永続が展開するのです。
(182-117、1988.10.16)
新しい宗教のための本体論は、従来のすべての絶対者が各々別個の神様ではなく、同一の一つの神様であることを明かさなければなりません。それと同時に、この神様の属性の一部を把握したのが各宗教の神観であったことと、その神様の全貌を正しく把握して、すべての宗教が神様から立てられた兄弟的宗教であることを明らかにできなければなりません。
それだけではなく、その本体論は、神様の属性とともに創造の動機と創造の目的と法則を明らかにし、その目的と法則が宇宙万物の運動を支配していること、そして人間が守らなければならない規範も、結局この宇宙の法則、すなわち天道と一致することを解明しなければならないのです。
宇宙の日月星辰(日と月と星)の創造の法則、すなわち天道によって縦的秩序の体系を構成しているように、家庭においても、祖父母、父母、子女から或る縦的秩序と、兄弟姉妹から成る横的秩序の体系が立てられ、それと同時に、それに相応する価値観、すなわち規範が成り立っていることを明らかにしなければなりません。さらに、この本体論は、その理論展開が自然科学的知識とも矛盾してはならず、人間の良心の判断によっても納得できなければなりません。
さらには、歴史の中で、「天に逆らう者は滅び、天に従う者は生きる」という命題が正しかったことが証明されなければなりません。このような本体論によって立てられる価値観こそ、真の意味の絶対的価値観であり、このような価値観の確立とその絶対価値(絶対真、絶対善、絶対美)を理解し、実践することによって、人類の精神改革がなされると同時に、世界の混乱は次第に消えていくのです。
(122-304、1982.11.25)
3. 愛の法度
― 宗教経典 ―
愛はこの強者と神聖な循環を支配する偉大な法であり、この物質世界の多様な要素を一つに結ぶ唯一な力であり、天界内において体が動く方向を定めてくれる最高の磁力である。愛は終わりがなく、無限な力、宇宙の中に隠れている神秘とともに現れる。愛は人類の装った体の上にある生命の霊魂であり、この人間の世の中で真の文明の設立者であり、あらゆる高い所を目指す人種と国家に対する永遠の栄光の破片である。
アブドゥル・バハー(バハイ教)
愛、すなわち神性原理は、人間を含む宇宙の父母である。
科学と健康256 (クリスチャン・サイエンス)
一陰一陽これを道と謂(い)う。これを継ぐ者は善なり。これを成す者は性なり。仁者はこれを見てこれを仁と謂い、知者はこれを見てこれを知と謂い、百姓は日に用いて知らず。故に君子の道は鮮(すくな)し。諸を仁に顕し、諸を用に蔵し、万物を鼓して聖人と憂いを同じくせず。盛徳大業至れるかな。富有これを大業と謂い、日新これを盛徳と謂う。生生これを易と謂い、象を成す、これを乾と謂い、法を效(いた)す、これを坤と謂う。数を極め来を知るこれを占と謂い、変に通ずるこれを事と謂い、陰陽測られざるこれを神(しん)と謂う。
易経、周易繋辞上伝1.5 (儒教)
― み言選集 ―
愛の原則を中心として宇宙を造ったので、宇宙はその拍子に合わせて踊るようになっているのであって、個人の拍子では踊らないのです。
(131-124、19841.04.22)
神様は、何が慕わしくて創造したのでしょうか。絶対的なのに神様は、何が慕わしくて創造をしたのかというのです。その方は黄金も必要なく、知識も必要ない全知全能の方なのに、備えていないものがない方なのに、何か必要で人を造ったのかというのです。
創造の根本動機とは何でしょうか。権力でもなく、知識でもなく、所有物でもないというのです。神様に何がないのでしょうか。愛の基盤がなかったのです。神様も、やはり一人でいては愛を成せません。ですから天地創造の動機、アルファ的起源も愛だというのです。
(149-150、1986.11.21)
宇宙創造の内容は愛から始まりました。神様を中心として、それに相応的、対応的、平行的位置において、自分の存在軸を中心として、神様と人間の大きな軸を中心に平行的な存在として回りながら、細胞の立場で愛の相対として存在します。ですから、それは、神様に対して、人間に対して、反対することはできません。このようになるとき、この細胞が反対しますか。反対に感謝するようになります。
ですから、低級なものが最も願うことは何でしょうか。最高級の存在の愛の軸に結びつくことです。それが最高の意志です。ですから、大いなる愛の心情をもって自分を食べてくれることを願うのです。食べるとしても、愛をもって食べるのです。神様の愛の相対となる立場で、苦しんでいる女性の愛を解放する、その主人の細胞活動に刺激を与える要素として移動し、生きていきたいと思うのです。それを誇ります。
ですから、女性の唇や男性の唇の細胞になりたいと思います。動物の中にいる細胞や、低級な動物たちは、すべてが高い主人の細胞圏、中核に含まれて、神様の愛に連結されたいと思うのです。それが希望です。横的な存在は、このように回りながら縦的な愛の主体である神様にまで連結されています。
男性と女性の生殖器は、神様の愛に連結される中心細胞です。自分のためのものではありません。これを中心として与えたいと思うのです。これを中心として相対圏に立ちたいと思うのです。そのように立ちたいと思う所が、女性にとっては女性ではありません。男性にとっては男性ではありません。
アメリカのホモやレズビアンのような、そのようなものではありません。女性は男性、男性は女性だというのです。女性として、女性を中心として生きるようにはなっていません。妻として男性のために生きなければならないのが女性の道です。
なぜですか。生まれるとき、愛という観念が先にありました。愛の観念がなかったとすれば、雄と雌の観念を設定する必要がありません。鉱物の世界もプラスイオンとマイナスイオンがあり、これが雄と雌と同じです。昆虫の世界も雄と雌になっています。同じです。動物世界も雄と雌になっているのは同じです。人も男性と女性でしょう? 雄と雌の観念以前に、それが生まれる前に愛という観念があり、愛を中心としてそれが一つになるようになっているのです。それが雄と雌の観念です。
この愛の観念がなかったならば、雄と雌は出てこないのです。どちらが最初かというと、雄と雌が最初ではありません。愛の感性と観念が最初です。実在と観念、哲学において、観念と実在の問題は、世界的な闘争の土台となり、今ではすべてが崩れてしまいました。
愛の概念から生まれた女性は、女性のために生まれたのではありません。男性は男性のために生まれたのではありません。愛のために生まれたのです。ですから、男性の中心思想と女性の中心思想は、すべて愛です。それ以外にはありません。お金ではありません。知識ではありません。
(218-339、1991.8.22)
被造世界には主体と対象があるので、男性と女性がいて、雄と雌がいます。これが主体と対象の関係です。その次に、花には雄しべと雌しべが主体と対象であり、分子世界ではプラスイオンとマイナスイオンが主体と対象であり、原子世界では陽電子と陰電子が主体と対象です。このように、すべてペア・システムになっています。
ですから、あらゆる生存の価値と歴史を受け継いでいくのは愛以外にはありません。男性と女性も愛を通して繁殖します。ほかの存在にも、それなりの愛があります。昆虫も同様であり、植物も同様であり、鉱物も同様です。すべてペア・システムになっています。
なぜこのようにペア・システムになっているのでしょうか。環境には必ず主体と対象があります。なぜ主体と対象があるのでしょうか。愛のためだというのです。それで問題になるものが何かというと、愛が先か、主体と対象が先かということです。女性と男性のために愛が生じたのでしょうか、愛のために女性と男性が生したのでしょうか。愛のために男性と女性が生じたのです。
(227-268、1992.2.14)
神様の真の愛による投入と注入がなければ、宇宙は生まれませんでした。宇宙の存在法則は、主体が対象のために生きることです。しかし、堕落した世界においては、主体が対象のために生きるのではなく、反対に、自分を中心として利用しようとするので滅びるのです。宗教は、まず相手が喜んだのちに自分か喜ぼうとする天理の原則を教育し、実践しなければならないと考えます。
(271-70、1995.8.21)
2) 道徳法則
神聖な法や不変の自然法則は、本質的に道徳的である。神聖な法は、宇宙的、倫理的、社会的、法律的次元を一つの原理で結ぶ。したがって、宗教は、事実(自然法則)と価値(道徳法則)の現代的区分を超越して立つ。人間の人生を主管する道徳法則は、かえって重力法則と同じように絶対的である。宇宙の秩序と人間の人生の秩序は一貫しているため、私達が人生において正しい秩序を確立することは、繁栄と長寿に至る道である。道徳法則に従えば命を得て天上に至るようになるが、その法を無視すれば衰退し、苦痛と死に至るようになる。
経典の中に示された人間の人生の道徳的規範は、律法またはトーラー(ユダヤ教)、法(上座部仏教)、タオ(道教)、ダルマ(ヒンドゥー教)、道徳的秩序(儒教)という名で様々に呼ばれる。しかし、これらの道徳的規範は、単に人間の本性に内在し、心情の中に刻まれた自然法則、すなわち宗教や社会的状況と関連がないように思われる自然法則的な表現にすぎない。実際には、文鮮明先生の教えと儒教の経典で確認できるように、道徳法則は、家庭の中で特徴的に最もよく現れている。調和した人間関係を確立することが根本的な原理であり、このような人間関係は利他的な実践行為と人のために生きる人生を通して実現される。
1. 法則に従う人生
― 宗教経典 ―
主は我々にこれらの掟をすべて行うように命じ、我々の神、主を畏れるようにし、今日あるように、常に幸いに生きるようにしてくださった。
申命記6.24 (キリスト教)
栄える人を識別することは易く、破滅を識別することも易い。理法を愛する人は栄え、理法を嫌う人は敗れる。
スッタニパーダ92(仏教)
神はこよなき美しい教示を、互いに似ている、種々の立場で繰り返し経典として啓示したもうた。主を恐れる者は、それによって膚はおののき震える。そのとき神をたたえ唱念すれば、膚も心もやわらぐ、これが神の導きである。かれは、み心にかなう者を導きたもう。だが神が迷うに任せたもう者には、それを導く者はない。
クルアーン39-23(イスラーム)
一度過ぎた夜は、二度と戻らない。法に従って行わない者たちの夜は、むなしく過ぎていく。
ウッタラッジャーヤー14.24 (ジャイナ教)
主の律法は完全で、魂を生き返らせ、主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え、主の戒めは清らかで、目に光を与える。主への畏れは清く、いつまでも続き、主の裁きはまことで、ことごとく正しい。金にまさり、多くの純金にまさって望ましく、蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い。
詩編19.8 ~ 11(キリスト教)
信仰を抱き、不満なく、常に私の教説に従う人々は、行為から解放される。しかし不満を抱き、私の教説に従わない人々、彼らはすべての知識に迷う、破滅した愚者であると知れ。
バガヴァッド・ギーター3.31~32(ヒンドゥー教)
そこで、私のこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。
私のこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。
マタイによる福音書7.24 ~ 27(キリスト教)
諸仏世尊は大福智を具へて而も荘厳と為し、大慈悲を以て所行の境と為し、……相応の智を以て世の照明を為し、……一切人民常に楽うて承事し、自の楽を遠離し他の苦を息除す。正法を住持し、法を以て主と為し、法の自在を得、法を以て食と為し法を以て薬と為し法を以て施を為し一切皆捨す。……〔念法清規〕
……復次に菩薩諸衆生に於て當に平等にして而も為に説法すべし、法に高下無きを以ての故に、彼我の法に同じく其の心平等なり。法に面従無く而も為に宣説す、法に相當無き……法を時節無く而も為に宣説す、……法を勝者に於て而も為に宣説す、其を劣者に於て為に宣説せざるに非ず……法は諸見を離るる……法は常に加持する所……法は取著する所無き……法は衆生を厭はず衆生能く法を護る……法は所帰興を求むるに非ず世の帰依と作る……法は怨嫉無し、法は諸結使を離るるを以ての故に、彼我の法に同じく其の心平等なり。法は輪廻を怖るるに非ず、亦涅槃を楽しまず、法は無分別なるを以ての故に、彼我の法に同じく其の心平等なり。菩薩是の如く正念を積集す、是を念法と為す。
法集経(仏教)
しっかりと基礎がおかれておれば、引き抜かれるものはない。しっかりと抱かれておれば、脱けでるものは何もない。子々孫々祭祀はとだえないだろう。自己において道を修めれば、徳は本当のものとなり、家族において修めれば、徳はあり余るほどになる。一つの村で修めれば、徳は永続するし、一国において修めれば、徳はたくさんのものとなり、天下において修めれば、徳はすべてをつつみこむものとなる。
道徳経54(道教)
― み言選集 ―
栄える道は何でしょうか。栄える道は法に従っていくことです。神様が自分の創造目的を成し遂げることのできる法は、神様が保護し、神様が協助してくださるからです。この法に従っていけば栄えることができます。しかし、神様の法に反対してサタン側になるときは、神様が打つので滅びるのです。
(103-275、1979.3.11)
法度に従い、法のとおりに生きる人を何と言いますか。驕慢だと言いますか。そのように生きる人を正直な人と言います。正直というのは「正」の字と「直」の字です。正しくて真っ直ぐだということです。法というものは何ですか。真っ直ぐなものを立てることです。それでは、善と悪は何によって分けるのでしょうか。法によって分けるのです。驕慢は法度を無視するのです。法度を無視し、位置と環境を無視して行動することを止めなければなりません。驕慢を制御し、謙遜を備えなければならないのです。
(37-130、1970.12.23)
ここにメートル尺があるとしましょう。実際の1メートルはこのくらいなのに、自分勝手に尺を作って「このくらいが1メートルだ」といって測ってはいけません。自分勝手に測ってはいけないというのです。メートル尺は、必ずメートルの原器を中心として製作されたものでなければなりません。
(5-80、1971.11.1)
法廷で一人の殺人強盗に対して、「我が国の憲法何条によって死刑宣告だ」と言えば、気分が良い人がいますか。判定はそのように出ましたが、「こいつ、何だ。私は悪くない、これは何だ」と言うでしょう。皆さん、アメリカならアメリカの憲法を中心として、法廷では赦しを受けられますが、宇宙的なこの憲法を中心として見れば、赦す法があるでしょうか。ありません。しかし、犠牲になり、奉仕すれば、赦されるのです。このようなときは同情を受けることができ、生きる道があり得るというのです。「悔い改めよ」という言葉があります。イエス様がこの地上で、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言いました。何を悔い改めなさいというのですか。簡単です。犠牲になり、奉仕すべき道理から外れたすべてのことを悔い改めるのです。キリスト教は、何を悔い改めるのですか。
人のために生きずに自分のために生きるところからすべての罪悪が発生したのです。なぜどろぼうが悪いのですか。自分がやりたくてやったのに、その何が悪いのでしょうか。そこには、その一着の服にも犠牲の代価が含まれていて、奉仕の代価が含まれています。公的なものが含まれているのです。それをそのままもってきたので罪なのです。「うそをつくのが何の罪なのか。私は気分が良い。騙されているのを見ると無性に気分が良い」、そのように言います。うそをついて何をしようというのですか。自分の利益を得ようとするのです。
原則に背けば、すべて条件に引っ掛かります。また、会いたくないその女性を一人殺害したとします。その会いたくない怨讐を殺害したとして、何の罪なのですか。私も会いたくないと同時に、私の父母、祖父母……。アメリカ人すべてが会いたくないと思っているその人を殺害して、それが何の罪なのですか。彼も皆さんと同じように、同等にアメリカを代表した人だというのです。アメリカを代表した人なので、そのようにすれば公法を蹂躙することになります。そのようなものをすべて総合して見てみると、何が含まれているのでしょうか。どこに帰結するのかというと、犠牲と奉仕に帰結します。
犠牲になり、奉仕する人を憲法、何法何条の公判にかけるという法が世界のどこにありますか。そのような人を法廷で悪だと罰を与えるそのような法があるかというのです。
この公法は、悪いという公法ですか、良いという公法ですか。その国の大統領がいれば、その人を呼んでその国を代表して表彰して賞を与えるようになります。それでは、それはいったいどこから始まったものですか。どこからそのような出発が起きたのでしょうか。私を中心とすればよいのに、なぜ全体を中心としてしなさいというのですか。人が私のために犠牲になるようにして、私は犠牲にさせるようにしたならどれほどよいでしょうか。
もしそのような法を立てたとすれば、一つの家に集まって暮らすことができますか。その家はばらばらになります。10 人なら10 人がそのような主張をすれば、10 のかけらになります。また、100 人なら100 のかけら、2億4000 万のアメリカ人がそのような主張をすれば、2億4000 万のかけらになります。そのような法を定めたならば、物質世界からどのような存在世界にも適用しなければならないという、このような話が成立します。皆さんだけ、人だけがそのようにできるかというのです。目の中にいる一つの細胞が、「私も存在なので、私という存在を中心として、全宇宙が私のために存在しなさい」と言うとき、そのようになってはいけません。
目が、「おい、お前、金なにがし! 屈服しなさい。お前のようなものが自己主張すれば、目である私はお前を嫌う」と言うでしょう。このように自分を主張することが、存在破壊形成の基本になるのです。ですから、目が「おい、目の細胞、お前も貴いが、私というより公的な存在にお前は吸収されるようになっているのだから、宇宙の公法どおりに従いなさい!」と言えば、「はい」と言うようになっています。より価値のあるもの、それは公的なものです。それはどこでも「はい、はい」と言うことができるのです。このような原則があることを知っているので、不平を言うごことはできません。
(105-92 ~ 93、1979.9.30)
2. 自然法
― 宗教経典 ―
君子の道は(働きが)広くて(その本体が)微なるものである。夫婦の愚でも、あずかり知ることができるが、その全体を尽くすとなると、聖人でさえも知らないことがある。夫婦の不肖でもよく行なうことができるが、その全体を尽くすとなると、聖人でさえもよくできないことがある。天地の大でも、人はなお恨むことがある。君子は大を語れば、天下にこれを載せるものはない。小を語れば、天下にこれを破るものはない。『詩経』にいう「鳶は飛んで天に至り、魚は淵に躍る」と。上下に明らかなのは、この理の働きに他ならないことをいうのである。君子の道は、夫婦にその始めを起こす。その全体を尽くすとなれば、天地上下に明らかである。
中庸12(儒教)
君子は中庸を体しており、小人は中庸に反している。君子が中庸であるのは、君子に徳があって、その上、時に応じて中を行なうからである。小人が中庸に反するのは、小人の心をもっていて、その上恐れはばかることがないからである。
中庸2(儒教)
法には二種類ある。自然法と成文法だ。自然法は心に刻まれている法であり、成文法は机の上に置かれている法典である。すべてのものは法、自然法のもとに存在するが、すべてのものがこれに属していないため、自分自らが法自体にならなければならない。彼は自ら戒めを実践し、心に刻まれた法に従って実践する者である……。私達の本性が善行を教えてくれる師である。どろぼうしてはいけないことを知らない人はいない。それで、僕が物を盗めば罰を与える。誰かが私の妻をむさぼれば、その者は、罰を受けて当然だと考える。今から、人に向けたそのさおを、自分自身にも同じように当ててみなさい。
ミラノのアンブロシウス(注4)(キリスト教)
道の原理は、私達の日常生活の中で、食べて飲む中で、一般的な社会的関係――君臣関係、父子関係、兄弟関係、夫婦関係、友人関係を維持するにおいて、目の前に張られたもののように近いものである。
朱熹(儒教)
― み言選集 ―
私が願おうと願うまいと、循環運動を通して年を取った人たちは本然の元素に帰り、新しい人たちが生まれ、このように循環しながら発展し、成長するのです。ですから、存在するすべてのものは、自然の循環法則を通して自分の限界内で、各自がそれに従って運動し、作用しながら存続するのです。
太陽系を中心として見てみても、九つの惑星が太陽を中心として回っているのですが、この惑星たちが、「ああ、もう私の好きなようにする」と言うことができるでしょうか。その軌道を外れて自由行動はできないのです。また、動物や植物も、春になれば、「ああ、私の好きなようにしよう」と言って、成長しないようにすることはできないのです。夏になれば生い茂らなければならず、花を咲かせ、秋になれば実を結ばなければなりません。
(207-61 ~ 62、1990.11.1)
太陽系が一つになって大宇宙で回っているのです。何をセンターにするのかというと、愛です。ですから、家庭では父母を中心として愛で一つになりなさい、国を中心として国を愛する愛国心で一つになりなさい、また世界では聖人が出てきて、愛を中心として全世界人が一つになりなさいと教えるのです。したがって、愛がセンターとなって回らなければならないのです。真の愛で回りさえすれば、すべてのものはそれに従って自動的に回ろうとするのです。その軸は変わりません。
(146-166、1986.6.15)
自然の中では、春になれば間違いなく花が咲き、夏の季節を経て、秋に実を結びます。そのような自然の法則に従って生きることが天国と通じる近道だということを知っています。
(393-215、2002.10.4)
人倫は情を通して形成されます。家族関係や、道徳観念や、社会制度や、秩序などというものは、すべて情緒的な面です。父母が子女を愛するところから人倫は始まります。そうでしょう? 子女が父母を愛するところから真の人間関係が成立するのです。また、男性が女性を愛し、女性が男性を愛するところから人間関係が結ばれるのです。人倫を形成したのは愛だというのです。(注5)
(64-124、1972.10.29)
今日の法はローマ法を基礎としてつくられたのであり、ローマ法が現在、世界文化の基礎になっていると言えますが、人倫道徳はどこまでも良心を根拠にします。法よりは良心だというのです。
(33-44、1970.8.2)
科学文明の世界を早めたのは、法則を中心とする一つの公式でした。公式は、全体の各分野にどれくらい適用させられるかによって採択の可否が決定されます。私達は、宗教生活をするにおいて、盲目的にしてはいけません。神様は必ず公式的な法度を通して摂理されるので、その公式を知らなければなりません。統一教会の原理は、過去から現在まで復帰摂理歴史がどのように続いてきたのかをはっきりと教えてくれています。
(16-119、1978.10.22)
3) 黄金律
黄金律は、ほぼすべての宗教の経典で発見される。その多くは最も簡潔で普遍的な倫理的原理とみなされる。時として“相互性”と呼ばれたりもする黄金律は、報復をするのではなく、主導的に先に行うことである。それは、ある無礼な行いに対して、同じ無礼な行いで反応するのではなく、他人に対してまず親切を施し、配慮しなさいと教える。したがって黄金律は、それを実践に移すためには、かなりの道徳的努力を傾けなければならない倫理である。
黄金律の倫理には3種類の次元がある。第1に、「あなたが願わないことを人にしてはいけない」という消極的表現は、私達が人から傷つけられることを願わないように、私達も人を傷つけてはいけないということを教えている。次に、「人からもてなしてもらいたければ、まず人をもてなしなさい」、または「あなたの隣人をあなたの体のように愛しなさい」という積極的な表現は、私達がほかの人たちの欲求と気分を察し、彼らに慈愛深く対することを求めている。最後に、文鮮明先生の教えは、黄金律を「ために生きなさい」というそのみ言の根本原理を包含して、その意味を高揚させる。その教えの倫理は、私達に犠牲と奉仕を絶えず促す。それは、縦的な関係の神様とその限りない愛を伝授され、常に利他的に生きていくことを求めている。
― 宗教経典 ―
人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。
マタイによる福音書7.12 (キリスト教)
子貢がおたずねしていった、「ひとことだけで一生行なっていけるということがありましょうか。」先生はいわれた、「まあ恕(思いやり)だね。自分の望まないことは人にしむけないことだ。」
論語15.24 (儒教)
自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。(注6)
レビ記19.18 (キリスト教)
自分自身を愛するように兄弟を愛すまでは、誰一人信者ということはできない。
ナワウィー40 のハディース13(イスラーム)
大いに努力して思いやりの真心を他人に推し及ぼしてゆけば、……これこそ、仁を求める一番手近かな方法である。
孟子Ⅶ、A.4、(儒教)
自分自身にとって不愉快なやり方で人に対して振る舞ってはならない。これが道徳の本質である。他の全ての行いは利己的な欲望によるものである。
マハバーラタ、教訓の巻113.8 (ヒンドゥー教)
幸福である時も、苦痛の中にいる時も、楽しい時も、悲しい時も、一切衆生をあなた自身のように思わなければならず、ほかの存在を傷つけてはならない。ほかの存在を傷つけることは、すなわちあなた自身を傷つけることである。
ヨーガシャーストラ2.20 (ジャイナ教)
かれらもわたくしと同様であり、わたくしもかれらと同様である」と思って、わが身に引きくらべて、生きものを殺してはならぬ。また他人をして殺させてはならぬ。
スッタニパータ705(仏教)
尖った棒切れで幼い鳥を切ろうとする者は、まず自分を切ってどのくらい痛いか感じてみなければならない。
ヨルバ族の格言(アフリカ伝統宗教)
ある異教徒がシャーマイのところに来て言った。「私を伝道してみなさい。私が一方の足で立っているあいだ、あなたが私にトーラを教えるという条件で」。するとシャーマイが手にしていた細い木の枝で彼を退けた。彼がヒレルのところに行くと、ヒレルが言った。「あなたが嫌うことを人にも強要してはいけない。これがトーラの教えです。それ以外のほかのところは、すべて敷衍して説明したものにすぎない。さあ、もう一度行って学びなさい」。
タルムード、シャッバト31a (ユダヤ教)
「我は生を欲し死を欲せず楽を欲し苦を厭ふ。…若し我命を奪ふ者あらば我可愛可意にあらじ。他も生を欲し死を欲せず楽を欲し苦を厭ふに、若し我、その命を奪はば可愛可意にあらじ。我に於て不可愛不可意の法は他に於ても不可愛不可意の法なり。我に於て不可愛不可意の法を我、云何ぞ他に加へんや」と。
サンユッタ・ニカーヤ5.353 (仏教)
あなたの意志の準則が、同時に普遍的立法の原理として妥当たり得るよう行いなさい。
イマヌエル・カント人倫の形而上学
― み言選集 ―
今日、人倫道徳やこの社会の道徳基準を中心として見るとき原理原則があるのですが、この原理はどのような基準によって成立するのかというと、「私のために生きなさい」というところから成立するのではありません。ために生きようとするところから原則が成立するのです。
(71-125、1974.4.29)
真の人生が行く道とは何でしょうか。一つの公理として立てるべきことはために生きよということです。孔子やイエス様や釈迦牟尼やムハンマドのようなすべての聖者の前に神様が現れて、「あなた方はどう思うか」と言われれば「正しい」と言います。それが宇宙の法則です。それが、人間が人生において真の姿で生きる一つの法だということを知るべきです。
(133-18、1984.7.1)
もてなしてもらおうとすれば、まず人をもてなさなければなりません。私がもてなしてもらってから人をもてなそうと考えてはいけません。「人にもてなしてもらおうとすれば、先にもてなしなさい」と言いました。先にもてなすことが原則です。統一教会の文先生はどうでしょうか。皆さんをもてなそうとしましたか、そうでなければ私がもてなしてもらおうとしたかというのです。皆さんにもてなしてもらおうとは少しも考えませんでした。人に負債を負ってはいけないというのです。
(50-339、1971.11.8)
真の愛の生活とはどのようなものでしょうか。一言で言えば「ために生きる生活」です。人が自分のために生きてくれることを願う前に、先に人のために生きる生活です。ために生きてあげたことを忘れてしまう生活です。ために生きであげたからといって、何かを期待する生活ではありません。ために生きてあげても、もっとために生きてあげることができずにもどかしく思う生活です。ために生きても、謙遜に頭を下げてために生きる生活です。それで、イエス様も、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と言い、「高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と言われたのです。
(433-179、2004.1.27)
4) 十戒
十戒はユダヤ教とキリスト教の倫理的価値観の土台として広く知られている。しかし、それと類似した倫理的原理の諸項目は、ほかの宗教でも発見される。クルアーンは、イスラームの十戒として命名された数種類の目録の倫理規範を含んでいる。山上の垂訓でイエス様は、この戒めが服従を強要する戒律ではなく、それが心からわき出て生きるようにするための教訓だと語った。仏教、ヒンドゥー教、ジャイナ教には、出家者と在家者のための十種類の戒律の項目があり、サーマーンヤ・ダルマという五つの普遍的ダルマの目録に圧縮される。これに比肩するもう一つの戒律は、仏教の八正道である。東洋的視覚にふさわしく、これらの大部分は内的な要素、すなわち自制心と慈悲心の涵養などを含んでいる。儒教は、戒律より関係性に特別な強調点を置いた五つの倫理的関係を強調する。
文鮮明先生は、神様の国を成し遂げるにおいて守るべき三つの戒めを公表した。第1に、純潔を守りなさい。第2に、人の心情を蹂躙してはいけない。第3に、公金を横領してはいけない。この三つの戒めは、特に姦淫、殺人、窃盗に対する十戒と比較することができるが、その中の2番目の戒めは、十戒の内的側面に対するキリストの教えだけでなく、正しい人間関係に対する儒教の教えを反映する心情問題と深く関連している。
― 宗教経典 ―
神はこれらすべての言葉を告げられた。「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、私をおいてほかに神があってはならない。あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。
私は主、あなたの神。私は熱情の神である。私を否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、私を愛し、私の戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。
安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。
あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。隣人に関して偽証してはならない。隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。(注7)
出エジプト記20.1 ~ 17(キリスト教)
言え「さて私は、主があなたがたに対し禁じたもうことを、復唱しよう」かれに何ものでも同位者を配してはならぬ、両親に孝行であれ。困窮することを恐れて、なんじらの子女を殺してはならぬ。われは、なんじらもかれらをも養うものである。
また公けでも隠れても、醜事に近づいてはならぬ。また、神が神聖化された生命を、正義のため以外には殺害してはならぬ。このようにかれは命じたもう、おそらくなんじらは了解するであろう。孤児が成人に達するまでは、最善の管理のためのほか、なんじらはその財産に近づいてはならぬ。
また十分に計量し正しくはかれ。われは何人にもその能力以上のことを負わせぬ。またなんじらが発言するときは、たとえ近親の間柄でも公正であれ、そして神の約束を全うせよ。このようにかれは命じたもう、おそらくなんじらは留意するであろう。まことにこれはわれの正しい道である、それに従え。他の道に従ってはならぬ、それはかれの道からなんじらを離れ去らせよう。このようにかれは命じたもう、おそらくなんじらは主を畏れるであろう。
クルアーン6.151 ~ 153 (イスラーム)
ノアの子女たちに、七つの戒めが与えられた。社会法(社会正義)、神性冒p、偶像崇拝、姦通、流血、強盗、生きた動物を切った肉を食べることを禁ぜよ。(注8)
タルムード、サンヘドリン56a (ユダヤ教)
あなたがたも聞いているとおり、昔の人は「殺すな。人を殺した者は裁きを受ける」と命じられている。しかし、私は言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に「ばか」と言う者は、最高法院に引き渡され、「愚か者」と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、私は言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。
マタイによる福音書5.21 ~ 22、27 ~ 28(キリスト教)
赦し、謙遜、正直、潔白、定言、自制、耐乏、意欲、無執着、純潔、これら十のことは、在家者たちも当然に遵行すべき本分である。
タットヴァールターディガマスートラ9.6(ジャイナ教)
殺生をしない、ものを盗まない、みだらな行為をしない、嘘をつくこと(妄語)と二枚舌と悪口とへつらいのことばをやめること、貪りと怒りと邪な考えを捨てること、以上が十種の善の行ない(十善業道)であって、その反対が十種の不善の行ないであります。
ナーガールジュナ(龍樹菩薩)宝行王正論8~9(仏教)
不殺生、真実、盗みをしないこと、清浄、感官の抑制――かいつまめば、これらが四身分に共通の正しい生き方(ダルマ)であるとマヌは語った。(注9)
マヌ法典10.63 (ヒンドゥー教)
苦滅道聖諦とは何か。これこそが聖なる八支の道です。すなわち、正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定です。では、苦についでの智、苦の生起についての智、苦の滅尽にいたる道についての智があります。これが正見と言われます。また、正思惟とは何か。欲を離れた思惟、怒りのない思惟、害意のない思惟です。これが正思惟と言われます。また、正語とな何か。妄語から離れること、両舌から離れること、悪口から離れること、綺語から離れることです。これが正語と言われます。
また正業とは何か。殺生から離れること、偸盗から離れること、邪淫から離れることです。これが正業と言われます。正命とは何かよ聖なる弟子、邪な生活を捨て、正しい生活によって生活を営みます。これが正命と言われます。正精進とは何か。比丘は未だ生じていないもろもろの悪しき不善の法が生じないように、意欲を起し、努力し、精進し、心を励まし、勤めます。すでに生じているもろもろの悪しき不善の法が捨断されるように、未だ生じていないもろもろの善の法が生じるように、すでに生じているもろもろの善の法が存続し、消失せず、増大し、拡大し、修習が成就するように、これが正精進と言われます。
正念とは何か。比丘は身において身を観つづけ、もろもろの受において受を観つづけ、心において心を観つづけ、もろもろの法において法を観つづけ、世界における貪欲と憂いを除いて住みます。これが正念と言われます。正定とは何か。比丘はもろもろの欲を確かに離れ、もろもろの不善の法を離れ、大まかな考察のある、細かな考察のある、遠離から生じる喜びと楽のある、第一の禅に達して住みます。大まかな考察・細かな考察のない、心の安定より生じる喜びと楽のある、第二の禅に達して住みます。喜びが消えていることから、第三の禅に達して住みます。……第四の禅に達して住みます。これが正定と言われます。
マッジマ・ニカーヤ(中阿含経) 3.251 ~ 252 八正道(仏教)
天下の(常に行われて百王も変えないところの)達道は五つ。これを行うためのものが三つ。それは君臣であり父子であり夫婦であり兄弟であり、朋友の交わりである。この五つのものは天下の(人間に常に行われる道理で、それによって物事が開通する)遠道である。
中庸20.79 (儒教)
― み言選集 ―
今までこの地上に聖賢、あるいは賢哲たちが出てきて、人生の行く道を教えてくれました。「このように行きなさい」、あるいは「このようなことを注意して生きなさい」と言いながら、ある方向性を立ててくれたりもしました。それで、堕落の人生の道を歩んでいるかわいそうな人間たちに、大勢の聖賢たちは、三綱五倫(注10)などで人類を教育し、モーセは十戒を紹介したのであり、さらには、大勢の道人たちもそのような一面を開拓するために苦労してきたことは間違いないというのです。
(7-16 ~ 24、1959.7.5)
今から守るべき鉄則が三つあります。第1に、死ぬほどのことがあったとしても血統を汚すなということです。今から、祝福を受けた血統は、神様の血代であり、神様の愛と生命を受け継いだものなので、今までの堕落世界に染まった習慣的な行動で汚してはなりません。それを守ることができますか。夫婦になっている人も、配偶者がいなければ一人ででもいいので、完全に血統を汚さないという人は、目を閉じて決意し、神様だけを見つめて力いっぱい手を挙げて誓いましょう。
第2に、人事措置を間違えて、人権を蹂躙するなということです。男性であれ女性であれ、黒人であれ白人であれ、平等です。人権を差別したり、人権を蹂躙したりするなということです。人権を正しく指導するにおいては、真の愛、「ため」に生きる愛をもって暮らす人が主流です。天地創造は、そこから始まりました。その主流思想を乱すことは許されません。罪の中で2番目の罪です。
第3に、公金を盗むな、公金を自分勝手に使うなということです。働きもせずに、規則も守らずに良い所で寝ようとすることはみな公金略取です。公的な環境を破壊するのです。国家財産の略取と同様に恐ろしいのです。そのように生きる人は、いくらうまくやろうとしてもうまくいきません。そのように生きてみてください。いくら神様の前に祈祷しても、伝道できません。
以上の三つです。監獄に入ってみると、そこにいる人の70 パーセント以上が、これらのことゆえに監獄にいるのです。人権を蹂躙し、血統を汚し、男女問題に引っ掛かっています。それから、金銭問題、権力問題です。お金と知識と権力が怨讐だったというのです。1番目が何ですか。純潔であれ! 2番目は? 人権を蹂躙するな! 3番目は? 公金を略取するな! きょうのこの記念日に天の国の王権を維持し、皆さんが王権の前に民となり、父母となり、妻子となり、兄弟となるためには、これが絶対に必要です。
それゆえに、兄を無視することはできません。弟の体が不自由だからといって、無視することはできません。親戚を無視することはできません。世の中は、みな無視するでしょう。知識があるといって、大学を出た人だといって、高卒の人を無視してしまいます。それは、人権蹂躙になります。では、どのようにしなければなりませんか。どのように生きていきますか。正しく生きなければならないでしょう。正しく生きるにおいて、一人で暮らすことを正しく生きるといいますか。一緒に暮らさなければなりませんが、正しく生きるということの中には何が入りますか。
神様の公式法度として立てられたものの中で、どのような環境、どのような人たちと共に暮らせば、正しく生きることになるのかというのです。簡単です。それも三つです。父子関係、夫婦関係、兄弟関係です。兄弟関係は夫婦の前では子女になります。子女関係を兄弟関係といってもかまいません。彼らと一つになって正しく生きなければなりません。正しく生きるためには、正しく生きることができるように指導しなければなりません。お互いが手本になってこそ、それが正しく生きることになるのです。手本になっていなければ、正しく生きていないのです。
父母の前に、夫婦の前に、子女の前に手本となれるように暮らせば、それが正しく生きることなのです。そのように正しく生きればどのようになりますか。天の国の王がいて、地上の王がいれば、その王たちが正しく生きている家庭を訪問する日が来ます。毎年、年の初めに、その国で最も正しく生きている家庭を訪問して表彰する時が来るというのです。
今から、逆賊として追われて死ぬようなことがあったとしても、この法を守って生きれば、間違いなく天の国の皇族圏となって、どこででも自由、統一、解放の家庭になります。きょう、これを肝に銘じてくださるようお願いします。これを標語として定めるのです。3000 年標語の中で、みな純潔血統、それから、人権平準化、それから、国家の公的財産略取……。それから何ですか。父子間において、夫婦間において、子女間において手本になろうというのです。兄弟といってもいいです。先に兄弟がすることは、その生活を子女たちが見習うのです。そうではないですか。
自分の親戚、親族がみな正しく暮らせば、息子、娘が見習うようになっています。そうしてこそ、手本になります。町内中がみな、「あの人に従っていかなければならない」と言い、「あの人のように暮らしたい」と言えば、その人は、間違いなく天国の民となり、天の国に記憶され得る人になります。きょう、神様の王権即位式において最も重要な3大鉄則を話しました。それは、私達人間が公人として必ず守るべき、家庭にあっても、国にあっても引っ掛かることのない指針です。この日に、十分に覚えておくに値する内容であることを肝に銘じて、生涯の標的としてくださるようお願いします。
(324-298 ~ 306、2001.1.13)
夫婦が堕落しては絶対にいけません。堕落すれば大変なことになります。その次に、人を愛しなさいというのです。その次に、公金を重要視しなさいというのです。心情問題、人間問題、万物問題、この三つが重要なのです。天の国の憲法を制定したとしても、心情問題が第一条に該当します。その次に人間問題、愛の人間がいなければならないので、人間問題を重要視するのです。男性と女性の問題、祖父母、父母、自分たちの問題、その次に兄弟問題と隣人、親戚間の問題、社会問題などはすべて人間問題です。人間を愛さなければなりません。
(169-217、198710.31)
5) 律法を越えて
律法は神様に至る道を案内するが、多くの伝統宗教で神聖な人生の理想は、律法の境界の向こうにある。したがって律法は、束縛から抜け出すようにする教えであると同時に、もう一つの束縛ともなり得る。例えば、パウロは、教訓的ではあるが、依然として拘束的なモーセの律法を、イエス・キリストを通して得ることのできる救援の恩寵と対比した。律法の命令を遂行することだけで救援を得ることはできない。それは、依然として善と悪の絶えることのない葛藤の中に落ち込んだ心の最も深い内面を刺激しないからである。したがって、律法はせいぜい予備的な価値をもつにすぎない。さらには、世俗的な準則が誤用されたり、乱用される状況で、良心はより高い心の法に従うように導く。
律法の向こうに絶対者と関連したより高い次元がある。そこに至って人々は、行うことに制限がなく、良心の波動が神様の願いと常に一致するという点を確信する。しかし、自由に行うといって、霊性の生がどんな罪を犯してもかまわないと誤解してはいけない。完全に自由にしたとしても、依然として天的な基準と原理があるものである。したがって、正しく悟った人は、その天的原理と一つになりながらも、それによる束縛感を感じないのである。
― 宗教経典 ―
神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人の内にいつもあるからです。この人は神から生まれたので、罪を犯すことができません。
ヨハネの手紙一3.9 (キリスト教)
悟りに満ちた者は、決して悪行にふけることはない。彼の良心は、真理で完全に映し出された知性によって導かれるからである。
アーヤーランガ・スッタ1.174(ジャイナ教)
来るべき日に、私がイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。私は彼らの神となり、彼らは私の民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者も私を知るからである、と主は言われる。私は彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。
エレミヤ書31.33 ~ 34(キリスト教)
さて、私達が知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。
私達が肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。しかし今は、私達は、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。
ローマの信徒への手紙3.19 ~ 22、7.5 ~ 6(キリスト教)
高い徳の人は徳を自慢しない。
だから、徳がある。
低い徳の人は徳にこだわる。
だから、徳がない。……
だから、「道」が失われると徳がそこにあり、
徳が失われると仁愛がそこにある。
仁愛が失われたのちに道義がきて、
道義が失われたのちに礼儀がくる。
礼儀は信義を欠くことで、無秩序の第一歩となる。
道徳経38(道教)
本心を見失った人は、福徳を修めるのみで仏道を修行せず、福徳を行うことがそのまま仏道だとばかりいっている。物を施したり仏法僧に供養するなどその福徳には限りがないが、自分の心中の三種の悪行ははじめから作られている。
六祖壇経6(仏教)
かの十八の祭資は祭祀の形なせる不安定なる小舟に過ぎず。これらに基づく祭儀は低劣なるものといわれる。かくの如きものを勝道と思い喜ぶ痴愚の輩は再び老死の世界に堕つ。愚昧の輩は無知なるままにあれやこれやと行事をなしつつ「我こそ道を得たり」と驕る。彼等祭祀主義者は慾念に迷わされて真理を悟らざるが故に、果報尽きたる天界よりみじめな姿もて退堕す。
迷乱せる輩は祭祀と善行を最勝事と想い、これに勝れるものあるを知らず。彼等は殊妙なる天界の背(頂)にて福祉を享受したる後、この世界あるいはさらに劣れる世界に入る。およそ森林において苦行と信仰とを修め、心を寂静にして、乞食行を行ずる賢者は罪垢を去り、太陽の門を過ぎて、かの自性不滅なる不死の神人(プルシア)の在ます処にゆく。
ムンダカ・ウパニシャッド1.2.7 ~ 11(ヒンドゥー教)
スブーテイよ、実に、誰かが、「求道者の道に向かう者には、なにかの法が滅んだり、断ちきられたりするようになっている」と、このように言うかも知れない。けれども、スブーティよ、このように見てはならない。
金剛般若経27(仏教)
「私には、すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「私には、すべてのことが許されている。」しかし、私は何事にも支配されはしない。食物は腹のため、腹は食物のためにあるが、神はそのいずれをも滅ぼされます。体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです。神は、主を復活させ、また、その力によって私達をも復活させてくださいます。
コリントの信徒への手紙一6.12 ~ 14(キリスト教)
― み言選集 ―
真の愛で家庭教会を完成すれば、天国に入っていくのですが、門が分からなくて、東側、西側、12 の真珠門を逆さまに入っていってもOKです。居眠りしながら入っていってもOKです。どれほど自由ですか。真の愛は法を超越します。このような特権をもった真の愛を今知りました。今知ったので、実践すれば皆さんは、天国に全員行けま
す。
(116-249、1982.1.1)
心と体が一つになれば、宇宙が……。すべて宇宙の縮小体です。すべて知っているのです。学ぶ必要がありません。人間がどのように生きなければならないのか、ということを教える必要がありません。倫理道徳を教える必要がありません。見てください。すずめの世界や動物の世界で、倫理道徳教育をしますか。自分たち同士で保護し、生理的に自分の一族を連結させて生きることを知っているのに、どうして万物の霊長がこのようになっているのですか。堕落したので争いが起きるのです。
(162-223、19874.12)
今までの歴史を見ても、人倫道徳は心から始まります。いつでも正しい心をもって事をなして良心の呵責を受けない人は、何も怖くありません。いくら悪の世界の暴君の前に行っても、堂々としています。
(19-288、1968.3.10)
善は、この宇宙が保護育成し、自由と平和が宿っており、生命と権勢が共にあるのです。これを屈服させることができるものは、天地のどこにもないというのです。ここに異議がありますか。善になるときには、大統領も恐ろしくありません。六法全書が適用されたとしても関係がありません。いくら刑法がたくさんあっても、その法とは何の関係もないというのです。それゆえに、世の中の法は、良心の基準を通過することはできません。すなわち世の中の法は、善の権限を侵犯することはできない、という結論が出てくるのです。
(16-134、1966.1.2)
統一教会は何ももっていませんが、境界線があるかないかというとき、境界線はないと言うかもしれませんが、そうではありません。厳然として境界線があります。また、その線を越えてはいけない、越えるなというそのような線があります。そこを越えれば必ずほかの何かの形態に転換されるか、ほかの所に属するようになる、このような存在として決定されるのです。
(90-9 ~ 10、1976.12.5)
私は秘密の力をもっています。神様の胸に入り込んでも、神様が怒ることなく喜ぶ秘密をもっています。それは何でしょうか。理想的な真の愛です。神様がそのような公式を適用したのです。すべてのことを公式的にするようになっています。数学ですべての宇宙を……。自然科学も解く公式があるのに、愛の世界にそのような公式がないでしょうか。そのようなユニットがなければ、世界の地の果てから来るすべての人を、何をもって操縦するのですか。
(170-256、1987.11.22)
6) 二重属性
二重属性は、宇宙に広がっている普遍的な現象である。すべての存在は男性と女性、光と影、天と地、心と体、主体と対象、個体と全体、そして存在と非存在という二重属性をもつ。この両極の間の躍動的な相互作用は、生殖力と創造力の源泉である。これは自然の周期的な循環、昼と夜の変化、そして季節の変化などによって現れる。二重属性は、男性神と女性神の宇宙的結合によって神話的に描写され、科学で見るように、原子と分子を構成する電磁気的相互作用として知られている。ある宗教、特に儒教と道教は、陽(男性)と陰(女性)の重属性を自然の支配的な原理、そして正しい方式として、人間を教育できる人生の原理とみなしている。
文鮮明先生は、自然を深く洞察した結果、自然の二重属性を一つの体系的な存在論に発展させた。先生は、自然の相互作用を詳細に洞察したのち、ために生きる人生の原理の基盤を発見した。与えることが受けることに対して先行してこそ、円満な関係性が形成されるからである。さらには、自然の反発力は、三存在を一双に転換させる効果を発揮することによって、一双となったものがもつ創造的で包容的な関係性の領域をより強く保護する。また、文鮮明先生は、このような根拠を基盤として、対立と葛藤に根を置き、実在に対する誤った観念を教えるマルクスの弁証法を批判した。
1. 男性と女性の二重属性
― 宗教経典 ―
またわれは、すべてのものを両性につくった、おそらくなんじらは訓戒を受け入れるであろう。
クルアーン51.49 (イスラl ム)
すべてのものは対をなし、一方は他方に対応する。主は不完全なものを何一つ造られなかった。一方は他の長所を更に強める。だれが主の栄光を見て飽き足りたといえようか。
シラ書(集会の書)42.24 ~ 25(キリスト教)
天と地の原始の創造者。かれはなんじらのために、なんじら自身の間から夫婦を、また家畜にも雌雄をつくりたもう。このようにして、なんじらを繁殖させたもう。
クルアーン42.11 (イスラーム)
かくて易には陰陽未生以前の根源として太極があり、太極から陰陽の両儀を生じ、両儀はさらに分かれて四象(陰陽二交の組み合わせ、すなわち老陽・少陽・少陰・老陰)を生じ、四象は八卦を生ずる。この八卦の組み合わせにより万事の吉凶が定まり、その定められた吉凶によってもろもろの大いなる事業も成就される。
易経、周易繋辞上伝11.5 ~ 6(儒教)
往昔{むかし}、生主神は子孫を欲して苦行を修めた。苦行を修め終わって財(物質)と気(生命)という一対のものを生ぜしめた。このふたつのものがわがために多種多様の子孫を造ってくれるように、といって。ここで気とは太陽のことで、財とは月のごとである。
プラシュナ・ウパニシャッド1.4 ~ 5(ヒンドゥー教)
ムジャヒードが言った。「神は万物を二つに創造された。男と女、天と地、太陽と月、夜と昼、明と暗、人間と精霊、善と悪、朝と夜、あらゆる種類の糧と風と音を創造された。神は御自身の偉大さの証としてこのすべてのものを造られた。
タルトゥピークルアーンの諸規定の集成17(イスラーム)
神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。
創世記1.27 (キリスト教)
「男と女を創造された」、このみ言は、男と女の条件に当てはまらない人は、真で適合した人ではないということである。……見よ、主なる神は男女が共にいない所にはおられず、その方の祝福もやはりその場には臨まない。
ゾハール1.55b (ユダヤ教)
すべての生命、生きているもののすべての鼓動は、永遠の彼であり永遠の彼女として顕現するシヴァ・シャクティの一対の真理の偉大な宣言とともに脈打っている。(注11)
クラールナヴァ・タントラ3(ヒンドゥー教)
あの天がいっぱいに育み、2 人の子を生んだが、それが男と女である。彼らが天上の形にそって天と地になった。地は天から注がれる水を飲んで生きる。上層の水は男であり、下層は女である。女は男から扶養される。下層の水は女が男を受け入れるように、上層の水の気を引く。そして、種を宿そうとする男の水と出会うため、水を浴びるのである。
ゾハール1.29b (ユダヤ教)
本有的特性は二つである。なぜなら、知恵は女であり、手段は男だからである。その後、この二つは、相対的なものと絶対的なものに区別される二重的なものとなった。男の中にこの二つの本質、すなわち悟りに対する思い(相対性)と、それから起きてくる至福(絶対性)がある。女の中にもそれは同様だ。すなわち、悟りに対する思いと、それから起きてくる至福がある。
呼金剛8.26 ~ 29(仏教)
陽の変化と陰の変化が結合し、水火木金土の五つの気運が生じる。五気が順調に広がって四つの季節が運行する。五行は一つの陰陽であり、陰陽は一つの太極である。
周敦頤太極図説(儒教)
― み言選集 ―
すべての存在世界は、ペア・システムになっています。人間も男性と女性、動物も雄と雌でしょう? 昆虫も雄と雌でしょう? 蝶も、鳥も、蟻もすべてそうであり、鉱物も同じです。鉱物も元素が107 個にもなりますが、それはむやみに合わさったりしません。
しかし、自分の相対になるものは、合わさるなといっても合わさるのです。プラスとプラスが互いに反発するものは、神様でもくっつけられません。しかし、相対性があれば、くっつくなと言っても自動的にくっついてしまうのです。
(203-355 ~ 356、1990.6.28)
宇宙を観察してみれば、すべての存在は陽性と陰性の二性性相の相対的関係を結ぶことによって存在していることが分かります。これは、鉱物という次元から出発してすべての場合に当てはまります。分子は、陽イオンと陰イオンの結合を通じて形成されます。植物の場合、生存と繁殖は、雄、雌を代表する雄しべと雌しべの結合を通じてなされます。動物の場合、このような二性性相がよりはっきりとします。魚類、鳥類、哺乳類等、すべての動物は雄と雌によって存在します。最後に、神様の最高の創造物である私達人間も、男性と女性に区分されています。最初の男性アダムと最初の女性エバは人類の始祖です。このような二性性相の存在目的とは何でしょうか。神様は、なぜこのような方式で創造をされたのでしょうか。創造主は、万物を陽性と陰性に区分し、これらが互いに愛を授け受けすることを通して結合するように創造されたのです。愛の行為を通じて、すべての種はその数を増やし、系譜をつないでいくのです。
(201-204、1990.4.9)
ペア・システムは宇宙創造の原則です。上下、前後、左右、子を生みながらすべての宇宙が生じたので、昆虫の世界から植物世界、動物世界、人間世界、天地、すべてペア・システムでできています。五官もペアになっています。手もペアであり、心と体もペアです。私達人間において最も問題になることは、心と体が一つにならないことです。目も両側が同時に瞬きします。鼻も一緒に呼吸します。唇も、話をするときに勝手にしません。聞くことも、三半規管があって、共鳴できるようにすべて一つになっています。手も、片手では仕事ができません。歩くのも、2本の足が協力しなければなりません。すべてが相対を必要としているのです。
動いて作用しようとするので、そうなのです。作用は独りではできません。独りで作用しては、神様には似ません。五官自体が父母に似ているので、相対関係を必要としています。相対関係に適応し、大きな宇宙が、相対性を中心として共同的な目的のために、対応的な、和合した世界に連結されてこそ、完成品になるのです。小さければ小さいなりに、大きければ大きいなりに、宇宙は宇宙なりに、対応関係によってバランスを保っています。それは、授受作用して運動しなければなくなるからです。
(391-174 2002.8.21)
創造するにおいては、人間を中心に、人間をモデルとして東西南北、四方に広げて橋を掛けて造ったのです。それで、すべての万物、鉱物、植物、動物界、すべてが相対になっています。すべて相対に造ったというのです。そのように縦的な道と横的な道をペアでつづりながら行くのです。ジグザグに行くもの、このように運動するもの、様々な形態の作用を経ながら、ペア・システムを中心とした万物は、理想的愛を訪ねていくことができる人間の教材です。
(173-212、1988.2.18)
あらゆる植物の種を見るとき、その内部に相対的な両側があるので、完全一体となったまま、一つの殻の中で胚子を通して授受作用することによってのみ、生命を繁殖するのです。卵を見ても、黄身と白身の間に胚子があるのですが、一つの殻に包まれたまま一体を成しているのです。人間の胎児も同様です。あらゆる生物は、主体と対象が授受作用によって一体化すれば、人間なら人間、植物なら植物はその原因に似て繁殖し、結局根本に還元するのです。このすべてが究極の第一原因に似たのであれば、その第一原因的存在も、主体と対象が完全一体化した基本形態として、すべての存在に対して主体格をもっているという結論になります。
(89-226、1976.11.27)
神様の立場で見れば、神様がいくら主体で、いくら絶対者だとしても、相対がいなければ孤独なのです。世界的に自分がいくら多くのものをもっていても、あるいは多くの知識があっても、また、多くの権力があったとしても、孤独単身の立場で喜ぶことのできる道はないのです。神様は、なぜ天地を創造されるようになったのでしょうか。神様は、絶対的な主体ですが、主体だけでいては喜びがあり得ないというのです。喜びというものは、一人でなされるものではなく、相対的関係においてなされるものです。平和も幸福も、一人でなされるのではありません。相対的関係においてのみ平和が成し遂げられるのであり、幸福が成し遂げられるのです。それゆえに、神様も独自的な立場では、神様の本分を果たすことはできないというのです。
(58-210、1972.6.11)
宇宙のすべての存在を見れば、主体と対象、プラスとマイナスのペアになっています。鉱物界、植物界、動物界、そして人間世界もすべてペア・システムになっているのです。なぜかというと、すべてがこのような相対関係を通して真の愛を願うからです。この宇宙の中で、絶対に一人では得られないものが愛ですが、反面、相対が現れることによって愛で連結されたすべてのものを得るようになるのです。同じように、子女なくしては子女を愛する父母の愛が現れず、子女に対する父母の愛の主人にもなれません。したがって、神様も、真の愛を成し遂げるためにその相対として宇宙と人間を創造されたのです。このように、子女の愛や兄弟の愛、夫婦の愛、そして父母の愛、すべてが主体と対象が一つになることによって現れます。主体と対象で一つになれば、この二つを分けることはできません。もし分けるとすれば、真の愛が破壊されてしまいます。ですから、離婚という概念はあり得ません。
(300-214 ~ 216、1999.3.14)
全被造万物を相対的につくったのは、神様の真の愛を受けるようにするためです。一つしかない愛を受けるようにしようというのです。それで相対的につくりました。そのような男性、そのような女性が神様の愛を、完成させ、神様の愛を自らに決定的に結びつけられる姿になれば、同じ立場で愛を分かち合える立場に立てば、彼らは間違いなくたった一つの理想的な夫婦になります。
(26-155 ~ 156、1969.10.25)
神様が人間を造られたのは、御自身のパートナーを造られたということです。真の愛のパートナーとして人間を造られたのです。それを手本として、宇宙がペア・システムをもって造られたのです。ですから、神様の愛も永遠であり、男性の愛も永遠であり、女性の愛も永遠であり、子女の愛も永遠です。これが神様の家庭です。ですから、この家庭は永遠の家庭なのです。
(201-193、1990.4.1)
2. 精神と物質の二重属性
― 宗教経典 ―
プラクリティ(根本原質)とプルシャ(個我)とは、二つとも無始であると知れ。諸変異と諸要素とは、プラクリティから生ずるものと知れ。プラクリティは、結果と原因を作り出す働きにおける因であると言われる。プルシャは、苦楽を享受することにおける因であると言われる。というのは、プラクリティに宿るプルシャは、プラクリティから生ずる要素(グナ)を享受するから。彼が要素と結合することが、彼が善悪の胎から生まれる原因である。この身体における最高のプルシャは、近くで見る者、承認者、支持者、享受者、偉大な主、最高の自己(アートマン)と言われる。動不動のいかなるものが生じようとも、それは「土地」と「土地を知る者」との結合によると知れ。バラタ族の雄牛よ。
バガヴァッド・ギーター13.19 ~ 22、26(ヒンドゥー教)
私達の体はただの一つの殻である。内外にただ天地の気運と陰陽があるだけである。
朱熹(儒教)
神は非物体的本性と物体的本性とを、また、先におかれた本性とあとにつづく本性とを不思議な仕方で結合させて魂あるものをおつくりになった。その御業の大いなること、おどろくべきことは、理性的動物であって、そのことゆえに地上のすべての動物にまさってすぐれている人間だけでなく、どんなに小さなねずみをもよく眺めるならば、精神をおどろかせ、創造者への賛美をよびおこすであろう。
アウグスティヌス神の国22.24 (キリスト教)
― み言選集 ―
400 兆にもなる細胞をもつ私達の人体を構成するにおいては、必ず循環過程の運動が連結されています。その循環運動を通して存続するのです。そうではないですか。血液は動脈と静脈を中心として循環し、神経系を中心として上下を連結させることのできる電気作用によって循環運動をするのです。見えない循環系統、見える循環系統の二重になっているのです。
(262-126 ~ 127、1994.723)
すべての存在は二重目的をもつ連体である。既に述べたように、すべての存在の中心には、性相的なものと、形状的なものとの二つがあるので、その中心が指向する目的にも、性相的なものと形状的なものとの二つがあって、それらの関係は性相と形状との関係と同じである。そして、性相的な目的は全体のためにあり、形状的な目的はそれ自体のためにあるもので、前者と後者は、原因的なものと結果的なもの、内的なものと外的なもの、主体的なものと対象的なものという関係をもっている。それゆえに、全体的な目的を離れて、個体的な目的があるはずはなく、個体的な目的を保障しない全体的な目的もあるはずがない。したがって、森羅万象の被造物は、このような二重目的によって連帯しあっている一つの広大な有機体なのである。
原理講論、創造原理3.1
この被造世界はどのように存在しているのでしょうか。軸があるのですが、その軸にも、二つがあります。見える軸と見えない軸、二重構造になっているのです。一つの主体を中心として回るのですが、その主体自身も回るのです。体と心が相対を中心として授け受ければ、互いに回るようになるのと同じことです。すべての存在物は、このような原則によって存在します。同様に、今日堕落した人間世界における復帰の道も、軸を直さなければいけません。軸を直さなければなりません。人間において、体の中心は心です。霊人体があるのです。霊を中心として、体がつながっているために、体は霊を中心として回るのです。心の命令に体が動くのです。心が「東に行け」と言えば、東に行かなければならず、「西に行け」と言えば、西に行かなければなりません。体が勝手にすることはできません。
(136-14、1985.12.20)
3. 授受を通して現れた二重属性
― 宗教経典 ―
雨水が地に落ちるたび、地球はその2倍の水分を送り上げる
創世記ラッパー13.13 (ユダヤ教)
本当に天と地の創造、また夜と昼の交替の中には、思慮ある者へのしるしがある。
クルアーン3.3190 (イスラーム)
主なる神が造られた被造物が、どれほど互いに世話になっているかを見よ。昼は夜に、夜は昼に、互いに世話になっている。しかし、これらは人間たちのように、互いに告訴したりしない。月は星に、地は天に、すべての神の創造物たちは、互いに世話になっているが、そうしながらも互いに裁判することはなく、平和を維持している。しかし、人間は、友に借りたものをかえって強奪し、奪おうとする。
出エジプト記ラッバー31.15 (ユダヤ教)
日往けば月来り、月往けば日来り、日月相い推して明生ず、寒往けば暑来り、暑往けば寒来り、寒暑相い推して歳成る。往くとは屈するなり、来るとは信ぶるなり。屈信相い感じて利生ず。尺蠖の屈するは、もって信びんことを求むるなり。竜蛇の蟄るるは、もって身を存するなり、義を精しくし神に入るは、もって用を致すなり。用を利し身を安んずるは、もって徳を崇くするなり。これを過ぐる以往は、いまだこれを知ることあらず。神を窮め化を知るは、徳の盛なり。(注14)
易経周易繋辞下伝2.5.2 ~ 3(儒教)
難と易はたがいに補いあい、長と短はたがいにそれぞれの位置をしめ、高と低はたがいに調和しあい、前と後とはたがいに順序をもつ。
道徳経2(道教)
何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まれる時、死ぬ時、植える時、植えたものを抜く時、殺す時、癒す時、破壊する時、建てる時、泣く時、笑う時、嘆く時、踊る時、石を放つ時、石を集める時、抱擁の時、抱擁を遠ざける時、求める時、失う時、保つ時、放つ時、裂く時、縫う時、黙する時、語る時、愛する時、憎む時/戦いの時、平和の時。
コヘレテの言葉3.1 ~ 8(キリスト教)
天地陰気が密接にまじわりあうことによって万物が見事につくり成され、男女がその精気を交合させることによって万物が生み成される。易に「三人行けば、一人を損す。一人行けば、その友を得」とあるのも、二つのものが力をあわせてこそ一つのことを成就し得るということを言っているのである。
易経、周易繋辞下伝2.4.13 (儒教)
さて天は高くして尊く、地は低くして卑いという事実にのっとって、易の基幹ともいうべき乾・坤の二卦が定立される。また天地間の万物があるいは高くあるいは卑く陳なり並ぶ事実にのっとって、易の各卦における六交の貴賤が位地づけられ、陰陽二気の動静に恒常的な条理の備わることにのっとって、易の各卦の剛交と柔交とが区分される。(注15)さらにおよその事が善悪邪正におもむく方向はその類をおなじくするもの同志で相い集まり、およその物は群れを同じくするもの同志で相い分かれることにのっとって、易の卦交の判断にも吉凶の別が生ずるのであり、陰陽の二気が天に在っては日月星辰の象を成し、地に在っては山川・動植物の形を成すことにのっとって、易の卦交にも陰が陽に変ずるという変化の作用が現われるのである。
易経、周易繋辞上伝1.1.1 ~ 5(儒教)
三十本の輻(や)が車輪の中心に集まる。その何もない空間から車輪のはたらきが生まれる。粘土をこねて容器ができる。その何もない空間から容器のはたらきが生まれる。ドアや窓は部屋をつくるために作られる。その何もない空間から部屋のはたらきが生まれる。これ故に、一つ一つのものとして、これらは有益な材料となる。何もないものとして作られることによって、それらは有用になるもののもとになる。(注16)
道徳経11(道教)
愛は巡り巡ってくる。愛された者は愛する者に似ることによって、愛する者を感動させる。すると、愛する者はその愛された者を迎えるために出ていく。最初に始めた者がすなわち最後になる。
トマス・アクィナス神学大全(注13) (キリスト教)
― み言選集 ―
授け受けするにおいて、差が一つもなければどうなるでしょうか。それは長く続くのです。石のようなものも、長く続く石はどのようなものでしょうか。完全に授け受けするものは長く続くのです。しかし、そこに不純物が入り込んでいるとき、完全に授け受けできないので、その差が大きければ大きいほど早ぐ崩壊するのです。ですから、宇宙の天法とは何でしょうか。存在の法則とは何でしょうか。それは授け受けすることです。完全に授け受けしなければなりません。良く授け、良く受ければ、長く存在しますが、良く授け受けできなければ崩壊してしまうのです。
(157-266、1967.4.10)
作用には必ず二つの作用体、主体と対象がその過程を通して、よりプラスにならなければなりません。そのような所においてのみ作用するという事実を、結論づけられるのです。ですから、作用の目的を見てみれば、これはプラス(主体)よりも大きく、マイナス(対象)よりも大きな第3の存在、結果的存在が出てくるようになるのです。
きょう皆さんは、ここに集会があると思って来たのですが、ここに来た目的はどこにあるのですか。それは、来るときのその心よりも、よりプラスになり得る、もう少しよくなり得る、その何かを求めてきたのです。もしここに来てマイナスになり得る結果をもたらしたとすれば、そのような作用はだんだんとなくなっていくのです。ですから、この現象世界で見えるすべての作用は、自らを減少させるために作用する存在は一つもないという結論を下せます。
(56-134 ~ 135、1972.5.14)
私自身を中心として見るとき、受けたいと思いますか、与えたいと思いますか。深刻な問題です。それで「統一原理」には授受作用という言葉が出てくるのです。授受作用で、この「授」が先ですか、この「受」が先ですか。与えることか先です。父母が子女のために与えますか、子女が父母のために与えますか。父母が与えるでしょう? これを見るとき、存在の最初の起源になるその方から与えることが始まり、作用が連結されたという論理を認めなければなりません。(注17)
(239-59、1993.11.23)
世の中のすべてのものは回ります。運動をしないものがありません。動くようになるとき、どこから始まるのでしょうか。皆さんはすべて受けることを願います。お金を引っ張り込むことを願います。それが正しいかどうかは、宇宙の原則から解いていかなければなりません。原則がそうであれば、神様も否定できないでしょう。神様が創造を始めるとき、受けようとして引っ張る力で創造したでしょうか、与える力で創造したでしょうか。与える力です。投入する力です。
(239-223、1992.11.25)
すべてのものは、一から多くのものに分かれ、結局、一つの大きなものに総合されます。このように発展するのです。一からいろいろなものに分かれ、一つに統合されるのです。ここでまた分かれて、より大きなものになります。より大きな一つの世界の中にすべて入っていくという話です。
(26-189、1969.10.25)
この宇宙には相対圏があるので、宇宙が、天運が保護します。ですから、プラスにプラスが来れば反発するのであり、またマイナスにマイナスが来れば一緒に反発するのです。この宇宙には和合力と排斥力があるのですが、相対するものは和合し、相反するものは排斥するのです。宇宙の天運は、自分を損傷させようとするものから自ら保護するようになっています。
このような原則的論理が符合する所においてのみ、相対圏が形成されるので、ここにほかのものが来るとき、相対圏か傷つくので反発するのです。反発する力が悪いものではありません。宇宙は、和合と同時に反発する作用があるというのです。和合力と反発力があります。相反する力があったとしても、それは一緒に同伴してマイナス化させるのではなく、天運の完成を助けるための作用をするのです。もし作用に対して反作用の力がなければ、歩くこともできません。
(227-36 ~ 37、1992.2.10)
妻が死んだり、夫が死ぬと、なぜ悲しいのですか。自分の夫が死んだといってなぜ妻は取り乱し、我を忘れて泣き喚くのですか。ただ泣くのではなく、ひっくり返って泣くのですが、なぜそのようになるのかというのです。男性と女性の相対圏を結び、愛を中心として永遠の宇宙の法の圏内に入っていたものが、相対圏が乱れることによって、皮膚が赤くなるほど押し寄せてくるその力によって悲しみと痛みを感じるのです。友人関係でも、その相対圏が、なくなった場合には寂しく思います。知識も友であり、お金も友であり、権力も友であり、すべて友です。その友人関係においてもそうだというのに永遠の主流となる愛の基準を中心として築いた相対圏を失ったその痛みは、宇宙と取り替えても消えない痛みだというのです。
その原則によって、数億ボルトの電気がプラスになるところには相対圏が必要なのです。そのプラスは、相対圏が成立しなくなるときは壊れます。一度、プラスの電気とマイナスの電気が相対圏をつくった場合、ここにほかのプラスが来れば、その相対圏は破壊されるのです。宇宙の保護圏を侵害するのと同じ立場に立つので、プラス同士は反発するのです。自分の相対位置を保護するための反発作用は、第2の保護作用です。宇宙は、そのような対応、反発という力によってバランスを取っているのです。それは悪い力ではなく、作用と反作用の平均によってバランスをとるようになります。それがどのようにして来るのですか。結婚する前の女性たちは、大勢の女性たちが集まって互いに腕組みをしながら歩けます。男性も同様です。子犬のようにじゃれながら、男性同士で村を騒がしくさせて歩き回ったり、互いにじゃれ合ったりして一つになります。
しかし、その男性がある日、結婚をして女性が来た場合に、自分より美男子の友人が自分の横に立って自分の妻の前に現れることを願うでしょうか。それを願う男性はいません。蹴飛ばしてしまうのです。「あしたから来るな、こいつ!」と言うのです。このとき、行けと言うのは悪いことではありません。「お前も私のように宇宙の法に合う立場に立て!」と言って蹴飛ばすのは、完成の道に導くことになります。
これは初めて聞く論理でしょう。ですから、どこに行ってもプラスとプラスのときは相対圏になりません。自分か大きくなれば、周囲の環境が、あの人が中心に立って相対圏を支配してくれないかと願うようになるのです。自分が相対圏に立つようこになるとき、全体がそのようになり、一つの関係を中心として相対理想圏をつくろうというよ
うになるというのです。
(218-335、1991.8.22)
このようなことが原則だとすれば、進化論は成立しません。対象の路程を通じたアメーバから猿まで、数千、数万回の愛の門を通じた雄と雌の関係を無視すれば、連結されないのです。雀もそうです。冬は相対のようなものが分からないので、戯れて、それぞれ別々のプラスになっていますが、春になって巣をつくり、相対圏をつくったときには絶対的です。第三者の雀に対しては雄と雌が一緒になって絶対的に排斥するのです。雌が来れば雄が排斥し、雄が来れば雌が排斥します。自分の相対圏を壊すのでそのようにするのです。宇宙の法圏内の侵略者になるので、それを排斥するようになっています。
(218-338 ~ 339、1991.8.22)
いわば弁証法的論拠があると見るのです。歴史的な上下闘争の概念があると見るのです。ヘーゲルはそのように見ました。これを解決できなければ、歴史のすべての理想世界も、上下関係の構造的組織をもった組織体の平和や理想郷というものも探し出す道がありません。強者は弱者を無視し、のみ込もうとし、冷遇し、どのように扱っても罪ではないと考えます。
(132-142、1984.5.31)
ある人々は、宇宙が力によってつくられたといいます。もちろん、すべての存在が力によって構成されていることは事実です。しかし、その力が存在するためには何が必要でしょうか。それぞれの存在は力自体ではありません。そこには必ず相対的な基準がなければなりません。私達は力を認める前に相対基準を認めなければなりません。相対基準を認めれば、主体と対象を認めなければなりません。
主体というのは、時によって変化する存在ではいけません。目的を決定し、永遠の存在圏をつくることのできる存在でなければならないのです。そこにおいて認められる相対的関係は、主体に対して相応できる関係でなければならず、相対的に反発する関係になってはいけません。
相対的関係というのは、「正」という基準「反」というものが互いに対立して、それが一つに統一されるという正反合の関係ではなく、主体の前に対象が応じる関係です。すなわち、主体と対象が相応し、共通の目的を中心に作用することを意味します。これが完全な授受作用をして相対圏に到達すれば力が現れるようになり、そのときに初めて中心が決定するのです。しかし、いくら作用したとしても、それが反対に作用すれば、世界は破壊されてしまいます。
(15-53、1965.2.7)
7) 相互依存
大小すべての存在は、相互依存的な関係の網で連携している。全体を離れて個体は存在できない。したがって、一つの分離された個体として「自分自身」を考えることは、認識の根本的な誤謬である。アインシュタインはそれを「意識の視覚的迷妄……私達を自らの個人的な欲望に閉じ込め、私達とごく近い何人かの人々に限定させる一種の監獄」と呼んだ。彼は、私達が「生きているすべてのものと、美しさに満ちた自然全体を包容することによって愛の範囲を広げ、私達自身をこの監獄から解放させなければならない」と言った。
事実、仏教の経典によれば、宇宙の最初から最後まで、すべての存在は因果の網、すなわち因縁の鎖に縛られている。このような理解は仏教の「無我説」の土台になる。すべての存在が「私」であり、「私」がすなわちすべての存在だという認識、それが仏教の慈悲倫理の核心である。その倫理こそ、人々が「私」の救いだけを目標と信じる個人主義の病弊を治療する治療薬である。事実、ほかの人々が苦痛の中にいる限り、誰も究極的な平和を得ることはできない。
― 宗教経典 ―
これ等の人々は自といふ念に囚われ、他といふ念に縛せられる。或るものはこれを知ることなく、又そを矢なりと見ず。矢なりと豫め見たる人には我は為すといふ念も起ることなく、他が為すといふ念も起ることなし。
感興偈70(仏教)
私達は、互いに体の一部なのです。
エぺソの信徒への手紙4.25 (キリスト教)
諸の因縁を遠離し、能作者あるなく、唯心の建立する所なり、我は是を無生なりと説く。諸法は因生に非ず、無に非ず、能所の分別を離る、我は是を無生なりと説く。其の心に外物の有と非有と(の相)を取ること無くむば、一切の〔邪〕見ことごとく断ぜむ、此を是れ無生の相〔とは謂ふ〕なり。因縁はともに集会す、是の故に生滅あり、因縁分散すれば、即ち生滅あることなし。……若し因縁の鎖を離るれば、生の義は得べからず。我は唯鉤鎖を説く、生なきが故に不生なり、(これ)諸々の外道の過を離る、凡愚の了る所にあらざるなり。
若し縁の鉤鎖を離れて別に生法あらば、是即ち無因論にして鉤鎖の義を破壊す。燈の能く物を照すが如く、若し鉤鎖の現ずるも〔亦〕然らば、これ即ち鉤鎖を離れて別に諸法あらむ。無生なれば即ち無性なり、体相は(猶は)虚空の如し、鉤鎖を離れて法を求むるは、愚夫の分別する所なり。一切の諸の世間は、是の鉤鎖に非ざるは無し。若し能く是の如く解せば、此の人は心に定を得む。
楞伽経78(仏教)
そのように他者のからだをも自分であると、なぜ把握しないのか。自分のからだを他者においても、そのようにすることは難しくない。自分自身には過失があり、他者においても海のような功徳〔があるの〕を知れ。我執を完全に捨て去ることと、他者を受け入れる修習をすべきである。あたかも「手などはからだの一部である」と考えるように、そのように衆生の一部として、なぜ生きものを考えないのか。あたかも、無我であるこのからだに慣れにより自分という心が生じたように、他の有情に対しても、慣れによって、自分という心をなぜ生じないのか。そのように、他者の利益をなしても、自賛も自慢も生じない。自分自身が食事を食べても、見返りを期待しないように。
菩提行論8.112 ~ 16 (仏教)
美があまねく美として認められると、そこに醜さがでてくる。善があまねく善として認められると、そこに不善がでてくる。だから、有と無はたがいに生まれ、難と易はたがいに補いあい、長と短はたがいにそれぞれの位置をしめ、高と低はたがいに調和しあい、前と後とはたがいに順序をもつ。だから、賢者は干渉しないでものごとを扱い、言葉のない教えをする。
道徳経2(道教)
人は誰もが他人との相互関係の中に置かれている。そして、その関係は運命という服をまとっている。一人に直接的な影響が加えられれば、ほかのすべての人に間接的にその影響が戻っていくものだ。ほかの人が自分の立場で本分を果たすとき、私もやはり自分の立場を取り戻すことができ、私が私の立場で責任を果たすとき、ほかの人たちも自分の立場を取り戻すことができる。
マーティン・ルーサー・キング・ジュニア
― み言選集 ―
宇宙はごく小さなものからこの上なく大きなものまで、すべて関係と連関性をもっている。
(16-119、1966.1.2)
すべての存在の中心には、性相的なものと、形状的なものとの二つがあるので、その中心が指向する目的にも、性相的なものと形状的なものとの二つがあって、それらの関係は性相と形状との関係と同じである。そして、性相的な目的は全体のためにあり、形状的な目的はそれ自体のためにあるもので、前者と後者は、原因的なものと結果的なもの、内的なものと外的なもの、主体的なものと対象的なものという関係をもっている。
それゆえに、全体的な目的を離れて、個体的な目的があるはずはなく、個体的な目的を保障しない全体的な目的もあるはずがない。したがって、森羅万象の被造物は、このような二重目的によって連帯しあっている一つの広大な有機体なのである。
原理講論、創造原理1.3.1
すべて相対性を中心として共同的な目的のために対応し、和合した世界に連結されてこそ、完成品になります。小さければ小さいなりに、大きなものは大きなものなりに、宇宙は宇宙なりに対応関係でバランスをとっています。なぜですか。授受作用、運動しなければならないからです。
(391-175、2002.8.21)
天運(注19)は自分のために生きようとするものはすべて否定しますが、人のために生きようとするものはますます抱いてくれるのです。目で例えれば、両方の目が1.2であれば、「いやあ! 気分が良い。はっきり見える」と目が喜ぶのです。なぜ喜ぶのですか。天運が保護するからです。天運が全宇宙に連結されるのです。それで永遠に見ることができます。無制限に透視されるので、その領域が無限定に拡大されていくのです。耳も同じです。相対のために生きるとき、関係性をもつようになります。相対のために生きることが関係性をつくる力だというのです。
(244-107 ~ 108、1993.1.31)
人体の中で目を見てみれば、簡単に見えますが、複雑なのです。目の細胞も、それぞれはすべて複雑です。すべて複雑ですが、一つの生命体として生活するにおいて、これが互いにぶつかり合うのではなく、互いに協助して共存しているのです。ですから、「私は目も何もすべて嫌いだ、手が一番だ」と言うことはできません。前後、左右、上下関係において、位置と階級に従って、必ずそれぞれ制約された法度と条件に順応しなければ、行く道がありません。通じる道がないのです。
(49-193、1971.10.10)
人類は何ですか。一つの細胞と同じです。そして、それが自分勝手になるのではなく、全体が一つの極を成すのです。極を成して、全体の中心となる神様と人間、人間がいれば、人間全体を合わせたものが、互いに相対的関係を中心として、これ自体が生命力の発露体、これ自体が愛の発露体として目的を成就するその原因と結果が一致すれば、目的が成し遂げられるのです。原因と結果が結合することによって、一つの目的を完成した価値体として現れなければなりません。
(110-73、1980.11.9)
私達人間が追求する最高の理想の要素が愛ですが、愛が良く授け良く受けられるようにしなさいというのです。私達の主体を中心として宇宙を連結し、すべて軸となって電気が連結されているように、軸を通して良く授け良く受ける木と同じだということです。一番の中心の根の先と芽の先は常に相対的です。これが良く授け良く受けてこそ大きくなるのであって、これが及ばなければ、根も小さくなり、すべて小さくなるのです。
(165-177、1987.5.20)
8) 原因と結果
蒔いたとおりに刈り入れるという格言、神様の審判に対する信仰、そして業報の教理などは、世界が正義によって支配されるという普遍的な考えを多様に表現したものである。諸宗教は、現世での運命や輪廻転生、または来世の生を通してでも正義は実現されるという、様々な特定の方式に関する教えを提示する。このようにすべての宗教は、正義はそのような方式で報いられるという点に同意する。慈悲深い創造者が意図したとおり、善の行為は報いられ、悪の行為は罰を受けるというのは、宇宙の固有な本質である。これが正に因果の法則である。
因果の法則は、神聖な法と同様に、究極的実在とどのように関連しているのか曖昧である。東洋の宗教における正義の法則は、宇宙の構成において本質的なものであり、このような点から、それは解脱という究極的目標に従属される。業と輪廻の車輪は、因果作用を示してくれるが、このようなものは人間存在のぞっとするような恐ろしい暗い側面にすぎず、輪廻の循環が消滅する涅槃と解脱という究極的目標とは無関係である。
一方、唯一神の宗教は、正義をするために罪を罰する神聖な審判官として神様を描写する。しかし、判官として子女を審判する役割が父なる神様の目的だとは言えないだろう。かえって神様は、愛と真理で人類を救援の道へと導く。したがって、文鮮明先生が指摘するように、私達は神様の審判を、その被造世界に対する主管、すなわち宇宙法則の作用を通して正義を具現するよう創造されたこの世界に対する主管に該当すると言える。
ここの節では、二つの側面の原因と結果に対して言及する。第1には、蒔いたとおりに刈り入れるという正義に対する言及である。文鮮明先生は、個人の人生においてのみならず、蕩減すべき罪を犯した国と民族の歴史においてもこの法則の例を提示する。諸経典は、たとえこの世界が不義を容認し、正しくないことを罰しないかのように見えたとしても、究極的な個人の応報は、天国または地獄に運命づけられた来世にあると語る。これに関して文鮮明先生は、その意味を増し加え、罪人たちは天使の審判のためではなく、地上の人生における悪行のために自ら地獄にとどまらざるを得ないと教える。
第2には、万物の成長と完成過程において作用する普遍的原理として、原因と結果に対する言及である。私達は、結果が原因と無関係に生じないということを知っている。むしろその二つは、互いに密接に結ばれている。仏教の核心教理である縁起論は、この概念の消極的な面を示してくれるが、それは無知が因果的連鎖を通して苦悩という人間の全体的状況に展開されるからである。道教の経典は、この概念の積極的な側面を示しているが、原因と結果は互いの尾をくわえながら回る天の運行だというのである。文鮮明先生は、原因者として神様がこの世に臨在し、この世のあらゆる所で役事されながら、結果として、最後には人間を通して自らを現すと教える。究極的に原因と結果である神様と人間は、愛を通して始まりと終わりとなり、ついには結合するようになる。
1. 因果応報
― 宗教経典 ―
思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。
ガラテヤの信徒への手紙6.7(キリスト教)
なんじらに降りかかるどんな不幸も、なんじらの手がかせいだためである。
クルアーン42.30 (イスラーム)
剣を取る者は皆、剣で滅びる。
マタイによる福音書26.52 (キリスト教)
暴力は苦痛を生むだけであるがゆえに、当然このことを理解して常に警戒しなければならない。
アーヤーランガ・スッタ3.13 (ジャイナ教)
灰は、それをまいたその人に舞い戻ってくる。
ヨルバ族の格言(アフリカ伝統宗教)
彼らは風の中で蒔き、嵐の中で刈り取る。芽が伸びても穂が出ず、麦粉を作ることができない。作ったとしても、他国の人々が食い尽くす。
ホセア書8.7 (キリスト教)
しかし愚かな者は、悪い行いをしておきながら、気がつかない。浅はかな者は自分自身のしたことによって悩まされる。火に焼きこがされた人のように。
法句経136 (仏教)
よろずの事の終末は神に帰着するのである。
クルアーン31.22 (イスラーム)
神に角がないのではない。彼にも角がある。あらゆる行為に対して、彼は厳しく審判を下される。
オヴァンボ族の格言(アフリカ伝統宗教)
この世においてなされた不正な行為(アダルマ)は牝牛〔が乳を出す〕ように即座には結果を生まない。しかし徐々に巡り来て行為者の根を断ち切る。
マヌ法典4.172(ヒンドゥー教)
人の運命の中に懺悔と幸福のための特別な門はない。それらは、人々自身がそれらを呼ぶことでついてくる。それらの報いは、まるで影が実体についていくように善と悪がついていく。
陰隲文、応報書1(道教)
大空の中にいても、大海の中にいても、山の中の奥深いところに入っても、およそ世界のどこにいても、悪業から脱れることのできる場所は無い。
法句経127(仏教)
自然の網はすべてを包みこむ。その目はあらいが、何も逃さない。
道徳経73(道教)
愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐は私のすること、私が報復する』と主は言われる」と書いてあります。
ローマの信徒への手紙12.19 (キリスト教)
不信心に向かってむてっぽうに急ぐ者のために、なんじの心を痛ませてはならぬ。かれらはいささかも、神をそこなわぬ。神は来世において、かれらに福分を与えることを望みたまわぬ。かれらは重い刑罰を受けるであろう。信じない者に、われが与える猶予を、かれら自身のために有利だと思わせてはならぬ。われはただ、かれらの不義を増長させるために、それを与えているのだ。かれらは恥ずべき刑罰を受けるであろう。
クルアーン3.176・178(イスラーム)
すべての取引には誓いが伴う。利益を求めようとする心が、生きているあらゆるものに宿っている。店の門が開き、商人たちは信用によって取引をする。取引帳簿が置かれ、そこに手で記録をする。お金を貸そうとする者は、誰もが来て借りていく。しかし、集金者は、定期的に毎日巡回し、債務者の事情は意に介さず、きちんと定められた金額をもらっていく。債権者たちは、彼らが要求できるものをいつでも取ることができる。審判は真理の審判であり、世の中のあらゆることは祝祭のためにある。
ミシュナ、アヴォート3.20 (ユダヤ教)
まして天地は物の中で最大である。理屈から言ってあらたかな神が宿って当然。神があるからには善を賞し悪を罰すること不思議でない。ただ神体が大きくて網の目があらいから、必ずしも打てば響くように反射的に発動するわけではない。.
抱朴子(注20)(道教)
マズダーよ、私くがみとめ奉ったのは、アフラよ、わたくしが、世を生み出し給う際の御身をはじめに見奉ったときで、そのとき、御身は創造の終末の一周に際し御身の善巧によって悪には悪い報応を、善には善い報応をと、行為とことばとをして報償をうけるように定め給うたのでした。
アヴェスター・ヤスナ43.5 (ゾロアスター教)
行なったとおり、実践したとおりになるのである。正しく行なうものは正しい者となる。悪を行なうものは悪となる。善の行為によって〔人は〕善となり、悪の行為によって〔人は〕悪となる」……「いま〔人びとはつぎのように〕いう。『人間(またはプルシャ)はただ欲望からなるものである』と。かれは欲求するように意向するものとなり、意向するとおりに行為をおこない、行為をおこなうと、それ(行為に応じた結果)となるのである」……
したがって、ここに〔つぎのような〕詩節がある。『それのみが真に実在するものであり、〔そこにかれは〕行為とともにおもむく。そしてそこにおいてはかれの性格と思考作用が付着している。さらにかれがこの世で行うその行為のおわりに達すると、かの世からにの世にふたたびもどる。行為のために……』(注21)以上は欲望をいだいている者である。
ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド44.5 ~ 6(ヒンドゥー教)
― み言選集 ―
体を中心として自分の生命を維持するにおいては、すべてのものが、主体と対象が授け受けする授受作用をよくしなければなりません。授け受けするすべてのものが、全体が良く授け、良く受ければ、その肉体が円滑に運動し、生存が継続します。ところが、どこかが詰まればどのようになるでしょうか。この宇宙は、神様の理想的存在型として良く授け良く受けるものはすべて擁護します。擁護するこの世界の要素の中で反対要素が発生し、欠如したり、ある所が詰まれば、擁護圏で作用できない不合格者になるのです。したがって、その反作用によって吐き出されるようになります。それは宇宙自体の保護のたのです。世界には作用と反作用があります。その反作用は悪いものではありません。大概、悪いものとして反対に見ますが、それは大きなものを保護するための作用なのです。
したがって、見る観点が変わらなければなりません。ですから、おなかが痛ければ、それはおなかを中心としてある主体の前に対象的な位置で、授け受けできる回路が詰まったというのです。詰まったので、詰まってしまった基準だけ反対に追い出すようになります。宇宙力によって追い出す力がそこに作用するので痛むのです。詰まったものを開きさえすれば、薬でその門を開きさえすれば、回復するのです。同じことです。私達の良心世界や、人のすべての世界が苦痛を受けるのですが、なぜ苦痛を受けるのかというと、それは宇宙力に不合格となり得る要素をもっているために、宇宙がそれを追い出すことによって良心の呵責を受けるのです。それが正常な方向であるにもかかわらず、そこに反対となる立場に立てば、その作用ができなくなるので、必ず反対に苦しめる作用が痛みとして現れるのです。反作用が現れて地獄行きになります。
(165-176 ~ 177、19875.20)
アメリカも、天主教から分かれた新教を中心として、ヨーロッパで新しい宗教に反対する旧教の中で、よく信じる教派を選んで移動させ、建設した国です。大移動したのです。大移動してここに基盤を築いたのです。アメリカはイギリスの延長です。ですから、イギリス人が果たせなかったことまでアメリカですべて蕩減しなければなりません。イギリスが今までアジア、中国に来て何をしたかというと、アジア人たちをすべて阿片で殺害してしまいました。今までアジア地域に来てそのような政策を用いたのです。それで勢力基盤を完全に崩し、麻痺状態になったものを自分たちが今まで支配してきました。ですから、その罪を蕩減しなければなりません。それをアメリカにいる皆さん、今若い家庭や高等学校の学生たちがすべて蕩減しなければなりません。そうしなければ滅びます。歴史に背いてしまうというのです。
(105-134、1979.10.4)
神様の愛の法に背くのは悪であり、怨讐であり、容認できない罪です。神様の前に怨讐であり、容認できない罪だというのです。罪の中で一番恐ろしい罪です。怨讐の中で神様が最も嫌う怨讐です。その道を是正できない者は、神様の怨讐であり、罪人として扱うので、激しく打って滅びるようにするのです。滅ぼすようにするのが原則です。皆さんの中にはイタリアのポンペイ市に行ったことのある人がいるかもしれませんが、その都市が滅んだのも、淫乱な愛の社会生活のためでした。ソドムとゴモラもそれで滅亡したのです。ローマもそれで滅びました。このような公式的な歴史観によって推し量ってみるとき、アメリカもそのような愛を是正せず、悔い改めなければ、滅びます。
(104-141、1979.4.29)
皆さん! 日帝下で反日地下運動をしていた私にとって、日本民族は怨讐でした。民族的にはもちろん、個人的にも怨讐でした。しかし、日本が敗戦したのち、私は日本人を愛しました。地下独立運動をしたといって引っ張られていき、ひどい拷問をした日本の警察官たちは、私の一言ですべて処刑される立場だったにもかかわらず、かえって追われている彼らを安全に送ってあげたのです。今日、日本の多くの若者たちが、なぜ私に永遠の命を懸けて忠誠を果たすのか分かりますか。因果法則によって報いなければならない原則があるからです。それは国家を超越し、神様の心情的なみ旨に従い、世界に向かって真の愛を植えたからです。国家的な怨讐を愛し、生きる道に導く心情的基盤を植えたために、自分たちも知らないうちに、天命に従っているのです。
(316-82、2000.2.10)
2. 因果の連鎖
― 宗教経典 ―
世間は行為によって存在し、人々は行為によって存在する。生きとし生ける者は業(行為)に縛せられている。あたかも進み行く車が轄に結ばれているようなものである。
スッタニパーダ654 (仏教)
あるとき、悟りを開かれたばかりの世尊はウルヴェーラー村のネーランジャッラー河畔の菩提樹の根方におられた。さてそのとき、世尊は七日間同じ姿勢で坐ったまま解脱の楽しみに浸っておられた。その七日が過ぎて、世尊はこの三昧から出られ、宵のうちに、次のような順序を追って、正しく縁起に心を注がれた。これがあるときこれがある。これが生ずるときこれがある。すなわち、無明(無知)によって行(迷いの生活行為)があり、行によって識(心)があり、識によって名色(個体を成す心身)があり、名色によって六処(内なる心と外界を知覚する六つの領域)があり、六処によって、触(内なる心と外界との接触)があり、触によって受(心による外界の感受)があり、受によって愛(渇きのごとき強い欲望)があり、愛によって取(執着)があり、取によって有(迷いの生存)があり、有によって出(出生)があり、生によって老い・憂い・悲しみ・悩み・悶えが生ずる。この苦の集まりである人間存在はそのようにして起こるのである。
感興偈1.1(偈仏教)
人間はその生命のはたらきを天地の根源より受けたのであるから、その霊妙な働きにたちかえって生きなければならない。
荘子27(道教)
見よ、私はすぐに来る。私は、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。私はアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。
ヨハネの黙示録22、12 ~ 13(キリスト教)
― み言選集 ―
物事には原因と結果があり、結果は過程を通過するので、原因と結果は一つになります。一致するには、過程という条件が必要です。過程という条件は、原因に通じなければならず、結果に応じなければなりません。そのような関係を離れては一つになることはできず、目的完成もできないのです。出発点がなければ目的もありません。
(15-130、1965.10.3)
本質世界と現象世界との関係は、例えていうならば、心と体との関係に等しく、原因的なものと結果的なもの、内的なものと外的なもの、そして、主体的なものと対象的なものとの関係をもっているのである。
原理講論、総序
どこに行かなければなりませんか。いつも喜べる所、あるいはいつも喜べる方を訪ねていかなければなりません。この方が絶対者である神様なのです。神様は、動機の世界と結果の世界にいらっしゃいます。すなわち原因と結果としていらっしゃるのです。ですから、アルファでありオメガだと言ったのです。人間が原因と結果の過程にいることを知れば、神様と人間の関係を知るようになります。歴史は、原因の世界から結果の世界に向かっています。ですから、人間の良心はこの過程の道を進んでいるのですが、歴史の流れが早いので、これについていこうとする良心は2倍に忙しいのです。動機は神様がなり、人間を結果として立てなければなりません。堕落しなければ、人間が歴史の原因になっていたでしょう。ですから、原因をもてなかったことが堕落です。
(11-114、1961.2.19)
主体と対象は一つにならなければなりません。原因と結果も必ず一つにならなければなりません。聖書を見れば、神様が「私はアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終りである」(黙示録22・13)と言いました。二つが離れるのですか。一つになるのです。神様がアルファであれば、私達人間はオメガです。神様が最初の者であれば、私達は最後の者です。神様が初めであれば、私達は終わりです。
(69-76、1973.10.20)
誰であっても、根本を否定する人は結果をもてません。すべての息子、娘の根本は父ですが、その父を否定すれば、結果である息子、娘をもてません。これは論理的です。原因と結果が一つになることによって、理想や喜びのようなものがあり得ます。女性が母になる原因も自分自身にあるのではありません。
(328-185、2000.8.3)
男性を通して女性世界を1周回って、二人が一つになります。二人がぐるっと1周回れば、出会います。出会えば、上がっていかなければなりません。同様に、女性と男性が出会って、互いにために生きなければなりません。男性と女性が結婚し、1周回って出会い、神様のために犠牲になるのです。そこから正分合です。愛のために分かれて、愛のために出会ったので、愛のために原因と結果が一つにならなければなりません。原因と結果の内容が一つになったところにすべて結びついて、初めて種になります。授受作用の循環的法度を通さなければ、統一世界はできません。
(389-303、2002.8.7)
第3章 人生の目的
人生の目的
1) 神様の完全な喜びのために
被造物として人間は、創造主によってある目的をもって創造された。特に唯一神の諸宗教において、神様が自らに仕え、愛し、自らに栄光を返すために人間を創造したと理解する。そうだとすれば、人間は仕えることと服従することだけでも完成することができる。しかし、神様は父として、私達人間が世の中で全人類に愛と慈悲を広く展開することによって、その形状と姿に似た子女になることを願うだろう。いくつかの経典でも、神様はあらゆる現象を享有する方として描写されている。神様は、創造目的が完成されたとき喜ぶだろう。神様にそのような喜びを返してあげなければならないのが私達人間の特権である。文鮮明先生は、創造性を備えた相対として人間を造られた神様の創造目的を説明しながら、私達人間が神様の愛に満ちた家庭を成し、互いに愛で万物と一つになるとき、神様は自らの分身として愛の本性に似た多くの子女たちを見て喜びを享受すると教える。ところが、人類始祖の堕落によって、人々は愛が満ちた家庭を築くことができなかっただけでなく、愛によって万物を主管することもできなくなった。したがって神様は、今まで満ち足りた喜びを享受できずにいらっしゃる。(第6 章13「神様の悲しみ」参照)
1. 人生の目的は神様に仕えること
― 宗教経典 ―
私に仕えさせるためにのみ、ジンと人間をつくったのである。私はかれらにどんな糧も求めず、また私の扶養されることも求めない。まことに神こそは、糧を授けたもう方、偉力の主、堅忍の主であられる。
クルアーン51.56 ~ 58(イスラーム)
神が御自身の世を造られるとき、ひとえに御自身の栄光のために創造された。それゆえ預言者イザヤはこのように歌った。「彼らは私の民だと呼ばれる者たち、私の栄光を輝かせようと私が創造した私の民、私の手で造り出した私の民である。」
ミシュナ、アヴォート6.11(ユダヤ教)
私達にとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、私達はこの神へ帰って行くのです。
コリントの信徒への手紙一8.6 (キリスト教)
神は、男の信者も女の信者も、……永遠(エデン)の園の中の立派なやかた、そこに住むことを約束したもうた。だが最も偉大なものは、神のご満悦である。それこそは、至上の幸福の成就である。
クルアーン9.72 (イスラーム)
神を畏れ、かれのおよろこびを求めて、その家の礎を定め建てる者と、砕け崩れそうながけのふちに、その家の礎を定めて建て、地獄の火の中に共に砕け落ちる者と、いずれがすぐれているか。神は、不義を行う民を導きたまわぬ。
クルアーン9.109 (イスラーム)
私が今日命じるとおり、あなたの神、主を愛し、その道に従って歩み、その戒めと掟と法を守るならば、あなたは命を得、かつ増える。あなたの神、主は、あなたが入って行って得る土地で、あなたを祝福される。
申命記30.16 (キリスト教)
人が至上のものとする知恵や作為の道をひろめることなく、天において至上とされるもの――自然の道をひろめなければならない。天の道をひろめれば自然の幸福が生まれるが、人の道をひろめれば、危害が生まれる。
荘子19(道教)
もし人々が神を知り、その方の能力の偉大さを発見することがあなたの願いならば、私ではない誰か他の人の目ではなく、私自身の目で私を見よ。そうでなければ、たとえあなたが私の王国が持続する間、私の動機を慎重に考えるとしても、あなたは決して私を知ることはできない。
バハオラ落穂集127(バハイ教)
― み言選集 ―
本来、人間は、父母である神様の前で、幸福で生気に満ちあふれた喜びの中で生きていくように創造されました。そして、神様の栄光のために存在するように創造されました。
(52-36、1971.12.12)
人間は何を目的としなければならないのでしょうか。個人を目的とすることより、家庭を目的とすることより、団体を目的とすることより、国家を目的とすることより、世界を目的とすることより、天地を目的とすることより、神様を中心として神様と人間が一つになることを目的として進んでいかなければならないのです。
(41-323、1971.2.18)
私達は何を中心として生まれ、何を中心として行かなければならず、何を目的として行かなければならないのでしょうか。ここで、神様抜きにしては絶対にいけません。神様を抜きにしては動機のない因縁になるのです。動機をもつことができない人は、どんなことを成就しようとしても、その結果を収めることができず、価値を認めてもらえないのです。ある建物を建てるときは、設計者が設計した設計図に従って建築するようになります。設計の原本もなく建てられた建築物は、設計者が目的とした建物になることはできないのです。
(21-100、1968.11.17)
先生の生活は、神様のために生きる生活です。神様とこの世界のために生きると考えなければなりません。自分のために生きると考えてはいけないというのです。その次には、人類のために生きると考えなければなりません。神様と真の父母と人類です。それで皆さんは、神様と真の父母と人類を考えなければなりません。今まで皆さんが、どれほど天が願う生活と一致したかということを、常に比較しなければならないのです。(147-115、1986.831)
2. 人間を見て喜ばれる神様
― 宗教経典 ―
神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。
創世記1.31 (キリスト教)
私は隠された宝ゆえに、私を知らせるために被造物を創造したのである。
ハディース(イスラーム)
萬有の主よ汝に南無す。汝は凡ての自我にして凡ての作者たり。汝は凡ての食者(経験者)にして、凡ての生命なり、而して又汝は凡ての戯楽主たり。
マイトリ・ウパニシャッド5.1 (ヒンドゥー教)
幸福は真理と愛から生じる霊的なものである。それは利己的ではない。それで、それはひとつで存在することはできず、あらゆる人間がそれを一緒に分かち合うことを要求する。
科学と健康57(クリスチャン・サイエンス)
若者がおとめをめとるように、あなたを再建される方があなたをめとり、花婿が花嫁を喜びとするように、あなたの神はあなたを喜びとされる。
イザヤ書62.5 (キリスト教)
せかいぢうみな一れつハすみきりて
よふきづくめにくらす事なら
月日にもたしか心がいさむなら
にんけんなるもみなをなし事
このよふのせかいの心いさむなら
月日にんけんをなじ事やで
おふでさき7.109 ~ 111(天理教)
そのあなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。神に僅かに劣るものとして人を造り、なお、栄光と威光を冠としていただかせ
詩編8.5 ~ 6(キリスト教)
(あらゆる欲望を達せるものなるブラフマンには、いかなる行動目的も存し得ず。)しかるに(ブラフマンの世界創造は、)単に遊戯のみにすぎず。あたかも世間において(見らるる遊戯)のごとし。(故に特定の目的を有せず)
ヴェーダーンタ・ストラ2.1.32 ~ 33(ヒンドゥー教)
われは天と地、ならびにその間にあるものを、戯れにつくったのではない。もし遊戯が、われの望みならば、きっとわが手近なものからそれを選んだであろう。もしわれがこんなことをするならば。いや、われは真理を虚偽に投げつけて、その頭脳を砕く、見よ、虚偽は消滅する。……天と地のよろずのものは、かれの有(もの)である。またその側近にある天使は、かれに仕えて高慢でもなく、疲れることもない。
クルアーン21.16 ~ 19(イスラーム)
神はこの世とそこに住み動くあらゆるものを創造し、神の拘束されない卓越した御意により人間に神を知り愛する独特の特異性と能力――全創造の基礎をなす発生進力、また主なる目的と見なされるべき能力――を与え給うた。すべての創造物の内奥の各実在に、神はその諸々の名の中のある一つの名の光を注ぎ、神の諸々の属性のうちのある一つの属性の栄光を受け入れるものとなし給うた。
バハオラ落穂集27(バハイ教)
アッラーの預言者が言った。「神様がおっしゃるには、私が勝利者になるためではなく、勝利しなさいとして人間を創造した。
アル・ガザーリー宗教諸学の再興(イスラーム)
― み言選集 ―
神様は、私の生活を通して喜びを味わおうとして、私を訪ねられた。御旨の道、人格神様がいかに絶対者だとしても、独りでは幸福になることができません。「うれしい」という言葉や「幸福だ」という言葉は、独りでは成立しない言葉です。必ず相対的関係を備えた所で成立するのです。一生を声楽家として生きてきた人でも、もし無人島に捨てられ、独りで喉が張り裂けるほど歌を歌ったとしても、幸福でしょうか。自存される神様も、喜び、幸福であるためには、必ず授け受けできる愛の相対が必要なのです。
平和神経、平和メッセージ1.15、2005.9.12
神様は、真の愛を施すことのできる対象を必要としていらっしゃいました。これが創造の動機です。神様の創造は必然でした。真の愛の創造理想は独りで成す理想ではありません。御自身の気高く、善のみ旨を人間と共に喜ばれるための理想です。
真の愛の神様を正しく理解すれば、今日の罪を犯して争う不幸なこの世界は、神様の本来の計画ではなかったことが自明のものとなります。
(400-81、2002.12.27)
家庭には必ず、父母がいなければならず、妻子がいなければなりません。そうであってこそ、その家庭が幸福の基台となるのです。神様が人類を探し求めてきた目的も、神様御自身の幸福を模索するためであったに違いありません。ですから、神様御自身が幸福の基台を求めてくるにおいて、人間を離れたところではそのような理想はあり得ないのです。人間と関係を結んでこそ、一致点をもたらすことができるのです。私達が家庭において、情緒的な内容をすべて備えた立場で幸福を感じるのと同じように、神様もやはりそのような立場で幸福を感じようとなさるのです。
(32-197、1970.715)
神様に「あなたがこの世界を一つの世界にして何をするのですか。何をしようとそのような世界を願われるのですか」と尋ねれば、「ああ、一つの世界になれば喜ばしいので良いのだ」とおっしゃるでしょう。なぜ良いのですか。良くて何をするのですか。良いのは喜ぶためですが、喜んで何をするのですか。神様はお金がなくて悲しまれますか。神様は知識がなくて悲しまれますか。神様は権力がなくて悲しまれますか。神様がお喜びになれないものが一つあるのですが、それが正に愛がないことです。愛がなくて悲しまれるのです。神様と人と万物を一つにできる愛さえもてば、神様は喜びの神様になるのであり、栄光の神様になるのであり、さらには、幸福の神様になれるということです。ですから、最も重要なものとは何ですか。神様の心情と人間の心情を通して万物までも吸収できる愛の力をもったものが、最も貴いのです。
(113-315 ~ 316、1981.5.10)
神様は、人間を造られるとき、あらゆる精誠をすべて尽くされ、また心血と御自身の生命の核心をすべて傾けて造られたのであり、ありったけの愛と愛情を注がれて造られたのです。いかなる力をもってしても、離そうとしても離すことができず、分かれようとしても分かれることができない因縁の中で造られたのです。このように造られた人間なので、そのような人間を見つめられる神様には、初めて平和が宿るのであり、すべての情と幸福は、その人間を通してのみ宿ることができるのです。
(20-207、1968.6.9)
神様は、天地万物を、見て喜ぶためにつくられました。今日の既成教会員たちが言うには、「神様は創造主であられ、私達人間は被造物だが、創造主と被造物が同じになり得るか。違うだろう」と言います。それは正に、神様は常に独りで絶対的な位置、相対がない位置にいなければならないという話です。それ以上の不幸はありません。いくら父が国の大統領の権限をもったとしても、母が死んで一人で暮らしているのに、「一人で暮らしているのでどれほどお幸せですか」と言う息子がいれば、「こいつ、何か幸せだ!」と言うでしょう。そのような状況なのに、父が世界的な大統領だからといって、「お父さん、幸せでしょう?」と言えば、「おお、おお、幸せだ」、そのようになっていますか。孝子であれば、一人でいる父に、「お父さん! 私が母を一人お連れしましょうか」と言ってこそ孝子です。
(57-247、1972.6.4)
神が被造世界を創造なさった目的は、人間をはじめ、すべての被造物が、神を中心として四位基台を完成し、三大祝福のみ言を成就して、天国をつくることにより、善の目的が完成されたのを見て、喜び、楽しまれるところにあったのである。それゆえに、人間を中心とする被造世界が存在する目的は、神を喜ばせることであった。
原理講論、創造原理3.1
2) 神様の形状
どのようにして人間が神様に似たということを描写できるのか。この節と次の節は、三つの側面からこの主題に関して説明する。第1に、人間は神様の形状として創造された。第2に、人間は神様の霊が臨在する器である。第3に、私達は神様の愛らしい子女たちである。
ユダヤ教とキリスト教の諸経典は、人間が神様の形状として神様に似て創造されたと教える。神様の形状は、神性、真理、正義、愛などの理想を言う。聖者や自我を完成した人は、神様の神性を表す天国と似ている。このような理想に到達するためには、内的人間の変化、すなわち文鮮明先生が言及したように、「人格革命」を必要とする。
文鮮明先生の教えは、人間が神様に似るいくつかの方法に対して説明してくれている。
先生は、全知、全能、絶対、永遠など、神様の属性を検討し、人間がこれと同一の品性をもつために努力していると語る。さらに、このような諸品性をもつことは、神様から受けた私達の本性的権利である。
また、諸経典は、男性と女性がすべて神様の形状の中にとどまると断言する。神様は、ひとえに自らと完全な愛を分かち合うことのできる相対として人間を創造されたため、人間は一様に完全に神様に似なければならない。それゆえ、人間が堕落していなければ、結婚によって一つになった男女により、神様の形状を完全に成就できたのである。
1. 人間は神様にどのように似たのか
― 宗教経典 ―
おお人の子よ! わが太古よりの存在と、わが本質の不変の永遠性に包まれて、われ汝への愛を知った。さればこそ、われ汝を創った。汝の上にわが面影を刻み、汝にわが美を表わした。
バハオラ隠されたる言葉3、(バハイ教)
神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。(注1)
創世記1.26 (キリスト教)
ラビ・アキバは言った。「人は愛を受ける存在だ。彼らが神の形どおりに創造されたからである。しかし、創世記9章6節に『人は神にかたどって造られたからだ』と教えてくださるように、格別な愛で人にこの事実を知らせてくださった」
ミシュナ、アヴォート3.18、(ユダヤ教)
それでなんじは純正な教えに、なんじの顔をしっかり向けよ、神が人間に定めたまえる天性にもとづいて、かれの本性に従い奉れ。神の創造に、変更があるべきではない。それが正しい教えである。
クルアーン30.30(イスラーム)
あなた自ら神の性格に一致するようにせよ。
アブー・ヌッアイム・ハディース(イスラーム)
明(太陽)が地上に出れば、あたりをくまなく照らす。君子はこの卦象にのっとって、みずからの明徳をあきらかにして人に仰ぎ見られるようにつとめる。
易経35(儒教)
もし人々が天と同じであれば、地から受けたその心を正しくもつとき、それが正に神である。
清和天皇に下った啓示(神道)
神は慈悲深く恩恵に満ちた方だと呼ばれるがゆえに、あなたも慈悲深く恩恵に満ちた人になりなさい。すべての者たちに無償で贈り物を与えなさい。神が義で愛多き方であられるがゆえに、あなたも義で愛を施す者になりなさい。
申命記スィフレイ(ユダヤ教)
この世のすべてのものはそれ(「有」)を本質としている。それは真に存在するものである。それはアートマンである。……おまえはそれである。
チャーンドーギャ・ウパニシャッド6.8.7 (ヒンドゥー教)
無知に被われて凡夫と覚者(ブッダ)の心は異って見えます。だが心の精髄の境地では、それらは〔平等〕一味のもの
ミラレパ(仏教)
主はモーセに仰せになった。イスラエルの人々の共同体全体に告げてこう言いなさい。あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主である私は聖なる者である。
レビ記19.1 ~ 2(キリスト教)
父よ、全能の力よ! あらゆるものの中にあるその力よ! 私達に下りてきて、私達を満たしたまえ。私達があなたのようになるまで、私達があなたのようになるまで。
スー族の祈り(アフリカ伝統宗教)
「ヴァーセッタよ、どう思うか。梵天は妻帯しているか、していないか」(注2)
「妻帯していない。ゴータマよ」
「心に恨む気持ちがあるか、ないか」
「恨む気持ちはない。ゴータマよ」
「心に悪意はあるか、ないか」
「悪意はない。ゴータマよ」
「心が汚れているか、いないか」
「汚れていない。ゴータマよ」
「自制心があるか」
「自制心がある。ゴータマよ」
「ヴァーセッタよ、どう思うか、三ヴェーダに詳しいバラモンたちは、妻帯しているか、していないか」
「妻帯している。ゴータマよ」
「心に恨む気持ちがあるか、ないか」
「恨む気持ちがある。ゴータマよ」
「心に悪意があるか、ないか」
「悪意がある。ゴータマよ」
「心が汚れているか、いないか」
「汚れている。ゴータマよ」
「自制心があるか」
「自制心がない。ゴータマよ」
「ヴァーセッタよ、梵天は、妻帯していないが、三ヴェーダに詳しいバラモンたちは、妻帯している。妻帯しているバラモンたちが、妻帯していない梵天と交際し、親しくなるということがあるだろうか」
「そのようなことはない。ゴータマよ」
「ヴァーセッタよ、その通りである。妻帯している三ヴェーダに詳しいバラモンたちは、身体が亡びた後、死んだ後、梵天と共生するであろうというが、この事に根拠はない」
ディーガ・ニカーヤ13.31 ~ 34 テーヴッジャ・スッタ(三明経)(仏教)
人間とは何か。人間は物質ではない。それは、頭脳、血液、骨、そしてほかの物質的要素で組み立てられた存在ではない。聖書は、人間は神の形と姿どおりに造られたと私達に教えてくれる。物質は姿ではない。霊の姿は霊とあまり異なるものがない。人間は霊的であり完全だ。そして、霊的であり完全なので、クリスチャン・サイエンスで人間はそのように理解されなければならない。人間は、観念であり、形状であり、愛である。人間は肉体的構造ではない。
科学と健康475(クリスチャン・サイエンス)
彼らは、根本において正義なるもの、美しいもの、節制あるもの、そして彼らが人間たちの中に生じるようにしようとするものに対して注目するでしょう。
そして、さまざまな活動要素を一つに混ぜ合わせて人間の姿を造成するので、これはホメロスも、人間の中に現れた神の姿であり、神に似たものだと言ったのです。
プラトン国家6(ヘレニズム)
ともかく、神は決して不義ではありません。神は完全な義です。私達の中で最も義なる者は、最も多く神に似た者です。
プラトンテアイテトス(ヘレニズム)
― み言選集 ―
神様はどのような方でしょうか。皆さんにこのように尋ねるとき、「神様はどのような方か。神様は神様のような方でしょう」と答えます。それは私達に実感がわきません。神様はいったい誰か、どのような方かという問題について考えてみるとき、私達人間に一番良い答え、すべての人間たちが願う最高の答えがあるとすれば、私のような方だということです。最も大きな答えがあれば、私達の国のような方だ、私達の世界のような方だ、私の兄のような方だというものですが、兄でも遠いのです。父母でも私と違います。結局、神様はどのような方かというとき、私のような方だというのです。
(127-233、1983.5.15)
神様も独りでは絶対に愛することができないので、必ず愛することのできる一つの対象をつくらなければなりません。それで、その対象として被造万物をつくったのですが、その被造万物は、御自身の形状をそのままかたどって展開させてつくったのであり、その中で御自身の人格を身代わりできる存在として創造的な立場に立てておくために造ったのが人間なのです。このような人間は、神様が喜ぶときに一緒に喜ぶことができ、悲しむときに一緒に悲しむことができる素性をもたなければなりません。このような神様の内情を体得し、体感できる人にならなければ、いくら神様が人間を愛しているとしても、その人と互いに和動し一つになれる立場に立つことはできません。ですから、神様は人間を造られるとき、互いに喜ぶことができ、またその愛を感じることができるように造らざるを得ないのです。それで人間を絶対者の相対的な立場に立てるために、絶対者と同じ価値をもつことができるように造ったのです。
(39-9、1971.1.9)
人は自分に似たものを好みます。世の中は誰に似たのでしょうか。これから理想世界は誰に似なければならないのでしょうか。神様に似なければなりません。それでは、神様は天地を創造されるとき、どのようにつくったでしょうか。創世記第1章27 節に何とありますか。「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」とあります。神様にかたどって創造したというのです。誰に似るように皆さんを造ったというのですか。神様に似るように造ったのです。結局、私達が自分に似たものを好むので、神様は、私達が神様に似ることを喜びます。それで神様は、天地万物をつくっておかれ、神様に似たものを御覧になりながら喜ばれるのです。
(26-167、1969.10.25)
似るときはどこから似なければなりませんか。神様は、神様の法度を中心として永遠の愛、全知全能、遍在する方としていらっしゃいます。神様は全知全能であられ、遍在され、永遠なる方ですが、私達はどこから似なければなりませんか。私達が神様に似たとすれば、どのようにならなければならないでしょうか。神様が永遠であられるなら私達も永遠でなければならず、神様が遍在されるのなら私達も遍在しなければなりません。ですから、世界のあらゆる所に行って暮らしてみたいと思うでしょう? 全知全能の力をもって全世界を一度に握ってみたいと思うでしょう? そのようにしたいと思うことが神様に似たというのです。
それでは、神様は自分の何に似れば一番喜ばれるのでしょうか。似るにおいて一番の根とは何であり、先祖とは何でしょうか。遍在することよりも良く、全知全能であることよりも良く、唯一無二であることよりも良いことは何でしょうか。愛です。そのようなものをすべて与えても、一つの家庭になり得るたった一つの根源は愛です。神様に最も似るようにしたものとは何ですか。愛です。その愛にさえ似れば、すべてを失ってしまっても、結局は、自分自身が行くとおりに何でもすべてついてくるようになっています。三文の値打ちもないほど醜い女性でも、愛さえあれば、立派な独身男性がついていくのです。
(26-167、1969.10.25)
神様は明らかに存在します。真の人とは神様に似た人です。このような真の人があふれて暮らす世界を成し遂げようとすれば、人間革命ではなく人格革命をしなければなりません。神様の神格に似ることが人格革命です。神格と対等になれる基準まで合致するようにするのが人格革命です。神様は、知識も、お金も、権力も必要ありません。
(149-271、1986.11.27)
神様は最も公的な方であり、サタンは徹頭徹尾、自分を中心とする私的な存在です。ですから、神様に帰ろうとすれば、復帰の公式は結局、神様に似ることなので、徹頭徹尾私的なものを犠牲にして公的なものを立て、自分を中心とする利己主義から人のために生きる利他主義に戻って、奉仕生活をしなければならないのです。公的な人は、神様に似たので必ず栄え、私的な人は、神様に背いたので、結局滅びるというのが天理です。
(88-209、1976.9.18)
2. 家庭で完全に現れる神様の形状
― 宗教経典 ―
神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。
創世記1.27 (キリスト教)
われは彼なり、汝は彼女なり。われは旋律なり、汝は詩節なり。われは天なり、汝は地なり。われら二人はここに共に住み、子供達の親とならん。
アタルヴァ・ヴェーダ14.2.71 (ヒンドゥ教)
愛の福音は……。もうこれ以上、結婚した二つの個人としてではなく、一つの存在内にいる二つの個体的本性として、男性と女性の一致を提供する。そして、この合わさった霊的個体性は、一つの有形的存在としてではなく、父母として神を反映する。この神聖に統一された霊的意識から永遠の天国の喜び(神の創造の完全性)に進んでいくのに障害物はない。
科学と健康576(クリスチャン・サイエンス)
― み言選集 ―
アダムとエバは、何でしょうか。アダムとエバは、神様が入っていける家です。コリント人への第一の手紙第3章16 節にあるみ言と同じです。「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか」と言われたみ言を見ると、アダムとエバは神様の家なのです。何がとどまる聖殿ですか。神様の何がとどまる聖殿なのかということです。神様の愛がとどまる聖殿だというのです。神様は何をもって愛するのでしょうか。アダムとエバは神様の家であり、神様の体なので、神様の体をもってアダムとエバが愛するというのです。これが宇宙の秘密です。これを知りませんでした。アダムとエバを誰が愛するのですか。堕落していなければ、アダムとエバを誰が愛するのですか。神様が愛するのです。アダムとエバは神様の愛の聖殿です。
(161-44、1987.1.1)
神様の性相と形状を分けたものが人ですが、人は性相と形状からなる男性と女性なのです。それが完全に時になれば、彼らが父母、すなわち天地父母になります。そして、その中間に、その骨に神様がいるのです。
(341-239、2001.1.2)
一男一女は無形であられる神様の実体対象として表れた息子、娘です。男性は神様のプラス(+)性稟を、女性は神様のマイナス(-)性稟を表した実体対象です。創造の理念は、両性の中和体としていらっしゃる神様の性相を二性に分立したのちに、再び神様の本性相に似た姿に合性一体化することです。一人の男性と一人の女性は、それぞれ神様の一性に似て出てきました。したがってこれらの一男一女の結合は、神様のプラス(+)性稟とマイナス(-)性稟が一つになることです。すなわち神様に似た中和体になるのです。ですから、人間二人、すなわち夫婦は神様の全体を表象する結合体なのです。
(9-83、1960.4.16)
神様は絶対的な方であられ、神様は唯一の方であられ、神様は不変の方であられ、永遠の方であられます。それでは、このような対象の位置に立った私達人間は、相対的であり、対象的ではありますが、対象的な位置で変わることを願うでしょうか。願いません。絶対的であり、唯一的であり、不変的であり、永遠的な対象の価値をもつことを願うのです。今日、私達堕落した人間、俗世に属した私達人間世界においても、愛する人が永遠であることを願います。愛する人がただ一人であることを願うのではないですか。愛する人が変わることを願いません。私達堕落した人間も、愛する対象の絶対、唯一、不変、永遠を要求するのに、宇宙の中心であられる神様が、その愛の対象が変わることを願うだろうかというのです。それはあり得ません。その対象の存在が限界的であることを願うだろうかというのです。絶対的であることを願うのです。その対象の存在が不変であることを願うという事実を、私達は知らなければなりません。
(77-185、1975.4.6)
神様の創造目的は何でしょうか。アダムとエバを造って、ただ見るためではありません。男性と女性を造ったのは、男性は男性なりに、女性は女性なりに老いて死ぬようにするためではありません。息子が成長し、互いに異性に対する相対的な心情を通して神様を中心とした真の地上天国を建設するためでした。神様を中心とした愛の巣をつくるようにするためだったのです。ここで男性であるアダムは天を代表し、女性のエバは地を代表します。天地です。ですから、彼らは二人ですが、彼らが横的に一つになれば天と地が統一されるのです。神様の愛を中心として二人が統一されれば、天宙は自動的に統一されるのです。
(21-44 ~ 45、1968.9.1)
人間は神様に似て生まれたでしょう? 神様は絶対的な主体であられるので、絶対的な対象の愛を中心として一つになることができます。それで、神様は人を造るとき、そのような主体と対象の中和的主体としてアダムとエバを造られました。私達人間がそのような神様に似ているので、その全知全能な愛の力には、何であっても許諾されないものがありません。ですから、神様がアダムとエバを創造されたのと同様に、私達人間も創造の能力を賦与され得るのです。神様から創造の能力を賦与され、私達も人を創造できる場が息子、娘を生む場なのです。結局は、神様と同様に人を造ったという位置に私達も立つことができるのです。
(57-111、1972.5.29)
3) 神様の聖殿
人間は、生きた神様の聖殿として理解されなければならない。人間を創造するとき、神様は人間の心に愛、創造性、永遠の渇望など、神聖な稟性を賦与する特別な聖霊を吹き入れた。神様は人間の中に自分の居所をつくろうとした。神様の霊が私達の心と共鳴し、まるで神様が見るように、私達の体は見て、聞いて、動く。見えない無形の神様を身代わりして共に動くことによって、人間は神聖をもつようになり、神様はその人を通してほかの人々を神聖にすることができる。
ヒンドゥー教やそのほかの東洋の諸宗教において、このような究極的実在の内在を真の自我、またぱアートマンという。しかし、大部分の人々は真の自我を知らずに生きていき、全的に利己的な動機で生を営為する。文鮮明先生によれば、私達は、人間堕落の悲劇のために汚れた聖設と同じである。神様の霊は、堕落した人間の中にとどまることができなくなった。本来、アダムとエバは、神様の聖殿として神様の有形的体となり、この世界を美しいエデンの園にしなければならなかった。キリストは神様の聖殿として来られた方だ。したがって、彼は自身の人格の中に神様を現すことができた。神様の恩寵と復帰のための人間の努力により、私達はまた神様の聖殿の地位を取り戻すことができる。
― 宗教経典 ―
あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。
コリントの信徒への手紙一36(キリスト教)
あなたは、すべての人が自分の心の中に聖なる方がいらっしゃるという自意識をもつようにしてあげなさい。
タルムード、タアニートl1b (ユダヤ教)
私は、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。
ガラテヤの信徒への手紙29 ~ 20 (キリスト教)
天と地は私を包んでいるが、私の信実な僕の心情は私を包んでいる。
スフラワルディー・ハディース(イスラーム)
神が世を満たすように、霊が肉体を満たす。神は見ることができるが御自身は見えないように、霊は見ることができるがそれ自体は見えない。神が全世界に糧を提供するように、霊は肉体に糧を供給する。神が純粋であられるように、霊もまた純粋である。神が(聖殿の)至聖所にいるように、霊は肉体の最も高い所に留まる。
タルムード、ブラホート10a. (ユダヤ教)
私が彼を愛するようになれば、私は彼の聞く耳、彼の見る眼、彼の打つ手、彼の歩く足となろう。
ナワウィー40 のハディース38(イスラーム)
われはかれを完全に形づくり、それからわが霊をかれに吹き込んだ。
クルアーン15.29(イスラーム)
主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。
創世記2.7(キリスト教)
有情(生類)の玄洞(心臓)に鎮まれる自我は微なるよりも微に、大なるよりもさらに大なり。かかる自我の栄光は、意欲をもたず、煩悶を離れし人にして諸官能の静澄なるを得たる時、初めて照観するを得べし。
彼(自我)は坐してしかも遠く遊び、臥しつつしかも遍く行く。かかる可思、不可思を兼ねたる神を識ることは我以外に誰か能くせん? 諸々の肉団の裡(うち)にありて身をもたず、安固ならざる物がらの裡にありて泰然たる、偉大にして、遍在せる自我を観想せる時、賢者は憂患なし。
カタ・ウパニシャッド1.2.20 ~ 22、(ヒンドゥー教)
露にして、しかも幽れ、玄洞(心臓)の内に逍遥するものと称ばれる所の偉大なる天地の基底、その内にぞ、ありとあらゆる蠢めくもの、息づくもの、瞬くものは収められてあるなれ。
汝等がこの有体にして無体なる善美なるもの、智慧才覚を超えたる、生類中の最勝のものとして知れるもの、光輝あるもの、微なるよりも微なるもの、諸々の世界(果報)と世界を得し輩とがその根基とせるもの、これぞこの不滅なるものなり、梵なり、生気なり、はた語なり、意なり。これこそこの真実なるもの、不死なるもの、射抜くべきものなれ。友よ、これを射抜けよ。
ムンダカ・ウパニシャッド2.2.1 ~ 2(ヒンドゥー教)
富者たちはシバ神に寺院を建てて捧げるが、
貪しい人、私は何をするか。
おお、私の主よ!
私の2 本の足は柱、
体は聖殿、
私の頭は黄金の尖塔です!
立っている寺院はすぐに倒れますが、動く私は永遠に立っていることでしょう。
バサヴァンナヴァチャナ820.(ヒンドゥー教)
人もまた初めに神とともにいた。英知すなわち真理の光は、創造されることも、作られることもなく、実にそうすることのできないものである。すべての真理は、神がそれを置かれた領域において独立し、それ自体で作用する。
すべての英知も同様である。そうでなければ、存在というものはない。見よ、ここに人の選択の自由があり、またここに人の罪の宣告がある。なぜならば、初めからあったものが分かりやすく示されているのに、彼らがその光を受け入れないからである。その霊が光を受け入れない者は皆、罪の宣告の下にある。
人は霊である。元素は永遠であり、分離しないように結合した霊と元素は、満ちみちる喜びを受ける。これらが分離するとき、人は満ちみちる喜びを受けることはできない。その元素は神の幕屋である。まことに、人は神の幕屋すなわち神殿である。そして、いかなる神殿でも汚されると、神はその神殿を滅ぼすであろう。
教義と聖約93.25 ~ 35 (末日聖徒イエス・キリスト教会)
アブドラ・ビン・オマルは、カーバの周囲を歩き、このように語る先知者(平和がその方に宿ることを)を見た。「おお、カーバよ、お前とお前の香りのある風は本当に祝福されている。お前の神聖さは実に素晴らしい! 私の魂の主人であられる神から、神に信仰をもつ者の神聖さは、お前よりさらに神聖だ」。
イブン・マージャのスナン(注5) 2.3932 (イスラーム)
― み言選集 ―
見えない神様は心と同じであり、アダムとエバは見える神様です。神様の体と同じだというのです。本来、霊界に行けば、人としての神様はアダムとエバがなります。霊界に行けば、体をもった父母の位置に立ったその方がアダムとエバなので、アダムとエバが神様の体のようになるのです。
アダムの心のような立場にいる神様になるので、私の心に神様が臨在するのです。このように、大きな神様が私を中心とする小さな心の神様として心に臨在するようになる、というのです。私は小さな神様だということです。
(107-172 ~ 173、1980.4.27)
妻は、夫が神様の体だということを考えてみたことがありますか。コリント人への第一の手紙第3章16 節で、「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか」とあるでしょう? ですから、皆さんが霊的に深く入っていけば、分かるようになるのです。皆さんがそのような境地に入っていって「神様、どこにいらっしゃいますか」と言えば、神様が心の根源から答えます。ぞのような境地に入っていかなければなりません。
(362-190、2001.12.12)
堕落する前、アダムとエバの顔がいくら良いといっても、主人がいなければあらゆる外的な物は価値がありません。その時、アダムとエバがいくら醜くても、彼らの心の中に神様がいらっしゃり、彼らの体は神様の聖殿になることができたのです。これが今の私達と違う点だということを知らなければなりません。
彼らの顔は、純粋な神様の喜びを表象できる顔であることは間違いなかったでしょう。また、彼らは、目で見るのも、自分たちの目を通して見るよりも、神様に代わって見たはずであり、彼らが聞くこと、感じること、語ることなどのあらゆることは、神様に代わって示すことのできる表示になることができたでしょう。
(95-247、1977.12.4)
アダムとエバが堕落したその日からの神様の希望とは何かというと、神様の心情を身代わりできる人、神様がとどまることのできる聖殿として完成した人、神様と一致する心情と心臓をもった人を探し出すことでした。
(3-298 ~ 299、1958.1.26)
イエス様の心と体は何だったのでしょうか。イエス様の心は自分の心ではありませんでした。誰の心だったかというと、父の心だったのです。イエス様の体は自分の体ではなく、父の体だったのです。
また、イエス様が語られたみ言は、自分のみ言ではなく、神様のみ旨を身代わりした天理の法度であり、すべての人間がもちたいと思う希望のみ言だったのです。イエス様は、そのみ言を通じた実体的な天の聖殿として、または実体的な神様の玉座を身代わりした存在として、この地上に現れたのです。
(3-264、1958.1.12)
個性を完成した人間と神との関係は、体と心との関係をもって例えられる。体は心が住む一つの家であって、心の命令どおりに行動する。このように、個性を完成した人間の心には、神が住むようになるので、結局、このような人間は神の宮となり、神のみ旨どおりに生活するようになるのである。
したがって、体と心とが一体となるように、個性を完成した人間は、神と一体となるのである。それゆえ、コリントⅠ3章16 節に、「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか」と記されているのであり、また、ヨハネ福音書14 章20 節には、「その日には、私は私の父におり、あなたがたは私におり、また、私があなたがたにおることが、わかるであろう」と言われたのである。
原理講論、人類歴史の終末論1.1
御飯を食べるのは誰のために食べるのですか。眠るのは誰のために眠るのですか。皆さんがまくらして横になるとき、「ああ! 神様と一緒に寝る」、このように考えてみましたか。「胸をぎゅっとつかんで気分が良い。神様がお休みになる!」、このように考えてみましたか。そしてまた、さっと起きれば、私が起きたと考えますか、神様が起きたと考えますか。神様が起きたと考えなければなりません。私が先に起きたのではなく、神様が先に起きたのです。
(92-153、1977.4.1)
人の中に世界がすべて入っていって眠ることができます。神様も入っていって昼寝できるのです。神様が心置きなく足を伸ばして眠ることができるというのです。神様がどれほど自由ですか。いくら足で蹴飛ばしても、引っ掛かるものがないのです。どこにも引っ掛かるものがありません。そのような人は神様が共にいるようになります。そのような人は神様の聖殿になるのです。それを理解して、より一層自分を愛し、自分に侍ることができなければなりません。
(125-101 ~ 102、1983.3.13)
私達人間の形状を見てください。体をもっているのです。しかし、無形の神様には体がありません。体をもたなければ、霊界世界や地上世界を治めることができないのです。
それで、神様がいらっしゃるとしても、神様が人間の父母として現れるためには体をもたなければならないのですが、その体をもった代表が誰かといえば、アダムとエバだというのです。堕落していないアダムとエバの体をもって現れるのです。ですから、アダムとエバは誰ですか。アダムとエバは、人類の始祖であると同時に、天地を主宰する神様になるのです。実体をもった神様、すなわち永遠の無形世界の神様の形状を代わりにもって現れた立場で、父母の立場で世界を統治する責任がアダムとエバにあったのです。
(133-91 ~ 92、1984.7.10)
神様は無形です。霊界に行っても見えません。神様がアダムをなぜそのように愛を中心として造ったのかというと、この被造世界が体をもっているからです。ですから、体をもった父にならなければならないのです。体をもった父になることで、見えない無形と有形が一つになるのです。それは宇宙が一つになることを象徴します。
ですから、体をまとうためにアダムとエバを造ったのです。体をまとうのは何か決定するのですか。愛だけが可能なのです。神様の形状に似たそのような体をもつことができる姿として、アダムとエバを造ったのです。そうしてアダムとエバを天の国の王宮に、王座へ上がらせ、その王とし王妃の心の中に神様がいらっしゃり、地上世界と無形世界を統治するのです。神様の王国を造るのです。王国は、愛の王国だというのです。愛を中心としてのみ霊と肉が合わさるようになっているのであって、他のものでは合わさることができないのです。
(143-93 ~ 94、1986.3.16)
4) 神様の子女
ユダヤ教とキリスト教の諸経典は、神様を「天にいらっしゃる父」と呼ぶ。このような洞察は世界のほかの信仰伝承でも発見される。したがって、人間は神様の子女とみなされる。そのような父母と子女の関係がどれほど真正な関係であり得るか。これがこの節に記された章句の主題である。
文鮮明先生は、神様と人間の関係において感じる心情の深さと力が、私達を生んでくれた肉親の父母から感じる愛情と義理よりもっと強烈でなければならないと教える。私達が神様の心情と事情を悟り、そして息子が年老いた父のために重い荷物を背負うように、世に対する神様の重荷を私達が共に分かつことができ、また分かち合わなければならないという心をもつとき、神様と共にある私達の人生はどれほど意味深長なものだろうか!
1. 神様の子女としてもって生まれた権利
― 宗教経典 ―
神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によって私達は、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、私達が神の子供であることを、私達の霊と一緒になって証ししてくださいます。もし子供であれば、相読人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。
ローマの信徒への手紙8.14 ~ 17(キリスト教)
あなたたちは、あなたたちの神、主の子らである。
申命記14.1 (キリスト教)
アニスとアブドゥラが神の先知者に伝えるには、「すべての創造物は神の子であり、神が最も大切に思う者は、その方の子に優しく接する者たちである」。
バイハキ・ハディース(イスラーム)
我々は我々をつくりしものの子ら、彼が我々を殺すと恐れてはならない。我々は神の子ら、彼が我々を殺すと恐れてはならない。
ディンカ族の祈り(アフリカ伝統宗教)
御父がどれほど私達を愛してくださるか、考えなさい。それは、私達が神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。
ヨハネの手紙一3.1(キリスト教)
しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちを私のところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」
ルカによる福音書18.16 ~ 17(キリスト教)
私は言った、「あなたたちは神々なのか、皆、いと高き方の子らなのか」と。
詩編82.6 (キリスト教)
預言者アサフの言葉が当たりますように。「あなたたちはすべて神であり、あの気高き方の子女たちである」、父の寛容をむやみに使って、私達に下さった自由の選択が、害となって戻ってこないようにしてください。私達がすれば成し遂げることができるので、神聖な情熱を抱き、現実に満足せず、最高の善を成し遂げるために努力する者として導いてください。
ピーコ・デッラ・ミランドラ人間の尊厳について(キリスト教)
― み言選集 ―
神様は愛の神様だといいました。その愛の神様が私達人間を本当に愛される位置がどこかというと、人間が要求する最高の位置です。神様はその位置を愛さざるを得ない立場にいらっしゃるのです。人情と天情が結合する位置は、神様と人間が父子関係の因縁を結ぶ位置に違いありません。皆さんは今、短時間のうちにこのような話を聞いていますが、ここに立って話をする人は、宇宙の究極の位置とは何かという問題に対して、誰よりも深刻な立場で長い間追究してきた人です。
最高の位置に入っていって得た答えは何でしょうか。宇宙の根本は父子の関係だという結論です。父子の関係だといって、今日の私たきちを生んでくれて、一緒に暮らす父母のことではありません。それは天地を創造した絶対的な神様と、堕落していない本然の私達人間の関係のことです。人類が到達すべき本然の価値の位置は、神様が父であり私達は子女だという位置です。神様は、このような途方もない位置を私達に許諾されたのです。
(53-286、1972.3.4)
ここに立っている人は、神秘的な境地に入っていき、宇宙の根本とは何かと尋ねてみたことがあります。神様の答えは、「父子の関係だ。父と息子だ!」というものでした。それが結論だというのです。一般の人であれば、「ああ!私の父母と私」と考えるでしょう。自分を生んでくれた父と母と考えやすいのです。しかし、神様と人間の関係を意味しているのです。
父子の関係がもつ特定の内容とは何でしょうか。父と息子が出会える最高の場所とはどこでしょうか。愛が交差する中心、生命が交差する中心、理想が交差するその中心で出会うのです。そのように見ると、愛と生命と理想が一つの場にあるというのです。その場に行けば神様も愛であり、私も愛であり、神様も生命であり、私も生命であり、神様も理想であり、私も理想になるというのです。これを決定づけることのできる最初の因縁と最初の統一の場所が、親子関係が成される場でなければなりません。これは間違いのない事実です。
(69-78 ~ 79、1973.10.20)
神様は、私達人間、アダムとエバを造っておいて真の愛を行ったのです。真の愛を誰が始めたのですか。アダムとエバがしたのではなく、神様がアダムとエバを息子、娘のように愛してきたのです。皆さんが父母から生まれて愛を受けるのと同じです。父母の愛をたっぷり受けるのと同じです。
しかし、その愛を知らずに生まれて、自分だけがいるかのようです。父母の愛はすべてのものを包囲して抱いてあげ、愛するようになるのです。それで、最初は神様が分かりませんでしたが、神様を見て笑いながら、神様の保護の中で育つことによって、神様の愛がどのようなものだということを知ります。そのように父母の愛と子女の愛が大きくなっていくのです。
(149-312、1986.12.21)
父子の関係がもっている特性とは何でしょうか。真の愛と真の生命と真の血統の関係です。真の父母の真の愛が前提とならなければ、私達の真の生命が存在することはできません。すなわち、神様の前に人間は、絶対的な真の愛の相対として創造されたということです。そこは、正に神様が父となり、人間は息子、娘となる軸が立てられる所なのです。
もし、それよりもっと高く貴い所があれば、人間の欲望は、またそれを追求することでしょう。しかし、そのような所はありません。全知全能であられる神様が、最高のものは御自身のために隠しておいて、御自身の子女であり、愛の絶対相対者であるアダムとエバには2番目に良い所に立てて創造したということは、想像することもできません。私達の永遠の真の父母であられる神様は、100 パーセント御自身のすべてを投入して人間を創造され、同位権、同参権、同居権、相続権を付与されました。神様のすべての属性を下さったのです。
平和神経、平和メッセージ1.14 ~ 15、2005.9.12
神様と人間の関係を中心として見てみるとき、神様が人間の父であり、人間が神様の息子であるとすれば、人間に対して、「神様よりハンサムだなあ」と言えば、神様は気分が良いでしょうか、悪いでしょうか。悪ければ、神様は人間より劣るのです。間違いなく神様も喜ばざるを得ません。それで愛というものが必要なのです。
(40-343、1971.2.11)
宇宙の真理、天理の大道の原則は何かというと父子の関係です。その父子の関係は、今日の堕落した世界に自分を生んでくれた父と母との関係ではありません。横的な夫婦の愛が神様の理想的愛で完全に花開き、その愛の香気が全世界を覆い尽くすと同時に、神様の愛が加えられ、父と息子、娘の位置が完成するのです。
(101-35 1978.10.28)
2. 神様の子女の尊厳性回復
― 宗教経典 ―
主は岩、その御業は完全で、その道はことごとく正しい。真実の神で偽りなく、正しくてまっすぐな方。不正を好む曲がった世代は、神を離れ、その傷ゆえに、もはや神の子らではない。愚かで知恵のない民よ。これが主に向かって報いることか。彼は造り主なる父、あなたを造り、堅く立てられた方。
申命記32.4 ~ 6(キリスト教)
天よ聞け、地よ耳を傾けよ、主が語られる。私は子らを育てて大きくした。しかし、彼らは私に背いた。
イザヤ書1.2 (キリスト教)
わたくしどもは皆、仏の子のようなものであります。それは、如来がいつもわたくしどもに『おまえたちはわが子である』と説かれているからであります。世尊よ、わたくしどもは三種の苦悩によって、生死の中でもろもろの烈しい悩みを受け、迷い惑い、無知であって下劣な教えに執着しております。今日、世尊は、わたくしどもに考えさせて、汚物にも似た、存在についての空しい論議を除くようにされました。
わたくしどもは努力精進して、ちょうど一日の給金を得るように、永遠の平安を得ました。それを得てしまうと、心に大いに歓喜して、自分では満足しておりました。仏はわたくしどもが心で卑小な教えをねがっているのを知られて、方便力によってわたくしどもに応じて説かれましたのに、わたくしどもの方では自分たちが真に仏の子であると知らなかったからであります。
法華経4(仏教)
祈祷するとき、主なる神を父と呼ぶように、いつでも天の子女としてふるまいを正しくしなければならない。それが私達の義務である。私達によって主なる神が、恥ではなく栄光を受け、賛美されなければならない。
マルチン・ルター大教理問答(キリスト教)
― み言選集 ―
本然の神様と人間の関係は、永遠の父母と子女の関係でした。堕落はその断絶を意味し、復帰は父母と子女の因縁を回復することを意味します。
(316-236、2000.2.13)
神様は、信仰の王様でいらっしゃるので、信仰の王子を尋ねられるのであり、神様は、愛の王様でいらっしゃるので、愛の王子を探し求められる。
御旨の道、人格
私達は孝子の道を行かなければなりません。神様が世界情勢を前にして深刻であれば、その深刻さ以上に、夜を徹して、あるいは自分の一身を忘却し、すべてのことを忘れ、体恤する境地で憂慮する心をもって神様のために生きる息子、娘になろうと身もだえする人がいますか。問題はここに帰結するのです。
(62-35、1972.9.10)
神様が私の父であり、私は神様の息子、娘です。神様がどれほど子女を抱きたいと思い、どれほどそれを待ってきたでしょうか。ですから、私が孝子にならなければなりません。もし父の願う国のセンターになれば、愛国者になるのです。父の願う世界の主人になったならば、聖人になるのです。天宙のセンターになれば、聖子になるのです。私が孝子になれば、全家庭がついてきます。すべての国がついてきて、すべての世界と天宙、神様まで私と一つになるのです。私がナンバーワンの息子と娘にならなければなりません。世界では聖人、天宙では聖子にならなければなりません。それで皇族圏を成さなければならないのです。
(293-208、1998.5.26)
悲しみの峠を越え、苦痛の峠を越え、憤りの心情の峠を越えてこそ、その日の福が決定するという天倫の原則を私達は知りました。今、お父様の心情をつかみ、地をつかみ、万物をつかんで涙を流し、お父様の悲しみが私の悲しみであり、お父様の苦痛が私の苦痛であり、お父様の苦難が私の苦難なので、「そのすべての苦痛を私にお任せくだざい。お父様は幸福の立場にお立ちください」と言うことのできる私達となるよう、許諾してください。
(4-294、1958.9.14)
5) 人生の価値
人間は金銭で計算できない貴重な価値をもっている。堕落したあらゆる社会において、人生は価値のないものとみなされ、人間の価値は富と地位、教育水準、または外貌で決定するという世俗的な偏見があるにもかかわらず、神様は各個人すべてに御自身の愛の絶対的な価値を賦与した。神様は、私達を無限に貴重で、その上、神様と同等な地位をもつ、自分の愛らしい息子として創造した。この節に含まれた経典の章句は、人間の高潔な価値を描写している。
一個人は全体世界と同等の価値をもつ。すべての被造物の中で、唯一無二の存在として、個人はその何とも取り替えることができない。さらに、それぞれの個人は、神様の愛と家庭、そして国家と全被造世界の万物に囲まれ、抱かれている。各個体は、ほかのあらゆる存在にとってなくてはならない存在だ。ある個体の死は、すべての存在にも喪失をもたらす、このため、殺人、自殺、堕胎は、神様の世界において立つ位置がない。さらには、肉身の生は霊的成長のための機会を提供するので(第5 章3.「永生のための準備」参照)命を軽んじることは、個人と宇宙の完成に向かう道を奪い取ることである。
それにもかかわらず、物質主義に固執した世界において、自分の内面の高貴な潜在的価値を実現した人々は極少数にすぎず、このような潜在的価値は、神様と人類を愛する心から出てくる。したがって、真の価値の泉の源泉を見いだし、神様と世界に注目される神様の子女となることが、私達全員の終始一貫した義務である。
1. 黄金より貴重な人間
― 宗教経典 ―
人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。
マタイによる福音書16.26(キリスト教)
私を追う者の悪意に囲まれる時にも、どうして恐れることがあろうか。財宝を頼みとし、富の力を誇る者を。神に対して、人は兄弟をも贖いえない。神に身代金を払うことはできない。魂を贖う値は高く、とこしえに、払い終えることはない。
詩編49.6 ~ 9(キリスト教)
「私は奴隷を新しく買った」と言うとき、いくらでその奴隷を買ったのか。世の中に人間ほど価値のある存在が、どこにあるのか。合理的知性を買おうとすれば、いくら出さなければならないか。神に似て創造された存在を買おうとすれば、何ドラクマを出さなければならないか。金貨何枚を支払って、神に似た存在を買うことができるのか。神は語られた、「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。」(創世記1 章26 節)。人間は神のかたちに創造され、万物の霊長であり、天から万物に対する権威を賦与された。主なる神だけが人間をお買いになることのできる方であるとすれば、人間を売るように許諾された者は誰だというのか。その能力は、ただ神にのみ属しているのである。
ニュッサのグレゴリオス伝道の書に関する説教4(キリスト教)
― み言選集 ―
今まで世の中に暮らす人々が「よいなあ!」と思うのは、着飾り、立派な家に住み、立派な自動車に乗り、人をうらやむことなく飛行機に乗りながら平安に暮らすことです。そのようなことをよいと思うことが、この世の人々の悪い習性だということを知らなければなりません。
(131-171、1984.5.1)
いかなる苦痛と悲しみ、そしていかなる困難が迫ってきても、大宇宙の理念圏内にいる自分の位置が、その程度の困難に揺さぶられてはいけないことを知っている人は、その苦痛の峠を越えていくでしょう。また、この程度の苦痛を耐えられない自分ではない、この程度の死の峠と取り替えなければならない私の命ではないと感じる人がいれば、彼は、人生行路において成功した人です。「いかなる迫害と死の峠が迫ってきても、私が行く方向を変えることはできない。私の価値は、地上の何物とも取り替えることができない」と考える人は、地上にいても天の人です。地で死んでも、彼は天の人です。
(9-166、1960.5.8)
世の中でこの上なく貴いものは何でしょうか。金銀財宝でもなく、世の中の名誉や権勢でもありません。天地間において最も貴いものは何かというとき、それは正に自分自身です。ところが、自分自身が貴いことを、何をもって保障するのかというとき、答えることができないのです。人々は自ら備えるべきところは備えることができなくても、心では満天下に自分を最高の価値的存在として認めさせたいと思います。それが人間の本性です。今日、私達民族のために、世界のために生きる観念を越えて、最も貴い私自身を、人々がどのくらい貴く思うだろうか、ということを問題としなければ、新しい決意と新しい出発ができないことを心配せざるを得ません。
私達自身は、どのくらいの価値の内容を備えた存在でしょうか。皆さんは、これを考えてみましたか。私が宇宙の中で一つしかない宝となり、本当の宝になったとすれば、その宝は神様も慕い、来ては逝かれたイエス様も慕い、今まで来ては逝った大勢の聖徒、すべての歴史の中でいくら偉大な思想をもった誰かがいたとしても、その人もやはり慕うのです。過去だけでなく、現世のこの万民も慕うのです。その価値を憧憬するでしょう。今だけでなく、未来もそうでしょう。ところが、今まではそのような宝が自分だということを知らなかったのです。
(17-13 ~ 14、1966.11.6)
2. 宇宙的価値をもつ人間
― 宗教経典 ―
あなたの天を、あなたの指の業を、私は仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。そのあなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。神に僅かに劣るものとして人を造り、なお、栄光と威光を冠としていただかせ
詩編8.4 ~ 6(キリスト教)
天と地において、ひとえに私こそが尊貴な者である。
長阿含経(仏教)
われはアダムの子らを重んじ、海陸にかれらを運び、また種々のよい暮らし向きの物を支給し、またわれが創造した多くのすぐれたものの上に、かれらを優越させたのである。
クルアーン17.70(イスラーム)
この世は、ひとえに義人のために創造された。義人一人は全世界と取り替えるだけの価値がある。この世は、彼と一つになることを目的として創造されたのである。
タルムード、シャッバト30b(ユダヤ教)
そのことのゆえに。われはイスラエルの子らに対し、おきてを定め、ひとりを殺した者は、ひとりの報復のためか、地上に悪をなす者の処罰でないかぎり、全人類を殺したと同じである。ひとりの生命を救う者は、全人類の生命を救ったと同じであると定めた。
クルアーン532(イスラーム)
ただ一人(アダム)だけが創造された。これを教えるため、聖書では、誰かが一人の魂を破滅させれば、それをまるで彼が全世界を破滅させたものとみなす。また、誰かが一人の魂を救えば、彼が全世界を救ったと語る。しかし、一つの鋳型からは同じ銅銭が出てくるが、聖なるその方の偉大さを示すために創造された人間は、そうはできない。王の中の王であられる聖なるその方は、人間をすべてアダムの形に造られたが、誰も彼の形に似ていない。ゆえに人間はそれぞれ、「世の中が私のためにつくられた」と言うのである。
ミシュナ、サンヘドリン4.5 (ユダヤ教)
― み言選集 ―
一つの生命は宇宙よりもっと貴いことを知らなければなりません。怨讐の一族ではありません。神様の愛の対象として造られた人間の価値というものを知らなければなりません。
(262-145、1994.7.23)
人間は神様と完全に一つになってこそ、完全な人になるのです。人は、たとえ小さな一つの個体でも、全体の歴史を身代わりした存在であり、未来のあらゆる因縁を身代わりする存在なので天宙的な価値をもっている存在なのです。
(4-268、1958.8.3)
神様は人をどのような存在として造ったのでしょうか。神様の絶対唯一の価値をもつことができる愛の対象者として造ったというのです。これは驚くべき事実です。最近では、人間一人の生命の価値がどのくらいになりますか。いくらになりますか。そのような無価値な人間ではないというのです。神様にとっては、宇宙を与えられても取り替えることができない高貴な価値、愛の相対圏を備えて男性を造り女性を造ったという驚くべき事実を知らなければなりません。
(142-143、1986.3.8)
神様の真の愛、神様の理想、神様の幸福、神様の平和を達成するにおいては、その対象がいなくては神様もお一人ではできないというのです。神様がお一人で、「ああ、愛そう」と言って愛して何をするのですか。神様お一人で理想といって何をするのですか。神様がお一人で平和や幸福があって何をするというのですか。必ず対象がいてこそ、神様も幸福、平和、愛、理想が可能になる、ということを私達は考えることができるのです。
神様の真の愛と理想と幸福と平和を完成させるにおいては、達成するにおいては、私という人間自体がいなければ不可能だということです。このような事実を記憶してくださることをお願いします。私達は、このような価値を全く分かりませんでした。このように高貴で理想的な尊厳な価値、神様までも愛から解放することができ、神様までも理想から解放することができ、神様までも幸福と平和から解放することができるこの尊厳な価値を知って、今からは、心深く頭を下げながら自らを賛美し得る皆さんになってくださることを願ってやみません。
(77-314 ~ 315. 1975.4.30)
皆さん結婚するとき、結婚相手が自分より立派な人を願います。自分の息子、娘が、自分より立派であることを願わない人がどこにいますか。それは誰に似たのでしょうか。神様に似たのです。どういうことかといえば、神様も愛の相対が自分よりも立派であることを願うということです。これを否定できますか。人間の価値が最大の価値です。愛を中心として見るとき、神様より高い価値があるということです。ですから、皆さんの心は、最高のものを顧っているのです。それは不可能なことではありません。万人平等に可能なことです。堕落しなかったなら可能なのです。
天上の高く貴い立場で、この宇宙を眺めて管理して主導するようになっているのであって、何かと望んで引きずり回され、服従するようになっていませんでした。皆さんの心がそうでしょう? 解放された心です。誰の支配も受けたいと思いません。これは、万民共通です。真の愛の位置にいれば、神様の位置、天国の御座に自由に行くことができます。神様の友達になることができるのです。
(211-272 ~ 273、1990.12.30)
人間はだれでも、他の人がもっていない特性を各々もっているので、その数がいくら多く増えたとしても、個性が全く同じ人は一人もいない。したがって、神に内在しているある個性体の主体的な二性性相に対する刺激的な喜びを、相対的に起こすことができる実体対象は、その二性性相の実体として展開されたその一個性体しかないのである。
原理講論、キリスト論1
上を見ても、下を見ても、前後を見ても、左右を見ても、すべてのものが私と因縁を結んでいます。また、この因縁は一時的なものではなく、命をもっていく生涯路程、すなわち一生の間の因縁なのです。さらには、歴史始まって以来、今まで因縁を結んできたのであり、今日の私を経て千秋万代の子孫まで因縁を結ばなければならない、因縁の祭壇の上に上がっている自分自身だということを私達は考えなければなりません。
このような私が壊れる日には、私を中心とする天の因縁が壊れるのであり、地の因縁が壊れるのであり、世界、あるいは氏族と家庭のすべての因縁が壊れるのです。それで、人をして天と地を身代わりする小宇宙と言うのです。私の心は天を抱くことを願っています。私の体は地を占領したいと思います。また私は、天地の何ものも止めることのできない主権者、代表者の心情によって動こうとします。このような私、このような因縁をもった私達を深く解剖して入っていけば、無限に価値のある存在であり、無限に大きな存在だという事実が分かるようになるでしょう。
(8-10 ~ 11、1959.10.25)
神様の王権の前に立つことができる本然の人間の価値というものは、天地とも取り替えることができません。神様までも与えようとしていたその価値を、私が受けることができるかというのです。私がそのように内外に美化されていれば、天下がすべて夜光石のように輝くのです。ダイヤモンドのように輝くというのです。
(354-25 ~ 26、2001.9.16)
3. 殺人、自殺、そして堕胎は生命の大逆罪
― 宗教経典 ―
正当な理由による以外は、神が禁じたもうものを殺してはならぬ。
クルアーン17.33(イスラーム)
殺してはならない。
出エジプト記20.13 (キリスト教)
ある男がラバのもとを訪ねてきて言った。「私が仕える主人が、私に殺人を命じました。私が拒絶すれば、私を殺すでしょう」。サバが彼に言った。「かえって殺人より死ぬ道を選びなさい。あなたの血がその人(犠牲者)のものより純粋だと思いますか。おそらくその反対でしょう」。
タルムード、プサヒーム25b(ユダヤ教)
すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。己が身をひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。すべての者は暴力におびえる。すべての(生きもの)にとって生命は愛しい。己が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。生きとし生ける者は幸せをもとめている。もしも暴力によって生きものを害するならば、その人は自分の幸せをもとめていても、死後には幸せが得られない。生きとし生ける者は幸せをもとめている。もしも暴力によって生きものを害しないならば、そめ人は自分の幸せをもとめているが、死後には幸せが得られる。
法句経129 ~ 132 (仏教)
信仰する者よ、なんじらの財産を、不正になんじらの間で浪費してはならぬ、ただしお互いの善意による、商売上の場合は別である。またなんじら自身で、殺したり害してはならぬ。まことに神は、なんじら仁慈悲深くあられる。
クルアーン4.29 (イスラーム)
「あなたたちの命である血が流された場合、私は賠償を要求する」(創世記9章5 節)。パウロの場合を除外し、自殺もここに含まれる。
創世記ラッパー34.13(ユダヤ教)
何れの比丘と雖も、故意に人体の生命を奪ひ、或はその為に、殺具を持つ者を求め、或は死の美を讃歎し、或は死を勧めて(咄、男子、この悪苦の生は汝にとりて何の用ぞ、死は汝にとりて、生に勝るべし」と云ひ、斯く心意ひ斯く決心し、種々の方便を以て死の美を讃歎し死を勧むれば、これ亦波羅夷にして共住すべからざるものなり。
律蔵(仏教)
貧困を恐れてなんじらの子女を殺してはならぬ。われはかれらとなんじらのために給養する。かれらを殺すのは、まことに大罪である。
クルアーン17.31 (イスラーム)
意図的に人を殺したり。隋胎を画策する比丘は、決して苦行者と言うことはできず、仏陀の僧団に従う者でもない。
律蔵経分別1.78.4 (仏教)
一言の言葉であっても、信仰をもつ者を殺すことに寄与した者は、最後の審判の日に神に出会い、額に「主の慈悲から除外された」という審判を受けるだろう。
イブン・マージャのスナン2.2620(イスラーム)
生命の神聖さが侵害されるとき、私達はそれに立ち向かい、誰にも生命を破壊する権利がないことを公布するだろう。
教皇ヨハネ・パウロニ世(注8)(キリスト教)
人を殺すことは全面的に禁止されているので、母の胎内にある子供でも、母親の血がこの人間を形造るためにそそがれている限り、中絶することは許されていない。出生の中絶は早手まわしの殺人である。生まれ出た生命を取り除こうが、生まれようとしている者を中絶しようが殺人は殺人である。人間になろうとしている者もまた人間であり、胤のなかには果実全体が宿っているのであるから。
テルトゥリアヌス護教論9.8(キリスト教)
― み言選集 ―
人間の権利と尊厳性の保護がすべての倫理と道徳性の標準にならなければなりません。
(168-239、1987.9.21)
人権問題をもってこれをどのように扱うのかというのです。(注9)北朝鮮で金日成は300 万を虐殺しました。毛沢東は1億5000 万を虐殺しました。また、ソ連革命当時には7000 万を虐殺しました。ニューヨーク・タイムズに出ていましたが、ベトナムで60 万を虐殺したことを、報道を通して見たでしょう。人権が問題ではありません。生命権を蹂躙する共産党に対してどうするのかというのです。
(91-255、1977.2.23)
神様とこの宇宙を合わせても、肉身をもった人間がいなくては完成できないために、今日の私達人間の体がどれほど貴いかを知らなければなりません。私達人間に欲心があるのならば、神様は欲心の前に何を願うでしょうか。これを願うというのです。私達の肉身は宇宙とも取り替えることができません。聖書にある「たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」(マタイ16・26)という言葉もそれで成立するのです。
(91-19、1977.2.13)
私という存在を父母が必要とし、未来の夫が必要とし、妻が必要とし、その次には兄弟が必要とすることを今分かりました。そして、家庭が必要とすることを知りました。そして、国が必要とするのです。アメリカがいくら大きいとしても、国民がいなければ何をするのですか。ですから、国が必要とするのです。そして、世界が私を必要とします。そして、結局何が必要とするのかというと、霊界が必要とするのです。その次には何が必要とするのでしょうか。神様が私を必要とするのです。
ですから、最も変わることができず、最も貴い父母が私を必要とし、またそのような相対が私を必要とし、兄弟が必要とし、家庭が必要とし、国が必要とし、世界が必要とし、霊界とこの全宇宙が必要とし、神様までも私を必要とするのに、なぜ私が必要としないのかというのです。父母、そして相対、兄弟、家庭、国、世界、霊界、神様……。「ああ、私は必要ない人間だ」、このように考えるとき、すべてに対して罪を犯していることを知らなければなりません。
それは父母に対する犯罪であり、未来の夫婦に対する犯罪であり、兄弟に対する犯罪であり、家庭と国と世界と天地に対する犯罪であり、そして、神様に対する犯罪になるのです。彼は、そのような愛の法度に背こうとする存在です。このような観点から見るとき、自殺する人はどのような人ですか。自殺する人が多いのです。そのようにすることができるのかというのです。それは夢にも考えることができません。
(74-30、1974.11.10)
自分が今赤ん坊を身ごもったとすれば、その赤ん坊がどのような息子、娘に生まれるか分かりますか。それを堕胎させることができるのかというのです。アメリカの大統領になり、聖君になり、アメリカを生かすことができる、そのような人が、自分の息子、娘として自分の体を通して生まれるのに、それを自分勝手に制御できますか。先生の母親が今日のように何でも自分の思いどおりにできる、そのような何かがあったとすれば、先生が生まれていたでしょうか。
それでは、堕胎は罪か、罪ではないかというとき、罪だというのです。赤ん坊は、愛と生命と血統の精髄として生まれたのです。それが人か動物かと考えるとき……。細胞が動物ですか。細胞が人ではないですか。細胞の中には、愛が入っていて、生命が入っていて、血筋が入っています。ですから、父母と同じ価値があるのです。父母の愛が入っているというのです。
(230-121、1992.4.26)
父母が「ああ! 足の不自由な赤ん坊は蹴飛ばしてしまおう」と言いますか。それが愛ですか。それが真の愛ですか。
(117-292、1982.4.11)
4. 人間の本然の価値具現
― 宗教経典 ―
神のみもとで最も尊い者は、なんじらのうち最も主を畏れる者である。
クルアーン49.13 (イスラーム)
螺髪を結っているからバラモンなのではない。氏姓によってバラモンなのでもない。生れによってバラモンなのでもない。真実と理法とをまもる人は、安楽である。かれこそ(真の)バラモンなのである。
法句経393 (仏教)
彼の行為が彼を低くすれば、彼の家門は繁栄できない。
ナフジユ・アル・バラーガ語録21(イスラーム)
四つの階級で、ブラフミン、クシャトリア、バイシャ、スードラがあり、人生には4段階がある。しかし、彼らの中で主に瞑想する者は、誰もが気高い者だという。
アーディ・グラント、ガウンド、M.4 p.861 (シーク教)
正しいさとりを開き、念いに耽り、瞑想に専中している心ある人々は世間から離れた静けさを楽しむ。神々でさえもかれらを羨む。
法句経181(仏教)
良い評判を得る道は、その人が見えることを願うその人になるように努力することです。
ソクラテス(ヘレニズム)
― み言選集 ―
愛を中心として人間の価値を究明しなければならないことを、皆さんは知らなければなりません。
(99-63、1978.7.23)
人間の貴重な価値を満点にすることは、真の愛と一体となる時に可能です。心身一体は、良心と肉身が共鳴圏に立っていることを意味します。音叉の周波数が同じとき、一つをチンとたたけば、その反対の音叉が響きます。それと同じように、真の愛によって良心をたたけば、肉身が響きます。真の愛で肉身をチンとたたけば、良心が共鳴圏をつくるようになるのです。そこには、教育が必要ありません。そのど真ん中に入っていけば、教えなければならないすべてのことを知るようになるというのです。
(223-356 ~ 357、1991.11.20)
アダムとエバが堕落していなければ、彼らの体は心が行く道に反対せず、従っていくようになっていたでしょう。体が心に絶対的に服従していたのです。そのようになれなかったために、今日の人類も神様の真の愛に至ることができず、実質的な人間の価値を失ってしまうようになったのです。それをはっきりと知らなければなりません。いかなる困難があったとしても、心と体を一つにしなければなりません。そこから神様の愛が連結されるのです。そのようにしなければ天国に入っていくことができません。
(399-153、2002.12.22)
堕落した人間の最後の目的は、神様が本来の創造目的として下さった自我の自主性、尊厳性、および価値性を回復することである。
(御旨の道、人格)
6) 良心と、もって生まれた善
良心は、私達が善を行うように促し、悪を行おうとする性向を防ぐ内面の神的光彩である。仏教はこの機能を「悟りを得る心」または「仏性」と表現するが、それは知恵の目を通して明らかにされ得る。儒教はそれを仁とみなすが、広く知られた孟子の比喩によれば、これは井戸に溺れかかった子供を保護しようとする哀れみの心の発露を意味する。またイスラームは、人間の心を本来、正直なものとみなし、使徒パウロは、良心が全く宗数的な教えを受けることができなかった人々さえも、正誤を区別できるようにしてくれるものだと言った。
良心は積極的に作用し、自己の向上とより良い社会のための理想を追求し鼓舞する。良心はまた消極的に作用し、私達が利己的な行動をしたり、人を傷つける行動をするとき、とがめ、教え諭したりもする。これと関連し、文鮮明先生は、良心を父母より私達をもっとよく知る「宝のような師」と言う。良心は神様が贈ったものであり、私達に自己の向上を可能にさせ、究極的に神様が意図していた私達自身の完全な目的を実現できるようにする。しかし、それは肉身の自己中心的欲望と絶えず闘わなければならない。
私達は、日常生活においてゆがんだ良心を示すこともあるが、それは良心が本性的に天賦的なものだとしても、後天的な訓育と教育が良心の判断に重大な影響を与えることができるからである。正誤に対する誤った判断によって良心を洗脳することは、実に人間の霊魂に対する最悪の冒瀆である。良心には様々な次元がある。良心の表面にある次元は相対的で、ある人の真理概念を固守する。しかし、より深い次元には本心があり、それは絶対的な神様と関係を維持する。したがって、堂々とした心でキリスト教徒たちを迫害していたタルソスのサウロのような人に、より高次的な真理の洞察が起きたのであり、人生の方向を変えて使徒パウロになることができた。良心の根に神聖な本質があるので、すべての人間は結局、救援されるというのは、文鮮明先生の楽観的見解の基盤となるのである。
1. 善に基づく本心と心情
― 宗教経典 ―
たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。そのことは、神が、私の福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。
ローマの信徒への手紙2.14 ~ 16(キリスト教)
温良は仁の根本なり
礼記38.18(儒教)
真の宗教とは、究極的に人間の霊性に基づぐ徳行である。
クンダクンダプラヴァチャナサーラ7(ジャイナ教)
実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。
ルカによる福音書17.21 (キリスト教)
ワービサ・イブン・マアバドが言った。「お前は高潔さについて訊ねるためにやって来たのかね」私は「はい、そのとおりです」と答えた。すると預言者は言われた。「自分の心に訊ねてみるがよい。高潔さとは魂が満ち足り、心も満足を覚えるようなものだ。だが悪行は魂にしみつき、他人が繰り返し『お前が法的に正しい』と言ってくれても、胸騒ぎを覚えさせずにはいない」。
ナワウィー40 のハディース27(イスラーム)
もし言下に自己の本心がわかり、自己の本姓を見届けるならば、そのまま丈夫、天人師、仏と呼ばれる。
六祖壇経1(仏教)
あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている。
ルカによる福音書11.34 ~ 36(キリスト教)
神の栄光は高遠なり。唯一真実の神が御自身を人間に現わし給う目的はここにある。つまり、人間の最も奥にある真の自己の鉱山に潜む宝石をあらわにするためである。
バハオラ落穂集132 (バハイ教)
一切衆生悉く仏性あり。即ち是我の義なり。是の如きの我の義や、本よりこの方、常に無量の煩悩に覆はる。是の故に衆生は、見ることを得る能はず。善男子、貧女人の、舎内に、多くの真金の蔵有るが如し。家人大小、知るもの有ること無し。時に異人有りて、善く方便を知り、貧女人に語る、「我今汝を雇はん、汝我が為に草穢を除すべし」女即ち答へて言はく、「我能はず、汝若し能く我が子に金蔵を示さば然して後乃ち當に速やかに汝の為に作すべし」是の人復言ふ、「我は方便を知る。能く汝が子に示さん」女人答へて言ふ、「我が家の大小も、尚自ら知らず、況や汝能く知らんや。」是の人復言ふ、「我今審らかに能くす。」女人答へて言はく、「我も亦見んと欲す、井に我に示すべし。」是の人即ち其の家に於て、真金の蔵を掘出す。女人見終りて、心に歓喜を生じ、奇特の想を生じ、是の人を宗仰す。善男子、衆生の仏性も、亦復是の如し。一切衆生は、見るを得ること能はず。
彼の宝蔵を、貧人の知らざるが如し。善男子、我が今普く一切衆生に、所有の仏性が、諸の煩悩に覆蔽せらるるを示すは、彼の貧人の、真金蔵有れども、見るを得ること能はざるが如し。如来は、今日、普く衆生に諸の覚宝蔵を示す。所謂仏性なり。
大般涅槃経214 ~ 215、隠れた宝の喩え(仏教)
孟子がいわれた。「人間なら誰でもあわれみの心はあるものだ。むかしの聖人ともいわれる先王(せんのう)はもちろんこの心があったからこそ、自然に温かい血の通った政治(仁政)が行なわれたのだ。今もしこのあわれみの心で温かい血の通った政治を行なうならば、天下を治めることは珠でも手のひらにのせてころがすように、いともたやすいことだ。では、誰にでもこのあわれみの心はあるものだとどうして分るのかと言えば、その理由(わけ)はこうだ。
たとえば、ヨチヨチ歩く幼な子が今にも井戸に落ち込みそうなのを見かければ、誰しも思わず知らずハッとしてかけつけて助けようとする。これは可愛想だ、助けてやろうととっさにすることで、もちろんこれを縁故にその子の親と近づきになろうとか、村人や友達からほめてもらおうとかのためではなく、また、見殺しにしたら非難されるからと恐れてのためでもない。してみれば、あわれみの心がないものは、人間ではない。悪をはじ、にくむ心のないものは、人間ではない。譲りあう心のないものは、人間ではない。善し悪しを見わける心のないものは、人間ではない。
あわれみの心は仁の芽生えであり、悪をはじ憎む心は義の芽生えであり、譲りあう心は礼の芽生えであり、善し悪しを見わける心は智の芽生えである。人間にこの四つ(仁義礼智)の芽生えがあるのは、ちょうど四本の手足と同じように、生まれながらに具(そな)わっているものなのだ。それなのに、自分にはとても……そんな立派なことはできそうにないとあきらめるのは、自分を見くびるというものである。またうちの殿様はとても仁政などとは思いもよらぬと勧めようとしないのは、君主を見くびった失礼な話である。
だから人間たるもの、生れるときから自分に具わっているこの四つの芽生えを育てあげて、立派なものにしたいものだと自ら覚(さと)りさえすれば、ちょうど火が燃えつき、泉が湧きだすように始めはごく小さいが、やがていくらでも大きくなるものだ。このように育てて大きくしていけば、遂には〔その徳は〕天下をも安らかに治めるほどにもなるものだが、もしも育てて大きくしていかなければ、手近な親孝行ひとつさえも満足にはできはすまい。」
孟子Ⅱ.A.6 (儒教)
― み言選集 ―
人間の良心は神様を代表する心です。良心は私のために存在しません。天の義のために存在します。良心は常に善に向かって走ろうとします。
(219-118、1991.8.28)
釈迦も天を教えてくれました。すべての存在は仏心をもっていると言いましたが、その仏心とは何ですか。それは純粋な本然の心を意味します。
(33-45、1970.8.2)
「心の本源地は神様だ。神様の心に従って動こうとすることが、その対象的な位置にいる私だ」という、このような評価をしなければなりません。
(162-40、1987.3.22)
人倫道徳は、人類の良心を中心として、天に向かって正しい道を行かなければなりません。正しい道を行かなければならないとなっています。良心は高次的な理想世界に向かってこのように発展しようとします。
(90-161、1976.12.26)
本来、天法の道理に従っていく人間には、自分自身が滅びるのを防備してくれ、保護してあげようとする心があるのです。本来あるとはどういうことでしょうか。神様に初めからそのような心があるので、人間にも初めからあるという意味です。自分がつくった法ではないというのです。「良心よ、私がこうなのだからこうだ」と、そのように言いますか。「私の考えがそうなのだから、そうであるべきだ」と命令したからといって、良心が作用しますか。どこか分かりませんが、他の所から命令を受けるのです。そのような感情が、自分を支配するのを見るとき、これは公私の問題を中心として支配するということが分かるのです。
(31-241、1970.6.4)
古今東西を問わず、いかなる悪人であっても、悪を捨てて善に従おうとする本心だけは、だれでも共通にもっている。だから、何が善であり、いかにすればその善をなすことができるかということは、知能に属することであり、時代と場所と人がそれぞれ異なることによって、それらは互いに衝突し、闘争の歴史をつくってきたのであるが、善を求めようとする人間の根本目的だけは、すべて同じであった。
では何故、人間の本心は、いかなるものによっても取り押さえることのできない力をもち、時間と空間を超越して、善を指向しているのであろうか。それは、善の主体であられる神が、神の善の目的を成就するための善の実体対象として、人間を創造なさったからで、たとえ堕落人間がサタンの業により、善の生活ができないようになってしまったとしても、善を追求するその本心だけは、そのまま残っているからである。したがって、このような人間たちによってつくられてきた歴史の進みいくところは、結局善の世界でなければならない。
原理講論、人類歴史の終末論2.3
神様の創造は、実に神秘で奥深さにあふれています。人間を、御自身の子女として創造され、万物の霊長として立てられた神様は、人間に「良心」という、最高、最善の贈り物を下さいました。人間が地上界で一生を航海するのに必要な羅針盤として下賜されたものが、良心という特別な贈り物です。よく人生百年と言いますが、人間は誰彼を問わず、生まれて死ぬ瞬間まで、良心の作用圏を抜け出すことはできません。
そして、良心の作用の中で、最高、最上の機能が正に、真の父母、真の師、真の主人の役割の機能です。言い換えれば、良心は、私達が生まれたときから真の父母、真の師、真の主人の位置で私達の生を指導し、教育する、神様の代身者であるということです。私達の一挙手一投足を、一時も逃すことなく導き、監視する責任が良心の機能だということです。ですから、良心は、私達のすべての言行はもちろん、考えまでも父母よりも先に知り、師より先に知り、神様よりも先に知るのです。神様が、人間の人生を指導し監視する本源的な機能を、良心に伝授してくださったからです。
ところで、水晶のように清く透明でなければならない人間の良心に、堕落性の垢がつき、今まで様々な罪悪と疾病の中で本来の機能をすべて発揮できずにいるのです。したがって、サタン主管圏のこの邪悪な世界から一日でも早く解放・釈放を受けたいと、泣き叫んでいる良心の声を聞ける皆様にならなければなり
ません。
平和神経、平和メッセージ15、2007.7.4
良心の方向性と目的の内容は何になるかというと、真の愛が目的の内容にならざるを得ないという結論が出てきます。その方向、良心の根の方向と目的が何かというと、変わらないこのような愛ではないと言うことはできません。
(261-311 ~ 312、1991.4.15)
神様の愛は、自分を100 パーセント、120 パーセント投入するのです。そのようなものが堕落した世界に一つ残っているのですが、それが父の愛でもなく、母の愛です。それが種火のように残っています。この種火が残っているので、よく起こしさえすれば、再び火をつけることができるのです。それまでなければ、救援も不可能です。神様の創造本性の種が残っているので、救援が可能だというのです。
(199-276 ~ 277、1990.2.20)
2. 自分の良心との闘争
― 宗教経典 ―
あなたは平素、自らが成長していることを感じることができないが、あなたが罪を犯すときは、それをはっきりと知ることができる。
アカン族の格言(アフリカ伝統宗教)
正しい良心で、弁明するようにしなさい。
ペテロの手紙3.16 (キリスト教)
先人言へることあり、「心に二種あり浄と不浄となり」と、欲と混するは不浄にして欲と離るるは浄なり。
マイトリ・ウパニシャッド6.34 (ヒンドゥー教)
また私は、己れをとがめる魂によって誓う。
クルアーン75.2 (イスラーム)
ある人が、何の愛らしい行動もせず、有益な行動もせず、心の弱い人たちに安息所を用意してあげることもしなかった。「私は何の愛らしい行動もしなかった」という思いに彼は苦しんだ。「私は悪行をしでかした」という思いに彼は苦しんだ。この二つの思いは、良心を麻痺。
如是語経25. (仏教)
清い人には、すべてが清いのです。だが、汚れている者、信じない者には、何一つ清いものはなく、その知性も良心も汚れています。
テトスヘの手紙1.15(キリスト教)
肉体の中には一片の肉があり、それが健全な場合肉体はすべて健全だが、それが腐ると肉体もすべて腐ってしまう。その一片の肉とは、心のことにほかならない。
ナワウィー40 のハディース6(イスラーム)
とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、私は頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、私はなおさらのことです。私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。
しかし、私にとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、私の主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、私はすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得……。
フィリピの信徒への手紙3.4 ~ 8(キリスト教)
よい人のほまれとは、正しい良心の与える証しである。正しい良心をもちなさい。そうすればあなたはいつも喜びをもつことができよう。正しい良心はずいぶんたくさんな物事を忍ぶ力を具え、逆境の中にあってもつねにずいぶんと大きな喜びを覚える。病める良心はいつもおずおずとして不安である。
トマス・ア・ケンピスキリストにならいて(キリスト教)
俺の良心には千もの舌があって、それぞれの舌がそれぞれの話をし、そのどの話も俺を悪党だと非難する。
ウィリアム・シェイクスピアリチャード三世
それが正しくても間違っていても、それ自体として悪なるものであろうと道徳的に放縦であろうと、良心に対する審判は必要だ。そのような面で良心に反する者は、いつでも罪を犯す者である。
トマス、・アクィナス(キリスト教)
上官が部下に良心に逆らう命令を下したなら、部下がそれに不服従しても、彼は罷免されないだろう。
アッシジの聖フランチェスコ三番目の降霊説教(キリスト教)
― み言選集 ―
人は自分の生涯の因縁を求めていくにおいて,自分の心に侍っていかなければなりません。これが天倫の鉄則です。心の命令に服従しない者は天が打ちます。
(42-60. 1958.8.3)
良心に呵責を受ければ天法に引っ掛かります。
(17-38. 1966.11.6)
放蕩息子は、死んでも故郷を訪ねていくことができません。良心がそうなのです。天国に行くのは、ほかの誰かが助けてはくれません。自分が行くのです。兄の前に過ちを犯せば、兄の前に出ていくことを嫌います。兄は知らなくても、良心が申し訳なく思うのです。ですから、兄を遠ざけなければならず、その前に屈服しなければなりません。天地の道理が秩序に従ってできています。堕落したために鈍くなって分からないのであって、鋭敏な人はすべて分かります。
(400-328、2003.1.11)
すべての人間は、一生の間ずっと、各自自分の中に最も貴重な師をもっています。それにもかかわらず、その師を誤って待遇し、踏みにじり、濫用しています。その師こそ、すなわち人間の良心です。私達の良心は、常に私達自身にも助けになるように話し掛け、私達を真の愛と連結させてあげようとしています。私達の良心は、私達をして善で、非利己的な人になりなさいと父母のごとく促し、神様のみ旨に従って行動するように導いてくれています。
しかし、各自の心の中にはまた、常に良心の声に逆らう反乱者がいます。その反乱者こそ、すなわち肉体です。肉体は、良心を散々に踏みにじり、濫用してきました。私達がこのことを悟ったとき、私達は、自らの良心の敵であった肉体、すなわち私達自身の生命と人性をひどく損傷させた肉体の側につくことができますか。私達の良心は、常に心の中の師として、父母として、人類の究極的な父母である神様と、完全に一つとなるように導いてくれなければなりません。この時、良心は私達の中にある神様の代身者となるのです。
さらには良心を「第二の神様」とも呼ぶことができるのです。皆さんは、良心の敵である肉体に対して同情し、肉体を保護しなければならないと考えますか、それとも肉体を統制し、抑制しながら、良心が正当であることを立証しなければならないと考えますか。
肉体は、肉体的な欲望のみを追求するのです。腹が減れば、盗んででも飢えを免れようとします。肉体は常に楽なことを追求し、他を利用しようとします。肉体は、肉体なりの領域をもっています。すべての人は各自、肉体の領域を主管すべき莫大な責任を負っています。
(201-208、1990.4.9)
神様は、知恵の大王でいらっしゃいます。人間が完成に達する道を遠い所には置きませんでした。私達と最も近い所、最も隠密で安全な所、正に皆さんの良心の中にその道を準備しておいてくださったのです。皆さん、良心は皆さんの主人です。皆さんの師です。皆さんの父母の代わです。良心は、皆さんのすべてのことに対して、誰よりも先に知っています。皆さんの考えまでも、隅から隅まで知っているのが皆さんの良心です。師より、父母より、神様よりも先に知っています。このような良心が、皆さんのために一生の間どれほど多くの忠告をしてくれるでしょうか。
昼も夜も、悪いことを考えただけで、「こいつ!」と叱りながら、疲れもせずに皆さんを引っ張っていき、川を越え、峠を越えようと、どれほど苦労したでしょうか。良心は、いつも真の主人の姿で皆さんを保護して助けようとしたのに、いつも裏切った皆さんだったのではないでしょうか。宇宙から譲り受けた一つしかない貴い師であるにもかかわらず、この師を徹底して冷遇した皆さんの体をどうするつもりですか。皆さんの本然的愛を引き継がせてくれた父母の代わりに送ってくれた良心を、無慈悲に蹂躙した肉身ばかりにしがみつき、その肉身の欲望に捕らわれて無為に歳月を過ごして一生の幕を下ろしますか。
(447-163 ~ 164、2004.51)
皆さんは、私は堂々とした一人の人格者なのに、私の良心は何か間違ってしまったのかと思うかもしれませんが、皆さんの良心は眠っています。皆さんの心は間違いなく眠っています。良心は誰の制裁も支配も受けることを願いません。良心は休みません。いくら真っ暗な真夜中でも、明るい所でも、豪華絢爛な所でも、間違いをそのままにしておきません。少しでも間違えば、「おい、こいつ!」と言いながら体を打つのが良心です。このような師がどこにいますか。皆さんがはっきりと知らなければならないことは、皆さんの良心が眠っていると言うこの若い人の話が事実かということです。
眠っている良心を目覚めさせましょう。神様の心情を知らずに眠っている民族の良心を目覚めさせましょう。神様の心情を知らずに眠っている世界人類の良心を目覚めさせましょう。天地を抱き、一つの世界を建設しようとされる神様のみ旨に従い、終末世界に向かって行くまいとしても行かざるを得ない立場にいる人間たちの良心を目覚めさせてあげましょう。
今日、私達が信じている宗教が世界人類すべてに教えを与えることができ、眠っている良心を目覚めさせ得る宗教になっていますか。そのような内容を備えた主義や理念がありますか。良心が目覚め、そこに入っていくその衝撃、その決意、その覚悟は、世の中の万事を一度に片付けてしまうことのできる力として現れなければなりません。刃物が恐ろしいですか、死が恐ろしいですか、私の良心から起きてくるものを誰が妨げるでしょうか。誰も妨げることはできません。
(10-284 ~ 285、1960.11.6)
7) 完全性
宗教の諸経典は、絶対者と一つになった人、真理を体現した人、罪、または世俗的な堕落の足かせから自由な人、満ちあふれる聖なる恩寵を表し示す人の功徳を描写する。彼らは、聖者、賢者、仏陀、または神聖な人間と呼ばれるだろう。このような完全状態は、私達が到達できない領域の向こうではない。私達が努力さえすれば成就できる目的地である。ガンジーは次のように言った。「人生は熱望だ。その任務は、完成、すなわち自己実現のために奮闘することだ。その理想は、決して私達の意気地のなさや不完全さのために低められてはいけない」。ここに記述された章句は、完全状態を成就した人の卓越した稟性を描写する。特に、完全性の三つの品性を強調する。
一つ目は、心と体の統一である。聖者は、利己的な欲望を克服し、性欲、貪欲、またはほかの欲望を浄化することによって自分自身を主管した。結果的に彼は、ひとえに神様のみ旨と良心の指示に従って正しいことのみを行おうとする。聖アウグスティヌスの言葉によれば、私達は「神様を愛し、あなたの意図することができる人だ」ということである。
二つ目は、完全性は神様との統一である。神様は、最高の人間的熱望の典型でありモデルである。それゆえ聖者は、神様自身の完全性に同参しようと努力することによって、神様の属性、すなわち絶対、不変、愛、正義などを具現するようになる。
三つ目は、完全性は神様の真の愛を具現することを意味する。愛または慈悲は、罪のある人々を救うための、その疲れを知らない努力から現れたものとして、神様の本質の核心である。したがって、完全な男性と女性は、ほかの人々の豊かな人生を喜び、社会の利益のために私心なく努力する。聖者の愛は、どちらの一方にも傾かず、誰も敵とみなさず、常に善で悪に報いる。(第13 章1.「真の愛」参照)
1. 完全性は心と体の一致から始まる
― 宗教経典 ―
また、一人の出家沙門が釈尊に問うた。世の中には善となすものが色々とあるが、何が善といわれるものであり、その中で最大の善となすものは何んですか、と。釈尊はいわれた、仏道を行じ、その真を守るものが善であり、その志しが行ずる道と一つになることが、善の最大をなすものである、と。
四十二章経14(仏教)
愛着までもが私のもたらしたものにふさわしくならない限り、本当の信者とはいえない。
ナワウィー40 のハディース41(イスラーム)
悟りに満ちた者は、決していかなる悪行にふけることはない。彼の良心は、真理で完全に映し出された知性によって導かれるからである。
アーヤーランガ・スッタ1.174(ジャイナ教)
覚りのようすがに心を正しくおさめ、執著なく貪りをすてるのを喜び、煩悩を滅ぼし尽くして輝く人は、現世において全く束縛から解きほごされている。
法句経89、(仏教)
御者が馬をよく馴らしたように、おのが感官を静め、高ぶりをすて、汚れのなくなった人、このような境地にある人を神々でさえも羨む。大地のように逆らうことなく、門のしまりのように慎み深く、(深い)湖は汚れた泥がないように、そのような境地にある人には、もはや生死の世は絶たれている。正しい智慧によつて解脱して、やすらいに帰した人、そのような人の心は静かである。ことばも静かである。行いも静かである。何ものかを信ずることなく、作られざるもの(一ニルヴァーナ)を知り、生死の絆を断ち、(善悪をなすに)よしなく、欲求を捨て去った人、かれこそ実に最上の人である。
法句経94.97(仏教)
アルジュナはたずねた。「クリシュナよ、智慧が確立し、三昧に住する人の特徴はいかなるものか。叡知が確立した人は、どのように語り、どのように坐し、どのように歩むのか。」 聖バガヴァッドは告げた。「アルジュナよ、意(こころ)にあるすべての欲望を捨て、自ら自己(アートマン)においてのみ満足する時、その人は智慧が確立したと言われる。不幸において悩まず、幸福を切望することなく、愛執、恐怖、怒りを離れた人は、叡知が確立した聖者と言われる。
すべてのものに愛着なく、種々の善悪のものを得て、喜びも憎みもしない人、その人の智慧は確立している。亀が頭や手足をすべて収めるように、感官の対象から感官をすべて収める特、その人の智慧は確立している。断食の人にとって、感官の対象は消滅する。味を除いて……。最高の存在を見る時、彼にとって味もまた消滅する。実にアルジュナよ、賢明な人が努力しても、かき乱す諸々の感官が、彼の意(こころ)を力ずくで奪う。すべての感官を制御して、専心し、私に専念して坐すべきである。感官を制御した人の智慧は確立するから。」
バガヴァッド、ギーター2.54 ~ 61(ヒンドゥー教)
アブ・フレイラが、神の使徒が語る言葉を伝えた。「最も完璧な信仰をもった者は、最もりっぱな性格をもった者である」。
アブー・ダーウードおよびダーリミー・ハディース(イスラーム)
諸の比丘の、阿羅漢にして諸漏己に尽き、{梵行}己に住し、所作己に弁じ、諸の重擔を棄て、己利を逮得し、諸の有結を尽し、正知して解脱せるものは、九事を行ずることあり得べからず。{謂く}漏尽。比丘の故(ことさ)らに殺生することあり得べからず。比丘の盗心を以て不興を取ることあり得べからず。比丘の淫法を行ずることあり得べからず。比丘の知りて妄語することあり得べからず。比丘の蓄財の欲を亨くること前に在家者なりしが如きことあり得べからず。比丘の欲趣に往くことあり得べからず。比丘の瞋趣に往くことあり得べからず。比丘の癡趣に往くことあり得べからず。比丘の怖畏趣に往くことあり得べからず。
阿含経増支部ⅳ.370 (仏教)
これは「道」と同一になるといわれる。
それに近づくことができず、また、
遠ざけることもできない。
それに利益を与えることもできず、
また、害を及ぼすこともできない。
尊敬へと高めることはできず、また、
恥に苦しめることもできない。
だから、天下で最も尊い人なのである。
道徳経56(道教)
― み言選集 ―
皆さんがここから出発するにおいて、どのように行かなければなりませんか。各自が指向する量が100 とするとき、ここで心と体が50 対50 ではいけません。そのような人は、中間霊界にとどまるようになります。緩衝地帯にとどまるのです。もし体が60 であれば、間違いなく地獄に行きます。地獄はどのような所でしょうか。陰になっている所です。天国はどのような所でしょうか。輝いている所です。その、ように理解すればよいのです。そのような人は、必ず陰になっている所に行くというのです。ここは、下りていけばいくほど真っ暗になります。
ですから、皆さんは常に「私」という存在は善悪の母体だということを考えなければなりません。先生も皆さんのような年齢のとき、このような内容で苦心したのです。それで、先生が立てた標語が何かというと、「宇宙主管を願う前に自己主管を完成せよ」というものです。これが信仰生活においての第一条です。このような面で、自我を完成し、自我を主管できるようになるとき、すなわち、自分の体を制御し、克服できる自主性をもつようになるとき、初めて自分の心と体の相克がなくなるのです。
(37-122、1970.12.23)
人は二重構造になっています。心的な人と体的な人です。それでは、心はいったい何でしょうか。心は縦的な基準をもっています。体は何でしょうか。横的な基準をもっています。これが本来神様の理想的基準に立ち、神様の愛を受けることができるようになれば、縦的な心に神様の愛が「カーン」と響く時、横的な体はすべて感じるようになります。心的、縦的基準が存在する霊人体に神様の真の愛が「カーン」と響けば、横的な基準になる体も「カーン」と共鳴するようになっています。……霊人体に真の愛が「カーン」と響けば、体が共鳴できるのです。堕落していなければそうだというのです。どのような基準によってそのようになっていますか。何によって共鳴するのですか。真の愛の響きに共鳴するようになっています。
(177-216、1988.5.20)
皆さんの体と心が一つになれば、神様が臨在されるというのが原埋の教えです。それでは、神様がなぜそこに臨在されるのかというのです。人の体と心が一つになれば、必ずそこには、一つになる原則は愛から始まるので、相対的愛があるがゆえに臨在するという論理が成立するのです。「人の体は神様の聖殿である」とこのように言います。聖殿とは、どのような所ですか。聖殿というならば安息所という言葉と通じます。それでは、休むには何の中で休みますか。愛の中で安息するのです。
私達人間が願う理想があるならば、そのような内心的基準が最高の理想の基準ではないですか。そのような心の愛をもった所を、心情の世界というのです。それはわき出る泉の水と同じであって、くみ出しても、くみ出しても終わりがありません。なぜでしょうか。神様がそこにいらっしゃるから終わりがないという、このような論理を立てることができるというのです。
(91-78、1977.1.30)
神様は純金ですか、偽の金ですか。純金です。神様が純金なので、私達が一緒に一つになろうとすれば、どのようにならなければなりませんか。偽者になってはいけません。
ですから、私達が神様の心と体のようになっていなければならないのです。それでマタイによる福音書第5章48 節に「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」という言葉が出てくるのです。
(91-321、1977.3.1)
そうだとすれば、天国はどのように成すのですか。第1に、家庭を形成するすべての要員は、個性完成を成さなければなりません。堕落によって選択の余地もなく相続するようになった堕落性を脱ぎ、自らの人格完成をしなければなりません。すなわち、心と体の葛藤と闘争を完全に克服し、勝利して一心一体一念の境地で完全一和の世界が、人格完成によって実を結ばなければならないのです。このような境地に到達した人には、妬み、嫉妬、欲心、憎悪など、あらゆる悪の要因になる堕落性が再び根を降ろすことができません。
(443-175、2004.3.23)
宗教の目的は、心情世界の法度を活用し、生活的な感情と対している宇宙万象のすべての道理を管轄できる権限をもつ、そのような人格者を育成することです。
(6-349、1959.6.28)
自分を愛さない人は神様を愛することができません。父母を愛さない人は国を愛することができません。また、自分自身を愛することができない人は、父母を愛することができません。自分自身を愛してこそ、父母を愛することができるのであり、国を愛することができるのであり、世界を愛することができるのであり、神様を愛することができるのです。
ですから、宇宙主管を願う前に自己主管をしなさいというのです。このような途方もない愛の実体である個体を主体的な立場に立てておかなければ、家庭も不可能であり、国も不可能であり、国家も世界も不可能です。ですから、自分を完全に愛することのできる人でなければ、完全な神様を愛することはできません。
(22-97 ~ 98、1969.1.26)
2. 完全性は神様と一致すること
― 宗教経典 ―
だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。
マタイによる福音書5.48 (キリスト教)
神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人の内にいつもあるからです。この人は神から生まれたので、罪を犯すことができません。
ヨハネの手紙一3.9 (キリスト教)
誠は、天理本来の姿である。誠であろうとするのは、人の当然の務めである。真実無妄で、思勉するまでもなく、おのずからにして道に当たるのは聖人である。
中庸20.18 (儒教)
まことに、キリストのもとに来て、キリストによって完全になりなさい。神の御心に添わないものをすべて拒みなさい。もしあなたがたが神の御心に添わないものをすべて拒み、勢力と思いと力を尽くして神を愛するならば、神の恵みはあなたがたに十分であり、あなたがたは神の恵みにより、キリストによって完全になることができる。そしてあなたがたは、神の恵みによりキリストによって完全になれば、決して神の力を否定することができない。
モルモン経、モロナイ書10.32(末日聖徒イエス・キリスト教会)
祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。彼は水のほとりに植えられた木。水路のほとりに根を張り、暑さが襲うのを見ることなく、その葉は青々としている。干ばつの年にも憂いがなく、実を結ぶことをやめない。
エレミヤ書17.7 ~ 8(キリスト教)
至高な師は満足と寛容の木であるがゆえに、
正義がその花であり、教会はその実である。
この木は、神の中で喜びにあふれ、
永遠に枯れることがなく、
瞑想の実践によって実を結ぶ。
主の中でそれは喜んで用いられるがゆえに、
自己のない行為として
至高な愛を施すのと同じことである。
アーディ・グラント、ヴァール・マーシュ、M.1、P.147(シーク教)
完璧と不死と天則と王国を完全に主宰し給うことによって、マズダー・アフラは授け給え、心意と行為において彼(アフラ)の盟友たるものに、ウォフ・マナフとの交わりの永続を。これらのことは、正見にして獣身するものには、あらわに見えるのです。彼は、〔善〕思・善語と〔善〕行をもって、王国とともにアシャをも助けるもの。彼は、マズター・アフラよ、御身にとって最もよろこばれる客人となりましょう。
アヴェスター・ヤスナ31.21 ~ 22、(ゾロアスター教)
老子は答えた。「わしは万物のはじまる根源の世界に遊んでいたのだよ」孔子はたずねた。「それは、どういうことなのでしょうか」……
「この境地に達することができれば、最高の美しさと、最高の楽しさを得ることができる。このような最高の美を得て、最高の楽しい境地に遊ぶものを、至人というのだ」と老子は答えた。
荘子21(道教)
最高の我は、生老病死にひっかかることがなく、至高清浄で八つの業に染まっていない。それは無限の知恵と洞察と至福と権能をもち、破壊されることがなく、また尽きることがない。それは人の感官が及ぶところではなく、一切のこだわりや長短点、または再生から自由であり、永遠不変であり、比べるもののない自存者である。
クンダクンダ、ニヤマサーラ176.77、(ジャイナ教)130
― み言選集 ―
イエスが弟子たちに「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ5・48)と言われたみ言を見ても悟ることができる。創造原理によれば、創造目的を完成した人間は、神と一体となり神性をもつようになるので、罪を犯すことができない。したがって、そのような人間は、「創造目的から見れば、天の父の完全なように完全な人間である。
それゆえに、イエスが弟子たちに言われたこのみ言は、すなわち創造目的を完成した人間に復帰され、天国人になれという意味のみ言だったのである。このように、イエスは堕落人間を天国人に復帰させ、地上天国をつくるために来られたので、「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」祈りなさいと言われ(マタイ6・10)、また「悔い改めよ、天国は近づいた」(マタイ4.17)と叫ばれたのである。それで、彼の道を備えるために来た洗礼ヨハネもまた、「天国は近づいた」(マタイ3・2)と叫んだのであった。
それでは、創造目的を完成した人間に復帰され、イエスが言われたとおり、天の父が完全であられるように完全になった人間とは、いかなる人間なのだろうか。このような人間は、神と一体となり、その心情を体恤することによって、神性をもつようになり、神と一体不可分の生活をするようになるのである。
原理講論、メシヤの降臨とその再臨の目的1.1
人間が真の姿を成すには、すべての生死禍福の根源であられる神様と関係を結ばなければなりません。その関係を結ばなければ、人間個体内では真の姿を成し遂げることができないのです。真は、必ず神様が中心にならなければなりません。ですから人間は、全体的に収拾して、主管し得る決定的な基盤をもつようになるとき、真が成されるのです。その基盤をもつことができなければ、「真」という名詞は成立し得ないということを知らなければなりません。
真の起源は、神様です。神様がいらっしゃることによって、真が成されます。神様が離れるようになるとき、真も離れるようになります。そこには真ではない、悪の起源が生まれるのです。このような事実を皆さんは知らなければなりません。このような観点から見ても、真は、人間が勝手に考えることのできるものではありません。すなわち、堕落した人間が勝手に管理する、そのような位置に従属しているのではなく、真が私達を主管している、ということを知らなければなりません。ですから、私達は、いつも真の前に屈服しなければなりません。真を立てて、そこに順応しなければならないのです。
(24-315、1969.9.14)
神様を生活の中で直接五官を通して感じ、神様の実存を分かるようになってこそ、本当に神様が分かるようになります。言い換えれば、神様の実存を体恤して感じなければなりません。このように神様の実存を生活の中で直接、体恤して生きれば、自動的に神様のみ旨が何かを一瞬一瞬感じ、分かってすべてのことに臨むようになり、罪を犯そうとしても犯すことができない完成した人間の姿になるでしょう。無形でいらっしゃる神様は、人間の実体をまとって主人的人格と形体を備え、有形世界である地上世界と万物万象はもちろん、霊界までも主管されるようになっているのです。このように、神様をはっきりと知ることは、人間の人生において最も優先的で重要な要素です。
神様をはっきりと知り、生活の中で侍って暮らし、霊界の実存はもちろん、実相までも信じて分かるようになれば、人間の人生は高速道路を走る自動車のように簡単で遮るものがなくなるでしょう。運転者が高速道路の法規を守り、ハンドルを握って居眠りさえしなければ、無難に目的地に到達できるように、天が下さった良心の指向に従って一生懸命に生きさえすればよいのです。そこで心と体も一つになるのです。そこで人間完成の花が咲き、実を結ぶというのです。
(447-157 ~ 163、2004.5.1)
真の人間とは何ですか。神様と遊び、神様と休み、神様と眠り、神様と生きようとする人間が最高の真の人間です。神様はどのような人を求めるのかというと、そのような真の人間を求めます。同じように、私達人間が真のものを求めていき、真の世界を求めていくのですが、神様と共に暮らす世界が真の愛の世界であり、真の幸福の世界なのです。そこで初めて私達の理想境が顕現するのです。
(60-284、1972.8.18)
3. 完全性は神様のように愛すること
― 宗教経典 ―
あなたがたも聞いているとおり、「隣人を愛し、敵を憎め」と命じられている。しかし、私は言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか、異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。
マタイによる福音書5.43 ~ 48(キリスト教)
主なる神は言われた。「私に似なさい。私が悪に対して善で返すように、あなたも私に似なさい」。
出エジプト記ラッバー26.2(ユダヤ教)
愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神かち出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。……愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。
ヨハネの手紙一4.7 ~ 16(キリスト教)
敵と味方に対して平等であり、また尊敬と軽蔑に対しても平等であり、寒暑や苦楽に対しても平等であり、執着を離れた人、毀誉褒貶を等しく見て、沈黙し、いかなるものにも満足し、住処(すみか)なく、心が確定し、信愛に満ちた人、彼は私にとって愛しい。
バガヴァッド・ギーター12.18 ~ 19(ヒンドゥー教)
霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。
ガラテヤの信徒への手紙5.22 ~ 23(キリスト教)
あなたの愛は普遍的でなければならない。あなたは、宇宙があなた自身の存在様相であることが分かるだろう。他の人々が不完全に残っている限り、私達の完成は完成ではないことを感じるときこそ、完全で全体的な完成が起きるだろう。もし私達が私達自身を神の子と呼ぶのなら、他の人々もまた神の子である。私達がもっているものがいくら小さなものだとしても、彼らと分かち合わなければ、私達は何の権利で彼らを私達の兄弟だと呼ぶことができるだろうか。彼らは私達より少しあとから人生旅程を歩んでいるかもしれず、またいち早く眠りに就くこともあるだろう。しかし、完璧な完成が地球上に明けてくるためには、彼らはその目標に到達しなければならない。
シュリ・チンモイ(ヒンドゥー教)
― み言選集 ―
道の世界において人格完成の標準は、どこから出てくるのでしょうか。愛から出てくるのです。神様の無限で絶対的な愛を中心として人格完成がなされるのです。
(33-79、1970.8.9)
イエス様は、勝利的天倫の道を開拓するために、歴史上になかった愛を強調したのです。そして、いかなる困難な環境にぶつかっても、その環境を克服するためには、忍耐心をもたなければならないと主張したのであり、罪人たちが悪に対して忠誠を尽くす以上に神様のみ旨めために忠誠を尽くさなければならないと語られたのです。これがキリスト教で言う聖霊の九つの実の根本です。
愛の生活をすれば喜楽と和平が出てくるのであり、忍耐を通しては慈悲と善良が出てくるのであり、忠誠の生活をすれば温柔と謙遜が出てきます。イエス様は、堕落圏内にいる人間たちのすべての悪の要素を除去してあげるために、天的な愛と天的な忍耐、天的な忠誠を強調しました。これらが天国の理念を達成させ得る実践的な理念ですが、今日、皆さんの心にこのようなキリストの愛がありますか。また、忍耐と忠誠心がありますか。
(2-345、1957.8.4)
神様はどのようなお方でしょうか。(注15)神様は、地上の良い人からも好まれ、悪い人からも好まれるお方です。罪を犯して死刑場に出て死ぬようになる死刑囚も、「神様! 私を哀れに思ってください。私はあなたを愛しています!」と言って死にます。「この神様め! 私は死ぬ。あなたが私をこのようにした!」とは言いません。
では、悪いことをして死んでいく立場にある人も、どうして神様の前では、良い心で犠牲になり、希望をもって再出発することを誓いながら、その神様に最高に寄与し、また頼り、彼と共にいたいと思うのでしょうか。内心では切に、「父母から離れ、兄弟から離れても、誰よりも近くで事情を通じたい」と思うのです。これは、神様が真であるために、そのように言うのです。真の人は、好きな者だけを好むのではなく、自分を殺害しようとする怨讐までも好きにならなければなりません。また、彼の前には、すべてを任せることができ、すべてを相談したくもあり、すべてを願うこともできる立場にある人であってこそ、真の人です。
それでは、今まで育ってきた過程で、憎い人がいる人は、真の人ですか、偽りの人ですか。偽りの人です。憎い人がいる人は、間違いなく偽りの人です。これをはっきりと知らなければなりません。真の人になろうとする人なら、この両面を備えているべきです。それで、私を憎む人をも好きになろというのです。私を憎む人を私が好きになれば、その人も私を好きになるのです。私を憎む人に私が3回以上良く接してあげれば、彼は頭を下げるようになるのです。3回だけ良くしてあげれば、頭を下げます。そうか、そうでないか、一度やってみなさい。人には良心があって、自分が誤ったのか良くやったのか、分かるのです。
(39-302 ~ 304、1971.1.16)
皆さんの心に神様の愛が根付いていて、引き抜こうにも引き抜くことができないようになっていますか。「私は神様の愛になすすべなくぶら下がって生きる者だ。私の体を私の思いどおりしようとしてもできない。私の体に神様の愛が深く根付いているので、私は私の思いどおりに生きようとしても生きることができない。神様の愛を中心として生きまいとしても生きざるを得ない人だ。御飯を食べるときも、神様の愛を中心として食べ、生きるときも、心と体が神様の愛を中心として生きる私だ」と言うことができますか。
(140-24 ~ 25、1986.2.1)
8) 喜び
幸福を追求することは、人間の人生はもちろん、宗数的な探求の土台となる。究極的実在との合一は、超越的な喜びを享受することができる。それは、至福(アーナンダ)、涅槃、または神聖な愛する人との婚姻として多様に特徴づけられる。唯一神論的な信仰によれば、神様は喜びのために人間を創造した。神様とその被造物との合一は、その喜びを完全なものにする。
この節では、人間の心情と神様の心情が合一して共鳴する、そのときの天国の喜びを描写する章句で始まる。そしで、天国の喜びの広大さと感覚を通した部分的な快楽を比較する章句が出てくる。このような洞察は倫理に対する論議でおろそかに扱われてはいけない。ジョージ・ワシントンは次のように言った。「徳と幸福の間には不可分の合致点がある」。私達は、喜びに満ちた人生と天国の喜びとの間の相乗作用を描写する章句で締めくくる。ほかの人々に幸福を分け与えようとする努力が伴う愉快で楽天的な姿勢は、聖霊の喜びを引き寄せることができる。これは、夫婦の愛と神聖な愛の神秘な連関の中で経験される。(第19 章5、「夫婦愛」参照)
1. 天の喜び
― 宗教経典 ―
命の道を教えてくださいます。私は御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い、右の御手から永遠の喜びをいただきます。
詩編16.11 (キリスト教)
月日にわにんけんはじめかけたのわ
よふきゆさんがみたいゆへから
おふでさき14.25、(天理教)
幸福は真理と愛から生じる霊的なものである。それは利己的ではない。それで、それは単独で存在することはできず、すべての人間がそれを共に分かち合うことを要求する。
科学と健康57(クリスチャン・サイエンス)
「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された」と書いてあるとおりです。
コリントの信徒への手紙一2.9 (キリスト教)
人間は、その行なったことの報奨として、満悦させられるものが、ひそかにかれらのために用意されてあるのを知っていない。
クルアーン32.17. (イスラーム)
「雲のようにこの世に出現した余は、如来であり、人間の最高者であり、勝利者である」と。余は、三種め迷いの世界に繋縛されて四肢の痩せ衰えた、すべての人間を元気づけよう。苦悩にさいなまれた者たちを安楽にさせ、かれらに、さまざまな快楽と平安な境地を与えよう。
法華経5(仏教)
カルマの汚染から自由な者は、宇宙の究極に入っていき、一切を観照し、すべてのことを知り、永遠の至福を享受するだろう。
クンダクンダパンチャースティカーヤサーラ170(ジャイナ教)
神を唱念することにより、心の安らぎは得られるのである。
クルアーン13.28(イスラーム)
私の聖母よ! 聖なる師と一つになることで私は至福を得ました。知らず知らずの間に起きた彼との一体の中で、胸の奥深い所に楽しい音楽が響き渡り、珠玉のような旋律の天使たちが降りてきて聖歌を歌います。「そなたはそのすべてを賛美せよ、胸の中に抱いた主の歌を!」とナーナクが言うと、私は聖なる師と一つになる至福を得たのです。
アーディ・グラント、ラームカリー、M.3、p.917(シーク教)
おのが身に、すべてのもののうちの最勝なるもの〔すなわち〕楽土にある安楽をば、人は獲得したいものである――御身の、分別し給う最勝のスプンタ・マンユを通して、マズダーよ。〔けだし〕いつの日までもつづく長き生命の歓喜とともに、ウォフ・マナフの至福をも、御身はこれ(スブンタ・マンユ)によって、天則に従って授け給うのです〔から〕。
アヴェスター・ヤスナ・43.2(ゾロアスター教)
― み言選集 ―
喜びというのは、神様の心情から出発するものです。その目的は、どこで遂げられるかというと、人間によって遂げられるのです。見えない神様の心情が、目に見える人間の心情で顕現するのです。
(27-29、1969.11.15)
人はなぜ生まれたのでしょうか。神様を愛するために生まれたのであり、また万物を愛するために生まれました。反対に言えば、神様の愛を受けるために生まれたのであり、万物の愛を受けるために生まれたのです。
(81-334、1975.12.29)
いったい、神様の創造は何を目的としたものなのでしょうか。神様がいるとすれば、神様が創造したその目的は何でしょうか。私達人間が願う目的と同じでしょうか。神様も喜ばれるためにつくられたのです。喜び楽しむためだということです。
喜び楽しむにおいては何を中心として喜ぶのでしょうか。お金をもって喜ぶのでしょうか。この宇宙のすべての万象をもって喜ぶのでしょうか。人間たちが喜ぶことのできるそのようなものをもって喜ばれるためではなく、愛をもって喜ばれるために万物をつくられたのです。このすべての万物を、そのような目的のもとにつくったのです。
それでは、万物が願う最高の願いとは何であり、最高の終着点とは何でしょうか。このように見るとき、愛を通じた喜びを目的として万物をつくったとすれば、被造世界の万物は、愛を通して連結され得る因縁を抜け出すことはできません。そのような万物は、真の神様の愛を受けるために理想的に作用をするのです。
(114-63、1981.5.16)
人情と天情の合一点が、幸福の出発点である。御旨の道、天国人は自分が良いときは父母、兄弟、親戚を訪ねて、一緒に楽しもうとします。良いことは幸福なことなのです。幸福は永遠なものであり、永遠なものは心情です。宇宙の中心は何でしょうか。それは父母と子供だというのです。すなわち父母と私です。神様と私だというのです。神様は父であり、私は息子です。人生の究極的目的は、父を訪ねて断ち切ることのできない関係を結び、喜びを感じることです。
(12-104、1962.12.16)
ある人が、このような物やあのような物をいっぱいつくっているのですが、ほかのある人が、「ああ、好きだ! ああ、好きだ! 愛している、愛している」と言えば、その主人がそれを見て、「本当に好きですか。本当に好きですか」と尋ね、自分よりもっと好きだということを確認すれば、彼にあげたいと思うのです。私よりもっと愛すればあげるのです。それをつくった自分よりもっと愛すれば、自分のものをその人にあげたいと思うというのです。
皆さんもそのような心があるでしょう? 神様も同じです。ですから、ねずみを見ても、「ああ、神様があれをどれほど愛されるだろうか」と言って愛し、子犬も愛し、蝶を見ても愛すれば、神様が、「それでは、お前にあげよう、お前にあげよう。お前がもっていきなさい、お前がもっていきなさい」と言います。
愛してこそ与えるのであって、そうでなければ与えません。主人の立場にいれば分かるのです。ひたすら愛して喜んでいれば、「では、お前にあげよう」、そのように言わざるを得ません。ですから、愛の刺激体として私のためにつくったという話は、正しい話です。愛を誘発するためです。
このような万物を愛するのを見るとき、神様が、「あいつは私より優れている」と思われます。……神様も同じです。神様が私を愛するということです。神様に腕があれば、後ろに来て抱きかかえ、「おいおい、こいつ! うれしいなあ!」、このような局面です。……神様が喜んで抱きつけば、私も喜んで振り返って神様を抱きかかえるのです。神様が、「おい、それはいけない」とおっしゃるでしょうか。神様が好きだと言って神様に無限に入り込んでいけば、神様も、「よい、よい、よい」とおっしゃいます。そう言わざるを得ません。すっかり喜ばれるというのです。
そこで酔っていればい神様はどうされますか。神様に出会って愛の病にかかり、酔って楽しんでいれば、神様がそれを見て喜ばれるでしょうか、気分を悪くされるでしょうか。「ああ、私の愛は良いものだなあ。はは!」と大きく笑うのです。その時に神様が「アーメン」と言います。「ええい、不愉快なやつ!ええい、不愉決だ」とおっしゃるでしょうか、その場で「ああ、うれしい!」とおっしゃるでしょうか。「とてもうれしい」、その言葉しかないというのです。
そのようになったあとには、二人で酔って抱きつき、乗っかろうと、下に敷こうと、どこに連れていってもうれしく、おしりにそのままくっついてもうれしく、すべてかまわないのです。そのようにできる道が最も望ましい道ではないですか。神様も願い、人間も願い、万物も願う道ではないか、このように結論を下すことができるのです。
(111.171 ~ 172、1981.2.15)
2. 感覚的喜びを超越する神聖な喜び
― 宗教経典 ―
神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。
ローマヘの信徒へ手紙14.17(キリスト教)
豊満(プーマン)なるものが即ち愉悦である。貧欠なるものには愉悦は存在しない。豊満こそ愉悦である。だから、豊満そのものを識得することに努めなければならない。
チャーンドーギヤ・ウパニシャッド7.23(ヒンドゥー教)
神は、男の信者も女の信者も、……永遠(エデン)の園の中の立派なやかた、そこに住むことを約束したもうた。だが最も偉大なものは、神のご満悦である。それこそは、至上の幸福の成就である。
クルアーン9.72(イスラーム)
この世に於ける諸欲の楽と、この天上の楽とは愛尽の楽の十六分の一にも値せず。
感興偈11(仏教)
孤独の味、心の安らいの味を味わったならば、恐れも無仏罪過も無くなる。真理の味をあじわいながら。
法句経205(仏教)
外界との接触に執心せず、自己「アートマン」のうちに幸福を見出し、ブラフマンのヨーガに専心し、彼は不滅の幸福を得る。実に、接触から生ずる諸々の享楽は、苦を生むものにすぎず、始めと終りのあるものである。アルジュナよ、知者はそれらにおいて楽しまない。
バガヴァッド・ギーター5.21 ~ 22(ヒンドゥー教)
それはじつに精(rasa)である。これはじつに精を得て、歓喜あるもの(anandin)となる。じつにもしも虚空のなかにこの歓喜がなかったならば、だれが気を吸い、だれが気であろうか? なんとなれば、この〔精〕はじつに歓喜を起こさせるものだから。歓喜の性質とは何であろうか? 高貴で、学識があり、頭がよく、強く、健康で、世界中の富を意のままにできる若者の運命を考えてみよ。彼が幸福であるとし、彼の歓喜を一単位とせよ。
その歓喜め百倍がガンダルヴァスにとっての一単位である。しかし自己を啓示され、渇望のない先覚者は、ガンダルヴァスに劣らないほどの歓喜を持っている。ガンダルヴァスの歓喜の百倍が、天上界のガンダルヴァス〔天使〕の歓喜の一単位である。しかし自己を啓示され、渇望のない賢者は、ガンダルヴァスに劣らないほどの歓喜を持っている。
天上界のガンダルヴァスの歓喜の百倍が、楽園に住む祖霊達の歓喜の一単位である。神々の歓喜、祭祀より生まれた神々の歓喜、神々の支配者の歓喜、インドラの歓喜、ブリハスパティの歓喜、プラジャパティこの歓喜、ラフマーの歓喜、しかし自己を啓示され、渇望のない先覚者は、ブラフマーに劣らないほどの歓喜を持っている。この様に書かれている。「言葉で表すことができず、意によって到達することのできないブラフマンの歓喜を知る者は、恐れより解放される。彼は、「なぜ私は正しいことをしなかったのか? なぜ私は誤ったことをこしたのか?」という思いによって悩まされることがない。ブラフマンの歓喜を知る者は、善悪を共に知り、それらを共に超越する。
タイッティリーヤ・.ウパニシャッド2.7 ~ 9(ヒンドゥー教)
誰でも肉体的な快楽を楽しむごとができる。奴隷も最も良い人に劣らず楽しむことができる。しかし、奴隷も自らの人間的な生活をしているなら分からないが、誰も奴隷が幸せだとは思わない。したがって、幸福はそのような暇つぶしのたねにあるのではなく、徳のある活動に含まれている。
アリストテレスニコマコス倫理学10.6(ヘレニズム)
― み言選集 ―
私達人間をじっと見てみると、ひたすらあちこち歩き回って、目も麻痺になり、耳も麻痺になり、においをかぐ鼻も麻痺になり、味わう口も麻痺になり、2本の腕も麻痺になり、すべて麻痺になったというのです。私の目が、私の耳が、私のすべての感覚器が一体化して、すべての神経線まで全体を総合し、私を一つのところに導くことのできるその道はどこでしょうか。陶酔し、喜びを感じて生きることのできる道があるとすれば、それはどの道でしょうか。それが私個人の人生の道として、私の一つの道として、私が満足できるだけでなく、私に従う家庭が満足し、私が属している氏族が満足し、私が属した国が満足し、私が属した世界が満足し、私が属した天地が満足し、神様までも満足できる、そのような光の道がどこにあるでしょうか。これが問題だというのです。
(95-181、1977.11.13)
個人生活を中心とする人々はよく感じることができませんが、恩恵深い生活をする人々は、いつも見ている万物が昔とは異なるように感じられるのです。いつも新しいのです。朝に見ても新しく、夕方に見ても新しいのです。神様の恩賜がゆっくり波打ってくるとき、神秘さを立体的に感じます。そのように感知する人がいれば、彼は幸福な人です。
(30-134 ~ 135、1970.3.21)
神様がいれば、その神様と人間はどこで連結されるのですか。生命が交流する所、愛が交流する所、理想が交流する所です。その点がどのような点でしょうか。父子の関係にならざるを得ないという結論が出てきます。このように見るとき、「ああ、私が神様と同等になることができるので、そのような喜びがどれほど大きいだろうか」と考えてみることを願います。そこで祈祷が必要ですか。「神様、私は罪人です」という祈祷が必要ですか。愛の主体であり、生命の主体であり、理想の主体なのに、祈祷が必要ですか。威信と体面を超越するのです。ためらうことなく神様をつかむことができるのです。
そのように、神様が抱きかかえてなでてくれ、愛してくれることを体験すれば、骨と肉が溶けてしまうでしょう。ここに宗教指導者も来ていると思いますが、そのような神様の愛を一度受けてみましたか。そのような位置で息をすれば、世界が行ったり来たりするのです。阿片を飲み、酒を飲んで酔うよりも劣るでしょうか。阿片にも劣るのですか。酒にも劣るのですか。神様の愛に入ってくれば、満たされない所がありません。
約400 兆にもなる細胞までも踊りを踊ることを感じることができるのです。目は目で、手は手ですべて感じるのです。それ以外のほかのものは、もってきてもすべて嫌います。このような神様の愛があるので、人間の最高の高貴な欲望がそれを目指していることを徹底して知らなければなりません。
(69-79 ~ 80、1973.10.20)
きょう一日が喜びで消化されるのは感謝なことですが、この喜びをあすの喜びとしてもっていくことができなければ、きょうの喜びは、私にとって永遠の怨讐になることを知らなければならず、悲しみと困難と嘆息の条件にしかならないことを知らなければなりません。
喜びが良いことばかりではなく、悲しみが悪いことばかりではないことを知っております。問題は、喜びと悲しみを連結するにおいて、自分の目的成就のための内的闘争がその環境にどのくらい結ばれていくのかということが重要であることを知っております。
このようなことを分かるようになるとき、私達がみ旨と共に生涯路程を行くにおいて、み旨とどのくらい一致したのか、み旨の価値に私達の喜びと悲しみがどのように連結されていくのかということを考えるようになります。
(43-10、1971.4.18)
3. 楽しい生活
― 宗教経典 ―
怨みをいだいている人々のあいだにあって怨むこと無く、われらは大いに楽しく生きよう。怨みをもっている人々のあいだにあって怨むこと無く、われらは暮らしていこう。悩める人々のあいだにあって、悩み無く、大いに楽しく生きよう。悩める人々のあいだにあって、悩み無く暮らそう。われらは一物をも所有していない。大いに楽しく生きて行こう。光り輝く神々のように、喜びを食む者となろう。
法句経197 ~ 200(仏教)
聖霊はうれしく思う心をもつ者にだけ共にされる。
エルサレム・タルムード、スッカー5.1 (ユダヤ教)
北風よ、目覚めよ。南風よ、吹け。私の園を吹き抜けて香りを振りまいておくれ。恋しい人がこの園をわがものとして、このみごとな実を食べてくださるように。私の妹、花嫁よ、私の園に私は来た。香り草やミルラを摘み、蜜の滴る私の蜂の巣を吸い、私のぶどう酒と乳を飲もう。友よ食べよ、友よ飲め。愛する者よ、愛に酔え。
雅歌4.16 ~ 5.1(キリスト教)
― み言選集 ―
先生は、あることに着手すれば、「このために生まれた!」と考えます。生まれたのはこのためだと考え、その次には、喜んでするのです。喜んでやりながら生きなければなりません。険しい峠を越えられるものが愛です。自分が気が向かないことには手を出しません。心がすべて知っています。喜んでするところには、神様が行かれて福を祈ってくださるのです。
(308-214、1999.1.5)
皆さんが70 年、ないし80 年を生きると考えるとき、その中で3分の2が悲しい生活だとすれば、この3分の2をどのようにしなければなりませんか。神様を中心として喜びの生活にしなければなりません。天国化させなければならないということです。天国は与えながら生きる所です。神様も与えなければなりません。父母は子女に与えなければなりません。良いものを与えたあとも、もっと良いものがあれば、それをまた与えたいと思うのが父母の心です。
(34-141、1970.8.30)
なぜ男性が女性を必要とし、なぜ女性が男性を必要とするのですか。神様の愛に共鳴するためです。そのようになれば、「ああ、よい!」と言うのです。食べなくてもよく、寝なくてもよいと言います。女性に男性が必要であり、男性に女性が必要です。完全な男性と完全な女性の愛が共鳴されてこそ、完全に神様の愛が成し遂げられるのです。
(102-21、1978.11.19)
横的な夫婦の愛が神様の理想的愛によって完全に花開き、その愛の香りが全世界を覆い尽くすと同時に、神様の愛が加えられ、父と息子、娘の位置が完成するのです。息子、娘の幸福を謳い、息子、娘の希望と息子、娘の万事を賛美することができ、愛を謳うことができます。それだけで終わるのではなく、皆さんがもつその愛の貴い贈り物の上に立体的愛を加え、この宇宙が膨らむようになるのです。
風船を知っているでしょう? 平たくつぶれた風船をふーっと吹けば大きくなるように、宇宙が膨らみ、存在世界の万物がその中に入っていってあまりある宇宙になるのです。すべてのものを充満させることのできる愛の力によって登場するというのです。
(101-35、1978.10.28)
第4章 神様の創造と人間の創造性
神様の創造と人間の創造性
1) 自然の神聖さ
自然は真に神聖である、大小すべての被造物は、神様の生命を賦与され、神様の霊を分有されている。すべての伝統宗教が共有するこのような洞察は、あらゆる生物に対する尊重と恭敬の礎石となる。アブラハムの伝統宗教によれば、神様は自らの目的に従ってそれぞれの被造物を創造したのであり、愛で満ちた自らの心情を注ぎ入れた。ゆえに、砂粒一つ、草の葉一枚に至るまで、すべての存在は神性の要素をもつ。さらに自然は、驚くべきバランスを見せる。したがって自然は、詩的、宗数的霊感の信頼するに足る源泉である。自然の本来の純粋さを黙想することによって、私達は神様と触れ合うことができる。
知恵のある人々は、すべての被造物が一種の意識的な知識の次元をもつことを感知する。多様な種類の動植物は、人間の氏族と世界のように種と類を成す。それらは、私達の体を構成し、命を支える要素を私達に貸してくれた、正にその母、大地によって養育される兄弟姉妹たちである。自然が提供してくれるすべてのものを考慮すれば、私達は自然に対して、大きく感謝しなければならない。文鮮明先生の教えのように、各被造物は、生きている神様の傑作品として、私達のために、すなわち私達の喜びと、霊感と、学びのために存在する。したがって私達は、自然を愛し、保護しなければならない。
1. 自然界に内在する神性
― 宗教経典 ―
一枚の木の葉も、あるいはもろい草の葉さえも、畏敬すべき神がその自らを表している。
卜部兼国(神道)
地とそこに満ちるもの、世界とそこに住むものは、主のもの。
詩編24.1 (キリスト教)
世界は庭園、主はこれを育てる庭師、すべてを大切にし、そこつがない。
アーディ・グラント、マージュアシュタバディー、M3、p18(シーク敦)
私は、大地に入って、威力により万物を支持する。また、液汁(甘露)よりなるソーマとなって、すべての植物を育てる。
バガヴァッド・ギーター15.13 (ヒンドゥー教)
深い天
曇った天
善い天
まっすぐな天
大地が草木を生む
草木が私達を生かす
私達を長生きさせ
恵ませる
善なる生命よ
大気の中に流布されよ
広がれよ
果てまで満たせ
甘い薬の大地は善良だ
甘い薬の大地は完全だ
甘い薬の大地は永遠の道を行く
甘い薬の大地は洗われ水が流れる
シャイアン族の歌(アメリカ先住民の宗教)
主は泉を湧き上がらせて川とし、山々の間を流れさせられた。野の獣はその水を飲み、野ろばの渇きも潤される。水のほとりに空の鳥は住み着き、草木の中から声をあげる。
主は天上の宮から山々に水を注ぎ、御業の実りをもって地を満たされる。家畜のためには牧草を茂らせ、地から糧を引き出そうと働く人間のためにさまざまな草木を生えさせられる。
ぶどう酒は人の心を喜ばせ、油は顔を輝かせ、パンは人の心を支える。主の木々、主の植えられたレバノン杉は豊かに育ち、そこに鳥は巣をかける。こうのとりの住みかは糸杉の梢。高い山々は野山羊のため。岩狸は岩場に身を隠す。主は月を造って季節を定められた。太陽は沈む時を知っている。あなたが闇を置かれると夜になり、森の獣は皆、忍び出てくる。
若獅子は餌食を求めてほえ、神に食べ物を求める。太陽が輝き昇ると彼らは帰って行き、それぞれのねぐらにうずぐまる。人は仕事に出かけ、夕べになるまで働く。主よ、御業はいかにおびただしいことか。あなたはすべてを知恵によって成し遂げられた。地はお造りになったものに満ちている。
詩編104.10 ~ 24 (キリスト教)
渓流は寂しい小道を横切り、
寂しい小道は渓流を横切る。
そのどちらが先か。
私達はこの渓流と出会って歩むために
その寂しい小道を断ち切ったのではな
かったか。
渓流はその起源がとても古い。
その起源は創造者から始まった。
彼はあらゆるものを純粋にタノで創造した。
アシャンティ族の詩(アフリカ伝統宗教)
― み言選集 ―
野に育つ微々たる草一株でも、そこに神様のみ手が触れていないものがないことを私達は考えなければなりません。育っている1本の木を見ても、そこには神様の無限の内的心情の因縁を通じた事情を経ていることを、私達はもう一度思い出してみなければなりません。
(6-338、1959.6.28)
すべての万物が、そのように因縁を結ばれているというのです。そして、因縁というのは、極めて小さいところから結ばれるものです。皆さんの個体も数十(400)兆個もの細胞で因縁が結ばれた生命体です。神様の愛を中心とした創造理念の世界、すなわち大宇宙のすべての存在物はどれ一つをとってみても、神様の心情の外で生じたものはありません。このようなことを感じる詩人がいたとすれば、偉大な詩人です。1枚の木の葉が揺れるのを見て天宙的な心情を感じ、それを表現できる詩人がいたとすれば、それは宇宙的な詩人だといえます。
今日私達は、このようなことに対して、あまりにも無視し、無関心でした。私達の周囲で無意識のうちに繰り広げられている天下万象は、神様の愛と共に存在するものであるという事実を知りませんでした。
神霊的な境地に入ってみると、小さな砂一粒にも宇宙の理致が入っているし、一つの原子にも無尽蔵の宇宙の調和が入っていることが分かります。存在するすべてのものをよく知ることはできませんが、ある複合的な力を通して現れた結果であることは否定できません。
分子を越えて原子、原子を越えて素粒子……。これらのものは無意識的に存在するのではなく、ある意識と目的をもって存在するのです。ですから、存在するすべてのものは、神様の愛の手を通って出てきたものであり、必ず神様と心情的な関係を結んで存在している事実を、徹頭徹尾知らなければなりません。
道人とはどのような人でしょうか。一握りの草をつかんでも、「神様!」と言うことができる心情で、その価値を自分の価値と同等に認識できる人が最高の道人です。そのように、その価値を謳歌できる人が最高の芸術家です。
色とりどりに存在する万象を見て、神様の色とりどりの愛と心情の妙味を発見し、それらのものと友達となり、共に楽しめる感情をもった人がいるとすれば、そのような感情で細胞の一つ一つが動く人がいるとすれば、その人は万宇宙を代表し得る人であるはずです。そのような人が万物の霊長です。
ところで、食べることしか知らない人が万物の霊長になれますか。神様が被造世界を造るとき、そこには喜びがありました。造ってから、見て「良し」と言われました。喜びがあったということです。喜びとは何ですか。ある目的を成し遂げたときに感じるものです。つくられた万物に神様の目的意識が内在していたがゆえに、創造された万物に神様は喜びを感じられたのです。
それでは復帰の世界とは、どのような世界なのでしょうか。一言で言えば、森羅万象の個体、個体を見て神様を賛美し得る心情的な因縁を、立体的に備えた人々が住む世界です。天から見た人格の価値は、そこにあります。ですから昔、聖フランシスのような人が、動物を見て、あるいは鳥を見て説教したというのも、うそではありません。夢のような話です。しかし、夢ではなく事実です。
(9-168 ~ 169、1960.5.8)
絶対者がいるとすれば、その絶対者が天地万物を創造するとき、悲しい心で創造したでしょうか。違います。喜びの心で創造したのです。創造されていく過程を見ながら、絶対者であられる神様は喜ばれたでしょう。
だとすれば、どのくらい喜ばれたでしょうか。どれほどうれしく思われたでしょうか。そして、どのくらいの価値としてすべてのものをつくったのでしょうか。
神様が容認されたそのような価値の内容を、今まで人間たちは知りませんでした。知る由もなかったのは、今まで人間たちは、神様を尋ね求めていく過程にいたために、その価値を究明し、その価値の定義を下せなかったからです。
ですから、神様が人間を創造するとき、本当の喜びで造ったのなら、その人間に対してどのくらいの価値の内容を賦与されたのであり、どのくらいの喜びの対象として造ったのでしょうか。これが問題です。
(27-223、1969.12.14)
私達人間は、自然を愛します。自然を好みます。人間より自然をより好むのです。自然は純粋です。本然の状態を、そっくりそのまま所持しています。良い文化住宅に住み、良い文化生活をしながらも、「ああ、山に行きたい。海に行きたい」と思うのですが、なぜ行きたいと思うのですか。そのような所は、本然の状態をそのままもっているからです。
(107-311、1980.6.8)
人類の文化は、自然を抜きにしては考えることができません。自然から離れた人類文化は語ることができないのです。人間がいくら堂々とその威勢を誇り、権勢を享受したとしても、自然を無視すれば、そのすべてのものが成立しないというのです。このように、私達の生活を価値あるものにしてくれるのが自然であり、私達の生涯において絶対に必要なものが自然なのです。ですから、自然万象に流れている心情を感じ得る人になれなければ、真の幸福を享受できず、天と因縁を結べる栄光の位置に出ていくことはできません。
今から皆さんは、一株の草を見るとしても、神様の立場で見ることができなければならず、花を見つめるとしても、神様の心情を身代わりする立場、神様の心情に通じ得る立場で見つめなければなりません。昆虫や鳥、ある動物を見つめるときにも、神様の心情と因縁が結ばれる、そのような内的な感情を体得できなければなりません。
(6-340.1959.6.28)
お父様! 万有の主人であられるあなたの前に、すべての天地万物が永遠無窮に称賛をお返しすることを願います。どれ一つとして、あなたの因縁の中から外れてつくられた存在はないがゆえに、お父様によって、お父様の心情を通してつくり出されたすべての天地万物は、お父様の栄光を高め、お父様の神聖さと深奥さを現し、お父様の無限の価値を現しているという事実を、私達は知っております。
(20-243、1968.7.7)
2. 意識ある生は目的が賦与されたもの
― 宗教経典 ―
地上の生きとし生けるものも、双翼で飛ぶ鳥も、一つとしてなんじらと同じ衆生でないものはないのだ。経典の中には一事でも、われがおろそかにしたものはない、すぐにかれらの主に召集されるのである。
クルアーン6.38 (イスラーム)
私が言う。「例えれば、ちょうどある感覚器官を具備していないまま生まれた人(つまり生まれつきの盲人、耳が聞こえない人、口のきけない人、足がなえた人などのような体の不自由な人たち)の意識は、外からは見えないが、彼らが刃物で傷つけられたり暴行されたりするとき、何の苦痛も痛みも感じないのではない。
これと同じように、土でできた存在(つまり鉱物や原子)、水でできた存在、……火でできた存在、……植物、……動物、……空気でできた存在も、それらの意識が苦痛を感じるのが、外から見えないだけであって、だからといって痛みを感じないのではない」。
アーヤーランガ・スッタ1.28 ~ 161(ジャイナ教)
この人たちが黙れば、石が叫びだす。
ルカによる福音書19.40(キリスト教)
私達の部族には、この地のあらゆる部分が神聖である。すべての丘、すべての渓谷、すべての平原と森が、果てしなく遠くに消えていった悲しみや喜びの出来事によって神聖なものとなった。静かな海岸に沿って、太陽の下で疲れて死んだかのように黙っている岩さえも、私達の部族の生と連結した、胸がじんとする出来事に対する記憶として体を震わせている。今、あなたが立っているこの土も、あなたより私達部族の足どりに、より親しく反応する。この土は、私達の先祖の血によって肥えたからである。
シアトル酋長(アメリカ先住民の宗教)
善なるものを創造する神の善性、くり返していうが、このように正しく十分な理由は、注意深く考察し、敬虔に考えてみると、世界の起源を問題とする人びとのすべての論争を終結させるものであるのに、ある異端者……はそれを認めなかったので、それというのは、火、寒気、猛獣などというような、それ自体、正しい懲罰から起こる、この肉の乏しくもろい可死性に適合せずにそれを害するものがじつに多くあるからである。
そしてそれらの異端者は、それらのものも、そのあるべき場所において、また、その本性において、どんなにりっぱなものであるか、どんなに美しい秩序によって配置されているか、どれだけ万物全体にそれら自身の美しさの分け前に応じて、さながら共有財産に対するように貢献しているか、あるいはまた、私達自身にも、もしも私達がそれらのものを適切に賢明に用いるなら、どれだけ便益を与えるか――毒でさえも、うまく合わなければ死を招くが、うまく用いれば健康をもたらす医薬に変じるように……。
アウグスティヌス神の国11.22(キリスト教)
― み言選集 ―
人間自体が自然です。完全な自然は神聖なものです。
(90-24、1976.12.10)
花も、雄しべがキスしてくれるとき、雌しべは「ああ、うれしい!」と思うのです。そのような感覚がなければならないのではないですか。そのような感覚があるでしょうか、ないでしょうか。雄と雌の感覚は最高の感覚なのですが、その感覚を構成しているのは、五官的感覚の連結体によってできたというのです。これは理論的です。
五官的感覚で愛するというのは、男性と女性が対等な位置に造られたということです。レベルは低いのですが、共通分母で平準化され、その世界において統一的内容を備えているのです。ですから、男性と女性、まだは雄と雌になっているというのは、神様のすべての共通分母を公開的に分配されたことは間違いありません。これを否定することはできないのです。
(217-306、1991.6.12)
物質から形成された人間の生理的機能が、心の知情意に完全に共鳴するのは、物質もやはり、知情意に共鳴できる要素をもっているという事実を立証するものにほかならない。このような要素が、物質の性相を形成しているために、森羅万象は、各々その程度の差こそあれ、すべてが知情意の感応体となっている。我々が自然界の美に陶酔して、それらと渾然一体の神秘境を体験できるのは、人間が被造物のこのような性相の中心ともなるからである。
原理講論、創造原理2.3.4
神様も御自身を誇りたいと思われたのです。遠い歴史前の時代に戻って、創造の世界を欽慕されていた創造主は、六日間で創造された創造物を見つめて喜ばれた、その時代を回想してみるとき、神様もつくられたすべての万物を通して、御自身を誇りたいと思われた心があったがゆえに万物を創造されたのは間違いありません。つくられたいかなる存在を見ても、そのような事情が絡まっているというのです。皆さんが見つめるこの被造世界、あるいはこの自然には、様々な被造物が存在しています。存在する万象は、いかなる過程を経て創造されたのでしょうか。
それは、創造主の精誠を込めた心情の過程を通してつくられたのです。いくら微々たる存在でも、神様の愛の心情を通して、神様が誇りたいと願われる心をもった、そのような場でつくられたことは間違いありません。このような点から見れば、小さくはごく微々たる存在から、大きくは私達が推し量れない広大な宇宙にまで、存在するすべての万物は、神様が誇りたいと思われた、自慢の存在としてつくられたことを、皆さんは知らなければなりません。
(20-248、1968.7.7)
3. 母なる大地とその子女
― 宗教経典 ―
神は言われた。「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」そのようになった。地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て、良しとされた。
創世記1.11 ~ 12(キリスト教)
私達の母なる大地は、
花のような霜でいっぱいの
白い粉の四つの袷(あわせ)で自らを包み、
氷の床が世界を覆い、
寒さで樹木が一方に傾き、
その腕が雪の重さで下に垂れ下がる。
ゆえに、その時になれば、私達の母なる
大地の肌が寒さでひび割れる。
その次に大地が生水で満ちた春に、
私達の母、あらゆる種類のとうもろこしを
それらの母なる大地に休むよう寝かせておくのである。
母なる大地の生水により
それらは新しい存在になるのである。
父なる太陽の光により
それらは立ち上がるのである。
四方を指し
それらは手を広げて雨を呼ぶだろう。
その時、新鮮な水をつれて
雨の神が私達の道を過ぎていくのである。
それらの腕の幼いもの(とうもろこしの実)を抱きかかえ
それらは、それらの子供たちを育てるだろう。
それを私達の家にかき集め、
私達の思いが傾く人たちに従い
それらの従う私達の思いとともに
その時、私達は常に生きるだろう。
チュニ族の歌(アメリカ先住民の宗教)
大地よ、汝の中心たるところ、汝の臍たるところ、汝の身体より出づる生力のただ中に我を据えられんことを。あらゆる方よりわれらを清め給わんことを。大地はわが母なり、われはその息子なり。そして天はわが父にして、豊かなる恵みをもってわれらを満たされんことを。……
大地の中に、草木の中には火が潜み、水がそれを運ぶ。火は石の中にある。人々の奥深きところに火があり、牝牛に火があり、馬に火がある。同じ火が天界において燃え、空界はこの神火に属す。人はこの供物を生みだし、グリタを愛する火を炊く。燃えたぎるマントをまとい、膝の暗い大地よ、われを燃やし給わんことを。われを明るく輝かしめんことを。……
大地よ、汝より掘るいかなるものも、速やかにまた育たんことを。ああ清める者、よ、願わくはわれらが汝の生命と心を傷つけることなかれ。馬が砂塵を〔振い散らすが〕ごとく、彼女(大地)は、生まれて以来大地に住したる種族を分散したり、優美にして先頭に進む世界の守護者、樹木・植物の把握者は。わが語るところ、そをわれ蜜をこめて語る。われが見るところ、そを人々はわれより望む。われは光彩に富み、速力に富む。われは他の敵対者を打ち倒す。平和にして香しく、決適にしてその乳房は甘露に満ち、乳あふるる広き大地は、乳もろともわがために語れ。……
汝は人間の分散者アディティ(「無垢の女神」、神々の母)にして、あらゆる願望を満たし、遠く拡がる。汝に欠けたるところ、そを天則の初生児プラジャ・パティは汝のために満たす。汝の懐は、病患なく労症なく、われらのために設(しつら)えられてあれ、大地よ。われら願わくは、〔朝な朝な〕長寿のために目覚めつつ、貢物をもたらす者たらんことを。母なる大地よ、幸福もてわれを安定せる者たらしめよ。天と共々に、弁才ある女神よ、われに吉祥と繁栄とを恵み給わんことを。
アタルヴァ・ヴェーダ12.1(ヒンドゥー教)
いと高く、全能の、いとも善き主よ、
賛美と、栄光と、誉れと、祝福はあなたのもの。
これらは、ああ、いと高きおかたよ、
あなたのみに帰すべきもの、
なにびとも、ふさわしく、
あなたのみ名を呼ぶことはできない。
主よ、ほめたたえられよ、すべての被造物、わけても、兄弟なる太陽とともに。
かれは、われらに昼を与え、あなたは、かれによってわれらを照らす。
かれはまた、美しく光り輝き、
その大いなる光明によって、
ああ、いと高きおかたよ、あなたをかたどる。
主よ、ほめたたえられよ、
姉妹なる月と星のために。
あなたはかの女たちを明るく、
とうとく美しく、天に造られた。
主よ、ほめたたえられよ、兄弟なる風のために。
しかして、空気と、雲と、
晴天ともろもろの天候のために。
あなたは、かれらによって、
被造物をささえられる。
主よ、ほめたたえられよ、姉妹なる水のために。
かの女は、いと有益にして、
謙遜、貞潔なるゆえに。
主よ、ほめたたえられよ、兄弟なる火のために。
あなたは、かれによって夜を照らす。
しかして、かれは、美しく、
陽気にして、健やかで強い。
主よ、ほめたたえられよ、
姉妹にして母なる大地のために。
かの女は、われらを保ちささえ、
さまざまな果実と、色とりどりの花と、木々を生みだすゆえに。
アッシジの聖フランチェスコ太陽の歌(キリスト教)
― み言選集 ―
宇宙が人間を形成してくれました。宇宙の元素を借りて私が形成されたのです。それは、宇宙が私を生んでくれ、造ってくれたということです。それで、私に父母がいるとすれば、宇宙が第二の父母です。これを、皆さんは知らなければなりません。ですから、私という存在は、すべての宇宙の元素を総合した実体です。
(105-106、1979.9.30)
父母は、皆さんを世の中に生んでくれた2番目の父母です。神様は、皆さんに霊を下さった3番目の父母です。このように、人間は三大父母をもっています。
(106-84、1979.12.9)
神様がつくられた自然を愛すれば、神様が訪ねてこられます。「こうしてこのようになった」ということをすべて教えてくださるのです。自然は、そのように貴いのです。
(278-120、1996.5.1)
本当に宗教的な心情がわき出るその瞬間には、万物を見つめて、頭を下げるのです。天を見ても、大自然を見ても、天体の無数の星雲を見ても、神秘的で崇高な感情が心からわき出てくるようになります。このような感情から、宗教が出発したのです。私を超え、自然の現象を見つめて、高く評価することができ、動く自然のあらゆるものを見つめて、私の心情世界の高貴なものに代わって歌えなければなりません。
そして、動くすべてのものを自然の音楽のように、自然の芸術のように、自然の文学のように感じ得る心情が私の心からわき出てくるようになるとき、初めて天体を支配している神様と私が関係を結ぶことができるのです。このように、自分がすべてのものと関係を結んでいるという心情が強くなってこそ、事物に対するときに、再び鑑定できる心的基準が定まります。これは、私達が神霊的な境地に入っていけば、そのまま感じるようになることを皆さんは悟らなければなりません。
神様と万物は、このような関係を結んでいます。神様と万宇宙はこのような因縁で結ばれているのですが、再び人間と関係を結んでいるのです。このような事実を感じて自然を見つめるとき、皆さんは初めて人間の尊厳性を感じることができるでしょう。
(5-344、1959.3.8)
神様が私の父であることを知り、神様は私のためにこの宇宙を造ってくださったことを知りました。ですから、世の中が何と言おうと、私が神様に「この宇宙は誰のために造りましたか」と尋ねてみるとき、「レバレンド・ムーン、お前のために造った」と言われるのです。神様も私の神様であり、宇宙も私のものだというのです。それは言葉だけではありません。そのように世の中を見つめるのです。春になれば花が咲き、香りが漂い、美しい花園が訪れてきます。蝶が舞い、虫が飛ぶようになります。それは宇宙のあらゆるものを象徴します。神様の愛と神様の高貴さと天使世界が和動することを、すべて私に見せてくれるためのものです。
すべてが私と連結しています。小さな鳥がチュンチュン鳴くのも私を見てそのようにするのであり、おなかがすいていたり、友人を見つけるのを願うので、私が呼んであげればうれしいと思うのです。このように、すべて因縁を結んでいるくのです。蝶がカップルで飛んでいれば、蝶よりもっと美しく人間は生きなければならず、鳥たちが喜ぶものを見れば、烏たちよりもっと美しく生きなければならず、すべての動物たちよりも、もっと理想的に生きなければなりません。
ですから、春が来たのなら、「すずめよ、お前は今年の春を迎えてチュンチュン鳴きながら喜んでいるが、来年の春には、私がお前よりもっと喜ぶだろう」と考えなければなりません。私が歌い、私が香りを発するのは誰のたのですか。神様のためです。ですから、神様が私についてきて、比べてみて、刺激を受けて楽しまれるよう、私が動物や万物を通して感じるのと同じように感じられるよう、刺激を差し上げるのです。私がたとえ着るものがなく、流れ者の立場になったとしても、庭に横になっていれば、「天が私の布団であり、そばに流れる水が私の水道であり、山に生えている万物が私の食べ物だ!」、このように考えます。
川の流れを見れば、その川の流れはとても小さいですが、「お前はこの大海の先祖と因縁をもった、そのような偉大な水だなあ!」と称賛します。小さな一株の草を見ても、最近人間たちは、ある有名な画家が描いた絵を博物館に保管し、世界に誇り、何十万ドルや何百万ドルだと大騒ぎしますが、「それは人間が描いた絵にすぎない。神様が直接つくられた生花なら生花、その一輪の花がそれと比べられるだろうか」と思いました。これは、どの国の博物館にある、その何よりも貴いものだと思います。
それで、1羽の鳥を捕まえても、キスしたあとに「お前は誰よりも貴いなあ!」と言います。皆さん、じめじめした所に行って掘り返してみれば、見えない虫もみなカップルで這い回り、自分たち同士でひそひそと通じているというのです。私が愛と幸福を感じることができるよう、神様が私のためにつくってくださった神様の庭の、生きた博物館です。万物は主人が人、神様の息子であることを知っているので、すべてその主人に関心をもってついて回ろうとするのです。
(106-137、1979.12.23)
2) 生命尊重
この節の章句は、生命尊重に符合する倫理を規定するものである。道教と仏教の経典は、人間世界の人為性に関して指摘し、自然の純粋さと無為に帰ることを促す。暗く不潔な都市環境と比較するとき、自然の中の生は、すなわち浄化であり、霊的生に助けとなる。自然の中で時間を過ごすある人にとって、自然世界に対する尊重と、その中の被造物に関する恭敬は、強制された何かではなく、愛に満ちた心情から自然と流れ出てくるものである。それゆえに、アヒンサー、すなわちインド亜大陸で生じた非暴力、不殺生の教義がある。菜食主義は、よくこの教義の倫理観によって出現する。さらには、自然の被造物の中で、雌牛ほど惜しみなく、何の不平もなく与える動物はなく、したがって、雌牛はヒンドゥー教徒たちと多数の原住民たちによって当然、恭敬される。
文鮮明先生の教えは、上で言及した側面と様々に符合するが、特に自然に対する愛を強調し、それは環境倫理のための出発点とみなされる。しかし、それは、下位体系の被造物は、上位体系の被造物にのみ込まれ、吸収されることによって、神様の愛にさらに近づいていくという概念に立脚し、菜食主義に対する興味深い異議を提示する。下位体系の被造物は神様の愛を具現するので、被造物の頂上に立った人間のための滋養分になることを当然願うだろう。しかし、真の愛を実践しない人は食べ物を摂取する資格がないのである。
1. 生命体に対する畏敬と保護
― 宗教経典 ―
恰も母が己が子、一子を自らの命を賭して護るが如く、一切有情に対して無辺の〔慈悲〕心を修習せよ。
小誦経、慈悲経(仏教)
全ての生き物に対して一切危害を加えない事、もしくは(実際やむを得ない場合)最小限度の危害にとどめることを信条とした生き方が、最高の道徳である。
マハーバーラタ、シャーンティ・パルヴァン262.5 ~ 6(ヒンドゥー教)
何かの動物や生物、有機体、または意識のある存在を傷つけたり、隷属させたり、苦痛を与えたり、殺したりしてはいけない。非暴力の教義は清浄で不変であり永遠だ。苦痛があなたに痛みを与えるように同様にそれはあらゆる動物、生物、有機体、意識のある存在に痛みを与え、不安にさせ、恐れ震えさせる。
アーヤーランガ・スッタ4.25 ~ 26、(ジャイナ教)
使徒曰く、「イスラームには害悪もないが、害悪に対する根拠もない」。
マジュマ・アル・ザワーイド4.6536 (イスラーム)
一人の比丘あり、蛇に咬まれ死せり。世尊に此の義を告げたり。「比丘等よ、彼比丘は四種の蛇王族に慈心を以て偏満せざりしなり。比丘等よ、若し彼比丘、四種の蛇王族に慈心を以て偏満したりせば、比丘等よ、彼比丘は蛇に咬まれて死することなかりしならん。……。
無足者を慈しみ二足者を慈しみ四足者を慈しみ多足者を慈しみ無足者我を害ふな二足者我を害ふな四足者我を害ふな多足者我を害ふな一切有情、一切生類総じて一切の生者一切は善美に遇ひ小分の悪、来る勿れ」
律蔵、小品V.6 (仏教)
生み出しても、所有することはない。
はたらかせても、報いを期待せず、
成熟しても、管理することをしない。
これは見えない「徳」と呼ばれる。
六道徳経51(道教)
牛馬が四本の足を備えているのを、天といい、自然という。馬の首に綱をまきつけ、牛の鼻に穴をあけて輪を通すことを、人といい、人為という。だから、古人も「人為によって自然を滅ぼしてはならない。故意(はからい)をもって、天から与えられた自然の性命(もちまえ)を滅ぼしてはならない……」。
荘子17(道教)
大和には、群山あれど
とりよろふ天の香具山
登り立ち国見をすれば
国原は煙立ち立つ
海原はかまめ立ち立つ
うまし国そあきづ島大和の国は
万葉集(神道)
全世界の中心、須弥山の東側に、険しく緩慢な山すその急斜面に沿って流れ下る青々とした小川、明るく青々とした木々の葉、香り漂う百合、天界の木々はそれぞれ美しく、名も知らない林と蔓がうっそうと茂り、苦行僧と求道者たちが世話をするがっちょう、あひる、白鳥たちの鳴き声がのどかだ。
ジャータカ(仏教)
おお、虎たちよ、再び森に戻り、森が平地と変わらないものにならないようにせよ。お前たちがいなければ、斧が森を無残に殺戮するだろう。森がなければ、お前たちは永遠に住む所なくさまよい歩くだろう。
小誦経(仏教)
倫理は、私が、すべて生きんとする意志に、自己の生に対すると同様な生への畏敬をもたらそうとする内的要求を体験することにある。これによって、道徳の根本原理は与えられたのである。
すなわち生を維持し促進するのは善であり、生を破壊し生を阻害するのは悪である。……人間は、助けうるすべての生命を助けたいという内的要求に従い、なんらか生命あるものならば害を加えることをおそれるというときにのみ、真に倫理的である。
かれは、この生命あるいはかの生命がどれほどの貴い関心に値するかを、またそれらが感受能力があるかどうか、どの程度にそれがあるか、を問わない。生命そのものがかれには神聖なのである。
アルベルト・シュヴァイツァー文化と倫理
― み言選集 ―
自然を愛し、人を愛することができなければなりこません。人を愛することができず、自然を愛することができない人は、神様を愛することができません。万物は神様の象徴的存在であり、人間は実体的存在なので、万物と人間を愛することができる人は、神様を愛するようになるのです。
(70-182、1974.2.9)
自然を愛することができない人は、自然の主人である人を愛することができないというのです。自然を自分以上に愛し、また人々を自分以上に愛さなければなりません。
(375-20、2002.4.13)
妻を愛するときも、生きる栄養素を妻に補給する、空気と太陽の光と水と草を先に愛さなければなりません。水と太陽がなければ、草木が育つことができません。自然を愛してこそ、自分が生きることができるのです。これらは、自分勝手に取って食べながら愛することはできず、そのようにして食べれば病気になります。愛すれば病気になりません。
(385-200、2002.7.11)
私達の体と、最も近いものが自然です。ですから、私達は嘆息する自然の願いを解いてあげなければなりません。山を愛せる人こそ、高いものを崇めることができます。そのような意味で、孔子、釈迦、イエス様は、みな山を愛した方たちでした。先生は、名勝地に行くと、それが天の運勢を中心として、どのくらいの価値があるのかという立場で見つめます。そして、それを天の運勢と連結するようになります。それで、統一教会の草創期には、たくさん山に通いました。
一つの国の山と地と水を見れば、その国の民族性を知ることができます。私達の国の水は、どこに行って飲んでも玉水です。外国に出ていく前に、私達の国の自然を深く愛してあげなければなりません。自分が生まれた地を愛せる人が、自分の体も愛せます。また、自分の体を愛せる人が自分の心を愛する人であり、自分の心を愛する人が神様を愛する人です。ですから、このような人は滅びません。また、このような人は、天も打つことができません。私達は、ナイアガラの滝よりも、自分が生まれたこの地をもっと愛さなければならないのです。自然が神様の摂理路程において、どれほど多くの人たちを慰労したかという事実を、私達は知らなければなりません。
(14-102、1964.6.20)
海を愛さなければなりません。愛する海に、危険千万なものがどれほどたくさんありますか。未知の事実がたくさんあります。それを掘り下げ、もっと愛そうとしてこそ、深いものを知り得ます。また、山も危険な所がたくさんあります。それも体験し、自分がさらに開発しようという心があってこそ、自分の心が広くなるのです。
(391-218、2002.8.26)
アメリカのニューヨークやワシントンの一部の地域は、地獄の中の地獄です。一番暗い所です。島国のように、10 里くらい(注3)行って初めて一人に会い、一日中会おうとしても、10 人に会うか会わないかという所に行って暮らせば、そこでは本心が目を開けるのです。そのでような環境であることを知らなければなりません。自然環境が80 パーセントで、人の環境が20 パーセントになっても、バランスを取るのが大変です。それで、都市にいる人たちを田舎に追い出し、公害問題と環境問題を解決しなければなりません。人類が300 年、3世紀をどのように生き残るのかということです。ですから、追い出さなければなりません。
特に、先進国においてはそうです。都市が問題です。麻薬、犯罪、エイズなど、複雑な問題がたくさんあります。聞くもの、見るもの、感じるものがすべて問題です。このような諸問題から、どのように逃げていくのですか。ですから、田舎に散らばらなければなりません。今は田舎に行っても、すべて文化生活ができます。インターネットがあり、e-Mail と電話があり、どごに行ってもすべて同じです。あの頂上、ロッキー山脈のような7000 メートル以上になる所でも、インターネットを通して世界のすべてのものを見ることができます。
ですから、レバレンド・ムーンは南米の田舎に行くのです。蚊がたくさんいますが、空気が良く、水が良く、太陽の光が良いのです。海を見てください。太平洋の島に行っても、空気が良く、水が良いのです。公害がなく、環境はもっと良く……。自然と共に話をします。神様は自然に近いのです。
(339-163、2000.12.10)
2. 神聖な牝牛
― 宗教経典 ―
牝牛たちはこなたに来たれり、しかして幸(さち)をもたらせり。彼らは牛舎の中に坐せ。われらのもとにおいて爽快なれ。後裔に富み、あまたの様相を呈して、彼らがここにあらんことを、インドラのため多くの朝な朝な乳を搾りいだしつつ。……
彼ら(牝牛)は失わるることなからん、盗賊は〔彼らを〕傷つくることなからん。敵意ある者彼らの道を脅(おびやか)すことなからん。彼らをもって神々を祭り、かつ布施する者は、牝牛の主(所有者)として、いと長く彼らと共にあり。埃にまみれたる頚もつ軍馬は、彼ら(牝牛)に達せず。
彼らは設けの場(屠殺場)に近づかず。祭祀する人間のそれらの牝牛は、危険なき広濶の地(牧場)に拡がりて歩む。牝牛たちはバガ(幸運の神のごとく、牝牛たちはインドラのごとくわれに見えた牝牛たちは最初のソーマの一飲みのごとくに。これらの牝牛、そは、人々よ、インドラなり。心をもちて、意をもちて、われはインドラを熱望す。
汝らは、牝牛よ、痩せたる者をも肥満ならしむ、醜き者をも美貌ならしむ。汝らは家を幸多からしむ、幸多き声もつものたちよ。汝らの高大なる活力は、集会において宣示せらる(称讃される)。
リグ・ヴェーダ6.28 (ヒンドゥー教)
おお、先祖様!
あなたが私達に下さった
この野牛を御覧ください。
彼は私達の聖なる母の上にいる
あらゆる四足動物の頭です。
そのおかげで人々は生きていき
彼と共に聖なる行路を歩みます。
スー族の祈り(アメリカ先住民の宗教)
― み言選集 ―
昔、私は田舎で暮らしていました。そのとき、私が一番嫌いだったことが、牛に餌を食べさせにいくことでした。それが最初はうんざりしていたのですが、悟ってからは、牛を本当に愛するようになりました。あるときには、牛は午後になると時間になったことをはっきり分かります。ところが、私は、遊んでいる途中で最後までやらずに、そのまま帰るのは嫌いでした。それで、「おい!10 分待て! おい! 30 分待て!」、こうしていると1時間、2時間……。それで、牛は野原に縛られて、「私を迎えにくる主人はどこに行ったのか」と待っているのです。
しかし、遅くなっても、私なら怒って押したり蹴ったりするのに、何も言わずにこのように見つめているのです。そのようなとき、私は、「本当に君子だ! ああ、有り難い!」と心で言いました。そのような時がたくさんあったのです。「いやあ! これは本当に私よりも……」。それからは、「いやあ! お前のそのような姿を見るとき、きょうは食べさせて蕩減復帰しなければならない!」、そして日が暮れて暗くなるまで食べさせてあげたりしました。それで、おなかがぱんぱんになっても、主人が食べさせるので、どんどん食べるのです。これは、夜通しても食べます。胃がたぐさんあるからです。
それで、私は、牛から学んだことがたくさんあります。暑い5、6月、炎天下に座って汗をぽろぽろ流しながら遠くの山を見つめ……。瞑想する大王様が牛です。それで、世界の人々は、虎の肉は嫌っても、牛の肉は好むのです。犬の肉も嫌い、猫の肉も嫌います。そのようなものたちは、どれほど素早いですか。(牛は)どれほど洋々としているかということです。また、犬はどれほど吠えますか。それで、「牛の肉はみな好むのだなあ」、このように考えました。歯磨き粉のようなものも牛の骨でつくります。しっぽ一つ捨てるものがなく、骨一つ捨てるもめがありません。糞も肥料として使います。それで「牛が良いことは良いなあ!」と思うのです。
(109-40、1980.10.26)
3. 菜食主義
― 宗教経典 ―
生きている命を殺してはならない。これはあらゆる知恵の要訣であり、これこそ不殺生に関する相互関係の道理から下される至高な結論であることを知れ。動くもの、動かないもの、一切の生命、空を飛ぶ鳥も、地の上、あるいは地の中にすむ一切の生命に対する危害や殺傷がない世界、このような世界を指して安楽と平和が満ちた究極の涅槃だという……。
真の求道者は、生きた命を捕まえて作られた食べ物や飲み物を食べてはならず、禁じられた食べ物が少しでもある食事に同席してもいけないが、これは戒律に忠実な者の当然の道理である。自ら疑わしいと思える食べ物は何であっても慎み、自らの魂を究極の境地にふさわしくし、感覚を統御する者は、生きている命を殺したり、このようなことに共にしてはいけないことを、常に肝に銘ぜよ。
スーヤガダンガ1.11.10 ~ 16(ジャイナ教)
生き物を殺害するこしとなく肉を手に入れることは決して出来ず、一方生き物の殺害は天界に導かない。それゆえに肉を避けるべし。
マヌ法典5.48 (ヒンドゥー教)
是の故に阿難よ、若し殺を断ぜずして禅定を修する者は、譬へば人ありて自ら其耳を塞ぎて、高声に大に叫びて、人の聞かざることを求むるが如し。此等を名けて隠さんと欲すれどもいよいよ露はると為す。清浄の比丘及び諸の菩薩は、岐路に於いて行くに、生草をも踏まず、況や手を以て抜くをや。云何ぞ大悲、諸の衆生の血肉を取って食に充てんや。若し諸の比丘、東方の糸綿絹帛、及び是れ此上の靴履裘毳、乳酪醍醐を服せずば、是の如きの比丘は、世に於て真に脱せり、宿債を酬還して三界に遊ばず。何となれば、其の身分を服すれば、皆彼の縁と為るを以てなり。
首楞厳経(仏教)
― み言選集 ―
人間が愛のオーケストラをして、愛のすべての脈拍を中心として、宇宙をすべて生かしていける動物世界と植物世界を食べるということは、愛の結実を食べて生きているということです。結実を食べて、生きているというのです。さあ、涙を流し、愛する心をもって食べ物に対するとき、その食べられる食べ物は、「ついにあなたの血肉になり、力になり、神様を愛することができる元素として私が吸収される。
このような驚くべきことに感謝します」と言い、早く口に入っていこうと考えるのです。牛の肉を食べても、「この牛の肉は、子牛のときから母親が愛し、主人が愛して育ててここまで来た愛の結実なのだなあ!」ということを知らなければなりません。愛の実として消化して食べて生きるという概念を中心として愛し、愛する神様の本質的愛の父母の内容と一致した立場で食べて、感謝する人は病気にもならないというのです。これは理論的な結論です。
(217-307、1991.6.12)
最近、皆さんは、朝、毎日御飯を食べますか、食べませんか。それでは、食べるとき、生えている野菜を無情に切って、包丁でタタタとするとき、少し申し訳ないと思いますか。煮ることもせずに、塩をかけてうさぎのようにむしゃむしゃ食べるのを見るとき、この野菜が、「ああ、私は死ぬ、こいつ、復讐、復讐、復讐」、このように思いますか。それは、どれほど無情ですか。そのようにできますか。しかし、野菜は、「私はそれをすべてありがたく思い、あなたは私よりもっと価値のあるこの宇宙の公的な存在です。公的価値のある存在には犠牲になるのが原則なので、私は感謝して入っていきます!」というのです。
そのように、私が「ははは」と喜んで笑うとき、ここに入っていったその食べ物が、喜んでそう言うようにしなければなりません。これが気分を良くし、入っていって私の肉になり、血になって動かなければなりません。これがすべて不平不満を言えば、どのようになりますか。私が「ははは」と笑うとき、ただ「うーん」と言えば、どのようになるかというのです。私のためではなく、全体のために「ははは」と笑わなければなりません。そのようになることを、すべての食べ物は喜ぶのです。しかし、自分のために「ははは」と笑うのは、「乞食のようなやつだ」と思います。それで人々の体は、宇宙の公法によって反動が起きるので、病気になり、悪いことが起きるのです。そのようになれば、自然的にこの宇宙の公法によって衰退し、滅びるのです。
(105-94、1979.9.30)
この道を行かないという存在は、孤独なものであり、腐ちてしまうものであり、廃物になります。ですから、ダーウィンの進化論のようなものは、ある面では一理があるのです。弱肉強食という言葉は、高いもののためには、より大きなもののためには通じるのです。それが宇宙の存在原則です。ですから、魚を食べ、牛を食べ、あらゆるものを食べてそれを吸収したなら、それ以上に神様の愛のために生きるのです。そのようにするとき、万宇宙が歓迎します。
(124-320、1983.3.1)
植物は鉱物を飲み込み、動物は植物を食べ、どんどん高い所に行きます。人の近くに行くことによって、神様を愛し得る神経細胞に到達しようというのです。それが理想的です。すべてのものは、神様の愛を求めていこうとします。人も、神様の愛のために犠牲にならなければなりません。愛の力は、犠牲になろうとします。愛がどんどん発展を繰り返していけば、神様の愛にまで行くのです。ですから、そのような概念をもって結ばれた一双の愛する夫婦は、字宙の宝なので、全宇宙が保護し、天地が保護し、人と万物が保護するので、それを保護することができなければなりません。
(201-123、1990.3.27)
3) 教師としての自然
自然には、私達に様々な教えを与えてくれるものが広がっている。勤勉に食糧を貯蔵する蟻から、つがいのために甘い唄を歌う鳥たちに至るまで、自然の被造物が生きていくその生き方を観照すれば、自然は生の根本倫理に関する多くの教えを提供している。
地を開墾して動物の世話をすることは、忍耐と犠牲を教え、収穫が豊富なとき、神様に抱かれる恩恵を知るようになる。文鮮明先生は、神様が植物と動物を通して、太初の人々にも愛と価値ある人生に関して、十分な教訓を与えたと教える。
― 宗教経典 ―
獣に尋ねるがよい、教えてくれるだろう。空の鳥もあなたに告げるだろう。大地に問いかけてみよ、教えてくれるだろう。海の魚もあなたに語るだろう。彼らはみな知っている。主の御手がすべてを造られたことを。
ヨブ記12.7 ~9(キリスト教)
なんじらは、種まきのことを考えたか。なんじらがそれを育てるのか、それともわれが育てるか。もしわれが欲するならば、それを枯れたくずにしてしまう、なんじらは驚嘆してやまぬ。「わしらはまことに負債を課せられた、いや、わしらは失望させられた。」(と言うであろう)。
なんじらの飲む水について考えたか。
なんじらが雲から雨を降らせるのか、
それともわれが降らせるのか。
われがもし欲するならば、
それを塩からくすることができる、
なんじらはどうして感謝しないのか。
なんじらは、ともす火について考えたか。
その燃やす木を、なんじらがつくったのか、
それと、もわれがつくったか。
われはそれをもって教訓となし、
また荒野の住民の便利のためにつくった。
クルアーン56.63 ~ 73(イスラーム)
はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。
ヨハネによる福音書12.24 (キリスト教)
主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ、降り注ぐ雨のように大地を潤す春雨のように我々を訪れてくださる。
ホセア書6.3 (キリスト教)
神に関する神聖な文献と聖書を研究したのち、神の創造物とその創造物に関する偉大な文献を研究せよ。
フランシス・ベーコン
― み言選集 ―
人間は、自然世界やこの地球の動きを見て、おもしろいと思うようになるということです。そのようにして、自分自体の愛の属性をすべて学ぶのです。虫たちが暮らし、昆虫たちが暮らし、あるいは動物たちが暮らすのを見れば、すべてペアであると知ることができます。このように見るとき、自然とは、一人の人間を愛の対象として、相対理想を教育するために展開しておいた教材であり、博物館だというのです。
(137-212、1986.1.3)
万物世界は、お互いに愛します。動物を見ても、昆虫を見ても、植物を見ても、鉱物世界を見ても、すべて同様です。お互いに相対を中心として、歌も歌い、踊りも踊り、飛んだり、はったりします。このようなすべてのことを見つめながら、「彼らは何をしているのだろうか」といって、すべて見て学ぶのです。自然とは何かというと、アダムを教育する博物館です。アダムを教育する生きた教科書です。
(134-194、1985.7.20)
環境は、必ず主体と対象のペア・システムになっています。この宇宙は、愛を核とする一つの博物館です。ペアの博物館です。ですから、2羽の鳥がお互いに愛しながら一生懸命に巣を作り、ひなを産んで餌を与えるのを見ながら、学ばなければなりません。「私の子供のために、あれよりも何百倍もしてあげなければならない」と思わなければなりません。虫たちも、雄雌2匹が愛して子供を産みます。彼らも、自分の生命を懸けて子供たちを育てようとします。
(229-287、1992.4.13)
このサーモンのようなものも、本当に驚くべき人間の教材です。一度愛したら死ぬのです。子供たちのために餌になるというのです。それがどれほど美しいですか。愛ゆえに死ぬので、それがどれほど美しいかというのです。
(132-81、1984.5.20)
私は自然を愛しました。原理の80 パーセントを自然の中から見いだしたのです。
(374-235、2002.4.10)
世の中のあらゆる教材の中で、最もすぐれた教材が木と草です。種が蒔かれて大きくなり、春になれば花を咲かせ、実を結んで、主人に報いる贈り物をしていきます。また、毎年、より立派な枝を張り、より多く、より大きく収穫され、生い茂るのが自然世界です。
(386-298、2002.7.18)
先生の村には、時が来ると渡り鳥が飛んできます。ソウルのような都市に住んでいる人たちは、渡り鳥を知らないでしょう。ですから、人間の情緒的な面において足らない人たちです。自然の交流、交流の心情を知らないのです。先生は、こっそりと渡り鳥についていってみたことがあります。美しい鳥なので、そのつがいが産んだ卵はどれほど美しいだろうか、卵の色はどんな色だろうか、と気になりました。それひたすら渡り鳥を見ているのですが、1週間くらい見ているのは普通です。
そのような鳥たちは、目立つ所に巣を作りません。腐った木の穴のような所は蛇が這い回っているからです。危険な所には作りません。丈夫で下に通じる穴に巣を作ります。誰がすべて教えてあげたのか、一つ穴の巣を作っておきます。巣も深く作るのではなく、いつでも周辺の状況を見渡せるように作ります。その世界で自分の生息のために保護できる感覚と知能というものは天才的なものです。
(137-223、1986.1.3)
鳥も国境がないと見るのです。彼らは、ビザもなく、何もありません。台風が吹いてきて、台風に「アメリカは世界で一番偉大な国、大国なので、ここは誰も入ってくることができないようになっています。ですから、台風も入ってくることができない」、それが通じますか。小さな蟻も思いどおりに越えていき、小さな蛇も思いどおりに越えていき、虫も飛んでいきます。すべてこうなのに、なぜ人間は思いどおりに越えていくことができないのかというのです。
それもそうですが、メキシコの蟻とアメリカの蟻がつがいになって子供を思いどおりに産み、メキシコめすずめとアメリカのすずめが思いどおりに卵を産み、子供を産み、メキシコの豚、虎、すべて一つになって暮らしているのに、人はどうしてこうなのですか。そのような自然を見つめるとき、本当に、なんとも不思議なのです。
(106-138、1979.12.24)
4) 小宇宙と大宇宙
人間は、小宇宙として、その中にあらゆる宇宙の本質を凝縮してもっている。逆説的に言えば、宇宙全体は、大宇宙の中の人間に似た存在である。世界の宗教の諸経典は、このような洞察を神話的、哲学的な言語で表現する。空間と時間のすべての流れの中で、小宇宙としての人間は、被造万物すべてを把握し、使用し、喜び、楽しむことのできる根拠をもっている。あらゆる被造物の中で人間は、最も広大な思惟と行動範囲をもち、すべてのものを包括し、すべてのものを知って評価し、すべてのものを導いて豊かにし、また、すべてのものを超越する。
文鮮明先生の教えのように、小宇宙である人間は、宇宙を愛し、宇宙を保護しなければならない責任をもっている。大宇宙と小宇宙が相応する源泉とは何か。ウパニシャッドとその他の神秘的経典は、原初的人間、すなわちプルシャ、またはメタトロンが創造以前に存在し、それに形態を付与した宇宙的人間を描写する。文鮮明先生は、創造前、神様の心の中にある創造のモデルである宇宙的人間の「原型」を語る。それを創造の始発とし、宇宙創造の過程で低い段階から高い段階の自然のあらゆる諸要素は、それらが創造されるとき、人間において人間を構成する要素として再結合された。さらには、それは、霊界を一人の巨大な人間をモデル化した姿で描写する。
― 宗教経典 ―
聖なる神が世を創造されるが、そのあらゆるものを人に似せてつくられた。
タルムード、アヴォート・デ・ラビ・ナタン31(ユダヤ教)
一切万有が私の中から起き、三界がまた私の中から起き、私によってこのすべてが広がっていくがゆえに、この世はそれ以外の何者でもない。
呼金剛8.41 (仏教)
自身の内密な自我を知る者は、また一切万有の宇宙を一つ残らず知り、一切万有の外部世界を知る者はまた、自身の内密な自我を知る。
アーヤーランガ・スッタ1.147(ジャイナ教)
そもそも人間は天地二徳の和合、陰陽両性の交通、諸神諸霊の協力、五行(木火土金水)の最良の精気の配合によって、作り出されている。天は陽性を備えて日や星辰を空に列ね、地は陰性を備えて山野川海を形成する。また天は五日を用いて四時を巡らしめ、季節の動きに応じて月は満ち、また欠けるようにしたから、そこで月は十五日で満ち、十五日で欠け尽きるのである。
なお五行の四時における作用は互いに受け継いで消長する。……五行や四時や十二箇月などの変化や進行においては、すべて諸要素が相互に本末となって作用するようにしくまれているのである。また五声・六律・十二管などの楽音の階梯や調子の上下などにおいても、やはり諸要素が相互に本末となって変化を示すように、しくまれているのである。また、五味・六和・十二色などの、飲食の味も、やはり諸要素が相互に本末となって変化を呈するように仕組まれている。このほか五色・六章・十二衣などにおいても、やはり諸要素が相互に本末となって、変化を見せるように、しくまれているのである。
礼記7.3.1 ~ 7(儒教)
天地(あめつち)の初めにはただ自我(アートマン)のみがあった。その他に眼を開けているものとては何物もなかった。かれ自我は「何とかして種々(いろいろ)の世界(ローカ)を創ってみよう」と考えた。そして、これらの世界を創った。天水、光塵、死、地水等の世界である。天水の世界は光天の上にある。光天はそ(天水)の基底をなしているのである。光塵の世界とは中空界である。死の世界とは地上界である。地水の世界は大地の下にある。
かれ自我は考えた。「今や世界は成った。今度は世界の守護神達を創ろう」彼は水の中から材料を取り出して、これを一個の人間の形に固め上げた。(注7)彼はこの人間を温めた。すると、卵を温めた時のように、それが裂けて口腔ができた。口腔から語が生じ、語から火が生じた。同様にふたつの鼻孔ができた。鼻孔から気息が生じ、気息から風が生じた。次に眼窩ができた。眼窩から眼(感官)が生じ、眼から太陽が生じた。次に耳孔ができた。耳孔から耳(感官)が生じ、耳から方位が生じた。次に皮膚ができた。皮膚から毛が生じ、毛から草木が生じた。
次に心臓ができた。心臓から意が生じ、意から月が生じた。次にへそができた。へそから吸気(アパーナ)が生じ、吸気から死が生じた。次に陽根ができた。陽根から精液が生じ、精液から水が生じた。これらの諸神(火、風等)は生まれ出るや否や、かの大海の中へ落ち込んでしまった。彼(自我)はこれ(大海)に飢と渇とを混じた。それで諸神は困って彼(自我)に向かって「われらが安心して食物を食べられる棲処(すみか)を造って下さい」と歎願した。
彼(自我)は彼等の為に一頭の牛を牽(ひ)いてきたが、彼等は「われらにはこれは充分でありません」といった。そこで彼は一頭の馬を牽いてきたが、彼等は「われらにはこれは充分でありません」といった。そこで彼は人間(プルシャ)を伴(つ)れてきた。すると神々は「これは実にみごとにできています」といった。人間は実際みごとにできている。彼(自我)は神々に「各自の棲処へ入れ」と命じた。ここにおいて、火は語となって口腔に入り、風は気息となって鼻孔に入り、太陽は眼(感官)となって眼窩に入り、方位は耳(感官)となっで耳孔に入り、草木は毛となって皮膚に入り、月は意となって心臓に入り、死は吸気となってへそに入り、水は精液となって陽根に入った。……
彼(自我)は考えた。「我がおらねばこれ(人間)はどうなるだろうか?」次に、「どの部分から入ることにしようか?」と考えた。彼はまた、こうも考えた。「談話は語(発声器官)によってなされ、呼吸は鼻によってなされ、視は眼によって、聴は耳によって、触は皮膚によって、静思は意によって、吸気は吸息によって、射精は陽根によってなされるとき、我はそもそも何者であるか?」 彼(自我)は顱頂を闢(ひら)いて、これを門として体中に入った。この門はヴィドリティ(裂け目)とよばれる。
アイタレーヤ・ウパニシャッド1.1 ~ 1.4、3.11 ~ 3.12(ヒンドゥー教)
人間の形態は、世界の構造で造られた。さらには、天の材料を利用して造られた。
ヒルデガルト・フォン・ビンゲン道を知れ(キリスト教)
人の体を見れば、頭が大きく丸いのは天の形に倣ったものである。頭髪は星の位置に倣ったものである。耳と目がずれているのは太陽と月に倣ったものである。鼻と口が呼吸するのは風と雲に倣ったものである。心の中に知恵を悟るのは(天の)神明に倣ったものである。
董仲舒・春秋繁露56、(儒教)
― み言選集 ―
人は大宇宙の縮小体です。皆さんは小宇宙です。大宇宙は何ですか。大宇宙は被造世界です。大宇宙の源泉は力の源泉です。それが神様です。私は、大宇宙の前に立った一つの小宇宙として、大宇宙の絶え間ない力の源泉となるその力が私の心に入ってくることによって、この大宇宙と相応する相対の価値をもっているのです。
(121-193、1982.10.27)
私達人間を小宇宙と言いしました。体は地を象徴し、心は理念を象徴し、霊は天を象徴するのです。
(8-78、1959.11.8)
私が崩れる日には、私を中心とする天の因縁が崩れるのであり、地の因縁が崩れるのであり、世界、あるいは氏族と家庭のすべての因縁が崩れます。それで、人をして天と地を代表する小宇宙と言うのです。
(8-10、1959.10.25)
皆さん、この手も三つの節になっているでしょう? そして、腕も三つの部分でできています。私達の体全体を見ても、頭と胴体、そして足、このように三つの部分になっています。腹中にいる赤ん坊は、大概手を握って育ちます。神様は二性、すなわち二つの性稟をもっているとお話ししたように、親指は神様を象徴するのです。ですから、宇宙の中心である神様を象徴するのです。また、4本の指は東西南北を象徴し、春夏秋冬を象徴します。そして、4本の指の三つの節は12 の月を象徴するのです。
ですから、私達人間を小宇宙と言います。たとえ小さくても、人体の構造にはこの宇宙万象のすべてのものが入っています。私達の心臓の構造を見れば、根と同じであり、肺の構造を見れば、木の葉と同じです。私達の人体構造は、木の幹や茎が入っているのと同じです。このように、私達の人体は、この宇宙万象を代表する小宇宙だということを知らなければなりません。
(54-97、1972.3.20)
なぜ自分が生まれたのでしょうか。この大宇宙と拍子を合わせるために生まれました。大宇宙と拍子を合わせるために生まれたということです。それで海の波がザブンザブンと音を立てれば、自分の心もザブンザブンと音を立て、風が気分良く吹けば、自分の心も気分が良く、花が咲いて香りを放てば、自分の心も香りを放てるというのです。どれほど気分が良いかというのです。
(104-123、1979.4.22)
「私」という存在は、いったいどこから生まれたのでしょうか。皆さんを小宇宙だといいました。「私」はこの地球星の縮小体です。宇宙の縮小体です。皆さんの体には、地球がもっているあらゆる元素がすべて入っています。ですから、宇宙が加担しています。そのような私を誰が造りましたか。宇宙が造りました。宇宙の元素を借りて私が形成されたのです。それは、宇宙が私を生んでくれ、造ってくれたということです。
それで、私に父母がいるとすれば、宇宙が第一の父母です。ですから、私という存在は、このすべての宇宙の元素を総合した実体です。「私は動く宇宙であり、活動する宇宙だ」というのです。また、「私は自由に行動することができる。往来できる。あなたたちは固着しているが、私は活動する宇宙だ」というのです。ですから、「あなたたちは、私にぶら下がっている。あなたたちもそれを願うだろう?」と尋ねてみれば、「うん、うん」と言うのです。
(105-106、1979.9.30)
霊界に行ってみれば、霊界全体が一人の人間に見えます。全体が一人の人間に見えるのです。それで、主体である神様とこの全体、大きな一人の人と一つになります。そうすると、全霊界と肉界がすべてとろとろに溶け合います。神様が走れば地も走り、神様が笑えば地も笑い……。そのようになっています。それはどういうことですか。皆さんは、どのように中心になれますか。私とこの細胞を見てみれば、すべて連結されています。指の細胞を見るとき、その細胞がすべて私にぶら下がっています。そのような意味の中心だというのです。
私の手の先を見るとき、手の先は私と一対一です。すべて私に留まっています。人間が宇宙の一番の中心になるという話が理解できますか。一つの細胞のような立場で相対するとき、中心的資格をもつことができるのです。この細胞を通っていた血が足の底の細胞を通っていた血に、「ああ、頭のほうに来るな」と言うことができますか。このような境界線がありますか。頭のほうに来るなという境界線がありますか。
そのような意味で、黒人、白人、黄色人のような区別はありません。皮膚がこれは白く、これは黄色く、色がすべて違います。だからといって、「ああ、お前は私とは違うから別種だ」(注10)、そのように言えますか。霊界に行ってみれば、一人の人間のように組織ができていることを知らなければなりません。聖人たちは目の役割をして、耳の役割をして、においを……。霊界がそのようになっています。そのような理想をもったのなら、地獄が問題ではありません。神様が見るとき、いつも化膿して膿が出て、足が不自由になる、これを願うでしょうか。願いません。
(91-280、1977.2.27)
天地が調和するとき、この天地、大宇宙の主体と対象が喜ぶのですが、これが私達人間生活の家庭を中心として結ばれるのです。これがこの宇宙の核になっています。女性は愛です。男性は大きいですが、女性には愛が入っているので、女性を無視することはできません。いくら太陽が大きくても、地を無視することはできないのです。互いに授け受けするところから、天地のあらゆる喜びと、あらゆる完成が成立します。ですから、これを大きく見れば、この宇宙の太陽系を縮小し、このすべての動植物界を縮小したのです。
ですから、すべてがペア・システムになっています。調べてみれば、鉱物界、植物界、動物界も、すべて主体と対象のペア・システムになっています。これが天のすべてのペア・システムを代表した一つの核だというとき、センターが争えばどのようになりますか。皆さん、男性も女性も、宇宙の中心になりたいと思うでしょう? 動物もそうでしょうか。この太陽系がそのように思うでしょうか。そのように考えてみれば、そのようなことは人しかないというのです。
(216-159、1991.3.10)
5) 被造世界の主人
人間は自然界の一部であると同時に、被造世界の主人として独特な地位をもつ。キリスト教の聖書で、アダムとエバは万物の主管主として祝福を受けたのであり、クルアーン(コーラン)は各自に、神様の「代理人」の地位を付与した。これはまた、神様は人間の豊穣のために、すなわち、生育し、繁殖するのに必要なすべてのものを提供する土台として、自然界を創造したということを意味する。それにもかかわらず、大地を汚染させ、自然を破壊し、人為的な環境を改造しながら神様が許諾していないことをするということは、本当の主管の祝福ではない。
自然主管の委任が初めて与えられた農耕社会において、人間の創造性は本質的に自然の盛衰と調和を成すものとして現れる。その上に、人間が自然を利用する場合、万物に対する愛を実践し、自然の豊穣を増進するために創造性を発揮するとき、初めて人間は、被造世界の本当の主人となる。自然に対する人間の主管権は、規模や力の問題ではない。その物差しで見れば、人間は地球上でとても小さな一点にすぎず、地球もまた、広大な宇宙の中で一点にすぎない。
それは、むしろ人間の固有な霊的資質に起因する。人間だけが神様を求める。そして、人間だけが自分自身の理想を追求し、より良い世界を熱望する。これこそ、人間がほかの動物たちとの違いをもった存在でいられるようにするのである。宇宙の創造者を知り、彼と親密な関係をもつという点において、人間は潜在的に全体被造世界よりもっと貴重な価値をもっている。
人間は、このような栄光を享受する資格があるのか。文鮮明先生の教えのように、人間は創造主の満ち足りた愛を受け、神様の代身として被造世界を愛さなければならない。そのとき人間は、神様と自然界をつなぐ橋となる。神様は、人間を通して被造物を愛し、人間を通して全体世界を完全なものにする。
1. 万物の主管権を賦与された人間
― 宗教経典 ―
神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」
創世記1.28 (キリスト教)
まことにわれは、地上に代理者を置くであろう。
クルアーン2.30 (イスラーム)
なんじらは思わないか、神は天にあり地にあるよろずのものを、なんじらの入用のために、奉仕させたまい、また外面と内面の恩恵を全うしたもうではないか。
クルアーン31.20 (イスラーム)
あなたの天を、あなたの指の業を、私は仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。そのあなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。
人の子は何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。神に僅かに劣るものとして人を造りなお、栄光と威光を冠としていただかせ、御手によって造られたものをすべて治めるように、その足もとに置かれました。
詩編8.4 ~ 7(キリスト教)
神こそは、天と地を創造され、天から雨を降らせ、これによって果実を実らせたまい、なんじらのため給養される方であられる。また船をなんじらに操縦させ、かれの命によって、海を航行させたまい、また川をなんじらの用に服させたもう。またかれは、日と月をなんじらに役立たせたまい、両者はその軌道を追う。また夜と昼をなんじらの用に役立たせたもう。またかれはなんじらが求めるすべてのものを授けたもう。たとえ神の恩恵を数えたてても、なんじらはそれを数えとおせないであろう。人間は、まことに不義であり忘恩である。
クルアーン14.32 ~ 34(イスラーム)
主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。
創世記2.19 (キリスト教)
― み言選集 ―
天地万物を創造された神様は、全被造世界の主人公として人間を造られました。
(323-165、2000.6.1)
理想の世界は、創造の目的が実現されなければならない世界であり、神様に似なければならない世界なので、人間は、常に愛に満ち、調和し、平和な生活を願っているのであり、いつも新しいものを創造しながら環境を改善していくことを願っているのです。創造は、単に製造だけを意味するのではなく、創意的な活動全体を意味するのであり、常に新しいものを創案し、計画し、改善し、生産するなどの活動すべてを意味するのです。
ところで、神様は統一的存在なので、人間も統一的でなければならず、社会生活も統一的でなければなりません。愛しながら創造し、創造しながら愛する統一的な人間、統一的な世界にならなければなりません。今日まで人間は、輝かしい科学的発展を成し遂げることによって、創造的生活においては神様に似たということができますが、愛の生活においては、まだ全く神様に似ることができずにおり、そのために悲しみと苦痛と不幸が継続しています。愛は調和なので、愛がないところに調和はあり得ず、調和がないところに平和や幸福はあり得ないので、ここで数々の悲惨な光景が展開するようになるのです。
(65-259、1972.11.26)
道人とはどのような人でしょうか。一握りの草をつかんでも、「神様!」と言うことができる心情で、その価値を自分の価値と同等に認識できる人が最高の道人です。そのようにその価値を謳歌できる人が最高の芸術家です。
色とりどりに存在する万象を見て、神様の色とりどりの愛と心情の妙味を発見し、それらのものと友達となり、共に楽しめる感情をもった人がいるとすれば、そのような感情で細胞の一つ一つが動く人がいるとすれば、その人は万宇宙を代表することができる人であるはずです。そのような人が万物の霊長です。ところで、食べることしか知らない人が万物の霊長になれますか。ですから昔、聖フランシスのような人が、動物を見て、あるいは鳥を見て説教したというのも、うそではありません。夢のような話です。しかし夢ではなく事実です。
(9-166 ~ 168、1960.5.8)
真の愛は、人間だけではなく、すべての万物も願います。それで、万物の霊長である人間は、神様がつくられた傑作品を抱き、愛するだけでなく、すべての万物に愛することを教えてあげなければならない責任があることしを知らなければなりません。万物たちは、このような主人を求めています。このような基準に私達自身を照らしてみながら、自らを恥ずかしく思うことができなければなりません。
(300-222、1999.3.14)
神様は、どうしてアダムとエバのような形を必要とするのでしょうか。万物は形状的な形をもっていますが、神様は無形の存在です。神様はどのような形ももっていません。大きいと言えば無限大です。小さいと言えば無限に小さい方です。そのような方がどんな標準的な形を形成し、形体を現したとしても実体をもった万物は、その神様に直接主管されません。ですから実体をもった被造世界においては、実体をもった主人的人格と形を備えた存在がなければならないのです。
神様は、地上万物の主管だけではなく、無限な霊界も主管しなければなりません。天使長や様々な形体をもった実体、そして無形の実体までも主管するにはその中心的タイプ、すなわち形状が必要です。それで神様は、アダムを創造されたのです。アダムを中心に霊肉両面の世界、無形実体世界と有形実体世界を主管しようとされるのが神様の人間創造の目的です。したがって一つの人格的実体と関係を結ばなければならないので、アダム完成とともに神様の形状完成、すなわち形が完成するのです。神様はアダムを造られる時、彼の形態、人相、人格などが無形世界の中心にいらっしゃる神様のような姿にならなければならない、という考えをもってアダムを造り出されたのです。形がなければ形の世界を主管できないのです。
(35-157、1970.10.13)
2. どの被造物よりも優れた人間
― 宗教経典 ―
われはすべての者に、――これらの者にもまたかれにも――なんじの主の賜物を広く授ける。なんじの主の賜物には限界はないのである。
クルアーン17.20(イスラーム)
神はこの世とそこに住み動くあらゆるものを創造し、神の拘束されない卓越した御意により人間に神を知り愛する独特の特異性と能力――全創造の基礎をなす発生進力、また主なる目的と見なされるべき能力――を与え給うた。すべての創造物の内奥の各実在に、神はその諸々の名の中のある一つの名の光を注ぎ、神の諸々の属性のうちのある一つの属性の栄光を受け入れるものとなし給うた。しかし乍ら、人間の実質には、神は神の諸々の名と諸々の属性のすべての光輝を集中し、人間の実質をして神自身の鏡となし給うたのである。
ハバオラ落穂集27(バハイ教)
人間は神の顕現として、あらゆる万物の主管者であるため、人間以上に尊敬されるべき存在はない。地上のあらゆる万物はそれぞれの名で本来の姿を備え、神が人間のためにそのようにされたことを知るようになる。何であれ万物は、自分の根源となる神を失ったり、定められた法度から外れることなく、自らの役割だと悟った分だけ働くように創造された。自らを低め、人間を尊敬し、怒らず、間違った心をもたず、悲しまず、偏らず、自らの本来の個性を発揮するために人間は創造されたのである。
祈り(PL 教団)
人間は三つの魂を備えていた。……その動物的魂は動物と交流し、肉体的魂は植物と連結し、人間的魂は天使と紐帯する。人間の機能である理性的魂は、そのいかなるものよりも高貴な機能である。それ自体が最も高貴な魂だからである。その機能は芸術品に対する感傷と美に対する思いを構成する。
それが凝視するのはより高い世界に向かっており、低い所や卑劣な場を愛することはない。それがそうであるように、人はより高い生と重要な物質に属しており、食べたり飲んだりするために働くのではないことはもちろん、奢侈と性関係を必要としない。かえってその機能は真実の啓示のために待つのである。
アヴィセンナ(イブン・スィーナ) 救いの書(イスラーム)
まことにわれは諸天と大地と山々に信託(注11)を申しつけた、だがそれらは、それをになうことを辞退し、かつそれについて恐れた、しかし人間はそれをになった。まことにかれは不義でありかつ無知である。
クルアーン33.72(イスラーム)
さらに身体においてさえ、それは可死性において獣と共通していても強さにおいてはその多くのものに劣るのではあるが、どれほどの神の善性が、また、どれほどのかくも創造者の摂理が明らかであることであろう。感覚器官と身体のその他の部分とがよく配置され、身体全体の姿、形、大きさが適正に整えられていて、身体が理性的魂に仕えるようにつくられていることを示しているのではないであろうか。
たとえば、私達は非理性的な動物の顔は地に向いているのを見るが、人間はそのようにつくられてはおらず、その姿勢は直立していて天に向かっているのであって、それは天上的なものを想うようにさとしているのである。
アウグスティヌス神の国22.24 (キリスト教)
人間とは何という造化の傑作か、高貴な理性、無限の能力、優美な姿、敏速正確な身の動き、天使さながらの活動、神のごとき悟性、この世の美の極致、生きとし生けるものの典型。
ウィリアム・シェイクスピアハムレット2 幕2 章
― み言選集 ―
人間は動物と何が違いますか。人は貴いというとき、その人というのは肉的な人ではなく、霊的な人です。霊的なものが貴いというのは、肉的なものと違うということです。霊的なものが高ければ、肉的なものは低いのです。
(129-307、1983.12.1)
それでは、人と猿とを比較してみましょう。猿はただキッキキッキと鳴いて、食べて、寝て、子を産むのが第1です。猿が故郷のお父さん、お母さんに会いたくて泣きますか。猿と人間は根本が違います。猿がお兄さんを心配し、あるいは、父母のために死のうとしますか。それでは人はどうですか。種が違うのです。
人間は、自己を中心にしたものではなく、他を中心としており、より大きいことを望みながら生きるようになっているのであって、自己より低いものを望みながら生きるようになっていないのです。次元が違うのです。人間は古代から、すなわち、人間が生まれた時から神様を尊崇してきました。神様を尊崇しない種族はありません。神様を考え、私達人間がもっと良くなる宇宙を考えながら来たのです。猿は、その頭でそのようなことを考えられますか。何千、何万段階が過ぎてもできないのです。猿に、そうすることのできる内容、力がどうやって増し加わっていくのですか。
(39-333、1971.1.16)
神様が人間を万物の霊長として立てるとき、天地のすべての環境を代表したその中で中心として立てたでしょうか、そうでなければ、一部分として立てたでしょうか。これが問題です。ですから、すべての人間は宇宙の中心になると主張できる自主権をもっているのです。それは、猿やライオン、虎の世界にはありません。人間世界にだけあるのです。動物的な人間か、人間的な人間かということを考えるとき、動物的な人間に近いですか、人間的な人間に近いですか。今、世の中の人間はどちらに近いですか。
(117-35、1982.1.31)
人格者とは、どのような人でしょうか。御飯だけしっかりと食べ、御飯のために生きる人が人格者でしょうか。それとも、芸術や文学や詩に造詣があって、豊富な鑑賞をしながら、山に対してささやき、野に対してささやき、流れる水に対して褒めたたえることができる、このような人が人格者でしょうか。
(85-143、1976.3.3)
万物の霊長という言葉は、何を意味しているのでしょうか。万物の霊長とは誰でしょうか。「人だ」と言っていますが、万物の根本となった霊長は神様です。皆さんは、霊があるということが分かるでしょう? 人間には、霊があります。人間は、その霊の中の長であるために、結局、神様と直結させて霊長だというのです。
万物の霊長だというのは、人間自体だけではなり得ません。人間も被造物であるのに、どのように万物の霊長になるかということです。被造物とは、相対的な結果体です。被造物だけでは、原因に通じることができず、原因を占領することができないのです。被造物は、原因に占領されるようになっています。
皆さんは、結果的存在であることは間違いありません。霊長といえば、長は霊の中で中心であるという言葉です。この言葉は、本来、神様と人間が一つになった関係についていう言葉であることを知らなければなりません。
(32-137、1970.7.5)
神様が愛を求めるために万物をつくりました。神様は人間を愛の対象存在として造りました。神様が陽性と陰性の二性性相の主体となっている以上、その主体の前に対象になるためには、陽性と陰性の二性性相の形態をもったものが必要なのです。その形態というのは、その主体の性稟の反対になる形態ではありません。あらゆる性稟の相対性をもち、愛という本質にぴたっとあてはまる相対的形態を意味するのです。それが相対存在なのですが、愛にのみ合うようになっています。神様には、何かの知識や、ほかのものは必要ないのです。
人間がこの宇宙の中心になることができ、被造世界の中心になるのは、愛で被造世界を造ったからです。愛の神様を代表し、その主人の前に最初に中心位置に立って愛を受けることのできる特権をもっているので、「人間は万物の霊長だ」という言葉が成立するのです。その霊長という言葉は、神様の相対的愛圏を抜かしてはあり得ません。人間の特有な価値は、愛の特権をもつことができ、全被造世界を代表して神様の前に最初に相対的立場に立ってこの宇宙を支配することができ、そのような愛の因縁の場に同参できる権威をもったことです。ですから、人間は万物の霊長だというのです! 愛を抜けばすべてなくなります。
(132-245、1984.6.20)
愛の理想を中心として見てみるとき、動・植物世界では、愛の関係はすべて繁殖を前提としたときになされます。しかし、人間だけは例外です。人間は、夫婦愛の関係を自由に享受します。これが万物の霊長となった特権です。神様は、息子、娘である人間が無限の愛の喜びをもつように祝福しました。神様が許諾した真の自由は責任性を前提としています。もし責任性なく、個々人の愛の自由ばかりを主張して実践すれば、どれほど大きな混乱と破局が訪れるでしょうか。至高な愛の理想を成す人間の完成は、愛に対する責任性をもつとき、可能なのです。
(282-213、1997.3.13)
3. 被造物を完成させ崇められる人間
― 宗教経典 ―
この世は、ひとえに義人のために創造された。義人一人は全世界と取り替えるだけの価値がある。この世は彼と一つになることを目的として創造されたのである。
タルムード、シャッバト30b (ユダヤ教)
「その動くときは天に従って自在に活動し、その静かなときは地に従って静止する。ただ一人の人間にすぎないのに、その心が定まれば、広大な天下の王者となることができる。鬼神も崇(たた)ることがなく、自分の魂も疲れることがない。ただひとりの心が定まることによって、万物を服従させることができるのである」と。このことばは、虚無で静かな心を天地におし及ぼし、万物のうちに浸透させることをいったものである。この境地こそ天楽と呼ばれるものに外ならない。天楽とは、聖人の心をもって万物を養うことである。
荘子13(道教)
エリヤは主が言われたように直ちに行動し、ヨルダンの東にあるケリトの川のほとりに行き、そこにとどまった。数羽の鳥が彼に、朝、パンと肉を、また夕べにも、パンと肉を運んで来た。水はその川から飲んだ。
列王記上175 ~ 6 (キリスト教)
是の如く我聞けり。初めて正覚を成じたまへる世尊は或る時、優樓比螺(ウルヴェーラー)の尼連禅河(ネーランチャラー)の畔りなる目眞隣陀品(ムチャリンダ)樹の下に住(とど)まりたまへり。その時、世尊は一たび趺坐を組みたるままにて七日の間、解脱の楽を享けうつ坐したまへり。
時に大雨非時に起り、七日の間降り続き、寒風吹きて天陰れり。文眞隣陀龍王は己の棲家より出で来り、蜷局(とぐろ)を以て世尊の體を七重に巻きつつ、頭上に大なる鎌首をたてていたり。「寒気世尊に觸(さわ)るるなかれ。寒気世尊に觸るるなかれ。蚊・風・熱・蛇世尊に觸るるなかれ」とて。七日を過ぎて後、世尊はその定より起ちたまへり。文眞隣陀龍王は空晴れ雲去れることを知りて、世尊の體よりとぐろを解き、己の姿を変へて儒童の姿をなし、合掌して世尊を礼拝しつつその目前に立てり。
感興偈10(仏教)
大地の形勢が坤である。君子はその坤の厚大さにのっとって、厚い徳によりあらゆるものを包容することにつとむべきである。
易経2、周易上経、坤(儒教)
天下のうちで、上ただ至誠(な聖人)のみが、その性を尽くす(理に従う)ことができるのである。よくその性を尽くせば、(天下の)人の性を尽くすことができる。よく人の性を尽くせば、万物の性を尽くすことができる。よく万物の性を尽くせば、天地が生育するのを助けることができる。天地が(万物を)生育するのを助けることができれば、天と地とともに三となることができる。
中庸22(儒教)
「花は地に咲きいで、小鳥の歌うときが来た。この里にも山鳩の声が聞こえる」(雅歌2.12)神が世界を創造されるとき、地に必須な万有の力を先に下さった。しかし、人間創造の前までは何の産物も出でこなかった。人間が創造されると、隠れていた生命体が地上に姿を現した。類似して、人間が出てくる前まで、天も地に力を吹き込むことができなかった。創世記に次のように記録されている。「地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。まだ土を耕す人もいなかった」(創世記2.5)……
しかし、人間が出てくると、「野の草も生え」、隠されていたすべての力が現れ、「小鳥の歌うときが来た」。この地は全能であられるその方に賛美をお返しするように熟していった。人間が創造されていなければ不可能なことだった。「この里にも山鳩の声が聞こえる」、これは主なる神のみ言だ。しかし、人間が創造される前までは、この世界になかったみ言である。
ゾハール創世記97a (ユダヤ教)
― み言選集 ―
天倫のみ旨に完全に一つになり、天上の認定を受けた人、神秘的な体験をした人は分かるでしょう。神様が私に対して、「あなたは私のものである」と認めるのを感じると同時に、万物が私に対して頭を下げるのを見るでしょう。全被造万物が「あなたは神様の息子だ。神様のものだ」と認める日には、霊界にいる大勢の霊人たちはもちろん、地上の万物までも彼に頭を下げ、褒めたたえるようになるという事実を、今日の人間たちは知らずにいます。神様が認め、万物が認めることのできる立場に入っていくようになれば、真の良心をもった人たちもまた、その前に自然に一つになって入っていくようになるのです。
(4-102、1958.3.16)
神様がいらっしゃるなら、神様が「おいおい地よ、お前を第一の父母の立場に立てたのだから、息子、娘を生み、お前に永遠の愛を伝えてくれる息子、娘をつくってみなさい!」と言うとき、地が「よし」、こうして契約がなされていると考えてみてください。
また、地が「ああ、私はあなたの愛を喜びます。あなたの愛に橋を架けることのできる中間媒介体をつくりなさいとして、そのような公約によって歓迎し、支持し、すべてのものを譲ることにしました」と言ったと考えてみてください。それで私の体が神様の愛と接することができ、神様の愛を感じることができ、神様を愛することのできる体になったというとき、地が「栄えある人をつくっておいたことを喜びます」と言うでしょう。
(97-143、1978.3.12)
万物というのは何でしょうか。私達が本性の愛をつくりあげていくにおいて応援してくれる、美しい表示体です。赤く、黄色く、刺激的なすべてのものを満たしてくれる、愛を称賛できる一つの贈り物です。この世界の万物は、人間が理想的な愛を成すにおいて象徴的な橋となり、称賛することを願うのです。それが万物の存在する本来の、愛を中心とする理想的な存在の起源であり、目的なのです。
それで、植物たちも私達人間の愛を追い求めるために、互いに美しいもので装飾し、歓迎します。動物や鳥たちもそうではないですか。雄と雌、互いに喜びながらチュンチュンと鳴き、「ああ、あなたはこのように愛するでしょう?私もあなたについていって喜びます。永遠に、永遠に、永遠に!」、「そうか、そうか」と言うのです。それで、万物と人間が一つになると同時に、神様が愛する……。愛の雲がかかり、愛の風が吹き、愛の水が流れ、愛の歌が響いてくるこの宇宙がどれはど美しい園かというのです。花を見て、「いやあ、お前はどこに行きたいと思うのか。すべてを装い、すべての美をもって喜ばせてあげられる所を訪ねていくのか」と尋ねれば、「最高の所です!」、このように答えるでしょう。
神様の愛が宿るそのような居間を訪ねていって、この美をもって賛美したいと言うでしょう。それはどれほど美しいですか。真の愛をもって愛する夫婦の居間に咲くその花は、どれほど幸福でしょうか。そこだけでなく、神様までもお迎えすることのできる所の装飾品になれるのです。それは、どれほど栄光かというのです。「真の愛は永遠なので、昔のアダム時代も、数千年が過ぎた今日の時代も、今後何万年後の時代も変わらないので、その場を美しく整えることに同参することが栄光であり、このように歴史時代に花として生まれたことを私は誇りに思う」と言うでしょう。
(146-107、1986.6.7)
私達の体は小宇宙です。この体には、鉱物もあり、植物もあり、動物もいます。このような人に真の愛をもっていけば、細胞まで喜んで「わあ」と叫ぶのです。口をもっているものはキスをしたくて「ああ」と言い、目をもっているものは目を合わせるために「ああ」と言い、耳をもっているものは耳を合わせるために「ああ」と言います。すべてそうです。ですから、それらが目をすべて開き、耳をすべて開き、口をすべて開き、そこに力を入れて動くようになれば、どれほどおもしろく、どれほど素晴らしいですか。軽やかに飛び回るようであり、世の中や天地に恐ろしいものがないというのです。目がこのようにひっくり返っても、その力に出会い、「おい、こいつ、早く答えなさい!」と言えば、「はい」と言うのです。
目をまっすぐに開けて、動物世界の雄と雌がどのように生きているのかを見て、細菌の世界、細胞世界、鉱物世界の夫婦がどのように生きているのかを考えてみてください。
皆さんも、「私は真の愛をもった実体だ。私の心と体、私のすべての細胞は完全に一つになり、天宙的に不動となったそのような実体になっている」と言うときは、この宇宙がすべてやってきて、カチッとくっつくかのようです。宇宙の被造物はすべてそのように動くので、真の愛をもつ真の人が行く所は、すべての動物がついていき、すべての植物もついていき、すべての鉱物もついていくのです。ですから、その人は自然に大きな巣をつくり、保護されて生きるようになるはずです。本然の世界は、そのような愛を中心として……。境界線がありません。どこにでも通じます。
(163-44、1987.4.1)
このようなものすごい天体、私達が数字で推し量れない驚くべき価値の天体ですが、その天体自体が神様の創造目的ではありませんでした。神様の創造目的は、太陽系の一つの惑星である地球という地の上に、大宇宙と比べればちりにもならない、取るに足らない人間を造っておかれ、人間を中心とする一つの理念の世界を建設することだったという事実を思うとき、その感謝と喜びと栄光と偉大さがどれほど大きくなければならないかを、皆さんは考えてみたことがありますか。
(5-343、1959.3.8)
6) 自然保護
キリスト教の聖書において人間の本郷のイメージは、荒野ではなく美しい園である。神様は、人間に保護され、維持され、また豊かな園に育てるよう自然を委託した。自然保護に関する倫理がこの章句に描写されている。この章句は、苦痛を受けている動物たちの保護、天然資源の適切な管理、絶滅の危機にある動植物たちの保全、適切な量の漁獲高、環境の親和的開発を勧告している。
そして、私達に過度な漁獲量、山林の毀損、水と大気の汚染を避け、自然の均衡を大切に考えることを教える。私達は、度を越えた消費と過度なごみの排出を避けなければならず、自然が恵む環境と調和を成しながら生きなければならない。しかし、自然に対する責務を立派に遂行できる前提条件がある。私達は、ほかの人間たちと調和して暮らすことを学ばなければならない。「狼と小羊は共に草をはみ」というキリスト教の聖書の預言は、天倫に従って互いに平和に生きていかなければならない人間たちに関する叙述である。
1. 被造物の保護
― 宗教経典 ―
「知恵ある人は多くの魂をとらえる」(蔵言11.30)とラビは語られた。「この聖句は、ノアに対して語られたものです。ノアは箱舟で手厚く動物たちに食べさせ、世話をしてあげました。動物一匹一匹に特別な食べ物を与え、ころあいに合わせてこれを食べさせました。ある動物たちには昼に、ほかの動物たちは夜にもえさを与えました。ラクダには引いた藁を、ろばには麦を、象には蔓を、だちょうには芝を与えました。いつも動物たちにえさを与えるために忙しく、彼は12 か月間、昼夜きちんと眠ることができませんでした」。
タンフーマ、ノア15a、(ユダヤ教)
アブ・フライラが神の使徒のみ言を伝えた。「道を歩いていたある旅行者がひどく渇きをおぼえ、井戸を降りて水を飲んだ。彼が上がってくると、一匹の犬が、のどが渇いて息を切らせ、濡れた地面を紙めているのを見た。彼は、『この動物は、私くらいのどか渇いて苦痛を受けている!』とつぶやいた。それで、彼はまた井戸を降りていき、自分の靴に水をいっぱいに満たし、それを口にくわえて井戸を這い上がって犬に水を与えた。神がその行動を見て喜ばれ、彼の罪をすべて許してくださった」。誰かが言った。「神の使徒よ、そうであれば、私達が動物に良いことをしたことも補償を受けるのですか」「補償されます」と彼は答えた。「おとなしい心をもった存在に水を与えた者は誰であってもそうなのです」。
ブハーリー・ハディース(イスラーム)
願わくばすべての有情たち、虫さえもが誰一人としてサンサーラの生に繋がれぬよう、願わくば私にかれらのすべてを救済させたまえ。
ミラレパ(仏教)
蟻の穴の入り口などに、食物、水、粗糖、穀類を、心堅固である人びとをして、つねに散布させなさい。食事の前後に、餓鬼、蟻、鳥などに、好むままにつねに食物を施与してください。
龍樹宝行王正論249 ~ 50(仏教)
先生は魚釣りはされるがはえなわは使われず、鳥のいぐるみはされるがねぐらの鳥はうたれない。
論語7.26 (儒教)
御身どもに牛の魂は訴えた「だれのために私を御身どもは創造したのですか、だれが私を造成したのですか。私をアエーシュマと暴虐、残虐、それに虐待と暴行がしめつけています。私には、御身どもよりほかに、牧養者がありません。ですから、私にとって、牧養がよきものとみえますように。」
そこで牛の造成者はアシャにたずねた「御身は牛のための裁き人をおもちですか――その支配者たる御身たちが、牧地とともに、牛飼いの熱意をもつくり出されるためにです。不義者どもとともに、アエーシュマをも追い払うべき主としてだれを、御身たちは彼(牛)のために望んでいるのですか。」
彼(牛)にアシャを通して、「牛には抜苦的援助者なし」と返答し給うた。「身分の高いものたちが低いものたちに、どのように対処すべきか、彼らにはわかっていないからであるが、生あるものどものうちで最強なるものといえば、われ(アフラ)がその呼び声に応じ助けをさしのべて赴くところのものである。」
マズダーは企てを最もよく銘記し給うもの。まことになされたことを御心にとどめてくださるよう、そしてまた諸天と諸人によってなされるであろうことをも御心に記してくださるよう。その判決者におわすアフラ――そのかたが望み給うとおりに、してくださるよう。
「マズダーを裁きに促しまいらせるために、わが魂と乳牛の魂となるわれらふたりは、まことに手をのばし、アフラに参進しているところです。不義者どもにとりまかれては、正しい生活者にも生きゆく道がなく、牧畜者にもありません。」
そこで、霊感のなかに秘義を知ってましますアフラ・マズダーは仰せられた。「まことに天則によってのことであるが、全く教え人もなければ裁き人もない。というのは、なんじ(牛)を牧畜者と牧養者とのために造成者は創造したからである。
「『牛に水飼場を、そして飢渇せるものたちにも』――教えを下して聖マズダー一アフラは、アシャと心を合わせて、この酪の蔵言をつくり出し給うたぞ。」「ウォフ・マナフと相たずさえて、ふたりを人間のために大切にしてくれる何者を、御身はおもちですか。」
「このものは、ただひとり、われらの教えに傾聴したものとして、ここで私によってみとめられたるものザラスシュトラ・スピターマです。彼は、マズダーよ、われらと天則とに頌歌を献詠しようと望んでいるのです。どうか、彼に、詞葉の華を頒与し給わんことを。」すると、牛の魂は嘆いた「無力なる飼育者に満足しなければならぬとは、非力なる人の声に――強権をもって支配するものを望んでいるこの私なのに。手をかして彼に助けをざしのべるものは、いつのときにあらわれるのでしょう。」
アヴェスター・ヤスナ29.1 ~ 9(ゾロアスター教)
― み言選集 ―
神様を愛することは、自分の足元からです。自分の前にある物を愛し、万物を愛するのです。愛した物を私が生命の要素として吸収するのです。愛するのと同じ、対等な愛で愛してあげなければなりません。このような愛を知らなければ、愛することはできません。この宇宙というもの全体が愛でできているので、私もそこにぶら下がっているのです。ですから、ために生きてあげれば、天下がすべて私の懐に入ってきます。
(290-129、1998.2.15)
動物世界も言葉が通じるのです。花に向かって歌えば、花はよく育ちます。花の放つ香りもより新鮮になるのです。花も、音楽を好み、芸術を好むのです。
(262-127、1994.723)
昔、牛を使って「えいや、やあやあ」と言って田を耕していた時は、気分が悪い時が多かったのではないですか。そのような時に、「この牛、なぜお前はこうなのか。私がこの一時に使おうと思って、すべての精誠を尽くして育ててきたのに、なぜ言うことを聞かないのか」と言いながら、細い木の枝で容赦なく牛のしりをたたいたりするよりも、(おい、冬の間ずっと休んでいたお前を、あいさつもせずに春の日に引っ張り出し、よく食べさせもせずに使って、申し訳ない」と言って、牛以上に我慢する心をもって、ジャブジャブと音を立てながら耕せば、天は、むしろその人をより近いと感じるのです。
(127-90、1983.5.5)
被造世界の中心である人間は、神様の愛を願います。また、動物世界の犬も、豚も、馬までも誰の愛を願うでしょうか。人の愛を願うのです。これを知らなければなりません。植物までもそうです。植物たちは動物の愛を願います。動物の中に最高の存在が人間だとすれば、人間の愛を受けるその動物たちが万物を愛し……。愛も系列的にすべてのものと連結するのですが、これが何かというと真の愛です。ですから、真の愛の終点に行って、さあっと見下ろせば、あの果てには神様が見え、その次には人が見え、その次には動物が見え、その次には植物が見え、その次には鉱物が見えます。これをとんとんとたたけば、ちゃらんちゃらんと、すべてついていくというのです。
(166-51、1987.5.28)
最初に獲った鯉を放してあげました。そして、お前は愛を通して生まれ、愛のために死ぬのが道理なので、愛する人々のために生きることはうれしいか、死ぬことはうれしいか」という、このような問題を中心として考えてみました。
(93-190、1977.5.29)
魚も雄と雌を解放してあげ、動物を解放してあげるのです。今までのように、自然から捕まえてこのように生きるよりも、主人がいて、捕まえなくても、主人が準備してくれたものを食べて生きていける世の中をつくらなければなりません。
(388-270、2002.8.2)
2. 保存と持続的発展
― 宗教経典 ―
ムスリムは木を植えたり、地を耕作したりしないが、そこで鳥たちと人、獣が食べて過ごす。しかし、これが正にそれに代わる慈悲である。
ムスリム・ハディース(イスラーム)
大地は真実な者が蜜と草木と果実を育てる所であり、渇いた地に水を与えたり、じめじめした地を渇かす所で幸福を感じる。
アヴェスター、ヴィデーヴダート7.1 ~ 4(ゾロアスター教)
池や沼には目の細かい網を入れ〔幼魚を捕ったり〕させなければ、魚やすっぽんの類はとても食べきれないほどよく繁殖するものです。秋と冬だけしか、斧や木伐りをさせないように〔季節を制限〕すれば、材木はとても使いきれないほどよく繁茂するものです。
かように穀物も魚やすっぽんも材木も使いきれないほど豊かになれば、人民の生活は安定して父母や妻子を養うにも、死者を弔うにも、なに一つ遺憾なくできるものです。これこそ王道政治の手始めなのです。
孟子I.A.3(儒教)
ある日、ホニ・ハマゲルが旅行に出たとき、ある男がいなご豆の木を植えるのを見た。彼に近づいて尋ねた。「この木が実を結ぼうとすれば、どのくらいかかりますか」、その男は答えた、「70 年かかります」。また尋ねた。「70 年さらに生きて、実を見ることができるという補償がありますか」、その男が答えた。「私はあちこちで大きく育ったいなご豆の木を見ます。私達の先祖が私のために植えておかれたので、私も子孫のために植えるのです」。
タルムード・タアニート23a (ユダヤ教)
ある部族の神聖な輪でも、天地万物の巨大な円を構成する多くのものの中の一つにすぎない。その中で、一人の母と一人の父のすべての子供たちを保護してくれる強力な生命の草花が育つ。すべての生命は神聖だ。この地の原住民たちは、私達が大地の一部分であり、大地は私達の一部分だということを意識する、その輪の知恵で長く生きてきた。神にとって大切なこの大地を損傷することは――その輪の均衡を揺るがせることは――創造主に軽蔑をうずたかく積み上げて捧げることである。ゆえに、私達のすべての精誠の心で、私達の孫と孫娘と7代の子孫までのために、大地の均衡を回復させなければならない。
ブラックエルク族(アメリカ先住民の宗教)
主はシナイ山でモーセに仰せになった。イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。あなたたちが私の与える土地に入ったならば、主のための安息をその土地にも与えなさい。六年の間は畑に種を蒔き、ぶどう畑の手入れをし、収穫することができるが、七年目には全き安息を土地に与えねばならない。これは主のための安息である。畑に種を蒔いてはならない。ぶとう畑の手入れをしてはならない。
レビ記25.1 ~ 4(キリスト教)
地上に悪を広めることにつとめ、収獲物や家畜を荒しまわる。だが神は邪悪をめでたまわぬ。
クルアーン2.205 (イスラーム)
あなたが町を攻略しようとして、長期にわたって包囲するとき、斧を振るってその町の木を切り尽くしてはならない。本の実は食糧になるから、それを切り倒してはならない。一体、野の木はあなたの前から城壁に囲まれた町に逃げ込む人間なのか。
申命記20.19 (キリスト教)
草木を伐れば波逸提なり。
波逸提11(仏教)
往昔コーラヴヤ王に善住と名くるニグローダ王あり、五條の枝あり、蔭涼しく、悦意なり、……王の覆ふ所は十二ウオージャナにして、根の〔地に〕入ること五由旬ありたり、果は甘美にして宛も蜜蜂の生蜜如くなりき、……果を守護する人あること無し、されど相互に果を損害せず、しかるに……一人あり、大王の果を飽IVし、枝を折りて去るとは、……王は當来果を生ずることなからしめんと、されば、爾後果を生ぜざりき、
阿含経増支部iii.368 (仏教)
― み言選集 ―
人間が公害問題をどのように解決するのかが大きな問題です。今学者たちは、オゾン層が破壊されれば、世界人類は太陽の紫外線のために生存できないと言っています。気候の変動が、すべてそのような影響を受けてなされるからです。早く人類を原始時代のように、山のすそに行って暮らすようにしなければなりません。小便をしても、肥料になればよいのですが、公害にならないようにしなければならないというのです。
(203-56、1990.6.14)
動物も絶滅させてはいけません。すべて私達が育てて公開しなければなりません。このような動物園を造らなければならないのです。展示する動物園であると同時に、生産する動物園を造らなければなりません。昆虫も保護しなければなりません。植物や動物たちの餌だからです。これを保護して育てなければなりません。世界に種がなくならないように保護しなければならないのです。
(324-118、2000.6.17)
人類が自然を加工し、平準化させて、生存できる基盤をつくらなければなりません。そうでなければ、人類が滅亡します。既に昆虫が死んでいき、魚が死に、獣が死んでいっています。このまま行けば、これから600 年、いや300 年を越えることはできません。そのまま放置すれば、人類は滅亡するというのです。
(326-152、2000.7.7)
これからは、私達が魚を家で育てて送り出すのです。鶏を育てるのと同じように、養殖して、海にたくさんの種類の魚を送らなければなりません。送ってあげて、愛してから、捕まえて食べるのです。愛を受けた万物は、主人に報いるために、命を生きた祭物として奉献するのです。それで、これからは、捕まえるよりも育てて開放しなければなりません。オキアミは高品質のたんぱく質をもつているので、万物を育てる資源になるのです。すべての動物の子に食べさせて生かし得る飼料になります。それは、人類のための飼料です。万物のための飼料として、私達が供給していかなければなりましせん。
それで、このようなことを計画することによって、海から人類の食糧問題を解決するのです。人類の食糧問題を解決する道は、この道しかありません。砂漠地帯にも、パイプを埋めて養殖場を造ることができます。アラスカにある石油をアメリカの本土まで何千万里を運んでいくのと同じように、海水をどこにでも、また淡水をどこにでも運べるのです。淡水をそのようにしようとすれば、アマゾン川しかありません。
これを世界に送り、砂漠地帯でも養殖をするのです。魚を愛で育てて、食べて暮らすのです。そこに同伴して、砂漠に養殖場を造れば、そこで水草をいくらでも育てることができます。今、陸地がだんだんと砂漠に変わっていっています。その反対に、人工的に養殖場を造り、養殖場を中心に海洋の水草を育て、陸地の樹木と合わせて、いくらでも栄養素をつくり出せると思います。私達がやろうとしている養殖は、一つの分野だけではありません。大砂漠でも養殖することができるのです。食糧を無限につくり出すことができます。
(324-114 ~ 115、2000.6.17)
ローマクラブの研究は、世界の資源と環境の限界を明確に指摘し、このような世界的な諸問題に対する妥当で完璧な解決のための汎世界的接近と協働的努力が、絶対に必要であることを明白にしました。このような諸問題は、世界のあらゆる民族に献身的態度と協力を求め、ある社会や国家の利益を超越する世界観を必要とします。そのような協働精神は、全人類が同じ人間家族の構成員だと自らみなす時にこそできるものです。そのようなイデオロギーに対する人間のこの革命的な変化は、今日、人間の生存のために長い間必要だったのであり、また、それは必須、不可欠のものなのです。
(74-108 ~ 109、1974.11.22)
3. エデンの園の復帰
― 宗教経典 ―
主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。
創世記2.15 (キリスト教)
主なる神が最初に人間を創造され、彼にエデンの園のすべての木を見せてくださって語られた。「私の作品を見よ。これはどれほど美しく、素晴らしいか!あらゆる被造物は、私がお前のためにつくったのだ。ゆえに、これらが滅びることがないよう、注意深く世話をしなさい。お前が滅ぼせば、お前に代わって復旧する者が誰もいない」。
伝道の書ラッバー7.13(ユダヤ教)
太古の時代には、民は家にいても何の仕事をしてよいか知らず、外出しても目的地を知らないという、無知そのもののありさまであり、ただ食物を口にほおばって楽しみ、腹鼓をうって遊ぶという生活を送っていた。民にできることといえば、これがすべてであった。至高の徳が行なわれた世では、人びとは鳥獣と同居し、万物と区別なく集まりすんでいた。あらゆる差別がなかったのであるから、むろん君子と小人との差別を知るはずもなかった。すべてについて分別がなく、無知そのものであり、その心の徳は自然から離れることがなかった。すべてについて差別がなく無欲であり、このような状態にあることを素朴というのである。素朴の状態にあってこそ、人間の本性が完全性を得るのである。
荘子9(道教)
狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる。私の聖なる山においては、何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように、大地は主を知る知識で満たされる。
イザヤ書11.6 ~ 9(キリスト教)
― み言選集 ―
私達の世界は、深刻な環境危機に直面しています。環境汚染と自然破壊は、神様が創造された美しく神聖な世界を冒涜するのと同じです。真の愛のない人は、自然世界を単純に利己的な利用物とばかり考えるだけです。堕落がもたらした深刻な結果の一つは、アダムとエバが神様の真の愛を相続できなくなることによって、人々や動植物や地を正しく愛することができなくなったことです。万物は、人間の真の愛を待ち焦がれています。私は、南米で理想社会の建設とともに、人間が自然と正しい愛の関係を結ぶよう、一つの模範を見せてあげようと思います。
(271-75 ~ 76、1995.8.22)
自然を愛することができてこそ、人を愛することができるのです。再びそうしなければなりません。復帰なのです。復帰。アダムが万物を愛せなかったので、万物を愛さなければなりません。郷土に帰って自然を愛さなければなりません。近所の草からあらゆる山川草木に至るまで、すべてを愛さなければならないのです。すべてを愛してから人を愛するのです。山川草木、動物まで、すべて愛することのできる立場に立ったならば、その基盤の上で人を愛するのです。
(175-32、1988.4.6)
この地上が荒廃していくのを防がなければなりません。毎年砂漠が増えています。木がないからです。私達統一教会は、神様が創造したように、種といこう種はすべて手に入れ、根という根はすべて手に入れ、枝を切って挿し木にしなければなりません。そしてこの地上に万物を創造した神様の愛を身代わりして植えなければなりません。国土を保護しなければなりません。国土とは何かというと、草木があり、動物がいて、それから人間がいなければなりません。これが廃虚になれば、人生は自動的に廃虚の歴史になるのです。創造理想の目的が埋没せざるを得ない運命におかれているので、私達は神様を愛し、神権の国を愛すると同時に、神様の主権を愛すると同時に、神様の国民を愛し、神様の地を保護し、万物全体を再創造して、神様の創造理想世界の豊かな解放的自然世界をつくらなければなりません。
(304-254 ~ 255、1999.11.8)
7) 美しさ
山の威厳、花の微妙な色調、日没の壮麗な落照、草の葉の先についた朝露の輝きなど、美しさは自然の中にあふれている。そこには、形態と色、光と影、音と沈黙の調和がある。調和は美しさの一側面である。調和は、宇宙の構造それ自体にもともと宿っている。古代人たちは、数学こそ音楽の土台だということを知っていたのであり、今日の科学者たちは、星々の動きと原子の特徴から、「惑星のリズム」に関してより多くのことを学ぶ。さえずる鳥たちと鳴く昆虫たちは、彼らが愛を求めるとき、自然のリズムを歌う。彼らは、自らの中に固有な調和を表現している。
人間の音楽は、それと比較することはできない。人間堕落の不調和状態は、不協和音を出すように運命づけられている。そのような人間が、自然のように調和することさえできたならば!最上の被造物として、人間は至高無上の美しさを現さなければならない。人々は、歌い、踊り、美しい芸術を創造するが、それ以上に私達は、互いの関係の中で愛を分かち合いながら美しさを発見する。
互いに愛する一組の男女、年老いた父母を世話する親孝行な子女、自分の国の福祉のために犠牲的な努力を惜しまない忠実な市民に、内面の美しさがある。人々がこのような方法で表現する美しさは、また神様を賛美することであり、神様は自分が創造した世界に充満した美しさを見て喜ぶ。このような内的美しさは、霊界で明確に現れる。霊界での美しさは、そのような資格を備えた者たちだけに、満ちあふれて現れる。
1. 自然美
― 宗教経典 ―
なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
マタイによる福音書6.28 ~ 29(キリスト教)
神は美そのものであり、美を愛する。
ムスリム・ハディース(イスラーム)
神はなんじらのために、大地を休息所とされ、大空を天蓋となされ、また、なんじらに姿を授けて、みごとに形作りたまい、もろもろの良い給与を支給された方であられる。これがなんじらの主神であられる。よろず世の養育の主神を祝福し奉る。
クルアーン40.64 (イスラーム)
「庇護者」の名をもって知られるのが、永遠の理法で身をまとった女神である。彼女の美しさにより、これらの木々は緑色をなし、緑色の花みをつけるのである。
アタルヴァ・ヴェーダ10.8.31 (ヒンドゥー教)
唯一にして、色相なく、多様なる大龍(シアクティ)を用いて、玄秘なる目的のために、数多の色相(ルーペ)を配分せる神、万物が世界の終わりに散ずるもそれにおいてし、世界の初めに会(あつ)まるもそれにおいてする神かかる神のわれらに清浄なる覚智の賦与したまわんことを。
シヴェーターシヴァタラ・ウパニシャッド4.1(ヒンドゥー教)
私の前の美しい光景よ。
私の後ろの美しい光景よ。
私の下の美しい光景よ。
私の上の美しい光景よ。
私をその中で歩くようにしてほしい。
ナバホ族の歌(アメリカ先住民の宗教)
おまえたちは神が、七天をいかに層また層につくたまえるか、また月をその中の灯明とされ、太陽を輝く光りとなされたかを、考えてみなかったか。
クルアーン71.15 (イスラーム)
それが染み込んだ宇宙の空から、
滞ることなく霊妙な錘を取るのだが、
表現できない壮麗さだ。
アーディ・グラント、ガウリー・スクマニー23.1、M5、p.293 (シーク教)
音楽は天地の間の(自然の)和合作用を代表するものであり、礼儀は天地の間の秩序を代表するものである。天地の間に和合作用があるから万物はみな同和し、秩序があるから万物それぞれの地位や機能を保ち得るのである。また、音楽は天(の陽気)に基づいて作られ、礼儀は地(の陰気)に基づいて定められるのであって、……即ち天地(自然)の道を明らかに知る者にして、始めて礼楽を正しく用い、その効用を盛んに発揮させる)ことができるのである。
礼記19(儒教)
自然は神の芸術である。
ダンテ・アリギエーリ
― み言選集 ―
博物館にある、何かの作品がどんなに貴重だと言っても、生きている作品にかないますか。神様の作品であるこの地球星の万物博物館を、誰が神様以上に愛したのかというのです。自分の国の博物館以上に愛したのかというのです。
(175-187、1988.4.16)
昆虫世界を見れば、昆虫世界でも、オーケストラが展開します。せみの声から一度聞いてみてください。「ミンミン」と鳴けば、すべてその拍子に合わせて歌います。現在の有名なオーケストラが問題ではありません。
(285-243、1997.6.5)
私達が森羅万象、自然界を見つめるとき、四季に従って変わる自然現象と時によってすべての万物が和動し、美を現すのを見るとき、私達は無意味な心情で見つめてはいけません。私は、鳥を見たり、蝶や蜂を見たりするとき、流れる水やそびえる峰を見るときも、このすべてが創造された神様の内的な心情の反映された姿だという事実を感じます。私達は、それを感じることができなければなりません。
多くの芸術家がいて、多くの文学者がいますが、あらゆる芸術家と文学者たちは、一様に多くの形容詞を動員し、被造世界、すなわち万物の美を現しています。そして、この自然は、芸術や文学と密接な関係をもっています。被造世界、すなわち自然を外せば、私達が楽しむことのできる相対的条件が、言うまでもなく減少するという事実を考えるとき、なくてはならない自然であり、感じなければならない自然だということを知ることができます。
(5-343、1959.3.8)
一人孤独に死ぬのですが……。なぜ孤独に死ぬのですか。そのようなときは、庭園に出ていって花を見つめ、香りをかぎながら、「この香りよ、お前はどこから来たのか」と香りと語るのです。「どこから来たのかも何も、私の祖父母の香りから来た」、このように尋ねてみると、神様から来たというのです。神様が私のためにこのような庭園を装ってくださったのです。このすべてのものは、生きている博物館です。生きた命をもつ博物館を私に付与したのが庭園なのです。ピカソの一枚の絵がいくら美しいとしても、生きている一株の草もつくることができません。
「神様の博物館を見物する」と考えてみましたか。ねこやなぎをもって、「ああ、きれいだ。これは誰のためにつくったのだろう」、そのようなことを考えてみましたか。肌寒い春の日、その川辺の氷の下から雪解け水が流れていくのですが、ねこやなぎが花を咲かせます。それがどれほど素晴らしいかというのです。果たして誰のためにそのように咲くのかというのです。愛する息子、娘が、のどか渇いて氷水を飲みたいと思うとき、拳で氷を割り、その水を飲んでねこやごなぎを見るとき、このように歌を歌うことのできる一つの象徴体としてこのねこやなぎをつくったとすれば、それはどれほど素晴らしいでしょうか。ですから、生活がどれほど潤沢かというのです。愛の博物館を私達が観覧し、そのすべての博物館と語ることができ、友人にできるこのような環境で生きているのです。……このような驚くべき愛の世界と因縁を結ぶために、地上世界に生まれたということを思うとき、なぜ孤独なのですか。
(112-220、1981.4.12)
創造の父よ! あなたの美しさがすべての万物、万象に現れ、あなたのみ手を経ていった形状の上には奥妙さと顕現の美が満ちあふれております。人間に対する創造目的である美を、きょうも休むことなく訪ねていかれるお父様の切ない心を、私が心と体で体恤することができ、あなたの愛に美で対することができるよう許諾してください。
(1-102、1956.6.10)
2. 人間美
― 宗教経典 ―
花の香りは風に逆らって進んで行かない。栴檀(せんだん)もタガラの花もジャスミンもみなそうである。しかし徳のある人々の香りは、風に逆らっても進んで行く。徳のある人はすべての方向に薫る。
法句経54(仏教)
先生がいわれた、「仁に居るのが立派なことだ。」
論語4.1 (儒教)
村でも、林にせよ、低地にせよ平地にせよ、聖者の住む土地は楽しい。
法句径98(仏教)
霊的力のために、神の脈拍により浄化されることにより、私達は美しいすべてのものを思う。
リグ・ヴェーダ5.82.6 (ヒンドゥー教)
私は主によって喜び楽しみ、私の魂は私の神にあって喜び躍る。主は救いの衣を私に着せ、恵みの晴れ着をまとわせてくださる。花婿のように輝きの冠をかぶらせ、花嫁のように宝石で飾ってくださる。
イザヤ書61.10 (キリスト教)
あなたがたの装いは、編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なものであってはなりません。むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、内面的な人柄であるべきです。このような装いこそ、神の御前でまことに価値があるのです。
ペテロの手紙一3.3 ~ 4(キリスト教)
事実、音楽には三つの類型がある。第一の類型は宇宙の音楽であり、第二の類型は人間の音楽であり、第三の類型は旋律をつくりだす、ー定の道具によって創造された音楽である。……今、第一の類型、宇宙の音楽は、人間が天それ自体から感知するものから、または元素の構造から、または季節の多様性から……最もよく観察される。それゆえ、この天体の運動で、音楽的転調に対するある固定された秩序があることは間違いない。今、人間は自分自身を検討することにより、人間の音楽を理解するようになる。ある調和、いわゆる高低の調べが、一つの和音を形成するやリ方で注意深く調律することを除いては、何のために理性の非物質的存在が肉体と連合するだろうか。
ボエティウス
少なくとも徳を得るためならば、そして一段とすぐれた者になるためならば、人も選ばず、事も選ばずによろこんで相手につくそうという姿……何よりも美しい姿だからである。このようなわけで、少なくとも徳を得んがために愛をうけ入れることは、その事と仕方とを問わず、一切美しいことなのである。この徳を目指しての愛が、すなわち天上{ウーラニアー}の女神に属する愛なのだ。その愛は、自身も天上的であり、また、都市(くに)個人のいかんを問わず、いずれにとっても、こよなき値をもつものなのだ。なぜなら、その愛は、愛する者は、愛される者をして、徳を目指しつつ、自分自身を気づかうようにせしめるからだ。
プラトン饗宴(ヘレニズム)
― み言選集 ―
修養の世界での感じはこうです。恩恵を受けた人、神様の愛を受ける人は美しく見えます。愛を受ければ美しく見えるのです。どれほど美しく見えるのでしょうか。光のように見えるのです。ですから、光を発することができます。これと同じように、すべての存在がそのような光を発するようになれば、ろくでもない人、つまり愚かな人がいないというのです。
(33-88、1970.8.9)
本然の美とは、どのような美でしょうか。それは、ほほえみと歌と踊りで現せる美であり、神様に栄光をお返しできる永遠の価値としての美なのです。本然のエデンの園が、正にこのような美の世界でした。
(2-245、1957.6.9)
愛のめがねをかけていれば、すべて良くないものがなく、悪いものがないのです。いくら器量が悪くても、味があるというのです。おいしい食事もそうです。見栄えが良く、きれいなものは、その中が悪いのです。しかし、見栄えの良くないものは、その中が良いというのです。これは、すべて相対的になっています。ですから、美人は薄幸でよく変わりますが、かぼちゃのように器量が良くなければ、内的にすべてのものが美しいのです。良心も美しく、見ていても美しく、揺れ動かないのです。ですから、いくら女性が世の中を支配しても、女性が完成するには愛を求めなければなりません。これが最も貴重な真理です。
(162-47、1987.3.22)
いくら湖が良くても、汚水がたまっていれば、おもしろくないのです。ですから、汚水の中で青く光るはすの花が咲いているという事実が驚くべぎことです。花が咲いたので、池が生きるのです。一輪の花によって、醜いものになり得る池が美しくなります。人々も、悪なる人の中に愛が残っていれば、美しさが現れるようになるのです。
(354-21、2001.9.16)
いくら女性が美しくても、その美しさだけで目的がなければ、どのようになりますか。筒の中に入っている美しい人形がよいですか。「あなたは、そのような美人になって一日中座っていなさい」と言えば、「ああ!」と言って女性たちはみな逃げていくでしょう。そのように座っているのが、美しさにおいて理想型ですか、あちこち歩き回るのが理想型ですか。女性の美しさの夢が、男性のところにいって終わるとすれば、それは気分が良いのです。なぜそうなのですか。夢自体が男性ではなく、男性の中にもう一つの何かがあることを知らなければなりません。それは何でしょうか。それが愛です。美しい夢が定着して喜び得る終着点とは何かというと、愛です。
(116-10 ~ 11、1981.12.01)
本当の愛の心で見れば、化粧をきれいにして美しく装ったのと、ひたすら苦労して努力するのと、どちらの女性がより美しいですか。洗濯をして、床を磨き、子供の世話をする、そこに理想郷があることを知らなければなりません。
(129-176、1983.10.30)
あの国には奉仕もありません。どれほど互いに「ために生きる」人生を生きたのかということが問題です。それがあの国の人格の美です。それが愛の完成をなすので、美しさの中の最高の美しさなのです。丸くて美しい形態はありますが。
(307-166、1998.11.8)
あの国の重要な話題とは何でしょうか。調和です。均衡と統一です。何を中心とするのでしょうか。「ああ、私は顔が美しいので、私を中心として調和を成さなければならない!」、そのように言うのですか。あの国では、いくら美しいことを誇っても、すべての人が「私はあなたより、もっと美しい!」と言うのです。周囲がすべて美しさを備えています。周囲を見ることができなければなりません。そこは立体的に見るのです。
(217-143、1991.5.19)
8) 創造性と芸術
芸術家、科学者、発明家たちは、神様の創造性を受け継いでいる。宇宙は、神様の心の中の観念から出発して創造されたのであり、その観念を実際の宇宙に創造するためにエネルギーが投入された。同じように、芸術家と科学者は、その心の中にあるイメージを作品として表現するために、自分のすべての努力と精誠を注ぐ。
この節は、芸術に焦点を合わせ、したがって経典とともに、自分の芸術がもつ意味を省察する有名な芸術家たちの言葉の中から選別した幾つかの言葉も含む。しかし、創造性は、このような卓越した人物たちの独占的な所有物ではない。
私達は、スポーツに対する愛に満ちて競技を行う運動選手から、自分の物品を売買するためにより優れた方法を求める商人から、踊りを踊り、歌う子供たちからも創造性を発見する。バレエ団と芸術学校を設立し、また妻と共にデュエットで歌うことを好む文鮮明先生は、芸術が神様を中心とする文化を創造することに寄与する、重要な役割を理解している。相対物と調和を成した芸術、芸術の情緒的な力とその精髄、詩的霊感、芸術の霊性、芸術と価値の問題などの主題が、ここに含まれている。
1. 芸術の霊性
― 宗教経典 ―
酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。
エフェソの信徒への手紙5.18 ~ 19(キリスト教)
人生は芸術である
人の一生は自己表現である
自己は神の表現である
表現せざれば悩がある
処世訓1.4(PL 教団) 104
流麗な言葉の中に魔力があり、知識の中に無知がある。詩の中に知恵が、言葉の中に退屈がある。
アブー・ダーウード・ハディース(イスラーム)
神の霊がサウルを襲うたびに、ダビデが傍らで竪琴を奏でると、サウルは心が安まって気分が良くなり、悪霊は彼を離れた。
サムエル記上16.23 (キリスト教)
「神々に誓って、音楽・文芸の場合もそれと同じように、われわれ自身にしても、われわれが国の守護者として教育しなければならぬと言っている者たちにしても、節制や勇気や自由闊達さや高邁さやすべてそれと類縁のもの、他方またそれと反対のものの実際の姿が、いろいろとくり返し現れるのをあらゆる場合に識別し、それらが内在しているあらゆるもののうちに、その実際の姿をも似姿をもともに認識できるようになるまでは、そして小さなもののうちにあろうと大きなもののうちにあろうと、けっしてないがしろにせず、いずれを知るにも同一の技術と訓練を必要とするものだと考えるようになるまでは、われわれはけっして音楽・文芸に習熟した者となったとはいえないのではないだろうか?」……
「もしもある人が、その魂の内にもろもろの美しい品性をもつとともに、その容姿にも、それらと相応し調和するような、同一の類型にあずかった美しさを合わせそなえているとしたら、見る目をもった人にとっては、およそこれほど美しく見えるものはないのではないか?」
プラトン国家3(ヘレニズム)
すべての技術は生成にかかわる。
アリストテレスニコマコス倫理学6.4(ヘレニズム)
私達作曲家たちは、無限を有限の中に投影する人々である。
エドヴァルド・グリーグ
真の芸術品はそれを制作する精神……あるものを完全に創造しようとする努力によって、高貴で敬虔につくられる。神が完全な存在であり、完全を追求する人は、誰でも神聖なあるものを追求しているからである。
ミケランジェロ
通奏低音の唯一で最終的な目標は神の栄光と歓喜である。
ヨハン・セバスティアン・バッハ
私が心で創作すれば、ほぼすべてのものが良くできた。
マルク・シャガール
人間たちは邪悪になることができる。彼らの兄弟である動物がそうなり得るよりももっと邪悪になることができる。しかし、彼らはまた、創造の恍惚境で立ち上がることもできる。イギリスの大聖堂は人間が自分自身の上にいる存在に対する敬拝の記念物として建っている。人間は、自身の手でつくったりっぱな作品を見るとき、人類という種に属したことを誇りに思う。彼らは創造者になってきた。彼らは世の中と、その世の中にあるすべてのものを創造したのであり、それが善だと見た創造主の神聖さを分かち合わなければならない。しかし、その方はつくられるより多くのものを残しておいた。
アガサ・クリスティ
― み言選集 ―
人間がそれ自身の責任分担を完遂して初めて完成されるように創造されたのは、人間が神も干渉できない責任分担を完遂することによって、神の創造性までも似るようにし、また、神の創造の偉業に加担させることによって、ちょうど創造主である神が人間を主管なさるそのごとくに、人間も創造主の立場で万物を主管することができる主人の権限をもつようにするためであった。
原理講論、創造原理5.2.2
文化は言葉でつくられなければなりません。み言を通した文化です。言葉はすべて文字で表現されます。それから、美術などの芸術で表現されるのです。芸術とは何でしょうか。目に見えない言葉を表示するものです。したがって、この原理とみ言を通して格が出てくるのです。実体が出てくるのです。
(107-317、1980.6.8)
神様が一人でいれば、どうでしょうか。神様が一人でいれば笑われるでしょうか。神様も一人でいれば狂人になります。「ははは……!」と笑うとき、そこに「ほほほ」、「ヘヘヘ……!.」という何かでもなければなりません。そうすれば、その環境がすべて笑うようになります。上がっていって踊りを踊るのです。それで歌が必要であり、踊りが必要であり、芸術が必要なのです。愛を除いては不可能です。愛を除いては、芸術も、歌もすべて必要ありません。核がありません。芸術の核が愛です。それを知らなければなりません。ですから、神様もこの宇宙の喜びのためには、愛の前に絶対服従します。
(225-128 ~ 129、1992.1.5)
皆さん、作家たちが、これから世界的な作家になるためには、どのようにしなければなりませんか。風景画を描き、彫刻品を作り、様々なものを象徴的に表示するとき、その中で愛が躍動しなければなりません。愛が宿っていなければならないのです。言い換えれば、その作品の作者が、どのくらい愛を投入したのかということが問題になるだろうと見るのです。その次に、生命力をどのくらい投入したのか、その次には、心血をどのくらい注いだのか、この三つの問題に集約されると見るのです。一つの作品を見てみれば、作家が属している国に対する愛、愛国精神と家門に対する愛があると同時に、生命力が躍動しなければなりません。生命力が輝かなければ、傑作品になりません。そして、どのくらい血がかわくほど投入したのかということです。この三つは、どのような分野でも同じように重要な問題です。
(198-281、1990.2.5)
芸術というものは、情緒的背後が深く介在していなければ価値がありません。千年前に見たものを何千年後に見ても、それ以上の感情をもって感じることができる……。一幅の絵を見る時も、そのような感動を感じることができる心情が誘発され、刺激が起きるとき、傑作品だというのです。
(142-274 ~ 275、1986.3.13)
芸術といえば、パリのオペラハウスに行って、大衆の前で歓声を受け、世界の人々が「ああ! 素晴らしい」と言ってこそ、世界的なものだと思いますか。芸術は、生涯を美しくするものであり、生活を美しくするものだと考えなければなりません。子女も芸術的な教育をしなければなりません。夫も芸術的な感情で厚遇することもでき、包むこともできなければなりません。それがもっと素晴らしい芸術だと思います。家庭に愛を美化させることができ、昇華させることのできるものが、芸術のより甲斐のある価値だと思うのです。
(100-138 ~ 139、1978.10.9)
動物世界に小説というものがありますか。小説の内容は簡単だというのです。愛を中心として悲喜劇の連関性を、どのように私達の歴史に適用し、社会に適用し、生活に適用し、未来に適用するのかということです。そこに上手に適用したものが名作です。ほかのものはないというのです。その次に、自然があれば水が壮観に流れるのですが、永遠不変に流れる水のような愛なので、自然の美しさゆえにいつも美しい園のようだと言い、香りを漂わせる美しい花に例え、私は鳥に例え、蝶に例え……。そのほかに形容詞を付けるものがないというのです。それはなぜですか。それは、それらが私達に刺激をもたらし得る刺激の触覚になれるからであり、刺激を引き起こせる動機になるからです。ですから、そのようになるのです。
すべて愛を中心として、そのようにつづられます。自然をつづり、川をつづり、山をつづり、木をつづり、鳥をつづり、石をつづり、太陽をつづり、月をつづり、星をつづり、すべて愛を中心としてつづり、神様の愛を素晴らしく描き出すのです。それが名作小説だということです。そのような形容詞の妙味、美しさに対する構成がいつでも連関性をもって描かれたそのような作品でなければ、おもしろくないのです。1ページだけ見れば、すべてほうり投げてしまいます。これを見るとき、文学が最も中心主流とするものは、愛に関する美化なのです。それを夢見ていることを、私達は知ることができます。そして、詩というものもそうです。詩の表現も同じです。それを圧縮させ、愛を中心とする幾つかの言葉で表示するのが詩です。ですから、青少年たちが詩的感情に酔い、文学的感情に酔うのです。このように愛を扱うのです。
(94-60、1977.7.3)
様々な言語を話すあらゆる国の人々が、そのすべての感情を一瞬のうちに表現できるものとは何でしょうか。それは文学にもできません。芸術にもできません。唯一、歌だけがそれを表現できるのです。歌は、たとえ短くても、そのすべての情緒的内容を抱くようになる時は、どのような人の心でも、一瞬のうちに動かせるのです。私達が歌うとき、どのような歌が一番良いでしょうか。この宇宙の中心であり、最も価値のある高貴な中心存在を称賛できる歌は、中心に従ってその周囲に包み込まれているすべての万物が、深刻に聞きます。日が暮れながら夕焼けになる、そのような姿を胸に入れて天を称賛すると考えてみなさいというのです。神様がそのような心を感じたなら、どれほど感動されるでしょうか。皆さんが歌を歌えば、歌それ自体を歌うのではなく、深い世界、作曲し、作詞した人の境地に入っていってそれを称賛することができ、神様の位置で歌を歌ってみなさいというのです。
歌の中には、楽しい歌、悲しい歌があります。楽しい歌は喜ぶとき、その心全体の喜びの園を広げ、自然と共に、この天と共に和動するのです。それがどれほど素晴らしいですか。悲しい歌は何ですか。胸を開き、この世のすべての悲しみを溶かして掃除するために悲しい歌を力いっぱい歌うのです。それがどれほど素晴らしいですか。人間には歌が必要であり、その次には踊りが必要です。芸術が必要なのです。美、美しさを表現する芸術とは何でしょうか。小さな精髄を中心として、すべての内容と形式を表示するものとなる時は、誰もがそれを見つめるようになり、新しいものを感じ、感動することができるのです。これが芸術の力だというのです。
(270-10~11、1995.5.3)
2. 調和
― 宗教経典 ―
音楽は天地の間の(自然の)和合作用を代表するものであり、礼儀は天地の間の秩序を代表するものである。天地の間に和合作用があるから万物はみな同和し、秩序があるから万物それぞれの地位や機能を保ち得るのである。また、音楽は天(の陽気)に基づいて作られ、礼儀は地(の陰気)に基づいて定められるのであって、……即ち天地(自然)の道を明らかに知る者にして、始めて礼楽を正しく用い、その効用を盛んに発揮させることができるのである。
礼記19 (儒教)
音楽は混沌から秩序を創造する。事実、リズムは互いに異なるものに合意点を付加し、メロディは連結されていないものに連続性を付加し、調和は不条理なものに適合性を付加する。それで、混沌は秩序に降伏し、騒音は音楽に降伏する。私達は、音楽を通して、幾何学的であり数学的な比例の根本的関連性におかれている、あの偉大な宇宙的秩序に参与するように、単純な反復に提供される方向、諸要素の増殖にある力、そして無作為的連合にある目的に参与するようになる。
ユーディ・メニューイン
真の詩、完璧な詩は、相対となるものたちの調和にある。それゆえ、例外が規則を立証し、自然に存在するすべてのものが芸術として存在することを大声で、特にここで語るべき時間である。
ビクトル・ユゴー
― み言選集 ―
相対圏をもつことができなければなりません。男性と女性の二人が喜ぶ場合に、天地の調和が出てきます。文学や芸術というものは何ですか。男女の愛を中心として描くのです。その実体を求めていくために慕うのが文学です。芸術は、愛を中心として美しく、美化させたものです。
(354-21、2001.9.16)
自分がいつでも相対的な立場に立っていなければなりません。そのような観念が常に自分の心の中に刻まれていなければならないのです。いつもそれを考えなければなりません。舞踊家が踊りを踊るように、いつも芸術の美を表そうとする心をもたなければならないのです。自分自体が常に相対的な位置を維持し、神様の懐に抱かれ得る基準をもっていなければなりません。その基準で美男美女が決定されていきます。例えば、愛は動的であり美は静的です。動と静かあって調和を成すのです。
(15-171、1965.10.7)
「ああ、歌が本当に上手だ」というのは、よく調和しているということです。高いところに上がっていって、「ああ、もっと上がっていかないのか」と思っていては止まってしまいます。さっと越えて下がってくるようになっています。それがなければ大変です。ソプラノが好きだという人も、上がっていってばかりいれば大変なことになります。上がっていくこともでき、下がっていくこともできるので、ソプラノが良いのです。世の中の万事がそのようになっています。幸福なものとは何でしょうか。高く上がっていってさっそうと下がっていくことができる、この二つともあるのです。
(98-50、1978.4.9)
3. 霊感
― 宗教経典 ―
見よ、主は、ユダ族のフルの孫、ウリの子ベツァルエルを名指しで呼び、彼に神の霊を満たし、どのような工芸にも知恵と英知と知識を持たせ、金、銀、青銅による細工に意匠をこらし、宝石をはめ込み、木に彫刻するなど、すべての細かい工芸に従事させ、更に、人を教える力をお与えになった。
出エジプト記35.30 ~ 34(キリスト教)
梓慶(しけい)が木を削り、鐘や太鼓をかける台座の;煤iきょ)をつくった。;狽ェできあがると、これを見たものは、まるで鬼神のわざかと驚いた。そこで魯公(ろこう)は梓慶を引見してたずねた。「お前さんは、どういう技術でこれを作ったのかね」
すると、梓慶は答えて言った。「私は工人にすぎませんから、技術というほどのものはございません。けれども、しいて申しますならば、ただ一つだけでございます。私がこれから;狽ツくろうとする時には、どんなことがあろうとも気を散らして失うことがないように心がけます。そのためには、必ず身心を清める斎(ものいみ)をして、心を静めます。斎をして三日たちますと、殿様からいただくほうびや爵位俸禄のことを考えなくなります。
斎をつづけて五日たちますと、評判のよしあしや仕事の巧拙などを思わなくなります。斎をつづけて七日たちますと、ぼうぜんとして自分の手足や身体があることさえ、すっかり忘れてしまうようになります。もうこの時になりますと、役所のことなどは念頭になく、ただ細工に集中し、外界のわずらわしさが消え去ります。
そこではじめて山林のなかにはいり、自然の性質や格好のすぐれた材木を捜し求めます。木が見つかりますと、いちおう;狽ェできあがった形を頭の中に描いてみて、それからはじめて細工にかかるしようにいたします。もし、ものにならないようでしたら、初めから手をつけません。一口に申しますと、自然のものを自然の心で取り扱うということです。出来上がった道具が、神わざのように見えるのも、このためではないでしょうか」。
荘子19(道教)
「つまりかれらは、知恵があると思っている人が、しらべられて、そうでないことになるのを、聞いているが、おもしろいからなのです。たしかにおもしろくないことはないのですからね。しかし、私にとっては、それは、私の申し分どおり、神によって、なせと命じられたことなのです。それは神託によっても伝えられたし、夢知らせによっても伝えられたのです」。
プラトンソクラテスの弁明22(ヘレニズム)
私が最も鼓舞された雰囲気にいるとき、私はより高い水準の自我が関連した明確な霊感のビジョンをもつ。そのような瞬間に私は、あなたと私、そして万物たちが生成される無限で永遠なエネルギーの根源をたたいていることを感じる。宗教はこれを神と呼ぶ。
リハルト・シュトラウス
あらゆる真の創造的な努力の先行条件である、あの恍惚境のような条件にいる間、私はとてもはっきりと印象を受ける。私は、自分がこの振動する力、すなわち全知の存在と一つになること、そして私白身の能力によってのみ制限される限度まで、私がそれを利用できることを感じる。
リヒャルト・ワーグナー
人が享受できる最も美しい経験は神秘である。それは芸術と科学を生む根源的感情だ。
アルベルト・アインシュタイン
― み言選集 ―
皆さん自体に心と体の愛が開かれるその時が近くに来れば、私自体の感じていることが宇宙に共鳴されるので、その時は文学者になり、小説家になり、詩人になるのです。その時になれば、立体的な世界とあらゆる関係を結びたいと思います。その時は、秋風によって落ちた落ち葉がころころ転がっていくのを見ても、「はははは!」と笑うのです。
(137-232、1986.1.3)
本当に世界的な偉大な学者がいるとすれば、その学者の心情の深みには、自然の心情と和合できる感性があるのであり、自分が研究するその分野以上に随時、連絡される感性があるので、思いも寄らない暗示や幻想や、あるいは夢のお告げのような現象があるのです。そして、これは自分の専攻分野に夢中になっていく、そのような状態でのみ起きる現象です。
(6-341 ~ 342、1959.6.28)
精誠を尽くして自分が神秘的な境地に入っていけば、文章を書いてみなさいというのです。文章を書けば、名文になるのです。そのような境地では、絵を描いてもそうです。自分の手だけで絵を描くのではなく、そのような精誠を込めて、「この手に一人の偉大な画家が来て、私を協助して描く」、そのように精誠を尽くす中で、さっと描けば、感嘆の声が出ます。それで、良い作品をさっとそこに貼りつけておくのです。そのようなことが起きるということです。ですから、偉大な科学者や偉大な芸術家たちは、必ず霊的に通じます。その人たちは、精誠を尽くしたのでそうなのです。
(100-23、1978.10.9)
創造とは何でしょうか。力の投入、あるいは精神の投入です。さらには心身の投入です。自分の全体を投入するところで、価値のある作品が形成されることを常日ごろ芸術家たちを通してよく見ることができます。精神も投入せず、適当にやって傑作品が出てきますか。精神がまっすぐに立たなければなりません。精神がまっすぐに立たなければならず、まっすぐな精神姿勢に正しい良心を立てておき、その良心と共に体が完全に一つにならなければなりません。ここにすべての力を投入したのか否かによって、作品の価値が決定します。
(77-319、1975.4.30)
4. 芸術と道徳
― 宗教経典 ―
また詩人たちだが、悪魔にそそのかされた者だけが、かれらに従う。なんじは、かれらがあらゆる谷間にさまようのを見ないか、またかれらは、己れの行わぬことを、口にするではないか、信仰して善い行いにいそしむ者、また多く神を唱念しまつり、迫害された後も自ら守る者は別である。悪を行った者たちは、やがてどんな変遷をたどるかを知ることになろう。
クルアーン26.24 ~ 27(イスラーム)
水が収穫を生むように、歌は心の中に偽善を生む。
バイハキ・ハディース(イスラーム)
アイシャが言うには、詩の主題が神の使徒を告げるものであるとき、彼が言った。「それは、その中の善のものは善であり、悪のものは悪である」。
ダラクニ・ハディース(イスラーム)
およそ音楽は人の心情から発するもので、感情が心中に動いて声に表現され、声の変化が一定の型をなしたのを楽音というのである。従って平和の世の音楽が安泰(ゆったり)で和音の気を表わすのは、政治がゆるやかだがらである。乱世の音楽が恨みや怒りの感情を表わすのは、政治が人心に逆らっているからである。亡国の音楽が物悲しく、憂(うれわ)しげであるのは、人民が苦しんでいるからである。このように、音声や音楽の性質は政治の状況に深く関連するのである。
礼記、楽記(儒教)
いにしえの王者の音楽というものは、万事節度を守るべきものだということを教えたものです。だから音楽には五声の調子というものがあり、遅と速、本と末とが互いに連なって中声(中和)の声に達し、中声に達した後には次第に細く急な音調となり、かくて五声のすべてが細く急な音調になった後には、音をかなでることはできません。
そのとき、わずらわしくて手を動かしてみだりがわしい音を出しますと、人の心をみだらにし、聴覚を狂わせ、なごやかな心を失わせてしまうので、君子は聞こうとはしないものです。何事もこのようなものです。
春秋(儒教)
いかなる種類の感情も、リズムと韻律によって生成される。したがって、人間は、音楽によって正しい感情を感じることになじんでいく。そのため、音楽は性格を形成する力を備え、多様な様式に基づく多様な種類の音楽は、性格に対する影響力によって区別される。例えば、一つは憂鬱な方向に作用し、もう一つは柔弱な方向に作用する。一つはあきらめるようにしむけ、もう一つは自己調節を、そしてもう一つは熱狂などへ誘う。
アリストテレス(ヘレニズム)芸術の究極的目的は、人間の道徳意識を増強することであり、さらには、必要であればそれを激昂させることである。
ノーマン・メイラー
― み言選集 ―
人間は、このような心情の法度を蹂躙したので、今日、心情の世界において無限に募る慕わしさに苦しむようになったのです。ある趣味をもち、芸術を通して、学問を通して、または、地上にある何かの愛の対象を通して、この慕わしさを埋めようとしますが、埋める道がなく、苦しまなければならないのが堕落した人類の実相です。これが歴史的な悲哀であり悲劇です。
(6-348、1959.6.28)
第2次世界大戦で勝利したアメリカの女性たちが、天使長である男性たちを好むのは、男性の中の流れ者の群れを好んでいるのです。俳優たちが世界に宣伝したというのは。この人たちは、天の前には、びりです。女性たちが、それについていって仕えているのです。それに対することができるのは、終わりの日の天使長の役事です。レバレンド・ムーンは、芸術の中の芸術、文学の中の文学、理想の中の理想をもってきました。踊りを踊って歌を歌う人たち、ハリウッドの群れたちはフリーセックスに溺れていますが、私達は絶対セックスです。エイズ患者たちがたくさんいます。キーロフバレエアカでデミーで恋愛事件が起き、男女問題が起きてはいけません。アメリカの女性たちと男性たちが滅んでいくのを防ぐためです。
(339-152 ~ 153、2000.12.10)
アメリカに行けば、テレビを通して24 時間映画を見ることができます。アクション映画を見ようと思えば見て、戦争映画を見ようと思えば見て、恋愛映画を見ようと思えば見て、ありとあらゆる映画がすべて出てくるのです。ピンク映画まで出ています。ですから、青少年たちは、すぐにそこに引き込まれていきます。青少年たちは、思想や伝統的な価値観がないので、直接行動に移すのです。御飯を食べて出ていけば、それをしようとするというのです。
青少年がそれを見て刺激的な面を追求しますが、伝統的にそれを制裁できる環境的な与件もありません。家庭の関心の根が青少年と切り離せない因縁を結んでおらず、先生の教えもなく、自分の国に因縁も結んでいないというのです。ですから、見るやいなや即座に行動するのです。そのようにしていると、この世界は遠からずそのまま完全に滅亡します。男女が抱き合ったまま一緒に滅亡してしまうのです。また、それも保障できないので、麻薬に酔った人類は、それこそすべて精神の抜けた人になってしまいます。人間として価値のない人間に落ちてしまうというのです。
このような環境をどのように変えるのかということが、私達のような人には深刻な問題です。今後、理想世界を創建しようと主張するのなら、根本に入っていき、このような世界的な問題を解決しなければなりません。このようなすべてのことを評価して、今後、芸術面を中心として、新しい文化創建の伝統基準をどれくらい早く立てるかという問題が深刻なのです。これが世界を統一するにおて、最も至急な問題です。
(241-197~198、1992.12.26)
芸術を行う心の極致は、一つ一つ手からつくられた作品、もろもろの万物万象を通して無限に喜ぼうとされる創造主、神様の心情世界に到達しようとするのです。与えてもまた与えようとし、ために生きてもまたために生きようとし、条件なく投入しても忘れようとするのが神様の心です。その心情世界の根本は、真の愛です。
被造世界に対する神様の創造理想は、その心情から出発されたのです。芸術の原点は、その心に似たものにあります。したがって、芸術世界は国境があり得ません。特定の理念や理想が道具になってはいけまサん。調和と統一が基本原理です。分裂と葛藤は堕落性の結実です。したがって、作品世界でも、東洋は西洋を理解し、西洋は東洋を受け入れ、四方性と世界性を備えなければなりません。
(316-70 ~ 71、2000.2.9)
9) 健康と疾病
人間の体は、明らかに創造主の最高の成果の中の一つである。体は、各部分が均衡をとり、生命の動きを維持する。それは、絶えず相互作用する小さな宇宙と同じである。健康を維持し、疾病と闘う自然の原理によって動く。しかし、体の驚くべき機能に関し、多くの部分がいまだに神秘として残っている。不均衡や疎通の欠如現象によって、体の細胞と器官の間の相互作用が崩れるとき、その結果として疾病と苦痛が生じる。
すると体全体は、問題が生じた部分を助けるために動員される。この点から、体は宇宙的な道徳律を見せてくれる。すなわち、より大きく重要なもののために生きる生き方、そして、全体が損傷する前に、全体は一部分の欠乏を保護する生き方を示してくこれる。さらに、治癒において、心または心理的要素の重要性は、決して過小評価することはできない。医学は、健康増進のために多くのことを成し遂げ、宗教経典においても、医師の役割が認められている。この節で私達は、医学分野の権威者たち、ヒポクラテス、ガリアン、パラケルスス、そして「黄帝内経」のいくつかの章句を『世界経典』に付加した。
文鮮明先生は、東洋医学と西洋医学、科学的医学と霊的治癒方式のうち、最高のものを利用するようにする総合的治療方式を追求する。私達が長寿しようとすれば、健康に良い食べ物を食べ、きれいな水を飲み、汚染されていない空気を吸い、規則的に運動しなければならない。これに付け加えて、文鮮明先生は、すべての人を愛することを付加する。
1. 体の治癒力
― 宗教経典 ―
だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。私達は、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。
コリント人への手紙一12.20~26(キリスト教)
せかいぢうとこがあしきやいたみしよ
神のみちをせてびきしらすに
おふでさき2.22 (天理教)
人間の身体は血液、粘液、黄胆汁、それに黒胆汁をもっている。これらが人の身体の本性をつくり出している。また、人はこれらによって病気になったり、健康を満喫したりするのだ。もっとも健康を満喫できるのは、これらが互いに適切な比率で混じり合い、結合状態、性質、それに量の点でうまくいっており、完璧に混じり合っている場合だ。病気になるのは、これらのうちのどれかが少なかったり、多かったりした場合、そのほかのものと結合できず孤立している場合だ。どれかが孤立して単独で存在すると、それが存在しない場所が病気になるだけでなく、存在する場所も、多すぎて、痛みや苦しみに襲われることになる。実際、身体からこれらのどれか一つが余分であふれて流れでると、足らなくなって痛みに襲われるのだ。
ヒポクラテス
それぞれの生命体に多くの治癒力を付与した大自然に大いなる感謝を捧げる。
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ
― み言選集 ―
私達の人体を見てください。私達の人体の血管や数多くのものは神秘の王宮です。世界に眼科の医師だけでもどのくらいになると思いますか。ここに眼科の医師は来ましたか。世界に眼科の医師が何百万になるか分からないでしょう? 今後、数千万になると言っても、それを「違う」と否定する人はいません。鼻の博士、口の博士、歯の博士がそうであり、耳の博士もそうです。これからは、手の爪の博士もいるのであり、細胞の博士も出てくるでしょう。無尽蔵です。真理の宝庫です。このような莫大な宇宙全体を総合したものを代表できる相応的相対体の内容を、私の一身に備えた存在は、小宇宙だといっても誰も否定できず、神秘の王宮なのです。
(203-327、1990.6.28)
このすべての四肢五体は、主体と対象の関係で円満に授け受けできる和合した一つの総合王国です。そのようなすべての授け受けする環境圏内にいるときは、宇宙が保護するので痛みがありません。私の細胞1平方センチメートルには、1気圧の圧力がかかっていることを知らずにいます。均衡を取らなければならないのです。病気になったということは、一部分が欠如したということです。宇宙の本然的基準で見るとき、主体と対象が完全な理想的相対圏を喪失したために、不合格者は宇宙が引きずり下ろすのです。それが押し出す力です。「お前はもう脱落するのだ」というのです。それが痛みとして現れます。これは論理的です。
(204-112、1990.7.1)
皆さん、苦しんだことがあるでしょう? なぜ痛むのかというのです。医師にそのように尋ねれば、それを知りません。「痛むから痛むのだ」と言うのですが、そのような話がどこにありますか。なぜ痛むのですか。根本に問題が生じれば痛むのです。それでは、根本とは何ですか。この体を中心として自分の生命を維持するにおいて、すべての肢体が主体と対象が授け受けする授受作用をよくしなければなりません。全体が良く授け良く受ければ、その肉体が円滑に運動して、継続して生存するようになります。
この宇宙は、神様の理想的存在形として良く授け良く受けるものをすべて擁護します。擁護するこの世界の要素の中で、反対要素が発生し、欠如し、一箇所が詰まれば、擁護圏で作用できない不合格者になります。そのようになるので、その反作用で吐き出すようになるのです。それは、宇宙自体の保護のためです。世界には作用と反作用があります。その反作用は悪いものではありません。大概悪いものと見ますが、それは大きなものを保護するための作用です。
ですから、見る観が変わらなければなりません。ですから、おなかが痛ければ、それはおなかを中心としてある主体の前に対象的な位置で授け受けできる回路がふさがったということです。ふさがってしまった分、反対に押し出すようになるのです。宇宙力によって押し出す力がそこに作用するので痛むのです。ふさがったものを開きさえすれば、薬でその門を開きさえすれば回復するというのです。
(165-176、1987.5.20)
病気になると、なぜ痛むのですか。均衡が崩れたからです。均衡が崩れたものは、宇宙力が押し出します。痛くなかったとしても、相克が起きるので宇宙力が押し出すのです。死ぬというのです。なくなります。良心に呵責を受けること自体が、宇宙力の侵害を受けているという事実を知らなければなりません。そのようなことは、絶対に考えてはならず、行ってもいけません。
(400-113、2002.12.28)
2. 心の治癒力
― 宗教経典 ―
喜びを抱く心はからだを養うが、霊が沈みこんでいると骨まで枯れる。
蔵言17.22(キリスト教)
激情は骨を腐らせる。
箴言14.30(キリスト教)
あなたは霊魂を除外して肉身を治療しようと試みてはいけません。これは、多くの病に対する治療法がギリシャ人の医師たちに知らされていない理由です。すなわち、ギリシャ人の医師たちは、研究すべき全体に対して無知です。全体がよくなければ、部分は決してよくなり得ないからです。医師たちが霊魂を体から分離するということが、私達の時代に人間の体を扱うにおいて大きな過ちです。
プラトン(ヘレニズム)
今の人はそうではありません。酒を湯茶を飲むように貪り飲み、万事不規則を常とし、酔っぱらって房事を行い、色欲に耽って精気を絶やさんばかり、はては生命の根源である真元気をも消散しかねないていたらくなのです。およそ精気に対して満を持すということを心得ず、常に精力を過度に消費し、一時の快楽に耽って生命長久の楽しさに背を向け、日常生活万般にわたって規律性がないために、五十歳になるかならぬかに老衰という憂き目を見ることになるのです。
黄帝内経
― み言選集 ―
それをすべて詩的に消化し、心情で消化するのです。その観念が恐ろしいのです。病気になっても、「ああ、私は病気で死ぬ」と思えば死にます。「病気になったのは私に福を下さるためであり、もっと健康になるためだ」、このように考えれば健康になるのです。もっと健康になるというのです。病気が私を侵犯してから出ていけば、もっと健康になります。
(118-327、1982.6.20)
自分自身で「老いた」と思えば、それで終わりです。そのように思えば、老いた老人のようになるのです。老いた自分に対して、精神が衰えないように仕事をつくってしなければならないと常に考えています。そのような精神的な基台が崩れていないので、健康を維持しながら、どのような困難も越えていくことができるのです。精神力というものは偉大なものです。
(205-91、1990.7.7)
いくら健全な精神をもっているとしても、健康な肉体をもつことができなければ、完全な人になることはできず、それと反対に、健康な肉体を所有したとしても、精神が正しくなければ、正しい人の役割を果たすことはできません。このような事実を認識し、皆さん全員が、心と体の正しい統一を成就していくことができるよう、絶えず精進してくださることを願います。
(271-151.、1995.8.27)
革命家になるためには健康でなければなりません。身体的に虚弱では、革命的任務を遂行することができません。
(203-177、1990.6.24)
3. 医薬
― 宗教経典 ―
神の従僕たちが治療を行う。神が治療をしてくださるのではなく、病を下さるのではないからである。ただ一つ例外があるとすれば、それは老いることである。
ティルミズィーおよびアブー・ダーウード・ハディース(イスラーム)
良い香りの献げ物と、質の良い小麦粉を供え物として献げよ。余裕のあるかぎり十分に、供え物に油を注げ。その上で、医者にも助けを求めよ。主が医者を造られたのだから。彼を去らせるな。お前には彼が必要なのだ。医者の手によって病気が治る時もある。医者もまた主に祈り求めているのだ。病人の苦しみを和らげ、命を永らえさせる治療に成功することを。
シラ書〔集会の書〕38.11 ~ 14(キリスト教)
治療師たちは、幻想の中で霊魂たちから医術に関して学んだ。その霊魂たちは、彼らに何をどのように使うのかを話してくれた。彼らの薬物は、常に歯や根である。……彼らは、病を汗、嘔吐、排便、小便、呼吸を通して追い出す。
オグララ・スー部族の伝承(アメリカ先住民の宗教)
ヘクラ(守護霊)は……あなたが奪われた魂を取り戻してくるように助ける。あなたの道を失わないことに対してヘクラに感謝せよ。あなたは病の霊たちを追い出すことができる。彼らの臭いのために、あなたは彼らを知ることができる。あらゆる霊は、独特な臭いを漂わせる。そして、彼らのハンモックにも臭いがしみついている。その臭いは、彼らが皆所持するワトタから出てくる。質のよい幻覚剤は、あなだが、たった今魂を盗んだ霊を見て、その名を語ることができるようにする。「罪のある者は誰々だ」とあなたは考える。そして、あなたに近いヘクラがその霊を追い出すようにする。ヤノマミ族のシャーマンの教え(アメリカ先住民の宗教)
大自然の教訓は、医者が解読しなければならない本である。そのために彼は落ち葉を踏んで歩かなければならない。
パラケルスス
医者は大自然の助手である。
ガレノス
― み言選集 ―
医学では、堕落によって生じた肉身の病を治療するだけでなく、東西文化の和合を通して東洋と西洋の葛藤までも治すようになるという次元で、統一思想と統一医学を開発しなければなりません。東西思想と医学が一つになってこそ、これからエイズのような難病を治すことができるようになるのです。韓国では、医学教育を全く受けていない農村の若い人たちの中に、エイズのような現代医学でも治すのが難しい病を治すことができる特別な治療法を、霊界から教えられた人たちがたくさんいます。ですから、霊的世界の事実を認めなければ、大きな問題が起きるのです。
(287-39、1997.8.10)
薬というものは何でしょうか。相克する天敵が薬です。頭が病気にかかれば、天敵のしっぽを使えば、それが薬になるのです。漢方薬の材料を探してみると、本当におもしろいです。薬というものは、東側で病気が発生すれば、西側の端を治療するのが薬です。
(325-148、2000.6.30)
4. 優れた衛生
― 宗教経典 ―
何であっても、運動に代わり得るものはない……人間が従う邪悪な支配による害も、運動が追放してくれるだろう。しかし、動くことがすべて運動ではない。運動とは、強力であったり、早いもの、またはこの二つの結合である。息遣いを変化させ、これを早くする躍動的な動きである。
マイモニデスミシュネ・トーラ(ユダヤ教)
自分の母親の乳で養育される子供たちは、最も適切で自然そのままの食物を楽しむ。
クラウディウス・ガレノス
たくさん食べて生じた病は、食べなければ治り、食べられないことで生じた病は、食べれば治る。働き過ぎて生じた病は、休めば治り、怠けて生じた病は、働けば治る。医者は病の類型によって、それが生じた反対の原理で病を治すようにしなければならない。ヒポクラテス
― み言選集 ―
皆さん、朝、運動しますか。「なぜ運動するのか。そうでなくてもつらいのだから、楽に休めばよいではないか」と思うかもしれませんが、健康のために投入しない人は、だんだんと病気になって退化します。自然の道理がそうです。
(380-164、2002.6.7)
私のような人は運動をしました。今も、体のコンディションが良くなければ、ほぐすすべを知っています。たまに腰が痛くなれば、このようにしてほぐすのです。マッサージです。針を打つのと同じです。このようにさっと見れば、分かります。すぐに分かるのです。訓練ができているので、どこかに支障があれば、必ずそれをほぐします。自分の体の管理をするのです。私は健康でしょう? 今も、このようにすればぴたっと入ります。70 歳になった老人は、普通このように歩くでしょう? しかし、私はぴったりくっつくでしょう? それは、運動をしたからです。自分の体を管理しなければなりません。
(203-177、1990.6.24)
神様を愛する前に、皆さんが食べる食物を愛さなければなりません。万物を愛し、体を愛さなければならないのです。万物を愛することによって万物の要素を吸収し、自分の体を愛するようになるのです。
(138-99、1986.1.19)
天のお父様のみ手を経てつくられた純粋なこの草一株を、何よりも価値あるものとして感じられる世界になることを、私は願っています。どのような香りよりも、空気の味がもっと良いのです。私が牧場に行っても話しましたが、人が空気の味を知り、日光の味を知り、水の味を知れば、病気になることはありません。このような心情で暮らせば、誰もが健康体になるのです。
(9-177 ~ 178、1960.5.8)
健康であることを望むのなら、「ために生きる」愛を中心として、投入して忘れなさいというのです。そのように生きる人は、病もなくこの地上で、幸福で、楽しく暮らすのです。
(331-23、2000.8.23)
第5章 死以降の人生と霊界
死以降の人生と霊界
1) 霊界
霊界とは何か。それは、肉身の目では見ることができず、簡単に認知することはできないが、人間存在の明白な一部であり、いつかはすべての人が行かなければならない所である。文鮮明先生は、霊界について知ることは神様について知ることの次に重要だと教える。
霊界に対する三つの主題がここから提示される。第1に、霊界を知ることは地上生活において正しい方向を発見し、維持するための核心になる。第2に、霊界は相似の関係として地上世界と相応し、地上生活においてはぐくむ生の質と愛を維持する。霊界での調和、または不調和は、地上の生において、あらゆる性向と偏見の中の生を営んできた人々(霊界の市民たち)の愛、または愛の欠如に起因する。第3に、霊界は、多様な社会と領域によって構成されており、今日では、一つの全体的な天国に統一される過程にある。
1. 霊界と肉界の一致
― 宗教経典 ―
私は、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。私はそのような人を知っています。彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。
コリントの信徒への手紙二12.2 ~ 4(キリスト教)
幽玄界を知るものは、天地の間で神のほかにはないのである。またかれらは、いつよみがえらされるかも感知できぬ。いや、かれらの知識は来世に及び得ない。いや、それに疑いを抱いている、いや、それについてかれらは盲目である。
クルアーン27.65 ~ 66(イスラーム)
ここ〔現象界〕にあるものは、そこ〔ブラフマン〕にもある。そこにあるものは、それに対応して、ここにもある。
カタ・ウパニシャッド2.1.10 (ヒンドゥー教)
広い天空の上に在り、自ら強大な光輝を放ち、意の強き汝は、われらを助けるため、汝の栄光の模型である地を創られ、天に至るまで水と光を包まれた。
リグ、ヴェーダ1.52.12 (ヒンドゥー教)
今述べていることの要点は、私達にはこのような大祭司が与えられていて、天におられる大いなる方の玉座の右の座に着き、人間ではなぐ主がお建てになった聖所また真の幕屋で、仕えておられるということです。すべて大祭司は、供え物といけにえとを献げるために、任命されています。それで、この方も、何か献げる物を持っておられなければなりません。もし、地上におられるのだとすれば、律法に従って供え物を献げる祭司たちが現にいる以上、この方は決して祭司ではありえなかったでしょう。この祭司たちは、天にあるものの写しであり影であるものに仕えており、そのことは、モーセが幕屋を建てようとしたときにお告げを受けたとおりです。神は、「見よ、山で示された型どおりに、すべてのものを作れ」と言われたのです。
ヘブライ人への手紙8.1 ~ 5(キリスト教)
易は天地になぞらえて作られた。だからこそ天地の道を弥綸(つくろいおさめる、洩れなく包みこむ)するのである。聖人は易をよりどころとして、上を仰いでは天文を観察し、下をうつむいては地理を観察するが故に、幽遠な道理も著名な現象もあわせて知り得る。また、易を拠りどころとして、事物の本源を原ね極め、終極にまでたち返って死するゆえんを知るが故に、生死の問題についての説明を知り得る。また、陰陽の精気は結合して事物を形成し、その精気が分散して生ずる遊魂はくさぐさの変化となる。だからこそ易に拠って陰陽の理を窮めれば、鬼神の情状をも知り得るのである。
易の道は天地の道と相似するが故に、これと一致して違うことがない。易を拠りどころとする聖人はその知力が万物にあまねく行きわたりその道が天下を済うに足るが故に、過ちを犯すことはなく、ひろく自由に行動するが放逸に流れず、天道を楽しみ天命を知るが故に心に憂いを抱くこともなく、その居処に安んじ仁徳に厚いが故に、よく人を愛することができる。易は天地造化の妙用を一定の型と囲いにおさめて度をすごさせず、万物を曲に完成して余すところがなく、昼夜の道すなわち陰陽・幽明・死生・鬼神の道に通して知りわきまえる。なればこそ陰陽の神妙なはたらきは、一方一処にとどこおることなくして円通し、そのはたらきを内に蔵する易の変化にも一定の型体とてはないのである。
易経、周易繋辞上伝1.4.1 ~ 4、(儒教)
つまりかれらは、知恵があると思っている人が、しらべられて、そうでないことになるのを、聞いているのが、おもしろいからなのです。たしかにおもしろくないことはないのですからね。しかし、私にとっては、それは、私の申し分どおり、神によって、なせと命じられたことなのです。それは神託によっても伝えられたし、夢知らせによっても伝えられたのです。
プラトンソクラテスの弁明29(ヘレニズム)
― み言選集 ―
人の命は、地上における肉身の死によってすべてが終わるのではありません。天上世界、すなわち霊界では、聖人賢哲たちはもちろん、私達の先祖が、肉身とは異なる人格体である霊人体として生きています。神様が創造された根源の世界、すなわち無限の永遠な世界と比較するとき、私達の肉身が生きているこの自然界は、ごく小さな一部分にすぎません。
(411-151 ~ 152、2003.710)
神様を知り、霊界を知らなければなりません。堕落した世界のすべてのことを忘れてしまっても、神様をはっきりと知り、霊界を知らなければなりません。霊界は、永遠の本郷です。永遠の本郷の国です。その本郷の国が霊界から成し遂げられるのではなく、地上から成し遂げられなければなりません。
(398-145、2002.12.9)
聖書を見れば、パウロが14 年前に見た第3の天について述べています。14年間パウロはどのよう生きてきたのでしょうか。第3の天を見たこと、それが力になって、14 年間を生きてきました。パウロは、それ以上のことを知ったために、第3の天のことを述べても、また行くことができたのです。
(62-47、1972.9.10)
霊界のすべてのことが地上世界と関係を結んでいます。どこを焦点として、何を共通分母として、その主流的関係が連結されるのですか。それが何かというと、真の愛です。
(137-54、1985.12.18)
地上には内面的に拡大された生活がありますが、内面的に拡大されたその基準は、霊界に行けば表面化されるのです。愛が中心でしょう? 愛が内面化されているために、神様と人類が一つの体の細胞と同じです。自分自身が、その細胞のうちの一つになる世界が霊界です。そのような境地に入れば、神様が間違いなく自分の心の中に入ってくるのです。「神様」と呼べば、自分の心の中で「誰が私を呼ぶのか。何だ?」と言うのです。すなわち、神様と共に暮らしていく世界です。
(218-129、1991.7.14)
霊界がどごにありますか。皆さんの体の外にありますか、体の中にまで入ってきていますか。体の中にあります。ですから、霊界を背負って歩き回り、連れて歩き回るのです。霊界を抱いて歩き回り、抱えて歩き回るのです。
(162-116、1987.3.30)
2. 霊界の様々な階層と領域
― 宗教経典 ―
神は数多くの地獄と天国をつくり出し、人間はこれを探検するために疲労困憊だ。
アーディ・グラント、ジャプジー22、M.1、p.5(シーク教)
私の父の家には住む所がたくさんある。
ヨハネによる福音書14.2(キリスト教)
また、天上の体と地上の体があります。しかし、天上の体の輝きと地上の体の輝きとは異なっています。太陽の輝き、月の輝き、星の輝きがあって、それぞれ違いますし、星と星との間の輝きにも違いがあります。
コリントの信徒への手紙一15.40~41(キリスト教)
彼らは長子の教会である。彼らは御父からすべてのものをその手に与えられた者である。彼らは祭司であり、王であり、御父の完全と、御父の栄光を受けた者であり、また、メルキゼデクの位に従ういと高き方の祭司である。このメルキゼデクの位は、エノクの位に従い、かつ独り子の位に従うものであった。それゆえ、書き記されているように、彼らは神々、すなわち神の子である。これらは、その体が日の栄えの状態にある者である。その栄光は太陽の栄光すなわちすべての者の至高者なる神の栄光であり、その栄光は大空の太陽によって象徴されると記されている。
さらにまた、私達は月の栄えの世界を見た。見よ、見よ、これらの者は月の栄えの世界に属する者であり、その栄光は、月の栄光が大空の太陽と違っているように、御父の完全を受けた長子の教会の栄光とは違っている。見よ、これらは、律法なしに死んだ者である。また、獄にとどめられた人々の霊であって、肉において人間として裁きを受けるために、御子が訪れて、福音を宣べ伝えられた者である。また、これらは、肉においてはイエスの証を受け入れなかったが、後にそれを受け入れた者である。これらは、世の高潔な人々でありながら、人間の悪巧みによって目をくらまされた者である。これらは、イエスの栄光を受けるが、その完全は受けない者である。これらは、御子の臨在は受けるが、御父の完全は受けない者である。それゆえ、彼らは日の栄えの体ではなく、月の栄えの体であって、月が太陽と違っているように栄光において違っている。
これらは、イエスの証に雄々しくない者である。それゆえ、彼らは私達の神の王国の冠を得ない。さて、これで私達が月の栄えの世界について見た示現は終わり、私達がまだ御霊に感じている間に、これを書き記すように主は私達に命じられた。さらにまた、私達は星の栄えの世界の栄光を見た。その栄光は、星の栄光が大空の月の栄光と違っているように、さらに劣った世界の栄光である。
これらは、キリストの福音を受け入れず、イエスの証も受け入れなかった者である。これらは、聖なる御霊を否定しない者である。これらは、地獄に落とされる者である。これらは、最後の復活まで、主すなわち小羊なるキリストがその業を終えられるまで、悪魔から贖われない者である。これらは、永遠の世界において主の完全を受けないが、月の栄えの者の働きによって聖なる御霊を受ける者である。そして、月の栄えの者は、日の栄えの者の働きによって受ける。また、星の栄えの者は、彼らのために仕えるように任じられる天使たち、すなわち彼らのために仕える霊となるように任じられる天使たちの働きによって聖き御霊を受ける。彼らは救いを受け継ぐ者だからである。
教義と聖約76.54 ~ 88(末日聖徒イエス・キリスト教会)
ソロモン王が「くるみの園に下りて行きました」(雅歌6.11)。彼はくるみの殻を一つ拾い上げ、それを注意深く見た。彼はくるみの殻の中に見える層状を見つめながら、感覚的な追求欲がわき上がってくるのを感じ、人間という存在を類推した……人間の頭脳がたくさんの薄い膜で覆われているように、すべての存在が永遠性をもつようにするために、何かの処置をしなければならないことを、神はお考えになった。
それゆえ、全世界に層状の深奥で神秘的な所から最も外部の層に至るまで高低があるのは、このような原理によるものだった。あらゆるものは覆うものをもつ。頭の中に頭があり、霊の中に霊があり、殻の中にまた別の殻がある。
最初の中心地は、最も奥深い所に光があり、透明で、不可思議で、我々の想像を超えた至極清浄な性質をもつ。最も深い一点が中心を取り囲む“宮殿”を形成し、これはまた、我々が想像できないほど透明な光彩である。具体的に指摘できない最も深い一つの中心の衣服のようなこの宮殿は、それ自体が不可思議な光だ。しかし、この宮殿は、原初的な点よりは透明でなく、奥妙ではない。この宮殿は、それ自体、自ら最初の光彩とはまた異なる服を着るようになる。
このようにして、外に向かっていくほど増幅はまた別の増幅の服を着るようになる。ゆえに、まるで薄い膜が頭脳を覆うように、各組織はそれ以前の組織を包むようになる。最初は保護膜の役割をしていたものが、次の段階の組織に対しては頭脳のような位置をもつようになる。
これと同様に、そのような組織は下にも進行する。この世の人は、天と地の中心となる頭脳の役割をしながら、霊と肉を保護する保護膜を形成するようになる。ゆえにあらゆるものは、より完全な秩序で進行する。
ゾハール(ユダヤ教)
すべての王国には律法が与えられている。そして、多くの王国がある。王国のない空間はないからである。また、大きな王国も小さな王国も、その中に空間のない王国はない。そして、すべての王国に一つの律法が与えられており、すべての律法に一定の限界と条件がある。それらの条件の中にとどまっていない者は皆、義とされない。
英知は英知に結びつき、知恵は知恵を受け入れ、真理は真理を迎え入れ、徳は徳を愛し、光は光に結びつき、憐れみは憐れみに同情を寄せて自らの権利を主張し、正義はその道を進み続けてその権利を主張し、裁きは御座に着いて万物を治め、万事をなす者の前を行くからである。
教義と聖約88.36 ~ 40(末日聖徒イエス・キリスト教会)
― み言選集 ―
霊界に行ってみれば、霊界全体が一人の人間に見えます。主体である神様とこの全体、大きな一人の人と一つになります。そうすると、全霊界と肉界がすべてぐにゃぐにゃになります。神様が走れば地も走り、神様が笑えば地も笑うようになっています。それはどういうことですか。皆さんは、どのようにして中心になれますか。私とこの細胞を見てみれば、すべて連結されています。指の細胞を見るとき、その細胞がすべて私にぶら下がっています。そのような意味の中心だというのです。
私の手の先を見るとき、手の先は私と一対一です。すべて私にとどまっています。人間が宇宙の一番の中心になります。一つの細胞のような立場で相対するとき、中心的資格をもつことができるのです。この細胞を通っていた血が、足の裏の細胞を通っていた血に、「ああ、頭のほうに来るな」と言うことができますか。このような境界線がありますか。そのような意味で、黒人、白人、黄色人の区別はありません。皮膚が、これは白く、これは黄色く、色がすべて違います。目の色も違い、髪の毛も違い、すべて違います。だからといって、「ああ、お前は私とは違うから別種だ」、そのように言えますか。霊界に行ってみれば、一人の人間のような組織になっています。聖人たちが目の役割をして、耳の役割をするようになっています。
(91-280、1977.2.27)
霊界は、神様を中心とする一つのセンターを中心として、すべてのものが連結されています。しかし、地上にはそれができていません。センターがないのです。神様を中心とするセンターではなく、悪を中心とするセンターができているので、すべてのものが相反しています。しかし、霊界はすべて統一です。高いレベルのものもあり、もちろん地域も違いますが、同じ階級ではなくても、すべてのものが天に従わなければならないことを知っているのです。低い階級の霊人たちも、神様を中心として従っていかなければならないということが、信仰観念のように生活の目標になっています。それが永遠の生活目標になっているのです。
(161-220、1987.2.15)
地上生活の人間完成の基準によって地獄と天国が生じざるを得ません。このように見れば、数千の階級が生じ得るのです。……地上に散らばっているこの階級、ここにとどまっている階級のようなものが生じます。地上にこのような階級が生じれば、霊界にもこのような階級が生じます。……霊界も多くの集まりでできていて、階級ごとに分裂しています。
(91-269 ~ 270、1977.2.27)
霊界に行けば何もありません。花しかありません。どこに行っても花でいっぱいです。ところが、その花が笑顔で踊りを踊っています。自分の愛の価値観の完成基準によって、それぞれ声を出して踊ったり、黙って踊ったり、様々な姿で迎えてくれるのです。その時になって、「先生が教えてくださった愛というものがこのように偉大なものだったのだなあ。ああ、その時、すぐに分かっていればよかったのに」と思うかもしれませんが、その時になれば既に通じません。それで先生がその世界に合格させるために、その周波数に合わせるために、地上で教育し、指導しているのです。
(227-100、1992.2.10)
霊界は完成しましたか。霊界は未完成です。なぜ未完成なのでしょうか。本来、霊界の階級体系は、神様と真の父母、真の子女を中心としてつながっていなければならないのに、それができていないのです。地上もやはりできていません。言い換えれば、堕落しなかったアダム主義、神様を中心としたアダム主義、それと同時に、真の父母を中心とした階級体系になるのが霊界ですが、それができていないのです。
今まで、その中心の中には、仏教を中心とした釈迦牟尼クラブがあり、孔子クラブがあり、ムハンマド(マホメット)クラブがあります。それで、霊界は、真の父母主義とアダム主義が現れることを願い、ムスリム(イスラム教徒)の群れや孔子の群れや釈迦の群れも、すべて願っているというのです。ですから、統一的な方向を経なければならないので、地上においても真の父母の役事が世界的な基準に上がっていくようになる時、すべての宗教の境界線はなくなり、統合運動が霊界の動きに従って自動的に展開し、その結果が地上で現れるようになるというのです。
(161-223、1987.2.15)
今霊界は、すべて壁でふさがれています。国はありません。世の中の国のような国は霊界にはありません。しかし、仏教を信じていた人たちは仏教圏にすべて入っていき、儒教を信じていた人は儒教圏にすべて入っていき、キリスト教を信じていた人はキリスト教圏、イスラームを信じていた人はイスラーム圏に入っていきます。このようにすべて宗教の系列が霊界にできています。それで、世界的な一時、メシヤが来る時まで、自分の団体のために準備してくるので、今まで壁を積み上げてきたのです。人間の堕落によって生じた神様の恨とイエス様の恨と先生の恨をすべて霊界と肉界で解くことができる基準になるまでは、その壁を崩すことはできません。
(89-101 ~ 102、1976.10.4)
2) 不滅の霊魂
霊、または魂は、不滅の人間の本質である。霊魂は、永遠の神様から来たものであるため、それは最後に神様に帰っていく。一方、土でつくられた肉身は、霊魂を包む服にすぎない。細かい違いはあるが、これがあらゆる宗教で発見される一般的な観念である。
霊魂は、天国に上がっていったり、地獄に落ちたり、神性と一つになったり、復活の日まで眠っていたり、またほかの肉身に生まれ変わる。このような違いとは関係なく、霊魂の存続はあらゆる信仰体系に共通して現れる。
宗教の諸経典は、来世で霊魂を包んでいる“霊的体”に対する描写を含んでいる。ある経典では、それ自体の形態と構造を備えた霊魂を想定している。それは、地上生活の間に肉身と共にあり、死後に分離されて霊界に上がっていく。
文鮮明先生は、地上人たちが霊魂と肉身の共鳴によって二つの世界にどのように生きているのかに対する理解を助ける。これは、霊的能力をもつ人たちが地上生活をしながら、どのように霊界を自覚できるのかを意味する。
霊魂がこれ以上肉身に縛られず、意志どおりに自由に旅行できるとき、実にそれは死後にその翼をつける。それでも、地上の生は、天国で要求される完全な魂の性稟を訓練する修練所として重要な意味をもつ。次の節から、この主題を扱う。
1. 霊魂と肉身
― 宗教経典 ―
主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。
創世記2.7(キリスト教)
またかれは、土から人間の創造を始めたもう。それからかれは、卑しい水の一精髄から、その跡継ぎをつくりたもう。それからかれを均整につくり、かれの霊を吹き込みたまい、……
クルアーン32.7 ~ 9(イスラーム)
霊魂は知恵と洞察の主体であり、無形状の行為者であり、それ自身の肉身と同一の大きさをもつ。霊魂はまた、カルマの果報を享受する者であり、サムサラの世界にいるが精通した者であり、常に至高の境地を目指している。
ネーミチャンドラ・ダッヴァサンガハ2(ジャイナ教)
肉体は霊魂の家である。
タルムード、サンヘドリン108a (ユダヤ教)
孔門の宰我が申した、「わたくしは鬼神という言葉は聞くもののそれが何を指すのか、存じません」そこで孔子が教えた、「人の身には気と魄(心と物の二面)があるが、気のほうは神の妙用、魄のほうは鬼の妙用なのである。それゆえ鬼と神を並べて説いてこそ、人間に対して教訓が完全になるのである。
生きている人々、これは必ず死ぬが、死ねば必ずみな土に帰る。そのように死亡した人間、それを鬼という。人が死ねば骨や肉は地の下に朽ちて、埋もれたままに野の土となり、気のほうは天上に浮かび上がって、あらたかな神霊の群れに入る。すべて、人も物も死ねばその精気が凝って強い香りを放ち、感ずる人々の心を悲壮にさせるのであるが、それこそ神霊の妙用なのである。
礼記21.2.1 (儒教)
しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。
どの肉も同じ肉だというわけではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉と、それぞれ違います。また、天上の体と地上の体があります。しかし、天上の体の輝きと地上の体の輝きとは異なっています。
コリントの信徒への手紙一15.35 ~ 40(キリスト教)
― み言選集 ―
この体は、神様があらゆる精誠を尽くし、土の塊のようなものを収拾し、永遠の理念の生命体、すなわち霊人体が育ち得るように造られました。芸術品でも、これ以上の芸術品はありません。ただ神様が、「おい、いでよ」として造られたものではありません。最大の精力を注いで造られた体です。そこに霊人体を吹き入れ、一人の人を造られたのです。神様が主管される有形・無形世界で永遠に存在できるそのような形状を造って祝福してくださいました。
(8-80、1959.11.8)
霊人体は人間の肉身の主体として創造されたもので、霊感だけで感得され、神と直接通ずることができ、天使や無形世界を主管できる無形実体としての実存体である。霊人体はその肉身と同一の様相であり、肉身を脱いだのちには無形世界(霊界)に行って永遠に生存する。人間が永存することを念願するのは、それ自体の内に、このような永存性をもつ霊人体があるからである。
この霊人体は生心(主体)と霊体(対象)の二性性相からなっている。そして生心というのは、神が臨在される霊人体の中心部分をいうのである。霊人体は神からくる生素(陽性)と肉身からくる生力要素(陰性)の二つの要素が授受作用をする中で成長する。また霊人体は肉身から生力要素を受ける反面、逆に肉身に与える要素もあり、我々はこれを、生霊要素という。
人間が神霊に接することによって、無限の喜びと新しい力を得て、持病が治っていくなど、その肉身に多くの変化を起こすようになるが、これは、その肉身が霊人体から生霊要素を受けるからである。霊人体は肉身を土台にしてのみ成長する。それゆえに、霊人体と肉身との関係は、ちょうど実と木との関係と同じである。
原理講論、創造原理6.3.2
人は二重構造になっています。心的な人と体的な人です。それでは、心とはいったい何でしょうか。心は縦的な基準をもっています。体は何でしょうか。横的な基準をもっています。これが本来、神様の理想的基準に立ち、神様の愛を受けることができるようになれば、縦的な心に神様の愛が響くとき、横的な体はすべて感じるようになります。縦的基準が存在する霊人体に神様の真の愛が響けば、横的基準である体も共鳴するようになっています。
(177-216、1988.5.20)
人には、霊的な人、統一教会でいう霊人体があり、肉身があります。霊人体は我々の目に見えませんが、存在するのです。では、霊人体と肉身は、いつ一つになるのでしょうか。これが問題です。
これは、音叉と同じです。音叉の一つを鳴らせば、同じ振動数で別の側を共鳴させるのと同じ道理で、神様の愛の作用が私達の心に来れば、自動的に体が反応しなければなりません。ですから、体と心を100 パーセント共鳴させ一つにする圏内に追い込むことができるのは、神様の知恵でもなく、能力でもなく、力でもなく、愛だけです。
(138-255、1986.1.24)
心と体の細胞があります。霊的五官があり、霊人体があることを知っていますか。内的人間と外的人間の細胞が共鳴しなければなりません。永遠に生きる私達の内的な人と、地上天国に生きる外的な人が、愛を中心として共鳴できなければなりません。
霊人体と肉身が神様の愛を中心として共鳴し、響くようになるとき、初めて霊的細胞と肉的細胞が完全に作動するのです。ですから、目が完全作動するときは、目を開けば、天上天下、地上天下がみな見えるのです。完全作動をするためです。マイクもそうではないですか。性能が良ければ、100 パーセント響き渡ります。同様に、愛の力で肉身と霊人体が一致して、爆発し得る境地になれば、天上世界、地上世界が、神様がすることなく、みな共鳴するようになるのです。
(171-103、1987.12.13)
2. 死:新しい生命に転換
― 宗教経典 ―
塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る。
コヘレトの言葉12.7(キリスト教)
まことにわれは、生を授けまた死を賜う、われによろずのものの帰着所がある。
クルアーン50.43(イスラーム)
風(気息)は不死の風に帰し、肉体は終に灰となる。5U(オーム)! 意志(クラトウ)よ、憶念せよ。所為を憶念せよ。
イーシャー・ウパニシャッド17(ヒンドゥー教)
人間の真性は先ず霊なる生命にして
心の糸を組み合せて肉体の繭を造り
その繭の中にわれと吾が霊を宿らせて、
はじめて霊は肉体となるなり。
汝ら明かに知れ、繭は蚕に非ず、
然らば肉体は人間に非ずして、
人間の繭に過ぎざるなり。
時来らば蚕が繭を食い破って
羽化登仙するが如く、
人間もまた肉体の繭を食い破って
霊界に昇天せん。
汝ら決して肉体の死滅をもって
人間の死となす勿れ。
人間は生命なるが故に
常に死を知らず。
甘露の法雨(生長の家)
彼が殺すと思う者、また彼が殺されると思う者、その両者はよく理解していない。彼は殺さず、殺されもしない。彼は決して生まれず、死ぬこともない。彼は生じたこともなく、また存在しなくなることもない。不生、常住、永遠であり、太古より存する。身体が殺されても、彼は殺されることがない。
彼が不滅、常住、不生、不変であると知る人は、誰をして殺させ、誰を殺すか。人が古い衣服を捨て、新しい衣服を着るように、主体は古い身体を捨て、他の新しい身体に行く。武器も彼を断つことなく、火も彼を焼かない。水も彼を濡らすことなく、風も彼を乾かすことはない。
彼は断たれず、焼かれず、濡らされず、乾かされない。彼は常住であり、遍在し、堅固であり、不動であり、永遠である。彼は顕現せず(認識されず)、不可思議で、不変異であると説かれる。それ故、彼をこのように知って、あなたは嘆くべきではない。
バガヴァッド・ギータ2.19 ~ 25(ヒンドゥー教)
なんじらは、来世がもっとすぐれ、またもっと永遠なものであるのに、この世の生活をよいと思う。これはまことに、いにしえの諸経典にあり、アブラハムやモーゼの経典にもある。
クルアーン87.16 ~ 19(イスラーム)
オニャメは死なない。ゆえに私も死なないだろう。
アカン族の格言(アリカ伝統宗教)
祖先と合同せよ、ヤマと〔合同せよ〕、祭祀・善行の〔果報〕と〔合体せよ〕、最高天(ヤマの居所)において。欠陥を棄てて、〔汝の〕家郷(死者の世界)に帰れ。光輝に満ちて、〔新たなる〕身体と合体せよ。
リグ・ヴェーダ10.14.8 (ヒンドゥー教)
だから、私達は落胆しません。たとえ私達の「外なる人」は衰えていくとしても、私達の、「内なる人」は日々新たにされていきます。
私達の一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。私達は見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。私達の地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、私達は知っています。
人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。私達は、天から与えられる住みかを上に着たいと切に頻って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。
それを脱いでも、私達は裸のままではおりません。この幕屋に住む私達は重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。
私達を、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として“霊”を与えてくださったのです。それで、私達はいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。私達は、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。
だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。なぜなら、私達は皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。
コリントの信徒への手紙二4.16 ~ 5.10(キリスト教)
しかし、もう終りにしよう。時刻ですからね。もう行かなければならない。私はこれから死ぬために、諸君はこれから生きるために。しかしわれわれの行く手に待っているものは、どちらがよいのか、誰にもはっきりは分からないのです、神でなければ。
プラトンソクラテスの弁明42(ヘレニズム)
私は、アフリカヌスにあなたの祖父、父パウルス、そして我々が故人と考えているほかの方たちも生きていらっしゃるのかと尋ねました。彼は答えました。「もちろん生きている。彼らは皆、監獄のような肉体の束縛から抜け出して楽しんでいた。あなたが言う地上の生というものは、その実、死にすぎない。見よ、あなたの父パウルスが、あなたに向かってここに来ているではないか!
キケロ国家論6.14 ト(ヘレニズム)
― み言選集 ―
私達韓国の言葉では、おもしろい表現で「死ぬ(チュンヌンダ)」ということを「帰る(トラガンダ)」という言葉で表します。どこに帰るという話でしょうか。これはただ共同墓地に行くことを意味するのではありません。元来、人生が出発した本来の場所に戻っていくという意味です。果てしなく遠い歴史の起源を越えて帰っていくということです。
だからといって、韓国人として生まれたので、韓国人として帰るという意味ではありません。私達人間始祖の根源となる、その世界に帰るという意味です。すなわち、創造主がいらっしゃるなら、その創造主がいらっしゃる所に帰るという意味です。そこから出発したので、そこに帰るのです。
宇宙も循環作用をします。例えば、山に積もっていた雪が解ければ、その水が小さな渓谷を通じて流れるようになり、さらには様々な川を通じて大海に流れ込みます。大海に流れ込むようになったその水は、水蒸気となって再び帰っていくのです。このように、循環運動を通して、より貴くなり得る所に、より良くなり得る所に帰っていくごとを願うのです。
(299-61、1999.2.4)
神様が人間の父母でいらっしゃるなら、私達人間をどのように、なぜ造ったのかと考えるとき、神様の愛に同参させた位置から出発しました。神様の心から出発し、神様の愛の懐で育ち、神様の愛の懐で成熟して家庭を築き、この地上で世界的な愛と連結させ得る成熟者となり、神様の愛の懐に帰らなければならないのが人生の道です。
(135-267 ~ 268、1985.12.15)
人間の本質は霊的なものです。ですから、あの国に行けば、そのような人間の本質が人のために生きるようになっていることを、より一層実感するようになるのです。
(2-138、1957.3.17)
人は、地上で理想的な家庭を築いて暮らしながら、その内なる人である霊人体を完成させ、天上世界に行くようになっています。霊人体が神様の愛の中で永遠に生きる天上天国が私達の本郷です。……人間は動物とは異なり、霊人体があり、また必ず行くべき天上世界があることを知らなければなりません。
(343-196、2001.1.29)
これからは神様と同じ位置に立つのです。永遠の真の愛の場に同参したのです。外の世界のどこに行っても、韓国のどこに行っても、この永生概念はありません。これが問題です。私は永遠の生命として生まれたので、死んで霊界に行ってみてください。一瞬で飛躍します。制限されたこの地球の人生とは次元が異なります。
制限された所では自由に動けませんが、あの世界は次元が高い世界なので何でもできる所です。時間を飛び越えるのです。愛を中心として、願いさえすれば何でも、いつどこでも、すべて得られます。無窮無尽です。私達が霊人体として造られたことを、今知りました。永生の真の愛を中心とする対象体である私は、永遠の生命体だという結論が自動的に出でくるのです。霊界に行きさえすれば、私達は自由なのです。
(216-116、1991.3.9)
3) 永生のための準備
宗教は、来世の姿を単純に、死別した人たちには慰安として、あるいは現世で抑圧された人たちに鎮静剤として語ることはできない。かえって来世の人生は、地上生活の目的を高揚させ、その意味を明らかにするための助けとなる。
地上でどのように生きるかが自分自身の永遠の運命を決定する。知恵のある人は、永生を指向する眼目をもって、この地で生きている。
事実、地上の人生こそ、私達が来世の人生を準備するべき唯一の機会であることが広く知られるようになった。行為とその報いを連結する輪は、死によって分離されることはない。かえって、私達は永遠の世界で自分か現世において行った行為の結実を収める。
地上生活で、ある人が一生懸命に働いたり、怠けたり、寛大であったり、けちであったり、勇気があったり、臆病であったり、寛容であったり、嫉妬心が多かったりすれば、その人の来世においてもその状態が持続するのである。
したがって、知恵のある人は、死ぬ前に宗数的な教えに従い、過った行為を懺悔し、すべての善し悪しをきれいに浄化することによって、永生を見つめる目をもって生きる。準備した者にとって、死は恐れるものではない。しかし、不注意で準備していない者にとって死は、悔恨を残し、ぞっとするものであり、突然に差し追ってくる。
文鮮明先生は、霊界で霊魂は愛の空気で息をすると教える。地上で愛する能力をはぐくまなければ、その霊界は、息が詰ってしまう所であることが分かる。永遠の世界で人間が享受する幸福の尺度は、地上生活で築いた愛の能力である。
1. 永遠の時間において刹那のような地上生活
― 宗教経典 ―
あなたが教会に入っていく前に、自分の着こなしを整えるように、現世は今後到来する世界の玄関と同じだ。
ミシュナ、アヴォート4.21 (ユダヤ教)
帰妹(妹をとつがせるの意)に当たって女が先だって動くようではそもそもはじめからよろしくない。君子は万事に遠い将来の終りまでを見通し、はじめが悪いと失敗を招くことを知るのである。
易経、周易下経54、帰妹(儒教)
この世界で善行を施し、1時間でも悔い改めることが、あの世界でのあらゆる生よりもはるかに良い。そして、あの世界で1時間平穏をもつことが、この世界でのあらゆる生よりも良い。
ミシュナ、アヴォート4.22 (ユダヤ教)
長い時間の過程の中で、人の生を受けることはとてもまれな機会だ。難しくまた難しいことは業報だ。ゴータマよ、常に注意せよ!
ウッタラッジャーヤー・スートラ10.4 (ジャイナ教)
そして、私達の知っているように、現在、死が人類に及んでいる。まことに、アミュレクが語った死、つまり肉体の死が及んでいる。にもかかわらず、人が悔い改めることができるように、猶予期間が与えられた。したがって、この世の生涯は試しの状態、すなわち神にお会いする用意をする時期、私達が前に語った死者の復活後に訪れるあの無窮の状態に対して用意をする時期となった。
モルモン経、アルマ書12.24(末日聖徒イエス・キリスト教会)
何人でも、つかの間のこの世の事物を望む者には、れも急いでかれらのために、われの欲する物を、われが望む者に与える、それからかれのために地獄を準備する。かれはそこで焼かれ、恥辱を被むり、慈悲を拒まれるであろう。しかし何人でも来世を望み、それに向かって努め精進し、信仰する者、これらの者の精進は、嘉納(かのう)される。
クルアーン17.18 ~ 19(イスラーム)
我々はこの世界で買い物をしているのだ。
我々が買い物龍を満たそうと満たすまいと、
時間になれば家に行かなければならない。
イボ族の歌(アフリカ伝統宗教)
例えば、寿命を迎えた葉が地に落ちるように、人の生もまたそれと同じであるので、ゴータマよ、常に慎みなさい!葉の先にぶら下がった露の玉が一瞬で消えてしまうように、人の生もまたそれと同じであるので、ゴータマよ、常に慎みなさい!
人生は流れる水のように、また弓から放たれた矢のように、一瞬で流れていき、現存は不確実であるがゆえに、あなたが犯したあらゆる罪悪を急いで洗い流しなさい。おお、ゴータマよ、常に慎みなさい!
ウッタラッジャーヤー・スートラ10.1~3(ジャイナ教)
朝には夕ベを期待するな。夕べには朝を期待するな。病いのために健康をふりあて、死のために生をふりあてよ。
ナワウィー40 のハディース40(イスラーム)
おお! 人々よ、何をするにしても神を畏れ、死を予期せよ。一時的で、しがない現世の富貴と権力、快楽の代わりに、永遠の恩寵を得るようにしなさい。
射られた矢のような過程を準備しなければならないがゆえに、ここはあなたがしばし休んでいく所である。常に死に備えなければならないため、あなたたちは、ただ死の影の下で生きているだけである。神の福音を聞いた人のように、賢明に身を振る舞い、その福音から警告の意味を刻み込まなければならない。
現世はあなたたちが永遠に生きる所ではないことを悟らせなければならないがゆえに、あなたはその生を来世で取り替えるようになる。神に栄光をお返しするが、その方は目的なくあなたを創造されたのではなく、義務や責任も負わせず、放っておかれなかった……。
あなたは来世で、あなたたちに有用で助けとなる収穫を現世で収めることができるかを考えなければならない。
ナフジュ・アル・バラーガ説教67(イスラーム)
― み言選集 ―
私達はこの世に生きていますが、この世だけではなくて霊界があることを知っています。この世と霊界は、二つの世界ではなく、一つの世界として連結しているということを知っているのです。
それでは、私達が行くべき所、私達が行って住まなければならないその場所とはどこでしょうか。私達は肉身生活をしながらこの地にいますが、永遠の世界に向かって行っているのです。一般の人々は、この世に生まれ、10代、20 代、30 代を過ぎ、中年を過ぎて壮年、老年時代を経ていきます。このように、沈む太陽のように一生を終えます。
しかし、霊界があるという事実を知っている人たちは、人生というものがわずかの間で、死んだのちに私達が迎えなければならない世界が永遠だということを知っています。ゆえに一生の期間とは、永遠の世界を準備するための期間だというのです。
(140-121、1986.2.9)
肉身と霊人体の中で、より重要なものとは何でしょうか。肉でなく霊なのです。肉は70、80 年の時間圏、限界圏内で生きては去ってしまいますが、霊は時間圏を超越し、空間まで超越する権限をもっています。したがって、歴史的な責任を悟って、責任を果たすことが人間の本務です。皆さんがいくら肉身を中心として豊かに暮らしても、結局は死ぬようになるのです。どのみち肉身は死ぬようになっているのです。そのようになっているのです。では、霊的な基準と肉的な基準のうちで、どちらがより重要なものでしょうか。私達は、肉的な基準を中心として生きていくのではありません。肉は霊のために、霊は肉のために存在するのです。
(20-326、1968.714)
霊界に行けば、愛することができなかった人は窒息します。呼吸が合いません。地上生活は何ですか。地上世界は、あの世界に入っていって呼吸することができるように訓練させる訓練場です。ですから、自分の妻よりも人を愛さなければなりません。
(121-294、1982.10.29)
母親の腹中で胎教を正しく受けてこそ、健康で善の赤ん坊として生まれるのと同じように、この地上世界での生活は、腹中での生活と同じなのです。ですから、神様の形状を模範として、神様の心情を模範として、神様の聖なる神性を模範として育たなければなりません。育って、また命を懸けて越えていかなければなりません。
(14-17、1964.4.19)
地上に天法を教えるために、訓練させる舞台が宗教です。宗教は、本郷に帰っていくとき、その故郷の法を生前に地上で訓練され、その法度に適応できる人格を備えるためのものです。これが今日の宗教生活の道理です。
高次的な宗教であるほど自分を強調しません。高次的な宗教であるほど温柔、謙遜を強調します。さらには、犠牲、奉仕を強調するのです。なぜそうしなければならないのですか。本郷の法則がそうだからです。
人間は、どのみち本郷を訪ねていく旅人のような立場なので、本郷に行って暮らす法度に適するように訓練させようとするので、高次的な宗教であるほど、犠牲になりなさいと教えてきたのです。
(77-189、1975.4.6)
この地上にいる生活がどれほど重要でしょうか! 1回しかありません。地上生活を永生と比較すれば、これは1点にすぎません。あまりにも短い瞬間です。私の肉身生活を越えて、霊界のために準備をしなければならないのです。
常にそのような主流思想をもってセンターに立ち、一切をコントロールし、一切を征服できなければなりません。そのようにしなければ、皆さんは個性完成できないのです。
(207-99、1990.11.1)
「ああ、私は若いのでこれから少なくとも40 年、50 年は生きる」と、そのような欲をみんなもっているでしょう? 神様に保証を受けていますか。皆さんはできるだけ短く、1年以内に死ぬと思いなさい。この短い期間に準備をすべてしなければなりません。この観念をもって生きなさい。できるだけ短く計画するほど幸せだというのです。短く計画を立てるほど損害を受けないのです。
その期間に真実に準備するその内容が、自らの永遠の生命の家を建てるのです。2年後に死ぬと考えてみてください。どれほど深刻ですか。共同墓地にも、葬式をする所にも行ってみるのです。これは、信仰生活に絶対必要です。ですから、「生きよう」と言う人たちは死ぬのであり、「死のう」と言う人は生きるのです。その短い期間に、み旨のために死のうと、天のために死のうと思えば、永遠に生きるのです。
(102-122、1978.11.27)
2. 天に宝を貯蔵しなさい
― 宗教経典 ―
あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。
マタイによる福音書6.19 ~ 21(キリスト教)
若い時に、財を獲ることなく、清らかな行ないをまもらないならば、魚のいなくなった池にいる白鷺のように、痩せて滅びてしまう。若い時に、財を獲ることなく、清らかな行ないをまもらないならば、壊れた弓のようによこたわる。
法句経155 ~ 156(仏教)
おお、すきのない商人よ、利益のある商売をせよ。死んでもあなたと同伴するそのような商品だけを扱いなさい。
アーディ・グラント、スリー・ラーグ、M.1、p.22(シーク教)
意にかなった好きなものは、人間の目には美しく見える、婦女・むすこ・蓄積された財宝・金や銀・血統の正しい焼印をおした馬・家畜や田畑。これらは、現世の生活の享楽である。だが神のおそばこそは、こよなき安息所である。
言え(ムハンマドよ)、「私はこれらよりも善いものを、あなたがたに告げようか。その身を悪魔から守る者のためには、主のみもとに楽園があり、川が(木々の)下を流れている、かれらはその中にとこしえに住み、純潔な配偶を賜わり、神のご満悦を被むるであろう。……」
クルアーン3.14 ~ 15(イスラーム)
久しく旅に出ていた人が遠方から無事に帰って来たならば、親戚・友人・親友たちはかれが帰って来たのを祝う。そのように善いことをしてこの世からあの世に行った人を善業が迎え受ける。親族が愛する人が帰って来たのを迎え受けるように。
法句経2.19 ~ 20(仏教)
屍を木片、土塊のように地上にうち捨てて、親族たちは顔を向けずに立ち去る。功徳(ダルマ)が彼に従う。それゆえに、道連れのために、常に、少しずつ功徳(ダルマ)を積み上げるべし。なぜならば、功徳という同行者によって越え難い闇を渡るからである。〔功徳は〕功徳を主要素とし、苦行によって罪を破壊し、光り輝き、大気を身体とする者を素早くあの世に導く。
マヌ法典4.241 ~ 43(ヒンドゥー教)
それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』
しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」
ルカによる福音書12.16 ~ 21(キリスト教)
私は世界の富者を見る。かれらは貪り、財を積み富を得、愚により施さず、ますます欲を広げ求める。
嗣子がかれの財を引き継ぎ、人は業に従って行く。死にゆく者に財従わず、妻子、財産、王国もまた財によって長寿は得られず、富によっても老いは消せず。この人生は短く、無常、移ろうもの、と賢者らは言う。
富者も貧者も死に触れる。賢者も愚者も死に触れられる。愚者は無知に打たれて臥すも、賢者は触れられ動揺しない。それゆえ慧こそ財よりすぐれ、慧によりこの世で終結を得る
阿含経中部ii.72 ~ 73、ラッタパーラ経(仏教)
― み言選集 ―
あの国のお金持ちは他でもありません。それだけ愛のために投入した人がお金持ちです。
(205-347、1990.10.2)
死ぬときにすべて置いていくのです。もっていくべきものは、神様を愛し、私が私を愛し、本質的な人である私を立てるために苦労し、私と相対の夫婦の愛、家庭の愛を中心として、この愛を世界に拡大するために努力したことです。人類を愛し、神様を愛したことが最後に残り、あの国で所有権決定の基準になるのです。
(127-38、1983.5.1)
皆さんは、天国に行くときに贈り物としてもって行く物がありますか。霊界に行けば、殉教した功臣たちが前にずらりと並んでいるのに、彼らの前に皆さんがもって行ったふろしきを開いて見せることができるでしょうか。大した物でもないのに開いて見せることができるでしょうか。皆さんがどのような苦労をしましたか。それぐらいの苦労をしただけで、どうして国のため、世界のために生きたと言えるでしょうか。「苦労をするにはしましたが、私は苦労したと思いません」と、それでこそ当然なのです。まだ行くべき道が残っています。
霊界に行ってふろしきを解いて、「これは一生の間私が用意した贈り物ですので、お受け取りくださいませ」と言えなければならないのです。女性たちが嫁に行く時は、荷物をしっかりと持って行くのに、天国に行く時は手ぶらで体だけ行くことができますか。
(32-71、1970.6.21)
一生の間に自分がするすべてのことは、すべてが真の愛のための実績として私の後ろに永遠に固着されているので、あの国に行って暮らすときに、残した功績を中心とする栄光の階級に自然に行ってとどまるのです。
(211-288、1990.12.30)
ために生きる人たちが行く世界が天国です。自分のために生きる人は絶対に行くことができない所です。
(91-173、1977.2.6)
人生の最後の目的は、神様を中心として天の中心たるその方と出会うことではありません。その方と一緒に住むことが問題となります。その方と会うのにどのような場所で会うか、生きるのにどのような場所で生きるのかということが問題です。
その方とは中心の場所で会い、中心の場所で生きようというのですが、その中心の位置は、神様の愛の位置なのです。ですから人類の良心が指向する最高の目標は、天運(注11)に従って神様と一致し、神様の愛を私のものにしようということです。結論はそれです。
(24-17、1969.6.22)
霊界に行くとき、お金をもって行くのではありません。統一教会の名前をもって行くのでもありません。今後皆さんがしなければならないことは、神様が愛することができる息子、娘をどれだけたくさんつくって行くかということです。
今、復帰過程で経ていくべきこととは何かというと、皆さんがサタン世界において神様が愛することのできる多くの息子、娘をつくるようになるとき、その功労は先祖と連結され、また先祖を解放させることのできる道が生まれるのです。これが、復帰路程において自分が受ける最大の贈り物です。
教育して弟子を大勢もつのと同じように、地で解いてあの世に行くようになれば、霊界でも解ける相対的関係になっているので、膨大な活動基盤になります。霊界に行って自分の霊的基準に該当する所は、すべて自分の所有になります。
ですからに自分が活動する舞台は、その基準を中心として全霊界に通じるのです。それがなくなれば、コーナーに追われて活動しにくいのです。ですから、歳月を送って休む間がありません。御飯を食べて暮らし、息子、娘を食べさせて育てることは、あの世に行くようになれば大したことではありません。天国の民を訪ねていかなければならないのです。それが天国では自分の所有になるのです。
(230-25、1992.4.15)
3. 地上の生活様式どおりに暮らす天上生活
― 宗教経典 ―
季路(きろ)が神霊に仕えることをおたずねした。先生はいわれた、「人に仕えることもできないのに、どうして神霊に仕えられよう。」「恐れいりますが死のことをおたずねします。」というと、「生もわからないのに、どうして死がわかろう。」
論語11.12 (儒教)
(イエスは言われた。)「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」。
マタイによる福音書18.18(キリスト教)
さて実に人(プルシャ)は意向よりなる。この世に於て人が意向を持ちてあるが如く、その如くに、彼はこの世を去りて成る。
シャンカラヴェーダンタ・スートラ注解書1.2.1(ヒンドゥー教)
苦行を行い、清浄戒律を修行して具足する者は、この世やあの世のどちらでもりっぱな果報を得るため、生きては栄誉を得、死んではまたさらなるこの上ない幸福を享受する。
しかし、罪悪を耽溺する者の生や死は、どちらも悪の果報を得るため、生きては怨恨を積み、死んでは暗闇の中に放り込まれる。
ソーマスンダラウパデーシャ・マーラー443 ~ 44(ジャイナ教)
悪いことをした人は、この世で憂え、来世でも憂え、ふたつのところで共に憂える。かれは、自分の行為が汚れているのを見て、憂え、悩む。
善いことをした人は、この世で喜び、来世でも喜び、ふたつのところで共に喜ぶ。かれは、自分の行為が浄らかなのを見て、喜び、楽しむ。
悪いことをなす者は、この世で悔いに悩み、来世でも悔いに悩み、ふたつのところで悔いに悩む。「わたくしは悪いことをしました」といって悔いに悩み、苦難のところ(=地獄など)におもむいて(罪のむくいを受けて)さらに悩む。善いことをなす者は、この世で歓喜し、来世でも歓喜し、ふたつのところで共に歓喜する。「わたくしは善いことをしました」といって歓喜し、幸あるところ(=天の世界)におもむいて、さらに喜ぶ。
法句経15 ~ 18(仏教)
これは来世の住まいで、われは地上において、誇ることを欲せず、悪を行わぬ者にこれを授ける。善果は、主を畏れる者にある。善い行いをなす者には、それよりもまさるものを賜わる。悪い行いをなす者には、かれらが行なっていた、悪い行いにのみ報いたもう。
クルアーン28.83 ~ 84(イスラーム)
― み言選集 ―
生涯の内容に対する価値はどこで決定するのかというと、生涯をすべて生きて決定するのではありません。一日一日の生活、その日々が決定するのです。ですから、正しく生きなければなりません。
(197-186、1990.1.14)
ここでそのように生きた人があの世に行って、突然変わることはできません。「三つ子の魂百まで」という言葉があるでしょう。もって生まれた性格は、直すのが難しいのです。あの世に行っている霊人体は、私達の今までの生き方と特別に違うのでしょうか。突然に変わるのでしょうか。そのようなことはないのです。ここで生きた、その姿どおりに収穫されていくのです。霊界に行っているすべての霊人体は、結局は地上で生きた人々の霊人体です。そのように見ると、今日この人たちが生きている世の中と、特に違わない世界だというのです。
(141-268、1986.3.2)
霊人体のすべての感性も肉身生活の中で、肉身との相対的な関係によって育成されるので、人間は地上で完成され、神の愛を完全に体恤して初めて、肉身を脱いだのちのその霊人体も神の愛を完全に体恤することができるようになるのである。
このように、霊人体のすべての素性は肉身のある間に形成されるので、堕落人間においては、霊人体の悪化は肉身生活の犯罪行為に由来するもので、同じく、その霊人体の善化も、肉身生活の贖罪によってのみなされる。
罪悪人間を救うために、イエスが肉身をもって地上に降臨された理由はここにあるのである。それゆえに、我々は地上で善なる生活をしなければならない。したがって、救いの摂理の第一次的な目的が地上で実現されなければならないので、イエスは天国の門の鍵を地上のペテロに授けて(マタイ16・19)地上でつなぐことは天でもみなつながれ、地上で解くことは、天でもみな解かれるであろうと言われたのである(マタイ18.・18)
原理講論、創造原理6.3.2
皆さんの習慣性をどのように打倒するのですか。今まで皆さんはサタン世界で自分を中心として、「私が優れていなければならない」と考える習慣性をもって生きてきたのですが、その習慣性はこり固まった悪い癖です。そのように固着してしまったその習慣性は、キムチ、テンジャン、コチュジャンの習慣性よりもっと強いでしょうか、弱いでしょうか。
これは歴史性を備えているのです。悪魔が出発したその日から根が打ち込まれたこのような伝統的習慣性をもっているのですが、これをどのように抜いてしまうのかというのです。
皆さんは今日の堕落した世界で先生によって原理を学んだと大口をたたいてはいけません。穴を掘って根まで埋めてしまおうとしても、これは私の背よりもっと大きく、あの木に登っていって抜こうとしても抜くことができないほど長いのに、座ったまま抜いたと大口をたたきますか。これは深刻な問題です。天の国に行く自信がありますか。天の国に行こうとすれば、神様を中心とする伝統的習慣性がなければなりません。
(213-20、1991.1.13)
一生の間、神のみ旨のためにいかに生活したかによって、天国における彼の座が決定する。ゆえに、天国に行くか行かないかは自分自身がよく分かる。食べたり、寝たり、好いたり、嫌ったり、行ったり、来たりするのを何のためにしたかによって、天国に行くか行けないかが決定される。
御旨の道、天国ために存在するという原則で構成された世界が人間の願う天国だと、皆さんが端的に理解してもそれは間違いありません。そのような所が私達の本郷です。
私達は、好きでも嫌いでも、いずれそこへ行くべき運命に置かれています。それが私達の人生の道です。私達は、そこに向かって旅人の道を行っているのです。
それでは、ここで問題になることは、自分のために生きたのか、人のために生きる生活をしたのかということです。その差によって、すなわち人のために生きたことが多ければ天国に行くことができるのであり、その反対になるときには地獄に行くというのです。この原則はこの場では信じられませんが、死んでみれば分かります。
(74-51、1974.11.27)
4. 死の終着地
― 宗教経典 ―
あなたは山に登っていくことができ、再び下りてくることもできる。渓谷の周囲をあちこちと歩き回り、再び戻ってくることもできる。しかし、神には行くことも戻ってくることもできない。
ヌペ族の格言(アフリカ伝統宗教)
信頼できぬこの閻魔(ヤマ=死)。〔罪を浄化〕したかしないかにかかわらず、病気であろうとなかろうと、すべての者は〔いつか〕突然に〔死ぬ。〕命とはあてにならないもの。すべてを捨てて行かねばならないのに、私はそれを知らぬゆえ、親しき者〔を守るため〕にも親しくなき者〔を損なうため〕にも罪をさまざまに犯したが、親しくなき者も死に、親しき者も死ぬ。
さらに私自身も死ぬ。このようにすべては死ぬのである。夢に体験したごとく、いかなる事をなしたとて、それぞれを記憶することは単なる記憶の対象だ。過去の対象すべては目の前にはない。あるとき、命あるこのときにも、親しき者も親しくなき者も多くが死んでいく。〔そして、〕彼らのために犯した罪は耐えようもなく〔恐ろしいものであり〕、今私の前にある。
このように、突然〔訪れる死〕というものを、私は理解できずに、無知と執着と怒りによって、さまざまな種類の罪を犯した。昼も夜も止まれずに、今生(こんじょう)は常に少なくなり、〔寿命を〕加えることもできぬのに、私のごとき者がどうして死なないであろうか。
私は、死の床にあるとき、親戚や友人が囲んでいても、命が尽きたと感じたときは自分一人で〔苦を〕経験する。閻魔の使いに捉えられたとき(=死が訪れたときに)親戚が何の役に立つのか。友人が何の役に立つのか。そのとき福徳にのみ助けられるのにそれすら私はなさなかった。
菩提行論2.33 ~ 41(仏教)
― み言選集 ―
この道は、友達もいないのです。愛する父母もいない道であり、愛する兄弟もいない道であり、愛する夫婦、愛する子女もいない道です。ただ一人で行くべき道です。
再び行ってみることもできず、行って帰ってくることもできず、一度行けば永遠に帰ってくることができない道です。このような道を行くようになるとき、皆さんはどのような心をもって行くのでしょうか。皆さんが死に逢着するその瞬間に、その死を乗り越えることができる希望がなければ、そこで終わりです。
今日まで神様のみ旨を信奉して、神様のみ旨を立ててきた数多くの人々はどのような人々だったのかといえば、死の道の前で後退した者たちではなく、死をあざ笑い、死を堂々と越えた人々でした。そのような人々が天の道を立ててきたという事実を、私達は歴史を通じてよく知っています。
皆さんは、各自が死に逢着したとしても、これを越えることができる希望を抱かなければなりません。そして、この道を越えていけば、私は天の前に堂々と立つようになるはずだという希望と、心で憧憬した世界、その本郷に向かって喜んで走ることができなければなりません。神様の理想世界を願う心が切実であってこそ死に勝つことができる存在になる、ということを皆さんは悟らなければなりません。
(6-53、1959.3.22)
霊界をよく知らなければならないというのは、霊界の実存だけを漠然と信じて生きなさいという意味ではなく、好きでも嫌いでも、永遠に生きなければならない霊界における生涯のために、私達が地上界でどのような準備をしなければならないかを知って、徹底的に準備をするということです。
腹中で問題がある子供は、生まれても、間違えば生涯を病の身で生きなければならないように、私達が短い地上界での生涯の中で、天のみ旨を正しく知らずに罪を犯したり、悪を行えば、結局因果応報の宇宙法則により、霊界に行ってその代価を払うようになるのです。霊界に入っていった霊人体が、言い表せない苦痛と蕩減を払わなければならないという意味です。
一度肉身を脱げばもう遅いのです。肉身は、死ねば一握りの土に戻ってしまいますが、私達の生命、私達の心、私達の心情、そして私達の希望までも埋められてしまうのでしょうか。絶対にそうではありません。
私達の100年の一生は、神様が設置しておいた「霊人体」というスーパーコンピューターに、間違いなく記録され、撮影されて、自動的に評価されるのです。それで、誰でも地上界で生を営む間、行く歩みを捕らえ、動く心と傾く心情を鼓舞して、「あなたはどこへ行くのか」と数えきれないほど自問自答してみるのです。
(447-159 ~ 160、2004.5.1)
4) 希望の世界
この世界とあの世界の間に夢の世界がある。すべての夢が霊的なものではないが、その中の幾つかは明らかに霊的であり、霊的な夢は、とても生々しく、長く記憶に残る。そのような霊的な夢を見る間に、霊魂はしばらく肉身を離れて霊界に上がっていき、そこで様々な現象を経験する。
これらの中であるものは神様と関連し、重要なメッセージが伝達される。そのほかの夢もあるが、低級な霊魂、または悪霊たちと遭遇する夢や、悪夢に苦しんだり、性的な夢がここに属する。
この節では、夢を見る霊的な過程を説明し、どのような夢が神様からの啓示なのかを区別する方法に関する教えである。キリスト教の聖書で、神様がヤコブとヨセフにしたことのように、神様は夢を通して人生の転換をもたらす情報と指針を啓示することができる、したがって、意味深長な夢に対して注意を傾けることは、宗教的な生活において重要な訓練の中の一つである。
― 宗教経典 ―
ヤコブはベエル・シェバを立ってハランヘ向かった。とある場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブぱその場所にあった石を一つ取って枕として、その場所に横たわった。
すると、彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。見よ、主が傍らに立って言われた。
「私は、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。見よ、私はあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、私はあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。私は、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」
ヤゴブは眠りから覚めて言った。「まことに主がこの場所におられるのに、私は知らなかった。」
創世記28.10 ~ 16(キリスト教)
人が寝床に入れば、霊魂は彼を離れて上に上がり始める。そして、肉身には心臓の音を包む器程度の痕跡だけを残しておく。残りはだんだんと上に上がっていこうとする。上がっていく間に、明るいが不透明な何かの実体にぶつかる。
純粋で昼の間に汚されていない霊魂は、それを飛び越えて上がっていく。そのようにできない霊魂は、その実体の間に入っていき、垢がついて同化し、それ以上に上がることができない。その中でその実体は近い未来に起きることを見ぜてくれる。ときには偽りを見せることもある。これは目覚めるときまで夜通し続く。
神が夢の中に現れ、御自身の秘密を見せてくれる義人たちは幸福な人である。そうして罪を犯すことができなくなる! 自分の肉身と霊魂を汚すかわいそうな罪人たちよ! 昼の間に汚されなかった人は、夜に眠るとき霊魂が昇天し始める。そして、同じ段階に入っていく。
しかし、彼らはその不確実な実体に同化されず、さらに上に上がっていく。したがって、この選ばれた霊魂たちはついに天の王宮の門の前に到達し、王の美しさを見て、彼の聖地に入っていくことを熱望する。……イザヤ書26 章9節に、「私の魂は夜あなたを捜し」と記されているのと同じである。誤った力に誘惑されず、主に従うということだ。
ゾハール1.83b (ユダヤ教)
神は人間が死ぬとき、その魂を召したもう、また死なぬ者は、睡眠の間それを召したもう。かれが死の宣告をされた者の魂は引きとめ、その他のものは定められた時刻に送り返したもう。まことにこの中には、反省する人びとへの種々のしるしがある。
クルアーン39.42 (イスラーム)
睡眠(うまい)もて肉身(むくろ)を抑制し、己れ寝ずして眠れる者(感官)等を照らし、白光を携えて還(ま)たもその旧里へと帰るなり、黄金の神人、弧高の鵠(ハンサ)なる彼は。巣の底は生気に守らせ、巣の外へと出で去りて心のままに翔(かけ)りゆく、不死なる彼は、黄金の神人、弧高の鵠なる彼は。
夢寝(むび)の裡(うち)にて上を下へと翔(かけ)りつつ、神なる彼は種々(くさぐさ)の相をあらはし、あるは数多(あまた)の妻妾と燕楽、嬉笑するが如く、あるは種々の危険に遭うに似たり。
彼の苑囿は世の人の見る所なれど、彼を見し人は一人もなし。「……ある一派は『夢中の神人にも覚醒時と同一の場所があるだけだ。すべて覚醒時に見ているものを夢の中でも見るのだ』と申します。ただし、夢の中では神人自らが光明となっておるのであります」……
喩えばレ車が重い荷物を載せて軋(きし)りながら進んでゆくように、人間が最後の息をひきとる時には肉体的自我が叡智的自我を載せて軋りながら進みつつあるのであります。
ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド4.3.11 ~ 14、35(ヒンドゥー教)
いつか荘周は、夢のなかで胡蝶になっていた。そのとき私は喜々として胡蝶そのものであった。ただ楽しいばかりで、心ゆくままに飛び回っていた。そして自分が荘周であることに気がつかなかった。ところが、突然目がさめてみると、まぎれもなく荘周そのものであった。いったい荘周が胡蝶の夢を見ていたのか、私にはわからない。
けれども、荘周と胡蝶とでは、確かに区別があるはずである。それにもかかわらず、その区別がつかないのは、なぜだろうか。ほかでもない、これが物の変化というものだからである。
荘子2(道教)
あなたたちの間に預言者がいれば、主なる私は幻によって自らを示し、夢によって彼に語る。
民数記12.6 (キリスト教)
神の使徒が言った。「信仰をもった者の幻視は預言の46 番目の部分であり、預言に属していることは間違いない」。彼は、幻視には三つの類型があると考えた。内部から出てくる思い、悪に起因する恐ろしい夢、神から来る良い知らせがそれである。それゆえ、自分が嫌う何かを見るならば、それを誰かに言わず、立ち上がって祈らなければならない。
ブハーリーおよびムスリム・ハディース(イスラーム)
幻視は解釈されない限り、人間をどきどきさせる。しかし、解釈すればそれは落ち着く。ひとえに、それは愛する者や判断できる者にだけ語れ。
アブー・ダーウード・ハディース(イスラーム)
ファラオはヨセフに言った。「私は夢を見たのだが、それを解き明かす者がいない。聞くところによれば、お前は夢の話を聞いて、解き明かすことができるそうだが。」ヨセフはファラオに答えた。「私ではありません。神がファラオの幸いについて告げられるのです。」
ファラオはヨセフに話した。「夢の中で、私がナイル川の岸に立っていると、突然、よく肥えて、つややかな七頭の雌牛が川から上がって来て、葦辺で草を食べ始めた。すると、その後から、今度は貧弱で、しとても醜い、やせた七頭の雌牛が上がって来た。あれほどひどいのは、エジプトでは見たことがない。そして、そのやせた、醜い雌牛が、初めのよく肥えた七頭の雌牛を食い尽くしてしまった。ところが、確かに腹の中に入れたのに、腹の中に入れたことがまるで分からないほど、最初と同じように醜いままなのだ。私は、そこで目が覚めた。
それからまた、夢の中で私は見たのだが、今度は、とてもよく実の人った七つの穂が一本の茎から出てきた。すると、その後から、やせ細り、実が入っておらず、東風で干からびた七つの穂が生えてきた。そして、実の入っていないその穂が、よく実った七つの穂をのみ込んでしまった。私は魔術師たちに話したが、その意味を告げうる者は一人もいなかった。」
ヨセフはファラオに言った。「ファラオの夢は、どちらも同じ意味でございます。神がこれからなさろうとしていることを、ファラオにお告げになったのです。七頭のよく育った雌牛は七年のこ、とです。七つのよく実った穂も七年のことです。どちらの夢も同じ意味でございます。その後から上がって来た七頭のやせた、醜い雌牛も七年のことです。
また、やせて、東風で干からびた七つの穂も同じで、これらは七年の飢饉のことです。これは、先程ファラオに申し上げましたように、神がこれからなさろうとしていることを、ファラオにお示しになったのです。今から七年間、エジプトの国全体に大豊作が訪れます。しかし、その後に七年間、飢饉が続き、エジプトの国に豊作があったことなど、すっかり忘れられてしまうでしょう。飢饉が国を滅ぼしてしまうのです。この国に豊作があったことは、その後に続く飢饉のために全く忘れられてしまうでしょう。飢饉はそれほどひどいのです。ファラオが夢を二度も重ねて見られたのは、神がこのことを既に決定しておられ、神が間もなく実行されようとしておられるからです。
創世記41.15 ~ 32(キリスト教)
― み言選集 ―
霊界から教えてくれるときは、夢の中で教えてくれます。ですから、夢が問題です。そして、夢うつつの中で、啓示の中で、黙示で、そして霊界に入っていってすべて教えてくれます。それで、皆さんの夢の中で的中する夢があるのです。
なぜそうでなければならないのですか。私達人間は堕落することによってサタンの血統を受けました。ですから、動くときはこの悪の血が動くのです。
それは、ガラス管に入れておいた泥水と同じです。眠れば肉身が休むので、重たいものは沈み、きれいな水が浮かぶのと同じようになるのです。本来のきれいな心は、天と関係を結ぶことができるので、ここに象徴的、形象的に今後進む道を夢の中で天が教えてくれるのです。
皆さんは、その夢がつまらない夢なのか、サタンが教えているのか、神様が教えてくれているのか分かりません。それでは、これをどのように知るのですか。サタンが教えるものは、夢の方向性がありません。流れていくのです。すぐに忘れてしまいます。しかし天が教えてくれるものは、体系が備わっています。そして、前の夢と次の夢が関連性をもっているのです。3回の夢の中で関連性があるときは、天の啓示であることを知らなければなりません。
そして、これは忘れません。それはなぜ忘れないのかというと、本来、天と人間は永遠に一つになるようになっているからです。永遠に一つになるようになっているので、一つになっているものは忘れられません。サタンとの関係はすぐに忘れてしまいます。
このように、霊界の指導を受ける人たちは、すべてそのような事実がたくさん残っているので、悪の所に行こうにも行けません。サタン世界に行っても、それが現れ、それを考えるのです。
今日、心理学者のような人たちが夢に関して、「潜在意識の再現である」と言っています。そのようなものはすぐに忘れてしまいます。しかし、考えていないのに、忘れない夢は霊的な現象です。
(91-272 ~ 275. 1977.2.27)
体恤をするためには、必ず祈祷しなければならず、精誠を尽くさなければなりません。そこで現れる啓示や夢のお告げを、絶対に無視しないでください。
それを調整して現実的生活圏内に、実践舞台にどのように適用させるのかということが、信仰生活で最も重要なことなのです。
(76-153、1975.2.2)
暗示という言葉があります。それはどういう意味ですか。自分が何気なく道を歩いていると、ある家の壁に止まっていた鳥が飛んでいくのを見たとき、鳥は飛んでいきましたが、さっと鳥が飛んでいくそのことを通して、ひそかに何かを教えてくる、ということが起きるようになるのです。この段階を過ぎるようになると、夢のお告げのようなことを体験するようになります。夢の中で起きることなのですが、夢でも深い眠りの中の夢ではありません。
パウロも夢うつつの中で第3の天を体験しました。そのようなことを、何気なしに流して過ごすなというのです。それを総合して、どんな方向の因縁を自分につなぐために現れるのかということを、科学的な面で分析しなさいというのです。
必ずその結果が現れます。ですから、皆さんが忘れることができない夢のお告げのようなものは、100 パーセント的中するようになります。そのような体験があるでしょう。
その段階が高くなれば、どのようなことが起ごるでしょうか。啓示とか指示とか、このようなことが起こります。啓示というものを、私達は分析しなければなりません。指示というものは、直接教えてくれるものですが、啓示は違います。ですから、問題が起こるのです。これは、必ず解釈をしなければなりません。何かを教えてくれるには、声で聞かせてくれたりもしますが、幻想でも見せてくれます。
良い春の日を迎えて、鹿が一対、小川のほとりで水を飲みながら、遠い山を眺める、このような幻想は、限りなく幸福な希望を象徴するのです。そのように、いろいろな現象が繰り広げられるのです。そのようなことは、偶然の事実ではありません。自分の心の畑を啓発するための、天の役事です。
啓示の段階を過ぎるようになれば、次は黙示の段階です。(注14)一日中霊界に入って体験をするとか、そういうものです。そのような世界にまでつながるのです。神様に対する、生活的な感情圏にまで到達できます。
皆さんがこのような体恤信仰をしなければ、偉大な天のみ旨の結果世界を、私達の生活の場、生活舞台に適用させることはできません。ですから、体験をもたない信仰者は、信じることができません。体恤信仰は高貴なので、啓発していかなければなりません。
皆さんがそのような体恤段階に入れば、皆さんの心が皆さんに命令するのです。誰かにこのように話をしようとするのに、言葉が話せないようにするのです。あるいは、自分が良い言葉でその人のために言わなければならないのに、しかる言葉ばかりが出てくるのです。このような現象が起こるのです。
このように理解できない現象が時々起こるために、これを調整するすべを知らなければなりません。過ったなら、狂人として扱われやすいために、それを調整するすべを知らなければなりません。
(76-130 ~ 135、1975.2.2)
5) あの世界への通路
死の瞬間に来世に行く通路は、全く透視できない神秘に包まれている。臨床的な死から生き返った人たちの擬死体験に関する書籍は、何らかの糸口を与えてくれるだろう。彼らは、何かのトンネルを通ってほかの世界に行くこと、光の存在に会うこと、温かさを感じること、愛を受けることなどを語っている。
この人たちは、文字どおりの意味で死んだのではないが、それにもかかわらず、死に至る道の最初の段階を体験したのである。その通路がどのように終わるのか、誰が分かるだろうか。
ある程度はっきりと知られていることは、死後にも何かが存続するということである。事実、ある死んだ人たちは、最初に自分が死んだことを悟れない。彼らは、継続して自ら意識をもち、自覚する力をもっている存在であることを経験するからである。
肉体的な死は、より高次的な存在の段階に移っていくことにすぎない。ちょうどさなぎから殻を脱いで蝶になるように、それは新しい体を着ることである。
平安な子宮の世界を旅立たなければならない胎児の出生に例え、文鮮明先生はそれを2番目の出生と呼ぶ。出生の前まで子宮が胎児を養育するが、子宮が破壊され、胎児が地上の人生のためにそこを旅立つように、死の前まで肉身は霊魂を養育するが、肉身の寿命が尽きるとき、霊界で生まれるために地上界を旅立つ。したがって、人生の三段階、すなわち子宮の水中世界、地上存在の空気世界、愛の大気を呼吸する霊界がある。
したがって、死は何か恐れるべきものではない。反対にそれは霊魂の誕生として記念されなければならない。核心問題は、果たして私達がその世界で平安に存在できるにふさわしい霊的品性をもった霊魂を準備したのかという点である。そこで重要なことは、ただ私達の愛する能力だけである。
1. 第2の誕生
― 宗教経典 ―
この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」
コリントの信徒への手紙一15.53 ~ 57(キリスト教)
自分の霊魂こそ真の自我であることを知る者は、死を自分の霊魂の肉体的な生まれ変わりと考える。ちょうど古い服を新しい服に着替えるように考える。
プージャパーダ・サルヴァールタシッディ77(ジャイナ教)
かれらはこの人生を、顔にくっついたいぼやたれこぶのように無用の邪魔ものと思っており、死を、吹き出ものやはれものがつぶれたぐらいにしか思っていない。
荘子6(道教)
なんじらは、なんじらの射出するものについて考えたか。それをつくったのはなんじらか、それともわれがその創造者であるか。われは、なんじらの間のある者に死を命じた。われは、なんじらのような他の者で取り替え、またはなんじらが知らぬ他のものに、なんじらをつくり変える。われは、とんざさせられぬ。なんじらは、確かに最初の創造を知っている、それでもなぜ留意しないか。
クルアーン56.58 ~ 62 (イスラーム)
生が姶まりではなく、死が終りではない。その実があって、それがどこに処るということにないのは宇(空間)である。長があって本末のないのは宙(時間)である。生があり、死があり、出があり入がある。出入しながら、その形を見ないのを天門という。荘子23(道教)
この世界が母親の子宮にいる子供の世界と異なる様に、彼方の世界はこの世界と異なるのである。神の面前に達するとき、魂はその不滅性に最も適った、そして天界の住居にふさわしい姿を装う。
ハバオラ落穂集81 (バハイ教)
白銀の糸は断たれ、黄金の鉢は砕ける。泉のほとりに壷は割れ、井戸車は砕けて落ちる。塵はこの大地に帰り、霊は与え主である神に帰る。
コヘレトの言葉12.6 ~ 7(キリスト教)
そこでかれ(その人、あるいはプルシャ)は、この完全な安静の状態(熟睡の状態)の中で楽しみ、歩きまわり、善と悪とを見ると、すぐに逆のすじみちを通って、もとの場所にむかって、その同じめざめた状態に走りもどるのである。
かれ(人)が衰弱の〔状態〕にいたる場合、〔かれは〕老齢、あるいは病気によって衰弱の〔状態〕にいたるのである。ちょうどマンゴーの実、あるいはウドゥンバラ(優曇華うどんげ)の実、あるいはピッパラ(イチジクに似た植物)の実がへたから取れてしまうように、身体に属するアートマンはこれらの肢体から離れて、逆のすじみちを通って、もとの場所にむかって、その同じ気息に走りもどるのである。
すなわち、ちょうどたくさんの荷物を積んだ車がきしりながら行くように、この身体に属するアートマンは、叡智に属するアートマンが上にのると、きしりながら行くのである。
この身体に属するアートマンが無力状態におちいり、あたかも意識不明におちいると、これらの気息(生体を維持する諸機能)はその人(そのように知っている人、すなわち、アートマンのことか?)のもとに集まってくる。かれは輝く活力の〔微細な〕要素をとりまとめてほかならぬ心臓に降りていく。
この視覚機能に属する人間(あるいはプルシャ)が反対の方向に向いてしまうと、〔人は〕形を識別しない者となる。〔視覚機能に属する人間またはプルシャはアートマンと〕一体となり、〔人びとは〕「かれは見えない」という。〔嗅覚機能に属する人間またはプルシャはアートマンと〕一体となり、〔人びとは〕「かれはにおいを感じない」という。〔味覚機能に属する人間またはプルシャはアートマンと〕一体となり、〔人びとは〕「かれは味を感じない」という。〔発声機能に属する人間またはプルシャはアートマンと〕一体となり、〔人びとは〕「かれはことばを話さない」という。〔聴覚機能に属する人間あるいはプルシャはアートマンと〕一体となり、〔人びとは〕「かれは音を感じない」という。〔思考作用に属する人間あるいはプルシャアートマンと〕一体となり、〔人びとは〕「かれは考えない」という。〔触覚機能に属する人間あるいはプルシャはアートマンと〕一体となり、〔人びとは〕「かれは触れても感じない」という。〔認識作用に属する人間あるいはプルシャはアートマンと〕一体となり、〔人びとは〕「かれは認識しない」という。
かれのこの心臓の先端は輝く。その輝きによってこのアートマンは眼から、あるいは頭から、あるいはそのほかの身体の部分から出てゆくのである。出てゆくそれ(アートマン)のあとから気息が出てゆく。出てゆく気息のあとからすべての気息(この場合は生体を維持する機能か?)が出てゆく。〔そして〕ほかならぬ意識あるものヘ降りてゆく。かれは知をもち、知識をもつものとなる。知と行為とは〔かれを〕うしろからつかまえているのである。
そして前生に関する記憶も〔うしろからつかまえているのである〕すなわち、ちょうどイモムシが草の葉先にいき、自分自身を縮めて〔他の葉に移ろうとする〕ように、この人間(あるいはプルシャ)は、この世の肉体を捨てて、〔肉体を〕無知の状態におもむかせ、自分自身を縮めて〔他の生存の状態に移るのである〕
すなわち、ちょうど刺繍をする女性が刺繍の部分をはずし取って、ほかのいっそう新しい、いっそう美しい形を仕上げるように、この人間(あるいはプルシャ)は、この世の肉体を捨てて、〔肉体を〕無知の状態におもむかせ、ほかの、いっそう新しい祖霊の姿、あるいはガンダルヴァの〔姿〕、あるいはブラフマンの〔姿〕、あるいはプラジャーパティの〔姿〕、あるいは神の〔姿〕、あるいはほかの存在(生物以外)の人間の〔姿〕を仕上げるのである。
ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド4.3.34 ~ 4.4.4(ヒンドゥー教)
― み言選集 ―
自分も神様に似ようとし、そして自分が神様の息子、娘であるなら、神様も似させたいという観念をもつのは必然的です。ですから、自分は神様に似たいと思い、神様は自分を連れていきたいと思うのです。これを可能にし得る道を模索するでしょう。
それで人は、再び神様と似ることのできる体をまとって生まれなければなりません。そのように生まれる日を神様も待ち望むのであり、人間も待ち望むでしょう。そのような人として生まれる日が必要です。それが何ですか。死です。
では人間は、死を歓迎すべきでしょうか、歓迎してはいけませんか。歓迎すべきです。死ぬのに、何のために死ぬのかというときに、「神様の真の愛のために死ぬ」と言うべきです。ですから肉身を脱ぐのは、無限の神様の愛の活動圏に自分が同参するためであり、神権の愛の世界のためにそうするのです。
神様の愛の中に生まれることが死ぬことなのですが、人間世界では「ああ、死ぬ」と大騒ぎします。制限された愛の圏内から無制限の愛の圏内へ突入できる喜びを迎える瞬間が、死ぬ瞬間です。したがって、死ぬ瞬間は第2の出生の瞬間です。
そうだとすれば神様が皆さんの肉身が生まれた日を喜ぶでしょうか、第2の無限の拡大世界の愛のために活動する息子として生まれる、その時間を喜ぶでしょうか。なぜこのような話をするのでしょうか。皆さんが死の恐怖から解脱しなければ神様と関係を結ぶことができないからです。
(116-172、1982.1.1)
人は、蘇生、長成、完成時代を通過します。すなわち、腹中での水中時代、地球星の世界、天上の空中世界で生きるのです。言い換えれば、腹中時代を経て地上に生まれ、肉身をもって100 年ほど地の時代を経るようになり、最終的には飛んでいく空中時代、このように3時代を通過するようになるのです。
(297-257、1998.12.19)
腹中でへその緒で息をするのと同様に、空気のパイプである鼻の穴を準備して、出てくるときに取り替えて息をするのです。そして、今この世界ですべきこととは何でしょうか。生まれてからすべきことは、愛というものを体恤することです。
愛という空気を吸わなければなりません。お母さんから、お父さんから、愛の空気を吸わなければなりません。愛の空気を供給され、経ていかなければなりません。ある家庭の赤ん坊として生まれて、サインカーブのように、上がれば下がっていくのです。赤ん坊として生まれて成長して、年を取って死ねば分解されていくのです。赤ん坊として生まれて、赤ん坊に帰るのです。
そのようになるときは、どのようになるのでしょうか。第2の腹中世界をけってしまい、第3の愛の呼吸器官につながらなければなりません。父母の愛、兄弟の愛をけってしまい、大宇宙の神様の本体に和した愛の世界に入ります。
霊界は愛の空気です。愛の空気でいっぱいに満ちています。ですから、皆さんは、今この地上世界で愛の呼吸ができるパイプ装置をつけなければなりません。それで霊界の体験が必要なのであり、霊的愛を感じてそれを呼吸することができる人になってこそ、死なないというのです。
(139-213 ~ 214. 1986.1.31)
皆さんが生まれる時、母親の腹中から出る時、どんなに大変だったかを覚えていますか。神様はなぜ子供を生む時、このように生むようにされたのでしょうか。ただ簡単に話をするように簡単に、おいしい食べ物を食べるように簡単に、香水の香りが漂うように簡単に、ただうれしくて口を開け「ははは」と子供を生めるようにすればどんなに良いでしょうか。なぜそのように生ませずに、汗を流して死ぬか生きるかという限界で生むようにしたのでしょうか。光り輝く愛を見るためにです。
皆さんが生まれるとき、どれほど大変だったでしょうか。生命の包みが胎ですが、そこにつながった綱をすべて破綻させ、蹴飛ばしてほうり投げ、断ち切って出てくるとき、どのようなものか考えてみてください。そのとき、「私は死ぬ。私は死ぬ。私はすっかり破壊されるのだなあ。私は死んだ」と思うのですが、それは不幸ではなく幸福です。不幸の境界線ではなく、幸福の出発だったということが、生まれてみて分かります。
しかし、胎児が死ぬと思えば、おなかの中で永遠に生きようとするのと同じように、人々の中には、今の地上に永遠にいることができればよいと思うのです。死ぬまいと思うのです。これを片付けてもう一度揺れ動き、「ああ、私は死ぬ!」と思っていると、さっと飛び出してくるのです。
その次には、霊界、無限の世界に生まれます。時間的、空間的次元の世界を脱出してしまいます。無限の神様の力によって、私は端から端まで一瞬のうちに往来します。太陽の光よりも速く、何よりも速いのです。
(107-42 ~ 44、1980.1.20)
おへそについているへその緒は、そのままにしておかなければなりませんか。切ってしまわなければなりません。地球上で空気を呼吸して生きる肉身についている私達の霊人体は、お母さんの腹中の胎児のように、肉身を使って食べ、肉身が老いてしまえば、それを捨てて外に出ようとするのです。
赤ちゃんが成長して、お父さん、お母さんの愛の対象になるように、私達は肉身の悲鳴をあとにして新たに生まれ、霊的父である永遠の神様の相対として再び生まれなければならないというのが、原理原則です。
地上世界でも子供が生まれたのちに大きくなれば、お母さん、お父さんの友達になり得るのです。お母さんとお父さんの愛を共に分かち合うことのできる地上世界に生まれるからです。同じように私達は、霊的無限の世界に通じることができる親の代わりに、神様と愛を分かち合うことのできる霊界へ再び生まれなければならないのです。
(297-258 ~ 259、1998.12.19)
霊界は、どんな所でしょうか。私達が霊界に入れば、頭の上にある気孔と細胞で呼吸するようになります。(注15)霊界での空気は、地上の空気ではなく愛です。呼吸を通じて愛の要素を受けるのです。
私達が地上で生きるときも、御飯だけ食べてはいけません。御飯だけ食べて、水だけ飲んで生きるというのは、御飯袋と水袋を満たすだけのことです。結局、そうして死んでいくということです。
地上で生きる間の私達の姿は、第2の私達の存在です。私達がこの期間にすべきことは、新しい愛の人格を形成することです。この地上で私達が最も必要とするものは愛です。孤児とは何でしょうか。お母さん、お父さんの愛を受けられない子供たちをどうして孤児と呼びますか。霊界と永遠に連結させることのできる愛がないからです。愛がなければ孤独なのです。
それで独身で生きる人をかわいそうだというのです。もう一度お話ししますが、私達が死ぬということは、第2の呼吸をしていた肉体に連結されたこの器官を壊してしまって、愛の要素を受け継ぐことです。ですから私達は、いずれにせよ肉身を破って出ていかなければなりません。愛は見えないものです。父母の愛、夫婦の愛、兄弟の愛、子女の愛、このすべての愛を中心として私達の内的な構造が成長するのです。
それで私達が神様の法則のとおりに生きるときにのみ、赤ちゃんがお母さんの腹中で正常に育つのと同じように、私達がこの地でもよく成長できるのです。ですから、むやみに生きてはならないのです。
(297-260、1998.12.19)
とんぼも同じです。初めは幼虫になって水の中で泳いで暮らし、地上に上がってきて、しばしはい回り、その次は殻を脱いでぱたぱた飛び回り、陸地では食べるようになるとは想像もしなかった虫を捕まえて食べます。天下を自分の舞台にして飛び回るのです。
昆虫類の中には、三段階の世界を経るものが多いのです。それで昆虫には羽があります。水と陸地と空中の三時代を過ごしながら羽をもつようになります。万物の霊長という私達人間に羽がありますか。人間には次元の高い翼があるのです。死は第2の出生の恵みの関門です。
(297-261 ~ 262、1998.12.19)
2. 死後の人生の最初の瞬間
― 宗教経典 ―
ああ、善い人よ、汝には習癖を作る力(習気)から出来上がっている意識の身体(意成身)というものがある。しかしこれは実質を待った血肉の身体ではないのである。
したがって音響・色彩・光明の三つからなるものが迫ってきても、それが何であっても汝に害を加えることはできない。汝には死ぬことがないからである。それが汝自身の投影であると覚りさえすればよいのである。それはすべてバルドゥの現出であると知るべきである。
チベットの死者の書(仏教)
世を旅立つとき、霊魂は、どのような旅程がこれから待っているのか知ることができない。選ばれた霊魂たちのための輝かしいその道が、全員に与えられるのではないからだ。この世で行業が霊魂の行く道を決定する。
ゆえに、常に聖なるその方に向かい、主に向かう渇望に満ちた人は、霊魂が旅立つとき、この世から与えられた力によってより高い圏に向かって導かれるだろう。
ゾハール1.99a ~ b(ユダヤ教)
永遠に備えるために私達に与えられている現世の生涯を終えると、見よ、もし私達が現世にいる間に時間を有益に用いなければ、後から暗闇の夜がやって来る。そして、そこでは何の働きもできない。
あなたがたはその恐ろしい危機に陥るときに、「私は悔い改めて神に立ち返ろう」と言うことはできない。あなたがたはこのように言うことはできない。なぜならば、現世を去るときにあなたがたの肉体を所有しているその同じ霊が、あの永遠の世で、あなたがたの肉体を所有する力を持つからである。
モルモン経、アルマ書34.33 ~ 34(末日聖徒イエス・キリスト教会)
臨終の時、私のみを念じて肉体を脱して赴く者は、私の状態に達する。この点に疑いはない。臨終において、人がいかなる状態を念じて肉体を捨てようとも、常にその状態と一体化して、まさにその状態に赴く。
それ故、あらゆる時に私を念ぜよ。……身体の一切の門を制御し、意(マナス=思考器官)を心中において遮断し、自己の気息を頭に止(とど)め、ヨーガの保持に努め、「オーム」という一音のブラフマン(聖音)を唱えながら私を念じ、肉体を捨てて逝く者、彼は最高の帰趨に達する。
バガヴァッド・ギーター8.5 ~ 7、12 ~ 13(ヒンドゥー教)
― み言選集 ―
歩いていて自動車事故に遭って即死したとき、自分が死んだことが分かりません。霊界に行けば、「ああ、変な所に来たな。ここは私の町より良いな。ないものがなく、すべてのものがある」と思うのです。広大な天地が広がります。
死んだことが分からないのです。自分の周りにいた人たちも、会いたいと思ってこそ現れるのであって、呼ばなければ現れません。一人でいるような思いをたくさんするのです。ところが、霊界に行くと、霊界で案内する人たちが来て教えてくれます。「あなたはあの世に来た。死んだ。死んだ」、そのように言います。
しかし、死が認識できないのです。夢のようにわずかに自動車とぶつかったことは感じられるのですが、死んだという思いはしません。そこに行って死んだことが分かっていないので、ぽかんとしています。眠れません。
自分の家に行こうと、「私は故郷に行かなければならないのだが」と思いながら、故郷に行こうとします。地上の故郷に行くことができますか。故郷に行こうとしても行けません。ですから、来て教えてくれるのです。自分のおじいさん、お父さん、お母さんが来て、「お前は地上世界ではなく霊界に来たのだ」、このように言うとき、「ああ、霊界はこのような所なのだなあ」と思うのです。
(194-41 ~ 42、1989.10.15)
私達の人生が単に70 年の生涯で終わるのならば別問題ですが、永遠の問題を中心として生きていくというときには話が違います。それでは、霊界があり、死後に霊界に行くのならば、何をもって考えるのですか。
その世界は広大な世界です。そのような世界に入っていけば、すぐに感じるようになります。この地で民族間の差別があり、背後に文化的な格差や相入れない生活状態、苦しめられて生きているそこでも、自分を立ててすべてのものを収拾したいと思い、自分の主張と自分の価値を残したいと思っていた過去のことが、昔に過ぎていったことではなく、その世界に行っても生々しく蘇るのです。
その環境が、自分が測定し、自分の考えの範囲内で自由に吸収できない膨大な世界であるほど、より一層慕わしく思うのが故郷の地、あるいは地球星の暮らしではないですか。このように思うのです。
それでは、あの霊界に行って永遠の世界を慕っていく生活をするようになるとき、そこに行って、いつそれを忘れるのですか。その世界に行って出会う人は、みな見慣れない人たちです。そのような慣れない環境で私がもし一人で立っていると考えてみてください。そこで考えるとき、自分が慕う人、過去に心の中から抜くことができない、情緒的な関係を結んでいたすべての因縁を抜け出すことができないのです。
自分が霊界に入っていったとすれば、「父と母はどのようになり、祖父と祖母はどのようになったのだろうか」という、そのようなことを考えるでしょう。
(187-285 ~ 286、1989.2.12)
私がもし愛の道を訪ねていて、そのような愛の主体を中心として求めていく道で不幸にも死んだと考えてみましょう。そのようになれば、それが死ぬことで終わるのではありません。死ぬとき、「私は愛の道を訪ねていきながら死にます」と考えるでしょう。「私はこの愛のために死ぬので、この愛は私の怨讐だ」、このように考えないというのです。死ぬときに、死を忘れても愛を抱いて死のうとします。その愛の懐で死ぬと考えるとき、それは不幸な死ではありません。
それでは、死によって愛が壊れたのでしょうか。違います。愛の主体である神様が、「お前は、私が出会いたい愛のために死んだ」と、その価値をより良い価値として認定するのではないかというのです。
皆さんがもし神様であれば、自分のために、自分を愛するために、互いに愛するべき道のために死んだ人に出会ったとき、どうすると思いますか。夫婦でも、夫のために死んだ妻に、夫が会えばどうすると思いますか。あるいは、兄弟の間で兄が弟のために、弟が兄のために死んだというとき、その死んだ兄と弟が出会ったとすれば、どうなると思いますか。
生きて出会い、愛し、喜ぶよりも小さく喜ぶでしょうか、大きく喜ぶでしょうか。死なずに出会って愛するのと、互いのために死んで出会ったとき、愛の強度は同じでしょうか。それは、死なずに出会って愛する次元を超越できる愛ではないでしょうか。
皆さんが先生のために死んだのなら、先生がその事実を知って、次に死んで再び出会うことができれば、どれほどうれしいですか。ですから、そのような愛の道を訪ねていく道において死が問題になるでしょうか。死さえも問題になりません。死の道を訪ねていくとしてもそれが死で終わるのではなく、より次元の高い、より近く、より永遠で、より一つになり得る愛の世界に突入する一つの関門になると考えるとき、その死が恐ろしいでしょうか。
そのような境地を訪ねていく人は、死が問題ではありません。そのような場を発見し、そのような道を確定していく人は、不幸ではありません。幸福な人です。幸福な人であれば、その幸福な人に同情されなければなりませんか、同情しなければなりませんか。その人に同情してあげなければならないことは間違いありません。
(67-173 ~ 174、1973.6.3)
6) 審判
死後の世界に通じる最初の通路の次に、まだ平安たり得ないもう一つの関門がある。各個人は、加減なく正直に自分の人生を明らかにしなければならない審判を経験する。すべての行為と、それが人々に影響を及ぼした結果を記録する帳簿がある。今、その帳簿が開かれて読まれる。その人の人生を記録した映画が、その心のスクリーンに映し出される。すべてのことが余すところなく明らかになる。
審判の主要な基準は、自分の行為のようである。ある人が人のためにより多く生きたのか、あるいは自分の利益のためにほかの人を利用したのか。宗教の諸経典は、その審判の場面を描写する。ここで神様は審判者として、イエス、またはムハンマドは弁護人として、時には悪魔が罪を讒訴する者として登場することもある。神様は証に基づいて審判せざるを得ない。
この点に関して文鮮明先生は独特な洞察を提示する。審判において、サタンの讒訴を免れるために私達は地上生活で、私達を最も憎み、そしる人たちを克服しなければならない。彼は、彼らを愛らしい「カイン」と呼ぶ。
諸経典は、ただ義なる者のみが入っていくことができる門、義なる者のみが渡っていくことができる「隔離の橋」、すべての偽りを火で燃やし、ただ真なるものだけを残す火に言及する。霊界は、その状態によって霊魂を受け入れる様々な領域と天国、そして地獄で構成されている。
霊魂たちは分類され、自らにふさわしい場所に自ら行く。資格のない者を防ぐための門番もなく、交通を統制する警察官もいない。各自は、自ち自分の品格と過去の人生に最も適合した場所に行くからである。
1. 人生の回顧
― 宗教経典 ―
神は、善をも悪をも一切の業を、隠れたこともすべて裁きの座に引き出されるであろう。
コヘレトの言葉12.14 (キリスト教)
「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。
マタイによる福音書10.26 (キリスト教)
私はまた、大きな白い玉座と、そこに座っておられる方とを見た。天も地も、その御前から逃げて行き、行方が分からなくなった。私はまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。
ヨハネの黙示録20.11 ~ 12(キリスト教)
大地が、揺れに揺れるとき、大地その重荷を投げ出し、人は「かれ(大地)は、何事だろうか」と言う。その日かれは、種々の消息を語るであろう。それは主が、かれに黙示されたためである。
その日、人びとは分別された集団となって進み出て、かれらの行なったことが示されるであろう。
(そのとき何人も)一みじんの重さでも善を行なった者はそれを見る。また、一みじんの重さでも悪を行なった者はそれを見る。
クルアーン99.1 ~ 8(イスラーム)
ひとりびとりに、われはその運命を首に結びつけた。そして復活の日には、行いの記録された一巻がつきつけられ、かれは開いて見る。(かれに仰せられよう)「なんじの記録を読め。なんじの魂は、己れのための計算書として、きょうは十分である。
クルアーン17.13 ~ 14(イスラーム)
あなたたちがこの世を旅立ったのち、神はあなたの行業を数え計るが、このすべてが彼の帳簿に一つ一つ記されている。従順でないものたちは召喚され、死の使者であるアズラエルが彼らの頭の上を徘徊する。真っ暗な狭い道でわなにひっかかった彼らは、逃げ出す所が分からない。ナナークが言うには、偽りは衰亡し、最後は真理が優勢になるだろう。
アーディ・グラント、ラームカリー・キ・ヴァールM.1、p.953 (シーク教)
人間が世の中をたつとき、肉身は分解され、霊魂が旅立つ用意をする。その日、初めて人間は、肉身が強健だったときに見ることができかったものを見ることを許される。3人の使者がその前に立ち、彼の人生と地上でしたすべてのことを語る。すると自分の口ですべてのことを認め、自分の手でそこに署名する。……これはちょうど、ヨブ記37 章7節の「すべての人間に御業を認めさせられる」と記されているのと同じである。
ゾハール1.79a(ユダヤ教)
― み言選集 ―
この地上に生まれて、運命の瞬間を迎える最期の場で、過去を悔いる人がいるなら、その人の心には、過去のすべての事実が、映像として過ぎていくでしょう。これこれこういう人だということを、誰かが教えてくれなくても、自ら分かるでしょう。
先祖から受け継いだ生命体をもって、今まで因縁をもった環境と、残しておいた事情など、過去のすべてが一生の最期の瞬間に、自分の心に映像として現れるでしょう。
その中で、「真があった、自分の生命よりも貴い何かを残した」という人がいるなら、彼はたとえこの地に生まれて死んでも、甲斐ある一時を残す人になるでしょう。しかし、「生まれて死ぬこの一生の行路が、通行人のようにただ通り過ぎるものだった」という人もいるのです。
そのような人のすべての過去の事情を回想してみるとき、そのすべての事情が、頭を振って回想したくない過去をもったなら、彼は悲惨な人です。
過去を回想すれば回想するほど、自分の顔に歓喜があふれ、自分のすべての問題が理想に浸ることができるなら、死の恐怖も彼には慰労の一場面として飾られるでしょう。
このようなことを見るとき、過去を回想する瞬間が、恐怖の瞬間でなく、他の何かを残したなら、彼の過去は死なないのであり、現実も死なないものとして現れるでしょう。そのようにできる過去をもった人は、必ず民族が従ってこられる因縁をもった人であり、世界万民がついてこざるを得ない因縁を残した人だと見ることができます。
生涯路程で、自分のために死の場まで行くことより、兄弟なら兄弟、親族なら親族、他人なら他人のために、自分の命をみな捧げて彼らを救ったなら、彼らを救うためにぶつかった時があったなら、そのような事実が最後の運命の場で、彼の心の線上に映像として現れ得るということになるでしょう。いくら自分を中心とした幸福な時があり、数多くの群衆から歓迎されて、自分が光栄にたたえられた聖なる時があったとしても、それは、その瞬間には効力を発揮できないようになっています。
善であったか、真になったか、神様の前に一人立つことができたかという問題について見るとき、真と善は自分から始まり、自分に終わるのではありません。自分から始まり人に結果を結ばせるとか、人によって始まって自分に結果をもたらすことができてこそ、善になり得るのです。私達の原理で、天地のすべての存在は与えて受ける因縁を経なければならない、というのと同じです。
過去の生活が与える生活だったなら、死の道にも恐怖がないでしょう。人のためにすべてを与えて、人のために犠牲になり、真に近い生活をしながら、涙も人によって流し、自分の命も人によって投入し、自分の願いも人によるものなので、自分の脈拍から流れ出るすべての生命力を引き集めて、人のために投入したというなら、その過去は輝き得る過去でしょう。
皆さんは、見るからに険しい環境を備えたこの堕落圏内で、皆さん自身が行く姿を、図表を書いてみるようになるとき、1年はこのように行き、1年はあのように行くだろう、あるいは10 年はこのように行き、10 年はあのように行くだろうと言って、自分なりに一生の行路を計画しながら、高低を予測するでしょう。その高低が、自分を中心として高くなった、低くなったという人は、最後の運命を迎えるようになるとき、自分のために生きながら、人を犠牲にしたそのすべてが、自分をがんじがらめにするでしょう。
(31-308 ~ 310、1970.6.7)
2. 天国と地獄の区別
― 宗教経典 ―
時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。
ヨハネによる福音書5.28 ~ 29(キリスト教)
裁き人は最も正しい行動をもって、第一の世界のもろもろの律法なるものをもってすると同じように、行動するでしょう。不義者にたいして、はたまた義者にたいして、さらには邪なるものと正しいものとが混在しているものにたいして。
アヴェスター・ヤスナ33.1(ゾロアスター教)
ある者は害意のある身の行を作り上げます。害意のある語の行を作りあげます。害意のある意の行を作りあげます。かれは害意のある身の行を作りあげ、害意のある語の行を作りあげ、害意のある意の行を作りあげ、害意のある世界に生まれかわりますと、そのかれに、害意のあるもろもろの接触が触れます。
害意のあるもろもろの接触が触れると、かれは、害意のある、もっぱら苦しい感受を受けます。たとえば地獄の生けるものたちのようなものです。プンナよ、以上のように生じたものから生けるものの生まれかわりがあります。行なう行為によって生まれかわります。この生まれかわっているものに接触が触れます。このようにまた、プンナよ、私は「生けるものたちは業の相続者である」と説きます。
阿含経中部i.389 ~ 90、犬行者経(仏教)
人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。
マタイによる福音書16.27(キリスト教)
自然にすべてのホッピーは、彼が愛していた死んだ人の霊魂と接することを願う。そのような目的で彼は自分の心情を純粋に維持し、人に親切で寛大だ。ホッピーではない者として知られた悪い人が死んだとき、彼の運命は大きく異なる。彼の息が体から抜け出るやいなや、「二つの心をもった者」と呼ばれる魔法師たちが手で彼を捕まえる。そして彼らは、彼を彼らの国に連れていく。「二つの心をもった者」の国は、彼らが悪であるように悪である。
ホッピー族の伝承(アメリカ先住民の宗教)
ラッパが高く鳴り響くと、天にあるものも、また地にあるものも、神がよみしたもう者のほかは気絶しよう。それからふたたび鳴り響くと、見よかれらは起き上って見まわす。
そのとき大地は主の栄光で輝き、行いの記録が置かれ、諸使者と証人たちが進み出て、公正な判決が、かれらの間に宣言され、いささかも不当に遇せられないであろう。
各人は、その行なったことに対して、十分に報いられよう、かれは、かれらの行なったすべてを最もよく知りたもう。
不信者は、集団をなして地獄に駆られよう。かれらがそこに到着したとき、地獄の諸門は開かれる、そして看守は、「おまえたちの間から出た、諸使者が来なかったか、(そして)主からのしるしをおまえたちのために読唱し、また、おまえたちのこの会見の日のことを、警告しなかったか」と言おう。
かれらは答えて言おう「その通りであります、ただし、不信者に対する刑罰のおことばが、真実に証明されました」。かれらに言われよう「なんじらは地獄の門をはいれ、その中にとこしえに住め」。何と哀れなことよ、高慢者の住まいこそは。また、かれらの主を畏れたものは、集団をなして楽園に駆られよう。
かれらがそこに到着したとき、楽園の諸門は開かれる、そしてその看守は言おう、「あなたがたに平安あれ、みごとであった、ここにおはいり、とこしえの住まいである」。かれらは感謝して言おう「神をたたえ奉る、かれは、私達への約束を果たし、私達に大地を継がせたまい、この楽園の中では、好きなところに住ませたもう」。何と結構なことよ、善い行いにいそしんだ者への報奨こそは。
クルアーン39.68 ~ 76(イスラーム)
死の世界の敷居で
あなたは審判官が見る前を通過するだろう。
彼の審判は真実で、あなたの二本の足を見る。
たとえ革に覆われて見えなくても
彼はすべての汚れを知るだろう。
あなたが堕落したことがあれば、
彼が知るだろう。
審判官があなたの足から
何のしみも見ることができなければ、
腹を広げて喜べ、
あなたはすべてに勝ち
清い腹をもったからである。
パン族の歌(アフリカ伝統宗教)
― み言選集 ―
どのような人が悪の人であり、どのような人が善の人か、何で測定するかということが問題です。しかし、それは簡単なことです。その人がいかに宗教人であっても、彼が天国に行くか、地獄に行くか、ということを何で測定できるのでしょうか。自分のために生きてきた生涯が多ければ、彼は地獄行きです。
他のために生きた生涯が、自分のために生きた生涯よりも1パーセントでも多ければ、彼は地獄を越えて天国に向かうことのできる道に立つのです。けれども、自身のために生きた比率が高いときは、地獄に行くのです。
(75-330、1975.1.16)
それでは、人間の良心基準は、天倫の心情を100 パーセントそのまま受け入れることができるようになっていますか。そのようになっておらず、数多くの障壁が立ちふさがっているのです。
皆さんが願う喜望峰、すなわち天国の関門の前に曲折の門が横たわっています。これがキリスト数的に言えば審判の関門です。
(4-269、1958.8.3)
永生に向かう公式的路程は同じです。そこには、ために生きた人たちだけが通過できる正門があり、そこに門番が守っている事実を知らなければなりません。そこを通過できる資格者にしてあげるために、先生が頼んでいることをよく理解して、きょう帰って過去を反省しながら新しく生まれ変わることを願います。
(203-193、1990.6.24)
霊界に行ってみれば、霊界は膨大ですが、三段階になっています。誰が頂上に上がっていきますか。よりために生きた人です。そこの法がそうです。そのような人は、ここから出発してあそこに行っても、「うれしいです! ようこそ!」、ここに行っても、「うれしいです! ようこそ!」と歓迎されます。
しかし、自分のために生きた人には、反対の世界が展開します。それも同じように三段階です。ここではすべて「ふん! 私達は、お前のような者は嫌いだ!」と反対するのです。
二種類です。二種類ですが、それを分析してみると、自分のために生きていた人はすべて反対され、人のために生きていた人はすべて歓迎されます。これは間違いありません。
皆さんが天国に行く群れなのか、地獄に行く群れなのか、はっきり知らなければなりません。レバレンド・ムーンが、ただ考えて言う言葉ではありません。霊界をよく知っている人です。死を避けることができる人は一人もいません。
死を避けることはできないのです。自分のために生きた人は、地獄に行くのであり、人のために生きた人は、天国に行くのです。この二つの世界が、死から分かれるのです。
(203-100 ~ 101、1990.6.17)
3. 審判の法廷
― 宗教経典 ―
だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれが私達を罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、私達のために執り成してくださるのです。だれが、キリストの愛から私達を引き離すことができましょう。
ローマの信徒への手紙8.33 ~ 35(キリスト教)
私が死ねば、私の死はあなたに慈悲と恩寵になるだろう。死後にあなたの行動が私に送られ、私がそれを見るだろう。正しいことをした者のために神に賛美を捧げ、悪を行った者のためには神に赦しを求めよう。
イブン・サウド・ハディース・(イスラーム)
生まれた者は、結局死ぬようになっている。死んだ者は再び新しい生を得る。生きている者は、結局審判を受けることを知るようになり、知らされ、聖なるその方、神を知るようになっている。
神は製作者、創造者、全知者、審判者、証人、告発者であられる。これから審判される方も、私の愛するその方であられる。その方がいらっしゃる所は、どこにも、不義、赦されないこと、見下すこと、わいろを受けることはあり得ない。
すべてのことは道理に合うように回っていくことを肝に銘じよ。墓が避難所になってくれるという無駄な希望をもってはならない。あなたが生まれて生きることも死ぬことも、すべてそうなる理由があるのだ。後日王の王であられる愛する聖なるその方の前で地上の人生を審判されるだろう。
ミシュナ、アヴォート41.29 (ユダヤ教)
― み言選集 ―
イエス様があの世に行って、弁護士の役割をしているのです。イエス様が弁護士になって、「この人は、私の名を信じ、善なることをしました。善であろうとし、公理の法度を守った人は、悪魔も連れていけないということは、悪魔と神様と協定した条約ではないですか」と言うのです。そうすると神様も、「そうだ」と言うのです。
(149-98、1986.11.17)
私の心と体を土台として神様が最後の審判をするとき、私個人が審判の聖書となり、法典となり、審判をしても引っ掛からない絶対的な位置を築いてこそ、個人復帰が完結するのです。
今は、個人完成の上に家庭を完成しなければならない時です。家庭の歴史は、すべてが審判の材料になるのです。それで、審判を受けるとき、サタンが讒訴できない純潔の家庭にならなければなりません。
そうしてこそ、家庭的な復帰を成して民族的な土台を完結できるのです。民族的な勝利の基盤を完全に築けば、サタン世界の万民を審判することができ、神様御自身が裁判長の位置に立つようになるのです。この時、イエス様は、弁護士になられ、サタンは検事になります。
全世界に広がっている民族がサタンを攻撃するとき、抗議を受けない絶対的な勝利の基盤を築いてこそ、民族的な復帰の道を行ったと言うことができるのです。そのような人が国家、世界、天と地、全人類の救援の主人になります。
それで、彼が霊界と肉界を統合する天宙世界において、途方もない歴史的な全体の蕩減基準を完結しておいて、天地を中心とする億千万世の大審判場を用意したおいたあと、創造主であられる父をお迎えし、今まで天地において過ちを犯してきた怨讐を無慈悲に審判するとき、背信者から小心者まで、すべて抗議することができずに当然だと言える基準を立ててこそ、天地復帰路程が完結するのです。
(13-211、1964.3.15)
皆さんは、カインを愛しますか。カインはサタンです。サタンの息子です。その霊的サタン、実体サタンが立ち向かってくるのです。葬り去りたいと思い、統一教会が憎くてしかたなく、ぎりぎり、ぎりぎりと歯ぎしりします。
私達が御飯をくれと言いましたか、餅をくれと言いましたか。黙っていてもそうなのです。ここに皆さんが引っ掛からないようにしようとすれば、カインを屈服させなければなりません。カインを屈服させるためには、最後までカインを愛さなければなりません。そのような人でなければ、カインを救えません。
ですから、皆さんが天国に行くには、サタンの承諾書をもらわなければなりません。サタンの承諾書とは何でしょうか。罪人が釈放されるには、まず検事を通じ、弁護士を通じてから、判事によって釈放されるのです。
このような立場で見るとき、サタンは検事であり、神様は判事であり、イエス様は弁護士です。サタンが、「お前はこれこれこのようにしただろう?」と言って、さっと罠にかけて神様に、「この人は、このようにしなければならない」と言えば、神様もどうすることもできないのです。すると、イエス様は弁護士の立場で、「神様、この人の先祖はこのようなことをしました。本来、血統は悪くない人です。これこれの条件に引っ掛かったので、その条件に該当した蕩減条件を立てさせ、罪を脱がせてやらなければなりません」と言うのです。このようなことをしてきています。
ですから、皆さんが天国に行くには、サタンの承諾書をもらわなければならないのです。サタンを愛したと認定されなければ、永久に天国に行けません。
(48-316 ~ 317、1971.9.26)
4. 自らの審判
― 宗教経典 ―
自我はつくるものであり、つくられないものである。幸福をつくるか悲しみをつくる。自ら友かと思えばまた敵でもある。自ら良し悪しの立場を決定する。自ら自身のパヤラナ川(地獄の存在が苦痛を受ける川)である。
マダキヒシュロッカ(ジャイナ教)
世を破壊するために、人間を悪行に権勢をもって結びつけるのは、カラバン僧らとカウィ王侯らですが、その彼らに、彼ら自身の魂と彼ら自身のダエーナーは立腹するでしょう、いつの日までも「不義」の家に客たる彼らが、チンワントの橋のあるところにやって来るときに。
アヴェスター・ヤスナ46.11 (ゾロアスター教)
汝と一緒に生れた善神によって汝が生前に行った善い行ないの数々がすべて集められ、白い小石で数え上げられるであろう。汝と一緒に生れたピシャーチャ鬼によって汝が生前に行った悪い行ないの数々がすべて集められ、黒い小石で数え上げられるであろう。
この時に、汝が非常に驚き、恐れおののき震えて、《私は悪いことはしていません》と、嘘をついたとする。それに対してヤマ王は《ではお前のカルマンを映写する鏡〈業鏡〉を見てみよう》と言って鏡を見る。
汝の生前に行った善い行ないと悪い行ないのすべてが鏡の面に輝いてはっきりと映し出されるので、汝が嘘をついても無駄である。ヤマ王は汝の首に縄索をつけて、汝を引きずり出し、首を切り、心臓を食らい、はらわたを引き出し、脳みそをなめ、血をすすり、肉を食べ、骨をしゃぶる。汝はそれでも死ぬことができない。身体が切れ切れに切り刻まれても、また蘇生してしまう。何度も何度も切り刻まれて、大変な苦しみを昧わうであろう。
この白い小石が数えられている時にも汝は恐れてはならない。おののいてはならない。嘘をついてはならない。ヤマ王におびえてはならない。汝は意識からできている身体であるので、殺され切り刻まれても、死ぬことはないのである。
本当のところ、汝は空それ自体が姿をとったものなのであるから、なにも恐れることはないのである。ヤマ王たちは汝の思いが化して現われたものである。空なるものの姿にほかならない。汝の身体は、潜在意識が形をとったものである。空なる意識からできた身体にほかならない。空なるものが空なるものを傷つけることはできない。性質をもたないものが性質をもたないものを傷つけることはできないのである。
汝自身の錯乱によって現われた幻影以外に、ヤマ王や善神やピシャーチャ鬼や牛頭の鬼(羅刹)等が実際に存在するのではないことを覚るべきである。
チベット死者の書(仏教)
― み言選集 ―
天国でも地獄でも、霊人体がそこに行くのは、神が定めるのではなく、霊人体自身が決定するのである。人間は元来、完成すれば、神の愛を完全に呼吸できるように創造されたので、犯罪行為によってもたらされた過ちのために、この愛を完全に呼吸することができなくなった霊人体は、完全な愛の主体である神の前に立つことが、かえって苦痛となるのである。それゆえに、このような霊人体は、神の愛とは遠い距離にある地獄を自ら選択するようになる。
原理講論、創造原理6.3.2
皆さんが天と地の境界線です。地獄と天国の境界線です。「世の中に行くのか、天に行くのか」が確定されなければなりません。皆さんの心と体がここに行くのです。「1歩行くのか、2歩行くのか、3歩行くのか」というのです。
心と体が一つにならなければなりません。神様が地獄に送り、天国に送るのではありません。自分が訪ねていくのです。皆さんが知っている所に行くので、不平を言うことができません。地獄に行って、「神様、私をなぜ地獄に送ったのですか」と言うことはできないのです。誰も神様に対して不平を言うことができません。自分が行く所を決定するのです。今もそうです。私自身が、「天国に行くのか、地獄に行くのか」ということをみな知っています。
(201-225 ~ 226、1990.4.22)
そうだとすれば、天国行きと地獄行きはどこで決定するのですか。私によって決定するのです。体の五官を通して感じる条件の中で、良心の呵責を感じる生活をする人は地獄にいます。心を中心として、心が喜べる生活をする人は天国にいるのです。ですから、人は物欲と悪心を捨てて、良心を中心として天倫を望むのは当然のことです。これは皆さんもよく知っているのです。
(7-238、1959.9.20)
天国は誰かが教えてくれて行くようになっていません。良心的に生きる人は自動的に行くようになっているところが天国です。太陽が昇れば、すべての木の芽は太陽に向かいます。草までも自ら方向性をもって帰っていくのに、まして万物の霊長である人間が自分の行く道を知らないわけがないのです。このような現象が起こってくるのです。
(75-42、1975.1.1)
7) 天界
天国と地獄に対する概念は、世界の諸宗教において普遍的に発見される。この領域に対する描写は、地上人たちの日常的な生活において多くは経験できない実在を象徴化し、絵画的で、幻想的な構成で満ちている。この領域は、客観的に実在するのか。宗教の諸経典は、異口同音にこの領域が実在するという。
しかし、その領域は、何かの物理的位置を備えていない。そこの「上」、または「下」は霊的な位相の問題であって、天文学や地質学的位置ではない。ある経典で発見される見解、すなわち天国や地獄は私達の心の状態から派生したという見解は、それを非実在的なものであるという根拠には決してなり得ない。
なぜなら、倫理的な生活において、見える行いによって隠されることもあり得る私達の心の中の態度と欲望が、霊界の内容を構成しているからである。
世界の諸経典は、天国を神様の恩寵に満ちた安息所、あるいは高貴な霊的状態として描写される。天国の居住者たちは神様と交流し、互いに調和を成しながら生活する。数多くの経典は、そこを死んだ者たちの霊魂や聖者たちとの親交場所として描写する。より絵画的で世俗的な光景として描写され、喜びにあふれ、あらゆる富と珍しく貴重な宝物があふれた所として描写した章句もある。
天国に関する文鮮明先生の多彩な描写は、経典のこの主題と一致する。さらに先生は、天国とは家族が完全な愛を享有しながら一緒に暮らす所であることを確認し、強調する話をさらに付け加える。
私達は、天国の光景や天国への旅でこの節を締めくくる。ここには、文鮮明先生自身の描写だけでなく、仏教の浄土に対する描写、ムハンマドの七つの天国を経る夜の旅、「素晴らしい湖の法典」に出てくるイロコイ北アメリカ先住民の旅が含まれる。
この章句は、すべての希望が成し遂げられる永遠の若さと健康があふれる世界、揺れ動く色調と甘美な曲調で感覚が生気に満ちあふれる楽園のような世界として、それを描写する。
1. 恩寵の世界
― 宗教経典 ―
この世においても、来世においても、そのような人は決して滅びはしない。友よ、善をなす者は、誰も悪趣に赴かないから。ヨーガから脱落した者は、善行者の世界に達し、無限の歳月そこに住んだ後、清浄で栄光ある人々の家に再生する。
バガヴァッド・ギーター6.40 ~ 41(ヒンドゥー教)
だが信仰して善い行いにいそしむ者たち、これらの者は、衆生のうち最善の者である。かれらの報奨は、主のみもとの川が下を流れるエデンの園で、かれらはその中にとこしえに住むであろう。神はかれらを喜びたまい、かれらはかれに満悦し奉る。それは主を恐れる者への報奨である。
クルアーン98.7 ~ 8(イスラーム)
ラビ・ジョセフが……病にかかり意識を失った。再び回復したとき、彼の父が尋ねた。「何を見たか」。彼は答えた。「今の世の中と正反対の世の中を見ました。上にいる者が下にいて、下にいる者が上にいました」。父が答えた。「息子よ、正された世の中を見たのだ」。
タルムード、プサヒーム50a (ユダヤ教)
到来する世は、今の世とは異なる。新しい世になれば、飲み食いすることはないだろう。子供を生むこともなく、商いもないだろう。嫉妬や憎悪や競争がないだろう。新しい世には義人が尊敬され、彼に王冠がかぶせられ、彼は神聖な光彩を享受するだろう。
タルムード、ブラホート17a(ユダヤ教)
何の眩惑もない世界、永生と、この上ない権能と、輝く光彩を備え、自らの形を意のままに変えることができ、いつでも最初の日のように美しく、数千の太陽が発する光輝を備えた神々がとどまる世界、このように比べるもののない究極の境界は、自己統御と苦行により得るが、あらゆる利己的な欲望を抜け出して解脱に入った凡人と、苦行僧たちが得るところの境界だ。
ウッタラッジャーヤー・スートラ5.26 ~ 28(ジャイナ教)
恩寵の世界は気高いところにあるが、神の意識で満たされた英雄たち、至高な権能の英雄たちでなければ、誰も近づける者がいない。至極美しくこの上ない賛美を受けたシッタのような多くの女神たちがその世界に暮らす。
神と一つになったこの者たちは、あらゆる死と心の迷いから自由である。その世界には、至る所で集まった聖なる神に帰依する者たちが暮らし、心に崇厳で永遠の神を抱いている。永遠の至福で無形の至高者が永遠の世界にいて、一切の万有に限りない恩寵を下す。
その世界はすべての大陸と国を抱いており、その数を数えることができない。その中にあるあらゆる森羅万象が彼の意に従う。彼はこの上ない喜びでそれらを見下ろし、一つ一つ心の中に抱く。ナナートが言うには、実に形容し難いものがその世界の壮麗さだ。
アーディ・グラント、ジャプジー37、M.1、p.8(シーク教)
―み言葉選集―
神様は、このような中心存在でいらっしゃるのですが、それでは、神様がいらっしゃるあの天国、神様がいらっしゃるあの霊界はどのような組織でできているのですか。その組織の構造は簡単です。天国に行くことができ、極楽に行くことができる人たちは、自分のために生きていた人たちではありません。そのような人は行くことができません。全体のために生まれ、全体のために生きていた人が行く所が天国だというのです。
皆さんは、霊界を体験した経験がないかもしれませんが、私は天の恩賜によって数多くの霊的世界を体験しました。天国に入っていくと、自分のために生きる人は一人もいません。神様のために生き、人類のために生きた人たちが、みなその世界に行っているのです。
(77-189 ~ 190、1975.4.6)
神様を擁護し、神様の近くに来れば来るほどうれしいというのは、原理がそうだからです。したがって、霊界というのは、神様を中心とする理想世界として神様の愛の拍子と、その波動によって動く世界です。それで、自分がそこに調和できる要素を地上で築いていかなければ、そこで和合ができないのです。そのためには、子女の愛、夫婦の愛、父母の愛、この三つの愛を完成しなければなりません。
(19-335、1968.3.29)
天国はほかの所にあるのではなく、私の心にあります。その心がとどまる場所はどのような場所ですか。死亡のすべての要素を内包している場所ではなく、それを克服し、一つの生命が波及され得る場所です。
それで、天国は心から始まります。世の中に勝った心から始まるのです。いくら環境的に天国が成し遂げられたとしても、自分の心が悪で、それを慕うことができず、そこに動じることができない立場にいれば、その天国は意味がありません。
ですから、天国を迎えることができる土台になるのは、環境ではなく、私自身です。私自身が問題です。天国を維持できる支柱、支えるその支持点がどこかというと、環境の前に自分の心です。
(46-23 ~ 24、1971.7.18)
天国は、常に青い山河と広い草原地帯が広がっており、そこでは鳥が歌い、美しい花が満開で、動物が楽しく遊んでいます。周りの空気は、ライラックの香りのような匂いに満たされています。
また、宝石よりも明るい光彩を放ち、水晶のような透明な世界が現れ、立っているだけでも心がすがすがしく、安らかになります。天国は、深い愛の感動を感じるようになり、自由と幸福と喜びが自然に感じられる世界です。地上とは違って、心の中に感じる深い感動と感覚が持続する世界です。
天国には、悩みや、心配や、つらいことがなく、表情がとても明るく、平和な姿です。お互いに話す必要もありません。自然に感じてために生き、愛する所です。闘いもなく、憎しみやねたみ、嫉妬、傲慢のような堕落性もありません。ために生きる真の愛があふれた世界です。
興進様の霊界メッセージ、2002.1.1
2. 聖人と先祖の親交
― 宗教経典 ―
良き友人たち、善行者たちの愉悦する天界(svarga)、おのが身体の病患を棄て去り、跛者なく、肢体に欠くる者なき所、われら願うは、そこに両親を、息子を見得んことを。
アタルヴァ・ヴエーダ6.120.3 (ヒンドゥー教)
神とみ使いに従う者は、神が恩恵を施したもう者と一緒にいる者たち、予言者たち、誠実者たち、殉教者たち、ならびに正義者たちである。これらはなんとりっぱな仲間であることよ。
クルアーン4.69 (イスラーム)
しかし、あなたがたが近づいたのはシオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です。
ヘブライ人への手紙12.22 ~ 24(キリスト教)
あなたが死ぬとき、あなたはあなたが愛した、既に死んだ人と再び出会うだろう。あなたが死ぬ日に、老いて気力がなかったとしても、あなたは再び若く強くなるだろう。霊魂の地でとうもろこしが育ち、彼らが生存時に善であっても悪であっても、すべて幸福になるだろう。ゆえに死は恐れるものではない。
ユマ族の伝承(アメリカ先住民の宗教)
それから先頭に立つ者は、楽園においても先頭者で、これらの者は、神の側近者であり、至福の楽園の中に住む。むかしからの者が多数で、後世の者からはわずかである。
(かれらは金銀宝玉を)ちりばめた寝床の上に、向かい合ってそれによりかかる。永遠の(清新を保つ)少年たちが、かれらの間を巡り、台付の杯や水差し、清浄な飲物の満たされたコップをささげる。かれらは、それであと障りを残さず、泥酔することもなく、また果物は、かれらの選ぶにまかせ、種々の鳥の肉は、かれらの好みのまま、大きい輝くまなざしの、美しい配偶、ちょうど秘蔵の真珠のよう。かれらが行なったことに対する報奨である。
クルアーン56.10 ~ 25(イスラーム)
ある者のためにはソーマ(神酒)が清まり、ある者はグリタを享楽す、そのために蜜の奔流する者、これらの者(祖先)にこそ彼(死者)は加わるべかれ。苦行により冒すべからざりし人々、苦行により天界に達したる人々、苦行を〔その〕荘厳(しょうごん)となしたる人々、これらの者にこそ彼は加わるべかれ。
合戦において戦う人々、勇士として身体を棄つる人々、または〔牝牛〕千頭をダクシナー(布施)として与うる人々、これらの者にこそ彼は加わるべかれ。天則を扶養し、天則を持し、天則を増大したる古人(いにしえびと)、苦行に富む祖霊、ヤマ(死者の支配者)よ、これらの者にこそ彼は加わるべかれ。
千の讃歌を知り、太陽を守護する詩人たち、苦行に富む聖仙たち、ヤマよ、彼は苦行より生まれたる人々に加われ。
リグ・ヴェーダ10.154.1 ~ 5(ヒンドゥー教)
― み言選集 ―
「天」といえば「二人」を意味します。皆さんもすべてそうです。すべて相対的です。
(92-309、1977.4.24)
天国は、家庭生活の拡大である。
(御旨の道、天国)
霊界は愛の心に酔う、このような最高の場所なので、年を取ることがありません。お母様も年を取りましたが、私が見るに、いつでも一番良いときの姿です。
(201-103、1990.3.11)
天国はどのような所ですか。天国という所は、愛が中心にならなければなりません。天国は、愛を受けたいと思う所、受けてもまた受けたいと思う、そのような所です。私達の「うれしい」という一言が、「うれしい」という千の言葉になり得る所が天国という所です。愛に接すれば、眠気が来ても、眠気はどこかに逃げていったかのように逃げていき、聞こえなかった耳が愛の心に接すれば聞こえるようになり、通じないものがありません。すべてのものが24時間、千年、万年ささやいても、話し続けることができる愛の世界なのです。私達の細胞やすべての感覚が100 パーセント以上動くことができる所です。
(102-160 ~ 161、1978.12.17)
霊界に行けば、山のような所も、そのまますっと……。通じない所がありません。霊界の動きを妨げるものが何もありません。天の本性稟の存在性なので、それを妨げるようになっていません。すべて通じるようになっています。時空を超越しているので、何億年前にいた人が今もいます。その人たちも、みな若い人として、自分か願う年齢で現れます。ですから、そのような人たちにいくらでも会うことができるのです。
(194-133 ~ 134、1989.10.17)
エデンの園において、神様にとって最高の喜びと栄光のあいさつとは何かというと、神様と一緒に愛することです。出会ってベールをかぶって入っていき、神様の前で愛の関係を結ぶことによって、神様と一体になることができるその場があいさつする場なのです。
(314-25、1999.12.30)
天国というのは、人間が堕落せずに、この地上で神様の愛の懐で成婚し、神様の喜ぶ息子、娘、神様の喜ぶ孫を得て神様の愛を受け、その家庭がみな一緒に行く所です。子供が行けなくても、自分さえ行ければ良いというのは天国でしょうか。
ところで、楽園というのは、いくら仲の良い夫婦や親子でも、別れて行くのです。家庭とは何の関係もありません。そのような所が天国でしょうか。両親と共に家族全員が行って、神様を中心として授け受けすることのできる、そのような世界が天国です。
(19-104、1967.12.31)
天国は相対的理念の世界です。それで、家庭がすべて入らなければならず、自分の氏族と国がすべて入らなければならないのです。そうしてこそ、天国が建設されるのです。
(18-331、1967.8.13)
それで、天国は一人で行く所ではありません。父、母、息子、娘、すべて一緒に行く所が天国です。神様の創造目的から見た天国は、そのような所です。母親が地獄に行き、「おい! なにがしよ、私を助けてくれ!」と言っているのに、一人で天国にいることができますか。父親が地獄に行って「苦しい」と言っているのに、一人で天国で「いやあ、うれしい」と言いながら「お父さんは、そこにいても、当然でしょう」と言う、そのような所が天国ではないのです。神様の創造理想である天国は、父母と妻子と共に家族全員が一緒に行く所です。家庭だけが行っても駄目です。親戚も一緒に行かなければならず、民族も一緒にいかなければなりません。国全体が行く所であり、世界全体が行く所です。
(15-265、1965.10.17)
霊界に入っていけば、あいさつが必要ありません。出会えばさっと分かります。すぐに分かるのです。何千年前の人であることが分かります。何百万年前の人だということが分かるのです。
今日、聖書の歴史が、6000 年と言いますが、彼らは霊界を知らない人たちです。聖書の歴史は、何百万年、何千万年です。その時代の私達の先祖を呼べば、すぐに現れるのです。さっと見れば、話をしなくてもすぐに分かるようになっています。自分のすべてのことが現れるようになっているのです。
額が広くなければなりません。額が広ければ、福を受けるのです。立ててあげなければならない人なのか、下に見てもよい人なのか、すぐに分かるようになっています。ですから、あいさつが必要ありません。自動的に秩序が維特されるのです。
すべての秩序は、何によって成り立つのでしょうか。愛によって成り立ちます。人間の世界と同じように、愛によって位置が決定するのです。それで、神様の息子、娘にならなければ天の国に行くことができないのです。
(208-142 ~ 143、1990.11.17)
3. 天国の歓喜
― 宗教経典 ―
天国に入っていく者は、豊かな環境にいて、窮することがない。彼の衣服はすり減ることがなく、彼の若さは限りがない。
ムスリム・ハディース(イスラーム)
アーナンダよ。かの〈幸あるところ〉という世界は、種々のかぐわしい香があまねく薫っており、種々の花や果実が豊かであり、宝石の木々に飾られ、如来によってあらわし出された、妙なる音声をもつ種々の鳥の群れが住んでいる。
また、アーナンダよ、かの宝石の木々には種々の色、多くの色、幾百千の色がある。……金と銀と瑠璃と水晶と琥珀と赤真珠と第七の瑪瑙との七つの宝石でできているものもある。……また、アーナンダよ、それら一切の木々の根や幹や小枝や大技や葉や花や果実は、柔軟(にゅうなん)であって、感触が快く、よい香りがあり、風に吹き動かされるとき、美しく快い音が流れ出て、魅惑的であり、聞いて不快の思いを抱かせないのだ。……
また、アーナンダよ、かの〈幸あるところ〉という世界には種々の河が流れている。……
実に、また、アーナンダよ、それらの大河の両岸には、種々の香りある木々が連なってつづいており、それらの(木々)から、種々の大技や葉や花房が垂れ下がっている。その河岸にいる生ける者どもは、天の、汚れ無き楽しみや戯れに耽りたいと望んでその河に入れば、欲するままに水は足首の深さにとどまるのだ。水は、欲するままに、膝の深さに、腰の深さに、腋の深さに、欲するままに頸(くび)の深さにまでなり、天上の快楽が生まれるのだ。
かしこで、生ける者どもが「冷たい水があればよい」と欲するときは、かれらのために冷たい水がある。かれらが「温かな水があればよい」と欲するときは、かれらのために温かな水がある。「冷温ほどよい水があればよい」と欲するときには、
かれらのために、ちょうど快いほどの冷温ほどよい水があるのだ。
また、その諸々の大河は、天のタマーラの木の葉や、アガル(沈香)や、カーラ・アヌサーリン(随時檀香)や、タガラ(甘松香)や、ウラガ・サーラ(蛇心檀香)や、チャンダナ(梅檀香)といった最上の香りに薫る水を満たして流れ、〔その水面は〕天の青蓮花や紅蓮花や、黄蓮花や、白蓮花や、睡蓮などの花に覆われ、如来によって現わし出された鳥どもの群れの訪れる中州には、白鳥や、鶴や、鴛鴦(おしどり)や、鸚鵡(おうむ)や、慢鷺(さぎ)や、鴨や、杜鵑(ほととぎす)や、クナーラ鳥や、カラヴィン鳥や孔雀などの妙なる鳴き声が聞こえる。
貴金属で美しく彩られ、沐浴に都合のよい階段があり、泥はなく、黄金の砂が振り撒かれている。そこでは、かの生ける者どもが、「われわれのこのような願望が満たされるように」と望むとき、そのとき、かれらのそのような願望は法にかなって満たされるのだ。
無量寿経16 ~ 18(仏教)
神の使徒が言った。「私がメッカにいるとき、家の屋根が開き、ガブリエルが入ってきた。彼は私の胸を開き、ザムザムの水で私を洗ったのち、信仰と知恵で満ちた黄金のたらいをもってきて、私の胸の中に注ぎ浴びせた。
そして、胸を閉じたのち私の手をとり、天の最も低い層に連れていった。そこに着くと、ガブリエルが門番に「門を開けよ」と言った。「どなたですか」と門番が尋ねた。「ガブリエル」と天使が答えると、「あなたと一緒にいる者がいるか」と門番が再び尋ねた。「そうだ、ムハンマドが横にいる」とガブリエルが答えた。
門番は、「彼が命を受けたのか」とまた尋ねた。天使が「そうだ」と答えた。門番が私達に門を開けてくれると、私達は天の最下層に着いた。
そこで突然一人の男を見たが、一部の霊魂は彼の右側に、残りは左側に位置していた。彼は右側を見るたびにほほえんだが、左側に顔を向けるやいなや涙を流した。彼が言った。「ようこそ、聖なる預言者よ! 聖なる子孫よ」。「この方はどなたですか」とガブリエルに尋ねた。彼が答えるには、「この方がアダムだ。彼の右側にいる霊魂たちは天国に行くようになる。左側にいる霊魂たちは地獄に落ちる。それゆえ、彼が右側を見るときはほほえみ、左側を見るときは泣くのだ」と言った。
そして、ガブリエルは私を二番目の天に連れていき、門番に「開けよ」と言った。最初と同じ質問をしたのち、門が開いた。預言者は様々な層の天で、アダム、イドリス、モーセ、イエス、アブラハムを発見した。……
そして、天使は翼がはばたく音が聞こえる高さまで私を連れていった。……そして、ガブリエルは私を境界のロートの木に連れていったが、そこは言い表せない美しい色で覆われていた。そして彼は天国に入っていった。そこには真珠でつくったドームがあり、太陽は四方につくられていた。
ブハーリー・ハディース(イスラーム)
そして、彼らは狭い道を行き、遠からず明るい光が現れた。そのとき彼らは、その道に沿って広がる花々の香りをかぐようになった。おいしそうに見える果物が道端に生えており、いろいろな鳥たちが空中で彼らの上を飛んでいた。最も不思議で美しいものがそれぞれの手にあった。このすべてのものが天の道にあった。エニアイエホク。
彼らは旅を続けた。時が少したち、彼らは休憩所に到着した。そのときメッセンジャーが言った。「ここはその泉と呼ばれる。そしてそれは休息の空間だ」。そのとき、見よ、彼はその泉を見て、彼はこれほど美しく澄んだ泉を見たことがないと思った。そのとき四つの存在が、「ここは元気回復の場だ」と言った。
四つの存在の中の一つが自らの懐から瓶を取り出した。取り出したように見えたが、実際にそうだった。そして、それを泉につけた。そのとき彼は、「あなたはまず飲まなければならない」と言った。それで彼はそれをくみ上げた。しかし、彼がそれを見たとき、彼はそれが十分でないと思った。それで彼は、「私はこれが十分でないと思います」と言った。彼がこのように言ったとき、そのメッセンジャーたちは、互いに見つめあって笑った。
その中の一人が、「本当にそれは十分だ。それが不足なら、まだ泉があるからその瓶にまた満たすことができる」といった。それで、みな水をくんで飲んだ。そして皆が願っていたすべての水はその瓶にあった。エニアイエホク。
彼らは旅を進めた。そして、ほんの短い距離を行ったとき、彼らは何かが彼らに近づいて来るのを見た。まもなく彼らはそれと出会った。彼は、それが一匹の犬だということが分かった。彼らが近くで見たとき、その犬はしっぽを振り始め、彼の懐に飛び込んだ。
そのとき彼は、その動物が新年祭の犠牲として供えたとき、正にその姿をした自分の犬だということが分かった。そのとき四つの存在が、「これは創造主に捧げた私達の感謝の祭物の価値を立証するものだ」と言った。そのように彼らは言った。エニアイエホク。
彼らは再び旅に出た。いくらもたたずに休息所に到着した。彼らの前に遠くから一人の男が現れて近づいてきた。彼はすぐに近くに来た。そのとき彼は、その男がほかの二人を両側に引き連れているのを見た。
彼が見ると、一人はカイアンタカの娘だった。その少女は体の大きい子供に見えた。彼女と一緒にいる子供は、カニオ・ダイイオ自身の息子だった。その息子と娘は、一人一人に挨拶をした。彼らが友好的だったため、彼らが見知らぬ人ではないことを、彼らは知ることができた、さらに、四番目の人が彼ら全員を引率していた。エニアイエホク。その人は、「人が死ぬとき、より低い世界の人たちがここに来るという事実を証明するために、私は私と一緒に彼らを連れてきた」と話した。
コード・オブ・ハンサム・レイク112 ~ 116(アメリカ先住民の宗教)
天国に暮らしている人々は、そこで飲んだり食べたり、つばを吐いたり、用をたしたり、風邪で苦労しない。
ムスリム・ハディース(イスラーム)
すべてのもののために天がある。地も天であり、海も天である。そして、動物と植物と人間も天である。すべてあの天の内容物だ。その中にいる神々は、人間を軽蔑することもなく、すべてが天の秩序の中にある。その外のいかなるものも軽蔑することがなく、平和なすべての宇宙と国を貫通する。
「平和に過ごす」所がそこだ。この神聖な存在にとって真実性は、母であり保母であり、存在であり滋養分である。あらゆるものは、過程ではなくそれらが見る本当の存在だ。
そして、すべてのものにそれら自身がある。なぜなら、すべてのものは透明で、暗闇がなく、抵抗するものがない。すべての存在は、それぞれの異なる存在に幅と深さにおいて明確だ。光は光を通して走る。そして、それら各自にすべてのものを含み、同時にそれぞれの異なる存在においてすべてのものを見る。ゆえに、どこでもすべてのものがあり、すべてのものがすべてのものであり、各自がすべてのものであり、栄光は無限である。
それら各自が偉大だ。小さいものも偉大だ。そこの太陽はすべての星だ。それぞれの星はすべての星であり太陽である。ある存在様式が各自に支配する間、すべては異なる存在に捧げられる。
プロティノスエネアデス5.8.3(ヘレニズム)
― み言選集 ―
あの世の生活はどうでしょうか。食べるものも心配ありません。住むのも心配ありません。着るものも心配ありません。なぜでしょうか。自らの心霊状態のままに、願うすべてのものが可能だからです。
あの世でも食べます。あの世でも自分を触ってみれば血管が、脈拍が走るのが分かります。同じです。霊的な体ですが同じなのです。
私が「何々を食べたい」と言えばすぐに現れます。「このような物を食べたい」と言えばすぐに現れます。それはどこから来るのでしょうか。根源世界を動員できる能動的な自主性を行使できる世界が霊界です。
ですから、全体を動員できる主体的な能動権をもったものとは何ですか。権力でもなく、知識でもなく、お金をもった勢力でもありません。愛です。
神様がいくら高いといっても「神様!」と愛の心で呼べば、すぐに「なんだ」と自分の心の中で答えます。「神様、どこにいらっしゃいますか」、「どこにいるかって、お前の心の根本にいるではないか」と答えるのです。神様が本来根本ではないでしょうか。心の根の根本にいるでしょう。このようになっているのです。
ですから、一晩で宴会が何十万回、何百万回でも可能だというのです。自分が愛に酔って直感で感じることを実現するために命令すれば、それがそのまま展開します。
(194-42、1989.10.15)
これからは、犬も天国に、すべての万物も天国に行けます。主人が行く所には、どこへでもついて行けるのです。
(78-337、1975.6.10)
あの世にパンエ場があるでしょうか、ないでしょうか。コーラとかジュースを作る工場があるでしょうかないでしょうか。どうしてないのですか。分からないでしょう。そこに自動車を造る工場があるでしょうか、ないでしょうか。あの世に行って「私は、いい車に乗り回るんだ」と言って、こうして乗りますか。ここではベンツに乗って、何がどうだこうだと誇りますが、そこではそれはすべて必要ありません。
あの世界では、誰であっても、想像だけで、「私はダイヤモンドの車が必要だ」と思えば、それがさっと現れるのです。それに乗らなくても、1秒の間に数十億万里、数十億光年の距離を行けます。どうして車が必要でしょうか。
愛する心、真の愛の心さえあればよいのです。「私は、何億万年前の、このようなタイプの美人が見たい」と思うとき、そこに100 パーセントそのまま当てはまる人がいなくても、100 パーセントの姿を備えて現れるのです。真の愛を中心として、すべてのものが想像で可能な所です。それが主流の観念です。その観念がなければ何もできません。
(207-94 ~ 95、1990.11.1)
神様が創造したこの巨大な宇宙! そこには自動車もなく、飲食店もありません。しかし、私達は、霊界で、まるで創造主であられる神様のようにあらゆる種類のものを、真の愛の概念を中心として創出することができるように、愛を中心として本来の力を発揮してすべてのものをつくることができるのです。
(217-293、1991.6.2)
霊界に行けば小便を、するでしょうか、しないでしょうか。この次に行ってみてください。私はすると思うのですが、しないと思う人は行ってみてください。それでは、大便をするでしょうか、しないでしょうか。みんなします。みんなするのですが、すぐ元素に帰ります。
宇宙の根本元素が107 個だと言いますが、どんどん増えていますね。その元素に帰ります。したがって、掃除する必要がありません。愛の心をもって手入れをすれば、きれいに本故郷へ帰るのです。
(212-30、1991.1.1)
8) 地獄
誰も自分、あるいは愛する人が地獄に落ちるように運命づけられることを喜ばない。しかし、大部分の人々が神様の本来的な愛の基準から離れた人生を生きていくことは、苦痛なこどである。このような状況はごくありふれている。
すなわち、私達は、自分の考えと欲望が肉身の意志に従うように許容し、私達の精神は絶えず利己的に流れる。私達は、習慣的に良心の声を黙殺する。
私達は、愛する人たちを裏切り、その責任を回避するだけでなく、私達自身に関する真実にまでも顔をそむけてしまう。このように70 年を超えて生きたとすれば、水晶のように澄んだ天国の共同体に適合することを望むことができるだろうか。
地獄とは何か。ある伝統宗教は、それは硫黄が流れる川のある地の深い所として描写する。そして、ある伝統宗教では、地獄とは単に心の状態だという。しかし、ひどい孤独、後悔、恥、罪責感や喪失の苦痛を経験していた人であれば分かるように、そのような心の状態は、耐え難いほど生々しいものである。
さらには、私達が肉身生活をする間、大概は忘却、自己合理化、感覚的快楽や飲酒にはまって回避するように、その感覚を避けるのは霊界では不可能だという。不快な感覚からの猶予はあり得ず、その感覚は不幸な霊魂を絶えず苦しめ、それが継続する。
想像を超越する苦痛を描写するために、宗教の諸経典では、めらめらと燃える火、ぐつぐつと煮えたぎる湯水、厳寒、全身がつぶされる、手足を引きちぎられる、踏みつけられる、燃やされる、生きたまま食われるなどの具体的なイメージを使う。
私達は、地獄から抜け出せる可能性を提示する、いくつかの章句で締めくくる。東洋の宗教は、地獄のすべての状態を一定期間、罰を与えるために考案された、悪行が燃やされ、霊魂が真の道を見いだすことができる未来の機会をもつ煉獄とみなしている。
文鮮明先生は、神様が地獄を創造したのではないと、はっきりと教えている。事実、地獄の存在自体は、神様の絶対善に対する侮辱であり、愛に満ちたその胸に杭を打ち込むことである。私達が十分な愛をもてば、ほかの人たちが地獄に向かっていく道を防ぐことであれば、何でもするだろう。その上、私達は、墓の中で三日間地獄を征服していたイエス・キリストやヒンドゥー教の英雄ヴィパスイットのように、地下の監獄に閉じ込められた人たちを救出するだろう。
1. 地獄の苦痛
― 宗教経典 ―
地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。
マルコによる福音書9.48(キリスト教)
しかし、おくびょうな者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、すべてうそを言う者、このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である。それが、第二の死である。
ヨハネの黙示録21.8 (キリスト教)
猛毒の火花が飛び散る火の海、
自我以外には何もない。
火の海の波が千万にも波うち、
罪人たちがその中で燃えている。
アーディ・グラント、マールー・ソハレ、M.1、p.1026(シーク教)
かかる者のあとは地獄があって、けがらわしい水を飲まされるであろう。かれはそれをすするのだが、なかなか飲み込めぬ、また死はあらゆる方向から迫るが、かれは死にもせぬ。なおかれの後ろには容赦のない刑罰がある。
クルアーン14.16 ~ 17(イスラーム)
まことに地獄は、待ち伏せた所であり、法外な者にとって、帰り着く所、かれらは長い年月、その中に住むであろう。そこでは涼しさも味わえず、煮えたぎる湯と膿のほかには、どんな飲物もない。かれらのためふさわしい報奨である。
まことにかれらは、その行いに対する清算を希望しないでいた。またかれらは、わがしるしを虚偽だとし、強く拒んだ。われは一切のことを、書物にどどめている。それでなんじらは自分の行いの結果を味わえ、われは刑罰を増加するばかりである。
クルアーン78.21 ~ 30(イスラーム)
罪深い者たちの内で、ある者は薪のようにのこぎりで切られ、またある者は大地に投げ捨てられたり、斧でずたずたにされたりする。ある者は身体の半分を穴に埋められ、頭を槍で刺し貫かれる。またある者は絞り機の真ん中に固定されて、砂糖きびのように圧搾される。ある者は燃えさかる炭に囲まれ、たいまつに包まれ、鉱石の塊のように精錬される。
ある者は熱いバターに、またある者は熱い油に押し込められ、フライパンに投げ込まれたケーキのようにひってり返される。ある者は巨大な狂った象が群れなす道に投げ込まれ、またある者は手足を縛られて逆さまにされる。ある者は井戸に投げ込まれ、ある者は高い所から投げ落とされ、またある者は虫のたくさんいる穴に押し込まれ、それ
に食べられる。……正当な秩序に従って下界の拷問を経験したあと、彼は清められて再びここに帰ってくる。
ガルダ・プラーナ3.49 ~ 71(ヒンドゥー教)
また蛆虫の棲む水釜があり、罪を犯した人はその中で煮られる。出ようにも、つかむべき縁がない。その釜の上部は内側に彎曲していて、まわりが全部一様だからである。また鋭い剣の葉ある林があり、(地嶽に堕ちた者どもが)その中に入ると、四肢を切断される。(地獄の獄卒どもは)鉤で舌をとらえ、引っ張り、引っ張っては苦しめる。
また次に(地獄に堕ちた者どもは)鋭利なる剃刀の刃あるヴェータラニー河に至る。愚かなる輩は、悪い事をして罪を犯しては、そこに陥る。そこには黒犬や斑犬や黒烏の群や野狐がいて、泣きさけぶかれは貪り食うて飽くことがない。また鷹や黒色ならぬ烏どもまでが啄む。
罪を犯した人が身に受けるこの地獄の生存は実に悲惨である。だから人は、この世において余生のあるうちになすべきことをなして、忽せにしてはならない。
スッタニパータ672 ~ 76(仏教)
そこで人々は、「これはあなたに、これは私に」と言い、それぞれの私地を分け、互いに分割している。これに関して尋ねれば、彼らは答える。「他の世界で彼らがこのようなやり方で私達を扱い、順番に今度は私達が同じやり方で彼らを扱う」。
シャタパタ・ブラーフマナ11.6.3(ヒンドゥー教)
大地はまたその内部に、多くの地域をもっているのであり、それらは、大地全体をめぐってあるさまざまな窪みのうちに、それぞれ位置しているのだ。そのある地域は、われわれの住んでいるここよりもさらに深くに位置し、またより広く開かれているが、しかしまたある地域は、より深くはあるが、その開きは、われわれのもとにある地域よりもそのほうが狭いというのがあり、またさらに、深さにおいてはここよりも劣るが、しかし広さはまさるという地域も見出されるのである。
さて、以上のすべての地域は、地下を通ってかず多くの地点で、狭広いろいろの仕方で相互に貫通されており、さまざまな通路をもっているのだが、それによって一方から他方へと、あたかもクラテール(混酒器)に水をそそぎこむかのように莫大な水が相互に流れあうのである。そして地の内部には、とほうもなくおおきな不尽の流れがひろがり、それらはあるいは熱湯に、あるいは冷水にみたされているのだ。
またそこには巨大な火があり、さまざまな大河があり、さらにはまた、どろどろに泥濘がおおくの流れをなしているのだ。それらの泥濘には、比較的に清らかなものとか、あるいはまったく泥状のものがあるが、そのさまはちょうど、シケリアにある溶岩の流れにさきだつ泥の河と、その溶岩流そのものにみられるがごときものである。……地域をめぐったのちに、再度、タルタロスヘと流れこむのである。
死者たちが、それぞれ、神霊につれられて、先に述ベられた或る場所へとやってくると、最初に、彼ら、すなわち、すぐれた生をおくり敬虔に生きた者と、そうでない者とが、裁きの前に立つのである。そしてまず、大した善事も悪事もなすことなしに生をおえたと判定された者は、アケロン(冥界の河)のあるところまで行き、彼らのためにしつらえたかの舟にのり、いまいったアケルシアス湖(冥界の湖)までそれにのってやってくるのだ。
そして彼らはそこに住まい、みずからを浄めながら、もし、なにか不正をおかした者であれば、それにあたいする罰をうけて、その不正のとがめからは解放され、また反対に、なんらかの善行があったならば、それ相応をおのおのが受けるのである。
ところがしかし、そのおかした罪過があまりにも大きいために、もはや癒しがたいと判定された者たち、たとえば神のものを冒pする行為を何度も大がかりになした者とか、不正であり無法でもある殺害をかず多くしでかした者とか、またほかにもそれに類する行いをあえてなした者についていえば、彼らは、その悪行にふさわしい定めによって、タルタロスヘと投げこまれ、そこからもはや二度と出ることはないのである。
しかしながら、それはなお癒しうるとしても、そのおかした罪過は大きいと判定された者たち、たとえば一時の激怒から、父母に対して暴虐をおかしはしたものの、のちには悔いあらためて以後の生をすごした者とか、あるいは、それと似た事情のもとに殺人をおかした者についていえば、まずもって彼らが、タルタロスに堕ちねばならないことは、必定である。
しかし、そこに堕ちて一年がたつと、さかまく浪が彼らを〔タルタロスの〕そとへとなげ出すのだ。そして一方、殺人者のほうは、コキュトス(悲傷の流れ)に運ばれ、他方、父母に暴虐を加えた者のほうは、ピュリブレゲトン(灼火の流れ)に運ばれていくのである。
そして運ばれて、アケルシアス湖のあたりまで達すると、彼らはそのところで大声に叫び、自分たちが殺した人々や、あるいは暴虐を加えた人々の名を叫ぶのだ。で呼びとめると哀願して、自分たちがこの河を出て、湖に入ることを許し、自分たちを受けいれてくれと乞うのだ。かくしてもし、その願いがききいれられるならば、そのとき彼らははじめて河のそとに出ることができ、もろもろの苦難はそれでやむ。しかし、もしききいれられなければ、彼らは再度、タルタロスヘと運ばれ、そこからまたあらためておのおの河へと運ばれるのだ。
そして彼らがこのような苦しみにあうことは、おのれが不正をおかした当の相手を納得させるまでは、止むことなくつづくのである。というのも、この定めこそは、かの裁きし者が彼らに課した刑罰にほかならないのだから。
プラトンパイドン(ヘレニズム)
― み言選集 ―
地獄とは何ですか。どのような所が地獄ですか。愛もなく、生命もなく、血統も関係のない立場で、自分を中心として天下一だと互いに主張し、額をつき合わせ、顔をつき合わせ、行動を比べ、紛争の結果となるのが地獄です。
(360-185、2001.11.16)
地獄とは何ですか。悪魔の愛圏内を意味します。悪魔は憎悪と嫉妬とねたみと分裂と破綻ばかりを崇拝するのです。それで、悪魔圏はそのようなものばかりが盛んに行われる所です。それが戦争として現れるのです。
(214-282、1991.2.3)
地獄はどのような所ですか。地獄は権力を誇る所であり、お金を誇る所であり、自分を誇る所です。私達の本性は、愛を受けたいと思い、善を要求するのですが、その反対の性質があらゆる方向からぶつかってくる所が地獄です。
しかし、地獄に行っているからといって、愛を受けたいと思う心がなくなるのではありません。それがもっと強くなるのです。
(102-160、1978.12.17)
あの世に行って何をするのでしょうか。食べるでしょうか、食べないでしょうか。それで、食べるのに何を中心として食べるでしょうか。愛を中心として食べるようになっているために、愛をもてなかった人は、行って食べようとしても、口が開きません。それが法です。
自分を愛する心だけあり、全体を愛する心が中心になっていなければ、口が開きません。箸で食べる物をつまんで口に持っていこうとしても、箸がほかの所に行くのです。ですから霊界は、真の愛をもってこそ、すべてが可能な世界であって、真の愛のコンセプトをもたなければ、すべてが不可能な世界です。
(207-95、1990.11.1)
霊界に行ってみれば、霊界のすべての人たちが地獄の多くの段階的部署にとどまっているのですが、その人たちがどのようにしてそのようになったのですか。
愛の秩序の道理を中心として、孝子、孝女にならなければならないにもかかわらず、孝子、孝女になることができなかった人たちだからです。国を中心として忠臣にならなければならないのですが、そのようになれなかった人たちだからです。さらには、世界を中心として、聖人になるべきだったのですが、そこに拍子が合わず、その度数の違いによってふさわしい場所にとどまっているのです。
(147-183 ~ 184、1986.9.21)
アダムとエバが堕落することによって、歴史時代においてどれほど批判されましたか! そのように、皆さんを子孫たちが審判するというのです。それが最も恐ろしいのです。先生が皆さんを呼び、この高貴なものを相続させてあげようとしています。
先生がそれを失敗する場合には、すべての霊界が讒訴します。先生はそれを知っています。どれほど恐ろしいですか! 先生はよく知っています。先生の過去の生涯路程がいくら困難だったとしても、それが問題ではないのです。その困難より霊界の讒訴がもっと恐ろしいのです。それで、いくら迫害を受けても、それがやさしい道であることが分かりました。どちらのばうが価値があるのかということが分かるのです。
(189-247、1989.4.9)
天上世界は光の世界であり、地獄は暗闇の世界です。その世界に行けば行くほど、いくら自分がうれしいと思っても、瞬間に喜び得る姿になったとしても、すぐに暗闇が占領してしまうのです。お酒を飲んで喜んでいますが、振り返れば嘆息するのです。良心が忠告します。お前はどこにいるのかと言うのです。良心が喜ぶ所ではなく、良心が嫌う所にいる人間は暗闇の世界に属しているのであって、神様の本性の世界、光の世界と関係がないことを知らなければなりません。
(400-104、2002.12.28)
世界も混乱しています。それでは、霊界はどうですか。混乱した人間像が霊界に行って集まっているので、霊界は混乱せざるを得ないのです。盗みも習慣になれば、いつも盗みをするものです。ですから、地上で盗みごとをしていたならば、天上世界に行ってもただを願います。それで、処置が困難なので地獄というものが生じました。
地獄は神様がつくったのではありません。地獄は生じたのです。ごみ箱をつくっておいて家を建てますか。家を建てて暮らしてみると、ごみ箱が生じるでしょう。同じことです。
(148-28、1986.10.4)
天国からすぐ下に、少し下がると、はっきりとした多様な霊界の階層が広がってきます。地上の人間が考えるときには、霊界は、天国と地獄の二つの階層のみで構成されていると考えることもあるのですが、実際は、数多くの階層で構成されています。善なる所から、より悪なる所まで多様に形成されています。
霊界が、このように多様に階層化されていますが、天国以外の所では、心安らかにいられる所はありません。ここでは、生活するのがとても大変です。お互いが悪を中心として、「自分が正しい」と主張し、けんかしています。霊界の各階層では、同じ性稟をもった霊人同士が集まって暮らしているので、おもしろくありません。
例えば、地上でよくどろぼうをした霊人たちが暮らしている世界は、いつも周辺の霊人たちが、何かを盗んでいくように感じて、お互いに疑い、不信しながら生活をするようになるので、いつも不安なのです。また、地上でけんかばかりししてきた霊人たちが暮らしている所は、いつもけんかばかりしています。
今まで、地上で暮らしたのち、霊界に来た霊人たちは、大部分、中間霊界と地獄に来ています。霊界では、地上でどのような生活をしたかによって、霊界の生活が決まります。
ですから、苦痛を受けるような霊界や地獄にとどまらないためには、原理的な生き方から外れないで、絶対信仰、絶対愛、絶対服従の道を行かなければなりません。神様の性稟は、ひとえに善であり、愛であるので、神様の性稟に似ようと努力をしてこそ、天国に行くことができるのです。
中間級の霊界を通り過ぎて、もっと下に降りていくと、四方が暗く、どんよりとかすんで、息の詰るような地獄が現れます。ここは、ぞくぞくと寒気がして、汚い臭いが強く漂っています。凶悪な姿をした霊人も現れます。お互いにかみつき合い、血気にはやり、憎み合っています。ある霊人が一言言えば、けんかが始まり、どなって殴り合い、大騒ぎになります。死体の腐った臭いよりも、さらにひどい、嫌な臭いもします。
また、ある所では、火に包まれたくぼみのようになっているのですが、よく怒る霊人が、ここに集まって住んでいます。そして、最も恐ろしい地獄の底には、自殺した霊人や、地上で淫乱な生活をした霊人たちが住んでいるのですが、蛇がうごめいていて、恐ろしくおぞましい姿をしており、とても目を開けて見ていられない所です。
霊界は、天国から地獄まで、色によって各霊界圏の違いを表現できます。天国は、透明で、白く明るい色です。汚れのついているまだらなものが全くなく、白玉のように、傷一つありません。
ところが、低い霊界に行くほどに、色がだんだんと濁っていきます。色あせた薄い色が、暗く濁った紫色系の中間色系統が現れます。さらに低い段階に行くと薄い栗色が現れ、灰色系統が現れます。続いて、灰色系、黒、濃い黒の順に現れます。天国は明るく、天国に近づくほど、明るい色の系統が現れ、地獄に行くほど、暗く混濁した色が現れます。
地上で罪を多く犯して、霊界に来た霊人であるほど、その色を見れば、暗く濁っているのです。そして、犯した罪によって、霊人体の各部位に、色で表示されて現れます。
興進様の霊界メッセージ2002.1.1
2. 地獄に関する警告
― 宗教経典 ―
なんじらは多いことを、張り合って夢中になり、墓に追いたてられるまで(それにふける)いや、やがてなんじらは知ろう、重ねて言う、いや、やがてなんじらは知ろう。いや、なんじらはいまに明確な知識で知ることになろう。
なんじらはきっと獄火を見よう、重ねて言う、なんじらはきっと明確にその目でそれを見ることになるであろう、それからその日、なんじらは(夢中になっていた)享楽について、きっと問われるであろう。
クルアーン102.1 ~ 8(イスラーム)
「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。
犬もやって来ては、そのできものをなめた。やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。
そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、私を憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、私の舌を冷やさせてください。私はこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。
そればかりか、私達とお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこから私達の方に越えて来ることもできない。』金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。私の父親の家にラザロを遣わしてください。私には兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。」
しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」
ルカによる福音書16.19 ~ 31(キリスト教)
シュシシェン市の野菜畑の近くにパンキという人が、邪悪なことをして暮らしていた。彼は、人々が互いに反目し、訴え、人の物を強制で奪い、人の妻や娘に恥をかかせるようそそのかした。自分の邪悪な目的がたやすく果たせないとき、彼は最も校滑な方法を使った。
ある日、彼は突然息を引き取ったが、24 時間たって再び目覚め、妻に親戚や隣人を呼んで集めるように頼んだ。親戚と隣人たちがみな集まると、彼は、彼が冥土の大王に会い、次のような話を聞いたと話した。
「死んだ者たちは、ここで自分たちの邪悪な行為に対して罰を受けるようになる。死んだ者たちは、彼らが犯した犯罪と同僚に与えた害悪の分量に従い、熱く焼けた炭火の穴に放り込まれる」。
集まった人たちは、熱で興奮した患者の話を聞いたかのように、疑いながら信じようとしなかった。しかし、パンキは罪をたくさん犯した。それで地獄の閻魔大王は、彼を見せしめにして邪悪な道にいる人たちに警告することにした。閻魔大王の命令によってパンキは、「これは私が人々を放蕩な生活に誘い込んだことに対する罰だ」と言いながら、刃物で自らを切った。「これは私が怒りで父母を見つめ、腹黒い心で人の妻や娘たちを見つめたことに対する罰だ」と言いながら、彼は自分の二つの目をくり抜いた。「これはたくさんの動物を殺したことに対する罰だ」と言いながら、彼は右手を切った。「これは私が人を苦しんで死ぬようにしたことに対する罰だ」と言いながら、彼は自分の体を切り、心臓を切り取った。そして最後にうそと人を誹謗したことに対する罰として、自分の舌を切った。
この事件に対するうわさが遠くに広まると、この不幸な人の切り裂かれた体を見ようと、四方から人々が集まってきた。彼の妻と子供たちは、悲しみと恥ずかしさに包まれたまま、好奇心にあおられた群集を遮るために門を閉じてしまった。しかし、まだ閻魔大王の試練の中で生きているパンキは、かすかな声で言った。「私は人々の警告になるよう、私自ら罰を下すことを願う地獄の大王の命令を行っているのに、何の権利で私を見ようとする人たちをさえぎるのか」。6日間、その邪悪な人は、身の毛もよだつほど苦しみ、地べたを転がりながら最後を迎えた。
太上感応篇(道教)
― み言選集 ―
地獄という所は、一度はまれば永遠に抜け出せない所です。それでも、皆さんは、自分のお父さん、お母さん、そして親戚が地獄に行くということを実感できません。ただ「どうにかなるだろう」と思って、それでおしまいです。
しかし、愛する父母が本当に地獄に行くと考えてみなさい。この世の監獄に入るだけでも、泣いたりわめいたりしながらありとあらゆることをしてでも引っ張り出そうとするのが人情であるならば、まして天情によって結ばれた息子、娘が、自らの父母と親戚、兄弟と姉妹が永遠に出てくることのできない監獄に行くということを知れば、そのような考えをするでしょうか。皆さんは、まだ何も知りません。地獄があるのか、ないのか、あるにはあるようだが、どのようなものか知らずにいるのです。確信がなく、ぼんやりとしているでしょこう。しかし、死んでみれば分かるのです。死んでみれば、一遍に分かりますが、その時はもう遅いのです。
(34-267、1970.9.13)
天の国の法度を知らず、天の国の構造的な理想圏を知らない人たちが、天国に行ってどうするのですか。混乱するのです。
(390-260、2002.8.13)
堕落することによって、この地球星はサタンが支配するようになり、霊界には地獄が生じたのです。地獄が生じたというのです。それでサタンが支配することのできる版図は地上地獄世界と天上地獄世界までだというのです。そのため、それを解放しなければなりません。
堕落がなかったなら地上地獄も生じず、一つの理想的天国にのみ行き着くはずだったのですが、堕落によって二つの世界にサタンが支配できる世界形態が現れたために、これを解消しなければならないのです。これを越えていかなければならないのです。
(168-303 ~ 304、1987.10.1)
今まで人間にとって完成とは何でしょうか。それは、愛の場に行くことです。愛の場で神様と三人で一つになりますか、なりませんか。愛の場で神様と男性と女性が一つになります。そのような原理がなければならないのではないですか。
堕落して以降、このような場に行った人は一人もいませんでした。それでは、ここに落ちた人の願いは何でしょうか。ここを経て、このみ旨を成し遂げなければならないでしょう? 最高の基準に至らなければならないのですが、最低の基準に来ているので、その間隔に対する苦衷と虚無感と悲惨さが苦痛を与えているのです。ですから、ここが地獄だということを知らなければなりません。
(92-197、1977.4.10)
3. 地獄の霊魂救済
― 宗教経典 ―
キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。
ペテロの手紙一3.18 ~ 19(キリスト教)
そのときみじめな者たちは、火獄の中にいよう、その中でかれらは、ため息とすすり泣きにあえぐのみ。なんじの主のおぼしめしがない以上、天と地の続くかぎり、その中に住むであろう。まことになんじの主は、お望みのことを必ずなし遂げたもう。その日幸福な者たちは、楽園にはいり、なんじの主のおぼしめしによる以外、天と地の続ぐかぎり、その中に住むであろう。尽きせぬ賜物である。
クルアーン11.106~108(イスラーム)
神が人々の間で審判を終えられるとき、慈悲で地獄から救ってあげる者は、誰でも引き上げられる。……彼らは、地獄の火から引き出され、完全に焼けたのち、彼らの上に命の水が浴びせられる。彼らは急流の泥の中から出てきた種のように、その下から育っていく。……
彼らは、真珠のように出てきて、(金の)首飾りをして天国に入っていくだろう。そして、天国に居住する人びとが言う。「この人たちは慈悲で救われた者たちだ。この人たちは何の善きこともせず、自分たちのためにいかなる良いこともしなかったが、彼が天国に入ってくるようにされたのだ」。
プハーリー・ハディース9.93.532(イスラーム)
「おーい」ヤマの下僕よ! 言ってくれ、私は一体どんな罪を犯した事によって、この一番深い地獄へ落ちるようになったのか? ヴィパスィット王として知られる者よ、私は高潔に地を守った。私は争いを起こしたりしなかったし、客人が顔をそむけて出て行くような事もなかった。
また先祖の霊や神々、修行者、あるいは私の下僕だって傷つけた事はなかった。また私は他人の妻や財産、あるいは何であれ彼らの所有するものを欲しがったりしなかった。なのに何故、私はこのひどい地獄に落ちたのか?」
ヤマの役人は言った。「ならば来なさい。どこか他の所へ行こう。あなたは地獄を見たのだから、今や全てを見たのだ。だから来なさい。どこか他の所へ行こう。」そこでさっそく王は彼について行く準備をしたが、苦痛を受けたままになっている人々から叫び声が上がった。「王よ、御慈悲を! 一瞬だけ待って下さい。あなたがまとっている空気は我々の気持ちを喜ばせ、焼かれるような熱さと、苦しみと、痛みとを我々の身体から完全に取り去ってくださるのです。ああ虎のような方よ! 王よ、御慈悲を!」
ヴィパスイットは言った。「天においても、ブラフマの世界においても、苦しんでいる生き物達に至福を与えてやる程の喜びを経験する事はない。もし私がいる間は苦痛がこの者達をさいなまないならば、私はここに山のように堅く立って残ろう。」ヤマの役人は言った。「ああ、王よ来なさい。前に進みましょう。あなた自身の功徳によって得られた歓喜を享受するのです。悪行をなした者達は苦しんだままにして放っておきなさい。」
ヴィパスイットは言った。「この者達がひどい苦しみの中にいる限りは、私は行かない。私がいる事によって、地獄の住人が幸福になって行くのだ。苦しんでいる者に対して何の好意も示さないあの男の、執ように保護を求める生活というものは、たとえ彼が断固とした敵であったとしても、なんとも憐れなものではないか! 苦しんでいる者の救助を全く考えない彼には、祭祀も、供物も、苦行も役に立たない。……
私が思うに、この者達に解放を授ける事は天上の喜びに優るのではないか。もし私一人が苦痛を受ける事によって、多くの苦しんでいる者達が幸福を得るならば、実に私はそれを喜んで受け入れるべきではないか?」
ダルマ(法)は言、つた。「これらの悪をなした者達は、自らの行いの結果として地獄へ来たのです。ああ王よ、あなたもまた自分の功徳の結果として天界へ行かなくてはなりません。私はあなたを天界へ導きます。ぐずぐずしないでこの天の戦車に乗りなさい。さあ行きましょう。」
ヴィパスィットは言った。「ああダルマよ、何千という人々がこの地獄で苦痛を昧わっているのです。そして彼らは苦悩しながら、私に救いを求めて叫んでいるのです。だから私は出発しません。」
ダルマ(法)は言った。「ああ王よ! あなたの功徳は実に計り難い。今この地獄でこの様な哀れみを示す事により、あなたの功徳はさらに一層高くなりました。さあ来なさい、不死なる者達と共に喜んで暮らして下さい。これら不幸な者達には、自分自身の行為から生じた罪を地獄で消滅させればよいのです。」
ヴィパスイットは言った。「三十の神々の主よ、私が所有している全ての功績をもって、苦しみにさいなまされている罪人達を地獄から解放してください。インドラは言った。「ああ王よ、そうしましょう! あなたはより一層高い地位を得ました。あの地獄から解放された罪人達も見てみなさい。」
マールカンデーヤ・プラーナ13 ~ 15(ヒンドゥー教)
― み言選集 ―
神様は愛の神様です。神様があのみ座にいらっしゃるとすれば、地獄に行って苦しみながら、「私を助けてください!」と言う霊人たちを見るとき、神様が、「おい! お前はそれでも良いほうだ!」と思われるでしょうか、「彼らはかわいそうだ」と思われるでしょうか。かわいそうだと思われるのです。地獄を解放しなければなりません。
(98-116、1978.5.7)
愛によってのみ、地獄を天国にできます。ですから、愛をもてば、地獄を天国にすることができるのです。
(90-314、1977.1.15)
人が100年生きられないのを考えるとき、50億の人類の中に、1年に5000万が霊界に行きます。これらが地獄に行くのをどのようにしますか。サタンが蒔いておいた種を、すべて天に収めるのを神様が願うのに、これが遅れれば遅れるほど、どうなりますか。今まで40 年間に、どれほど地獄に行きましたか。数十億が行ったのです。深刻なことです。あの世に行って、霊たちに会うようになれば、「先生の在世当時に私達に対して責任を果たせなかった」と言われれば何と言いますか。心だけでもしなければなりません。心だけでも食口たちに話し、未来についても責任をもつという行動を中心として行くようになるとき、「あなたは驚くべき方です。私達を考えてくださった」と言うのです。
(205-356、1990.10.2)
歴史をたどってみれば、メシヤを中心として、イスカリオテのユダとネロ皇帝をはじめ、共産党が今、天に背いております。きようこの時間、天宙において勝利した一つの因縁を備え、総解怨するこの時間、彼らを天の審判台から下ろすことができないという事実を知るとき、彼らに真の父母の名をもって、あなたが立てられた尊厳な宇宙の勝利的な権限をもって彼らまでもあなたの名で因縁を結ぶようにしてください。
また、真の父母様に寄与し、数多くの宗教と数多くの良心的人士に寄与できる一つの道を模索してあげなければならないことを知っておりますので、お父様、永遠に許諾してください。
これまであなたの心情に杭を打ちつけ、あなたの息子、イエスを殺害し、あなたの愛する大勢の人たちをかみちぎり、殺害した、その怨恨の怨讐ですが、怨讐を愛する場となるよう、許諾してください。天地の門を開いてくださり、あなたの厚徳の愛の心を開いてください。彼らを解放することによって、地獄の門が開かれ、地獄撤廃の道が徐々に築かれることを知っております。
(78-18 ~ 19、1975.5.1)
9) 天使
天使たちと霊的恩恵を施す者たちは、あらゆる宗教に普遍的に現れる。それらは、神々、デイーバ、カミ、動物や山々の霊たち(シャーマニズム)、または玉皇上帝のような玉皇(中国)や仏教の菩薩として認めることができるだろう。
地上で立派に生き、神格化されて天使の任務が付与された者たちもいる。それでも、唯一神論の伝統信仰では、このような霊的恩恵を施す者たちは、いくら高められたとしても、唯一の究極的実在に従属する僕としてみなされる。
様々な伝統宗教において、この恩恵深い霊たちは、人間世界に祝福を施し、人間が害を被らないように保護する。天使ガブリエルがムハンマドと聖母マリヤに語ったように、天使として来る者たちは、神様の教えを伝達する。それで、天使たちは神様に奉仕し、神様の子女である人間を助ける「僕の霊」の役割を果たす。
天使たちは、能力をもち、したがってよぐ崇拝の対象となる。しかし、ユダヤ教、イスラーム、キリヘスト教の伝統の中には、人間が天使より優れているという教えがある。このような伝統に従い、文鮮明先生は天使たちが人間を創造した神様の目的が実現されるときまで、創造のすべての段階において神様を助けたと教える。
神様はアダムとエバを教育し、助けるために、エデンの園に天使たちをおいた。彼らは、幼子から成人に成熟し、創造理想を実現するようになっていたからである。天使たちの中の頭はルーシェルだったが、堕落するようになり、これにより人間の堕落に対する責任を負うようになった。「第6章3「悪魔とその活動」参照
このことにより、人間が天使たちを審判し、彼らの喪失した資格を回復しなければならない日がまだ残っている。
1. 天使の正体と使命
― 宗教経典 ―
さまざまな風を伝令とし、燃える火を御もとに仕えさせられる。
詩編104.4 (キリスト教)
かれは陶土のようなどろから、人間をつくりたまい、また火の炎から、幽精(ジン)をつくりたもうた。(注23)
クルアーン55.14 ~ 15(イスラーム)
天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされたのではなかったですか。
ヘブライ人への手紙1.14(キリスト教)
天使たちは、主の栄光をたたえて唱念し、地上のもののために、許しを請いまつる。
クルアーン42.5 (イスラーム)
まことに「私達の主は、神であられる」と言って、その後正しくしっかりと立つ者。かれらの上には、(次から次に)天使が下り、「恐れてはならぬ、また憂いもない、あなたがたに約束されている、楽園の吉報を受け取れ」(と言われよう)。われは現世の生活において、また来世において、なんじらの友である。そこでは、なんじらの魂の望むものを得……
クルアーン41.30 ~ 31(イスラーム)
主はあなたのために、御使いに命じて、あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び、足が石に当たらないように守る。あなたは獅子と毒蛇を踏みにじり、獅子の子と大蛇を踏んで行く。
詩編91.11 ~ 12(キリスト教)
私(普賢菩薩)は、あらゆる悪の世界にいる存在の苦痛を減らし、また彼らに幸福を与えます。私は、億劫の歳月を通し、四方の世界で続けてそのようにするでしょう。一切衆生の有益さは永遠で、かつどこにも存在します。
華厳経39(仏教)
あらゆる悪の行いをやめよ。あらゆる善の行いをせよ。そうすればあなたは悪の星の影響力から永遠に放たれるようになり、常によい守護天使によって囲まれているようになるだろう。
陰隲文(道教)
ある男が道を歩いていくとき、群れの天使がその前に現れ、次のように叫んだ。「聖なる方が留まる道を開けよ」。
詩編ミドラーシュ(ユダヤ教)
それはかれに啓示された、お告げにほかならぬ、すばらしい偉力者が、かれに教えた、かれはがんじょうなつくりの持主であった。まっすぐに立って、かれはしばらく、地平線の最高の所にいた。
それから親しく降りて来て、近づき、およそ弓二つ、いやそれよりも近い距離であった。そこでしもべ(ムハンマド)に向かって、かれが啓示されたことを告げた。
クルアーン53.4 ~ l0(イスラーム)
六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。
天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。
ルカによる福音書1.26 ~ 31(キリスト教)
文昌帝君が言った。「17 世代のあいだ、私は高位の政治家として化身してきたのであり、私は決して私の民を抑圧したことはなく、部下を虐待したこともない。私は不運の中で彼らを助けた。私は彼らを貧しさから救った。私は孤児たちを哀れんだ。私は彼らの罪を赦した。私は天上と調和する密かな徳を広く実践した。私が私の心を保つように、あなたがあなたの心を保つことができれば、天は間違いなくあなたに祝福を下さるだろう」。
陰隲文(道教)
― み言選集 ―
天使世界は、この宇宙が、すなわち被造世界が創造される前につくられました。神様が天使世界をつくったのち、天使の協助を受け、万物という物質を通して人間を生まれるようにしました。したがって、人間は神様から天使、物質を通して生まれたのです。
このような過程を経るにおいて、神様が願う目的、神様が創造された目的、天使が創造に協助した目的、万物が人間に投入された目的、人間が生まれた目的、これは違わないというのです。この全体が総合して四つの存在がすべてよいと言わなければなりません。神様もよく、天使もよく、万物もよく、人間もよく、このようによいと言える共通の内容が提示されなければなりません。
(83-155、1976.2.8)
すべての存在は神によって創造された。したがって当然天使もまた、神が創造し給うた被造物であることはいうまでもない。神は天使世界を他のどの被造物よりも先に創造された。創世記1章26 節に書かれている天地創造の記録を見ると、神は「われわれのかたちにわれわれにかたどって人を造り」と、自らを複数をもって語っておられるのであるが、これは今日まで多くの神学者たちが解釈してきたような三位神の立場から、そのように言われたのではなく、人間よりも先に創造されていた天使たちを考慮において、それらを含めた立場から言われたみ言であったことを知らなければならない。
神は被造世界の創造と、その経綸のために、先に天使を使いとして創造された(ヘブル1・14)。天使はアブラハムに神の重大な祝福のみ言を伝えたのであり(創18・10)キリストの受胎に関する消息を伝えたり(マタイ1・20、ルカ1・31)、獄中で鎖につながれていたペテロを解いて、城外に導いたのである(使徒12・7 ~ 10)
このほかにも、神のみ旨のために天使が活動している例は、聖書の中に、無数に探しだすことができる。それゆえに黙示録22 章9 節では、天使が自分自身を「僕」と言い、またヘブル書1章14 節においては、天使を「仕える霊」と記録しているのである。そしてまた、天使は神に頌栄をささげる存在として創造されていたという証拠も、聖書の中に数多く見いだすことができる(黙5・11、黙7・11)。
つぎに、我々は天使と人間との創造原理的関係を探ってみることにしよう。神は、人間を子女として創造され、被造世界に対する主管権を賦与された(創1・28)。ゆえに、人間は天使さえも主管するよこうにつくられているのである。
コリントⅠ6章3節を見れば、人間は天使さえも審判できる権限があると書かれている。そして、霊的に通ずるあらゆる人たちは、数多くの天使たちが、楽園にいる聖徒たちを擁護しているのを見るのであるが、これもまた、天使の人間に対する主従関係を説明する一つの良い例であるといえよう。
原理講論、堕落論2.1
天使はどのような存在なのでしょうか。僕の立場で神様の前に忠誠の道理を尽くして、アダムとエバの囲いとなってあげるべき存在です。万世にわたって天の世界に栄光の雰囲気をつくり、神様の愛を中心としてアダムとエバと共に幸福に暮らすべきだったのです。
言い換えれば、天使長はアダムとエバのために創造されたのです。アダムとエバの父である神様が天使を創造した目的はアダムとエバのためだったのです。それが天使長を創造された目的でした。
(15-239、1965.10.17)
今まで霊界において天使世界に該当するのは誰でしょうか。今日、地上に来ては逝った善の霊たちは、天使の使命圏内に入っています。それはなぜそうなのかというと、アダムをつくる前に天使をつくったのと同じ立場なので、地上にアダム完成を成し遂げる前の善の人たちは、天使の立場に戻り得る条件が成立します。
(76-324、1975.3.15)
男性は何かというと天使長です。天使長なのですが、天に反対して堕落させた天使長ではなく、復帰された天使長です。エデンにおいてアダムを絶対協助し、保護、育成し、家庭理想を成して天の国に入ってこいくことができるように、責任を果たさなければならないのが天使の使命でした。このような天使の使命を果たせなかったので、これがすべてならず者になったのです。地獄の王になってしまいました。
(281-313. 1997.3.9)
ですから、天使は、これから来るメシヤが統治するその国の人たちのために、地上に来て犠牲になるのです。天使たちが汗を流し、復帰するのです。霊界は天使世界であり、肉界はアダム世界でしょう? 堕落圏の拡大した世界がサタン圏内にあるので、それを誰が引き抜いてこなければならないのですか。霊肉の実体の天使たちがしなければなりません。霊肉を通じた実体の天使が行使する所が悪魔サタンの世界になっているので、霊界と天使だけではできません。実体の天使世界をつくらなければならないのです。
(62-247、1972.9.25)
2. 天使の争い
― 宗教経典 ―
さて、天で戦いが起こった。ミカエルとその使いたちが、竜に戦いを挑んだのである。竜とその使いたちも応戦したが、勝てなかった。そして、もはや天には彼らこの居場所がなくなった。
ヨハネの黙示録12.7 ~ 8(キリスト教)
言え「私にこう啓示された、一団の幽精(ジン)が、クラーンを聞いて言った、わ.たしたちは、ほんとうにおどろくべき読唱を聞いた」、「正しい道への導きである。それで私達は信仰し、主に何ものをも配しない」。「崇高きわまる主のみいず。かれは妻をめとりたまわず、子も持ちたまわぬ」。「私達のうちの愚かな者が神に対し途方もないうそをねつ造していた」。
「しかし、私達は、人間もジンも、神についてうそを言うべきでないと考えた」。「まことに人間のうちある者は、ジンのある者に庇護を求める、しかしそれは、かれらの愚劣を助長した」。「かれらもあなたがたが考えるように、神は何者もよみがえらされないだろうと考えていた」。
「私達は、天の秘密に触れようとしたが、それは強い護衛と飛行弾に充満されていることがわかった」。「私達は、盗み聞くために、そこの席にすわっていた。だが聞こうとする者は、いまに、かれを警戒している飛行弾を見るであろう」。
「私達は、主が地上の者に対して悪を望みたもうか、または、かれらを正しい道に導くことを望みたもうかを知らなかった」。「私達のうちには正しい者もおり、またそうでない者もいる。私達は種々の道に従っている」。
「だが私達は、地上において神をとん座させることはできず、また逃避して、かれを失敗さすこともできぬと思っている」。「私達は導きを聴いたとき、それを信仰した。そして主を信ずる者には、恐れもなく、そこなうこともなく、また不正もない」。「私達のうちには、神に服従帰依する者もあり、また正道からそれる者もいる。服従帰依した者、かれらは正しい道をめざし努めている」。だが正道からそれる者、かれらは火獄のたきぎである」。
クルアーン72.1 ~ 15(イスラーム)
― み言選集 ―
天使長が堕落してアダムとエバ、人類世界をこのようにめちゃくちゃにしたので、天使がその仕事を代行しているというのです。天使世界がその仕事を代行しているのです。したがって天使世界がサタンと対決しているというのです。悪のサタンと善の天使が対決しているのです。その闘いで、善の天使側が勝利してこそ一歩前進するのです。
(109-18、1980.10.26)
神様の本然の理想世界、堕落がなかった本然の人間が行くことができる理想的な善の圏に向かって行くにおいて、善霊はそこに前進しようとし、悪霊はそこをふさいでいるのです。
悪の霊界と悪の世界というのは、いつも通じるのです。いつでも連絡がつきます。善霊は悪の世界で対立して反対される位置で生きた霊です。それは宗教を信じて逝った霊人たちだということを皆さんは知らしなければなりません。
(134-10、1985.1.1)
争いをすれば、必ず善の側と悪の側に分かれて争います。善の側は神様がコントロールし、悪の側はサタンがコントロールしますが、いつも善の側が勝っていきます。善の側が勝つのです。結局、この争いの歴史は、堕落以降の人間の戦争歴史ですが、その背後で悪神と善神の戦争歴史としてつづられてきたことを人類は知らなかったのです。
(161-13、1987.1.1)
3. 天使に対する人間の優越性
― 宗教経典 ―
私達が天使たちさえ裁く者だということを、知らないのですか。まして、日常の生活にかかわる事は言うまでもありません。
コリントの信徒への手紙一6.3(キリスト教)
またなんじの主が、先に天使たちに向かって「まことにわれは、地上に代理者を置くであろう」と、仰せられたときを思え。かれらは「あなたは地上で悪を行ない、血を流す者を置かれますか、私達は、あなたをたたえて唱念し、またあなたの神聖を賛美し奉るのに」と、申し上げた。
かれは仰せられた「まことにわれは、なんじらの知らないことを知っている」。かれはアダムによろずのものの名を教えたまい、ついでそれらを天使たちに示し、「もし、なんじらの言葉が真実なら、これらのものの名をわしに言ってみよ」と、仰せられた。
かれらは答えて申し上げた「あなたの栄光をたたえまつる、あなたが私達に教えたまわるもののほかには、何も存じません。まことにあなたは、全知者・英明者であられます」。
かれは仰せられた「アダムよ、それらの名を、かれらに告げよ」。そこでアダムが、それらの名を、かれらに告げたとき、かれは仰せられた「われは天と地の秘密を知っており、また、なんじらが現すことも、隠すここともすべて知っている」。
クルアーン2.30 ~ 33(イスラーム)
モーセが高く上がっていったとき、聖なる神の前で守護天使が言った。「宇宙の主管主である神よ! 私達の間に女の生んだ一人の人間がいるのはどういうことでございますか」。神が答えられた。「彼は律法を受け取りにきた」。
すると天使たちが答えた。「この上なく秘密の宝、神であるあなたが、世が創造される以前に974 世代の間隠してこられたその秘密を、人間に与えようとされるのですか! あなたが心の中に包んでおられた人とは何ですか。そして、あなたが訪ねたこの人の息子はどのような存在ですか。おお、わが主よ、あなたの優れたお名前は全知にあふれます! 誰があなたの栄光(律法)を天に書き記しておいたのですか」。
聖なる方がモーセに、「あなたが答えてあげなさい」と語られた。それでモーセは神の前で天使たちに答えた。「宇宙の主管主であられる神よ! あなたが私に下さった律法、その律法の中には何か記されていましたか」。
「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」(出エジプト記20.2)。モーセが天使たちに言った。「あなたたちがエジプトに行ってパロの奴隷になりましたか。だとすれば、当然律法はあなたたちのものになるのではないですか。また神が私に下さった律法には何が記録されていますか。『あなたには、私をおいてほかに神があってはならない。」(出エジプト記20.3)となっています。あなたたちは、偶像を崇拝する人たちの中で暮らしていますか。また律法には何と記録されていますか。『安息日を心に留め、これを聖別せよ。』(出エジプド記20.8)と記録されています。
休息を必要とするときに仕事をしたからといって能率が上がりますか。……また律法に何と記録されていますか。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。』(出エジプト記20.13 ~ 15)となっています。皆さんの中で、何かの嫉妬がありますか。悪魔が皆さんの中で共にいることができますか」。
するとすぐに天使たちば聖なる神に自分たちの敗北を認めた。そして、「誰があなたの栄光(律法)を天に書き記しておいたのですか」という聖句はないが、「主よ、私達の主よ。あなたの御名は、いかに力強く、全地に満ちていることでしょう。」(詩編8.10)という聖句は記録されているのである。(注28)
タルムード、シャッパト88b ~ 89a(ユダヤ教)
― み言選集 ―
天使は神様に使える霊だといいました。神様の息子がいれば、息子に支配されなければなりません。天使を支配しなければならないのが人間の権威です。
(84-98、1976.2.22)
未完成期にいた人間に、このような戒めを与えられたのは、単純に、彼らが堕落しないようにするためだけではなかった。(注29)更にいま一つ、人間が、自分自身の責任分担として、そのみ言を信じ、自らの力で完成することによって神の創造性に似るようになり、併せて万物に対する主管性をも得るようにさせたいからでもあったのである。
そして、この戒めを天使長に与え給わず、人間に与えられたというのは、神の子女としての立場から、天使までも主管しなければならない人間の創造原理的な資格と威信とを、立てさせようとされたからであった。
原理講論、堕落論3.2
10) 死んだ者の霊魂
死んだ霊たちは、事実、私達から離れることはない。彼らは、記憶以上に私達と共に残っている。私達が愛した人たちの霊は、地上で継続して私達の福地のために最大限努力する。
地上で私達が過ちを犯して傷つけられた霊たちは、私達に怒りを見せ、機会があれば復讐しようとするだろう。したがって、死んだ者は、正に死んだのではない。彼らは恐らく私達と一緒に暮らしているのだろう。
キリスト教の聖書で、サウルが預言者サムエルの霊を呼び出すために霊媒を利用していたように、時には鋭敏な人たちが死んだ者の霊を地上に呼び出すことができる。
大部分の人たちは、人生に対する霊界の影響を感知することができないが、それは実在する。哲学者イマヌエル・カントは次のように言う。「人間の霊魂は、この人生においても霊的世界の非物質的な本質と不可分の関係を結んでいる。人間の霊魂は、霊的本質と相互作用し、霊感を残し、彼らから助けを受ける」。彼らは、死んだ者の霊だけでなく、自然の精霊、鬼、妖精とその一族を含む。古代人たちは霊をよく知っており、シャーマンは彼らの存在を感知できるように訓練され、人間の利益のために彼らを利用した。
偉大な芸術を創作するとき、霊感や科学的発見と発明をするとき、閃光のごとき洞察力のように、その霊たちの影響は幸運を与えたり、有益になり得る。過去の根深い葛藤が今日の氏族的な暴力事態を誘発するとき、怒りに火をつけるように、霊たちの影響はまたすさまじく破壊的にもなり得る。
天上と地上の相互関係は二つの方法で起きる。霊たちは義の名分をもって地上の人たちを助けるために動員され得るが、逆に霊たちは、自らの困難を解決するために地上の人たちの助けを必要とする。
様々な宗教は、生きた者が死んだ者の有益のために供え物を捧げなければならないという考えを奨励する。さらには、末日の聖徒たちは、終末に天国により近くに連れていくための方法として、死んだ者たちの洗礼を奨励する。
これと関連して文鮮明先生は、「再臨復活」を教える。死んだ者たちの霊は、生きた者たちを助けるために降りてくるのであり、生きた者たちは、死んだ者たちが完成できなかったことに責任をもち、それを解決することによって彼らを助けるのである。
1. 生きている者と共にある霊魂
― 宗教経典 ―
神の道のために殺害された者を、「かれらは死んだ」と、言ってはならぬ。いや、かれらは生きている、ただなんじらが知覚しないのみである。(注30)
クルアーン2.154 (イスラーム)
榊の葉の香りが香ばしい。(注31)
近くに引き寄せ、私は
皆がっ伺に集まった
無数の親戚たちを見る。
神楽(神道)
これ等の魂が放射する光は、この世の進歩と人々の発展の原因となるものである。彼等は存在の世界を発酵させる酵母の様なもので、この世の技巧や不思議が顕わされるよう活気づける力となるものである。……
これ等の魂と超絶の象徴は、存在の世界に崇高なる運動の推進力を供給して来たし、又、供給し続けるであろう。
バハオラ落穂集81(バハイ教)
女は尋ねた。「誰を呼び起こしましょうか。」「サムエルを呼び起こしてもらいたい」と彼は頼んだ。その女は、サムエルを見ると、大声で叫び、サウルに言った。「なぜ私を欺いたのですか。あなたはサウルさまではありませんか。」
王は言った。「恐れることはない。それより、何を見たのだ。」女はサウルに言った。「神のような者が地から上って来るのが見えます。」サウルはその女に言った。「どんな姿だ。」女は言った。「老人が上って来ます。上着をまとっています。」サウルにはそれがサムエルだと分かったので、顔を地に伏せ、礼をした。
サムエルはサウルに言った。「なぜ私を呼び起こし、私を煩わすのか。」サウルは言った。「困り果てているのです。ペリシテ人が戦いを仕掛けているのに、神は私を離れ去り、もはや預言者によっても、夢によってもお答えになりません。あなたをお呼びしたのは、なすべき事を教えていただくためです。」
サムエル記上28.11-15 (キリスト教)
死んだ者たちは、決して消えない。
彼らは真っ暗な暗闇の中にいる。
死んだ者たちは土の中にいない。
彼らは風になびく木の中にいて、
彼らは音のする森の中にいて、
彼ちは流れる水にいて、
彼らは静かな水にいて、
彼らは草庵にいて、
彼らは群衆の中にいる。
死んだ者たちは決して死んだのではない。
死んだ者たちは決して消えない。
彼らは女の胸にいて、
彼らは泣き喚く子供の中にいて、
燃えるかがり火の中にいる。
死んだ者たちは土の中にいない。
彼らは消えていく火の中にいて、
彼らは涙に濡れた草原にいて、
彼らはすすり泣く岩にいて、
彼らは森の中にいて、家の中にいる。
死んだ者たちは決して死んだのではない。
ピラゴ・ディォプ(アフリカ伝統宗教)
「ヘクラの道は見ることができ、光り輝く。そこから空気を重くし、全く息ができないようにする燃える息遣いのようなあるものが出てくる。私達はヘクラを見ることができず、彼らが動くときに引き起こす風を感じる。
私がたった今戻ってきた狩りで、私は私の中にいたヘクラを散らしてしまった。」「普通の人は彼らが分からない。しかし、風は彼らがそこにいることを私達に教えてくれる。」
「私が目を閉じたとき、私は暗闇の中でのみ、彼らを見る。」「私達は彼らをそのときにだけ見ることができる。」「彼らの道は、私に明確になる。私は眠っている。彼らが突然私の腕をゆすり、足首をつかんで引っ張り、私を起こす。」
「真のシャーマンでない人は、彼らの声を聞くことはできない。真のシャーマンは寝ている間、『ぷう……』という鳴き声とこの声が蒼空からこだましてくるのを聞く。
彼は目を開け、『私は今、彼らを見ようとする!」と自らに言う。オウムが「プレ、プレ、プレ……』と歌えば、彼はそれがヘクラであることに気づく。そのとき、すがすがしい風が彼の足をすべるようにして過ぎていく」
「私はヘクラが生木の切れ枝の上を歩いているのを見た。私はすぐその下を通っていた。」「事実、それがヘクラだった。しかし、彼らは私に友好的ではなかった。たき火の近くの煙の出る焼き綱の強いにおい、焼けた毛から出るにおい、燃えた肉から出るにおい、彼らを追い出してしまった。
しかし、彼らはあなたに接近しようとする心があるように見える。」「彼らは酔うような香りを漂わせていた。その香りは、彼らがもたらした燃料と魔法の杖から出ていた。突然、においを嗅ぐことが中断された。私の鼻はもう彼らを知覚できなかった。」
それで、人が成人の儀式の最後にいるとき、狩りをしないのが賢明だ。もしオオハシの群れが飛んでいて、その中の一羽がすぐ近くに下りてきたら、残りの鳥がすぐにその鳥についてくる。彼らが驚かないようにせよ。食い入るように彼らをみつめ、あなたが行く道を続けて行きなさい。
彼らがヘクラであることを肝に銘じよ。もちろん、そこには狩りの中であなたが追い出してしまった鳥たちがいる。しかし、関心をもちすぎるな。私は、彼らが良い鳥たちではないと予測する。残りの中に、あなたがハンモックに横になっているとき、あなたの胸に下りてくる鳥たちがいる。彼らが本当にあなたのものであり、あなたに属する。
ヤノマミ族のシャーマンの教え(アメリカ先住民の宗教)
最後の顔の赤い人が消え、私達の部族に関する記憶が、白人たちの間に一つの伝説になるとしても、この海岸は私達部族の見えない霊魂たちでいっぱいになるだろう。
あなたの子孫たちが野原で、店で、高速道路の上で、また道のない森の静けさの中で、一人だと考えるとき、彼らは一人ではない。この地のどこにも寂しい所はないだろう。夜になり、あなたの都市と村の通りが静かになれば、あなたは荒涼としていると思うかもしれないが、そこには一時満ちていて、依然としてこの美しい地を愛する霊魂たちが戻ってきて、込み合っているのである。白人たちは決して一人ではないだろう。
シアトル酋長(注33)(アメリカ先住民の宗教)
― み言選集 ―
皆さんは創造本然の人生の内容を知らず、天の大勢の霊人と地の被造万物と創造主神様の前に自信をもって堂々と語ることのできる存在にはなることができていませんが、天の大勢の霊人は、この時間も皆さんのために、地もやはり皆さんのために、神様も皆さんのために働いていらっしゃいます。
(8-43、1959.11.1)
皆さんの心霊状態が最高に達したとき、そのような決心をして天のために動いてあげれば、霊界から善の霊たちが降りてきて、皆さんを協助するのです。ところが、皆さんの心霊状態が落ちれば、そのように協助していた霊たちが、一人、二人と離れていくのです。離れていくようになるとき、その霊たちがどれほど悲しむか分かりません。行って、いつまた地上に来て協助するだろうかというのです。一度離れれば、再び皆さんのところに来るのが大変なのです。
ですから、霊人たちをだんだんと増やしていくことのできる自身の行動が必要だということを知らなければなりません。そうしてこそ、皆さんのすることが一瀉千里で発展していきます。天運がついてくるのです。
(161-273 ~ 274、19872.26)
霊界は、今まで数多くの主流歴史をもっています。これがすべて線を中心として連結されているのです。ところが、思いどおりにここに来て働くことはできません。このように働くことができないのです。これが降りてきて働くことができません。ふさがっているのです。ここから再臨しようとすれば、宗教によって橋を架けなければ、特定の人以外には再臨することができないというのです。(102-29 ~ 30、1978.11.19)
先祖たちがすべて、責任分担と蕩減条件に引っ掛かって、霊界に行っても、行くべき道を行けずに、地に再び下りてきて蕩減するのと同様に、その道を皆さんは残してはいけないのです。
(146-224、1986.7.1)
過去においては、祈祷し、精誠を尽くしても宗教の教主とはその時にしか会えませんでした。会おうものならすべて分かれてしまうのです。ですからまた上がらなければなりませんでした。ところが今では、すべて宗教圏を中心として地上に再臨することのできる時になりました。
(161-200、1987.2.3)
2. 霊魂の守護と霊的功績
― 宗教経典 ―
身を清め供物をしつらえ、祖先の御霊に捧げ祀る。春に夏に秋に冬にと、それぞれに祖先の御霊を祀る。祖霊がV辞を授けられた、万年に至るまで命長くあれと。
詩経2.1.6 (儒教)
彼等は{我らの}在家の外に、又は街の四辻に立ち、或いは{古き}各自の家に行きて戸口に立つ。過去の業に縁りて、多くの食物・飲物や硬き食物、軟き食物の供えられたる時、{此の世の}誰も此等の有情を記憶するものなし。
是の如く、慈悲のある人は、因縁ある者の為に、清浄にして、するれたる、時に適したる食物・飲物を興ふ。「こは汝ら〔逝きにし〕因縁あるものは満足してあれ」とて、彼等は此処に集まり、集まりし因縁ある餓鬼等は、多くの食物・飲物に非常に悦び、「此等のものを受けたるその人々によりて、我等因縁あるものは長く生きん。我等のために供養はなさる。又施主は果なきことなし」と、実に此の〔死の〕世界には、耕作もなく、牧畜もなく、商業の如きもなく、金を以て売買することもなし。
此の世から受くることによりて、死の世界の餓鬼は生きて行く。高き処の水の低きに流るるが如く、是の如く此の世からの施物は餓鬼に利益あり。……
泣くことも、悲しむことも、其の他歎くことも、餓鬼等のためには何の益ともならず。是の如く因縁あるものは立ちてあり。されど、此の施物の僧團に興へられ、使用せられなば、長く死人の利益となり、よく彼を利す。
此処に記されたたるこれは、因縁あるものに対する義務にして、餓鬼には大なる供養がなされ、比丘には力を興ふ。又汝等には少からざる福が得らる。
小誦経、戸外経(仏教)
一族の滅亡において、永遠なる一族の美徳(ダルマ・義務)は滅びる。美徳が滅びる時、不徳(アダルマ)が一族を支配する。不徳の支配により、一族の婦女たちが堕落する。婦女たちが堕落すれば、種姓(ヴァルナ)の混乱が生ずる。このような混乱は、一族の破壊者と一族とを地獄に導く。
バガヴァッド・ギーター1.40 ~ 42(ヒンドゥー教)
ところで、この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。神は、私達のために、更にまさったものを計画してくださったので、私達を除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです。こういうわけで、私達もまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。
ヘブライ人への手紙11.39 ~ 12.2(キリスト教)
この場合、先祖と子孫の間にある事項について固いつながりがなければ、地はのろいをもって打たれるということを知るだけで十分です。さて、その事項とは何でしょうか。
それは死者のためのバプテスマです。彼らなしには私達が完全な者とされることはなく、また私達なしには彼らが完全な者とされることはないのです。
また、福音にあって死んだ者なしには、彼らもわたしたちも完全な者とされることはありません。今や訪れようとしている時満ちる神権時代の到来に当たって、アダムの時代から現在に至るまでの、神権時代と鍵と力と栄光のすべての、ことごとくの、完全な和合と結合が起こり、示されることが必要だからです。
教義と聖約128.18(末日聖徒イエス・キリスト教会)
― み言選集 ―
創造原理によれば、人間の霊人体は神から受ける生素と、肉身から供給される生力要素との授受作用によってのみ成長するように創造された。それゆえに、霊人体は肉身を離れては成長することも、また復活することもできない。
したがって、地上の肉身生活において、完成されずに他界した霊人たちが復活するためには、地上に再臨して自分たちが地上の肉身生活で完成されなかったその使命部分を、肉身生活をしている地上の聖徒たちに協助することによって、地上人たちの肉身を自分の肉身の身代わりに活用し、それを通して成し遂げるのである。ユダ書14 節に、終わりの日に主は無数の聖徒たちを率いて来られると言われた理由はここにある。
では、霊人たちはどんな方法で地上人に対して、み旨を完成するように協助するのだろうか。地上の聖徒たちが祈祷や、その他の霊的な活動をするうちに、霊人たちの相対になれば、その霊人たちは再臨して、その地上人たちの霊人体と相対基準を造成していろいろの業をするようになる。
そして、その霊人たちは地上人たちに火を受けさせたり、病気を治させるなど、いろいろの能力を現させるのである。それだけでなく、入神状態に入って、霊界の事実を見せたり、聞かせたり、あるいは、啓示と黙示によって預言をさせ、その心霊に感銘を与えるなど、いろいろの方面にわたる聖霊の代理をすることによって、地上人がみ旨を成し遂げていくよう協助するのである。
原理講論、復活論2.3.1
あの世に行けば人を殺害した者、殺害された者、もろもろの人が一箇所に集まっているので、そこでは刃物で相手を脅かしたり、復讐しようとすることも起こるのです。
ですから、数多くの塀でふさがっているのです。それゆえに、悪霊が怨讐の子女を訪ねていって、事故に遭わせて連れていったりするようなことが起こるのです。これをすべて解かなければなりません。これを解くためにはまず地上世界で解かなければなりません。解くにはもっと良いものを与えなければなりません。死ぬことよりもっと良いもの、怨讐関係になったことより、もっと良いものを与えなければ解くことができません。
何をもって霊界を解放し、神様を解放するのでしょうか。このような関係は、人間の先祖がこれを結ばせて天上世界をめちゃくちゃにしたのですから、今日後代の子孫は、先祖たちのすべての過ちを償わなければなりません。
真の孝行者の伝統を受け継いだ子供なら、父母の借りを返さなければなりません。父母が借りたものを返さなければならないのです。
そのような意味で、霊界の先祖のすべての塀を崩す運動をしなければなりません。そうすることによって、先祖たちがここに来て、皆さんに教えるようになるのです。これは夢のような事実です。私のような人は、一人で暮らしている人ではありません。私は皆さんをさっと見れば、先祖がどうで何をやったのか分かります。悪の霊人の子孫を見ると、真っ暗になります。その先祖の顔がさっと見えたかと思ったら、ふっと消えるのです。ですから、悪の霊、善の霊を分けるのです。
(191-205 ~ 206、1989.6.24)
イエス様が地上に来られることによって、それ以前の善なる先祖たちが霊形体級の霊界から生命体級の霊界に入ることができたのと同様に、皆さんの先祖たちも地上にいる皆さんを条件にして、再臨することができる特別な恵沢圏内に入ってきました。皆さんは、数千代の善なる先祖たちが再臨し得る基盤になるべきです。
私達が地上で再臨復活を引き起こせることをすれば、どれほど神聖で偉大でしょうか。皆さんの先祖の中で、忠臣がいるとか、烈女、あるいは孝子がいれば、皆さんが祈祷で彼らを呼ぶと、来るようになっているのです。なぜかというと、これからは先祖たちが皆さんを協助しなければならないからです。
(14-22 ~ 23、1964.4.19)
人間たちが知らない霊界の霊人たちを動員して、証させることができる基準が自分にあるかが問題です。霊界もそのようなことを要求しています。霊界は神様の心情を知っているために、地上にそのような人がいて訴えれば、霊人たちを動員して、天国理念の実現のための地上の仕事に協助するようになるのです。
霊界の霊人たちがこの地に来られない原因は何ですか。それはこの地が嘆息の垣根になっているからです。もし私自身がとどまっている環境が嘆息の条件を抜け出すことができ、自分の体を通しても嘆息の条件を抜け出すことができ、また、サタンの脅威を受けながらも恐怖を感じない安息圏内に立ったのなら、神様は私を協助してくださるようになります。すなわち、神様の悲しみを体恤する心情には、サタンも侵犯できないのです。お父様のために悲しみ、心配し、涙を流す人を捕らえるためには、サタンもそれと同じ立場に立たなければなりません。そのようになれば、サタンの勢力も根本的に崩壊します。
(4-60 ~ 61、1958.3.2)
11) 生まれ変わり
生まれ変わりに対する信仰は、仏教、ヒンドゥー教、ジャイナ教など、インドで発生した宗教に共通する。これは、個別の霊魂が一つの人生から他の人生に移っていき、それぞれの人生は前世の行為によって条件づけられるという信仰である。
財産と幸運、社会的地位、遺産相続などが、人によって差が生じるのは、前世の行為による結果にすぎないとする。宇宙が循環するように、輪廻の車輪は私達各自が絶えず生き死にを反復しながら――時には人間に、時には動物に、さらには昆虫に再び生まれながら――生まれては消えていくようになる。
一方、キリスト教は、概して生まれ変わりを否定し、神様はすべての人に一度の人生の間に救援の機会を下さると主張する。仏陀も、悪行に携わる罪人が二番目の機会を無難に得ることができると慰安することによって、生まれ変わりを簡単に期待しようとすることを批判する。
生まれ変わりの教義によれば、霊魂たちは、人間に生まれ変わったときに完成という究極的な目的に進むことができる機会をもつ。それで、霊魂たちは、過ちを正し、霊的完成の道を備えようとする希望から、生まれ変わることのできる人間の肉身を願う。
文鮮明先生も、霊魂は肉身をまとったときにのみ成長できると教える。しかし、一つの肉身からほかの肉身に生まれ変わる霊魂の代わりに、文先生は地上の人を協助するために再臨する霊魂たちの過程を描写し、この過程を「再臨復活」と呼ぶ。
霊魂たちは、自分と類似した困難に処している地上の人たちを協助することによって、自分が完成できなかった任務を解決することができ、その時、初めて解放され、より高い次元に上がっていく。
時としてこれは、地上の人たちには苦痛であり、さらには罰を受けるかのような出会いにもなり得るが、彼らは、決して想像することができないつらい先祖たちの経験を相手にしなければならない。生まれ変わりを信じる人たちは、ただその霊魂たちの考えを誤って理解し、まるでその考えが前世の自分の行為であるかのように経験する。どの教えが真なのかの問題と関係なく、自分を遠い過去から無限の未来に至るまで、他者の人生と絡み合っていると見ることは、私達を謙遜と忍耐の姿勢に導く。
― 宗教経典 ―
思・触・見による迷妄と、IV食(たんしょく)・吸飲・懐妊とによりて自己の生育と誕生とを得る身主(霊)は次々と、種々の境涯において、その業因に相応せる形相を得。身主はあるいは粗大、あるいは微細なる種々の形相を自己の諸性徳によって選択す。そして、活動の諸性徳と、自体の諸性徳とを有するによりて、上記の諸性徳の綜合因としての別異の存在者として見らる。
シヴェーターシヴァタラ・ウパニシャッド5.11 ~ 12(ヒンドゥー教)
世界には、前に行った様々な行動によって、この生で様々な家門と階級に生まれた様々な類型の存在が生きている。時には、彼らが神々の世界に行き、また時には地獄に行く。時には自分たちの行為によって悪魔になることもある。
時には彼らが戦士になることもあり、隣のカーストや不可触賎民、または虫や蝶になることもある。
それゆえ、繰り返し生まれ変わる、悪行に従事する存在は、生まれ変わりを腹立たしく思わず、彼らはまるで戦士たちのように、生の戦闘に退屈しない。自分たちの悪行の影響で惑わされ、苦痛を受け、彼らは人間以外の生を受けて不幸に遭う。
しかし、偶然に業の止滅によって生きている存在は、時になれば清浄な状態に到達し、人として生まれるだろう。
ウッタラッジャーヤー、スートラ3.1 ~ 7(ジャイナ教)
「ときとして私は高い家門に生まれ、また時として低い家門に生まれた。私は飛天することもなく、高貴でもなく、また私は社会的な高い地位を願うこともない」。このように考えるとき、誰が自分の家門やその栄光に対して誇り、またそのようなことを願うだろうか。
したがって、知恵深い者は、自らの運命に対して喜んだり恨めしく思ったりしてはいけない。彼はあらゆる衆生の幸福を知り、それに対して深く考えなければならない。注意して振る舞いながら、次のように考えなければならない。
「私は常に盲人、耳が聞こえない人、話ができない人を経験するのであり、片目が見えず、背中が曲がり、目が遠く、黒人であり、白人であり、またあらゆる皮膚の色をした人だ。私の不注意のために、私は様々な生を受けて生まれ、あらゆることを感じ経験する」。
アーカーランガ・スッタ2.50 ~ 55(ジャイナ教)
彼盲一百年に一たび浮びて彼一孔ある軛に首を入るるは寧ろ速なり、諸比丘よ、一たび堕処に到れる愚者の人身を得るが如きは然らず。何を以ての故なりや。
阿含経相応部V.455 (仏教)
罪を支払うために魂がこの世の生へとふたたびもどされるということはない……私が神の善意によって与えられた身体へもどることがどうして罰であろうか。
アウグスティヌス神の国12.27 (キリスト教)
― み言選集 ―
宇宙は原因なく生じることはありません。「すべてのものが自然発生的だ」と言いますが、自然はただそのまま出てくるのではないのです。自然の中にはその原因があります。自然の中には方向性があります。また、自然は結果を追求しながら巡回し、運動しています。循環運動や地殻運動など、運動しているのです。必ず方向性をもって運動しているというのです。
ですから、複合的な方向性が結集し、一つの完成した物として発展したのであり、そのような結果になったことが分かります。宇宙は回っていく運勢なので回っていくのだと言い、歴史も発展して回っていくと言います。春夏秋冬も回っていくと言います。そのようになれば、進化するすべての段階はなぜ回っていかないのか、なぜ発展ばかりしなければならないのかというのです。
このような観点から、循環する世界を見てみるとき、ここから輪廻説のようなものも出てきたのではないかと思います。人が動物にも帰っていき、木にも帰っていき、何にでも帰っていくと見る、そのような観点も関係があるというのです。
(94-11 ~ 12、1977.6.19)
今日、人間世界に暮らしている皆さんは、人間世界を中心として霊的現象を見ることができます。どの時代でも、いつの時でも、宗教人はもちろん、それ以外の人たちも霊界の因縁に従い、霊界と混合した生活圏で暮らしていることは歴史的な実証といえます。歴史過程を通してそのように生活してきたという事実は、私達が宗教を信じなくても、夢を通してや、様々な神秘的な体験を通して知っているのです。
(131-167、1984.5.1)
なぜ再臨しなければならないのかというと、地で結ばれたために地で解かなければなりません。仏教のようなところでは、このような現象を輪廻説と言います。誰が再臨した、孔子が来た、釈迦が来たというのは一瞬のことです。その人が釈迦ではありません。
再臨して、ある分野の責任をその人を通して成し遂げようとすると、そのような現象が起きます。それで、このくらい上がったなら、またここからもっと上がっていこうとすれば、ほかの預言者を通して上がっていかなければなりません。
(91-276 ~ 277、1977.2.27)
霊界にいる霊人たちは、地上の人間を通じて自分が恵沢を受けることを願います。これが霊人たちの要求なのです。堕落しなかった本来の人は、天使世界と宇宙を主管することができる価値的存在です。
人間が堕落することによって何段階も下に落ちたために、再びその位置まで上がっていかなければなりません。上がっていくにも、一遍に上がっていくのではなく、段階を経て上がっていくのです。段階を経て、個人、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙まで復帰して上がっていかなければならないのです。
本来の人間は、この世界に訪ねていくべきです。ところで、この世界に訪ねていくには、一遍に上がっていく道がないために、一段階、一段階を開拓しながら、個人から家庭に、家庭から氏族に、氏族から民族に、段階を経ていかなければなりません。
神様の摂理について見れば、旧約時代、すなわち個人を救い得る個人的な摂理時代以前に死んだ霊人たちは、その時代に入って恵沢を受けようとするのです。それで、一段階を上がっていくためには、必ず蕩減が起こります。一段階を越えるためには、カイン・アベルの場合のような蕩減役事が、必ず起こるのです。
ある霊人が、この時代を経てきながら、甲という人に協助してきたとしても、一段階を越えていくためには、ただでは越えられないのです。ここには必ず蕩減期間があります。それは、一日、二日で成されるのではなく、7年とか、40年、70 年、あるいは何世紀を経ていく時があるのです。
ですから、ここで協助した霊人は、その蕩減期間が終わらないうちは続けて上がっていくことができないので、霊界に帰るのです。その霊人は、地上にいる甲という人が基盤をすっかり築いてくれるのを願っているのですが、その人がその期間内に蕩減を果たせず死ぬことになれば、その霊人は、第2次に乙という人を選んで、乙に再臨するのを待ち望みます。ですから乙に再臨する霊人は、甲に再臨していた霊人なのです。
その霊人がパウロなら、パウロが時代的に一段階一段階上がっていくためには、第1次に再臨した甲という人が、蕩減期間内に蕩減を果たせずに死ぬようになれば、第2次として乙という人に再臨して協助して上がっていくのです。
必ず蕩減期間があるのです。蕩減期間は、原理的な期間があって、短期間にはなされません。ですから、第2次に選んだ乙という人が蕩減できなくなれば、その次には、丙という人を選んで再臨するのです。それで、結局、丙という人にパウロが再臨したということになるのです、
この時に、乙がある文字を書いておいたり、何かをするようになると、「私はパウロの霊の協助を受けて、今役事する」と言うのです。その次の時代に丙という人においても、ある文字を書くようになれば、彼もやはり、「パウロの霊の協助を受けて役事する。私がパウロだ」と言うのです。
このようになるので、結局は全世界にパウロの霊が、乙に現れ、再び丙に現れたのと同じようになるのです。このような現象が起きるために、これだけを見て輪廻だと言うのです。リーインカネーション現象のようなものとして現れるのです。全体を知らないために、そのように言うのです。それがこの時代と同様で、世界天宙時代まで起こります。
本来の人間は、サタンの支配を受けず、神様の直接主管圏内で暮らさなければならないのに、堕落することによって堕落圏に暮らすようになったので、それを脱するためには個人として蕩減し、家庭として蕩減しなければなりません。
これを蕩減せずには、脱することができないのです。霊人は、必ずその時代ごとに再臨現象を経て現れるために、その段階、段階が輪廻、すなわち生まれ変わる現象として見えるのです。
このような観点で見るとき、皆さんも同様です。皆さんが個人的にただ信じて死ぬようになれば、家庭をもてなかったために、家庭基準、氏族基準、民族基準、国家基準、世界基準といった段階をみな越えていかなければなりません。
ですから、何億万年がかかるかもしれないのです。それは無限に該当します。イエス様も国の基準を越えられなかったために、国の峠を越えるために再びやって来て、国の峠を越えて初めて天国に入ることができるのです。
イエス様は、今楽園にいますが、同様の道理です。このような立場で、イエス様がこの中のある人に再臨して、その人を直接指導するようになれば、イエス様が臨在したその人は、「自分がイエスだ」と言います。
ですから、それだけ見れば、昔のイエス様が自分として生まれ変わったと思うために、輪廻説のような現象が起こることになるのです。皆さんは、このような霊的世界をよく知らなければなりません。
人は、本来神様が直接主管なさる善主権内で暮らさなければならないのに、堕落圏内で生きているために、悪主権を脱しなくてはならない運命にあるのです。ですから、このような問題かあるのです。イエス様は、霊的にそれを成しました。キリスト教も霊的にそのことをしてきているのです。
このような観点で見るとき、統一教会の復活論は、霊界の事実にそのまま当てはまります。言い換えれば、統一教会の復活論は、霊界の公式を皆さんに教えてくれているのです。今までの数多くの宗教人たちが、そのような未知の霊界の事実を体験はしましたが、それがどのようになっているか、その事実を知らなかったのです。
(54-277 ~ 280、1972.3.26)
12) 霊的誤謬と秘術
世界の主要宗教には、霊たちと彼らの霊的交信に対する深い不信がある。霊たちは究極的実在と比較できないため、最上の真理に内密に関与することができない。キリスト教、ユダヤ教、イスラームは、天使たちが誤って罪を犯したと教える。
仏教は、さらに創造神(ヒンドゥー教のブラフマン)をこのような従属的な神様の中の一つであり、仏陀として現身した達磨に従属するものとみなす。
霊たちは、利己的な目的に引っ張られて過ちを犯し、彼らを案内者として頼る人たちを誤って導きやすい。さらに、霊界は悪霊、悪魔たちと堕落した天使たちだけでなく、ジン(イスラームの神話の神霊)を含む霊的仲介者たち、死んだ者たちの霊、多様な等級の幽霊たちが居住する所である。
霊媒、魔法使い、シャーマンたちから霊界に対する何かの情報を求めるなど、秘術の儀礼は低級な領域にいる霊たちとの交流を通して人々をあちらこちらにさまよわせることもある。
文鮮明先生は、これをシャーマニズムが依然として広まっている韓国で経験した。師はまた、エバが霊の力が不足だったため、秘術と人間の堕落の間に隠密な関連がある点を認める。したがって、私達は、啓示されたより高次的真理の権威を借り、「霊たちが果たして神的なのかを検討」してみなければならないと勧告する。
信仰、純潔、啓示された真理固守、そして善行を実践することなどは、最上級の霊的存在との交流を保障する優れた方法である。
1. 堕落した霊魂は偽りの案内者
― 宗教経典 ―
実にバガヴァットよ、神々や悪魔もあなたの顕現を知らない。あなただけが、自ら自己を知る。至高のプルシャよ。万物をあらしめる者、万物の主、神のうちの神、世界の主よ。
バガヴァッド・ギーター10.14 ~ 15(ヒンドゥー教)
神はその僕たちをも信頼せず、御使いたちをさえ賞賛されない。
ヨブ記4.18 (キリスト教)
人間の息子の中で、盲人たちはどれほどふびんだろうか。この世界がどれほど奇妙で、見えないものと隠された危険でいっぱいに満ちているか、彼らは知ることができない。これを知れば、地上で生命を知らずに生きているという事実に驚くだろう。
ゾハール1.55a (ユダヤ教)
神は神聖な会議の中に立ち、神々の間で裁きを行われる。「いつまであなたたちは不正に裁き、神に逆らう者の味方をするのか。弱者や孤児のために裁きを行い、苦しむ人、乏しい人の正しさを認めよ。
弱い人、貧しい人を救い、神に逆らう者の手から助け出せ。」彼らは知ろうとせず、理解せず、闇の中を行き来する。地の基はことごとく揺らぐ。
私は言った、「あなたたちは神々なのか、皆、いと高き方の子らなのか」と。
しかし、あなたたちも人間として死ぬ。君侯のように、いっせいに没落する。神よ、立ち上がり、地を裁いてください。あなたはすべての民を嗣業とされるでしょう。
詩編82(キリスト教)
― み言選集 ―
霊的な現象においても、お化けや悪霊の活動という、このような現象がいくらでもあるのです。このように見るとき、神様と人間との関係、これは解決されていません。これを解決しなければなりません。理論的に解決し、神様が主体なのか、人間が主体なのか、悪の霊が主体なのか、人間たちが主体なのかという、このようなすべてのことを設定してあげなければ、この宇宙が定着できないのです。
(191-11、1989.6.24)
霊界はカイン的であり、地上はアベル的です。(注35)今までは、カイン的な立場にいる霊界が人間を支配してきました。霊通人たちがすべての人間たちを支配してきました。地上にいる人間たちに使令(指令?)して、自分が恵沢を受けてきたのです。
(83-15、1976.2.5)
最近、ノイローゼ現象で、よく独りでぶつぶつ言っていますが、なぜそのようになるのか知っていますか。それはすべて霊界……。
このような関係、このような階級にいる人たちが、独りでは上がっていくことができないので、この人間世界を通してそのようなことをするのです。ところが、悪霊は観がありません。方向性がないのです。善霊は方向性がはっきりしています。
(91-274 ~ 275、1977.2.27)
2. 秘術の危険
― 宗教経典 ―
暗質的な人々は、餓鬼や鬼霊の群を供養する。
バガヴァッド・ギーター17.4(ヒンドゥー教)
霊媒を訪れたり、口寄せを尋ねたりして、汚れを受けてはならない。私はあなたたちの神、主である。
レビ記19.31 (キリスト教)
先生は、怪異と暴力と背徳と神秘とは、口にされなかった。
論語7.20 (儒教)
わが徒は、アタルヴァ・ヴェーダの呪法と夢占いと観相と星占いとを行ってはならない。鳥獣の声を占ったり、懐妊術や医術を行ったりしてはならぬ。
スッタニパータ927(仏教)
私達は、祈りの場所に行く途中、占いの霊に取りつかれている女奴隷に出会った。この女は、占いをして主人たちに多くの利益を得させていた。彼女は、パウロや私達の後ろについて来てこう叫ぶのであった。「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです。」彼女がこんなことを幾日も繰り返すので、パウロはたまりかねて振り向き、その霊に言った。「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け。」
すると即座に、霊が彼女から出て行った。
使徒言行録16.16 ~ 18(キリスト教)
イザヤは言った。ある人たちが神の使徒に、占い師に関して質問を投げかけたとき、彼は答えた。「彼らは重要な人たちではない」。彼らが「神の使徒よ、ときどき彼らは真実を言います」と言った。彼が答えた。「それは精霊が偶然に得た知らせを、めんどりのように友の耳に大声で騒ぎたてる真実の一部にすぎない。そして彼らはそれに百以上のうそを加える」。 ブハーリーおよびムスリム・ハディース(イスラーム)
「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この悪い時代の者たちもそのようになろう。」
マタイによる福音書12.43 ~ 45(キリスト教)
― み言選集 ―
人間は我知らず何かを信じたいのですが、それを自らの考えでできないので、迷信を中心として、あるいはムーダンを中心として厄払いしたりしながら、自分たちで模索し、追求するのです。我知らず人間にはそのような傾向があるのです。
(10-190、1978.10.22)
皆さんが地方に行けば、ムーダンや占術する人がいて、占いをして未来を予言するのも、普通の人が知らないその背後の神と関係を結び、すべて明らかにすることによってそのような現象が起きるのです。
(176-286、1988.5.13)
霊通者はみな、各自通じている霊界の階位と啓示の内容がお互いに異なるために(コリント15・41)、相互間の衝突と混乱に陥るのが普通である。霊通者は、事実上、みな同一の霊界を探し求めていくけれども、これに対する各自の環境、位置、特性、知能、心霊程度などが相異なるために各自に現れる霊界も、各々異なる様相のものとして認識されて、相互に衝突を起こすようになるのである。
原理講論、復活論2.2.6
霊界はどのような世界でしょうか。天使世界です。天使世界に当たる霊界の神々が、なぜ人間世界と関係を結ぼうとしているのかという問題を、今まで分かりませんでした。
皆さんは、ムーダンや占術、迷信という言葉を聞いたでしょう。それは何ですか。いまだに善悪の位置を明らかにしていない立場に立っている宗教形態です。神様が宗教形態を備えていくので、サタンも宗教形態を備えて防御しなければならないのです。
大概、皆さんがムーダンや占術をする人を見れば、8割以上が女性です。誰と接しているのですか。エバが堕落するとき、天使の指導を受けて引っ張られ、悪の結果をもたらしたのと同じように、復帰時代の道を再現させて従っていくこの地上では、必ず霊界の天使たちが地上に来て女性たちと一つになり、すべてのことを教えるのです。天使たちが教えるとおりにするのが占術やムーダンの役事です。そのようにしながら何をするのでしょうか。堕落したエバと同じように、霊人と暮らしているのです。
(76-95、1975.2.1)
今日の世の中において、易者・八卦見だとか、卜術家(占い師)たちの言葉を中心として占いをし、何をするからといって、その占う結果によって一時はそのすべての環境的与件に喜びを感じることができるかもしれませんが、それは神様と関係を結ぶことはできないということを皆さんは知らなければなりません。
(295-173、1998.8.28)
3. 霊魂を相手にする知恵
― 宗教経典 ―
愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。
ヨハネの手紙一4.1(キリスト教)
兄弟たち、霊的な賜物については、次のことはぜひ知っておいてほしい。あなたがたがまだ異教徒だったころ、誘われるままに、ものの言えない偶像のもとに連れて行かれたことを覚えているでしょう。
ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。
コリントの信徒への手紙.12.1 ~ 3(キリスト教)
悪霊たちは、恐れる人たちに力を発揮するが、恐れのない人たちを惑わすことはできない。
維摩経の聖なる教え7(仏教)
ムスリムは預言ゆえにあることから歩みを変えたりしない。彼が不幸を暗示するものを見たとき、このように言わなければならない。「神よ、あなただけが善なるものをもたらすことができ、あなただけが悪なるものを防ぐことができます。神以外にはいかなる力も勢力もありません」。
アブー・ダーウード・ハディース(イスラーム)
妖怪の存在に留まるは、災いを引き起こすばかり
妖怪の実体が無いと悟るは、覚者(ブッダ)の道
妖怪と実相は一つであると悟るは、解放への道
妖怪は一切の有情の両親であると悟るは、正しい理解妖怪は即ち我が心であると悟るは、無上の栄光
ミラレパ(仏教)
― み言選集 ―
堕落人間は、神もサタンも、共に対応することのできる中間位置にあるので、善神が活動する環境においても、悪神の業を兼ねて行うときがある。また悪神の業も、ある期間を経過すれば、善神の業を兼ねて行うときがたまにあるから、原理を知らない立場においては、これを見分けることは難しい。
今日において多くの聖職者たちが、これに対する無知から、善神の働きまでも悪神のそれと見なし、神のみ旨に反する立場に立つようになるということは、実に寒心に堪えないことといわなければならない。霊的な現象が次第に多くなる今日において、善神と悪神との業の違いを十分に理解し、これを分立することができない限り、霊人たちを指導することはできないのである。
原理講論、堕落論4.4
私が、誰か、おばさん、おばあさん、霊界に通じる人たちの話を聞いて大ざっぱな計算でこのようなことをしていると思いますか。とんでもないことです。彼らは知りません。彼らは、今証してあげるから分かるのであって、どのように回っていくのかは知らないのです。
(68-276. 1973.8.5)
霊通人たちは、互いの方向と自分の位置が違います。自分が中心点でなければならないというので問題が生じます。霊通人が100 人なら100 人全員問題が生じるのです。自分を中心として第一主義を考えるのです。中央を中心として第一主義にならなければなりませんよ。
(325-289、2000.7.2)
今まで霊界が、ムーダンを通して、霊通する群れやあらゆる占い師を通して、この地上の人たちをすべて利用してきました。これからそれはできません。地の人間たちが霊界を支配する時が来るというのです。
(219-78、1991.8.25)
13) 天と地の結合
人間は、霊人体と肉身に創造された。したがって、私達は、霊界と肉界の両側に立つことができる。このような特別な資質により、私達は二つの世界を仲立ちすることができる。私達は、霊界を恐怖の対象として対する代わりに、二つの世界をどちらも支配できる力をもっているのである。
聖者と賢人たちは、正義の動機をもって人間たちを助けるため、天の主人(人間)となることを奨励したとして知られている。万物の主人であり、神様の代身者だという人間の位相の恩恵で、平凡な信者でもこのような能力をもっている。
先住民たちは、これを昔から知っていた。儀式と踊りを通して彼らは、二つの世界の生きている関係を実感する。集中的霊的訓練を通してヒンドゥー教のヨーガ修行者と様々な伝統の苦行者たちは、霊で飛ぶことができる力をもっており、不思議な妙技を見せる。
キリスト教は、イエス・キリストの中で天と地を支配できることを知っており、彼の死に対する勝利は救援の基盤となった。文鮮明先生は、神様の王国が霊的存在世界と物理的存在世界が広大な統一を通して具現されると教える。
― 宗教経典 ―
秘められた計画を私達に知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。
エフェソの信徒への手紙1.9 ~ 10(キリスト教)
「その動くときは天に従って自在に活動し、その静かなときは地に従って静止する。ただひとりの人間にすぎないのに、その心が定まれば、広大な天下の王者となることができる。鬼神も崇(たた)ることがなく、自分の魂も疲れることがない。ただひとりの心が定まることによって、万物を服従させることができるのである」と。
このことばは、虚無で静かな心を天地におし及ぼし、万物のうちに浸透させることをいったものである。この境地こそ天楽と呼ばれるものにほかならない。天楽とは、聖人の心をもって万物を養うことである
荘子13(道教)
天が私に恩寵を下し、
地が私に福を与える。
上には天から霊たちが私によって踊りを踊る。
地では人々が私によって踊りを踊る。
クリ族の円舞家(アメリカ先住民の宗教)
御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。
マタイによる福音書6.10(キリスト教)
長髪者(ケーシン)は火を、長髪者は毒を、長髪者は天地両界を担う。長髪者は万有を〔担う〕、〔そが〕太陽を見んがために。長髪者はこの光明と称せらる。風を帯とする(無帯すなわち裸体の)苦行者(ムニ)たちは、褐色にして垢を〔衣服ととして〕纏(まと)う。
彼らは風の疾走に従いて行く、神々が彼らの中に入りたるとき。(苦行者の言葉)苦行者たることにより忘我の境に達し、われらは風に乗りたり(風を乗物とする)。汝ら人間はわれらの形骸のみを眺む。彼(苦行者)は空界を通りて飛ぶ、一切の形態を見おろしつつ。苦行者はおのおのの神の愛すべき友なり、善き行為〔の遂行〕のために。
リグ・ヴェーダ10.136.1 ~ 4(ヒンドウ一教)
天下のうちで、ただ至誠(な聖人)のみが、その性を尽くす(理に従う)ことができるのである。よくその性を尽くせば、(天下の)人の性を尽くすことができる。よく人の性を尽くせば、万物の性を尽くすことができる。よく万物の性を尽くせば、天地が生育するのを助けることができる。天地が(万物を)生育するのを助けることができれば、天と地とともに三となることができる。
中庸22(儒教)
一なる道に通じれば、万事が尽くされる、物を得ようとする心がなければ、鬼神も従ってくれる。
荘子12(道教)
ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。
ヘブライ人への手紙2.14 ~ 15(キリスト教)
天に陰と陽があり、人にも陰と陽がある。天と地の陰気が起きれば、人の陰気がそれに相応して起きる。人の陰気が起きれば、天と地の陰気もまた当然それに相応しで起きるのだが、その原理は一つだ。このような原理に明るければ、雨を降らせようとすれば(人間の)陰気によって(天の)陰気を起きるようにする。(反対に)雨を止めようとすれば(人間の)陽気によって(天の)陽気を起きるようにする。ゆえに、雨を降らせるのは神のような存在の作用ではない。(人々が)神の作用ではないかと思うのは、(相応の)原理が神秘で微妙に起きるからである。
陰と陽の気だけが同じ流れに従って前に進むこともあり、後ろに退くこともあるのではなく、不運、不幸と幸運の発生もやはりこのような原理に起因する。
あらゆる場合において、自らまず動きを見せ、他の事物が種類によってそれに相応するように動くのである。ゆえに、聡明で神聖な人は内的世界を見つめ、外部の声を遮断し……このような心と考えを沈める内部の自己反省によって、聡明で神聖な人だけが、自分の本心が正にこのような原理によって存在することが分かる。
ゆえに、コムンコと琵琶で合奏するとき、一つの楽器の宮音を弾けば、他の楽器の宮音が自然に鳴って前の音と相応するが、これは事物の種類ごとに相応するのである。この感応の動きは、音がするだけでいかなる姿も見えないため、人はその感応する具体的な形を見ることができないがゆえに、それを自ら鳴っていると思う。
また、互いに感応して動くとき、姿がないものは自然にそうなると言うのだが、実際には自然にそうなるのではなく、それをして、そのように相応させるのである。事物は、実際にそうなるようにするものがもともとあるが、作用させるものは姿が現れないのである。
董仲舒春秋繁露(儒教)
― み言選集 ―
神様は、人間を霊界だけで暮らすように造られたのではなく、この地上で実体をもって霊と肉が調和を成す生活をするように造られました。それは、人間の霊が霊としていらっしゃる神様と通じ、万物を主管するようにし、肉身に霊人体が通じ、霊と肉が和合できるように造られたのです。これが創造の法度です。
(2-80、1957.3.3)
霊界は時空を超越しています。ですから、皆さんは精神統一が必要です。霊界に行けば、心ど体の拍子、テレパシー、それが合わなければなりません。電波で言えば、「ぴっ」とラジオの電波が合えば音がなります。そのように、きちんと姿勢を整えれば、誰かに会いたいと思うとすぐに現れます。親しければ親しい姿で、怨讐なら怨讐の姿で現れます。私が一番忘れることのできない姿で現れるのです。
(187-311、1989.2.12)
神様が創造するときに、愛のために投入し、投入し、忘れるという本質から出発したがゆえに、相対もそれを受けるためには共に投入しなければならないのです。上から投入し、下から投入するのと同じです。こうして天地が合徳、一つとなるのです。天地を抱いて動かすことのできる愛を中心として一つとなるのです。そこに偉大なる力が来るのです。
(237-130、1992.11.13)
神様は人間を被造世界の主管者として創造された(創1 28)。ところで被造世界は、神に対する内的な感性を備えていない。その結果、神はこの世界を直接主管なさらずに、この世界に対する感性を備えた人間を創造され、彼をして被造世界を直接主管するようになされたのである。
したがって、人間を創造されるに当たって、有形世界を感じ、それを主管するようになさるために、それと同じ要素である水と土と空気で肉身を創造された。無形世界を感じ、それを主管するようになさるために、それと同じ霊的要素で、霊人体を創造された。
変貌山上でのイエスの前に、既に1600 余年前に亡くなったモーセと、900 余年前に亡くなったエリヤが顕現したとあるが(マタイ17・3)これらはみな、彼らの霊人体であった。このように、有形世界を主管できる肉身と、無形世界を主管できる霊人体とから構成された人間は、有形世界と無形世界をみな主管することができるのである。
神様は人間を被造世界の媒介体として、また和動の中心体として創造された。人間の肉身と霊人体が授受作用により合性一体化して、神の実体対象となるとき、有形、無形の二つの世界もまた、その人間を中心として授受作用を起こし合性体化して、神の対象世界となる。
そうすることによって、人間は二つの世界の媒介体となり、あるいは和動の中心体となる。人間は、ちょうど二つの音叉を共鳴させるときの空気のようなものである。人間はこのように、無形世界(霊界)と通ずるように創造されたので、あたかも、ラジオやテレビのように、霊界の事実をそのまま反映するようになっている。
ところが、人間が堕落し、被造世界が自己を主管してくれる主人を失ったので、ロマ書8章19 節に、被造物は神の子たち(復帰された創造本然の人間)の出現を待ち望んでいると述べられている。それだけでなく、和動の中心体である人間が堕落して、有形、無形二つの世界の授受作用が切れたので、それらが一体となることができずに分離されたから、ロマ書8章22 節には、被造物が嘆息している事実を明らかにしている。
原理講論、創造原理6.2
神様のように、いつでも霊界と肉界が一つになるのです。その中心は神様であり、神様は常に尊厳な方でいらっしゃいます。それで、真の愛で霊界と肉界の一体化を成すのです。
真の愛が現れなかったので、霊界と肉界が統一されなかったのであり、真の愛が現れなかったので個人の心と体が分かれたのであり、真の愛が立たなかったので、宗教と政治が分かれたのです。真の愛を中心としてすべて一つになります。個人、家庭、社会、国家、世界、天宙がすべて連結されるのです。私達の手でそのようにしなければなりません。そうしなければ、本然の天上天国、地上天国を相続できません。
(216-105 ~ 106、1991.3.9)
サタンを主管できる人ばかりがいれば、霊界も解放され、肉界も解放されます。
(161-243、1987.2.22)
今後、真の指導者は、霊界を動員して活動できる能力のある人でなければなりません。ところが、一つ難しいことがあります。霊的にそのようになれば、扱いづらいことが生じます。そのときは、神様の代わりに現れたという心をもたなければなりません。
(102-117、1978.11.27)
神様はさせませんが、先生の代わりに、ありとあらゆることをする人たちが世界にはいます。空中を飛ぶ人もいるし、水の上を歩き回る人たちもいるし、千里、万里を瞬く間に行く人が、今いくらでもいるのです。間もなく先生がそのような人たちを、あのヒマラヤ山脈から、修行の世界から呼んでくる時が来るでしょう。
(60-195、1972.8.17)
それを本然の位置に正そうとするのが地上復帰と霊界復帰です。地上復帰とともに霊界復帰が、私達の70 年、80 年の生涯がかかっているので、商いで言えば、これ以上大きな商いはありません。先生の青春時代はすべてこれをするために過ぎてしまいました。
(15-146、1965.10.3)
霊界を一つにしなければ、地で一つになることはできません。地で一つになることができなければ、霊界でも一つになりません。共同運命体だというのです。
西洋の人たちが東洋の人と結婚し、東洋の人が西洋の人と結婚しようというのは、とてもよいことです。そうすれば、霊界から先祖たちが見るとき、どれほど喜ぶでしょうか。五色人種がどれほど喜ぶでしょうか。
霊界でも、今まで白人は白人同士でいて、黒人は黒人同士でいて、すべて分かれていました。黄色人は黄色人同士で互いに……。地ですべてこのようになるので、互いに混ざって一つになるのです。統一が起きます。ですから、一つの世界になるのです。「天でなされたように、地でもなされますように!」と言ったように、霊界でそのようになるので、地でそのようになるのです。
(99-188、1978.9.18)
第6章 悪、罪、そして人間の堕落
悪、罪、そして人間の堕落
1) 人間の堕落
アブラハム系統での信仰では、人間が神様と一つになっていく初期段階で堕落したと教えており、それと類似した信仰が世界の至る所で発見される。キリスト教は、人間の堕落を原罪という教理に連結させている。
原罪はアダムとエバが犯した罪として全人類に遺伝され、神様と人間の永遠の断絶を意味するのだが、それはただキリストだけが治癒することができると言う。
一方、イスラームでは、アダムの罪はアダムにだけ該当するものとして、アダムは、神様に従順にすることによって、全人類と共に許された位置に戻ることができると言う。堕落によってサタンが生じたのであり、少数だけが耐えるべき試練を、すべての人間が経るようになったと言う。最後に、ユダヤ教では、このような信仰が混合されていることを発見できる。この部門で論じた章句は、アダムとエバの堕落によってこの世に呪いが生じたことを確認している。それは個人の責任を強調し、人間始祖の罪に対する私達の責任を否定するほかの章句と均衡がとれている。
人間の堕落は、宇宙の純粋な根源と現在の苦痛に満ちた状態から現れる矛盾を物語る。次には、宗教が成立し得る論理的諸要件である。1) 神様は唯一の創造者である。2) 創造目的は善である。3) 悪は実在し、創造目的と背馳する。このような論理は、キリスト教、イスラーム、そしてユダヤ教で主張している。
仏教にはこのような創造の教理がなく、物質を根本とみなし、同時に自己実現のために克服すべき制約とみなすヒンドゥー教も、やはりこのような教理がない。それにもかかわらず、このような諸宗教は、悪の業報の根源を説明するために、恩寵から抜け出した最初の堕落に関する教理をもっている。
聖書とクルアーン(コーラン)の章句は、人間の堕落を象徴的に説明しており、多様な解釈が可能である、サタン、ルーシェル、またはイブリースなど、様々な名前で呼ばれる蛇は、たびたび不適切な性行為を暗示するものとして説明されるが、アダムとエバが神様の命令に従順にしないよう、そそのかす。
文鮮明先生は、人間の堕落は不道徳な性行為だったと直接的に指摘しながら、堕落は神様の真の愛に対する人間の純粋性に害悪を及ぼしたと教える。悪の根源を性的犯罪だと説明したり、暗示したりするのは、ギリシャ神話、仏教、神道、そしてアフリカの伝統にも現れている。
1. アダムとエバの犯罪
― 宗教経典 ―
主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」
主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づぐり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。
主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。「ついに、これこそ私骨の骨、私の肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう。まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。
主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」女は蛇に答えた。「私達は園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」
蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」
女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆(そそのか)していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。
その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。私は裸ですから。」
神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」アダムは答えた。「あなたが私と共いるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」
女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」主なる神は、蛇に向かって言われた。「このようなことをしたお前は、あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で、呪われるものとなった。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に、私は敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。」
神は女に向かって言われた。「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め、彼はお前を支配する。」
神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い、取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。
お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して、土は茨とあざみを生えいでさせる。野の草を食べようとするお前に、お前は顔に汗を流してパンを得る。土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」
アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべて命あるものの母となったからである。主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。
主なる神は言われた。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕
させることにされた。こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。
創世記2.15 ~ 3.24 (キリスト教)
われはなんじらをつくり、それから形態を与え、それからわれは、天使たちに向かって、「アダムに叩頭(こうとう)せよ」と告げた。それで悪魔(イブリース)のほかはみな叩頭したが、かれは叩頭者のうちに加わらなかった。かれは仰せられた「われがなんじに命じたとき、どうして叩頭しなかったのか」と。
かれは「私はかれよりもすぐれております」と、申し上げた。あなたは、私を火からおつくりになりましたが、かれをどろでつくられました」。
かれは仰せられた、「ここから下がれ、なんじはここで高慢であるべきではない。立ち去れ、なんじはまことに卑しむべき者である」。かれは「かれらがよみがえされる日まで、私を猶予して下さい」と、申し上げた。かれは仰せられた「なんじは猶予される者である」。
かれは申し上げた「あなたは私を惑わされたから、私は、あなたの直き道の上で、かれらに向かってすわり込み」、「それで私は、かれらを前から、また後ろからも、右てからも左てからも襲いましょう。あなたはかれらの多くの者が、お慈悲に対し感謝するのをご覧にならぬでしょう」。
かれは仰せられた、「恥辱をこうむり追われて、ここから出て行け。およそかれらのうちなんじらに従う者があれば、なんじらの衆で、われは地獄を満たすであろう」。
アダムよ、なんじとなんじの妻は楽園に住み、随所でなんじらの好むものを食べよ、ただ不義者のたぐいとならぬために、この木に近づいてはならぬ。その後悪魔(サタン)はかれらにささやき、隠された、恥ずかしいところを、かれらにもらそうとして、「おまえたちの主が、この木に近づくことを禁じたまえるは、おまえたちを、天使または永生の者になさらないためであると言った。
そしてかれは、かれら両人に誓って言った、「わしはおまえたちの心からの忠告者である」。こうしてかれは両人を欺いて堕落させ、かれらがこの木を味わうと、その恥ずかしいところが、かれらにあらわになり、園の木の葉でその身をおおい始めた。
そのとき主は、かれらに呼びかけて仰せられた、「われはこの木を、なんじらに禁じたではないか、また悪魔(サタン)は、なんじらの公然の敵だと、告げなかったか」。かれら両人は「主よ、私達は、自らあやまちを犯しました。もしあなたのお許しと慈悲にあずかれないならば、私達はきっと失敗者のたぐいになってしまいます」と、申し上げた。
かれは仰せられた「なんじらは降りて行け、なんじらは互いに他の敵であろう。なんじらには地上に住所と、一期限に対する給養があろう」。かれは仰せられた「そこでなんじらは生活し、そこでなんじらは死に、またそこから復活のために引き出されるであろう」。
アダムの子らよ、われは、恥ずかしいところをおおい、また飾るために衣装をなんじらに授けた。だが篤信の衣装、それこそ最も優れたものである。これは神のしるしである、おそらくかれらはさとされるであろう。
アダムの子らよ、悪魔がかつてなんじらの祖先に、その恥ずかしいところを知らせるため、無知の衣を奪い、楽園から追われたように、なんじらはかれに惑わされてはならぬ。悪魔およびかれの一味は、なんじらがかれらを見ない所から、なんじらを見ている。まことにわれは悪魔たちを不信心な者の保護者とした。
クルアーン7.11 ~ 27(イスラーム)
私がアダムのように自分の罪を隠し、咎を胸の内に秘めていたことは、決してない。もしあるというなら……。
ヨブ記31.33 (キリスト教)
なぜ聖書には「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた」(創世記3.21)という聖句が、「人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった」(創世記2.25)という聖句のすぐあとに続かなかったのか。これはあなたに、邪悪な存在がアダムの内外を誘惑したことが罪だということを教えてくれる。なぜなら、(蛇は)アダムとエバが本来的に約婚した関係であることを知ってエバに対して淫欲を抱いた。
ミドラシュ、創世記ラッパー18.6 (ユダヤ教)
蛇がエバについていって言った。「女性の霊は北の方から出てきた。ゆえに私は素早く彼女を誘惑するだろう」。そうだとすれば、どのように誘惑したのか。蛇はエバと性的関係を結んだのである。
バヒルの書199 (ユダヤ教)
そのとき、邪悪な蛇が深思、熟考したことは何だったか。蛇はこのように考えた。「私が行ってアダムを殺し、彼の妻を奪おう。そして私が世の王になろう」。
タルムード、アヴォート・デ・ラビ・ナタン(ユダヤ教)
私達の最初の先祖は時を待たなかった。時になる前に婚姻しようとした欲望で、神のみ意の時を待つことができずに罪を犯したのである。
アレクサンドリアのクレメンスストロマテイス3.14.94(キリスト教)
墜落の夢は、飛行の夢の場合よりもいっそうしばしば不安を伴う。女性の場合、この種の夢の解釈は簡単である。なぜなら墜落の夢は、性的誘惑への屈服を表現し変えたところの落下の象徴的利用をほとんど例外なしに採用しているからである。われわれはまだ落下夢の幼児的源泉を十分に汲みつくしてはいない。
ジークムント・フロイト夢判断
― み言選集 ―
人類の堕落が木の実を取って食べた結果であり得るでしょうか。アダムとエバの堕落は神様の真の愛の理想に背いた不倫の犯罪です。守るべき戒めが必要だった堕落前のアダムとエバは、未完成段階、すなわち成長期間で堕落してしまいました。
蛇で表示された天使長の誘いを受け、エバが霊的に堕落し、そのエバがアダムを誘って(時ならぬ時に善悪を知る木の実を取って食べる)肉的な堕落をしてしまったのです。
本然の園で神様と対話しながら、楽しくはしゃぎ回って暮らしていたアダムとエバが、死ぬことまでも顧みないで犯し得る可能性のある犯罪は、間違った愛の犯罪しかないのです。
人類の先祖の初愛の結合は、神様自身の愛の完成でもあったので、当然、神様もアダムとエバも宇宙万象も、歴史を通して歓喜と祝福の中に酔う幸福な宴の連続でなければなりません。神様の愛と生命と血統が人間の中で出発しながら、定着する幸福な儀式でなければなりません。
ところが、彼らは下半身を覆い、木の後ろに隠れて、不安に震えました。天道に逆らう偽りの愛、偽りの生命、偽りの血統の根源をつくった不倫の関係を結んだからです。
堕落したアダムとエバの子孫である全人類は、子々孫々、生まれる時から原罪をもつようになりました。人類が個体の中に心と体の衝突を矛盾として感じるのも、堕落に根源があり、愛の秩序が紊乱した社会の中で、本心が願わない生を生きていくのも、すべてここに由来しているのです。
(277-200、1996.4.16)
善悪の果は果実ではあり得ません。それが何の果実だというのですか。果実を中心として、億千万世の人類が呻吟するのですか。このように破綻の場であり、争いと闘争の路程で呻吟する現象を引き起こす果実を、神様がなぜつくったのですか。
これは今、レバレンド・ムーンが語った愛の内容を中心とする果実の結果だったという事実が、何よりも理論的な道に近いのです。それで、愛は、善の愛と悪の愛が生じたのです。善悪の果は、その愛の果実です。
(128-87、1983.6.5)
創世記2章25 節を見れば、罪を犯す前、アダムとエバは、裸でいても恥ずかしく思わなかった。しかし、彼らが堕落したのちには、裸でいることを恥ずかしく思い、無花果の葉をもって下部を覆ったのである(創3・7)。
もし、善悪の果というある果実があって、彼らがそれを取って食べて罪を犯したのだとすれば、恐らく彼らは手か口を隠したはずである。なぜかといえば人間は恥ずかしい所を隠すのがその本性だからである。
しかし、彼らは、手や口を隠したのではなく、下部を隠したのである。したがって、この事実は彼らの下部が科となったために、それを恥ずかしく思ったということを表しているのである。ここから、我々は彼らが下部で罪を犯したという事実を推測することができるのである。
ヨブ記31 章33 節には、「私がもし(アダムのごとく)人々の前に私のとがをおおい、私の悪事を胸の中に隠したことがあるなら」と記録されている。そうしてアダムは、堕落したのち、その下部を隠したのであった。この事実はとりもなおさず、アダムが覆ったその下部が科となったということを物語っている。
それでは、アダムの下部がなぜ科となったのであろうか。それは、いうまでもなく、アダムがその下部で罪を犯したからである。人間が堕落する以前の世界において、死ぬということを明確に知っていながら、しかも、それを乗り越えることのできる行動とは、いったい何であったのだかうか。それは、愛以外の何ものでもない。
「生めよ、ふえよ」(創1・/28)と言われた神の創造目的は、愛によってのみ完成することができるのである。したがって、神の創造目的を中心として見るとき、愛は最も貴い、そして最も聖なるものであったのである。
しかし、それにもかかわらず、人間は歴史的に愛の行動を、何か卑しいもののように見なしてきたというのも、それが、堕落の原因となっているからである。ここにおいて我々は、人間もまた、淫乱によって堕落したという事実を知ることができる。
原理講論、堕落論1.3.2
被造世界は、そもそも、神の愛の主管を受けるように創造されている。したがって、愛は被造物の命の根本であり、幸福と理想の要素となるのである。それゆえに、この愛をより多く受ける存在であればあるほど、より一層美しく見えるのである。
ゆえに神の僕として創造された天使が、神の子女として創造されたエバに対したとき、彼女が美しく見えたというのも当然のことであった。ましてやエバがルーシェルの誘惑に引かれてくる気配が見えたとき、ルーシェルはエバから一層強い愛の刺激を受けるようになったのである。こうなるともう矢も盾もたまらず、ルーシェルは死を覚悟してまで、より深くエバを誘惑するようになった。
このようにして、愛に対する過分の欲望によって自己の位置を離れたルーシェルと、神のように目が開けることを望み、時ならぬ時に、時のものを願ったエバとが(創3・5、6)、互いに相対基準をつくり、授受作用をするようになったため、それによって非原理的な愛の力は、彼らをして不倫なる霊的性関係を結ぶに至らしめてしまったのである。
愛によって一体となれば、互いにその対象から先方の要素を受けるように創造された原理によって(創3・7)エバはルーシェルと愛によって一体となったとき、ルーシェルの要素をそのまま受け継いだのであった。
すなわち、第一に、エバはルーシェルから、創造目的に背いたということに対する良心の呵責からくる恐怖心を受けたのであり、第二には、自分が本来対すべき創造本然の夫婦としての相対者は天使ではなく、アダムだったという事実を感得することのでぎる新しい知恵を、ルーシェルから受けるようになったのである。
当時、エバは未完成期にいたのであった。したがって、そのときの彼女自体は、既に完成期にあった天使長に比べて、知恵が成熟していなかったために、彼女は天使長からその知恵を受けるようになったのである。
原理講論ご堕落論2.2.1
エバが天使長に強奪されたとき、その心はどうだったでしょうか。良心の呵責を受け、嫌だと思いながら天使長の誘惑に引き込まれていったのです。すべての細胞が喜び、花が早春を願うように愛さなければならなかったにもかかわらず、細胞が朽ち果て、心情が朽ち果てたところで顔をゆがめて愛したのです。
(33-330、1970.8.23)
神様にとってエバは未来の夫人でした。なぜかというど、アダムは神様と一体であり、すなわち神様御自身だからです。ですから、神様は自分の夫人をサタンに侵犯されたのです。
(22-208、1969.2.4)
このとき、不倫なる貞操関係によって天使長と一体となったエバは、アダムに対して、天使長の立場に立つようになった。したがって、神が愛するアダムは、エバの目には非常に美しく見えたのである。
また、今やエバは、アダムを通してしか神の前に出ることのできない立場にあったから、エバにとってアダムは、再び神の前に戻る望みを託し得る唯一の希望の対象であった。
だからこそエバは自分を誘惑した天使長と同じ立場で、アダムを誘惑したのである。アダムがルーシェルと同じ立場に立っていたエバと相対基準を造成し、授受作用をすることによって生じた非原理的な愛の力は、アダムをして、創造本然の位置より離脱せしめ、ついに彼らは肉的に不倫なる性関係を結ぶに至ったのである。
アダムは、エバと一体となることによって、エバがルーシェルから受けたすべての要素を、そのまま受け継ぐようになったのである。そのようにして、この要素はその子孫に綿々と遺伝されるようになった。
エバが堕落したとしても、もしアダムが、罪を犯したエバを相手にしないで完成したなら、完成した主体が、そのまま残っているがゆえに、その対象であるエバに対する復帰摂理は、ごく容易であったはずである。しかし、アダムまで堕落してしまったので、サタンの血統を継承した人類が、今日まで生み殖えてきたのである。
原理講論、堕落論2.2.2
2. 人間堕落の悲劇的結果
― 宗教経典 ―
イマナ(神)が人々と共にいたその昔、死は人々と共にいなかった。死が地に下りていこうとするたびに神が猟犬を送って追い出された。ある日、死は犬に追われて狭い空間に追い込まれ、捕まって死にそうになった。
しかし、一人の女性をみつけ、自分を隠してくれれば、彼女とその家族に報いると約束した。女性は口を開け、死は素早く口の中に隠れてしまった。
神が彼女のところに来て、死を見たかと尋ねると、彼女は否定した。しかし、すべてのことをご存じの神は、何があったのかをご存じで、彼女が死をかくまってあげたため、遠からず死が彼女と子供たちを殺すだろうと言った。そのときから死はすべての世に広がるようになった。
フツ族の伝承(アフリカ伝統宗教)
アダムが堕落していなければ、サタンではなく、聖霊の子を生んだだろう。しかし今、全人類の子孫は、サタンのものとして生まれたために永遠性がない。そして、一つの個体の中に、他のものの要素をもっているために、短い生しか生きることができない。
しかし、アダムが堕落してエデンの園から追い出されなければ、天の姿に似て、永遠に生きる天使たちのような聖霊の子を生んだだろう。しかし、アダムが堕落してエデンの園の外で子を生んだため、そのみ意は根を下ろすことができなかった。
ゾハール、創世記61a (ユダヤ教)
アダムとエバの堕落後に神は、彼らに肌をくるむ衣服を作ってくださった。創世記3章21 節に次のように記録されている。「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた」。本来、彼らは、最高の中の最高の栄光である、光の服を着ていた。天使たちもその光を見にきたりしていた。詩編の記録によれば、「神に僅かに劣るものとして人を造り、なお、栄光と威光を冠としていただかせ」(詩編8章6節)と出ている。しかし、罪を犯したのちには、霊のためのその光が消え、結局、肉身のための皮の服だけが残るようになった。
ゾハール1.36b (ユダヤ教)
海水がおのずから凝り固まってできた島なので、これを淤能碁呂(おのごろ)島というのである。両神はその島にお降りになって、聖なる御柱(みはしら)をお見立てになり、また結婚のための広い宮殿もお見立てになった。
そこで伊耶那岐命(いざなぎのみこと)は妹の伊耶那美命(いざなみのみこと)に尋ねて、「おまえの身体はどのようにできてきたのか」とお仰せになると、伊耶那美命は私の身体はだんだんに成り整ってきましたが、まだ整わない所が一か所あります」とお答えになった。
さらに伊耶那岐命が「私の身体はだんだんに成り整ってきたが、できすぎたところが一か所ある。だから、この私の身体の余分なところを、おまえの身体の足りないところに刺し入れふさいで、国を生もうと思う。生むことはどうだろうか」と仰せになると、伊耶那美命は「それは結構でしょう」とお答えになった。そこで伊耶那岐命は「それならば、私とおまえこの聖なる御柱を巡り、出会って、聖なる結婚をしよう」と仰せになった。
このように約束してから伊耶那岐命は「おまえは右から巡って会いなさい。私は左から巡って会おう」と仰せられて、約束し終わって御柱巡りをした時に、伊耶那美命のほうが先に「何とまあ、すばらしい男性でしょう」と唱え、そのあとで伊耶那岐命が「何とまあ、美しい娘だろう」と唱え、おのおの唱え終わったのちに、伊耶那岐命がその妹に向かって、「女が男より先に唱えたのはよろしくない」と仰せられた。
そうはいいながら、聖婚の場所である八尋殿において御子を生むことを始めて、最初に生まれた子は水蛭子という不具児であった。この子は葦の船に乗せて流し捨てた。……そこで二柱(ふたはしら)の神は相談され、「今私達が生んだ子は、不具児でよろしくない。やはり天(あま)つ神のおられる所に参上して、このことを申し上げよう]とおっしゃって、すぐに一緒に高天原(たかまのはら)に参上し、天つ神の指示を仰がれた。そして天つ神のご命令で鹿の骨を焼いて裂け目の形で神意を知るという占いをした結果、天つ神は「女が先に唱えたのがよくないのだ。再び淤能碁呂島に帰り降(くだ)って、改めて唱え直しなさい」と仰せられた。
そこで両神は帰り降って、また例の天の御柱を前回のように巡られた。こんどは伊耶那岐命の方から先に「何とまあ、美しい娘だろう」と唱え、そのあとで妹の伊耶那美命が「何とまあ、すばらしい男性でしょう」と唱えた。このように唱え終わって結婚され……八つの島を生んだのにちなんで日本列島を大八島国(おおやしまくに)という。
古事記4.1 ~ 6.1 (神道)
ゼウスが人のゆえに怒りをもったとき、彼は、彼が考え得る最も残酷な罰を思い巡らし、女を構想した。鍛冶屋の神であるヘパイストスが頼まれ、土をこねて美しく魅力的な女をつくった。神々は、それぞれ女に自分たちが選んだ最もよい才能を贈り物として与えた。こうして彼女は、「もらったすべての贈り物」という意味のパンドラと呼ばれるようになった。
彼女が様々な贈り物で完全に美を備え、魅力をもったとき、この反逆的な宝は、伝達の神であるヘロメスによって地に下ろされ、プロメテウスの愚かな弟エピメテウスに送られた。そのときプロメテウスは彼の弟に、たとえそれが友好的に送られてきた贈り物のように見えても、ゼウスから何も受け取るなと警告した。
しかし、エピメテウスはいつものように先に行動してあとで考えた。彼はヘロメスから来たその女を受け入れ、彼の家に連れていった。そして、神々が安全に保管し、決して開けるなと言いながら彼女に与えた大きな箱を彼女と共に受け入れた。
贈り物の中に女性的好奇心という才能をもったパンドラにとって、この箱を開けないということは無理だった。しばらく我慢したのち、彼女はついに耐え切れず、その箱の蓋をはずし、その瞬間から人類の悲しみは始まった。
なぜなら、それぞれの神々はその箱に彼らが与えることのできる最悪のものと、彼らが彼女に才能として付与した優れたものを貯蔵したからである。伝染病を移す昆虫と悪臭を放つ黒い雲がその箱からあふれ、出てくる邪悪なものたちはとても恐ろしいものだった。それは疾病と苦痛、憎悪と嫉妬と貪欲、心臓を凍らせ、老いをもたらすあらゆる残酷なものだった。
パンドラは、箱の蓋を再び閉じようとしたが、あまりに遅すぎた。幸福な人の子孫たちは永遠に消え去り、それと共に生が楽だった黄金時代も消え去った。そのときから人は、友好的でない土壌で自らの労働によって生きるために格闘しなければならなくなった。
ただ、その箱から一つの良いものが人に現れ、これまで残されて苦痛の中にいる人を慰労したのだが、それは希望だった。
パンドラの箱の神話(ヘレニズム)
― み言選集 ―
堕落がどこから始まりましたか。家庭で堕落したのが何ですか。善悪の果を取って食べたのですか。家庭的に堕落し得るのは愛しかありません。善悪の果を取って食べて堕落したのでしょうか。善悪の果を取って食べて原罪が生じますか。父親が善悪の果を取って食べたことが罪だというのですが、善悪の果が何であるがゆえに千代、万代の子孫が罪人になったのでしょうか。これは血統的関係です。血統的に罪の根を植えておけば、遺伝の法則によって永遠に続くのです。そうなるのは愛の問題だけです。誤った愛が堕落の原因です。
(23-167、1969.5.18)
愛で成熟しなければならないのですが、愛によって故障したときは、神様も退くのです。そのようになれば大問題です。それで私達が探し出したのが何ですか。愛の事故が起きた、愛の事故以外にはあり得ないということです。
ですから、天が問題になり、人間が問題になり、歴史が問題になり、宇宙の大事件として衝撃を与え得るものは愛しかなく、愛の事故だというのです。
(128-87、1983.6.5)
愛というものを知るようになるとき、すべてのものに通じます。地上世界の平面的な事実だけでなく、霊眼が開け、立体的な世界である霊界の事実までも分かるので、神様に直接会って接することのできる境地に至るようになります。ですから、愛の知覚が発達します。ところが、それを成す前に堕落してしまいました。その堕落とは何ですか。不倫の因縁を結んだことです。
(137-129、1986.1.1)
神様が「それである!」と言うことのできる愛はどのようなものでしょうか。アダムとエバが16、17、18 歳になれば自然に思春期になり、目が思いどおりに動くのではなく、エバは男性をまっすぐに見つめ、男性はエバをまっすぐに見つめ、「いやあ! 私が探し求めてみると、君だったのだなあ、君、君、君!」、このように言えるところに行かなければなりません。その時は思春期なので、心と体が一つになったでしょうか、なっていないでしょうか。目をのぞき込んでみると神秘的な目であり、鼻に触れてみると電気が走り、これは問題が大きいというのです。そのとき、アダムの心と体が一つになったでしょうか、なっていないでしょうか。一つになったでしょう。
男性と女性が、初めて宇宙に善を掲げて心と体が一つになるとき、花が大きく咲くのです。完全に咲き、香りがします。その香りは宇宙の香りなので、宇宙の万物が「ふーむ!」というのです。地でもどこでも、すべてその香りをかごうと、鼻が長くなり、体が伸びて大騒ぎします。
神様はどうでしょうか。神様は、「ふーむ、おや! これはおかしい、おかしい!」と言います。神様も、我知らずあっという間に虜になってしまいます。ひゅーっと回って引き込まれてくるのです。自然に引き込まれます。「もう出動時代になったなあ。出掛けよう!」と言われるというのです。男性と女性が核になったならば、神様も首にぶらさがってそこから離れられません。離れようとすれば、体だけが離れるのであって足はくっついているのです。男性も女性もくっついています。どこへも離れていけません。ここから生まれた男性と女性も、このひもをもってここで再び会えば、またくっつき、またくっつき……。
こうして家庭から氏族、民族、国家、世界になるのです。男性と女性が一つになったここから子孫が生まれれば、さっとくっつきます。それで、家庭、氏族、民族、国家、世界になります。どれほど素晴らしい宇宙ですか。そのようになれば偉大な所になります。それが地上天国であり、真の世界です。
そのようなものができずに堕落したので、反対の世界となり、すべてが分かれるのです。このような原則で見るとき、故障したときは、いくら世の中に人が大勢いても、ばらばらに分かれて分立した人間像が発見されるのです。
ところが、現世の世界がそのようになっている事実を否定できません。ですから堕落したというのです。堕落によってつくり出された世界だというのは、正当な結論だということを知らなければなりません。
ここからすべて分かれたので、神もなく、父母もなく、兄弟もなく、男性もなく、女性もなく、世界もない混乱状態がつくり出されたのです。これが現世だという事実が分かりましたか。ここで自分自身では絶対に一つになれません。
理想がありません。人間自体では、理想を猫いたところでそれは永遠に不可能です。それで今では神様を求め、ここから再び神様を……。ところが、「神はいない。神は死んだ!」と言うのです。それは何かというと、すべて終わったということです。「私達人間は滅亡する。希望も何も、ユートピアも理想もすべて片付けてしまえ。それは人間たちがつくりあげたものだ!」このように
見るのです。
(128-88 ~ 90、1983.6.5)
堕落しなかったなら、神様が縦的な愛となり、アダム・エバは神様の体になったのです。神様は骨のようなものであり、アダム・エバは肉のようなものだというのです。神様は、内的な場で内的な父母になり、アダム・エバは、外的な場で外的な父母になります。
内的・外的父母が一つになったその場が愛でつづられて内的父母に侍るようになり、外的父母をもつようになります。神様と人間が愛で結ばれることにより、真の父母、完成した人間が成就されるようになっていたというのです。愛で結ばれなければ、完成人間はいないのです。
それが本然の私達の先祖でなければなりません。神様が創造された本然の人間です。そのような人から私達が生まれるのです。そのような神性をもった人により、私達が生まれなければなりません。ですから、私達は神性を帯びた神様の性稟をもち、人性を帯びた父母の性稟ももつのです。
ですから、アダム・エバの完成は、神様の愛に結ばれてこそ完成するのであって、これが結ばれなければ駄目なのです。神様の縦的な愛と横的な肉的愛が、一点で結ばれたものが、正に私達の先祖の血統の根です。そこが私達の先祖の血統です。そこから全人類が生まれなければなりませんでした。
堕落のために、男性の愛、女性の愛、神様の愛がみな分かれました。堕落によって、男性の愛、女性の愛、神様の愛が結ばれませんでした。堕落しなかったなら、男性と女性は自動的に愛で結ばれます。なぜ男性と女性が一つになろうとするのですか。愛のたのです。愛で一つになったのちに、何をしようというのですか。神様の祝福を受けようとするのです。それが目的です。
(184-71、1988.11.13)
3. 性的愛の堕落
― 宗教経典 ―
比丘たちよ、これを知らなければならない。(最後の宇宙の周期を締めくくる)大洪水が退いていき、再び大地がその姿を現し始めた。そのとき、大地の表面に神々の食物よりもっとかぐわしいにおいのする薄い膜があった。
その薄い膜の味はどのようなものだったか。それはまるで口の中に溶け込むぶどう酒の味と似ていた。そのとき、極光浄天の神々が互いに言った。
「閻浮提に今、再び大地が現れ始めたが、我々が行って、それがどのようなものなのか見てこよう」。こうして若い神々は世に下りていき、大地の表面にできた薄い膜を見た。彼らはそれを指につけて昧わった。ある神々はこのようなことを何度も行い、この薄い膜をたくさん食べたが、彼らは即座に彼らの権能と光彩を失ってしまった。
彼らの体は重くなり、彼らの本質はまた骨と肉に変わり、ついに彼らは力を失い、これ以上飛んでいることができなくなった。しかし、その薄い膜を全く食べなかった神々がいたが、彼らはまだ空中を自由自在に飛び回ることができた。
力を失って飛ぶことができない神々が、どうしてよいか分からず、互いに泣き喚いて叫んだ。「我々は今、苦しい境遇に置かれるようになった。力を失い、この大地の上にとどまるしかすべがない。我々は飛ぶことができないため、天界に再び戻ることはできない」。
こうして彼らは大地にとどまり、大地を覆っていたその薄い膜を食べて生き、互いの美しさを注視するようになった。彼らの中で、最も情熱的だった者たちは女性になり、彼ら神々と女神たちは、互いに自分たちの欲望と快楽を満たした。
比丘たちよ、このように世の中が最初に始まるとき、すべての世に貪欲な愛が等しく広がるようになった。それは実に長い時間がたち、また持続するものである。そして、女が世に現れたのもまた実に長い時間がたち、彼らだけのことではないことを知らなければならない。
天界に再び上がっていくことができた神々が見下ろし、若い神々が堕落したことを知り、世に下りてきて彼らに言った。「あなたたちは、どうしてこのような堕落の行いを好んでするのか」。地上の神々は自ら考えた。「我々は、他の者たちに見えず、互いに一緒にいることができる方法を見つけなければならない」。こうして彼らは、自分たちを隠す家を造るようになった。比丘たちよ、このようにして初めて家ができるようになったのである。
(今、人々が)夫と妻たちのこのことを見て、そのような夫婦を憎悪し、軽蔑し、左手で彼らを捕まえ、右手で押し、彼らを追い出してしまった。しかし、いつも彼らは二カ月、あるいは三カ月たつと、再び戻ってきた。そのため人々は、彼らを拳でたたいたり、罵倒を浴びせたり、地にたたきつけたりもし、棍棒や石でたたき、土をかぶせたりもした。「行ってお前たちの体を隠せ! 行ってお前たちの体をしっかりと隠せ!」。これが今日、若い女たちが婚姻するとき、花や金、銀、または布の切れ端や米で清められ、人々が新婦に花や金、銀などを投げ、「新婦よ、和平と幸福があなたと共にあることを!」と叫ぶ理由である。
比丘たちよ、昔は、悪行とは正にこのようなことを意味した。しかし、今日ではこのようなことが善とみなされることは、また驚くべきことではないか?
増一阿含経34、起世経(注4)(仏教)
このような欲望によって成し遂げられる行為そのものは、いずれのばあいにも人目を避けるのである。すなわち、さまざまの淫蕩においては、人間の罰則をひそかに避けるために隠れ場が求められ、また、この世の国が許して、売春婦を利用しておこなわれる恥辱においても、その国のいかなる法も罰しないようなことがいとなまれるのではあるが、それにもかかわらず、公認されて罪とはならないその欲望は衆目環視を避け、自然な羞恥心は秘密のために売春宿さえも配慮するのである。
ある「ローマの弁論術の最大の巨匠」も、すべて正しくなされた行為は光のなかに立てられることをのぞむ、といっており、これはすなわち、その行為が知られることを求めるということなのであるから、そのように正しくなされたこの行為も、知られることを求めるのであるが、しかもなお恥ずかしく思うのである。
たしかにそのための行為が果たされるために花嫁たちはひじょうな祝いの儀式をももって娶られるのであるが、その行為がいとなまれるとき、そのような行為の結果としてすでに生まれている子供たちがその目撃者となることはゆるされないのである。
このように正当におこなわれたこの行為は、それが認知されるために人びとの精神の光を求めながら、それにもかかわらず、人びとの目の光を避けるのである。その理由は、その行為自体としては自然に適ったところのことをおこなっているのであるが、それに伴う恥辱の感情は罰の結果として生じたものであるというのでなければなんであろうか。
現在の状態においては、これらのものは、いま述べたように駆りたてられたのであって、節度をもって正しく敬虔に生きる者たちにより、ときには比較的容易に、ときにはかなりの苦労を伴って、抑制され抵抗されたりしながら適応せしめられているのであるが、しかし、それはけっして自然本性から与えられた健康な状態ではなく、罪責からきた無力の状態なのである。
したがって、楽園のうちに立てられた最初の人間たちが、この欲望――かれがそれによって恥ずかしく思い、身体のあの部分を隠したところの欲情――をとおして、「生めよ、ふえよ、地にみたせ」とお告げになった神のあの祝福が意味するところのことを成就したのだと信じるようなことがあってはならない。
じっさい、この欲情が目ざめたのは罪ののちであったからである。それ自身恥すべきものではない自然本性は、身体がそのすべての部分から仕えていた主権を、罪ののち喪失してしまうことによって、欲情を感じ、意識し、恥じて隠したのであった。
しかし、夫婦の数がふえて地をみたすべきであるという結婚についてのあの祝福は、罪を犯した者たちにも残っていたのではあるが、すくなくともそれはがれらが罪を犯す以前に与えられていたわけであるから、子供を生むということ自体は、結婚の栄光に属するものなのであって罪にたいする罰に属するものではないということが知られるのである。
したがって、もしも罪が存在しなかったら、あの結婚は楽園のしあわせにふさわしいものとなって、愛されるべき子孫を生み、しかも恥じられるべき欲情をもつこともなかったはずである。ただし、現在私達は、このことがいかにしておこりうるのかを示してくれる例証をもっていないのである。しかし、だからといって、あの一つの器官がこのような欲情を伴うことなく意志に服従することができたとは信じられぬことであると見なければならないわけではないのである。なぜなら、現在、かくも多くの身体的諸部分が意志に服従しているのだからである。
アウグスティヌス神の国14.18 ~ 23(キリスト教)
― み言選集 ―
人間が堕落する特、愛のために堕落したので、この性器が最も怖いのです。宗教では、姦淫することを最も恐ろしい罪として取り扱っています。ですから、アメリカのフリーセックスは悪魔の地獄膨脹主義ですか、天国膨脹主義ですか。地獄です。地上地獄であり、天上地獄です。これはすべて滅亡するのです。
(261-304、1994.7.24)
神様の愛は、どのように連結されるのでしょうか。上から来る愛は最も近い距離、真の愛が行く道は、すべて直短距離を通るのです。このように考えてみるとき、縦的な愛、上から下に来る愛は、直短距離で統一されるとき、90 度の角度にならざるを得ないことを知らなければなりません。直短距離にならなければなりません。
縦的な神様と直短距離が成立すれば、そこに対して人間の真の愛も直短距離で通じるので、それを中心としてみるとき、横的な男性と女性も必ず水平となり、垂直に、90 度に合わせるとき、それが愛の決着点であり、90 度を中心とする定着地だというのです。それを知りませんでした。堕落とは何かというと、この角度がずれたことです。
(218-219、1991.7.29)
我々は次のような事実から、人間の罪の根が淫乱にあったということを、より一層明確に知ることができるのである。罪の根が血縁関係によってつくられたので、この原罪は、子々孫々に遺伝されてきた。
そして、罪を取り除こうとする宗教は、みな姦淫を最大の罪として定め、これを防ぐために、禁欲生活を強調してきたのであるが、これも罪の根が淫乱にあるということを意味するものである。
また、イスラエル民族が神の選民となるため、贖罪の条件として割礼を行ったというのも、罪の根が淫乱によって悪の血を受けたところにあったために、堕落人間の体からその悪の血を抜きとることを条件として、聖別するためであった。
数多くの英雄烈士、数多くの国家が滅亡した主要な原因が、この淫乱にあったということも、淫行という罪の根が、絶えず人間の心の中から、我知らず発動してきたためである。
我々は宗教によって人倫道徳を立て、また諸般の教育を徹底的に実施して、犯罪を生みだす経済社会制度を改善することにより、他のすべての罪悪は、この社会から一掃することができるかもしれない。しかし、文明の発達と、安逸な生活環境に従い、増大しつつある淫乱による犯罪だけは、誰によっても、またいかなるものによっても、防ぐことができないというのが現在の実情である。
したがって、人間社会から、この犯罪を根こそぎ取り除くことができない限り、決して理想世界を期待することはできないのである。ゆえに、再臨なさるメシヤは、この問題を根本的に解決し得るお方でなければならない。このように、これらの事実は、罪の根があくまでも淫行にあるということを如実に物語っているのである。
原理講論、堕落論1.5
2) カインとアベル
歴史上最初の殺人は、人間の堕落のすぐあとに続いて起きた。兄弟間の葛藤は、父母に由来した状況だということができる。カインとアベルの話は、避けられない人間の不平等問題を提起する。
その話は、人間が財産、才能、愛、幸運、そしてこのケースのように祝福の差をどのように克服しなければならないかに対する問いを投げ掛ける。聖書は、アベルを正義の人とみなす。クルアーン(コーラン)は、アベルを、兄カインと争わないために武器をもつことを拒否する平和の人として描写する。
したがって、二種類の人に対する伝承が出てくる。アベル型の人間は、善良で信じるに足る反面、カイン型の人間は、粗暴で、無神論的で、暴力的である。しかし、文鮮明先生は、根本的にカインとアベルは兄弟だと教える。さらに、彼らは二人とも過ちを犯した。選ばれた者のアベルの驕慢がカインの憎悪を呼び起こし、カインの憎悪は罪悪の歴史を招来した。文鮮明先生は、神様がアベルの祭物だけを受けられたのは、カインに対する軽蔑を表現するものではなく、復帰の過程を促進しようとするものだったと教える。
カインとアベルは、カインがアベルに屈服することによって、アダムが天使長に間違って主管された父母の過ちを復帰することができた。この復帰摂理が成功していれば、殺人はなかったのであり、神様がカインの祭物も受けていたのである。
不平等は不可避である。どちらかを選択しなければならないとき、私達はどのように処理するだろうか。カインは選択の余地があった。暴力を使うことも、謙遜に弟の助けを求めることもできた。アベルもやはり選択の余地があった。選ばれた者の地位を誇ることも、選ばれなかった兄に哀れみをもち、彼を慰労し、励ますこともできた。このようなカインとアベルの状況から、どちらを選択するのかによって戦争と平和が決定され得るのである。
― 宗教経典 ―
アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。
カインは激しく怒って顔を伏せた。主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」
カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。主はカインに言われた。「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」カインは答えた。「知りません。私は弟の番人でしょうか。」主は言われた。「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中から私に向かって叫んでいる。今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」
カインは主に言った。「私の罪は重すぎて負いきれません。今日、あなたが私をこの土地から追放なさり、私が御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、私に出会う者はだれであれ、私を殺すでし
ょう。」
主はカインに言われた。「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう。」主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ。
創世記4.2 ~ 16(キリスト教)
アダムの二子の物語の真実をかれらに語れ。かれら両人が犠牲をささげたとき、ひとりは受け入れられなかった、それで「わしはきっとおまえを殺すであろう」と言った。
かれは答えて言った「神は、ただ主を畏れる者からのみ、受け入れたもう」。「たとえあなたが、私を殺すためにその手を伸べても、私はあなたを殺すために、手を伸べないであろう。私はよろず世の主、神を恐れまつる」。
「まことに私は、あなたが私の先に犯した罪と、あなたの殺人の罪とを負って、火獄のともがらになることを望む、これは不義を行なった者の応報である」。しかしかれの利己的な心は、その兄弟を殺すのを望ましいことにし、ついにかれを殺害して、失敗者のひとりとなった。
そのとき神は、一羽の大ガラスをつかわして地を掘らせたまい、その兄弟の死体をいかにおおうべきかをかれに示したもうた。かれは言った「ああ情けない、兄弟の死体を葬るのに、わしはこのヵラスほどのことさえできないのか」と。こうしてかれは後悔するひとりとなった。
クルアーン5.27 ~ 31(イスラーム)
信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。
ヘブライ人への手紙11.4(キリスト教)
アダムとエバが子女を生んだとき、その最初の実は蛇の息子だった。エバが二人と関係したために、どちらからも妊娠し、二人の子女を生んだ。二人の息子は、どちらもそれぞれの父から生まれたために、彼らの霊は分かれた。
一人の子はこちらに、もう一人は反対側に。性稟もやはり反対だった。カインの側には常に悪の部類が共にあり、アベルの側には慈悲深い者たちが多かったが、すべてが義なる者たちではなかった。
良いぶどう酒と悪いぶどう酒が混ざっているのと同じだった。ゆえに、三人目が出てきたのちに、初めて完全な人類が出てきたのである。三人目は、すべての義人たちの最初の先祖になった。
カインはアベルと敵対し、彼を殺した。これは、カインが世に死をもたらすサマエルの天性を相続したからである。カインは、女性問題でアベルをねたんだ。創世記4章8節に、「二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した」と出ている。ここで「二人」とは女性を象徴する。本文によれば、カインが自分の祭物が受け入れられずに怒ったとあるが、これは副次的な理由だった。
ゾハール1.36b (ユダヤ教)
― み言選集 ―
アダム家庭で始まったカインとアベルの闘争歴史は、人類歴史をそのまま戦争と葛藤の歴史にしてしまいました。小さくは人間個々人の心と体の葛藤から、大きくは国家と国家が、さらには全世界が物本主義と神本主義に分かれ、対立、闘争をしてきました。
平和神経、平和メッセージ1.20、2005.9.12
本来人間は、神様の主管のみを受けるようになっています。神様のみが人間の主人でなければなりません。ところが、人間とサタンとが不倫なる関係を結ぶことにより、人間に対してサタンが不倫なる主人となってしまったのです。
愛は統制力、支配力を伴うと原理が語っているように、たとえそれが不倫の愛であっても、サタンは、人間に対してその所有権を主張するだけの力、あるいは権威や権利をもつのです。
ところが、創造原理によれば、あくまでも神様が本来の主人ですから、結局、この両者は共に人間に対して、その所有を主張することができることになります。しかし、だからといってアダムを二つに切断して、神様とサタンの間で分け合うことは、物理的に不可能です。
そこで神様は、原理的観点から、人間を二つに分立するために、あるルールを定められたのです。すなわち内的存在としての神様と、外的存在としての被造物という立場から、内外の関係と、主体、対象の関係によって、神様はその分立のルールを定められました。すなわち神様は、堕落したアダムとエバを、彼らによって生まれた二人の子供を通して、分立されたのです。
カインはサタンを表示する側であり、アベルは罪なきアダムの立場を表示する側です。次男(アベル)を神様は、内的立場に立たせたのであり、これは、悪の要素のより少ない側、言い換えるならば、アダムとエバの間に結ばれた第2の愛を表示しているのです。
アベルは、第2の愛の実ですが、一方のカインは、第1の愛の実であって、その愛の中にあるサタンを表示しているのです。つまり、次男アベルのほうが、エバと天使長との関係よりも、エバとアダムとの関係により近いので神様の側に取られたわけです。
さて、本来の命令系統は、神様から始まり、アダムヘ、アダムから天使長へという順序だったので、この場合には、その関係は神様からアベルへ、アベルからカインヘという順序にならなければなりません。これが復帰された位置関係なのです。
そこで神様は、まず、この公式を復帰することにより、失われた原理を取り戻していくのです。堕落行為によって、人類の血統は交差しました。言い換えれば、サタンの血が人類の血統を占領しているのです。
それゆえに、これらの復帰は、根源までさかのぼって成されなければならず、そのために、次男アベルが長男の長子権を復帰しなければならなかったのです。神様はこれらの二人の兄弟を用いることによって、長男の長子権を復帰する摂理を行おうとされたのです。
すなわち、カインはアベルの位置に下がらなければならず、アベルはカインの位置、すなわち長男の位置に上がらなければならなかったのです。
ところが、カインはアベルを殺害してしまいました。この行為は、アダムとエバの時の堕落行為の反復です。すなわち、復帰されるどころか、再び天使がアダムを主管した立場に立ってしまったのです。
(55-109 ~ 110、1972.4.1)
アダムはサタンと血縁関係を結んだので、神とも対応でき、また、サタンとも対応することができる中間位置におかれるようになった。したがって、このような中間位置におかれた堕落人間を天の側に分立して、「メシヤのための基台」を造成するためには、堕落人間自身が何らかの蕩減条件を立てなければならない。……
神はこのような非原理的な摂理をなさることはできないので、善悪二つの性品の母体となったアダムを、善性品的な存在と悪性品的な存在との二つに分立する摂理をなさらなければならなかったのである。
このような目的のために、神はアダムの二人の子を、各々善悪二つの表示体として分立されたのち、彼らに、神かサタンかのどちらか一方だけが各々対応することのできる、すなわち、一人の主人とのみ相対する、原理的な立場に立ててから、各自供え物をささげるように仕向けられたのである。
カインとアベルは、どちらもエバの不倫の愛の実である。したがって、エバを中心として結んだ二つの型の不倫な愛の行為を条件として、それぞれの立場を二個体に分けもたすべくカインとアベルを、各々異なる二つの表示的立場に立てるよりほかに摂理のしようがなかったのである。
すなわち、カインは愛の初めの実であるので、その最初のつまずきであった天使長との愛による堕落行為を表徴する悪の表示体として、サタンと相対する立場に立てられたのであり、アベルは愛の二番目の実であるがゆえに、その二番目の過ちであったアダムとの愛による堕落行為を表徴する善の表示体として、神と対応することができる立場に立てられたのである。
神が創造された原理の世界を、サタンが先に占有したので、神に先立って、サタンが先に非原理的な立場からその原理型の世界をつくっていくようになった。そうして、元来、神は長子を立てて、長子にその嗣業を継承させようとなさった原理的な基準があるので、サタンも、二番目のものよりも、最初のものに対する未練が一層大きかった。
また事実サタンは、そのとき、既に被造世界を占有する立場にあったので、未練の一層大きかった長子カインを先に取ろうとした。したがって、神はサタンが未練をもって対応するカインよりも、アベルと対応することを選び給うたのである。
そうして、神はアベルの供え物は受けられ、カインの供え物は受けられなかったが、その理由はどこにあったのだろうか。アベルは神が取ることのできる相対的な立場で、信仰によって神のみ意にかなうように供え物をささげたから(ヘブル11・4)神はそれを受けられた(創4・4)。
このようにして、アダムの家庭が立てるべき「信仰基台」がつくられるようになったのである。これは、たとえ堕落人間であっても、神が取ることのできる何らかの条件さえ成立すれば、神はそれを受け入れられるということを教示なさるためでもあった。
そして、神がカインの供え物を受けられなかったのは、カインが憎いからではなかったのである。ただ、カインはサタンが取ることのでぎる相対的な立場に立てられていたので、神がその供え物を取ることができるような何らかの条件をカイン自身が立てない限りは、神はそれを取ることができなかったからである。
神はこれによって、サタンと相対する立場にいる人間が、神の側に復帰するには、必ずその人自身が何らかの蕩減条件を立てなければならないことを教示されたのである。……
天使長が、神にもっと近かったアダムを仲保に立て、彼を通じて神の愛を受けようとはせず、かえってアダムの位置を奪おうとして堕落してしまったので、「自己の位置を離れる堕落性」が生じた。ゆえに、この堕落性を脱ぐためには、天使長の立場にいるカインがアダムの立場にいるアベルを仲保として、彼を通じて神の愛を受ける立場をとることにより、自分の位置を守るべきであったのである。
天使長は自分を主管すべくつくられた人間、すなわちエバとアダムを逆に主管して堕落したので、「主管性を転倒する堕落性」が生じた。したがって、人間がこの堕落性を脱ぐためには、天使長の立場にいるカインがアダムの立場にいるアベルに従順に屈伏して、彼の主管を受ける立場に立つことによって、主管性を正しく立てるべきであったのである。
善悪の果を取って食べるなという善のみ言を、神はアダムに伝え、アダムはこれをエバに伝え、エバは天使長に伝えて、善を繁殖すべきであった。しかし、これとは反対に、天使長は取って食べてもよいという不義の言葉をエバに伝え、エバはそれをアダムに伝えて堕落したので、「罪を繁殖する堕落性」が生じた。
ゆえにこの堕落性を脱ぐためには、天使長の立場にいるカインが、自分よりも神の前に近く立っているアベルの相対となる立場をとり、アベルから善のみ言を伝え受けて、善を繁殖する立場に立つべきであったのである。……
人間が常に立派な指導者や親友を探し求めようとするのは、結果的に見るならば、より天の側に近いアベル型の存在を求めて彼と一体化し、天の側に近く立とうとする天心から起こる行為である。
また、謙遜と柔和が、キリスト教信仰の綱領となっているのは、日常生活の中で、自分も知らずにアベル型の人物に会って、彼を通じて天の前に立つことができる位置を確保するためである。個人から家庭、社会、民族、国家、世界に至るまで、そこには必ず、カインとアベルの二つの型の存在がある。それゆえに、このようなすべてのものを、創造本然の立場に復帰するためには、必ずカイン型の存在がアベル型の存在に従順に屈伏しなければならないのである。
イエスは、全人類がその前に従順に屈伏しなければならないアベル的な存在として、この世に来られたお方である。したがって、彼によらなくては、天国に入る者がないのである(ヨハネ14・6)。しかし、カインがアベルを殺害することによって、天使長が人間を堕落せしめた堕落性本性を反復するようになり、アダムの家庭が立てるべきであった「実体基台」は立てられなかった。したがって、アダムの家庭を中心とする復帰摂理は成し遂げられなかったのである。
原理講論、復帰基台摂理時代1-1 ~ 2
カインとアベルが祭物を捧げたのち、アベルの祭物だけを神様が受けられたことを知ったカインが、アベルを憎み、殺害してしまいましたが、ここには、カインとアベルが祭物を捧げるために準備するときから、カインにアベルを憎む心があったことを、皆さんは知らなければなりません。
カインが、神様が自分の祭物を受けないので、瞬間的にアベルに対する憎しみが生じて彼を殺害したのではなく、そのことにぶつかる前から、アベルが憎くて葬り去りたいという思いがカインにあったというのです。
(3-205、1957.11.1)
皆さんは、カインとアベルが一緒に神様に祭物を捧げたとき、アベルの祭物を受けられた神様の立場と、カインの祭物を受けられなかった神様の立場が、互いに異なるものだと思っていますが、そうではなかったことを知らなければなりません。
カインに、天の立場を身代わりしていたアベルを通そうという心が少してもあったならば、神様は、そのカインの祭物を受けられたでしょう。神様は、時間的な差はあったとしても、公平な立場で彼らに接しようとされたのです。
(3-205、1957.11.1)
カインとアベルが祭祀を分かれて捧げたのですが、アベルの祭祀を受けたことに対して、カインが私も神様に紹介してくださいと、完全に絶対信仰、絶対愛、絶対服従する心で一つになってこそ、受け入れられるようになっているのです。
(378-206 ~ 207、2002.5.12)
神様がアベルを立てられた理由は、カインを救援するところにあります。ですから、神様から受けた愛をカインに丸ごと与えると同時に、自分の愛までも加えて与えなければなりません。これが本来のアベルの立場です。
(18-277、1967.6.12)
アダム家庭において、実体基台を勝利するためにカインとアベルが一つにならなければならないという摂理をされる時、神様がアベルの祭物だけを受けるようになったのですが、これに対してアベルが驕慢な心をもつようになったので、サタンがそれを讒訴してカインに血気を起こすようにさせ、理性を失うようにして、弟のアベルを殺書するように役事しました。
(374-12 ~ 13、2002.4.4)
人間は堕落によって、心と体が統一調和の基準を失ってしまい、葛藤しながら自己矛盾の中で生きてきました。それだけでなく、個人の中で生じる心と体の葛藤と闘争は、家庭、社会、国家と世界に拡大されてきました。
兄のカインが弟のアベルを殺害する犯罪も、ここに由来しています。歴史始まって以来、この地球上で起こったあらゆる対決と戦争は、本質的に、より悪なるカイン側とより善なるアベル側との間の戦いでした。
(299-105、1999.2.6)
カインとアベルが一つにならずに分かれてはいけません。一方は正しいほうであり、一方は悪いほうです。ですから誰でも私の神様であると同時に、あなたの神様であり、私を愛するだけでなく、あなたを愛する神様であるという信仰の立場で、お互いにアベル的な存在を求めて侍り、カイン的な立場を避けて最大の努力をしなければいけません。
(3-207 ~ 208、195711.1)
アダム家庭でカインがアベルを殺害するのを見つめるとき、神様がどれほど痛哭されたでしょうか。それが世界的に起きるのですが、どうするのですか。本来は、兄が弟を父の代わりに愛さなければならないのに、これはどういうことかというのです。
(406-26、2003.3.2)
アダム家庭でカインがアベルを殺害するとき、神様の心はどうだったでしょうか。「しまった、大変なことになった! そのことがなければどれほどよかったか!」と思われたのです。アダムとエバもどれほどあぜんとしたでしょうか。願っているものがなくなったのです。そのような神様が終わりの日に、兄弟、兄と弟が争うこの局面で、一方は天国に、一方は地獄に行くにおいて、刑場に出て死ぬことを願う神様ではなかったのです。息子、娘が刑場に出て死刑を受けることを願う父母はいません。自分たちが責任をとることができるのであれば、何でもするという心を抱かれた神様です。
(295-63、1998.8.17)
3) 悪魔とその活動
すべての宗教の経典は、悪魔の存在とその勢力に対して言及している。悪魔の頭は様々な名前で知られている。サタン、ルーシェル、イブリース、マラ、サマエル、ベルゼブル、アングラマイニュなどがそれである。
その中の一部は、人間の堕落と悪の根源で言及した。悪魔は、人間の心が邪悪なことをするよう引っ張るなど、絶えず活動している。理性論者たちは悪魔の実在を受け入れ難いかもしれないが、20 世紀の歴史とそれによる恐怖を見てみれば、互いに悪の影響を及ぼす人間の能力は理性を超える。
教皇パウロ6世は、悪魔に対して次のように語った。「私達は、暗く不安にさせる霊が実在することと、それがいまだ校滑に背信的な活動をしていることを知っている。それは、それが人類歴史に過ち、不幸をもたらす見えない敵であり、私達の中で、感覚、想像力、情欲、ユートピア的論理、あるいは人生の過程で交わす無秩序な社会的接触を通して活動している」。
悪魔のわなは多様だ。経典の教えによれば、一人が小さな悪を行おうとする欲望をもったとき、悪魔は彼に対して訴えかけ、彼がもっと大きな過ちを犯すよう影響を及ぼすことができる。逆に言えば、宗教の道に入った人は、特に信仰で大きな進展をなそうとするとき、悪魔の誘惑を経験する。
一部の宗教(主にゾロアスター教)で、神様と悪魔は永遠の敵だが、悪魔の力を認める信仰が二元論を意味するのではない。神様の創造の善を教える一神教は、悪魔は結果的存在であり、神様の僕という本来の位置から離れて神様の怨讐となった天使だと教える。
文鮮明先生は、天使ルーシェルの堕落は人間の堕落とともに成されたのであり、その時、ルーシェルは人間に対する主管を主張する強力な悪魔であるサタンになったと教える。
次の章句は、悪魔の性格と様々な誘惑、そして、人間を捕らえるために、ルーシェルが使った戦略に対して説明している。サタンを克服する鍵は、利己心、驕慢、貪欲、官能的快楽の追求など、サタンのあらゆる性向を私達自身が浄化することであり、神様と永遠性を主軸とした人生を営むことである。
1. 天使の堕落
― 宗教経典 ―
この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた。地上に投げ落とされたのである。その使いたちも、もろともに投げ落とされた。
ヨハネの黙示録12.9 (キリスト教)
ああ、お前は天から落ちた、明けの明星、曙の子よ。お前は地に投げ落とされた、もろもろの国を倒した者よ。かつて、お前は心に思った。
「私は天に上り、王座を神の星よりも高く据え、神々の集う北の果ての山に座し、雲の頂に登って、いと高き者のようになろう」と。しかし、お前は陰府に落とされた、墓穴の底に。
イザヤ書14.12 ~ 15(キリスト教)
われが天使たちに「アダムに叩頭(こうとう)せよ」と、告げたときを思え、そのときイブリースのほかは叩頭した。かれは、「私はあなたが、どろでつくられた者に、どうして叩頭しましょう」と言った。
かれはまた「あなたはお考えになりませんか、あなたが私よりも重視したもうのは、この者であります。もし復活の日まで、私に猶予を賜わるなら、わずかの者を除き、かれの子孫をきっと私の配下にいたしましょう」と言った。
かれは仰せられた「去れ、もしかれらのうち、なんじに従う者あれば、まことに地獄こそ、なんじらへの応報、十分な応報である」。「なんじの魅惑的な声で、かれらのうちの能うかぎりの者を動揺させ、なんじの騎兵や歩兵でかれらを攻撃せよ。財宝と子女をかれらと分けて、約束を結べ。しかし悪魔の約束は、ただ欺くにすぎない」。
クルアーン17.61 ~ 64(イスラーム)
主なる神である私は、モーセに語って言った。「あなたが私の独り子の名によって命じたあのサタンは、初めからいた者である。彼は私の前に来て言った。『御覧ください。私がここにいます。私をお遣わしください。私はあなたの子となりましょう。そして、私は全人類を贖って、一人も失われないようにしましょう。必ず私はそうします。ですから、私にあなたの誉れを与えてください。』
しかし見よ、初めから私が愛し選んだ者である私の愛する子は、私に、『父よ、あなたの御心が行われ、栄光はとこしえにあなたのものでありますように』と言った。
あのサタンは私に背いて、主なる神である私が与えた、人の選択の自由を損なおうとしたので、また私の力を自分に与えるように求めたので、私は独り子の力によって彼を投げ落とさせた。
そして、彼はサタン、すなわち、あらゆる偽りの父である悪魔となって、人々を欺き、惑わし、またまことに、私の声を聴こうとしないすべての者を自分の意のままにとりこにする者となった
高価なる真珠、モーセ書4.1 ~ 4(末日聖徒イエス・キリスト教会)
一方、自分の領分を守らないで、その住まいを見捨ててしまった天使たちを、大いなる日の裁きのために、永遠の鎖で縛り、暗闇の中に閉じ込められました。ソドムやゴモラ、またその周辺の町は、この天使たちと同じく、みだらな行いにふけり、不自然な肉の欲の満足を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受け、見せしめにされています。
ユダの手紙6 ~ 7(キリスト教)
― み言選集 ―
神様は主人であり、私達人間はその方の息子、娘です。天使は主人の僕になり、その息子、娘の僕にもなります。天使の中でも、神様に最も近くアダムとエバと一番近い存在として、彼らの事情を知ることができる存在は天使長でした。
神様は、この世の中を創造する過程で、アダムとエバを創造する前には天使長と相談しながら、使いをさせながら創造の偉業を成してきました。したがって、天使長とは何と同じかというと、お金持ちの家の僕と同じです。ですから、その主人の息子、娘、分別のない息子、娘に対しても僕の立場だということを知らなければなりません。
(53-331、1972.3.6)
神は天使世界を創造されてから(創1・26)ルーシェル(明けの明星という意、イザヤ14・12)に天使長の位を与えられた。それゆえに、あたかもアブラハムがイスラエルの祝福の基となったように、ルーシェルは天使世界の愛の基となり、神の愛を独占するかのような位置にいたのであった。しかし、神がその子女として人間を創造されたのちは、僕として創造されたルーシェルよりも、彼らをより一層愛されたのである。
事実上、ルーシェルは、人間が創造される以前においても、以後においても、少しも変わりのない愛を神から受けていたのであるが、神が自分よりもアダムとエバをより一層愛されるのを見たとき、愛に対する一種の減少感を感ずるようになったのである。
これは、ちょうど、朝から働いた労働者が、自分が働いただけに相当する労賃を全部受けとったにもかかわらず、遅く来て少し働いた労働者も自分と同じ労賃を受けとるのを見て、自分が受けた労賃に対する減少感を感じたという聖書の例え話(マタイ20・1~ 15)と同じ立場であったということができる。
このような立場で愛の減少感を感ずるようになったルーシェルは、自分が天使世界において占めていた愛の位置と同一の位置を、人間世界に対してもそのまま保ちたいというところから、エバを誘惑するようになったのである。これがすなわち、霊的堕落の動機であった。
原理講論、堕落論2.2.1
創世記3章14 節を見れば、神は堕落した天使を呪い給い、「おまえは腹で、這いあるき、一生、ちりを食べるであろう」と言われた。足で歩くことができず腹で這うということは、天使が創造本然の活動をすることができず、悲惨な状態になるということを意味するのであり、ちりを食うということは、天より追いだされることによって(イザヤ14・12、黙12・9)、神からの命の要素を受けることができず、罪悪の世界に陥って、悪の要素を受けながら生きていくということを意味するのである。
原理講論、堕落論1.4
2. 悪魔の行跡
― 宗教経典 ―
私は、悪魔たちが下るのが、だれの上であるかおまえたちに告げようか。かれらは、あらゆる中傷者と罪のある者の上に下る、(悪魔の語に)耳を貸す者、かれらの多くは虚言者である。
クルアーン26.221 ~ 223 (イスラーム)
世の中の何ものに執著しても、それによって悪魔が人につきまとうに至る。
スッタニパータ1103 (仏教)
汝の第一の軍隊は欲望であり、第二の軍隊は嫌悪であり、第三の軍隊は飢渇であり、第四の軍隊は妄執といわれる。汝の第五の軍隊はものうさ、睡眠であり、第六の軍隊は恐怖といわれる。汝の第七の軍隊は疑であり、汝の第八の軍隊はみせかけと強情とである。誤って得られた利得と名声と尊敬と名誉と、また自己をほめたたえて他人を軽蔑することである。
ナムチよ、これらは汝の軍勢である。黒き魔(kanha)の攻撃軍である。勇者でなければ、かれにうち勝つことができない。(勇者は)うち勝って楽しみを得る。
スッタニパータ436 ~ 439 (仏教)
私達の戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。
エぺソの信徒への手紙6.12 (キリスト教)
「邪師は聖歌を破壊する(彼は邪説をもって生の意思を破壊する。彼こそは資産を阻むもの)ウォフ・マナフのくだす吉祥なる授かり分を阻むもの。」わたくしの心中のこのことばを、マズダーよ、アシャと御身たちに、わたくしは訴える次第です。
アヴェスター・ヤスナ32.9 (ゾロアスター教)
なんじ以前にわれがつかわした使者や予言者は、かれが望みをもったとき、悪魔がその望みにむなしい示唆をしないことはなかった。だが神は、悪魔の示唆したものを消したまい、やがて神は、しるしを確証したもうた。まことに神は、全知者・英明者であられる。これはかれが悪魔に示唆させて、心に病のある者、ならびに心のかたくなな者に対する、一つの試みとされるためである。
クルアーン22.52 ~ 53(イスラーム)
神の使徒が言った。「あなたたちの中で、精霊(悪鬼)がつきまとわない者は誰もいない」。これに信徒の仲間たちが尋ねた。「あなたも同じですか」。使徒が答えた。「そうだ。しかし、神が精霊に対抗して私を保護してくださるため、私は精霊の手から安全だ」。
ムスリム・ハディース(イスラーム)
罪を犯す者は悪魔に属します。悪魔は初めから罪を犯しているからです。悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです。神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人の内にいつもあるからです。この人は神から生まれたので、罪を犯すことができません。神の子たちと悪魔の子たちの区別は明らかです。正しい生活をしない者は皆、神に属していません。自分の兄弟を愛さない者も同様です。
ヨハネの手紙3.8 ~ 10(キリスト教)
(イエスは言われた。)「私の言っていることが、なぜ分からないのか。それは、私の言葉を聞くことができないからだ。あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。
悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。しかし、私が真理を語るから、あなたたち
は私を信じない。」
ヨハネによる福音書8.43 ~ 45(キリスト教)
憂いの国に行かんとするものはわれを潜れ。
永劫の呵責に遭わんとするものは
われをくぐれ。
破滅の人に伍せんとするものは
われをくぐれ。
正義は高き主を動かし、
ただ無窮あり、われは無窮に続くものなり、
われを過ぎんとするものは
一切の望を捨てよ。
ダンテ・アリギエーリ神曲1.3 (キリスト教)
― み言選集 ―
堕落とは何でしょうか。サタンに支配されたことです。それゆえ、今日アダムとエバを中心として生まれたすべての子孫は、サタンの支配圏から逃れることができないまま、歴史が発展してきたのです。
(168-300、1987.10.1)
悪魔は「私のために生きろ」と言います。歴史的にあらゆる独裁者たちは、「私のために生きろ」と言いました。
(222-139、1991.10.28)
私達は、この悪の世の中でどのように善悪を分別しながら真理を求めていかなければならないのでしょうか。自分を中心とする心を捨て、常に低い位置に下りていかなければなりません。聖書にも、「自分を低くする者は高くされるであろう」とあります。
人間の本質は霊的なものです。ですから、あの国に行けば、そのような人間の本質が人のために生きるようになっていることを、より一層実感するようになるのです。ところが、人間はどうして自分のために生きようとする心で万事に臨んでいるのですか。これはすべての人間たちが天倫に背いた天使、言い換えれば、サタンと血統的な因縁をもっているからです。
(2-138、1957.3.17)
サタンが讒訴して関係を結ぶことができる条件が罪だと言いましたが、結局、創造原則、本来の宇宙の根本原則に反対となる立場に立ったのです。人間は対象の立場で神様を主体としているので、神様だけのために生きるところで存在の価値があり、存在の起源があります。
ところが、悪の出発は、サタン自身もそうであり、エバ自身も、「私が主体になってみよう。私が中心になろう」と考えながら、自己愛から始まったのです。これが悪です。神様の創造原則は対象のために存在するというものですが、対象を否定し、「私のために存在せよ」と言ったのです。
皆さんは、善悪の起源をはっきりと知らなければなりません。悪の人は「私のために生きなさい。私のところに来てみな屈服しなさい」と言います。神様もこれをたたきつぶさなければならず、イエス様もこれをたたきつぶさなければなりません。ですから、「驕慢になってはいけない。自分の利益を求めてはいけない。人のために犠牲になりなさい。奉仕しなさい」と言ったのです。
(69-84 ~ 85、1973.10.20)
堕落とは、人間始祖が神様の縦的な真の愛のもとで、横的に真の愛を完結することができず、天使長の侵犯を受け、偽りの横的愛を成したことです。この堕落の結果として、神様は愛する子女を失ってしまうようになったのであり、人間は心と体が矛盾し、葛藤を経る故障した命として生まれざるを得なくなったのであり、悪魔は横的愛の条件にかこつけて、個人かち世界に至るまで人間を不当に管掌してきています。
(198-58、1990.2.1)
ヨハネによる福音書第8章44 節を見れば、「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者」とイエス様が指摘しました。それは何の結果としてそのようになったのでしょうか。堕落の結果としてそのようになったのです。堕落によってサタンがエバを騙し、エバはアダムを騙し、互いに騙す悲劇の歴史が出発したことを知らなければなりません。
(73-202 ~ 203、1974.9.18)
エバが天使長と一つになって堕落することによって、天使長は悪魔サタンになったのであり、サタンの血筋を受け継ぐようになったのです。エバを中心として見るとき、本来、生まれるべきアダムとエバの息子たちは、長子も神様の息子であり、次子も神様の息子になるべきでしたが、堕落することによって、エバの一つの体を中心としてサタンに引っ張られていってしまいました。
本来の創造原理の中で、愛を中心として見るとき、愛は所有物の確定を決定するようになっています。愛の因縁を結べば、必ずその愛を中心とする主体と対象は互いの所有権が決定するようになっているのです。このような原理的基準を中心として見るとき、エバが堕落したのは何ですか。天使長の世界を中心として新しい愛の因縁を結ぶ所有権の決定をしたということです。
(110-216、1980.11.18)
人間は堕落することによって神の宮となることができず、サタンが住む家となり、サタンと一体化したために、神性を帯びることができず堕落性を帯びるようになった。
このように、堕落性をもった人間たちが悪の子女を繁殖して、悪の家庭と悪の社会、そして悪の世界をつくったのであるが、これがすなわち、堕落人間たちが今まで住んできた地上地獄だったのである。
地獄の人間たちは、神との縦的な関係が切れてしまったので、人間と人間との横的なつながりもつくることができず、したがって、隣人の苦痛を自分のものとして体恤することができないために、ついには、隣人を害するような行為をほしいままに行うようになってしまったのである。人間は地上地獄に住んでいるので、肉身を脱ぎ捨てたのちにも、そのまま天上地獄に行くようになる。
このようにして、人間は地上、天上共に神主権の世界をつくることができず、サタン主権の世界をつくるようになったのである。サタンを「この世の君」(ヨハネ12・31)、あるいは「この世の神」(コリントⅡ 4・.4)と呼ぶ理由は実にここにあるのである。
原理講論、人類歴史の終末論1.2
私達の主人でいらっしゃるお父様は、主人になることができず、あなたの怨讐であるサタンの血統を受け継ぎ、サタンが主管する暗黒圏内に私達を引きずり下ろしてきたという事実を考えるとき、どれほど憤懣やるかたない事実かをもう一度私達が回顧しながら、この地球上から、大勢の霊人たちがとどまる霊界に至るまで、億千万世の怨讐となったサタンを追放するのがお父様の願いであられ、真の人類の願いだったことを、この時間、私達が肝に銘じなければなりまサん。
お父様、サタンの権威と権勢の基盤がどれほど残っているかを生活の中で感じることができない私達でございます。一時一時を送りながら、一日一日を過ごしながらも、サタンの権勢と権限が私達の生活圏内にどれほど浸透しているかを、今までも感じることができなかった私達の信仰生活だったことを、お父様、思うのでございます。
(19-184 ~ 185、1968.1.7)
3. 告発するサタン
― 宗教経典 ―
堕落後、人は数多い群れの悪霊と懲罰の使者たちに引かれていった。その前でアダムは、恐怖で体が縮み上がった。ソロモンは、神秘な知恵をもった人だった。天は彼を王座に立てられ、あらゆる世界が彼を畏敬した。しかし、彼もまた罪を犯すと、悪で罰を与える霊たちに引かれていった。
大切な所有物を奪われ、拷問を受ける状況になると、ソロモンは恐れをなした。明らかに人は自らの行いによってあの世の使者につれていかれる。使者が善か悪かは、自分が歩んできた地上の人生にかかっている。
ゾハール1.53b (ユダヤ教)
ある日、主の前に神の使いたちが集まり、サタンも来た。主はサタンに言われた。「お前はどこから来た。」「地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました」とサタンは答えた。主はサタンに言われた。「お前は私の僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」
サタンは答えた。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。お陰で、彼の家畜はその地に溢れるほどです。ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」
主はサタンに言われた。「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には、手を出すな。」サタンは主のもとから出て行った。
ヨブ記1.6 ~ 12(キリスト教)
すべてのことが決定されたとき、悪魔は言うであろう、「真実の約束を、おまえたちに約束されたのは神であった、わしも約束したのだが、おまえたちの役に立てなかった。もともとわしは、おまえたちに対し権威はないのだ、ただおまえたちに呼びかけ、おまえたちがわしに従ったのみだ。それでわしを非難してはならぬ、むしろ自分自身を責めよ……」
クルアーン14.22 (イスラーム)
― み言選集 ―
サタンは、ヨブを神の前に訴えるように(ヨブ1・9)絶えずあらゆる人間を神の前に訴え、地獄に引いていこうとしているのである。しかし、サタンもその対象を取り立てて、相対基準を造成し、授受作用をしない限り、サタン的な活動をすることはできない。サタンの対象は、霊界にいる悪霊人たちである。
そして、この悪霊人たちの対象は、地上にいる悪人たちの霊人体であり、地上にいる悪人たちの霊人体の活動対象は彼らの肉身である。したがって、サタンの勢力は悪霊人たちを通して地上人間の肉身の活動として現れる。それゆえ、ルカ福音書22 章3節には「イスカリオテと呼ばれていたユダに、サタンがはいった」と記録されており、またマタイ福音書16 章23 節を見ればイエスはぺテロを指してサタンと言われた。さらにまた、このような悪霊人体を「悪魔の使者」と記録しているところもある(マタイ25・41)。
地上天国を復帰するということは(前編第3 章第2 節参照)、全人類がサタンとの相対基準を完全に断ちきり、神との相対基準を復帰して、授受作用をすることにより、サタンが全く活動することのできない、そのような世界をつくることをいうのである。
終末に至って、サタンを底なき所に閉じ込めると言われたみ言は、とりもなおさず、サタンの相対者がいなくなることによって、サタンが活動できなくなるということを意味する。
原理講論、堕落論4.2
神様は歓迎しますが、サタンは放してくれません。なぜでしょうか。「本来、あなたには創造原則によって、愛で主管できる権限があるではないですか。私は非法的な愛の道、非法的な位置に立ちましたが、アダムとエバを愛したのは間違いない。
愛は本来、主管性の原則ではないですか。私がアダムとエバを愛したのだから主管することができるが、あなたがそれ以上、私を愛さなければ、連れていくことはできない」、このように言うのです。
(128-91、1983.6.5)
神様がサタンに「本来、人はサタンであるお前に讒訴されるようになっていないではないか。本来、人は、サタン、お前から讒訴され、お前に拘束される存在ではないではないか」と言えば、サタンは、「それはすべて知っています。しかし、愛というものは、永遠に主張するようになっているではないですか。愛の因縁というものを原理的立場から見れば、愛すれば永遠にその人に隷属されるのが愛の法度ではないですか」と言いながら、自己主張をするのです。
すると神様は、原理的な立場から見れば、人間を私が造り、私の息子、娘になるべきなのに、お前が不法に因縁を結んだのではないか」と言います。ですから、仕方がありません。原理的法度を主張するサタンの立場も正しく、原理的立場から主張する神様の主張も正しいというのです。
(111-147 ~ 148、1981.2.10)
神様も今まで内的にサタンを相手にして闘っていらっしゃり、外的には悪人を相手にして闘っていらっしゃいますが、それは無礼な闘いではなく、法に背く闘いでもありません。神様は絶対に天理法度に背いて闘われることはありません。
イエス・キリストもこれと同様に、天理原則に背いた闘いはされませんでした。したがって、私達が終末に宇宙的な闘いをしなければならないときにも、天倫の法度を知らなければなりません。そうして私達は、この法を中心として闘うことができる人にならなければならないのです。
皆さんは知りませんが、サタンもやはり無礼な法を立てて天倫に背く闘いはできません。ですから、復帰の条件を立てておいてサタンと闘うようになるとき、人間が神様のみ旨に背けば、サタンが讒訴するようになるのです。イエス様であっても例外ではありません。法度に背くとき、容赦なくサタンが讒訴するのです。
(2-176 ~ 177、1957.4.14)
4. 善悪に対する人間の選択
― 宗教経典 ―
主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。
創世記4.6 ~ 7(キリスト教)
身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。
ペテロの手紙一5.8(キリスト教)
この世のものを浄らかだと思いなして暮し、(眼などの)感官を抑制せず、食事の節度を知らず、怠けて勤めない者は、悪魔にうちひしがれる。――弱い樹木が風に倒されるように。この世のものを不浄であると思いなして暮らし、(眼などの)感官をよく抑制し、食事の節度を知り、信念あり、勤めはげむ者は悪魔にうちひしがれない。――岩山が風にゆるがないように。
法句経78(仏教)
人びとよ、神の約束は真実である、それで、現世の生活に欺かれてはならない、また神に関し、大欺瞞者に欺かれてはならぬ。まことに悪魔(サタン)はなんじらの敵である、それで敵として扱え。かれは、ただ燃えさかる火獄の仲間とする己れの連累者を招くにすぎぬ。
クルアーン35.5 ~ 6(イスラーム)
なんじら信仰する者よ、悪魔の足跡に従ってはならぬ。なんじらがもし悪魔の足跡に従うならば、かれはきっと醜行と悪事をなんじらに命ずるであろう。
もしなんじらに対し、神の恩恵と慈悲がなかったならば、なんじらのうち、ひとりも純潔になり得なかったであろう、だが神は、み心にかなう者を清めたもう。神は、全聴者・全知者であられる。
クルアーン24.21 (イスラム)
では、睡眠を通して双生児としてあらわれた、かの始元の二霊についてであるが、両者は、心意と言語と行為において、より正善なるものと邪悪なものとであった。そして、両者のあいだに、正見者たちは正しく区別をつけたが、邪見者どもはそうではなかった。
して、これら両霊が相会したとき、彼らが定めたのは、第一の世界には生と生存不能とであるが、しかし終末にある境涯は不義者どもには最悪なるも義者には最勝なるウォフ・マナフがあるということであった。
これら両霊のうち、不義なる方は極悪事の実行を選取したが、最も堅固なる蓋天を着ていて最勝なるスプンタ・マンユの方は天則を選取し、真実なる行為をもってアフラ=マズダーをすすんで満足させようとするものどももまたそうであった。
アヴェスター・.ヤスナ30.3 ~ 5(ゾロアスター教)
イスラエル民族がシナイ山の前に立ったとき、蛇の不純さが彼らから抜け出ていった。そして、肉欲が止まり、結局命の木に接ぎ木されることができた。彼らの考えは、あの高い所に向かうようになり、そして喜びと歓喜に満ちた天の光と知恵を受けるようになった。主なる神は、聖なる名が記された帯を巻いてくださり、以前のようにサタンが力を発揮できないようにされた。
しかし、彼らが再び罪を犯し、金の子牛を拝むと、彼らは降等され天の光を失ってしまった。聖なる名の帯も取り上げられ、再び以前のように悪魔サタンの攻めを受けるようになった。
ゾハール1.52b(ユダヤ教)
あるがままの本性の純粋さが真の仏、ゆがんだ見方と貪・瞋・疑は魔王。ゆがみに晦んでいるとき魔王はわが家に入り、正しく見て取ったとき仏は座敷に在す。自性の中のゆがみが三毒を生み、つまり魔王に住み込まれる。正しい見方は自ずと三毒を除き、魔王は仏に変わって紛れもない真のもの。六祖壇経10(仏教)
― み言選集 ―
神様は最も公的な方であり、サタンは徹頭徹尾、自分を中心とする私的な存在です。
(88-209、1976.9.18)
宇宙で人よりも人の主体となる神様がいるとすれば、その神様が最も尊いのです。ところが、サタンはなぜ人の主体である神様をもとうとしないのでしょうか。サタンは欲心が多いのですから、神様を自分のものにすればどれほどよいでしょうか。
神様は、絶対不変、絶対唯一、絶対永遠です。神様は変われません。変わることができないというのです。サタンにいくらもっていきなさいと言っても、神様は真なのでもっていけません。サタンは真を消化できないのです。いくらもとうとしても無駄です。
それでは、神様も欲心が多いのに、なぜ人よりもサタンを自分のものにしようとしないのでしょうか。それを答えなさいと言えば、上手に答えるでしょう。天の側の反対だからです。神様は変わらないのですが、サタンは変わり、神様は唯一ですが、サタンはそうではありません。そして、神様は永遠ですが、サタンは瞬間的です。根本的にそのように分かれるのです。
それでは、サタンや神様はどうして人を必要とするのですか。人は二つの性格、二つの世界の素質をもって生まれ得る中間の立場にいるという論理をここで完全に確定できます。
それでは、変わることができる瞬間的な人はサタン側ですか、神側ですか。また、家でしきりに分裂を引き起こし、しきりに争いを引き起こすのは、サタン側ですか、神側ですか。
未来を見て、世界や全体、永遠を見て、長い歴史を考えず、「きょうだけ食べていければよい、きょうさえよければよい」と、また子女のために生きるべき父母であるにも.かかわらず、その父母の立場を忘却し、酒を飲み、自分を中心として酔うようになれば、それは悪に属し、サタンに属します。では、酒を飲む人は、彼自身が幸福ですか、不幸ですか。飲むこと自体は幸福でしょう。酒を飲めば、踊りを踊って喜ぶではないですか。ところが、それは永遠を維持することはできません。何日かたてば終わります。
それによって、環境的与件に破綻が伴うのです。それによって、環境的与件が保護を受けられず、それが永遠に継続するので、悪に属するという事実を知らなければなりません。
(124-243 ~ 244、1983.2.20)
信仰生活が必要なのは堕落したからです。堕落圏内にいるという、この観念を離れてはいけません。落圏内に私達は生きているので、信仰生活をするのです。これが、皆さんの日常生活の生活意識として残されなければなりません。堕落した世界は、サタンが支配する世界です。それは、考えだけでなく事実です。
(161-218、1987.2.15)
休まずに祈りなさいというのです。悪魔は24 時間、皆さんを通じて働けます。しかし、神様は縦的な位置にのみいるので、心以外には活動できません。サタンは、四方の360 度に、そしていつでも活動できるので、私達はサタンの活動に負けるようになっています。
(200-227、1990.2.25)
人間の堕落以降、徐々に発展してきた悪霊の役事は、1980 年代に入って霊界が急激に変化し、地上で悪霊の活動が大きく現れるようになりました。
そうなった理由は、それまで、天のみ旨を探し求めてきた中心人物たちが、サタンの正体を具体的に、正確に把握することができず、罪の根である原罪を明らかにすることができなかったので、サタンも、余裕をもって自分中心の世界をこつこつとつくることができたのです。
しかし、真の父母様が地上に来られてからは、状況が変わってきました。真の父母様は、サタンの正体と罪の根である原罪が、淫行という不倫なる愛であることを明らかにされ、さらには、神様が直接に啓示されない内容であるサタンの性向を把握し、これからは、サタンが地上での足場を失わざるを得ないように、蕩減条件を立てていかれながら、復帰摂理史を勝利されました。
このようになったので、サタンも、当惑するようになりました。それでサタンは、霊界の悪霊たちを動員し、地上人の体の中にいる恨をもった霊人たちと力を合わせて、過去の恨みに対して刺激を与え、地上人を苦しめる悪霊役事を強化しました。
サタンは彼らを呼んで刺激を与え、恨みを晴らすようにし、彼らが苦しめられた分、また、それ以上の恨みを、苦痛を与えた先祖の子孫に復讐するようにさせているのです。
特にサタンは、祝福家庭に侵入する機会を常にねらっていて、条件に引っ掛かるような生活をすると、悪霊を祝福家庭に入れて、祝福家庭が神様を中心に生活することができないようにさせてきたのです。
本来、祝福家庭は、真の父母様と心情一体を成し、絶対信仰、絶対愛、絶対服従で生活すれば、サタンが侵入できないようになっていました。しかし、非原理的なことをして、サタンが讒訴できる条件が成立すると、サタンが侵人することができるようになります。
実際に、地上の祝福家庭は、真の父母様の勝利的基台のみに頼ったまま、自分の体と行いを深く振り返ることをおろそかにしていました。「もしかしたら、サタンが自分に侵入し得る条件を立てるようなことをしていないだろうか」「そのような堕落性をもっていないだろうか」と、深く振り返れませんでした。
ですから今からでも、自分を完全に浄化させ、創造本然の真の子女の姿に生まれ変わる努力を傾けなければなりません。
興進様の霊界メッセージ、2002.1.1
4) 罪
罪に対する聖書の意味は、「的を外れたこと」である。したがって、罪は人間が人生の真の基準からどれほど外れたかを意味する。罪を理解する道はいろいろある。ここに三つを提示する。
第1には、殺人、窃盗、性的不道徳、嘘と麻薬摂取のような典型的な悪行である。世界の諸宗教は共通してこのような罪を非難する。第2に、罪の意味は意図的であれ非意図的であれ、人に害を及ぼす自己中心的思考である。これは、より微細に罪を理解したものであるが、日常生活で人と衝突する行動の動機と方法に対して自己反省するようにさせる。
罪は魔力をもっている。これは私達を束縛し、神様に近づいていくことを妨害する。罪を理解する3番目の方法は、罪をどこにでも隠れている欠点と堕落のような人間の日常的条件として見ることである。
このような脈絡から、文鮮明先生は、すべての罪は神様との本来的関係を切っておいて、人間を疎外と闘争の状態に残した人間堕落の結果だと教える。
1. 罪の意味
― 宗教経典 ―
生きものを殺し、虚言を語り、世間において与えられていないものを取り、他人の妻を犯し、穀酒・果実酒に耽溺する人は、この世において自分の根本を掘りくずす人である。
法句経246 ~ 247 (仏教)
正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことはできません。
コリンの信徒への手紙6.9 ~ 10(キリスト教)
黄金をぬすむ人、スラー酒をのんでいる人、師の閏房をけがす人、バラモンを殺害する人、これら四種の人びとは〔犬や豚やチャンダーラに〕堕落する。
そしてかれらと交わる第五番目のものも〔堕落する〕
チャーンドーギヤ・ウパニシャッド5.10.9(ヒンドゥー教)
ムハンマドが言う。「姦淫を行った者は信者ではない。窃盗を行う者は信者ではない。飲酒をする者は信者ではない。それから目を離したからといってそれを奪っていく者は信者ではない。人をあざむく者は信者ではない。ゆえに注意し、また注意せよ」。
ブハーリおよびムスリム・ハディース(イスラーム)
ラーフラよ、もしそなたが身による行為をなしたいと思うならば、そなたはその身の行為についてよく観察すべきです。〈私がなしたいと思っているこの身による行為は、自己を害することになりはしないか、他者をも害することになりはしないか、両者ともに害するものになりはしないか、この身の行為は不善のもの、苦を生むもの、苦の果のあるものではないか〉と。
ラーフラよ、もしそなたが観察しながら、〈私がなしたいと思っているこの身による行為は、自己を害することになる、他者をも害することになる、両者ともに害することになる、この身の行為は不善のもの、苦を生むもの、苦の果のあるものである〉と知るならば、ラーフラよ、そなたはそのような身による行為を、けっしてなすべきではありません。
阿含経中部i.1415(仏教)
主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が、神とお前たちとの間を隔て、お前たちの罪が神の御顔を隠させ、お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。
イザヤ書59.1 ~ 2(キリスト教)
善悪両果報で成れる索(なわ)で縛られたる状態はあたかも跛人の如く、自由なきことは囚人の如く……
マイトリ・ウパニシャッド4.2 (ヒンドゥー教)
私達が幸福になるためにおこなっておりながら、じっさいにはむしろ不幸になるとき、あるいは、より幸福になるためにおこなっておりながら、じっさいにはより不幸となるとき、そこに偽りが存するのである。
しかし、人間が幸福となることができるのは、人間が罪を犯すことにより見捨てた神からくるのであって、自分自身にしたがって生きることにより罪を犯した人間からくるのではない、という理由によっていま述べたことがあって、そうでなければいかなる理由によるのであろうか。
アウグスティヌス神の国14.4 (キリスト教)
― み言選集 ―
人のために生きずに自分のために生きるところから、すべての罪悪が発生しました。どろぼうがなぜ悪いのですか。そのどろぼうは自分かやりたくてやったのに、その何が悪いのですか。一着の服にも犠牲の代価が含まれていて、奉仕の代価が含まれています。公的なものが入っているのです。それをそのままもってきたので罪なのです。
(105-92 ~ 93、1979.9.30)
今から守るべき鉄則とは何かというと、1 番目に、死ぬほどのことがあったとしても血統を汚してはいけないということです。2番目は、人事処置を誤って人権を蹂躙してはいけないということです。
男性であれ女性であれ、黒人であれ、白人であれ平等です。人権を差別せず、人権を蹂躙してはいけないというのです。責任者は、自分の心に合わないからといって、むやみに人事措置をしてはいけません。心に合わないからといってむやみにでぎないのです。3番目は、公金を盗んではいけないということです。公金を自分勝手に使うなということです。この三つです。
(342-298 ~ 299、2001.1.13)
罪とは何ですか。神様のみ言に背いたことが罪だというのですが、サタンが讒訴できる条件を提示することが罪です。神様のみ言を信じないことが罪です。
怨讐がかみついて放さないことができる条件を提示することが罪です。ですから、原理原則に、法度に背けば、神様もどうすることもできません。サタンに引っ掛かっていくのです。
イエス様は、生まれるときサタンの讒訴できる立場から外れた立場で生まれたので、原罪のない方です。サタンの主管圏内でサタンと接するのが原罪ですが、イエス様はサタンの讒訴条件だけでなく、すべての条件を越えて生まれた方なので、原罪とは関係がないのです。
(22-257、1969.5.4)
お互いに愛する人が、きょうは好きなのに、あすには別れるのですから、どうして平和があり、どうして統一があり、どうして自由があるのかというのです。そのような愛は、破壊ばかりを招き入れるのです。破壊の動機であり、受け入れることができない内容だというのです。
その愛は、反対にサタンが利用してこの人類を破壊させ、人類の理想を破壊させるための一つの戦略的な武器だ、ということを皆さんは知らなければなりません。私達から真の平和を奪っていき、私達から真の自由を奪っていき、私達から真の統一を奪っていく怨讐の戦略的な方法だ、ということを私達は知らなければなりません。
伝統をもった愛、原因と結果が通じ得る愛を中心として見てみるとき、それ(淫乱な愛)は悪であり、怨讐であり、赦すことができない罪です。神様にとって怨讐であり、容認できない罪なのです。罪の中の何の罪ですか。最も恐ろしい罪です。怨讐の中で神様が最も嫌う怨讐なのです。その道を是正できない者は、神様は怨讐であり、罪として扱うので、激しく打って滅ぼすようにするのです。滅ぼすようにするのが原則です。
皆さんの中に、イタリアのポンペイ市に行ったことがある人もいるかもしれませんが、その都市が滅んだのも、淫乱な愛の社会生活のためでした。ソドムとゴモラもそれで滅亡したのです。ローマもそれで滅びました。このような公式的な歴史観で推し量ってみるとき、アメリカもそのような愛を是正せずに、悔い改めなければ、滅びます。
(104-141、1979.4.29)
2. 罪の浸透
― 宗教経典 ―
自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理は私達の内にありません。
ヨハネの手紙一1.8(キリスト教)
また私自身、罪を免ぜられるわけでもない。まことに人間の心は確かに悪に傾きがちで、私の主が、慈悲を賜わないならば悪に陥ったかも知れぬ。
クルアーン12.53 (イスラーム)
では、どうなのか。私達には優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシャ人も皆、罪の下にあるのです。次のように書いてあるとおりです。
「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。」
ローマの信徒への手紙3.9 ~ 12(キリスト教)
地上においても天の神々においても、プラクリティ(根本原質)より生じた三要素(グナ)から解放された生類はいない。
バガヴァッド・ギーター18.40 (ヒンドゥー教)
先生がいわれた、「わたくしは、まだ仁を好む人も不仁を憎む人も見たことがない。仁を好む人はもうそれ以上のことはないし、不仁を憎む人もやはり仁を行なっている、不仁の人をわが身に影響させないからだ。
もしよく一日のあいだでも、その力を仁のために尽くすものがあったとしてごらん。力の足りないものなど、わたくしは見たことがない。あるいは〔そうした人も〕いるかも知れないが……、わたくしはまだ見たことがないのだ。」
論語4.6 (儒教)
このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。
ローマの信徒への手紙5.12 (キリスト教)
私は咎のうちに産み落とされ、母が私を身ごもったときも、私は罪のうちにあったのです。
詩編51.7 (キリスト教)
かの夫婦として結合した一組の男女が神の罪の宣告をうけたときに、最初の男において、女をとおしてその後裔へと引き渡されていくべき全人類がすでにあったわけである。これは、かれがつくられたときではなく、かれが罪を犯し罰せられたとき人間が成ったところのものであって、かれはこれを、罪と死との起源にかんするかぎり生み出したのであった。
アウグスティヌス神の国13.3 (キリスト教)
― み言選集 ―
人間の世界で、永遠に変わろうにも変わることができず、分けようにも分けごることができない一つの完全な義理を完成し、天と地に誇れるそのような義理の関係を結んだ人がいるのかというとき、いないと言っても過言ではないでしょう。
さらには、宗教を立てておいて、その道理と永遠に分かれることのない自分を立てたのかというとき、これも自信をもって答えられない自分であることを悟るでしょう。さらには、天倫と永遠に一つになることができ、何がそれを分けようとしても分けることができない、一つになった立場にいるのかというとき、そのようにできていないことを皆さん感じるでしょう。
(4-135、1958.3.30)
神様がいるとすれば、皆さんはその神様に似て生まれたのです。それでは、神様が善の神様であれば私達人間も善の人間にならなければならないはずですが、善の人間になることができず、相当に複雑で、善でない人間になったことを認めざるを得ません。善の神様と私達人間の間には隔たりが生じたのです。
皆さんがきれいな服を着ているのに、ここに汚れたものがつけば、それを切ってしまうか、はらってしまうか、見栄えがよくないので処断してしまわなければなりません。それと同じように、善の神様の端に、この汚れた人間がくっついていると考えてみてください。そのように考えなければなりません。そのように見るとき、私達人間は、聖書を知らなくても、汚されたというのです。
(92-58、1977.3.13)
堕落することによって、神様と人間の関係が根本的に破綻しました。いくら神様に帰ろうとしても帰ることができず、また、神様が私達人間のところにいくら来ようとしても来ることができない隔たり生じてしまいました。
壁が生じ、国境が生じてしまったのです。神様まで行くことができない、神様を父母として侍る人間が行くことができない壁、越えることのできない壁、それが何の壁ですか。これが問題なのです。全能であられる神様が思いどおりにできる壁になれなかったという事実が、宗教者にとって問題にならざるを得ません。
この壁が、我々個人の心と体の間に入り込むようになりました。夫婦の間にも、壁が入り込むようになりました。家庭がそうであり、氏族と民族と国家と世界、全霊界の天国と地獄の間にも、このような塀が生じたのです。
この塀を取り除かなくては、神様がいくら天国の栄光のみ座にいらっしゃるとしても、地上にいる我々は、包囲されたこの塀を越えられません。これが、この地上に生きている人間の悲劇です。
(135-268、1985.12.15)
アダム、エバがどうなったかといえば、アダム、エバが関係して神様と一つになるべきところを、僕と一つになってしまいました。結局、神様の血統を受けなければならないこの人間たちが、僕の血統を受け継いだということです。ですから、堕落した人間たちがどんなに神様を父と呼んでも実感がわかないのです。
(91-242、19772.23)
堕落したアダムとエバが相対の因縁を結んで出発したその家庭は、神様とは全く関係がありません。その家庭は、神様がとても悲しむ拠点になったのであり、反対に怨讐であるサタンがすべての権利を主張し、すべての権限を発揮できる拠点になったということを、皆さんは堕落論を通して学んだでしょう。
堕落は、個人と個人、すなわち一人の男性と一人の女性によって引き起こされたものですが、それは単に一人の男性と一人の女性に限られたものではなく、歴史的であり、天宙史的な内容をもっていることを私達は知っています。
(46-196、1971.8.15)
いまだに人類は、私達の先祖であるアダムとエバから伝授された堕落性の奴隷になっており、その束縛から抜け出すことができずにいるという意味です。生涯を断食と禁欲、そして途方もない犠牲の苦難の道を貫いて旅立った聖人、賢哲たちの告白がそれを証しています。肉身の欲望を完全に根絶することができずに旅立たざるを得なかった彼らの告白は、いまだに地上界で同じ道を踏襲している弟子たちと信徒たちに向かって切実に訴えているのです。
(447-160 ~ 161、2004.5.1)
5) 遺伝罪と業報
宗教は、様々な人間の運命と天賦的才能の差を過去から受け継いだ結果として説明する。それは、過去の自分の人生の業報や子孫に下ってきた先祖たちの罪、この二種類として理解される。このような教理は、人をして過去の行為を贖罪させ、未来の世代のための善業を積むために、彼らの運命を受け入れさせ、忍耐心をもって耐えるように導く。
業報は行動を意味するが、より具体的に一人の個人がこの世や過去の人生で引き起こした行動を意味する。輪廻に対する信仰をもっているヒンドゥ一教と仏教では、人々は彼らの現在の人生を次の生涯で自業自得にならざるを得ないと教える。
しかし、これらの宗教は、一人の状況が業報によってどのくらい決定されるかの程度では、見解が異なる。ヒンドゥー教は、業報によって個人の現在の人生が全面的に決定すると信じる。したがって、財産、人種、性別、あるいはカーストの不平等は当然のことであり、事実上、宇宙は絶対的に正義であり公正なものである。
一方、仏教は、業報が決定的原理だという点を否定する。業報は一人の人間の人生を条件づける24 の要因(パッチャヤ)の中の一つとして、ほかの条件が備われば、業報は現れる必要がないとする。仏教信者は、精神的修練と瞑想訓練を通して自由を得て、業報の束縛から抜け出そうとする。
東洋と西洋の大部分の宗教は、罪が血統を通して遺伝する点を認める。個人は、肉体的特性は言うまでもなく、家風、態度、個性まで譲り渡した自分の先祖の罪を背負っている。先祖たちの人生は、未来の世代の経験にも影響を及ぼし、数世紀まで伝わる痕跡を残すのである。したがって、このような遺伝問題を解決しようとする賢明な人は、子孫に害を及ぼさないだろう。かえって、子女のために善業を残すだろう。文鮮明先生は、遺伝罪がどのように遺伝し、どのように解決され得るのかに対して、少なくない教えを提示している。
1. 過去の人生の遺産
― 宗教経典 ―
あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。私は主、あなたの神。私は熱情の神である。私を否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、私を愛し、私の戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。
出エジプト記20.5 ~ 6(キリスト教)
父祖の犯せし罪よりわれを解き放せ。われらみずから犯せし[罪]より解き放せ。
リグ・ヴェーダ7.86.5(ヒンドゥー教)
死から依然として処罰を受けていない罪が残っていれば、判決は子孫に延長される。過ちと暴力によって他の人のお金を持っていけば、計算され、その総額を妻と子とその家族たちが次第に死ぬとき、彼らから奪うようになる。もし彼らが死ななければ、彼らの邪悪な着服の額だけ均衡をとるために、水、火、窃盗、強盗、財産の喪失、疾病、そして毒舌(中傷)などによる災難がある。
太上感応篇4.5(道教)
危険を避けるために
小さなひょうたんの蔓の中に入っていくほど
能力のある者よ!
あなたは子を忘れていたのか。
あなたは妻を忘れていたのか。
人が蒔いた悪の種は
彼の子孫が刈り取るようになる。
無慈悲に必ず報復を受けるだろう。
いくら遅くなっても報復は時になれば訪れる。
ヨルパ族の歌(アフリカ伝統宗教)
現世であらゆる子孫の運命は、彼の先祖と変わるところがない。死が破滅を止めることはできず、生存者が彼らの罪悪を放棄することはない。人はそれぞれ互いの前轍を踏み、群れごとに、国ごとに、彼らの道を正すことを考えること心なく、終末を迎えるのだ。
ナフジュ・アル・バラーガ説教86(シーア派イスラーム)
義なる者、どれほど幸福か! 彼一人に徳があるのではなく、子らにまでその徳が相続される。その子の子らにも、あの最後の世代にも、その徳が及ぶ。
アロンは、ナダプとアビフのように火刑にされて当然の息子たちがいたが、その父の徳によって彼らは命を拾った。
罪を犯した者、どれほどふびんか! その罪の代価を一人で支払うのではなく、子らにまで受け継がれるのだ。その子の子らにも、あの最後の世代にも、その罪の代価が及ぶ。カナンの多くの息子は、ラビ・カマラエルの小間使いだったタビのような運命をもって生まれたが、彼らの先祖たちの罪によって、その福の機会を失った。
タルムード、ヨーマ87a(ユダヤ教)
トーデッヤの子であるスバ青年バラモンは世尊にこう言った。「ゴータマ尊よ、人身をそなえている人間に劣性と優性が見られる因は何でしょうか。縁は何でしょうか。なぜならば、ゴータマ尊よ、人間には短命の者が見られ、長命の者が見られるからです。多病の者が見られ、無病の者が見られるからです。醜い者が見られ、美しい者が見られるからです。権勢のない者が見られ、大権勢のある者が見られるからです。貧困の者が見られ、富裕の者が見られるからです。低階層の者が見られ、高階層の者が見られるからです。知恵のない者が見られ、知恵のある者が見られるからです。ゴータマ尊よ、人身をそなえている人間に、劣性と優性が見られる因は何でしょうか。縁は何でしょうか」と。……
「青年バラモンよ、ここに、ある女性、あるいは男性は殺生者となります。残忍で、手を血に染め、殺戮にふけり、生き物に対する思いやりがありません。このように遂行し、このように引き受けたその業によって、かれは身体が滅ぶと、死後、悪処・悪道・破滅の地獄に生まれかわります。
もしも身体が滅び、死後、悪処・悪道・破滅の地獄に生まれかわらず、人間の状態を得るならば、どこに再生しようとも短命の者になります。……
しかし、青年バラモンよ、ここに、ある女性、あるいは男性は、殺生を捨て、殺生を離れる者となります。棒を置き、刀を置き、恥じらいがあり、慈愛があり、すべての生き物を益し、同情して住みます。このように遂行し、このように引き受けたその業によって、かれは身体が滅ぶと、死後、善道の天界に生まれかわらず、人間の状態を得るならば、どこに再生しようとも長命の者となります。
青年バラモンよ、これが長命に導く実践、すなわち殺生を捨て、殺生を離れる者となり、棒を置き、刀を置き、恥じらいがあり、慈愛があり、すべての生き物を益し、同情して住むことです。
青年バラモンよ、ここにある女性、あるいは男性は、生けるものたちを手によって、……害する類の者となります。……このように遂行し、このように引き受けた業によって……どこに再生しようとも多病の者になります。……しかし、青年バラモンよ、ここに、ある女性、あるいは男性は、生けるものたちを手によって……害さない者となります。……かれは無病の者になります。
青年バラモンよ、ここに、ある女性、あるいは男性は、怒りのある者、悩みの多い者になります。……どこに再生しようとも醜い者になります。……しかし、青年バラモンよ、ここに、ある女性、あるいは男性は、怒りのない者、悩みの多くない者になります。……端正の者になります。……ここにある女性、あるいは男性は嫉妬心のある者……どこに再生しようとも権勢のない者になります。……ここにある女性、あるいは男性は、嫉
妬心のない者……かれは大権勢の者になります。ここにある女性、あるいは男性は、沙門やバラモンに……施す者になりません……貧困の者になります。……施す者になります。……かれは富裕の者になります。……
青年バラモンよ、生けるものたちは、業を自己とし、業を相続者とし、業を胎とし、業を拠り所としています。業が、生けるものたちを、すなわち劣性と優性に区別します」と。
阿含経中部iii.202 ~ 206、小業分別経(仏教)
反発的心は自由意志に調整されず、完全に刺激(反応に基づいて作用する心の)部分だ。そして、それは自分の意識、目的、思想、身体、行動を超えて強圧と統制力を発揮する心の一部分だ。記憶の痕跡は反発的心に貯蔵されている。それで私は、精神異常と心因性疾患の唯一の根源をここから見いだした。
ロン・ハバードサイエントロジー0 ~ 8(サイエントロジー)
― み言選集 ―
数多くの歴史時代を経てきながら、多くの私達の先祖たちが死んでいきましたが、全体の中心を立て、全体に良いこと、全体の利益を考えたなら、そのように百年生きたことが、千年たってもそのまま残されたことでしょう。ところが、個人を中心として生きたので、すべて滅びました。どんどん落ちます。全体を滅ぼしてしまうのです。
(200-91、1990.2.24)
人類歴史上、罪の量といえば途方もないものです。アダムとエバの根本的罪があり、幹の罪など、様々な罪があります。ところが、中心となる罪の根があります。根も様々なものがありますが、周辺の根もあり、幹の根もあります。
幹も、小さい幹が大きくなるときまで、少なくともそこには一つ、二つの枝から始まり、数万の枝があります。このようにたくさんの枝が間違っているのです。その全体の量を見れば膨大です。人類がそのように多くの罪を犯したのですが、どのように赦しを受けるのでしょうか。その膨大な罪の量が、すべて皆さんの一身と連結されています。
(258-84 ~ 85、1994.3.17)
いったい、人は誰に似てこの姿なのですか。父に似たのなら、その父は誰に似てその姿なのですか。おじいさん、おばあさんに似てそうなのです。このようにどんどん上がっていけば、人間の始祖まで上がっていきます。人間始祖がそうなので私達がそうだというのです。
それでは、人間始祖は誰に似てそのようになったのですか。これが問題になるのです。人は父母に似るものです。その父母に似ていなければ、何代かの先祖の性稟が隠れていて、遺伝法則によって父母の性稟と合わさって一人の人間が生まれたのであって、何の根源もない無関係な場でそのように生まれたのではないということです。
皆さんは、自分独りによって自分になっていくと思っていますが、既に皆さんの先祖世界の人たちがたくさん来ては行きました。数千代の先祖たちを悪く言ってはいけないので、「社長」としましょう。大勢の社長を総合した総社長として残されたのが皆さんの個体なのです。皆さん、このような話を聞いたので、気分がよいでしょう? このように素晴らしいのが人です。
ですから、皆さんは、数千、数万代の先祖たちのもろもろの姿、資格、価値を集めておいたものを博物館に展示しておいた展示品と同じです。このような姿が今日の皆さんの姿なのです。
私達の先祖がこの世界に、「私達の子孫はこうだ」と展示品として立てておいたものが私達です。そのように考えてみましたか。この天地間に男性と女性は実に大勢いますが、個人自体を見てみるとき、自分の先祖の姿を全体で総合し実を結んで生まれた、この世にたった一つしかない人だというのです。
(41-139、1971.2.14)
皆さんの先祖たちはすべて違います。行く道が違い、環境が違い、悪の人、善の人が混ざって流れていくのですが、上がっていったり下がっていったり……。
今、その結実のような皆さんの位置が、すべて一つの位置だと見ることはできません。このような観点から、神様は公平な方ですが、神様がもし、「人類は平等で同じだ」と言われれば、「そうだ」と言うことができるだろうかというのです。
堕落がなかったなら分かりません。堕落が神様の愛圏内にあったなら分かりませんが、堕落して神様の愛を求めていかなければならない運命にある人間に対しては、平等という観念を立てることはできません。
ですから、地獄と天国が生じざるを得ないという理論を私達はここで知らなければなりません。このように見れば、数千の階級が生じ得るのです。地上に散らばっているこの階級、ここにとどまっている階級と同じものが、今日、人類歴史のすべての人たちの背景を中心として、現在と未来を通して生じることが分かります。地上にこのような階級が生じれば、霊界もこのような階級が生じるのです。霊界もたくざんのグループになっていて、階級的に分裂しています。
(91-269 ~ 270、1977.2.27)
2. 悪の業報の断絶
― 宗教経典 ―
賢明な比丘は、今、以前の生の業の過失を刈り取らなければならないことを知っている。それが多かろうと、またごく少なかろうと、ねたみや憎悪の心から、または衝動的に行った行為は、要求されるその結果を結ばなければならない。
ゆえに、ねたんだり憎んだりせず、衝動的に行ってはならない。賢明な比丘はりっぱな実を結ぶが、知識は罰を呼ぶ道を残す。
阿含経増支部3.33 (仏教)
立派な若者たちや立派な娘たちが、このような経典をとり上げ、記憶し、誦え、理解し、十分に思いめぐらし、また他の人々に詳しく説いて聞かせたとしても、しかもそういう人たちが辱しめられたり、また甚しく辱しめられたりすることがあるかも知れない。
これはなぜかというと、こういう人たちは前の生涯において、罪の報いに導かれるような幾多の汚れた行為をしていたけれども、この現在の生存において、辱しめられることによって前の生涯の不浄な行いの償いをしたことになり、目ざめた人の覚りを得るようになるのだ。
金剛般若経16(仏教)
地上最大の、そして(パータリーと呼ぶ)花の名をつけた都城パータリプッタおいて、釈迦族の家に生まれた二人の有徳の尼僧がいた。そのなかの一人をイシダーシー、もう一人をボーディーと呼び、かれらは、戒行を具え、禅思を楽しみ、学識があり、煩悩を除いていた。
かれらは托鉢に出かけて帰り、食事をとり終って、鉢を洗い、人気のないところに安坐して、つぎのことを語り合った。「大姉イシダーシーよ、あなたは眉目うるわしく、年もまだふけていない。あなたは、いかなるわざわいを認めて、出離の生活に専念しているのですか?」……
「ボーディ-よ、私が出家した次第を聞いて下さい。すぐれた都ウッジェーニーにおいて、私の父は、徳行の篤い豪商でした。私は、その一人娘で、可愛がられ喜ばれ慈しみをうけました。ときに、サーケータに住む名門の人から(遣わされた)仲人がやってきました。(名門の人とは)多くの財宝ある豪商で、父は私をその人の嫁として与えました。……
婢女のごとく、みずから夫を装飾しました。私は、自分で御飯を炊き、自分で食器を洗いました。あたかも、母が一人っ子に対してなすように、私は、夫にかしずぎました。このように、貞淑で、最善をなし、高ぶらず、早起きで、怠けず、婦徳のそなわった私を、夫は憎みました。
かの(夫)は、(夫の)母と父にむかって言った。『お許しください。私は、出て行きたいのです。私は、イシダーシーと同じ家のなかで、一緒に住みたくないのです。……彼女は、何も私を害したりしません。しかし、私はイシダーシーとともに住みたくないのです。ただ嫌いな女は、私には用がないのです。お許しください。私は、出て行きたいのです』
かれのことばを聞いて、姑と舅は、私に尋ねました。『あなたは、どんなことを仕出かしたのですか? 打ち明けて、ありのままに言いなさい』『私は、何も悪いことはしませんでした。(夫を)害ったこともありませんし、(夫の欠点を)算えたこともありません。夫が私を憎んで発するようなことばを、どうして、私が口にすることができましょうか?』
憂いまどえるかれら(二人)は、その息子の気持に従って、苦しみながら、私を(私の)父の家につれもとして、言いました。『私どもは、(人間のかたちをした)うるわしい吉祥の女神に敗れたのです』
そこで、(父は)つぎに、私を富める第二の家の人に与えました。(第一の)豪商が私を得て(支払った)身代金の半分をもって。私は、かれの家にも一ヶ月住みましたが、やはり、かれもまた、私を追い返しました。私は、婢女のように仕え、罪もなく、戒めを身にたもっていたのですが。
托鉢のために遍歴し、自己を制御し、(他人を)調御する力のある者に向って、私の父は言いました。『あなたは、私の女婿となって、ボロ布の衣と鉢を捨てなさい。』かれもまた、半ヶ月住みましたが、そこで、父に告げました。『私に、ボロ布の衣と鉢と水飲みの器を返してください。もとどおりの托鉢の生活をしたいのです』……
かれは、追われて去りました。私は、独りで思いにふけりました。『私は、許しを得て、出て行きましょう、死ぬために。そうでなければ、出家しましょう』そのとき、大姉ジナダッターは、托鉢のために遍歴しつつ、父の家にこられました。
彼女は、戒律をたもち、博学で、徳を具えた方でした。かの尼僧を見るや、起って、私達は、彼女のために座席を設けさせました。
坐った彼女の両足を礼拝し、食物を捧げました。食物、飲物、かたい食物、それにそこに貯えられているものを、思う存分食べさせて、『大姉よ、私は出家したいと願うのです』と言いました。
そのとき、父は、私に告げて言いました。『娘よ、ここで、かの(ブッダの)教えを行ないなさい。食物と飲物をもって、道の人や再生族(=バラモン)たちを供養しなさい』そこで、私は、掌を合わせ泣いて、父に申しました。『私は、悪業ばかりをしてきました。私は、これを滅ぼしましょう』そのとき、父は、私に告げて言いました。
『さとりを得なさい。最高の真理を得なさい。両足のうちの最尊者(ブッダ)が実証された安らぎを得なさい』。私は、母と父と親族一同のすべての者に挨拶して、出家しました。出家して七日目に、私は、三種の明知を得ました。
私が自分の(過去)七生を知っているのは、その(明知を得た)結果であります。あなたにそれを話しましょう。一心にお聞きください。(その昔)エーラカカッチャの都において、私は、多くの財産ある金工でした。若気の至りで、その私は、他人の妻と親しくなりました。私は、それから死んで、長い間、地獄のなかで煮られました。
(罪の)報いが熟して、そこから出ると、牝猿の胎に宿りました。私が生まれて七日目に、猿群の長である大猿は、(私を)去勢しました。これは、私がかつて、他人の妻を犯した行為の報いだったのです。
それから、私は死に、シンダヴァの林で生涯を終えて、片目でびっこの牝山羊の胎に宿りました。私は、去勢されて、幼児たちを(背に)乗せて運ぶこと、十二年間でした。そして、虫類に悩まされ、病気にかかりましたが、これもまた、かつて他人の妻を犯したたのです。
それから、私は死んで、牛商人の所有する牝牛から生まれました。私は、樹脂に似た銅色のオスの子牛で、十二ヶ月たって去勢されました。私は、再びすきと車を引きました。盲目となり、悩み、病気にかかりましたが、これもまた、かつて他人の妻を犯したためです。
それから、私は死んで、街道筋にある婢女の家に生まれ、女性でもなく男性でもありませんでした。これもまた、かつて他人の妻を犯したたのです。
三十歳のとき、私は死に、車夫の家の娘として生まれました。この家は、貧しく財乏しく、債権者にたいして多くの借金をもっていました。その後、(借金が)累積し大きく増大すると、隊商の主は、泣き悲しんでいる私を、家から引きずり出しました。やがて、私が十六歳になったどき、その名をギリダーサと呼ぶかれの息子は、私か妙齢に達したのを見て、(私を)嫁にしました。
かれ(夫)には、他に妻がありましたが、彼女は、身を修め婦徳を具え、世に知られ、(夫に)愛されていました。私は、この夫に憎しみの念を起しました。婢女のように仕えていた私を、かれらが捨てて行ってしまったことは、かの(前世の)業の結果であります。(そして、いま)私は、それを終滅しました。」
長老尼の詩400 ~ 447、イシダーシー尼(仏教)
責任を果たしたと、すぐに天から報いを受けることを期待してはいけない。あなたの罪が、まだすべて免れていないかもしれないのだから。代わりに、子に何も相続してあげられないことを不徳に思いなさい。アブラハム、イサク、ヤコブが、彼らの善行に報いを望んだなら、どうして義なる者の種が(一つの例として、イスラエル民族)伝承されただろうか。
出エジプト記ラッバー44.3 (ユダヤ教)
― み言選集 ―
数千年間、先祖たちが悲しみの障壁を積み上げてきましたが、この障壁が日がたてばたつほど低くなるのではなく、サタンがたくさんの計略を働かせ、この障壁を高くしております。
今日、全世界の人類が、先祖のつくりだしたこの怨恨の障壁を崩す責任をもっており、また私達もその責任を担っていることを知らなければなりません。
イエス様が独りで寂しい道を行かれたことが、イエス様の寂しさだとばかり思っておりましたが、その寂しさが私達の寂しさとして残っていることを知るとき、今、涙を流し、天に向かって進んでいくべき自分自身を発見するようになるのでございます。
(1-305 ~ 306、1956.12.23)
罪には、原罪があり、自犯罪があり、連帯罪があり、先祖から受け継いだ遺伝的罪があります。それを清算していかなければなりません。主の弟子になっても、各自の蕩減の道は残っていることを知らなければなりません。
統一教会に入ってきても、すべてそのまま同じではありません。ある人は苦労して、ある人は死にそうになりながら行き、また、ある人はひどく苦労をしながら行かなければなりません。
なぜそうでなければならないのでしょうか。すべて蕩減の道が違うからです。命を捧げてでも行かなければならないというその伝統基準は同じですが、行く道は違うのです。蕩減の量は違うということを知らなければなりません。
(251-131、1993.10.17)
罪というものを『原理講論』では、「サタンと相対基準を造成して……天法に違反すること」といっています。罪には、原罪、遺伝的罪、連帯罪、自犯罪があります。ところが、普通、地上人は「罪」というと、自犯罪のみを考えがちです。しかし、原罪はもちろん、先祖から受け継いだ遺伝的罪があり、自分が直接に罪を犯したのではなくても、連帯的な責任として負うようになる連帯罪もあります。
堕落人間は、一言で言うと、6000 年の人類歴史すべての善悪の結実体ということができます。子孫は、先祖から善なる性稟も悪なる性稟も受け継ぐのですが、善よりは悪が多い世界で生きているうちに、より多くの悪の性稟と、その罪が子孫たちに受け継がれて、悪循環をしています。
地上人の体の中に、多くの悪霊がついているということは、自分が犯した自犯罪と、先祖の罪が受け継がれて現れた結果を意味しています。罪は、堕落性を通して、サタンと相対基準を結んで、天法に違反した結果なので、罪には必ず事情があり、関連した者がいるようになっているのです。
それで、もし先祖が過去、地上に生きていたときに、間違ったことをして、相手に苦痛と痛みを与えて、恨みをもたせたとすると、恨みをもった霊人たちは、その苦痛を与えた霊人の子孫にぴたっとついて復讐をしようとし、その子孫たちを悪のどん底に陥れようとするのです。このような罪によって現れる代表的な結果が、病気と、それによる苦痛なのです。
現代の地上人がもっている病気のその多くは、このような先祖の罪と関連していると言っても過言ではありません。子孫に現れた病気と苦痛の内容を見ると、過去のその先祖の生き方がどのようであったかを知ることができます。
先祖が公金を流用したり、他人の財産を盗んだりした場合、また、被害を与えた場合には、その子孫が胃腸系の病気になりやすいのです。淫乱罪を犯した場合には、その子孫が脱線したり、生殖器に関連した病気や不妊症が現れたり、離婚する家庭が多いのです。
自分が相手を見間違えたり、また、ほかの人を通して、その人のことについて誤ったことを聞いたりして言葉を誤れば、心情を蹂躙した罪が成立して、その子孫の中に、目や耳や口の不自由な人が生まれる場合もあります。
相手に被害を与え、痛みを与えた、ちょうどその肉身の該当部位に、病気が発生することが多いのです。その罪の代価が重いほど、不治の病として現れます。
このような先祖が犯した罪を、現在、地上に生きている人間が蕩減条件を積んで清算できなければ、その罪は、さらに子孫へ受け継がれていきます。
あとで、地上人が霊界に来て、子孫たちが苦しんでいるのを見て、「自分がその罪を清算してあげていたなら、子孫たちがあの苦痛を受けずに済んだのに」と後悔することも多いのです。
興進様の霊界メッセージ、2002.1.1
私達の先祖が罪をたくさん犯したのなら、私が……。女性、男性、またどれほど罪をたくさん犯したでしょうか。それを蕩減できなかったのなら、子孫の前にも私が祭物になり、いさぎよく従順にしなければなりません。器量のよくない男性でも、器量のよくない女性でも、世の中の美男美女以上に正しく生きよう、このようにして蕩減しなければなりません。
(116-151、1981.12.27)
6000 年も悲しみの祭壇が連続したところには、先祖たちの過ちがあったためであることを知っておりますが、今日、私達がまた責任を果たすことができず、悲しみを後代に残すのではないかと恐ろしく思います。
今日、私が私1代で悲運の歴史を防ぎ、天の心情をここから収拾し、新しい喜びの心情に変えておかなければならない責任が私達にあることを学びましたので、この時間、頭を下げた私達、お父様の心情の同伴者となるよう許諾してください。
(8-262 ~ 263、1960.2.7)
6) 連帯的罪と歴史的罪
個人は、その属した国家、人種、氏族と宗教などの集団に、不可避に連帯している。彼らの個人的人生が有罪であれ、潔白であれ、個人は集団の運命に繁栄と苦痛がかかっている。その共同体に広がった悪(戦争、飢饉、伝染病、そして蔓延した麻薬使用など)は共同体のすべての人に苦痛をもたらす。
文鮮明先生は、これを連帯的罪と呼ぶ。人間は、連帯的罪を認識し、その罪の代価を払わなければならない責任がある。何よりもまず国家によって抑圧され、厳しい待遇を受けた人たちの悲しみを理解する努力を通して、連帯的罪を償うことができる。そして、犠牲と愛で連帯的罪を解決することができる。
― 宗教経典 ―
蛇が群がる湖に住む魚のように、たとえ敬虔で罪のない人であっても、他人と付き合えば彼らの過ちによって苦しみを受けるのである。
ラーマーヤナ、森林の巻38(ヒンドゥー教)
神が人に懲罰を下すとき、彼らの中の正義なる者は、その懲罰にぶつかるようになるが、後日、彼らの行為によって復活するだろう。
ブハーリーおよびムスリム・ハディース(イスラーム)
あなたたちは皆、互いに保証人になる。この世で永遠に、あなたたちの中にいる一人の義人の過去の功績で、あなたたち全員が生き、一人が罪を犯すことで、すべての世代が苦痛を受けるようになる。タンフーマ(ユダヤ教)
正義は退き、恵みの業は遠くに立つ。まことは広場でよろめき、正しいことは通ることもできない。まことは失われ、悪を避ける者も奪い去られる。イザヤ書59.14 ~ 15(キリスト教)
主の怒りで私は満たされ、それに耐えることに疲れ果てた。「それを注ぎ出せ、通りにいる幼子、若者の集いに。男も女も、長老も年寄りも必ず捕らえられる。家も畑も妻もすべて他人の手に渡る。この国に住む者に対して、私が手を伸ばすからだ」と主は言われる。
「身分の低い者から高い者に至るまで、皆、利をむさぼり、預言者から祭司に至るまで皆、欺く。彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して、平和がないのに、『平和、平和』と言う。彼らは忌むべきことをして恥をさらした。しかも、恥ずかしいとは思わず、嘲られていることに気づかない。それゆえ、人々が倒れるとき、彼らも倒れ、私が彼らを罰するとき、彼らはつまずく」と主は言われる。
エレミヤ書6.11 ~ 15(キリスト教)
我々は、この戦争という巨大な災いが速やかに過ぎ去ることを心から望み、熱心に祈りを捧げている。しかし、もし神が、250 年間にわたる奴隷たちの報われざる苦労によって蓄積されたすべての富が滅却され、鞭によって流された血のすべての滴が、剣によって流される血の滴によって贖われるまで、戦争が続くことを望まれるなら、3000 年前に言われたように、いまもなおこう言わなければならない。「主の裁きはまことにして正しい」。
エイブラハム・リンガーン第2 回大統領就任演説
― み言選集 ―
イエス・キリストは、この地上に神様の栄光と神様の愛と神様の永遠の生命をもって万民を救うために来られたのですが、彼の道をふさいでいる一つの条件がありました。それが何かというと、この人とあの人、この集まりとあの集まり、この社会とあの社会、この国家とあの国家の間に一つの金網のように組まれている罪というものでした。
(1-167、1956.7.11)
アメリカはたくさんの人を殺害しました。アメリカが歴史的な罪をすべて蕩減するためには、何をしなければならないのでしょうか。アメリカが東洋の人のために生きなければなりません。ここでインディアンを虐殺し、黒人たちの血を流しました。彼らは東洋人です。すべて今日この時代に蕩減して越えていかなければなりません。
(101-337、1978.11.12)
最近では、運動する人、走る人の半分以上が黒人です。アメリカでは年ごとに白人が追いやられ、黒人が登場するという事実を皆さんは知らなければなりません。もしこの人たちが統一教会の思想さえもてば、白人はぱたぱたと落ちていきます。白人はかなわないというのです。ですから、白人たちは、反対すれば反対するほど、黒人たちに福を奪われます。神様は損をしません。ですから、黒人は落胆しないでください。
イエス様が十字架を背負っていくとき、助けてくれた人が黒人です。クレネ人のシモンは黒人です。終末が来れば、黒人が登場するのです。問題は何ですか。思想的に偉大な思想をもたなければならないということです。
(91-219、1977.2.20)
7) 利己的欲望と堕落性
情念、貪欲、羨望、憎悪、情欲、このような感情は、人に理性を失わせ、破滅へと導き、霊魂を蝕む。大部分の主要な宗教は、度を越した欲望や利己的な欲望のために苦痛と悪が生じると教える。
仏教では、このような欲望を四聖諦の2番目の原理として集約し、「渇愛」という用語で表現している。渇愛は足かせである。心情の毒になり、心を眩惑させ、私達を悪行の道に結びつける。
すべての宗教が利己的欲望を害悪と様々な苦痛の原因として見ているが、利己的欲望を人間の心理と関連させて説明するやり方は、それぞれ異なる。仏教とジャイナ教は、あらゆる種類の欲望を、さらには存在自体のための欲望も、悪行と束縛の根源とみなし、拒否する。
キリスト教、ユダヤ教、イスラームなどの一神教や、シーク教とヒンドゥー教の一部の経典は、悪の肉体的欲望を善のための健康な欲求、または神様に向かう欲望と区別する。中国の宗教は、ひとえに度を越した欲望と利己的な欲望だけを非難する。欲望が道と調和を成したなら、欲望自体は善のものになり得る。これは、文鮮明先生の教えでもある。神様は、人々が善のための熱望をもつように欲望を創造したが、人間の堕落の結果、利己的なものに変質した。
文鮮明先生は、アダムとエバが堕落する当時、サタン的性質と態度が彼らに植えられたので、利己的な欲望は「堕落性」の表現であると教える。人間の本性が堕落し、真の召命から遠ざかったという事実を様々な経典が証している。
私達は、動物水準、さらにはそれ以下に転落した。私達は、内的矛盾に包囲され、驕慢、暴力、貪欲、そして情欲が私達の人生を支配している。
1. 利己的欲望と情念
― 宗教経典 ―
これが苦痛の根に関する聖なる真理、すなわち苦聖諦である。再生で引いていくのは渇愛であり、それは貪欲と密接だ。それは、今ここで、また今そこで、ぐつぐつと燃え上がる快楽を求めるが、いわゆる、感覚的快楽に対する渇望と、存在に対する渇望と、生成に対する渇望と、非存在に対する渇望がそれである。
阿含経相応部56.11、転法輪経(仏教)
貪りと、憎しみと、愚かさとは、その人自身より生じたものでありながら、悪心をいだく人を害する。果をつけた竹が自らほろびるのと同じである。
如是語経50(仏教)
誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、そそのかされて、誘惑に陥るのです。そして、欲望をはらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。
ヤコブの手紙1.13 ~ 15(キリスト教)
何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。
また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。得られないのは、願い求めないからで、願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。
ヤコブの手紙4.1 ~ 3(キリスト教)
アルジュナはたずねた。「それではクリシュナ、人間は何に命じられて悪を行うのか。望みもしないのに。まるで力ずくで駆り立てられたように。」
聖バガヴァットは告げた。それは欲望(カーマ)である。それは怒りである。激質(ラジャス)という要素(グナ)から生じたものである。それは大食で非常に邪悪である。この世で、それが敵であると知れ。
火が煙に覆われ、鏡が汚れに覆われ、胎児が羊膜に覆われるようにこの世はそれ(欲望、怒り)に覆われている。知識ある者の知識は、この永遠の敵に覆われている。
アルジュナよ、欲望という満たし難い火によって、感官と思考器官(マナス)と思惟機能(ブッディ)は、それの拠り所であると言われる。それはこれらにより知識を覆い、主体(個我)を迷わせる。それ故アルジュナよ、あなたはまず感官を制御し、理論知と実践知を滅ぼすこの邪悪なものを捨てよ。
バガヴァッド・ギーター3.36 ~ 41 (ヒンドゥー教)
先生がいわれた、「私は美人を愛するほどに道徳を愛する人をまだ見たことがない。」
論語9.18 (儒教)
女が誘惑物だと人々は言う。
いや、いや、そうではない。
お金が誘惑物だと人々は言う。
土地が誘惑物だと人々は言う。
いや、いや、そうではない。
本当の誘惑物は満足することを知らない欲望だ。
おお、主なるクヘスワラよ!(注19)
アラマ・プラブーヴァチャナ91(ヒンドゥー教)
この体に隠れた盗賊が五つあるが、色欲、憤怒、貪欲、執着、利己心がそれである。
アーディ・グラント、ソーラトM.3、p.600 (シーク教)
「諸欲に執し諸欲にあらわせるものは結使に禍あるを見ることなし。これおおいし結使に執著せるものは廣くして大なる河を渡ることなければなり」 「欲に盲目なるもの、網におおわれしもの、愛欲の覆いにおおわれしもの、放逸の友に囚われたるものはあたかも罠の口にある魚の如く、乳を飲む子牛の親牛に向ふがごとくにして老死に赴く」
感興偈75 ~ 76(仏教)
― み言選集 ―
私達の境界線の中で、最も危険なものとは何かというと、横道にそれやすいことです。それが私達の人生生活においては何かということです。じっくり一度指を折って数えてみましょう。それは、外的と内的に分けられます。
外的に見れば、相対的関係において何が必要なのですか。何か一度数えてみましょう。お金も数えることができます。その次には、知識というものです。また、その次には何かというと権力です。大概このようにみなします。そのようなお金というものが私を引っ張るのです。
それでは、そこに何ゆえに引っ張られるのですか。私がそこに誘惑され得る条件とは何でしょうか。私の内的な問題において、それが正に欲心、欲望なのです。誰のための欲心ですか。この欲心が悪いのです。私のための欲心です。
(90-12、1976.12.5)
人間は誰でも、自己の欲望が満たされるとき、幸福を感ずるのである。しかし欲望などといえば、ややもすると我々はその本意を取り違えがちである。というのは、その欲望が概して善よりは悪の方に傾きやすい生活環境の中に、我々は生きているからである。
しかしながら、我々をして不義を実らせるような欲望は、決して人間の本心からわき出づるものではない。人間の本心は、このような欲望が自分自身を不幸に陥れるものであるということをよく知っているので、悪に向かおうとする欲望を退け、善を指向する欲望に従って、本心の喜ぶ幸福を得ようと必死の努力を傾けているのである。
これこそ正に、死の暗闇を押しのけて、命の光を探し求めながら、つらく、険しい人の道を彷徨する偽らざる人生の姿なのである。いったい、不義なる欲望のままに行動して、本心から喜べるような幸福を味わい得る人間がいるであろうか。このような欲望を満たすたびごとに、人間は誰しも良心の呵責を受け、苦悶するようになるのである。その子供に悪いことを教える父母がいるであろうか。その子弟を不義に導く教師がいるであろうか。誰しも悪を憎み、善を立てようとするのは、万人共通の本心の発露なのである。
(原理講論、総序)
人間は、神様の実体である。ゆえに神様は、私を通して喜ばれる。しかし私が、ねたみ、しっと、驕慢のような堕落性によって欠陥のある実体だとすれば、どうして神様が私を通して喜ばれることができようか。
(御旨の道、人格)
外的な体を中心とした愛が、内的な心を中心として、理想的な永遠な生命の起源になる神様の愛を裏切ってくる歴史の結果がもたらされたのです。ですから外的な愛、すなわちサタンの愛を除去し、そこに本然の内的な愛、すなわち神様の愛を相続して体と心を糾合しなければなりません。
(20-179、1968.6.9)
2. 堕落性
― 宗教経典 ―
ただし見よ、見いだしたことがある。神は人間をまっすぐに造られたが、人間は複雑な考え方をしたがる、ということ。
コヘレトの言葉7.29 (キリスト教)
迷妄とカルマの力は実に悪魔がせき立てるものであるがゆえに、本来、清浄な人の心があらゆる邪悪さを楽しむように誘導する。
クンダクンダパンチャースティカーヤ38(ジャイナ教)
かれは言った、「私はあなたのしもべのうち、相当の部分の者をきっと連れ去るでしょう」。「また私はきっとかれらを迷わせて、そのむなしい欲望にふけらせ、またかれらに命じて、……神の創造を変形させます」。何人でも神をおいて、悪魔を友とする者は、必ず明らかな損失を被むるのである。悪魔はかれらと約束をむすび、むなしい欲望にふけらせるであろう。だが悪魔の約束は、欺瞞にすぎない。
クルアーン4.118-120(イスラーム)
汝の心性狂乱するに由って、知見妄を発す。妄を発してやまざれば、見を労して塵を発す。目晴(もくしょう)を労すれば、即ち狂華あるが如し。湛精明に於いて、因なくして一切世間の山河大地を乱起す。生死涅槃は、皆即ち狂労転倒の華相なり。
首楞厳経(仏教)
人が禽獣とちがう点は、ごくわずかである。即ち仁義をとり守って存するか、すててしまって存しないか、のちがいである。一般人は仁義をすて去り、君子は常に仁義を存してうしなわないのである。
孟子IV.A.19 (儒教)
人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか。
エレミヤ書17.9(キリスト教)
われがしるしを下した者の物語を、かれらに告げるのだが、かれはそれを受け流している、それで悪魔が憑いて、かれは背教者のたぐいとなった。もしそれがわが意志であったならば、われはそのしるしによってかれを引きたてたであろう、だがかれは地上に執着して、己れのむなしい私欲に従った。
それでかれをたとえてみれば、犬のようなもので、もしなんじが、それをしかりつけても舌をたれている、また放っておいても舌をたれている。これはわがしるしを信じない者の比ゆである、それゆえこのいにしえの人びとの物語を告げよ、おそらくかれらは反省するであろう。……
われは地獄のために、ジンと人間の多くをつくった。かれらは心を持つが、それで悟らず、目はあるが、それで見ず、また耳はあるが、それで聞かぬ。かれらは家畜のようである、いやそれよりも迷っている。かれらは警告を軽視する者たちである。
クルアーン7.175 ~ 79(イスラーム)
一点の神の愛も燃えないあの人、ナナークよ、知れ。彼の俗世の服は犬や豚のそれより少しも優れていないことを!
アーディ・グラント、スロークM.9、p.1428 (シーク教)
天よ聞け、地よ耳を傾けよ、主が語られる。私は子らを育てて大きくした。しかし、彼らは私に背いた。牛は飼い主を知り、ろばは主人の飼い葉桶を知っている。しかし、イスラエルは知らず、私の民は見分けない。
イザヤ書1.2 ~ 3(キリスト教)
人の本性は水と似ている。本来は清い。もし我々がきれいな器に水をくめば水はきれいだが、汚れた器にくめば水は汚れるだろう。その本来の清さは常にそこにあるが、一度それが汚されたり、濁れば、その清さを取り戻すのは難しい。
朱熹(儒教)
私は、不義が何であるかをたずねて、それが実体ではなく、最高の実体である神からはなれて、卑賎なものにねじ曲げられ、「腸をさらけ出して」のさばり出て意志の背反に外ならないことを悟った。
アウグスティヌス告白7.16(キリスト教)
一般の、もっとも卑俗なひとびとは、当然のことながら、快楽を「善」や「幸福」であるとみなしているように見える。かれらが享楽の生活に満足している理由はまさにそこにある(おもうに、生活には、およそ三つの主な形態がある。
いま述べた享楽の生活と、第三に観想の生活である)、こうして、大衆はそのまるっきり奴隷的な根性をむき出しにして、家畜にひとしい生活を選びとっているが、権勢の地位にあるひとびとの多くがその嗜好においてサルダナバロス(アッシリア盛期の王)に類するのを見れば、彼らがそうするのは無理からぬことである。
アリストテレスニコマコス倫理学1.5 (ヘレニズム)
― み言選集 ―
美しい神様の理想世界を実現なさろうとする人類歴史の初めの日、エデンの園で、人類の始祖は神様を失ってしまいました。一言で言うならば、人類の始祖になる一男一女は神様の前に罪を犯し、神様の国から追放されました。そして神様の聖殿になれず、悪魔の巣窟になりました。そして、その悪魔は利己主義の本山なのです。
(219-116 ~ 117、1991.8.28)
堕落した人間は、万物よりも劣る立場におかれるようになったので(エレミヤ17・9)。
原理講論、後編緒論1.2.1
皆さん、大洋を巡る大きな船が破損する危険が生じるようになるとき、その船の中に棲んでいたねずみたちが、すべて綱を渡って陸地に逃げていくという話を聞いたことがありますか。
微々たる動物も、未来の自分の生死圏を見分けることができるのに、万物の霊長である人間は何ですか。いいだこのようになってしまいました。(215-53、1991.2.6)
私の心と体は、神様の愛を通して完全に一つになります。しかし、私の心と体が分かれて、一度も一つになったことがありません。堕落したためにそうなのです。
堕落していなければ、神様の本質的愛を中心として完全に一つになるのです。その愛を中心とする愛の世界には、教育がありません。先生がいません。神様だけが先生です。教えてあげなくても、既に知っているのです。
心と体が一つになれば、宇宙が……。すべて宇宙の縮小体です。すべて知っているのです。学ぶ必要がありません。人間がどのように生きなければならないのか、ということを教える必要はありません。倫理道徳を教える必要がありません。
見てください。すずめの世界や動物の世界で、倫理道徳教育をしますか。自分たち同士で保護し、生理的に自分の一族を連結させて生きることを知っているのに、どうして万物の霊長がこのようになっているのですか。堕落したので争いが起きるのです。
(162-223、1987.4.12)
私達は堕落性をもっています。堕落性の4大条件とは何ですか。驕慢とねたみと血気と偽りです。驕慢、嫉妬、血気、偽り、これが堕落性です。皆さんもそれを脱がなければならないということです。
(150-126 ~ 127、1960.9.4)
堕落性本性が生ずるようになった根本的動機は、天使長がアダムに対する嫉妬心を抱いたところにあった。それでは、善の目的のために創造された天使長から、いかにしてそのような愛に対する嫉妬心が生ずるようになったのであろうか。元来、天使長にも、創造本性として、欲望と知能とが賦与されていたはずであった。このようにして、天使長は知能をもっていたので、人間に対する神の愛が、自分に注がれるそれよりも大きいということを比較し、識別することができたのであり、またその上に欲望をもっていたから、神からそれ以上に大きい愛を受けたいという思いがあったということは当然なことである。そして、こういう思いは、自動的に嫉妬心を生ぜしめたのである。
したがって、このような嫉妬心は、創造本性から誘発されるところの、不可避的な副産物であり、それはちょうど、光によって生ずる、物体の影のようなものであるといえよう。
しかし、人間が完成すれば、このような付随的な欲望によっては決して堕落することはできなくなるのである。なぜなら、このような欲望を満たすときに覚える一時的な満足感よりも、その欲望を満たすことによって生ずる自己破滅に対する苦痛の方が、もっと大きいということを実感するようになるので、このような行いをすることができないのである。
そして、創造目的を完成した世界は、あたかも一人の人間のように、互いに有機的な関係をもつ組織社会であるから、個体の破滅は、直ちに全体的な破滅を招来するようになる。
したがって、全体は個体の破滅を放任することができない。このように、創造目的を完成した世界においての創造本性から生ずる付随的な欲望は、人間の発展をもたらす要素とはなっても、決して堕落の要因とはなり得ないのである。
堕落性本性を大別すれば、次の四つに分類することができる。その第1は、神と同じ立場に立てないということである。天使長が堕落するようになった動機は、神が愛するアダムを、神と同じ立場で愛することができず、彼をねたんでエバの愛を蹂躙したところにあった。
君主の愛する臣下に対して、その同僚が、君主と同じ立場において愛することができず、ねたみ嫌う性稟は、とりもなおさず、このような堕落性本性から生ずるのである。
第2には、自己の位置を離れるということである。ルーシェルは、神の愛をより多く受けるために、天使世界においてもっていたと同じ愛の位置を、人間社会においても保とうとして、その不義なる欲望によって、自己の位置を離れ、堕落したのであった。不義な感情をもって、自己の分限と位置を離れるというような行動は、みなこの堕落性本性の発露である。
第3は、主管性を転倒するということである。人間の主管を受けるべき天使が、逆にエバを主管し、またアダムの主管を受けるべきエバが、逆にアダムを主管するようになったところから、堕落の結果が生じたのである。このように自己の位置を離れて、主管性を転倒するところから、人間社会の秩序が乱れるのであるが、これは、すべてこのような堕落性本性から生ずるのである。
第4は、犯罪行為を繁殖することである。もし、エバが堕落したのち、自分の罪をアダムに繁殖させなかったならば、アダムは堕落しなかったであろうし、エバだけの復帰ならば、これは容易であったはずである。しかし、エバはこれとは反対に、自分の罪をアダムにも繁殖させ、アダムをも堕落させてしまった。悪人たちがその仲間を繁殖させようとする思いも、このような堕落性本性から生ずる思いなのである。
原理講論、堕落論4.6
今、すべての堕落性本性がどうだということを知りました。まず所有権、自分を中心とする所有欲から出発したのであり、その次にはうそをついたのであり、その次には不条理な貞操の道を行き、その次にはあらゆる天のものを奪う強奪の道を行き、その次に、アダム時代に来ては、殺害する道を行きました。
歴史時代のすべての独裁者たちが、どのような人たちかというど、うそをついた者であり、不倫的な愛の道を思いどおりに行った者であり、すべてのものを自分の思いどおりに強奪した者であり、すべての善の人を思いどおりに葬り去った者であることを考えるとき、このような歴史的な汚点の道を私達は行ってはなりません。これを愛で昇華させる天の伝統をそのまま受け継ぎ、自分自ら闘うことを願います。
(121-257 ~ 258、1982.10.27)
8) 内的闘争
現実的人間は、善と悪という二つの互いに相反する内的衝突現象に直面している。人間がこのような内的矛盾にとらわれている限り、神性的自我を実現することはできず、完全な状態を成すこともできない。
逆説的に世俗の生活に陥った人間は、はっきりした罪意識を除いては、彼らの内部の闘いを感知することはできないまま生きていくだろう。反面、良心的な生活や宗教的な生活を追求する人たちは、直接的にこの問題に直面するようになる。
文鮮明先生は、人間の内的矛盾は人間堕落の直接的な結果だと教える。先生は、神様がそのような矛盾を抱えた人間を創造するはずがなく、そうでなければ、神様は善の神様になれないと語り、人間も完成を成す希望さえもつことができないと主張する。
このような人間の内的矛盾は、堕落によって人間性が歪曲されたという証拠である。堕落の問題が解決されなければ、心と体の闘争も決して終わらない。
― 宗教経典 ―
私は、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。
そして、そういうことを行っているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。私は、自分の内には、つまり私の肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、私が望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。
「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、私の五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、私を、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれが私を救ってくれるでしょうか。
ローマの信徒への手紙7.15 ~ 24(キリスト教)
私は何が善であるか知っている。しかし私はそれをしたいと思わない。私はまた、何が悪であるかを知っている。しかし私はそれをやめることが出来ない。私はただ心の中に立っている、ある神の霊にかり立てられるままにそれをなすだけだ。
マハーバーラタ(ヒンドゥー教)
ラビ・イサクが言った。「人が悪に傾きやすい傾向は、日ごと新しい変化をもちながら人を苦しめる。ゆえに聖書にはこのような聖句がある。『地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っている』(創世記6.5)」。
そして、ラビの息子ラビ・シムオンはこのように言った。「悪を指向する心は、日ごと人に対して抵抗し、拒否する強い力を蓄える。そして人を殺そうと努める。もし聖なる神が人を助けてくださらなければ、彼は決して悪を行う勢力に勝つことはできないだろう。その方に大いなる祝福があらんことを」。
タルムード、キッドゥシーン30b(ユダヤ教)
怨みという煩悩が生じるのは、すべて貪欲と嫉妬とに由来する。さればこそ、神々、世間の人々、阿修羅、それに他の生きものたちは武器で戦いあうようになるのだ。
阿含経長部ii.276、釈提桓因間経(仏教)
すべての邪悪は首にはめられた鎖と違わない。
アーディ・グラント、ソーラト、M.1、P.595(シーク教)
憎む人が憎む人にたいし、怨む人が怨む人にたいして、どのようなことをしようとも、邪なことをめざしている心はそれよりもひどいことをする。
法句経42(仏教)
まことに神は、決して人間をそこないたまわぬ、だが人間は自ら己れをそこなう。
クルアーン10,44 (イスラーム)
誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。
マタイによる福音書26.41 (キリスト教)
自ら自己を高めるべきである。自己を沈めてはならぬ。実に自己こそ自己の友である。自己こそ自己の敵である。自ら自己を克服した人にとって、自己は自己の友である。しかし自己を制していない人にとって、自己はまさに敵のように敵対する。
バガヴァッド・ギーター6.5 ~ 6(ヒンドゥー教)
預言者が宣布した。「我々は、小さな聖戦から大きな聖戦に戻ってきた」。彼らが「神の預言者よ、何がもっと大きな聖戦なのですか」と尋ねると、彼が答えた。「弱い自らに対抗して戦うことである」。
ハディース(イスラーム)
私達が最高善の目的によって完成されることをのぞむとき、私達がなすことを熱望するのは、肉が霊に反して欲求しないこと、そして、霊が熱望するところのことに相反する悪徳が私達のうちにないことでないなら何であろうか。私達はこれをいかにのぞんでも、この世の生においてなすことはできないのであるから、すくなくとも神の助力のもとに、霊に反する肉の欲に霊が屈服して譲歩することがないように、そして、私達が同意して罪を犯すことへ引きずられることがないようにするのである。
アウグスティヌス神の国19.4(キリスト教)
― み言選集 ―
人は本来、悪を避けて善を追求していこうとします。私達の心は、善の世界を立て、悪の世界を除去するために、常に走っていますが、その反面、私自身の中で悪の心が善の心に向かって強く作用するのを私達はよく感じています。善の心を強く掲げていけばいくほど、それに比例して悪の心が常に対決しているのです。
(36-51. 1970.11.15)
人間は誰でも、自己の欲望が満たされるとき、幸福を感ずるのである。しかし欲望などといえば、ややもすると我々はその本意を取り違えがちである。
というのは、その欲望が概して善よりは悪の方に傾きやすい生活環境の中に、我々は生きているからである。しかしながら、我々をして不義を実らせるような欲望は、決して人間の本心からわき出づるものではない。人間の本心は、このような欲望が自分自身を不幸に陥れるものであるということをよく知っているので、悪に向かおうとする欲望を退け、善を指向する欲望に従って、本心の喜ぶ幸福を得ようと必死の努力を傾けているのである。
とりわけ、このような本心の指向する欲望に従って、善を行おうと身もだえする努力の生活こそ、ほかならぬ修道者たちの生活である。しかしながら、有史以来、ひたすらにその本心のみに従って生きることのできた人間は一人もいなかった。
それゆえ、聖書には「義人はいないいひとりもいない。悟りのある人はいない、神を求める人はいない」(ロマ3・10、11)と記されているのである。また人間のこのような悲惨な姿に直面したパウロは「私は、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、私の肢体には別の律法があって、私の心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、私をとりこにしているのを見る。私は、なんというみじめな人間なのだろう」(ロマ7・22 ~ 24)と慨嘆したのであった。
ここにおいて、我々は、善の欲望を成就しようとする本心の指向性と、これに反する悪の欲望を達成させようとする邪心の指向性とが、同一の個体の中でそれぞれ相反する目的を指向して、互いに熾烈な闘争を展開するという、人間の矛盾性を発見するのである。
存在するものが、いかなるものであっても、それ自体の内部に矛盾性をもつようになれば、破壊されざるを得ない。したがって、このような矛盾性をもつようになった人間は、正に破滅状態に陥っているということができる。
ところで、このような人間の矛盾性は、人間が地上に初めて生を享けたときからあったものとは、到底考えられない。なぜかといえば、いかなる存在でも、矛盾性を内包したままでは、生成することさえも不可能だからである。もし人間が、地上に生を享ける以前から、既にこのような矛盾性を内包せざるを得ないような、運命的な存在であったとすれば、生まれるというそのこと自体不可能であったといえよう。
したがって、人間がもっているこのような矛盾性は、後天的に生じたものだと見なければなるまい。人間のこのような破滅状態のことを、キリスト教では、堕落と呼ぶのである。
原理講論、総序
人間の良心は神様を代表する心です。良心は私のために存在しません。天の義のために存在します。良心は常に善に向かって走ろうとします。これに体は反抗します。体は自分だけ安らかであろうとし、利己的であり、本能的欲求に従って肉欲を行おうとします。良心はこの体を叱責し、心に順応するようにします。ここに常に血の出るような葛藤と闘争が、一つの体の中で起こるようになるのです。
(219-118、1991.8.28)
今、私達の生命の種をどこで受けましたか。神様から受けましたか、サタンから受けましたか。サタンから受けたということを誰も否定できません。しかし、本心は、サタンの種ではなく、本然の理想的な生命の種を願っています。
このように不調和が起きるので、苦痛を受けるのです。心は神側に立ち、体はサタン側に立って闘っています。ですから、皆さんが心と体の統一をもたらさない限り、天国に行くことができないのです。
(235-203、1999.9.20)
人類歴史に宗教が必要ならば、その宗教によって何をしなければならないのでしょうか。肉身を征服しなければならないのです。なぜなら、肉身によって歴史が滅び、肉身によって社会が滅び、肉身によってこの人類が滅びたたのです。したがってこの肉身は怨讐の母胎であり、罪悪の根本の根だということを切実に感じなければなりません。
(18-322、1967.8.13)
私が問題です。それで、私が怨讐です。皆さんの心と体が一つになれないことが怨讐です。
(128-108、1983.6.5)
この体は、サタンの舞台になっています。体はサタンの舞踏場になっていて、心は神様の舞踏場になっています。堕落していなければ、心と体が一つになるのです。神様の愛、神様の生命、神様の血統を中心として自然に一つになるのです。
(235-203、1992.9.20)
9) 利己主義と慢心
自我に対して過度にのめりこんだ利己主義は、神様の実在に対して盲目にさせる。そのような問題は、自己過信、財産と知識、権力に対する慢心によって生じる。
利己主義と慢心は、私達を神様から遠ざける。私達自身が独立していると考えるならば、私達の存在自体が究極的実在に従属されているという事実を認識することができない。慢心は、ほかの人の必要性を無視し、ほかの人の助けを、口を極めて断る。その上、慢心は、私達自身の状態を正確に知ることができないようにする。
キリスト教では、慢心が堕落の第一歩であり、神様に対する反逆だとみなす。仏教では、自我を追求して慢心をもつことがあらゆる欲望の頂点であり、無知の最も深い根とみなす。インドの宗教によれば、利己主義は人を輪廻の車輪に固定させる鎖である。
文鮮明先生は、このような一般的な教えを語りながら、今日の富裕な強大国の市民たちに蔓延している社会的な自己顕示的慢心と利己主義に対して、特に指摘する。先生は特に、アメリカ社会の隅々に潜んでいる慢心に対してアメリカの悔い改めを勧め、そうしなければ必然的にアメリカは衰退すると警告する。先生はまた、利己主義と慢心を、心の奥深くに悪の習性を植えた人間の堕落と連結させる。
― 宗教経典 ―
いや、人間は、自分で何も足らぬところはないのだと考え、まことに法外である。まことになんじの主に、よろずのものは帰されるのである。
クルアーン96.6 ~ 8(イスラーム)
痛手に先立つのは驕り。つまずきに先立つのは高慢な霊。
箴言16.18 (キリスト教)
災いだ、自分の目には知者であり、うぬぼれて、賢いと思う者は。
イザヤ書5.21 (キリスト教)
自己中心的な考えは、それ自身には甘美なものかもしれないが、全体の不調和がそこから現れ得る。
おさしづ(天理教)
すべての痛みとつらさは、調和の欠乏から生じ、調和を妨害する一つの恐るべき、そして唯一の原因は、いかなる形態であれ利己心であると、私達は主張する。
エレナ・ペトロヴナ・ブラヴァツキー神智学の鍵(神智学)
「ここに我あり。これは我に属す」などと臆計し、それによって自己を以て自己を縛するに至るのは、あたかも鳥が網を以て自己を縛するが如くである。
マイトリ・ウパニシャッド3.2 (ヒンドゥー教)
「私には子がある。私には財がある」と思って愚かな者は悩む。しかしすでに自己が自分のものではない。ましてどうして子が自分のものであろうか。どうして財が自分のものであろうか。
法句経62(仏教)
利己心のある所にあなたがいることはできず、あなたのいる所に利己心はない。
アーディ・グラント、マールー・キ・ヴァールM.1、p.1092 (シーク教)
エシュルンはしかし、肥えると足でけった。お前は肥え太ると、かたくなになり、造り主なる神を捨て、救いの岩を侮った。
申命記32.15 (キリスト教)
オンチャメ(神)は高くいらっしゃり、人は地にいる。いえいえお、やれれ、神は神、人は人、ぞれぞれ自分の家にいて、自ら生きる。
ファン族の伝承(アフリカ伝統宗教)
万軍の主の日が臨む、すべて誇る者と傲慢な者に、すべて高ぶる者に――彼らは低くされる――高くそびえ立つレバノン杉のすべてに、バシャンの樫の木のすべてに、高い山、そびえ立つ峰のすべてに、高い塔、堅固な城壁のすべてに、タルシシュの船と美しい小舟のすべてに。その日には、誇る者は卑しめられ、傲慢な者は低くされ、主はただひとり、高く上げられる。
イザヤ書2.12 ~ 17(キリスト教)
もしも愚者がみずから愚かであると考えれば、すなわち賢者である。愚者でありながら、しかもみずから賢者だと思う者こそ、「愚者」だと言われる。
法句経63(仏教)
自ら善良だと叫ぶ者は、誰もが当然知るべし、善があなたを避けていくことを。
アーディ・グラント、ガウリー・スクマニーM.5、p.278 (シーク教)
先生がいわれた、「聖人には私は会うことはできないが、君子の人に会えればそれで結構だ。善人には私は会うことはできないが、常のある人に会えればそれで結構だ。無いのに有るように見せ、からっぽなのに満ちているように見せ、困っているのにゆったりと見せて〔見栄をはって〕いるようでは、むつかしいね、常のあることは。」
論語7.25(儒教)
つまさきで立つものは長く立つことはできない。
大股で歩くものは長く歩くことはできない。見せびらかすものはすぐれていない。みずから正しいと主張するものは、他よりきわだっているわけではない。
信用を求めるものは信用を得られない。自分を誇るものは最高のものではない。「道」の立場からいうと、これらすべては生物が好まない余分のものである。だから、「道」を有する人はそんなところに留まらないのである。
道徳経24(道教)
驕(おごり)とは高ぶることであり、放逸とは諸善を行なわないことです。慢(ほこり)は七種があり、それを分けて説きましょう。
そのうち、慢心を起して、(われは)劣る者より劣る、同等の者と等しい、劣る者よりすぐれている、または等しいとほこること、これが自慢といわれます。
いかなる性質からしても自己よりすぐれている人と等しいとほこることおよび(自己より)すぐれている人よりさらにすぐれているとほこること、これが高慢であります。
最高の者よりさらにすぐれているとほこることが思い上がりであって、あたかも腫物の上に(さらに)疱瘡が生じるように、有害であります。生存の要素(取)といわれる五(蘊)は空(無実体)でありますが、愚かなためにそれに「われあり」と我執を起こします。それが我執心(我慢)といわれます。
(修行の)報いを得ていないのに得た、と考えるのが、うぬぼれ(増上慢)であります。悪業をなすことを讃えることが邪慢である、と知者は理解しています。自己を必要なし、と自身を軽蔑することが卑下慢である、といわれます。これらを総括して、七(慢)といいます。
龍樹宝行王正論5.6-12 (仏教)
― み言選集 ―
信仰世界では驕慢を怨讐視しました。我を怨讐視しました。自主的な立場を主張するのを怨讐視しました。
(67-164、1973.6.1)
自分を中心として考えるので、人の悪口を言うようになり、よいものがあれば奪って使いたいと思うのです。そのようなことを考える人は滅びます。何を中心として考えるのかということが問題です。ここにいる人たちは、そのような面できちんとしていますか。このように見るとき、人はほかの誰かに期待する必要がありません。
(36-183、1970.11.29)
自分を中心とする主義や主張をもった人は滅びます。自分の欲望のために人命を害し、国に害を及ぼしたというときに滅びるのです。国は個人に利用されるものではありません。かえって国に利用されなければならないのが国家圏内にいる国民の道理です。
人間は本来、自分個人だけのために生きるようになっていません。ところが、今日この地上には、自分個人だけのために生きる人がたくさんいます。「自分のために仕事をする」と言います。自分自身のために生きているというのです。どれほどかわいそうな人ですか。父母も、兄弟もいない孤児と同じです。
(24-20 ~ 21、1969.6.22)
堕落の起源、本来の人間が出発した起源を私達が解剖してみれば、個人的な感情を中心として出発したのが人類歴史の起源なので、現代はそれが帰結され得る時なのです。自由思想! このような自由な思想があるので、何かの型を中心として箱のようなところに収まっていないのです。好きなように育ち、好きなようにしていってみると、結果はすべて同じです。結果はすべて同じになるというのです。自分の思いどおりにすれば、あとでどのようになるのですか。それが特別によくなるのではなく、結局はすべて滅びるようになります。
(49-189 ~ 190、1971.10.10)
歴史的なすべての動きは、個人を拡大させたものです。今まで、個人が出世やある目的を達成するためには、どのような手段を使ってきましたか。自分の目的を達成するためには、団体を利用したり、個人を利用したりしました。それが今までの歴史的伝統でした。
人間が堕落しながら出発したその日から、サタンの血を受けて生まれたその日から、本意でない驕慢を中心に自分の利益を渇望してきたのが歴史的方向ではないかというのです。堕落が蒔いた種が正にそれです。
(46-141 ~ 142、1971.8.13)
神様の血統を受けなければならないこの人間たちが、僕の血統を受け継いだということです。ですから、堕落した人間たちがどんなに神様を父と呼んでも実感がわかないのです。それで自分のお父さん、お母さんがしたのと同じようにサタンの本性を引き継いで、自分を中心としてすべてのものを考えるようになり、天も何も、高いものはみな自分と連結させるのです。
(91-242、1977.2.23)
皆さんが自己主張ばかりしていれば、みな離れていくでしょう。
(36-181、1970.11.29)
アメリカの国民たちは、個人主義の思想を尊重するのを知っています。主体と対象の関係を忘却した個人主義はあり得ません。ですから、アメリカは袋小路に来たのです。今こそ、キリスト教の精髄の路程を掘り返し、神様の本然の生命の道を訪ねていかなければなりません。
神様は、「個人は家庭のためにあり、家庭は民族のためにあり、民族は国のためにあり、国は世界のためにあり、世界は神のためになければならない」と天理原則を主張します。そのように神様に従っていけば、神様のものであると同時に私のものになるのです。神様のために生きることが私のために生きることになります。
(69-88 ~ 89、1973.10.20)
個人主義は、サタンによる堕落の結果物です。サタンは、自分自身を中心として分離されます。一つは二つになり、二つは四つになります。なぜこのようにアメリカが個人主義国家になったのですか。サタンの王国だからです。ですから、希望がありません。
個人主義のセンターはプライバシーです。それは何ですか。それによって家庭が壊れ、社会が壊れ、国家が壊れます。それは最も恐ろしいものです。そのように地獄に落ちるのです。
(361-233、2001.11.25)
歴史を見るとき、汚れたものがどこがら始まったのでしょうか。自分から始まったのです。汚れたものが私達の先祖を汚したのではなく、私達の先祖、自分たちが汚れるようになったのです。
それでは、その汚れるようになった原因はどこにあるのでしょうか。それは先祖たちが、「私」というものを考えたので、そこで汚れたものが生じるようになったのです。すべて自分を中心としたからです。もし、皆さんの先祖たちが自分自身よりもっと貴いもののために生きていれば、自分たちが汚されない道を行ったでしょう。
それでは、自分より貴いものは何ですか。私は結果的な存在です。ですから、結果的存在は原因的存在のために生きなければなりません。このような結論が出てきます。自分のことを考える前に神様を考え、自分の考えを捨てて神様のことを考えて生きていれば、その人は悪の人になり得ないという結論が出てくるのです。
(92-58 ~ 59、1977.3.13)
皆さんが冷遇され、つばを吐かれながらピーナッツを売り、殴られたりするとき、「お父様!」と悔い改める条件が多いのです。私に罪が多いために、当然受けるべき「私」だというのです。皆さんがそのような生活を約3年だけすれば、皆さんは神様の前に帰るだろうと見るのが先生の観点です。
ところが、皆さんはそのようなことは考えることができず、いくらもたたずに驕慢になっていきます。「ああ、私は統一教会の教会員であり、3年間過ごせば祝福をしてくれなければならず、先生が私を認めてくれなければならず、教会で認めて
くれなければ……」、これはどれほど恥ずかしい姿ですか。これはどれほど恥ずかしいことですか。
(92-72、1977.3.13)
10) 無知と無神論
大部分の宗教が、人間の人生において無知を悪の根源の一つだとみなしている。神様と人生の目的に関して無知であれば、人間の価値に混同を引き起こし、結果的に誤った行動をするようになる。
使徒パウロは、神様に対する無知がすべての形態の放縦と不道徳の根源だと教えた。イスラームでは、「アッラーを忘却」すれば人々が人生行路から外れ、霊魂を失うようになるという。仏教では無知が自我を迷妄に引っ張り、結局、妄想をもつようになると教える。多くの経典が世俗的な人生を汚染させる幻想的目標と虚栄に対して警告している。
人が知識を探求する過程で様々な哲学に接するようになるが、はっきりと言うが、どの哲学も真理を完璧に明らかにはできていない。妥当な洞察でも、誤った見解が混ざっており、価値の混乱と衝突を引き起こすようになり、懐疑主義と無神論に導く場合もある。
文鮮明先生によれば、これは人間の堕落に由来する根本的無知の結果である。共産主義と闘争してきた20 世紀の先覚者の一人として、先生は特にこのような現代的形態の無知である共産主義に並々ならぬ関心をもっている。
ここの結論部分の章句は、人間の霊的無知に関して記述している。この章句で、無知は洞察力を曇らせる屏風として描写する。仏陀は、蛾が光に向かって飛んでいくのを、人々がこの世の中の幻想的虚無に陥る姿を例えるのに使った。
ヒンドゥー教やジャイナ教では、このような無明(アヴィディヤ)は人々を生と死の歯車(サンサーラ)に縛られるようにし、究極的実在を求める代わりに、快楽を追求するようになると教える。プラトンの有名な洞窟の例えは、この主題に対して示唆するところが少なくない。
文鮮明先生は、人間の堕落によって蔓延した無知は、人間を霊的真理に対して目をくらませ、全的に神の内的心情を分からなくさせるという。
1. 神様に対する無知
― 宗教経典 ―
なんじらは、神を忘れた者のようであってはならぬ、かれは、かれら自身の魂を忘れさせたもう。
クルアーン59.19 (イスラーム)
なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。
そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。
ローマの信徒への手紙1.21 ~ 25(キリスト教)
神を知らぬ者は心に言う、「神などない」と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。主は天から人の子らを見渡し、探される。目覚めた人、神を求める人はいないかと。だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない。悪を行う者は知っているはずではないか。パンを食らうかのように私の民を食らい、主を呼び求めることをしない者よ。
詩編14.1 ~ 4(キリスト教)
誰でも他の人に対して悪を行おうとする者は神を覚えない。
格言(アフリカ伝統宗教)
天のわからぬものは、純粋な徳が持てず、道に通じぬものは、良くなれようがない。道のわからぬものは、哀れである。
荘子11(道教)
神を否定する前までは、誰もあえて嘘をつくことはできないだろう。安息日にラビ・ルウベンがチベリアにいるとき、ある哲学者がこのように尋ねた。「世の中で最も憎悪すべき人は誰ですか」。
ラビ・ルウベンが答えた。「創造主を否定する人だ」。哲学者が「どうしてそうなのですか」と尋ねた。ラビ・ルウベンが答えた。「あなたの父母を敬いなさい。父母を敬う者は決して人を殺めず、姦淫をせず、盗みをせず、隣人に嘘の証言をせず、隣人のものを欲しがったりしないだろう」。神を否定する前に、このような十戒を否定する者は決していないということである。十戒の内容のような罪を犯すなと命令される神を否定しない者は、決して罪を犯さないだろう。
セフタ・シャッバト3.6 (ユダヤ教)
阿修羅的な人は、〔正しい〕活動とその停止を知らない。彼らには、清浄さも、正しい行動様式も、真実も存在しない。彼らは言う。「世界は不真実であり、根底がなく、主宰神もない。相互関係によって生じないものが別にあるはずはない。
だからそれは欲望(カーマ)を原因とする。」彼らはこの見解に依存し、自己を失い、小知であり、非常に残酷な行為をし、有害であり、世界を滅ぼすために出生する。
彼らは満たし難い欲望にふけり、偽善と慢心と酔いに満ち、迷妄のために誤った見解に固執し、不浄の信条を抱いて行動する。彼らは、限りない、死ぬまで続く思惑にふけり、欲望の享受に没頭し、「これがすべてだ」と確信する。
彼らは幾百の希望の罠に縛られ、欲望と怒りに没頭し、欲望を享受するために、不正な手段によって富を蓄積しようと望む。「私は今日これを得た。私はこの願望を達成するであろう。この財産は私のものだ。この財産もまた私のものとなろう。
私はあの敵を倒した。他の敵も倒してやろう。私は支配者である。享受者である。私は成功し、有力者で、幸福である。私は富み、高貴な生れである。他の誰が私に匹敵するか。私は祭祀を行おう。 布施をしよう。大いに楽しもう。」
彼らは無知に迷わされてこのように言う。彼らは様々に心迷い、迷妄の網に覆われ、欲望の享受に執着して、不浄の地獄に堕ちる。
バガヴァッド・ギーター16.7 ~ 16(ヒンドゥー教)
― み言選集 ―
今までの出発基準が無知によって成されたので、何も分かりません。神様も分からず、神様の創造理想や人間の定着基地が家庭だという事実を分からないのです。それで、家庭から世界までめちゃくちゃになっています。
(325-220、2000.7.1)
一般の人には、どのように暮らすかという問題、どのように食べるかという問題、どのようにつくろって暮らすかという問題、これが中心だというのです。
もちろん人間関係において、人倫道徳があって向上する、互いが発展して、互いが良くあり得る内容がありますが、民族が異なり、国家が異なり、世界のすべての文化背景の違いによって、道徳基準であるとか、社会制度がすべて変わるのです。
このように見れば、今日、歴史上に生きている人間たちが行くべき本然の基準、本来の基準と、今日、私達が暮らしている生活の標準として立てていく人倫道徳の基準が、様々な方向に向いているのです。これが一つに収拾されていません。これが問題です。
本然の世界に基づいて、私達が生まれて生きていくべき所とはどこでしょうか。これがはっきりしていないのです。それゆえ、一般の人たちは、霊界があるのか、ないのか、神様がいるのか、いないのか、分からないでいるのです。
(140-122 ~ 123、1986.2.9)
人間は死ねば終わりであり、それで終わると考えるので、彼らが立てておいた理想的環境で死ぬ前に誰よりも裕福に暮らしたいと思うのです。誰よりも世界的な環境で行動をしてみて、一度関係を結んでみたいと思うのです。そうしてみると、享楽に陥りやすいというのです。
ですから、今日のアメリカのような国では、倫理、道徳など、すべてのものが没落するようになりました。価値観の喪失というのもとんでもないことであって、歴史的伝統までも拒否し、家庭の父母と兄弟、夫婦という家庭制度まで、すべて破綻させました。すべて個人的享楽のために、あらゆる相対的与件を除去させています。個人の享楽を楽しもうとするのに、父母がいるので反対するのです。男性が享楽の道を行こうとするのに、その妻がいて反対するので、妻をもらわないのです。すべてその日暮らしをしています。
(172-15 ~ 16、1988.1.3)
アダムとエバは、神様が指向する一つの目的世界、一つの理想世界を実現させなければならないということを知らない立場で堕落しました。そのように、知らない立場で堕落した先祖を中心として代を受け継いで生まれた人間たちなので、人間はどこに行くべきか分からずにいるのです。
(140-14、1986.2.1)
人間の堕落を知的な面から見れば、それはとりもなおさず、我々人間が無知に陥ったということを意味するのである。ところで、人間は、心と体との内外両面からなっているので、知的な面においても、内外両面の知をもっているわけである。したがって、無知にも、内的な無知と外的な無知との二種類がある。
内的な無知とは、宗教的にいえば、霊的無知をいうのであって、人間はどこから来たのか、生の目的とは何か、死後はいったいどうなるのか、更に進んで、来世や神などというもめは果たして存在するのか、また既に述べたように、善とか悪とかいうものはいったい何なのかなどという問題に対する無知をいうのである。
また、もう一つの外的な無知とは、人間の肉身をはじめとする自然界に対する無知をいうのであり、すべての物質世界の根本は何であるか、また、それらのすべての現象は各々どのような法則によって生ずるのか、という問題などに対する無知をいうのである。
原理講論、総序
霊的無知は、宗教をもって堕落人間の中に潜在している本心を呼び起こすことにより、彼らが見ることのできない原因的な世界を探し求めるにつれて、漸次啓発されてきたのである。しかし、宗教は、誰しもがみな痛切にその必要性を感ずるというものではないので、霊的な面の啓発は、ある特殊な人間においては飛躍的なものであっても、一般的には、非常に緩慢なものであるといわなければならない。
これは、宗教が世界的に普遍化されている今日においても、霊的な面では、古代人と大差のない人間が多いという事実をもってみても、推察し得ることである。
原理講論、摂理的同時性から見た復帰摂理時代と復帰摂理延長時代7.2.2
アメリカに来で驚いたのは、「ジーザス・クライスト(Jesus Christ:ちくしょうの意味)」と言うことです。悪いことを言うときや驚いたとき、悪口を言うとき、「ジーザス・クライスト」と言うのですが、それは本当におかしいと思いました。それは福をあげるという意味ですか、禍をあげるという意味ですか。神様を好きではないのです。神様を本当に好みません。なぜかというと、神様の考えと自分の考えが違うのです。ですから、好きになれないという話です。若い人たちはみな恋愛し、性開放だ、何だと好きなように遊びたいと思うのですが、神様は駄目だと言うので好きになれないのです。
(91-22、1977.1.16)
2. 神に対する誤った見解
― 宗教経典 ―
災いだ、悪を善と言い、善を悪と言う者は。彼らは闇を光とし、光を闇とし、苦いものを甘いとし、甘いものを苦いとする。
イザヤ書5.20 (キリスト教)
恥じなくてよいことを恥じ、恥ずべきことを恥じない人々は、邪な見解をいだいて、悪いところ(=地獄)におもむく。恐れなくてよいことに恐れをいだき、恐れねばならぬことに恐れをいだかない人々は、邪な見解をいだいて、悪いところ(=地獄)におもむく。避けねばならぬことを避けなくてもよいと思い、避けてはならぬ(=必ず為さねばならぬ)ことを避けてもよいと考える人々は、邪な見解をいだいて、悪いところ(=地獄)におもむく。
法句経316 ~ 318(仏教)
だから、「道」が失われると徳がそこにあり、(注24)徳が失われると仁愛がそこにある。仁愛が失われたのちに道義がきて、道義が失われたのちに礼儀がくる。礼儀は信義を欠くことで、無秩序の第一歩となる。
道徳経38(道教)
ごまかされて事実に反することを考える人たちは、なぜそのような目にあうかというと、これはあきらかに、事柄が互いにどこか似ているからこそ、ついごまかされるのだ。
プラトンパイドロス(ヘレニズム)
― み言選集 ―
人間が、根本的に、神を離れては生きられないようにつくられているとすれば、神に対する無知は、人生をどれだけ悲惨な道に追いやることになるであろうか。しかし、神の実在性に対しては、聖書をいかに詳しく読んでみても、明確に知る由がない。ましてや神の心情についてはなおさらである。
原理講論、総序
人間は神様を父母として侍って生きるべきであり、神様からすべての生活を指導されるべき立場にあるのにもかかわらず、神様がいるのか、いないのかも分からず、あるいは「決定的に神がいない」、さらには「神は死んだ。私達人間世界から神を掃いて捨てなければならない」という悲惨な歴史的な環境が、私達が生きている世界に展開されてきました。これを神様がつくりましたか、私達人間がつくりましたか。
(135-268、1985.12.15)
私達の社会に広がっている深刻な問題点、価値体系の混乱、道徳的退廃、麻薬とテロ、戦争と大量虐殺、人種問題、人権と富の均等分配問題、無神論に立脚した共産主義問題などなど、数多くの病弊は何を物語っているのでしょうか。
神様を離れた人類が無神論に立脚した物本主義、無神論に立脚した世俗的な人本主義、享楽主義などに便乗して到達した世紀末的な終着点です。このすべてはこの世代の精神的、霊的枯渇と信仰心の衰退に根本原因があります。
(135-221、1985.11.16)
私は、人本主義を根こそぎ排撃する人ではありません。問題は、私達の社会の人本主義が徹底した無神論に立脚しているところにあります。神様の実存と創造生の創造の意味が否定されれば、人間は一塊の土に転落してしまうのであり、せいぜい人間は一つの機械とみなされるでしょう。これがマルクス・レーニン主義の犯した誤謬ではなかったですか。
神様がいないので、人間は機械や動物と違いがなく、そこに道徳はあり得ず、霊魂や永生を認めないので、人間は人間に対して無責任になり、人間が人間に対して様々な暴虐を行うことができるのです。
(234-232、1992.8.22)
3. 霊的無分別と幻想
― 宗教経典 ―
また(不信者の状態は)、深海の暗黒のようなもので、波がかれをおおい、その上にまた波があり、その上をさらに雲がおおっている。暗黒の上に暗黒が重なる。かれが手をさし伸べてもほとんどそれを見えない。神が光を与えたまわぬ者には、光りはないのである。
クルアーン24.40 (イスラーム)
この世の中は暗黒である。ここではっきりと(ことわりを)見分ける人は少ない。網から脱れた鳥のように、天に至る人は少ない。
法句経174(仏教)
万物の生命の糧にして、かつその基礎たる、広大なる梵輪(輪廻)の内に白鳥(個人的自我)は飛舞す。個別我と梵輪の推転者(至上我)とは別なるものと思量しつつ、彼はやがて至上我に嘉(よ)みせられて不死を得ん。……
可滅なるものと不滅なるもの、露なるものと見えざるものの綜合なる、この一切宇宙を綱紀せるものは主(イーシア)なる神なり。そして、自在ならざる自我(個我)は享受者(経験主体)たる状態にあるを以て繋縛を受く。
シヴェーターシヴァタラ・ウパニシャッド1.6 ~ 8(ヒンドゥー教)
世尊は或る時、舎衛城の祇陀林なる給孤獨園に住まりたまへり。その時、世尊は黒闇の夜、胡麻油燈の燃ゆる屋外に坐したまへり。その時、多くの蛾その胡麻油燈中に落ち転がり、災難に逢ひ、禍難に逢ひ、自滅に陥れり。世尊は多くの蛾のその胡麻油燈中に落ち転がり、災難に逢ひ、禍難に逢ひ、自滅に陥れるを見たまへり。世尊はこの事由を知りて、その時、このウダーナを唱へたまへり、「走り近づき去り過ぐるも精髄には到らず、唯新たなる緊縛を増すのみ。蓋し恰も蛾の火中に陥るが如く見聞に精髄ありとして、或る者は執著すればなり」と。
感興偈72(仏教)142
清い人には、すべてが清いのです。だが、汚れている者、信じない者には、何一つ清いものはなく、その知性も良心も汚れています。
テトスヘの手紙1.15(キリスト教)
この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。
コリントの信徒への手紙二4.4(キリスト教)
無明の中に跼蹐(きょくせき)しつつ、自らは智者、学者と思いあがれる愚人の徒は蹣跚(まんさん)として流浪すること、あたかも盲人に手を引かれし盲人に似たり。
カタ・ウパニシャッド1.2.5 (ヒンドゥー教)
その者たちの魂の状況というのは、なんのことはない、肉体の内にすっかり縛りけられ貼付けられてしまって、ちょうど牢のかこいのなかからものをみるように、肉体を通じてでなければ、およそ存在するものを考察することはできず、たましいの、たましい自身による考察は不可能であるように強いられて、まったく学びを知らない状態のうちを輾転としている有様であるのだ。そしてこの牢獄のまさに巧妙に仕組まれている点というのは、その囚われの状態をつくり上げているのが、じつは欲望であること。つまり、縛られているその者自身がとりわけその束縛に協力しているともいえる点にあるのだが、それを〈哲学〉は見ぬく。
プラトン;パイドン(ヘレニズム)
― み言選集 ―
皆さんの中で、心で推し量ることのできない絶望の深みにはまった人がいますか。皆さんの中でそのような人がいれば、彼は理想世界と何の関係もない人です。
また、暗闇の中で上下、前後、左右を分別することができず、無秩序な昏迷の渦中で中心を忘却し、天倫の法度を蹂躙する立場に立っている人がいま
すか。このような人もやはり天城の理想の園と何の関係も結ぶことができません。
(2-246 ~ 247、1957.6.9)
天地が真っ暗な地獄に変わってしまい、神様までも姿を隠される、そのような凄絶な世界になってしまった事実を、人間は今まで知らずに生きてきました。
怨讐の血統が生命線であるかのように錯覚し、そこに命を懸けて生きている群像こそが、今日の堕落の末裔となった人類の悲しい姿なのです。それで、この世界を地上地獄と呼ぶのです。このような悲惨な姿を見つめられる神様はどれほど胸が痛かったことでしょうか。
平和神経、平和メッセージ.118、2005.9.12
60 億の人類が青盲(目は開いているが見えない人)の人になって一寸先も見ることができないまま、天の真理に対してはすべてが不明確な哲学者であり、神学者になり、神様の胸に恨を植えてきたのが歴史でした。
(447165 ~ 166、2004.5.1)
不幸にも、人間始祖の堕落によって、人類は、抜け出すことのできない絶望の奈落に落ちてしまったのです。霊的五官を通して神様と直接交流しながら暮らし、肉的五官を通しては、万物を自由自在に主管し、それと同時に霊界と肉界を代表した真の主人であり、真の父母であり、真の王になっていなければならなかったのです。
しかし、彼らは、堕落によって霊的五官が完全に麻痺してしまい、青盲の立場に転落してしまいました。肉的五官にのみ頼って生きなければならない半人前の人間になってしまったのです。父母である神様を見ることも、声を聞くことも、感じることもできなくなったので、どうして父母の愛を知ることができ、事情を知ることができるでしょうか。
(433-193、2004.1.27)
人間にとって最も大きな悲しみは、お父様の愛と因縁を結べないことであり、お父様の心情に通じる本然の良心を失ったしまったことであり、その心情と良心が和合でき、心と体が和合できる立場に立てなかったことをよく知っております。
堕落したがゆえに、お父様の心情に通じることのできる感覚が私達から離れたのであり、お父様の心情を体恤し、万象を愛することができる心が私達からなくなってしまいましたので、お父様、その心情を回復できるよう導いてください。
(6-298 ~ 299、1959.6.14)
11) 偶像崇拝と物本主義
文字どおり形状に仕える偶像崇拝は、より広い意味で神様に代わる偽りの価値に盲従することを意味する。クルアーン(コーラン)で、偶像は悪霊とサタンとみなされ、これらを崇拝する人は神様の敵である。
聖書で、偶像は人間の加工物であり、神性を表象するものではないと見る。したがって、偶像崇拝は物質主義の一形態であり、逆に人間の権力や富に対する誤った依存も偶像崇拝の一形態である。
偶像崇拝をより霊的な概念で見れば、利己主義と世俗的欲望だと言うことができるが、このような誤った実在と連結されれば、私達を真の本性から遠ざけるようになる。聖書の金の子牛の話は、バッカス祭の儀式に伴う偶像崇拝を記述したものである。
20 世紀に民族主義、人種主義、特に物質主義の偶像に大勢の人たちがとらわれ、恐ろしい結果を招いた。文鮮明先生は、物質主義を現代の偶像崇拝であるとはっきりと指摘し、神様の最も大きな「頭痛の種」の一つだとみなしている。この主体に対する文鮮明先生のみ言は、古典的経典の教えに対する現代的教えである。
― 宗教経典 ―
アブラハムがその父アーザルに、「あなたは偶像を神だとなさるか。まことにあなたとあなたの衆は、明らかに誤っていると考える」と、言ったときを思え。
クルアーン6.74 (イスラーム)
偶像の汚れから離れ、虚偽の言葉を避けよ。神に純正に帰依しまつり、神々をかれに配してはならぬ。神に神々を配する者は、ちょうど天から落ちて、鳥にさらわれた者のようであり、または風が、かれを遠い所に吹きさらった者のようであろう。
クルアーン22.30 ~ 31(イスラーム)
私達の神は天にいまし、御旨のままにすべてを行われる。国々の偶像は金銀にすぎず、人間の手が造ったもの。口があっても話せず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻があってもかぐことができない。手があってもつかめず、足があっても歩けず、喉があっても声を出せない。(注25)偶像を造り、それに依り頼む者は皆、偶像と同じようになる。
詩編115.3 ~ 8(キリスト教)
何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。
フィリピの信徒への手紙3.18 ~ 19 (キリスト教)
「あなたの中に異国の神があってはならない。あなたは異教の神にひれ伏してはならない」(詩編81.10)。人の肉体の中で「異国の神」とは何か。それは悪魔的な衝動である。…
タルムード、シャッバト105b (ユダヤ教)
なんじらは己れのむなしい願望を、神として拝している者を見ないか、神は知りたもう、だが、かれを迷うに任せたまい、耳や心を封じ、その目をもおおいたもう。神の見放された後、たれがかれを導こう。なんじらは、それでも訓戒を受入れないのか。
クルアーン45.23(イスラーム)
モーセが山からなかなか下りて来ないのを見て、民がアロンのもとに集まって来て、「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです」と言うと、アロンは彼らに言った。「あなた達の妻、息子、娘らが着けている金の耳輪をはずし、私のところに持って来なさい。」
民は全員、着けていた金の耳輪をはずし、アロンのところに持って来た。彼はそれを受け取ると、のみで型を作り、若い雄牛の鋳像を造った。すると彼らは、「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ」と言った。アロンはこれを見て、その前に祭壇を築き、「明日、主の祭りを行う」と宣言した。彼らは次の朝早く起き、焼き尽くす献げ物をささげ、和解の献げ物を供えた。民は座って飲み食いし、立っては戯れた。
出エジプト記32.1 ~ 6(キリスト教)
― み言選集 ―
偶像崇拝というものは何ですか。天を忘れ、ほかの何かを崇拝すること、それを神様以上に高めるのが偶像です。とごろが、今日の多くの人間たちは、自分でも分からないうちに文明という偶像の下にいることを私達は知らなければなりません。
今日、世界的に人々が物質を偶像化し、その文明の奴隷となり、自分の生命の中心がどこにあり、自分が行く方向と位置がどこなのか知ることができずにおり、天を求めていくことができずに苦しんでいます。このような群れは、昔、アハブ王に捕らわれたイスラエルの群れと同じです。
(6-31、1959.3.15)
今、私達が暮らしているこの世の中は、どのような世の中でしょうか。心を中心としなければならないのですが、心があるのかないのか考えもしない物質主義の世の中になってしまいました。これは、教育の現実を見ても知ることができます。
すべて物質文明中心の教育に重点をおいています。貴く素晴らしいこの心を、目に見えるお金のためにないがしろにしています。また今では、心はないと否定する立場、そして神様もいないと否定する立場にまで流れていっています。
(19-287、1968.3.10)
今までの人類歴史が何かというと、理想を求めていくものです。真理の世界を求めていくのです。最初は神本主義です。神本主義が出てきました。その次には、人本主義が出てきました。その次には、物本主義が出てきました。すべて分かれています。すべて分かれて殺害してしまいました。なくしてしまったのです。これだけ残っています。
人はどのようになっているでしょうか。人には、物質があり、心があり、霊があります。これと同じです。人には物質があり、人格があるのです。それで、人と神様が一緒に、一つになっていなければならないのですが、一つになれませんでした。これだけをしようとするので、人に合わないのです。私達は、神様も必要であり、人本主義も必要であり、物本主義も必要です。ですから、これが分かれてはいけません。すべて必要なのです。
このように見るとき、今後宗教はこのようなものを包括した一つの場で、このようなすべてのものを備え、全体を成さなければなりません。そのようにできる内容が連結されなければなりません。
ですから、この文化の水準と程度が高いので、物質より人間が高く、人間より神様が高いので、すべて神様に支配されなければなりません。支配されるのが原則です。このような原則があります。
過去には、この神本主義を中心として人間を無視しました。人間を無視するので、ヒューマニズムが出てきたのです。また、今はヒューマニズムを中心として、神本主義を無視しているのです。こうしながら、このヒューマニズムも、物質を中心として、すべて落ちていっています。人本主義者たちは、お金がすべてだといいます。人であれ何であれ、人間も何も価値がないというのです。物質が第一だ、このように見ています。
それで、物質主義世界で生きてみて、「物質が万能ではなく、人が必要だ。人間の本性を求めなければならない」と、今、そのように言っているのが現実です。ぶつかるようになるので、今は再び人間を求めていかなければなりません。
みな物質を重要視してお金を稼いでみると、共産主義が来て、共産主義は良いと言い、すべてしてくれるので何もせず、仕事をしてもしなくても同じだというのです。このような立場なので、「ああ、人間とは何か」と、かえってすべてのものに破綻が起きるのです。それも政府が税金で奪っていくのであって、すべて国が管理します。
ですから、自然に「人間とは何か。人間を求めてみよう。ああ、そのようにしようとすれば、再び神様が必要だ」、このような時が来るというのです。今、時がそのようにできる境界線に入ってきました。
最近、アメリカの青年たちがそうではないですか。ヒッピー、イッピー、ありとあらゆることをすべてやってみて宗教を訪ねてくるのです。「ああ、人とは何か。人間の価値とは何か」そうして宗教を再び訪ねてくるのです。
(103-227 ~ 228、1979.3.1)
12) 苦痛
仏陀の四諦の中の第一は、人間の存在自体が苦痛だということである。苦痛は、誤った執着を通じた自我から生じる一種の疾病のような人間の条件である。ほかの経典のようにお経は、苦痛をこの世をひっくり返した宇宙的火だという例えで説明している。
ヒンドゥー教によれば、人間は、過去の行為の結果によって生と死の終わりのない循環を経るようになっている。
聖書において、様々な面で仏教の経典と同じ内容を最も多く含んでいる伝道の書は、人間のすることはむなしいという主題を説明している。すべての欲望を充足させる人はなく、一端欲望を充足させた人も満足することができず、より多くのものを願う。
これと類似したものが中国の経典にもあるが、中国の経典は、人が最も良い意図をもって始めたとしても、一般的に人の行動は、激しくなったり、背いたり、暴力的に終わるようになるという記述である。
キリスト教の原罪論も、堕落によって人間は、人生の目的を達成できないという、似た見解を伝達している。文鮮明先生は、終わりのない不幸に陥った人間の堕落に対して悲しみ、人間の堕落がもたらした結果を説明する。
1. 悲しみの世界
― 宗教経典 ―
苦という聖なる真理とは何でしょうか。生まれは苦です。老いも苦です。死も苦です。愁い・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みも苦です。求めて得られないのも苦です。要するに五取蘊は苦です。
阿含経相応部lvi.11、四諦(仏教)
塵からは、災いは出てこない。土からは、苦しみは生じない。それなのに、人間は生まれれば必ず苦しむ。火花が必ず上に向かって飛ぶように。
ヨブ記5.6 ~ 7(キリスト教)
この世は熱苦の性にして、触に累せられ、病を自己として談ず。これおおいしこれなりと思えることの、それとは異ることあればなり。変化の質なる世間は生有に達して、生有のために累せられその生有をこそ喜ぶなれ。
感興偈32(仏教)
比丘たちよ、一切は燃えている。比丘たちよ、一切が燃えているとは、どのようなことであろうか。
比丘たちよ、眼は燃えている。色(物体)は燃えている。眼の認識は燃えている。眼の接触するところは燃えている。また、すべてこの眼の接触を縁として生ずるところの受(感覚)の、あるいは楽なる、あるいは苦なる、あるいは苦でも楽でもないものも燃えている。
では、それらは、何によって燃えているのであるか。それは、貪りの火によって燃えているのであり、怒りの火によって燃えているのであり、愚かさの火によって燃えているのであり、あるいは、生・老・病・死により愁・悲・苦・憂・悩によって燃えているのである、と私はいう。
また、耳は燃えている。……鼻は燃えている。……舌は燃えている。……身は燃えている。……また意は燃えている。法(観念)は燃えている。意の認識は燃えている。意の接触するところは燃えている。また、すべてこの意の接触を縁として生ずるところの受の、あるいは楽なる、あるいは苦なる、あるいは苦でも楽でもないものも燃えているのである。では、それらは何によって燃えているのであるか。それは、貪りの火によって燃えているのであり、怒りの火によって燃えているのであり、愚かさの火によって燃えているのであり、あるいば、生・老・病・死により愁・悲・苦・憂・悩によって燃えているのである、と私はいうのである。
阿含経相応部XXXV.28、燃焼(仏教)
パリドよ、私は一人だけが悲しみをもったと思っていたが、悲しみはありふれて広がっていた。私が高い屋根から見下ろすと家々が悲しみの炎ですっかり覆われていた。
アーディ・グラント、スローク、ファリード、p.1382(シーク教)
― み言選集 ―
本然の園を失ってしまった人間たちは、死亡の世界に落ち、暗闇と闘ったのであり、怨讐の手中に捕らわれ、嘆息と絶望の中にいましたので、本然の心の痕跡が残っている良心を通して、本然の故郷を慕っております。
(6-291、1959.6.14)
堕落の束縛から抜け出すことができずにいる私達は、今日どのような世界にいるのでしょうか。幸福の世界ではない、不幸の世界におり、喜びの世界ではない、悲しみの世界におり、感謝して生きる世界ではなく、恨んで生きる世界にいます。
今、皆さんはこれを悟らなければなりません。そして、皆さんがそのような不幸な世界を克服することができなければ、決して皆さんの前に幸福は訪れないでしょう。
それでは、皆さんはどのように不幸な自分であるかを知ることができますか。それは、皆さんの心を通して知ることができます。皆さんの心の中に抜き出すことのできない悲痛な心があるではないですか。これが正にサタンが私達の先祖だという証拠です。
また、皆さんには人を憎み、恨む心があるでしょう?これは本然のエデンの園に向かっていくことができないよう、サタンが私達の心に鉄条網を張り巡らせておいたのと同じです。
そして、今日の人間たちが暮らしている世界は、どのような世界ですか。生命のない死亡の世界であり、絶望と暗黒の世界です。人間たちは本来、生の価値をうたいながら生きていくべき立場にいたのであり、生命を中心として永遠の神様の理想と和動できたにもかかわらず、今日の人間たちは、神様の理想の前に立つことができる希望が途切れてしまい、絶望の中で生きているのです。
(2-246、1957.6.9)
全体が悪に接し得る要因に囲まれています。悪が行く道においては、教育は必要ありません。教育を受けなくても、誰でも行けるのです。悪から始まった歴史であるために、教育を受けなくても誰でも行けるのです。悪の道を行くように教育する必要性がありますか。自らそのようになったために、今日人類道徳を中心として、良心の標準の前にわきまえていきなさいと教育するのです。
善を中心として、良心を中心として教育をしたのにもかかわらず、その教育の標準に立脚した人がどれほどいるでしょうか。悪のことは習わなくても、誰でもみなすることができるのです。誰でも満点になることができるのです。
良心はいつも「善であれ」と勧告します。心は、いつも善の人になれと、休まず自分を刺激し、自分に勧告するにもかかわらず、善なる自分になったでしょうか。このような問題を考えてみるときに、きょうも嘆息であり、あすも嘆息であり、今年も嘆息であり、青春時代も嘆息であり、中年時代も嘆息であり、老年時代も嘆息なので、嘆息で一生を終えるのではないでしょうか。
言い換えれば、悪のことで終わりを見るのではないかというのです。
(36-57、1970.11.15)
人間の堕落によって歴史は悲しみから出発しました。その出発点で最も悲しい事実は、人間が神様から離れなければならなかったことでした。神様は、人間の幸福と生命とすべてのものの中心でした。しかし、堕落によって幸福と生命とすべてのものが人間から切られてしまい、人間は深い絶望と暗闇と不幸の中に落ちてしまいました。希望を失ってしまった人間たちの目に涙がにじみ始めました。涙がにじみ始めただけではなく、人間は完全な絶望と暗闇におかれるようになりました。
神様は私達の父であり、父母でいらっしゃいます。皆さんは、神様の悲しみが、人間が感じたよりも、言い表すことができないほど大きかったことを想像できますか。
(52-36、1971.12.12)
2. 人生無常
― 宗教経典 ―
なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい。太陽の下、人は労苦するが、すべての労苦も何になろう。
コヘレトの言葉1.2 ~ 3(キリスト教)
主を信じない者をたとえれば、かれらの行いは、ちょうど暴風が吹きすさぶ大荒れの日の灰のようなものである。努力したあらゆることは、かれらに何も役立ち得るものはない。これは真理から遠く迷っている者である。
クルアーン14.18 (イスラーム)
人は自分自身の向上と様々な世俗的なことに対して多くのことを考える。しかし、甘い砂糖で覆われた誘惑的な菓子のような、しかしその中にひどく苦い味で満ちたこの腐敗した世界では、いかなる向上もない。それは霧のように手でつかめない。それをつかもうとしてみよ。それは何ものでもないことがはっきりするだろう。
ヨーガ・ヴァーシシタ(ヒンドゥー教)
たとえ貨幣の雨を降らすとも、欲望の満足されることはない。
法句経186 (仏教)
欲望は欲望の満足によって決して鎮まらない。あたかも火が供物によってその火勢を一層増すのと同じである。
マヌ法典2.94 (ヒンドゥー教)
迷った者は、自らの苦痛を和らげることが難しく、彼は渇愛にはまり淫乱に従事し、ついに彼は体と心を押さえつける激しい苦悩のうずの中から抜け出すことができなくなるだろう。
アーヤーランガ・スッタ274(ジャイナ教)
愚迷の酒に酔い痴れたるはあたかも強酒に酔った如く、狂躁なることは邪鬼に憑かれたが如く、対境にかまれたることは大蛇にかまれたるが如くである。
貪愛の盲闇は黒闇の如く、幻惑に満ちたることは因陀羅網(幻術)の如く、錯覚に陥っていることは夢中の如くである。堅固でないのはカダリー果(バナナ)の如く、刻々に衣装をかえるのは俳優の如く、歓楽の偽妄なことは壁に描いた画の如し。
マーイトリ・ウパニシャッド4.2 (ヒンドゥー教)
私コヘレトはイスラエルの王としてエルサレムにいた。天の下に起こることをすべて知ろうと熱心に探究し、知恵を尽くして調べた。神はつらいことを人の子らの務めとなさったものだ。私は太陽の下に起こることをすべて見極めたが、見よ、どれもみな空しく、風を追うようなことであった。
ゆがみは直らず、欠けていれば、数えられない。私は心にこう言ってみた。「見よ、かつてエルサレムに君臨した者のだれにもまさって、私は知恵を深め、大いなるものとなった」と。
私の心は知恵と知識を深く見極めたが、熱心に求めて知ったことは、結局、知恵も知識も狂気であり愚かであるにすぎないということだ。これも風を追うようなことだと悟った。知恵が深まれば悩みも深まり、知識が増せば痛みも増す。
私はこうつぶやいた。「快楽を追ってみよう、愉悦に浸ってみよう。」見よ、それすらも空しかった。笑いに対しては、狂気だと言い、快楽に対しては、何になろうと言った。私の心は何事も知恵に聞こうとする。しかしなお、この天の下に生きる短い一生の間、何をすれば人の子らは幸福になるのかを見極めるまで、酒で肉体を刺激し、愚行に身を任せてみようと心に定めた。
大規模にことを起こし、多くの屋敷を構え、畑にぶどうを植えさせた。庭園や果樹園を数々造らせ、さまざまの果樹を植えさせた。池を幾つも掘らせ、木の茂る林に水を引かせた。買い入れた男女の奴隷に加えて、私の家で生まれる奴隷もあり、かつてエルサレムに住んだ者のだれよりも多く牛や羊と共に財産として所有した。金銀を蓄え、国々の王侯が秘蔵する宝を手に入れた。男女の歌い手をそろえ、人の子らの喜びとする多くの側女を置いた。かつてエルサレムに住んだ者のだれにもまさって、私は大いなるものとなり、栄えたが、なお、知恵は私のもとにとどまっていた。目に望ましく映るものは何ひとつ拒まず手に入れ、どのような快楽をも余さず試みた。どのような労苦をも私の心は楽しんだ。それが、労苦から私が得た分であった。
しかし、私は顧みた、この手の業、労苦の結果のひとつひとつを。見よ、どれも空しく、風を追うようなことであった。太陽の下に、益となるものは何もない。また、私は顧みて、知恵を狂気と愚かさを見極めようとした。
王の後を継いだ人が、既になされた事を繰り返すのみなら何になろうか。私の見たところでは、光が闇にまさるように、知恵は愚かさにまさる。賢者の目はその頭に、愚者の歩みは闇に。
しかし私は知っている。両者に同じことが起こるのだということを。私はこうつぶやいた。「愚者に起こることは、私にも起こる。より賢くなろうとするのは無駄だ。」これまた空しいと私は思った。賢者も愚者も、永遠に記憶されることはない。やがて来る日には、すべて忘れられてしまう。賢者も愚者も等しく死ぬとは何ということか。
私は生きることをきらう。太陽の下に起こることは、何もかも私を苦しめる。どれもみな空しく、風を追うようなことだ。太陽の下でしたこの労苦の結果を、私はすべてきらう。後を継ぐ者に残すだけなのだから。その者が賢者であるか愚者であるか、誰が知ろう。
いずれにせよ、太陽の下で私が知力を尽くし、労苦した結果を支配するのは彼なのだ。これまた空しい。太陽の下、労苦してきたことのすべてに、私の心は絶望していった。知恵と知識と才能を尽くして労苦した結果を、まったく労苦しなかった者に遺産として与えなければならないのか。
これまた空しく大いに不幸なことだ。まことに、人間が太陽の下で心の苦しみに耐え、労苦してみても何になろう。一生、人の務めは痛みと悩み。夜も心は休まらない。これまた、実に空しいことだ。
コヘレトの言葉1.12 ~ 2.23(キリスト教)
勢ひたけき上帝、下民の辟にいます荒びます上帝、其の命咎多し天萬民を生みたるも、其の命純一にあらず。初めはみな同じきも、終わりよきものは鮮し
詩経、255 蕩(儒教)
技を競って勝負をするものは、はじめは陽気で楽しそうであるが、終わりになると陰険な悪意をもつようになるのがつねである。というのは、興にのりすぎると、どうしてもいろいろな奇手を出そうとするからだ。
礼儀作法に従って酒を飲むものは、はじめは神妙にしているが、終わりになると乱れてしまうのがふつうである。というのも、酒も度をすごすと、とんでもない楽しみを求めるようになるからだ。すべて世の中のことも、これと同様である。はじめは上品にふるまっていても、終わりになると必ず下品で卑しくなり、はじめは簡素にしていたものが、終わりに近づくと必ずおおげさになるものだ。
荘子4(道教)
― み言選集 ―
人間が幸福を求めていくとき、どのような幸福を求めていくのですか。「人間が何かの有形の幸福を求めていっても、人間の寿命というものはせいぜい100 年にしかならない。
青春時代というのは一度しかないのだから、若いときに好きなように食べ、好きなように遊び、好きなようにすべてやって死ぬのが人生だ」と考えています。この地上に暮らす人たちの大部分がそのようなことを考えています。
ところが、体がやりたいようにやっても、あとになればすべてが無益です。むなしいというのです。何年もたたずにすべてのものが嫌になります。
(41-144、1971.2.14)
今日までの宗教は来世を探し求めるために、現実を必死になって否定し、心霊的な喜びのために、肉身の幸福を蔑視してきたのである。しかしながら、いかに否定しようとしても否定できない現実と、離れようとこしても離れることができず影のように付きまとう肉身的な幸福への欲望が、執拗に修道者たちを苦悩の谷底へと引きずっていくのである。
ここにおいて、我々は、宗教人たちの修道の生活の中にも、このような矛盾性のあることを発見するのである。このような矛盾性を内包した修道生活の破滅、これがとりもなおさず今日の宗教人たちの生態なのである。
原理講論、総序
私達がお金を借りて億万長者になったとしましょう。20 代を経て、30 代、40代、50 代、60 代、約30 年を死ぬほど努力しなければ億万長者になれないと考えるとき、60 代になって億万長者になったとしましょう。
ところが、60 代になると、もう逝く日が遠くありません。お金が好きで、60 歳になるまで稼いでみると、引退しなければなりません。引退年齢になったというのです。このように考えるとき、億万長者になった立場でそのお金の山を見つめるとき、希望的でしょうか、絶望的でしょうか。過去を考えるとき、あぜんとする事実ではないかというのです。お金を稼いでおいて、そのお金を稼いだこと自体をじっと考えてみるとき、あぜんとするのです。
その次には、皆さんが勉強をするために……。ここで、何々大学に行って博士になる、何になると大騒ぎします。手ぬぐいをまいて、御飯をろくに食べず、遊ぶこともできません。休まずに夜通し勉強し、博士学位を取ったとしましょう。そして、ノーベル賞受賞者になり、世の中で立派な人になりましたが、自分自身をじっと見てみるとき、悲惨なことが多いというのです。同じです。いくらノーベル賞受賞者になり、知識があるとしても、それは狭い専門分野です。
この広い世の中で、小さな穴を開け、その分野に関して知り、この囲いの中でこうしているのです。世の中全体を見るとき、自分はこの上なく小さいのです。
何かを知っているからといって誇りますが、この上なく小さなことを知っているというのです。それを考えるとき、知っているということ、知識が人間に幸福をもたらしてくれ、人間に安逸をもたらしてくれるでしょうか。
そうではありません。知識は、学べば学ぶほど分からないことがもっと多くなるのです。そして、学校に入って有名な教授になったとしましょう。毎日、白墨を握って何かを書き、何かを受け持ち、このように人生を生きると考えてみてください。白墨の粉を吸い込みながら大きなことを言いますが、その分野で大きなことを言うのであって、世界にどのような影響を及ぼし、すぐに世界がどのようになるか、そのようなことは一つも分かりません。世界をどのようにしてみようという考えをする余地がありません。一つのみ旨も何も、考える余地がないのです。分からない人よりもっと分かりません。より深く入り込んでいるからです。
そのようなことを考えてみるとき、知識があるからといって、一生の間、本の虫になったからといって、自分に対して自信をもてるわけではありません。誰かがその分野で一言言えば、それを拾い集めてまた比較研究します。それはもうたまりません。ですから、自分の主張したことがぼんやりしているのです。自信がありません。また、有名な学者になれば、それが何ですか。そこに自分の命を投入し、自分のすべてを投入するには、あまりにもったいないというのです。
その次には権力です。誰もがこの国の大統領に一度なってみたいと夢を見るでしょう? 何かになってみたいと夢を見ます。権力、力、そのような力を握ったとしましょう。それでは、それが万年続きますか。アメリカの大統領は4年間権力を握ったと考えてみてください。歴史過程において、目を一度瞬きするのと同じです。そこで食べ、踊りを踊り、何かどうで、それは狂った人のような気分だというのです。良かったとしても、一度そこでぴたっと終われば、何でもありません。誰かが訪ねてきてそれを認めてくれますか。かえって平民にも及びません。
(98-82 ~ 85、1978.4.30)
3. 涙の道
― 宗教経典 ―
キサ・コタミという女に一人息子がいたが、ある日、突然彼が死んだ。悲しみにくれた彼女は、息子を抱いて隣近所に薬を求めて回った。人々が言った。「子供は既に死んだのに、あの女は正常ではない」。
最後に、女キサ・コタミがある人に出会ったのだが、彼が彼女に教えてあげた。「私はあなたに子供を治す薬をあげることはできない。しかし、それができる医者を私は知っている。釈迦牟尼を訪ねなさい」。
キサ・コタミは、仏陀にすがって泣き叫び懇請した。「主よ! 師よ! 私の息子を治す薬を下さい」。仏陀が答えられた。「私に一つの芽ほどのカラシナの種をもってきなさい」。女は喜んでそれこを用意してくると答えると、仏陀が語られた。「しかし、そのカラシナの種は、息子や夫、または父母や友の中で誰も失った者がいない家からもってこなければならない」。
ふびんなキサ・コタミは、カラシナの種を求めてこの家、あの家を歩き回った。彼女を哀れに思った人々が言った。「さあ、ここにカラシナの種がある。もっていきなさい」。しかし、彼女が、「あなたの家では息子、娘や父母、兄弟を失ったことがありませんか」と尋ねたとき、彼らが彼女に答えた。「ああ!生きている者はかえってあまりなく、死んだ者が多い。どうか骨にしみる私達の悲しみを思い出させないでほしい」。死によって愛する人を送り出したことがない家はどこにもなかった。
キサ・コタミは疲れ果てて落胆し、暗い道を歩いていき、ある丘に座り込んだ。遠くに見える村には家々の明かりがついていたが、だんだんと消えていった。ついに辺りはすっかり暗闇になった。彼女は、ふと人の運命を考えた。ついて、また消える明かりのように、来ては結局また戻らなければならない運命であることを悟った。「悲しみにくれた私はどれほど愚かか! 死に例外はないのだから、この荒涼とした谷間にすべての利己心をゆだねる道があれば」。
息子に対する利己的な愛を振り払ったキサ・コタミは、死んだ息子を森の中に埋め、仏陀のところに再び戻ってきた。彼に帰依し、とうとう法の中に平安を見いだした。
ブッダゴーサカラシナの種のたとえ(仏教)
― み言選集 ―
涙の歴史の起源を私達がもう一度考えてみると、それはどこから始まったのでしょうか。堕落するとき、アダムとエバが先に涙を流したでしょう。その次には、神様が流したでしょう。このように見るとき、アダムとエバが涙を流したのは、神様のために、人のために流したのではなく、自分たちの悲しみの事情を中心として涙を流したのです。
しかし、神様が流した涙は誰のために流したのですか。それは間違いなく、天道に背くことによって追放されなければならない、そのような運命に置かれるようになった子女であるアダムとエバを見つめて流した涙なので、神様御自身のために流したものではなく、人のために、子女のために流した涙であることは間違いありません。
涙を流すそれ自体は悲惨なことです。人間の世界では、涙の歴史が先に始まりました。神様も先に涙から始まりました。そのように見るとき、人間も悲惨であり、神様も悲惨です。ところが、人間が流した涙は、人間自身の過ちがあったがゆえに、それは当然流すべき涙かもしれませんが、神様の涙は当然流すべき涙ではありません。涙の歴史は、人類の始祖から始まり、涙の足場は世界的に拡大してきました。
そのような悲惨な場で戦争の歴史と苦難の歴史が反復しながら歴史は発展してきたのです。そうして、あるときは個人自体が人から被害を受けて涙を流す歴史から、家庭が被害を受け、民族が被害を受け、世界が被害を受けて涙を流す歴史が繰り返されるのです。
涙の歴史を取り除くことができないのです。ですから自分のために悲しみ、自分の家庭のために、自分の民族のために、自分の国家のために、自分の世界のために悲しんだあとにこそ、新しい善の世界に帰ることのできる道があるとすればあるのであって、これのために悲しまなければ、善の世界に帰る道はありません。
人は個人的な立場で堕落しましたが、結果的に見れば、世界的に堕落したのです。それでは、世界的な立場で一番下に落ちた人間がこれを越えていくためには、どのように行かなければなりませんか。そのようにしようとすれば、この世界の人たちは、自分たちを中心として、自分のことや、自分の家庭や、自分の国家、あるいは自分の主義や主張を中心として悲しむのですが、この世界を克服していかなければなりません。反対に行かなければならないのです。
反対の道を行かなければならないのは、間違いない結論です。このように、人類の実状を見つめる神様は、反対の立場で悲しむでしょう。神様は常に涙に濡れています。神様は、反対の立場で悲しんだという事実を知らなければなりません。
人間が幸福な所はどこですか。自分が涙を克服する道で見いだすしかありません。次にどのようにしなければなりませんか。神様が涙を流す困難な環境を克服して越えていった所に幸福があります。
なぜそうなのかというと、人類始祖が堕落することによって、涙の歴史を神様と人間が始めたからです。その場は、涙が始まっていなかった場なので、私達はこのすべての涙の世界を克服しなければなりません。
それを超越していかなければ、幸福の起源があり得ないというのは当然の結論だというのです。そのような立場に立っているのが人間たちです。それでその立場を克服して私達は前進しなければならず、この悲しみの涙の峠、この人間の涙の峠だけでなく、天が流した涙の峠を越えていかなければならない運命が、今の人間が行くべき運命です。
ですから、真の道を行こうという人は、2種類の涙の峠をすべて越えていかなければなりません。人間がどれほど悲惨で、どれほどかわいそうかという、このような苦痛の渦中で自ら身もだえし、涙を流さなければなりません。したがって、人が知らない中で人生問題や自分の一生の問題を中心として、この社会問題、全体の問題をかけて、悩み、涙を流す部類の人たちがいなければならないのです。また、人間自体の問題を解決するために苦痛を受ける人がいて、人間とは何かという問題をおいて、自ら苦しむ人たちがいます。若い時代には、そのような部類の人たちもいるでしょう。そのような悩みもしていない人の人生は、人生のうちに入ることもできません。
そして、自分の涙を克服すると同時に、この世界の苦痛で悲惨なことを克服させられる道がないかということを考えなければなりません。ここで知らなければならないことは、いくら自分自身が人生問題を悩み、この世界問題を悩んで涙を流したとしても、それでは駄目なのです。その根本をひっくり返しておかなければなりません。
それは、自分が悲しい涙を流した峠だけでなく、世界が涙を流した峠だけでなく、天が涙を流した峠の方向を変えておかなければなりません。ところが、それをどのように変えるのかということを考えるには及ばないというのです。
ですから、涙を流すのですが、自分のために涙を流し、自分の国のために涙を流し、自分を中心として涙を流す歴史では、新しい理想世界へ前進するのに、何のプラスにもならないのです。それはどこまでも自分自身のためだというのです。それはどこまでも堕落したアダムとエバの側にいるのです。
それでは、私達はどのようにしなければならないのかというと、ここで天が悲しんだもう一つの領域を私達は発見しなければならないのです。堕落によって天が涙を流したとすれば、天が流した涙の境地を人間が越えていかなければ、人類の幸福の基地というものはあり得ません。自分を越えて涙を流すことのできる道を発見しなければなりません。
神様を中心として、神様という主体を発見し、神様が涙を流したその境地以上の所を自分が探知し、そのような所に行こうという欲望をもたなければなりません。
(94-306 ~ 310、1977.10.16)
13) 神様の悲しみ
神様が私達の聖なる父母であり、人間が神様の子女であれば、神様は子女の拘束と逸脱、そして反逆に対して、心情的に大きな悲しみを感じるのである。
したがって、人間的で同情心の深い神様に仕える宗数的伝統は、悲しみをもつ神様だということを認める。キリスト教によれば、イエス様の激憤は、息子と共にいた父なる神様の苦痛を現したものである。
聖書に現れた神様の悲しみは、アリストテレスの完全者は感情を感じないという概念によって、たとえ時々光を失うことがあったとしても、現代の神学者たちは、創造生も苦痛を受けるという点を確認している。
大乗仏教は、人間の苦痛に対する釈迦牟尼の哀れみと菩薩の同情は、すべての人間の父である宇宙的父子の心情に由来するものであると教える。
丈鮮明先生は、神様を知ることは神様の苦痛と悲しい心情を体験することであると教える。人間の堕落によってつぶれた神様の心情は、子女たちが悪の権力と驕慢の奴隷となり、苦しみを受けながら暗闇の世界で生きるのが悲しく、聖人たちが摂理を完成し、自由を得るために、茨の道を歩んでいかなければならないのを見て苦痛を受けられた。
神様のそのような事情を知ることによって、私達は自分に哀れみをもつようになり、人間を解放させる努力に傾注し続けるようになる。
1. 人間の堕落と罪悪の状態に対する神様の悲しみ
― 宗教経典 ―
主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。
創世記6.5 ~ 6(キリスト教)
すると、天の神が民の残りの者を見て泣かれた。エノクはそのことを証して言った。「どうして天が泣き、雨が山々に降り注ぐようにその涙を流すのですか。」また、エノクは主に言った。「あなたは、永遠から永遠にわたって聖なる御方であるのに、どうして泣くこことがおできになるのですか。」。
主はエノクに言われた。「これらあなたの兄弟たちを見なさい。彼らは私自身の手で造られたものである。私は彼らを創造した日に、彼らに知識を与えた。また、エデンの園で人に選択の自由を与えた。私はあなたの兄弟たちに語って、互いに愛し合うように、また父である私を選ぶようにという戒めも与えた。
ところが見よ、彼らは愛情がなく、自分の血族を憎んでいる。私の憤りの火は彼らに向かって燃えている。私は激しい憤りをもって、彼らに洪水を送ろう。私の激しい怒りが彼らに向かって燃えているからである。
見よ、私は神である。聖なる人とは私の名である。賢慮の人とは私の名であり、無窮も永遠も私の名である。それゆえ、私は手を伸ばして、私が造ったすべての創造物を手に取ることができる。
また、私の目はそれらを貫くこともできるが、私の手で造られたすべてのものの中で、あなたの兄弟たちの中にあるような大きな悪事のあったことはない。しかし見よ、彼らの罪はその先祖の頭にある。サタンが彼らの父となり、彼らの行く末は悲惨なものとなる。
そして、すべての天が、まことに私の手で造られたすべてのものが、彼らのために泣くであろう。それゆえ、これらが苦しむのを見て、どうして天が泣かないということがあろうか。(注28)
高価なる真珠、モーセ書7.28 ~ 37(末日聖徒イエス・キリスト教会)
アブダルが使徒の言葉としてこのように伝えた。「私はあなたが見ることのできないものを見て、あなたが聞くことのできないものを聞く。天が呻吟するのだから、呻吟するのが当然である」。
ティルマズィーおよびイブン・マーシャ・ハディース(イスラーム)
月日にハどんなざねんがあるとても
いまゝでぢいとみゆるしていた
さあけふハ日もぢうふんにつんできた
なんてもかやしせずにいられん
このかやしなにの事やとをもている
神のさんねんばかりなるぞや
このざねん一寸の事とハをもうなよ
つもりかさなりゆへの事やで
月日にハせかいぢううハみなハが子
かハいゝばいをもていれども
それしらすみな一れつハめへ/\に
はこりばかりをしやんしている
この心神のざんねんをもてくれ
どふむなんともゆうにゆハれん。
おふでさき17.64 ~ 70(天理教)
デンの母、アブクよ!
天にあるあなたの家を離れ
私の家に働くためにお越しください。
我が国をデンの最初の家のように
きれいにつくられ、
来て、我が国を一つにしてください。
アコールの国は一つではありません。
昼も夜も
その子供はデンを呼び、
その顔は悲しみにくれました。
アコールの子供たちは、彼らの酋長の心を
当惑させました。
ディンカ族の歌(アフリカ伝統宗教)
― み言選集 ―
アダムとエバが堕落するその瞬間、神様の心情は破裂するようで、引き裂かれるようで、気が狂ってしまうかのようでした。
(7-292、1959.10.11)
愛するようになれば血が沸くでしょう。ぞくぞく震えるでしょう。それはなぜ震えるか知っていますか。混じりなさいということです。東西南北が混じり上下が混じって一つになり、愛の火花が散る方向にすべての焦点が行列の方向性を備え、男性のために完全投入、女性のために完全投入、私の生命、財産をすべて尽くして投入、また投入しようと飛びつくのです。それが永遠に終わらない愛の道なので永遠に好むのです。
もし、神様が愛の理念を立てなかったら、神様は孤独単身です。喜怒哀楽を感じることができない神様だというのです。絶対的なこの愛を失われた神様は、歴史始まって以来、誰も体験することができない、深刻で、あきれる、絶対的に悲惨な立場に立ったのです。誰も永遠に慰められないのです。
(204-101、1990.7.1)
堕落しなかったならば、神様は創造主として永遠な主人になるはずであったのに、堕落することによってサタンが主人になりました。そうなるしかありませんでした。いくら官吏の屋敷の中の箱入り娘だとしても、その町のやくざ者が強奪し、愛の関係を結んだとすれば、その娘は誰のものになるでしょうか。
やくざ者のものとなります。全く同じ道理です。天国の王となることのできるアダムであり、天国の王妃となることのできるエバでした。アダムは神様の体です。実体の神様です。理想的な王権を回復し、愛の天国を形成しようとするのですが、悪魔が成長している王妃を強奪したのです。
それでは、エバが誰のものになるでしょうか。神様のものになりますか。アダムのものでもなく、神様のものでもありません。ですから、追い出されるのです。これを復帰するには、創造の原理原則を中心としてなさなければなりません。本来アダムとエバを中心として永遠な愛の法度を立てたので、その法度に従わなければならないのです。その法度を否定するならば、天理を破壊することになるのです。
それゆえ人間はもちろん、神様自体まで否定される立場になるので、仕方なく再創造過程を通して収拾してきたのです。そのような恨多き歴史路程を誰が知っていたでしょうか。
(207-272 ~ 273、1990.11.11)
神様がどれほど悔しいかというと、王の座を怨讐に奪われたのです。神様が栄光の神様となることができず、悲しみの歴史をもっていらっしゃるという事実を知らなければなりません。
御自身の国の王として、宇宙の王としていらっしゃるにもかかわらず、王が生きているのに王は死んだとさげすまれているのです。御自身の理想を奪い取られ、御自身の愛する息子、娘を奪われ、完全に怨讐の籠絡の場としての地球となってしまいました。
(105-199、1979.10.21)
神様の胸にくぎが剌さった事情とは何でしょうか。悪魔が生じたたのです。悪魔の血肉を愛で植えたという事実、悪魔の種を植えたというこの無念な事実、悪魔の家庭を見たというその事実のゆえです。
神様の管理下で千年、万年愛し合いながら暮らすことができる家庭が、悪魔の家庭の顕現とともに、破壊されたのです。その代わりに、悪魔の氏族を中心とした家庭が、世界的に広がりました。
(214-282、1991.2.3)
恨の底に永遠に消えてしまい、人類は塗炭の境地に陥り、大勢の人が地獄の鎖に……。鎖に縛れているのは一時ですが、永遠の監獄に閉じ込められたというのです。解放されません。世の中では、捕まって閉じ込められても、解放されることがあるではないですか。
そのような運命の道にいる人間の悲惨な姿を毎日毎日、毎時間見つめられる神様のその心情はいかばかりでしょうか。自分の息子が不具者となり、王子、王女の栄光をたたえるべき存在が、肥だめのようになり地獄に逆さまに落ちたとするならば、全知全能だという神様の威信はどうなるでしょうか。絶対的な神様の威信はどうなりますか。顔を上げることができるでしょうか。
(218-241、1991,8.19)
人間が絶望の中に置かれるようになれば、神様も絶望に中にいらっしゃるようになり、地上で人間たちがサタンにとらわれれば、天上にもサタンが主管する暗黒の世界が残るようになるのです。
(2-246、1957.6.9)
2. 人類救援のための神様の苦難
― 宗教経典 ―
人が大きな苦痛にぶつかれば、「ああ、頭痛よ、ああ、私の腕よ」と言う。もし神が、邪悪な者が血を流すのを御覧になって苦痛を受けられるのなら、義人が流す血を御覧になってどれほど大きな苦痛を受けられるだろうか。
ミシュナ、サンヘドリン6.5 (ユダヤ教)
エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、私はお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。
マタイによる福音書23.37 (キリスト教)
「彼らの苦難を常に御自分の苦難とし」(イザヤ63.9)という聖句がある。神はモーセにこのように語られた。「イスラエルの民が苦痛の中にいるとき、私も苦痛の中にいることをあなたは知らないのか。(燃える)いばらの木の中、私があなたに語ったそこをあなたは知らなければならない。そこは私がイスラエルの苦痛の中に立っていた所だ」。
出エジプト記ラッバー(ユダヤ教)
まだ幼かったイスラエルを私は愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。私が彼らを呼び出したのに、彼らは私から去って行き、バアルに犠牲をささげ、偶像に香をたいた。
エフライムの腕を支えて、歩くことを教えたのは、私だ。しかし、私が彼らをいやしたことを、彼らは知らなかった。私は人間の綱、愛のきずなで彼らを導き、彼らのあごからくびきを取り去り、身をかがめて食べさせた。
ホセア書11.1 ~ 4(キリスト教)
正覚者が生死の苦海をさまよう衆生を見られ、彼らを救済しようと慈悲心を施した。迷いの道を彷徨し、行く道が分からずに苦しむ人の世を見られ、このために慈悲心を施した。
五欲のぬかるみに寝転んで放縦し、耽溺にふける人の世を見られ、このために慈悲心を施した。財物を貪り、妻子に足首をつかまれ、抜け出す道が分からない人の世を見られ、このために慈悲心を施した。
手足で罪を犯し、舌で邪悪を語り、心で愛欲を燃やし、あらゆる果報を受ける人の世を見られ、このために慈悲心を施した。五欲による渇きを渇愛の水で潤し、絶えずこれを楽しむ人の世を見られ、このために慈悲心を施した。
幸福を求めるが、善行を積まず、苦痛を嫌うが、自ら悪行をすることを楽しみ、天界の安楽を願うが、地に下されたその教えに従わない人の世を見られ、慈悲心を施した。
生老病死の苦痛を恐れるが、ただ生老病死の業を積むことに身をゆだねる人の世を見られ、このために慈悲の心を施した。苦痛と悲嘆の炎に身を燃やすだけで、ひんやりとした三味の水路が分からない人の世を見られ、このために慈悲の心を施した。悪の世に生き、残虐な君主に踏みにじられ、あらゆる疾病で苦痛を受けるが、ただ途方に暮れ、決楽を求めていく人の世を見られ、このために慈悲心を施した。
悪の戦争に従事し、互いに傷つけ、殺す人の世を見られ、また苦痛の耐えない悪の果報を受ける運命を知られ、このために慈悲心を施した。彼の化現の時に合わせ、様々な生を受け、彼が説く聖なる法を聞いたが、これを受けて消化できない人の世を見られ、このために慈悲心を施した。
もった者がもっていない者と共に分かち合うことのできない人の世を見られ、このために慈悲心を施した。時には畑を耕して種を蒔き、時には頭に載せ、荷物を背負い、苦労して売買し、時には悪徳商売をするが、結局はつらい目に遭うだけの人の世を見られ、このために彼が慈悲心を施した。
優婆塞戒経(仏教)
― み言選集 ―
自分の愛する人は、命を投入してでも保護したいものです。本来創造理想がそうなっています。神様御自身も、息子、娘を愛するがゆえに、自分の命までも投入しなければならない悲しみの神様となったのです。
(206-26、1990.10.3)
私は、このような神様の内情的心情の世界を知ってから、どれほど多くの日を涙と痛哭で夜を明かしたか分かりません。御自身の子女として創造し、永遠の真の愛の対象の位置に立てようとした人間の先祖が堕落の道に落ちたあと、数千、数万年の蕩減復帰路程を摂理してこられた神様の恨に満ちた姿を、誰が想像できたでしょうか。哀れで無念な神様であり、憤りが爆発して恨があふれる神様の路程でした。
栄光のお父様であり、大王として来られた神様が、その王座と父母の位置を怨讐サタンに奪われました。厳然と生きて役事していらっしゃるのに、「死んだ」と嘲弄され冷遇されても、忍苦の道を歩んでくださり、人間が自ら悟るその日だけを待ち望まれた神様であられます。
ために生きる真の愛を土台として、永遠を前提として創造摂理をなさった神様であられるので、子女が堕落の奈落に落ちるのを目撃しながらも、宇宙を爆発させて最初からやり直すことはできない神様であられたことを、皆さんは知らなければなりません。
全知全能の権限で全世界とサタンまでも一度に審判し、粉砕してしまうことができる神様であられたのに、そのような能力をもっていらっしゃった方であられるのに、今まで神様は、孤独単身であらゆる侮辱と讒訴を甘受されながら、自ら進んで監獄生活をしてこられた私達のお父様でいらっしゃいます。
このような天のお父様の前で、一日でも真の同情と懺悔の涙を流してみたことがありますか。悪魔の血筋を受けてサタンの猟犬になっている人類を前にして、舌をかんで耐えてくださり、解放と釈放の一日だけを待ち焦がれていらっしゃる神様の前で、見えないふりをして目を閉じることができますか。
(447-166 ~ 167、2004.5.1)
息子をそのように死なせるしかなかった神様の痛ましい事情を誰が知っていたでしょうか。それは聖書にはありませんが、子を死なせるほどの事情があったのではないでしょうか。
キリスト教のイエス様を信じると言ってあのように集まるのも悲惨であり、すべての選民の味方になるべき神様なのにこれを知っているのか知らないのか……。行く所ごとに血を流し、首が落ち、煮えたぎる油に入れられて死に……。
このような運命にぶつかるのを見て、「神様がこれを防ぐことができるのではないか」と言うかもしれませんが、全知全能であられながらその忍び難いものを忍ばねばならない神様は、どれほど恨がしこりとなっていることでしょうか。
そのように考えたことがありますか。それなのにどうして神様が最も高いところにいらっしゃることができるでしょうか。いつかきれいに清算できたらいいというのです。
(64-222 ~ 223、1972.11.12)
皆さん、私達のお父様を知らなければなりません。どのようなお父様ですか。歴史路程において、最も悲惨に歩んでこられたお父様であることを知らなければなりません。歴史路程に起こったあらゆる惨事以上の惨事を受けられたお父様であることを知らなければなりません。
悲しみと苦痛と絶望と死の囲いの中で苦しむ子女を見つめるとき、「お前たちはよくやっているなあ!」という天ではありませんでした。悲しみにひたる子女を救うためにより悲しい立場にいらっしゃり、苦痛の場で呻吟する子女を救うために、より苦痛の立場にいらっしゃったお父様です。また、死んで消えていくその息子を救うために、死の場も意に介さないお父様であることを皆さんは知らなければなりません。それでは、これからはどのようにしなければなりませんか。道を歩いていて、腰の曲がったかわいそうな老人を見れば、「私のお父様も、あのような姿で訪ねてこられたのだなあ!」と考えなければなりません。
腫れ上がった労働者の手を見るときも、「息子を探し出そうとする私のお父様は、あれ以上のお姿をされていたのだなあ!」と考え、かわいそうな乞食を見るときも、「この乞食は、乞食ではなく私のお父様だ!」と考えて、頭を下げることができなければなりません。
取るに足らない哀れな人生でも、そこには神様の心情が宿っていることを知って、彼が私のお父様だという心で涙を流し、自分の境遇や自分の威信を超越して行動できてこそ、神様を知ることができるのです。
(8-345 ~ 346、1960.2.28)
3. 神様の涙を身代わりする
― 宗教経典 ―
私の嘆きはつのり、私の心は弱り果てる。
見よ、遠い地から娘なるわが民の叫ぶ声がする。「主はシオンにおられないのか。シオンの王はそこにおられないのか。」
なぜ彼らは偶像によって異教の空しいものによって、私を怒らせるのか。刈り入れの時は過ぎ、夏は終わった。しかし、我々は救われなかった。
娘なるわが民の破滅のゆえに、私は打ち砕かれ、嘆き、恐怖に襲われる。
ギレアドに乳香がないというのか。そこには医者がいないのか。なぜ、娘なるわが民の傷はいえないのか。私の頭が大水の源となり、私の目が涙の源となればよいのに。そうすれば、昼も夜も私は泣こう。娘なるわが民の倒れた者のために。
エレミヤ書8.18 ~ 23(キリスト教)
神よ、私の愚かさは、よくご存じです。罪過もあなたには隠れもないことです。万軍の主、私の神よ、あなたに望みをおく人々が、私を恥としませんように。イスラエルの神よ、あなたを求める人々が、私を屈辱としませんように。私はあなたゆえに嘲られ、顔は屈辱に覆われています。兄弟は私を失われた者とし、同じ母の子らは私を異邦人とします。
詩編69.6 ~ 9(キリスト教)
あなたに不足なものを下さいと祈ってはいけない。そのような祈りは受け入れられない。祈りたいときは、世のあの頂にいらっしゃる天のために祈りなさい。あなたが願う望みもやはり主の栄光の中にある。人は主なる神の一部であり、個体の欲望はすなわち全体の欲望であり、全体が個体の願うものを一緒に渇望し苦しむ。ゆえにあなたの祈りが全体に向かう欲望に向かうようにせよ。天の栄光のために絶えず祈れば、流浪から救われるだろう。
イスラエル・バアル・シェム・トーヴ(注34)(ユダヤ教)
― み言選集 ―
歴史的な悲しみの中で摂理される神様の心情を体恤しながら生きていく人は、どこにとどまっても、神様を涙なしには見つめることができないでしょう。そのような立場で神様のみ旨を知り、その方の息子、娘になるために戦うようになるとき、彼と意を共にする同志がいるなら、神様はその場に訪ねてこられて、涙を流されるでしょう。
それは、神様の悲しみは、我々の一身にあると同時に、この国、この世界、この万物の中にあるからです。我々はこれを清算して、神様の喜びを復帰してさしあげる運動を展開しなければなりません。そのような我々において、生命の中心は神様の悲しみを体恤することです。
霊界の霊人たちがこの地に来ることができない原因とは何ですか。それは、この地が嘆息の囲いになっているからです。もし、私自身がとどまっている環境が嘆息の条件を抜け出すことができ、自分の体を通しても嘆息の条件を抜け出すことができ、サタンの脅威を受けながらも恐怖を感じない安息圏内に入ったならば、神様は私を協助してくださるようになります。お父様のために悲しみ、心配し、涙ぐむ人をとらえるためには、サタンもそのような立場に立たなければなりません。そのようになれば、サタンの勢力も根本的に崩壊するのです。
(4-60、1958.3.2)
今私達は、神様を解放してさしあげなければならない運命に置かれています。「人類のゆえに神様が拘束を受けているのだ。私ゆえに神様が拘束されているのだ。私という一個体のために神様がサタンの讒訴を受けているのだ。私のゆえにイエス様も死んだのだ。私ゆえに聖霊が血のにじむ闘争の歴史を抱いて身もだえしてきたのだ。神様、私に力をお与えください。お父様を安息させ、解放の座に移してさしあげます」と言うことのできる、信仰に飢える者、希望に飢える者、愛に燃える者を神様が6000 年間求めてこられたのです。このような事実を私達は知らなければなりません。
(7-162 ~ 163、1959.8.30)
万民が嘆息圏を抜け出さない限り、父母の立場に立った神様は嘆息圏内から抜け出すことができないのです。愛する子供が悩んでいるのに父母が安らかな立場に立つことはできないのです。
このような立場に神様がいらっしゃるがゆえに、神様を解放してさしあげなければなりません。何によって神様を解放してさしあげなければならないのでしょうか。神様は万民を愛することのできない拘束圏内にあるので、万民を自由に愛することのできる解放圏を神様の前に取り戻してさしあげるべき責任があるのです。堕落した人へと落ちぶれたので、堕落線を越えて勝利した息子、娘となって解放してさしあげなければなりません。
(65-100 ~ 101、1972.11.13)
宇宙の中心である神様が苦痛を受ければ、救う道がないでしょう。誰が救いますか。それは、神様の事情をもっとよく知り、それ以上の何かをもつまでは、苦痛の場を避ける道はないと思うのです。
このように思うとき、宇宙の中心となる神様が喜び、幸福に思うことができれば、それ以外の苦痛にあえぐすべての存在は、幸福になれる道があるという結論をここから見いだせます。したがって、神様が苦痛を受ける立場にいてはいけないのです。
神様を最も苦痛な立場に立たせるようにしたのは、アダムとエバの堕落でしょう。神様は父であり、私達人間はその息子なので、その息子が堕落したという事実は、神様との直接的な関係に連結します。
堕落したアダムとエバを見るとき、神様から切り離されていくのは、肉的な苦痛であり、心的な苦痛であり、心情的な苦痛だというのです。ですから、アダムとエバが堕落し、神様の前から離れるようになったとき、間違いなく涙を流して苦しんだということを私達は考えることができます。
そのような観点から、私達の人類始祖が堕落することによって体が受け、心が受け、心情が受けた苦痛は、歴史的苦痛の出発なのです。アダムとエバが堕落することによって、神様の息子、娘がいなくなりました。そして、神様の実体的な舞台になるべき神様の家、神様の体自体が断ち切れてしまったのです。
そして、神様の愛が侵害を受けたのです。したがって、堕落の場は、神様の息子を失ってしまった場であり、神様の体が侵害を受けた場であり、神様の愛が侵害を受けた場です。
結局、アダムとエバは、神様の息子、娘であると同時に、神様の体であり、神様の愛の実践的舞台、つまり実践的存在だったのです。
それを皆さんがどのように感じることができるでしょうか。皆さんは、先生がこのように言えば、観念的には感じることができるかもしれませんが、実際の立場を皆さんがどのように体恤するのかというのです。
例えば、ある婦人がいるのですが、息子、娘を失ってしまい、夫を失ってしまい、父母を失ってしまいました。その後、自分がもっているすべてのものを失ってしまったと仮定しましょう。そのようなとき、どうするでしょうか。そのときのその女性の姿はどうでしょうか。今私達が堕落した人間の圏内で心情が引き裂かれるだけ引き裂かれ、傷つくだけ傷つき、女性としても悲惨なのに、このような心情の苦痛を感じない純潔な神様の立場を考えてみるとき、このような打撃が及ぶとき、その苦痛がどれほど大きかったでしょうか。今日、自殺した人がいれば、その人くらい苦痛だったのでしょうか。
このように思うとき、苦痛という言葉を語ることができるとすれば、神様以外に語ることができる人はいません。このような立場で見れば、神様は最高の苦痛の絶頂で救援摂理をされる方だということを私達は知らなければなりません。
私達人間を見てみれば、すべて破綻しても、時がたてば忘れてしまえます。ところが、霊的な神様はどうなるでしょうか。霊的な神様に時間の観念がありますか。千年、万年がその時間です。だからといって、神様がこれを抜いてしまうことができますか。全知全能の神様ですが、これをすることができますか。神様はほかのところでも全能の神様ですが、愛においてはもっと絶対的です。子女が死に、そのあとに父母が死ねば、忘れられますか。忘れられません。
「断ち切ってしまおう」、そのようにできますか。できません。いくら努力しても同じです。そのような死亡圏内に入っていくことによって苦痛を受けた神様の心を、その死亡圏内にそのままいては解く道がありません。
(94-34 ~ 36、1977.6.26)
皆さんは神様のためにどれほど涙を流したでしょうか。神様の御苦労の前に、神様に代わって苦労するために、四肢が裂けるような道でも行こうともがいたことがあるでしょうか。ないのです。
皆さんが「子女」というその立場を追求するためには、公的な涙を流さなければなりません。そうして父なる神様にまみえ、「父よ、あなたの息子である私を、そして私達の先祖を失ったとき、あなたの心はどれほど悲しみに痛んだことでしょうか。その子孫を通じて今まで歴史過程において受けた屈辱と苦痛と苦難が、どれほど大きかったことでしょうか」と慰労してさしあげながら、限りなく涙を流すことができなければなりません。
全知全能の権限で全世界とサタンまでも審判してしまうことのできる神様でありながら、能力をもっていながらも、今までひどく苦労する立場に立ち、手をつけようにもつけられず、神様御自身がもつべき環境をもてないまま孤独単身でサタンの前に讒訴され、サタン世界で足場をすべて奪われて呻吟する神様の立場を考えると、言葉も出ません。このような神様の立場に同情しながらどれだけ涙を流したでしょうか。問題はここに帰結するのです。
(51-111 ~ 112、1971.11.18)
お父様! あなたの悲しい心が地上に立ち込めていることを人間たちは知らずにおり、天の悲しい涙の跡が人類歴史の足跡に染み込んでいることを知らずにおります。絶えることのない天の嘆息が私達の心と体を取り巻いていることを知らなくては、天の前に面目を立てることもできず、天の信任を受けることもできない反逆した人間の子孫であることを自認せざるを得ないのでございます。
お父様、地にはあなたの涙をとめてさしあげる者がなく、あなたの悲しみをつかんで慰労してさしあげる者がなく、あなたが行かれるその道を守る者がおりません。
ゆえに、この地に恨があるとすれば、それは天の恨が宿った地であり、怨恨があるとすれば、天の怨恨が宿った地でございます。したがって、この地に暮らしている人間たちは、悲しみの祭物になるまいとしてもならざるを得ない運命に置かれているのであり、恨の場を越えていくまいとしても越えていかざるを得ない運命に置かれております。
落胆の中、最後の声で天に向かって、「お父様! 私達をお助けください!」と叫ぶ時になったのであり、「お父様、愛の心情をもって人類を取り戻してください!」と叫ばなければならない終わりの日が迫っておりますが、このようなときにお父様の心情をつかんで悲しんだ者が誰であり、お父様の心をつかんで痛哭する者が誰でございますか。そのような者がいるとすれば、彼は、お父様の真の息子、娘だと言うことができ、お父様の実体的な対象だと言うことができるのでございます。
(6-235 ~ 236、1959.5.24)
第7章 救援、解放、覚醒
救援、解放、覚醒
1) 恩寵
人間は、人間性の堕落と堕落した環境のために、自分の力で人生の目標と目的を成し遂げることが難しい。しかし、信仰の道には、私達を心強く守ってくれる神様の恩寵があるので、(人生行路において)十分に協助を受けることができる。様々な経典は、神様の恩寵が最優先だという点をしばしば強調する。
なぜなら、恩寵がなければ道を失い、悲惨な状況から抜け出せない未熟な信仰者にも、彼を激励するための恩寵が下されるからである。
私達は、神様が罪人の救援者だという章句を選択した。恩寵は、一個人の態度や功績に関係なく、全的に神様が主導的に下さるのである。さらに、神様の恩寵は、善の行いを通して得た功績をはるかに超えたものであり、困難な生活に耐え、善を行ったとしても、神様の恩寵がなければ救援の目的を成し遂げられないだろう。
この部分には、放蕩息子の二つの例えに登場するのだが、一つは「新約聖書」の話であり、もう一つは仏教の経典『法華経』の話である。この二つの話の教えは、ある面で若干異なるが、彷徨する人間に対する神様の哀れみという主題をよく表している。
文鮮明先生の教えによれば、必死に息子を探してさまよい、数年にわたって自分の息子を完全に回復させようとする父親を描写した仏教の例えは、人類歴史を通して、堕落した人間を救援するための、神様の労苦を記述することと相通じると言える。
1. 救援に必要な恩寵
― 宗教経典 ―
事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このこことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。
エフェソの信徒への手紙2.8 ~9(キリスト教)
アブ・フレイラが使徒の言葉を伝えた。「誰でも自らの行為だけで天国に入ることはできない」。これにある人が、「神の使徒よ、あなたも該当しますか」と尋ねると、「私も同しだ。ただ、私の主が私を慈悲によって包んでくださった」と答えた。
ムスリム・ハディース(イスラーム)
(苦行者たちの)あらゆる法衣を着替えることによって、また経典の学習や瞑想によって、または仏尊の実践遂行を通してそれを成就した者は誰もいなかった。ナナークが言うのだが、ただその恩寵により我々が悟りを得、聖なる者となる。
アーディ・グラント、ガウリー・ババ・アカーリーM.5、p.251 (シーク教)
この我(アートマン)は教示に依て得られず、知力(medha)に依ても、また多聞に依ても得られず。唯彼〔我〕が選びし人に依てのみ得らる。その人に對してかの我は自の本性を表はす。
ムンダカ・ウパニシャッド3.2.3 (ヒンドゥー教)
たとえあなたが、胸が張り裂けそうになるほど叫び、限りなくむせび泣いて目が痛くなっても、またこの世の終末が訪れる時まで苦行の人生を行くとしても、あなたのこのような根気強い努力は、真実と宗教の道へあなたを導くその方の善意と親切、その方の博愛と施しの心、そしてその方の慈悲と慈善の小さな部分にも報いることはできないだろう。
ナフジュ・アル・バラーガ説教57(シーア派イスラーム)
さて、もし世の初めから備えられていた贖いの計画がなかったならば、死者の復活はあり得なかったであろう。しかし、前に語った死者の復活をもたらす贖いの計画はすでに備えられていた。(注1)
モルモン経、アルマ書12.25(末日聖徒イエス・キリスト教会)
人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。
ローマの信徒への手紙3.23 ~ 25(キリスト教)
一人の罪によって、その一人を通しで死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。
ローマの信徒への手紙5.17 (キリスト教)
「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。
コリントの信徒への手紙二12.9 (キリスト教)
業の鎖に縛られてこの世を生きている我々は、ただ彼の恩寵によりこの業報の世界を抜け出すことができる。
シュリーマッド・バーガヴァタム11.2 (ヒンドゥー教)
あらゆる人々は神の恩寵を願う。恩寵がすべての世に満ちることを願ったアブラハムも、彼自身が恩寵を必要とした。
創世記ラッバー60.2 (ユダヤ教)
最勝の聖歌と行為とを、マズダーよ、ではわたくしに語ってください。御身たちの王国を通して、アフラよ、御所望のなかに首位を占める世を、御身は実現してください。
アヴェスター・ヤスナ34.15 (ゾロアスター教)
― み言選集 ―
アダムとエバの堕落によって、全世界を悪魔サタンが主管する世界になったので、この世界は地上地獄に違いありません。ですから、サタン世界よりも強力な一つの国を立て、サタン世界の国を吸収する責任を果たさなければならないのが神様の立場です。その使命を果たすための中心存在として送ったのがメシヤであり、これがメシヤ思想だということを知らなければなりません。メシヤがこの地に来るとき、本来の神様のみ旨が成し遂げられた所を訪ねてくるのではなく、神様のみ旨を成し遂げるための国の基台を求めて訪ねてくることを知らなければなりません。
したがって、今私達が生きているこの世の中は、救援摂理の世の中であり、救援摂理の歴史時代にいることを知らなければなりません。しかし、神様の本来のみ旨から見るとき、この救援摂理は神様のみ旨の中になかったものであることを知らなければなりません。
(73-203 ~ 204、1974.9.18)
神様が最後に、この地でなさなければならないみ旨があるがゆえに、我々はこの地で滅びる立場におかれても、滅びずに残されてきたのである。
御旨の道、指導者
エデンの園から追放された人間は、歴史的に誇り得ない大悪党になりました。しかし、神様はこのような人間を復帰しなければならない心情的な因縁があるので、アダム、ノア、アブラハム、モーセ、イエス様を経て、今まで耐えながら救援摂理をしてこられました。このような恩賜を考えながら、私達は現在の心情の因縁ではない、歴史的な心情の因縁をもって神様の前に訴えなければなりません。
(16-236、1966.6.19)
私達は、全知全能であられるそのお方に対し得る何らの内容も持ち合わせていません。しかも堕落した人間として生まれた私達であり、私達の目は俗なるものです。私達の五官の感情は、すべて俗なるものです。神様に対し得るものは、一つとしてありません。一つもなく、公義の法をもっては相対できる内容が絶対にないのですが、愛の法をもってのみ対し得るという唯一の道があるのです。
(149-38 ~ 39、1986.11.1)
救援の根本基点は、神様との愛の接触点です。そこに帰らなければなりません。ところが、私達自身は、1から10 まで神様の血統と関係のない人間になっています。
したがって、それを蕩減しなければなりません。それを蕩減するためには、原罪を除去しなければなりません。原罪を除去するところには、血統的なものが根本的に存在します。血統的なものは、堕落人間としては到底解決できません。それで、メシヤが必要なのです。
(35-159、1970.10.13)
お父様! きょうの私を、一人の私自体の中から求めないようにしてくださり、歴史の代身となり、宇宙全体の代身となり、未来の世界の代身となり、天倫のみ旨の前に恥ずかしくないお父様の息子、娘となるよう許諾してくださり、そのような息子、娘となったことを誇り得る喜びの栄光を私達に許諾してくださることを、懇切にお願い申し上げます。
(2-280、1957.6.23)
2. 放蕩者のための恩寵
― 宗教経典 ―
また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、私が頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。
それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遠いしてしまった。
何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。
そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、私はここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』
そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』
しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。
僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、私は何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、私が友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』
すると、父親は言った。『子よ、お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」
ルカによる福音書15.11 ~ 32、「放蕩息子」のたとえ(キリスト教)
「たとえば、ここに一人の男があったとします。幼いときに父のもとから逃げ出し、長いあいだ他国に住むこと十年、二十年、五十年に至ったとします。年こそすでに長じても、ますます貧窮し、困苦し、衣食を求めて四方に馳せまわり、次第に遍歴してたまたま本国にやって来たとします。
これより先、その父は子供を探し求めて見つけることができず、ある城市にとどまっていました。その家は大いに富み、財宝は無量であって、……。一方、貧窮の子は、村や町や国を流浪してついにその父の住んでいる城市にやってきたのです。
父は常に子のことを思い、子と別れて五十余年になりますが、しかも人にはこの事を一言も言いませんでした。ただ自分ひとりで考えて、心に後悔する気持をいだいているばかりでありました。
かれはこう思っていました。『自分は老衰した。自分には多くの財物があり、金・銀・珍宝は倉庫に満ちあふれているが、自分には子供がない。自分が死んでしまえば、財物は散失してしまい相続する者もない。……もし、あの子を見つけ出すことができて、財物を相続させることができたら、安らかに快く、苦労もなくなることであろうに』と。
世尊よ、そのときかの貧窮の子はあちこち傭われながらやって来て、たまたま父の家にやって来ました。門のほとりにたたずんではるかにその父を見れば、獅子の床に腰を下ろして、宝石を鏤めた足台に足を置き、もろもろの婆羅門や、武士や、資産家たちは皆、とりまいて敬意を表しています。千万金の値ある真珠の瓔珞(胸飾り)でその身を飾り、傭い人や侍童や下僕たちは手に払子をもって左右に侍立しています。……貧窮の子は、父に大きな威勢のあるのを見て、恐怖心を懐いて、ここにやって来たことを後悔して、ひそかにこう思いました。
『この人は王か、あるいは王にひとしい人なのであろう。ここは私が傭われ仕事をして物を貰うような場所じゃない。貧民のいるところへ行けば働くところがあって、衣食がたやすく得られるだろう。そっちの方がましだ。もしこんなところでぐずぐずしていたら、それこそつかまえられて強制的に働かせられるだろう』こう思って大急ぎで走り去りました。
そのとき、富んだ長者は、獅子の座の上から子を見てすぐにそれと知り、心に大いに歓喜してこう思ったのです。『私の財物や蔵は、今、相続する者ができた。私は常にこの子のことを思っていたが、どうしても会えなかった。それが突然にあの子の方からやって来たのだ。私の願いはかなった。私は老いてはいても、なお子に対する愛着をなくしてはいないのだ』と。
そこで、かたわらの人を遣わして、急に追うて連れて来させようとしました。そのとき使いの者はす早く走って行ってその子を捉えましたが、貧窮の子はびっくりして、恐怖のあまり大声で叫びました。『私は何も悪いことはしていません。何のために捕えるのですか』と。
使いの者はいよいよしっかりつかまえて、無理矢理引きずって帰って来ます。そのとき貧窮の子はこう思いました。『罪なくして捕えられる。これは必ず殺される』と。そこで、いよいよ怖れ、悶絶して大地に倒れました。
父ははるかにこれを見て、使いの者にこう言いました。『この男をそんなに無理強いして連れて来ることはなかったのだ。』と。それから冷たい水を顔にかけて息を吹き返させましたが、それ以上この男と話したりすることはしませんでした。
それはなぜかというと、父はその子の考えが下劣であることを知り、自分が富豪であり高貴であることを子がはわかっていることを知っていましたから、明らかにこれはわが子であると知っていましたが、方便によって、『これはわが子なのだ』と他人に言ったりはしなかったのです。
さて使いの者は貧窮の子に言いました。『おまえはもういい。行きたいところに行け』と。貧窮の子は歓喜し、未曽有の思いを得て、大地から起き上り、貧民のいるところに行き、衣食を求めました。そのとき長者はその子を誘って連れて来させ
ようとして、方便を設けて、ひそかに顔形や姿の樵悴して貧相な者を二人遣わしてこう言いました。
『おまえたちは、かしこに行っておもむろにあの貧乏な男にこう言え。「ここに働くところがある。おまえを傭うのは汚物の掃除をさせるためだ。おれたち二人もおまえと同じ仕事をするんだ。」と言ってやれ』と。
そこで、使いの者二人は、貧窮の子を探し出して上のことを話しました。貧窮の子はその給金を受けとって汚物の掃除をしました。その父は子を見てあわれみ、こうなった運命を不思議に思うのでした。ある日から、はるかに子の姿を見ると、疲れ、やせ、やつれて、汚物に汚れ、不浄となっています。そこで父は、瓔珞と、軟かくしなやかな衣服と、美しい装飾品とを脱いで、かわりに破れ垢じみた衣服を着、泥や土で体を汚し、右手に汚物を入れる壷を持って、恐る恐る近づいて来たような風をしてやって来て、働いている人たちにこう言いました。『おまえさんたち、怠けずに働くんだよ』と。
こうした方便によって父はその子に近づくことができました。そののち、またこんなことを言いました。『おい、そこにいる男、おまえはいつもここで仕事しな。おれのそばから離れるんじゃないよ。おまえには特別な給金をやろう。要るものがあったら、瓶でも、米でも、麺でも、塩でも、酢でもなんでも心配せずに言ってくれ。古びてはいるが使い古しの上衣もある。要るんならそれもあげよう。私はおまえの父親みたいなもんだ。遠慮なんかしないでくれ。なぜってそりゃ、わしが年寄で、おまえは若いからさ。おまえは働いていてごまかしたり、怠けたり、憎んだり、怨んだりしたことがない。他の下男たちにはありがちなそういう悪いところがまったくない。今日からおまえは、私の生んだ子も同然だ』と。
こうして長者はこの貧乏な男に息子という名をつけてやったのであります。そのとき貧窮の子は、このように待遇されるのを喜んではおりましたが、それでもやはり自分は傭われた賤しい身分の者であると思っていました。
こうして二十年のあいだ、常に汚物の掃除をさせていたのであります。二十年を過ぎますと、父と子の心は通いあって遠慮なく出入りするようになりましたが、それでも住んでいるところはやはりもとのところでありました。
世尊よ、その長者が病気になりました。もうまもなく自分が死ぬことをさとった長者は貧窮の子にこう言います。『私は今、多くの金・銀・珍宝を所有していて蔵に満ちあふれている。その多少と、取って与えるべきところとを、おまえは全部知っている。私の心はこのとおりだ。私の意のあるところをさとってもらいたい。それはこういうことなのだ。今、私とおまえとは一体なのだ。おまえは心して私の財産をなくさぬようにしてもらいたい』と。
そのとき、貧窮の子は、言いつけられたとおりに莫大な……もろもろの蔵を管理したけれども、その中から何一つ貰おうという気を起こしませんでした。しかも、住んでいるところはやはりもとどおりのところで、自分が貧しいという心も未だ捨てることができないでいました。
それからまたしばらく経って、父は子の心がようやくひらけて来て安らかとなり、大らかになって来ており、しかも、かつての自分の心がいやしいものであったと恥じているのを知って、臨終の時にその子に命じて、親族、国王、大臣、資産家を全部呼び集めさせました。その前で父はこう言いました。
『諸君、まさに知れ。これは実にわが子である。私の生んだ子である。ある町から私を捨てて逃げ出し、さまよい歩いて辛苦すること50 余年であった。その元の名は何某、私の名は何某である。私は昔のその町で憂いを懐いて尋ね歩いたのであるが、たまたまめぐり会うことができたのである。これは実に私の子である。私は実にこれの父である。今私が所有している一切の財物は、皆、子の所有である。これまでの出納は全部この子が承知している』と。
世尊よ、このとき貧窮の子は、父のこのことばを聞いて大いに歓喜し、未曽有の思いを得てこう思ったのです。『私はもともと、心に何の願い求めるところもなかったのに、今この宝蔵は自然に私のものとなった』と。世尊よ、大いなる富を持った長者とは如来のことであります。わたくしどもは皆、仏の子のようなものであります。それは、如来がいつもわたくしどもに『おまえたちはわが子である』と説かれているからであります。
世尊よ、わたくしどもは三種の苦悩によって、生死の中でもろもろの烈しい悩みを受け、迷い惑い、無知であって下劣な教えに執着しております。今日、世尊は、わたくしどもに考えさせて、汚物にも似た、存在についての空しい論議を除くように
されました。わたくしどもは努力精進して、ちょうど一日の給金を得るように、永遠の平安を得ました。それを得てしまうと、心に大いに歓喜して、自分では満足しておりました。
そして、『仏の教えの中で努力精進したから、得るところ多大であった』と言っておりました。仏はわたくしどもが心で卑小な教えをねがっているのを知られて、方便力によってわたくしどもに応じて説かれましたのに、わたくしどもの方では自分たちが真に仏の子であると知らなかったからであります。……
こういうわけで、わたくしどもは、もともと心にねがい求めるところがなかったのでありますが、今、教えの王の大宝が自然にやって来て、仏の子として得るはずのものは皆、すでにこれを得たのだと、このように言うのであります」と。
法華経4(仏教)
― み言選集 ―
父母は、息子が罪を犯して監獄に行けば、「こいつ、よくぞ行った」と言うのではなく、その子女を赦し、涙を流して愛そうとするのです。それが父母の愛です。それで父母の愛が貴いのです。もし、その息子が死刑囚になって死ぬ時間を母親が知れば、痛哭するでしょう。この世のあらゆる法をすべて変更させてでも、息子を救えるたった一つの道があれば、命を捧げてでもやろうとするのです。そのような変わらない愛をもっているので、その愛が貴いのです。
父母の心に、死刑場に引かれていく息子を赦す心があります。そのような母の愛が真であるとすれば、神様の愛がそれよりも劣るでしょうか。神様の愛はそれ以上だということを私達は自動的に認めるでしょう。ですから、神様の愛が父母の愛を凌駕するというのは、当然の結論だということを知らなければなりません。
(91-148、1977.2.6)
死亡の圏内にいる、千万回死んで当然の人間を訪ねてこられる天の苦労があることを、注意深く見極められなければなりません。天が死亡の圏内にいる私達を訪ねてくださるとき、世の中の何よりも貴いものをもって訪ねてくださり、死亡の圏内にいる私達を救ってくださるとき、心配する心と、つらい心情をもって救ってくださることを忘れてはいけません。天が私達を死亡の圏内から奪ってこられるとき、もっているすべてのものを犠牲にする覚悟で奪ってこられるのです。
(6-115 ~ 116、1959.4.12)
迫害を受けたといって荷物をまとめ、中心者と心が合わないといって荷物をまとめ、夫婦同士で心が合わないといって離婚すると言うのですが、いくら人間世界がそうであっても、神様は神様なので、泰然自若としていなければならないのです。その心には千万の事情が沸き立っていますが、泰然としていなければなりません。
もし神様が口を開いてその事情を語れるとすれば、千年、万年痛哭する事情があるのです。それは、神様御自身のために痛哭するものですか。違うでしょう。人類のために涙を流さざるを得ない神様であることを知らなければなりません。
(124-60、1983.1.23)
神様は、父母の位置にいらっしゃるので、私達人間の上にいるのです。ですから、神様は人間を愛するのです。皆さんがよく世の中で見るように、ある父母の息子の中に体が不自由な子がいて、彼が父母の愛が分からなければ、どれほど悲惨でしょうか。
100 を愛しても、100 の愛が分からず、1の愛も分からない立場に立っている子女と向き合う父母、それでも子女を愛さざるを得ない父母、常に与えなければならない立場にいるので、愛を与えるにもかかわらず、受け得る立場に立てない息子を見るとき、100 を注いだ愛をもった父母は、100 以上、何百の悲しみを感じるのです。
たった一つの愛をもって子女を愛そうとするとき、その愛に向き合える子女をもてない父母は、それ以上の悲しみはありません。それ以上に呆然とすることはないというのです。もし100 くらいの愛を与えようとするとき、100 以上の愛を受けることができる相対として、あるいは息子として、娘として現れるようになるとき、その父母はどれほどうれしいでしょうか。1000 を与えた以上の喜びを、その場で感じられるのです。そこで反対の与件が成立することを私達は知っています。
そのような観点から、自分が与えるものを受け得る子女をもてなかった父母は、かわいそうです。それが一度だけでなく、永遠にそのような立場に立てば、その父母は、かわいそうで悲惨なだけでなく、唖然とするのではないかというのです。このようなことを私達の世の中で推し量ってみるとき、もし神様が父母の立場にいるとすれば……。
人情と天情が連結され得る最高の場は、どのような場でしょうか。いくら私達が求めて上がっていっても、神様は父母なので、人間は子女の位置を追求せざるを得ません。それで、キリスト教では天に対して父と言うのです。父子の関係を意味します。その父子関係の基準はどのようなものでしょうか。堕落線以下か、堕落線以上かというとき、これは堕落線でもなれないものであり、堕落線以下でもなれないものです。それは、堕落線以上の位置です。
今日、堕落した人間たちを見ても、そうではないかというのです。これは、堕落以下の父子関係の愛ですが、その父子関係のその愛でも私達は唖然とするのに、堕落していない立場にいる父母が不孝者を迎えたとすれば、その父母はどれほど唖然とするでしょうか。私達が日常生活の周辺で、父子間の愛という問題をおいて考えてみるとき、その背後を十分に測定できるのです。
神様は、そのような堕落線以上の愛をもって子女を愛そうとしているのではないかというのです。それでは、その愛はどれほど強かったでしょうか。堕落線以上の位置に立っていた人がいないので、それを分かる人がいないという結論が出てきます。
(62-19 ~ 20、1972.9.10)
愛するお父様! 6000 年間摂理してこられながら、愚かで不足な私達をお捨てにならず、探し出してくださったお父様の哀れみのみ手を、この時間だけでも感じることができるよう、許諾してくださることを懇切にお願い申し上げます。
(3-258 ~ 259、1958.1.12)
2) 赦し
罪悪と無価値なものに染まった私達が、神様の前に直接出ていったり、悪行によって汚された私達が真の内的本性を実現したりすることはできないが、私達は、神様に私達の罪を赦してくれることを切に求める。
世界のあらゆる宗教の求道者たちは、普遍的に神様の赦しと赦免を経験する。神様は、常に罪を赦したいと思われる。私達を愛する父母がそうであるように、神様の愛の意志もやはりそうである。
この節の最初の章句では、神様の赦しと寛容の本性を表現する。結論の部分は、浄化の一過程としての罪の清算を記述している。
1. 神様の赦し
― 宗教経典 ―
言え「己れの魂にそむいて、あやまちを犯したわしのしもべたちよ、神の慈悲に絶望してはならぬ。神は、まことにあらゆる罪を許したもう。かれは、寛容者・慈悲者であられる」。
クルアーン39.53 (イスラーム)
私、この私は、私自身のために、あなたの背きの罪をぬぐい、あなたの罪を思い出さないことにする。
イザヤ書43.25 (キリスト教)
私達はこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。
エフェソの信徒への手紙1.7 ~8(キリスト教)
たとい極悪人であっても、ひたすら私を信愛するならば、彼はまさしく善人であるとみなされるべきである。彼は正しく決意した人であるから。速やかに彼は敬虔な人となり、永遠の寂静に達する。アルジュナよ、確信せよ。私の信者(バクタ)は滅びることがない。
バガヴァッド・ギータ-9.30 ~ 31(ヒンドゥー教)
至高のアッラーは申された。アーダムの息子よ、お前が私を呼び求め、私に〔心から〕願う限りは、お前のしでかしたことを赦し、大目に見てやろう。アーダムの息子よ、お前の罪が空の雲に届くほどであっても、私に赦しを求めさえすればお前を赦してやろう。
アーダムの息子よ、お前がこの地球と同じほどの大罪を犯して私のところにやって来ても、私の姿を見て私に似たものは存在しないと思うなら、それと同じ赦しを与えてやろう」。
ナワウィー40 のハディース42(イスラーム)
〈下品下生の者〉とは、……さまざまな不善を行い……「お前がもし仏を念ずることができないなら、無量仏よ、と称えなさい。」と。このようにしてこの者は心から声を絶やさぬようにし、十念を具えて、南無アミタ仏と称える。
仏の名を称えるのであるから、一念一念と称える中に、八十億劫の間かれを生と死に結びつける罪から免れるのだ。
観無量寿経3.30 (仏教)
明るく輝き、アグニよ、われらの罪を取り除き給え、そしてわれらの富を輝かせ給え。明るく輝き、われらの罪を取り除き給え。良き地、良き家、富のために、われらは汝に供物を捧げん。
明るく輝き、われらの罪を取り除き給え。アグニの征服の輝きが、あまねく四方に広がるように、明るく輝き、われらの罪を取り除き給え。汝の顔はあらゆる方に向き、汝はあらゆる処に行き渡る。明るく輝き、われらの罪を取り除き給え。
リグ・ヴェーダ1.97.1 ~ 6(ヒンドゥー教)
― み言選集 ―
神様が、私達人間が犯した罪をすべて赦してくださったのも、最後まで哀れに見る心があるからなのです。「お前はまだ罪人である」という心があれば赦してくれたでしょうか。そのように赦すことにより、すべてのものが一つになるということを、皆さんが知らなければなりません。
(41-333、1972.2.18)
大きく赦してくださるのも、その人の事情を100 パーセント分かるときに可能なのです。神様は、人間の事情を御存じなので、人間を赦してくださるのです。
(2-220、1957.5.26)
ある父母にとって、「あなたの息子が悔い改めても、犯した罪をもって常に子女を拒否できる父母になるべきであって、悔い改めたからといって赦してあげる父母になってはいけない」、そのような道理はないというのです。
ですから、サタンも、神様が人類を救援するそのような愛には讒訴できません。サタンは完全な位置に立っている人を天に讒訴できないのです。その人にはサタンが自然屈服するのです。その父母の愛を通しては、悔い改める者を赦せない道埋がありません。
(62-52、1972.9.10)
皆さんは、神様に対する私達の先祖の恥を知り、そのような先祖が歴史を通して恥ずかしく生きてきたことを知り、今日私達が生きるこの世界が恥ずかしいものであることを知りました。
この恥と罪を正せる道から離れて、神様に誇り得るものが何かあるのかというのです。それでは、誇ることができる私自身でしょうか。そのようにできずにいるのです。それは恥ずかしく、それほど罪の辱めを受けた子孫であり、その中で育ち、そのような立場にいた私には、神様の前に出ていく資格がないことを私達は知っています。
そのような私をその方が赦し、その方が喜ぶことができ、その方が恥ずかしさを忘れ、罪を抜け出すことができる道があるとすれば、私は何であってもできないことはない、という私自身になっているのかというのです。
(66-18、1973.3.11)
2. 浄化
― 宗教経典 ―
この日にあなた達を清めるために贖いの儀式が行われ、あなた達のすべての罪責が主の御前に清められるからである。
レビ記16.30 (キリスト教)
神よ、私を憐れんでください。御慈しみをもって。深い御憐れみをもって、背きの罪をぬぐってください。私の咎をことごとく洗い、罪から清めてください。
あなたに背いたことを私は知っています。私の罪は常に私の前に置かれています。あなたに、あなたのみに私は罪を犯し、御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく、あなたの裁きに誤りはありません。
私は咎のうちに産み落とされ、母が私を身ごもったときも、私は罪のうちにあったのです。あなたは秘儀ではなく、まことを望み、秘術を排して知恵を悟らせてくださいます。
ヒソプの枝で私の罪を払ってください。私が清くなるように。私を洗ってください。雪よりも白くなるように。喜び祝う声を聞かせてください。あなたによって砕かれたこの骨が喜び躍るように。私の罪に御顔を向けず、咎をことごとくぬぐってください。神よ、私の内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。
詩編51.3 ~ 12(キリスト教)
このように聞かれては、皇孫(すめみま)の朝廷をはじめ、全国に罪という罪はあってはいけないと、風の根源のところから吹いてくる風が天の雲を吹きはらうように、朝霧、夕霧を朝風、夕風が吹きはらうように、港にいる船の舳艫(へとも)を解き放ち大海原へおし放すように、また川向こうの繁った草木を鋭利な鎌ですっかり刈り取るように、のこる罪はないようにはらい清めたまわれて、その罪けがれを、高い山、低い山から落ちてくる早川の瀬におられる瀬織津姫神(せおりつひめのかみ)が海原へ持ち出される。
そのように持ち出されると、海原の潮のあいだにおられる速開都姫神(はやあきつひめのかみ)が、その罪けがれを大きな口をあけて、がっぷりとのみこまれる。そのようにのみこまれると、息を吹くところにおられる息吹戸主神(いぶきどぬしのかみ)が、「フウーッ」と吹きはなたれてしまう。そのように吹きはなたれると、根の国(底の国も同じ、海上のはるかな遠い国)におられる速佐須良姫神(はやさすらひめのかみ)が、それをなくされてしまう。そのようになくし失われてしまっては、朝廷の役人をはじめ天下四方の人々、また天下に罪はなくなると。
延喜式8(神道)
― み言選集 ―
太初から真の愛の理想の絶対基準を立てておき、あなた自らその理想に絶対服従されながら創造され、摂理される神様でいらっしゃいます。あらゆる濁り水やかすをすべて受け入れても、完全浄化する海のように、創造原則を外れた人間世界を完全な善に浄化される真の愛の絶対主体として、真の愛の相対世界のために、依然として摂理される神様でいらっしゃいます。
(400-80、2002.1227)
今、ひれ伏した多くの子女の心を、お父様! 聖別してください。各自の心霊ごとに聖別のみ手で役事してくださり、個々の心と体を、お父様、現してくださり、一つ一つ聖別し、正しくないあらゆる要素を除き、捨ててしまわなければなりませんので、お父様、自ら分別の主人公となってくださり、心情の主人公にもなってください。
(1-162 ~ 163、1956.7.11)
3) 贖罪
ある人が、罪を清算するために責任をもたない限り、罪は除去されない。これが贖罪の概念である。神様は法度の神様なので、神様の愛の対象は、愛を受けるにふさわしい価値のある存在にならなければならず、贖罪が必要である。
神様が犯罪に目をつむってあげたくても、サタンの讒訴が人間の罪を暴き出すので、サタンの讒訴は罪人をより一層苦境に立たせる。したがって、罪をきれいに清算し、完全な赦しと神様との紐帯に障害となるものを除去するために、何かの犠牲的行為が要求される。
キリスト教は、贖罪のためにイエス・キリストが十字架で犠牲になったと教える。これが究極的贖罪である。すなわち、罪のない人間が罪人たちを救うために死んだのである。十字架上でのイエス様の贖罪的死は、様々な状況で贖罪が成立し得るという、より大きな原則の一つの模範を見せたのである。
司祭が信徒たちの罪のために犠牲物を捧げたり、善の人が共同体の罪のためにその命を捧げたり、また愛国者が国家の祭壇に彼の血を流すなどがその例である。この場合のように、正義の個人の犠牲が大勢の人たちの罪を贖罪するようになる。
1. 贖罪の原理
― 宗教経典 ―
この世を治そうとされるとき、主なる神は、病にかかり苦痛を受ける者の中から義なる一人を治される。そして、彼を通してすべてを治される。しかし、その義人がそれによって苦痛を受けることはない。しかし、他の側の者たちは、誰よりも徳のある人たちに先に懲罰が下さらなければならないと考える。彼らは徳のある者の上に君臨するために、世を無視する者たちである。
ゾハール5.218a (ユダヤ教)
アロンは、自分の贖罪の献げ物のために雄牛を引いて来て、自分と一族のために贖いの儀式を行う。次いで、雄山羊二匹を受け取り、臨在の幕屋の入り口の主の御前に引いて来る。アロンは二匹の雄山羊についてくじを引き、一匹を主のもの、他の一匹をアザゼルのものと決める。アロンはくじで主のものに決まった雄山羊を贖罪の献げ物に用いる。くじでアザゼルのものに決まった雄山羊は、生きたまま主の御前に留めておき、贖いの儀式を行い、荒れ野のアザゼルのもとへ追いやるためのものとする。
アロンは自分の贖罪の献げ物のための雄牛を引いて来て、自分と一族のために贖いの儀式を行っため、自分の贖罪の献げ物の雄牛を屠る。次に、主の御前にある際壇から炭火を取って香炉に満たし、細かい香草の香を両手にいっぱい携えて垂れ幕の奥に入り、主の御前で香を火にくべ、香の煙を雲のごとく漂わせ、掟の箱の上の贖いの座を覆わせる。死を招かぬためである。次いで、雄牛の血を取って、指で贖いの座の東の面に振りまき、更に血の一部を指で、贖いの座の前方に七度振りまく。
次に、民の贖罪の献げ物のための雄山羊を屠り、その血を垂れ幕の奥に携え、さきの雄牛の血の場合と同じように、壇いの座の上と、前方に振りまく。こうして彼は、イスラエルの人々のすべての罪による汚れと背きのゆえに、至聖所のために贖いの儀式を行う。彼は、人々のただ中にとどまり、さまざまの汚れにさらされている臨在の幕屋のためにも同じようにする。彼が至聖所に入り贖いの儀式を行って、出て来るまでは、だれも臨在の幕屋に入ってはならない。
彼は、自分と一族のために、またイスラエルの全会衆のために贖いの儀式を済ますと、主の御前にある祭壇に出て来て、そのために贖いの儀式を行う。彼は雄牛の血と雄山羊の血の一部を取って祭壇の四隅の角に塗り、血の一部を指で七度祭壇に振りまいて、イスラエルの人々の汚れからそれを清め聖別する。
こうして、至聖所、臨在の幕屋および祭壇のために贖いの儀式を済ますと、生かしておいた雄山羊を引いて来させ、アロンはこの生きている雄山羊の頭に両手を置いて、イスラエルの人々のすべての罪責と背きと罪とを告白し、これらすべてを雄山羊の頭に移し、人に引かせて荒れ野の奥へ追いやる。雄山羊は彼らのすべての罪責を背負って無人の地に行く。雄山羊は荒れ野に追いやられる。
アロンは臨在の幕屋に戻り、至聖所に入るときに身に着けていた亜麻布の衣服を脱いでそこに置き、聖域で身を洗い、自分の衣服に着替え、外に出て自分の焼き尽くす献げ物と民の焼き尽くす献げ物をささげ、自分と民のために贖いの儀式を行う。また、贖罪の献げ物の脂肪を祭壇で燃やして煙にする。
アザゼルのための雄山羊を引いて行った者は、衣服を洗い、身を洗って後、初めて宿営に戻ることができる。至聖所のための贖いの儀式を行うために、その血を携え入れられた贖罪の献げ物の雄牛と雄山羊は、宿営の外に運び出し、皮、肉、および胃の中身を焼却する。この仕事に従事した人は衣服を洗い、身を洗って後、初めて宿営に戻ることができる。
以下は、あなた達の守るべき不変の定めである。第七の月の十日にはあなた達は苦行をする。何の仕事もしてはならない。土地に生まれた者も、あなた達のもとに寄留している者も同様である。なぜなら、この日にあなた達を清めるために贖いの儀式が行われ、あなた達のすべての罪責が主の御前に清められるからである。(注9)
レビ記16.6 ~ 30(キリスト教)
彼が担ったのは私達の病、彼が負ったのは私達の痛みであったのに、私達は思っていた「神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ。」と。
彼が刺し貫かれたのは、私達の背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、私達の咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、私達に平和が与えられ、彼の受けた傷によって、私達はいやされた。
私達は羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。その私達の罪をすべて、主は彼に負わせられた。
イザヤ書53.4 ~ 6(キリスト教)
― み言選集 ―
旧約時代は、イスラエル選民圏によって始まりました。旧約時代には祭物の血を流す儀式を通して自分たちが贖罪の道を求めてきたのですが、その根本を知りませんでした。神様が天地万物をつくられた主人ですが、神様が愛し得る神様のものなのに、これを二つに裂き、一方は神様の所有で、一方はサタンが所有するのです。そのために血を流さなければならないという内容を今まで知りませんでした。
(309-203、1999.5.30)
蕩減という言葉は何でしょうか。ある人が100 年間蕩減しなければならない罪を犯し、それをすべて払おうとすれば、その人間自体が生き残れません。その人を救ってあげるには、その人が100 年かけて蕩減しなければならないのですが、すべてはできず、また、その人ができずに死ねば何にもならないので、生きてできる最小限度の期間として、1年や、あるいは10 年の短縮を必要とするのです。
ここで神様はできる限り1年にしようとするのですが、サタンは10 年にしようとします。そのようになればどうなりますか。神様は、あなたの言うとおりにも、私の言うとおりにもできる道を模索しようと言います。
するとサタンも「イエス」と言うのです。このように、蕩減復帰するにおいても、サタンはたくさんのもので打とうとし、神様は小さなもので赦してあげようとするのです。このような闘いがあることを知らなければなりません。
原理的法度を主張するサタンの立場も正しく、原理的立場で主張する神様の主張も正しいのです。ですから、神様はここで人を中心として、サタンより神様をもっと愛することができる道を模索するのです。それが原理ではないですか。
(111-147、1981.2.10)
お父様を、お父様と呼ぶことのできない不肖なこの姿、大勢の預言者や聖人たちが積んできた血の祭壇によって贖罪されるようになった驚くべき恩賜を受けても、感謝することを知らない過去の生活をもう一度悔い改めながら、実績をもってお父様に捧げることができなければならないのですが、何ももたずに出てきたことをお赦しください。(注11)
(9-161、1960.5.8)
神様が今まで耐えて、世界的な発展をするときまで投入した、その犠牲のすべての与件は誰のためのものなのかというのです。それはアメリカのためでもなく、キリスト教のためでもなく、結局は「私」一人を救うためです。送ったメシヤを十字架で逝かせたことも、結局は、そのメシヤ自身のためではなく、国を救うためです。また再びこれを延長して、再臨という思想を中心として新しいキリスト教の体制を横的に拡大させ、世界的な範囲まで発展させて終末まで導いてこられた神様が、キリスト教を発展させた歴史も誰のためなのかといえば、「私」のためです。結論はすべて「私」に帰結するのです。
(77-47、1975.3.30)
霊界に行く人にも種類があります。自分の寿命どおりに生きて行く人と、自分の寿命どおりに生きられずに行く人がいます。自分の寿命どおりに生きられずに行く人にも、罰を受けて早く死ぬ人と、民族や世界の罪を蕩城するために早く死ぬ人がいます。
もしある町内で、指折りの30 代の若者が3人だけ死ぬようになれば、その町内には福が来るというのです。ある一族を例に挙げるなら、その一族から期待を受けた若者が、3人だけ死ぬようになれば、その一族には福が来るというのです。すなわち、蕩城を払わなければならないということです。どこでもそうなのです。因果法則はどこでも作用します。
神様が、1000 人の価値をもった一つの存在を中心的な立場に立てて、代わって死の道を行かせたとき、1000 人がその人の恩徳の前に感動して、その人を慈しみ、その人の生涯を見習い、その人のように生きるというようになれば、その民族は、その人と同じ恵沢圏内に入ってくるのです。人々が忠臣の思想を見習おうとし、聖賢の思想を見習おうとするのも、彼らと同じ恵沢圏内に入るためにそうするのです。
昨年も何人かが霊界に行きましたが、今年も何人かが霊界に行くでしょう。言いはしませんでしたが、先生は既にみな知っています。これはなぜそうなのでしょうか。一段階越えていくときには、必ず蕩減を払わなければならないためです。
(33-11、1970.7.28)
私達は、喪服を着て復帰の使命を果たす祭司長たちになるのか、あるいは祭官たちにならなければなりません。そうしてこの民族の代身として神様の前に過去を悔い改め、贖罪の祭祀を捧げられなければなりません。そのような祭祀を捧げるためには、祭司長にならなければならないので、皆さんは民族が試練の道を歩むとき、同参しなければなりません。これが神様に向かう原則です。ですから、今日皆さんは民族的な試練の道を行くときにおいで、自分個人のために行ってはいけません。
(13-265、1964.4.12)
2. イエス・キリストの犠牲による贖罪
― 宗教経典 ―
人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。
ローマの信徒への手紙3.23 ~ 26(キリスト教)
けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。なぜなら、もし、雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖なる者とし、その身を清めるならば、まして、永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、私達の良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。
ヘブライ人への手紙9.11 ~ 14(キリスト教)
私達が神を愛したのではなく、神が私達を愛して、私達の罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのように私達を愛されたのですから、私達も互いに愛し合うべきです。
ヨハネの手紙一4.10 ~ 11(キリスト教)
一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです。
ヘブライ人への手紙6.4 ~ 6(キリスト教)
― み言選集 ―
イエス・キリストがこの地に来られて果たすべき責任とは何だったかというと、神様の栄光を回復し、神様の愛を回復し、神様の生命を回復しなければなりませんでした。
ところが、ここに横たわっているものとは何だったかというと、罪というものでした。罪悪は万民が神様に栄光を返せないようにさせ、神様の愛を愛と感じられないようにさせ、天の生命を生命として感じられないようにさせ、永生の中心を立てられないようにしました。
(1-167、1956.7.11)
我々は十字架の代贖を「信ずる」というごく小さな蕩城条件を立てることにより、イエスと同一の死を経て再び生きたという条件を立てたとみなされて、救いの大いなる恩恵を受けるようになるのである。また、我々は数滴の水を頭の上から注がれ、洗礼を受けたという蕩減条件を立てることにより、イエスと聖霊によって重生したという立場を復帰することができるのである。このほかにも、聖餐式において一切れのパンと、一杯のぶどう酒をとるだけで、我々はイエスの聖体を食べたという、より大きな価値の恩恵を受けるのである。
原理講論、後編緒論1.1
キリスト教徒たちは、「全知全能で慈悲と愛に満ちた神様であるゆえ、千回、万回罪を犯しても赦してくださる」と言っています。そう言って教会で祈祷して出てくるやいなや、けんかをするのです。教会は、罪を犯してから悔い改める懺悔堂ではありません。それほど多くの罪を赦せる神様であるとするならば、エデンの園で一度犯した罪を、どうして赦すことができないのでしょうか。
しかし、天理の公法を破綻させた罪は赦されません。その罪が赦されるのであれば、宇宙の愛の法度は根本的に破綻し、愛のために創造されたこの世界は混乱に陥るのです。サタンが神様自体まで侵害したのに、それを赦すことができますか。できないので、再び修正し、復帰の歴史を経て堕落しなかったという基準を立てなければなりません。そして、この基準によってサタンを追放し、第二の理想的な人物を探し出さなければならないのです。神様は、このことをされるのに6000 年かかりました。
(19-161、1968.1.1)
4) 覚醒
悟りは無知の暗闇を除去することである。様々な異なる伝統において、究極的実在を認識する方法によって悟りは、内的知恵の直感的把握やみ言の真理による照明、あるいは超越的実在の直接的な理解として表現され得る。
一方、誤った思考といたずらな欲望によって曖昧になった真理自体が、悟りを通して突然現れることもある。世の中の生に汚されて見えなかった心の目が真の実在の光景を見て開かれるようになる。悟った人は、彼が得た知識によって新しい人生を始めるようになるが、その時の人生はその前と同じではない。
ここには、真理を認識する理性的悟りがある。神様のみ言に関する知識は心を目覚めさせ、無知の暗闇で失ってしまった道を明るく照らしてくれる。
文鮮明先生は、キリスト教の伝統に立ち、神様のみ言を生命に転換して教える。
二番目の項目の章句は、悟りを自我実現、人間の本性を発見する内的経験、または内面の神様の発見として記述している。これは、ヒンドゥー教と仏教の救いの経験を記述しているが、大部分の宗教でも普遍的なものである。これは心が開きながら途方もないエネルギーを受けるため、魂を揺さぶる経験にもなり得る。
誤ったすべてのものを吐き出すことによって悟った心は、神様の心の基準と一致するため、強力な関係を形成するようになる。文鮮明先生は、誰もが完全、または完成の道を行きながらそのような体験をするよう促す。先生は、いかなる概念による知識や信仰も、内面の神様の顕現の代わりにはなり得ないと教える。
最後に、霊的五官を開き、見えないものを見て、聞いて、感覚できるムーダン信仰の悟りがある。誰でも適切な訓練を経れば、このような知識と霊的エネルギーの根源に到達することができる。
1. 真の真理の光
― 宗教経典 ―
いまや真理は下り、虚偽は消えました。まことに虚偽はつねに消える定めであります。
クルアーン17.81(イスラーム)
イエスは再び言われた。「私は世の光である。私に従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」
ヨハネによる福音書8.12 (キリスト教)
あなたの御言葉は、私の道の光、私の歩みを照らす灯。
詩編119.105(キリスト教)
あなた達は真理を知り、真理はあなた達を自由にする。
ヨハネによる福音書8.32 (キリスト教)
聖なる師がみ言で明かりをともされた。これによって自我の前の暗闇が晴れ、宝でいっぱいの驚くべき部屋が大きく聞かれた。これを見つめると我々が驚いて体から墓れてしまうのだから、その壮麗さは言い表すこともできない。
アーデイ・グラント、ビラーワルM.5、p.821 (シーク教)
空虚を熟視して、真に静寂を守る。万物はどれも盛んであるが、私はそれらの無為をみつめる。もめは絶え間なく動き、休まない。しかし、それぞれのものは根源にもどってしまう。根源にもどっていくと静寂になる。静寂になるということは存在の運命にもどることである。存在の運命とは実在である。実在を知ることを開明と呼ぶ。
道徳経16(道教)
大徳よ、不可思議なり。大徳よ、未曾有なり。恰も倒れたるを起し、掩はれたるを開き、迷へるものに道を示し、眼あるものは色を見んとて闇中に燈火を運ぶが如く、世尊は諸の方便によりて法を説きたまへることや。
感興偈49(仏教)
み使いに下されたものをかれらが聞くとき、なんじらは、かれらが認めた真理のために、目に涙があふれるのを見よう。かれらは言う「主よ、私達は信仰します、私達を証人のうちに書きとめて下さい」。
クルアーン5.83 (イスラーム)
肉体においては視覚が善いものであるように、魂においては理性が善いものであり、それぞれ異なるものにおいてはそれぞれ異なる善いものがあるからである。
アリストテレスニコマコス倫理学1.6(ヘレニズム)
― み言選集 ―
堕落人間にとって、「知ること」は命の光であり、また蘇生のための力でもある。そして、無知は死の影であり、また破滅の要素ともなるのである。無知からはいかなる情緒をも生じ得ない。また、無知と無情緒からはいかなる意志も生ずることはできないのである。
人間において、知情意がその役割を果たすことができなくなれば、そこから人間らしい、人間の生活が開かれるはずはない。人間が、根本的に、神を離れては生きられないようにつくられているとすれば、神に対する無知は、人生をどれだけ悲惨な道に追いやることになるであろうか。
しかし、神の実在性に対しては、聖書をいかに詳しく読んでみても、明確に知る由がない。ましてや神の心情についてはなおさらである。それゆえ、この新しい真理は、神の実在性に関することはいうまでもなく、神の創造の心情をはじめとして、神が御自身に対して反逆する堕落人間を見捨てることができず、悠久なる歴史の期間を通して彼らを救おうとして心を尽くしてこられた悲しい心情をも、我々に教えることのできるものでなければならない。
原理講論、総序
今日の世界は、霊的な大覚醒が必要な時を迎えています。個人や国家、世界、すべてが神様の実存に対する新しい理解だけでなく、神様と人間が再び出会い、離れようとしても離れることができない本然の関係を再び取り戻さなければなりません。
(234-241、1992.8.22)
皆さんが目覚めてみると、私だけがいるのではなく、父母がいることが分かるでしょう。このように目覚めてその父母をつかんで涙を流すことができるその日を再臨の日というのです。目を開けてみれば、私の前には、人類が6000年間悲しんだ悲しみを身代わりに悲しまれた真の父母様がいらっしゃったということ、私を求めて6000 年をさまよわれた真の父母様がいらっしゃったということ、私が悲しむ前に、私に対して悲しまれた天がいらっしゃったということを分かるようになるのです。このように、歴史的な心情に胸を痛めたすべての事実が一日に展開するとき、初めて私は天に対して「お父様」と言うことができ、天は私に対して「息子」と言うことができるのです。
その日が正に最後の悟りの日です。その時は、歴史的な希望の心情とそれ以外の一切が私の一身の胸の中に入り込みます。したがって、その時の喜びは、神様の全体目的が成し遂げられたときに感じる喜びであり、そのときの感情は、人類が堕落せずに完成したときに感じられる感情なのです。
(6-155、1959.4.19)
2. 内的覚醒
― 宗教経典 ―
神我こそ万有なれ。祭祀なれ、苦行なれ、祈祷なれ、至高の甘露なれ。玄洞に匿れおるこのものを知る者は、友よ、此の世において無智の結節を断ずるなれ。
ムンダカ、ウパニシャッド2.1.10 (ヒンドゥー教)
そこには日も照らず、月も、星も、電光さえも輝かず。まして火をや。万物はこの自ら輝くものに映じて輝き、その光耀によりて燦然たり。主はあらゆるものにより反映した光である。彼が輝くとき、すべてのものが彼について輝く。
ムンダカ・ウパニシャッド2.2.10 ~ 11(ヒンドゥー教)
神は、天と地の光りであられる。かれの光りをたとえれば、ともし火を置いた、壁龕(へきがん)のようなものである。ともし火はガラスの中にある。ガラスは輝く星のよう、祝福されたオリーブの木からさす、東の産でもなく、西の産でもないこの油は、火がほとんどそれに触れぬのに、光りを放つ。光りの上に光りをそえる。神はおぼしめしの者を、かれのみ光りに導きたもう。神は人びとのために、比ゆをあげたもう。まことに神はよろずのことを知りたもう。
クルアーン24.35 (イスラーム)
喩えば、泥に塗(まみ)れし鏡面も、よく拭(ぬぐ)わん時は明るく輝くが如く、身主(霊)は自己の真性を観察することによって、その願望を成就し、無憂の独尊者となる。
シヴェーターシヴァタラ・ウパニシャッド2.14(ヒンドゥー教)
さて、アートマンは、これらの諸世界が混り合わないように防ぐ隔壁であり、境界線である。この隔壁を昼も夜も越えることはない。老も、死も、憂苦も、善い行為のみならず悪い行為も、それを越えることはない。一切の邪悪は、そこから引き返す。何故ならば、かのブラフマンの世界はあらゆる悪を絶滅しているからである。従って、この隔壁を越えるとき、盲目の者は盲目でなくなり、負傷した者は傷が癒え、病人は病人でなくなる。従って、また、この隔壁を越えるとき、夜は昼となる。かのブラフマンの世界は一瞬にして明るくなるからである。
チャーンドーギヤ・ウパニシャッド8.4.1 ~ 2(ヒンドゥー教)
六祖慧能は、恵明上座が彼を追ってきて、大庚嶺で追いついたので、恵明が来たのを見ると、すぐに法衣と持鉢とを石上に投げ出して言った、「この法衣は仏法の信の象徴である。力で争うべきものではない。持っていきたいなら勝ってに持っていくがよい」
そこで、恵明はそれを持ち上げようとしたが、山のように動かなかった。彼はためらい恐れおののいて言った、「私が来ましたのは、法(真理)を求めてです、法衣のためではありません。どうぞ行者(六祖)よいご教示いただきたい」六祖は言った、「善を思わず悪を思わず、まさしくそのようなときに、どれが明上座の本来の面目か」 恵明はすぐさま大悟して、全身に汗が流れた。涙を流して礼拝して問うて言った、「先ほどからの秘密の言葉と秘密の心のほかに、その上まだ何かありましょうか」六祖は言った、「私が今、君のために説いたのは、秘密ではない。君がもし自己の面目を照らし顧みるならば、秘密はかえって君のほうにある」(注14)
無門関23(仏教)
― み言選集 ―
堕落することによって、本心が狂ったのです。ですから、困灘があっても、どんなことがあっても、皆さんはほかのものを見て尋ねるなというのです。良心に尋ねてみるのです。祈祷するとき、漠然とするのではありません。神様が下さった本心をもっているので、その貴いものと一つにならなければなりません。この本心と一つになるとき、自分の一身のすべてのものが分かるようになっています。
ですから、心田啓発や本心の門を合わせなければなりません。このような心田啓発が本性啓発なのです。生活の中でそれを中心として進んでいこうとすれば、霊界に対してはっきりと知らなければなりません。
(307-216-217、1998.11.21)
現在、皆さんが接している師や、彼が教える基準が、皆さんに神様と永遠な関係を結ばせられないという事実を、皆さんは悟らなければなりません。したがって、皆さんは本心を求め、心の耳を通して天倫の呼ぶ声を聞き、心の目を通して神性を見て、心の触感を通して天の心情を感じなければなりません。そのようにできなければ、皆さんは、経てきた6000 年の歴史過程を、そのまま再び反復せざるを得ません。
今まで私達は、真に貴いものは天だけだと思っていたのですが、気づいてみれば、私達の心もそれに劣らず貴重だというのです。これを悟り、神様に相対できる高い価値基準を立てる皆さんにならなければならず、心の核心を求める皆さんにならなければなりません。そのような皆さんになれなければ、皆さんは天倫の前に立てません。
皆さんは、今日まで自分なりに誠実な信仰生活をしてきたと思うかもしれませんが、「皆さんは、果たして誇る何かをもっていますか」と反問すれば、「私は誇るものをもっている」と自信をもって答える人は多くないでしょう。たとえ皆さんの中で天に誇る何かをもっている人がいるとしても、神様は本心を通してそれを誇ることを願っていらっしゃいます。このように、皆さんが天倫に代わって、永遠の理想を立証できる哀れみの心で考え、生活すれば、皆さんは、絶対に外れた道に行かないでしょう。
今日、信仰生活をしている人たちは、よく観念的な世界とそのような相手から慰安を受けようとしています。しかし、たとえ堕落したとしても、人間は元から永遠の天性と通じる性粟をもっていて、各自の心の中には、創造理想の要素をもっているのです。
したがって、人間は罪悪を脱いで完成し、神様と一体となり、無限に喜びの生活をすることができるのです。このような事実を、今日の信仰者たちは知ることができずにいます。
私達が祈祷する目的、あるいは仏教徒たちが座禅を通して無我の境地を求めていく目的は何でしょうか。それは心の核心となり得る要素を悟らせようというのです。
(2.192 ~ 193、1957.5.19)
釈迦牟尼は「天上天下唯我独尊」と言いました。そのようなことはどこで教えられるのでしょうか。その共鳴の真ん中に入っていけば、神様と一体になるのです。その点では千年、万年の歴史を見抜くことができます。そのような価値があります。
人間として墓地に移されていく悲惨な人生の末路を見つめながら、互いに悩む人間の生涯を繰り返す苦痛の境地をどのように脱出するかという……。これが各自に与えられた宿題です。それを解決するためには、その共鳴圏に入っていく訓練を受けなければなりません。
(223-357、1991.11.20)
心と体が対等なために闘うのです。ゆえに体を弱くすることにより心が勢力を得て、弱くなった体を数ヵ月間引っ張って越えていくようになれば、体を再び上げようとしても上がってこられないように習慣化され、その次からは心がしようというとおりにせざるを得なくなるのです。このようにつくっておけば、自分が計画するすべてのことが天の助けによって、うまくいくことを体験するようになります。このようになれば、そのままにしておいて、「元に戻れ」と言っても戻ることができないために、良心を主として一つの絶対的な立場で生涯を結んでいくようになるのです。これが宗教生活の目的です。
(38-270 ~ 272、1971.1.8)
3. 第3の目が開かれる
― 宗教経典 ―
私は、目が見えず、この世の事物を見ることができない。しかし、上から光がさしてくるとき、それは私の心を目覚めさせる。心の目であらゆるものを見るのだから、私は見ることができるのである。
そして、このような洞察力を通して、私は私の足らないことを埋めることができるのである。心は、その中心に小さな空間がある一つの聖なる所である以上、そこには偉大な霊がとどまっている。そして、心は目である。これは偉大な霊の目であるが、それによってその方はあらゆるものを見て、それを通して私達はその方を見る。もし心が純潔でなければ、私達はその偉大な霊を見ることができない。
ブラックエルク族(アメリカ先住民の宗教)
悟りは、シャーマンが感じる神秘な光によって成される。シャーマンは、突然彼の体で、頭で、頭脳の中で、不可解な探索のひらめき、輝く光を感じる。
なぜかというと、彼は今、目を閉じていても、暗闇の中で事物とほかの人には隠された、すぐに起きる出来事を見ることができ、知覚できるからである。そのため、シャーマンは、未来と人の秘密を見ることができる。
シャーマンの候補者は、彼の小屋の椅子に座っで霊魂を呼び、長い時間待ったあとに、この神秘な光を感知できる。彼がそれを最初に経験するとき、それはまるで彼のいる家が突然立ち上がるかのようである。
正確に言えば、まるで大地が巨大な平原のように彼は山を見通し、彼の前を遠くまで見る。それで、彼の目は、地の果てを見ることができる。これ以上何も彼に隠されたものはない。彼は、遠くにあるものを見ることができるだけでなく、遠い異国に隠れていたり、死んだ者の地に上がっていったり、送り出されたりした霊魂、盗まれた霊魂を探し出すことができる。
イグルーリク・エスキモー族、シャーマンの教え(アメリカ先住民の宗教)
― み言選集 ―
聖書に出てくる黙示録のようなものは、何でもありません。先生が霊界を知っているので、李相軒氏を霊界に送り、世界の人々を短時間のうちに復帰するために、霊界の実相を報告させたのです。
これを事実として信じるようになれば、この人類はあっという間に自分の行く道をすべて整理し、峠を越えていくようになります。ところが、これを信じることができる本性の心性が啓発されていないので、心と体が一つに共鳴しないのです。
そのような人は、肉身が見る世界しか分からず、霊界を知りません。五官を超えて十官を啓発し、神様と共に直接的な関係、真の愛と関係を結んでこそ共鳴するのであって、自分たちの愛では駄目です。堕落した愛は破壊です。暗いのです。その愛は、行えば行うほど暗闇に埋もれ、絶縁体がくっつけば電気を通さないようにするのと同じようになるのです。
(399-220、2002.12.24)
堕落人間は宗教により霊と真理をもって(ヨハネ4・23)その心霊と知能とをよみがえらせ、その内的な無知を打開していくのである。さらに、真理においても、内的な無知を打開する宗教による内的真理と、外的な無知を打開する科学による外的真理との二つの面がある。
したがって知能においても、内的真理によって開発される内的知能と、外的真理によって開発される外的知能との二つの面がある。それゆえに、内的知能は内的真理を探りだして宗教を起こし、外的知能は外的真理を探りだして科学を究明していくのである。
神霊は無形世界に関する事実が、霊的五官によって霊人体に霊的に認識されてのち、これが再び肉的五官に共鳴して、生理的に認識されるのであり、一方真理は、有形世界から、直接、人間の生理的な感覚器官を通して認識されるのである。したがって認識も、霊肉両面の過程を経てなされる。
人間は霊人体と肉身が一つになって初めて、完全な人間になるように創造されているので、霊的過程による神霊と肉的過程による真理とが完全に調和され、心霊と知能とが共に開発されることによって、この二つの過程を経てきた両面の認識が完全に一致する。
またこのとき、初めて人間は、神と全被造世界に関する完全な認識をもつようになるのである。このように神は、堕落によって無知に陥った人間を、神霊と真理とにより、心霊と知能とを共に開発せしめることによって、創造本然の人間に復帰していく摂理をされるのである。
人間は神のこのような復帰摂理の時代的な恩恵を受け、その心霊と知能の程度が、歴史の流れに従って漸次高まっていくのであるから、それを開発するための神霊と真理もまた、その程度を高めていかなければならない。
それゆえに、神霊と真理とは唯一であり、また永遠不変のものであるけれども、無知の状態から、次第に復帰されていく人間に、それを教えるための範囲、あるいは、それを表現する程度や方法は、時代に従って異ならざるを得ないのである。
原理講論、人類歴史の終末論5.1
5) 解放
世俗的な欲望と執着の鎖から抜け出した人たちが経験する霊的自由が解放である。それは個人の外的環境と関係なく起こり得る自由の内的経験である。安楽で富裕な人生を生きる人は、欲望、耽溺、悪い関係の悲惨な束縛に陥るが、聖人は監獄でも自由である。キリスト教の経典は、キリスト教徒の自由に関する相対的経験を語っている。
しかし、自由は個人を超える。イエスは罪人たちの解放と自由の王国に対して語った。人が愛と献身する精神で生きるとき、互いに自由になれる。家庭と社会のすべての構成員たちが神様を中心とする人生の内的自由を楽しめば、彼らは自由に生き、自由に行動できるだろう。
したがって、文鮮明先生は、人を解放することも、私達自身の自由の領域を広げることであると教える。解放は、社会、国家、世界、そして神様の領域まで拡大されなければならない。ユダヤ教のカバラ教理は、あらゆる事物に宿っている「神の火花」を解放させることに関して記述しているが、この火花が起きて神様と再び結合するという。
文鮮明先生は、人間の苦痛と抑圧は神様を悲しみと苦痛の鎖に結びつけるため、神様の解放は人間の解放にかかっていると教える。人間の解放は神様を解放することであり、神様が解放されたとき、人間も真の自由を得ることができる。
1. 内的自由の状態
― 宗教経典 ―
内に幸福あり、内に楽しみあり、内に光明あるヨーギンは、ブラフマンと一体化し、ブラフマンにおける涅槃に達する。
バガヴァッド・ギーター5.24(ヒンドゥー教)
世間における諸々の欲望を超え、また克服しがたい執著を超えた人は、流されず、束縛されず、悲しむことなく、思いこがれることもない。
スッタニパータ948 (仏教)
この高くしてしかも低きもの(梵)を照観する時は、人の心臓の結節は断たれ、一切の疑団は解け、業因もまた亡ぶ。
ムンダカ・ウパニシャッド2.2.8 (ヒンドゥー教)
そうせよ、自由を得たあのバラモン、彼の人生は楽しい。五欲楽が彼を汚すことはないのだから、束縛を抜け、わき上がる煩悩を寝かせ、心の中の苦悩を通し、一切の障害を避けた。心の静けさを得た者の人生は幸福だ。
阿含経増支部1.137(仏教)
あなた自身を開放し、自由な空間を創り出せ。縛られたる者をその縄目から解き放て。生まれたばかりの子供の様に、胎より解き放たれ、いかなる道へも自由に進め!
アタルヴァ・ヴェーダ6.121.4(ヒンドゥー教)
ここでいう主とは、“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。
コリントの信徒への手紙二3.17(キリスト教)
一切の業の汚れから抜け出た霊魂は、すぐさま上に上がっていき、宇宙の究極に至る。業の鎖が一瞬で断ち切られ、あらゆる執着から抜け出し、上へと上昇する本来の性質に自らをゆだね、高く上がっていく。
解脱した霊魂は、あらゆる存在の様態を覆いかぶせ、四方八方に広がったカルマの襲撃から逃れ、上へと上昇する自らの本質を発現し、最後には宇宙の究極に至る。
ラトナカランダシーラヴァカ・アーチャーラ10(ジャイナ教)
風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。
ヨハネによる福音書3.8 (キリスト教)
その人の汚れは消え失せ、食物をむさぼらず、その人の解脱の境地は空にして無相であるならば、かれの行く路(=足跡)は知り難い。空飛ぶ鳥の迹の知りがたいように。(注15)
法句経93(仏教)
心の主の命を抱いた者は
真実に生きるジーヴァン・ムクト
(生きた解脱者)と言う。
彼には楽しさと悲しさに違いがなく、
黄金と一握りの土に違いがなく、
甘露と毒薬もまたそうである。
名誉と不名誉に違いがなく、
卑賤な者も尊貴な者もまたない。
ナナークが言うに、そのように行う
者は真実にジーヴァン・ムクトと言う。
アーディ・グラント、ガウリー・スクマニー9 M.5p.275(シーク教)
― み言選集 ―
宗教では、今日の人間世界は神様が解放した解放圏内に立ったものではなく、かえって反対の悪魔サタンによって堕落した世界、すなわち拘束された世界にいるとみます。統一教会もそうであり、既成教会もやはりそのようにみます。
私達人間は、何か分かりませんが、今まで拘束されてきたことを知っています。ですから、皆さん自身にとっても、皆さんの心と体が闘っていることを知っているのです。本来、人間がこの二つが闘う人間として生まれたとすれば、人間には人格や人間完成、人間解放という名詞は絶対不可能なことです。
(85-227、1976.3.3)
祝福を受けて良い道に従っていってみれば、真の愛の味を知るようになり、その喜びに深く入っていけば、神様を知るようになるのです。心と体がその道を行けば一つになるので、一つになった中で感じる味が何かというと、神様に対する実存を感じるのです。どのように感じるのでしょうか。今までの心と体の闘争がとまり、昔、自分第一主義で生活していたことが完全になくなり、神様が願う生活をするようになります。
相対のために、全体のために犠牲になるというこのような観点に立つことによって、そこで真の愛が永遠に継続するので、天上世界の神様の喜びが私の生活の中で現れるようになり、以前には感じることができなかった満足、幸福感と全体内容が関係を結ぶことによって解放された私自身を発見するようになります。
(329-301 ~ 302、2000.8.11)
体はその終わりがあります。しかし、心は終わりがありません。ですから、心の世界は何かの観がありません。宇宙観とか何かというものがないのです。さらには、心よりもっと大きいものは心情の世界です。心情の世界においてもやはり同じです。心情の世界は制限も受けません。心の世界は制限を受けます。心は相対的な条件いかんによって制限を受けますが、心情の世界は制限する者がいません。父母が子女を愛する心を何か制限できますか。いくら泰山のような障壁が前をふさいでも、くじくことはできません。
天の希望とは何でしょうか。終わりの日にイエス様が来られたなら、「天国はあなたの心にあり、天国はあなたの心情から成し遂げられる」と語られるでしょう。「心にある」ということだけでできるのではなく、「心情から成し遂げられる」と結論を下さなければなりません。
(7-246、1959.9.20)
「主の霊のあるところには、自由がある」(コリントⅡ 3・17)と聖書に記録されているのですが、今日、自由の神様であり、解放の神様であり、統一の神様であられる私達のお父様に侍って暮らす皆さん自身の心情に、いかなる試練も超越できる自由の心情がどのようにすれば宿るのかということが問題です。このすべての試練の障壁を越えていくことのできる解放の基点はどのように見いだされるのか、私達の理念の中心が願う統一された安息の時間はいつ見いだされるのか、ということが、皆さんが考えるべき重要な問題です。
いまだに神様も自由な立場にいらっしゃることができず、解放の立場にいらっしゃることができず、統一の位置にいらっしゃることができないので、今日のこの地で自由を叫んでいますが、その自由は私達が享受すべき真の自由になれないのです。解放を主張していますが、その解放は完全な解放ではありません。統一を主張していますが、その統一もやはり、完全な統一ではありません。
人類社会は、氏族から始まり、部族、民族を経て国家として統一してきましたが、そのような部分的な統一は、本当の統一ではないというのです。神様のみ旨がそうであるゆえに、神様によってつくられた私達も、私達が願う完全な自由、私達が願う完全な解放、私達が願う完全な統一は、神様が自由であり、神様が解放と統一の主人公になる日が来てこそ、成し遂げられるのです。
したがって、神様の自由と解放と統一が、正に人間が願う自由と解放と統一の基準だということを、私達は論理的な見地から否定できません。中世のキリスト教が、神様の理念を中心として、神様の心中と通じることができる自由の立場や統一された立場にいたなら、この地に革命や革新という名詞は必要なかったでしょう。
キリスト教が神様を中心として完全な自由と完全な解放と完全な統一が成し遂げられたその基準をもつことができなかったために、自由と解放と統一の動きが外的世界に移されたのです。これが、今日私達が言う文芸復興運動だったのです。
(4-316 ~ 317、1958,10.12)
2. 宇宙的解放
― 宗教経典 ―
イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。
「主の霊が私の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主が私に油を注が れたからである。主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」イエスは巻物を巻き、係の者に返しで席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。
ルカによる福音書4.16 ~ 21(キリスト教)
被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。
被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、私達は知っています。被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいている私達も、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。
ローマの信徒への手紙8.20 ~ 23(キリスト教)
神が世をつくり、滅ぼされるとき、聖霊の火花が落ちていく。人はその火花を引き上げて浄化させ、石から植物、植物から動物、動物から話す存在まで引き上げる。世という殻(注17)の中に閉じ込められてしまった聖霊の火花を浄化させなければならない。これがイスラエルの中で、互いに向かって奉仕するという意味である。
石、植物、他の被造物の中にあるあらゆる火花は、四肢と筋が完全に連結された完璧な姿だという。しかし、石や植物にあるときは、この状態は正に地獄と同じだ。手足を伸ばすことも、話すこともできず、頭が膝に当たって不自由な状態だ。
ただ霊的な善の力をもった者だけが、この聖霊の火花を、引き上げ、石から植物に植物から動物に、動物から話す存在にまで引き上げるのである。そうして、これらに自由を与えるのである。これは、いかなる捕虜を釈放することよりもはるかに偉大なことだ。
まるで王の息子が捕虜から解かれ、父のもとに戻るのと同じである。主人がもつ僕、動物、道具は、すべて主人の根に属する火花を備えている。これらは主人によって本然の状態に戻されることを期待する。
世の万物は、彼らの中に閉じ込められた聖霊の火花が再び主人によってよみがえり、再び主人のそばに行くことを期待する。人は、それらを食べ、飲み、使う。それらは万物の中にいる火花だ。したがって、人はその中に閉じ込められた火花のために道具と所有物を大切に扱わなければならない。聖霊の火花を大切にしなければならない。
天のためにすることが、天に使えることそれ自体になるようにせよ。ゆえに食べ物を食べるときも、神に仕えようと私が力を出すために食べると言ってはならない。もちろん、これも善なる意図だが、真の完成は行為自体が天に向かうときに可能だ。ここから聖霊が起き上がる。
聖霊が世のすべてにいるとき、世のいかなるものも、空いているものがない。人のあらゆる行動の中には、さらには人が犯す罪の中にも、天の栄光の聖霊の火花がある。それでは、罪の中にいて待っている火花とは何か。それは回心(悔い改め)の火花だ。罪によって回心するその時に、その中にあった火花はより高い世に上がっていく。
バアル・シェム、トーヴ(ユダヤ教)
― み言選集 ―
解放は、邪魔になっていたすべてのものが順応する自由還元運動ができる世界になったということです。上も下も、左右も、前後も、すべて平等な価値で方向をとり、角がなくなった丸い統一的世界になったということです。その日には、おじいさんも喜び、おばあさんも喜び、けんかしていたお父さんも喜び、不平を言ってえんえんと泣きながらけんかしようとしていたお母さんも喜び、それから息子、娘、孫がいて、百人、千人、万人、国にいるすべての人が万歳を叫ぶのです。
(341-161 ~ 162、2001.1.1)
北朝鮮を解放することが簡単なことですか。そのように大ざっぱな計算でできると思いますか。とんでもないことです。北朝鮮を解放する前に、あなた自身が解放されたのか、問うてみなければなりません。個人、家庭、氏族、民族、国家、5段階を越えたその場で南北解放を語ることができるのです。
(187-126、1989.2.5)
この地上が、この天地がこのような蕩減の路程によってすべて遮られ、方向が交錯して下が上になり、上が下になった立場となり、一つにならなければならないすべての万物が、歴史過程を経て完全に裂かれ、粉々に分立されたのです。
そして、真の父母がこの地に現れ、このすべての事実を神様が創造されたとおりに再創造する道を経てきました。虫のようなごく小さなものから、鉱物から、植物から、動物から人間世界、天上世界まで、その分かれたすべてのものを結ぶための再創造の苦労を、またこれらを埋め合わせるための苦労を宗教圏やイスラエルの国を中心として、歴史的な先祖を通してなしてきたということを知っております。
神様の創造理想の愛を中心として失ってしまったものを再び取り戻し、鉱物世界から植物世界、動物世界、人間世界、天上世界、神様と真の父母が一体圏を成し、天上と地上に自主的な権限を行使することができる本然の解放的創造主の創造理想家庭において天地父母が一体となられ、今から天上世界と地上世界が一つの世界へと統一化できるように指導してくださることを懇切にお願い申し上げます。
(407-24 ~ 26、2003.5.4)
歴史を通じて、人間は、自分たちの解放と救援を求めて叫んできたのですが、それでは、神様の状況はどうでしょうか。神様は、解放が必要なく、常に喜びに酔っていらっしゃる方ですか。歴史的に罪と苦痛の中で呻吟する人間の姿を見つめてこられた父母として、神様の心情が解放の喜びを享受できたでしょうか。
決してそのようにはできません。地上と天上に理想家庭と理想天国が成される、その程度によって神様の心情も解放され釈放されるのです。そのようになって、初めて人間も真の愛の家庭生活を通して解放、釈放されるようになり、万物もまた、そのような人間を通して解放、釈放され、さらには霊界も解放されるのです。
(447-140、2004.4.30)
神様の救援摂理の究極的な目的は、個体救援を越えて家庭、氏族、民族、国家、世界だけでなく、地獄まで解放させ、霊界まで救援するのです。そうでなければ、神様が解放されないからです。神様の完全な救援摂理の目的が成し遂げられれば、すなわち地獄を経て霊界までも解放させれば、神様の愛を中心として、「私のみ旨をすべて成し遂げた。賛美せよ。私の愛の主管世界として一つの世界となって前進するのである」と祝福できる理想的完成の宣布の日をもつのです。
(114-78、1981.5.17)
6) 空、涅槃
仏教で言う内的平和の究極的状態である空、すなわち涅槃は、自我、熱情、そして欲望がない状態である。それは、思考や言語、認識のいかなる知的概念も越えた状態である。しかし、逆説的にこの空には充足さ、大胆さ、悟りがある。それは、説明が不可能な神秘で驚くべき状態である。
文鮮明先生は、空の状態を「零点」と呼ぶ。先生は、空の神秘的な感覚を、この世を創造するときに空虚な空の状態にいらっしゃった神様との共鳴関係で説明する。文鮮明先生は、人のために奉仕することによって、自分を空にする積極的な方法を教える。自分を差し出すこと、人のために生きること、与えるのが困難なときにも与えること、このような実践が瞑想と同様に零点に導くのである。
― 宗教経典 ―
「一切の事物は我ならざるものである」(諸法非我)と明らかな智慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
法句経279 (仏教)
道を体得した人は名声が聞こえず、至上の徳を備えた人は徳と呼ばれるものを持たず、大人は無我である。
荘子17(道教)
利己心のある所にあなたがいることはできず、あなたのいる所に利己心はない。
アーディ、グラント、マールー、キ・ヴァールM.1、P.1092 (シーク教)
トーラーは「自己」を主張しない者と共にある。
タルムード、ソーター21b (ユダヤ教)
高い天界の平野は、ここ、またはあそこにある特別な場所ではなく、何かの変則や過分もない純粋な状態を指す。人の体で言えば、それは思いと情熱のない心の中の状態だ。
忌部正通神代巻口訣(神道)
此、寂静なり、此、殊妙なり。謂く、一切行の寂止、一切依の定棄・愛尽、離貪・滅尽・涅槃なり 。
阿含経増支部v.322 (仏教)
師は答えた、「ウパシーヴァよ。あらゆる欲望に対する貪りを離れ、無所有にもとづいて、その他のものを捨て、最上の〈想いからの解脱〉において解脱した人、かれは退きあともどりすることなく、そこに安住するであろう。
「たとえば強風に吹き飛ばされた火炎は滅びてしまって(火としては)数えられないように、そのように聖者は名称と身体から解脱して滅びてしまって、(存在する者としては)数えられないのである。」
「滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。かれを、ああだ、こうだと論ずるようすが、かれには存在しない。あらゆることがらがすっかり絶やされたとき、あらゆる論議の道はすっかり絶えてしまったのである。」(注20)
スッタニパータ1072 ~ 76(仏教)
すでに(人生の)旅路を終え、憂いをはなれ、あらゆることがらにくつろいで、あらゆる束縛の絆をのがれた人には、悩みは存在しない。その人の汚れは消え失せ、食物をむさぼらず、その人の解脱の境地は空にして無相であるならば、かれの足跡は知り難い。空飛ぶ鳥の迹の知りがたいように。御者が馬をよく馴らしたように、おのが感官を静め、高ぶりをすて、汚れのなくなった人、このような境地にある人を神々でさえも羨む。
大地のように逆らうことなく、門のしまりのように慎み深く、(深い)湖は汚れた泥がないように、そのような境地にある人には、もはや生死の世は絶たれている。正しい智慧によって解脱して、やすらいに帰した人、そのような人の心は静かである。ことばも静かである。行ないも静かである。何ものかを信ずることなく、作られざるもの(=ニルヴァーナ)を知り、生死の絆を断ち、(善悪をなすに)よしなく、欲求を捨て去った人、かれこそ実に最上の人である。
法句経90、94 ~ 97(仏教)
シャーリプトラよ、この世においては、物質的現象には実体がないのであり、実体がないからこそ、物質的現象で(あり得るので)ある。実体がないといっても、それは物質的現象を離れてはいない。
また、物質的現象は、実体がないことを離れて物質的現象であるのではない。(このようにして、)およそ物質的現象というものは、すべて、実体がないことである。およそ実体がないということは、物質的現象なのである。これと同じように、感覚も、表象も、意志も、知識も、すべて実体がないのである。
シャーリプトラよ。この世においては、すべての存在するものには実体がないという特性がある。生じたということもなく、滅したということもなく、汚れたものでもなく、汚れを離れたものでもなく、減るということもなく、増すということもない。
それゆえに、シャーリプトラよ、実体がないという立場においては、物質的現象もなく、感覚もなく、表象もなく、意志もなく、知識もない。眼もなく、耳もなく、鼻もなく、舌もなく、身体もなく、心もなく、かたちもなく、声もなく、香りもなく、味もなく、触れられる対象もなく、心の対象もない。眼の領域から意識の領域にいたるまでことごとくないのである。
(さとりもなければ、)迷いもなく、(さとりがなくなることもなければ、)迷いがなくなることもない。こうして、ついに、老いも死もなく、老いと死がなくなることもないというにいたるのである。苦しみも、苦しみの原因も、苦しみを制することも、苦しみを制する道もない。知ることもなく、得るところもない。それ故に、得るということがないから、諸の求道者の智慧の完成に安んじて、人は、心を覆われることなく住している。心を覆うものがないから、恐れがなく、傾倒した心を遠く離れて、永遠の平安に入っているのである。過去・現在・未来の三世にいます目ざめた人々は、すべて、智慧の完成に安んじて、この上ない正しい目ざめを覚り得られた。
般若心経(仏教)
南伯子葵が、女JPにたずねた。「あなたは、ずいぶん年をとっておられるようだが、顔色はまるで子どものように若々しい。何か秘訣でもあるのだろうか」。すると、女JPは答えた。「それは、私が道を聞くことができたせいだよ」。「道というものは、学んで知ることができるものだろうか」。女JPは答えた。「ああ、それはむりだよ。少なくともお前さんはそれができる人ではないよ。あの梁倚という人物は、聖人の素質をそなえてはいるのだが……かれに聖人の道を告げてやった。するとかれは、三日目には天下の存在を忘れる境地にはいることができた。
さらに見守っていると、七日目には物の存在を忘れることができるようになった。さらに見守っていると、九日目には自分が生きていることを忘れるようになった。生を忘れるようになってから、ついで朝徹の境地――朝の大気のように澄みきった境地にはいるようになり、朝徹についでは見独の境地――おのれだけがあって対立者のない境地にはいるようになった。
見独についでは古今の時間を超越する境地に達し、古今の時間を越えると、ついに不死不生の境地にはいることができるようになった。すべて生きているものを死滅させる変化の道理は、それ自体としては死滅することがない。生きているものに生命を与える造物者は、それ自体としては生成するということがない。
つまり生滅の背後にある道は、生滅を越えたものである。この道は、去ってゆくものは去ってゆくままに送り、来るものは来るままに迎え入れる。滅びゆくものは滅びゆくままにまかせ、生じてきたものは生じてきたままにまかせる。要するに、すべてをあるがままにゆだねるのである。この道のありさまを名づけてe寧という。e寧というのは、みずからはeんじて静止しながら、万物を生成することである」。
荘子6(道教)
大いなる道は難しくない、選り好みをしなければよいだけだ。愛も憎しみもなければ、すべては明瞭で、隠されたものとてない。だが、ほんの僅かな区別でもすれば、天と地は無限に離れる。だから、真理を見たいと願うなら、いいとか、駄目だとかの意見をもたぬことだ。
好きと嫌いの葛藤、これが心の病だ。物事の深い意味が分からぬうちは、心の平安はいたずらに乱される。道は大いなる虚空のように完全だ。足りないものも、余計なものもない。しかり、いいとかいけないとか選び好みをするばかりに、本当の姿が見えないだけだ。
外側の物事のもつれの中にも、内側の空無の中にも住んではいけない。穏やかに、何を求めるでもなく、大いなる一体性の中にとどまるがいい。そうすれば、誤った物の見方は自ずから消えよう。静寂を得ようとして、行動を抑えてみても、まさにその努力が、かえって人を行動で満たす。
どちらか一方の極端にいるかぎり、決して一体性を知ることはできない。このただひとつの道に住まぬかぎり、行動することにも静寂を得ることにも、断定することにも、否定することにも失敗しよう。
物事の実在を否定すれば、そのことの真実を見逃すことになる。物事の空虚を主張すれば、また、そのことの真実を見逃すことになる。それについて語り、また考えるほど、真理から遠く離れる。語り、かつ考えることをやめるがいい。
そうすれば、知り得ぬことなど何ひとつない。根源に帰れば、意味を見出す。だが見かけを追えば、源を失う。内なる光明の時、見かけと、空をともに超えて行くものがある。この空なる世界に現れる見かけの変化を、現実と呼ぶのは、ただ無知なるが故だ。真理を求めることはない。ただ、意見を持つことをやめるがいい。ああだ、こうだの状態に止まっていてはならない。そのような営みを心して避けなさい。
あれとこれ、是と非の跡かたでもあれば、心は混乱の中に失われる。あらゆる相補性は、絶対の一から来るとはいえ、その一にも、囚われてはならない。この道の中で、心乱されずにあれば、世の何事にも害されることはない。物事に害されることがなければ、それは、もはや、昔のそれではない。分別の思いが起こらなければ、昔の心はもはやない。
ただ、物事をして、あるがままにあらしめなさい。
そうすれば、来るものもなく、また去るものもない。
物事の自然と己の自然に従うがいい。
そうすれば、遮る物なく、自由に歩むことができる。
思いが囚われの中にあれば、真理は隠れる。
あらゆるものがぼんやりと暗く、はっきりしないからだ。
面倒な判断作業は、厄介や疲労をもたらすのみ。
区別し、分け隔てすることに何の益があるのか。
このただ一つの道を、歩みたいなら、感覚と想念の世界も嫌ってはいけない。
愚か者は、自ら足かせをする。存在するのは、唯一、法、真のみ。区別は、ただ無知なる執着の故に起こるだけだ。想いがどんな区別もしなければ、万物は、そのあるがままで、ただ一つの精髄の顕れになる。この精髄を理解することが、あらゆる混乱からの解脱だ。
一切が等しく見えるとき、永遠の自己に到達している。そこは比較も比喩も不可能な、因果の絆の断たれた所だ。このような究極の地には、どんな規則も描写も当てはまらない。道に遊ぶ、一つになった心において、利己心の努力はすべて止む。疑いと不決断は消え、信を生きることができる。一撃の下にくびきは断たれて、一切は止まることなく流れ、また記憶する者もいない。
すべては空にして明瞭、心力を労することなく、自ずから光明を放っている。ここではもう、思考も、感情も、知識も、想像力も何の価値もない。このような「如」の世界には、自己もなく、また自己でないものもない。この実在とただちに調和するためには、疑いが起これば、ただ「二ではない」と言うがいい。この「不二」の中で、何一つ分離されるものもなく、また排除されるものもない。時と所は問題ではない。光明を得るとは、この真実相に入ることだ。
この真理は、時空の大小を超えている。そこでは、一瞬の想いと、万年の長さに違いはない。ここも空、そこも空、だが、無限の宇宙が常に眼前にある。無限大と無限小に何の違いもない。定義は消え、境界はもうないからだ。存在と非在もまたその通り。疑いと、議論に時を浪費してはならない。
そんなことは、この実在とは何の関係もない。一即一切の世界を歩み、識別することなく融解し去れ。この覚醒に生きることだ。この「信」を生きることが「不二」への道。「不二」こそ「信」と同じものだからだ。言葉よ! 道は言語を超えている。そこには、昨日もなく、明日もなく、今日もない。
僧璨 信心銘(仏教)
― み言選集 ―
完全な愛を求めるためには「私」という概念があってはいけません。
(279-146、1996.6.4)
体を打って万年一方通行すれば、宗教が必要ありません。イエス様が来たのも、それを立て直すたのです。釈迦牟尼の教えも同じです。無の世界、零の位置に帰ることです。心ど体が一つになれば感じません。同じです。無の境地になぜ入っていかなければならないのでしょうか。そこで有の有を中心として感じるためです。相対が現れて和合できるところで有を100 パーセント感じることができるのは、無の境地であり、零点の位置なのです。
(256-212、1994.3.13)
神様は、「王ゼロ」の位置に立つのです。そのような神様と出会おうとすれば、皆さんがゼロポイントよりもっと低くならなければなりません。そして、皆さんは肉となってその「王ゼロ」の位置を保護できなければなりません。「王ゼロ」の位置が心の位置であれば、それを囲んでいるのは肉の位置なので、そのゼロポイントを保護しなければならないのです。皆さんはそのようになっていますか。それで神様的なものを求めるために仏教では座禅というものを通して、良心とは何かと、心の底を訪ねていこうとするのです。
(230-134、1992.5.1)
人間は、「私」という主張をどこからしたのでしょうか。しかたなく堕落した世界のアメリカならアメリカの民として教育を受けた自分の歴史的な伝統や、国家的伝統を中心として、「私」という意識をもつようになったのです。
創造理想的な意識圏内に立つことができる神様自身が「私のもの」、「私の子女」と言うことができる、そのような関係を結ぶことができなかったのです。したがって、私達がもっている「私」という概念は、神様の本来の創造理想とは何の関係もないものとして、私達は自分を完全に否定しなければなりません。
私達はまず、個人として完全な私の位置を取り戻さなければならないのです。その道は、自分を零点に置き、自分を完全否定する道しかありません。その位置でこそ、心と体が完全統一を成すことができるからです。
神様がどのような状態で創造をされたと思いますか。心と体が完全に一つになったところで万物を創造されました。絶対愛と絶対信仰を中心とする絶対投人でした。ここには、自分の利益や事情を考える隙間はあり得ません。完全に、100 パーセント与えても、また与える、「ために生きる」愛の始原が正にここにあったのです。
皆さん、「真の私」をどこから探し出すのでしょうか。真の愛を実践する人生であってこそ可能です。自分を完全に零点で否定し、家庭のために、世界人類のために、そして神様のために生きれば、「真の私」は自動的に取り戻されるのです。
これが正に復帰摂理、救援摂理の道を歩んでいる人間の避けることのできない運命なのです。私達は自分を立てて自分をむやみに語ってはいけません。長い、長い歴史の裏道で真の私を語ることができる子女を探し、恨にもつれた復帰摂理をしてこられた神様の心情を少しでも分かれば、むやみに自分を主張することはできません。
(356-298 ~ 301、2001.10.21)
このような事実を皆さんはよく知っていると思いますが、体恤に関して、私達はもう少し考えてみなければなりません。私達が信仰の主体である神様を敬うその立場に立っているとしても、それは曖昧です。では、それ自体をどこから探すべきでしょうか。
主体は確定していますが、自分は感じられないのです。私達が五官で分かるように、そうだということを確定づけられないのです。これをどこから調べられるかという問題を考えるとき、主体からは調べられません。神様から調べることはできないのです。これはどこまでも、自分から調べなければなりません。
それでは、自分自身を中心として見るとき、自分という存在には、体と心があります。体と心があるのに、体を中心としては、調べられません。心を中心として調べなければならないのです。
今日、堕落した群れの人間たちを見るとき、その心自体が千人なら千人、万人なら万人がすべて同じでしょうか。その主要な部分は同じかもしれませんが、心自体は素性によって異なるのです。一つの円形を描いたとすれば、水平線を引き、ここで1度、2度として十字を引くことによって、360 度の円形を描くことができます。
一つの水平線を引き、一つの垂直線を引き、ここから90 度の分別の度数が決められるのと同じように、必ず私達の心が円形と同じ位置にいれば、これをどのように引くのかということが問題です。その水平線は、引く人によってその水平線の形態はそれぞれ異なるのです。私達の顔が異なるのと同じように、皆さんの本性もすべて違うのです。
この0度から360 度を引いていくにおいて、必ず度数はこの基準を中心として数が加算されていきます。そのように、360 度の形態と私達の心が、心の土台がこのように円形であれば、その角度を測定する基準がすべて違うことを私達は知らなければなりません。すべて同じではないというのです。
それはなぜそうなのでしょうか。私達の顔が異なり、私達の趣味が異なり、私達が感じる感情が異なるのと同じように、その度数を描く平行線と垂直線が異なるのです。ある人がこのようになっていれば、ある人はこのようになっており、それがすべて異なるのです。その度数を合わせなければならないという結論が出てきます。
そのようにしようとすれば、どのようにしなければなりませんか。零点の位置を求めていかなければなりません。零点の位置とはどこでしょうか。それがあるのです。皆さん自体に、その心の心情をこのように表示すれば、必ず零点があります。零点があり、その零点自体を水平線にすれば、その水平線を中心としてある垂直線が引かれます。
天が主体であれば、その主体の前に私が対象的な立場に立つのです。主体である神様は、人間に対象として感応できる素質を必ず与えたので、平面的な心の土台の基準の前に垂直に向かうそのような方向がなければなりません。これが必ずあるのです。
私達が水平線を見れば、これは平面になっていますが、これが垂直に立つようになれば、この垂直線の基準がすべて違うのです。では、そのゼロ点基準をどのように合わせるかというのです。こちらに行けば、必ず反対になるために、そのゼロ点を合わせなければなりません。
皆さんが発電所に行ってみれば、メーター器がたくさんあります。メーター器にゼロ点基準のようなものがあって、それを中心としてすべての加減の調整をして、その方向というか、力というか、量の対比をつかむのと同様に、そのようなゼロ点基準がなければならないのです。
では、ゼロ点基準とは、どんな位置でしょうか。ありながらもないようであり、ないながらもあるような位置です。その位置があるのです。ですから、今日座禅をする人たちが、「無我の境地」という言葉を使いますが、それもやはりそのような境地なのです。そのような霊的基準に接近することができる自分にならなければなりません。そのような基準になれば、必ず自己の水平線基準が反応できる、そのような何かがあります。
(76-125 ~ 127、1975.2.2)
7) 霊的合一
霊的合一は、宗教的神秘主義者の最終目標である。このような合一の経験は深奥である。それを言葉で表現するのは難しい。このような状態にいる人は、神様と合一し、すべての存在と合一し、主体と対象、知る者と知らされた者のすべての差が解消される。
神秘的合一は、伝統的宗教で一般的なものではない。特に、無限者である神様は、最も神聖だとしても、被造物とは絶対的に区別されなければならないという非妥協的唯一神の信仰であるアブラハム系列の宗教ではそうである。
しかし、ユダヤ教とキリスト教の経典は、至福の直感、すなわち神様の顕現によって目撃者を変化させる直感に対して語っている。イスラームでムハンマド自身に由来する伝統は、スーフィ、神秘主義者の合一の経験と関連している。
文鮮明先生は、このあらゆる多様な合一の経験を肯定する。先生は、愛の人生を学ぶことによって神様の心と心情に近づくことができ、神様の体験を共有し、神様の体の一部分となって動くことを教える。私達は、神様の中にとどまり、神様は私達の中にとどまり、私達はすべての被造物と神秘的に一つになることを経験する。
1. 神様と合一
― 宗教経典 ―
私が父の内におり、父が私の内におられることを、信じないのか。
ヨハネによる福音書14.10 (キリスト教)
天と地は私を包んでいないが、私の信実な従僕の心が私を包んでいる。
スフラワルディー・ハディース(イスラーム)
私につながっていなさい。私もあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、私につながっていなければ、実を結ぶことができない。私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなたがたは何もできないからである。
ヨハネによる福音書15.4 ~ 5(キリスト教)
喩えば、諸川が流れて海に入らば、その名色(個別性)を捨てて消融するが如く、悟者はその名色より解脱して高くも弥(い)や高き、神聖なる神我に至る。すべて、この至高梵を証得する者は梵そのものに成るなり。
ムンダカ・ウパニシャッド3.2.8 ~ 9(ヒンドゥー教)
かの神を念想することから、第三の結果として、肉身の滅する時絶対自在の位に達し、独一なる願望成就者となる。われらのまさに知るべきこれ(梵)は常住にして、己身の内に鎮坐す。われらの知るべきものとしてはこれより勝れしもの一物もなし。
シヴェーターシヴァタラ・ウパニシャッド1.11 ~ 12(ヒンドゥー教)
私達は皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。
コリントの信徒への手紙二3.18 (キリスト教)
露(あらわ)にして、しかも幽(かく)れ、玄洞(心臓)の内に逍遙するものと称(よ)ばれる所の偉大なる天地の基底、その内にぞ(注23)、ありとあらゆる蠢(うごめ)くもの、息づくもの、瞬くものは収められてあるなれ。
汝等がこの有体にして無体なる善美なるもの、智慧才覚を超えたる、生類中の最勝のものとして知れるもの、光輝あるもの、微なるよりも微なるもの、諸々の世界(果報)と世界を得し輩とがその根基とせるもの、これぞこの不滅なるものなり、梵なり、生気なり、はた語なり、意なり。これこそこの真実なるもの、不死なるもの、射抜ぐべきものなれ。友よ、これを射抜けよ。
ムンダカ・ウパニシャッド2.2.1 ~ 2(ヒンドゥー教)
諸々の仏・如来たちは、存在するものすべてを身体とするものであり、すべての生ける者どもの心想の中に入って来るからである。それ故に、あなた達が心に仏を観想するとき、この心がそのまま仏の三十二の大相であり、八十の小相なのだ。この心が仏を作り、この心がそのまま仏なのだ。智慧海のごときもろもろの仏たちは心想から生ずる。それ故に、一心に思念を集中し、心してかの仏・如来・尊敬さるべき人・正しく眼覚めた人を観想するのだ。
観無量寿経17(仏教)
自然と湧き出る歓喜に神妙な旋律が生じ、聖なる言葉に私の心は楽しさを感じ、その楽しさが永遠だ。自然と生じる悟りの洞窟の中で、私はわれを忘れ、安楽で崇高な場にとどまるようになる。彷徨はやみ、故郷(真の私)に戻ってきたため、私のあらゆる希望が成し遂げられた。
神に仕える者たちよ! 私は自らを完全に成し遂げた。師が神秘の光彩に包まれた至高者の姿を許諾されたのだ。彼は自ら王であり、また万民であり、至極の解脱を得た者であり、至楽を享受する者である。永遠の正義の御座に座られた彼により、あらゆる苦痛と号叫が消えていく。
アーディ・グラント、マージュ、M.5、p.97 (シーク教)
― み言選集 ―
巨大な神様ですが、人間は小宇宙なので、私が神様の中に入っていくことによって、その巨大な神様が私の中に入ってきた感じがするのです。そのような感覚を受けてこそ、神様の中に私がいて、私の中に神様がいらっしゃると言うことができます。それで、イエス様もそのような話をされたのです。無限に大きい神様ですが、人間がその中に入っていってこそ、神様も作用されるのです。
(31-210、1970.5.31)
皆さんの心と体が統一されるその場が、そのような所です。そこが私の永遠の生の土台です。その中心に神様がとどまるのです。それで皆さんが神様までも所有するというのです。それが真の愛を中心として、堕落によって失ってしまったすべてのものを取り戻すことができる最高の目標です。皆さんがその場に行かなければなりません。
(294-98、1998.6.14)
私達は、動物的な人間を退け、人間的な人間を通して神的な人間世界に帰ろうというのが、宗教理想の道だということを知らなければなりません。それで、神様の世界まで到達し、神性をもった人間になろうというのです。それで神聖な愛を中心として永遠の幸福を賛美して生きることのできる人間になろうというのです。
(117-37、1982.1.31)
平面的な代表者は人間であり、立体的な代表者は神様です。それを立体化して永遠に結びつけるひも、結びつける結実点、その結ぶ中心点が、いわゆる愛です。ですから、この肉体をもった人間自体も、神様が臨在され一体となるときのその心情、体恤、その感情は無限の愛に自分が一致したという、最大の幸福感を感じる境地です。それがいわゆる最高の幸福の境地なのです。そのような幸福な境地の理想世界、善の世界、善の創造理想を追求するのです。
愛情に包まれ、神様と一体になったということを実感する世界、そのような世界に統一しようというのが創造理想なのです。この希望が、結局は愛を中心とした希望なので、その目的を達成するときも、愛の環境を離れては達成できません。人間が自分の生涯を通してそのようなことを実感し、体験できるようにすること、そこに神様と人間が一つになる目的があります。したがって、愛によってすべてのものが一つになるのです。愛によって人間と世界が一つになるというのです。これが神様の創造目的です。
(35-157、1970.10.13)
ただ愛のみがすべての障壁を超越します。私達が真の愛の中で神様と一つになる時、神様の肉的、霊的被造物に対する私達の支配が可能になります。徹底して他のために生きる時、私達は初めて神様の本質に到達できます。そうすれば、神様の思いが人間の思いとなり、神様が感じられることが自然に人間に伝達されるのです。このように生きていく時、人間は神様の心情と愛に共鳴する器になります。二つめ音叉が共鳴するがごとくに、人間と神様も常に共に共鳴するようになるのです。
(210-206、1990.4.9)
能力の主体であられるお父様、
生命の原動力であられるお父様、
愛と心情の根本であられるお父様!
私達はあなたのみ前に
一つの実体として、
一つの枝と葉のような立場で
一切をあなたに任せ、
あなたが悲しまれれば
私達も悲しまなければなりませんし、
あなたが喜ばれれば
私達も喜ばなければなりませんし、
あなたが忙しく働かれれば
私達も忙しく働かなければなりません。
このような面であなたと共に
すべての生活環境に接していく
あなたの息子、娘たちとなるように
してくださいますことを
切にお願い申し上げます。
(42-59、1971.2.21)
2. 愛によって合一した神様と人間
― 宗教経典 ―
至高のアッラーはこう申された。「私の友に敵意を示す者には、自分は誰に対しても戦いの宣言をする。私の気に入ることをして私に近づこうと望む下僕は、自分に課された宗教的義務をきちんと果たすことだ。定められた義務以外の良い行いに努める下僕は、ますます私に近づき、ついには私の愛をかち得るであろう。そして私が彼を愛するようになれば、私は彼の聞く耳、彼の見る眼、彼の打つ手、彼の歩く足となろう」。
ナワウィー40 のハディース38(イスラーム)
だれが、キリストの愛から私達を引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。「私達は、あなたのために一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、私達は、私達を愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。私は確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、私達の主キリスト・イエスによって示された神の愛から、私達を引き離すことはできないのです。
ローマの信徒への手紙8.35 ~ 39(キリスト教)
「彼らを見よ。慈悲という礼服を重ね着し、真の美徳で飾ったあの姿を見よ。彼らは愛で私と一致した。彼らが誰かと尋ねれば」、穏やかで愛らしい言葉が答えられた。「彼らはもう一人の私だ。自分を失い、自分を否定し、私のもので服を着て私と一つになり、私に順応した彼らであるがゆえに、彼らはもう一人の私である」。
シエナのカタリナ(キリスト教)
― み言選集 ―
完全な統一は、完全な神様の愛によってなされます。
(94-263、1977.10.1)
神様の愛が心に入ってくれば、すべてのものが満たされます。ですから、幸福だというのです。すべてが満たされるので、すべてのことに喜びを感じるようになるのです。
(95-39、1977.9.11)
神様はどのような方ですか。愛の神様です。パウロは「キリストの中にある神様の愛の綱を誰が切るか」と言いました。キリストも、神様の愛がなければ何でもありません。それで私達は、神様の愛を何よりも好むのです。神様の愛は生命の源泉であり、幸福の源泉であり、平和の源泉です。霊的体験をしてみれば、これが分かります。
(24-325、1969.9.14)
もしこの軸が連結されていれば、人間と神様は愛で一体となるのです。このように一体となった関係は、何が作用して離そうとしても、離すことができません。阻止できません。
若い男女が青春期、思春期になって恋愛し、愛するようになれば、生きるとか死ぬとかいうよこしまな問題を起こすでしょう? そのように、互いに一つになって自ら死の道を行くのに、神様の本然の愛のひもに結ばれ、その愛の味を知った人が離れると思いますか。
皆さん、春に蜜の味を初めて知った虫は、しっぽを引っ張られてしっぽが切れても蜜から離れません。皆さんがその味を感じればどこに行きますか。どこかに行っても、またそこに戻ってきて一つになろうとするのです。
(137-57、1985.12.18)
愛だけがすべてのものを収拾できる源泉になります。愛だけが理想的垂直線を所有できる特権があることを知らなければなりません。愛は所有権があり、愛は同位権があり、愛は同参権があるのです。人間として、このような事実を知るようになるとき、神様が私の中にいて、私が神様の中にいるということになります。神様が私のものであり、神様の愛が私のものであり、神様の天宙が私のものだという所有観念をもった堂々たるそのような価値的存在が私なので、皆さん各自は、自分を天下に誇りたいと思うそのような欲望の本性がなくてはなりません。
(179-169、1988.8.1)
歴史的な悲しみの中で摂理される神様の心情を体恤しながら生きていく人は、どこにとどまっても、神様を涙なくして見つめられないのです。そのような立場で神様のみ旨を知り、その方の息子、娘になるために闘うとき、彼と志を同じくする同志がいれば、神様はその場に訪ねてこられて涙を流されるでしょう。
それでは、神様の悲しみはどこにあるのでしょうか。私達の一身にあると同時に、この国、この世界、この万物の中にあるのです。私達はこれを清算し、神様の喜びを復帰してさしあげる運動を展開しなければなりません。そのような私達にとって生命の中心とは何かというと、神様の悲しみを体恤する自分になることです。
皆さんが神様に対して涙を流す生活をするようになるとき、神様の永遠の愛を感知し、神様の代身者の使命を果たすことができるようになるのです。それだけでなく、そのような心情に胸を痛めて生きる人には祈祷が必要ありません。信仰という名詞も必要ありません。そのような人は、祈祷する前に既に神様の心情を感じているのです。
ですから、これから皆さんは天倫の悲しみを体恤し、万物の嘆息を踏み越えて神様の事情を直接的に通じ得る真の人にならなければなりません。そのような人がいれば、外からは滅びるように見えますが、絶対に滅びません。冷遇され、追い出されても、そのような人には必ず後継者が出てくるのです。
今日の皆さんは特別な道を歩んでいます。皆さん! 誰に対しても恨まないでください。かえって彼らのために流した涙を通して、蕩減の恵沢を受けるようになるのです。今日の皆さんは、人よりも先に神様の悲しみを体恤し、涙を流すことができる恵沢を受けています。しかし、天が皆さんのために先に涙を流されたことを知らなければなりません。また、皆さんは、そのすべての人たちが食口(家族)だということを忘れてはいけません。
(40-60 ~ 63、1958.3.2)
天との真なる心情的な関係がこの場で結ばれなければならないことを知っていますので、お父様、あなたのみ手で親しく私達を捕まえてくださり、お父様の両腕で私達をあなたの愛の懐に抱いてください。どれほど待ち焦がれ願われたことでしょうか。今、その心情を正にくみ取ることができ、その切なさを正にくみ取ることができるのです。
(9-160 ~ 161、1960.5.8)
3. 万物と合一
― 宗教経典 ―
すべての生きとし生けるものをアートマンにおいてのみみて、そしてすべての生きとし生けるものにおいてアートマンをみる人は、それゆえに、疑うことがない。認識しつつある人にとって、すべての生きとし生けるものがアートマンとなったその人には、いかなるまよいがあるだろうか。いかなるうれいがあるだろうか。(アートマンがブラフマンと)同一であることをみている人にとって。
イーシャー・ウパニシャッド6 ~ 7(ヒンドゥー教)
師は言われた。「そのとおりだ。スブーティよ、そのとおりだ。微塵ほどのことがらもそこには存在しないし、認められはしないのだ。それだからこそ、《この上ない正しい覚り》と言われるのだ。さらに、また、スブーティよ、実に、その法は平等であって、そこにおいてはいかなる差別もない。」
金剛般若経22 ~ 23 (仏教)
このように常に専心し、罪障を離れたヨーギンは、容易に、ブラフマンとの結合という窮極の幸福を得る。ヨーガに専心し、一切を平等に見る人は、自己(アートマン)を万物に存すると認め、また万物を自己のうちに見る。
私を一切のうちに認め、一切を私のうちに見る人にとって、私は失われることなく、また、私にとって、彼は失われることがない。一体観に立って、万物に存する私を信愛する者、そのヨーギンは、いかなる状態にあろうとも、私のうちにある。自己との類比により、幸福にせよ不幸にせよ、それを一切〔の生類〕において等しいものと見る人、彼は最高のヨーギンであると考えられる。
バガヴァッド・ギーター6.28 ~ 32 (ヒンドゥー教)
泰初――天地のはじめには無があった。このときいっさいの存在はなく、むろん物の名称というものもなかった。やがて、その無から一が生まれたが、そのときには、ただ一が存在するだけで、まだ形というものはなかった。すべての万物は、この一をそのうちに得て生ずるのであるが、その一を得ていることをさして、徳と名づけるのである。まだ形をもたない一は、やがて分かれるのであるが、しかしその分かれ目は、まだそれほど大きくはない。この状態を命という。
自分の身にそなわる性を正しく治めるならば、より根源的な徳に復帰することができ、さらにその徳をつきつめるならば、その泰初の状態である一や無に同化するであろう。もし性や徳が察初の状態に同化するならば、泰初は虚無であるから、性もまた虚無となるであろう。虚無は限界のないものであるから、それはまた無限の大きさをもつものとなるであろう。
このようにして、性や徳が泰初の無に同化すれば、ちょうど野の鳥のさえずりのように、無心のままに自然に同化するようになる。野の鳥のさえずりと同化することは、天地の自然に同化することである。こうして天地の自然に同化するものは、いっさいの差別の知を失い、ちょうど愚かもののようになり、無知の人のようになる。この境地こそ、幽玄の徳とよばれるものであり、偉大な随順の道に合致するものである。
荘子12(道教)
― み言選集 ―
神様も息をするのです。愛の呼吸をしていらっしゃるのです。神様も、宇宙に拍子を合わせていらっしゃるので、愛を中心として宇宙が永遠に続くのです。
愛に永生があるというのです。ですから、皆さんはそこまで行かなければなりません。それでこそ、神様の呼吸圏内に入っていって、さっと越えていくのです。
(201-191、1990.4.1)
耳、目、口、鼻など、すべての感覚器官を通して感じられる感覚、すなわち直感を通して確認することによって、信じることができると言えるそのような時間をもってみなければなりません。そのような時間をどれくらいもっているのかが重要です。個人の生活を中心とする人たちは、よく感じることができませんが、恵み深い生活をする人たちは、いつも見る万物が昔と違って感じられるのです。いつも新しいのです。朝に見ても新しく、夕に見ても新しいのです。神様の恩賜が徐々に波打ってくるときは、神秘さを立体的に感じます。そのように感知する人がいれば、彼は幸福な人です。
(30-134、1970.3.21)
神様の心の中にいることを願うのなら、皆さんが眺める物の中に神様の心があるので、その物を自分の物として、天地のすべての存在物を私の物として抱こうとする心をもたなければなりません。それが天の心です。最高の道に通じた人がいたとすれば神様の心に所有された人です。自分が鳥一羽、香りを放つ花一束を見ても、永遠を歌うことができる境地に入る心をもった人は、万物の中にあるのではなく、神様の心の中にあるのです。
(8-182、1959.12.13)
私は、意識世界を超えた創造目的の世界を願います。草一株を見ても、そこから無尽蔵な平和の感情を感じ、その存在価値を褒めたたえることを願います。見ることもそうで、感じることもそうです。人間は、たとえ小さな存在からでも、「一つの個体が動くたびに天地が動き、神様の心情が動き、永遠の生命が動くので、驚くべきことだ」という被造万物からの称賛を受け得る位置まで行かなければなりません。
(9-320、1960.6.19)
8) 治癒
堕落した人間の状態は、霊魂の虚弱と疾病に例えられてきた。堕落した人間の心情は、憂いと苦痛で重い。したがって、救援は虚弱な霊魂を治癒し、真の潜在性を実現し健康な状態に回復させるものとみなす。
宗教の教えは、救援の特効薬とされ、真理を教えてくれた創始者は、卓越した医師に例えられる。しかし、霊魂の健康と肉体の健康の間には、精神と身体の医学的な因果関係がある。したがって、肉体的健康は精神的健康によって恵まれた副産物である。
さらに、神様の能力は奇跡を起こし、老いた女性が赤ん坊を生み、盲人が目を開け、死んだ人を生かすこともできる。イエス様は奇跡を通して治療し、悪魔を追い出すこともした。釈迦もそうであり、過去から現在までの多くの宗教の聖人たちもそうだった。
文鮮明先生は、疾病の霊的原因を神様と一致させ、神様の治療能力を導く方法に対して具体的に語る。先生はまた、治療能力の無分別な使用に対して警告しているが、なぜなら奇跡は代価を支払わなければならないからである。
1. 肉身と霊魂の治癒
― 宗教経典 ―
「もしあなたが、あなたの神、主の声に必ず聞き従い、彼の目にかなう正しいことを行い、彼の命令に耳を傾け、すべての掟を守るならば、私がエジプト人に下した病をあなたには下さない。私はあなたをいやす主である。」
出エジプト記15.26 (キリスト教)
病のとき、かれは、私をいやしたもう。
クルアーン26.80 (イスラーム)
わが眼、心、意のうちにいかなる欠陥があろうとも、あるいは過分なるものがあろうとも、ブリハスパティが治し給わんことを。世界の主よ、われらに慈悲深くあれ。
ヤジュル・ヴェーダ36.2 (ヒンドゥー教)
あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。
ヤコブの手紙5.14 ~ 16(キリスト教)
おお! 偉大な神よ、
私を創造された方、
私にはあなたしかいません。
天にいらっしゃる神よ、
あなたは唯一の方、
今、私の子が病の中にいますので、
私の切なる希望をお聞きください。
アヌアク族の祈り(アフリカ伝統宗教)
さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし、我々を打たれたが、傷を包んでくださる。
二日の後、主は我々を生かし、三日目に、立ち上がちせてくださる。我々は御前に生きる。
ホセア書6.1 ~ 2(キリスト教)
また次に仏子よ、たとえば大医王はよくもろもろの薬と療治の法とを知り、あらゆる方論に皆ことごとく明達する。かの大医王は目に触るる一切の薬草を皆ことごとく識別する。それは彼の宿昔の善根力に由るのである。彼はまた明らかにもろもろの方論に通しているから、能くことごとく一切もろもろの病患を療治する。
華厳経37(仏教)
なんとなれば、すべてのものどもの未済の分を天則に従って、この聖なる御身さまは世をいやす盟友としてスプンタ・マンユを通して、見そなわし給うからです、マズダーよ。
アヴェスター・ヤスナ44.2 (ゾロアスター教)
この〈事象〉の観念というものは、やはり傾倒した見解である。傾倒した見解というものは、大なる患いである。わたくしはこれを離れよう。では〈離れる〉というのは、どのようにすることであろうか? それは〈われ〉とか〈わがもの〉という観念を離れることである。では「〈われ〉とか〈わがもの〉という観念を離れる」というのは、どのようにすることであるか? それはすなわち二つのものの対立を離れることである。では〈二つのものの対立を離れること〉というのは、どのようにすることであるのか? それはすなわち内外のもろもろの事象を念じないで、平等を行ずることである。では〈平等〉というのは、どういうことであるのか? それは我もねはんもともに等しいとみなすことである。なぜであるかというと、我とねはんと、この二つはともに空であるからである。
維摩経5(仏教)
重い苦悩の生きた祭物になり、あらゆる病で肉身は病み、悲喜の交差の中で、家庭と家族のあらゆる問題に取り囲まれた者よ、平安や安息もなく四方八方にさまよう者よ、ふさわしい至高な彼を念ぜよ。あなたの心と体に平和が訪れるだろう。
アーディ・グラント、スリー・ラーグ、M.5、P.70(シーク教)
律法の言葉は完全な治療薬のようだ。これは、ある人が自分の息子に大きな傷を負わせ、彼に石膏の包帯を巻くようにして、このように語ることに例えることができる。
「私の息子よ! この石膏の包帯がお前の傷を包んでいる限り、お前は好きなものを飲み食いでき、冷たい水や温かい水で沐浴することもできる。それでもお前は害を彼らないだろう。しかし、お前が石膏の包帯を取ってしまえば傷が悪化するだろう」。
正にそのように、神がイスラエルの民にこのように語られた。「我が民よ! 私はお前を罪悪に傾く性向をもつように創造した。しかし、私は罪悪を解消させる薬として律法を創造した。お前が律法と共にいる限り、罪悪性は決してお前を占領できないだろう。しかし、もしお前が律法を所有しなければ、その時は罪悪の力にお前自身がたたきつけられるだろう。そして、罪悪の行為がお前を治め、お前を苦しめるだろう」。
タルムード、キッドゥシーン30b(ユダヤ教)
神に従順にしようとする者、悟りを得ようとする者、神により近づこうとする者、そして悔い改めようとする者は、聖霊の火による深い霊的浄化のための洗礼を受けなければならない。あなた達は霊的に、そして直接的にあなた達の三つの自我を通して真の光を受けなければならない。それがあなた達の払うべき代価を少なくする近道である。この世界は、真の光の歴史を通して無数の不安から救われるだろう。
御聖言(真光)
― み言選集 ―
文総裁に出会ってかかった病は、治せません。それは、文総裁の診断と処方方法に従う以外には(治す)方法がないのです。ですから、世界が統一されざるを得ません。処方のその薬剤は何でしょうか。真の愛という薬剤です。
(190-57、1989.6.18)
病気になれば、病院に行って治療を受けなければならず、注射を打たなければならず、調剤した薬を飲まなければなりません。それでは、病院と薬を供給するものが何かというのです。それが宗教です。それで、宗教を信じれば、この戦場を止めることができるのです。
(337-57、2000.10.22)
今まで堕落世界では、悪が発展する時代でした。したがって悪なる人がより豊かに暮らし、何であっても強い人がより豊かに暮らすことができる時でした。
しかし、神様王権即位式とともに、絶対的な善霊が役事する時代に入ってからは、絶対的な善が発展する時代になったので、今からは、絶対的な善を中心として原理的な生活をする者が豊かに暮らすことのできる時です。神様は、子女である私達が疾病と苦痛と不幸、そして罪悪から解放されるように直接役事するとおっしゃいました。
興進様のメッセージ、2002.1.1
神様から愛の生素(生霊要素)を受け喜びながら生きていく人間の姿は、生まれた時から不完全なものとして、不安と疾病を携えたまま生まれてきたのである。つまり人間は、生まれた時から罪悪によって出発したのである。
こうして人間は誰しも罪悪の血縁と関係があるため、常にルーシェルから侵犯される要因が形成されている。そのために人間は、全く予想もしない病気の姿となってしまったのである。まずは霊的にかかった病気の姿となり、それから次にルーシェルに侵犯されて肉体的な病気の姿となるわけである。
すべての病気の70 ~ 80 パーセントが、霊的要因によって生じたものである。そして残りの20 ~ 30 パーセントは、肉体の過労や環境の要因によって生じるものであるが、そのような場合の病気は人間を悲惨な状態に追い込むことはない。
霊界の実相と地上生活、人類の犯罪者ルーシェル2.2 1999.3.7
誰でも病気にかかれば、その病気の原因を知り、その原因を治療することによって回復できるというのは理論的です。それを知っている人が誰もいません。
日本の歴史でそれを解決しようと考えてみた人もなく、今も考える人がいません。世界にもいません。そのような結果を招いたサタンが知っているだけです。人類は誰も知りません。神様は、知っていても立て直せません。したがって、人類を代表する救世主や宗教圏がそれを明らかにしなければ、人類が解放され得る道はないのです。
(367-293、2002.1.24)
病気になったとすれば、病気の中で最も恐ろしい病気は何でしょうか。神様までも最も恐れる病気、これが堕落病です。皆さんはその堕落病にかかりましたか、かかっていませんか。堕落病にかかったことを今まで知らずにいました。
最近、「癌」といえばみな恐れるでしょう? その癌にかかっても最初は分かりません。ほとんど死ぬ間際になって痛み始めます。それでも、これは死ぬ前に分かります。しかし、この堕落病は死ぬ前にも分からないのです。死んで、初めて分かります。死んでこそ分かるというのです。これが事実です。堕落病にかかったということを今まで誰も分かりませんでした。
(92-186、1977.4.10)
2. 奇跡
― 宗教経典 ―
エリシャが家に着いてみると、彼の寝台に子供は死んで横たわっていた。彼は中に入って戸を閉じ、二人だけになって主に祈った。そしてエリシャは寝台に上がって、子供の上に伏し、自分の口を子供の口に、目を子供の目に、手を子供の手に重ねてかがみ込むと、子供の体は暖かくなった。彼は起き上がり、家の中をあちこち歩き回ってから、再び寝台に上がって子供の上にかがみ込むと、子供は七回くしゃみをして目を開いた。
列王記下4.32 ~ 35(キリスト教)
(イエスは言った)「神のお許しによって、生まれつきの盲人やらい患者をなおし、また死者を生き返らせる。」
クルアーン3.49 (イスラーム) 1
そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。
イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「私の服に触れたのはだれか」と言われた。
そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれが私に触れたのか』とおっしゃるのですか。」しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい」。
マルコによる福音書5,24 ~ 34(キリスト教)
ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。
彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しをこうた。ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「私達を見なさい」と言った。その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、ペトロは言った。「私には金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。
すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。
使徒言行録3.1 ~ 8(キリスト教)
ブッダは阿闍世王のために月愛三昧という、月の光が人々の心を和らげるような、そのような働きを持つ三昧に入って、身体全体からまばゆいばかりの光明を放った。その光は清らかで涼しく、王の身体を包むように照らした。身体の傷は癒え、うっとうしい気分は除かれた。王は傷が癒えて身体が軽くなり、すがすがしい気分になった。
そこで王は言った。「この光はどこから来て、私の身体を照らし、傷の痛みや苦しみを取り除き、安らいだ気分にしているのだろうか」「大王、これは神のなかの神といわれる方が放つ光です。この光には根がなく、際限がありません。この珍しい光景はじつは大王のためになされています。大王が先に『世間に私の身心の病を治療できる名医はいない』と仰せられたので、それに答えてこの光を放ち、まず大王の身体の病を治療し、その後に心の病を治療しようとしているのです。」
大般涅槃経575 ~ 76(仏教)
イエスの時代のように、今のクリスチャン・サイエンスの身体治療は神性の原理の作用によって起きる。神性の原理の前で罪と疾病は、人間の意識の中で実在性を失い、ちょうど暗闇が光に、そして罪が悔い改めに席を渡すように、自然でそして必然的に消える。その時のように、今のこの能力の現象は、超自然的ではなく最高に自然的だ。この現象は、イマヌエル、または「神が私達と共にいらっしゃる」、つまり人間の意識の中に現れる聖なる影響の徴表である。
科学と健康xi(クリスチャン・サイエンス)
そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった。群衆は皆驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言った。しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言った。
マタイによる福音書12.22 ~ 24(キリスト教)
そのように知り、そのように見ることから、心は愛欲の汚れを離れ、心は生存の汚れを離れ、無明の汚れを離れる。離れたとき、離れたという知識が生じる。「生まれは尽きた。清らかな行いは済んだ。なされるべきことはなされた。再びこの世に来ることはない」と。これが説法の奇跡といわれるものである。
阿含経長部ix.66、堅固経(仏教)
人は奇跡に依存してはいけない。たとえ聖なるその方が、ある一時、奇跡を行われたとしても、すぐに頼ってはいけない。奇跡は毎日起きるものではないからである。ゆえに、何かの危険にぶつかった人は、その前に蓄積されてきた能力をすべて消尽させて解決しようとしなければならない。
ゾハール1.111b (ユダヤ教)
― み言選集 ―
アブラハムの妻は100 歳でイサクを生みました。それは不可能だと考えてはいけません。問題ないと考えて自信をもてば、霊的に感動を受けてすぐに妊娠できるのです。霊的な力は途方もないものです。
(283-126 ~ 127、1997.4.8)
皆さんが、心と体が一つになるその場に入っていけば、見ることはできませんが、その力は作用するという事実を知らなければなりません。そのような境地に入っていけば奇跡が起きます。病気も治り、何かの奇跡が起きるのです。それは難しいことではありません。
それでは、どのような愛をもたなければなりませんか。真の愛です! 皆さんは真の愛とは何か分かりません。真の愛とは何ですか。絶対的に一つになって結ばれる、そのような作用が真の愛です。そのような夫婦になりましたか。そのようにさえなれば、神様の愛とぴたっと一つになるのです。そのあとに手を広げれば、火が出てありとあらゆる奇跡が起きるのです。私が願うとおりに聴衆が回っていきます。それが運動で撃破するよりももっとおもしろいでしょうか、おもしろくないでしょうか。凍りついた人間たち、死んだ人間が生き返るのです。
それはどのような力かというと、真の愛の力です。真の愛の力によってのみ、それが可能です。真の愛はどのようなものかというと、運動すればするほどだんだんと大きくなっていくのです。真の愛を願う人は手を挙げてみてください。そこには一つ条件があります。それが何かというと、肉身を抑えることです。体を抑えることだというのです。
(282-230、1997.3.26)
絶対的な信仰をもって強く押せば、すべてのことがなされます。皆さんが道を歩いていてかわいそうな人や病気の人に会ったとき、思わず手が動き、心が動き、涙と共にその人を抱きかかえて祈祷すれば、どんなことでも起きるのです。しかし、先生はそのようなことをするのを嫌います。
それよりも真理が必要なのです。真理は万古不変であり、奇跡は一時的なものです。一時が万古を支配することはできません。
(252-258、1994.1.1)
死んだ人を生かすには、霊人体を再び吹き入れれば生き返ります。しかし、そこには限界があります。死体が腐敗してしまえばできません。肉がなくなればできないのです。三日間や死んでいくらもたっていないときに霊を吹き入れれば、蘇生します。それは簡単なことです。しかし、そのようにする必要性がないのです。神様が一度霊を呼んだのなら、それを再び呼び戻すためには、それ以上に価値のあることで補償するか、あるいはそれによって天的利益をもたらすことができなければならないのであって、そうでなければできません。一人を生かすために、三人、四人が死ななければならないかもしれないので、霊的価値を見なければなりません。そのようなことに責任をもたなければ天法に引っ掛かります。ですから、奇跡は良いことではありません。
(15-176、1965.10.7)
9) 精錬の火
神様の恩恵深い愛は、困難と苦難の中で発見できる。神様に対する心の姿勢を備えた人は、人生の試練と挑戦を、自分の信仰を純粋にし、欠点を直し、性格を修練する手段として受け入れる。このような試練は、偶然ではなく、子女を訓練し教育しようとする神様の愛の表現(第15 章11「試み」)ではないだろうか。
さらに、神様のみ言に従って生きようとすれば、試練に直面する人生を生きるようになる。したがって、聖書は神様のみ言を、あらゆる偽りのものを燃やし尽くす火に例えている。
文鮮明先生は、大勢のキリスト教徒たちが審判を恐れているが、事実上、審判は真理によって私達を精錬させる機会であり、キリストのみ言に100 パーセント合一する境地に到達するものであると説明した。ゆえに、審判の目的は救援にあるのであって、罪を定めることにあるのではない。
1. 火の審判
― 宗教経典 ―
この三分の一を私は火に入れ、銀を精錬するように精錬し、金を試すように試す。彼がわが名を呼べば、私は彼に答え、「彼こそ私の民」と言い、彼は、「主こそ私の神」と答えるであろう。
ゼカリヤ書13.9 (キリスト教)
たとえば劫火がおこれば、天地があげて焼かれる
ようなもので、諸佛の清浄な福田も、よくあらゆるものを焼く。
華厳経10 (仏教)
あたかも燃火(ねんか)が薪を灰にするように、知識の火はすべての行為(業)を灰にするのである。というのは、知識に等しい浄化具はこの世にないから。
バガヴァッド・ギーター4.37 ~ 38(ヒンドゥー教)
例えば、ちょうど燃え上がる炎が枯れ草を一瞬で灰にしてしまうように、自らの最も内密な自我に没入し、一切の外界のものに迷わされない求道者は、業でできた自らの肉身を根こそぎ揺さぶらて弱らせ、枯れさせてしまう。
サマンタバドラアープタミーマーンサ24 ~27(ジャイナ教)
純潔をあなたの溶鉱炉とし
忍耐を鍛冶屋としなさい。
聖なる師の言葉はあなたの金敷であり、
真の知恵はあなたの金槌である。
神に対する畏敬の心をふいごとし、
これによって禁欲の火を入れよ。
愛の坩堝(るつぼ)に慈悲深い神を溶かせ。
生まれ変わるだろう。
アーディ・グラント、ジャプジー38、M.1、p.8(シーク教)
「主は千よろずの聖なる者を従えて来られる。その右の手には燃える炎がある」(申命記33.2)。トーラーの言葉は火に例えられる。火とトーラーの言葉は、どちらも天から与えられたのであり、またどちらも永遠の性質をもっている。火を近くにする者は火から有益を得るようになり、火を遠ざける者は凍え死ぬようになる。人の律法に対する関係もこれと同じである。律法の中で熱心に働く者に律法は命を与え、律法を遠ざける者に律法は死を抱かせる。
申命記スィフレイ(ユダヤ教)
イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。
コリントの人への手紙一3.11~15(キリスト教)
このように、私の言葉は火に似ていないか。岩を打ち砕く槌のようではないか、と主は言われる。
エレミヤ書23.29 (キリスト教)
われ火もて黄金を試し,また黄金もてわが僕らを試さんに。
バハオラ隠されたる言葉55(バハイ教)
― み言選集 ―
絶対信仰、絶対愛、絶対服従が簡単ですか、難しいですか。皆さんが100 回死んで目覚めても難しいのです。皆さんは言葉では絶対信仰、絶対愛、絶対服従すると言いますが、溶鉱炉に入っていき、不浄なものはすべて燃やしてしまい、金だけが残らなければならないのです。東西南北を通して360 度悔い改め、悔い改めの涙と鼻水にまみれても、その中にいる私はいまだに完全だと見ることはできません。
(320-235、2000.4.6)
イエスのときにも、御自身が審判主として来られ(ヨハネ5・22、同9・39)、火をもって審判なさると預言されている。さらに、ルカ福音書12 章49 節には、イエスは火を地上に投じるために来られたとある。しかし実際はイエスが火をもって審判なさったという何の痕跡も、我々は発見することができないのである。とすれば、このみ言は何かを比喩されたのであると見なければならない。
ヤコブ書3章6節に「舌は火である」と言われたみ言からすれば、火の審判は、すなわち舌の審判であり、舌の審判は、すなわちみ言の審判を意味するものであるから、火の審判とは、とりもなおさずみ言の審判であるということを知ることができるのである。
原理講論、人類歴史の終末論3.2.2
皆さんが知っていたものは、サタンと関係している言葉であり、皆さんが追求し考えていた思想体系というものは、サタンと関係のある立場を抜け出すことができないのです。サタン世界のすべての構成要素は、どのようなものであれ人間を中心として現れたものなので、堕落圏内を抜け出すことができないものなのです。ですから、新しいみ言をもってすべてのものを革新しなければなりません。
今までの在来の言葉に、そのまま和合して一緒に行くことができるでしょうか。絶対にできません。在来の言葉とは完全に決裂し、清算しなければなりません。今までサタン世界でもっていたサタン的な観念と信仰および習慣までも、すべて一掃しなければなりません。そうして、絶対的な基準のみ言を中心として伝統を立てなければならないのです。
(21-327 ~ 328、1969.1.1)
真の愛で愛するためには……自分を絶対投入しなければなりません。自分の名前、自分の姿、写真、服まですべて燃やしてしまわなければなりません。
(398-328、2009.12.17)
人間的な私事を除去してください。堕落の子孫として生まれ、自分なりの仮面をかぶり、自分なりの主義主張をもってお父様のみ前に現れ得るすべての与件を除去してください。
(21-132、1968.11.17)
2. 天の訓練
― 宗教経典 ―
わが子よ、主の諭しを拒むな。主の懲らしめを避けるな。かわいい息子を懲らしめる父のように、主は愛する者を懲らしめられる。
箴言3.11 ~ 12(キリスト教)
主よ、私は知っています。人はその道を定めえず歩みながら、足取りを確かめることもできません。主よ、私を懲らしめてください。しかし、正しい裁きによって。怒りによらず、私が無に帰することのないように。
エレミヤ書10.23 ~ 24(キリスト教)
人びとは、「私達は信仰する」と言えば、試みられることはなく、放っておかれると考えるか。まことにわれは、かれら以前の者も試みたのである、神は、誠実な者を必ず知りたまい、また虚言者をも必ず知りたもう。
クルアーン29.2 ~ 3(イスラーム)
そればかりでなく、苦難をも誇りとします。私達は知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望は私達を欺くことがありません。私達に与えられた聖霊によって、神の愛が私達の心に注がれているからです。
ローマの信徒への手紙5.3 ~ 5(キリスト教)
私が菩提を成就するための、このような苦しみには限りがある。痛みなどの障害を除くためにからだが傷つけられる苦しみのようだ。医者は皆、治療によって、苦痛を与えることで病を治す。それゆえ、多くの苦しみをなくすために、小さな不幸や苦しみを忍耐するべきである。偉大なる医者(=仏)はこのような一般の治療はなさらず、穏やかな方法で大病を治される。
菩提行論7.22-24(仏教)
― み言選集 ―
私に押し迫るすべての苦難と試練は、それを通じて神様の過去の日々を正しく体恤させるためである。ゆえに苦難が押し迫るときには、喜んで感謝しなければならない。それはすなわち、神様が私を愛してくださっている証拠である。
御旨の道、試験・試練
一人のメシヤを守ることも大変でした。レバレンド・ムーンがメシヤだと発表すると世の中が大騒ぎです。国が騒ぎ、世界が騒ぎ、霊界から地上のすべてが騒ぎ、父親、母親、誰彼なく棍棒を振りかざしてきて、「こいつ、事実なのか。一族にとってこのような恥がどこにあるか」と言いながら、一族の間では、「族譜から切り捨ててしまわなければならない」と言ったのです。一人でしてきました。メシヤは二人ではありません。極限の立場まで、一人でその名の実体を備え、最後まで否定せず、細々とでもそこに首が切れずにぶらさがっていてこそ、可能性があるというのです。
メシヤの概念を自分自身が信仰で立てるときまで、どれほど身もだえしただろうかというのです。また、そのような環境になり、家庭においての艱難は言うまでもありません。国が3年間の凶年に入るのです。身内が問題であり、食べることが問題であり、町内中で「あの何々の家は滅んだ」と言い、兄が狂い、姉が狂い、13 人のうち6人が1年で死んで倒れていくのです。
それは、なぜそうなるのかというのです。メシヤの観念をもつことができないように追い込み、「お前がそのような考えをするから、一族がこのように滅びる」と言うのです。負わせることができる条件を、すべて私の家庭に注いだのです。
あなた達は、今まで統一教会を信じることが難しかったと言うのですが、統一教会の何が難しいのですか。私が倒れましたか。統一教会の看板を置いて、帰りなさいと言いましたか。
(377-25 ~ 26、2002.4.28)
お父様の性相どおりにつくってくださり、あなたのみ旨を担うことのできる私達となるよう許諾してくださることを、懇切にお願い申し上げます。
(2-241、1957.6.9)
10) 協助と救援
悲嘆と危険と抑圧を受ければ、信仰者は神様の助けに頼る。危機に直面したとき、戦争に望むとき、または死に直面するとき、無神論者さえ神様に切に祈るだろう。そして、しばしば救われた事例が多く発見される。しかし、聖書は真の力とは神様の救援の能力にあり、争いに勝つため、自分の力や同盟、または財物に依存してはならないことを警告する。
この章句は、神様の救援に対する確信、協助に対する切なる求めを表現しており、神様の恩寵が堅固な避難所だと記述している。歴史上、神様の救援行為に対するいくつかの事例がある。
すなわち、聖書で紅海を渡ったモーセ、パウロの監獄からの脱出、そして、クルアーンの塹壕の戦いなどがそれである。私達は、苦難に直面した人を救済する準備ができており、救済できる神的慈悲心をもった観世音菩薩に対して仏教信者がたたえることもここに含める。
文鮮明先生は、何度も、特に北朝鮮の労働収容所に収監されていたとき、神様の救いを経験した。先生は、人々が献身と信仰の心をもつときにのみ、神様の助けを受けることができる理由について説明した。神様の愛の心情はすべての人に及ぶ。しかし、サタンの讒訴によって神様が保護なさることができないので、時として人々は神様の助けを受ける前に、自ら試練を克服しなければならない。
1. 苦難に直面した者に対する協助
― 宗教経典 ―
主は羊飼い、私には何も欠けることがない。主は私を青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく、私を正しい道に導かれる。
死の陰の谷を行くときも、私は災いを恐れない。あなたが私と共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それが私を力づける。私を苦しめる者を前にしても、あなたは私に食卓を整えてくださる。
私の頭に香油を注ぎ、私の杯を溢れさせてくださる。命のある限り、恵みと慈しみはいつも私を追う。主の家に私は帰り、生涯、そこにとどまるであろう。
詩編23(キリスト教)
神を畏れる者には、その者のためにかれは出路を備えたまい、かれが予想せぬところから、出路を与えたもう。神を信頼する者には、その者にとりかれは十分であられる。まことに神は、必ず目的を達成したもう。神はよろずのことに、必ず一つの限界を定めたもう。
クルアーン65.2 ~ 3(イスラーム)
あなたは主を避けどころとし、いと高き神を宿るところとした。あなたには災難もふりかかることがなく、天幕には疫病も触れることがない。
主はあなたのために、御使いに命じて、あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び、足が石に当たらないように守る。
詩編91.9 ~ 12(キリスト教)
武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって、と万軍の主は言われる。
ゼカリヤ書4.6 (キリスト教)
私に心を向けていれば、私の恩寵により、すべての苦難を越えるであろう。
バガヴァッド・ギーター18.58(ヒンドゥー教)
力が弱い者でも、強い人に師事すれば事をなしとげる。水のしずくは弱いけれど、湖に混じれば乾かない。
善説宝蔵論 173(仏教)
あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神、地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく、その英知は究めがたい。疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる。
若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。
イザヤ書40.28 ~ 31(キリスト教)
王の勝利は兵の数によらず、勇士を救うのも力の強さではない。馬は勝利をもたらすものとはならず、兵の数によって救われるのでもない。見よ、主は御目を注がれる、主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人に。彼らの魂を死から救い、飢えから救い、命を得させてくださる。我らの魂は主を待つ。主は我らの助け、我らの盾。
詩編33.16-20 (キリスト教)
― み言選集 ―
運命の道を保護できるものが何でしょうか。神様も、愛の因縁を結び得るその何かがなければ保護しないのです。神様はお金が必要ですか。神様は権力が必要ですか。知識が必要ですか。神様が必要なものは何もありませんが、たった一つ必要なものは愛です。ですから、この愛の道をもって神様を調整できる特権が私達にあるのです。その特権をもって調整すれば、運命の道も調整できます。神様が動くからです。
神様を本当に愛そうとする人を、神様がほうっておくのかというのです。彼が神様を愛するために不幸な所にも行くとすれば、不幸な所で終わるのでしょうか。それが、その不幸な所を良い所にできる条件としては終わるかもしれませんが、不幸な所では終わらないというのです。神様を愛するその道を求めていく人は、不幸だとしても幸福であり、幸福だとすればもっと幸福なのです。
この世に神様の愛を取り戻すために不幸の世界の波をかき分け、さかのぼっていくのを見るとき、神様がどれほど素晴らしいと思われるでしょうか。先生はそのようなことを考え、監獄で拷問を受けて打たれるときにも、[たたけ、こいつ。打て、こいつ。その数が加われば加わるほど神様の愛が……」、それが何の話か理解できますか。そのようにすることによって、すべての生の運命の道を、ずれた人生の運命の道を私達は初めて立て直すことができるのです。
それで、私達が必要とするたった一つのものとは何でしょうか。私達の人生の道は、信じることができない道であり、荒唐無稽な道であり、不安な道であり、その次には死の峠を結ぶ、悲惨な死の峠を越える道ですが、このすべてのものを克服することができ、これを立て直すことができ、これを保護できる一つの道は、神様を愛することです。それ以外にはないことは言うまでもありません。この愛をもって生きること、死ぬこと、すべてを神様と共にすることができるのであり、より価値のある内容をもてることを考えるとき、この道こそ、このようなところこそ、私達の人生において誰もが尋ね求めていくべき道ではないかというのです。
(67-175 ~ 176、1973.6.3)
私達の心は求めています。皆さん、見てください。電波も、どこでも作用するのではありません。必ず受信機がある所でのみ、作用するのです。相対基準があれば、どこでも作用できます。人も同じです。真の良心と真の心情的な基準、天の心情的な土台をもった人がいれば、その人は、どこに行っても、いつの時でも、悔しくて悲しい場でも、我知らず、生きる道ができるのです。誤解されるところでも生きる道ができます。
その生きる道は、良い所ではそのようにたくさんできません。歴史的な革命、歴史的な発展、歴史的な成功をしたという人の中で、平坦な所で成功した人は一人もいません。死と直面した所から始めるのです。天はそのような所から皆さんを訪ねてきていらっしゃるのです。
ですから、ある人が天の前に立とうとすれば、必ず曲折にぶつかります。物質的な曲折と人間を中心とする事情と心情的な曲折にぶつかり、それで自分の行く所はここだと叫んで出ていくとき、数多くの事情と曲折にぶつかって苦しむ人たちを指導できる代表者になるのです。
(7-333 ~ 334、1959.10.18)
これ以上でも耐えようというとき、神様が訪ねてこられて、「おい、なにがしよ。それ以上耐えるな。その道をもう行くな」と停止させるのが復帰の場です。感謝と称賛の心をもって耐えていく日には、神様が涙を流して訪ねてこられ、「世の中でお前のような息子がどこにおり、娘がどこにいるか。今お前がしていることをほかの人にさせよう」と言われ、その人を安息の場、天地にない福を受けることのできる所に移しておこうとされるのがお父様の心だということを知らなければなりません。
(44-29、197.5.4)
神様はどこで役事され、サタンはどこで讒訴するのかということを私達は知らなければなりません。必ず二つの役事があることを知らなければなりません。み旨を成し遂げるにおいて、神様が協助できる地点までは人間の力で上がっていかなければなりません。これは人間の責任です。神様が協助してくださるのは、ある地点を越えなければならないのです。この地点を越えてこそ、神様が協助してくださるのです。それ以下では協助できません。
これが公式になっています。イスラエル民族を見ても、恩賜の時代があったなら、必ず迫害の時代がありました。必ずサタンが攻撃する時がありました。
(73-268 ~ 270、1974.9.29)
あなたが歩んでこられた道に従ってきてみると、十字架の道でした。しかし、人知れないその道を開拓者の心情で身もだえしながら従ってきてみると、その道が滅びの道ではないことを知りました。人間たちは嘲弄しましたが、あなたは激励なさいました。数多くの人間たちは反対しましたが、あなたが慰労してくださいました。「私がいて、霊界にいる千々万聖徒たちがお前の行く道を擁護する」とおっしゃり、何度も勧告されたことを私達は知っています。
(16-50、1965.12.26)
2. 危険と死から救援
― 宗教経典 ―
信仰する者よ、なんじらに賜わった神の恩恵を念え、大軍がなんじらに攻め寄せてくるとき、われはかれらに対し大風と、目に見えぬ軍勢をつかわした。神は、なんじらの行うことをみそなわしたもう。見よ、かれらは、なんじらの上からも下からも襲って来た、そのとき目はすわり、心臓はのどもとまでとどいて、神につき、なんじらはいろいろと悪い想像をした。こうして信者たちは試みられ、かれらは猛烈な動揺にゆさぶられた。
神は不信心の者たちを、怒りのうちにメディナから撤退させたまい、かれらは益するところはなかった。戦いには、神がいませば、信者たちにとり十分である。神は、強大者・偉力者であられる。
クルアーン33.9 ~ 25(イスラーム)
モーセとイスラエルの民は主を賛美してこの歌をうたった。主に向かって私は歌おう。主は大いなる威光を現し、馬と乗り手を海に投げ込まれた。主は私の力、私の歌、主は私の救いとなってくださった。この方こそ私の神。私は彼をたたえる。私の父の神、私は彼をあがめる。
主こそいくさびと、その名は主。主はファラオの戦車と軍勢を海に投げ込み、えり抜きの戦士は葦の海に沈んだ。深淵が彼らを覆い、彼らは深い底に石のように沈んだ。主よ、あなたの右の手は力によって輝く。主よ、あなたの右の手は敵を打ち砕く。あなたは大いなる威光をもって敵を滅ぼし、怒りを放って、彼らをわらのように焼き尽くす。憤りの風によって、水はせき止められ、流れはあたかも壁のように立ち上がり、大水は海の中で固まった。
敵は言った。「彼らの後を追い、捕らえて分捕り品を分けよう。剣を抜いて、ほしいままに奪い取ろう。」あなたが息を吹きかけると、海は彼らを覆い、彼らは恐るべき水の中に鉛のように沈んだ。主よ、神々の中に、あなたのような方が誰かあるでしょうか。誰か、あなたのように聖において輝き、ほむべき御業によって畏れられ、くすしき御業を行う方があるでしょうか。
出エジプト記15.1 ~ 11(キリスト教)
この命令を受けた看守は、二人をいちばん奥の牢に入れて、足には木の足枷をはめておいた。真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。突然、大地震が起こり、牢の土台が揺れ動いた。たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった。目を覚ました看守は、牢の戸が開いているのを見て、囚人たちが 逃げてしまったと思い込み、剣を抜いて自殺しようとした。
パウロは大声で叫んだ。「自殺してはいけない。私達は皆ここにいる。」、看守は、明かりを持って来させて牢の中に飛び込み、パウロとシラスの前に震えながらひれ伏し、二人を外へ連れ出して言った。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」
使徒言行録16.24 ~ 30(キリスト教)
足を縛られたまま私が群衆の中に放り投げられ、象は乱暴に棍棒で追い立てられた。象は逃げ出して大声で叫んだ。「この倒れた者に私は祭物になります、主よ、あなただけが私に力を下さることができます」。カジは象を扱う者に象を追い立てるようにと叱りとばした。「はい、こいつ! 問答無用で踏み倒せ。そうしなければ私がお前を引き裂くぞ!」。
しかし、神に瞑想していた象は少しも動こうとしなかったため、彼の心に主が臨まれた。人々が尋ねた。「この聖なる者がどんな罪を犯したというのか。どんな過ちを犯したために手足を縛られ、象に踏まれるように放り出されたのか」。象は、囲んでいる群衆に繰り返し頭を下げた。
無知なカジはこれを悟り、理解することができなかったため、このように三度も無理やり命令を下した。カビルが言うには、主は私の守護者だ!
彼の僕の生はひと友に彼と共にある。
アーディ・グラント、ガウンド、カビール、p.870(シーク教)
世尊はみごとな相をそなえていられます。わたくしは今重ねて問いたてまつります。仏の子は何の因縁によって観世音と名づけられるのでありますか。みごとな相をそなえていられる世尊は、詩によって無尽意に答えられた。
おまえは観音の行を聴け。
よくもろもろの方角や場所に応じて、
立てられた誓いの深いことは海のようである。
劫を経ても思議することはできない。
幾千億の仏につかえて大清浄の願いを
おこしたのだ。
私はおまえのために略して説こう。
名を聞き、身を見て、
心に念じて空しく過ごさなかったら、
よく存在の苦しみを滅するであろう。
たとえ害意をおこす者があって、
大いなる火の坑に突き落とされても、
かの観音の力を念じたならば、
火の坑は変じて池となるであろう。
あるいは大海に漂流して、
竜や魚や鬼などの難があっても、
かの観音の力を念じたならば、
波浪もその人を沈めることはできない。
あるいは須弥山(スメール山)の頂上から
人に突き落とされても、
かの観音の力を念じたならば、
太陽のように虚空にとどまるであろう。
あるいは悪人に逐われて金剛山から墜落しても、
かの観音の力を念じたならば、
一本の毛さえも傷つけることはないであろう。
あるいは賊がとりかこんで、
おのおの刀を揮って斬りつけても、
かの観音の力を念じたならば、
ことごとく皆、慈悲心をおこすであろう。
あるいは王難の苦に遭うて、
死刑に処せられ、命が終わろうとするときに、
かの観音の力を念じたならば、
刀は数段に折れるであろう。
あるいは手かせ・足かせに縛られても、
かの観音の力を念じたならば、
縛めは解けて解放されるであろう。
呪いや毒薬で殺されようとした者が、
かの観音の力を念じたならば、
呪いはかえって呪う者にとりつくであろう。…
神通力をそなえ、広く智慧の方便を修めて、
十方のもろもろの国土に、
身をあらわさぬところは一つもない。
種々のもろもろの悪しきところ、
地獄・餓鬼・畜生の世界、
生老病死の苦しみは、
次第にことごとく消滅するであろう。……
真実の眼、清らかな眼、広大な智慧の眼よ、
悲の眼、慈の眼よ、常に願い、
常に仰ぎ見るであろう。
汚れなき、清らかな光よ、
智慧の光はもろもろの闇を破り、
よく災いをし征服する風と火は、
あまねく明らかに世間を照らす。
法華経25(仏教)
― み言選集 ―
神様は切迫した瞬間、死亡の場に生命の救助船として現れます。
(6-152、1959.4.19)
私達人間は、100 パーセント愚かな立場に立っていますが、100 パーセント以上知恵深い神様が友達になり、無限の霊界の先祖たちが、自分の同伴者になり、後援部隊になっています。そのようなことを考えるとき、有り難いのです。
私は一線で冒険の場、ゴリアテの前にダビデが立ち上がるときのその気分が、本当によく分かります。神様が保護されて、百戦百勝することができるのです。「打てばお前が破れ裂けるのであって、私は破れ裂けない」という心をもって暮らしてみると、本当にそのようになったというのです。
(203-192、1990.6.24)
レーガンも銃で撃たれ、教皇も銃で撃たれましたが、死にませんでした。ですから、レバレンド・ムーンもそうであり、そうなる与件が準備されているのです。
(116-155、1981.12.27)
協力を受けるためには、発表しなければなりません。発表してサタンが協助すれば、神様も協助するようになっていて、神様が協助すれば、人間が協助してくれるので、サタンは退かなければなりません。メシヤと一つになり、神様と一つになれば、自分の国がなくなります。これをサタンは最も恐れるのです。
それで、個人が接し、家庭が接し、国家が接し、世界が接して歓迎すれば、サタンは退いていくのです。ですから、生死の境を前にして、サタンが人間に血を流させようとします。その戦場で死なずに生き残らなければなりません。
(329-287、2000.8.11)
サタンが天の国の人を鉄条網で囲みますが、神様は、時になればいくら鉄の鎖で縛られてきたとしても、サタンの国の人ではなく、天の国の人なので、その縛りつけたすべての責任をサタンに追及するのです。いつでも来て救っていくことができます。時が来れば、天がすべて連れていけるのです。すべて断ち切って連れていくことができます。そして、そのような立場で死んでも、「私は天の国の民として生まれ、天の国の民として生き、鉄条網で囲まれていたとしても、死ぬときは天の国で死ぬ」と考えるとき、間違いなく霊界の天の国に行くのです。かえって、すべての人がよく闘ったと称賛するというのです。
(98-162、1978.7.16)
皆さんの最高の福は天の国に行って受けます。ですから、み旨のために地獄に行く日が希望の日であり、鎖で縛られても希望の日なのです。口笛を吹いて行く日には、私が来ることをあらかじめ知って、すべて準備しておき、私に会って教えを受ける準備をすべてして待つというのです。おなかがすけば、食べるものを配達してくれる人もいるのです。からすに命じてエリヤに食べ物をもっていかせたというのは、たやすいことです。共産党をして食べる物をもっていってあげるのです。神様が霊界を通して役事されます。
(103-207、1979.2.25)
1950 年8月1日、100 機ほどのB29 機が総攻撃して、興南監獄を激しく爆撃しました。先生は、このようになることをあらかじめ知っていただけではなく、直径12 メートル以内は神様が守ってくださるということを知っていたので、近くの人々にみな先生の周囲にいるように言い聞かせました。
先生は、そのような中で黙って瞑想をしていました。爆撃のようなことは考えませんでした。今後の理想世界について考えていました。このような復帰の使命を果たす人を霊界に連れていけば、神様にとっては天宙的な損害です。神様は、いかなる犠牲を払ってでも防備しようとされたのであり、そのようにせざるを得なかったのです。
興南の監獄にいたとき、様々なことがありました。その中で最も困難だったことは、毎日感想文を書くことでした。しかし、先生は書きませんでした。それは問題になるのです。しかし、仕事においてはやるべきことをやっていたので、問題になりませんでした。共産主義は良いとも書かず、悪いとも書きませんでした。いつも白紙を出したのです。先生はそのような戦法をとってきました。
(35-189、1970.10.13)
以北でUN軍が最初に上陸した所が興南でした。それは、神様が急いで救わなければならない息子がそこにいたからです。共産党はその前々日、一つの監房にいる人たちに、御飯をあげると騙して全員を連れて出ていきました。この人たちは、殺害するつもりでそのようにしていることを知らずに、御飯をくれるというのでそれをもらおうと先を争いました。先生はすぐにそれが分かりました。「あなた達は最後の道を行くのだなあ! しかし、私は死なない」、そのように思いました。「あなた達はみな死んでも、私は死なない。いかなる惨事の悲運が経ていく場でも、銃剣を受けて倒れる場でも、私は決して死なずに生き残る!」、私はそれが分かりました。
1950 年10 月12 日、刑期が7年以上の囚人、およそ70 人を、30 里(注32)ほどの山の中に引いて入っていき、すべて殺害してしまいました。その当時、先生の刑期は5 年だったので、その次の、次の日が、私が引っ張られていく番でした。ですから、神様はお忙しかったことでしょう。13 日、夜道を見渡すと既に事態が変わっていました。UN 軍が興南に上陸したのです。そのようにして、ついに10 月14 日、共産軍が退いて、すぐ私達は監獄から抜け出て、以南に下ってきました。
(22-129 ~ 130、1969.2.2)
11) 逆転と復帰
救援は、場合によっては巨大な逆転として現れる。神様が既存の社会的、政治的秩序を再編成しようとする意図を表明するとき、富者と権力者たちが、これ以上正直な人々と神様を畏敬する人たちの上に君臨することができないとき、私達は巨大な逆転を目撃する。
内的に神様に向かう道は世俗的な道と反対だということを認識する。悟りは、人は自分の方向を180 度転換しなければならないことを悟る。聖書はこのような内的逆転を、生命を得るために自分を葬ることであり、光明を得るために暗闇を求めることであり、聖なるもののために自らを低めることだという。
これを通して救いはすなわち復帰だという概念が導かれる。復帰は、悪い習慣、誤った思考および行動様式、そして腐敗し正道から外れた社会的関係を断絶することである。それは、本来の位置に戻ることであり、神様の目的と真の原理に従って本来の生活方式を回復することである。本来の状態として、逆転という主題に関する重要な表現の中の一つが、仏教の縁起論の教理だ。この教理は、単純に因果関係の法則ではなく、滅亡に誘導されるすべての原因の方向を変えなければならなという桐察だというのがより適切である。
文鮮明先生は、蕩減を通した復帰の教えのもと、この主題に対して具体的に説明される。蕩減は広い意味で反対の道を選ぶことによって過ちを復帰しようどすることを意味する。それは、「自己中心から他人中心に」性格を転換することから始まる。
また、それは犯罪によって崩れた信頼を回復するために損害賠償をする行為、もともと自分の過ちではなかったとしても、兄弟の友愛を回復するために自分が責任を取る行為など、多様な関係に拡大されるものである。
蕩減は人間の堕落による原罪の逆転、すなわち完全な復帰とともに履行される。
1. 大逆転
― 宗教経典 ―
自分を低める者は神が高めてくださり、自分を高める者は神が彼を低められる。社会的名声を追求する者に社会的名声は飛び去り、社会的名声に超然とした者には社会的名声が彼を訪ねまわる。環境に執着する者には環境が彼につきまとい縛りつけるが、環境が抜け出ていける道を開いてあげる者には、環境がその位置を守るようになる。
タルムード、エルヴィーン13b (ユダヤ教)
このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。
マタイによる福音書20.16(キリスト教)
だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。
マタイによる福音書23.12 (キリスト教)
自然の道は弓を引いた曲線に似ている。
上端のものは押し下げられ、
下端のものは引き上げられる。
余りすぎは減らされ、
足りないものは補われる。
自然の道は余っているものを減らし、
足りないものを補うのである。
一方、人の道は足りないほうを減らし、
余っているほうへ補うのである。
いったい余りすぎるものをもっていて
天下の人々のために補うことのできる者は誰か。
「道」を有した者だけがそれをできる。
道徳経77(道教)140
勇士の弓は折られるが、よろめく者は力を帯びる。食べ飽きている者はパンのために雇われ、飢えている者は再び飢えることがない。子のない女は七人の子を産み、多くの子をもつ女は衰える。
主は命を絶ち、また命を与え、陰府に下し、また引き上げてくださる。主は貧しくし、また富ませ、低くし、また高めてくださる。弱い者を塵の中から立ち上がらせ、貧しい者を芥の中から高く上げ、高貴な者と共に座に着かせ、栄光の座を嗣業としてお与えになる。
大地のもろもろの柱は主のもの、主は世界をそれらの上に据えられた。主の慈しみに生きる者の足を主は守り、主に逆らう者を闇の沈黙に落とされる。人は力によって勝つのではない。
サムエル記上2.4 ~ 9(キリスト教)
― み言選集 ―
摂理路程は救援路程であり、救援路程は復帰路程であり、復帰路程は創造路程です。一度工場さえ造っておけば、その次からは引き出せばよいのです。そうでなければ、ほかの方法はありません。最初の被造物がもっていた観念は、神様の観念しかありませんでした。ほかの観念はなかったのです。ゼロ観念でした。私達も復帰路程、再創造路程において、ゼロ点に帰らなければなりません。
神様の前に創造以前の状態に帰らなければならないのです。そうでなければ、すべてのものが不可能です。それで、聖書で死なんとする者は生き、生きんとする者は死ぬとあるのです。それは、サタンの生命をそのように切ってしまわなければならないということです。そのようにしなければ、本然の神様と連結され得る道がありません。
歴史において、悪の者が上にいました。本来は、善の者が上がっていき、悪の者は下りていかなければなりません。方向が変わらなければならないのです。悪の者が上がっていき、善の者が下がっていったのと反対に、善の者が上がっていき、悪の者が下りていく、その交差点がゼロポイントです。今がそのように交差する時だというのです。
(218-187 ~ 188、1991.7.28)
2. 反対方向に進んでいく復帰
― 宗教経典 ―
自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。
ルカによる福音書17.33 (キリスト教)
曲がっているものは完全に残る。
まっすぐであるために、身をかがめよ。
いっぱいになるために、くぼみがあるべきだ。
使いつくすことが、若返ることになる。
欲しい人はもっと得られるだろうし、
たくさんもっでいる人は奪われるだろう。
だから、賢人は「一」をしっかりつかみ、
天下の模範となる。
道徳経22(道教)
そなたに法を説きましょう。これ有ればかれ有り、これ生ずればかれ生ず、これ無ければかれ無し、これ滅すればかれ滅す 。
阿含経中部ii.32 (仏教)
世尊はこれを宣へり。「比丘等よ、縁起とは何ぞや。比丘等よ、無明に縁りて行あり、行に繰り識あり、識に縁りて名色あり、名色に縁りて六処あり、六処に縁りて触あり、触に縁りて受あり、受に縁りて愛あり、愛に縁りて取あり、取に縁りて有あり、有に縁りて生あり、生に縁りて老・死・愁・悲・苦・憂・悩・生ず。
是の如きが、これ全苦蘊の集なり。比丘等よ、これを生起といふなり。無明の無餘・離貪・滅によりて、行の滅あり、行の滅によりて識の滅あり、識の滅によりて名色の滅あり、名色の滅によりて六処の滅あり、六処の滅によりて触の滅あり、触の滅によりて受の滅あり、受の滅によりて愛の滅あり、愛の滅によりて取の滅あり、取の滅によりて有の滅あり、有の滅によりて生の滅あり、生の滅によりて老・死・愁・悲・苦・憂・悩滅す。是の如きがこれ、全苦蘊の滅なり」
阿含経相応部xxii.90 (仏教)1
万物の夜において、自己を制する聖者は目覚める。万物が目覚める時、それは見つつある聖者の夜である。
バガヴァッド・ギーター2.69(ヒンドゥー教)
すぐれた才能をもっている人が「道」に耳をかたむけたとき、熱心にそれを行なう。普通の人が「道」に耳をかたむけたとき、それを信じるように見えるが、信じていない。最も劣った人が「道」に耳をかたむけたとき、大声で笑う。笑わなかったら、それは「道」ではないかもしれない。
道徳経41(道教)
色・声・香・味・触と総ての法の、楽しく愛すべく又可意なる、有りといはるる限りのもの、これ等は人天世界には安楽なりと思はれ、これ等の滅する所、そは彼等には苦なりと思はる。
己身の滅盡は聖者には楽と見らるるが、一切世間の見る所はこれに反せり。他(愚者)が楽と云へる、それをば聖者は苦と云ひ、他が苦と云へる、それを聖者は楽と知れり。触の法は知りがたく、無智者はこれに惑ふ。〔煩悩に〕覆はれたるものには黒闇あり、見ざるものには盲冥〔あり〕。
阿含経相応部iv.127 ~ 28(仏教)
― み言選集 ―
神様のみ旨の道を行く人たちは、神様のために、世界のために犠牲になるのです。結論は、ここで蕩減法が成立するということです。蕩減法は両面が結びつかなければなりません。蕩減はどのような方法かというと、否定方法です。反対の方法です。反対の道を行くのです。アダムが神様を否定してサタンのところに行ったので、私達は、サタンを否定して神様に帰らなければなりません。
(73-94、1974.8.4)
どのようなものであっても、その本来の位置と状態を失ったとき、それらを本来の位置と状態にまで復帰しようとすれば、必ずそこに、その必要を埋めるに足る何らかの条件を立てなければならない。このような条件を立てることを「蕩減」というのである。
例を挙げれば、失った名誉、地位、健康などを原状どおりに回復させるためには、必ずそこにその必要を埋める努力とか財力などの条件を立てなければならない。また、互いに愛しあっていた二人の人間が、何かのはずみで憎みあうようになったとすれば、このような状態から再び、互いに愛しあっていた元の状態に復帰するためには、彼らは必ず、お互いに謝罪しあうなどのある条件を立てなければならないのである。
原理講論、後編緒論1.1
蛇は殻を脱がなければ大きくなれません。殻を脱ぐためには、岩の隙間を抜けていかなければなりません。反対の力が体に加わってこそ、殻を脱げるのです。暗闇の勢力が私達の体の血と肉と一つになっていっぱいに覆いかぶさっているのですが、これをどのように脱ぐのでしょうか。それについていくことはできません。ですから、知恵が必要です。すべて反対の道に行かなければなりません。完全に脱ぐためには完全に反対の道に行かなければなりません。
(46-83、1971.7.25)
復帰は蕩減復帰です。罪を犯して刑務所に入っていった息子を、神様が手を出さずに鉄門が開いて出てくることができるようにして解放しなければならないというのが神様の見る観です。サタン以上に愛することができなければ解放できないのです。
(308-244、1999.1.9)
堕落は自分を中心とした自覚ですが、復帰は天宙理想圏の意識を中心とする自覚をするのです。その実体圏を私が代わりに背負い、あなたと私との共同責任を背負って解消しなければならない一体圏の場で解怨してこそ、解放が展開することを知らなければなりません。
(396-178、2002.11.7)
3. 本然の状態に復帰
― 宗教経典 ―
若し結を除かんと欲せば、結を心に當つべし。
首楞厳経(仏教)
一切衆生は自らの本心が一つに混融した本来の清浄な状態に戻ろうとする。
首楞厳経(仏教)
孔子は、「己に克ち礼を復(ふ)むを仁と為す」と答えた。人がただ一日だけでも、この克己復礼で仁を行うことができたら、その影響は広く行きわたって、天下の人々がみな仁徳に向かい、仁に心を寄せるようになるであろう。
論語12.1.1, (儒教)
この規範を知ることは深遠な「徳」である。深遠な「徳」は奥深く遠くまでとどく。それはものの後戻りであり、「道」との大いなる調和へと至るのである。
道徳経65(道教)
比丘等よ、譬えば人ありて、阿蘭若林を徘ひつつ、古人の辿りし古道、古径を発見せんに、彼その〔道〕に随ひ、その〔道〕に随ひ行きつつ、古人の止佳せし古城、古都、園林を具足し、麗はしき堤ある蓮池を具足する〔古城、古都〕を発見せん。
比丘等よ、その時かの人、王或は王の大臣に報ぜん。「尊きものよ、當に知るべし、われ阿蘭若林を徘ひつつ、古人の辿りし古道、古径を発見せり。その〔道〕に随ひ、その〔道〕に随ひ行きつつ、古人の止佳せし古城・古都、〔そは〕園林を具足し、麗しき堤ある蓮池を具足する〔古城・古都〕を発見せり。
尊きものよ、その城邑を築かしめよ」と。比丘等よ、その時王或は王の大臣、その城邑を築かしめんに、その城邑、後に栄え、衆人熾盛にして、増上発展するが如し。比丘等よ、それと同じく、われ過去の正覚者の辿り給ひし古道・古径を発見せり。
阿含経相応部ii.106 (仏教)
死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。
コリントの信徒への手紙一15.21 ~ 22(キリスト教)
なぜ偶像を崇拝する者たちは淫蕩になるのか。その理由は、そのような者たちはシナイ山で神と出会わなかったからである。蛇がエバに近づいて彼女を誘惑し、性関係を結んだように、イスラエルの民が神とシナイ山で出会ったときは好色的気質が消えたが、シナイ山に立っていなかった偶像崇拝者たちには好色的な気質が離れなかったのである。
タルムード、シャッバト145b ~ 146a (ユダヤ教)
メシヤが来られるとき、聖なるその方は、傷(アダムの罪)を治癒してくださるだろう。さらに世の傷もまた治癒してくださるだろう。
創世記ラッバー10.4 (ユダヤ教)
― み言選集 ―
復帰の道は人間の側から行く道なので、復帰の道を行くためには蕩減しなければならないのですが、神様が蕩減するのではなく、人間が蕩減しなければならないのです。復帰の道は蕩減しなければ行くことができないという事実を知らなければなりません。
それが何かというと、病気を治すためには、病気になった人が嫌う薬でも、歯を食いしばってでも、苦くても飲まなければなりません。薬は大概甘い薬はありません。苦いものが本当の薬です。ですから、復帰の道は蕩減しなければ行くことができないことをはっきりと知らなければなりません。
(92-254 ~ 255、1977.4.18)
これから新しい息子、娘をつくらなければならないのですが、どのようにつくりだすのでしょうか。皆さんが生まれるには、大勢の先祖を通して生まれましたが、逆さまにすべて上がっていかなければなりません。逆さまに上がっていき、私達人類の堕落した先祖ではなく、真の先祖の門を通して神様にまで入っていかなければなりません。
キリスト教の思想は、神様の救援摂理の思想を代表したものです。その思想の骨子が何かというと復活です。再び生きることです。再び生きるためには、再び生まれなければなりません。重生しなければならないというのです。
(96-40、1978.1.1)
アダムとエバが水に溺れてしまった立場になったので、全人類が同じ立場に立つようになったのです。これを整理してあげなければなりません。根本の根まで下りていって問題を解決してあげなければならないのです。
(248-149、1993.8.1)
堕落は、人間が神様に背き、そのみ言に従わないことによって、神的な人格と愛を具現した個人と世界を成し遂げることができず、かえってサタンと組み、その言葉に屈服することによってサタン的人格と愛を成した悪の世界を形成したことです。
したがって、完成に復帰しようとすれば、反対にサタンを排斥し、失ってしまった神様を取り戻してそのみ言に従順にすることによって、天的な人格と愛をもたなければなりません。
(88-209、1976.9.18)
お父様! 歴史的なすべての事情が今日私達の一身に絡みついていますので、それを切って解放の中心を備えてイエス・キリストの友の立場に立ち、お父様の前に敬拝することのできる喜びの一個体として立ててくださいますことを、お父様、懇切にお願い申し上げます。
(1-345、1956.12.30)
12) 重生
イエス様は、「生まれ変わらなければならない」と語った。キリストの中での重生は世俗的人間を神様の子女に変化させる、重生した人は、神様と親密さを経験し、キリストの霊が内在する。
文鮮明先生の教えによれば、人が二度生まれなければならない理由は、人間の堕落のためである。すべての世代が堕落の否定的結果を経験するのは、人間の血統の根が汚されたからである。人間の堕落によって、サタンは神様の権限を侵害し、人間の偽りの父の位置を確保することができた。人間の生命を悪魔が持続的に掌握するのを防ぐために、私達は神様の子女として再び生まれなければならない。
このような目的のために、神様は原罪がない男性として父を代表する救世主を、母を代表する聖霊を送った。救世主と聖霊の愛を通して私達は再び生まれることができるようになった。
東洋の宗教は、よく霊的滅亡の道に入ることを二番目の霊的誕生と理解する。ヒンドゥー教と仏教では、宗数的教えを受けると、「二度生まれた」と言う。
彼らは、生物学的父母を通して感覚世界に生まれたが、彼らの霊的重生後の人生は本性に根拠をおく。しかし、文鮮明先生は、原罪の血統から私達を断ち切るための救世主の働きにのみ厳格に適用されるキリスト教の教理に基づいて重生を説明する。先生は、復活という概念のもと、宗数的真理の教えを通した広い意味の霊的転換を重生とみなしてもいる。
文鮮明先生は、重生を得るための条件として悔い改めと世俗的道の放棄に対しても言及する。先生は、重生過程を新しい枝を接ぎ木する前に古い枝を切り取らなければならない接ぎ木に例える。同じように、私達は自分を否定し、すべての誤ったものを切り取らなければならない。そうすることによって、私達は生命と神様の愛をもった新しい枝を接ぎ木するようになる。木が適切に接ぎ木されれば、新しい枝は新しい実を結び、人間は神様の血統を繁殖するだろう。したがって、重生が上から与えられる恩寵だとしても、その恵みを受ける人には責任と献身が要求される。
1. 神様の息子、娘として新たに生まれる
― 宗教経典 ―
さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいだ。ユダヤ人たちの議員であった。ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、私どもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」
イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」イエスはお答えになった。
「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。(注39)肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。「あなたがたは新たに生まれねばならない」とあなたに言ったことに,驚いてはなら ない。
ヨハネによる福音書3.1 ~ 7(キリスト教)
しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
ヨハネによる福音書1.12 ~ 13(キリスト教)
師というものは、人々に自らの宗数的義務とこれに伴う知識を分けてあげる者を指して言うため、彼は当然、主のみ意に外れることがあってはならない。なぜなら、彼は人々に神聖な教えを与えることによって、彼らをして生まれ変わらせる者だからである。真理によって生まれ変わることが至善であり、父と母はただ体を与えただけである。
アーパスタンバ・ダルマ・スートラ1.1(ヒンドゥー教)
比丘たち、私は、求めに応ずる、いつも浄い手をした、もはや迷いの生存を繰り返さないバラモンである。最高の内科医、外科医である。君たちはこの私自身の子供である。私の口から生まれた、真理から生まれた、真理によって作られた子供である。精神的な真理の後継者であり、物質的な財の後継者ではない。
如是語経(仏教)
― み言選集 ―
なぜ、どうして私達に新生が必要なのでしょうか。それは堕落のためです。堕落がもたらした贈り物です。それでは、結局、堕落とは何でしょうか。堕落した父母から私が受け継いだ、そのような出生をしたことが堕落した立場に立つことになるのです。皆さん自身が、私は堕落した父母から生まれ、堕落した愛の中で生まれたというそのような確信、そのような感覚を自ら完全に感じなければなりません。
(95-82、1977.11.1)
堕落とは何でしょうか。愛の根を間違ってもったことです。それを知らなければなりません。皆さん、この西欧社会では堕落が私と何の関係があるのかと考えますが、それは違います。堕落によって愛の血筋が変わったのです。愛の出発点が変わったというのです。
これをはっきりと知らなければ、救援摂理だとか何だとかいうものが解釈できないのです。神様が不完全になるのです。人間が堕落したために絶対的な神様が不完全な神様として立たなければならなくなりました。
(193-54、1989.8.20)
イエスは、自分を訪ねてきたユダヤ人の官吏ニコデモに、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできないと言われた(ヨハネ3・3)。重生とは二度生まれるという意味である。では、人間はなぜ新たに生まれなければならないのであろうか。我々はここで、堕落人間が重生しなければならない理由についで調べてみることにしよう。
アダムとエバが創造理想を完成して、人類の真の父母となったならば、彼らから生まれた子女たちは原罪がない善の子女となり、地上天国をつくったであろう。しかし、彼らは堕落して人類の悪の父母となったので、悪の子女を生み殖やして、地上地獄をつくることになったのである。
したがって、イエスが、ニコデモに言われたみ言どおり、堕落した人間は原罪がない子女として新たに生まれ直さなければ、神の国を見ることができないのである。
我々を生んでくださるのは、父母でなければならない。それでは、堕落した我々を原罪がない子女として生んで、神の国に入らせてくださる善の父母は、いったいどなたなのであろうか。原罪のある悪の父母が、原罪のない善の子女を生むことはできない。したがって、この善の父母が、堕落人間たちの中にいるはずはない。
それゆえに、善の父母は、天から降臨されなければならないのであるが、そのために来られた方こそがイエスであった。彼は堕落した子女を、原罪のない善の子女として新しく生み直し、地上天国をつくるその目的のために真の父として来られた方であった。
ゆえに、ペテロⅠ1章3節に、「イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、私達を新たに生れさせて生ける望みをいだかせ」というみ言がある。イエスは、アダムによって成し遂げられなかった真の父としての使命を全うするために来られたので、聖書ては、彼を後のアダムといい(コリントⅠ 15・45)、永遠の父といったのである(イザヤ9・6)。
また、神は、預言者エリヤを再び送り、彼の力で堕落した人間の心を、父母として降臨されるイエスの方へ向けさせることによって、彼らをその子女となさしめると言われた(マラギ4・6)。そして、イエスが再臨されるときも、父の栄光のうちに来られる(マタイ16・27)と言われたのである。
ところで、父は一人でどうして子女を生むことができるだろうか。堕落した子女を、善の子女として、新たに生み直してくださるためには、真の父と共に、真の母がいなければならない。罪悪の子女たちを新たに生んでくださるために、真の母として来られた方が、まさしく聖霊である。
ゆえに、イエスはニコデモに、聖霊によって新たに生まれなければ、神の国に入ることができない(ヨハネ3・5)と言われたのである。このように、聖霊は真の母として、また後のエバとして来られた方であるので、聖霊を女性神であると啓示を受ける人が多い。すなわち聖霊は女性神であられるので、聖霊を受けなくては、イエスの前に新婦として立つことができない。
また、聖霊は慰労と感動の働きをなさるのであり(コリンⅠ 12・3)、エバが犯した罪を蕩減復帰されるので、罪の悔い改めの業をしなければならないのである。さらにイエスは男性であられるので、天(陽)において、また、聖霊は女性であられるので、地(陰)において、業(役事)をなさるのである。
原理講論、キリスト論4.1.1
2. 昔の姿を断絶しなければならない重生
― 宗教経典 ―
神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によって私達は、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、私達が神の子供であることを、私達の霊と一緒になって証ししてくださいます。もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。
ローマの信徒への手紙8.14 ~ 17(キリスト教)
生まれながらの人は神の敵であり、アダムの堕落以来そうであって、今後もそうである。また人は、聖なる御霊の勧めに従い、主なるキリストの贖罪により、生まれながらの人を捨てて聖徒とな.り、子供のように従順で、柔和で、謙遜で、忍耐強く、愛にあふれた者となり、子供が父に従うように、主がその人に負わせるのがふさわしいとされるすべてのことに喜んで従わないかぎり、とこしえにいつまでも神の敵となるであろう。
モルモン経、モーサヤ書3.19(末日聖徒イエス・キリスト教会)
この同一の人々は、このあらゆる短所の幕に囲まれているにもかかわらず、そしてそのような慣習に束縛されているにもかかわらず、あらゆる栄光の顕示者の手に持たれた確信の杯にくまれた不滅の信仰を一口飲むやいなや変形し、彼らの同族のために、彼らの本体、彼らの生命、彼らの信仰、そしてその上に神を除くあらゆるものを放棄するだろう!
神のための彼らの譲歩はあまりに圧倒的で、無我の境地の歓喜への陶酔はあまりに高揚して、世と世にあるすべてのものが彼らの目に無価値なものに変わってしまった。この人々が再生の神秘を例証するのではないか……。
確信の書155 (バハイ教)
― み言選集 ―
自分を否定しなければ、再び生まれ変わることはできないことを知らなければなりません。
(244-100、1993.1.31)
キリスト教の思想は、聖霊を迎えなければ救われないというものです。これがキリスト教の主流思想です。聖霊が訪ねてきて、あるいは救世主と関係を結んで神様に帰るにおいて、何をするために聖霊が必要なのですか。
なぜ聖霊が来なければならないのですか。結局、天に連れていこうというのです。善の神様のところに連れていこうというのです。そのようにしようとすれば、どのようにしなければなりませんか。悔い改めなければなりません。第一の課題が悔い改めです。
(99-75 ~ 76、1978.9.1)
復活は人間が堕落によってもたらされた死、すなわちサタンの主管圏内に落ちた立場から、復帰摂理によって神の直接主管圏内に復帰されていく、その過程的な現象を意味するのである。したがって、罪を悔い改めて、昨日の自分よりきょうの自分が少しでも善に変わるとすれば、我々はそれだけ復活したことになる。
原理講論、復活論1.3
私達は悪から生まれた体であるため、善として再び生まれなければなりません。二度生まれるべき運命、これは悲惨なことです。この世でも、継子として生活することは、この上なく悔しいことではないでしょうか。私達は養子の程度ではなく、怨讐の子として生まれたがゆえに、本然の父母を探し出さなければなりませんが、その道は決して平坦では、ありません。
それゆえ私達は、サタンの矢とサタンの槍と剣の攻撃を無数に受けています。しかし私達は、このように体を縛りつけているひもを切って行かなければなりません。口で切るとしても、力で切るとしても、縛りつけている者たちとぶつからなければなりません。
(27-162、1959.12.7)
3. イエスと聖霊を通じた重生
― 宗教経典 ―
五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、私達の神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」
使徒言行録2.1 ~ 4、38 ~ 39(キリスト教)
私達自身もかつては、無分別で、不従順で、道に迷い、種々の情欲と快楽のとりことなり、悪意とねたみを抱いて暮らし、忌み嫌われ、憎み合っていたのです。しかし、私達の救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたときに、神は、私達が行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、私達を救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。神は、私達の救い主イエス・キリストを通して、この聖霊を私達に豊かに注いでくださいました。こうして私達は、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。
テトスヘの手紙3.3 ~ 7(キリスト教)
“霊”と花嫁とが言う。[来てください。」これを聞く者も言うがよい、「来てください」と。渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。
ヨハネの黙示録22.17(キリスト教)
イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなた達の内に命はない。私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得、私はその人を終わりの日に復活させる。私の肉はまことの食べ物、私の血はまことの飲み物だからである。
私の肉を食べ、私の血を飲む者は、いつも私の内におり、私もまたいつもその人の内にいる。生きておられる父が私をお遣わしになり、また私が父によって生きるように、私を食べる者も私によって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」
ヨハネによる福音書6.53 ~ 58 (キリスト教)
― み言選集 ―
まず霊的に神様と共に地上の垂直の愛であるエバを中心とする関係を結び、本来の神様、完成した男性と一体となってエバと関係を結んだという愛の心情圏の樹立によって、初めて霊的な基準にいながら愛の関係を結ぶようになったという条件になったのです。その条件的愛によって私達は、霊的復活の条件になるのです。それが復活完成ではありません。復活の条件体として生まれているのです。それがキリスト教の重生、再び生まれたという言葉の意味です。
(379-190、2002.5.29)
新郎であるイエス様の愛と新婦である聖霊の愛が一体となった愛が、私の骨と肉と一つにならなければなりません。すなわち、「あなたがたは私におり、また、私があなたがたにおることが、わかるであろう」というイエス様のみ言のように、愛の心情基盤ができるまでは、キリスト教で言う重生はあり得ないのです。
皆さんも重生されなければならないといいますが、重生されるには、イエス様を誰よりも愛さなければなりません。堕落圏内で、すなわちサタンの愛の圏内でなされるそのいかなる愛よりも、神様を中心としてなされる愛が、より次元が高くない限り、神様と連結できる道がないことを知らなければなりません。
(114-28、1981.5.14)
キリスト教は、イエス様の十字架の血から始まっています。その由来を知らずに今騒いでいるのです。それでは、イエス様の血とは何ですか。堕落していない完成した父の血だというのです。イエス様が父なのですが、父一人で血統を相続してあげることができますか。できないので母を取り戻してくるのですが、これが最上の新婦を迎える小羊の婚姻の日なのです。
(193-57、1989.8.20)
今日までのキリスト教においては、聖霊が母親の役目をしてきました。母の聖霊を通過し、父の霊、すなわちイエス様の霊を通過して、私達は霊的基準において重生するのです。もちろん、私達は母の胎内で生まれたのですが、さらにもう一歩深くさかのぼって考えてみると、生命の起源は父親から出発するのです。母親の胎内までさかのぼることによって、血統は交差し復帰されましたが、この場合、まだ父親を迎えていないのです。
ですから、今日までクリスチャンは、母の霊による聖霊の力により、根源そのもの、すなわち生命の起源である父なる来たるべきキリストのもとへ帰ることを待ち望んできたのです。堕落する前に、既に息子や娘の生命は、すべて父親なるアダムの体中で一つの種として出発していたはずです。すなわち、息子や娘になる種は父親の体中にあるのです。
(55-117 ~ 118、1972.4.1)
13) 復活
聖書に死んだ者の復活が予言されており、コーランにも神様と共にする祝福された未来の人生に対する約束がある。復活は、単純にこの世で死んだ者が死後の世界へ霊魂が自然に転換される問題ではない。それは、死から永遠の生の領域に霊魂を昇華する神様の救援行為である。復活を通して私達は、単純に新しい生の機会を得るのではなく、新しい生の質的変化を遂行するのである。
文鮮明先生は、復活を通して死の領域である地獄に捕らわれた存在から神様の懐の中の祝福された存在として霊的に引き上げられると教える。私達が神様の下さる新しい生、すなわち復活を主張するためには、自己の否定、確固たる信仰、さらには殉教などの条件が必要だ。これは私達が神様とより完全に関係を結ぶために、サタンとの関係を断ち切って自分を「葬り去ること」である。イエス様が自身の復活の前提条件として十字架で祭物となったように、私達もやはり試練に直面する。イエス様が外見上、ローマ人の手で犠牲となって敗北したように見えても勝利したのは、神様が敗北をひっくり返し、死までも勝利と生命に変えられることを見せてくれたのである。
聖書は、すべての正義の霊魂たちが天に引き上げられていく末世の復活に対して記録している。聖書は、14 万4000 の聖なる群れが「最初の復活」に参与すると語る。これは死後の世界でも、霊魂たちが未来の解放の日が来るときまで、暗闇の中で耐え、悪条件に抑圧されていることを意味する。救世主が出現してサタンを退け、地獄に閉じ込めるその日、天上と地上のすべての霊魂たちが復活の自由と新しい生を味わうようになるだろう。
しかし、文鮮明先生がはっきりと明らかにしたように、最初の復活は、ほかの人の努力の代価によって特定の信仰者に永遠に恩寵として付与されるものではなく、かえって最初の復活に参与する聖なる人たちは、パウロが「最後に退ける怨讐は死亡」と語ったように、一人の霊魂も死の領域にとどまらないよう、悪のすべての権勢を退ける闘争に同参しなければならない。
1. 死亡から生命に
― 宗教経典 ―
召集者が近い所から呼ぶ日に(備えて)、耳をそばだてよ。その日、かれらは真実に一声を聞こう、それは出て来る日である。まことにわれは、生を授けまた死を賜う、われによろずのものの帰着所がある。その日、大地は、かれらの所から裂けて急いで出て行く。それは召集で、われにとっては容易なことである。
クルアーン50.41 ~ 44(イスラーム)
主の手が私の上に臨んだ。私は主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされた。そこは骨でいっぱいであった。主は私に、その周囲を行き巡らせた。見ると、谷の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた。
そのとき、主は私に言われた。「人の子よ。これらの骨は生き返ることができるか。」私は答えた。「主なる神よ、あなたのみがご存じです。」そこで、主は私に言われた。「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、私はお前たちの中に霊を吹き込む。
すると、お前たちは生き返る。私は、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。そして、お前たちは私が主であることを知るようになる。」私は命じられたように預言した。私が預言していると、音がした。
見よ、カタカタと音を立てて、骨と骨とが近づいた。私が見ていると、見よ、それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った。しかし、その中に霊はなかった。主は私に言われた。「霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。」私は命じられたように預言した。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった。主は私に言われた。「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。彼らは言っている。『我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる』と。それゆえ、預言して彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。私はお前たちの墓を開く。
わが民よ、私はお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。私が墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、わが民よ、お前たちは私が主であることを知るようになる。また、私がお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。私はお前たちを自分の土地に住まわせる。そのとき、お前たちは主である私がこれを語り、行ったことを知るようになる」と主は言われる。
エゼキエル書37.1 ~ 14(キリスト教)
かれらは、「何んと、わしらが朽ちはてた骨になってしまっても、ほんとうに、初めの状態に返るであろうとか」と、言おう。かれらは、「その場合失敗の帰還だ」と言う。それは、ただ一声の叫びで、見よ、かれらは目ざまされる。
クルアーン79.10 ~ 14(イスラーム)
アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。
コリントの信徒への手紙一15.22 (キリスト教)
イエスは言われた。「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」
ヨハネによる福音書11.25 ~ 26(キリスト教)
私は知っている。私を贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも、この身をもって私は神を仰ぎ見るであろう。
ヨブ記19.25~26(キリスト教)
はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。
ヨハネによる福音書記24 ~ 25(キリスト教)
かれのしるしの一つを、なんじは、荒れはてた大地に見る。われがその上に雨を降らせると、動きだし盛りあがる。まことにそれに生命を与えたもう方は、まさに死者をよみがえらせたもう方である。かれは、よろずのことに全能であられる。
クルアーン41.39(イスラーム)
死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。
つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。
コリントの信徒への手紙一15.42 ~ 45(キリスト教)
― み言選集 ―
我々はこれまで、人間の寿命が切れて、その肉身の土に帰ることが、堕落からきた死であるとばかり考えていた。したがって、このような死から再び生きることが、聖書の意味する復活であると解釈してきたので、既に他界した信徒たちの復活は、すなわち土に分解されてしまったその肉身が、再び原状どおりによみがえることによって成就されるものと信じていた。
しかし、創造原理によれば、このような死は、人間始祖の堕落によって招来されたものではなく、本来、人間は老衰すれば、その肉身は自然に土に帰るように創造されているので、いったん土に分解されてしまった肉身が、再び原状どおり復活することは不可能であるばかりでなく、霊界に行って永遠に生きるようになった霊人体が、再び肉身をとる必要もないのである。
ゆえに、復活は人間が堕落によってもたらされた死、すなわちサタンの主管圏内に落ちた立場から、復帰摂理によって神の直接主管圏内に復帰されていく、その過程的な現象を意味するのである。したがって、罪を悔い改めて、昨日の自分より今日の自分が少しでも善に変わるとすれば、我々はそれだけ復活したことになる。
聖書で、復活に関する例を挙げてみれば、ヨハネ福音書5章24 節に「私の言葉を聞いて、私をつかわされた方を信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである」と記録されている。これは、イエスを信じることによって、サタンの懐から離れ、神の愛の懐に移ることが、すなわち復活であるということを意味するみ言である。
また、コリントⅠ 15 章22 節には、「アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである」と記録されているが、これは、アダムによってサタンの血統を受け継ぐようになったのが死亡であり、この死亡からキリストによって天の血統に移されることが、復活であるということを意味するみ言である。善悪の果を取って食べる日には、きっと死ぬであろう(創2・17)と言われた神のみ言どおりに、善悪の果を取って食べて堕落したアダムとエバが、死んだのは事実であった。
しかし、彼らには、外形的には何らの異変も起こらなかったのである。変わったことがあるとすれば、不安と恐怖によって、瞬間的に彼らの顔色が変わる程度であっただろう。ゆえに、堕落した人間が善悪の果を取って食べた以前の人間に復活するとしても、その外形上には何らの変化も起こらない。
聖霊により重生した人間は、重生する以前と比べて、確かに復活した人間には違いない。しかし今、彼と強盗とを比較すれば、一人は天の人間として、ある程度まで復活した立場におり、また一人は、地獄に行くべき人間として、死んだ立場にいるが、彼らの外形には何らの差異も認められないのである。
既に例証したように、イエスのみ言に従って、神を信じる者は、死から命へと移されて、復活させられたのは事実である。しかし、彼がイエスを信じる前の死の状態にいるときも、イエスを信じて命に移されることによって復活したのちにも、彼の肉身上には、何らの変化も起こらないのである。
イエスは創造目的を完成した人間として来られたことは事実である(キリスト論参照)が、外形から見たイエスは堕落人間と比べて何の差異もなかった。もし、彼に変わったところがあるとすれば、当時の側近者たちが、彼を信じ従わないはずがなかったのである。
人間は復活により、サタンの主管圏から抜けだして、神と心情一体となれば、神性をもつようになる。このように、堕落人間が復活によって、神の主管を受けるようになれば、必然的に、その心霊に変化を起こすようになるのである。このような心霊の変化によって、人間の肉身もサタンの住まいから神の宮へと、事実上聖化されていくのである。このような意味において、肉身も復活されると見ることができる。これはちょうど悪いことをするために使用されてきた建物が、神の聖殿として使用されるようになれば、その建物の外形には何らの変化もないが、それは、既に聖なる建物に変化しているというのと同じ理論である。
原理講論、復活論1.3 ~ 4
人が死んだならどうなるのでしょうか。死ぬ直前までは私のものですが、死んだのちは神様のものになります。それは私達が堕落した血統を受けたからです。ですから死ぬまでは、私達の生命すべてはサタン側の因縁を抜けきれないのです。しかし、死んだのちは神様と因縁が結ばれるのです。死なずしては復活できません。一つの時代を過ごさずしては、次の時代を迎えることができないのです。
「生きんとする者は死に、死なんとするものは生きん」という聖書で言う「死」とは、何を意味するのでしょうか。神様が下さった永遠で真の生命を葬り去れということではありません。
サタン世界の堕落した血統を受け継いだ生命を葬りなさいということです。それで、み旨のために死のうとする人は生きるということです。この言葉は逆説のようですが、堕落と復帰の内容を中心として見るとき、そのようにしなければ、復帰ができないのです。これは復帰の正常な論法です。
(297-265、1998.12.19)
聖書は、結論として、生きんとする者は死に、死なんとする者は生きんと言いました。堕落した世界で、堕落圏を抜け出すためには、自分の生命を捨てなければなりません。堕落圏には生命がありません。ですから、これを否定すれば復活が起きます。イエス様も自分の生命を否定したので復活することができました。復活は、イエス様がしたのではありません。神様がしてくださったのです。
(307-167、1998.11.8)
2. 聖人の復活:最初の復活
― 宗教経典 ―
すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、私達生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、私達はいつまでも主と共にいることになります。
テサロニケの信徒への手紙一4.16 ~ 17(キリスト教)
つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。
コリントの信徒への手紙一15.22 ~ 25(キリスト教)
また、私が見ていると、見よ、小羊がシオンの山に立っており、小羊と共に十四万四千人の者たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とが記されていた。私は、大水のとどろぐような音、また激しい雷のような音が天から響くのを聞いた。私が聞いたその音は、琴を弾く者たちが竪琴を弾いているようであった。
彼らは、玉座の前、また四つの生き物と長老たちの前で、新しい歌のたぐいをうたった。この歌は、地上から贖われた十四万四千人の者たちのほかは、覚えることができなかった。
彼らは、女に触れて身を汚したことのない者である。彼らは童貞だからである。この者たちは、小羊の行くところへは、どこへでも従って行く。この者たちは、神と小羊に献げられる初穂として、人々の中から贖われた者たちで、その口には偽りがなく、とがめられるところのない者たちである。
ヨハネの黙示録14.1 ~ 5(キリスト教)
私はまた、一人の天使が、底なしの淵の鍵と大きな鎖とを手にして、天から降って来るのを見た。この天使は、悪魔でもサタンでもある、年を経たあの蛇、つまり竜を取り押さえ、千年の間縛っておき、底なしの淵に投げ入れ、鍵をかけ、その上に封印を施して、千年が終わるまで、もうそれ以上、諸国の民を惑わさないようにした。その後で、竜はしばらくの間、解放されるはずである。私はまた、多くの座を見た。
その上には座っている者たちがおり、彼らには裁くことが許されていた。私はまた、イエスの証しと神の言葉のために、首をはねられた者たちの魂を見た。この者たちは、あの獣もその像も拝まず、額や手に獣の刻印を受けなかった。彼らは生き返って、キリストと共に千年の間統治した。
その他の死者は、千年たつまで生き返らなかった。これが第一の復活である。第一の復活にあずかる者は、幸いな者、聖なる者である。この者たちに対して、第二の死は何の力もない。彼らは神とキリストの祭司となって、千年の間キリストと共に統治する。
ヨハネの黙示録20.1 ~ 6(キリスト教)
― み言選集 ―
もし神様が人間を見物するために造られたのなら、そのような神様は必要ありません。全神経を人間に注ぎ、6000 年の長い、長い試練の歳月を経てこられながら、人間に対して摂理してこられた目的は何でしょうか。直接的な天の家族、すなわち食口の因縁、父子の因縁を結ぶためです。
ですから、無数の苦労の峠を越えて、また越え、きょうもこの道を走っていることを、私達は知らなければなりません。私達が願う家庭ではなく、神様が願う家庭の食口として登場し、その食口の威信と価値をお父様の前に表すその日が、キリスト教で言う復活の日であり、再臨の日なのです。
(7-265、1959.9.27)
「最初の復活」というのは、神の復帰摂理の歴史が始まって以来、再臨摂理によって、初めて人間が原罪を脱いで、創造本然の自我を復帰し、創造目的を完成させる復活をいうのである。
したがって、すべてのキリスト教信徒たちの唯一の望みは、最初の復活に参与することにある。では、どんな人たちがここに参与できるのだろうか。再臨主が降臨されたとき、最初に信じ侍って、復帰摂理路程の全体的な、また世界的な蕩減条件を立てる聖業に協助して、すべての人間に先立って原罪を脱ぎ、生霊体級の霊人体を完成し、創造目的を完成した人たちがここに参与できるようになるのである。
また、聖書に表示された14 万4000 人とは何を意味するのであろうか。その事実について調べてみることにしよう。イエスが再臨されて、復帰摂理を完遂なさるためには、復帰摂理路程において、天のみ旨を信奉してきながらも、自分の責任分担を果たせなかったために、サタンの侵入を受けたすべての聖賢たちの立場を蕩減復帰できる代理者たちを、再臨主がその一代において横的に探し立て、サタン世界に対する勝利の基台を立てなければならない。
このような目的で、再臨主が降臨されて立てられる信徒の全体数が、正に黙示録14 章1節から4節までと、黙示録7章4節に記録されている14 万4000 の群れなのである。
原理講論、復活論2.2.7
14) 永生
多くの人々に宗教の目標は、不滅、あるいは永生だと周知されてきた。人間は、常に死の限界で葛藤してきたのであり、宗教では、人間存在の可能性を制約する死を超越しようとする手段を求めてきた。復活と共に永生は、単純に死から霊魂が生き返り、死後の世界を旅行することばかりを意味するのではない。
永生は、それ自体で永遠に存在するというのではなく、かえってその存在の質的変化を意味するのである。多くの宗教の諸経典は、「生」と「死」に二つの意味を付与している。この世俗的な存在のような肉体的生があり、生命が持続して死を超越する祝福状態である霊的な生がある。すべての人間の人生で、体が消滅する肉体的死があり、神様と離れた状態、そしてあの世で地獄に捕らわれた存在を意味する霊的死がある。
「永生」と「不滅」は、祝福された条件を描写したものである。この条件は、真理を実践し、神様の恩寵の中では人の現世的人生に既に現れ、死後にも消滅しないまま継続する。自分の所有と世俗的享楽にあらゆる希望をかける世の中の人たちには死が終わりかもしれないが、永生を得た人は、人生の目標を実現したため、死は既に恐怖の対象ではない。
しかし、仏教は生に対する欲望が一種の執着であり、解放の足かせと見るため、仏教の経典は、永生という祝福の状態に対し、一般的に言及しない。その代わり、仏教は涅槃を語る。
文鮮明先生は、永生とは人間に対する神様の愛と神様に対する人間の愛を土台として、私達人間が永遠であられる神様と一体の関係性をもつことを根拠としていると教える。先生は、「永遠性は真の愛を離れては存在できない」と語る。先生はこの概念を拡張し、永遠の愛を願う恋人たちの関係を例に説明する。人間が永生し、神様を永遠に愛し、神様の加護により愛する人たちと永遠の共同体を成して暮らすよう創造されたため、霊人たちも永遠の愛を願うのであると教える。
1. 神様の中で永生
― 宗教経典 ―
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
ヨハネによる福音書3.16 (キリスト教)
イエスは言われた。「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」
ヨハネによる福音書11.25 ~ 26(キリスト教)
だが信仰して善い行いにいそしむ者たち、これらの者は、衆生のうち最善の者である。かれらの報奨は、主のみもとの川が下を流れるエデンの園で、かれらはその中にとこしえに住むであろう。神はかれらを喜びたまい、かれらはかれに満悦し奉る。それは主を恐れる者への報奨である。
クルアーン98.7 ~ 8(イスラーム)
最高の存在は死ぬことがない。ゆえに私も死なないだろう。
アカン族の格言(アフリカ伝統宗教)
「道」に達すれば永久に続く。
道徳経16(道教)
自己以外の何物をも見ず、何物をも聞かず、何物をも識別せざる状態が即ち豊満である。そして、自己の外に他物を見、他物を聞き、他物を識別する状態は即ち貧欠である。豊満なるものは即ち不死(永生)である。従って貧欠なるものは即ち応死である。この事について次の如き頌がある。真の観照者は死を見ず、病を見ず、また苦を見ず、しかも一切を徹見し、一切処において一切を得る。
チャーンドーギヤ・ウパニシャッド7.24.1 および7.26.2(ヒンドゥー教)
欲望をいだかず、欲望なく、アートマンを欲望として、欲望が達成した人からは気息は出ていかない。〔それらは(気息は)〕その同じところに合一するのである。〔かれは〕ほかならぬブラフマンでありながら、ブラフマンと合一するのである。
したがって、ここに〔つぎのような〕詩節がある。『かれの心臓に依存している欲望がすべて離脱すると、死すべきもの(人間)は不死となり、〔かれは〕この世でブラフマンに達する』
ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド4.4.6 ~ 7(ヒンドゥー教)
罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、私達の主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。
ローマの信徒への手紙6.23(キリスト教)
無より有にわれを導きたまえ。闇より光にわれを導きたまえ。死より不死にわれを導きたまえ。
ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド1.3.28(ヒンドゥー教)
その上(かみ)に高大、至高なる梵ありて、しかも有情の身量に応じて、一切有情の衷に潜めり。万物の被覆者たるこの唯一の主神を知る時人は不死となる。我は知る、この偉大にして、日神の形色をなし、黒闇の彼方にある神我を認得す。この神我を認得する時、人は死を超ゆ。これより他に、至上界へ赴くための道はなし。
彼より高き何物もなく、また低き何物もなし。彼より小さき何物もなく、また大なる何物もなし。彼は唯一者として大樹の如く泰然として天界に立てり。かかる神我によりて万物は満たされたり。これ(宇宙)より遥かに高きものは即ち形色なく、病なし。この物を認得せる者は不死となる。されど、その他の輩は遂に苦患に堕す。
シヴェータシヴァタラ・ウパニシャッド3.7 ~ 10(ヒンドゥー教)
最高の我は、生老病死に引っかかることがなく、至高、清浄で八つの業に染まっていない。それは無限の知恵と洞察と至福と権能をもち、破壊されることがなく、また尽きることがない。それは人の感官が及ぶところではなく、一切のこだわりや長短点、または再生から自由であり、永遠不変であり、比べるもののない自存者である。
クンダクンダニヤマサラ176.77(ジャイナ教)191
「生きているものは、少なくとも知っている。自分はやがて死ぬ、ということを」(コヘレトの言葉9.5)。彼らは、死んでも生きている存在と呼ばれる、正に義人たちである。……「しかし、死者はもう何ひとつ知らない」(コヘレトの言葉9.5)。彼らは生きているが、死んだ者と同じだ。非難される者は悪なる者たちである。
タルムード、ムナホート18ab (ユダヤ教)
イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。(注44)」
ルカによる福音書9.60 (キリスト教)
― み言選集 ―
既に、肉身の寿命が切れた人間であっても、その霊人体が、霊界において、神の愛の主管圏内にいるならば、彼はあくまでも、生きている人である。イエスが、「私を信じる者は、たとい死んでも生きる」(ヨハネ11・25)と言われたのは、イエスを信じて、神の主管圏内で生きる者は、寿命が切れて、その肉身が土の中に葬られたとしても、その霊人体は依然として神の主管圏内にいるので、彼は生きている者であるという意味である。
イエスは、また続けて、「また、生きていて、私を信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」と言われた。このみ言は、イエスを信じる者は、地上で永遠に死なずに生きるという意味ではなく、肉身のある間にイエスを信じる者は、現在生きているのはいうまでもなく、後日死んで肉身を脱ぎ地上を離れるとしても、彼の霊人体は、永遠に神の愛の懐で、依然として生きつづけるはずであるから、したがって、永遠に死なないという意味で言われたのである。ゆえに、上記の聖句にあるイエスのみ言は、人間の肉身の寿命が切れることを意味する死は、我々の永遠なる命には何らの影響をも及ぼさない、という意味で言われたみ言である。
原理講論、復活論1.1
永遠の生涯は、生きている永遠の生、このような永生をどのように迎えますか。「私」という存在は、神様の愛の対象として造られました。絶対的神様の、主体的神様の対象の位置が正に私だというのです。神様の愛の相対です。神様が自分よりもっと貴く思うものが真の愛の概念です。神様は絶対的であり、永遠の生命の中心であり、神様の理想はより永遠なものであり、その理想の中心が正に真の愛の理想です。その愛の相対が私です。
皆さん、愛の属性がどのようなものか分かりますか。それは主体と対象が一つになることです。それは国家を一つにします。ですから、どこの場所でも同参することができ、どこに行っても、ついていけます。全財産をすべて相続できます。神様の永生の位置、その心情までもすべて相続するのです。神様の愛の心、神様の被造万物と共にあるその心、神様がすべての人の心にとどまりたいと思う心まですべて相続するのです。ですから、どれほど貴いですか。私がその悲惨な過程を経て発見することによって、その基盤の上に立つようになります。どれほど喜ばしいことですか。何物とも取り替えることができない崇厳で高貴な位置です。神様と同じ位置に立つのです。永遠の真の愛の位置に同参するというのです。
(216-115、1991.3.9)
人間は真の愛から生まれ育ち、生きて、死んでいきます。しかし、なくなってしまうのではありません。主体であられる神様が永遠、不変、唯一であるので、その対象的な真の愛の立場に立つ時には、永生するのです。永生という理論が、ここから出発します。生命から始まるのではありません。
神様にとって、最も愛する大切なものがあるとしたら、それを1日、10 年、100年間用いたのちに、投げ捨てるようにと造ったのではありません。永遠に、共にあるように造られたのです。
人間も同様です。人間が生まれて死ねば、終わりではなく、永生します。なぜでしょうか。人間は、絶対者であられる神様が、真の愛を中心として喜ぶ対象であるからです。神様は、息子、娘が二人しかいません。ところが、追い出してしまったのです。どれほど悲しいでしょうか。
皆さんは、漠然とではありますが、永生を願っています。大切なものは避難する時、それをもっていきます。そして、それを誇りにします。それを1日、2日誇って、やめるのではありません。自分が死ねば、それを後代に永遠に残すことを願います。人間の欲望はそうです。
それは神様も同じです。神様が永生される絶対者であれば、その方が愛することのできる対象も永遠でなければなりません。ですから、人々は昔も今も永生を願います。それで、絶対者であられる神様は、永生する価値をもつ、真に愛する息子、娘を求めざるを得ないのです。
(290-143 ~ 144、1998.2.18)
永生というものは、本質的な愛の属性です。神様も宇宙を創造されるとき、自ら絶対信仰、絶対愛、絶対服従の基準を立ててなされたのです。永遠無窮であるように、世の中は過ぎていったとしても、私の愛をもっと大きくなるようにと投入し得る心をもって生きていらっしゃる方が神様なので、神様の前に主管を受けたくないと思う存在や、相対的な理念をもった存在で神様を絶対、永遠、不変の主人として侍らずにいることのできる存在はない、ということを知らなければなりません。
(330-262、2000.8.18)
サタンが八方に逃げていかざるを得ない秘法は、ために生き、ために死に、ために愛することです。そうすればサタンは逃げていくのです。国境線を捨てて逃げていくのです。逃げていくとしても、そのまま行くことはできません。
国境線を崩してから行くようになっているのです。サタンが離れていくことによって、死亡の地獄に直行していた生命が天の国に上昇することができるという永生の道理が訪ねてくるというのです。そこにおいて初めて永生が展開するのです。神様を知り、天の国を知り、天の国の伝統的思想である「ために生きる」という思想を千年、万年続けたいと切に思う群れになることによって、そこにおいて主体であられる神様をお父様と呼ぶことができるのです。ですから、そこにおいて永遠の血筋を通して、血統を通して永生の論理と永生の伝統が私とともに決着するのです。
(330-262、2000.8.18)
2. 愛:永生の土台
― 宗教経典 ―
私達は、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛することのない者は、死にとどまったままです。兄弟を憎む者は皆、人殺しです。あなたがたの知っているとおり、すべて人殺しには永遠の命がとどまっていません。イエスは、私達のために、命を捨ててくださいました。そのことによって、私達は愛を知りました。だから、私達も兄弟のために命を捨てるべきです。
ヨハネの手紙一3.14 ~ 16(キリスト教)
― み言選集 ―
愛は永遠であることを願うでしょう? それは絶対的愛と一つにならなければなりません。その絶対的愛と一つになろうとすれば、神様と一つにならなければなりません。根本の神様の根から絶対的愛が始まるので、その絶対的な愛には永遠性があるのです。
神様が主体であり、人間が相対であれば、神様が永遠に生きるのですから、愛の相対、一体となった人間も永遠に生きなければならないというのは理論的であり、論理的な結論です。真の愛においてのみ、絶対的な愛においてのみ、永生が存続するということを否定できません。
(251-120、1993.10.17)
自分が愛する人と一つになっていれば、世の中が滅びようとどうなろうと心配しません。父母が刃物を持って一つになれないようにしようとしても、その刃物を恐れません。死んでもいくというこのような概念があるのです。現在の生涯を中心として、その生涯だけではありません。永生がそのようにすべてあるのです。それは自然に願うようになっています。現世の生活よりも永生を願うのです。
これが二重構造になっています。その本体が神様なので、神様が本体の基準を中心として、神様がプラスであれば、マイナスになるのです。マイナスの上にマイナスが来るのではなく、プラスがくっつかなければなりません。それで、大きな天とそこに相対的なものが一つになって回れば一つになります。ここでまたプラスばかりがくっつけば、ここによって大きくなるのです。子女が大きく、すべて大きくなります。
それで、一つの人間生活の完成標準を中心として、それが一つの種のようになって循環運動をして、春夏秋冬の四季を通して実を結ぶのです。種が再び種に帰ります。水蒸気となって調和をなしますが、あとから水蒸気に戻り、淡水に戻るのと同じ道理です。それが回るためには二重的構造が必要なのです。
(380-88 ~ 89、2002.6.5)
お父様は私達自身を立証することができ、
私達自身は、お父様の息子であり、
娘であるということを、
如実に証すことのできる
信念をもたなければなりません。
信念だけでなく、
体恤的な立場でお父様と「私」は
前後関係、
左右関係にあることを立証し、
そのような立場で永遠に共にあり、
永遠に共に生きており、
永遠に共に生きるだろうという、
変わりなくそうだと言うことのできる
論証の起源を、自ら立て得る自分を
発見できるよいう許諾してください。
(40-350、1971.2.11)
15) 宇宙的救援
神様の愛と恩寵は限界がない。天の父の心情は、彼の子女をすべて救援することを願うだけである。このような経典の章句は、神様の救援役事の広大さを称賛し、結局、すべての人間を抱きかかえると予言する。仏教で絶対真理の根本目的は、すべての感覚的存在を解放させるのであり、特に大乗仏教の経典は、すべての存在を救援するための阿弥陀仏の菩薩の誓願で慈悲の普遍性に言及している。
一つの中心点を通して全人類の救援が実現されるかもしれない。それで、アブラハムは、「地のすべてのやからは、あなたによって祝福される」(創世記12・3)と言った。ただ一つの道として、一つの宗教を信じる人はすべての人間を救援しなさいという神様の命令が、宣教活動を強力に促す。
反面、神様はすべての国に大勢の預言者と聖賢を送り、その地域文化に適合した方法を通して人間が神様に帰るよう促しながら、神様の救援の意志を現実化する。
救援が世俗的な人生と関係なくすべての人に開かれたものであれば、地獄や末世の審判を信じる人たちには不公正なものと映るかもしれない。神様が本質的に正義であれば、どうして邪悪な者が救援を受けることができるのか。反対に神様が本質的に恩恵深く、慈悲深いのであれば、どうして神様が被造物を永遠の地獄で苦痛を受けるようにできるのか。
天の父であられる神様の心情を理解する文鮮明先生は、子女の中の一人が有罪宣告を受けた犯罪人であれば、私達がそれをどのように感じるか想像してみなさいと言う。私達は、子女の代わりに私達自身が絞首台に上がるとしても子女を救おうとするだろう。文鮮明先生は、神様は私達人間が最上の自由を享受するようにし、私達の人生もそこに相応するように創造したので、私達が神様の救援方法に適応できなければ、救援の道が困難になる点を教える。それでも、究極的に神様の創造目的は具現され、ついにすべての人間は救援され、地獄も空になるだろう。
― 宗教経典 ―
仏の法は、つねに同一の味をもって、多くの世界のものたちは、だんだんと修行して、みな道の果を得るのである。
法華経5(仏教)
にち/\にをやのしやんとゆうものわたすけるもよふばかりをもてる。
おふでさき14.35 (天理教)
主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。
ペテロの手紙二3.9 (キリスト教)
神は世のすべての国々が悔い改めることを見守っていらっしゃる。ゆえに、あらゆる民を御自身の懐に抱こうと導かれる。
民数記ラッバー10.1 (ユダヤ教)
私は、あなたがあらゆる被造物の主であられ、見えるもの、見えないもの、すべての存在の教育者であることを証言します。私は、あなたの能力が全宇宙を取り囲んでいること、そして地の群れが決してあなたを失望させることはできず、万民と国の主権が、あなたがあなたの目的を達成することを制止できないことを立証します。私は、あなたが全世界の刷新と全世界の民の一致、そしてそこで暮らすすべての人の救い以外に他の欲望をもっていないことを認めます。
バハオラ落穂集115(バハイ教)
そこで、御身に、アフラよ、そして天則に、ミヤズダをわれらは、うやうやしくささげましょう。すべての庶類がウォフ・マナフを通して王国において成熟するために。ただし、正見の人には、マズダーよ、御身たちのあいだで、すべての方がたによって、恩賚が保証されているからです。
アヴェスター・ヤスナ34.3(ゾロアスター教)
彼らに言いなさい。私は生きている、と主なる神は言われる。私は悪人が死ぬのを喜ばない。
エゼキエル書33.11 (キリスト教)
地の果てのすべての人々よ。私を仰いで、救いを得よ。私は神、ほかにはいない。私は自分にかけて誓う。私の口から恵みの言葉が出されたならば、その言葉は決して取り消されない。私の前に、すべての膝はかがみ、すべての舌は誓いを立て
イザヤ書45.22 ~ 23(キリスト教)
かれこそは、導きと真理の教えをもってみ使いをつかわしたまい、たとえ多神教徒たちが忌みきらうとも、よろずの宗教の上にそれを現したもう方であられる。
クルアーン9.33 (イスラーム)
主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷の父の家を離れて、私が示す地に行きなさい。私はあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人を私は祝福し、あなたを呪う者を私は呪う。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る。」
創世記2 ~ 3(キリスト教)
まことにわれは、吉報の伝承者として、また警告者として、真理をもってなんじをつかわした。どの民もかれらの間に、一警告書が行かなかったものはない。
クルアーン35.24 (イスラーム)
イスラエルの人々よ。私にとってお前たちは、クシュの人々と変わりがないではないかと主は言われる。私はイスラエルをエジプトの地から、
ペリシテ人をカフトルから、アラム人をキルから、導き上ったではないか。(注46)
アモス書9.7(キリスト教)
一切衆生がすべて涅槃に入るまで、如来は自ら滅度に入ることはない。
維摩経4(仏教)
見よ、私の僕、私が支える者を。私が選び、喜び迎える者を。彼の上に私の霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す。彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。
傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする。暗くなることも、傷つき果てることもない。この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。
イザヤ書42.1 ~ 4(キリスト教)
わたくしが覚りを得た後に、もしもこのようにすぐれたこの最上の誓願が(願ったとおりにかなえられ)ないならば、人々の王(=仏)よ、わたくしは、十力を持ち、比べるものなく、供養さるべき者なる生ける者の精粋(=仏)とはなりませんように。
もしもわたくしの国土がそのようでないならば、多くの貧しい者に、多くの尊い麗しきもの(=財)が存在しないならば、苦しみに陥った人を幸せになし得ないならば、わたくしは、人々の中の宝のごとき王とはならないでしょう。もしもわたくしが覚りの境地におもむいた後に、わたくしの名がすみやかに十方の、多くの無限の諸仏国土にひろく達しないならば、わたくしは、〔十〕力ある世の主(仏)とはならないでしょう。
もしもわたくしが比べるものなき幸せな覚りを体得しようとしていながらも、記憶し思慮し理解することを捨ててしまって、愛欲の快楽を喜ぶようであったら、わたくしは、〔十〕力ある、世間の師とはなりますまい。主よ、広大にして無比・無限なる光明は、四方八方のあらゆる仏国土を満たし、貪欲を静め、あらゆる憎悪と迷いとを静めて、地獄界の火を消した。
無量寿経9.1 ~ 5(仏教)
― み言選集 ―
この罪悪の世界が、人間の悲しむ世界であることはいうまでもないが、神もまた悲しんでおられる世界であるということを、我々は知らなければならない(創6・6)。では、神はこの悲しみの世界をそのまま放任なさるのであろうか。
喜びを得るために創造なさった善の世界が、人間の堕落によって、悲しみに満ちた罪悪世界となり、これが永続するほかはないというのであれば、神は、創造に失敗した無能な神となってしまうのである。それゆえに、神は必ずこの罪悪の世界を、救わなければならないのである。
堕落は、もちろん人間自身の過ちによってもたらされた結果である。しかし、どこまでも神が人間を創造されたのであり、それによって、人間の堕落という結果も起こり得たのであるから、神はこの結果に対して、創造主としての責任を負わなければならない。したがって、神はこの誤った結果を、創造本然のものへと復帰するように摂理なさらなければならないのである。
原理講論、人類歴史の終末論2.1
私達は、ここで宗教のみ旨、救援摂理のみ旨が何かを知ることができます。救援摂理のみ旨は、全世界を救うことです。神様が人を愛する息子として造ったので、神様がたたき潰してしまうことはできず、地獄に送ることはできないことを知らなければなりません。ですから、救援摂理はサタン世界内に一人も残さずに完全に救い、サタンを追放して……。サタン世界内にサタンだけが残るようにして、人という人はすべて神様が連れていこうというのです。
(80-283 ~ 284、1975.11.2)
神様があの御座にいらっしゃるとすれば、地獄に行って苦しみながら、「私を助けてください!」と言う霊人たちを見るとき、神様が、「おい! お前はそれでも良いほうだ」と思われるでしょうか、「彼らはかわいそうだ」と思われるでしょうか。地獄を解放しなければなりません。
(98-116、1978.5.7)
自分の子女の中で、殺人強盗か国家的な犯罪で死刑を受ける息子がいるとしましょう。息子が死ぬ場に行くとき、その父母がついていって、「お前は死ぬ所に行ったのだから、いさぎよく死になさい」と言う父母がいますか。その息子をつかんで、その死ぬ所に一緒に同参しようとするのが父母ではないかというのです。
それが永遠に継続するとすれば、父母がそれを見てじっとしているでしょうか。永遠に抜け出させてあげようと身もだえするでしょう。愛する父母であるほど、永遠に死ぬとすれば、永遠に抜け出させてあげようとするのです。永遠に死んでいくとすれば、永遠に生かしてあげようと思う心をもつのであり、自分から苦労していくのではないですか。
このように考えるとき、神様はかわいそうな方です。地獄の門を閉めて、永遠に死んでいくのを見るとき、神様が「ああ、よい」と言うのではなく、永遠に抜け出させてあげたいとやきもきするというのです。そうであってこそ、天の父母の立場で責任を果たせるのです。ですから、地獄まで解放しなければならないという論理が成立します。
(62-51、1972.9.10)
キリスト教徒の14 万4000 の群れだけが天国に上がっていき、残りの人類を審判するというのは独断主義です。
(245-97、1993.2.28)
統一教会の救援観というのは、夫が天国に行って夫人は地獄に送ろうというものではありません。二人とも天国に行こうというものです。父母を地獄に送るのではなく、父母に侍って、息子、娘も連れて天国に行こうというのです。
(34-359、1970.9.20)
神様の救援摂理は、自然屈服させていくのです。思いどおりにできるのであれば、強制屈服させてできるのであれば、数千年になりますか。数週間でもできます。呆然とすることを知らなければなりません。
(394-16、2002.10.6)
堕落人間においても、その一人の子女でも不幸になれば、決して幸福になることができないのが、父母の心情である。まして、天の父母なる神が幸福になり給うことができようか。ペテロⅡ3章9節を見れば、「ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである」と記録されている。
したがって、神の願うみ旨のとおり、成就されるべき理想世界に、地獄が永遠なるものとして残ることはできない。そしてマタイ福音書8章29 節を見れば、イエスの当時、直接サタンがイエスを神の子であると証したように、終末の日においても、ときが至れば、悪霊人たちまでも、各々同級の地上の悪人たちに再臨して、彼らがみ旨のためになるように協助することによって、結局、悠久なる時間を経過しながら、次第に創造目的を完成する方向へ統一されていくのである。
原理講論、復活論3.3.3
第8章 宗教
宗教
1) 宗教の目的
すべての宗教には、強調する部分にそれぞれ多少の違いはあるが、ある共通目的がある。西洋の宗教で、万宗教の主な目的は救援にある。「religion (宗教)」の語源は、神様と「再び結ぶ」という意味のラテン語に由来する。
人間は堕落によって故障したため、神様が故障した所を修理し、根本的な善に復帰させ、神様と再び関係を結ぶようにするための方便として宗教を立てた。これとは対照的に、東洋で宗教の意味は、漢字に表れた意味のように、「根本的教え」と理解される。これは、宗教が善の品性と徳性を育てる究極的教えであることを意味する。
文鮮明先生は、宗教の二つの意味、すなわち堕落した人間は、罪の問題を解決しなければ、究極的に徳性を育てられず、神様に再び結ばれない点を認める。
先生は、宗教の妥当性の側面から二種類の宗教に区別する。第一に、原罪を清算し、神様と完全な関係を回復させてくれるメシヤを迎えることを目的とする摂理的な宗教(ユダヤ教、キリスト教)と、第二に、徳行の修練を主要目的とする一般的宗教がそれである。神様の国は、このような二種類の宗教の土台の上に定着することができるだろう。
宗教は、共同体を育てる社会的目的ももつ。宗教は、人々が平和と調和の中で生きることができるよう、愛の方法と和解に関して教える。これを拡大すれば、宗教の究極的目的は、平和世界を具現することである。神様は創造主としてすべての人類の父母であるため、宗教は私達を神様に導き、父母の愛を中心とする普遍的兄弟愛と姉妹愛を感じられるようにする。
1. 救援の道を提示する宗教
― 宗教経典 ―
「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」
使徒言行録16.30 ~ 31(キリスト教)
全身全霊で彼にのみ庇護を求めよ。アルジュナよ。彼の恩寵により、あなたは最高の寂静、永遠の境地に達するであろう。
バガヴァッド・ギーター18.62 (ヒンドゥー教)
まことに神のみもとの教えは、イスラームである。経典を授けられた人びとが……それゆえもしかれらが、なんじと論争するならば言え、「私も私に従う者も、真心こめて神に服従帰依し奉る」。また経典を授っている人びとならびに無知の者たちに、「あなたがたも帰依するか」と言え。もしかれらが帰依すれば、たしかに導かれる者である。
クルアーン3.19 ~ 20(イスラーム)
人々は恐怖にかられて、山々、林、園、樹木、霊樹など多くのものにたよろうとする。しかしこれは安らかなよりどころではない。これは最上のよりどころではない。それらのよりどころによってはあらゆる苦悩から免れることはできない。さとれる者(=仏)と真理のことわり(=法)と聖者の集い(=僧)とに帰依する人は、正しい智慧をもって、四つの尊い真理を見る。――すなわち①苦しみと、②苦しみの成り立ちと、③苦しみの超克と、④苦しみの終滅におもむく八つの尊い道(八聖道)とを(見る)――これは安らかなよりどころである。これは最上のよりどころである。このよりどころにたよってあらゆる苦悩から免れる。
法句経188 ~ 192 (仏教)
一つは利得に達する道であり、他の一つは安らぎにいたる道である。ブッダの弟子である修行僧はこのことわりを知って、栄誉を喜ぶな。孤独の境地にはげめ。
法句経75(仏教)
― み言選集 ―
私達の社会に道徳観念や宗教生活、道義的な観念というものがなぜなければならず、なぜそのような道を行かなければならないのかというと、私達が過ったために、それを再び本然に合わせるためです。
(205-8、1990.7.15)
人間の本心がいかに善を指向して努力するとしても、既に悪主権の上におかれているこの世界においては、その善の実相を見ることができなくなってしまっているので、人間は時空を超越した世界に、その善の主体を探し求めなければならなくなった。このような必然的な要求によって誕生したのが、すなわち宗教なのである。
このように、堕落によって神様を失ってしまった人間は、宗教をつくり、絶えず善を探し求めて、神に近づこうとしてきたので、たとえ宗教を奉じてきた個人、民族、あるいは国家は滅亡したとしても、宗教それ自体は今日に至るまで、絶えることなく継続してそのまま残ってきたのである。
原理講論、人類歴史の終末論2.3
結局は、人間が堕落したためにこのようになったことを知らなければなりません。しかし、堕落した息子、娘を見て、父母であられる神様はただじっとしていることはできないのです。人間が故障したラジオのようになったので、これを再び直すためには、修理工場を造らなければなりません。
人類歴史の過程において、人間を救うための修理工場を造られた痕跡があれば、神様はいないとは言えないのです。その修理工場とは何かというと、宗教です。宗教は、文化と歴史的背景が異なり、氏族と氏族関係によって異なるものを全世界的に糾合し、目をつくり、鼻をつくり、手をつくり、足をつくる工場をだんだんと広げていき、神様がいらっしゃる所に追い立ててこなければなりません。
(54-102、1972.3.20)
神様が力をもってするのならば、何の問題もなく、すぐに全人類を救えます。神様にはいかなる宗教も必要ありません。ところが、なぜ神様に宗教が必要なのですか。神様が自然屈服させようとするそこに、自然と頭を下げるのです。そのようになれば、神様がセンターになり、すべてのものを治めるようになります。それが神様の作戦です。
(207-21、1990.10.21)
宗教を信じるのは、本来のお父様と本然の国を再び復帰するためです。宗教という言葉は、人間だけを中心とした言葉ではありません。神様、すなわち神様を母体とした最高の教えが宗教です。神様と関係を結び、神意に従って生きる方式を身につける過程があるのです。
したがって、聖人は、天意に従わなければならず、天情を紹介しなければなりません。真の宗教は、神様に対して教えてあげなければなりません。真の宗教は、漠然とした神様を紹介するのではなく、神様に対する認識をはっきりと強固に植えつけてあげられなければなりません。
世の中と妥協する宗教は、高次的な宗教だと言うことはできません。そのような宗教は、結局は衰退してしまうようになります。真の宗教は、人が神様を正しく求め、神人が一体を成す本然の世界に帰っていくことを教えなければなりません。宗教を信じるのは、罪のない世界、神様と本然の関係を結んだ理想世界を求めていくためです。
神様が求めていらっしゃるのは、宗教界ではなく理想世界です。理想のない宗教界は滅びます。宗教の目的は、宗教自体の教理を通した世界ではなく、神様の理想を通した世界です。ここにおいて問題となるのが創造理想です。神様が創造なさったので、創造理想を糾明するのはとても重要なことです。
(404-299 ~ 300、2003.2.6)
ここではどのような教団も、
どのような集団も、どのような教派も
問題ではないことを知っていますので、
お父様が認めることのできる
(私達の)内的な心情、
お父様のお心を体得することのできる
切実な心情をもっていくことが
真理の要点であり、
真理のすべてであるということを
私達が分かるよう
許諾してくださいますことを、
お父様、切にお願い申し上げます。
(4-236、1958.5.18)
2. 善良な性稟を育てる宗敎
― 宗教経典 ―
みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。
ヤコブ書1.27 (キリスト教)
神に己れの真心を尽くして服従帰依し、善い行いにいそしむ者は、主のみもとから報奨を賜わる。かれらには恐れもなく憂いもないであろう。
クルアーン2.112 (イスラーム)
実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。その恵みは、私達が不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、私達の救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。キリストが私達のために御自身を献げられたのは、私達をあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。
テトスへの手紙2.11 ~ 14 (キリスト教)
慈悲のモスク、真実の祈りのマットを、正直のクルアーンをつくり、正当な富を起こせ。謙遜があなたの割礼となるようにし、正しい行為があなたのラマダンの断食となるようにせよ。これによってあなたは真のムスリムになるだろう。
善行があなたのカアバとなるようにし、真理があなたの師となるようにし、高潔な徳行をあなたのカリマとし、日々のナマズとせよ。神を楽しませることであなたの念珠となるようにせよ。最後の審判の日に栄光があるだろう。
アーデイ・グラント、ヴァール・マージュ、M.1、p.140(シーク教)
人生で最も避けるべきことは動揺(優柔不断)することと軽率であることだ。最も貴重なものは敬虔な心だ。したがって、我々儒者は、心の誠実さを保とうと努力することであり、敬虔さを最も必需的なものと見なすのである。誠実さと敬虔さは、我々を天地と神と霊魂を結んでぐれることは言うまでもない。しかし、それらの案内者として仏教を採択した、また他の部類の人たちがいる。
彼らは、仏陀に拝み、仏陀の経典を暗唱し、常に敬虔さと畏敬心を保ちながら努力を傾ける。彼らは決して心越しに注意深く守る警戒を解くことはせず、次第に純粋で明るくなり、悪の思いから自由になり、善を行う用意ができるだろう。この悟りは、彼らの最も幸福な地と呼ばれる。
その時、必需的なことは、仏教の人たちがあなたを信じることができないようにする動揺(優柔不断さ)と軽率さを、儒教の人たちのように避けているということである。敬虔さと畏敬心によって節制された心を常に維持せよ。でなければ、仏教経典の暗唱や儒家の談論を何に用いるのか。
陰騭文 (道敎)
― み言選集 ―
宗教という文字はこのように不思議な文字ですが、このような文字は初めて見るでしょう? その意味とは何かというと、家で言えば板の間のような教えが宗教だというのです。
(92-309、1977.4.24)
教会とは、何をする所でしょうか。人格を形成し、人格を育てる所です。堕落したので、教会が必要です。家庭と社会で終わるのではありません。人格を復帰するにおいては、そのままでは復帰できません。大学を卒業して何かの博士の学位を受けたからといって、それで人格が復帰されるのではありません。ですから、教会が必要だというのです。
(25-126、1969.9.30)
人間の堕落によって、今日、愛は根本的に自己中心的になってしまいました。このような自己中心的な愛は、精神から来るものではなく、肉体を中心にしています。肉体は、サタンが活動する所です。肉体は、サタンの舞踏場であり、停泊地です。精神は、神様が住まわれる所、すなわち主体の位置になります。
しかし、精神の対象の位置にあるべき肉体がもう一つの主体になろうと努力しながら継続して精神を誘惑し、だましています。人間の生活で、このような関係を修正することは、とても重要です。ですから神様は、堕落した人間を蕩減復帰しようと、宗教を立てられました。
神様は宗教を通して、神様中心の精神を強化する方法、生活と人格に対する肉体の支配を逆転させる方法を人々に教えていらっしゃいます。宗教がしばしば断食、犠牲的奉仕、従順で謙遜な態度等を要求する理由は、正にこのようなところに由来しています。これは、肉体の勢力を減少させ、肉体をして精神に服従するようにさせる方法です。信仰生活を通して肉体中心的生活習慣から抜け出て、新たに精神中心的な生活方式を作り出すまでには、普通3年ないし5年はかかります。
また、「絶えず祈りなさい」という聖書のみ言があります。これもまた、とても重要なみ言です。なぜならば、サタンは堕落した世界を支配しているからです。サタンは、一日24 時間、あらゆる方向から堕落した人間を誘惑し、苦しめています。反面、神様はただ一つの方向から、すなわち精神の垂直的方向からのみ、力を及ぼすことができます。
(201-208 ~ 209、1990.4.9)
水に溺れた人を救ったということは、溺れる前の状態に戻すことなので、人間の愛の理想を中心として、神様が理想としていたそのみ旨を成し遂げることができなかったのですから、人間自体には宗教が絶対的に必要です。愛の理想を求めていくことを願うのならば、必ず宗教が必要だという結論が出てきます。
(112-298、1981.4.25)
そこが、私達人間が訪ねるべき本郷です。今日、私達は堕落した人生として、本郷から追放された人間になったために、本郷の地に向かって帰るべき運命にあるのです。しかしそこへは、その人間自体としては入ることができないために、神様は、人間が入ることができる道を歴史過程に設定せざるを得ません。それで、その民族の文化背景、風習、あるいは伝統が異なることによって、数多くの宗教を立てて収拾していきました。
そのように収拾するための訓練場として立てたのが宗教です。ですから宗教は、本郷の地に入ることができる資格者を錬磨させる訓練場です。東西、四方の文化背景によって、高い所に前進することができる一つの統一された宗教世界に導いてきています。
そのような本郷の所へ導くべき宗教であるために、宗教は何を教えているのでしょうか。「ため」に生きなさいということを教えていると言わざるを得ません。そして、高次的な宗教であるほど、「ため」に生きるべきだという原則を強調しなければならず、「温柔謙遜であれ」と言うのです。数多くの人を高め、彼らのために生きる立場に立てというのです。「犠牲奉仕せよ」と教えるのです。なぜでしょうか。神の国の法度に合わせる訓練をしなければならないからです。
(78-117 ~ 118、1975.5.6)
3. 宇宙的共同体を促進する宗教
― 宗教経典 ―
そこではもはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。
ガラテヤの信徒への手紙3.28(キリスト教)
信者たちは兄弟である、それでなんじらは、ふたりの兄弟の間を融和せよ、そして神を畏れまつれ、おそらくなんじらは慈悲にあずかるであろう。
クルアーン49.10 (イスラーム)
イスラエルは、すべてが一つの兄弟意識で連結されるとき、初めて天と出会うことができる。
タルムード、ムナホート27a(ユダヤ教)
見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。かぐわしい油が頭に注がれ、ひげに滴り衣の襟に垂れるアロンのひげに滴り、ヘルモンにおく露のように、シオンの山々に滴り落ちる。シオンで、主は布告された、祝福と、とこしえの命を。
詩編133 (キリスト教)
つどいが和合しているのは楽しい。和合している人々がいそしむのは楽しい。
法句経194 (仏教)
仏教の究極的な目的、そして他の異なる宗教の究極的な目的は、人々の益に寄与することである。
テンジン・ギャツォ、第14 代ダライ・ラマ(仏教)
― み言選集 ―
今日までの人類歴史を回顧してみるとき、いかなる文明もその根本支柱は精神です。時代と時代を越え、世紀と世紀を経ながら、歴史の中で中心を失わず、連綿と受け継がれてきた精神的な支柱の立場にあるのが宗教です。
何かの主義や思想ではありません。仏教を見てください。儒教を見てください。キリスト教を見てください。これらはすべて時代が変わっても、その創設者の精神を受け継ぎ、変わらずに終わりの日に成される目的世界に向かって進んでいるので
す。
(9-277、1960.6.12)
神様は愛と真理を人間たちに伝え、人間を救済しようと宗教を立てました。一定の時代と地域によって様々な宗教を立てました。例えば、2400 年前にインドに仏教を立て、中国に儒教を立て、2000 年前にユダヤにキリスト教を立てました。したがって、絶対的価値観は、神様を信奉する宗教を通してこそ立てられるという論理が成立するようになります。すなわち、宗教を基盤としない人の思想や哲学では、今日の混乱を収拾できる方案を立てるのが難しいのです。
これを言い換えれば、人類を混乱から救出するのは、ただ神様を中心とする宗教によってのみ可能だということです。歴史を振り返るとき、儒教、仏教、キリスト教、イスラームなどは、各々一定の時代と一定の地域において、社会的不安と混乱を一掃し、平和と安全の土台の上に輝かしい文化を花咲かせてきました。
(122-300、1982.11.26)
宗教の中の真の宗教はどのような宗教でしょうか。神様を中心とした父子の関係を結ぶようにさせ、さらには兄弟の関係を結ぶようにさせ、神様を中心として兄弟の家庭を成そうとする、そのような真理の内容を備えた宗教です。そのような宗教が神様の立てられた偉大な宗教であり、人間が主張する最高の宗教だという結論を下せます。
(91-225、1977.2.20)
あの世に行けば、他の国の人同士は一緒にいられませんが、すべての宗教圏は一緒にとどまることができるのです。宗教圏は、一つの世界を願って歩み、一つの神を信じて行くので一緒にとどまることができるのです。
宗教を信じる人々がこの世の人々と違うこととは何かといえば、彼らは一生の間霊界を標準として生活するという点です。宗教というものは、永遠の世界、超然とした世界の内容を中心として、神様なら神様がいらっしゃるところと神様が住んでいらっしゃるところを中心として、私達が関係を結べる内容を教えてくれるのです。
(297-271、1998.12.19)
彼らはたとえ皮膚の色が違い、生活環境が違ったとしましても、み旨に対しては一つの血筋で因縁づけられた兄弟ですので、彼らが集まる所ごとにあなたが共にいてくださり、恩賜の炎で抱いてくださいますことを懇切にお願い申し上げます。
(10-150、1960.9.25)
全宗教の究極的目標は、神様のみ旨である平和理想世界を成すこと、ただそれだけです。宗教は、教団内の自体救援や個人救援を考える前に、世界救援という神様のみ旨を心配しなければなりません。
(135-221、1985.11.16)
2) 真理に至る多様な道
多様な諸経典を見れば、諸宗教が真理の要素を含んでいるが、信仰を共有してはいないことが分かる。あらゆる真の宗教は同一の神様に仕えている。クルアーン(コーラン)はユダヤ教と同じ神様に仕え、キリスト教徒たちはムハンマドの「アッラー」と同じ神様に仕える聖書に従う人々であることを自認している。シーク教の経典は、ムスリムどヒンドゥー教徒が同一の神様に仕えていることを確認する。神道の経典は、神道の最高神は本質的に夫婦と同一だと記述している。
さらに、様々な経典は、個別の宗教が同一の最高目標に至る一つの道であることを確認する。これはあたかも多くの川が大きな海へと流れ込んでいくのと同じであり、頂上に至る多くの登山道があるのと同じことである。世界の諸宗教は、多様な文化の追求、習慣、環境によって人間性を高揚させ、それらの道はそれぞれ異なって始まったが、より近くなりながら、最後の一つの道へと融合している。このような脈絡から文鮮明先生は、神様が偉大な宗教の創始者たちに、彼らが生きた時代と文化に適合したメッセージを与え、彼らを呼んで立てたと言う。文鮮明先生の教えによれば、偉大な宗教の創始者たちは、人類が究極的目的に向かって前進できるよう、神様の摂理的な経綸によってこの地上に送られた真の引導者だったというのである。
確かにすべての宗教は自分の道が最高であり最上だと考える。聖書でイエスは「私は道であり、真理であり、命である。だれでも私によらないでは、父のみもとに行くことはできない」と言う。コーランは、かつての啓示に対する正確で唯一の証言が正にコーランであり、ユダヤ教の律法とキリスト教の福音は腐敗と加筆に染まっていると言う。しかし、私達はより高い神様の知恵の前に謙遜でなければならない。群盲が象に触れる例えで見るように、各宗教の道は全体を見ることができないまま、真理に接していることも分からない。文鮮明先生は、人間の霊的発展過程でそれぞれ異なる時代に様々な宗教が現れたので、宗教ごとに水準が異なると見る。しかし、宗教開における違いのために、各宗教が共通にもっている核心真理が分かれてはいけない。宗教者たちは、宗教の違いを寛大に認め、共通点を発見できなければならない。
1. 同一の神様を崇拝し、その方の偉大なみ旨に仕えるすべての宗教
― 宗教経典 ―
ヒンドゥーとムスリムは同じ一つの神に仕えるのだから、一介のイスラーム律法学者や教主に何かできるというのだろうか。
グル・グラント、バイロ一、p.1158 (シーク教)
日の出る所から日の入る所まで、諸国の間でわが名はあがめられ、至るところでわが名のために香がたかれ、清い献げ物がささげられている。わが名は諸国の間であがめられているからだ、と万軍の主は言われる。
マラキ書1.11 (キリスト教)
信仰をそなえ、他の神格を供養する(祀る)信者たちも、〔正しい〕教今によってではないが、実は私を供養するのである。何故なら、私はすべての祭祀の享受者であり、主宰者であるから。
バガヴァッド・ギーター923~24(ヒンドゥー教)
まことにわれは、導きと光明のある律法を、モーゼに下した。それで神に服従帰依する諸予言者は、これによってユダヤ人を、さばいた。聖職者たちや律法学者たちには、神の経典の守護が託され、それによっており、かれらはその証人でもあった。それゆえ人びとを恐れず、ただ私を恐れよ、わずかな代価で、私のしるしを売ってはならぬ。もし神が下したもうたものによらず、裁判するならば、かれらは不信者である。
われはかれらの足跡を踏ませて、マリヤの子イエスをつかわし、かれ以前に下した、律法の中にあるものを確証するために、導きと光明のある、福音をかれに授けた。これはかれ以前に下した律法の確証であり、また主を畏れる者への導きであり訓戒である。それで福音の信者をして、神がその中に示したまえるものによって、さばかしめよ。
およそ神が下したまえるものによらずして、さばく者、これらの者は違犯者である。われは真理によって、なんじに経典を下した。それ以前にある経典を確証し、それを守るためである。それで神が下したまえるものによって、かれらの間をさばけ、なんじに賜わった真理にもとづき、かれらの私欲に従ってはならぬ。
われは、なんじらそれぞれのために、一つの教律と公明な道とを定めた。もし神のみ心なら、なんじらをあげて一つの教団になされたであろう。しかし、これをされなかったのはかれがなんじらに賜わったものによって、なんじらを試みたもうためである。それゆえ相競って善行に励め。なんじらはこぞって、神に帰るのである。そのときかれは、なんじらが論争していたことについて、告げたもう。
クルアーン5.44 ~ 48(イスラム)
ここは神々の地である。民はそれらを敬うべきである。私は毘盧遮那如来であるから、私の民は仏陀の法に帰依すべきである。
聖武天皇におりた天照大神のお告げ(神道)
人種や宗教が何であろうとも、世界の人々は、一つの天の源から霊感を受けた一つの神の民であるということに何らの疑いもない。彼らの守っている掟の間の相違は、それが啓示された時代の種々の要求や緊急度によって起こるのである。人間の我欲の結果から起こるいくつかの例外を除けば、それらは全て神の定め給うたものであり、神の意志と目的の反映である。
バハオラ落穂集111(バハイ教)
それぞれ異なる所から流れてくる
あらゆる川が海でその水が混ざるように、
おお、主よ、様々な聖賢たちを通して
人々が選ぶ様々な川が
たとえ見た目は異なるように見えても
狭き道に見えたり、
まっすぐな道に見えるとしても
すべてがあなたに通じています。
サンスクリット賛歌(ヒンドゥー教)
人々がいかなる方法で私に帰依しても、私はそれに応じて彼らを愛する。人々はすべて私の道に従う。
バガヴァッド・ギーター4.11(ヒンドゥー教)
まことにコラーンを信ずる者、ならびにユダヤ人、サービ教徒、キリスト教徒で、神と終末の日を信じて、善い行いにいそしむ者には、恐れもなく憂いもないであろう。
クルアーン5.69 (イスラーム)
これから訪れる世に属した異教徒の中にも義人はいる。
トセフタ、サンヘドリン13.2(ユダヤ教)
そこで、ペテロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。
使徒言行録10.34 ~ 35(キリスト教)
またなんじは、信仰する者と感情上最も近いのは、「私達はキリスト教徒だ」と、言う者であることを知るであろう。これはかれらの間に、司祭者と奥義の修道士がいて、かれらが高慢でないためである。
み使いに下されたものをかれらが聞くとき、なんじらは、かれらが認めた真理のために、目に涙があふれるのを見よう。かれらは言う「主よ、私達は信仰します。私達を証人のうちに書きとめて下さい」。
クルアーン5.82 ~ 83(イスラーム)
他のすべての宗教も、人間の心性の不安を除去しようと努力している。宗教ごとにそれぞれ提示する道があり、それらも生に対する教えと規律、儀礼を紹介している。カトリック教会は、これらの中の神聖さと真なるものに対し、いかなるものも否定しない。
それらが教える概念と教え、人生の道と行動規律に心から敬意を表する。たとえ私達が勧める道と多くの面で異なるとしても、それらもやはり様々な万民を明るく照らす真理の光を反射していることを認める。
第ニバチカン公会議、キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言(キリスト教)
― み言選集 ―
宗教で信じる神様は、その名前が様々であり、その表現が異なるが、その宗教で信奉する中心存在は一つの神様に帰一されていると見るのです。
(140-11、1986.2.12)
それでは、皆さんも知っている四大聖人はどのような人たちですか。宗主たちでした。宗教を中心とする教主たちでした。例を挙げてみると、イエス様もそのような人であり、釈迦牟尼もそのような人であり、孔子様もそのような人であり、ムハンマドもそのような人です。
どうしてこのような人たちが、人類の案内人として信仰の対象になったのでしょうか。「その人の言葉を絶対に信じなければならない」というのです。異議がありません。なぜそうでなければならないのですか。案内人だからです。
頂上に向かって前進するそこにおいて、たった一人の道案内人、彼はある宗派に責任をもって頂上に向かって上がっていくのです。第1の峰から最高の峰まであるとき、第1の峰に上がっていけば、また違う道と連結させます。このように次元を変えながら、最高の頂上に向かって前進していくのです。
神様は東側の一つの道だけ行くのではありません。それでは西側にいる人が帰ることができないからです。ですから、このような立場で東洋の宗教や西洋の宗教、南方の宗教、北方の宗教など、世界的な地域を考えてこのような宗教を立て、このように主流の最も高い峰に向かって上がっていく方向を示しながら、その間にいる大勢の民族を吸収し、統一の世界に前進していかなければならないのです。
(81-181 ~ 182、1975.12.28)
神様がいなければ、私達統一教会は必要ありません。四大聖人はすべて神様を中心とする人たちですが、聖人たちの頂上とは何ですか。聖人自体ですか、神様ですか。神様です。イエス様も聖人ですが、その上は神様であり、釈迦牟尼もムハンマドも孔子も、その上は神様です。神様を知らない人は聖人と言うことはできません。神様を抜いては聖人という言葉をもつ人はいないのです。
聖人自体が、聖人が教えることとは何ですか。その聖人たちが主張することとは何ですか。善い世界をつくろうと言いましたか。幸福や正義、善というものを中心として、より世界的に拡大させようと主張した群れたちが聖人なのです。歴史的に見れば、それを千年、万年継続しようと主張した人が聖人です。そうです。ですから、何千年前の聖人たちの教えに、今も従っていこうとするのです。
(130-146 ~ 147、1984.1.8)
今日、この地上にはたくさんの宗教があります。人類が分散しているので、これを収拾しようとするので、自然と各民族に合う宗教が必要です。各自、歴史と環境、文化の背景と風俗、習慣が異なるので、このような様々な形態を一つの目的として収拾するためには、数多くの宗派がなければならないのです。
例えば、川を見ると、上流にはたくさんの支流があります。このたくさんの支流が下っていけば下っていくほど、互いに合流しながらその数がだんだんと減り、結局は、一つの川になって大海に入っていきます。同じように、数多くの宗教も一つの幹になりながら、最後には神様を中心にお迎えし、神様の愛を占領する所に一つになり、どどまるようになるのです。
(23-127、1969.5.18)
宗教というものは何かというと、神様の愛の世界を求めていくための訓練道場です。そこで一段階、一段階高まり、本然の位置まで引っ張っていく使命を分担されたのが世界的宗教だというのです。
(87-177、1976.6.2)
今日、私達が生きているこの世界は、善を中心とする世界ではなく、悪主権内の支配を受ける堕落した世界なので、この世界には、神様と、善神と関係を結ぶことができないように障害が横たわっているのです。
この障害をかき分けるにおいて、人間が中間の役割をしなければならないようになっているので、善神は悪の世界を善の世界にするための運動を、歴史過程を通し、宗教の背景を中心として世界的に発展させてきた事実を知らなければなりません。
世界は民族文化の背景が異なり、習慣と風習が異なりますが、そこに合う宗教の版図を広げていき、地域的な版図から世界的な版図へ宗教を形成してきたのです。今この世界には4大宗教文化圏がありまず。キリスト教文化圏、イスラーム文化圏、インド教文化圏、極東の儒仏仙の三道を中心とする文化圏があるのです。このような宗教版図をして、今日悪の世界にいる人たちを善の世界に転換させることをしています。
それでは、神様がいるとすれば、神様にも希望があるはずですが、その神様の希望とは何でしょうか。宗教を中心として、様々な宗教を残すのではなく、必ず一つの宗教形態を世界的な舞台に展開させたいというのが神様のみ旨に違いありません。これは誰もが考えることです。考えだけでなく、神様御自身に私達が尋ねてみたとしても、この世界に神様の真のみ旨を代表した一つの宗教がなければならないと答えざるを得ません。
(113-313、1981.5.10)
お父様!
私達それぞれに、
あなたのみ手を経なかった者の
いないことを(私達は)知りましたし、
いかなる国であっても、あなたの願いの中で、
今まで導きを受けなかった国の
ないことを知るようになりました。
さらには、
万民をあなたが理想とされた
本然の世界に導くために、
国境を越えに越えながら、
現時点までお父様が
御指導してきてくださったことを、
私達はよく知っています。
(76-86 ~ 87、1975.2.1)
2. 個別的違いの背後にある普遍的なもの
― 宗教経典 ―
そのとき、ある群れの弟子たちが釈迦に近づいて言った。「師よ、ここ舎衛城の街には、絶えず論争することを好むあらゆる遊行者や論師たちが暮らしています。ある人が言うには、世界は永遠で無限なものだと言い、またある人は、世界とは有限で永遠ではないと言います。ある人は、肉身の死と共に霊魂も消滅すると言い、またある人は、肉身が滅んだあとも霊魂は永遠に存在するという話をします。師よ、彼らに対してあなたは何と言われますか」。
釈迦は答えた。「昔、ある王がいたが、ある日、臣下に命じた。『舎衛城に住んでいるすべての盲人たちを一箇所に呼び集めよ。……そして、すぐに象の所へ連れて行ってやれ』、臣下が王の命を受け、この盲人たちを象の元に連れて行き、手を引いて盲人に示した。中には、足を触る者、尾を持つ者、尾の根本を持つ者、腹を触る者、脇腹を触る者、背を触る者、耳を触る者、頭を触る者、牙を触る者、鼻を触る者がいた。盲人たちがそれぞれ象の各部を触ったあと、王が彼らに近づいて尋ねた。『盲人たちよ、象がどのような動物か言ってみよ』。
すると頭を触った者はこう答えた。『象は鉢のようです』。象の耳を観察した者は、『象は箕のようだ』と言った。象の牙を触った者は、『犂(すき)の歯』と言い、象の鼻をつかんだ者は『犂』と言った。そして象の体を感じた盲人は、『象は納屋』と言い、足を触った者は『柱石』と言い、背中に触れた者は『しっくい』と言い、尻尾の毛に触れた者は『筆』と言った。
そして、王の前で『王様、象とは私が言っているものです』と再び言い争いを始めた。ちょうどそれと同じであり、外道に属する遊行者たちは、目がなく前を見ることができず、真の意味を知ることができず……真実はこうだと言い張り、互いに論争に従事している」。そのとき釈迦は、次のようにウダーナを歌われ、その真意を示された。おお、婆羅門、沙門と自ら称する者たち、彼らはどれほど執着し争うのか!それぞれの見解に貪着するために彼らが互いに争うので、そのような群れは物事の一つの側面ばかりを見でいる。
ウダーナ68 ~ 69、盲人と象の寓話(仏教)
何人かのインド人が展示用に象を連れてきて、暗い家に入れた。群衆がその獣を見るために暗い所に入っていた。目で見ることができないことを知り、見物人たちは暗闇の中で、一人ずつ手で獣を触った。
一人の手が象の鼻に触れた。「この生物は水柱のようだ」と彼は言った。また他の人の手は象の耳に触れた。その人にはその獣がフライパンのように思えた。また他の人は象の足に触れた。「私は象の形が柱のようだと思う」と彼は言った。また他の人は象の背中に触れた。「この象は王座のような形だ」と彼は言った。
感覚の目は手の平と同じだ。手の平は獣全体を覆うすべをもっていない。海の目は一つであり、泡はまた異なる。泡は流れていくままにしておき、海の目で凝視せよ。昼夜泡のかけらが海で砕ける。驚くべきことではないか。あなた達は、海ではなく泡を注視する。私達は互いに衝突するボートと同じだ。私達の目は暗かったが、きれいな水にいる。
ジャラールッディーン・ルーミー精神的マスナヴィー3、1259 ~ 1272(イスラーム)
あるムスリムとあるユダヤ人が争っていた。ムスリムが言うには、「その方は、この世でムハンマドを選ばれた」と言うと、ユダヤ人が「その方はこの世でモーセを選ばれた」と言い返した。するとムスリムが手を挙げてユダヤ人の顔をたたいた。そのユダヤ人が預言者(ムハンマド)のところに行き、彼とムスリムの間で起きた経緯を告げると、預言者がムスリムを呼び、そのことについて尋ねた。
ムスリムが語ると預言者が言った。「私をモーセの優位に置いてはならない。なぜなら、人類は復活の日にすべて意識を失い、私も彼らと共に意識を失うだろう。私は最初に目覚め、権力の座のそばにいるモーセを見るだろう。私は、彼が私より先に意識を失って目覚めた者の中の一人なのか、神が例外とされた者の中の一人なのか分からない……預言者の間に差をつくるべきではない」。
ブハーリーおよびムスリム・ハディース(イスラーム)
ある人たちは主に「ラマ」と叫び、ある人たちは「トゥダ」と叫ぶ。ある人たちは彼を「コサイン」として、ある人たちは「アッラー」として敬拝する。彼は土台の中の土台であり、惜しみなく与える者であり、情に深ぐ慈悲深い者だ。
ヒンドゥーは彼を得ようと聖なる水で沐浴し、イスラームはメッカを巡礼する。ヒンドゥーはプーチャを行い、他の者たちはマナーズに頭を下げて拝む。ベーダを朗誦する者たちがおり、他の者たち(キリスト教徒、ユダ教徒、ムスリム)はセム族の経典を唱える。
ある人たちは青い法服を着て、ある人たちは白い法服を着て、ある人たちは自らをムスリムと称し、またある人たちは自らをヒンドゥーと称する。ある人たちはバヒシャット(ムスリムの天国)を熱望し、ある人たちはスワーガ(ヒンドゥーの天国)を渇望する。ナナークが言うに、主のみ意を実現する者は誰でも主の秘密を知るだろう!
アーディ・グラント、ラームカリー、M.5、p.885(シーク教)
ゴタミドよ、何の教えであれ、あなたはこのように確信できるだろう。「この教義こそ、心の落ち着きではなく焦燥、執着から抜け出すのではなく執着に捕らわれること、世俗的なものの減少ではなく増加、倹約ではなく貪欲、満足ではなく不満足、孤独ではなく友人と過ごすこと、元気旺盛ではなく鈍いこと、善なることを喜ぶのではなく悪なることを喜ぶようにするものだ」。
ゴタミドよ、このような教えに対して、このように確信できるだろう。「これは正しい規準ではない。これは修行ではない。これは師の教えではない」。しかし、何の教えであれ、あなたはこのように確信できるだろう。「この教義こそ、心の焦燥ではなく落ち着きに至るようになり……落ち着きではなく焦燥、悪なることを喜ぶのではなく、善なることを喜ぶようになるだろう」。このような教えに対してこのように確信できるだろう。「これは正しい規準だ。これは正しい修行だ。これは師の伝言だ」。
律蔵2.10 (仏教)
― み言選集 ―
あらゆる文化で宗教は中心核でなければならず、共義の標準でなければなりませんでした。各宗教は、自分自身の伝統を絶えず守ってきたことに対して誇りをもっています。各自は、自分の宗教をほかのあらゆる宗教よりも優秀な宗教だと考えます。しかし、宗教的な教えは宇宙的な要素をもっているだけでなく、その教えは神様から来たものです。
(234-222、1992.8.20)
残念なことに、今日に至って、宗教は種類の如何を問わず、混乱を収拾できる機能と人間の精神を指導できる能力を喪失してしまいました。今日の宗教は、徐々にその生命を失いつつあり、信仰はだんだんとより形式化しつつあります。
人類は今、宗教からだんだんと関心が遠くなりつつあり、熱い火のように燃え上がるべき信仰の本然の姿勢は、少数の例を除けば、徐々に消えていきつつあります。これは実に重大な事態だと言わざるを得ません。なぜかというと、人類の精神を善導すべき宗教がその機能を完全に喪失したとき、世界は無法天地と化し、人類はあらゆる暴力と乱行と殺戮の海の中へと落ちてしまうからです。
実際に、今日そのような現象が起き始めているのであり、共産主義の策略によって加速化しています。これを一言で、宗数的価値観の崩壊現象と表現できます。それでは、その崩壊の原因とは何でしょうか。それは、第1に、科学技術の発達と経済成長などにより、人間の精神が物質主義に流れているからです。第2に、共産主義をはじめとする各種の無神論と唯物論思想が急速、かつ広範囲に蔓延しつつあるからです。
第3に、政治分裂の流れのもとで、国家の教育政策において宗教を教育科目から排除することによって、幼い時から無神論の思想を注入するという結果をつくりだしているからです。第4に、共産主義者たちが赤化工作のために、残された価値観さえも意図的に破壊する戦略を用いているからです。第5に、宗数的価値観を理論的に守護する確固たる本体論が欠如しているからです。
(122-300 ~ 301、1982.11.25)
人間たちが生きるにおいて、世の中では平面的に生きるので、外から見れば宗教はすべて同じに見えます。しかし、宗教の背後を調べてみると、復帰摂理をしてくる神様の摂理で見るとき僕の僕の宗教圏があり、僕の宗教圏がありそして、養子、庶子、直系の子女、母の宗教、父の宗教を経てきたのです。このような話が成立します。
そうだとすれば、宗教のその内容は何でしょうか。内容はすべて同じです。神様を愛しなさいということ、神様を絶対主人として侍りなさいということですが、その内容はすべて同じです。大同小異です。ですから、宗教の内容を見ても、その段階を区別することはできません。内容はすべて似ているのです。だからといって宗教はすべて同じと見るのでしょうか。そうではないのです。摂理の時代を見れば、復帰摂理は終わりの日を通して成し遂げられます。始めから終わりの日が近づけば近づくほど、宗教の目的が成し遂げられる時代が来るのです。
(143-75 ~ 76、1990.12.9)
善悪というものは、思いの中で決定されるものではありません。善悪というものは生活圏内で決定されます。天国と地獄は、皆さんの観念の世界で決定されるのではなく、生活舞台で決定されるのです。これは重要なことです。
(40-294 ~ 295、1971.2.7)
3) 寬容、宗教的自由、そして宗教一致
寛容は「ほかの信仰をもった人にどのように対するか」から始まる。非信仰者と信仰者を同じ関心をもって対するよう教える経典の章句を、ここに集めた。宗数的論争や数理的葛藤は非難されるべきである。それらは、時として敬虔に偽装された利己主義の衝動を受け、自分の信仰に合わないものに敵対心を表す。
これを拡大すれば。政府は宗教の自由を認定し、信仰の問題に強制性をもってはならない。多くの人々が宗教の自由を現代民主主義の唯一の特徴として認識しているが、これは十字軍戦争、宗教裁判、30 年戦争などなど、戦争の残酷性で点綴された長い期間の宗数的偏狭から胎動したものである。一部の文明には宗数的寛容の時期があった。寛容な仏教信者だったアショーカ王(紀元前3世紀)治下のインド、ムガール帝国の啓蒙皇帝アクバル(16 世紀)、アル・アンダルス(ムスリム治下のスペイン、10 世紀)、そして中国の宋王朝時代(10 ~13 世紀)などがそれである。それにもかかわらず、宗教の自由が地球的価値として確固たる位置を定めたのは、民主主義が確立されてからであった。
文鮮明先生は、神様の摂理の中で最も苦労して成就した勝利の一つが宗教の自由を確立したことだと指摘した。宗教間の和解と連帯は、宗教の寛容と宗教の自由を越えたより高いビジョンだ。人類が世界の様々な宗教とより親密になり、宗教指導者たちが対話を通して、紛争と過去の偏見をなくそうと努力した結果、このような現代的ビジョンが胎動したのである。バハイ教は、以前から宗教間の一致を主張してきた。
ユダヤ人の大虐殺の恐怖を経たのち、キリスト教徒とユダヤ教徒の関係が変化しながら反ユダヤ主義的要素が宿っているキリスト数の教理に対し、広範囲な再評価が履行された。しかし、1990年代後半まで、世俗主義の傾向や宗数的偏狭が、いつしか宗教を過去の遺物として残すようになるという見解が支配的だった、しかし今日、それは時代とかけ離れた見解である。宗数的極端主義とテロリズムが急速に広がり、人類は世界平和の具現のために宗教間の協力が必須の前提条件であることを深く覚醒するようになった。しかし、文鮮明先生は、宗教の一致が神様の摂理の主要な目標の中の一つであるという信念のもと、50年以上、少しも誇示することなく、黙々とその目標を実現するために尽力してきた。
1. 他の宗教者に対する寛容
― 宗教経典 ―
自らの教義をたたえながら、他の人たちの教義を見下す者たちは、どんな問題も解決できない。
スーヤガダンガ1.1.50(ジャイナ教)
また最善(の言い方)でなく、経典の民と議論してはならぬ。
クルアーン29.46 (イスラーム)
異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。
ペテロの手紙一2.12 (キリスト教)
我々の師はこのように教えられた。「イスラエルの貧しい者だけでなく、異教徒の貧しい者たちも助けなさい。イスラエルの病人だけでなく、異教徒の病人も訪ねていきなさい。イスラエル人の死体だけでなく、異教徒の死体も一緒に埋めてあげなさい。平和の名によって」
タルムード、ギッティーン61a (ユダヤ教)
カパティカが尋ねた。「賢者はどのように真理を顕示しますか」。仏陀が答えた。「ある人が信仰をもったとき、もし彼が『これは私の信仰だ』と言えば、そのときまで彼は真理を顕示するだろう。しかし、それだけでは『ただこれだけが真理であり、それ以外はすべて偽り』という絶対的な結論に到達することはできない」。
阿合経中部2.176 (仏教)
いろいろな花から蜜を集める蜂のように、知恵のある者はいろいろな経典からその精髄を受け入れ、あらゆる宗教からただ長所だけを見る。
シュリーマッド・バーガヴァタム11.3(ヒンドゥー教)
まるで聖書に根拠を置いているかのように、主なる神がユダヤ人を捨てて呪われたと語るのは正しいことではない。神のみ言を伝え、教理問答を行うにおいて、彼らは福音とキリストの聖霊の真理に反することを教えることはない。さらにすべての人に対する迫害に反対する立場にあるカトリック教会は、ユダヤ人と同じ先祖の伝統を継承しているごとを認める。政治的理由ではない福音の霊的愛に基づき、私達はいつどこで行われるユダヤ人に対する憎悪と迫害、反ユダヤ主義の表現に対し非難するものである。
第二バチカン公会議、キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言(キリスト教)
― み言選集 ―
真の父母の理想と世界平和の理想は直結しています。すべての国家と民族と文化と宗教が互いに100 パーセント以上ために生き、寛容にしながら和合することによって、世界平和を成し遂げなければなりません。
(205-159、1990.8.16)
神様は、何かの教理で生活する方ではなく、宗教儀式や形式に縛られた方でもありません。神様は生きている霊的な存在であり宇宙の創造者です。宗教は、全人類に対して正しい教えの手本とならなければなりません。神様が同じ宗教内の争議による教派間の闘争や他宗教間の闘争を御覧になるとき、神様の心情は最も痛むのです。
私は、二つの一致化運動として、ニューエラ(New Era)と神様会議を創設し、これらを通してキリスト教内の教派間はもちろん、他宗教開の調和と統一に対する可能性と必要性を試みてみた結果、このような調和と統一は、忍耐と犠牲、そして真の愛の貴重な結実として実現されることを確認するようになりました。
そして、各宗教間の真摯な対話と調和を実現することで、地上に神様のみ旨を促進させ世界平和を実現するために、私は、「世界宗教議会」と「世界宗教連合」を設立しましたが、現在このような機構は、停滞した宗教界に奇跡を起こしています。
そして、私は、人種紛争および宗教戦争を防いで、神様の名のもとの理想的平和世界を立てることに積極的に寄与する青少年の機構を設立しましたが、「世界青少年会議」と「青少年宗教奉仕団」がそれです。私は、このようなすべての機構を通して、宗教界に新しい代案を提示しています。
(167-99、1987.6.30)
一つになるための運動をする人たちが、すべての宗教に対して一つになることができる努力をしなければなりません。道があるとすれば、教理上ですべてのことを解き、説得できる能力があるか、そうでなければ忍耐力があり、寛容心をもってその宗教と一つになるために譲歩していくか、二つの道しかないというのです。
(103-126、1979.2.18)
宗教を中心として見てみるとき、世界が必要とする宗教は、どのような宗教ですか。より平和を提示することができる宗教です。そのような宗教になるには、自分を重要視して、また自分を中心にする所有観念や所有欲をもっていては不可能です。そうしていては、歴史時代に自分たちの祖国を中心として、自分の民族を中心とする主体的な観念に支配された、そのような形態を抜け出ることはできません。
これを脱しようとして、「自分を犠牲にしなさい! 自分を犠牲にしなければならない」と言うのです。そして、自己の利益を追求する世界の歴史についていくようになるときは、戦争の歴史自体から抜け出せません。それを知っている天は、「自分を犠牲にせよ! 自分を否定せよ!」と言ったのです。また、自分が主体の位置にいたとしても、主体の自己利益を追求するのではなく、相対の利益を追求できる道を選びなさいと言ったのです。それで、犠牲を強調し、奉仕を強調し、自分自身を否定する道を求めていくのが宗教の道だということです。
(172-143 ~ 144、1988.1.10)
神様は世界を救おうとするのであって、長老派(プレスビテリアン)なら長老派、監理教(メソジスト)なら監理教、聖潔派なら聖潔派、それ一つだけを救おうとはしません。長老派ばかりを中心とする神様になることはできないのです。世界のために生きる神様です。教会が真になろうとすれば、「世界のために犠牲になりなさい」というのです。世界を生かすためには、その教会が滅ぶようになるとしても犠牲にならなければなりません。これが原則です。そのようにしてこそ、神様のみ旨が成し遂げられるのですが、教会を中心として世界を審判しながら、「私達でなければならない」と否定し、「私達のために生きなさい」と言いながら、自分を絶対視する教会は滅びます。
(69-87、1973.10.20)
神様がこの時代を経綸するために願われる宗教は、「父母の立場にある宗教」です。父母の心情を抱いて生きる宗教を要求されるのです。私は、真の父母思想を教育し、各自がその伝統に似た真の父母になりなさいと教えています。まず家庭において真の父母となり、氏族における真の父母である氏族的メシヤの使命を果たすように指導しています。真の父母の心情を抱いた教会人、真の父母の心情を実践する宗教となってこそ、葛藤と憎悪と罪悪の世界において神様のみ旨を実現することができるのです。
他の宗教や教派を軽蔑し、敵対視する宗教は、世界平和の実現にも、神様の摂理にも有用ではありません。天運は調和した平和世界を指向します。ところが、現実はどうですか。冷戦時代が終息しながらも、いまだに克服すべき対決と紛争の素地があまりに多いのです。人種間の紛争、宗教間の葛藤などの根本を解決し、人類一兄弟、世界一家族の和合時代を成し遂げなければならない課題は、真の父母主義を通してこそ可能です。
(260-128 ~ 129、1994.5.1)
2. 宗教の自由
― 宗教経典 ―
なんじは人びとを、しいて信者にしようとするのか。神の許しがなければ、何人も信仰にはいることはできないのである。
クルアーン10.99 ~ 100(イスラーム)
宗教には強制があってはならぬ。まさに正しい道は迷誤から明らかに分別される。
クルアーン2.256 (イスラーム)
ところが、民衆全体から尊敬されている律法の教師で、ファリサイ派に属するガマリエルという人が、議場に立って、使徒たちをしばらく外に出すように命じ、それから、議員たちにこう言った。
「イスラエルの人たち、あの者たちの取り扱いは慎重にしなさい。以前にもテウダが、自分を何か偉い者のように言って立ち上がり、その数四百人くらいの男が彼に従ったことがあった。彼は殺され、従っていた者は皆散らされて、跡形もなくなった。その後、住民登録の時、ガリラヤのユダが立ち上がり、民衆を率いて反乱を起こしたが、彼も滅び、つき従った者も皆、ちりぢりにさせられた。
そこで今、申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。」
使徒言行録5.34 ~ 39(キリスト教)
神の預言者がメディナに到着したとき、そこにいたユダヤ人と条約を結んだ。「パニ・アウプ族のユダヤ人は、ムスリム信者と一つの共同体である。ユダヤ人は自らの宗教を実践し、ムスリムは彼らの宗教を実践する。なぜなら彼らは彼ら自身の富、財産、人々だからである。抑圧を行ったり犯罪を行ったりする者は例外である」。
ハディース(イスラーム)
連邦議会は、宗教の護持にかかわる法律、宗教の自由な活動を禁じる法律、言論または出版の自由を制約する法律、国民が平穏に集会する権利を制約する法律、国民が苦痛の救済を政府に請願する権利を制約する法律の、いずれをも作ってはならない。
アメリカ合衆国憲法、補正第1 条
すべて人は、思想、良心及び宗教の自由に対する権利を有する。この権利は、宗教又は信念を変更する自由並びに単独で又は他の者と共同して、公的に又は私的に布教、行事、礼拝及び儀式によって宗教又は信念を表明する自由を含む。
世界人権宣言第18 条
盲目的な忠誠であれ、あるいは友好的な視角から自分の宗派を示そうとする意図であれ、自分の宗派をたたえながら他の人の宗派を見下す者は、誰でも自分の宗派に相当する害を被る。他の人たちの教えに耳を傾け尊重することによって、和合することが最善である。すべての宗派の信徒たちが徳を学び、教えなければならないというのが皇帝の願いである。
アショーカ石柱勅令12(仏教)
霊魂は真実なものに見えるものだけを受け入れることができ、心は善なるものに見えるものだけを愛することができる。強要は気の弱い人なら偽善者を、勇敢な人なら殉教者をつくるだろう。気の弱い人であれ勇敢な人であれ、彼は迫害の不当さを感じて憤慨するだろう。教授、説得、そして折り、これが宗教の拡張のための方法である。憎悪、憤慨、軽蔑を刺激する方法は敬虔になりえない。
ドニ・ディドロ(ヒューマニズム)
― み言選集 ―
神様が準備されるもう一つのことは、メシヤが降臨できる環境を造成しなければならないということです。……イエス様が十字架にはりつけになったのは、当時の制度下では避けることのできない事情だったといえます。これをよく御存じの神様は、メシヤが再び来る再臨の時に何よりも必要なのは、人をむやみに捕まえて葬り去ることができない政治制度だということです。
このために、2000 年間汗を流して準備された制度が、正に今日の民主主義です。民主主義は人権を尊重する制度です。民主主義は、少数派も多数派の中に入り込んで生き残れる制度です。民主主義は、とりもなおさず自由を保証する制度です。その自由が正に言論の自由であり、宗教の自由であり、結社の自由であり、出版の自由であり、集会の自由です。その民主主義のアメリカの憲法を見れば、自由の中の最も絶対的な自由が宗教の自由であり、アメリカの議会と政府は宗教を規制できるいかなる法もつくれないようになっています。
(100-246、1978.10.19)
イエス以後2000 年間の霊的な復帰摂理によって、彼が働き得る社会を造成するために、民主主義時代をつくっておかれたからである。イエスは、初臨のときには、ユダヤ教の反逆者であると見なされて亡くなられたのであったが、彼が再臨なさる民主主義社会においては、たとえ、彼が異端者として追われることがあるとしても、それによって死の立場にまで追いこまれるようなことはないのである。
原理講論、モーセとイエスを中心とする復帰摂理3.3.2
私が神様に感謝することは、人類歴史上、最も困難な時期に私を宗教の自由守護のための指導者として、アメリカの霊的覚醒運動に点火する道具として使っていらっしゃるということです。
(133-213、1984.7,19)
3. 宗教共同体と宗教間の紐帯
― 宗教経典 ―
私には、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊も私の声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。
ヨハネによる福音書10.16 (キリスト教)
私の家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。
イザヤ書56.7 (キリスト教)
私は、ずっと以前に、すべての宗教は真であり、またその中に何らかの誤りをもっていると結論を下しました。私は、私自身の宗教を固く守りますが、それにもかかわらず他の宗教をヒンドゥー教のように尊重しなければならないでしょう。
したがって、もし私達がヒンドゥー教徒であれば、キリスト教徒はヒンドゥー教徒にならなければならないと祈ってはいけません。……私達の最も内密な祈りは、ヒンドゥー教徒はより立派なヒンドゥー教徒になり、ムスリムはより立派なムスリムになり、キリスト教徒はより立派なキリスト教徒になるべきだという祈りです。
モハンダス・カラムチャンド・ガンディー(ヒンドゥー教)
根本的に世界のすべての主要な宗教は、同一のメッセージを伝える。したがって、多様な宗教の調和は重要であり、また必須的だ。各伝統は、異なる性向と精神体系をもつ人たちに適合した価値をもつ。便利な意思伝達が発達したこの世代に私達は相互の宗教伝統を学ばうとさらに努力しなければならない。
これは私達がすべての宗教を一つにしなければならないということを意味していない。私達は多様な宗教の共通目的を認めなければならず、各宗教が内的進展のために蓄積してきた多様な技法を尊重しなければならない。
テンジン・ギャツォ、第14 代ダライ・ラマ(仏教)
カトリック教会は、天の子女たちのために勧告の教えをもっている。教会は慎重と愛情を込め、異なる宗教の信仰者たちと、対話と協力を通して、またキリスト信仰と生の証人として他宗教の社会文化の価値と彼らの道徳的、霊的善を認め、保存し、奨励するものである。
第ニバチカン公会議、キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言(キリスト教)
神の宗教の本質的な目的は人類を統一することだ。聖なる顕現が連帯と愛の媒体の始祖、彼らは、不和、紛争、憎悪をつくろうとこの世に来られたのではなかった。神の宗教は愛の動機や、もし憎悪と殺戮の原因になるようにつくられたのなら、その不在が存在することよりもよいだろう。なぜなら、その後、それは人間の世界に凶悪で害となり妨害となるものだからである。
この華々しい世紀に私達の義務は、聖なる宗教の本質を研究することであり、世界人類が一つになるにおいて基礎となる実在を求めることであり、神聖な愛のひもで人類を連合させる連帯と和合の源泉を発展させることである。このような統一が永遠の光彩であり、聖なる霊性であり、神の光輝であり、王国の贈り物である。
アブドゥルバハー、万国平和の普及(バハイ教)
― み言選集 ―
私が知っている神様は、宗派主義者ではありません。枝葉的な教理理論に縛られた神様ではないのです。私達は、教義の文字や儀式の条件に融通性なく縛られる神学的葛藤から早く抜け出し、神様と生きた交わりをもたなければなりません。信徒たちの信仰が生き生きとし、各自の霊魂が神様と交流する純粋な宗教風土の造成が急がれていると思います。
神様と父母の心情、そして大いなる愛の中には、民族や顔の色の区分はあり得ません。国家や文化、伝統、洋の東西の壁もありません。神様は、きょうも万民を同じ子女として抱くために努力していらっしゃいます。私達は、宗教間の対話と和合を通して神様の創造目的であり、人類共通の希望である単一平和理想世界を必ず実現しなければなりません。
(135-221、1985.11.16)
今日の人類が直面している一つの大きな問題が、数多くのキリスト教の教派の間で、様々な世界の諸宗教の間で、そして各世界宗教の内部で起きている相互無理解の現象です。この問題を解決しようとする多様な努力にもかかわらず、宗教の共同体間の対立と敵対感は依然として継続しています。
過去数世紀の間に起きた宗教戦争は、今日も終わっていません。相互一致のための多くの運動が試みられてきましたが、篤実な信者たちの間には、いまだ不寛容、宗数的偏狭および宗教的驕慢の風潮が蔓延しています。それで、大部分の宗教が同じ神様に仕え、さらには同じ教理をもっているケースが頻繁にあるにもかかわらず、宗教者たちは、相互弾圧と敵対行為を継続してきました。
私達は、神様が教団主義や教理、党派主義を超越していらっしゃるという事実を悟らなければなりません。神様の目的は常に全人類を救援しようとされるところにあったのであり、特定の民族や人種、宗教団体だけを救援しようとされたのではなく、これは今この時間にも変わりありません。宗教者として私達が相互間の争いと敵対行為を終息させなければ、世の中を救おうとされる神様を手伝ってさしあげられません。たくさんの宗教指導者たちがこれを痛感してきましたが、様々に複雑な理由のためにこの問題の解決は何度も挫折してきました。
私か強調してきたことは、世界平和のための必須的条件が正に宗教間の和睦だということでした。今まで、ある宗教が神様を完全に代弁することは不可能だったので、宗教がもっている多様な見解は必然的な産物です。しかし、私達全員が唯一の天の父母の子女たちなので、私達は一つの大家族の中の兄弟姉妹であり、したがって、宗教間の葛藤と憎悪は不必要なのです。
(133-274 ~ 275、1984.8.13)
神様が世界とすべて隔離されていますか。神様はそうではないのです。世界を救おうとしています。イスラームを見ても、ムスリムを中心として、自分たちを中心としてやろうとしています。世界を考えていません。仏教もやはり同じです。社会に出て活動することを今までしてこなかったのです。
(99-17、1978.8.27)
ユダヤ教のイスラエルを中心として、中東にある国々がカイン・アベルで一つになったなら、既に6世紀前からインドと中国とユーフラテス川流域に宗教があったので、中央地帯を中心として統一し、自動的に一つになることができる環境をすべてつくっておいたはずです。
ユダヤ教とイスラエルの国が一つになっていれば、その時は既にローマが腐敗した状態だったので、中東でもどこでも革命を起こすことができたのです。
そうすれば、ローマ帝国の版図内にインドや中国、この宗教圏が霊界から一つになりなさいという指示さえあれば、一度に回っていくことができました。神様が願うことは、ヒンドゥー教の国ではなく、ユダヤ教の国ではなく、キリスト教の国ではなく、一つの国です!
(406-23、2003.3.2)
東洋では無我の境地を求めて入っていきます。静かな所、何も感じない場を求めていくのです。ところが、西洋では、「ああ、お金がたくさんあり、何々がたくさんある所に行こう!」と言っています。西洋式は「ある所に行こう。たくさんある所に行こう」と思って目が大きくなったのです。目がこのように大きくなりました。目が大きくなり、「ああ、早く行こう、早く行こう」と言うのです。また、背が大きくなってこのように行きます。東洋の人は小さいです。目も小さくなり、鼻も小さくなり、すべて小さくなりました。足も短いです。そのような観点から見るとき、これはどこが内で、どこが外ですか。西洋は外であり、東洋は内なのです。
(118-47、1982.5.2)
宗教の目的は何ですか。宗教の目的は一つの世界を指向することです。宗教で信じる神様は名前が様々で、表現が異なりますが、その宗教で信奉する中心存在は、一つの神様に帰一していると見るのです。このように見るとき、その宗教が教える方向と目的はいつでも一つを標準としているのです。それで、最後にはすべての宗教が自分なりの道を収拾し、一つの一大変革時代を迎えなければなりません。
(140-10 ~ 11、1986.2.1)
「神様のもとの一つの世界」は、神様の永遠、不変、絶対の願いであり目的なので、必ず成し遂げられるのですが、まず宗教統一をしてこそそれが可能です。お一人の父である神様に侍り、一人のメシヤのもとに神主義によって固く結束すれば、神様が共にいらっしゃるので、世界復帰、すなわち地上天国の具現は時間の問題です。
(88-211、1976.9.18)
今日、たくさんの宗教が主張していた世界的な思潮も過ぎていってしまい、最後に残されるものは、再臨主として来られる新郎を中心として新婦たちが出会う、そのような新しい世界的文化圏時代が来るのです。その世界は、言語も統一され、生活も統一され、行動も統一され、希望も統一され、心情も統一された時代が来るというのです。
(50-62、1971.10.31)
4) シャーマニズム、多神教とアニミズム
世界の諸経典は、すべての宗教が共通に強調する普遍的な観点をもっている。それでも、宗教はそれぞれの独特な性格と主眼点をもっている。次の六つの主題は、宗教の独特な特徴を表しながら、特殊な宗数的伝統とそれらに関する文鮮明先生の教えを扱う。霊性の充足さを失わないまま、唯一の神様(一つの究極的実在)に共通に合致する普遍的性格を大きく逸脱しなければ、自らの宗数的特徴ばかりを度を超して強調する必要がない。
ここですべての宗教を扱うことはできず、文鮮明先生が経験を通して言及した宗教に限る。韓国は、シャーマニズム、仏教、儒教に根を置く宗数的多元主義国家である。韓国には、躍動的なキリスト教の共同体があり、少数グループに成長しているイスラーム共同体もある。文鮮明先生のシャーマニズムに対する見解は、先生が主に韓国社会で経た多様な経験からのものである。シャーマニズムは、韓国の田舎でいまだに強い影響力をもっており、シャーマニズムを行う人をムーダンと呼ぶが、その大部分が女性である。
霊と交流できるムーダンの能力は印象的である。文鮮明先生は、アメリカで生活するとき、アラスカのエスキモーのムーダンと交流したり、ブラジルとパラグアイの先住民と友として過ごしたりもした。文鮮明先生は、霊界の現実と、それと効果的に交流するための霊的訓練に関して熟知している。このような理由ゆえに、先生は聖書中心のキリスト教徒のように、シャーマニズムと物活論に対して独善的な非難はしない。かえって文先生は、シャーマニズムを人間の霊的発達段階の中で低い段階ではあるが、正式段階として認めている。
文鮮明先生の教えの中で注目する点は、シャーマニズムと多神教は本来、堕落した天使を崇拝の対象とする「僕の僕」宗教だとする点である。多神思想は、ギリシャやヒンドゥー神話ではっきりと見ることができるが、様々な神々が世の中の女性たちと好色的な活動をするのは、人間堕落の当時、エバに対するサタンの誘惑に起因するのである。それにもかかわらず、神様は献身的な修行者たちに、その神々の次元を超えてより高い道徳的品性をもつための権能を賦与するやり方で教えてきた。このような方法を通して人間は「僕の僕」の位置を越え、彼らの位置を格上げしながら、より次元の高い宗教に発展しできた。ヒンドゥー教とその信徒の諸経典は、このような伝統が時代を経てどのように浮上して次元の高い宗教として変わってきたかを記述している。
1. 自然神崇拝
― 宗教経典 ―
神々よ! あなた方の御名のすべてが崇拝され、尊敬され、敬愛されんことを。天と地から生じたあなた方のすべてが、ここにわが祈願を聞き入れられんことを。
リグ・ヴェーダ10.63.2(ヒンドゥー教)
古来、わが先祖の歴代の天皇は、政治を行なうにあたって、つつしんであつく神々を敬われ、山川の神々を祭って、神々の力を天地にお通わしめになった。このため、陰陽はよく開き和し、神々のしわざも順調に行なわれたと聞いています。
日本書紀22(神道)
山上の主よ!
内山の七峰よ、
外山の十三名勝地よ。
この名山と帝釈天に
国家の大きな祭壇が将軍の保護を受ける。
そのうちの一つが崔栄将軍ではないか。
大韓の名将、
国民たちが喜ぶ。……
おお、私は大山神だ。
座れば三千里を覆い
立てば九万里に伸びる。
明鏡を見下ろせば、
万里を見ることができる。
おお、私は大山神だ。
お前が私のために何を捧げたのか。
紅い布で包んだ豚で十分なのか。
三色の糸の束で十分なのか。
私にたくさんの絹を捧げよ。
おお、この家の夫婦よ。
誰が食糧を与えるのか、お前は覚えているのか。
誰がお前に家を与えたのか。
誰がお前に財物を与えたのか。
誰がお前に長寿を与えたのか。
私、山上がおまえを祝福したのであり、
必要な時に助けを与えた。
山の神の招き(韓国巫教)
一軍の戦争主管者たち、私はあなたに挨拶します。あなたの先祖たちよ!私はたった今、霊魂のためにたばこを吸おうと思います。聞いてください、大地の創造者、私は一息のたばこをあなたに捧げようと思います。私の先祖モモシーは、あなたに彼の心を尽くしました。
あなたが彼を祝福した燃える場、あなたが彼に許諾した短い生涯、あなたが私の先祖に与えた祝福の四倍を、私はあなたに直接求めます。私の人生で何かの問題が起きないことを願います。
西側に暮らす雷鳥の頭よ、あなたは私の先祖を強くしました。私は一息のたばこをあなたに捧げます。あなたが彼らの燃える場で、彼らに与えた一双の鹿、その糧を私はあなたに直接求めます。私が捧げるこのたばこを受けられ、私が困難に遭わないように願います。
偉大な黒鷹よ、あなたもまた私の先祖を祝福しました。私はあなたにたばこを捧げます。あなたが彼らに祝福した何かの糧を、私はあなたに直接求めます。私に心配事がないことを願います。
向かい側、東の方に暮らし、暗闇の中を散策するあなた(夜の霊魂)よ、私はあなたが吸うたばこを捧げます。あなたが私の先祖に祝福したものは何でも、私はあなたに求めます。もしあなたがこのたばこを吸えば、私は決して病弱な人にならないでしょう。
南の方に暮らす疾病の支配者よ、人間のように見える不死身の方、体の片方には死が漂っており、もう片方には生命が漂っている方よ、あなたは白昼、真昼に私の先祖を祝福しました。あなたは食べ物で彼らを祝福し、彼がどんな仕事でも決して失敗しないと言いました。あなたは彼らの家を避けていくと約束しました。
あなたは彼らが楽に食べ物を得ることができるよう、その前に動物を送りました。私はあなたにたばこを捧げます。これを吸われて、そして私がどんなことでも困ることがないように願います。
太陽、光の放浪者よ……祖母の月……聞いてください、私の先祖が祈りを捧げたすべての霊魂よ、あなた達すべてにたばこを捧げます。私の先祖は、彼を祝福したあらゆる方のために宴を開きました。私達の先祖に与えたすべての祝福を、私達に再び施してください。そうすれば私達は弱くならないでしょう。私はあなた達すべてに挨拶します。
浄化の家で、ウィネバコ族の祈願文(アメリカ先住民の宗教)
神よ、来られてコーラの実を召し上がってください。チュクよ、来られてコーラの実を召し上がってください。先祖たちよ、来られてコーラの実を召し上がってください。
エヒリムと呼ばれるクビディの人から聞いた話である。アグネス族の人が彼のサツマイモを盗まれた。それで私はその問題を調べるため、神の司祭たち、アロの所持者たち、長老たちを招集した。ゾクの司祭だった私の父がしたように、私は彼らを呼んだ。
この問題を裁くために集まった人たちの中で、偽りを行ったり、原告でも被告でも、誰であっても偽りの証言をしたりする者がいれば、神、チュク、ゾク、そして先祖たちとオホよ、彼を罰してください。
イボ族の法廷祈願文(アフリカ伝統宗教)
パルヴァティは、自分の息子のガネシャが生き返ったのを見て、喜んで彼を抱きしめ、彼を新しいマントと装飾で着飾った。彼の顔にキスをした後、彼女は言った。「おおガネシャよ、あなたは生まれたその時から大きな苦痛を背負ってきました。今やあなたは祝福され満足しました。あなたは全ての神々に先だって崇拝されるでしょう。あなたは苦痛から解放されるでしょう。今あなたの顔には朱がぬってあります。だからあなたは全ての人から、常に朱をもって崇拝されるようになるでしょう。」
「あなたを花、ビャクダンの練り粉、香気、縁起の良い食物の供物、光の波、キンマの葉、慈悲に満ちた贈り物、彷徨、そして敬礼をもって礼拝を行う者には、あらゆる成功が確実にもたらされるでしょう。」
シヴァ、ブラフマー、ヴィシュヌは声をそろえて宣言した。「ああ偉大なる神々よ、ちょうど我々が三界のいたる所において礼拝されるように、ガネシャもまたお前達全てによって礼拝されるように。彼は全ての生涯を取り除く者であり、全ての儀式の実を授ける者である。」
シヴァ・プラーナ、ルドラ・サンヒター18(ヒンドゥー教)
― み言選集 ―
最も未開な人間から高次的な人間に至るまで教えてくれるのです。それで、昔、未開な宗教はすべて物を見て敬拝しました。神様の代わりに岩に仕え、木に仕え、このようにシャーマニズムのようなものが始まりました。それで、各民族の方向がすべて異なってきたのです。そのように教えてきました。
(91-271、1977.2.27)
ムーダンやこのような女性たちがたくさんの神々に接してするのですが、それは何でしょうか。堕落した天使長とエバがそのような道を行ったのと同じように、その圏内に引きつけられ、霊の僕の位置、愛の僕の位置で、その位置を抜け出すことができず、新しい霊的世界の道を通して、地上に新しい予言をするのです。これは合っています。この地上には、霊界に接してそのようなことをする群れがいることを知らなければなりません。
(76-95、1975.2.1)
霊界は、どのような世界でしょうか。天使世界です。天使世界に当たる霊界の神々がなぜ人間世界と関係を結ぼうとするのかという問題が、今まで分かりませんでした。皆さんは、ムーダンや占術、迷信という言葉を聞いたことがあるでしょう。それは何ですか。いまだに善悪の位置を明らかにしていない立場に立っている宗教形態です。神様が宗教形態を備えていくので、サタンも宗教形態を備えて防御しようというのです。
大概、皆さんがムーダンや占術をする人を見れば、8割以上が女性です。誰と接しているのですか。エバが堕落するとき、天使の指導を受けて引っ張られ、悪の結果をもたらしたのと同じように、復帰時代の道を再現させて従っていくこの地上では、必ず霊界の天使たちが地上に来て女性たちと一つになり、すべてのことを教えるのです。天使たちが教えるとおりにするのが占術やムーダンの役事です。そのようにしながら何をするのでしょうか。堕落したエバと同じように、霊人と暮らしているのです。
(76-95、1975.2.1)
歴史の発展過程を見てみると、必ず信仰というものがいつも問題になっています。最近では迷信と言われるものも、昔は信仰生活の母体だったのです。大きな木を見れば、その木に仕えたり、あるいは雄大な山があれば、その山に仕えたりするのです。ところが、そこにも、人間たちには分かりませんが、守っている神々がいるのです。
(176-287、1988.5.13)
神様は摂理の中で、そのみ旨を成し遂げるために数多くの曲折の歴史過程を経てきたのです。歴史過程の大勢の人間たちは、文化の背景が異なり、風習と習慣が異なると同時に、地域的な環境、あるいは気候の差による環境など、様々な環境によって異なる文化背景で暮らしています。
ですから、神様は、救援摂理を完成させるために、このすべての人類の背後から、私達自身では推量できませんが、その文化背景にふさわしい摂理の道を選んでいきながら、その環境に生きている個人を収拾し、家庭を収拾し、社会、国家を収拾してきたと見ざるを得ません。
このような立場から見るとき、神様の摂理のみ旨の中で歴史が発展するとすれば、その発展する歴史過程に神様の摂理歴史を成し遂げることのできる主流、あるいは非主流の摂理路程がありそうだというのは当然の結果なのです。このように見るとき、世界には数多くの宗教があります。最初は、小さな迷信宗教のような歴史過程を経て神様を迎えようとしながら、だんだんと高次元的な宗教として連合させ、最後には一つの宗教理想を通した救援摂理の完成時代に行くようにするのです。この世の中を愛される神様であれば、そのような摂理をしてこなければならないという結論が成立するのです。(121-298、1982.10.30)
今まで歴史は、東の方に太陽が昇ってくる歴史だということを知っているので、互いがつけておいた火によって、灯火をつけ、神様を中心として、雑神を中心として……。ムーダンたちも、すべて自分の体験があるのです。宗教を信じない人とムーダンでは、どちらがよいでしょうか。信じないより、雑神であっても仕えるほうがよいのです。
(194-315、1989.10.30)
2. 様々な神々を越えて勝利した人間
― 宗教経典 ―
神々を大切にする存在は人間である。もし一つの霊(崇拝物)があまりに問題を起こせば、それを切ってすべての木を見せよう。私達は祭物を捧げ続けなければならない。そうすれば、とがめがその神々に戻っていくだろう。
アフリカの格言(アフリカ伝統宗教)
迷える人々は、人間の体をとる私を軽んずる。私の万物の偉大な主としての最高の状態を知らないで……。彼らは空しい願望を抱き、空しい行為をし、空しい知識を得、分別を失い、人を迷わせる、羅刹的、阿修羅的な本性(プラクリティ)に依存する。
バガヴァッド・ギーター9.11~ 12 (ヒンドゥー教)
「我は梵なりき」と知るものはあらゆるものに成ることができ、いかなる神も彼の転変を妨げる力はもたないのである。彼は神々そのものの自我にさえ成っているのだから。もし梵以外のある神を崇信して「この神と我とは別のものである」などと思っている者があれば、それは真実のことを知らないのである。
かかる人間は神々にとって家畜のようなもので、ちょうど多くの家畜が一人の人間を養っているように、一人一人が多くの神々を養っているのである。家畜の一頭が奪(と)られても面白くないのだから、まして多くの家畜が奪られるにおいてはなおさらだ。だから、梵を人間どもが知るということは神々にとって好ましいことではないのである。
ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド1.4.10(ヒンドゥー教)
さらには、神々もブラフマンを実現することによって彼らを圧倒しようと努めるヨーガ行者をねたむ。ゆえに、彼らが彼が放心するということを知れば、あらゆる方法で彼を堕落させようと務める。(注13)
シュリーマッド・バーガヴァタム11.20(ヒンドゥー教)
神道とは何か。本当の宗教は、世俗的な人たちが空虚な供え物を捧げる神社にあるものではなく、善行と清い心にある。
加藤健司(神道)
聖なる川で沐浴するあなたの兄弟たちよ、見よ。
小川で沐浴するあなたの僧侶たちよ、見よ。
あなた達の卑しい考えを放棄せよ、
放棄せよ。
他の人の妻に対するみだらな心を捨てよ。
他の人の富に対する貪欲を放棄せよ。
もしこのようなものを放棄しないまま
川に身を浸せば
乾ききった川で喉を洗うのと違わない。
バサヴァンナヴァチャナ642 (ヒンドウ一教)
真実のみ勝つ。虚妄はしからず。真実によりて天神の路も作られたり。この路を辿りて、聖者達はその願望を成就して、真実在なる至上の宝蔵のある処(至上界)へと登りゆくなり。
ムンダカ・ウパニシャッド3.1.6(ヒンドゥー教)
― み言選集 ―
ユダヤ民族の歴史を見れば、勝利したとして「イスラエル」という名前がヤコブ時代に初めて出てきます。そのような時代は、天使長級と同じです。それは信じることができず、行ったり来たりするのです。
ですから、その前に出てきた様々な宗教、ヒンドゥー教や仏教、ゾロアスター教、太陽神を崇拝するギリシャ宗教、そのようなものが宗教的な名前をもって出てきたのです。それが天使長圏の精神的基盤を通して出てきました。
(220-52、1991.10,14)
宗教運動は、あの未開な所から迫害を受けてきました。それでは、このような役事をさせる方は誰でしょうか。神様です。ここで分かれるのです。
僕の僕から段階的に分かれてきました。そうすると、僕の僕の中では僕が主人になるのです。主人が僕をこき使うのではなく、僕が主人をこき使うようになります。このような天の国の僕の主人になろうとすれば、サタン世界をすべて合わせた僕の迫害を受けて勝利しなければなりません。
(124-69、1983.1.23)
ムーダンの中にも男性のムーダンがいます。このような人たちは、起源は大概よくありません。性関係に対して乱れ、道義的な道を離れてきました。これが宗教圏と連結されます。これが道義的な出発を中心として、人間はこのように生きなければならない、天を中心として人間は正しい道を行く、家庭生活の伝統を正さなければならないと言うのです。自分の思いどおりに生き、愛の関係を自分勝手に持つ人たちは悪いと言います。この愛の道理を立てていくためのものが人間世界に宗教として現れたのです。
(295-174、1998.8.28)
5) 仏教
文鮮明先生は、自身の故郷である韓国の文化に深い影響を与えた仏教に対して、最高の敬意を表している。文先生は、堕落の泥沼から真の本性の自我を回復しようとする世界宗教の教えから、仏教の教え、特に自己否定め実践が最も優れていると考える。文先生は、「零点」、すなわち空の状態に到達するのが真の悟りであると解明された。
しかし、文先生の見解によれば、仏教は根本的に二つの側面、すなわち人格神としての神様に対する知識と真の愛の理想に対する十分な理解が欠如しているという。それでも、釈迦に教えた方も神様であり、東洋に光を与えるために仏教を立てた方も神様だった。すべての宗教者たちは、仏教を通して多くのことを学べるが、特に誤った自我を克服し、真の自我を発見するための自己否定の方法に対して、そうであるといえる。
1. 仏教の価値
― 宗教経典 ―
もろもろの道のうちでは(八つの部分よりなる正しい道)が最もすぐれている。もろもろの真理のうちでは〈四つの句〉(=四諦)が最もすぐれている。もろもろの徳のうちでは〈情欲を離れること〉が最もすぐれている。人々のうちでは〈眼ある人〉(=ブッダ)が最もすぐれている。
これこそ道である。(真理)を見るはたらきを清めるためには、この他に道は無い。汝らはこの道を実践せよ。これこそ悪魔を迷わして(打ちひしぐ)ものである。汝らがこの道を行くならば、苦しみをなくすことができるであろう。(棘が肉に刺さったので)矢を抜いて癒す方法を知って、わたくしは汝らにこの道を説いたのだ。
法句経273 ~ 275(仏教)
螺髪を結っているからバラモンなのではない。氏姓によってバラモンなのでもない。生れによってバラモンなのでもない。真実と理法とをまもる人は、安楽である。かれこそ(真の)バラモンなのである。
われは、(バラモン女の)胎から生れ(バラモンの)母から生れた人をバラモンと呼ぶのではない。かれは「〈きみよ〉といって呼びかける者」といわれる。かれは何か所有物の思いにとらわれている。無一物であって執著のない人、かれをわれは〈バラモン〉と呼ぶ。
すでにこの世において自分の苦しみの滅びたことを知り、重荷をおろし、とらわれの無い人、かれをわれは〈バラモン〉と呼ぶ。
強くあるいは弱い生きものに対して暴力を加えることなく、殺さずまた殺させることのない人、かれをわれは〈バラモン〉と呼ぶ。
敵意ある者どもの間にあって敵意なく、暴力を用いる者どもの間にあって心おだやかに、執著する者どもの間にあって執著しない人、かれをわれは〈バラモン〉と呼ぶ。
芥子粒が錐の尖端から落ちたように、愛着と憎悪と高ぶりと隠し立てとが脱落した人、かれをわれは〈バラモン〉と呼ぶ
法句経393、396、402、405 ~ 407 (仏教)
いとも麗しき国王の車も朽ちてしまう。身体もまた老いに近つく。しかし善い立派な人々の徳は老いることがない。善い立派な人々は互いのことわりを説き聞かせる。
法句経151 (仏教)
比丘よ、縁起とは何ぞや。比丘等よ、生に縁りて老死あり。如来{世に}出づるも、若しくは{世に}出でざるも、このことは定まり、法として定まり、法として確立し、即ち相依性なり。
阿含経相応部ii.25 (仏教)
世尊よ、智恵の完成は光輝を与えるものです。世尊よ、私は知恵の完成を礼拝いたします。世尊よ、知恵の完成は礼拝されるべきであります。世尊よ、知恵の完成は汚されておりません。世尊よ、知恵の完成は、世界のいかなるものによっても汚されることがありません。世尊よ、知恵の完成は光明を与えるものです。世尊よ、知恵の完成は、三界のすべての闇黒を除くものであります。
世尊よ、知恵の完成は、煩悩と悪しき見解のすべての暗闇を除くものです。世尊よ、知恵の完成は依拠されるべきものです。世尊よ、知恵の完成は最高のはたらきをなすものであります。世尊よ、知恵の完成は、さとりの助けとなる諸要素に安楽を添えるものであります。世尊よ、知恵の完成は、盲目の友情に光を与えるものであります。世尊よ、知恵の完成は、すべてのおそれと悩みを除く光を与えるものです。
世尊よ、知恵の完成は、自分の特徴をもたないことによって、菩薩大士たちの母であります。世尊よ、知恵の完成は、すべての仏陀の教えという宝を与えるものであるから、(仏陀の)十力をもたらすものであります。世尊よ、知恵の完成は、粉砕されないものです。世尊よ、知恵の完成は、四種の自信をもたらすものであるから、孤独な友情たちを保護するものであります。世尊よ、知恵の完成は、因縁より生ずるものでないことによって、輪廻の退治者であります。
八千頌よりなる般若波羅蜜経7.1(仏教)
― み言選集 ―
仏教文化圏を形成した仏教は、古代文明圏内でその環境圏内の主体と対象の関係を中心としてインドを収拾し、新しい理想を提示するための神様のみ旨の中から出てきたのです。
(144-182、1986.4.24)
インドで発生した仏教を見ても、その理念は世界的な理念です。世界的な観点をもって現実的な生活舞台を越えて超自然的な世界の理念まで内包した宗教であってこそ、終わりの日まで残っていることができるのです。
(9-279、1960.6.12)
仏教を中心として東洋の宗教があるのですが、仏教が摂理に最も近いのです。儒教もありますが、儒教は主流ではありません。神様に対する観がはっきりしていません。そして、仏教にも霊的世界の体験があるにはありますが、仏教では一切法の論理を語ります。ですから、人格的な神様を知りません。人格的な神様を知らなければならないのです。このように神様は、ユダヤ教を中心とする東洋の宗教を中心として、アジアを統一できるようすべて準備しておいたのです。
(208-312、1990.11.21)
仏教は、神様がいることは教えてくれますが、実践の神様よりも法の神様をより強調しています。人格的な神様に対しては……。
(53-297、1972.3.4)
釈迦牟尼は、すべての道理を法に帰一させました。法の対象は、人間の対象的関係である環境であって、人間ではありません。愛を標準としたものではなく、法を標準としたものです。それで法文(注17)と言うのです。ですから、「釈迦」という言葉は自覚を意味します。自覚をして何をするのですか。自覚で終わるのですか。ですから、入山修道をして孤独な生活をしますが、愛の理想世界に対してはやはりあいまいだというのです。
(50-116、1971.11.6)
2. 仏者の覚醒
― 宗教経典 ―
バラモンよ。流れを断て。勇敢であれ。諸の欲望を去れ。諸の現象の消滅を知って、作られざるもの(=ニルヴァーナ)を知る者であれ。
法句経383 (仏教)
あらゆる存在は、すべて自分の心次第であることが分かる。なぜ自己の心の中で即座に、変わらない清浄な自己の本性を見極めないのか。『菩薩戒経』もいっている、「私はもともと自己の本性が清浄なのである」と。もし自己の本心を認識し、自己本来の真性をはっきりと見届けるならば、誰でも仏が得られた無上の悟りを成就する。
六祖壇経2(仏教)
諸々の仏・如来たちは、存在するものすべてを身体とするものであり、すべての生ける者どもの心想の中に入って来るからである。それ故に、あなた達が心に仏を観想するとき、この心がそのまま仏の三十二の大相であり、八十の小相なのだ。この心が仏を作り、この心がそのまま仏なのだ。智慧海のごときもろもろの仏たちは心想から生ずる。それ故に、一心に思念を集中し、心してかの仏・如来・尊敬さるべき人・正しく眼覚めた人を観想するのだ。
観無量寿経17(仏教)
天と地において、ただ私だけが尊貴な者である。
阿含経長部2.15 (仏教)
― み言選集 ―
私達が祈祷する目的、あるいは仏教徒たちが座禅を通して無我の境地を求めていく目的とは何でしょうか。それは心の核心となり得る要素を悟らせようというのです。そのような一つの基準を立て、見て、聞いて、感じる心の中心を天倫の前に立てたならば、神様に敬拝を捧げ、ハレルヤの栄光をお返しできるようになるのです。
(2-192 ~ 193、1957.5.19)
仏教には、自性を清めなければならないという言葉があります。「天上天下唯我独尊」と釈迦牟尼が言いましたが、それは何かと言えば、私が私に尋ねれば私に神様が入っていることが分かる、ということです。そのようになれば、できないことがないというのです。
ですから、自分の心を清めなければなりません。心を清めなければならないというのです。心が先生よりもいいのです。心は永遠の私の主人です。ですからよこしまな心をもつなというのです。公理に属した公的立場に立った心をもたなければなりません。
(133-179 ~ 180、1984.7.10)
釈迦牟尼でも、彼がその神秘の境地、「天上天下唯我独尊」と言ったことは、正常な一般人の考えの中でそのような境地に入っていったのではありません。心と体が共鳴できるある境地に投入され、そこでぶつかる自我を覚醒させるとき、天下のすべては、「いやあ、私が一番だ!」という境地に到達するようになります。それは新しい境地の認識を通して起きるのです。
(141-235、1986.2.26)
神様はどこに行っていなければならないのですか。自分を中心とせず、完全に全体のためのゼロ、「大きなゼロ」になる所が神様のいらっしゃる場所です。神様は、「大きなゼロ」の位置に立つのです。そのような神様と出会おうとすれば、皆さんがゼロポイントよりもっと低くならなければなりません。そして、皆さんは肉となってその「大きなゼロ」の位置を保護できなければなりません。
「大きなゼロ」の位置が心の位置であれば、それを囲んでいるのは肉の位置なので、そのゼロポイントを保護しなければならないのです。皆さんはそのようになっていますか。それで、神様的なものを求めるために、仏教では座禅というものを通して、良心とは何かと、心の底を訪ねていこうとするのです。
(230-134、1992.5.1)
3. 仏教の知惠
― 宗教経典 ―
スブーティよ、「如来は法を教え示した」と、このように説く者があるとすれば、かれは誤りを説くことになるのだ。スブーティよ、かれは、真実でないものに執着して、私を謗(そし)るものだ。それはなぜかというと、スブーティよ、〈法の教示〉〈法の教示〉というけれども、法の教示として認められるようなことがらはなにも存在しないからだ。
金剛般若経21(仏教)
もろもろの如来によって証得されたところの、言語の分別をはなれ、文字と二つの境とをはなれた、自内証の行境なるものが、わたくしによって証得されたものであり、不滅不増なるものであることである……。
かくの如くにわたくしともろもろの如来とによって証得された、かの法性と法住性と法決定性と如性と実性と真性とは住する。故にマハーマテイよ、如来が現等覚した夜より般涅槃する夜にいたるまで、その間に如来は一字も宣説せず、また宣説しないであろう。
楊伽経61(仏教)
― み言選集 ―
東洋に行けば仏像があるのですが、その仏像は話をしますか。仏像を見るとき、その口では話もせず、悪口を言わず、称賛もせず、考えてばかりいます。それが偉大なのです。見つめる所も一箇所だけを見るのであって、あちこち見ません。
見ようとすれば、重要な一箇所だけを見ればよいのであって、つまらない雑多なものを見て何をするのですか。究極のものを一つ見ればよいのです。ですから、複雑な世界を収拾する最高の王とは何でしょうか。沈黙だというのです。
(228-77、1992.3.15)
6) 儒教
儒教の倫理は、東アジア文化の核心である。今日、アジアの急速な西欧化により多くの人たちが儒教的価値と慣例を軽視している。それにもかかわらず、数千年間儒教の道徳哲学は家庭生活を導いてきたのであり、慈悲、正義、礼儀などで国王の行動半径を規定してきた。文鮮明先生は、儒教の規範的教えを高く評価する。先生は、儒教の教えが「天の法度と最も近い」と語る。先生は、父母と子女、王と臣下、夫と妻、兄弟間、友人関係を規定した儒教の五倫は、すべての人間のための卓越した倫理であると信じている。
文鮮明先生は、神様に鼓舞されて儒教が生まれたと主張する。先生は、儒教の天の概念がたとえあいまいだとしても、神様の概念を表していると語る。先生が説明する儒教の弱点は、神様に対するあいまいな理解であり、その結果、天と地上の日常生活を適切に連結できないという点である。そして先生は、儒教の長所を有効に利用できる新しい解法を具体的に提示する。神様と人間の関係は、父母と子女の関係であり、その倫理は儒教の「孝」だというのである。言い換えれば、私達は、神様を父母として侍らなければならず、儒教の倫理が侍ることにおいて必要な、最も卓越した解法を提示しているのである。
1. 儒教の倫理
― 宗教経典 ―
大きいことよ、聖人の道は。(天地に)満ち渡って万物を生育し、高大さは天をも極めてその外にでるものがない。満ち足りて余りあるばかり大きいことよ、大綱の礼は三百条、細目の礼は三千条。至徳の人の出現を待ってはじめて行なわれる。だから、至徳な人でなければ、上の広大な道は成就することができないというのである。
中庸27(儒教)
およそ君子たるものは、ひたすら正しい理法にかなった行為をして、あとはすべて天命に任せて待つばかりである。
孟子VII.B.33 (儒教)
天子から庶民に至るまで、一切みな身を修めることを本とする。その本(である身)が乱れて、末が治まるなどということはない。その厚くすべきもの(家)を薄くして、薄くすべきもの(国や天下)を厚くすることはあり得ないのである。
大学(儒教)
あわれみの心は仁の芽生えであり、悪を恥じ、憎む心は義の芽生えであり、譲りあう心は礼の芽生えであり、善し悪しを見分ける心は智の芽生えである。人間にこの四つの芽生えがあるのは、ちょうど四本の手足と同じように、生まれながらに具わっているものなのだ。それなのに、自分にはとても……
そんな立派なことはできそうにないとあきらめるのは、自分を見くびるというものである。またうちの殿様はとても仁政などとは思いもよらぬと勧めようとしないのは、君主を見くびった失礼な話である。だから人間たるもの、生れるときから自分に具わっているこの四つの芽生えを育てあげて、立派なものにしたいものだと自ら覚りさえすれば、ちょうど火が燃えつき、泉が湧きだすように始めはごく小さいが、やがていくらでも大きくなるものだ。
このように育てて大きくしていけば、遂には天下をも安らかに治めるほどにもなるものだが、もしも育てて大きくしていかなければ、手近な親孝行ひとつさえも満足にはできはすまい。
孟子I1.A.6 (儒教)
君子は根本のことに努力する、根本が定まってはじめて〔進むべき〕道もはっきりする。孝と悌ということこそ、仁徳の根本であろう。
論語1.2 (儒教)
さて、忠孝はすべての徳の根であり、そこからすべての道徳的教えが派生する茎である。どの髪の毛も皮膚の一かけらも、我々の体は両親からいただいたものだから、それを敢えて痛めたり、傷つけたりしてはならない。これが忠孝のはじめである。
我々は、将来に自分の名前を有名にするために、子どもとしての道を踏み行うことによって、自分自身の人格を確立するとき、それによって我々の両親を賞賛することになる。これが忠孝の終わりである。これは両親の奉仕で始まる。それは、為政者の奉仕へと発展する。そして、良い性格の確
立によって完了する。
孝経(儒教)
人の道義とは何であろうか? それは、父の慈、子の孝、兄の良、弟の弟、夫の義、妻の聴、長の恵、幼の順、君の仁、臣の忠である。これら十の道義というのである。
礼記7.2.19 (儒教)
仁、義、礼、智……ただこの四つがあるだけであり、それ以外に他のものはない。
朱熹(儒教)
― み言選集 ―
儒教では、孔子の教えに従うのですが、孔子のその教えを中心とする礼法を見ると、天法に近いものがたくさんあります。
(31-292、1970.6.4)
儒教は人間の道理を教えました。儒教の中心思想は何ですか。元亨利貞は天道之常であり、仁義礼智は人性之綱であると言いました。(注23)元亨利貞は天道之常とは、ここには人格的な愛がありません。法を語ったのです。仁義礼智は人性之綱ですが、これは三綱五倫を意味します。
(296-272、1998.11.10)
道を歩いていても、東洋思想は、目上の人が前に立たなければなりません。なぜですか。先に生まれたからです。そのように環境を合わせようとするのです。あとから生まれた人は後ろに立つということです。高いものは高いものとして、低ければ低いものとして、前のものは前のものとして、後ろのものは後ろのものとして、上のものは上のものとして、前後を合わせなければなりません。そのような観は、変わるものではありません。それは永遠に不変なのです。
(168-252、1987.9.27)
三綱五倫(注24)の五倫は、父子有親、君臣有義、夫婦有別、長幼有序、朋友有信で、五大条件です。三綱は忠、孝、烈を意味します。これは人間が行くべき内容です。この内容を見れば、天のみ旨の前に外的内容を中心として、サタンを防御できる環境的与件を成しておいたのが天使長的み旨の宣布だったことを知らなければなりません。
(295-179、1998.8.28)
儒教では三綱五倫を教えています。「孝子」とは何ですか。愛を中心として命懸けで父母に侍る息子のことをいうのではないですか。では「忠臣」とは何ですか。愛を基台として、天の代わりに君主のために生命を捧げて犠牲になりながら行く人を「愛国者」と言います。
(143-153、1986.3.17)
歴史時代に私達の韓国では、儒教思想によって孝子の道理を教育しました。父母が亡くなれば3年の喪に服さなければならないとして、山に行って暮らしたのです。それは、本当にそのようにしたいと思ってそのようにするのです。
韓国民族が世界に誇り得るものとは何ですか。父母のために自分の一生をすべて埋葬してしまい、権威だろうと何だろうと、出世して右大臣、左大臣になったとしても、その道を行かなければならないのです。すべてを捨てて孝の道を求めていくようにさせたのは、天が韓国の民に儒教を立てて教育するための良い伝統だったからです。そこには異議がありません。
(181-217、1988.10.3)
神様と私と、何の関係を結ぶのかというのです。父子の関係が良いことは良いのです。それは何ですか。縦的関係です。儒教の教えは正しいのです。父子の関係は、説明や力で否定できる内容では絶対にありません。自分の父と知っているのに、「それはあなたの父ではない」と言ったからといって、それで説得できますか。父の息子として生まれた私自身であることを間違いなく知るようになるとき、それを否定するものは何もありません。
(198-298、1990.2.5)
個人的には孝子として、国家的、民族的には忠臣の気概をもって天に対さなければなりません。東洋の三綱五倫のようなものには、すべて一理があります。それを教えてあげるためのものです。天に対する忠孝も同じです。同じことです。父母に孝行できない者が、天の前に孝子にはなれません。国に対する忠臣の志操をもてない者が、天の前に忠臣にはなれません。
(7-66、1959.7.12)
2. 儒教の天の概念
― 宗教経典 ―
天が助ける相手は天道に従順なる者であり、人が助ける相手は信実な者である。上九の人は信実の徳を履み行ない、天道に従順ならんことを思い、さらにまた下位の賢人を尊ぼうと心がける。さればこそ、「天よ年これを祐く、吉にして利ろしからざるなし」というのである。
易経、周易繋辞上伝1.12.1 (儒教)
楽正子は〔御殿をさがると〕孟子にお目にかかって言いわけをしていった。「私が殿様におすすめし、殿様もここへきて先生にお会いになるばかりでしたのに、お気に入りの近臣減倉と申すものが邪魔をしたので、にわかにお取りやめになったのです。まことに残念でなりません。」
すると、孟子はいわれた。「いやいや、克よ。〔お前は魯の殿のお出ましもお取りやめも、すべて人間わざとのみ考えているが、〕入が出かけるも、取りやめるのも、みなそうさせるものがあるので、人間の力の及ぶところではない。〔そうさせる目に見えない偉大な力、すなわち天命なるものが働いているので〕わしが魯の殿に遭えないは、天命なのじゃ。減氏の子倅などの力で、どうして遭わせたり遭わせなかったり自由にできようぞ。」
孟子I.B.16(儒教)
君子たるものは、事業のもといをはじめて、その手がかりをのこして、後世の子孫が承けつがれるようにしてやれば、それで宜しいのです。しかしながら、それが成功するかどうかは天命でありまして、人間の力ではいかんともしがたいものです。
孟子I.B.14(儒教)
先生が匡の土地で危険にあわれたときにいわれた、「文王はもはやなくなられたが、その文化はここに(このわが身に)伝わっているぞ。天がこの文化を滅ぼそうとするなら、後代のわが身はこの文化にたずさわれないはずだ。天がこの文化を滅ぼさないからには、匡の連中ごとき、わが身を、どうしようぞ。」
論語9.5(儒教)91
天の怒りを敬み戯れはしゃぐことなかれ。天意の變(かわ)ることを畏れ気ままに振舞ふことなかれ。天つ神明らかにして汝とともに出でまさむ天つ神明らかにして汝とともにゆきまさむ
詩経、254 板(儒教)
― み言選集 ―
礼式において人類を代表できる内容を教えてくれたのが孔子です。孔子は韓国人です。李相軒氏の『霊界の実相と地上生活』を見れば、孔子が笠をかぶり、韓国のトポ(韓国の男子が上着の上に羽織る袖が広くて長い礼服)を着て、テニム(韓国の男性のズボンの裾を締めるひも)を結んでいるのです。そのような事実を見るとき、孔子は韓国人です。ですから、東方の国を相当に追慕したのです。
そのような方を通して、外的な人間の道義的な面のすべてのものを教えてくれました。孔子の伝統的思想とは何かといえば、「元亨利貞は天道之常であり、仁義礼智は人性之綱」と言いました。総評をしました。しかし人格的な神様が分かりませんでした。人格的といえば、知情意を備えていることを意味します。愛を中心として知識を備えて志を立てることのできる、知情意を中心とした意味だというのは、変わることのない知識であり、変わることのない情でなければならなかったのですが、それは絶対的な神様でなくては、そのようになれないのです。そのようなものが分からなかったので、人格的な神様が分かりません。理知的な神様は分かりましたが、人格的な神様が分かりませんでした。これは天使長型です。それで、道義的な面で世界人類に影響を及ぼしたのです。アジア圏です。アジア圏が根源なので、アジア圏に影響を及ぼしたという事実は驚くべきことです。
(295-174 ~ 175、1998.8.28)
儒教を見れば、神様に対しては象徴的です。神様の人格に対して具体的な内容をもっていません。悪を行えば罰を受け、善を行えば福を受けると、行動的な、倫理的な面で教えてくれています。
(53-231、1972.2.28)
孔子は、「為善者は天報之以福であり、為不善者は天報之以禍である」と言ったのですが、これは漠然としています。天とは何かというとき、漠然としているというのです。それで、宗教のようでもあり、そうでないようでもあるのです。(注26)
(38-260、1971.1.8)
韓国の法に、目上の人から何かをもらうときは両手でもらうようになっています。それは水平になってこそ、愛を受けることができるという意昧です。受けるのは垂直を通して90 度で受けなければならないのです。その道理を象徴するのです。人心は天心と言うではないですか。私達のすべての規則は、良心の道理に従って相対的に生まれ出てきたものなので、水平にならなければなりません。
(171-237、1988.1.1)
儒教思想は、元亨利貞は天道之常です。天道之常とは何ですか。天のみ旨が行く道です。仁義礼智は人性之綱と言いますが、仁と義を行うのは人が行くべき道です。この二つが合わなければなりません。天を抜かしても駄目であり、仁義礼智を抜かしても駄目です。それを連結させることができなかったというのです。
ですから、天が漠然とした天になったのであり、仁義礼智が漠然としているのです。これをどのように連結させるのかを知りません。それで、この二つの世界の形態は、歴史においてその実体的基準を形成することができず、流れてしまうのです。「統一原理」を中心とするものが二性性相として出てきて、どのように私と関係を結び、社会のどのような形態を中心として実体圏を残しているのかというのです。
再創造の実体圏です。私達人間が願う理想とは何ですか。知識でもなく、権力でもなく、お金でもありません。愛の実績を願うのです。したがって、師弟愛、親子愛、すべて愛ではないですか。君臣の愛……。天にも息子が必要です。天子の愛は、独りではできないようになっています。
(185-272、1989.1.17)
7) ユダヤ教
神様の摂理の中で最初の主要宗教として、ユダヤ教は世界の宗教の中で独特な立場を確保している。はるか昔、偶像崇拝の時代、神様はイスラエルの民を呼ばれ、彼らと永遠の約束を結んだ。今日、多くのユダヤ人たちは、透徹した信仰と神様の恩寵と選民など、特別な運命に対する畏れの中、契約を守ることに情熱的である。
しかし、このような特色をもったユダヤ教は、普遍的使命をもっているという確信によって常にバランスを維持している。預言者たちは、ユダヤ人たちが選ばれたのは彼ら自身だけのためではなく、神様の真理の輝きをすべての国に照らすためであると宣言した。ユダヤの歴史に普遍主義と民族中心主義の間の緊張が継続して高まっている中、文鮮明先生は一貫してユダヤは地球的視角をもたなければならないと主張する。
ユダヤ人たちは、ほかのいかなる民族より多くの苦難を経てきた。600 万のユダヤ人が虐殺されたホロコーストに見るように、2000 年間国を失ってさまよい、抑圧され、迫害を受けてきた。彼らは苦難の渦中でも、どのように神様との関係を継続して結んできたのだろうか。神様の救援歴史において、ユダヤ人の苦難がどのような意味をもつのだろうか。文鮮明先生は、この質問に対して様々な回答をしている。それは,ユダヤ人を強くしようとされる神様の訓練過程であり、ユダヤ人を一つにまとめてより神様に近づけようとすることであり、この世の中を神様に導ける指導者にするためである。
キリスト教徒たちは、ユダヤ教がイエスを救世主として認めないため、彼らとの和解に困難を経験してきた。それでも、イエスとユダヤ人の弟子の脈絡から見るとき、キリスト教の反ユダヤ主義は弁明の余地がない。ユダヤ人たちがイエスを受け入れないことによって自分たちの道を失うようになったと考えながらも、ユダヤの兄弟の世話をやめなかった使徒パウロの苦悩が文鮮明先生の教えにも表れている。しかし、パウロと異なり、文鮮明先生は、ユダヤ人の改宗を強調しない。先生は、ユダヤ教、キリスト教、イスラームが独自性を維持しながら互いに赦し、愛しながら、世界平和具現のための宗教間の連合を形成するとき、初めて神様の現在的意志を実現できると教える。
文鮮明先生は、現在のイスラエル国家をユダヤ人の特別な故郷として認めるが、ただほかの人々の苦痛の代価であってはならないと言われる。先生は、イスラエルの生存と繁栄は隣人アラブ――イスラエルの聖書的根拠までさかのぼり、歴史的根に対する葛藤解消――との純粋な平和と和解を通してこそ、可能だと教える。先生は、復帰歴史観の立場により、ユダヤ人とアラブ人の間で互いに愛し、自己の利益を越えることを強く要請している。
1. 選民
― 宗教経典 ―
イザヤ書60 章21 節に出ているように、この「あなたの民は皆、主に従う者となり、とこしえに地を継ぎ、私の植えた若木、私の手の業として、輝きに包まれる」。すべてのイスラエル民族がこれから訪れる世に、彼らの立場を占有するだろう。
ミシュナ、サンヘドリン10.1 (ユダヤ教)
今、もし私の声に聞き従い、私の契約を守るならば、あなた達はすべての民の間にあって、私の宝となる。世界はすべて私のものである。あなた達は、私にとって、祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。
出エジプト記19.5 ~ 6(キリスト教)
イスラエルの子らよ、なんじらに施こした、わしの恩典を心に銘じ、私との約束を履行せよ、私はなんじらとの約束を全うするであろう。私をのみ恐れよ。
クルアーン2.40(イスラーム)
聖なる方がイスラエルを貴いものとしようと言われた。そうして彼らに多くの法と戒めを下された。
ミシュナ、マッコート3.16 (ユダヤ教)
あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなた達を選ばれたのは、あなた達が他のどの民よりも数が多かったからではない。あなた達は他のどの民よりも貧弱であった。
ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなた達の先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなた達を導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。あなたは知らねばならない。あなたの神、主が神であり、信頼すべき神であることを。この方は、御自分を愛し、そめ戒めを守る者には千代にわたって契約を守り、慈しみを注がれるが……。
あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。
人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった。あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい。あなたの神、主の戒めを守り、主の道を歩み、彼を畏れなさい。
申命記7.6 ~ 9、8.2 ~ 6(キリスト教)
主は母の胎にある私を呼び、母の腹にある私の名を呼ばれた。私の口を鋭い剣として御手の陰に置き、私を尖らせた矢として矢筒の中に隠して、私に言われた。あなたは私の僕、イスラエル、あなたによって私の輝きは現れる、と。
こう言われる。私はあなたを僕として、ヤコブの諸部族を立ち上がらせ、イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。だがそれにもまして、私はあなたを国々の光とし、私の救いを地の果てまで、もたらす者とする。
イザヤ書49.1 ~ 3、6 (キリスト教)
― み言選集 ―
歴史上に勝利したという立場に立ち、「私達の民族は勝利した民族だ」という内容を提唱した宗教はありません。ユダヤ教以外にはないのです。ヤコブの時代に来て、天使と闘って勝ったのです。天使と闘ったのです。人間世界と闘ったのではありません。霊的世界です。見えない霊的世界の実体存在である天使と闘って勝ったというのです。地上世界の人と闘って勝ったのではありません。霊的世界と闘って勝利した一つの代表的な民族として地上に登場し始めたのがイスラエルの国だったのです。ユダヤ教とユダヤの国を中心に、アダムから22 代を経たのちにイスラエルの国の歴史が始まったのです。
そのようにしてイスラエルという名前を中心に今まできた、神様の選択を受けた民族だというのです。選民思想が透徹した民族として、2000 年間さまよいながらも自分たちのその伝統的歴史を喪失しませんでした。どの環境、どこに行っても、神様に選ばれた民族だということを一辺倒で主張するのは、歴史時代に、いかなる民族からも見いだせません。
(149-85、1986.11.17)
神様がこの地上に、万民がイスラエル民族を称賛するようにと立てたのです。万民がイスラエルを見習い、イスラエルを神様と同じように称賛してくれることを願いました。ところが、イスラエル民族は、そのようこな伝統の歴史を立てられませんでした。神様の愛を通して、チャンピオンの立場であるイスラエル圏はヤコブから始まりましたが、そのヤコブの代を受け継いだイスラエルの民たちは、そのようにできなかったのです。
彼らは、神様のみ旨と神様の摂理を中心として神様を愛し、神様のみ旨を愛するにおいて、世界のいかなる民族よりも優れていなけれはなりません。ところが、イスラエル民族はどのようになりましたか。自分たちが選民だという選民圏は高めましたが、神様のみ旨のための使命と召命圏を忘却したのです。
彼らを選民として立てたのは、神様の代わりに世界を愛し、神様の代わりに愛の中心になるようにするためでした。それにもかかわらず、彼らはその使命を果たせませんでした。その召命圏の位置に高く上がっていき、それを中心に万民をすべて愛さなければならない民族が、愛さずに愛されようとしたというのです。
(169-265 ~ 266、1987.11.1)
それでは、選び立てられたイスラエルの国とイスラエル教団が行かなければならない道とは何でしょうか。それは宇宙的なものです。使命が宇宙的だということです。イスラエルという特定の民族が選ばれたとしても、その特定の民族のために行かなければならないのではなく、人類のために行かなければならない道だというのです。
(168-304、1987.10.1)
2. ユダヤ人の苦難
― 宗教経典 ―
我らが敵から敗走するままになさったので、我らを憎む者は略奪をほしいままにしたのです。あなたは我らを食い尽くされる羊として、国々の中に散らされました。御自分の民を、僅かの値で売り渡し、その価を高くしようともなさいませんでした。我らを隣の国々の嘲りの的とし、周囲の民が嘲笑い、そしるにまかせ、我らを国々の嘲りの歌とし、多くの民が頭を振って侮るにまかせられました。
辱めは絶えることなく私の前にあり、私の顔は恥に覆われています。嘲る声、ののしる声がします。報復しようとする敵がいます。これらのことがすべてふりかかってもなお、我らは決してあなたを忘れることなく、あなたとの契約をむなしいものとせず、我らの心はあなたを裏切らず、あなたの道をそれて歩もうとはしませんでした。あなたはそれでも我らを打ちのめし、山犬の住みかに捨て、死の陰で覆ってしまわれました。このような我らが、我らの神の御名を忘れ去り、異教の神に向かって、手を広げるようなことがあれば、神はなお、それを探り出されます。心に隠していることを神は必ず知られます。
詩篇44.11 ~ 22(キリスト教)
イスラエルの民をオリーブの木に例えることができる。オリーブが強い圧力を受けるとき、あぶらを吹き出すように、イスラエルの民も苦痛を通してこそ、義人の姿に戻っていく。
タルムード、ムナホート53b (ユダヤ教)
「私は恋に病んでいますから」(雅歌2 章5 節)。イスラエルの人々が聖なる主、神の前で言った。「万宇宙の主人よ、私に与えられたすべての疾病が、私をしてあなたにより愛されるようにしてくれました」。また他の聖句でイスラエルの人々は聖なる主、神の前でこのように言った。「万宇宙の主人よ、私にこの国が与えているすべての苦難の理由も、私があなたを愛するからです」。
雅歌ラッバー2.5(ユダヤ教)
私達は羊の群れ。道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。その私達の罪をすべて、主は彼に負わせられた。
イザヤ書53.6(キリスト教)
― み言選集 ―
イスラエルの宗教を中心として見るとき、世界には数多くの宗教があります。仏教が現れており、儒教が現れており、ヒンドゥー教が現れているのです。このように宗教が多いといっても、これらの宗教が戦うのではなく、これらを収拾して一つの世界に行かなければならない、全世界の人類がみな分かれて戦うのではなく、一つにしなければならない、宗教と宗教が戦うのではなく、一つにしなければならないという思想がなければなりません。
宗教を一つにできる思想があると同時に、すべてのイスラエルは民族を糾合して一つにし、引っ張っていける思想がなければならないのです。神様の創造理想実現は世界的であり、人類的であるために、その創造理想に一致できるこのような思想的内容をイスラエル教団とイスラエル民族がもたなければならなかったのです。
(168-304、1987.10.1)
世界歴史路程において一番根気よく、長い歴史をもった単一民族(注28)として滅びずにもちこたえてきた国が何カ国になりますか。総合して見るとき、ユダヤの国がそうです。2000 年の開国がなく、数多くの国の馬のひづめに踏まれて血を流し、虐殺に遭い、ありとあらゆる虐待をうんざりするほど受けましたが、いまだにその伝統と威信と姿勢を喪失せずに堂々と残っている、世界の流浪の孤客となっても自分の主導的な民族性をもったまま残っている民族が、ユダヤ民族です。
そのユダヤ民族がそのように苦労して何をしますか。迫害が加重されれば加重されるほど、その刺激によって、この世界を支配することのできるお金が必要だということ、内的な知識が必要だということを、いつも考えたのです。
そのためユダヤ民族は乞食の生活をしながらも、息子を勉強させたのです。そのことをしたのです。お金をもうけなければならなかったのです。「徹天之恨」を解くために、「私が頼る力の杖は、お金であり知識である」と考えたので、そこにすべてのものを集結できる立場に、行くまいとしても行かざるを得なかったのです。
そのような立場で、神様が罰としてユダヤ民族をそのように苦労させるのか、そうでなければ最後まで耐えて残る民族にするために訓練させたのでしょうか。このような問題を取り上げてみるとき、神様が愛されてそのような訓練をさせたなら、世界を制覇できる祝福は、そのようにうんざりするほど苦労した民族が受けるだろうということは、当然の結論です。
神様のみ旨を見るとき、神様が道しるべを立てるのは、道しるべをして山を占領し、占領した特権的な権威をみなもたせるためであり、道しるべの使命のみ賦与するためではないというのです。道しるべの使命のみをするための特殊民族は、その民族の道しるべ的な立場だけの特殊民族です。それをみな済ませたのちに、万民を特殊的な価値と栄光の位置に立てるためのものが神様の救援摂理です。これを考えるとき、その特殊的な民族の内容はどのようなものでなければならないのでしょうか。万民を包括することのできる自主的な力量をもたなければなりません。それをもてなければ、この世界を消化することはできないでしょう。
(81-190 ~ 191、1975.12.28)
すべての宗教を糾合するための神様のみ旨があったことを知らなければなりません。イスラエル民族を犠牲にさせることによって、世界を一つに糾合しようとされた神様のみ旨がありました。600 万が問題ではありません。宗教を一つにすれば、人類が一つになることができるのです。
そのように宗教を糾合する中で、ユダヤ教はどれくらい団結したでしょうか。最も強く団結した宗教団体です。いかなる宗教団体よりも彼らは直接苦難を受けたので、最も強く一つになることができるユダヤ教になったのです。宗教を一つにするにおいて誰が中心の位置に立てるのでしょうか。ユダヤ教が中心の位置に立たざるを得ません。これが摂理的な観点から見たレバレンド・ムーンが説明する結論です。
(105-126 ~ 127、1979.10.4)
3. ユダヤ教とキリスト教の関係
― 宗教経典 ―
私はキリストに結ばれた者として真実を語り、偽りは言わない。私の良心も聖霊によって証ししていることですが、私には深い悲しみがあり、私の心には絶え間ない痛みがあります。私自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。
では、尋ねよう。神は御自分の民を退けられたのであろうか。決してそうではない。私もイスラエル人で、アブラハムの子孫であり、ベニヤミン族の者です。
福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています。神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順によって憐れみを受けています。
それと同じように、彼らも、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです。神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。
ローマの信徒への手紙9.1 ~ 5、11.1、11.28 ~ 32(キリスト教)
― み言選集 ―
今日、ユダヤの民がこの地上に生きています。ところで、その民族は神様のみ旨に背いた民族なのに、どうして神様は彼らを捨てることができないのでしょうか。もちろんユダヤの民が横道にそれたのですが、神様が選んだ選民として神様のために変わらない心をもってきたからです。天に反対する立場にいますが、いつしか神様を尋ね求めていくようになるときは、どの民族よりも神様が忍耐したこと、耐えられたことを任せることのできる民族なので、摂理の道に背きましたが、捨てることができないのです。
歴史過程でいかなる逆境がぶつかってくるとしても、天のために摂理歴史のために歩んでいく民族がいるとすれば、その民族は世界を支配するでしょう。自分たちがもつ決心と覚悟が天のために生きる心が根拠になっている限り、一時、神様のみ旨に背き、サタンの使いをしたとしても、最後まで忍耐できる貞節をもっていけば、サタンは結局、屈服してしまうのです。サタンは忍耐しようにも忍耐できず、我慢しようにも我慢できません。サタンが忍耐でき、我慢できれば、神様に背いて6000 年の歴史を逆らってくることはなかったでしょう。
神様を中心とする民族がいかなる逆境にぶつかっても、自分の民族が天の選民だということを主張すれば、その民族は世界からいなくならないでしょう。今日、ユダヤの民が世界の経済圏を握り、それ以外の様々な分野で主導権を行使できるのも一理があることを皆さんは知らなければなりません。
(4-243 ~ 244、1958.5.18)
ユダヤ教は旧約を中心とするみ旨の先祖なので、第一世型の長兄であり、キリスト教は新約を中心とする第二世型の次男であれば、統一教会は約束を成す成約の内容を備えた第三世型の末弟です。この三つの宗教はみ旨の三兄弟なので、彼らの母体であるイスラエルとアメリカと韓国はみ旨の三兄弟国になるのです。ですから、UNでサタン側の共産圏からこの三カ国が同じように追われているのは、み旨的に共同運命にあるからです。この三カ国が一体化して手を結び、UN本来の使命と機能を回復し、内的には宗教を統一し、外的には世界統一を成し遂げなければなりません。
(88-211, 1976.9.18)
4. イスラエルの地
― 宗教経典 ―
シオンのために、私は決して口を閉ざさず、エルサレムめために、私は決して黙さない。彼女の正しさが光と輝き出で、彼女の救いが松明のように燃え上がるまで。諸国の民はあなたの正しさを見、王はすべて、あなたの栄光を仰ぐ。主の口が定めた新しい名をもって、あなたは呼ばれるであろう。
あなたは主の御手の中で輝かしい冠となり、あなたの神の御手の中で王冠となる。あなたは再び「捨てられた女」と呼ばれることなく、あなたの土地は再び「荒廃」と呼ばれることはない。あなたは「望まれるもの」と呼ばれ、あなたの土地は「夫を持つもの」と呼ばれる。主があなたを望まれ、あなたの土地は夫を得るからである。
イザヤ書62.1 ~ 4(キリスト教)
あなたの神、主はあなたの運命を回復し、あなたを憐れみ、あなたの神、主が追い散らされたすべての民の中から再び集めてくださる。たとえ天の果てに追いやられたとしても、あなたの神、主はあなたを集め、そこから連れ戻される。あなたの神、主は、かつてあなたの先祖のものであった土地にあなたを導き入れ、これを得させ、幸いにし、あなたの数を先祖よりも増やされる。
申命記30.3 ~ 5(キリスト教)
われはその後、イスラエルの子らに言った、「この地に住みつけ、だが来世の約束が来るとき、われはなんじらを一雑群にするであろう」。
クルアーン17.104 (イスラーム)
私達の霊魂のルネサンスとともに世界の文明は新しく生まれるだろう。争いは終息し、私達の復活とともにあらゆる生命体が新しい誕生の喜びで満たされるようになるだろう。宗教は新しく貴重な衣服に衣替えし、汚れて、みすぼらしく、不潔なすべてのものを脱ぎ捨てるだろう。太初に人類のためにイスラエルの井戸端に準備した高潔な光の露を飲み、すべてが和合するだろう。人類に向かうアブラハムの壮健な祝福が実現され、これによリイスラエルの地に新しい豊かさが訪れるだろう。
アブラハム・イサク・グク、シオン主義
― み言選集 ―
イスラエルはどんなに難しい時代と環境を経たとしても、自分たちが選民であるという意識を失いませんでした。行くところ行くところで迫害と悲しみがいつでも彼らを待ち受けていましたが、彼らはその悲しみを通して一日の希望を標準として行ったのです。
その悲しみが彼らを落胆させたのではなく、かえって彼らを団結させ、難しい環境を打開させる歴史的な闘争過程を越えさせたという事実を、私達は知っています。そのため、悲しみというものは落胆の条件になることもできますが、目的をもっていく人には、かえってそれが目的を成就させることのできる内的な力を結成する条件になるという事実を、私達は知らなければならないのです。
それではイスラエル民族が念願したものは何でしょうか。唯一神を中心として国家と民族が心情一致した理念圏内に立つことでした。それを追求してきながら、彼らは死んだとしてもそれを胸に抱いて死にました。そのみ旨を成せないことを恨として残しました。彼らが死ぬとき、父母としてあるいは何らかの指導者として、子孫の前にそのみ旨を成し遂げることを、遺言として残しました。このようなことを見てみるとき、悲しい歴史過程を経てきた民族であればあるほど、その歴史過程を通して世界的な勝利の基盤を迎えることができるという事実を、私達は推測することができるのです。
しかし、彼らは国のない中で悲しい運命にぶつかればぶつかるほど、自分たち民族に現れる環境を眺めれば眺めるほど、いつも国家観念をもち、同族愛を増していったのです。その悲しみにぶつかることによって、新しい国家を追求するようになり、自分たちが拘束された環境を打破して解放された新しい環境を追求することができたのです。その悲しみが正にそのような動機となったのです。そのような民族はいつの時か必ず勝利の一時を迎えるということを、私達は知らなければなりません。
(30-247 ~ 248、1970.3.29)
イスラエル民族は、主に会えば、イスラエル民族を中心として天下統一をすると思っていました。愛するものに自分自身を投入し、歴史を再創造して愛の対象を求めていくのが神様のみ旨だということを知らなかったのです。来られる主と共に、イスラエル民族を中心として投入し、ローマとアジアを統一しようという神様の摂理を知らなかったので、イエス様を殺害したのです。
イエス様を殺害することによって、イスラエル民族は2000 年間さまよい、馬蹄で踏み殺され、銃剣で撃たれ、引き裂かれて殺害される、あらゆる屈辱を受けました。その後、主が再び来ることができる再臨時代の1948 年度を中心として、韓国の独立と同じイスラエルの独立が訪れるのです。
(208-286 ~ 287、1990.11.20)
イエス様が来られた目的とは何かというと、国を取り戻すことです。氏族的メシヤは、イエス様がイスラエルの国とユダヤ教を中心として国を取り戻すことができなかったので蕩減しなければなりません。そのような面から見るとき、祝福家庭はイエス様の立場に立つので、国を復帰しなければならないのです。
イスラエルは南と北に分かれています。北朝の10 支派と南朝の2 支派に分かれています。レアとラケルによって一つにならなければならなかったのが、戦争によって国家的な基準で分割されてしまったのです。モーセの時代にそのようになりました。イエス様は、そのような立場で亡くなったのです。それを象徴するのが右側の強盗と左側の強盗です。
それがカイン・アベルの立場で世界的な基準になっているので、その基準の上に再臨主が来て転換し、勝利圏を成して統一しなければならないので、再臨主の使命をもつ人は、共産主義を整備しなければなりません。それで先生は、共産主義を打倒する世界一のチャンピオンとして働かざるを得ませんでした。
そして、民主主義を一つにしなければならず、世界を一つにしなければならず、アメリカさえも収拾してあげなければなりません。そして、宗教界と政治界がすべて一つにならなければなりません。今、イスラエルとキリスト教が怨讐でしょう? イスラエルとイスラーム圏の中東が怨讐関係です。これを平和にしなければなりません。
(250-331、1993.10.15)
8) キリスト教
キリスト教は、文鮮明先生が受け継いだ宗教であるため、ほかの宗教より深く語ることができる。先生の主な教えも、キリスト教の性格と関連したキリスト教の核心的伝統、教会一致、キリスト教の世界福音化などと直接関連している。
キリストの例に見るようにキリスト教の核心伝統は愛と犠牲である。キリスト教徒は、イエス様がそうしたように、自分の十字架を背負うことや、神様のみ旨のために苦痛を受けるのを躊躇したり恐れたりしない。したがって、キリスト教は簡単で平安な宗教ではなく、常に献身と勇気、そして確信が必要な宗教である。キリスト教徒の愛は、キリスト教の根本的な核心伝統だ。イエス様は、弟子たちに怨讐を愛し、自分を陥れ、傷つける人を赦しなさいと教える。キリストの愛を実践するキリスト教徒の教えは、真に崇高で美しいものである。
しかし、キリストの愛が完全に実践されず、時にはほかの教会信者と共感帯を形成できず、キリスト教は、草創期から内部葛藤の問題を内在していた。キリスト教の愛より教理の潔癖主義と教派の利益を前面に立てながら、教会は互いに争い、迫害し、全般的にキリスト教に大きな被害を与えた。文鮮明先生は、キリスト教の核心真理を明確に解明しながら、愛の実践と教会一致のために献身してきた。
キリスト教は、全人類を救援する世界的使命をもっている。文鮮明先生にとってこれは福音を説教したり、異教徒を改宗させる問題ではない。今日、世界の多くの宗教の中で、地球上のあらゆる文明を民主的価値と愛と博愛の倫理で導いたのは、キリスト教の輝かしい貢献である。教会の究極的使命は、このような価値の土台の上に、イエス様が再び降臨するときに立てられる神様の地上天国を準備することである。
この項目は、教会の使命成就に対する成功と失敗の記録として、キリスト教の歴史を示している。キリスト教の歴史は、少なくない欠陥を露呈させた歴史だった。教会が権力と富、そして世の中の権威という世俗的価値を追求したときは、失敗し続けた。反面、教会がキリストの犠牲と伝統を中心として真の信仰の自由を追求するときは一様に発展した。
このような歴史過程において、神様は権威あるキリスト教文明(草創期に中世時代のローマ・カトリックを通し、そして今日ではアメリカを中心とするプロテスタントを通して)を土台として神様の王権を立てようと試みた。ところが、バチカンの指導者たちが愛と犠牲など、イエス様の核心伝統に従う生き方より、権力と世俗的栄光をより追求していた中世文明は、消えた。今日、この世界を神様の王国に導く使命をもったキリスト教国家の代表国であるアメリカは、中世と似た試練に直面している。
1. キリスト教の核心的伝統 : 愛と犠牲
― 宗教経典 ―
自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、私の弟子ではありえない。
ルカによる福音書14.27(キリスト教)
私のためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。マタイによる福音書5.11~12(キリスト教)
そればかりでなく、苦難をも誇りとします。私達は知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望は私達を欺くことがありません。私達に与えられた聖霊によって、神の愛が私達の心に注がれているからです。
ローマの信徒への手紙5.3 ~ 5(キリスト教)
彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。信者たちは皆一つになって、すべての物を共有し財産や待ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。(注31)
使徒言行録2.42 ~ 47(キリスト教)
愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、私達が生きるようになるためです。ここに、神の愛が私達の内に示されました。私達が神を愛したのではなく、神が私達を愛して、私達の罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのように私達を愛されたのですから、私達も互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。私達が互いに愛し合うならば、神は私達の内にとどまってくださり、神の愛が私達の内で全うされているのです。
ヨハネの手紙一4.7 ~ 12(キリスト教)
だが、こうした愛の業、まさにその業のゆえに、一部の人たちからわれわれは刻印を捺されているのである。連中はいう。「見ろ、奴らは互いに愛し合っている」。そういう人々は互いに憎み合っでいるのだ。「奴らは仲間のためにならいつでも死ぬ覚悟でいやがる」。その連中は互いに殺し合う気持ちしかもっていないのだ。
テルトゥリアヌス護教論
キリスト教徒の血は、種子なのである。
テルトゥリアヌス護教論
― み言選集 ―
キリスト教は十字架で出発して、行く先々で打たれて血を流した。今日、キリスト教は、世界から打たれる立場をとらなければ世界を主管することができない。見てごらんなさい。一番多く倒れたバチカンの丘にキリスト教の宮殿が立ったではないか。
御旨の道、試験・試練
今日のキリスト教が世界的版図を成し遂げるまで、どれほど犠牲の代価を払ったか分かりません。殉教の祭壇に絶えず犠牲にさせることによって、悲惨なその喚声が地球上に響き渡り、その泣き声が聞こえない所がないほど歴史を傷つけてきたのです。そのような血の祭壇が連続し、今日、目前にまで到達した歴史的な恨が絡まっていることを知らなければなりません。これを受け継いで解怨しなければならない厳粛な歴史的課題を抱えている私達は、神様を解放し、キリスト教を再び解放しなければなりません。
(210-361、1990.12.27)
ゲッセマネの園で血涙を流して祈祷されるイエス様の姿、ゴルゴタに向かって十字架を背負っていかれるイエス様の聖なる姿を通して、イスラエル民族は天に背いた反逆の群れになりましたが、彼らを立てるために苦労された神様の悲しい歴史が引き継がれたのです。この涙の歴史、この汗の歴史、この血の歴史を相続されたのがキリスト教だということをはっきりと知らなければなりません。このような内容を知らない人は滅びます。イスラエル民族がこれを知らずに滅びました。皆さんも、ただ聖書や賛美歌だけを聞いて教会に出入りするのではなく、血を流す神様を身代わりしたイエス様を知り、涙を流す神様を身代わりしたイエス様を知り、汗を流す神様を身代わりしたイエス様を知らなければなりません。このような犠牲と死で世界を占領していくのがキリスト教の伝統であり、神様が人間を取り戻してこられる伝統的な路程です。
(10-281、1960.11.6)
今日、キリスト教がすべきことは、苦痛が伴うことをどのように消化するかが問題です。天の心情を引き込み、「お父様! イエス様が十字架の苦痛を堂々と越え、死の伝統を堂々と越え、かわいそうな万民のために祈ることができたように、私達もそのような立場でイエス様がもっていた心をもつようにしてください」と思える心をもつこと、問題はそれです。
(7-96、1959.7.19)
キリスト教徒たちが好んで語る聖句は、ヨハネによる福音書第3章16 節です。そこに「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」とあります。今、キリスト教徒たちは、「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」ことを忘れてしまっています。
この世というのは、この宇宙全体を意味するのです。この世を愛されてイエス様を送ったのです。教会を、ユダヤ教を、ユダヤ人をこのように愛したのではなく、この世を愛してひとり子を送ったという事実を忘れてしまっているのです。
イエス様は、どのような方ですか。世界の中心になる存在です。世界を救うために来た方です。イエス様を信じるというその信仰の中には、世界がすべて入っていくのです。神様も入っていき、この地も入っていき、全体が入っていくという概念を知らずにいます。
(124-294、1983.3.1)
2. キリスト教の一致
― 宗教経典 ―
体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。
エペソの信徒への手紙4.4 ~ 6(キリスト教)
従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。
エぺソの信徒への手紙2.19 ~ 22(キリスト教)
彼らのためだけでなく、彼らの言葉によって私を信じる人々のためにも、お願いします。父よ、あなたが私の内におられ、私があなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らも私達の内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたが私をお遣わしになったことを、信じるようになります。
あなたがくださった栄光を、私は彼らに与えました。私達が一つであるように、彼らも一つになるためです。私が彼らの内におり、あなたが私の内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたが私をお遣わしになったこと、また、私を愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。
ヨハネによる福音書17.20 ~ 23(キリスト教)
あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。
コロサイの信徒への手紙3.12 ~ 15(キリス教)
― み言選集 ―
キリスト教は、「教会はイエスの体である」とこのようなことを言っています。この家が、教会がイエスの体なのかというのです。イエスの体とはどのようなものですか。それは教会員たちです。人です。人がイエスの体なのです。それでは、それがどうしてイエスの体なのですか。イエスの体を中心とするその場に私が代表として立てば、その場に一緒に立っているイエスの体は、人々を代表して立ったものなので、イエスの体の位置に私が入っていくのです。
このように見るとき、二つの教会があり得ますか。今日、たくさんの教派がありますが、これはすべて正しいことではなく、間違った教会であることを知らなければなりません。このようなことを考えるとき、このような内容を見るとき、今日のキリスト教に分派が多いという事実は、イエスが最も悲しむ事実であることを知らなければなりません。それは何を意味するのかというと、イエスの体をばらばらに引き裂いてしまったということです。2000 年間、キリスト教がしたことは祭物……。
イエスの体と同じ祭物を再び捧げ、勝利の祭物基盤を捧げて越えていくべき世界的な一つの宗教、一つのキリスト教にならなければならないのですが、このようになったという事実は、イエスにとってとても悲痛なことであり、神様にとってとても悲痛な事実だということを知らなければなりません。ですから、イエスが心であれば、今日のキリスト教は何ですか。体です。それでは、心と体が別になれますか。なれません。どのようにならなければなりませんか。一つにならなければなりません。
イエスが今までキリスト教を中心としてきた主目的は何ですか。神様は私の神様であり、私達のお父様であり、人類は私達の兄弟であり、この地は私の地だというその観念でした。それ以外にはありません。今日、キリスト教徒たちがこのような思想を受け継がなければならないのです。世界は私の世界であり、万民は私達の兄弟であり、神様は私達のお父様、それで、一つの家の家族にならなければならないというのが神様の思想であり、イエスの思想であり、キリスト教の思想だというのです。教派が問題ではありません。教派をなくしてでも、民を取り戻さなければならず、教派をなくしてでもこの地を取り戻さなければならないことを知らなければなりません。
(93-12 ~ 25、1977.5.8)
今日、キリスト教の多くの教派はなぜ生じたのでしょうか。キリスト教の中で教派が生じたという事実は、怨讐を愛しなさいというキリスト教の教理とは違います。キリスト教の教理は、怨讐を愛しなさいという教理です。自分の教会内では愛するかもしれませんが、キリスト教徒同士で争っています。あなたの兄弟を愛しなさいと言いました。キリスト教の兄弟はキリスト教です。長老派は監理教、監理教は聖潔教、すべて兄弟だというのです。
(107-20、1980.2.21)
神様にとって重荷は何ですか。神様にとって重荷とは何か考えてみましたか。それは滅びるキリスト教と多くの宗教が問題だということです。宗教をどのように一つにするのかということが一番の問題なのです。
神様は、宗教をどのように一つにするかということのために頭を痛めていらっしゃるのですが、監理教が、「天のお父様! ほかのキリスト教ではなく、私達監理教に福を下さい」と言えば、それが神様の耳に入っていくでしょうか。400 以上の宗派の中の一つの宗派です。そのようなことを見るとき、神様は「ええい、こいつ!この教派主義者たち! 自分たちのために祈祷する前に、まずキリスト教を一つにしなさい! 一つにしてから祈祷しなさい」、そのように思われるのです。
「そのようにすれば、私が一度祈祷を聞いてあげよう」、このように思われるというのです。キリスト教が一つになったところで、「神様、私達キリスト教を通してあなたが最も頭を痛めた重荷である宗教を一つにするために私達に力を下さい! 能力を下さい! 一つになるように協助してください!」と言うとき、天が「お前の祈祷は正しい」と言うのであって、「ええい、こいつ。欲が深い。そのような祈祷は役に立たない」と言われるでしょうか。ですから、神様は教派を崩すことのできる人が出てくるのを願っていらっしゃるのです。教派を崩して一つにできる人が出てくることを待っていらっしゃるというのです。
(98-114 ~ 115、1978.5.7)
それで、世界のキリスト教を統一するときは、神霊で一つにするのです。それで神霊協会なのです。拳で統一するのではなく、銃剣で統一するのではなく、神霊で統一するのです。何で統一するのかというと、人間の力ではできません。これは霊的世界を動かしてこそ可能です。
キリスト教を統一しようとすれば、統一できなかったキリスト教の内容を完全に除去させて、統一できる内容だけを残しておけば統一されます。統一できないものを除去し、統一できるものだけを残しておけば統一されるようになっています。ですから、ここには全世界のキリスト教がもつことができない新しい真理体系、旧約聖書から新約聖書に、そしてこれからの未来に連結される聖書体系に至るまで、新しい観を形成しなければならないという言葉が成立するのです。その観自体が神様の見る観であり、霊界が見つめる観でなければならないのです。
霊界の協助を受けようとすれば、神様が協助しようといって立ち上がらなければなりません。神様が霊界の王としていらっしゃるなら、王が「う~ん」と言っているのに、部下たちがいくらやってもそれは駄目です。その王である神様が興奮して、「それはそうだろう! 私の時が来た」、このように気分を良くしてこそ、その部下の霊界がすべてついていって一つになれるのであって、神様が反対しているのに、霊界が協助することはできません。神様が心の中で旧約聖書と新約聖書の内容を骨子にまとめたものを鑑定されるとき、「ああ、その人は正しい。統一教会はなかなかいい」という、このような何かがなければなりません。
(113-97、1981.5.1)
3. 世界に対する教会の使命
― 宗教経典 ―
主である私は、恵みをもってあなたを呼び、あなたの手を取った。民の契約、諸国の光として、あなたを形づくり、あなたを立てた。
イザヤ書42.6 (キリスト教)
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。
ヨハネによる福音書3.16 ~ 17(キリスト教)
つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉を私達にゆだねられたのです。ですから、神が私達を通して勧めておられるので、私達はキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。
コリントの信徒への手紙二5.19-20 (キリスト教)
イエスは、近寄って来て言われた。「私は天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を私の弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
マタイによる福音書28.18 ~ 20(キリスト教)
使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアめ全土で、また、地の果てに至るまで、私の証人となる。」
使徒言行録1.6 ~ 8(キリスト教)
― み言選集 ―
皆さん、キリスト教徒、イエス様を信じる人たちが一般社会の人よりも悪いという評判を聞いたことがありますか。それはどういうことかというと、神様を信じるという人たちがもっと悪だ、もっと利己主義だということです。
アメリカの人たちがなぜ個人主義になったのですか。イエス様が個人主義者ですか。神様が個人主義ですか。ところが、なぜイエス様をよく信じる国家を代表するアメリカの人たちがなぜ個人主義になったのですか。イエス様を信じたのなら、そのような人になりません。イエス様を信じているのに、なぜそのようになったのですか。それは端的に何を意味するのかというと、神様を信じることを利用したのであり、イエス様を信じることを利用したのです。自分の利益のために信じたという結論にしかなりません。
(124-294、1983.3.1)
それでは、祭物とはどのような存在ですか。受けられる神様が喜ばれ、万民が喜んだのちに、初めて頭を上げる存在です。ところが、今日のキリスト教が、神様が喜ばれる前に頭を上げ、万民が喜ぶ前に頭を上げたのなら、崩れます。
キリスト教が万民のために奉仕しなければならない使命を負っているのに、そうすることがでぎずにいれば、万民のために祭物にならなければならないのに、そうすることができずにいれば、改革すべき時が来るのです。
ですから、万王の王であり、天の皇太子であるイエス様も喜ぶことができずにいます。なぜかというと、祭物として来られたためです。霊界に行っても、神様は喜ばれ、地上の聖徒は喜んでも、祭物であるイエス様は喜べません。神様と万民が喜んだのちにこそ、初めてイエス様が喜ぶことができる日が来るのです。その日が再臨の日です。これが祭物の行く道です。
(5-79-80、1958.12.21)
イエス様のような方は、ユダヤ教はもちろん、イスラエルの国とローマの国のすべての人々が死の道へ追いやったのです。しかし、彼が行った道は天道に従って行った道であり、価値のない人生として行った道ではなく、崇高で、無限の価値の基準をもって行った道です。
その価値の基準は、全世界が願うことのできる中心内容をもったものなので、彼の教えは、必ず人間が求めるべき希望の基準であり、求めるべき真の道なので、その教えを通して世界が統合され、今日の民主世界が創建されたという事実を皆さんは知らなければなりません。
(41-70、1971.2.13)
キリスト教文化圏は、この世界の終わりの日に名実共に世界的な文化圏になれるのです。また、全世界の国家は、この文化圏を中心に基盤を定めざるを得ません。
(39-44、1971.1.9)
今日の皆さんは、そのような物質的な闘争を踏み越え、イエス様の天国の理念に従っていかなければならず、さらには、全世界のキリスト教徒と力を合わせ、神様の国をこの地上に建設しなければならないのです。
言い換えれば、イエス様が、昔のイスラエルの全体的な価値と比喩できるユダヤ教団と一つになり、世界を復帰すべき使命があったのと同じように、今日の全世界のキリスト教徒たちにも、世界を代表できる民主主義の理念と、またその民主主義理念の基本となっているキリスト教の理念を中心として一つに団結し、神様の国をこの地上に建設しなければならない使命があることを知らなければなりません。
(3-123 ~ 124、1957.10.13)
4. キリスト教の歴史 : 勝利主義、腐敗と更新
― 宗教経典 ―
私も言っておく。「あなたはペテロ。私はこの岩(注32)の上に私の教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。私はあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」
マタイによる福音書16.18 ~ 19(キリスト教)
真昼の太陽の頃で、一日がすでに午後になりはじめていた頃、コンスタンティヌスによれば、彼らはまさしく己の目で、ほかならぬ天に、太陽の上に懸かる、その形状が光で示された十字架のトロパイオン(トロフィー)を目にされたのです。それには「これにて勝利せよ」と書かれておりました。彼と兵士全員がその光景を見て驚愕しました。兵士はそのとき、彼がある場所に率いて行く遠征に同道していて、その奇蹟を目にしたのです。
エウセビオスコンスタンティヌスの生涯
真の信仰は、聖なるカトリック聖徒たちの教会がただ一つしかないことを信じさせる。私達は確信をもってこれを信じ、率直に告白する。教会の外では、いかなる救いも罪からの赦免もあり得ない。したがって、今私達は宣布し、決定し、はっきりと言う。すべての人類は救いのために必ずローマ聖職者の権威に服従しなければならない。
ボニファティウス8 世唯一の聖なる
信仰を保護するために世俗の権力者たちは、教会が明示した異教徒たちが占領する区域を打尽するために最善の努力をすると公に誓い、努力しなければならないだろう。
第4 ラテラノ公会議、カノン3
ローマ人たちは、賢く自分たちを取り囲む三つの壁を築いてきた。……第一に、世俗の権力が彼らに対する法的権利をもてないようにした。……第二に、ただ教皇だけが聖書を解析できるようにした。第三に、教皇以外に誰も審議を招集できないようにした。……したがって、必要性が提示されるとき、そして教皇が全キリスト教徒たちに反して行動するとき、能力のある人が全キリスト教の真の一員として、真の自由の審議会を招集するために最善を尽くさなければならない。世俗の権力も、誰もこれをすることはできない。
マルチン・ルター教皇権に対して宗教は、抑圧された生きものの嘆息であり、非常な世界の心情であるとともに、精神を失った状態の精神である。それは民衆の阿片である。
カール・マルクスヘーゲル法哲学批判序説
また神が私達を称讃と光栄の対象となし、後に続いて建設される植民地(プランテーション)について人びとが「主なる神はこれをニューイングランドの植民地のようになし給うた」というようになるとき、イスラエルの神が私達のあいだにい給うことを知るであろう。というのは、われわれは丘の上の町となり、あらゆる人の目がわれわれの上に注がれることを、考えねばならぬ。
ジョン・ウィンスロップキリスト教的慈愛のひな型
人間社会の出来事を司る、見えないその手を認め、敬拝する義務を合衆国の国民より多く負った国民はいません。合衆国の国民が独立国の地位に向かった一歩一歩が、神の摂理を見せてくれるある徴表をつけていたからです。
ジョージワシントン第1 期大統領就任辞
― み言選集 ―
中世の教皇庁を中心として見るとき、当時は既に腐敗して、彼らは教権と教条に縛られ、神様のみ旨は世界を救うことであるということを忘却してしまいました。世界は、すべてほうり出して、自分たちの権力、自分たちが築いてきた基盤が崩れないかと心配で、目を丸くしながら、そこに反対する者はすべて切ってしまいました。世界を救うためには、何倍もの犠牲を支払ってもかまわないと言ったのですが、自分たちの位置と栄光を得るために、その立場の擁護に陥ったのです。
神様が世界を救おうとするみ旨をもっていらっしゃるなら、これをそのままにしておいては何にもなりません。ですから、壊してしまうか、再び立て直さなければなりません。すなわち、新教運動を起こさなければならないのです。
ですから、マルティン・ルターのような人が現れて正面から衝突したのです。あなた方が愛する神様を私達が信じ、あなた方が愛するそれ以上に私達は世界的に平等な立場で自由な立場で指導しようと考えるのです。そのように考える人がいれば、神様は積極的に協助するのです。
(69-102 ~ 103、1973.10.21)
神様は、摂理の基点を失わないために、天を心配する一人の人、ルターを中心として宗教改革を起こしました。このように神様は、一方は滅ぼし一方は立てる摂理をしてこられたのです。そして、キリスト教を通して第2のイスラエル型を経るようにして、文芸復興を経て一大混乱を経験するようにしたのち、人本主義的理性哲学を中心とした啓蒙思想に敵対して立つことのできる摂理をしてこられたのです。
啓蒙主義者であるルソー、モンテスキューのような人たちは、キリスト教が破滅することを知りました。そうして、ドイツでは清廉な人物たちが現れ、神秘性を鼓吹しながら神様の実体的な内的体験を主張するようになりました。それが、英国を経てウェスレイ兄弟が復興運動を起こすようになりました。のみならず、クェーカー派を起こして神秘的な内的な体験をするようになったのです。
一方、人間は神様を愛することも忘れ、人間を愛する理性も忘れて、物質ばかりを愛する唯物思想的な主義にまで到達しました。堕落した人間であるとしても必ず本然の立場に帰っていかなければならないために、いつの時か、その物質を中心とした思想を打つ時が来るようになります。
(4-18、1958.2.16)
すべての人類の救済を標榜して、2000 年の歴史の渦巻の中で成長し、今や世界的な版図をもつようになったキリスト教の歴史を取りあげてみよう。ローマ帝国のあの残虐無道の迫害の中にあっても、むしろますます力強く命の光を燃え立たせ、ローマ人たちをして、十字架につけられたイエスの死の前にひざまずかせた、あのキリストの精神は、その後どうなったのであろうか。
悲しいかな、中世封建社会は、キリスト教を生きなからにして埋葬してしまったのである。この墓場の中から、新しい命を絶叫する宗教改革ののろしは空高く輝きはじめたのであったが、しかし、その光も激動する暗黒の波を支えきることはできなかった。初代教会の愛が消え、資本主義の財欲の嵐が、全ヨーロッパのキリスト教社会を吹き荒らし、飢餓に苦しむ数多くの庶民たちが貧民窟から泣き叫ぶとき、彼らに対する救いの喊声は、天からではなく地から聞こえてきたのであった。これがすなわち共産主義である。
神の愛を叫びつつ出発したキリスト教が、その叫び声のみを残して初代教会の残骸と化してしまったとき、このように無慈悲な世界に神のいるはずがあろうかと、反旗を翻す者たちが現れたとしても無理からぬことである。このようにして現れたのが唯物思想であった。かくしてキリスト教社会は唯物思想の温床となったのである。
共産主義はこの温床から良い肥料を吸収しながら、すくすくと成長していった。彼らの実践を凌駕する力をもたず、彼らの理論を克服できる真理を提示し得なかったキリスト教は、共産主義が自己の懐から芽生え、育ち、その版図を世界的に広めていく有様を眼前に眺めながらも、手を束ねたまま、何らの対策も講ずることができなかったのである。これは甚だ寒心に堪えないことであった。
のみならず、すべての人類はみな同じ父母から生まれた子孫であるという教理に従って、それを教え、かつ信じているキリスト教国家の国民たちが、皮膚の色が違うというただそれだけの理由をもって、その兄弟たちと生活を同じくすることができないという現実は、キリストのみ言に対する実践力が失われ、灰色に塗られた墓場のごとく形式化してしまった現下のキリスト教の実情を、そのまま浮き彫りにする代表的な例だということができよう。
原理講論、総序
中世時代にキリスト教は、この宗教の理念を中心として、その理念のもとにいる人々は上下を問わず吸収し、融合させなければなりませんでした。ところが、この目的を達成することができず、世俗的に堕落することによって、神様までも打つようになりました。もしローマ教皇庁が腐敗せず、自分たちがいるのは世界のためであり、自分たちがいるのは人類のためだという使命感をもち、自分たちが喜べば、自分たちが喜ぶ前に人が喜ぶことができるように、すなわち自分よりも人のために生きる思想を提唱していたなら、教皇庁は崩壊しなかったでしょう。
ところが、ローマ教皇庁がそのようにできなかったので、これをそのままにしておくことはできないので、神様が外的には文芸復興を起こして打たれ、内的には宗教改革を起こして旧教を打たれました。そうして、その後、イギリスを中心としてアメリカ大陸に渡り、キリスト教の理念を中心とする国家を建設するようになったのです。
すなわち、ローマの政治理念、キリスト教の宗教理念、ギリシャの知性主義が融合し、今日の全民主主義を支配する汎米主義が成し遂げられたのです。今後、アメリカが今日の民主主義を統合し、天倫と連結できるその時まで、国家的な使命を身代わりし、所有的な権限を代行できる責任を担おうとすれば、どのような思想をもたなければならないでしょうか。まず、自分第一主義の思想を捨てなければなりません。これがアメリカ国民にとって何よりも肝要なのです。
(5-22 ~ 23、1958.11.9)
9) イスラーム
今日、イスラームは、神様が経綸される摂理の中で重要な役割をしている。文鮮明先生は、キリスト教が衰退した今日、イスラームが相対主義時代に必ず要求される確固たる信仰と道徳的純粋性をもっていると語る。先生は、イスラーム世界を西欧の敵と見る「文明の衝突」の脚本を全的に拒否する。なぜならば、イスラームは神様の王国の一つの柱として霊的祝福を受けた高等宗教だからである。
イスラームは正義の宗教であり、その点から、過ちと威信をよく表すユダヤ教やキリスト教より優位であるともいえる。それでも、この時代は、人間の霊的支柱である三宗教が互いに和合することを要求する。文鮮明先生は、これらの宗教の間の葛藤の根源は、教理やムハンマドの使役をめぐる諸事件ではなく、現代世界で不可避に発生する葛藤の種としてイエス様の十字架を指摘する。イエス様の時代の過ちを解決するためには、その歴史の主役だったキリスト教とユダヤ教、そしてイスラームの子孫たちが共に行う努力が求められる。
1. 信仰と正義の宗教
― 宗教経典 ―
なんじらは、人類につかわされた最良の教団である。なんじらは正しいことを命じ邪悪なことを禁じ、神を信奉する。
クルアーン3.110 (イスラーム)
神は、なんじらに信仰が好ましく、またなんじらの心の中を、それにふさわしくたまい、なんじらに不信心と邪悪と反逆を、嫌わせたもう。これは正しく導かれた者であり、神からの恵みであり、恩典である。
クルアーン49.7 ~ 8(イスラーム)
「私達は、神と私達に啓示されたものを信じます。またアブラハム・イシマイル・イサク・ヤコブと諸支部族に啓示されたもの、ならびにモーゼとイエスに賜わったもの、および主から諸予言に下されたものを信じます。それらの間のいずれにも、差別をつけません。かれに私達は服従帰依し奉る」。
クルアーン2.136(イスラーム)
これはわれが下した、祝福された経典である。それゆえこれに従って、なんじらの義務を尽くせ、おそらくなんじは、慈悲に浴するであろう。これはなんじらに「経典はわしら以前に、ただ二つの宗派にだけ下された。わしらはかれらの学んだことが、ほんとうにわかっておらぬ」と、言わせないためである。
またなんじらに「もしわしらに経典が下されたならば、きっとかれらよりも、よく導きに従ったであろうに」と言わせないためである。いまなんじらの主から明証、ならびに導きと慈悲とがなんじらに来た。それでも神のしるしを偽りだとして、それからそむき去る以上に、はなはだしい不義者があろうか。
クルアーン6.155 ~ 157(イスラーム)
真の信者は、神のことに言及されるとき、その胸が畏敬の念でおののく者たちで、かれらにしるしが読唱されるのを聞いて、信心を深め、主に信頼する者たちである。礼拝の務めを守り、われが授けたものを使う者たちである。これらの者こそ、真の信者である。かれらは主のみもとで高い位階を得、また寛容と栄誉ある給養を賜わる。
クルアーン8.2 ~ 4(イスラーム)
なんじら信仰する者よ、正義にもとづいて立証し、神のために堅固に立つ者であれ、人を憎悪させて、なんじらが不公正にながれるよう刺激してはならぬ。正義を行え、それは最も篤信に近い、神を畏れまつれ。神はなんじらの行うことを熟知したもう。
クルアーン5.8(イスラーム)
― み言選集 ―
イスラームは、総合的な宗教です。キリスト教の新・旧約をすべて引き入れてつくった総合的な宗教ですが、それもやはり神様を中心としたものです。アラビア民族に適合した内容を土台として、神様を中心に、神様による絶対的な真の人間を構想し、求めてきたのです。
(39-316、1971.1.16)
ムハンマドを中心とするイスラームは、ほかの宗教の経典内容を引いてきて総合してつくった宗教なのです。ここには、聖書の内容もあります。したがって、この宗教は天使長格宗教です。宗教的な術語で天使長格宗教だというのです。ですから、このイスラームは共産党と野合するのです。したがって、この宗教は、今後変わっていく世界に火をつけることのできる予言的な宗教になるでしょう。
(39-42、1971.1.9)
イスラームとキリスト教徒は、1400 年の間怨讐です。イスラームでは、ほかの宗教に参席すれば死刑です。それにもかかわらず、シリアのイスラーム大主教が……。この人は、イランのホメイニのような人です。ローマ教皇庁で言えば、教皇のような人なのですが、その人が霊界から命令を受けました。その人は最高の修道生活をした人なのですが、第2次大戦以降、天からユダヤ教とキリスト教とイスラームが一つにならなければ大変なことになるという啓示を受けたのです。40 年前にその啓示を受け、それを推進したのです。
それを推進するとき、ユダヤ教の人たちは、「こいつ、私達を騙してのみ込もうとしている」とキリスト教の人たちは、「この人たちは私達と怨讐なのに、そのようなことができるか」と言いました。また、自派では、「ユダヤ教やキリスト教は私達と歴史的な怨讐なのに、彼らの側につくようなことをしているのか」と言いました。それで監獄にも何度か出入りしたのです。
宗教生活には啓示というものがあります。これは間違いない事実です。その人がそのような使命を受け、責任を果たさなければならないのですが、果たせずにいました。それで私が今やっている世界宗教連合運動のビデオを見て感動し、「ああ、この方を私は訪ねていかなければならない!」と思ったのです。その時がイランのホメイニが死ぬ何日か前でした。
(212-324 ~ 325、1991.1.11)
2. 既存の宗教を訂正し、立ち向かう宗教
― 宗教経典 ―
まことに神のみもとの教えは、イスラームである。経典を授けられた人びとが、知識が下った後に、相争うのは、ただかれらの間のねたみからである。神のしるしを拒む者があれば、神は、まことに精算に迅速であられる。
クルアーン3.19(イスラーム)
ユダヤ人は言う「キリスト教徒は、全くよるとこがない」と、キリスト教徒も言う「ユダヤ人は全くよるところがない」と、かれらは同じ経典を読んでいるのである。このように、知識のない人びとも、同じようなことを言う。だが神は審判の日に、かれらの間の異なるところを判決されるであろう。
クルアーン2.113 (イスラーム)
かれらは経典の中の字句の位置を変え、与えられた訓戒の大部分を忘れてしまった。それでかれらのうちわずかの者以外は、つねに背信しているのを、なんじは見るであろう。だがかれらを許して見のがせ。(注34)まことに神は善い行いをなす者をめでたもう。
われはまた「私達は、キリスト教徒だ」と、言う者とも約束を結んだ。だがかれらも与えられた教訓の一部分を忘れた。それでわれは復活の日(注35)まで、不和と憎悪とをかれらのあいだにこびりつかせた。神はかれらに、その行なったことをやがて告げ知らされるであろう。経典の民よ、なんじらが隠している経典の中の多くを、なんじらに解明し、緊要でない多くのものを、取消すために、み使いがまさになんじらに来た。
クルアーン5.13 ~ 15(イスラーム)
また神がこう仰せられたときを思え、「マリヤの子イエスよ、なんじは神のほかに、私と私の母とを二柱の神とせよと、人びとに告げたか」。(注36)かれは申し上げた「あなたにたたえあれ、私に権能のないことを、私として言うべきでありません。もし私がそれを言ったならば、必ずあなたは知りたもう。あなたは、私の心のうちを知りたもう、だが私はあなたの、み心のうちは知りません。まことにあなたはよろずの秘密を熟知したもう」。
クルアーン5.116(イスラーム)
神も終末の日をも信じない者と戦え、また神とみ使いから、禁じられたことを守らず、真理の教えを認めない者は、経典の民でも、進んで税を納め(注37)、屈服するまで戦え。ユダヤ人はエズラを、神の子だといい、キリスト教徒はメシヤを、神の子だという。これはかれらが口先で言うところで、いにしえの不信心な者の語をまねたものである。神よ、かれらを討ちたまえ。かれらは真理からなんと迷い去ったことよ。
かれらは、神をおいて、法学者や修道士を己れの主となし、またマリヤの子メシヤを主としている。しかしかれらは、唯一の神に仕える以外には、命ぜられていない。かれのほかに神はないのである。かれらが配するものから高くいますかれにたたえあれ。かれらは口先で、神のみ光りを消そうと望んでいるが、たとえ不信者たちが忌みきらうとも、神は、かれのみ光りを全うする以外のことは拒みたもう。
かれこそは、導きと真理の教えをもってみ使いをつかわしたまい、たとえ多神教徒たちが忌みきらうとも、よろずの宗教の上にそれを現わしたもう方であられる。
クルアーン9.29 ~ 33(イスラーム)
― み言選集 ―
天の国には、息子がいて、養子がいて、僕がいます。これが平面的に展開するのです。ここでメシヤは息子であり、洗礼ヨハネは養子であり、イスラエル民族は僕です。それでは、この三つが一つになり、誰と相撲しなければなりませんか。ローマと相撲をしなければなりません。ヤボク川で天使長とヤコブが闘ったのと同じように、そのような闘いをしなければなりません。その時、ローマの主権が疲弊し、あらゆる弱小民族が自主独立国家を主張できる準備が芽生えていたのですが、その時、イエス様がそのような運動をしていればアラブ圏がその時に完全に統一されていたでしょう。
怨讐に対抗することによって、怨讐を嫌う人同士は統一されるのです。大きな怨讐に対抗するとき、大きな怨讐に脅威を受けている群れ、怨讐に反対する群れは一つになるというのです。そこで、その三つの人が一つになっていれば、ローマは越えていけました。完全に越えていったというのです。ところが、洗礼ヨハネは洗礼ヨハネで、ユダヤ教はユダヤ教で、イエス様はイエス様で別々になったのです。
(111-151.1981.2.10)
イエス様が亡くなることによって、キリスト教が反対方向に行ってしまいました。アジアを中心として全世界を統治しなければならないのですが、イエス様が十字架に打ち付けられることによって、イエス様の体をサタンが占領してしまいました。イエス様の代わりにバラバを赦したでしょう? イエス様が亡くなることによって、バラバが解放されて出てきました。そのバラバ圏というのが今のイスラーム圏になっています。本来、イエス様が死なずに国を中心として一つになっていれば、今の中東のイスラム圏は12 支派に分割されず、神様の祝福を受けた都市になっていたでしょう。
(250-216、1993.10.15)
神様とイエス様は、怨讐を愛しなさいと言いました。キリスト教の怨讐は誰ですか。ミニスター・バラカンです。中国の怨讐は誰かというとソ連であり、ソ連の怨讐が誰かというと中国です。彼らを愛しなさいと言ったので、愛さなければなりません。レバレンド・ムーンがソ連と中国とアメリカを愛しました。
中国がアメリカを愛し、ソ連が中国を愛しますか。誰もできません。しかし、レバレンド・ムーンだけがやっています。それが神様のみ旨の前で一等になるのです。ですから、今は怨讐がありません。キリスト教圏、イスラーム圏、黒人世界と白人世界だけでなく、霊界の地獄までも怨讐がないのです。
(339-156 ~ 157、2000.12.10)
第9章 神様の摂理歴史
神様の摂理歴史
1) 創始者、預言者と聖人たち
神様は宗教を立て、人間を救うための摂理を経綸される。宗教は、新文明の創造を先導しながら、人間の道徳性と倫理性を高揚させる。主要宗教は、それぞれの宗教創始者から始まる。文鮮明先生は、このような宗教の創始者を聖人と呼び、イエス、仏陀、孔子、ムハンマドを人類の代表的四大聖人の班列に立てる。
各創始者は、自分が創始した宗教の核心真理を宣布する特別な方である。キリスト教では、ほかの宗教創始者たちの際立った聖業がいくら偉大だとしても救援はイエス様を通してのみ成されると教える。ムスリムの信仰は預言者の「封印」、最後の預言者であるムハンマドのメッセージにより独特に定義される。
確固たる信仰者は、真理の基準であり、模範であり、真の道を具現する一人の人格体と対峙する。「私は道であり、真理であり、命である。だれでも私によらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ14・6)という宣言や、「仏陀の法の外に聖人なし」(法句経254)という宣言や、「ムハンマドは最後の預言者である」(クルアーン33.40)という宣言は、一様に同一な脈絡である。
しかし、文鮮明先生は、すべての宗教創始者は、唯一なる神様が送った方だと教える。すべての宗教は、神様の真理を一様に証する。すべての創始者は、神様の一定の摂理的な経綸を中心として、各民族と文化を導き、神様の王国に至るように準備する。
したがって、文鮮明先生は、西欧の伝統がアベルとノアから始まり、アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、ダビデ、ソロモンと預言者たち、そしてイエスに至るまで、神様の摂理歴史の中で選ばれた方たちの名簿に、仏陀、孔子、ムハンマドを加える。ユダヤ教、キリスト教、そしてイスラーム、すべて自分たちが伝統的血統の相続者だと主張する。ユダヤ教は、イエス以外の偉大なラビの継承を追加する。
イスラームは、イエスをはじめ、イシマエルとイドリスなど、少数アラブの預言者をこの名簿に添加する。一方、東洋ではヒンドゥー教が様々な時代にわたって犠牲になり、悪の勢力を退け、世界の正義を回復させたアバターの継承を認める。儒教は、独自的な聖人血統、すなわち禹王、文王、武王などを主張し、周公孔子を昔の聖人の知恵と伝統を回生させた方とみなす。
ここでは、聖人の共通的特性に関して扱う。いかなる代価を払っても、真理を追究すること、人間と社会をより高い理想に止揚させようとする情熱、国籍と財産と社会的地位を全く差別しない普遍的省察、神様と天国、あるいはより高い存在の力に対する信仰、そして無知な社会の迫害と排斥に耐えようとする意志などがここで省察される。下の部分で、西欧の聖書的伝統に特に関心を置きながら、このような聖人と預言者を個別的に扱う。
1. 神様のチャンピオンとは、メッセンジャーたちも
― 宗教経典 ―
実に美徳(ダルマ、正法)が衰え、不徳(アダルマ、非法)が栄える時、私は自身を現わすのである。善人を救うため、悪人を滅ぼすため、美徳を確立するために、私は世期(ユガ)ごとに出現する。
バガヴァッド・ギーター4.7 ~ 8(ヒンドゥー教)
まことにわれは、ノアならびにかれ以後の予言者たちに啓示したように、なんじに啓示した。われはまた、アブラハム・イシマイル・イサク・ヤコブならびに諸氏族、またイエス・ヨブ、ヨナ、アロンならびにソロモンにも啓示した。またわれはダビデには詩編を授けた。ある使者たちについては、先にわれはなんじに告げたが、ある使者たちは、まだなんじに告げていない。……使者たちに吉報と警告をもたらさせたのは、かれらのつかわされた後、神に対し人びとに論議の余地をなくすためである。神は、偉力者・英明者であられる。
クルアーン4.163 ~ 165 (イスラーム)
天のみ座のこの鳥たち(顕示者たち)がみな、神意の天の国から送り出され、彼らがみな、その方の不可抗力的な信仰を宣布するために起きることであるがゆえに、彼らは一つの霊魂として、同じ人格と見なされる。なぜなら、彼らは皆、神の愛の杯から飲み、一つの同しじ木の果実を食べるからである。彼ら神の顕示者たちは、それぞれ二重の地位をもつ。一つは純粋な観念と本質的単一性の地位である。このような観点から、もし彼ら全員を一つの名で呼び、彼らに同じ属性があるとすれば、それが誤ったものではない。
その方さえも、「私達はその方の使者の間に差別をおかない」と明らかにされた。なぜなら、彼らはそれぞれ、そしてみな、神の単一性を知らせようと地上の民を呼んでいるからである。もう一つは、区別する地位として、被造物の世界に属し、その世界の制限を受ける。このような観点から神の顕示者たちは、各自はっきりとした個性、一定の規定された使命、予定された啓示、そして特定の制限点をもつ。彼ら各自は、互いに異なる名で知られており、特別な属性があり、一定の使命を遂行し、そして特殊な啓示を受ける。
確信の書152、176(バハイ教)
世俗のことに心をわずらわされず、世間体を飾ることなく、他人をほどよくあしらうことをせず、衆人の心に逆らわず、天下が平安で民の生命が保たれ、自分も人もともに衣食がじゅうぶんに足りることだけを念願とし、この立場を守ることによって、自分の心を清らかにしようとするものがある。上古の道術のうちにも、このような立場を重んずるものがあった。
宋鋳(そうけい)や尹文は、このような教えを聞いて喜び、上下がひとしくて平らな華山の冠をつくり、これをかぶって自分の平等主義を表明し、万民に接するのにいっさいの差別から離れることを第一の任務とした。そして、人間の心がもつ性質について語り、「心がめざしている方向は、柔和をもとにしてたがいに喜びあい、これによって天下を和合させることにある」と定義した。
そして、この心をあらゆることの根本におくことを念願としたのである。こうして、かれらは人から侮られても恥とせず、怒りをしずめることによって、民のあいだの争いをなくそうとつとめ、また侵略行為をなくし、軍備を撤廃することによって、世のなかから戦争をなくそうとつとめた。
そして、この主義を奉じて天下をひろくめぐり、上は君主に説き、下は民衆に教えさとした。たとえ天下の人びとが採用しなくても、強引に大声で説きたてるという調子であった。だから「上下の人にいやがられても、強引に面会を求めてくる」という評判がたった。
I 荘子33(道教)
これ以上、何を話そう。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、また預言者たちのことを語るなら、時間が足りないでしょう。信仰によって、この人たちは国々を征服し正義を行い、約束されたものを手に入れ、獅子の口をふさぎ、燃え盛る火を消し、剣の刃を逃れ、弱かったのに強い者とされ、戦いの勇者となり、敵軍を敗走させました。
女たちは、死んだ身内を生き返らせてもらいました。他の人たちは、更にまさったよみがえりに達するために、釈放を拒み、拷問にかけられました。また、他の人たちはあざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭いました。
彼らは石で打ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました。世は彼らにふさわしくなかったのです。
ヘブライ人への手紙11.32 ~ 38(キリスト教)
誉れ高き人々をたたえよう、我々の歴代の先祖たちを。主は大いなる栄光を現し、世の初めからその威光を示された。先祖たちのある者は国々を支配し、武勇によって名を輝かせた。ある者は思慮に富んだ勧めを与え、預言の言葉を語った。……。
しかし、先祖たちの中には、後世に名を残し、輝かしく語り継がれている者のほかに、忘れ去られた者もある。彼らは、存在しなかったかのように消え去り、あたかも生まれ出なかったかのようである。彼らの子孫も同様であった。しかし慈悲深い先祖たちの、正しい行いは忘れ去られることはなかった。
シラ書〔集会の書〕44.1 ~ 10(キリスト教)
― み言選集 ―
天が人間たちにこのような摂理のみ旨に責任をもたせて立てる時には、中心人物を立てるのです。彼が置かれている時代全体を支配し、天の理念圏内に結びつけるために、ある一人を立てていくのです。言い換えれば、神様は、この地に対して時代と世紀、あるいは歴史過程を通して何を取り戻そうとされるめでしょうか。時代を代表できる人、全世界を代表できる一人、世紀を代表できる一人を神様は求めていらっしゃるのです。さらには、天地の代身として主張できる一人の天の人を求めでいらっしゃるというのです。
(4-192、1958.4.20)
イエス、釈迦、孔子、そしてムハンマドなどを歴史的聖人と言いますが、歴史上のたくさんの人々がその人たちを標準とし、彼らの伝統を受け継ごうとしてきたので、宗教を中心とする文化圏が形成されているのです。それでは、その人たちはこの地に生まれて自分勝手に生きた人たちでしょうか。その人たちは地上で暮らしながら、幸せにそのようなことをした人たちなのかというのです。そうではありません。かえって私達より、平民よりもっと不幸な道を行ったのです。
それでは、彼らはなぜそのように生きたのでしょうか。彼らは自分の本意に従って生きたのではなく、神様が願う、神様の摂理が願う目的のために、神様が願うそのような世界のために、それに従って生きるためにそのような生活をしていった人たちです。彼らは、個人が生きるとしても、神様の伝統を受け継ぎ得る個人の人格はこのようにならなければならない、人生の生き様がこうでなければならないということを、常に考えざるを得ない人生を生きたのです。
家庭を中心としてもそうです。神様の伝統から見るとき、家庭はこのような家庭にならなければならないということを彼らは常に考えたのです。その次には、社会生活もそうです。神様の伝統から見るとき、個人はこうで、家庭はこうで、社会生活はこうでなければならないということを常に考えたというのです。
(95-271、1977.12.11)
宗教の教主たちは、何を中心として教えたのでしょうか。神様の思想とみ旨を中心として教えたのです。自分のみ旨ではありません。彼ら自身が優れていたというのではありません。神様を中心とする世界観、神様を中心とする人生観、神様を中心とする宇宙観を宣布していった人たちです。
(41-329、1971.2.18)
宇宙的原理の根源は、神様であられます。宇宙の創造で、神様は自らの創造物のために、自らの全体を投入されました。また、歴史を通して自分勝手に生きる堕落した人類を救うために、絶えず犠牲になってこられた方が、正に神様です。神様のみ旨を知った預言者、聖者、そして哲人たちは、自分の人生の中で神様の原理に従いました。
そして、彼ら自身が真理を守ることで満足せず、ほかの人たちに教えるために犠牲の道を歩みました。モーセ、孔子、釈迦牟尼、ムハンマド、ソクラテス、そしてイエス様もすべて苦難を受け、人々に教えるときにも迫害を受けた聖賢たちでした。人類を目覚めさせ、解放させるために、彼らは自分の人生を犠牲にしました。
(234-222、1992.8.20)
聖人の「聖」の字は、「耳」と「口」と「王」です。それでは、耳が王で、口が王というのは何でしょうか。世の中のどんな話を聞いても、それをよく思って王のものとして解釈しなければならないということです。ですから、すべてのものを聞きますが、聞くやいなや、口が「ぱぱぱぱーん」と話すのではありません。それでは大変なことになります。すべてのことを聞きますが、話すにおいて王です。大王が一言話せば法になり、その国の運命が行ったり来たりするのです。一言言えば法になるというのです。
(118-44、1982.5.2)
聖人はどのような人でしょうか。聖人は国境を超越した人です。これを知らなければなりません。聖人は民族のために生きた人ではありません。自分の氏族のために生きた人ではありません。国境を超越して世界人類のために生きた人です。私が死ぬのは万民のためであり、億兆蒼生のすべての人種と国境を超越し、超国家的であり、超宗派的であり、超人種的な立場で死ぬと思いながら、世界的な立場で全世界の人類と因縁を結び、死の道で勝負を決めていった人たちが聖人です。
(38-350、1971.1.8)
2. 預言者と聖人の苦難と迫害
― 宗教経典 ―
イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。
マルコによる福音書6.4(キリスト教)
戦場の象が、射られた矢にあたっても堪え忍ぶように、われはひとのそしりを忍ぼう。多くの人は実に性質が悪いからである。
法句経320(仏教)
そのとき、ある律法学者が近づいて、「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言った。イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」
マタイによる福音書8.19-20(キリスト教)
み使いは「主よ、まことに私の人びとは、このコラーンを忌むべきものとして、拒みます」と言おう。われはこのように、それぞれの予言者に、罪人の間から一つの敵をつくる。だがなんじの主は、指導者・援助者として万全であられる。
クルアーン25.30 ~ 31(イスラーム)
いずれの地を牧すべきか、牧するためにどこへ私は行くべきでしょうか。人々は自由民からも、アリヤびとからもわたくしを遠ざけ、わたくしが行を共にしようとするもろもろの労役民も、わたくしを満足させず、邦の不義なる暴君どもも、そうしてはくれません。いかにして御身を、マズダーよ、わたくしは満足させましょうか、アフラよ。
アヴェスター・ヤスナ46.1(ゾロアスター教)
先祖の神、主は御自分の民と御住まいを憐れみ、繰り返し御使いを彼らに遣わされたが、彼らは神の御使いを嘲笑い、その言葉を蔑み、預言者を愚弄した。それゆえ、ついにその民に向かって主の怒りが燃え上がり、もはや手の施しようがなくなった。
歴代誌下36.15 ~ 16(キリスト教)
かれらは、「祖先が、一つの道を踏んでいたのをわしらは見て、その足跡によって導かれているのだ」と、言うのである。同じように、われはなんじ以前にも、町に警告者をつかわすたびに、その地の富裕な者たちは「まことにわしらは、祖先が一つの教えを奉じているのを見ている、それでその足跡を踏んでいるのだ」と、言っていた。
使者は、「なんと、祖先が従っていた、おまえたちの知るものよりも、良い導きがもたらされてもか」と、言ったのだが。かれらは、「おまえが届けたものは、わしらは信じないのだ」と言う。それでわれは、かれらに報復した、見よ、信仰を拒んだ者の最後がどうであったかを。
クルアーン43.22 ~ 25(イスラーム)
かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖が逆らったように、あなたがたもそうしているのです。いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを預言した人々を殺しました。そして今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となった。
使徒言行録7.51 ~ 52(キリスト教)
孔子は鄭国へ行ったが、門人たちとはぐれ、ひとりで城郭の東門に立っていた。鄭の或る人が子貢に言った。「東門に人が居て、その額は聖人堯帝に似ており、その首筋は舜の臣の犀陽に似ており……疲れたさまは、喪中の家の犬のようでした」と。子貢がありのままを孔子に告げると、孔子は欣然と笑って言った。「容貌についてはどうかと思うが、喪家の犬とは、いみじくも言ったもんだなあ。そのとおりだわい、そのとおりだわい」と。
司馬遷史記47(儒教)
― み言選集 ―
人間世界で水準が高い人がいるでしょう。そのような人がいれば、その人は高い水準に立って全体を見て、それを同級にしたいと思うでしょう。そのような人が、私達が追求し願う尊敬できる偉大な人ではないでしょうか。
そうだとすれば、歴史的に誇り得る人たちは、どのような人たちでしょうか。高く、大きく考える人です。アメリカのために生きるという偉大なアメリカ人と世界のために生きるという偉大な世界人がいるとすれば、どちらの人がより偉大でしょうか。偉大な世界人です。一緒に暮らし、一緒に生活をしても、より高く、より大きいもののために生き、より大きなものを立てようとする人が偉大なのです。
皆さんは今、四大聖人に歴史的に侍っていますが、イエス・キリストや釈迦牟尼、孔子、あるいはムハンマド、彼らに家がありましたか。彼らに良い家がありましたか。彼らが村をもって生きてみましたか。行く所ごとに非難され、葬り去ろうとするので、追い回される立場だったです。その何が偉大なのですか。
イエス様は、「空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」と言いました。これが偉大な人ですか。孔子は、隣の家の犬だ、と言いました。恵んでもらいながら歩いているからです。いつ就職して大きな仕事ができますか。それで、もらい食いし、歩き回っているので、「村の犬だ」と言ったのです。
また釈迦牟尼は、その時、王の息子として国もあり、家もあり、すべてのものがありましたが、それをすべて嫌いました。それをすべて捨てて出てきて、山中修道をしたのです。山に行って隠遁生活を始めたそこから釈迦牟尼が出発しました。家もなく、国もなく死んでいったその人たちを、今になってなぜ仰ぐのですか。偉大な歴史的人物だと、なぜ誇らしく思うのですか。彼らの偉大な正義は、過去と今では違うでしょうか。また、未来には変わるでしょうか。変わりません。
(115-14 ~ 16、1981.10.25)
この地に預言者たちが来てしたことは何かというと、世の中についていったのではなく、世の中についていくなととめるのです。国から行くことはできません。激しく打つのです。ですから、みなが「これは何だ」と蹴飛ばし、あらゆる迫害を受け、人扱いもされませんでした。それで人間世界の落伍者を……。
世の中の人たちがみな押しのけて逃げていくので、預言者たちは仕方なくついていかざるを得ないのですが、そのようについていく中でも、世の中の落伍者たち、病人、傷ついた人たち、世の中が嫌うこのような人たちを中心としていくのです。
「あなたはなぜそのようにしているのか」、「私は預言者だが、あの人たちに反対されたのでこのようにしている」と言いながら、新しい因縁を、人間の落伍者たちを中心として新しい因縁をつくり始めるのです。「そのような国ばかりがあるのではなく、新しい国がある。落胆するな。絶望するな」と言いながら、落伍者を中心として新しい希望を引き起こすのです。優れた人がみな過ぎ、愚かな人がみな過ぎていったあとに病人、ごみ箱のような人たちが、結局、「ああ、新しい世界があればどれほどよいだろうか!」と言いました。
これはどういうことかというと、優れた父母、優れた息子、娘をもった人、そのような家庭をもった人はなく、サタンにずたずたに、父も、母も、あるいは息子も、娘も、みな傷ついた人たちばかりがいるのですが、この人たちがこの世の中を拒否し、新しい世界があればうれしいと言っています。預言者たちを通してそのような話を聞き、そこから因縁が始まるということです。
(106-176 ~ 177、1979.12.30)
その時代の聖人はどのようにしたのかというと、人間たちが行くべき真の道を教えました。聖人は、その時代の民のために、これから訪れる世界を教えましたが、無知な民は理解できなかったのです。あまりにも差があったからです。ですから、その時代の主権者たちは、聖人を捕まえては殺害し、迫害し、追い出したのです。
だからといって、その聖人が国を売り、国を滅ぼすようにしたのではありません。その国を混乱の中から救い出し、未来の希望の国にしたり、どの国よりも高貴な国にしようと思っていたにもかかわらず、彼らはその人を理解できず、受け入れることができず、追い出したのです。しかし、聖人は万民が行くべき道に対する道理を備えていたので、世界の人々は、その道理をだんだんと受け入れ、世界的な文化圏を形成してきました。
(39-256、1971.1.15)
3. 宗教創始者の伝統固守
― 宗教経典 ―
私が来たのは律法や預言者を廃止するためだと思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。
マタイによる福音書5.17 ~ 18(キリスト教)
聖バガヴァットは告げた。私はこの不滅のヨーガをヴィヴァスヴァット(太陽神)に説いた。ヴィヴァスヴァットはそれをマヌ(人類の祖)に告げ、マヌはそれをイクシュヴァーク(王名)に告げた。このように、王仙たちはこの伝承されたヨーガを知っていた。しかしそのヨーガは、久しい時を経て失われた。私は今、まさにこの古(いにしえ)のヨーガをあなたに説く。あなたは私を信愛していて、友であるから。実にこれは最高の秘説である。
バガヴァッド・ギーター4.1 ~ 3(ヒンドゥー教)
モーセはシナイ山で律法を受け、それをヨシュアに伝えた。ヨシュアは律法を長老に、そして長老たちは預言者たちに、預言者たちは会堂に集まった人たちに伝えた。
ミシュナ、アヴォート1.1 (ユダヤ教)
先生がいわれた、「〔古いことにもとづいて〕述べて創作はせず、むかしのことを信じて愛好する。〔そうした自分を〕こっそりわが老彭〔の態度〕にも比べている。」
論語7.1(儒教)
また、この経典の中で、アブラハムの物語を述べよ。まことにかれは誠実者であり予言者であった。かれが父にこう言ったときを思え「父よ、あなたは何ゆえに、聞きもせず見もせず、またいささかの益をも与えぬものを崇拝なさるのか」。「父よ、あなたの授からない知識が、いま、しかと私に下った、それで私に従いなさい、私はあなたを正しい道に導くでしょう」。「父よ、悪魔に仕えてはなりません。まことに悪魔は、仁慈者に対するむほん者であります」。「父よ、まことに私は仁慈者からの懲罰が、あなたに下ることを恐れます、それであなたが悪魔の友になるのを恐れる」。
アブラハムは言った「あなたに平安あれ、私の主に、あなたのためご寛容を祈る。まことにかれは、私に対し慈悲深くあられます」。「私はあなたがたから離れ、また神以外に、あなたがたが祈るものから離れて、私の主に祈ります。私の主にお祈りすれば、たぶん恵まれぬことはないでしょう」。それでアブラハムが、かれらならびに神以外にかれらが仕えるものから、離れ去ったとき、われはかれにイサクとヤコブを授けた。そしてわれはかれらを、それぞれ予言者にした。われは、かれらの上に慈悲をたれ、また真理のことばで高い栄誉を授けた。
またこの経典の中で、モーゼのことを述べよ。まことにかれは、純潔な使者であり予言者であった。われはシナイ山の右がわから、かれに呼びかけ、密談のためわれの近くに招いた。またわれの慈悲により、その兄弟のアロンを、予言者としてかれに授けた。またイシマイルのことを、この経典の中に述ベよ、まことにかれは約束したことに忠実で、使者であり予言者であった。かれはつねにその一族に、礼拝を命じ、主のおぼえめでたいひとりであった。
またイドリースのことを、この経典の中に述べよ、かれは真実な人物であり予言者であった。そしてわれは高い地位に上げた。これらの者は、神が恩恵を施された予言者たちで、アダムの後えい、およびわれがノアと一緒にはこ舟で運んだ者たち、ならびに、アブラハムとイスラエル「ヤコブ」の後えいのうち、われが選んで導いた者たちである。仁慈者のしるしがかれらに復唱されるたびに、かれらは伏して叩頭(こうとう)し涙を流す。
クルアーン19.41 ~ 58(イスラーム)
禹・湯・文・武の諸王や成王や周公たちは、この計謀や兵力を用いて、すぐれた功業を成したのである。即ちこれら六王はみな礼儀を守った人たちであり、礼儀を用いて各自の道を行い、人民の信望を集め、敵の罪過を明らかにし、仁愛礼譲を守り行い、道義の常法を世に示したのである。もしこの常法に従わない者があれば、たとい権勢を誇る者でも味方を失い、人々から災いと見られて、ついに滅びるであろう。
礼記7.1.2(儒教)
もと、無数の仏に従って、さまざまの道を修めた。
甚だ深遠な、微妙な教えは、見ること難く、理解することも難い。無量億劫のあいだこのもろもろの道を修め終って、道場においてさとりをひらき、私はすでにすべてを知見した者となった。
法華経2(仏教)
― み言選集 ―
私達は、歴代の信仰の先祖たちが立てた伝統を尊重しなければなりません。天の伝統を尊重しなければなりません。ノアおじいさんが120 年間天のために忠誠を尽くしたその精神、アブラハムがカルデアのウルを離れて異邦の荒れ地をさまよっていたその精神、ヤコブがカナンの地を捨ててエジプトに入っていったその精神、イスラエル民族が怨讐の地エジプトを捨て、荒野を経てカナンの地を目指して総進軍したその精神、イエスがこの地に来られてイスラエル民族を収拾し、新しいカナン福地、新しいエデンの福地に向かって走っていこうとしたその精神はどこに行ったのでしょうか。皆さんは伝統を通してこのような精神を継承しなければなりません。
(8-25、1959.10.25)
孔子が出てきて、時代を経て伝統的に伝わってきたものを無視し、歴史にない新しいものを創造したのかというと、それはできませんでした。その前にあったそのような類の思想をただ体系化させて一般化させたにすぎません。
(25-93、1969.9.30)
子孫たちは、偉人や聖人をなぜ追慕しなければならないのでしょうか。彼らの心の中には、精魂込めた歴史的なあらゆる事情が宿っていて、善の事情と曲折がその中に宿っているからです。善の目的を達成するためには、彼らのそのような土台を通して精誠(注8)を尽くさなければなりません。そうでなければ、目的に向かう道と関係を結べません。たとえ堕落の子孫だとしても、人心は天心と通じるので、大勢の人たちが聖人を追慕し、聖人が歩んだ道を追い求めるのです。ですから、それは本然の価値を追求するものであり、自然なことです。
(17-268、1967.2.15)
復活摂理の歴史において、その使命的な責任をもった人物たちが、たとえ彼ら自身の責任分担を完遂できなかったとしても、彼らは天のみ旨のために忠誠を尽くしたので、それだけ堕落人間が、神と心情的な因縁を結ぶことができる基盤を広めてきたのである。したがって、後世の人間たちは、歴史の流れに従い、それ以前の預言者や義人が築きあげた心情的な基台によって、復帰摂理の時代的な恵沢をもっと受けるようになるのである。
原理講論、復活論2.1
「私」という個性体はどこまでも復帰摂理歴史の所産である。したがって、「私」はこの歴史が要求する目的を成就しなければならない「私」なのである。それゆえに「私」は歴史の目的の中に立たなければならないし、また、そのようになるためには、復帰摂理歴史が長い期間を通じて、縦的に要求してきた蕩減条件を、「私」自身を中心として、横的に立てなければならない。そうすることによって、初めて「私」は復帰摂理歴史が望む結実体として立つことができるのである。したがって、我々は今までの歴史路程において、復帰摂理の目的のために立てられた預言者や義人たちが達成することのできなかった時代的使命を、今この「私」を中心として、一代において横的に蕩減復帰なければならないのである。
そうでなければ、復帰摂理の目的を完成した個体として立つことはできない。我々がこのような歴史的勝利者となるためには、預言者、義人たちに対してこられた神の心情と、彼らを召命された神の根本的な目的、そして彼らに負わされた摂理的使命が、果たしてどのようなものであったかということを詳細に知らなければならないのである。
原理講論、後編緒論
歴史時代において、蕩減の使命を背負った先祖たちの気迫を相続するに不足のない息子、娘とならなければなりません。この時代にあなたは称賛し誇る息子の姿、娘の姿をどれほどお慕いになられたでしょうか。
お父様、あなたは内的に約束なさり、祝福して命令なさいましたが、歴史過程に来ては逝った私達の先祖たちは、いつもあなたの心にくぎを打ち、お父様を孤独の場に追放したのが二度、三度ではないことを、私達は知りますときに、私達がお父様の息子となり得る因縁は、喜ばしいことですが、使命的な面においては、悲しい内容が宿っていることを、私達は、先祖たちが歩んだ復帰の恨み多い道をたどってみる時ごとに、考えないわけにはまいりません。
(30-39、1970.3.15)
2) ノア
ノアは、聖書に現れた最初の信仰の祖である。洪水審判に関する神様の命令を信じながらノアが箱舟を造ったことは、いかなる人も肩を並べることのできない卓越した信仰を見せてくれたのである。文鮮明先生は、妻や家族も理解し難いことをやり遂げたノアの驚くべき信仰を大変強調する。遠からず審判を受けるようになることを知るノアが、一般の人々への哀れみをもったこともまた驚くべきことである。それで、ノアは神様の命令に従い、自分を嘲弄し迫害する、正にその人たちに神様の審判が迫っていることを宣布し、彼らを箱舟に呼び入れようとしたのである。
ノアの洪水審判は古い歴史的記録にさかのぽる。様々に形を変えて伝わったノアの洪水審判は、古代スメールとバビロンの時まで約5000 年をさかのぼる。約7500 年前、紅海地域に大規模な洪水が起き、すべての文明を一掃したという人類学的証拠から見て、ノアの洪水審判説は、歴史的事実に基づいていると信じる。
聖書のノアの話は、ノアの息子ハムの失敗で終わる。文鮮明先生は、これが神様の摂理を後退させた重要な事件とみなす。常に歴史を家庭の観点から扱う文鮮明先生は、ハムの失敗がノア家庭の一致を挫折させ、神様の摂理に致命傷を与えたことを明らかにした。
1. ノアの洪水
― 宗教経典 ―
主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛めちれた。主は言われた。「私は人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。私はこれらを造ったことを後悔する。」しかし、ノアは主の好意を得た。
神はノアに言われた。「すべて肉なるものを終わらせる時が私の前に来ている。彼らのゆえに不法が地に満ちている。見よ、私は地もろとも彼らを滅ぼす。あなたはゴフェルの木の箱舟を造りなさい。箱舟には小部屋を幾つも造り、内側にも外側にもタールを塗りなさい。次のようにしてそれを造りなさい。箱舟の長さを三百アンマ、幅を五十アンマ、高さを三十アツマにし、箱舟に明かり取りを造り、上から一アンマにして、それを仕上げなさい。箱舟の側面には戸口を造りなさい。また、一階と二階と三階を造りなさい。
創世記6.5 ~ 8、13 ~ 16(キリスト教)
ノアにこう啓示された「すでに信仰する者のほかは、もうなんじの民は信仰しないであろう。それゆえかれらの行いについて悩んではならぬ」。「そしてわれの目の前で啓示に従って箱舟を造れ、また不義を行なう者のために、このうえわれに歎願してはならぬ。かれらはおぼれさせるであろう」。
そこでかれは箱舟を造り始めた。かれの民の首領たちは、そのそばを過ぎるたびにかれらをちょう笑した。かれは言った「たとえおまえたちがいま私達をちょう笑しても、いずれおまえたちがちょう笑するように、私達もきっとおまえたちをちょう笑するのだ」。
「それで、恥辱ある刑がたれに来るか、永久の刑がたれの上に降りかかるかを、おまえたちはやがて知るであろう」。ついにわが命令は下って、大地の諸水がせきをきってほとばしり出たとき、われは言った「それぞれの生きものの一対、なんじの家人、宣告がすでに下された者を除き、信仰する者たちを、その中に乗らしめよ」。だがかれと共に信仰した者は少数にすぎなかった。
ノアは言った「神のみ名によって、これに乗れ、航行にも停泊にもそれによれ。まことに私の主は、寛容者・慈悲者であられる」。箱舟はかれらを乗せて、山のような波の上に動きだした。そのときノアはみなから離れていた。かれのむすこに叫んで「むすこよ、私と一緒に乗れ、不信者たちと一緒にいてはならぬ」と言った。
かれは答えて言った「私は山に避難しよう、それは洪水から救うであろう」と。ノアは言った、「きょうは神のご命令によって、かれの慈悲に浴する者のほかは、何者も救われないのだ」。その時かれらの間に波が来て、かれはおぼれる者のひとりとなった。
クルアーン11.36 ~ 43(イスラーム)
神は昔の人々を容赦しないで、不信心な者たちの世界に洪水を引き起こし、義を説いていたノアたち八人を保護なさったのです。
ペテロの手紙二2.5 (キリスト教)
まことにわれは、ノアをその民につかわし、「痛刑がなんじの民に下る前に、なんじは、かれらに警告せよ」(と命じた)。かれは言った「私の人びとよ、私はおまえたちへの公明な一警告者である」、「おまえたちは神に仕えまつり、かれを畏れ、私に従え」。「かれはおまえたちのもろもろの罪を許し、定められた時期までにおまえたちを猶予したもう。まことに神の時期が来たときは、猶予されない。もしおまえたちがわかっていたならば」。
ノアは申し上げた「主よ、私は夜となく昼となく、私の人びとに呼びかけました」、「だが、私の呼びかけは、ただ正道からの逃避を増すばかりであります」。「私がかれらに、“あなたが、かれらをお許しになるのだ”と、呼びかけるとき、かれらは指を己れの耳にあて、自分で外とうをかぶり、不信心を固執し、ひたすら高慢になります」。
クルアーン71.1 ~ 7(イスラーム)
― み言選集 ―
神様は命令をされるとき、信じる立場で信じられるように命令されるのではなく、信じることができないように命令されるのです。ノアには120 年後にこの世界を審判するから箱舟を造りなさいと命令しました。
ところが、箱舟を海辺や川に造りなさいと言えば納得するにもかかわらず、あの高い山の頂上に造りなさいと命令しました。船を造ろうとすれば川辺に造らなければならないのに、山の頂上に造りなさいと言うので、それを信じられるでしょうか。
それは、人類始祖が不信することによって堕落したので、神様は絶対的に信じる立場に立てるために、絶対的に信じる者を立てようとしたのです。ですから、神様は絶対的に信じられる命令をされないのです。
(53-93、1972.2.10)
ノアの家庭について考えたことがありますか。ノアは、山の頂上で箱舟を造りました。平地ならともかく、山の頂上で箱舟を造ったということは、常識を超えた、常識を超えるどころか、度を超えるにも、とんでもなく度を超えたことです。
一般的に見る時、正常な立場で見る時に、ノアは狂った人間に近い行動をしたのです。舟を造ろうとするなら、川辺に造らなければならないのに、山に造ったのですから、これは常識を超えたことです。
これを命令した神様は、冗談で命令したのでしょうか。違います。生涯を捧げて耐え難い道を行かなければならないのが、ノアの路程であることを誰よりもよく知っておられた神様は、ノアの受難の道より平坦な内容をもって命令されたのではないのです。
それよりもっと難しい内容があったので、それを条件として解決できる、一つの方便になることを願われる心をもって、ノアに120年の間、受難の道を行けと命令されたのです。そのような神様の心は、どれほど悲惨だったでしょうか。言うに言われぬほど、悲惨だったのです。
ですから、ノアがその命令を受け入れるか、受け入れないかという緊張した瞬間において、ノアが順応する立場を取る時、ノアよりもっと喜ばれた方が神様ではないでしょうか。また、ノアよりもっと悲しまれ得る方も神様です。そのように、喜びと悲しみに対して責任をもてる、そのような主人の立場でなければ、神様の立場にはなれないのです。
(48-69、1971.9.5)
もしここに来られた夫人たちがノアおじいさんの夫人だったら、そのようなノアを歓迎するでしょうか。恐らく、そのようにできる夫人はいないと思います。神様の命令を受けたといって、毎日のように山を上り下りするので、昼食を包んであげなければならず、それから身支度や後始末をきちんとしてあげなければなりません。
最初は仕方なく。何日かはしであげるかもしれませんが、ひと月もたたずに問題が起きるのです。それが1年12 ヵ月でもなく、12 年でもなく、120 年間そのようにしなければならないという話を聞いたとき、そのおばあさんは間違いなく狂ったと思い、おじいさんは気が狂うにしてもちょっとやそっとの狂い方ではないと攻め立てざるを得ないというのです。
それでは、神様はどうして正常な環境に従って天のみ旨を進んでいくことができるように命令できなかったのかということを、私達はここで知らなければなりません。神様とサタンは一緒にいられません。サタンがこのように行けば、神様は180 度反対に行かなければなりません。神様は、サタン世界の人たちが信じてくれることさえも嫌われる神様です。
サタンと仲良くしていた人たちが好むこと、認めることも、汚れが混ざると思うのです。私達人間においてもそのような心があります。怨讐がいれば、その怨讐がすることであれば、見るものまですべて嫌います。しかし、絶対的な神様が、悪の世界で良いとたたえるものを見て喜ぶでしょうか。ですから、全く信じられないように、全く見向きもしないように役事するのは当然だと思うのです。
(69-94 ~ 95、1973.10.21)
ノアの時を振り返つてみると、1600 年間、神様は言うに言えない悲しい心情が込み上げてきましたが、忍耐の道を歩んでこられました。一時、一瞬も忘れることができない人間に対する悲しみが込み上げてきましたが、それをすべて耐え、自分の悲しみを代わりに万民に、万物にすべて表すためにノアを選び立てたのです。
それでは、神様はどうしてノアを当時の人間たちが理解できない立場に立てられたのでしょうか。1600 年間、人間たちが神様を悲しみにくれさせたので、ノア一人を立てられ、彼が人間を代表し、天的な寂しさと悲しみを感じることができるようにするために、このような理解できない環境に立てたことを皆さんは知らなければなりません。
ノアは120 年間も、自分を不信し、反対し、嘲笑する人間たちの前に黙って現れるようになりました。また、120 年後にこの地を審判するという天の予告を受けたときも、彼は天に対する信仰の道理を尽くしたのです。当時、彼を見て義人だと言いました。義人だったがゆえに、彼は自分が生きていく当時の社会が反逆すればするほど、よりその社会のために心配し悲しんだのです。大勢の人々が自分良身の安楽を得るために苦しんでいるとき、ノアだけは独り公義の法度を求めるために身もだえし、天倫を心配し、人が願わない環境で悲しんだのです。
(3-169 ~ 170.1957.10,25)
2. ハムの失敗
― 宗教経典 ―
さて、ノアは農夫となり、ぶどう畑を作った。あるとき、ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっでいた。カナンの父ハムは、自分の父の裸を見て、外にいた二人の兄弟に告げた。セムとヤぺテは着物を取って自分たちの肩に掛け、後ろ向きに歩いて行き、父の裸を覆った。二人は顔を背けたままで、父の裸を見なかった。ノアは酔いからさめると、末の息子がしたことを知り、こう言った。「カナンは呪われよ。奴隷の奴隷となり、兄たちに仕えよ。」
創世記9.20 ~ 25(キリスト教)
― み言選集 ―
40 日審判が終わった直後のノアの立場は、天地創造後のアダムの立場と同様なのである。創造されたアダムとエバが、お互いにどれほど親しくまた近い間柄であったか、また、どれほど神に対しても、その前で隠し立て一つしない、水入らずの関係であったかということは創世記2 章25 節に、彼らはお互いに裸であっても、恥ずかしいとは思わなかったと記録されている事実から推察してみても、十分に理解できるのである。
しかし、彼らは堕落したのち、自ら下部を恥ずかしく思って木の葉で腰を覆い、また、神に見られるのを恐れて、木の間に身を隠した(創3・7,8)。それゆえに、彼らが下部を恥ずかしく思ったという行為は、下部で罪を犯し、サタンと血縁関係を結んだという情念の表示であり、下部を覆って隠れたという行動は、サタンと血縁関係を結んでしまったので、神の前にあからさまに出ることを恐れた犯罪意識の表現であったのである。
40 日審判によりサタンを分立した立場にあったノアは、天地創造直後のアダムの立場に立たねばならなかった。ここで神はノアが裸でいても、その家族たちがそれを見て恥ずかしがらず、また隠れようともしない姿を眺めることによって、かつて彼らが罪を犯す前に、どこを覆い隠すでもなく、ありのままに裸体を現していた、汚れのない人間の姿を御覧になって、喜びを満喫されたその心情を蕩減復帰しようとされたのである。
神はこのようなみ意を完成なさるため、ノアを裸で寝ているように仕組まれたのである。したがって、ハムも、神と同じ立場から、神と同じ心情をもって、何ら恥ずかしがることなくノアと対したならば、ノアと一体不可分のこの摂理の中で、罪を犯す前、恥ずかしさを知らなかったアダムの家庭の立場に復帰する蕩減条件を立てることができたはずなのである。
原理講論、復帰基台摂理時代2.2
ノアおじいさんは、独り孤独でした。そのようなことをするにおいて、絶対信仰をもちましたが、家庭が絶対心情一体にならなかったので崩れていきました。ハムもそうです。父と愛で一体になっていれば、なぜそれを恥ずかしく思いますか。心情が一体になっていれば、裸になっていても恥ずかしく思うことはないのです。自分も裸になって横で昼寝すればどれほどよいでしょうか。
ところが、恥ずかしく思ったのです。一つになっていません。心情一体になっていないのです。ノアおじいさんの横に裸になって一緒に寝ていれば、おじいさん起きてそれを見れば、「いやあ、この息子は私に似たなあ!」と祝福するでしょうか、しないでしょうか。
(268-294、1995.4.3)
3) アブラハム
アブラハムは、ユダヤ教、キリスト教、イスラームの三つの唯一神宗教の源流である。アブラハムはユダヤ人の先祖であり、キリスト教徒には信仰の祖であり(ローマ4・1~3)、ムスリム(イスラム教徒)にはマッカ(メッカ)にカアバ神殿を建てた人であり、イシマエルを通してアラブ人の先祖になる。アブラハムは偶像商の家庭で育ったが、神様の真理を信じる最初の唯一神信仰だった。彼は神様の命令に従って故郷を離れ、全く見知らぬ地に向かった。彼は神様が導かれるという信仰のもと、彼の生命と未来を神様の手に任せた。彼はカナンの民の中で異邦人だったが、彼らに対するアブラハムの哀れみは偉大だったのであり、特にソドムとゴモラの問題を仲裁するとき、それが表れた。
文鮮明先生は、神様がすべての摂理をアブラハムに任せたのであり、救援摂理を進行するための地上の条件を立てるためにアブラハムを同伴者としたと教える。したがって、アブラハムのすべての行為、すべての祭祀、すべての祈りは重要性をもつ。アブラハムが神様の命令に躊躇せずに故郷を離れたとき、神様の摂理は進展した。アブラハムが創世記第15 章に記録された重要な燔祭で、はとを二つに裂かない過ちを犯したとき、神様の摂理は後退し、延長した。アブラハムの家庭でサラとハガルの間の反目が、今日のユダヤ人とアラブ人の憎悪として継続している。アブラハムは、自分の信仰路程で多くの試練を経験した。神様が息子を犠牲にせよと要求したとき、彼の試練は頂点に達したが、これに関しては次の部分で扱う。
1. アブラハムの絶対信仰
― 宗教経典 ―
主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、私が示す地に行きなさい。私はあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。あなたを祝福する人を私は祝福し、あなたを呪う者を私は呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。
アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。アブラムは妻のサライ、甥のロトを連れ、蓄えた財産をすべて携え、ハランで加わった人々と共にカナン地方へ向かって出発し、カナン地方に入った。
創世記12.1 ~ 5(キリスト教)
われは先にアブラハムに、方正な行いを授けた、われはかれをよく知っている。かれが父とかれの人びとに、こう言ったときを思え、「あなたがたが崇拝する、これらの偶像は何ものであるか」。かれらは言った「わしらは、祖先がそれらを崇拝するのを見た」。かれは「あなたがたとあなたがたの祖先は、確かに誤っていたのだ」と言った。
かれらは言った「おまえは真理をもたらしたのか、それとも戯れる者なのか」。かれらは言った「そうではない、あなたがたの主は、天と地の主、無から天地を創造された方であられる。そして私はそれに対する証人のひとりである」。「神によって誓う、私はあなたがたが背を向けて去ったあとで、あなたがたの偶像に対し、一つの策をめぐらすであろう」。こうしてかれは、ただ一体の巨像を除き、多分かれらがそれに返って来るであろうと思って、それらをたたきこわした。
かれらは「誰がわしらの神々をこうしたのであろうか、まことにかれは不義の者である」と言った。ある者が言った「わしらは、アブラハムという若者が、その方々をあげつらうのを聞いた」。いかれらは言った「それなら、その者を人びとの目の前に引き出せ、多分みなが証言するであろう」。「アブラハムよ、おまえか、わしらの神々に対しこんなことをしたのは」と言った。かれは答えて言った「確かに誰かがかそれをしたのだ、かれらのかしらはこれである、かれらに口がきけるなら、かれらに問え」。そこでかれらは、自ら良心に顧みて心に言った「確かにおまえたち自身が悪いのだ」
間をおいて、かれらはまた翻意して言った、「おまえはこれら神々の、口がきけないのをよく知っている」。アブラハムは言った「それならあなたがたは、あなたがたをいささかも益せずまたそこなわない、神以外のものを崇拝するのか」。「ああ、情けないことだ、あなたがた、ならびにあなたがなの神以外を崇拝するものは。あなたがたはなお悟らないのか」。かれらは言った「もしおまえたちがやるのなら、かれを焼き殺せ、そしておまえたちの神々を救え」。そのときわれは「火よ、冷たくなれ、アブラハムの上に平安あれ」と命じた。かれらはかれに対しさらに策動しようとしたが、われはかれらをひどい失敗者にした。われはかれとそのおいのロトを、よろず世のために、われが祝福した地に救った。
クルアーン21.51 ~ 71(イスラーム)
これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。「恐れるな、アブラムよ。私はあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」アブラムは尋ねた。「わが神、主よ。私に何をくださるというのですか。私には子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」
アブラムは言葉を続けた。「御覧のとおり、あなたは私に子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。」見よ、主の言葉があった。「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継く。」主は彼を外に連れ出しで言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。
創世記15.1 ~ 6(キリスト教)
信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました。アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです。
ヘブライ人への手紙11.8 ~ 10(キリスト教)
― み言選集 ―
アブラハムも・父テラの家で革命的な要素を請求しました。そうでしょう?「父よ、この偶像は何だ」と言いながら足で偶像をけ飛ばしたではないでしょうか。家に入っていくたびに、「これはいつか私の手で.……」、何十回も心で決意したのです。
(151-62、1962.10.7)
アブラハムを考えてみてください。偶像商の愛らしい息子として、父母の膝元ですくすくと成長したのですが、神様が彼を呼び、「アブラハムよ、アブラハム! お前はテラの家から離れなさい。カルデアのウルに向かいなさい」とおっしゃったのです。それは、予告して下された命令ではありません。呼んですぐに下された雷のような命令です。青天の霹靂のような命令が落ちたのです。そのときには、ぐずぐずしていてはいけません。出発するのを待っていたかのように、すぐに出発しなければならないのです。「ああ、少し待ってください」とためらってはいけません。出発が潔くなければなりません。出発が誤れば、千秋万代の歴史の恨になる汚点を残すようになります。それでは、それがサタンの讒訴条件になり、経てきたすべての歴史が否定されるようになるのです。このようなことを知っているので、天の命令に従っていった人たちは、命令を受けて即座に行動するのです。
(43-270、1971.5.1)
神様がアブラハムを導き出そうとするのですが、もしアブラハムの同労者がいれば、ついてくるかと心配せざるを得ない立場ではなかったかというのです。アブラハムは神様の命令を聞くのですが、一般の人も聞くことができますか。アブラハムだけが聞くのです。また、自分の父母に、「お父さん、お母さん、神様が私にカルデアのウルに行きなさいと言うので、そのようにします!」と言えば、「お前はどうかしている」と言うでしょう。ですから、話もできなかったでしょう。
目指す所も、何十里、何百里ではありません。どこに行くのか分からないのです。アブラハムは、国境を越えてエジプトまで往来しました。アブラハムは自分の父母よりも、自分の故郷よりも、自分の親戚よりも、その何よりも神様のみ言を絶対に信じ、神様を絶対に愛する心があったので、その環境をかきわけて出発できたのではないかというのです。
アブラハムには、神様の命令以外にはないのです。命令を命よりもっと重要視しました。間違いなく夜逃げしたでしょう。こうしてアブラハムは、ジプシーのような行脚の路程、とどまる所なく流れていく生活を続けたのです。アブラハムは、このように世の中のすべてのものをきっぱりと断ち切った人です。完全否定を基礎として出発した人です。
(69-95 ~ 96, 1973,10.21)
アブラハムを見てみましょう。神様は偶像商である彼の父親から、彼を分立させました。彼は、家族、祖国、物質的な富、そして、すべてのものを捨てなくてはなりませんでした。そのように、サタン世界から彼を断絶させることにより、彼は、カナンに入っていくようになったのです。神様は、彼を鍛錬し、彼をして、彼自身の民族だけでなく他の民族、さらには怨讐のためにも泣くことができるようにさせながら、摂理を発展させました。
(52-53、1971.12.14)
天は、選んだアブラハムをカルデアのウルに導き出し、そのような場に送りました。荒れ地のような所に追い込んだのです。アブラハムは、そこで天が立てようとしていた天主権の国が建てられる一日が来ることを待っていました。
天が祝福した息子、娘が砂浜の砂粒のように、天の星のように増え広がり、悪の世の中を打つことができるその日を待ち焦がれながら私達の先祖たちは故国の山河を捨てた事実を私達は知らなければなりません。なぜでしょうか。
怨讐の国、怨讐の鉄条網の中に捕らわれているので、身の毛がよだつように感じられなければなりません。体に鳥肌が立つのを皆さんも感じなければなりません。このようなことを感じることができなければ、皆さんは天の前に完全な信仰者だと言うことはできないのです。
天がアブラハムを立てた目的は何でしょうか。遠い距離にいる人間、敵陣の中にいる人間、サタン世界(注11)にいる人間と連絡できる一つの基盤として、これを土台として横的に広げていこうとしたのです。しかし、もし間違えば天と地の関係が切れるので、仕方なくアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と言い、直系の血統を通して活動してこられたのです。皆さんはこれを知らなければなりません。
イサクとアブラハムが祝福を受けるとき、彼らがもったものは何だったでしょうか。選民だということしかありませんでした。「お前はサタン世界と妥協してはならない。和合してはならない。お前は選民なので、生活も異なり、感情も異なり、願う希望も異なり、お前が夢見る理想も異なる。お前は私を通して勝利の一日を迎えてこそ、お前の子孫が生きる」という観点から、神様はアブラハムを祝福しました。
したがって、アブラハムも、そのような観点からイサクを祝福しなければならなかったのであり、イサクもそのような観点からヤコブを祝福しなければならなかったのであり、ヤコブもそのように彼の後代を祝福しなければなりませんでした。
(7-215 ~ 216、1959.9.13)
2. アブラハムの祭物失敗
― 宗教経典 ―
主は言われた。「私はあなたをカルデアのウルから導き出した主である。私はあなたにこの土地を与え、それを継がせる。」アブラムは尋ねた。「わが神、主よ。この土地を私が継ぐことを、何によって知ることができましょうか。」主は言われた。「三歳の雌牛と、三歳の雌山羊と、三歳の雄羊と、山鳩と、鳩の雛とを私のもとに持って来なさい。」アブラムはそれらのものをみな持って来て、真っ二つに切り裂き、それぞれを互いに向かい合わせて置いた。ただ、鳥は切り裂かなかった。荒い鳥がこれらの死体をねらって降りて来ると、アブラムは追い払った。日が沈みかけたころ、アブラムは深い眠りに襲われた。すると、恐ろしい大いなる暗黒が彼に臨んだ。主はアブラムに言われた。「よく覚えておくがよい。あなたの子孫は異邦の国で寄留者となり、四百年の間奴隷として仕え、苦しめられるであろう。
創世記15.7 ~ 13(キリスト教)
― み言選集 ―
アブラハムを考えてみましょう。祭物を捧げるとき、牛と羊はすべて裂き、はとは裂かなかったのですが、なぜ裂かなかったのかというのです。もう一度公的に考えて……。「これは私のためにするのではなく、神様のためにすることであり、人類のためにすることだ」ともう一度考えていれば、はとも裂かなければならないことが分かったはずであり、そうしていれば歴史に汚点を残さなかったでしょう。
(93-314、1977.6.12)
アブラハムは裂くべき鳩を裂かなかったので、その上に荒い鳥が降り、それによって、イスラエル民族はエジプトに入り、400 年間苦役するようになったのである。それでは、鳩を裂かなかったことが、どうして罪になったのだろうか。
救いの摂理の目的は、善と悪とを分立させ、悪を滅ぼし、善を立てて、善主権を復帰しようとするところにある。ゆえに、アダムという一人の存在を、カインとアベルに分立したのちに、献祭させなければならなかったことや、また、ノアのとき、洪水で悪を滅ぼして善を立てた目的は、みな善主権を復帰せんとするところにあったのである。したがって、神は、アブラハムをして供え物を裂いてささげるようにし、アダムやノアが完成できなかった善悪分立の象徴的摂理をしようとされたのである。
このように、アブラハムが鳩を裂かずにささげたことは、サタンのものをそのままささげた結果となり、結局、それはサタンの所有物であることを再び、確認してやったと同様の結果をもたらしてしまったのである。
原理講論、復帰基台摂理時代3.1.2
神様は、アブラハムの時に象徴的祭物条件を立てて転換しようとしたことができなかったので、イサクを通して、ヤコブを通して、3段階を経て象徴、形象、実体的過程を通して転換時点をつくったのです。
(81-96、1975.12.1)
3. アブラハム、イシマエル、そしてイスラームの根
― 宗教経典 ―
アブラムの妻サライには、子供が生まれなかった。彼女には、ハガルというエジプト人の女奴隷がいた。サライはアブラムに言った。「主は私に子供を授けてくださいません。どうぞ、私の女奴隷のところに入ってください。
私は彼女によって、子供を与えられるかもしれません。」アブラムは、サライの願いを聞き入れた。アブラムの妻サライは、エジプト人の女奴隷ハガルを連れて来て、夫アブラムの側女とした。アブラムがカナン地方に住んでから、十年後のことであった。アブラムはハガルのところに入り、彼女は身ごもった。
ところが、自分が身ごもったのを知ると、彼女は女主人を軽んじた。サライはアブラムに言った。「私が不当な目に遭ったのは、あなたのせいです。女奴隷をあなたのふところに与えたのは私なのに、彼女は自分が身ごもったのを知ると、私を軽んじるようになりました。主が私とあなたとの間を裁かれますように。」
アブラムはサライに答えた。「あなたの女奴隷はあなたのものだ。好きなようにするがいい。」サライは彼女につらく当たったので、彼女はサライのもとから逃げた。主の御使いが荒れ野の泉のほとり、シュル街道に沿う泉のほとりで彼女と出会って、言った。「サライの女奴隷ハガルよ。あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。」「女主人サライのもとから逃げているところです」と答えると、主の御使いは言った。「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい。」主の御使いは更に言った。「私は、あなたの子孫を数えきれないほど多く増やす。」主の御使いはまた言った。「今、あなたは身ごもっている。やがてあなたは男の子を産む。その子をイシマエルと名付けなさい。主があなたの悩みをお聞きになられたから。
創世記16.1 ~ 11(キリスト教)
アブラハムがこう祈って言ったときを思え「主よ、この町を安泰にして下さい、また私と子らを偶像崇拝から遠ざけて下さい」。「主よ、かれらは人びとの多くを迷わせました。私の道に従う者は、まことに私の一類であります。私に従わぬ者は....、だがあなたは、たびたび許したもう方・慈悲深い方であられます」。
「主よ、私は子孫のある者を、あなたの聖殿のかたわらの、耕せない谷間に住まわせました。主よ、かれらに礼拝の務めを守らせ、それで、ある人びとの心をかれらに引きつけさせ、またかれらに果実をお授け下さい、おそらくかれらは感謝するでありましょう」。
クルアーン14.35 ~ 37(イスラーム)
― み言選集 ―
アブラハムが「象徴献祭」に失敗しなかったならば、イサクと彼の腹違いの兄イシマエルが、各々,アベルとカインの立場に立って、カインとアベルが成就できなかった「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を立てるべきであった。
しかしアブラハムがその献祭に失敗したので、神は彼の立場にイサクを身代わりに立たせ、イシマエルとイサクの立場には、各々、エサウとヤコブを代わりに立たせて、彼らをして、「堕落性を脱ぐための蕩滅条件」を立てるように、摂理されたのである。ゆえに、イサクを中心としたエサウとヤコブは、アダムを中心としたカインとアベルの立場であると同時に、ノアを中心としたセムとハムの立場でもあったのである。
原理講論、復帰基台摂理時代3.2
アブラハムの妾を通して生まれたイシマエルを中心として、反対の立場でカインとアベルのように分かれてきたのです。アブラハムの妾であるハガルがサラと争って怨讐になりました。本来は一つにならなければならないのです。二人が一つになっていれば、神様もそのようなことをしなかったのです。妾と本妻の争いが起きました。それでサラがハガルを追い出してしまったのです。
そのように分かれたものが、イエスの時代になっても一つになれませんでした。イエス様が死ぬことによって、左右は左右で、前後は前後で分かれたというのです。国で言えば、左翼的な国が生まれ、宗数的な面ではキリスト教と反対の宗教が出てきて中東世界を導いてきました。
(215-253、1991.2.20)
4. ソドムとゴモラのためのアブラハムの嘆願
― 宗教経典 ―
主は言われた。「私が行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか。アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る。私がアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである。」
創世記18.17 ~ 19(キリスト教)
主は言われた。「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。私は降りて行き、彼らの行跡が、果たして、私に届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう。」その人たちは、更にソドムの方へ向かったが、アブラハムはなお、主の御前にいた。アブラハムは進み出て言った。「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきでばありませんか。」
主は言われた。「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」アブラハムは答えた。「塵あくたにすぎない私ですが、あえて、わが主に申し上げます。もしかすると、五十人の正しい者に五人足りないかもしれません。それでもあなたは、五人足りないために、町のすべてを滅ぼされますか。」
主は言われた。「もし、四十五人いれば滅ぼさない。」アブラハムは重ねて言った。「もしかすると、四十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「その四十人のために私はそれをしない。」アブラハムは言った。「主よ、どうかお怒りにならずに、もう少し言わせてください。もしかすると、そこには三十人しかいないかもしれません。」
主は言われた。「もし三十人いるなら私はそれをしない。」アブラハムは言った。「あえて、わが主に申し上げます。もしかすると、二十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「その二十人のために私は滅ぼさない。」
アブラハムは言った。「主よ、どうかお怒りにならずに、もう一度だけ言わせてください。もしかすると、十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「その十人のために私は滅ぼさない。」主はアブラハムと語り終えると、去って行かれた。アブラハムも自分の住まいに帰った。
創世記18.20 ~ 33(キリスト教)
― み言選集 ―
ソドムとゴモラの城は、神様から審判の刑罰を受けて当然の所だったのであり、アブラハムがいる所とは関係のない地域でした。しかし、アブラハムはソドムとゴモラの城が天のみ旨を知っていようと知るまいと、その民族が打たれようと打たれまいと何の関係もない人でしたが、天の前に摂理的な使命感をもっただけではなく、果たさなければならないという責任を感じたので、昼も夜もソドムとゴモラの城に対して残念に思い、心配したのです。そのようなアブラハムの内的心情が表れているのがここに書かれたみ言です。
6000 年歴史の終結時期を迎えた今日、皆さんが安らかに眠り、良い服を着て、おいしいものを食べるのは、自分が優れているからではありません。皆さんがそのように思っていては大変なことになります。
今日の世の中がこのようになっても維持し続けていくのは、皆さんの知らない人たちが背後で隠れた根になり、血涙を流す訴えの祭壇を積んでいるからです。皆さんはこのような事実をすべての人たちに知らせてあげるべき使命があるのです。
もしソドムとゴモラの城の中に、アブラハムの懇切な祈祷が天上に届き、神様と一問一答していた事実を知る群れがいたら、また、その群れの中に、アブラハムが認める義人が何人かでもいれば、アブラハムは天に懇切に訴え、ソドムとゴモラに下される審判を避けることのできる条件を提示したでしょう。
アブラハムはソドムとゴモラの城がいくら悪かったとしても、そこには何人かの義人がいることを条件として、神様に「公義で判断され、審判される父よ、義人と悪人を共に火で審判するのはお父様のみ旨ではないではないですか」と訴えることができたでしょう。
しかし、自分自身だけが、自分独りだけがソドムとゴモラを代表し、祈祷するようになることを感じたとき、アブラハムの寂しさは言い表せないほど大きかったことを皆さんは知らなければなりません。
(1-139 ~ 140、1956.7.1)
このソドムとゴモラのような地獄! これに着手してすべて解決できない日には、地上天国が滅びるのです。現在の世界の若者たちを滅ぼし得るものをアメリカがもっているというのです。麻薬の巣窟であり、淫乱の巣窟であり、あらゆる腐敗の巣窟です。それを私の手で収拾しようと思います。
(105-324、1979.10.28)
これからは、日記帳に先生が自分を何度プッシュしたか記しておいてください。100、200、2000、2 万、これが多ければ多いほど先生と同じ役事が続くのです。先生が役事する上に皆さんの名前が残り得るのです。……
それで、アメリカに来て、できる限り多くのことをしながら、多くのアメリカの人たちを苦労させるのです。そのようにして発展すれば、アメリカの福になるのであり、アメリカが神様の下さった責任を果たせなかったことを終息させることができる一つの蕩減条件になります。
そうすれば、私が、「この人たちを見てお赦しください」と祈祷できます。「神様! アメリカは滅んでも、彼らを見て滅ばないように……」。ソドムとゴモラが滅びるとき、義人が10 人いれば赦すと言われたのと同じように、「このアメリカは滅んで当然ですが、このような彼らを中心としてお赦しください!」と祈祷できるのです。
(103-200、1979.2.25)
4) イサク
アブラハムが直面した信仰の試練の中で、息子を燔祭の祭物として捧げなさいという命令より困難なことはなかった。しかし、アブラハムは、神様の命令に従った。彼は、息子と共にモリヤ山に登っていき、息子を縛って祭壇にあげたのち、葬ろうとした正にその瞬間、天使が現れて止めた。イスラームの伝統では、この息子がイシマエルだとしているが、聖書はこの息子がイサクだと明らかにしている。
モリヤ山に行く途中、イサクの信仰も、アブラハムの信仰のように試練を受けた。イサクはこれから何が起きるか理解できるだけの年齢になっていた。しかし彼は、たとえ命を捧げても、父の願いに従うことを決心した。このような点から彼は模範的な息子である。
文鮮明先生は、私達に問う。あなたは神様の祭壇で死ぬ準備をしたイサクの信仰をもっているか。神様のみ旨のために必要であれば愛する息子を死に追いやるアブラハムの信仰をもっているか。私達は、父母の信仰を協助する準備ができているイサクの信仰をもった子女として育てているか。
― 宗教経典 ―
これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。私が命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」
次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えたので、アブラハムは若者に言った。「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。私と息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」
アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に待った。二人は一緒に歩いて行った。イサクは父アブラハムに、「私のお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。私の子よ」と答えると、イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」アブラハムは答えた。「私の子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。
神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。
そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、私にささげることを惜しまなかった。」
アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。
主の御使いは、再び天からアブラハムに呼びかけた。御使いは言った。「私は自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたが私の声に聞き従ったからである。」アブラハムは若者のいるところへ戻り、共にベエル・シェバヘ向かった。アブラハムはベエル・シェバに住んだ。
創世記22.1 ~ 18(キリスト教)
アブラハムとイサクがモリヤ山に行く途中、老人に扮装したサタンに出会った。サタンは、「アブラハム、あなたはどこに行かれる途中ですか」と尋ねた。アブラハムは、「私は今、祈りに向かう途中です」と答えた。
「それでは、たきぎと火と剣はなぜもっていくのですか」、「私達はモリヤ山で何日が過ごすので、そこでそれらを使って食べ物をつくる予定です」、「あなたは年を取っており、またあなたの妻サラが生んだひとり息子、イサクを連れていますが、それでもあなたの息子を喜んで祭物として捧げるつもりですか」とサタンが嘲弄して尋ねた。「神がそのようにせよと私に命じられたので、そのようにしなければならない」とアブラハムが答えた。
今度はサタンがイサクに近づき、「イサクよ、おまえは今どこに向かっている途中か」と尋ねた。「神の知恵を学びにいく途中です」とイサクが言った。「おまえは死んでからそのような知恵を学ぶつもりか。あなたの父はおまえを祭物として捧げようとしているのに」。「もし神が、私を祭物として捧げられることを願われるのなら、私は喜んでそのみ意に従います」。
彼らが天のみ意に従っていこうとする道でイサクが父に尋ねた。「お父さん、私はまだ幼いので、剣を見て祭壇で震え、もしやお父さんを動揺させてしまうか心配です。完全な祭物を捧げたいのですが、私のために祭物が完全なものにならないか恐れています」。
創世記ラッバー56(ユダヤ教)
それでわれは、優しい思いやりのある一男児の吉報を伝えた。この子がかれと共に働く年ごろになったとき、かれは言った「むすこよ、わしはおまえを、犠牲にささげるのを夢に見る、さあ、おまえは何んと考えるか」と。かれは答えて言った「父よ、あなたが命ぜられたようにして下さい。もし神のおぼしめしならば、私は耐え忍ぶ者であることが、あなたにおわかりでしょう」。
そこでかれら両人は命に服し、かれが額で地にうつぶせになったとき、われはかれに告げた「アブラハムよ」、「なんじは、確かにあの夢を実践した」。まことにわれは、このように正しい行いの者に報いる。これは明らかに一試練であった。われは大きな犠牲で、かれをあがない、われは後の幾世代にわたり、かれのためこの祝福をとどめ、「アブラハムの上に平安あれ」とたたえさせた。
このようにわれは、正しい行いの者に報いる。まことにかれは、わが信心深いしもべであった。またわれは正しい人物、予言者イサクの吉報をかれに伝えた。そしてわれは、かれとイサクを祝福した。
クルアーン37.101 ~ 113 (イスラーム)
信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。この独り子については、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」と言われていました。アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。
ヘブライ人への手紙11.17 ~ 19(キリスト教)
アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた。息子イサクとイシマエルは、マクペラの洞穴に彼を葬った。その洞穴はマムレの前の、ヘト人ツォハルの子エフロンの畑の中にあった。
創世記25.8 ~ 9(キリスト教)
― み言選集 ―
アブラハムは、祝福を成し遂げるために100 歳で得たイサクまで神様に燔祭として捧げなさいという命令を受けたとき、それに従いました。その命令は歴史上になかった一つの冒険的な条件になる命令でした。それは天地の代身として、天上のことや地上のことなど、億千万事を左右する条件でしたが、これを知らなくてもアブラハムはイサクを祭物として捧げなさいというその命令を受けたあと、息子を祭壇に置いて祭祀を捧げようとしたのです。
愛する息子を祭物とし、剣を上げて切りつけようとしていたアブラハムを、皆さん考えてみてください。これは、それこそ超現実的な儀式でした。その当時に誰がアブラハムのそのような信仰を認めることができたでしょうか。アブラハムが提示したこの冒険的な行動は、すなわちアブラハムが天に属した体であり、アブラハムの家族が天に属した体なので、アブラハムはもちろん、彼の家族と彼のすべての物質までも神様の命令に従わなければならないことを示しているのです。このような事実をアブラハムは、一人しかいない息子を燔祭として捧げる過程で悟りました。
それでアブラハムは、「この息子は私が生みましたが、あなたのものなので、あなたに捧げます」という心でイサクを献祭しようとしたのであり、現実的な環境を打開したのです。このような歴代の先祖たちの信仰の中心を皆さんは悟らなければなりません。
(1-265 ~ 266、1956.12.2)
アブラハムが「象徴献祭」に失敗したのち、再び神はアブラハムにイサクを燔祭としてささげよと命令された(創22・2)。それによって、「象徴献祭」の失敗を蕩減復帰する新たな摂理をされたのである。……
神のみ旨に対するアブラハムの心情や、その絶対的な信仰と従順と忠誠からなる行動は、既に、彼をしてイサクを殺した立場に立てたので、イサクからサタンを分離させることができた。したがって、サタンが分離されたイサクは、既に天の側に立つようになったので、神は彼を殺すなと言われたのである。
「今知った」と言われた「今」という神のみ言には、アブラハムの象徴献祭の過ちに対する叱責と、イサク献祭の成功に対する神の喜びとが、共に強調されていることを、我々は知らなければならない。このように、アブラハムがイサク献祭に成功することによって、アブラハムを中心とする復帰摂理は、イサクを通じて成し遂げていくようになっていたのであった。
原理講論、復帰基台摂理時代3.1.2.2
イサク献祭のときのイサクの年齢は、明らかではない。しかし彼が燔祭の薪を背負って行ったばかりでなく(創22・6)、燔祭の小羊がないのを心配げに、それがどこにあるかと、彼の父親に尋ねてみているところから(創22・7)推測すると、彼は既にみ旨が理解できる年齢になっていたことは明らかである。
そこで、我々はアブラハムが燔祭をささげるとき、イサク自身も、それを協助したのであろうということが推測できるのである。このように、み旨に対して物事の道理が分別できる程度の年齢になっていたイサクが、もしも、燔祭のために自分を殺そうとする父親に反抗したならば、神はそのイサク献祭を受けたはずがないのである。
ゆえに、アブラハムの忠誠と、それに劣らないイサクの忠誠とが合致して、イサク献祭に成功し、サタンを分立することができたと見なければならない。したがって、献祭を中心として、イサクとアブラハムとが共に死んだ立場からよみがえることによって、第一に、アブラハムは、「象徴献祭」の失敗によって侵入したサタンを分立し、失敗以前の立場に蕩減復帰して、その立場から自分の摂理的な使命をイサクに継がせることができ、つぎにイサクにおいては、彼がみ旨の前に従順に屈伏することにより、アブラハムからの使命を受け継ぎ、「象徴献祭」をささげるための信仰を立てることができたのである。
原理講論、復帰基台摂理時代3.1.2.3
お父様の前に祭物として捧げられるべき、私達自身であるにもかかわらず、そうできませんので、お父様が追いやってでも、引っ張ってでも、あなたの祭壇まで私達を導いてくださいますことを、懇切にお願い申し上げます。
分別のつかないイサクを連れ、モリヤ山に向かっていくアブラハムに、その子供のイサクが、祭物として使う羊はどこにありますかと聞いたときに、「それはお前が心配することではない」と言ったアブラハムの心を察する時ごとに、その父母の心を察する時ごとに、私達を導いてくださるお父様の心に、そのどれほど悲しみが前に立っているかを感じるものでございます。
(48-57、1971.9.5)
5) ヤコブ
ヤコブは、聖書で最も偉大な勝利者であると同時に、最も多くの問題を起こした人である。彼は、賢く野心をもっていたが、兄エサウをだまして長子権を奪い、父イサクをだまして兄の祝福を横取りした。しかし、ハランで苦難を経験し、おじのラバンにだまされて不当な待遇を受けながら彼は成熟していった。こうして彼は、彼に敵対する兄を贈り物と謙遜さで克服できたのである。ヤコブの人生の反転を通して私達は、神様に対するヤコブの純粋な信仰と、ヤコブの先祖アブラハムとイサクの神様に対する伝統を守り、永続させようとする熱望を悟ることができる。
文鮮明先生は、ヤコブが旧約聖書で最も成功した摂理的な人物であると高く評価する。彼の兄エサウと和解することによって、ヤコブは聖書の歴史で敵を愛と犠牲で屈服させた最初の人物になった。文鮮明先生は、ヤコブの行跡を神様の摂理(人間の堕落によってすべてのものが逆さまになったことを立て直すための復帰過程)と規定される。このような見解によれば、ヤコブは摂理的な次元で多くのものを復帰した人物だった。
天使を屈服させることによってヤコブは、天使長ルーシェルに屈服したアダムの失敗を初めて復帰したのであり、彼の兄エサウから勝利することによってヤコブは初めてカインとアベルの失敗を復帰した。ヤコブは、文鮮明先生のモデルの役割となる人物であり、また逆境を克服し、過去の過ちを回復しなければならないとき、神様は私達にある責任を賦与されるという事実を感知する大部分の摂理的な人物にも、モデルの役割となる人物である。したがって、彼は「神様と共に戦う人」の意味で「イスラエル」の称号を受けるにふさわしい人物である。
1. ヤコブとエサウの競争
― 宗教経典 ―
イサクは、妻に子供ができなかったので、妻のために主に祈った。その祈りは主に聞き入れられ、妻リベカは身ごもった。ところが、胎内で子供たちが押し合うので、リベカは、「これでは、私はどうなるのでしょう!と言って、主の御心を尋ねるために出かけた。主は彼女に言われた。「二つの国民があなたの胎内に宿っており、二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている。一つの民が他の民より強くなり、兄が弟に仕えるようになる。」
月が満ちて出産の時が来ると、胎内にはまさしく双子がいた。先に出てきた子は赤くて、全身が毛皮の衣のようであったので、エサウと名付けた。その後で弟が出てきたが、その手がエサウのかかと(アケブ)をつかんでいたので、ヤコブと名付けた。リベカが二人を産んだとき、イサクは六十歳であった。
創世記25.21 ~ 26(キリスト教)
二人の子供は成長して、エサウは巧みな狩人で野の人となったが、ヤコブは穏やかな人で天幕の周りで働くのを常とした。イサクはエサウを愛した。狩りの獲物が好物だったからである。しかし、リベカはヤコブを愛した。
ある日のこと、ヤコブが煮物をしていると、エサウが疲れきって野原から帰って来た。エサウはヤコブに言った。お願いだ、その赤いもの(アドム)、そこの赤いものを食べさせてほしい。私は疲れきっているんだ。」彼が名をエドムとも呼ばれたのはこのためである。
ヤコブは言った。[まず、お兄さんの長子の権利を譲ってください。」「ああ、もう死にそうだ。長子の権利などどうでもよい」とエサウが答えると、ヤコブは言った。「では、今すぐ誓ってください。」エサウは誓い、長子の権利をヤコブに譲ってしまった。ヤコブはエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えた。エサウは飲み食いしたあげく立ち去って行った。こうしてエサウは、長子の権利を軽んじた。創世記25.27~34(キリスト教)
イサクは年をとり、目がかすんで見えなくなってきた。そこで上の息子のエサウを呼び寄せて、「息子よ」と言った。エサウが、「はい」と答えると、イサクは言った。「こんなに年をとったので、私はいつ死ぬか分からない。今すぐに弓と矢筒など、狩りの道具を持って野に行き、獲物を取って来て、私の好きなおいしい料理を作り、ここへ持って来てほしい。死ぬ前にそれを食べて、私自身の祝福をお前に与えたい。」
リベカは、イサクが息子のエサウに話しているのを聞いていた。エサウが獲物を取りに野に行くと、リベカは息子のヤコブに言った。「今、お父さんが兄さんのエサウにこう言っているのを耳にしました。『獲物を取って来て、あのおいしい料理を作ってほしい。私は死ぬ前にそれを食べて、主の御前でお前を祝福したい』と。私の子よ。
今、私が言うことをよく聞いてそのとおりにしなさい。家畜の群れのところへ行って、よく肥えた子山羊を二匹取って来なさい。私が、それでお父さんの好きなおいしい料理を作りますから、それをお父さんのところへ持って行きなさい。お父さんは召し上がって、亡くなる前にお前を祝福してくださるでしょう。」
しかし、ヤコブは母リベカに言った。「でも、エサウ兄さんはとても毛深いのに、私の肌は滑らかです。お父さんが私に触れば、だましているのが分かります。そうしたら、私は祝福どころか、反対に呪いを受けてしまいます。」
母は言った。「私の子よ。そのときにはお母さんがその呪いを引き受けます。ただ、私の言うとおりに、行って取って来なさい。」ヤコブは取りに行き、母のところに持って来たので、母は父の好きなおいしい料理を作った。
リベカは、家にしまっておいた上の息子エサウの晴れ着を取り出して、下の息子ヤコブに着せ、子山羊の毛皮を彼の腕や滑らかな首に巻きつけて、自分が作ったおいしい料理とパンを息子ヤコブに渡した。
ヤコブは、父のもとへ行き、「私のお父さん」と呼びかけた。父が、「ここにいる。私の子よ。誰だ、お前は」と尋ねると、ヤコブは言った。「長男のエサウです。お父さんの言われたとおりにしてきました。さあ、どうぞ起きて、座って私の獲物を召し上がり、お父さん自身の祝福を私に与えてください。」
「私の子よ、どうしてまた、こんなに早くしとめられたのか」と、イサクが息子に尋ねると、ヤコブは答えた。「あなたの神、主が私のために計らってくださったからです。」
イサクはヤコブに言った。「近寄りなさい。私の子に触って、本当にお前が息子のエサウかどうか、確かめたい。」ヤコブが父イサクに近寄ると、イサクは彼に触りながら言った。「声はヤコブの声だが、腕はエサウの腕だ。」
イサクは、ヤコブの腕が兄エサウの腕のように毛深くなっていたので、見破ることができなかった。そこで、彼は祝福しようとして、言った。「お前は本当に私の子エサウなのだな」ヤコブは、「もちろんです」と答えた。イサクは言った。「では、お前の獲物をここへ持って来なさい。それを食べて、私自身の祝福をお前に与えよう。」
ヤコブが料理を差し出すと、イサクは食べ、ぶどう酒をつぐと、それを飲んだ。それから、父イサクは彼に言った。「私の子よ、近寄って私に口づけをしなさい。」ヤコブが近寄って口づけをすると、イサクは、ヤコブの着物の匂いをかいで、祝福して言った。
「ああ、私の子の香りは、主が祝福された野の香りのようだ。どうか、神が天の露と地の産み出す豊かなもの、穀物とぶどう酒を、お前に与えてくださるように。多くの民がお前に仕え、多くの国民がお前にひれ伏す。お前は兄弟たちの主人となり、母の子らもお前にひれ伏す。お前を呪う者は呪われ、お前を祝福する者は、祝福されるように。」
エサウは、父がヤコブを祝福したことを根に持って、ヤコブを憎むようになった。そして、心の中で言った。「父の喪の日も遠くない。そのときがきたら、必ず弟のヤコブを殺してやる。」
ところが、上の息子エサウのこの言葉が母リベカの耳に入った。彼女は人をやって、下の息子のヤコブを呼び寄せて言った。「大変です。エサウ兄さんがお前を殺して恨みを晴らそうとしています。私の子よ。今、私の言うことをよく聞き、急いでハランに、私の兄ラバンの所へ逃げて行きなさい。そして、お兄さんの怒りが治まるまで、しばらく伯父さんの所に置いてもらいなさい。」
創世記27.1 ~ 29、41 ~ 44(キリスト教)
― み言選集 ―
本来、神様の祝福を受けるためには、神様の祝福と愛を立てるにおいて長子でなければなりません。次子が神様のみ旨を相続するようにはなっていません。堕落することによってどのようになったかというと、長子の位置にサタンの息子が先に生まれたのです。ですから、神様は、次子の位置から長子と入れ替わらなければ、神様のみ旨を相続できる道がないので、ヤコブとエサウにあったことのような、歴史にない矛盾したことを経綸せざるを得ないのです。
(102-177、1978.12.24)
神様の世界では、元から長子が祝福を受けるようになっているのであって、次子が祝福を受けるようになっていません。したがって、次子の立場で長子権を取り戻してこなければ、天の国の息子の位置に立てないだけでなく、祝福を受けることのできる原理基準を身代わりできないので……。ヤコブが知恵深いのはどういうところですか。兄が狩りに行ってきたあとにおなかがすいていることを知り、パンどレンズ豆のあつものを与えて長子権を買ったという事実は驚くべきことです。それは、父をだましてでも、父が反対しても長子の権限を取り戻す権利があるので、そのようにしたのです。堕落したことを蕩減復帰するためには不可避だったのです。
(131-180 ~ 181、1984.5.1)
ヤコブは、「私がエサウ兄さんより何倍も粘り強く、父や母、神様に兄弟たちよりもよく仕えれば長子になる」と考えました。父母に仕えたり、神様に仕えるにおいて、兄弟を愛し、一族を接待するにおいて、エサウよりヤコブが優れているというときは、すべての人が兄エサウをほうり出してでも、ヤコブを兄にするという理論が成立するのです。ヤコブはそれを望みました。ヤコブは本当に賢い人です。それは何かというと、ヤコブは出発と最後を見て闘う人です。ヤコブは最後を見て、遠い所を見つめて闘う人であり、エサウはその場の現実を見て闘う人だということです。
(108-96、1980.6.29)
それで、兄の長子の特権をパンとレンズ豆のあつものを与えて買い、それをすべて奪ってこなければならないのです。羊の皮を腕に巻き、自分の父親をだまして祝福を受けたのですが、これがなぜ神様の経綸の中にあったのかということを、今まで誰も知りませんでした。それは、なぜそのようにしなければならないのですか。神様の相続を受けるためには、長子の位置に行かなければならないというのが本来の創造理想の原則なのです。創造原理がそうです。それで、これを奪うには、ただそのまま奪うことはできません。兄が弟に売りました。売ったものを弟がもっていくのです。
ヤコブが悪いのではなく、エサウが悪いのです。長子の特権を売ったのです! ですから、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と言いました。そのように代を連結して相続することをヤコブは何よりも願ったのであり、貴く思いました。それは何かというと、長子の位置に行かなければならないというのです。それで、20 年間死ぬほど苦労したのちにエサウ(注21)に会ったのですが、エサウはヤコブを殺そうとしました。
しかし、エサウはヤコブを殺さず、歓迎することによって、この地上に長子の特権を受け継ぐことのできる横的なイスラエル圏が成立したのです。それでは、この堕落世界がどのようになったのかというと、長子として堕落した世界が生まれたのですが、次子である天側のヤコブが現れて長子の特権を奪ったので、また別の長子がこの地上に生まれたのと同じだというのです。
世界を中心として見るとき、イスラエルは長子圏世界において、神様のみ旨を中心としてまた別の長子と同じ立場で生まれたのです。二人の長子がいるのです。国家的にそうです。ですから、このユダヤの国、選民圏とサタン世界のローマを中心とする全世界が、いつも対決するのです。長子の位置で闘います。それでは、選民圏とは何でしょうか。個人から、家庭から、すべてエサウの長子権を奪ったものです。
(102-177 ~ 178、1978.12.24)
長子権は復帰され、父親からの祝福はヤコブに与えられました。しかし、エサウはあまりにも怒り、前にカインがしたようにヤコブを殺そうとしたのです。
(55-112、1972.4.1)
2. おじラバンの家でのヤコブの苦役
― 宗教経典 ―
ラバンはヤコブに言った。「お前は身内の者だからといって、ただで働くことはない。どんな報酬が欲しいか言ってみなさい。」ところで、ラバンには二人の娘があり、姉の方はレア、妹の方はラケルといった。レアは優しい目をしていたが、ラケルは顔も美しく、容姿も優れていた。ヤコブはラケルを愛していたので、「下の娘のラケルをくださるなら、私は七年間あなたの所で働きます」と言った。
ラバンは答えた。「あの娘をほかの人に嫁がせるより、お前に嫁がせる方が良い。私の所にいなさい。」ヤコブはラケルのために七年間働いたが、彼女を愛していたので、それはほんの数日のように思われた。
ヤコブはラバンに言った。「約束の年月が満ちましたから、私のいいなずけと一緒にならせてください。」ラバンは土地の人たちを皆集め祝宴を開き、夜になると、娘のレアをヤコブのもとに連れて行ったので、ヤコブは彼女のところに入った。ラバンはまた、女奴隷ジルパを娘レアに召し使いとして付けてやった。
ところが、朝になってみると、それはレアであった。ヤコブがラバンに、「どうしてこんなことをなさったのですか。私があなたのもとで働いたのは、ラケルのためではありませんか。なぜ、私をだましたのですか」と言うと、ラバンは答えた。
「我々の所では、妹を姉より先に嫁がせることはしないのだ。とにかく、この一週間の婚礼の祝いを済ませなさい。そうすれば、妹の方もお前に嫁がせよう。だがもう七年間、うちで働いてもらわねばならない。」
ヤコブが、言われたとおり一週間の婚礼の祝いを済ませると、ラバンは下の娘のラケルもヤコブに妻として与えた。ラバンはまた、女奴隷ビルハを娘ラケルに召し使いとして付けてやった。こうして、ヤコブはラケルをめとった。ヤコブはレアよりもラケルを愛した。そして、更にもう七年ラバンのもとで働いた。
主はヤコブに言われた。「あなたは、あなたの故郷である先祖の土地に帰りなさい。私はあなたと共にいる。」ヤコブは人をやって、ラケルとレアを家畜の群れがいる野原に呼び寄せて、言った。
「最近、気づいたのだが、あなた達のお父さんは、私に対して以前とは態度が変わった、しかし、私の父の神は、ずっと私と共にいてくださった。あなた達も知っているように、私は全力を尽くしてあなた達のお父さんのもとで働いてきたのに、私をだまして、私の報酬を十回も変えた。
しかし、神は私に害を加えることをお許しにならなかった。お父さんが、『ぶちのものがお前の報酬だ』と言えば、群れはみなぶちのものを産むし、『縞のものがお前の報酬だ』と言えば、群れはみな縞のものを産んだ。神はあなた達のお父さんの家畜を取り上げて、私にお与えになったのだ。群れの発情期のころのことだが、夢の中で私が目を上げて見ると、雌山羊の群れとつがっている雄山羊は縞とぶちとまだらのものばかりだった。
そのとき、夢の中で神の御使いが、『ヤコブよ』と言われたので、『はい』と答えると、こう言われた。『目を上げて見なさい。雌山羊の群れとつがっている雄山羊はみな、縞とぶちとまだらのものだけだ。ラバンのあなたに対する仕打ちは、すべて私には分かっている。私はベテルの神である。かつてあなたは、そこに記念碑を立てて油を注ぎ、私に誓願を立てたではないか。さあ、今すぐこの土地を出て、あなたの故郷に帰りなさい。』」
ラケルとレアはヤコブに答えた。「父の家に、私達への嗣業の割り当て分がまだあるでしょうか。私達はもう、父にとって他人と同じではありませんか。父は私達を売って、しかもそのお金を使い果たしてしまったのです。神様が父から取り上げられた財産は、確かに全部私達と子供たちのものです。ですから、どうか今すぐ、神様があなたに告げられたとおりになさってください。」
創世記29.15 ~ 30、31.3 ~ 16(キリスト教)
― み言選集 ―
ヤコブは兄から長子権を買い、あとで神様の祝福を奪いました。そして、家を出ました。彼はハランの地に行き、おじの家で21年間僕のように働きました。おじは彼にラケルをあげると約束しました。
しかし、7年後にヤコブをだましレアを与えました。皆さんであれば、すぐに飛びかかったでしょう。しかし、ヤコブは何も言わずにまた7年働き、結局、ラケルをもらいました。その後、おじラバンは、神様がヤコブに与えたすべてのものを奪おうとヤコブをだましました。それでもヤコブは不平を言わなかったのです。ここで私達は、ヤコブが最も孤独な境地でも神様のみ旨だけを考えたことを知らなければなりません。
彼の人生でほかのことは問題にならなかったのであり、重要なことは神様のみ旨を成し遂げることでした。それで彼は世の中からだんだんと遠くなりましたが、より多くの神様の愛を受けるようになりました。そして、21 年後には、神様が祝福してくださったすべてのものを再び取り戻し、カナンに帰ってきたのです。
(52-64、1971.12.22)
それでは、家族と親戚から追い出され、拒否される立場に立ったヤコブがその困難にどのように打ち勝てたのでしょうか。天から受けた祝福を忘れず、世の中が変わろうとどうなろうと私は変わらないという天に対する確固たる信仰があったからです。
ヤコブは、天が信じてくれなくても、私は私の家庭が全員信じるようにしよう、また祝福の遺業を取り戻し、天が摂理できる基盤をつくってさしあげようという信仰を提示したのです。そうしてヤコブは、アブラハムの家庭を通して立てようとしていた、その天倫のみ旨を継承しようという思いがあったので、21年目に信仰の家庭を築いて帰ってくるようになりました。
(4-139 ~ 140、1958.330)
今皆さんは、ヤコブと同じ立場で「神様の祝福は私達にある」という立場に立ち、父母、兄弟の反対を受けて家から出てきたのです。ここで父母たちが反対し、兄弟たちがそれほど喜んでいない人は手を挙げてみてください。
それでは、どこに行くのですか。どこに行くのかというのです。ここではありません。ここには来られません。ヤコブが家を出て神様の前に行くことができましたか。ハランに行ったのです。故郷を離れて他の所に行くのです。
(67-123、1973.5.27)
3. ヤコブと天使の格闘
― 宗教経典 ―
皆を導いて川を渡らせ、持ち物も渡してしまうと、ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。
「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」「お前の名は何というのか」とその人が尋ね、「ヤコブです」と答えると、その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」
「どうか、あなたのお名前を教えてください」とヤコブが尋ねると、「どうして、私の名を尋ねるのか」と言って、ヤコブをその場で祝福した。ヤコブは、「私は顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。
創世記32.24 ~ 31(キリスト教)
― み言選集 ―
天使が来た時ヤコブは、神様の使者として来たことを知りました。ですから、「私を滅ぼすための使命をもって来たのか、でなければ福を与えるための使命をもって来たのか」と問えば、「福を与えるために来た」と答えたので、「福をくれるならくれればいいのに、なぜくれないのか」と言えば、「責任分担が残っているのでそのままでは与えられない」と言うのです。
すなわち、ヤコブが相撲をして勝たなければ福を与えることができないというのです。言い換えれば、命を懸けて闘わなければ与えられないというのです。そのような条件を懸けていて立った時、ヤコブは「よし、私の指が抜けても、私の腕が抜けても、絶対に負けはしない」と決心し、刀で打たれても放さず、首を切られても離れないという心をもって相撲をしたのです。どれくらい闘ったでしょうか。一晩中闘ったのです。お前が死ぬまで放さないという心で闘ったのです。
ここには、神様も立ち会い、サタンも立ち会っていました。それでは最後の決定をするその場で、ヤコブはどれだけ切ない思いだったでしょうか。天使が腰の骨を打ち、足の骨を折ってしまってもヤコブは放しませんでした。お前が死に、私が死に、二人とも死んだとしても、絶対放さないという思いだったのです。そのように何時間闘ったと思いますか。7 時間以上闘ったというのです。
それでもヤコブは絶対に譲歩できないというのです。そのような中で、ヤコブを見つめる神様の心はどれほど息詰まる思いだったでしょうか。神様は、「天使が今サタンを代表して闘っているので屈服してはいけない」と知らせてあげたかったのですが、そのようにできないので、どれほどあせるような思いでその時間を過ごしたか考えてみてください。
時間が過ぎて最後の決断を下すようになったとき、天使がいくら振り払おうとしても放さないので、そこで神様も公認し、サタンも公認したのです。ヤコブがそのような立場に立って、初めて天使が公認し、ついにイスラエルという名前をもつようになりました。
ヤコブが天使に勝利してイスラエルという名前をもらうようになったとき、天上世界ではどうだったでしょうか。やきもきしていた心が解放されて歓声をあげました。心に積もり積もった悲しみの深いため息をつき、「お父様!」と叫ぶその声の中には、2000 年の積もり積もった事情が問題ではありませんでした。
ヤコブが神様のために20 年間涙を流し、神様の首を抱きかかえる心情の因縁が、アダムとエバが堕落したその因縁を越えることができたので、イスラエルという称号を受けるようになったことを皆さんは知らなければなりません。
(20-229 ~ 230、1968.6.9)
ヤコブがハランでそのように粘り強く21 年間耐える訓練をしていなければ、ヤボク川で負けていたのです。21 年間闘ったすべてのことが、今日この時間に勝敗が決定することを知ったので、ヤコブは粘り強く最後まで……。底力をそこで養いました。その後、エサウを屈服させてこそ父母に会うようになるのです。これが復帰路程です。
(67-126 ~ 127、1973.5.27)
堕落とは何ですか。天使に屈服したことです。ですから、人間が天使を屈服させなければなりません。これに勝っておけば、霊的サタンの支配を受ける天使長の実体も屈服させることのできる道ができるのです。
ですから、神様は天使を送り、ヤコブを打つようにしたのです。それで、ヤコブはその闘いをするとき、21 年分以上の力を尽くして闘いました。21 年間祝福された以上の精力を尽くし、力を尽くして闘ったのです。足が折れ、死んでも私はみ旨を成し遂げなければならないという、体は犠牲にしてもみ旨を成し遂げなければならないという信念が強かったのです。
このようにして、サタンが祝福してくれました。イスラエルという名前がここから出てきたのです。何に勝ったのですか。天使です。全天使世界に勝ったのです。そうすることによって、これかちヤコブが行く道は神様が協助するだけでなく、天使世界も屈服して協助しなければならないのです。このように霊的に勝ったので、霊的サタンが支配できなくなりました。ですから、エサウも屈服するようになるのです。
(92-285、1977.4.18)
それでは、なぜ天使はヤコブを祝福する前に、彼の腿を打ったのでしょうか。人間の堕落行為は、体のその部分、腿の誤用からもたらされたものでした。ですから、その罪ある部分を打つことにより、償いの法則は全うされたのです。すなわち、旧約聖書にある「目には目を、歯には歯を」という法則からなされたのです。ですから、天使はヤコブを祝福することができたのです。
(55-113、1972.4.1)
4. ヤコブとエサウの和解
― 宗教経典 ―
ヤコブは、あらかじめ、セイル地方、すなわちエドムの野にいる兄エサウのもとに使いの者を遣わすことにし、お前たちは私の主人エサウにこう言いなさいと命じた。
「あなたの僕ヤコブはこう申しております。私はラバンのもとに滞在し今日に至りましたが、牛、ろば、羊、男女の奴隷を所有するようになりました。そこで、使いの者を御主人様のもとに送って御報告し、御機嫌をお伺いいたします。」
使いの者はヤコブのところに帰って来て、「兄上のエサウさまのところへ行って参りました。兄上様の方でも、あなたを迎えるため、四百人のお供を連れてこちらへおいでになる途中でございます」と報告した。
ヤコブは非常に恐れ、思い悩んだ末、連れている人々を、羊、牛、らくだなどと共に二組に分けた。エサウがやって来て、一方の組に攻撃を仕掛けても、残りの組は助かると思ったのである。
ヤコブは祈った。「私の父アブラハムの神、私の父イサクの神、主よ、あなたは私にこう言われました。『あなたは生まれ故郷に帰りなさい。私はあなたに幸いを与える』と。私は、あなたが僕に示してくださったすべての慈しみとまことを受けるに足りない者です。かつて私は、一本の杖を頼りにこのヨルダン川を渡りましたが、今は二組の陣営を持つまでになりました。どうか、兄エサウの手から救ってください。私は兄が恐ろしいのです。兄は攻めて来て、私をはじめ母も子供も殺すかもしれません。あなたは、かつてこう言われました。『私は必ずあなたに幸いを与え、あなたの子孫を海辺の砂のように数えきれないほど多くする』と。」
その夜、ヤコブはそこに野宿して、自分の持ち物の中から兄エサウヘの贈り物を選んだ。それは、雌山羊二百匹、雄山羊二十匹、雌羊二百匹、雄羊二十匹、乳らくだ三十頭とその子供、雌牛四十頭、雄牛十頭、雌ろば二十頭、雄ろば十頭であった。それを群れごとに分け、召し使いたちの手に渡して言った。
「群れと群れとの間に距離を置き、私の先に立って行きなさい。」また、先頭を行く者には次のように命じた。「兄のエサウがお前に出会って、『お前の主人は誰だ。どこへ行くのか。ここにいる家畜は誰のものだ』と尋ねたら、こう言いなさい。
『これは、あなたさまの僕ヤコブのもので、御主人のエサウさまに差し上げる贈り物でございます。ヤコブも後から参ります』と。」ヤコブは、二番目の者にも、三番目の者にも、群れの後について行くすべての者に命じて言った。「エサウに出会ったら、これと同じことを述べ、『あなたさまの僕ヤコブも後から参ります』と言いなさい。」ヤコブは、贈り物を先に行かせて兄をなだめ、その後で顔を合わせれば、恐らく快く迎えてくれるだろうと思ったのである。こうして、贈り物を先に行かせ、ヤコブ自身は、その夜、野営地にとどまった。
その夜、ヤコブは起きて、二人の妻と二人の側女、それに十一人の子供を連れてヤボクの渡しを渡った。皆を導いて川を渡らせ、持ち物も渡してしまうと、ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。
ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」「お前の名は何というのか」とその人が尋ね、「ヤコブです」と答えると、その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」
「どうか、あなたのお名前を教えてください」とヤコブが尋ねると、「どうして、私の名を尋ねるのか」と言って、ヤコブをその場で祝福した。ヤコブは、「私は顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。
ヤコブがペヌエルを過ぎたとき、太陽は彼の上に昇った。ヤコブは腿を痛めて足を引きずっていた。こういうわけで、イスラエルの人々は今でも腿の関節の上にある腰の筋を食べない。かの人がヤコブの腿の関節、つまり腰の筋のところを打ったからである。
ヤコブが目を上げると、エサウが四百人の者を引き連れて来るのが見えた。ヤコブは子供たちをそれぞれ、レアとラケルと二人の側女とに分け、側女とその子供たちを前に、レアとその子供たちをその後に、ラケルとヨセフを最後に置いた。ヤコブはそれから、先頭に進み出て、兄のもとに着くまでに七度地にひれ伏した。
エサウは走って来てヤコブを迎え、抱き締め、首を抱えて口づけし、共に泣いた。やがて、エサウは顔を上げ、女たちや子供たちを見回して尋ねた。「一緒にいるこの人々は誰なのか。」、「あなたの僕である私に、神が恵んでくださった子供たちです。」ヤコブが答えると、側女たちが子供たちと共に進み出てひれ伏し、次に、レアが子供たちと共に進み出てひれ伏し、最後に、ヨセフとラケルが進み出てひれ伏した。
エサウは尋ねた。「今、私が出会ったあの多くの家畜は何のつもりか。」ヤコブが、「御主人様の好意を得るためです」と答えると、エサウは言った。「弟よ、私のところには何でも十分ある。お前のものはお前が持っていなさい。」
ヤコブは言った。「いいえ。もし御好意をいただけるのであれば、どうぞ贈り物をお受け取りください。兄上のお顔は、私には神の御顔のように見えます。この私を温かく迎えてくださったのですから。どうか、持参しました贈り物をお納めください。神が私に恵みをお与えになったので、私は何でも持っていますから。」ヤコブがしきりに勧めたので、エサウは受け取った。
創世記32.3 ~ 33.10 (キリスト教)
― み言選集 ―
長子の位置に行かなければならないというのです。それで、20 年間死ぬほど苦労したのちにエサウに会ったのですが、エサウはヤコブを殺そうとしました。しかし、エサウはヤコブを殺さず、歓迎することによって、この地上に長子の特権を受け継ぐことのできる横的なイスラエル圏が成立したのです。
(102-178、1978.12.24)
彼は、兄エサウが自分を殺そうとしていることを知っていました。それでヤコブは、自分のすべての僕と財産を兄エサウにあげようと決めました。彼は、生涯かけて稼ぎ集めたすべてのものを兄エサウに与えようとしたのです。彼の心は、神様が兄エサウを罰せず、自分に祝福されたように兄を祝福してほしいと祈る思いでした。そのような理由でエサウはヤコブを殺そうとしなかったのであり、それでエサウもやはり神様から祝福を受けたのです。
(52-65、1971.12.22)
アベルが家庭に帰ってきて長子の職分を受け、神様の祝福を受けようとすれば、誰が公認しなければなりませんか。「あなたが長子の特権を私の代わりにもっているので、あなたが天の祝福を受けなければならない」という、このようなサインを誰がしてあげなければならないかというと、カインがしてあげなければなりません。カインがサインしなければ、カインが認めなければならないのです。同じように、エサウが認めなければヤコブが祝福を受けられないということです。
ヤコブが出ていって21 年間何をしたのでしょうか。自分の基盤をつくりました。氏族をつくり……。これをやらなければならないのです。すべての面においてエサウより優勢な基盤を築き、エサウを消化させなければなりません。
そのような運動をしなければなりません。そうしてこそ、神様が祝福してくださいます。イスラエルと祝福してくださったのと同じように、継続して祝福してくださるのです。それでお金もたくさんあり、羊もたくさんいて、すべての面でもっているものがエサウよりも多いというのです。母親との因縁をもち、父親との因縁をもち、物も送ってしきりにそのようにしました。兄にどんどん物を送ったのです。
それで、エサウが、「弟は恐ろしい。神様が本当に弟を祝福したのだなあ。長子の特権を売ったのは私の過ちだった。そうだ、私か間違ったのだから、私は弟に及ばない。これから弟が来たら反対してはいけない。歓迎しなければならない」と思ったのです。神様がアベルと同じようにされるのだなあということを分かったのです。これが私達の行くべき伝統の道です。このような公式は、どの時代にも適用されるのです。(注23)
(106-183 ~ 184、1979.12.30)
エサウは、ヤコブがハランで21 年間の苦役を終えて、天の側の妻子と財物とを得てカナンヘ帰ってきたとき、彼を愛し、歓迎したので(創33・4)、彼らは「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を立てることができたのである。
このように、彼らは、アダムの家庭のカインとアベル、ノアの家庭のセムとハムが、「実体献祭」に失敗したのを蕩減復帰することができたのである。このようにエサウとヤコブが「実体献祭」に成功した結果、既に、アダムの家庭から「実体基台」を蕩減復帰するために続いてきた縦的な歴史路程を、アブラハムを中心とする復帰摂理路程の中で、イサクの家庭で初めて、これを横的に蕩減復帰するようになったのである。
神はエサウを胎内より憎んだとロマ書9章11 節から13 節までに記録されているが、このように彼はヤコブに従順に屈伏して、自分の責任分担を果たしたところから、復帰したカインの立場に立つようになり、ついに、神の愛を受けるようになった。
したがって、神が彼を憎んだと記録されているのは、ただ、彼が復帰摂理の蕩減条件を立てていく過程において、サタンの側であるカインの立場であったために、憎しみを受けるべきその立場にあったということをこう表現されたものにすぎない。原理講論、復帰基台摂理時代3.2
ヤコブが希望の父母に会い、兄弟に会って平和の理想を求めていったのと同じように、私達もそのような世界的な理想世界を求めていくために、カイン・アベルを復帰するための、あるいはエサウとヤコブが一つになる路程を経て、父母に会い、神様に会って世界的な主権国家の世界に入っていこうというのです。
(67-136、1973.5.27)
6) ヨセフ
ヨセフは、兄たちに憎まれ、エジプトに奴隷として売られていった。しかし、数年が過ぎたのち、ヨセフは高い地位に登り、自分の兄たちが食糧を求めるためにエジプトに来たとき、彼らの悩みを解決してあげる機会が生じた。ヨセフが兄たちに憎まれて追い出され、彼らと決定的に和解した事件は、弟ヤコブと兄エサウの一生の間の反目をそのまま反映したものである。
しかし、ヨセフの場合は、天の人物が強大な権力の座に登った事例である。ヤコブとは違い、ヨセフは兄たちに報復できる権力をもっていたのであり, 実際にその権力で自分の兄たちをたじろがせ、過去の彼ら自身の犯罪を自認させ得る権力を行使できた。しかし、結局、ヨセフは、自分の兄たちを赦して助けてあげた。それは、ヨセフの兄たちが自分の父ヤコブを心から保護する善の側面を看破したからである。
文鮮明先生は、ヨセフの数奇な人生、そしてヨセフと自分の兄たちとの偶然の出会い自体が、神様の大いなる摂理的な経綸の一部だったことを明かしている。特に、兄たちに寛容を施したヨセフの動機を重視しながら、文先生は宗教指導者としてキリスト教の「兄たち」に受けた自身の迫害に適用した。
1. 夢見る者ヨセフ
― 宗教経典 ―
ヨセフがその父ヤコブに、「父よ、私は夢で十一の星と、日と月を見た、私は、それがみな私に、ひれ伏しているのを見ました」と、言った。かれは言った「むすこよ、おまえの夢を兄たちに話してはならない、そうでないとかれらはおまえに対して策謀をたくらむであろう。まことに悪魔は、人間にとっては公然の敵である」。
「このように主は、おまえをお選びになって、物語や事物の解釈を教えたまい、かれが先におまえの祖先のアブラハムやイサクに、お恵みを全うされたように、おまえとヤコブの子孫にそれを全うしたもう。まことにおまえの主は、全知者・英明者であられる」。まことにヨセフとその兄弟の物語の中には、真理を探求する者への種々のしるしがある。兄たちが、「ヨセフとその弟は、わしらよりも父にちょう愛されている。だがわしらは勇壮な仲間である。父は明らかに間違っている」と言った。
(ひとりが言った)「ヨセフを殺すか、それともかれをどこか他の地を追え、そうすれば父の好意はおまえたちに向けられよう、その後に、おまえたちは正しい者になれるであろう」。かれらのひとりの者が「ヨセフを殺害してはならぬ、もしおまえたちがどうしてもするなら、むしろかれを井戸の底に投げ込めば、どこかの隊商に拾いあげられることもあろう」と言った。
かれらは言った「父よ、なぜあなたはヨセフを、私達にお任せにならぬのか。私達は、ほんとうにかれに好意を寄せる者ではありませんか」。「あした、私達と一緒にかれを野に行かせれば、かれらは遊んで気を晴らし、私達はかれをきっと十分に守ります」。
ヤコブは「おまえたちがかれをつれて行くのは、私にはどうも心配だ。おまえたちがかれに気をつけないあいだに、オオカミがかれを食いはしないかと恐れている」と言った。かれらは言った「わしらは勇壮な仲間だから、もしオオカミがかれを食うなら、そのときは、わしらはほんとうに身の破滅であります」。
こうしてかれらは、ヨセフを連れて行った、そしてかれを、井戸の底に投げ込むことに決った時、われはヨセフに啓示した「なんじは必ずかれらのするこの事を、かれらに告げる日があろう。そのときかれらはなんじに気づくまい」。
日が暮れてかれらは泣きながら父に帰って来た。「父よ、わしらは互いに競争して行き、ヨセフをわしらの品物のかたわらに残しておいたところ、オオカミが来てかれを食いました。わしらは真実を報告しても、あなたはわしらを信じて下さらぬでしょう」と言った。
かれらは、ヨセフの下着を、偽りの血で汚して持って来た。ヤコブは言った「いや、いや、おまえたちが己れのために(大変なことを安易に考えて)、一事件を作ったのだ。それで私としては耐え忍ぶのが穏当だ。おまえたちの述べることについては、ただ神にお助けをお願いする」。
そのうちに、隊商が来て水くみ人をつかわし、かれは釣瓶(つるべ)を降ろした。かれは言った、「ああ吉報だ、これは少年だ」と。そこでかれらは一つの財貨としてかれを隠した、だが神は、かれらのしわざのすべてを熟知したもう。かれらは安価にわずかの銀貨でかれを売り払った。かれらは、かれについて多くをむさぼらなかった。
クルアーン12.4 ~ 20(イスラーム)
― み言選集 ―
ヨセフが夢を見るとき、「日と月と11 の星とが私を拝みました」と言ったでしょう? 未来に起きることが夢の中に現れました。それがそのとおりになりました。そのようになったでしょう? 皆さんにもそのような夢があります。
夢を見ない人はいません。夢を見た人、手を挙げてください。夢を見て、今まで忘れない夢、3年以上たっても忘れない夢は天の啓示です。それを知らなければなりません。そのような夢を見た人、手を挙げてみてください。
皆さんが統一教会に入ってくるときも、レバレンド・ムーンを知らず、統一教会を知りませんが、皆さんは既に統一教会に入ってくる前に、昔東洋の人が来て五色人種がすべて集まり、レバレンド・ムーンについていくのを見ました。
見た人がたくさんいます。そのような人たちが統一教会に入ってきた人には多いのです。そのようなことがなぜ起きるのでしょうか。それはすべて霊界で人間を教育するための方法が残っているというのです。
そのような段階で教育するための方法が残っているので、そのようなことが起きるのです。教えであげる方法も神様が教えてくれるのでしょうか、天使たちが教えてくれるのでしょうか。階級によってすべて違います。様々な階級を通して教えてくれます。自分の先祖が現れて教えてくれることもあります。ですから、昔さんがこれを見分けるのは難しいのです。
(91-274、1977.2.27)
2. 監獄から王宮へのヨセフ路程
― 宗教経典 ―
かれが成年に達したころ、われは識見と知識とをかれに授けた。このようにわれは正しい行いをなす者に報いる。かれの起居する家の婦人が、かれを本心から惑わそうとして、戸を閉めて言った「さあ、おいで、おまえさん」と。かれは祈って言った「神よ、私をお守り下さい、まことにかれ(あなたの夫)は、主人であります、私を気持ちよく住ませていただきます、ほんとうに不義者は、成功いたしません」。確かにかの女は、かれに求めたのである。
主の明証を見なかったならば、かれもかの女を求めたであろう。このようにしてわれは、かれから罪悪と醜行を遠ざけた。まことにかれは、謙虚で純真な選ばれたわがしもべのひとりである。
そのとき両人は戸の方にあい競い、かの女は、後ろからかれの下着を引き裂き、かれら両人は、戸口でかの女の夫に出会った。かの女は「あなたの家人に悪事を行おうとした者には、投獄されるか痛刑のほかにどんな応報がありましょう」と言った。かれは言った「奥さまこそ、私の意に反して、私をお求めになりました」。
そのときかの女の家人の中の1証人が証言した。「もしかれの下着が前から裂けておれば、奥さまが真実でかれはうそであります」。「だがかれの下着が、もし後ろから裂けておれば、奥さまがうそをおつきになったので、かれは真実であります」。
主人は、ヨセフの下着が後ろから裂けているのを見て言った「これはおまえたち婦人の悪だくみだ。まことにおまえたちの悪だくみは、すさまじいものである」。「ヨセフよ、これを気にしないでくれ。それから妻よ、おまえの罪のお許しを願いなさい。まことにおまえは罪深い者である」。
町の婦人たちは評判して言った貴人の奥方が、青年の意に反し、かれに求めたのは、きっとかれの愛で、奥方がたきつけられたのであろう。私達は、明らかに奥方の誤りだと思う」。かの女は婦人たちの悪意ある陰口を聞くと、使いをつかわし、かの女らのために宴席を設け、めいめいにナイフを渡し、それから(ヨセフに)「かの女らに出て行きなさい」と言った。
かの女らがヨセフを見ると驚ろいて、興奮してその手を傷つけて言った「神の造化の完全無欠なことよ、これは人間ではない。これは貴い天使でなくて何であろう」。かの女は言った「これよ、あんたがたが、私をそしる人よ。たしかに私がひっぱってかれに求めたが、かれは貞節を守ったのよ。もしかれが私の命ずることをしないなら、きっと投獄されて汚名を被る者になるでしょう」。
クルアーン12.22 ~ 32(イスラーム)
そのとき、例の給仕役の長がファラオに申し出た。「私は、今日になって自分の過ちを思い出しました。かつてファラオが僕どもについて憤られて、侍従長の家にある牢獄に私と料理役の長を入れられたとき、同じ夜に、私達はそれぞれ夢を見たのですが、そのどちらにも意味が隠されていました。そこには、侍従長に仕えていたヘブライ人の若者がおりまして、彼に話をしたところ、私達の夢を解き明かし、それぞれ、その夢に応じて解き明かしたのです。そしてまさしく、解き明かしたとおりになって、私は元の職務に復帰することを許され、彼は木にかけられました。」
そこで、ファラオはヨセフを呼びにやった。ヨセフは直ちに牢屋から連れ出され、散髪をし着物を着替えてから、ファラオの前に出た。ファラオはヨセフに言った。「私は夢を見たのだが、それを解き明かす者がいない。聞くところによれば、お前は夢の話を聞いて、解き明かすことができるそうだが。」
ヨセフはファラオに答えた。「私ではありません。神がファラオの幸いについて告げられるのです。」ファラオはヨセフに話した。「夢の中で、私がナイル川の岸に立っていると、突然、よく肥えて、つややかな七頭の雌牛が川から上がって来て、葦辺で草を食べ始めた。すると、その後から、今度は貧弱で、とても醜い、やせた七頭の雌牛が上がって来た。あれほどひどいのは、エジプトでは見たことがない。そして、そのやせた、醜い雌牛が、初めのよく肥えた七頭の雌牛を食い尽くしてしまった。ところが、確かに腹の中に入れたのに、腹の中に入れたことがまるで分からないほど、最初と同じように醜いままなのだ。私は、そこで目が覚めた。
それからまた、夢の中で私は見たのだが、今度は、とてもよく実の入った七つの穂が一本の茎から出てきた。すると、その後から、やせ細り、実が入っておらず、東風で干からびた七つの穂が生えてきた。そして、実の入っていないその穂が、よく実った七つの穂をのみ込んでしまった。わたしは魔術師たちに話したが、その意味を告げうる者は一人もいなかった。」ヨセフはファラオに言った。
「ファラオの夢は、どちらも同じ意味でございます。神がこれからなさろうとしていることを、ファラオにお告げになったのです。七頭のよく育った雌牛は七年のことです。七つのよく実った穂も七年のことです。どちらの夢も同じ意味でございます。
その後から上がって来た七頭のやせた、醜い雌牛も七年のことです。また、やせて、東風で干からびた七つの穂も同じで、これらは七年の飢饉のことです。これは、先程ファラオに申し上げましたように、神がこれからなさろうとしていることを、ファラオにお示しになったのです。
今から七年間、エジプトの国全体に大豊作が訪れます。しかし、その後に七年間、飢饉が続き、エジプトの国に豊作があったことなど、すっかり忘れられてしまうでしょう。飢饉が国を滅ぼしてしまうのです。この国に豊作があったことは、その後に続く飢饉のために全く忘れられてしまうでしょう。飢饉はそれほどひどいのです。
ファラオが夢を二度も重ねて見られたのは、神がこのことを既に決定しておられ、神が間もなく実行されようとしておられるからです。このような次第ですから、ファラオは今すぐ、聡明で知恵のある人物をお見つけになって、エジプトの国を治めさせ、また、国中に監督官をお立てになり、豊作の七年の間、エジプトの国の産物の五分の一を徴収なさいますように。
このようにして、これから訪れる豊年の間に食糧をできるかぎり集めさせ、町々の食糧となる穀物をファラオの管理の下に蓄え、保管させるのです。そうすれば、その食糧がエジプトの国を襲う七年の飢饉に対する国の備蓄となり、飢饉によって国が滅びることはないでしょう。」
ファラオと家来たちは皆、ヨセフの言葉に感心した。ファラオは家来たちに、「このように神の霊が宿っている人はほかにあるだろうか」と言い、ヨセフの方を向いてファラオは言った。「神がそういうことをみな示されたからには、お前ほど聡明で知恵のある者は、ほかにはいないであろう。お前をわが宮廷の責任者とする。わが国民は皆、お前の命に従うであろう。ただ王位にあるということでだけ、私はお前の上に立つ。」ファラオはヨセフに向かって、「見よ、私は今、お前をエジプト全国の上に立てる」と言った。
創世記41.9 ~ 41(キリスト教)
― み言選集 ―
メシヤは、必ず国を中心として来なければなりません。サタン世界が国を単位としているからです。それで、アベルの国を中心としてカインの国々を屈服させなければなりません。これは、ヤコブ家庭において、ヨセフの歴史と同じです。11 人の兄弟がすべて彼を殺そうとしたのであり、エジプトに売り飛ばしたのです。ところが、彼は、エジプトに行って総理大臣になり、父母からその一族がすべて滅びそうになるときに助けてあげると、彼らがみな屈服することによって、イスラエル圏の家族基盤が復帰されたのです。
(139-300、1986.1.31)
監獄に行く人たちは、サタン世界で誰の利益を追求した人たちですか。自分の利益を得るために公的なものを破壊した人たちです。そのような人たちが行く所です。サタン世界ではそのような人を嫌い、もう一つ嫌うのが何かというと、もともと神様と怨讐なので、天の側の人が来るのを嫌います。2種類しかありません。今までこの2種類の人がその主権下で、体制下で反対を受け、監獄に行って死に、犠牲になってきたのです。このような歴史的な事実を私達はよく知っています。
天は天の側の人を立て、サタン世界の網を断ち切って天の世界の網をつくり、愛の綱にすべてつなごうとするのです。それでは、サタン世界がいくらどうにかしようとしても、びくとも動けずに手を出すごとができない天の側の人はどのような人でしょうか。そのような人がいればよいでしょう? 手を出せば損害賠償せざるを得ない、そのような種類の人はどのような人かというのです。
「サタン世界の民(注25)を、お前(サタン)が愛する以上、天の愛の基準で愛そう」という人を捕まえれば問題が生じます。何千万倍の損害賠償を支払うことが起きるのです。なぜそうなのでしょうか。本来サタンは真の神様の愛圏の支配を受け、そこに属している自分であることを知っているので、その愛の前では神様が生きている限り、神様の目の前に出てくることはできません。そのような立場でもし被害を与えれば、歴史を通して永遠に弁償しなければなりません。
それで、歴史時代に神様はそのような天の愛をもった人を天の公義の位置に立て、この地上のサタン世界で故意に問題を起こさせて死ぬような境地に追い込むのです。打たれて死ねば、千年、万年歴史を通して損害賠償を支払わなければならないので、打たれるこの基盤を通して宗教という基盤を世界的に拡大することができたのです。そのような論理的根拠を知らなければなりません。
(167-305 ~ 306、1987.8.20)
3. ヨセフと兄弟たちの出会いと和解
― 宗教経典 ―
ヤコブは、エジプトに穀物があると知って、息子たちに、「どうしてお前たちは顔を見合わせてばかりいるのだ」と言い、更に、「聞くところでは、エジプトには穀物があるというではないか。エジプトヘ下って行って穀物を買ってきなさい。そうすれば、我々は死なずに生き延びることができるではないか」と言った。
そこでヨセフの十人の兄たちは、エジプトから穀物を買うために下って行った。ヤコブはヨセフの弟ベニヤミンを兄たちに同行させなかった。何か不幸なことが彼の身に起こるといけないと思ったからであった。イスラエルの息子たちは、他の人々に混じって穀物を買いに出かけた。カナン地方にも飢饉が襲っていたからである。
ところで、ヨセフはエジプトの司政者として、国民に穀物を販売する監督をしていた。ヨセフの兄たちは来て、地面にひれ伏し、ヨセフを拝した。ヨセフは一目で兄たちだと気づいたが、そしらぬ振りをして厳しい口調で、「お前たちは、どこからやって来たのか」と問いかけた。
彼らは答えた。「食糧を買うために、カナン地方からやって参りました。」ヨセフは兄たちだと気づいていたが、兄たちはヨセフとは気づかなかった。ヨセフは、そのとき、かつて兄たちについて見た夢を思い起こした。
ヨセフは彼らに言った。「お前たちは回し者だ。この国の手薄な所を探りに来たにちがいない。」彼らは答えた。「いいえ、御主君様。僕どもは食糧を買いに来ただけでございます。私どもは皆、ある男の息子で、正直な人間でございます。僕どもは決して回し者などではありません。」
しかしヨセフが、「いや、お前たちはこの国の手薄な所を探りに来たにちがいない」と言うと、彼らは答えた。「僕どもは、本当に十二人兄弟で、カナン地方に住むある男の息子たちでございます。末の弟は、今、父のもとにおりますが、もう一人は失いました。」すると、ヨセフは言った。「お前たちは回し者だと私が言ったのは、そのことだ。その点について、お前たちを試すことにする。ファラオの命にかけて言う。いちばん末の弟を、ここに来させよ。それまでは、お前たちをここから出すわけにはいかぬ。…
では、弟を連れて、早速その人のところへ戻りなさい。どうか、全能の神がその人の前でお前たちに憐れみを施し、もう一人の兄弟と、このベニヤミンを返してくださいますように。この私がどうしても子供を失わねばならないのなら、失ってもよい。」
息子たちは贈り物と二倍の銀を用意すると、べニヤミンを連れて、早速エジプトヘ下って行った。さて、一行がヨセフの前に進み出ると、ヨセフはベニヤミンが一緒なのを見て、自分の家を任せている執事に言った。「この人たちを家へお連れしなさい。それから、家畜を屠って料理を調えなさい。昼の食事をこの人たちと一緒にするから。」
ヨセフは執事に命じた。「あの人たちの袋を、運べるかぎり多くの食糧でいっぱいにし、めいめいの銀をそれぞれの袋の口のところへ入れておけ。それから、私の杯、あの銀の杯を、いちばん年下の者の袋の口に、穀物の代金の銀と一緒に入れておきなさい。」執事はヨセフが命じたとおりにした。
次の朝、辺りが明るくなったころ、一行は見送りを受け、ろばと共に出発した。ところが、町を出て、まだ遠くへ行かないうちに、ヨセフは執事に命じた。「すぐに、あの人たちを追いかけ、追いついたら彼らに言いなさい。『どうして、お前たちは悪をもって善に報いるのだ。あの銀の杯は、私の主人が飲むときや占いのときに、お使いになるものではないか。よくもこんな悪いことができたものだ。』」執事は彼らに追いつくと、そのとおりに言った。すると、彼らは言った。「御主人様、どうしてそのようなことをおっしゃるのですか。僕どもがそんなことをするなどとは、とんでもないことです。袋の口で見つけた銀でさえ、私どもはカナンの地から持ち帰って、御主人様にお返ししたではありませんか。その私どもがどうして、あなたの御主君のお屋敷から銀や金を盗んだりするでしょうか。僕どもの中のだれからでも杯が見つかれば、その者は死罪に、ほかの私どもも皆、御主人様の奴隷になります。」
すると、執事は言った。「今度もお前たちが言うとおりならよいが。だれであっても、杯が見つかれば、その者は私の奴隷にならねばならない。ほかの者には罪は無い。」
彼らは急いで自分の袋を地面に降ろし、めいめいで袋を開けた。執事が年上の者から念入りに調べ始め、いちばん最後に年下の者になったとき、べニヤミンの袋の中から杯が見つかった。彼らは衣を引き裂き、めいめい自分のろばに荷を積むと、町へ引き返した。ユダと兄弟たちがヨセフの屋敷に入って行くと、ヨセフはまだそこにいた。一同は彼の前で地にひれ伏した。「お前たちのしたこの仕業は何事か。私のような者は占い当てることを知らないのか」とヨセフが言うと、ユダが答えた。「御主君に何と申し開きできましょう。今更どう言えば、私どもの身の証しを立てることができましょう。神が僕どもの罪を暴かれたのです。この上は、私どもも、杯が見つかった者と共に、御主君の奴隷になります。」
ヨセフは言った。「そんなことは全く考えていない。ただ、杯を見つけられた者だけが、私の奴隷になればよい。ほかのお前たちは皆、安心して父親のもとへ帰るがよい。」ユダはヨセフの前に進み出て言った。「ああ、御主君様。何とぞお怒りにならず、僕の申し上げますことに耳を傾けてください。あなたはファラオに等しいお方でいらっしゃいますから。
御主君は僕どもに向かって、『父や兄弟がいるのか』とお尋ねになりましたが、そのとき、御主君に、『年とった父と、それに父の年寄り子である末の弟がおります。その兄は亡くなり、同じ母の子で残っているのはその子だけですから、父は彼をかわいがっております』と申し上げました。
すると、あなたさまは、『その子をここへ連れて来い。自分の目で確かめることにする』と僕どもにお命じになりました。私どもは、御主君に、『あの子は、父親のもとから離れるわけにはまいりません。あの子が父親のもとを離れれば、父は死んでしまいます』と申しましたが、あなたさまは、『その末の弟が一緒に来なければ、再び私の顔を見ることは許さぬ』と僕どもにおっしゃいました。
私どもは、あなたさまの僕である父のところへ帰り、御主君のお言葉を伝えました。そして父が、『もう一度行って、我々の食糧を少し買って来い』と申しました折にも、『行くことはできません。もし、末の弟が一緒なら、行って参ります。末の弟が一緒でないかぎり、あの方の顔を見ることはできないのです』と答えました。
すると、あなたさまの僕である父は、『お前たちも知っているように、私の妻は二人の息子を産んだ。ところが、そのうちの一人は私のところから出て行ったきりだ。きっとかみ裂かれてしまったと思うが、それ以来、会っていない。それなのに、お前たちはこの子までも、私から取り上げようとする。
もしも、何か不幸なことがこの子の身に起こりでもしたら、お前たちはこの白髪の父を、苦しめて陰府に下らせることになるのだ』と申しました。今私が、この子を一緒に連れずに、あなたさまの僕である父のところへ帰れば、父の魂はこの子の魂と堅く結ばれていますから、この子がいないことを知って、父は死んでしまうでしょう。
そして、僕どもは白髪の父を、悲嘆のうちに陰府に下らせることになるのです。実は、この僕が父にこの子の安全を保障して、『もしも、この子をあなたのもとに連れて帰らないようなことがあれば、私が父に対して生涯その罪を負い続けます』と言ったのです。何とぞ、この子の代わりに、この僕を御主君の奴隷としてここに残し、この子はほかの兄弟だちと一緒に帰らせてください。この子を一緒に連れずに、どうして私は父のもとへ帰ることができましょう。父に襲いかかる苦悶を見るに忍びません。」
ヨセフは、そばで仕えている者の前で、もはや平静を装っていることができなくなり、「みんな、ここから出て行ってくれ」と叫んだ。だれもそばにいなくなってから、ヨセフは兄弟たちに自分の身を明かした。ヨセフは、声をあげて泣いたので、エジプト人はそれを聞き、ファラオの宮廷にも伝わった。
ヨセフは、兄弟たちに言った。「私はヨセフです。お父さんはまだ生きておられますか。」兄弟たちはヨセフの前で驚きのあまり、答えることができなかった。ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか、もうと近寄ってください。」兄弟たちがそばへ近づくと、ヨセフはまた言った。「私はあなた達がエジプトヘ売った弟のヨセフです。しかし、今は、私をここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神が私をあなた達より先にお遣わしになったのです。この二年の間、世界中に飢饉が襲っていますが、まだこれから五年間は、耕すこともなく、収穫もないでしょう。
神が私をあなた達より先にお遣わしになったのは、この国にあなた達の残りの者を与え、あなた達を生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。私をここへ遣わしたのは、あなた達ではなく、神です。神が私をファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださったのです。急いで父上のもとへ帰って、伝えてください。『息子のヨセフがこう言っています。神が、私を全エジプトの主としてくださいました。ためらわずに、私のところへおいでください。』
創世記42.1 ~ 45.9 (キリスト教)
― み言選集 ―
神様は、ヤコブの息子12 兄弟の中で11 番目のヨセフをエジプトに売られていくようにして、死ぬような苦労をさせてイスラエルを救いました。同じように、今日この統一教会がダビデと同じ位置で、ヨセフのように犠牲になる立場で冷遇されていますが、天は彼らを立てて国と世界を救おうというのです。
神様のみ旨のためには、自分の生命やすべてのものを犠牲にして国と世界を救おうというのです。神様のみ旨のためには、自分の生命やすべてのものを犠牲にして国と世界を復帰してさしあげようとしなければなりません。そのような群れだけが神様のコンセプトと一致するのです。
そのようなことを知っているので、先生は迫害を受けながらも恨むことなく、不平を言わず、へたばらず、最後まで撃破したのです。ヨセフが自分の兄弟たちを赦したのは、父母を赦したのと同じです。私と統一教会がヨセフの立場で見るとき、アメリカは怨讐ですが、神様を信じるので、神様のことを考えても赦さざるを得ないのです。
(146-124 ~ 125、1986.6.8)
ヨセフは、兄弟たちにねたみ嫌われてエジプトに売られていき、ボテパルの妻の謀略で監獄に行くようになりますが、そこでパロの夢解きをしてあげ、エジプトの総理大臣になります。このとき、全世界が凶年に入り、エジプト人だけでなく、各国の人たちが穀物を買いに来るのですが、その人たちの中に自分の兄たちもいました。
自分を殺そうとしていた怨讐であるその兄たちを見たとき、ヨセフはどれほど苦しかったでしょうか。しかし、ヨセフは、彼らが自分と同じ血筋を受け継いだ兄弟の関係であり、自分が父母のそばを離れて外地で生活しているとき、それでも父母に侍り、父母の愛の対象になり、父母の愛する心が彼らを経ていったということを考えて彼らを赦したのです。
(48-312、1971.9.26)
ヨセフも11 人の兄弟が反対しました。殺そうとしましたが、それを一つにしなければエジプトの父母を助ける道がなかったのです。同様の歴史が展開するのです。先生がちょうどヨセフと同じです。ヨセフはエジプトに入っていってすべての基盤を築き、11 人の兄弟を助けてあげました。先生も、キリスト教が滅びるのを助けてあげているのですが、これがちょうどイスラエル民族を代表したヨセフと同じ責任を果たしているのです。
(137-27、1986.1.1)
ヨセフが、エジプトに訪ねてきた11 人の兄弟を許すことができたのは、なぜですか。自分がいない間に父母を養った兄弟たちであることを思えば、許さざるを得なかったのである。それと同じように、我々に反対してきた既成教団を祝福せざるを得ないのは、統一教会が現れる以前に神様に侍ってきた基準があるからである。
御旨の道、指導者
7) モーセ
モーセは、宮中の安楽な生活からミデヤン荒野の困難、そしてイスラエルの民を導いてエジプトから脱出する日から、荒野で長い間さまよいながらイスラエル民族を一つにまとめるために苦痛の闘争をするとぎまで、冒険的な人生を体験した。イスラエル同族へのモーセの熱烈な愛と全能であられる神様への確固たる信仰、この二つが常にモーセのあらゆる歩みを導いた。
聖書は、モーセが独り神様を真正面から理解していたという。文鮮明先生は、モーセの内的生活を特に注目する。イスラエルの民が苦境に直面しているとき、神様の悲痛な心情をモーセははっきりと知っており、彼らを解放しでカナンに国家を建設しようとする神様の燃える意志も感知した。したがって、モーセは神様の苦痛を減らしてさしあげるためのいかなる犠牲も克服し、イスラエル民族が神様を受け入れられるように尽力したのである。
1. モーセの民族解放への熱望
― 宗教経典 ―
モーセが成人したころのこと、彼は同胞のところへ出て行き、彼らが重労働に服しているのを見た。そして一人のエジプト人が、同胞であるヘブライ人の一人を打っているのを見た。モーセは辺りを見回し、だれもいないのを確かめると、そのエジプト人を打ち殺して死体を砂に埋めた。翌日、また出て行くと、今度はヘブライ人どうしが二人でけんかをしていた。モーセが、「どうして自分の仲間を殴るのか」と悪い方をたしなめると、「誰がお前を我々の監督や裁判官にしたのか。お前はあのエジプト人を殺したように、この私を殺すつもりか」と言い返したので、モーセは恐れ、さてはあの事が知れたのかと思った。ファラオはこの事を聞き、モーセを殺そうと尋ね求めたが、モーセはファラオの手を逃れてミディアン地方にたどりつき、とある井戸の傍らに腰を下ろした。
出エジプト記2.11 ~ 15(キリスト教)
モーセは、しゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが、あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。モーセは言った。
「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。」主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼が、「はい」と答えると、神が言われた。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」
神は続けて言われた。「私はあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。主は言われた。「私は、エジプトにいる私の民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、私は降りて行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。
見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、私のもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。私はあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」
モーセは神に言った。「私は何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」神は言われた。「私は必ずあなたと共にいる。このことこそ、私があなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなた達はこの山で神に仕える。」
モーセは神に尋ねた。「私は、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなた達の先祖の神が、私をここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」神はモーセに、「私はある。私はあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『私はある』という方が私をあなた達に遣わされたのだと。」
神は、更に続けてモーセに命じられた。「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなた達の先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主が私をあなた達のもとに遣わされた。これこそ、とこしえに私の名、これこそ世々に私の呼び名。さあ、行って、イスラエルの長老たちを集め、言うがよい。
『あなた達の先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である主が私に現れて、こう言われた。私はあなた達を顧み、あなた達がエジプトで受けてきた仕打ちをつぶさに見た。あなた達を苦しみのエジプトから、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む乳と蜜の流れる土地へ導き上ろうと決心した』と。
出エジプト記3.1 ~ 17(キリスト教)
主はミデアンでモーセに言われた。「さあ、エジプトに帰るがよい、あなたの命をねらっていた者は皆、死んでしまった。」モーセは、妻子をろばに乗せ、手には神の杖を携えて、エジプトの国を指して帰って行った。
主はモーセに言われた。「エジプトに帰ったら、私があなたの手に授けたすべての奇跡を、心してファラオの前で行うがよい。しかし、私が彼の心をかたくなにするので、王は民を去らせないであろう。あなたはファラオに言うがよい。主はこう言われた。『イスラエルは私の子、私の長子である。私の子を去らせて私に仕えさせよと命じたのに、お前はそれを断った。それゆえ、私はお前の子、お前の長子を殺すであろう』と。」途中、ある所に泊まったとき、主はモーセと出会い、彼を殺そうとされた。ツィポラは、とっさに石刀を手にして息子の包皮を切り取り、それをモーセの両足に付け、「私にとって、あなたは血の花婿です」と叫んだので、主は彼を放された。彼女は、そのとき、割礼のゆえに「血の花婿」と言ったのである。
主はアロンに向かって、「さあ、荒れ野へ行って、モーセに会いなさい」と命じられたので、彼は出かけて行き、神の山でモーセと会い、口づけした。モーセは自分を遣わされた主の言葉と、命じられたしるしをすべてアロンに告げた。モーセはアロンを伴って出かけ、イスラエルの人々の長老を全員集めた。
アロンは主がモーセに語られた言葉をことごとく語り、民の面前でしるしを行ったので、民は信じた。また、主が親しくイスラエルの人々を顧み、彼らの苦しみを御覧になったということを聞き、ひれ伏して礼拝した。
出エジプト記4.19 ~ 31(キリスト教)
それからかれらの後、わがしるしを持ってモーゼとアロンを、ファラオならびにその首領たちにつかわしたが、かれらは、高慢で罪深い民であった。真理がわがもとからかれらに来たとき、かれらは「これは明らかに魔術である」と言った。
かれの民のうち末輩(まっぱい)を除いては、モーゼを信ずる者はなかった、かれらはファラオ、ならびの首領の迫害を恐れていたのである。ファラオは国内において権勢をほしいままにし、まことに暴君であった。
モーゼは言った「私の人びとよ、あなたがたが、神を信仰するのであり、ムスリムであるのならば、かれにおすがり申せ」と。かれらは祈って言った「私達は神に、おすがり申す。主よ、私達を不義の民のための、一試練となされず」、「あなたのお慈悲をもって、私達を不信心の民から救い出したまえ」。
モーゼは申し上げた、「主よ、まことにあなたは、ファラオとその首領たちに、現世の生活の栄華と裕福をお授けになります。主よ、かれらはそれで人びとをあなたの道から迷わせます。主よ、かれらの富を壊滅され、かれらの心をかたくなにしたまえ、それで痛刑を見るまで、彼らは信じないでありましょう」。
かれは仰せられた「なんじら両人の祈りは受人れられた、それゆえ、姿勢を正し、無知な者の道に従ってはならぬ」。われは、イスラエルの子らをして海を渡らせ、ファラオとその軍勢に、暴虐と敵意にみちてかれらを追わしめた。おぼれ死にそうになったとき、「私は信仰いたします、イスラエルの子らが信仰する方のほかに、神はございません。私はムスリムのひとりであります」と言った。(かれに仰せられよう)「なんと、いま信仰するのか、ちょっと前までなんじは反抗していた。しょせんなんじは害悪をなす者のたぐいであった」。「だが、きょうのところ、われは後の者へのしるしとするため、なんじのからだを救うであろう。だが人びとの多くはわがしるしをおろそかにする」。
クルアーン10.75 ~ 92(イスラーム)
― み言選集 ―
モーセは、豪華絢爛なパロ宮中にとどまっている間、華やかに着飾り、食べ、歓喜にあふれる生活をしていたのではありません。彼が宮中にとどまっているとき、始終一貫、食べて、着て、寝る、その生活のどの一瞬においてもイスラエル民族を心配していないときがありませんでした。
エジプトにいるイスラエル民族の中でモーセだけが、その民族が知ろうと知るまいと、天に対する忠誠心が変わらなかったのです。皆さんには、モーセが血気盛んな人に見えるかもしれませんが、事実はそうではありません。エジプト人とイスラエル人が争うのを見てエジプト人を葬り去ったモーセの義憤心は、その瞬間に衝撃を受けて生じたものではなかったのです。
その光景を見たとき、モーセは40 年間天に向かって悲しい心で民族のために訴えた内的悲しみの心情が爆発したのです。すなわち、イスラエル選民がひどい目に遭っているのを見て、抑えられない義憤心がわき上がってエジプト人を殺しました。このように、イスラエル民族に対する愛とエジプトに対する義憤心が、そのようなモーセの行動の内的な原因だったのです。そして、そのようなモーセの行動には、摂理的なみ旨が内包されていました。
モーセが怒りに勝てずエジプト人を葬ったのは、このイスラエルの運命を心配して責任をもった立場で葬ったのであり、それはエジプト人がイスラエル民族を迫害した罪に比べれば小さなことだったので、神様は誰よりも民族のために心配するモーセを民族の指導者として立てられたのです。
しかし、イスラエル民族は、モーセを誤解し、エジプト人を葬ったことを暴露することによって、モーセは自分の行動が露見したことを知って、仕方なくミデヤン荒野に身を隠すようになったのです。
(1-141 ~ 142、1956.7.1)
ミデヤン荒野で生活していたモーセは、パロ宮中で豪華に暮らしていたことを恥ずかしく思い、パロ王の娘が自分のためにすべての願いを聞き入れてくれた自由な環境で暮らしていた過去の富貴、栄華をすべて忘れました。そして、羊飼いの服を着て羊の群れを追い回す無名の牧童の立場でしたが、その羊の群れを見つめて、昔の先祖アブラハムに約束されたカナンの地を慕いました。
今はたとえ羊の群れを追い回しているとしても、いつかは羊の群れを追い立てていくように民族を導き、カナンの地に入っていこうという切なる思いで天に訴えたモーセでした。モーセは、食べても飢えても、寝ても覚めても、労心焦思(心を痛め気をもみ)、そのすべての精誠を尽くして、アブラハムがソドムとゴモラの人が知らない中で彼らのために祈祷していたのと同じように、民族のために心配して祈祷したのです。
モーセは、エジプトの迫害と塗炭の中で苦役を受けているイスラエル民族を見つめるとき、骨が溶けるほどの悲しみを感じたのであり、天に向かって、「主よ! 私を御覧になってこの民族を哀れんでください!」と訴えたのです。それで、神様は、このようにこの上ない精誠で訴えるモーセを60 万の大衆をエジプトの地から導き出す指導者として立て、人が見るとき取るに足らない、ミデヤン荒野で一介の牧童生活をしていたモーセを、先祖から伝わってきた隠れた根の貞節を継承させ、民族の代表者として立てたのです。
(1-142 ~ 143、1956.7.1)
荒野のあらゆる雨風に苦しむ悲しみを味わったとしても、それをすべてかきわけ、民族から追われたとしても、神様をつかんでいたモーセの変わらない決心があったがゆえに、民族が困難な事情に置かれ、モーセがそのような苦難の環境に入っていったとしても、民族が団結できたのであり、天はモーセを立てて摂理することができたのです。
(4-39、1958.2.23)
その後、モーセが始めた歩みは、すべて冒険的なものでした。現実を超越した神様の摂理の中心を抱いたために、彼の人生全体も超現実的なものであり、見つめるものも、出ていって闘うことも、超現実的なものでした。神様の命令を受け、モーセがパロ宮中に行くようになるとき、神様が行きなさいと言われたその道を行くモーセを祝福してあげ、保護してあげなければならないのですが、神様はかえってモーセの行く道を妨げ、モーセを殺そうとしました。神様はどうして自分の命令を受けて行くモーセを妨害して殺そうとされたのでしょうか。現実的には到底あり得ないことでした。ここに私達人間が知り得ない内容があります。
現実的に考えてみれば、到底越えることのできない峠でした。しかし、モーセは既に覚悟した身だったので、死のうと生きようと、み旨一つだけが成し遂げられることを願う心情で、神様が妨げ、サタンが妨げる試諌の条件を越えたのです。そうして、パロ宮中で超現実的な神様の実存を確信し、10 度以上の奇跡を起こしたモーセは、4000 年の歴史上にいなかった宇宙的な冒険の革命家だったことを知らなければなりません。このようにモーセは、いかなる人の反対にも屈せず、み旨に対する超現実的な信仰で60 万のイスラエル民族を導きました。このようなことを考えてみるとき、モーセの生涯全体は超現実的な冒険の行路だったことを知らなければなりません。
(1-267、1956.12.2)
2. 律法を伝授し、ヘブライ人の荒野路程を導いたモーセの苦難
― 宗教経典 ―
主が、「私のもとに登りなさい。山に来て、そこにいなさい。私は、彼らを教えるために、教えと戒めを記した石の板をあなたに授ける」とモーセに言われると、モーセは従者ヨシュアと共に立ち上がった。
モーセは、神の山へ登って行くとき、長老たちに言った。「私達があなた達のもとに帰って来るまで、ここにとどまっていなさい。見よ、アロンとフルとがあなた達と共にいる。何か訴えのある者は、彼らのところに行きなさい。」
モーセが山に登って行くと、雲は山を覆った。主の栄光がシナイ山の上にとどまり、雲は六日の間、山を覆っていた。七日目に、主は雲の中からモーセに呼びかけられた。主の栄光はイスラエルの人々の目には、山の頂で燃える火のように見えた。モーセは雲の中に入って行き、山に登った。モーセは四十日四十夜山にいた。
出エジプト記24.12 ~ 18(キリスト教)
モーセがイスラエルの民に言った。「あなた達は、私が律法を得るためにどれほど苦労したかを知らない。どんな苦労、どんな努力でも、私は律法のために耐え抜いた。四十昼夜を私は神と共に過ごした。私は生きている被造物である天使たち、セラフィムと共にいた。私は喜んで彼らに律法を与えた。私が苦労を通して律法を学んだように、あなた達も苦労しながら律法を学ばなければならない。そして、あなた達が苦労して律法を学んだように、あなた達の子孫にも苦労の中で律法を教えてあげなければならない」。
申命記スィフレイ(ユダヤ教)
荒れ野に入ると、イスラエルの人々の共同体全体はモーセとアロンに向かって不平を述べ立てた。イスラエルの人々は彼らに言った。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなた達は我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。」
出エジプト記16.2 ~ 3(キリスト教)
四十日四十夜が過ぎて、主は私にその二枚の石の板、契約の板を授けられた。そのとき、主は私に言われた。「すぐに立って、ここから下りなさい。あなたがエジプトから導き出した民は堕落し、早くも私が命じた道からそれて、鋳像を造った。」……
「私はこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。私を引き止めるな。私は彼らを滅ぼし、天の下からその名を消し去って、あなたを彼らより強く、数の多い国民とする。」
私が身を翻して山を下ると、山は火に包まれて燃えていた。私は両手に二枚の契約の板を持っていた。私が見たのは、あなた達があなた達の神、主に罪を犯し、子牛の鋳像を造って、早くも主の命じられた道からそれている姿であった。私は両手に持っていた二枚の板を投げつけ、あなた達の目の前で砕いた。主の目に悪と見なされることを行って罪を犯し、主を憤らせた、あなた達のすべての罪のゆえに、私は前と同じように、四十日四十夜、パンも食べず水も飲まず主の前にひれ伏した。……
主があなた達を滅ぼすと言われたからである。私はひれ伏して、主に祈って言った。「主なる神よ。あなたが大いなる御業をもって救い出し、力強い御手をもってエジプトから導き出された、あなたの嗣業の民を滅ぼさないでください。あなたの僕、アブラハム、イサク、ヤコブを思い起こし、この民のかたくなさと逆らいと罪に御顔を向けないでください。我々があなたに導かれて出て来た国の人々に、『主は約束された土地に彼らを入らせることができなかった。主は彼らを憎んで、荒れ野に導き出して殺してしまった』と言われないようにしてください。彼らは、あなたが大いなる力と伸ばされた御腕をもって導き出されたあなたの嗣業の民です。」
申命記9.11 ~ 29(キリスト教)
こう言った。「私は今日、既に百二十歳であり、もはや自分の務めを果たすことはできない。主は私に対して、『あなたはこのヨルダン川を渡ることができない』と言われた。あなたの神、主御自身があなたに先立って渡り、あなたの前からこれらの国々を滅ぼして、それを得させてくださる。
主が約束されたとおり、ヨシュアがあなたに先立って渡る。主は、アモリ人の王であるシホンとオグおよび彼らの国にされたように、彼らを滅ぼされる。主が彼らをあなた達に引き渡されるから、私が命じたすべての戒めに従って彼らに
行いなさい。強く、また雄々しくあれ。恐れてはならない。彼らのゆえにうろたえてはならない。あなたの神、主は、あなたと共に歩まれる。あなたを見放すことも、見捨てられることもない。」
モーセはそれからヨシュアを呼び寄せ、全イスラエルの前で彼に言った。「強く、また雄々しくあれ。あなたこそ、主が先祖たちに与えると誓われた土地にこの民を導き入れる者である。あなたが彼らにそれを受け継がせる。主御自身があなたに先立って行き、主御自身があなたと共におられる。主はあなたを見放すことも、見捨てられることもない。恐れてはならない。おののいてはならない。」
申命記31.2 ~ 8(キリスト教)
― み言選集 ―
モーセがした、命を掲げて全民族の命を救援する生きた祭物になろうと身もだえしたことを、その民族は知らなかったのです。ただ神様だけが御存じでした。神様だけが友人になってくださったのであり、神様だけが父として彼に対してくださったのです。
モーセはそのような神様であられることを知ったので、40 日間食べることを忘れながら、二度とお父様に悲しみと悲運の心情をもたないようにしてさしあげようという責任感を感じ、あらゆる精誠をすべて尽くして訴えることによって、イスラエル民族を復活させることのできるみ言を受けるようになったのです。
これは喜ばしいことでした。ところが、喜びを紹介するためには、人知れず背後で悲しみの祭物となった者がいたことをイスラエル民族は知らなかったのです。もし彼らがこれを知っていれば、荒野で60 万の大衆が倒れることは避けていたでしょう。そのあとにでも、彼らがモーセの十戒に従い、天の悲しい心情を解怨してさしあげるために、自分たちの体は祭物になるとしても屈せずに進んでいこうという信仰があれば、彼らは荒野で倒れなかったのです。
(3-287、1958.1.19)
エジプトで苦難を受けているイスラエル民族を導かなければならなかったモーセは、パロ宮中で40 年間、人知れず心で悩みながら民族を愛する民族精神に燃え上がっていました。ところが、エジプト人を殺害したことが、荒野で寂しい牧童の生活をするようになった動機になりました。そのような立場にいたモーセは、エジプト宮中の豪華なすべての栄光を一切捨て、ミデヤン荒野での苦役生活が迫ってきたとしても変わらない心を抱き、自分を愛する心よりも神様のみ旨を心配する決心をもつようになりました。
荒野のあらゆる風雨に苦しむ悲しみを味わったとしても、それをすべてかきわけ、民族から追われたとしても、神様をつかんでいたモーセの変わらない決心があったがゆえに、民族が困難な事情に置かれ、モーセがそのような苦難の環境に入っていったとしても、民族が団結できたのであり、天はモーセを立てて摂理することができたのです。
(4-38 ~ 39、1958.2.23)
モーセが天から許諾されたところの約束を受けてエジプトに入っていくようになったとき、彼は喜びにあふれていました。しかし、モーセは決してその喜びだけで満足していませんでした。
彼は、自分の民族をカナンの地に導くために生涯を捧げると天の前に訴えたその志が成し遂げられ、民族の生きる道を開拓するようになりましたが、そのような喜びだけに満足せず、これから第2の責任を忠実に果たそうという使命感と責任感をもつようになりました。そのときからモーセは、自分を中心として行動せず、小さなことも大きなことも、どれ一つとして神様と因縁を結ばずに遂行したことがありませんでした。
こうしてモーセが暴虐なパロ宮中に入っていき、彼らの神に10 回以上の奇跡を行い、イスラエル民族を険しい荒野に導きだすようになりました。ここでイスラエル民族は、モーセと一つにならなければなりませんでした。
すなわち険しい荒野ですが、自由な環境に脱出してきたイスラエル民族は、カナンの福地に向かうにおいて、モーセの心がすなわち自分たちの心にならなければならなかったのです。彼らは、自分たちをパロ宮中から救出してくれたモーセと心が違ってはいけなかったのです。ところが、彼らはモーセと一つになれず、天倫に背く道を行くことによって滅亡するようになりました。それでは、彼らがこのように滅亡するようになった原因はどこにあったのでしょうか。
彼らは、モーセが民族の指導者になる過程で天に訴えた隠れた精誠の足場を知らなかったのです。そして、彼らは、モーセが自分たちを導いてエジプトを出発したその日からあらゆる困難を経験し、自分たちのために与えたにもかかわらず、このようなモーセの苦労と努力を理解できませんでした。それで、彼らとモーセは荒野で分かれ、結局、彼らは荒野に伏す立場になってしまいました。このように、イスラエル民族がモーセを不信した歴史的事実が、今日終わりの日の聖徒たちにも再び現れているのです。
イスラエル民族と自分か一つになれない事実に直面するようになるとき、モーセは不信する民族を叱責する前に、自分自身の不足を天に訴えました。すなわち、彼はシナイ山に登り、40 日間断食祈祷しながら、「お父様、この民族がどうして許諾された地が目の前に見えるのに、入っていくことができないのですか。その責任は誰にあるのですか。その責任は私にあります。私が責任を果たせなかったからです。ですから、私を祭物として民族の滅亡の道をふさいでください」と訴えたのです。このようなモーセの隠れた精誠の期間があったことを皆さんは知らなければなりません。
もしイスラエル民族が、モーセが人知れず悲しい心で断食することが、モーセ自身のためではなく、自分たちのためであることを知っていたら、彼らはモーセの40 日断食期間に金の子牛をつくって崇拝する不信の行いはしなかったでしょう。また、彼らが民族の祝福を身代わりしたモーセが、一つの隠れた祭物として天に捧げられるようになるとき、モーセの心に同情し、彼の苦労を心配してシナイ山にいるモーセと一緒に涙を流し、天に訴えることができていれば、彼らは神様の懐を離れなかったでしょう。
このように、モーセが独りで民族を代表し、義の道を行ったように、イエス様もそのような道を行かれました。つまり、アブラハムの歴史的な犠牲とモーセの民族を代表した祭物の路程を通して、世界の中心に立てられたイエス・キリストは、アブラハムが家庭を代表してサタンの讒訴条件を防ぎ、モーセが民族を代表してサタンの讒訴条件を防いだのと同じように、世界人類を身代わりして独りでサタンのあらゆる讒訴条件を防がなければならず、勝利的な蕩減の足場を築かなければなりませんでした。
(1-143 ~ 145、1956.7.1)
カナンの地に入っていかなければならないのに、ヨルダン川で天幕をはり、「もう着いたので、ここで千年、万年暮らさなければならない」と言っているので、この天幕を破って外し、川にほうり込まなければなりません。
そのようにするときは、モーセが来て火をつけ、すべて蹴飛ばしてしまわなければなりません。ほうり込まなければならないというのです。水にほうり込むのです。ヨルダン川の水が深いと思っていたら、目を開けてみると深くありません。ひざまでしか上がってきません。川を渡っていって死ななければならないのです。体の3分の2が地についてそこで休んでもかまいません。それはサタンがもっていけません。死んでもかまいません。死んでも成功です。私達の地に入っていって……。それが長い長い40 年間の路程の目的です。……
ヨルダン川も見えない荒野の真ん中では、モーセより先に行けば死にます。そのときはモーセが「私についてきなさい」と言いましたが、ヨルダン川が見えるときは、「先に行きなさい」と言うのです。これが素晴らしいのです。ところが、イスラエル民族はすべて越えていき、モーセだけ越えられませんでした。
どうなったのですか。モーセが、「ああ、呪われる群れだ! 私を捨てて行った。死んでしまえ! 滅んでしまえ!」とは言いません。「おお、私は死んでもよいので、あなた達は永遠に祝福を受けなさい」と言うのです。モーセが手を挙げて、「神様、私より勇猛なあのイスラエル民族を御覧ください。彼らの将来を保護してください! どれほど希望に満ちた彼らだろうか!」と祈るのです。神様は、「ああ、立派な指導者だ! あなたの祈りどおりにしてあげよう! お前は平安に永眠しなさい」と言うというのです。どれほど素晴らしい死でしょうか!
(189-249 ~ 250、1989.4.9)
8) 聖書の女性たち
神様の摂理の経綸において、女性たちの偉大な信仰と献身が重要な役割を果たした。イスラエルの母たちからイエスの生涯の中の重要な女性たちに至るまで、聖書は、相当な個人的代価を払いながら神様のみ旨のために努力した女性たちに関して記録している。昔の女性が生きていくのは簡単ではなかったが、このような女性たちは、神様への強い信仰を維持しながら、環境を克服するために努力してきた。
夫アブラハムを助けるために、サラは多くの逆境を克服したのであり、さらにはパロの女性になる冒険もした。バテシバは、自分の夫を殺したダビデ王の妻になったが、ダビデ王に忠誠を尽くすごとによって死んだ夫が栄誉を受けるようにしなければならないという一貫した態度で苦痛に耐えた。
一方、リベカは、息子のヤコブが神様のみ旨を具現するために選ばれたことを知ったために、息子を助けるために夫をだました。ヤコブとエサウのような立場にいたラケルとレアは、姉妹間の競争関係で互いに争った。タマルとマリヤは、神様が願われる婚外の子女を生むために自分の人生を黙って捧げた。マグダラのマリヤは、イエスヘの献身的模範を見せたが、これは12 弟子たちの人生よりも優れた事例として数えられる。
文鮮明先生は、このような女性たちの格別な人生を貫く脈絡を読み取る。彼女たちは、神様の真の血統を準備するために神様の摂理に選択された女性たちである。したがって、神様は、彼女たちの偉大な信仰的基盤を通して、女性エバの失敗を復帰できるよう、彼女たちを現実に挑戦する環境に置いたことを私達は読み取ることができる。
1. サラ
― 宗教経典 ―
その地方に飢饉があった。アブラムは、その地方の飢饉がひどかったので、エジプトに下り、そこに滞在することにした。エジプトに入ろうとしたとき、妻サライに言った。「あなたが美しいのを、私はよく知っている。エジプト人があなたを見たら、『この女はあの男の妻だ』と言って、私を殺し、あなたを生かしておくにちがいない。どうか、私の妹だ、と言ってください。そうすれば、私はあなたのゆえに幸いになり、あなたのお陰で命も助かるだろう。」
アブラムがエジプトに入ると、エジプト人はサライを見て、大変美しいと思った。ファラオの家臣たちも彼女を見て、ファラオに彼女のことを褒めたので、サライはファラオの宮廷に召し入れられた。アブラムも彼女のゆえに幸いを受け、羊の群れ、牛の群れ、ろば、男女の奴隷、雌ろば、らくだなどを与えられた。ところが主は、アブラムの妻サライのことで、ファラオと宮廷の人々を恐ろしい病気にかからせた。ファラオはアブラムを呼び寄せて言った。「あなたは私に何ということをしたのか。なぜ、あの婦人は自分の妻だと、言わなかったのか。なぜ、『私の妹です』などと言ったのか。だからこそ、私の妻として召し入れたのだ。さあ、あなたの妻を連れて、立ち去ってもらいたい。」ファラオは家来たちに命じて、アブラムを、その妻とすべての持ち物と共に送り出させた。
創世記12.10 ~ 20(キリスト教)
― み言選集 ―
アブラハムが出発しようと言うとき、「早く行きましょう」と言ったサラのような人を考えてみてください。アブラハムがサラに、パロの前では兄と妹の関係にしようと言ったとき、サラがどのように思ったでしょうか。「この夫は、これほど苦労させて引っ張り出してきたと思ったら、今度は妻をやめて兄と呼べと言う」、このように思うこともできたのです。
彼らは道を行く途中で夕立が来てもそのまま行ったでしょう。ジプシーの群れになった彼らに、誰が一皿の食事でももっていってあげたでしょうか。きょうはこっちに、あすはあっちにとさまようそのような生活をしたのですが、そのように苦労したことを思えば、サラはアブラハムに対して、「この夫は、夜見ても、昼見ても、朝見ても、運のない夫になった。それなのに、夫の自分を兄と言えとは……」、このように思うこともできたのです。
そのような受難を経てくる中でも、サラはアブラハムの希望の道と一致することができ、何の衝突もなく一つになることができました。理想的な主体がいても、理想的な相対がいなければなりません。理想的な主体であるアブラハムの前に理想的な相対が出てきたのですが、その理想的な相対を打とうとするときは、完全な理想的主体の前に完全な理想的相対型がいるのに、これを打とうとするときは、神様が「おい、こいつ!」とおっしゃることができるのです。
(49-144、1971.10.9)
アベルよりも劣ったノアになってはいけないのであり、ノアよりも劣ったアブラハムになってはいけないのです。それでは、アブラハムの何がノアよりも優れているのでしょうか。アブラハムの妻は、アブラハムが兄と妹のように振る舞おうと言ったときも、「はい!」と言って従いました。
ところが、ノアが「妻よ、あなたと私は兄と妹のように振る舞いましょう」と言うとき、彼の妻は反対する立場に立ったのです。そのような点からアブラハムの家庭はノアの家庭よりも優れていたのです。ノアの家庭は反対する立場でした。ノアの息子ハムは、そのように不平不満でいっぱいの母親から教育を受けたので、自分勝手に行動するようになったのです。しかし、アブラハムと一つになった母サラの懐で育ったイサクは、命が断ち切られる場でも父の命令に従いました。そのような点で、アブラハムの家庭はノアの家庭よりも優れていました。
(46-322、1971.8.17)
アブラハムは自分でも知らずに、アダムの家庭の立場を蕩減復帰する象徴的な条件を立てるために、このような摂理路程を歩まなければならなかったのである。アダムとエバが未完成期において、まだ兄妹のような立場にいたとき、天使長がエバを奪っためで、その子女たちと万物世界のすべてが、サタンの主管下に属するようになった。
したがって、アブラハムがこれを蕩減復帰するための条件を立てるためには、既に明らかにしたように、兄妹のような立場から、妻サライを、いったんサタンの実体であるパロに奪わせたのち、彼の妻の立場から、再び彼女を取り返すと同時に、全人類を象徴するロトと、万物世界を象徴する財物を取り返さなければならなかったのである(創14・16)。このようなアブラハムの路程は、後日イエスが来て歩まなければならない典型路程となるのである。
原理講論、復帰基台摂理時代3.1.2.1
2. リベカ
― 宗教経典 ―
リベカは、イサクが息子のエサウに話しているのを聞いていた。エサウが獲物を取りに野に行くと、リベカは息子のヤコブに言った。「今、お父さんが兄さんのエサウにこう言っているのを耳にしました。『獲物を取って来て、あのおいしい料理を作ってほしい。私は死ぬ前にそれを食べて、主の御前でお前を祝福したい』と。私の子よ。今、私が言うことをよく聞いてそのとおりにしなさい。家畜の群れのところへ行って、よく肥えた子山羊を二匹取って来なさい。私が、それでお父さんの好きなおいしい料理を作りますから、それをお父さんのところへ持っで行きなさい。お父さんは召し上がって、亡くなる前にお前を祝福してくださるでしょう。」
しかし、ヤコブは母リベカに言った。「でも、エサウ兄さんはとても毛深いのに、私の肌は滑らかです。お父さんが私に触れば、だましているのが分かります。そうしたら、私は祝福どころか、反対に呪いを受けてしまいます。」母は言った。「私の子よ。そのときにはお母さんがその呪いを引き受けます。ただ、私の言うとおりに、行って取って来なさい。」
創世記27.5 ~ 13(キリスト教)
エサウは、父がヤコブを祝福したことを根に持って、ヤコブを憎むようになった。そして、心の中で言った。「父の喪の日も遠くない。そのときがきたら、必ず弟のヤコブを殺してやる。」
ところが、上の息子エサウのこの言葉が母リベカの耳に入った。彼女は人をやって、下の息子のヤコブを呼び寄せて言った。「大変です。エサウ兄さんがお前を殺して恨みを晴らそうとしています。私の子よ。今、私の言うことをよく聞き、急いでハランに、私の兄ラバンの所へ逃げて行きなさい。そして、お兄さんの怒りが治まるまで、しばらく伯父さんの所に置いてもらいなさい。そのうちに、お兄さんの憤りも治まり、お前のしたことを忘れてくれるだろうから、そのときには人をやってお前を呼び戻します。一日のうちにお前たち二人を失うことなど、どうしてできましょ
う。」
リベカはイサクに言った。「私は、ヘト人の娘たちのことで、生きているのが嫌になりました。もしヤコブまでも、この土地の娘の中からあんなヘト人の娘をめとったら、私は生きているかいがありません。」
イサクはヤコブを呼び寄せて祝福して、命じた。「お前はカナンの娘の中から妻を迎えてはいけない。ここをたって、パダン・アラムのベトエルおじいさんの家に行き、そこでラバン伯父さんの娘の中から結婚相手を見つけなさい。
創世記27.41 ~ 28.2 (キリスト教)
― み言選集 ―
歴史時代に神様のために自分の生命、財産、歴史的伝統やすべてのものを断ち切り、大々的な革命、天の愛の道を取り戻すために大革命をする一人の女性が必要だという結論が出てきます。
ヤコブがイスラエルになるにおいて、自分の母の後援がなかったならば、イスラエルという名前さえ、祝福さえ受けることができなかったのです。長子の特権を奪って祝福を受けることができる位置に立つことができないのです。その母は、自分の上の息子をだまし、夫をだまし、下の息子と一つになりました。
神様のみ旨のためにだましたのです。これが違うのです。長子の特権を奪うということが世の中にありますか。それを見れば、ヤコブも詐欺師であり、母もうそつきです。これがなぜ聖書にあるのですか。神様のみ旨がなぜこのように出発しなければならないのかというのです。これを今まで知らなかったのです。
サタン世界で神様の息子、娘が祝福を奪い、長子の特権を奪ったというのは、すべての世の中を取り戻してくる条件として神様が許諾したのです。ところが、サタン世界に行って公に「おいおい、お前、私はすべての特権を奪いにきたのだから、私と相談してサインしなさい」、このようにしてよいのですか。いけません。それではどのようにしなければなりませんか。「あなたがしたとおりに私もしなければならない。あなたがしたとおりに私もする」と言うのです。もともとあなたがしたとおりに私もするというのです。あなたがそのように奪っていったので、私もそのように奪ってくるということです。
それでは、サタンがどのようにして奪っていきましたか。うそをついたのです。その次には、アダムをだましました。息子をだまし、父をだましました。息子と父をだましたのです。さらには、夫までだましました。ですから、「あなたがそのようにしたので、私もそのようにする、こいつ!」と言って奪ってくるのです。天のお父様が天の側なので、天のお父様を中心として女性が一つになります。サタンとエバが一つになって堕落したので、神様と女性が一つになって復帰しなければなりません。女性がサタンと一つになり、アダムを引っ張っていって堕落したので、神様と女性が一つになって男性を引っ張ってくるのです。
その場とは何かというと、神様を中心とするリベカとヤコブが一つになってここに引っ張ってくる場です。自分の息子と夫を引っ張ってくるのです。このために、このようなことがあったというがすべて理解できました。
(105-18 ~ 120、1979.10.4)
エサウが母とヤコブに対して死ぬまで不満をもっている限り、その家庭は永遠に一つになれません。エサウと父を屈服させなければなりません。自然に「称賛します」と言うようにしなければなりません。息子のエサウも、父のイサクも称賛する場に立たなければ本然の位置に戻れません。
ですから、息子と父から母が精誠と苦労で涙を流し、間違っていたと悔い改め、100 回謝罪し、1000 回謝罪して赦されたとしても、ヤコブが現れるとき、その父の心、エサウの心が母の心と同じになれるかが問題です。ここから自然屈服という論理が生まれるのです。カインの立場であるエサウとサタン側の立場である父を自然屈服させなければ、復帰がなされません。
そのようにしようとすれば、その母親がヤコブの何百倍をしなければなりません。それでエサウが、ヤコブが帰ってきても殺さないと何度も約束し、何度も繰り返し誓って実行できるようにするために、母親がエサウをどれほど内外に感化させたでしょうか。母親がそのような責任を果たしたことを皆さんは知らなければなりません。
(244-240 ~ 241、1993.2.14)
エバが堕落するとき、サタンを中心として一つになりました。それでは、エバはどのような存在であり、どのような立場に立ったのでしょうか。神様を否定し、夫を否定する立場に立ったのです。ですから、戻っていくときは、男性が先に戻っていくことはできません。このようなことを蕩減復帰するためには、サタン世界の父と同じであり、サタン世界の夫と同じこのようなものに反対する女性がいなければなりません。そのような女性でなければ、こちらに戻ってくることはできないという結論が出てきます。この公式を中心として、宗教は発展してくるのです。
本来の宗教は、男性の宗教ではなく、新婦の宗教だということを知らなければなりません。ですから、女性たちが宗教生活することに、いつも男性たちは反対するのです。女性たちが神様を求めていく道では、いつもサタンが反対し、男性たちが反対するというのです。
(89-208、1976.11.22)
3. ラケルとレア
― 宗教経典 ―
主は、レアが疎んじられているのを見て彼女の胎を開かれたが、ラケルには子供ができなかった。レアは身ごもって男の子を産み、ルベンと名付けた。それは、彼女が、「主は私の苦しみを顧みてくださった。これからは夫も私を愛してくれるにちがいない」と言ったからである。
レアはまた身ごもって男の子を産み、「主は私が疎んじられていることを耳にされ、またこの子をも授けてくださった」と言って、シメオンと名付けた。レアはまた身ごもって男の子を産み、「これからはきっと、夫は私に結び付いてくれるだろう。夫のために三人も男の子を産んだのだから」と言った。そこで、その子をレビと名付けた。レアはまた身ごもって男の子を産み、「今度こそ主をほめたたえよう」と言った。そこで、その子をユダと名付けた。しばらく、彼女は子を産まなくなった。
ラケルは、ヤコブとの間に子供ができないことが分かると、姉をねたむようになり、ヤコブに向かって、「私にもぜひ子供を与えてください。与えてくださらなければ、私は死にます」と言った。ヤコブは激しく怒って、言った。「私が神に代われると言うのか。お前の胎に子供を宿らせないのは神御自身なのだ。」
ラケルは、「私の召し使いのビルハがいます。彼女のところに入ってください。彼女が子供を産み、私がその子を膝の上に迎えれば、彼女によって私も子供を持つことができます」と言った。ラケルはヤコブに召し使いビルハを側女として与えたので、ヤコブは彼女のところに入った。やがて、ビルハは身ごもってヤコブとの間に男の子を産んだ。
そのときラケルは、「私の訴えを神は正しくお裁きになり、私の願いを聞き入れ男の子を与えてくださった」と言った。そこで、彼女はその子をダンと名付けた。ラケルの召し使いビルハはまた身ごもって、ヤコブとの間に二人目の男の子を産んだ。
そのときラケルは、「姉と死に物狂いの争いをして、ついに勝った」と言って、その名をナフタリと名付けた。レアも自分に子供ができなくなったのを知ると、自分の召し使いジルパをヤコブに側女として与えたので、レアの召し使いジルパはヤコブとの間に男の子を産んだ。そのときレアは、「なんと幸運な」と言って、その子をガドと名付けた。レアの召し使いジルパはヤコブとの間に二人目の男の子を産んだ。そのときレアは、「なんと幸せなことか。娘たちは私を幸せ者と言うにちがいない」と言って、その子をアシェルと名付けた。
小麦の刈り入れのころ、ルベンは野原で恋なすびを見つけ、母レアのところへ持って来た。ラケルがレアに、「あなたの子供が取って来た恋なすびを私に分けてください」と言うと、レアは言った。「あなたは、私の夫を取っただけでは気が済まず、私の息子の恋なすびまで取ろうとするのですか。」「それでは、あなたの子供の恋なすびの代わりに、今夜あの人があなたと床を共にするようにしましょう」とラケルは答えた。夕方になり、ヤコブが野原から帰って来ると、レアは出迎えて言った。「あなたは私のところに来なければなりません。私は、息子の恋なすびであなたを雇ったのですから。」その夜、ヤコブはレアと寝た。神がレアの願いを聞き入れられたので、レアは身ごもってヤコブとの間に五人目の男の子を産んだ。
そのときレアは、「私が召し使いを夫に与えたので、神はその報酬をくださった」と言って、その子をイサカルと名付けた。レアはまた身ごもって、ヤコブとの間に六人目の男の子を産んだ。そのときレアは、「神がすばらしい贈り物を私にくださった。今度こそ、夫は私を尊敬してくれるでしょう。夫のために六人も男の子を産んだのだから」と言って、その子をゼブルンと名付けた。その後、レアは女の子を産み、その子をディナと名付けた。
しかし、神はラケルも御心に留め、彼女の願いを聞き入れその胎を開かれたので、ラケルは身ごもって男の子を産んだ。そのとぎラケルは、「神が私の恥をすすいでくださった」と言った。彼女は、「主が私にもう一人男の子を加えてくださいますように」と願っていたので、その子をヨセフと名付けた。
創世記29.31 ~ 30.24 (キリスト教)
― み言選集 ―
ヤコブがハランに行って21 年を経ながら、ラケルをもらうために7年間苦労したのですが、父のラバンがサタン側のレアを抱かせました。ヤコブが復帰できるアダムの使命を完遂するためには、アダムが堕落したために、レアを通して堕落した過程を経なければならないのです。レアを抱えて越えていって、初めてラケルを抱えるようになりました。
世界全体の摂理を見れば、神様を中心として二人の女性が現れます。堕落した女性と復帰された女性がいるのです。レアが妹ラケルの愛を奪いました。サタン側の代表であるラバンを中心として、救援摂理においてサタンがレアを抱え、ラケルの行く道までふさいでいたのです。その女性二人の愛の争いがヤコブ家庭の問題です。
エデンの園で愛を中心としてカイン・アベルとサタンが出発したように、神様の立場とラケル的な目的に従っていく本然の世界で、カインが現れて自分を中心とする愛を占領するためにしたことと同様の形態が展開するのです。愛を中心としてサタンが先に主導権を握ろうとします。それで、神様の理想を破壊させ……。これが2000 年後にヤコブ家庭に起きるのです。これが蕩減復帰です。
蕩減は、「目には目、歯には歯」のような形態で表れます。サタン側の父がレア側に立っていますが、母はサタン側に勝つためにレアとラケルを一つにしなければなりません。ところが、これを知らなかったのです。リベカがアベル(ヤコブ)を立て、カイン(エサウ)の心を動かし、イサクを屈服させるために内的にどれほど苦衷を受けたでしょうか。
今まで歴史時代において、ヤコブがラケルとレアと一つになったところでラケルのみ旨が成し遂げられようとすれば、兄が自然屈服しなければなりません。兄が100 パーセント屈服し、弟を長子のように侍り、兄のように侍らなければなりません。逆さまにならなければならないのです。
(244-239 ~ 240、1993.2.14)
今、アメリカ女性の中で幸福な女性がいますか。すべてレアとラケルのような関係になっているので、これが度数を超えて平準化され、フリーセックスまで出てくるようになったのです。サタンがそれを利用します。レアとラケルが妬み嫌うことを中心として、天と一つになるためには、互いが同じ立場に立たなければならない立場にいて、愛を中心として水平基準に置かれるので、フリーセックスのような概念が入ってくるのです。
愛の争いのためにレアを中心とする僕、三人の女性たちが十人の息子を生み、ラケルは二人の息子を生みましたが、これが北朝イスラエルと南朝ユダ、カイン世界とアベル世界に完全に分かれました。家庭での愛の紛争が、北朝イスラエルと南朝ユダに分けたのです。それで10 支派と2支派が互いに怨讐となり、争ってきました。それがイスラエルの歴史です。
(244-248 ~ 249、1993.2.14)
4. タマル
― 宗教経典 ―
ユダは長男のエルに、タマルという嫁を迎えたが、ユダの長男エルは主の意に反したので、主は彼を殺された。ユダはオナンに言った。「兄嫁のところに入り、兄弟の義務を果たし、兄のために子孫をのこしなさい。」
オナンはその子孫が自分のものとならないのを知っていたので、兄に子孫を与えないように、兄嫁のところに入る度に子種を地面に流した。彼のしたことは主の意に反することであったので、彼もまた殺された。
ユダは嫁のタマルに言った。「私の息子のシェラが成人するまで、あなたは父上の家で、やもめのまま暮らしていなさい。」それは、シェラもまた兄たちのように死んではいけないと思ったからであった。タマルは自分の父の家に帰って暮らした。かなりの年月がたって、シュアの娘であったユダの妻が死んだ。ユダは喪に服した後、友人のアドラム人ヒラと一緒に、ティムナの羊の毛を切る者のところへ上って行った。
ある人がタマルに、「あなたのしゅうとが、羊の毛を切るために、ティムナヘやって来ます」と知らせたので、タマルはやもめの着物を脱ぎ、べールをかぶって身なりを変え、ティムナヘ行く途中のエナイムの入り口に座った。
シェラが成人したのに、自分がその妻にしてもらえない、と分かったからである。ユダは彼女を見て、顔を隠しているので娼婦だと思った。ユダは、路傍にいる彼女に近寄って、「さあ、あなたの所に入らせてくれ」と言った。彼女が自分の嫁だとは気づかなかったからである。
「私の所にお入りになるのなら、何をくださいますか」と彼女が言うと、ユダは、「群れの中から子山羊を一匹、送り届けよう」と答えた。しかし彼女は言った。「でも、それを送り届けてくださるまで、保証の品をください。」「どんな保証がいいのか」と言うと、彼女は答えた。「あなたのひもの付いた印章と、持っていらっしゃるその杖です。」ユダはそれを渡し、彼女の所に入った。彼女はこうして、ユダによって身ごもった。
彼女はそこを立ち去り、ベールを脱いで、再びやもめの着物を着た。ユダは子山羊を友人のアドラム人の手に託して送り届け、女から保証の品を取り戻そうとしたが。その女は見つからなかった。
友人が土地の人々に「エナイムの路傍にいた神殿娼婦は、どこにいるでしょうか」と尋ねると、人々は、「ここには、神殿娼婦などいたことはありません」と答えた。友人はユダのところに戻って来て言った。「女は見つかりませんでした。それに土地の人々も、『ここには、神殿娼婦などいたことはありません』と言うのです。」
ユダは言った。「では、あの品はあの女にそのままやっておこう。さもないと、我々が物笑いの種になるから。とにかく、私は子山羊を届けたのだが、女が見つからなかったのだから。」三か月ほどたって、「あなたの嫁タマルは姦淫をし、しかも、姦淫によって身ごもりました」とユダに告げる者があったので、ユダは言った。「あの女を引きずり出して、焼き殺してしまえ。」ところが、引きずり出されようとしたとき、タマルはしゅうとに使いをやって言った。「私は、この品々の持ち主によって身ごもったのです。」彼女は続けて言った。「どうか、このひもの付いた印章とこの杖とが、どなたのものか、お調べください。」 ユダは調べて言った。「私よりも彼女の方が正しい。私が彼女を息子のシェラに与えなかったからだ。」ユダは、再びタマルを知ることはなかった。
タマルの出産の時が来たが、胎内には双子がいた。出産の時、一人の子が手を出したので、助産婦は、「これが先に出た」と言い、真っ赤な糸を取ってその手に結んだ。ところがその子は手を引っ込めてしまい、もう一人の方が出てきたので、助産婦は言った。「なんとまあ、この子は人を出し抜いたりして。」そして、この子はペレツ(出し抜き)と名付けられた。その後から、手に真っ赤な糸を結んだ方の子が出てきたので、この子はゼラ(真っ赤)と名付けられた。
創世記38.6 ~ 30(キリスト教)
タマルは祭司長の娘だった。彼女の性稟が純潔で自制力があったことを考えるとき、義父と関係をもつことをわざわざたくらんだことは理解し難いことだ。結局、タマルは徳のある女性だったのであり、娼婦ではなかった。彼女が義父ユダに接近したのは、深奥な志と知恵から来たものである。また、死んだ夫たちに対する衷心からした行動だった。天が彼女を助け、すぐに妊娠できたのは、深い志をもってした行動だったからである。
ダビデ、ソロモン、さらにメシヤの先祖となるユダヤ王国の種が蒔かれた2人の女性がいる。彼女たちはタマルとルツだ。この2人の女性には共通点がある。2人とも最初の夫を失い、夫に代わるために同じような道を歩んだ。タマルはユダが死んだ夫たちの最も近い近親だったために、ユダを誘惑した。
ルツはボアズを誘惑したが、ルツ記3章7節に、「ルツは忍び寄り、彼の衣の裾で身を覆って横になった」と記録されている。この2人の女性からユダヤ王国の種が受け継がれ、完成に至るようになった。2 人の女性とも、信仰心が発露となってした行動だったのであり、死んだ夫たちに対する礼を守った。彼女たちは共に血統を受け継ぎ、これから訪れる天の世界を準備するための行動だったのである。
ゾハール1.188ab (ユダヤ教)
― み言選集 ―
ヤコブの息子の中にユダ支派がいます。ユダは4番目の息子です。ユダの最初の息子が結婚したのですが死にました。イスラエル民族は、兄が死ぬとその弟が兄嫁を引き継いで代をつなげてあげるようになっています。
ところが、その下の息子がどうなったかというと、兄嫁を受け入れないと言いました。それで神様が罰を与えて死にました。その次に、3番目の息子は子供です。3番目の息子は幼いため、この兄嫁がユダ支派の代を引き継ぐ可能性がなくなったの
で大変なことになったのです。
ですから、タマルが代を引き継ごうとすれば、どの系統を引き継がなければなりませんか。ユダ支派の系統を引き継ごうとすれば、幼子しかいないので、自分はすっかり老いて死ぬというのです。ここで革命をするのです。そして何をするのですか。神様の代を引き継ぐためには、自分の家の恥であろうと、自分がどうなろうと考えない、このような決心をするようになりました。
それで、しかたなく娼婦の服に着替え、自分の義父が農作業で往来する道端に出ていき、自分の義父ユダを誘って関係を結びました。このように関係を結んでから記念品がほしいと言いました。その時、杖をくれ、印と印のひもをくれ、やぎをくれたので、その記念品をもらって赤ん坊を宿して育てるのです。
それはすべて意味がありました。その後、5、6ヵ月たってタマルのおなかがだんだんと大きくなってくるので、村の人たちがユダに「あなたの嫁は寡婦なのに、赤ん坊を宿している。石で打ち殺さなければならない」と言いました。
そのとき、「その赤ん坊の父親は誰か」と言うと、この杖の主人であり、印と印のひもの主人であり、この記念品をくれた人だと言い、ユダのところにもっていって赦しを受けるのです。それで生きながらえました。非正常な道を行く女性たちを通して神様のみ旨が、新しい血統が受け継がれてきたという事実をここで知ることができます。
それはなぜそうなのかというのです。体を先に捧げれば、それは純粋に100 パーセントサタンのものです。100パーセントサタン側にいます。それを否定する立場に立てば、それがかえって……。ですから、そのような女性、サタン側の女性ではなく、天の側の女性が必要なのです。サタンのものをすべて否定してしまい、天の側に帰ってくることのできる女性が必要です。
このような道理に一致するので、神様はタマルを通して……。タマルはどのようにしたかというと、このような分岐点に立っても神様のみ旨を立てようとしたのです。エバが自分の父をだまし、自分の夫をだましたのと同じように、タマルは自分の父ユダと自分の未来の夫、3番目の息子を否定してそのようなことをしました。ちょうど同じ道を行ったのです。死を覚悟して……。
(92-286 ~ 288、1977.4.18)
「神様、あなたの祝福圏を欽慕し、またあなたの祝福の代を引き継ぐために、私がこのようなことをしでいるので、神様! お赦しください。私がたとえ千万回死ぬことがあっても、この不倫の素行を基盤として神様から祝福を受けることのできる基盤がユダ家門に成し遂げられさえすれば、私は何の遺恨もありません」と、タマルは間違いなくこのように祈祷したでしょう。
そのような切実な内容があったために、タマルは生死を意に介さず、ただ神様の恨が宿ったみ旨を成し遂げてさしあげるために、その死の状況までも克服することができたのです。このように、タマルのみ旨に対する忠節は実に驚くべきものですが、正にこのような場でこそ、摂理歴史を展開できたというのが神様の復帰摂理の事情でした。
(110-222 ~ 223、1980.11.18)
サタンの偽りの愛の種がエバの胎中に蒔かれて悪の生命が生まれたので、神様は母の胎中まで入っていって分別しておかなくては、天の息子が胎中で誕生することができないのです。ですから、ヤコブの勝利によっても、まだ分別されていない妊娠から40 代までの期間も、サタンの分立がなされなければなりません。結果的にこの責任を任された偉大な母がタマルです。
タマルは選民の血統を続けなければという一念から、売春婦に変装して、舅であるユダを迎え、双子の赤ん坊を身ごもりました。赤ん坊たちが生まれる時、先に手を突き出して出ようとした長子の赤ん坊が再び入り、弟になるべき次子の赤ん坊が兄になって先に生まれたのですが、彼がペレツです。タマルの胎中で長子と次子が争って、分立される胎中復帰がなされたのです。
このような条件の上に、選民の血族を集め、2000 年後にローマ帝国の国家基準に対峙するイスラエルの国家的土台の上に、メシヤを身ごもることができたのです。神様の息子の種が準備された母親の胎中に、サタンの讒訴のない立場を探すことができるようになった国家的勝利の土台が造成されたのです。このような基盤の上に、聖母マリヤが摂理の主流に登場するのです。
(277-205 ~ 206、1996.4.16)
5. ラハブ
― 宗教経典 ―
アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、ユダはタマルによってペレツとゼラを、ペレツはヘツロンを、ヘツロンはアラムを、アラムはアミナダブを、アミナダブはナフションを、ナフションはサルモンを、サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを、オベドはエッサイを、エッサイはダビデ王をもうけた。ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ……
マタイによる福音書1.1 ~ 6(キリスト教)
ヌンの子ヨシュアは二人の斥候をシティムからひそかに送り出し、「行って、エリコとその周辺を探れ」と命じた。二人は行って、ラハブという遊女の家に入り、そこに泊まった。ところが、エリコの王に、「今夜、イスラエルの何者かがこの辺りを探るために忍び込んで来ました」と告げる者があったので、王は人を遣わしてラハブに命じた。「お前のところに来て、家に入り込んだ者を引き渡せ。彼らはこの辺りを探りに来たのだ。」
女は、急いで二人をかくまい、こう答えた。「確かに、その人たちは私のところに来ましたが、私はその人たちがどこから来たのか知りませんでした。日が暮れて城門が閉まるころ、その人たちは出て行きましたが、どこへ行ったのか分かりません。急いで追いかけたら、あるいは追いつけるかもしれません。」
彼女は二人を屋上に連れて行き、そこに積んであった亜麻の束の中に隠していたが、追っ手は二人を求めてヨルダン川に通じる道を渡し場まで行った。城門は、追っ手が出て行くとすぐに閉じられた。
二人がまだ寝てしまわないうちに、ラハブは屋上に上って来て、言った。「主がこの土地をあなた達に与えられたこと、またそのことで、私達が恐怖に襲われ、この辺りの住民は皆、おじけづいていることを、私は知っています。
あなた達がエジプトを出たとき、あなた達のために、主が葦の海の水を干上がらせたことや、あなた達がヨルダン川の向こうのアモリ人の二人の王に対してしたこと、すなわち、シホンとオグを滅ぼし尽くしたことを、私達は聞いています。
それを聞いたとき、私達の心は挫け、もはやあなた達に立ち向かおうとする者は一人もおりません。あなた達の神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです。私はあなた達に誠意を示したのですから、あなた達も、私の一族に誠意を示すと今、主の前で私に誓ってください。そして、確かな証拠をください。父も母も、兄弟姉妹も、更に彼らに連なるすべての者たちも生かし、私達の命を死から救ってください。」
二人は彼女に答えた。「あなた達のために、我々の命をかけよう。もし、我々のことをだれにも漏らさないなら、主がこの土地を我々に与えられるとき、あなたに誠意と真実を示そう。」ラハブは二人を窓から綱でつり降ろした。彼女の家は、城壁の壁面を利用したものであり、城壁の内側に住んでいたからである。
ヨシュア記2.1 ~ 15(キリスト教)
― み言選集 ―
お母様が2番目になることも、原理的立場から妥当だという理論が成立することを皆さんは知らなければなりません。責任を果たせないので、神様も仕方なく切ってしまうのです。マタイによる福音書の第1章を見れば、タマルが出てきて、ルツが出てくるのですが、タマルも妾の行動をしたのであり、ルツも妾の行動をしました。その次に、ソロモンの母バテシバも妾の行動をしたのです。その次に遊女のラハブは娼婦です。娼婦のような部類の人が歴史的背後で、このような局面になっているという事実がマタイによる福音書の第1章に出てきます。
(92-292、1977.4.18)
マタイによる福音書にラハブが出てきます。ラハブはどのような人ですか。遊女でしょう? ところが、彼女が誰を助けてあげましたか。スパイを助けてあげました。それは、現実的には怨讐国家のためになることですが、冒険をしたのです。天の公義のみ旨のためには冒険をしなければなりません。自分の生命とすべての環境、そして自分の特権的なすべてのものを否定しなさいというのです。そのようにするとき、歴史はそこで発展するのです。
(39-196、1970.3.22)
6. バテシバ
― 宗教経典 ―
ある日の夕暮れに、ダビデは午睡から起きて、王宮の屋上を散歩していた。彼は屋上から、一人の女が水を浴びているのを目に留めた。女は大層美しかった。ダビデは人をやって女のことを尋ねさせた。それはエリアムの娘バテシバで、ヘト人ウリヤの妻だということであった。ダビデは使いの者をやって彼女を召し入れ、彼女が彼のもとに来ると、床を共にした。
彼女は汚れから身を清めたところであった。女は家に帰ったが、子を宿したので、ダビデに使いを送り、「子を宿しました」と知らせた。ダビデはヨアブに、ヘト人ウリヤを送り返すように命令を出し、ヨアブはウリヤをダビデのもとに送った。ウリヤが来ると、ダビデはヨアブの安否、兵士の安否を問い、また戦況について尋ねた。それからダビデはウリヤに言った。「家に帰って足を洗うがよい。」ウリヤが王宮を退出すると、王の贈り物が後に続いた。しかしウリヤは王宮の入り口で主君の家臣と共に眠り、家に帰らなかった。
ウリヤが自分の家に帰らなかったと知らされたダビデは、ウリヤに尋ねた。「遠征から帰って来たのではないか。なゼ家に帰らないのか。」ウリヤはダビデに答えた。「神の箱も、イスラエルもユダも仮小屋に宿り、私の主人ヨアブも主君の家臣たちも野営していますのに、私だけが家に帰って飲み食いしたり、妻と床を共にしたりできるでしょうか。あなたは確かに生きておられます。私には、そのようなことはできません。」
ダビデはウリヤに言った。「今月もここにとどまるがよい。明日お前を送り出すとしよう。」ウリヤはその日と次の日、エルサレムにとどまった。ダビデはウリヤを招く食事を共にして酔わせたが、夕暮れになるとウリヤは退出し、主君の家臣たちと共に眠り家には帰らなかった。翌朝、ダビデはヨアブにあてて書状をしたため、ウリヤに託した。
書状には、ウリヤを激しい戦いの最前線に出し、彼を残して退却し、戦死させよ」と書かれていた。町の様子を見張っていたヨアブは、強力な戦士がいると判断した辺りにウリヤを配置した。町の者たちは出撃してヨアブの軍と戦い、ダビデの家臣と兵士から戦死者が出た。ヘト人ウリヤも死んだ。
ヨアブはダビデにこの戦いの一部始終について報告を送り、使者に命じた「戦いの一部始終を王に報告し終えたとき、もし王が怒って、『なぜそんなに町に接近して戦ったのか。城壁の上から射かけてくると分かっていたはずだ。昔、エルベシェトの子アビメレクを討ち取ったのは誰だったか。あの男がテベツで死んだのは、女が城壁の上から石臼を投げつけたからではないか。なぜそんなに城壁に接近したのだ』と言われたなら、『王の僕ヘト人ウリヤも死にました』と言うがよい。」
使者は出発し、ダビデのもとに到着してヨアブの伝言をすべて伝えた。使者はダビデに言った。「敵は我々より優勢で、野戦を挑んで来ました。我々が城門の入り口まで押し返すと、射手が城壁の上から僕らに矢を射かけ、王の家臣からも死んだ者が出、王の僕ヘト人ウリヤも死にました。」
ダビデは使者に言った。「ヨアブにこう伝えよ。『そのことを悪かったと見なす必要はない。剣があればだれかが餌食になる。奮戦して町を滅ぼせ。』そう言って彼を励ませ。」ウリヤの妻は夫ウリヤが死んだと聞くと、夫のために嘆いた。喪が明けると、ダビデは人をやって彼女を王宮に引き取り、妻にした。彼女は男の子を産んだ。ダビデのしたことは主の御心に適わなかった。
ナタンは自分の家に帰って行った。主はウリヤの妻が産んだダビデの子を打たれ、その子は弱っていった。ダビデはその子のために神に願い求め、断食した。彼は引きこもり、地面に横たわって夜を過ごした。王家の長老たちはその傍らに立って、王を地面から起き上がらせようとしたが、ダビデはそれを望まず、彼らと共に食事をとろうともしなかった。
七日目にその子は死んだ。家臣たちは、その子が死んだとダビデに告げるのを恐れ、こう話し合った。「お子様がまだ生きておられたときですら、何を申し上げても私達の声に耳を傾けてくださらなかったのに、どうして亡くなられたとお伝えできよう。何かよくないことをなさりはしまいか。」
ダビデは妻バテシバを慰め、彼女のところに行って床を共にした。バテシバは男の子を産み、ダビデはその子をソロモンと名付けた。主はその子を愛された。
サムエル記下11.2 ~ 27、12.15 ~ 18、24(キリスト教)
故人となったダビデ王は偉大な賢人だったのであり、転生を信じていた方だ。彼がヒッタイト人のウリヤを見たとき、彼はウリヤがエバを誘惑した蛇であると思った。そして、バテシバを見て彼女がエバであり、自分がアダムであることを悟った。そうして、自分の伴侶として運命づけられたバテシバをウリヤから奪ってこようとした。預言者ナダンがダビデを非難した理由は、ダビデが性急で待つことができなかったからである。せっかちなためにダビデは復帰の過程なく彼女に接近してしまった。ダビデはまず、バテシバについている蛇によって汚された内容を取り除かなければならなかった。
その後に彼女に近づいていかなければならなかったが、そうすることができなかった。そうして最初の息子が蛇によって不潔なものとなって生まれ、そして死んだ。しかし、その後には、サタンや他の悪の現象は起きなかった。
セーフェル・ペリア(ユダヤ教)
― み言選集 ―
バテシバはソロモンの母ですが、そのバテシバは最後までダビデ王を憎んだでしょうか。もしそうであれば、彼女はソロモンの母になれません。ダビデ王が夫ウリヤを戦場に追い出し、計画的に自分を占領しましたが、そのようになったことを運命と受け取ると同時に、それをかえって天の大いなるみ旨があるものとして受け入れたのです。
ダビデ王がこのようにすることは、悪い意味でするのではなく、何かの大いなるみ旨があったためではないかと考えて受け入れました。また、彼女は自分の夫が犠牲になっても国がよくなることを願い、祈祷した烈女だったのです。
バテシバは、自分の夫が死にましたが、その夫が忠臣になるためには、その一身が滅びるのはもちろん、妻である自分までも君王のために捧げられることを喜びとしなければならないという高次的な考えをしたのです。それで、バテシバは、夫がそのような意味で、「私が君王のために一身をすべて捧げ、精誠と志操をすべて捧げていくのが夫に対する義理ではないか」と考えてダビデ王に接しました。ですから、ここからソロモン王が生まれることができたのです。
(40-97、1971.1.24)
ソロモンの母は誰でしたか。バテシバです。バテシバはどのような女性でしたか。ウリヤの妻でした。ダビデ王がウリヤの妻を奪ったのです。その子供がどのようにしてソロモンになったのですか。ウリヤの妻はどのような立場かというと、2番目の夫人です。彼らを堕落する前のエデンの園の位置に立ててみるとき、ダビデはアダムの立場、ウリヤは天使長の立場になります。天使長の妻は復帰しなければならないエバの立場です。
天使長がアダムの相対者であるエバを堕落させ、引っ張っていきました。愛で占領して盗んでいったのです。それを蕩減しようとすれば、そのような三角関係に再び戻るようにしなければなりません。そのような原理的基準に立脚した条件を立てた基台の上で生まれたなら、その子供は天の愛を受ける栄光の子供になります。したがって、ソロモンは栄光の子供なのです。
(35-168、1970.10.13)
7. マリヤ
― 宗教経典 ―
六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。
天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。私は男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベツも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「私は主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。
そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリザベツに挨拶した。マリアの挨拶をエリザベツが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベツは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。」……マリアは、三か月ほどエリサベツのところに滞在してから、自分の家に帰った。
ルカによる福音書1.26 ~ 42、56(キリスト教)
また天使たちがこう言ったときを思え「マリヤよ、まことに神はじきじきのおことばで、あなたに吉報を伝えたもう。マリヤの子、その名はメシヤ・イエス、現世でも来世でも高い栄誉を得、また神の側近のひとりであころう」、「かれは揺りかごの中でも、また成人してからも人びとに語り、正義者のひとりであろう」。
かの女は「主よ、何人も私に触れたことはありません。どうして私に子があり得ましょうか」と言った。天使は言った。「このように、神はお望みのものをつくりたもう。かれが一事を決めたまい、有れと仰せになれば、すなわち有るのである。」
クルアーン、3.45 ~ 47(イスラーム)
イムラーンの娘マリヤ、われはかの女の体内にわが精霊を吹きく込んだ、それでかの女は、主のおことばと、その経典を実証し、敬謙なしもべのひとりであった。
クルアーン66.12(イスラーム)
― み言選集 ―
リベカとタマルの伝統を受け継ぎ……。そして2000 年後にそのみ旨を受け継いだのが誰かというと、マリヤです。聖母マリヤです。み旨のために革命する女性が出てこなければなりまぜん。
天使によって堕落したので、天使長が来てエバを協助するのです。蕩減復帰するのです。その言葉を信じます。絶対的に信じるのです。サタンの言葉を絶対的に信じて堕落したので、この天使長の言葉を絶対的に信じ、神様のみ旨に従っていきます。ですから、「彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい」というその言葉を信じ、冒険をしたのです。
そのときマリヤの立場はヨセフと約婚した立場だったのですが、それはエデンの園でアダムとエバが約婚した立場にいたのと同様の立場でした。アダムとエバは兄と妹ですが、将来結婚する約婚関係にいたのと同じなのです。天使が引っ張っていって堕落したので、天使が引っ張っていって神様の前に復帰するのです。ぴたっと同じです。それで、歴史的伝統を受け継いだので、エバが堕落するときに行動したその内容と同じように、自分の父をだまし、自分の夫をだますことをしなければならないのです。
マリヤは夫と相談しませんでした。父にも分からないようにしました。そのときには、未婚の女性が赤ん坊を宿せば、石の小山ができて……。マリヤは、命を懸けて赤ん坊を宿したということを知らなければなりません。
リベカから、タマルから受け継いだ心情的基台を中心としてイエス様を宿したので、歴史的なすべての蕩減起源を完成した、その腹中から生まれる息子に対しては、サタンが讒訴しようとしても讒訴する道が何もないというのです。ですから、イエス様は、腹中にいるときから神様の息子なのです。
(92-289 ~ 290、1977.4.18)
ヨセフと婚約したマリヤは、自分の身を通してメシヤが生まれるという(ルカ1:31)ガブリエル天使長の驚べきメッセージを受けました。処女の立場で赤ん坊を身ごもれば、死ぬしかないという当時の規則でしたが「私は主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」(ルカ1:38)と言いながら、絶対信仰で神様のみ意を受け止めました。
マリヤは親族であり、尊敬される大祭司長のザカリヤに相談しました。ザカリヤの家庭では、その夫人のエリサベツが神様の能力によって、妊娠した洗礼ヨハネを胎中に身ごもったまま、マリヤに対して「あなたは女の中で祝福された方、あなたの胎の実も祝福されています。主の母上が私のところにきてくださるとは、なんという光栄でしょう」(ルカ1:42、43)とイエス様の懐胎を証しました。
このように神様はマリヤとザカリヤとエリサベツをして、メシヤの誕生を一番先に知らせました。彼らはイエス様によく侍り、神様のみ旨によく従わなければならない重大な使命をもった者たちでした。ザカリヤ夫婦はマリヤを自分たちの家にとどまらせました。イエス様をザガリヤの家庭で懐胎しました。
エリサベツとマリヤの間柄は母親側のいとこの関係でしたが、摂理上では、姉(カイン)と妹(アベル)の関係でした。ザガリヤの前でエリサベツの助けを受けたマリヤは、レアとラケルがヤコブの家庭で母子が一体になれなかったのを、国家的基準でザカリヤ家庭を通して蕩減する条件まで立てながら、イエス様を誕生させなければなりませんでした。歴史始まって以来、初めて神様の息子の種、真の父となるべき種が、準備された母の胎中に、サタンの讒訴条件なく着地したのです。それによって、地上に初めて、神様の初愛を独占することのできるひとり子が誕生するようになったのです。
当時の法によって、容認されるはずもなく、また、常識でも考えることのできないことを、マリヤが成し遂ければなりませんでした。三人がすべて霊的に感動し、神様から来た啓示に従い、それが神様のみ旨であり、願いであることを無条件に信じ従わなければならなかったためでした。
(277-206 ~ 207、1996.4.16)
8. マグダラのマリヤ
― 宗教経典 ―
過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
ヨハネによる福音書12.1 ~ 5(キリスト教)
イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。私に良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、私はいつも一緒にいるわけではない。この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もって私の体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」
マルコによる福音書14.6 ~ 9(キリスト教)
週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペテロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、私達には分かりません。」そこで、ペテロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペテロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペテロも着いた。
彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。
それから、この弟子たちは家に帰って行った。マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。
天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「私の主が取り去られました。どこに置かれているのか、私には分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。私が、あの方を引き取ります。」
イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意昧である。イエスは言われた。「私にすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。私の兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『私の父であり、あなたがたの父である方、また、私の神であり、あなたがたの神である方のところへ私は上る』と。」マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「私は主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。
ヨハネによる福音書20.1 ~ 18(キリスト教)
― み言選集 ―
どうしてキリスト教の中でマグダラのマリヤの名前が残されたのでしょうか。千秋万代に彼女の名前が伝えられてきたのは何ゆえでしょうか。それは、イエス様が彼女の名前を紹介しなさいと言ったからです。
その当時には、一介の貧しい女性の身で300 デナリにもなる香油を若者イエスの足に塗り、髪の毛でふいたという事実を誰が容認するでしょうか。弟子たちまであざ笑い、イスカリオテのユダが抗議し、全体が反対するのに、イエス様はどうして福音が紹介される所にマグダラのマリヤの名が記念として語られるとおっしゃったのでしょうか。
イエス様には、愛する弟子、または大勢の人たちよりも、その時間にマグダラのマリヤの精誠が、自分が神様にあらゆる精誠を尽くして捧げたものと同じ条件になったので、そのように語られたのです。イエス様が十字架で亡くなると、従っていた弟子たちはすべて逃げていきました。しかし、マグダラのマリヤとイエス様の母はイエス様の墓を訪ねていきました。彼女たちにも、家庭と夫がいたのであり、固有の旧約思想を中心とするユダヤ教の風習がありました。
ところが、そのようなすべてのものを度外視して、すなわち自分の社会的な威信や体面を考えずに、死んだイエス様の墓を探し回りました。それでマグダラのマリヤはイエス様に出会ったのです。
(4-107、1958.3.16)
イエス様がゲッセマネの園で天に向かって訴えるとき、その声を聞くことができずに居眠りしていた三弟子の姿と、マグダラのマリヤがイエス様の天的な価値を知って、その方の足に香油を塗り、髪の毛でふいてさしあげることによって復活される主の栄光を確認してさしあげるとき、そのマリヤの行為をあざ笑い、遮った弟子たちの姿をご覧になったその心情がイエス様の怨恨になったことを、今日もイエス様に従う聖徒たちは知らずにいます。イエス・キリストは、誰も理解してくれない孤独な道を行かれながら、悲しい心情を感じられました。
ところが、マグダラのマリヤだけはそのようなイエス様を慰労し、心配しながら、過去と現在と未来を代表したイエス様の天的な内的心情を体恤できたために、イエス様は彼女に祝福を下さり、歓喜の恩賜により彼女を神様のみ旨の前に立てることができたのです。
(2-212、1957.5.26)
亡くなったイエス様の墓を訪ねていった人は誰でしたか。その人は、人々が見て微弱な存在でしたが、その人が正にマグダラのマリヤでした。この村から追い出され、あの村で非難され、あちこちで一身に嘲笑を受けていくイエス様を誰よりも愛する心をもってついていったマリヤでした。このように懇切なマリヤの前にイエス様は復活の身で現れたのですが、これは、終わりの日に全世界のキリスト教徒たちに、彼らの行く道を見せてあげた象徴なのです。マグダラのマリヤはどのような生活をしたでしょうか。イエス様を愛することに、着ること、食べること、すべてを忘れて一片丹心、それだけのために生きました。生死を超越し、体面を考えずについていった彼女の行路は、終わりの日の聖徒たちが歩むべき路程だったのです。
もし今もこの地上にマグダラのマリヤのような心情をもっている人がいるとすれば、その人の目には神様の6000 年摂理にしみ込んだ涙が流れ、天の前に無限に負債を負った自分であることを分かるようになるでしょう。
(4-258 ~ 259、1958.6.29)
9) 仏陀
文鮮明先生は、仏陀をアジアで最も偉大な聖人として認めている。仏陀の生涯は、真理を探し出すために、家族や友を捨てて旅立ったすべての人たちの典型的なモデルである。仏陀は悟りのために自分の夫人と子女、家庭、そして富と権勢を捨てて修養の道を求めていったのち、若い人たちを教化する過程で迫害を受けることもあった。仏陀と大勢の仏教信者たちが経験した至福の状態が、仏陀を宇宙の頂上に導いた。すべての人たちは、仏陀の霊的修行を見習えば、幸福な状態を見いだすだろう。
1. 真理修行のために俗世を離れた仏陀
― 宗教経典 ―
皆さん、道の人ゴータマは、母と父が同意せず、涙を流し、泣いているにもかかわらず、髪と鬚を剃り、黄色い衣をまとって、家を捨てて出家された方です。
阿含経長部i.115 (仏教)
太子は音楽を聞いて、その庭園や森をたたえ、こころのなかで、大いに喜び、ぜひとも外へ出かけたいという思いが湧いてきた。……父王は太子が庭園に出かけて楽しみ遊ぼうとしていることを聞き、家臣たちに命じて、飾られた行列を準備させた。王は歩む道々を綺麗にして、みにくいものや、老人や病人、形の悪いもの、おとろえたもの、貧しいもの、苦しんでいるものなどを除きさり、これらを見て、嫌悪感を起こさないようにさせた。
太子はこの老人を見て、不思議に思い、御者に尋ねた。「いったい、この者はどういう人か。頭が白く、背中はまるくなって曲がっている。目もくぼんで、よく見えないようであり、体はふるえて杖に頼って、弱々しく歩いている。このような人の体は急に変わったのか。この人は生まれつき、こうなっていたのか」と。
御者はためらって、ほんとうのことを答えなかった。ところが、シュダアデイヴァーサ天は神通力で、かの御者に真実のことを語らせてしまった。「容貌もで悪くなり、気持ち心うつろに、ほそぼそと、憂い多く、喜び楽しむことも少なくなり、ついには喜びも忘れ、機能も衰微してしまう。これを年老い衰えたすがたというのである。この人ももとは幼児であって、長い間、母の乳で養われた。少年となって大いに楽しみ遊び、やがて青年となって、五官の欲望をほしいままにしていた。しかも、年をとり、すっかり形も衰えて、ついに老人となり……世の中の人はみなこのことを知っていても、若さを求めているのである」と。
太子は御者に語った。「すぐに車を戻して城に帰るように。刻々と老い衰えるのがやってきている。どうして森のある園に遊び喜ぶことができようか」と。王は太子が喜ばなかったことを聞いて、さらにもう一度ぜひ城を出て遊びに行くよう勧めた。……
天の神はまた病人になって……太子は、この話を聞いて、……ただ驚きおめのくのみであった。……シュダアデイヴァーサ神は、またもや死人となって、四人の者が持つ輿に乗せられて太子の前に現れた。神々は御者に教えて答えさせた。「これは死人です。……」御者は答えた。「みなことごとく死に至る。生というはじめがあれば、かならず死という終りに至るのである。年長者であろうと若かろうと中年であろうと、いつでも、その人間の身体が破壊されて、死に至らない者はいないのである」と。
太子は驚き悲しんで、自分の身を車の横木にもたれかけ、息もたえだえに嘆くのであった。「世の人はどうしてこの誤りをおかしているのであろうか。……世の無常であることを考えようとはしないとは」と。そこで、すぐさま命じた。「車をもとに引き返せ。このうえ遊び楽しむ時ではない。命も絶え、死がいつくるかわからないのに、どうしてほしいままに遊ぶことができようか」と。……
従ってきた者たちを安んじなぐさめて、それぞれの場所に座らせた。自身は木陰を作っているジャンプー樹の下に正しく座って、正しく考え、あらゆるものの生死や世界の興起と終滅、ならびに無常なる移り変りを観察した。
太子の心は安定して動ずることなく、五官によって起る欲望の広大な雲は消えさり、……静寂な瞑想状態に入ったのである。「世のなかはきわめて辛く苦しく、老い、病気になり、死によって破壊され、終生、大きな苦しみを受けながらも、自身で覚ろうとはしない。しかも、他人が老い、病気になり、死に至ることを
きらっている。……」
太子は……ただ静寂な境地で、あらゆる煩悩を離れ、真実の知恵の光りはますます明るく輝いていた。そのとき、シュダアデイヴァーサ神は出家者の姿になって、太子のところにやってきた。太子は……尋ねた。「あなたはどなたであるか」と。
神は答えていった。「私は沙門である。老・病・死を畏れ厭うて、出家し解脱を求めている。……永遠なる楽しみと消滅変化することのない境地を求め、……平等に憐れみ愛せる心を抱き、ただ、安らいの場として、山林におもむき、静寂な気持ちにひたり、欲をもたず……場所のよしあしなど考えもせず、ただ乞食しながら暮らしているだけである」と。……どういう手段で、望みどおりに出家することができるであろうか。……太子は……いままさに世俗をこえたいという気持ちが生じた。
仏所行讃、厭患品3-5(仏教)
その時摩竭(まかつ)国の著名なる族姓子等、世尊のみ許に於て梵行を行ぜり。人々は呟き憤り毀(そし)れり、「沙門瞿曇(しゃもんくどん)来りて子を奪ふ。沙門瞿曇来りて夫を奪ふ。沙門瞿曇来りて族姓を断絶せしむ。……今又誰を誘ふや」
律蔵i.43 (仏教)
釈尊がコーサンビーの町に滞在していた時、釈尊に怨みを抱く者が町の悪者を買収し、釈尊の悪口を言わせた。釈尊の弟子たちは、町に入って托鉢しても一物も得られず、ただそしりの声を聞くだけであった。そのときアーナンダは釈尊にこう言った。「世尊よ、このような町に滞在することはありません。他にもっとよい町があると思います。」「アーナンダよ、次の町もこのようであったらどうするのか。」「世尊よ、また他の町に移ります。」
「アーナンダよ、それではどこまで行ってもきりがない。私はそしりを受けたときには、じっとそれに耐え、そしりの終わるのを待って、他へ移るのがよいと思う。アーナンダよ、仏は、利益・害・中傷・はまれ・たたえ・そしり・苦しみ・楽しみという、この世の八つのことによって動かされることがない。こういったときは、間もなく過ぎ去るであろう。」
法句経註(仏教)
― み言選集 ―
釈迦のような人も同様です。出家して真の道理を求め、すべてのことを克服していきながら、世界の人類と共に生き、公義の法度である天倫を立てようとする神様と共に生きようと、一人孤独に歩んでいったのです。その歩みの前には、個人の涙の海が遮り、家庭の涙の海が遮り、国の涙の海が遮り、人類の涙の海が遮っていたことを皆さんは知らなければなりません。これを克服する修養の道を求めていく聖人の歩みは、最も悲惨だということを知らなければなりません。
(101-151、1978.10.29)
肉身の快楽にふける俗人の喜びと、清貧を楽しむ道人の喜びとは、全く比べものにならない。王宮の栄耀栄華をかなぐり捨てて、心の住み家を探し求め、所定めぬ求道の行脚を楽しむのは、釈迦一人に限ったことではない。
原理講論、総序
釈迦はどうでしょうか。王子の地位を捨てたので、王族から迫害を受けました。その王族を崇拝する国家から迫害を受けたのです。
(258-87、1994.3.17)
聖人でその国から迫害を受けていない人はいません。インドの釈迦は、その国の王子として生まれましたが、人生は苦海だと言い、真理の道を求めるために王子の地位も捨てたのです。このようにして仏教がインドから出てきましたが、インドには仏教人が多くないのです。聖人でその国から歓迎された聖人はいません。聖人を歓迎してくれた国がなかったのです。いつも迫害しました。
(39-255 ~ 256、1971.1.15)
2. 仏陀の覚醒
― 宗教経典 ―
菩薩は正しいさとりをことごとく体得され、この正しいさとりを不動のものとされた。「生という現象が究め尽せば老いと死とが消滅する。行為としての生存が消滅すれば生が消滅する。執着が消滅すれば生存が消滅する。愛着が消滅すれば、執着が消滅する。感受が消滅すれば、愛着が消滅する。接触が消滅すれば、感受が消滅する。六つの感官が消滅すれば、接触が消滅する。一切の感官が消滅しつくすのは、名称と形態が消滅することによる。認識作用が消滅すれば、名称と形態が消滅する。形成作用が消滅すれば認識作用が消滅する。愚かさ(無知、無明)が消滅すれば、形成作用が消滅するのである」と。
このように偉大な聖仙である太子は完全なさとりを完成したのである。(注34)このように完全なさとりを完成して、ブッダとなられて、この世に出現したのである。正しく道理を見きわめること(正見)をはじめとする、理想に達するための八つの道は平らで、まっすぐの道である。結局、わがものという観念がまったくないからである。まさに薪は燃え尽きて消火したように(煩悩の火は完全に消滅しているからである)。ブッダはなすべきことをすべてなしおわって、完全なさとりを体得したのである。
仏所行讃、阿惟三菩提品14(仏教)
わたくしは幾多の生涯にわたって生死の流れを無益にめぐって来た、家屋の作者をさがしもとめて。あの生涯、この生涯と繰り返すのは苦しいことである。家屋の作者よ! 汝の正体は見られてしまった。汝はもはや家屋を作ることはないであろう。汝の梁はすべて折れ、家の屋根は壊れてしまった。心は形成作用を離れて、妄執を滅ぼし尽くした。
法句経153 ~ 154(仏教)
天と地において、ただ私だけが尊貴な者である。
阿含経長部2.15 (仏教)
完全な人がこの世に出現する。如来は、敬われるべき人、悟りを開いた人、知恵と行いの備わった人、よく行った人、世間を知る人、最高の人、人間の御者、神々と人間の指導者、目覚めた人、尊き師である。この完全な人は、自ら知りつくし、悟り、この世、神々、悪魔の世界、梵天の世界、修行者・バラモンたち、人々、神々・人間に教えを説く。かれは、初めも、中程も、終りもよく、意義も文字もよく備わっている教えを説き、完全な清らかな行いを解き明かす。
阿含経長部xiii、三明経(仏教)
― み言選集 ―
皆さんが90 度の角度になり、このような位置にいる自分になって、宇宙に共鳴する真の愛、内的な神様、外的な神様の愛を慕って一つになるとき、宇宙がすべて私のものになり、私は偉大な人になり、すべての全体が私にぶらさがっていると思うようになるのです。釈迦牟尼のような人も、そのような立場で感じたので、天上天下唯我独尊という言葉も可能なのです。
(178-299、1988.6.12)
道に通じるようになれば心から強力な力が出てきます。ですから、体がしようということをすればするほど、むかむかと気分の悪いにおいがするのです。考えただけでもとても気分が悪いというのです。道に通じた人は、心に強い力が来ることによって、そのままにしておいても体は心がしようというとおりにするというのです。このような二つの方案以外には、体を調整する方案がありません。それで神様は、体の支配を完成するために、このような作戦を繰り広げていらっしゃるということをはっきりと知らなければなりません。これが今までの宗教の教えです。したがって統一教会も今そうした公式どおりに行くのです。このようにするようになれば、自然に人間として行くべき高次的な立場、神様の愛を中心とした神様の息子であることを自ら自覚する立場に入るようになるのです。
そのような立場に入るようになれば、一つしかない神様の愛を受けることができるために、釈迦が「天上天下唯我独尊」と言ったように、自分の権威に及ぶ人がいません。独りで自らの価値を称賛できる栄光の立場に入るようになるのです。
もう一度言うならば、神様の愛を独りで受けることができる息子になり、神様が造った被造世界と神様と関係しているすべてのものを自分のものとして相続できるようになったので、独りで高いと自覚する立場に入るのです。このような立場にまで行って神様の愛の圏内で生きるために探していく道が、人間が行かなければならない道です。
(38-270 ~ 273、1971.2.8)
10) 孔子
途絶えることのない戦乱の時期に生まれた哲人、孔子は、当時の苦痛を越えて平和の世界の基礎となる普遍的道徳原理を追究した。彼は弟子たちを呼び集め、あちこちの国々を流浪しながら、彼の理想に関心をもつ統治者を探し求めた。彼は拒絶され続けたが、天は自分をより高い目的のために用いるという信仰をもち、肯定的な姿勢を常にもっていた。彼が生きている間に自分の志は受け入れられなかったが、孔子の教えは東アジア文明の土台となった。
文鮮明先生は、「天」と呼んだ神様に対する孔子の信仰と、見るべき価値のない環境を飛び越え、より高い真理を一心に追究する孔子を尊敬する。文鮮明先生は、孔子をイエスと同等の聖人とみなす。孔子は、天国の社会的関係の外的形態について教えたのであり、イエスは天国の内的精神を教え、体現した。
1. 召命意識をもったまま苦難と挫折を経た孔子
― 宗教経典 ―
儀の国境役人が〔先生に〕お会いしたいと願った。「ここに来られた君子がたには、私はまだお目にかかれなかったことはないのですよ。」という。供のものが会わせてやると、退出してからこういった、「諸君、さまよっているからといってどうして心配することがありましょう。この世に道が行なわれなくなって、久しいことです。天の神さまはやがてあの先生をこの世の指導者になされましょう。」
論語3.24(儒教)
お前はどうしていわなかったのだ。その人となりは、〔学問に〕発憤しては食事も忘れ、〔道を〕楽しんでは心配事を忘れ、やがて老いがやってくることにも気づかずにいるというように。
論語7.18(儒教>
孔子は鄭国へ行ったが、門人たちとはぐれ、ひとりで城郭の東門に立っていた。鄭の或る人が子貢に言った。「東門に人が居て、その額は聖入堯帝に似ており、その首筋は舜の臣の犀陽に似ており……疲れたさまは、喪中の家の犬のようでした」と。
子貢がありのままを孔子に告げると、孔子は笑って言った。「容貌についてはどうかと思うが、喪家の犬とは、いみじくも言ったもんだなあ。そのとおりだわい、そのとおりだわい」と。
そこで、共同して兵員を出して、孔子を広野で包囲した。孔子は行<ことができなくなり、食糧か無くなった。……孔子は弟子たちに憤りの心が有るのを知ったので、子路を招いて問うた。「詩に『野牛でもなく、虎でもないのにどうしてこの広野にひき廻さるる!』と、歌っているが、わが道が悪いのであろうか。われはどうしてここに苦しまなければならんのか」と子路が言った。
「思いますに、私達はまだ仁者ではないのでしょう。人がわれわれを行かせないのは!」と。孔子が言った。「どうして、そんなことがあるものか。由よ、たとえば、仁者が必ず人に信ぜられるものなら、どうして伯夷・叔斎のような仁人が餓死することが有ろうか。智者が必ず行きたい所へ行きうるなら、どうして王子比干が腹を剖かれるようなことがあろうか」と。子路は退出した。
子貢が入ってきて孔子にお目にかかった。孔子が言った。「賜よ、詩に歌っている、『野牛でもなく、虎でもないのに、どうしてこの広野にさまようのか!」と。わが説く道が悪いのか、われはどうしてさまよわなければならなんのか!」と。子貢が言った。「先生の道は至大であります。だから、天下は先生を容れることができないのです。どうして少しくその道を小さく低くなさいませんか」と。
孔子が言った。「賜よ。良農はうまく種を播くが、よく収穫できるとは限らない。良工は器物は作ることは巧みでも、よく人の好みに順うとは限らない。君子はよくその道を修め、大綱をたてて、それを道筋とし、これを統理することはできるが、必ずしも世人に容れられるとは限らない。今、おまえは、おまえの道を修めないで、世人に容れられんことを求めている。賜よ、おまえの志は遠大でないよ」と。子貢は退出した。
顔回が入ってきて孔子にお目にかかった。孔子がいった。「回よ、詩に歌っている、『野牛でもなく、虎でもない。だのにどうしてこの広野にさまようのか!』と。わしが説く道は間違っているのか。どうして、ここにこの困厄にかかるとは!」顔回が言った。「先生の道は至大でございます。ですから、天下によく容るるものがないのでございます。でありますが、先生には是非ともその道を推して行っていただきたいのであります。世人に容れられないことなどは、どうして憂うる必要がありましょうや。容れられないでこそ、初めて君子たることがわかるのでございます。
道の修まらないことこそ、これはわれわれの恥でございます。道がすでに大いに修まっていて、用いないのは、国を有する君主の恥であります。世に容れられないことは、どうして憂うべきことでございましょうや。むしろ、世に容れられなくてこそ、しかる後に初めて君子たることがわかるのでございます」と。孔子は欣然として笑って言った。「そうあるべきだ、顔氏の子よ。もし、お前が財産家だったら、わしはおまえの家の取締役になろうものをなあ!」と。
司馬遷史記47(儒教)
― み言選集 ―
孔子は、数千年前、春秋戦国時代の魯の国の人でしたが、彼は数カ国だけを考えたのではありません。そして、自分が生まれた困難な環境、混乱した社会像を見つめながらも、不平を言いませんでした。父母を中心として、兄弟がいなくても感謝の心で自分が助けることができる真の道を模索したのです。
そのような心でその時代に追われながらも感謝し、未来のために、世界のために生きたので、彼は戦国時代を超え、思想的に中原大陸を統一するようになったのです。それだけでなく、アジアを超えて世界万民のために残すことができる一つの道を築くようになりました。与えることができるものは何かという心、真のものを与えたいと思う彼の渇望と欲望が、結局、彼の人格を形成するようになったのです。そこから孔子の教えが出てきたのです。
(33-290、1970.8.21)
孔子の道理は、魯の国の混乱した時代において、その国の処理方法にもなりますが、自分の国と同じ混乱した世界を見つめながら、後代の万民たちが経ていかなければならない人生の道理を模索した教えだったのです。
(32-260、1970.7.19)
歴史時代の聖人たちの中で、イエスも迫害を受け、孔子も喪家の犬と言われながら迫害され、仏教の釈迦牟尼も迫害され、ムハンマドも迫害を受けたのです。そのような迫害されたすべての人たちが聖人になったのは、この原則において……。歴史が、時間と時が過ぎていくに従って、自然に自分の時として来ることによって勝利するようになるのです。この原則から歴史が動いていくということを知らなければなりません。
(189-205 ~ 206、1989.4.6)
2. 孔子の宗教的信仰
― 宗教経典 ―
先生が匡の土地で危険にあわれたときにいわれた、「文王はもはやなくなられたが、その文化はここに(このわが身に)伝わっているぞ。天がこの文化を滅ぼそうとするなら、後代のわが身はこの文化にたずさわれないはずだ。天がこの文化を滅ぼさないからには、匡の連中ごとき、わが身をどうしようぞ。」
論語9.5 (儒教)
王孫賈が「『部屋の神のきげんどりより、かまどの神のきげんをとれ。』と〔いう諺〕は、どういうことです。」とたずねた。〔衛の主君よりも、権臣である自分のきげんをとれ、というなぞである。〕先生はいわれた。「〔その諺は〕まちがっています。〔かまどの神や部屋の神よりも、最高の〕天に対して罪をおかしたなら、どこにも祈りようはないものです。」
論語3.13 (儒教)
粗末な飯や野菜の汁や瓜のようなものでも、初取りのお祭り(注36)をするときはきっと敬虔な態度である。
論語10.8(儒教)
伯牛が病気になった。先生が見舞われ、窓ごしにその手を取られた。「おしまいだ。運命だねえ。こんな人でもこんな病気にかかろうとは、こんな人でもこんな病気にかかろうとは。」
論語6.10 (儒教)
先生はいわれた、「人としての正しい道をはげみ、神霊には大切にしながらも遠ざかっている、それが智といえることだ。」
論語6.22 (儒教)
先生が「わしはもう何も言うまいと思う。」といわれた。子貢が「先生がもし何も言われなければ、わたくしども門人は何を受け伝えましょう。〔どうかお話をして下さい。〕というと、先生はいわれた、「天は何か言うだろうか。四季はめぐっているし、万物も生長している。天は何か言うだろうか。〔何も言わなくても、教えはある。ことばだけを頻りにしてはいけない。〕」。
論語17.19(儒教)
― み言選集 ―
人だけを中心として出てきた聖賢はいません。人類だけを中心とする道理によって出発した聖賢はいないのです。孔子の教えに、「為善者、天報之以福、為不善者、天報之以禍」という言葉があります。すなわち、善を行う人は天が福をもって返してくれ、悪を行う人は天が禍をもって返すという言葉です。孔子がこの言葉を語れたということは、天を知っていたからです。それで、天を中心として、道理の基準を立てたのです。漠然とではありますが、天を介在させました。ですから、孔子は聖賢の班列に立つことができたのです。
(32-261、1970.7.19)
道義的な出発を中心として、人間はこのように生きなければならない、天を中心として人間は正しい道を行く、家庭生活の伝統を正さなければならないというのです。自分の思いどおりに生き、愛の関係を自分勝手にもつ人たちは悪いと言います。この愛の道理を立てていくためのものが人間世界に宗教として現れたのです。
儒教のようなものがそうです。礼式において人類を代表できる内容を教えてくれたのが孔子です。……そのような方を通して、外的な人間の道義的な面のすべてのものを教えてくれました。……これは何かというと天使長型です。それで、道義的な面で世界人類に影響を及ぼしたのです。
(295-174、1998.8.28)
11) イエス
文鮮明先生は、ナザレのイエス様をすべての宗教創始者の中で最高の聖人とみなしている。文先生は、イエス様の生涯と業績に対して徹底して研究した。イエス様に関する先生の説教が数冊の出版物になるほど多い。先生は、イエス様の十字架の贖罪によってすべてのことを完成したという一般的なキリスト教徒の視角からイエス様を理解しない。文鮮明先生は、イエス様が生きて地上天国を建設しなければならないという、より大きな使命をもっていたと認識している。十字架の死によってイエス様の熱い希望が挫折し、再臨の時まで天国建設が遅延されたのであり、したがって人類は数世紀にわたって苦痛と闘争などが空転する状況で生活しなければならなかった。文鮮明先生は、聖書の聖句に表れたイエス様の個人的性稟、任務の準備、イエス様の家族との関係、彼の任務を果たす路程、十字架、そして彼の復活などをこのようなレンズを通して洞察する。
文鮮明先生は、イエス様を「悲しみの人」と見ている。公生涯を始める前、30年間、イエス様は家族と村の人々から少なくない誤解と締め出しを受けた。当時、すべてのユダヤの男性が20 代で結婚する慣習から見てみるとき、イエス様が結婚しなかったという事実は、一般人たちに特別に神聖な姿として受容されず、かえって疑わしい出生によって痛手を受け、結婚するとは思えないおかしな人として理解された。
イエス様が自分の任務を始めるころ、洗礼ヨハネに見るように、自分を迎え入れるようにユダヤの民を準備した天のすべての努力は既に水泡に帰した。結果的に、イエス様は伝えたかった天国建設の福音をはっきりと明かすことができず、あいまいな比喩で語るしかなかった。ローマからイスラエルの独立を成就するための霊的、政治的運動を主導し、この世界に神様の王国を建設しようとしていたイエス様の意図は決して明かすことはできなかった。
彼の任務に反対する勢力が増大するほど、イエス様の悲しみも一層大きくなったのであり、イエス様は十字架の道という、また別の代案を選択せざるを得なかった。最後には、自分だけを残しておいたまま、逃げていき、散らばっていく弟子たちの弱さにイエス様の悲しみは一層深まった。イエス様は、自分が本来の使命を完遂できないまま十字架の道を歩めば、神様が悲しまれ、それ以降の多くの世代が苦痛を受けるという事実を知っていたので、ゲッセマネの園で命懸けの祈祷を捧げた。しかし、その時まで群集は彼を拒否し続けたのであり、死以外にほかに道がないため、神様のみ旨に従って十字架を受け入れざるを得なかった。しかし、人類に対してすべての精誠を注いだイエス様の愛は変えることはできないため、十字架上で自分を葬ろうとする敵まで赦した事実は、歴史を変えた地軸を揺さぶる事件だった。
1. 罪悪の人類を救援するために来られたイエス
― 宗教経典 ―
そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。
マタイによる福音書4.17、23(キリスト教)
「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。私は、その罪人の中で最たる者です。
テモテヘの手紙一1.15(キリスト教)
イエスは言われた。「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」
ヨハネによる福音書14.6(キリスト教)
(イエスはこう言われた。)「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。私は柔和で謙遜な者だから、私のくびきを負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。私のくびきは負いやすく、私の荷は軽いからである。」
マタイによる福音書11.28 ~ 30(キリスト教)
イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなた達の先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『私が求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
マタイによる福音書9.10 ~ 13(キリスト教)
私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。狼は羊を奪い、また追い散らす。彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。私は良い羊飼いである。私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている。それは、父が私を知っておられ、私が父を知っているのと同じである。私は羊のために命を捨てる。私には、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊も私の声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。
ヨハネによる福音書10.11 ~ 16(キリスト教)
― み言選集 ―
イエス様の生活はすべて自身の責任と使命を完遂する生活でした。彼は、永遠に残り得る責任を地上に完遂しておいたのです。イエスの30 年あまりの生涯は永遠不変の実績、責任を果たした実績をこの地上に成し遂げておいた生涯でした。ですから、イエス・キリストのみ言が、キリストの信仰と福音が残っている以上、彼の生涯も残るのです。
イエス様は、自分一代においては言うまでもなく、歴史的な面でも責任をもちました。そして、神様が4000 年間役事してこられたみ旨に対しても独りで責任をもったのです。イエス・キリスト以外に神様の責任を身代わりしていく者が、この地上には一人もいませんでした。
(1-37、1956.5.16)
宇宙的な疑問を解明してあげるために、イエス様はいらっしゃらなければならなかったのであり、解決されていない人間たちの罪を解決してあげるためにイエス様はいらっしゃらなければならなかったのであり、死亡の問題を解決してあげるためにイエス様はいらっしゃらなければなりませんでした。
人類のこのような疑問と死亡と罪を解決してあげられる方は、ただイエス様だけでした。そして、イエス様は4000 年の歴史過程に来られた誰よりも神様のために真実な生活をされた方です。自分を超越し、宇宙的な疑心を解明するために努力されたのであり、自分の一身の栄光を超越し、宇宙の栄光のために苦労されたのであり、自分のすべてのものを振り返ることなく、ただ神様のみ旨を成し遂げるために無限に犠牲になっていかれました。
そのような一貫した心と生活によってイエス・キリストは歴史を代表し、天の前に一番の先鋒者として立てられました。それでイエス・キリストは歴史的な疑心の障壁を克服していき、自信をもって「私を信じなさい!」と叫ばれたのです。
(3-14、1957.9.8)
「私は道であり、真理であり、命である。誰でも私によらないでは、父のみもとに行くことはできない」、これがどれほど堂々としていますか。「私は道であり」というその道はどのような道ですか。狭い道ですか、平らな大道ですか。
そして、「私は真理」と言ったのですが、それはどのような真理ですか。もどかしい真理ですか。すべてのことをよく知らなければなりません。すべて歓迎し、すべてのものがよいと言い、すべてのもののはかりになり得ると言わなければなりません。そして、「私は命」と言うとき、死んで廃れていく命ですか、発展する命ですか。それをどのような所で歓迎しなければなりませんか。「自分を低くする者は高くされるであろう」と言いました。
(106-13、1979.11.4)
理想世界とか、一つの統一世界というものは、未完成の状態では成されないのです。無知から成すことはできません。ですから、完全なる方、完全に知っていらっしゃる一人の方を送って、その国の人たちと接触させようとされたのです。これがメシヤを送ると言われた、神様の約束でした。神様を中心とした主権国家の形成はイエス様を中心として始まらなければならず、それはイエス様とその国の民が完全に一つになってこそ可能だったのです。
すなわち、メシヤを迎えて(注38)未完成の個人が完成するための手続きと、家庭が完成するための手続き、民族、国家が完成するための手続きを、すべてイエス様のみ意を受けて一体化してなさなければならないのです。
ところが、このような歴史を通してメシヤを迎えるイスラエル民族は、イスラエル民族自体のためにメシヤが送られたというよりも、メシヤとイスラエル民族が一つになって世界を救うようにされたのが神様のみ旨だったことを、知らなかったのです。
(54-41、1972.3.10)
2. イエス : 神様の息子、み言の実体
― 宗教経典 ―
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
ヨハネによる福音書3.16(キリスト教)
フィリポが「主よ、私達に御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、私が分かっていないのか。私を見た者は、父を見たのだ。なぜ、『私達に御父をお示しください』と言うのか。私が父の内におり、父が私の内におられることを、信じないのか。私があなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。私の内におられる父が、その業を行っておられるのである。私が父の内におり、父が私の内におられると、私が言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。
しばらくすると、世はもう私を見なくなるが、あなたがたは私を見る。私が生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、私が父の内におり、あなたがたが私の内におり、私もあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。
ヨハネによる福音書14.8 ~ 11、19 ~ 20(キリスト教)
神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、私達が生きるようになるためです。ここに、神の愛が私達の内に示されました。
私達はまた、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています。イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。私達は、私達に対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にどどまる人は、神の内にどどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。
ヨハネの手紙一4.9、14 ~ 16(キリスト教)
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。
言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
言は肉となって、私達の間に宿られた。私達はその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
ヨハネによる福音書1.1 ~ 14 (キリスト教)
― み言選集 ―
イエス様は、この地上に生まれ、「私は神様のひとり子だ」と主張しました。歴史始まって以来、初めて神様の愛を受けるのは自分でなければならないという決定的な宣布をしたのです。このような観点で神様が願う最高の基準を説破したのであり、その位置に立ったと自負した人は、たった独り、イエスしかいませんでした。ヨハネによる福音書の第14 章を見れば、「私は私の父におり、あなたがたは私におり、また、私があなたがたにおることが、わかるであろう」とあり、神様と自分との一体を語りました。
(53-231、1972.2.28)
イエス様はひとり子です。ひとり子とは何ですか。神様の愛は一つしかない絶対的な愛ですが、その愛を初めてそっくりそのまま受けることのできる代表者だというのです。ですから、ひとり子という名前をもったので、救世主になることができるのです。イエス様は、自分が神様の真の息子だということを教えてくれました。愛を中心として教えてくれました。それは、私を通さなければ愛の因縁が連結されないということです。
(146-168、1986.6.15)
イエス様が語ったみ言の中に、「神様は私の父である」という言葉があります。この言葉は、よくぞ言いましたか、言ってはいけないことですか。よくぞ言いました。この言葉が正に人間として成功を収めた言葉です。人情を中心として天情と天倫に到達できる新しいみ言なのです。その次に、何と言ったかというと、「私は新郎であり、あなたは新婦である」というみ言を語られました。
このようにすべてのみ言を宗教的な問題をかけて言いました。それが違うのです。人間の世の中で、新郎と新婦の関係以上に近い関係がありますか。また、父子の関係以上に近い関係がありますか。
「私は信徒たちとは一つの兄弟だ」と言ったのですが、これ以上に近い関係がありますか。この言葉は何を中心として語るのですか。神様を中心として、神様が家庭に対して語ったのです。情緒的な内容を中心として見るとき、すべてのものを総合して結論を下したものだと言えます。
(39-42 ~ 43、1971.1.9)
聖書の中に、「私は道であり、真理であり命である」(ヨハネ14・6)というみ言があります。言い換えれば、イエス様は道であり、真理であり、命だというのです。これはすべての人間たちに何を予示したのでしょうか。これはアダムとエバが堕落することによって、神様のみ言が成し遂げられず、そのみ言がそのまま神様の心霊に戻ってしまったのですが、み言を失ってしまった人もやはりこの地に生きているので、神様は再びこのみ言を人間たちに下さるということを予示されたのです。これは神様が希望された神様のみ言の実体がイエス様だということを示すみ言です。
(3-318 ~ 319、1958.2.2)
イエス様は、サタンの血筋を転換させた清い内的血統的基盤の上で生まれたので、イエス様だけが初めて神様の息子になれるという結論を下せます。ですから、イエス様は「私は神様のひとり子」と語ることができたのです。イエス様は、歴史時代に初めて出てこられた方であることを私達は知らなければなりません。ですから、イエス様は「私が父におり、父が私におられる」と語られ、「私を見た者は、父を見たのである」、と語られました。
ヨハネによる福音書の第14 章を見れば「私は私の父におり、あなたがたは私におり、また、私があなたがたにおることが、わかるであろう」と語られています。ですから、イエス様を通さなければ、天の国、父の前に行く者がいないのです。それで、イエス様は、「私は道であり、真理であり、命である。だれでも私によらないでは、父のみもとに行くことはできない」と、堂々と宣言することができたのです。
世界的に大勢の宗教指導者がいるとしても、歴史的なサタンの汚れた血を清めて血統を転換させ、神様と因縁を結んで生まれた人はイエスしかいないことを、皆さんは知らなければなりません。釈迦も、孔子も、ムハンマドも、誰もこのような背景をもってこられませんでした。そのような方がこの地上に生まれたという事実は、人類にとって希望の中の希望であり、生命の新しい起源と復活を迎えることのできる栄光になるのです。
(53-205 ~ 206、1972.2.21)
3. イエス : 真の人、原罪のない第2アダム
― 宗教経典 ―
「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。
コリントの信徒への手紙一15.45(キリスト教)
イエスは神のみもとでは、ちょうどアダムと同じである。
クルアーン3.59 (イスラーム)
神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。
テモテヘの手紙一2.5 (キリスト教)
キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となられます。
ヘブライ人への手紙5.7 ~ 9(キリスト教)
また神がこう仰せられたときを思え、「マリヤの子イエスよ、なんじは神のほかに、私と私の母とを、二柱の神とせよと、人びとに告げたか」。かれは申し上げた「あなたにたたえあれ、私に権能のないことを、私として言うべきでありません。もし私がそれを言ったならば、必ずあなたは知りたもう。あなたは、私の心のうちを知りたもう。だが私は、あなたのみ心のうちは知りません。まことにあなたはよろずの秘奥を熟知したもう」。
「私はあなたが命ぜられた、私達の主であり、あなたがたの主であられる神に仕えまつれ、と言う以外には、決してかれらに告げません。私がかれらの中にいた間は、私はかれの証人でありました。あなたが私を召された後は、あなたがかれらの監視者であります。あなたはよろずのことの立証者であられます」。
クルアーン5.116 ~ 117(イスラーム)
― み言選集 ―
アダムとエバが創造理想を完成して、人類の真の父母となったならば、彼らから生まれた子女たちは原罪がない善の子女となり、地上天国をつくったであろう。しかし、彼らは堕落して人類の悪の父母となったので、悪の子女を生み殖やして、地上地獄をつくることになったのである。したがって、イエスが、ニコデモに言われたみ言どおり、堕落した人間は原罪がない子女として新たに生まれ直さなければ、神の国を見ることができないのである。
我々を生んでくださるのは、父母でなければならない。それでは、堕落した我々を原罪がない子女として生んで、神の国に入らせてくださる善の父母は、いったいどなたなのであろうか。原罪のある悪の父母が、原罪のない善の子女を生むことはできない。したがって、この善の父母が、堕落人間たちの中にいるはずはない。
それゆえに、善の父母は、天から降臨されなければならないのであるが、そのために来られた方こそがイエスであった。彼は堕落した子女を、原罪のない善の子女として新しく生み直し、地上天国をつくるその目的のために真の父として来られた方であった。ゆえに、ペテロⅠ1章3節に、「イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、私達を新たに生れさせて生ける望みをいだかせ」というみ言がある。イエスは、アダムによって成し遂げられなかった真の父としての使命を全うするために来られたので、聖書では、彼を後のアダムといい(コリントⅠ 15・45)、永遠の父といったのである(イザヤ9・6)。
原理講論、キリスト論4.1.1
イエス様も、価値的な内容を通して見るとき、宇宙と生命を取り替えることはできないと言いました。神様と連結されるその生命には愛があり、理想が通じるようになっています。生命と理想が自動的に連結するのです。愛を中心として生命が躍動し、理想を中心として生命が躍動するようになっています。もう皆さんは神様と宇宙との関係と位置を知りました。
キリスト教徒たちを見ると、「神様は気高く、私達人間は罪人であり被造物なので、価値がなく、イエス様は神様だ」と言います。それではどのように連結されるのですか。そのような観点から、イエス様は人の側に立たなければならないのであって、神様の側にいればどうなるのかというのです。
テモテヘの第一の手紙の第2章を見れば、「神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである」とあります。そうでなければなりません。そうでなければ、この罪人がどうやって行くのですか。そのような根本的な問題をすべて明らかにして整理しておかなければなりません。彼は罪のない人であり、私達は罪がある人です。これが違うのです。ですから、イエス様は神様の愛と交流することができ、生命と交流することができ、理想と交流することができる方です。
(69-80 ~ 81、1973.10.20)
歴史的に有名な人たち、あるいは聖者たちを考えてみましょう。イエス様はどうだったでしょうか。孔子や釈迦のような人たちはどうだったでしょうか。聖人とは何ですか。私達は心と体が一時間に何百回も移り変わっていきますが、そのような人たちは、一箇所に立っていることができる人たちでしょう。
それでは、一つ尋ねてみましょう。イエスは男性ですか、女性ですか。男性です。その男性が女性を見れば、その思いはどうでしょうか。男性と思ったでしょうか、女性と思ったでしょうか。女性と思ったでしょう。それは間違いなく女性なので、自然の道理として、プラス、マイナスが出会えば引力関係があるのです。そのようなことを感じたでしょう。
(128-78、1983.6.5)
4. キリスト降臨の準備と洗礼ヨハネの責任
― 宗教経典 ―
エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、私のためにイスラエルを洽める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。
ミカ書5.1(キリスト教)
預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、私はあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。(注40)
マルコによる福音書1.2 ~ 6(キリスト教)
ヨハネは答えた。「私は水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人は私の後から来られる方で、わだしはその履物のひもを解く資格もない。」これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。
その翌日ヨハネは、自分の方ヘイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。『私の後から一人の人が来られる。その方は私にまさる。私よりも先におられたからである』と私が言ったのは、この方のことである。私はこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、私は、水で洗礼を授けに来た。」
そしてヨハネは証しした。「私は、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。私はこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるために私をお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』と私に言われた。私はそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」
ヨハネによる福音書1.26 ~ 34(キリスト教)
ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」
イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。私につまずかない人は幸いである。」
ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。『見よ、私はあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』と書いてあるのは、この人のことだ。
はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである。あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は、彼は現れるはずのエリヤである。耳のある者は聞きなさい。」
マタイによる福音書11.2 ~ 15(キリスト教)
エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、彼は公言して隠さず、「私はメシアではない」と言い表した。彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。
ヨハネによる福音書1.19 ~ 21(キリスト教)
― み言選集 ―
このサタン世界に何の準備もなく、基盤も築かず、メシヤをただそのまま送れば、怨讐サタンは彼を捕らえて殺すことは間違いないので、歴史を通して宗教を立てたのです。その宗教の中でも、主流的な宗教を立て、神様の側に分けて別々のものにし、サタンと対抗して勝つ個人、家庭、氏族、民族、国家を形成して、その基盤の上にメシヤが完全に一つになれる国家的基盤を備えてメシヤを送らなければならないのです。そのように準備した基盤がイスラエル、勝利したという意味のイスラエルの国であることを知らなければなりません。
(74-59 ~ 60、1974.11.12)
神様は、4000 年間イスラエル民族の前にメシヤを送ってあげると約束したのであり、その約束を履行するために大勢の預言者を連結させ、それを伝達してきました。そして、願っているイスラエル民族の前に約束したとおりに神様の息子、メシヤ、イエス様を送ったにもかかわらず、メシヤが来たにもかかわらず、イスラエル民族はメシヤと一つになることができず、メシヤを捕らえて殺したという事実、これはなぞの中のなぞです。
(73-218、1974.9.18)
神は、アブラハムの子孫からイスラエル選民を召し、彼らを保護育成され、ときには彼らを苦難と試練を通して導かれた。また、多くの預言者たちを彼らに遣わして慰めながら、将来、メシヤを送ることを固く約束されたのである。それから、彼らをして幕屋と神殿を建てさせることによって、メシヤを迎える準備をさせ、東方の博士、羊飼い、シメオン、アンナ、洗礼ヨハネを遣わして、メシヤの誕生と彼の顕現を広く証された。
特に、洗礼ヨハネに対しては、彼が懐胎されるとき、天使が現れて証した事実をユダヤ人たちはみな知っていたし(ルカ1・13)、彼が生まれたときの奇跡は、当時のユダヤ国中を大きく驚かせた(ルカ1・63 ~ 66)。そればかりでなく、荒野における彼の修道生活は、全ユダヤ人をして、彼こそがメシヤではあるまいかと思わせるほど、驚くべきも
のであった(ルカ3・15)。神がこのように偉大な洗礼ヨハネまでも遣わして、イエスをメシヤとして証明させたのは、いうまでもなく、ユダヤ人をしてイエスを信じさせるためであった。
原理講論、メシヤの降臨とその再臨の目的1.3
洗礼ヨハネを預言者と思って信じているユダヤ教の信者たちが、すべてイエスと一つになったなら、誰がイエス様を捕らえて殺すでしょうか。誰が捕らえて殺すのかというのです。そのようになったなら、どのようになりますか。高位層の人たちがイエス様の使徒になり、弟子たちになるのです。足の裏のような漁夫たちがイエス様の弟子になりますか。ペテロのような無学な人や税吏や娼婦たちがイエス様の弟子になる、それが神様のみ旨ですか。
(74-153、1974.11.28)
神は、イエスがメシヤであるということを、洗礼ヨハネに直接教示された。洗礼ヨハネ自身も、またそのように証した。……しかし、彼の無知によりこの使命を完遂することができず、ついには、イエスのためにささげるべき彼の命までも、あまり価値もないことのために犠牲にしてしまったのである。洗礼ヨハネは、その中心が天の方にあったときには、イエスをメシヤと知って証した。けれども、彼から霊的な摂理が切れて、人間洗礼ヨハネに立ち戻るや、彼の無知は、一層イエスに対する不信を引き起こすようになったのである。
自分がエリヤである事実を自覚できなかった洗礼ヨハネは、特に、獄中に入ってから、他のユダヤ人たちと同じ立場で、イエスを見るようになった。したがって、イエスのすべての言行は人間洗礼ヨハネの目には、一様に理解できないものとして映るばかりであった。そればかりでなく、彼もやはり、エリヤが来る前に現れたイエスをメシヤとして信ずることができなかったので、結局、自分の弟子たちをイエスの方に送って、「『きたるべきかた』はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべぎでしょうか」(マタイ11・3)と質問して、その疑いを解決してみようとしたのである。しかし、このような洗礼ヨハネの質問を受けたイエスは、マタイ福音書11 章3節から19 節に記録されているように、悲憤やるかたない思いで、警告の意味を強く込めた内容で答えられた。
洗礼ヨハネはイエスに仕えるために胎内から選ばれ(ルカ1・75)、彼の道をまっすぐにするために、荒野で苦難の修道生活をしたのであった。さらにまたイエスが公生涯路程を出発されるときに、天はだれよりも先に、イエスがだれであるかを彼に教え、また、それを証言させてくださった。このような天の恩賜をそのまま受け入れなかった洗礼ヨハネから、そのような質問を受けたので、イエスは改めて、自分がまさしくメシヤであるとは答えられなかったのである。
原理講論、メシヤの降臨とその再臨の目的23
マタイによる福音書第11 章11 節を見れば、「女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起らなかった。しかし、天国で最も小さい者も、彼よりは大きい」とあります。一度は一番大きいと言い、一度は一番小さいと言っていますが、これはどういうことですか。預言者の使命は何かというと、メシヤに関して証することです。過去の預言者たちは、会うこともできずに預言を通してメシヤを証しましたが、洗礼ヨハネは目で直接見て証したので、預言者の中では一番大きいのです。
しかし、天国に行っている一番小さい昔の預言者たちは、イエス様がメシヤであることを知ってみな侍っているのですが、洗礼ヨハネは侍ることにおいて最後尾だというのです。メシヤのために生まれ、死ぬときもメシヤのために死ななければならないのに、つまらないヘロデヤの恋愛事件に巻き込まれ、首を切られて死にました。それが洗礼ヨハネの行く道ですか。
12 節にどのようにありますか。「バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている」とあります。聖書にこのようになっています。いくら否定しようとしても、ミスター・文の話が正しいのです。洗礼ヨハネの時からイエス様の時まで、天国は激しく襲う者たちが奪い取っていると言いました。
もし洗礼ヨハネがイエス様を信じていれば、一番弟子は誰がなったのですか。間違いなく洗礼ヨハネがなるのです。これを知らなければなりません。牧師、長老、キリスト教徒たちが知らなければなりません。12 弟子、70 門徒は、すべて洗礼ヨハネの一党がならなければならないのです。
そうすれば、ユダヤ教と直結で通じ、祭司長と書記官をすべて一つにまとめることができました。ヨハネによる福音書第3 章30 節を見れば、洗礼ヨハネが、「彼は必ず栄え、私は衰える」と言っています。ヨルダン川で洗礼を施すイエス様のところに人々が行くのを見て、弟子たちが尋ねるので、洗礼ヨハネが「彼は必ず栄え、私は衰える」と答えたのです。それはどういうことですか。今日のキリスト教徒たちは、洗礼ヨハネが謙遜したものと信じてきました。そうではありません。一緒に行動しなかったということです。それを知らなければなりません。
イエス様が栄えれば自分も栄え、イエス様が滅びれば自分も滅びなければならないのに、ほかの道を行ったということです。イエス様が十字架で亡くなるようになったのは、洗礼ヨハネのためであることを知らなければなりません。皆さんが信じられなければ、神様に談判祈祷してみてください。
(69-139 ~ 140、1973.10.23)
5. キリスト降臨の世界的準備
― 宗教経典 ―
イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私達は東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」
これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。
彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、私の民イスラエルの牧者となるからである。』」そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。私も行って拝もう」と言ってベツレヘムヘ送り出した。
彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
マタイによる福音書2.1 ~ 11(キリスト教)
古代東方の子供たちは、アブラハムから受け継いだ知恵をもっていた。その知恵は、アブラハムが妾の息子たちに与えたものだ。創世記25 章6節に次のように記録されている。「側女の子供たちには贈り物を与え、自分が生きている間に、東の方、ケデム地方へ移住させ、息子イサクから遠ざけた」。時が流れ、この者たちはアブラハムから受けたこの知恵に従うようになった。
ゾハール1.100b (ユダヤ教)
言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。
マタイによる福音書8.11(キリスト教)
― み言選集 ―
インドの仏教圏、中国の儒教圏、ゾロアスター圏など、様々な宗数団体が東洋諸国で影響力を行使していたので、自動的に各宗教の霊通者たちはイエス様がどのような方なのか分かるようになっていたのです。
(227-81、1992.2.10)
初臨のときには、神がその選民のために、メシヤが降臨される430 年前に、預言者マラキを遣わされて、メシヤが降臨されることを預言なさるとともに、一方においては、ユダヤ教を刷新して、メシヤを迎え得る選民としての準備をするようにされたのであった。
また、異邦人たちに対しては、これとほとんど同時代に、インドの釈迦牟尼(前565 ~ 485)によって印度教を発展せしめ、仏道の新しい土台を開拓するように道を運ばれたし、ギリシャでは、ソクラテス(前470 ~ 399)の手でギリシャ文化時代を開拓せしめ、また、東洋においては、孔子(前552 ~ 479)によって儒教をもって人倫道徳を立てるようにされるなど、各々、その地方とその民族に適応する文化と宗教を立てられ、将来来られるメシヤを迎えるために必要な、心霊的準備をするように摂理されたのである。
それゆえに、イエスはこのように準備された基台の上に来られ、キリスト教を中心としてユダヤ教(Hebraism)を整理し、ギリシャ文化(Hellenism)、および、仏教(Buddhism)と儒教(Confucianism)などの宗教を包摂することによって、その宗教と文化の全域を、一つのキリスト教文化圏内に統合しようとされたのである。
原理講論、摂理的同時性から見た復帰摂理時代と復帰摂理延長時代
イエス様もアジア系として生まれました。ところが、アジアで体を失ってしまったのです。それを蕩減復帰するために、今まで西欧文明はローマを中心として反対に来たのです。本来、イエス様が死ななければ、インドの仏教圏、極東アジアの儒教宗教圏が、キリスト教を中心として統一圏を先に成し遂げなければなりませんでした。宗教圏が統一を成し遂げなければならなかったのです。
宗教圏に立っている最高の指導者は霊界と通じるので、これから天が行く方向を知っています。ですから、イエス様が国を収拾してローマから独立し、イスラエルの12 支派圏がカナンに復帰して分配されたその地が統一されたというときには、間違いなくアジアが吸収されるのです。
(229-174 ~ 175、1992.4.12)
6. 家族の誤解
― 宗教経典 ―
イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。
マルコによる福音書6.1 ~ 4(キリスト教)
さて、両親は過越祭には毎年エルサレムヘ旅をした。イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが、見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。
三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんも私も心配して捜していたのです。」すると、イエスは言われた。「どうして私を捜したのですか。私が自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。
ルカによる福音書2.41 ~ 51(キリスト教)
三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、私とどんなかかわりがあるのです。私の時はまだ来ていません。」
ヨハネによる福音書2.1 ~ 4(キリスト教)
イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、イエスは、「私の母、私の兄弟とはだれか」と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここに私の母、私の兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、私の兄弟、姉妹、また母なのだ。」
マルコによる福音書3.31 ~ 35(キリスト教)
― み言選集 ―
処女が赤ん坊を身ごもって生んだことを、キリスト教徒たちは、聖霊によって身ごもったと言うのですが、それを信じることができますか。そのときは、弟や妹たちも呪い、村でも指をさされ、村の子供たちの問題になって追われ、逃げ回っていた、そのようなイエスだったでしょう。33 歳になるときまで、結婚できなかったイエスだというのです。私生児であるうえに、みなから冷遇される人なので、誰が娘をイエスの嫁にしてあげようと言うでしょうか。
(243-242 ~ 243、1993.1.17)
イエスは自分が私生児であることを知らなかったと思いますか。すべて知っていたので、ヨセフとマリヤがけんかしました。父親は誰だと聞いても答えないので、自分が助けてあげたと言ってけんかしたのです。ヨセフが聞いても、そのたびに「聖霊によって身ごもった!」と言うと、「助けてあげたのに、何をふざけたことを言うのか」と言いました。ヨセフが信じただろうかというのです。イエスをめぐって夫婦でけんかし、息子、娘を生んでもずっとけんかしたのです。
イエスが12 歳になり、エルサレムの聖殿に行ったとき、その父母が息子を置いたまま三日間たってから、戻ってきて「お前はなぜここにいるのか」と言うので、「私が父の家にいることを知らなかったのですか」と言いました。それは不満を言ったのです。父母が三日間息子を置き去りにしたまま、自分の家に帰ったのです。聖書はそのような内容を隠してきました。これはあぜんとする話です。それをみな称賛しているとは……。
キリスト教徒たちはそのように信じ、天国に行くと言いますが、とんでもないことです。イエスが結婚できなかったのは母親のせいであり、洗礼ヨハネのせいです。これはどうしようもない事実です。
(235-237 ~ 238、1992.9.20)
大工のヨセフのことを協助してあげながらも、平安な生活をしていませんでした。彼の心情は無限の曲折の路程を経てきたのです。
(7-334、1959.10.18)
マリヤまで、イエス様が願われる結婚を助けられず、かえって反対してしまったのです。カナの婚姻の宴で、イエス様がマリヤに「婦人よ、あなたは、私と、なんの係わりがありますか」(ヨハネ2・4)と言ったのも、最も貴い摂理の要請であるイエス様の新婦を迎える仕事をなおざりにし、遠い親戚の婚姻の宴を手伝おうとするマリヤを責めた心情が表出されたものです。「私の母とは、だれのことか。私の兄弟とは、だれのことか」(マタイ12・48)と言われたみ言も、このような基準から理解しなければなりません。
(277-210、1996.4.16)
18 歳になれば結婚するようになっていて、20 歳になれば結婚するようになっているのに、なぜ33 歳まで結婚できなかったのかというのです。それでイエス様は、17 歳のとき、自分の母マリヤにアダムが16 歳で堕落したのでこれを復帰するために、「私はこれこれこのような過程を経て結婚しなければなりません」と言ったのです。それが27 歳、30 歳まで3度結婚することを言いましたが、母親が聞いてくれなかったのです。
(266-193、1994.12.25)
十字架を背負うようになった直接的な動機も、イスラエル民族が背き、ユダヤ教徒が反対したからというよりも、ヨセフの家庭でそのような祝福の一日をもてなかったところにあります。そのような一日をもっていたならば、イエス様は十字架で亡くならなかったでしょう。
(30-173 ~ 174、1970.3.22)
7. 荒野での三大試練
― 宗教経典 ―
さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」
次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。
更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏して私を拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。
マタイによる福音書4.1 ~ 11(キリスト教)
― み言選集 ―
荒野路程の三大試練で、イエス様がサタンを屈服させ、最後の勝利をした所も高い山の頂上でした。選ばれた洗礼ヨハネとその一党に排斥され、ユダヤ民族に裏切られて訪ねていく荒野路程の歩みこそ、今日まで、この地上で誰も体恤できなかった悲しい心情をもって歩まれた歩みだったことを知らなければなりません。
イエス様は天のひとり子であり、4000 年歴史を解決する人であり、またその時代と千秋万代の後代に、天が誇り得る勝利の標的として現れた方でした。そのようなイエス様が民もあとにし、教団も捨て、選ばれた洗礼ヨハネも、ヨセフ家庭も残し、友もなく独りで荒野に行った悲しい心情を、私達は回想しなければなりません。そのような歴史的な蕩減条件を立てようという使命感をもち、決心していったイエスは、40 日断食をしながら、そのある場所で何を回想したでしょうか。昔、先祖たちが歩んできた悲しみの路程を自分の一身で蕩減復帰しなければならないという責任感を誰よりも切実に感じたのです。この事実を、この時間に私達は悟らなければなりません。み旨に対して誰よりも悲壮な心情を抱いていったイエス様でした。
いかなる歴史的な先祖よりも確固たる覚悟をして、サタンをその掌中に握って屈服させなければならないという燃える心で荒野に出ていかれた方であることを知らなければなりません。そして、山頂に独りで立ったイエス様であることを知らなければなりません。
(5-194 ~ 196、1959.1.25)
イエス様がこの地上に来られて、サタンからいくつかの試練を受けるようになりました。40 日断食期間を過ごし、まず食べる物で試練を受けました。サタンがイエス様の前に現れ、「石をパンにかえなさい」と言ったのです。これは、飢えた人間たちには朗報でしょう。
しかし、イエス様はこれを否定し、自分が食べる物のために来たのではないことを表明されました。かえって、神様のみ言を主張することによって、人間が生きていく実際の生活圏内においてのすべての条件を、サタンの前で失わなかったという立場を立てたのです。
その時まで人間は、物質を中心とする闘争歴史を経てきたのですが、イエス様が、サタンの第1次的な試練に勝利することによって、そのような物質を中心とする闘争歴史を終結させるようになったことを、皆さんは知らなければなりません。
それでは、その次にイエス様は、どのような試練を受けるようになったのでしょうか。イエス様はサタンに引かれて教会の聖殿の頂上に立たされるようになったのですが、そこで「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい」(マタイ4・6)という試練を受けるようになりました。
イスラエル民族とユダヤ教を指導できる宗教理念をもって現れたイエス様に、「飛びおりなさい]というこの言葉はどのような意味なのでしょうか。それは、ユダヤ教的な習慣と彼らの主張に屈服し、彼らの指導者の立場を放棄しなさいということです。しかし、イエス様は、ここでサタンの試練に陥ることなく勝利されました。
その次にはどのような試練がありましたか。サタンは、イエス様を高い山頂に連れていき、天下万国とその栄華を見せてあげながら、「もしあなたが、ひれ伏して私を拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」(マタイ4・9)と言ったのです。しかし、イエス様は、ここで宇宙的な理念をもって神様の国、すなわち天国を建設しようとされる神様のみ旨を立ててさしあげるために、そのようなサタンの要求を一蹴してしまわれたのです。
(3-122 ~ 123、1957.10.13)
8. イエス様の比喩的教え
― 宗教経典 ―
イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」
また、別のたとえをお話しになった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった。
マタイによる福音書13.31 ~ 34(キリスト教)
弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。
マタイによる福音書13.10 ~ 13(キリスト教)
― み言選集 ―
イエス・キリストがこの地に来られ、30 年以上涙を流され、悲しい苦難の道を行かれながらみ言を宣布された目的は何だったのでしょうか。それは、第1に、人間をして神様との因縁を回復するためだったのであり、その次には、人間に天国を紹介するためでした。
このようにイエス様は、天国を紹介されるとき、み言で紹介されたのです。すなわち、真理で天国を紹介しようとされました。神様は、そのように人間と永遠不変の因縁を結ぶためのみ言、この地に天国理念を建設するためのみ言をイエス・キリストを通して人間たちに下さったのです。イエス様を通して真の真理を示そうとされました。
したがって、神様と人間の関係を結んであげるために来られたのであり、真の真理を人間たちに証するために真理をもってこられたイエス様は、神様と人間と全被造万物が希望する天国を建設するために、真理のみ言を宣布し始められたのです。
ところが、イエス様がこのように神様と人間の因縁を回復するために真理を宣布してくださいましたが、その真理と因縁を結ばなければならないイスラエル民族がイエス様を不信することによって、イエス様のみ言宣布の目的は成し遂げられなくなりました。これを見るとき、イエス様が宣布された真理のみ言が、人間たちに100 パーセント伝達されなかったことが分かります。それは、当時の人間たちがイエス様を不信することによって、イエス様は彼らに比喩と象徴で、あるいは暗示的に真理を紹介してあげざるを得なかったからだということを皆さんは知らなければなりません。それで、この地に生きる大勢の人間たちは、歴史過程を経てきながらたくさんの知識を動員し、隠された真理の関門を尋ね求めてきたのです。
これから歴史の終末時代になれば、人間たちが内外に求めてきた神霊と真理が出会う時が来るのであり、また、大勢の民がイエス様を信じる真の信者として立つようになるのであり、イエス様の心の中に隠されていた真理も完全に紹介されるのです。(2-126 ~ 127、1957.3.17)
9. 弟子を集め、天国を教えたイエス
― 宗教経典 ―
イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「私について来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。
マタイによる福音書4.18 ~ 22(キリスト教)
「私よりも父や母を愛する者は、私にふさわしくない。私よりも息子や娘を愛する者も、私にふさわしくない。また、自分の十字架を担って私に従わない者は、私にふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、私のために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」
マタイによる福音書10.37 ~ 39(キリスト教)
イエスは言われた。「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた。すると皆、次々に断った。最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言った。ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った。
僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』やがて、僕が、『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』と言うと、主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。言っておくが、あの招かれた人たちの中で、私の食事を味わう者は一人もいない。』」
ルカによる福音書14.16 ~ 24(キリスト教)
私につながっていなさい。私もあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、私につなかっていなければ、実を結ぶことができない。
私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなたがたは何もできないからである。私につながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたが私につながっており、私の言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、私の弟子となるなら、それによって、私の父は栄光をお受けになる。
父が私を愛されたように、私もあなたがたを愛してきた。私の愛にとどまりなさい。私が父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、私の掟を守るなら、私の愛にとどまっていることになる。これらのことを話したのは、私の喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。
ヨハネによる福音書15.4 ~ 11(キリスト教)
「私はあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。また、私のために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。
マタイによる福音書10.16 ~ 20(キリスト教)
― み言選集 ―
民族から捨てられたイエス様は労働者の姿で現れ、漁夫の友の姿で、彼らと事情を共にする友になったのであり、心情を同じくする友になったのであり、願いを同じくする友となられ、彼らの願うことは何でも死ぬ覚悟をして成し遂げてあげようという心で闘われたのです。このような心的な内容と心的な理念をもって証し、闘われたがゆえに、ペテロのような漁夫たちがついていくことができたのです。
それでは、無学な弟子たちを選ばれて、3年間何をされたのでしょうか。神様がイスラエル民族を立てられるために4000 年間苦労して奉仕したのと同じように、イエス様は彼らを立てておいて奉仕の生活をされました。
12 弟子を選んでおかれたイエス様は、彼らに対する希望が大きかったのです。ユダヤ教団を動かし、祭司長たちとすべての書記官たちを主管するために天が送られたイエス様です。ですから、彼の理念は大きかったのであり、彼がもっている欲望も大きかったのであり、彼の心的基準も高かったのです。このような神様の実体理念をもち、一人の開拓者の立場で現れたイエス様を理解しなかった当時の祭司長たちと書記官たちは、堕落直後のアダムとエバよりもっとかわいそうな人たちだったということを皆さんは知らなければなりません。
ですから、イエス様は食べたいものがあっても、食べるものが見つかったとしても、それを忘れて弟子たちを訪ねられたのであり、着る衣服があれば、自分がぼろを着ていることを考えずに弟子たちに下さったのです。安らかな所があれば弟子たちをそこにおき、自分は卑しい所にいらっしゃいました。
(5-225、1959.2.1)
宗教を信じるのは救われようということであり、救われようというのは、完成の位置に行こうということです。それで、宗教者はどのような考えをするかというと、世の中のサタン圏内のいかなる愛よりも信じる教主を愛し、神様を愛そうと考えるのです。このように誓っていく道が宗教の道だということをはっきりと知らなければなりません。世の中の愛以上の愛の位置に行かなければならないのです。それが宗教者の行くべき道です。サタン世界に勝たなければなりません。
ですから、神様の愛はサタン世界以上の所から出発するのです。それで、聖書にあるイエス様が語られた言葉が「誰よりも私をもっと愛しなさい」という言葉です。それは、あなたの母や息子、娘、妻子や夫、誰よりも自分を愛さなければ父の息子、娘になれないということです。なぜそのようになるのかというのです。サタン世界の愛から現れてもそこから出発するのであり、メシヤの愛の因縁をもって天に入っていかなければならず、これが不可避的な原理的条件なので、そのようなみ言を語ら.ざるを得ないという事実を知らなければなりません。
(93-326、1977.6.17)
空腹の事情によって責任者と心情的紐帯を結ぶことができるのであって、服を着ることで、生きることで、交わることではできません。迫害を受け、追い回され、そうしながら昼夜なく働かなければならず、責任分量は多いのでせざるを得ず、昼夜走り回りながらひたすらあなたも泣き、私も泣かなければなりません。泣くこと以外には心情的紐帯を受け継ぐ道がないというのです。それができない日には、日本であれ、韓国であれ、地球であれ、何であれ、ありません。
先生と心情的紐帯はどうであり、真の父母と心情的紐帯はどうだと言うのですが、それをどこから見いだすと思いますか。探してみてください。ありません。ひたすら追い出され、父母に拉致され、たたかれ、ひたすらこうでなければなりません。責任者たちはみなそのようにしてきたのであり、従う人たちがそのようにしてこそ、ここから新しい連結が成され、世界が反対しても断ち切ることのできない紐帯ができ、心情的価値の基盤が生じるのです。そのようになるとき、そのようなことが展開するのです。
(94-233、1977.10.1)
イエスの再臨に関する啓示と、再臨されてから下さるみ言を受け入れる場合の様子に関しても、初臨のときと同じ現象が現れるようになるのである。すなわち、初臨のときに、神はメシヤが来られたという知らせを、祭司長や律法学者たちに与えられず、異邦の占星学者や純真な羊飼いたちに与えられたのであるが、これはあたかも、真の実子が無知であるために、やむを得ず、血統的なつながりをもたない義理の子に相談するというのとよく似ているといえよう。
また、イエスの再臨に関する知らせも、因習的な信仰態度を固守している今日のキリスト教指導者たちよりは、むしろ平信徒たち、あるいは、彼らが異邦人として取り扱っている異教徒たち、そして、良心的に生きる未信者たちにまず啓示されるであろう。
そして、初臨のときにイエスの福音を受け入れた人たちが、選民であったユダヤ教の指導者ではなく、賤民や異邦人であったように、イエスの再臨のときにも、選民であるキリスト教の指導者層よりも、むしろ平信徒、あるいは、非キリスト教徒たちが、まず彼のみ言を受け入れるようになるであろう。イエスが用意された婚宴に参席し得る人々が、前もって招待されていた客たちではなく、町の大通りで出会い、すぐに連れてこられる人々であるだろう、と嘆かれた理由は実にここにあったのである(マタイ22・8 ~ 10)。
原理講論、再臨論4
10. 奇跡に対しても不信される
― 宗教経典 ―
さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。
ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。弟子たちは、「私達が二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言った。イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です。」
そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。すべての人が食べて満腹した。そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。パンを食べた人は男が五千人であった。
マルコによる福音書6.30 ~ 44(キリスト教)
使徒たちが、「マリヤの子イエスよ、あなたの主は、私達のために、食べ物を並べた食卓を、天から下し得られるであろうか」と、言ったときを思え、イエスは言った「あなたがたが信者なら、神を畏れ奉れ」。かれらは「私達は、その食卓で食べて、心を安らげたい、またあなたの私達に語られたことが、真実であることを知り、私達が、その証人になることをこいねがう」と、言った。マリヤの子イエスは祈って言った、「神、私達の主よ、私達のために、食物を並べた食卓を天からお下しになり、それで私達への、最初のまた最後の機縁となされ、あなたからのしるしとなしたまえ。私達に給与を賜え、まことにあなたは最もすぐれた給与者であられます」。
クルアーン5.112 ~ 114(イスラーム)
そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたが私を捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」
そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」……
イエスは言われた。「私が命のパンである。私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない。……
イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなた達の内に命はない。私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得、私はその人を終わりの日に復活させる。……
ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。
命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。私があなたがたに話した言葉は霊であり、命である。しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。そして、言われた。「こういうわけで、私はあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれも私のもとに来ることはできない』と言ったのだ。」このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。
ヨハネによる福音書6.25 ~ 66(キリスト教)
― み言選集 ―
神様の前にイエス様はいかなる弁明も、捏造もせず、自分自体を忘れ、父を身代わりするみ旨であればいかなる行動もできる方でした。皆さんは、このようなイエス様の足跡を受け継ぐ息子、娘にならなければなりません。イエス様は30 年以上の生涯を経ながら、福音のみ言を私達に下さいました。弟子たちを連れて歩きながら、飢えた人たちに出会ったとき、即座に五つのパンと二つの魚で5000 の群れに食べさせる奇跡も施しました。与えるものは、すべて与えました。信仰も紹介し、生命も紹介し、愛も紹介し、人間が要求できるものをすべて紹介してくださったのです。
(4-83、1958.3.9)
復帰の路程を歩んでいかれるイエス様が奇跡を行われたのは、喜んでされたのではありません。喜んで楽に奇跡を行われたと思っていれば、大きな誤解です。イエス様が彼らに同情せざるを得ない悲しい事情におかれ、手を挙げてお父様と叫ぶとき、ここで奇跡が起きたのです。とても悲しい、骨身が溶ける悲しい場面で叫ぶ、その一つの事情を通して現れたのが奇跡でした。奇跡をイエス様が怠慢して、あるいは喜んでしたものと考えないでください。
ベツサイダの荒れ地で5000 の群れが「イエスよ! あなたは私達の救世主であり、選ばれたイスラエル指導者でいらっしゃいます」と手に手を振りながら叫びました。このように利益になる立場の時は訪ねてきましたが、時が過ぎてイエスが自分たちと心的基準が異なるようになり、事情が異なるようになり、標準が異なる境地に一歩進んでいくので、彼らはイエス様を背信し、背を向けました。これがイエス様の歩んできた実践路程にあった現象です。
(5-227 ~ 228、1959.2.1)
イエス様に従っていた大勢の群れが、五つのパンと二つの魚の奇跡を見せてくれるときには、自分のメシヤであり、民族を救ってくれる救世主として信じましたが、いざイエス様が亡くなるときは、すべて捨てて帰ってしまいました。もしイエス様に従っていた群れが天に対するイエス様の内的な心情、すなわち神様に対する心痛む心情をもった方であり、全体の摂理歴史に責任をもってこられた方だということが分かったならば、イエス様の事情を悟ったはずであり、イエス様のあとについていったでしょう。また、先に従っていた群れについていって民族全体がイエス様のあとについていったでしょう。
(3-291、1958.1.19)
11. 人類のために流したイエスの涙と不信に対する哀痛、信仰の弱い一番弟子
― 宗教経典 ―
マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。
ヨハネによる福音書11.32 ~ 36(キリスト教)
律法学者たちとファリサイ派の人々、あなた達偽善者は不幸だ。薄荷(はっか)、いのんど、茴香(ういきょう)の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが。
ものの見えない案内人、あなた達はぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる。律法学者たちとファリサイ派の人々、あなた達偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。
律法学者たちとファリサイ派の人々、あなた達偽善者は不幸だ。自く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。このようにあなた達も、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。
マタイによる福音書23.23 ~ 28(キリスト教)
一同がゲッセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「私が祈っている間、ここに座っていこなさい」、と言われた。そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。「私は死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯を私から取りのけてください。しかし、私が願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」
それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペテロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」
更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。」
マルコによる福音書14.32 ~ 41(キリスト教)
ペテロが下の中庭にいたとき、大祭司に仕える女中の一人が来て、ペテロが火にあたっているのを目にすると、じっと見つめて言った。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」しかし、ペテロは打ち消して、「あなたが何のことを言っているのか、私には分からないし、見当もつかない」と言った。
そして、出口の方へ出て行くと、鶏が鳴いた。女中はペテロを見て、周りの人々に、「この人は、あの人たちの仲間です」とまた言いだした。ペテロは、再び打ち消した。しばらくして、今度は、居合わせた人々がペテロに言った。「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。」
すると、ペテロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が再び鳴いた。ペテロは、「鶏が二度鳴く前にあなたは三度私を知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした。
マルコによる福音書14.66 ~ 72(キリスト教)
― み言選集 ―
自分のために生きる神様が真の愛をもったと言うことができるでしょうか。自分をなくして全体のために生きる神様が真の愛をもったと言うことができるでしょうか。今日の堕落した人間に対し、泣きながら訪ねてくる神様が、真の神様です。皆さん、人はうれしくても涙が出て、悲しくても涙が出るでしょう?
それでは、大声で泣いていた神様が愛する人を探し出したというとき、「ははは」としますか、どうしますか。考えてみなさいというのです。愛する人は、そのように探しながらも泣き、探し出してからも二人で抱き合って大声で泣くのです。
それでは、神様は、どのような所で愛する人に出会いたいと思うでしょうか。涙を流し、鼻水を流し、よだれを流す所で、涙だけを流すのではいけません。よだれが出て、鼻水が出て、涙が出てこなければなりません。一度そのように泣いてみましたか。本当に悲しくて泣けば、涙が出てきて、鼻水が出てきて、よだれが出てくるのです。そのように泣いてみなければ悲しみが分かりません。その次には、汗まで出てきます。そのように一度泣いでみなければ、真の愛を見いだすことはできません。
(102-163 ~ 164、1978.12.17)
神様の摂理は、このサタン世界で戦争する摂理です。闘う摂理です。イエス様も、裕福に暮らすユダヤ教徒たちの所に来て戦争をしたというのです。「まむしの子」や「偽善者」と言いました。すべて戦争です。「ああ、ユダヤ人は素晴らしい、パリサイ人は素晴らしい、律法学者は素晴らしい」と称賛してあげ、「祭司長たちは立派だ」と言っていれば(イエス様を)殺したでしょうか。同じです。ムハンマドや孔子のような人たちがすべてそのようにしていたら変わっていたでしょう。
(95-276 ~ 277、1977.12.11)
イエス様と最も近い人たちがイエス様の心を悲しませました。準備されたイスラエルの民が反対することが悲しみではなく、ユダヤ教の信徒たちが反対するのが悲しみではなかったのです。3年間も従ってきた弟子、その愛する弟子たちが、信じるべきときに信じることができず、証すべきときに証すことができず、闘うべきときに闘うことができず、死ぬべきときに死ぬことができなかった、その一つの事実がイエス様にとって最も大きな悲しみになりました。
(3-142、1957.10.18)
イエス様を最後まで捨てずに従った者が誰でしたか。イエス様の12 使徒ではありません。その12 使徒の中で三弟子も、イエス様を最後まで信じて従うことができなかったのです。神様の愛を人間に紹介し、その愛を実践しようとされたイエス様でしたが、人間たちと愛の因縁を結ぶことができずに逝かれました。天倫の愛のみ言を伝え、愛に燃える心をもたれたイエス様でしたが、抱き合って、「我が息子よ! 我が父よ!」と父子の情を分かち合うことのできる一人を探し出すことができずにいかれたことを、皆さんは知らなければなりません。
弟子たちは居眠りしていましたが、ゲッセマネの園で夜通し悲しみの涙を流しながら祈祷されたイエス様のその心情と事情を、皆さんは知らなければなりません。イエス様の愛のみ言がいいと言う人は多くいましたが、2000 年前にイエス様は愛そうにも愛するところがありませんでした。
(3-58、1957.9.22)
イエス様は、悲しい30 年あまりの生涯を送りました。自身のすべてのものを捧げた3年の公生涯がありましたが、誰が彼の心情を知り、誰が彼の事情を知っていたでしょうか。一人もいませんでした。さらには、喜怒哀楽を共にし、悲しいときに一緒に悲しみ、寂しいときに一緒に寂しく思い、師と言って侍る弟子たちも分かりませんでした。師が死の道を行くことを心配し、懇切な心情で天に訴えるべき弟子たちが、かえってイエス様とは誰かと反問する立場にいたとは……。
(7-45、1959.7.12)
この地上の誰がイエス様の心を知ったでしょうか。物思いに沈んだその姿を見て、心深くしみ渡ってくる天の悲しみを、体恤した人が一人もいませんでしたので、天はこのような人間たちを置いて嘆息するしかなかったことを知るものです。
天の心情を知って「主よ!」と呼ぶ弟子の一人ももてなかったイエス様が、疑心で点綴(一つ一つをつづり合わせる意)された生涯路程を行かなければならず、また疑われ、その物悲しい生涯の終末を迎えなければならなかった悲しみを、この時間私達が心で同情できるようにしてください。
イエス様が懇切なる天の心情を抱き、天のすべての遺業を抱き、人間を尋ねてこられましたが、人間たちはそのようなイエス様に自分勝手に対応し、排斥し放題に排斥したものです。寂しい立場に追い込み放題に追い込んだものです。
しかし、悲しみに沈み、嘆息の立場を余すところなく経てこられながらも、イエス様はそのような人間たちをお捨てになることができず、生命の圏に向かう一つの道を開拓なさるために、彼らを引っ張りゲッセマネの園に向かわなければならないということと、ゴルゴタの十字架の道を行かなければならないということを思われるイエス様の悲惨なる心の前に、頼もしい弟子一人いなかったやるせない心情を、私達が分かるようにしてください。
イエス様が神様と一緒に生きられたことを知ることのできなかった弟子たち、このような弟子たちを残しておいて一生涯を終結すべき立場にあったイエス様の心情、生涯のすべてを人間のために生きたにもかかわらず、その生涯の結実をみることができず、懇切な心情に沈んで天を案じられたイエス様の心に、私達が同情できるよう許諾してくださいますことをお父様、懇切にお願い申し上げます。
(5-137 ~ 138、1959.1.1)
12. キリストの情熱と十字架の苦悩
― 宗教経典 ―
このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。
すると、ペテロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」イエスは振り向いてペテロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは私の邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」
マタイによる福音書16.21 ~ 23(キリスト教)
イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。「父よ、御心なら、この杯を私から取りのけてください。しかし、私の願いではなく、御心のままに行ってください。」
すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。イエスは言われた。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」
イエスがまだ話しておられると、群衆が現れ、十二人の一人でユダという者が先頭に立って、イエスに接吻をしようと近づいた。イエスは、「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか」と言われた。
イエスの周りにいた人々は事の成り行きを見て取り、「主よ、剣で切りつけましょうか」と言った。そのうちのある者が大祭司の手下に打ちかかって、その右の耳を切り落とした。そこでイエスは、「やめなさい。もうそれでよい」と言い、その耳に触れていやされた。それからイエスは、押し寄せて来た祭司長、神殿守衛長、長老たちに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのか。私は毎日、神殿の境内で一緒にいたのにあなた達は私に手を下さなかった。だが、今はあなた達の時で、闇が力を振るっている。」人々はイエスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。……
さて、見張りをしていた者たちは、イエスを侮辱したり殴ったりした。そして目隠しをして、「お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と尋ねた。そのほか、さまざまなことを言ってイエスをののしった。
夜が明けると、民の長老会、祭司長たちや律法学者たちが集まった。そして、イエスを最高法院に連れ出して、「お前がメシアなら、そうだと言うがよい」と言った。イエスは言われた。「私が言っても、あなた達は決して信じないだろう。私が尋ねても、決して答えないだろう。しかし、今から後、人の子は全能の神の右に座る。」そこで皆の者が、「では、お前は神の子か」と言うと、イエスは言われた。「私がそうだとは、あなた達が言っている。」人々は、「これでもまだ証言が必要だろうか。我々は本人の口から聞いたのだ」と言った。
そこで、全会衆が立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った。そして、イエスをこう訴え始めた。「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました。」
そこで、ビラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」とお答えになった。ピラトは祭司長たちと群衆に、「私はこの男に何の罪も見いだせない。……この男は死刑に当たるようなことは何もしていない。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」と言った。しかし、人々は一斉に、「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」と叫んだ。このバラバは、都に起こった暴動と殺人のかどで投獄されていたのである。
ピラトはイエスを釈放しようと思って、改めて呼びかけた。しかし人々は、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けた。ピラトは三度目に言った。「いったい、どんな悪事を働いたと言うのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」
ところが人々は、イエスを十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続けた。その声はますます強くなった。そこで、ピラトは彼らの要求をいれる決定を下した。そして、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求どおりに釈放し、イエスの方は彼らに引き渡して、好きなようにさせた。
人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。……ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」
人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。
十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、私を思い出してください」と言った。
するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と言われた。既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。イエスは大声で叫ばれた。「父よ、私の霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。
ルカによる福音書22.39 ~ 23.46 (キリスト教)
三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てにならたのですか」という意味である。
マタイによる福音書27.46(キリスト教)
― み言選集 ―
イエスが死ぬために来たと言いますが、それは、本来神様の予定の中で起きたことなのか、急変事態なのかということを私達は知らなければなりません。急変事態なのです。そうだとすれば、新約聖書のイエス様のみ言を通して調べてみましょう。ルカによる福音書第9章30 節を見ると、「モーセとエリヤであったが、栄光の中に現れて、イエスがエルサレムで遂げようとする最後のことについて話していたのである」となっています。
その時に決定したのです。マタイによる福音書第16 章22 節を見ると、イエスがエルサレムに行って亡くなることを語ると、ペテロがイエスに、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」と言うとき、イエスが振り返ってペテロに「サタンよ、引きさがれ」と言いました。それで、今日のキリスト教徒たちは、イエスが死ぬために来たと強く主張しています。その言葉は、死ぬために来たメシヤの言葉なのに、死ぬなと言うので、ペテロにそのように指摘したのではないかと、死ぬために来たことを主張します。
皆さん、それは既に変貌山上でモーセとエリヤと会い、十字架で亡くなることを決定したのちのみ言であることを皆さんははっきりと知らなければなりません。また、イエス様が死ぬために来たのなら、イスカリオテのユダをかばっていなければならないのに、「その人は生れなかった方が、彼のためによかったであろう」という言葉は矛盾ではないですか。
また、皆さん、十字架で亡くなるとき、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われました。それは「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と言われたのですが、これはどういうことですか。死ぬために来たのなち、そのような祈祷はできないということです。もし死ぬために来たのなら、なぜ神様が4000 年間もイスラエル民族をそれほど苦労させた土台の上で送ったのでしょうか。強盗のような人たちに送れば、すぐに捕まって殺されるではないですか。
イエス様は、肉と霊を中心として、霊的世界はもちろんですが、実体世界でも神様の王権を回復するために来られました。ところが、イスラエルの国の足場がなくなり、ユダヤ教の足場がなくなり、イエス様一人ではできないので、十字架で死んででも第2 次の希望の道を開拓せざるを得なかったのです。国が反対し、教会が反対するので、十字架に行く道しかなかったために、神様も仕方なくひとり子を十字架で犠牲にせざるを得なかったことを皆さんは知らなければなりません。
(73-218 ~ 220、1974.9.18)
イエス様の道は、終始一貫して引っ張られ、追われ、倒れる、十字架を背負う凄惨な歩みでした。それだけでしたか。無謀な悪党たちがむち打って追い立てる境遇に追い込まれることもありました。このようなところで、もしイエスがエリヤのような人だったなら、彼も「父よ、私だけが残りました」という祈祷をしたでしょう。しかし、イエス様はゲッセマネの園で三弟子を後ろにして祈祷するとき、「我が父よ、もしできることでしたらどうか、この杯を私から過ぎ去らせてください。しかし、私の思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい!」と言いました。これが偉大なのです。自分の事情も苦しいのですが、自分の一身は民族の祭物であり、人類の祭物であり、天倫の祭物だということを知っていたのです。
このようなことを知っていらっしゃったイエス様は、自分の悲しみも悲しみですが、天の悲しみがどれほど大きいものかを心配する心がもっと大きかったのです。民族のために現れたのですが、民族から背信される自分を見つめられる天の悲しみがどれほど大きいかということをもっと心配されました。
イエス様は、天の皇太子であり、万宇宙の主人公であり、メシヤでした。そのようなイエスが、「凄惨な十字架の運命とはどういうことですか」と嘆息しようとすれば、この宇宙を動員して嘆息することもできますが、嘆息できない自分自身であることが感じられたので、追い込まれる立場に立つようになったことをかえって天の前に面目がないと考えたのです。
教団を糾合させ、民族を糾合させ、天の王国を建設し、世界を父の懐に抱かせてさしあげなければならない責任を背負ったイエス様は、その使命をあとにして十字架の道を行くようになるとき、何の恨みも感じませんでした。「この杯を私から過ぎ去らせてください」と祈祷されたのも、自分の一身が死ぬことが悲しいためではなかったのです。自分の一身が死ぬことによって民族の悲しみと天の悲しみが加重されることを御存じだったために、そのように祈祷されたのです。
イエス様は、自分が十字架で倒れれば、後代の世界人類の前に加重される十字架が残り、それのゆえに悲しみの歴史が終わらないことを御存じでした。ゴルゴタの道が終わらないことを御存じでした。死の道が終わらないことを御存じでした。そして、自分がゴルゴタの道を行けば、自分に従う人たちもゴルゴタの道を歩まなければならないことを御存じだったのです。十字架だけでなく、もっと難しい道が残されることを御存じのイエス様でした。
両手両足に杭が打ち付けられ、わき腹を槍で突かれて血を流す立場、茨の冠をかぶる立場に立ったとしても、これが自分で終わらないことを御存じだったイエス様は、天に向かって「すべてが終わった」と言いました。その言葉は、人間の世界で十字架の道がすべて終わったということではありませんでした。
十字架のために泣き憂慮する心の訴えが天と通じたということを意味するのです。このようにイエス様は、大勢の預言者、烈士たちが天に犯したすべての過ちを背負い、天を慰労してさしあげるために、自分自身を生きた祭物として天の前に捧げたという事実を私達は知らなければなりません。
しかし、イエス様自身は死ぬ間際に、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」とおっしゃいました。神様は、すぐにでもノアの時以上の審判をしたいという思いがありましたが、イエス様が民族を抱いて死に、教団を抱いて死に、十字架を抱いて死んだがゆえに、人間をお捨てになることができず、抱いてこられたのです。このような心的な因縁が後代の人間、残されたイスラエル民族と結ばれていたので、神様は背信する後代の教団と人間たちを捨てることができず、抱いていらっしゃるのです。
(378-314、2002.5.21)
イエス様が十字架を背負ってゴルゴタに向かいながら激しく疲れたとき、その十字架を代わりに背負っていったクレネのシモンのような人が、イエス様の弟子の中には一人もいませんでした。選ばれたイスラエル民族の中にも、このような人がいませんでした。このように、異邦人のクレネのシモンだけがイエス様の苦難に同参したので、キリスト教は、イスラエルの宗教になることができず、異邦の宗教になったのです。イエス様を信じ、神様を求めていこうという皆さんは、夢であってもクレネのシモンのような行動をしようという覚悟ができていなければなりません。クレネのシモンは、弁明することもでき、反駁することもできましたが、黙って従い、イエス様の代わりに十字架を背負っていきました。きょう皆さんもこのような人にならなければなりません。
これを見つめるイエス様の心情はどうだったでしょうか。3年間喜怒哀楽を共にした使徒たちは影も形もなく、思ってもみなかった異邦のクレネのシモンが自分の代わりに凄惨な立場に立つようになるとき、これを見つめるイエスの心は苦しみが大きかったのであり、悲しみに悲しみが加わっていたでしょう。
もし12 使徒の中に、誰かイエス様の十字架を代わりに背負う人がいたなら、イエス様は彼を見つめて死の苦難も忘れ、かえって彼を同情しながら自分の痛みに打ち勝つことができたでしょう。しかし、そうすることができず、イエス様は悲しみに悲しみが増し加わったのです。このような事情を皆さんは知らなければなりません。
(2-274 ~ 275、1957.6.16)
イエス様は、ローマ兵が槍で自分のわき腹を突いても、「彼らをおゆるしください」と言いました。「私が彼らの代わりに死んでいきます。彼らの代わりに犠牲になります」という精神をもって完全に忍耐するのです。ここから新しい世界が生まれるのです。歴史上になかった新しい世界が生まれるのです。
数多くの歴史を見ても、歴史上のあらゆる怨讐は怨讐で返せと教えたのであって、怨讐を愛で返しなさいと宣言したのは、たった一人、イエス様でした。イエス様だけだったのです。それが偉大なことです。これがどれほど偉大なことかという事実を知らなければなりません。新しい世界、神様が願う世界がそこからわき上がり始めるのです。
(130-232 ~ 233、1984.1.29)
イエス様が十字架で亡くなったとき、神様の心情はどうだったでしょうか。怨讐の息子、娘が自分のひとり子を捕らえて殺す局面であっても、彼らを怨讐視してはいけないのです。自分の息子を捕らえて殺す立場でも、愛する心をもって越えていかなければならない神様の心的な苦痛がどれほど大きかったでしょうか。
イエス様も、神様とアダムの基準を越えようとするので、神様がサタンを愛するのと同じように、イエス様自身も自分を十字架に打ちつけるローマ兵を愛さなければならないのです。ですから、イエス様が彼らの罪を赦してほしいと祈祷しました。
これをパスしたのでサタンが分立されるのです。神様とアダムがサタンを愛したという伝統的な精神によってサタンが讒訴することができず、分離されました。これによって、キリスト教を中心としてサタン分立の歴史が展開したのです。常に個人的、家庭的にサタン側を愛したということが成されなければなりません。死の場に入っていっても愛することができ、神様に従って祈祷してあげることができなければなりません。そうしてこそ、復帰されていくのです。
全世界のキリスト教徒たちが殉教するその場で、イエスのような祈祷をしなければなりません。「父よ、彼らをおゆるしください」と祈らなければならないのです。神様とアダム、エバが天使長を愛さなければならない原則があるので、その原理原則基盤を完全に復帰するためには、堕落したサタンを本来の天使長と同じ位置で愛したという立場、そのような資格をもってこそ、天国に入
っていくのです。
(244-154 ~ 155、1993.2.1)
イエス様は、永遠に苦楽を共にできる神様のひとり子だったにもかかわらず、どうして世界で最も追われる立場に立たれたのでしょうか。また、神様が「知らない」とおっしゃる立場に立たれたのでしょうか。「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」(マタイ27・46)と言って天に向かって訴えられたのでしょうか。それは、人間が天倫に背いたからです。言い換えれば、アダムが個人的に背いたことを蕩減復帰すべき使命があったので、イエス様は、天から個人的に捨てられるようになったのです。しかし、イエス様は捨てられましたが、感謝する心をもちました。「しかし、私の思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ26・39)とおっしゃったのです。
自らの前にいかなる死や苦労が迫ってこようとも、それを消化し、神様と一つになれる、このような心があったので、いかなる怨讐も彼を支配できませんでした。ですから、天が排斥し、民族が排斥して、死の場にまで出ても変わらなかったことにより、新しい復活の門が開かれたということを、皆さんは知らなければなりません。ですから、これから皆さんは、天が皆さんを排斥することがあったとしても、最後までお父様をつかんで仕える覚悟をもってこそ、イエス・キリストが残された復活の恩賜圏内に入っていけることをはっきりと知らなければなりません。
(4-144 ~ 145、1958.3.30)
13. 十字架で私たちの罪を赦されたイエス
― 宗教経典 ―
彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼は私達に顔を隠し、私達は彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのは私達の病、彼が負ったのは私達の痛みであったのに、私達は思っていた神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。
彼が刺し貫かれたのは、私達の背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは私達の咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、私達に平和が与えられ、彼の受けた傷によって、私達はいやされた。私達は羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。その私達の罪をすべて、主は彼に負わせられた。
イザヤ書53.3 ~ 6(キリスト教)
こうして、ほとんどすべてのものが、律法に従って血で清められており、血を流すことなしには罪の赦しはありえないのです。このように天にあるものの写しは、これらのものによって清められねばならないのですが、天にあるもの自体は、これらよりもまさったいけにえによって、清められねばなりせん。
なぜならキリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今や私達のために神の御前に現れてくださったからです。また、キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、度々御自身をお献げになるためではありません。
もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。
ヘブライ人への手紙922 ~ 26(キリスト教)
キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。(注44)
ピリピの信徒への手紙2.6 ~ 11(キリスト教)
― み言選集 ―
(イエス様は)自分にあるすべての力を尽くしてイスラエルの将来に責任をもち、導いていこうとする途中で、行くまいとしても行かざるを得ない運命の道を行きました。弟子たちがイエス様を捨て、自分自身の命を保つために散り散りばらばらになるとき、イエス様は自分一身のためではなく、そのときまで神様のために忠誠を尽くしたいかなる人よりももっとこの上ない精誠と強い責任感と明確な目的観をもち、神様のみ旨のために十字架の道を行ったのです。神様と共にその道を行きました。
(35-23、1970.9.27)
兄弟や、あるいは誰かがサタンの誘惑に落ちたとき、その堕落した兄弟を取り戻してこようとすれば、サタンは彼を何の条件もなしに行かせはしません。堕落した兄弟を取り戻すためには、サタンがその兄弟を送り返すよりもっと良いと感じられる何かをサタンに与えなければなりません。言い換えれば、堕落した兄弟を解放させるためには、その兄弟に代わって自分を喜んで犠牲にできる一人の兄弟がいなければなりません。その犠牲になる兄弟が第2のキリストになるのです。堕落した兄弟はそのような条件によってのみ解放されるのです。
(52-50、1971.12.14)
祭物は必ず血を流さなければなりません。神様は血を見るのを好む神様ではありませんが、死んで生き返ったという条件を立てるようにしない限り、つまり死んだという立場に立てなければ助け出せる道がないので、神様は祭物を犠牲にさせ、血を流すようにして今まで歴史時代を連結してきたことを知らなければなりません。
このように神様は、旧約時代には祭物で蕩減条件を立てて赦してあげながら、イスラエル民族を育ててきました。そうして、その上にメシヤを送ることによって、新約時代を迎え、メシヤを中心とする勝利的国家をつくろうとしたのですが、このメシヤを信じなくなったので、メシヤが代わりに実体の祭物になって死んだのです。羊は象徴的なものであり、羊を捕らえて祭物を捧げた土台によってつくっておいたイスラエル民族全体は、旧約時代の結実と同じなので、そのような旧約時代の結実がイエスと一つになっていなければならなかったのですが、それができないことによって、イエスを実体祭物として捧げざるを得ませんでした。それでイエスは十字架で亡くなるようになったのです。
(54-252 ~ 253、1972.3.25)
サタンの本質は驕慢と血気です。このような性質で世の中の人に対するサタンでしたが、イエス様は温柔と謙遜で世の中の人々の前に現れたのです。イエス様が愚かで温柔、謙遜な立場に立たれたのではありません。誰よりも最高に気高い栄光を享受することができましたが、イエス様はこれをすべて捨てて温柔、謙遜な立場に立たれたのです。
サタンがこのようなイエス・キリストと対決し、闘おうとしましたが、サタンには神様に屈服しなければならない条件があることをイエス様は御存じだったので、最後まで温柔、謙遜でいることができました。それでサタンの本質が驕慢と血気なので、反対の温柔、謙遜をもって現れたのです。
また、厳然として天理法度があることを知っているサタンなので、最後はイエス・キリストを認めるようになりました。言い換えれば、温柔と謙遜を掲げていけば、サタン世界も自然屈服するのです。このような原則を御存じのイエス様は、サタンができない温柔、謙遜の立場を取りました。このように温柔、謙遜な立場に立ってこそ、中心を通して役事される神様に行く新しい道を開拓できることを皆さんは知らなければなりません。
そして、イエス様が何を見せてくださったのかというと、従順と服従です。従順は応じることのできる環境で命令に従うことであり、服従は応じることができない環境で従うことです。イエス様は不信する人間たちにこのような従順と服従の道理を教えてくださいまた。これもやはりサタンの本質、サタンのあらゆる生活的な要素を妨げるものです。(3-187 ~ 188、1957.10.27)
イエス様がどのような心情でサタンを屈服させたと思いますか。神様はかわいそうであり、万民もかわいそうであり、万物もかわいそうだと思う心情です。「息子、娘を失ってしまった神様がどれほどかわいそうであり、主人を失ってしまった万物がどれほどかわいそうであり、自分の価値と目的と位置を失ってしまった人間がどれほどかわいそうですか!」という爆発的な心情があったので、サタンが退いたのです。
(9-181、1960.3.8)
14. イエスを排斥した人類の悲劇
― 宗教経典 ―
エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、私はお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。
マタイによる福音書23.37(キリスト教)
エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。」
ルカによる福音書19.41 ~ 44(キリスト教)
この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。
コリントの信徒への手紙一2.8 (キリスト教)
「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。
だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。そこで最後に、『私の息子なら敬ってくれるだろう!』と言って、主人は自分の息子を送った。
農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」 彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」
マタイによる福音書21.33 ~ 41(キリスト教)
― み言選集 ―
2000 年間の歴史を通して、偉大で栄光の位置に上がっていったイエス様は誰でも信じられますが、追い回され、嘲弄されるイエス様を信じられますか。ここに来た牧師やキリスト教の信者たちが信じることができますか。その時の書記官や祭司長たちが皆さんより愚かでイエス様を捕らえて殺したと思いますか。あれほど待っていたメシヤが来たのに、ユダヤ教徒の中で一人も信じる人がいませんでした。ユダヤ教徒たちが今、キリスト教の教徒たちに及ばないと考えますか。どれほど凄いか……。
(69-100、1973.10.21)
イエス様は天の物悲しい心情を抱き、倒れていく民族を訪ねてくださり、彼らをかわいそうに思い、自らの生命をも惜しまず、彼らを訪ねてくださいましたが、選ばれた民族であると自称していたイスラエル民族は、天がお送りになったメシヤと準備された洗礼ヨハネを、自分たちの勝手に扱い、歴史的な悲しみの陰に隠してしまったという事実を、今日、私達は知っています。
きょう、ここに集ったあなたの息子、娘たちをして、その時のイスラエルの人々が私達よりも劣っていて天に背反したのでなく、天のために生きる心情が私達よりも劣っていて天を忘れてしまったのではなかったことを知るよう許諾してください。
新しい時代に対する希望が足らず、新しいメシヤの理念をもってこられる主の姿が大きいだろうと思っていたのに、いざ現れたメシヤが、あまりにも悄然としてかわいそうで、小さな姿であったがゆえに、彼らが排斥したのだという事実が分かるよう許諾してください。
今、私達自体がどのような立場に置かれているかを察するよう許諾してくださり、今日、私達はよく歴史的なイスラエル民族を誹謗し、当時の事情を批判することがありますが、その時の事情や今日の事情に差がないことを知るようにしてください。私達がその時にいたなら、彼らと同じ群れであったことでしょうし、私達がその時代にいたなら、彼らと同じ立場にいたであろうことを自認する心をもつようにしてくださり……。
(5-284 ~ 285、1959.2.22)
イスラエル民族の前にメシヤが来た目的は、サタン圏をたたきつぶし、人類を神様の前に取り戻してくるためであるにもかかわらず、サタン主権をそのまま残して人類を置いていかなければならない十字架の道を行くイエス様は、ゲッセマネの園で血のにじむ闘争の祈祷をせざるを得なかったという事実を皆さんは知らなければなりません。
イエス様は、自分の意思で十字架に行く日には、4000 年間準備したイスラエルの国が滅び、ユダヤ教徒が滅び、洗礼ヨハネとその使徒たちが天に負債を負うことをよく御存じだったので、談判祈祷をせざるを得なかった事実を知らなければなりません。
イエス様は、肉と霊を中心として、霊的世界はもちろんですが、実体世界でも神様の王権を回復するために来られました。ところが、イスラエルの国の足場がなくなり、ユダヤ教の足場がなくなり、イエス様一人ではできないので、十字架で死んででも第2次の希望の道を開拓せざるを得なかったのです。国が反対し、教会が反対するので、十字架に行く道しかなかったために、神様も仕方なくひとり子を十字架で犠牲にせざるを得なかったことを皆さんは知らなければなりません。
4000 年の基盤の上に送ったメシヤが十字架で亡くなったのは、神様の予定の中で死んだのではありません。サタンに引っ張られていって十字架で亡くなったのです。十字架はすべて失ってしまった立場であることを知らなければなりません。国を失ってしまい、教会も失ってしまい、洗礼ヨハネも失ってしまった立場です。そこには12 使徒もすべて背信した立場であり、最後には右側の強盗までも死んでいった立場であることを知らなければなりません。イエス様の側になった人、天の側になった人が一人もいない、すべて失ってしまった立場だったことを皆さんは知らなければなりません。
十字架の場にはキリスト教もないことを知らなければなりません。キリスト教がありません。キリスト教は、復活されたのち、五旬節以降に出発したのです。十字架は神様の勝利ではなく、サタンの勝利を意味するのであり、復活はサタンの勝利ではなく、神様の霊的勝利を意味することを皆さんは知らなければなりません。ですから、キリスト教は復活の宗教と言っています。
(73-220 ~ 221、1974.9.18)
15. イエスの復活
― 宗教経典 ―
イエスは言われた。「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」
ヨハネによる福音書11.25 ~ 26(キリスト教)
キリストが復活しなかったのなら、私達の宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。更に、私達は神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。
死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、私達はすべての人の中で最も惨めな者です。
しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったようにキリストによってすべての人が生かされることになるのです。
コリントの信徒への手紙一15.14 ~ 22(キリスト教)
そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。見ると、石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず,罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」
そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。しかし、ペテロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。
ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。
イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」
イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、私達の祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。
私達は、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちが私達を驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」
そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、私達の心は燃えていたではないか」と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。
こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。私の手や足を見なさい。まさしく私だ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、私にはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。
イエスは言われた。「私についてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。
エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。私は、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。
ルカによる福音書24.1 ~ 53(キリスト教)
― み言選集 ―
イエス様は、十字架上で民族のために祈祷されたのであり、自分は死んだとしても責任を完遂するという心をもっただけでなく、死を超越して神様のみ旨を心配されたので、神様はそのようなイエス様を復活させることができたのです。ですから、復活されたイエス様に対して、サタンはあえて讒訴できませんでした。イエス様のように、皆さんもそのような内容の価値をもった人格体になれば、サタンが讒訴できません。
(2-141、1957.3.17)
サタンは、自己の最大の実権を行使して、イエスを十字架で殺害することによって、彼が4000 年の歴史路程を通じて、その目的としてきたところのものを、達成したことになったのである。このように、イエスをサタンに引き渡された神は、その代償として、イスラエルをはじめとする全人類を救うことができる条件を立て得るようになられた。
それでは神は、どのようなやり方で罪悪人間たちを救うことができたのであろうか。サタンが、既にその最大の実権を行使してイエスを殺害したので、蕩減復帰の原則により、神にも最大の実権を行使し得る条件が成立したのである。
ところで、サタンの最大の実権行使は、人間を殺すことにあるのであるが、これに対して神の最大実権行使は、あくまでも死んだ人間を、再び生かすところにある。そこで、サタンがその最大の実権行使をもって、イエスを殺害したことに対する蕩減条件として、神もまた、その最大の実権を行使されて、死んだイエスを復活させ、すべての人類を復活したイエスに接がせ(ロマ11・24)、彼らを重生させることによって救いを受けられるようにされたのである。
原理講論、モーセとイエスを中心とする復帰摂理3.3.1.1
イエス様は、死んでからもばらばらになった弟子たちを心配したのであり、墓の中の三日間でも、この弟子たちを永遠に守ろうという心をもったので、復活されたのちにガリラヤの海辺で弟子たちを探し回られたのです。今日の私達が人間的に考えてみれば、責任感のなかった彼らに対してイエス様がどうしてそのようにできるのだろうかと考えやすいのです。
困難な場で排斥した弟子たちですが、イエス様は復活後にまずガリラヤに訪ねていかれ、自分の責任を遂行し始めました。このように、死の峠を越えるとき、変わらない弟子として立ててくださったイエス・キリストの人格こそ、今日の私達が手本とすべき人格です。
それだけではありません。当時の弟子たちと、それ以降の大勢の聖徒たち、2000 年が経過した今日の私達まで責任をもたれたことを知らなければなりません。救援の歴史が全体の歴史でした。天のみ旨は全体を救援することなので、イエス様は全人類まで責任をもっているのです。
(1-38、1956.5.16)
主には、ユダヤの国を中心としてサタンの国を奪ってきてサタンを屈服させなければならない責任があるのですが、4000 年築いてきた基盤を完全に失ってしまい、国を失い、教会を失い、選んだ人をすべて失い、一人ではみ旨を成し遂げられないことは当然のことです。ですから、神様は第2方案を立てざるを得なかったのです。
その基盤を失わずに死ななければ、霊と肉を中心として、国と世界を神様のみ旨の中に、サタン世界とサタン主権を奪って天の国に帰っていくにもかかわらず、その基盤がなくなったので、仕方なく神様は第2次的な方案の霊的救援だけでも成立させることができる道を築かなければなりませんでした。それで、イエス様を十字架で亡くなるようにすることによって霊的救援の道を開くことができるようになったのです。これを皆さんは知らなければなりません。
(74-153、1974.11.28)
12) ムハンマド
ムハンマドは、多神教が盛んなアラビアに暮らしていたが、唯一神の真理を発見し、神様の使徒として召命に応じた。ムハンマドは幼いころから聖書の内容を知っていたが、彼が暮らしていた地域のユダヤ人やキリスト教徒たちは、多神教を信じる支配部族に立ち向かう情熱や確信が不足していたため、彼には特に印象的ではなかった。ムハンマドは、メッカの道に出て、誰もが聞こえるようイスラームのメッセージを宣布した。彼は迫害を受けて亡命生活をしたが、支持者たちを確保することができた。ムハンマドと彼の同僚たちは、支配的な宗教とぶつかり、新しい信仰を擁護してくれるメディナで歓迎された。ムハンマドは、神様に献身的で、悪に対しては少しも妥協することを知らなかった。文鮮明先生は、彼を卓越した宗教創始者の一人として尊敬する。
1. ムハンマドに下さった神様の啓示
― 宗教経典 ―
予言者よ、まことにわれはなんじを、証人として、吉報の伝達者・警告者・かれのお許しのもとに神に招く者として、また光明をゆきわたらせるともし火として、つかわしたのである。
クルアーン33.45 ~ 46(イスラーム)
ムハンマドは……神のみ使いであり、また諸予言者の最後者である。
クルアーン33.40 (イスラーム)
神は、黙示によるか、帳(とばり)のかげから、または天使をつかわしたまい、命を奉じて、そのおぼしめしのことを啓示なさるほか、人間に語りかけたもうことはない。まことにかれは、至高者・英明者であられる。このように「われは、わが命によって精霊をなんじに下した。なんじは、経典が何であるか、また信仰がどんなものかを知らなかった、しかしわれは、このコラーンで、わがしもべのうちわれの望む者を導く一つの光りとした。なんじは直き道に人びとを導く。神の道、それに、天にあり地にあるよろずのものは属する。
クルアーン42.51 ~ 53(イスラーム)
読め、創造したまえる方なんじの主のみ名によって。一凝血から、人間をつくりたもうた。読め、なんじの主は、こよなく尊貴であられ、筆によって教えたもう方、何も知らなかった人間に、教えたまえる方であられる。
クルアーン96.1 ~ 5(イスラーム)
それで私はそれを読み、彼は私のそばを離れた。そして、私は眠りから目覚め、その言葉が私の心の中に鮮明に残っていることを知った。今私は、神の被造物の中で、恍惚な詩人や惑わされた者たちより憎悪する存在がないことを知った。私は彼らを見ることすらできなかった。
それが私自身なのか、詩人やあるいは惑わされた者なのか、クライシュ部族は決してこのような事実を私に話してくれないだろうと私は考えた。私は山頂に登っていき、自ら下に身を投げて命を絶つことによって安息を得ようと思った。それでそうすることにして山の中腹に来たとき、私は天からある声を聞いた。「おお、ムハンマド! あなたは神の使徒であり、私はガブリエルである」。
私が顔を上げて声の主を見ると、あ! ガブリエルが地平線に腰をおろしている人の姿で現れた。彼が言うには、「ああ、ムハンマド! あなたは神の使徒であり、私はガブリエル」。私は前にも後ろにも動かずに立ったまま彼を見つめた。そして、彼から私の顔の向きを変えて天を見つめ、再び前のように彼を見つめた。
「私かハディージャに『ああ、悲しいかな! 詩人なのか、惑わされた者なのか』と言った。彼女は再び言った。『私はそのようなものから神に保護を求めます。おお! カースィム、神はこのようにあなたを放っておかれません。
その方はあなたの真実さと信頼、品性と親切さを知っていらっしゃるからです。おお、愛するあなたよ! このようになったのを見ると、あなたがおそらく何かを見たのですね』。私はそうだと答えた。そして私が見たことを説明してあげた。すると彼女は言った。『お喜びください。私の親戚の息子よ! そして立派な心をもってください。(注48)明白に神のみ手がハディージャの霊魂にあるので、私はあなたがこの民の使徒になることを希望します』」。
イブン・イスハーク預言者伝(イスラーム)
― み言選集 ―
聖人は、死の場でも自分の命を守って生きることができる力を開発しなければならず、そのような能動的な力をもたなければなりません。このような世界主義的な内容をもっていてこそ、聖人になることができるのです。このような事実をおいて考えてみるとき、ソクラテスよりはムハンマドが四大聖人の中の一人にならなければなりません。
(39-31、1971.1.9)
ムハンマドも同じです。イスラームは、総合的な宗教です。キリスト教の新・旧約をすべて引き入れてつくった総合的な宗教ですが、それもやはり神様を中心としたものです。アラビア民族に適合した内容を土台として、神様を中心に、神様による絶対的な真の人間を構成し、求めてきたのです。
(39-316、1971.1.16)
2. イスラームを立てるために迫害と苦難を克服したムハンマド
― 宗教経典 ―
筆により、また書いたものによって誓う、なんじは、主の恵みによって気違いではない。いや、まことになんじには、尽きせぬ報奨があろう。まことになんじは、崇高尊貴な素質である。なんじらのいずれが気違いであるか、やがてなんじは見よう、かれらも見るであろう。まことになんじの主は、道から迷い去った者を、最もよく知りたまい、また導かれている者を、最もよく知りたもう方であられる。
クルアーン68.1 ~ 7(イスラーム)
信仰する者よ、なんじらに賜わった神の恩恵を念え、大軍がなんじらに攻め寄せてくるとき、われはかれらに対し大風と、目に見えぬ軍勢をつかわした。神は、なんじらの行うことをみそなわしたもう。見よ、かれらは、なんじらの上からも下からも襲って来た、そのとき目はすわり、心臓はのどもとまでとどいて、神につき、なんじらはいろいろと悪い想像をした。こうして信者たちは試みられ、かれらは猛烈な動揺にゆさぶられた。……神は不信心の者たちを、怒りのうちにメディナから撤退させたまい、かれらは益するところはなかった。戦いには、神がいませば、信者たちにとり十分である。神は、強大者・偉力者であられる。
クルアーン33.9 ~ 25(イスラーム)
使徒が神の戒めを受け、公にイスラームを伝え始めたとき、私が聞いたところでは、彼が彼らの神々をとがめる前までは、人々の態度は、退くことも彼に対抗することもなかった。しかし、彼がそのようにすると、神がそのような悪から保護した者たち以外に、彼らはとても攻撃的に急変し、一致して彼を、彼らの敵として扱った。しかし、保護された者たちは数的に絶対劣勢だった。
イブン・イスハーク預言者伝(イスラーム)
― み言選集 ―
今日、聖人という班列に立った人は、神様を中心とする生活を夢見た人たちであって、人間の理想を中心とする生活を夢見た人は一人もいません。ですから、聖人は宗教の宗主だったのです。イエス、孔子、釈迦牟尼、ムハンマドのような人はそうでしょう?
彼らは、人間の生活を夢見た人たちではありませんでした。人間の生活よりもっと次元の高い理想的な生活の本体であられる神様がいることを知ったので、天を中心として理想を描いてきた方たちではないですか。
(61-67、1972.8.27)
第10章 終末論とメシヤに対する希望
終末論とメシヤに対する希望
1) 苦難
すべての宗教では、神様の決定によって人間の歴史が完成し、現在を飛び越える一時を期待する。そして、罪悪が滅亡し、善が勝利するものと信じる。ユダヤ教、キリスト教、イスラームの経典の教えの中で重要な特徴は、千年王国の建設である。キリスト教の出発は、イスラエルでの千年王国運動であると言うことができる。そして、ヒンドゥー教、仏教、ゾロアスター教なども、やはり道徳と宗教の退潮は、人間が更生され、純化する新黄全期の前兆として、この時、世界が宇宙的循環期に差しかかることを教える。
千年王国に対する信仰は、迫害される人たちをして、悪の制度がついに終末を告げ、彼らを新しい信仰革新運動と、さらには革命的運動に導くという希望をもたせることによって、社会に影響を与えられる。ローマの暴政に抵抗するユダヤのバル・コクバの乱から中国の太平天国の乱と、ヨーロッパの植民支配から独立を要求したアフリカ独立教会の主張に至るまで、一連の運動は、政治、経済的自主権を促進した。文鮮明先生は、今私達は末世に生きており、天国が近づいていると宣布しながら、それと類似した切迫感と可能性に身をおいていると教える。
しかし、このような千年王国に対する信仰は、人類を独善的であり独断的に導き得る否定的な側面ももっている。文鮮明先生は、復帰過程の原則によって末世の審判と苦難は、神側の人たちにまず訪れ、その強度もやはり不信者よりも大きいと警告する。
末世や世の終末に関する教えは、下記に見るように3段階の類型で示される。第1に、各種犯罪および罪悪と混乱が幅を利かせる苦難の時代、第2に、神様が決定的に参与し、罪悪の勢力を滅亡させる最後の審判の時代、第3に、いわゆる千年王国と呼ばれる前例のない幸福と平和の時代がそれである。
苦難の期間、戦争、飢饉、疾病、自然災害、そして広範囲な混乱が人間を苦しめるだろう。一般の大衆は、快楽主義と物質主義に陥りながら道徳、倫理的衰退が現れるだろう。宗教もやはり創始者の教えを忘却したまま、自身の利己的目的のもとに合理化することによって崩れ落ちるだろう。文鮮明先生は、人間がこのような苦難に直面するようになり、その根は人間の堕落にあると明らかにしている。先生は、末世は堕落の結実を収める時だと教える。
ある経典は、最後の苦難の時代に獣、反キリスト、あるいはダジャル(Dajjal)など、神様の実体を否定し、大勢の人を偽りの真理で惑わす存在が現れるという。反キリストが誰なのかを糾明する努力があったが、時として教会の反対者に目星をつけながら、大部分は結実を見ることができなかった。文鮮明先生は、歴史の暗闇の勢力、背後で作用するサタンの活動を見つけ出し、物質主義や無神論的共産主義の出現だけでなく、神様の人を攻撃する悪魔の術策を暴露する。それにもかかわらず、先生は、イエスに反対する最初の人たちはイエスの弟子たちであり、したがって人を非難するよりも、私達が反キリストではないかと自分を探ってみなければならないと指摘する。
1. 末世に現れる信仰と道徳の堕落
― 宗教経典 ―
後の悪世の生ける者たちは善根が少なく、高慢心が多く、衣服・臥具などの供養を貪り、不善根を増し、解脱から遠く離れているので、教化することが難しい……。
法華経13(仏教)
しかし、終わりの時には困難な時期が来ることを悟りなさい。そのとき、人々は自分自身を愛し、金銭を愛し、ほらを吹き、高慢になり、神をあざけり、両親に従わず、恩を知らず、神を畏れなくなります。
また、情けを知らず、和解せず、中傷し、節度がなく、残忍になり、善を好まず、人を裏切り、軽率になり、思い上がり、神よりも快楽を愛し、信心を装いながら、その実、信心の力を否定するようになります。こういう人々を避けなさい。
テモテヘの手紙二3.1 ~ 5(キリスト教)
(信仰心が深い)知識が消え、地震がとても多くなり、時間がとても早く過ぎていき、苦痛が現れ、殺人者が増加し、お金があなたの中にあふれる時まで、その時は確立しないだろう。
ブハーリー・ハディース2.17.146(イスラーム)
その時間が近づいてきたので、その中にはイスラームという名前だけが残り、コーランの単純な姿だけがある。その時、ムスリムたちのモスクは、知識と礼拝がない所となり、知識人たちは天の下で最も卑賤な人になり、論争と闘争がやまないだろう。そしてそれは、彼ら自身に帰っていくだろう。
ハディース(イスラーム)
ズォチュフのラビ・ミクハルが言った。「ある日、私達が師であられる7日の光、イスラエルのラビ、バアル・シェム・トーヴと旅をしていた。師は、午後に祈りのために森に行かれた。ところが、突然、木に頭をぶつけて大きく泣いていらっしゃるではないか。あとで理由を尋ねた、師が言われるには、「私が聖霊を迎えたとき、私は主が来られる前に近づいてくる未来を見た。ハシディックのラビたちは、数的には相当に増加するが、彼らによって贖罪が延長されるだろう。彼らが人々に根拠のない憎悪と心情の分裂をもたらすからである」
ハシディックの説話(ユダヤ教)
人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。
ルカによる福音書18.8(キリスト教)
メシヤの伝令が来る時に起きることは、次のようなことだ。憶測が横行し、欠乏現象は極限に達し、ぶどうの房は熟していないのにぶどう酒は高く取引され、国家は異邦人の国に転落したのにとがめる者がいないだろう。学園は偶像崇拝の場となり……。
律法学者たちの知恵は活気を失い、罪を避ける者はかえって軽蔑され、ゆえに真理はそのどこにも発見されないだろう。子供たちが大人の恥となり、大人たちは子供たちの前に立って怒りを表すだろう。その世代の顔は、犬のようにあつかましく、子供たちは父母たちの叱責を眼中にも置かないだろう。私達は誰に頼るのか。天にいらっしゃる父以外にまた誰がいるのか。
ミシュナ、ソーター9.15(ユダヤ教)
ヴェーダによって教えられた実践と法の原則がとだえ、そしてカリの時代の終わりが近くに迫った時、ブラフマの性質の中にその霊的性質を持つその神聖な存在の一部が、始まりであり終わりでもある方が、そして全存在を理解する方が、地上に降り立つであろう。
彼はシャンバラ村の有名なバラモンの家庭にカルキとして、八つの超人間的な機能を授けられて生まれるであろう。彼はその圧倒的な力によって野蛮人と盗賊と悪に魂を売り渡した者達を壊滅させるであろう。
その後彼らは地上に再び正義を立でるであろう。そしてカリの時代の最後に生きた者達の心は覚醒され、水晶の様に澄み渡るであろう。この特別な時のおかげで変わった人々は人類の種となり、清浄の時代であるクリタ時代の法に従う人種を生み出すであろう。これについては次の様に言われている。「日と月、そして月の星群ティーシャと木星とが一つの家に住むとき、クリタ時代が帰ってくるであろう。」
ヴィシュヌ・プラーナ4.24(ヒンドゥー教)
ちょうどその時、人々は十の善い行いの名称を全く聞くことはなく、ただ十の悪い行いが世間にみちみちるであろう。……このとき人々が極めて悪い行いをなすことができ、父母に孝行せず、先生や先輩を敬わず、忠義をつくさず、反逆的で、正しい道にもとっていれば、尊敬をあつめることであろう。
そのときの人々は十の悪い行いをなすものが多く悪道に墜落するものが多いであろう。猟師が鹿の群れを見たときのように、人々は出会えばいつも殺したいと思うであろう。
阿含経長部iii.71 ~ 72(仏教)
― み言選集 ―
今、青少年の問題が深刻になっています。青少年の倫落間題が深刻な問題です。エデンの園でアダムとエバが、青少年時代、ティーンエイジャーの時に陰でフリーセックスをして根を植えたので、終わりの日には必ず世界的にティーンエイジャーのフリーセックスが現れなければならないというのが理論的だというのです。
サタンは、神様が真の愛を中心として、堕落前の絶対愛の基準を中心として天国に連れていこうとしていることを知っているのです。再臨主が来て、そのようにすることを知っているので、サタンが戦略で完全にこの基準をすべて壊してしまいました。
愛という基盤がないので、フリーセックス、ホモ、レズビアンになるのです。ホモ、レズビアン、これは天使長の種です。天使長は愛の相対がいません。(注2)終わりの日には、裸になって一度に死のうというのです。これが天使長の子孫の末路です。これが地上地獄、サタン世界が地獄化する世界なので、この180 度反対を求めていけば、天国と通じる道があるのです。今後、再臨主が来てこの世の中を救ってあげるために、180 度の道を教えてあげたのち、天に連れていくようになることを知らなければなりません。
(279-121 ~ 122、1996.8.1)
堕落とは……アダムとエバが神様を不信し、背信したことが宇宙的な恨の種として蒔かれるようになりました。それでは、終わりの日に、どのようなことが起きるのでしょうか!終わりの日には、父子の関係で仲たがいすることが起きます。人間始祖に神様に背いた不信の因縁があるので、その血統を受けて生まれた人間たちにも、終わりの日には、子女が父母に対抗するようなことが起きるようになるのです。
皆さんは、このような時代が来るとき、背信しようにも背信できない真の父母をこの地で探し出さなければなりません。皆さんがとどまっている現在の環境は、信仰の因縁で結ばれたものではないので、不信の現象が起きるのです。父子の関係がこのようになり、夫婦の関係がこのようになり、また、一家、親戚の関係が不信の風潮になり、人間たちが指向している意志までも根本的に破綻させてしまう拒否現象があちこちで現れれば、皆さんは、その時が終わりの日であることを悟らなければなりません。
(2-330、1957.7.28)
エデンの園で堕落することによって、天使長を中心としてエバが怨讐になり、エバを中心としてアダムが怨讐になり、お互いが怨讐になりました。すべて怨讐だというのです。ですから、皆さんの子女もすべて怨讐です。信じられないのです。終末になれば母親、父親までも怨讐になります。兄弟間が怨讐になるのです。国同士が怨讐になり、すべての因縁がばらばらになる時が来ます。その時になれば、人倫道徳がどこにありますか。世界の風潮がそのように吹きすさんで方向をわきまえることができず、どのようなものが善であり、どのようなものが偽りなのか、より分けられない時が来るなら、その時が終末であることを知らなければなりません。
その時が正に今です。子供が親を殺害する事件が起こり、親が子供を殺害する事件が起こります。世の中で天を中心として教える師弟間は、牧師と教会員であるにもかかわらず、教会員が牧師に刃物で刺され、牧師と教会員の間で決闘が繰り広げられるのです。そのような時が来るなら、終末であることを知りなさいというのです。それはなぜでしょうか。エバどアダムが怨讐であり、アダムと天使長が怨讐であり、神様もすべて怨讐になったからです。そのような根をもった歴史は、すべて戦場として結果を結ぶ世界が繰り広げられるのです。
それで、どこに行くのでしょうか。行く所が分からないのです。世界もそのようなことが起きます。今、民主世界と共産世界の二つの群れに分かれていますが、これからは3カ国だけでなく4カ国に広がります。筋道がつかめないのです。きのうは悪いと言っていたことが、きょうは世界に登場したりします。
きのうまで勢力のあったものが、きょうになると追放されます。世界的に筋道がつかめません。国家的に見るときも、これからの大韓民国がどのように行くのか分かりますか。アメリカがどのように行くのか分かりますか。国家的に筋道がつかめないのです。また、ある団体なら団体がどのようにしなければならないか分かりますか。家庭なら家庭がどのようになるか分かりますか。すべて不信する作用が起きるのです。そのような時になれば、終わりの日が来ることを知らなければなりません。
(50-213、1971.11.7)
宗教圏がすべて滅びました。キリスト教が滅びる立場に立つと同時に、それ以外のアジア圏にあった仏教や儒教、そしてイスラーム……。イスラームはあとから出できたのですが、宗教の形態はもっていても、今ではもうすべて滅んだというのです。滅ぶのは宗教だけではありません。家庭から、宗教から、社会から、国家から、全世界、どこもみな地獄のようになってしまいました。
神様が理想とされた愛の理想圏というものは、地球星に見いだすことができないという結果になったのです。アメリカのような大国に行けば、神様が訪ねていける息子が、心と体を一つにして、娘と一つになって神様が願われる堕落していない本然の夫婦となり、心と体が闘わない真なる家庭をつくらなければなりませんが、そのような家庭はないとうのです。その夫婦によって息子、娘が生まれなければならないのです。父母と息子、娘が闘わない家庭がありません。個人主義化してしまったこの世の中は、すべて分かれているのです。
(342-268、2001.1.13)
縦的なものが中心です。縦的な基準が立つことによって、プラスとマイナスの概念が出てきて、男性と女性の概念が出てきます。縦的な概念がないので、男性の概念、女性の概念が雑然としているのです。ですから、混乱現象が起きます。これでもなくあれでもなく、男性でもなく女性でもなく、混乱が起きるのです。終わりの日にこれがすべてフリーセックスのように……。それは悪魔サタン、悪霊たちの破壊主義です。そうして混乱現象が起きるのです。
(189-127、1989.4.1)
人間が長成期完成級で堕落したので、完成段階が残っています。完成段階の期間が7年です。……私達は、7日を中心としてこれを7年で蕩減するのです。……この7年路程で責任を果たせない家庭は、滅びる家庭です。上がっていく家庭ではありません。家庭が責任を果たせなければ、7年路程は延長するのです。……これが7年の大艱難であり、歴史上で初めての艱難です。これが統一教会で言う7年路程なのです。
(23-217、1969.5.25)
自由世界で最近、結婚を正式にしないで不法結婚をして暮らしています。すべて結婚をしない形式を選びます。……すべて滅びると思うのですが、神様は助けてあげるための作戦を今、行っています。このように見てこそ、世の中のすべてのものが解けます。神様の立場から、すべて解かれていくのです。
霊と肉は、本来真の愛を中心として一つになるようになっているのであって、偽りの愛を中心として一つになるようにはなっていません。ですから、真の愛の起源を見いださなければ、これが一つにならないのです。それが最も理論的です。その場を皆さんが越えていき、天が祝福してくれる祝福を願っていかなければなりません。
(91-184、1977.2.6)
2. 戦争、自然災害、蔓延する惨状
― 宗教経典 ―
戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、私の名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。
そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
マタイによる福音書24.6 ~ 13(キリスト教)
その六十二週のあと油注がれた者は、不当に断たれ、都と聖所は次に来る指導者の民によって荒らされる。その終わりには洪水があり、終わりまで戦いが続き、荒廃は避けられない。彼は一週の間、多くの者と同盟を固め、半週でいけにえと献げ物を廃止する。憎むべきものの翼の上に荒廃をもたらすものが座す。そしてついに、定められた破滅が荒廃の上に注がれる。
ダニエル書9.26 ~ 27(キリスト教)
社会は大破壊と荒廃をもたらす破壊的な戦争により蹂躙されるだろう。最初は征服者たちが彼らの勝利と獲得した戦利品に喜びを満喫するが、そのすべてのものはとても悲しい結果をもたらすだけである。私は未来の戦争に関して警告するが、あなた達はそれらがもたらす極悪無道な罪悪に対して考えることができない。
ナフジュ・アル・バラーカ説教141(シーア派イスラーム)
それゆえ、人の子よ、ゴグに対して預言して言いなさい。主なる神はこう言われる。わが民イスラエルが安らかに暮らしているとき、お前はいきり立つのか。お前は北の果ての自分の所から、多くの民を伴って来る。彼らは皆、馬に乗っている大集団、大軍団だ。お前はわが民イスラエルに向かって、地を覆う雲のように上って来る。そのことは、終わりの日に起こる。私はお前を、私の地に連れて来る。それは、ゴグよ、私が国々の前で、お前を通して自分の聖なることを示し、彼らが私を知るようになるためである。
エゼキエル書38.14 ~ 16(キリスト教)
― み言選集 ―
神様は常に愛する子女を先に打って、その次にサタンを打つ。
御旨の道、試験・試練
神様は、サタンの側に回った人類を打つことができないので、人類を取り戻すためには天の側が打たれて奪ってくる作戦を取り、サタンは打って奪われる作戦をせざるを得ません。サタンは、私的に憎悪と闘争で、歴史を通じて天を滅ぼそうとしてきました。天は、反対に公的な立場で、愛と平和で再創造してきたのです。
末世になれば、サタンが人類を支配してきた立場を天に奪われるようになるので、神がいないという無神論を提示して、人本主義と物本主義、共産主義の出現を助け、天の側の右翼とサタン側の左翼の闘争を、世界的に展開したのです。天の側の勝利によって、第2次大戦以後にキリスト教文化圏の勝利と、平和の世界に転換する大変革時代を迎えるようになるのです。(270-232、1995.6.7)
神様の摂理において、個人的にサタン世界に勝たなければならず、家庭、氏族、民族、国家、世界的にサタン世界にすべて勝たなければなりません。いつでもサタン世界が先にあるのです。家庭があれば、サタンは国までもっています。ですから、アダム時代、イエス時代、イスラエル民族の歴史時代に過ちがなくなるのではなく、過ちが積み重なったのです。……
それでは、イエス時代、2000 年の歴史においてキリスト教が天の前に責任を果たせなかったすべてのことが、ただそのまま蕩減され得るだろうかというのです。これが残っているのです。ですから、第1次、第2次の世界大戦など、戦争の歴史というのは、蕩減法によって蕩減するための神様の摂理の中で起きたのです。それで、第2次大戦が終わるとき、キリスト教文化圏を中心として、サタン世界とキリスト教文化圏が一つの統一世界を迎えたのです。
ですから、キリスト教によって統一された一つの国です。キリスト教文化圏を中心として、日独伊と英米仏は相対的です。英米仏と日独伊となってサタン世界の心と体が分かれて闘うのを一つにしなければなりません。一つにするのです。一つにしたところに再臨主が来て、真の父母様を中心として心と体の統一、家庭統一を成し遂げなければなりません。
(292-180、1998.4.12)
人類は第2次世界大戦の痛手を踏み越えて、すべての国が平和になり得る道を見つけようとしました。神様は私に、2000 年のキリスト教の基盤の上に神様の天国を建設する世界的な運動を指示されました。啓示の中心は「真の父母」、「真の家庭」を見つける公式路程でした。
しかし、当時の韓国のキリスト教指導者たちは、この真理を受け入れることができず、神様に大きな失望を与えました。私は、迫害と反対を受け、罪なく投獄される苦難の路程を歩まざるを得ませんでした。既成教会の歴史的な過ちが条件となり、韓国で悪が勢力を得る霊的基盤が造成されたのです。韓半島が分断され、半世紀にわたる受難の歴史とならしめた摂理の内的な原因となりました。
(288-166、1997.11.27)
3. 悪魔と悪霊の襲撃
― 宗教経典 ―
第五の天使がラッパを吹いた。すると、一つの星が天から地上へ落ちて来るのが見えた。この星に、底なしの淵に通じる穴を開く鍵が与えられ、それが底なしの淵の穴を開くと、大きなかまどから出るような煙が穴から立ち上り、太陽も空も穴からの煙のために暗くなった。
そして、煙の中から、いなごの群れが地上へ出て来た。このいなごには、地に住むさそりが持っているような力が与えられた。いなごは、地の草やどんな青物も、またどんな木も損なってはならないが、ただ、額に神の刻印を押されていない人には害を加えてもよい、と言い渡された。殺してはいけないが、五か月の間、苦しめることは許されたのである。
いなごが与える苦痛は、さそりが人を刺したときの苦痛のようであった。この人々は、その期間、死にたいと思っても死ぬことができず、切に死を望んでも、死の方が逃げて行く。さて、いなごの姿は出陣の用意を整えた馬に似て、頭には金の冠に似たものを着け、顔は人間の顔のようであった。また、髪は女の髪のようで、歯は獅子の歯のようであった。また、胸には鉄の胸当てのようなものを着け、その羽の音は、多くの馬に引かれて戦場に急ぐ戦車の響きのようであった。更に、さそりのように尾と針があって、この尾には、五か月の間、人に害を加える力があった。いなごは、底なしの淵の使いを王としていただいている。その名は、ヘブライ語でアバドンといい、ギリシァ語の名はアポリオンという。
ヨハネの黙示録9.1 ~ 11(キリスト教)
― み言選集 ―
地上世界が一つの理念圏内に入っていけば、どのようになるでしょうか。地上より少し善のものが勝ちます。これが霊界の地上攻撃時代です。ですから、今日、名前もない神経症など、神経系統の病気がたくさん発生するのです。薬では駄目です。これは「天地双和湯(双和湯:疲労回復のための煎じ薬)」を飲まなければなりません。
(3-353、1958.2.9)
数千億、数万億の霊人たちが地上を占領するための攻略をしてきます。ノイローゼ現象がその一つです。もう少したって、80 年代、さらには2000 年代を超えれば、その時は悪霊に通じるか、善霊に通じるか、すべて霊的に通じるかもしれません。「戦争をするな」と言っても、闘わざるを得なくなるのです。(注5)そのような時が来るかもしれません。
高いアンテナには、ピーピーという音が出てきます。それがノイローゼ現象です。最も恐ろしいのは、悪霊だけを動員して地上攻略をしてくることです。その場合に、どのようになるかが問題です。いくら人が全地球上にいっぱいになったとしても、悪霊が攻略してしまいます。それで、神様はそこまで準備していらっしゃいます。善霊たちを中心
として霊界の基台を広げてきているのです。
(55-30、1972.4.23)
4. 野獣、反キリスト
― 宗教経典 ―
だれがどのような手段を用いても、だまされてはいけません。なぜなら、まず、神に対する反逆が起こり、不法の者、つまり、滅びの子が出現しなければならないからです。この者は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して、傲慢にふるまい、ついには、神殿に座り込み、自分こそは神であると宣言するのです。
まだ私があなたがたのもとにいたとき、これらのことを繰り返し語っていたのを思い出しませんか。今、彼を抑えているものがあることは、あなたがたも知っているとおりです。それは、定められた時に彼が現れるためなのです。
不法の秘密の力は既に働いています。ただそれは、今のところ抑えている者が、取り除かれるまでのことです。その時が来ると、不法の者が現れますが、主イエスは彼を御自分の口から吐く息で殺し、来られるときの御姿の輝かしい光で滅ぼしてしまわれます。不法の者は、サタンの働きによって現れ、あらゆる偽りの奇跡としるしと不思議な業とを行い、そして、あらゆる不義を用いて、滅びていく人々を欺くのです。
彼らが滅びるのは、自分たちの救いとなる真理を愛そうとしなかったからです。それで、神は彼らに惑わす力を送られ、その人たちは偽りを信じるようになります。こうして、真理を信じないで不義を喜んでいた者は皆、裁かれるのです。
テサロニケの信徒への手紙二2.3 ~ 12(キリスト教)
かれらに対しおことばが実現されるとき、われは大地からかれらに一獣を現わし、「まことに人間たちは、わがしるしに確信をいだかないでいた」と、申し渡すであろう。
クルアーン27.82(イスラーム)
ダジャルが彼と共に水と火をもって現れるだろう。人々が水と見たものは燃える火であり、彼らが火と見たものは冷たく甘い水である。あなた達は誰でもその時まで生きれば、彼らが火と見たものにはまっていくが、それは甘く新鮮な水だ。
ブハーリーおよびムスリム・ハディース(イスラーム)
私はまた、一匹の獣が海の中から上って来るのを見た。これには十本の角と七つの頭があった。それらの角には十の王冠があり、頭には神を冒pするさまざまの名が記されていた。私が見たこの獣は、豹に似ており、足は熊の足のようで、口は獅子の口のようであった。竜はこの獣に、自分の力と王座と大きな権威とを与えた。この獣の頭の一つが傷つけられて、死んだと思われたが、この致命的な傷も治ってしまった。
そこで、全地は驚いてこの獣に服従した。竜が自分の権威をこの獣に与えたので、人々は竜を拝んだ。人々はまた、この獣をも拝んでこう言った。「だれが、この獣と肩を並べることができようか。だれが、この獣と戦うことができようか。」この獣にはまた、大言と冒pの言葉を吐く口が与えられ、四十二か月の間、活動する権威が与えられた。そこで、獣は口を開いて神を冒pし、神の名と神の幕屋、天に住む者たちを冒pした。獣は聖なる者たちと戦い、これに勝つことが許され、また、あらゆる種族、民族、言葉の違う民、国民を支配する権威が与えられた。
地上に住む者で、天地創造の時から、屠られた小羊の命の書にその名が記されていない者たちは皆、この獣を拝むであろう。耳ある者は、聞け。捕らわれるべき者は、捕らわれて行く。剣で殺されるべき者は、剣で殺される。ここに、聖なる者たちの忍耐と信仰が必要である。
私はまた、もう一匹の獣が地中から上って来るのを見た。この獣は、小羊の角に似た二本の角があって、竜のようにものを言っていた。この獣は、先の獣が持っていたすべての権力をその獣の前で振るい、地とそこに住む人々に、致命的な傷が治ったあの先の獣を拝ませた。そして、大きなしるしを行って、人々の前で天から地上へ火を降らせた。更に、先の獣の前で行うことを許されたしるしによって、地上に住む人々を惑わせ、ま
た、剣で傷を負ったがなお生きている先の獣の像を造るように、地上に住む人に命じた。第二の獣は、獣の像に息を吹き込むことを許されて、獣の像がものを言うことさえできるようにし、獣の像を拝もうとしない者があれば、皆殺しにさせた。
また、小さな者にも大きな者にも、富める者にも貧しい者にも、自由な身分の者にも奴隷にも、すべての者にその右手か額に刻印を押させた。そこで、この刻印のある者でなければ、物を買うことも、売ることもできないようになった。この刻印とはあの獣の名、あるいはその名の数字である。ここに知恵が必要である。賢い人は、獣の数字にどのような意味があるかを考えるがよい。数字は人間を指している。そして、数字は六百六十六である。(注6)
ヨハネの黙示録13.1 ~ 18(キリスト教)
子供たちよ、終わりの時が来ています。反キリストが来ると、あなたがたがかねて聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。これによって、終わりの時が来ていると分かります。彼らは私達から去って行きましたが、もともと仲間ではなかったのです。仲間なら、私達のもとにとどまっていたでしょう。しかし去って行き、だれも私達の仲間ではないことが明らかになりました。しかし、あなたがたは聖なる方から油を注がれているので、皆、真理を知っています。
私があなたがたに書いているのは、あなたがたが真理を知らないからではなく、真理を知り、また、すべて偽りは真理から生じないことを知っているからです。偽り者とは、イエスがメシアであることを否定する者でなくて、だれでありましょう。御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです。
ヨハネの手紙一2.18 ~ 22(キリスト教)
― み言選集 ―
蕩減復帰摂理から見た世界大戦の内的な原因は何なのだろうか。第1に、主権を奪われまいとするサタンの最後の発悪によって、世界大戦が起こるようになるのである。既に上述したように、人間始祖が堕落することによって、元来神が成し遂げようとしてきた原理世界を、サタンが先立って原理型の非原理世界を成し遂げてきたのであり、神はそのあとをついていかれながら、サタン主管下のこの非原理世界を奪い、善の版図を広めることによって、次第に原理世界を復帰する摂理をしてこられたのである。したがって、復帰摂理の路程においては、常に、真なるものが来る前に、偽ものが先に現れるようになる。キリストが来られる前に偽キリストが来るであろうと言われたのは、その代表的な例であるといえる。
原理講論、メシヤ再降臨準備時代4.1
神がこの新しい真理を下さって、全人類を一つの理念に統合させようとなさる摂理をサタンが先に知り、自分を中心として人類を統合させようと、偽りのものを真であるかのように説いたサタン側の真理がすなわち弁証法的唯物論である。弁証法的唯物論は理論的な根拠を立てて霊的な存在を抹殺しようとする。
このような唯物論の立場から神は存在しないということを証拠立てようとしたが、結果的にはサタン自身も存在しないという論理を自らも被らざるを得ず、自業自得となり自滅の境地に自ら落ちこんでしまったのである。なお、サタンは歴史の終末をよく知っているので自分が滅亡することもよく知っている。
したがって、結局はサタン自身も尊ばれないときが必ずくることを想定していながら、自分の犠牲を覚悟して神を否定したのがすなわち弁証法的唯物論なのである。ゆえに、民主主義世界でその理論を屈伏させる真理を出さない限り、天の側はいつまでもサタンの理論的な攻勢を免れる道がないのである。ここに、天の側で新しい完成的な真理を宣布しなければならない復帰摂理史的な根拠があるのである。
原理講論、メシヤ再降臨準備時代4.4.1
皆さんがもし理想の園、終わりの日の世界的な新しい栄光の日を迎えることを願うのなら、皆さんは、悲しまれたイエス様の心情、悲しいイエス様の生涯を思い、切ない心で天に向かって身もだえしながら歩んでいけなければなりません。ところが、このようなことを行わず、考えてもいない立場で主の栄光を願う人がいますか。もしいるなら、そのような人がすなわち、反キリストであり、偽りの預言者です。
使徒たちがイエスの前に反キリストの立場に立つと、誰が思ったでしょうか。また、選ばれたイスラエル民族とユダヤの教団が反キリストになるとは、誰が思ったでしょうか。終わりの日にもこれを心配しなければなりません。今は人を非難し、人のことに干渉する時ではありません。自分自身が問題なのです。教団が問題ではありません。終わりの日に自分がサタンになるかもしれないと心配しなければなりません。(注7)今まで人を問題にしてきた人は、すべて自分を失ってしまう歴史路程を経てきたのです。
(2-277、1957.6.16)
お父様!今や、死亡の都が審判のひと日を目前にしています。お父様、このような時に際して恐怖の世界であえいでいるこの人類、行くべき道を知らずに彷徨しているこの人類、中心を失ってしまい、処すべき立場を知らず、とどまる所を探し出すことができずにいる人類を哀れにお思いくださって、あなたの懐に帰れるようお導きください。
(5-60、1958.12.21)
2) 最後の審判
人々は、末世に現れる事件を希望と恐怖が入り混じったまま注視してきた。迫害を受けた人にとって末世は、罪悪の権勢が崩れ、罪人たちが処罰を受ける希望の日である。自分の罪を苦痛に感じ、救援を否定して疑っていた人たちにとって末世は恐怖の日である。
個人に対する最後の審判は、死ぬ時に現れるが、これに関しては第5章で既に論議した。しかし、終わりの日のこの世の中全体に対する全般的な審判がある。神様の王国に関する約束が成し遂げられようとすれば、地球上から罪悪を永遠に除去しなければならない。
大勢の信仰者たちが最後の審判を文字どおり世の中の終末という超自然的事件として解釈しているが、文鮮明先生は、最後の審判は過去の罪悪の伝統が消え、すべての人たちが地上天国を建設するために尽力する時代に転換する時に起きる過程的現象であると教える。イエス様が麦と毒麦に例えたように、堕落した世の中で善は人知れず成長するが、時に至れば善と悪を区分する瞬間が到来するだろう。その時、人々は、自分たちの罪を悟り、神様のみ言の審判を受け入れ、あらゆる罪悪と堕落性を根本的に取り除き、日常生活で真理のみ言を具現することによって、段階的に神様の民に変貌していくのである。
1. すべての罪悪が現れ、審判が履行される
― 宗教経典 ―
「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ』と言った。
そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、“まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい”と、刈り取る者に言いつけよう。』」
マタイによる福音書13.24 ~ 30(キリスト教)
私の言葉を聞いて、それを守らない者がいても、私はその者を裁かない。私は、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。私を拒み、私の言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。私の語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。
ヨハネによる福音書12.47 ~ 48(キリスト教)
不信者は、集団をなして地獄に駆られよう。かれらがそこに到着したとき、地獄の諸門は開かれる、そして看守は、「おまえたちの間から出た、諸使者が来なかったか、(そして)主からのしるしをおまえたちのために読唱し、また、おまえたちのこの会見の日のことを、警告しなかったか」と言おう。
かれらは答えて言おう「その通りであります、ただし、不信者に対する刑罰のおことばが、真実に証明されました」。かれらに言われよう「なんじらは地獄の門をはいれ、その中にとこしえに住め」。何と哀れなことよ、高慢者の住まいこそは。また、かれらの主を畏れたものは、集団をなして楽園に駆られよう。かれらがそこに到着したとき、楽園の諸門は開かれる。そしてその看守は言おう、「あなたがたに平安あれ、みごとであった、ここにおはいり、とこしえの住まいである」。
かれらは感謝して言おう「神をたたえ奉る、かれは、私達への約束を果たし、私達に大地を継がせたまい、この楽園の中では、好きなところに住ませたもう」。何と結構なことよ、善い行いにいそしんだ者への報奨こそは。
クルアーン39.71 ~ 74(イスラーム)
主を畏れ敬う者たちが互いに語り合った。主は耳を傾けて聞かれた。神の御前には、主を畏れ、その御名を思う者のために記録の書が書き記された。私が備えているその日に、彼らは私にとって宝となると、万軍の主は言われる。
人が自分に仕える子を憐れむように、私は彼らを憐れむ。そのとき、あなた達はもう一度、正しい人と神に逆らう人、神に仕える者と仕えない者との区別を見るであろう。見よ、その日が来る。炉のように燃える日が。高慢な者、悪を行う者は、すべてわらのようになる。到来するその日は、と万軍の主は言われる。彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。
しかし、わが名を畏れ敬うあなた達には、義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなた達は牛舎の子牛のように、躍り出て跳び回る。私が備えているその日に、あなた達は神に逆らう者を踏みつける。彼らは足の下で灰になる、と万軍の主は言われる。
わが僕モーセの教えを思い起こせ。私は彼に、全イスラエルのため、ホレブで掟と定めを命じておいた。見よ、私は大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなた達に遣わす。彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる。私が来て、破滅をもって、この地を撃つことがないように。
マラキ書3.16 ~ 24(キリスト教)
それでラッパが、ひとふき吹かれたとき、大地や山々はもたげられ、一撃で粉々に砕かれ、その日一大事件が起こる。また大空は粉々に裂ける、天がもろく弱い日であろう。天使たちは、その辺境におり、その日、八人の天使がかれらの上に、なんじの主の玉座をになうであろう。その日なんじらは審判のため集められ、なんじらのどんな秘密も隠しおおせないであろう。それで右手にその行状記を渡される者は、「ここに来てあなたがたは私の行状記を読め。私の清算に会うことが、ほんとうにわかった」と言おう。
こうしてかれは至幸な生活にひたり、高い園の中で、もろもろの果物は、手近にある。「あなたがたは過ぎ去った日に送った善行のゆえに、満悦して食べかつ飲め」(と言われよう)。だが左手にその行状記を渡される者は、「ああ、わしの行状記が渡されなかったならば、わしは自分の清算が、どんなものであるかを知らなかった。ああ、死がわしの終末であったならば。富は、わしに役立たなかった。権威は、わしから消えうせてしまった」と言おう。「かれを捕え、鎖を巻け、それから燃えさかる火で、焼け。
クルアーン69.13 ~ 31(イスラーム)
だれもほかの土台を据えることはできません。この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。
コリンの信徒への手紙一3.11 ~ 15(キリスト教)
― み言選集 ―
エデンの園のアダムが堕落することによって、神様を中心とする善が終わり、サタンを中心とする悪が出発しました。この悪が終わりを告げなければならない時が末世です。善が終わることによって偽りのみ言が出てくるようになったのであり、偽りのみ言によって真の人格の実体を失ったのであり、偽りの愛をもつようになりました。ですから、第1には真理の審判、第2には人格の審判、第3には心情の審判をしなければなりません。これが終わりの日の三審判です。
終わりの日には、悪が世界的に審判を受けます。自分だけのために生きるのは、個人主義であり、自己中心です。したがって、それは悪です。主は、審判されない方法を教えます。それは、自分よりもっと大きなもののために生きなさいということです。
自分ばかりを中心とすれば破滅するだけです。公的なもののために生きなければなりません。子女に対する愛も、天国の民をつくるための愛でなければならないのです。個人の立場から見るとき、自分のために引き込むのは悪であり、人のために与えるのは善です。1日24 時間、善と悪のうちどちらにより傾いているかによって審判が決定します。皆さんは、今もこの審判場を越えていっているのです。
(17-329、1967.4.16)
皆さんはイエス様を「愛のイエス様」と呼びますが、イエス様は、かわいそうな人の前には愛のイエス様ですが、不義と悪に従事する人の前には赦しのない審判主です。かわいそうな漁夫や官吏、そして娼婦のような人たち、つまりその時代に排斥され、追われた群れが、ひれ伏して骨髄にしみる哀訴を打ち明ける場では愛のイエス様ですが、正義の道を行くために精誠を捧げる群れに剣を掲げていくローマ帝国とユダヤの役人のような群れの前には審判主だったのです。
愛する息子、娘の前では愛のイエス様ですが、不義と悪を行う悪党の前には公義の審判主だというのです。もしイエス様が愛のイエス様だけであれば、今日のキリスト教で主張する終末時代の審判役事はあってはいけないというのです。
(14-309、1965.1.10)
ペテロⅡ3章12 節を見ると、終末には「天は燃えくずれ、天体は焼けうせてしまう」と記録されている。また、マラキ書4章1節以下を見れば、イエスのときにも、御自身が審判主として来られ(ヨハネ5・22、同9・39)、火をもって審判なさると預言されている。さらに、ルカ福音書12 章49 節には、イエスは火を地上に投じるために来られたとある。
しかし実際はイエスが火をもって審判なさったという何の痕跡も、我々は発見することができないのである。とすれば、このみ言は何かを比喩されたのであると見なければならない。ヤコブ書3章6節に「舌は火である」と言われたみ言からすれば、火の審判は、すなわち舌の審判であり、舌の審判は、すなわちみ言の審判を意味するものであるから、火の審判とは、とりもなおさずみ言の審判であるということを知ることができるのである。……それでは、み言をもって審判される理由は、いったいどこにあるのであろうか。ヨハネ福音書1章3節に、人間はみ言によって創造されたと記録されている。
したがって神の創造理想は人間始祖がみ言の実体として、み言の目的を完遂しなければならなかったのであるが、彼らは神のみ言を守らないで堕落し、その目的を達することができなかったのである。それゆえに、神は再びみ言によって、堕落人間を再創造なさることにより、み言の目的を達成しようとされたのであるが、これがすなわち、真理(聖書)による復帰摂理なのである。
ヨハネ福音書1章14 節には、「言は肉体となり、私達のうちに宿った。私達はその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた」と記録されている。このようにイエスは、また、み言の完成者として再臨なさり、自ら、み言審判の基準となられることによって、すべての人類が、どの程度にみ言の目的を達成しているかを審判なさるのである。
このように、復帰摂理の目的が、み言の目的を達成するところにあるので、その目的のための審判も、み言をその基準として立てて行われなければならないのである。ルカ福音書12 章49 節に、「私は、火を地上に投じるためにきたのだ。火が既に燃えていたならと、私はどんなに願っていることか」と書かれているのであるが、これは、イエスがみ言の実体として来られ(ヨハネ1:14)、命のみ言を既に宣布なさったにもかかわらず、ユダヤ人たちがこれを受け入れないのを御覧になって、嘆きのあまり言われたみ言であった。
原理講論、人類歴史の終末論3.2.2
大審判とは何かというと、この目から体全体がサタンの血を受けたので、それをきれいに浄化させることです。大審判というのは、サタンを葬り去ってしまうことではないということです。サタン世界の歴史を汚したすべての淫乱な、非法的な、非良心的な基準に立ったすべてのものを、良心基準、心と体が一つになり、五官が正しく立ち得る自分自体を中心として全体を解消させることを意味します。
(378-149 ~ 150、2002.5.9)
これから私達若い男女が知らなければならないことは、真理に立脚した新しい世界が必ず訪れてくるということです。ですから、その世界に符合できる内的人格が真理の基台の上に蘇生されなければ、時代の思潮に追い出されていくのです。真理の審判があり、その真理を中心とする人格の審判があり、そして真理と人格が一つになって神様の心情を通過しなければならないのですが、それが心情の審判です。
(14-179 ~ 180、1964.10.3)
2. サタンの束縛
― 宗教経典 ―
私はまた、一人の天使が、底なしの淵の鍵と大きな鎖とを手にして、天から降って来るのを見た。この天使は、悪魔でもサタンでもある、年を経たあの蛇、つまり竜を取り押さえ、千年の間縛っておき、底なしの淵に投げ入れ、鍵をかけ、その上に封印を施して、千年が終わるまで、もうそれ以上、諸国の民を惑わさないようにした。
その後で、竜はしばらくの間、解放されるはずである。私はまた、多くの座を見た。その上には座っている者たちがおり、彼らには裁くことが許されていた。私はまた、イエスの証しと神の言葉のために、首をはねられた者たちの魂を見た。
この者たちは、あの獣もその像も拝まず、額や手に獣の刻印を受けなかった。彼らは生き返って、キリストと共に千年の間統治した。その他の死者は、千年たつまで生き返らなかった。これが第一の復活である。第一の復活にあずかる者は、幸いな者、聖なる者である。この者たちに対して、第二の死は何の力もない。彼らは神とキリストの祭司となって、千年の間キリストと共に統治する。
この千年が終わると、サタンはその牢から解放され、地上の四方にいる諸国の民、ゴグとマゴグを惑わそうとして出て行き、彼らを集めて戦わせようとする。その数は海の砂のように多い。
彼らは地上の広い場所に攻め上って行って、聖なる者たちの陣営と、愛された都とを囲んだ。すると、天から火が下って来て、彼らを焼き尽くした。そして彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄の池に投げ込まれた。そこにはあの獣と偽預言者がいる。そして、この者どもは昼も夜も世々限りなく責めさいなまれる。
私はまた、大きな白い玉座と、そこに座っておられる方とを見た。天も地も、その御前から逃げて行き、行方が分からなくなった。私はまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。
海は、その中にいた死者を外に出した。死と陰府も、その中にいた死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた。死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた。
ヨハネの黙示録20.1 ~ 15(キリスト教)
― み言選集 ―
地上天国を復帰するということは、全人類がサタンとの相対基準を完全に断ちきり、神との相対基準を復帰して、授受作用をすることにより、サタンが全く活動することのできない、そのような世界をつくることをいうのである。
終末に至って、サタンを底なき所に閉じ込めると言われたみ言は、とりもなおさず、サタンの相対者がいなくなることによって、サタンが活動できなくなるということを意味する。
人間がサタンとの相対基準を断ち、更に一歩進んでコリントⅠ 6 章3 節のみ言のごとく、それらを審判するためには、サタンがサタンとなった罪状とその正体とを知り、神の前にサタンを訴えるようにならなければならないのである。
ところが、神は天使と人間とを創造されるとき、彼らに自由を与えられたので、これを復帰するときにも、神は彼らに強制するこことはできない。それゆえに人間は、あくまでも自分の自由意志による責任分担としてみ言を探しだし、サタンを自然屈伏させてこそ、創造本然の人間に復帰することができるのである。
原理講論、堕落論4.2
3. 世の中の変化と神様の中での生命の蘇生
― 宗教経典 ―
大地が別個の大地に変えられ、諸天も変えられる日、人びとは一斉に唯一の方・至力の方、神のみ前にまかり出るであろう。
クルアーン14.48 (イスラーム)
そして、彼ら(世を毒するやから)のもろもろの罪業に懲罰が到来する。そのとき、マズダーよ、御身さまは御身の有たる王国を、ウォフ・マナフを通して、建設されるでしょう。天則の両手に不義をひき渡すものたちにその王国があらわに見えるために。そしてわれらは、この世を勝ち抜かせるものとなりたいのです、マズダーよ、そしてアフラたちよ、そしてアシャよ、わたくし(バラスシュトラ)の方に来到するよう世の人々を駆ることによってです。願わくは常恒なる天眼の存するわたくしのところに人々の心が集まりますように。何となれば、そうすれば、これによって「不義」の領域に破滅が来るからであり、またウォフ・マナフとマズダーと天則との楽園にむけていとも速い馬が車につけられ、よき名声に先着するからです。
アヴェスター・ヤスナ30.8 ~ 10(ゾロアスター教)
主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。このように、すべてのものは滅び去るのですから、あなたがたは聖なる信心深い生活を送らなければなりません。神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去ることでしょう。しかし、私達は、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。
ペトロの手紙二3.10 ~ 13(キリスト教)
周知のとおり、文明とは一時的なものである。文明とは、新時代の黎明と真の真理が出現することによって、結局は消えていくのである。これは、現在私達が生きている刹那的世界の終焉を意味する。神は古い文明を清算し、新しい文明の樹立を願う。正にその清算の時が近づいてきた。今日まで悪の勢力が文明の中で威勢を振るってきたが、古い文明から新しい文明へと転換するにしたがい、これらもすべて消えていくだろう。すべての人々は、この冷酷な浄化の過程を通過しなければならない。
世界は数千年積まれてきた数限りない罪の代価として、途方もない苦しみを経験するだろう。苦しみを経験すれば経験するほど、社会と国家が浄化されていくことを感じるのであり、人類は善が支配する新しい段階へと引き上げられるだろう。
変化は私達に現在、実際に起きており、既に地上楽園が始まる直前の最後の段階を迎えている。大変動によりすべての生の領域、すべての文明も変わっていくだろう。神を信じ悔い改める者こそ、新時代の到来の目撃者となるだろう。そして、彼らは救いの道を出発できるようになるだろう。しかし、重い罪に苦しんでいる者たち、自分たちの邪悪な道を抜け出すことのできない者たちは、極度の悲惨の中で現世の生を終え、来世にいかなる救いも得ることができないであろう。
浄霊(世界救世教)
― み言選集 ―
終わりの日になれば主が来られ、主が来られれば審判すると思っています。その審判は天変地異が起き、太陽と月が光を失い、地がすべて崩れる、そのような審判を思っています。本来、この終わりの日という言葉は、宗教から出てきた言葉です。仏教では終わりの日を末法時代と言い、キリスト教では末世と言っています。いったいこの終わりの日がどうして生じるようになったのかという根本的な問題を、私達は少し考えてみなければなりません。
絶対的な神様が計画されるその世界は、始まりがあり、永遠でなければなりません。一度始まれば永遠に続かなければならないのです。神様が経綸したそのような世界の上に終わりの日が生じたということは、神様がそれを設定してもたらされたものではないのです。人間が堕落することによって、終わりの日というものが生じたことを私達は考えざるを得ません。
終わりの日というのは、一つの時代が過ぎていき、新しい時代が訪れることを意味するのです。終わりの日になったからといって、神様が創造された太陽と月を暗くし、地をすべて壊してしまえば、誰のゆえに壊してしまうことになりますか。サタンのゆえに壊したことになるので、サタンのゆえに失敗した神様になってしまうのです。
サタンによって地が汚され、今まで太陽と月が悪の人を照らしてあげたことだけでも無念なのに、そのみ旨を一度も成し遂げてみることもできずに壊してしまってよいのですか。エデンで審判を受ける基準は一人を中心として、その人がみ言を信じないことによって、不信することによって死亡の世界になったので、これと反対に一人によって絶対的に信じられるみ言を立てなければなりません。信じれば、絶対的に生命線に移されていくのです。
(69-119 ~ 121、1973.10.23)
神が、人間始祖に与えられた三大祝福は、人間始祖の犯罪によって、神を中心としては成就されず、サタンを中心として非原理的に成就されたのだということを、我々は既に述べた。ところが、悪によって始められた人類歴史は、事実上、神の復帰摂理歴史であるがゆえに、サタン主権の罪悪世界はメシヤの降臨を転換点として、神を中心として三大祝福が成就される善主権の世界に変えられるようになるのである。
このように、サタン主権の罪悪世界が、神主権の創造理想世界に転換される時代を終末(末世)という。したがって終末とは、地上地獄が地上天国に変わるときをいうのである。それゆえにこのときは、今までキリスト教信徒たちが信じてきたように、天変地異が起こる恐怖の時代ではなく、創世以後、悠久なる歴史路程を通して、人類が唯一の希望としてこいねがってきた喜びの日が実現されるときなのである。
原理講論、人類歴史の終末論3.1
3) 新しい啓示
末世の時の啓示現象は、霊的復興とともに始まる。20 世紀に初代教会の異言と霊的現象が再び現れながら聖霊降臨主義が出現した。全世界的に新興宗教は、その宗教の創始者に与えられた特別啓示を土台として生まれた。このような霊的復興は、東洋と西洋で多様な形態で現れた。
その上、ユダヤ教とキリスト教の経典には、末世に神様が自分の真理を明らかにすると暗示している。その諸経典は、今日、神様の真理に対する人間の知識が不完全で誤りに陥っていると指摘する。イスラーム、仏教、そしてほかの諸宗教はどうか。真理は無窮無尽である。しかし、教理に対する論争と多様な宗派の教えによって、世界の主要な伝統宗教が苦労することとなった。末世には新しい真理が出てきて、真と偽りをはっきりと分別し、宗教的論争を終息させ、すべての人間を神様の前に導くだろう。
新しい宗教が現れるとき常にそうであったように、伝統の教理に固着した人たちは、新しい真理が最初に現れるとき、それを拒否するようになるだろう。それでも、新しい真理が世界のあらゆる宗教の根本的な教えの特性を理解し、尊重しながら包容することができれば、世界中で大勢の支持者たちが現れるのであり、また一つの宗派として残るようにはならないだろう。
1. 完全な真理の出現
― 宗教経典 ―
「私はこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。
ヨハネによる福音書16.25 (キリスト教)
私達の知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。幼子だったとき、私は幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。私達は、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。私は、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。
コリントの信徒への手紙一13.9 ~ 12(キリスト教)
われは真理によって、なんじに経典を下した。……なんじらはこぞって、神に帰るのである。そのときかれは、なんじらが論争していたことについて、告げたもう。(注8)
クルアーン5.48 (イスラーム)
私達の時代と主が来られる時がどのように異なるのだろうか。真理に対する純度と造詣が異なるのである。
ゾハール、創世記139a (ユダヤ教)
言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方は私に栄光を与える。私のものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、私のものである。だから、私は、『その方が私のものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」
ヨハネによる福音書16.12 ~ 15(キリスト教)
「神は言われる。終わりの時に、私の霊をすべての人に注ぐ。すると、あなた達の息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。私の僕やはしためにも、そのときには、私の霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。」
使徒言行録、2.17 ~ 18(キリスト教)
「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」(創世記1章3節)主なる神がたとえ地上の存在にこのように語られたとしても、ここでの「光」は、世の中を動かすその光を意味する。神が創造された本然の光は、これよりもっと次元の高い、神の目から出てくる光である。聖なるその方は、アダムにこれを見せてあげ、それによりアダムもすべての世を見ることができた。ダビデがこれを見たとき、彼は霊的な恍惚感にはまってこのように叫んだ。「御恵みはいかに豊かなことでしょう。」(詩編31 章20 節)この光を通して神はモーセにギレアデからダンまで続く約束の地を見せた。しかし、太初からこの聖なる光は隠されていた。天はエノク、ノア時代、バベルの塔を築いた当代の人間たちが、これを利己的な目的に使うのではないかと心配したのである。……
ラビ、イサクが言った。「主なる神の創造の課業によりつくられたその光は華麗であるので、この世界をいっぱいに満たした。しかし、結局は痕跡を隠した。なぜそのようになったのか。善の法を破る者たちが、その光を利用できないようにするためである。そして、聖なる主は人の子(メシヤ)が現れるその日まで、この光を現されない。詩編97 章11 節に『神に従う人のためには光を、……』、この光が再び世に輝くとき、人類は更生し、より高等な生を生きるようになり、聖なる生命体と一つになるだろう。しかし、その前までこの聖なる光は暗闇の中に閉ざされている」。
ゾハール、創世記31b 32a (ユダヤ教)
― み言選集 ―
聖書はそれ自体が真理なのではなく、真理を教えるための教科書である。けれどもこの教科書は、その真理の重要な部分が、ほとんど象徴と比喩によって表現されている。したがって、それを解釈する方法においても、人により各々差異があるので、その差異によって多くの教派が派生してくるのである。
ゆえに、教派分裂の第一原因は人間にあるのではなく、聖書自体にあるので、その分裂と闘争は継続して拡大されるほかはない。したがって、新しい真理が出現して、象徴と比喩で表現されている聖書の根本内容を、誰もが公認し得るように解明しない限り、教派分裂とその闘争の道を防ぐことはできないのであり、したがって、キリスト教の統一による復帰摂理の目的を成し遂げることはできないのである。
それゆえに、イエスは「私はこれらのことを比喩で話したが、もはや比喩では話さないで、あからさまに、父のことをあなたがたに話してきかせる時が来るであろう」(ヨハネ16・25)と言われることによって、終末に至れば再び新しい真理のみ言を下さることを約束されたのである。
イエスは「私が地上のことを語っているのに、あなたがたが信じないならば、天上のことを語った場合、どうしてそれを信じるだろうか」(ヨハネ3・12)と話されたみ言のとおり、ユダヤ人たちの不信によって、語ろうとするみ言も語り得ず、十字架に亡くなられたのであった。
そればかりでなく、イエスは弟子たちにまでも、「私には、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない」(ヨハネ16・12)と、心の中にあるみ言を、みな話すことのできない悲しい心情を表明されたのである。
しかしイエスが語り得ず、心の中に抱いたまま亡くなられたそのみ言は、永遠に秘密として残されるのではなく、「真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう」(ヨハネ16・13)と続いて言われたように、そのみ言は必ず聖霊により、新しい真理として教えてくださるようになっているのである。
原理講論、人類歴史の終末論5.1
人間が堕落したがゆえに、「約束のみ言」が「成し遂げられたみ言」として現れることができませんでした。それで、旧約、新約というのです。約束のみ言、これが成し遂げられたみ言として現れなければなりません。今日これが世界人類の重大な問題であるにもかかわらず、人間たちは知らずにいます。これは、天を尋ね求めていく聖徒たちが総団結して解決しなければならない問題、すなわちキリスト教の問題であり、汎宗教の問題なのです。
今日、この世界は分裂と紛争が起きている世界です。なぜこのような現象が起きるのでしょうか。イエス様がこの地に来られたときは、その世界は分裂の世界でした。それでイエス様は、この分裂と紛争を解決するためにみ言を語ってくださったのです。ところが、当時の人間たちが、イエス様のみ言を信じないことによって、この紛争と分裂が完全に解決できませんでした。これから、分裂と紛争で混沌としていくこの世界を収拾し、あらゆる主義と思想を統合できる完成のみ言が出てこなければなりません。
それで、皆さんは真の真理とは何か探し出さなければなりません。今日、この世界の歴史過程を見れば、数多くの民族と数多くの宗教がありましたが、一つの帰一点に向かって、統一の目標に向かって進んでいるのです。
それでは、この統一の目標は、どのようなみ言を通して達成されるのですか。神様の約束のみ言によって統一されるのです。人類歴史は、神様の約束のみ言によって立てておいたその土台を抜け出すことはできません。それで、キリスト教を中心として世界の歴史が展開されてきたのです。これからは一つに統一させなければならない時になりました。それで、すべてのものを統一できる新しいみ言が、あらゆる知恵を備えて現れるでしょう。
(3-326、1958.2.2)
初代教会は異言を語り、神霊役事を行い、預言をし、ありとあらゆることをしました。……それで初代教会で起きた現象が終末のキリスト教の歴史世界に現れ、あちこちで狂った、異端だという言葉を聞く群れがたくさん出てくるのです。霊の召命を受けた人はあえてそのようにすることはできません。彼が理由を知らなければ、天が教えてくださるのです。彼が目を開ければ霊界を見て、彼が行動すれば霊界の人が行動をします。皆さんの目と皆さんの心と皆さんの行動とは、非常に異なります。狂った人のように見えます。昔のイエス様も賢い人に見えましたか。その当時の人たちが見るとき、間抜けであほうのように見えたのです。
これからこのような霊的な現象が襲い、民族を襲い、教団を襲うでしょう。したがって、今日、世界的に、未知の精神系統の患者と神経系統の患者が幾何級数的に増えていっているのです。恐怖の世界、不安でいらだつ世界が近づいています。これは神様の息子であるイエス様が、焦燥感と不安感と興奮した心情をもって一生を過ごし、み旨に対されたからです。それで、世界的な運勢がそのように巻き込まれていくのです。
(6-184 ~ 185、1959.4.26)
イエスに従った弟子たちの中には、旧約聖書に執着していた人物は一人もおらず、もっぱら心に感応してくる神霊に従った人々だけであった。祈りを多くささげる人、あるいは良心的な人たちが、終末において甚だしい精神的な焦燥感を免れることができない理由は、彼らが、漠然たるものであるにせよ、神霊を感得して、心では新しい時代の摂理に従おうとしているにもかかわらず、体をこの方面に導いてくれる新しい真理に接することができないからである。
それゆえに、神霊的にこのような状態に処している信徒たちが、彼らを新しい時代の摂理へと導くことができる新しい真理を聞くようになれば、神霊と真理が、同時に彼らの心霊と知能を開発させて、新しい時代に対する神の摂理的な要求を完全に認識することができるので、彼らは言葉に尽くせない喜びをもってそれに応じることができるのである。
したがって、終末に処している現代人は、何よりもまず謙遜な心をもって行う祈りを通じて、神霊的なものを感得し得るよう努力しなければならないのである。つぎには、因習的な観念にとらわれず、我々は我々の体を神霊に呼応させることによって、新しい時代の摂理へと導いてくれる新しい真理を探し求めなければならない。
原理講論、人類歴史の終末論5.2
2. 新しい真理が以前の真理を代替する
― 宗教経典 ―
日昇らざる中はかの蛍も光を放つ。日昇れば光を集めて輝かず。外道等の輝くはかくの如し。正等覚者世に出でざる中は愚者は浄められず、弟子は輝かず。邪見の徒は苦より離れ得ざるなり。
感興偈73(仏教)
われが一節を他の一節に代えるとき、神は、かれが啓示したもうことを最も良く知りたもう。かれらは、「おまえは一ねつ造者にすぎない」と言うだがかれらの多くは知らないのである。言え「聖霊が真理をもって、なんじの主から啓示をもたらして来たのは、信仰するものを強固にするためであり、またムスリムたちへの導きであり吉報である」。
クルアーン16.101 ~ 102 (イスラーム)
ところで、石に刻まれた文字に基づいて死に仕える務めさえ栄光を帯びて、モーセの顔に輝いていたつかのまの栄光のために、イスラエルの子らが彼の顔を見つめえないほどであったとすれば、霊に仕える務めは、なおさら、栄光を帯びているはずではありませんか。人を罪に定める務めが栄光をまとっていたとすれば、人を義とする務めは、なおさら、栄光に満ちあふれています。
そして、かつて栄光を与えられたものも、この場合、はるかに優れた栄光のために、栄光が失われています。なぜなら、消え去るべきものが栄光を帯びていたのなら、永続するものは、なおさら、栄光に包まれているはずだからです。……このため、今日に至るまでモーセの書が読まれるときは、いつでも彼らの心には覆いが掛かっています。しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。
コリンの信徒への手紙二3.7 ~ 16(キリスト教)
その方の言葉「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち」(マタイによる福音書24.29)は、以前、摂理の聖職者たちに対するものだった。彼らは後続的啓示の時代に生き、宗教を彼らの統制下においていた。
もしこの聖職者たちが、以降の啓示の光によって改化されたなら、彼らは神に受け入れられ、永遠に光を発するだろう。そうでなければ、たとえ見た目には彼らが世人の指導者のように見えても、信仰と不信、指導と失敗、無上の幸福と悲惨、光と闇が、すべて真理の明けの明星であるその方の許諾に依存するがゆえに、彼らは開化されていないものと言われるだろう。……
また他の意味で、「日」、「月」、そして「星々」という用語は、祈りと断食の法規のように、各摂理時代において制定され、宣布されたものと同じ法規と教えと見なされる。コーランの律法によれば、預言者ムハンマドが死んだとき、これらはその方の摂理に最も根本的で拘束力のある律法と見なされてきた。……
ところが、聖職者の頑固さが、「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち」という言葉で表現されており、すべてが象徴的言語となった(以前の)聖なる啓示により確固として設定された律法の廃棄が、神の顕現として予示されてきたことは確実で明確である。……
すべての引き続く啓示において、以前の摂理時代に制定され、当時の人々を暗く覆っていた教え、律法、戒め、禁止事項である「日」と「月」は暗くなった。すなわち、衰えるようになり、それらの影響力をこれ以上発揮しなかった。
確信の書33 ~ 41(バハイ教)
― み言選集 ―
人間がその本心の指向性によって神を求め、善の目的を成就するために必要な一つの手段として生まれてきたのが宗教であるとするならば、あらゆる宗教の目的は、同一のものでなければならない。しかし、それぞれの宗教の使命分野は、民族により、あるいは時代によってそれぞれ異なるものであり、それに伴って、上述のごとき理由から、その教典も各々異なるものとなってしまったので、各種各様の宗教が生まれるようになったのである。
すなわち、教典というものは、真理の光を照らしだすともしびのようなものであり、周囲を照らすというその使命は同一であっても、それ以上に明るいともしびが現れたときには、それを機として、古いともしびの使命は終わるのである。既に論じたように、今日のいかなる宗教も、現世の人々を、死の影の谷間より命の光のもとへと導き返すだけの能力をもっていないということになれば、今や新たな光を発する新しい真理が現れなければならないといえるのである。
原理講論、総序
日と月が光を失い星が空から落ちる(マタイ24・29)創世記37 章9節以下を見れば、ヤコブの12 人の子供たちのうち、11 番目の息子であるヨセフが夢を見たとあり、その内容について「ヨセフはまた一つの夢を見て、それを兄弟たちに語って言った、『私はまた夢を見ました。日と月と11 の星とが私を拝みました』。彼はこれを父と兄弟たちに語ったので、父は彼をとがめて言った、『あなたが見たその夢はどういうのか。ほんとうに私とあなたの母と、兄弟たちとが行って地に伏し、あなたを拝むのか』」と記録されている。
ところがヨセフが成長して、エジプトの総理大臣になったとき、まさしくこの夢のとおり、その父母と兄弟たちが彼を拝んだのである。この聖書のみ言を見れば、日と月は父母を象徴したのであり、星は子女たちを象徴したものだということを知る
ことができる。
キリスト論で述べるように、イエスと聖霊はアダムとエバの代わりに、人類を重生させてくださる真の父母として来られたのである。それゆえに、日と月はイエスと聖霊を象徴しているのであり、星は子女に該当するキリスト教徒たちを象徴しているのである。
聖書の中で、イエスを真の光に例えたのは(ヨハネ1・9)その肉体がみ言によってつくられたお方として来られ(ヨハネ1・14)、真理の光を発したからであった。ゆえにここでいっている日の光とは、イエスの言われたみ言の光をいうのであり、月の光とは、真理のみ霊として来られた聖霊(ヨハネ16・13)の光をいうのである。したがって、日と月が光を失うというのは、イエスと聖霊による新約のみ言が、光を失うようになるということを意味するのである。
では何故、新約のみ言が、光を失うようになるのであろうか。それはちょうど、イエスと聖霊が来られて、旧約のみ言を成就するための新約のみ言を下さることにより、旧約のみ言が光を失うようになったと同様に、イエスが再臨されて、新約のみ言を成就し、新しい天と新しい地とをたてられるので(黙21・1)そのときの新しいみ言によって(本章第5 節(1)参照)初臨のときに下さった新約のみ言はその光を失うようになるのである。ここにおいて、み言がその光を失うというのは、新しい時代がくることによって、そのみ言の使命期間が過ぎさるということを意味する。
また、星が落ちるというのは、終末において、多くのキリスト教徒たちがつまずき落ちるようになる、ということを意味するのである。メシヤの降臨を熱望してきたユダヤ教の指導者たちが、メシヤとして来られたイエスを知らず、彼に反対して落ちてしまったように、イエスの再臨を熱望しているキリスト教徒たちも、十分注意しないと、その日にはつまずき落ちてしまうであろうということを預言されたのである(後編第六章第二節参照)。
ルカ福音書18 章8節に、「しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」と言われたみ言、あるいは、マタイ福音書7章23 節に、イエスが再臨されるとき、信仰の篤い信徒たちに向かって「不法を働く者ども」と責められ、さらに、「行ってしまえ」と、排斥されるようなことを言われたのも、とりもなおさず、終末において、信徒たちがつまずき落ちるということを予知され、そのように警告されたのである。
原理講論、人類歴史の終末論3.2.5
4) 主の日に対する認識
私達は、どのように末世が切迫していることを認識できるのだろうか。歴史上、何度も千年王国運動が起き、メシヤの降臨を宣布したが、予定されたどの徴候も現れず、追従者たちを失望させるケースをよく経験した。私達は、その徴候の性格に関心を集中する。すなわち、メシヤが雲に乗ってくる超自然的大変化が起きるのか、あるいは季節の変化のように、数ヵ月、数年をおいて起きる自然的な過程なのか。
一部の経典の章句では、神様の計画は誰にも分からないと言いながら、そのような見解自体を遮断する。彼らは、「偽キリスト」が愚かな人たちを誤って導くことがあるため、私達に性急な扇動に簡単についていかないよう注意を促す。ある章句は、準備された人たちは、再臨主を迎えることができると教示しながら、信仰と忍耐を要求する。
またほかの経典の章句は、メシヤの降臨を計算できる根拠を提示し、それを拡大解釈したりもしている。その中で私達は、第7日の千年王国、すなわち安息の千年王国建設の根拠として、キリスト教とユダヤ教の経典の章句を引用した。これは文鮮明先生の「成約時代」、すなわちアダム以降6000 年の聖書歴史が終わる時点から始まる千年王国建設時代と一致する。
最後に福音がすべての国に伝播されるまで末世は来ないという聖書の教えに基づき、メシヤ降臨の前兆となる20 世紀の世界歴史の変化に関する文鮮明先生の教えを見てみることにする。
1. 臆測は多いが終わりの日が分からない
― 宗教経典 ―
イエスはお答えになった。「人に惑わされないように気をつけなさい。私の名を名乗る者が大勢現れ、『私がメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。……「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。」
マタイによる福音書24.4 ~ 6、36(キリスト教)
かれらは最後の審判の時について、いつそれが来るのかと、なんじに問うであろう。言え「それを知る方は、ただ私の主のみであられる、その時を出現し得るものはかれのほかにない。それこそは、天と地を通じての重大事である。全く突然なんじらに来るであろう」。かれらはなんじらがそれについて熟知しているかのよう、なんじに問う。言え「それを知る方は、ただ神のみであられる。だが人びとの多くはわからない」。
クルアーン7.187 (イスラーム)
盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。人々が「無事だ。安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません。しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。私達は、夜にも暗闇にも属していません。従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。
テサロニケの信徒への手紙一5.2 ~ 6(キリスト教)
― み言選集 ―
終わりに日には、誰の言葉も聞いてはいけないと言いました。ここに来て語る人の言葉も信じるなということです。いくら血と汗を流して話をしても聞くなというのです。どちらが偽りで、どちらが真なのか分かりません。自分の父母も信じることができず、兄弟も信じることができないのに、誰を信じるというのですか。
今の時は、心の審判から自ら勝利しなければなりません。心の審判、心で審判して、間違っていれば切ってしまわなければなりません。心は知っています。あらゆる面において心の審判をしなければならないのです。それができなければ、終わりの日には、頭に油を塗って密室に入り、祈祷して談判しなければなりません。教派も多く、優れているという人も多いのですが、終わりの日に神様は何を準備されたのですか。主が臨むことのできる環境基盤はどれですか。どのようなものが主の理念世界を建設できる民ですか。祈祷してみましたか。死ぬ穴なのかそうでないのか分からず、むやみに口を開いてもがきながら騒いでいるというのです。
(9-265、1960.6.5)
イエスは、一方では、「もし目をさましていないなら、私は盗人のように来るであろう」(黙3・3)と言われながら、その反面においては、テサロニケⅠ5章4節にあるごとく、光の中にいる人には、盗人のように不意に襲うことはないであろうとも言われているのである。イエスの初臨の際に起こったことを見ても、イエスは、暗闇の中にいた祭司長たちや律法学者たちに対しては、事実、盗人のように来られたが、光の中にいた洗礼ヨハネの家庭には、イエスの誕生に関することが前もって知らされたし、また、彼が誕生したときには、東方の博士たち(マタイ2・1、2)、シメオン、アンナ、羊飼いたちにはその事実を知らせてくださったのである。
復帰摂理路程に現れた例から見ても、神はノアの審判のときや、ソドムとゴモラを滅ぼされるとき、あるいは、メシヤの降臨のときにおいても、常にその事実を預言者たちにあらかじめ知らせてから摂理されたのであった。したがって、神は、イエスの再臨に関しても、終末のときには神の霊をすべての人に注ぐと約束されたように(使徒2・17)、光の中にいるすべての信徒たちを通じて、耳と目とをもっている人たちには、必ず見ることができ、聞くことができるように、啓示してくださることは明らかである。
原理講論、再臨論
2. 準備しなければその時を知ることはできない
― 宗教経典 ―
マリヤの息子があなた達の中に降臨するとき、またイマームがあなた達の中にいるようになるとき、あなた達の状態はどのようになるか。マリヤの息子が降臨し、あなた達を導くとき、あなた達は何をするのか。
ムスリム・ハディース(イスラーム)
人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。
ルカによる福音書18.8 (キリスト教)
そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壷に油を入れて持っていた。ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。真夜中に「花婿だ。迎えに出なさい」と叫ぶ声がした。そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。
愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。「油を分けてください。私達のともし火は消えそうです。」賢いおとめたちは答えた。「分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。」愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。
その後で、ほかのおとめたちも来て、「御主人様、御主人様、開けてください」と言った。しかし主人は、「はっきり言っておく。私はお前たちを知らない」と答えた。だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。
マタイによる福音書25.1 ~ 13(キリスト教)
ラビ・ヨシュア・ベン・レビが、ラビ・シミオン・ベン・ヨハイの洞窟の入り口でエリヤと出会った。彼はエリヤに尋ねた。「救い主はいつ来られますか」。
エリヤが答えた。「出ていって彼に尋ねてみなさい」、「その方はどこにいらっしゃいますか」、「ローマの城門の前にいらっしゃる」、「それでは、どのようにその方を見分けることができますか」、「傷ついて苦しむ人たちの間に座っていらっしゃる方だ。他の人たちは包帯を解いて一度にまた巻く。しかしその方は一つずつ分けて巻かれる。『召喚されたり、獄に閉じ込められてはいけない』と思われるため、そのようにされる」。
ラビ・ヨシュアがその方を訪ねたあとに言った。「あなたに平和が共にあらんことを、私の主人であり師よ」。救い主が答えられた。あなたにも平和が共にあるように、レビの息子よ」。ラビ・ヨシュアが尋ねた。「主はいつ来られますか」。彼が答えられた、「きょう来られる」。
そして、ラビ・ヨシュアがエリヤのところに戻ってきた。エリヤが彼に尋ねた。「その方は何と言われたか」「あなたと平和が共にあるように、レビの息子よ」。エリヤが言った。「その方は、あなたとあなたの父にこれから訪れる世を確認させてくださった」。ラビが言った。「ところが、私に間違ったことをおっしゃいました。きょう来られると言われたのですが、結局来られませんでした」。するとエリヤが言った。「その方は詩編の『今日こそ、主の声に聞き従わなければならない(詩編97 章7 節)を意味されたのである」。(注12)
タルムード、サンヘドリン98a (ユダヤ教)
「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」
ルカによる福音書21.34 ~ 36(キリスト教)
― み言選集 ―
すべてのものを捨てなければならない時が来るのですが、その時が終わりの日です。そのような終わりの日に神様のみ旨はどのように現れ、神様の真理と愛と生命がどのような所に現れるのでしょうか。そこは、すべての人間の希望であり、求めていかなければならない中心なのです。したがって、皆さんがそこを知らなければ、心を立てて磨きながら準備しなければなりません。そのように準備していれば、そこに行こうとしなくても、いつか自然にそこに行くことができるようになるのです。
それでは、どちらが真で、どちらが偽りかは、何をもって分別できるのでしょうか。この時には、神様も真と偽りを教えてあげることはできません。神様がどのようなものが真だと教えてあげたあとには、その反対に偽りだと教えてあげなければなりません。(注13)ですから、人間自身が分別しなければならず、人間自身が決定しなければならず、人間自身が探し立てなければなりません。したがって、皆さんは、10 人の乙女の例えの中で、あかりを準備した思慮深い5人の乙女だけが主を迎えた、という聖書のみ言の意味を学ばなければなりません。
(2-136、1957.3.17)
主が来るのですが、どのように来るのですか。昔、ユダヤ教を通してイエス様が来ましたが、失敗しました。それで、今回はキリスト教、すなわち第2イスラエルを通して来られるようになります。第1イスラエルが失敗したので、第2イスラエルを通して来られるのです。それでは、主が来られるときにどのように来られるのでしょうか。聖書に主は雲に乗ってやって来ると教えているので、キリスト教徒たちはそのように信じています。
主が人としてやって来るという話は、今まで聞いたことがありません。しかし、時が来るに従って、神霊的な人たちが彼を証するのです。誰が証するのですか。男性よりも女性が証します。昔の宗教歴史は、おばあさんから始まりました。70 歳以上の老人たちを中心として。もちろん60 歳以上のおばあさんも神霊体験をするにはしましたが、年を取ったおばあさんを通して主が人として来ることを教え始め、終わりの日に準備するようにしたのです。
(208-306、1990.11,21)
3. 第7の千年王国安息
― 宗教経典 ―
第一の復活にあずかる者は、幸いな者、聖なる者である。この者たちに対して、第二の死は何の力もない。彼らは神とキリストの祭司となって、千年の間キリストと共に統治する。
ヨハネの黙示録20.6 (キリスト教)
カナンの地に7年ごとに1年、解放の年があるように、この世界にも7000年目に訪れてくる解放の1000 年がある。イザヤ書2章17 節に、「主はただひとり、高く上げられる」、また、詩編92 章1節には、「賛歌。歌。安息日に」、ここでは長い安息の期間を意味し、また、詩編90 章4節では、「千年といえども御目には、昨日が今日に移る夜の一時にすぎません」と記録されている。
タンナ・デベ・エリヤフは教える。世の中は6000 年続く。このうち2000 年は無秩序の期間であり、他の2000 年は法で統治する時代であり、残りの2000年は主が来られる時だ。しかし、私達の不正のために、メシヤが来られる徴表もなく最後の2000 年の相当な時間が既に過ぎてしまった。
タルムード、サンヘドリン97a(ユダヤ教)
6000 年の600 年が過ぎれば、上には知恵の門と下には知恵の噴水が開かれるだろう。そして、ちょうど一週間の6日目の日の日が沈み始めるとき、私達が安息日を準備するように、世の中は7000 年の世界に入っていく準備をするのである。聖なるその方は、メシヤが降臨してこの世に現れることを大きく願われない。しかし、メシヤの時が近づいてくれば、幼い子供でさえ知恵の秘密を知るようになり、そして新千年の時を数えるようになる。その時には、あらゆる秘密が万民に現れるだろう。……
「主が御自分の業を喜び祝われるように」(詩編104 章31 節)。天は霊たちが地上に下りてきて、新しい存在として生まれるようにされるだろう。そして、彼らが世の中に属するようにしようとされる。安息日に入る6000 年の終わりに生き残った者たちはどれほど幸福か。この日は、聖なる主、神が霊たちを連合し、地上に残った者たちに合流する霊たちを選択することに決めた日である。「シオンの残りの者、エルサレムの残された者は、聖なる者と呼ばれる」(イザヤ書4 章3 節)。
ゾハール1.117a 19a(ユダヤ教)
お前の民と聖なる都に対して、七十週が定められている。それが過ぎると逆らいは終わり、罪は封じられ、不義は償われる。とこしえの正義が到来し、幻と預言は封じられ、最も聖なる者に油が注がれる。これを知り、目覚めよ。エルサレム復興と再建についての、御言葉が出されてから、油注がれた君の到来まで七週あり、また、六十二週あって危機のうちに広場と堀は再建される。
その六十二週のあと油注がれた者は、不当に断たれ、都と聖所は次に来る指導者の民によって荒らされる。その終わりには洪水があり、終わりまで戦いが続き荒廃は避けられない。彼は一週の間、多くの者と同盟を固め、半週でいけにえと献げ物を廃止する。憎むべきものの翼の上に荒廃をもたらすものが座す。そしてついに、定められた破滅が荒廃の上に注がれる。」
ダニエル書9.24 ~ 27(キリスト教)
聖書の表現から知られるように、諸時代を日々として数え、それに従って時代区分をあげるならば、私達の安息は明らかに第7日に求められるであろう。第1の時代がいわば第1日で、これはアダムから洪水に至るまでである。第2の時代はそれからアブラハムまでである。その経過した年数は同じではないが、それぞれ10 世代という世代の数は同じである。そのあと、福音書記者マタイが区切っているように、キリスト降誕に至るまで三つの時代がある。それぞれが14 世代であると数えられる。
まず第1はアブラハムからダビデまで、第2はダビデからバビロン捕囚まで、第3はそれからキリストの肉における誕生までである。以上で五つの時代となる。私達の生きているのは第6の時代であるが、この長さを数でもって測ることはできない。というのも、「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない」(使徒言行録1 章7 節)と言われているからである。そのあとのいわば第7日に神は休むであろう。そして私達がそうである同じ第7日を、私達は神自身のうちにあって休みとなすであろう。
アウグスティヌス神の国22.30 (キリスト教)
― み言選集 ―
神様は僕を立てて、「私がお前の父だ」と教えてくださいました。僕に命じて、天使に命じて教えてくださいました。そのような時代が旧約時代です。次には、息子に命じて役事しました。その時代が新約時代です。その次には、聖霊に命じて役事してこられたのです。
(10-198、1960.10.2)
アダムからアブラハムまでの2000 年期間は、人間がまだ復帰摂理のための神のみ言を直接受け得るような蕩減条件を立てることができない時代であった。それゆえに、この時代は堕落人間が供え物による蕩減条件を立てることによってのみ、次の時代に、み言による摂理をなすことができる基台を造成し得る時代であったので、この時代を「み言の基台摂理時代」という。
また、アブラハムからイエスまでの2000 年期間は、旧約のみ言によって、人間の心霊と知能の程度が蘇生級まで成長する時代であったので、この時代を「蘇生旧約時代」という。そして、イエスから再臨期までの2000 年期間は、新約のみ言によって、人間の心霊と知能の程度が長成級まで成長する時代であったので、この時代を「長成新約時代」という。……
イエスからその再臨期までの2000 年期間は、イエスが十字架で亡くなられることによって、サタンに奪われるようになった旧約時代の、2000 年期間を、キリスト教信徒たちを中心として、天のものとして再蕩減復帰する時代であったので、この時代を「蕩減復帰摂理延長時代」という。イエスの再臨以後の復帰摂理完成時代は、サタンに奪われた復帰摂理の全路程を、天のものとして完全に蕩減復帰する時代であるので、この時代を「蕩減復帰摂理完成時代」という。
原理講論、後編緒論2.2.1
パウロも、コリント人への第一の手紙第13 章で、「信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である」と言いました。ところが、私達人間は堕落によって希望を失ってしまい、信仰を失ってしまいました。希望と信仰を失ってしまうことによって、神様を中心とする愛を失ってしまったのです。これを復帰するためのものが今までの6000 年復帰摂理歴史であることを、私達は知らなければなりません。
それでは、今まで6000 年歴史は、何をするための歴史だったのでしょうか。人間が堕落することによって失ってしまった希望と信仰と愛を回復するための歴史でした。今まで神様は、それを回復するために苦労してこられたのです。ところが、今日は希望と信仰の時期を経て愛の時代にいなければならない時なのに、まだ信仰の時にとどまっているというのです。
それでは、希望は何を象徴したのでしょうか。神様の新しいみ言を象徴しました。また、信仰は何を象徴したのでしょうか。それは神様の真の息子、娘になることを象徴しました。真の息子、娘を探し立てるために、信仰を象徴としてきたのです。そして、これからは神様の愛を中心として、私という個体が完成したのちに家庭を求めて入っていってこそ、そこに初めて神様の愛が成立することを皆さんは知らなければなりません。
(5-108、1959.1.4)
4. 時代的徴候
― 宗教経典 ―
御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。
マタイによる福音書24.14 (キリスト教)
「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。
マタイによる福音書24.32 (キリスト教)
見よ、私の民、イスラエルとユダの繁栄を回復する日が来る、と主は言われる。主は言われる。私は、彼らを先祖に与えた国土に連れ戻し、これを所有させる。
エレミヤ書30.3 (キリスト教)
まことにイエスは、審判の時のしるしの一つである、それゆえにその時について疑ってはならぬ、そしてわしに従え。これが、直き道である。
クルアーン43.61 (イスラーム)
― み言選集 ―
摂理的な恵沢によって、生きていらっしゃる神様が私達の至近にいらっしゃいます。これからは、人類がかつて経験してみることのできなかった霊的な経験、すなわち超越の世界とたくさん交流するようになるでしょう。頻繁に起きる霊的役事によって、人類は直接、間接に大きな影響を受けるようになるのです。特に、神様と善霊の役事によって感化を経験した人間は、神様を中心として霊性の啓発とともに、決定的な人格変化を起こすようになるでしょう。このように、天道にふさわしい人格に変わった者が、すなわち神様が願われた真の人です。
(神様の祖国と平和UN、2003.2.6)
真の父母が来られる時になれば、世界のすべての国家が兄弟の因縁をもつので、第2次世界大戦後に、戦勝国家が敗戦国家をすべて解放させるということが起こったのです。これは、兄の立場から弟をたたいて捕まえたので……。そのような非正常的な歴史的現象が起こってきたのです。歴史が願いつつ訪ねきたこととは何かというと、真の父母に出会うことでした。宗教が出てきたのも真の父母に出会うためです。世界が出てきたのも真の父母を探すため、国が出てきたのも真の父母を探すためです。真の父母の道を備えるために出てきたのです。
(51-354、1971.12.5)
文化圏の発展においても、一つの宗教を中心として一つの世界的な文化圏を形成しているのであり、国家形態においても、一つの世界的な主権機構を指向して、国際連盟から国際連合へと、そして今日に至っては、世界政府を模索するというところにまでこぎつけてきているのである。
そればかりでなく、経済的発展を見ても、世界は一つの共同市場をつくっていくという趨勢におかれており、また、極度に発達した交通機関と通信機関は、時間と空間を短縮させて、人間が地球を一つの庭園のように歩き、また、行き来できるようにさせているのであり、東西の異民族同士が、一つの家庭のように接触することができるようになってきたのである。人類は四海同胞の兄弟愛を叫んでいる。しかし、家庭は父母がいて初めて成り立つのであり、また、そこにおいてのみ、真の兄弟愛は生まれてくるのである。
したがって、今や人類の親であるイエスだけが再臨すれば、全人類は一つの庭園において、一つの大家族をつくり、一家だんらんして生活し得るようになっているのである。
このような事実を見ても、現代は終末であるに相違ないのである。こうして流れてきた歴史が人類に与えるべき一つの最後の賜物がある。それは、何らの目的なくして一つの庭園に集まり、ざわめいている旅人たちを、同じ父母を中心とする一つの家族として結びあわせることができる天宙的な理念であるといわなければならない。
原理講論、人類歴史の終末論4.3
5) メシヤ
多くの宗教の経典は、地上に神様のみ旨を完成する指導者が顕現するという事実に言及している。彼は、神様の正義と愛をもって罪悪を退け、地上天国を建設していく人である。ヘブライ語でメシヤ、(ギリシャ語ではキリスト)は「油を注がれた者」、すなわち神様の使命を受け、それを具現する能力を賦与された特別に選択された人である。
メシヤという用語は、ユダヤ教とキリスト教に限定された概念だが、一人の指導者が現れ、天の使命を完遂するという預言は、あらゆる経典でほぼ一般的に言及される。仏教信者たちは弥勒仏の顕現を期待し、ヒンドゥー教の預言は未来のカルキの降臨について語っている。ムスリムはムスリムたちのイマーム、イエスの再臨を期待し、シーア派のムスリムたちは未来のイマーム、マフディを待つ。ゾロアスター教の経典はサオシュヤントの降臨を預言し、儒教の経典はこの世に孔子の道を完璧に具現し、平和を実現する真人の出現を示唆する。この世界が狭くなり、相互の文化的交流が増大しながら、人類救援の課業はすべての宗教に委任された。したがって、神様は一人の方を地上に送り、すべての宗教的希望を現実化するだろう。
次の段落の章句は、この問題に関する文鮮明先生の広範囲な教えにより、救世主の降臨に関する特別な預言を提示する。メシヤは雲に乗って超自然的に顕現するのか、あるいは地上で生まれ、一人の人間の成長過程を経る自然的方式で顕現するのか、メシヤは栄光の中に現れるのか、あるいはイエスがそうだったように苦難と屈辱の道を歩むのか、メシヤは神様なのか、あるいは神様に似た新しい人間の「最初の実」なのか、そして、どうしてメシヤはアダムに比喩され、どのような意味で彼は新しいアダムなのか、小羊の婚宴の意味は何か、そしてメシヤはイスラエルに対して特別な使命をもっているのか。
最後の段落の章句は、メシヤがアジアから、より具体的に韓国から出現するというノストラダムスとアジア神秘主義者の預言によって構成されている。特に、韓国の預言は、文鮮明先生のメシヤ使命の自覚と直接関連している。
1. すべての宗教が約束した メシヤ、救世主
― 宗教経典 ―
私はダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め、栄え、この国に正義と恵みの業を行う。彼の代にユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。彼の名は、「主は我らの救い」と呼ばれる。
エレミヤ書23.5 ~ 6(キリスト教)
「然り、私はすぐに来る。」アーメン、主イエスよ、来てください。
ヨハネの黙示録22.20 (キリスト教)
まさにそのとき、仏が世に出現するであろう。弥勒という名であり、如来、至真、等正覚などの十号をのこらずそなえていて、現在の如来が十号をのこらずもっているのとかわらない。彼はかみがみや帝釈、梵天、魔あるいは魔天、沙門、婆羅門、神々や世間の人々のいるところで、みずから悟りをひらくのとかわるところがない。彼は当然法を説くであろう。言葉のはじまりは善く、中はどもおしまいも善く、内容と表現が充実しており、私が今日法を説いてはじめ、中ほど、おわりの言葉がすべて正しく、内容と表現が充実していて、梵行が清浄なのと同じである。彼の弟子たちは無数千万もいるであろうが、私に現在、弟子が数百人いるのと同じである。(注15)
阿含経長部iii.76 (仏教)
マリヤの息子があなた達の中に降臨するとき、またイマームがあなた達の中にいるようになるとき、あなた達の状態はどのようになるか。マリヤの息子が降臨し、あなた達を導くとき、あなた達は何をするのか。(注16)
ムスリム・ハディース(イスラーム)
世界国家を成し遂げる者が来て、彼らの反社会的犯罪を剔抉し、民を支配するようになるだろう。彼は人類のための救援者を送る。彼は地上の隠された富をあらわにし、欠乏した者に公平に分配してくれる。彼はあなた達に質素な生活と高邁な思考を教えてくれる。彼はあなた達に、徳目というものは両極の間に中庸を取り、公平と正義に基づく性格の状態であることを理解させてくれる。彼は、世の中の人々が死んだ内容だと軽視していた聖コーランと聖預言者の伝承を再び復活させる。……
彼は、学問的土台と優れた知識で自らを保護し防御する。このような(知識の)資源に対する彼の統制も完全なため、彼はそれらがどれほど高貴で、どれほど注意深く使われなければならないかということを知らせる。彼の心は、人類に害悪と損傷を及ぼそうとする欲望をもたない。彼のそのような知識は、他の人々に間違って所有された財産を、再所有して使うための許諾を長い間待っているのと同じだ。
最初に彼は、見ず知らずの見捨てられた貧しい放浪客に映り、そしてそのときイスラームは希望がなく、頭を下げてしっぽを振る気力の尽きたラクダの無力な状態にあるかもしれない。そのように出発し、彼はこの世に神の帝国を建設する。彼は、人類を正しい人生の道に精通するようにしようとする、神の慈悲深い御意志に対する最後の証であり実現なのである。
ナフジュ・アル・バラーガ説教141、187(シーア派イスラーム)
ヴェーダによって教えられた実践と法の原則がとだえ、そしてカリの時代の終わりが近くに迫った時、ブラフマの性質の中にその霊的性質を持つその神聖な存在の一部が、始まりであり終わりでもある方が、そして全存在を理解する方が、地上に降り立つであろう。
彼はシャンバラ村の有名なバラモンの家庭にカルキとして、八つの超人間的な機能を授けられて生まれるであろう。彼はその圧倒的な力によって野蛮人と盗賊と悪に魂を売り渡した者達を壊滅させるであろう。その後彼らは地上に再び正義を立てるであろう。
そしてカリの時代の最後に生きた者達の心は覚醒され、水晶の様に澄み渡るであろう。この特別な時のおかげで変わった人々は人類の種となり、清浄の時代であるクリタ時代の法に従う人種を生み出すであろう。これについては次の様に言われている。「日と月、そして月の星群ティーシャと木星とが一つの家に住むとき、クリタ時代が帰ってくるであろう。」
ヴィシュヌ・ブラーナ4.24(ヒンドゥー教)
彼は勝利した恩人、世界の改造者と名づけられるだろう。彼は、物質世界全体に恩恵を施すがゆえに恩人であり、体をもつ生命体を不滅のものにするがゆえに、世界の改造者と言うだろう。彼は二本足の獣(人間)の子孫たちがほしいままに行う悪に対抗し、信じる者たちがもつ敵意にもよく耐えることだろう。
アヴェスター・ヤシュト13.129 (ゾロアスター教)
ただ天下の至誠のみが、聡明英知で、(天下を)治めることができ、寛容温和で(民衆を)十分に包容することができ、剛勇剛毅で、(物事を)十分に決断することができ、厳粛中正で、十分に慎み深く、礼義条理を細かく明らめていて、十分に(理義を)。弁別することができるのである。あまねく広く、静かで深く本源があり、時あって外に発現してくる。あまねく広いことは(全てを照らす)天に似ており、思慮の深い淵のようである。現れれば、民で敬しない者なく、言えば民で信しない者なく、行なえば、民で喜ばない者はない。
こういうわけで、名声は中国に満ちあふれ、やがて蛮夷にまで及ぶ。船や車の行く所、人力の通ずる所、天の覆う所、地の載せる所、日・月の照らす所、霜・露の降りる所に至るまで、すべて生きてある者で、尊び親しまない者はない。だから天に並ぶというのである。ただ天下の至誠のみが、天下の五つの人倫を、より分けてさらにこれを合わせ(天下・後世の法とし)天下の大本である性の完全な本体を立て、天地の化育を知ることができるのである。
(誠以外の)物に依存して始めてできるのではない。きわめて懇ろで仁そのものであり、静かに深く淵そのままであり、広大なこと天そのままである。もし、真に聡明聖知で、天徳に通達している聖人でないならば、いったい誰が(聖人の徳を)知ることができようか。
中庸31 ~ 32(儒教)
― み言選集 ―
今日のユダヤ教徒たちの志とキリスト教徒たちの志は何でしょうか。ユダヤ教が願うのもメシヤであり、キリスト教が願うのもメシヤです。同じように救世主を願います。皆さんがここで考えてみなければならないことは、ユダヤ教徒が願うメシヤとキリスト教徒が願うメシヤは違うのか、二人なのかということです。そうではありません。一人です。なぜですか。神様のみ旨は一つであり、サタンを屈服させて神様のみ旨を成し遂げることは一人がしなければならないので、一人のメシヤであることは間違いないのです。
(73-206、1974.9.18)
今日、キリスト教では主が再臨するといいます。仏教では弥勒仏がこの地に来て、儒教では真人がこの地に現れるといいます。各宗教が主の再現を語っています。これは聖書のみ言をそのとおりに再現するという話ではありません。その方は、聖書のみ言を再現する主人公、何かの道のみ言を再び行う主人公ではありません。高次的な内容の新しいみ言をもって再現する主人公を意味します。
(7-198、1959.9.6)
神様の立場から見れば世界は一つです。世界は一つだというのです。このようなことを見てみるとき、ここに一人を立てたなら、その一人を代表として立てたので、それは世界的です。ここに東洋人も立つことができ、ここに西洋人も立つことができ、アフリカ人も立つことができ、どのような人でも立つことができるのです。これが高まるほど、世界的な代表です。世界的な一つの宗教の代表として糾合していくのです。それで、一人の宗教責任者を立て……。
その宗教は世界的な宗教として発展してくるのです。今、世界的に4大宗教が出てきていますが、これをすべて糾合するために、ここからこの直線でこのように……すべて直線で上がってくるのです。ここからここまで通じることができる一つの道を築き、この地上に来てこの世界を救うための一つの中心的存在がなければならないという結論が出てきます。それが総合的な預言者です。
そのような存在がメシヤです。……それで「メシヤという存在は、必ず宗教と切り離すことができない思想をもってくる」という結論が出てきます。それは、なぜそうなのでしょうか。彼は、神様のみ旨、人間の志を完成しようとするのですが、アダムとエバがこれを失敗し、神様もアダムとエバを主管できなくなったために、アダムが完成できる内容と神様が完成した内容をもっているのです。ですから、神様のみ旨を中心として地の完成のために来るという結論が出てきます。
(91-276、1977.2.27)
2. メシヤの使命 : 罪悪の清算と神様の王国創建
― 宗教経典 ―
私は天が開かれているのを見た。すると、見よ、白い馬が現れた。それに乗っている方は、「誠実」および「真実」と呼ばれて、正義をもって裁き、また戦われる。その目は燃え盛る炎のようで、頭には多くの王冠があった。この方には、自分のほかはだれも知らない名が記されていた。
また、血に染まった衣を身にまとっており、その名は「神の言葉」と呼ばれた。そして、天の軍勢が白い馬に乗り、白く請い麻の布をまとってこの方に従っていた。この方の口からは、鋭い剣が出ている。諸国の民をそれで打ち倒すのである。また、自ら鉄の杖で彼らを治める。この方はぶどう酒の搾り桶を踏むが、これには全能者である神の激しい怒りが込められている。この方の衣と腿のあたりには、「王の王、主の主」という名が記されていた。
ヨハネの黙示録19.11 ~ 16(キリスト教)
ひとりのみどりごが私達のために生まれた。ひとりの男の子が私達に与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって、今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。
イザヤ書9.5 ~ 6(キリスト教)
世界国家を成し遂げる者が来て、彼らの反社会的犯罪を剔抉し、民を支配するようになるだろう。彼は人類のための救援者を送る。彼は地上の隠された富をあらわにし、欠乏した者に公平に分配してくれる。彼はあなた達に質素な生活と高邁な思考を教えてくれる。
ナフジュ・アル・バラーガ説教141、187(シーア派イスラーム)
そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。
マタイ福音書24.30 ~ 31(キリスト教)
― み言選集 ―
救世主が来る! 主人が来る! その主人は、来て何をするのですか。……救世主が願う世界は、このような世界です。その世界こそ、神様が願い、神様が喜び得る世界です。そして、神様が喜ぶと同時に神様と共に始まった私達の良心が喜ぶ世界です。そして、ここにはあらゆる人種差別、国境問題、歴史的背景など、伝統思想が問題になりません。それこそ、共通的であり、神観において一致でき、一致したその内容は天と共に共鳴できる相対基準です。そのような場に臨み、この世界に向かってお出ましになる一日が来るのです。その一日が成し遂げられた日が、救世主がこの地に来る日です。キリスト教で言えば、再臨主が来る日です。
(160-345、1969.6.15)
メシヤが来た目的とは何でしょうか。それは、神様のみ旨を成し遂げることと同様の目的です。メシヤが来れば、サタンの主権を破壊できるのです。サタン世界の人を取り戻してこなければなりません。それで、故障していない姿にすべて修繕して移しておくために来られるのです。皆さんが聖書を見れば、接ぎ木するという比喩も、そのような意味になるのです。結局、メシヤは、神様がこの宇宙を主管できる主権者にするために送ったのです。
(73-206、1974.9.18)
今日のキリスト教の信者たちが、「ああ、イエスは雲に乗ってこなければならない!」と言うのは、すべて荒唐無稽な論理です。「神様の能力でできる!」と言うのですが、その能力でできるのであれば、イエスを送る必要もなく、信じるようにする必要もなく、神様がすべて対処していたのです。……
今までの文化世界の歴史を6000 年と見ているのですが、この6000 年間神様が摂理され、あれほどの全知全能な神様が救援摂理を今までされても、完成したアダムの代身者としてのメシヤをこの地上にいまだに送れていないことを知らなければなりません。ですから、今日の人類世界の中で、真の神様のみ旨の完成と人類の理想的完成を成した、男性として過去、現在、未来の全歴史を代表できる標準型の人物と、いまだに出会えていないのです。そのような一人の男性を準備して、人類の前に再びメシヤとして送ると約束したのが再臨思想だというのです。
全世界のキリスト教徒たちが願うのがメシヤですが、メシヤをどのように迎えるのかということが大きな問題です。一般のキリスト教徒たちは、メシヤが来ればすべて解決すると思っているのですが、違うというのです。メシヤが来て田を耕し、種を再び蒔かなければならないことを知らずにいます。
(90-141、1976.12.25)
3. メシヤの使命 : 真の人間と真の家庭の回復
― 宗教経典 ―
メシヤが来られるとき、聖なるその方は傷(アダムの罪)を治癒してくださるだろう。さらに、世の傷もまた治癒してくださるだろう。
創世記ラッバー10.4(ユダヤ教)
燦然と輝く精神と完全に一つに統一された心と卓越した徳を具足した者、そのような者が真実にこの世の中で顕現する。彼が宝の法を説くとき、万民はこの上なく喜ぶがゆえに、これはちようど、喉が渇いた者が、天から降ってくる甘露で喉を潤すのと同じである。また彼らはみな、苦海のサンサーラ(流転)を抜け出し、解脱の道を得るだろう。
弥勒上生経(仏教)
「ハレルヤ、全能者であり、私達の神である主が王となられた。私達は喜び、大いに喜び、神の栄光をたたえよう。小羊の婚礼の日が来て、花嫁は用意を整えた。花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。この麻の衣とは、聖なる者たちの正しい行いである。」それから天使は私に、「書き記せ。小羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ」と言い、また、「これは、神の真実の言葉である」とも言った。
ヨハネの黙示録19.6 ~ 9(キリスト教)
愛する者たち、私達は、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。(注18)
ヨハネの手紙一3.2(キリスト教)
― み言選集 ―
創世以降の真の個人、男性の標本的存在が、正に再び訪ねてこられる再臨主であられます。
(15-278、1965.10.30)
主は父母として来ちれます。真の父母として来られるのです。人間始祖が堕落することによって偽りの父母になったので、人類はすべてその偽りの父母の血と肉を受けて生まれました。それで、全人類を正常な神様の愛と一致するようにするために、真の父母の因縁をもってこられる方が正にメシヤです。
言い換えれば、アダムとエバが6000 年前に神権を中心として結婚しなければならなかったのですが、堕落することによってそのようにできなかったことを、6000 年が過ぎた今に至って再び収拾するために父母の資格をもってこられる方がキリスト教で言うメシヤであり、そのメシヤが新郎となって新婦を迎えるのが小羊の婚宴です。
(32-266、1970.7.19)
今後来られる主は、どのような使命をもってこられるのですか。堕落せずに善の父母の立場で完成しなければならない真の父母を失ってしまったので、それを再び成して、神様の愛を受ける真の父母の家庭から人類が再び愛を受けられる道を開いてあげるために来られる方が再臨主であることを知らなければなりません。
神様の愛を受ける息子、娘がこの地上で暮らし、家庭で天国に行くのが幸福でしょうか、ただよく信じて、母親は天国に行き、父親は地獄に行き、別々に分かれていくのが幸福でしょうか。父母から子女に至るまで、全体が入っていかなければなりません。それで、その家庭が入っていき、氏族が入っていき、国が入っていき、世界がすべて入っていかなければならないのです。
このような新しい父母を中心とする世界的な家庭がこれから生まれ、そこから因縁が結ばれ、人類歴史上になかった新しい愛の理想を中心とする、新しい文化と伝統がこの地球上に顕現するようになるとき、今日、この複雑で罪悪となった世界ではない、新しい地上天国になるのです。
(52-324、1972.2.3)
皆さん自身は、これからイエス様と同じ立場に立って氏族的なメシヤにならなければなりません。これが主流思想です。
(79-104、1975.6.22)
メシヤは、真の愛を中心とする家庭的理想を拡大させ得るモデルを意味するのです。個々人自体が王であり、真の父母、すなわちメシヤなのです。神様は真の父母であり、真の師であり、真の主人です。
(222-140、1991.10.26)
4. メシヤの苦難路程
― 宗教経典 ―
しかし、人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている。
ルカによる福音書17.25(キリスト教)
到来する時になれば……族長たちがこのように言うだろう。「エフライム、私達の義なるメシヤ、あなたは私達の先祖ですが、私達よりももっと偉大であられます。なぜなら、あなたは私達子女たちの罪を担ってくださり、私達子女が受けるべき罰を代わりに耐えてくださり、この世代の以前や以降にもそのようにする者がいないことをしてくださったからです。
そして、あなたは、イスラエルの安寧のため、多くの国々の嘲弄の的になられ、嘲笑の的になられたのであり、暗闇の中に座っていらっしゃり、これ以上光を見ることのできない盲人にまでなられました。あなたは、骨と皮がつくほど痩せられ、体は木のように枯れ、あなたの視力は断食により喪失され、あなたの力は素焼きの土器の破片のようにひからびました。このすべてのことが私達子女の罪によりあなたに起きました。神があなたの子女たちを豊かにしてくださり、この上ない幸福を昧わって喜ぶことがあなたの御意志ではないですか。
おそらく私達子女の安全のために、手に負えないほどの苦痛をあなたが忍耐されたために、監獄に投獄され、足かせで束縛されたために、あなたの心は安らかであるはずがないではないですか」。メシヤがこれに答えられます。「族長たちよ!私が行ったすべてのことは、あなた達とあなた達の子女の安全のために、またあなた達とあなた達の子女たちの栄光のためであり、ゆえにあなた達の子女が、神が豊かにされると予定された幸福を味わうようにするためだった」。
そして、私達の子女が答えるだろう。「あなたの心が慰労されることを願います。なぜなら、あなたがあなたの創造主であられる神の心を慰労してさしあげたのであり、また私達の心を慰労してくださったからです」。
プスィクタ・ラッバティ162b ~ 63a (ユダヤ教)
― み言選集 ―
再臨主は、初臨のときの復帰摂理路程を蕩減復帰しなければならないので、あたかも彼の初臨のとき、ユダヤ民族の不信によって、霊的復帰路程の苦難の路程を歩まれたように、再臨のときにおいても、もし第二イスラエルであるキリスト教信徒たちが不信に陥るならば、その霊的な苦難の路程を、再び実体をもって蕩減復帰されなければならないのである。イエスが「しかし、彼(イエス)はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない」(ルカ17・25)と言われた理由は、とりもなおさず、ここにあるのである。
原理講論、モーセとイエスを中心とする復帰摂理3.3.2
今日のキリスト教信徒たちも、イエスの初臨のときのユダヤ教徒と同じく、イエスが再臨されるならば、彼らが真っ先に主を迫害するようになる可能性があるということについては、前のところで既に詳しく論じたとおりである。イエスは預言者たちによってもたらされた旧約のみ言を成就されたのち、その基台の上で新しい時代をつくるための目的をもって来られた方であったので、彼は旧約のみ言のみを繰り返して論ずるだけにとどまらず、新しい時代のための新しいみ言を与えてくださったのであった。ところが、祭司長と律法学者たちは、イエスのみ言を旧約聖書の言葉が示す範囲内で批判したため、そこからもたらされるつまずきによって、ついにイエスを十字架に引き渡す結果にまで至ったのである。
これと同様に、イエスが再臨される目的も、キリスト教信徒たちが築いてきた新約時代の霊的な救いの摂理の土台の上に、新しい天と新しい地を建設されようとするところにあるために(黙21・1 ~ 4)、将来彼が再臨されれば、既に2000 年前の昔に語り給うた新約のみ言を再び繰り返されるのではなく、新しい天と新しい地を建設するために必要な、新しいみ言を与えてくださるに相違ないのである。
しかし、聖書の文字のみにとらわれている今日のキリスト教信徒たちは、初臨のときと同じく、再臨主の言行を、新約聖書の言葉が示す範囲内で批判するようになるので、結局、彼を異端者として排斥し、迫害するであろうということは明白な事実である。イエスが再臨されるとき、まず多くの苦しみを受けるであろうと言われた理由は、正にここにあるのである(ルカ17・25)。
原理講論、再臨論
先生がサタンと神様の中間で、いつもサタンを除去することをしてきたのです。どのようにサタンの讒訴を受けない位置で、この仕事をはかどらせていくのでしょうか。それで、蕩減路程が出てきたのです。それが人間の責任分担です。今まで、人間が責任分担を成せませんでした。どのようにその責任を埋めていくのかというのです。サタンは、それがメシヤの責任であることを知っているのです。それですべてのサタン勢力を総出動させて「真の父母」を攻撃したのです。それで先生は、サタンの塀を壊すことを、個人から家庭、氏族、民族、国家、世界、霊界まで経てきたのです。メシヤは、この道をすべて経なければならないのです。
(131-70 ~ 71、1984.4.16)
5. メシヤのユダヤ教徒・キリスト教徒・ムスリムのための中東平和定着
― 宗教経典 ―
私はダビデのために正しい若枝(注20)を起こす。王は治め、栄え、この国に正義と恵みの業を行う。彼の代にユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。彼の名は、「主は我らの救い」と呼ばれる。それゆえ、見よ、このような日が来る、と主は言われる。人々はもはや、「イスラエルの人々をエジプトの国から導き上った主は生きておられる」と言って誓わず、「イスラエルの家の子孫を、北の国や、彼が追いやられた国々から導き上り、帰らせて自分の国に住まわせた主は生きておられる」と言って誓うようになる。
エレミヤ書23.5 ~ 8(キリスト教)
今の時と主の時は、異邦の権力に服従しないという面で唯一異なるのである。
タルムード、サンヘドリン99a (ユダヤ教)
主なる神はこう言われる。今や私はヤコブの繁栄を回復し、イスラエルの全家をわが聖なる名のゆえに熱い思いをもって憐れむ。彼らは自分の土地に安らかに住み、脅かす者がいなくなるとき、私に背いた恥とすべての不信の罪の責めを担う。私が彼らを諸国の民の中から帰らせ、敵の地から集めるとき、私は国々の前で、彼らを通して自分の聖なることを示す。
私は彼らを国々に捕囚として送ったが、自分の土地に集めて、もはや、かの地には残さない。そのとき、彼らは私が彼らの神、主であることを知るようになる。私は二度とわが顔を彼らに隠すことなく、わが霊をイスラエルの家に注ぐ」と主なる神は言われる。
エゼキエル書39.25 ~ 29(キリスト教)
神の使徒が言った。「マリヤの息子(イエス)が公正な統治者としてあなた達の中に降臨する前まで、時は確立されないだろう。彼は十字架を壊し、貪欲な者たちを葬り、ジズヤ(注22)を賦課するだろう。お金が裕福になり、誰もそれを(慈悲深い贈り物として)受けないだろう。
ブハーリー・ハディース3.656(イスラーム)
― み言選集 ―
イエス様が蕩減復帰を終え、結婚して家庭を築き、イスラエル民族を一時に天国に隷属できる祝福結婚を越えて、ローマまで祝福をしてあげたならば、イエス様の四十代までに地上・天上天国をすべて成していたというのです。イエス様を殺害した罪でイスラエルとパレスチナが闘っているのです。
兄弟が一つになれませんでした。そこで一つの宗教、一つの文化圏、一つの国、一つの心情圏になっていなければならなかったのですが、その場にイスラームが生じ、ユダヤ教が生じ、キリスト教が生じたという恨めしい内容を知らなければなりません。
最近アメリカでは、十字架を除去する運動が展開されているのですが、それが問題ではありません。イエス様を殺害しました。真の父母を殺害した罪は、人類が滅亡しても、イスラエルが千代、万代犠牲になっても赦しを受けられないのです。イスラエル民族が罪の量をすべて満たしたのではありません。ヒトラーが、イスラエル民族をあれほど好きなように殺害することができますか。
罪の量を蕩減し得る量が満ちていなかったので、天の許諾を受けてそのようなことができたのです。同じように、今日も、そのような歴史的同時性の時代に入ってきているというのです。歴史的にユダヤ教とイスラームとキリスト教が分かれたことを、今統一教会を中心として、ユダヤ教、イスラーム、そしてキリスト教が全世界的に一つになるべき同時性の時代が来たというのです。
(2003.8.15)
あの国に行ってみなさいというのです。会えばすぐに分かります。何千年前の人だとしても、四大聖人たちが先生に挨拶するでしょうか、しないでしょうか。四大聖人、イエス様もそうです。「真の父母様、お願いします。イスラエル民族を助けてください」と言います。ですから、十字架を外しなさいというのです。そのようにしてこそ、滅んだキリスト教が生き返ります。復活の宗教である十字架は、死の罪人を縛りつけるものです。イエス様に聞いてみなさい。イエス様に家庭があったならば、イエス様の息子、娘たちによってすべてが成され、6世紀以前に世の中は神様の国になっていたのです。それが成されなかったので、イスラエルの国も追い出され、7世紀に入ってイスラームが現れました。それは歴史的事実です。
(400-215、2003.1.1)
6. メシヤの東方降臨の預言
― 宗教経典 ―
稲妻が東から西へひらめき渡るように、人の子も来るからである。
マタイによる福音書24.27(キリスト教)
どんなに長く待ってもやってこない、ヨーロッパやアジアにあらわれ、ヘルメスの進路からでて、東洋の王たちすべてを超えるだろう(我々がいくら期待しても、欧州から新しい指導者が現れる可能性は全くなく、彼が現れる所はアジアである。ヘルメスから大統合が誕生するだろう。彼はすべての東洋の帝王を統治し、日浮かぶ国にメシヤの偉大な法度が遵行されるだろう。霊界の新しい指導者が東方から現れるだろう)
ノストラダムス四行詩10.75
3年目に戦争は終わり、朝鮮の地は廃墟になる。この時になれば、東方に天の国が明けてくるだろう。西洋では「正道令、正道令」と言い、「救世主、救世主」と言うだろう。しかし、本当にこのような時が訪れれば、弓弓乙乙、つまり白十字を求めていけば大きな恩恵を得るだろう。
今、人間は天上の中天運を迎える。この時は、東方の長子が東南方の長女を迎えて婚姻するようになる時だ。聖人を期待して待つが、どこの誰が聖人だろうか。その人は、世のあらゆる善と悪を審判する人である。すべての世の運営権を担ってこられる方は、山でもなく、野でもない、白十字のある所に来られる。この時に必ず天法をもってこられるだろう。
その天法数は2万1600 数だが、これは天上の数がはっきりしている。また、1万4400 数があるが、これは地上の数を意味する。上の数をすべて合わせれば、3万6000 数になるが、これはすべての世の陰陽の合倍数として、善男善女の成婚をこの数字どおりに成し遂げていくとき、聖人は来られる。(注25)天道の運は陰陽合一運である。上のように東洋と西洋の合運道は十勝運である。
3万6000 という数、これが天地理気を変化させる数である。東洋と西洋のすべての宗教が互いに一つになれば、すべての世の人々は互いに兄弟のように近くなるだろう。これを周易の原理で解いてみれば、天地の陰陽の原理により白十字がはっきりする。十勝大道は東洋から現れる。天地が震動するほど「祝福を受けよ」という声が聞こえるだろう。
その声をあざ笑い、逆らえば、我知らず蟷螂や糞転がしのような微弱な虫が車を妨げるのと同じで、聖人は笑うことだろう。善男善女を結んであげ、聖人は安らかにいらっしゃるだろう。神に祈りをもって礼を捧げ、結ばれた善男善女は貴い子を得るだろう。このようにすれば、全世界を統一するようになるが、これは天地が開いたのち、初めてのことである。日浮かぶ東方の地に白十字は現れるだろう。そして、すべての世を広く照らすだろう。救世主は天から来られた十勝大王、すなわちすべての王たちの真の王だということを肝に銘じよ。
鄭鑑録
東方に天から聖人が来られることを疑うな。東方でこの聖人が分からなければ、英国、米国など、西洋人たちによって再び悟らされ、聖人を知らされるだろう。もし洋の東西すべてがこの聖人が分からなければ、地上の人々をすべてなくして再び創生させるが、これをどうするというのか。西洋で恨みを抱いて離れたのち、高いところにあがって遠く人間世界を見つめた。20 世紀後半のこの時を迎え、東方に出てきて、昔東方で結ばれた恨を解く……
聖人は2人出てくるが、先に出てきた人でぱなく、あとから出てきた人が救世主である。天から地上に送られてくるとき、密かに送った彼の姓は文氏である。「この文を知ってはならない人が知れば、人に敗れることを嫌う世の人心ゆえに救世主は出てこられるのが大変であろう。
格奄遺録
― み言選集 ―
韓国民族に下された明白な預言者の証拠として、第1に、この民族は啓示によって、メシヤ思想をもっているという事実である。第1イスラエル選民は、預言者たちの証言によって(マラキ4・2 ~ 5、イザヤ60・1 ~ 22)、将来メシヤが王として来て王国を立て、自分たちを救ってくれるであろうと信じていたし、第2 イスラエル選民たちもメシヤの再臨を待ち望みながら、険しい信仰の道を歩んできたのと同じく、第3イスラエル選民たる韓国民族も李朝500 年以来、この地に義の王が現れて千年王国を建設し、世界万邦の朝貢を受けるようになるという預言を信じる中で、そのときを待ち望みつつ苦難の歴史路程を歩んできたのであるが、これがすなわち、鄭鑑録信仰による韓国民族のメシヤ思想である。
韓国に新しい王が現れるという預言であるので、執権者たちはこの思想を抑圧し、特に日本帝国時代の執権者たちは、この思想を抹殺しようとして、書籍を焼却するなどの弾圧を加えた。また、キリスト教が入ってきたのち、この思想は迷信として追いやられてきた。しかし、韓国民族の心霊の中に深く刻まれたこのメシヤ思想は、今日に至るまで連綿と受け継がれてきたのである。以上のことを知ってみれば、韓国民族が苦悶しつつ待ち望んできた義の王、正道令(神の正しいみ言をもってこられる方という意味)は、すなわち韓国に再臨されるイエスに対する韓国式の名称であった。神はいまだ韓国内にキリスト教が入ってくる前に、将来メシヤが韓国に再臨されることを「鄭鑑録」で教えてくださったのである。そして、今日に至ってこの本の多くの預言が聖書の預言と一致するという事実を、数多くの学者たちが確認するに至っている。
原理講論、再臨論3.3.4
有名なフランスの予言者ノストラダムスが予言し、東洋の最高予言書「格菴遺録」にはっきりと記録されているように、レバレンド・ムーンは、天命を受け、宿命的責任を完遂した人類の真の父母であり、平和の王として顕現したのです。
(447-169。2004.5.1)
驚くべき事実は、霊界において5大宗教の代表たちが一箇所に集い、神様が人類の父母でいらっしゃることを宣布すると同時に、私に対して、人類の救世主であり、メシヤであり、再臨主であり、真の父母であると宣布し、また「統一原理」が人類救援のための平和のメッセージであり、天宙平和統一は、真の愛を中心として超宗教、超国家、超人種の「愛によってために生きる生活」を通して完成するということを宣布し、さらには、真の父母に侍り、神様の国と世界平和のために、和合、統一、精進することを決議しました。
(2003.7.10)
6) 天国
千年王国は、神様の主権が完全に具現し、悪や罪のない創造理想の世界である。千年王国の実現に対する希望は、世界のどの宗教にもある程度見られるが、特に、ユダヤ教、キリスト教の経典において、神様との確固たる約束として明示されている。時として天国の概念は霊的な理想、死後の幸福の状態(第5 章7.「天界」参照)として表現されるが、これは徹底した終末論的ビジョンと脈絡が異なる。このような意味で文鮮明先生は、地上天国の具現に関する明確な教えを数限りなく表明している。先生は、未来のビジョンではなく、人間改造の現実的プログラムとして地上天国の具現に向かう神様の使命を完遂するために、その生涯を捧げてきた。
このような章句は、天国にいくつかの視点から光を当てる。第1に、それは神様の絶対主権の世界である。このような世界は、世の中のある政治的制度を意味する必要がない。歴史上、いかなる政権も、さらには神権政治を具現したと主張するいかなる政権も、真の意味の天国と相当な距離感がある。神様の主権は、真の愛によるものであって、政治的権力によるものではない。それは、善自体だけの権威をもった神様が善の民の心情を通して統治できるのである。
第2に、天国は全人類が一つの大家族の生を営為し、新しい天と新しい地として神聖なものとなった世界である。与え合いながら分かち合う天地の法度が具現され、利己主義が立つ地のない所である。人々は神様の心情とみ旨を詳しく探り、常に天の法度によって生活しながら喜びを感じ、善行を実行するにおいて心の躊躇が全くない所である。
そこは、これ以上国家間の戦争がなく、犯罪や抑圧から解放され、自由の人生を享受する平和の世界である。
第3に、天国は自分の内的変化を要求する所である。いくら世界が平和だとしても、私達が依然として内的葛藤と混乱を経験するならば、安定を享受できず、結局、個人的地獄から抜け出すことができないのである。このように、私達がいくら楽しい環境で暮らしても、家庭的葛藤と紛争があれば楽しむことはできないだろう。文鮮明先生は、家庭が天国の基本単位だと教える。
第4に、天国は心情の衝動によって自然に起きる行為自体が善のものであるため、人為的な制度や外的な法規の拘束から抜け出た自然で自由な所である。そこは、人間の心が常に水晶のように清く、神様の光がまばゆいばかりに発散される美しい所である。天国の民が愛と繊細な感受性をもち、自然そのままの方法で自然環境の世話をするため、全被造物は喜び歌う。
最後に、天国は死を超越した所である。地上世界と天上世界が一つになるとき、死のとばりは消え、二つの世界の人間たちは、愛する人同士、互いに自由に往来して交流することができる。
1. 神様主権の世界
― 宗教経典 ―
主は地上をすべて治める王となられる。その日には、主は唯一の主となられ、その御名は唯一の御名となる。
ゼカリヤ書14.9 (キリスト教)
その日、大権は神のものである。かれは、かれらの間を審判したもう。
クルアーン22.56 (イスラーム)
おお、主なる私達の神! 私達はあなたに希望をもちます。遠からずあなたの権勢が勝利することを私達は見るでしょう。偶像崇拝は地から根こそぎ引き抜かれ、偽りは徹底して滅ぼし尽くされるでしょう。
私達はすべての世が全能であられる神の統治のもとにあるその日を待ち、また全人類があなたの名を尊敬することを学ぶその日が来ることを期待します。すべての悪の人々があなたの足の前で悔い改め、ひれ伏すようになるその日を希望します。
おお、世のすべての人々があなたにひざまずかなければならず、万人が唇で誓わなければならないことを知ることを願います。
おお、主なる私達の神! あなたの前で世のすべての人が頭を垂れて敬拝し、聖なるあなたの名に栄光をお返しするようになることを願います。世のすべての人があなたの王国に対する知識をもつようになり、あなたの統治が速やかに、そして永遠に彼らのために共にあることを願います。あなただけが統治者であられ、また永遠に、栄光の中であなたは世を統洽されるでしょう。
毎日の祈り、アレヌ(ユダヤ教)
第七の天使がラッパを吹いた。すると、天にさまざまな大声があって、こう言った。「この世の国は、我らの主と、そのメシアのものとなった。主は世々限りなく統治される。」
ヨハネの黙示録11.15(キリスト教)
― み言選集 ―
地上でサタンの主権を追い払い、時代と場所とを超越して永存し給う絶対者たる神御自身が主権者となり、その神からくるところの理念が立てられるときには、その理念は絶対的なものであるために、それが指向する目的もまた絶対的であり、善の基準も絶対的なものとして立てられるのである。これがすなわち、再臨主によってもたらされるべき天宙的な理念なのである。
原理講論、堕落論4.3
皆さん、本郷の地を見つけましたか。見つけられませんでした。本郷の地を見つけられなかったので、本郷の祖国を失ってしまったのです。その祖国が地上天国です。……この地球星が天国になります。その祖国は、地上天国であると同時に天上天国なのです。
国ができるためには、3大要素が必要です。第1には、主権がなければならず、国土がなければならず、そして民がいなければなりません。神様がこの国を、世界の国を、この人間世界の国を占有し、主管する主権がありますか。ありません。神様が主管できる地がありますか。ありません。神様が主管できる人類がいますか。いません。いないので、祖国がないのと同じです。これは、本来人間が暮らす世界ではないというのです。
(155-26、1964.10.6)
お父様!
この民族の前に福を施してくださり、
世界万民に福を施してください。
天上で再臨のひと日を待ち焦がれている
数多くの霊人たちの恨みを
解怨してくださり、
お父様とイエス様の恨みが解怨され、
この地に平和の王国が建設されて、
お父様が統治することのできる
その世界が
早く早く成されるようにしてください。
懇切にお願い申し上げます。
(16-52、1965.12.26)
2. 喜びと平和の新世界
― 宗教経典 ―
私はまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更に私は、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。そのとき、私は玉座から語りかける大きな声を聞いた。
「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」
すると、玉座に座っておられる方が、「見よ、私は万物を新しくする」と言い、また、「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である」と言われた。また、私に言われた。「事は成就した。私はアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。私はその者の神になり、その者は私の子となる。……
私は、都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊とが都の神殿だからである。この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである。諸国の民は、都の光の中を歩き、地上の王たちは、自分たちの栄光を携えて、都に来る。都の門は、一日中決して閉ざされない。そこには夜がないからである。人々は、諸国の民の栄光と誉れとを携えて都に来る。しかし、汚れた者、忌まわしいことと偽りを行う者はだれ一人、決して都に入れない。小羊の命の書に名が書いてある者だけが入れる。
ヨハネの黙示録21.1 ~ 27(キリスト教)
終わりの日に、主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい、多くの民が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主は私達に道を示される。私達はその道を歩もう」と。
主の教えはシオンから、御言葉はエルサレムから出る。主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。
イザヤ書2.2 ~ 4(キリスト教)
歓喜に満ちた都市に神の聖者たちが住んでおり、そこには悲しみも、つらさもなく、供え物や重い税金を捧げなければならないという心配もなく、懲罰や高い地位から落ちるという恐れもまたない。この幸福な地には私の居所があり、絶えず安寧があり、そこにいるすべての人たちは、永遠の王権から福を受けたため、誰も劣等だと考える者はいない。その都市は衰退を知らず、そこに暮らす人たちは裕福で満ち足りている。この上ない自由を享受し、見慣れない人もなく、実にすべての人が自由人である。ラビダスが言うには、自由を得た職人、あの都市の市民だけが私の友とみなす。
アーディ・グラント、ガウリ、ラヴィダース、p.345(シーク教)
その日われは、書いた書き物を巻くように諸天を巻き上げる。われが最初創造し始めたように、ふたたび繰り返す。これはわれの定めた約束である。われは必ずそれを完遂する。われはモーセに訓戒を与えた後、詩編の中に、「まことにこの大地は、わしの正しいしもべが継ぐであろう」と、しるした。
クルアーン21.104 ~ 5(イスラーム)
― み言選集 ―
神様が人間を創造されるときの目的があったとすれば、その目的が成し遂げられていれば、その世界は、愛で統一された世界であり、神様を父母として侍り、全人類が兄弟姉妹として和睦して暮らす単一世界であり、人間の大家族世界になっていたでしょう。
言わばその世界は、み旨の中で一つに統一された世界でしょう。このような統一という課題が、今日の人間に最も重要なものです。しかし、この上なく難しいものとして残されています。個人において心と体が一つになり、家庭と家庭が一つになり、民族と民族が、国家と国家が、東洋と西洋が、神様と人間が一つに統一された世界です。言い換えれば、神様の創造目的が完成した世界が統一の世界なのです。
(81-158、1975.12.18)
神様は天理原則を通して主張します。「個人は家庭のためにあり、家庭は民族のためにあり、民族は国のためにあり、国は世界のためにあり、世界は神様のためになければならない!」、これがその主張です。神様に従えば、神様のものであると同時に、私のものにもなるのです。神様のために生きたことが私のために生きたことになります。それで、私のものは私達の家庭のものであり、この家庭は国のものであり、国は世界のものであり、世界は神様のものであり、神様のものは私のものになるというのです。どちらが素晴らしいですか。
全世界が私のものになり、宇宙が私のものになります。……神様の愛と神様の生命と神様の理想が個人的に、家庭的に、氏族的に、民族的に、国家的に、世界的に一つになり、サタンが讒訴できない、サタンの痕跡がないそのような世界になってこそ、この地上が天国になるのです。神様と私達人間が完全に主体と対象として、父子の関係として、完全に罪のない聖別された父子の関係として、完全に罪のない聖別された神聖なみ旨の中で一致し、真の父母と共に真の子女、真の氏族、真の民族を中心として地上天国を成し遂げることを願うのが、神様の人間に対する最高の希望です。神様の永遠の愛と生命と理想がどこでも連結されるようにしてこそ、地上天国になるのです。ために生きる世界になってこそ、地上天国になるというのです。
(69-89 ~ 92、1973.10.20)
将来には戦いがありません。今までの戦いは、自分を中心とした、値うちのない戦いでした。それは、互いに奪うための戦いでしたが、統一世界は神様の王権を立てた「ために生きる」世界なので、戦争は必要ないのです。兄弟同士、互いに奪う必要はありません。あまりにも与えようとするので、逃げていかなければなりません。法律もすべてなくなります。愛の自治権が完全に皮し遂げられれば、法律が自動的に完成します。「ために生きる」愛、それを成した所には、何の問題もありません。上下が一つになり、前後、左右が一つになるのです。
(224-173、1991.11.24)
創造理想世界である、神人一体心情世界となって暮らす時代が来なければなりません。人のために生きることが自分のために生きることよりもっと永遠の価値があることを悟って暮らす時代、自己中心の利己主義時代が色あせ、共生共栄共義の利他主義世界を創建しなければなりません。私達全員で、この目的のために神様と霊界を正しく知り、さらに全世界に天道を明らかにしながら人類を正しく指導し、神様の真の愛、真の生命、真の血統に連結した天宙大家族を形成し、神様の祖国と故郷を地上と天上に創建しましょう。ために生きて投入する絶対愛、唯一愛、不変の愛、永遠の愛で地上天国と天上天国を完成し、神様の王権を奉献しましょう。
(2002.12.27)
理想的な社会や国は、すべての人が国境と皮膚の色を超越して相互に協力して調和を成し、幸福に生きていく社会です。この社会は、人々がーつの神様の息子、娘であることを自覚して、真の父母を中心として一つの兄弟となった大家族社会であり、そこは、血統と所有権と心情を復帰した祝福家庭が、真の父母の言語、真の父母の文化のもと、自由と平和と統一の世界を成す所です。人々は、神様の心情文化の中で、共生、共栄、共義の生活をするようになるのです。
ですから、この世界は、腐敗や不正、そして戦争や罪悪と無関係であり、人類は、地球環境に対する公害要因を除去し、万物に対して真の主人として愛し、保護しながら生きるようになっています。その世界において、生活のための活動と作業は、他のために生きて愛する心情を土台とした喜びの奉仕であり、実践です。したがって、構成員の生活程度は標準化されます。教育は、あらゆる文明の利器を活用して受けるのですが、知識教育、体育、技術教育はもちろんであり、祝福家庭を土台とした心情教育と規範教育を優先することによって、天道に従う選民を育てる教育となります。
(269-156、1995.4.3)
3. 内的天国を所有した天国人の世界
― 宗教経典 ―
被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。
被造物がすべて今日まで共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、私達は知っています。被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいている私達も、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。
ローマの信徒への手紙8.19 ~ 23(キリスト教)
実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。
ルカによる福音書17.21 (キリスト教)
「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。……王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』(注27)と言った。この者が黙っていると、王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりずるだろう。』
マタイによる福音書22.2 ~ 13(キリスト教)
見よ、私がイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつて私が彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。私が彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。
しかし、来るべき日に、私がイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。私は彼らの神となり、彼らは私の民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者も私を知るからである、と主は言われる。私は彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。
エレミヤ書31.31 ~ 34(キリスト教)
孔子は答えた、「大道の行なわれていた古代や、(夏・殷・周)三代それぞれの最も良い時期を、私は見ることはできない。しかし記録はある。大道の行なわれる世には、天下は万人のものとされる。人々は賢者能者を選挙して官職に当らせ、手段を尽くして相互の信頼親睦を深める。
だから人々は、それぞれの父母のみを父母とせず、それぞれの子のみを子とせず、老人には安んじで身を終えさせ、壮者には充分に仕事をさせ、幼少には伸びのびと成長させ、やもめ・みなしご・かたわらの人びとには苦労なく生活させ、(一人前の)男には職分を持たせ、女にはふさわしい夫を持たせる。財貨は、それがむだに打ち捨てられることを、人びとは憎むが、しかし財貨をひとり占めにはしない。労力が出し惜しみされることを、人びとは憎むが、しかし自分のためにのみ労力を用いはしない。みなこうした心がけであるから、(私利私欲に基づく)計謀は外に用いられる機会がなく、窃盗や暴力のさたもなく、たれも家の戸をしめない。これを大同の世という。
礼記7.1.2(儒教)
地上の楽園に向かう段階が進展するに従い、神に対する人々の内面の態度が、日常的な生活のより多くの側面に直接影響を及ぼすだろう。霊魂が神により近い人々は神と同じ心を所有するようになるため、考えや感情を言葉で表さなくても通じることができるようになるだろう。
このような段階に至れば、深く考えることがすべての人たちに存在の様式になる。神は、彼らが直接的に神の意図を知ることができ、または他人の心情と心を完璧に推し量ることができるように、高度に洗練された霊的感性を付与するようになるだろう。
最終的な段階に至れば、地上の楽園はあまりに完璧で、純粋で「透明な世界」と呼ばれる。すべての悪と憎悪は消え去るだろう。世界は、のちに絶対の善と愛を実現するようになるだろう。いかなる罪や不純さからも完璧に抜け出すことによって、ついに人類は代々に永遠の家に居住するようになる。これが正に神と合一した「透明な世界」なのである。
浄霊(世界救世教)
― み言選集 ―
理想社会は、愛の理想の完成であり、神様の愛の実体たちが、情の完全なる充足の中で生きる美しい世界である。ゆえに、理想社会に住める者たちの顔は、永遠なる光の中にあるがゆえに美しく、醜いものがない。内なる人は、完成すればみな同じである。
御旨の道、天国
私達人間の心と体の間隔が広がれば広がるほど、苦衷が大きくなるのです。そこには苦痛が介在するのです。そこには悲劇が宿るのです。したがって、私達の心と体の間隔を狭め、それが一つに統一される時を迎えなければなりません。そのようにしなければ、人間世界に平和や幸福といったものはあり得ません。
ですから、自分自身の闘い、自分一個の個体の闘いを終息させることができない人は、世界的な闘いが終息し、そのような世界に入っていって暮らしたとしても、希望や幸福、あるいは平和の条件を自らのものとすることはできないのです。したがって問題は、私自身にあります。私自身の根本問題を解決しなければなりません。そのようにして私自身の外的な世界の理想的環境を迎えるようになる時に、初めて心にしみる平和、心にしみる幸福を感じられるのです。
そのような基盤の上で世界と連結されて初めて、自由で幸福な天国が成されるのであって、環境がいくら整えられたとしても、自らの問題が解決されていない立場にいれば、いかなる幸福な環境にも和することができない、ということを否認できません。
(20-167、1968.6.9)
皆さんは、まず個人天国を成し遂げなければならず、夫婦天国を成し遂げなければなりません。夫婦天国がどこから始まるのでしょうか。夫婦天国はどこにあるのでしょうか。プラスとマイナスが完全に一つになる所にあります。それは結婚した日に喜んでいて、何年もたたずに離婚するものではありません。
……
もう夫婦天国がどのような所か分かりますか。誰もその夫婦を切り離すことはできません。ダイナマイトが爆発して足がなくなっても、てっぺんはくっついているというのです。皆さんはどのような愛を求めていきますか。真の愛を求めていきます。皆さんの心と体が完全に一つになってこそ、そのような愛があり得るのです。
そして、夫婦天国だけでよいのですか。家庭天国はどのようにできますか。父母が完全に一つになって愛すれば、息子たちはお母さんのような妻をもらいたいと思い、娘たちはお父さんのような夫をもらいたいと思うのです。それで、その父母がプラスになり、息子、娘がマイナスとなって完全に一つになるのです。家庭が一つになれば、そこが家庭天国になります。家庭天国を成す所で、初めて地上に天国というもの、神様が理想とするものが定着するようになるのです。
(96-29、1978.1.1)
本然の園は、理想の園です。有無相通(注:すべてのものが相通ずること)の世界であり、兄弟の感情が万宇宙のどこにおいても通じる世界です。今日のように、民族的な感情、あるいは国家の主権的な違いをもって論議できるような理想と主義の世界ではありません。民族の差別、あるいは国家の主権など、そのようなすべてのものを越えて論議する世界です。人間の経済的な事情や文化などという条件の違いをもって論議するのではなく、心情をもって論議する世界です。
(7-38、1959.7.5)
個人完成、家庭完成、天宙完成のその場に現れるのが美しい地上天国と天上天国です。それで、神様が解放され、皆さんの家庭と氏族を思いどおりに訪ねていけます。今までは囲いが張られていて、どこにも行けませんでした。しかし、今からは、すべての囲いを取り外して平地になるのです。
サタンがつくっておいたすべての囲いと壁が崩れます。それで、平地になるのです。真の父母が平地を成し、縦的な世界と90 度の角度を成すのです。その90 度を中心として、前後、左右、上下が連結され、統一解放圏が成し遂げられます。それが天国です。そのように、天国に行ける高速道路を築きます。そのような世界が来るのです。すべてのものが真と連結すれば、世界が解放され、天国が成し遂げられます。
祖国は一つです。神様のように永遠です。その祖国が霊界です。それを知って、それに向かって、皆さんは不足であることをよく知っています。どのようにして行かなければならないのか、すべて知っているのです。自分たちがどのような位置にいるということを知っているのです。それをすべて清算して、真の父母様がどのような命令をするとしても、100 回死ぬような命令をするとしても、「絶対に私は行こう」と言える決心をして、絶対信仰、絶対愛・絶対服従の天理を踏んで、早く飛んでいかなければなりません。走るよりも、飛んでいかなければなりません。
(313-243 ~ 244、1999.12.19)
4. 地上世界と天上世界を一つにした王国、死のない所
― 宗教経典 ―
次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。
コリントの信徒への手紙一15.24-25(キリスト教)
勝利した「世界の改造者」と彼の協助者たち……一切の存在を新たにするので、老いず、死がなく、腐敗と堕落もないだろう。永生があり、常に義をもち、意のままになるだろう。死んだ者が再び生き返り、生命が遍満して不滅となり、一切の存在は神の意のままに改造されるだろう。
アヴェスター、ヤシュト19.11(ゾロアスター教)
「私があなた達に、あなた達が死ぬ食べ物をあげよう。しかし、心配するな。私はあなたを生き返らせる」と呪術師は彼らに言った。彼らは彼を信じた。彼らは何かを食べて死んだ。そのとき彼らは、新しく美しい地で歩いている自分たちを発見した。彼らは白人の軍人に殺害された彼らの父母、祖父母、そして友人たちと話をした。彼らの友人たちは健康で、この新しい世界は白人たちが破壊した昔の世界のようだった。
そこは遊びと羊とバッファローでいっぱいだった。草は緑色で長かった。他の部族によって昔に死んだ人たちも、この地に暮らしているにもかかわらず平和だった。すべてのインディアンの種族が一つの部族を形成し、互いに理解することができた。キッキングベアと小さな雄牛が歩き回っており、あらゆるものを見ていた。彼らは幸せだった。
そのときバイユートの仙人が彼らを再び生に戻した。「私がもたらした新しい世界をあなた達は見た」と彼は言った。「大地は毛布のように、白人のものである囲い、鉄道、鉱山、そして電信柱など、すべてのものを巻き込むだろう。そうすると、その下に再び生き返った私達のすべての知り合いたちがいる、新しくて昔ながらのインディアン大地があるだろう」。
その後、その呪術師は彼らに新しい踊り、歌、祈りを教えた。彼は彼らに神聖な赤い染料を与えた。……今、大地を巻き込むために、そして死んだ者を戻すために、私達はどこでもこの新しい踊りを踊る。新世界が来ている。
霊魂の踊り(アメリカ先住民の宗教)
― み言選集 ―
神様が願われる天国は、霊界だけで成される天国ではありません。神様が願われる天国は、まず地上で成し遂げられたのちに霊界でも成し遂げられる天国です。人間が死んだあとに、その霊人体で成す霊界とこの地上世界は互いに分離できないので、皆さんが勝利的実体を備え、天国の理念を具現するためには、天倫の前に立ち得ると同時に、人倫の前にも立てなければならず、天倫と人倫に通じ得るよう、天国の理念を皆さんの生活圏を通して見せてあげなければなりません。
そして、その天国の理念が、個人的な天国理念になると同時に、家庭的な天国理念、社会、国家、世界、天宙的な理念にならなければなりません。このような天国理念が、皆さん自体を通して現れてこなければなりません。
(2-226、1957.6.2)
皆さんには国がありません。神様にも国がありません。神様に祖国がないので、私達にも祖国がないのです。私達は、この祖国を建設しなければなりません。神様の愛と私達の愛で、個人を中心として、家庭を中心として、氏族を中心として、民族を中心として、国家を中心として、愛でそのすべてを連結させてこそ、神様の地上天国と天上天国が成し遂げられるのです。真の愛の個人,家庭、氏族、民族、そして国家的な地上基盤が立てば、自動的に天上にも国家的な基盤が立つようになります。そうすれば、霊界が自動的に開いて地上と一つになるのです。
(134-217、1985.7.20)
死の峠を越えて往来できる基盤を地に築いていかなければ、地上天国ができないのです。地上天国ができなければ、天上天国ができないのです。皆さんが霊界に行っても、この地上に思いどおりに来ることができるようにしておかなければなりません。それでこそ地上天国に暮らし、天上天国が成されて暮らすようになるのです。
(146-223、1986.7.1)
第11章 成長、責任、そして運命
成長、責任、そして運命
1) 霊的成長
成長は自然法則である。この世の中に一度に完成するものはなく、始めから完成まで、成長過程を経なければならない。体のように霊魂もやはり、段階別の過程を経て成長するようになっている。成長段階は多様である。穀物から芽が出てきたり、四季が変わったり、新学年に進級すること、すべてが成長段階だと言うことができる。
霊的完成段階である成熟に到達した人だけが神様の愛に完全に同参し、天の王国で自分の位置を見いだすことができる。霊的完成はどのような境地だろうか。それは心と体の統一を意味する。すなわち、正しいことをするために絶えず行ってきた体との闘争から完全に解放される状態である。キリストの完全さをまとうことであり、永続的に愛する神様の心と一体を成した状態である。
― 宗教経典 ―
人びとよ、主に対し労苦して努力せよ、なんじらはかれに会うのである。……なんじらは、必ず一層から他層に登るであろう。
クルアーン84.6.19(イスラーム)
正しい道をたどり、修行にいそしむ修学者に、心のけがれの消滅に対する最初の知恵が生ずる。それからして無上の知恵がある。それより、知恵により完全な精神的自由を得た人には、迷いの生存の束縛を消滅することによって、「私の完全な精神的自由は不動である」という知恵が生ずる。
如是語経62(仏教)
魂と、それに釣合い秩序を付与した方により、邪悪と信心について、魂に示唆したもう方により誓う。まことに魂を、清める者は成功し、それを汚す者は滅びる。
クルアーン91.7 ~ 10(イスラーム)
一歩一歩修行を積み、徐々に仏陀のあらゆる教えを成就する。修行は、地を選んで礎石を打ち込み、その上に家を建てるのと同じであり、寛容と自己制御は悟りに至る修行の礎石である。
大方広仏華厳経10(仏教)
「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」
マルコによる福音書4.26 ~ 29(キリスト教)
ムハンマドは神のみ使いである。かれと共にいる者は、不信心の者に対しては強くてくじけず、おたがいの間ではやさしく親切である、……イエスの福音にも、同じようなかれのものがある。まいた種がその芽をふき、丈夫な茎に伸び立って、種をまいた者を喜ばせる。
クルアーン48.29 (イスラーム)
しかし、私達一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。……そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。
こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、私達は皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。
こうして、私達は、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。
キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。
エペソの信徒への手紙4.7 ~ 16(キリスト教)
人皆がこうありたいと思うようなのを善と言い、善を自分で持っているのを信と言い、更にその善と自分に充実させることを美と言い、充実させた結果、外にひかりかがやくようになったのを大と言い、大にしてよく天下を化すようになると、これを聖と言い、聖にしてそのはたらきのはかり知ることができないようになると、これを神と言うのである。孟子VI .B.25 (儒教)
天はただ春、夏、秋、冬をもっている。人はただ仁、義、礼、智をもっている。……ただこの四つの原理だけがある。その他には何もない。仁、義、礼、智は、起源、成長、完成、そして成就である。もし春に何も芽生えなかったり生まれなかったりすれば、夏に成長を促す何の方法もなくなり、秋と冬に収穫して貯蔵することが不可能になる。
朱熹(儒教)9
キリスト教徒になるのは、一瞬の行為であることも、一生を懸けた行為であることもある。霊的決意と改宗を、「人は、新たに生まれなければ」(ヨハネによる福音書3 章3 節)と語られたイエス様の御意志を、私は日ごとより深く理解していっている。
肉身の誕生は、妊娠から誕生の瞬間の奇跡まで向かっていく一つの過程である。しかし、誕生がその過程の最後ではない。もう一つの成長の始まりである。霊的な誕生もやはり同じである。キリストに対する決意は「霊的誕生」であろう。しかし、これもやはり霊的成長が伴わなければならない。
ビリー・グラハム信念の勇気
こうして神は、人間の魂に精神を与えられた。精神を座とする理性と知性とは、子供にあってはまだ眠ったままで、いわばないにひとしいのであるが、年齢が進んでくると目ざめ、大きくなって知識と教えとを受け取ることがてきるようになり、真理を認識し善を愛する能力を持つようになる。精神はその能力によって知恵を吸収し、徳をそなえ、思慮と勇気と節度と正義とに従って生き、誤謬その他の生まれながらに持つ悪徳と戦い、ただ神の至高にして不変なる善のみを希求することによつてのみ、それに打ち克つのである。
アウグスティヌス神の国22.24 (キリスト教)
― み言選集 ―
人間始祖はいつ堕落したのだろうか。彼らは成長期間、すなわち未完成期において堕落したのである。人間がもし、完成したのちに堕落したとすれば、我々は、神の全能性を信ずることができない。仮に、人間が善の完成体になってから堕落したとすれば、善自体も不完全なものとなるのである。したがって、善の主体であられる神も、やはり不完全な方であるという結論に到達せざるを得なくなる。
創世記2章17 節を見れば、神はアダムとエバに、善悪を知る木の果を取って食べるときには、きっと死ぬであろう、と警告されたみ言がある。彼らは、神の警告を聞かないで死ぬこともできるし、あるいはその警告を受け入れて、死なずに済むこともできたことから推察してみるとき、彼らがいまだ未完成期にあったことは確かである。万物世界が六日という期間を経て完成できるように創造されたので、被造物の一つである人間も、やはり、そのような原理を離れて創造される理由はないのである。
そうであるならば、人間は成長期間のどの段階で堕落したのだろうか。それは長成期の完成級で堕落したのであった。これは、人間始祖の堕落の前後の諸般の事情と、復帰摂理歴史の経緯が実証するもので、本書の前編と後編を研究することによって、そのことが明確に分かるようになるであろう。
原理講論、創造原理5.2.1
神様が土をこねてアダムとエバを造るとき、最初から成長した人に造ったとは考えられません。赤ん坊から造りました。神様が、赤ん坊をはらんだ母が、抱いて育てるのと同様な、そのような過程を経て造ったという論理を立てなくては、このすべての3段階の秩序を通した存在の形成というものは、説明する道埋がありません。それで、アダム・エバに幼児期があったというのです。その次に、長成期がありました。これは天の道理です。その次に完成期がありました。
最初に、無形の神様が無形の世界から有形への過程を経てくることができ、赤ん坊の存在を抱いて育てたという論理から始めなければなりません。それでは、赤ん坊が生まれ育ち、成熟して結婚できる位置まで、父母になれる位置までどのようにして行くのでしょうか。神様が青年期、壮年期、老年期のような過程を経てきたという事実を、神様が育った無形の過程を実体として見るための存在が子女だというのです。このような論理が形成されてこそ、父子一身という論理が出てくるのです。一つは縦的で一つは横的なので、縦横一身の理論を立てられます。
(225-198、1992.1.20)
神様も成長してきました。赤ん坊から兄弟段階を経て結婚段階に行き、赤ん坊を宿して創造したのと同じように、皆さんも妻といえば、見えない神様が見える実体として成長した存在だということを知らなければなりません。皆さんは、結婚すれば、皆さんが成長するときの姿を見ることができます。それをどのように見るのですか。自分の息子、娘を通して再び見るのです。神様が、アダムとエバが成長するのを見て衝撃を感じ、横的な世界、拡張された世界をもったのと同じように、皆さんも赤ん坊を生むことによって横的な世界に発展できる愛の版図が展開するのです。
(297-151 ~ 153、1998.11.19)
一つの生命が投入され、実が結ばれるまでには、夏の季節を過ごし、その根と幹と枝の全体から生命の要素を吸収してこそ、完全な生命力をもって第2の生を出発できる一つの結実になり得ます。同様に、この体は死んだとしても、その心の中に、新しい世界に再び生まれ得る生命の気運が膨れ上がり結実の実が残るかという問題を、自ら推し量ることのできる息子、娘にならなければなりません。いくら歳月が過ぎていき、暴風雨が激しく吹き荒れても、内的な生命力は、その環境の侵犯を受けずに絶えず発展の路程を行ってこそ、春を迎えて再び蒔かれ得る、第2の生命の母体である種になれることを知っています。
(32-37、1970.6.14)
種をつなげるためには、愛の道を通じなければならないために、生まれながらも愛され、育ちながらも愛を目標として育ち、暮らしながらも愛を中心として暮らし、行きながらも愛に帰るために行かなければならないのです。
(138-99、1986.1.19)
博士課程では、幼稚園から学んだことをすべて否定しますか。そうではありません。すべて肯定、消化して博士になるのです。
(111-129、1981.2.8)
神様の愛を教育されなければなりません。それでは、いつまで愛の教育を受けなければなりませんか。父が知るすべての価値の基準を推し量ることができる時まで、言い換えれば、成熟する時までは父母の愛を受けて成長しなければなりません。
(51-172 ~ 173、1971.11.21)
神様のより深い関心は、人間の内的性稟と愛の人格にありました。彼らは、真の愛の経験を通して神様の真の愛に似て完成するのです。神様は、愛の力を内的で非物質的力の中で最も強力なものとして創造されました。そのような愛の力を神様の愛と神様の法度の中で体恤するということは、人が父母であられる神様に似るということです。
(279-206、1996.8.20)
神様の子女である人間の責任は、何よりもまず神様に似ることです。孝子、忠臣、聖人、聖子の家庭の道理を果たす真の愛の化身になりなさいということです。神様の深い心情の内的事情を知って、アダムとエバの堕落以来、数千、数万年、苦痛の中で生きてこられた神様の恨を解いてさしあげなければならないのです。
平和神経、平和メッセージ1.16、2005.9.12
2) 人生の季節
人生にも季節がある。少年期、青年期、成年期、そして老年期などがそれである。少年期は学びの時である。何にでも簡単に影響を受けて学ぶのに大きく開かれている時である。青年期は、自己訓練が必要な探求の時である。二十代は、家庭と職業のために基盤を築く時である。
中年期は、自分の目標を成就する時である。そして老年期に入っていく。この時は、人生の結実が現れる時である。ある人は霊的訓練と道徳的人生を通して得た知恵が現れる反面、ほかの人は浪費した人生の惰弱さばかりが現れる。この時が近づくと、既に人生を改めるには遅い。人間の一生に関するより多くのみ言は、第19 章に詳細に紹介されている。
1. 児童期と青少年期
― 宗教経典 ―
すべての子供たちは、純粋さと神に対する服従を備えた本性をもって生まれる。
ブハーリー・ハディース(イスラーム)
子供たちを私のところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。
ルカによる福音書18.16 ~ 17(キリスト教)
孟子がいわれた。「大徳の人といわれるほどの人物は、いつでも赤子のような純真な心を失わずに持っているものだ。」
孟子IV.B.12 (儒教)
魚は新鮮なときに巻かなければならない。
ヌペ族の格言(アフリカ伝統宗教)
エリシャ・ベン・アブヤが言った。若くして学ぶのは何と同じか。それは新しい紙に書いたインクと同じだ。老いて学ぶのはどうか。それは消された紙の上に書くのと同じだ。
ミシュナ、アヴォート4.25 (ユダヤ教)
実際、あなたがたは今ではもう教師となっているはずなのに、再びだれかに神の言葉の初歩を教えてもらわねばならず、また、固い食物の代わりに、乳を必要とする始末だからです。乳を飲んでいる者はだれでも、幼子ですから、義の言葉を理解できません。固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです。
ヘブライ人への手紙5.12 ~ 14(キリスト教)
子供たちよ、私があなたがたに書いているのは、あなたがたが御父を知っているからである。父たちよ、私があなたがたに書いでいるのは、あなたがたが、初めから存在なさる方を知っているからである。若者たちよ、私があなたがたに書いているのは、あなたがたが強く、神の言葉があなたがたの内にいつもあり、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからである。
ヨハネの手紙一2.14 (キリスト教)
お前は宇宙の四つ角に走っていくだろう。
地が大水と出会う所まで、
天が地と出会う所まで、
冬の故郷まで、
雨の本郷まで、
走っていけ、ここに! 走れ!
丈夫であれ!
お前は民族の母なのだから。
アパッチ族の成年式の歌(アメリカ先住民の宗教)
― み言選集 ―
お父様!私達は幼子にならなければなりません。おなかがすけば、「おなかがすいた」とお父様のみ前にねだる幼子にならなければなりません。幼子にはお母さんを欽慕する性急さがあります。その幼子は天真爛漫です。育てれば育てるほど、大切に抱き、培えば培うほど、父母の基準に従って育ちます。
お父様!ここに集まったあなたの子女たちを重ねて記憶してください。千態万象の事情を抱いてきたこの者たちが、その事情を全部打ち明ければ、お父様が動じずにいられないことを知っていますので、すべてを打ち明け、飢えた幼子がお母さんの乳を欽慕するように、恋しがるように、お父様を慕う心をもつようにしてください。
(20-11、1968.3.31)
アダムとエバを造っておいて、すぐにそれができ上がればどれほどよいかと思うかもしれませんが、そのようになりません。一番の底で小さなものが大きくなり、ある程度まで上がってこなければなりません。上がってこなければならないのです。これが全体の宇宙と関係を結べませんでした。この男性が成長し、15 歳、16歳、17 歳になり、ここに上がってくれば、ブラス・マイナスの宇宙がすべて自分のものになります。詩的になってすべて目覚めるのです。思春期がそうです。家を出て世界を歩き回り、どこかの海にも行き、自分の相対がどこにいるか、目を見開いて歩き回るのです。
(130-155、1984.1.8)
このように青年期には、皆さんが香りを発散するようになります。その香りは広く広かっていきます。虫や蝶がその香りにひかれて飛んできます。ですから、この時期に若者が、若い男女は何を願うでしょうか。彼らは最高のチャンピオン、最高の学生、あらゆる分野で最高になりたいと思うのです。
(52-262、1972.1.2)
今日のティーンエイジャーたちが……。目がひっく返って、どこにでもくっつこうとします。それによって社会に破綻をもたらし、自分自体に破綻をもたらすのです。また、思春期は変わる時なので、誰が一言言っても、「ええい!」と言って……。みなそうだというのです。ちょうど変わる時なので、相対をもって定着するのではなく、しきりに動き回ります。それで、秩序に従って状況を見ながら行かなければならないというのです。皆さんは今、これをすべて整理しなければなりません。善悪の中で悪は何ですか。破壊するものです。何の保護作用も成立しないということを知らなければなりません。
(118-197、1982.6.1)
2. 成熟と老年期
― 宗教経典 ―
先生がいわれた、「私は十五歳で学問に志し、三十になって独立した立場を持ち、四十になってあれこれと迷わず、五十になって天命をわきまえ、六十になって人のことばがすなおに聞かれ、七十になると思うままにふるまってそれで道をはずれないようになった。」
論語2.4 (儒教)
先生がいわれた、「青年は恐るべきだ。これからの人が今〔の自分〕に及ばないなどと、どうして分かるものか。ただ四十五十の年になっても評判がたたないとすれば、それはもう恐れるまでもないものだよ。」
論語9.23 (儒教)
彼の頭が白いが故に年寄りなのではない。実に年若くとも[ヴェーダを]学んでいる者を神々は年寄りとみなす。
マヌ法典2.156 (ヒンドゥー教)
あなたは生命を延長することはできない。ゆえに、不注意でいいかげんな人生を生きてはならない。老いれば既にどうすることもできない。
ウッタラッジャーヤ4.1(ジャイナ教)
学ぶことの少ない人は、牛のように老いる。かれの肉は増えるが、かれの知恵は増えない。
法句経152(仏教)
青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。「年を重ねることに喜びはない」と言う年齢にならないうちに。太陽が闇に変わらないうちに。月や星の光がうせないうちに。雨の後にまた雲が戻って来ないうちに。その日には家を守る男も震え、力ある男も身を屈める。粉ひく女の数は減って行き、失われ窓から眺める女の目はかすむ。通りでは門が閉ざされ、粉ひく音はやむ。鳥の声に起き上がっても、歌の節は低くなる。
人は高いところを恐れ、道にはおののきがある。アーモンドの花は咲き、いなごは重荷を負い、アビヨナは実をつける。人は永遠の家へ去り、泣き手は町を巡る。白銀の糸は断たれ、黄金の鉢は砕ける。泉のほとりに壷は割れ、井戸車は砕けて落ちる。塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る。
コヘレトの言葉12.1 ~ 7(キリスト教)
あなたのほほに白髪が下がり
額にしわが深く谷をつくり
肉身が骨組みになる前に、
歯がはぐきから抜け
背が地に向かって曲がり、
あなたが他の人の重荷になる前に、
片手に杖を持ち
もう片方の手で膝を押して立ち上がる前に、
歳月があなたの肉身の美しさをむしばみ
あなたが死の苦痛を感じる前に、
我々の主、クダラ・サンガマを崇拝せよ!
バサヴァンナヴァチャナ161(ヒンドゥー教)
― み言選集 ―
人間にとって最も重要な時はいつですか。少年時代ではありません。青年時代を超えて壮年時代に行く、すなわち20 歳を超えて40 歳に至るその間が最も重要な時期です。人は20 歳から30 歳に至るまで、人としての土台を築き、そこに自分が隠居できる確固たる基盤を築いておかなければなりません。また、その後に明確な目的を中心として行くことができる環境的な基盤を備えなければなりません。そのようにできない人は、30 歳を超えて40 歳に向かっていくとき、無意味な人間、平凡な人間として生きざるを得ません。
(22-314、1969.5.11)
人の一生を見てみるとき、活動能力を最高に発揮できる時は、いつでしょうか。二十代から四十代、あるいは五十代までです。この20、30 年の期間が全盛期です。しかし、40 歳を超えると、その基準から下がっていきます。このような観点から、皆さんはみ旨のために働ける期間がどのくらいになるかという問題を考えてみなければなりません。
(33-186、1970.8.12)
この生がいくら貴いと言っても、青春の時期に比べることができないことを知っています。お父様、私達が壮年になれば荷を背負わされるようになり、壮年の時期に闘ってもちこたえられなくなるときには、その結実された子孫が悲惨になることを知っています。
それゆえ、壮年の時代を力強く過ごし、老年の時代を経て新しい春を迎え、新しい夏の節気を見ることのできる子孫を、自分の懐の中にもった家庭であってこそ、その後にやって来る秋の節気を無難に克服できるということを知るものです。これが人生というものであり、世界の歴史時代においても、象徴的な現象であることを眺めるようになるときに、お父様のみ旨の前においても、やはり同じだということを知るものです。
(31-139、1970.5.3)
3) 善の啓発
善は努力を必要とする。悪が支配し、私達の心と体を汚染させるこの世の中で、私達が正しいことを行って生きることは簡単ではない。したがって、本当に善の人になるためには、自分に対する絶え間ない訓練が必要だ。アリストテレスは、善の性稟を啓発するのは技術を習得する過程と同じだと見た。長い間持続的な努力によって善行を実践する人は、善の習慣を形成するようになる。数年間養われた善の習慣は、善の性格形成へと続く。人間の霊魂は、良い作物を得るために、種を蒔き、耕作し、毎日毎日雑草を除去しなければならない田畑と同じである。
善を追求する代わりに、小さな過ちだとみなし、自分の過誤を一つずつ黙って見過ごしていけば、時間がたつに従って悪い習慣が徐々に体に宿るようになる。善は善を生み、悪は悪を生む。文鮮明先生は、私達に再度この事実を想起させる。悪は堕落人間の中で繁殖することを好む。したがって、常に善に生きるために積極的に努力しなければならない。ごく小さな過誤が私達を没落に導いていくからである。
1. 実践的生涯を通した善の啓発
― 宗教経典 ―
すべて悪しきことをなさず、善いことを行ない、自己の心を浄めること、これが諸の仏の教えである。
法句経183(仏教)
君子は善を見れば遷ってこれに従い、禍ちがあればこれを改める。
易経、周易下経、益42(儒教)
常にトーラーと慈善に尽くしなさい。その上、他の底意があるときさえも善行の習慣が積まれ、結局動機まで善になるだろう。
タルムード、プサヒーム50b(ユダヤ教)
聡明な人は順次に少しずつ、一刹那ごとに、おのが汚れを除くべし、鍛冶工が銀の汚れを除くように。
法句経239 (仏教)
思慮ある人は、奮い立ち、努めはげみ、自制・克己によって、激流もおし流すことのできる島をつくれ。
法句経25(仏教)
トーラーを研究すれば正確な人になる。次は情熱をもつようになり、情熱を超えて清潔さに、清潔を超えて自制力に、自制力を超えて純潔さに、純潔さを超えて高貴さに、高貴さを超えて温順さに、温順さを超えて罪を警戒する人となり、次は崇高に、崇高さを超えて聖なる霊魂に、聖なる霊魂以降には永遠の生に入っていく。
タルムード、アヴォダー・ザラー20b (ユダヤ教)
この自我は真実と苦行と正智と不断の梵行とによりて得らるべし。身内にありて、輝ける光明所成の彼を照観するはただ罪障を滅したる修行者のみ。
ムンダカ・ウパニシャッド3.1.5 (ヒンドゥー骸)
あなたがたは、力を尽くして信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心を、信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。これらのものが備わり、ますます豊かになるならば、あなたがたは怠惰で実を結ばない者とはならず、私達の主イエス・キリストを知るようになるでしょう。
ペテロの手紙二1.5 ~ 8(キリスト教)
よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べでしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。
このたとえが分からないのか。……種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。
また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。
マルコによる福音書4.3 ~ 20(キリスト教)
器量はこれをまず働かせた上で、獲得する。それは、ちょうど、さまざまな術について見られるところと同じである。すなわち、われわれは学び知ってからなすべきはずのことを、なすことによって学び知るのである。たとえば、ひとは家を建てることによって、建築師となり、琴を弾くことによって、琴弾きとなる。これとちようど同じようにわれわれは正しいことをすることによって勇気あるひとになるのである。
アリストテレスニコマコスの倫理学2.1.4(ヘレニズム)
注意深く適切な行為、規範を確認し、それらを昼夜手本として従い、一瞬の怠慢や中止もないようにせよ。ある程度時間が過ぎたのちに私達はそれらに慣れるようになり、そうなれば、私達はそれ以上、それらに従う必要なく、私達自身の基準をつくるにとができるようになる。
朱熹(儒教)
あなたが習慣にしようとするものは、何であってもそれを実践せよ。そして、あなたがあるものを習慣にするまいとすれば、それを実践せず、あなた自身を他のことに習熟するようにせよ。
エピクテトス(ヘレニズム)
自己修養を長い間継続すれば、徐々に喜びの精神に導かれるようになる。喜びの精神は、柔らかく、寛大で、優しく、調和するものを求めるようになるだろう。これを願う人は、誰もがその悪い感情を除去し、怒りをなくさなければならず、反対を呼び込み、憤怒を引き起こす逆境から自由にならなければならない。個人の、そして長い間の綿密な調査は徐々に理の説明へと導かれるようになるだろう。完全な理解は、他の人に公然と彼を批判なく素直に影響を及ばせることを知るようになるだろう。これを留意する人は誰でも見聞が広がり、影響力があるようになり、拒絶され、そして争いの中で生じる憂慮から自由になるだろう。
この上、私達はさらに積極的に事物の理を観察し、私達の根本的な感情を調査しなければならない。個人的にこのようなことに対し時間をおき、注意深く考えてみる、自身の知的精神的能力を通して経験しなければならない。このようなことを行えば、偏見と虚位の過ちから自由になるだろう。すべてのことにおいて常に自身の学びの力を点検することは重要である。もしある障害物や過ちがあれば、その病弊を発見し、それを根こそぎ抜いてしまうときまで、深く究明せよ。
朱熹(儒教)
― み言選集 ―
善と悪は、未来において決定されるものではなく、現在の一日一日の時間において決定される。
御旨の道、善と悪
心や思いでは善悪が決定しません。行動をしてこそ善悪が決定するのです。そうではないですか。行動しない熱情では、罪として糾明できません。現れないからです。実体でなければ認定できないのです。いくら何かをしても、証拠がなければ決定できないでしょう? 同じことです。行動した結果によってすべてのものが決定するのです。思いだけをもってすべて分かっていると思っても、その世界と私は何の関係もありません。
(359-166、2001.11.7)
皆さんが勉強するために本を読むとしても、ただ読むだけでは駄目です。そこには必ず読む練習をして、訓練する過程が必要です。私達が音楽を聞く場合にも同じです。ただ一度聞いただけでは駄目です。その音楽に対して深く詳細に理解するためには、必ず時間的過程と訓練が必要です。私達が語ることにおいてもそうです。語ることにおいて、人よりも有名になり、抜きん出るためには、ただそのままそうなるのではなく、必ず訓練過程がなければなりません。私達の行動もそうです。私達が心で考えることも同じです。すべて訓練過程を経なければなりません。瞑想や祈祷をするのも、そのための一つの修養方法です。
(67-178、1973.6.10)
有名なバイオリン演奏者たちは、たくさん鍛え、触れ、数多くの練習をしたために、そのバイオリンの筒の音がすべて分かるのです。分かってするので、和音になる音の構造が、それ自体の細胞が変わります。それで、そこから出てくる音が神秘的になるのです。同じことです。精誠を尽くさなければなりません。祈祷とは何ですか。精誠を尽くすことです。どこに行ってもアンテナを立てていなければなりません。一瞬も放心することはできません。
(241-179、1992.12.24)
堕落した人間がどのように再び善であられる神様のところに行くことができるのですか。まず良心を通して本体の善に似ていかなければなりません。次には、神様のみ言に従って行動し、神様の本体の善とみ言の価値を表さなければなりません。そのようになるとき、神様は被造万物をつくられた善の理想である喜びを見いだされるのであり、善の目的を指向してきた人間たちも、神様の善の価値を感じる善の実体になるのです。ところが、これが人間の堕落によってすべて挫折してしまったのです。
(2-320、1957.7.21)
霊人体は神からくる生素(陽性)と肉身からくる生力要素(陰性)の二つの要素が授受作用をする中で成長する。また霊人体は肉身から生力要素を受ける反面、逆に肉身に与える要素もあり、我々はこれを、生霊要素という。人間が神霊に接することによって、無限の喜びと新しい力を得て、持病が治っていくなど、その肉身に多くの変化を起こすようになるが、これは、その肉身が霊人体から生霊要素を受けるからである。
霊人体は肉身を土台にしてのみ成長する。それゆえに、霊人体と肉身との関係は、ちょうど実と木との関係と同じである。生心の要求のままに肉心が呼応し、生心が指向する目的に従って、肉身が動くようになれば、肉身は霊人体から生霊要素を受けて善化され、それに従って、肉身は良い生力要素を霊人体に与えることができて、霊人体は善のための正常的な成長をするようになるのである。
生心の要求するものとは何であるかを教えてくれるのが真理である。それゆえに、人間が真理で生心が要求するものを悟り、そのとおりに実践することによって、人間の責任分担を完遂すれば、初めて生霊要素と生力要素とがお互いに善の目的のための授受作用をするようになる。
ところで、生霊要素と生力要素とは各々性相的なものと形状的なものとの関係をもっている。ゆえに、悪人においても、その本心が善を指向しているのは、その生霊要素が常に作用しているからである。けれども、人間が善なる生活をしない限り、その要素も肉身の善化のための役割をすることができないので、生力要素との間に正しい授受作用をすることもできなくなるのである。
原理講論、創造原理6.3.2
心と体が一つにならなければ、天国に行けません。矯慢にならないでください。謙遜にしなさいというのです。祭物になりなさいというのです。それで、宗教はすべて体を打つのです。3年以上犠牲、奉仕しなさい、断食しなさいと言うのですが、それは人間が好むものではありません。
(245-58、1993.2.28)
2. 善はより良い善を導くが、善を無視すれば悪に陥る
― 宗教経典 ―
善をなすのを急げ。悪から心を退けよ。善をなすのにのろのろしたら、心は悪事をたのしむ。
法句経116 (仏教)
小さな教えでも、行おうと努力せよ。罪から逃げよ。教訓はもう一つの教訓を生み、罪はもう一つの罪を生む。教訓の報いはもう一つの教訓であり、犯罪の償いはもう一つの罪である。
ミシュナ、アヴォート4.2 (ユダヤ教)
「その報いは私には来ないだろう」と思って、悪を軽んずるな。水が一滴ずつ滴りおちるならば、水瓶でも満たされるのである。愚かな者は、水を少しずつでも集めるように悪を積むならば、やがてわざわいにみたされる。「その報いは私には来ないであろう」と思って、善を軽んずるな。水が一滴ずつ滴りおちるならば、水瓶でもみたされる。気をつけている人は、水を少しずつでも集めるように善を積むならば、やがて福徳にみたされる。
法句経121 ~ 122 (仏教)
持っている人は更に与えられて豊かになるが持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。
マタイによる福音書13.12(キリスト教)
イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。
ヨハネによる福音書8.34(キリスト教)
黒いやぎは暗くなる前に早く捕まえなければならない。
イガラ族の格言(アフリカ伝統宗教)
孟子が高子に向かっていわれた。「山の嶺の細い小路も、絶えずきまってそこを人が通れば、やがては路らしい路になるものだが、それも暫くの間、通らないでいると、また茅などの雑草が生い茂って、路を塞いでしまう。……もう今では、茅がお前の心を塞いでしまっているぞ。」
孟子V1I.B.21 (儒教)
天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。早速、五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。
さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。「御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。」主人は言った。「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。」
次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。「御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。」主人は言った。「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。」
ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。「御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。」主人は答えた。「怠け者の悪い僕だ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。それなら、私の金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」
マタイによる福音書25.14 ~ 30 (キリスト教)
孔子のことば。小人は不仁を恥とせず、不義を畏れず、利益があると見なければ一生懸命にならず、刑罰で威しつけなければ懲りない。してみれば小さく懲らして大きな誡めを与えることは、小人にとってもしあわせのことなのである。易に「校を履いて趾を滅る。咎なし」とあるのは、このことを言ったものである。
善行も積みかさねて行かなければ名声を勝ちとるには至らぬし、悪事も積みかさねなければ身を滅ぼすには至らない。ところが小人は小さな善行などやっても無駄だと考えてやろうとせず、小さな悪事はやってもさしつかえないと考えて止めることをしない。だからやがては悪事が積みかさなって隠すことができなくなり、罪が大きくなってのがれることができなくなる。易にも「校を何いて耳を滅る。凶なり」と言ってある。
易経、周易繋辞下伝2.5.7 ~8(儒教)
一度自らにうそをつくことを許した人は、二度、三度、さらには、ついにそれが習慣になるまで簡単にうそをつくようになる。彼は深思熟考せずにうそをつき、真実を語っても世間から信用されなくなる。
トーマス・ジェファーソン
― み言選集 ―
体は心の命令に従順に屈伏しなければ、私達の個体は善化されない。しかし、実際には体が心の命令に反逆して、ちょうどカインがアベルを殺したような立場を反復するので、我々の個体は悪化されるのである。
原理講論、復帰基台摂理時代1.2
習慣的にうろうろ、行ったり来たりし、聖日も行ったり来たりする、進展もなく、ただ停止状態でついてきた人たちは、み旨のために何かを意欲的に実践した経歴がないので、人が良い、悪いと言っても、良いのか悪いのか無感覚なのです。そのように10 年を経て初めて「私はこのような位置にいるのだなあ」と恥ずかしく感じる人もしいたというのです。
(89-231 ~ 232、1976.12.1)
人は本来、悪を避けて善を追求していこうとします。私達の心は、善の世界を立て、悪の世界を除去するために常に走っていますが、その反面、私自身の中で悪の心が善の心に向かって強く作用することを、私達は自分の心を通してよく感じています。善の心を強く掲げていけばいくほど、そこに比例して悪の心が常に対決しているというのです。
また、善の心は、何かの目的に向かっていくとしても、その目的とするところをはっきりと知ることができず、目的とするその世界に向かっていくにおいても、善の心を刺激させることのできる過程や因縁を発見することが難しい反面、悪はその過程に満ちあふれていて、その過程を経て最後まで連結されています。このようなことを見るとき、真を追求する心をもった人は、孤独な生活、悲しい生活をせざるを得ない立場に追い込まれるようになっています。
(36-51 ~ 52、1970.11.15)
4) 決断
道徳的人生とは目的のある人生を意味する。そして、それは決断を必要とする人生である。自然に善になる人はいない。目的なく人生を過ごしていく人は、悪の流れに陥って溺死しやすい。私達は常に分かれ道に立つようになるが、より善の道とより悪の道がそれである。そして、その選択は私達の責任である。経典では、これを生と死、狭い門と広い門、二人の主人の間で選択しなければならない私達の決断力にかかっているという。
文鮮明先生は、人間は中間的存在であり、互いに反対方向に作用する善と悪の力によってどの方向にも引かれていくと言われる。これは、良心を通しで私達を導く神様と、自己中心の欲望を追求せよと刺激するサタンの間の葛藤であり闘争である。このような困難な状況で、自分の道を選択し守っていくことは、各個人の責任である。
― 宗教経典 ―
勝善と福楽とが人に至れる時、賢者は両事を精査して検別し、福楽を捨てて勝善を選ぶ。愚人は利養を求めて福楽を選ぶ。
カタ・ウパニシャッド1.2.2 (ヒンドゥー教)
人は常に善悪の岐路に立つ。
処世訓(PL 教団)
一つは利得に達する道であり、他の一つは安らぎにいたる道である。ブッダの弟子である修行僧はこのことわりを知って、栄誉を喜ぶな。孤独の境地にはげめ。
法句経75(仏教)
だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。
マタイによる福音書6.24 (キリスト教)
神は一つの比喩を提示したもう、多くの主人がいて互いに争う者と、ただひとりの人に完全に仕えている者と。このふたりは比べてみて同じであろうか。
クルアーン39.29(イスラーム)
見よ、私は今日、あなた達の前に祝福と呪いを置く。あなた達は、今日、私が命じるあなた達の神、主の戒めに聞き従うならば祝福を、もし、あなた達の神、主の戒めに聞き従わず、今日、私が命じる道をそれて、あなた達とは無縁であった他の神々に従うならば、呪いを受ける。
申命記11.26 ~ 28(キリスト教)
耳をもって御身たちは聞けよ最勝のことを、明らかな心をもって御身たちは見よ最勝のことを。それはひとりひとりが自分自身のためにする、選取決定に関する二種信条のことで、それというのも重大な走行に先だち、それに目ざめさしめんためです。では、睡眠を通して双生児としてあらわれた、かの始元の二霊についてであるが、両者は、心意と言語と行為において、より正善なるものと邪悪なものとであった。そして、両者のあいだに、正見者たちは正しく区別をつけたが、邪見者どもはそうではなかった。
アヴェスター・ヤスナ30.2 ~ 3(ゾロアスター教)
狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。
マタイによる福音書7.13 ~ 14(キリスト教)
悪いことが多いので、なんじを驚かせるであろうが、悪いことと善いことは同じではない。それでなんじら思慮ある者よ、神を畏れまつれ、おそらくなんじらは成功するであろう。
クルアーン5.100 (イスラーム)
われはかれのために、両目と一つの舌と二つの唇を、つくったではないか。さらに二つの道をかれに示したではないか。だがかれは、けわしい道を取ろうとせぬ。けわしい道が何であるかを、なんじに理解させるるのは何か。それは奴隷を解放し、または窮乏の日には、近い縁者の孤児、また土に伏す貧者を養うことである。それから信仰する者になって、忍耐のために励ましあい、互いに親切温情を尽くしあうことである。
クルアーン90.8 ~ 17(イスラーム)
つまらぬ快楽を捨てることによって、広大なる楽しみを見ることができるのであるなら、心ある人は広大な楽しみをのぞんで、つまらぬ快楽を捨てよ。
法句経290 (仏教)
天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。
マタイによる福音書13.44 ~ 46(キリスト教)
― み言選集 ―
善と悪が対立している世界に私達はいます。心と体を分けておいて、善と悪が互いに引っ張り合っています。悪は悪で引っ張り、善は善で引っ張ります。このように、対立した環境の中に私達人間が身をおいているのです。この境界線をどちち側に越えていくのかによって、悪になることもあり、善になることもあります。皆さんは、この境界線でさまよっているのです。
(36-55、1970.11.15)
私は善悪の分岐点です。
(109-268、1980.11.2)
元来、人間始祖が堕落しないで完成し、神と心情において一体となることができたならば、彼らは神のみに対して生活する立場におかれるはずであった。しかし、彼らは堕落してサタンと血縁関係を結んだので、一方ではまた、サタンとも対応しなければならない立場におかれるようになったのである。したがって堕落直後、まだ原罪だけがあり、他の善行も悪行も行わなかったアダムとエバは、神とも、またサタンとも対応することができる中間位置におかれるようになった。
それゆえ、アダムとエバの子孫たちもまた、そのような中間位置におかれるようになったのである。したがって、堕落社会において、イエスを信じなかった人でも、良心的な生活をした人は、このような中間位置にいるわけであるから、サタンは彼を地獄に連れていくことはできない。
しかし、いくら良心的な生活をした人でも、その人がイエスを信じない限りは、神もまた、彼を楽園に連れていくことはできないのである。それゆえにこのような霊人は、霊界に行っても、楽園でも地獄でもない中間霊界にとどまるようになるのである。
それでは、このような中間位置にいる堕落人間を、神はどのようにしたらサタンから分立させることができるであろうか。サタンは元来、血統的な因縁をもって堕落した人間に対応しているのであるから、あくまでも人間自身が、神の前に出ることのできる一つの条件を立てない限り、無条件に彼を天の側に復帰させることはできないのである。
一方においてサタンも、これまた人間の創造主が神であることを熟知しているので、堕落人間自身に再びサタンが侵入できる一つの条件が成立しない限りは、かかる人間を無条件に奪っていくことはできないのである。それゆえ、堕落人間は彼自身が善なる条件を立てたときには天の側に、悪なる条件を立てたときにはサタンの側に分立される。
原理講論、後編緒論1.1
体のいうとおりにすれば地獄と通じるのであり、心のいうとおりにすれば天国と通じるのです。天国と地獄の分岐線が私です。
(214-283、1991.2.3)
霊的な御飯を食べなければなりません。皆さんが空腹のとき、肉的な御飯と霊的な御飯のうち、どちらがよりおいしくなければならないかというと、私が生き残り、神様の側に立つためには、霊的な御飯の味が肉的な御飯の味よりもっと良くなければならず、霊的な力を中心として生きる味が、肉的な力をもって生きる味より、もっとおいしくなければなりません。
(131-211、1984.5.4)
過去のことをすべて振り返ってみる時、今となっては追憶の一言になるかもしれませんが、その時においては本当に深刻でした。自分の生涯の未来をかけて、どのように行くべきかという問題を談判する時期でした。これは人間だけの決定でなされるものではないという事実が分かったので、「神様がいらっしゃるとすれば、神様のみ意によって、人間的な考えを越えて、決定的な路程を取ることのできる道を行かなければならない」と考えたのです。
(211-135、1990.12.30)
私がなぜこのようなことをしたのでしょうか。神様を知ったからです。そうでなければ、私は世の中の人として堂々と今日のどの社会に行っても賢い人として、長として、十分に一つの国を動かすことができるこのような位置まで行ったかもしれません。そのような頭があり、そのような能力がある人です。
今も私がじっと考えれば、私の一生でたくさんの涙を流したのですが、それは誰のためでしょうか。神様です。神様を知ってからです。また、今まで苦労したというのです。それも神様を知ったからです。迫害を受け、このようなことは、すべてレバレンド・ムーンが愚かだからではありません。神様を知ったからなのです。
先生は、個人的に希望がなく、欲望がないでしょうか。青春時代にその貴いものをもたなかったでしょうか。同じです。しかし、これを無慈悲に一度切ってしまった以降には、二度と振り返りません。そうしてみると、今日のレバレンド・ムーンになました。(93-67、1977.5.1)
5) 善と悪
善と悪はどのように区別できるのだろうか。世の中には、善悪を決定できるある行動に対する正答や、それ自体に内在したり、隠された普遍的指針が存在するのだろうか。善の人と悪の人の違いは何か。
善と悪は、内的、外的に区別される。文鮮明先生のみ言を見れば、ある時は、動機を通して善悪を区分しなさいと言われる。言い換えれば、善行は良心に従って行う行為である反面、悪行は体の欲望を満足させる行為だというのである。ある時は、善悪を心の目的と意図によって区別しなさいと言われる。しかし、自分の意図とは何だったか推し量ることができないとき、明確に現れる指向点がないときは、善と悪を正確に区別することが難しい。仕事がすべて終わって実を結ぶときまで時間がかかる。したがって、文鮮明先生は、時には自分の行為が結実し、善悪が明確になるその瞬間まで、忍耐心をもって待たなければならないときもあると言われる。
このように文先生は、善悪を区別する方法に対しても語ってくださった。しかし、常に強調される客観的な一つの基準がある。善は利他的であり、人のために生きることであり、悪は自己中心的だということである。
1. 善は利他的なものであり、悪は利己的欲望を満たすこと
― 宗教経典 ―
行為はブラフマンから生ずると知れ。ブラフマンは不滅の存在から生ずる。それ故、遍在するブラフマンは、常に祭祀において確立する。このように回転する〔祭祀の〕車輪(チャクラ)を、この世で回転させ続けぬ人、感官に楽しむ罪ある人は、アルジュナよ、空しく生きる人だ。
バガヴァッド、ギーター3.15 ~ 16(ヒンドゥー教)
かれらのうちには、自ら魂を誤った者あり、中間の道をとる者もあり、またかれらのうち、ある者は、神の許しのもとに、種々の善い行いに率先する者もある。それは、偉大な恩恵である。
クルアーン35.32 (イスラーム)
どんな場合にも、輪廻の中の楽のみを、自らのために求めているもの、彼等が下士の衆生であると知られる。生存の中の楽を顧みず、悪業から離れることを自らだけのために求めている者、こうした衆生が中士と言われる。自らに結びついている苦によって、他のあらゆる苦を取り除こうと常に願っている者、こうした衆生は上士である。
菩提道灯論(仏教)
人間には四つの性稟がある。「私のものは私のものであり、あなたのものはあなたのものだ」という者は平均の人である。ある人はこれがソドム人の性稟だと言う。「私のものはあなたのものであり、あなたのものは私のものだ」という者は規律を知らない人である。「私のものもあなたのものであり、あなたのものもあなたのものだ」という者は聖人である。「あなたのものも私のものであり、私のものも私のものである」という者は邪悪な人である。
ミシュナ、アヴォート5.13 (ユダヤ教)
ラーフラよ、もしそなたが身による行為をなしたいと思うならば、そなたはその身の行為についてよく観察すべきです。〈私がなしたいと思っているこの身による行為は、自己を害することになりはしないか、他者をも害することになりはしないか、両者ともに害するものになりはしないか、この身の行為は不善のもの、苦を生むもの、苦の果のあるものではないか〉と。
ラーフラよ、もしそなたが観察しながら、〈私がなしたいと思っているこの身による行為は、自己を害することになる、他者をも害することになる、両者ともに害することになる、この身の行為は不善のもの、苦を生むもの、苦の果のあるものである〉と知るならば、ラーフラよ、そなたはそのような身による行為を、けっしてなすべきではありません。
阿含経中部i.415 (仏教)
自分のために他者を害するなら、地獄などで苦しむこととなる。他者のために自分が害を受けるなら、あらゆる円満を得ることになる。自分が高い地位を望むなら、それによって悪趣、低劣、愚かとなり、それを他者に移すなら、善趣と名誉を得る。自分のために、他者を使うなら、〔後に〕奴隷などを経験しなければならない。他者のために自分か働けば、〔後に〕支配者などを経験することになる。
菩提行論、禅定波羅蜜8.126 ~ 128 (仏教)
創造者を共同の起源とする神々と悪魔たちは、互いにライバルだった。ゆえに、悪魔たちが自慢げに言った。「どこに供え物を置くべきか」。そして自分たちの口に供え物を入れた。神々はそれぞれ自分の友の口に供え物を入れた。すると創造主は彼らに自らを与えた。(注3)
シャタパタ・ブラーフマナ5.1.1.1~2(ヒンドゥー教)
人は誰でも創造的利他主義の光の中で道を歩いていくのか、あるいは破壊的利己主義の暗闇の中で歩いていくのかを選択しなければなりません。これは審判です。人生において絶えず訪れてくる最も差し迫った質問は、「あなたは人のために何をしているのか」です。
マーティン・ルーサー・キング・ジュニア(キリスト教)
正否の物差しは最大多数の最大幸福である。
ジェレミ・ベンサム(注4)(ヒューマニズム)
― み言選集 ―
悪と善の方向はどのように違うのでしょうか。善は常に絶対者であられる神様を中心として相対的立場に立つのであり、悪は自分を中心として主体的な位置に立つのです。善のものとは何でしょうか。自分を犠牲にして全体目的にプラスになるようにするのが善です。それでは、悪は何でしょうか。全体を自分に引っ張り込むようにするのです。善と悪は方向が異なるのです。体はすべて自分が願うことばかりをしようとし、心はすべて体が願うことをできないようにしようとするのです。方向が異なります。
(16-137、1966.1.22)
それでは、今人間たちにとって一番の問題になることは何かというと、善とは何であり、悪とは何かということですが、その基準が不確実だというのです。神様と私の関係を知ったので、その関係が一致して、悪とは何であり、善とは何かということをはっきりと根本から区別しておかなければなりません。悪は何ですか。悪の定義とは何ですか。サタンが讒訴する条件を提示するのが悪です。皆さんはそれを知らなければなりません。罪とは何ですか。サタンが讒訴し、そこに関係を結べる内容をもてば罪です。キリスト教徒たちは、罪の根を
すべて知らなければなりません。
悪の出発は、サタン自身もそうであり、エバ自身も「私が主体になってみよう。私が中心になろう」と考えながら、自分を誇ることから始まったのです。主体のためにいなければならないにもかかわらず、「私のためにいなさい。私のためにいなさい」と言いました。これが悪です。神様の創造原則は対象のためにいることであり、対象を否定し、「私のためにいなさい」、このようになったのです。これを根本にしました。
皆さんは、善悪の起源をはっきりと知らなければなりません。悪の人は何かというと、「私のために生きなさい。すべて私のところに来て屈服しなさい」というのです。神様もこれをたたきつぶさなければならず、イエス様もこれをたたきつぶさなければなりません。ですから、「驕慢になってはいけない。自分の利益を求めてはいけない。人のために犠牲になりなさい。奉仕しなさい」と言ったのです。すべて反対です。
(69-85、1973.10.20)
皆さんが善の人なのか、悪の人なのかを何によって判定するのですか。個人主義的な存在か、公的な存在かに、今日の人倫道徳の基準を立てたのです。善の人は人のために犠牲になる人であり、悪の人は人を搾取する人だということです。教育の標準をそのように立てているのです。
(102-234、1979.1.1)
この世の中には2種類の人がいます。一つは世界的な考えのもとで考え、世界的な考えに従って行動する人であり、もう一つは、その反対の立場で、世界でも何でも、自分の考えどおりに行動する人です。人々は、世界を考えて行動することを好みません。いつでも自分を中心として考えたがるのです。自分を中心として考え、自分を中心として行動するのが人間だというのです。一人は歴史的な世界の聖人たちを考え、その国の愛国者を考え、現世に暮らす有名な人を尊敬し、その道に従っていこうとする人であり、もう一人は、聖人であれ愛国者であれこの時代の指導者であれ、気にせずに「私」を中心として動かなければならないと考える人です。
皆さんはどちらの人ですか。どちらを好みますか。相対を中心とする人生が必要ですか、自分中心的な人生が必要ですか。どちらが皆さんの実際ですか。(相対を中心とするものです)。答えは正しいですが、考えは違います。(考えもそうです)。しかし、実際には自己中心的な道を行っています。いつでも自分を中心としていこうとすることが問題です。それが実際であり事実です。
(117-214 ~ 215、1982.3.7)
世界の人類を、善の基準を標準として三種類に分類すれば、反対の人、善を知りながらも積極的に出て自分のものとすることなく緩衝地帯に住んでいる人、そして、善を私の責任としてなそうとする人に分けられる。み旨の前には、最後の人が必要なのである。
御旨の道、人格
善の人とはどのような人でしょうか。様々に定義できますが、一つには、受けたものを踏み倒す人は悪の人であり、受けたものに対して、プラスして施す人は善の人であるというのです。ですから、子女が自分よりも劣ることを願う父母はいません。優れていることを願うのです。
(315-210、2000.2.2)
アメリカが言うには、「ああ! 世界のことは知らない。私達の国のためだけに生きればよい」、これでは世界の公法に引っ掛かります。アメリカは、今まで世界の人たちに相当仰がれてきましたが、最近はみな、「アメリカ人」どいえば首を振ります。
なぜそうするのでしょうか。今日、カーター大統領といえば、カーター大統領が本当にアメリカの願う大統領か、あるいはアメリカが願わない大統領かという問題を考えるとき、カーター大統領が自分を中心として考えるのか、アメリカを中心として考えるのか、また自分の選挙のために行動するのか、将来のアメリカのために行動するのか、このような問題を中心としてすべて悪のものと善のものが分かれます。アメリカ大統領としてカーターがアメくリカの利益のためにすれば、それはアメリカ内でのみ大統領になりますが、世界を中心として見るとき、世界が公認し、世界の利益になるようにすれば、世界に影響を与えた大統領として、世界が仰ぐアメリカ大統領になれます。そのようにできなければ、世界の制裁を受けるアメリカ大統領になるのです。
このような観点から見れば、人間には必ず法があります。ですから、審判が残るのです。それでは、そこに引っ掛かる張本人は何ですか。その根本とは何ですか。自己中心、自分の考えです。自分を中心とするところですべて引っ掛かります。それは間違いありません。それでは、私達が「世の中の法に引っ掛からない人になる」と自信をもっていくとすれば、どのようにすれば引っ掛からないのですか。「自分のために生きる」、このような人は至る所で引っ掛かります。「自分よりもっと大きなもののために生きる」、このようにするときは、すべての法から解放されます。すべての法で解放されるのです。
(93-302、1977.6.12)
2. 善悪は心の意図によって決定される
― 宗教経典 ―
悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。これが人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない。
マタイによる福音書15.19 ~ 20(キリスト教)
どうして行為それ自体に善悪の分別があり得ようか。ただ善の意志によって行われる行為を善行と名づけ、悪の意志によって行われる行為を悪行と名づけるだけである。……霊魂を清浄にする行為や、それによって霊魂が清浄になる行為を美徳といい、常に心に平穏をもたらしてくれる。しかし、霊魂が善を遠ざけていくようにする行為は悪行であり、それはただ心の不安を企てるだけである。
プーヅャパーダサルヴァルタシッディ6.3(ジャイナ教)
もしも手に傷が無いならば、その人は手で毒をとり去ることもできるであろう。傷の無い人に、毒は及ばない。悪をなさない人には、悪の及ぶことがない。
法句経124 (仏教)
― み言選集 ―
本来、善と悪は一点から出発しました。一点から出発したのですが、その一点とは何かというと愛です。
(26-282、1969.11.10)
心と体でできた、二重構造になっている自分を分別してみれば、良心は善の立場にいて、肉身は悪の立場にいます。
(227-46、1992.2.10)
心の方向と方法によって善が生じることもあり、悪が生じることもあります。心という根本がどの方向と方法に行くのかによって善と悪が分かれるようになります。
(37-116、1970.12.23)
すべて正しいというのですが、その中で誰が善の側であり、誰が悪の側ですか。境界線があります。自分がいる位置以上のものを中心として、上のために生きようという人は善側の位置に立つのであり、自分のためにより低いものについていこうという人は悪側の位置に立つのです。官職にある人が国のために生きなければならない立場であるにもかかわらず、自分の家庭ばかりのために生きれば悪になるのです。
(170-175 ~ 176、1987.11.15)
善はどこから出発するのですか。善は自分から出発するものではありません。善はどこから出発するのかという問題を考えてみるとき、自分から出発することはできません。善というものは、必ず相対のために生きるところから出発するのです。自分のために生きるのではなく、相対のために生きるところから善が出発すると見ざるを得ません。
ですから、「善の人」といえば、自分を中心として出発しようとする人ではなく、人のために生きようとし、人のために努力し、人のために活動する人なのです。そのような人を私達は生活する中や死に臨む場で、「あの人は善の人だ」と普遍的に言います。ですから、善は自分のために出発する立場ではなく、人のために出発する立場であることを私達はここで決定できます。
悪は何でしょうか。「すべてのものは私のために存在せよ。すべてのものの出発は、私のためになければならない」と言います。このような立場が悪の立場です。善と悪がどのように分岐線を引いて分かれるのかというと、人のために生きようとするところは善がとどまるのであり、私を中心とするところは悪がとどまることを私達は知らなければなりません。
私達の心を見てみれば、その心は常に善の心に、善の方向に導こうとします。「人のために奉仕しなさい。人に慈愛心をもちなさい。人のために犠牲になりなさい。人のために生きなさい」というのです。これが善の行く道です。
(65-13 ~ 14、1972.11.13)
3. 善悪は個人の生活様式に現れる
― 宗教経典 ―
あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。
マタイによる福音書7.16 ~ 20(キリスト教)
まことに神は公正と善行、ならびに近親に対する贈与を命じたまい、また一切の醜行と邪悪ならびに違反を禁じたもう。かれは勧告している、おそらなんじらは訓戒に留意するであろう。
クルアーン16.90 (イスラーム)
肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。
ガラテヤの信徒への手紙5.19 ~ 23(キリスト教)
神の使徒が次のように言った。「人々を天国に入れる最も普遍的な行為が何か知っているか。それは神に対する畏敬と良い性稟である。それでは、地獄に入る最も普遍的なものは何か。それは二つのむなしいものであるが、口と隠密な部分である」。
ティルミディーおよびイブン・マージャ・ハディース(イスラーム)
庶民というものは自分から罪を犯すのである。人の家に押し込んだり、人の物を奪ったり、かすめ取ったり、財貨のために人を殺してしまったりして、悪事のためには、取り乱して死を恐れることもない。それでいて、庶民は刑罰を受けると、怨まない者はないのである。王は、ことばを改め、つづいておおせられた。
「封よ、最大の悪事で最も憎むべきことは、何といっても不幸と不友とである。子がその父の始めた事業に慎んで従わないで、その父の心を甚だしく傷つけるならば、その父もその子を慈しむことができないで、かえってその子を憎むことになるであろう。また、弟が天の定めた自分よりも目上であることを敬わないで、その兄に従順であることができないならば、兄もまた幼い者に対するあわれみを心にかけないで、その弟に甚だしく不友となるであろう。こうなっても、わが官長がそれらの人を服罪させないならば、天がわが人民に与えた恒久の道義が、大いに乱れてしまうであろう。されば、文王のお定めになった刑罰の規定に速やかに則って、大法に従わない者を赦すことがないようにせよ。」
書経5.9 (儒教)
大人は生きるために飲み食いする反面、小人は飲み食いするために生きる。
ソクラテス(注5)(ヘレニズム)
― み言選集 ―
善とは何でしょうか。自分を中心として自分のために生きようとする所では、善の種は出てくることができません。自分を中心として利益を得ようという群れの中には善の種がないというのです。自分を中心として自分を利用しようとする人は悪の人です。人の負債に責任をもってあげる人は善の人です。
(41-91, 1971.2.12)
善悪というものは、思いの中で決定されるものではありません。善悪というものは生活圏内で決定されます。天国と地獄は、皆さんの観念の世界で決定されるのではなく、生活舞台で決定されるのです。これは重要なことです。
(40-294 ~ 295、1971.2.7)
悪は強要することです。道理に従うのではなく、道理に逆らって行動することです。ですから、弾圧であり、恐怖であり、恐喝であり、脅迫であり、生命を威嚇していくのです。
(60-61、1972.8.6)
すべてのことには、始まりがあれば終わりがあるようになっています。善いことであれ、悪いことであれ、始まりがあればいつかは終わりがあるのです。善いことは歴史が長いので結末が遅く現れますが、悪いことであるほど結末が早く現れます。善のものは永遠と歩調を合わせますが、悪のものは瞬間と歩調を合わせます。滅びる行為は瞬間に陶酔しますが、栄える行為は永遠に陶酔します。永遠に酔うことができる行為の基盤は、体ではなく心です。
(18-64 ~ 65、1967.5.21)
善悪をどのように決定するのでしょうか。善はより公的な立場にあるものであり、悪は私的な立場にあるものです。忠臣や烈女も、すべてこの基準によって決定します。より大きなもののために生きれば生きるほど、より一層善になります。悪は個人を中心とするものです。善はより大きなものを尋ね求めていくものなので、家庭を中心としていかなければなりません。ですから、皆さんは男性なら男性として結婚して家庭を求めなければならないのです。家庭を求めたのちに、その村で称賛を受けようとします。このように、個人が家庭を求めたのちに氏族を求めなければならず、民族を求めなければならず、国家を求めなければならず、世界を求めなければなりません。
(31-236、1970.6.4)
6) 個人の責任
責任は人間を人間らしくしてくれる核心である。ほかの被造物にも、生命、意識、さらには知能がある。しかし、唯一、人間にだけ生き方、すなわち運命を選択する責任が与えられた。個人に責任があるという話は、自己批判の側面が内包されているのである。自分の困難に対して人を批判するのではなく、自分の中から原因を探し出さなければならないということである。
たとえ人間の責任に対する定義とその限界に差があったとしても、信仰と実践の側面を見てみるとき、あらゆる世界の宗教はこの点を強調している。仏教やその他の唯一神を信じない諸宗教は、解脱の旅程を全的に個人の責任と見ている。自分自身が「自分を照らしてくれる灯台」である。自分が自分を救援するのである。仏陀とムハンマドが、自分たちが救世主と呼ばれることを拒否したように、彼らは自分自身ではない救世主に全的に依存することを拒否している。
反面、唯一神信仰によれば、恩寵以前にまずなければならないことは個人の責任分担である。個人の救援のために努力するとき、初めて神様もその中で共にいらっしゃることができる。救援は天から来る贈り物だが、それを拒否せずに受容するのは人間の責任である。文鮮明先生は、この関係を数字で表現し、95パーセントが神様の責任分担、5 パーセントが人間の責任分担だと言われる。このような脈絡から見るとき、責任こそ人間を人間らしくしてくれるものである。これはすなわち、私達が完成するために各自の役割を果たさなければならないということである。さらには、神様の創造の役事を完成するためにも、人間自身の責任が要求されるという意味にもなる。この責任には、神様が私達人間に自由を与えてくださったという意味が内在されているが、これは神様が人間の堕落行為に干渉できなかった理由を説明する重要な端緒になる。
多くの宗教で、個人の運命が少なくとも部分的にある超越的な力によって決定されると信じている。その力は、神様の予定、過去の業、または相続した罪の荷などで表現される。しかし、いくつかの経典では、このような条件が個人の責任に対する侵害だという概念に反対する。運命論を拒否する人たちは、一瞬一瞬、自分の責任を果たせば、より良い機会が自分に訪れでくると信じている。文鮮明先生は、さらに一人の個人は過去の先祖たちの結実だと語られる。したがって、自分の責任を果たすことは、個人だけでなく、多くの先祖たちにも有益なのである。
1. 各個人は自分自身に対して責任をもつ
― 宗教経典 ―
もし私が私自身のために生きなければ、誰が私のために生きてくれるか。私が私のために存在するときに、現在の私がいるのではないか。今でなければ、いつ私自身のために生きるのか。
ミシュナ、アヴォートM4(ユダヤ教)
信仰する者よ、なんじら自身を守る責任は、なんじらにあるのだ。
クルアーン5.105 (イスラーム)
みずから自分を励ませ。みずから自分を反省せよ。修行僧よ。自己を護り、正しい念いをたもてば、汝は安楽に住するであろう。実に自己の主である。自己は自分の帰趨である。故に自分をととのえよ。商人が良い馬を調教するように。
法句経379 ~ 380(仏教)
善い行いをなす者は己れを益し、悪い行いをなす者は己れをそこなう、なんじらの主は、そのしもべを不正に遇したまわぬ。
クルアーン41.46 (イスラーム)
恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。
ピリピの信徒への手紙2.12(キリスト教)
それぞれの人は自分の自我に対して責任をもっている。あなた達は自らを明かりとし、自らを帰依所としなければならず、人の助けに依存してはならない。法を明かりとし、あなた以外に他の所で帰依所を求めてはならない。比丘は自らの明かりとなり、自らの帰依所となり、絶えず自らの体と感覚と知覚と気分と概念を観察しなければならない。凡夫の欲望と挫折を征服するという信念で、常に堅固で、沈着で、正しい心構えで、このように精進しなければならない。誰でも今や私が死んだあとにこのように行い、熱心に精進すれば、彼は最上の中の最上になるだろう。
阿含経長部2.99 ~ 100 (仏教)
我々の神、主は、ホレブで我々と契約を結ばれた。主はこの契約を我々の先祖と結ばれたのではなく、今ここに生きている我々すべてと結ばれた。
申命記5.2 ~ 3(キリスト教)
自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか? 自己をよくととのえたならば、得難き主を得る。
法句経160 (仏教)
「わたくしは、神々と人間との世界において何ものをも所有せずにふるまうバラモンを見ます。あまねく見る方よ。わたくしはあなたを礼拝いたします。シャカ族の方よ。わたくしを諸々の疑惑から解き放ちたまえ。」 「ドータカよ。わたくしは世間におけるいかなる疑惑者をも解脱させ得ないであろう。ただそなたが最上の真理を知るならば、それによって、そなたはこの煩悩の激流を渡るであろう。」
スッタニパータ10.63 ~ 64(仏教)
友よ、私は、世界の終極に達しないで苦しみを消滅する、と説くのではない。そうではなくて、意識もそなえ心もあるこの一尋の身体に即して、世界そのものと、世界の生起と、世界の止滅と、世界の止滅にみちびく道とを説示するのである。
阿含経相応部i,62 (仏教)
(神がアダムに)「われわれは定まった座も、固有の姿形も、おまえ自身に特有ないかなる贈物も、おおアダムよ、おまえにあたえなかった。それというのも、おまえの願い、おまえの意向にしたがって、おまえが自分で選ぶその座、その姿形、その贈物を、おまえが得て、所有せんがためである。他のものたちの限定された本性は、われわれによって規定された法の中に抑制されている。……おまえは、獣であるところのより下位のものに堕落することもできるであろうし、おまえの意向しだいでは、神的なものであるところのより上位のものに再生されることもできるであろう」
ピコ・デッラ・ミランドラ(注6)(キリスト教)
人生におけるもっとも大きな仕事は、人が自分自身に誕生を与えることであり、自分の内にある可能性を実現させることである。人間が努力して作り上げるもっとも重要な労作は、自分自身のパーソナリティーの形成である。
エーリヒ・フロム(注7)(ヒューマニズム)
― み言選集 ―
信仰生活は、必ず第三者の立場から抜け出さなければなりません。皆さんは今、先生に従っていますが、先生を中心として信仰生活をするのではありません。皆さん自身を中心として信仰生活をするのです。ですから、信仰生活をする人には、人がどうであろうと、自分一人が守っていくべき信仰の道があるのです。
(153-136、1963.11.15)
荒野を越えて、このように小さな家でも建てることができるようになります。摩天楼のように大きくはなくても、皆さんのモデル型の家を建てることができるというのです。それを皆さん自身で建てなければなりません。誰も助けてくれません。自立しなさい。そのようにして、ほかの人々を助けてあげなさい。死地に落ちてはいけません。どれほど困難であっても、毎日一つずつプラスしなさい。そして、一つずつ投入しなさいというのです。今まで神様も、そのようにして投入して忘れるという生活をしてこられました。それが神様の伝統です。
(248-134、1993.8.1)
どのようにしなければならないかは、皆さんがもっとよく知っているのです。その道は私が行く道ではありません。
(36-31、1970.11.8)
直接主管圏と原理結果主管圏、そのときまで成長して上がっていき、成熟するときまでにならなければ、愛が分からないというのです。
(137-100、1985.12.24)
万物は原理自体の主管性、または自律性により、成長期間(間接主管圏)を経過することによって完成する。けれども、人間は原理自体の主管性や自律性だけでなく、それ自身の責任分担を全うしながら、この期間を経過して完成するように創造された。すなわち、「それを取って食べると、きっと死ぬであろう」(創2・17)と言われた神のみ言を見れば、人間始祖が神のこのみ言を信じて、取って食べずに完成するか、あるいはそのみ言を信ぜずに、取って食べて堕落するかは、神の側に責任があるのではなく、人間自身の責任にかかっていたのである。したがって、人間が完成するか否かは、神の創造の能力にだけかかっていたのではなく、人間自身の責任遂行いかんによっても決定されるようになっていたのである。
それゆえに、人間は神の創造主としての責任分担に対して、人間自身の責任分担を全うしながら、この成長期間(間接主管圏)をみな経過して、完成するように創造されていたのである。したがって、その責任分担については神が干渉してはならないのである。このように、人間がそれ自身の責任分担を完遂して初めて完成されるように創造されたのは、人間が神も干渉できない責任分担を完遂することによって、神の創造性までも似るようにし、また、神の創造の偉業に加担させることによって、ちょうど創造主である神が人間を主管なさるそのごとくに、人間も創造主の立場で万物を主管することができる主人の権限をもつようにするためであった(創1・28)。人間が万物と違う点は、正にここにあるのである。
原理講論、創造原理5.2.2
生命の道は、誰かが勧告して行く道ではなく、誰かが導いてくれて行く道でもありません。自分自らこれを消化しなくては行けないという事実を、私達はことさら分からなければなりません。空腹のときは私自身が食べなければならず、孤独なときは、これを解くために一つの主体的な立場に立って、偉人になり得る資格を備えなければなりません。
そのようにすることが、自然の道理であることを思うのでございます。私が生きていくにおいても、自分自ら主体の位置に立たなければならないことを知らなければなりません。受動的な立場に立ってはならないということをはっきり知り、自分自ら誓いながら生命の力を加えていくことのできる、あなたの息子、娘たちとなるようにしてくださいますことを懇切にお願い申し上げます。
(42-90、1971.2.28)
2. 責任は人間に対する神様の贈り物であり配慮
― 宗教経典 ―
主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」
創世記2.15 ~ 17(キリスト教)
ラビ・アキバは言った。「人は愛を受ける存在だ。彼らが神の形どおりに創造されたからである。しかし、創世記9章6節に『人は神にかたどって造られたからだ。』と教えてくださるように、格別な愛で人にこの事実を知らせてくださった](注8)
ミシュナ、アヴォート3.18 (ユダヤ教)
天への恐れ以外、すべて天にかかっている。
タルムード、ブラホート33b (ユダヤ教)
主なる神である私は、モーセに語って言った。「あなたが私の独り子の名によって命じたあのサタンは、初めからいた者である。彼は私の前に来て言った。『御覧ください。私がここにいます。私をお遣わしください。私はあなたの子となりましょう。そして、私は全人類を贖って、一人も失われないようにしましょう。必ず私はそうします。ですから、私にあなたの誉れを与えてください。」しかし見よ、初めから私が愛し選んだ者である私の愛する子は、私に『父よ、あなたの御心が行われ、栄光はとこしえにあなたのものでありますように』と言った。あのサタンは私に背いて、主なる神である私が与えた、人の選択の自由を損なおうとしたので、また私の力を自分に与えるように求めたので、私は独り子の力によって彼を投げ落とさせた。そして、彼はサタン、すなわち、あらゆる偽りの父である悪魔となって、人々を欺き、惑わし、またまことに、私の声を聴こうとしないすべての者を自分の意のままにとりこにする者となった。(注9)
高価なる真珠、モーセ書4.1 ~ 4(末日聖徒イエス・キリスト教会)
いったいだれが、天使や人間の堕落を防ぐ権能が神にはなかったとあえて信じたり、語ったりするだろうか。しかし神はこれを彼らの権能力ら除こうとはせず、むしろそうすることによって、彼らの高慢の悪と神の恩恵の善がどれほど大きいかを示そうとしたのである。
アウグスティヌス神の国14.27 (キリスト教)
― み言選集 ―
人間の完成を願う神様は、真の愛を中心として人間と一体となる条件が必要でした。それで、神様は人間始祖に下さる戒めが必要だったのです。人間が成長期間を育っていく未完成段階にいたことを御存じで、神様は子女である人間に最も貴い真の愛を相続させてあげようとなさる条件が、戒めでした。
(277-197、1996.4.16)
神が人間に対して、その創造性に似るようにし、被造世界の主人として立て、一番愛するための条件として、人間の責任分担を立てられた。
原理講論、予定論4
統一教会の教会員は、責任分担という言葉を言います。人間がより価値のある内容をもつことができるのも、この責任分担があるからだということを私達は原理を通して学んでいます。もし、アダムとエバが責任分担を完遂していれば、私達には恨という言葉は残っていなかったでしょう。もし責任分担を完遂していれば、人間と天使世界、全被造世界は、喜びと栄光の中で神様の主管を受けるようになっていたのです。これが原則だったということも知っています。
(63-320、1972.10.22)
神様は、どうして人生の中に責任分担を下さったのでしょうか。全知全能なる方なので、その全知全能な創造性までも賦与し、また永遠不変な愛の主体であられるので、その愛の主体を代表することのできる位置に立てるために責任分担を下さらざるを得なかったのです。これは福の条件になります。全体を占領することのできる一つの鍵のようなものなので、これを下さらざるを得なかったのです。しかし、この責任分担が問題になり、堕落したということを私達は知らなければなりません。
(20-210, 1968.6.9)
創造原理によれば、神は人間が神の創造性に似ることによって、あたかも神御自身が人間を主管されるように人間は万物世界を主管するように創造されたのである。そこで、人間が神の創造性に似るためには、人間自身がその責任分担を遂行しながら成長し、完成しなければならない。このような成長期間を、我々は間接主管圏、あるいは、原理結果主管圏というのである。それゆえに、人間がこの圏内にいるときには、彼ら自身の責任分担を完遂させるため、神は彼らを直接的に主管してはならないのである。そして、神は人間が完成したのちにおいて、初めて彼らを直接主管されるようになっているのである。
原理講論、堕落論6.1
3. 責任をもつ人は不平を言わずに生活環境を消化する
― 宗教経典 ―
毒からすら甘露(アムリタ)は得られ得る。子供からすら金言が、敵からすら善行が、不純物からすら金が〔得られ得る〕。
マヌ法典2.239 (ヒンドゥー教)
主の言葉が私に臨んだ。「お前たちがイスラエルの地で、このことわざを繰り返し口にしているのはどういうことか。「先祖が酢いぶどうを食べれば子孫の歯が浮く』と。私は生きている、と主なる神は言われる。お前たちはイスラエルにおいて、このことわざを二度と口にすることはない。すべての命は私のものである。父の命も子の命も、同様に私のものである。罪を犯した者、その人が死ぬ。……
それなのにお前たちは、『なぜ、子は父の罪を負わないのか』と言う。しかし、その子は正義と恵みの業を行い、私の掟をことごとく守り、行ったのだから、必ず生きる。罪を犯した本人が死ぬのであって、子は父の罪を負わず、父もまた子の罪を負うことはない。正しい人の正しさはその人だけのものであり、悪人の悪もその人だけのものである。……それゆえ、イスラエルの家よ。私はお前たちひとりひとりをその道に従って裁く、と主なる神は言われる。」(注10)
エゼキエル書18.1 ~ 30(キリスト教)
一類の沙門、婆羅門あり、是の如く説き、是の如く見る、凡てこの士夫人は或は楽、或は苦、或は非苦非楽を領受す、この一切の因は前生に作れり、と……我は彼の処に至りて是の如く説く……前生に因を作りしが故に當に殺生すべし……取るべし……非梵行を行ふべし……妄語すべし……離間語すべし……荒悪語すべし……雑穢語すべし……貪欲者なるべし……瞋恚者なるべし……邪見者なるべし……復前生の所作を堅実なりと執する人々には、是は作さるべし、或は是は作さる可らずと云ふ欲も無く、又精進も無し。復是の如く作さるべきと作さる可らざるとが実に確に知られざるときに、失念して護る所無く住する人々が、自ら沙門なりと称することは理由無きこと……凡てこの士夫人は或は楽、或は苦、或は非苦非楽を領受す、この一切の因は神の化作なり、と是の如く説き、是の如く見るならば、我は彼の処に至りて是の如く説く、……
神の化作の因により當に殺生すべし……邪見者たるべし……堅実なりと執する人々は、此は作さるべし、或は此は作さる可らずと云ふ欲も無く、又精進も無く、復是の如く作さるべきと、作さる可らざるとが実に確に知られざるときに、失念して護る所無く、住する人々が、自ら沙門なりと称することは理由なきことなり。(注11)
阿含経増支部i.1.73 ~ 74(仏教)
孔子が言われた、「弓射は君子(の道)に似たところがある。的に当たらなければ、かえって自身を責めるのである」と。
中庸14(儒教)
人は生来的に原因になることを願う。(注12)彼は悪い結果にならないように努力する。あなたは人々を助けようと努力し、人々はあなたを助けようと努力する。あなたと彼らは原因となることを願うからである。悪いことが起きるとき、あなたも彼らも原因になろうとしない。またあなたは結果になろうと願う。そのとき、あなたは悪い結果を発見する。あなたは結果にならないように努力する。ゆえにそのとき、あなたはあるものやある人を非難する。
プリ・クリアーのためのハンドブック(サイエントロジー)
自己の能力を知っている者は、事に当たっても決して人を怨むことがない。世の中のめぐり行きをよく知ってこれを確信している者は、決して本来頼るべきでない天を怨みはしない。己の反省努力を忘れて他人を怨む者は困窮し、本来すこしも作為のない天を怨む者は、まったく無知であるというべきである。自己の不徳によつて失敗しておきながら、反って他人に失敗の原因を求めようとすることは、まことに事情にうといと言うべきではなかろうか。
荀子(儒教)
― み言選集 ―
問題は誰かということ私です。ほかのところにあるのではありません。ところが、皆さんは世の中に対して不平を言います。「滅びる世の中になった」という言葉は、「私は滅びない人だが、私以外の世の中だけ滅びるときになった」という立場で言う言葉です。悪いことはすべて世の中のせいにして不平を言い、良いことはすべて自分に返して喜びます。これが問題です。世の中が間違っていると不平を言う前に、自分が間違っていることを知らなければならないのです。
(140-25、1986.2.1)
父も祖父もすべて私の隊列に立ち、天意による冥府の先祖に代わって生死の岐路で決断しなければなりません。それで、過去の失敗のすべての傷をなくし、新しい天地に足をおくことができなければなりません。
(310-126、1999.6.15)
皆さんがきょうこの場に至るまで数十万年の歴史がありました。数多くの国と数億万の人の犠牲の代価を払った基盤の上に皆さんがいるのです。彼らの元素の一つ一つが復活し、複合的な構成体のような存在として生まれたのが、正に皆さんだという事実を知らなければなりません。皆さんが責任を果たせなければ、皆さんの先祖まで共に滅びるということを知らなければなりません。
(124-77 ~ 78、1983.1.23)
皆さんが失敗者になるときは、すべて後退する道をつくりますが、あらゆる困難を克服して勝利者になるときは、皆さんの子孫たちも、「私達の先祖が行ったのだから私も行かなければならない」と言う栄光の道が築かれるという事実を知らなければなりません。
(98-213、1978.8.1)
復帰摂理歴史が長い期間を通じて、縦的に要求してきた蕩減条件を、「私」自身を中心として、横的に立てなければならない。そうすることによって、初めて「私」は復帰摂理歴史が望む結実体として立つことができるのである。したがって、我々は今までの歴史路程において、復帰摂理の目的のために立てられた預言者や義人たちが達成することのできなかった時代的使命を、今この「私」を中心として、一代において横的に蕩城復帰しなければならないのである。そうでなければ、復帰摂理の目的を完成した個体として立つことはできない。我々がこのような歴史的勝利者となるためには、預言者、義人たちに対してこられた神の心情と、彼らを召命された神の根本的な目的、そして彼らに負わされた摂理的使命が、果たしてどのようなものであったかということを詳細に知らなければならないのである。
原理講論、後編緒論3
4. 公的責任は個人の責任から始まる
― 宗教経典 ―
天下の人全てにその明徳を明らかにするようにさせたいと望んだ昔の人は、先ず、その国を治めた。その国を治めようとした人は、まず、その家をきちんとした。その家をきちんとしようとした人は、先ず、その身を修めた。その身を修めようとした人は、先ず、その(身の主宰者である)心を正しくした。その心を正しくしようとした人は、先ず、その(心の発現である)意を誠実にした。
その意を誠実にしようとした人は、先ず知(識)を推し極め(全て知り尽くそうとし)た。(我の)知(識)を推し極めるのは、事物の理を窮めて極点まで到達することにある。物(の理め極点)に到達すれば、(我が心の)知るところは全てを尽くす。
知が尽くされれば意は誠実となることができる。意が誠実であれば心は正しくなることができる。心が正しければ身が修まる。身が修まれば家がきちんとする。家がきちんとすれば国が治まる。国が治まれば、天下は平らかになる。天子から庶民に至るまで、一切みな身を修めることを本とする。その本(である身)が乱れて、末が治まるなどということはない。その厚くすべきもの(家)を薄くして、薄くすべきもの(国や天下)を厚くすることはあり得ないのである。
大学(儒教)
だから、監督は、非のうちどころがなく、一人の妻の夫であり、節制し、分別があり、礼儀正しく、客を親切にもてなし、よく教えることができなければなりません。また、酒におぼれず、乱暴でなく、寛容で、争いを好まず、金銭に執着せず、自分の家庭をよく治め、常に品位を保って子供たちを従順な者に育てている人でなければなりません。自分の家庭を治めることを知らない者に、どうして神の教会の世話ができるでしょうか。
テモテヘの手紙一3.2 ~ 5(キリスト教)
もし誰かが真摯に世の中の出来事を自分の個人的な責任と考えるなら、彼らは支配者の心の正誤から始めなければならない。彼らが支配者の心を正しくすることを願うのなら、彼らは彼ら自身から始めなければならない。
朱熹(儒教)
― み言選集 ―
自分を愛さない人は神様を愛することができません。父母を愛さない人は国を愛することができません。また、自分自身を愛することができない人は、父母を愛することができません。自分自身を愛してこそ、父母を愛することができるのであり、国を愛することができるのであり、世界を愛することができるのであり、神様を愛することができるのです。
ですから、宇宙主管を願う前に自己主管をしなさいというのです。このような途方もない愛の実体である個体を主体的な立場に立てておかなければ、家庭も不可能であり、国も不可能であり、国家も世界も不可能です。ですから、自分を完全に愛することのできる人でなければ、完全な神様を愛することはできません。
(22-97 ~ 98、1969.1.26)
皆さんは、悲しみと苦痛と死の道で勝利者にならなければなりません。栄光の場で勝利者になるより、その反対の場で勝利者になってこそ、その勝利を誇ることができます。そうすれば栄光の世界はおのずと訪れるでしょう。ある地域に責任をもてば、責任をもった所にある数多くの困灘と苦痛は私のものだ、私でなければ解決されないという、信念をもって、それに責任をもつ皆さんにならなければなりません。
(14-259、1965.1.1)
自ら、自分の人格を崇拝できる人となりなさい。万物に対しても、恥ずかしくなく、崇拝を受ける感じがなければならない。その次に「私を見習いなさい」と言って、そののちに相対的な世界を見つめなさい。
御旨の道、人格
7) 予定
予定論では、人が互いに異なる財産と道徳性をもつ理由、生まれた環境と宗教に対する理解が異なる理由に関して説明する。そして、このすべての違いの原因を神様に向けている。全能であられ、すべてのことを支配なさることができ、全知であられ、未来を御覧になることができる神様が、すべてのことを予定しておいたと説明する。誰かが罪人になるということは、神様が彼をそちらに導かれたからであり、信仰の英雄になる人もやはり神様が彼に能力を下さったためにそのようになった。このように、絶対予定論では、一人の人間の永遠の宿命が救援を受けるか、地獄へ行くか、出生以前にすべて予定されているという。今後、生きていく寿命と死亡の日、すべてが既に神様の帳簿に記されているという。
運命の手を信じる人は、人生の諸事件を偶然とは見ない。起きるすべてのことは理由があるものである。明白な機会との出会いも、はるか前に神様の摂理の中で計画されたことかもしれない。突然の死や幸運も、無意味な事件ではなく、神様の摂理によって起きたことである。すべての人間の計画と設計は結実するようになっているので、そこに天のみ旨があるならば、ムスリムたちが言う「インシャラー(神様のみ旨なら)」のように、私達は一日一日を生きていきながら、神様のみ旨を知るためにあらゆる出来事を見つめ、運命の流れに自分を合わせるために常に努力することができる。
そうだとすれば、このような予定論が人間の自由意志とどのように調和を成すことができるだろうか。絶対予定論と関連し、長い間受け継いできた答えは、自由を得ようと絶えず努力するということから、人間の無知を受け入れるということである。永遠にわたって全体を御存じの神様は、既に私達の人生の結果を御存じである。しかし、それを知る道がない私達人間は、依然として最善の努力をして生きなければならない。そして、予定論に対する権威あるいくつかの教理があるが、ここでは人間の自由が運命の側面に影響を及ぼし得るとする。そして、神様を、御自身のみ旨に従って祝福も、苦難も与えることができ、私達に最善の努力をしなさいと制限された自由を下さった方だと説明する。
このような絶対予定論を拒否される文鮮明先生は相対予定論を語られる。神様はすべての人に救援を預言されたが、その運命を実現するための必要条件として人間の責任分担が必要だとされる。
1. 神様の絶対予定
― 宗教経典 ―
私は恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ。
出エジプト記33.19 (キリスト教)
まことにこれは一つの訓戒である。それでだれでも望む者には、かれの主への道をとらしめよ。だが神のおぼしめしがなければ、なんじらは欲しないであろう。まことに神は、全知者・英明者であられる。かれはみ心にかなう者を、慈悲に浴させたまい、また不義者に対しては痛烈な刑を備えたもう。
クルアーン76.29 ~ 31 (イスラーム)
神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、私達は知っています。神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。
ローマの信徒への手紙8.28 ~ 30(キリスト教)
主は行為者、すべてが彼から存在しているがゆえに、人のはかりごとが何の役に立つのか。主が意図された、そのようになるだろう。全能であられる主、妨げる者がいない。行われるすべてのことは目的なく彼の遊戯、遠い所に、また極めて近い所にいる主、主が思いはかろうとのぞき込むあらゆるもの、主は一つであり全体である。
アーディ・グラント、ガウリー・スクマニーM.5、p.279(シーク教)
それだけではなく、リベカが、一人の人、つまり私達の父イサクによって身ごもった場合にも、同じことが言えます。その子供たちがまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、「兄は弟に仕えるであろう」とリベカに告げられました。それは、自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした。「私はヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。では、どういうことになるのか。神に不義があるのか。決してそうではない。神はモーセに、「私は自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」と言っておられます。従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。
ローマの信徒への手紙9.10 ~ 16(キリスト教)
秘められたところで私は造られ、深い地の底で織りなされた。あなたには、私の骨も隠されてはいない。胎児であった私をあなたの目は見ておられた。私の日々はあなたの書にすべて記されている。まだその一日も造られないうちから。
詩編139.15 ~ 16(キリスト教)
常に真実を語り、その言葉が正しいと信じられていたアッラーの御使い、「アッラーよ、彼に祝福と平安を与えたまえ。」は、次のように述べられた。お前たちが創られるおりには、母親の腹の中で40 日間精子が宿り、それから同じ期間凝血となり、ついで同じ期間肉塊となる。その後天使が遣わされて霊を吹き込むが、この天使はさらに四つの仕事をするよう命ぜられている。つまり〔生まれてくる者の〕生業、命の長さ、行為、幸・不幸を書きとめることである。ところで唯一無二の神であるアッラーに誓って言うが、お前たちのある者は、楽園の徒の行為にいそしみ、もう少しで天国というところで、この帳簿に記されたことに災いされ、劫火の徒の行為にふけって地獄に落ちる。だがまたある者は、劫火の徒の行為にふけり、すんでのところで地獄行きというところで、帳簿に記されたことが幸いして、楽園の徒の行為にいそしみ天国に入る。
ナワウィー40 のハディース4(イスラーム)
― み言選集 ―
神様は、人を見るとき、心を見通し、過去を見て、現在を土台に未来を見ます。
(100-93、1978.10.8)
レバレンド・ムーンが生まれるとき、レバレンド・ムーンがこのようになるというある動機があって生まれ、このように育ったでしょうか、生まれてから環境を適当に行ったり来たりしながら元素を吸収してこのようになったでしょうか。もとからすべて決定されていたので、目の上の水平線上(注13)が同じであり……。レバレンド・ムーンがこのようになったのは、中間で自分が願ったからではありません。もとからこのように生じるようになっていたので、このようになったのです。レバレンド・ムーン自身も、その原則によって育ったのであって、原則に逆行して育ったのではありません。
(161-160、1987.2.1)
神は全知であられるから、いかなる人間が復帰摂理の中心人物になり得る条件(本章第3 節)を備えているかを御存じである。そこで神は復帰摂理の目的を成し遂げるために、このように、あらかじめ知っておられる人物を予定して、召命なさるのである。しかし、召命なさる神の責任分担だけでは、彼が義とされて、栄光に浴するところにまで至ることはできない。彼は召命された立場で自分の責任を完遂するとき、初めて義とされることができる。義とされたのちに、初めで神が下さる栄華に浴することができる。それゆえ、神が下さる栄華も人間が責任分担を果たすことによってのみ、受けることができるように予定されるのである。ただ、聖句には人間の責任分担に対するみ言が省略されているために、それらが、ただ、神の絶対的な予定だけでなされるように見えるのである。
原理講論、予定論4
ロマ書9章10 節から13 節には、神が胎中のときからヤコブは愛し、エサウは憎んで、更に長子エサウは、次子ヤコブに仕えるであろうと言われた。エサウとヤコブは腹中にあって、いまだ善とも悪とも、いかなる行動の結果も現すことができなかったにもかかわらず、神はエサウを憎み、ヤコブを愛したという理由はどこにあるのだろうか。
これは復帰摂理路程のプログラムを合わせるためであった。このことに関して詳しくは、後編第1章の「アブラハムの家庭を中心とする復帰摂理」において説明するが、エサウとヤコブを双生児として立たせたのは、彼らを各々、カインとアベルの立場に分立させて、アベルの立場にいるヤコブが、カインの立場にいるエサウを屈伏させることによって、アダムの家庭で、カインがアベルを殺害して達成できなかった長子の嗣業復帰のみ旨を蕩減復帰させるためであった。
したがって、エサウはカインの立場にあるので、神の憎しみを受ける立場におり、反対にヤコブはアベルの立場におり、神の愛を受けられる立場であったから、このように言われたのである。しかし、神が彼らを実際に憎むか愛するかは、あくまでも彼ら自身の責任分担遂行のいかんによって左右される問題だったのである。事実、エサウはヤコブに素直に屈伏したので、憎しみを受ける立場から、ヤコブと同じく愛の祝福を受ける立場へ移ったのである。逆に、いかに愛を受けられる立場に立たせられたヤコブであっても、もし、彼が自分の責任分担を完遂できなかったならば、彼は神の愛を受けることができないのである。
原理講論、予定論4
2. 外見上は偶然のような事件も実際には運命による作用
― 宗教経典 ―
天にいらっしゃる方の御意志に逆らう意図をもたなければ、誰もこの世で自分の指を壊すことはできない。
タルムード、フッリーン7b(ユダヤ教)
あなたが落ちる所で、あなたの神はあなたを押し出す。
イボ族の格言(アフリカ伝統宗教)
神がつくられた秩序を蹂躙した人がひっくり返すことはできない。
アカン族の格言(アフリカ伝統宗教)
アルジュナよ、あなたは本性から生ずる自己の行為に縛られている。あなたが迷妄の故に、その行為を行おうと望まないでも、否応なくそれを行うであろう。主は万物の心の中にある。その幻力(マーヤ)により万物を、からくりに乗せられたもののように回転させつつ。
バガヴァッド・ギーター18.60~61(ヒンドゥー教)
楽正子は〔御殿をさがると〕、孟子にお目にかかって言いわけをしていった。「私が殿様におすすめし、殿様もここへきて先生にお会いになるばかりでしたのに、お気に入りの近臣減倉と申すものが邪魔をしたので、にわかにお取りやめになったのです。まことに残念でなりません。」すると、孟子はいわれた。「いやいや、克よ。〔お前は魯の殿のお出ましもお取りやめも、すべて人間わざとのみ考えているが、〕人が出かけるも、取りやめるのも、みなそうさせるものがあるので、人間の力の及ぶところではない。〔そうさせる目に見えない偉大な力、すなわち天命なるものが働いているので〕わしが魯の殿に遭えないは、天命なのじゃ。減氏の子倅などの力で、どうして遭わせたり遭わせなかったり自由にできようぞ。」
孟子I.B.16(儒教)
「神のおぼしめしなら」と、つけ加えずには、何事でも「私は明日それをする」と、言ってはならない。なんじが忘れたとき、主を念じて、「私の主は、これよりも正しい道に近づくよう、お導き下さいましょう」と言え。
クルアーン18.23 ~ 24(イスラーム)
「今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、商売をして金もうけをしよう」と言う人たち、あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません。むしろ、あなたがたは、「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」と言うべきです。ところが、実際は、誇り高ぶっています。そのような誇りはすべて、悪いことです。
ヤコブの手紙4.13 ~ 16(キリスト教)
生まれた者は、結局死ぬようになっている。死んだ者は再び新しい生を得る。生きている者は、結局審判を受けることを知るようになり、知らされ、聖なるその方、神を知るようになっている。
ミシュナ、アヴォート4.29 (ユダヤ教)
時は、誰の友でもなければ誰の敵でもない。彼の現存在を生じせしめた、彼の前存在における効果が切れた時、彼は人を力ずくで奪い去る。たとえ千本の矢で突き刺されたとしても、人は自分の時が来る前に死ぬことはない。たとえ一枚の葉が一点触れただけでも、人は自分の時が過ぎたならば生きながらえることはない。薬も。呪術の文句も、焼いた供物も、祈りも、死に縛られた者や年老いた者を救うことはない。差し迫った悪は百の警戒によっても避けることはできない。ならば、汝に何の不平を言う理由があるか?
ヴィシュヌ・スムリティ20.43 ~ 46(ヒンドゥー教)
― み言選集 ―
韓国では10 月に主が来ると大騒ぎですが、主がどうして来るのですか。既に主が来て宴を行い、らっぱを吹き、披露宴をすべてしたのに、誰がまた来るというのですか。ですから、「お出まし後にらっぱを吹く(後の祭り)」という韓国のことわざがあるのです。このようなことは偶然ではありません。神様の摂理から見るとき、先生が今やっていることは偶然ではないのです。摂理のプログラムによって世界史的な意味で終結し、越えていく時代になり、今はこのようなすべてのものが終わったので、「天地合徳」という課題を立てることのできる時代が来たのです。
(228-68、1992.3.15)
これが皆さんの家庭のモットーです。きょう先生が語った、復帰歴史は再創造歴史であり、環境の中で主体と対象があり、柑対的対応関係を通して成され、個人は家庭のために、家庭は氏族のために、プラス・マイナス、投入しなければなりません。カイン的立場を救援するために、投入していかなければならないのです。統一教会の個人は家庭のために、家庭は氏族のために投入し、犠牲になりなさいというこのような論理は公式による論理であって、適切に適用させるためのものではありません。公式的な論理だということを知らなければなりません。
(267-154、1995.1.4)
ウルグアイを中心とすれば、アルゼンチンもウルグアイについていけません。スペイン系として一番純血だと思うのです。ブラジル人と結婚しないと大騒ぎです。ウルグアイはそのような自負心をもっています。血統を尊重します。それを見れば、韓国人とちょうど合います。ウルグアイの歴史にも33 人の愛国者がいて……。
100 年前の歴史が韓国の歴史と似ているのです。期間も同じです。月も同じです。それは偶然の出来事ではありません。韓国人は純血を願います。純潔を守ってきました。血筋を守ってきたのです。庶子を人並みに扱いませんでした。そのような歴史は世界にありません。庶子がいて、直系の子女がいました。庶子は人並み扱いしなかったのです。乞食よりもっと冷遇したことを知らなければなりません。それは、なぜそうしたのかというのです。今まで庶子に対してきた神様の悲しみを私達は知らなければならないのです。庶子の立場を求めていく……。庶子が長孫になるという……。
(302-55、1999.5.18)
3. 運命と自由意志の関係
― 宗教経典 ―
ラビ・アキバが言う。「あらゆることはすべて予見される。しかし、選択の自由が与えられる。世は恩寵によって審判される。しかし、審判は世のために奉仕の業績を残した比重によって行われる」。
ミシュナ、アヴォート3.19(ユダヤ教)
どんな災厄も、神の許しなく下ることはない、何人でも神を信仰する者は、その心を導きたもう。まことに神は、よろずのことの熟知者であられる。
クルアーン64.11(イスラーム)
わが下僕らよ、私は不正を私自身に禁じ、お前たちの間でも禁じた。それゆえ互いに不正を働いてはならぬ。わが下僕らよ、私が手ずから導いた者を除いては、すべて迷いの道を行く者である。それゆえ私に導きを求めれば、正しい導きを得られよう。わが下僕らよ、私が自ら養う者を除いてはすべて飢えに悩む者である。それゆえ私に糧を求めれば、糧食を授かるであろう。わが下僕らよ、私が衣服を与える者の他はすべて生まれたままの裸である。それゆえ私に衣服を求めれば、願いはかなえられよう。わが下僕らよ、お前たちは昼も夜も罪を犯すが、私はすべての罪の赦し手。それゆえ私に赦しを求めれば、罪も赦されよう。
ナワウィー40 のハディース24(イスラーム)
すべてのものがあなたによって成就するがゆえに、権能はあなたのもの。将棋盤の上であらゆる馬を動かすように、あなたは自らつくったこの世を見下ろしている。世に生まれたすべてのものは、また旅立たなければならない。すべて行かなければならない。どうして生と死の主人であられる主を忘却しようとするのか。(注15)
アーディ・グラント、アーサー・ディー・ヴァールM.1、p.473 ~ 474 (シーク教)
たとえ主なる神が、人間の意志の自由行為を予見なさることができても、依然として選択の自由は人間たちに残っている。神はすべての時を同時に描き、そして永遠性を通して見つめられるからである。(注16)
ボエティウス哲学の慰め(キリスト教)
― み言選集 ―
神は人間の堕落によって、創造目的を完成することができなかった。したがって、堕落した人間たちに対して摂理される神のみ旨は、あくまでも、この創造目的を復帰することにある。言い換えれば、この「み旨」は、復帰摂理の目的の完成をいうのである。神は唯一であり、永遠であり、不変であり、絶対者であられるので、神の創造目的もやはりそのようにならざるを得ない。したがって、創造目的を再び完成させようとする復帰摂理のみ旨も唯一であり、不変であり、また絶対的でなければならない。
それゆえ、このみ旨に対する予定も、また絶対的であることはいうまでもない(イザヤ46・11)。このように、み旨を絶対的なものとして予定されたのであるから、もしこのみ旨のために立てた人物がそれを完成できなかったときには、神はその代理として、他の人物を立ててでも、最後まで、このみ旨を摂理していかなければならないのである。
その例を挙げれば、アダムを中心として創造目的を完成させようとしたみ旨は達成できなかったが、このみ旨に対する予定は絶対的なので、神はイエスを後のアダムとして降臨させて、彼を中心としてみ旨を復帰させようとされた。そればかりでなく、ユダヤ人の不信によって、このみ旨がまた完成できなかったので(前編第四章第一節(二))、イエスは再臨されてまでも、このみ旨を必ず完遂することを約束なさったのである(マタイ6・27)。
原理講論、予定論1
それでは、神はみ旨成就に対して、どの程度に予定されたのだろうか。既に論じたように、復帰摂理の目的を完成させようとされるみ旨は絶対的であるが、み旨成就は、どこまでも相対的であるので、神がなさる95 パーセントの責任分担に、その中心人物が担当すべき5パーセントの責任分担が加担されて、初めて、完成されるように予定されるのである。ここで、人間の責任分担5パーセントというのは、神の責任分担に比べて、ごく小さいものであるということを表示したものである。
しかし、これが人間自身においては、100 パーセントに該当するということを知らなければならない。これに対する例を挙げれば、アダムとエバを中心としたみ旨成就は、彼らが善悪を知る果を取って食べずに、責任分担を果たすことによって、成し遂げられるように予定されたのであった。
ノアを中心とした復帰摂理も、ノアが箱舟をつくることに忠誠を尽くし、その責任分担を果たすことによってのみ、そのみ旨が完遂されるように予定されたのであった。また、イエスの救いの摂理も、堕落人間が彼をメシヤとして信奉し、責任分担を果たすことによって、初めて、そのみ旨が完成されるように予定されたのであった(ヨハネ3・16)。しかし、人間たちがこれらの小さな責任分担をも全うできなかったがゆえに神の復帰摂理は延長されたのである。
原理講論、予定論2
なされるすべてのことは、人間がいくら主張し、いくら騒いでも、この宇宙の天運が願うとおりに拍子を合わせていくようになっているのです。これを遮ることのできる力がない限り、ここに順応するようになっているのであり、ここに順応する道理に従っていく人たちは、必ずこの宇宙の運勢と共に、脈拍と共に発展していくのです。永遠に存続するでしょう。西洋の人の思いどおりにいくらやっても、思いどおりにならないというのです。
ですから、西洋の人の中で知恵深い人は、宇宙の法度に従ってそこに拍子を合わせようという人です。そのような原則的な道を行こうとする人は、再び延長してアジア、世界の文化圏に残ることができるのです。そのような話が結論になるのです。国やあるいは個人を問わず、滅びようという人がいますか、そのような国がありますか。ありません。そうです。ところが、なぜ滅びるのですか。それは誰が滅びるようにするのですか。それは私がするのではありません。この宇宙がするのです。歴史上にいる人たちは、天運の法度に従って拍子を合わせるので、残ることができ、発展することができると見るのです。誰が英雄になりたくないと思い、聖人になりたくないと思いますか。そのような人は一人もいません。
(94-19 ~ 20、1977.6.19)
8) 恩寵と努力の効果
神様の恩寵と人間の努力の関係は、トマス・アクィナスが言うように共同責任だと言うことができる。人間の努力が恩寵を呼び、その恩寵が再び私達の努力を刺激する。数多くの経典が恩寵を受ける前にまず人間の善行の努力が必要であることを強調する。「天は自らを助ける者を助けくる」、またほかのところでは、神様の恩寵が私達の応答以前にある召命や導きだと説明する。
文鮮明先生の教えによれば、神様の恩寵と権能は、摂理完成の95 パーセントを占有する。残りの5パーセントは人間の責任分担として残しておかれた。ごく小さな部分であるが、残りを人間の責任として残しておくことによって、神様は人間をして創追の偉業を共に行う共同創造者として栄光を享受するよう道を準備してくださった。
しかし、救援摂理歴史を見てみるとき、人間の責任分担の失敗や脱落によって、神様に絶望を抱かせたことが多くあった。神様は、御自身一人で一方的にこの課業を完遂なさることはできない。神様はその責任を果たされると信じることのできる方だが、人間はそうではない。したがって、人間に責任分担を下さったというのは、根本的に神様がこの宇宙の運命を私達の手に任せられたものと見ることができる。
― 宗教経典 ―
求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
マタイによる福音書7.7(キリスト教)
「道」を学ぶ者は「道」と同一になる。人が徳に達すると、その徳と同一になる、人が徳と同一になると、徳もまたおのずから人と同一になる。人が失うものと同一になると、失うものもまたおのずから人と同一になる。
道徳経(道教)
もしある人が少しでも自らを聖化させれば、彼ははるかに聖化された存在になり、もし彼が世の中で自らを聖化させれば、天の国でも聖化された自らの姿をもつようになり、現在において自らを聖化させる者は、これから到来する世の中で聖化された自らの姿をもつようになるだろう。
タルムード、ヨーマ39a(ユダヤ教)
恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。
ピリピの信徒への手紙2.12 ~ 13(キリスト教)
なんじらのうち、その言を隠してもまた現わして言っても、あるいは夜間に隠れても、また昼間公然と出かけても、(全知者・主においては)同じことである。各人には、前からも後ろからも、次から次に天使がつきまとい、神の命により見守っている。
クルアーン13.10 ~ 11(イスラーム)
私に心を向けていれば、私の恩寵により、すべての苦難を越えるであろう。もし我執により、〔私の教えを〕聞かないならば、あなたは滅亡するであろう。
バガヴァッド・ギーター18.58(ヒンドゥー教)
まことの道を知ろうとならば、正しい行がそのまま道。おのれに求道の心がなければ、暗い夜道に道が見えぬのと同じこと。
六祖壇経2(仏教)
孔子は次のように言う。祐けるとは助けるの意味である。天が助ける相手は天道に従順なる者であり、人が助ける相手は信実な者である。上九の人は信実の徳を履み行ない、天道に従順ならんことを思い、さらにまた下位の賢人を尊ぼうと心がける。さればこそ、「天よりこれを祐く、吉にして利ろしからざるなし」というのである。
易経、周易繋辞上伝1.12.1 (儒教)
神が宣言されるには、私は私の僕がもつ考えの近くにいる。そして、彼が私を回想するたびに、私は彼と共にいよう。彼が自らの中に私を覚えるとき、私も自ら彼を覚えるだろう。彼が会衆の中で私を覚えるとき、私は会衆の中にいる者たちよりも彼を記憶するだろう。彼が一歩の所に近づくとき、私は三乗で彼に近づくだろう。彼が私に向かって歩みだすとき、私は彼に駆け寄るだろう。
ハディース(イスラーム)
神は各自にその果実を取ることができる鍵を下さる。
イボ族の格言(アフリカ伝統宗教)
見よ、私は戸口に立って、たたいている。だれか私の声を聞いて戸を開ける者があれば、私は中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、私と共に食事をするであろう。
ヨハネの黙示録3.20(キリスト教)
運動は下から始まる。そしてすべてのものが完成する。イスラエルの共同体が刺激を与えることができなければ、上にいる彼らも動かないだろう。言い換えれば、下からの熱望が上からの完成をもたらすのである。
ゾハール(ユダヤ教)
そのいっさいの行為は天命と人事の配剤に左右される。両者のうち天命は人知を超える。行動は人事に属する。
マヌ法典7.205 (ヒンドゥー教)
実に祈りは良いものである。しかし、神に求めるとき、人は自ら手を貸してさしあげなければならない。
ヒポクラテス
― み言選集 ―
皆さんは、神様の創造の偉業に加担しなければなりません。もともと人間が堕落していなかったとしても、そのような責任はあるのです。堕落して人間の責任分担が設定されたのではなく、堕落していなかったとしても、人間は責任を負っているというのです。人として完成することのできる神様の95 パーセントの創造理想的形態をみな備えたとしても、自分の5パーセントの責任を完遂しなければなりません。人間自体の完成を神様がさせるのではなく、自分がそこにプラスしで完成しなければならない責任があるのです。堕落していなかったとしてもです。
(115-66、1981.11.4)
生心というのは、神が臨在される霊人体の中心部分をいうのである。霊人体は神からくる生素(陽性)と肉身からくる生力要素(陰性)の二つの要素が授受作用をする中で成長する。
原理講論、創造原理6.3.2
座して自分の身の上を嘆息する、そのようなやり方はいけません。発展できないのです。そこに神様が協助しません。毎日のように新しいものを願うのが神様です。
(327-48、2000.7.24)
神様が95 パーセントを創造し、人間は神様が計画された創造原則に協助して100 パーセント完成することによって、私達人間にも神様がみ旨を完成するところに同参したという価値を下さるのです。
(130-19、1983.12.11)
神はみ旨成就に対して、どの程度に予定されたのだろうか。既に論じたように、復帰摂理の目的を完成させようとされるみ旨は絶対的であるが、み旨成就は、どこまでも相対的であるので、神がなさる95 パーセントの責任分担に、その中心人物が担当すべき5パーセントの責任分担が加担されて、初めて、完成されるように予定されるのである。ここで、人間の責任分担5パーセントというのは、神の責任分担に比べて、ごく小さいものであるということを表示したものである。しかし、これが人間自身においては、100 パーセントに該当するというごとを知らなければならない。
そうして、これらすべての立場において人間が担当した責任分担は、神がその責任分担として担当された苦労と恩賜に比べていかに微小なものかを知ることができる。また摂理における中心人物たちが、彼らの責任分担を全うしなかったがゆえに、復帰摂理を延長させてきたという事実を知るとき、この軽微な責任分担が、人間自身においては、いかに大きく、難しいことであったかが推察できるのである。
原理講論、予定論2
キリストの十字架による救いの恩賜がいくら大きくても、人間自身がその責任分担である信仰を立てなければ、彼らを探し求めてきた救いの摂理は無為に帰せざるを得なくなる。したがって、イエスの十字架による復活の恵沢を与えてくださったのは、神の責任分担であって、それを信じるか、それとも信じないかは、あくまでも、人間自身の責任分担なのである。(ヨハネ3・16、エペソ2・8、ロマ5・1)。
原理講論、創造原理5.2.2
愛という言葉は、必ず対象がいてこそ成立する言葉なので、いくら絶対者だとしても、愛することは一人ではできません。このように、神様も一人では絶対に愛することができないので、必ず愛することができる一つの対象をつくらなければならないのです。それで、その対象として被造万物をつくったのですが、その被造万物は自分の形象をそのまま手本として展開させてつくったのであり、その中で自分の人格を身代わりできる存在として創造的な立場に立てておくために造ったのが人間です。
(39-8 ~ 9、1971.1.9)
神様は今まで復帰途上で息子、娘に責任をもってきました。ですから、これからは必ず私が受けなければなりません。神様が私達を協助するためにそのように責任をもってこられたので、私達が神様の息子になるためには、必ずサタンの攻撃を受けなければならないのです。
(31-50、1970.4.12)
9) 準備と素晴らしい出発
いかなる旅程でも、その出発が良くなければならない。東洋のことわざに「始まりが半分だ(始めさえすれば半分は成就したも同じだ)」という言葉があるが、この主題に対してよく説明してくれている。良い出発とは、第1に、内的な準備がよくできたということである。心情を浄化させ、確固たる決意で自分を武装し、行動に対する自分の哲学と方法論に確信をもたなければならない。その後、その課題に対して調査し、前に置かれた障害物を克服するために十分な資料を収集しなければならない。これはとても実用的な助言でありながら、特に霊的な道を追求する人たちにも適用が可能である。人生を軽んじつまらないものと考える人たちは、最初の出発点よりもはるかに低い位置に転落しやすい。
文鮮明先生は、偉大な人、世の中に変化を起こす人になるためには、準備をよくしなければならないと語られる。目標に焦点を合わせて生きない人生は、ただ何の実績もない人生になる。決意を固め、自己訓練の基盤を準備しない人は、自分の前に置かれた挑戦に敗北しがちである。文先生は、腐敗したこの世の中を救援するために、自ら準備した内容を説明しながら、人生の典型的モデルを見せてくださっている。
1. 挑戦に対する準備
― 宗教経典 ―
君子はそのような、くいちがいから来る訟がおきないように、物事をする場合にその始めを慎重にするべきである。
易経6、周易上経、訟(儒教)
成功は先見と決意の結果であり、先見は自ら秘密を守る深思熟考と計画にかかっている。
ナフジュ・アル・バラーガ語録46(シーア派イスラーム)
木を切る前に斧の刃を見よ。
オンジャク族の格言(アフリカ伝統宗教)
君子は兵器を修め不慮の変事に対して警戒を怠らないようにする。
易経45、周易下経、萃(儒教)
あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、「あの人は建て始めたが、完成することはできなかった」と言うだろう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。
ルカによる福音書14.28 ~ 31(キリスト教)
最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。
エフェソの信徒への手紙6.10、13(キリスト教)
幸福の場を拡大させることを願う者は、その人をして心の底に基礎を築くようにしなければならない。陰隲文(道教)
あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、私達は、朽ちない冠を得るために節制するのです。だから、私としては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。
コリントの信徒への手紙一9.24 ~ 27(キリスト教)
未だ商人の海に入らんと欲して、堅固なる大船舫を造らざるは有らず、堅固なる船によりて怖畏無く、多くの珍宝を獲る彼の岸に到るなり、信心の菩薩も亦是くの如く般若行を離るれば菩提より遠ざからん。若し最上の大智行を修せば、當に無上菩提の果を得べし
仏説佛母宝徳蔵般若波羅蜜経14.7 ~ 8(仏教)
― み言選集 ―
危機を克服するためには、深い信仰と、緻密なる計画と、実践するだけの信念がなければならない。
御旨の道、試験・試練
最近の人々は、すべての生活に対して怠惰になり、組織生活を嫌い、友人関係を嫌い、何かの男女関係までも……。女性なら女性に対する責任感もなく、すべて無責任な人々になってしまいました。そうかといって、何か自分が生きる生活の計画があるのでもなく、一年の計画も、生涯の計画もあるわけではないのです。ただ行き当たりばったりで、自分が好み、自分の利益になるように生きていっています。そのようにしていけばどのようになりますか。どこかに行ってぶつかり、粉々に砕けてしまうのです。
(105-11、1979.7.8)
どのようなことをしようという、そのような「観」がなくてはなりません。20歳になったのであれば、一つの「観」をもって、私は何々をしようと決め、生涯闘っていってこそ、その人は歴史的な人物になるか、何かを残すというのです。人目を気にしながら、環境に適当に拍子を合わせて生きることに神経を使う人は、流れていってしまうのです。はっきりと決めてからは、その目的のためにはいかなる困難があったとしても、闘争していくことのできる勇猛心がなければなりません。「それは嫌だ」ということを言わず、すべてを消化することのできる度胸がなければなりません。
(120-299、1982.10.20)
天がすべての準備をしていても、私達がその準備に応じ、心と体に準備の基盤を備えなければならないことを知っております。
(7-287、1959.10.11)
朝、サタン世界に出ていくときは、目、鼻、耳、すべての細胞、心までも武装し「きょうも無事故で帰ってくることができるようにしてください!」と言わなければなりません。
(122-266、1982.11.21)
人生はたった一度です。ただ道を歩いていて出くわし、なるがままに生きるようになっているものではありません。計画を立てなければなりません。家庭に対する新しい計画を立てなけれはならないのです。
(24-86、1969.7.6)
皆さんの人生において、成功できるかできないかということは、皆さんの決心いかんにかかっているのです。そこには必ず二つの問題があります。……一つは克服と勝利です。克服と勝利が自分の人生全体を決定するのです。それを克服できるのかということです。克服というのは簡単なことではありません。最も難しいことは、空腹と眠りを克服することです。サタンが最も必要とすることが眠ることです。眠りと空腹です。次にはまた何ですか。男女問題です。成功しようとすれば、男女問題を克服しなければなりません。
(265-184、1994.11.21)
皆さんは成功したいと思っています。成功は誰もがしたいと思うのです。成功するためにはどのようにしなければなりませんか。成功できるすべての準備をしなければなりません。準備をしてからどのようにしなければなりませんか。今、旧時代の基盤の上に新しい基盤を築くためには、準備された内容を中心としてその基盤を消化できなければなりません。新しい基盤を凌駕できなければならないのです。そうでなければ、歴史的な新しい基盤が立たないというのが歴史的な宿命的結論です。これは私達の人生や私達の国家が行く道においても、必ずそうです。
このような観点から見るとき、私達統一教会は今、何をしているのでしょうか。困難にぶつかり、迫害を受けていますが、その迫害の中でも、未来のために準備しています。成長しています。今回も、全世界が恐れる2億4000万のアメリカに対して、先生は一人で闘っています。友人もいないのです。アメリカの指導幹部や食口たちは、みなそれを知りません。誰も先生の力になる人がいません。ここで闘うためには、ただ盲目的にしてはいけません。準備をしなければならないのです。徹頭徹尾、準備しなければならないというのです。どのような準備をしなければならないのでしょうか。思想的準備をしなければなりません。精神力において、その人たちに負けてはいけません。絶対に負けてはいけません。その次に、努力において、アメリカの歴史過程で功を立てた人たちと比較して負けてはいけないのです。その次には何かというと、行動、具体的な準備をしなければなりません。
徹頭徹尾な思想をもたなければなりません。その次には努力をしなければなりません。思想をもったからといって、じっとしていてはいけません。その準備された事実の上で無限に努力しなければならないのです。努力するにおいては、自分個人を中心として努力するのではありません。この基盤を凌駕できる母体、その主体性を備えるためには、無限な闘争をしなければなりません。今、既成世代の基盤になっているそのすべてのものが、新しい体制を歓迎するようになっていません。歴史は必ず闘争過程を経なければならないのです。闘争過程において滅びるか栄えるかというのです。
困難があっても、自信をもって貫いていくことができる努力をするのです。いかなる犠牲の代価を払ってでも行くのです。その努力は、消化され得る努力ではなく、消化させることのできる努力です。その次には実践です。実践するにおいて、私達宗教指導者たちが闘争することはできないので、無言で実践するのです。相手の人たちが8時間すれば、私は24 時間するのです。
(133-217 ~ 219、1984.7.19)
2. 第一歩
― 宗教経典 ―
大きな木も小さな若枝から成長する。九重の塔も一つの小さなかたまりからつくられ始める。何千マイル行く旅も足もとから始まるのだ。
道徳経64(道教)
君子の道は、例えて言えば、遠くに行くには、必ず近くからし、高く上るには、必ず低い所からするようなものである。
中庸15(儒教)
― み言選集 ―
ノアは自分の一身を征服し、自分の家庭を征服するために、120 年間闘いました。それは簡単なことではありませんでした。120 年後にこの地を審判するという神様の命令を受けたノアは、「1年が過ぎたから、あと119 年残っているなあ」と言って待ってはいなかったのです。
(19-237、1968.1.15)
1年の勝利を誓うために、その年の元旦にある目標を定めた人がいるとすれば、その1年を推し進めていくためには、360 日以上を克服できる闘志力、あるいは推進力を備えなければなりません。そうでなければ、1年を勝利で飾ることはできないことを私達はよく知っています。このような1年に10 年が加えられ、20 年、あるいは30 年が加えられているのが私達の人生の道です。
(31-31、1970.4.12)
永遠の出発は、自分が死んで始まるのではありません。永遠の出発は、自分がみ旨を知った瞬間から続くのです。ここに一日のうちの瞬間でも、時間の関係において飛躍があったり、どん底が生じれば、永遠は中断されるのです。ですから、私達が生涯の路程を中心として、信仰の道を行くのに、今年行けなければ来年に行き、来年に行けなければ再来年に行き、十代に行けなければ二十代に行き、二十代に行けなければ三十代に行き、三十代に行けなければ四十代に行き、四十代に行けなければ五十代に行きと、このようにしてはいけません。一生をこのように生きていくなら、彼は、一生をみ旨と一つになった一日の生活をもってみることができずに死ぬでしょう。もしそのように生きたなら、その人は天国に行けません。
(37-220、1970.12.27)
10) 不屈の忍耐
ある価値を成就するためには、心からの根気と忍耐が必要である。忍耐とは、単純に近づいてくる運命を待つことではなく、目標を達成するときまで粘り強く自分の道を行くことを意味する。いったん決意をして事を始めれば、その次に放棄はない。時として結果は、完全に最後の瞬間にまでいって、初めて出てくることもあるからである。自分が立てた原則を放棄して近道を行ったり、方向を転換したいと思う誘惑を退ける忍苦の姿勢が必要である。経典のメッセージは、忍耐の徳を多様な隠喩で説明する。地に井戸を掘ることや木に穴を開けること、ゆっくりだが屈せずに岩に落ちて穴を開ける水のようなものに忍苦の努力を比喩する。
文鮮明先生は、神様の忍苦の歳月を語られる。神様は、御自身の子女を解放しようと愛と希望で堕落した子女たちの罪と不服従に耐え、悪と悲しみが点在する数千年を忍耐してこられた方である。したがって、根気と忍耐を語る今、天の息子、娘となっていく過程で私達は、神様の忍苦の努力に似ていかなければならない.苦難に耐え、打ち勝ったヨブの話は、第15 章の11.「試練」で詳細に扱っている。
1. 忍耐、辛抱と我慢
― 宗教経典 ―
疲れても疲れても何度でも行動を起こすべし。なぜならば行動に着手する人間に好運の女神(シュリー)は従うからである。
マヌ法典9.300(ヒンドゥー教)
忍耐は天も説得できる。
タルムード、サンヘドリン105a (ユダヤ教)
繁栄は、常に好運を夢見る者を見捨て、堪え忍ぶ者を恵む。したがって人は常に行動的で注意深くあるべきである。
マツャ・プラーナ221.2 (ヒンドゥー教)
先生が川のほとりでいわれた、「すぎゆくものはこの〔流れの〕ようであろうか。昼も夜も休まない。」
論語9.17(儒教)
漁師や屠殺者や農夫などは、自分の生活のためだけを考えて、寒さや暑さなどの害を忍んでいるのに、衆生を幸せにするために、どうして私は耐えられないのか。
菩提行論4.40 (仏教)
順境には楽しめ、逆境にはこう考えよ。人が未来について無知であるようにと、神はこの両者を併せ造られた、と。
コヘレトの言葉7.14(キリスト教)
なんじら信仰する者よ、忍耐と礼拝によって助けを求めよ。まことに神は、耐え忍ぶ者と共にいましたもう。……われは、恐れと飢え、ならびに財産と生命となんじらの労苦による果実の損失とで、必ずなんじらを試みる。だが耐え忍ぶ者には吉報を伝えよ、災難に会ったとき、「まことに私達は神のもの、かれに、私達は帰るのだ」と言う者。このような者の上にこそ、主からの祝福と恵みは下り、またこれらは、導かれる者である。
クルアーン2.153 ~ 57(イスラーム)
ナナークよ、苦難が来たとき、楽しいことに対する問いは役に立たないのだから、楽しさと苦難とは、与えられたときに必ずもらって着なければならない衣服と同じである。問いただすのは無益なのだから、ただ満足することが最善である。
アーディ・グラント、ヴァール・マージュM.I.p.149(シーク教)
私達は、自制の生活を始めるときにもつべき信念を少しも加減なくもたなければならない。私達は気まぐれな心のうずに巻き込まれてはいけない。
アーヤーランガ・スッタ1.36 ~ 37(ジャイナ教)
40 歳になるときまで全くの無学だったラビ・アカバが、ある日、泉から落ちる水滴が石に穴をつくっているのを目撃した。そして、「水が石をすり減らす」という言葉を聞いた。彼は考えた。「やわらかい水が石に穴をつくることができるとすれば、明らかに固い鉄で覆われたかのような律法の言葉も、忍耐と柔軟な心を同伴すれば無知を崩すことができる」。そして彼はそのときから学業に熱中した。
タルムード、アヴォート・デ=ラッビー・ナータン6(ユダヤ教)
学んでいないことがあれば、学習してできるまでやめない。疑がしいことがあれば、問い正して知るまではやめない。考えていないことがあれば、考えて納得できるまでやめない。弁別できないことがあれば、弁別して明らかになるまではやめない。行なっていないことがあれば、行なって篤実であるまでやめない。他の人が(聡明で)一度でよくできれば、自分はこれを百度もする。他の人が十度でよくできれば、自分は千度もする。この道をよく成し遂げれば、愚かな者でも必ず明知に、柔弱な者でも必ず強くなる。
中庸20(儒教)
主は恵みを与えようとして、あなた達を待ち、それゆえ、主は憐れみを与えようとして、立ち上がられる。まことに、主は正義の神。なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む人は。
イザヤ書30.18 (キリスト教)
障害が私を止めることはできない。すべての障害は、断固たる決心に道を譲る。一つの星座の運勢に固定された人は、自らの心を変えたりしない。
レオナルド・ダ・ヴィンチ、手稿(ヒューマニズム)
― み言選集 ―
「忍」という漢字を見ると、忍耐するという言葉は、「心」に「刃」を立てることです。大きな荷物を背負って大きなことをしようとすれば、忍耐することが何百、何千、何万、何百万と無限でなければなりません。
(124-155.156、1983.2.6)
東洋で「忍耐」するという言葉は、「心」に「刃」を剌しても忍耐するという意味です。「心」に「刃」を刺せば、どれほど痛いでしょうか。しかし、1000回忍耐する人は、1000 回の闘いで勝つことができるという希望をもてます。
(93-320、1977.6.12)
これを訪ね求めていくところでは、無数の怨讐たちが妨げるでしょう。しかし、彼らと闘い、また闘わなければならず、進んでまた進み、ぶつかってまたぶつかります。そして、忍耐の祭壇を自分の肩で支え、足で支え、手で支え、体で支え、頭で支え、忍耐の峠を越える覚悟をした生きた祭物にならなければなりません。
(6-92、1959.3.29 (注18))
苦い薬を飲んでも喜べば生き返るのです。苦い薬は、その苦い味だけがあるのではありません。苦い昧のあとには……。苦い薬を飲んでみてください。本当の味を味わってください。苦い昧を本当に味わってみれば、そのあとには甘い味があることが分かるようになります。
苦い薬を飲んでみると香りがあります。芳しい味が必ずあるのです。皆さん、熊の胆嚢を知っているでしょう。熊の胆嚢を食べてみると、最初は苦いのですが、あとから甘い味がするのです。それと同じように、苦い味よりも、その甘い味と芳しい味が分かるようになるとき、苦い薬も丸ごと、そのまま飲み込むことができるのです。ですから、完全な人は、苦い味の中に隠れている甘い味と芳しい味を味わうことのできる人です。このような人が味の分かる人です。すべてのものは上がったり下がったり、授け受けするのが道理です。甘ければ苦く、苦ければ甘く、このようになっています。
(98-205.206、1978.8.1)
先生は、いくら疲れたときでも、やらなければならない責任を思えば、そのすべての疲れが一時に吹っ飛んでしまう。
御旨の道、責任感
長く忍耐する道が宗教の道であり、長く忍耐し犠牲になるのが宗教の道です。忍耐と犠牲によって取り戻された偉大な愛の世界のために、神様を信じていくのです。これは間違いない事実です。神様は愛だと言うとき、その背後には犠牲が宿っていて、忍耐が宿っている事実を皆さんは知らなければなりません。
(112-51、1981.3.29)
善の側はどのようなものでしょうか。長く待ち、長く忍耐し、長く希望をもとうとするのが善の側だということを知らなければなりません。悪の側はそれがありません。自分が不利であれば拳が行き、すぐに行動するのです。神様は善神ですか、悪神ですか。神様は善神です。サタンは悪神ですか、善神ですか。悪神です。「イーブル・ゴッド」や「グッド・ゴッド」というのは誰が決めるのですか。何をもって決めるのですか。それを知らなければなりません。
苦難の中でもひたすら忍耐し、悔しくても忍耐するのです。忍耐するだけでなく、もちこたえなければなりません。そうしながら、絶望ではなく、希望をもっていかなければならないのです。それは誰のためですか。その人のためです。神様のためにするのです。自分のためではありません。それを忍耐できないようにしようとするその人のために、もちこたえることができないようにしようとするその人のために、絶望的なその人のために、そのようなことをしなければなりません。
(93-112、1977.3.21)
イエス様が死んで勝利したその秘訣は何ですか。忍耐していく道、ために生きる原則を立てたからです。ゲッセマネの園で、「父よ、できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください。なぜそのようにされないのですか」と言っていれば、すべて失ってしまっていたでしょう。しかし、「私の思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」、そのように言ったので、忍耐して越えていったので、勝利したのです。それが素晴らしいことです。
(76-227、1975.5.21)
世の中のいかなる拷問も刑罰も、私の天の道を挫折させることはできませんでした。今まで6回にわたる監獄生活も、子女を捜し求める真の父母の道を遮ることはできませんでした。冷たい監房に座って、軒先から落ちる雨だれを眺めながら、「あの水滴がいつかは岩に穴を開けるように、私の目から落ちるこの熱い涙が、必ず恨で凍りついた神様の心を溶かして解放、釈放するその日が来る」と決意して誓う、そのように生きた男の生涯でした。
(447-168、2004.5.1)
神様は、サタン世界と地獄世界まで抱くことができ、またそこでも忍耐し、もちこたえることのできる心があるので、地獄にいるサタンまでもその前では頭を下げるのです。ですから、皆さんが最後の勝利者、最後の父の息子、娘になろうと願うとすれば、皆さんは、神様の忍耐を皆さんの忍耐として、神様の我慢を皆さんの我慢として、皆さんの心と体で感じることができる人にならなければなりません。
(4-243、1958.5.18)
父がそのようにされるので、息子、娘の私達もそのようにして、父がそのような道を行かれるので、私達もそのような運命の道を行かなければなりません。ですから、私達は、この途上でへこたれることなく、不撓不屈の心情をもち、最後の勝利者として決定するようにしてください。「もう勝利した」と言うことのできる安息の一日、あなた達は私のものであり、この天下は私の息子、娘であるあなた達のものだと祝福を受けるその一日まで、忍耐し、我慢し、生き残る群れとなるようにしてください。その日を迎えるまで、苦難に同参する群れとなるよう、許諾してくださることを懇切にお願い申し上げます。
(13-236、1964.3.22)
2. 決して放棄してはいけない、最後まで耐えなさい
― 宗教経典 ―
聖書は、任務を始める者にではなく、任務を完遂した者の功績をたたえる。
タルムード、ソーター13b (ユダヤ教)
最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
マルコによる福音書13.13 (キリスト教)
ロトの妻は後ろを振り向いたので、塩の柱になった。
創世記19.26 (キリスト教)
たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。
ガラテヤの信徒への手紙6.9 (キリスト教)
あなたは大きな川を渡った。どうしてあなたは川辺でぐずぐずしているのか。カウタマよ、急いで彼岸に着かなければならない。常に注意せよ!
ウッタラッジャーヤー10.34 (ジャイナ教)
孟子がいわれた。「何事でも、やりとげなくては駄目だ。たとえていえば、井戸を掘るようなものだ。九靱の深さまで掘り下げても、水源に到達しないで途中で止めてしまったら、その井戸を棄ててしまったのと同じだ。」
孟子V11.A.29 (儒教)
樹木の芯を求めて林に入った者が、枝や葉を得て芯を得たように思うならば、まことに愚かなことである。ややもすると、人は、木の芯を求めるのが目的でありながら、木の外皮や内皮、または木の肉を得て芯を得たように思う。
人の身の上に迫る生と老と病と死と、愁い、悲しみ、苦しみ、悩みを離れたいと望んで道を求める。これが芯である。それが、わずかな尊敬と名誉とを得て満足して心がおごり、自分をほめて他をそしるのは、枝葉を得ただけにすぎないのに芯を得たと思うようなものである。また、自分のわずかな努力に慢心して、望んだものを得たように思い、満足して心が高ぶり、自分をほめて他をそしるのは、木の外皮を得て芯を得たと思うようなものである。
また、自分の心がいくら静まり安定を得たとして、それに満足して心が高ぶり、自分をほめて他をそしるのは、木の内皮を得て芯を得たと思うようなものである。また、いくらかのものを明らかに見る力を得て、これに眼がくらんで心が高ぶり、自分をほめて他をそしるのは、木の肉を得たと思うようなものである。これらのものはみなすべて、気がゆるんで怠り、ふたたび苦しみを招くに至るであろう。
阿含経中部i.192 ~ 195 (仏教)
曾子がいった、「士人はおおらかで強くなければならない。任務は重くて道は違い。仁をおのれの任務とする、なんと重いじゃないか。死ぬまでやめない、なんと遠いじゃないか。」
論語8.7(儒教)
― み言選集 ―
聖書(マタイ24・1-14)のみ言の中に、終わりの日の徴候に関するみ言がありました。終わりの日には、信仰を中心として生きていくことが難しいという事実が、ここに記録されています。したがって、この混乱期を克服し、勝利者になろうとすれば、最後まで忍耐して我慢する人にならなければなりません。
(4-237, 1958.5.18)
どこまで忍耐しなければならないのかというと、最後まで忍耐しなければなりません。ですから、神様は、6000 年間忍耐してこられた方です。その方が誰だというのですか。私達のお父様です。私達は、そのお父様の天稟と血肉を受け継いだので、そのお父様のようにならなければなりません。
(44-28、1971.5.4)
信仰生活は、一朝一タにするものではありません。それは一生の間……。信仰生活の中で、私か死んでも永遠を中心として信仰していく道において、私がその志操を守らなければならないということが問題になっているのです。一つの中心となる骨子がなければなりません。永遠に信じていくべき道なので、永遠にそれを否定できない私というものを発見しなければなりません。
(59-234.235、1972.7.23)
皆さんに忍耐があると言いますが、その忍耐が歴史的な忍耐の終着点とは遠い距離にあることを悟るでしょう。今日、私達の教会と因縁をもった人たちが、疲れて進めないと言います。統一教会はいいが、困難で進めないという話を聞きます。そのような話をする人は、地を中心として見れば幸福な人かもしれませんが、天を見ればかわいそうな人です。やはり進むことが難しいのです。
行く道は涙の道です。見て泣き、感じて泣き、闘いながら泣く涙の道です。涙が止まる時間がこの時だと思っていたら、違うのです。涙がさらに連続しなければならない、すなわちさらに忍耐の涙を待ち望まれる天の心情があることを知り、天が哀れな姿の私達を待っていることを知るようになるとき、私が忍耐したという、その事実も天の前に面目がないのです。先生は、解放以降今日まできましたが、いまだに私の忍耐の限界を考えてみたことがありません。また、終わることを望みもしませんでした。終わることを望むその時間から自分のことを見るようになり、その時間から恐れを感じるようになることを、皆さんは信仰生活で感じてみなければなりません。
(6-89、1959.3.29)
神様は、一度決めれば、億千万年がたっても変わらずに行わざるを得ない方です。しかし、皆さんの心を見れば、一日に何度も変わります。朝には「このようにしなければならない」と決心して、夜になると「ああ……」と言うのです。修錬を受けるとき、み言を聞くとき、「そのようにしなければならない」と決心しますが、帰れば、何日もたたずに社会とぶつかるようになるとともに、すべて流れてしまいます。神様は、一度決心すれば、それを何千年でも問題とし、永遠に大切にすることができる方です。歩みながらあちこちふらふらすることはありません。私達が、今は「私はみ旨のために行く」と言いますが、今年の末、あるいは3年後、あるいは10 年、20 年、生涯そのように行きますか。これが下がっていきやすいというのです。そして、行くときは、「私がよければ行くし、悪ければ行けない」、このように言います。
真というものは、私が死のうと生きようと真です。それは死の上に存在できるものであり、変わらない不変の位置に立っているのです。ですから、そのような私、死の上にあるそれを所有できる私になるためには、死を克服しなければならず、変わらない真を模索せざるを得ません。それは当然のことです。言い換えれば、変わるものと変わらないものははっきりと違います。
これらがぶつかれば、変わるものは砕けていきますが、変わらないものはそっくりそのまま残るのです。死と生がぶつかるのです。その時、死を克服して生に残らなければなりません。そのような過程を越えてこそ、神様と関係を結べるというのは決まった道理です。このような内容を考えてみるとき、真が私達の前に現れることのできる時はいつかというのです。それは、変わるものと変わらないものが現れる時です。次には、死と生がここに現れる時です。そして二つが対決する時です。
(66-43.44、1973.3.18)
第12章 道徳性
道徳性
1) 姿勢
自制力はすべての徳目の基本要素である。精神訓練をおろそかにする人の心の中には、散漫な思い、感覚の誘惑、欲情、憤怒、物質と金銭的貪欲のような感情が絶えず生じる。そして、この感情が、私達が悪の行動をするように引っ張っていこうともする。自分の考えや欲望、行動も制御できない人が、どうして他人との関係を円満にできるだろうか。どうやって真理の道に従って人生を生きていくことができるだろうか。哲学者ジョン・ロックは次のように言った。「欲望を治めることができるか否かが人の性格を左右する」。
下記の章句は二つの共通した比喩で自制力に関して説明している。それは正に征服戦争と馬と騎手の例えだ。最も困難でありながら、最も重要な闘いが自分を征服する闘いだ。文鮮明先生は、ある人が世界の変革にいくら高貴な志を抱いたとしても、その根本に自己の主管性を完成できなければ、彼のすべての努力は無駄にならざるを得ないと言われる。自制力を育てるのは、野生馬に乗る騎手に例えることができる。熟練した騎手が馬を制御するように、高貴な志と良心で自分の内面の魁首を制圧しなければならない。馬にくつわをはめるように、自分を否定し、禁欲の束縛に自らを制御しなければならない時もある。しかし、私達は、あらゆる手段と方法を動員し、欲望によって頭をもたげる気まぐれで低俗な敵を屈服させ、手なづけなければならない。
1. 自分に勝て
― 宗教経典 ―
戦場において百万人に勝つよりも、唯だ一つの自己に克つ者こそ、じつに最上の勝利者である。
法句経103 (仏教)
忍耐は力の強さにまさる。自制の力は町を占領するにまさる。
箴言16.32 (キリスト教)
強い者とは誰か。彼は自らの熱情を制御できる者である。
ミシュナ、アヴォート4.1 (ユダヤ教)
他人を知るものが智のある人であり、自己を知るものが目覚めた人である。
道徳経33(道教)
使徒が宣言した。「私達は小さな聖戦から大きな聖戦に戻ってきた」。彼らが、「おお、神の使徒よ! 何が大きな聖戦ですか」と尋ねると、彼が答えた。「弱い自らに対抗して戦うことである」。(注2)
ハディース(イスラーム)
数千数万の勇猛な敵を征服することも、自分を征服することには及ばない。あなた自身と戦え。どうしてあなたの外の敵たちを心配するのか。自らと戦い、これを征服する者は至福を得る……。実に征服し難いものは自分である。しかし、自分を征服すればすべてのものが征服されるだろう。
ウッタラッジャーヤー9.34 ~ 36(ジャイナ教)
自ら自己を高めるべきである。自己を沈めてはならぬ。実に自己こそ自己の友である。自己こそ自己の敵である。自ら自己を克服した人にとって、自己は自己の友である。しかし自己を制していない人にとって、自己はまさに敵のように敵対する。
バガヴァッド・ギーター6.5 ~ 6(ヒンドゥー教)
私は彼を、彼の敵を征服した人より、自らの欲望を克服した勇気ある人と考える。なぜなら、最も難しい勝利は自分自身を克服する勝利だからだ。
アリストテレス(注1)(ヘレニズム)
上品の性は教えることができ、下品の性は規制することができる。
韓愈(儒教)
その人の内なる魂には、すぐれた部分と劣った部分とがあって、すぐれた本性をもつものが劣ったものを制御している場合には、そのことを「おのれに克つ」と言っているのである。いずれにしてもこれは、ほめた言い方だ。そして他方、悪い養育や何かの交わりのために、少数者としてのすぐれた部分が大ぜいの劣ったものによって支配されるにいたった場合は、これに恥ずべき状態として非難して、そのような状態にある人のことを「おのれに負ける」とか「放縦である」とか呼ぶわけなのだ。
プラトン国家4(ヘレニズム)
― み言選集 ―
「天宙主管を願う前に、自己主管を完成せよ」。これが私のスローガンである。神様の愛と生命と真理も、自己主管の上で広げられていくようになる。
御旨の道、人格
怨讐は誰でしょうか。サタンではありません。私が怨讐です。皆さんの心と体が一つになりましたか。それがどれほど大変ですか。世界統一と天地統一、そして私一人の統一の中で、どれがより簡単ですか。どれがより難しいですか。私一人が統一されれば、それを世界化すれば世界統一が可能だということを知らなければなりません。誰が怨讐なのですか。この目が怨讐です。この耳が怨讐です。この鼻が怨讐です。この口が怨讐です。考えが怨讐です。
(91-285 ~ 286、1977.2.27)
堕落したために、私達にはこれを克服しなければならない要素があります。それで先生は、「宇宙主管、天宙主管を願う前に自己主管を完成しなさい」という標語を立てたのです。これが私の一大標語でした。世界を支配し、世界を主管することが問題ではありません。自己主管をどのようにするのか、これが修練の絶対的な目標であり、歴史を代表する諸宗教が志向すべき責任です。これが今日、私達に任された重要な責任であるにもかかわらず、その責任課題を忘却しています。
(82-281、1976.2.1)
世界戦争が休戦することよりも、私を中心として心と体が争うこの怨讐関係を解消させることが、もっと難しいことを知らなければなりません。
(320-249、2000.4.16)
2. 自己修練 : 内部の野獣性の平定
― 宗教経典 ―
分別のない馬やらばのようにふるまうな。それはくつわと手綱で動きを抑えねばならない。そのようなものをあなたに近づけるな。
詩編32.9 (キリスト教)
人は自分の動物のような性質にくつわをはめなければならない。さらに、悪魔的要望にもくつわをはめなければならない。
エルサレムタルムード、サンヘドリン10.1 (ユダヤ教)
馴らされた騾馬は良い。インダス河のほとりの血統よき馬も良い。クンジャラという名の大きな象も良い。しかし自己をととのえた人はそれらよりもすぐれている。……この心は、以前には、望むがままに、欲するがままに、快きがままに、さすらっていた。今やわたくしはその心をすっかり抑制しよう。象使いが鉤をもって、発情期に狂う象を全くおさえつけるように。
法句経322、326 (仏教)
賢者は諸根(感官)を馬とよび、対境を馬にとっての道路、身と諸根と意とを具したるものをば享受者とよべり。人も常にその意(マナス)を検束せざるによりて明識あるものとならずんば、その感官の柔順ならざること、あたかも駻馬の御者に対するが如し。されど、常にその意を検束するによりて明識あるものとなれる人にありては、その諸根の柔順なること、あたかも良馬の御者に対するが如し。
カタ・ウパニシャッド1.3.3 ~ 6(ヒンドゥー教)
水道をつくる人は水をみちびき、矢をつくる人は矢を矯め、大工は木材を矯め、賢者は自己をととのえる。(注3)
法句経80(仏教)
勇士よ、確かに意(こころ)は動揺し、抑制され難い。しかし、それは常修と離欲とによって把促される。自己(アートマン)を制御しない者はヨーガに達し難いと、私は確信する。しかし、制御して自己を支配した人は、適切な方法によってそれに達することができる。
バガヴァッド・ギーター6.35~36 (ヒンドゥー教)
自分自身を善良に修める本は、(これに先だって)自分の心を正しくすることにあったといったのは、自分がもし何か怒ることがあると、(その怒りを他事にも及ぼして粗暴になって、心の)正しさを保てず、もし何か恐れることがあると、(ひっこみ思案になって、心の)正しさを保てず、もし何か嬉しいことがあると、(馴れてものごとになおざりになって、心の)正しさを保てず、もし何か心配することがあると、(沈んで悲観的になって、心の)正しさを保てないものであるから、いかなるものごとにも最もよく対応し得るように、心を平静に、しかも一定に保たねばならぬことをいう(のである)。
(というのは、その正しい)心がはりつめていないと、(目では)視ていても(それが何であるか)見分けられず、(耳では)聴いていても(それが何をいうか)聞き分けられず、(口に)食べていてもその味がわからない(ように、自分が善い行ないをしようとしても、そのものごとに対する正しい判断が得られないからである)。この(ように正しい心を保ってこそ善い行ないができる)ことを自分自身を善良に修める(方法は、それに先だって)自分の心を正しくするに在るというのである。
大学7(儒教)
まさにこの世で、身体から解放される前に、欲望と怒りから生ずる激情に耐え得る者は、専心した幸福な人である。
バガヴァッド・ギーター5.23 (ヒンドゥー教)
思慮ある知者は……身体の状態や養育を獣的で非合理的な快楽に委ねて、そこにのみ関心を向けて生きる、というようなことをしないのはもちろん、健康を目標とすることさえなく、どうすれば強壮になり健康になり美しくなるかということにしても、そのことから思慮の健全さが得られると期待できるのでないかぎりは、これを重要視することもないだろう。彼はつねに魂の内なる協和音をもたらすためにこそ、身体の内なる調和をはかるのが見られるだろう。
プラトン国家9(ヘレニズム)
― み言選集 ―
人間の良心は神様を代表する心です。良心は私のために存在しません。天の義のために存在します。良心は常に善に向かって走ろうとします。これに体は反抗します。体は自分だけ安らかであろうとし、利己的で、本能的欲求に従って肉欲を行おうとします。良心はこの体を叱責し、心に順応するようにします。ここに常に血の出るような葛藤と闘争が、一つの体の中で起こるようになるのです。ですから昔から歴史を通して、すべての宗教は、自分の体を打つ道を教えてきました。宗教は、肉欲を制御し、体を心に屈服させる道場なのです。宗教は、人間を創造本然の人間へ引っ張っていく道場です。
(219-118、1991.8.28)
先生にとって最も重要なことは、「宇宙主管を願う前に自己主管を完成せよ」ということです。そこに3大要件が入ります。食べることが問題です。そして寝ることが問題であり、愛が問題です。この三つが3大怨讐です。
(366-287、2002.1.17)
いくら修養したとしても、愛のために引っ掛かるのです。美男や美女が誘惑すれば、みな引っ掛かってしまうのです。人間は愛の自立圏を立てられません。神様と一つになる場合にはコントロールできますが、自分自身を中心としていれば性欲を克服し得ません。映画のようなものを見てもそうです。強姦されるとき、「いけない、いけない、いけない!」と思いながらも、そのような感情が生じれば、抱きかかえてしまうのです。そのような映画をたくさん見るでしょう。怨讐までも抱きかかえることのできる力が愛の力だというのです。
(306-196、1998.9.22)
人間の堕落によって、今日、愛は根本的に自己中心的になってしまいました。このような自己中心的な愛は、精神から来るものではなく、肉体を中心にしています。肉体はサタンが活動する所です。肉体はサタンの舞踏場であり、停泊地です。精神は神様が住まわれる所、すなわち主体の位置になります。しかし、精神の対象の位置にあるべき肉体がもう一つの主体になろうと努力しながら継続して精神を誘惑し、だましています。人間の生活で、このような関係を修正することはとても重要です。
ですから神様は、堕落した人間を蕩減復帰しようと、宗教を立てられました。神様は宗教を通して、神様中心の精神を強化する方法、生活と人格に対する肉体の支配を逆転させる方法を人々に教えていらっしゃいます。宗教がしばしば断食、犠牲的奉仕、従順で謙遜な態度等を要求する理由は、正にこのようなところに由来しています。これは、肉体の勢力を減少させ、肉体をして精神に服従するようにさせる方法です。信仰生活を通して肉体中心の生活習慣から抜け出し、新たに精神中心の生活様式をつくり出すまでには、普通3年ないし5年がかかります。
(201-209、1990.4.9)
私達はまず、個人として完全な私の位置を取り戻さなければなりません。ところが、その道は自分を零点におき、自分を完全否定する道しかないのです。その位置こそ、心と体が完全統一を成し遂げることができるからです。
(356-299、2001.10.21)
各自が指向する量を100 とするとき、ここで心と体が50 対50 ではいけません。そのような人は、中間霊界にとどまるようになります。緩衝地帯にとどまるのです。もし体が60 であれば、間違いなく地獄に行きます。ですから、皆さんは常に、「私」という存在が善悪の母体だということを考えなければなりません。
(37-122、1970.12.23)
神様御自身も、霊的に見れば心と体がなければならないのですが、神様も心と体が闘いますか。(注4〉闘いません。皆さんはどうですか。これが一つにならなければ、絶対に天国に行くことはできません。
(305-111、1999.4.19)
2) 抑制
自制の道は抑制から始まる。抑制するということは、様々な面を含んでいる。第1に、罪を犯すように誘惑する環境を避けなければならない。このためには、自己自覚が必要である。自身の弱点をきちんと知るとき、妥協する状況を避けられるからである。第2に、突発的性格、驕慢、瞬間的衝動から起きる行動を抑制しなければならない。文鮮明先生も、自身の本来の性格が火のようなものであることを知っているため、絶えず怒りを抑えようとしていると言われる。それが他人にもたらす害を御存じだからである。第3に、非暴力的で温和であること、人を傷つけるよりかえって打たれるほうを選びなさいという宗教的教えも、やはり抑制力を鍛錬するのに役立つ。第4に、文鮮明先生は、数千年間、侮蔑と憤怒を耐えてこられた神様の忍苦と自制力に関して語られる。神様の忍耐に関する教えは、自制力を養おうと努力する私達に一つの鼓舞の事例とな
っている。
― 宗教経典 ―
怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。悪魔にすきを与えてはなりません。(注5)
エペソの信徒への手紙4.26 ~ 27 (キリスト教)
実に神は私の民の心の中から起きる悪の衝動を赦してくださる。彼らがそれを口の外に出さず、行動に移さなければ。
ムスリム・ハディース(イスラーム)
釈尊は説いていわれる。悪人があり、他の者がなしたその善を聞いて嫉妬し、わざとその者の所にやって来て、罵り謗ったりすることがあっても、汝は自分の心の腹立ち動くことを抑え、相手を怒り責めたりすることがあってはならない。この方から相手を懲らしめなくても、相手の方からやって来て、自分のなした行為に対して気付き、自からに、自からの行為を悪むに至るからである、と。
四十二章経6(仏教)
一つの腕輪は音を出すことができない。(注6)
イガラ族の格言(アフリカ伝統宗教)
人の怒りは神の義を実現しないからです。
ヤコブの手紙1.20 (キリスト教)
アブ・フライラが神の使徒の言葉を伝えた。「強い者は力のある壮士ではなく、怒りがわいたとき、自らを統制する者である」。
ブハーリーおよびムスリム、・ハディース(イスラーム)
あなたがたも聞いているとおり、昔の人は「殺すな。人を殺した者は裁きを受ける」と命じられている。しかし、私は言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に「ばか」と言う者は、最高法院に引き渡され、「愚か者」と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。
マタイによる福音書5.21 ~ 22(キリスト教)
アヒムサ、すなわち不殺生は、主マハビラが立てた五つの戒律の中で最も重要なものであり、厳守し少しも背いてはならない。一切衆生に対し、常に慎み、慈悲の心を表し、生きたものを殺してはならない。
ダサヴェーヤーリャ6.9 (ジャイナ教)
「屏風の向こうに見えるあなたの両頬は、割いたザクロのかけらのようだ」(歌)。あなた自身を空にするのは、種をいっぱいに抱えたザクロのように、宗教的規律であなたの心を満たすことである。罪を犯す機会に、その罪から逃げてくることができ、犯罪行為を抑制できる心をもった人は、より高貴な宗教的行動を遂行するようになる。だとすれば、謙遜と自制のベールで自らを覆う者はどれほどよいことか!
頌歌ラッバー4.4.3 (ユダヤ教)
あるとき、自分の心が執着し怒りを生じるようなときは、(何も)行為をせず、口を開かず、木のごとくあれ。もし、散乱や嘲笑、あるいは自慢や尊大な気持ちから、あるいは他者の過ちを暴こうという心があったり、もし悪業によって人をだまそうという心があったり、もし自分を誇り、あるいは、他者を非難したり、とがめ、争う心があるならば、そのとき(何も)行為せず、口を開かず、木のごとくあれ。所得と尊敬、名声を欲し、あるいは召使を求め、あるいは注目されることを望み、私の心が奉仕を欲するならば、そのとき(何も)行為せず、口を開かず、木のごとくあれ。利他を捨て去り、自利を求めたい(と望み、そのために何か)言いたい気持ちがおきたなら、そのとき木のごとくあれ。
菩提行論5.48 ~ 52 (仏教)
― み言選集 ―
気分の悪いことがあれば、そのまま流してしまわなければなりません。気分が悪い心をもったまま大衆の前に出て、あれこれ言うのは偽者です。
(45-269、1971.7.4)
いくら友人が多くても、皆さんがいつも自己主張ばかりすれば、みな離れていくのです。
(36-181、1977.11.29)
信仰の道に立った人々は、自分を中心として腹を立てることが最も恐ろしいことです。ですから、腹を立てないでください。腹を立てないでください。神様を信じていくにおいて、自分の欲心を中心として腹を立てていけば、そっくりそのまま引っ掛かってしまうのです。
(32-34、1970.6.14)
先生も、もともと善の人なのではありません。元来が良い人なのではなかったというのです。ですから、すべてそのようになるかならないか、舌をかみ、このように抑制し、「このように行かなければならない!」と訓練しなければならないのです。外的な怨讐たちは何でもありません。
(320-250 ~ 251、2000.4.16)
もし私が、「誰々は死ね」と考えたり、「あいつは」と憤慨したり、忍耐できずに口をつぐんで「ん~」としたり、「何カ月後を見ていろ」と思えば、めちゃくちゃになって引き裂かれていきます。それで、舌をかみながら私は何度も我慢しました。私の口で呪うことはできません。真の父母の名をもつ私が自分の口で呪えずに口をつぐんでいると、その怨恨をすべて天が解いてくれました。それを見ると、神様が愛していると思うのです。
(162-206、1987.4.12)
歴史路程を見れば、常に先に打った者が負けます。世界大戦を見てください。第1次世界大戦でも先に打った側が、第2次世界大戦でも先に打った側が負けました。第3次世界大戦でも、先に打った側が負けます。(注7)それで、個人の生活でも、「忍耐しなさい。忍耐する者に福があるので、打たれて忍耐しなさい」というのです。なぜかというと、忍耐すれば立てられる日があるからです。
(7-222、1959.9.13)
千年、恨の中で受難の道を、自分自体を制御しながら口をつぐんで忍耐してこられたその神様を尊敬できなければなりません。「神様は本当に私の父です」と言える心を、皆さんがもたなければなりません。私がそれ以上に忍耐しても、父の伝統を千年、万年の後代にまで残せる中心先祖になろうと決意しなければならないのです。
(363-254、2001.12.25)
今日、私達が忍耐し、忍耐しなければならない原因がどこにあるのでしょうか。私達が忍耐できなければ、私達が背負った負債を返すことができず、天が抱いて忍耐してきた怨恨を解怨できないからです。天地の運勢は、神様の摂理と共に回っているので、皆さんは、神様が憤るとき、一緒に憤ることができ、神様の無念さと神様の鬱憤に対して味方になれば、サタン世界は審判されるというのです。今日、信仰路程を歩んでいる私達に対して、天が温柔、謙遜で、憤慨することなく忍耐して辛抱しなさいという、このようなすべての教えは、すべてそのような理由のためです。したがって、私達がそこに一緒に歩調を合わせることができず、神様の摂理との間に、隙間ができれば、サタンが入ってくるのです。ですから、今日の信じる人たちは、無条件に犠牲になり、無条件に従順になり、愛の内的な部分だけに従っていかなければなりません。
(1-113、1956.6.10)
3) 真実
真実だ、というのは不変の性格を意味する。真実な人は、どのような状況にぶつかっても目標を放棄せず、約束を守り、自身の義務を果たす。何よりも真実な人は、家族と共同体に道徳的、霊的中心存在になる。他の人たちがその人に期待し、信頼し、頼ろうとする。
文鮮明先生のみ言のように、ダイヤモンドと金が貴い理由は、その不変の光沢のためであるように、ダイヤモンドのような価値をもつ人は、不変の性格をもった人である。
責任と逆境は、その人の真実さを試練する。安楽よりは原則を重要視する人たちが真実な人たちである。その一例が、父のみ旨を捨てるよりは、むしろ王国を捨てることを選んだヒンドゥー教のラマヤーナの英雄ラマである。時には、自分が担った責任を利用して自分の富と発展の機会にしたいという誘惑が来るときがある。逆境でも、常に肯定的な姿勢を維持するのは、一種の挑戦である。命が危険な状況では、義務を守ることがより困難になる。しかし、真実な人は、状況に揺さぶられることなく自分の責務を果たす。そのような人は、課題が与えられたとき、変わらない姿勢で目標に向かっていく人である。
1. 原理的生活
― 宗教経典 ―
完全な道を歩む人は安らかに歩む。道を曲げれば知られずには済まない。
箴言10.9 (キリスト教)
およそ君子たるものは、ひたすら正しい理法にかなった行為をして、あとはすべて天命に任せて待つばかりである。
孟子V1LB.33 (儒教)
徳が(国政の)根本のつとめである。産物・貨物はその末端のことである。(それなのに)その根本のつとめをなおざりにしてその末端のことを大切にすると、人民を互いに争わせて物を奪い合うようにさせることになる。
大学10.7 ~ 8(儒教)
称賛を聞いたからといって喜ばず、非難を聞いたからといって悲しむな。自らの功徳と力をよく知ること、それは卓越した人の特徴である。
善説宝蔵論29(仏教)
世俗のことがらに触れても、その人の心が動揺せず、憂いなく、汚れを離れ、安穏であること、これがこよなき幸せである。
スッタニパータ268 (仏教)
先生がいわれた、「仁でない人はいつまでも苦しい生活にはおれないし、また長く安楽な生活にもおれない。〔道をはずれるか、安楽になれてしまう。〕仁の人は仁に落ちついているし、智の人は仁を善いことと認めて活用する。〔深浅の差はあるが、どちらも守りどころがあって動かない。〕
論語4.2 (儒教)
あなたの一番目の目標を徳としなさい。不道徳な行為をするよりは、かえってお金を放棄し、名声を放棄し、知識を放棄し、地球自体と地球が包むすべてのものを放棄せよ。そして、いかなる状況でも、またいかなる環境でも、あなたが不名誉なことをするのが最善だと決して考えてはいけない。あなたが何かをするようになったときにはいつも、たとえそれは他人には知られず、あなただけが知っているとしても、全世界があなたを見つめていれば、あなたがどのようにしようとするかをあなた自身に尋ねてみなさい。そしてそれに従って行動しなさい。
トーマス・ジェファーソン
よい評判を得ようとすれば人々が考えてくれることを願う人になりなさい。
ソクラテス(ヘレニズム)
― み言選集 ―
ある人を人格者と言うとき、それはその人の外貌や学閥(注8)、経歴、または地位を見て言う言葉ではありません。どのくらい原理的な立場で生きているのかを見るのです。外的に華々しく、多様な何かのものを強調するのではありません。天に仕えるにおいて心が変わらない人、そのような心をもって神様のみ旨に合わせ、生活していける人が人格者なのです。
(19-285、1968.3.10)
人の人格に骨がありますか、ありませんか。人格の骨を見ましたか。人格といえば、人の形態、人の備えた姿をいうのですが、その中には見える人がいるかと思えば、そのように見えるようにする根本を見ると、見えない中に隠れている骨のような形成体があります。その、形成体が、見える形体がこのように存在するようになる原因であることを知らなければなりません。
(177-315、1988.5.22)
神様の正しい系統を受け継いだ者として、まっすぐな道を進んでいかなければなりません。正しくないものは屈服させなければなりません。力に対抗して、力ではない、違うものでそれを屈服させようとすれば、何千倍の苦労をしなければなりません。どのような環境でも、収拾して征服できる忠孝の志操を立てなければならないのです。純粋な心で出発し、確固不動な歩みで目的を達成しなければなりません。
(21-83、1968.10.27)
変わる善を中心としては、一つの世界を成すことができない。中心は揺らがない。深いほど穏やかである。太平洋を見なさい。表面では嵐が起こり、波も立つが、深いところは静かである。それに学びなさい。
御旨の道、人格
どのような愛が貴い宝石のような愛、宝物のような愛ですか。不変の愛です。宝物というものは、それ自体が力と価値をもって相手を動かすようになっているのであって、相手がこの宝物を動かすようにはなっていないことを知らなければなりません。それでは、皆さんはどのような人ですか。相手に影響を与える人が貴い人です。影響を受ける人が貴い人ですか。影響を与える人の中でも、良い影響を与える人が貴い人です。
(118-95、1982.5.9)
歴史上の聖賢たちは、この地に来ては行ったその誰よりも真の人です。それでは、真はどのように成立するのですか。真というものは、未来にだけ成立するのではなく、現在にだけ成立するものでもありません。真は、過去でも真でなければならず、現在でも真でなければならず、未来でも真になることができなけれはなりません。真は環境を超越します。真の人は、過去でも中心であり、現在でも中心であり、また未来でも中心です。このようなところで真の人が成立するのです。
それでは、人間の世の中で、真に最も近くなり得るものは何でしょうか。今まで大勢の人たちが行き来しましたが、真に最も近いものは何かと言うとき、相対的に現れた師や父母よりも真の母体を成し得る存在は、正に自分自身です。それでは、自分に最も近くなり得る真の相対とは何でしょうか。それは自分自身の心、すなわち良心です。私達はよく「その人は良心的だ。その人は心が正直だ」と言います。心が正直だというのはどういうことですか。それは過去も正直で、現在も正直で、未来も正直でなければならないことを意味します。
(28-159、1970.1.11)
自分を信じて進め! ひたすら一人で行くという立場で、結晶体とならなければならない。
御旨の道、実践
2. 自分の義務を遂行する真実な人
― 宗教経典 ―
信仰する者、ならびに悪魔からその身を守る者。かれらに対しては、現世ならびに来世における吉報があるのだ。
クルアーン10.63 ~ 64(イスラーム)
君子たるものは事業のもといをはじめて、その手がかりをのこして、後世の子孫が承けつがれるようにしてやれば、それで宜しいのです。しかしながら、それが成功するかどうかは天命でありまして、人間の力ではいかんともしがたいものです。
孟子I.B.14 (儒教)
君子は、おる地位に寄り従って、そのなすべきことを成し、その他を慕う心がない。富貴に在っては、富貴のなすべきことを行い、貧賤に在っては、貧賤のなすべきことを行い、蛮夷に在っては、蛮夷においてなすべきことを行い、艱難に在っては艱難においてなすべきことを行なう。君子はどのような地位に在っても、自ら満ち足りて伸びやかである。上位にいて下を侮らず、下位にいて上にすがらない。己を正しくして人にもとめなければ、恨むこともない。上は天を恨まず下は人をとがめない。だから、君子は平地にいて、天命に従い、小人は危険なことを行なって得るべきでないものを求める。
中庸14(儒教)
自分の義務を果たさない者は、誠実な人から尊敬されない。人はその行いによって高貴であるか下劣であるか明らかになり、誠実な人であるか不誠実な人であるか区別される。さもなくば卑劣な者は高貴な者に似るようになり、節操のない者が高潔な者に似るようになるであろう。価値なき者が価値ある者と思われ、堕落した者が有徳の人と思われるであろう。
もし私が義務の口実のもとに、社会の混乱を生み出すために仕組まれたこの不義なる道を採用し、経典によって認められていない行いをしたならば、私は善を捨てて悪のみを得なければならないであろう。(注9)もし私か堕落した卑劣な振る舞いをしたならば、何が義であり何が不義であるかを見分ける事のできる分別のある者の内、一体誰が私を尊敬すると言うのか?
義務の本質は真理であり、義務はこの世界の全ての根本であると言われている。義務を支えるのは真理であり、全ては真理に基づいている。真理より偉大なものは無い。供物、犠牲、献酒、苦行、禁欲、そしてヴェーダは、みな真理を基礎としている。
したがって真理は全てに先立つものである。それのみが世界を支え、それのみが家庭を支える。それに従わなければ地獄に送られ、それのみが天において讃えられる。真理に献身していた父の命令に、どうして私が従わずにおられようか? 野望も、怠慢も、そして誇りも、私をして道徳の橋を壊させることは出来ないであろう。
ラーマーヤナ、アヨーディアーの巻109(ヒンドゥー教)
葉公の子高が、斉の国に使者になって行こうとするとき、孔子に意見を求めていった。「楚王は私に、たいへん重い使命を与えられました。これからまいります斉の国では、使者をひどく丁重に待遇してくれるでしょうが、要求を急に聞いてくれることはないと思います。ただの人間を相手にしても、説きふせることはむずかしいのに、相手が諸侯では、なおさらのことです。それで、私もたいへん心配している次第です。……」。
孔子は答えた。「およそ世のなかには、心に戒めなければならない大事が二つある。その一つは命、天命であり、その一つは義、人間としての義務である。子が親を愛するのは命であり、自然の道によって定められたものであるから、いつも心から離れないものである。臣下が君主に仕えるのは義である。
この天地のあいだで、君臣の義からのがれる場所はない。だから、この二つを、心に戒めなければならない大事というのである。したがって、親に仕える子としては、どこにあっても親を安心させるのが、最上の孝である。君主に仕える臣下としては、どのような仕事であろうとえり好みしないで、これを果たして君主を安心させるのが、最高の忠である。
自分の心を主人のようにたいせつにするものは、哀楽の情がかわるがわる面前に立ち現われても、心の安らかさを乱すことがないようにするものである。したがって、もはや人間の力では、どうすることもできないことだとさとった場合には、運命のままに安んじて従い、哀楽の情に動かされないことこそ、最高の徳である。
人の臣下であるもの、人の子であるものにとっては、どうしても、やむにやまれないことがあるものだ。その場合には、与えられたことのままを行なって、自分自身のことは忘れるがよい。どうして生を喜んだり、死を憎んだりするひまがあろうか。……
すべて、物事のなりゆきのままに身をのせて、心を労するこことなく自由に遊ばせ、やむにやまれぬ必然の運命のままに身をゆだねて、自然のままの中正の道を養うようにすれば、それが最上の道である。何事かを行なって、よい結果を得ようなどと思ってはならない。ただひたすら、天命のままに従うのが、いちばんよい。これは、たやすいようで、実はむずかしいことなのだ」。
荘子4(道教)
― み言選集 ―
忠臣と奸臣は、本来人物としては同級に属する。ただ、忠臣は王様のみ意に従順であるが、奸臣は自分を立てようとする。忠臣は、常に直線上を歩み、する仕事も始めと終わりが同じである。
御旨の道、従順
今日、多くの人々は、絶対的な中心をもっていなので、心が朝夕に変わります。そのような人たちを人格者と言うことはできません。人格者とは、一生を通して約束したことを守ろうとする人であり、義の水準が高い人です。何かが決定したあとは、あれこれと変更があってはいけません。皆さんは、自分が約束したことに対しては、たとえ宇宙の法則が変わったとしても絶対に変わらないという人格者にならなければなりません。
(23-100、1969.5.14)
天倫に対して人間の志操を守り、天上の因縁を身代わりでき、人類の因縁を身代わりでき、宇宙の因縁を身代わりし得る価値を探し立てなければなりません。さらに、神様のみ旨に対して永遠に変わらない皆さんの立場を回復し、永遠に「ために生きられる」その方の価値を謳歌し得る人にならなければなりません。皆さん自身が全体と因縁を結び、その因縁の実践像が、神様の創造の美を完全に現せなければならないのです。このように、人間をして自分自身の生の価値を取り戻していくようにさせるのが、人間に対する神様の摂理の最高目標です。
(2-336 ~ 337、1957.8.4)
統一教会の文先生を、神様はなぜ必要とされるのですか。なぜ必要なのですか。顔が良いからですか。何のためですか。知識が何か世界的なものがありますか。何もありません。権力がありますか。お金がありますか。何もありません。何でもないのです。しかし、神様のみ旨を知り、それをしてさしあげようと、命を尽くして一度それを成し遂げてさしあげようという、そのことのゆえに神様が私をつかんでいらっしゃるのです。それ以外には何もありません。私が皆さんを必要とするのは、皆さんのお金を取ろうというのですか。私が権力を得ようというのですか。何もありません。神様のみ旨のために生きようという、細い小さなその心が、アメリカの何かの権力よりも必要であり、どこの誰よりも強いと思うがゆえに、皆さんを私が必要とするのです。
(77-16 ~ 17、1975.3.23)
3. 環境によって左右されない真実な人
― 宗教経典 ―
その昔、このサーヴァッティにヴェーデーヒカーという女性資産家がいました。女性資産家には、次のような良い評判が立っていました。「……ヴェーデーヒカーは温和である。……従順である。……冷静である。」と。女性資産家ヴェーデーヒカーには、カーリーという賢明で、働き者で、丁寧に仕事をする女性奴隷がいました。さて、比丘たちよ、女性奴隷カーリーはこう思いました。
「わが尊女にはこのような良い評判が立っている。わが尊女は、心に怒りがあっても顕わさないのか、それとも無いということであろうか。それとも、私がこれらの仕事を丁寧にしているというだけの理由で、わが尊女は内心に怒りがあっても顕わさず、無いのではないということであろうか。私は、尊女を観察してみてはどうであろうか」と。
そこで、……女性奴隷カーリーは日中に起きました。すると、……女性資産家ヴェーデーヒカーは女性奴隷カーリーにこう言いました。「これ、女性奴隷カーリーよ」「日中に起きるとは何ごとですか」「何もございません、尊女さま」……このように怒り、心喜ばず、渋面しました。
そのとき、……女性奴隷カーリーはこのように思いました。「わが尊女は内心に怒りがあっても、顕わさないのであり、無いのではない。私は、尊女をさらに観察してみてはどうであろうか」と。
そこで、……女性奴隷カーリーは、日中さらに遅く起きました。すると、……女性資産家ヴェーデーヒカーは女性奴隷カーリーにこう言いました。
「これ、女性奴隷カーリーよ」「日中遅くに起きるとは何ごとですか」「何もございません。尊女さま」「日中遅く起きながら、何もないですって、性悪い奴隷よ」このように怒り、心喜ばず、不快な言葉を発しました。そのとき、……女性奴隷カーリーはこのように思いました。
「わが尊女は内心怒りがあっても顕わさないのであり、無いのではない。私がこれらの仕事を丁寧にしているというだけの理由で、わが尊女は怒りがあっても顕わさないのであり、無いのではない。私は、尊女をさらに観察してみてはどうであろうか」と。そこで、……女性奴隷カーリーは、日中さらに遅く起きました。
「これ、……カーリー」「日中に起きるとは何ごとですか」このように怒り、心喜ばず、閂の楔をもち、頭に一撃を加え、頭を割りました。そのとき、……女性奴隷カーリーは、頭が割れ血を流しながら、付近の者たちに不満をもらしました。
「皆さん、温和なお方の行為を見てください。……冷静なお方の行為を見てください。どうして一介の奴隷に対して「日中に起きるとは」といって怒り、心喜ばず、閂の楔で頭に一撃を加えることがありましょうか」と。
……女性資産家ヴェーデーヒカーには、後日、このような悪い評判が立ちました。……ちょうどそのように、……ここにある比丘は不快な言葉の道が気に触らない限りにおいて、大変に温和であり、……従順な者であり、……冷静な者です。しかし、比丘たちよ、不快な言葉の道が比丘の気に触るときにこそ、比丘は「温和な者である」と知られるべきです。「従順な者である」と知られるべきです。「冷静な者である」と知られるべきです。
阿含経中部i.123 ~ 124 (仏教)
よく学んだ高潔な弟子は、苦痛を感じたとき、すすり泣かず、泣きわめかず、胸をたたくこともなく、慌てたりもしない。彼は肉体的に感じているが、精神的には何も感じていない。……さらに、彼は苦痛に対して強い反感も感じない。彼はそれに全く反感を感じないため、苦痛に反発する潜在気質は彼を捕らえて閉じ込めることができない。
なぜか。比丘よ、よく学んだ高潔な弟子は、感覚的な平安さの外に苦痛から抜け出す居所を知っているからである。彼は感覚的な平安さを楽しむことがないため、感覚的な平安さに対する潜在気質は彼を捕らえて閉じ込めることがない。……
もし彼が楽しさを感じれば、彼はそれを束縛から自由なものとして感じるだろう。もし彼が苦痛を感じれば、彼はそれを束縛から自由なものとして感じるだろう。もし彼が楽しさでもなく苦痛でもないものを感じれば、彼はそれを束縛から自由なものとして感じるだろう。
阿含経相応部36.1.1.6 (仏教)
― み言選集 ―
金の価値は、火の中に入れられても、その本質が変わらないところにある。人間の価値も同じである。もし苦労の道にぶつかって、その志が変質するとしたならば、人格者といえないだろう。
御旨の道、人格
心が変わるために行く方向が変わるのであり、行く方向が変わるために目的が変わるというのです。心が変わって一つの目的を達成するということはあり得ないことです。心が一つになっても目的を成し遂げるのが難しいのに、二つの心をもって一つの目的を成就するということは、ますますあり得ないことです。
このようにすべてのことを見る時、一つの心が必要なのです。朝の心と昼の心と夕方の心が一つにならなければならず、初年時代の心と中年時代の心と末年時代の心が一つにならなければなりません。このように誰でも一つの心をもって始めて、一つの心をもってその過程を開拓し、一つの心を中心として結果を追求するならば、その期間が長ければ長いほど、その人の願う目的も大きいでしょう。
私達は一つの心をもたなければなりません。ある目的を追求するにおいても、一つの心をもたなければなりません。一つの心を離れては、その目的を成し遂げることはできないのです。こういうことを見る時、神様は二つの心をもって天地を創造されなかったことが分かります。一つの心から始まって、一つの目的を達成するためには、一つの方向を備えた過程を経なければならないようになっているにもかかわらず、今日の人間は、一つの心の形態を備えることができずにいます。
(28-155、1970.1.11)
堕落以降の人間を見てみれば、どれほど心の世界が変わるか、千態万状です。心の本性が絶対に変わらず、体が本来の永遠の形態を備えたならば、そのような男性と女性は、貴い男性、貴い女性になるのです。白人カラーは唯一で変わらないので貴いのです。黒人カラーも唯一で変わらないので貴いのです。貴いものとは何か知っていますか。いくら白人でも、心が変わり、行動が変われば、世俗的でサタン側になるのです。
いくら白人が立派な立場で彼らの役割を誇ったとしても、心や行動が変われば、世俗的な人間になります。これを知らなければなりません。変わらないすべてのものは、いつ、どこでも神聖なものなのです。このような人は、たとえ位置が違ったとしても、この歴史において、この世界において貴い人です。手の形や顔は変わりません。それでは、人において変わるものは何ですか。心が変わるので、正にここが悪魔の舞踏場になり得るのです。心が変わる男性を好む女性がどこにいますか。そのような女性がいれば、その女性自身が完全な女性になり得ますか。皆さんは貴い人になりたいと思いませんか。
それでは、貴いカップルとは、どのようなカップルですか。一度真の愛で一つになれば、永遠に変わらないのです。歳月がそのカップルについていくのであって、そのカップルが歳月についていくのではありません。数千年の歳月が彼らについていきます。そのような人が永遠の生命の中心です。ですから、数千年をコントロールする中心が、正にそのような人だというのです。そのような人が正に神様のような聖人なのです。神様は、数千年の間、宇宙をコントロールしてこられるのです。いくら季節が変わり、地球が変わり、宇宙が変わったとしても、神様はそれについていきません。これはとても明白な結論です。
(217303 ~ 304、1991.6.12)
4) 正義
正義感あふれる人生とは、高貴な価値を敬い、共同の利益のために献身する人生である。正義感のある人たちは、社会にビジョンを提示し、真の価値を鼓舞する霊的、道徳的な柱のような存在である。彼らの勇気と道徳的清廉さ、社会奉仕は善の市民の手本である。義とは、時により大きな善を地域社会や国家、さらには世界に向ける努力として表出される。文鮮明先生は、このような人を、公的人生を生きていく公人と呼ばれる。そして、利己的で自分の欲求ばかり満たそうとする動機を捨て、私達がより大きな善のために生きていこうとする心をもたなければならないと教えていらっしゃる。
正義感のある人になるのは簡単ではない。この人たちは、常に個人の利徳の前に公的な義務を優先する。自分が取るすべての行動が適切か、真摯に考える。腐敗し堕落した社会では、正義感のある人たちがいつも歓迎されるとは限らない。甚だしくは迫害されることもある。しかし、旧約のソドムとゴモラの話から10 人の義人のゆえに、神様が罪の多い都市を快く赦してくださると約束されたように、義は高貴な価値をもっている。どの社会であれ、そのような人が要求される。
1. 自分を犠牲にして悪に対抗する義人
― 宗教経典 ―
先生がいわれた、「君子が天下のことに対するには、さからうこともなければ、愛着することもない。〔主観を去って〕ただ正義に親しんでゆく。」
論語4.10 (儒教)
神が人間を、互いに抑制し合うようし向けられなかったならば、大地はきっと腐敗したことであろう。
クルアーン2.251 (イスラーム)
義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
マタイによる福音書5.10 (キリスト教)
ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムヘ上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。私の父の家を商売の家としてはなら
ない。」
ヨハネによる福音書2.13 ~ 16(キリスト教)
勝利を望む者は、腕力や能力によって勝つのではなく、むしろ真理、哀れみ、正義、そして霊的修養によって勝つのである。そして義と不義とを識別し、貪欲とは何かを悟り、努力を頼みとするときには、おごることなく戦え、なぜなら正義のあるところに勝利があるからである。これらの条件を知り、ああ王よ、この戦いにおける勝利は我々にあることを知りなさい。実に、クリシュナのあ
るところに勝利があるのである。
マハバーラタビーシュマ・パルヴァン21(ヒンドゥー教)
歪曲された非難で私達を悪く言わないようにし、政府を破壊するという脅しに恐れることなく、私達を監獄に閉じ込めるという脅迫、やはり介意しないでください。正義が力になるという信念をもち、その信念の中で私達の義務を理解し、それに従って自信をもって行動することを願います。
エイブラハム・リンカーン(注10)
― み言選集 ―
「義」の字を見ると、不思議なのです。「羊のような我」という意味です。本当に不思議な組み合わせでできています。
(92-309、1977.4.24)
神の国と神の義のために冒険が必要であれば、その冒険を通して前進するようになるとき、神様が、「うむ! やりなさい! やりなさい!」とおっしゃるのです。それで、非難されるところを訪ねていくようにするのです。そこでぶつかれば、神様は「あれに一度ぶつかればどのようになるか」と……。それで、自力で屈服させるようになれば、神様は、「あ~、よいなあ」とお待ちになるのです。人と同じです。さあ、これは闘うこともなく恐れをなしているのですが、神様が彼を助けてくださいますか。「うんうん、やりなさい! やりなさい!」。世の中のどこにそのようなことがありますか。ですから、善意の問題を起こしなさいということです。
(104-108、1979.4.15)
皆さんは、最初に善か悪かを分けなければなりません。善悪がどこにあるのでしょうか。善悪は世界に満ちていますが、善悪を分けるべきその分岐点は皆さん自身です。これを知らなければなりません。世界が悪だと言うとき、その悪の世界と相克なく生きる人は悪の人です。私はこの世界と相克なく生きるという人は、悪の人だというのです。
堕落圏内にいながらも、網にかかっている魚と同じように、反旗を翻すことなくそのまま生きている人は、悪の人です。
悪の世界と相克を起こさなければならないとき、ただそのまま生きていく人は、悪の人です。今生きている世界が悪の世界だということを知れば、反旗を翻さなければなりません。それでは、なぜそのようになったのでしょうか。人間が堕落したからです。堕落して落ちたので、解放を迎えるためには、再び上がっていかなければならず、再び上がっていくためには、身もだえしなければならないのです。そのままでは駄目です。そのような人を通しては、人類が追求する新しい世界を迎えることはできず、新しい歴史の発展を期待することはできず、歴史的な善の痕跡を残すことはできません。ですから、善を掲げてきた人たちは、闘争しなければならないのです。
(33-42、1970.8.2)
迫害を受けて困難であるほど、より強くなるのが正義の本質なので、打てば、反対にもっと発展するという原則が成立します。
(93-134、1977.5.21)
善の心は、ある目的を指向しても、その目的とするところをはっきりと知ることができず、その過程においても善の心を刺激させ得る因縁を発見するのが難しい反面、悪のものは、その過程にいっぱいに満ちていて、最初から最後まで連結されています。このような点から見るとき、真を追求する心をもった人は、孤独な生活、悲しい生活をせざるを得ない立場に追い込まれるようになっています。
善をつかんでいく人の道は、平坦な道になり得ないという事実を知らなければなりません。人知れず善の人格を追求する人がいるとき、彼を歓迎する人は、この地に多くはないという事実を私達は知るようになります。善の個人が善の家庭を慕い求めていくにおいても、環境が歓迎してくれないことが分かるとき、善の家庭が善の氏族を慕い求めていく道には、より難しい悪条件がその環境を取り巻いていることを感じるようになるでしょう。
(36-52、1970.11.15)
今、一つの峠を越えていかなければならないその道を見守られるお父様の前に、恥ずかしさを感じず、堂々と浩蕩な男としてまいりますので、お父様、その道を見守られ、誇りに思ってくださることをお願い申し上げます。
(134-142, 1985.2.25)
2. 義人は公的に生き、自分の福祉と公共の善を同一視する
― 宗教経典 ―
だから、「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
マタイによる福音書6.31 ~ 33(キリスト教)
正しく仕えるということは、なんじらの顔を、東または西に向けることではない。およそ正しく仕えるとは、神と最後の審判の日、諸天使と諸聖典と予言者たちを信じ、かれを愛するためにその財産を、近親・孤児・貧者・たび路にある者・物請いや奴隷の解放のために費やし、礼拝の務めを守り、定めの喜捨をなし、約束したときはその約束を果たす。また困苦と逆境と非常時に際しては、よく耐え忍ぶ者。これらこそ真実な者であり、またこれらこそ主を畏れる者である。
クルアーン2.177(イスラーム)
私が身寄りのない子らを助け、助けを求める貧しい人々を守ったからだ。死にゆく人さえ私を祝福し、やもめの心をも私は生き返らせた。私は正義を衣としてまとい、公平は私の上着、また冠となった。私は見えない人の目となり、歩けない人の足となった。貧しい人々の父となり、私にかかわりのない訴訟にも尽力した。不正を行う者の牙を砕き、その歯にかかった人々を奪い返した。
ヨブ記29.12 ~ 17(キリスト教)
彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする。暗くなることも、傷つき果てることもない、この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。
イザヤ書42.2 ~ 4(キリスト教)
公孫丑がいった。「では、先生は告子よりも、どこがまさっているのでございましょうか。」孟子はこたえられた。「私は他人の言葉をよく判断する。また浩然の気をよく養っておる。」公孫丑がまたいった。「……告然の気とは、いったい、どういうものなのでしょう。」 孟子はこたえられた。「言葉ではなかなか説明しにくいが、この上もなく大きく、この上もなくつよく、しかも正しいもの。立派に育てていけば、天地の間に充満するほどにもなる。それが、浩然の気なのだ。
しかし、この気はいつも正義と人道とにつれそってこそ存在するものだから、この二つがなければ、この気は飢えてしぼんでしまう。これはたえずこの道義を行なっておるうちに自然と生れてくるもので、下界からむりやりいっぺんに取りいれることができるものではない。自分の心になこか疚(やま)しいことがあると、すぐに飢えてしぼんでしまう。……それは、いつもほかのものに伴われているものであるから、決して気だけを目的として養ってはいけない。そうかといって忘れてしまってもいけない。あの宋人(そうびと)のようにあせって助長してもいけない。」
孟子II.A.2 (儒教)
― み言選集 ―
皆さん、福を受けることを願いますか。永生することを願いますか。そうしようとすれば、公的な人にならなければなりません。
(31-168、1970.5.24)
ほかの人たちを感動させる、「ために生きる」立場に立つようになるとき、個人の峠を越えるのです。
(241-118、1992.12.20)
人間は本来、自分個人だけのために生きるようにはなっていません。ところが、今日のこの地上には、自分個人だけのために生きる人が多いのです。「自分のために仕事をする」と言います。つまり、自分自身のために生きるというのです。どれほどかわいそうな人ですか。父母も、兄弟もいない孤児と同じです。「私は世界の人類のために生きる」と言えなければなりません。
(24-21、1969.6.22)
「本部で最も困難なこと、国で最も困難なことを私がやった」と言わなければなりません。統一教会での困難なことをいうのではありません。さらには「世界で最も困難なことを私がやった」と言えなければなりません。これを気分悪く思いながら行い、嫌々やれば、僕として終わるのであって、養子の橋を架けて上がってくることはできません。(注11)今日の世界のあらゆる困難を、僕たちがするあらゆる困難を、私が喜びで消化しなければなりません。
(113-111、1981.5.1)
「できる、できない」、心配する必要はありません。そのようにしたのかしなかったのかが問題です。
(308-209、1999.1.5)
公的な人たちは、言葉を話すときも公的な話をしました。行動し、見て、聞いて、感じて、考えて、食べて、寝ること、すべてがそうでした。ですから、公的な心をもっている目はすべて愛するようになるのです。
(111-244、1981.2.22)
信仰者として最も注意しなければならないこととは何でしょうか。あることに対するとき、ささいなことであろうと、大きなことであろうと、事のいかんにかかわらず、個人的に対してはならないということです。言い換えれば、皆さんの心がぱんと張っていなければならないのです。空気をぱんぱんに入れて、完全に丸くなったボールのような心の姿勢をもつのです。ぺちゃんこではなく、完全にぱんと張ったボールのような心の状態にならなければならないというのです。そうではなく、不安な心や、あるいは個人の欲望を中心とした邪悪な心をもてば、丸いボールのような心に角が生じます。
(40-278 ~ 279、1971.2.7)
3. 義人は民族の守護者
― 宗教経典 ―
アブラハムは進み出て言った。「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」
創世記18.23 ~ 25(キリスト教)
しかし、私はイスラエルに七千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である。
列王記上19.18 (キリスト教)
エルサレムの通りを巡り、よく見て、悟るがよい。広場で尋ねてみよ、ひとりでもいるか、正義を行い、真実を求める者が。いれば、私はエルサレムを赦そう。「主は生きておられる」と言って誓うからこそ、彼らの誓いは偽りの誓いとなるのだ。主よ、御目は真実を求めておられるではありませんか。
エレミヤ書5.1 ~ 3(キリスト教)
常に国家には30 人の義人がおり、彼らの恩恵により世の中の国々は存続し続けることができる。
タルムード、フッリーン92a (ユダヤ教)
― み言選集 ―
レバレンド・ムーンがこのようにアメリカに来て、できる限りたくさんの仕事をしながら、大勢のアメリカの人たちを苦労させる理由があります。そのようにして発展すれば、アメリカの福になるのであり、神様が下さった責任をアメリカが果たせなかったことを終息させ得る一つの蕩減条件になるのです。
そうすれば、私が、「この人たちを見てお赦しください」と祈祷できます。「神様!アメリカは滅んでも、彼らを見て滅びないように……」、ソドムとゴモラが滅びるとき、義人が10 人いれば赦すと言われたのと同じように、「このアメリカは滅んで当然ですが、このような彼らを中心としてお赦しください!」と祈祷できるのです。
(103-200、1979.2.25)
愛国者が大勢いますが、聖人はめったにいません。聖人は、世界のために自分を犠牲にする人です。レバレンド・ムーンが愛する皆さんを聖人にしたいでしょうか、愛国者にしたいでしょうか、あるいは孝子にしたいでしょうか。私は皆さんを聖人にしたいと思うのです。
(111-141 ~ 142、1981.2.8)
5) 誠実と確実
人の内的意図は行動の結果に至大な影響を及ぼす。言い換えれば、どのような行動が善なのか悪なのか、効果があるのかないのかは、動機によって決定されるのである。仏陀が「法句経(ダンマパダ)」で強く説教したように、あらゆる行動は心から始まる。心から創出されるのである。内的心の状態に従って行動が出てくるものである。
下記のある経典の章句では、「信実」とは、あらゆる虚飾と利己的欲心が排除された、心の自然的で自発的な流れだと定義する。また、ほかの経典では、真実で信実な心を実践するためには、自己探求と自己涵養が要求されるという。
文鮮明先生は、自ら「精誠」と呼ばれる、この信実な心を高揚させることが霊的な人生に必需的だと語られる。この節では、精誠を日常生活に必要な徳目として扱っている。神様に近づく信実さと関連した主題は、第16 章の「献身」と「純粋な意図」により詳細に紹介されている。
1. 誠実は心情から自動的にわきでる
― 宗教経典 ―
ある人の心が堅実なら、彼の体も満ち足りており、……ある人の心に悪意があれば、その体も悪意をもつ。
ハディース(イスラーム)
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、苦しみはその人につき従う。車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように。ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につき従う。影がそのからだから離れないように。
法句経1 ~2(仏教)
アブ・フライラが神の使徒の言葉を伝えるには、「神はあなたの外貌と所有物を御覧にならない。ただあなたの心と行為をご覧になる」。
ムスリム・ハディース(イスラーム)
清い人には、すべてが清いのです。だが、汚れている者、信じない者には、何一つ清いものはなく、その知性も良心も汚れています。
テトスヘの手紙1.15 (キリスト教)
自己に対しで誠であることを見ないで発すると発するごとに当たらず、業(世事)が入って(心をかき乱して)も捨てないと、そのたびごとに、(心の真を)失うようになる。
荘子23(道教)
愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。
ローマの信徒への手紙12.9 ~ 10(キリスト教)
誠は、天理本来の姿である。誠であろうとするのは、人の当然の務めである。真実無妄で、思勉するまでもなく、おのずからにして道に当たるのは聖人である。
中庸20.18 (儒教)
喜怒哀楽(の情)がまだ発動しないのを中といい、発動して皆節度にかなうのを和と言う。中というのは、天下の大本(即ち、天命の性であって、天下の理は皆ここから出て来る、道の本体)である。和というのは天下の達道(即ち、性に従う意であって、天下古今の者が皆それによって行なう、道の働き)である。中和を推し極めれば、天地は、その(あるべき)所に安んじ、万物はその生を遂げる。
中庸1.4 ~ 5(儒教)
真とは、心が純粋で誠実であることの極致をさしていうのだ。心が純粋でなく、誠実でなければ、他人の心を動かすことはできない。だからむりに死者のために泣くものは、どんなに悲しそうにしても、人に悲しさを感じさせない。むりに怒るものは、いかに威厳をつくろっても、人に威圧を感じさせることがない。むりに親しもうとするものは、いかに笑顔を見せても、人になごやかさをおぼえさせることがない。
真の悲しみは、声を出さないで悲しむものであり、真の怒りは、表情に出、さなくでも威厳をそなえ、真の親しみは、笑顔を見せなくてもなごやかさを覚えさせるものだ。このように、真が心のうちにそなわっているものは、それが心のはたらきとなって、自然に外に現れるものである。これが真をとうとぶ理由にはかならない。
荘子31(道教)
― み言選集 ―
私の内なる人である心と話をしなければなりません。人の心が神様と共に共鳴するようになれば、神様と関係を結ぶようになり、宇宙の真理は自動的に分かります。
(102-34、11978.11.19)
善なる人は、自然を見ても、人と会っても、どこへ行っても、いつでも心情でもって包むことのできる者である。
御旨の道、自然
神様の前に至誠を尽くすことは、人から聞いたり、学んだり、導かれたりしてなせることではない。自動的に心情がわき出るからするのである。ゆえに、忠、孝、烈は教えられてできるものではない。
御旨の道、心情
私が精誠を尽くし、愛するものは、私のものだというのです。福は神様がもっています。恨を越えて福を与えたいと思う心が貯蔵されているので、福を受けることができるか考える必要はないのです。福は自動的に来るようになっています。その心をもって生活に適用し、動いてみることを願います。
先生は、あることに着手すれば、「このために生まれた!」と考えます。私はこのために生まれました、生まれたのはこのためです、と考えなければなりません。その次には、喜んでするのです。喜んですることが愛です。喜びの峠を越えていけるものが愛です。自分が嫌いなものには手を出しません。やらないのです。喜んでするところには、神様がその世界に福を祈ってくださるのです。
(308-214、1999.1.5)
敬天、人和、愛地の内的な心情基準を揺り動かされない者が、恵まれた者である。
御旨の道、心情
精誠を尽くしていることが成し遂げられるためには、心が統一されなければなりません。すなわち、一片丹心を備えなければならないということです。二つの心があってはいけないのです。始まりから終わりまで、統一された心で精誠を尽くさなければなりません。精誠は、誰かに貸してあげて、また戻してもらえる物とは違います。ですから、始めも、過程も、終わりも、様々な形態に変化しては、精誠になり得ないというのです。
(17-227 ~ 228、1967.1.29)
克服は、何をもってするのでしょうか。それは、手段では駄目です。何かの才能でも駄目です。ただ精誠によってのみ克服できるのです。
(42-228、1971.3.14)
2. 行動する以前に精誠を尽くしなさい
― 宗教経典 ―
何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命の源がある。
箴言4.23 (キリスト教)
神道というものは、ほんとうに正しく直きものを根本とするものであるから、……そうであるから、神の示されるまことをもって自分のものとするそのほんとうの姿の中より流れ出てくるものであり、事物に接するうえにおいて、ちょっとかりに行うようなことにも、みなまことを尽くすべきである。このまこと、正直のない礼儀、義節などというものは、みなまちがった取るに足りないものである。弓を引くのに、手のうちを固めないで、いたずらに的に当てることを考え、梶もなくて船を進めようとするようなものである。
匹田以正神風記(神道)
實にも心は輪廻その者なり。そを努めて清浄にせよ、心の考ふる所に從て人はそれとなる。これ實に不変の秘義なり。心の寂静に依て善悪の業を滅す。寂静我に住することに依て不壊の幸安を味ふ。人の心にして外境に着するが如くに、しかく梵に着せむか。何人は繋縛より脱せざらむ。先人言へることあり、「心に二種あり浄と不浄となり」と、欲と混するは不浄にして欲と離るるは浄なり。濕沈(laya)と掉挙(viksepa)とを離れて心不動となり、無心態(amanibhava)となる時、そは賞に最高処なり。
マイトリ・ウパニシャッド6.34.3 ~ 7(ヒンドゥー教)
(先に)言った「其の意を誠にする」とは、みずから欺いてはならないということである。(悪を憎むこと)悪臭を憎むようであり、(善を好むこと)美しい色を好むごとくである。このことを、自己自身に快しとして満足するというのである。だから、君子はその独りを慎むのである。小人は独りでいると不善を行なって、どんなことでもする。君子に出会うと初めて、隠れるようにして、その不善のことを覆ってしまい、その善を現す。他の人が自分を見るとき、その肺臓肝臓まで(明らかに)見通してしまうようである以上、(覆い隠したところで)なんの益があろうか。これを「(心の)中に誠があれば、(必ず)外に現れる」というのである。だから君子は必ず、その独りでいるとき(の行い)を慎むのである。曾子が言われた、「十人の目の見るところ、十手の指すところは極めて恐れなければならない」と。富は住居を潤し、徳は身を潤す。心は広々としており、身体は伸びやかである。だから君子は必ずその意を誠にするのである。(注14)
大学6.1 ~ 4(儒教)
私達は、私達自身を検査しなければならず、何が心情の影響であり目的なのか学はなければならない。このようにしてこそ、私達は、私達が誰なのか正直に学ぶことができる。
科学と健康8(クリスチャンサイエンス)
比丘たちよ! もし自ら着飾ることを好む女性や若者、あるいは幼い少年がいて、きれいな鏡や澄んだ水が入った壷に自分の姿を映し、その中に何かのしみやあかがついているのを発見すれば、その人はそのしみやあかを消そうと努め、そのとおりになればその人はとても喜び、このように考える。私がきれいになったことは、私にとって本当によいことだ。これと同じように、比丘の内的省察は、それがよく修められるとき、彼に最も大きな利得になる。ゆえに彼はこのように自らを振り返る。私が平素によく人のものを欲しくはならないか。
私が平素に悪意を抱いて語ったり行なったりしたことはないか。私が平素に修行を修めることを怠ったりしていないか。私は平素に心がそわそわし平静心を失ってはいないか。私が平素に疑心をもって心が動揺し混乱に陥ってはいないか。私が平素に怒りをよく静めることができていないのではないか。私が平素に汚れた想念に捕らわれてはいないか。私が平素に色事をむさぼる心を抱いてはいないか。私が平素に無気力に過ごしたりしていないか。活気にあふれた姿で修行に臨んでいるのか。私が平素に私を統御して生きているのか、あるいはそうできていないのか。
もしこのように自らを振り返り、ある比丘が、「私は平素に人のものを欲しがり、心に悪意を抱き。放逸し、鈍く、心に平静を保てず、疑心に心が動揺し、よく混乱に陥り、よく怒り、色欲にはまった体をもち、のろまで自分を統御できない」と思えば、その比丘は自らを叱責し、より一層修行に専念しなければならないので、よりたくさん努力し、より高い熱望をもち、より多く実践し、心が散漫にならず、邪悪で有益でないものを振り払うことに全力を尽くさなければならない。
阿含経増支部5.66(仏教)
― み言選集 ―
「至誠感天」という韓国の格言がありますが、それは、本当に天理に通じる言葉です。「すべての精誠を捧げる」というとき、それは内外のすべてを捧げるということです。思うこと、話すこと、行うこと、また良心の生活圏までも、すべて合わせて捧げるというのです。それが精誠です。「精誠」の「精」の字は精神を意味します。「誠」は言偏に「成」の字です。ですから、内外のすべてのものを成して捧げるという意味です。(注15)そのようにしてこそ「感天」になるのです。天が感動するということです。
(78-31.32、1975.5.1)
普段の感じが何パーセント的中するのか、皆さんの生活過程を分析して、結果を確認しなければなりません。私が感じることは何パーセント合っている、何パーセント間違いないという、このような内的な因縁を、皆さんが環境圏内で結んで確認できるようにならなければなりません。そのような結果を測定できる立場に立たなくては、神様が共にいらっしゃるか悪が共にあるのか、分析できません。したがって、必ずこのような信仰態度が必要です。このような信仰態度を育てていけば、間違いなく体恤されていきます。そのようになれば、道を行くとき、祈祷をしなくても大丈夫です。最初の一歩を踏み出すとき、この道がどんな道か、行けば神様が喜ばれる道か、悲しまれる道かということが分からなければなりません。最初に、「ああ、これは良い、悪い」と感じられるというのです。悪いと感じるときは行かないのです。これを鑑定できなくてはなりません。ですから、皆さんは、環境の中で体恤信仰を開発するために努
がしなければなりません。
(40-288、1971.2.7)
恨んではいけません。「ああ、大変だ! 先生は分かってくれる、分かってくれない」と言いますが、精誠を尽くしたことが分かれば、どのようになりますか。愛することを分かってくれたら、どのようになりますか。分かってくれたら愛が詰まってしまうのです。分かってくれないことによって、精誠が流れていき、愛が流れていくのです。これがすべて流れていかなければなりません。水も流れていき、空気も流れていき、愛も隙間さえあれば、すべて満たすのです。
(308-205、1999.1.5)
信仰生活をする上で皆さんの心の中に、爆発的で刺激的な力をもってみ旨の世界に向かって行こうという余力がありますか。そのような心があれば、神様が皆さんと共にいらっしゃるという証拠です。反面、そのような力がないならば、神様が皆さんと分離している証拠です。人類を愛する心がわき上がり、人類と共に自分の生命を分かちたい心が絶えないということは天に属していることを証すものですが、自体を中心とした愛と自体の価値を誇る生命力として終わるならば、自分から既に神様は離別しているという事実を知らなければなりません。そのような人の行く道の先は天ではありません。そのような人は自己を中心とした限界点に到達するでしょう。自分を中心とした限界の世界は、神様のみ旨の世界とは異なるのです。
(32-21 ~ 22、1970.6.14)
準備できない人は流れていきます。準備できない人は相続者になれません。重要な話です。ですから、何か自分が天に同情し、神様の心に感動を与えることができなければなりません。そのような時間がどのようなところかということを考えるとき、それは精誠を尽くし、また精誠を尽くそうとするときであり、ために生き、またために生きようとするときであり、愛して、また愛そうとするときだというのです。
(308-203、1999.1.5)
いまだに堕落圏に属している人類は、良心革命を完成しなければなりません。すなわち、この世の中のいかなる主権や理念を前にしても、一点、一画も加減することなく、神様が賦与してくださった本心の指向性に従い、真の愛、真の生命、真の血統の伝統を守りなさいという意味です。天の前でも、万物の前でも、一点の恥ずかしさもない正午定着的な生を生きなければならないということです。私達の生が、一心、一体、一念、一核の境地に到達し、純潔、純血、純愛性を永遠不変の伝統として安着させて一和統一時代を花咲かせる時、ついに良心革命は完成するのです。
(433-202、2004.1.27)
6) 正直
正直は真実を意味し、心と心情に内在したものを事実どおりに語り、約束を守り、言葉と行動が一致するように行動することを含む。神様の前で正直であろうとすれば、自分の罪を告白し、生まれ変わると反省し、誓い、悪を行わせる誘惑と立ち向かって闘おうという姿勢が必要だ。したがって、文鮮明先生は、私達の考えと言葉と行動に関して、神様に正直に御報告する時間が祈祷の時間だと言われる。祈祷は、また未来の自分がどのように考え、語り、行動するという決意を誓い、目標を立てる時間でもある。
1. 他人と神様と真実を語る
― 宗教経典 ―
うそをつく唇を主はいとわれる。忠実を尽くす人を主は喜び迎えられる。
箴言12.22(キリスト教)
だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。私達は、互いに体の一部なのです。
エペソの信徒への手紙4.25(キリスト教)
〔ヴェーダの〕学習を怠ることなかれ。
タイッティリーヤ・ウパニシャッド1.11.1(ヒンドゥー教)
あなたの心が否定するものを、あなたの口が固執してはならない。
陰隲文、静粛の道(道教)
口で語る言葉と心に抱いた思いが違ってはいけない。
タルムード、バヴァ・メツィア49(ユダヤ教)
体、言葉、思いからする行為において、正直と真実は幸運の道に通じる。
タットヴァールタ・スートラ6.23(ジャイナ教)
うそをつくからといって富者になれないのではなく、背信したからといって長生きできないのではない。しかし、死(審判)の日には、それらによって当惑するようになるだろう。うそが20 年間走っていっても、真実はそれを1日で捕まえる。真実は市場に出ても売れない、うそはとても安く買うことができる。
ヨルバ族の格言(アフリカ伝統宗教)
真実を語るべし。好ましいことを語るべし。真実でも好ましくないことを語ってはならない。好ましくとも虚偽を語ってはならない。これは永遠の生き方(ダルマ)である。
マヌ法典4.138(ヒンドゥー教)
先生がいわれた、「君子は、自分のことばが実践より以上になることを恥じとする。」
論語14.29 (儒教)
信仰する者よ、なんじらはどうして自ら行わないことを言うのか。なんじらが行わないことを口にするは、神においては、最も憎みたもうところである。
クルアーン61.2 ~ 3(イスラーム)
いつわりを語る人、あるいは自分がしておきながら「私はしませんでした」と言う人、この両者は死後にはひとしくなる、来世では行ないの下劣な業をもった人々なのであるから。
法句経306 (仏教)
謀計ハ眼前ノ利潤タリトイヘドモ
必ズ神明ノ罰ニ当タル
正直ハ一旦ノ依怙ニ非ズトイヘドモ
終ニ日月ノ憐ミヲ蒙ル
皇大神宮、天照大神の神託(神道)86
葉公が孔子に話した、「私どもの村には正直者の躬という男がいて、自分の父親が羊をごまかしたとき、むすこがそれを知らせました。」孔子はいわれた、「私どもの村の正直者はそれとは違います。父は子のために隠し、子は父のために隠します。正直さはそこに自然にそなわるものです。」
論語13.18 (儒教)
― み言選集 ―
皆さんが修養の道を行きながら一つ知らなければならないことは、師弟関係において、偽装戦術を使ってはいけないということです。互いに率直でなければなりません。この上ない精誠を尽くして互いに対さなければならないというのです。
(33-125、1970.8.11)
率直なことは正義に通じ、正直でないことは不義と通じます。
(364-226、2002.1.3)
神様がどのようになっているのかというと、一つを中心として心と体が一つになっています。心と体が一つになったところは、考えも一つになっています。皆さんが日常言うことは、「言行心事を正しくしなければならない」。言行心事です。言葉と行動と、心事とは何ですか。心と事が一つにならなければなりません。そうしてこそ、それが公的なものとして保護し、証し、宣伝することができるのであって、そうでなければできません。
(381-65、2002.6.11)
人は率直でなければなりません。率直なことは世の中のどこでも通じます。自分が間違ったら、間違ったと率直に言うときは発展します。善もその過程を経なければ発展することはできません。人がいつもうまくできますか。人は間違うこともあるので、そのようにしてこそ、発展できるのです。私が間違ったとしても、そこで率直に告白し、後悔することによって新しい決心ができます。
間違うことが悪いのではありません。間違ったのなら、このことによる新しい刺激を受けて跳躍することができるのです。刺激を受けて目に見えて飛躍できるのなら、間違うこともよいのです。勉強ができなくて落第したとしても、一度落第することによって、それを契機に優等生になることもあります。
ですから、率直でなければなりません。もじもじと隠そうとする人は発展できません。しかし、率直な人は発展します。この宇宙が押してくれるので発展するのです。どこに行っても宇宙が押してくれるということです。東洋も西洋も、過去も現在も未来も、率直な人はすべての人の友人になることができるのです。
(100-87 ~ 88、1978.10.8)
率直な信仰者にならなければなりません。「私はこうです。心はこうです。お父様、私も率直にしますので、あなたも私に率直に対してください。あなたは正義に立脚した場で、どれほど率直な心をもって私に対してくださいましたか。私が否定の心をもった立場にいるがゆえに、あなたも否定の心をもって私に対されると思いますが、これからは心にあるがままに対そうと思いますので、正義の判断を下して私を分別してください」と言うことができなければなりません。このような心情は、皆さんが信仰生活を多年にわたって経験してきながら、絶対に必要だということを感じたことでしょう。
(45-242 ~ 243、1971.7.4)
私は、原理的立場で正直と純潔と犠牲を教えています。第1に、神様の前で人間は正直でなければなりません。人間の偽りが神様と人間の分離をもたらすと「統一原理」は教えています。信徒たちがさらに激しい迫害を受けるとしても、私は彼らに神様の使節として臨まなければならず、まず自分が統一教徒であることを人々に明らかにすることを強調します。
統一教会の信徒たちは、レバレンド・ムーンに従う者たちだと言わなければなりません。もしそのように言う勇気のない人がいれば、彼は私達には必要のない人です。自分にぶつかってくるより大きな苦難を恐れ、自分の身分を語ることができない人は、迫害によって巡ってくるあらゆる祝福を逃すのです。ある地域の指導者たちは、一時的な手段として隠しているのかもしれませんが、悪い動機からそのようにしているとは見ません。私は、苦難に直面してそのようなことが起こり得るのは理解できますが、そのような行動を称賛はしません。
(91-128, 1977.2.3)
2. 約束履行
― 宗教経典 ―
人が主に誓願を立てるか、物断ちの誓いをするならば、その言葉を破ってはならない。すべて、口にしたとおり、実行しなければならない。
民数記30.3 (キリスト教)
なんじらは神と約束を結んだならば、それを全うせよ、誓いをおごそかに認めて後、それを破ってはならぬ、なんじらは神を、しかと立証者としたのである。まことに神は、なんじらの行うことを知りたもう。丈夫に紡いだ後その撚(よ)りをもどし、ばらばらにほぐす婦人のようであってはならぬ。一族が他の一族よりも、かず多くなったために、なんじらのあいだで、誓を裏切る道具にしてはならぬ。まことに神は、それでなんじらを試みたもう。
クルアーン16.91-92(イスラーム)
人が天の国の審判台に立てば、最初に尋ねられる質問は、「あなたは神を信じたか」、または「あなたは祈りを行い、宗教儀式に参与したか」というものではなく、「あなたはあなたの隣人に衷心を尽くし、信仰的にも名誉あるように接してあげたか」ということである。
タルムード、シャッバト31a(ユダヤ教)
子張が〔思いどおり〕行なわれるにはとたずねた。先生はいわれた、「ことばにまごころがあり、行ないがねんごろであれば、野蛮な外国でさえ行なわれる。ことばにまごころがなく、行ないもねんごろでないなら、〔国内の〕町や村の中でさえ行なわれまい。立っているときにはそのこと(まごごろとねんごろ)が前にやってくるように見え、車に乗っているときにはそのことが車の前の横木によりかかっているように見える、まあそのようになってはじめて行なわれるのだ。」子張はそのことばを〔忘れないように〕広帯のはしに書きつけた。
論語15.6 (儒教)
― み言選集 ―
友人に与えると約束したものは、必ず与えなさい。約束を破ることは、あなたの人格を損なうものである。
御旨の道、人格
徳望の友をたくさんもてる道、あるいは目上の人に認められる道、あるいは年下の人に信頼され得る道は、弁明ではありません。大概、弁明する人たちは損害を被ります。ですから、ある事件が起きたとき、弁明してはいけません。先生は、死んでも弁明はできない人です。率直な人は残るのです。そのような人は、その環境を継承できるのです。このような観点から見るとき、「率直な信仰者」になることが何よりも必要です。
(45-269、1971.7.4)
人格者は、誰かと約束したことがあれば、それを履行して実践します。これはあなたが主張して約束したことなので、「私は従わない」と言う人がいれば、彼は人格者ではありません。法は、公的な基準を中心として約束したものです。ですから、その法の約束圏内にいるすべての人たちは、それを守らなければなりません。約束した人がその法を守ることができないときは、公共規範によって制裁を受けなければならないのです。これは、法を遵守しなければならない人たちの責任です。
(31-13、1970.4.8)
祈祷というものは、歩んでいて力が尽きたときにするのです。約束したのなら行動し、しかし、私が及ばずに倒れるときに祈祷しなければなりません。
(113-60、1981.4.26)
7) 用心と警戒
人生の道を歩んでいく人は、常に油断してはならない。怠慢でのんびりした人生は容認されない。常に私達は善悪の分かれ道、原則と違法の分かれ道に立つ。その道には、いつも思わぬ落とし穴と誘惑があり、私達を災難に導くこともできる。したがって、霊的な修養の道を歩んでいくにおいて、私達は常に用心し、警戒し、注意する人生を生きなければならない。
したがって、世界の諸経典は、神様のみ旨に反する罪を犯したり、堕落した人生を生きたりしないために、私達が常に油断しないことを教える。聖書の「主の日は盗人が夜くるように来る」という聖句のように、キリスト教では賢者と愚者の例えを挙げ、生きていきながら絶えず警戒をおろそかにしないことを教える。イスラームでは、常に神(ザカラ)を記憶し、その戒めと慈悲を記憶し、毎日の祈祷生活を通してこれを再考するように督励している。ユダヤ教の賢人たちは、いかなる罪の可能性も排除するために、「法の囲いの中で」すべての戒めを解釈することを主張した。東洋の宗教は、修道者たちに常に思いの流れを警戒する瞑想訓練を奨励する。文鮮明先生も、常に慎重な注意が必要であることを強調される。そして、瞬間の不注意で深刻な過誤を犯した聖書の中心人物たちの例を挙げ、この内容を再び想起させてくださる。
― 宗教経典 ―
詩経には「おそれつ戒めつ、深き淵にのぞむごと、薄き氷をふむがごと。」とある。
論語8.3 (儒教)
恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。
ピリピの信徒への手紙2.12 (キリスト教)
出家修行者は、あたかもすべてのものが自らをわなに陥れる落とし穴であるかのように、注意深く歩まなければならない。
ウッタラッジャーヤー4.7(ジャイナ教)
〔教えを〕聴聞し、信仰を持ち、多くの努力をしても、正知を欠くという過失ゆえ、破戒という汚れを持つことになる。正知を欠いた〔煩悩という〕盗賊たちは、憶念の弱まりに従って、〔働き出す。そのため、〕多くの福徳を積んでも、〔それを〕盗賊に盗まれ、〔その結果〕悪趣へと赴くことになる。
菩提行論5.26 ~ 27(仏教)
孔子のことば。みずから危うしとして反省警戒する者こそ、その地位に安んじ得る者であり、亡びはせぬかと反省警戒する者こそその存立を保ち得る者であり、乱れはせぬかと反省警戒する者こそ、その治平を保ち得るものである。なればこそ、君子は安きに居て危うきを忘れず、存続しつつも亡びることを忘れず、治に居ても乱を忘れない。こうであってこそ、その身は安らかで国家の安泰をも保ち得るのである。易にも「それ亡びなんとて、苞桑に繋る」と言ってある。
易経、周易繋辞、下伝2.5.9 (儒教)
不運なときに、幸運があらわれ、幸運なときに、不運がひそんでいる。誰れが最後の正しさを決定することができるのか。
道徳経58(道教)
許されたことは明らかであり、禁じられたこともまた明瞭であるが、その中間には多くの人々が知り得ない様々な疑わしい事柄がある。したがって疑わしい事柄を避ける者は、自分の宗教、名誉に関して〔過ちから〕免れるが、それに足を踏み入れる者は禁じられた行為を犯すことになる。これはちょうど聖域の周りで動物を飼う牧童が、聖域の中で動物に草をはませる危険を冒すようなものである。まことに王者は誰しも聖域をもっているが、神の聖域とはその様々な禁令である。
ナワウィー40 のハディース6(イスラーム)
ラビ・アカバは言った。「無駄な笑いと軽々しさが人間を不徳にする。伝統はトーラーを守る囲い、十分の一献金は富者を、誓いは崇高さを守ってくれる囲いである。そして、知恵を守ってくれる囲いは沈黙である」。
ミシュナ、アヴォート3.17(ユダヤ教)
同行する仲間が少ないのに多くの財を運ばねばならぬ商人が、危険な道を避けるように、また生きたいとねがう人が毒を避けるように、人はもろもろの悪を避けよ。
法句経123 (仏教)
しかし、われらの信条におかれているものは、マズダーよ「天則は利益するために」であり、教義には「不義は破壊するために」であって、これをもってわたくしはウォフ・マナフとの交わりを求めすべての不義者を教朋から追放するものです。
アヴェスター・ヤシュト49.3(ゾロアスター教)
孟子がいわれた。「人は不正不義は絶対にしない、という決心があってこそ、はじめて大事業をなしとげることができるのだ。」
孟子IV.B.8 (儒教)
公然の罪と内密の罪をさけよ。まことに罪を犯した者は、その行なったことに対して報いをうけるであろう。
クルアーン6.120 (イスラーム)
非難される欠点のない行為のみを実行せよ。もしもそなたに祭事についての疑惑、あるいは行為についての疑惑が起こるならば、そこにもろもろのバラモンがいて、判断力あり、〔善いことに〕専念して、熱心であり、粗暴ならず、法を愛する者であるならば、かれらの行うがごとくに、そなたもまた行うべきである。
タイッティリーヤ・ウパニシャッド1.112、4(ヒンドゥー教)
思慮ある者へのしるしがある。あるいは立ち、あるいはすわり、あるいは横たわって不断に神を唱念し……
クルアーン3.190-91(イスラーム)
あなたの寝台の布団の陰の下に、あなたが一人でいるとき、注意せよ。
陰隲文(道教)
歩くにせよ、とどまるにすよ、坐るにせよ、あるいはまた臥すにせよ、悪い、家にもとづく、世俗的な思いをいだく者は、邪まな道を歩み、迷わせるものに迷う。このような比丘は、最高のさとりに触れることができない。歩くにせよ、とどまるにせよ、坐るにせよ、あるいはまた臥すにせよ、世俗的な思いをやめ、世俗的な思いの静まりを楽しむ。このような比丘は、最高のさとりに触れることができる。
如是語経110 (仏教)
そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壷に油を入れて持っていた。ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。
真夜中に「花婿だ。迎えに出なさい」と叫ぶ声がした。そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。「油を分けてください。私達のともし火は消えそうです。」賢いおとめたちは答えた。「分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。」愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。
その後で、ほかのおとめたちも来て、「御主人様、御主人様、開けてください」と言った。しかし主人は、「はっきり言っておく。私はお前たちを知らない」と答えた。だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。
マタイによる福音書25.1 ~ 13(キリスト教)
― み言選集 ―
若い皆さんたちは、善悪の岐路に立っているので、一歩間違えば、それは千尋、万尋の死亡の窮地に引き込まれていき得るのです。大変ですが、一歩踏んで立ち上がっていくようになるときは、輝くあすの希望の山上を越え、希望の広野を見つめられる勝利の王者になれるのです。一歩を注意しなければなりません。
(59-214、1972.7.16)
大きくなればなるほど、自分の足もとを見なければならないし、小さければ小さいほど、神様を見上げなければならない。
御旨の道、み旨
言葉に注意しなければなりません。その次には、目に注意しなければなりません。その次には、耳に注意しなければなりません。何の話か分かりますか。自己中心の言葉は聞かないでください。自分を中心とする行動は見ず、自分のために生きる人とは話もせず、自分のための弁明もしてはいけません。これが一番の防御策だということです。
(93-319、1977.6.12)
公的なものと私的なものの中で、公的なものは全体のためのものであり、私的なものは自分のためめものです。皆さんが自分を静かに反省してみれば、自分が公的なものと私的なものの狭間にいることを悟るようになるでしょう。ですから、宗教は、自分中心に進んでいこうとする体を制止させようと、「断食しなさい。苦行しなさい。温柔、謙遜でありなさい」と教えるのです。
(149-271、1986.11.27)
もう一度考え、もう一度考えて行動してください。
(93-320、1977.6.12)
一言、一度間違って聞くことによって、一生を台無しにするようになるのです。また、行動においてもそうです。一度間違って歩めば、やはり一生を台無しにするということです。また、皆さんが友人と付き合うときにおいても、友人一人と間違って付き合うことによって、一生を台無しにすることもあるのです。そのようなことが一生に1度や2度ではないので、昔から考える人たちは、話すことに注意し、聞くことに注意し、行動に注意し、友人に注意しなさいと教えてきました。これは古今を問わず、あるいは東洋と西洋を問わず、同じく通じる公式だということを皆さんは知らなければなりません。
一言間違うことによってそのようなことが起ぎる反面、一言うまく言うことによって一生が行ったり来たりするのです。一言で、聞くこともそうであり、歩くこともそうであり、行動することもそうであり、友人と付き合うことも同じです。不意に、通り過ぎる若い人に一言話すことによって因縁を結び、付き合ってみれば夫になることもあるのです。
(91-29 ~ 30、1977.1.2)
不幸な道の出発というものは、大きな事件から始まるのではなく、小さなことから始まるのです。もう一度考えるべきことを、いつも自分を中心として考えていては、その峠を越えることは難しいのです。重大な決定をすればするほど、必ずそのような境遇に立たなければ、一大悲運が訪れてくるということがいつもあるのです。自分を中心として考えることが怨讐であることを知らなければなりません。
(93-298、1977.6.12)
私達が過ごしている一日の生活の中で、1 時間1 時間も恐ろしいですが、1時間の中のチクタクという瞬間が、私達にとってどれほど恐ろしい瞬間であるかを感じて闘っていける人にならなければなりません。ですから、永遠の天国も、一瞬の間を離れてはあり得ないことを皆さんは知らなければなりません。
アダム家庭において、アダム・エバが堕落したのも、1年や10 年、あるいは何十年を計画して失敗したのではありません。その失敗は、一瞬にもたらされ、一瞬の失敗が、億千万年続いてきたことを考えるときに、その瞬間がどれほど恐ろしく、どれほど怖いものであるかが分かります。
その一瞬の失敗で歴史時代に修行の道を行っだ数多くの人たちが、受難の応報を受けなければならず、そのみ旨についていかない数多くの民族が、滅亡のどん底に落ちなければなりませんでした。それが、途方もない蕩減の祭物の起源になったというのです。
(37-219、1970.12.27)
ノアが40 日洪水審判のあとに、もう少し深く考えていれば、裸でそのような行動はしなかったでしょう。少しでも考えていれば、そのようなことをしたでしょうか。少しだけ我慢していれば、お酒を飲んでそのようにしたでしょうか。もう少し我慢し、もう少しだけ考えていれば、絶対にそのようなことはしていなかったでしょう。
また、アブラハムが祭物を捧げるとき、三大祭物を前にして、じっと見つめて考えたならば、失敗したでしょうか。三大祭物の中で、二つは裂き、なぜ一つは裂かなかったのかということです。
(99-39、1978.8.27)
天の試練を受ける立場にいたヤコブは、一時も心が休まらなかったことを皆さんは知らなければなりません。彼は、神様の祝福のみ言を固く信じ、闘いが終わるまでは腕が取れても退かないという固い信念をもっていたのです。このように闘って勝利したのちにこそ、イスラエルという祝福が臨んだのです。
(3-337、1958.2.9)
8) 慎重な言葉
不注意や、故意にした攻撃的発言は、他人に途方もない傷を与えることがある。悪の発言は友情を破壊し、名声を落とし、不必要な偏見を引き起こす。多くの噂とスキャンダルに揺さぶられることがなかったなら、イエスは当代の人たちにより多くの歓迎を受けることもできた。言葉は、自分をはじめ他人にも途方もない傷を残すため、慎重に扱わなければならない。
― 宗教経典 ―
民の間で中傷をしたり、隣人の生命にかかわる偽証をしてはならない。私は主である。
レビ記19.16 (キリスト教)
もし耳が悪意に満ちた根も葉もないうわさを聞かなければ、心は悲嘆に暮れることはないだろう。
ヨルバ族の格言(アフリカ伝統宗教)
善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。
マタイによる福音書12.35 ~ 37(キリスト教)
心は軍隊をもった王と同じである。王が優れていればその軍隊も優れており、王が弱ければその軍隊も人がするとおりにする。……神と最後の〔審判の〕日を信ずる者は、口をひらけば良き言葉を語り、さもなければ口をふさいでいるべきである。
ナワウィー40 のハディース15(イスラーム)
口数が多ければ罪は避けえない。唇を制すれば成功する。
箴言10.19 (キリスト教)
すると彼は舌をつまんで言った。「これを慎しむのだ。」私は尋ねた。「アッラーの預言者よ、私達は口にしたことで評価されるのでしょうか。」すると彼は言った。「ムアーズよ、お前も母親泣かせだ。人々の舌が収穫したもの以外に、いったい彼らを地獄に逆落としにするものがあるだろうか。」
ナワウィー40 のハディース29(イスラーム)
荒々しいことばを言うな。言われた人々は汝に言い返すであろう。怒りを含んだことばは苦痛である。報復が汝の身に至るであろう。
法句経133 (仏教)
舌は火です。舌は「不義の世界」です。私達の体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。あらゆる種類の獣や鳥、また這うものや海の生き物は、人間によって制御されていますし、これまでも制御されてきました。しかし、舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。私達は舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。
ヤコブの手紙3.6 ~ 9(キリスト教)
この世であらゆる難物の源泉は、性急に吐き出す一言の言葉である。
荒木田守武世中百首(神道)
騒がしい鳥がろくでもない巣をつくる。
カヌピ族の格言(アフリカ伝統宗教)
自然はことばで表わさない。
暴風が起きても朝中続くことはなく、
激しい雨が一日中続くことはない。
これらは天と地の活動である。
天と地でさえ、いつまでもその活動を
続けることはできない。
まして人間はできようか。
道徳経23(道教)
孔子は次のように言う。禍乱が発生する場合には、かならず言語がその発端となる。君主が言語を慎密にしなければ臣下の信頼を失い、臣下の者が言語を慎密にしなければその身を亡ぼすことになり、機密に属する問題について言語を慎密にしなければ、妨害が成功する。なればこそ君子は言語を慎密にしてかるがるしく口から出さないようにするのである。
易経、周易繋辞上伝1.8.10 (儒教)
人が生れたときには、実に口の中には斧が生じている。愚者は悪口を語って、その斧によって自分を斬り割くのである。けなすべき人を誉め、また誉むべき人をけなす者、かれは口によって禍をかさね、その禍のゆえに福楽を受けることができない。賭博で財を失う人は、たとい自身を含めて一切を失うとも、その不運はわずかなものである。しかし立派な聖者に対して悪意をいだく人の不運は、まことに重いのである。悪口を言いまた悪意を起して聖者をそしる者は、十万と三十六のニラッブダのまた五つのアップダの地獄に赴く。
スッタニパータ657 ~ 660 (仏教)
信仰する者よ、もしよこしまな者が、情報をなんじらにもたらしたならば、慎重に検討せよ、これはなんじらが、気づかないうちに人びとに危害を及ぼし、その行なったことを、後悔するはめにならぬためである。……
なんじら信仰する者よ、ある者たちに、他の者たちをちょう笑させてはならない、これらはかれらよりも、すぐれているかも知れぬ。また女たちに他の女たちをちょう笑させてはならない、この女たちはかの女たちよりも、すぐれているかも知れぬ。互いに中傷してはならない、またあだ名で、ののしりあってはならぬ。信仰にはいった後は、悪を暗示する名はよろしくない。これを悔い改めない者、これらは不義者である。
なんじら信仰する者よ、邪推の多くをはらえ。まことに邪推は、ときに罪である。また無用のせんさくはしてはならない、また互いにかげぐちしてはならぬ。死んだ兄弟の肉を食べるのを、たれが好もうか、なんじらはそれを忌み嫌う。神を畏れまつれ。まことに神は、たびたび許したもう方、慈悲深い方であられる
クルアーン49.6 ~ 12(イスラーム)
うそはそれ自体で邪悪であるだけでなく、霊魂を邪悪に感染させる。
プラトンバイドン(ヘレニズム)
― み言選集 ―
私達の同僚関係においても、一言間違って失敗すれば、間違ったその一言によって、関係が壊れることもあります。もし言葉を一言間違えれば、その言葉を言った人も苦痛を受け、その言葉を聞く人も苦痛を受けるのです。例えば、夫婦でもそうです。一言の言葉が動機になって気分が悪くなれば、それによって別れていくのを見ることもあります。
(89-116、1976.11.1)
言葉で全体に支障をきたせば、それは困る。
御旨の道、み言
皆さんが一言間違うことによって、どれほど多くの人を犠牲にし、世界を滅ぼしてしまうか、ということを知らなければなりません。愛を中心として語る言葉は、いくら悪口を言っても、どんなことを言っても、これは栄えるだけであり、発展するだけであり、すべての宇宙が喜ぶだけだというのです。皆さん、言葉は恐ろしいでしょう。先生が一言語れば、皆さんはさっと引っ掛かります。いくら笑っていた人でも深刻になります。先生が皆さんに「すべてのことを忘れ、すべて赦してあげる」と言えば、その一言の言葉は簡単ですが、すべてのものが解放される気分を感じるのです。
(91-91、1977.1.30)
一言誤って、3週間祈ったことがある。
御旨の道、人格
人の仲を裂き、ひそひそと「誰々は悪く、誰々はどうでこうで」と言うのはサタンの武器です。分裂させるために、誰はどうでこうでと評価するのはサタンです。聞いても知らないふりをする人と、おしゃべりで騒ぎ立てる人のうち、どちらの側がサタン側ですか。おしゃべりで騒ぎ立てる人がサタン側です。話をしてはいけません。
(215-240、1991.2.20)
投入して忘れなさいというのです。……沈黙が自分を主人になるようにしてくれるのです。暗闇と朝の日の光を迎え入れることのできる標柱になります。「静かな朝」と言うでしょう。(注16)「夜明け前が一番暗い」と言うではないですか。
(325-117、2000.6.30)
昔、名門の家では、子供を教育する時に、「朝はできるだけむやみに話さないようにしなさい」と教えました。「朝は、できるだけ先に話さないで聞きなさい」と教えたのです。このような態度は信仰生活でも必要です。
(40-73 ~ 74、1971.1.24)
仕事をたくさんやって話が少なければ勝利し、仕事をやらないで話が多い人は失敗する。
御旨の道、人格
9) 中庸
世界で普遍的に考えられている重要な徳目が中庸である。中庸を取るためには、いかなる種類の過度さも、度を超した倹約または無駄遠い、苦行または放蕩、独善または卑屈な服従も、慎まなければならない。
しかし、伝統ごとに強調する部分には違いがある。アリストテレスは、中道を求めて守るのに、理性の役割を強調する。キリスト教の有名な祈祷文には、中道を悟るために知恵が重要であることを表記した部分がある。「主よ、変え難きものを受け入れる心と、変え得るものを変える勇気と、変え難きものと変え得るものを見分ける知恵を与えたまえ」。仏教の中道思想では、宗数的人生を存在に対する執着と無への解脱を連結してくれる綱として定義する。仏教の歴史の中で多くの哲学者と修道者たちは、俗世からの孤立と積極的社会参与の間の中道とは何かなど、絶え間ない弁証法に対して定義しようと努力してきた。
儒教で中庸は、より個人的な均衡に焦点を合わせている。そして、この中庸の道を知る人は、彼の行動の中で、そして他人との関係の中で、その道が現れる。このような中道に対する伝統的な教えは、個人の行為に焦点を合わせている。文鮮明先生は、より全世界的な展望を提示していらっしゃる。み言によれば、個人が他人と調和する関係の中で均衡を成し、それが社会へ拡大し、社会の上下、貪富、白黒問題を平準化するために努力することまで進んでいくとき、中庸の道が初めて実現されるという。
― 宗教経典 ―
(仁慈者のしもべたちは、)また財貨を使うに当り浪費せぬ者、またりんしょくでもなく、よくその間の中正を保つ者。
クルアーン25.67(イスラーム)
善人すぎるな、賢すぎるな、どうして滅びてよかろう。悪事をすごすな、愚かすぎるな、どうして時も来ないのに死んでよかろう。
コヘレトの言葉7.16 ~ 17(キリスト教)
上位にいて下を侮らず、下位にいて上にすがらない。己を正しくして人に求めなければ、恨むこともない。上は天を恨まず、下は人をとがめない。だから、君子は平地にいて(その位に素して行い)、天命に従い(そのほかを願わない)、小人は危険なことを行って得るべきでないものを求める。
中庸13.4 (儒教)
先生がいわれた、「関雎の詩は、楽しげであってもふみはずさず、悲しげであっても〔心身を〕いためることがない。(哀楽ともによく調和を得ている。)」(注17)
論語3.20 (儒教)
惜しむことがあってはならないが度が過ぎてはならず、謙遜だが貧しくてはならない。
ナフジュ・アル・バラーガ語録32(イスラーム)
世尊はこれを宣へり。「比丘等よ、縁起とは何ぞや。比丘等よ、無明に縁りて行あり、行に縁り識あり、識に縁りて名色あり、名色に縁りて六処あり、六処に縁りて触あり、触に縁りて受あり、受に縁りて愛あり、愛に縁りて取あり、取に縁りて有あり、有に縁りて生あり、生に縁りて老・死・愁・悲・苦・憂・悩・生ず。是の如きが、これ全苦蘊の集なり。比丘等よ、これを生起といふなり。
無明の無餘・離貪・滅によりで、行の滅あり、行の滅によりて識の滅あり、識の滅によりて名色の滅あり、名色の滅によりて六処の滅あり、六処の滅によりて触の滅あり、触の滅によりて受の滅あり、受の滅によりて愛の滅あり、愛の滅によりて取の滅あり、取の滅によりて有の滅あり、有の滅によりて生の滅あり、生の滅によりて老・死・愁・悲・苦・憂・悩滅す。是の如きがこれ、全苦蘊の滅なり」。(注18)
阿含経相応部xxii90(仏教)
あなたがいくら空腹でも、両手で食べではいけない。(注19)
アカン族の格言(アフリカ伝統宗教)
食べかつ飲め、だが浪費してはならぬ。まことにかれは浪費する者をめでたまわぬ。
クルアーン7.31(イスラーム)
むなしいもの、偽りの言葉を私から遠ざけてください。貧しくもせず、金持ちにもせず、私のために定められたパンで、私を養ってください。飽き足りれば、裏切り、主など何者か、と言うおそれがあります。貧しければ、盗みを働き、私の神の御名を汚しかねません。
箴言30.8 ~ 9(キリスト教)
名誉と身体、どちらが切実であるか。身体と財産、どちらに多くの価値があるか。成功と失敗、どちらに大きな害悪があるか。あまりに大事にすると費すものが多く、多く貯めれば貯めるほど失うものは多い。満足すべきことを知れば恥をかかず、正しい時にとどまることを知れば危険に出会わない。こうすれば、いつまでも持ちこたえられるのである。
道徳経44(道教)
喜怒哀楽(の情)がまだ発動しないのを中といい、発動して皆節度にかなうのを和と言う。中というのは、天下の大本(即ち、天命の性であって、天下の理は皆ここから出て来る、道の本体)である。和というのは天下の達道(即ち、性に従う意であって、天下古今の者が皆それによって行なう、道の働き)である。中和を推し極めれば、天地は、その(あるべき)所に安んじ、万物はその生を遂げる。
中庸1.4 ~ 5(儒教)
人柄としての器官が中間性であること……それが過剰による悪徳と不当による悪徳の二つの悪徳の中間性であり……器量が情と行為における中間を狙い目ざす。立派なひとであるのが骨の折れることであるのはこの理による。というのは、何であれ中間をうるのは骨の折れることだからである。たとえば、円の中心をうるのは、誰にでもできることではなく、知っているひとにだけできることである。
それと同じように怒るのは誰にでもできる易しいことである。金銭を供与し、支出することについても同じである。しかしながら、これらのことを、なすべきひとに対して、なすべきだけのものを、なすべき時に、なすべき目的のためになすべき仕方でなすということはもう誰にでもできることではなく、また、易しいことでもない。
アリストテレスニコマコスの倫理学2.9(ヘレニズム)
名誉と不名誉をめぐる中間性は高邁であり、過剰は一般に一種の虚栄と言われているものであり、不足は卑屈である。
アリストテレスニコマコスの倫理学2.7(ヘレニズム)
いかなる人間の条件も永遠でないことを記憶せよ。そうすれば、あなたは幸運に喜んで飛び跳ねることがなく、不運であまりに恥ずかしく思うことがない。
ソクラテス(ヘレニズム)
― み言選集 ―
正常なものとは何でしょうか。すべての面で平均をとり、和合できる「中庸の道」というものを知らなければなりません。中間の立場を行くのが正常なものです。偏ってもいけません。高くもなく、低くもなく、そのように……。調和を成していくところにおいては、それが正常になるのです。正常という言葉は何の言葉かというと「中庸の道」だというのです。
(120-224、1982.10.17)
罪とは何でしょうか。罪は、私的な所で生まれるのです。滅びるのも、私的な基準で繰り広げられるのです。悪も同様です。私的なことが度数を超えるようになれば、悪として現れるのです。私的なことには限界があり、その限界を超えれば、悪くなり、滅びるようになり、罪を犯すようになるのです
(31-165、1970.5.24)
一人がこの地上で生きるにおいてこのくらい物質を消耗していくだろう、というその量があります。「私はこのくらい、できるだけ量を少なくしよう。このくらいだけ使っていこう」、こうでなければなりません。使って残ったものはどのようになるのですか。その人の子孫に福として行くのです。このような思想をもった国は、発展し、栄えるということを知らなければなりません。
(161-127、1987.1.11)
円満な人とは、四方性が整った人のことである。
御旨の道、人格
バランスがとれていなければなりません。調和が成されなければならないということです。バランスを否定すれば、人間はいなくなるのです。アメリカの青年たち、アメリカの家庭が死につつあります。根本的に個人と家庭でバランスが崩れているためにそのようになるのです。
(339-139 ~ 140、2000.12.10)
東西が一つに合わさることによって新しい立派なものが出てきます。ですから、国際結婚をした夫婦から天才的な息子、娘が生まれます。
(376-277 ~ 280、2002.4.29)
水平がなければ統一できる安定圏が永遠に存続しません。曲がったり、下がったりしてはいけません。いつでも水平でなければならないのです。この水平を成すためには、主体と対象関係が均衡を成さなければなりません。均衡のために必ず主体と対象が生じるのです。それでは、均衡を成して何をするのですか。水平をつくらなければなりません。主体と対象は均衡を成さなければならないのです。一度に水平になるのではありません。高いものと低いものの均衡を合わせて調整し、水平を成すのです。水平になれば、そこから安着基準に入っていきます。そこで中心を中心として統一的な概念が生じるという結論が出てきたのです。ですから、均衡と水平と統一は三位一体だということを知らなければなりません。どこが神様の位置かというと統一です。統一のために水平が必要であり、水平のために均衡が必要なのです。自分の動作において、一つでも不足であれば、統一と水平と均衡の世界は崩れていくことを知らなければなりません。
(298-168 ~ 169、1999.1.1)
10) 貞淑
経典で貞淑な衣服と最小限の化粧が願わしいと教える理由は、内的に純潔な生活を追求するためである。個人の外形は、その人の内面を反映する。濃く化粧した顔と貞淑でない衣装は、放蕩な心を示す表示である反面、地味な衣装と飾ることのない自然な顔は、温和で純粋な霊魂を表現してくれる。
美しさとは、神聖なものでありながら、誘惑を引き起こす原因でもある。これは個人の動機にかかっている。このような側面から文鮮明先生は、次のような赤裸々な質問を投げ掛けられる。「誰のために化粧をするのですか。夫のため、でなければほかの男性のためですか」。「ほかの人たちが私を愛してくれることを願って飾るのですか、でなければその人たちに愛を分けてあげるために飾るのですか」。
1. 貞淑な身なり
― 宗教経典 ―
同じように、婦人はつつましい身なりをし、慎みと貞淑をもって身を飾るべきであり、髪を編んだり、金や真珠や高価な着物を身に着けたりしてはなりません。むしろ、善い業で身を飾るのが、神を敬うと公言する婦人にふさわしいことです。婦人は、静かに、全く従順に学ぶべきです。
テモテヘの手紙一2.9 ~ 11(キリスト教)
男の信者たちに言え、(己れの係累以外の婦人に対しては)「かれらの視線を低うし、貞淑を守れ」。それはかれらのために一段と清廉である。神はかれらの行うことを熟知したもう。信者の女たちに言え、かの女らの視線を低うし、貞淑を守れ、外に現れるもののほかは、かの女らの美や飾りを目だたせてはならぬ、それからヴェイルをその胸の上にたれよ。己れの夫または父のほかは、かの女の美や飾りを現わしてはならぬ、……または女のからだに意識をもたぬ幼児のほかは。またかの女らの飾りの隠れたものを知らしめるため、その足で地を打ってはならぬ。なんじら信者よ、こぞって神に悔悟して帰依しまつれ、おそらくなんじらは成功するであろう。(注20)
クルアーン24.30 ~ 31(イスラーム)
あなたがたの装いは、編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なものであってはなりません。むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、内面的な人柄であるべきです。このような装いこそ、神の御前でまことに価値があるのです。その昔、神に望みを託した聖なる婦人たちも、このように装って自分の夫に従いました。
ペトロの手紙一3.3 ~ 5(キリスト教)
女性よ、顔を装う前に、自らあなたの主にふさわしくあれ。もし主があなたの寝室に入らなければ、あなたの装いは何の意味があるか。装いの美は主にふさわしい女性のものなので、彼女の装いがふさわしくあれば、彼女は主の愛を得るだろう。主を畏敬して彼女が装うようになり、神と共に彼女の香りを楽しみ、彼女の暮らしを愛せよ。心と体を主に捧げ、まず彼女が主を愛して一つになるようにせよ。
アーディ・グラント、ヴァール・スーヒーM.3、p,788(シーク教)
『詩経』にいう、「汝が室に(独居して)いるのを見るに、願わくば、屋漏で恥ずかしくなくあるべきだ」だから君子は、まだ動かない前にも、慎んでおり、まだ言わない前にも誠実である。
中庸33(儒教)
人間のこの身体は不浄で、悪臭を放ち、(花や香を以て)まもられている。種々の汚物が充満し、ここかしこから流れ出ている。このような身体をもちながら、自分を偉いものだと思い、また他人を軽蔑するならば、かれは盲者でなくて何だろう。(注21)
スッタニパータ205 ~ 206(仏教)
― み言選集 ―
化粧をした美人の顔と化粧をしていない美人の顔が笑うとき、どちらの顔がより調和していると思いますか。皆さん、幼い子供たちを見れば、みなかわいいでしょう? もしその顔に眉毛を描き、唇を描いて化粧をしたとすればどうですか。それがどれほど気分の悪いものか考えてみてください。皆さんもそうなのに、私達よりもずっと年を取った神様はどうでしょうか。私達人間が化粧して喜ぶのを神様が見るとき、化粧をした幼い子供を見て私達が気分を悪くするよりも、はるかにもっと気分を悪くするかもしれないと、私は考えます。
(97-49 ~ 50、1978.2.26)
皆さんは、神様が見ても倒れ、においをかいでも倒れ、ぶつかっても外に倒れる群れです。そのような人間の中で、女性だからといって、「私は化粧をする。ネックレスをする。イヤリングをする。指輪をはめる。神様が喜ぶだろう!」と言います。考えてみてください。それがどれほどこっけいで、どれほど唖然とすることですか。
(94-42、1977.6.26)
女性たちが化粧をするのは、自分の夫のためにするのですか、ほかの人たちによく見せるためにするのですか。夫だけのためですか。夫はそのようなことは喜びません。マニキュアを塗った爪は、きつねの足の爪のようだと思うのです。とても危険です。愛する夫がその足の爪を触りたいと思いますか。それがよいのならば、「毎日塗ってくれ」と言うでしょう。それを塗ってくれる夫がいますか。そのような人が一人でもいますか。私は一人も見ていません。それが正にサタンの電波です。サタンが電波を送れば、女性が化粧をするのです。
(201-104 ~ 105、1990.3.11)
おしろいをぬって香水をかけてでも、女性はいつも美しくなければなりません。女性は情緒生活において負債を負ってはいけません。また夫の体や衣服などについて、いつも関心をもたなければなりません。夫が家に帰ってきた時、疲れているようだったら洗顔のための水も持ってきてあげて、歯を磨く準備もしてあげて、足も洗ってあげ、髪もとかしてあげなさい。女性の笑いは家の中の花です。円満な家庭を成そうとするなら女性は喜悲劇のトップ女優にならなければなりません。夫が喜んでいるときも完全に溶かし、悲しいときも完全に溶かさなければなりません。
(27-88, 1969.11.26)
女性たちが鏡台の前に座って化粧するのは、「ああ、私を愛してください。私を思ってください!」、それでするのですか。人が見て喜ぶためにするのですか。二つのうちでどちらのほうにより心を置いていますか。自分をきれいに見せようとして、そのようにするのです。自分をきれいに見せようとして、そのようにするのではないですか。そのような立場は、サタン側に属するのです。蝶はまだらで美しいです。花も美しいのです。なぜですか。全体を喜ばせるためのものだからです。「私が化粧をするのは、花のように、蝶のように、全体を喜ばせ、美しくするためだ」と思えば、そのようなときは、いくら化粧をしてもかまわないというのです。そのように違ってくるのです。一つは地獄であり、一つは天国になるということです。
(129-316 ~ 317、1983.12.1)
2. 貞淑な品行
― 宗教経典 ―
「人に対して高慢におまえの頬(ほう)をそむけてはならない、また横柄に地上を歩いてはならぬ。まことに神は、うぬぼれの強い威張る者をめでたまわぬ」。「歩きぶりを穏やかにし、おまえの声を低うせよ。まことに声の最もいとわしいのは、ロバの声である」。
クルアーン31.18 ~ 19(イスラーム)
主は言われる。シオンの娘らは高慢で、首を伸ばして歩く。流し目を使い、気取って小股で歩き、足首の飾りを鳴らしている。主はシオンの娘らの頭をかさぶたで覆い、彼女らの額をあらわにされるであろう。
イザヤ書3.16 ~ 17(キリスト教)
あなたがりっぱな外貌をもったとして淫蕩を求めてはならない。代わりにあなたにその美を下さった創造主、神に栄光をお返しし、その方を畏敬して賛美せよ。
プスィクタ・ラッバティ127 a(ユダヤ教)
美しい女性を見る者はこのように言わなければならない。「宇宙にこのような美を創造されたその方を祝福してください」。しかし、美しい女性を少しでも見つめることが容認されるのか。次の聖句を見てみよう。「すべての汚れから身を守らねばならない」(申命記23 章10 節)。
これは美しい女性をむやみに見つめてはいけないという意味まで含んでいる。さらに、その女性が婚姻していようとしていまいと、顔が良くなかろうと、派手な服を着ていようと、どのような女性もあからさまに見てはいけないということである。さらには、豚やろば、鶏が交尾するのを見てはいけない。
タルムード、アヴォダー・ザラー20ab(ユダヤ教)
恥を知らず、烏のように厚かましく、図々しく、ひとを責め、大胆で、心のよごれた者は、生活し易い。恥を知り、常に清きをもとめ、執著をはなれ、つつしみ深く、真理を見て清く暮す者は、生活し難い。
法句経244 ~ 245 (仏教)
― み言選集 ―
愛にも愛する手順があります。愛の法度があるということです。夫の父母が呼んでいるのに、「ああ、お父さん、お母さん、ちょっと待ってください!私はキスをするので待ってくださ!」、そのように言うことができますか。アメリカ式は「イエス」でしょう? 秩序と法度がなければなりません。夫なら夫としての礼儀があり、妻なら妻としての礼儀があります。
(112-65、1981.3.29)
皆さんが、「その家は立派な家門だ」と言える基準になっているとしても、その家の子女たちは、何であっても注意しなければなりません。すなわち、立派な家門で育った息子、娘たちは、何であっても注意しなければならないということです。
一歩踏み出すのにも注意しなければならず、言葉一言にも注意しなければならず、何かの行動をするときにも注意しなければなりません。礼法が複雑だというのです。このようなことを好む人がいますか。最近は、自由が度を超して放縦的な自由になり、今ではもう飽和状態にまで至り、とても深刻になっています。最近の若い人たちは、そのような礼法を好みますか。ですから、そのままほうっておいてはすべて滅びるのです。行く所がないということです。
威厳のある家では、子女を教育できる材料がたくさんあります。目上の人に接するとき、兄弟に接するとき、父母に接するときどのようにしなさいと、育ち盛りの子供たちを集めて教えるのです。
(42-17 ~ 18、1971.2.19)
エルビス・プレスリーが歌を一曲歌えば、飛びついて抱きついてくるのは男性ですか、女性ですか。恐らく、エルビス・プレスリーを好きな人は、エルビス・プレスリーが「今晩、私を好きな女性たちは来なさい」と言えば、ずらっと列をつくるでしょう。アメリカの女性たちは、夫がいても行くでしょう。
そのように見るとき、歌を歌って世界チャンピオンだという人は、善の種類の人ですか、悪の種類の人ですか。サタン側です。世界のスターというその男性や女性は、すべてサタン側です。それでは、このようにオイルを塗り、めかし込んで美人になろうというのは、男性でも女性でも、どちらの側ですか。サタン側です。
(122-263、1982.11.21)
11) 純潔
純潔とは、性的欲望を抑制し、婚前の性関係を結ばずに、結婚後に配偶者とのみ愛することを意味する。純潔な愛の最高の喜びを享受するために結婚制度が必要である。修道僧や修道女たちの禁欲生活は、彼ら少数が選択した人生である。彼らは、天が下さった愛を受け、愛したい欲求まで犠牲にすることを覚悟した人たちである。神様は、人間たちが互いに愛し、家庭を築き、子女を育てて子々孫々繁栄することを願われて人間を創造された。このような面から、結婚生活での夫婦関係は、神様が下さった最高の贈り物であり、祝福であり、限りない喜びの体験である。
しかし、堕落人間たちは、自分の性的欲求が結婚の結合の中にとどまるように訓練できずにいる。これは訓練が必要である。宗教は、伝統的にこの目的のために奉仕してきた。姦通罪が罪の中で最も悪い罪だと多くの宗教で教える。そして、心で肉身の欲望を屈服させ、罪の誘惑を避けるために、行動の変更を制限することを教える。また、結婚を神聖な儀式として見つめる。
しかし、今日の世俗の社会で人々は、欲望を抑制する訓練を忘れて生きている。乱雑な性行為と「フリーセックス」が至る所でなされており、その場限りの幸福ばかりを追求するのであって、それから招来する挫折と傷心、家庭の崩壊は考えることができずにいる。結婚が危機にある。結婚の永遠性を不信する多くの若者たちは、結婚より同居を選んでいる。貞節を守る結婚本来の基準は忘れられ、同性愛が代案の生き方として定着している。
文鮮明先生は、とても直接的に、熱心にこの部分に対して語られる。人間の堕落がすなわち不倫の愛から始まったという原理のみ言に基づき、あらゆる罪と犯罪、不幸と苦痛の根源が、愛を誤って使用したからであると教える。(第6章参照)。堕落は、人間をして愛の価値を低下させ、愛を誤って使用するようにした。したがって、このように誤った愛を神様と人間が連結される地点から本来の天の目的まで高揚させることが私達の使命である。結婚した夫婦の愛は聖なる行為であり、文鮮明先生はこれを「絶対性」と呼ばれる。夫と妻の愛は、人間に対する神様の愛のような絶対性をもっている。それに適合できないものは、天とはだんだんと離れていくだけである。
1. 最も深刻な罪、姦淫をしてはならない
― 宗教経典 ―
(仁慈者のしもべたちは)姦淫せぬ者、およそこれをなす者は、処刑にあう、復活の日には、懲罰は罪に応じ倍加され、その中で屈辱のうちに住むであろう。
クルアーン25.68 ~ 69 (イスラーム)
結婚はすべての人に尊ばれるべきであり、夫婦の関係は汚してはなりません。神は、みだらな者や姦淫する者を裁かれるのです。
ヘブライ人への手紙13.4 (キリスト教)
或いは暴力を用い、或いは相愛して、親族または友人の妻と交わる人、かれを賤しい人であると知れ。
スッタニバータ123 (仏教)
あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません。卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談(注22)もふさわしいものではありません。それよりも、感謝を表しなさい。すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません。このことをよくわきまえなさい。むなしい言葉に惑わされてはなりません。これらの行いのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下るのです。
エぺソの信徒への手紙5.3 ~ 6(キリスト数)
私通の危険に近づいてはならぬ、それは醜行である。憎むべき道である。
クルアーン17.32(イスラーム)
人は他人の妻に対し淫乱な思いを抱いてはならない。ましてやそのために彼女に言い寄ってはならない。何故ならそのような男は、将来這い回る虫に生まれ変わるであろう。姦通の罪を犯す者は、現世においでも来世においても罰せられる。なぜなら、彼の現世において生きる日々は短縮され、死ねば地獄へ落ちるからである。
ヴィシュヌ・プラーナ3.11 (ヒンドゥー教)
主人は全財産をヨセフの手にゆだねてしまい、自分が食べるもの以外は全く気を遣わなかった。ヨセフは顔も美しく、体つきも優れていた。これらのことの後で、主人の妻はヨセフに目を注ぎながら言った。「私の床に入りなさい。」しかし、ヨセフは拒んで、主人の妻に言った。「ご存じのように御主人は私を側に置き、家の中のことには一切気をお遣いになりません。財産もすべて私の手にゆだねてくださいました。この家では、私の上に立つ者はいませんから、私の意のままにならないものもありません。ただ、あなたは別です。あなたは御主人の妻ですから。私は、どうしてそのように大きな悪を働いて、神に罪を犯すことができましょう。」
創世記39.6 ~ 9(キリスト教)
放逸で他人の妻になれ近づく者は、四つの事がらに遭遇する。すなわち、禍をまねき、臥して楽しからず、第三に非難を受け、第四に地獄に堕ちる。禍をまねき、悪しきところ(地獄)に堕ち、相ともにおびえた男女の愉楽はすくなく、王は重罰を課する。それ故にひとは他人の妻になれ近づくな。
法句経309 ~ 310 (仏教)
あなた自身の井戸から水を汲み、あなた自身の泉から湧く水を飲め。その源は溢れ出て、広場に幾筋もの流れができるであろう。その水をあなただけのものにせよ。あなたのもとにいるよその者に渡すな。あなたの水の源は祝福されよ。若いときからの妻に喜びを抱け。彼女は愛情深い雌鹿、優雅なかもしか。いつまでもその乳房によって満ち足り常にその愛に酔うがよい。
わが子よ、どうしてよその女に酔うことがあろう。異邦の女の胸を抱くことがあろう。人の歩む道は主の御目の前にある。その道を主はすべて計っておられる。主に逆らう者は自分の悪の罠にかかり、自分の罪の綱が彼を捕える。諭しを受け入れることもなく、重なる愚行に狂ったまま、死ぬであろう。
箴言5.15 ~ 23(キリスト教)
神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。すなわち、みだらな行いを避け、おのおの汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活するように学ばねばならず、神を知らない異邦人のように情欲におぼれてはならないのです。
テサロニケの信徒への手紙一4.3 ~ 5(キリスト教)
体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです。神は、主を復活させ、また、その力によって私達をも復活させてくださいます。あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。決してそうではない。娼婦と交わる者はその女と一つの体となる、ということを知らないのですか。「二人は一体となる」と言われています。しかし、主に結び付く者は主と一つの霊となるのです。みだらな行いを避けなさい。
人が犯す罪はすべて体の外にあります。しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです。知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。
コリントの信徒への手紙一6.13 ~ 20(キリスト教)
― み言選集 ―
愛を寵絡し、愛を蹂躙することは、宇宙の犯罪の中の最高の犯罪です。男性でも女性でも、自分の愛が蹂躙されるようになるときは、首を切ってしまいたいと思うのです。首を切ってしまいたいと思い、命を捨ててしまいたいという思いになるのです。それを知らなければなりません。愛に対して罪を犯すことは、この宇宙のすべての生命の根源より、もっと大きな犯罪を行うことだという事実を私達は知らなければなりません。
(92-79、1977.3.20)
人間先祖のアダムどエバをはじめ、人類の歴史上たくさんの英雄や道人たちが越えられなかった峠が、正にこの純潔な愛の峠でした。純潔に対しては、家庭はもちろん、学校と教会、そして政府さえも責任をもてないというのが今日の問題点です。純潔を守る最善の方案として、私が教えてきたことは「絶対性」です。これは、一度結ばれた愛の相対は永遠のものであり、いかなる条件下でも、変わることのできない絶対的愛の関係だという意味です。なぜかというと、二人の配偶者の出会いは永遠であり、絶対的な神様の愛を中心としているものだからです。これは男性にだけ強調されるものではなく、女性にだけ該当するものでもありません。男女すべてが絶対的に守るべき天倫なのです。一方で、フリーセックスこそ、この地球上から完全に根絶させるべき邪悪な風潮です。このフリーセックスと関連した諸要素は、麻薬、暴力、同性愛、エイズなどのように、人類を破滅に追い込む因子なのです。
(288-283 ~ 284、1997.11.30)
フリーセックスは、すべてのものを開いてしまう行為です。毒蛇が口を開けているのです。女性の生殖器がそのようなものであり、男性の生殖器が蛇の頭です。これがエイズを広めています。この毒蛇に一度かまれれば、理想世界は終わるのです。アメリカの女性たちの舌は、蛇の舌のように二つになっています。良心を中心として、それをどのように完全に征服するのかということが問題です。それを教える所がいわゆる宗教世界だというのです。ですから、宗教はどのように体を征服するのかを教えます。それで、「酒を飲むな、たばこを吸うな、フリーセックスをするな!」と言うのです。
(279-174、1996.8.4)
どうして一人の男性、一人の女性でなければならないのですか。アメリカ式で言えば、出会って一晩過ごし、グッバイすればそれで終わるのですが、一つの愛がどこにありますか。一人の男性と一人の女性がどこにいますか。一人の男性が何人もの男性になり、一人の女性が何人もの女性になってしまいます。それがなぜ間違ったのですか。それがなぜ間違ったのかというのです。そこには真の愛が欠乏しているからです。真の愛とは何ですか。男性の真の愛と女性の真の愛は同じです。真の愛はここにありますが、これは男性の愛でもなく、女性の愛でもなく、一つしかないというのです。それで、男性は女性に対して、「私だけを愛しているだろう?」と言い、また女性は男性に対して、「私だけを愛しているでしょう?」と言うのです。「どのくらい愛しているのか」と尋ねます。みな尋ねるのです。「どのくらい愛しているのか」と尋ねて、「宇宙よりもっと大きく、一番大きく愛している」と言ってこそ「ほほほほ」と笑うのです。
(118-291、1982.6.20)
人間が堕落する時、愛のために堕落したので、この性器が最も怖いのです。宗教では姦淫することを最も恐ろしい罪として取り扱っています。ですから、アメリカのフリーセックスは、悪魔の地獄膨脹主義ですか、天国膨脹主義ですか、地獄です。地上地獄であり、天上地獄です。これはすべて滅亡するのです。
(261-303 ~ 304、1994.7.24)
愛と生命と血統は、男性と女性の生殖器で確定するのです。そこが神様と接する場です。神様と接する場というのは、私達人類の根本父母が訪ねてくることのできる場なのです。生殖器が愛の王宮であり、生命の王宮であり、血統の王宮、良心の王宮です。出発地です。それがなければ、男性の生命と女性の生命が一つに出会う道がありません。その場で出会うのです。血統がそこで生じます。良心もそこを通さなければ、自分の良心が出てこないのです。それを知らずにいます。私達個人にも愛があり、生命があり、血統があり、良心があるのですが、それがどこから出てくるのかというと、父母のそこから出てきます。父母の生殖器に通じた愛と連結しているのです。そのように貴いのです。
宇宙のすべての理想的伝統の核がその門を通って流れてきているというのです。永遠の生命の生水が流れてきているということです。永遠の生命の生水になるためには、愛がなければなりません。ですから、それが最も重要なのです。このように貴いものなので、貴いもの、宝物はこの自然の中に現れているのではなく、隠されているのです。
金もそうではないですか。長石のような所に入って組み込まれています。隠されているということです。ところが、堕落することによって、ひっくり返りました。女性がそれを自分のものだと考えたのです。それは自分のものではありません。愛を完成するにおいて、男性の愛を完成させようとすれば、女性のそれでなければ永遠に不可能です。女性の愛をもたらし得るものは、男性のそれでなければ永遠に成し遂げられません。自分のものを中心としては、永遠に成し遂げられないのです。これが入れ替わらなければなりません。主人が誰かというと、男性のものは女性が主人であり、女性のものは男性が主人です。主人が入れ替わっているのです。
(300-320 ~ 321、1999.4.15)
2. 青少年の婚前禁欲
― 宗教経典 ―
どのようにして、若者は歩む道を清めるべきでしょうか。あなたの御言葉どおりに道を保つことです。
詩編119.9 (キリスト教)
若いころの情欲から遠ざかり、清い心で主を呼び求める人々と共に、正義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。
テモテヘの手紙二2.22(キリスト教)
恥ずかしいところを守る者、ただし配偶者ならびにその右手の所有する者は別である、……しかし則を越えて求める者、かれらは違犯者である。……これらは相続者で、パラダイスを継ぐ者である。
クルアーン23.5 ~ 11(イスラーム)
結婚の手だてが見つからぬ者は、神の恵みにより、富ませたもうまで自制せよ。……奴隷の娘たちが、貞操を守るよう願うならば、現世のはかない利益を求めて醜業を強制してはならぬ。
クルアーン24.33 (イスラーム)
人が妻をめとり、彼女のところに入った後にこれを嫌い、虚偽の非難をして、彼女の悪口を流し、「私はこの女をめとって近づいたが、処女の証拠がなかった」と言うならば、その娘の両親は娘の処女の証拠を携えて、町の門にいる長老たちに差し出し、娘の父は長老たちに、「私は娘をこの男と結婚させましたが、彼は娘を嫌い、娘に処女の証拠がなかったと言って、虚偽の非難をしました。しかし、これが娘の処女の証拠です」と証言し、布を町の長老たちの前に広げねばならない。
町の長老たちは男を捕まえて鞭で打ち、イスラエルのおとめについて悪口を流したのであるから、彼に銀百シェケルの罰金を科し、それを娘の父親に渡さねばならない。彼女は彼の妻としてとどまり、彼は生涯、彼女を離縁することはできない。しかし、もしその娘に処女の証拠がなかったという非難が確かであるならば、娘を父親の家の戸口に引き出し、町の人たちは彼女を石で打ち殺さねばならない。彼女は父の家で姦淫を行って、イスラエルの中で愚かなことをしたからである。あなたはあなたの中から悪を取り除かねばならない。
申命記22.13 ~ 21(キリスト教)
釈尊は説いていわれる。愛欲には種々の欲があるが、男女の間の色欲くらいその欲の甚だしいものはない。またその欲のこれ位に大きいものは外にはない。こうした欲は甚だしく、また大きいといっても、頼(さいわ)いに一つだけであることから、この欲を何とかして制することがなし得るが、もしこれが二つもあったならば、この広い天下にあって能く仏道のためにする者は、誰もいないであろうと。(注23)
四十二章経24(仏教)
― み言選集 ―
未婚の女性たちは男性に目が行くでしょう? 男性を探そうとしても真の愛がありますか。男性たちは女性に真の愛があると思いますか。男性が信じられますか。女性が信じられますか。女性が生まれたのは男性のために生まれたのであり、男性は女性のために生まれたということを知っている男性、女性はいません。自分のために生まれたと思っているというのです。それでは男性は何をするのですか。女性は何をするのですか。僕だと思っているのです。ために生きようとはしないのです。ために生きなければ愛はあり得ません。初愛は永遠なのです。
(297-145 ~ 146、1998.11.19)
20 代に近い青少年として、汚されず、染まっていない貴い純情を、大切に固く包んでどこに置くのでしょうか。天が最も喜び得るその祭壇の前に置き、神様が喜び、次には自分と同じ純情をもったそのような男性と女性が出会い、神様が共に結ばれ得る貴い基盤が、新郎新婦が出会う場です。
(64-85、1972.10.24)
青春時代に純情を失ってしまったアダムとエバの恨みを踏み越えて蕩城できる貴い時期である思春期に、純情を汚してはならないのです。その純情をきれいに、貴く保存しなければなりません。「千世、万世一人でいたとしても、愛が蹂躙されることは絶対にあり得ない」という貞節の決意をもたなければなりません。民族を愛し、国を愛さなければ、私か愛せる人と出会うことができません。世界を愛さなければ、愛せる人をもつことはできず、神様を愛さなければ愛する人をもつことはできないのです。これが統一教会の伝統的な思想です。ですから、神様を愛し、世界を愛し、民族を愛したのちに自分の妻を愛し、夫を愛することができるのです。これが原則です。
(37-108、1970.12.22)
男性も貞節を守らなければならない時が来ています。男性が貞節を守れなければ、その一門がみ旨の前に重罪を犯すようになるのです。たとえ大臣であっても、浮気をしてもよいようにはなっていません。男性が間違えれば、その一門は滅びるのです。そのような時が来るのです。「統一思想」を知れば、そのようにすることはできません。
(38-281、1971.1.8)
それで先生が祝福家庭の子供たちは早く結婚させなければならないと考えているのです。何の話か分かりますか。初愛です! それが何の言葉か理解できますか。皆さんもそのような意味を理解して、初愛を中心として思春期に相対と出会ったならばどれほど幸福ですか。初愛! 初愛! そのような初愛がなぜ必要なのかというと、純粋で何も分からない子供が父母を好むように、十分にそのようにできるからです。そのようにできる、理想的な夫婦になり、理想的な息子、娘をもち、理想的な父母に侍ったその人が、どれほど幸福か考えてみてください。
(118-310、1982.6.20)
3. 触ったり見たりするのも禁止されるのか
― 宗教経典 ―
園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。
創世記3.3 (キリスト教)
身の回りの世話をする、戯れる、装身具や衣服に触れる、寝台に一緒に座る、これらはすべて姦淫であると言われている。
マヌ法典8.357(ヒンドゥー教)
あなたがたも聞いているとおり、「姦淫するな」と命じられている。しかし、私は言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。
マタイによる福音書5.27 ~ 28(キリスト教)
淫蕩な目つきは目の姦淫であり、淫乱な言葉は舌の姦淫である。(身体の)部分が実行に移そうと移すまいと、心は願い渇望する。
ムスリム・ハディース(イスラーム)
あなたが実際の犯罪をしていないのは真実である。しかし、あなたが他の人の家で美しい女性を見て、彼女をあなたの思いの中から振り払うことができなかったとき、あなたは心の中で彼女と姦通を犯したのである。瞬間を熟考せよ。
あなたが聖人ル・ナンジャ(LU Nan-tze)と似た位置にいるなら、あなたは聖人(ル・ナンジャ)を手本とし、自らに対する十分な統制をもっていることができるか。彼は、いつか女性が一人で暮らす家で夜を過ごさなければならなかったとき、彼は明かりをつけ、朝まで一人で本を読むことによって、彼女が不公正な嫌疑にさらされるのを避けた。
太上感応篇(道教)
釈尊は説いていわれる。仏道修行の上にあっては、愛欲に心が動かされる女を、慎んで視ることのないようにしなくてはならない。また共に語り合うことなどしてはならない。もしどうしても共に語り合わなくてはならないとしたら、自らの心を正して思念し、心が動揺しないようにすべきである。そして自分は沙門であるという自覚と信念とを持つべきである。
濁世にあっても濁されることは、決してないことは、まさに蓮華が泥中に生じながらも、泥に汚されることのないことに思いを至すべきである。どうしても女と出合わなくてはならないとしたら、老女を見ては母の如く、長じたるを見ては姉の如く、年少のものを見ては妹の如く、幼いものを見ては子の如く思い、女に愛着して心を動かすことなく、悟りの心を起して、悪念の生ずることのないようにしなくてはならない。
四十二章経29(仏教)
― み言選集 ―
西洋式はとてもたくさん握手をするので、タッチの感覚がありません。しかし、東洋式は、少しだけ触れても、「う~」と言います。どうですか。男性と女性が、頻繁に接触するのがよいですか、すべて完成したときに接触するのがよいですか。電気は、100 ボルトに接触するのがよいですか、50 ボルトに接触するのがよいですか。100 ボルトです。
その時まで、ぴたっと……。どうですか。未婚の男女のときは、「会いなさい」ですか、「会ってはいけない」ですか。「会ってはいけない」です。これが100 ボルト、真っ赤に熟したのちに、手を出しただけでびりびりっと目が覚めるようになるときまで、待ちなさいというのです。
アメリカの女性たちは、初愛がどのようなものか分かりません。50 ボルトと30 ボルトは明るさが違います。アメリカ式の愛はどうですか。サタンが方便的にすべて高次的な愛の感触世界をひっきりなしに覗き見るのです。思春期の男性にとって神秘の王宮が女性です。
女性にとっては神秘の王宮が男性です。今、ミステリーとは何ですか。動物と同じです。猫が愛するのと子犬が愛するのは、縦的な愛がありません。それは動物的な愛であって、縦的な愛ではないというのです。縦的な愛はありません。
(125-103 ~ 104、1983.3.13)
宗教を信じるにおいて、歴史時代のいかなる宗教が苦行をした以上の苦行をする宗教を訪ねていかなければなりません。この宗教生活とは何かというと、良心が拷問する拷問官になり、「この体よ、この体よ!」と、完全に倒れ込むまで拷問して降伏させ、二度と目を覚まさないように占領してしまうのです。
心が拷問してしまわなければならないのです。それで、正常な目が一度ひっくり返ったので、逆さまにひっくり返して正しくならなければなりません。180 度他の方向からすべて見ようと言うことができる目にならなければならず、これも180 度転換、すべて180 度転換しなければなりません。
サタン側は左側を通して見ようとするのですが、これがすべてひっくり返って右側を通して見ることができるようになって正しくならなければならないのです。それで、180 度見えない目が良心の目と一つになって見ることができるよう、右側の360 度の本然の位置に戻らなければなりません。その次に、その見る目は心の目となり、100 パーセント見てもよいのです。
(261-303 ~ 304、1994.7.24)
4. 同性愛 : フリーセックスの極致
― 宗教経典 ―
女と寝るように男と寝てはならない。それはいとうべきことである。
レビ記18.22 (キリスト教)
菩薩……は五種の男性の能力のない男子に近づいて、それと親しみ懇ろになることがないように。
法華経14(仏教)
またロトをつかわしかれの人びとに、こう言ったときを思え「おまえたち以前に、どんな世でもしなかった、みだらな行いをしている」。「まことにおまえたちは、男性に近づき、また大道で強盗をはたらく、……」
クルアーン29.28 ~ 29(イスラーム)
それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。女は自然の関係を自然にもおとるものに変え、同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。
ローマの信徒への手紙1.26 ~ 27(キリスト教)
― み言選集 ―
フリー・セックスやホモセクシュアル、レズビアン運動などのすべてのものは、人間の権利と人間の権威を破綻させる一つの行動でしかないのです。
(128-35、1983.6.1)
サタンが最も好むものはフリーセックスです。神様は反対です。神様は「絶対性」を願います。天使長は相対がいません。それで、ホモ、レズビアンが出てくるのです。しかし、神側では絶対パートナーシップです。完全に反対の現象が終わりの日に起きます。今そのような世界が、アメリカを中心として起きています。
エデンの園でフリーセックスを主導したのがアダムとエバです。エデンに植えたものを今、収穫する時になったのです。フリーセックスの種を植えたのですが、それを収穫する終わりの日になりました。それで全世界がフリーセックスの世界になったのです。家庭が壊れました。
終わりの日にはサタン的な結果が現れます。それで、フリーセックスが充満した世界になったのです。パートナーシップがないので「男性同士で結婚しよう!」と言うのです。
(282-27、1997.2.16)
天国に入るのに絶対に必要な条件が、正に「ために生きる人生」、すなわち真の愛の人生なのです。ところが今日、私達が身を置いている現在の世界を見てください。極度の利己主義の罠にかかり、物質万能を叫び、価値観を喪失したまま、享楽と腐敗の沼にはまり込んでいます。
アルコール中毒者がはびこり、麻薬やフリーセックスでも足らずに、今では近親相姦という獣にも劣る蛮行を勝手気ままに行っても、堂々と顔を上げて生きています。女王格の女性、祖母格の女性、母格の女性、妻格の女性、娘格の女性、このようにすべての段階の女性たちを蹂躙しても、世の中を闊歩する「人面獣心」の者たちが氾濫する世の中になってしまいました。
夫婦同士で、お互いの夫と妻を取り替えて楽しむスワッピングが猛威を振るう世の中になってしまいました。このような振る舞いこそ、人倫道徳破壊の極致であり、堕落行為の断末魔的姿にほかなりません。神様の創造理想世界の完成は、夢にも見ることができない地上地獄になってしまいました。
平和神経、平和メッセージ3、2006.4.10
ホモセックスが原理にありますか。レズビアン、アルコール中毒、このようなものはすべて情緒的な脱線です。このような世界が地獄です。私達はこれとは反対、180 度反対です。
(243-192、1993.1.10)
このアメリカで、同性恋愛をしていて統一教会に入ってきて、いまだにそのような因縁がすべて終わっていない人がいれば、それはそのまま地獄に行きます。それを知らなければなりません。そのまま地獄に行きます。統一教会で感銘を受ければ、それがすべて逃げていくのです。
重生が起きるというのです。いくら好きだったことでも、心が駄目だと言えば終わりです。すべてそのようにならなければなりません。そのようになっていない立場にいれば、涙を流して痛哭しながらそれを悔い改めて、祈祷しなければなりません。
(219-233、1991.9.8)
12) 禁酒と節制
酒と麻薬、賭博は、幻覚的娯楽に見えるが、これらは大勢の人々を沼に陥れる。また人間を真理の光に対して見えなくさせ、良心の声を聞こえなくさせる。中毒にまでなれば、体を滅ぼし、家庭を破壊し、職業に影響を与え、さらには犯罪行為につながる反社会的行為を招来する。実際に大勢の人たちが無意味な性関係をもつ前兆として、タブーを崩すための手段として酒と麻薬を利用することが知られている。たばこも同じ効果をもっている。たばこは、若者たちがより強い麻薬に接することに影響を及ぼすこともある。中毒を一種の病と見る現代医学とは異なり、世界の諸宗教は、人間個々人が酒と麻薬、賭博から自ら
を節制し、遠ざける人生を営為する責任があると教えている。
文鮮明先生は、自分の人生に満足できなかったり、愛が欠乏した者たちが、たばこと麻薬、酒に依存する傾向があると言われる。これらは愛の欠乏に対して良い代案ではない。酒と麻薬に対する解決策は真の愛である。幻覚的、一時的興奮は、真の愛の深い情緒的満足感と比べてみるとき、しがないことこの上ない。
― 宗教経典 ―
なんじら信仰する者よ、まことに酒とかけ事、……は忌み嫌うべき悪魔の業である、これを避けよ。おそらくなんじらは成功するであろう。悪魔の望むところは、酒とかけ事によって、なんじらの間に、敵意と増悪を起こさせ、なんじらが神を念じ、礼拝をささげることを妨げようとする。それでもなんじらは慎まないか。
クルアーン5.90 ~ 91(イスラーム)
酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされなさい。
エぺソの信徒への手紙5.18 (キリスト教)
阿片にはまった人に阿片に値するものはなく、魚は水に値するものはなく、神の愛にはまった者は万有を愛する。
アーディ・グラント、ヴァダハンスM.1、p.557 (シーク教)
かつてあなたがたは、異邦人が好むようなことを行い、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝などにふけっていたのですが、もうそれで十分です。あの者たちは、もはやあなたがたがそのようなひどい乱行に加わらなくなったので、不審に思い、そしるのです。彼らは、生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方に、申し開きをしなければなりません。
ペテロの手紙一4.3 ~ 5(キリスト教)
立派なお人柄の方は、酒を飲んでもおとなしい。あの愚かしい男は、ただ日ましに酔いまさる。みんな自分の生きかたを生きよ。運命とは絶対の
ものだ。
詩経、196 小宛(儒教)
災いだ、朝早くから濃い酒をあおり、夜更けまで酒に身を焼かれる者は。酒宴には琴と竪琴、太鼓と笛をそろえている。だが、主の働きに目を留めず、御手の業を見ようともしない。
イザヤ書5.11 ~ 12(キリスト教)
財産を損う六つの行いとは、第一に酒に耽溺すること、第二にばくちをすること、第三に勝手気ままにふるまうこと、第四に歌舞に心をまどわすこと、第五に悪友と意気投合すること、第六に怠惰であること。酒に心まどわす者は、さらに酒飲み仲間がいる。
たとえ財産を集めても、己の気ままに使い果たす。酒を飲んでは節度を知らず、いつも歌舞にうつつを抜かす。昼間はひとの家へぶらぶら出歩き、それがもとでわが身を破滅する。酒に心を狂わされ、貪しい身のほどをわきまえず、財を軽んじぜいたく三昧、家産を破ってわざわい招く。ばくちをしては群れだって酒を飲み、共に他家の淫女をうかがいねらう。卑しい行いに慣れ親しんで、みそかに向かう月のように名をおとす。
阿含経長部iii、182 ~ 85、善生経(仏教)
不幸な者は誰か、嘆かわしい者は誰か、いさかいの絶えぬ者は誰か、愚痴を言う者は誰か、理由なく傷だらけになっているのは誰か、濁った目をしているのは誰か。それは、酒を飲んで夜更かしする者。混ぜ合わせた酒に深入りする者。酒を見つめるな。酒は赤く杯の中で輝き、滑らかに喉を下るが、後になると、それは蛇のようにかみ、蝮の毒のように広がる。目は異様なものを見、心に暴言をはき始める。海の真ん中に横たわっているかのように、綱の端にぶら下がっているかのようになる。「打たれたが痛くもない。たたかれたが感じもしない。酔いが醒めたらまたもっと酒を求めよう。」
箴言23.29 ~ 35(キリスト教)
ラビ・イサクが、箴言23 章31 節を引用して言った。「ぶどう酒は世の邪悪な赤い顔をもっている。しかし、主が来られるその時には、その色が薄くなるだろう」。ラビ・メイルが言った。「アダムが取って食べた木はぶどうの木だった。そしてぶどう酒は人間に痛嘆をもたらす」。
タルムード、サンヘドリン70ab(ユダヤ教)
高き〔木〕の耳飾りはわれを酔わしむ、風吹くところに生まれ、賭場に跳(は)ねまわるとき。ムージャヴァットに産するソーマの宴飲に似て、ヴィビーダカは眠ることなくわれに見えたり。彼女(賭博者の妻)はわれを咎めざりき、怒りしこともなかりき。彼女は〔わが〕友達に、われにもまた親切なりき。一つ余りの骰子(さい)ゆえに、われは貞淑なる妻を離別せり。姑は〔彼を〕憎み、妻は排斥す。援助を求むるも彼は憐愍(れんびん)者を見いださず。〔人はいう、〕「売りにだされし老馬のごとく、われ賭博者に何らの効用を認めず」と。他の人々は彼の妻に触る。その彼の財産に、賭(かけ)を勝ちとる骰子は慾望を起せり。父・母・兄弟は彼についていう、「われらは〔彼を〕知らず。縛(いまし)めて彼を連れ去れ」と。
彼ら(骰子)もて賭博に耽らじと、われ心に思うとき、去り行く友達のあとにわれ〔ひとり〕残さる。また褐色のもの(骰子)が賭場に撒かれて声を挙ぐるや、われは実に彼らとの逢引に急ぐ、恋人をもつ女子(おなご)のごとく。賭博者はサバー(賭博場)に行く、われ勝つべしやと自問しつつ、身を震わせて。骰子は彼の願望を齟齬(そご)せしめ、敵手(かたき)にクリタを授く。骰子は実に、鉤をもち、突き棒をもち、征服し、焼き苦しめ、熱苦をもたらす。彼らの賜物は男児のそれに等しく、勝利者を再びうち負かす。彼らは、賭博者にとり、蜜もて混ぜられたり(魅力をもつ)、〔しかも〕破滅のために。百五十よりなる彼らの一団は踊る、神サヴィトリ(激励の神)のごとく、その本性を実現して(刺激と活動)。
強力なる者の怒りにすら叩頭せず、王者すら実に彼らに頂礼(ちょうらい)す。下に向かいて転じ、上に向かいて跳ぶ。手なくして手ある者を克服す。この世のものならぬ炭として、賭場に撒かれたるとき、彼らは冷たくありながら、〔人の〕心を燃やす。賭博者の妻はうち棄てられて悩む。いずことも知られず放浪する息子の母〔もまた〕。債務を負い、恐怖を抱き、財を求めて、彼は夜他人の家に近づく(盗むため)。婦女を見たるとき、賭博者に悩みあり、他人の妻といみじく整えられたる住まいとを〔見たるとき〕。何となれば、彼は朝(あした)に褐色の馬を車に繋げり、〔夕(ゆうべ)に〕物乞(ものご)となりて炉火のほとりに身を横たえつ。
汝らの大いなる群の将帥、一団の最高の王者なる彼に、われは十〔指〕をさし伸ぶ。われ財宝を留め残さず。この真実の〔誓い〕を述ぶ。「骰子をもって賭博をなすなかれ。ただ田畑を耕せ。財産に満足してあれ、〔そを〕重く尊びて。そこに牝牛あり、賭博者よ、そこに妻あり。」これをサヴィトリはわれに告ぐ、庇護なき者を助くるこの〔神〕は。乞う、われと和睦を結べ。われらを憐れめ。恐ろしき〔魔力〕もて、われらを酷(むご)く呪縛するなかれ。今や汝らの忿怒、敵意の鎮まらんことを。今や他の者をして褐色のものたち(骰子)の罠の中にあらしめよ。
リグ・ヴェーダ10.34 (ヒンドゥー教)
― み言選集 ―
良心が反対するものは悪いことです。ですから、社会が規制するのです。酒を飲まず、放蕩せず、賭博をするなというのです。これは根本を破綻させる行いです。愛の問題は家庭を破綻させ、賭博は社会を破綻させます。
(320-135、2000.4.1)
サタンは、どのような武器を利用しましたか。空気の武器を利用しました。それがたばこです。次に、液体の武器は酒です。それから、固体の武器は何ですか。麻薬です。このようにして、精神まですべて腐らせるのです。体を腐らせ、精神を腐らせ、鼻の穴から肺をすべて腐らせるのです。ですから、私達は、酒を飲まず、たばこを吸わないのです。それらは、人類を滅亡させるためのサタンの武器です。神様と通じる精神を妨害する要素となるこの三つのものは、怨讐の最高の武器です。
(126-71、1983.4.10)
サタンは何をもって誘惑しますか。たばこです。女性が男性に「たばこを貸してください」と言い、男性が「いいよ」と言ってフリーセックスが介在します。セックスの概念が介在していることを知らなければなりません。東洋では男性たちがたばこを吸うのであって、女性たちはたばこを吸ってはいけないと言うのです。悪い女性として扱われます。吸うことができません。ところが、女性が男性に「たばこを貸してください」と言うのは、「セックスしよう!」という意味です。そのような条件物です。餌です。それを知らなければなりません。「一緒にお酒を飲もう」と言うのも、「セックスしよう」と言うのと同じです。麻薬も同じものです。酒に酔ったあとは男性が女性を好きなようにするのです。女性が男性を好きなようにすることができ、男性も女性を好きなようにすることができるのです。そのように酔って何をするのですか。フリーセックスをするのです。麻薬もそうです。
(287-118 ~ 119、1997.9.19)
子女のために生きなければならない父母であるにもかかわらず、その父母の立場を忘却し、酒を飲んで自分を中心として酔うようになれば、それは悪に属します。サタンに属するのです。では、酒を飲む人は、彼自身が幸福ですか、不幸ですか。不幸です。よいですか、悪いですか。悪いです。その飲むこと自体は幸福なのでしょう? 酒を飲みながら踊りを踊って喜ぶではないですか。それは永遠を維持することはできません。何日かすれば終わります。それによって環境的与件に破綻が伴うのです。それによって環境的与件が保護を受けることができず、それが永遠に継続するので、悪に属するという事実を知らなければなりません。
(124-244、1983.2.20)
東洋に「酒色雑技(飲む・打つ・買う)」という言葉があります。これは何かというと、酒と女と賭博です。世界の犯罪事件はすべて、ここに由来しています。その背後に酒が、その次には女性関係が、その次には賭博が関係して起きるのです。大きな事件で女性と酒が排除されたケースがありますか。その次には麻薬です。麻薬は酒よりもっと強いのです。酔うようになります。酔うのです。麻薬をすれば女性関係が生じるものです。酒を飲めば、男女関係がすべて破壊されます。賭博場に行けば、千年の歴史を一度に賭けて打ち込むというのです。
(230-115 ~ 116、1992.4.26)
中国の人たちは、賭博をしていてお金がなくなれば、自分の財産を差し出し、妻を差し出します。そのようにして負ければ死ぬのです。僕と賭博をしたとしても、その僕と約束した掛け金を払わなければならないので、自分は死にます。死ねば彼の財産も僕がもち、妻もその僕が連れて暮らします。賭博はそのくらい恐ろしいのです。
(124-157 ~ 158、1983.2.6)
皆さんの家に真の愛がありますか。皆さんの答えに自信を感じません。「はい」と言うその手に、吸っていたたばこの黄色い物がついており、その酒の残りかすのにおいがします。真の愛があれば香りが漂わなければなりません。
(215-244、1991.2.20)
堕落は家庭から始まったので、復帰も家庭からしなければなりません。「歯には歯、目には目」と言うでしょう? 蕩減復帰もそのようにするのです。堕落した世界に生きる家庭は、すべてサタンの家庭です。サタンが神様のみ旨とはすべて反対にしておいたのです。それで今、家庭を見れば、おじいさんとおばあさんも怨讐であり、お父さんとお母さんも怨讐です。すべて怨讐にして、家庭でおじいさんとおばあさん、お父さんとお母さん、夫と妻、息子、娘がすべて否定するのです。そして、フリーセックスが乱舞する世の中になるのです。情緒的な感覚を訪ねていこうとするので、幻覚剤やアヘンが必要です。そのようなものを飲めば、幻覚世界で刺激が継続するので、自然にアヘンや麻薬に流れていきます。アルコールのようなものを飲むのも、すべてそのような理由めたのです。
(243-251、1993.1.17)
男性でも女性でも、愛の力をもてばすべての細胞が集約するようになっています。ですから、その刺激は最高の総合的な刺激です。その時こそ体と心が、対象と主体が完全に授け受けするのです。この作用が普通の時は、ひたすら道理に従う法度どおりに作用しますが、愛すれば違います。普通の時は自然の作用をするのですが、愛の力をもつようになれば、100 パーセント爆発的な作用をするというのです。その衝撃的な刺激に酔ってしまいます。それで愛がよいのです。酒を飲むよりも、アヘンの注射をするよりも、いかなるものよりも刺激的なものなので、愛が一番なのです。
(117-76、1982.2.1)
神様の真の愛が真の父母から始まります。これを完全に取ってしまおうとするので、根がありません。根がなく、枝にくっついておらず、秋に落ちた実のように、すべて転がり回っています。ですから、一度にすべて掃いてしまうのです。行く所がありません。アメリカも行く所がなく、イギリスのような先進国も行く所がありません。日本も行く所がなく、ドイツも行く所がないことは同じです。この世界に行く所がありません。縦的な真の愛を失ってしまい、これを横的に取り戻そうとすべての家庭に手を出し、国に手を出し、ついにはフリーセックスに至るようになったのです。愛には感情があり、高次元的な宇宙と通じ得るアンテナがあるのですが、それがすべてなくなったので、それを補充しようと麻薬を吸い、フリーセックスをするのです。
しかし、これでは補充できません。やればやるほどもっとなくなっていくのです。ですから、フリーセックスをすれば心がうれしくないのです。感情がすべて愛に陶酔していたその境地に入っていきたいと思う心、その瞬間を願うので、すべて幻覚、麻薬の世界と化してしまいます。そのような麻薬の世界では、想像で愛の感情を感じられます。麻薬の力が持続している間は、そのような感情を感じられるのです。しかし、薬効が切れてしまえば、その感情も消えます。
真の愛は麻薬が問題ではありません。麻薬自体も真の愛のためにあります。そのようなことを考えてみてください。どれほど高次元的ですか。天地に「う~あ」と電気が通じれば、大きなラジオのスピーカー装置が「うう」となるように、線さえつなげれば宇宙が響くのです。「わあ」と響きます。真の愛の力がどれほど大きいか、人のようなものは問題ではないということです。すべて虜になります。真の愛を語れば、宇宙が踊るのです。すべてのものが踊ります。最近、硫行しているツイストのようなものは比較にもなりません。逆さまに飛び上がったりするのです。
(247-126-127、1993.5.1)
第13章 愛
愛
1) 真の愛
真の愛は、最高の愛である。最高に崇められるが、現実で体験するのはとてもまれな愛である。この節では、理想的愛とは何かに対してのみ扱う。次の節で、理想的愛の多様な属性に関して扱うことにする。
真の愛の源泉は、神様である。究極的実在の核心である愛と哀れみは、自己中心的執着と欲望を越えた聖人から具現され得る。神様が被造物のために創造を始められたように、真の愛もやはり、相対の幸福のための献身的愛である。神様が絶対、不変、永遠であられるように、真の愛もやはり変わらず、運命のいたずらに屈しない。神様が人類の父母であり、万物の創造主であられるように、真の愛を実践する人間もやはり公明正大であり、全体を包容できる。したがって、真の愛は神様と真実に一つになり、一生を天のみ旨を成就するために生きていく個人から具現され得るのである。
自己中心的欲望を追求する利己主義者は、真の愛を決して実現できない。しかし、人間は真の愛の潜在力を生来的にもって生まれるので、真の愛の実現は不可能ではない。子女のためにすべてのことを犠牲にする父母であれば、これを体験したであろう。そのような人も、子女が生まれる前には、自身の快楽ばかりを追い求めて生きてきたかもしれない。しかし、子女の誕生は、父母の人生に新しい方向を提示する。自分から人に、受けることから与えることへの転換が起きるのである。父母の愛は、神様の真の愛と近い。したがって、私達は神様を父と呼ぶ。
人間が先天的に愛をもって生まれたという事実は、中国の漢字「仁」にも表現されている。「仁」の字を見れば、「天」の字のように「二人」が含まれているのを知ることができる。ゆえに愛は私達に内在されており、神様はその愛を通して私達に臨在され、私達はまた神様に似ることができる。
1. 真の愛の本質
― 宗教経典 ―
たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、私は騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、私に何の益もない。
愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、私達の知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。幼子だったとき、私は幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。私達は、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。私は、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。
コリントの信徒への手紙一13(キリスト教)
愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、私達が生きるようになるためです。
ここに、神の愛が私達の内に示されました。私達が神を愛したのではなく、神が私達を愛して、私達の罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのように私達を愛されたのですから、私達も互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。私達が互いに愛し合うならば、神は私達の内にとどまってくださり、神の愛が私達の内で全うされているのです。……
愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。私達が愛するのは、神がまず私達を愛してくださったからです。「神を愛しでいる」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。
ヨハネの手紙一4.7 ~ 12、18 ~ 20(キリスト教)
このように常に専心し、罪障を離れたヨーギンは、容易に、ブラフマンとの結合という窮極の幸福を得る。ヨーガに専心し、一切を平等に見る人は、自己(アートマン)を万物に存すると認め、また万物を自己のうちに見る。
私を一切のうちに認め、一切を私のうちに見る人にとって、私は失われることなく、また、私にとって、彼は失われることがない。一体観に立って、万物に存する私を信愛する者、そのヨーギンは、いかなる状態にあろうとも、私のうちにある。
自己との類比により、幸福にせよ不幸にせよ、それを一切〔の生類〕において等しいものと見る人、彼は最高のヨーギンであると考えられる。
バガヴァッド・ギーター6.28 ~32(ヒンドゥー教)
― み言選集 ―
真の愛の人生とは、どのような人生でしょうか。真の愛は、公益性をもつ無形の秩序であり、平和であり、幸福の根源です。真の愛の本質は、受けようという愛ではなく、人のために、全体のために先に与え、ために生きようという愛です。与えても、与えたということすら記憶せず、絶えず与える愛です。喜んで与える愛です。
母親が赤ちゃんを胸に抱いてお乳を飲ませる、喜びと愛の心情です。子供が父母に孝行して喜びを感じる、そのような犠牲的愛です。神様の人類創造がそうであったように、何ら見返りを期待せず、条件も付けずに与える、絶対、唯一、不変、永遠なる愛の創造です。
真の愛は、宇宙の源泉であり、宇宙の中心、宇宙の主人を生み出してくれる愛です。真の愛は、神様の根であり、意志と力の象徴でもあります。したがって、真の愛で結ばれると、永遠に一緒にいても、ただうれしく、宇宙はもちろん、神様までも引っ張れば付いてくる愛です。堕落の末裔である人間がつくった国境の壁、人種の壁、さらには宗教の壁までも、永遠に終わらせる力が、真の愛の価値です。
神様の真の愛の主流属性は、絶対、唯一、不変、永遠なものなので、誰でもこの真の愛を率先して実践すれば、神様と同居して共に楽しむことができ、同参権までも享受できるようになるのです。このように、天国に入るのに絶対に必要な条件が、正に「ために生きる人生」、すなわち真の愛の人生なのです。
平和神経平和メッセージ1.25 ~ 26、2005.9.12
コリント人への第一の手紙第13 章、愛の章に「このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である」とあります。それを知らなかったというのです。
あなたの心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くすというのは何ですか。生命を投げ出して愛しなさいということです。命を投げ出して愛しなさいという話です。全体を投入して愛するのです。隅から隅まで愛しなさいということではないですか。
皆さん、誰かをそのように隅から隅まで愛してみましたか。妻となった人が夫を隅から隅まで愛してみて、父母となった人が子女を隅から隅まで愛してみて、子女となった人が父母を隅から隅まで愛してみて、師となった人が弟子を隅から隅まで愛してみて、弟子となった人が師を隅から隅まで愛してみて、民となった人が国を隅から隅まで愛してみたのかというのです。
できませんでした。ですから、そのようにできなかった人間に対して、一つのタイプ、金型を造ったのです。工場で大量生産するためには、金型からガチャッ、ガチャッと造るのですが、タイプ、モデルを造らなければなりません。人間のモデルを造らなければなりません。神様が願う愛を中心とする人です。そして、私が愛することのできるモデル、それ以上ないというのです。
(143-274, 1986.3.20)
真の愛とは、何ですか。真の愛は神様の愛です。それでは、真の愛が行く道はどのようなものですか。神様を永遠に愛そうというのなら、私は真の愛の所有者になるのです。簡単なことです。なぜそうなのでしょうか。愛の特徴は永遠です。ですから、その愛の条件は永遠でなければならないということです。
永遠にその愛に向かい合おうと思ってこそ、その真の愛が私と相関関係を結ぶので、それが不可避だというのです。愛は永遠です。愛は永遠不変で唯一なのです。ですから、そのような内容に100 パーセントすべてなっているので、私達自体が真の愛に対して、永遠に天に心を整えるにおいて、愛の道が連結されるのです。
(123-329、1983.1.9)
愛の主人は、神様です。真の愛の「真」というものは、二つを許諾しません。「真」は絶対的にただ一つです。真の愛は、誰が最初に愛することのできる愛ですか。神様しかいません。それが真の愛の根本であり、本質です。神様だけが真の愛をなさることができることを知らなければなりません。神様の真の愛も真の愛が必要であり、神様の真の生命も真の愛が必要であり、神様の真の血統も真の愛が必要であり、神様の真の良心も真の愛が必要です。神様を抜かせば真の愛はありません。神様が介在しない愛は、真の愛ではないのです。
(300-200、1999.3.14)
神様が創造主の能力を行使するとき、愛を中心としてつくったというのです。真の愛と関係を結んだのちにです。霊的世界では真の愛が連結されれば、すべてのものをコントロールすることができ、すべてのものを創造できます。それが私達の理想郷です。真の愛と関係を結ばなければ、すべて徒労だというのです。
(147-116、1986.8.31)
愛は究極的に私達人間から始まったものではなく、絶対不変の原因的主体から始まったものなので、それを中心とした愛の家庭が人間社会の理想具現の基本単位になります。絶対価値の理想実現のための愛の家庭から、国家、世界へ拡大し、愛を完成した統一圏の世界、それこそ絶対価値の永遠の幸福が約束される理想世界が必ず訪れるのです。
(89-227、1976.11.27)
もし、ある夫婦の間に体の不自由な子供が生まれたとすれば、その父母が、「ああ! 足の不自由な子供は蹴飛ばしてしまおう」と言いますか。それが真の愛ですか。違います。同じことです。夫が妻を考えることも同じだということです。最後まで蹴飛ばしてしまうようにはなっていません。
もっとかわいそうに見えるのです。そうすれば、間違いなくその人は、霊界の法度にそのまま通過していきます。それを知らなければなりません。ですから、それが貴いのです。そのような人を真の夫というのです。うれしいときに喜ぶのが真の愛ではなく、良くないときにもっと喜ぶのが真の愛です。師弟関係もそのような関係です。そして、国の大統領や民もそのような愛の観念をもたなければなりません。
(117-292、1982.4.11)
神様が一番愛して、貴く考える物があるなら、それを一日、あるいは10 年や100 年ぐらい共に過ごしたのちに、ほうり投げるように造りましたか、永遠に共にいるように造りましたか。永遠に共にいるように造りました。永遠に共にいるように造られたのです。
人も同じです。人は永生すべきです。なぜでしょうか。絶対者の神様が、絶対的な愛を中心として、喜ぶことができる対象だからです。一日や二日、あるいは10 年、100 年喜んで、投げてしまうなら、それは愛ではありません。愛すれば愛するほど、共にいたいと思うのです。愛する妻が死ねば、その妻のハンカチをもって独身で生きた人もいます。インドのネルーのような人は、自分の妻が若くして死にましたが、その妻がバラを好んだといって、一生の間バラの花を身に着けて歩きながら暮らしたといいます。
(39-342 ~ 343、1971.1.16)
真の愛というのは何をするのですか。永遠に継続する愛です。春にもその愛、夏にもその愛、秋にもその愛、冬にもその愛、少年時代にもその愛、老年時代にもその愛、壮年時代にもその愛、その次に永遠の霊界に行ってもその愛……。変わらない愛です。
(194-303、1989.10.30)
2. 哀れみと慈悲
― 宗教経典 ―
孟子がいわれた。「仁ということばは人(じん)という意昧であり、人間らしくあれということである。〔義ということばは宜という意味であり、是非(よしあし)のけじめをつけるということである〕。この仁〔と義との二つ〕を合せて、これを人の道という。」
孟子VII.B.16 (儒教)
慈悲とは、すべて生きとし生けるものに対して憐れみが一味平等である心であります。
龍樹宝行王正論437(仏教)
アナスとアブドーラが神の使徒の言葉を伝え、「すべての被造物は神の子女だが、神が最も愛する者はその方の子女たちを親切に世話する者である」と言った。
バイハキ・ハディース(イスラーム)
神の愛にはまった者は万有を愛する。
アーデイ・グラント、ヴァダハンスM.1、P.557 (シーク教)
究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達してなすべきことは、次のとおりである。能力あり、直く、正しく、ことばやさしく、柔和で、思い上ることのない者であらねばならぬ。足ることを知り、わずかの食物で暮し、雑務少く、生活もまた簡素であり、諸々の感官が静まり、聡明で、高ぶることなく、諸々の(ひとの)家で貪ることがない。
他の識者の非難を受けるような下劣な行いを決してしてはならない。一切の生きとし生けるものは、幸福であれ。安穏であれ、安楽であれ。いかなる生物生類であっても、怯えているものでも強剛なものでも悉く、長いものでも、大なるものでも、中ぐらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、粗大なものでも、目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生れたものでも、これから生れようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。
何人も他人を欺いてはならない。たとえどこにあっても他人を軽んじてはならない。悩まそうと怒りの想いをいだいて互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。あたかも、母が己が独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の(慈しみの)意を起すべし。
また全世界に対して無量の慈しみの意を起すべし。上に、下に、また横に、障害なく怨恨なく敵意なき(悲しみを行うべし)。立ちつつも、歩みつつも、坐しつつも、臥しつつも、眠らないでいる限りは、この(慈しみの)心づかいをしっかりとたもて。この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ。
スッタニバータ、143 ~ 151 (仏教)
今、ねたむ心がつき、私は聖者たちの世界に入った。誰とも疎遠ではなく、誰とも他人ではなく、真実にすべての人が私の友である。神が行われるすべてのこと、これと共に私が喜ぶが、これが私が聖者たちから受けた知恵である。おお、万有に満ちておられる神よ! あなたを見つめることで私が大きく咲きます。
アーディ・グラント、カーナラーM.5、p.129 (シーク教)
もし見知らぬ人の足を踏むと、粗忽をしましたとわびるのに、もし兄弟の足だと、おおと言うだけである。親の足を踏めば、初めからゆるされていると思う。親しいからである。ゆえに至礼は他人としないところがあり(人と己の別をみない)、至義は物とせず(物と自己の別をみない)、至知は謀ろうとせず、至仁には親がなく、至信には金(石の堅さ)をしりぞける。
荘子23(道教)
仁は単純に画一的な寛大さではない。そのエネルギーは宇宙において春の季節であり、その道理は宇宙の中に生きているものの心である。
朱熹(儒教)
― み言選集 ―
神様は数多くの宗教を通して、「愛さなければならない」と教えます。釈迦が語る慈悲も、愛を中心とする言葉です。愛を抜かせば成立できません。儒教で語る「仁義礼智」の「仁義」というのも、愛を抜かせば何にもなりません。「仁」という言葉も「二人」ではないですか。人偏に「二」の字です。「天」という言葉も「二人」という言葉です。
(256-205、1994.3.13)
真の愛は「ために生きる」ところから、真の理想は「ために生きる」ところから、真の平和も、真の幸福も、「ために生きる」という立場を離れては見いだすことはできません。
(75-318、1975.1.16)
堕落した人間でも、父母が子女を愛する心に違いはありません。父母の愛は絶対の中の絶対です。それは存在意識を越えて存在することができ、動くことができるのです。これは、万宇宙のいかなる原動力や、いかなる存在物の主管圏内にもとどまることなく超越します。愛は理念を超越します。人格的な価値を超越します。この基準は、神様の価値までも超越することができます。
(8-273、1960.2.7)
いったい、真の愛とは、何でしょうか。愛は愛なのですが、どのような愛を真の愛といいますか。神様の愛です。それでは、神様の愛とは、どのようなものですか。イエス様のみ言によれば、それは怨讐を愛する愛です。そのような愛が真の愛だという話です。白人同士が愛するのは何でもないのです。白人が黒人を愛するのが真の愛に近いのです。怨讐を愛するということ、それは真の愛に間違いありません。
それでは、怨讐を愛することが、どうして真の愛なのですか。それは誰も批判できず、不平を言うことができないからです。それはいつでも丸く、いつでも回っていけます。ぶつかることなく運動できるということです。その愛は私の目に人ってきてもよく、鼻に入ってきてもよく、口に入ってきてもよいのです。……引っ掛かるものがないということです。それがなぜ便利なのですか。どこに行っても、ふさがる所がないからです。
(115-315 ~ 316、1981.11.29)
何をもって、この悪の世界を消化するのですか。軍事力で、経済力で、知識の力で、黄金の力で、この悪の世界をどのように消化しなければならないのですか。愛の力で消化しなければなりません。
能力が多く、権能が多く、全知全能であられる神様を屈服させ得る一つの秘法は、力では駄目です。知識でも駄目です。お金でも駄目です。しかし、私達人間の欲心を見るとき、神様までも争って勝ちたいと思うのです。
「なぜ、このような愛が億千万年引っ掛かったのか! 神様までも私が屈服させることができ、神様のすべてのものまでも私がすべて奪い、神様より高い、神様以上になりたい」ということが、力でできますか。知識でできますか。お金でできますか。できません。ただ、真の愛一つだけをもてばよいのです。
神様も、その愛の前には、神様がいくら大きくても、真の愛に引っ掛かれば、「神様も私のかめに入っていてください」と言えば、「おお、そうしよう、そうしよう!」と言うのです。
祖父や曾祖父、もう老いて死ぬ日が近いおじいさんの頭の上に曾孫が上がっていき、すべり降りてきながら大小便をしたとしましょう。それを赦す法がどこにありますか。顔から何から、すべてひどいことになっているので、おじいさんとおばあさんも、お父さんとお母さんも、兄弟たちも、大変なことになったと思いますが、「こいつ、あだ討ちせよ!」、そのように言うことができます
か。おじいさんが、「ああ、恨めしい。歴史始まって以来……。曾祖父の看板をもったまま死ぬことはできない!」という宣布式が通じますか。このような権限をもった偉大な力、偉大な能力、偉大な造化のるつぼは、どれほどよいですか。造化がごろごろ転がり、いくらでも入っていく造化のるつぼです。どれほどよいですか。
(139-209 ~ 210、1986.1.31)
3. 愛の円形運動
― 宗教経典 ―
私を愛する人を私も愛し、私を捜し求める人は私を見いだす。
箴言8.17(キリスト教)
この世において善い行いをなす者には、善い報酬がある。
クルアーン39.10 (イスラーム)
憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
マタイによる福音書5.7 (キリスト教)
愛する者たち、神がこのように私達を愛されたのですから、私達も互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。私達が互いに愛し合うならば、神は私達の内にどどまってくださり、神の愛が私達の内で全うされているのです。……私達は、私達に対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。……私達が愛するのは、神がまず私達を愛してくださったからです。
ヨハネの手紙一4.11 ~ 12、16、19(キリスト教)
かの日には、私が父の内におり、あなたがたが私の内におり、私もあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。私の掟を受け入れ、それを守る人は、私を愛する者である。私を愛する人は、私の父に愛される。私もその人を愛して、その人に私自身を現す。
ヨハネによる福音書14.20.~ 21(キリスト教)
男の信者も女の信者も、互いに他の保護者である。
クルアーン9.71(イスラーム)
キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。
エぺソの信徒への手紙5.21 ~ 22(キリスト教)
愛は丸く回っていく。愛される者は愛する者に似ることによって、愛する者を感動させる。すると愛する者はその愛される者を迎えるために進んでいく。最初に始めた者がすなわち最後になる。
トマス・アクィナス神学大全(注4)(キリスト教)
正しい恋とは、端正で美しいものを対象としつつ、節制を保ち、音楽・文芸の教養に適ったあり方でそれを恋するのが本来なのだね?
プラトン国家3(ヘレニズム)
― み言選集 ―
絶対的愛は強制ではありません。自然に循環するのです。
(196-134、1989.12.31)
愛は私から来るのではありません。相対から来るのです。それを知っているので、男性を造るとき、「ために生きなさい」として造りました。それで、男性は女性のために生まれたのであり、女性は男性のために生まれたのです。ですから、その愛を求め、その愛を迎えるのは、「ために生きる」道においてのみ可能なのであって、ために生きずに「ために生きろ」という道には、真の愛はありません。
(143-54、1986.3.15)
男性として生まれた人が行かなければならない道は、自分のために生きることで終局するのではなく、相対のために生きることで終局するように生まれています。男性は何のために生まれたのでしょうか。男性自身のために生まれたのではありません。女性のためです。
また、いくら美人で、いくら男性が嫌いでも、女性はなぜそのように生まれたのでしょうか。自分のためにそのように生まれたのではありません。相対のために生まれたのです。存在の起源は、私のために生きるところにあるのではなく、相対のために生きるところにあります。そのようになる世の中になれば、天国に違いありません。
父母は子女のために生き、子女は父母のために生きるようになるとき、互いにために生きるので回っていくのです。ために生きればために生きるほど、早く回っていけます。これが理想的です。
四角形ではなく、立体的にぐるぐる回るのです。「ために生きる」ことは、押してあげることです。あちらから私のために生きて押し、私もそちらのために生きて押してあげるので、早く回っていきます。永遠だということです。
ですから、世の中は円形に似ています。顔も丸いのです。ここに二つがありますが、この二つが合わさっています。目も丸いのです。上部と下部があります。それがすべて完全に授け受けしなければなりません。静脈と動脈も授け受けします。与える道はあるのに。受ける道がなければ、病気になります。傷つくということです。存在物は運動をするのですが、その存在の根源において、「ために生きる」作用の原則を立てなければ、永遠に存在することはできません。
(69-83 ~ 84、1973.10.20)
ですから、運動をすれば、必ず徐々に真ん中が膨れ上がっていきます。円形になるのです。渦巻いているところは、入り込むこともあり、掘る作用もしますが、上がってくる作用もします。砂のようなものを見れば、そのような作用をするというのです。周囲にあるものを集めるのです。
ここで授け受ける力の作用によって、このような円形運動が起きます。ですから、神様も私の中にいて、イエス様も私の中にいて、私もイエス様の中にいるという概念があり得るのです。その三つが合わさって一つの円形を成すというのです。
(124-51、1983.1.23)
垂直と水平がどこで一つになるのでしょうか。これは、球形に運動するので、一番の中央線において一つにならなければならないという論理が出てきます。これを中心として線を引くようになるとき、その線に入っていけば全宇宙が共鳴します。霊界も明確に分かります。愛を中心として関係を結ぶ世界は、教育が必要ありません。教育が必要ないのです。誰かが支配する必要がありません。それ自体が私を支配します。真の愛には、神様までも絶対服従すると言ったでしょう? 方向性を間違えれば、それ自体が私を正してくれるのです。どこに行かなければならないのかを知っているというのです。
(214-233、1991.2.2)
4. 信仰と品性に由来する真の愛
― 宗教経典 ―
(先に)言った「その家をきちんとするのは、その身を修めることにある」とは、多くの人はその親愛する人においては(親愛の)一方に偏るものである。その卑しみ憎む人においては(卑しみ憎むことの)一方に偏るものである。その畏敬する人においては(畏敬の)一方に偏るものである。
哀れんでやる人においては(哀れみの)一方に偏るものである。軽く扱う人においては、(軽んじ侮る)一方に偏るものである。人を好みながら、その悪いところを知り、憎みながら、その美点を知るような者は、天下にごく少ないのである。だから、ことわざにもある「人はその子の悪を知らないし、その笛の大きくなっているのが分からない」これを身が修まらなければ、その家をきちんとすることはできないというのである。(注5)
大学8(儒教)
愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。
ヨハネの手紙一4.8(キリスト教)
ああ、実に夫を愛するから夫が愛しいのではなく、
自己(アートマン)を愛するから夫が愛しい。(注6)
ああ、実に妻を愛するから妻が愛しいのではなく、
自己(アートマン)を愛するから妻が愛しい。ああ、実に子を愛するから子が愛しいのではなく、自己(アートマン)を愛するから子が愛しい。
ブリハッド・アーラニャカ・ウパニシャッド2.4.4 ~ 5(ヒンドゥー教)
柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。
ガラテヤの信徒への手紙5.23(キリスト教)
他の人に伝わる愛とはどのようなものか。ナナークが言うには、常に愛の主に没頭する人が真に愛する人だ。好意と悪意を区別する人は真に愛する人ではなく、彼ほかえって事情に捕らわれたかわいそうな人である。
アーディ・グラント、アーサー・ディー・バールM.2、p.474(シーク教)
悪にはまらず、善に帰るために神を畏敬するよう勧告しましょう。愛(の神)こそ私達の指導者であり統率者ではないですか。したがって、誰もその御意志に背かないようにしましょう。彼に反対する人は、神々に敵対する人です。
この神と友になり、親しく付き合えば、私達は私達自身の真の愛を発見できるでしょう。これは、今日何人にもならない人たちだけが享受できます……。私の言葉は……すべての所の男性と女性を含みます。私達の愛が完全に実現され、すべてが本来の姿に帰り、本然の真の愛をもつようになれば、全人類が幸福を享受するようになるでしょう。
プラトン饗宴(ヘレニズム)
どうでしょうか、うかがいますが、いったい、自分を憎んでいる人間は他人を愛せるものでしょうか? 自分といがみ合っている人間がだれかほかの人と折り合えるものでしょうか? 自分の荷厄介になっている人間がだれかほかの人を喜ばせられるものでしょうか?……他人の喝采を博したいなら、めいめいがいい気になって自惚れ、自分がまっ先になって自分に喝采を送ることが肝心要、どうしても必要なことなのですよ。
エラスムス痴愚神礼讃22(ヒューマニズム)
― み言選集 ―
私達人間が求める愛は、横的な愛、横的な基盤であり、神様の愛は、縦的な愛なので、縦横が連結されなければならないのです。
(238-140、1992.11.22)
皆さんの体と心の中には誰が入っているかというならば、神様が入っているのです。皆さんの体と心が一つになれば、神様が臨在されるというのが原理の教えです。それでは、神様がなぜそこに臨在されるかというのです。人の体と心が一つになれば、必ずそこには愛があります。一つになる原則は愛から始まるからです。したがって、相対的愛があるために神様が臨むという論理が成立するのです。
「人の体は神様の聖殿である」とこのように言います。聖殿は、どのような所ですか。仕事をする所ですか。どのような所ですか。聖殿というならば安息所という言葉と通じます。それでは、休むには何の中で休みますか。愛の中で安息するのです。聖殿とは何でしょうか。神様の愛の中で休むことができる所です。私達人間が願う理想があるならば、そのような内心的基準が最高の理想の基準ではないですか。これを知っているのです。そうした心の愛をもった所を、心情の世界というのです。それはわき出る泉の水と同じであって、くみ出しても、くみ出しても終わりがありません。なぜでしょうか。神様がそこにいらっしゃるから終わりがないというのです。
(91-77 ~ 78、1977.1.30)
この境界線、零点を往来できるのは真の愛しかありません。心と体がこの点から一つになります。空いた所ができれば補っているのです。心と体が完全にそこでストップするのです。零点を通過するのは真の愛しかありません。その道しかありません。零点です。女性の心も零、男性の心も零、そこで一つになるのです。零点で完全に一つになるというのです。
自分の概念があってはいけません。夫と妻という、二つという概念があってはいけません。ぴたっと一つです。それは何かというと、私はあなたのために生きるというのです。零点です。どこに行っても自由です。振り返っても、ひっくり返っても自由です。それが零点です。すべての球形の中心が零点です。両側をすべて所有したものが零点だということです。真の愛が、そのようにして零点に来るのです。
(230-103、1992.4.26)
自分を愛さない人は、神様を愛せません。父母を愛さない人は、国を愛せません。また、自分自身を愛せない人は、父母を愛せません。自分自身を愛してこそ、父母を愛せるのであり、国を愛せるのであり、世界を愛せるのであり、神様を愛せるのです。
(22-97、1969.1.26)
愛の理想を中心として見るとき、動植物の世界では、その愛の関係がすべて繁殖を前提にして初めて成されます。しかし、人間だけはその例外です。人間は夫婦の愛の関係を自由に享受します。これが万物の霊長たる特権です。神様は、息子、娘である人間が無限の愛の喜びをもつように祝福しました。
神様が許諾した真の自由は、責任性を前提とします。もし、責任性なしに個々人が愛の自由だけを主張し、実践するなら、どれほど大きな混乱と破局が来るでしょうか。至高なる愛の理想を求める人間は、愛に対する責任性をもつときに完成が可能なのです。
その責任性は、次の三つとして考えることができます。第1に、人間は愛の自由を下さった神様に感謝しながら、自己修錬、自己管理で自由な真の愛の主体者になる責任です。人において愛の責任性は、法や世間体ゆえに守られるものではなく、神様との生命的縦的関係の中で自己主管、自己決断で守られるのです。
第2に、相対に対する責任性です。人間は本性的に自らの相対の、自分に対する愛が分けられることを願いません。夫婦間の横的な愛の関係は、父母と子供の間の縦的な愛の関係と異なり、分けられれば、もはやその完全性が破壊されます。これは、夫婦間で絶対的な愛の一体を成すようになっている創造原理ゆえです。人は、絶対に自分の相対のために生きるべき愛の責任性があります。
第3に、子女に対する愛の責任性です。子女たちの誇りと幸福の基地は父母の愛です。子女たちは真の愛で和合一体化した父母を通して生命が生まれ、そのような愛の中で養育されることを願います。父母の子女に対する最も貴い責任は、外的な養育だけではなく、彼らの霊性を完全にしてあげる真の愛の生命的な要素を提供することです。家庭が貴い理由はこのためです。生活的な経験を通して体得する真の子女の心情、兄弟の心情、夫婦の心情、父母の心情は、真の家庭以外、そのどこからも得ることはできません。
(277-201 ~ 202、1996.4.16)
2) ために生きる人生
神様に対する献身と信仰によって始まる霊的な求道の人生は、慈悲と人に対する奉仕を通して完成される。「私達が愛し合うのは、神がまず私達を愛して下さったからである」(ヨハネⅠ 4.19)。ために生きる人生が愛の核心である。
人のために生きるのは、人間の内面に自発的に流れる、愛する心の自然な表現である。人間が神様に似たからである。創造の始めから絶えず被造物のために生きてこられた方が神様でいらっしゃる。しかし、堕落によって人間はだんだんと腐敗していき、愛を聖なる根源と分離し、自分の快楽的側面に利用することによって、私達の心と態度、習慣は、すべて自己中心的に変わった。したがって、条件なく先に与えるのは、相当な努力を必要とするようになった。私達は、先に与える社会ではなく、受けてばかりいる社会をつくってきた。このような社会は、自然に不平等と怨恨、犯罪へと連結されざるを得ない。
世界の諸宗教は、奉仕し、人のために生きる人生が世の中で最も価値があると教える。イエスも真のリーダーシップは奉仕する姿勢だとし、自らも、「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」と語られた。有名な宗教書籍である『バガヴァッド、ギーター』と『道徳経』でも、人のために生きる人生こそ、神様がこの世の中を創造し、経綸していく根本原理だと説明している。人のために奉仕する利他的な行為は、神様から出てくる行為である。文鮮明先生も、「ために生きる」人生がすなわち天国生活だとされ、この主題に関する多くのみ言を伝えてくださっていらっしゃる。
1. 人のために生きるのが人生の根本道理
― 宗教経典 ―
互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。
ガラテヤの信徒への手紙6.2 (キリスト教)
人を助けることはすべての人の当然の職分である。
ダットヴァルタ・スートラ5.21 (ジャイナ教)
何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。不平を言わずにもてなし合いなさい。あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。
ペテロの手紙4.8 ~ 10(キリスト教)
すべての人は隣人に対して責任をもつ存在である。
タルムード、サンヘドリン27b(ユダヤ教)
最上の人間とは他の人に有用な人である。
ブハーリー・ハディース(イスラーム)
だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい。
コリントの信徒への手紙一10.24 (キリスト教)
父母に懇切に尽くし、また近親や孤児・貧者や近隣や違い縁者・道づれの仲間や旅人、ならびになんじらの右手が所有する者に親切を尽くせ。神は高慢な者。うぬぼれる者をめでたまわぬ。かれらはりんしょくな者たちで、人びとにもりんしょくを勧め、神がかれらに賜わった恵みを隠すものである。
クルアーン4.36 ~ 37(イスラーム)
いまゝでハせかいぢううハ一れつに
めゑ/\しやんをしてわいれども
なさけないとのよにしやんしたとても
人をたすける心ないので
これからハ月日たのみや一れつわ
心しいかりいれかゑてくれ
この心どふゆう事であるならば
せかいたすける一ちよばかりを
このさきハせかいぢううハ一れつに
よろづたがいにたすけするなら
月日にもその心をばうけとりて
どんなたすけもするとをもゑよ
おふでさき12.89 ~ 94(天理教)
あなた自身だけの利益を追求せず、人も考えよ。あなたが豊かだとして、「人が私に関心をもたないのだから、私も彼らに気を使う必要はない!」と言うな。あなたが運良く狩りをしたら、人にも分けてあげなさい。また、たくさんのアシカを簡単に捕まえることができる良い場所を人に教えてあげなさい。
時々は人もそれらの分け前をもてるようにしてあげなさい。もしあなたがすべてのものをあなたのために積んでおけば、他の人たちがあなたを離れ、誰もあなたと一緒にいようとしないだろう。もしあなたがある日、病にかかれば、あなたが以前、人に関心をもたなかったために、誰もあなたを見舞わないだろう。また他の人にも何かを与えなさい。ヤマナは利己的に行動する人を好まない。
ヤマナ・エスキモー族の入会式(アメリカ先住民の宗教)
― み言選集 ―
愛の本質は、ために生きてもらおうとするものではなく、全体のために生きようとするものなので,世の中とは違うのです。ですから、宗教の教えを見れば、人のために生き、絶対服従し、犠牲、奉仕をしなさいというのですが、世の中にはこのようなことがありません。
(46-42、1971.7.18)
利他主義、人のために、国家のために、世界のために、あらゆるものを投入し、犠牲、奉仕する人生が、この世の中では最も間抜けな愚か者の人生哲学のように見えるかもしれませんが、本当に深奥な真理を悟ってみ.れば、ただこの道こそが人間世界に最も有益な道であり、永遠に人間が幸福になれる秘訣であることを分かるようになります。
(198-163、1990.2.1)
原理原則に立脚して、人のために、相対のために投人する人は天国に行くのです。教育など、あらゆる指導理念において、漠然とではありますが、このような観点で善を立ててきたので、今日この地球が残っているのです。
(69-86、1973.10.20)
相対がなければ、ために生き得る相対がいなければ、真の愛の道は、永遠に探し出せません。
(398-284、2002.12.15)
広く、大きく天の国のレールに合うように地上でために生きなさいというのです。生まれたのはために生きるためなので、ために生き、また投入して忘れてしまい、愛して忘れてしまい、無限に愛さなければなりません。
(306-215、1998.9.23)
真の人は、どのような人ですか。真はすなわち善のものですが、善の人はどのような人ですか。自分を中心として全体が自分に屈服することを願う立場に立った人は、善の人だと言うことはできません。それでは、善の人はどのような人ですか。善の人は全体のために生きる人です。家でも一番善良で、かわいらしく、希望のある子供だというとき、……未来に善を所有できる希望のある子供だというときは、おじいさんも「そうだ」、おばあさんも「そうだ」、父母、兄弟、家族、一家親戚までも「そうだ」と言うことができる子供だというときは、その子供は間違いなくおじいさんを喜ばせる子供でしょう。おじいさんに毎日のように「私を喜ばせてくれ! 私を喜ばせてくれ!」、そのように言う子供ではないというのです。
小さな子供ですが、年を取ったおじいさんに対して、昼も夜もおじいさんが喜ぶ道をいつも考え、そのためにいつでも行動し、いつでも侍ってさしあげようとする子供であることは間違いないという結論が出てきます。おじいさんにだけでなく、おばあさん、お父さん、お母さん、兄、姉を問わず一家親戚全体のために生きようとする生活様式と、あるいは礼儀作法に従っていくその子供が真の希望の子供であることは間違いなく、孫であることは間違いないというのです。全体のために喜ぶことができる環境の与件をつくり、そのような内容を提示しようとする人が歴史時代を経てきて善を受け継げる真の位置に立っているということです。
(174-11 ~ 12、1988.2.23)
ために生きる愛を中心として投入して宇宙が創造されたので、宇宙が生じたのです。私がために生きれば、宇宙の存続起源と一致するので、神様と一つになるのです。そのことによって、神様が滅びなければ私も滅びず、神様が宇宙の主人になるのならば私も宇宙の主人にならざるを得ないという事実を知らなければなりません。ために生きる人は、中心者になるのです。
(270-166、1995.5.29)
アメリカの国民たちは、個人主義の思想を尊重することを知っています。主体と対象の関係を忘却した個人主義は、あり得ません。ですから、アメリカは袋小路に来たのです。このようなアメリカを救えるただ一つの道は、どこから出てくるのですか。今こそキリスト教の精髄の路程を掘り返し、神様の本然の生命の道を尋ね求めていかなければなりません。この道以外にはありません。そのような意味で、この時代において、ミスター・ムーンが、皆さんが歓迎せずにこのようにしたとしても、必要な人ではないかというのです。
神様は、天理原則を通してこのように主張されます。「あなた個人は家庭のために存在し、あなたの家庭は民族のために存在し、あなたの民族は国のために存在し、あなたの国は世界のために存在し、世界は神様のために存在しなければなりません」。神様に従えば、神様のものであると同時に、私のものになるのです。
(69-88 ~ 89、1973.10.20)
2. 何かの見返りを願わずに人に仕えよ
― 宗教経典 ―
イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」
マタイによる福音書20.25 ~ 28(キリスト教)
私心のない奉仕なくしては何事も成されない。最上の清浄行は私心のない奉仕にある。
アーディ・グラント、マールーM.1、p.992 (シーク教)
人のためにしても代価を願わない者は主と一つになることを得る。ナナークが言うには、そのような僕だけが聖なる主の導きを受け、聖なる恩寵が彼に下る。
アーディ・グラント、ガウリー・スクマニー18 M5, p 286 (シーク教)
あなたがたが同胞のために務めるのは、とりもなおさず、あなたがたの神のために務めるのであるということを悟らせるためである。
モルモン経、モーサヤ書2.17(末日聖徒イエス・キリスト教会)
賢者は蓄めこむことをしない。他人のために出し尽くすと、得るものは多くなり、他人のために分けてやると、得るものはさらに多くなる。天の「道」は善いことをなすが害を加えない。賢者の「道」は行いをするが名声を求めない。
道徳経81(道教)
何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。
ピリピの信徒への手紙2.3 ~ 4(キリスト教)
善の所有は、仲間が現れたりいつまでも留まることによって減少することはない。むしろその所有は一つの善であり、それは仲間同士の分かち難い愛が心を一つにすればするほど、豊かに所有することになるのである。つまり、この善の所有は、共有を望まない者には無理であろう。そして仲間をより豊かに愛する人は、より豊かな善の所有を手に入れるであろう。
アウグスティヌス神の国15.5 (キリスト教)
― み言選集 ―
福の中の最高の福は何かというと、犠牲的な愛、奉仕的な愛、人の「ために生きる」愛を施すことです。
(43-309、1971.5.2)
誰もが、老若男女を問わず、愛をみな望むでしょう? 何の愛ですか。ために生きる愛です!「ために生きなさい」と言う愛ではありません。「ために生きる」愛を望むのです。
(211-207、1990.12.30)
自分を中心として愛されようと考えるなというのです。愛そうという立場に立っているのが神様の心です。愛する心は、いつも犠牲になろうとするのです。譲歩しようとするのです。与えても、また与えようとするのです。例えば、私にお金が100 億あって、道端に出ていってすべて分けてあげたとします。それでも心が安らかでないというのです。世界の人類をみな助けてあげられなかったので、お金がもっとあれば、もっと分けてあげたいのです。
(133-180、1984.7.10)
神様の愛は、どのような愛ですか。与えて満足するものではなく、与えてももっと与えたいと思って恥ずかしさを感じる心をもつ愛です。与えてから恥ずかしい心を感じる人ほど、本当の愛の主人です。父母は子女に服を着せても、もっと良い服を着せることができずに済まないと思うのです。与えながらも、満足を感じるのではなく不足さを感じるので、愛を通してそれを補充してあげるのです。したがって、与えても満足しないのですが、完全なものとして報いてくるのが愛です。愛すれば愛するほど、もっと大きなもので補われるので、滅びるのではなく、栄えるのです。ですから、愛なくしては栄える道埋がありません。愛なくしては、永生はないというのです。
(38-327 ~ 328、1971.1.8)
愛の本質は何ですか。人のために生きようとすることです。自分の自主的な本質を中心として、人に与えようとすることが愛の本質です。その愛はどこから来たのですか。天から来たのです。神様は絶対的愛の主体なので、与えようとするのが愛の本質です。父母が涙を流し、「私の愛が不足だからだ。すべてのことは私がお前をもっと愛することができなかったせいだ」と思いながら、その子女の骨髄が溶け出るほど涙を流し、より大きな愛をもって子女の前に出ていくときに、その子女はどのようになりますか。振り返るのです。もっと大きな愛は弱い愛をすべて消化、統合させ得る力をもつのです。
(48-182 ~ 183、1971.9.12)
神様は、なぜために存在する原則を立てざるを得なかったのでしょうか。まず皆さんに尋ねますが、もし皆さんのために誰かが心から生命を尽くし犠牲になりながら100 パーセント恩賜を施した人がいるとすれば、皆さんの本心がその恩に報いるのに50 パーセントはポケットに入れて、50 パーセントだけ報いたいですか。それとも、ありったけの恩返しをしたいですか。私達の本心がどのように作用しますか。誰でも、より多く報いたいのが本心です。
ここで通訳しているミスター朴に対して、私がもし100 パーセントそのようなものを与えたら、与えるにおいても、心から愛する中でくれたことを知れば、100 パーセント以上を返そうとするのです。100 パーセントが110 パーセントになって返ってくるし、その100 パーセントが返ってきたのは、また向こうが心からくれたので120 パーセントを返すようになり……。このようにすることによって、ここで永遠という概念が設定されるというのです。永遠が始まるのです。ですから、このような原則を立てざるを得ないし、それだけでなく、ここから発展と繁栄が生じるのです。
2番目は何ですか。皆さんの家庭においても、5人の家族がいて、誰かがその5人の家族のために生きれば、あとでそのために生きていた人がその家庭の中心になるのです。ちょうど神様のように……。そのような中心が決定されると同時に、主体と対象、中心と相対関係において自ら志願する主管圏が生じるようになるのです。
絶対的に「ために生きる」その主体に主管されるのがどれほど幸福かということを、今日の人間たちは知らずに生きています。霊界に行けば、神様の直接主管を受けることがどれほど大きな栄光か分かりません。このように、ここで初めて主従関係が成立するのです。
3番目は何ですか。理想と愛は人間において生命よりもっと貪いものであるにもかかわらず、今日の人間たちは、このようなものが自分のものとして、自分に現れると思っていること、これが大きな誤解だというのです。
愛と理想はどこから来るのですか。対象から来るのです。対象から来るので、「ために生きる」法度を立てざるを得ません。知恵の王であられる神様は、このようなすべての結果を御存じなので、そのような法度を立でざるを得ないことを、今、皆さんは分かっただろうと信じます。
(73-326 ~ 327、1974.10.8)
3. 宇宙創造ですべてのものを投入された神様
― 宗教経典 ―
私達が愛するのは、神がまず私達を愛してくださったからです。
ヨハネの手紙一4.19 (キリスト教)
天と地はいつまでも存在している。それらは存在を存在として考えないからいつまでも続いている。賢者は背後に身をおきながら、前へすすむ。披は自己を忘れて、自分自身を発見する。人が自己の状態に達するのは無自己によってではないか。
道徳経7(道教)
造物主(ブラジャーパティ)はかつて祭祀とともに生類(ブラジャー)を創造して告げた。これ(祭祀)によって繁殖せよ。これが汝らの願望をかなえんことを。……行為はブラフマンから生ずると知れ。ブラフマンは不滅の存在から生ずる。
それ故、遍在するブラフマンは、常に祭祀において確立する。このように回転する〔祭祀の〕車輪(チャクラ)を、この世で回転させ続けぬ人、感官に楽しむ罪ある人は、アルジュナよ、空しく生きる人だ。
他方、自己(アートマン)において喜び、自己において充足し、自己において満ち足りた人、彼にはもはやなすべきことがない。彼にとって、この世における成功と不成功は何の関係もない。また、万物に対し、彼が何らかの期待を抱くこともない。それ故、執着することなく、常に、なすべき行為を遂行せよ。実に執着なしに行為を行えば、人は最高の存在に達する。
実際、ジャナカ(聖王の名)などは、行為のみによって成就に達した。また、単に世界の維持のみを考慮しても、あなたは行為をなすべきである。最上の者が何かを行えば、他の人々も同様にする。彼が手本を示せば、人々はそれに従う。
アルジュナよ、私にとって、三界においてなすべきことは何もない。得るべきもので未だ得ていないものも何もない。しかも私は行為に従事しているのだ。何故なら、もし私か孜々として行為に従事しなければ、人々はすべて私の道に従うから。もし私が行為をしなければ、全世界は滅亡するであろう。私は混乱を引き起こし、これらの生類を滅ぼすであろう。
愚者が行為に執着して行為するように、賢者は執着することなく、世界の維持のみを求めて行為すべきである。賢者は行為に執着する愚者たちに、知性の混乱を生じさせてはならぬ。賢者は専心して行為しつつ、愚者たちをして一切の行為にいそしませるべきである。
バガヴァッド・ギーター3.10 ~ 26(ヒンドゥー教)
生主の三裔――神族・人族・魔族――は父・生生の所に於て梵行に住せり、(注7)神族は梵行生活に住して言へり、「主よ、我々に教へよ。」ここに於て主は彼等に「ダ」の一字を教へ、而して「汝等はこれを解せりや。」と問へり、彼等は「我々はこれを解せり、主は我々にダームヤタ〔制御せよ〕と教へたり。」
と言へり、主曰「然り、汝等はこれを解し得たり。」次にまた人族は彼に言へり、「主よ、我々に教へよ。」ここに於て主は彼等に「ダ」の一字を教へ、而して「汝等はこれを解せりや。」と問へり、彼等は「我々はこれを解せり、主は我々にダッタ〔施捨せよ〕と教へたり。」と言へり、主曰「然り、汝等はこれを解し得たり。」
次にまた魔族は彼に言へり、「主よ、我々に教へよ。」ここに於て主は彼等に「ダ」の一字を教へ、而して「汝等はこれを解せりや。」と問へり、彼等は「我々はこれを解せり、主は我々にダヤドワム〔愛愍せよ〕と教へたり。」と言へり。
主曰「然り、汝等はこれを解し得たり。」故にこの同一の音をかの天の聲、雷、は續發して恒に「ダ・ダ・ダ」と響けり、即、「制せよ」「與へよ」「愛せよ」となり、故に制御と、施捨と、愛愍と、この三徳を恒に学習すべし。
ブリハッド・アーラニャカ・ウパニシャッド5.2.2(ヒンドゥー教)
― み言選集 ―
神様はいったいどのような方でしょうか。宇宙の公法を備えた存在です。宇宙の公法とはいったい何ですか。自分のために生きるのではなく、全体のために生きるのです。その属性は何ですか。犠牲と奉仕の精神を備えているのです。
(105-99、1979.9.30)
愛は自分を100 パーセント投入するのです。神様が天地を創造するとき、愛のゆえにすべて、100 パーセント投入されました。ですから、愛はために生きるところ、真の愛はために生きるところから始まるのです。
(189-203、1989.4.6)
神様が愛の相対として人間を造られたのは、御自身が人間のために生きる立場で創造されたのです。ですから、人間も神様を手本としてために生きるように存在していたのですが、堕落によって自分のために生きる人になったのです。愛は相対から来るので、「ために生きなさい」という哲理が生まれました。
(149-273、1986.11.27)
神様が100 パーセントだけ愛すれば、相対は100 パーセントしか出てきません。一対一です。これが無限倍数になるので、100 パーセント投入して忘れてしまい、投入して忘れてしまい、忘れてしまい、忘れてこそ、これがどんどん高まります。投資しなければならないのです。ですから、愛をもって投入して忘れてしまうことが宇宙創造の原則、存在する世界の根源です。それで、自分の生命までも投入して忘れてしまい、また投入しようとするところで真の愛が始まります。真の愛のためには、自分の生命を投入し、また投入し、また投入しようとするのですが、このような愛の心が結束した世界が真の愛の世界です。
(253-66、1994.1.7)
神様の創造の原則とは何でしょうか。創造は何かというならば、神様自体を投入したのです。神様のすべてのものを投入するところでのみ、完全投入するところでのみ完全結果が保障されるのです。これが創造の原則であることを私達は知らなければなりません。ですから、私自身を真に投入しなければなりません。真で与えなければならないというのです。真で与える所でのみ未来の自分の相手が起こるのであり、自分の踏み台が形成されるのであり、私を立証できる環境的与件が成立されるのです。受けるところでは不可能なのです。それは創造原則にありません。
(82-323、1976.2.1)
創造の役事をするということは、力の投入を意味します。創造という力を消耗させるのです。神様は、そのように投入されたのですが、どれほど投入されたのでしょうか 人々は、聖書を見て、神様がみ言で「こうなれ!」と言われて簡単に創造したと思っていますが、そうではありません。ここには、真の生命を完全に投入し、真の愛を完全に投入し、真の理想を完全に投入されたというのです。創造する前と創造したあとが違います。創造する前には自分のことを考えましたが、創造を始めてからは対象のために生きました。私がいるのは自分のためではなく、相対のためだ、息子、娘のためだ、このようになっています。
ですから、真の神様は相対をつくるにおいて、完全投入することによって、より価値のある理想的な完全形を展開したのです。神様もアダムとエバを造れば、アダムとエバのために生きようというのです。神様のためではありません。自分のために生きていたときから相対のために生きるときに展開するのです。理想的存在というものは、自分を中心としません。理想的存在は、人のために生きるところに、対象のために生きるところにいるのです。この原則が宇宙の根本だということを、はっきりと知らなければなりません。
(69-82 ~ 83、1973.10.20)
3) 犠牲的愛
真の愛は、犠牲の愛である。人のために生きようとすれば、自らの犠牲が必要である。世界の難問題の解決に同参するよう刺激することも愛である。人の弱点や失敗に寛容を施すことができる力を与えるのも、いかなる費用を支払っても人を助けようと導くのも愛である。イエスは、罪を犯した人類を救援するために、自分の命まで捨てた愛の実践者だった。モーセとムハンマド、すべて当代の迫害を受けて逃亡者の立場になったが、民族を解放し、啓蒙するために命を捧げて働いた。このすべてが神様と人類のための愛ゆえである。
仏教に菩薩という存在が出てくる。菩薩は、万有の存在を救援するために自分を犠牲にすることを誓った。彼は、自分の幸福を人の幸福と関連したものと見たのであり、人を先に解放する前には自分の幸福を享受しないと誓った。
文鮮明先生は、犠牲的愛の根源を神様から見いだしている。神様は、子女に与える美しい家を建てるために創造を始めて以来、休まずに投入してこられた方でいらっしゃるからである。愛する父母が放蕩息子を悲しみと罪悪の窮地から救援するように、神様は人間の堕落以降、休まずに悲しみの中で投入してこられた。聖なる愛は、私達の人生の中で毎日毎日、父母を通して具現されている。父母は、子女の未来のために喜んで犠牲を甘受する存在だからである。
1. 愛する人のために命さえも捧げる
― 宗教経典 ―
友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
ヨハネによる福音書15.13 (キリスト教)
人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」
マタイによる福音書20.28 (キリスト教)
あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。キリストが私達を愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとして私達のために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。
エぺソの信徒への手紙5.1 ~ 2(キリスト教)
イエスは、私達のために、命を捨ててくださいました。そのことによって、私達は愛を知りました。だから、私達も兄弟のために命を捨てるべきです。世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。
ヨハネの手紙一3.16 ~ 18(キリスト教)
真実に私達は、あなた達のために生き、あなた達の救いのために世の不幸に耐えてきた。あなた達は、あなた達を蘇生させるために自らの人生を犠牲にされた方を避けたのか。……あなた達は、その方が敵の刃で危険にさらされるときは、いつもその方自身の利益を追求すると考えるのか。またはその方が最も荒涼とした都市に監禁されたのち、世のむなしいものを追求すると考えるのか。真にその方は、あなた達が栄光を得るよう、自ら屈辱を受けようとされた。しかし、あなた達は無関心の谷間で楽しみ、戯れている。事実上、その方は、あなた達があなた達の宮殿で暮らす間、あなた達のために最も荒涼とした所で過ごされた。
バハーウッラー聖なる書物(バハイ教)
ひとえに愛が人々をして、彼らの愛する人のために死をも敢行させます。男性だけでなく、女性もそうです。ペリアスの娘、アルケスティスも、すべてのギリシャ人たちにその証拠になります。彼女は、彼女の夫のために死のうと決心しました。彼女以外には誰もそのようにしようとしませんでした。
プラトン饗宴(ヘレニズム)
― み言選集 ―
私が命を捧げて悪を屈服させれば、命を取り戻せる神様の愛が私に訪れてきます。
(40-243、1971.2.6)
隣人のために自分の命をちりのように捨てることのできる犠牲精神がすなわち、真の愛です。
(224-254、1991.12.7)
愛というものは、犠牲の本質を離れて存在し得ません。愛する人のため犠牲になったからといって、その犠牲を犠牲とは思わないのです。犠牲になれば犠牲になるほど生き甲斐を感じるのです。
(63-25、1972.10.1)
真の父母の愛はどうですか。子女を愛するとき、「ああ、これは利子をつけてこれをすべて返してもらおう」という心をもつ父母は真の父母ではありません。昼夜犠牲になりながらも、ために生きて愛し、また愛し、また愛そうとし、市場に出掛けたとき、そこでも忘れずにもっと与えようとし、24時間、距離を超越してその子女のために生きる愛こそ、本質的な愛と近い位置にあるのです。このような愛の起源があるので、人間を救援できる基礎を見いだせるのです。
(142-35、1986.3.3)
愛する境地では、すべてのものが通じるのです。法を越えていけます。法を越えていくことができるというのは、死亡線を自由に出入りできるということです。愛する心をもって進み出るときは、ここで愛する心は自分を愛するのではありません。相手を愛するのです。愛する立場では、女性が男性の胸深く入り込んだとしても、男性は反対しないのです。反対しますか。歓迎するのです。男性も同じです。千万世の壁がふさかっていても、誰も侵犯できない壁があっても、その壁を無難に越えていけるのは愛です。愛するためにすべてのものを犠牲にして、全体を投入して駆け込んでくるところには、いかなる力もすべて崩れていくのです。
(49-52、1971.10.3)
自己に一番近い人を犠牲にしなければなりません。今まで、この世を復帰するために苦労してこられた神様の主義はどのような主義でしたか。悪の世界を救い、かわいそうな人を救い、貧しい人類を救うために、神様に一番近い人を犠牲にさせて救援してこられました。僕の僕から息子まで祭物にしました。怨讐の一族のために、愛する息子、娘まで犠牲にしてこられた方が神様です。今までこの世界のために、一番の怨讐の種を解放させるために、最も愛する御自身の側を犠牲にさせて摂理してこられた神様でいらっしゃり、自分の側のためではなく、この世界と怨讐の側のために摂理してこられた神様でいらっしゃるので、全人類は、神様を冷遇することはできないのです。今まで冷遇する現象が起きていましたが、これは過ぎていきます。
(33-298、1970.8.21)
個人が全体のために犠牲になれば、彼は全体の前に善の人です。ある家庭が全体の家庭のために犠牲の生活をすれば、全体の家庭の前に善の家庭として登場するのです。ある民族が自分の民族より全体の民族のために犠牲になり、その民族のために総力を傾ければ、その民族は善の民族として登場するようになります。また、ある国が全世界の国家のために犠牲になっていけば、その国家は善の国家として登場するようになります。これが神様のみ旨であれば、イエス様を送ったのは、そのようなみ旨を成し遂げるために送ったのです。全世界に広がっているキリスト教徒たちが、人類と国家を救うために自分の国家を犠牲にさせ、自分がもっているすべてのものを犠牲にしてきたのならば、キリスト教は善の神様のみ旨を成就させ得る教会になっていたでしょう。
(69-86 ~ 87、1973.10.20)
真の愛は誰もが願うのですが、誰もが私のために生きなさいという感情があれば、みな逃げていくのです。全体のために生きなければなりません。個人主義はサタンの戦略であり、サタンの目的です。世俗的な世界ではそれを知りませんでした。それはサタンがつけた実であり、地獄に行くのです。愛することは、ために生きてあげることです。奉仕して犠牲にならなければなりません。そのように奉仕すれば、このすべてがやって来て私を愛してくれるのです。
「私のために生きよ」という人は、天国に行けません。神様が傑作品を抱いて愛したように、ために生きる愛を求めていく人だけが天国に行くのです。3度以上命を捧げても、ため生きようとしなければなりません。神様に出会おうとすれば、そのように3度死んでも復活し、神様に「私を認めてください」ではありません。「神様のために生きます」と言わなければなりません。「私を認めてください」と言ってはいけないのです。そのような人たちが暮らすこの世の中になれば、地上が天国です。天国は、そのような人が暮らす所です。
(300-223、1999.3.14)
2. 窮乏した人を助けるために苦難と悲しみ求める
― 宗教経典 ―
信じる者たちであれば、生きていく間、苦痛と苦難に自ら直面することが、それを避けていくことより、はるかに価値あることである。
イブン・マージャ・ハディース(イスラーム)
陰に留まっている人は、太陽の暖かさを知らない。(注9)
イガラ族の格言(アフリカ伝統宗教)
私達は、当然、共同体が経験する困難を分かち合わなければならない。私達の師であられるモーセが、共同体の困難を共に分かち合ったことを私達は知っているからである。
タルムード、タアニート11a (ユダヤ教)
イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。パリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなた達の先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。」
マタイによる福音書9.10 ~ 12(キリスト教)
肉体的に勇敢なことばかりが重要なことではない。人は現在の人生に直面し、悲しみを乗り越えていき、いつも人のために自らを犠牲にする勇気をもたなければならない。
キプシカ族の諺(アフリカ伝統宗教)
私達強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした。「あなたをそしる者のそしりが、私にふりかかった」と書いてあるとおりです。
ローマの信徒への手紙15.1 ~ 3(キリスト教)
孟子がいわれた。「中庸の徳のある者が徳のない人を教え導き、才能のある者が才能のない人を教え導くのが、道である。それ故、人は自分に才徳のすぐれた賢父兄があることをこい願うのである。もしかりに、徳のある者が徳のない人を見捨て、才能のある者が才能のない人を見捨てて教え導かなければ、いわゆる賢者(かしこいもの)と不肖者(おろかなもの)との隔たりはごくわずかで、ものの一寸ともないであろう。」
孟子IV.B.7 (儒教)
菩薩は彼の衆生の是の業を造るを見已って、心動乱せず亦棟擇せず驚畏有ること無く、堅勇心を発して退転を生ぜず、決定して彼に代りて諸の苦悩を受く。所以何とならば、我當に彼の諸の衆生を荷負すべし。乃至、世間の生老病死苦悩の難・八無暇の難・諸輪廻の難・諸悪見の難・善法を壊するの難・無智を生ずるの難、我當に畢竟じて是の難を脱せしめん。
是の諸の衆生は無明に蔽われ、愛網に惹かれ有給に縛せられ諸苦に籠6~せられて覚了を生ぜず出離を求むること無く、常に疑惑を懐きて願と相違し、輪廻の海に於て一向に漂没す、我當に一切智王に安住して諸の衆生をして義利を成就し皆解脱することを得せしむべし。唯我のみ一人能く為に救護す。仮使一切の世界悉く悪趣と為り、受苦の衆生其の中に充満せんに、我が集むる所の一切の善根を以て平等に回向して与へざる無からん。
乃至、最後の辺際を経る所の時分に、十一の悪趣消滅をして余無く、十一の衆生皆解脱を得ん。若し一人の未だ苦を離れざる者あらしめんか、我當に身を以て質とし而も之を出さん。………我當に一切智心を発せしめ五欲の境を離れ菩薩の行を行じ畢竟無上正等菩提に安住せしめん。
何とならば、是の諸の衆生は欲に著するに由るが故に魔境に接属す、諸仏世尊の訶毀する所なり。當に知るべし、貪欲は衆苦の本なり、是の縁を以ての故に、……諸の煩悩を起し、後に地獄餓鬼畜生に堕つ、乃至生天の業を断じ、諸仏を遠離す、何に由りてか能く無上智王を発さん。是の諸の衆生欲の為に没せられ、熾然として焼煮せられ無量の過患あり、我善根を以て平等に回向し、諸の衆生をして皆悉く捨離し、楽うて仏智を求め涅槃の楽を得せしめん。我當に彼の為に大導師と作り方便智を以て彼岸に達せしむべし。
金剛幢経280 ~ 281、大乗集菩薩学論(仏教)
「自分はこの善根をもって回向して一切衆生のための舎となろう、諸苦を免かれしめんがために。一切衆生のために護りとなろう、煩悩を解放せしめんがために。一切衆生のために帰する所となろう、恐怖を離れしめんがために。」……
「自分はまさに一切衆生のために無量の苦を受け、もろもろの衆生をして悉く生死の苦熱を免れ出づることを得しめよう。自分はまさに一切衆生のために一切の国土、一切の地獄の中において、あらゆる苦を受けて終に捨離しないであろう。自分はまさに一切の悪世界において未来の限りもろもろの衆生に代って苦を受けるであろう。
なぜなら、たとひ自分一人がもろもろの苦を受けるとしても、衆生をして諸苦を受けしめたくはないから。自分はあらゆる悪世界に衆生の身代はりとなって、彼等を解脱せしめたいから」(注11)「自分はまさに一切衆生のために誠実を語る者となり、悩害の心を離れて彼等を捨てないであろう。
なぜなら、自分は衆生に因って、菩提心をおこし、一切を済度せんとし、尊貴を求めず、五欲を求めず、世のくさぐさの楽を求めず、ひとえに菩薩の道を行ぜんとする者だから。何故に五欲を求めないかと云ふに、五欲は世間の法であり、諸魔の境界であって、愚人の行ずるところ、諸仏の苛責したまふ所だからである。」
大方広仏華厳経23(仏教)
苦痛の状況から私自身と彼らを抜け出させるために、彼らの悲しみと彼らに負わされた苦痛と侮辱を共に分かち合います。
モハンダス・カラムチャンド・ガンディー(ヒンドゥー教)
― み言選集 ―
愛は必ず犠牲を要求します。また、愛は克服を必要とするのです。
(46-35、1971.7.18)
天国は地獄を通過していく道。
御旨の道、天国
学生時代には、学校から帰ってくると、学生服を脱ぎ捨て、工事現場に行って働きました。私は、お金がなくてそのようにしたのではありません。やってみなかったことがありません。石炭を運ぶ仕事もやってみて、船にも乗ってみて、作男暮らしもしてみました。あらゆる仕事をやってみたのです。結局、人間の苦楽がどのようなものなのかをすべて調べてみたということです。それで、私がしなければならないことは、その苦楽を経て生きている人間たちを解放させる責任者になり、彼らを完全に解放させてあげることだと考えたのです。
(37-35 ~ 36、1970.12.22)
このような悲惨な世界で幸福な世界を求めようとする人は、より悲惨な道を貫いて越えていかなければなりません。より悲惨な所で求めなければ、見いだせません。その道しかないのです。もしそれでもなければ、神様も存在せず、すべて存在しないと言わなければなりません。
レバレンド・ムーンも、生涯そのような道を行くことを決めたので、非難され迫害を受ける道を行くのです。そのようなことをするところにいれば、どれほど悲惨でしょうか。それでも、その場に立ち、天を中心として、「私に従いなさい! 私は失望せず、私は幸福だ」と言える人であれば、そこで幸福を見いだし得る私を発見できるのです。
あらゆる歴史的英雄、烈士、愛国の忠臣、烈女、聖人たちは、そのような場で歴史的な人物になったということを皆さんは知らなければなりません。アメリカの愛国者は、アメリカのために悲惨にしがみついて闘う人です。命を懸けて悲惨に生きた人です。世界的な聖人も同じです。神様の息子も同じなのです。(91-287、1977.2.27)
宇宙の公法は、どのような人を保護するのでしょうか。全体のために自分を犠牲にしようとする人は保護します。しかし、自分の利益を追求し、犠牲を嫌う人は、この宇宙の公法が除去するでしょう。
(105-91 ~ 92、1979.9.30)
宗教を信じたとしても、「私一人が天国に行こう」という者たちは、詐欺師たちです。統一教会は、家庭でも妻は、「夫を先に天国に送り、私がついていこう」と思わなければなりません。……まず家庭を天国に送り、それから自分が天国に行こうとするのが統一教会員です。……
大韓民国を天国に送り、それから自分が天国に行こうとします。世界の万人を天国に送り、それから天国に行こうとします。神様まで解放させ、それから天国に行こうとすれば、彼はイエス様のような人です。メシヤの責任がそれです。
メシヤが来て、「ああ、私は早く天国に入っていこう」とは思いません。個人を天国に送り、家庭を天国に送り、氏族を天国に送り、民族を天国に送り、大韓民国を天国に送り、この世界を天国に送り、地獄にいるすべての人まで解放させて天国にみな送り、神様のすべての悲しみに私が責任をもつというとき、そのような責任を背負ってこられた方が正にメシヤです。
神様が地獄を見るのは心が安らかではないので、神様が地獄を見ることまで解放させ、天上天国、地上天国をつくっておき、神様が見て救援の道理が必要のない立場に立って終わったとき、初めて天国に入っていくのです。メシヤはそのような人です。それは深刻な話です。深刻な話の中で最も貴い話です。
(188-283 ~ 284、1989.3.1)
4) 普遍的愛
真の愛は、普遍的な愛である。終わりがない愛である。神様の愛にはまり込んでみた人は、全員が一つの兄弟姉妹であることを経験できる。絶対的真の愛と堕落した世の中の相対的愛には、大きな違いがある。真の愛は、公明正大な普遍的愛である反面、堕落した世の中の愛は、一家親戚と友人、同僚だけを愛する偏狭な愛である。マーティン・ルーサー・キング牧師はこのように語った。「一人の個人が個人的関心事を越えて人類に向かうより大きな関心をもち始める時こそ、真の人間としての人生が始まる」。
人類に対する愛、それで十分だろうか。この愛が苦痛を受ける人たちに対する政治活動、あるいは慈善活動で表現される一般的同情心と同じだろうか。それだけでは十分ではない。愛の本当の段階は実質的な関係の形成である。あの遠い国に暮らす人たちを、どうすれば家族を愛するのと同じ強さで愛することができるだろうか。
ここに集めておいた教えは、見知らぬ人に対するとき、家族を愛するのと同じように対しなさいと教えている。文鮮明先生も、この主題に対してはっきりと語られている。人種を超越した普遍的愛を実践する一つの方法として、文先生は、子女をほかの人種の子女と交差結婚させることを提案される。ほかの文化から来た相手の家族を理解しようとする、決して簡単ではない努力を通して、私達の愛は、人種的障壁を超える真実な愛によって生まれ変わるだろう。
1. すべての人を愛する心情
― 宗教経典 ―
かれは、第一方位を友愛の心で満たし、第二方位を友愛の心で満たし、第三方位を友愛の心で満たし、第四方位を友愛の心で満たす。このように、上を、下を、横を、全ての方位を、全てのところを、一切の世界を、広大な、大いなる、はかりしれない、怨みもなく、悪意のない友愛の心で満たして生活する。
ヴァーセッタよ、あたかも、〔吹く〕力の強い法螺貝吹きが、容易に、〔音を〕四方に知らせることができるように、ヴァーセッタよ、友愛の心を修養すると、心が解脱し、基準となる行為の結果は、そこに残っていない。そこに存在していない。ヴァーセッタよ、これが梵天との共生にいたる道である。
阿含経長部xiii.76 ~ 77、三明経(仏教)
いつかある人が使徒に、イスラームで最も良い行為は何かと尋ねた。使徒が答えるには、「貧しい者に糧を与え、知っている人であれ知らない人であれ、彼らに平和の挨拶をかけることである」と言った。
ブハーリー・ハディース(イスラーム)
先生がいわれた、「ただ仁の人だけが、〔私心がないから、本当に〕人を愛することもでき、人を憎むこともできる。
論語4.3 (儒教)
賢人には定まった心はない。だが、人々の心をその心とする。彼は善であるものを善とするが、善でないものも善と考える。このようにして、区別のないものに達する。彼は真なるものを真とするが、真でないものも真と考える。このようにして、区別のないものに達する。
道徳経49(道教)
― み言選集 ―
昔の聖賢たちが教えてくれたことは、心を中心として天を恭敬する敬天思想とともに、万民を愛しなさいというものです。天を愛し、地を愛し、人間を愛しなさいと教えたのです。
(19-285、1968.3.10)
宇宙の本源的な神様の愛、世界主義的な愛、神様のそのような愛が、堕落以降今日まで生きてきた人間個々人に入っていって折衷されたならば、永遠の一日を中心として、上がっていっても愛であり、落ちても愛であり、倒れても愛だと言うことのできる境地があるのです。
それでは、その境地では人格の貴さがどこにあるのでしょうか。その人は話が上手だからいいとか、その人の目がハトの目のようでいい、というようなことを超越します。どこを見ても間違ったところがないというのです。彼と関係しているすべてのものは、香水の香りがします。神様が創造されたものは、神様の形状から見るとき、すべて神様の分身であり、神様と因縁を結んでいないものがないという心情をもってみれば、すべてが友人です。
(33-89 ~ 90、1970.8.9)
敵であろうと、友であろうと、愛する心は同じです。宇宙的です。すべてが一つの細胞と同じです。400 兆に達する細胞が一つになってこそ人になるのと同じです。この全体の細胞と通じ得る愛の化身体になってこそ、神様と一つになることができるのです。
(225-132、1992.1.5)
愛は国境を超越します。神様の愛には国境がありません。五色人種を超越するのです。黒人種、黄色人種、何の差別もありません。愛は偉大だというのです。愛の流れにおいて、環境を意に介さずに流れていけば、環境が同化するのであって、環境が反発するのを嫌います。そのようにできる思想的な内容を備えてこそ、神様が喜ばれるのです。そのためには愛の配給しかありません。
(164-93、1987.4.26)
神様はどのような方であるかということを見る時に、自己よりも相対をもっと愛する方です。自己よりも相対側をもっと愛し、二人が一つになり、もっと大きい範囲の相対側を愛するための運動が、神様の運動です。神様の思想はこれが本質になっているために、神様は神様の前に一番近い人を悪の世界に送って、世界人類のために犠牲にするのです。これが、神様の思想です。
ですから、歴史的な義人たち、過去に来ては逝った聖人、賢哲たちは、すべてこの世に来て「人類を愛そう」というタイトルを掲げて主張しているのです。そのような人たちは、自分の家庭を中心として愛しませんでした。国家や世界を愛しました。国家を越えて世界を愛したのです。そうしながら歓迎されたのではなく、すべて排斥され犠牲になりました。
(100-81、1978.10.8)
2. 自分の家族を愛する心情で人を愛する
― 宗教経典 ―
あたかも、母が己が独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の(慈しみの)こころを起すべし。
スッタニパータ149 (仏教)
一切衆生に対する慈悲心がなければ、父母に対する孝も輪廻を呼ぶ。
ミラレパ(仏教)
自分の父母を尊敬するのと同じ心で他人の父母も尊敬し、自分の子弟を可愛がるのと同じ心で他人の子弟も可愛がる。
孟子I.A.7 (儒教)
私はちょうど父母に孝を見せるように、一切の存在の便宜をはかり仕える。師と長老たちと阿羅漢たちと如来たちにいたるまで、同様にふさわしく恭敬する。
普賢行願(仏教)
善男子、菩薩摩訶薩は、慈悲喜を修し已りて、極愛一子の地に住することを得。善男子、云何が是の地を名けて極愛と曰ひ、復一子と名くる。善男子、譬へば父母の、子の安穏を見て、心大いに歓喜するが如く、菩薩摩訶薩の、是の地中に住するも、亦復是の如し。諸の衆生を視ること、一子に同じ。善を修する者を見て、大歓喜を生ず。是の故に、此の地を名けて極愛と曰ふ。
善男子、譬えば父母の、子の患に遭ふを見て、心に苦悩を生じ、之を愍みて愁毒し、初て捨離すること無きが如し。菩薩摩訶薩の、是の地中に住するも、亦復是の如し。諸の衆生の、煩悩の病に纏切せらるるを見て、心に愁悩を生じ、憂念すること子の如く、身の諸の毛孔より血皆流出す。是の故に、此の地を名けて一子と為す。
善男子、人の小さき時、土塊・糞穢・瓦石・枯骨・木枝を拾ひ取りて、口中に置くに、父母見已りて、其の患を為さんことを恐れて、左手に頭を捉へ、右手に挑り出すが如し。菩薩摩訶薩の、是の地中に住するも、亦復是の如し。諸の衆生の、法身未だ増せず、或は身口意の業の、不善を行ずるを見、菩薩見已りて、即ち智手を以て之を抜きて出でしめ、彼をして生死に流転して諸の苦悩を受けしむることを欲せず。是の故に、此の地を復一子と名く。
善男子、譬へば、父母所愛の子の、捨てて終亡すれば、父母愁悩して、命を興併にせんと願ふが如く、菩薩も亦然なり。一闡提の地獄に堕するを見て、亦興倶に地獄の中に生ぜんと願ふ。何を以ての故に。是の一闡提にして、若し受苦の時、或は一念の改悔の心を生ぜば、我即ち當に為に種々の法を説き、彼をして一念の善根を生ずることを得しむべし。是の故に、此の地を復一子と名く。
善男子、譬えば父母に唯一子有り。其子の睡寤に、行王座臥に、心に常に之を念じ、若し罪咎有れば、善言誘喩して、共に悪を加へざるが如し。菩薩摩訶薩も、亦復是の如し。諸の衆生の、若し地獄・畜生・餓鬼或は人天中に堕し、善悪を造作するを見て、心に常に之を念じて、初て放捨せず。若し諸悪を行ずるも、終に怒りを生じて、悪を以て之に加へず。是の故に、此の地を復一子と名く。
大般涅槃経470 ~ 471(仏教)
他人の国を自分の国のように思い、
他人の家族を自分の家族のように思い、
他人の人を自分の人のように思え。
墨子
― み言選集 ―
かわいいといって自分の子女にだけお乳を与えるのではなく、人の子女でも自分の子女と同じ心情で接する母親になってみてください。そのような母親のお乳を飲んで育つ赤ん坊は、必ず偉大な人になるのです。
(31-168、1970.5.24)
皆さんが宇宙的な天国の理念を身代わりできる存在となり、神様の愛と生命と真理の運動を展開するならば、平和の世界がこの地に建設されるでしょう。したがって、自分の父母だけが父母ではなく、自分の兄弟だけが兄弟ではなく、自分の息子、娘だけが息子、娘ではないというのです。皆さんが、すべての人を自らの父母、兄弟、子女と思うことができる人格を備えた人になれば、死亡世界で苦しんでいる多くの民を見つめるとき、涙なくしては対することができないはずであり、兄弟や幼い人々を見つめるようになるときにも、「彼らを救おう」という責任感をもって、涙を流しながら努力するようになるはずです。本当にそのような皆さんとなるならば、そのような皆さんを中心として、この地に天国が建設されるはずです。
(2-144、1957.3.17)
イエス様は、「あなたの家の家族が怨讐」と言いました。家の家族たちをもっと愛すれば、それが怨讐だというのです。天国に行くことができないということです。
(16-249、1987.2.22)
真の孝子を抱え得る父母は、自分に孝行する子女を称賛するよりも、「私に孝行するように、兄弟を私以上に愛し、隣人と国のために、私以上に愛しなさい」と教えてくれる父母です。孝子を抱え得る資格は、そのような人にあると思います。善君がいるとき、その善君は忠臣に対して、「忠臣よ! あなたが私のために精誠を尽くし、愛するのはよいが、まず民を愛し、神様を愛したあとに私を愛しなさい」と教えてあげなければなりません。そうしてこそ、忠臣を率いる善君の資格があります。今日、聖人を従えられる神様は、どのような方でしょうか。神様は、「あなたは私に忠誠の道理を果たしなさい」と教えません。「私を捨ててでも万民を愛し、この地球上のすべてのものを解放すると同時に、霊界にいる霊人まで愛してから私を愛してほしい」とおっしゃるのです。神様はそのような方なので、万軍の主という名称を永遠にもてるのです。
(85-265、1976.3.3)
誰が孝子ですか。父母様が最も喜ぶことを中心として常に考えながら、そのことを行動で成し、相対役を果たそうとする人、そのような立場に立った人を孝子と言うのです。また、目で見て何かを感じるとき、父母様がもっと喜ばれるものを見て感じ、み言を聞くときも、「ああ、父母様はこのような言葉を喜ぶだろうか、どうだろうか」ということを中心として聞くのです。感じるときもそうであり、すべての五官の鑑定が父母様を中心とし、愛で昇華させることのできる人、心情の世界を慕う人が孝子ではないですか。
このように考えるとき、ある孝子がいて、愛国者がいて、聖人がいるとすれば、彼らはみな世界を中心として考える人たちです。この地上を中心とする考えをしたのです。それでは、この宇宙の中心である神様を中心とすればどのようになりますか。そのようになれば、天と地を愛で抱こうとし、このすべての宇宙の存在が神様の愛を受けるのにふさわしい存在になることを願うでしょう。
(161-132.133、1987.1.18)
3. 特に異邦人、外国人、社会が蔑視する者を愛しなさい
― 宗教経典 ―
あなた達の神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。あなた達は寄留者を愛しなさい。あなた達もエジプトの国で寄留者であった。あなたの神、主を畏れ、主に仕え、主につき従ってその御名によって誓いなさい。
申命記10.17 ~ 20(キリスト教)
すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」
しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、私の隣人とはだれですか」と言った。イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムかちエリコヘ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』
さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」(注18)
ルカによる福音書10.25-37(キリスト教)
イスラエルが紅海を渡るとき、天使たちが合唱しようとすると、聖なるその方が彼らを叱責して語られた。「私の子たちが水に溺れているのに、どうして歌を歌うことができるのか」。
タルムード、メッギラー10b (ユダヤ教)
菩薩は、一切の存在に対して同じ姿勢で臨まなければならない。彼の心は、一切の存在に対して平等でなければならず、彼は同じでない心で他の人たちに接してはならず、親しく友好的な心、害を及ぼしたり、憎む心なく接しなければならない。彼は他の人たちにまるで自分の母、父、息子、または娘であるかのように接しなければならない。一切の存在の救済者として、菩薩は一切の存在に接しなければならない。ゆえに、彼は完全な悟りを得ようとすれば、自らの心を修めなければならない。
八千頌般若経321 ~ 322(仏教)
― み言選集 ―
他人同士が集まっても兄弟以上に愛さずには、天国に入れない。神様を愛するごとく人を愛さねばならない。
御旨の道、天国
私達は、その愛をもって氏族と民族を超越できる愛の化身にならなければなりません。その愛には、個人と氏族、氏族と民族、民族と国家、国家と世界、天宙、あるいは神様まで連結され得る氏族的内容があるのです。
すなわち、その愛は、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙、神様まで縦的な因縁を結ぶようにできる絶対的な起源となると同時に、横的に世界にまで広げて、世界人類を兄弟の因縁で結ぶことができ、歴史過程に現れたすべての否定的与件を永遠に否定できる絶対的な愛でなければなりません。
それでは、その愛は何を中心とするものでしょうか。その愛は、個人を中心とするものではありません。その愛は家庭だけを中心とするものではなく、氏族だけを中心とするものではなく、民族だけを中心とするものではありません。または、大韓民国なら大韓民国という国家だけを中心とするものではありません。愛は、そのすべてのものを超越する愛です。
世界を超越し、天宙を中心とするものであり、天宙だけでなく、神様を中心とする愛です。また、神様だけを中心とするものではなく、神様の愛を中心として進んでいこうというのが「統一思想」であることを皆さんは知らなければなりません。
(35-271 ~ 272、1970.10.25)
自分が白人だからといって、「ああ、私は白人だけが好きだ。白人のおじいさん、おばあさんを愛するので、黒人のおじいさん、おばあさん、アジア人のおじいさん、おばあさんは愛せない。身なりの立派なおじいさん、おばあさんを愛するのであって、あの未開のおじいさん、おばあさんは愛せない」と考えてはいけません。
そのおじいさん、おばあさんを自分のおじいさん、おばあさんのように愛さなければならないのです。自分の家でおじいさん、おばあさんを愛するように愛さなければならないのです。それが公式です。人がこの地上に生きながら訓練を受けるための公式だという話です。
(130-274、1984.2.5)
私達祝福家庭の中で、三人の息子がいるとすれば、一人はドイツ人の嫁をもらい、一人はフランス人の嫁をもらい、一人はイギリス人の嫁をもらうのです。三人の嫁の国が怨讐です。すべて怨讐の国の嫁をもらうのです。それで、互いに競争して争いますか、御飯を食べることまで「分けて食べよう」、このようにしますか。これはドイツの嫁が食べるもの、これはフランスの嫁が食べるもの、これはイギリスの嫁が食べるもの、このようにしますか、混ぜておいて食べますか。どのようにしますか。
混ぜておき、食べようとしてこぼれたらどのようにしますか。こぼれても、そのままかき集めて食べますか、どうしますか。最初は嫌ですが、目をこうしてかき集めて食べるのです。なぜですか。アフリカ人が食べていたものを私が食べなければ愛することにならないので、そのようにするのです。白人同士だけでなく、アフリカ人を愛さなければなりません。その時のために今準備をすべてしなければなりません。それがどれほど驚くべき事実かというのです。落ちた御飯を食べる、そこに神様が臨在し、愛が臨在するのです。
(99-134 ~ 35、1978.9.10)
皆さんは、アメリカ人はアメリカ人だけ、東洋人は東洋人だけ、そして自分の氏族的、民族的、国家的基準は越えられないというのです。ですから私達は、真の愛を中心として人種差別問題を消化させなければなりません。それは何で証明するのですか。国際結婚だということです。何の話か分かりますか。それが概略的な立場の歴史的な真実の観点から見る観です。
(112-86、1981.4.1)
5) 怨讐を愛しなさい
怨讐を愛し、悪を善で返しなさいという言葉は、時にはとても非現実的で、完璧主義者、道徳論者の思想だとみなされることもある。これは世界的に多くの宗教で広く教える思想でもある。この精神は、人との平和な関係を持続するための根本原理である。
人々は、過ちを犯した人に「正義」という名で報復を願う。すべてが「目には目」のやり方を主張するなら、この世の中はすべて、理性を失った世の中になるだろう。復讐は悪を増大させるだけである。この方法では、神様と人類に対するサタンの讒訴である悪の根を根絶することはできない。
文鮮明先生は、怨讐に対して与える想像を超越した愛は、悪を根絶し、さちには私達を神様の国にまで導いてくれると語られる。この節には、十字架にかかられるとき、怨讐を愛されたイエス様の教えが含まれている。一方、現代の有名な道徳的先駆者マハトマ・ガンジーとマーテイン・ルーサー・キング牧師の指針も共に載せた。
― 宗教経典 ―
あなたがたも聞いているとおり、「隣人を愛し、敵を憎め」と命じられている。しかし、私は言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。
自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。
マタイによる福音書5.43 ~ 48(キリスト教)
主なる神は言われた。「私に似なさい。私が悪に対して善で返すように、あなたも私に似なさい」。
出エジプト記ラッバー26.2 (ユダヤ教)
神はなんじらとなんじらがいま敵意をもつ者たちとの間に、あるいは友情をおこさせたもうこともあろう。まことに神は全能者である。また神は、寛容者・慈悲者であられる。
クルアーン60.7 (イスラーム)
神の使徒が言った。「現在と未来に最も優れた教訓を教えてあげよう。あなた達を抑圧する者を赦し、あなた達から背を向ける者と紐帯を結び、あなた達を侮辱した者に親切にし、あなた達から奪った者に与えることである。」
ハデイース(イスラーム)
「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」という思いをいだく人には、怨みはついに息むことがない。「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」という思いをいだかない人には、ついに怨みが息む。実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。
法句経3 ~ 5(仏教)
憎しみを愛でもって報いる。
道徳経63(道教)
善と悪とは同じではない。(人が悪をしかけても)いらそう善いことで悪を追い払え、そうすれば、互いの間に敵意ある者でも、親しい友のようになるであろう。だが堅忍の者たちのほか、それはなしとげられまい。また格別に幸運の者たちのほかは、それをなしとげ得ないであろう。
クルアーン41.34 ~ 35(イスラーム)
あなたの敵の牛あるいはろばが迷っているのに出会ったならば、必ず彼のもとに連れ戻さなければならない。もし、あなたを憎む者のろばが荷物の下に倒れ伏しているのを見た場合、それを見捨てておいてはならない。必ず彼と共に助け起こさねばならない。
出エジプト記23.4 ~ 5(キリスト教)
憎悪心を静めるためには、あなたの友を助ける前にまず怨讐を助けてあげなさい。
バセフタ、バヴァ・メツィア2.26 (ユダヤ教)
「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。〔そのとき、イエスは言われた。〔父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。
ルカによる福音書23.33 ~ 34(キリスト教)
現れた外の姿を超えて軽率な悪行の裏面を見つめれば、その怨讐のような隣人の内面にも、ある程度の善があることを見ることができます。そして、その悪行がその人のすべての性稟を見せてくれているのではないことを知るようになります。そうすれば、その人を新しく見つめることができます。そして、私の憎悪が恐怖と慢心、無知、偏見、誤解から始まったことを悟るようになります。
そして、誰にも神の形が存在の中に刻まれていることが分かります。そうすると結局、彼のすべてが悪なるものなのではなく、彼もやはり神の拘束から外れた存在ではないことを知るようになり、そのようになれば、私達は怨讐までも愛することができるでしょう。
マルティン・ルーサー・キング・ジュニア愛の力(キリスト教)
私達が、ただ私達を愛する者を愛するのであれば、それは非暴力ではありません。ひとえに私達を憎む者たちを愛するとき、それこそが非暴力です。この驚くべき愛の法則に従うことがどれほど難しいかを私は知っています。
しかし、偉大で善なるものはすべて行うのが難しいではないですか。憎む者に対する愛は、あらゆるものの中で最も難しいです。しかし、私達が喜んでしようとすれば、最も難しいこのことさえも、神の恩寵によってやさしくなるのです。
モハンダス・カラムチャンド・ガンディーすべての人は兄弟(ヒンドゥー教)
自らの友に友好的なのはとても簡単です。しかし、自らを自分の敵と考える人に友好的になることこそ、真の宗教の核心です。それ以外のことはただビジネスにすぎません。
モハンダス・カラムチャンド・ガンディーすべての人は兄弟(ヒンドゥー教)
― み言選集 ―
天国で、神様の近くで侍って暮らすことのできる人は、どのような人ですか。神様のような人です。神様が怨讐を愛する神様であれば、怨讐を愛するために努力し、そのためにすべてを投入する人が、神様がいらっしゃる高い玉座の近い所に行って暮らすのです。……
このように考えるとき、教育の中で最も貴い教育とは何でしょうか。修養の中で最も貴い修養とは何でしょうか。どのような教育や修養でも、怨讐を愛そうと努力するために学び、そのように努力するために修養するのが最も良いことです。
(124-155、1983.2.6)
サタン世界の愛と天の世界の愛は、どのように違うのですか。サタン世界は怨讐に怨讐で返すのであり、天の世界の愛は怨讐に愛で返すのです。怨讐を愛そうとすれば、怨讐は、サタンは逃げていくのです。
それで、イエス様は逆説的な道を行きました。宗教人たちが逆説的な道を行ったのは、すべてこのような理由からです。すべて逆さまになったので、仕方がないということです。西側が東側になり、東側が西側になって逆さまになったのです。南北も、南側が北側になり、北側が南側になりました。逆さまになりました。したがって、皆さんが個人の怨讐を愛し、家庭の怨讐、民族の怨讐、国家の怨讐、世界の怨讐、宇宙の怨讐まで愛することができなければ、天国に行くことができないのです。神様はそのような立場にいます。
(130-161、1984.1.8)
私を憎む人をも好きになろうというのです。私を憎む人を私が好きになれば、その人は嫌がりますか。喜ぶのです。私を憎む人に私が3回以上良く接してあげれば、彼は頭を下げるようになるのです。3回だけ良くしてあげれば、頭を下げます。そうか、そうでないか、1度やってみなさい。人には良心があって、自分が誤ったのか良くやったのか、分かるのです。
(39-303 ~ 304、1971.1.16)
聖書には「怨讐を愛せよ」とあります。本当の愛は、怨讐にその愛を及ぼして、1次、2次、3次、4次さえ過ぎるようになれば、怨讐は必ずなくなります。このような偉大な力をもったために、イエス様も怨讐を愛したのです。
(121-173、1982.10.24)
皆さん、誰か反対する人を見るとき、「ああ、かわいそうだ」と思ってみましたか。「私がそのような立場に行くので、ねたましく思ってそのようにするのだなあ!」と考えてみましたか。
(105-31、1979.7.8)
葬ってしまいたい怨讐がいても、神様はなぜ罰を下すことができないのかというと、その怨讐を愛するその父母と妻と息子、娘がいることを知っているからです。神様も涙の谷間を越え、その怨讐を誰よりも愛するその父母と妻と子女たちの心情を体恤するとき、むち打つことができないのです。神様の愛は、そのようなものです。
そのような神様の心情を本当に感じるようになれば、怨讐に復讐することができますか。それを知れば、かえって人を送って怨讐を助けてあげなければなりません。そうしてこそ、天地の大道、愛を中心として一つに抱こうとするその大道の前に私が近くに立つようになり、そこに天地が震動し、神様も涙を流すようになるのです。「お前は私に似たなあ。ああ、うれしい!」、このように言われるのです。そのような立場から見れば、怨讐を愛しなさいという言葉が理解できます。そのような力が出てくるのは、知識でもなく、お金でもなく、権力でもありません。真の愛にのみあるのです。
(201-150、1990.3.30)
自分の家より自分の一族をもっと愛さなければなりません。神様が自分の息子、イエスよりも怨讐であるイスラエル、ユダヤの国のために生きる立場にいたので、息子を死の場に立てたのです。イスラエル、ユダヤの国をもっと愛しました。そして、イエスは十字架でも怨讐を愛しました。槍で刺すローマ兵に対して、「彼らの罪をお赦しください」と言いました。ローマ兵の罪を赦してほしいと懇請したのです。そのようにしたのは、ローマの平和ではなく天の家庭の平和の基準を求めるためにしたのです。
(235-224、1992.9.20)
怨讐の息子、娘のために神側の人を犠牲にし、祭物としてくるのが神様の道です。アベルは神側の人なので、自分の息子、娘よりもっと愛し、自分よりもっと愛する立場に立とうというのがアベルの道だ、という事実を知らなければなりません。
そのようにする人がいれば、サタンも、「ああ、私は神様のような愛を受けることはできないようになっている」と言うのが原則です。そこからサタンが退いていくのです。
イエス様が十字架で亡くなるときにも、彼らに福を祈ってあげました。自分が死んで福を受けることよりも、自分が犠牲になっていなくなるとしても、彼らの福を祈ってあげるのです。良心がある人で、そのような立場で頭を下げず、心が覆らない存在がいると思いますか。そのようにして永遠に怨讐と離別してこそ、理想時代に入っていくのです。
サタンがこのような原則によって、「神様が息子、娘として怨讐である私を愛した」というサイン、証明書を発給してくれなければなりません。サタンが、「この人は神様が愛さなければなりません」、このように言わなければなりません。そのときに、抱いて愛するその人を見て、サタンが「ええい、こいつ!」と言ってはいけないのです。「アーメン!」と言わなければなりません。そのようにして、サタンとの関係を清算しなければならないのです。
(118-172、1982.5.30)
反対すればするほど、世界と向き合っていた神様はレバレンド・ムーンの側に行きますか、反対する側に行きますか。(先生の側です)。なぜ先生の側に来るのですか。反対する人までも愛そうとしたからです。反対する怨讐に復讐しようとしないのです。血には血、歯には歯、目には目でするのではありません。愛で消化しようとするのです。
(168-204、1987.9.20)
神様が願われることは統一の世界です。すなわち一つの世界なのです。その世界は、国境のない世界です。神様には国境がないので、「恨みを晴らしなさい」という言葉は言えません。なぜならば、その言葉の中には国境が内在しているからです。しかし、怨讐を愛して一つになれば国境が崩れていくのです。
ですから、神様の戦略戦術は「怨讐を愛しなさい」という言葉になるのです。「怨讐を愛しなさい」という言葉は、偉大な戦略であり、偉大な戦術的な内容だったということを、今日までの人類歴史は分からず、今現在生きている人間たちも分からずにいます。
怨讐の国民同士で結婚して息子、嫁と思うことができなければ生きていけないという人にさえなれば、統一天下は自動的に形成されるのです。これが、私が今晩皆さんに差し上げる贈り物です。国境がある所には、必ず悪魔の身内が暮らしているのであり、38 度線がなくお互いに愛して和睦する所には、間違いなく神様の血統をもって生まれた身内が暮らしているのです。
(330-255、2000.8.18)
私が人を疑う時、
私は苦痛を感じる。
私が人を審判する時、
私は耐えることができない。
私が人を憎悪する時、
私は存在の価値を失う。
しかし、もし私が信じれば、
私は間違いなくだまされる。
私がもし愛すれば、
私は反逆に遭う。
今宵、私の頭と身は、
苦痛と悲しみに震えている。
私が間違っているのか。
そうだ、私が間違っているのだ。
しかし私がだまされても、
私はまた信じる。
私が反逆に遭っても、
私はまた許す。
私は私を憎悪する者を、
ことごとく愛します。
おお、主よ! 愛するという痛みよ
私の手を見てください。
この私の胸に、
主のみ手を当ててみてください。
私の胸は言うに言えない、
苦悩の中で破裂しそうだ。
しかし反逆した者を、
私が愛する時
私は勝利を成就するだろう。
もしあなたも私のように愛するなら
私はあなたに、栄光の王冠を捧げよう。
(518-221 ~ 222、栄光の王冠、1935 年)
6) 赦し
自分に過ちを犯した人に赦しを施す寛容の態度は、あらゆる経典で強調する内容である。赦しは、イエス様の教えの核心である。キリスト教徒の義務は赦すことであると祈梼にもある。神様こそ、常に赦してくださる方である。コーランにもあるように、神様の最も近くに行こうと熱望する者は赦しの心が満ちあふれていなければならない。
父母には赦しが自然である。私達が人に父母の心情で近づいていくとき、私達の父であられる神様と同じ心情で彼らと向き合うとき、私達は赦すことができる。私に途方もない不義と害をもたらした人を赦すのは難しいことだが、そのような怨恨を抱くことによって自分の霊魂に再び傷を負わせるよりは、はるかに望ましいことである。
それでは、どのように赦すことができるだろうか。赦しは自然な過程ではない。軽く忘れてしまい、足で踏み潰せる問題ではない。簡単に形式的に赦すのは偽善であり、継続する怨恨の深い感情を仮面で隠しておくことにすぎない。神学者ポール・ティリッヒは、このように言った。「赦すということは記憶が前提となっています。ちょうどきのうの天気を忘れてしまうように自然に忘れるのではなく、記憶しているが、それでも忘れるということです」。
文鮮明先生は、人を赦したければ、赦しが必要な肯定的理由を探しなさいと言われる。過去の過ちに対する痛みの記憶を代替し、新しく関係を始められるだけの理由を見つけなさいというのである。先生も、神様が人間を赦された理由を探求されたのであり、過ちを犯した人がいれば、その人を理解し同情するために、その短所と苦悩とは何だったかを探し出そうと努力されたのである。
― 宗教経典 ―
私達に必要な糧を今日与えてください。私達の負い目を赦してください、私達も自分に負い目のある人を赦しましたように。
マタイによる福音書6.11 ~ 12(キリスト教)
もしなんじらが、かれらを許し、寛容し、かばうならば、まことに神は、たびたび許したもう方・慈悲深い方であられる。
クルアーン64.14 (イスラーム)
神は最も寛大であられ、他の人を赦す者を愛される。
アルガマ・アルサガイル2.1749(イスラーム)
もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」
マタイによる福音書64 ~ 15(キリスト教)
信仰して、主に信頼しまつる者にとっては、神のみもとにあるものこそ、もっと善美でずっと長持ちする。また、大罪や破廉恥の行為を避ける者、及び怒ったときでも寛容する者。……悪に対する報いは、それと同様の悪である。だが寛容して和解する者に対しては、報酬は神の務めである。まことにかれは、悪い行いの者をめでたまわぬ。……だが耐え忍んで寛容する者、まことにそれらは、あらゆる事に果断でそれを成就する。
クルアーン42.36 ~ 43(イスラーム)
あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」
ルカによる福音書17.3 ~ 4(キリスト教)
優れた人の最上の行為は赦しと不問である。
ナフジュ・アル・バラーガ語録201(イスラーム)
君子は罪過あるものを赦し宥めて、万民の患難を解くことにつとめる。
易経、周易下経、解40(儒教)
イムランの息子モーセが、「主よ、あなたの目に最も優れたあなたの従僕は誰ですか」と尋ねると、その答えは、「権力のある地位にいるとき、赦してあげる者である」だった。
バイハキ・ハディース(イスラーム)
律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなた達の中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
ヨハネによる福音書8.3 ~ 11(キリスト教)
寄留者や孤児の権利をゆがめてはならない。寡婦の着物を質に取ってはならない。あなたはエジプトで奴隷であったが、あなたの神、主が救い出してくださったことを思い起こしなさい。私はそれゆえ、あなたにこのことを行うように命じるのである。
申命記24.17 ~ 18(キリスト教)
復讐をしたり、敵意をもって行う者は、剣を使って自分の手を切ることのように、他の手に傷をつけることによって、自分自身に報復するのと同じである。
エルサレム・タルムード、ネダリーム9.4(ユダヤ教)
寛容で憤怒を散らしてしまえ。
サマナスッタム136 (ジャイナ教)
ある人が〔鄭の〕子産のことをたずねると、先生は「恵み深い人です。」といわれた。〔楚の〕子西のことをたずねると、「あの人か、あの人か。(語るまでもない。)」といわれた。〔斉の〕管仲のことをたずねると、「この人は、伯氏から三百戸の餅の村を取りあげたのだが、伯氏は粗末な飯をたべながら、生涯うらみごとをいわなかった。〔心服させたのですよ。〕」といわれた。
論語14.10 (儒教)104
そのとき、ペテロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟が私に対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」
マタイによる福音書18.21 ~ 22(キリスト教)
赦しがある所に神がいる。
アーディ・グラント、スローク、カビール、p.1372(シーク教)
真実に偉大な者は、人々に赦しを受けず、人々を赦さなければならない。
朱熹(儒教)
傷害はあなたを相手の下に入らせ、復讐はあなたを彼と同じ人にし、赦しはあなたを彼の上に立てる。
ベンジャミン・フランクリンプーア・リチャードの暦
― み言選集 ―
大きく赦してくださるのも、その人の事情を100 パーセント分かるときに可能です。神様は、人間の事情を御存じなので、人間を赦してくださるのです。
(2-220、1957.5.26)
ヨセフが自分の兄弟たちを赦したのは、父母を赦したのと同じです。すべて怨讐です。私がヨセフの立場で見るとき、すべて怨讐だというのです。統一教会がヨセフの立場で見るときすべて怨讐ですが、神様を信じているので、神様を見てでも赦さざるを得ないのです。
(146-125、1986.6.8)
私は、今まで大勢の人々を従えてきながら、過ちを犯した人がたくさんいましたが、過ちを犯したとき、さっと見て「100 回赦してあげよう」という心で向き合います。先生は、向き合う人たちを100 回赦してあげるというのです。それが父の心です。例を挙げれば、今自分の息子が強盗殺人をして死刑囚になったとしましょう。それで、息子が刑場に引かれていくのですが、自分の息子を見つめる父母の心が、「おお、お前はよくぞ死ぬことになったな。さあ、早く死になさい、こいつ」と思いますか。結果は死刑だとしても、その心情は1000 回、1 万回赦すことができる道があれば、赦してあげたいと思うのが父母の心です。
(157-259-260、1967.4.10)
責任者の中で食口を率いる人は、食口が過ちを犯したら、間違っていると正面から言うよりも、過ちを犯した人をどのように赦すのか、その夫人がどのように暮らしているのかを見なさいというのです。夫人を見るのです。夫人がその夫よりも悪いのかどうか、ということです。次は、子女を見てください。子女を見るとき、その父親よりも悪いのかというのです。次に、父母を見て、父母が子女よりも悪いのかというのです。父母は悪くないのです。すべて悪くても、父母は悪くないので、私か父母の愛の心をもって向き合えば、その家庭に今まで積まれてきた福が私と関係を結ぶのです。福を接ぎ木する方法はそうです。そのように生きる人は、絶対に滅びません。滅びそうになっても天が保護するのです。
(308-208、1999.1.5)
天は、滅んだ者を再び打つことはありません。滅んだ者の中で、自分の罪を自白し謝罪する者に対しては、哀れみで接するのです。そのような天がいるので、敗者に再び刃を向けて切りつければ、切りつけた者の子孫が滅びます。ですから、そのような人たちのために、友人以上に近い立場で精誠を尽くし、導いてあげるのです。
(25-333、1969.10.12)
キリスト教の歴史を見てみるとき、ローマの400 年の迫害時代において、ライオンの餌になったり、犠牲になる殉教者が大勢いました。彼らの中には、不義のシーザー王に抵抗するために、「神よ、罰を下してください! すべて滅びるようにしでください」と言いながら死んでいった殉教者たちがいるかと思えば、「彼らの罪を赦してくださり、神の国をこの地上に成し遂げてください!」と言って死んでいった殉教者がいるでしょう。
ローマ皇帝であるシーザーのために祈り、怨讐であってもローマのために祈った人は、怨讐のサタン世界に勝った位置に上がっていくのです。しかし、ローマに反対し、私一人が救いを受けるために死んでいった人は、ローマ以下の位置にとどまっていることを知らなければなりません。
(130-233、1984.1.29)
イエス様が怨讐まで愛しなさいと言ったのなら、サタンを愛しなさいということですか。神様がイエス様を送って愛しなさいと言いましたが、サタンを愛しなさいということなのかというのです。はっきりと知らなければなりません。「兄弟が罪を犯せば、7度まで赦しますか」と言ったとき、イエス様は、「7度だけでなく、7度を70 倍するまで赦しなさい」と言いました。それでは、そのような人であれば、神様の息子であるイエス様であれば、サタンも愛さなければならないのですが、なぜサタンを愛することができないのですか。サタンも愛さなければなりません。そうすれば簡単です。そうすればそのサタンと神様と一緒に暮らせます。しかし、そのようにすることはできないのです。あり得ません。
イエス様が怨讐のために祈祷したのは、その人、サタンがついたその人を怨讐視したのではありません。怨讐はサタンなのですが、サタン側にいる人を愛したというのです。サタン側にいる人を取り戻すための立場にいて、神様が取り戻そうとされているがゆえに愛したのであって、サタンそれ自体を愛したのではないことを知らなければなりません。人を愛したことを知らなければなりません。なぜそうしたのでしょうか。人は本来、神様の体でした。それを取り戻さなければ神様が完成されないからです。愛を完成するにおいては、人がいなければならないということです。神様が愛を中心として完成できるこのような立場に立っていたにもかかわらず、これを破綻させたので怨讐です。もしこれを赦したのなら、神様の愛を破綻させたサタンなのに、これを赦せば、この宇宙の理想というものは完全に崩れてしまうのです。
(92-187、1977.4.10)
あなたは善の本体でいらっしゃるので、無限の愛と寛容でこの国の数多くの宗教人たちが、統一の子女たちを迫害した過去の出来事を赦してくださることを懇切にお願い申し上げます。これまで統一の門をたたいても、迫害の道、涙の苦難の道を開拓する途上において、慰労を受けることのできる一人を迎えることができなかったために、孤独に疲れて離れていった人もおります。
また、この道を歩んでいる多くの人たちが疲れていることも知っております。きょうも町中で、あるいは身を置いている所で、あなたに向かって頭を下げ、赦しを請う、彼らの姿を思うとき、怨恨が結ばれた父の心情を解いてさしあげたいと思う、抑え難い憤りの心情もありますが、怨讐の子女を訪ねてこられた父の哀れみに満ちた復帰の道を思えば、涙を浮かべて彼らを再び祝福せざるを得ないことを知っておりますので、彼らを赦してくださることを懇切にお願い申し上げます。お父様、背反し、背信したかわいそうな群れを赦してくださり、再び覚えてくださることを懇切にお願い申し上げます。
(27-301 ~ 302、1969.12.28)
7) 正しい心
慈悲と深い哀れみは、正しい心から出てくる自然な徳目である。したがって、正しい心を育てることが人生の最優先課題である。多くの経典では、信仰と知識、真理への献身、それ以外のほかの徳目より優越するものが愛する心だという。愛する心は神様に根をおいている。
神様の心は、文鮮明先生のみ言で表現すれば「心情」である。心情は、愛して喜ぼうとする情的衝動を意味する。この衝動が正に創造の動機である。(第1 章11.「神聖な愛と慈悲」参照)人間の言語で言えば、これは母の愛に近い。母は子女を愛さざるを得ない存在である。正しい心は、公明正大で、すべてのものを包容し、親切で善良な人だけでなく、悪で嫌いな人までも消化できる。したがって、相手と和解し、葛藤を解決するときは、この正しい心の姿勢が必ず必要である。
1. 愛-親切
― 宗教経典 ―
互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。
エぺソの信徒への手紙4.32(キリスト教)
強き者よ、われを強くし給え。すべてのものがわれを友の眼をもって見んことを! われがすべてのものを友の眼をもって見んことを! われらがお互いを友の眼をもって見んことを!
ヤジュル・ヴェーダ36.18 (ヒンドゥー教)
他人を包容することのできない者には親愛の情がなく、親愛の情のない者ではすべてが他人だ。
荘子23(道教)
あなたが死ねば、彼らがあなたを悲しみ、彼らがあなたを友として慕わしく思って生きるだろう。そのような方法で人に接し、そのような態度で彼らと共に生きていきなさい。
ナフジュ・アル・バラーガ語録9(シーア派イスラーム)
温和な性稟は、生命の綱があなたの中で、途切れないまま長くとどまることができるようにする。
ヨルバ族の格言(アフリカ伝統宗教)
比丘たち、およそ来世において天上界に生まれるよりどころとなるいかなる功徳ある行いであっても、それらすべては、とらわれを離れていつくしみに満ちた心の十六分の一にも値しない。このとらわれを離れていつくしみに満ちた心は、それらをしのいで光り、輝き、また照り映えている。
如是語経27(仏教)
たとえ不幸を避けるために長い間管理してきたどんな人の家庭だとしても、我々神々は、ゆがんだ性根をもつ人の所には入っていかない。たとえどんな人が父と母を恨んだとしても、もし彼が慈悲心のある人であれば、我々神々はそこに入っていく。(注21)春日神社の神託(神道)
ラビ・ヨハナン・ベン・ジャカイが言った。「出ていって人間が従うべき善の道とは何か探してみなさい」。ラビ・エリエザが答えた。「善の目です」。ラビ・ヨシュアが答えた。「善は友です」。ラビ・ホセが答えた。「善は隣人です」。ラビ・シミオンが答えた。「行動の結果を予測する人です」。ラビ・エラジャルが答えた。「善の心です」。このときヨハナン・ベン・ジャカイが言った。「他の誰よりもエラジャルの言葉が正しい。彼の答えの中に他の答えまですべて含まれている」。
ミシュナ、アヴォート2.13(ユダヤ教)
― み言選集 ―
ために生きて愛そうとする心は、いくらこっちに行こうとしても、(コンパスが)南極と北極の方向を向くように、常にために生きる方向に行くというのです。
(138-99、1986.1.19)
人を好きになる習慣をつけましょう。ですから、人を好きになる習慣をもたなければなりません。嫌いでも好きにならなければなりません。それが訓練です。
(118-116、1982.5.9)
皆さんは誰かのために涙を流してみましたか。自分のためにはよく泣きます。人のためにいつ涙を流してみましたか。涙にも2種類があります。自分のために泣く人は地獄に行くのであり、人のためにたくさん泣く人は天国に行くのです。
(96-172 ~ 173、1978.1.3)
すべてのものを聖なる物として扱いなさいというのです。神聖な物として扱いなさいということです。その次には、神聖な体、人を神聖な人として、神聖な神様の体のように考えなさいというのです。自分の体を神様の体のように考え、自分の心が神様の心だという考えをもつのです。
(102-113、1978.11.27)
私達が「あの人は素晴らしい」と言うとき、知識をもって素晴らしいと言うのですか。性格が素晴らしくなければなりません。本当に素晴らしくて良い人だという評判が立てられるためには、その人の本性と生命の粋が天性的に素晴らしくなければなりません。知識があろうとなかろうと、心が素晴らしくなければなりません。
(39-315、1971.1.16)
目は、より慈悲深い目にならなければなりません。良い人を見るときにはもちろんですが、悪人を見るときにも、慈悲深い愛の心をもう一段階加えて見つめることができる私にならなければなりません。真の愛は、悪いものまでも消化することができます。感動させることができるのです。そのような力をもっています。
(123-225、1983.1.2)
目が天下一の美人の目だとしても、その目が殺気立ち、自分のために何かを利用しようとし、ねたむ目は嫌うのです。その目を見ればどれほど恐ろしく、どれほど醜いでしょうか。また、最も見栄えの悪い目があるとしましょう。しかし、その目に愛の深みがあり、慈悲があり、平和が宿っているとき、その目は、すべての人を魅了します。そのような魅力的な力をもっています。愛というものが母体となって動作をすれば、仮面をかぶっていても、それは美しいものになるのです。
(116-53 ~ 54、1981.12.13)
2. 愛する心の根は神様の心情
― 宗教経典 ―
信愛により彼は真に私を知る。私がいかに広大であるか、私が何者であるかを。
バガヴァッド・ギーター18.55(ヒンドゥー教)
温良は仁の根本なり
礼記38.18 (儒教)
孟子がいわれた。「人間なら誰でもあわれみの心はあるものだ。……では、誰にでもこの哀れみの心はあるものだとどうして分るのかと言えば、その理由はこうだ。たとえば、ヨチヨチ歩く幼な子が今にも井戸に落ち込みそうなのを見かければ、誰しも思わず知らず、ハッとしてかけつけて助けようとする。これは可愛想だ、助けてやろうととっさにすることで、もちろんこれを縁故にその子の親と近づきになろうとか、村人や友達からほめてもらおうとかのためではなく、また、見殺しにしたら非難されるからと恐れてのためでもない。
孟子11.A.6(儒教)
如来の室とは、一切の生ける者たちに対する大慈悲がこれである。如来の衣とは、柔和な忍耐の心がこれである。如来の座とは、一切の存在するものが空であるという考えに入ることがこれである。(注22)
法華経10(仏教)
恰も母が己が子、一子を自らの命を賭して護るが如く、一切有情に対して無辺の〔慈悲〕心を修習せよ。
小誦経、慈悲経(仏教)
神は親切であられ、親切な者を愛され、
神は清くあられ、清い者を愛され、
神は寛大であられ、寛大なものを.愛される。
ムスリム、ハディース913.2(イスラーム)
愛がなければ、果たしてどんな宗教が可能だろうか。あなたは生きているすべての存在に愛を見せてあげる必要がある。愛はすべての信仰の根である。
バサヴァンナヴァチャナ247(ヒンドゥー教)
― み言選集 ―
神様は愛なので、愛の本質である心情(注23)を中心として、そこから、わき上がる人格を中心として進んでいかなければなりません。
(84-123、1976.2.22)
愛の心は、すべて一つになるのです。分立ではなく包括的です。包括的であると同時に包容的です。包容的と言えば、包括と似ているように思いますが、内外に包容的な関係を結び、循環作用を行うのです。包括、包容的です。その次には相応的です。相応的とは、いつでもおじいさん絶対主義ではありません。孫絶対主義ではありません。相応作用というのはそのようなものです。それだけが全体分野に適応させ得る一つの主体性として、あるいは環境圏にすることができるときに、その主体性と環境に対して反対せず、そのまま受け入れることができるのです。
その環境と主体性は何ですか。知識もなり得ず、権力もなり得ません。包容できるのは愛です。空腹の時に母親の懐に抱かれると、空腹であることを忘れ、その場で眠ることができるのです。何が貴いのでしょうか。ほかのものが貴いのではなく、愛が貴いのです。いくら黄金の塊が積まれていても……。自分の愛する人や妻が死んでいくのに、宝石箱にあるダイヤモンドを売って治療費にすることはできない、というのは愛ですか。そのような愛が必要ですか。愛は、すべてのものを動かすことができる能力がある、こうでなければなりません。
(139-196-197、1986.1.31)
堕落によって人間の心情世界には、神様に属することができる何の条件も残っていません。しかし、たった一つ残された不変の基準があるのですが、それはほかでもない、父母が子女のために愛する心です。子女が父母を愛する心は、そのような基準になり得ません。なぜかというと、子女の立場で神様に背いたことが人類歴史の起源だからです。それで、子女が父母を愛する心というのは、そのような基準になり得ません。
ただ一つ、神様がアダムとエバが堕落する瞬間まで愛してきた本性の心情の因縁が、私達の本心と肉心を一つにできる因縁として残されているので、父母が子女を愛するその愛だけが堕落圏にいる私達個体に連結され、残り得る基準になりました。そして、この基準は、今後永遠の基準として残ることを私達は知らなければなりません。
(23-206 ~ 207、1969.5.25)
皆さんのこの世の父母も、子女が病の身になれば、その病の息子を見てどれほど心を痛め、かわいそうに思いますか。父母の愛は、堕落しだ世界でもそのような責任の位置に置かれているのです。ですから、父母に孝行すれば天国に行ける道があるというのです。ですから、孝行しなければなりません。それがあるがゆえに、復帰というものがあるのです。皆さんは、父母に孝行しなければなりません。その愛する心をもって国の大統領を愛し、その愛する心で主を愛し、その愛する心で神様を愛するようになれば、天国と通じるのです。
(99-127 ~ 28、1978.9.10)
今、私達に最も必要なものとは何ですか。愛の孝行です。網の元綱のようなものが神様の愛です。その愛が私に錨を下ろさなければなりません。人格の中心をどこに置かなければなりませんか。真理に置くのではなく、心情に置かなければなりません。
(33-68 ~ 69、1970.8.8)
8) 正しい行動
正しい行動は、健康な霊的生命から具現される。正しい行動は、人との関係において友情と和合をもたらしてくれる。正しい行動は、天に対する功績を積むようになり、天との関係をより高揚させてくれる。宗教が救援の鍵として信仰を強調するが、本当の信仰は外的に展開した行動によって実現されるのである。文鮮明先生は、休まずに正しい行動を実践することを教えられる。人が認めようと認めまいと、正しい行動を通して心から愛を実践し、真心を尽くして愛する霊的訓練の機会としなさいと勧告される。
― 宗教経典 ―
うず高い花を集めて多くの華鬘(はなかざり)をつくるように、人として生れまた死ぬべきであるならば、多くの善いことをなせ。
法句経53(仏教)1
信仰して善い行いにいそしむ者は、かれらが主を畏れ、信仰してよい行いにいそしむかぎり、既往に食べたものについて罪はない。そのうえ、主を畏れ、信仰せよ。そのうえにも、主を畏れ、善い事を行なえ。神は善行者をめえたもう。
クルアーン5.93 (イスラーム)
私達は神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。私達は、その善い業を行って歩むのです。
エぺソの信徒への手紙2.10(キリスト教)
このように回転する〔祭司の〕車輪(しゃくら)を、この世で回転させ続けぬ人、感官に楽しむ罪ある人は、アルジュナよ、空しく生きる人だ。
バガヴァッド・ギーター3.16(ヒンドゥー教)
あらゆる人間のすべての手足の骨は、陽が昇ったら毎日施しをしなければならない。相手ときちんとつきあうことも施しなら、人が乗り物に乗るのを助けたり、そこに抱きあげてやったり、持ちものを渡してやることも施しである。優しい言葉も施しなら、礼拝に赴く一歩一歩も、道路から危険なものを取り除くことも施しである。
ナワウィー40 のハディース26(イスラーム)
昼間の両端において、また夜の初めの時に、礼拝の務めを守れ。まことに善い行いは、悪い行ないを消滅させる。これは主を念ずる者に対する訓戒である。
クルアーン11.114(イスラーム)
以前には悪い行ないをした人でも、のちに善によってつぐなうならば、その人はこの世の中を照らす。――雲を離れた月のように。
法句経173(仏教)
一つの善行を施す人は、自分を支持してくれる一人の候補者を得るのと同じであり、一つの罪悪を犯す者は、自分に逆らって告発する者を得るのと同じだ。悔い改めと善行は災難を防ぐ盾と同じである。
ミシュナ、アヴォート4.13 (ユダヤ教)
天国は善行がなければ成し遂げられない。
アーディ・グラント、ラームカリー・キ・ヴァールM.1、p .952 (シーク教)
私の兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。
信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。しかし、「あなたには信仰があり、私には行いがある」と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、私は行いによって、自分の信仰を見せましょう。あなたは「神は唯一だ」と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか。神が私達の父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。
アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。同様に、娼婦ラハブも、あの使いの者たちを家に迎え入れ、別の道から送り出してやるという行いによって、義とされたではありませんか。魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。(注24)
ヤコブの手紙2.14 ~ 26(キリスト教)
善の義人がいて、また善でない義人もいるのか。天と人間、すべてに対して善の人は善の義人である。しかし、天に対しては善であるが、人間に対しては善でない人は悪の義人である。
タルムード、キッドゥシーン40a (ユダヤ毅)
― み言選集 ―
誰も動かすことのできない絶対的実績と信念をもったとすれば、彼は絶対的に善の人です。私達はそのような人を願います。全人類がそうです。
(73-116、1974.8.16)
愛の心、真実をもって対さなければなりません。話をするにしても、一日に良い言葉を3回ずつ継続して言ってみてください。良い言葉を言うと同時に、行動も三つの良い行動を、小さなことでもしなさいというのです。あいさつをするにしても、心から有り難く思ってあいさつをしなければなりません。そのような訓練が必要です。
(99-142、1978.9.10)
善を行ってそれを忘れれば。その善は、善の主体である神様の記憶に移される。
御旨の道、善と悪
人が避けること、困難なことを、すべて耐えなければなりません。そして、うれしいことに対しては、超然とした態度をもてなければなりません。父母の最も困難な問題を代わりに解かなければならず、外の困難なことも受け持たなければなりません。
(17-338、1967.4.30)
人の負債を背負ってあげることのできる人は、善の人です。
(41-91、1971.2.13)
肉身の善行と悪行に従って、霊人体も善化あるいは悪化する。これは、肉身から霊人体にある要素を与えるからである。このように、肉身から霊人体に与えられる要素を、我々は生力要素という。我々は平素の生活において、肉身が善の行動をしたときには、心がうれしく、悪の行動をしたときには、心が不愉快さを経験するが、これは、その肉身の行動の善悪に従って、それに適応してできる生力要素が、そのまま霊人体へと回っていく証拠である。
原理講論、創造原理6.3.1
9) 与え合うこと
施しの知恵がこの節の主題である。何の代価もなく、条件もなく、互いに与え合うとき、喜びは倍化し、悲しみは半減する。そして、与えたものよりもっと多くのものが戻ってくる。即座の即刻的な報いはなくても、天は御存じであり、結局、より大きな愛と報いで祝福を返してくださる。先に与える人にならなければならない。与えながら見返りを期待するのは、天の法と食い違う。(第2章6、「二重属性」参照)反対に、何か願う心で頼み事をしたり、名を揚げるために条件的に与えるのも非難されて当然である。
施しに関する文鮮明先生の幅広い教えは、普遍的倫理徳目に対する哲学的基盤を提供してくれている。与えようとする心は、創造主であられる神様の本性に根ざしている。神様は御自分をすべて投入し、地上と天上の万物を創造された。
文鮮明先生は、先に与えればより大きく戻ってくる逆説的力が作用することに対して、三つの理由を挙げて説明される。第1に、与えることによって私達は創造主・神様に似た人生を生きるようになる。第2に、授受作用の概念は自然世界が循環する原則である。第3に、父母は子女に数年間(子女が成長して結婚し、孫と孫娘を生むときまで)投入するが、喜んで与えるのである。条件なく先に与えることを強調するために、文鮮明先生は、「与えて、また与え、与えたという事実まで忘れてしまいなさい」と教えられる。
1. 施す道とその報い
― 宗教経典 ―
なんじらは愛するものを喜捨せぬかぎり、正義を全うし得ないであろう。なんじらが喜捨するどんな物でも、神は必ずそれを知りたもう。
クルアーン3.92 (イスラーム)
受けるよりは与える方が幸いである。
使徒言行録20.35 (キリスト教)
布施する者は実に神々のもとに赴く。彼に〔天上の〕大水(だいすい)・河川はグリタを流す。彼のためにこのダクシナーは常にみなぎる(豊かな返報を与える)。
リグ・ヴェーダ1.125.5 (ヒンドゥー教)
より多く得ようとして、施こしてはならぬ、なんじの主の道のために、堅忍持久せよ。
クルアーン74.6 ~ 7(イスラーム)
人が柔らかい地を歩いていこうとすれば、まず地の上に冷水をまかなければならない。
ヨルバ族の格言(アフリカ伝統宗教)
散らしてなお、加えられる人もあり、締めすぎて欠乏する者もある。気前のよい人は自分も太り、他を潤す人は自分も潤う。
箴言11.24 ~ 25(キリスト教)
物惜しみする人々は天の神々の世界におもむかない。愚かな人々は分ちあうことをたたえない。しかし心ある人は分ちあうことを喜んで、そのゆえに来世には幸せとなる。
法句経177(仏教)
産物・貨物が(君主の)倉庫に集まると、(かえって)人民は(君主から離れて)ちりぢりばらばらになってしまい、産物・貨物が(民間に)散在すると、人民は(かえって、その君主の下に)集まってくるのである。
大学10.9 (儒教)
惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。
コリントの信徒への手紙二9.6 ~ 8(キリスト教)
釈尊は説いていわれる。人が仏道を他の人のためにつとめてなしているのを見て、それを嫉むのではなくて、それを助けて喜ぶことをなせば、その人にとって福を得ること甚大なものがある。一人の沙門があって自分に問うていうのに、その福は限りあるものであるか、と。
そこで自分はこう対えた。ここに譬えば一本の松明の火があり、数千百人がそれぞれ松明をもって来て、その火を分ちとり、その火をもって食物を熟(に)たり、また火をもって分って夜の明りにしたとしても、もとの火は少しも減ったりすることがない如く、福もまたその如きものである、と。
四十二章経10(仏教)
― み言選集 ―
神様の愛の本質と私達人間の愛の本質は、違うでしょうか、同じでしょうか。これが問題です。同じなことは同じですが、一つは与えようとするものであり、もう一つは受けようとするものです。すなわち、一つは主体的愛であり、一つは対象的愛です。
(130-118、1984.1.1)
投入して忘れるところから真の愛が始まるのです。
(225-15、1992.1.1)
善なるものとは何ですか。発展させる原動力です。ですから、与えなければなりません。与えるときは、何を与えなければなりませんか。一番悪いものを与えるのではありません。安物の服を与えるのではなく、食べ残したものを与えるのではありません。
命を与えなければなりません。命だけでなく、一つしかない愛まで与えなければなりません。これが父母の愛です。ですから、統一教会では、父母の心情、僕の体、汗は地のために、涙は人類のために、血は天のために流して愛を与えなさいというのです。そのようにして滅びることはありません。絶対に滅びないのです。
(34-246、1970.9.13)
宇宙運動の発生は、与えるところから始まります。統一教会は、すべての理論的な基盤において、この運動を授受作用といいます。「授受作用」という言葉は、受けて与えることですか、与えて受けることですか。与えて受けるときは満たされますが、受けて与えることができなければ恥ずかしいのです。
(239-223、1992.11.25)
私自身を中心として見てみるとき、受けたいですか、与えたいですか。深刻な問題です。それで「統一原理」には授受作用という言葉が出てきます。授受作用という言葉は、「授ける」が先ですか、「受ける」が先ですか。授けるのが先です。父母が子女のために与えますか、子女が父母のために与えますか。父母が先に与えるでしょう? これを見るとき、存在の最初の起源となる根本から与えることが始まりとなり、作用が連結されたという論理を認めなければなりません。
(239-59、1992.11.23)
統一の原則は、創造力を投入することです。創造力を役人するところから統一は起きるのです。受けようとするところでは統一ができません。受けることはよいのです。受けたのなら、そこに利子を加算してそれ以上に与えられる私自身になればよいのです。しかし、その上でまた受けようとする人は、天も絶対に嫌います。与えてくれません。
(82-326 ~ 327、1976.2.1)
善の人と悪の人に対して、一度例を挙げてみましよう。善の人は、10 人の友人がいるとすれば、その10 人の友人に対して、朝も夜も、今年も来年も、10年でも、一生の間、面倒を見て、奉仕します。そのような友人は良い友人です。10人全員が一番良い友人だと言います。自分たちだけが好むのではなく、自分の母親や自分の妹がいれば連れていって紹介しようとします。しかし、10 人の友人に対して、「おい! こいつ、私のために生きろ」と3度だけ言っても、全員が逃げていきます。彼がついてくるかと心配で逃げていくのです。皆さん、そうではないですか。なぜでしょうか。自分を中心として主張する人は滅びるのです。地獄に行きます。しかし、原理原則に立脚して、人のために、相対のために投入する人は天国に行くのです。
人類の教育やあらゆる指導理念において、漠然とではありますが、このような観点で善を立ててきたので、今日のこの世界が残っているのです。ある個人が全体のために犠牲になれば、彼は全体の前に善の人であり、ある家庭が全体の家庭のために完全に犠牲になれば、全体の家庭の前に善の家庭として登場するのであり、またある民族が全体の民族のために犠牲になれば、その民族は善の民族として登場するのであり、ある国が全世界各国のために犠牲になれば、その国家は善の国家として登場するということを知らなければなりません。
(69-86、1973.10.20)
神様が天地万物を創造したというのは、自分のすべての愛の心情を投入したということです。与えたのです。そのような神様であれば、そのような心をもった対象が必ず生じるのです。ですから、神様と人間との関係が形成されるだけでなく、神様の愛が顕現します。そのような人は栄えるようになるのです。
ですから、私達の良心は、このような事実を理論的にはっきりとは知りませんが、互いに愛し合いなさい、互いにために生き合いなさいというのであり、宗教は人のために犠牲になりなさいと教えるのです。その話は私達の人倫道徳と対立するものではありません。合うのです。人のために生きなさいということです。人のために犠牲になりなさいということです。人を愛しなさいということです。ですから、ために生きなさいという結論が出てきます。
(112-301、1981.4.25)
2. 品格を備えた授受の循環
― 宗教経典 ―
与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。
ルカによる福音書6.38(キリスト教)
憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
マタイによる福音書5.7(キリスト教)
この世において善い行いをなす者には、善い報酬がある。
クルアーン39.10 (イスラーム)
誰が名誉ある人か。人類に名誉をもたらす人が名誉ある人になる。
ミシュナ、アヴォート4.1 (ユダヤ教)
なんじらがあいさつされたときは、さらに丁重なあいさつをするか、または同様のあいさつを返せ。まことに神はよろずのことの清算者であられる。
クルアーン4.86 (イスラーム)
私に木瓜を投げてきたそれに佩玉を投げかえす。お禮というではありませぬ。いつまでも仲好くしたいから。私に桃を投げてきたそれに佩玉を投げかえす。お禮というではありませぬ。いつまでも仲好くしたいから。私に木李を投げてきたそれに佩玉を投げかえす。お禮というではありませぬ。いつまでも仲好くしたいから。
詩経、衛風、64 柧(儒教)
― み言選集 ―
神様をもっと愛しなさいと言うのは、神様を愛するほど神様の愛をたくさん受けるというのです。すなわち、神様を愛したので神様の愛を受けるということなのです。
(40-244、1971.2.6)
愛すれば、神様から大きな愛も受けますが、愛する人から大きな愛を受けるのです。ですから、これは何倍残る商いですか。2倍残る商い以上です。数倍残る商いだということです。ですから、愛すれば愛するほど立体的に商いをするのです。
(90-21、1976.12.5)
善の人とは、どのような人でしょうか。様々に定義できますが、一つには、受けたものを踏み倒す人は悪の人であり、受けたものに対して、プラスして施す人は善の人であるというのです。ですから、子女が自分よりも劣ることを願う父母はいません。優れていることを願うのです。また夫は妻を、そして妻は夫が自分よりも立派であることを願うのです。また兄は弟が、弟は兄がもっと立派であることを願うというのです。
(315-210、2000.2.2)
自分が一番喜ぶものをもって喜ぶ心と、自分か一番喜ぶものを人に与えて喜ぶ心のうちで、どちらがよりうれしいか比較してみてください。そこで繁殖が始まります。心から与えれば、戻ってくるときは大きくなろうとするのです。そのように戻ってくる道をつくるので、大きなところに点ができ、戻り始めるのです。授け受けすることは、そこから生じます。喜んで与えるときに戻ってくるのです。それで私がまた、与えようとするとき、もっと大きくなります。より発展するのです。
(248-96、1993.8.1)
大気が100 パーセント絶対低気圧圏になれば高気圧圏が生じて、自動的に循環運動が起こるのです。神様は真の知恵の王です。なぜ投入して忘れてしまわなければならないのでしょうか。自動的に循環原理を通じて永遠の回転が始まるために、永生論理が論理的に設定されるというのです。分かりますか。投入して、また投入するところから永生の論理が展開します。「ために生きる」ところは滅びません。
(204-107、1990.7.1)
木もそうではないですか。根から栄養素が来れば、葉は光合成作用をして栄養素を根に補給してくれます。授け受けするのです。受けて授けるのではありません。主体の人が先に与えなければなりません。父母は子女に先に与えなければなりません。水が流れるとき、穴があれば埋めていかなければなりません。空気も同じです。すべてのものが流れるのです。愛も流れるのですが、穴があれば、埋めてあげようとします。
(241-306、1993.1.1)
真の愛は投入する力です。与える力であって、受けることだけをする力ではありません。すべてを与えてゼロ・ポイントの位置に入っていくのです。完全な空間になるので、ゼロ・ポイントの位置には何が入ってきてもOKです。そして、与える力が永続するので、帰ってくる力が加重して永続することによって、永遠にバランスが保たれるのです。ですから、真の愛を中心としてために生きる世界は、授受作用を通して完成されるのです。天地のすべてのものが相対的関係によって存在しているということも、このように授受の作用を通して真の愛の世界を成すためなのです。相対関係において、与える力に対して帰ってくる力が運動するこことによって、その中心点は永遠に定着できるのです。
(315-209、2000.2.2)
与えるものがなぜ栄え、与えることによってなぜ大きくなるのかということが問題です。それは、神様が本来、この宇宙を創造された当時の根本と通じるためです。神様が創造しようというのは、引き寄せることですか。与えることです。与えれば、絶えず大きくなるのです。絶えず大きくなるのです。すべてのものが与える概念に変われば、アメリカはますます大きくなります。絶えず受けていれば、すべてのものは小さくなるのです。なぜそうなのかというと、神様の創造原則に同伴できるので、宇宙が私を協助するのです。宇宙が私を協助するからです。ひっきりなしに受け続ければ、すべてのものが小さくなります。
真の愛の根とは何かというと、永遠に与えることです。真の愛は永遠に与えようとするものだということです。真の愛は作用すればするほど小さくなるのではなく、大きくなるのです。これが神秘的なことです。世の中の力は作用すれば小さくなるのですが、これは作用すればするほど大きくなります。ですから、真の愛をもって数千年前に逝ったそのような人も、今の時代に来て千万に
増えるのです。
(183-324、1988.11.9)
昔さんの相対は、自分の理想的な基盤であり、幸福の基盤であり、あらゆる基盤になります。神様が天地を創造されるときに、万物をつくられ、人を造られたのは、神様の相対として造ったのです。授け受けする授受作用の原則が天地の作用、運動と法則になっているので、完全にすべて与えるまでは戻ってきません。これが原則です。妻が夫を完全に愛そうとすれば、夫から完全に愛されたというその日になってこそ、「夫を本当に愛そう」、このようになるのです。完全に愛されるようになるときに、完全に与え始めるのです。それが天地の原則です。主体から完全に受けたときにこそ、完全に返します。それを受ける前に返し始めれば、完全なものが戻ってきません。
(60-232、1972.8.17)
3. 条件なく過去を記憶せずに与えること
― 宗教経典 ―
その富を施こした者は、己れを清める。またたれからも、報いられるほどの親切な行ないはないとする。ひたすら至高者、主のお喜びを請いまつるのみ。やがて、かれは十分に満足を得るであろう。
クルアーン92.18 ~ 21(イスラーム)
与えらるべきだと考えて、見返りが期待できぬ組手に、場所と時間と受者が適切な場合に与えられる布施は、純質的な布施と伝えられる。一方、見返りを望んで、または果報を意図して、渋々与えられる布施は、激質的な布施と伝えられる。不適切な場所と時間において、不適切な受者に対し、敬意を表さず、軽蔑して与えられる布施は、暗質的な布施と言われる。
バガヴァッド・ギーター17.20 ~ 22(ヒンドゥー教)
孟子がいわれた。「名誉心の強い人は、場合によっては千乗(せんじょう)の大国でも譲って受けないことがある。しかし、それにしても本当にそれだけの人物でなかったならば、一椀の飯や一杯の汁のようなほんの僅かのものでも惜しんだり欲しがったりして、ついにその本心が顔色にあらわれてしまうものだ。」
孟子VI1.B.11 (儒教)
もし、「これを与えてしまったら、{私は}何を用いよう」と自利を考えるなら、魔の方法。もし、「それを〔私が〕用いてしまったら、〔他者に〕何を与えよう」と他利を考えるなら、天の方法。
菩提行論8.125 (仏教)
― み言選集 ―
真の愛は与えて忘れる愛です。与えても忘れてしまい、また与えたいと思う愛です。
(162-239、1987.4.12)
投入し、その次には忘れてしまいます。投入して覚えておくのではなく、忘れてしまうのです。どんどん投入すればするほど、自分の愛の相対が自分よりも高まっていく道があるのです。与えて忘れるのです。その概念です。覚えていたらすぐに止まります。そのようにしようとすれば、どこで統一が起きなければならないのでしょうか。男性が男性を主張するところでは起きません。女性が女性を主張するところでは起きません。投入から宇宙の創造が始まったので、男性も女性も、男性は相対に対して無限に投入し、その相対も無限に投入するところから一つになる道が始まるというのは、理論的に否定できません。神様のように投人して忘れてしまうところで統一できるのです。
(267-301 ~ 302、1995.2.5)
神様は、与えることにおいても誰も讒訴することができず、受けることにおいても誰も条件を提示することができない、自由で平和で幸福な場を願われます。そのような場を世界的に広めて、万民がそこで暮らせるようにすることが神様の収めようとする所期の目的です。
(13-249、1964.4.12)
10) 慈善
貧しくかわいそうな人たちに対する博愛精神は、あらゆる宗教で強調される徳目である。究極的善と連結された人間であるため、社会のあらゆる人々と私達は、彼らが裕福であろうと貧しかろうと、一つの家族としての紐帯感をもっている。神様が御自身の子女に対して感じられる愛と慈愛の感情を私達は感じることができ、特に貧困、疾病、戦争、飢饉と自然災害によって苦痛を受ける人たちに、より大きな同情心を感じる。
慰労金と救護物質を送る行動は、このような霊的な愛の紐帯感を具体的に表現するものである。新約聖書の羊と山羊の比喩は、かわいそうな人を助けることは、すなわち神様と偉大な聖人たちに祭物を捧げるのと同じことであると言っている。さらには、与えるときに最もけちな人たちまでも、このような博愛精神の例外ではあり得ない。
慈悲を施すとき、私達が取るべき姿勢に関していくつかの章句がある。施す行為は、ある場合には、その尊厳性を維持しなければならない。「右手がすることを左手に知らせるな」、この言葉は、恵みを受ける人と寄贈する人との間の匿名性が、どれほど重要かを語っている。寄贈者は自分がしたことに対して自慢することを避けるために、恵みを受ける人は自分の威厳を保存するために匿名性が必要である。
マイモニデスによれば、最高の慈悲深い行為は、貧しい人が事業や貿易を始めることができるよう無利子で貸し出し、または経済的援助をしてあげ、自らお金を稼ぐことができるよう助けてあげることだと言った。この現代的バージョンは、恐らく「魚を獲ってあげればその人を一日食べさせることができるが、魚を獲る方法を教えてあげればその人を永遠に食べさせることができる」という格言であろう。文鮮明先生は、アフリカ人たちが食糧の自給自足ができるよう援助するため、多様な海洋事業を展開してきていらっしゃる。
1. 神様に導き、神様の愛を表す慈善
― 宗教経典 ―
いかに幸いなことでしょう。弱いものに思いやりのある人は。災いのふりかかるとき、主はその人を逃れさせてくださいます。
詩編41.1(キリスト教)
私達は、神のお喜びを願って、あなたがたを養い、あなたがたに報酬も感謝も求めない。
クルアーン76.8 ~ 9(イスラーム)
財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。
使徒言行録2.45 (キリスト教)
喉の渇いた者、空腹の者、苦痛の中にいる者に側隠の情を施し、彼らの苦痛を分かち合う慈悲の行いは、すべての徳行の根本である。
クンダクンダパンチャスティッカーヤ137(ジャイナ教)
あなたの神、主が与えられる土地で、どこかの町に貧しい同胞が一人でもいるならば、その貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、手を閉ざすことなく、彼に手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい。「七年目の負債免除の年が近づいた」と、よこしまな考えを持って、貧しい同胞を見捨て、物を断ることのないように注意しなさい。
その同胞があなたを主に訴えるならば、あなたは罪に問われよう。彼に必ず与えなさい。また与えるとき、心に未練があってはならない。このことのために、あなたの神、主はあなたの手の働きすべてを祝福してくださる。この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。それゆえ、私はあなたに命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい。
申命記15.7 ~ 11(キリスト教)
人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、「羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。「さあ、私の父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、私が飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」
すると、正しい人たちが王に答える。「主よ、いつ私達は、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪礼たでしょうか。」そこで、王は答える。「はっきり言っておく。私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである。」
マタイによる福音書25.31 ~ 40(キリスト教)
審判の日、至高であられる神が語られるだろう。「アダムの息子よ、私が病んでいたとき、お前は私を見舞わなかった」。彼が答えた。「主よ、私がどうしてあなたを訪ねることができますか。あなたは宇宙の主であられます」。その方が言った。「私の僕の誰かが病にかかったことを知らなかったのか。お前は私を見舞わなかった。もしお前が彼を訪ねていれば、私か彼と共にいたという事実をお前は知らなかっただろうか」。
ムスリム・ハディース(イスラーム)
「あなた達は、あなた達の神、主に従い、これを畏れ」(申命記13 章5節)。しかし、「あなたの神、主は焼き尽くす火であり、熱情の神」(申命記4章24 節)に人間がどのようにして従うことができるのか。この言葉はつまり、主なる神の属性に似よという意味である。ぼろを着ている者たちに服を着せてあげ、病にかかった者たちを見舞い、葬式に集まった人たちを慰労し、死んだ人たちを弔ってあげよ。
タルムード、ソーター14a (ユダヤ教)
聖なる方が人を愛されるときに、神は貧しい人の姿で近づいて贈り物を下さる。人が貧しい隣人に善行を施すようになり、神はその長所を用いて恩寵を施す条件とされる。
ゾハール、創世記104a (ユダヤ教)
神々は実に飢えをのみ死因として作らざりき。食足りし者にも、もろもろの死は近づく。また施す者の財産は涸るることなし。しかし施さざる者は憐愍者を見いださず。
[みずから]食物に富みながら、食餌を求欲しつつ・零落して近づき来たる貧困者に、[しかも]、かつて友好を結びし者に心つれなく振舞う人、かかる者もまた憐愍者を見いださず。食物を求欲し、樵悴して徘徊する哀顕者に与うる者こそ、[真の]款待者なれ。彼は、行路にありて呼びかけられたるとき、この人(呼び手)に即応す。
かつまた彼は、未来のために一人の友を獲得す。
相たずさえ、相伴う友人に、食餌を分かち与えざる者は、友人にあらず。人は彼より去り行くべきなり。そは止住すべきところにあらず。たとい部外者なりとも、他人に施す者を求むべし。[財力に]勝る者は実に、援助を求むる人に施すべし。[人生の]いとも長き道を見渡すべし。なんとなれば富は、車の輪のごとく、回転し来たり、この者にまたかの者に近づく。思慮なき者はいつわりの食物を見いだす。われ真実を述ぶ、そは彼に死をもたらすのみ。彼は款待者をうる幸運に恵まれず、また友人を[得る幸運にも」。独りして食する者は、独りして災厄を蒙る。
リグ・ヴェーダ10.117.1 ~ 6(ヒンドゥー教)
― み言選集 ―
子女たちが苦しむとき、父母が苦しまざるを得ません。兄弟が苦しむとき、その痛みを感じざるを得ません。聖人は、世界万民が暮らす実状を見つめるとき、自分の痛みの代わりに彼らの苦しみを感じるのです。万民を愛するために自分の境遇を忘れて投入しようとする、このような愛の心をもつこと、これが聖人の道理です。ですから、聖人の道理は歴史を超え、世代を超え、世界を超え、今日、全世界のあらゆる道徳基準として引き継がれてくるのです。それが博愛精神です。
(186-74 ~ 75、1989.1.29)
道端で遊んでいる、まともに着ることも食べることもできずに骨ばかりになっている子供たちを見れば、自分の子供のように抱きかかえであげることができなければなりません。それができなければ恥ずかしさを感じなければなりません。子供を生んでおいて責任を果たせない父母のように、自分の子供をある乳母に渡したり、あるいはある村に捨てた母親が……。通りすがりにその子供を見れば、その子供に対して顔を上げることができない恥ずかしさを感じる、それ以上の恥ずかしさを感じなければならないのです。これが心情の因縁です。もし自分が生んだ息子、娘がそのようにぼろを着ていれば、その子供を抱いて、骨が溶けるほど、肉がゆがむほど涙を流さないでしょうか。
(46-281、1971.8.17)
道を歩いていて、腰の曲がったかわいそうな老人を見れば、「私の父もあのような姿で訪ねてこられたのだなあ!」と考えなければなりません。また、はれあがった労働者の手を見るときも、「息子を探そうと私の父はあれ以上の姿になられたのだなあ!」、かわいそうな乞食を見るときも、「この乞食は、乞食ではなく私の父だ」と頭を下げることができなければなりません。取るに足らない哀れな人生でも、そこには神様の心情が宿っていることを知って、彼が私の父だという心で涙を流し、自分の境遇と自分の威信を超越して行動できてこそ、神様を知ることができるのです。
(8-346、1960.2.28)
年老いた人を見れば、自分のおじいさん、おばあさんのように考えなさいというのです。昼食の時間になり、みな食堂に入っていくのに、お金がなくて困っているようであれば、一緒に連れて入っていって、自分のおじいさんやおばあさんのようによく接待しなさいというのです。
(215-122、1991.2.6)
先生自身も、監獄で孤独だったことがどれほど多かったでしょうか。孤独な立場にいるとき、慰労してくれた事実は、いつまでも忘れられません。親戚や、誰かが来たことは、忘れることができます。しかし、そのような愛の因縁を結んだ人は、忘れられません。
(63-205、1972.10.14)
あるときは、公娼街や娼婦街、そのような所に若い女性が入っていこうとするのを救ってあげるために、妹のように思って助けてあげたこと、その事情を聞いて痛哭したことを今も忘れません。そのように涙を流したことがきのうのことのようです。このような事実が本当にたくさんあります。それが祈祷よりも貴い場なのです。
(93-66、1977.5.1)
これから8月1日になれば、水産事業を始めて20 年になります。1年に2000万の飢えて死んでいく人たち、アフリカの奥地や第3世界のかわいそうな人たちを助けてあげるために、先生は今まで20 年間船に乗りました。網なら網を作る方法、工場を造り、船を造り、すべてのことができる準備をしました。アフリカの母親たちが釣りをすることができれば、どうして飢え死にするでしょうか。水があり、魚がいる川があるのですから、釣りをして捕まえた魚で子供を5人、6人食べさせるのは問題ありません。釣りをしなければなりません。
一日に6万人が死んでいきます。彼らがみな神様の息子、娘として、私達の兄弟が死んでいくのに、おなかをなでながら熊のように太り、やせるために断食して食べずにいる、このようなアメリカは罰を受けなければなりませんか、受けてはいけませんか。霊界に行って地獄に行かなければなりませんか、天国に行かなければなりませんか。
(261-308 ~ 309、1994.7.24)
2. 慈善の姿勢
― 宗教経典 ―
親切な言葉と寛容とは、侮辱を伴う施しものにまさる。神は、富有者・仁慈者であられる。信仰する者よ、なんじらは人びとに見せるため、所有するものを使う者のように、また神も終末の日も信じない者のように、負担や侮辱を感じさせて、己
れの施しを無益にしてはならぬ。
クルアーン2.263 ~ 264 (イスラーム)
真実を語れ……。請われたならば、乏しいなかから与えよ。
法句経224 (仏教)
自分が助けてもらって初めて生きていける貧しい人だとしても、やはり慈悲を施さなければならない。
タルムード、ギッティン7b(ユダヤ教)
「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」。
ルカによる福音書3.11 (キリスト教)
施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。
マタイによる福音書6.3 ~ 4(キリスト教)
私の行ずるところの施しは、執著もなく、煩悩もなく、そのこころは、質直で、惜しむところがない。私は、このような施しの、功徳の力をもって、すべての衆生をして、大いなる智慧を得しめ、こころにさわりをなからしめよう。
華厳経21(仏教)
信仰する者よ、なんじらのかせいだよいものと、われが、大地からなんじらのために生産したものを使え。それに目をつむらずには、なんじ自身さえ受け入れぬような悪いものを目あてに使ってはならぬ。神は満ち足りたもう方・賛美されるべき方であられることを知れ。……
なんじらが、施こし物や奉仕に何を使ったか、またどんな誓いを果たすためであったか、神はまことにすべてを知りたもう。およそ不義を行う者には、助ける者はないであろう。なんじらは、施こしをあらわにしても結構だが、ひそかに貧者に与えれば、なんじらのためさらによい。それはなんじらの罪悪のよごれの1部を、払い清めるであろう。神は、なんじらの行うことを熟知したもう。……
なんじらが施こしに使うよいものは、なんじら自身の魂のためであり、またなんじらが使うのは、ただ神のお喜びを願うだけである。使用したよいものは、完全になんじらに返されよう、なんじらは不当に遇せられることはないのである。
なんじらのよい使用は神の道のために、心をいためながらも、国内を歩き回り得ぬ、困窮者のために使うものである。かれらは控え目であるから、知らない者は不足がないものと考える。なんじらはその頼むに足る様子で知らねばならぬ、かれらはしつこく人びとに請わない。なんじらが何でも使う良いものは、神は必ずそれを知りたもう。
クルアーン2.267 ~ 73(イスラーム)
困窮者の請う者、またあえて請うことをしないようにする者への権利の行使に留意した。
クルアーン51.19(イスラーム)
最高の慈悲は、貧しい同僚の仕事を助け、贈り物や(利害関係なく)お金を貸してあげられることだ。または、その人の同業者になって働くことだ。そうすれば、その貧しい人はこれ以上公的な補助に頼らず、援助を通して結局、トーラーで教える独立心のある人に変わることができる。レビ記25 章35 節に次のように記されている。「もし同胞が貧しく、自分で生計を立てることができないときは、寄留者ないし滞在者を助けるようにその人を助け、共に生活できるようにしなさい」。
これより一段階低い慈悲は、施す者が恵みを受ける人に関して知らず、恵みを受ける人も施す人に関して知らない場合だ。つまり、人に知られないように行うことである。これはミツヴァー(ユダヤ教の戒律)のための慈善ミツヴァーを行うことである。このような慈悲は、古代聖殿の庭で、義なる人が、貧しい者たちがもっていくように人知れず寄付金を置いていったのと同じだ。慈善箱にお金を入れてあげる行動が、この聖殿の庭での行動と似ている。
それより低い段階の慈悲は、施す者は恵みを受ける人を知っているが、相手は知らないようにする場合だ。これは聖人たちが貧しい者の家の前に、隠れて贈り物を置いてくるのと同じだ。公共福祉に責任をもつ者が義でないとき、このような行為が必要である。
次に恵みを受ける者は施す人を知っているが、施す者は誰にお金が渡るのか分からない場合が次の下の段階だ。しかし、この長所は、恵みを受ける人が直接的対面による羞恥心を経験ししなくてもよいことだ。
これよりもっと低い場合は、どちらとも互いを知っているが、貧しい者が求める前に先に与えることだ。これより低い段階は、要請を受けてから助けてあげる場合だ。自分が品位を保てる程度にだけ与えながら、実際に必要なものよりも少なく与えるのも望ましくないが、最悪の場合は、無理して施すことである。
マイモニデスミシュネー・トーラー慈善の8 段階(ユダヤ教)
― み言選集 ―
かわいそうな人に出会って同情するときは、銅貨一枚をあげながら、「やい!若い人がどうしてこうなのか」と、絶対にそのような言葉をかけてはいけません。「少ないお金ですが、千倍、万倍貴く思って、今日この時間以降、福を受けてください」(注28)という、そのような言葉はいくらかけてもかまいません。
(127-89、1983.5.5)
天国をつくるためには、私がすべて材料を提供しなければなりません。材料を提供するとき、自分のものをもっていって提供すると考えてはいけません。天のものをもっていって提供すると考えなければならないのです。私が誰かに与えれば、天のものとして与えると考えなければならないのであって、私のものとして与えてはいけないというのです。そのもらう人は私の心が分かるのです。そのようにすれば、損をしないように天が何十倍にして返してくれます。
(102-119 ~ 120、1978.11.27)
ない中においてよく与える人なら、ありさえすればどれほどよく与えるだろうか。
御旨の道、人格
心は善を行えと体を促しています。かわいそうな人がいれば助けてあげなさいといい、自分は困難でも多くの人のために犠牲となり、助けてあげなければならないと強調しています。
(41-60、1971.2.13)
「右の手のしていることを左の手に知らせるな」(マタイ6・3)と言いました。ある日、「誰かに何千万ウォンをあげたから、それに対する利子をいくらもってこなければならないのに」と言いながら、与えたものを記憶する人は、天国の主人になれません。与えたものを忘れなければなりません。父母が子供を育てるとき、いくらいくらを投資したから、その利子をもらうと言う、そんな父母がいますか。与えても、みな忘れるのが父母の心です。与えたものを忘れるだけでなく、もっと良いものを与えられなくてふびんに思うのが父母の愛です。
(36-85、1970.11.15)
11) 善意
通りすがりの客や旅行客に、食事や休憩所を提供することは、古代から続いてきた伝統的徳目である。アブラハムは見知らぬ客たちに、結局、客として現れた三人の天使に善意を施したことで有名である。文鮮明先生は、通りすがりの客に善意を施すことを家訓のように定めていた幼い時代の御両親の話をよくされる。和睦した家庭からそのような環境が造成され、その家庭には、大勢の人々が、さらには数キロ離れた所から動物までが訪ねてくるのである。
豊かでない家でも、慈善を施すことによって家が少し窮乏したとしても、それにかかわりなく客には最高の善意を施さなければならない。極端な状況でもこれを実践する、三つの代表的な逸話がある。第1には、ソドムの住民たちが村を訪ねてきた客に危害を加えようとしたとき、これを保護してあげたロトの話である。そしてムハンマドを訪ねてきた客に、彼の最後に残ったひとかけらの食事を差し出したムハンマドの友人がいる。最後に、のどのかわいた見知らぬ客から飲料水を奪うよりも、かえって自分が渇きで死んでいくことを選択したヒンドゥー教の家長の話がある。
― 宗教経典 ―
兄弟としていつも愛し合いなさい。旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。(注29)
ヘブライ人への手紙13.1 ~ 2(キリスト教)
あなたがいくら少ない食べ物をもっていても、あなたの家に入ってくる人には、誰でも食べることができるように配慮せよ。もしあなたが食べ物をあげずにいれば、それはあなたに死の根源になるだろう。
ウィネバコ族、父の訓戒(アメリカ先住民の宗教)
神と最後の〔審判の〕日を信ずる者は、口をひらけば良き言葉を語り、さもなければ口をふさいでいるべきである。神と最後の日を信ずる者は、隣人に対し寛大であらねばならない。神と最後の日を信ずる者は、客を遇するに寛大でなければならない。
ナワウィー40 のハディース15(イスラーム)
一家の夫と妻は、食事時に来て食物を乞う者を、誰であろうと追い返してはならない。もし食物が得られなければ、休む場所、元気を取り戻すための水、体を横たえるための葦のむしろ、客人を楽しませるための愉快な言葉、少なくともこれらは善人の家からなくなることはない。
アーパスタンバ・ダルマ・スートラ8.2(ヒンドゥー教)
二人の御使いが夕方ソドムに着いたとき、ロトはソドムの門の所に座っていた。ロトは彼らを見ると、立ち上がって迎え、地にひれ伏して、言った。「皆様方、どうぞ僕の家に立ち寄り、足を洗ってお泊まりください。そして、明日の朝早く起きて出立なさってください。」(注30)
彼らは言った。「いや、結構です。私達はこの広場で夜を過ごします。」しかし、ロトがぜひにと勧めたので、彼らはロトの所に立ち寄ることにし、彼の家を訪ねた。ロトは、酵母を入れないパンを焼いて食事を供し、彼らをもてなした。彼らがまだ床に就かないうちに、ソドムの町の男たちが、若者も年寄りもこぞって押しかけ、家を取り囲んで、わめきたてた。「今夜、お前のところへ来た連中はどこにいる。ここへ連れて来い。なぶりものにしてやるから。」
ロトは、戸口の前にたむろしている男たちのところへ出て行き、後ろの戸を閉めて、言った。「どうか、皆さん、乱暴なことはしないでください。実は、私にはまだ嫁がせていない娘が二人おります。皆さんにその娘たちを差し出しますから、好きなようにしてください。ただ、あの方々には何もしないでください。この家の屋根の下に身を寄せていただいたのですから。」
創世記19.1 ~ 8(キリスト教)
ある人が使徒に会いに来たとき、使徒が夫人たちに、客に食べる物を用意しなさいと言うと、彼女たちは、「水以外には本当に何も用意するものがありません」と答えた。すると使徒が、「誰かこの人に食べる物を分けてあげることはできないか」と尋ねた。教徒仲間の中の一人が、「私がします」と言い、その人を自分の夫人のところに連れていって言った。「神の使徒の客人をよく接待してください」。
夫人が答えた。「子供たちの夕食以外には何もありません」と言うと、彼が言った。「それでは、食べ物を準備して、ランプを灯し、子供たちが夕食を求めたら寝かせなさい」。それで彼女は食べ物を準備し、ランプを灯し、子供たちを寝かせた。そして起き上がり、ランプを手入れするふりをして火をつけた。そしてその人と妻は食べ物を食べるふりをしたが、実際は夜通し空腹だった。翌日、その教徒が神の使徒のところに来たとき、使徒が言った。「昨晩、神が笑顔でおられた」。そのとき神がこの言葉を啓示された。「たとえ彼らが貧しくても、自分たちより他の人を優先したのだ」。
ブハーリー・ハディース(イスラーム)
ランティデバの名声は、この世界だけでなく、他の世界でも賛美される。彼は自分がたとえ飢えていても、神が彼の必要なものを満たしてくださるという信仰で、財物が入ってくれば、即座に人に分けてあげていた。世の中に飢饉が起き、彼の家族は皆飢えに苦しんだとしても、彼の寛大さは続いた。
48 日間、彼と家族が飢えに苦しんでいたが、わずか一人が飢えを満たせる飲み物しか残っていなかった。彼がそれを飲もうとしたとき、賤民が食べる物を請うてきた。この光景にランティデバは、胸が張り裂けそうになりながら思った。「私は決して神に権能ある偉大な国土を望んだり、あるいはサムサラでの解放を求めない。私は一切衆生の胸の中にいて、彼らの悲しみをなくすようにしよう」。たとえ渇きで喉が焼けそうになうても、その慈悲深い王は、少ししか残っていない飲み物をその賤民に渡してあげた。
シュリーマッド・バーガヴァタム9(ヒンドゥー教)
― み言選集 ―
家に貴い客を迎えるために、いつでも準備する家は福を受けます。
(100-259、1978.10.22)
訪れる人を王のように迎え、王のように侍り、王のように接待しなさいというのです。
(89-290、1976.12.4)
友達が家に来れば「自分の家よりもここのほうがいい。麦飯を食べたとしても、粥を食べたとしても、うちの御飯よりもおいしい。もう一晩だけ泊めでくれないか」と言う、そのような家庭を築きなさいというのです。訪ねてきた人、訪ねてきた友達がみな、自分の家を捨ててその家に来たいと思うような家庭になってこそ、その家庭は天国の家庭となるのです。
(16-328、1966.7.31)
遠い所から自分の家を訪ねてきて、軒先、あるいは客間で寝たいと思う客をたくさんもつほど、その家庭は福を受けるのです。それで、その家がうわさになり、郡から押し寄せ、さらには国から押し寄せ、世界から押し寄せてくる家庭になることを、互いに競争する時代だというのです。物が豊かでそのような生活をするのではありません。心が豊かだからそのようになるのです。固いパンを食べても、それが幸福です。
(244-49、1993.1.29)
家庭天国を成しなさいというのは神様のみ旨です。それでは、家庭天国とは何ですか。通りすがりの乞食もこの家に入っていきたいと思わなければならず、寒ければこの門前にでも入っていって寄り掛かって眠っていきたいと思わなければなりません。通りすがりの犬も入ってきて「くんくん」し、寒くても門前に来て眠っていかなければならず、飛んでいく鳥たちもそうでなければなりません。鳥が糞をするときも、門前に来て糞をしたいと思い、その門前に来て暮らしたいと思うようにならなければなりません。そのような思いをもつようにしなければならないのです。……そのような家になってこそ栄えるのであり、天が共にいるのです。なぜですか。神様の愛が宿った所だからです。命のあるすべての存在には、神様の愛と平和が宿った所が安息所なのでそのようになるのです。
(100-299、1978.10.22)
先生の家門に家訓があるのですが、「全国の山河を歩いていく人に御飯を食べさせてあげなさい」というものでした。それで有名になりました。乞食という乞食は、みな私達の家に出入りしました。私の母がおじいさんとおばあさんに侍っているとき、家でそのような苦労をしても不平を言わないのを見ながら、有り難く思いました。ですから、私のような人が出てきて世界を食べさせる運動ができる動機ができたのです。
(130-276、1984.2.5)
村の数十里内外では、乞食たちが来れば、私の家が乞食たちの集合所になりました。客間では、常に乞食が寝るようになっていて……。私の村に粉屋(こなや。石臼で穀物をひく小屋)がありました。そこには常に乞食たちが集まっていました。私は、その乞食たちとよく友達になりました。家で、餅をつくれば、かわいそうに思って、持っていってあげたのです。
朝、(乞食たちが先生の家を)出ていってどこかに行けば、昼食は誰がくれますか。昼食をくれる人が誰もいないので、私が昼食も持っていってあげたりしたことを思い出します。母親に内緒で、このように……。それはすべて良いことです。母親は、私に食べさせようと思って置いておくのですが、私は、分け合って食べようと、母親が聞く前にもっていって食べさせたのです。
(127-111、1983.5.5)
12) 偉大な戒め
愛の法則を扱う最も代表的で含蓄のあるイエス様の戒めは、いかなるものとも比べることができないものである。イエス様が語られた愛は、愛の二つの次元、すなわち天に対する縦的な愛と人類に対する横的な愛にすべて言及している。短いこの節を通して、私達は、この主題に関する文鮮明先生のいくつかのみ言を見てみることにする。
― 宗教経典 ―
「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
マタイによる福音書22.36 ~ 40(キリスト教)
ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、私の隣人とはだれですか」と言った。
ルカによる福音書10.25 ~ 29(キリスト教)182
― み言選集 ―
神様は私達に、戒めを許諾してくださいました。「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ。これがいちばん大切な、第1のいましめである。」(マタイ22・37 ~ 38)とおっしゃいました。しかし、この戒めを天は人間たちが守る前に先に守られたという事実を、皆さんは覚えておかなければなりません。
したがって、このみ言は、今日の堕落した人間が守らなければならない第1の戒めであることをはっきりと知らなければなりません。ところが、皆さんがそのみ言を聞くときに、そのみ言が私から因縁を結んで始まったと思うならば、それは大きな誤解です。
このみ言を人間たちの前に示すために、人間の生命の主体であられ、理念の主体であられ、愛の主体であられる天が先に人間のために、心を尽くし、精神を尽くした歴史過程を経てきたことを皆さんは感じなければなりません。
言い換えれば、人間がその戒めを守る前に天は私達に対して精神を尽くし、思いを尽くす立場で人間を抱き、愛してきた事実を、皆さんは覚えておかなければならないのです。また、神様御自身がそれを守られたので、戒めとして立てることができたのです。
(4-305、1958.10.5)
天の憲法の中で第1の憲法は何ですか。神様を自分の体以上に愛しなさいということです。次には、神様が愛する兄弟を自分の体以上に愛しなさいということです。その立場に立つ人は、生まれながらにして天上世界のどこに行っても妨げる者がいません。そのような基盤が堕落によって汚されたので、これを清算してきながら、主流となるキリスト教文化圏を中心として世界を統一しようとしたのです。
(195-136、1989.11.7)
あなたのすべてのものを犠牲にして愛することが第1の戒めになります。そのような人は、神様と同じ位置に立つことができ、神様の息子になるのです。神様が喜ばれるように地上にお迎えしなければならないのですが、神様が喜ばれるようにお迎えする基準とは何ですか。神様の心に合う私達の相対的人格、相対的祭物を備えることです。
それで、「心をつくし精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ。これがいちばん大切な、第一のいましめである」なのです。神様も同じです。「人間に対して、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、息子を愛せよ」というのが第1の戒めです。
心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神を愛すれば、その次にはどのようになりますか。神様がそのような愛をもってすべての人間に対して横的に現れます。そのようになればすべて成されたというのです。神様の愛と一つになり、その心は横的にその人類を愛することができるので、その家の父母をこの上なく愛し、その次に兄弟をこの上なく愛するので、その家庭は幸福な家庭です。
今日、この世界の人類歴史の中で、神様が居たいと思われる家、その家がどこにあるのかというとき、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神を愛する、そのような心で父母を愛する以上に兄弟を愛することができる家です。そのような家になれば、神様が臨在なさることができるのです。
(101-153 ~ 154、1978.10.29)
第2の戒めは、世界を自分の体のように愛することです。私の命をすべて捧げてでも神様を愛し、私の命を犠牲にしても隣人を愛さなければなりません。自分を保護するためには命を懸けるのと同じように、世界人類を保護するために自分の命を懸けて愛することができる人になる限り、サタンが占領することはできません。サタンを屈服させることができるのです。
(143-137、1986.3.17)
イエス様も、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」と言ったのですが、それをどのようにするのですか。それは漠然としているのです。世の中に出ていって、世の中のおじいさんと向き合うとき、皆さんのおじいさんのように向き合いなさいというのです。お母さんのように向き合い、お父さんのように向き合うのです。息子のように向き合うのです。世の中に出ていけば、すべてそのようにしなければなりません。上中下、前後、左右の人が、世界という展示場に展示されています。人の博覧会が世界だということを知らなければなりません。
(128-23、1983.5.29)
「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」と言うとき、隣り人とは何ですか。イエスを信じる人が隣り人ですか。違います。その隣り人は世の中の果てにいる人、悪魔サタンの懐にいる人までを意味するのです。イエスが怨讐を愛しなさいと言いましたが、それはローマ兵のことまで意味したのです。隣り人だと考えたのなら、それは隣り人ではありません。それは自分の兄です。統一教会の原理を見れば、カインを復帰しなければなりません。兄を復帰しなければならないのです。
(138-187、1986.1.21)
第14章 知恵
知恵
1) 教育の根本目的
教育の目的とは何か。世界的に文化の伝統教育では、徳目を育てることを基本的に強調した。すなわち、霊魂を太らせ、文明人として人格を形成し、善の市民を養成するところに焦点をおいた。今日の学校教育は、複雑な現代の職業社会で必要な技術と技術的知識を教えるところに重点をおいている。人性教育と価値観教育は冷遇されている。セオドア・レースベルトは、次のように警告した。「人間の心を育てる規範を教えないことは、社会の危険人物を育てあげることである」(注1)。世界の諸経典を研究することによって、私達は教育の根本目的を再び考える機会をもつようになる。
文鮮明先生は、教育を3段階に区分される。第1に、心情教育は利他的愛のための情緒的土台を形成する教育である。第2に、倫理教育は望ましい関係形成に必要な倫理性を育てる。第3に、学問技術教育はこの二つの基礎教育の上に確立される教育である。前の2段階の教育は、かなりの部分が家庭において父母の責任のもとになされる。もちろん、学校も部分的に、特に人性教育と結婚教育に関しては一定の部分に責任をもつことができる。個人の性格と結婚生活の問題が職場の業務遂行にも密接に関連している点を考慮するとき、このような教育目標は、現代の学校教育の職業志向的教育方式と必ずしも矛盾するとは言えない。
1. 教育の根本目的 : 徳性教育
― 宗教経典 ―
ある子供の両親は、その子を少年期に正しく教育することが出来なければ、ただの敵である。無学な子供は白鳥の中のサギと同じで、学識ある者の群れの中で輝くことは出来ない。学識はありふれた顔に高められた魅力を与える。知識は人が生涯の内にひそかに蓄える事の出来る最高の宝である。学識こそは最もあがめられるべきものである。知識は人を正直にし、高潔にし、その人の社会に対する愛を育む。人は知識によってのみ、友人や親戚の状況を良くする事が出来る。知識こそは聖の中の聖であり、神々の中の神であり、国王と王女の尊敬を集める。それなくして人は動物に過ぎない。人の家の設備や家具は盗賊によって盗まれるかも知れない。しかし最高の宝である知識は、すべての盗難を越えている。
ガルダ・プラーナ115 (ヒンドゥー教)
真の学びは心に人類に対する奉仕を刻む。
アーディ・グラント、アーサー、M.1, p.356 (シーク教)
知恵をもつ目的は、懺悔し善行を行うためである。
タルムード、ブラホート17(ユダヤ教)
先生がいわれた、「ひろく書物を読んで、それを礼(の実践)でひきしめていくなら、道にそむかないでおれるだろうね。」
論語12.15 (儒教)
物(の理の極点)に到達すれば、(我が心の)知るところは全てを尽くす。知が尽くされれば意は誠実となることができる。意が誠実であれば心は正しくなることができる。心が正しければ身が修まる。身が修まれば家がきちんとする。家がきちんとすれば国が治まる。国が治まれば、天下は平らかになる。
大学(儒教)
その理由は何であるかと言えば、般若が彼を帰服せしめているからである。それ故、彼には怒りが増長することはない。彼は憎悪を把持することはない。煩悩を維持することはない。このように実践しつつある善男子・善女人に、正しい注意力(正念)といつくしみの心とが生ずる。……「尊き師よ、実にこの般若が、菩薩大士の調禦のために、また訓練のために、私共に与えられたことは、まことに得がたいことであります。」
八千頌よりなる般若波羅蜜経3.51 ~ 54(仏教)
あなた達は、これらの私の言葉を心に留め、魂に刻み、これをしるしとして手に結び、覚えとして額に付け、子供たちにもそれを教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、語り聞かせ、
申命記11.18 ~ 19 (キリスト教)
知恵が呼びかけ、英知が声をあげているではないか。高い所に登り、道のほとり、四つ角に立ち、城門の傍ら、町の入り口、城門の通路で呼ばわっている。「人よ、あなた達に向かって私は呼びかける。人の子らに向かって私は声をあげる。
浅はかな者は熟慮することを覚え、愚か者は反省することを覚えよ。聞け、私は指導者として語る。私は唇を開き、公平について述べ、私の口はまことを唱える。私の唇は背信を忌むべきこととし、私の口の言葉はすべて正しく、よこしまなことも曲がったことも含んでいない。
理解力のある人には、それがすべて正しいと分かる。知識に到達した人には、それがすべてまっすぐであると分かる。銀よりもむしろ、私の諭しを受け入れ、精選された金よりも、知識を受け入れよ。知恵は真珠にまさり、どのような財宝も比べることはできない。
箴言8.1 ~ 11(キリスト教)
ひとの言うことがわかるようになるとすぐ、乳母も、母親も、お守り役も、それに父親自身も、なんとかして子供ができるだけすぐれた者になるようにとつとめ、行ないについても、言葉についても、そのひとつひとつに際して、これは正しくこれは正しくないとか、これは立派なことでこれはみっともないことだとか、これは敬虔なことでこれは不敬虔なことだとか、こういうことをしなさい、こういうことはしてはいけないとかいったようなことを、教えたり示したりしてやる。
そして、すすんで言うことをきけばよし、そうでない場合には、ちょうどひねくれ曲がっている木をまっすぐに直すように、おどかしたり叩いたりして矯正するのである。つぎに彼らは、子供たちを先生のところにやるのであるが、その場合、読み書きが音楽よりは、むしろずっと子供たちの品行方正のほうをよく気をつけてみてくれるように、先生にたのむのである。先生たちのほうでも、よくこのことに気をつける。そして、ちょうど先にひとの言うことがわかるようになったと同じように、子供たちが今度はさらに読み書きができるようになり、書かれたものを理解しようとするころになると、彼らにすぐれた詩人たちの作品を教室であてがって読ませ、それらを暗記するようにいいつける。
その中には数多くの訓戒がふくまれているし、むかしのすぐれた人物たちを描写し称揚し讃美した言葉が数多くある。こうして、子供たちがそれに讃嘆しながら見ならい、そのような人物になろうとあこがれるようにしむけるのである。
プラトンプロタゴラス325c-e (ヘレニズム)
知識は霊魂の糧である。
プラトンプロタゴラス(ヘレニズム)
真実な教養教育は、性格を人らしくし、残酷にならないようにする。
オヴィディウス(ヘレニズム)
― み言選集 ―
私達が生活するにおいて、自分個体の目的を中心として、それを成すために生きるよりも、全体の目的のために生きなさいというのが、今までの教育や道徳が指向してきた標準です。
(24-212、1969.8.17)
「万民は、善なるものを願っていくので、神様のために生きる前に、人のために生きなさい。人類全体のために生きなさい。人を愛しなさい。人のために生きなさい。人のために生まれたのだ」という教育を受けなければなりません。
(64-20、1972.10.22)
良い心をもって犠牲になる人を好むようになる、ということの具体的な内容は分からなくても、漠然と今日の人倫道徳を中心として、一律的に教育の目標になっており、教養の目標になっていることを知っています。それはなぜでしょうか。落ちた立場でより高い一点を望んでいるので、天は、そのような立場にいる者に一対一の立場で詳しく教えてあげることはできないのです。ですから仕方なく、ひそかに、象徴的に、あるいは比喩的に教えてあげるのです。そのように教えてあげたのが、今日の「善を行いなさい」、「積善しなさい」という言葉だ、という事実を知らなければなりません。
(65-118 ~ l19、1972.11.5)
悪の人になるには、教育は必要ありません。教育だけでなく、何も必要ありません。悪の人になろうとすれば、何も教えなくても、すぐに悪くなることができるのです。ここには、教育が必要ありません。悪の人になりなさいと教育しなくても、自動的になれるというのです。しかし、善の人になろうとすれば、自動的になるのはそれほど簡単ではありません。したがって、善の人にするためには教育が必要なのです。すなわち、善に従って行動するためには教育が必要だというのです。善と悪が行く道は、お互いに相反する道なので、善を行っために行く道は、決して簡単な道ではありません。
(39-23、1971.1.9)
教育は、あらゆる文明の利器を活用して受けるのですが、知識教育、体育、技術教育はもちろんであり、祝福家庭を土台とした心情教育と規範教育を優先することによって、天道に従う選民を育てる教育となります。
(269-156、1995.4.17)
アダムとエバを中心として、子女教育の材料が出てこなければなりません。また、兄弟教育の材料、それから夫婦教育の材料、父母教育の材料、そして家庭がどのように育つという材料、氏族がどのように育っていくという氏族的材料が出てこなければなりません。
(233-336、1992.8.2)
家庭は、人生において最も重要な愛の学校です。子女たちは、家庭圏において父母だけが行うことのできる愛の教育、情緒教育を通して、心情(注2)の深さと幅を育てます。これが子女の人格をつくる礎石となります。また、家庭は、子女に美徳と規範を教育する学校です。人は、このような情緒教育と規範教育を受けた土台の上で、知識教育、体育、技術教育を受けなければならないというのが天道です。
(271-80、1995.8.22)
私達が生まれるとき、どのように生まれますか。父母を中心として生まれるとき、新郎と新婦として生まれるのではありません。息子、娘として生まれ、愛の教育を受けるのです。そうではないですか。愛の教育を受けなければなりません。その父母は、息子、娘にどのような教育をしなければなりませんか。
知識教育をするのではありません。愛の教育をしなければならないのです。互いに一つになる教育をしなければなりません。天が喜ぶ父母であり、また母が喜ぶ父であり、父が喜ぶ母であり、二人とも喜ぶと同時に私が喜ぶ父母であり、父母が私を喜び……。
そのようになれば、神様を中心として見ても、アダムとエバを中心として見ても、四位基台です。すべて四位基台だということです。このように見ても、あのように見ても、すべて四位基台だというのです。ですから、神様の愛を中心として、神様に愛の教育を受けなければなりません。それでは、その起源はどこでしょうか。人間から始まるのではありません。神様が父母なので、神様からアダムとエバは愛の教育を受けなければならないのです。そのアダムとエバの価値基準の設定は、どこからなされるのですか。神様の愛の教育からです。
それでは、愛の教育を受けるとき、いつまで受けるのですか。父が知るすべての価値の基準を推し量ることができる時まで、言い換えれば、成熟する時までは父母の愛を受けて育たなければなりません。ところが、アダムとエバが神様の愛を受けて育ったという記録が聖書にありますか。愛を受けたという話はなく、気分の悪い堕落したという話から始まっています。
(51-172 ~ 173、1971.11.21)
韓国の人たちは、死ぬ教育を受けてきたので、死ぬことには精通した人たちです。死ぬ教育、正しく死ぬことを教えてあげる教育は、道の精髄教育です。
(25-158、1969.10.3)
2. 教育は心を拡張し、新しい発達の可能性を開いていく
― 宗教経典 ―
深い学識があり、技術を身につけ、訓練をよく学び、ことばがみごとであること――これがこよなき幸せである。
スッタニパータ261(仏教)
知識より大きな財産はなく、無知より大きな貧困はなく、文化より大きな遺産はない。
ナフジュ・アル・バラーガ語録52(シーア派イスラーム)
先生がいわれた、「生まれつきは似かよっているが、しつけ(習慣や教養)でへだたる。」
論語17.2(儒教)
あなた達は真理を知り、真理はあなた達を自由にする。
ヨハネによる福音書8.32(キリスト教)
トーラーを研究することに努力する者、自由を得るだろう。
ミシュナ、アヴォート6.2 (ユダヤ教)
― み言選集 ―
勉強すること自体を好きな人は一人もいません。眠るのが好きな人はいても、最初から勉強するのが好きな人はいないのです。勉強することによって自分が活動できる範囲が広がるので、喜んでやるのです。
(36-120、1970.11.22)
人は、誰もが素晴らしい息子をもちたいと思います。それでは、素晴らしい人に育てるためには、どのように教育しなければならないのでしょうか。ある人は、幼稚園から大学まで学校がたくさんあるので、「そこで教育すればよい」と言うかもしれません。しかし、教育は一生の間、しなければなりません。精誠を尽くさなければなりません。父母が精誠を尽くして育てた子供に家門を任せる時、すなわちその代身者として立てる時は、父母の心と一致させ、その父母の因縁に従わせながら代身者として立てるのが常例です。
(24-257、1969.8.24)
「あ! 息子、娘に勉強させなければならない。勉強してこそ出世する」と言います。しかし、先生はそのように考えません。「知ってこそ出世する」と言いますが、そうではないのです。国をどれほど愛するか、神様をどれほど愛するかということが貴いのであって、神様をどれほど知っているかということが貴いのではありません。
(144-130、1986.4.12)
世界のすべての国の教育制度は、競争で勝利した者だけが獲得することができるという競争の長所と、それに最も適合する生活を、あまりにも強調しすぎてきました。これは、人類を一つの人間家族の構成員として導くことによって、平和な共存の世界に導くための健全な人間の努力を食い荒らす伝染病のようなものでした。いずれにしても、現在の人類は、知性人の間でそのような競争を強調することが変遷されつつあり、生存のための協同が不可欠な要素であることを悟り始めました。このような見解に照らし合わせてみるとき、教育の目的と教育哲学は、深層から変革を経なければなりません。(74-109、1974.11.22)
2) 知識探求
知識探求は、すべての人に与えられる義務である。教育とたゆまない学習は、その人をより優れた高貴な存在として高揚させてくれる。この節では、知識探求の様々な側面に対して扱った章句を載せた。第1に、真理探究は宗教的義務である。そのような探求が私達を真理が始まった宇宙の根源に連れていってくれるだろう。第2に、学習の重要な効果は自分を正しく知ることである。私達がどれほど知らないかを含め、無知の範囲を悟ることまでここに含まれる。第3に、知識は自然に与えられるものではない。理解したのちに消化してこそ、自分のものになる。したがって、学生たちは、あらゆる視角で知識を理解するためにこつこつと努力する。第4に、探求は広範囲になされなければならず、科学を含むすべての宗教と文化までも包容しなければならない。この節に載せた文鮮明先生のみ言の一部は、教授、科学者の集いで語られたみ言である。それ以外に、個人的真理探究過程を説明していらっしゃる。
1. 神様と神的原理は理解の出発点
― 宗教経典 ―
信仰がなければ知識はあり得ず、知識がなければ徳行はあり得ない。徳がなければ救済はあり得ず、救済がなければ完成(涅槃)もまたあり得ない。
ウッタラッジャーヤ・スートラ28.30 (ジャイナ教)
主を畏れることは知恵の初め。
箴言9.10(キリスト教)
あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。
ヤコブの手紙1.5(キリスト教)
私の言葉も私の宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。しかし、私達は、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません。私達が語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神が私達に栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。
コリントの信徒への手紙一2.4 ~ 7(キリスト教)
真実のみ勝つ。虚妄はしからず。真実によりて天神の路も作られたり。この路を辿りて、聖者達はその願望を成就して、真実在なる至上の宝蔵のある処(至上界)へと登りゆくなり。
ムンダカ・ウパニシャッド3.1.6 (ヒンドゥー教)
学びにつとめる人こそ、この大地を征服し、閻魔の世界と神々とともなるこの世界とを征服するであろう。わざに巧みな人が花を摘むように、学びにつとめる人々こそ善く説かれた真理のことばを摘み集めるであろう。
法句経45(仏教)
信じれば理解できる。ゆえにあなたが信じていることを理解しようとせず、あなたが理解していることを信じよ。イザヤ書の教えのように。「信じなければ、あなたがたは確かにされない」(イザヤ書7 章9 節)。
アウグスティヌスヨハネ福音書注解29.6(キリスト教)
道徳的道理を注意深く熟考し、その源泉を養成せよ。
朱熹(儒教)
― み言選集 ―
哲学が追求する目標、すなわち、真理を通じて最後の目標について追求していったり、あるいは、存在の起源を掘り下げていっても、必ずここには神様という問題が介在し、超越者、絶対者という名詞が介在するのです。それはなぜそうなのでしょうか。絶対者と関係を結ばなくては、どんな学問や、存在価値も、その起源が解決できないからです。それで人間は、深刻な場では必ず、真を通じて解決しようとしたのです。
(24-318、1969.9.14)
真理は一つだというだけでなく、それは自然と人間世界を支配する一つの原理でもあります。この原理は、宇宙万象の根源です。人間にとっても、この原理は、霊性と肉性の調和を通した人格を完成し、真、善、美を実現するように導く真の愛の絶対価値なのです。
私は、これまでの神本主義や人本主義、そして物本主義の主張が相互和解できない価値の衝突ばかりだとは見ていません。かえって一つの原理、絶対価値の未完成的で一面的な表現であり、不完全な主張だったと見ています。人間と現実世界の様々な問題を根本的に解決するためには、既存の主義や主張を飛び越え、全体を収拾できる絶対価値、一つの原理を探し出さなければなりません。
絶対価値は、究極的に神様に対する根本的な質問にまで至ります。神様が存在されると肯定することは、自然界および人間界に恒久的に作用する、一つの普遍的原理の存在を認めることです。この土台の上で、相対的なものとして現れる価値は、絶対的価値の土台の上に相互に密接な関係があるものと理解できるのです。
(170-268、1987.11.27)
2. あなた自身を知れ
― 宗教経典 ―
かれはみ心にかなう者に、英知を授けたもう。英知を賜わった者は、まことに、有り余るほどの恩典を賜った者である。だが思慮ある者のほかは、何人も訓戒に留意せぬ。
クルアーン2.269 (イスラーム)
他人を知るものが智のある人であり、
自己を知るものが目覚めた人である。
道徳経33(道教)
孟子がいわれた。「君子たるものが道に深く到達するために、いろいろ工夫をこらすことが必要なのは、道を十分に会得して自分のものにしようと思えばこそである。……。」
孟子IV.B.14 (儒教)
われは自分が何をなしているかを知らず。われは締め出されて彷徨し、自らの意に苦しめられる。原初の真理がわがもとに来たるとき、われはその同一の言葉の分け前にあずかる。
リグ・ヴェーダ1.164.37(ヒンドゥー教)
知ることのできないものを知るのが最上である。そして、これを知らないのが欠点である。
道徳経71(道教)
もしも愚者がみずから愚かであると考えれば、すなわち賢者である。愚者でありながら、しかもみずから賢者だと思う者こそ、「愚者」だと言われる。
法句経63(仏教)
古くしかも新しい美よ、私があなたを愛したのはあまりにおそかった。私があなたを愛したのはあまりにおそかった。あなたは私のうちにおられたのに、私は外にあってむなしくあなたを外に求めた。そして私は醜い姿をして、あなたの創造された美しいものの中に突進した。あなたは私とともにおられたのに、私はあなたとともにいなかった。あなたのうちに存在しなければ、まったく存在しないものが、私をあなたから遠ざけていたのである。
アウグスティヌス告白10.27(キリスト教)
吟味のない生活は、人間の生きる生活ではない。
プラトンソクラテスの弁明38(ヘレニズム)
私は私が無知だという事実以外には何も知らない。
ソクラテス(ヘレニズム)
― み言選集 ―
今、皆さんの位置を知らなければ、航海するときに緯度や経度が何度なのか分からずに行くのと同じです。自分がどの位置にいるのかを知って、自分が方向を定めなければなりません。自分が行く道を定めなければならないのです。
(120-303、1982.10.20)
睡眠薬のようなものを飲んで自殺する人が多いでしょう? それでは、なぜ死ぬのですか。自分がなぜ生まれたのか、目的を知らないからです。なぜ死ぬのか、なぜ生まれたのかということを知らずにいます。哲学の入門で、最初に問うことが人生とは何か、その次に、人間はなぜ生まれたのかということです。
(222-70、1991.10.28)
人間は、善の欲望を生ぜしめる本心というものがそもそもいかなるものなのか、また、この本心に反して悪の欲望を起こさしめる邪心というものがいったいどこから生じてくるものなのか、さらにまた、人間にこのような矛盾性をもたしめ、破滅を招来せしめるその根本原因はいったい何なのかなどという問題に対しては、全く無知なのである。
それゆえ、我々が悪の欲望を抑え、善の欲望に従い、本心が指向する善の生活をなすためには、この無知を完全に克服して、善悪を判別できるようにならなければならないのである。
原理講論、総序
真理は、永遠不変の中心を備えています。それでは、私達は、この悪の世の中でどのように善悪を分別しながら真理を求めていかなければならないのでしょうか。自分を中心とする心を捨て、常に低い位置に下りていかなければなりません。聖書にも、「自分を低くする者は高くされるであろう」とあります。(注3)
(2-138、1957.3.17)
知ってみると多くの面において「あ! 足りないな」と言う、これが良い賜である。
御旨の道、指導者
3. 教師の権威ではなく、自らの包括的な研究によって理解せよ
― 宗教経典 ―
伽藍衆よ、汝等は風説を信ずる勿れ、伝説を信ずる勿れ、憶説を信ずる勿れ、蔵〔経〕の教〔と合する〕とて信ずる勿れ、尋思に基きて信ずる勿れ、理趣に基きて信ずる勿れ、因相を熟慮して信ずる勿れ、審慮し認許せる見〔と合する〕とて信ずる勿れ、〔説者が〕堪能なりとて信ずる勿れ、沙門は我等の師とて信ずる勿れ、伽藍衆よ、もし汝等がただ自ら、この法は不善なり、……有罪なり、と覚るならば、汝等はその時は〔彼を〕断つべし、……もし汝等がただ自ら、この法は善なり、無罪なり、と覚るならば、その時は具足して住せよ。
阿含経増支部i.190 ~ 91(仏教)
知識の探求はすべてのムスリムに付加された義務である。
イブン・マージャおよびバイハキ・ハディース(イスラーム)
彼はいにしえのすべての人の知恵を詳しく調べ、預言の書の研究にいそしみ、高名な人々の話を心に留め、たとえ話の複雑な道へと分け入り、格言の隠れた意味を詳しく調べ、たとえ話のなぞじっくり考える。彼は身分の高い人々に仕え、為政者たちの前にも出入りする。見知らぬ人々の国を旅し、人間の持つ、善い面、悪い面を体験する。
シラ書〔集会の書〕39.1 ~ 4(キリスト教)
究理は井戸を掘るのと同じだ。もし私達が持続的に掘れば、私達は澄んだ水に到達するだろう。最初それはぬかるみだが、だんだんと掘り出していけば、自然に澄んでくるだろう。
朱熹(儒教)
私は多様な相反する意見を収拾し、真理探究の限界点まで自分たちをむち打ってみなさいと、若い読者たちに語りたいと思います。そうすれば、彼らの知恵が探求と共に精巧化されます。疑心を通して探求が始まり、探求を通して真理を知っていくことができます。
ピエール・アベラールカソリック神父たちの多様な観点に対する探求(キリスト教)
人生に有益な学びにおいて、最も有用な部分は、事実でないことを学ばないことである。
アンティステネス(ヘレニズム)
自由に思考する者たちは、自分たちの慣習、特権、信念と衝突することを理解するにおいて、偏見と恐れなく、喜んで彼らの心を用いる人々である。このような心の状態はよくあることではないが、正しい思考のためには必須的である。それがなければ討論は無益なものよりもっと悪いものになる。
レフ・トルストイ(ヘレニズム)
― み言選集 ―
宗教の究極的な目的は、まず心をもって信じ、それを実践することによって初めて達成されるのである。ところで、信ずるということは、知ることなしにはあり得ないことである。
原理講論、総序
皆さんは、自分にぼんやりと教えてくれるものがあったとしても、むやみに動いてはいけません。はっきりとした真理による方向がなければ、絶対に動いてはいけないのです。たとえ誰かが皆さんにある新しい事実をはっきりと教えてくれたとしても、それをそのまま信じずに、必ず皆さんよりアベル的な人と(注5)相談しなければなりません。
(3-212、1957.11.1)
これまでの哲学や宗教が多大の貢献をなしたことは事実である。しかしながらその反面、それらが我々にあまりにも多くの精神的な重荷を負わせてきたということも、また否定し得ない事実であろう。歴史上に現れたすべての哲人、聖賢たちは、人生の行くべき道を見いだすべく、それぞれその時代において、先駆的な開拓の道に立たされたのであるが、彼らが成し遂げた業績はすべて、今日の我々にとってはかえって重荷となってしまっているのである。
このことについて我々はもう一度冷静になって考えてみる必要があるのではなかろうか。哲人の中の誰が我々の苦悶を最終的に解決してくれたであろうか。聖賢の中の誰が人生と宇宙の根本問題を解決し、我々の歩むべき道を明確に示してくれたであろうか。彼らが提示した主義や思想は、むしろ我々が解決して歩まなければならない種々様々の懐疑と、数多くの課題とを提起したにすぎなかったのである。
そうして、あらゆる宗教は、暗中模索していたそれぞれの時代の数多くの心霊の行く手を照らしだしていた蘇生の光を、時の流れとともにいつしか失ってしまい、今やそのかすかな残光のみが、彼らの残骸を見苦しく照らしているにすぎないのである。
人間が、根本的に、神を離れては生きられないようにつくられているとすれば、神に対する無知は、人生をどれだけ悲惨な道に追いやることになるであろうか。しかし、神の実在性に対しては、聖書をいかに詳しく読んでみても、明確に知る由がない。ましてや神の心情についてはなおさらである。
原理講論、総序
私がこの道を出発するときにも、「神様、いますか」と最後まで調べて、神様がいらっしゃることをはっきりと知って出発しました。
(13-201、1964.3.15)
真理を探究するにおいて、既成教会のように聖書だけを見るのではありません。どれほど膨大な測りではかり、どれほど掘り下げたか考えてみてください。実験する人は、もしかするとこれが合っているのではないかと、どれほど実験して合わせていぎますか。同じことです。真理、原理を探し出した道も同じです。そのようなことを見れば、先生がたくさん発見したというのです。
(93-69、1977.5.1)
分別のない先生を天が教えてくれたでしょうか。天がどれほど大騒ぎして苦しめたかというのです。愛は直短距離を通るということと宇宙の根本は父子の関係だということ、その二つしか教えてくれませんでした。それをもって、すべて解かなければなりません。それで、原理の世界、父子の関係、父子は世の中の血筋をもったその父子ではありません。新しい根源から解いていかなければならないのです。それで堕落の原理を知らなければなりません。私が根本をすべて明らかにしました。それがすべて宇宙の法です。天法です。
(376-315、2002.4.29)
私は聖書を見るとき、「これは何か」と深刻に考えれば、その問題を解決するために1 年、2年、3年でも精誠を尽くします。「ああ、これはこういうことなのだなあ」と思うところまで根を抜いてしまうのです。
(35-38 ~ 39、1970.9.27)
4. 主題に対するあらゆる側面の探求
― 宗教経典 ―
先生がいわれた、「君子はひろく親しんで一部の人におもねることはないが、小人は一部におもねりあってひろく親しまない。」
論語2.14 (儒教)
私はマハビラに対する良い偏見に捕らわれておらず、またカピラや他の師に対する反感をもってもいない。私はただ真の道理に達する説法を受け入れるだけである。
ハリバドラロックタットパーナルナヤ38(ジャイナ教)
君子に三つの憂いがある。まだ(道を)聞かぬうちは、聞くことのできないのを憂える。既に聞いてからは、それを習って覚えこむことのできないのを憂える。既に覚えこんでからは、それを実行することのできないのを憂える。
礼記18.2.2.20 (儒教)
ペン・チョマは言った、誰が賢明な人か。それはすべての人から学ぶ人だ。これは詩編の教えと同じだ。「私はあらゆる師にまさって目覚めた者です」(詩編119 章99 節)。
ミシュナ、アヴォート4.1 (ユダヤ教)(注6)
ひとが何か或るものに依拠しで「その他のものはつまらぬものである」と見なすならば、それは実にこだわりである、と「真理に達した人々」は語る。それ故に修行者は、見たこと・学んだこと・思索したこと、または戒律や道徳にこだわってはならない。
スッタニパータ798(仏教)
一つの哲学的な意見を理解しようとすれば、他の所見の包括的学習を通してせよ。
アーヤーランガ・スッタ5.113 (ジャイナ教)
私は私ができる限り、私自身の宗教だけでなく、他の宗教に対しても注意深く学ぼうと思う。
モハンダス・カラムチャンド・ガンディー(ヒンドゥー教)
宗教のない科学はあしなえであり、科学のない宗教は盲人である。
アルベルト・アインシュタイン私が見る世界
― み言選集 ―
立派な人になろうとすれば、師の立派な教訓をすべて自分のものにしなければなりません。そうでなければ、立派な人になることはできません。幼稚園から小学校、中高等学校、大学、大学院を出て博士になったとしても、世界的に権威のある学者たちのあらゆる知識をすべて自分のものとして吸収し、その総合的な価値を自らの生命要素とし、ここに趣の違う一つの新しい善の実体として登場する立場に立たなければなりません。そうしてこそ、世界的な学者になることができ、世界的な思想家になることができるのです。これは善の志を成していく道においても同じです。
(35-327 ~ 328、1970.11.1)
様々な研究分野においての知識というものは、互いが関連性をもっているのですが、ともすると学者たちは自分自身の研究分野にばかり固着する傾向をもちやすいのです。極端な専門化は、それを追求する個人以外のほかの人には、ごくわずかな意味だけを与える知識をもたせるようになります。発見の喜びというものは、学者をしてほかの分野の人たちも理解できるように伝えたいと思わせるものです。
私達の知識が皮相的で不確実なものにならないようにするために、ほかの人たちの意見を聞くことを喜ぶことができなければなりません。宗教者たちは、特にルネサンス以降、科学の発展によって脅威を受けてきました。しかし、いわゆる宗教者という人たちが、発見する知識と科学技術に対する理解がなければ、果たして飢餓や疾病、老衰と不十分な衣食住問題をどのように解決することができるでしょうか。科学はこのような目的のために大きく貢献してきたことは明白です。
一方、人間と宇宙の神秘を考察するにおいて、宗教と科学は、二つともすべて霊感と論理と観察を通して宇宙と人類を存在するようにしたその原因を説明しようとしたのです。人間の起源と目的に関するそのような考察は、私達人間がどこまでも人間であるがゆえに、そのように継続されてきたのですが、それはまた、私達の消えることのないエネルギー源も形成させてきたのです。このような意味で20 世紀の宇宙学者と生物学者たちは、神学者たちと哲学家たちの関心事に関係をもっているのです。
(95-202 ~ 203、1977.11.25)
知恵は、研究と学びによって段階的に得られる知識とは異なり、神様の祝福である霊感によって得られます。人間の邪悪で利己的な心についていっては霊感が開発されません。知恵の中の知恵は神様の心情と理想を知ることです。
(219-105 ~ 106、1991.8.26)
3) 伝統
世代を経て蓄積された知恵が伝統である。伝統は、歴史研究、大衆儀礼と家庭の中で伝えられる警句と民話などを通して伝わっていく。この最高の教育資料の中の一部には、善で自己犠牲的、模範的人生を生きた平民たちと偉人たちの話が含まれている。今日のように、有名人たちの文化と名声がいち早く伝わる時期に伝統を求めるのは簡単ではないが、伝統自体の重要性だけは看過することはできない。
家庭は伝統の中心に立っている。父母は、教えと先例を通して、子女にそれらの価値と規範を伝授する。望ましい父母は、子女が父母の道に従ったり、さらには父母よりも立派な人生を生きるよう指導する。堅固な家庭的基礎を通して、私達は次の世代に知恵を伝授してあげ、その伝統を維持するよう強化していくのである。
― 宗教経典 ―
伝統は消えない。
アカン族の格言(アフリカ伝統宗教)
主はこう言われる。「さまざまな道に立って、眺めよ。昔からの道に問いかけてみよ。どれが、幸いに至る道か、と。その道を歩み、魂に安らぎを得よ。」
エレミヤ書6.16(キリスト教)
君子は過去の聖賢の言行を多く認識し、その徳を畜養することにつとめる。
易経26、周易上経、大畜(儒教)
して、それらはみな、御身の御心と正善なるスプンタ・マンユのそれとを通して、人の行為にたいして授けられるのですが、かかる人とは、マズダーよ、礼讃に際し、讃嘆の歌をもって御身たちさまをつつむときに、その人の魂が天則と一致しているもののことです。
アヴェスター・ヤスナ34.2 (ゾロアスター教)
格言(伝承された知恵)がなければ、言語は肉のない骨であり、魂のない体で
チュルー族の格言(アフリカ伝統宗教)
主はヤコブの中に定めを与え、イスラエルの中に教えを置き、それを子孫に示すように、私達の先祖に命じられた。子らが生まれ、後の世代が興るとき、彼らもそれを知り、その子らに語り継がなければならない。子らが神に信頼をおき、神の御業を決して忘れず、その戒めを守るために。
詩編78.5 ~ 7(キリスト教)
子らよ、父の諭しを聞け。分別をわきまえるために、耳を傾けよ。私は幸いを説いているのだ。私の教えを捨ててはならない。私も父にとっては息子であり、母のもとでは、いとけない独り子であった。父は私に教えて言った。「私の言葉をお前の心に保ち、私の戒めを守って、命を得よ。私の口が言いきかせることを忘れるな、離れ去るな。知恵を獲得せよ、分別を獲得せよ。知恵を捨てるな。彼女はあなたを見守ってくれる。分
別を愛せよ。彼女はあなたを守ってくれる。
箴言4.1 ~ 6(キリスト教)
先生は……子供たちが今度はさらに読み書きができるようになり、書かれたものを理解しようとするころになると、彼らにすぐれた詩人たちの作品を教室であてがって読ませ、それを暗記するようにいいつける。その中には数多くの訓戒がふくまれているし、むかしのすぐれた人物たちを描写し称揚し讃美した言葉が数多くある。こうして子供たちがそれに讃嘆しながら見ならい、そのような人物になろうとあこがれるようにしむけるのである。
プラトンプロタゴラス325e (ヘレニズム)
先祖たちが語っていた徳は、完璧に消化し、徹底して洞察されたとき、初めてすべて自己修養に有用なものとなり、日々行うことができ、徹底した確固たる修行になり得るのである。
朱熹(儒教)
あなたの時間を人々が書いた文を読み、あなた自身を改善することに用いてください。そうすれば、あなたは人々が精いっぱい努力して得たものに簡単に到達するでしょう。
ソクラテス(ヘレニズム)
もし私が人よりも遠くを見据えてきたとすれば、それは偉人の肩に立っているからである。
アイザック・ニュートン
― み言選集 ―
善が一瞬のうちに成されることはありません。善の人になろうとすれば、必ず過去から受け継いでこなければなりません。ですから、教育が必要です。学校に行って学ばなければなりません。何を学ぶのでしょうか。昔から、歴史過程において善の道を築くために犠牲になった人たちは、豊かに暮らした人ではありません。ですから、犠牲になっていった人たちの歴史的思想を受け継がな
ければなりません。
(50-101、1971.11.6)
その国が栄えるためには、どのようにしなければなりませんか。歴史を相続しなければなりません。年を取った人を好む人は、歴史を相続することができるのですが、相続するときは幼いころから相続しなければなりません。ですから、子女たちは昔話を好みます。幼い子女たちは、木で言えば新芽と同じなので、歴史的なエキスをそっくりそのまま受けなければならないからです。昔を好むというのは、そのような意味で通じるのです。鼻をずるずるさせて泣く子供に、「泣かなければ昔話をしてあげよう」と言えば、すぐに泣きやんで「話して」と言います。本当にそれを喜ぶのです。お乳を飲む時間以外は、それが一番うれしいようです。それはなぜでしょうか。歴史を相続してくるからです。天地の道理がそのようになっているからです。
(28-188、1970.1.11)
教育するためには、教材が必要です。国を代表して教えようとすれば、国を代表する教材が必要ですが、その教材の材料をどこからもってくるのですか。その材料は、その国のために、その民のために犠牲になり、誰よりも苦労した善の君主と善の民でなければなりません。民の中でも苦労した民でなければなりません。
(65-216、1972.11.19)
東洋思想と西洋思想が連結される可能性があるとすれば、何でしょうか。何かの伝統があるとすれば、何かというのです。お金ですか、知識ですか。それも必要です。しかし、それは外的に必要です。お金では下がっていきます。知識はなくても上がっていくことができるものがあるとすれば、いつでも上がっていくことができるものが一つあるとすれば、そこに何を入れたいと思うのかというのです。それが正に愛です。
このように考えるとき、家庭をこのようにしっかりと永遠に一つにまとめるための伝統がなければならず、国を一つにまとめて永遠に残すことができる伝統が必要であり、世界を一つにまとめて永遠に残すことができる伝統が必要だという結論が出てきます。
その内容が愛を中心とする内容でなければなりません。家庭においては父母の愛を中心として完全に永遠を思い描く、そのような愛が必要です。そのような父母の愛があれば、その父母の愛は一時だけあるのではいけません。それを永遠に受け継ごうとすれば、受け継ぐことのできる伝統基盤である子女がいなければなりません。
それでは、それを完全に受け継いで、より大きくしようとすればどのようにしなければなりませんか。昔よりは優れていなければなりません。そのような教育方法が必要です。それで、父母は子女に対して教育するとき、「お前は私より立派でなければならない」と言うのです。何であっても優れていなければなりません。立派な人になりなさい! このように強要することが父子の関係になければならない、という結論が出てくるのです。
そのようになりなさいと言い、原動力を起こすのを誰がしなければなりませんか。父母が子女にしなければなりません。そうでなければならないのです。父母は子女に対してまあまあでいることができないようにして、「お前はこのような人にならなければならない」ときちんと言いきかせ、私よりもっと立派になれと、すべてのものを犠牲にさせながらその道に追いやるのです。
(95-49、1977.10.23)
先生は、一生の間、そのような闘いをしてきました。このように闘ってきたすべての基盤を、ただで皆さんが相続するのです。その代わり、伝統を受け継ぐのです。死んでもこのように死に、生きてもこのように生きる伝統を受け継がなければなりません。
皆さんは、伝統を受け継ぐだけでなく、教育をしなければなりません。誰にですか。皆さんの息子、娘と、皆さんの夫、皆さんの妻を教育しなければなりません。「私の夫は素晴らしい方だ」、「私の妻は素晴らしい方だ」と言って、尊敬しなければなりません。夫婦がそのようになって、息子、娘たちを教育しなければなりません。その次には、正しく教育するだけでなく、正しく実践しなければなりません。これが3大原則です。
(113-303 ~ 304、1981.5.10)
4) 経典と解釈
経典は、宗教的知識の基礎である。すべての高等宗教は、創始者が悟った神的真理と霊的教えを基盤として定礎され、それが経典に収録された。したがって経典は、信仰者たちの人生を導いてくれる根幹になる。一方、新しい概念と革新的神学的思想が登場したとき、経典はこれらを評価できる不変の基準でもある。規則的な経典学習は、日常の中で神様の導きを発見し、知恵を得るために奨励されている。
しかし、経典を正確に解釈するのは簡単ではない。経典の章句の意味に対する不一致は、これまで信仰共同体において絶えず紛争と分裂を招来してきた。その一つの原因は、経典が比喩と象徴的言語で表現されたためである。したがって、比喩と象徴を理解するためには、霊的分別力と、時には聖霊の力が必要だ。
また、一つの論争は、経典を文字的にのみ理解するのか、時代的風潮に従って考慮するのかということである。宗教は、常に経典の文字に忠実でありながちも、新しい霊的洞察力にも開放的であり、そのバランスを失ってはならない。仏教用語で「いかだ」があるが、これは私達がそのいかだに乗って桎梏の海を渡り、祝福されたあの地に向かって自由に進んでいける道具という意味である。しかし、経典に書かれたそのごとくにのみ意味を理解すれば、これからの霊的成長には荷物になることもある。過去の解釈は、新しい解釈に譲歩しなければならない。そうでなければ、ちょうどイエス様のときのように経典自体がつまずきの石になってしまうこともあり得る。
この節は、神様の無限の真理を有限の言語でしか表現できない経典の限界を指摘して締めくくっている。イエス、仏陀、そしてほかの宗教創始者たちは、天の真理に対して自分たちが知っていた一部だけを教えざるを得なかったのであり、したがって当時の弟子たちは、それを理解できる水準によって伝えざるを得ない環境圏に生きていた。文鮮明先生は、すべての経典は神様の創造目的完成に向かう人類を先導するために、時代的な時と場所によって許諾された神様の真理を収めていると語られる。しかし、今もなお明らかにされていない天の真理が残っているため、世界は科学時代にふさわしく表現された新しい真理を迎えなければならないだろう。
1. 経典の規則的探求を通じた教訓修得
― 宗教経典 ―
私はあなたの律法を、どれほど愛していることでしょう。私は絶え間なくそれに心を砕いています。
詩編119.97(キリスト教)
だがあなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。あなたは、それをだれから学んだかを知っており、また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスヘの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。
テモテヘの手紙二3.14 ~ 17(キリスト教)
賢者たちが聖なる言葉から見た行為は、セベダ聖殿に明快に言明されており、あなた達真理を愛する者たちよ、身につけて遵行せよ!これが善行の世界に行くあなた達の変わらぬ道であることを忘れてはならない。
ムンダカ・ウパニシャッド1.2.1 (ヒンドゥー教)
あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。今日私が命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。(注7)
申命記6.5 ~ 9(キリスト教)
われは真理をもってクラーンを下したので、真理によってそれは下った。そしてわれは、吉報の伝達者または警告者として、なんじをつかわしたのみ。これはわれが明白にしたクラーンで、なんじをしてゆっくりと人びとに、読唱させるためで、少しずつこれを啓示した。言え「おまえたちがクラーンを信じても、また信じなくとも、以前に知識を賜わった者たちは、かれらに対して読唱されるとき、必ずその顔を伏せて叩頭する、そして、祈って言う「私達の主の栄光をたたえまつる、まことに主のお約束は果たされました」。かれらは涙を流して顔を地に伏せ、謙譲のまことをつのらせる。
クルアーン17.105 ~ 9(イスラーム)
法華経を読誦する者があったら、この人は仏の飾りをもって自分を飾る人であると知れ。それは如来を肩にかついでいることになる。
法華経10(仏教)
私はあなたに信頼を与える。あなたがそれに執着する限り、誤ることはないだろう。それは神が天から地上に下された綱であり、正にクルアーンである。
ダーリミー・ハディース1(イスラーム)
経典とその趣旨にすべての心を全一させよ。これによって生死の輪廻が止まるだろう。
アーヤーランガ・スッタ5.122 (ジャイナ教)
聖なる言葉が師であり、これに対する至極の瞑想により私がその弟子になるがゆえに、不可解なその教えに沈潜することによって私が迷いの鎖から抜け出るだろう。(注8)
アーディ・グラント、ラームカリー・シッダ・ゴーシュトM1p.943 (シーク教)
トーラーに努力する者は、多くのものを得るだろう。さらに全世界は彼に照らされるだろう。彼は友、愛される者、万民の愛する人、人類の愛する人と呼ばれるだろう。彼は謙遜さと敬虔さの服を着ているからである。トーラーは、彼を正義で、敬虔で、正直で、真実な人に導く。それだけでなく、罪を遠ざけ徳に近づくように導いてくれる。
ミシュナ、アヴォート6.1 (ユダヤ教)
神の家の1つに集まって神の書を朗読し、互いにそれを学び合う者たちの上には、必ず静けさが訪れ、慈悲が彼らを包み、天使たちにとり囲まれた彼らの名は、神が自らの近みにとどめおく者として読みあげられるであろう。
ナワウィー40 のハディース36(イスラーム)
二人が共に座って交わす言葉がトーラーに従うものであれば、シェキーナーが彼らと共にあるだろう。
ミシュナ、アヴォート3.2 (ユダヤ教)
二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである。
マタイによる福音書18.20 (キリスト教)
― み言選集 ―
宗教の究極的な目的は、まず心をもって信じ、それを実践することによって初めて達成されるのである。ところで、信ずるということは、知ることなしにはあり得ないことである。我々が聖書を研究するのも、結局は真理を知ることによって信仰を立てるためである。
原理講論、総序
それゆえに、復活摂理をなさるに当たっても、神の責任分担としての摂理のためのみ言がなければならないし、また、堕落人間がそれ自身の責任分担として、み言を信じ、実践して初めてそのみ旨が成し遂げられるようになっている。
原理講論、復活論2.1
ヨハネによる福音書5章24 節を見ると、「私の言葉を聞いて私をつかわされたかたを信じる者は永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである」とあります。それは、火で燃やしてしまうということではないというみ言です。なぜみ言を信じなければ審判するのでしょうか。エデンでみ言を信じずに不信の先祖になったので、これを除去し、これ以上の信仰でみ言を信じなければならないからです。これを凌駕できる信仰がなければ、戻っていくことができません。旧約聖書を信じていた人たちは、イエス様のみ言に対するとき、メシヤとして立ったイエス様のみ言を絶対的に信じなければなりませんでした。
(69-128、1973.10.23)
皆さんが聖書を見るときは、最も悲しいものを見なければなりません。天国に関する内容や黙示録のようなものは外しても、最も悲しいものを見なければなりません。皆さん、ある人の親しい友人になろうとすれば、その人の最も悲しい事情に通じることができ、理解できなければならないではないですか。同じことです。私達が神様の息子、娘の位置を求めていくにおいても同じです。
そのような内容のみ言を皆さんは求めていかなければなりません。そのようなみ言がこの地上に現れ、皆さんがそのみ言を聞くようになるときには、おなかの中から絶えず悲しみがわき上がってくるのです。自分でも分からないうちにおなかの中から痛哭がわき上がってきます。10 日、100 日、1000 日泣いても、絶えず泣きたくなるのです。そのような感じを与えられるみ言がこの地上に出てきてこそ、神様の「複葬(仮葬したのちに定期間をおいて骨を取り出して行う葬式)」をすることができます。そのようなみ言を探し出さなければなりません。
(10-137、1960.9.18)
神様が願う教育をしなければなりません。どの世界に行っても訓読会(注9)をしなければならないのです。村に訪ねていけば、私達がすべきことは何ですか。あいさつよりもっと重要視しなければならないのが訓読会です。訓読会を好きになれば、天国に行きます。訓読会を一生懸命にやれば、霊界の協助を受けることができるのです。
神様のみ言を訓読する所に神様が共にいらっしゃいます。霊界にいる神霊が再臨し、霊人の再臨協助の役事が起きるのです。したがって、訓読は霊界を動員する道になります。聖霊の役事も、家庭を正しく立て、教会を復興させるために訓読会をしなければなりません。訓読会をする目的は、み言の本体であられる神様と真の父母様に似るということです。訓読会を通して真の家庭が一つになるように、私達も訓読会を通して真の家庭と一つにならなければなりません。
(321-32、2000.2.14)
2. 比喩で教える経典
― 宗教経典 ―
またこのクラーンの中で、われは各種の比ゆを人びとのために提示した、おそらくかれらは訓戒を受け入れるであろう。
クルアーン39.27 (イスラーム)
もろもろの生ける者たちに種々の欲望があり、深く心に執着するところがあるのを知って、その本性に随って、種々の因縁と喩えとことばと方便力とによって教えを説くのである。
法華経2(仏教)
イエスがひとりになられたとき、十二人と一緒にイエスの周りにいた人たちとが、たとえについて尋ねた。そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。それは、『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになるためである。」
マルコによる福音書4.10 ~ 12(キリスト教)
かの讃歌(rc)の字音(aksara)に於て、最高の天に於るあらゆる神々は坐せり。彼を知らずば讃歌を以て何をか為さん、實(げ)に彼を知れるものは悉くこれに集へり。
シヴェーターシヴァタラ・ウパニシャッド4.8(ヒンドゥー教)
聖書のもろもろの話は、トーラーに重ねて着せられた服にすぎない。それらをトーラー自体と理解する人たちよ、残念だ!
ゾハール、民数記152a (ユダヤ教)
かれこそは、この経典をなんじに下したまえる方で、その中のある節は決定的で、それらは経典の根幹であり、他の節は比喩的である。そこで心のよこしまな者は、比ゆ的の部分にとらわれ、その隠された意味の一致せぬ点を探し求めて、それに己れの解釈を加えようとする。だが神のほかには、その真の意味を知るものはないのである。それで知識の基礎が堅固な者は「私達はこれを信ずる、すべて主から賜わったものである」と言う。(注10)だが理解ある者のほかは、留意しないであろう。
クルアーン3.7(イスラーム)
何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。
ぺテロの手紙二1.20 ~ 21(キリスト教)
もしあなたがあなたの心の鏡で悪の塵を磨けば、あなたはすべての摂理において明白になる、万有を抱擁する神の言葉によって啓示された象徴的言語の意味を理解するようになり、神聖な知識の神秘を悟るようになるだろう。
確信の書68 ~ 69(バハイ教)
― み言選集 ―
神は、時ならぬ特に、時のことを暗示して、いかなる時代のいかなる環境にある人でも、自由にその知能と心霊の程度に応じて、神の摂理に対応する時代的な要求を悟るようにさせるため、すべての天倫に関する重要な問題を、象徴と比喩とをもって教示してこられたのである(ヨハネ16・25)。それゆえ、聖書は、各々その程度の差はあるが、それを解釈する者に、みな相異なる観点を立てさせるような結果をもたらすのである。教派が分裂していくその主要な原因は、実にここにある。ゆえに聖書を解釈するに当たっては、その観点をどこにおくかということが、最も重要な問題であるといわなければならない。
原理講論、再臨論2
今日、新郎が新婦を求めていくための書簡体で書かれた聖書のみ言には暗号が多くあります。なぜ暗号で語られたのでじょうか。心情の神様でいらっしゃるからです。聖書は誰も解けません。解けないのです。新郎と新婦だけが解けます。心情を通して侍る準備をした人だけが解けるのであって、そうでない人は解けないようになっています。ここにある暗号の正体は何でしょうか。新郎が来る門を開く秘訣ですが、その秘訣とは、何でしょうか。心情です。父母の心情は、幼い子供を抱いてお乳を飲ませるときや、その子供の頭が白く白髪になったときも同じです。その心情には差がないというのです。
ですから、私達は聖書に隠れているすべての心情の根源を開かなければなりません。知らなければならないということです。これを知るには、学士や博士が必要なのではありません。彼らがいくら解釈しても、学説は通り過ぎます。心情は論理によって支配することはできません。理論では体恤できないのです。体系によって方向を定めることはできないのです。なぜですか。心情は天倫と共に、自然と共に流れていくのです。聖書とは、学ばなくても知ることができ、感じることができる心情の流れと感じをもって解釈しなければ分かりません。学士や博士が主張する現代の神学思潮も通り過ぎていきます。しかし、心情の世界は通り過ぎていくことはありません。これをいわゆるアルファとオメガ、つまり最初と最後、始まりと終わりというのです。
(8-305 ~ 306、1960.2.14)
祈祷する人は、自然は第1の聖書だと言いました。第2ではありません。イスラエルの歴史をつづってきた聖書を見ても、内容を確実に知ることはできません。その内容を見て、先生がどれほど頭を振ったことか、分かりますか。それは占い師の占いのように、耳にかければ耳輪、鼻にかければ鼻輪(韓国の諺:解釈によってどうとでもとれるということ)なのです。現実を逃避するための方便です。ですから、事実の内容を判断して前後の事情を明らかにするのは難しいので、聖書よりも神様の造られた自然の世界が一番だというのです。
(20-271、1968.7.7)
旧約聖書のマラキ書は、新約聖書の黙示録に該当します。私達は、聖書が私達を天国に導く本なのかということをはっきりと調べてみなければなりません。今私達が生きている世の中は、天の国ではありません。サタンの国によって包囲されています。それで、サタンは、この世界に神様が情報員を送り、彼を通してみ旨を発展させ、サタン世界を突き、サタンを追放しようとしていることを知っているので、命懸けで反対するのです。歴史時代に神様が預言者たちを送るたびにサタンが捕らえて殺したのは、サタンが主管する国なので、そうならざるを得なかったのです。今日の宗教者、さらにはユダヤ教徒とキリスト教徒は、神様が送ってくれたサタン世界に対する情報員であるこどを知らなければなりません。
アメリカとソ連か闘うようになるとき、互いが怨讐の国に政府の情報員を送ります。CIAならCIAの局長が自分の要員を送るとき、最初から相手に作戦が分かるようにして送りますか。すべて秘密裏に暗号をもって通告することを私達は知っています。その暗号は、これを指示したCIAの局長一人しか知らないのです。それと同じように、聖書で最も重要なことは暗号で記録されているので、それは神様しか知りません。ですから、イエス様も終わりの日に関することは天使も分からず、自分も分からないと言いました。したがって、神様が終わりの日に暗号を解くことができる、またほかの預言者を送ることは間違いない理論的な事実だというのです。
アモス書第3章7節を見ると、神様はその隠密なみ旨をその僕、預言者に示さずしては摂理をされないということが指摘されています。ですから、神様と直接通じる一人が出てこなければならないという話になります。ですから、終わりの日には、頭に油を塗って密室に入り、神様に談判祈祷しなさいと教えてくれたことを知らなければなりません。
さあ、聖書は暗号で記録されたことを知りました。聖書をいい加減に解くと、審判を受けることを知らなければなりません。聖書に対してキリスト教は、何を、どのようにしなければならないのでしょうか。主のみ旨に従わなければなりません。同じことです。今までキリスト教の信者たちが、「私は信じて天国に行こう、私一人で救いを受けよう」と考えました。しかし、キリスト教の信者の責任は、自分が救援を受けることももちろん目的になりますが、その救援を受けて世界を救うことでなければなりません。これを知らなければなりません。
(73-207 ~ 208、1974.9.18)
3. 霊魂の通路にすぎない経典の文字に執着してはならない
― 宗教経典 ―
主マハビラがカウタマに言った。「ダルマが賢者たちによって直接顕示されないとき、それは言葉という網を通して現れる。推測はその窓を覆う網だ。多様な宗派と学派は、そのような間接的な洞察から出てくる。カウタマよ、あなたに提示された道は、賢者の直接的な道だ。勤勉に精進し、ダルマを見る賢者となれ」。
ウッタラッジャーヤー10.31 (ジャイナ教)
文字は殺しますが、霊は生かします。
コリントの信徒への手紙二3.6 (キリスト教)
大慧よ、如来は文字に堕するの法を説き給はず。(そは)文字は有無不可得なるが故なり。唯文字に堕せざるものを除く。大慧よ、若し人あり法を説いて文字に堕するあらば、皆これ狂説なり。何となれば諸法の自性は文字を離るるを以てなり。是の故に大慧よ、我が経中に、我は諸佛及び諸菩薩と興に一字を説かず一字を答へずと説く。何となれば、一切の諸法は文字を離るるが故に、義に随はずして説くに非ざればなり。
是の故に大慧よ、善男子善女人は応に言の如く義に執著すべからず。何となれば真実の法は文字を離るるを以てなり。大慧よ、譬へば人あり、指を以て物を指さんに、小児は指を観て物を観ざるが如く、愚疑の凡夫も亦復是の如し。言説の指に随って執著を生じ、命尽るに至るまで、文字の指を捨てず、第一義を取ること能はざるなり。
楞伽経76(仏教)
筌(うえ))は魚を捕らえるための道具である。魚をとらえてしまえば、筌のことは忘れてしまうものだ。わなは兎をとらえるための道具である。兎をとらえてしまえば、わなのことは忘れてしまうものだ。ことばというものは、意味をとらえるための道具だ。意味をとらえてしまえば、ことばに用はなくなるのだから、忘れてしまえばよい。私は、ことばを忘れることのできる人間を捜し出して、ともに語りたいものである。
荘子26(道教)
「比丘たちよ、大道を進んでいる人がいるとします。かれは、こちらの岸は危険で恐怖のある、向こう岸は安全で恐怖のない、大きな水の流れを見ます。かれにはこちらから向こうへ行くための、橋も渡し船もありません。そこでかれは、このように考えます。「これは大きな水の流れだ。
こちらから向こうへ行くための、橋も渡し船もない。私は草・木・枝・葉を集め、筏を結び、その筏により、手足でもって努力し、無事に向こう岸へ渡ってみてはどうであろうか」と。そこで、比丘たちよ、その人は草・木・枝・葉を集め、筏を結び、その筏により、手足でもって努力し、無事に向こう岸へ渡ります。
向こう岸へ渡ったその人は、このように考えます。「この筏は私に役立った。私はこの筏により、手足でもって努力し、無事に岸を渡った。私は、この筏を頭に乗せるか、肩に担ぐかして、好きなところへ出発してはどうであろうか」と。比丘たちよ、このことをどう思いますか。はたして、その人はそのように行なって、その筏について行なうべきことを行なう者となるでしょうか」と。
「そのようなことはありません、尊師よ」「では、比丘たちよ、どのようにすれば、その人はその筏について行なうべきことを行なう者となるでしょうか。比丘たちよ、ここで、岸へ渡ったその人がこのように考えたとします。「この筏は私に役立った。私はこの筏により、手足でもって努力し、無事に岸へ渡った。私は、この筏を陸地に引き上げるか、水に浸けるかして、好きなところへ出発してはどうだろうか」と。
比丘たちよ、このように行なえば、その人はその筏について行なうべきことを行なう者となるはずです。比丘たちよ、このように私は筏に喩えられる法を説きますが、それは渡るためであって、捉えるためではありません。比丘たちよ、そなたたちに説かれた筏に喩えられる法を理解し、そなたたちはもろもろの法をも捨てるべきです。ましてや、悪法についてはなおさらのことです。
阿含経中部I.134 ~ 35、蛇喩経(仏教)
― み言選集 ―
堕落した人間は神霊に対する感性が非常に鈍いために、大抵は真理面に重きをおいて復帰摂理路程を歩んでいくようになる。したがって、このような人間たちは、古い時代の真理観に執着しているがゆえに、復帰摂理が新しい摂理の時代へと転換していても、彼らはこの新しい時代の摂理にたやすく感応してついてくることが難しいのである。
旧約聖書に執着していたユダヤ人たちが、イエスに従って新約詩代の摂理に応じることができなかったという史実は、これを立証してくれる良い例だといわなければならない。
しかし、祈りをもって神霊的なものを感得し得る信徒たちは、新しい時代の摂理を、心霊的に知ることができるので、古い時代の真理面においては、相克的な立場に立ちながらも、神霊によって新しい時代の摂理に応じることができるのである。
それゆえに、イエスに従った弟子たちの中には、旧約聖書に執着していた人物は一人もおらず、もっぱら心に感応してくる神霊に従った人々だけであった。祈りを多くささげる人、あるいは良心的な人たちが、終末において甚だしい精神的な焦燥感を免れることができない理由は、彼らが、漠然たるものであるにせよ、神霊を感得して、心では新しい時代の摂理に従おうとしているにもかかわらず、体をこの方面に導いてくれる新しい真理に接することができないからである。
それゆえに、神霊的にこのような状態に処している信徒たちが、彼らを新しい時代の摂理へと導くことができる新しい真理を聞くようになれば、神霊と真理が、同時に彼らの心霊と知能を開発させて、新しい時代に対する神の摂理的な要求を完全に認識することができるので、彼らは言葉に尽くせない喜びをもってそれに応じることができるのである。
原理講論、人類歴史の終末論5.2
4. 経典は天の真理の限定された部分を教示
― 宗教経典 ―
たとえ、地上のすべての木がペンであって、また海がインクで、そのほかに七つの海をそれにさし添えても、神のおことばは、書き尽くすことはできぬ。まことに神は、偉力者・英明者であられる。
クルアーン31.27 (イスラーム)
真実を知るバラモンにとって、すべてのヴェーダは無用である。
バガヴァッド・ギーター2.46(ヒンドゥー教)
甕にくまれた海水は、海と呼ぶことはできず、海ではないと言うこともできない。それは、ただ海の一部だと言うことができる。同じように、絶対真理から出てきた一つの教義は、真理だと言うこともできず、真理ではないと言うこともできない。ヴィディヤーナンダタッタヴァールタシローカヴァルッティカ116 (ジャイナ教)
言語は四個の四分の一〔よりなる〕と測定せられたり。霊感あるバラモンたち(詩人兼祭官)はこれを知る。〔その中〕三個〔の四分の一〕は、秘密に隠されて運動せしめられず。言語の四分の一を人間は語る。
リグ・ヴェーダ1.164.45(ヒンドゥー教)
私達がもったトーラーは、天の知恵の不完全な形態である。
創世記ラッバー17.5 (ユダヤ教)
言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。(注11)
ヨハネによる福音書16.12 ~ 13(キリスト教)
われはなんじ以前にも諸使者をつかわし、妻と子をかれらに授けた。だが神の許しがないかぎり、どの使者もしるしを現わすことはなかった。各時代に一つの経典が下されるのである。神は、おぼしめしのものを取消したまい、または制定したもう。経典の母はかれのみもとにある。われがかれらに約束したことの一部を、なんじに示しても、またはその完成前になんじの魂をわれに召しても、なんじの任務は啓示を伝えることであり、清算は、われのことである。(注12)
クルアーン13.38 ~ 40(イスラーム)
このように私は聞いた――あるとき、世尊は、サーヴァッティに近いジェータ林のアナータピンディカ僧院に住んでおられた。さて、静かに独座していた尊者マールキヤプッタの心に、つぎのような考えが生じた。〈これらの悪しき見解は世尊によって解答されていないし、捨て置かれ、拒絶されている。つまり、「世界は常住である」ということも、「世界は無常である」ということも…
…「霊魂と肉体は同じである」ということも、「霊魂と肉体は異なる」ということも、「タターガタは死後存在する」ということも「タターガタは死後存在しない」ということも、「タターガタは死後存在し、また存在しない」ということも、「タターガタは死後存在しないし、また存在しないのでもない」ということも、である。
世尊はこれらを私に解答しておられない。世尊がこれを私に解答しておられないことは、私に満足できないし、耐えられない。だから、私は世尊のもとへ行き、この意味をお尋礼よう。もし世尊が私に、「世界は常住である」とか、「世界は無常である」……と解答されるならば、私は世尊のもとで梵行に努めよう。もし世尊が私に、「世界は常住である」とか「世界は無常である」とか……解答されないならば、私は学びを捨て、還俗しよう〉と。
さて、尊者マールキヤプッタは、夕方、独坐より立ち上がり、世尊がおられるところへ近づいて行った。行って、世尊を礼拝し、一方に坐った。一方に坐った尊者マールキヤプッタは、世尊につぎのように申しあげた。……「マールキヤプッタよ、私はそなたにこのように言いましたか。『来なさい、マールキヤプッタよ、私のもとで梵行に努めなさい。私はそなたに解答します。〔世界は常住である〕とか〔世界は無常である〕とか……』と。」
「いいえ、尊者よ」「あるいはまた、そなたは私にこのように言いましたか。『尊師よ、私は世尊のもとで梵行に努めたいと思います。〔世界は常住である〕とか……と解答していただきたいと思います』と」
「いいえ、尊師よ」「愚人よ、このようであるのに、そなたは何者として何者を拒んでいるのです。マールキヤプッタよ、つぎのように言う者がいるとします。『私は、世尊が私に〔世界は常住である〕とか〔世界は無常である〕とか……解答されない限り、世尊のもとで梵行に努めないつもりです』」と。
マールキヤプッタよ、如来によってそれが解答されなければ、その人は死ぬことになります。マールキヤプッタよ、たとえば、毒の厚く塗られた矢に射られた人がおり、その友人同僚や親族縁者がかれを外科医師に見せたとします。かれはこのように言います。『私は、私を射た人について、かれが王族であるのか、バラモンであるのか、庶民であるのか、隷民であるのかが分らないうちは、この矢を抜かない』と。
かれはこのように言います。『私は、私を射た人について、かれがこのような名である、このような姓であるということが分らないうちは、この矢を抜かない』と。
かれはこのように言います。『私は、私を射た人について、かれの背が高いのか、低いのか、中位なのかが分らないうちは、この矢を抜かない』と。
かれはこのように言います。『私は、私を射た人について、かれの色が黒いのか、褐色であるのか、黄土色であるのかが分らないうちは、この矢を抜かない』と。
かれはこのように言います。『私は、私を射た人について、かれがこのような村の者であるとか、このような町の者であるとか、このような都の者であるかが分らないうちは、この矢を抜かないと』と。
かれはこのように言います。『私は、私を射た弓について、それが長弓であるのか、石弓であるのかが分らないうちは、この矢を抜かない』と。
かれはこのように言います。『私は、私を射た弓の弦について、それがアッカ樹のものか、竹のものか、筋のものか、マルヴァーのものか、キーラパンニーのものかが分らないうちは、この矢を抜かない』と。
かれはこのように言います。『私は、私を射た矢の柄について、それが藪のものか、改良葦のものかが分らないうちは、この矢を抜かない』と。
かれはこのように言います。『私は、私を射た矢の柄について、そこにつけられている羽が鷲のものか、蒼鷺のものか、孔雀のものか、シテイラハヌ鳥のものかが分らないうちは、この矢を抜かない』と。
かれはこのように言います。『私は、私を射た矢の柄について、それを巻いている筋が牛のものか、水牛のものか、ジャッカルのものか、猿のものか分らないうちは、この矢を抜かない』と。
かれはこのように言います。『私は、私を射た矢について、それが普通の矢であるのか、尖矢であるのか。鉄矢であるのか、子牛の歯矢であるのか分らないうちは、この矢を抜かない』と。
マールキヤプッタよ、その人によってそれが知られなければ、その人は死ぬことになります。マールキヤプッタよ、ちょうどそのように、つぎのように言う者がいるとします。『私は、世尊が私に、〔世界は常住である〕とか〔世界は無常である〕と……解答されない限り、世尊のもとで梵行に努めないつもりです』と。……
如来によってそれが解答されなければ、その人は死ぬことになります。マールキヤプッタよ、世界は常住であるとの見解があれば、あるいは世界は無常であるとの見解があれば、生まれがあり、老いがあり、死があり、愁い・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みがあります。私は現世における、それらの破壊を説いているのです。」
阿含経中部i.426 ~ 31、小マールキヤ経(仏教)
― み言選集 ―
神霊と真理とは唯一であり、また永遠不変のものであるけれども、無知の状態から、次第に復帰されていく人間に、それを教えるための範囲、あるいは、それを表現する程度や方法は、時代に従って異ならざるを得ないのである。
例を挙げれば、人間がいまだ蒙昧にして、真理を直接受け入れることができなかった旧約前の時代においては、真理の代わりに、供え物をささげるように摂理されたのであり、そして人間の心霊と知能の程度が高まるに従って、モーセの時代には律法を、イエスの時代には福音を下さったのである。
その際、イエスは、そのみ言を真理と言わないで、彼自身がすなわち、道であり、真理であり、命であると言われたのであった(ヨハネ14・6)。その訳は、イエスのみ言はどこまでも真理それ自身を表現する一つの方法であるにすぎず、そのみ言を受ける対象によって、その範囲と程度と方法とを異にせざるを得なかったからである。
このような意味からして、聖書の文字は真理を表現する一つの方法であって、真理それ自体ではないということを、我々は知っていなければならない。このような見地に立脚して聖書を見るとき、新約聖書は今から2000 年前、心霊と知能の程度が非常に低かった当時の人間たちに真理を教えるために下さった、一つの過渡的な教科書であったということを、我々は知ることができるのである。
それゆえに、その当時の人間たちを開発するためにふさわしい、限定された範囲内においての比喩、または象徴的な表現方法そのままをもって、現代の科学的な文明人たちの真理への欲求を、完全に満足させるということは不可能なことだといわなければならない。したがって、今日の知性人たちに真理を理解させるためには、より高次の内容と、科学的な表現方法によらなければならないのである。
原理講論、人類歴史の終末論5.1
5) 理性的知識と霊的知恵
理性的知識と救援と教化のための霊的真理の間には、大きな隔たりがある。世の中の有用な理性的、概念的知識が霊的求道者たちに、常に利益をもたらすとは限らない。そのような知識がありすぎると、かえって高い境地の悟りを得るのに妨害になることもある。アテネとエルサレムの間に深く掘られた谷があるように、現世の哲学の概念的体系と宗教の霊的真理追究にも、そのような隔たりが存在する。世俗的学習を重視するこの時代に生きる私達に、世界の諸経典は、どちらのものを優先すべきか点検することを要求する。
2番目の主題は、学びの習得方法である。理性的知識を習得する人たちは、感覚資料の認識と理論の合理的体系化を通して知識を学習する反面、霊性に明るい人たちは、見えない内面に対する直観と感受性を通して真理を悟る。理性に依存することは霊的求道の妨げになり得ると見るため、多くの宗教修行、例えば、禅仏教の修行では、理性の遮断を目的としている。禅仏教である修道者が「犬にも仏性があるか」のような質問を投げ掛けたとしよう。この人が質問によって混乱した状態から抜け出るときは、あらゆる解答が概念的理解を越えて存在することを悟る瞬間である。
しかし、文鮮明先生は、理性と霊性、二つの道は共に天国に至る道であり、二つの間の均衡の重要性を語られる。最後の部分では、世俗的知識と宗教的真理の対立に関して再び言及している。特に、霊的知恵を通して方向性が定立されなかったとき、無分別な科学技術が招来する病弊に対して強調している。究極的に科学とすべての俗世の知識は、文鮮明先生のみ言、「絶対価値」を通して行くべき道に導かれなければならない。絶対価値とは、全人類とあらゆる存在者に利する神様の真の愛である。
1. 救援の助けにならない理性的知識
― 宗教経典 ―
ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。
コリンの信徒への手紙一8.1 ~ 3(キリスト教)
たった今亡くなった私達の母は、本当に私を叱られた。母は語られた。「あなたがやろうとしているように見えるすべてのことは本を見ることなので、荒野のどこかに出ていきなさい。本はあなたが行く道を妨害するので、あなたの未来が痛ましいものだからだ。あなたが白人のように生きるのを見ると、何の幻想もあなたに現れないようだ」。
テラウォイ族の証言(アメリカ先住民の宗教)
それらよりもなお、わが子よ、心せよ。書物はいくら記してもきりがない。学びすぎれば体が疲れる。
コヘレトの言葉12.12 (キリスト教)
知識で積んだ数千数万の功績も黄泉路を同伴しないだろう。
アーディ・グラント、ジャプジー1、M1、p.1(シーク教)
真知の目的を考察すること。以上が「知識」であると言われる。それと反対のことが無知である。
バガヴァッド・ギーター13.11(ヒンドゥー教)
言葉が真理をあらわしていると、その言葉は美しくなく言葉が美しいと、その言葉は真理をあらわしていない。本当に立派な人は言葉で議論せず、言葉で議論する人は立派ではない。本当の知者は博識でなく、博識の人はは本当に知っていない。
道徳経81(道教)
世間の有様はすべて空であって実体がないのに、迷える人は、これを真実であるとおもう。実際には、一切は無自性であり、ことごとく虚空にひとしい。かりに、この有様を説いても、説き尽くすことができない。したがって智者は、これを無尽と説いても、それで説いたことにもならない。諸法に自性が無尽であるから、難思議というほかはない。
華厳経10(仏教)
知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。
ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、私達は、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
コリントの信徒への手紙一1.20 ~ 25(キリスト教)
ラビ・エリジャル・ヒスマが言った。「鳥を祭物として捧げ、女性を浄化させることが最も重要な教えだ。天文学と幾何学は付加的知識すぎない」。(注13)
ミシュナ、アヴォート3.23 (ユダヤ教)
預言者と聖賢たちの教えの核心は、人間の理性には限界があり、そこで止めなければならないということを知らせようとするものだった。(注14)
マイモニデス迷える者への手引き1.32(ユダヤ教)
人間の哲学は神を人間のようにしてきた。クリスチャンサイエンスは、人間を神のようにする。前者は失敗であり、後者は真理である。形而上学は物理学を超える。そして、物質は形而上学的前提や結論に入ってこない。形而上学の範躊はただ一つの基盤である神聖な精神に置かれている。
科学と健康269 (クリスチャンサイエンス)
人間を救援するためには、理性を超越するある真理が聖なる啓示によって明らかにされなければならない。たとえ人間の理性によって神に関する真理を明らかにしたと言うことができたとしても、人間はその聖なる啓示の教えが必要だった。人間が明らかにした神に関する真理は少数にだけ知らされた。それは長い時間が過ぎたあとには誤ったものと混ざってしまうかもしれないからである。
しかし、全人類に対する救援(神の救援)は、ひとえにこの真理を知っているかにかかっている。したがって、より確実にすべての救援が成し遂げられるためには、聖なる啓示を通してこの真理を教えてあげなければならなかったのである。したがって、理性に根拠をおいて設立された思弁的科学以外にも、世の中には常に啓示を通して学ぶことができる神聖な科学が存在しなければな
らない。
トマス・アクィナス神学大全1.1.1(キリスト教)
私がたとえ知識のあの高い境地に到達しても、教えの一つの単語も私の中にないことを私は知っている。また天に仕えることも、ただの一歩として押し出していなことを知っている。
バアル・シェム・トーヴ(ユダヤ教)
アテネがエルサレムと何の関係があるのか。
テルトゥリアヌス(キリスト教)
― み言選集 ―
人間の頭を中心として、理想世界が成されるのではなく、神様の愛を中心として成されるのである。
御旨の道、天国
宗教の起源は、哲学の起源と違います。哲学は神様を求めていく道ですが、宗教は神様と出会って生活し始める道です。
(189-70、1989.3.19)
どの図書館にもぎっしり並べられている経書や哲学書籍を渉猟したとしても、心と体の統一を成就できるわけではありません。(447-163、2004.5.1)
神様は、知るためにつくったのではありません。創造理想が知識によって成されるのではないのです。それをはっきりと知らなければなりません。創造理想のみ旨、私達の理想の目的は、知識や権力やお金によって成し遂げられるのではありません。それは愛によって成し遂げられるのです。
(144-130、1986.4.12)
学生の皆さん、もう分かったので、これからソウル大学に通ているといって自慢するなというのです。私は立派に見えません。1年間勉強しても何時間くらいになりますか。1 日に7時間勉強すると考えても、1 週間に5日として35時間、100 日で700 時間です。それでは、300 日ではどのくらいですか。約2000時間です。これを24 時間で割るといくらになりますか。何日にもなりません。
それをもって自慢し、分をわきまえずにそのようにしてはいけません。それより良いものが愛です。それよりもっと貴い愛は、一瞬で学ぶことはできません。愛の実践力というものは、永遠を基準として動くのです。長久な歳月を要します。1年、2年でパスできません。10 年、20 年、30 年、40 年たっても卒業証書をもらえません。次元がどんどん高くなり、回れ右して届くのです。何かの学問をすれば博士学位をとれますが、愛の哲学過程というのは無限です。だからといって嫌になったり、疲れさせたりするものではありません。ただ楽しく、世の中の何よりも幸福で、感謝で、雄大なのです。(113-324 ~ 325、1981.5.10)
絶対的価値は、知識ではなく、愛、情緒と結びつけて考えなければなりません。ただ愛だけが、それ自体が目的であり、完成であり、最高の価値なのです。本当の愛は、施す人が喜び、それを受ける人がまた喜ぶのです。本来愛は本性で感じることによって個体の中で芽生え、体恤するものであって、学ぶものではありません。
知識の世界は認識を通して啓発されますが、情の世界は啓発されません。ですから、絶対価値は、知識の次元ではない絶対愛の次元です。このような点から第一原因者は、私達の認識領域内で見いだせるものではなく、情緒的次元で感応、体皿するものだと言えます。
愛の立体的内容が欠乏した価値は永遠不変であることはできず、いつかは流れていってしまいます。現在までの様々な主義と思想は、一面では人類の役に立ちましたが、かえって人類の思想体系を誤った道に導き、歴史を発展的に導けない面も多かったと思います。そのような意味で、既存の価値体系の再評価が不可避だと思うのです。
(102-59 ~ 60、1978.11.25)
2. 霊的知恵の習得
― 宗教経典 ―
神に対する信仰はつかむものであって、教えられるものではない。
格言(神道)
趙州和尚は、僧が「狗子にも仏性がありますか」と問うたので、「無」と答えた。無門は評して言う。「禅に参ずるには祖師の定められた関所を透らなければならぬ。妙悟を得るには心路が絶える(分別心を断ち切る)という経験を窮めねばならぬ。」(注15)
無門関1(仏教)
神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。
ヨハネによる福音書4.24 (キリスト教)
私達は、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それで私達は、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。そして、私達がこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく“霊”に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されません。「だれが主の思いを知り、主を教えるというのか。」しかし、私達はキリストの思いを抱いています。
コリントの信徒への手紙一2.12 ~ 16(キリスト教)
知識は五つ、すなわち感覚知、経典を通した知識、透視、テレパシー、そして全知である。この五つの知識は、二つの類型に分けられる。前の二つは間接的な知識であり、残りの三つは直接的な知識だ。感覚知では……ただ不明瞭なものに対する把握にすぎない。……しかし、透視、テレパシー、全知は直接的な知識であり、それは感覚や経典という媒介物がなく、生々しい方法で霊魂によって知覚される。
タットヴァールタ・スートラ1.l9 ~ 29(ジャイナ教)
賢明な者の心の中には、霊界の実在に対する開かれた窓があり、そして彼は風聞や伝統的信仰によってではなく、実際の経験によって何が体を痛めるのか、何が健康にするのか知っている医者のように、はっきりと明確に何が霊魂の痛みを生み、幸福を生むのかを知る。彼は、神に対する知識と礼拝が健康によく、無知と罪悪が霊魂に致命的な毒になるという事実を知る。盲目的に他の人々の意見に従う、いわゆる「学識ある」人々も、次の生涯での霊魂の幸福や悲惨なことに対する自らの信仰に、本当の確信をもっていない。しかし、偏見なくその問題に対する者は、これに対してはっきりとした確信に到達するようになるだろう。
ガザーリー幸福の錬金術(イスラーム)
純粋な知は多くのことを聞くこととは関係がない。
王陽明(儒教)
― み言選集 ―
本来、真の愛は、経験を通して得るものであり、体恤を通して知るようになっています。真の愛は、言葉や文字、あるいは一般教育を通して体得するものではありません。赤ん坊として造られたアダムとエバは、成長しながら段階的生活を通して経験することによって真の子女の心情、真の兄弟の心情、真の父母の心情を体恤し、完成するようになっています。神様の真の愛を全体的に体得するとき、初めて創造目的を完成した理想的な人間になるのです。
(282-209、1997.3.13)
大概、私達人間は、二つの種類に分けられます。一つは知性的な人で、真理で何かを探求して、道理に合えば認めて、道理に合わなければ否定するタイプの人です。また他の一つは、そのような道理よりは思いで把握する人です。それを私達統一教会の術語で言えば、「知的だ」、「霊的だ」と言うのです。霊的な人は、内的な面から感じて、外的に作用しようとする人であり、知的な人は、外的な面から感じて、内的に適用しようとする人です。一つは出ていき、もう一つは入ってくるのです。この二つの種類があります。そのような立場にあるために、知性的な人は大体祈祷を嫌います。それを考えると、迷信のようであり、信ずることができず、自分自体が否定されるような感じがするのです。これは、知性的な人です。
理論を明らかにして、何かを探そうとする人、そのような人がいるのと同時に、生まれつき「神様!」という言葉が、とても好きな人がいます。説明する前に無条件に喜ぶのです。「お父様」と言うようになれば、御飯を食べなくてもいいというのです。そのような人がいます。そのような感度が異なるというのです。大抵霊的な運動において、革命的な運動をすることができるのは、どのような人でしょうか。知性的な人はできません。大抵信仰世界で偉大なことをする人は、知的な人ではなく、無学で愚鈍な人です。そのような人は、霊的な人です。世の中がどうであれ、感じるままにするのです。神様が「せよ」と言ったからするのです。やってみると、それが実践する環境に百中する、そのようなことが起こるのです。
これによって、偉大な人物として登場することができるということも起きるのです。パウロのような人も、知性的な人です。しかし、ダマスコで天の霊的な雷に一度打たれてから、気が狂ってしまったのです。ですから、外的に探求することよりも、内的に爆発的な道があるということを感じたために、すべて否定して尊重視したのです。そこから、新しいキリスト教の革命の旗手になりました。私達人間には、2種類がありますが、自分はどんなタイプの人かということを知るべきです。大抵霊的に感じる人は、霊的には大きいのですが、真理の面では小さいのです。これが違います。初めは太くても、先細りすれば始終如一(注:始めから終わりまで同じ調子であること)でないために、永遠に行けないのです。ある時には、必ず転がり落ちます。
また、真理は大きくても、霊的な面が小さければ、永遠に行けません。それゆえ私達は、これを調整する生活をしなければなりません。祈祷と真理、心霊と真理で礼拝せよという言葉があります。それは何かというと、平行をつくって和する場に入れというのです。私達人間は、霊界と肉界を調整しなければなりません。霊的世界の中央に立つべきです。真理の世界の中央に立って、調整し得る人間にならなければなりません。そのような人間にならなくては、完全な立場に立てないのです。
(76-136 ~ 137、1975.2.2)
堕落人間は宗教により霊と真理をもって(ヨハネ4・23)その心霊と知能とをよみがえらせ、その内的な無知を打開しでいくのである。神霊は無形世界に関する事実が、霊的五官によって霊人体に霊的に認識されてのち、これが再び肉的五官に共鳴して、生理的に認識されるのであり、一方真理は、有形世界から、直接、人間の生理的な感覚器官を通して認識されるのである。したがって認識も、霊肉両面の過程を経てなされる。人間は霊人体と肉身が一つになって初めて、完全な人間になるように創造されているので、霊的過程による神霊と肉的過程による真理とが完全に調和され、心霊と知能とが共に開発されることによって、この二つの過程を経てきた両面の認識が完全に一致する。またこのとき、初めて人間は、神と全被造世界に関する完全な認識をもつようになるのである。
原理講論、人類歴史の終末論5.1
3. 霊的知恵の欠乏と高度に発達した知識の危険
― 宗教経典 ―
あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか。その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。しかし、あなたがたは、内心ねたみ深く利己的であるなら、自慢したり、真理に逆らってうそをついたりしてはなりません。
そのような知恵は、上から出たものではなく、地上のもの、この世のもの、悪魔から出たものです。ねたみや利己心のあるところには、混乱やあらゆる悪い行いがあるからです。上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです。
ヤコブの手紙3.13 ~ 18(キリスト教)
知識には、聖なるものと邪悪なもの、二種類があることをはっきりと知りなさい。一つは聖なる霊感の泉から湧き出るものであり、もう一つは空虚で、あいまいな思想の反映にすぎない。
聖なる知識の根源は神御自身であり、邪悪な知識の原動力は、利己的な欲心のささやきである。一つは、「神を畏れよ。神はお前を教え導くであろう」という原理によって導かれる。もう一つは、「知識は人間とその創造主との間の最も悲しむべき幕である」という事実を確認するものにすぎない。聖なる知識は忍耐、熱望、真の理解の結実と愛を生む反面、邪悪な知識は傲慢、虚栄、慢心ばかりを生むだけである。
確信の書69(バハイ教)
上がもし知を好んで、しかも道がなければ、天下は大いに乱れるのである。どうしてそれが分かるかと言えば、そもそも弓・弩・あみ・戈(いぐるみ)など、いろいろな道具の知恵が多くなれば、鳥は空で落ちつかず、釣・餌・あみ・よつであみ・やななど、いろいろの知恵が多くなれば、魚は水の中でおちつかず、わなやおりなど、色々な知恵が多くなれば、獣は沢の中で落ちつかず、知恵、詐術が次第に害毒を流し、……色々な議論が多くなれば、世俗は弁舌に惑わされる。だから、天下が乱れて真っ暗闇になるのは、知を好むところにある。だから、天下の人々は自分の知らないものを追及することを知って、自分が既に知ったものを追及することを知るものがない。皆、よくないと思うものを非難することを知って、自分が既によいとしたものを非難することを知るものがいない。そのために大いに乱れるのである。
こうして上は日月の明にもとり、下は山川の精をとかし、中は四季の調和をやぶり、地上をはいまわったり空を飛んだりする虫も、その本性を失わないものはない。知を好むものが天下をこのように乱すとは、ひどい話ではないか! 三代(夏・殷・周の古代)よりこのかたまさにこうである。純朴な人民をすて、こせこせしてない人を喜び、恬淡無為を捨てて、小賢しい知恵を喜ぶ。こうして天下をかき乱してしまったのである。
荘子10(道教)
知恵なく愛すれば、人を愛しでも分別がなくなる。知恵があっても愛さなければ、分別力があるのに実行できない。したがって、愛とは人類を愛する類型であり、知恵とは人類の災害を除去する類型である。
董仲舒(儒教)
直観的な心は神聖な贈り物であり、理性的な心は真実な下人である。私達は下人に名誉をもたらしめ、贈り物は忘れてしまった社会を創造した。
アルベルト・アインシュタイン
科学と知恵は別である。科学は人が幼子のようにそれをもって遊ぶとき、彼らの指を怪我する不慣れな道具である。
アーサー・エディントン
原子の爆発力は私達の思考を除外してすべてのものを変化させる。それで私達は未曾有の破局に向かって流されている。
アルベルト・アインシュタイン
― み言選集 ―
私達は、今日のもろもろの科学と哲学が世界の問題を解決するにおいて失敗しできたことを認めなければなりません。自然科学がしてきた偉大な約束は、いつも悪の方向に用いられてきたのであり、人類の真の幸福だけのために用いられることはなかったのです。
社会科学の分野も、利己的で党派的な政権の影響下であまりにも腐敗し、多くの場合、逆機能を発揮してきました。哲学もやはり善や人間の究極的理想に向かう偉大な追求を放棄してしまった、命を失った学問となっています。このような趨勢は、学者たちの無気力と消極的姿勢によってより一層深刻になっています。
学者たちは、研究の業績だけで満足せずに、積極的な指導を要する世界の要請に応じなければならないと考えます。世界は、正しい価値観によって主体の力量を行使する学者たちの責任性ある実践を求めているのです。(170-269~270、1987.11.27)
人間は神様の創造物です。そして、人間は創造目的に符合する明確な価値観をもって生きるように創造されました。本来、巨大な価値観を所有してきた創造物であるにもかかわらず、人間はその価値観を無視し、科学の万能性を信じ、それを万病の薬と思っています。その結果、科学技術は、だんだんと公害を増加させる原因になっています。
科学は、人間生活において単純な手段であり、目的にはなり得ません。人生の目的は、神様の創造目的を実現するところにあります。人間は、霊と肉の結合体です。したがって、人間は肉的生命を土台として価値のある人生、すなわち愛と真理と善と美の生活をするようになっています。
便宜的に言えば、科学技術は霊的生活に符合し、肉的生活に必要なものです。したがって、価値のある生活を強調しなかったり無視したりする科学は、かえって価値観の破壊をもたらし、今日のような恐怖と不安の現実に導くのです。この不安な現実から人間を救うことは、本当の価値観を追求し、発見することによってのみ、成し遂げられます。ですから、科学は言うまでもなく、絶対価値に起因したこの価値観に一致しなければなりせん。
この絶対価値は、どこで発見できるのでしょうか。それは、ただ神様の愛においてのみ見いだすことができるのであり、神様の愛による真理と善と美が、すなわち絶対価値です。結局、科学技術の悪用に伴う被害から人間を解放させるのは、科学自体が神様を認識し、神様の愛と同じ方向にその技術を応用するときに可能なのです。
(106-53、1979.11.23)
ケンブリッジに行くと、昔の古典書籍が何万冊もあると誇り、それでそれを学ぶ人がどのくらいいるのかと見てみると、学ぶ人がいなかったのです。管理する人だけしかいませんでした。それは何を意味するのかというと、力の時代が過ぎていったあとには知識が、知識が世界を支配するというのです。知識的な時代に入っていったのです。
それで、アメリカでも、勉強ができる人が出世して世界を動かす、そのように考えたでしょう? 勉強、勉強と言ったでしょう? 次には、最近はお金、お金です。知識よりもお金、お金です。学者が一生懸命に髪の毛が抜けるほど勉強しても月給が少ないので、労働者よりも劣るのです。学者になって何になるのか、このようになっていきます。お金が世界を支配する時が来たのです。
髪の毛が抜けるほど勉強して、どうするのかというのです。何としてでもお金を稼ぎ、お金をたくさんもらえばよい、このように考えます。その知識の時代が過ぎていき、今はお金が世界を支配しているのです。それが何ですか。サタンが最も願う世界です。サタンがこの世界を支配する要素なのです。そして知識もそうです。世の中の知識、科学を調べてみると、神様に対してすっかり忘れてしまったというのです。知識の一番の脊髄のようなものが哲学だどすれば、哲学がすべて無神論になり、神学自体も「神様は死んだ」と言っています。
宗教は頭のようなものですが、神様は死んだと考えているのです。「神様は死んだ」とまで言うのです。それで、人の先祖は猿だ、神様が先祖ではなく猿だと言うのです。神様は存在せず、猿が……。神様が先祖なのに、変わってしまって猿が先祖になりました。それはどれほど落ちたかというのです。それを神様が見るとき、「はは、これは良いなあ!」、そのように言ったでしょうか。棍棒を掲げて、「この力め、この知識め、この物質め」と思い切りたたきつぶしたいと思うのです。
(99-103 ~ 104、1978.9.1)
6) 師
師は、自身の教えの中で言行一致の先例を見せる人である。そして、水準の高い行為が裏付けとなった倫理的教えを弟子たちに伝授してあげなければならない。成熟した信仰と豊富な経験、学生個々人の気質と興味に最も適合した方法で指導する分別力まで、師が備えるべき資質である。師は、自身の任務が単純な知識伝授を超え、学生たちが人生に対する目標をもつように奨励し、動機を付与することだということを認識しなければならない。
最も偉大な師は、父母の心情をもち、自分の子女に教えるように弟子たちを訓練する人である。
教える能力は、神様から受けた贈り物である。ある面から見れば、師は究極的師、すなわち神様の同参者の位置にいるとも見ることができる。したがって、良い師は、もっているものがなくても学ぶことを願う人がいれば、自分まで犠牲にして条件なく愛を施さなければならない。教えるときは、いつも神様が私の口を通して語りたいみ言を代わりに語られるという心をもたなければならない。このような脈絡から、最後の段落で、教えを天が下さった召命として説明している。文鮮明先生が牧会者にしてくださった説教方法に関する助言も含まれている。
1. 立派な師の資質
― 宗教経典 ―
師はまた五つのことによって弟子を敬い見る。しかるべき方法に従って弟子の行動を制御する。弟子がまだ聞いたことのないことを教えてやる。弟子の質問に応じて十分に意味をわからせる。善き友を示す。知っていることをすべて惜しまず弟子に教え授ける。善生よ、弟子が師に対して敬い従ってうやうやしく仕えたならば、かの方角(南方)は安らかで憂いはない。
阿含経長部iii.185 ~ 191、善生経(仏教)
むしろ、言葉、行動、愛、信仰、純潔の点で、信じる人々の模範となりなさい。私が行くときまで、聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい。あなたの内にある恵みの賜物を軽んじてはなりません。その賜物は、長老たちがあなたに手を置いたとき、預言によって与えられたものです。これらのことに努めなさい。そこから離れてはなりません。そうすれば、あなたの進歩はすべての人に明らかになるでしょう。自分自身と教えとに気を配りなさい。以上のことをしっかりと守りなさい。そうすれば、あなたは自分自身と、あなたの言葉を聞く人々とを救うことになります。(注16)
テモテヘの手紙一4.12 ~ 16(キリスト教)
比丘よ、師は弟子をその息子と思い、弟子は師を自らの父と思わなければならない。このように、師と弟子が互いに恭敬し、尊重し、共にいることによって仏法を修め、行うことに大きな進展があるのである。
律蔵、大品3.1(仏教)
空中を飛び回る白い羽のアオサギが、絶えず巣の中のひなを思ってすべての心をそこに置くように、真の師は心の中に弟子を抱いて忘れることができず、それによって神の愛に没頭するようになる。
アーディ・グラント、ガウリー、M.4 (シーク教)
先生がいわれた、「道徳を修めないこと、学問を習わないこと、正義を聞きながらついてゆけないこと、善くないのに改められないこと、そんなになるのが私の心配ごとである。」
論語7.3(儒教)
修道院長の名を与えられた者は、二重の教えによってその弟子たちを治めなければならない。すなわち、言葉によるよりは行為により、彼らにすべての善で聖なるものを示す。理解力の優れた弟子たちには言葉により主の掟を提示するが、心がかたくなな者、愚鈍な者には、自ら行為によって神の教えを示さなければならない。
ヌルシアのベネディクトゥス戒律2(キリスト教)
ハルン・アル・ラシドが彼の息子の家庭教師に言った。「あなたに私の血と私の魂の宝物をあげました。あなたは、私の息子に権威があり、彼はあなたに服従しなければなりません。ですから、すべてのムスリムのカリプがあなたを信任しているという信仰に注目してください。
クルアーンを暗唱させ、歴史を教え、詩を詠ませてください。使徒の伝統と言葉に対する丁重さを教え、適切でないときに笑わないようにしてください。彼が怠惰を愛し、それに慣れて彼の考えを抑圧するかもしれないので、彼に有益なことを教えずに時間を無駄にしたり、彼がけがをしないようにしてください。親切と同情で彼を正してくだ
さい。彼が服従しないときにだけ罰を与え、強制してください」。
イブン・ハルドゥーン(注17)イスラムでの子女養育法(イスラーム)
― み言選集 ―
教授たちの断固とした決心と明確な価値観による後進への教育こそ、この時代の要請であるばかりでなく、教える者の基本姿勢でもあります。この点では、宗教指導者と教授たちに共通点があると思います。それは、私達が知識を伝達し、また研究結果を教育するだけでなく、人生に責任をもって教えてあげなければならないからです。
(130-16、1983.12.18)
私自身を条件なく捧げて頼ることができ、私の心と永遠に離れることなく頼ることができ、自分をすべて任せても安心できる一人の牧者を地上で迎えなければなりません。そのようにできない人は、天上の心情を知る道埋がありません。これを人間に直接的な関係として結んでおいたものが父子の関係です。
(4-168、1958.4.6)
師は父母の心をもち、主人の心をもち、自分の家を守るように学校を守り、学生たちを自分の息子、娘のように教育しなければなりません。
(203-308、1990.6.27)
師は父母の代わりに、愛でその教え子を教育しなければなりません。永遠の愛をもって教育しなければなりません。その学級で出会った、その時だけの因縁ではないというのです。自分が教えてあげた教え子に対して、一生忘れてはなりません。このような愛の因縁を結ぶことに努力しなければなりません。
ですから、自分のすべての知識を愛とともに連結させる師が真の師なのです。何かの生活方便として月給をもらうために教えるのではなく、愛を抑えることができずに教えてあげざるを得ない、自分の生活が困難になっても教えてあげなければならないという、そのような師にならなければなりません。夜でも昼でも訪ねていき、自分がもっている知識を愛で永遠に伝授してあげ、またそれを受けたいと思う師弟間にならなければなりません。それが真の師であり、真の弟子です。
(127-17、1983.5.1)
皆さんの学校に、何が何でも自分の弟子たちに正しい思想を伝授しようと努力する師がいれば、彼は国家の運命を心配しながら、皆さんの手を握って涙を流し、このように勧告するでしょう。「私のために順応するのではなく、国に対して順応しなさい。私のためによくするより、国のためによくすることを願う」と言うはずです。
このような教えを受けた弟子たちは、その師が成し遂げることのできなかった志を成し遂げるのです。このように、師は自分の生涯を捧げて弟子たちのために精誠を尽くし、父母は自分の価値よりも国家と世界の価値を重要に思いながら子女のために精誠を尽くせば、その師の弟子とその父母の息子、娘たちは「棟梁の材(中心人物になり得る人)」になるでしょう。
(25-98 ~ 99、1969.9.30)
教授たちは若者に多くの影響を与えます。しかし、人は父母を通してより大きな影響を受けるのです。個人の性格と人格形成に最も大きな影響を及ぼすのは家庭です。人生において、家庭は、最も重要な愛の学校です。子女たちは、家庭圏において父母だけが行うことのできる愛の教育、情緒教育を通して、心情の深さと幅を育てます。これが子女の人格をつくる礎石となります。また、家庭は、子女に美徳と規範を教育する学校です。人は、このような情緒教育と規範教育を受けた土台の上で、知識教育、体育、技術教育を受けなければならないというのが天道です。
父母は子女に真の愛を施す真の父母になると同時に、真の師となり、心情教育、規範教育を正しく行うようになっています。たとえ父母が真の師であることを自覚できなくても、子女は父母からあるがままに似て学ぶようになります。父母の役割はこのように重要です。子女は、父母が施す真の愛と父母の愛の生活に似ながら愛の人格が形成され、霊性が開発されるのです。
(271-80 ~ 81、1995.8.22)
2. 学生の価値を引き出す師
― 宗教経典 ―
先生がいわれた、「乾肉一束を持ってきたものから上は、〔どんな人でも〕私は教えなかったということはない。」
論語7.7(儒教)
私は青年たちを教える。そして、貧しい家の子供たちと富裕な家の子供たちを同じように接する。お金を出す余裕がない人たちにも、無料で教えてあげる。私はまた漁夫なので、来たがらない人たちを激励するため、彼らが家にもっていく魚を一匹ずつ渡してあげる。
タルムード、タアニート24a (ユダヤ教)
イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。」園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」
ルカによる福音書13.6 ~ 9(キリスト教)
賢人は人を救うのにすぐれており、だからどんな人をも見捨てない。彼はまた物を救うのにすぐれており、だから何物をも見捨てない。これは明を洞察すると呼ばれる。だから、善である者は善でない者の師であり、善でない者は善である者の源である。善ある者をありかたく思わず、善なき者を大事にしないならば、どんなに知恵があっても迷いがある。これはたいせつな秘密である。
道徳経27(道教)
四つの類型の人がいる。知識をもっており、それを悟っている者、これは学者だ。彼に従え。膨大な知識をもっているが、自分がもっているものが眠っていることが分からない者。彼を目覚めさせよ。何も知らないが、自分が何も知らないことを知っている者は無知である。彼を教えよ。何も知らないが、自分が何も知らないことを知らない者は悪魔だ。彼を避けよ。
アル・ガザーリー宗教諸学の再興59.1(イスラーム)
先生がいわれた、「〔わかりそうでわからず、〕わくわくしているのでなければ、指導しない。〔言えそうで言えず、〕口をもぐもぐさせているのでなければ、はっきり教えない。一つの隅をとりあげて示すとあとの三つの隅で答えるというほどでないと、くりかえすことをしない。」
論語7.8(儒教)
私は私の師から多くの律法を学び、同僚からより多くの律法を知るようになった。しかし、弟子たちからはすべての律法を学ぶようになった。
タルムード、タアニート7a(ユダヤ教)
わたくしは三人で行動したら、きっとそこに自分の師をみつける。善い人を選んでそれに見ならい、善くない人にはその善くないことを〔わが身について〕直すからだ。
論語7.21 (儒教)
ソクラテスがイスコマコスに尋ねた。「教えは質問を投げかけるところにありますか」。イスコマコスが答えた。「実にあなたのやり方の秘密が、私に今明確になります。私はあなたが質問を投げかけるその原理が分かるようです。あなたは私自身の知識世界を通して、私を導いていきます。そしてそのとき、私が知っていることと類似したことを指摘することによって、今まで私は分からないと信じてきたあることを、私が真実を知っているということを説得しています」。
クセノポン家政論(ヘレニズム)
賢人に与える賢明さは、学習に優れていたか劣っていたかによる疑問である。覚えておきなさい、彼が掘り起こし、種を蒔き、陶工の作品を練習し、漁夫だったときから皇帝になるときまで、常に他の人からどのように善を行うのかを学んだ。
朱熹(儒教)
― み言選集 ―
神様は、「あなた達は私のためにいなさい」とは言いません。「私はあなた達のためにいる」、このように言います。父母が子女たちに、「お前たちは、お父さんとお母さんのためにいなさい」と言うのと、「お父さんとお母さんは、お前たちのためにいる」と言うのとでは、どちらが真の父母の立場ですか。
教師が学生に、「あなた達は私の月給袋に補給するための倉庫だ。だからお金をもってこなければ知らない」と大声を出すのと、「お金をもってこなくてもよく、私が飢えてもよいから、あなた達のために私は教える」と言うのとでは、どちらが真の先生の立場ですか。
(104-210, 1979.5.6)
向き合う人がいれば、何気なく向き合うなというのです。彼が自分に何をもたらしてくれるのか、いつもおなかのすいた者の心情になるべきです。彼が自分に何をもたらしてくれるかと、そのように求める心がなければなりません。結局、彼自体は何でしょうか。自分がいつも主体になるとか、対象にならなければなりません。確定的な主体であり、確定的な対象の立場にいるという事実を言うのです。私が常に求めている事実はそれです。
(76-132、1975.2.2)
試験というのは、学生たちがすべて知っている問題を出すか、知らない問題を出すか、ということが問題です。本当に1等を出すためには、ここに50 人近くいますが、この50 人が知らない題目を選ぶのです。それを問題なく片づけるようになれば、その教授と相対になれます。そのあとからは、その人を見るだけで喜ぶのです。一生の間テストしてみても誰も分からなかったのに、その問題を解くある人がいれば、その人は後継者になれるという評価の基準が立つのです。
(66-45、1973.3.18)
神様は、先生に対して残忍な神様です。一番下から上がっていき、ここにレバレンド・ムーンがいなければ神様が寂しいので……。何の試験をしてもその試験にパスするから信じるのであって、試験にパスして、また試験することが残っていれば信じますか。同じことです。論文を上手に書けば、博士学位を与える指導教授が「私が先生として侍る」と言うのです。その立場に行ってこそ、博士全体がサインし、歴史に誇るようになるのです。それと同じです。そうしてからその教授も、「私はきちんと指導できた」と考えるというのです。
(320-251、2000.4.16)
3. 神様と共に教える
― 宗教経典 ―
私は植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させててくださる神です。植える者と水を注ぐ者とは一つですが、それぞれが働きに応じて自分の報酬を受け取ることになります。
コリントの信徒への手紙一3.6 ~ 8(キリスト教)
それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、私があなたがたに授けるからである。
ルカによる福音書21.13 ~ 15(キリスト教)
目で見る者が格言を残す(注19)
イガラ族の格言(アフリカ伝統宗教)
多くの者は聞くことすら叶わず、聞くといえども知るなきもの(自我)、そを捉えて克(よ)く巧みに説き明かす人は希有なり。しかのみならず、巧みに教えられてもこれを諦むる人すら世に希有なり。所以如何(ゆえいかん)となれば、庸劣なる人物が教えんには、様々に思いをこらすも、終に彼(自我)は正しく認識せらるる能わず。
されど、そが他人の教うる所とならずんばそれに格(いた)るの道なし。そは極微量(ごくみりょう)よりも微にして、計量すべからざる程のものなり。愛するものよ、この宗旨は考索を以ては達し得べからず。
他によりて説かれし時にのみ正しく識得せらるるを得るなり。……この我は言詮に依ても、将、眼に依ても得べからず。唯「彼存す」と云ふ直感を外にしては、如何にしこれを得べけむや。
カタ・ウパニシャッド1.2.7 ~ 9、2.6.12(ヒンドゥー教)
― み言選集 ―
神様は真の愛を中心とする父です。神様は真の愛を中心とする真の師です。
(203-237、1990.6.26)
皆さんが壇上に立つとき、「私が壇上に立つとき、神様と一緒に立つ」という生活哲学がなければなりません。神様と共に、神様が一緒に暮らしたいと思う立場で、聖人を代表する、国王を代表する、国民を代表するという立場に立って宣言する教育をしなければなりません。「私を手本としなさい!」。手本とするのは知識ではありません。国と共に、聖人の道理と天理と共に一緒に暮らしたいと思う情緒的基盤の上で……。
(148-277、1986.10.11)
祈祷生活をすれば、言い表し得ない喜びが訪れます。その境地が、創世前の神様の心の境地です。皆さんがそのような境地で、「こうだ」という内容をもって説明できる立場に立てば、その立場が正に神様が天地万物を創造された立場なのです。神様がみ言で被造物を創造された立場だというのです。そのような境地でみ言を宣布しなければなりません。そのようにすれば、人々も、必ずそのみ言に触れてみようと思うのです。
(29-321、1970.3.13)
この世界は、良い師を、良い先生を願い、良い父母を願います。本来、堕落しなかったなら、最高の父母が誰かというと神様であり、最高の教師が誰かというと神様です。あらゆることにおいてそうです。神様は愛も満ちあふれ、知識も満ちあふれているので、誰が引っ張っていくことができますか。
サタンが若い人をすべて奪っていこうとするので、「おい、全員ハーバード大学に行きなさい!」、次にはまた、「愛する人を探そう!」と言います。それしかありません。そのアメリカ式の愛は、どんな愛でしょうか。それは、間違いなくサタンがさせるのです。それでは、神様が人間に教えてあげたいものは何でしょうか。神様が本当の先生だということを教えたいのであり、神様が本当の父母だということを教えてあげたいのです。それ以上はありません。
人間の堕落とは何かというと、無知ゆえに起きたのです。知ることができませんでした。無知ゆえに堕落しました。堕落とは何ですか。自分を愛そうとしたことが堕落です。自分を中心として愛を要求したので堕落したのです。堕落していないところが何ですか。神様を中心として愛そうというところです。それが違うのです。
(102-233、1979.1.1)
7) 弟子の道理
学生は、教えを受けようとすれば、立派な師を求めてその方の訓練に従わなければならない。そして、単純な知識を受ける人の段階を超えて、正しい弟子にならなければならない。弟子になるというのは教育の核心的部分である。立派な教育とは、訓練と指導過程を通して学生の全般的存在を構成し、形成するところに関与するという意味である。
東洋の宗教には、師と弟子の関係の典型が成立した。この諸宗教は、言葉より実質的体験を通して真理を理解しようとする。このような内容は、医学とほかの学問のように、長い見習い期間を経て技術を完璧に習得する分野でも見いだすことができる。
この節では、段落が終わるごとに真理を受け入れる学生たちの能力差があるという事実を明らかにしている。重ねて強調したいことは、教育が知能より、心情とより密接に関連しているということである。
神様は、新しいぶどう酒で私達を満たしてあげたいと思っていらっしゃる。しかし、ぷどう酒を入れた袋が古くなれば、結局、すべて破れてしまうだろう。神様は、私達の胸に御自身の種を植えたいと思っていらっしゃる。しかし、私達の心情の畑が石のようであれば、その種が根を下ろすごとは困難だろう。したがって、霊的求道を歩む学生たちの最大の課題は、心の破片を除去し、心情の畑が霊的真理をよく受け入れることができるよう準備することである。
1. 立派な師の弟子になること
― 宗教経典 ―
さてもしもそなたに祭事についでの疑惑、あるいは行為についての疑惑が起こるならば、そこにもろもろのバラモンがいて、判断力あり、〔善いことに〕専念して、熱心であり、粗暴ならず、法を愛する者であるならば、かれらの行うがごとくに、そなたもまた行うべきである。
タイッティリーヤ・ウパニシャッド1.11.4(ヒンドゥー教)
あなたの家が知恵ある者たちの出会いの場になるようにして、彼らの足についた埃をあなたにかぶせ、彼らの言葉であなたの渇いた喉を潤せ。
ミシュナ、アヴォート1.4(ユダヤ教)
ある土地を知らぬ者には、それをよく知っている者が必要であり、彼は知っている者に教えられて前に進む。それこそが実に教育の恵みであり、人はまっすぐに前へと進む道を見出す。
リグ・ヴェーダ10.32.7 (ヒンドゥー教)
それを、〔師への〕服従により、質問により、奉仕により知れ。真理を見る知者たちは、あなたに知識を教示するであろう。それを知れば、あなたは再び迷妄に陥ることはなかろう。アルジュナよ。それによりあなたは万物を残らず、自己(アートマン)のうちに、また私のうちに見るであろう。
バガヴァッド・ギーター4.34 ~ 35(ヒンドゥー教)
(おのが)罪過(つみとが)を指摘し過ちを告げてくれる聡明な人に会ったならば、その賢い人につき従え。隠してある財宝のありかを告げてくれる人につき従うように。そのような人につき従うならば、善いことがあり、悪いことは無い。(他人を)訓戒せよ、教えさとせ。宜しくないことから(他人を)遠ざけよ。そうすれば、その人は善人に愛せられ、悪人からは疎まれる。
法句経76 ~ 77(仏教)
十方世界において(過去、現在、未来の)三世のすべてに属する、ありとあらゆる人中の獅子(である仏)たち、そのすべてに、身体も言葉も心も清浄な私は、残りなく礼拝します。
入法界品、普賢行願讃(仏教)
汝等立ち上がれ。眼醒めてあれ。今わが種々(くさぐさ)の施願を得て悟る所あれ。げに、砥(と)ぎすましたる剃刀は渡り難けれど、この道も歩み難しと賢者は教う。
カタ・ウパニシャッド1.3.14(ヒンドゥー教)
顔淵がああと感歎していった、「仰げば仰ぐほどいよいよ高く、きりこめばきりこむほどいよいよ堅い。前方に認められたかと思うと、ふいにまたうしろにある。うちの先生は、順序よくたくみに人を導かれ、書物でわたくしを広め、礼でわたくしをひきしめて下さる。やめようと思ってもやめられず、もはや私の才能を出しつくしているのだが、まるで足場があって高々と立たれているかのようで、ついてゆきたいと思っても手だてがないのだ。」(注20)
論語9.11 (儒教)
あなたの見解があなたの師のものと同じとき、あなたはあなたの師の長所を削り取る。あなたの見解があなたの師のものを凌駕するとき、あなたは彼を継ぐだけの資格がある。(注21)
無門関17(仏教)
人は全く同じである。ゆえに最も厳しい学校で訓練される人が最高だ。
トゥキュディデス戦史1.84(ヘレニズム)
― み言選集 ―
この地に神様の性稟をもった人がいますか。この世の中にイエス様の純粋な性稟を所有した人がいますか。その人を探して友人としてください。どこかに高潔な人がいますか。彼に従ってください。どこかの神様の性稟をもって和動させる人がいますか。彼に従って侍ってみてください。そうすれば必ず命の道を見いだすでしょう。また、その方に従って侍ったという条件で審判を免れるでしょう。
(2-318、1957.7.7)
心惰を離れては生命がありません。心情の谷間の道は苦痛で凄惨な道です。師を求めるときは、知識の師を求めるのではなく、心情の師を求めなければなりません。心情の谷間は、入り込めば入り込むほど涙です。「自分」はなくなります。
(9-81、1960.4.12)
先生が皆さんのために、どれほど苦労したか分かりますか。どうやって皆さんが上手に文章を書き、上手に詩を詠み、名筆になったのですか。すべて皆さんが自ら知ったのですか。それが皆さんのものですか。何も分からない白紙に、すべて先生から相続したのです。知識を愛する人たち、学問を愛する人たちは、知識や学問は愛しますが、これを伝授してあげるために無限の功を尽くした先生を愛することを知りません。人は、父母に対して恩徳を受けたことを知らなければなりません。その次には、師に対して感謝しなければなりません。師は第二の父母です。東洋では師を第二の父母といいます。
(104-278 ~ 279、1979.6.1)
国のために、世界のために、皆さんにたくさん苦労させ、孝子、忠臣にしてみようというのが先生の考えです。行かないといえば激しくたたかなければなりませんか、どのようにしなければなりませんか。私とあなたの生活において、これを知る人と父子の関係にあれば、兄弟の関係にあれば、師弟の関係にあれば、「父母様、骨を砕いてください」、「お兄さん、骨を砕いてください」、「先生、骨を砕いてください」と言わなければなりません。足で蹴飛ばして現在の悲惨さを、現在の困難を克服させるのが愛です。
(49-304、1971.10.17)
「おい、おい、おい、お前はそんなつらいことをしなくてよい。適当にやればよい。つらい勉強をする必要はないから、適当にやりなさい」と言う先生であれば、そのような先生は偽者です。皆さんは、そのような先生が好きですか。それはなぜかを考えてみましょう。今のためですか、未来のためですか。このようにすれば、将来間違いなく発展するのです。
(93-232、1977.6.5)
劉孝元協会長は、先生に従ってきながら私のためにたくさん苦労しました。その中でも、先生が監獄にいるとき、先生のことをたくさん考えてくれました。ですから、先生が劉協会長を考えれば、「彼は、これこれこのような人だ」と思うようになります。監房に横になっていても、早朝になれば会いたいという情に引かれ、もらった紙切れ一枚でも、命に値する価値のものとして受け入れることのできるほどの内縁の支えが彼にありました。そのような協会長だったことが思い出されます。
(33-83、1970.8.9)
2. 自我を適切に啓発しない理解は根源に至ることができない
― 宗教経典 ―
だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。「古いものの方がよい」と言うのである。
ルカによる福音書5.37 ~ 39(キリスト教)
初めその辞に率ってその方を揆れば、既にして典常あり。苟(いやしく)もその人にあらざれば、道、虚しく行なわれず。
易経、周易繋辞下伝2.8.4 (儒教)
道というものは、たとえ外から与えられたとしても、それを受け取る主体が心の内にできていなければ、……あとに残らないからである。また、たとえ道を得たとしても、道の実現に適合するような外部の条件がそろっていなければ、せっかくの道も実現されないからである。
だから、心中から発する道が、外の世間に受け入れられないような場合には、聖人はその道を外に示そうとはしないものである。また、外から道を教示しても、その人間の内にこれを受け取る主体ができていない場合には、聖人はむりにその道を受け入れさせようとはしないものである。
荘子14(道教)
ある者は、見つつありて〔しかも〕言語を見ず。またある者は、聞きつつありて〔しかも〕そ(言語)を聞かず。またある者に、〔言語は〕身を委(まか)せたり、あたかも美服をまとい、恋い慕う妻の夫におけるがごとくに。
リグ・ヴェーダ10.71.4(ヒンドゥー教)
「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。
茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」
マタイによる福音書13.18 ~ 23(キリスト教)
すぐれた才能をもっている人が「道」に耳をかたむけたとき、熱心にそれを行なう。普通の人が「道」に耳をかたむけたとき、それを信じるように見えるが、信じていない。最も劣った人が「道」に耳をかたむけたとき、大声で笑う。笑わなかったら、それは「道」ではないかもしれない。
道徳経41(道教)
― み言選集 ―
先生もじっと考えてみると、苦労をし、監獄に入っていって苦しんだのは何かというと、結局は心一つを大きくするためのものでした。ほかのことはありません。ほかのことはないというのです。心を大きくして何をするのでしょうか。神様が入ってきて暮らそうというのです。神様が私の心に足を踏み入れるのです。足を踏み入れようとするのですが、足が入らないように閉じています。そのようなときは、左足で蹴飛ばします。この足で蹴るのです。しきりに蹴飛ばすと、どんどん伸びていきます。それでしきりに蹴飛ばすのです。そうして片足が入り、両足が入ります。両足が入ると、手が入っていき、頭も入れて……。そうだというのです。これが伸びればとても大きいのです。
先生がお母様を(注23)見ていると、ほっそりしていたおなかに赤ん坊が宿って10 ヵ月たつとどんどん大きくなります。それは何がそのように伸びたり縮んだり……。小さな子宮がです。「うわあ、10 パウンド近くにもなる赤ん坊が水に包まれて大きくなるのだから、どれほどよく伸びるだろうか。私の心の袋はそれよりもっとよく伸びるだろう」と考えてみました。皆さん、赤ん坊がいる子宮が伸びずに死ぬと考えたことがありますか。そのようなことは思いもしません。
もし神様の生命が、神様のような生命の種が私の心の袋に落ちて育ち始めれば、神様くらいに大きくなるのですが、そのように大きな神様を包括できる私の心の袋にならなければ、神様はどうなりますか。大変なことになります。人も大変なことになるのです。そのように考えられます。さあ、皆さん、心の中で神様が3ヵ月くらいいて大きくなれずに流産すると考えてみてください。神様が堕胎するかもしれない心の袋に入っていくでしょうか。そこに種を植えるでしょうか。
(110-326、1981.1.4)
8) 学びと実践
真理を知ってからは実践が伴わなければならない。実践につながらない知識は、真の知識とは言えない。そのような知識は、蜃気楼のようにすぐに消えてしまうからである。真の知識は、概念的なものが経験的なものに変わって、初めて悟ることができる。この話は、特に難しい修行過程を要求する宗教と道徳の教えに適用される。自身を賢明で信仰深い人だと言いながら、行動が違う人は、正に偽善者である。言行一致こそ、真実な個人の核心資質である。
師は、教える前にまず経験しなければならない。東洋では、自分が知っているが、まだ完全に実践できていない知識を誇らないために、常に寡黙で言葉を慎むことを美徳としている。事業やあらゆる分野でも、指導者に同じ原理が適用される。青年時代、あらゆる大変なことを経験した指導者は、部下たちが願うことを正確に理解するため、彼らの尊敬と忠誠心を簡単に得ることができる。
― 宗教経典 ―
御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。
ヤコブの手紙1.22 ~ 24(キリスト教)
たとえためになることを数多く語るにしても、それを実行しないならば、その人は怠っているのである。牛飼いが他人の牛を数えているように。かれは修行者の部類には入らない。たとえためになることを少ししか語らないにしても、理法にしたがって実践し、情欲と怒りと迷妄とを捨てて、正しく気をつけていて、心が解脱して、執着することの無い人は、修行者の部類に入る。
法句経19 ~ 20(仏教)
あなたの口の中に留まっている知識はとても皮相的だ。本当の知識の長所と価値は、あなたが行なうことである。
ナフジュ・アル・バラーガ語録90(シーア派イスラーム)
学ぶことが最高ではなく、行動することが最上である。言葉が多いほど罪が多くなる。
ミシュナ、アヴォート1.l7(ユダヤ教)
そこで、私のこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。
私のこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。
マタイによる福音書7.24 ~ 27(キリスト教)
復活の日、神の目に最も下位にいる者は、彼の知識から恵沢を得ることができない識者たちである。
ダーリミー・ハディース(イスラーム)
子貢が君子のことをおたず礼た。先生はいわれた、「まずその言おうとすることを実行してから、あとでものをいうことだ。」
論語2.13 (儒教)
男子にせよ女子にせよ、真実のことを知るときは、そのとおりに善きことを熱誠をもって実践すべきである。それを自分自身のためにです。そして、それがあるとおりにそれを実践すべき人々に、それを理解させるべきです。
アヴェスター・ヤスナ35.6(ゾロアスター教)
先生がいわれた、「自分のことばに恥じを知らないようでは、それを実行するのはむつかしい。〔ことばは慎んでこそ、それを実行できる。〕」
論語14.21 (儒教)
知って行なわないものは決してなく、もし知って行なわないなら、それはまだよく知らないのである。……ある人が孝行のことを知り、ある人が弟のことを知っているというばあいには、その人が必ずすでに孝を行ない、弟を行なっていてこそ、彼は孝を知り弟を知っているといえるのであって、ただわずかの孝弟の話を知っているだけで、すぐに孝弟を行なっているということはできないのである。
同じように痛いことを知るというのは、必ず自分が痛いことを経験してからのことであり、寒さを知るというのは、凍えた経験をもってからのこと、ひもじさを知るというのは、飢えた経験があってのことである。このように考えると、知と行とはどうして分けることができようか。分けられないのが知行の本来のすがたであり、私意によって少しも隔てられない状態なのである。
王陽明伝習録(儒教)
実践がないむなしい悟りは役に立たない悟りであり、それはただ空虚な悟りにすぎない。悟りのないむなしい実践は、正しい方向がない実践であり、それはただ間違った実践にすぎない。知(知恵)と行(実践)は、互いが常に必需的であり、ちょうど目は足がなければ歩き回ることができず、足は目がなければ見ることができないのと同じである。
先後(順序)を論じれば、知が先であり、軽重(比重)を論じれば実践が重い。今、そのあることを知りながらも、実践がまだ及んでいなければ、知恵が依然として薄いのである。既に自らそれを実践したなら、知恵はより明るくなり、過去の意味とは異なるだろう。
朱熹(儒教)
― み言選集 ―
心で考えることを、実践できなければなりません。心で考えてばかりいてはいけません。なぜ行勤しなければならないのですか。行動することによって中心が生じるのです。言行一致という言葉は、心を身代わりする言葉と行動が一致しなければならないということです。
(248-89、1993.8.1)
学んだことは実践しなさいというのです。実践は立体的であり、縦的、横的であり、四方八方に広く、深いのです。(注26)それは、あの国に行って生活できる材料を活用するための訓練をしているのです。
(248-166、1993.8.1)
人間は創造原理において明らかにされたように自由意志と、それに基づく行動を通じて、神に喜びを返すべき実体対象として創造されたので、人間は神の目的を知って自ら努力し、その意志のとおり生活しなければ、神の喜びの対象となることはできないのである。それゆえに、人間はどこまでも神の心情を体恤してその目的を知り、その意志に従って生活できるように創造されたのであった。
原理講論、人類歴史の終末論1.1
先生が実践しなければ、教える資格がないことを知らなければなりません。
(134-203、1985.7.20)
これから私達がすることは何でしょうか。教育です。これは誰が何と言おうと、体験して話をしなければなりません。事実をもって話をしなければなりません。聞いたのではいけません。そのようにすることによって、天の側の高い位置に上がっていくのであり、中心存在になるのです。
(205-130、1990.7.29)
ですから、先生が考えるには、自分が世界的な指導者になり、今後大衆を動かすことができる責任者になろうというときは、30 歳までにすべて経験しなければならないと思います。これが、先生が体験してみた結論です。そのようになろうと思えば、一生に忘れることのできないあらゆる材料を、体験を通してたくさん得なければなりません。
仕事場に行って働きなさいという話をするときは、自分が昔、深刻な立場で土を担がなければならず、もっこ運びをしなければならない、そのような所で働いていた心情を感じながらそのような話をすれば、聴衆たちは深刻に聞き入るのです。専門家は、自分が経験した基盤の上ですべてのものを解き、教える人です。
(65-302.303、1973.3.4)
先生は多くの苦労を通してあらゆることを体験したのちに、結論を下すようになったのです。言葉だけではありません。実験をしてみました。すべて実験してみたというのです。
(133-83、1984.7.8)
第15章 信仰
信仰
1) 信仰
罪悪に満ちたこの世の中で、大部分の人々は真の自分の姿を見つめられずにいる。神様は、簡単に感じたり、体験できる方ではない。真理もやはり簡単に理解され、実践されるものではない。私達は、自分だけを信じ、目的なく、荒唐無稽な欲望と、誤った概念の海でさまよっている。人間は、暗闇の中で導いてくれる星が必要である。その星は、地図にも表示されない所を教えてくれる星であり、これがすなわち信仰である。信仰は、宗教的信念と天の戒めに従って生きようとする努力から始まる。宗教で教える信条は、いくつかの単語で表現されるが、それらは、私達が神様と関係を結べるよう正しい道に導いてくれる。
信仰は、深まれば深まるほど、それ自体が神様の下さった贈り物であることを悟るようになる。信仰を通して神様は、自分自身も救援できない堕落人間と再び関係を結ぼうとする御自身の愛を見せてくださる。信仰と仕事を比較した使徒パウロの話のように、日本の仏教聖者・親鸞も似た教理を教えている。彼は自分の信仰を、「またもう一つの力」に依託したという。これは、純粋で、自分本位の利己心に染まっていない信仰である。
信仰者の自信や信仰する能力自体には、何かの根拠があるわけではない。文鮮明先生は、人間は誰もが罪で汚れており、罪悪の血統を受けて生まれたために、自分だけの努力で罪を蕩減できる人は誰もいないと語られる。したがって、天との関係において、唯一で最もふさわしい原則は、神様の愛、すなわち子女に対する神様の愛を中心とするものである。
信仰は、天との相互関係の中で成熟し、信心と真実さで特徴づけられる。神様が願われるとおりに生きようと努力するとき、私達は常に私達を育ててくださった神様の実存を悟りながら、困難な逆境までも克服していくことができる。しかし、神様を信仰の主体として侍るとき、果たして私が神様に頼るように、神様も同じように私を信じて頼れるのか、自問してみる必要がある。人間は、二つの心をもっている。そして、その間で絶えず彷徨し、ある日は信仰を守り、別の日はその信仰を捨てたりもする。いかなる逆境の中でも、信仰を守って残ることができ、神様が信じることのできる自分になるためには、絶対的完結性と克己の姿勢が必要である(第12 章参考)。神様も、大きな使命を受けて完遂できる人を求めていらっしゃる。
文鮮明先生は、「絶対信仰」を強調される。苦難の中でも堅固に生き残り、揺るがない信仰が絶対信仰である。それはまた、私的な欲求に妥協しない信仰である。迫害と悲劇、喪失を経験すれば、信仰が弱い者は揺さぶられることがある。家族と愛する人たちの懇請によっても放棄させられないのが絶対信仰である。自分の主人を否定したペテロのように信仰が弱い者は、危険な状況から逃げたり、さちには信仰をすべて失ってしまう。しかし、絶対信仰をもった者は、山を越え、いかなる逆境にも打ち勝ち、死までも克服して、勝利できる人である。
1. 信仰 : 信仰の出発点
― 宗教経典 ―
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
ヨハネによる福音書3.16 (キリスト教)
信仰とは……神と天使たち、諸経典と使徒たち、そして最後の日を信じることであり、善であれ悪であれ、神の摂理を信じることである。
ナワウィー40 のハディース2(イスラーム)
看守は、明かりを持って来させて牢の中に飛び込み、パウロとシラスの前に震えながらひれ伏し、二人を外へ連れ出して言った。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」
使徒言行録16.29 ~ 31(キリスト教)
言え「人びとよ、私は神のみ使いとして、あなたがた全体につかわされた者である、天と地の大権は、かれのものである。かれのほかに神はなく、かれは生を授け死を賜う方であられる。それゆえ、神と文盲のみ使いに信頼せよ、かれは、神とそのおことばを信奉する、かれに従え、おそらくなんじらは導かれるであろう」。
クルアーン7.158 (イスラーム)
孔子がいわれた、「天命が分からないようでは君子とはいえない。」
論語20.5 (儒教)
アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。
創世記15.6 (キリスト教)
自らの魂をそこなわぬかぎり、たれがアブラハムの教えにそむこう。まさにわれは、この世においてかれを選んだ。来世においても、かれは必ず正義者のひとりである。主がかれに向かって「服従帰依せよ」と仰せられたときを思え。かれは「私は、よろず世の主に服従帰依し奉る」と、申し上げた。アブラハムは、このことばをその子らに伝え、ヤコブもまたそれにならった。「私の子らよ、神はおまえたちのために、この教えを選びたもうた、それでムスリムとならずに、死んではならぬぞ」。
ヤコブが臨終のとき、なんじらは立ち会ったか、かれがその子らに向かって「私がなき後、おまえたちは何に仕えるか」と、言ったとき。かれらは「私達はあなたの神、アブラハム・イシマエル・イサクの神、唯一の神に仕えます。かれに、私達は服従帰依し奉る」と言った。これは過ぎ去った衆のことである、かれらにはそのかせいだことに対し、またなんじらにもそのかせいだことに対し応報があろう。かれらの行なったことについて、なんじらが問われることはないのである。
かれらは言う「おまえたちは導かれようとするならば、ユダヤ教徒かキリスト教徒になれ」と。言え「いや、私達はアブラハムの純正の教えを信奉する。かれは、多神教徒のたぐいではなかった」。祈って言えムスリムよ「私達は、神と私達に啓示されたものを信じます。またアブラハム・イシマエル・イサク・ヤコブと諸支部族に啓示されたもの、ならびにモーセとイエスに賜わったもの、および主から諸予言に下されたものを信じます。それらの間のいずれにも、差別をつけません。かれに私達は服従帰依し奉る」。(注1)
クルアーン2.130 ~ 36(イスラーム)
汝もまた信仰を捨て去れ。そなたは死の領域の彼岸に至るであろう。
スッタニパータ11.46 (仏教)
祭祀を行ないヴァーユ(風神)を守護者となす神々は、シュラッダーに奉仕する、心からなる意図をもちてシュラッダーに〔奉仕する〕。人はシュラッダーによりで財物を見いだす。シュラッダーをわれらは呼ぶ、早朝に、シュラッダーを正午に、シュラッダーを日没に。シュラッダーよ、ここに[人々をして]われらを信頼せしめよ。
リグ・ヴェーダ10.151.4 ~ 5(ヒンドゥー教)
信仰に四種類がある。第一は、究極の根源に対する信仰だ。この信仰により信仰者は歓喜によって真如を念じるようになる。第二は、仏陀の数多くの卓越した徳性に対する信仰だ。この信仰によって信仰者は、常にその徳性を念じ、それらを近くに抱いて過ごし、それらに敬意を表し、それらを恭敬し、これによって自己の善の品性を増長させ、一切を抱擁する明るい知恵を具備するようになる。
第三は、法の気高い有益に対する信仰だ。この信仰によって信仰者は、悟りに至らせるあらゆる教えを絶えず心の大切に保ち、実践するようになる。第四は、僧に対する信仰であり、自分自身と他の人たちにすべて益をもたらす実践遂行に専念できる修行僧たちに対する信仰だ。この信仰によって信仰者は、徳のある菩薩と近くでお目にかかることができ、正しい修行を修める人たちの教えをよく聞くことができるようになる。(注2)
大乗起信論(仏教)
はかり知れない私の信仰、これを言葉と文字で明らかにしようとすれば、誰も最後まで果たすことはできないだろう。筆と紙でも描ききることはできず、直観でもその秘密を見通すことはできない。崇厳で清浄な神の名はただ信仰の固い者が成す。信仰によって意識と知性が全一となり、悟りの真価が一つ残らず表れ見える。
信仰によってこの世で犯した罪を洗い、また死の恐怖から抜けだすがゆえに、崇厳で清浄な神の名はただ信仰の固い者が成す。信仰によってあらゆる障害が消え、神と共にその国に高く引き上げられるだろう。信仰の固い者は邪悪な群れに陥って彷徨することがなく、ただ真の信仰によってひるまずに立つがゆえに、崇厳で清浄な主の名はただ信仰の固い者が成す。
アーディ・グラント、ジャプジー12 ~ 15M.1、P-.3 (シーク教)
― み言選集 ―
元来、信仰は、各自が神を探し求めていく道であるので、それは個人と神との間に直接に結ばれる縦的な関係によってなされるのである。
原理講論、メシヤ再降臨準備時代1
宗教生活をなぜするのでしょうか。私より次元の高い力の投入があるためです。では、その方向はどこへ向かうのでしょうか。今日の堕落した世界ではなく、次元の高い理想的目的に向かうのです。そうではないですか。ですから、神様がいないというのは理論的根拠が成り立たないのです。
(89-76、1976.7.11)
信仰の基準はお金でもなく、知識でもなく、この地の何かの栄光でもありません。無限の価値の中心は神様です。ですから、その中心となる標準を神様においていくのが信仰の道です。神様以外には一切を認めないのです。
(68-131、1973.7.29)
最も重要な問題は、中心に対する確固たる信頼をもつことです。そのような信念をもつまでは、いくら覚悟をしても仕方がありません。この道を歩んでいてあることにぶつかれば、私の信念はどのようになるでしょうか。自問自答してみてください。
(27-114、1969.11.30)
アダムの堕落は、どのようにして起きたのでしょうか。不信して堕落したというのです。不信が第一の原因です。人類の始祖が不信で堕落したので、これを踏み越えて上がっていかなければなりません。先祖が堕落したその線以上に上がっていかなければならないのです。絶対信仰をしなければなりません。
(126-35、1983.4.10)
復帰の道を行こうとすればメシヤが必要であり、病気が治るためには条件物が必要なのです。復帰するには医者が必要であり、次には条件物が必要であり、期間が必要です。医者が「薬を三日は飲まなければなりません、治療を1週間しなければなりません」と言います。そして、病気が治った人は、メシヤの代身、救世主の代身としての信念をもたなければなりません。救世主が語る言葉、医者が語る言葉を自分の言葉以上に信じなければなりません。
(63-183 ~ 184、1972.10.14)
信仰生活において最も問題になることは、信仰の対象、神様です。その次には何でしょうか。信仰の主体である神様は、人を対象としているのです。私達人間は神様を信仰の対象としていますが、神様は人を信仰の対象にしているというのです。これが行き違いです。ですから、私達はこの門前に立っているので、私達は、神様に対して私自身が残すべき一つの骨髄的な思想をもって、生死を共にしなければなりません。それと同時に、人に対しても何じです。
(59-237 ~ 238、1972.7.23)
ある病弊があります。それは「無条件に信じればすべての福を私のものにできる」、このような思想をもったからです。このような思想が打ち込まれています。何でもすべてもつことができるというのです。神様が祝福するというのです。それは、どういうことですか。功なくしてすべて自分のものにしようという人ばかりです。それは、どろぼうです。どろぼう根性です。どろぼう信仰だということです。
イエス様は、どうしてそのように逝ったのでしょうか。世の中を救うためです。「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」と言いました。神様がこの世を愛し得る国と環境になっていないがゆえに、神様がこの世を愛し得る環境にするために、そのように逝ったのです。
(124-296、1983.3.1)
天は、何を待ち焦がれているのでしょうか。信仰者を待ち焦がれているのではなく、生活の中で実践する者を待ち焦がれているのです。
(6-84、1959.3.29)
私は、果たして信仰者の態度を備えていますか。希望の心を立ててくるための信仰でしたか。それを願っていた私でしたか。古い信仰をもってすべてができると思い、あらゆることを解決しようとすれば、その道を行けません。正しい信仰の態度をもっていかなければならない私達であるがゆえに、これから私達に死亡の力がぶつかってきたとしても、その死亡の力を清算して余りあるようでなければなりません。痕跡が残されなければなりません。私の情熱もそうであり、私の忠誠もそうであり、私の努力もそうであり、私の忍耐もそうであり、私に属したすべてのものが残される分野がなければなりません。これが天の相続の第一基準になることを知らなければなりません。
(6-92、1959.3.29)
2. 信仰は人間の行為ではなく神様の恩寵
― 宗教経典 ―
事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。なぜなら、私達は神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してこくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。私達は、その善い業を行って歩むのです。
エぺソの信徒への手紙2.8 ~ 10(キリスト教)
神は、なんじらに信仰が好ましく、またなんじらの心の中を、それにふさわしくたまい、なんじらに不信心と邪悪と反逆を、嫌わせたもう。これは正しく導かれた者であり、神からの恵みであり、恩典である。
クルアーン49.7 ~ 8(イスラーム)
父からお許しがなければ、だれも私のもとに来ることはできない。
ヨハネによる福音書6.65 (キリスト教)
かれこそは、信者たちの心に安らぎを賜い、かれらの信心の上に、信心を加えたもう方であられる。
クルアーン48.4(イスラーム)
一切の義務(ダルマ)を放棄して、ただ私のみに庇護を求めよ。私はあなたを、すべての罪悪から解放するであろう。嘆くことはない。
バガヴァッド・ギーター18.66 (ヒンドゥー教)
あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。あなたがたは、それほど物分かりが悪く、“霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか。あれほどのことを体験したのは、無駄だったのですか。無駄であったはずはないでしょうに……。あなたがたに“霊”を授け、また、あなたがたの間で奇跡を行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも、あなたがたが福音を聞いて信じたからですか。それは、「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」と言われているとおりです。
だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、「正しい者は信仰によって生きる」からです。
ガラテヤの信徒への手紙3.2 ~ 7.11(キリスト教)
善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを、世のひとつねにいはく、悪人なを往生す、いかにいはんや善人をや。この条、一且そのいはれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆへは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いづれの行にても、生死をはなるることあるべからず。あはれみたまひて、願ををこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もとも往生の正因なり。よて、善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、おほせさふらひき。
親鸞歎異抄3(仏教)
群衆の中のある者が答えた。「先生、息子をおそばに連れで参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。……おできになるなら、私どもを憐れんでお助けください。」イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のない私をお助けくだざい。」
マルコによる福音書9.17 ~ 24(キリスト教)
― み言選集 ―
歴史的な曲折をもう一度考えながら、私達自体の恨の立場を解明し、探し立てなければならない父子の因縁を解明しない限り、私達には希望というものも、天国というものも、何の理想世界というものもあり得ないのです。
罪悪の血統を受けた私達、罪悪歴史の束縛を抜け出せずにいる私達、罪悪圏内に属して生活しながら、その環境を越えられずにいる私達、このような私達なのに、父と私達の関係をどのように解明するのですか。これは、私達が努力したとしても仕方がないので、心情を掲げて信じなさいと言ったのです。これがキリストの伝えた福音です。何かの条件をかけて信じなさいと言ったのではなく、心情を通して信じなさいと言われました。
(7-52 ~ 53、1959.7.12)
天上の審判は、どこで決定されるのですか。皆さんが天のために生きた功労と苦労が多いからといって、誇れるものはありません。それによって決定するのではないのです。ただ神様の心情とイエス様の心情が皆さん自身の体で体恤され、結実され、それが神様やイエス様と切っても切れない因縁となったものこそが、永生不死の条件になるのです。
(4-107、1958.3.16)
信仰生活をする上で皆さんの心の中に、爆発的で刺激的な力をもってみ旨の世界に向かって行こうという余力がありますか。そのような心があれば、神様が皆さんと共にいらっしゃるという証拠です。反面、そのような力がないならば、神様が皆さんと分離している証拠です。
人類を愛する心がわき上がり、人類と共に自分の生命を分かちたい心が絶えないということは天に属していることを証すものですが、自体を中心とした愛と自体の価値を誇る生命力で終わるならば、自分から既に神様は離別しているという事実を証すものであることを知らなければなりません。
(32-22、1970.6.14)
神様の愛、神様のみ言、神様の人を失ってしまったので、私達はこれを求めてさまよわなければなりません。そして、今日まで救援摂理をしてこられた神様も、これを取り戻そうとされたというのです。愛を失ってしまった人間、み言を失ってしまった人間、実体を失ってしまった人間、人間はなぜ、何をできなかったために愛とみ言と実体を失ってしまったのかというと、(神様のみ言を)信じられなかったために、これらを失ってしまったのです。
ですから、神様が人間を取り戻してこようとすれば、人間たちが(み言に対する)信仰の条件を立てなければなりません。すなわち、神様は、信仰を条件として人間たちに対してくださったのです。信仰を前提条件として人間たちに救援摂理をされ
るというのです。
(5-37、1958.12.14)
神様は、どのような心情でこの世界を創造されたのでしょうか。神様が無限に信じてあげられる万物になることを願う心情、無限に信じてあげられる人になることを願う心情でつくられたのです。したがって皆さんは、強いて信仰という名詞が必要ない一体的な理念圏内で、神様と私達が心と体の関係のような不可分の一体性を備え、長い歳月を過ぎても、天に対して弁明があってはなりません。
神様は人間と一体的な立場に立ち、信仰という名詞までも感じないほど人間を信じてあげようとされたのです。このように永遠に信じてあげようとされていた神様のその心が、人間の堕落によって人間から離れるようになりました。
(4-71、1958.3.9)
取るに足らない姿であり、自分自身を批判し、分析して見るとき、お父様に何かをお返ししてさしあげられる存在になれなかったことを、私達はよく知っております。しかし、お父様とは切っても切れない子女の因縁を結んでいることによって、お父様は私達を御覧になり、悲しみと喜びの分岐点で私達に対していらっしゃるという事実を、私達は忘れてはなりません。(24-245、1969.8.24)
3. 神様を信じて生活すること
― 宗教経典 ―
偉力者・慈悲者に信頼しまつれ、なんじが礼拝に立ち上がるのをみそなわす方、また叩頭する者たちの間での、なんじの動作をみそなわす方であられる。まことにかれは、全聴者・全知者であられる。
クルアーン26.217 ~ 20(イスラーム)
心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。
箴言3.5 ~ 6(キリスト教)
神に従う人は信仰によって生きる。
ハバクク書2.4 (キリスト教)
ラビ・シムライが言った。「613 項の言葉がモーセに与えられた。その中で365項はしてはならないという命令として1年362 日に該当する言葉だ。そして、248 項はやりなさいという命令なのだが、これは人の数字に対抗する言葉だ。ダビデ王がこれを減らして11 の言葉にした。(詩編15)イザヤは6の言葉に(イザヤ63.15)、ミカは3の言葉に(ミカ6.8)、再びイザヤは2の言葉に減らし、「正しい判断をして、善行をせよ」と言った。アモスは一つの言葉に減らした。「私(主)を信じよ、そうすれば生きる」。ハバククも一つの言葉に減らした。「神に従う人は信仰によって生きる」。(注4)
タルムード、マッコート23b ~ 24a(ユダヤ教)
私に向かって、「主よ、主よ」と言う者が皆、天の国に入るわけではない。私の天の父の御心を行う者だけが入るのである。
マタイによる福音書7.21(キリスト教)
私の兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。
ヤコブの手紙2.14 ~ 17(キリスト教)
私は語ったとおりに行い、言行に恥ずかしくない生活をする。あなたの両手に天秤と秤をおもちになり、おお、私の主よ! もし私の言葉と行動がたとえ麦一粒ほどの重さでも違えば、私を打ってください。おお、クダラ・サンガマ!
バサヴァンナヴァチャナ440 (ヒンドゥー教)
― み言選集 ―
天は、どのような信仰を願うのでしょうか。イエス様が私を信じなさいと言われたのは、自分が神様を信じるようにイエス様を信じなさいということです。また、イエス様が、「私は神様の息子だ。私は神様を信じる」と語ることができたのは、自分が神様を父として信じているように、神様も自分を息子と思っているということを確信したからです。
(5-180、1959.1.18)
皆さんが今、信仰の主体であられる主を信じていますが、イエス様を信じることだけで終わってはいけません。皆さんは、イエス様を信じることによって、その信仰の条件を通し、永遠の生命を懸けてイエス様との関係と因縁を結ばなければなりません。そして、皆さんはイエス様と信仰の関係を結んだその基盤の上で、神様の実存まで感じなければなりません。皆さんが本当にイエス様を信じれば、このようなことを成せるでしょう。
(3-19、1957.9.8)
イエス様を信じるというとき、イエス様が喜ぶものだけを信じなければなりませんか、イエス様が嫌うものも信じなければなりませんか。イエス様が嫌うものは防御して、喜ぶものを信じなければならないという結論です。それでは、イエス様が嫌うものは何でしょうか。サタンと罪悪です。
(124-294、1983.3.1)
神様から愛を受ける人が、この偉大な神様のみ言を誇り、それを天宙に叫ぶことができる心情になっていなければ、その人は神様の息子として、神様の娘として立てません。神様の権威を中心としてその基盤が立ったものを、自分が自然に感じられる自らをもたなければなりません。
(22-205、1969.2.4)
今、天があるとすれば、私達は主体であられる天が、対象である私という個体を100 パーセント信任してくれる、その一日を求めなければなりません。その目的に対して100 パーセント信念をもち、その一箇所を求めなければならないというのです。また、100 パーセントの信念をもって突進できる方向性を備えなければなりません。これが、この時代に生きている人類が解決すべき最後の重大な問題です。
このような悲しみの環境を越えていかなければならない人間なので、神様はこれを解決するある条件を立ててきたことは間違いないでしょう。そうだとすれば、神様は歴史路程においてどのように摂理してこられたのでしょうか。人間始祖が堕落したのは、神様を信じることができなかったからだという事実を、皆さんはよく知っています。信じることができなかったために堕落したのです。
(6-209 ~ 210、1959.5.17)
いくら自信があっても、じっとしていてはいけません。そのような人は必要ないのです。既成教会でいくら神様のみ旨がどうで、地上の天国がどうでと言っても、じっとしていれば、何の意味もない言葉です。自信をもっていますが、信じてじっと座っている人、自信をもっていますが、少し適当に行動する人、自信をもって命懸けで勇猛果敢に行動する人の中で、神様は誰を好みますか。考えてみてください。皆さんは、どのような人を願いますか。
(92-312 ~ 313、1977.4.24)
体恤信仰において最も重要な要件は何でしょうか。主体と対象の関係です。「神様は常に主体だ」と思いながら、私を愛される神様なので、私が深刻であれば深刻であるほど、神様は私のことを忘却できない、傍観できない、ここに一緒にいらっしゃるということを感じなければなりません。
ですから、祈祷に先立ち、感謝できる生活が成されるとき、そこには天が共にいらっしゃるのです。それが最初は感じられませんが、ある段階に入っていけば、はっきりと感じるようになります。
(58-312、1972.6.25)
たとえサタン世界に生きているとしても、天に対する貞節と志操は守らなければなりません。私が育てている息子、娘をお父様の子女だと思ってきましたか。さらには、私と私の相対がお父様のものであると考えてみましたか。私の父母、私の先祖、私の民族、私の国をそのように考えてみましたか。無知なこの地上の人間たちは、天がこのような標準に向かって動いている事実を知らずにいます。
(8-85、1959.11.8)
きょう、ここに集まった子女たち、どうぞお父様が「お前は私の希望の存在であり、私が信じることのできる者であり、私が愛することのできる者だ」と言い得る姿となるよう許諾してください。
(1-101, 1956.6,6)
4. 個人的欲望と環境に影響されない絶対信仰
― 宗教経典 ―
イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」
マタイによる福音書17.20 (キリスト教)
一粒のからし菜の種ほどの信仰を心に抱いた者は地獄に入らないが、一粒のからし菜の種ほどの驕慢さを心にもった者は天国に入れない。
ムスリム・ハディース(イスラーム)
そして別の人に、「私に従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。
ルカによる福音書9.59 ~ 62(キリスト教)
天に向かって旅する者達は、後ろを振り返らない。彼らは天、二つの世界へと上っていく。
シャタパタ・ブラーフマナ9.2.3.27(ヒンドゥー教)
ロトの妻は後ろを振り向いたので、塩の柱になった。
創世記19.26 (キリスト教)
私の服は古く、すり減った。私は遠からず裸になるだろう」。または「私は新しい袈裟を得るだろう」。出家修行者は、このような考えを抱いてはいけない。あるときは服が一着もないこともあり、またあるときは何着もあることもある。このように考えるのが健全な規律であることを知っているのだから、賢明な出家修行者はそれに対して不平を言ってはならない。
ウッタラッジャーヤー・スートラ2.12 ~ 13(ジャイナ教)
私は確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、私達の主キリスト・イエスによって示された神の愛から、私達を引き離すことはできないのです。
ローマの信徒への手紙8.38 ~ 39(キリスト教)
言え「私の礼拝と奉仕、私の生と死は、よろず世の養育の主、神のためである。
クルアーン6.162 (イスラーム)
いちじくの木に花は咲かず、ぶどうの枝は実をつけず、オリーブは収穫の期待を裏切り、田畑は食物を生ぜず、羊はおりから断たれ、牛舎には牛がいなくなる。しかし、私は主によって喜び、わが救いの神のゆえに踊る。
ハバクク書3.17 ~ 18(キリスト教)
― み言選集 ―
私達がこの地上でこのような使命を果たせば、神様も私達の報告と私達の要求を待たれるようになるのです。ですから、私が密使の立場で早急に願うものを送るようにと言えば、百方に冒険をし、克服しながらでも送るようにするのではないでしょうか。
これと同じように、皆さんがそのような信念をもって神様の特権的な栄光の息子、娘であることを認識しながら「私はこれを願いますから、どうぞかなえてください」と言えば、成就してくれるのです。そうすれば、生きていらっしゃる神様を発見することができ、生きて神様が働かれるのを見ることができるのです。
(65-287、1973.1.1)
信仰の道では、自己主張、自我観念はあり得ません。絶対的信仰というものは、自我観念が一つも残っていない信仰をいうのです。そうではないですか。絶対的に信じるというときは、私自体に絶対的に反対する要因が一つもあってはなりません。神様を中心として一つになろうというところには、自己主張するものがありません。主体が要求するとおりに完全に一致しなければなりません。完全に一致するというのは、自分自らを主張する一片の心もないのです。
(46-82、1971.7.25)
ノアおじいさんのような人は、神様が呼ばれるとき、常識的な立場で呼びませんでした。「お前は120 年間、山に箱舟を造りなさい!」とおっしゃいました。神様が箱舟を造りなさいといわれるのであれば、海辺に造るようにされるか、川辺に造るようにされなければならないのに、その正反対です。神様は、すべてそのように摂理されます。アブラハムに対しても、偶像の売買をする一番の頭の息子を引っ張ってきたのです。
(70-64、1974.2.8)
自分を弁明しようとする者は、天国に入れません。絶対的な信仰というものは、自分を弁明する立場ではないのです。弁明される立場になるべきです。うまくやっても、「うまくやった」と言える立場でぱありません。自分が100 パーセント認めることのできるものだとしても、神様が見るときは一つです。自分が100 と認めるものが、神様には一つなのです。ですから、天国は自分を中心として提示する立場では、訪ねでいくことはできません。天国は、どこから始まるのでしょうか。絶対的な信仰を起点として出発するのです。絶対的な信仰というものは、自分を主張できるものではありません。
その立場は、自分を絶対否定する立場です。自分を絶対的に否定する立場に立たずには、絶対的な信仰が出てくることはできません。皆さんが、世の中の万事を肯定しながら信仰の道を行くときには、絶対的な信仰が出てきません。
このような根本問題について、今日大部分の人を見てみれば、一日の生活圏内で、朝に起きて御飯を食べて習慣的な生活をしながらも、「私は神様に対して堂々としている」と言います。そのように信じる人がたくさんいます。そのような人たちは、天国を所有することはできません。堂々とすることができないのです。自分を公認する相対的な要因がなくては、絶対的な信仰基準ももてないのです。絶対的な信仰基準ももてなかったのに、絶対的な信仰基準を克服してしまったのちにこそ成される天国が、成就され得ますか。とんでもないことです。なぜそうなのでしょうか。その立場には、サタンがとどまっているためです。
(46-79 ~ 80、1971.7.25)
絶対的な信仰を中心として歩んでいくにおいて、その国家が絶対的に反対したとしても、譲歩してはいけません。家庭なら、家庭で誰がいくら反対したとしても、その反対に対して絶対的な信仰をもって屈してはいけません。また、夫婦の間においても、相対が反対する立場に立ったとしても、絶対的な信仰態度をもたなければなりません。このような態度をもち、信仰生活をしようとする目的は何かというと、たった一つ、悪の環境を脱皮して善に帰ることです。
(29-206、1970.2)
絶対信仰というものは何でしょうか。自分が信じているある宗教の指導者がいるとすれば、その指導者と私は歴史的に数千年という遠い距離を置いていますが、信じる心を中心としては、彼と平面的に対等な時代圏内に立てることを意味します。
ですから、絶対的に信じなさいというのです。絶対的に信じるとき、その人と一緒にいるということが分かるようになるのです。また、その人と一緒に生きていることが分かるようになります。このようなことを新たに認識させ、刺激させるためのものが信仰だということを知らなければなりません。
(32-162、1970.7.12)
皆さんは、膨大なみ旨を前にして、あるいは神様が歴史を通して願われるそのみ旨を前にして、どれほど深刻な立場で、そのみ旨と共に一つになっていますか。そのみ旨を中心として絶対的な信仰をしているのですか。風が吹き、暴風雨が吹きつけることがあっても、私が死んで滅びても、「この信念だけは間違いない。間違っていれば私が間違ったのであって、み旨は間違っていない」という確固不動の信念をもたなければなりません。朝の信仰と夕方の信仰が異なる、そのような信仰姿勢をもっていながら天国を願うというのは、あまりに愚かなことです。
(46-74、1971.7.25)
愛がどこで連結され始めるのですか。絶対的なゼロになる点から始まるのです。ですから自分がありません。完全な愛を求めるためには“私”という個性があってはいけません。信じるのも、絶対的な主体と対象が互いに信じなければなりません。ここに自分はありません。絶対的な信仰というものは自分がないというのです。ゼロです。絶対的な愛で一つになるところには自分がなく、絶対的な信仰で一つになるところにも自分がありません。この二つが一つになるのです。そうであってこそ完全に一つになります。
(279-146、1996.8.4)
神様が創造するとき、絶対的な信仰の上で創造しました。神様が語れば、語ったとおりに対象が現れなければなりません。絶対的な信仰の上で発言したのです。その絶対的な信仰の上でつくるその対象は、絶対的な愛のためです。私の愛する実体が私の体の何千万倍貴いものになることを願うので、私の愛をすべて投入したのです。絶対に一つになったところで投入したというのです。
(273-298、1995.10.29)
5. 逆境と信仰
― 宗教経典 ―
「父よ、できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください。しかし、私の願いどおりではなく、御心のままに。」
マタイによる福音書26.39 (キリスト教)
ヨブの息子、娘が、長兄の家で宴会を開いていた日のことである。ヨブのもとに、一人の召使いが報告に来た。「御報告いたします。私どもが、牛に畑を耕させ、その傍らでろばに草を食べさせておりますと、シェバ人が襲いかかり、略奪していきました。牧童たちは切り殺され、私ひとりだけ逃げのびて参りました。」彼が話し終らないうちに、また一人が来て言った。
「御報告いたします。天から神の火が降って、羊も羊飼いも焼け死んでしまいました。私ひとりだけ逃げのびて参りました。」彼が話し終らないうちに、また一人来て言った。「御報告いたします。カルデア人が三部隊に分かれてらくだの群れを襲い、奪っていきました。牧童たちは切り殺され、私ひとりだけ逃げのびて参りました。」
彼が話し終らないうちに、更にもう一人来て言った。「御報告いたします。御長男のお宅で、御子息、御息女の皆様が宴会を開いておられました。すると、荒れ野の方から大風が来て四方から吹きつけ、家は倒れ、若い方々は死んでしまわれました。私ひとりだけ逃げのびて参りました。」 ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言った。「私は裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」このような時にも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった。
ヨブ記1.13 ~ 22(キリスト教)
サウルはダビデに答えた。「お前が出てあのペリシテ人と戦うことなどできはしまい。お前は少年だし、向こうは少年のときからの戦士だ。」しかし、ダビデは言った。「僕は、父の羊を飼う者です。獅子や熊が出て来て群れの中から羊を奪い取ることがあります。そのときには、追いかけて打ちかかり、その口から羊を取り戻します。向かって来れば、たてがみをつかみ、打ち殺してしまいます。私は獅子も熊も倒してきたのですから、あの無割礼のペリシテ人もそれらの獣の一匹のようにしてみせましょう。彼は生ける神の戦列に挑戦したのですから。」
サムエル記上17.33 ~ 36(キリスト教)
「神を信ぜよ、かれのみ使いと共に奮闘せよ」と(命ぜられたとき)、かれらのうち能力ある者が、なんじに免除を求めて、「わしらを家にとどまる者と共に、そこにおらせて下さい」と言う。かれらは背後で家にとどまる者と一緒にいることを好む、かれらの心は封じられ、それでかれらはさとらぬ。しかし、み使いならびにかれと共に信仰する者たちは、財産と生命とをささげて奮闘努力する。かれらにはあらゆる幸福があり、またかれらは成功する者たちである。
クルアーン9.86~88(イスラーム)
ペテロが下の中庭にいたとき、大祭司に仕える女中の一人が来て、ペテロが火にあたっているのを目にすると、じっと見つめて言った。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」しかし、ペテロは打ち消して、「あなたが何のことを言っているのか、私には分からないし、見当もつかない」と言った。
そして、出口の方へ出て行くと、鶏が鳴いた。女中はペテロを見て、周りの人々に、「この人は、あの人たちの仲間です」とまた言いだした。ペテロは、再び打ち消した。しばらくして、今度は、居合わせた人々がペテロに言った。「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。」
すると、ペテロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が再び鳴いた。ペテロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度私を知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした。
マルコによる福音書14.66 ~ 72(キリスト教)
― み言選集 ―
自分の理想的な相対を得て結婚し、楽しく暮らし、夫が死んだ、妻が死んだというとき、「ああ! 私は知らない」、これではいけません。「ああ! 神様が私を愛しているのなら、なぜ妻を連れていき、なぜ夫を連れていったのですか」、そのように考えずに「これは、何か起きようとしてこのようなことが起きたのか」、このように考えなさいというのです。神様が私から大切なものを奪っていくのなら、奪っていった神様は、もっと貴いものを与えるためにそのようにされることを知らなければなりません。それが父母です。
蕩減復帰の原則を考えれば、蕩減というものは本当に有り難い言葉です。「このような峠道を蕩減する者は私しかいないので、私を選んだのだなあ!」と有り難く考え、神様の前に「その次は何ですか」と祈ることができる余裕をもてば、驚かれるのです。100 年、1000 年をおいて見てみると、子孫が福を受けるのです。
(104-106、1979.4.15)
絶対信仰! 最近の先生の祈祷がこれです。ペテロの信仰が問題ではありません。絶対信仰です。死んでも行かなければなりません。監獄は日常のことです。イエス様が「もしできることでしたらどうか、この杯を私から過ぎ去らせてください。しかし、私の思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」と祈られたその父のみこころのために……。客死した死体になって倒れたとしても、自分のために死なずに、父のために死んだというのです。栄光の死体になったのです。その限界点が分かりますか。
死の場でも堂々としていなければなりません。死ぬと思って目を閉じ、「私は死んだ」と思っていれば、すぐにほかの世界に移されているというのです。飛躍が起きるのです。統一教会は、そのように発展してきました。そのように発展したのです。唖然とし、呆然として、四方がぎゅっと締めつけられ、地に入っていくことも天に上がっていくこともできないその場まで、死を覚悟して踏み越えていけば、さっと飛躍するのです。
生きていらっしゃる神様は、間違いなく顕現する方です。ですから、私には神様がいる、いないということは問題にもなりません。そのような夢のごとき役事が、本当にたくさんあるのです。神様は、公約どおりにされる方です。
(126-38 ~ 39、1983.4.10)
人類の始祖が不信で堕落したので、これを踏み越えて上がっていかなければなりません。先祖が堕落した、その線以上に上がっていかなければならないのです。では、絶対信仰とはどういうことでしょうか。死ぬまで、死んでも行こうとすることです。
(126-35、1983.4.10)
世の中では、今キリスト教がすべて崩れ落ち、アメリカも、その大国が揺れ動く、そのような局面が展開しています。それでは、変わらない神様、全体の主体であられる神様が、どのような対象を探し出さなければならないのでしょうか。支流と一緒に歩調を合わせて踊りを踊る人は駄目です。変わる人であり、変わる世の中です。そのような人と世の中ですが、私は変わらないという人、次には世の中がすべて滅びてなくなるとしても、私は滅びないという人にならなければなりません。ただ信仰だけそうなのではなく、実際的にそうだという確定した立場に立たなければなりません。
(66-47、1973.3.18)
皆さんが信仰生活をしながら、神様を呼び、神様のみ旨を叫び、神様の理念を求め、神様の栄光のために闘う目的がどこにあるのですか。まずは、自分が確固不動になるところにあります。「歴史的な悲しみが私を占領することはできず、時代的な逆境が私の心と体にしっかりと立っている基盤を占領することはできない」と言える信念がない限
り、そのような位置を備えておかない限り、いくら歴史的に忠誠を尽くし、時代的に自らをもったと自負する人がいたとしても、天は彼を信じて摂理することはできず、彼を立てて時代を収拾することはできません。
(12-304、1963.8.11)
2) 伝道
大部分の宗教は、福音伝道、すなわち人を救援に導こうと、真理を伝播する伝道を奨励している。真理の証という宗教的戒めは、愛から出てくるものである。愛は、真理が人を解放してくれ、より次元の高い可能性を開いてくれるものだという確信を土台とし、人の永生を憂慮する心である。伝道は、「あなたがたの光を人々の前に輝かし」のような聖句から始まる。信仰者は、善行と利他心を通して生きている信仰を実践し、人を感動させ、説教と教理的教えによって人生を先導しなければならない。福音伝道は、時として反対にぶつかることもある。伝道は、常に神様の導きを信じ、純粋な心と高潔な行為を通して成し遂げられなければならない。
― 宗教経典 ―
イエスは、近寄って来て言われた。「私は天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を私の弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
マタイによる福音書28.18 ~ 20(キリスト教)
英知とよい話し方で、すべての者をなんじの主の道に招け。最善の態度で、かれらと議論せよ、なんじの主は、かれの道から迷う者と導かれる者を、最もよく知りたもう。
クルアーン16.125 (イスラーム)
時に世尊諸比丘に告げたまへり。「比丘等よ、我は天・人の一切の羂索より脱したり。比丘等よ、汝等も亦天・人の一切の羂索より脱したり。比丘等よ、遊行せよ、此、衆生の利益、衆生の安楽、世間の哀愍、人天の義利・利益・安楽の為なり。二人してともに行くなかれ。比丘等よ、初善・中善・後善にして義理・文句を具足せる法を説け、悉皆円満にして悉浄なる梵行を顕示せよ。有情にして塵埃少き者あり、若し法を聞かずば退堕するも、{聞かば}法を悟り得べけん。比丘等よ、我はまた優樓頻螺のセーナーニガマに至りて法を説かん」。
律蔵i.21 (仏教)
アスヴィンス、主の光よ、蜂蜜のごとき甘美さで私を満たしたまえ。されば、人々にメッセージを伝えんがため、栄光の言葉を語るであろう。
アタルヴァ・ヴェーダ6.69.2 (ヒンドゥー教)
ヒレルが言った。「アロンの弟子となれ。彼は平和を愛し、人類を愛し、彼らを法の近くに導いてくれる人である」。
ミシュナ、アヴォート1.12 (ユダヤ教)
私に最高の信愛(バクティ)を捧げ、私の信者たちの間にこの最高の秘密を説く人は、疑いなくまさに私に至るであろう。人のうちで、彼ほど私に好ましいことをする者はいない。またこの地上に、
私にとって彼ほど愛しい者はいないであろう。
バガヴァッド・ギーター18,68 ~69(ヒンドゥー教)
人たすけたらわがみたすかる
おふでさき3.47(天理教)
あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。
マタイによる福音書5.14 ~ 16(キリスト教)
自分は世のともし火となり、功徳をもって身を荘厳し、十力の智慧を具足すべく、一切もろもろの群生は貪欲・瞋恚・愚痴に焼かれている、自分は彼等のために無量の悪道の苦を除いてやろう。
華厳経30(仏教)
ですから、神が私達を通して勧めておられるので、私達はキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、神は私達のために罪となさいました。私達はその方によって神の義を得ることができたのです。
私達はまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。なぜなら、「恵みの時に、私はあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、私はあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。私達はこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。
大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉、神の力によってそうしています。左右の手に義の武器を持ち、栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。
私達は人を欺いているようでいて、誠実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。
コリントの人たち、私達はあなたがたに率直に語り、心を広く開きました。私達はあなたがたを広い心で受け入れていますが、あなたがたは自分で心を狭くしています。子供たちに語るように私は言いますが、あなたがたも同じように心を広くしてください。
コリントの信徒への手紙二5.20~6.13(キリスト教)
もしあなたが他人に欠乏したある真理を知っていたり、宝物をもっていれば、最も親切な善意の言葉で、彼らにあなたの所有を分けてあげなさい。もし彼らがそれを受け入れ、もしその目的が達成されれば、あなたの目標も成就する。もしある人がそれを拒絶すれば、そのままにしておき、神が彼を導かれるように切に求めよ。あなたが彼に不親切に接することがないよう注意せよ。
狼の息子の書簡15(バハイ教)
イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。
ただで受けたのだから、ただで与えなさい。帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。
もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む。」「私はあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。
また、私のために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、私の名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい。はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る。弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われるこことだろう。」
「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。私が暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。
マタイによる福音書10.5 ~ 27(キリスト教)
比丘たち、これら二つの施しがある。物質的な財の施しと精神的な真理の施しとである。比丘たち、これら二つの施しのうち、真理の施しが最も優れている。比丘たち、これら二つの分配がある。財の分配と真理の分配とである。比丘たち、これらの二つの分配のうち、真理の分配が最もすぐれている。
如是語経98(仏教)
良きことばは名誉として報酬を得、良き仕事は人々を印象づける。たとえ価値なき人であっても、「道」は決して見捨てることはない。大きな国に皇帝が立てられ、大臣が任命され、玉や馬が授けられても、「道」以上に善い提供物はない「道」は遠い昔から非常に尊ばれてきた。どうしてかというと、それを求めないから、人はそれを得るのだ。たとえ過ちがあったとしても、人はその報いから免かれる。こうして、「道」は天下で最も尊いものとされるのである。
道徳経62(道教)
― み言選集 ―
私達が原理で伝道するのは、「愛の復帰運動」をしているのです。心情の世界は時空を超越します。み言も祈祷も、究極には愛のためです。完成は愛の理想を成すことです。
(33-69、1970.8.8)
天が喜ぶことのできる一時があるというとき、果たしてその時は、どのような時でしょうか。懇切な心情で天を証できる時です。善の人を通して死亡世界の人間を生かしてあげようとされる神様の心情を知り、その心情を解怨するために、神様の代わりに生かしてあげる責任を担って闘い、神様の心情を宣布する人がいるとき、天は、すべてのものを惜しまずにその人に渡してくださるのです。惜しまれないというのです。
(8-259、1960.1.17)
伝道とは、サタン世界を捨てて、笑いながら天の道についていくようにすることです。天の国に導くことです。これを知らなければなりません。皆さんを見ると、伝道しようとして、その人が喜んでいようといまいと、ひたすら強制的に「来なさい、来なさい」と言うのですが、それではいけません。人は霊物なので、皆さんが一人の人を祈祷してみて一度実験してみなさいというのです。ある一人の人をこの上なく愛し、その人をみ旨の前に立てるために、心痛む心情をもって涙を流してみるのです。
(50-279、1971.11.8)
伝道は、父の代わりに失ってしまった子女を取り戻す心情でしなければなりません。
(10-219、1960.10.14)
伝道は、人の子女を自分の息子、娘以上、自分の民以上に愛するのです。自分の兄弟の代身、自分の子女の代身として、サタン世界の誰よりも、もっと愛さなければなりません。ですから、カイン・アベルの基準を中心として、アベルが勝利すると同時に、カインも天の国に連れて入っていくことができるのです。そのようにしたのちにこそ、祝福を受けるのです。
(93-281、1994.6.11)
天国に行く道は、兄弟を神様のように愛することによって開かれます。皆さんは、先生についていこうとするのですが、その心で兄弟と共に行こうと努力してみてください。このように見る時、天国に最も高く、早く、よく導いてくれるのは神様でもなく、先生でもなく、兄弟だという結論を下せます。
(66-125、1973.4.18)
神様の愛を受ける人が、その偉大な神様のみ言を誇りに、それを天宙に叫ぶことができる心情になっていなければ、その人は神様の息子として、神様の娘として立てません。
(22-205、1969.2.4)
私達は、神様を知らなければならず、永生を知らなければならず、真の愛を知らなければなりません。そして、私達がすべきことは、この三つを教育することです。これは誰が何と言っても、体験をして、話をしなければなりません。事実をもって話をしなければなりません。聞いただけではいけません。そのようにすることによって、天の側の高い所に上がっていくのであり、中心存在になるのです。結局は、人をどのくらいこのような世界に加担させたのか、サタン世界を消化させたのか、という問題が残っているのです。お金ではありません。知識ではありません。
(205-130 ~ 131、1990.7.29)
お父様! どうか西欧に広がっているすべての統一教会の群れ、アジア、あるいは五大州に広がっているすべての群れが、あなたの心情に従ってろうそくの火の役割をすると同時に、大海に向かって立っている灯台の使命を果たさなければなりません。そのような使命が彼らに背負わされていることを知り、きょう、あす、未来に向かってひたすら愛の化身体として、あなたの深い心情を証できる証し人となるようにしてくださることを懇切にお願い申し上げます。
(86-91、1976.3.7)
イエス・キリストがこの地上の人間たちによって濡れ衣を着せられたのですが、かえって彼らを心配し、涙を流されたのと同様に、終末にそのようにできる聖徒が、信じる聖徒の中からたくさん出てこなければなりません。善の人がいれば、彼によく侍らなければなりません。悪の人がいても、その人以上にもっと心配し、残念に思うことができなければなりません。そのような個人になり、そのような家庭と社会と世界をつくるために、十字架の苦難まで背負っていかなければなりません。イエス・キリストの心情を身代わりして神様のみ旨を成し遂げるために忍耐し、勝利する人にならなければなりません。
(1-254 ~ 255、1956.11.25)
自分は居ることなく後ろに行かなければなりません。しかし、見れば神様の心情が前にあるのを感じるのです。それは何ですか。自分を絶えず引いていくのです。そのような場に行けば、多くの群衆が集まっても、みな教育できるのです。そこでは何だか分からずに、すべて教えてくれます。それでも自分が言う声なので、自分の耳にも聞こえます。自分が話す声を聞けば、不思議なのです。その境地に至れば、語りながらジェスチャーをしても、実に自然です。どんな表情をしても、それがみな自然なのです。ぎこちなくないのです。そのようなことを感じながら働いてこそ、生命の運動が繰り広げられることを皆さんは知らなければなりません。
(96-168、1978.1.3)
自分でも知らないうちに、周りに通り過ぎる人がいれば分かるのです。人は霊物なので分かります。通り過ぎていくその人についていくのです。さっと見れば、初めて見たのに、いつだったか見たように思うのです。「あの人とどこかで会ったようだが?」、このような人は絶対に逃すなというのです。そのような人がいるでしょう? さっと見たとき、「どこかで会ったようだが?」と思うようになります。会ったことがないのに、そのように思うのです。その人を逃してはいけません。絶対に皆さんに必要な人です。
そのような時は、自分の精誠を尽くし、神様に対していたそれ以上の心で、すぐに捕まえなければなりません。そうすれば離れられません。それが自分の同士たちを結んでいき、心情の基盤を広げていく方法です。そのような内容がたくさんある人は、天の国に近い祝福の場に立てるのです。
(308-213、1999.1.5)
神様が生きていらっしゃることを体験すれば、「伝道するな」と言っても伝道したくなります。伝道すると、新しいことをつくってくれるからです。10人がいるとして、彼らと真摯に対話すれば10 人が新しい人になります。そうしてから、教会に来て祈ってみなさいというのです。そのようになれば、彼らが発展する時、必ず自分自身も発展するようになっているのです。私自身が高まるのです。
(30-154、1970.3.21)
早朝起ぎてその町内のために、自分が引き受けた責任地域のために、祈祷しながら涙を流さなければなりません。その道は心情的でありながらも、また霊界と霊的な因縁を結ぶ道です。神様が町内を見下ろせば、みな地獄に行くしかない人間なので、涙を流さざるを得ないのではないかと思って、神様の代わりに自分が涙を流すということを、自ら感じるというのです。神様の心情で涙を流せる共鳴力が生じれば、霊界が総動員するのです。
(96-282、1978.2.13)
お父様! 眠っているこの民族が目覚めるよう許諾してくださり、暗闇にのみ込まれていく全世界人類を救うために、お父様に訴えることのできる息子、娘となるよう導いてください。
(2-335、1957.8.4)
3) 希望
信仰生活で希望は、必需的前提要素である。未来を肯定的に展望する視角は、神様が自身の約束を具現するために歴史を運行される、という信仰から始まる。この世界の暴力と抑圧、貧困と悲しみを終結するという神様の啓示が、人類歴史に力強く伝承される。人間は一生の間に自分の希望が成し遂げられるのを見ることができない場合もあるが、依然として死後の人生、すなわち永遠の世界で新しい人生を享受する、という希望を常に抱いている。神様は、人間にこのような希望をもつように創造されたのであり、その希望は私達の人生を、神様のより近くに導いてくれる。
文鮮明先生は、肯定的で希望に満ちた態度で、宗教的人生を営為しなければならないと教えられる。いくら難しい状況にぶつかっても、確固たる希望と目標を堅持しながら、死までも超越する希望を抱き、永遠の価値に心を固定させなければならない。希望のかがり火をもち、アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、そしてそれ以外にヘブル人への手紙で言及された「見えない信仰と希望の確信」を天から受けた人間の足跡を追求しなければならない。私達は、神様の王国を実現するという希望に満ちあふれていなければならない。特に、メシヤの再臨時代に、文鮮明先生の人生は、その典型となるだろう。
― 宗教経典 ―
若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。
イザヤ書40.30 ~ 31(キリスト教)
幻がなければ民は堕落する。
箴言29.18 (キリスト教)
見よ、主は御目を注がれる。主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人に。彼らの魂を死から救い、飢えから救い、命を得させてくださる。我らの魂は主を待つ。主は我らの助け、我らの盾。我らの心は喜び、聖なる御名に依り頼む。主よ、あなたの慈しみが、我らの上にあるように、主を待ち望む我らの上に。
詩編33.18 ~ 22(キリスト教)
言え「私はあなたがたと同じ、ただの人間である、あなたがたの神は唯一の神であることが、私に啓示されたのだ。およそ何人でも、主との会見をこいねがう者には、正しい行いをなさしめよ、かれの主をあがめまつるにあたり、何一つならべ拝ませてはならぬ。」
クルアーン18.110(イスラーム)
信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。信仰によって、私達は、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。
信仰によって、エノクは死を経験しないように、天に移されました。神が彼を移されたので、見えなくなったのです。移される前に、神に喜ばれていたことが証明されていたからです。信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。
信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神のお告げを受けたとき、恐れかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世界を罪に定め、また信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました。
信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地から出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました。
アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです。信仰によって、不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎていたのに子をもうける力を得ました。約束をなさった方は真実な方であると、信じていたからです。それで、死んだも同様の一人の人から空の星のように、また海辺の数えきれない砂のように、多くの子孫が生まれたのです。
この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。
もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。
信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。この独り子については、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」と言われていました。アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。
信仰によって、モーセは生まれてから三か月間、両親によって隠されました。その子の美しさを見、王の命令を恐れなかったからです。信仰によって、モーセは成人したとき、ファラオの王女の子と呼ばれることを拒んで、はかない罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待される方を選び、キリストのゆえに受けるあざけりをエジプトの財宝よりまさる富と考えました。与えられる報いに目を向けていたからです。
信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見ているようにして、耐え忍んでいたからです。信仰によって、モーセは滅ぼす者が長子たちに手を下すことがないように、過越の食事をし、小羊の血を振りかけました。信仰によって、人々はまるで陸地を通るように紅海を渡りました。同じように渡ろうとしたエジプト人たちは、おぼれて死にました。
信仰によって、エリコの城壁は、人々が周りを七日間回った後、崩れ落ちました。信仰によって、娼婦ラハブは、様子を探りに来た者たちを穏やかに迎え入れたために、不従順な者たちと一緒に殺されなくて済みました。
これ以上、何を話そう。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、また預言者たちのことを語るなら、時間が足りないでしょう。信仰によって、この人たちは国々を征服し、正義を行い、約束されたものを手に入れ、獅子の口をふさぎ、燃え盛る火を消し、剣の刃を逃れ、弱かったのに強い者とされ、戦いの勇者となり、敵軍を敗走させました。
女たちは、死んだ身内を生き返らせてもらいました。他の人たちは、更にまさったよみがえりに達するために、釈放を拒み、拷問にかけられました。また、他の人たちはあざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭いました。彼らは石で打ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました。世は彼らにふさわしくなかったのです。
ところで、この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。神は、私達のために、更にまさったものを計画してくださったので、私達を除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです。
こういうわけで、私達もまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。
ヘブライ人への手紙11.1 ~ 12.2 (キリスト教)
そして、あなたに希望します。おお、主よ、すぐにあなたの権能の勝利を見ることを希望します。偶像崇拝はこの地から消え、偽りのものは完全に滅するでしょう。世の中があなたの権能のもとに完成し、人類があなたの名を畏敬する法を学ぶ日を期待します。地上の邪悪な群れがあなたの前に悔い改めるその日を期待します。
万民があなたの前にひざまずき、彼らの舌で忠誠を誓うことを悟るようにしてください。おお、主よ、あなたの前に彼らが敬拝し、あなたの名に栄光をお返しするようにしてください。万民があなたの王国を悟り、あなたの主権が彼らの上に早く、永遠に立でられることを願います。あなたの主権によって永遠の栄光の中にいらっしゃることを願います。
毎日の祈り、アレーヌ(ユダヤ教)
今の私以上、どのような人にならなければならないか。福音の著者ヨハネの言葉を見てみよう。「私達がどのようになるかはまだ分からないが、キリストがお生まれになれば、私達もその方と同じになることを私達は知っています」。どのようにしてそれが可能なのか。「私達がその方のありのままの姿を見るからです」。これは途方もない約束だ。しかし、信仰の報いでもある。……あなたが信じる者ならば、信仰の報いを求めよ。しかし、信じてもいないのなら何の代価で信仰の代価を願うのか。
アウグスティヌスヨハネ福音書注解40.9(キリスト教)
この道が苦労で苦痛だとしても、私達は雄々しい信仰で未来に向かって歩んでいかなければなりません。低く漂う絶望の雲で疲れていくとき、夜がいつのときよりも暗いとき、これを思い出しましょう。宇宙には巨大な悪の勢力を打ち砕くことのできる創造的力があることをです。この力は、道が見えない所でも道をつくり、暗かったきのうを明るいあすに変えることができる力をもっています。この道徳的宇宙が及ぶ所が小さいことはなく、宇宙はいつでも正義に向かって傾いていることを思い出しましょう。
マーティン・ルーサー・キング・ジュニア(注5)(キリスト教)
― み言選集 ―
希望は蘇生と通じるのであり、あらゆる発展と通じるのであり、勝利と通じるのであり、繁栄と通じるのです。
(64-311、1972.11.12)
人間が願う最高の希望は、神様のもとに帰ることです。(注6)
(68-131、1973.7.29)
神様の永遠の希望が残っている限り、今日の私達にも永遠の希望が残っています。
(1-99、1956.6.6)
未来のために生き、勉強も未来のために行い、未来のために闘争し、未来のために見つめていく人は、常に神様が役事するのです。
(97-242、1978.3.19)
人間は、一生の間、すべての希望を抱いて生きますが、のちには死にぶつかり、自分が抱いていた希望をみな捨てたまま行ってしまうのです。きょうも生きるのを願い、あすも生きるのを願い、新しい希望を探してさまよっていますが、死にぶつかるようになるときには、希望をもてなかったまま、絶望しながら最後の道を行くのです。
人間は、自分を中心として見る時は希望をもっているようですが、死の峠を越えることができる希望をもつことができずにいます。そのような希望をもてないまま消えています。これを人生のパターンだと思って死んでいくべきか、そうでなければ、死を嘲笑して越えていける一つの希望を求めて、その希望を楽しみながら逝くのか。これが、今日、地上で生きている人間たちが考えなければならない重要な問題だと思います。
今日、世の中の万事は、みな過ぎ去ってしまいます。家庭も過ぎ去り、国家も過ぎ去り、世界、あるいはある主義も、みな過ぎ去ってしまいますが、最後に残されるものとは何でしょうか。死と戦って勝利できる一つの希望です。私達にそのような希望がなければ、人生の敗北者です。反面、生まれながら世の中の人たちが願う一切の希望を拒否し、人間的なものを一切拒否し、天の希望、永遠の希望を抱いて生きる群れがあります。
天は、人間的な希望を中心として生きている地上の人間に、新しい希望をもって死の峠を越えることができ、永遠の世界を欽慕しながら生きることができるようにするために、無限に苦労されました。ですから、信仰生活をする人たちは、地上のある希望を抱いて生きるのではなく、死までも越えて立てる永遠の希望の世界を夢見て生活しなければなりません。
(6-45 ~ 46、1959.3.22)
苦労の中で耐えながら、受難の中で耐えていきながら神様に対して、「私達の願いをかなえてください」という祈祷の心を、民族が一つとなって歴史を通して継承してきたという事実です。これはいかなる民族にもないものです。普通の民族ならば「神様がいるならなぜこのように苦労をさせるのか」と言って、自分たちを呪う神様と見るはずです。
(168-52、1987.9.1)
平和の国に向かって、平和の天国に向かっていくべき希望の息子、娘が凛々しく活気に満ちた姿勢を備えて進むようにしてくださり、天の勇士たちとなり、天の精兵たちとなるよう許諾してくださいますことを、懇切にお願い申し上げます。
(33-273、1970.8.16)
きょうは真の父母様の宣布の日です。誰も信じることができない世の中であり、誰も望みをもてない絶望的な世の中ですが、一つの希望が芽生えています。それが正に真の父母だというのです。
(202-341、1990.5.27)
冷たい冬の木枯らしよ
残忍なその手を清めよ
春風吹きて香り満ちる
とだえたこの地を呼び起こせ
いかに残忍な雪風も
消えゆく運命のひととき
春風吹きて香り満ちる
とだえたこの地を呼び起こせ
起きよ春の蝶、ひばりよ
荒漠な山河につらい夢
春風吹きて香り満ちる
とだえたこの地を呼び起こせ
聖歌第2 部2 番
4) 確信
神様の摂理を確信する人は、世俗的な問題に執着してはならない。神様は、世俗的な人たちが行うことと関係なく、神様の創造目的を主管し、経綸される。神様は、私達に必要なものはいつでも与えることができる。ところが、なぜ私達は生活必需品、お金などを心配するのか。神様は、人間の運命の設計者である。ところが、なぜ私達は、私達の努力の結果を思い煩い、心配するのか。永生の次元から見るとき、私達の死さえも重要ではない。イエス様は次のように語られた。神様は、空には鳥、地には百合を創造してくださったように、私達が「神の国と神の義」を求め、実現する限り、私達にもそのようにされるだろう。言い換えれば、私達が利他心のみをもち、神様の創造目的の具現を熱望するとき、天国の平和の鍵をもつことができる。
神様の摂理に対して文鮮明先生は、神様と人間の授受作用という独特な概念をもって説明される。神様が人間に必要なものを下さるように、神様も自身の要求と状況を心配してくれ、天の悲しみを慰労してくれる人を必要とされる。文鮮明先生は、天の苦痛を分かち合おうとされる神様の叫びを体験した。これを体験した人、神様の悲惨な心情を体恤した人は、人間の悲しみと悩みを神様の悲しみと苦痛と比較するとき、人間の悲しみは何でもないことを自覚するようになる。私達がある深刻な苦痛にぶつかったとしても、天の悲しみを慰労し、天の苦痛を共有すれば、私達は本当の幸福と平和を享有できるだろう。そのとき初めて私達は、天の深い心情を体恤しながら、天への確信と天の保護を体感するようになる。
― 宗教経典 ―
だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。
空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。
なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか。信仰の薄い者たちよ。だから、「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」と言って思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。
あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
マタイによる福音書6.25 ~ 33(キリスト教)
いかに多くの生き物が、己れの糧を確保し得ないであろうか。神こそは、それらとなんじらを養いたもう、かれは全聴者・全知者であられる。
クルアーン29.60(イスラーム)
易には「憧憧として往来すれば、朋、汝の思いに従う」とある。これについて孔子は次のように言う。「天下に何の思いわずらうことがあろうか。天下の物事はみな帰するところは同じで、そこに達する道筋が異なるだけであり、結果は一つことなのに、考えめぐらしかたがまちまちだけなのだから、天下に何の思いわずらうことがあろうか。」
易経、周易繋辞、下伝2.5.1 (儒教)
天地を照らす日月の極みなくあるべきものを何をか思はむ
万葉集20(神道)
物欲しさにこう言っているのではありません。私は、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。私を強めてくださる方のお陰で、私にはすべてが可能です。
ピリピの信徒への手紙4.11 ~ 13(キリスト教)
諸行為をブラフマンに委ね、執着を捨てて行為する人は、罪悪により汚されない。蓮の葉が水に汚されないように。身体により、意(こころ)により、知性により、また単に諸感官のみにより、ヨーギンたちは行為をなす。自己(アートマン)を清めるため、執着を捨て。〔行為のヨーガに〕専心した者は、行為の結果を捨て、窮極の寂静に達する。
バガヴァッド・ギーター5.10 ~ 12(ヒンドゥー教)
世尊宣はく「跋提梨迦(バッデイヤ)よ、汝は如何なる理を見て、森林に入りても……常にウダーナを唱えて次の如くいふや、『実に楽なる哉、実に楽なる哉』と」。答へて曰く、「大徳よ、我そのかみ俗人として王者の楽を求めたる時、宮殿内の守備よく設けられ、宮殿外の守備またよく設けられたりき。城内の守備よく設けられ、城外の守備またよく設けられたりき。国内の守備よく設けられ、国外の守備またよく設けられたりき。大徳よ、かく守備警護されてありながら、この我は恐れ案じ疑ひ慄へて日を送れり。然るに大徳よ、今我森林に入りても樹下に坐しても、空家に入りても、唯独りありても恐れなく案ぜず疑はず慄へず、楽少なきも従順に活発に鹿の如き心を以て日を送るなり。大徳よ、我はこの理を見て、森林に入りても……常にウダーナを唱へて次の如くいふなり。『実に……乃至……楽なる哉』と」
感興偈19 ~ 20(仏教)
神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、私達は知っています。
ローマの信徒への手紙8.28(キリスト教)
主御自身が建ててくださるのでなければ、家を建てる人の労苦はむなしい。主御自身が守ってくださるのでなければ、町を守る人が目覚めているのもむなしい。朝早く起き、夜おそく休み、焦慮してパンを食べる人よ。それは、むなしいことではないか。主は愛する者に眠りをお与えになるのだから。
詩編127.1 ~ 2(キリスト教)
自分の生命を守るのにすぐれた者は、虎や犀に出会うことがない。戦場においても、危険な武器を身につけない。犀も彼を突き刺すことはできないし、虎も爪でひっかくことができない。武器も彼を傷つけることはできない。何故かといえば、彼に死という場所がないからである。
道徳経50(道教)
武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって、と万軍の主は言われる。
ゼカリヤ書4.6 (キリスト教)
もし主がその権能を取るに足らないありに与えたとしても、数百万の力強い略奪者の群れを一瞬で滅ぼしてしまうだろう。彼が自ら、死に追い込まれていないすべての人たちを強い腕で抱きかかえる。あらゆる努力にもかかわらず、人の苦労は無駄になる。彼以外には誰も救援者でも破壊者でもなく、ただ彼だけが万有の守護者である。おお、人々よ! なぜそれほどつらく苦しんでいるのか。ナナークが言う。あなたの理解を超えた主に念じよ。実に驚くべき主に念じよ。
アーディ・グラント、ガウリ・スクマニー17 M.5、p.285 ~ 286(シーク教)
足切りの刑にあって不具になったものが、自分の容貌を飾ろうとしないのは、もはや世間の毀誉の評判を気にする必要がないからである。鎖でつながれた囚人が、高いところへのぼっても恐れることがないのは、もはや生きる望みを失い、生死を忘れる心境になっているからである。
このように生死の恐れを感じないものや、外聞を恥じないものであってこそ、人間であることを忘れることができるのである。人間であることを忘れることによって、天人――自然の人となることができるのである。同様に、たとえ他人が尊敬してくれても喜ぶことがなく、他人が侮っても怒らないということは、ただ自然の安らかさに同ずるものだけにできることである。(注8)
荘子23(道教)
人が至上のものとする知恵や作為の道を広めることなく、天において至上とされるもの――自然の道を広めなければならない。天の道を広めれば自然の幸福が生まれるが人の道を広めれば、危害が生まれる。(注9)
荘子19(道教)
― み言選集 ―
統一教会の教会員にとっては、労働特間が8時間ですか。24 時間です。24時間働かなければ、良心的に顔をあげられません。ですから、どれほど違うでしょうか。世の中の人たちは、8時間働いても、家も買い、家庭用品も買い、生活も裕福にするのですが、私たぢは24 時間働いても、家もなく、所帯道具も用意できず、ひたすら死ぬほど苦労ばかりします。ですから、どれほど違うでしょうか。皆さん、違うことが分かりますか。どのくらい違いますか。180度違います。
それで、絶望していますか、希望をもっていますか。問題はそれです。希望をもっています。それが誇りです。レバレンド・ムーンも同じです。皆さんがレバレンド・ムーンを誇るのは何ですか。天下に恐れるものがありません。私が主張するとき、天下に恐れるものがありません。どれほど堂々としているかというのです。それで、堂々と主張できる特権をもっているという事実を知らなければなりません。
(107-83、1980.4.6)
神様のために、天地のために消化し、私の国と私の氏族と私の家庭と私の相対のために消化すると考えなければならないのであって、私のためにしてはいけません。ために消化して生きれば、すべてのものが完成した世界に引っ張られていくのも、私のゆえに引っ張られていくので、私が行くまいとして逃げていっても、引っ張られていきます。天国に行こうとして途中で逃げていっても、引っ張られていくのです。それは、どれほど安心で楽ですか!
一生の間自分を中心として生きれば、「ああ、これも駄目だった! あれも駄目だった!」と言いながら、すべてが心配です。しかし、10 年、20 年ために生きれば、すべてのものが私の友人になるのです。休みなくために生きてみれば、自分が真空状態になるので、真が訪ねてきます。「真のところと一つになろうとするので、神様もついてきて、創造主もそれを願うので、私に属するようになる」、これは理論的です。それで、完全消化を願う人は、完全時代を相続できるのです。
(203-102、1990.6.178)
昼のように明るく喜ぶときは、天が教えてくれます。それで、人は明朗でなければなりません。いつも感謝し、気分の悪いことがあれば早く除去し、すぐに忘れてください。それを願うのです。なぜでしょうか。天と向き合える時間的距離を遠くしないためです。
そのような観点から見るとき、自分独りで「ああ」としているよりも、人間には宗教が必要だというのです。「神様! これをすべて受け持ってください。神様! これをすべて処理してください」。すべて天に報告して忘れてしまうのです。それが宗教者の生活です。そうすることによって、天がたくさん接する時間をもとうというのです。このような意味で宗教生活が必要です。そうしながら希望をもつのです。未来の幸福を今から描いていくのです。そうすることによって、天と接近できる環境的与件をたくさんもとうというのです。
(91-272 ~ 273、1977.2.27)
人と人同士集まる所は、解こうとしても、かえってもつれることが起こりますが、天を中心として集まる所では、心にしこりになったことが解けるという事実を知っています。
(7-13、1959.7.5)
皆さんがここで商売をするにしても、伝道をするにしても、何をするにしても、祈祷して精誠を尽くしていけば、すぐに見せてくれます。どのような人に会うかということまで見せてくれます。皆さんが伝道に出ていけば、考えてもいない所にしきりに行きたいという思いがわくのです。そこに行ってみると、神様が愛する人と出会います。そのような体験をするのに、「神様はいない」と言うことができますか。
(69-288、1974.1.1)
先生は、血を吐いて死ぬ境地でも、歯を食いしばって闘ってきたことを知らなければなりません。血を吐きながらも、「お父様! 私を助けてください!」とは言いませんでした。「私は、死ぬとしても、愚か者ではありません。世の中の意気地のない者と思わないでください。私は、死ぬとしても、神様のために死ぬので、私のために心配しないでください!」、そのような祈祷をしようとしたのであって、「ああ! 私は死にそうです。私に苦労をさせずに放してください!」とは言いませんでした。私はそのような祈祷を学んだこともなく、したこともありません。私達の困難を神様は、すべて知っているのです。
(93-321、1977.6.12)
5) 感謝と恩恵
感謝する心は、日常的信仰生活の原動力である。真実な信仰の所有者は、いつでも天の栄光と権能が自分を守ってくれていることを心に刻みながら、常に感謝する。家族全員に日常の糧を下さることに感謝し、食卓の上に置かれた食事に感謝を捧げる、ごく単純な家庭生活のこの慣習は、子女たちが感謝することを学ぶ出発点である。私達の道を導かれ、不足を補完してくださる神様の栄光をいつ、どこででも感じるとき、感謝する内容はより多くなる。困難にぶつかったとき、その状況を成長のための機会として、そしてそれを通して私達をより高い愛と奉仕の境地に導こうという、天が下さった贈り物として、私達は受け入れることができる。感謝の生活は、神様のリズムに合わせ、神様と共に生活する唯一の方法である。私達の生活に、不平を言う余地は全くない。不平は、正に私達と神様を分離させ、私達の人性を害する霊魂の毒きのこである。
これまで私を愛してくれ、精誠を尽くしてくれたすべての方たち、父母、先生、兄弟姉妹、配偶者の恩恵を詳細に考えてみれば、そして私の人生を支え、保護してくれたあらゆるもの、土、水、空気、それらの副産物、太陽、地球、月の公転および自転、食事を用意してくれた調理師、警察官と消防官、病院と医師、家庭の家電製品、自動車などをしっくり考えてみれば、感謝する内容が限りなく増大するのである。どの側面から見ても、私達は生命の源泉であり、慈悲の主体であられる神様に負債を負った人生を享受している。この恩恵に、果たしてどのように報いることができるだろうか。万事に感謝する姿勢と、人に施す美徳は、私達が指向すべぎ究極的目標である。
1. 神様の贈り物に対する感謝
― 宗教経典 ―
信仰する者よ、われがなんじらに与えた、よいものを食べよ、もしなんじらがほんとうに、神に仕えるのであるならば、かれに感謝せよ。
クルアーン2.172 (イスラーム)
この食物は、信仰を持ち、真理を認識した人たちが感謝して食べるようにと、神がお造りになったものです。というのは、神がお造りになったものはすべて良いものであり、感謝して受けるならば、何一つ捨てるものはないからです。神の言葉と祈りとによって聖なるものとされるのです。
テモテへの手紙一4.3 ~ 5(キリスト教)
アブラハムにより、彼が接待したすべての旅行者たちに神の名が広く知られるようになった。旅行者たちが食べ物を食べ、飲み物を飲んでからアブラハムに祝福を施すとき、アブラハムは彼らにこのように言った。「あなた達が食べたものは私のものだと思うのか。あなた達が食べたものは神に属するものだ。ゆえに、御自身の言葉で世を創造された神を賛美し、祝福せよ」。
タルムード、ソーター10b(ユダヤ教)
神こそは、なんじらのために夜を設けたまい、それでなんじらは休息する、また見えるように昼を設けたもう方であられる。神は人間に対し、まことに恵み深くあられる、だが人びとの多くは感謝しようとせぬ。神はなんじらのために、大地を休息所とされ、大空を天蓋(てんがい)となされ、また、なんじらに姿を授けて、みごとに形作りたまい、もろもろの良い給与を支給された方であられる。これがなんじらの主神であられる。よろず世の養育の主神を祝福し奉る。
クルアーン40.61、64(イスラーム)
いざこどもさかしらせずて霊ぢはう神のみしわざたすけまつろへ(さあ、子供たちよ、りこうぶるまいを捨てて、神のみたまが幸福を与えるその神の仕事をお助けしよう。)たなつ物ももの木草も天照す日の大神のめぐみえてこそ(食物もいろいろの草木も、天照大神の恵みがなければ成育せず得られないものである。)
朝よひに物くふごとに豊宇気の神のめぐみをおもへ世の人(朝に夕に、食事をするたびに、みけつ神である豊受大神の恵みを思い感謝しなさい。世の人よ。)天地の神のめぐみし無かりせば一日一夜もあり得てましや(天地の神の恵みがなかったならば一日一夜たりといえども過ごすことができようか。)世々の祖のみかげ忘るな代々の祖は己が氏神己が家の神(世々の先祖のご恩を忘れるのではない。代々の先祖は自分の氏神であり、自分の家の神である。)
本居宣長玉鉾百首(神道)81
比丘衆よ、我は二人には報い尽すこと能はずと説く。誰をか二人とす。母と父なり。百歳の寿あるて、百歳の間活きて一肩にて母を荷ふべし、一肩にて父を荷ふべし、彼は父母を塗身、揉和、沐浴、按摩に由って看護すべし、父母は肩上にて放尿遺棄するも、比丘衆よ、されど尚ほ父母に事へ、恩に報ひしに非ず、比丘衆よ、父母をして、この多の七寶に富める大地の支配者たる王位に就かしむるも比丘衆よ、尚ほ、父母に事へ恩に報ひしに非ず、其は何故か、比丘衆よ、父母は多の方法にて子を扶養し保育し、この世を見せしむ。
比丘衆よ、而して不信の父母に勧めて信を発せしめ、〔信に〕入らしめ、佳せしめ、破戒〔の父母〕に勧めて戒を持たしめ、〔戒に〕入らしめ、佳せしめ、慳悋〔の父母〕に勧めて捨施を行わしめ、〔捨施に〕入らしめ、佳せしめ、悪慧〔の父母〕に勧めて正慧を発さしめ、〔正慧に〕入らしめ、佳せしむ、比丘衆よ、此を斉つて父母に事へ胆こ報ひたるものなり。
阿含経増支部i. 61 (仏教)
私達が親切にした人が感謝を表さなければ、私達の所有物を奪ってしまう強盗よりも悪い。
ヨルバ族の格言(アフリカ伝統宗教)
栄えるときは自分たちの神に栄光をお返しし、逆境に遭うときは神を恨む者たちのようにあなたはなってはいけない。喜ぶときも苦痛のときも、常に感謝せよ!
出エジプト記メヒルタ20.20(ユダヤ教)
― み言選集 ―
善なる人は、食べ物に対しても、まず天、次に地、その次に人類を考えてから食べる。
御旨の道、善と悪
信仰生活の本質とは何でしょうか。神様に感謝する心です。そのような心があるとき、それが、堕落の因縁を越えて神様と私が一つの因縁で結ばれる基になるのです。自分がこの世の中で良い立場に立って、初めて感謝しなければならないのですか。違います。今まで神様は、良いときだけ私達のために苦労してこられたのではありません。困難なときであるほど、より苦労することを誓われたのです。
ですから、今日の私達自身も、神様を私の父として侍るためには、私の代わりに働かれ闘ってこられた神様に、良い立場で感謝することよりも、困難な立場でより一層感謝しなければなりません。したがって、過重な十字架の途上でも神様に感謝できるというのは、このような原則を理解するときに可能なのです。
(29-338、1970.3.14)
私達がお父様の精誠を知る息子なら、眠りから覚めても罪人の恥ずかしい姿を隠すことのできない心苦しい気持ちで、ひれ伏すまいとしてもひれ伏さざるを得ないことでしょう。朝の食膳に向かう場で、「私」がこの御飯を食べて何をするのかを自ら尋ねる自分となるようにしてくださり、昼の食膳に向かうときには、今まで「私」が何を残したかという問いに、恥ずかしい姿で自責する自分となるようにしてくださり、夕べの食膳に向かうときには、一日を清算するに不足のない一日を送ったかを、自問することのできる自分となるようにしてください。
お父様のものとして一日を始め、お父様のものとしてこの時間まで来たのか、またお父様は「私」にどれほど関心をもっていらっしゃるのかを考えるときに、価値あるように過ごすべき一日を、何も残せず空の体をもって、この世の心で過ごした一日ではなかったかを考えて、惜しむ心でお父様のみ前に涙をもって謝罪し、床に就ける子女たちとなるようお許しください。私達は感謝する生活をしなければなりません。むち打たれるような場でも、血を吐くような場でも感謝の生活をしなければなりません。
数多くの先祖たちが、そのような場でお父様を裏切ったので、そのような歴史的な悲しい恨みの御心情を抱いてこられたお父様に、孝の中の孝の道理と、忠の中の忠の道理を全うすべき私達であることを知るものです。ここで私達が恨みと不平をもっては、その立場に立つことができないということが分かるようにしてくださり、そのような自分を発見することを恐れる姿となるようにしてください。
この世では哀れで弱い人であっても、このような人以上に恐ろしい人はないということが分かるようにしてください。私達は感謝して生活することしかありません。一人の男性の前に結ばれた妻が不足だとしても、生涯を通して奉仕できるその何かがあるので、その妻を下さったことに感謝しなければならず、あるいは子供が「私」に十字架の一生をくれても、そうすることのできる立場を準備してくださったことに感謝しなければならず、環境が「私」に生涯を支えられない絶望のどん底に追い込んだとしても、それをいかなる条件を立ててでも感謝の因縁として残して倒れよう、と言える息子となり、お父様の人となるようお許しくださいますことを切にお願い申し上げます。
(29-348 ~ 349、1970.3.14)
私達と出会うようになったこの因縁は、私達の能力で出会ったのではなく、お父様を中心として数千万代の先祖が橋を架け、その土台を広げに広げた功績によるものです。
きょうこのように出会うひと日をもてるようにしてくださったすべての恩賜を、私達が有り難く感じられるようお許しください。
(39-78、1971.1.9)
忍耐して辛抱するだけでは不足です。忍耐と辛抱だけして、「ああ、大変だ」と言ってよいのですか。忍耐して辛抱したとしても、忍耐して辛抱していないかのように感謝する心と賛美する心をもって忍耐し辛抱しなければならないのであって、不平を言いながら忍耐すれば、神様が来る途中で逃げていかれます。忍耐して辛抱するときは感謝する心が必要です。感謝する心がなければ、忍耐できません。感謝する心が支柱になれなければ、忍耐したとしても、そこには神様が一緒にいることができません。
(44-28 ~ 29、1971.5.4)
神様は、皆さんのお父様です。血、生命、血統が連結され、誰も干渉できない絶対的な因縁の結束体です。ところが、神様を知らないではないですか。神様の愛や、神様の生命や、神様の血統という言葉は聞きましたが、実際に神様の涙ぐましい心情を感じてみたことがありますか。皆さんの骨髄がすすり泣くような痛みを感じてみたことがあるのかということです。山川草木を見つめるとき、自らの行く道を見失ってしまうほど神様に感謝する心を、一日に一度、二度感じてみなければ、本来の心情世界と通じることのできる道がありません。
(371-115、2002.2.24)
先生が教えてあげたあとでやらなければ、仕方がありません。神様もどうすることもできません。先生もどうすることもできないのです。ですから、天国へ行くか、地獄へ行くかは自分自身が決定するのです。レバレンド・ムーンが決定するのでなく、神様が決定するのではなく、自分が決定するのです。不平を言えば地獄であり、不平を言いたい時に感謝していけば天国だというのです。
(96-122、1978.1.2)
感謝は、どのようなときにしなければなりませんか。楽で良いときにするのではなく、困難でつらいときにしなければならないのです。それを知らなければなりません。感謝の心情を中心として、きょうこの現在を神様が比較、審判しているのです。法廷でもそうではないですか。法廷で判事や検事たちが求刑するとき、それを有り難く思って受けようとする人には刑を減らしてあげようとするのが判事の心情であり、検事の心情だというのです。
(104-279、1979.6.1)
2. 「ために生きる」人生で報いる神様と自然と先祖に対する負債
― 宗教経典 ―
にんけんハみな/\神のかしものや
なんとをもふてつこているやら
おふでさき3.41(天理教)
あらゆる人は実に生れながらにして、神々に対し、聖仙に対し、祖先に対し、人間に対し、債務〔を負う者〕として生れる。彼が祭祀せねばならぬという事実から、彼は神々に対し、債務〔を負う者〕として生れる。されば彼が彼ら(神々)に祭祀を行い、彼らに供物を捧げるとき、彼らに対しこれを行うのである。
次に人がヴェーダを学習せねばならぬという事実から、彼は聖仙に対し、債務〔を負う者〕として生れる。されば彼は彼ら(聖仙)に対しこれを行うのである。何となれば、人々はヴェーダの学習者を、聖仙の財宝の守護者と呼ぶから。次に人が子孫を欲せねばならぬという事実から、彼は祖先に対し、債務〔を負う者〕として生れる。されば彼は彼ら(祖先)の子孫が連綿として絶えないよう、これを行うのである。
次に人が〔客人を〕宿泊させねばならぬという事実から、彼は人間に対し、債務〔を負う者〕として生れる。されば彼は人々を宿泊せしめ、彼らに食物を与えるとき、彼らに対し、これを行うのである。これらすべてを行う人、彼はその義務をなしとげた者である。彼によりすべては到達され、すべては獲得される。
シャタパタ・ブラーフマナ1.7.2.1~5(ヒンドゥー教)
ペテロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟が私に対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。
その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。
そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。私がお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、私の天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」
マタイによる福音書18.21 ~ 35(キリスト教)
― み言選集 ―
生命がどこから来ましたか。元を探せば、何もありません。皆さんの父母が元を探せば、何もないというのです。すべての万物が「私のものをくれ」と言うとき、どうするつもりですか。生命の根本であられる神様も、生命を返してくれと言えば……。何もありません。すべて自分のものではないのです。“私”という存在は、負債の山の上に上がっていることを知らなければなりません。
皆さんは、負債を返しましたか。負債を返そうとしていますか。ですから、負債を負った人は感謝しなければなりません。貸した人が「返してくれ」と言わず、「私のものだ」と言わないことがどれほど感謝なことか、考えてみなさいというのです。負債を負った人が負債を免じられたあと、自分が貸した相手に「私が貸したものを返せ」と言えば、かえって罰を受けるという聖書の逸話と同じ道理です。(注11)ですから、負債を負った人として負債を返そうとするので、仕方なく私達は人のために生きざるを得ないのです。「ために生きる」ところにおいてのみ、赦しを受けられると見るのです。無条件に受けたので、人のために無条件に施してあげれば、赦しを受けることができるのです。
(93 ~ 193、1977.5.29)
信仰者として、最も重要な姿勢は何でしょうか。負債を負った人の姿勢です。皆さん、負債を負ってみましたか。負債を負ったものがなければ、少し負債を負って鍛錬してみてください。負債を負った人の苦労は、このようなものなのだなあということを知ってみてください。負債を返すことができない立場に立ってみなさいというのです。本当に悲惨です。一銭でも負債を負えば、その条件で胸ぐらをつかまれることもあり、根本的に人格を否定されるのです。そうではないですか。そこには人格がありません。
(43-108、1971.4.25)
「神様、心配なさらずになしていきましょう」と勧告の祈祷をしなければなりません。堕落した人類がどれほど多いことでしょうか。神様がどれほど疲れたことでしょうか。身もだえしてこられた神様が、どれほど疲れたことかというのです。「心配なさらないでください。私がなしてさしあげます」と言ってこそ、よいのです。すべてをそのように祈ると、神様も「あなたは立派である。将来性がある」と思うのです。同じことです。
「神様、きょうたくさん売れるようにしてください」というような祈祷はしないでください。「神様、私はあなたのために精誠を尽くし、捧げるときも精誠を尽くします。歴史上のいかなる人のものよりも貴くお受けください」と言えば、神様も、「あなたは見込みがある」と言って喜ばれるのです。
(93-22、1977.5.8)
神様の恵みを受けるために、皆さんは何でその代価を払うのか。「孝子のわきあふれる愛で払います」と言わねばならない。
御旨の道、祝福
どんなにいら立たしく、どんなに物悲しく、どんなにかわいそうな立場に置かれている私達だとしても、私達よりもっとかわいそうな、お父様がいらっしゃることを思うとき、その前に私達が祭物となり、私達よりもっとかわいそうなお父様を慰労してさしあげるべきであることを知りました。
(25-41、1969.9.28)
6) 神様に対する畏れ
神様への畏れは、肯定的な情緒である。このような情緒が私達に、悪いことから遠ざけ、正しいことをするように主導するからである。神様を畏れない人は、神様の処罰を恐れないので、簡単に罪を犯す性向をもつようになる。そして、そのような人は、神様の実在を否定し、自分たちの行動を正当化する。時として彼らは、宗教的道徳規範は個人の自由のために除去されなければならない足かせと同じだという現代理論を論じながら、自分たちを合理化する。しかし、文鮮明先生は、堕落によって恐怖自体が否定的な情緒として定着したのであり、恐怖が人間の考えを支配し始めるとき、人間はあらゆる種類の自己中心的行動を表すようになると語られる。
神様に対する高度な畏敬の念、崇拝と畏れ、神様への奉公心は人間の本質的要素である。このような畏敬の念が、私達の人生の段階と段階を導いてくれるのである。この心はまた、自分の人生と存在目的が自分のものではなく、神様に由来しているという事実を常に想起させてくれる。そしてこれが、私達は神様の子女であり、神様の栄光に同参した同労者だ、という意味と価値観を形成する主動力になる。
1. 道徳的行為を刺激する神様に対する畏れ
― 宗教経典 ―
なんじら信仰する者よ、十分な畏敬の念で神を畏れ奉れ。ムスリムによらず、死んではならぬ。(注12)
クルアーン3.102 (イスラーム)
主を畏れることは知恵の初め。
箴言9.10 (キリスト教)
人に対して恐れをもつほど、天に対する恐れをもて!
タルムード、ブラホート28b(ユダヤ教)
あなた達はこの民が同盟と呼ぶものを、何一つ同盟と呼んではならない。彼らが恐れるものを、恐れてはならない。その前におののいてはならない。万軍の主をのみ、聖なる方とせよ。あなた達が畏るべき方は主。御前におののくべき方は主。
イザヤ書8.12 ~ 13(注13) (キリスト教)
神はこよなき美しい教示を、互いに似ている。種々の立場で繰り返し経典として啓示したもうた。主を恐れる者は、それによって膚はおののき震える。そのとき神をたたえ唱念すれば、膚も心もやわらぐ、これが神の導きである、かれは、み心にかなう者を導きたもう。だが神が迷うに任せたもう者には、それを導く者はない。
クルアーン39.23(イスラーム)
比丘たち、これらの二つの善いものが世間を護るのである。二つのものとは何か、慚と、愧とである。比丘たち、もしも、この二つの善いものが世間を護らなければ、母親と母の姉妹や母の兄弟の妻と諸師の妻たちとの区別とが認識されないであろう。あたかも山羊と羊と、雄鶏と雄豚と、犬とジャッカルとの場合のように、世間は混乱してしまうであろう。しかし、比丘たち、この二つの善いものが世間を護っているから、そのために母親と母の姉妹や母の兄弟の妻の区別とか、先生の妻たちとの区別とが識別されている。
如是語経42(仏教)
神を畏れ、その栄光をたたえなさい。神の裁きの時が来たからである。
ヨハネの黙示録14.7(キリスト教)
主はこうして、その日、イスラエルをエジプト人の手から救われた。イスラエルはエジプト人が海辺で死んでいるのを見た。イスラエルは、主がエジプト人に行われた大いなる御業を見た。民は主を畏れ、主とその僕モーセを信じた。
出エジプト記14.30 ~ 31(キリスト教)
口は、呪いと苦味で満ち、足は血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない。彼らの目には神への畏れがない。」さて、私達が知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。
ローマの信徒への手紙3.14 ~ 19(キリスト教)
― み言選集 ―
今まで神を信じる信徒たちが罪を犯すことがあったのば、実は、神に対する彼らの信仰が極めて観念的であり、実感を伴うものではなかったからである。神が存在するということを実感でとらえ、罪を犯せば人間は否応なしに地獄に引かれていかなければならないという天法を十分に知るなら、そういうところで、誰があえて罪を犯すことができようか。
原理講論、総序
アダムとエバが完成期に至って神様から祝福を受ける前、すなわち彼らがまだ10 代の青少年の時、天使長はエバをそそのかして姦淫したのです。それにより、天使長はサタンとなりました。そして、アダムもまた、堕落したエバと関係を結ぶことによって堕落しました。人間の歴史は、まさしくこのように不倫の種を蒔くことによって始まったのです。その結果、今日、不倫の関係が蔓延しています。特に、10 代の青少年たちは、性的堕落の犠牲者となっています。先進国の社会は、聖書の中のソドムとゴモラとほとんど変わりません。神様は、このような不倫の愛を嫌われます。私達は、神様の怒りを恐れなければなりません。神様の懲罰が切迫しています。
(201-206 ~ 207、1990.4.9)
エバは、神様の天理法度では本来アダムが夫になることを知りました。それで、今からでもアダムの懐に戻れば神様に対する恐れを避けることができる、と思って戻っていきました。そして、サタンの愛を中心として恐怖と自主性が結託し、結局は、アダムまで愛にひざまずくようになりました。そうすることによって、恐怖と自己主張する血統の歴史が続いていき、終わりの日になると、個人主義世界の版図として亡国の世界になってしまったのです。
(256-230、1994.3.13)
エデンの園でアダムとエバが堕落して恥ずかしさを感じ、無花果の葉で腰を隠したのですが、今日のアメリカの若者たちは、公園でありとあらゆることをしながらも、恥ずかしさを感じることができずにいます。復帰できる見込みもないというのです。ですから、戻れません。アダムとエバは、恥ずかしいと思う心をもっていて、悔い改める心がありましたが、彼らには、悔い改める心どころか、恥ずかしく思う心もありません。
(95-149、1977.11.11)
2. 尊敬と畏敬
― 宗教経典 ―
主はその聖なる神殿におられる。全地よ、御前に沈黙せよ。
ハバクク書2.20 (キリスト教)
地獄の炎は次の二つの目には入っていかない。神の道において常に目覚めている目と神を畏敬し震える心で濡れている目だ。
ダーリミー・ハディース(イスラーム)
目に見えぬ神の心の神ごとはかしこき物ぞおほにな思ひそ(目に見ることのできない神の心による神事はおそれ多いものである。いい加減に思ってはいけない)
本居宣長玉鉾百首(神道)
真の信者は、神のことに言及されるとき、その胸が畏敬の念でおののく者たちで、かれらにしるしが読唱されるのを聞いて、信心を深め、主に信頼する者たちである。礼拝の務めを守り、われが授けたものを使う者たちである。これらの者こそ、真の信者である。かれらは主のみもとで高い位階を得、また寛容と栄誉ある給養を賜わる。
クルアーン8.2 ~ 4(イスラーム)
神を畏敬することはこの上なく重要だ。慢心はむなしく、騒々しいだけであるから、そのように大きな畏敬の威厳のもとにかけよ。聖なる恩寵により神の知恵を得るだろう。
畏敬をもたない者は、誰も存在の大洋を越えることができない。神を畏敬することによって、恐怖に踏みつけられていた人生が聖なる愛で美しくなる。神を畏敬することによって、恐怖の炎が人の中で光を発する。神を畏敬することで愛が崇高な美をたずさえるだろう。
神を畏敬しない者の言葉は、ただ過ちであり、むなしいものであり、その骨と形をつくるための努力はすべて目を遠くし……。神を畏敬することによってあらゆる恐れが消えるだろう。他のすべての恐れをなくしてしまう神に対する畏敬、どうしてこれを恐れと言うことができるだろうか。あなた以外にはどこにも安息所はなく、起きるすべてのことがあなたの御意志だ。もし神ではない他のものを恐れるなら、それはただ心の不安にすぎないことを知れ。
アーディ・グラント、ガウリーM1、p.151 (シーク教)
― み言選集 ―
お父様!私達はお父様の悲しい歴史路程を回想するなら、おそれ入る心を禁ずることができず、苦労なさるお父様の性相に対する時ごとに、おそれ多い心を禁ずることができません。
(6-329、1959.6.28)
千年、恨の中で受難の道を、自分自体を制御しながら口をつぐんで忍耐してこられたその神様を尊敬できなければなりません。「神様は本当に私の父です」と言える心を、皆さんはもたなければなりません。私がそれ以上に忍耐しても、父の伝統を千年、万年の後代にまで残せる中心先祖になろうと決意をしなければならないのです。
(363-254、2001.12.25)
口があっても語らず、言葉を誤って天道に背くかと恐れる心をもっていく道が、この道です。なぜですか。神様のためです。語ることができなくて語らないのではありません。不平を言うことを知らなくて不平を言わないのではありません。神様のためにそうするのです。
(67-316、1973.7.22)
普通の人は、恨み、落胆し、天を呪うにもかかわらず、天を畏敬し、天のために再び誓うことができるこのような立場に立つとき、天はより一層大事に思うのです。取るに足らない人たちを連れ、少数の群れをもって世界を復帰するという神様の事情と心情が、どれほど息詰まるものでしょうか。
(93-217、1977.6.1)
人間たちは、お父様の愛を受けつつも、今日まであなたに感謝することを知らず、恩を返すことも知りませんでした。このような現実でも、そうであるほど、いつかはみな与えようという決意をもたれ、強く大胆に悲しい歴史を引っ張ってこられたお父様の内心を私達は察する者です。
きょう、お父様の悲しかったお心を打ち明け、世界を代表して、歴史を代表して、天宙を代表して与えたかった御心情を吐露するこの時間、あなたのみ前に全体を受けて、全体を与えることのできる息子、娘となれないのではないかと恐れを感じるあなたの息子、娘がこの場に集まりました。
(35-289、1970.10.25)
7) 疑心
見えないものに対する信仰は、不可避的に疑心を呼び起こすこともある。非現実的な信仰的教理、信仰生活においての挑戦、今日、世俗的環境の中にまんえんした懐疑主義によって、人間の疑心はだんだんと膨れ上がっていく。信仰の海を渡る信仰者に、解けない疑問が積み重なると、その重さがだんだんと重くなり、さらには沈没するようになる。ちょうど、ペテロが水の上を歩くことに失敗したという逸話のようにである。
ある疑心の念を抱いたとき、それを克服する責任は各自にある。もちろん、理性的にも解けない質問に満足する答えを探し出すことはできる。しかし、究極的にはその段階を飛び越え、生きた体験を通して、神様を知る段階まで進んでいかなければならない。
― 宗教経典 ―
十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「私達は主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、私は決して信じない。」
さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それかち、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、私のわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「私の主、私の神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「私を見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
ヨハネによる福音書20.24 ~ 29(キリスト教)
ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。
イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。私だ。恐れることはない。」すると、ペテロが答えた。「主よ、あなたでしたら、私に命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」イエスが「来なさい」と言われたので、ペテロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。
マタイによる福音書14.24 ~ 31(キリスト教)
比丘が師を疑う、怪しむ、確信しない、信じない場合、その心が熱心に、専心に、堅忍に、努力に向かうことはありません。これが、そのように心が熱心に、専心に、堅忍に、努力に向かわないかれに捨てられていない第一の心の不毛です。……比丘が法を疑う、……比丘が僧を疑う……比丘が学を疑う、怪しむ、確信しない、信じない場合、……その心が熱心に、専心に、堅忍に、努力に向かうことはありません。
阿含経中部i.101、心不毛経(仏教)
あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなく、とがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。
ヤコブの手紙1.5 ~ 7(キリスト教)
なんじが、もしわれのしたものについて疑いをもつならば、なんじ以前の経典を、読んでいる者に問え、確かに真理は主からなんじに来たのである。それゆえなんじは懐疑者のたぐいとなってはならぬ、またなんじは、失敗者にならぬよう、神のしるしを、虚偽だとする者のたぐいであってはならぬ。
クルアーン10.94 ~ 95(イスラーム)
同参には信仰的確信が伴う。分裂には信仰の疑心が伴う。二つとも信仰において核心要素である。時には確信によって疑心を克服するが、それがただちに疑心事態を除去することはできない。きょうの敗北者があすの勝者になることもある。時には疑心が信仰心に勝つが、それでも信仰心は依然として残っている。そうでなければ、それは無関心だろう。……
私達の究極的関心の対象は神であられる。いかなる信仰行為にも常に神が介在されている。さらには、神を否定する行為にまでもである。……無神論も結局はある究極的関心をなくそうとする試みである。つまり、その方の存在意味に対して無関心にさせようということである。究極的質問に対する無関心は、私達が考え出し得る唯一の無神論の形態だ。疑心は信仰の反対の言葉ではなく、信仰の一要素にすぎない。
ポール・ティリッヒ(キリスト教)
― み言選集 ―
神様を信じますか、神様を知っていますか。神様を知っていれば、神様の愛を信じますか、神様の愛を知っていますか。神様の生命があれば、生命を信じますか、知っていますか。神様の血統があれば、神様の血統を信じますか、知っていますか。信仰というものは何ですか。ヘブル人への手紙の第11 章を見れば、「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」とあります。抽象です。実在と関係ありません。それを知らなければなりません。
(359-87、2001.11.6)
信仰と現実で、信仰というのは漠然としていますが信じることができるものであり、現実ははっきりしていますが、信じることができないものであることを皆さんは知らなければなりません。神様を中心とする信仰は、変わるもののようですがそうではありません。
(66-49、1973.3.18)
常に、信仰が大きいときには現実が小さく見えるし、信仰が小さくなるときには現実が大きく見えるようになる。
御旨の道、試験・試練
皆さんがいる周囲の環境からもつようになった疑心を下ろして、「お父様、私の心と体からこれを除いてください」と言うことができなければなりません。罪悪に捕らわれている自分を、お父様やある信仰の主体者の前にそのまま委ねることができる勇気をもたなければなりません。そうでなければ、そのような心情だけでも心の中心に立てて考えなければなりません。そのようにできなければ、皆さんは信仰の道を歩んでいくことができないのです。
神様が人間を訪ねてこられるとき、どのような条件を提示されるのかというと、信仰を提示されるのです。それで人間は、信仰で自分のすべてのものを忘れ、疑心をもたせる環境を打破して、信じることができる環境を造成しなければならず、罪悪の環境を整理して善の環境をつくらなければならず、死亡の環境を打破して、生命の環境を造成しなければなりません。
したがって、皆さんは、皆さんと関係したこのようなすべての宇宙的な疑心を背負い、「神様、私は今、宇宙に対するあらゆる疑心をもってきましたので、あなたと私の間に天倫的な因縁があるとするならば、私をお捨てにならないあなたであることを知っておりますので、このすべての疑心を受けて解明してください」と言いながら、神様に任せてしまえる度胸もなければならないというのです。
告白するそれ自体も聖なることだと言えるのですが、真実の自分がぶつかった宇宙的な意識の限界に対して挑戦できる誠実性をもち、天の前に「お父様!神様!」と呼ぶときは、お父様も彼と向き合ってあげなければなりません。神様には、そのような人に向き合ってあげなければならない責任があるのです。
(3-11 ~ 13、1957.9.8)
神様の存在を信じる私達は、その神様を私達の日常生活で実証を通して見ることができなければならず、世界が否定できない神様として浮き上がらせなければなりません。
(120-100、1982.10.5)
8) 偽善
ある人が宗教的教理によって卓越した道徳的基準に入門したとしても、そこには常に偽善の危険が潜んでいる。偽善者たちは、内的にそうではなくても、外見で道徳的で宗教的性向を見せれば、同僚たちが自分を認めてくれ、教会から恵沢を受けるために宗教をもつこともある。宗教は信仰者たちに高い道徳性を要求する。怨讐を愛しなさいというイエス様の教え、イスラームの聖典、仏教の厳格な禁欲の教えなど、宗教的人生は相当な霊的訓練を要求する。しかし、偽善者たちは、このような側面は回避しながら、外観上だけで正義を見せようとする。彼らは、戒めに従うにおいて、いかなる苦労の代価も支払わないために霊的結実がなく、低級な霊的状態にとどまるようになる。
さらに、このような偽善が宗教に蔓延すれば、宗教者たちの基準まで崩れ落ちるようになり、宗教が汚名をかぶるようになる。歴史を研究した文鮮明先生は、キリスト教精神が貧困の増加と人種差別を認め、これを正当化しようとする富裕層の威信と符合したとき、その根本精神が変質したのであり、これが19、20 世紀に物本主義思想を膨張させた直接的な原因になったとされる(第8 章参考)。これに対して先生は、宗教が真の精神を回復するとき、地球上に恒久的平和が定着し、霊的文明を再創造できると教示される。
― 宗教経典 ―
律法学者たちとパリサイ派の人々、あなた達偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。このようにあなた達も、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。
マタイによる福音書23.27 ~ 28(キリスト教)
邪悪な品性をもった者は、たとえ敬虔な人たちの見かけを努めてまねるとしても、もし自らを統御し、偽善の内面をなくすことができなければ、悲しみから抜け出すことはできないだろう。
ウッタラッジャーヤー・スートラ20.43(ジャイナ教)
律法の言葉から何かの利益を追求しようとする者は、自己破滅に手を貸しているのである。
ミシュナ、アヴォート4.7(ユダヤ教)
袈裟を頭から被っていても、性質が悪く、つつしみのない者が多い。かれら悪人は、悪いふるまいによって、悪いところ(地獄)に生まれる。戒律をまもらず、みずから慎むことがないのに、国の信徒の施しを受けるよりは、火炎のように熱した鉄丸を食うほうがましだ。法句経307(仏教)
弟子たちから財物を奪う師は多いが、彼らの苦悩を減らしてくれる師はまれだ。
クラールナヴァ・タントラ13(ヒンドゥー教)
茅草でも、とらえ方を誤ると、手のひらを切るように、修行者の行も、誤っておこなうと、地獄にひきずりおろす。その行いがだらしがなく、身のいましめが乱れ、清らかな行いなるものも怪しげであるならば、大きな果報はやってこない。
法句経311 ~ 12(仏教)
災いなるかな、礼拝する者でありながら、己れの礼拝をゆるがせにする者、見られるための(礼拝にすぎぬ)者、また(隣人の)必需さえも断わる者は。
クルアーン107.4 ~ 7(イスラーム)
不浄な方法で得た、はかない供え物で神に捧げる祈りは受け入れられない。義の心で祈りなさい。そうすれば神はあなたの求めを聞き入れてくださる。間抜けな者は、性急な熱情で、義の道に従うこともしないのに、神の加護を得ようとする者である。
神道烏伝祓除抄(神道)
見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。
マタイによる福音書6.1 (キリスト教)
信仰する者よ、なんじらは人びとに見せるため、所有するものを使う者のように、また神も終末の日も信じない者のように、負担や侮辱を感じさせて、己れの施しを無益にしてはならぬ。かれらをたとえてみれば、ちょうど土をかぶったなめらかな岩のようなもので、大雨が降れば裸になってしまう。かれらはそのかせいだことに対し、なんの得るところもないであろう。神は不信心の者を導きたまわぬ。クルアーン2.264(イスラーム)
高い道義の人は行動するが、動機をもってするのである。最も礼儀のある人は行動するが、誰れもそれに従わず、それで、袖をまくり、相手を引っぱろうとする。
道徳経38(道教)
医者よ、自分自身を治せ
ルカによる福音書4.23 (キリスト教)
愚者よ。螺髪を結うて何になるのだ。かもしかの皮をまとって何になるのだ。汝は内に密林(=汚れ)を蔵して、外側だけを飾る。
法句経394 (仏教)
また人びとのうちには「わしらは神を信じ、最後の審判の日を信ずる」と、言う者がある。だがかれらは信者ではない。かれらは神と信仰する者たちを、欺こうとしている。だが己れを欺くにすぎぬ、かれらはそれに気づかない。かれらの心には病が宿っている。神はその病を重くしたもう。
偽ったために、かれらには手痛い刑があろう。かれらに「おまえたちは、地上を退廃させてはならぬ」と、言われると、かれらは「わしらは、矯正するだけのものである」と言う。いや、まことにかれらこそ、退廃を引き起こす者である、だがかれらはそれに気づかない。(注14)
クルアーン2.8 ~ 12(イスラーム)
― み言選集 ―
彼を利用しようとする心をもってみ言を伝えては、絶対に道の基準が立たない。真実をもって与えなさい。
御旨の道、伝道
私は、世界と人類の将来に対する長年の省察と祈祷を通して、今の世界を覆っている神様の情熱的な願いと強い聖霊の役事を感じてきています。これは、世界が必ず新しくならなければならず、宗教指導者が汎世界的に団結するだけでなく、懺悔と真の奉献の姿勢を整える汎世界的拡張運動、実践奉仕運動が起こらなければならないと教示しています。世界は変わらなければなりません。
新しい宗教改革の情熱の炎を燃やして、至る所で生活信仰、実践信仰の価値を高く高くとどろかせなくてはなりません。そして、無神論者たちの前に生きていらっしゃる神様を証明する生きた信仰の炎がなければなりません。真の平和世界は、宗教を通した精神革命、愛と慈悲による大きな和合によってのみ成就されるのです。
(135-222、1985.11.16)
今日、私達が信仰生活をするにおいていったい宗教とは何でしょうか。私の体で闘争する一つのサタンの根拠地を清算するためのものです。それで、宗教を必要とするのであり、それが宗教の使命であることを知らなければなりません。では、今日の宗教を信じるすべての人たちが、自分のことはすべてカバーしてそのままにしておいて、相対世界の善を求め、ほかの所の悪を分別するというのですが、そのような話は有り得ないというのです。
(131-23、1984.3.11)
神様の名前を口実にした真の愛のない信仰生活や、利己心を土台として本然の人権を踏みにじり、不正を働くことも、すべて克服しなければなりません。
(400-95、2002.12.27)
すべての人類はみな同じ父母から生まれた子孫であるという教理に従って、それを教え、かつ信じているキリスト教国家の国民たちが、皮膚の色が違うというただそれだけの理由をもって、その兄弟たちと生活を同じくすることができないという現実である。
原理講論、総序
すべての宗教者たちは、この世代の霊的基盤の欠乏に対して責任を痛感し、深く悔い改めなければなりません。長い宗教歴史の中で、宗教者たちが生きていらっしゃる神様を正しく証することが不足だったのであり、愛の実践をないがしろにすることによって、無神論が蔓延し、また共産主義が世界に広がっていることに対して、痛切に自責の念をもつ宗教者にならなければなりません。
今日、神様は、私達を呼んでいらっしゃいます。すべての宗教者は、深い自己省察の内的基台の上でしっかりと立ち、あらゆる非理が乱舞する現実に挑戦し、神様のみ旨の地上実現のために創意的な努力を果たさなければなりません。生きていらっしゃる神様が願われる人間との関係は、経典や礼拝儀式の中だけの関係ではありません。信義を抱いて24 時間、生活の中でこれを実践する自覚した心の中にいらっしゃりながら、人間と共に生活することを願われるのです。
(135-222、1985.11.16)
9) 異端
信仰の道において、離脱する最大の罠は、サタン、すなわち異端の誘惑である。主要な宗教の経典には、この点に関して警告している。「異説」とは異なる意見という意味だが、天が宗教創始者に啓示してくださった本来の知恵は誰かの意見によって修正されたり、変化したりする対象のものではないという意味である。
本当の宗教が初期には伝統集団から異端として迫害されたのも事実である。創始者の死後に、さらには生きている間にも主流の宗教に宗派的、分派的異端が生じることもある。しかし、神様の摂理的な進展によって主流の宗教を取り巻く異端は、徐々に消えていく反面、本当の宗教は、創造的位相を新たに確保するようになる。どの時代のどこでも、主流の宗教の正統的な流れの中で異端が勝利したという事例は見いだすことができない。たとえ異端の教えに神学的な魅力があるとしても、いつでも異端が異端として規定されるには普遍的理由が存在する。
この節に抜粋した経典の章句では、邪悪な預言者と異端者の低俗な動機を非難する。彼らは、世俗的目的のために宗教を利用した偽善者たちである(もちろん正統教理に従う聖職者たちでも同一の過誤を犯すことがある)。ある人たちは、異端の教えをサタンと悪霊の役事だと非難し、ほかの人たちは異端がもたらす堕落した結果、放蕩な生活、貪欲、そして不和の種などの要素を猛烈に非難する。しかし、提婆達多の例のように、ある異端は、正統宗教の道よりさらに強度な禁欲、あるいは極端な信仰の基準を提示し、人間の本質を少なからず欺瞞し、歪曲させる場合があることを指摘する。そして、いくつかの章句では、宗派の分裂と信仰共同体を崩壊させるという点を指摘し、異端的要素を強く非難する。
― 宗教経典 ―
偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。
マタイによる福音書7.15 ~ 16(キリスト教)
神の使徒が次のように語ったと伝えられている。「終局には、宗教を世俗的な目的のために欺瞞して利用し、大衆の前に羊の皮をかぶり、従順に見せようとする群れたちが現れるだろう。彼らの言葉は甘いが、彼らの心は狼の心である。神が語られるだろう。「彼らが私を欺瞞しようとするのか。あるいは私に傲慢に行動しようとするのか。私は自ら誓うが、知恵深い者をさまよう者たちの枠に捨てておく者を裁くだろう」。
ティルミズィー・ハディース(イスラーム)
かつて、民の中に偽預言者がいました。同じように、あなたがたの中にも偽教師が現れるにちがいありません。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを贖ってくださった主を拒否しました。自分の身に速やかな滅びを招いており、しかも、多くの人が彼らのみだらな楽しみを見倣っています。彼らのために真理の道はそしられるのです。彼らは欲が深く、うそ偽りであなたがたを食い物にします。このような者たちに対する裁きは、昔から怠りなくなされていて、彼らの滅びも滞ることはありません。
ペテロの手紙二2.1 ~ 3(キリスト教)
終わりの時には、惑わす霊と、悪霊どもの教えとに心を奪われ、信仰から脱落する者がいます。このことは、偽りを語る者たちの偽善によって引き起こされるのです。
テモテへの手紙一4.1 ~ 2(キリスト教)
こうしてわれは、どの予言者にも一つの敵をつくった。それは、人間とジンの中の悪魔であって、そのある者が他を感激させ、はなやかな言葉で、そそのかして、だましている。
クルアーン6.112 (イスラーム)
悪魔マラはボーディサットヴァに、正しい道ではない偽りを詳しく説明しようとする。
大般若経382 (仏教)
だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです。
コリントの信徒への手紙二11.14 (キリスト教)
だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。
テモテヘの手紙二4.3 ~ 4(キリスト教)
もし虚偽が真理と分離され見ることができたなら、真理を求める者は簡単にそれを区別し、虚偽を遠ざけることができただろう。また、真理が虚偽とはっきりと区分されて現れたなら、人々は簡単に宗教を批判したりもしなかっただろう。しかし、不幸にも人間たちは、真理を虚偽と混同し始め、サタンがこのような状況を利用し、追従者たちの心を完全につかむようになった。ただ、内面的で合理的な瞑想の道を通じた神の助けによって高邁になった人だけが、そのわなから抜け出すことができた。
ナフジュ・アル・バラーガ説教55(イスラーム)
邪悪な魔は遊行者のなりをして、不退転の菩薩大士に近づいてこう言うであろう。「お前が以前聞いたそのことを(誤りであったと)告白しなさい。……これまでお前が聞いたこと、それは仏陀のことばではない。それは詩人のつくった詩にすぎない。しかし、私が話すこのことは、仏陀によって話されたことばなのだ」と。
これを聞いて、もし菩薩(の心)がゆれ、動くならば、こう知られるのだ。「この人は如来によって予言された菩薩ではない。この菩薩は、無上にして完全なさとりに(いたると)決定していない。この人は不退転の領域に定着していないのだ」と。けれどもスブーテイよ、……煩悩の尽きた、供養されるべき比丘というものは、ものの本性をまのあたりに見ていて、他人を信じていったりはしないものである。
八千頌よりなる般若波羅蜜経17.2(仏教)
そのとき、「見よ、ここにメシアがいる」「いや、ここだ」と言う者がいても、信じてはならない。偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである。
マタイによる福音書24.23 ~ 24(キリスト教)
かれらの教えを分裂させて、分派となった者であってはならぬ。各分派は己の持っている信条に、喜び満足している。(注15)
クルアーン30.32(イスラーム)
キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、私はあきれ果てています。ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。しかし、たとえ私達自身であれ、天使であれ、私達があなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。私達が前にも言っておいたように、今また、私は繰り返して言います。あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい。
ガラテヤの信徒への手紙1.6 ~ 9(キリスト教)
天上界と人間界を通じて多くの生けるものの不利得のために、不利益のために、苦悩のために、一つのことが、この世に起こる。一つの僧団の分裂である。すなわち比丘たち、僧団が分裂するときには、互いの争論も生ずる。互いの悪罵も生ずる。互いの排他的にもなる。互いの裏切りも生ずる。そのためには、まだ信仰を得ていない人々は、信仰の喜びを知ることがなく、すでに信仰を得ている人々の中にも心境に変化を生ずる人もいる。
如是語経、18(仏教)
時に提婆達多はコーカーリカ、カタモーラカテイッサ、カカンダデーギャープッタ、サムッダダッダの許に到れり、到りて言へり、……「友等よ、我等、沙門ゴータマの許に到りて五事を請ひて言はん、「世尊は無数の方便を以て小欲、知足、漸損、頭陀、信心、損減、発動を称讃して説きたまふ。此処に五事あり、無数の方便を以て、小欲、知足、漸損、頭陀、信心、損減、発動に資す。
願はくば、比丘等は盡形寿、林住すべく、村邑に入らば罪とせられん。盡形寿、乞食すべく、請食を受けなば、罪とせられん。盡形寿、糞掃衣を著くべく、居士衣を受けなば罪とせられん。盡形寿、樹下に坐すべく、屋内に到らば、罪とせられん。盡形寿、魚肉を食はざるべく、魚肉を食はば、罪とせられん」。沙門ゴータマは此五事を許さざらん。我等、此五事を以て衆人に告げん。友等よ、此五事を以て沙門ゴータマの僧伽を破し、輪を破するを得ん。友等よ、人々は質素を信楽すればなり」。
時に提婆達多は衆と倶に世尊の在す処に詣れり、世尊に白して言へり、「……」。「止みなん、提婆達多よ、若し欲せば常時林住すべく若し欲せば村邑に住すべし。若し欲せば常時乞食すべく若し欲せば請食を受くべし。若し欲せば常時糞掃衣を著くべく若し欲せば居士衣を受くべし。提婆達多よ、我は八月樹下に坐臥するを許し、不見不聞不疑の三事清浄ならば魚肉を許せり。」時に、提婆達多は、「世尊は此五事を許したまはず」と〔知り〕歓喜踊躍して衆と倶に座より起ち世尊を敬礼し……去れり。
時に、提婆達多は衆と倶に王舎城に入りて五事を以て衆人に告げて言へり、……此処に無信、無浄心、劣覚の人々は言へり、「此沙門釈子等は頭陀を行じ漸損にして住す、沙門ゴータマは奢侈にして奢侈を念とす」。有心、有浄心、賢明、有覚の人々は呟き憤り毀れり、「如何そ、提婆達多は世尊の僧伽を破し輪を破せんと企つるや」。比丘等は彼人々の呟き憤り毀るを聞けり。少欲の比丘等は呟き憤り毀れり、「如何ぞ提婆達多は僧伽を破し輪を破せんと企つるや」。……「止みなん、提婆達多よ、汝僧伽を喜ぶ勿れ、破僧は重{罪}なり。和合僧を破せば一劫の罪過を積み一劫、地獄に煮られん。提婆達多よ、破せる僧伽を和合せしめば焚福を積み一劫、天上に楽しまん。」
律蔵ii.192 ~ 98(仏教)
― み言選集 ―
皆さんが進んでいく道には、必ず怨讐が現れます。信仰的な怨讐が現れ、経済的な怨讐が現れるのです。さらには、私達統一教会の食口同士で互いに怨讐として現れることもあるでしょう。そして、サタンは、皆さんがうっかり過ちを犯すその瞬間をねらって、皆さんをカインの道に追い込むのです。そのような怨讐を退け、カインの立場に立たないために、皆さんはどのように生きなければなりませんか。皆さんは、一身の安逸のために生きるのではなく、全体のために自らを犠牲にして生きなければなりません。
(3-212、1957.11.1)
統一教会の原理を知って、自分の利益を得ようとするのは、詐欺師でありどろぼうです。先生が教えてあげたその囲いの中に入っていき、自分の福地をつくろうというのはどろぼうであり詐欺師です。その原理のみ言は、自分のものではなく、天のものです。先生が発表した原理を自分のものとして利用し、個人の利益のために、ありとあらゆる集団をつくって生きる妖しげな群れがたくさん生じました。彼は、詐欺師です。その体は、エゼキエル書の、谷の中の死んだ骨と同じです。生命が死んでいます。
(346-57、2001.6.21)
堕落人間は、神もサタンも、共に対応することのできる中間位置にあるので、善神が活動する環境においても、悪神の業を兼ねて行うときがある。また悪神の業も、ある期間を経過すれば、善神の業を兼ねて行うときがときたまあるから、原理を知らない立場においては、これを見分けることは難しい。今日において多くの聖職者たちが、これに対する無知から、善神の働きまでも悪神のそれと見なし、神のみ旨に反する立場に立つようになるということは、実に寒心に堪えないことといわなければならない。霊的な現象が次第に多くなる今日において、善神と悪神との業の違いを十分に理解し、これを分立することができない限り、霊人たちを指導することはできないのである。
原理講論、堕落論4.4
長成期完成級で堕落した人間が、復帰摂理により、蘇生旧約時代を経て、長成新約時代の完成級まで復帰されて、人間始祖が堕落する前の立場に戻る時代を終末という。この時代は、アダムとエバが堕落する直前、神と一問一答したそのときを、世界的に復帰する時代であるので、地上には霊通する人が多く現れるようになる。終末には、神の霊をすべての人に注ぐと約束されたことは(使徒2・17)、正に、このような原理的な根拠によって、初めてその理由が解明できるのである。
終末には、「あなたは主である」という啓示を受ける人たちが多く現れる。しばしば、このような人たちは、自分が再臨主であると考えて、正しい道を探していくことのできない場合が多いが、その理由はどこにあるのだろうか。本来、神は人間を創造されて、彼に被造世界を主管する主になれと祝福された(創1・28)。ところが、人間は堕落によって、このような神の祝福を成し遂げることができなかったのである。しかし、堕落人間が復帰摂理によって、長成期の完成級まで霊的に復帰されて、アダムとエバが堕落する直前の立場と同一の心霊基準に達すれば、神が彼らに被造世界の主になれと祝福なさった、その立場を復帰したという意味から、「あなたは主である」という啓示を下さるのである。
終末に入って、このように、「主」という啓示を受ける程度に、信仰が篤実な聖徒たちは、イエスの当時に、主の道をまっすぐにするための使命をもってきた洗礼ヨハネと、同一の立場に立つようになる(ヨハネ1・23)。したがって、彼らにも各自が受けもった使命分野において、再臨されるイエスの道を直くすべき使命が与えられているのである。このような意味において、彼らは各自の使命分野における再臨主のための時代的代理使命者として選ばれた聖徒たちなので、彼らにも、「主」という啓示を授けてくださるのである。霊通者が、「あなたは主である」という啓示を受けたとき、このような原理的な事情を知らずに、自分が再臨主だと思って行動すれば、彼は必ず、偽キリストの立場に立つようになる。終末に、偽キリストが多く現れると預言された理由もここにある。
霊通者はみな、各自通じている霊界の階位と啓示の内容がお互いに異なるために(コリントⅠ 15・41)、相互間の衝突と混乱に陥るのが普通である。霊通者は、事実上、みな同一の霊界を探し求めていくけれども、これに対する各自の環境、位置、特性、知能、心霊程度などが相異なるために各自に現れる霊界も、各々異なる様相のものとして認識されて、相互に衝突を起こすようになるのである。
復帰摂理のみ旨に侍っている人たちは、各々摂理の部分的な使命を担当して、神と縦的な関係だけを結んでいるので、他の霊通者との横的な関係が分からなくなるのである。したがって、各自が侍っている天のみ旨が、各々異なるもののように考えられ、互いに衝突を起こすようになる。なお、神は各自をして復帰摂理の目的を達成させるに当たって、彼らが各自最善を尽くすように激励なさるため、「あなたが一番である」という啓示を下さるので、横的な衝突を免れなくなる。また、彼が担当した部分的な使命分野においては、事実上、彼が一番であるために、このような啓示を下さることもある。
原理講論、復活論2.2.6
皆さんは、天国とは何か分からずにいますが、天国は簡単です。天国は、神様が父であり、すべての万民は息子、娘として大きな家庭を成している所です。そこには、宗派もなく、国もなく、民族もありません。それを知っているので、レバレンド・ムーンは教派打破です。宗派打破です。国家打破です。一つの兄弟にならなければならないというのです。
(344-47、2001.3.1)
10) 神様との論争
私達は神様の子女として、人間を愛し、見守る神様の存在を体験することができる。単純な献身と盲目的信仰だけで神様と向き合うのは十分ではない。困難な問題の解答を要求するとき、自ら挑戦してみたが、何の道も見えないとき、私達はしばらくとどまり、神様が答えてくださることを切に求める。自分の確固たる立場を放棄しないまま、私達は神様に事物の存在方式に対して問いを投げ掛け、果たしてより良い方式はないのかに関して論争することもある。私達は、世界の経典から神様と論争した預言者や聖賢たちを発見するようになる。私達は、彼らは疑心に満ちた者、無神論者、あるいは信仰のない不平を言う者などとはみなさない。かえって、彼らを真の正義心を発揮し、神様に関することを具体的に論議した方とみなす。彼らは、神様の真理とその現存に対するより深い洞察を渇望する燃える情熱の所有者たちだった。
アブラハムも神様と論議した。彼は、ソドムとゴモラに対して、神様がもう少し慈悲を施さなければならないと主張した。モーセも、イスラエルの民が金の子牛をつくってほかの神を祀ったとき、あらゆる過ちを自分に返し、自分の民族を赦してほしいと神様に懇願した。ムハンマドも、50 の義務祈祷項目を5に減らしてくれるよう懇請するために神様と論争を繰り広げた。苦難は罪に対する代価だと学んできたヨブは、自分は明らかに罪を犯していないのに、自分に苦難を与える神様と論争した。タルムードのある賢人は、神様に人間の自由意志の価値に対して名分を明らかにしてほしいと主張した。
このような例から共通して発見される点は、過去の聖賢たちと預言者たちは、自分たちの高潔さを保ちながら、同時に神様と関係を結べたということである。彼らは、確固たる信念と正義感に基づいて天に挑戦した。有限な人間の理解範囲を越えた方が神様であることを知ったために、彼らは高潔な良心を信じて神様の前に堂々と立ち、伝統教理に挑戦しながら命を懸けて論争を繰り広げた。
― 宗教経典 ―
主は言われた。「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。私は降って行き、彼らの行跡が、果たして、私に届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう。」その人たちは、更にソドムの方へ向かったが、アブラハムはなお、主の御前にいた。アブラハムは進み出て言った。「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」
創世記18.20 ~ 25(キリスト教)
四十日四十夜が過ぎて、主は私にその二枚の石の板、契約の板を授けられた。そのとき、主は私に言われた。「すぐに立って、ここから下りなさい。あなたが、エジプトから導き出した民は堕落し、早くも私が命じた道からそれて、鋳像を造った。……
私はこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。私を引き止めるな。私は彼らを滅ぼし、天の下からその名を消し去って、あなたを彼らより強く、数の多い国民とする。」
私が身を翻して山を下ると、山は火に包まれて燃えていた。私は両手に二枚の契約の板を持っていた。私が見たのは、あなた達があなた達の神、主に罪を犯し、子牛の鋳像を造って、早くも主の命じられた道からそれている姿であった。
私は両手に持っていた二枚の板を投げつけ、あなた達の目の前で砕いた。主の目に悪と見なされることを行って罪を犯し、主を憤らせた、あなた達のすべての罪のゆえに、私は前と同じように、四十日四十夜、パンも食べず水も飲まず主の前にひれ伏した。
……主があなた達を滅ぼすと言われたからである。私はひれ伏して、主に祈って言った。「主なる神よ。あなたが大いなる御業をもって救い出し、力強い御手をもってエジプトから導き出された、あなたの嗣業の民を滅ぼさないでください。あなたの僕、アブラハム、イサク、ヤコブを思い起こし、この民のかたくなさと逆らいと罪に御顔を向けないでください。我々があなたに導かれて出て来た国の人々に、『主は約束された土地に彼らを入らせることができなかった。主は彼らを憎んで、荒れ野に導き出して殺してしまった』と言われないようにしてください。彼らは、あなたが大いなる力と伸ばされた御腕をもって導き出されたあなたの嗣業の民です。」
申命記9.11 ~ 29(キリスト教)
使徒が語った。「天使が私を(天に)引き上げたとき、神は私の民たちのために1日50 回の礼拝を定められた。この定めをもって帰ったとき、モーセのそばを通るようになり、彼が私に尋ねた。『あなたの民のために神はどのくらい定められましたか』『50 回の礼拝を定められました』と私が答えると、モーセは、『主のところにもう一度戻ってください。あなたの民が果たすにはあまりに大変です』と言った。
それで私は、再び神の前に行くと、その方が回数を半分に減らしてくださった。その後、モーセのそばを通ったとき、彼に『回数が半分に減った』と知らせてあげた。すると彼は、『主のところにもう一度戻ってください。あなたの民が果たすにはあまりに大変です』と言った。
私が再び神の前に行くと、その方は回数をまた半分に減らしてくださった。モーセのところに戻って新たに減らしてくださった回数を知らせてあげると、『主のところに行ってください。あなたの民が果たすにはあまりに大変です』と繰り返した。
私が再び神の面前に現れると、その方が私に言われた。『では5回の礼拝になるようにせよ。しかし、私の目には50 回の価値があるため、私の前で
定められたものが決して変わってはいけない』。私がモーセのところに来たとき、彼はまた主のところに行けと言ったが、『主の前に行くのが、私は恥ずかしい』と答えた。」(注16)
ブハーリー・ハディース(イスラーム)
神が言われた。「私が征服するとき私は失い、私が征服されるとき私は得た。(ノアの時に)洪水でその世代を征服した。しかし、私がつくった世界を滅亡させたのだから、失ったものがないだろうか。それと同じように、バベルの塔の世代に対しても同じだ。ソドムの人たちに対しても同じだ。
しかし、金の子牛をつくった罪を犯したとき、私は征服された。イスラエルの罪に対して赦しを願ったモーセが私に勝った。そして私は得たものがあるため、私がイスラエルを滅ぼさなかったのである」。
プスィクタ・ラッバティ32b ~ 33a (ユダヤ教)
たとえこの身を自分の歯にかけ、魂を自分の手に置くことになってもよい。そうだ、神は私を殺されるかもしれない。だが、ただ待ってはいられない。私の道を神の前に申し立てよう。この私をこそ神は救ってくださるべきではないか。神を無視する者なら、御前に出るはずはないではないか。
よく聞いてくれ、私の言葉を。私の言い分に耳を傾けてくれ。見よ、私は訴えを述べる。私は知っている、私が正しいのだ。私のために争ってくれる者があれば、もはや、私は黙って死んでもよい。ただ、やめていただきたいことが二つあります。御前から逃げ隠れはいたしませんから。私の上から御手を遠ざけてください。御腕をもって脅かすのをやめてください。
そして、呼んでください、お答えします。私に語らせてください、返事をしてください。罪と悪がどれほど私にあるのでしょうか。私の罪咎を示してください。なぜ、あなたは御顔を隠し、私を敵と見なされるのですか。
ヨブ記13.14 ~ 24(キリスト教)
ラビ・エリエゼルが聖潔儀式に関する自分の主張の支持を得るために、世の中にあるすべての主張を提示した。しかし、彼の同僚たちは彼の提案を受け入れなかった。エリエゼルが同僚たちに言った。「もし私の主張が法にかなっていれば、このイナゴマメの木がそれを証明するだろう」。するとイナゴマメの木が庭で300キュービットも飛び跳ねた。賢者たちが答えた。「川の水からは何の証拠も得ることができなかった」。エリエゼルが彼らに言った。「もし私の主張が法にかなっていれば、この川の水が証するだろう」。すると川の水が逆さまに流れ始めた。賢者たちが答えた。「学院の壁からは何の証拠も得ることができなかった」。
またエリエゼルが彼らに言った。「もし私の主張が法にかなっていれば、学院の壁が証するだろう」。すると壁が揺れて崩れそうになった。ラビ・ヨシュアが飛び上がって壁を叱った。「賢者の弟子たちが法に関して論争しているのに、それがお前と何の関係があるというのか」。ラビ・ヨシュアに敬意を表し、壁はそれ以上揺れなかった。ラビ、エリエゼルに敬意を表し、賢者たちは、自分たちが正しいと主張することはなく、それで今日まで論争話が伝えられてきた。
再びラビ・エリエゼルが賢者たちに言った。「もし私の主張が法にかなっていれば、天が証明してくれるだろう」。聖なる声が天から聞こえてきた。「なぜあなた達はラビ・エリエゼルと論争しているのか。エリエゼルが主張するすべての内容は、すべて法にかなっている」。しかし、ラビ・ヨシュアが再び立ち上がり、「この声は天から聞こえてきたものではない」と叫んだ。(申命記30.12)
いくらかの歳月が過ぎたのちに、ラビ・ナダンがエリヤ預言者に会い、彼に尋ねた。「聖なる方は、その方に祝福があることを。ラビ・ヨシュアの非難を聞いたとき、何と言われましたか」。エリヤが答えた。「その方は笑われながら、『私の分別のない子供たちが私に勝った。私の分別のない子供たちが私に勝った』と語られた」。(注17)
タルムード、バヴァ・メツィア59a~b(ユダヤ教)
― み言選集 ―
イスラエル民族がモーセを不信することによって、モーセがイスラエル民族をカナンの地に導こうとする神様のみ旨に完全に従うことができなかったのと同じ恐ろしいことが、終わりの日の聖徒たちにも起きるかもしれません。イスラエル民族と自分が一つになれない事実に直面するようになるとき、モーセは不信する民族を叱責する前に自分自身の不足を天に訴えました。すなわち、彼はシナイ山に登っていき、40 日間断食祈祷しながら、「父よ、この民族がどうして許諾された地が目の前に見えるにもかかわらず、入っていくことができずにいるのですか。その責任は誰にあるのですか。その責任は私にあります。私が責任を果たせなかったからです。ですから、私を祭物として民族の滅亡の道をふさいでください!」と訴えたのです。
(1-144、1956.7.1)
もしひと月の間、毎日10 時間一生懸命に活動したのに一人も伝道できなかったときは、15 時間活動するのです。その次には倍化して、倍の時間を投入するのです。それでも駄目なら4時間を加えて24 時間活動しなければなりません。それでも駄目なら、「神様、助けてくださらなければなりません」と神様とつばぜりあいするのです。「これは私のみ旨であると同時にあなたのみ旨ではないですか。求めよ、そうすれば、与えられる、捜せ、そうすれば、見いだすであろう、門をたたけ、そうすれば、開けてもらえるであろうと約束したではないですか」と言いながら、深刻に神様にしがみつきなさいというのです。皆さんが上がっていけば、神様も上がっていき、皆さんが下がっていけば、神様も下がっていきます。ですから、できないと考えないでください。
(54-325、1972.3.31)
アダムとエバが神様を裏切って歩んできたではないですか。ですから、「神様、私を裏切ってください」と言わなければなりません。そうしてこそ、蕩減復帰するのです。「私を知らないとおっしゃってください。最後の受難の時まであなたが私を忘れても、私は孝の道理を果たします。この道は必ず私が行かなければならない道です」という決意で歩まなければなりません。そのような人がいれば、神様が私を助けてくれなくても、彼の子孫は永遠に助けてあげたいと思うのです。心情の世界がそうだというのです。
(31-49、1970.4.12)
中世は、封建制度とローマ・カトリックの世俗的な堕落からくる社会環境によって、人間の本性が抑圧され、自由な発展を期待することができない時代であった。元来、信仰は、各自が神を探し求めていく道であるので、それは個人と神との間に直接に結ばれる縦的な関係によってなされるのである。それにもかかわらず、法王と僧侶の干渉と形式的な宗教儀式とその規範は、当時の人間の信仰生活の自由を拘束し、その厳格な封建階級制度は、人間の自由な信仰活動を束縛したのであった。
創造原理によれば、人間は、神も干渉できない人間自身の責任分担を、自由意志によって完遂することにより初めて完成されるように創造されたので、人間は本性的に自由を追求するようになる。また、人間は、自由意志によって自分の責任分担を完遂し、神と一体となって個性を完成することにより、人格の絶対的な自主性をもつように創造された。ゆえに、人間は、本性的にその人格の自主性を追求するようになっている。
中世社会における法王を中心とする復帰摂理は、法王と僧侶の世俗的な堕落によって成就することができなかった。そして上述のように、中世の人々が人本主義を唱えるにつれて、人々は人間の自由を束縛する形式的な宗教儀式と規範とに反抗し、人間の自主性を蹂躙する封建階級制度と法王権に対抗するようになったのである。
さらにまた、彼らは人間の理性と理知を無視して、何事でも法王に隷属させなければ解決できないと考える固陋な信仰生活に反発し、自然と現実と科学を無視する遁世的、他界的、禁欲的な信仰態度を排撃するようになった。こうしてついに、中世のキリスト教信徒は法王政治に反抗するようになったのである。
原理講論、メシヤ再降臨準備時代1.2
祈りをもって神霊的なものを感得し得る信徒たちは、新しい時代の摂理を、心霊的に知ることができるので、古い時代の真理面においては、相克的な立場に立ちながらも、神霊によって新しい時代の摂理に応じることができるのである。それゆえに、イエスに従った弟子たちの中には、旧約聖書に執着していた人物は一人もおらず、もっぱら心に感応してくる神霊に従った人々だけであった。祈りを多くささげる人、あるいは良心的な人たちが、終末において甚だしい精神的な焦燥感を免れることができない理由は、彼らが、漠然たるものであるにせよ、神霊を感得して、心では新しい時代の摂理に従おうとしているにもかかわらず、体をこの方面に導いてくれる新しい真理に接することができないからである。
原理講論、人類歴史の終末論5.2
11) 試練
誰でも信仰生活をするとき、試練を受ける。記録にも現れているように、偉大な信仰者たちは、様々な次元の厳しい試練を体験した。アブラハムは10 回以上の信仰の試練を通過した。サタンは、家族と財産を失うことにかこつけてヨブを試練した。メッカの偶像崇拝者たちにメッセージを伝えようとするとき、ムハンマドもやはり様々な激しい障害を克服しなければならなかった。イエス様も荒野で重大な試練を受けられ、十字架の道を行く途中でも1度大きな試練を受けた。ヒンドゥー教と仏教の有名な聖人たちも、やはり生と死の境を出入りする試練を受けたが、彼らは絶対的信仰でそれを克服した。誰でも試練を克服すればするほど、それだけその人の人格と精神は成熟して堅固になる。そして、試練の前後には常に栄光が伴うものであり、試練を通して栄光を受け、維持するにふさわしい資格が条件づけられる。
文鮮明先生は、神様とサタンのやりとりに関するヨブの聖句をよく引用しながら、信仰者たちが試練を克服する理由について説明される。人間は堕落によって天道から逸脱した。したがって、神様は人間たちが本当に神様の主権を伝授されるにふさわしい資格があるかを確認するために、サタンをして一定の摂理的人物に試練をする機会を許諾せざるを得なかった。サタンは常に人間が自分に属した者であることを表示し、少しでも利己心を発揮する徴候がないかを執拗に探索する。したがって、最も真実で自分を否定する者だけがこの試練を克服できる。
時には、超現実的状況に対処しなければならない試練も少なくない。ムーサー(モーセ)とヒドルの有名なクルアーンの経句、「緑衣の男」はそのような試練を代表する。ムーサーは、常識を超越した事件を信じなければならなかったが、結局、その試練を通過することができなかった。そして、ヒンドゥー教のラーマーヤナで、ラーマの夫人、シーターが、彼女の貞節を清めるために燃え上がる火のまきに飛び込む試練も登場し、仏教の経典で、ある求道者が断崖、絶壁に身を投げ出して死を克服する試練も登場する。結局、彼ら二人は、身体的に何の傷もなく、その試練を無難に通過した。そして、息子の祭物献祭を要求する神様の命令にアブラハムの心情はどうだったであろうか。最後に、ここでは文鮮明先生の生涯で現れたいくつかの試練も説明している。
1. 信仰者に対するサタンの試練
― 宗教経典 ―
ある日、主の前に神の使いたちが集まり、サタンも来た。主はサタンに言われた。「お前はどこから来た。」「地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました」とサタンは答えた。主はサタンに言われた。「お前は私の僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」
サタンは答えた。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。お陰で、被の家畜はその地に溢れるほどです。ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」主はサタンに言われた。「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には、手を出すな。」サタンは主のもとから出て行った。
ヨブの息子、娘が、長兄の家で宴会を開いていた日のことである。ヨブのもとに、一人の召使いが報告に来た。「御報告いたします。私どもが、牛に畑を耕させ、その傍らでろばに草を食べさせておりますと、シェバ人が襲いかかり、略奪していきました。牧童たちは切り殺され、私ひとりだけ逃げのびて参りました。」
彼が話し終らないうちに、また一人が来て言った。「御報告いたします。天から神の火が降って、羊も羊飼いも焼け死んでしまいました。私ひとりだけ逃げのびて参りました。」彼が話し終らないうちに、また一人来て言った。「御報告いたします。カルデア人が三部隊に分かれてらくだの群れを襲い、奪っていきました。牧童たちは切り殺され、私ひとりだけ逃げのびて参りました。」
彼が話し終らないうちに、更にもう一人来て言った。「御報告いたします。御長男のお宅で、御子息、御息女の皆様が宴会を開いておられました。すると、荒れ野の方から大風が来て四方から吹きつけ、家は倒れ、若い方々は死んでしまわれました。私ひとりだけ逃げのびて参りました。」
ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言った。「私は裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」このような時にも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった。
またある日、主の前に神の使いたちが集まり、サタンも来て、主の前に進み出た。主はサタンに言われた。「お前はどこから来た。」「地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました」とサタンは答えた。主はサタンに言われた。「お前は私の僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。お前は理由もなく、私を唆して彼を破滅させようとしたが、彼はどこまでも無垢だ。」サタンは答えた。「皮には皮を、と申します。まして命のためには全財産を差し出すものです。手を伸ばして彼の骨と肉に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」
主はサタンに言われた。「それでは、彼をお前のいいようにするがよい。ただし、命だけは奪うな。」サタンは主の前から出て行った。サタンはヨブに手を下し、頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病にかからせた。ヨブは灰の中に座り、素焼きのかけらで体中をかきむしった。彼の妻は、「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」と言ったが、ヨブは答えた。「お前まで愚かなことを言うのか。私達は、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」
ヨブ記1.6 ~ 2.10 (キリスト教)
さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため「霊」に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」
マタイによる福音書4.1 ~ 4(キリスト教)
あるとき、ヒマラヤに真理の道を追究する人がいた。彼は、世の中のどんなに価値のある宝にも関心がなく、その上、天界の福楽に対する愛着もなく、彼はただ信仰のあらゆる迷いをなくすことができる教えを求めた。
すると天界の神々が彼の熱望と真実さに感動し、彼の心を試みてみることを決めた。それで神々の中の一人が悪魔に身を変え、歌を歌いながらヒマラヤに現れた。すべてのものは無常だ、すべてのものは現れては消えていく。真理を尋ね求めた彼がこの歌を聞いたが、どれほど喜んだか、まるで飢え渇いた彼が澄んだ泉を発見したかのようで、また奴隷が全く予期せぬときに解かれたような気分だった。彼は思った。「ついに私は長い間探し求めてきた真の教えを得た」。彼はその声についていき、とうとうとても恐ろしい悪魔にたどり着いた。
不安な心でその悪魔に近づいて彼は言った。「私が今聞いたその聖なる歌を歌っていたのがあなたですか。もしそれがあなたなのなら、どうか残りの部分をもう少し歌ってください」。悪魔が答えた。「そうだ、その歌は私が歌った。しかし、私は食べる物がなければこれ以上歌うことができない。私はとても空腹だ」。
その人は、悪魔に頼んで言った。「その歌は私にとって聖なる意味をもっています。私は長い間その教えを求めてきました。ところが、私はただその一部だけを聞きました。どうかもっと聞くことができるようにしてください」。
悪魔が再び答えた。「私はとても空腹だ。もし人の暖かい血と肉を食べることができれば、その歌を最後まで歌おう」。その教えを聞きたいという懇切な熱望から、その人はその教え聞いたのちに自分の体を差し出すことができると悪魔に約束した。すると悪魔が歌を最初から最後まで歌った。すべてのものは無常だ、すべてのものは現れては消え、生死を超えるとき完全な憂いがある。
この歌を聞いたのち、彼は周りにある岩と木にその歌詞を刻んだのち、静かに一本の木の上に登り、悪魔に自分の身を投げた。しかし、悪魔は影も形もなく、その代わりに光輝に囲まれた一人の神がその人の身を受け止めた。
大般涅槃経424 ~ 433 (仏教)
王であると同時に聖者でもある家系の、偉大な聖仙は、菩提樹のもとで、堅固な誓いをたて、かならず解脱の道を造成しようと決心した。……みなことごとく大いに喜んだ。法の敵である悪魔の王だけはただひとり憂いを抱いて喜ぼうとはしなかった。五官の欲望を自在にするカーマ神は、あらゆる戦いの技芸をそなえて、解脱を憎みねたんでいたので、波旬(悪しきもの)と呼ばれた。その悪魔の王には三人の娘がいた。……三人の娘は一緒に、父の波旬の前に進み出て語った。「どうして憂いておられるのか……」と。
父はその理由を感情を込めて娘たちに告げた。「この世に大聖者がいる。大きな誓いという鎧を身につけ、偉大なる自在なはたらきを弓とし、知恵という強くて鋭利な矢をもって、人々の迷いを征服して、われわれの国をほろぼそうとしている。私は一たび何かあれば、彼にはかなわない。
人々は彼を信じ、ことごとく解脱の道に帰依してしまい、わが国土はからっぽになってしまうであろう……しかし、彼がまだ真実の知恵の眼を開かず、わが国がまだしばらくは安穏である、今のうちに、彼の志をくずし、そのかけ橋を絶ってしまわなければならない」と。
悪魔の王は弓と五本の矢を持ち、家臣の男女を引き連れて、菩薩がさとりを開こうとしている林に至り、人々が安らかにならないように願って、聖者が静かに瞑想して、迷いを繰り返す三界の海を渡ろうとしているのを見て……菩薩に告げた。
「クシャトリア(武士)の出身であるそなたよ。速やかに立ちあがれ。死は恐ろしいものである。そなたは武士の道を修得し、解脱の道を捨てよ。戦いの方法を学び、祭りを行って施しをし、この世界を征服して、そのうえで死を迎え生天の楽しみを得られるがよい。この道を進む者は名誉なことであり、先徳たちが実践したものである。すぐれた王者たちの末裔には乞食する僧の生活はふさわしくない。
もしも今、起ちあがる気がないのならば、しばらくそのまま、静かにしているがよい。つつしんで誓いを捨てなくてもよい。私は一矢を放とう。月の孫アイダも、私のこの矢によって、風に吹かれたように、少し触れただけで、その心は狂乱してしまった。どんなに静寂な苦行をしている聖仙でも、私の矢の音を聞けば、大いに恐れ乱れて、わけが分からなくなり、本性を失ってしまう。ましてや、そなたは末世の中で、私のこの矢をのがれようと望むであろう。
そなたは、今すぐ修行をやめて起ちあがれば、幸いにも安全にこの矢から逃れることができる。この矢にぬってある毒はすぎまじいもので、おののき震えるほどである。たとい、そなたの力がこの矢に堪えるほどの者であっても、この毒にはとても自身の心を安らかにしていることはむずかしであろう。ましてや、この矢に堪えることはできまい。どうして驚かないでおられようか、いやそれはできないことだ。」
仏所行讃、破魔品13(注19) (仏教)
― み言選集 ―
皆さんが歩んでいく路程において、サタンの試練がたくさんあるでしょう。霊界に通じる人は、多くの試練にぶつかるようになります。そうして、サタンは自分の試練に人間が倒れれば、「お前がこのようにしていてよいのか」と讒訴しながら、皆さんの行く道を妨げるのです。
(3-210、1957.11.1)
試練は必ずパスしなければなりません。それをなぜパスしなければならないのですか。そうすることによって一段階変わることができるからです。夜と昼が交差するのです。夜の時代から昼の時代に行けます。春から夏に行けるのです。発展できるというのです。
(125-250 ~ 251、1983.3.27)
また聖書には、人として祭物の路程を歩んでいったヨブの一生に関する記録が出てきます。ヨブは、神様から福を受けることのできる祝福圏内にいたので、神様から物質の祝福と子女の祝福を受けました。しかし、サタンがどうしてヨブが祝福を受けることができるのかと神様に抗議してきました。それで神様は、サタンにヨブを試練することを許諾してあげました。そうして、サタンはまず、彼の祝福を受けたすべての物質を打ちました。そして子女たちを打ちました。その次には、ヨブの肉身まで打ちました。すると、ヨブの友人と隣人たちがヨブをあざ笑い、嘲弄し、愛する妻までヨブを非難しました。皆さんは、このように楽しく生きていくことができる物質と愛する子女を失ってしまったヨブの立場、また友人から裏切られ、妻から非難されていたその立場を考えてみなければなりません。
自分の体を瓦で引っかかなければ耐えられないほど満身創痍になったヨブでしたが、彼は決して神様を恨むことなく、黙って瞑想することができ、そのつらさを越えて神様の側で病者の心情を体恤することもできました。このようなヨブだったので、彼は失ってしまった万物と子女を再び得ることができたのであり、天からより大きな祝福を受けたのです。
(2-114 ~ 115、1957.3.10)
サタンも、本来は神様に属していました。そうであれば、サタン自身も自分が行くべき本然の道、この宇宙が一つになることができる本然の道がどのようなものかをすべて知っているのです。ところが、なぜサタンになったのですか。神様を中心として、真の愛を中心として、神様のために生きず、真の愛の代わりに自分のために生きる立場にいたからです。真の愛をもった人がいれば、「それは私の人ではなく、あなたのものだ」と神様に返します。そのような人は神様に帰らなければならないことを、サタンも知っているのです。
真の愛というものは、個人と家庭、氏族、民族、国家、世界を越えていきます。宇宙と通じようどすれば、世界を越えていかなければなりません。それが原則です。真の愛をもった真の人というのは、これを越えなければならないのです。ですから、サタンは、「あなたの人をこの地上に送ったとき、サタン世界に送ったとき、あなたの国に属することのできる人になるためには、ここで迫害を受けるあらゆる基準を越え続け、世界の国境まで越えて、天まで通じ得る人でなければならない」と言います。
サタンが神様に「そうでなければならないではないですか」と言えば、神様は「そうだ!」と答えます。「ために生きる立場で神様の愛を中心として全体のために行く人はあなたの国に属するが、自分のために生きたり、この圏内の何かを中心としてために生きる人は、私が関係をもつ責任がある」と言うのです。
(124-64 ~ 65、1983.1.23)
サタンも原材料をテストする基準として利用していることを知らなければなりません。原材料になったのか、なっていないのかというのです。これに反対すれば、サタンが「神様、これはコンセプトがあるので原材料に入れることはできません。私のところに送って地獄にほうり込んでください」と言うのです。そうして落ちていくのです。
このような公式を知っているので、ヨブのような人は10 回も試練しても感謝し、「下さったのも神様であり、もっていかれたのも神様なので、私には何もない」と考えたのです。こですから、いつでも零点の立場にいたヨブが、何百倍、何千倍福を受けたのです。これが復帰時代の勝利的な象徴として登場したということを知らなければなりません。ヨブを10 回激しく打っても、「感謝です」と言って零の立場で神様だけを絶対的に信じたので、サタンが離れていって再復興し、何でも願うとおりになったのです。
(246-20 ~ 21、1993.3.23)
イエス様がこの地上に来られて、サタンからいくつかの試練を受けるようになりました。40 日断食期間を過ごし、まず食べる物で試練を受けました。サタンがイエス様の前に現れ、「石をパンにかえなさい」と言ったのです。これは、飢えた人間たちには朗報でしょう。しかし、イエス様はこれを否定し、自分が食べる物のために来たのではないことを表明されました。かえって、神様のみ言を主張することによって、人間が生きていく実際の生活圏内においてのすべての条件を、サタンの前で失わなかったという立場を立てたのです。(注20)
(3-121, 1957.10.13)
先生は、一生の間迫害を受けていきながら、世界的な蕩減条件をすべて立てました。サタンがすべての総力を注いで反対し、今まで歴史時代に反対したすべての方法を動員してありとあらゆる反対をしました。サタンが「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。あなたは彼とその家およびすべての所有物のまわりにくまなく、まがきを設けられたではありませんか。あなたは彼の勤労を祝福されたので、その家畜は地にふえたのです。しかし今あなたの手を伸べて、彼のすべての所有物を撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」と言ったように、先生も、何度もサタンにやられました。どれほど死地に追い込まれたか分かりません。
神様は、絶対に前から訪ねてきません。神様を恨まざるを得ないほど迫害を受ければ、神様が協助しないように思えても、それを克服して越えれば、後ろからすべて協助してくださるのです。すべての準備をしておいてから神様は行かれるのです。その次には、私が先頭に立ち、闘って勝てば、そのまま行かれます。そのような作戦をしてきたのです。すべて準備しておいたので、神様は行かなければなりません。私か出ていって、サタン世界の反対をすべて退けたあとに行くのです。
(117-160 ~ 161、1982.2.28)
レバレンド・ムーンを神様が愛されますが、人間の責任分担を果たす過程で蕩減路程を行くときには、神様が協助できません。私自身がサタンに勝って行かなければならないのです。サタンとサタン世界に勝って行かなければならないのが本来のアダムに許された理想圏でしたが、その理想圏を凌駕しなければならないというのです。
蕩減しようとすれば、送り出さなければなりません。かえって身ぐるみはいで追い出さなければならないのです。食べるものも食べさせずに追い出さなければなりません。そうしておけば、サタンが服をもっていって着せるのです。
サタンが着せてくれれば、それは素晴らしいのです。絶対に奪っていけません。サタン側の人が服を着せてくれるのです。サタンとサタン側の人が服を着せておけば、脱がす人がいません。それを着れば、神様も脱がしませんが、サタンも脱がすことができないのです。その闘いです。それで、苦労して迫害を受ければ、サタン世界が私に服を着せてくれます。服を脱いでひたすら打たれると、服を着せてくれるサタン側が生じます。このような闘いをするのです。そうすれば味方ができるようになります。
アメリカでレバレンド・ムーンに反対していると、アメリカの志のある多くの人たちがレバレンド・ムーンの味方になりました。「なぜこのようにレバレンド・ムーンに反対するのか、何の罪もないではないか! アメリカに必要な人ではないか! こいつ、これではいけない!」としきりに言うようになるのです。そのように私の味方になれば、サタンが引っ張っていけません。自動的に天の側に戻ってくるのです。自動的に神様の側に戻ってくる人が出てきます。強制ではありません。それには、サタンが謙訴する道埋がありません。
(124-304 ~ 305、1983.3.1)
私がレバレンド・ムーンの愛の力がどれくらい強いか見てみよう、こうしてテストするのです。それで、今回は興進が逝ったのです。「あなたは神様をより愛するのか、人類をより愛するのか、あなたの息子をより愛するのか」、これをテストするというのです。そのサタンに恨みを晴らそうとしてはいけません。私が率いる国、あるいは反対するアメリカ、反対するソ連までも解放しようと思います。
興進が逝ったとしても、彼を通して霊界を動員して地上を動員できる天的な勝利の基盤が築かれていくのです。ですから、「打ちなさい」と言っても、打たずに後退するときが来ます。祭物を捧げる祭司長が涙を流してはいけないことを知らなければなりません。この祭物を通して天に栄光を返し、人類に栄光を返し、サタン世界のすべてのものまでも入れ替える条件を探し立てなければならない、と考えなければなりません。そうすれば、新しい転換時代が来るようになります。愛がすべての死亡を支配できる時代に変わっていくのです。このような重要な時です。
サタン自身も、「あなたはやはり天の人です」と言うのです。愛する子女を死の立場に立てても涙を流さず、公義の立場で誇らしくいくのを見るとき、サタンまでも尊敬せざるを得ないと見ます。死亡圏が天の生命を打ちましたが、愛の力ですべてカバーして越えていきます。興進は逝きましたが、父によって愛が残ったのです。愛をもってそのようになりました。
(130-162 ~ 163、1984.1.8)
サタンがいくら試験して寄ってきても、自分を犠牲にさせていけば問題ない。自分を弁明して立つときにはサタンが来る。
御旨の道、試験・試練
2. 試練は神様に属していることを立証するもの
― 宗教経典 ―
われはなんじらのうち、努力する堅忍な者を知るまでは、なんじらを試み、またなんじらの行状記をも確かめる。
クルアーン47.31 (イスラーム)
主よ、私を調べ、試み、はらわたと心を火をもって試してください。あなたの慈しみは私の目の前にあり、あなたのまことに従って歩き続けています。
詩編26.2 ~ 3(キリスト教)
われは、恐れと飢え、ならびに財産と生命となんじらの労苦による果実の損失とで、必ずなんじらを試みる。だが耐え忍ぶ者には吉報を伝えよ、災難に会ったとき、「まことに私達は神のもの、かれに、私達は帰るのだ」と言う者。このような者の上にこそ、主からの祝福と恵みは下り、またこれらは、導かれる者である。
クルアーン2.155 ~ 57(イスラーム)
試練を耐え忍ぶ人は幸いです、その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。
ヤコブの手紙1.12 (キリスト教)
各人は死を昧わうのである。われは試練のために、禍福により、なんじらを試みる。そしてわれに帰されるのである。
クルアーン21.35 (イスラーム)
私達の先祖アブラハムは、十度の試みを経験した。そのすべてを忍耐したということは、彼の愛の深さを見せてくれている。
ミシュナ、アヴォート5.4 (ユダヤ教)
これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。私が命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」
創世記22.1 ~ 2(キリスト教)
皆を導いて川を渡らせ、持ち物も渡してしまうと、ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」
「お前の名は何というのか」とその人が尋ね、「ヤコブです」と答えると、その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」「どうか、あなたのお名前を教えてください」とヤコブが尋ねると、「どうして、私の名を尋ねるのか」と言って、ヤコブをその場で祝福した。
創世記32.24 ~ 30(キリスト教)
ラーヴァナが死んだ後、ラーマはシーターを呼びにやった。シーターが孤独と苦難の歳月を終えて喜々として到着したとき、多くの群衆が見守る中で、夫に迎えられた。しかし彼女は、なぜ愛する主が何かにとりつかれた様に不機嫌で暗い面もちをしているのか、理解に苦しんだ。
ラーマは突然言った。「屈辱に報いるべく余は、勇士としてなすべきことをなし、世界を悪魔ラーヴァナの恐怖より解き放った。ただ、おんみは知っておくべきであるが、余が戦争を完遂したのは、おんみのためではなかったということだ。余の権威、名誉、また一門の光栄のためだったのだ。いま余は、夷狄(いてき)の家に長く滞留したことについて、おんみの徳性を疑うものである。余の前に立つおんみを、余は見るに耐えないのである。ゆえに、余はおんみとかかずらう心はない。いずこへとも好むところへおもむくがよいであろう。……
おんみを救出するという余の目的ははたされたのだ。美しい女性よ、余はおんみに執心をもたぬ。いずこへともおもむくことを所望する。……」この憤怒の言葉を聞いたシーターは、悲しみに身も砕け散るばかりであった。「なぜにそのようなお言葉でありましょうか。誓って申しますが、私は潔白であります。他の卑しい女ちと同様に見られますな。私を知るあなたが、疑いをもたれることがあり得るものでしょうか。……
あなたとともに住んだ日々に私がささげた純な愛を忘れ、私を無縁のものと思召されるならば、もはやそれは私の最後であります。」かくいって泣きながら彼女は、思い深くラクシュマナにいった。「葬送の火を私のためにおつくりください。……私は身を炎に投じます」
ラクシュマナは、憤懣をおさえ得なかったが、ラーマの様子を見つめたとき、その心中が鉄のごとく固いのを察した。そして葬送の火を準備した。そのとき、死神のごとく恐ろしいラーマに、何びともあえて話しかける勇気をもたなかった。ラーマは、ただ地を凝視しつつ坐していた。シーターは彼のまわりを一度あるき、火に近付き、ブラフマーその他の神々を拝し、それから火神アグニに呼びかけた。
「もしラーマヘの愛がまったく純潔でありますならば、私をこの火炎より守らせたまえ」シーターは火を一巡し、恐れげもなくその火に身を投じた。炎の中心から、火の神アグニがシーターを膝に置いて現れ、祝福の言葉を語りながら彼女をラーマに差し出した。今やラーマはその妻の潔癖を世界の前に証明した事に満足し、シーターをその腕に迎えた。(注21)
ラーマーヤナ、戦闘の巻118~20(ヒンドゥー教)
― み言選集 ―
み旨を知って満3年を越えるときには大きな試練が来る。ちょうど、3年間主に従っていたペテロがイエス様を否認した立場を、各自が蕩減復帰していかなければならない瞬間である。
御旨の道、試験・試練
一年に四季があるように、春の季節のように恵みを受ける期間があり、夏のように恵みが育つ期間があり、秋のように恵みの実を結ぶ期間を経て、冬のような試練が来るのである。したがって、試練を有り難く思いなさい。試練は、サタンと我々を分離させるための神様の愛である。試練は冬に当たる期間であるから、耐え忍んで乗り越えれば、春のような新しい恵みを受けるようになる。
御旨の道、試験・試練
神が人間に恩賜を賜ろうとするときには、その恩賜と前後して、サタンの訴えを防ぐための試練が必ず行われるのである。モーセ路程でその例を挙げてみると、モーセにはパロ宮中40 年の試練があったのちに、第一次の出エジプトの恩賜が許されたのであり、またミデヤン荒野40 年の試練を経たのちに、神は第二次の出エジプトの恩賜を賜ったのであった(出エ4・2 ~9)。また神は、モーセを殺そうとする試練があったのちに(出エ4・24)三人奇跡と十災禍の奇跡を下さったのであり(出エ7・10)、三日路程の試練があったのちに(出エ10・22)雲の柱と火の柱の恩賜を賜ったのである(出エ13・21)。
そしてまた、紅海の試練を経てから(出エ14・21、22)、マナとうずらの恩賜(出エ16・13)があったのであり、アマレクとの戦いによる試練(出エ17・10)があったのちに、石板と幕屋と契約の箱の恩賜(出エ31・18)があったのである。
原理講論、モーセとイエスを中心とする復帰摂理2.3
人間は、元来、取って食べてはならないと言われた神のみ言を、命を懸けて守るべきであった。しかし天使長からの試練に勝つことができないで、堕落してしまったのである。それゆえに、ヤコブがハランから妻子と財物を取り、カナンに戻って、「メシヤのための基台」を復帰し、家庭的カナン復帰完成者となるためには、サタンと命を懸けて闘う試練に勝利しなければならなかったのである。
ヤコブが、ヤボク河で天使と命を懸けて闘い、勝利することによって、イスラエルという名を受けたのも(創32・25 ~ 28)、このような試練を越えるためのものであった。神は天使をサタンの立場に立てられ、ヤコブを試練されたのである。しかし、これはあくまでも、ヤコブを不幸に陥れようとしたものではなく、彼が、天使に対する主管性を復帰する試練を越えるようにして、アベルの立場を確立させ、彼を家庭復帰完成者として立てられるためであった。天使がこのような試練の主体的な役割を果たすことによって、天使世界もまた、復帰されていくのである。
原理講論、モーセとイエスを中心とする復帰摂理1.2
ヤコブが還故郷するとき、天使をヤコブに送り、最後の決定を下さなければならない、ヤコブをそのような状況に追い込まなければならなかった神様は、どれほど心を痛めたでしょうか。天使が腰の骨を打ち、足の骨を折ってしまってもヤコブは放しませんでした。お前が死に、私が死に、二人とも死んだとしても、絶対放さないという思いだったのです。そのように何時間闘ったと思いますか。7時間以上闘ったというのです。それでもヤコブは絶対に譲歩できないというのです。そのような中でヤコブを見つめられる神様の心はどれほど息詰まる思いだったでしょうか。
神様は、「天使が今サタンを代表して闘っているから屈服してはいけない」と知らせてあげたかったのですが、そのようにできないので、どれほどあせる思いでその時間を過ごしたか考えてみてください。時間が過ぎて最後の決断を下すようになったときに、天使がいくら振り払おうとしても放さないので、そこで神様も公認し、サタンも公認したのです。ヤコブがそのような立場に立って、初めて天使が公認し、ついにイスラエルという名前をもつようになりました。
ヤコブが天使に勝利してイスラエルという名前をもらうようになったとき、天上世界ではどうだったでしょうか。やきもきしていた心が解放されて、歓呼の声をあげました。心の中に積まれた悲しみの深いため息をつき、「お父様!」と叫ぶその声の中には、2000年間積もり積もった事情が問題ではありませんでした。ヤコブが神様のために20 年間涙を流し、神様の首を抱きかかえる心情の因縁が、アダムとエバが堕落したその因縁を越えることができたので、イスラエルという称号を受けるようになったことを皆さんは知らなければなりません。
(20-229 ~ 230、1968.6.9)
神様もレバレンド・ムーンを激しく打ちました。「こいつ! お前は異端者だ! 私はお前を知らない!」と言ったのです。しかし、神様がいくら先生に大変な仕打ちをしても、私は神様のしっぽをつかんでいます。神様のしっぽとは何か分かりますか。いくら神様がそのようにしても、私はくじけません。先生は神様と40 日間の闘いをしたのです。
神様が反対されるので、神様を中心としてイエス様が反対し、孔子が反対し、釈迦が反対し、ムハンマドが反対し、全員が一つになり、霊界全体が反対しました。40 日間闘いながら譲歩しなかったのです。実際、400 年たっても譲歩しません。神様がじっと見てみると、事態が変わりました。ですから、決裁せざるを得ないのです。40 日間で決裁しなければならないようになっています。結局、神様が先生についてきました。それで、神様が「レバレンド・ムーンは天と地において最高の勝利者」と宣布しました。
(161-41 ~ 42、1987.1.1)
3. 試練によって人格を錬磨し、堅固な信仰を立てる
― 宗教経典 ―
あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった。あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい。
申命記8.2 ~ 5(キリスト教)
孟子がいわれた。「舜(しゅん)は田畑を耕す農夫から身を起して、ついに天子となり、傅説(ふえつ)は道路工事の人夫から挙げられて武丁(ぶてい)の宰相(そうりだいじん)となり、膠鬲(こうかく)は魚や塩の商人から文王(ぶんのう)に見出され、管夷吾(かんいご)は獄吏の手に囚われた罪人から救い出されて桓(かん)公の宰相となり、孫叔敖(そんしゅくごう)は無辺の貧しい生活から楚(そ)の荘王に取り立てられて令尹(れいいん)となり、百里爰(ひゃくりけい)は賤しい市民から秦の穆(ぼく)公に挙げ用いられて宰相になった。故に、これら古人の実例から見ても分るように、天が重大な任務にある人に与えようとするときには、必ずまずその人に精神を苦しめ、その筋骨を疲れさせ、その肉体を飢え苦しませ、その行動(することなすこと)を失敗させて、そのしようとする意図と食い違うようにさせるものだ。これは天がその人の心を発憤させ、性格を辛抱強くさせ、こうして今までにできなかったこともできるようにするためである。」
孟子VI.B.15 (儒教)157
また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、私の身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、私を痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、私は三度主に願いました。すると主は、「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。
だから、キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、私は弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、私は弱いときにこそ強いからです。
コリントの信徒への手紙二12.7~10.(キリスト教)
人生は丘と同じだ。創造者マウは、それを険しく滑るようにつくった。それは左右に深い水があり、一度登り始めれば、戻ることはできない。あなたはあなたの頭に荷物を載せて、登らなければならない。人々は彼を手助けしない。なぜなら、それは試みだからである。この世は試みの場である。
プン族の歌(アフリカ伝統宗教)
モーセは……われのひとりのしもべに会った。かれにわがもとから慈悲を施こし、また、じきじきに知識を授け、かれに教えていた。モーセはかれに「あなたに師事させて下さい、あなたが授かっておられる正しい知識を、私にお教え賜わりたい」と言った。かれは答えて言った「あなたは、わしと一緒には、到底忍耐できないであろう」。「あなたの知識が徹底していないことに関して、どうしてあなたは忍耐できようか」。
モーセは「もし神のおぼしめしなら、私がよく忍び、またどんな事にも、あなたにそむかぬことがわかりましょう」と言った。かれは言った「それで、もしあなたがわしに師事するのなら、わしがそれについてあなたに何かとりたてて言うまでは、何事についても、わしに問うてはならない」。そこでふたりは出発して、かれらが舟に乗り込んだとき、かれはそれに穴をあけた。そこでモーセは「あなたがそれに穴をあけるのは、人びとをおぼれさすためか。あなたはほんとうに嘆かわしいことをなされた」と言った。
かれは言った「あなたは、わしと一緒には耐え得ないのだと、告げなかったか」。モーセは「私が忘れたことを責めないで下さい、また私の事について、むずかしく無理じいしないで下さい」と言った。それからかれらは出かけて、ひとりの男の子に出会うまで行った、そのとき、かれはこれを殺した、モーセは言った「あなたは、他人を殺さぬ罪もない人を殺されたのか。まことにあなたは、(かつて聞いたこともない)むごいことをしたものだ」。
かれは答えて言った「あなたは、わしと一緒には耐え得ないのだと、告げなかったか」。モーセは言った「この後私が、何事についてもあなたに問うならば、私を道づれにしないで下さい。そうすれば私の方からのお許しの願いをすべてお受入れ下さったことになります」。
それからふたりは旅を続けて、ある町の住民の所まで来た、そこの村人に食物を求めたが、ふたりを歓待することを、かれらは拒んだ、そのときふたりは、まさに倒れようとする壁を見つけて、それを真っすぐにした。モーセは言った「もしあなたがお望みならば、それに対してきっと報酬がもらえるでしょう」。かれは言った「これが、わしとあなたとのお別れだ。さて、あなたがよく耐え得なかったことの、解釈を話そう」。「舟については、それは海で働く、ある貧乏な者たちの所有であった。わしがそれを役立たぬように、しようとしたのは、かれらの背後にひとりの王がいて、すべての舟を強引に徴発するためであった」。「男の子については、かれの両親は信者であったが、わしらは、かれの反抗と不信心が、両親に累を及ぼすことを恐れたためであった」。「それでわしらは、主がかれよりもすぐれた性質の純潔でもっと孝行なむすこを、かれら両人のために賜わるよう願ったのだ」。
「壁については、それは町のふたりの幼少な孤児の所有で、その下には、かれらに帰属する財宝が埋めてあり、父親は正しい人物であった。それで主は、かれらが成年に達してから、その財宝をかれら両人のために掘り出すことを望みたもうた。……これが、あなたの忍耐し得なかったことの解釈である」。(注22)
クルアーン18.65 ~ 82 (イスラーム)
聖なるその方は、人を見て喜ばれるとき、彼を苦痛の中に放り込まれた。イザヤ53 章10 節では、「病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ」とある。あなたは、たとえ彼が喜んで受け入れなくても、天はこれを行われると考えるだろう。ゆえに次のように記されている。「彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは、彼の手によって成し遂げられる」。不純な祭物も、祭壇に上げようとすれば、同意を得なければならない。苦難を与えようとすれば、それもやはり同意がなければならない。苦難を受け入れた者に何の報いがあるのか。「彼は、子孫が末永く続くのを見る」。何よりも知恵が(トーラーの知恵が)永遠に彼と共にあるだろう。「主の望まれることは、彼の手によって成し遂げられる」。(注23)
タルムード、ブラホート5a(ユダヤ教)
― み言選集 ―
信仰生活を通して試験をたくさん受けて、そこで勝利の基盤を築き、神様が信じることのできる硬い磐石をつくりなさい。
御旨の道、試験・試練
自身の環境に勝つ者となってこそ神が共にいてくださる。
御旨の道、信仰生活
神様は希望の中心、生命の中心です。そのような主体者なので、私達もそのような主体者の前に相対になるためには、主体と同じ立場に立たざるを得ません。私がそのような人になったのか、なっていないのかということを1度テストしてみようという心をもたなければなりません。そのような人になったのか、なっていないのかを知るためには、苦労の場にほうり込み、悲しみの場にほうり込み、苦痛の場にほうり込まなければなりません。テストと試練は私を苦しめることのようですが、それが一つの価値を浮き上がらせてくれる条件的内容になるのです。
(66-45、1973.3.18)
行き、また行く道が険しいと言えるでしょうか。
私達の心はお父様のその心情の切なさと比べられませんし、私達の悔しさは幾重にも横たわったサタン圏を歩まれたお父様のその足跡と比べられないことが分かるよう許諾してください。険しい道を行きながらも、天のみ旨に責任をもつための使命感が私達の心にわき上がるよう許諾してくださり、悲しみながらも、お父様の悲しい歴史の友となって、あなたの路程に同伴することのできる息子、娘となるよう許諾してください。歴史的な苦痛を共に感じて、苦痛を受ける心情の友となるよう許諾してくださり、悔しい心情に同伴して友となることができ、お父様の内的悲しみの友となると同時に、外的悲しみの友となって、永遠なるお父様の喜びの対象となることができるよう許諾してください。
(4-293~294、1958.9.14)
変わらない神様ですが、変わらない人をつくるためには、変わる神様として現れざるを得ないのです。試練をされるときには、神様御自身が変わる神様として現れなければならないというのです。ですから、皆さんの側から見れば、このようにされたり、あのようにされたり、「行きなさい、来なさい」と気分屋の神様として現れます。変わらない人を選ぼうとすれば、最高に変わる神様の立場でテストして、変わらなければ変わらない人として登場できるのです。
(66-46、1973.3.18)
昔、6・25 動乱が起きたとき、避難する道で私はこのようなことをたくさん見ました。母親が5歳の子供を背負っているのですが、分別がなく、戦争が起きて避難していることが分からず、どこかに行くというので鼻歌を歌って喜んでいるのです。ところが、背負っていくと母親が疲れて子供を下ろすのです。すると子供は、「お母さん、嫌だ。おんぶしてくれなければ行かない。おんぶして、おんぶして」と言います。このようなとき、子女を愛する父母は、どのようにしなければなりませんか。おんぶしてあげなければなりません。それが正義です。
しかし、おんぶしてあげれば、二人とも死にます。それではどうしなければなりませんか。歩かせなければなりません。歩かないと言えば、しかり、ほほをたたいてでも行くようにしなければならないのです。そうして避難所まで行かなければなりません。皆さんがその父母ならどうしますか。捨てていきますか、葬ってしまいますか。あるいは無理やりにでも引っ張っていきますか。どの方法が一番良いでしょうか。捨てますか。葬りますか。それが嫌なら、どうするのですか。何が何でも引っ張っていかなければなりません。耳を引っ張っていくか、鼻の穴に引っ掛けてでも連れていかなければなりません。
(32-256、1970.7.19)
私がたとえ年老いたとしても、若者たちに未来像の力の源泉として、見せてあげることができるよう、天の力が共にあることを知り、前進を誓いましたので、この者たちを守り、祝福してくださいますことを懇切にお願い申し上げます。願わくは、激しい風がこの者たちの前に吹きつけるようにしてください。暴風と台風の風がこの者たちをかすめていき、吹き寄せるようにしてください。その風霜の中で堂々と残り、勝者の姿を備えた磐石のような若き青年男女たちとなって、三千里半島の大学街から出発し始めるとき、この大韓民国の未来は絶望ではなく、希望が近づくのを知っています。
(121-187、1982.10.24)
第16章 祈祷と崇拝
祈祷と崇拝
1) 祈祷
大部分の経典で祈祷は、宗教生活の必需的要素とみなされている。この節に抜粋した章句は、祈祷の効能に関する論議と祈祷のやり方に関する指針である。祈祷を通して私達は、内面を神様に明らかにし、神様の栄光の中で神様との関係を発展させていく。
自分の罪を悔いる悔い改めの祈祷を通して、私達は神様に助けを切に求め、神様の導きを受ける。私達は、祈祷の内容を実践して信仰生活を発展させ、神様の教えと一つになるとき、神様に絶対的に従順になれると言うことができる。
逆に、神様も私達が祈祷の中で善良に生き、最善を尽くそうという決意を示すとき、私達を絶対的に信頼できる。したがって、友人や父母との実体的関係のように、私達は祈祷生活を通して神様と実体的関係を形成して生活することができる。
祈祷は、堕落性を刺激する悪行と誘惑に対抗する、本性の防御壁を積み上げてくれる。そうして、私達の心情を神様に向かわせれば、私達の内外的生活が一様に浄化される。祈祷の味を知れば知るほど、霊魂が育ち、全体の人生まで清くなる。祈祷は愛を追求するため、正しいことをしようとする良心が神聖な力を得て、苦難を克服することができる。これによって私達は、人格の成熟と精神の安定を享受するようになる。
この節のいくつかの章句は、祈祷のやり方を助言してくれている。徹夜祈祷をする場合もあるだろう。祈祷生活は、途絶えることなく持続されなければならない。そして、何よりも祈祷は正直に臨まなければならない。心中から流れ出てくる、静かで真実な対話が祈祷である。祈祷のあとには、必ず行動が伴わなければならない。偽善者の祈祷は、どのような結果も伴わない。最高の祈祷は、自身よりも人の福祉のための祈祷である。
文鮮明先生のみ言によれば、神様の心情を慰労してさしあげる祈祷が最高の祈祷である。本書の巻頭を開くと、いくつかの代表的な祈祷文を目にするだろう。
1. 祈祷にお答えになる神様
― 宗教経典 ―
なんじらの主は、仰せられる「わしに祈れ、わしはなんじらに答えるであろう」。
クルアーン40.60 (イスラーム)
主を呼ぶ人すべてに近くいまし、まことをもって呼ぶ人すべてに近くいまし
詩編145.18 (キリスト教)
わしのしもべたちが、わしについてなんじに問うとき言え、わしはほんとうにしもべたちの近くにいる。かれがわしに祈るときわしはその嘆願の祈りに答える。(注1)
クルアーン2.186 (イスラーム)
あなたの重荷を主にゆだねよ。主はあなたを支えてくださる。
詩編55.23 (キリスト教)
プラジャー・パティ(「造物主」)よ、汝をおきて、この一切万物を抱持する者は他に存在せず。いかなる願望をもちてわれらが汝に供物を捧ぐとも、そはわれらに叶えられてあれ。われら願わくは、富の主たらんことを。
リグ・ヴェーダ10.121.10 (ヒンドゥー教)
だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。
マルコによる福音書11.24(キリスト教)
あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。エリヤは、私達と同じような人間でしたが、雨が降らないようにと熱心に祈ったところ、三年半にわたって地上に雨が降りませんでした。しかし、再び祈ったところ、天から雨が降り、地は実をみのらせました。
ヤコブの手紙53 ~ 18(キリスト教)
だからあなたがたは、私の名によって常に父に祈らなければならない。与えられると信じて、私の名によって父に求めるものは、正当であれば、見よ、何でもあなたがたに与えられる。あなたがたの妻子が祝福を受けるように、あなたがたの家族の中で、私の名によって常に父に祈りなさい。
モルモン経、第三ニーファイ18.19 ~ 21(末日聖徒イエス・キリスト教会)
― み言選集 ―
祈祷とは何かというと、神様を招いて神様と語ろうとすることです。
(270-17、1995.5.3)
祈祷だけをしていてはいけません。祈祷すれば実践しなければなりません。祈祷は神様との公約です。祈祷は神様と人間との公約なので、これは誓いです。ですから、祈祷すれば必ず実践しなさいというのです。そして、一つの問題をもって毎日のように祈祷する必要はありません。心からの祈祷は一度するのです。そして、10 年でも20 年でも、祈祷する姿勢で、祈祷した内容に出会えることを慕い求める心をもたなければなりません。
(40-299、1971.2.7)
祈祷とは何でしょうか。祈祷は願うことですが、何を願うのかというと、主体・対象関係を成すことです。それは何の主体・対象関係でしょうか。愛の主体・対象関係です。そのような関係を成すことを標準として、私達は願っていかなければなりません。自分がする自信がなければ、祈祷するのです。そのような刺激がなければ、祈祷するのです。
(112-54 ~ 55、1981.3.29)
祈祷は、必ず成し遂げられます。祈祷することによって力を受け、祈祷することによって、今後この問題がどのように展開していくのかという展望が、すべて教えられるというのです。「このことはこのようにして、このことはこのようにする」と教えてくれます。それを知ってこそ、皆さんが大きなことができるのです。祈祷してこそ、その道を開拓できるのです。
(104-111 ~ 112、1979.4.15)
祈祷するときは、それこそ断食をして、ひざまずき、苦しくても忍耐しなければなりません。苦しくても忍耐しなければならないのです。犠牲になっても忍耐していかなければなりません。犠牲の道を歓迎していかなければならないのです。「このことのために死ぬとしても私は行かなければなりません。私が空腹で死ぬとしても、空腹で死ぬ境地に行っても、私は神様をつかんで死にます」と言わなければなりません。ですから、祈祷は誓いであり、宣言です。「私はこのようにします」と自ら判断し、自ら決定し、自ら宣布したのなら、愛を行わなければなりません。そのようにすれば、神様が「おお、そうか。そのようにしてみなさい!」と言うのです。皆さんが祈祷し、祈祷したとおりに実践し、一つの峠を越え、二つの峠を越え、三つの峠を越えれば、神様も御覧になりながら、「こいつは成功した」と認定されるというのです。
(112-54 ~ 55、1981.3.29)
ある人を定めておいて精誠を尽くして祈祷すれば、その人が訪ねてきます。涙を流して精誠を尽くせば、そこで見えない磁石が働いて引っ張ってくるのです。その人は、自分で分からずに引っ張られてきます。祈祷して、「きょうは私が誰々とあのアパートで出会う」と精誠を尽くせば、そこから出てくるのです。そのような力があります。
(104-113、1979.4.15)
私がここで神様のために祈祷するのは、このような世界のためです。このようなときは、段階が多いのです。段階がたくさんあります。祈祷をすれば、ここから成してこのように行くのではなく、このように入ってくることを知らなければなりません。ある人は福がこのくらい来たのに、これを切ってしまうのです。そのような役事です。世界的な問題を祈祷すれば祈祷するほど……。今日、統一教会が世界のために祈祷すれば、……。皆さんが一生懸命に精誠を尽くして伝道するとき、伝道ができなくても、伝道ができないと心配する必要はありません。そのようにすれば、すべて共産世界から崩れていくのです。
ここでこれがアベル圏だとすれば、これはカイン圏であり、カイン圏がアベルに向かって入ってくるようになっているのです。しかし、時間がかかります。ですから、皆さんが祈祷をするときは、一生ではなく、数千年後に成し遂げられることを今から祈祷しなさいというのです。先生は、そのような祈祷をしています。先生の生涯にこのような祈祷を成し遂げてくれるのではなく、数千年まで引っ張っていって成し遂げられるとき、統一教会はその祈祷が成し遂げられるまで滅びません。
(104-110 ~ 111、1979.4.15)
2. 悪から保護してくれる祈祷
― 宗教経典 ―
まことに礼拝は、人を醜行と悪事から遠ざける。なお最も大事なことは、神を唱念(ズィクル)することである。
クルアーン29.45 (イスラーム)
婬欲の盛んな者があって、常に念じて観世音菩薩を敬い尊んだならば、婬欲を離れることができるであろう。もし怒りや憎しみの念が多い者があって、常に念じて観世音菩薩を敬い尊んだならば、怒りや憎しみを離れることができるであろう。
法華経25(仏教)
人と非信仰者の間に存在するものは、祈りに対する放棄である。
ムスリム・ハディース(イスラーム)
昼間の両端において、また夜の初めの時に、礼拝の務めを守れ。まことに善い行いは、悪い行いを消滅させる。これは主を念ずる者に対する訓戒である。
クルアーン11.114(イスラーム)
言え、守護を祈り奉る、人間の主、人間の王者、人間のおお神。こっそりと忍び込み、ささやくものの害悪から、それは人間の胸にささやくもの、霊精(ジン)からであろうと、また人間からであろうと。
クルアーン114(イスラーム)
― み言選集 ―
祈祷とは何かというと、浄化、自分の精神を浄化させるのに必要なのです。精神を浄化させるために、鍛錬する方法として、精神統一するために必要です。
(181-325、1988.10.3)
祈祷は、私が行く方向が間違ったとき、正しい方向に行くように導いてくれるのです。
(45-247、1971.7.4)
祈祷する人たちは失敗しません。自分がすべて知っています。祈祷の味を知れば、御飯よりもおいしく、いかなる趣味よりも楽しいのです。そのようになれば、良いこと悪いことがすぐに分かります。
(128-172、1983.6.12)
皆さんの一日の生活において、最も重要で必要なものとは何でしょうか。祈祷生活です。祈祷を通して見えない敵を知り、見える敵を明らかにしていかなければなりません。
(19-146、1968.1.1)
そのようにして、心の世界が体を完全に屈服させなければならないからです。そのようにして、良心が力を得て縦的に神様と連結すれば、サタンは逃げていかざるを得ません。その道を築くのが祈祷生活だというのです。心と体が一つになって神様と連結されることによって神様が臨在するので、サタンは体を捨てて完全に逃げていかざるを得ないというのです。
(229-7、1992.4.9)
3. 心情からわき出る祈祷
― 宗教経典 ―
錆びつくすべてのもののための光沢剤があるが、心の光沢剤は神に念願することである。
ティルミズィー・ハディース(イスラーム)
「あなた達の神、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くして仕えるならば」(申命記11 章13 節)。心を尽くし、魂を尽くして仕えるとは何を意味するのか。それは祈りである。
申命記スィフレイ(ユダヤ教)
私を自由にしてください。
私は心からあなたに求めます。
私が心からあなたに祈らなければ、
あなたは聞かないでしょう。
私が心からあなたに祈れば、
あなたはそれを知り、
私に寛大にされるでしょう。
ポラン族の祈り(アフリカ伝統宗教)
どうか、私の口の言葉が御旨にかない、心の思いが御前に置かれますように。主よ、私の岩、私の贖い主よ。
詩編19.15 (キリスト教)
常に自らを試みよ。心を治めることのできる者には祈るようにせよ。そのようにできない者には祈らせないようにせよ。
タルムード、ブラホート30b (ユダヤ教)
至誠で捧げるすべての祈りの中で、主を適切に賛美する恩寵が与えられた師が捧げる祈りがその最上である。
アーディ・グラント、マールー・アシュタパディーM.5、p.1018 (シーク教)
あなたに、あなたのみに私は罪を犯し、御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく、あなたの裁きに誤りはありません。私は咎のうちに産み落とされ、母が私を身ごもったときも、私は罪のうちにあったのです。あなたは秘儀ではなくまことを望み、秘術を排して知恵を悟らせてくださいます。ヒソプの枝で私の罪を払ってください。私が清くなるように。私を洗ってください。雪よりも白くなるように。
喜び祝う声を聞かせてください。あなたによって砕かれたこの骨が喜び躍るように。私の罪に御顔を向けず、咎をことごとくぬぐってください。神よ、私の内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。御前から私を退けず、あなたの聖なる霊を取り上げないでください。御救いの喜びを再び私に味わわせ、自由の霊によって支えてください。私はあなたの道を教えます。あなたに背いている者に罪人が御もとに立ち帰るように。神よ、私の救いの神よ、流血の災いから私を救い出してください。恵みの御業をこの舌は喜び歌います。主よ、私の唇を開いてください。この口はあなたの賛美を歌います。
詩編51.6 ~ 17(キリスト教)
人々は神によってこの地に生まれるように許された。したがって、一個人の心とは、神の意志と交感するのである。そして、その心を平安にさせないものは、そのいかなるものも避けなければならない。神の祝福が臨在するために、人々はまず心を尽くして祈らなければならない。神の御加護を受けようとすれば、正直の土台を築かなければならない。このようにするとき、各自の本来の純粋な心が、根源的で深奥な道へ覚醒されていくだろう。
伊勢神宮の二柱に関する記録(神道)
祈りは勇気ある行動だ。勇気がなければどうして卑賤な人間が王の王に祈りを捧げることができるのか。
ナフマン・ブラツラフ(ユダヤ教)
― み言選集 ―
祈祷するとき、ほかのところにするのではなく、本心に尋ねてみなさいというのです。空中を見てするのではなく、心を見てするのです。心の門を開きなさいということです。
(308-16 ~ 17、1998.11.21)
祈祷するときは、おなかのすいた赤ん坊がお乳を慕うのと同じような懇切な心でしなければなりません。(18-185、1967.6.6)
祈祷生活というものは、自分の気が散るような所でするのではありません。奥深い所、天を代表する所、境界線から遠い中央の地に行って祈祷しなければならないという話は、至極妥当な話です。ですから、どのように祈祷しなければならないかというと、生涯の切実で重要な問題を祈祷するときには、自分自身を清め、この境界線と関係のない、永遠にサタンと関係のない所で祈祷しなければなりません。
(123-80、1982.12.12)
精誠を尽くさなければなりません。行ったり来たりしてはいけないのです。「私がお父様にどのように侍りましたか。私が父母に侍るにおいて、家庭的代表ですか、社会的代表ですか、氏族的代表ですか、民族的代表ですか、国家的代表ですか」というのです。それはすぐに分かります。私の涙がどこまで流れて広がるのかという問題です。これが公式です。堕落した人間が天の父母に侍るにおいて、涙がなければ、悔い改めがなければなりません。清算しなければ、その環境が再創造されません。失ってしまったために……。
国を思うときに涙があふれ、世界を思うときに痛哭がおきますか。問題はそこにあります。天がそのようにしていて、主体がそのようにしているのですから、横的基準がその同位圏に立たなければなりません。同参圏に立たなければなりません。相続圏に立たなければなりません。一体にならなければ不可能なのです。
(171-19、1987.12.5)
祈祷とは何かというと、東にいる人が中央線を通って球形に沿って回ることができ、円形に沿って回ることができることです。それでは、私はどのようになるのでしょうか。私は生命圏に、神様がいる位置に同参できます。なぜ祈祷するのでしょうか。この中央点に合わせようというのです。中央点を中心として円形を描くために祈祷をしなければならず、精誠を尽くさなければなりません。
(171-14、1987.1.5)
本当の祈祷は、真の祈祷は何でしょうか。忍耐と犠牲で愛することができる心をもち、すべてのことを克服していく人は、祈祷を完成した人です。このような人は祈祷が必要ないのです。祈祷を成し遂げた位置に行くのです。
(112-53、1981.3.29)
4. 祈祷の方法
― 宗教経典 ―
あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べではならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。
マタイによる福音書6.7 ~ 8(キリスト教)
謙虚にまたひそやかに、なんじらの主に祈れ。
クルアーン7.55(イスラーム)
信仰する者よ、なんじらが礼拝に立つときは、なんじらの顔と、うでをひじまで洗い、頭を撫で、足をくるぶしまで洗え。なんじらがもし大汚のときは、全身の沐浴をせよ。またなんじらが病気にかかり、またはたび路にあり、またなんじらのうち、かわやから来た者、または女とまじわった者で、水を見つけ得ない場合は、清浄な土に触れ、なんじらの顔と手を撫でよ。神は困難を、なんじらに課することを望みたまわぬ、ただし、なんじらを清めることを望みたまい、なんじらへの恩恵を全うしたもう、おそらくなんじらは感謝するであろう。
クルアーン5.6 (イスラーム)
祈りは歴史的文書を読むように再度暗唱されてはいけない。
エルサレム・タルムード、ブラホート4.3(ユダヤ教)
偉大な霊はどこにもいる。彼は私達の心と心情の中にあるすべてのものを聞く。ゆえに、彼に大声で語ることは不必要である。
ブラックエルク族(アメリカ先住民の宗教)
祈りで、心のない言葉よりは言葉のない心をもつのがより良いのです。
モハンダス・カラムチャンド・ガンディー(注6)(ヒンドゥー教)
― み言選集 ―
祈祷するときには、涙を流しながら祈祷し、汗を流しながら祈祷しなければなりません。
(112-55、1981.3.29)
祈祷するとき、どのように祈祷するのが良いですか。どのような姿勢でするのが良いのかというのです。できるだけひざまずいて祈祷するのが一番良いのです。この体は拘束しなければなりません。体の苦痛と不便さを克服する以上の深刻なことがなければならないというのです。それ以上に深刻でなければなりません。そうであってこそ、天の人になるのです。そうであってこそ、神様の前に行くというのです。
(104-111、1979.4.15)
祈祷というものは恐ろしいのです。祈祷は、天に対する誓いであり、宣誓であり、宣言です。
(240-35、1992.12.11)
精誠が途切れることを願う個人もなく、家庭もなく、民族もなく、世界もなく、宇宙もありません。精誠を尽くす道に従っていくのです。愛するものは、誰であってもその道についていきます。それが正道です。ですから、自分の生き様を報告し、自分の生き方を宣言しなければなりません。「お父様、きょうこのようにします」と言えば、きょうこれを成しました」と報告しなければならないのです。
(308-211、1999.1.5)
神様に祈祷することは、自分の事情を報告することです。それで近くなるのです。そして、言葉だけでするのではなく、実践して報告するので、報告することが実績として残ります。残される報告なので、天が干渉して祝福をするのです。どこでも、すべてそのようになります。それで、祈祷する人は恐ろしいのです。語らずに祈祷する人が恐ろしいのです。彼は後代の主人になります。
(233-105、1992.7.30)
道の出発は、どこからでしょうか。祈祷から出発するのです。祈祷する場所は、大概どこかというと山です。山の中でも孤独な山、とてもひっそりとした山、このような所で修めていくのです。
(157-13、1967.2.1)
5. 祈祷は休まず昼夜に
― 宗教経典 ―
なんじの主の栄光をたたえよ。なお夜のひとときも、また昼の両端にもたたえよ。おそらくなんじらは満たされるであろう。
クルアーン20.130 (イスラーム)
絶えず祈りなさい。
テサロニケの信徒への手紙一5.17(キリスト教)
主は私の思いを励まし、私の心を夜ごと諭してくださいます。
詩編16.7 (キリスト教)
最も真実な光景は夜明けの直前に見える。
ティルミズィーおよびダーリミー・ハディース(イスラーム)
ラビ・ヨハナンが言った。「一日中祈る者がいれば、そのような祈祷者は決して祈りの価値を失わないだろう」。
エルサレム・タルムード、ブラホート1.1(ユダヤ教)
大衣をまとう者よ、夜間は、暫時を除き礼拝に立て、夜間の半分、またそれよりも少しく縮めて、また、それよりも少し多く立て、そしてクラーンを読め。やがてわれは、荘重な宣託をなんじに下すであろう。
まことに夜間に起きることは、実践に最も力強く、またおことばを一層純正にする。まことになんじは、要務で昼間は長く追われる。それでなんじの主のみ名を唱念し、精魂を傾けてかれに仕えまつれ。
クルアーン73.1 ~ 8(イスラーム)
― み言選集 ―
「絶えず祈りなさい」という聖書のみ言があります。これもまた、とても重要なみ言です。なぜならば、サタンは堕落した世界を支配しているからです。サタンは、一日24 時間、あらゆる方向から堕落した人間を誘惑し、苦しめています。反面、神様はただ一つの方向から、すなわち精神の垂直的方向からのみ、力を及ぼせます。
(201-208、1990.4.9)
誰が見ていようと見ていまいと、私がすべきことは私がやらなければなりません。私達が神様との約束をきちんと守らなければならないというのです。夜も昼も全体のために祈祷してこそ、それが生きた祈祷になります。そうしてこそ、何年かごとに、自分が祈祷を通して願う内容が変わり、題目が変わりながら発展するのです。したがって、時が今、どのような時なのか知らなければなりません。そのような裏面の生活を皆さんは、祈祷生活を通して備えなければならないことを知らなければなりません。
(104-112、1979.4.15)
祈祷生活をすれば、言い表し得ない喜びが訪れます。その境地が、創世前の神様の心の境地です。(29-321、1970.3.13)
祈祷をたくさんするのです。たくさん祈祷すれば、一人で生活していても絶対に寂しくありません。祈祷は、呼吸するのと同じです。祈祷をたくさんすれば、霊的に相当明るくなります。また、相当に鋭敏になり、善悪に対する分別力がつくというのです。祈祷には犠牲が介在し、精誠が介在するのです。
(30-283、1970.4.4)
祈祷してください。祈祷は心情の補給倉庫です。時間がなければ、仕事をしながらでも祈祷できます。
(27-89、1969.11.26)
完全なる人格者になれば、生活自体が祈りである。多く祈って、無限な霊力に接しなさい。これが原動力となって、生活する者とならねばならない。
御旨の道、人格
6. 利他的祈祷
― 宗教経典 ―
自分が同じ状況にいても、同僚のために祈る者がまず先に報いを受けるだろう。
タルムード、バヴァ・カンマ92a(ユダヤ教)
では、人々にして、正信のゆえに正しいものと御身がみとめ給い、また善思のゆえにふさわしいものと、マズダー・アフラよ、御身がみとめ給うなら、そのものどもの所願を、果させて充たしてやってください。そうすれば、御身たちへの聖歌、御身たちにとって得るところ多く、ふさわしい、称賛の聖歌を、わたくしは知っているのです。
アヴェスター・ヤスナ28.10 (ゾロアスター教)
菩薩が家におる場合には、衆生とともに家宅の苦難をすてて、空法のうちに入りたいと願ふがよい。父母に仕ふる場合には、衆生とともに一切を護養して、とこしなへに大いなる平安を得たいと願ふがよい。妻子と集まる場合には、衆生とともに愛欲の獄をいでて、恋慕のこころを無からしめたいと願ふがよい。もし五欲を得たならば、衆生とともに貪欲のまよひを棄てて、功徳を具足したいと願ふがよい。
華厳経11(仏教)
― み言選集 ―
祈祷をたくさんするのです。たくさん祈祷すれば、一人で生活していても絶対に寂しくありません。祈祷は、呼吸するのと何じです。祈祷をたくさんすれば、霊的に相当明るくなります。また、相当に鋭敏になり、善悪に対する分別力がつくというのです。祈祷には犠牲が介在し、精誠が介在するのです。(30-283、1970.4.4)
祈祷は必ず成し遂げられます。私個人のためのものではなく、神様の義とみ旨に従う祈祷は、必ず成し遂げられなければなりません。
(104-109、1979.4.15)
神様に祈祷して福を受けようとするより、神様に私が「ために生きる」ことのできる条件を提示しなければなりません。その福を受けることを願うのならば、それは自分のために生きることです。「国と世界のために福を下さい」と祈祷してください。そのような祈祷は、いくらしてもよいのです。
(126-339、1983.5.1)
「自分自身のために祈祷してはいけない」、これが先生の教えです。自らの使命のために、そしてほかの人のために、また自分の祈祷が慰労のみ言として神様に上達されるようにしなさいと教えています。
(91-117、1977.2.3)
霊的体験をした人たちは、祈祷するときに、自分のための祈祷は最後にします。神霊的な世界に入っていって祈祷すれば、誰のために祈祷しなければなりませんか。まず神様のために祈祷しなければなりません。主人に会う時間なので、主人の福をまず祈らなければならないのです。その後、イエス様のために祈祷することができなければなりません。
神様のために祈祷してこそ、歴史的な神様の心情が分かります。イエス様のために祈祷してこそ、歴史的なイエス様の心情が分かります。その次には、今までキリスト教界でみ旨のために闘ってきた大勢の人たちのために祈祷しなければなりません。
堕落以降、アダムから今まで大勢の預言者たちが歩んだ歩みをたどりながら、「私が彼らを解怨する祭物となるようにしてください」と神様に祈祷を捧げたのち、預言者に「私は、あなた達の恨が地上に残っていることを知り、その恨を解こうと思いますので、協助してください」と言いながら、涙を流すことができなければなりません。そのようにしたあとに、愛する息子、娘のために祈祷し、その次に自分のために祈祷するのです。天法がそのようになっています。
(7-328 ~ 329、1959.10.18)
私の体を捧げてでも、神様の前に勝利の一点を加えようという立場で祈祷を捧げるときには、神様がそれに責任をおもちになり、成し遂げてくださるのです。それを成し遂げてくださるために、神様がたやすい道を歩んでこられるのではありません。神様が、皆さんが祈祷しているその場所まで来ようとすれば、たくさんの段階を経なければなりません。皆さんが神様と同じ悲惨な立場に立てば、神様が直接活動できるのですが、それ以外には神様が直接活動することはできません。すなわち、私自身が悔い改める立場や、傷心した立場にいるとしても、自分の真の心が神様の願われる立場に立つようになれば、神様が私を認められるようになり、また同情されるようになるのです。このような心情でいらっしゃる方が神様です。
(18-269、1967.6.12)
2) 瞑想
瞑想は、障害物で覆われている心を浄化させ、内面の究極的実在に開門するものである。瞑想には多様な方法があるが、あらゆる瞑想法の共通点は、彷徨する感情と雑念を純化させ、真の本性が現れるようにすることである。つまり瞑想とは、静粛と純粋状態に至るようにするものである。このために、身体的感覚の刺激をある程度制限しなければならない。
大部分の経典で、瞑想とは東洋宗教の修行・修錬を意味する。しかし、実際にキリスト教、イスラーム、ユダヤ教でも、瞑想は広く行われている神秘主義者、修道者、スーフィー、カバリストなどすべては、修行者たちを神的霊性との一致に向かう高次元の状態を維持するために瞑想の技術を発展させた。瞑想時間は、心を安定・浄化させると同時に、霊的感覚を高く高揚させる。文鮮明先生の祈祷時間とは、沈黙の祈祷であり、効果的な霊的祈祷技術であり、瞑想時間を意味する。
瞑想に関する主題は、あまりにも膨大であり、生涯修行してもその終わりを見ることは難しい。この節で扱う内容には、事由の浄化法、呼吸集中法、高次的集中力養成法、自身の体と思い、考えの境界を崩す訓練、聖なる形状の視覚化、そして超自然的光景に対するシャーマニズム的要請などが含まれている。
1. 主一的集中
― 宗教経典 ―
禅定とは、心を集中して脳乱のないことであり、知恵とは、真実の意味を明確にすることです。
龍樹宝行王正論437(仏教)
輻(や)の轂(こしき)におけるが如く脈管の湊(あつ)まる処(心臓)、その裏(うち)において彼(自我)は種々に生まれかわりつつ活躍す。「5Uなり」とかく自我を汝等は観想せよ。かくて、汝等が黒闇の輪廻界を渡りて、彼岸の世界に至るに幸あらんことを。
ムンダカ・ウパニシャッド2.2.6 (ヒンドゥー教)
魂と魄を一つに統一し、離れないようにできるか。呼吸を調和集中させ、嬰児のようにすることはできるか。自分の中の曇った鏡をきれいにし、何もないようにすることはできるか。
道徳経10(道教)
世尊はある時、舎衛城の祇陀林なる給弧獨{長者の遊}園に住まいたまへり。その時、一比丘、世尊の近くにありて、趺坐を組み、身を直く保ち、前世の業果より生じたる苦しく鋭く荒く烈しき痛みを耐へ忍びつつ、正念、正智にして悩まさるることなく坐したりき。世尊はその比丘の近くにありて、趺坐を組み、……乃至……痛みを耐へ忍びつつ、正念正智にして悩まさるることなく坐せるを見たまへり。世尊はこの事由を知りて、その時、このウダーナを唱へたまへり、「諸業を捨て、前世になせる塵労を振ひ落し、且つ我所見なく心豎立したる〔かかる〕比丘は人と共に語るの要もなし」と。
感興偈20、難陀品(仏教)
無門は評して言う……「三百六十の骨節と八万四千の毛穴でもって、全身で一箇の疑団(疑いめカタマリ)になって、この一箇の「無」の字に参じ、昼も夜も一日中これを問題として引撕げよ。この「無」を“虚無の無”(断見――ニヒリズム)だと理解するな、“有無の無”(偏見――二元論)だと理解するな。一箇の灼熱した鉄の玉を呑んでしまったようで、吐こうとしても吐き出せず、[呑もうにも呑みこめず]、これまでの悪い知識や悪い悟りを払い尽くして、長いあいだ、[練り上げて]純熟して、自然に内(主観)と外(客観)とが一つになる。そこは唖子が夢を見たようで、自分だけが分かっていて、他人には語れないようなものだ。いきなりその「無」が爆発すると、天を驚かし地を動かして[驚天動地の事態が起こる]。
無門関1(仏教)
私が瞑想の中に入っている限り、動物や人間、あるいは神によって起きる一切の災難を、私自ら耐え忍ぶだろう。私が瞑想に入っている間、私は私の体とすべての食物とすべての欲望を捨てる。執着、嫌悪、恐怖、悲しみ、喜び、心配、自己憐憫……。体、口、意の三業でこのすべてのものを放り出してしまう。また一切の性的遊戯を慎む。生と死、得と失、勝利と敗北、出会いと離別、友と敵、楽と苦、このすべてのものに対し、私は一つの心で平等に対する。知識や洞察力を得ることにおいてや正しい行為を修めることにおいても、その主人は私自身の霊魂であり、業の流入を呼ぶのも、これを止めるのもまた、私の霊魂である。
唯一で永遠のものは私の霊魂なので、これは正しい知恵と直観で満ちている。私が経験するそれ以外のすべての状態は、私には外的な事情によるものだ。このようなものによって私の霊魂は苦痛を経るため、私は体、口、意の三業からこのすべての事情を絶つ。
これによって私が平静心と私の真の姿を得るがゆえに、願わくはこの状態が私から離れることなく、私がまっすぐに救いに至るように。
サマイカ・パッタ(ジャイナ教)
― み言選集 ―
修養の道を求めるために、山中で修行するのも一埋があります。ですから、私達は、内的覚悟のもとに、そこに対比する外的な覚悟、清算条件を具備しておき、いかなるものにぶつかっても進んでいくという自信、一番のどん底に落ちても心身を支えられるという自信をもたなければなりません。そうでなければ、走ることもできず、競争の場に出ていくこともできません。
私達は、このような競争の場で、一つの種目を選んで走らなければならない競争者なので、目標を成し遂げるために、変わらない信念をもって鍛錬しなければなりません。ですから、皆さんは、信仰者の態度、走る人の態度、修養の道を行く人の態度をもたなければなりません。寝ても覚めても、その目標を征服するための決意に燃える心がなければならないのです。
(7-135、1959.8.9)
2. 宇宙的リズムに合わせて呼吸する
― 宗教経典 ―
精神のはたらきは四方のはてにまで達し、いっせいに流れ出して、どのようなところでも及ばないというところはない。上は天までとどき、下は地にひろがり、万物を変化生育させ、その霊妙なはたらきは形容する言葉もないほどである。しいて名づけるならば、天帝にひとしいともいえよう。
純素、純粋素朴の境地を得るための道は、自分の精神のはたらきを失わないように守ることである。もし精神を守って失うことがなければ、自分の身も精神と完全に一つになることができる。その一つとなったところに生まれる霊妙なはたらきは、
さらに天に通じ、天地自然の道に合一するのである。(注9)
荘子15(道教)
私は分けられず、
私の魂は分けられず、
私の視覚は分けられず、
私の聴覚は分けられず、
私の吸気は分けられず、
私の呼気は分けられず、
私の散布される息は分けられず、
私の全体は分けられない。
アタルヴァ・ヴェーダ(ヒンドゥー教)
三所(胸・頸・頭)を高く挙げて、身を平正に持し、意を用いて諸根(感官)を心臓におさめ、梵を舟として、智者は怖畏の流れ来る激流(輪廻の川)のすべてを渡るべし。行者はこの身において気息を抑制し、散動を検束し、気息のほとんど絶ゆるに及んで、鼻孔より気を吐くべし。駻馬を繋げる車を御するが如く、智者は意を摂持して怠ることなかれ。
シヴェーターシヴァタラ・ウパニシャッド2.8 ~ 9(ヒンドゥー教)
― み言選集 ―
早朝に起きて祈祷するのです。祈祷するときには、心臓の鼓動の音を聞くことができなければなりません。動脈と静脈、ここから天地の調和が生じると想像しながら、心臓の根源を考えるのです。そのようにすれば、健康も良くなるのです。
(27-87、1969.11.26)
神様が万物をつくられるときに喜ばれた、その心情をどのように感じなければなりませんか。皆さんがこのようなことを体恤しようとすれば、丘に座って朝から夜まで、日が沈むまで思索をしなければなりません。時間がたつことも忘れる圏内に浸らなければなりません。そこで息を長く吸い込めば、この宇宙の空気が生命力をもってすうっと押し寄せてくるのです。
このように、宇宙の生命力とともに生きなければなりません。そのように生きる私自身が息を吐けば、すべての存在が新たに覚醒し、深い眠りにつけば万物が相対的に和動するようになります。このような境地が、万有を統治できる絶対者の境地です。
そのような境地に立てば、万物と相対的な関係を備え、皆さんが息を吐けば万物が受け入れ、吸い込めば万物は吐き出してくれるのです。このように、愛を中心として万物と授け受ける関係を結べば、この宇宙が互いに授け受けするようになります。
皆さんは、そのような関係にとどまることなく、和動の中心体にならなければなりません。そうして、美しい自然の形態のようでもあり、宇宙自体のようでもある姿にならなければなりません。そのような境地に入っていくようになるとき、そこで初めて宇宙の和動の中心になるのです。
(29-133、1970.2.26)
鼻は、アダムとエバを象徴します。人の中で一番先に行くのが鼻です。鼻はいつも先頭に立っています。目は天を象徴するのですが、鼻は上と連結しています。また、口までも含みます。鼻はそうです。鼻自体を見れば、ここから宇宙です。これが天に通じるのです。すべて鼻で連結されています。ですから、これがセンターです。すべてのもののセンターになったということです。そうして、鼻からこのように線があります。ですから、万物までも主管するのです。
口は何かというと万物です。歯が32 本です。これは、4掛ける8で32 です。4は四位基台を意味し、8は世の中を意味し、新しい出発を意味します。それで32 本あるのです。口は万物を象徴するというのです。
また、鼻の穴が二つあります。二つあるのですが、中に入っていくと一つになります。そして、この鼻は通じないところがありません。目にも通じ、耳にも通じ、すべて通じます。ですから、鼻をぎゅっと握り、ぷうっと吹けば、空気がすべて……。右側の鼻の穴が男性であり、左側の鼻の穴は女性です。それが何かというと、神様が呼吸をする穴だというのです。何をですか。愛の空気を吸うのです。霊界に行けば、そのようになっています。空気とは何かというと、愛です。ここでこの愛を感じ、愛を呼吸できる訓練をさせるために、男性と女性の相対を置いたことを知らなければなりません。
皆さん、風邪をひくと鼻の穴が片方詰まるでしょう? 二つとも詰まるときは死ぬのです。このときは、口で呼吸しなければなりません。万物を通して、世の中を通して呼吸する方法があり、鼻を通して呼吸する方法があります。ですから、神様は万物が必要であり、人が必要なのです。
(118-112、1982.5.9)
3. 心を落ち着かせ、静かな状態に入って自らを空にする
― 宗教経典 ―
心(マナス)と共に五知根制せられ、而してその覚(理性)動ぜざる時、これを最上の解脱道と名く。この諸根の堅き執持を瑜伽(yoga、相應、禅定)といふ。
カータカ・ウパニシャッド2.6.10~11(ヒンドゥー教)
動揺し不安定な意がいかなる原因でさまよい出ても、各々の原因からそれを制御して、自己の支配下に導くべきである。実に、意が静まり、激質(ラジヤス)が静まり、ブラフマンと一体化した罪障のないヨーギンに、最高の幸福が訪れる。
バガヴァッド・ギーター6.26 ~ 27(ヒンドゥー教)
理智ある人は語と意志とを制御せよ。それを智識として自我の中に保て。智識を偉大なる自我の中において制御せよ。それを平静なる心情として自我の中に保持せよ。(注10)
カータカ・ウパニシャッド3.13 (ヒンドゥー教)
地の果てまで、戦いを断ち、弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。
詩編46.10 (キリスト教)
知っているものは、しゃべらない。
しゃべるものは、知ってはいない。
言葉による表現をやめ、
感覚の門を閉ざし、
すべての鋭さをにぶらせ、
そのもつれを解きほぐし、
その明るさを和らげ、
そして、大地と一つになる。
これは「道」と同一になるといわれる。
道徳経56(道教)
空虚を熟視して、
真に静寂を守る。
万物はどれも盛んであるが、
私はそれらの無為をみつめる。
ものは絶え間なく動き、休まない。
しかし、それぞれのものは根源にもどってしまう。
根源にもどっていくと静寂になる。
静寂になるということは存在の運命にもどることである。
存在の運命とは実在である。
実在を知ることを開明と呼ぶ。
道徳経16(道教)
創造者は孔を外側にあけた。従って、人は外を見るが、内部にあるアートマンに眼を向けることはない。ある賢者は、不死をもとめて、反対側を向いた眼で、アートマンを振り返って観察する。(注11)
カータカ・ウパニシャッド4.1(ヒンドゥー教)
かの十八の祭資は祭祀の形なせる不安定なる小舟に過ぎず。これらに基づく祭儀は低劣なるものといわれる。かくの如きものを勝道と思い喜ぶ痴愚の輩は再び老死の世界に堕つ。愚昧の輩は無知なるままにあれやこれやと行事をなしつつ「我こそ道を得たり」と驕る。彼等祭祀主義者は慾念に迷わされて真理を悟らざるが故に、果報尽きたる天界よりみじめな姿もて退堕す。迷乱せる輩は祭祀と善行を最勝事と想い、これに勝れるものあるを知らず。
彼等は殊妙なる天界の背(頂)にて福祉を享受したる後、この世界あるいはさらに劣れる世界に入る。およそ森林において苦行と信仰とを修め、心を寂静(じゃくじょう)にして、乞食行を行ずる賢者は罪垢を去り、太陽の門を過ぎて、かの自性不滅なる不死の神人(プルシア)の在ます処にゆく。
ムンダカ・ウパニシャッド1.2.7 ~ 11(ヒンドゥー教)
大学の道は、明徳を明らかにすることにあり、民を革新することにあり、至善に到達して移らないことにある。とどまるべき地(至善のあるところ)を知れば、そこで(志が)定まった方向を持つ。定まれば、そこで(心が)静かで妄動しない。静かであれば、そこで、安らかである。安らかであれば、(物事を処理するとき)精密であることができる。精密であれば、そこで留まるところ(至善)を得るのである。物には本と末とがあり(明徳が本で、新民が末である)、事には終りと始めがある。(留まるを知るのが始めで、よく得るのが終りである)。先にすること(本や始)と後にすること(末や終)を知るならば、道に近いのである。(注12)
大学(儒教)
横たわるときも自らの心と語り、そして沈黙に入れ。
詩編4.5 (キリスト教)
― み言選集 ―
私達が心で考えることも同じです。すべて訓練過程を経なければなりません。瞑想や祈祷をするのも、そのための一つの修養方法です。心の修養方法を意味するのです。
(67-178、1973.6.10)
皆さんの心の世界が水平線になったことがありますか。ですから、座禅や祈祷というものは水平線の位置です。自分の意識をなくしてしまうのです。意識というのは共鳴圏です。そのようになれば、必ず縦的な世界の波長が来て影響を及ぼすようになります。
(296-203 ~ 204、1998.11.9)
私達が祈祷する目的、あるいは仏教徒が座禅を通して無我の境地を求めていく目的とは何ですか。それは、心の核心になり得る要素を目覚めさせようというのです。皆さんがそのような基準で、見て、聞いて、感じる心の中心を天倫の前に立てれば、皆さんは神様の前に敬拝し、「ハレルヤ」と言って栄光をお返しできるようになるのです。
(2-193 ~ 194、1957.5.19)
今日、道の世界、宗教の世界では心の世界をもっています。深い心の谷間を求めています。仏教で座禅をする人たちも、いったい心とは何かと、心の深い谷間を求めていきます。心の谷間、その深い谷間を求めて入っていき、人間始祖が堕落する前の段階の心、その心の裏側の深い所まで入り込むようになれば、天と因縁を結ぶようになるのです。
ですから、そのような世界を求めて入っていかなければ、天と因縁を結べません。世の中をそのまま抱えては、天を迎えられず、天と接することができません。
今日、霊肉でできている私達の心と体を中心として見てみるとき、心と体が一つになったところで、その世界を追求することができなくなっています。心の世界を求めていくためには、体の世界を否定しなければなりません。100パーセント否定しなければなりません。世の中と隔離し、世の中と離別し、世の中をあとにし、体が要求するすべてのものを除去させなければならないのです。
そのような反対の道を求めていくのが宗教の道です。本来の拠点に戻ろうとすれば、失ってしまった本来の拠点を求めなければなりません。そうでなければ、本来の拠点に戻ることはできないのです。ですから、今日の宗教は、その世界を探求しているのです。
(21-37 ~ 38、1968.9.1)
信仰者として、最も注意しなければならないこととは何でしょうか。あることに対するとき、ささいなことであろうと、大きなことであろうと、事のいかんにかかわらず、個人的に対してはならないということです。言い換えれば、皆さんの心がぱんと張っていなければならないのです。空気をぱんぱんに入れて、完全に丸くなったボールのような心の姿勢をもつのです。ぺちゃんこではなく、完全にぱんと張ったボールのような心の状態にならなければならないというのです。そうではなく、不安な心や、あるいは個人の欲望を中心とした邪悪な心をもてば、丸いボールのような心に角が生じます。
この心が回るときには、平面的に接触しなければならないのですが、角ができると、とがった先の部分から接触します。そうすると、全体を円滑に刺激させるのではなく、全体に反発的な作用をするようになります。そのような立場に身を置けば置くほど、私達の良心は呵責を受け、良心の基準がだんだんと削減されていくことを考えなければなりません。
ですから、常に円満なボールのような心の状態が必要です。そして、その心に何かの刺激が入ってくれば、心自体が共鳴できなければなりません。固有の振動数が互いに同じ音叉、すなわち二つを置いて、一つを鳴らせば、もう一つはたたかなくてもその音波に刺激され、同じ振動数で鳴るのと同じように、私達の心も、共鳴体となり得る円満な心をもたなければなりません。
そして、常に、一つの主体から伝達されてくる霊的な波動を感知しようと努力しなければなりません。そのため、信仰生活をする人には、瞑想の時間が必要なのです。良いことを思い描きつつ瞑想をしなさいというのです。
瞑想をするときは、心の門を開け放ち、心を丸くして、神様ならば神様を中心として、神様の本性と私の本性が完全に授受できるように、春の季節に該当する人であれば、春の季節の主体であられる神様と共に、その性稟が完全に共鳴できる心の姿勢をもたなければなりません。このように共鳴した内容を中心として、自分が要求する目的に接するようになれば、必ず神様が共にいてくださるのです。
(40-278 ~ 279、1971.2.7)
4. 注意集中 : すべての思考と感情の自覚
― 宗教経典 ―
比丘たちよ、この道は、もろもろの生けるものが清まり、愁いと悲しみを乗り越え、苦しみと憂いが消え、正理を得、涅槃を目のあたりに見るための一道です。すなわち、それは四念処です。四とは何か。比丘たちよ、ここに比丘は身において身を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における貪欲と憂いを除いて住みます。もろもろの受において受を観つづけ、熱心に正知をそなえ、念をそなえ、世界における貪欲と憂いを除いて住みます。
心において心を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における貪欲と憂いを除いて住みます。もろもろの法において法を観つづけ熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における貪欲と憂いを除いて住みます。……
では、比丘たちよ。どのようにして、比丘は、身において身を観つづけて住むのか。比丘たちよ、ここに比丘は、森に行くか、樹下に行くか、空屋に行って、結跏し、身を真直ぐに保ち、全面に念を凝らして坐ります。
かれは、念をそなえて出息し、念をそなえて入息します。長く出息するときは、〈私は長出息する〉と知り、あるいは、長く入息するときは〈私は長く入息する〉と知ります。あるいは、短く出息するときは〈私は短く出息する〉と知り、短く入息するときは〈短く入息する〉と知ります。〈私は全身を感知して出息しよう〉と学び、〈私は全身を感知して入息しよう〉と学びます。……
つぎにまた、比丘たちよ、比丘は、行っているときは〈私は行っている〉と知り、あるいは、立っているときは〈私は立っている〉と知り、あるいは、坐っているときは〈坐っている〉と知り、あるいは臥しているときは〈私は臥している〉と知ります。かれは、その身が存するとおりに、それを知ります。……
つぎにまた、比丘たちよ、比丘は、足の裏より上、頭髪より下の、皮膚を周辺とする、種々の不浄に満ちた、この身を観察します。すなわち、〈この身には、髪・毛・爪・歯・皮、肉・筋・骨・骨髄・腎臓、心臓・肝臓・肋膜・脾臓・肺臓、腸・腸間膜・胃物・大便、胆汁・痰・膿・血・汗・脂肪、涙・膏・唾・鼻液・関節液・小便がある〉と。……
つぎにまた、比丘たちよ、比丘は、たとえば墓地に捨てられた、死後一日、あるいは死後二日、あるいは死後三日経ち、膨張し、青黒くなり、膿ただれた死体を見るようにこの身のみに集中します。〈この身も、このような性質のもの、このようになるもの、このような状態を超えないものである〉と。……
ではまた、比丘たちよ、どのようにして比丘は、もろもろの受において受を観つづけて住むのか。比丘たちよ、ここに比丘は、楽を感受すれば〈私は楽を感受する〉と知ります。苦を感受すれば〈私は苦を感受する〉と知ります。非苦非楽を感受すれば〈私は非苦非楽を感受する〉と知ります。……
ではまた、比丘たちよ、どのようにして比丘は心において心を観つづけて住むのか。比丘たちよ、ここに比丘は、貪りのある心を、貪りのある心であると知ります。……怒りのある心を、怒りのある心であると知ります。あるいは、怒りのない心を、怒りのない心であると知ります。愚痴のある心を、愚痴のある心であると知ります。……解脱した心を、解脱した心であると知ります。
比丘たちよ、ここに比丘は、五蘊の法において法を観つづけて住みます。誰であれ、これら四の念処を、このようにして七年間修習するならば、この果報のうちいずれかの果報が期待されます。すなわち、現世における完全智、あるいは、執着の残りがあれば不還果(ぶげんか)です。(注13)
阿含経中部i.55 ~ 63,念処経(仏教)
求道者・すぐれた人々は、一切の思いをすてて、この上なく正しい目ざめに心をおこさなければならない。かたちにとらわれた心をおこしてはならない。声や、香りや、触れられるものや、心の対象にとらわれた心をおこしてはならない。
金剛般若経14(仏教)
情とは性の悪の側面である。情が悪の側面であることを知れば、悪は本来存在しないものになり、心は静かに動かなくなり、悪の考えが自然になくなる。
李翺(儒教)
― み言選集 ―
心にも門があります。心門と言います。そうでありながら、その門がいつも一面にだけ開かれているのではなく、心自体が回っているために、その門も移動するのです。ですから、この門を通らずには、プラスならプラスを中心として、マイナスの立場で関係を結ぶことができないのです。人には、このような心門があるのです。
皆さんが祈祷をしてみれば、時間によって感じが違います。午前1時に祈祷するのと、3時に祈祷するのとは違います。それは、皆さんが体験してみれば分かります。神秘的な深い境地に入って祈祷してみれば、祈祷する時間によって違うのです。感じが違うのです。朝に感じるのと、真昼に感じるのと、夕方に感じるのと、夜に感じるのと、すべて違います。そのように、私達の心の状態からも、感じるその基準が違うのです。私達の肉体的な感情が、四季の季節の変化によってその感じる感度が変わるのと同様に、心の世界もそうなのです。ですから、祈祷をするにも、どのような時間によくできるかを知るべきです。それはどういうことかというと、神様との感応の度が近いのです。
よくできるというそこに、だんだん入るようになれば、門に出会うようになるのです。神様の心の門と、人間の心の門がぴったりと合って、ある基準まで合わせて入るようになる場合には、神様が感じることを体恤する道が生じるのです。皆さんがこのような境地に入っていくためには、どのようにしなければなりませんか。心を中心として、心を磨かなければなりません。心の状態を私達が求めてみなければなりません。本来は、この基準が零点になければならないのですが、堕落したために、これが180 度に来ているのです。この度数が零度になければならないのですが、自分勝手なところになっています。
ですから、これを回して正常に戻さなければなりません。ところが、ある人は、零点がここにあるにもかかわらず、ここに来ているのでこのように時計の針が進む方向に回っでいかなければならないのですが、この距離が近いために、この零点を中心としてこのように動けば、マイナス的感度を感じるのです。そうするとどのように思うかというと、このように(時計の針が進む方向に)行こうと考えます。そのように行けば、1000 年たっても駄目です。これは戻らなければなりません。
今日の宗教も同じです。宗教も目的の時に対しては、終末だ、末世だということをすべて区別しなければなりません。ところが、このように発展してきた宗教は、このように行けばよいのですが、この位置に来てとどまっていればこのように行けばよく、もし反対にここにいれば、この宗教は終末になると滅亡します。ある人は、角度と方向が違うので、その位置に行こうとすると、反対の道に行くようになる現象も起きるのです。神様のみ旨を中心として起きた宗教もありますが、サタンの意志を中心として出てきた宗教もあるというのです。これがすべてこのように混ざっているので、それを区別していくことはとても難しいのです。
私達の心の世界も同じです。心も、善の心があるのと同時に、悪の心もあります。では、皆さん自身の心が「ああ、私は善だ」と、このように考えていますが、そのような心自体も善ではありません。堕落の結果によって成されたために、悪の心の圏、悪のサタン圏に感染した心をもった人もいて、善の圏内の心をもった人もいます。千態万状の差で広がるのです。ですから、最も重要なこととは何かというと、この零度をどのように求めるかということです。心の門をどのように合わせるかという問題が、信仰生活において最も重要な問題なのです。
ですから、皆さんが信仰の過程においていつも注意しなければならないことは、心の門が開く時を知り、天の心の門とどのように合わせるかということです。それは、皆さんがいつも準備しなければならないことです。もしやこの時間が心の門に合う時間ではないか、あるいは、学生なら、勉強するこの時間がそのような時なのではないか、あるいは私が世の中を忘れて楽しく遊ぶその時間がそのような時間になるのではないか、いつでも随時求めて合わせる生活態度が必要なのです。ですから、いつもその深度をわきまえていきながら、心の門を開くようにして、そうしながら天が向かう門とどのように一致化させるかという問題が、信仰生活で最も貴いと思います。
(76-127 ~ 129、1975.2.2)
5. 視覚化と幻想
― 宗教経典 ―
瑜伽行中において見らるる霧、煙、日、火、風、螢、電光、玻璃、月等の相は梵を顕わす先駆的兆標なり。
シヴェーターシヴァタラ・ウパニシャッド2.11(ヒンドゥー教)
世尊はヴァイデーヒーに告げられた。「あなたと、そして、生ける者どもは、心を一筋にし、思念を一処に集中して西方を観想するのだ。さて、どのように観想するのかというと、一切の生ける者どもは、生まれながらの盲目でないかぎり見ることはできるのであるから、目明きであればみな、太陽の沈むのを見ることができよう。正坐して西に向かい、はっきりと太陽を観るのだ。心をしっかりと据え、観想を集中して動揺しないようにし、まさに沈もうとする太陽の形が天空にかかった太鼓のようであるのを観るのだ。
すでに太陽を観終ったならば、その映像が眼を閉じているときも、眼を開いているときにもはっきりと残っているようにするのだ。これが〈太陽の観想〉であり、〈最初の冥想〉と名ずけるのだ。次には〈水の観想〉を行なう。清らかな水を観たならば、その映像がはっきりと残っているようにし、想念がかき乱されないようにするのだ。水を観終ったならば、〈氷の観想〉をおこさなければならない。
氷の透き通ったさまを観終ったならば、〈青玉の観想〉を行なう。この観想をなし終えたならば、青玉の大地の内も外も透き通っているさまを観るのだ。下にダイヤモンドなど七種の宝石に飾られた黄金の幢幡(はたぼこ)があって青玉の大地を支えている。
その幢幡は八面あって八角形を形作っている。一々の面が百の宝石でできている。一々の宝珠に千の光明があり、一々の光明に八万四千の色があって青玉の大地に照り映えているさまは、億千の太陽のようであって、つぶさには見ることができない。青玉の大地の上には黄金の縄がびっしりと張りめぐらされ、七種の宝石で境界がはっきりと区切られる。一々の宝石の中に五百色の光があり、その光は花のようでもあり、また星や月のようでもある。
その光は虚空にかかって光明台となり、そこには百の宝石から成る千万の楼閣があり、台の両側にはそれぞれ、百億の花の幢幡と無数の楽器が飾られている。八種の清風が光明から吹きおこり、この楽器を鳴らして、苦・空・無常・無我についての教えを聞かせる。これが〈水の観想〉であり、〈第二の冥想〉と名づけるのだ。
この観想ができるようになったら、その一々をきわめてはっきりと観られるようにするのだ。眼を閉じているときにも、眼を開いているときにも、その映像が散ってなくなったりしないようにする。ただ眠っているときだけを除いて、常にこのことに心をとめるのだ。このような観想に到達したら、ほぼ、〈幸あるところ〉という世界を観たと言えるであろう。さらに進んで精神集中ができるようになったら、かの仏国土をはっきりと観ることになる。しかし、(これは略説であって)詳しく説いたわけではない。これが〈大地の観想〉であり、〈第三の冥想〉と名づけるのだ。」と。(注14)
観無量寿軽9 ~ 11(仏教)
私が私の幻想追求を行う前に、オイニカガマクサ、イニピ、浄化の家で私自身を浄化しなければならなかった。……グッド・ランスは、真っ赤に焼けた石に野牛の角のしゃくしで氷のように冷たい水をかけた。とても大きな「シュー」という音とともに、私達は一瞬でもやもやした白い乾いた蒸気に包まれた。
……グッド・ランスが祈った。彼は昔の言葉を使った。「この蒸気は宇宙の聖なる息遣いだ。子よ、ホクシラよ、お前は再びお前の母の子宮にいる。お前は再び生まれている」。彼らはみな、私達スウ族が大草原を放浪していたその時代に戻り、とても古い歌を2曲歌った。突然私は、代々に伝えられてきた知恵によって賢くなったように思った。私の親族であるこの人たちが大声で力強く歌を歌った。……
小さく粗末な家が巨大な手につかまれているかのように揺れた。それは木の葉が風で揺れているかのように揺れていた。私達の下にある大地が動いているかのようだった。「先祖がここにいらっしゃる」とグッド・ランスは言った。「霊魂がここにいる。黒はげわしの知恵がここにある」。
私達はそれを信じた。私達はそれを知った。きせるが渡された。……私達は4度たばこを吸った。最後のきせるが回ったあと、グッド・ランスが私に言った。「ホクシラよ、お前は浄化された。お前はこれ以上子供ではない。お前は今、準備ができ、そこに上がっていって夢を叫び、歌えるほど強い」。…
私達の幻想の穴は、地に掘られたL字の形の穴だ。それはまずまっすぐに下っていき、木の根の下に奥深く短い水平の通路に続いていた。お前はその通路の果てに座って断食をする。成人はどこでも1日から4日まで断食をする。
……私の場合には、私が2日間、食べ物や飲み物を口にせず、独りでそこに留まるように決められた。……最初の数時間がとてもつらかった。漆黒のような暗闇としんと静まり返った静寂の中で、私は動かずにそこに座っていた。手足が麻痺した。私は聞くことも見ることも感じることができなかった。私の霊魂は肉体からすっかり離脱し、記憶と散漫な思いをもったが、肉も骨もない存在になった。
私は再び見聞きできるだろうか。……どのくらいそこに座っていたのか分からない。時間感覚はずいぶん前に消えた。昼なのか夜なのか分からず、それを知る道さえなかった。私は祈り、また祈った。涙が両頬を伝わって流れ落ちた。水を飲みたかったが、続けて祈った。おおよそ2日目の晩頃、私は、私の目の前にある車輪を見た。一つの燃えているような丸い輪になり、再び燦爛たる多くの色の円形に分かれ、私の目の前で踊るようにゆらゆらと動き、再び一つの口と二つの目をもつ円形、一つの大きな円形に集まった。
突然、何かの声が聞こえてきた。暗闇の中からの声、それは結ばれている私の中から出てきているようだった。それがどこから来るのかを正確に言うのは難しかった。それは人間の声ではなかった。それは人のように語る鳥の声のようだった。私は勇気を出した。……「その丸い輪を記憶せよ。今晩、私達がお前に教える」とその声が言った。そして、私はその小さな幻想の穴を歩き回る足音を聞いた。突然、私は穴を出て他の世界、鹿と野牛の群れがぶらぶらと歩き回る、野生の草花で覆われた大草原の浄化の家の前に立っていた。
ある男が私に近づいてきているのを見た。彼は足がないように思えた。彼は手にちりんちりんと音がなる二つの鈴を持ち、私に向かって霧の中を浮かんで飛んできた。「子よ、お前の部族に何を言おうと、誇張するな。常にお前の幻想がお前に言ったことを語れ。決してだますな」と彼は言った。その人は、鳥の羽で装飾された球形の雄鹿の皮の服を着ていた。突然、私が私の星模様の刺し縫いの布団の中に戻ったとき、石とたばこのひもでできた薬品の包みをしっかり握り、その人に触れようと手を伸ばした。依然として私はその声を聞いた。
「その丸い輪を記憶せよ。きせるを記憶せよ。その代弁人になれ」。私はそれ以上恐れなかった。誰が私に話していようと意に介さなかった。突然、雷を伴う墨のように真っ黒な雲が私の前に伸びてきた。その雲はより広く拡散した。そこから翼が出てくると、それは黒はげわしになった。その黒はげわしは私に言った。「私はあなたに力を与える。あなたのためではなく、あなたの部族のために用いよ。これはあなたのものではなく、部族共通のものだ」。
私は白馬に乗って私に向かってくる人を見た。彼はサルビアでつくられた丸い輪を片手にもっていた。彼はそれを高く掲げた。……そして、再びすべてのものが暗闇の中に消えた。再び霧の中で、髪の毛と杭で覆われているが、形がはっきりしない不思議な生物が浮遊してきた。それは私から薬品を奪おうとしたが、私はそれと闘い守った。それは私の薬品を奪うことができなかった。それもまた消えた。突然、誰かが私の肩をつかんで揺さぶった。「子よ、起きなさい」。私の父とおじが私のところに来ていた。2日間の昼夜が過ぎたのだ。
レオナード・クロウドッグスス族の幻想追求(アメリカ先住民の宗教)
― み言選集 ―
少しずつこの相対的立場に立てば、どんな現象が起きるでしょうか。今まで感じたことのない、新しい立体的な感じが来るのです。それが、何だか分からずに来るのです。昔には、冬のような気分だけ感じたのに、秋のような気分を感じるようになり、秋のような気分だけではなく、夏のような気分も感じられ、春のような気分が感じられるのです。なぜそうなのでしょうか。この宇宙は回っています。心も回ります。ですから、回りながら春夏秋冬の変化を引き起こすのと同様に、私達の心の世界も、回りながらそのように変化する感じを感
じるようになっています。
それが一年について見れば、春夏秋冬があり、一年を縮小したのが一日ですが、一日にも春夏秋冬があるのです。朝は春に該当し、昼は夏に該当し、夕方は秋に該当し、夜は冬に該当するのです。このように、春夏秋冬の季節的形態が、一日の間に繰り広げられているのです。また、春に該当する朝にも、そうです。そこでも、春のようなものを感じ、夏のようなものを感じ、秋のようなものを感じ、冬のようなものを感じられます。大きなものは大きなものを中心として単位の形態を備えていますが、小さいものも相対的なその単位の形態を備えているのです。私達の心もそれと同様です。ですから、心に感じられる感じがいつも同じではないということです。季節によって自分が春だというのを知ればいいのですが、分からないのです。秋だということが分からないのです。これを多くの体験を通じて、多くの祈祷生活を通じて「あ! 今、このような時に処しているな」ということを、わきまえるすべを知らなければなりません。
そのような境地に入るようになれば、どんな現象が起こるのでしょうか。私達の言葉に暗示という言葉があります。それはどういう言葉でしょうか。自分が道を何気なく行くのに、ある良い家の塀に止まっていた鳥が飛んでいくのを見たとき、鳥は飛んでいってしまうのですが、ばたばたと鳥が飛んでいくそれ自体を通じて、内的に何かを教えてくれることが繰り広げられるようになるのです。実際の生活において、そのような形態が展開され始めるのです。暗示的条件が多くなるのです。ある人が偶然に言ったことに何かを悟らされるようになります。このような事実が、だんだん多くなるのです。
この段階を過ぎれば、どのような形態が起きるのかというと、夢示のようなものを体験するようになります。夢の中で起きることなのですが、夢でも深い眠りの中での夢ではありません。夢うつつの中です。パウロも夢うつつの中で三層天を体験しました。夢のようでもあり、夢ではないようでもあり、夢の中にいるのか、事実の中にいるのか分かりません。そばで誰かが話しているのを聞きながらも、夢うつつの中でそのような現象や、あるいは声をこの五官で感じられる、そのような感覚が来るのを感じるようになるのです。
そのようなことを、何気なしに流して過ごすなというのです。それを総合して、どんな方向の因縁を自分につなぐために現れるのかということを、科学的な面でデータを出しなさいというのです。必ずその結果が現れます。ですから、皆さんが忘れることできない夢のお告げのようなことは、100 パーセント的中するようになります。そのような体験があるでしょう。
夢うつつの間に、ある人なら人、物なら物が因縁づけられたので、それが事実の中で実際につながるのです。誰かが夢の中で誰かと歌っているのに、その歌が夢の中の歌ではなく、そばで誰かが歌う歌が正にその歌だった、このようなことが起こるのです。これはどういうことをいうのかというと、霊的次元において、心の状態が共鳴することができる圏内に入ることをいいます。音叉というものがあります。共鳴することができる圏内に入ることをいいます。このようなことを、限りなく貴く思わなければなりません。
そのようになれば、どうなるでしょうか。神様がいるなら、その神様がどこに現れるのでしょうか。空中に現れるのではなく、心を通じで現れるのです。ですから、私の心と私が二つだということを知っています。(注15)異なる存在だということを知っているということです。皆さんが、そのようなことを感じられないのは、なぜでしょうか。心がまだ存在を確立できなかったためであり、体に引きずり回される人になったからです。
その心が存在を確立して、また他の一つの主体だという、そのような人格的な次元の立場が形成されれば、それは必ず違ってきます。祈祷をして次元が高くなれば、心と話すのです。共鳴する現象が起こるのです。これは次元の高いことですが、そのようになれば、心の中で言うことを自分が聞きます。そのような境地で発展していくのです。最初の段階では、暗示のような事実が皆さんの生活で起こります。
ですから、信仰者はこのような膨大な資料を収集しなければなりません。接する人がいれば、何気なく接するなというのです。彼が自分に何をもたらしてくれるのか、いつもおなかのすいた者の心情になるべきです。彼が自分に何をもたらしてくれるかと、そのように求める心がなければなりません。結局、彼自体は何でしょうか。自分がいつも主体になるとか、対象にならなければなりません。確定的な主体であり、確定的な対象の立場にいるという事実を言うのです。
ですから、主体となり得る存在が現れて、対象的な存在が現れれば、一遍に分かります。自分に誰か伝道する人がいれば、一遍に分かるのです。(注16)むしょうにただ心がうれしくて行くのです。それを「心波」と言います。心の波長があるのです。そんなことがあるのではないですか。皆さんを見れば、肉の商売をする人は、肉屋のにおいがして、布(生地)の商売をする人は、布のにおいがします。皆さんの体からもにおいがするのと同様に、心のにおいがするのです。その心のにおいをかぐのです。そのような形態が繰り広げられます。
ですから、信仰する人の態度は、すべて自分と関係していると考えなければなりません。なぜそうすべきなのでしょうか。堕落によって、すべての関係を失ってしまったのです。自然に対する関係、本然の人間に対する関係、神様に対する関係を、すべて切断してしまったのが堕落です。切断した関係の世界を、私達が再び接続させるためには、いつも自分自体が接続させることのできる作用をしなければなりません。そのような作用をしてこそ関係が開拓されるのであって、接続しようとする態度をもたなければ開拓されません。これは、最も理論的だというのです。
皆さん全員が何かを探す心がなければなりません。皆さんが朝に祈祷し終えると、「あ、きょうは良いことがある」ということが分からなければなりません。「良いことがあるから、ただ良いことが現れるだろう」と、これではいけません。それを探さなければなりません。このような生活態度が、皆さんの信仰生活にならなければならないのです。ですから、体恤と実践ということは、生命の因縁をもたらすというのです。夢うつつの中に、このような事実が繰り広げられます。(注17)
(76-129 ~ 133、1975.2.2)
皆さんは徹夜祈祷などをするでしょう? 精神をすべて天に向け、世情のことをすべて忘れて……。その境地とは何かというと、眠る境地に入っていこうということです。そのような境地以上の場に入っていこうというのです。この肉身の残りかすがすべて沈滞すれば、澄んだ水が上がってくるのと同じように、眠りは、私達が精神修養して精神を上げ、悪い意識をすべて下ろそうというのです。
眠る境地、そのような境地に入っていけば、皆さんの体が眠るか眠らないかという状態になります。そのようなときは、すべて聞くのです。すべて見えます。聞くことは聞きますが、はっきりとは聞かず、見ることは見ますが、はっきりとは見ません。そのようになれば、何が起きるのでしょうか。夢のような現象が起きます。そのとき、何かを教えてくれるのです。それで、徹夜祈祷をして、あらゆる肉欲を断絶させ、精神を統一してどんどん上げることによって、将来に自分の行く道などが見え、その次にそれが習慣化すれば、全体を調整できる位置に入っていきます。そのようになれば、祈祷さえすれば、目を開けても見ることができ、すべて聞くことができる境地まで入っていきます。二つのものを見て、二つのものを聞くというのです。
(91-275、1977.2.27)
その段階が高くなれば、どのようなことが起こるでしょうか。啓示とか指示とか、このようなことが起こります。啓示というものを、私達は分析しなければなりません。指示というものは、直接教えてくれるものですが、啓示は違います。ですから、問題が起こるのです。これは、必ず解釈をしなければなりません。何かを教えてくれるには、声で聞かせてくれたりもしますが、幻想でも見せてくれます。良い春の日を迎えて、鹿が一対、小川のほとりで水を飲みながら、遠い山を眺める、このような幻想は、限りなく幸福な希望を象徴するのです。そのように、いろいろな現象が繰り広げられるのです。
そのようなことは、偶然の事実ではありません。自分の心の畑を啓発するための、天の役事です。なぜそうすべきなのでしょうか。私達の心の畑というものが、ガラス板のように平らになっていないのです。凸凹しているのです。形は水平のような面をもちましたが、それ自体は凸凹なのです。凸凹したここに、天の感度が反射して来るようになると、光の屈折と同様に、入ってくる方向と反対の方向に反射して出ていきます。それで、すべてが違うのです。部分部分を啓発しようとするので、そのような役事をするのです。
啓示の段階を過ぎるようになれば、次は黙示の段階です。一日中霊界に入って体験をするとか、そういうものです。そのような世界にまでつながるのです。神様に対する、生活的な感情圏まで到達できます。皆さんがこのような体恤的な信仰をしなくては、偉大な天のみ旨の結果世界を、私達の生活の場、生活舞台に適用させることはできません。ですから、体験をもたない信仰者は、信じることができません。
私達食口は、祈祷する中で役事をします。役事というものがあります。霊的な力が電気作用と同じように入ってきます。皆さんが体験をしてみれば分かりますが、高圧電気に接したような、私達の意識より強い力が入ってきます。超自然的な、超人的な感情が訪ねて入るようになれば、私達の体が、堕落性をもっているために、必ず反発するようになります。神様の神性と反発するようになります。
ですから、堕落した人間の前に、どんな神の性稟が強力に入ってきても、自然的に純化され得る立場になれないのです。これが入ってくるには、プラス・マイナスのように、音波も強弱で伝播されていくのと同様に、必ずその力も一遍にすっと入ってくるのではありません。強く入ってきたり、弱く入ってきたり、こうしながら開拓して入ってくるのです。そこに震動が起こり、自分の意識がなくなり、霊的な力が強く作用する現象が起こるのです。それが役事として現れるのです。
このような役事を絶えずするようになれば、どうなるでしょうか。この体が、肉性というものが、堕落性が純化され、自然に100 パーセント受け入れることができるようになるのです。そのようになれば、そのような現象がなくても、役事以上の立場に入って、天が教えてくれることをみな受けながら、寸分も違わないのです。
このような現象の過程を経て、純化される立場まで上がらなければなりません。その過程で、啓示とか指示とかいう過程を皆さんは経なければなりません。皆さんがそのような体恤段階に入れば、皆さんの心が皆さんに命令するのです。誰かにこのように話をしようとするのに、言葉が話せないようにするのです。あるいは、自分が良い言葉でその人のために言わなければならないのに、しかる言葉ばかりが出てくるのです。このような現象が起こるのです。
このように理解できない現象が時々起こるために、これを調整するすべを知らなければなりません。誤ったなら、狂人として扱われやすいために、それを調整できなければなりません。このような体恤的信仰を、必ずもたなければなりません。心で感じたことを、体恤したことをもって、実験を通じた体験の立場に入るようになれば、その人は強くなるのです。誰の言葉も聞かないのです。体恤と実践、これは私達の信仰生活に最も必要なことです。
(76-133 ~ 136、1975.2.2)
3) 賛美
礼拝は、情熱をもって心から捧げなければならない。最高の方法は、賛美と称賛を通じて天を賛美しながら心情的力を発散するのである。賛美は、神様に対する愛の自然な表現である。賛美歌と聖歌は、その歌詞に詩的で心に届く声を入れたために、何かの神学的談論よりも私達の霊魂を深く泣かせる。賛美するとき、私達はまるで天の天使たちの合唱の声を聞く神秘な恩恵を体験できるかのように、霊的に高揚する。聖なる音節と主の神聖な名を繰り返す賛美を通して、私達の心は、究極的実在、神様に合わせて、その神秘的な力を呼び出すことができる。
1. 賛美の価値
― 宗教経典 ―
かれは永世者であられ、かれのほかに神はない、それゆえかれに祈りまつり、忠順の誠を尽くしてかれに傾倒せよ。よろず世の養育の主、神をたたえ奉る。
クルアーン40.65 (イスラーム)
かつて世にあったものたちや現に世にあるものたちのうちのだれを崇めれば、そこに、天則によりわたくしにとって最勝のことがあるかを(注18)、マズダー・アフラが知っておわしますごとき、そのようなものたちを、それぞれの名を呼んでわたくしは崇め、そして讃称をもってわたくしはちりまこう。
アヴェスター・ヤスナ51.22 (ゾロアスター教)
豫:先王もって楽を作り徳を崇び、殷んにこれを上帝に薦め、もって祖考を配す。
易経16(儒教)
神が最も喜ぶ四つの言葉は、「神に栄光を、神に賛美を、神以外に神はいない、神は最も偉大であられる」である。(注19)
ムスリム・ハディース(イスラーム)
ここに、一切の聖典の詮表するところ、一切の苦行の語るところ、また梵行を修する徒の目的とするところなることばあり。これを要約して卿に告げん。『唵(オーム)』これなり。この聖音はげに梵なり。この聖音はげに至上なり。まことにその聖音を識りたらば、望むところのもの悉く己が所有とならん。(注20)
カータカ・ウパニシャッド1.2.15 ~ 16(ヒンドゥー教)
「唵」というこの音は万有である。これについて詳説しよう。過去、現在、未来といわれる一切は唵音である。他に三世を超出したものがあるが、これもまた唵音である。
万有は梵である。この自我(アートマン)もまた梵である。この自我に四つの足(部分)がある。覚醒状態にあって、外界知を有し、……夢寐状態にあって、内面知を有し、……熟睡状態において渾然一体となり、純知の一塊となり、……〔そして〕万象を消融し、寂静〔なる状態〕……こそ自我であり、人のまさに証得すべきものである。
この自我は音綴として見れば、聖音「唵」である. 母音として見れば、その足(部分)をなすものが音母である。音母としての足はア音とウ音とム音である。覚醒状態にある一切人的自我は、唵音の最初の音母たるア音である。……夢寐状態にある光明的自我は唵音の第二の字母たるウ音である。
……、熟睡状態にある叡知的自我は唵音の第三の音母たるム音である。……第四の自我は音母なく, 不可侵にして、万象を消融し、安詳である。かようなわけで、聖音「5U」は自我にほかならない。(注21)
マーンドゥーキヤ・ウパニシャッド(ヒンドゥー教)
三世の諸仏も妙法蓮華経の五字を以て仏に成り給いしなり三世の諸仏の出世の本懐・一切衆生・皆成仏道の妙法と云うは是なり。是等の趣きを能く能く心得て仏になる道には我慢偏執の心なく南無妙法蓮華経と唱え奉るべき者なり。
(注22)
日蓮(仏教)
偉大なる主の属性に基づき、聖仙達によって歌われた主の千の御名を、私は世界の安寧のためにとなえん。「主は宇宙の形の中にいまし、遍在され、供犠の形を取られ、過去、未来、そして現在の主であられ、生きとし生けるものの創造生であり、それらの維持者であり、その実在そのものであり、それらの中に住まわれ、それらに好意を
よせる。
主は純粋にして至高の存在であり、解説者の最高の目標であり、肉体の傍観者であり永遠の知覚者なる、不滅の霊であられる。主は道であり、道を知る者達の指導者であり、御自身が物質であり、霊であり、神であり、獅子人の形をとった至高の存在であり(注23)、その髪は光線であり、運命の女神を所有している。主は全てであり、破壊者であり、慈しみであり、不変であり、存在の根源であり、無尽蔵の宝庫であり、喜ばれるときに御自身を現され、後援者であり、保護者であり、その生まれは特別であり、有能であり、主人であり、自ら生まれ、幸福を与える太陽神であり、蓮華の様な目を持ち、ヴェーダという崇高な声を発する.……王であり、罪の破壊者である。
主は法螺貝、剣、円盤、大弓、鉾を持ち、円盤で武装し、平静を失わず、いかなる物も敵を撃つ武器にすることが出来る。」この様に、偉大なるケーサヴァの神聖な御名の中で、歌うにふされしきこれら千が、全て語られた。日々これを聞き、あるいは暗唱する者はこの世においても、またあの世においても逆境に会うことはないであろう。
マハーバーラタ、アヌササーナ・パルヴァン254(ヒンドゥー教)
他のすべての宗教も、人間の心性の不安を除去しようと努力し尽くしている。宗教ごとにそれぞれ提示する「道」があり、それらも生に対する教えと規律、儀礼を紹介している。カトリック教会は、これらの中の神聖さと真なるものをある程度否定しない。それらが教える概念と教え、人生の道と行動規律に心から敬意を表す。たとえ私達が勧告する道と多くの面で異なるとしても、それらもやはり様々な万民を明るく照らす真理の光を発していることを認める。
第二バチカン公会議、キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言
― み言選集 ―
歌は、神様と和合する根本材料です。ですから、歌うときは陶酔する気分を感じなければなりません。
(16-289、1966.7.31)
感動して歌う歌が最高の絶叫であり、心霊が込められた祈祷だということです。そして、「ああ、ここから新しい歴史が始まったのだなあ」ということを感じるのです。
(17-22, 1966.11.6)
祈祷とは何かというと、神様を招いて神様と語ろうとすることです。特に、座って祈祷するよりも、自分の生活を通して天と共に同化できる時間をもつのです。その時間が祈祷の時間です。このように考えれば、言葉で語る祈祷よりは歌の祈祷が感動的であり、自分自身が早く神秘境に引き上げられることを即刻的に体験します。天のお父様と言うとき、感情を込めて「天のお父様!」と言い、深く通じるときは懇切な心で「天のお父様!」というのが歌なのです。
(270-19、1995.5.3)
僧侶たちも木鐸をたたきます。私達は、み言を聞いて歌も歌います。これらはすべて条件です。
(308-218、1999.1.5)
昆虫も神様、創造主を賛美し、鳥も賛美し、魚も賛美し、獣も賛美するのですが、この人間が賛美できないのです。動物たちや万物たちは神様を賛美して暮らしているのに、人間はどろぼうするようにうそをついて暮らしています。これではいけません。反対にならなければなりません。
(269-171、1995.4.17)
お父様の前に探し出された息子、娘として、お父様と永遠に同居することができ、お父様の仕事とお父様の思想とお父様の願いを成し遂げた者として、喜びと栄光の歌でお父様を慰労してさしあげることのできる真の子女たちとなるよう許諾してくださることを、愛するお父様、懇切にお願い申し上げます。
(5-280、1959.2.22)
2. 賛美の歌と詩
― 宗教経典 ―
全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。喜び祝い、主に仕え、喜び歌って御前に進み出よ。知れ、主こそ神であると。主は私達を造られた。私達は主のもの、その民、主に養われる羊の群れ。感謝の歌をうたって主の門に進み、賛美の歌をうたって主の庭に入れ。感謝をささげ、御名をたたえよ。主は恵み深く、慈しみはとこしえに、主の真実は代々に及ぶ。
詩編100(キリスト教)
歌え、すべての者よ、大声で歌え! 敬虔な信者達よ、汝の歌を歌え。子供達にも歌わせよ。巨大な要塞の如き彼に向かって歌え。ビオールはその調べを奏で、リュートはその声を辺りに発し、弓弦はその音色を響かせよ。インドラにわれらの讃歌がとどくように。
リグ・ヴェーダ8.69,8 ~ 9(ヒンドゥー教)
私の王、神よ、あなたをあがめ、世々限りなく御名をたたえます。絶えることなくあなたをたたえ、世々限りなく御名を賛美します。大いなる主、限りなく賛美される主、大きな御業は究めることもできません。
人々が、代々に御業をほめたたえ、力強い御業を告げ知らせますように。あなたの輝き、栄光と威光、驚くべき御業の数々を私は歌います。人々が恐るべき御力について語りますように。大きな御業を私は数え上げます。人々が深い御恵みを語り継いで記念とし、救いの御業を喜び歌いますように。
詩編145.1 ~ 7(キリスト教)
かれこそは、神であられる、かれのほかに神はないのである。幽玄界と現象界を知りたもう。かれは、仁慈者・慈悲者であられる。かれこそは、神であられる、かれのほかに神はないのである。至高の王者・神聖者・平安の根源者・信仰の管理者・安全の保護者・偉力者・全能者・尊厳者であられる。神をたたえまつる、かれらが主に配するものの上に高くいましたもう。かれこそは神であられる、造物主・造化の主、形態や色彩を賜う主であられ、最も美しいみ名はかれのものである。天と地のよろずのものは、かれの栄光をたたえまつる。まことにかれは、偉力者・英明者であられる。(注24)
クルアーン59.22 ~ 24(イスラーム)
汝ら皆、霊の力により、天の主のもとに来たれ。唯一なる、万人の客なる方のもとへ。古き彼は、新しきところへ来たらんと欲す。すべての道は彼へと向きを変える。実に彼こそは唯一なる者。ここにいるわれらは汝のもの、インドラよ、多くの者に賛美されるものよ。
歩き回るわれらは、富の主である汝に属する。歌を愛する者よ、われらの歌を受ける者は汝をおいて他になし。地がその生き物を愛するように、われらのこの歌を愛し給え。大きく響く歌は寛大なるインドラに達した。誉められるべき人類の擁護者、多く呼びかけられたる者、愛の讃歌によりしだいに強くなる者、日々歌われる不死なる者に。
インドラに向かい、われらの愛の歌は、天の光と交わり、一つとなって進む。妻がその夫、来るべき新郎を抱くように、その歌も寛大なる者を彼の栄光の故に包む。
サーマ・ヴェーダ372 ~ 75(ヒンドゥー教)
― み言選集 ―
限りなき恵みは我に与わる
永遠の生命喜びなり
我今、楽しく常に讃えん
栄光を高く捧げまつれ
一つの喜びわが胸に得て
理想を立て常に歌わん
我今、楽しく常に讃えん
栄光を高く捧げまつれ
永遠の生命我に溢れて
万の祝ただ誉め奉れ
我今、楽しく常に讃えん
栄光を高く捧げまつれ
選ばれし恵みに我感謝して
誠を尽くして御前にひれ伏さん
我今、楽しく常に讃えん
栄光を高く捧げまつれ
聖歌2 番「聖苑のめぐみ」1953 (注25)
はるかに輝く栄えの光
強く生きよ自由の生命
この地の果てまで目覚め立て
生命の光永遠にあり
生命の光永遠にあれ
呼びて求むる栄えの主よ
大いなる姿は天地を抱き
蘇きた生命はいずこにと
尋ぬる君を如何に迎えん
尋ぬる君を如何に迎えん
死から蘇きたこの我は
蘇かしたお方に抱かれて
永遠の愛と恵みの声
いついつまでも喜びを
いついつまでも讃めまつれ
栄えに入るのも主の恵み
愛に満つるも主の恵み
崇め崇めて奉れども
足らぬこの身を如何にせん
足らぬこの身を如何にせん
聖歌4 番「栄光の賜物」1950
4) 献身
献身とは、天に愛で敬拝するという意味である。聖書の「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」という聖句のように、愛は献身と犠牲を通して表現される決断力ある行動である。アブラハムの信仰から見るとき、献身とは基本的に忠実な行動とみ旨に対する犠牲として現れる。
神様に対する愛はまた情緒的体験である。献身的な礼拝は、楽しく高揚した賛美と称賛、そして愛の神様の臨在に対する途切れることのない渇望で満たされる。強力な宗教的自覚形態は、特にヒンドゥー教とシーク教のバクティ(博愛)伝統とスーフィー、イスラームの信徒たちとハシッドと呼ばれるユダヤ教徒たちの踊りと賛美で、そしてペンテコステ教会の聖霊の流出などで再現されてい
る。
多くの経典では、この神秘的な感情が新郎に対する新婦の崇高な愛が変形した形態として現れたものと描写している。旧約のソロモンの雅歌とヒンドゥー教の聖典の中のラダとクリシュナ、またはシッタとラマの間の愛で、イエスに対するマグダラのマリヤの信仰にこのような感情が現れている。
文鮮明先生は、男女の合徳と天地の合徳の間に根本的な関連性が存在すると語られる。文鮮明先生は、神様の恨の心情的要素を語られ、神様の愛を体験しようとする熱望に、新しく副次的な解答の鍵を教えてくださる。神様が苦痛と苦難が点在する環境に暮らしていらっしゃるのなら、神様と情緒的交感を願う渇望する心は、結局、天の悲しみを体験する段階まで私達を導く。文鮮明先生の祈祷は、涙と神様を慰労してさしあげる内容に満ちている。神様の痛みを知れば、私達は世の中の兄弟姉妹たちを罪悪から救援し、神様の苦痛をなくしてさしあげるために行動するようになる。このような深奥な段階に至るとき、初めて私達の心情と行動は一つになるのである。
1. 神様とそのみ旨に献身する行為
― 宗教経典 ―
だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。
コリントの信徒への手紙一10.31 (キリスト教)
あなたのすべての行動が天のためのものとなるようにせよ。
ミシュナ、アヴォート2.17(ユダヤ教)
最も立派な行為は、神のために愛し、神のために憎むことである。
アブー・ダーウード・ハディース(イスラーム)
かれは永世者であられ、かれのほかに神はない、それゆえかれに祈りまつり、忠順の誠を尽くしてかれに傾倒せよ。よろず世の養育の主、神をたたえ奉る。
クルアーン40.65 (イスラーム)
あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。今日私が命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。
申命記6.5 ~ 9(キリスト教)
人が信愛(バクティ)をこめて私に葉、花、果実、水を供えるなら、その敬虔な人から、信愛をもって捧げられたものを私は受ける。あなたが行うこと、食べるもの、供えるもの、与えるもの、苦行すること、それを私への捧げものとせよ。アルジュナ。かくてあなたは、善悪の果報をもたらす行為(業)の束縛から解放されるであろう。
バガヴァッド・ギーター9.26 ~ 27(ヒンドゥー教)
アールマティに属せば人は聖となり、かかる人は天眼とともにあって、ことばと行為とダエーナーをもって天則を栄えさせ、善思をもって王国を栄えさせる。――マズダー・アフラは授け給わんことを――これへのよき報応を、わたくしは懇願し奉ります。
アヴェスター・ヤスナ51.21 (ゾロアスター教)
― み言選集 ―
忠孝精神と松竹のごとき志操は、今後成し遂げられる地上天国の中枢的思想と精神になるのです。天国は神様の国なので、その国のために永遠に忠誠を尽くさなければならず、神様は人類の父であられるので、その父に対して永遠に孝の道を行かなければなりません。
(100-253、1978.10.19)
ただ何でも働かなければならないのですか。違います。そこには必ず今がどのような時で、この時に行くべき所とはどのような所だという目的観がはっきりしていなければなりません。神様の立場を身代わりしようとするので……。神様の代身者にならなければならないということです。それが第1であり、そのような立場を身代わりしたという事実を自分が確信しながら、その次から神様のみ旨の道に従ってどこに行くべきか、ということを皆さんは考えざるを得ないのです。
(70-257 ~ 258、1974.2.13)
神様の愛を受けようとすれば、どのようにしなければなりませんか。神様が私達人間に完全な愛をもってくるので、私達は完全な何かを投入しなければなりません。「至誠感天」という韓国の格言がありますが、それは、本当に天理に通じる言葉だというのです。「すべての精誠を捧げる」というとき、それは内外のすべてを捧げるということです。思うこと、話すこと、行うこと、また良心の生活圏までも、すべて合わせて捧げるというのです。それが精誠です。「精誠」の「精」の字は精神を意味します。「誠」は言偏に「成」の字です。
ですから、内外のすべてのものを成して捧げるという意味です。(注26)そのようにしてこそ「感天」になるのです。天が感動するということです。天が感動することによってどのようになるのでしょうか。天がその人を思い、思うだけでなく、天の思いがいつもとどまるようになれば、そこには天の愛が訪れてきます。すべての天の思いがそこにとどまるようになるとき、天の愛がここに連結されるようになるのです。思うところに人の心が動くのです。
ですから、精誠を尽くす立場に立ってこそ、神様の愛を受けられます。神様が私達人間を愛するように、皆さんが神様のために精誠をもってものを捧げれば、神様の愛を初めて皆さんが感じることによって、神様を愛することができるのです。本来、堕落したために、皆さん自身が神様を愛することはできません。したがって、神様のために精誠を尽くすことによって、神様の愛が私に訪れてくるのであり、その愛を通して神様を知り、神様を愛することができるようになります。愛の根源は神様です。
(78-31 ~ 32、1975.5.1)
精誠の心、愛の心でなければサタンの血統が絶対に根絶されません。アダムとエバが堕落するとき、神様の心の深い所に悲痛な歴史の苦痛を感じる根が打ち込まれたのです。それを私がどのようにして、すべて抜いてさしあげるのでしょうか。もっと深く入っていって抜こうとするので、もっと感じなければなりません。神様は寝ても、私は真昼のように起きて最も難しいことをする立場に立たなければ、堕落したときの神様の心情よりも何百倍も難しい立場に立たなければ、抜くことができないという心をいつももたなければなりません。
(308-208 ~ 209、1999.1.5)
2. 神様のための愛と憧憬
― 宗教経典 ―
それは最高のプルシャである。しかしそれはひたむきな信愛(バクティ)により得られる。万物はその中にあり、この全世界はそれにより遍く満たされている。
バガヴァッド・ギーター8.22 (ヒンドゥー教)
すべての息遣いで、ごく微細なことでも主を覚える者たち、いつでも心の中に主の名が刻まれた者たち、ナナークが言うには、彼らは祝福を受けるため、完全な信仰者だ。
アーディ・グラント、ヴァール・ガウリーM.5、p.319 (シーク教)
チャコラの鳥は月の光を恋い慕う。(注27)蓮の花は日の光を恋い慕う。蜂は花の蜜を吸う事を恋い慕う。まさにその如く、主よ、私の心はしきりにあなたを恋い慕う。
バサヴァンナヴァチャナ364(ヒンドゥー教)
涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、私の魂はあなたを求める。神に、命の神に、私の魂は渇く。いつ御前に出て、神の御顔を仰ぐことができるのか。昼も夜も、私の糧は涙ばかり。
詩編42.2 ~ 4(キリスト教)
愛するあなたよ、私が何をもっと話さなければなりませんか。生きても死んでも、再び生まれても、あなたは私の生の主人であられます。愛のわなは、私の心をあなたの足に結んでいます。私の心は、ただあなたに魅了され、私はすべてのものをあなたに捧げました。この家庭で、あの家で、誰が私のものですか。私が誰を私自身のものだと言うことができるでしょうか。ひどく寒く、私はあなたの足の下に帰依します。私の二つの目が瞬きする間、私はあなたを見ることができません。私は私の胸が死んだことを知っています。チャンディー・ダースが言うには、「私は糸を通され首にかかった試金石」。(注28)
チャンディー・ダース(ヒンドゥー教)
あるとき、ケクリシュナの養母ヤショーダーが幼いクリシュナを抱いていたさい、牛乳が沸き立つかまどを下ろそうと、あわてて彼を下に下ろした。これに怒った赤子は、牛乳が入っていた硬いかまどを壊し、部屋の隅にあったチーズを顔に塗りつけ、焼いておいたパンを猿に食べさせ始めた。
母が戻ってきてこの光景を見ると、彼を激しく叱った。また木の臼に彼を縛りつけて罰を与えようとした。ところが、驚くことに縄が十分に長いにもかかわらず、あまりに短く見えた。それで彼女は、さらに縄をもってきた。しかし、それはまだあまりに短かった。彼女は見つけられるだけの縄をすべて使った。しかし、まだクリシュナを縛りつけることができなかった。このことは養母ヤショーダーをとても戸惑わせ、クリシュナは内心で笑った。
しかし、彼の母がすっかり疲れ、どうすることもできずにいるのを見ると、自分から縛られるようにした。初めもなく、中間もなく、終わりもなく、万有に遍在し、無限で、全知全能のクリシュナだとしても、彼はまだ母の偉大な愛のゆえに、彼女によって自分が縛られるようにしたのである。彼は全能であられる主であり、万有の主であられ、一切の万物の主宰者であられる。しかし、彼は彼を信愛する人々に束縛されるようにされるのである。(注29)
シュリーマッド・バーガヴァタム103 (ヒンドゥー教)
― み言選集 ―
どれほど神様を欽慕し、思慕しましたか。現在の自分の立場をすべて忘れてしまい、神様にありったけのものを捧げ得る立場に立っているのかという問題、言い換えれば、完全なプラスの前に完全なマイナスになれるかという問題が生じるのです。その完全なマイナスが完全なプラスの前に向き合える境地に入っていけば、完全なプラスは完全なマイナスに対して直行してきます。純粋な直行の行路を通じてその完全なプラスは完全なマイナスに向かって突進してくるというのです。そこでマイナスは新たに後方で押してあげる反対の作用を起こすのです。
(36-100、1970.11.22)
理念は万民に通じますが、実体は一つにしか通じません。ですから、理念を信じたという信仰者は多いのですが、実体を信じたという信仰者は多くないでしょう。あなたの心が私の心であり、私の心があなたの心であり、あなたの悲しみが私の悲しみだと言える信仰者がいないというのです。皆さんは、この日まで結ばれた天の怨恨の心情、骨髄が溶けるような悲しい心情を感じてみましたか。イエス様はどこに行っても天と向き合い、気を失って卒倒するほどの心情をもって、この地上で30 年以上の歳月を送ったことを皆さんはよく知らなければなりません。
(4-126、1958.3.23)
今日の私達は、信仰という言葉を掲げて待ち焦がれていますが、そのような段階を越えて生活的な信仰をしなければなりません。すなわち、天と共に生活する食口、天と共に生活する民、天と共に生活する教会にならなければなりません。そのように生活しながら楽しむことができ、歌うことができ、栄光をお返しできる信仰生活をしなければならないのです。天はこれを待ち焦がれています。
歴史過程の大勢の私達の先祖たちの前に信仰という言葉を立てておいて、神様が彼らに対して期待したことは何だったでしょうか。その場で闘っている信仰者としてのそれ自体ではなく、最後まで残って父と共に暮らせる人を期待されたことを皆さんは知らなければなりません。天が私達を待ち焦がれたということを知らなければなりません。神様が期待されたのは、信仰のために喜んで消えていくことができる私、信仰めために死んで復活できる私、死亡圏を抜け出して生命圏内で復活の価値を感じることができ、永遠の世界で神様を父と呼んで暮らすことができる、そのような私を期待していらっしゃいます。これを考えるとき、天が期待した私、その私を慕うことができ、その私を取り戻すために、その私と出会うために苦労する皆さんにならなければなりません。
(6-84 ~ 85、1959.3.29)
神様をお父様と呼んでつかんだまま、6000 年の歴史的な悲しみで痛めた心情を慰労し、解怨してさしあげるのです。悲しいお父様の胸に抱きついて「お父様」と呼ぶとき、その一言の言葉で分かれていた天地が再び因縁を結ぶのです。このような基準を再び立てることのできる存在にならないというとき、神様の悲しみは皆さんから離れることができず、神様の審判の条件から皆さんは抜け出すことができないでしょう。
(3-58、1957.9.22)
おなかがすくことが悲しみではなく、環境に追われ、憤懣やるかたない立場に立ったことが、悲しみではありませんでした。愛するお父様を失ってしまうこと、それ以上の悲しみはないことを、私達は全く知りませんでした。お父様がいららしゃる位置は、どんなに何もない位置であっても、無限に存在する位置であり、お父様がいらっしゃる位置は、地獄の中心であっても、天国と化すことのできる位置です。私達が死んでも生きても、いるべき所は、お父様がいらっしゃる所しかないことを知るものです。
(43-135、1971.4.25)
3. 新郎のために生きる新婦として神様への献身
― 宗教経典 ―
夜ごと、ふしどに恋い慕う人を求めても、求めても、見つかりません。起き出して町をめぐり、通りや広場をめぐって恋い慕う人を求めよう。求めても、あの人は見つかりません。私が町をめぐる夜警に見つかりました。「私の恋い慕う人を見かけましたか。」彼らに別れるとすぐに、恋い慕う人が見つかりました。つかまえました、もう離しません。母の家に、私を産んだ母の部屋にお連れします。エルサレムのおとめたちよ。野のかもしか、雌鹿にかけて誓ってください。愛がそれを望むまでは、愛を呼びさまさないと。(注30)
雅歌3.1 ~ 5(キリスト教)
私の手に鏡のように、
私の頭に花のように、
私の目にコールのように、
私の口にタンブルのように、
私の胸に麝香のように、
私の首にネックレスのように、
私の体に恍惚境のように、
私の家庭にアイのように、
鳥に翼のように、
魚に水のように、
生物に命のように、
あなたは正にそれと同じです。
しかし、私に語ってください。
あなたはどなたですか。
実際、あなたはどなたですか。
ヴィディヤーパティが言うには、
「彼らはお互いです」。(注31)
ヴィディヤーパティ(ヒンドゥー教)
聖なる母、主なくしてどうして生きるのですか。万有の主、あなたに栄光があらんことを!私があなたを賛美しますので、あなたなくしては決して生きていくことができません。新婦は主を気をもみながら渇望し、夜通し起きて彼を待ちます。私の心を魅了した主、彼だけが私の苦脳を知ってくださるので、主がいなければ私の魂はつらさと苦痛の中にいて、彼の言葉を求め、彼の足に触れることを願います。主よ、慈悲を施してください。私をしてあなたの懐に入るようにしてください。
アーディ・グラント、サーラングM..1.p.1232 (シーク教)
恋しい人は言います。「恋人よ、美しいひとよ、さあ、立って出ておいで。ごらん、冬は去り、雨の季節は終った。花は地に咲きいで、小鳥の歌うときが来た。この里にも山鳩の声が聞こえる。いちじくの実は熟し、ぶどうの花は香る。恋人よ、美しいひとよ、さあ、立って出ておいで。」
雅歌2.10 ~ 13(キリスト教)
イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女(注32)が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壷を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」そして、彼女を厳しくとがめた。
イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。私に良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、私はいつも一緒にいるわけではない。この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もって私の体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」
マルコによる福音書14.3 ~ 9(キリスト教)
ラーマよ、……妾は蹤いて行きたいのです。……妾はあなたの後から歩いて行くのならば、安楽椅子などに腰を下ろしているように、森では道を歩いても疲れることはありません。道を塞ぐ、クシャ草も、萱も、葦も、また棘のある植物も、樹木も、あなたと御一緒ならば、綿か鹿皮と同じ感じです。大風が埃を吹き上げて、妾を包んだとしても、あなた、妾はそれを最上等の栴壇香だと思います。
森の中を歩きまわっても、御一緒に毛布を敷いたように柔らかな草地に寝さえすれば、これに勝る安らかさがありましょうか。木の葉や木の実がたとい少なかろうと、また多かろうと、あなたが集めてきて妾に下さるなら、それは妾にとって甘露の味がしましょう。……あなたと御一緒ならば天国ですし、あなたと離れて暮らすのは地獄です。(注33)
ラーマーヤナ、アヨーディアーの巻30(ヒンドゥー教)
― み言選集 ―
神様は、どのような方ですか。私の体の永遠の主人です。私の心情の永遠の主人です。本然の世界は、いくら愛する夫婦だとしても、夫が妻よりも神様をもっと愛するからといって、妻がその夫を恨みません。そのようになっているというのです。また、妻が神様を夫よりもっと愛するからといって、「なぜ神様を私より愛するのか」とは言いません。それを見て喜ぶことができる世界が天国です。
世の中のいかなる愛、いかなる内容をも超越した主体的な立場にいらっしゃる神様は、私の体の永遠の主人です。体の永遠の主人であられる神様の懐、その園にいれば死んでもよいのです。私の心の永遠の主人、私の心情の永遠の主人であればそれで十分であって、それ以上何を望むのでしょうか。
(7-255、1959.9.20)
女性たちの希望は、そうではないですか。「あの男性なら私は死んでもよい」と思える男性を得れば、天下に何も必要ありません。貧しくてもよく、裕福でもよく、泣いてもよく、死んでもよいのです。それ以上はないというのです。同じように、私達人間の最高の欲望は神様の愛を占領することですが、この愛を占領することによって、この宇宙の主人になります。王の王権をもつのです。王の王になります。
ですから、優れた人にも愚かな人にも、すべて欲心を付与したのは、その目的を万民共通に付与しなければならないからです。本然的理想がそのようになっているので、そのような作用をするのは、自然の道理です。ですから、それが私達の自然に到達できる目的地だということです。
神人愛、どのように神様と人間が、縦横が一つになるのですか。神様は垂直的な愛です。垂直の愛なのです。ですから、イエスが昇天したあとに聖霊が来ました。聖霊は母の愛です。キリスト教は新郎を迎えるための宗教です。新郎と新婦が出会うためには、空中権勢をつかんだサタン圏に勝たなければなりません。
ところが、宗教がどれほどたくさん犠牲になったか分かりません。これを平面的に獲得するためのものが地上天国、再臨理想です。神様がこの地に再臨主を送って中心として立て、横的に版図を展開させるのです。二重になるのです。完成した二重的すべての……。心と体が二つではなく一つになります。男性の体と女性の心が相対をなし、天地調和の渦の中心になるのです。それで、中心として上がっていったり下がっていったりします。
(252-120 ~ 121、1993.11.14)
堕落とは何でしょうか。神様の事情を論じられないのではなく、心情を論じられないのが堕落です。堕落した人間を探してこられる神様は、失った息子、娘に対する心情はもっていても、その心情を分かち合うことができる人がいないので、その人たちを探して立てる役事をされます。それが救いの役事であり、その人たちを立てるために送られた者が、救世主です。私達は、天国を望む前に、神様の心情を願うべきであり、また神様の心情を願う前に、私自身がどのように生きていくべきかを考えなければなりません。
私自身が、まず侍る心情をもたなければなりません。高く貴いものについては、頭を下げて恋しく思うのが、人間の本性です。堕落したとしても、高く貴い天の心情に対して侍りたいと思うのが、私達造られた人間の本然の心情です。(注34)心情に通じることができる、侍る生活をしてみることができなかった人は、天国と何の因縁もないということを皆さんははっきりと知らなければなりません。
(8-291、1960.2.14)
お父様!
きょう、お父様の御心情の園で
私達の体が動じ、
心が動じ、
すべての考えが動じるよう
許諾してください。
お父様の御心情は、
無限なる愛の御心情であることを
私達は知りました。
お父様の御心情は、
限りなく悲しい御心情であり、
限りなく傷を負っている
御心情だということも、
私達は知りました。
限りなく悲しまれたお父様、
限りなく苦労されたお父様、
今も限りなく気遣われるお父様!
そのお父様が創造主であられ、
そのお父様が
全万象の主人公であられるということを分かるようにしてくださり、
お父様がお受けになる
限りない悲しみが、
私達の胸に
しみ通るようにしてくださり、
限りない悔しさと無念さが
私達の心中に
流れ込むようにしてください。
これを体得した者を、
身の置き所を知らないため、
自分の身を支えることのできない
悲しみに浸るようにしてくださり、
その心を収拾することができず、
天地の区別もつかないまま
痛哭する息子、娘たちと
なるようにしてください。
今、精誠を尽くし、
この心と体をすべて捧げ、
その御心情の前に
不足がないということのできる、
認定を受ける息子、娘たちとなるよう許諾してくださいますことを、
お父様、
切にお願い申し上げます。
私達は、
天がどのような物質を下さることも
願っていませんし、
事情を知ってくださることも
願っていませんし、
恩恵を下さることも願っていません。
それよりは、
恩恵を下さったのちに
悦楽しようとなさる、
お父様のその内情を
私達が知るよう許諾してください。
そうして、
悲しまれたお父様を
「お父様」と呼ぶことができ、
苦痛のお父様を慰労してさしあげることのできる息子となり、
娘となることを願うものです。
(8-262、1960.2.7)
5) 純粋な意図
奉公の根は、心情にある。奉公の行為に私達を導く意図が、正に奉公の価値を決定する。最初は、信仰と服従が外的な形態でのみ表現されるが、結局、本来の内面的意図は外的に現れるようになっている。神様に近づいていく道には、純粋な心情と真実な心が要求される。
俗世での生活も、私達の意図から始まる。イスラエルの民が神殿に行き、「だれが主の丘に上がるのか」という聖歌を歌うとき。彼らは言った。日々の生活で彼らは道徳的に、正義感をもって生きなさいという天の戒めを守って生きたと。いつでも純粋な意図から神様の摂理に世俗的な関心より優先的に仕えるとき、心の純潔性が育てられる。心と体を尽くして神様に栄光をお返しし、神様の摂理に貢献しようという純粋な意図をもつとき、私達は神様と真実な関係を維持し、天門が開門する。純潔な精誠の反対概念の理解のために第15章8.「偽善」が参考になる。精誠の役割に対してより深く理解するためには、第12 章5.「誠実と確実」が参考になる。
1. 心の純粋と誠実
― 宗教経典 ―
心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。
マタイによる福音書5.8(キリスト教)
眼を以ても、語を以ても、その他の感官を以ても、苦行を以ても、あるいは祭儀を以てするも捉えられず。智の澄浄によって本性の清浄となれる時、瞑想裡にあってこの渾一なるものを照観す。
ムンダカ・ウパニシャッド3.1.8 (ヒンドゥー教)
どのような人が、主の山に上り、聖所に立つことができるのか。それは、潔白な手と清い心をもつ人。むなしいものに魂を奪われることなく、欺くものによって誓うことをしない人。主はそのような人を祝福し、救いの神は恵みをお与えになる。
それは主を求める人、ヤコブの神よ、御顔を尋ね求める人。(注35)
詩編24.3 ~ 6 (キリスト教)
希望が成されることを願い、私の前に来るあなた達は、みな偽りなく純粋で、内も外も貞潔で、鏡のように真理を写し出す心で願わなければならない。(注36)
天満宮神社の神託(神道)
たとえ、鉄の玉を食べようとも、心の穢れた人のものを食べてはいけない。銅を溶かすような焔の上に座っても、心の汚れた人のところへいってはいけない。清浄を大事にするためである。(注37)
八幡大菩薩、三社託宣(神道)
おおわが兄弟よ。純粋な心は鏡のようなものである。愛と神以外のものへの愛着を断つためのみがきで、心の鏡をみがきあげよ。そうすれば、あなたの心は真実の太陽で照らされ、永遠につづく夜明けの光でかがやくであろう。
七つの谷、四つ目の谷21(バハイ教)
それは、あなたがまじまじと神を見るように、彼を敬い崇めることです。あなたが眼にしていなくとも、神は貴方を見ておられるのですから。
ナワウィー40 のハディース2(イスラーム)
まことは、神の心である。したがって、神につかえおまつりするのに、まことの心をもってあたると、神は必ずそれをうけてくださる。
貝原益軒神祇訓(神道)
主なる神に従おうとする者は、些細な問題を心配する時間がない。創造者なる神に常に仕えようとするとき、虚栄は入り込む時間さえない。(注38)
イスラエル・バアル・シェム・トーヴ(ユダヤ教)
私はあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、私はあなたを口から吐き出そうとしている。(注39)
ヨハネの黙示録3.15 ~ 16(キリスト教)
― み言選集 ―
恵みの永遠なる故郷は、神様の心情であるから、神様の心情の安息所を備える者となってこそ、そこに神様の恵みが運行する。
御旨の道、心情
神様は、精誠を尽くさないところにおいては働かれない。
御旨の道、み旨
キリストを遠ざけ、自分のために生きる息子、娘にならないよう導いてください。
(2-300、1957.6.30)
克服は、何をもってするのでしょうか。それは、手段では駄目です。何かの才能でも駄目です。ただ精誠によってのみ克服できるのです。ですから、神様をどのくらい精誠を尽くして侍ってみたのか、どのくらい精誠を尽くす心で慕ってみたのか、どのくらい精誠を尽くした感動を通して感じようとしたのか、またそのような父と息子の因縁の体恤をどのように見いだすのか、ということが問題になるのです。
(42-228、1971.3.14)
誰が見ていようと見ていまいと、私がすべきことは私がやらなければなりません。私達が神様との約束をきちんと守らなければならないというのです。夜も昼も全体のために祈祷してこそ、それが生きた祈祷になります。
(104-112、1979.4.15)
今後、真の息子、娘が尽くすべき精誠とは何でしょうか。現実的な生活舞台における精誠ではなく、希望の精誠、栄光の精誠、忠誠の精誠、侍る精誠を尽くさなければなりません。そのような精誠を残していってこそ、天国が私の天国になり、その父が私の父になるのです。
(17-245、1967.1.29)
ある主義のために自分のすべてのものを放棄し、あるいはある思想のために自分の主張を放棄する人がいるとしても、自分の心を起こす真理を探すためにそのようにするのでなければ、それは天倫と何の価値的な関係も結べません。このような心の核心を求めていき、6000 年間、先祖から罪悪の血統を通して受け継いだ汚れた心を再び洗い清めるためには、皆さんがどのようにしなければなりませんか。イエス様が、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ。これがいちばん大切な、第一のいましめである」と語られたように、皆さんは心を尽くすことのできる立場に立たなければなりません。
(2-194、1957.5.19)
2. 礼拝の基準としての誠実
― 宗教経典 ―
それはあたかも澄みきった鏡が、その対するものにしたがって、種々さまざまな像を現ずるようなもので、業性もまたそれと等しい。
華厳経10(仏教)
清涼の大法眼は、僧がお斎の前に参じたので、手で簾を指した。そのとき二人の憎がともにそこへ行って、簾を巻き上げた。法眼は言った、「一人はよいが、一人はだめだ」。
無門は評して言う――まあ言ってみよ、誰がよくて誰がダメなのか。もしここに一つの心眼をつけることができたら、すぐに清涼国師の失敗の処が分かるだろう。それはそうだが、けっしてヨイとかダメだとかというところに向って究明しようとしてはならないぞ。
無門関26(仏教)
行為とは意志に基づくものであり、人はみな自らの意志した事柄の所有者である。したがって神とその御使いのために聖遷に参加した者は、神とその御使いのために聖遷を行ったのであり、現世の利益、結婚相手の女のために聖遷に加わった者は、それらのために聖遷を行ったにすぎない。(注40)
ナワウィー40 のハディース1(イスラーム)
法を〈汚れのないもの〉と名づける。もしも法ないしねはんに染るならば、それはすなわち汚れに染ることであって、法を求めることではない。法はそれを行ずる場所が存在しない。もしも法を行ずるならば、もはやすでに行ずる特定の場所が存在することになり、法を求めることにはならないのである。
法には取捨がない。もしも法を取捨するならば、それは取捨にほかならぬのであって、法を求めることにはならないのである。法には場所が存在しない。もしも場所に執著するならば、それは特定のよりどころに執著することになり、法を求めることにはならないのである。
維摩経6(仏教)
神がダビデにこれを啓示された。「私の僕の中で、天国に行くことや地獄に対する恐怖で私に仕える者より正しくない者はいない。私が天国と地獄を創造していなければ私に仕えることができなかったというのか」。
シャアラーニー(注41)(イスラーム)
おお、神よ、私がもし地獄に対する恐れであなたを賛美するなら私を地獄で燃やし、私がもし天国に対する希望であなたを賛美するなら私を天国から追い出してください。しかし、もし私がただあなただけのためにあなたに敬拝するなら、私にあなたの不滅の美を惜しまないでください。
ラービア(注42) (イスラーム)
― み言選集 ―
皆さんは、なぜここに座っているのですか。良いみ言を聞いて立派な人になるために座っているのですか、アメリカを立派にし、教会を立派にするために座っているのですか。皆さんは、2番目ではなく1番目だと言えば正解でしょう? 先生の話を聞いたから2番目と言うのではないですか。笑うのを見るとそれが事実のようです。
(118-46、1982.5.2)
今日、自分の利益のために宗教を信じるすべての人たちは、福を受けようと信じている人たちは、福を受ければ神様を信じるのをやめるのです。福を受けることが目的ではないですか。少し裕福に暮らして、その次には落ちていきます。世界に福を与えようと思いながら信じなければなりません。それが神様の願うことです。
(127-27、1983.5.1)
霊界に行ってみれば、昔に殉教した信徒たちの中で「私がこのように殉教すれば、天国に行けるだろう」と言った人たちは、天国に行けないというのです。反面、「天の父が私を訪ねてくるために受難の道を歩まれ、血を流されたのだ。主に恩返しをするためには、どんな道でも行く」と言いながら、「その恩返しできる立場で、私が同参できる栄光の一時を迎えたことは、どれほど有り難いか」と言いながら死んだ人は、間違いなく天国に行ったというのです。
そのような人は自分のために死んだのではなく、天地のために死んだのです。「私がこのように信じて死ねば、天国に行くだろう」と言って死んだのなら、それは自分のために死んだのです。堕落した人間は、自分を主張しては、絶対に天国に行けないのです。
(41-355、1971.2.18)
皆さんに、「精誠を尽くしなさい、精誠を尽くしなさい!」(注43)と言うのですが、なぜそうなのでしょうか。精誠を尽くすときは、自分がすることに精誠を尽くしてはいけません。自分がすることに精誠を尽くせば、神様が世界に光を水平に照らそうとしているのに、水平に照らさずに私のほうにだけ照らしてほしいということになるのです。ですから、人類を代表して、神様を身代わりして祈祷するという心を常にもって精誠を尽くさなければなりません。神様を身代わりして祈祷し、神様を身代わりして精誠を尽くすのですが、神様御自身が今まで歴史を通してどれほど精誠をたくさん尽くしたかを考えなければなりません。
(308-200 ~ 201、1999.1.5)
神様の悲しみは何かというと、神様が苦痛を受けるときに一緒に苦痛を受け、神様が悲しむときに一緒に悲しむ人がいないことです。今まで数千年間、人類を抱いてこられた神様は、独りで苦痛を受けられました。独りで無念な思いになられ、独りで悲しまれたのです。神様が苦痛を受けるとき、その苦痛を一緒に受けた人がいなかったのであり、神様が悲しむとき、その悲しみを一緒に受けた人がいませんでした。ですから、神様は、今まで苦痛が激しかったのであり、悲しみが激しかったのです。
(11-95 ~ 96、1961.2.12)
お父様のお心を私達の心として、
お父様の御事情を私達の事情として、
お父様の願いを私達の願いとして、
お父様の怨讐を私達の怨讐として、
お父様の闘いを私達の闘いとして、
お父様の願いを成就してさしあげられる、
勝利の祭物として捧げられ得る
息子、娘たちとなるよう
許諾してください。
(5-213、1959.2.1)
6) 献金と十分の一献金
献金とは、信仰と献身の物質的表現である。古代の動物献祭は消えて久しく、今では、それが献金と十分の一献金、または托鉢僧への布施に代わった。類型を問わずあらゆる献金は、信仰的心情の外的表現である。本質的に献金とは、自分自身の代わりに捧げるものである。世界の宗教経典は、祭物を捧げるとき、最高に貴いものを喜んで、未練や執着なく捧げることを教えている。献金の聖書的基準は、個人収入の十分の一を捧げる十分の一献金である。
1. 純粋で献身的な心で捧げる献金
― 宗教経典 ―
なんじらは愛するものを喜捨せぬかぎり、正義を全うし得ないであろう。なんじらが喜捨するどんな物でも、神は必ずそれを知りたもう。
クルアーン3.92 (イスラーム)
すべての供物は天に至る舟である。
シャタバタ・ブラーフマナ42.5.10 (ヒンドゥー教)
人間の祭物を食べる霊は、彼に命を返してくれる。
ヨルバ族の格言(アフリカ伝統宗教)
また犠牲のラクダと牛を、われはなんじらへの神からの顕著なしるしとした、それらにはなんじらへの多くの利益がある。犠牲に供えるに当り並べて、それらの上に神のみ名を唱えよ。そしてそれらが横に倒れたならば、なんじらはそれを食べ、また口に出して請わぬ者、物請いする者たちを養え。このようにそれらを、なんじらの用に服させる。おそらくなんじらは感謝するであろう。
それらの肉それから血も、決して神に達するわけではない、だがなんじらの篤信(タクワー)こそ、かれにとどくのである。このように、かれはそれらをなんじらの用に服させたまい、なんじらへのかれの導きに対し、神をたたえさせるためである。
クルアーン22.26 ~ 37(イスラーム)
田畑は雑草によって害われ、この世の人々は愛欲によって害われる。それ故に愛欲を離れた人々に供養して与えるならば、大いなる果報を受ける。田畑は雑草によって害われ、この世の人々は怒りによって害われる。それ故に怒りを離れた人々に供養して与えるならば、大いなる果報を受ける。田畑は雑草によって害われ、この世の人々は迷妄によって害われる。それ故に迷妄を離れた人々に供養して与えるならば、大きな果報を受ける。田畑は雑草によって害われ、この世の人々は欲求によって害われる。それ故に欲求を離れた人々に供養して与えるならば、大いなる果報を受ける。
法句経356 ~ 359 (仏教)
ブラフマンは献供である。ブラフマンは供物である。それはブラフマンである火の中に、ブラフマンにより焼(く)べられる。ブラフマンに捧げる行為に専心する者は、まさにブラフマンに達することができる。あるヨーギン(実践者)たちは、神々への祭祀のみを行う。他の人々は、ブラフマンである火の中に、まさに祭祀によって祭祀を焼べる。他の人々は、耳などの感官を〔自己〕制御という火の中に焼べる。他の人々は、音声など〔感官の〕対象を感官という火の中に焼べる。他の人々は、すべての感官の働き、気息の働きを、知識により燃え上らされた、自己制御のヨーガ(実践)という火の中に焼べる。
他の修行者たちは、強固な信念をもって、財物を祭祀とし、苦行(タパス)を祭祀とし、〔その他の行為の〕ヨーガを祭祀とし、学習と知識とを祭祀とする。他の人々は、プラーナ気とアパーナ気の道を抑制し、調息法(プラーナーヤーマ)に専念して、プラーナをアパーナの中に焼べ、アパーナをプラーナの中に焼べる。他の人々は、食制限して、気息を気息の中に焼べる。以上すべての人々は祭祀を知り、祭祀により罪障を滅している。
バガヴァッド・ギーター424 ~ 30(ヒンドゥー教)
御先祖のお祭りには御先祖がおられるようにし、神々のお祭りには神々がおられるようにする。先生はいわれた、「私は〔何かの事故で〕お祭りにたずさわらないと、お祭りがなかったような気がする。」
論語3.12 (儒教)
あるとき、ラビのムイルがこのような質問を受けた。「聖書には祭物を捧げることがエホバを喜ばせてさしあげるという内容もあり、また、神は祭物を捧げるのを喜ばれないという内容がありますが、その理由は何ですか」、ムイルが答えた。「それは祭物を捧げる人の心の状態が奉献にふさわしい場合もあり、そうでない場合もあるからだ。」
バライタ・カッラー8(ユダヤ教)
イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」
マルコによる福音書12.41 ~ 44(キリスト教)
信仰心をもって施与すべきである。不信の心をもって施与してはならない。豊かな心をもって施与すべし。恥ずる心をもって施与すべし。恐れる心をもって施与すべし。同情の心(samvid)をもって施与すべし。
タイッティリーヤ・ウパニシャッド1.11.3(ヒンドゥー教)
尊き師(ブッダ)は答えた、「マーガよ。祀(まつ)りを行え。祀り実行者はあらゆる場合に心を清からしめよ。祀り実行者の専心することは祀りである。かれはここに安立して邪悪を捨てる。」
スッタニパータ506 (仏教)
人が犠牲祭を捧げにいくとき、怒りの心ではなく、平穏な心にならなければならない。そのように彼は最小限一日はとどまらなければならない。もしその日、争ったり、その心の中に怒りがあれば、彼は病にかかるようになり、その祭祀とその家門の教えは崩れてしまう。
ルヤ族の格言(アフリカ伝統宗教)
主の言葉が、預言者ハガイを通して臨んだ。「今、お前たちは、この神殿を廃虚のままにしておきながら、自分たちは板ではった家に住んでいてよいのか。今、万軍の主はこう言われる。お前たちは自分の歩む道に心を留めよ。種を多く蒔いても、取り入れは少ない。食べても、満足することなく、飲んでも、酔うことがない。衣服を重ねても、温まることなく、金をかせぐ者がかせいでも、穴のあいた袋に入れるようなものだ。万軍の主はこう言われる。お前たちは自分の歩む道に心を留めよ。山に登り、木を切り出して、神殿を建てよ。わたしはそれを喜び、栄光を受けると主は言われる。」(注45)
ハガイ書1.3 ~ 8(キリスト教)
信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。たとえば、レビ族の人で、使徒たちからバルナバ――「慰めの子」という意味――と呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフも、持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた。
ところが、アナニアという男は、妻のサフィラと相談して土地を売り、妻も承知のうえで、代金をごまかし、その一部を持って来て使徒たちの足もとに置いた。すると、ペテロは言った。「アナニア、なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったのではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」この言葉を聞くと、アナニアは倒れて息が絶えた。そのことを耳にした人々は皆、非常に恐れた。
使徒言行録4.32 ~ 5.5(キリスト教)
― み言選集 ―
祭物は誰が捧げるのですか。救いを受けようという人たち、神様に帰ろうという人たちが祭物を捧げるのです。自分の体の代わりに祭物を捧げるのです。そして、神様と祭物と私の三つが一つにならなければなりません。そこには隔たりがあってはいけません。
(274-199 ~ 200、1995.11.3)
私達の信仰路程は、必ず蕩減して復帰するというのが原則です。そして、蕩減するためには、必ず祭物が必要だということを私達は学びました。その祭物というものはどのようなものですか。私のすべてを身代わりして捧げる条件物なのです。言い換えれば、私が内的ならば、祭物は外的なものとして、その外的なものと内的なものが一つにならなければならないのです。
(67-113、1973.5.27)
祭物と、それを捧げる人は、別のものではありません。心情を通しては一つなのです。言い換えれば、祭物は人が愛するものでなければなりません。愛するものでなければならないのです。愛するものであると同時に、その人の血と肉を身代わりした立場を代表するものでなければなりません。そのようなものが祭物です。ですから、祭物はその人にとって最も貴いものです。そのようなものが祭物になれることを皆さんは知らなければなりません。
(47-285、1971.8.30)
「羊を屠る私は、羊の代わりに絶対従順者になる。牛を屠る私は、牛の代わりに絶対に従順になる。絶対に神様を愛する」、このような所信をもたなければなりません。人がこのようなことを願うので、「私がこのような動物を、万物を祭物として捧げるのは、神様の前に私がこのような人になるという代わりに血を捧げることなので、これをすべて私の代わりに受けてください」と言うのです。これが祭祀です。それで、このような動物を祭物として捧げるのです。
(97-289、1978.3.26)
皆さんに貴いものや財産があれば、「私の財産を世界のために整理しなさいという神様の命令があればどれほどよいだろうか!」とそれを慕ってみましたか。そうすれば神様が福を下さるのです。その時が来る前に福を下さるのです。そのように願えばということです。
(308-206、1999.1.5)
本来、すべての万物は真の愛で愛せる主人の所有になるのですが、「お前サタンは真の愛で愛することができなかったが、私は真の愛で愛したので、ごのすべての万物を私に伝授してくれなければならない」と言うとき、サタンもそれは仕方がないというのです。ですから、愛するときはサタン以上の心をもって愛さなければなりません。サタン世界から十分の一献金を取り戻してこなければなりません。ここで十数は天の側に戻っていきます。それで十分の一献金に対するものを取り戻してこなければならないのです。このような意味で、サタン世界に行って取り戻してくるのです。「私は人類を愛し、世界を愛し、神様を愛するにおいて、サタン、お前よりも優っている」という立場に立ってすべてを取り戻してくるのです。
(128-101、1983.6.5)
精誠を尽くして集めたお金であれ何であれ、祭壇に置いて祭物として捧げてからは、それを後悔すれば罰を受けます。かえって捧げないほうがよいのです。聖書に出てくるアナニア夫婦の話を知っているでしょう? 自分の財産を売って、自分の思いどおりにできるものだとして、半分は隠し、半分だけもってきて、「それがすべて」と言って罰を受けたのです。「すべて」という言葉は、捧げても捧げていなくても、すべて捧げることになるのです。隠せば、それに対する代価を払わなければならないので、罰を受けるということが起きるのです。祭物になった事実に未練をもち、自分自身の所有的内容をもって考えること自体を許諾しないというのです。そのような事情があれば、時になる前にすべて清算しなければなりません。
(122-22 ~ 23、1982.10.31)
皆さんが教会に献金するとき、どこからマッコリ(濁酒)を買って飲み、残ったお金を献金しようとしてはいけません。そのようなお金は汚れたものです。また、市場に行って何かを買って残ったお金で献金をしても、神様はそこに共にいらっしゃいません。
(48-86、1971.9.5)
最近、既成教会では、献金をよくするとして長老にしたり、執事にしたりしていますが、私達統一教会はそのようにしてはいけません。献金は、国を愛し、世界を愛して、国の代わりに世界の代わりに私の命を交換する立場でしなければなりません。
(166-71、1987.5.28)
今日、既成教会で、献金するとき袋を持って回すでしょう。私達の教会も、献金をそのように受け取りますか。何の献金箱を持って受け取るのですか。出ていく時、みんなあの門前の献金箱に集めておくのです。精誠を尽くし恵みを受けていく代価として感謝献金をするのです。
(166-319、1987.6.14)
2. 十分の一献金
― 宗教経典 ―
土地から取れる収穫量の十分の一は、穀物であれ、果実であれ、主のものである。それは聖なるもので主に属す。
レビ記27.30(キリスト教)
ヤコブはまた、誓願を立てて言った。「神が私と共におられ、私が歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、無事に父の家に帰らせてくださり、主が私の神となられるなら、私が記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたが私に与えられるものの十分の一をささげます。」
創世記28.20 ~ 22(キリスト教)
牛や羊の群れの十分の一については、牧者の杖の下をくぐる十頭目のものはすべて、聖なるもので主に属する。この十分の一の家畜を見て、その良し悪しを判断したり、それを他のものと取り替えたりしてはならない。もし、他のものと取り替えるならば、それも取り替えたものも聖なるものとなり、買い戻すことはできない。
レビ記27.32 ~ 33(キリスト教)
人は神を偽りうるか。あなた達は私を偽っていながら、どのようにあなたを偽っていますか、と言う。それは、十分の一の献げ物と献納物においてである。あなた達は、甚だしく呪われる。あなた達は民全体で、私を偽っている。十分の一の献げ物をすべて倉に運び、私の家に食物があるようにせよ。これによって、私を試してみよと、万軍の主は言われる。必ず、私はあなた達のために天の窓を開き、祝福を限りなく注ぐであろう。
マラキ書3.8 ~ 10(キリスト教)
子は父を、僕は主人を敬うものだ。しかし、私が父であるなら、私に対する尊敬はどこにあるのか。私が主人であるなら、私に対する畏れはどこにあるのかと、万軍の主はあなた達に言われる。私の名を軽んずる祭司たちよ。あなた達は言う。我々はどのようにして御名を軽んじましたかと。あなた達は、私の祭壇に汚れたパンをささげておきながら、我々はどのようにしてあなたを汚しましたか、と言う。しかも、あなた達は、主の食卓は軽んじられてもよい、と言う。
あなた達が目のつぶれた動物を、けにえとしてささげても、悪ではないのか。足が傷ついたり、病気である動物をささげても、悪ではないのか。それを総督に献上してみよ。彼はあなたを喜び、受け入れるだろうかと万軍の主は言われる。今、神が恵みを与えられるよう、ひたすら神に赦しを願うがよい。
これは、あなた達が自ら行ったことだ。神はあなた達の誰かを、受け入れてくださるだろうかと万軍の主は言われる。あなた達のうち誰か、わが祭壇にいたずらに火が点じられることがないよう、戸を閉じる者はいないのか。私はあなた達を喜ぶことはできないと、万軍の主は言われる。私は献げ物をあなた達の手から受け入れはしない。日の出る所から日の入る所まで、諸国の間でわが名はあがめられ、至るところでわが名のために香がたかれ、清い献げ物がささげられている。わが名は諸国の間であがめられているからだ、と万軍の主は言われる。
マラキ書1.6 ~ 11(キリスト教)
― み言選集 ―
十分の一献金は、所有している物の十分の一を神様に捧げることによって全体を捧げる、という意味をもっています。父に全体を捧げるのではありませんが、その中の十分の一を、精誠を込めて捧げることにより、残りの十分の九も聖なる物として取り扱い得るようになります。このように十分の一献金を捧げて生活する人は、絶対滅ぶことがありません。日がたてばたつほど、倉庫がいっぱいになっていくのです。
(31-240、1970.6.4)
皆さんがもっているすべてのもの、時間までも十分の一を捧げなければなりません。
(150-219、1961.4.15)
韓国の民として生まれたならば、この国に税金を捧げなければなりません。この国に税金を捧げ、その次には天に十分の一献金を出さなければなりません。十分の一献金というものは、自分の国のために捧げるものではありません。それは祭司長、レビ族のために、祭司長として立てる人たちのために天の数として捧げるものです。
(150-219 ~ 220、1961.4.15)
十一条はすべての面にある。学校も十教室中に一つの教室は、かわいそうな子女たちのために無料奉仕の教室として使わなければならない。
御旨の道、義務守則
十分の一献金は、一番精誠を尽くした聖なる物でなければなりません。それが祭物です。祭物を捧げるには、聖なる物を捧げなければなりません。息子を祭物として捧げなければならないとするなら、どんな息子を祭物に捧げなければなりませんか。憎い息子ですか。望みのない息子ですか。そのような息子は祭物にはならないのです。一番良い息子でなければならないのです。なぜですか。祭物は「私」の身代わりだからです。
(48-85、1971.9.5)
自分が使うところからいくらか献金して、それで教会を支えるというのは極めて良いことのようですが、それは悪いことだと思うのです。神様の前に捧げることは自分の生活より、自分の何よりも先にしなければなりませんが、それの何パーセント捧げるという観念によって自分の生活が主で、神様が次の段階に立つのが習慣化されやすいのです。神様が2番目になり最後になってしまうのです。そうだと思いますか。そうではありませんか。
宇宙を創造された絶対全能であられる神様が、乞食に投げ与えるようなそのようなお金をもって喜びながら、「ああ、福を受ける者たちよ! お前たちは愛らしい宗教人だ」と言うことができますか。サタンの前に威信が立つのかというのです。献金箱を回しながらお金を出しなさいというでしょう。それは、看板を付けた乞食です。それは、何ですか。それは、神様は喜ばれないのです。
(96-101、1978.1.2)
7) 儀式
神様に近づく手段として、あらゆる宗教に儀式を制定するようになったと文鮮明先生は語られる。したがって、あらゆる宗教の儀式は、それ自体に価値があるのである。純粋な心とそれに伴う詳細な指針に従って進行される宗教儀式は、先に神様と信仰的土台を築いていった預言者たちに敬意を表する行為である。
世界各地で天に敬拝し、尊敬心を表現する多様な宗教儀式と儀礼に対して、その価値を評することはできない。ここでは、安息日のように神聖な時間を守る儀式、聖餐または神聖な食事儀式、割礼儀式、洗礼式、聖地参拝、形状と象徴に敬拝する儀式、ユダヤ教の飲食規定など、いつくかの類型の儀式を紹介している。
1. 典礼と崇拝
― 宗教経典 ―
二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである。
マタイによる福音書18.20 (キリスト教)
諸国の民よ、こぞって主に帰せよ。栄光と力を主に帰せよ。御名の栄光を主に帰せよ。供え物を携えて神の庭に入り、聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ。全地よ、御前におののけ。
詩編96.7 ~ 9(キリスト教)
私の本当の本質を如実に知ることによって、堅実に私に仕える者が本当に私を信愛する者である。あなたに私を教え悟らせてくれる象徴や性相により私を崇拝せよ。また私が最も明白に現れる、私を信愛する者たちの心情で私を崇拝せよ。……諸経典に規定された礼法と儀式を遵行するが、それらの内密な精神を忘却してはならない。
シュリーマッド,バーガヴァタム11.5(ヒンドゥー教)
しかし、主はその聖なる神殿におられる。全地よ、御前に沈黙せよ。
ハバクク書2.20 (キリスト教)
私達に祭祀を捧げるようにさせてください。いつもそうしてきたようにすれば、私達はいつもあった結果を得るようになります。
ヨルバ族の格言(アフリカ伝統宗教)
すべてのイスラームの礼拝は道徳を指向する。祈りは恥ずかしく正しくない行為を自制させ、慈善を施すことは富の貪欲から彼らの霊魂を浄化させ、断食は忍耐と決意の中に教訓があり、聖地巡礼は、暗闇と苦難に対する忍耐とあらゆる被造物の同等さと人間の霊魂の中にある平和の根を養成する訓練の過程である。
アル・ガザーリー宗教諸学の再興130.1(イスラーム)
王孫賈が「『部屋の神のきげんどりより、かまどの神のきげんをとれ。』と〔いう諺〕は、どういうことです。」とたずねた。〔衛の主君よりも、権臣である自分のきげんをとれ、というなぞである。〕先生はいわれた。「〔その諺は〕まちがっています。〔かまどの神や部屋の神よりも、最高の〕天に対して罪をおかしたなら、どこにも祈りようはないものです。」(注47)
論語3.13 (儒教)
― み言選集 ―
礼拝を捧げる時間は、祭祀を捧げる時間です。自分の過去を神様に報告して贖罪しなければなりません。ゆえに礼拝時間は、自由がない時間です。
(11-163、1961.6.24)
天軍、天使が擁護する中に、歓喜の心情で敬拝を捧げるこの場が、全体の生命を勝利に導くことのできる、一つの福の機関的な祭壇になるようにしてくださいますことを切にお願い申し上げます。
(7-12、1959.7.5)
この場がお父様のお心と一つになる至聖所となるようにしてください。お父様の御心情に接し、お父様の御事情に涙ぐみ、お父様の願いと和して、
あなただけが主管なさることのできる聖なる場となるようにしてください。
(21-132、1968.11.17)
2. 安息日
― 宗教経典 ―
主はモーセに言われた。「あなたは、イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。あなた達は、私の安息日を守らねばならない。それは、代々にわたって私とあなた達との間のしるしであり、私があなた達を聖別する主であることを知るためのものである。
安息日を守りなさい。それは、あなた達にとって聖なる日である。それを汚す者は必ず死刑に処せられる。だれでもこの日に仕事をする者は、民の中から断たれる。六日の間は仕事をすることができるが、七日目は、主の聖なる、最も厳かな安息日である。だれでも安息日に仕事をする者は必ず死刑に処せられる。
イスラエルの人々は安息日を守り、それを代々にわたって永遠の契約としなさい。これは、永遠に私とイスラエルの人々との間のしるしである。主は六日の間に天地を創造し、七日目に御業をやめて憩われたからである
出エジプト記31.12 ~ 17(キリスト教)
安息日にろうそくをともすのは、聖なる選民の女性たちに許された。……この平和の聖所(聖なるシェキナがいる所)は世を守る女性と同じであり、聖なるとも火である霊魂たちは、彼女の中にとどまる。ゆえに、家の中の女性がろうそくをともすのは当然である。そして、女性は自らを正しい所に導き、自分の真なることを完遂するからである。
女性はそのことが栄光であることを知り、熱情と喜びで安息日のろうそくをともさなければならない。さらに、学びと敬虔の光を輝かせ、世の中に平和を伝播するために、成長する聖なる子供たちの母になるための資格を自ら備えなければならない。また、全力を尽くして夫の長寿のために努力しなければならない。それゆえ、この儀式を守るにおいて、慎重に慎重を期すべきである。
ゾハール1.48b (ユダヤ教)
― み言選集 ―
このような聖日礼拝の時間は厳粛で貴いのです。安息日は神様に栄光をお返しする日です。
(21-76、1968.10.20)
安息日は気楽に休み、眠る日ではありません。安息日を眠る日だと思っていますが、安息日は神様と一つになり、神様の喜びに同参し、喜びを表現することを意味します。したがって、霊界に行って神様を中心として天国を成し遂げれば、永遠の安息になるのです。神様の愛は永遠から始まったのであり、永遠に存在するので、永遠の安息になります。このような安息を失ってしまった人間なので、人間はもちろん、先生も、神様も、安息を失ってしまいました。
(20-330、1968.7.14)
統一教会の祝福家庭は、主日ごとに敬礼式があります。敬礼式をする日は聖日を指すのですが、聖日を中心として、私達が聖餐という朝食を食べるのです。それは堕落することによって、アダム家庭で神様をお迎えして、そのような神聖な聖餐を分け与えてさしあげられなかった恨みを解いてさしあげるのです。それを解いてさしあげるためにそのような敬礼式とともに、祝賀する心をもって、そのような式をしていることを皆さんが知らなければなりません。
(280-289、1997.2.13)
3. 聖餐式
― 宗教経典 ―
すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのための私の体である。私の記念としてこのように行いなさい」と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、私の血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、私の記念としてこのように行いなさい」と言われました。
コリントの信徒への手紙一11.23~25(キリスト教)
従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。
コリントの信徒への手紙一11.27~29(キリスト教)
― み言選集 ―
キリスト教は、イエス様の血筋です。聖餐式で、葡萄酒はイエス様の血であり、パンはイエス様の体です。血肉を連結することを意味するのです。それはイエス様の血筋を連結させるのです。イエス様の血筋を受け継いだのなら、イエス様と同じ怨讐を愛する血筋を受けたのなら、怨讐を愛さなければならないのですが、キリスト教徒たちが怨讐を愛する面がありますか。それは偽者です。
(322-262、2000.5.21)
聖酒式は、イエス様を中心として見れば、聖餐式と同じなのです。聖餐式では肉と血の代わりにパンを食べて、葡萄酒を飲みます。これは、私達人間が堕落したので、イエス様の実体を中心として、新しい肉体を受肉しなければならないことを意味するのです。それと同じように、この聖酒式は、人間が堕落した経路と反対の方向にしなければならないために行うのです。
(35-210、1970.10.18)
4. 割礼
― 宗教経典 ―
あなた達、およびあなたの後に続く子孫と、私との間で守るべき契約はこれである。すなわち、あなた達の男子はすべて、割礼を受ける。包皮の部分を切り取りなさい。これが、私とあなた達との間の契約のしるしとなる。いつの時代でも、あなた達の男子はすべて、直系の子孫はもちろんのこと、家で生まれた奴隷も、外国人から買い取った奴隷であなたの子孫でない者も皆、生まれてから八日目に割礼を受けなければならない。あなたの家で生まれた奴隷も、買い取った奴隷も、必ず割礼を受けなければならない。それによって、私の契約はあなたの体に記されて永遠の契約となる。
創世記17.10 ~ 13(キリスト教)
― み言選集 ―
アダムの時の血統が問題になりました。それで割礼があったのです。割礼は、男性の生殖器から血を抜くのです。アダムの時に男性の生殖器を通してサタンの血が入ってきました。それを蕩減するために切ってしまうのです。それが割礼です。
(277-264 ~ 265、1996.4.18)
イスラエル民族には割礼というならわしがあります。それは陽部を切って血を抜くのです。イスラエルがアブラハムの祝福圏内にいるためには、聖別をしなければなりません。そうでなければ、祝福圏内にはいられません。それによって罪が入ってきたので、その血を抜いてこそ蕩減復帰になるのです。旧約時代には、歯には歯、目には目、血には血、耳には耳という蕩減法なので、その血を抜かなければ、神様の前に帰る条件を立てることができないのです。
(54-144、1972.3.22)
5. 洗礼と沐浴儀式による浄化
― 宗教経典 ―
アーバスよ、運び去れ、わが身のいかなる過失をも、またはわが犯したる欺瞞をも、あるいはまた偽りの誓いをも。われは今日アーバスを尋ねたり。〔しかして〕われらは〔その〕液と会合せり。アグニよ、乳を伴いて来たれ。かかるわれに栄光を賦与せよ。
リグ・ヴェーダ109.8 ~ 9(ヒンドゥー教)
悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。
使徒言行録2.38 (キリスト教)
それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けた私達が皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。私達は洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私達も新しい命に生きるためなのです。もし、私達がキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。
私達の古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。私達は、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。
そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。
ローマの信徒への手紙6.3 ~ 11(キリスト教)
― み言選集 ―
我々は数滴の水を頭の上から注がれ、洗礼を受けたという蕩減条件を立てることにより、イエスと聖霊によって重生したという立場を復帰することができるのである。このほかにも、聖餐式において一切れのパンと、一杯のぶどう酒をとるだけで、我々はイエスの聖体を食べたという、より大きな価値の恩恵を受けるのである。このような例は、みなこれに該当するということができる。
原理講論、後編緒論1.1
汚れた体を清めるのが洗礼です。割礼によって生殖器を清めたあとに、体を清めるのです。そして、それをどのように愛の道に連結するかが問題です。
(277-265、1996.4.18)
「聖水」は「勝数」と似ています。その「勝数」とは何で勝利したのですか。サタンの血統を水で聖別したという意味です。サタンの血を除去し、天の血統を紹介されたのです。
(215-346、1991.3.1)
6. 巡礼と聖地
― 宗教経典 ―
男子はすべて、年に三度、すなわち除酵祭、七週祭、仮庵祭に、あなたの神、主の御前、主の選ばれる場所に出ねばならない。(注52)ただし、何も持たずに主の御前に出てはならない。あなたの神、主より受けた祝福に応じて、それぞれ、献げ物を携えなさい。
申命記16.16 ~ 17(キリスト教)
その日、その時には、と主は言われる。イスラエルの人々が来る。ユダの人々も共に。彼らは泣きながら来て、彼らの神、主を尋ね求める。彼らはシオンへの道を尋ね、顔をそちらに向けて言う。「さあ、行こう」と。彼らは主に結びつき、永遠の契約が忘れられることはない。
エレミヤ書50.4 ~ 5(キリスト教)
われがアブラハムのために、聖なる家の位置を定めこう言ったときのことを思え、「何者も、わしと一緒に配してはならぬ、そして巡周(タワーフ)する者のため、また礼拝に立ち(クィヤーム)、立礼(ルクー)し叩頭(サジタ)する者のために、わしの家を清めよ」。「人びとの間に巡礼(ハッジ)するよう呼びかけよ、かれらは歩いてなんじに来る、あるいは、やせたラクダで、あらゆる遠い道をそれぞれやって来る」。「かれらにかずかずの功徳を体得させ、また定められた日の間、かれがかれらに賜わった、犠牲の家畜の上に神のみ名を唱えさせる。それからなんじらはそれを食べ、また困窮している者を養う」。「それから、かれらの必要な儀式を終え、誓いを全うさせ、そしてむかしの聖なる家を、巡周せしめよ」。
クルアーン22.26 ~ 29 (イスラーム)
巡礼の時期は周知の数月である。それでその間に、巡礼の務めを果たそうと決心した者は、みだらなことや不道徳の行いをつつしみ、また巡礼中は論争してはならぬ。なんじらの行なう善いことは、神それを知りたもう。たびの準備をせよ。だが最もすぐれた準備は善い行いである。
クルアーン2.197(イスラーム)
たとえこの世で最もみすぼらしい人たちがここに参拝に来たとしても、私は彼らの心の中にある願いを、しかと聞いてあげるだろう。
厳島神社の神託(神道)
― み言選集 ―
アメリカの若い人たちは、アメリカのために悲しいことに耐え、涙を耐えていけば、このアメリカは滅びないでしょう。そのような悲惨な道を行けば、今後、世界の博物館はもちろん、天の国の博物館に行くのです。自分の命が果てるときまで、公的な悲しみと涙を流して死ぬのか、安らかに生きて死ぬのか、これが問題です。いくらあの高いヒマラヤに埋めておいても、世界の人たちが押し寄せてきて泣いていくでしょう。
来るなと言っても来るのです。イエス様がゴルゴタに引かれていって死ぬときに祈祷し、神様の息子だと……。それは恐ろしいことです。それが事実かどうか分かりますか。より天のために生き、地のために生き、人類のために生き、より大きな問題をかけて自分の命を捧げたので、それが可能なのです。
(97-104 ~ 105、1978.3.1)
先生の故郷が北の定州ですから、皆さんも、定州に行ってみたいでしょう?なぜ行きたいのですか。そこに行けば、先生は話したいことがたくさんあります。私の幼かったころの逸話が数多くあります。ですから皆さんも一度行ってみたいと思うでしょう。そこに行ってみなければ、霊界に行って恥ずかしく思うでしょう。これから「統一思想」をもった人々が、イスラームのマッカ(メッカ)のように、キリスト教のエルサレムのように考えるようになるでしょう。
(34-67、1970.8.29)
7. 象徴、聖像、そして聖物
― 宗教経典 ―
あなたに私を教え悟らせてくれる象徴や性相により私を崇拝せよ。
シュリーマッド・バーガヴァタム11.5(ヒンドゥー教)
このとき天照大御神は天の岩戸の時に作られた八尺瓊(やさかにの)勾玉と鏡、草薙の剣と……天照大御神は邇邇芸命(ににぎのみこと)に「この鏡は我が御魂として、私に仕えるように仕えなさい。」と言われた。
古事記39.2 ~ 3(神道)
それから、お亡くなりになった偉大なお心のお方(ブッダ)のそれら〔の遺骨〕を最高の水で清めて後、やがて〔次のように〕讃嘆しつつ、マッラ族の者たちは、町へ、もろもろの金の壷に入れてお運びしたのである。これ(金の壷)は大きな山の宝の鉱石のごとく、至福に満ちた偉大な〔遺骨を〕保存している。諸天における最高神(ブラフマン)の領界が劫末の火によって損なわれなかったごとく、遺骨は火によって損なわれなかった。慈愛によって修習されたこれら〔の遺骨〕は、執着の火に焼かれるごととは無縁である。彼(ブッダ)に対する尊敬の力によって保持されている遺骨は、冷たいけれどもわれわれの心を焼く。
仏所行讃27.76 ~ 78、28.69(仏教)
異なった存在の幸福に対する愛をもって、シヴァ・プジャ、は行われるべし、と賢者は言った。台座はシヴァの配偶者であるパルヴァティを表し、彼の男根の象徴は意識のある存在を表す。ちょうど主シヴァが常に女神パルヴァティの親密な抱擁の中に留まるように、男根の象徴は永遠に台座にしっかりと着いている。
帰依者は男根の象徴を取り付け、十六の規定された型の表敬と礼拝をもって崇拝しなければならない。それらは祈願、座の献上、水の献上、洗足、神秘的な儀式として口を洗う為の水の献上、油槽、衣の献上、香水、水、香気、灯火、食物、光の波、キンマの葉、敬礼、そして神秘的な解放と結びである。……シヴァが恩恵を授ける所は、どこでも努力を注ぐにふされしい。
シヴァ・プラーナ、ヴィディエーシヴァラ・サンヒター
11.12 ~ 35(ヒンドゥー教)
― み言選集 ―
この世界人類の中で、罪悪から生まれたすべての人類の中で、父母を愛する本当の孝子がいるなら、その孝子の中に神様を身代わりして真の父母様に孝行できる、歴史の記録を破ろうと立ち上がる、そのような天の息子、娘にならなければなりません。それで、そのような精誠を表示しようとすれば、私達は相対が必要です。
ですから、祭壇が必要であり、祈祷する場所が必要であり、仏像が必要であり、そのようになります。一人でいれば、精誠を捧げる祭壇が必要であり、祭物が必要だということを知らなければなりません。祭物はいつもそこにあるので、祭物は置いておけば、10 年でも……。ほうっておけばじっとしています。
人は逃げていきますが、人は上がったり下がったりしても、祭物はじっとしているというのです。それで、自分に良いことがあれば、帰ってきて写真を見たり、その祭物に対して「私がこのようにして喜びの日を迎えて感謝なので、その表示として、喜びの象徴として何々を一つお父様の前に捧げます」、このようにして天の前に精試を尽くした物、祭物の代価を捧げなければなりません。
(123-189、1983.1.1)
今日の仏教では、仏像に侍って福を祈っていますが、主体と対象の外的な差は本当に天地の差があるとしても、心情の世界においては差がないのです。そこで感じられる感情を通したすべてのことを、天と共に知り、信じ、対すれば、天はその心をお捨てにならずに成し遂げてくださるので、ここから所願成就という言葉が生じます。
(6-342、1959.6.28)
十字架をかけて歩けば、キリスト教徒であることを表示するでしょう? 父母様の写真を持っていれば、「真の父母」の息子、娘を象徴します。象徴、形象、実体になるのです。蘇生、長成、完成の蘇生圏内に入るために、保護を受けるのです。そうすれば、写真をすべて氏族的メシヤが作ってあげなければなりません。
(212-111、1991.1.2)
8. 食事の礼法 : 食べ物を神聖に思う
― 宗教経典 ―
すべていとうべきものは食べてはならない。食べてよい動物は次のとおりである。牛、羊、山羊、雄鹿、かもしか、子鹿、野山羊、羚羊、大かもしか、ガゼル。その他ひづめが分かれ、完全に二つに割れており、しかも反すうする動物は食べることができる。ただし、反すうするだけか、あるいは、ひづめが分かれただけの動物は食べてはならない。らくだ、野兎、岩狸。これらは反すうするが、ひづめが分かれていないから汚れたものである。いのしし。これはひづめが分かれているが、反すうしないから汚れたものである。これらの動物の肉を食べてはならない。死骸に触れてはならない。
水中の魚類のうち、ひれ、うろこのあるものはすべて食べてよい。しかしひれやうろこのないものは、一切食べてはならない。それは汚れたものである。死んだ動物は一切食べてはならない。町の中にいる寄留者に与えて食べさせるか、外国人に売りなさい。あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたは子山羊をその母の乳で煮てはならない。
申命記14.3 ~ 21(キリスト教)
人がふさわしい方法で動物を殺して肉を食べることと、動物を絞殺してその肉を食べることでは、どちらを神は心配されるだろうか。人が不浄な獣や請い獣を食べることのうち、どちらを神は心配されるだろうか。「あなたに知恵があるなら、それはあなたのもの。不遜であるなら、その咎は独りで負うのだ」(箴言9.12)。ゆえにあなた達は、律法の命令が、神がつくられた被造世界をきれいにするために与えられたものであることを悟りなさい。ゆえにこのような言葉がある。「神の道は完全、主の仰せは火で練り清められている」(サムエル下記22.31)。
タンフーマ、レビ記、シュミニ15b(ユダヤ教)
人びとよ、地上にあるもののうちよい合法なものを食べて、悪魔の足跡に従ってはならぬ。……かれがなんじらに禁じたもうものは、死肉・血・豚肉、ならびに神以外の名で供えられたもののみである。だが必要に迫られ、故意に違反せず、また則を越えぬ場合は罪にならぬ。神は、寛容者・慈悲者であられる。(注59)
クルアーン2.168、173 (イスラーム)
― み言選集 ―
私達統一教会は、世の中のどこに行っても父母様に侍って暮らしているので、食事をするときは、必ず「先に召し上がってください!」と思いながら最初のものを差し出す心で食事をします。先生は今までそのような生活をしてきました。どこかに行って座るときも、聖別して座るのです。そのようなことを考えるとき、先生がいなかったなら、神様はどのようになるところでしたか。
(236-338、1992.11.9)
ここに服があれば、自分の服だと考えてはいけません。「これは神様の服であり、父母様の服であり、兄弟の服だが、私が代表して着ている」と考えるのです。自慢することはできません。食べる物もそうです。私の御飯ではありません。神様が下さった御飯であり、父母様が下さった御飯であり、兄弟たちがくれた御飯だというのです。御飯をおいしく食べて、「ああ! 気分が良い」という私ではありません。先生はそのように考えます。おいしく食べたあとは、申し訳なく思い、「世界の統一教会の教会員の中には、この時間におなかをすかせている人もいるはずだ。どれほど苦労が多いだろうか。私が代表として食べたのだから、代表として働く責任をもっと果たさなければならない」と考えるのです。
先生はそのように考えるので、苦労した人が不平を言わずに有り難く思ってついてくるのです。先生に10 年、20 年、一生ついてきても嫌に思わないのは、先生がそのような生活をしているからです。このような人がすることは、失敗するかのように思いますが、必ず成功するのです。先生はたくさんの迫害を受けながらも、40 年間、歴史にないことをたくさんしてきました。
(161-231、1987.2.15)
私達が食べて、着ることを中心として聖別するために聖塩を使います。神様の国がありません。この地から収穫したものを聖塩で聖別せずに食べることができる神様の息子がどこにいて、自由な版図がどこにあり、この民が互いに走って暮らせる大地を訪ねていくたびに、聖別しなくても暮らせる地がどこにありますか。皆さんが聖別儀式をするとき、聖塩を使うたびに「このサタンめ」と、これを割かなければなりません。
(48-252、1971.9.19)
1997 年7月7日7時7分7秒に「天地父母天宙安息圏宣布」をすれば、すべてのものが聖人の位置に入っていくのです。私達が神様に直接侍って暮らすのです。今までは、私達が聖日だけ聖餐を食べましたが、その宣布以降には、一日3食、すべて聖餐として食べて暮らすのです。そのような中で、すべでの万物を愛で接しながら、食べて暮らさなければなりません。それでこのような聖餐が始まるのです。毎日聖餐を食べて暮らすことによって、病気にもなりません。神様の愛の中で病気にもならないというのです。
(285-300、1997.6.29)
8) 儀礼を超えて
度を過ぎて宗教的儀礼にばかり依存すれば、実際の行動や知識とは掛け離れた厳粛な気運ばかりがわき上がることもある。儀礼は、敬虔な心と隣人に対する愛、神様と一対一で一つになる経験などを決して代替することはできない。ほぼすべての宗教では、宗教の内部から儀式主義に対する批判の声がある。ある宗教の創始者が、外からはほかの宗教の儀式主義を強く批判しているように見えるが、そのみ言は本質的に自分の宗教の信徒たちにそれを他山の石としなさいと警告するものである。
文鮮明先生も、度を過ぎた儀式主義に対して同一の立場を堅持され、二つの内容を付け加えて語られる。第1 は、儀式がほかの宗教と信仰の間に壁をつくり出すこともあるということである。これは宗教が一つになることを願われる神様のみ旨に逆行することである。すべてが一つにならなければならないこの時代に、儀礼的障壁は超越しなければならない。第2 は、神様とイエス様に対する敬虔な信仰的儀式自体が、常にその方の心情とみ旨を推し量り得る内的知恵につながるものではないということである。例えば、イエス様の死に使用された恨みの杭、この地に地上天国を成し遂げようとしていたみ旨を完成できずに旅立ったイエス様の数千年の悲しみと挫折の根源である十字架に対して、多くのキリスト教徒はそれを救援の象徴として理解し仰いでいる。
古代の宗教的儀式の中心には動物献祭があった。しかし、今日ではいくつかの事例を除外してほぼなくなっている。多くの宗教が依然として献身的信仰活動を重視して研究し、経典に現れた古代の祭祀儀式の核心を大切にしているが、これ以上同じ形式の祭祀儀式を行うことはない。タルムードでは、隣人に対して慈悲を施すことが、贖罪の羊を通して祭物を捧げることと同じ価値をもつと教えている。釈迦牟尼は、動物献祭が生きている生命を葬ることによって悪の業報をつくり出すものだとして批判する。その代わりに父母を恭敬し、家族をいたわり、托鉢僧に布施を施しながら充足される霊的奉献の意味を教える。
1. 最善の儀礼は愛の心と義の行動
― 宗教経典 ―
何をもって、私は主の御前に出で、いと高き神にぬかずくべきか。焼き尽くす献げ物として、当歳の子牛をもって御前に出るべきか。主は喜ばれるだろうか、幾千の雄羊、幾万の油の流れを。わが咎を償うために長子を、自分の罪のために胎の実をささげるべきか。人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである。
ミカ書6.6 ~ 8(キリスト教)
ヴァイシュヤの法(つとめ)である三百の器の食物を毎日三度にわたって施すとしても、わずか一刹那の慈しみから生まれる福徳に比べると、一部分にも及びません。
龍樹宝行王正論283(仏教)
ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」
マルコによる福音書2.23 ~ 28(キリスト教)
古老のいへらく、昔神祖の尊、諸神たちのみ処に巡り行でまして、駿河の国福慈(ふじ)の岳に到りまし、卒に日暮に遇ひて、お宿を請ひたまひき。此の時、福慈の神答ヘけらく、「新粟の新嘗して、家内もの忌みせり。今日の間は、願わくは許し堪へじ」とまをしき。是に、神祖の尊、恨み泣きて詈告(ののし)りたまひけらく、「即ち汝が親ぞ。何ぞ宿さまく欲(ほ)りせぬ。汝が居める山は、生涯の極み、冬も夏も雪ふり霜おきて、寒さしきり、人民登らず、飲食なまつりそ」とのりたまひき。更に、筑波の岳に登りまして、亦客止を請ひたまひき。此の時、筑波の神答へらく、「今夜は新嘗すれども、敢えへて尊旨に奉(つかへまつ)らずはあらじ」とまをしき。ここに、飲食を設けて、敬び拝みつつしみ承(つかへまつ)りき。是に、神祖の尊、よろこびて歌ひたまひしく、愛(は)しきかも我が胤(すえ) たかきかも神宮(かむつみや)天地とひとしく日月と共に人民(たみぐさ)集ひ賀(ほ)ぎ飲食(みけみき)ゆたけく代々に絶ゆることなく日に日にいや栄え千秋(ちあき)萬歳(よろずよ)に遊楽(たのしみ)窮(つ)きじとのりたまひき。是をもちて、福慈(ふじ)の岳は、常に雪ふりて登臨(のぼ)
ることを得ず。其の筑波の岳は、往集ひて歌ひ舞ひ飲(さけの)み喫(くら)ふこと、今に至るまで絶えざるなり。
常陸風土記(神道)
先生がいわれた、「人として仁でなければ、礼があってもどうしようぞ。人として仁でなければ、楽があってもどうしようぞ。」
論語3.3 (儒教)
多くの人々、ここにありて欲すれども水によりでは清浄ならず。何人にも真実と法とだにあらば、彼は清浄なり、彼は婆羅門なり。
感興偈6(仏教)
マズダーよ、御身の穎悟者にとって吉祥なる聖アールマティを、善思を知らぬために悪行によってすて去るものども――そういうやからからは、それ(アールマティ)は、天則に従って、あたかも兇暴な害獣がわれらから逃げてゆくところまでも、はるかに逃げてゆくのです。
アヴェスター・ヤスナ34.9(ゾロアスター教)
世の中の人には、自分の心を見失っているがために、自己の本性のうちにあるものに気づかないで、外に向かって三身の仏を探し、自己の中に過去・現在・未来の三世の仏がいることに気がつかないものが多くいる。諸君、私の話をよく聞くがよい。諸君に自分の中に、自己そのものとしての三世仏があることに気づかせよう。この三身仏は、諸君の本来の真性から出てくるもので、外からは得られないのだ。
六祖壇経6(仏教)
愚者たちはヴエーダ聖典の言葉に喜び、他に何もないと説き、華々しい言葉を語る。欲望を性とし、生天に専念する彼らは、行為の結果として再生をもたらし、享楽と権力をめざす多種多様な儀式についての、華々しい言葉を語る。その言葉に心を奪われ、享楽と権力に執着する人々にとって.、決定を性とする知性が三昧(サーマディ)において形成されることはない。
バガヴァッド・ギーター2.42 ~44(ヒンドゥー教)
― み言選集 ―
すべての宗教者は、深い自己省察の内的基台の上にしっかりと立ち、あらゆる非理が乱舞する現実に挑戦し、神様のみ旨の地上実現のために創意的な努力を果たさなければならない。生きていらっしゃる神様が願われる人間との関係は、経典や礼拝儀式の中だけの関係ではありません。信義を抱いて24 時間、生活の中でこれを実践する、自覚した心の中にいらっしゃりながら、人間と共に生活することを願われるのです。
(135-222、1985.11.16)
皆さんがいくらイエスの顔を穴が開くほど見つめ、いくらイエスの顔を触り、いくらイエスと一緒に歩き、いくらイエスと一緒に暮らしたとしても、心情が通じなければすべて意味がありません。心情を通して触れあい、心情を通して一緒に暮らさなければならないのです。
(10-200、1960.10.2)
天を仰ぐ人は多いのですが、天のために責任を負おうという人は多くはありません。天の道がよいということは知っていますが、その道に横たわっている茨の道を避けようとする人々が多いということを知るものです。お父様!あなたは私達のために、億千万代御苦労なさいました。ところが、今日人間たちは天の道、真なる道を行くために越えていくべき苦労の道を避けていこうとし、人間の悲しみと苦痛も、お父様の前に任せようとしていますので、受け入れてくださいますことを懇切にお願い申し上げます。
(16-15、1965.12.26)
2. 時代の変化によって慣習的礼式は純粋な献身の形態に代替される
― 宗教経典 ―
ある日、ラビ・ヨハナン・ベン・ジャカイがエルサレムから来たとき、ラビ・ヨシュアが彼についていき、崩れた聖殿を見た。「悲しいこどだ」、ラビ・ヨシュアは泣き叫んだ。「イスラエルが罪を赦きれた所が、ごみの上に置かれている!」「私の子よ」、ラビ・ヨハナンが言った。「悲しむな。聖殿のように私達の罪を赦してくれる他のものがあ る。それは何か。慈愛を施す行為だ。『私が喜ぶのは、愛であっていけにえではなく、神を知ることであって、焼き尽くす献げ物ではない』(ホセア書6.6)」。
タルムード、アヴォート・デ・ラビ・ナタン6(ユダヤ教)
ある時世尊は舎衛城の祇多林の中の給孤獨の園に住したまひき、その時ウッガタサリーラ婆羅門の大供犠が献ぜられたり、五百の牛、五百の牡犢、羊、山羊が犠牲に供せられたり。その時ウッガタサリーラ婆羅門は世尊の在す処に詣り、詣り終りて世尊と倶に互いに相慶慰し、歓ばしき銘肝すべき談を交し已りて一辺に坐せり、……世尊に白して言さく、「尊ゴータマよ、我聞けり、火を点じ、柱を建つることは大なる果を持ち、大いに称賛すべきことなり、大徳世尊よ、我に教示し給へ、教え給へ、即ち長き間此の我の義利の為、楽の為に、と」「婆羅門よ、火を点じ、柱を建てしめつつ、供犠の前に不善にして苦を生じ、苦を異熟とする三刀を建てしむ、何をか三となす。
身刀、語刀、意刀なり、婆羅門よ、供犠の前に火を点じ柱を建てしめつつ是の如き心を起す、供犠の為に是程の牡牛、牡子牛、牡羊、牡山羊を殺せ、と彼は我は功徳を作す、とて不功徳を作し、我は善を作す、とて不善を作す、我は善趣の道を求む、とて悪趣の道を求む、此の第一の不善にして苦を生じ、苦を異熟とする意刀を建たしむ。復婆羅門よ、供犠の前に……牡牛、牡子牛、牡羊、牡山羊を殺せ、と彼は我は功徳を作す、とて……不善を作す、此の第二の不善にして苦を生じ、苦を異熟とする語刀を建たしむ。復婆羅門よ、供犠の前に火を点じ柱を建てしめつつ自ら第一に始む、供犠の為に……此の第三の不善にして苦を生じ、苦を異熟とする身刀を立てしむ。
婆羅門よ、是等の三火は尊敬し已り、尊重し已り、恭敬し已り、供養し已りて正しく容易に断たるべし、何をか三となす。應請火、長者火、應施火なり、婆羅門よ、何をか應請火となす。ここに彼に母たり、或は父たる人あり、是が應請火と云はる、何故なるか。それよりこの請待が生じてあり、その故に此の應請火は、尊敬し已り、尊重し已り、恭敬し已り、供養し已りて正しく容易に断たるべし。又婆羅門よ、何をか長者火となす。
ここに彼に息子たり、或は妻たり、或は奴僕たり、或は遣使たり、或は召使たるものあり、是が長者火と云はる、その故にこの長者火は尊敬し已り……。又婆羅門よ、何をか應施火となす。ここに凡て沙門婆羅門が僑放逸を離れ忍辱と柔和に於て堅固にして濁り自ら調御し、濁り自ら寂静ならしめ濁り自ら般涅槃せしむ、是が應施火と云はる……婆羅門よ、是等三火は尊敬し已り、尊重し已り、恭敬し已り、供養し已りて正しく容易に断たるべし。
阿含経増支部iv.41 ~ 45(仏教)
イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。お前たちの焼き尽くす献げ物の肉を、いけにえの肉に加えて食べるがよい。私はお前たちの先祖をエジプトの地から導き出したとき、私は焼き尽くす献げ物やいけにえについて、語ったことも命じたこともない。むしろ、私は次のことを彼らに命じた。「私の声に聞き従え。そうすれば、私はあなた達の神となり、あなた達は私の民となる。私が命じる道にのみ歩むならば、あなた達は幸いを得る。」しかし、彼らは聞き従わず、耳を傾けず、彼らのかたくなで悪い心のたくらみに従って歩み、私に背を向け、顔を向けなかった。
エレミヤ書7.21 ~ 24(キリスト教)
「至るところでわが名のために香がたかれ、清い献げ物がささげられている」(マラキ書1.11)。「『至るところで』、この言葉は可能なのか」、ラビ・ヨナダンの名でラビ・サムエル・ベン・ナマイが言った。「この言葉はどこにいようと、トーラーの研究に自らを没頭させる学者たちに言及したことである。神は言われる。『私はそれを彼らが私の名で祭物を捧げているものと見なす』……」。
「主の僕らよ、こぞって主をたたえよ。夜ごと、主の家にとどまる人々よ。聖所に向かって手を上げ、主をたたえよ」(詩編134.1 ~ 2)。「『夜ごと、主の家にとどまる人々よ』という言葉の意味は何ですか」、ラビ・ヨハナンが言った。「この言葉は夜通し律法を研究することに自分を捧げる学者たちに言及したものである。聖書はそれを彼らが聖殿の奉献に従事するものと見なす」。
タルムード、ムナホート110a(ユダヤ教)
キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。なぜなら、もし、雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖なる者とし、その身を清めるならば、まして、永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。
すべての祭司は、毎日礼拝を献げるために立ち、決して罪を除くことのできない同じいけにえを、繰り返して献げます。しかしキリストは、罪のために唯一のいけにえを献げて、永遠に神の右の座に着き、その後は、敵どもが御自分の足台となってしまうまで、待ち続けておられるのです。なぜなら、キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさったからです。聖霊もまた、私達に次のように証ししておられます。「『それらの日の後、私が、彼らと結ぶ契約はこれである』と、主は言われる。『私の律法を彼らの心に置き、彼らの思いにそれを書きつけよう。もはや彼らの罪と不法を思い出しはしない。』」罪と不法の赦しがある以上、罪を贖うための供え物は、もはや必要ではありません。
ヘブライ人への手紙9.11~14、10.11~18(キリスト教)
偉大な五つの供物、すなわち偉大な祭祀が存在する。すべての存在に対する供物、人間に対する供物、先祖に対する供物、神々に対する供物、ブラフマンに対する供物である。日々、人は生き物に栄養を与える。それは存在に対する供物である。日々、人は一杯の水を与えるなど、客人をもてなす。それは人間に対する供物である。日々、人は一杯の水を与えるなど、死者を供養する。それは先祖に対する供物である。日々、人は木や火などを神々に捧げる。それは神々に対する供物である。それではブラフマンに対する供物とは? ブラフマンに対する供物とは、聖典の学習である。
シャタパタ・ブラーフマナ11.5.6.1~3(ヒンドゥー教)
― み言選集 ―
罪を犯せば、罪を犯した量に該当する分だけ洗わなければなりません。漂白しなければならないというのです。ですから、漂白する苦労、漂白する材料、これは絶対に必要です。蕩減条件物が必要だというのです。今まで救援摂理を知りませんでした。祭物とは何かというと蕩減条件物です。今までそれを知りませんでした。
ですから、未開な人たちが人を捕まえて祭物にしたり、動物祭物や、あらゆることをしたのです。堕落以降、神様の愛の中で保護を受けて暮らすことができ、その愛の中で神様と共に同化して暮らすことができるこの世界のすべてのものが血を流さなければなりません。血を流さなければならないというのです。なぜ血なのかというと、偽りの生命、偽りの愛、偽りの血統が生じたということです。血が汚されたのですから、血を抜かなければなりません。
(374-21、2002.4.4)
人間始祖が堕落して、「信仰基台」を立てるための神のみ言を失ったので、堕落人間は、神のみ言を直接に受けることができなくなった。そのため、み言の代わりの条件として立てられたのが、その供え物なのである。ところがモーセのときに至ると、供え物を条件物として立てて「信仰基台」を復帰した、復帰基台摂理時代は過ぎさり、再び神のみ言に直接に対し得る、復帰摂理時代となったため、「信仰基台」のための「象微献祭」は、必要ではなくなるのである。
原理講論、モーセとイエスを中心とする復帰摂理2.1.1.2
宗教を統一しなければなりません。キリスト教は、教派が多いことが問題です。教派をすべて燃やしてしまわなければなりません。看板を外してしまい、キリスト教の十字架をすべて外してしまわなければならないのです。その運動が起きなければなりません。
(399-100 ~ 101、2002.12.21)
第17章 服従と犠牲祭
服従と犠牲祭
1) 召命と使命
ダマスコに向かう道で突然、天から光を受けるという経験をした使徒パウロは、その当時、霊的に神様が自分に何かを切に要求されていることを体験する。それは、単純にキリスト教信仰への改宗を意味するものではなかった。パウロは、それ以上の使命、異邦人たちにキリストを知らせよという使命を受けたのである。この使命意識が彼の心に燃え上がり、これが正に、残りの生涯でギリシャ全域にキリストの教会を立てるという動機を呼び起こしたのである。そこから彼は、自分を生きた祭物として天の前に捧げ、神様の召命に服従する人生をスタートした。
神様は、歴史を通して聖人たちと使徒パウロのような義人たちを呼ばれ、御自身の道具として用いられた。神様は多様な使命を負い、天の名によってその任務を遂行する信仰者たちを必要とされる。イスラエルの預言者たち、イエス様の弟子たち、ムハンマドの教徒仲間、そして天の召命に応じたのち、これに従っていった大勢の信徒たちまで、すべて神様が必要とする人たちである。召命を受ける者は、挑戦と逆境にぶつかることが多かった。しかし、その神聖な目的を胸に抱き、み旨を成し遂げようとする強い責任感があったために、彼らは耐え抜くことができたのである。
1. 神様の召命と私たちの使命意識
― 宗教経典 ―
主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷の父の家を離れて、私が示す地に行きなさい。私はあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人を私は祝福し、あなたを呪う者を私は呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」
創世記12.1 ~ 3(キリスト教)
信仰する者よ、なんじらは神を助ける者になれ、マリヤの子イエスが、その弟子たちに言ったように、「神の道のために、たれが私の助力者であるか」と。弟子たちは答えて「私達が、神を助ける者であります」と言った。
クルアーン61.14(イスラーム)
主である私は、恵みをもってあなたを呼び、あなたの手を取った。民の契約、諸国の光として、あなたを形づくり、あなたを立てた。見ることのできない目を開き、捕らわれ人をその枷から、闇に住む人をその牢獄から救い出すために。
イザヤ書42.6 ~ 7 (キリスト教)
サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、「サウロ、サウロ、なぜ、私を迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「私は、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」
同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。
ところで、ダマスコにアナニアという弟子がいた。幻の中で主が、「アナニア」と呼びかけると、アナニアは、「主よ、ここにおります」と言った。すると、主は言われた。「立って、『直線通り』と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名のタルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ。」
しかし、アナニアは答えた。「主よ、私は、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受けています。」すると、主は言われた。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らに私の名を伝えるために、私が選んだ器である。私の名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、私は彼に示そう。」
そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いで言った。「兄弟サウロ、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、私をお遣わしになったのです。」すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。
使徒言行録9.3 ~ 18(キリスト教)
放浪の詩人、私があなたの召命を受けた。昼夜、あなたを賛美せよとの命を受けた。詩人は聖なる師の召命により、永遠の彼の家に召喚され、聖なる賛美の服をもらい、神聖な名の聖なる食べ物を接待された。師の導きによりこれらを受けたがゆえに、詩人の心は至福で満ち、聖なる言葉に従い、気高い賛美をすべての世に大きく広げた。
アーディ・グラント、ヴァール・マージュ、M.1、P.150(シーク教)
― み言選集 ―
将来、神がこの罪悪世界から善なる個体を呼び給い、彼らを中心として善なる氏族社会を立て、更に、善なる封建社会をつくったのち、善なる王国を建設することによって、メシヤを迎えるための善なる版図と主権を樹立しようとされたので、サタンがこれを先に知ってそのような型の路程を歩んできたのである。事実上、神はこのような罪悪世界から、善を中心とするアブラハムを呼びだされて、彼を通じて、神のみ旨を信奉し得る子女を繁殖することによって、イスラエルの氏族社会を立てられたのであった。
原理講論、摂理的同時性から見た復帰摂理時代と復帰摂理延長時代7.1
神の創造がそうであるように、神の再創造摂理である救いの摂理も、一時に成し遂げるわけにはいかない。一つから始まって、次第に、全体的に広められていくのである。神の摂理が、すべてこのようになっているので、救いの摂理のための予定においても、まず、その中心人物を予定して召命されるのである。
神は全知であられるから、いかなる人間が復帰摂理の中心人物になり得る条件(本章第三節)を備えているかを御存じである。そこで神は復帰摂理の目的を成し遂げるために、このように、あらかじめ知っておられる人物を予定して、召命なさるのである。
しかし、召命なさる神の責任分担だけでは、彼が義とされて、栄光に浴するところにまで至ることはできない。彼は召命された立場で自分の責任を完遂するとき、初めて義とされることができる。義とされたのちに、初めて神が下さる栄華に浴することができる。
原理講論、予定論3.4
堕落した人間は神霊に対する感性が非常に鈍いために、大抵は真理面に重きをおいて復帰摂理路程を歩んでいくようになる。したがって、このような人間たちは、古い時代の真理観に執着しているがゆえに、復帰摂理が新しい摂理の時代へと転換していても、彼らはこの新しい時代の摂理にたやすく感応してついてくることが難しいのである。旧約聖書に執着していたユダヤ人たちが、イエスに従って新約時代の摂理に応じることができなかったという史実は、これを立証してくれる良い例だといわなければならない。
しかし、祈りをもって神霊的なものを感得し得る信徒たちは、新しい時代の摂理を、心霊的に知ることができるので、古い時代の真理面においては、相克的な立場に立ちながらも、神霊によって新しい時代の摂理に応じることができるのである。
原理講論、人類歴史の終末論5.2
神様がいるとすれば、アメリカに、自由世界にレバレンド・ムーンを、その境界線、その刹那に送ったのが、今から10 年前のことだと私は考えます。アメリカはレバレンド・ムーンの話を聞きなさいということです。それでは、レバレンド・ムーンに責任を果たしたのかと尋ねるとき、レバレンド・ムーンの話が「アメリカの人たちは病気になったので、医者を外部から連れてこなければならない。アメリカが病気になり外部から連れてこなければならないので、東洋からレバレンド・ムーンが来た」と言うのです。それはどれほど実感がわきますか。火事が起きれば消防隊員も同じです。そのようなことをすべてしたのです。果たしたというのです。
(123-320、1983.1.9)
天は私に対して要求していらっしゃいます。「新しい世界を建設せよ」と言われるのです。既にほつれて乱れてしまった事件を、解決せよという責任を与えてくださったのです。それでは、私はどんな立場にいるのでしょうか。私の一つの個体は、なくてはならない存在です。人類のものであり、世界のものであり、お父様のものであるからです。
不足な民族であり、不足な私達ですが、召命を受けた私達は、おそれ多い心情をもたなければなりません。国家、民族のために全力を尽くしていった人々も許されなかったのに、私達を呼び出して息子としてくださったという事実を考える時、感謝する心と、おそれ多い心情をもたなければなりません。
(9-344. 1960.1.30)
途方もない歴史的終末時代に、誰も信任できない孤独な所にいらっしゃる神様の前に、私達が信任の対象になれるならば、それ以上願うことがありますか。死んでもいいというのです。私の肉身が水となって流れていったとしても、何の恨があるでしょうか。粉となり飛んでいったとしても、何の恨があるかというのです。この世には、犬や豚のように死んでいく無価値な人生がいくらでもあるのです。
(62-140、1972.9.17)
2. 使命成就の努力と苦難
― 宗教経典 ―
ウジヤ王が死んだ年のことである。私は、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を待ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。彼らは互いに呼び交わし、唱えた。
「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」この呼び交わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた。私は言った。「災いだ。私は滅ぼされる。私は汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、私の目は、王なる万軍の主を仰ぎ見た。」するとセラフィムのひとりが、私のところに飛んで来た。その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。彼は私の口に火を触れさせて言った。「見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」
そのとき、私は主の御声を聞いた。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」私は言った。「私がここにおります。私を遣わしてください。」主は言われた。「行け、この民に言うがよい。よく聞け、しかし理解するな。よく見よ、しかし悟るな、と。この民の心をかたくなにし、耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく、その心で理解することなく、悔い改めていやされることのないために。」
イザヤ書6.1 ~ 10 (キリスト教)
あなたはご存じのはずです。主よ、私を思い起こし、私を顧み、私を迫害する者に復讐してください。いつまでも怒りを抑えて、私が取り去られるようなことが、ないようにしてください。私があなたのゆえに、辱めに耐えているのを知ってください。あなたの御言葉が見いだされたとき、私はそれをむさぼり食べました。
あなたの御言葉は、私のものとなり、私の心は喜び躍りました。万軍の神、主よ。私はあなたの御名をもって、呼ばれている者です。私は笑い戯れる者と共に座って楽しむことなく、御手に捕らえられ、独りで座っていました。あなたは私を憤りで満たされました。なぜ、私の痛みはやむことなく、私の傷は重くて、いえないのですか。あなたは私を裏切り、当てにならない流れのようになられました。
エレミヤ書15.15 ~ 18(キリスト教)
タカープが……浮浪者の群れと奴隷たちを扇動してムハンマドを侮辱し、非難したのだが、そのとき、ある群れの群衆が近づき、彼を果樹園に避難させた。……預言者が安全な所に着いたとき、彼が言った。「おお、神よ。あなたに私の弱さと資源がないことと人々の前で取るに足らない者であることを訴えます。最も慈悲深い方よ、あなたは弱者の主であり、したがって私の主です。あなたは私を誰に任せようとされるのですか。私を悪用する者ですか。そうでなければ、私を抑える力のある敵たちですか。
もしあなたが私にお怒りになられたのでなければ、私は心配しません。あなたの好意は私にとってより広大なものです。あなたの怒りと憤怒が私に下されないのなら、暗闇が輝く、現世と来世のすべてのことが正しい秩序をつかむあなたの助けによる保護を求めます。あなたの喜びが正に満足です。あなた以外にはいかなる権能もありません」。
イブン・イスハーク預言者伝(イスラーム)
とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、私は頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、私はなおさらのことです。私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。しかし、私にとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。
そればかりか、私の主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、私はすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。私には、律法から生じる自分の義ではなく、キリストヘの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。私は、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。
私は、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、私自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。だから、私達の中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。
ピリピの信徒への手紙3.4 ~ 15(キリスト教)
― み言選集 ―
信仰生活をするにおいては、難しい問題が多いことを皆さんは知らなければなりません。したがって、召命を受けることが問題ではなく、召命に従っていくことが問題だというのです。召命に従っていくのも難しいのですが、神様のために忠孝の道理を果たすということはもっと難しいのです。
(40-86、1971.1.24)
召命の道に従っていくときは、いつも内的な闘争があります。内的な闘争をかき分けていくことは、責任者がきちんとできなければなりません。責任者が間違えば、滅びるようになるのです。責任者が間違えば、大きな問題が起きるというのです。ですから、軽挙妄動してはいけません。良いことがあっても喜びすぎてはならず、悪いことがあっても悲しみすぎてはいけないのです。いつでも自分の心の姿勢を正し、正否を見極めながら、注意深くいかなければなりません。
(40-98 ~ 99、1971.1.24)
今、私達に残された、宇宙的な願いがあるとするなら、その願いは、私達が、宇宙万象の全体的な責任を負うことのできる精兵となって、全被造万物を解放し、万人を喜ばせてあげることであると知るようにしてくださり、天の命令を奉じて責任を果たすことができ、使命感に酔うことができるよう許諾してくださいますことを、お父様、懇切にお願い申し上げます。天のみ旨を、この地上に探し立てるために、天の法度を知り、宇宙の闘いの法度を知って、不変の中心を身代わりして、永遠であられる神様の理想と復帰の栄光が、全被造万物に現れる時まで、私達は変わろうとせず、休もうとせず、ただ闘おうとだけする息子、娘となるよう許諾してくださいますことを、お父様、懇切にお願い申し上げます。
(2-181、1957.4.14)
召命を受けてみ旨の道を行く人が考えなければならないことは、いつでも精誠を尽くしながらみ旨の目的を求めていかなければならないということです。いつでもそれを求めるために努力しなければならないのです。先生自身も、復帰摂理の全体的な問題を中心として行く道は、平坦ではありませんでした。ここには、私自身も思いもよらない、焦りいらだつ場が多いというのです。それでは、どのようにしてこの道を行かなければなりませんか。自分の心や心情に欲心をもっては、絶対に駄目です。
「私がこのようなことをしてみよう。私は何々をしよう」と考えながら、ある計画を立て、3年なら3年の計画を立ててこのようにしようと考えたとき、それは不可能なときが多いのです。計画どおりにできたとしても、これは、人間的な観点から立てられた計画なので、摂理と相入れないときが多いというのです。
(40-77、1971.1.24)
お父様!私達が行くべき方向を、あなたは知っていらっしゃり、私達が取って進むべき道も、あなたは知っていらっしゃいます。私達の心の始まりも、自分から始まったのではなく、私達が勧告の立場に立つことも自分のためではなく、人のためであり、お父様のためですので、最後まで、その心情が変わらないよう主管してくださいますことを、お父様、切にお願い申し上げます。
(6-62、1959.3.29)
2) 従順と服従
世俗的目的と生活様式が、神様の意思と行為の基準から隔たれば隔たるほど、従順な姿勢がより切実になる。アダムにエデンの園の果実を取って食べるなという戒めを下さって以降、神様は自己中心的、人間中心的な欲望とは反する戒めを堅持した。したがって、人間が神様との関係を正常化するためには、神様のみ旨に服従し、自分を否定する姿勢が切実に要求される。これはイスラームで特に強調される徳目である。「イスラーム」の意味は、正に「神への服従」を意味する。
服従は犠牲を要求する。イエス様が「私の思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」と祈られたように、イエス様は生命を超越する状況でも服従を履行した。服従することは、人間が喜び、便利な思考によって神権の摂理に加担することでは決してない。自分の息子を祭物として献祭せよという神様の命令を受けたときのアブラハムの経験のように、服従は想像もできない内容を遂行することを要求する。
このように、従順と服従自体は、いかなる状況でも人間と神様の究極的目的の具現である。神様は人間を完成の道に善導するために特別な戒めを下さる。父母は子女が社会で成長し、聖賢になることを念願し、子女に規範を遵守しなさいと教える。神様がアダムとエバに戒めを下さったのは、彼らの究極的目的、すなわち愛の実現にある。今日の私達の戒めも、やはり神様と人間の愛の実現にある。
1. 神様のみ旨と戒めへの従順
― 宗教経典 ―
神に己れの真心を尽くして服従帰依し、善い行いにいそしむ者は、主のみもとから報奨を賜わる。かれらには恐れもなく憂いもないであろう。
クルアーン2.112 (イスラーム)
イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、私が今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか。
申命記10.12 ~ 13(キリスト教)
主が喜ばれるのは、焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。
サムエル記上15.22 (キリスト教)
数千、数万と捧げる諸儀式も、心を清めることはできず、いくら長く続く無我の恍惚境もまたそうである。全世界をすべてもったとしても、燃え上がる欲望と貪欲を消すことはできず、尽きることのない知識も解脱をもたらすことはない。だとすれば創造者にどのように真実でいることができるだろうか。どのように迷いの壁を崩すのか。ただ彼の命令と御意志に従うだけである。
アーディ・グラント、ジャプジー1M1、P.1 (シーク教)
あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました。
あなたがたの肉の弱さを考慮して、分かりやすく説明しているのです。かつて自分の五体を汚れと不法の奴隷として、不法の中に生きていたように、今これを義の奴隷として献げて、聖なる生活を送りなさい。あなたがたは、罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身でした。
では、そのころ、どんな実りがありましたか。あなたがたが今では恥ずかしいと思うものです。それらの行き着くところは、死にほかならない。あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、私達の主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。
ローマの信徒への手紙6.16 ~ 23(キリスト教)
― み言選集 ―
働くにおいて絶対服従し、生活するにおいて絶対服従し、心情問題に入っても絶対服従し、天の法度を立てていかなければなりません。
(45-88、1971.6.13)
自分が起源ではありません。先生の起源も自分を超越したものでなければならず、目的も自分を超越したものでなければなりません。自分の生命は、父母や社会や民族、国家を通じて生まれたのではなく、それを超越した絶対者である神様から始まったと言うべきです。動機を、絶対的な立場にある超越的な動機と結びつけなければなりません。時代的な因縁とか、環境的な因縁、あるいは社会的な与件に結びつけてはいけません。超越的な原因に結びつけ、超越的な目的に結びつけてこそ、飛躍して、超越して、脱出することができるのです。
(36-64、1970.11.15)
社会生活で、会社に行っても、「会社はなぜこうなのか。私の好きなようにしよう」。アメリカ自体もそうです。「たくさんの法律があって、このようにもできず、あのようにもできない。これはどういうことだ!」とすべて否定します。大統領が何だ、知事が何だ……。そのように考えれば、宗教も、どの社会もすべて同じです。そのような道は、誰もが行くのです。人であれば、誰もが行っています。
宗教の道は違います。宗教の道は、特別な道です。宗教生活は、この世界で二つの世界の生活をしていることを私達は知らなければなりません。二つの世界の生活をしています。それをはっきりと知らなければならないのです。はっきり知らなければなりません。言い換えれば、二つの世界を生きている人です。社会の人として、ほかの人たちと同じ生活をしている人であり、もう一つは、ほかの分野の一つの世界に向かっていっているのです。
(92-298、1977.4.24)
お父様!私達が置かれている立場は、宇宙の中心にいらっしゃり、高く自存される立場で、愛を中心とする理想の主であられるお父様とは、あまりにも掛け離れていることを自ら悟っていますので、この遠い距離を埋めるためには、順理的路程の恨めしい復帰の道が横たわっていることを知っています。
(110-65 ~ 66、1980.11.9)
2. 絶対従順の追求 : 私の志と神様のみ旨の一致
― 宗教経典 ―
なんじら信仰する者よ、神に己れの義務を果たして、かれに近づくよう念願し、かれの道のために奮闘努力せよ、なんじらはおそらく成功するであろう。
クルアーン5.35 (イスラーム)
君子はみずからも端正にその地位を保ち天命を成就することにつとめる。
易経50、周易下経、鼎(儒教)
神の御意志をあなたの意志とせよ。神があなたの意志を御自身の意思として受け入れてくださる。神の御意志の前であなたの意志をすべて捨てよ。神が他の人々の意志をあなたの意志の前ですべて空にしてくださる。
ミシュナ、アヴォート2.4 (ユダヤ教)
報いを願って仕える僕になるな。何の期待もなく仕える僕になれ。そして、天への畏敬が常にあなたと共にあるようにせよ。
ミシュナ、アヴォート1.3(ユダヤ教)
われがみ使いをつかわしたのは、ただ神の許しのもとに、すなおに帰依させるためである。もしかれらが間違ったときなんじに来て、神の寛容を願い、み使いが、かれらのためにお許しを祈るならば、かれらは神が、たびたび許したもう方・慈悲深い方であられることをさとるであろう。だがそうではないのだ、主によっていう、かれらの間の紛争についてなんじの裁判を仰ぎ、なんじの判決したことに、かれら自身不満を感ぜず、心から納得して信服するまでは、けっして信じないであろう。
たとえわれがかれらに「身命をささげよ」、または「家から出て行け」と命じても、かれらのうち少数の者のほかは、そうしなかったであろう。もしかれが勧められるように行なったならば、きっとかれらに最もためになり、ずっと信仰を強めたであろうに、そのときは、わがもとから必ず偉大な報奨を授け、われは置き道に、かれらを必ず導くのである。神とみ使いに従う者は、神が恩恵を施したもう者と一緒にいる者たち、予言者たち・誠実者たち・殉教者たち、ならびに正義者たちである。これらはなんとりっぱな仲間であることよ。
クルアーン4.64 ~ 69(イスラーム)
私が天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、私をお遣わしになった方の御心を行うためである。
ヨハネによる福音書6.38 (キリスト教)
父よ、御心なら、この杯を私から取りのけてください。しかし、私の願いではなく、御心のままに行ってください。
ルカによる福音書22.42 (キリスト教)
一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。
ローマの信徒への手紙5.19 (キリスト教)
キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。
ヘブライ人への手紙5.7 ~ 8(キリスト教)
― み言選集 ―
服従には、主体の前に対象が自分だという概念がありません。従順と違います。従順にする立場には自分という概念があります。従順にする立場には自分という概念がありますが、服従するところには自分という概念がありません。
(271-118、1995.8.23)
従順は誰でもすることができ、しなければならないことですが、服従は誰でもできるものではありません。しかし、ただ服従を通して蕩減が成し遂げられるのです。
(18-188、1967.6.7)
完全な主体は、完全な対象をつくることができます。これは原理が教えることです。神様と同じ主体の立場で世界を再創造しなければなりません。これが私達の使命です。私達が堕落した世の中を越えていかなければ、神様に連結されないのです。これからは、優れた人であれ劣った人であれ、絶対信仰、絶対愛、絶対服従しなければなりません。一方通行です。戻っていく必要がありません。神様のものとして、私達のものとして、天の国のものとして勝利するのです。今まで苦労して価値的基準を備えても、すべて蕩減の涙で洗い流してしまいましたが、これからは皆さんがこの立場で成したすべてのことは、蕩減ではありません。祝福の基台として、皆さんの子孫の前に連結されることを知らなければなりません。
(268-302、1995.4.3)
皆さんは、自分のすべてのものを捨てることができる人にならなければなりません。皆さん一人を天に屈服させ、服従させ、誰よりも先に天を身代わりしてサタンの矢を受けることができる人にならなければなりません。サタンとの闘いに誰よりも先に立ち上がる人にならなければならないのです。また、人間に対してもそうでなければならず、神様のみ旨に対してもそうでなければならず、物質に対しても同じように、先に自分を犠牲にしようと立ち上がる人にならなければなりません。
(3-204、1957.11.1)
イエス様は何を見せてくださったのかというと、従順と服従です。従順は、応じることのできる環境で命令に従うことであり、服従は、応じられない環境で従うことです。イエス様は不信する人間たちに、このような従順と服従の道理を教えてくださいました。これもやはりサタンの本質、サタンのあらゆる生活的な要素を防ぐためのものです。
サタン世界は、人に対しても、あるいは被造物に対しても、無限に利用し搾取しようとするのですが、イエス様は、その反対の立場を取りました。このように、イエス様が代表してサタンのできない生活をされたのです。すなわち温柔謙遜で、従順に服従し、犠牲と奉仕の生活をされたので、サタンもそのような面では屈服しなければなりませんでした。皆さんは、自らをイエス様が教えてくださった温柔と謙遜、従順と服従、犠牲と奉仕に照らしてみて、その教えを自分の生活圏内で実践できていないと思えば、いまだにサタンの一族だということを悟らなければなりません。
(3-188 ~ 189、1957.10.27)
神様は、長い歴史時代を通して、責任分担を知らない人間たちが「責任分担を果たした」と言えるようにするための政策を繰り広げてこられたのです。ですから、絶対服従しなければなりません。責任分担を完成することができなかったのは、神様のみ言に絶対服従できなかったからです。
したがって、第1の条件とは何でしょうか。責任分担を完成しようとすれば、神様のみ言に絶対服従しなければならないのです。神様が「取って食べるな」とおっしゃったみ言に絶対服従していれば、責任分担を完成していたのです。したがって、復帰の道を求めていく人たちは、神様のみ言に絶対服従しなければなりません。適当に服従するのではありません。自分の生命を否定してでも私は行けると言わなければなりません。サタン世界の頂上を走って越えていかなければならないのです。それで、イエス様は、「だれよりも私を愛さなければならない」と言いました。娘や息子、妻、その誰よりも私を愛さなければ私にふさわしくないと言ったのです。
(139-255 ~ 256、1986.1.31)
3) 自己犠牲
自己犠牲とは、神様に仕え、神様のみ旨を具現するにおいて自分のすべてのもの――体、心、霊魂――を献身することである。迫害時期の自己犠牲は、文字どおり殉教者として自分の一生を放棄することである。比較的安定時期の自己犠牲は、「生きた祭物」として自分のあらゆる行動を神様の創造目的の具現に捧げることである。
イエス様は、自分の生命を十字架に献祭する自己犠牲の典型的モデルだったのであり、弟子たちに「自分の十字架を負うて、私に従ってきなさい」という同一の戒めを遵守することを教示した。個人単位で私達各自は、自分の十字架――場合によって様々な十字架――を背負っている。宗教は、私達に犠牲と服従の姿勢で自分の責任を遂行することを要求する。文鮮明先生は、歴史上のあらゆる聖人たちがそうしたように、公的な十字架を背負って全生涯を投与しながら、人類救援のために世の中の悪と対峙していらっしゃる。これが正に高貴な人生、すなわち絶対自己犠牲の人生であろう。
1. 自分を生きた祭物として捧げる
― 宗教経典 ―
こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。
ローマの信徒への手紙12.1 (キリスト教)
ゼラスシュトラなるわたくしめは、供物として、自身の寿命さえも、マズダーにささげます。また善思の精華と善行のそれと、善語のそれのみか、懾服と権勢をも、天則に則ってささげます。
アヴェスター・ヤスナ33.14 (ゾロアスター教)
私は、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。
ガラテヤの信徒への手紙2.19 ~ 20(キリスト教)
おお人の子よ! もし汝われを愛せば、汝の自我に背を向けよ。またもし汝わが喜びを求むるならば、汝自身の喜びを重んずるな。さらば汝、わがうちに死に、われ汝のうちに永遠に生きるを得ん。
バハオラ隠されたる言葉7(バハイ教)
祭祀はまさに人間である。
チャーンドーギヤ・ウパニシャッド3.16.1(ヒンドゥー教)
幣にならましものをすべ神の御手に取られてなづさはましをなづさはましを、(幣になれたらよいのになあ。尊い神の御手に取り持たれて、できたら馴れまつわりつきたいものだ、馴れまつわりつきたいものだ)
神楽歌、幣(みてぐら)(神道)
― み言選集 ―
人間は、神様の前に生きた祭物の立場になり、天のお父様の内的心情を表すことのできる善の結実体にならなければなりません。
(2-78、1957.3.3)
祭物とは、所有観念があってはいけません。自分の目的ばかりを見つめて動いていくのではなく、全体的な使命のために、民族なら民族を身代わりして犠牲の立場に出ていくことが祭物なのです。ですから、祭物は、自分の私的な目的を立てていくのではなく、公的な目的を立てていかなければなりません。そして、悪を退治し、善の理念を立てるにおいて一つの足場となり、土台にならなければなりません。
(14-10、1964.4.19)
善の人は、神様を絶対視し、神様と一つになる位置に立たなければなりません。神様のみ旨の前に自分を絶対犠牲にしなければならないのです。善が行く段階を見れば、個人は家庭のために絶対服従しなければならず、家庭は神様のための氏族のために絶対服従しなければならず、氏族は神様を中心とする民族のために絶対服従しなければなりません。また、その民族は神様を中心とする国、その国は神様を中心とする世界のために絶対服従しなければなりません。結局、神様を絶対中心としてサタンに勝たなければならないのです。個人的に勝たなければならず、氏族、民族、国家、世界的にまで勝っていかなければなりません。
(53-241、1972.2.29)
生きることを願い、中心存在になることを願い、良いことを願う前に、まず死になさい、こういうことです。個人を中心とした思想によって歴史を滅ぼしたのなら、その反対の道でなければ生かせる道がありません。イエス様が語られた、「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」という言葉もこのような意味です。
(67-183、1973.6.10)
善の神様は、どのような神様ですか。犠牲と愛の神様でいらっしゃいます。愛というのは、犠牲の本質を離れてはあり得ません。愛する人のために犠牲になったというとき、その犠牲は、犠牲とは考えません。犠牲になれば犠牲になるほど恵みを感じるのです。愛とは、そのような特別な素性をもっています。愛がどれほど大きいかということは、犠牲になる量がどれほど大きいかというところにかかっています。これによって高低の愛が決定します。犠牲が大きければ大きいほど大きな愛を表すのであり、犠牲が小さければ小さいほど気高さのない愛を表すのです。
(63-25 ~ 26、1972.10.1)
愛の心で見るときは、自分を考えるのではなく、自分を否定して自分を犠牲にする道を行くのです。完全なプラスの前に完全なマイナスはありません。プラスに付いていきますが、この端にはプラスが付いてくるのです。完全なプラスの前に完全なマイナスが生じるときには、相対のプラスが来てくっつくというのです。国家なら国家の前に完全なマイナスになるとき、ここに何が来てくっつくのかというと、プラスが来てくっつきます。神様が来てくっつくというのです。一周回ってくっつきます。これがそのまま来てくっつくのではなく、一周回ってきてくっつくのです。天地の道理がそうなのです。
ですから、この国の愛国者の歴史の伝統は、涙と血と汗の歴史を残してくるという事実を知らなければなりません。孝子の伝統も、涙と血と汗を通して続いていきます。烈女もそうであり、烈男もそうであり、忠臣ももちろんそうであり、聖人の道理もそうです。血と涙と汗をつづった所においてのみ、主流の伝統の歴史が続いていき、一つの世界と一つの天国に連結されるという事実は、間違いない真理です。
(113-118 ~ 119、1981.5.1)
天の福を願う人はたくさんいますし、お父様の子女になるために精誠を尽くす人はたくさんいますが、6000 年歴史が経過した今日は、お父様の真なる息子、娘、お父様の前に祭物になろうという忠実な人を捜し出すことが難しい時であると思います。
(5-8、1958.11.9)
2. 十字架を負う : 犠牲の死
― 宗教経典 ―
それから、弟子たちに言われた。「私について来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、私のために命を失う者は、それを得る。」
マタイによる福音書16.24 ~ 25(キリスト教)
真実の教えを身につけようとする者は、男であれ女であれ、そのために、身体・生命・財産という三つをなげ出すでしょう。
勝鬘経(しょうまきょう)3(仏教)
神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい。
ペテロの手紙一3.17 (キリスト教)
先生がいわれた、「志しのある人や仁の人は、命惜しさに仁徳を害するようなことはしない。時には命をすてても仁徳を為しとげる。」
論語15.9 (儒教)
孟子がいわれた。「魚も旨いから、ぜひ食べたい。熊の掌(てのひら)もまた旨いから、ぜひ食べたい。だがもし、二つの中どちらか一つを選ばねばならぬ場合には、自分は魚を捨てても、熊の掌を取りたい。これと同じことで、生命もぜひ守りたいし、義もまた守りたい。だがもし、どちらか一方を選ばねばならぬ場合には、自分は生命を捨てても、義の方を守りたい。
もちろん、生命は自分の望むところだが、それよりも以上に望むところのものがあるから、それを捨ててまでも、生命を守ろうとはしないまでだ。また、死はもちろん自分のもっとも憎みきらうところだが、それ以上に憎みきらうものがあるから、死ぬという危険があっても、これを避けようとしない場合がある。もし人間の望みの中で生命よりも大切なものがないとしたなら、およそ生きるためにはどんなことでもやってのけるであろう。もし人間の憎みきらうもので死よりも以上のものがないとしたなら、死の危険から逃れるためには、どんなことでもやってのけるであろう。
ところが実際は、こうすれば生命が助かると分っていても、そうしない場合があるし、こうすれば死の危険から逃げられると分っていても、そうしない場合があるのだ。これこそ、人間には生命以上に望むもの(義)があり、死以上に憎みきらうもの(不義)があるという証拠なのだ。そしてこの心はひとり賢者だけが持っているのではなく、人間なら誰でも持っているものなのだ。ただ賢者はいつもこの心を失わずに持っているというまでのことだ。
孟子VI.A.10(儒教)
イエス様の天国を愛する者は大勢いるが、彼の十字架を一緒に背負う人はいない。偉人を求める者は大勢いるが、試練を歓迎する者はいない。共に飲み食いする友は探しやすいが、禁欲と断食を一緒にする者を探すのは難しい。万民がキリストと共に喜ぼうとするが、彼のために苦難を受けようとする者はいない。キリストが分けてくれるパンを求めて彼に従う者は大勢いるが、彼の苦難の杯を一緒に飲もうとして従う者はいない。彼の奇跡を仰ぎ見る者は大勢いるが、彼の十字架と恥辱に従おうとする者はいない。
トマス・ア・ケンピスキリストにならいて2.11(キリスト教)
― み言選集 ―
神様がそれを願ったので、イエス様がその愛を成し遂げるために自分を犠牲にしたのです。世界を愛するために自分を犠牲にしながら、死の道を自ら行く道に、このすべての信徒たちを追い立てる一つの宗教が出てくれば、その宗教は、サタン世界を防御し、世の中を救う最後の基盤になるでしょう。イエス様が世の中を愛するために、死の道を自ら行って十字架を背負ったように、自分を犠牲にして行く道を自ら行く世界的な一つの教団が出てくれば、その教団を通して神様とイエスが最も希望をもって見つめるでしょう。
(124-299 ~ 300、1983.3.1)
この道は不平を言う者は行けない道であり、自ら弁明する者は行けない道であり、自らを立てる者は後退する道であることを知りました。この道はイエス様が血を流して行かれた十字架の道、延長されたゴルゴタの道であることを知りましたので、弁明すべき立場でも弁明しようとせず、自分自身を立てて誇りたくても誇ろうとせず、悔しさを知りながらも、踏まれながら行くべき道であることを知りました。
(6-125、1959.4.12)
宗教生活は何ですか。どのような困難があっても、私的な基盤の悪魔サタンと共に地獄に通じる道を行くのではなく、犠牲を払ってでも、このような公的な道で天国に通じる道を行こうというのです。この世の中の人とは異なる生活理念をもっていくのが、宗教者たちの生活であることを知らなければなりません。
それで、統一教会では、公的なことのために神様がされるのと同じようにしようというのです。神様は、公的なことのためには、自分の国を犠牲にできます。自分の愛する家庭も犠牲にすることができるのであり、自分の世界まで犠牲にすることができるのです。神様は、すべての権限をもつ方ですが、公的な人間のために歴史を何度も越えながら、歴史時代の数多くの悲しみと苦痛を独りで経てきながらも、誰のせいにもすることなく、弁明せず、それを甘受してくるのです。公的な神様なので、神様はそのような立場に立っているという事実を、私達は知らなければなりません。良くやったと自分を誇るのではありません。自分が公的な何かをしたと誇る方ではありません。黙々と最後まで、公的な世界が完成されるまで、神様は公的なことに専心する方です。
(101-146 ~ 147、1978.10.29)
今までは「私のもの、私のもの、お金も私のもの」と言いました。しかし、お金を稼いで私が使うのではなく、すべて……。その代わり、神様が愛はどのようなものだということを考えるのです。困難なことであるほど福になることを知りませんでした。先生も、今最も懐かしく思うことが、監獄で拷問を受けて血を吐いていたことです。
この体がサタンの岩にくっついているのです。体が神様と共鳴しなければならないのですが、岩にはりついています。これを一度に切り離すことができる力を統一教会の人たちはもっているのです。それで、宗教は犠牲になりなさいと言うのです。苦行しなさい、苦行! なぜですか。どうしてですか。神様の共鳴体になろうとするからです。
(102-35 ~ 36、1978.11.19)
今までの宗教は何かというと、自分を犠牲にして奉仕するものでした。その犠牲の目的とは何かというと、救援を受けるためですが、それが間違ったというのです。私が犠牲になるのは、神様を解放し、人類を解放するためです。それを知らなかったのです。私のためにするのではなく、神様と人類のために働くということです。目的が違います。悪の宗教として帰結するのか、善の宗教として帰結するのかという出発点が、正にこの点にあることを今日の宗教者は、はっきりと知らなければなりません。
(102-234、1979.1.1)
「父母の心情、僕の体、涙は人類のために、汗は地のために、血は天のために」と言ったのですが、どうしてこのような標語が必要なのですか。これは、涙を流すとしても父母に代わって流し、汗を流すとしても父母に代わって流し、血を流すとしても父母に代わって流そうというのです。これはどういうことでしょうか。生きていらっしゃる神様の前に行き、死の道をすべて引き受け、天のために、地のために、人類のために、私が先に死の祭壇に上がろうということです。
(14-244、1965.1.1)
私は、雨が降り、雪が降ることを知らず、夜を朝のように、早朝のように感じながら、御飯を食べることを忘れてこのことをしてきた人です。気楽に考えることはできませんでした。神様を知ったからです。神様を知った罪、誰よりも悲痛な神様であることを知ったので、私の一身がずたずたに引き裂かれることがあり、粉になって飛んでいくことがあっても、飛んでいくこのすべての細胞は、神様の一点の細胞だと叫ぶことができれば、男として生まれて甲斐のある死だと思いながら、死の道を求めて身もだえしているのです。
(137-179、1986.1.1)
4) 悪と戦争
罪悪の闘争において一抹の妥協もない信仰が、生きた躍動的な信仰である。最高善の実現は、神様のやり方を固守することを要求する。これをイスラームで「ジハード(聖戦)」と呼ぶ。その中の一つの次元は、悪霊と利己的欲望を治める内的闘争である。キリスト教ではこれを「霊的闘争」と呼び、イスラームでは「偉大な聖戦」と呼ぶ。しかし、社会が不正、腐敗で覆われていて、平和が攻撃者によって危険にさらされれば、その世界では正義の側に立つ闘士が必要である。実際に多くの宗教では、弱者を保護し、攻撃者たちの悪行を阻止するために闘争することを愛の叫びとする反面、社会的不正に受動的に対処することを罪として扱う。
自己防御や攻撃者から自分を保護するために、特に銃(武器)が必要な場合がある。しかし、最高善を実現するために闘争するとき、武器を使用するよりもっと良い方法がある。霊的な観点から見つめれば、戦士たちの任務は、世界の正義に向かうことであるため、その闘争は、根本的に霊的闘争と言うことができる。地上の敵がもつ敵対感の背後に悪霊の「権力と主権」が作用している。敵陣の肉身を攻撃して勝利することが、必ずしも彼らの内面的怨恨まで消滅させることを意味するわけではない。かえって、それはさらに悪化し得る。特に、勝利者たちが無慈悲に報復心をもって対処したならば、より一層そのようになる。これとは異なり、相手の内面的戦争で勝利する場合、悪霊は自然屈服して退却するだろう。たとえ敵が深い怨恨に満ちていて、必ず武力を通してのみ屈服させるとしても、本当の勝利は、敵が神様のみ旨を悟るように教育する時まで確保できたと言うことはできない。
したがって、霊的戦士たちが行くべき道は、「怨讐を愛しなさい」という教えの実践を極大化することである。これはすなわち、私達自身を犠牲に――たとえ彼らが拒否したり、あざ笑ったり、さらには迫害するとしても――怨讐の福利のために遂行しなければならないという意味である。怨讐に向かう愛は、ただ犠牲を通してのみ明白に現れる。ちょうどイエス様がそのようにしたのと同じように、怨讐の心を浄化させることができれば、死も問題にしてはならない(第13 章5.「怨讐を愛しなさい」参考)。ある面で、霊的戦争は物理的戦争と同じくらい危険なため、霊的闘争を遂行するためには、格別な勇気と、強い意志が要求される。文鮮明先生の戦闘意識とは、大部分霊的戦士としての霊的闘争の道を意味する。
1. 正義の勇士
― 宗教経典 ―
彼はよりどころのない人たちを守護し闘う真の英雄である。
アーディ・グラント、スローク、カビール、p.1412(シーク教)
更にまた、あなたは自己の義務(ダルマ)を考慮しても、戦慄(おのの)くべきではない。というのは、クシャトリヤ(王族、士族)にとって、義務に基づく戦いに勝るものは他にないから。たまたま訪れた、開かれた天界の門である戦い。アルジュナよ、幸福なクシャトリヤのみがそのような戦いを得る。
もしあなたが、この義務に基づく戦いを行わなければ、自己の義務と名誉とを捨て、罪悪を得るであろう。……あなたは殺されれば天界を得、勝利すれば地上を享受するであろう。それ故、アルジュナよ、立ち上れ。戦う決意をして。苦楽、得失、勝敗を平等(同一)のものと見て、戦いの準備をせよ。そうすれば罪悪を得ることはない。
バガヴァッド・ギーター2.31 ~ 38(ヒンドゥー教)
み使いよ、戦いにさいしては信者を激励せよ。なんじらのうち二十の堅忍者がおれば、よく二百を征服するであろう。なんじらのうちもし一百いれば、よぐ一干の不信者を征服するであろう、これはかれらが、事理を解しないやからであるゆえに。
クルアーン8.65 (イスラーム)
これは、私達の救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです。神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。
テモテの手紙一2.3 ~ 4(キリスト教)
そういえば、人々にして、天則とともなる行動をもって、マズダーよ、御身の宣告を充ち足らわせることに、善思でもってこれ従うなら、彼らは諸邦のサオシュヤントらとなるでしょう。彼らはアエーシュマの打倒者として使命づけられているからです。
アヴェスター・ヤスナ48.12 (ゾロアスター教)
ただ、強く、大いに雄々しくあって、私の僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する。この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する。私は、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。
ヨシュア記1.7 ~ 9(キリスト教)
勝利を望む者は、腕力や能力によって勝つのではなく、むしろ真理、哀れみ、正義、そして霊的修養によって勝つのである。そして義と不義とを識別し、貪欲とは何かを悟り、努力を頼みとするときには、おごることなく戦え、なぜなら正義のあるところに勝利があるからである。これらの条件を知り、ああ王よ、この戦いにおける勝利は我々にあることを知りなさい。実に、クリシュナのあるところに勝利があるのである。
マハーバーラタ、ビーシュマ・パルヴァン21(ヒンドゥー教)
おお、私の父、偉大な先祖よ!私はあなたに感謝する道がありません。しかし、深い知恵によって私が栄光のあなたの贈り物を、どれほど尊く思うかを、あなたはお分かりになると確信します。おお、私の父!私があなたの偉大さを思うときに、私は畏敬感で身の置き所が分かりません。おお、偉大な先祖よ!地と天、すべてのものの支配者よ!私はあなたの戦士です。あなたの御意志どおりに行う準備ができています。
キクユ族の祈り(アフリカ伝統宗教)
ペリシテの陣地から一人の戦士が進み出た。その名をゴリアテといい、ガト出身で、背丈は六アンマ半、頭に青銅の兜をかぶり、身には青銅五千シェケルの重さのあるうろことじの鎧を着、足には青銅のすね当てを着け、肩に青銅の投げ槍を背負っていた。槍の柄は機織りの巻き棒のように太く、穂先は鉄六百シェケルもあり、彼の前には、盾持ちがいた。ゴリアテは立ちはだかり、イスラエルの戦列に向かって呼ばわった。「どうしてお前たちは、戦列を整えて出て来るのか。私はペリシテ人、お前たちはサウルの家臣。一人を選んで、私の方へ下りて来させよ。その者に私と戦う力があって、もし私を討ち取るようなことがあれば、我々はお前たちの奴隷となろう。だが、わたしが勝ってその者を討ち取ったら、お前たちが奴隷となって我々に仕えるのだ。」
このペリシテ人は続けて言った。「今日、私はイスラエルの戦列に挑戦する。相手を一人出せ。一騎打ちだ。」サウルとイスラエルの全軍は、このペリシテ人の言葉を聞いて恐れおののいた。ダビデは、ユダのベツレヘム出身のエフラタ人で、名をエッサイという人の息子であった。エッサイには八人の息子があった。サウルの治世に、彼は人々の間の長老であった。エッサイの年長の息子三人は、サウルに従って戦いに出ていた。戦いに出た三人の息子の名は、長男エリアブ、次男アビナダブ、三男シャンマであり、ダビデは末の子であった。年長の三人はサウルに従って出ていたが、このダビデは行ったり来たりして、サウルに仕えたり、ベツレヘムの父の羊を世話したりしていた。かのペリシテ人は、四十日の間、朝な夕なやって来て、同じ所に立った。
さて、エッサイは息子ダビデに言った。「兄さんたちに、この炒り麦一エファと、このパン十個を届けなさい。陣営に急いで行って兄さんたちに渡しなさい。このチーズ十個は千人隊の長に渡しなさい。兄さんたちの安否を確かめ、そのしるしをもらって来なさい。」サウルも彼らも、イスラエルの兵は皆、ペリシテ軍とエラの谷で戦っていた。ダビデは翌朝早く起き、羊の群れを番人に任せ、エッサイが命じたものを担いで出かけた。彼が幕営に着くと、兵はときの声をあげて、戦線に出るところだった。イスラエル軍とペリシテ軍は、向かい合って戦列を敷いていた。
ダビデは持参したものを武具の番人に託すと、戦列の方へ走って行き、兄たちの安否を尋ねた。彼が兄たちと話しているとき、ガトのペリシテ人で名をゴリアテという戦士が、ペリシテ軍の戦列から現れて、いつもの言葉を叫んだのでダビデはこれを聞いた。イスラエルの兵は皆、この男を見て後退し、甚だしく恐れた。イスラエル兵は言った。「あの出て来た男を見たか。彼が出て来るのはイスラエルに挑戦するためだ。彼を討ち取る者があれば、王様は大金を賜るそうだ。しかも、王女をくださり、更にその父の家にはイスラエルにおいて特典を与えてくださるということだ。」
ダビデは周りに立っている兵に言った。「あのペリシテ人を打ち倒し、イスラエルからこの屈辱を取り除く者は、何をしてもらえるのですか。生ける神の戦列に挑戦するとは、あの無割礼のペリシテ人は、一体何者ですか。」兵士たちはダビデに先の言葉を繰り返し、「あの男を討ち取る者はこのようにしてもらえる」と言った。長兄エリアブは、ダビデが兵と話しているのを聞き、ダビデに腹を立てて言った。「何をしにここへ来たのか。荒れ野にいるあの少しばかりの羊を、誰に任せてきたのか。お前の思い上がりと野心は私が知っている。お前がやって来たのは、戦いを見るためだろう。」
ダビデは言った。「私が、今、何をしたというのですか。話をしているだけではありませんか。」ダビデは兄から他の人の方に向き直って、前と同じことを聞いた。兵士の答えは、最初と同じであった。ダビデの言ったことを聞いて、サウルに告げる者があったので、サウルはダビデを召し寄せた。ダビデはサウルに言った。「あの男のことで、だれも気を落としてはなりません。僕が行って、あのペリシテ人と戦いましょう。」サウルはダビデに答えた。「お前が出てあのペリシテ人と戦うことなどできはしまい。お前は少年だし、向こうは少年のときから戦士だ。」
しかし、ダビデは言った。「僕は、父の羊を飼う者です。獅子や熊が出て来て群れの中から羊を奪い取ることがあります。そのときには、追いかけて打ちかかり、その口から羊を取り戻します。向かって来れば、たてがみをつかみ、打ち殺してしまいます。私は獅子も熊も倒してきたのですから、あの無割礼のペリシテ人もそれらの獣の一匹のようにしてみせましょう。彼は生ける神の戦列に挑戦したのですから。」ダビデは更に言った。「獅子の手、熊の手から私を守ってくださった主は、あのペリシテ人の手からも、私を守ってくださるにちがいありません。」サウルはダビデに言った。「行くがよい。主がお前と共におられるように。」
サウルは、ダビデに自分の装束を着せた。彼の頭に青銅の兜をのせ、身には鎧を着けさせた。ダビデは、その装束の上にサウルの剣を帯びて歩いてみた。だが、彼はこれらのものに慣れていなかった。ダビデはサウルに言った。「こんなものを着たのでは、歩くこともできません。慣れていませんから。」ダビデはそれらを脱ぎ去り、自分の杖を手に取ると、川岸から滑らかな石を五つ選び、身に着けていた羊飼いの投石袋に入れ、石投げ紐を手にして、あのペリシテ人に向かって行った。
ペリシテ人は、盾持ちを先に立て、ダビデに近づいて来た。彼は見渡し、ダビデを認め、ダビデが血色の良い、姿の美しい少年だったので、侮った。このペリシテ人はダビデに言った。「私は犬か。杖を持って向かって来るのか。」そして、自分の神々によってダビデを呪い、更にダビデにこう言った。「さあ、来い。お前の肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう。」だが、ダビデもこのペリシテ人に言った。「お前は剣や槍や投げ槍で私に向かって来るが、私はお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち向かう。今日、主はお前を私の手に引き渡される。私は、お前を討ち、
お前の首をはね、今日、ペリシテ軍のしかばねを空の鳥と地の獣に与えよう。
全地はイスラエルに神がいますことを認めるだろう。主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされないことを、ここに集まったすべての者は知るだろう。この戦いは主のものだ。主はお前たちを我々の手に渡される。」ペリシテ人は身構え、ダビデに近づいて来た。ダビデも急ぎ、ペリシテ人に立ち向かうため戦いの場に走った。ダビデは袋に手を入れて小石を取り出すと、石投げ紐を使って飛ばし、ペリシテ人の額を撃った。石はペリシテ人の額に食い込み、彼はうつ伏せに倒れた。ダビデは石投げ紐と石一つでこのペリシテ人に勝ち、彼を撃ち殺した。ダビデの手には剣もなかった。ダビデは走り寄って、そのペリシテ人の上にまたがると、ペリシテ人の剣を取り、さやから引き抜いてとどめを刺し、首を切り落とした。ペリシテ軍は、自分たちの勇士が殺されたのを見て、逃げ出した。
サムエル記上17.4 ~ 51(キリスト教)
― み言選集 ―
朝も夜も強くなければなりません。これから近づいてくるどのような障壁も、打てばそれが崩れ、それが崩れなければ拳が裂け、私の体が裂けるという信念をもちなさいというのです。そうして、天が私を通して未来の使命を完結しなければならない私の現在の立場であることを忘却してはいけません。皆さんは、過去を復活させ、現在を復活させ、未来を復活させる、そのような王者である
ことを知らなければなりません。
(73-106 ~ 107、1974.8.4)
「私は神様の真の勇士になる。その神様のための戦場がどれほど悲惨でも、私はその戦線に参与する」というのが先生の精神です。いくら世界の迫害が押し寄せてきても、孤独単身の迫害の立場です。苦痛の立場です。私は神様に一度も不平を言いませんでした。これがレバレンド・ムーンの誇りです。
(193-74、1989.8.20)
拷問で倒れていく場でも、「私を助けてください」と神様に祈祷しませんでした。私は追い回されてきましたが、神様のところに行って、「私の行く道を守ってください、私を助けてください」とは祈祷しない人です。私は男として、自分の余力をもち、自分の気迫をもち、闘うことのできる自力をもっている人です。私の力が不足で意識を失って倒れれば私を助けてくれるかもしれませんが、その前に私の力で……。私が行く前に神様はあらかじめ準備しておいて待っていることを知っているのです。
(138-360、1986.1.24)
神様の勝利を私がもたらしてさしあげなければなりません。だとすれば、「戦争で私が先に行こう。私か先に行く、ゴリアテの前のダビデのように」と、そのようにしますか。
(118-129、1982.5.9)
12 支派を代表する12 人を立て、カナンの地を偵察させたとき、彼らは、自分の力ではカナン七族にかなわないと報告しました。しかし、12 人のうち、ヨシュアとカレブは違いました。イスラエル民族が反旗を掲げているとき、堂々と現れ、「私達を今まで導いてこられた神様は生きていらっしゃいます。イスラエル民族に立ちふさがっていた紅海を分けて平坦な道を造り、渡ることができるようにしてくださった神様は、生きていらっしゃいます。その神様を信じていく道こそが、私達の行く道です」と叫んだヨシュアとカレブでした。神様は、ヨシュアとカレブを御覧になり、彼らに道を開いてくださったことを知らなければなりません。
(19-240、1968.1.15)
これは、ゴリアテとダビデの比喩になります。私達は武器もなく、訓練もされていません。継ぎはぎの1枚の服を着たみすぼらしい牧童ダビデと同じです。しかし、神様の名によって握られた短い棒切れがあるのです。それがアメリカの地でできなければ、韓国の地でできるのであり、韓国の地でできなければ、中東でできるのであり、そうでなければモスクワ大会のような所でできるのです。いつかそのような対決の一日があるでしょう。その日のために、私達は団結し、訓練し、集結しなければなりません。
私の額が割れても、私の目が飛び出しても、私の命が血を流すことがあっても、このことのために行くのです。16 カ国のUN軍が韓国の至る所で血を流したのですから、私達統一教会の人たちは、至る所で共産主義と闘いながら、世界と神様のためにそれより多くの血を流すことがあっても、行かなければならないと考える人です。そのようなことを断行する国と国民がいなければ、神様の希望の基準がこの地球上から飛んでいってしまうことを知らなければなりません。そのような天地の共同運命を懸けて前進しなければなりません。
(88-323 ~ 324、1976.10.3)
「私の勇猛かつ、力あふれるこの誓いの声とともに、あるいは若い胸に躍る鼓動の音、喚声を上げ敵陣に向かって行軍する隊列と共に、この進軍にかかっているのだ!」と、このようになれば、その光景を見ていた霊界の数千億の霊人たちも拍手をしながら歓迎するのです。地獄に行っている霊人たちまでも、「どうか勝利してください。どうか勝利してください。私は顔を上げて行きますが、たとえはってでもやり抜くでしょう」と、このようなことも起こり得るのです。このように天地が動員され得る息詰まる瞬間が、この一つの国を中心として何年かのうちに決定されますが、「よし、その決戦場に臨み血を吐いて倒れることがあったとしても男らしく、義をもって戦い、正義に基づく天の功臣として自らの命を捧げよう」とするなら、それですべてのことが解決されるのです。そこから新たな歴史が始まるのです。
私達は、このような一つの時を標準として歩んできたために、この一つのことを誓うための一つの願いがあるがゆえに、今まで家庭から排斥され、国から排斥され、数多くの教団から排斥されてきたのではないですか。天が望み、歴史が望み、人類が望む最後の決定的なその一日のために、荘厳かつ素晴らしい勝利をせよと、多くの人々を恨み多き運命の道に犠牲を強いながら歩ませたのではなかったでしょうか。それが私達の振るう一太刀によって、私の流す汗と私の行動によって連結できるとは、これこそ前代未聞のことではないでしょうか。それを自分の目で見ることができ、自分の感触で感じることができ、それを活動の舞台として戦うことができるならば、これ以上生きがいのある人生がどこにあるというのでしょうか。そのことを感じなければなりません。
(57-352 ~ 353、1972.6.5)
2. 霊的闘争
― 宗教経典 ―
私達は肉において歩んでいますが、肉に従って戦うのではありません。私達の戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。私達は理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。
コリントの信徒への手紙二10.3 ~ 6(キリスト教)
謙遜は私の盾である。自らすべての人の足元のほこりになることが私の剣なのだから、あえてどの悪なる者が立ち向かうことができようか。
アーディ・グラント、ソーラトM.5、p.628 (シーク教)
最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。私達の戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。
だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。
エぺソの信徒への手紙6.10 ~ 17(キリスト教)
聖者たちの軍隊は無敵である。彼らは偉大な戦士であり、謙遜は彼らの鎧だ。主を賛美することが彼らの剣であり、グルの言葉は彼らの盾だ。彼らが聖なる道をはっきりと知る馬と戦車と象に乗り、恐れることなく敵陣を打ちつけていく。主を賛美し、戦場に突進する。あの五つの頭の盗賊たち、あの邪悪な群れたちを征服するため、すべての世が彼らの足元にひれ伏した、
アーディ・グラント、スローク・サハスクリティーM.5、p.1356 (シーク教)
― み言選集 ―
私達が怨讐を愛する心をもてば、神様の側に立てます。
(52-87、1971.12.22)
イエス様は、個人的な怨讐がすべてではないということを知ったのです。家庭的な怨讐があり、氏族的な怨讐があり、民族的な怨讐があり、国家的な怨讐があり、世界的な怨讐が四方からがんじがらめにしているということを知りました。この言葉は、私の道に従って行こうとする人には、数多くの怨讐が待っているという意味です。そして、家庭的に行けば家庭的な怨讐が待っていて、氏族的に行けば氏族的な怨讐が待っていて、熾烈な戦いが予想されますが、そのたびに怨讐を愛するというのがみ言です。このような精神をもっていれば、いつかは勝利することができるのです。
(107-19、1980.2.21)
私達が闘うべき怨讐は、地上のある一人ではなく、6000 年という長い長い歴史過程を経ながら、神様に対して反旗を翻し、神様を讒訴した、公衆の権勢をつかんだサタンだということを私達は知っています。
(3-180、1957.10.27)
私達は戦争をしているのです。私達は愛の弾丸を撃つのですが、あの悪魔の圏内では、愛と反対のねたみと嫉妬の矢を放ちます。私達は愛の銃弾を撃つのです。愛の銃弾を悪の人が反対した以上に撃たなければなりません。それがレバレンド・ムーンの主張です。彼らのねたみと嫉妬の銃弾、謀略の銃弾は、私達のところに来ても、貫くことができずに、それていきます。しかし、私達の銃弾に彼らが撃たれれば、溶けていって、元の人はいなくなり、別の人に生まれ変わるようになります。
レバレンド・ムーンは闘いながら発展し、批判されながら発展し、追われながら発展してきました。今回の法廷闘争も、アメリカ政府対レバレンド・ムーンの闘争です。アメリカ政府は、ねたみと驕慢と謀略を中心としてきましたが、私は愛で応酬するというのです。ダビデとゴリアテのようにです。
(119-111 ~ 112、1982.7.4)
3. 戦争が正当化される場合
― 宗教経典 ―
神様は、一人の善人を立てて、10 人の悪人を屈服させるということをされる方です。私達をして、悪までも悲しく思わざるを得ない内容を抱えていくようにすることによって、悪が自ら屈服して絶対服従できるようにし、本当の勝利者にすることが神様のみ旨であることを知らなければなりません。
聞け、イスラエルよ。あなたは今日、ヨルダン川を渡り、行ってあなたよりも大きく強い国々を追い払おうとしている。町々は大きく、城壁は天に達し、民は、あなたの知っているアナクの子孫で、大きくて背が高い。あなたは、「誰がアナクの子孫に立ち向かいえようか」というのを聞いたことがあろう。
しかし、今日、あなたの神、主は焼き尽くす火となり、あなたに先立って渡り、彼らを滅ぼしてあなたの前に屈服させられることを知り、主が言われたとおり、彼らを追い払い、速やかに滅ぼしなさい。あなたの神、主があなたの前から彼らを追い出されるとき、あなたは、「私が正しいので、主は私を導いてこの土地を得させてくださった」と思ってはならない。この国々の民が神に逆らうから、主があなたの前から彼らを追い払われるのである。
申命記9.1 ~ 4(キリスト教)
使徒がある指導者を遠征隊の隊長に任命したとき、彼が命じた。「神の名により、神のやり方で闘え。神を信じない者たちと闘え。背反する方法を使わず、略奪したり障害者にしてはならない。子供や隠遁者を殺害せず、ナツメヤシの木に火をつけたり、それらを水に落としたりしてはならない。実る木を切らず、穀物を燃やしてはならない。いつそれらを必要とするか分からないのだから、食べなければならない動物を除いて、肉を食用できる動物を殺してはならない。
ムスリムの敵に出会ったら、三つのうち一つを求めよ。もし彼らがあなたの要求に従えば彼らを受け入れ、いかなる行動も慎め。彼らをイスラームと呼べ。……イスラームの地に移住することを求めよ。……あるいは彼らの財産からジズヤ(人頭税)を支払い服従するよう求めよ」。
ハディース(イスラーム)
革とは水と火がたがいに消しあい、二女が同じ家に居ってたがいに気持ちの合わぬ状態、これを革というのである。已に革むべき時に至ってこれを革めれば孚とされるというのは、革めてしかも人々がこれを信ずることである。革める人に文明の徳があり人々がこれを説ぶのであるから、大いに亨りしかも正しきを得るのであり、革めて道理に当たっていれば、その侮りも消え失せる。およそ天地陰陽の気は相い革まることによって四時を成立させ、殷の湯王・周の武王は革命すなわち天の命を革ためることによって、天道に従い人心に応ずることができたのである。かく考えれば革の時は偉大なことではある。
易経49、周易下経、革(儒教)
商の湯王が告げた、「さても、汝たちもろ人よ。みなみな予がいうことを聴け。予小子がくわだてて反乱を起そうとしているのではない。夏の国に多くの罪があるので、天は、予に命じてこれを倒させなさるのだ。ところが、汝たちもろもろよ。汝たちは、『わが君は、われわれの人民のことを考えずに、われわれの農務をさしおかせて、なんだって夏を征伐するのか』といっている。
だが、予が汝たちの人民のいっていることを聞けば、夏の君に罪があることは明白だ。予は人民を愛する上帝の意志をうやまえばこそ、征伐せずにはいられないのだ。ところがまた、汝たちは、『夏の罪はいったいどんなふうなのか』といっている。夏の王は、人民の力を疲れはてさせて、夏の国を害ってしまったのだ。だから人民たちは働く気力を失って協同しようとはせず、『この太陽さえも何時か亡びるのであろうか。わしもおまえもみんな亡びてしまうのだ』といってなげいている。夏の悪行はこの通りだ。されば予は必ず往って征伐するのだ。汝たちは、どうか予一人を助けて天の罰を果たさせよ。」書経4.1(儒教)
戦争は悪いことである。しかし、異なる国の支配に服従することはもっと悪い。自由、もし私達が堅固に支え続けることができれば、究極的には私達が失っていたものを取り戻してくれるだろう。しかし、服従は私達が大切にしているすべてのものを永遠に失うことを意味するのである。……自らを平和な人だと呼ぶあなたに私は一言言う。「あなたの側で行動する人がいなければ、あなたは安全ではない」。
トゥキュディデス戦史(ヘレニズム)
― み言選集 ―
並外れた善の人格を追求する個人を歓迎する人は、この地に多くないという事実を、私達は知るようになります。善の個人が善の家庭を慕っていくにおいても、環境が歓迎してくれないことを私達が知るようになるとき、善の家庭が善の氏族を慕いながら歩んでいく道の前においては、より一層困難な悪の与件がその環境に取り巻いていることを感じるようになるのです。さらには、善の氏族が善の国家を成していくときは、より途方もない悪の勢力が反旗を翻し、その氏族が行く道を妨げようとするのは間違いありません。
また、善の国があり、善の世界を追求していくときは、この世界が善の世界になることができないので、悪の国々が、その善の国が行く道を協助するのではなく、あらゆる方向から反対してくることは間違いないのです。ある善の氏族が行こうとする道には、数多くの悪の氏族が反旗を翻して闘ったのであり、必然的に善の国家を要求する人類の前に善の国があるというときは、その国は、すべての国から歓迎されるのではなく、全的に反対を受けたのです。善の国と悪の国が対決し、善が残るのか、悪が残るのかという勝敗を決する戦いを経なければ、善の国として残ることはできないので、このような闘いの歴史過程を経てきたという事実を私達はよく知っています。
(36-52 ~ 53、1970.11.15)
闘争や戦争を、単純にある利害関係や理念の衝突から起こる結果であると見るのは、神の根本摂理を知らないところからくる軽薄な考え方である。人類歴史は人間始祖の堕落により、サタンを中心とする悪主権をもって出発し、罪悪の世界を形成してきたのである。しかし、神の創造目的が残っている限り、その歴史の目的も、あくまでサタンを分立して神の善主権を復帰するところになければならない。もし、悪主権の世界に戦争や分裂がないとすれば、その世界はそのまま永続するはずであり、したがって、善主権は永遠に復帰できないのである。それゆえに、神は堕落人間に聖賢たちを遣わされ、善を立て、宗教を起こすことによって、より善なる主権をして、より悪なる主権を滅ぼさせながら、漸次、天の側の主権を復帰なさる摂理をしてこられたのである。したがって、復帰摂理の目的を成就するためには、闘争と戦争という過程を経なければならない。
この問題に関しては、後編においてより詳しく論ずる予定であるが、人類歴史は蕩減復帰の摂理路程を歩いていくので、ある局限された時間圏内においてだけこれを見れば、悪が勝利を勝ち得たときもないことはなかった。しかしそれは結局、敗北し、より善なる版図内に吸収されていったのである。それゆえに、戦争による国家の興亡盛衰は、善主権を復帰するための摂理路程から起こる、不可避的な結果であったといわなければならない。ゆえに神は、イスラエル民族を立てカナンの七族を滅ぼされたのであり、また、サウルは神の命令に従わず、アマレク族とそれに属する家畜を全滅させなかったために、厳罰を受けたのである(サムエル上15・18 ~ 23)。神はこのように、直接異民族を滅ぼすようイスラエルに命令されたのみならず、その選民であった北朝イスラエルが、悪の方向に傾いてしまったときには、惜しみなく彼らをアッシリヤに手渡し、滅亡させてしまわれたのである(列王下17 23)。
神がこのようにされたのは、ひたすら悪主権を滅ぼして、善主権を復帰なさろうとしたからであったということを、我々は知らなければならない。ゆえに、同じ天の側における個人的な闘争は、善主権自体を破壊する結果となるがゆえに悪となるのであるが、善主権が悪主権を滅ぼすことは、神の復帰歴史の目的を達成するためであるという理由から、これは善となるのである。
原理講論、人類歴史の終末論4.2
皆さん! ダビデ王を尊敬しますか、しませんか。ペリシテびとのゴリアテを葬り去ったことが良いのですか。3000 年の歴史を経たイスラエルの国の基盤がすべて崩れてなくなるところを、このダビデが行って残るようにしたので、神様の側から見るとき、「いやあ、よくやった!」と思うがゆえに良いのです。
(103-181 ~ 182、1979.2.25)
5) 迫害
迫害の形態として人間の信念を試みるとき、少なからず犠牲が伴う。虐待、誤解、非難、嘲笑、追放、侮辱などを願う人は誰もいない。しかし、迫害は義人に影のようにつきまとう。私達が迫害によって滅びれば、迫害は何の価値もない。しかし、不平や恨みなく迫害を信念で打ち勝ち、消化した人たちは、天の高い御座に位置することができる。
切迫した迫害は、全的に自己犠牲と自己否定の境地に導くため、かえって祝福となり得る。切迫した状況は、誰も凌駕できない自己否定の境地で、自分の努力で到達できない限界を飛び越えるようになる。犠牲のあとに祝福が訪れてくるという脈絡から見れば、迫害の恵みを受ける人たちが、あとで迫害の加害者たちに対する否定的憎悪心や復讐心を捨て、かえって彼らに同情心を施せるという事実は、それほど驚くことではない。利他心は聖性を宿し、神性へと向かう。それで、迫害の時代に宗教はより一層栄えるという逆説は、歴史的事実として立証される。
文鮮明先生は、神様とサタンの間に一種の契約が存在すると言われる。サタンが無辜の義人を迫害するとき、神様は、その保障を要求する権利を確保するようになる。このような方法によって、歴史の中で善は常に先に打たれたが、結局は取り戻してくるという摂理が経綸されてきたのである。神様はこの原則を、歴史に論理的形式で適用される。神様の創造目的を具現する方法として信仰者は、迫害までも歓迎することができ、特には苦難の道を自ら主導することができなければならない。
― 宗教経典 ―
私のためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
マタイによる福音書5.11 ~ 12(キリスト教)
戦場の象が、射られた矢にあたっても堪え忍ぶようにわれはひとのそしりを忍ぼう。多くの人は実に性質が悪いからである。
法句経320(仏教)
なんじらは、財産や生活について必ず試みにあい、なんじら以前に経典を下された者からも、多神教徒からも、多くの悪口を聞くであろう。だがなんじらが耐え忍んで、主を畏れるならば、まことにそれはよろずの事を決定する要因であろう。
クルアーン3.186 (イスラーム)
陳の国で食糧がなくなり、お供の人々は疲れはてて立ち上がることもできなかった。子路が腹をたててお目みえすると、「〔修養をつんだ〕君子でも困窮することがあるのですか。」といった。先生はいわれた、「君子ももちろん困窮する、だが小人は困窮するとでたらめになるよ。」
論語15.2(儒教)
そればかりでなく、苦難をも誇りとします。私達は知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望は私達を欺くことがありません。私達に与えられた聖霊によって、神の愛が私達の心に注がれているからです。
ローマの信徒への手紙5.3 ~ 5(キリスト教)
人びとは、「私達は信仰する」と言えば、試みられることはなく、放っておかれると考えるか。まことにわれは、かれら以前の者も試みたのである、神は、誠実な者を必ず知りたまい、また虚言者をも必ず知りたもう。
クルアーン29.2 ~ 3(イスラーム)
「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前に私を憎んでいたことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。私があなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。『僕は主人にまさりはしない』と、私が言った言葉を思い出しなさい。人々が私を迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。私の言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう。
ヨハネによる福音書15.18 ~ 20(キリスト教)
イスラエルの民も苦痛を通してこそ、義人の姿に戻っていく。
タルムード、ムナホート53b(ユダヤ教)
この高貴な道において真理を探求する者の正しい態度とは、次のようなものである。「私の民が疑いの目をもって見んことを。私の妻と子が私を見捨てんことを。人々があざけらんことを。王達が罰を与えんことを。しかし私は堅く立つ。ああ、至高の神よ、私は意と言と身体と行動をもってあなたに仕え、永久に仕えます。私はあなたの法を離れません。」
クラールナヴァ・タントラ2(ヒンドゥー教)
だれが、キリストの愛から私達を引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。「私達は、あなたのために一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、私達は、私達を愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。
ローマの信徒への手紙8.35 ~ 37(キリスト教)
それともなんじらは、先に過ぎ去った者たちが出会ったような、試みがまだなんじらに来ないのに、至上の幸福の園にはいろうと思っているのか。かれらは災難や困窮に見舞われ、不安の中に動揺させられて、使者も、一緒にいた信者たちも「神のお助けはいつ来るだろう」と叫んだほどであった。ああ、まことに神の助けは近づいている。
クルアーン2.214 (イスラーム)
しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、私の名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、私があなたがたに授けるからである。あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また、私の名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。
ルカによる福音書21.12 ~ 17(キリスト教)
比丘たち、これ、すなわち托鉢は、最低の生活である。比丘たち、これは世間では、「お前は乞食で、手に鉢を持って歩きまわっている。しかも、比丘たち、よき家の子たちは、正しい目的をもって、正しい目的によって、あえてそれに行くのである。畏れがあるからではない。
如是語経91(仏教)
仏がこの世を去られたのちに、恐ろしい悪世のさなかで、われらは広く説くでありましょう。もろもろの無智の人が悪口し、罵り、刀杖を揮ったりすることがあっても、われらは皆、忍ぶでありましょう。悪世の中の比丘は、邪智であり、心に諂曲があり、未だ会得してもいないものを得たと思いこみ、我執の心で充満しているであろう。……悪鬼にとり憑かれたような人が、われを罵り、そしっても、われらは仏を敬い信じている故に、忍耐の鎧を身に着けて、この経を説くために、このもろもろの難事を忍ぼう。われらは身命を愛することなく、ただ無上道のみを惜しむ。
法華経13(仏教)
主なる神は、弟子としての舌を私に与え、疲れた人を励ますように、言葉を呼び覚ましてくださる。朝ごとに私の耳を呼び覚まし、弟子として聞き従うようにしてくださる。主なる神は私の耳を開かれた。私は逆らわず、退かなかった。打とうとする者には背中をまかせ、ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。主なる神が助けてくださるから、私はそれを嘲りとは思わない。私は顔を硬い石のようにする。私は知っている。私が辱められることはないと。
私の正しさを認める方は近くいます。誰が私と共に争ってくれるのか。われわれは共に立とう。誰が私を訴えるのか。私に向かって来るがよい。見よ、主なる神が助けてくださる。誰が私を罪に定めえよう。見よ、彼らはすべて衣のように朽ち、しみに食い尽くされるであろう。
イザヤ書50.4 ~ 9(キリスト教)
ネブカドネザル王は一つの金の像を造った。高さは六十アンマ、幅は六アンマで、これをバビロン州のドラという平野に建てた。ネブカドネザル王は人を遣わして、総督、執政官、地方長官、参議官、財務官、司法官、保安官、その他諸州の高官たちを集め、自分の建てた像の除幕式に参列させることにした。総督、執政官、地方長官、参議官、財務官、司法官、保安官、その他諸州の高官たちはその王の建てた像の除幕式に集まり、像の前に立ち並んだ。
伝令は力を込めて叫んだ。「諸国、諸族、諸言語の人々よ、あなた達に告げる。角笛、横笛、六絃琴、竪琴、十三絃琴、風琴などあらゆる楽器による音楽が聞こえたなら、ネブカドネザル王の建てられた金の像の前にひれ伏して拝め。ひれ伏して拝まない者は、直ちに燃え盛る炉に投げ込まれる。」それで、角笛、横笛、六絃琴、竪琴、十三絃琴の音楽が聞こえてくると、諸国、諸族、諸言語の人々は皆ひれ伏し、ネブカドネザル王の建てた金の像を拝んだ。
さてこのとき、何人かのカルデア人がユダヤ人を中傷しようと進み出て、ネブカドネザル王にこう言った。「王様がとこしえまでも生き永らえられますように。御命令によりますと、角笛、横笛、六絃琴、竪琴、十三絃琴、風琴などあらゆる楽器の音楽が聞こえたなら、だれでも金の像にひれ伏して拝め、ということでした。そうしなければ、燃え盛る炉に投げ込まれるはずです。バビロン州には、その行政をお任せになっているユダヤ人シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの三人がおりますが、この人々は御命令を無視して、王様の神に仕えず、お建てになった金の像を拝もうとしません。」
これを聞いたネブカドネザル王は怒りに燃え、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴを連れて来るよう命じ、この三人は王の前に引き出された。王は彼らに言った。「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴ、お前たちが私の神に仕えず、私の建てた金の像を拝まないというのは本当か。今、角笛、横笛、六絃琴、竪琴、十三絃琴、風琴などあらゆる楽器の音楽が聞こえると同時にひれ伏し、私の建てた金の像を拝むつもりでいるなら、それでよい。もしも拝まないなら、直ちに燃え盛る炉に投げ込ませる。お前たちを私の手から救い出す神があろうか。」
シャドラク、メシャク、アベド・ネゴはネブカドネザル王に答えた。「このお定めにつきまして、お答えする必要はございません。私達のお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手から私達を救うことができますし、必ず救ってくださいます。そうでなくとも、御承知ください。私達は王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」
ネブカドネザル王はシャドラク、メシャク、アベド・ネゴに対して血相を変えて怒り、炉をいつもの七倍も熱く燃やすように命じた。そして兵士の中でも特に強い者に命じて、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴを縛り上げ、燃え盛る炉に投げ込ませた。彼らは上着、下着、帽子、その他の衣服を着けたまま縛られ、燃え盛る炉に投げ込まれた。
王の命令は厳しく、炉は激しく燃え上がっていたので、噴き出る炎はシャドラク、メシャク、アベド・ネゴを引いて行った男たちをさえ焼き殺した。シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの三人は縛られたまま燃え盛る炉の中に落ち込んで行った。間もなく王は驚きの色を見せ、急に立ち上がり、側近たちに尋ねた。「あの三人の男は、縛ったまま炉に投げ込んだはずではなかったか。」彼らは答えた。「王様、そのとおりでございます。王は言った。「だが、私には四人の者が火の中を自由に歩いているのが見える。そして何の害も受けていない。それに四人目の者は神の子のような姿をしている。」
ネブカドネザル王は燃え盛る炉の口に近づいて呼びかけた。「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴ、いと高き神に仕える人々よ、出て来なさい。」すると、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴは炉の中から出て来た。総督、執政官、地方長官、王の側近たちは集まって三人を調べたが、火はその体を損なわず、髪の毛も焦げてはおらず、
上着も元のままで火のにおいすらなかった。
ネブカドザル王は言った。「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの神をたたえよ。彼らは王の命令に背き、体を犠牲にしても自分の神に依り頼み、自分の神以外にはいかなる神にも仕えず、拝もうともしなかったので、この僕たちを、神は御使いを送って救われた。
ダニエル書3.1 ~ 28(キリスト教)
― み言選集 ―
天国は、地獄を通過していく道にある。
御旨の道、天国
迫害というものは、サタン世界の所有権を譲渡される一つの作戦的な方便です。真の宗教は、迫害を受けるときになぜ発展するのかという原則を歴史時代には分かりませんでしたが、このような原理を通して自明になるのです。歴史時代の聖人たちの中で、イエスも迫害を受け、孔子も喪家の犬と言われながら迫害され、仏教の釈迦牟尼も迫害され、ムハンマドも迫害を受けたのです。そのような迫害されたすべての人たちが聖人になったのは、この原則において……。
歴史が、時間と時が過ぎていくに従って、自然に自分の時として来ることによって勝利するようになるのです。この原則から歴史が動いていくということを知らなければなりません。それでは、世界的な宗教指導者として全世界がすべて、共産主義、民主主義を問わずすべてが反対したという事実は、全世界のものを神様が相続させるための作戦だという結論も妥当な理論なのです。
(189-205 ~ 206、1989.4.6)
人類歴史は、今まで闘争の歴史でしたが、その内容は、神様とサタン、善と悪がその真ん中にいる人を奪う争いでした。堕落によって悪の歴史が先に出発したために、闘いは常に悪の側が先に攻撃して善を打ったのであり、善は打たれながら守勢に追い込まれましたが、神様が善の側でいらっしゃるので、いつも勝利を収めるようになり、結局は打たれて奪ってくるようになるのです。
(88-209、1976.9.18)
神様の戦略戦術は、打たれて損害賠償を追加して取り返すことであり、サタンは打って返すのです。したがって、サタンは打って滅び、神様は打たれて繁栄していきます。その方法によって文先生は、打たれながらもサタン世界から利子まで加えて弁償されて勝利の基盤をもつようになったので、自動的に迫害の過程を通過しながら発展してきました。
(249-105、1993.10.8)
宗教が殉教の闘争の中で発展してきたごとく、迫害を受けるときは腐敗しない。
御旨の道、試験・試練
神様の作戦とサタンの作戦は、反対です。神様は打たれて奪ってくるのであり、サタンは打って奪われるのです。神様は打たれながら繁栄し、サタンは打って滅びるというのです。
(234-69、1992.8.4)
統一運動の本当の会員は、迫害と試練を受けるとき、迫害した人たちを恨むよりは、かえって彼らを霊的成長の滋養分として受け入れます。
(129-303、1983.11.25)
すべての十字架は私が責任をもち、村で石を投げられても、私が先に打たれようとし、批判されても、私が先に受けようとし、たたかれるのも、私が先にたたかれようとしなければなりません。
(96-123、1978.1.2)
人の骨でたたくからといって、真の愛が断ち切れますか。それでは、どちらが壊れますか。真の愛が壊れますか、骨が壊れますか。骨が壊れます。どんどん打ちなさい、どんどん打てばお前は消えていくということです。それでも、サタンはしきりに打ちます。真の愛は打てば打つほど、打つほうが消えていくのです。それでは、なぜ神様は迫害するのを処置せずにそのままにしておかれるのですか。打てば打つほど、打つほうが消えていくことを御存じなのでそのままにしておかれるのです。なぜですか。完全に根絶するためです。そして、これが肥料になるのです。腐ってそれがすべて肥料になります。
(230-131、1992.5.1)
皆さんは、涙を流さなければなりません。革命の歴史を見れば、その背後に必ず血の涙がこもっています。追われ、迫害され、批判され、たたかれました。ここで話をしている先生も、そのような闘争の道を歩んできました。私の悲しみより、神様の悲しみが数千万倍もっと大きいことを知らなければなりません。人間の平面的な悲しみは、神様の立体的な悲しみと比較することはできません。
(11-227、1961.9.20)
天に感謝しながら走ってきてみますと、70 歳近い老身の時代が私の目前に近づきました。そのように血気旺盛な青春の時節に、すべての情熱を燃やし尽くし天に侍り、天のみ前に栄光を帰すべきその時をすべて忘れ、民族の背信者として、人類の反逆者として追われてきたその日から、統一教会が言葉なく打たれて奪ってくる戦法を通して、今まで耐えてくるようにしてくださったことに感謝を申し上げます。
あなたは愛であられました。あなたが鉄の窓に追い出すのは、私のために歓喜に満ちた環境の水準を準備し、福を与えるための相続的な場を下さるためであることを思うとき、過ぎてみればすべてのものが愛であり、あなたの広い厚徳のみ手でありました。それを思うとき、感謝申し上げます。
(162-334、1987.4.17)
6) 殉教
信仰者が自身の確信と価値に危険を感じた敵対的為政者たちに出会ったとき、彼らの中の何人かは、むごたらしい代価を支払わなければならないかもしれない。文鮮明先生は、霊的な現象から見れば、善が栄えるときには、いつもサタンがその代価を請求すると言われる。それで、多くの場合、最も善の人たちが先に犠牲になるのを見ることができる。
「殉教」という単語の意味は「証」である。殉教者たちは、死に直面しながらも、揺るがない姿で自分の信念を証し、その信念を鼓舞させた神様を証する。自分よりも神様に先に仕える殉教者の人生は、強力で励みになる。したがって、殉教は、信仰共同体を強化させ、その根を強固にし、成長を図る。テルトゥリアヌスの有名な言葉がある。「殉教者の血は教会の種」。
今日、ある人々は、イスラームの自爆テロ犯のように無謀な人の命を無残に奪っていく無法者たちまでも殉教者として扱っている。それが殉教であれば、恐らく最も低級な水準の殉教であろう。最高の殉教とは、イエス様が自らを十字架に打ちつけたローマ兵たちまでも祝福してくださったように、至善と慈悲の基礎の上に顕示されるものである。
― 宗教経典 ―
そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、私の名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。
マタイによる福音書24.9 (キリスト教)
主の慈しみに生きる人の死は主の目に価高い。
詩編116.15 (キリスト教)
実に天国の門は、剣の影の下にある。(注5)
ムスリム・ハディース(イスラーム)
神の道のために殺害された者を、死んだと考えてはならぬ。いや、かれらは主のみもとで扶養されて、生きている。かれらは神のお恵みにより、賜わったものに満悦し、かれらのあとに残された、一緒でなかった者たちのために、恐れもなく憂いもないと、考えてよろこんでいる。神のお恵みと恩典をよろこび、また神が信者への報奨を、決してむなしゅうしたまわぬことをよろこんでいる。
クルアーン3.169 ~ 171 (イスラーム)
大義名分に身命を捧げる義なる者たちの死は聖なるものである。彼らこそ英雄と呼ぶことができる。神国の正門で真の栄光を得るため、彼らは栄光と共に旅立つ。すべての苦痛から抜け出す。もし彼らがあの唯一者、主に祈れば、このような褒美をもらい、すべての恐れを退ける。自らの苦痛を叫ぶことなく、ただ心の中で静める彼ら、主は彼らのすべてのことを一つ一つくみ取り、ご存じである。大義名分を求め身命を捧げる義なる者たちの死は、実に聖なるものである。
アーディ・グラント、ヴァダハンス、アルジャン・ダージ、M.1p.579(シーク教)
ラビ・アキバが処刑され、息をひきとるときはシェマを暗唱する時間だった。人々は鉄のくしでアキバの体にくしを入れてあげ、アキバは(シェマを暗唱することによって)自ら天の国の王権を受け入れていた。弟子たちが彼に尋ねた。「師よ、この瞬間までも唱えなければなりませんか」。アキバが彼らに言った。「一日中私は『あなたは心を尽くし』(申命記6.5)という言葉をもって苦心した。私はこの言葉を『たとえ神が私の霊を取るとしても』と解釈する。この言葉を私が成就するときはいつか。今この言葉を成就できる機会が私に訪れたのではないか」。アキバは息をひき取るまで(祈りの文の)最後の言葉を長く伸ばして祈った。
タルムード、ブラホート61b(ユダヤ教)
求道者・すぐれた人々は、一切の思いをすてて、この上なく正しい目ざめに心をおこさなければならない。かたちにとらわれた心をおこしてはならない。声や、香りや、触れられるものや、心の対象にとらわれた心をおこしてはならない。
金剛般若経14(仏教)
ステファノは恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた。ところが、キレネとアレクサンドリアの出身者で、いわゆる「解放された奴隷の会堂」に属する人々、またキリキア州とアジア州出身の人々などのある者たちが立ち上がり、ステファノと議論した。しかし、彼が知恵と“霊”とによって語るので、歯が立たなかった。そこで、彼らは人々を唆して、「私達は、あの男がモーセと神を冒pする言葉を吐くのを聞いた」と言わせた。また、民衆、長老たち、律法学者たちを扇動して、ステファノを襲って捕らえ、最高法院に引いて行った。そして、偽証人を立てて、次のように訴えさせた。
「この男は、この聖なる場所と律法をけなして、一向にやめようとしません。私達は、彼がこう言っているのを聞いています。『あのナザレの人イエスは、この場所を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習を変えるだろう。』」最高法院の席に着いていた者は皆、ステファノに注目したが、その顔はさながら天使の顔のように見えた。
大祭司が、「訴えのとおりか」と尋ねた。そこで、ステファノは言った。「兄弟であり父である皆さん、聞いてください。……人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした。ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、都の外に引きずり出して石を投げ始めた。
証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、私の霊をお受けください」と言った。それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。
使徒言行録6.8 ~ 7.2、7.54 ~ 60(キリスト教)
この書と『モルモン書』の証を確実なものとするために、私達は、預言者ジョセフ・スミスと祝福師ハイラム・スミスの殉教を発表する。彼らは、1844 年6月27 日午後5 時ごろ、カーセージの監獄において、150 名から200名の、顔を黒く塗り武装した暴徒により銃撃された。ハイラムが最初に撃たれ、「私は死ぬ」と叫んで静かに倒れた。ジョセフは窓から飛び降りたが、その途中で撃たれ、「おお、私の神、主よ」と叫んで死んだ。彼ら二人は死んだ後も残酷に銃撃され、両者とも四個の弾丸を受けた。
教義と聖約135.1(末日聖徒イエス・キリスト教会)
肉身の生命の代価を払ってでも、私達の白人の兄弟姉妹を永遠の霊の死から解放させることができるのならば、これほどの贖罪はないだろう。
マーティン・ルーサー・キング・ジュニア(キリスト教)
― み言選集 ―
偉大な宗教は、迫害と殉教の土壌の上に立てられたのであり、創始者の貴い伝統基盤の上に立っているので、私達は、みな犠牲を忌避するのではなく、宗教本来の名誉を探し立てなければなりません。
(271-72、1995.8.21)
歴史を通して宗教は、犠牲の価値を教訓として教えてきましたが、それは結局、神様の前に行くようにするためのものでした。神様の前に行く道には数千段階があるのですが、各段階で神様は勝利を収め、サタンは敗北するようになります。しかし、サタンは最高の犠牲の代価を要求するのです。サタンは敗北することを好みません。ですから、キリスト教史において、大勢の殉教者が出るようになったのです。
キリスト教がどの宗教より多くの殉教者を輩出したことは、キリスト教が摂理の中心宗教だからです。殉教は人間たちの目に挫折や失敗に見えますが、神様には勝利でした。これが正に、キリスト教が反対と迫害を受けながらも勝利し続けた理由です。サタンは敗北する代価として、常に大きな犠牲を要求しているのです。
(130-283、1984.2.7)
今日のキリスト教では、殉教の歴史を誇っています。いつ、どの地域を問わず、キリスト教が入っていった所では、必ず殉教の血を流したのです。このように血を流し、宣教の基盤を築いてきたことを私達は知っています。しかし、私達は、個人、家庭、あるいは団体が無残に犠牲になったということばかり考えてはいけません。彼らの悲惨さよりも、彼らを導いてこられた神様が悲惨な道を歩んでこられた事実を知らなければなりません。
(13-220 ~ 221、1964.3.22)
皆さんは、「私はいつ負けるのか。私という人間はいつ敗れていくのか」と考えてみたことがありますか。そこで私の手の節々が切られても、切られて死んでも、銃で撃たれて一度に死んでも、そうすればそれが可能です。私の生涯はそれだった、私のすべてはそれだった、死ぬのもそれによって、生きるのもそれによって……。そのような人は、死と生を超越した人だというのです。死と生を超越した方が神様なので、その人は神様の友人になります。
(66-317、1973.5.17)
いかなる苦痛と悲しみ、そしていかなる困難が迫ってきても、大宇宙の理念圏内にいる自分の位置が、その程度の困難に揺さぶられてはいけないことを知っている人は、その苦痛の峠を越えていくでしょう。また、この程度の苦痛に耐えられない自分ではない、この程度の死の峠と取り替えなければならない私の命ではないと感じる人がいれば、彼は、人生行路において成功した人です。
「いかなる迫害と死の峠が迫ってきても、私が行く方向を変えることはできない。私の価値は、地上の何物とも取り替えることができない」と考える人は、地上にいても天の人です。地で死んでも、彼は天の人です。
(9-166、1960.5.8)
キリスト教を通して数千年の歴史の中で大勢の殉教者が出たように、それを覚悟して死んで生きようという中で、「天のために命を捧げ、万民と共に解放の基台を築いて死にます」という、そこから基盤ができるのです。家庭にとって重要な人、氏族にとって重要な人が、死んだ千万の人より、天が私達の約束を整えるようになるとき、生きるというのです。それが重要な問題です。そのような基盤が残るようになるとき、その基盤を後代の人が踏んで上がっていくのです。
(218-236、1991.8.19)
ですから、イエスのような方は、そのような道で追いに追われ、自分の民族に追われるだけでなく、ローマ帝国に追われて死んでいきながらも、怨讐がイスラエルでありローマであるにもかかわらず、この怨讐を恨むのではなく、愛しなさいと教えたのです。ローマは、きょうの怨讐ですが、あすには自分たちの子孫を通してローマに与えなければならない福があるからです。その福は、ローマを救って余りある愛の福なので、彼らが願うようになるこの福を与えたいと思う心が先立ったイエスの心には、未来のローマを考え、赦し、福を与えざるを得なかったという、驚くべき事実を知らなければなりません。
(101-151、1978.10.29)
天国に行こうと殉教する人は、地獄に行くのです。「私がこのようにすれば天国に行く」と考える人は、地獄に行くというのです。しかし、自分は地獄に行っても世界の人を天国に送らなければならないと考える人は、「天国には行かない」と思っても天国に行くようになっています。
(39-197、1971.1.10)
第18章 謙遜と自己否定
謙遜と自己否定
1) 謙遜
謙遜な姿勢は、天と親しく交わるための必須要件である。どんな理由でも、卓越した知性、富、高い地位、そして称賛などによる慢心は、求道者の道を遮る障害物になるだけである。真の謙遜は、絶えず自身を否定することだ。これは自分を批判して、不平なく苦難を勝ち抜き、自身の立場と違っても天の導きに従う姿勢である。
謙遜は、真実と正直を要求する。それで謙遜な人を子供に比喩したりもする。子供の純粋な反応と人生の受容態度は、しばしば仮面をかぶり、怨恨と偏見で生きていく複雑な大人たちの性質とは、反対である。ある経典には、一つの息遣い、ひとつかみの土、虫の餌にすぎない人間がどれほど脆弱で無常な存在かを深く瞑想し、特に謙遜、美徳を養え、と教えている。
ここにまた、異なる逆説がある。謙遜で低くなろうとする者が驕慢で高くあろうとする者より、さらに尊敬を受けて繁栄するということだ。サタンのあらゆる攻撃を受けたが、結局、謙遜で低い場で勝利したイエス様の事例がそれである。善と悪の関係は、謙遜と緩慢の関係と同じだ。文鮮明先生は、謙遜はエデンの園の生活の原則であり、神様と一致する徳性であり、反面、驕慢はサタンの陣営に定着させるものだと言われる。文先生はまた、他の引用章句――上りと下りの自然循環過程――を例示して、驕慢で頂上に上れば下り坂しかないが、謙遜で下に下りていけば登り坂の道しかないと言われる。
1. 温柔な者は福がある
― 宗教経典 ―
信者たちは、確かに勝利をかちとる。かれらは、礼拝に敬謙なものであり、むなしいあらゆることを避る者、慈善「ザカート」のために励む者、恥ずかしいところを守る者、
クルアーン23.1 ~ 5(イスラーム)
柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
マタイによる福音書5.5 (キリスト教)
もしあなたが助けを得ようと思えば自尊心を捨てよ。髪の毛一本ほどの自尊心でもあなたを遮る、ちょうど大きな雨雲に覆われるように。
春日神社の神託(神道)
「人に対して高慢におまえの頬をそむけてはならない、また横柄に地上を歩いてはならぬ。まことに神は、うぬぼれの強い威張る者をめでたまわぬ」。「歩きぶりを穏やかにし、おまえの声を低うせよ。まことに声の最もいとわしいのは、ロバの声である」。
クルアーン31.18 ~ 19(イスラーム)
これらはすべて,私の手が造り、これらはすべて、それゆえに存在すると主は言われる。私が顧みるのは苦しむ人、霊の砕かれた人、私の言葉におののく人。
イザヤ書66.2(キリスト教)
今のこの流浪の時には、聖殿崩壊前よりも聖霊が私達をよく訪ねてこられる。ある一人の王がいた。彼は権力の座から追われ放浪者として追い出された。流浪してさまよい、彼はある貧しい者の家に行った。そこで王は平民たちの食べ物と居所を提供された。しかし、その接待は依然として王の立場で受けたものだった。徐々に彼は心が軽くなり、朝廷で家臣たちと談笑するように、家の主人と親しく対話をするようになった。今私達のように流浪される神も、私達に彼と同じようにしていらっしゃる。
メジリッチのドーヴ・ベーア(ユダヤ教)
慢心や偽善のないこと。不殺生、忍耐、廉直。師匠に対する奉仕、清浄、堅い決意、自己抑制。感官の対象に対する離欲。我執のないこと。生老病死の害悪を考察すること。
バガヴァッド・ギーター13.7 ~ 8(ヒンドゥー教)
すべての人類はアダムの子孫であり、アダムは土から創造された。
ティルミズィー・ハディース(イスラーム)
この上なく哀れな霊魂をもつ者の最後は、虫けらと同じような境遇になる。
ミシュナ、アヴォート4.4(ユダヤ教)
主よ、人間とは何ものなのでしょう。あなたがこれに親しまれるとは。人の子とは何ものなのでしょう。あなたが思いやってくださるとは。人間は息にも似たもの。彼の日々は消え去る影。
詩編144.3 ~ 4(キリスト教)
次の三つを振り返ってみよ、そうすれば罪を犯すことはないだろう。あなたがどごから来て、どこに向かっているのか、未来において誰の前で審判を受けるのか、このことである。お前は過去に悪臭の漂う雨水から来たのであり、今は虫けらやうじがわく所に向かっていて、未来には王の王、聖なる方の前で審判を受けるのである。
ミシュナ、アヴォート3.1 (ユダヤ教)
預言者が言った。「天国の居住者たちがどれほど謙遜で柔和かを、私はあなた達に教えなかったか。彼らが信仰を誓うとき、神が彼らの誓いを受け入れる。地獄の居住者たちがどれほど残忍で力が強く、傲慢な者かということを、私はあなた達に教えなかったか」。
ブハーリー・ハディース(イスラーム)
神は謙虚な人たちを保護され、解放してくださる。神が愛し慰労してくださる人たちも彼らである。彼らに神は御自身の栄光を与えてくださる。困窮があったあとには栄光の上に引き上げてくださるだろう。また彼らに御自身の秘密を表され、親切に彼らを御自身のところに導かれる。謙虚な人たちは、多くの苦難の中でも平和を享受する人たちだ。この人たちには、世の中ではなく、神に対する信仰があるからである。したがって、自分が不足な存在であることを悟るまでは、何の発展も成し遂げたと言うことはできない。
トマス・ア・ケンピスキリストにならいて1.2(キリスト教)
― み言選集 ―
神様の愛は、このような温柔、謙遜、断食、犠牲、殉教の土台の上に臨むのです。
(282-228、1997.3.26)
高次的な宗教であるほど、自らを強調しません。高次的な宗教であるほど、温柔、謙遜を強調するのです。さらには、犠牲、奉仕を強調するのです。それは、なぜそのようにしなければならないのですか。本郷の地の法則がそうだからです。人間は本郷の地を求めていく旅人のような立場なので、本郷に行って暮らすその法度に適合するように訓練させるため、高次的な宗教であるほど、犠牲になりなさいと、このような教訓を教えるのです。
(77-190、1975.4.6)
サタンの本質は、驕慢と血気です。このような性質で世の中の人々に対するサタンでしたが、イエス様は温柔と謙遜で、世の中の人々の前に現れたのです。また、厳然と天理法度があることを知っているサタンなので、最後にはイエス・キリストを認めるようになりました。いわば、温柔と謙遜を掲げていけば、サタン世界も自然に屈服するというのです。
このような原則を御存じのイエス様は、サタンができない温柔、謙遜の立場を取ったのです。このように、温柔と謙遜の立場に立ってこそ、中心を通して役事される神様のもとに行ける新しい道を開拓できることを、皆さんは知らなければなりません。
皆さんは、自らをイエス様が教えてくださった温柔と謙遜、従順と服従、犠牲と奉仕に照らしてみて、その教えを自分の生活圏内で実践できていないと思えば、いまだにサタンの一族であることを悟らなければなりません。
(3-187、1957.10.27)
天の国の生命録を1度点検してみると、どのような人が記録されているのかというと、愚かな人たちが記録されていたというのです。
(107-21、1980.2.21)
本来、エデンの園は、争いのある世界ではありません。争って自分を高める世界ではなく、謙遜と愛の宿る世界でした。
(98-31、1978.4.8)
個人主義がどこにありますか。自分の中で、自分だけを主張する部分は一つもありません。子女が父母様の愛によって、お母さんのおなかの中、卵子から育って生まれる時、99.999 パーセントはお母さんの骨と血、肉なのです。そして、0.001 パーセントお父さんの精子一つが合わさって生まれるのです。そこには、自分という概念はあり得ないのです。生まれる時は誰でも、自分だけという概念はなかったのです。
(299-119、1999.2.7)
堕落は、悪が先に出発して上がっていったことなので、悪を引き下ろして善を引き上げる作戦をしなければなりません。この作戦をするときは、どのようにしなければならないでしょうか。それを知らなければなりません。まず、驕慢を取り除かなければなりません。堕落は、神様を押しのけて、自分が高いところに行こうとしたことからなされました。サタンの本性が、そこから出発したのです。自分だけが高いところに行こうとすること、環境がどうであれ、秩序がどうであれ、法度を無視してしまい、自分ばかりを主張するのが驕慢です。そこには義理もなく、法度もありません。
法度に従って法のとおりに生きる人を、何と言いますか。驕慢だと言いますか。そのように生きる人を、正直な人だと言います。正直とは、正しいの「正」とまっすぐの「直」です。正しくてまっすぐだ、ということです。法というのは何ですか。まっすぐなものを立てることです。それでは、善と悪は何によって分けるのですか。法で分けるのです。驕慢は、法度を無視します。法度を無視し、位置と環境を無視して行動することをくじいておかなければなりません。驕慢を除去して、謙遜をもたなければならないのです。
(37-129、1970.12.23)
高いところに上がっていっては、心と体が一つになれる道はありません。踏まれなければなりません。先生も高くならないように、神様が今まで40 年間足で踏み続けてきたのです。踏み続けるので、高まろうとするものが打ちのめされて、一つになるのです。三千里半島を歩き回ったあの昔のキム・サッカのように、非難され、踏まれ、冷遇されながら歩まなければならないのです。そうしながらも、それをすべて喜んで消化できる自分自身を発見しなければなりません。
(144-255、1986.4.25)
私は、一度も福を下さいと祈祷したことがありません。「神様、私にお金を下さい」、そのように祈りませんでした。苦労が足りないと、もっと苦労しなければならないと考えたのです。ですから、神様がそれを喜ぶのです。
(102-314、1979.1.21)
2. 幼子のように純真で謙遜な心
― 宗教経典 ―
そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」
マタイによる福音書18.1 ~ 3(キリスト教)
生まれながらの人は神の敵であり、アダムの堕落以来そうであって、今後もそうである。また人は、聖なる御霊の勧めに従い、主なるキリストの贖罪により、生まれながらの人を捨てて聖徒となり、子供のように従順で、柔和で、謙遜で、忍耐強く、愛にあふれた者となり、子供が父に従うように、主がその人に負わせるのがふさわしいとされるすべてのことに喜んで従わないかぎり、とこしえにいつまでも神の敵となるであろう。
モルモン経、モーサヤ書3.19(末日聖徒イエス・キリスト教会)
孟子がいわれた。「大徳の人といわれるほどの人物は、いつでも赤子のような純真な心を失わずに持っているものだ。」
孟子1V,B.12 (儒教)
世の中に太かるべきは宮はしら細かるべきは心なりけり
荒木田守武世中百首(神道)
― み言選集 ―
この世界で神様が役事するとき、どのような人を選ぶでしょうか。優秀な人たちは世界を動かそうという欲心をもち、世界を中心としてひっきりなしに飛び回っているにもかかわらず、彼らを選びませんでした。愚かな人、一番の落伍者を選ぶのです。上ではなく、下だというのです。下も一番下です。それしか道がないのです。
(102-300 ~ 301、1979.1.21)
イエスが「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました」(マタイ11・25)と言われたのは、当時のユダヤ教会の指導者層の霊的な無知を嘆かれたと同時に、無知ではありながらも、幼な子のごとく純真な信徒たちに天のことを教示してくださった恩恵に対する感謝のみ言であった。
そのときと同時性の時代に当たる今日の韓国教会においても、それと同じ事実が、より高次的なものとして反復されているのである。神は、幼な子のような平信徒たちを通じて、終末に関する天の摂理の新しい事実を、多く啓示によって知らせておられるのである。しかし、彼らがその内容を発表すれば、教職者たちによって異端と見なされ追放されるのでそのことに関しては、一切発表をせずに秘密にしているのが、今日の韓国キリスト教会の実情である。
あたかもかつての祭司長や律法学者たちがそうであったように、今日の多くのキリスト教指導者たちは、聖書の文字を解く知識のみを誇り、多くの信者たちから仰がれることを好み、その職権の行使に満足するだけで、終末に対する神の摂理に関しては、全く知らないままでいるのである。このような痛ましい事実がまたとあろうか。
原理講論、再臨論3.3.4
この世に染まった一切の意識や主義や観念を、お父様のみ前に差し出し、幼子のような心、温柔で謙遜なる心をもつようにしてください。お父様がお造りになったとおりに、再び造られ得る謙遜なる心を備え、お父様のみ前に捧げようと思いますので、お受け取りください。三位神が運行してください。
(7-12、1959.7.5)
お父様!ここに集まったあなたの子女たちを、重ねて記憶してください。千態万象の事情を抱いてきた、この者たちが、その事情を全部打ち明ければ、お父様が動じずにいられないことを、知っていますので、すべてを打ち明け、飢えた幼子が、お母さんの乳を欽慕するように、恋しがるように、お父様を慕う心をもつようにしてください。
(20-11、1968.3.31)
3. 自分は低い位置に、人は高い位置に
― 宗教経典 ―
何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。
ピリピの信徒への手紙2.3 ~ 4(キリスト教)
自ら善だと言う者は誰もが知るべし、善があなたを避けていくことを。自らすべての人の足の指のあかにも劣ると考える人は、ナナークが言うには、実に清浄なるものを得るだろう。
アーデイ・グラント、ガウリー・スクマニーM.5、p.278 (シーク教)
先生がいわれた、「人が自分を知ってくれないことを気にかけないで、自分に才能のないことを気にかけることだ。」
論語14.32 (儒教)
二人の人が祈るために神殿に上った。一人はパリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。パリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。「神様、私はほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。私は週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」
ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。「神様、罪人の私を憐れんでください。」言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのパリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。
ルカによる福音書18.10 ~ 14(キリスト教)
自分を見せびらかさないから、おのずからはっきりと見られ、自分を主張しないから、きわだって見える。信用を求めないから、信用をうけ、うぬぼれないから、最高のものとなる。争うことをしないから、天下の人で争えるものはない。
「曲がっているものは完全に残る」という昔のことばは真実で、実際、人は完全でいることができるのである。
道徳経22(道教)
積極的なことを知りつつ、消極的なところにとどまるのは、天下の深い谷間のようなものである。天下の深い谷間であれば、本当の「徳」は離れることがなく、赤子のままおかれる。白を知りつつ、黒にとどまるのは、天下の模範となる。天下の模範であれば、十分に変わることのない「徳」は原初の非区別の状態にとどまる。原初の非区別が区別されるとき、ものごとが生み出される。賢人が原初の区別を使えば、人々の指導者となる。だから、偉大な統治をするものは非区別である。
道徳経28(道教)
北のはての暗い海にすんでいる魚がいる。その名を鯤(こん)という。鯤の大きさは、幾千里ともはかり知ることはできない。やがて化身して鳥となり、その名を鵬(ほう)という。鵬の背のひろさは、幾千里あるのかはかり知られぬほどである。ひとたび、ふるいたって羽ばたけば、その翼は天空にたれこめる雲と区別がつかないほどである。この鳥は、やがて大海が嵐にわきかえるとみるや、南のはての暗い海をさして移ろうとする。
蜩(ひぐらし)と小鳩とは、この大鵬のありさまを見て、あざわらっていう。「われわれは勢いよく飛びたち、楡(にれ)や枋(まゆみ)の木をめがけて突進しても、とぎにはとどかず、地面にたたきつけられることがある。それなのに、九万里の空にのぼり、南をさしてゆくとは、とほうもないことではないか」
ここにこそ、小さいものと、大きいものとの分かれめがある。だから、せいぜい一官職を修める知能しかもちあわせず、たかだか一地方の人びとに親しまれる程度の行ないしかなく、わずかひとりの君主に認められる程度の徳をそなえて、一国の臣下として召されるようなものが、得得としてうぬぼれているのは、この斥3掾iうずら)にも似たものであろう。荘子1(道教)
― み言選集 ―
善が、悪の発動するときに静かにしているのは、善が悪と共に行動することができないためである。悪が過ぎたあとに現れるのである。
御旨の道、善と悪
自分が低いところにいて、すべてを高いところに置こうとすれば、引っ掛かるところがありません。
(230-35、1992.4.15)
人間が傲慢になって自分自身を高い位置に置いたとき、悪が出発しました。傲慢の反対は謙遜です。謙遜になることが最初の問題です。私達は、サタンが喜ぶ立場と反対の立場に立たなければなりません。そうでなければ、私達は何の成功もできません。傲慢になる代わりに、私達は私達自身を犠牲の位置に立て、私達の生命までも犠牲にしながら活動しなければなりません。
(52-302、1972.1.9)
自分を弁明しようとする者は、天国に入れません。絶対的な信仰というものは、自分を弁明する立場ではないのです。弁明される立場になるべきです。そこには一言半句、何かを提示する内容もありません。弁明される立場です。うまくやっても、「うまくやった」と言える立場ではありません。自分が100 パーセント認め得るものだとしても、神様が見るときは1です。自分が100 と認めるものが、神様には1なのです。ですから、天国は自分を中心として提示する立場では、訪ねていくことはできないのです。
天国は、どこから始まるでしょうか。絶対的な信仰を起点として出発するのです。絶対的な信仰というものは、自分を主張できるものではありません。その立場は、自分を絶対否定する立場です。自分を絶対的に否定する立場に立たずには、絶対的な信仰が出てくることはできません。皆さんが、世の中の万事を肯定しながら信仰の道を行くときには、絶対的な信仰が出てきません。このような根本問題について、今日大部分の人を見てみれば、一日の生活圏内で、朝に起きて御飯を食べてする習慣的な生活をしながらも、「私は神様に対して堂々としている」と言います。そのように信じる人がたくさんいます。
そのような人たちは、天国を所有することはできません。堂々とすることができないのです。自分を公認する相対的な要因がなくては、絶対的信仰基準ももてないのです。絶対的な信仰基準ももてなかったのに、絶対的な信仰基準を克服したのちにこそ成される天国が成就され得ますか。とんでもないことです。なぜそうなのでしょうか。その立場には、サタンがとどまっているためです。
(46-79 ~ 80、1971.7.25)
神様をしっかりつかみ、神様の協助を受けて誇ろうというのならよいのです。それは、神様を前に立てるごとです。そのようにせず、「私が誇ろう」というのは、神様の前にすべて壊れていくのです。
(341-11、2000.12.29)
神様は、どのような方ですか。「あなた達は私を愛しなさい! 私のために犠牲になりなさい!」という神様ならば、どうなりますか。それは神様ではありません。神様が皆さんを通して伝統を立てるためには、御自身がまず赤ん坊のおしめを取り替え、父母の下の世話をして、先に犠牲と奉仕をしながら温柔、謙遜の教育教材になり、センターにならなければなりません。
(116-68、1981.12.20)
すべての生涯を犠牲にしたとしても、そこで不足なことを悟り、もっとやらなければならないと自ら自分を責め立てながら「行こう」という人たちが、結局、最後まで残るというのです。み旨に背いて離れていった人と、その次には中間的な立場、今も世の中と隔離されず、そのまま世の中の人と同じように中間の立場でふらふらする人と、その次には、み旨のために生きるという立場で、自分を中心として少しでもやれば、それを誇ろうとする人と、その次には、あらゆることをみ旨の立場で行い、自分自身を顧みず、自分を犠牲にしながらも不足なことを感じる人、このような4種類の人を見るとき、残る人は最後の人です。
(89-232、1976.12.1)
アメリカがどうなのか分かりますか。そのようなアメリカ国民の前に、皆さんが西側にいれば東側が必要であり、南側にいれば北側が必要だということをどのように教えてあげるのですか。それは、統一教会のレバレンド・ムーンが教えなければなりません。それで、レバレンド・ムーンが何をしようというのですか。アメリカという国は、歴史的結果として出てきたものなので、歴史的原因に接触できる道を求めるために戻らなければなりません。ここまで行かなければならないのです。神様を再発見しなければならないというとです。
それでは、この西側でアメリカが一番大きいのですが、この大きなアメリカがもっと大きくなりながら戻りますか、小さくなりながら戻りますか。これが問題です。小さくなりながら戻らなければなりません。驕慢な人は、なぜ謙遜を学ばなければならないのですか。原因に戻るためです。あまりに謙遜すぎてもいけません。自身を主張しなければなりません。謙遜ばかりしていても駄目なのです。強く前進しなさい! それが何ですか。結果に向かっていきなさいということです。これが上がっていけば下りていかなければならず、下りていけば上がっていかなければなりません。これを上がっていこうとすれば、高くならなければならないのです。高くなってこそ、上がっていくというのです。
(117-93、1982.2.14)
2) ほかの頬まで差し出しなさい
イエス様は、片方の頬を打たれたら、もう片方も向けてあげなさいとおっしゃる。これは、侮辱と非難を何の不平もなく耐え抜いて、復讐心までぬぐい去りなさいという教えだ。死までも甘受しなさいという無抵抗の教えは、自己主管において途方もない意味を帯びている。悪党に同じ方法で応じるとき、悪党は、また私達を攻撃して支配することもできる。攻撃者に対する憎悪心は、ただ被害者の復讐心ばかりを増幅させるだけだ。そのようにすれば、霊的エネルギーと自分の均衡を喪失してしまう。しかし、反対者の侮辱と非難に対して自身の好意をひたすら返して精神を集中すれば、怨讐の憎悪心も消化して、霊的独立心と主体性を固守することができる。侮辱を受けても、自身の霊的主体性を固守する時、初めて怨讐まで愛せる霊的エネルギーが噴出するのだ。
ある人たちは、どのように非抵抗の倫理が正義と和解できるのかに対して、疑問を提起する。世界経典では、神様は、もう片方の頬まで向ける群れのほうに立てと明示する。
文鮮明先生は、イエス様の十字架の代償を例に挙げ、最も残忍な苦難と死に処した一人の人の屈服が、どうして歴史上、途方もない勝利をもたらすことができたのかについて語られる。それとともに神様は、やはり数多くの侮辱に遭う時、もう片方の頬までお向けになる方だといわれる。人間の場合と少しも違わない。神様は、いかなる屈辱に直面しても自身の絶対性を堅持して、自身を裏切った天使長まで愛する方だ。神様も普遍的正義を追求される。しかし、その方法は、ひたすら真の愛の原則を通してサタンを自然屈服させるのだ。
― 宗教経典 ―
あなたがたも聞いているとおり、「目には目を、歯には歯を」と命じられている。しかし、私は言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。(注4)
マタイによる福音書5.38 ~ 41(キリスト教)
たとえあなたを殴る者でも、仕返ししようとしてはならない。ただ彼の足に接吻せよ。
アーディ・グラント、スローク、ファリード、p,1378(シーク教)
復讐する心で人を侮辱するよりは、侮辱される人、何の口答えもせず非難を聞く人、主の愛の力で善のことを行い、苦難の中でも喜びをもつ人は……「自らの力で世を照らす太陽」のようである。
タルムード、ヨーマ23a (ユダヤ教)
比丘たちよ、他の人たちが私を誹謗し、あるいは法を誹謗し、あるいは僧団を誹謗して、あなた達がそれに対して怒り、あるいは快く思わないなら、それはあなた達の障害となるであろう。
阿含経長部i.3、梵網経(仏教)
傷つけることも、仕返しすることも、あってはならない。
ナワウィー40 のハディース32(イスラーム)
勝利者からは怨みが起る。敗れた人は苦しんで臥す。勝敗をすてて、やすらぎに帰した人は、安らかに臥す。
法句経201 (仏教)
罪がないのに罵られ、なぐられ、拘禁されるのを堪え忍び、忍耐の力あり、心の猛き人、――かれをわれは〈バラモン〉と呼ぶ。
法句経399 (仏教)
神より自分が聞いた侮辱によく耐える者はいない。
プハーリーおよびムスリム・ハディース(イスラーム)
ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。
ペテロの手紙二3.9 (キリスト教)
比丘たちよ、もしも卑しい盗賊たちが両側に柄のある鋸で手足を切断しようとするとき、それについて心を怒らすならば、かれはそのことにより、わが教えの実践者になりません。比丘たちよ、それについてまた、次のように学ぶべきです。
〈われわれはけっして心が変わらないようにしよう。また、悪しき言葉を発しないようにしよう。また、怒りをもたず、憐れみをもって、慈心をそなえて住むことにしよう。その人を、慈しみとともなる心で満たして住むことにしよう。また、一切の世界をその対象として、慈しみとともなる、広大な、大なる、無量の、恨みのない、害意のない心で満たして住むことにしよう〉と。比丘たちよ、そなたたちはこの〈鋸の譬〉の教誡をつねに心に置くべきです。比丘たちよ、そなたたちは、そなたたちが耐えることのできない、微細な、あるいは粗大な言葉の道を見ていますか。
阿含経中部i.129 (仏教)
愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐は私のすること、私が報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる」(注5)
ローマの信徒への手紙12.19 ~ 20(キリスト教)
釈尊は説いていわれる。悪人があり、他の者がなしたその善を聞いて嫉妬し、わざとその者の所にやって来て、罵り謗(そし)ったりすることがあっても、汝は自分の心の腹立ち動くことを抑え、相手を怒り責めたりすることがあってはならない。この方から相手を懲らさなくても、相手の方からやって来て、自分のなした行為に対して気付き、自(おのず)からに、自(みず)からの行為を悪むに至るからである、と。
四十二章経6(仏教)
私達を最も苦しめる彼らに、このように言いたいと思います。「あなたに苦痛を加える能力があるなら、私達は彼と対等な忍耐の能力で立ち向かいます。肉的な力で追い込んでくれば、霊的な力で立ち向かいます。願うとおりにしてください。しかし、私達はいつでもあなたを愛するでしょう。……監獄に送っても、変わることなく愛します。真夜中に、村に覆面を被った強盗を送リ、私達を半死状態にしていったとしても、変わらずにあなたを愛します。……あなたの心と良心に訴え、結局は私達が勝利するでしょう。そうすれば、その勝利は2倍の価値をもつ勝利になることでしょう」。
マーティン・ルーサー・キング・ジュニア愛の力(キリスト教)
― み言選集 ―
幼い二人の少年がけんかするのを見ると、怒りを抑え、一発で片付けてしまいたいと思っても、そのような気分をすべて包容する心で思いとどまる側がいます。きょうで終わるのではなく、あすは友人になり得ることを知っているので、譲歩してあげます。そのようにしたとき、神様やあるいは横にいる人が、誰がより善かを判断するとき、寛容で赦し、包容した人が善の人だと言うのです。
(100-84、1978.10.8)
過去の歴史的な偉人たち、聖人たちの中に、その時代に迫害を受けなかった人がいますか。そのように、歴史過程で反対を受けるようになるとき、私が正しいと弁明した人たちは、聖人の部類に入れません。イエス様は、歴史とともにそのような非難を受けて恨を抱きましたが、口を閉じたまま黙って逝きました。しかし、歴史時代の勝利者として再び登場したのは、なぜでしょうか。悪と戦わなかったからです。
(80-34、1975.10.4)
イエス様が、「あなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい」と言ったのは、完全に与えるためには右の頬を打たれながら左の頬まで向けなさいということです。そのようにするときに戻ってくるでのです。完全に与えれば、戻ってきます。天理の原則がそうです。イエス様が十字架上でまでも福を祈って死んでいくことができたのも、完全に投入し、完全に与えていこうという思いがあったからです。怨讐の国までも振り返らせることができると知っていたからです。その結果、あとでローマ帝国までキリスト教の王国になりました。方向を歴史的にひっくり返しておくことができなければ、神様のみ旨は成し遂げられません。
(69-88、1973.10.20)
打って3回勝利した人でも、10 回譲歩する人には屈服してしまいます。イエス様もそのような道理を守ってきたのです。今日の世の中でもそうではないですか。善の人は自分を犠牲にしようとします。拳をよく使う人が善の人ではありません。たたかれても愛で受け入れようとし、そのまま通り過ぎて、その家庭までも犠牲にする人が善の人です。
それはなぜでしょうか。神様がそうだからです。宇宙の中心となるその方がそのようにしていくことによって、善の標準がそのようになったのです。そのような道を通して善の世界に行くので、その道に従っていく宗教者たちは、宗教自体、信じる人自体を犠牲にしなければならず、宗教団体を犠牲にしなければなりません。
(101-69、1978.10.28)
皆さんは、このような祈祷をしてはいけません。「ああ、神様よ、先祖よ、私に反対する人の首をひねって、反対できないようにしてください」、このような祈祷はするなというのです。それよりは、かわいそうな人を救ってあげますと祈祷しなければなりません。皆さんは、福を祈ってあげなければなりません。
なぜそのようにしなければならないのですか。常にカインとアベルが一つになる立場を取るために、そのようにしなければならないのです。そこで常に一つになる立場を取れば、私が滅びることはないので……。
この世的に見れば、ニューヨーク・タイムズが私の怨讐であり、ワシントン・ポストが私の怨讐ですが、新聞に出すものがあれば、ニューヨーク・タイムズに出してあげ、ワシントン・ポストに出してあげなさいと言います。それは不思議でしょう? 私は常に完成したアベルの位置に立とうというのです。勝利したアベルの位置に立とうというのです。私達には怨讐がいません。ですから、批判されながらも、ぐっとこらえていこうというのです。神様がすべて解決してくださいます。
(89-114、1976.10.4)
サタンが神様に「神様! 最初に私を天使長として立てられたときには一時的な愛で立てられましたか、あるいは永遠の愛のために立てられましたか」と質問したとすれば、神様はどのように答えられるでしょうか。考えてみてください。
神様は、永遠に愛するために立てたと答えられるでしょう。一時的な愛で立てたと言えば、一時的な神様になります。永遠に愛するという基準をもたなければ、いつかはサタンの前に神様の権限を行使できなくなるのです。したがって神様は、サタンがいくら反対しても、彼を愛したという条件を立てざるを得ません。
それで神様は、悪に対して「無抵抗主義者」です。それは何のためですか。神様はこの地球上に天国理想の世界を成就するときまで、どのような環境の中でも、堕落してサタンとなった天使長を愛さなければならないのです。
(316-79、2000.2.10)
神様は、すぐにでも、サタンや人間をすべて掃き捨てられます。そのようにすれば、神様はどのようになりますか。神様の全能性が崩れていくのです。そのようになれば、サタンが神様に対して、「あなたは全能の方ではないですか。このような罪のために崩れていく神様ですか」と嘲弄します。
ですから、神様は侵犯を受けないために、サタンが矢を放つようになれば、神様はいつも退いていくのです。全能であられる神様は、そのようにせざるを得ないのです。あなたが力を尽くし、あなたがあらゆることをしたとしても、結局は、私がつくった版図圏内を抜け出すことはできないという立場に立てなければなりません。呆然とする場面であり、赦し難く、耐え難い場面ですが、耐えなければなりません。耐えられなくても、耐えなければならないのです。
したがって、そこに神様の権威が生じ、神様らしい立場、神様の全能性が生じるのです。神様が関知しないといって、1度ひっくり返したならどうなるでしょうか。そうすれば、宇宙はすべてなくなります。また、神様の創造の遺業もすべて……。神は、二度と考え直してはいけない、そのような悲惨な神様になってしまうのです。そのようなことを私達は考えられなければなりません。
ですから、皆さんは忍耐がどれほど貴いか分かったでしょう。忍耐がどれほど貴いですか。このように考えてみれば、忍耐は再出発の動機であり、再創造の動機になり得ることを発見するでしょう。耐えることによって、それを赦してあげられるのです。そのようになれば、私はいつでもそれを占領できます。
(76-219 ~ 220、1975.3.2)
3) 懺悔
悔い改めは、神様との関係を回復し、本来の自身を求めていく最初の段階である。罪と執着、誤った見解などを、一様に認定して克服しなければならない。その時初めて、過去の習慣を捨てて新しい信仰の道を出発することができる。私達に蓄積された罪と欺瞞は、神様の実存の認識・感知を歪曲させる障害物だ。したがって、神様の罪の赦しと人間のむなしい妄想を除去する前提条件は、何より悔い改めだ。天は悔いる者の人生に、いま一度恩赦を施されるのだ。悔い改めの内容を、祈祷を通して一つ一つ数え上げなければならない。胸から張り裂けんばかりのうめき声と、痛恨の涙の祈祷、過去の過ちを総蕩減する強烈な意志の祈祷、それが悔い改めである。その後、許しと解放、新しい洞察が人生の方向性を設定してくれることを悟ることが、真の悔い改めである。
文鮮明先生は、悔い改めとは個人的罪状を後悔する程度にとどまってはいけないと言われる。人間は誰でも、個人理想の意味をもっている。個人は歴史的な実として生まれた存在であり、さらには社会と国家と世界を代表した存在だ。したがって、個人を越えて先祖たちの誤り、国家の誤り、世界の誤りまで、すべて悔い改めできなければならない。私達が悔い改めを通してさらに奥深い境地に入れば、私達自身が神様の理想とどれくらい掛け離れているかを悟るようになる。そして、私達を無限に抱きたいと思っても、私達の心に安着できなかった神様の曲折と苦痛が、どれほど大きかったのかも悟るようになる。このような内容をすべて改心できなければならない。したがって、私達は悔い改めを通して、霊魂の深いところに入り込んだ内的自我を発見する旅程に出ていかなければならない。
1. 罪の認定、告白、そして懺悔
― 宗教経典 ―
まことに神は、改悟して不断にかれに返る者をめでたまい、また清める者を愛したもう。
クルアーン2.222 (イスラーム)
悔い改めよ。天の国は近づいた。
マタイによる福音書3.2(キリスト教)
神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を。神よ、あなたは侮られません。
詩編51.19 (キリスト教)
罪を隠すと罪は増長しますが、もし悔い改め慙愧すれば罪は消滅します。だから智者は罪を隠さないとブッダは言われました。
大般涅槃経(仏教)
悔吝を憂うるのは、善悪の微妙な介(目に見えぬほどの小さいきざし)を重んずるからであり、行動を起しても咎なきを得るのは、よく過ちを悔い改める努力にかかっている。
易経、周易繋辞上伝1.3.4 (儒教)
あなたの御名を呼ぶ者はなくなり、奮い立ってあなたにすがろうとする者もない。
イザヤ書64.6 (キリスト教)
神の御意志どおりに考えていなければならず、神の御意志どおりに語っていなければならず、神の御意志どおりに行動していなければならない。もし私がそのように考え、そのように語り、そのように行動していなかったなら、私はその罪を悔い改める。私の考えと言葉と行動で悔い改め、すべての心を尽くして悔い改める。
パテット6(ゾロアスター教)
私達の罪悪は、はかり知れないほど多く、私達の悪行は限りがないので、おお、主よ! 慈悲を施してくださり、私達を罪悪から抜け出すようにしてください。私達は、極悪無道な罪人なので、抜け出す道が分かりません。おお、主よ! 敬愛する主よ! あなたが秤にかける私達の行為は、あなたの宮殿のどこにも置き場のないものですが、グルの恩寵により私達を赦され、あなたと一つになるようにしてください。
アーディ・グラント、スローク・ヴァークM.3、p.1416 (シーク教)
しかし、われはわが身にかくぞ問う、いつの時にかわれヴァルナに親しむを得ん、怒りを解きて彼わが供物を嘉(よみ)することやある、いつかまた心安けく神の憐れみを仰ぎ得んと。その罪をヴァルナよ、探り求めんとして、われはわが身に問い、問いたださんがために賢者たちに近づく。
詩人たちは等しくわれにいう、かのヴァルナ汝に怒ると。ヴァルナよ、わが最大の罪は何なりし、友なる讃美者を、なれが殺さんと欲するにいたりしは。そをわれに明らかに告げよ、冒しがたき自律の神よ。われ切になが赦しを乞う、罪なからんと額ずきて。父祖の犯せし罪よりわれを解き放せ。われらみずから犯せし〔罪〕より解き放せ。
リグ・ヴェーダ7.86.2 ~ 5(ヒンドゥー教)
たとえ私が浄土に対する真の信仰に帰依しているとしても、それにもかかわらず私の胸にはすべての心を尽くす誠実さがなかった。術策と偽りが私の体の中にあり、私の霊魂には清浄な光がない。見た目にはすべての人々が勤勉で真実を語っているように見えるが、彼らの霊魂には貪欲と憤怒、そして不義な欺瞞が満ち、彼らの体の中には、偽りで狡猾な優越感が満ちている。
私の胸の中の悪があまりに強く、私はそれを克服できない。ゆえに私の霊魂は蛇の毒のようで、この毒が混ざった私の義なる行為さえも偽りの行為と呼ばなければならないだろう。そのように私の霊魂には何の真実もないが、それにもかかわらず、聖なる名の功徳、悟ったその贈り物は、たとえ私はただの私だとしても、私の言葉を通して全世界にあまねく広がっていく。
私の霊魂には何の慈悲心もない。私の友の善行は私の両目には満足できない。もし慈悲の船、無限の知恵の聖なる約束がなかったなら、私がどうして苦痛の海を渡っていくことができるだろうか。その心が蛇の毒のような狡猾さと欺瞞で満ち、私は義の行為を行うことができない。もし私達の父の贈り物に帰依所を見いださなければ、私は恥知らずな者の死を迎えるようになるだろう。
親鸞(仏教)
― み言選集 ―
「悔い改めなさい」という言葉があります。イエス様はこの地上で、「悔い改めよ、天国は近づいた」と言いました。何を悔い改めなさいというのですか。簡単です。その結論は何かというと、犠牲になり、奉仕しなければならない道理に背いたすべてを悔い改めなさいというのです。
(105-92、1979.9.30)
今から2000 年前にイエス様がこの地上に来て、最初にイスラエル民族に警告したことは、「悔い改めよ、天国は近づいた」だったことを私達は知っています。
(99-75、1978.9.1)
皆さんもよく知っていますが、父母に過ちを犯した子女が、その過ちを赦してもらうためには、必ず涙というものを流さなければなりません。涙というものを必ず経るようになっています。罪を犯した子女がいれば、どの国でも罰を与えます。棍棒でたたきます。必ずそこにはそのような罰が……。罰というものは何かというと、打つことです。苦痛を与えるのです。そのようにして何をするのですか。苦痛を受けるようにするというのです。あらゆる分野で制裁を受けます。
ですから、悔い改めようとする人がいれば、涙を流さなければなりません。涙を流すときは、たくさんの痛みを感じなければなりません。自分が誤ったことに対して、罪を犯したことに対して、たたかれる以上、受ける苦痛以上に痛みを感じなければ悔い改めの道があり得ないことを知らなければなりません。
(99-77、1978.9.1)
皆さんは、悔い改めましたか。悔い改めもできない人が誰を助けてあげられるのですか。悔い改めたという公認を受けることができずに誰を救ってあげるのですか。どうやって救うことができますか。犯した罪の赦しを受けずに、罪を判決する判事になれますか。皆さんは、自らが罪人だと感じてみましたか。
歴史的な罪を背負っていることを知らなければなりません。その次には、世界的な現在の罪を背負っていることを知らなければなりません。その次に、未来の罪まで私が責任をもたなければならないことを知らなければなりません。三つの大きな罪を背負っていることを知らなければならないのです。
(99-90、1978.9.1)
人々は教会に行って、「私は何々の罪を犯しましたが、悔い改めますので、お赦しください」と祈祷します。しかし、それよりは、「天倫の原則を破壊し、天と人間の因縁を蹂躙し、人間と万物の因縁を破壊した罪、心情問題において犯した罪をお赦しください」と言わなければなりません。そのように悔い改めることによって、赦され、勝利し、お父様の認定を受けるなら、万事がすべて解決するのです。天は、そのように悔い改める者に訪ねてこられます。
心情を通じた人には、世の中のあらゆるものが自分のものにもなるのです。それで、お父様の心情に通じた人は、世の中のどのようなものをもってきても、もっていっても、お父様には罪になりません。今後、天国世界では、隣の家に行って黙って食べたいものを食べたからといって、それが罪にはなりません。
なぜかというと、心情的に連結されているからです。心情を蹂躙した罪以上の大きな罪はないことを知らなければなりません。今日の私達は、神様の愛の心情を察していきながら、私達は神様の心情を蹂躙した罪人であり、万物の心情を拒否した罪人であり、心情の世界を成し遂げられないようにした妨害者だったことを知らなければなりません。このようなことを皆さんは理解して、心情をかけて悔い改める人になることを願います。
(9-185、1960.5.8)
最近のアメリカで言えば、民主主義式で、人はすべて平等で自由なのに、恥がどこにあり、良心の呵責を受けることがどこにあるのかという思想が強いでしょう? 皆さんは、恥ずかしいと思ったことはありますか。皆さんが罪の意識を一度もってみたことがありますか。
もし皆さんが逆賊の息子であれば、どうしますか。逆賊の息子であれば堂々としていられますか。また、強盗の息子であればどうしますか。堂々としていますか。その次には、言葉にもできない、獣のような恥辱を感じる不倫の愛の関係をもっていれば、堂々としていられるかというのです。
もし自分がそのような罪を犯したなら、そのような罪を犯した人の息子、娘であれば、その子孫だと考えれば、顔を上げて、「ああ、私には自由が必要だ」と言うことができるのかというのです。また、「私は、この場でそのまま定着しなければならない」と言うことができますか。皆さん、誰彼を問わず「それはできない」と当然のように答えるのです。すべての人たちは、堂々として自由にする前に、まず何をしなければならないのかというと、死んで生き返らなければならないのです。赦しを受けるか、逆さまにひっくり返るか、清算する問題がなければなりません。
(66-14、1973.3.11)
足らない私達、どうしてお父様のみ前に出られる姿だと言えるでしょうか。どうして天に対して、顔を上げることができるでしょうか。私達自身は、千万回死んでも当然な存在であり、罪悪の刑具に捕らわれ、審判の苦難を受けて当然な人間たちでございます。
それゆえに私達は、お父様の慈悲深いみ愛を願い、お父様の恩賜を願い、自らをありのままに告げる心で、ひれ伏しましたので、私達がもっているすべてのものをお父様の前に差し出し、正しくないことがあるならば、すべて清算できるよう
お許しくだざることを、愛するお父様、切にお願い申し上げます。
(2-168、1957.4.14)
2. 国家的罪の悔い改め
― 宗教経典 ―
もし私の名をもって呼ばれている私の民が、ひざまずいて祈り、私の顔を求め、悪の道を捨てて立ち帰るなら、私は天から耳を傾け、罪を赦し、彼らの大地をいやす。
歴代誌下7.14(キリスト教)
ヨナは主の命令どおり、直ちにニネベに行った。ニネベは非常に大きな都で、一回りするのに三日かかった。ヨナはまず都に入り、一日分の距離を歩きながら叫び、そして言った。「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる。」すると、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者も低い者も身に粗布をまとった。このことがニネベの王に伝えられると、王は王座から立ち上がって王衣を脱ぎ捨て、粗布をまとって灰の上に座し、王と大臣たちの名によって布告を出し、ニネベに断食を命じた。
「人も家畜も、牛、羊に至るまで、何一つ食物を口にしてはならない。食べることも、水を飲むことも禁ずる。人も家畜も粗布をまとい、ひたすら神に祈願せよ。おのおの悪の道を離れ、その手から不法を捨てよ。そうすれば神が思い直されて激しい怒りを静め、我々は滅びを免れるかもしれない。」神は彼らの業、彼らが悪の道を離れたことを御覧になり、思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられた。
ヨナ書3.3 ~ 10(キリスト教)
― み言選集 ―
今まで宗教が扱い、さらにキリスト教が扱ってきたのは個人的な悔い改めです。個人的な悔い改めに重点を置いてきましたが、社会や国家、それ以上の次元に対する悔い改めには重点を置かなかったことを私達は知っています。しかし、私達がイエス様や預言者たちを見るとき、彼らが主導的な役割をしたこととは何かと見れば、彼らは自分の悔い改めよりも、国と社会のために悔い改めるところに注力したことが分かります。
(99-75、1978.9.1)
皆さん、悔い改めましたか。皆さん自身の罪を悔い改めるために、先祖たちの罪を悔い改めるために涙を流していますか。その次に国を救うために、世界を救うために涙を流していますか。涙は2種類です。救ってあげるために、悔い改めさせるために涙を流さなければなりません。2種類の涙を流さなければならないのです。そうしてこそ、悔い改めが起きます。
(99-90、1978.9.1)
神様が今まで復帰摂理をしてこられながら、まず人間に何を信じるようにされたのでしょうか。すなわち、再創造の役事を出発される前に、まず何を私達に体恤させられたのでしょうか。それは喜びではありません。先に、私達の一身に対して悲しむ心がわき上がるようにされました。次に自分の家庭、社会、氏族、国家、世界、さらには天倫のために悲しむ心がわき上がるようにされたのです。そうしてこそ、私達人間が神様の前に立ち得る道が開かれるようになるのです。
(4-51、1958.3.2)
3. 本当の悔い改めは行動の変化を伴う
― 宗教経典 ―
悔悟して善い行いにいそしむ者は、心を入換えて神に改悟帰依し奉る者である。
クルアーン25.71(イスラーム)
君子は……あやまちがあれば、ぐずぐずせずに改めよ。
論語1.8 (儒教)
罪を罪として認め、法に従って懺悔し、将来において自己抑制をするということ、それこそが、聖者〔ブッダ〕の戒律の繁栄というものであるからです。
阿含経長部1.85、沙門果経(仏教)
ある人が罪を悔い改めることは、どのように証明され得るのか。ラビ・ユダがこれについて言った。「二度も原罪を犯させる対象が自分に近づいた場合、その対象を遠ざける」。ラビ・ヨセ・ベン・ユダが言った。「もし犯罪を犯させる場合、一度、二度、三度までは赦されるが、四度目は赦されない」。
タルムード、ヨーマ86b (ユダヤ教)
罪を犯したとき、苦しみ悔悟することによってその罪から解放される。彼は「二度と同じことをするまい」と〔決意して〕止めることによって清められる。無意識であれ、意識的であれ、非難される行為をして、それから解放されることを望むならば、二度としてはならない。行為がなされたときに自分の心が重くなるようならば、満足をもたらすまでその行為に対しての苦行を行うべし。
マヌ法典11.231 ~ 34(ヒンドゥー教)
害であることを知りながらも繰り返し罪ある行動をする人には、贖罪と悔い改めは何の役にもたたない。
シュリーマッド・バーガヴァタム6.1 (ヒンドゥー教)
言え「己れの魂にそむいて、あやまちを犯したわしのしもべたちよ、神の慈悲に絶望してはならぬ。神は、まことにあらゆる罪を許したもう。かれは、寛容者・慈悲者であられる」。「なんじらは懲罰がくる前に、主に改悟して返り、かれに服従帰依せよ、その後では、なんじらは助けられないであろう」。
「なんじらが気づかぬうちに、懲罰が突然来る前に、主からなんじらに下された最も善い道に従え」。「魂がこう言わぬよう、『ああ情けない、わしは神への己れの義務を怠っていた、そしてちょう笑者のひとりであった』と」。「または、『神がわしを、お導き下されたならば、わしはきっと主を畏れまつったものを』、と、言わぬよう、または、刑罰を見たとき、『わしが1度現世に返れるならば、わしは必ず善い行ないをなす者のひとりであろう』と」。
クルアーン39.53 ~ 58(イスラーム)
永遠に備えるために私達に与えられている現世の生涯を終えると、見よ、もし私達が現世にいる間に時間を有益に用いなければ、後から暗闇の夜がやって来る。そして、そこでは何の働きもできない。あなたがたはその恐ろしい危機に陥るときに、「私は悔い改めて神に立ち返ろう」と言うことはできない。あなたがたはこのように言うことはできない。なぜならば、現世を去るときにあなたがたの肉体を所有しているその同じ霊が、あの永遠の世で、あなたがたの肉体を所有する力を持つからである。
見よ、もし死ぬときまで悔い改めの日を引き延ばしたならば、見よ、あなたがたはすでに悪魔の霊の支配を受けるようになっているので、悪魔はあなたがたに自分のものであるという印を押す。したがって、主の御霊はもはや退き去って、あなたがたの内に決して宿ることはなく、悪魔があなたがたを支配するすべての力を得る。これが悪人の最後の状態である。
モルモン経、アルマ書34.33 ~ 35(末日聖徒イエス・キリスト教会)
― み言選集 ―
今日、人々は、自分の生活を中心として、善悪の分岐点と公私の分岐点で、内外で行ったり来たりして、結局は、私的におぼれる場合がたくさんあります。しかし、そのようになれば、滅びるのです。ですから、過去は私的な生活であったと悔い改め、再び歯を食いしばって公的な生活に戻ります。そうして再び耐えられずに行ったり来たりして、再び私的な側に入り込むときが多くなり、そうしてみると、公的な善とは遠ざかる生活をします。これが今までの信仰生活です。ですから、私的な生活をするすべての人たちは、悔い改めなければならないということを、皆さんははっきりと知らなければなりません。
(31-242、1970.6.4)
喜びの日を迎えられた神様の前に、痛悔し、痛哭する心をもたなければなりません。「私はどうしてお父様を知ることができず、どうしてお父様が心配されるその立場が分からなかったのか!」と悔い改め、激憤しなければなりません。このように過去の自分の生活を反省する心をもてば、神様が同情できる余地があるのです。そのようにできない立場で、そのまま同参しようとしてもできないというのです。「『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである」(マタイ7・21)というみ言が聖書にあるのは、このような理由のためです。
(13-330、1964.4.14)
皆さんに最後まで残るのは悔い改めです。これができずに逝ってはいけません。
(99-110、1978.9.1)
4) 人を裁いてはならない
世界経典は、私達の中に、誰も失敗から解放されていたり、完璧な者がいないため、たとえ他人の失敗が明白であっても、その人の誤りをむやみに審判するなと警告する。すべての経典の教えは、「自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。」というイエス様の教えと同じである。文鮮明先生は3度の法則をおっしゃられる。人を審判する前に、自身をまず3度振り返ってみなさいという意味だ。さらには、人を正そうとする前に、自身がまず愛して助けてあげなければならないのである。
― 宗教経典 ―
人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、「あなたの目からちりを取らせてください」と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができる。
マタイによる福音書7.1 ~ 5(キリスト教)
他人の過失は見やすいけれども、自己の過失は見がたい。人は他人の過失を籾殻のように吹き散らす。しかし自分の過失は、隠してしまいます。狭滑な賭博師が不利な骰の目をかくしてしまうように。他人の過失を探し求め、つねに怒りたける人は、煩悩の汚れが増大する。かれは煩悩の汚れの消滅から遠く隔たっている。
法句経252 ~ 253 (仏教)
卑劣な者は常に、他人の失敗はたとえからし種ほどに小さいものであってもみつける傾向があり、自分の失敗はたとえヴィルヴァの実ほどに大きいものであってもそれに対して目を閉ざし続ける。
ガルダ・プラーナ112 (ヒンドゥー教)
あなたの同僚の立場に立ってみるまでは、決して同僚を裁いてはならない。
ミシュナ、アヴォート2.5 (ユダヤ教)
卵のかごをもっている人は、石の上で踊りを踊らない。
プジ族の格言(アフリカ伝統宗教)
先生がいわれた、「君子は他人の美点を〔あらわしすすめて〕成しとげさせ、他人の悪い点は成り立たぬようにするが、小人はその反対だ。」
論語12.16 (儒教)
それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。私達は皆、神の裁きの座の前に立つのです。こう書いてあります。「主は言われる。『私は生きている。すべてのひざは私の前にかがみ、すべての舌が神をほめたたえる』、と」それで、私達は一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです。
ローマの信徒への手紙14.10 ~ 12(キリスト教)
朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやパリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどう、お考えになりますか。」イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。
イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなた達の中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」
ヨハネによる福音書8.2 ~ 11(キリスト教)
まことの修行者というものは、世の人の過ちには目を向けぬ。もし人の咎に目を向けるなら、そのおのが咎にこそ道にもとるもの。人の咎ある心は私は謗らぬ。おのれの咎がもともと悪い。その咎ある心を自ら払い去り、煩悩をば打ちくだくだけのこと。憎しみも愛も心にかかわることなく、長々と両足を延ばして寝る。
六祖壇経2(仏教)
人を誹誇して自分をたたえ、人の美徳をあえて知らないふりをしながら自分はもってもいない長所を誇る、これによって自ら卑賤になるだろう。自分には厳格だが人には寛大に赦し、人の長所を喜ぶが自らはもっていないことを恥ずかしく思う、これによって自ら尊貴な者となるだろう。
タットヴァルタ・スートラ6.25 ~27(ジャイナ教)
― み言選集 ―
人を批判してはいけません。問題は自分にあるからです。若い人たちの短所とは何かというと、木の枝のようにあちこちに伸びていることです。何の話か分かりますか。最初は素早く、よく見ます。何かをさっと見れば、何がどうでこうでとよく評価するのです。しかし、自分を忘れているのです。人を評価するなら、まず自分を3倍以上評価してから、その3分の1だけ評価しなさいというのです。
(25-93 ~ 94、1969.9.30)
人を判断するには、3年以上研究しなさい。
御旨の道、人格
自分が心で、誰はどうだと評価することはできません。自分自身が罪人だからです。祭司長の自分が責任を果たせなかったのに、どうして人に対する評価をするのですか。
(89-268、1976.12.4)
天から何かの恩賜を受けたならば、皆さんは公憤の心情をもち、天を身代わりしてサタンと闘うことができなければなりません。自分を中心として裁く行動をしてはいけません。このように、許諾された恩賜を受けた人が、自分を中心として楽しもうとしたり、自分を中心として人を裁こうとすれば、それは正しい信仰ではないので、許諾されたみ旨の道を歩むことはできないのです。
(2-201、1957.5.19)
自分の性格の足りないところを埋めるためには、証を聞けというのです。これを聞いて、自分のものとして吸収するのです。補強しなければなりません。ですから、多くの人の体験談を聞かなければなりません。人が言ったことを批判してはいけないというのです。批判するのは、サタン側になるか、天の側になるか、二つのうちの一つを決定することを意味するのです。批判した時は、サタン側になるか、天の側になるか、二つのうちに一つに分かれてしまうのです。ですから、批判することは、自分が発展するにおいてのがんなのです。サタン側になった者が、神側に行くことはできず、神側になった者が、サタン側に行くことはできないのです。私達人間生活において歩んでいくときには、直行は絶対にできません。ジグザグに行くのです。
(76-141、1975.2.2)
私自身を見るのです。相手に対して話をする前に、自分自身を見なさいということです。相手を批判する前に自分自身を批判するのです、そして、皆さんが、一つ満点、二つ満点、三つ満点があれば、次には皆さんの好きなようにしなさいというのです。イエス様は当時、このように言いました。姦淫を犯した女性を石で打ち殺そうとするとき、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」と言ったのです。すると、みな逃げていぎました。
(118-245.246、1982.6.6)
5) 自己否定
人々は、自身の利己心はよく見ることができない。利己的であり、貪欲な人々は、善行とはほど遠い。誰でもある程度は、利己心で汚れている。このような自己中心性は、外に露出して、無慈悲に攻撃を受けなければならない。そうでなければ、私達が言う善は、虚飾的であり、むなしいだけである。したがって、私達は、自身を否定しなければならない。
自分の肯定と快楽を追求する人生は、結局、空虚感と喪失で終わる。自己否定は、死と喪失に私達を導くように見えるが、事実は、神様と共にする豊かな人生へと私達を導いてくれる。
ここで私達は、また一つの逆説にぶつかる。イエス様は「誰でも自分の命を救おうとする者はそれを失うのであり、私と福音のために自分の命を失った者は救われるだろう」と語られた。この教えは、すべての世界的水準の宗教に共通に入っている内容だ。
文鮮明先生も、自己否定の価値に対して強調される。先生は、人間の堕落に対する自身の洞察力を基盤にして、人生の目的地に到達するのに、人間がこのように逆説的で不自然な道を歩まなければならない理由に対して説明される。本来、神様が人間を愛と利他主義的性格を具現するように造られたが、堕落によって私達は、サタンの影響を受けた。サタンの本性は、完全な自己中心だ。したがって、私達の本性を回復するためには、まず誤った要素で汚染された自身を否定する、難しい過程が待っている。
― 宗教経典 ―
私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、私のため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。
マルコによる福音書8.34 ~ 35(キリスト教)
名称とかたちについて、「わがもの」という思いが全く存在しないで、何ものも無いからとて憂えることの無い人、――かれこそ〈修行僧〉とよばれる。
法句経367(仏教)
すべての欲望を捨て、願望なく、「私のもの」という思いなく、我執なく行動すれば、その人は寂静に達する。
バガヴァッド・ギーター2.71 (ヒンドゥー教)
道を体得した人間は、その名が世間に聞こえず、最高の徳をそなえた人間は、自分の徳を意識することがなく、無差別の境地に達した大人(たいじん)は、自己にとらわれることがない。
荘子17(道教)
利己心のある所にあなたがいることはできず、あなたのいる所に利己心はない。教えを聞いた者よ、熟考せよ、この説明できない命題を。
アーディ・グラント、マールー・キ・ヴァールM.1、p.1092 (シーク教)
律法は自分自身を全的に否定する者と共にある。
タルムード、ソーター21b (ユダヤ教)
「スブーティよ、どう思うか。《尊敬さるべき人》が、〈私は、尊敬さるべき人になった〉というような考えをおこすだろうか。」スブーティは答えた。「師よ、そういうことはありません。……もしも、尊敬さるべき人が、〈私は尊敬さるべき人になった〉というような考えをおこしたとすると、かれには、かの自我に対する執着があることになるし、生きているものに対する執着、個体に対する執着、個人に対する執着があるということになりましょう。」
金剛般若経9(仏教)
はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。
ヨハネによる福音書12.24 ~ 25(キリスト教)
記憶すべきことは、死を恐れる人はこれを避けることができず、不死を熱望する者も決してこれを成し遂げることはできない。
ナフジュ・アル・バラーガ説教43(イスラーム)
おお人の子よ! もし汝われを愛せば、汝の自我に背を向けよ。またもし汝わが喜びを求むるならば、汝自身の喜びを重んずるな。さらば汝、わがうちに死に、われ汝のうちに永遠に生きるを得ん。
バハオラ隠されたる言葉7(バハイ教)
石霜和尚が言った、「百尺の竿の頭で、どう一歩を進めるか」またある古徳が言った、「百尺の頭に座っている人は、[道に]入ることができたといってもまだホンモノではない。百尺の竿の頭で一歩を進めて、十方世界に[自己の]全身を実現せねばならない」無門は評して言う――[百尺竿頭に]一歩を進めることができ、[十方世界に]自己を生まれ変わらすことができるなら、そのうえどこを嫌って[世]尊といえない所があろう。それはそうだが、まあ言うてみよ、百尺の竿の頭で、どう一歩進めるか。ああ!
無門関46(仏教)
こわれた鐘のように、声をあららげないならば、汝は安らぎに達している。汝はもはや怒り罵ることがないからである。
法句経134 (仏教)
顔淵が仁のことをおたずねした。先生はいわれた、「〔内に〕わが身をつつしんで〔外は〕礼〔の規範〕にたちもどるのが仁ということだ。一日でも身をつつしんで礼にたちもどれば、世界じゅうが仁になつくようになる……。」
論語12.1 (儒教)
この身は泡沫のごとくであると知り、かげろうのようなはかない本性のものであると、さとったならば、悪魔の花の矢を断ち切って、死王に見られないところへ行くであろう。
法句経46(仏教)
― み言選集 ―
絶対的な信仰は、自分を肯定する立場ではなく、自分を主張することのできない否定の立場である。
御旨の道、信仰生活
天の国に入っていくにおいて、一番の問題は何でしょうか。「私」という怨讐が潜んでいるというのです。「私」が怨讐だということです。今まで皆さんが信仰生活をするにおいて、祈祷し、一生懸命に努力してきたすべてのことは、「私」に勝利するためのものです。そうしてこそ、サタンがついてくるひもがあれば、そのすべてのひもを完全に切っておかなければなりません。皆さん、絹糸のようなものが世界にぶら下がっています。それをかみそりのようなもので切ってしまわなければなりません。
(122-13、1982.10.31)
イエス様のような方は、何をするためにこの地に来たのですか。イエス様は、生きることを願い、中心存在になることを願い、うれしいことを願う前に、まず死ななければならないことを見せてくださいました。個人を中心とした思想によって歴史を滅ぼしたのなら、その反対の道でなければ、生かせる道がありません。イエス様が「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」と語られたのも、そのような意味です。逆説的な言葉です。
自分を中心として個人を尊重し、個人をより中心の価値的存在として認めるこの世の中を、打破しようというのです。「私一人のために生きなさい」と言うとき、みな散らばっていきます。驕慢な人はみな嫌うのです。しかし、「私はあなたを高めてあげよう」と言うときは、みな喜ぶのです。(67-182、1973.6.10)
自分を意識し始めたのが堕落です。この体を否定しなければなりません。自己否定をすることによって、自らを意識した悪魔サタンを除去し、「ために生きる」ことができる立場に立つことによって神様に帰依するのが宗教を通じた救いの道であり、愛の理念を通して統一していく方法であることを、はっきりと知らなければなりません。
(214-65、1991.2.1)
サタンは、ほかの所にいるのではなく、まさしく私自身の中にいるのである。自分というものがあるために、ねたみと、しっとと、過分な欲望と、血気が出てくるのである。自分を殺しなさい。「私」という字がついたものは全部サタンである。自分自身を嘲笑し、審判しなさい。サタンはいつも、私から一番近い者、一番好むことを通じて侵入してくる。
御旨の道、試験、試練
自分のために生きることは、自分で終わるのであり、人のために生きることは、永遠に継続します。ですから、善が存続する方法は、私が主体の位置に立っても、全体の対象のためにいなければなりません。ですから、世界的人物になろうという欲望をもった人であれば、世界のために生きなければなりません。
それで、世界的人物になれば、彼は世界的主体になるのです。ところが、対象圏を踏みにじる世界的主体は存在できません。世界的主体は、世界を輝かせるための主体にならなければなりません。公的な道は、自分を否定するところから始まります。自分を否定するからといって、自分がなくなるのではありません。また、ほかの相対価値で自分を見いだそうとするところから、善は始まるのです。これは、善が発展する原則的な法度であり道です。これを皆さんは知らなければなりません。
(57-63、1972.5.28)
アジアは今まで蕩減ばかりをしてきたのであり、皆さんは豊かに暮らしてきました。昔の宗教は、蕩減をしなければならないので、もっているものをすべて捨てました。それをすべて西欧の人たちがもっていったのです。自分を立てて物質をもつので、アジアとちょうど反対です。そのような立場で自分を中心として物質をもってみると、精神的に完全に欠如したというのです。
(97-67 ~ 68、1978.2.26)
自分が生まれて今まで成長してきた、その基準を認める以上、永遠に一つになれません。ほかの国、ほかの民族、ほかの民族と一つになれないだけでなく、自分の専門分野以外の人とも一つになれないのです。すべてが一つになれる簡単な方法は何かというと、絶対無視することです。完全に否定することによって、どこでも連結されるのです。
(360-192、2001.11.16)
6) 肉的欲望の統制
すべての宗教で究極的実在を渇望する求道者は、欲望を統制して肉身の欲求を抑制しなければならないことに同意している。過酷な自己統制、断食、何時間かの参禅修行などを通し、体を打って体の力を弱くすることは、すべて肉的欲望に対抗して究極的にこれを制圧する良い方法である。
人にとって最も大きな挑戦は、性欲主管である。イエス様は、誘惑に対して容赦のない教えを下さった。「もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい」。実際に仏教のある尼僧は、自身の罪ではないが、相手方の罪を抜き取るためにこのようにしたと伝えられている。仏教では、肉身を一つの液体と水液、胆汁、糞尿などで形成された塊と見ることで、「肉身の不快感」に対して瞑想する修行を奨励する。これは、異性を見つめるときに生じる性的欲求を弱くするためである。文鮮明先生は、やはり体を「サタンの舞踏会場」とみなし、体に対する不快な感情を通して性欲を自制するように忠告される。
自己主管と関連したみ言は、第12 章の「道徳性」に記述されている。しかし、私達にとって完璧な自己主管というのは、ほぼ不可能である。文鮮明先生は、これが人間堕落により引き起こされた結果だと説明される。自然に形成されないものなどに対しては、強力で極端な修行が必要である。したがって、宗教は、体を打って欲望を抑制するために、程度の高い無慈悲な方法を開発してきた。いくつかの宗教では、このような修行が修道院の制度として体系化されたこともある。皆がこの道を実践できなくても、この地に生きていく人であれば、誰でもこの目的に向かって努力する姿勢が必要である。
1. 肉的欲望の制御
― 宗教経典 ―
愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。
ペテロの手紙一2.11 (キリスト教)
欲望を捨てよ、不死を成すだろう。
阿含経相応部47.37(仏教)
だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。これらのことのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下ります。あなたがたも、以前このようなことの中にいたときには、それに従って歩んでいました。今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。
コロサイの信徒への手紙3.5 ~ 8(キリスト教)
それで、主からの明証の上にある者と、己れの悪い行いをりっぱだと考え、その私欲に従う者と、同じであろうか。
クルアーン47.14(イスラーム)
ただ肉欲を完全に根絶するとき、私達は暴力を捨てることができる。
アーヤーランガ・スッタ4.45 (ジャイナ教)
純真さをあらわし、生まれつきの本性に固執せよ、自己本位の自己を取りのぞき、強欲を捨て。
道徳経19(道教)
かれの心臓に依存している欲望がすべて離脱すると、死すべきもの(人間)は不死となり、〔かれは〕この世でブラフマンに達する。
ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド4.4.7(ヒンドゥー教)
光と影のように、楽と苦は日常のことであるのを知り、ただ自らの心の欲望を治めよ。
アーヤーランガ・スッタ2.78(ジャイナ教)
孔子がいわれた、「君子には三つの戒めがある。若いときは血気がまだ落ちつかないから、戒めは女色にある。壮年になると血気が今や盛んだから、戒めは争いにある。老年になると血気はもう衰えるから、戒めは欲にある。」
論語16.7(儒教)
比丘たち、これら三つの感受がある。三つとは何か。楽しみの感受、苦しみの感受、楽しみでも苦しみでもない感受である。比丘たち、楽しみの感受は苦しみとして見られるべきである。苦しみの感受は毒矢として見られるべきである。苦しみでも楽しみでもない感受は無常として見られるべきである。まことに、比丘たち、比丘にとって楽しみの感受が苦しみとして見られ、苦しみの感受が毒矢として見られ、苦しみでも楽しみでもない感受が無常として見られる時、比丘たち、その比丘は聖者、正しく見る者と言われる。
如是語経53(仏教)
― み言選集 ―
心と体が対等であるために闘うのです。ですから、体を弱くすることにより心が勢力を得て、弱くなった体を数カ月間引っ張って越えていくようになれば、体を再び上げておいても上がってくることができないように習慣化され、その次からは心がしようというとおりにせざるを得なくなるのです。このようにしておけば、自分が計画するすべてのことが天の助けによって、うまくいくことを体験するようになります。このようになれば、そのままにしておいて、元に戻れと言っても戻ることができないために、良心を主として一つの絶対的な立場で生涯を結んでいくようになるのです。これが宗教生活の目的です。
(38-272、1971.1.8)
宗教は、どのようにすれば体を取り押さえることができるか、という代案を提示しなければなりません。強制で拘束しなければなりません。体がしようとすることはすべて許してはいけないというのです。これが宗教で教える教理です。それで、「劇場街には行ってはいけない、ソウルに行くなら鍾三通り(鍾路三街通り)は歩いてもいけない」と言って、すべて止めるのです。「男性たちは若い女性のおしりについて回るな。若い女性は男性をすべてどろぼうだと思ってよそ見をするな」と言います。
統一教会の若い女性たちは、恋愛できますか。できません。また統一教会の若い男性たちは、恋愛できますか。できません。それでは、先生が強制で「恋愛するな」と言うのですか。違います。したければしてみなさいというのです。しかし、できないようになっています。そのようなことを強制的にやらせないようにすれば、もっとやります。自分たちがやってみて、自分で悟らなければなりません。
体をどのようにしなければなりませんか。克服しなさいというのです。善に向かっていく道は克服を要します。体の欲望をつかんで首の根っこをひねるのです。体は驕慢を好みます。すべて、自分のために生きようとするのです。「私のものは私のものであり、あなたのものも私のもの」という考え方です。体はそのようなことを願います。
(39-193、1971.1.10)
若い人たちは、女性を見て誘惑したいという思いを断ち切ってしまいなさいということです。聞いていたことを断ち切り、世の中で良いというもの、これをすべて一時に、……。ですから、宗教は体を打ちなさいと命令をしています。真の宗教であるほど、体を犠牲にしなさいと命令するのです。宗教の歴史を見てみましょう。苦行をさせ、「犠牲、奉仕しなさい」と言います。なぜそのように言うのでしょうか。理由があるのです。天国に行きたければ、人間の地獄世界に行って天国をつくりなさいということです。
この世の中は、悲惨な世の中ですか、幸福な世の中ですか。悲惨な世の中です。このような悲惨で混乱し、混沌となった世界が幸福な世界になろうとすれば、御飯を食べ、ひたすら遊び、酒を飲み、踊りを踊り、そのようにしていつ幸福な世界ができますか。もっと悲惨になりますか。悲惨でなくなりますか。もっと悲惨になるのです。ですから、結論を下さなければなりません。このような悲惨な世界を幸福な世界にしようとする人は、もっと悲惨な道を貫いて越えていかなければなりません。もっと悲惨なところから取り戻さなければ、取り戻せません。その道しかないのです。それでもなければ、神様もいないのであり、すべていないというのです。
(91-286 ~ 287、1977.2.27)
体を打つのは、サタンをなくそうということです。さらには、この体を打つことによって、その体を誰が占領できるのかというと、聖霊が占領できるのです。それで、私達が体を打つのは、聖霊が体を占領するための条件でもあるのです。私の体を打つのは、結果的にサタンを打つことになるので、私の体を打つことによってサタンを打ち、サタンを打つことによってサタンが占領していたものを、代わりに聖霊が占領するようにしようというのです。
(1-126、1956.6.27)
2. 体に対する嫌悪感と腐敗した感覚
― 宗教経典 ―
もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。地獄ではうじが尽きることも、火が消えることもない。
マルコによる福音書9.43 ~ 48(キリスト教)
シーヴァカの楽しいマンゴー林に行こうとしていた尼僧スバーを、一人の好色漢が道をさえぎった。スバー尼は、かれに告げて言った。「あなたは、私(の行く手)をさえぎって立っていますが、私は、なにか過ちをしたのでしょうか? 友よ、男子が尼僧に触れるのは、よろしくありません。私の師の尊い教えには、幸福な人(ブッダ)が説き示した学ぶべきことがらがあります。行ないが清らかで、けがれのない私を、あなたは、なぜさえぎって立っているのですか? 濁らず、けがれなく、清潔で、完全に心が解脱した私を、心濁りけがれたあなたは、なぜさえぎって立っているのですか?」
「あなたは、若くて美しい。出家してもつまらないではありませんか? いらっしゃい、黄衣をすてて、花咲く林のなかで、一緒に遊びましょう。落花粉々たる木々は、四方に甘い香りを放っでいます。初春は、楽しい時季です。いらっしゃい、花咲く林のなかで、一緒に遊びましょう。」
「妖精キンナリーのごとき柔和な眼をした婦人よ、あなた以上に愛すべき人は、この私にはないからです。もしも、あなたが私のことばを聞いてくださるならば、あなたは幸せとなりましょう。いらっしゃい、在家の生活を営んでください。静かな高殿に住む者として、あなたは、侍女たちにかしずかれるでしょう。カーシ産の贅美な(衣服)をつけて、(身を)飾って下さい。花飾りや顔料、黄金・摩尼珠・真珠といった多くのさまざまな装飾品を、あなたに与えましょう。よくよごれを洗い去った美しい天蓋があり、新しい掛け布と敷物をしき、栴壇の香木で美しく作られ、その木の香りがする高価な臥床に上って(寝て)ください。……」
「死骸に満ち、墓田を増大し、破壊される性質のあるこの身体を、あなたは、誤った思いで見ています。納得できるどのような本質も、このあなたの考えにはありません。」
「あなたの眼は、山のなかの牡鹿や妖精キンナリーのそれのようです。あなたの眼を見てから、私の愛欲の念いは、いよいよつのりました。あなたの蓮の花に似た顔、けがれのない黄金に似た顔、そして眼を見てから、私の愛欲の念いは、いよいよつのりました。たとい、あなたが遠くへ去っても、私は、長いまつ毛と、清く澄んだ眼を思い出すでしょう。……」
「暗愚な人よ。目の前に現れた幻影のごとく、夢のなかの黄金の樹のごとく、人々のなかで(見世物のために)作られた像のごとく、うつろなものを(追い求めて)、あなたは走っている。あたかも、(眼は)樹洞のなかに付着した樹脂の塊りのようであり、(眼の)中央に泡状のものがあり、涙を出し、目やにもそこに生じます。(形の上では)多種多様の眼球があります。」
眉目うるわしく、こころに執着のない(スバー尼)は、(眼を)えぐりとって、(それに愛着を)起さず、“さあ、眼をあなたのものとして、おもちください”(と言って)、即座に、これをかの男に与えた。かれの愛欲の念も、即座に消えうせ、彼女に許しを乞うて言った。“清らかな行ないをなす人よ、幸いあれ。このようなことは、二度としますい”と。
(また、)あたかも、燃えた火を抱くように、また、毒蛇をつかむように、私は、このような人を害った。(そうした私に)、幸運がくるであろうか?私をお許しください”と。かの尼僧は、その男から脱れて、すぐれたブッダの御許に来た。(ブッダの)偉徳あるすがたを見て、(彼女の)眼は、元どおりとなった。
長老尼の詩366 ~ 399 (仏教)
諸比丘よ、色は無我なり。若し此色、我なりせば、此の色は病を致すこと無けん、色に於て「我は此色を用いん、彼色を用ふまじ」といふことを得ん。然るに、色は無我なるが故に、色は病を致し、色に於て「我は此色を用ひん、彼色を用ふまじ」といふことを得ず。受は無我なり。若し此受、我なりせば、此受は病を致すこと無けん、受に於て「我は此受を用ひん、彼受を用ふまじ」といふことを得ん……想は無我なり……行は無我なり……識は無我なり。若し此識、我なりせば此識は病を致すこと無けん、識に於て「我は此識を用ひん、彼識を用ふまじ」といふことを得ん。然るに識は無我なるが故に識は病を致し、識に於て「我は此識を用ひん、彼識を用ふまじ」といふことを得ず。諸比丘よ、汝等の意に於て如何、色は常住なりや無常なりや。大徳よ、無常なり。無常なるものは苦なりや楽なりや。苦なり。苦にして変易の法あるものを観見して「此、我所なり、此我体なり」と為すことを得るや。不なり。
受……想……行……是故に所有る色の過去・未来・現在、鹿・細、劣・勝、遠・近なるは此、我所に非ず、此、我に非ず、此我体に非ずと、是の如く正慧を以て如実に観ずべし。
所有る受……想……行……識の、過去・未来・現在、内外、鹿・細、劣・勝、遠近なるは此、我所に非ず、……諸比丘よ、多聞の聖弟子、是の如く観ぜば即ち色を厭患し受……想……行……識を厭患す、厭患せば即ち離貪す、離貪せば即ち解脱す、解脱せば即ち己に解脱すといふ智生じ、生已に尽き梵行已に立し所作已に弁じ更に後有を受けずと知る。
阿含経相応部iii.66 ~ 68(仏教)
あれこれの考えをしずめるのを楽しみ、つねに心にかけて、(身体などを)不浄であると観じて修する人は、実に悪魔の束縛の絆をとりのぞき、断ち切るであろう。
法句経350 (仏教)
口は、汚れた唾液や歯垢など不浄物の容器であり、鼻は膿汁・粘液・鼻水の容器であり、眼は眼脂や涙の容器であります。腹部は糞や尿、肺や肝臓などの容器であります。愚か者は女性をこのように見ず、女性の身体に愛着しています。たとえば、無知の人が不浄物を満たした瓶(へい)の飾りに愛着するように、この世において無知の人は、迷妄のために女性に愛着します。
身体という対象は、きわめて悪臭に満ち、愛着を離れる因でありますが、世の人びとはそれさえも強く愛着しているとすると、いかなるものに対して愛着を離れることがありましょうか。たとえば、豚は糞や尿に満ちた場所や汚物に貪着(とんぢゃく)していますが、それと同じように、人びとは糞や尿に満ちたところに欲望を起こし、汚物に貪着する豚のように、それに愛着しています。身体は(うじ虫の)城であり、不浄物が生じる門のようなものでありますが、それを愚か者は快楽の対象として追い求めています。あなたが自ら糞や尿などをそれぞれ不浄である、とみなすならば、それらの不浄物が集まっている身体が、どうして願わしいものとなりましょう。
血液と精液とに混じり合った不浄物の精子は、胎(はら)に宿って生長します。不浄物の本性を知りながら、いったいだれがこれ(胎)に欲望を起こして愛着するでありましょうか。湿りに濡れた覆いでつつまれ眠っている不浄物の塊りであるもの、それが女性の下腹部で眠りこけているのです。(注15)
龍樹宝行王正論149 ~ 157(仏教)
引き下がりなさい、私はあなたが嫌いです!愚か者、私のサリー(衣)をつかんではなりません!牝牛は生命の事を煩い、畜殺者は殺す事を煩うのです!敬虔な者は高潔な事を思い、卑劣な者は邪悪な事を思うのです!私は自分の魂を思い、あなたは欲情に駆られる。……なんとみっともないこの身体!あなたはなぜこの糞便の瓶、尿の壷、骨で出来た枠、膿の悪臭を愛して、自らを落としめるのですか! 愚か者よ、主シヴァを思いなさい!(注16)
アッカーマハーデーヴィーヴァチャナ15、30(ヒンドゥー教)
― み言選集 ―
この目と鼻と耳と口と手、すべて二つの道と接触しています。私のために見る目は、悪魔の目になるのであり、私のために嗅ぐ鼻は、悪魔の鼻になるのであり、私のために聞く耳は、悪魔の耳になるのです。国を前におくか、世界を前におくか、天地を前におき、横的には世界を前におき、縦的には神様と天の国を前におき、神様の立場で「ために生きる」目をもって見なければなりません。その目は、自分の将来の出世のためのものではありません。私がこのように勉強するのは、国を生かすためであり、万民の解放のためです。「ために生きる」ことなのです。
(214-66、1991.2.1)
夜、帰ってきて顔を洗うときに鏡を見て、「この目、鼻、耳、手、足、いつも問題だ」と語りながら、「お前はきょう罪になることをしなかったか」と尋ねてみるのです。そのようなことを目で見て、言葉で語り、行動し、権力で行った、そのようなことをすべて払いのけ、勧告して方向を変えられる能力がなければならないということです。
(122-266、1982.11.21)
この目が怨讐です。この耳が怨讐です。この鼻が怨讐です。この口が怨讐です。考えが怨讐です。ですから、神様の目をつくり、神様の耳をつくり、神様の鼻をつくり、神様の口をつくり、神様の手足をつくり、いつでも一つになることができ、世界のために生き得る私を取り戻さなければなりません。皆さんの中に地獄と天国の境界線があります。右側に行けば天国であり、左側に行けば地獄です。左側に行けば地獄を行ったり来たりしますか、しませんか。神様のために死のうが生きようが、み旨を中心として行こう、ということです。しかし、まだここで、一生の間このようにしている人がいます。
皆さんは、3種類の中で、どの種類に属していますか。統一教会の教会員の中には、この3種類の人がいます。皆さんはどこに属しているか分かるでしょう。絶対に分からないということはないのです。ここ(A)にいますか、ここ(B)にいますか、ここ(C)にいますか。みな「Aだ」と言うので、欲が深いです。苦労なことがあるというのです。すべて反対です。今まで見てきたことの100 パーセント反対です。若い人たちは、女性を見て誘惑したいという思いを断ち切ってしまいなさいということです。聞いていたことを断ち切り、世の中で良いというもの、これをすべて一時に……。ですから、宗教は、体を打ちなさいと命令をしています。真の宗教であるほど、体を犠牲にしなさいと命令するのです。宗教の歴史を見てみましょう。苦行をさせ、「犠牲、奉仕しなさい」と言います。なぜそのように言うのでしょうか。理由があるのです。
(91-286、1977.2.27)
女性たちに、どれほど誘惑が多いですか。自分の顔立ちが良ければ、「私はこの顔が嫌いだ!」と反対の態度を取らなければなりません。
(116-19、1981.12.1)
皆さんが、胸が痛むほど悔しく思うべきこととは、正に自分の体が悪魔の舞踏する場になっているという事実です。悪魔たちの愛の場になっています。悪魔の愛を通じて、悪魔の血統を受け継ぎました。その血が今、自分の体から本然的人格を蹂躙するために、その勢力圏で自分を支配しているという、この驚くべき事実を知らなければなりません。これを清算するには、国でも清算する道がありません。自分自身がしなければなりません。
(214-285、1991.2.3)
私自体にはサタンの血が入っています。その次には、サタンの所有欲が入ってきています。その次には、自分を中心とするサタンが入ってきているのです。このようなことを見るとき、「私」という存在の中で、サタンの愛と、サタンの欲心と、サタン自体が私をまとっていると考えればよいのです。ここにいる、このサタンを抜き出さなければなりません。サタンの血筋を抜き出し、サタンの欲望を抜き出し、自分中心的なサタンの要素を抜いでしまわなければなりません。何をもって抜き出せるのでしょうか。神様が宗教を立て、復帰摂理、救援摂理をする目的とは何かというと、これを断ち切ることなのです。
(115-42、1981.10.28)
宗教は、体が好むものを否定するのです。ですから、すべて捨てなければなりません。食べることも捨て、寝ることも捨て、好きなことをみな捨てなさい。情欲、食欲、睡眠欲を捨てなさいというのです。食べて寝て、好きなことをみな捨てなさいというのです。
人は本来食べて寝なければなりません。そして好きなことをしなければなりません。ところが、そのすべてのものが肉身を通して死亡の行路になったので、これを追放しなさいというのです。体に爆弾を爆発させなさいというのです。粉々にしてすべて占領しなさいというのです。体は高められることを好み、楽な位置を好みます。また、ごつごつしたものは嫌い、ぽちゃぽちゃし、すべすべし、ふかふかしたものを好みます。
私達は、この体が好むことを好んではなりません。ですから私達は、まるまるとしたものではなく、ごつごつしたもの、固いものなど、体が好むものと反対のものを好まなければなりません。体は高まることを好み、他人のお金を奪ってでもよく食べることを好みます。他人はどうなろうと、自分が豊かに暮らせれば喜びます。ですから、そのような根性をすべてたたき壊さなければなりません。
(18-66、1967.5.21)
アダムはエデンの園を歩き回り、エバは木の下で泣いているとき、天使長が見てあげながら、おんぶして歩いたり、座ってひざの上に座らせたりもするのです。そのようなときに生殖器が触れるのですが、周りで動物たちが子を産むのを見ると「あのようにして子を産むのだなあ」と思うのです。それで、一度「えい」と力を入れればすべて終わります。男性と女性の生殖器が触れ合えば、人はみな喜ぶというのです。そのようなことが起きます。堕落したときに、そのようになっていったのです。
皆さん、男性たちに女性がそのようにしていけば、じっとしていますか、「えい」としますか。最高の美しい女性が近づいてきて生殖器を触るとき、それが起きますか、起きませんか。男性たち? それが起きてはいけません。ですから、皆さんは、いくら美人を座らせても、その生殖器が起きてはいけないのです。死ななければなりません。蕩減復帰です。それが蕩減です。もし美人が座ってそれを強制的に入れようとすれば、蹴飛ばして見えない所に飛ばしてしまわなければならないのです。
(285-201 ~ 202、1997.5.4)
7) 富と財物に超然とした人生
富と所有物は、堕落した世の中で人間を縛りつける鎖と同じである。貪欲と物欲、増加する自分中心な欲望などが私達を引っ張っていくものである。富の執着は「すべての悪の根源」と教示されてきた。そして、物質主義は、人間の霊性啓発に途方もない障害物になってきた。
伝統的に天に向かう道では、富と物質に対する執着を捨てることを要求した。僧侶と修道女らは、典型的な清貧の人生を営むことを誓った。一般人もやはり、より大きな善のために自らの富を犠牲にすることによって、執着から自由な人生を営むことができる。ある人たちは、慈善活動に積極的に参加し、他の人々は、病気にかかった家族を看護するために良い職場もあきらめ、助けを必要とする人のために身を投じる。彼らは、既存のものを守ろうとするいらだちを捨て、奉仕と施しのために物を集めることで心の平和と新しい満足感を感じている。
文鮮明先生は、無所有の教えを真の愛の哲学と関連させて話される。神様の愛は、独占を排除する心的態度から始まると言われる。反面、所有に執着する人々は、所有物が愛の実践の妨げになっているという。この原理は、日常生活で神様と人間の関係、人間と人間の関係に適用されるだけでなく、国家福祉と地球星全体にも適用される。
1. 没落の原因であるお金
― 宗教経典 ―
災いなるかな、……富を積んで計算するのに余念のない者、まことに富は、かれを永久に生かすと考えている。
クルアーン104.1 ~ 3(イスラーム)
金銭の欲は、すべての悪の根です。
テモテの手紙一6.10(キリスト教)
人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。
申命記8.3、マタイによる福音書4.4(キリスト教)
小人となって財貨を追い求めるな。お前の本来の天性にたちかえってこれに従え。
荘子29(道教)
だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。
マタイによる福音書6.24 (キリスト教)
彼岸にわたることを求める人々は享楽に害われることがない。愚人は享楽のために害われるが、享楽を妄執するがゆえに、愚者は他人を害うように自分をも害う。
法句経355 (仏教)
「私は今日これを得た。私はこの願望を達成するであろう。この財産は私のものだ。この財産もまた私のものとなろう。私はあの敵を倒した。他の敵も倒してやろう。私は支配者である。享受者である。私は成功し、有力者で、幸福である。私は富み、高貴な生れである。他の誰が私に匹敵するか。私は祭祀を行おう。布施をしよう。大いに楽しもう。」彼らは無知に迷わされてこのように言う。彼らは様々に心迷い、迷妄の網に覆われ、欲望の享受に執着して、不浄の地獄に堕ちる。
バガヴァッド・ギーター16.13 ~ 16(ヒンドゥー教)
しかしかれらは、売買のことや遊戯を見るとき、なんじの礼拝に立っているのをなおざりにして、それに向かって、無考えに散らばる。言え「神のみもとの恩恵は、遊戯よりも取引よりもまさる。神は、最善の給与者であられる」。
クルアーン62.11 (イスラーム)
財産が増せば、それを食らう者も増す。持ち主は眺めているばかりで、何の得もない。働く者の眠りは快い。満腹していても、飢えていても。金持ちは食べ飽きていて眠れない。太陽の下に、大きな不幸があるのを見た。富の管理が悪くて持ち主が損をしている。下手に使ってその富を失い、息子が生まれても、彼の手には何もない。人は、裸で母の胎を出たように、裸で帰る。来た時の姿で、行くのだ。労苦の結果を何ひとつ持って行くわけではない。これまた、大いに不幸なことだ。来た時と同じように、行かざるをえない。風を追って労苦して、何になろうか。
コヘレトの言葉5.10 ~ 15(キリスト教)
あなたの職務は行為そのものにある。決してその結果にはない。行為の結果を動機としてはいけない。また無為に執着してはならぬ。アルジュナよ、執着を捨て、成功と不成功を平等(同一)のものと見て、ヨーガに立脚して諸々の行為をせよ。ヨーガは平等の境地であると言われる。実に、〔一般の〕行為は、知性(ブッディ)のヨーガより遙かに劣る。知性に拠り所を求めよ。結果を動機とする者は哀れである。知性をそなえた人は、この世で、善業と悪行をともに捨てる。それ故、ヨーガを修めよ。ヨーガは諸行為における巧妙さである。知性をそなえた賢者らは、行為から生ずる結果を捨て、生の束縛から解脱し、患いのない境地に達する。
バガヴァッド・ギーター2.47 ~ 51(ヒンドゥー教)
凡夫は欲望と貪りとを執著しているが、眼ある人はそれを捨てて道を歩め。この(世の)地獄を超えよ。
スッタニパータ706(仏教)
われ火もて黄金を試し、また黄金もてわが僕らを試さんに。
バハオラ隠されたる言葉54(バハイ教)1
お金を稼ぐ生活はやむなくする生活であり、富は明らかに私達が求めている善ではない。それはただ他の何かのもののために有用なものだからである。
アリストテレスニコマコス倫理学1.5(ヘレニズム)
― み言選集 ―
お金というものは汚れたものです。糞よりもっと汚いものです。糞がついたからといって、人が倒れたりしませんが、お金を間違って使えば、糞よりもっと恐ろしいのです。先生はお金を使いません。できる限り使わないのです。使えるお金があれば、すべてあげてしまいます。
(381-304、2002.6.17)
お金があれば、食べること、着ること、住むこと、すべて解決できるのでお金が大切ではないかというのです。お金が問題です。皆さんはお金をもつとき、お金の愛の主人になりたいと思いますか、お金の権力の主人になりたいと思いますか。お金は必要ですが、全体のために、愛を実現するために必要なのです。
(116-18、1981.12.1)
世界平和は、平和な国家がまずなければなりません。国家の平和は、家庭の平安が前提でなければなりません。世俗の人々が一般的に願ってきた権力や富貴や知識が、平和と幸福の必要十分条件になることはできません。真の幸福は、愛の所有に比例するのでもなく、外的な生活の便利さによって左右されるのでもありません。このようなものが真の愛と共にあるとき、真の平和と真の幸福を得るようになるのです。真の平和も無限な幸福も、真の愛で他のために施すとき、そして、その施したものが全体を回って再びやって来るときにこそ、確実に得られるようになるのです。
(294-69、1998.6.11)
神様が相対世界を創造するためには、所有観念がないのです。自分の所有観念があれば、100 を所有しても、100 以上価値のあるものを与えられません。投入して忘れてしまい、投入して忘れてしまうのです。無限に投入するのは、無限に自分の概念がない時にのみ可能です。相対に対する投入においては自分の意識をもてません。何のことか分かりますか。「これは私か使うお金だ。これは私の取り分だ」というのはサタン側の考え方です。
(287-265、1997.10.5)
人類は、戦争と苦痛がない平和の世界を渇望しています。しかし、希望よりも、逆に次第にひどくなっていく物質万能主義の傾向とともに、国家権力と宗教が正しい影響を及ぼすことができない中で、青少年たちの退廃、家庭破綻、麻薬とエイズ等は人類の将来をより一層暗くしています。
(294-61、1998.6.11)
暮れていく20 世紀のあらゆる先進諸国は、今一様に悩みの中で苦しんでいます。その原因はどこにあるのでしょうか。その原因は、先進諸国がすべて物質文明の極致を謳歌し、今ではその物質文明の罠にはまったのです。物質が精神を支配し、心を支配していくと、人間の霊魂が物質の奴隷になったのです。そして、その結果は真の愛の没落です。物質的に豊かで都市には高層の楼閣が立ち並んでいますが、人間の心は砂漠のように荒れ果て、そこで真の愛のオアシスは見いだすことはできないので、人間の生活は殺伐この上ないものになったのです。そこには真の愛がないので、人間の利己主義ばかりが生い茂るようになったのですが、この利己主義の最大の被害者は美しい大自然です。
私はこの平和会議の一つの主題として、人間を取り巻く地球環境の回復に関する討議を含ませましたが、私達の自然環境は、今ではもう破壊されるだけ破壊され、水と空気は汚染されたのであり、人類を保護してくれていたオゾン層まで破損されているので、このままいけば人類は、自ら構築した物質文明のために自滅を避けることができない境地にまで至るでしょう。物質文明の極度の被害は、あらゆる国家社会の基礎となる家庭の破壊にあります。家庭は社会の細胞です。私達の体の中にある数十兆の細胞一つ一つが健全であれば、その体は健全な体ですが、その細胞が破壊されれば、その体全体が弱くなり、結局はその体も破壊されるのです。
ですから、この地球上で真の家庭制度が破壊されていくということは、すなわち世界人類全体の破滅が遠くないことを意味します。今、私達の社会は本来、神様が設計され創造されたものとは正反対のところに位置しているのです。21 世紀は、神様が志される本然の世界に戻っていく世紀です。物質文明の時代は行き、精神と心が主人となる精神文明のときが訪れるのです。その21世紀がこれから5年後に迫ってきています。このとき、開発途上にある国々は、開発国の前轍を踏まずに、先進国を教訓として物質文明の罠の中にはまることなく、心と精神が主人となる世界に直接突入してくれることを熱望しながら、叫びたかった忠告の内容をお話ししました。
(271-95 ~ 96、1995.8.23)
2. 喜捨と知足安分
― 宗教経典 ―
イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、私に従いなさい。」青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。イエスは弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」
マタイによる福音書19.21 ~ 24(キリスト教)
比丘たち、もし生あるものたちが、私の知るように、施し分け与えることの果報を知っていたならば、他に食を施しもせず、自分だけで食べることはしないだろう。また物惜しみの煩悩の垢が、彼らの心をとらえて離さぬようなことはないであろう。彼らに食物の最後の一口でも最後のひとかけらでも残っていて、もし彼らのために施しを受ける人々がいれば、彼らはその人々に分け与えずに自分だけで食べることはしないであろう。
如是語経26(仏教)
誰が富者か。自らの取り分の中で喜びを享受する者である。
ミシュナ、アヴォート4.1 (ユダヤ教)
偉大な人物の教えは……そこでは、身も心も、いっさいの差別がない大同の境地に没入してしまう。大同の境地に没入してしまえば、もはや自己は存在しない。自己がなければ、いかなる有(う)に執着することがあろうか。
荘子11(道教)
物欲しさにこう言っているのではありません。私は、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。私を強めてくださる方のお陰で、私にはすべてが可能です。
ピリピの信徒への手紙4.11 ~ 13(キリスト教)
そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物を履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。
マルコによる福音書6.7 ~ 9(キリスト教)
これがトーラーの道だ。ごく少量の塩と水に頼って生きなければならず、地に伏して苦難を経験し、同時にトーラーを守って生きるのである。このようにするあなたは幸福な者であり、トーラーがあなたと共にあるだろう。
ミシュナ、アヴォート6.4 (ユダヤ教)
先生がいわれた、「えらいものだね、回は。竹のわりご一杯のめしとひさごのお椀一杯の飲みもので、せまい路地のくらしだ。他人ならそのつらさにたえられないだろうが、回は〔そうした貧窮の中でも〕自分の楽しみを改めようとはしない。えらいものだね、回は。」
論語6.11 (儒教)
私達がモスクで神の使徒と共に座っていたとき、ムサブ・イブン・ウマイルがぼろぼろの毛皮の外套だけを引っかけたまま私達のところに来た。神の使徒が彼を見ると、彼は過去の豊かさを回想してほほえんだ。
そして彼が言った。「あなた達のうちで一人が、朝に外出するときに着る外套と夜に外出するときに着る外套が違い、皿がすべて一杯になる前にほかの皿をむだに使い、あなたの家をカーバ(神殿)を飾るように飾っているのに、どうしてあなた達と一緒にいられようか」。
これに対する答えを聞いてから彼は再び、「神の使徒よ! それならば、これからは礼拝を捧げる余裕と必要なすべてのものを得るようになり、今よりよい生活をするようになるのですね」と言った。すると使徒が答えた。「いいえ、あなたにはそのときより、きょうがはるかによいだろう」。
ティルミズィー・ハディース(イスラーム)
兄弟たちは、家も、場所も、そのいかなるものにも執着してはならない。この世の異邦人と巡礼者たちのように、堂々と清貧の中で天に仕えて生きなければならない。これを恥ずかしく思ってはならない。主なる神は私達のために、この世にご自身を困窮な位置に置かれたからである。
私の親愛する兄弟たち、最高の清貧の場に行くのが天国の王であり、相続者であられる皆さんを、物質的には貧しいが誰よりも徳のある人にすることができます。これが生きている者たちの地に私達を導くのであり、そこに忠実にしてくれるのです。愛する兄弟だちよ、私達の主イエス・キリストは、この世で何も顕われませんでした。
フランチェスコ規律(キリスト教)
他の人たちは食べるために生きるが、私は生きるために食べる。
ソクラテス(ヘレニズム)
最小限に願うため、私は神に最も近い。
ソクラテス(ヘレニズム)
― み言選集 ―
自分の財産はあり得ません。財産は天の財産です。神様のものであり、ために生きる人たちのものであり、自分のための財産はあり得ないのです。それは滅びます。
(399-18、2002.12.18)
皆さんは、ハンカチをもっているでしょう? そのハンカチは自分のものですか。違います。今まで自分のものだと考えてきました。これが違うというのです。私に属するあらゆる土地、家を自分のものだと考えたのです。夫、妻、息子、娘を、私の息子、娘、私の妻、私の夫と考えて思いどおりにしました。それが堕落後に継承された病弊だということをはっきりと知らなければなりません。これを立て直すための神様の歴史が数千年間、私達の知らない中で続いてきたことを知らなければなりません。それで、所有権を否定しなければならないというのです。万物に対する所有権をすべて否定しなければなりません。
(293-172、1998.5.26)
天宙主義者は、世界まで祭物にしなければなりません。自分の所有でも、それを未練なくきれいにすべて捧げ、その次には祭壇まで必要です。祭壇まで一緒に燔祭、燃やしてしまわなければなりません。自分の所有はないのです。祭司長の役割をきちんとしてこそ、振り返るとき、今まで祭祀を捧げた勝利の実績が振り返るその後ろにぶら下がるのです。天が準備するというのです。
(342-227、2001.1.12)
裕福に暮らすアメリカを、すべてかき集めてでもアフリカにもっていこうという人がいれば、神様はその人を思われるでしょう。その人を愛するというのです。
(91-24、1977.1.16)
お金を集めるのですが、そのお金で自分の息子、娘に良いものを食べさせようと思ってはいけません。息子、娘に与える前に、世界のために与えたという条件を立てなければなりません。その息子、娘は世界のための息子、娘なので、まず世界に与えてから息子、娘に与えなければなりません。私の家庭よりはまず民族のために与えてから家庭のために与えようとすれば、神様は、私の家庭と私に福を下さるのです。神様が私の息子、娘に食べさせてくださるのです。私が与えようとしてもそのようにする必要がありません。そのように、自分のすべてのものを犠牲にして、自分にある財産すべてを国のために与え、世界のために与え、犠牲にしていく群れがいれば、彼らは自動的に福を受けるようになっています。
(26-52.53、1969.10.18)
経済は結果です。すべて結果が問題になっています。結果を問題として原因を見る人がいないということです。なぜお金が必要なのですか。お金でただ食べて暮らし……。そうではありません。これが原因とこの世界と一つになるために必要だ、そのような観念がありません。私が結果なので原因をよくするために必要だ、このような考えがありません。私が父母を奉養し、私の家族を奉養し、国のために愛国しようとするのでお金が必要だ、これがどれほど宇宙的な観念ですか。ところが、国も、家族も、父母もすべて必要ないというのです。
国もそのお金をもっていることを喜び、父母たちも喜び、兄も喜び、全員が喜べば、私も喜ぶことができるのです。みなが嫌うのに、私だけが喜べば、それは滅びるのです。ここにいる人がこのように行くのです。ですから、どこに行っても、みな喜ぶのです。そうして喜んでこそ、それがすべての宇宙が喜ぶものになるのであって、みなが喜ばずに「私だけが、私だけが」と思っていれば滅びるのです。
(117-101 ~ 102、1982.2.14)
モーセは豪華なパロ宮中で生活をしたが、「これが何だ!」と言って民族をより思ったがゆえに、民族的な指導者になり得た。
御旨の道、指導者
今まで先生の立場は、世の中から見れば最高の立場に立っていますが、低いところに行ってもそのようなバランスを合わせるのです。赤ん坊であれば赤ん坊の友達になってあげ、学生であれば学生の友達、おばあさん、おじいさんであればおばあさん、おじいさん、宗教者であれば宗教者、学者であれば学者、どこに行ってもバランスを取ってあげます。訓練をして世界的なバランスを取ることができる人は、世界的な中心者になり、世界的な主体者になるのです。
(299-171、1999.2.15)
8) 出家
神様は、愛する家族の中で人間に対する神様のみ旨が成し遂げられることを希望されたが、たびたび霊的求道者は、神様のみ旨に従うために家庭と家族に背を向けて離れる。ある摂理的な人物は、神様の命令によってこのようなこともする。アブラハムが、自分の故郷を離れて未知の土地に行きなさいという神様の命令を受けた立場が、それである。これと似て、修道院生活の初期段階で、愛する家族と胸痛む離別をする場合もある。
ある信仰者の出家は、家族の葛藤問題を引き起こしたりもする。家族たちが彼の信仰の道を遮る場合がある。このように、イエス様は愛する両親と配偶者から反対を受けることを予想し、弟子たちが自身の弟子になるためには相当な代価が伴うことを知って次のように警告した。「私よりも父または母を愛する者は、私にふさわしくない」。これに対して文鮮明先生は、家族と友人との離別は復帰の道を行くにおいて必要な過程といわれる。それは、堕落した世の中の習慣的な偽りの愛から、神様の高貴な愛によって新しい人生を始めることができる画期的な転機が与えられるからである。
― 宗教経典 ―
私が来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。私は敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。私よりも父や母を愛する者は、私にふさわしくない。私よりも息子や娘を愛する者も、私にふさわしくない。
マタイによる福音書10.34 ~ 37(キリスト教)
信仰する者よ、もしなんじらの父または兄弟が、信仰より以上に不信心を好むならば、かれらを親しい友としてはならぬ。もしなんじらのうち、かれらを親しい友とする者あれば、それらは不義者である。言え「なんじらの父・子・兄弟・なんじらの妻・近親・なんじの手に入れた財産、なんじが不景気になることを恐れる商売、意にかなった住まいがなんじらにとり、神とみ使い、ならびにかれの道のために奮闘努力するよりも好ましいならば、神が命令を下したもうまで待て。神は反逆の民を導きたまわぬ」。
クルアーン9.23 ~ 24(イスラーム)
愛する人と会うな。愛しない人とも会うな。愛する人に会わないのは苦しい。また愛しない人に会うのも苦しい。
法句経210 (仏教)
隣人を信じてはならない。親しい者にも信頼するな。お前のふところに安らう女にも、お前の口の扉を守れ。息子は父を侮り、娘は母に、嫁はしゅうとめに立ち向かう。人の敵はその家の者だ。しかし、私は主を仰ぎ、わが救いの神を待つ。
わが神は、私の願いを聞かれる。
ミカ書7.5 ~ 7(キリスト教)
神は不信者のために一例を示したもう、ノアの妻、およびロトの妻である。かれら両人は、ふたりの正しいわがしもべのもとにいた、かの女らは、夫に不真実で、神のみもとで何ら得るところはなかった、そして「なんじらふたりは、他のはいる者と一緒に火獄にはいれ」と、言われた。また神は、信仰する者のために一例を示したもう、ファラオ(注20)の妻である。かの女が「主よ、楽園の中のあなたのおそばに、私のため一邸宅をお建て下さい、そしてファラオとその行いから、私を救い、不義を行なう者から、私をお救い下さい」と、言ったときを思え。
クルアーン66.10 ~ 11(イスラーム)
主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷父の家を離れて、私が示す地に行きなさい。……」
創世記12.1(キリスト教)
私の名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。
マタイによる福音書19.29 (キリスト教)
神の道のために移住する者は、地上に広い避難所と、豊かな生息分野のあることを知るであろう。およそ神とそのみ使いのもとに、家郷から遷移者として出て行き、その後途中で死に遭遇したならば、神において、必ず償ないの責めを負いたもう。神は、寛容者・慈悲者であられる。
クルアーン4.100 (イスラーム)
もし、だれかが私のもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、私の弟子ではありえない。
ルカによる福音書14.26(キリスト教)
あなたの兄弟や父の家の人々、彼らでさえあなたを欺き、彼らでさえあなたの背後で徒党を組んでいる。彼らを信じるな。彼らが好意を示して話しかけても。
エレミヤ書12.6(キリスト教)
尊者戦勝の舊妻は尊者戦勝に近づき彼に告げていへり。「沙門よ、我が小子を養へ」と。かくいふも、尊者戦勝は黙してありき。尊者戦勝の舊妻は再び彼に告げていへり。「沙門よ、我が小子を養へ」と。尊者戦勝は再び黙してありき。尊者戦勝の舊妻は三たび彼に告げていへり。「沙門よ、我が小子を養へ」と。尊者戦勝は三たび黙してありき。尊者戦勝の舊妻は「沙門よ、こは汝の子なり。これを養へ」と、かくいひて、その児を尊者戦勝の前に捨てて去れり。尊者戦勝はその児を看ず又呼ばざりき。かの舊妻は稍々行きて顧み、尊者戦勝のその児を看ず又呼ばざることを見て、思へらく、「この沙門には子の用なし」と。それより還り来りて児を携へて去れり。「多くの人々、ここにありて欲すれども水によりては清浄ならず。何人にも真実と法とだにあらば、彼は清浄なり、彼は婆羅門なり」
感興偈5 ~ 6(仏教)
あなたの富と妻を放棄せよ。あなたは出家者の人生を始めなければならない。吐き出すように嫌なものに戻るな。ゴータマよ、常に注意せよ!あなたの友と親戚たちを離れ、あなたが集めた大きな富を捨てよ。二度とそれらに対する欲望を抱くな。ゴータマよ、常に注意せよ!……今あなたはとげがすっかり取り除かれた道、偉大な道に入った。正しい道を歩んで行け。ゴータマよ、常に注意せよ!
ウッタラッジャーヤー・スートラ10.29 ~ 32(ジャイナ教)
サーリプッタ尊者よ、どうしてわれわれに励みがありましょうか。われわれは母父を養わねばなりません。妻子を養わねばなりません。奴隷・雑役夫を養わねばなりません。友人・知己に対して友人・知己の務めを果たさなければなりません。親族・縁者に対して親族・縁者の務めを果たさねばなりません。賓客に対して賓客の務めを果たさねばなりません。先祖に対して先祖の務めを果たさねばなりません。神々に対して神々の務めを果たさねばなりません。王に対して王の務めを果たさねばなりません。この身体を喜び、元気づけられねばなりません」と。「ダナンジャーニーよ、そのことをどう思いますか。つまり、ここで、ある者が母父のために非法行者・不正行者になるとします。そのかれを、非法行・不正行のために、獄卒たちが地獄へ引き込む場合、かれはつぎのように言うことができるかどうかです。『私は母父のために非法行者・不正行者になりました。獄卒たちは私を地獄に引き込まぬように』と。あるいはまた、かれのために母父がつぎのように言うことができるかどうかです。『この者は母父のために非法行者・不正行者になりました。獄卒たちはかれを地獄に引き込まぬように』」
阿含経中部ii.186 ~ 187 (仏教)
朋友・親友に憐れみをかけ、心がほだされると、おのが利を失う。親しみにはこの恐れのあることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。子や妻に対する愛著は、たしかに枝の広く茂った竹が互いに相絡むようなものである。筍が他のものにまつわりつくことのないように、犀の角のようにただ独り歩め。仲間の中におれば、遊戯と歓楽とがある。また子女に対する情愛は甚だ大である。愛しき者と別れることを厭いながらも、犀の角のようにただ独り歩め。妻子も父母も、財宝も穀物も、親族やそのほかすべての欲望までも、すべて捨てて、犀の角のようにただ独り歩め。「これは執著である。ここには楽しみは少なく、快い味わいも少なくて、苦しみが多い。これは魚を釣る釣り針である」と知って、賢者は、犀の角のようにただ独り歩め。水の中の魚が網を破るように、また火がすでに焼いたところに戻ってこないように、諸々の(煩悩の)結び目を破り去って、犀の角のようにただ独り歩め。
スッタニパータ37 ~ 62、犀の角(仏教)
― み言選集 ―
イエス様は、「だれよりも私を愛さなければならない」と言いました。「私よりも父または母を愛する者は、私にふさわしくない。私よりもむすこや娘を愛する者は、私にふさわしくない」と言ったのですが、この言葉は公式です。それでは、反対する者は誰ですか。自分を最もたくさん愛した順序どおり、自分をもっと愛した人の順序で反対するようになるものです。それで、「家の者が、その人の敵となるであろう」という言葉が宇宙的な真理だということを知らなければなりません。
(92-207、1977.4.10)
イエス様は、「私よりも父または母を愛する者は、私にふさわしくない。私よりもむすこや娘を愛する者は、私にふさわしくない」(マタイ10・37)という話をしたために反対を受けました。なぜそのような話をしたのですか。そのような話がどこにありますか。ですから反対を受けたのです。世の中で反対を受けながら、そのような話をしました。それはなぜでしょうか。原罪を断ち切るためです。サタンの血があるので、それを抜き出さなければならないからです。そして語られる言葉が「家の者が、その人の敵となるであろう」ということです。世の中に、そのような話がどこにありますか。私の母が怨讐で、私の父が怨讐で、私の妻、私の息子、娘が怨讐だという話ではないですか。世の中にそのような話がどこにあるのですか。しかし、原罪があるのでそのように言わざるを得ないのです。原罪を中心とする体が互いに愛する日には、この原罪が断ち切られません。これは否定できないのです。ですから怨讐だというのです。血筋というものは愛を通して連結されるので、父母の愛、夫婦の愛、子女の愛がすべて180 度回れ右しなければなりません。「すべて必要ない。何よりも神様の愛を第1にしなければならない」、こうでなければならないということです。
(79-160、1975.7.20)
夫が第1であり、妻が第1であり、私の息子、娘が第1だと考えるのですが、その第1だという位置がサタンの血筋を受け継いだ位置での第1だというのではいけないのです。これを否定しなければなりません。神様の愛のために夫の愛を否定しなければなりません。これが問題です。妻の愛を否定しなければなりません。子女の愛を否定しなければなりません。絶対的な神様が向き合えるのが本来の人間なのですが、皆さんの体にサタンがいたずらした痕跡がある限り、皆さんは本来の愛の理想を心と体に根づかせることはできないのです。
(140-24、1986.2.1)
天を求めていく道においては、世の中の初恋よりも高い愛を、天を中心として感じる位置を探し出すことができなければ、天に帰る道がないのです。それでは、そのようになるためにはどのようにしなければなりませんか。初恋の自分の相対を中心として生命を捧げるがゆえに生命問題、その次には物質問題、その次には知識問題、その次には権力問題、すべてが問題になります。命懸けで恋愛結婚した人が天のみ旨の前に入っていこうとすれば、1週間以内にこれを捨てることができる愛の圏を求めていかなければなりません。
(102-19 ~ 20、1978.11.19)
この世界をどのように復帰するのでしょうか。個人を中心としてここに植えるのです。反対になって引っ張っていかなければなりません。脱出しなければならないのです。それで、仏教のような高次的な宗教は出家をしなければなりません。父母を愛してはならず、兄や姉を愛してもいけません。「私よりも父または母を愛する者は、私にふさわしくない」という聖書の言葉は逆説的論理ですが、それは天の道を求めていく道理に従った論理として、受け入れなければならないのです。
(181-212 ~ 213、1988.10.3)
お父様!私がお父様のみ前に恥ずかしくないのは、お父様の威信を立てるために、人間の威信を余地なく放棄してしまったし、お父様の威信とお父様の権威を立てるために自分の位置と環境と、立場もみな放棄してしまったからです。それをあなたは、よく知っていらっしゃいます。世界の人間の誰も行けなかった事情の道を、求めていかなければならないと、身もだえする歴史過程において、あなたは一つ一つ慰労なさり、一つ一つつかみながら、「この道を行くお前以上に寂しい者がこの地上にいない。再び行くべき寂しさが残っている」と勧告なさったお父様のその声を忘れられません。
(159-61、1968.1.28)
自分の愛する子女をあとにして、孤独の道に従い、誰も歓迎しない天の道を求めていき、国のない運命の道を求めていくというのは、とても難しいことです。私も赤ん坊を捨て、家庭を捨てて、以北の地に向かった歴史のある人です。行きたくて行ったのではありません。神様が必要とし、天の命令があるがゆえに行ったのです。行くまいと身もだえしながら、1、2日は深く悩みましたが、その悩みよりもっと大きな神様の事情を知ったので行ったのです。
(64-148、1972.10.29)
皆さんも家庭を抱いてどれほど身もだえしてきましたか。自分の息子、娘を愛することができない人はいません。犬や豚でもそうです。木石のように鈍い人でもそうです。私、レバレンド・ムーンも同じです。息子、娘を愛する心がないのではありません。誰よりも強い人です。鋭敏な人です。一家を愛することができない人ではありません。母が監獄に訪ねてきたとき、私は目を見開いて「母誰々の息子ではない」と怒鳴りつけました。その母は生きていません。亡くなったことを知った今は「不孝をした」と……。しかし、その息子は自分自身のために生き、一家の幸福のために生きるのではなく、国と世界のために神様のみ旨、天理を身代わりしてそのようにしたのです。
(168-148、1987.9.13)
9) 世俗の分別
世俗の人生は、神様に向かう人生と比べることはできない。快楽と富、名誉、物質的安定の追求は必然的に霊的求道の妨害となる。俗世に向かう情熱と執着は、単純に精神的な散漫さを越えて霊魂を地獄まで引っ張っていく。したがって、経典には世の中と世の中の価値に順応するなという数多くの忠告が含まれている。
賢明な人々は、世俗的成就を一つの妄想とみなす。そして、そのような快楽に喜ばず、神様のみ旨に献身することを誓う。常に世の中の考えから距離を保ち、天が下さる霊的感動をかみ締める。世の中で言う成功よりは、霊的成長をその業績として理解する。
ある宗教では、修道院共同体生活を通して俗世と分別を試みる。しかし、道徳的勧告や教会の教えによって形成される修道生活と世俗的生活の境界線は、それほど明らかではない。俗世に埋もれて生きているが、決して世俗的でない人々もしばしばいる。彼らは、見た目は平凡に見えるが、彼らの内面は世の中の支配的価値に執着せずに、他の価値観をもって生きている。
1. 世俗のやり方に従わない
― 宗教経典 ―
あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。
ローマの信徒への手紙12.2 (キリスト教)
大道に棄てられた塵芥(ちりあくた)の山准(やまずみ)の中から香しく麗しい蓮華が生ずるように。塵芥にも似た盲た凡夫のあいだにあって、正しくめざめた人(ブッダ)の弟子は知恵もて輝く。
法句経58 ~ 59(仏教)
人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。
マタイによる福音書16.26(キリスト教)
ある男が預言者のところにやって来て言った。「神の御使いよ、私がそれをすれば、神も人々も私を愛するような行いについて教えてください。」すると預言者は言われた。「現世から身をひけば、神はお前を愛されるだろう。人々が所有しているものから身をひけば、人々はお前を愛するだろう。」
ナワウィー40 のハディース31(イスラーム)
下劣なしかたになじむな。怠けてふわふわと暮らすな。邪な見解をいだくな。世俗のわずらいをふやすな。
法句経167(仏教)
私は彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。私が世に属していないように、彼らも世に属していないからです。私がお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。私が世に属していないように、彼らも世に属していないのです。真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。私を世にお遣わしになったように、私も彼らを世に遣わしました。
ヨハネによる福音書17.14 ~ 18(キリスト教)
世の中のことを一切省みることなく、満足しきって、全ての希望を捨て、忍耐する。これらが感覚を統御し、自己に関する知識を獲得した者がもつ最高善の様相である。この世のものに執着する必要はない。この世のものに対する執着は、悪を生み出す。
マハーバーラタ、シャーンティ・パルヴァン329(ヒンドゥー教)
君子はおのれの才徳を秘めて控え目に行勤し、外からの禍難を避けることを心がける。そのような君子は禄位などで飾りたてようとしても心を動かされぬものである。
易経12、周易上経、否(儒教)
聖人は天道の自然に従い、真をとうとび、世俗の風習に拘束されることがない。ところが愚かものはこれと反対に、自然に従うことができず、人為に心を労し、真をとうとぶということを知らない。ただ、だらしなく世俗の風習に同化されてゆくだけだ。だから、真実の心に欠けるのである。
荘子31 (道教)
世界には始めがある。それは世界の母と呼ばれる。その源を知ったものは、その表れを知る。その表れを知り、その源とともにとどまるとき、人生で不足することはない。言葉による表現をやめ、感覚への道をふさぐならば、一生の終りまでくたびれることはない。これに対して、言葉が満ちあふれ、わずらわしさが増すならば、一生の終りまで救われないだろう。
道徳経52(道教)
かれは白衣をつけた世俗の人であるけれども、修行者の清浄な戒律の行を奉じたもち、在家の人であるけれども、三界に執著していない。妻子あるすがたを示しているけれども、常に清らかな行を修している。眷属のあるすがたを現じているけれども、常に遠ざかり離れることをねがい、宝の飾りをつけているけれども、しかも相好をもって身をかざり、また飲食するけれども、しかも精神統一の悦びを味わっている。もし博奕や遊戯の場所に至っても、そのたびに人をすくい、もろもろの異なった道を修する人々を受け入れても、正しい信仰をやぶらない。世俗の典籍を明かにするけれども、常に仏法をねがい、一切の人に敬われて、供養される人々のうちで最上のものとなる。……一切の職業活動がうまくなだらかに行なわれ、俗利をうるけれども、それで喜ぶことはない。もろもろの四つ辻に遊んで、衆生のためになることをなし、法律政治のはたらきに入って一切の人々を救い護る。
維摩経2(仏教)
― み言選集 ―
いつまでも、自分自身を中心に堕落した世界の因縁をそのままかぶり、その因縁をそのまま抱えて生きていてよいのでしょうか。そのように生きては、神様が行かれる動機の道、神様が行かれる目的の道を、私達が行くことはできないというのです。
(21-102、1968.11.17)
世俗的な世界ではお金が必要であり、知識が必要であり、力が必要です。これが最も重要です。しかし、その三つのものをもって神様に連結されるのではありません。それでは何をもって連結されるのですか。真の愛です。
(270-308、1995.7.23)
人々は、どのようなものを最も好みますか。すべて偽物を好みます。ですから、本物はまっすぐに歩いてこないのです。逆さまに来るのです。人が逆さまに来るのを見ると、病人のようです。病人のような人が逆さまに来ます。病人ではないのに、逆さまに訪ねてくるというのです。人が来るとき、まっすぐに歩いてくるのではなく、逆さまに歩いてきます。足の代わりに手をつき、足が天に上がっていくように歩いてくるのです。それを歓迎しますか。その人は病人ではありません。ところが、本当に病人ならば、そのような病人を歓迎するかというのです。それで聖書のみ言に、「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」とあります。この言葉は何かというと、滅びようとする人は成功し、成功しようとする人は滅び、愚かだと考える人は優れているのであり、優れていると考える人は愚かなのであり、貧しく暮らそうとする人は富者になるのであり、富者になろうとする人は貧しく暮らすということです。学校に行って自分がびりだと思えば、一生懸命に勉強するので1番になるというのです。これが真です。
(102-251、1979.1.14)
時間の限界性を超越した無限の世界から来る懇切な心情をもって、地上のいかなる苦労と苦痛と死の恐怖までも制圧して残ることができる人にならなければなりません。皆さんが個人の道で勝利するためには、いかなる苦痛も欲望も、一切を拒否して堂々と行くことができなければなりません。個人の道において勝利した者は、個人的な闘いで勝利したように家庭に対してそのようにし、民族、国家、あるいは世界に対してもそうです。彼は、世界的な問題において勝利した者です。
(79-97、1959.7.19)
私達は変わることを知らない人たちです。皆さんはそうです。神様は変わりません。私達もそうです。それが私達の財産であり、誇りです。これは億千万金でも、世の中のどのような権力でも、何であっても取り替えられません。幾銭かのお金に、権力に、女性に売られていくそのような人たちではないのです。そのような安物ではないということです。私は王座に上がっていって変わる一生を送るよりは、変わらない乞食の生活を選ぶでしょう。
(124-253、1983.2.20)
皆さんは、この道を行きながら自分のものに対する所有欲と子女に対する希望と夫または妻に対する愛と自分に対する愛着心まで奪われていくことがあるでしょう。そのときに皆さんは、そのような愛着心を握ったまま世界を越えていこうとしてはいけません。物質と子女の愛、そして自分を中心とする希望などの人情的なあらゆる条件を断ち切ってしまうときにこそ、皆さんは世界的な祭物の峠を越えていけるのです。
(2-118、1957.3.10)
終わりの日には、理想世界が来る前に審判が来なければなりません。この審判を避けることができる人は、歴史的な事情と因縁をそっくりそのまま抱いていく人ではなく、それを捨ててしまう人です。世の中が流れるとおりに従っていくのではなく、そのようなものを蹴飛ばして回れ右して道を避けていく人であってこそ、審判を避けることができるのです。そうでなければ、新しい理想的な出発を見ることはできないので、宗教はこのような内容を中心として「世の中を捨てなさい。世の中とのあらゆる因縁を切りなさい。世の中に近づいてはいけない。世の中と一つになってはいけない。世の中と断絶しなさい。否定的な立場で新しい覚心(迷いを離れて悟りを得た本来の心)を育てなさい」と教えてきたのです。現在を押していくことができ、未来を打開し、過去を収拾できるこのような「覚心」が必要なので、宗教は世の中と妥協することを要求しません。
(21-136 ~ 137、1968.11.17)
サタンの血を受けた人は自分のことばかりを考えるのです。サタンの血を受けた人は、自分を中心とする人です。今日、アメリカを中心とするキリスト教文化圏があのように個人主義国家になり、人本主義、最近では世俗的な人本主義だとして、世界の混乱様相を中心として抹消神経を刺激して幸福を求めていくというのですが、あとですべて病気になって断崖に落ちるのです。男女が昼夜抱き合って喜び騒いでいますが、エイズにかかり、やせ細って落ちていくようになっています。
(187-241、1989.2.11)
2. 世俗的安楽の否定
― 宗教経典 ―
さあ、この世の中を見よ。王者の車のように美麗である。愚者はそこに耽溺するが、心ある人はそれに執著しない。
法句経171 (仏教)
快楽は金と銀に、女性に、そしてあらゆる楽しいものにあり、快楽は安楽な寝台に、豪華な邸宅に、そして甘美な食べ物にある。このすべての快楽を嫌うことなくして、どうして神の聖なる名が胸に宿ることを願うのか。
アーデイ・グラント、スリー・ラーグM.1、p25(シーク教)
ヒレルがよく言った。「肉が多いほど虫が多くたかり、富が多いほど心配が多くなり、女性が多いほど誘惑が多くなり、女性の下人が多いほど好色が濃く、男性の下人が多いほど泥棒が横行し、律法が多いほど生命が満ちあふれ、勤勉であるほど知恵が多くなり、議論を多くするほど理解心が多くなり、慈善が多い所ほど大きな平和が訪れてくる」。
ミシュナ、アヴォート2.8 (ユダヤ教)
この世の河川は汚染され、その井戸は混濁している。その見せかけと姿形は華麗だが、すべて有害なものにすぎない。それは、急激に終末に向って駆けあがる欺瞞、急速に消えていく光、暮れていく影、そして微弱でよりどころのない保護膜だ。それはあまりに欺瞞で満ちあふれ、それに関心をもつことを嫌い、その欺瞞の程度を知らない者がそれに眩惑され、それに満足にするまで待っている。そのときそれは、それらに対する関心を全くみせず、彼らをわなにはめようと捕まえ、彼らの首に死の綱を結び、彼らの墓に導いていく。
ナフジュ・アル・バラーガ説教86(イスラーム)
愛するものから憂いが生じ、愛するものから恐れが生ずる、愛するものを離れたならば、憂いは存在しない。どうして恐れることがあろうか?愛情から憂いが生じ、愛情から恐れが生ずる。愛情を離れたならば憂いが存在しない。どうして恐れることがあろうか?快楽から憂いが生じ、快楽から恐れが生じる。快楽を離れたならば憂いが存在しない。どうして恐れることがあろうか?欲情から憂いが生じ、欲情から恐れが生じる。欲情を離れたならば、優いは存在しない。どうして恐れることがあろうか。妄執から憂いが生じ、妄執から恐れが生じる。妄執を離れたならば、憂いは存在しない。どうして恐れることがあろうか。
法句経212 ~ 216(仏教)
あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません。卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談もふさわしいものではありません。それよりも、感謝を表しなさい。すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません。このことをよくわきまえなさい。むなしい言葉に惑わされてはなりません。これらの行いのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下るのです。だから、彼らの仲間に引き入れられないようにしなさい。
エぺソの信徒への手紙5.3 ~ 7(キリスト教)
「あなた達は私のものとなり、聖なる者となりなさい。主なる私は聖なる者だからである。」(レビ記20.26)。私が聖なる者だから、あなた達も聖なる者であれ。私が世の中から区別されているのだから、あなたも世の中から区別されよ。「私はあなた達を私のものとするため諸国の民から区別したのである」(レビ記20.26)。もしあなたが、あなた自身を他の民と区別するなら、あなたは私に属する。しかし、そうでなければ、あなたはネブカドネザルの民になるだろう。ラビ・エリエゼルが言った。「ある人が『私は豚肉を食べる考えがなく、結婚を許されていない女性と性関係をもつ考えはもっていません』と言ってはいけないが、彼が『このような行為をしたいですが、天にいらっしゃる父が禁じられたので、どうしてそのような行為をすることができますか』と言うべきであることを、私達はどうして知ることができようか。これに対する答えとして、聖書には、『私はあなた達を私のものとするため諸国の民から区別したのである』という言葉がある。罪悪から自らを区別させる者は、天の国を受けるようになる」。
スィフレイ93d(ユダヤ教)
― み言選集 ―
邪悪な世の中でなされるすべてのものは、私達を幸福の門に導くのではなく、死亡の罠と死亡の落とし穴に追い込むのです。
(47-49、1971.8.19)
天情と人情は食い違います。皆さんはそれを知らなければなりません。人が良いというところには天がいないのであり、天が良いというところには人がいないのです。それを知らなければなりません。ですから、世の中が良いというところに色目を送り、拍子を合わせていく宗教は長続きしません。
(51-187、1971.11.21)
対立した善悪の世界という立場から見るとき、体に引っ張られていけば悪の世界になるのであり、心に引っ張られていけば善の世界になるのですが、ここでは心が体を完全に支配できません。いつでもその中間で、行ったり来たりするのです。しかし、宗教を中心として神様のみ旨を絶対視するようになれば、サタン世界と分立された位置に行けます。対立した善悪の世界なので、分別された位置で善を中心として生きなければなりません。そのような個人の生活を経た人は、霊界に行って善主権の世界で、永遠に生きるなといっても、永遠に生きるのです。
(36-82、1970.11.15)
責任分担をもとうとすれば、皆さんはどのようにしなければなりませんか。責任分担と向き合うことができる人になるためには、どのようにしなければならないでしょうか。サタンの情、サタンの人情、サタンの血筋を受け、情の因縁の中で生まれたすべてのことを否定する位置に立たなければなりません。
なぜですか。アダムが責任分担路程を行くとき、サタンの情をすべて抱えて行きましたか。答えてみてください。サタンが何かの情をもってきましたか。もってきていません。皆さんは今何ですか。責任分担を求めていくためにサタン世界の情をすべて切りましたか、切っていませんか。切ることができずに責任分担ができますか。ですから、否定しなければなりません。
(139-250、1986.1.31)
歴史的な偉人や先覚者たちは、世の中の楽しみや満足を得ようとしたのではなく、より高い理念に向かって約束された一つの所を目的地とし、あらゆることを克服していく探検家的な気質をもった人たちでした。
(7-87、1959.7.19)
サタン世界とは永遠に違わなければなりません。180 度違わなければなりません。サタン世界でフリーセックスやホモ、レズビアン、麻薬や酒を飲むということとはすべて反対です。サタンがどれほど天を犠牲にさせ、善の人を犠牲にさせたか、愛の道を中心として、歴史にどれほど悲痛な犯罪の事実を残したかを知らなければなりません。
(244-148 ~ 149、1993.2.1)
皆さんの父母たちは、「おい、なぜデートしないのか。出ていってデートしなさい!」と言いますが、レバレンド・ムーンは、「デートするな! 女性たちに手を出すな!」と言います。誰がサタン側で、誰が神側ですか。
(122-263、1982.11.21)
10) 苦行、修道生活、そして禁欲生活
俗世から完全に自身を分離しようとする人は、隠遁を選択したり、修道僧や修道女の人生のように独身生活を主張するだろう。仏教とジャイナ教、ローマ・カトリックと東方正教会では、最高の宗教的聖職を、独身生活をする僧侶、修道女、そして神父とみなしている。禁欲主義はヒンドゥー教でも多く発見することができる。一生の間、禁欲生活をするだけでなく、解脱の境地に達するために人生の晩年を孤独な独身生活で送るバラモンの伝統がある。キリスト教の修道院は、神様に対する愛を女性に対する愛より尊く思い、清貧と純潔の生活を送ると誓った彼らに、環境的条件を支援するために制度的形態として作られたものである。
イスラームには修道院体制がない。しかし、ラマダン期間に1ヵ月の間続く断食を通し、幅広い禁欲生活を実践する。断食と徹夜祈祷は、食べ物と睡眠に対する肉欲を打つものだ。そして、これらは過去に霊的エリートの少数者だけが享有した伝統的修道院体制とは異なり、一般人も簡単に行える禁欲生活の実践である。タイとスリランカの若い男性仏教徒たちは普通、家庭をもうける前に、6ヵ月の間修道院で訓練を受ける。
肉欲を抑制することを強調する文鮮明先生も、心身統一を成すための修道院の修業は高く評価される。独身生活をする神父と人間創造時に家庭理想を夢見られた神様の理想との間には、明らかにある種の緊張感が高まっている。このような脈絡から、この節の最後の部分には、行き過ぎた禁欲的人生に対して批判するいくつかの文章を載せた。このような批判は、禁欲を実践するすべての宗教において同時に提起されている。行き過ぎた禁欲主義は、同情心の欠如した人性に発展することがあり得る。修道院生活は、神様が経綸する裕福で生産性あふれる社会と決して比較できないだろう。
文鮮明先生の教えは、人間の堕落によって誤った結婚をしてしまったことで、初めから禁欲と独身生活を強調せざるを得なかった神様の心情にまで言及している。最後には結婚が本来の状態に回復して、これ以上独身訓練が必要ない新しい時代の到来に対しても言及している。過去の独身生活は高貴なこととみなされるほかなかったが、今は宗教が独身生活より結婚の価値をさらに高揚させなければならない時が到来した。この修道院と独身生活の変化の徴候は、すべての宗教世界で感知されている。
1. 修道者の苦行
― 宗教経典 ―
たとえば空飛ぶ青頸の孔雀が、空を飛ぶときには、どうしても白鳥の速さに及ばないように、在家者は、世に遠ざかって林の中で瞑想する聖者・修行者に及ばない。
スッタニパータ221(仏教)
托鉢を続けよ。森にとどまれ。絶食せよ。必要なことのみ語れ。困窮を耐え忍べ。睡眠を克服せよ。殊勝な姿勢で、すべての人を友とせよ。しかし、執着してはならない。
ヴァッタケーラムーラーチャーラ981(ジャイナ教)
誹ることなく、害ふことなく、波羅提木叉に於て自制あり、食に於て節度を知り、閑処に坐臥し増上心に専念す。是諸仏の教えなり。
感興偈43(仏教)
家を離れ、十分な清めの道具(パヴィトラ)を所持し、沈黙を守り、迫る快楽に無関心となって遍歴すべし。同伴者を持たず、成就を求めて常に独りで行動すべし。孤独者に成就があることを見る者は〔何ものも〕捨てないし、また〔何ものによっても〕捨てられない。火も、家も持ってはならない。村にすがるのは食べ物のためであるべし。無関心で、動揺せず、沈黙を守り、完全な精神集中を、はかるべし。〔施物を受けるための〕壊れた土器、樹下、ぼろ布、同伴者をもたないこと、いっさいに対する平等――これが解説者の特相である。
死を喜んではならない。生を喜んではならない。ただ時機を待つべし。召使いが命令を〔待つ〕ように。視線によって清められた足を置くべし(目の前をよぐ見て生き物がいないことを確かめて足を地面に置く)。布によって清められた(布で漉した)水を飲むべし。真実によって清められた言葉を語るべし。心によって清められた行動をするべし。
罵言に耐え、何ものをも軽蔑してはならない。誰に対してであれ、この身体にすがって敵意を抱ぐようなことをしてはならない。怒れる者に怒りを返してはならない。罵倒されたときは祝福を告げるべし。七門(肉体)に満ちる虚言を語ってはならない。自己に悦び、[瞑想のために]座り、無関心となり、渇望を断ち、自己のみを同伴者として、幸せを求めてこの世を遍歴すべし。……
〔一日に〕一度乞食に歩くべし。量の多いことに執着してはならない。なぜならば、施物に執着する遍歴者は感官の対象にも執着するからである。遍歴者は、常に、炊煙が絶えたとき、杵の音がしなくなったとき、炭火が消えたとき、人々が食事を終えたとき、容器の片付けが終わったとき、乞食にまわるべし。
〔施物〕が得られなくとも気を落としてはならない。また得られても喜んではならない。命を維持するに足るだけの量を受け取るべし。量に対する執着を捨てるべし。敬われて得たものをいっさい軽蔑すべし。遍歴者は、たとえ解脱したとしても、敬われて得たものによって縛られる。
感官がその対象によって奪われたときは、僅かな食べ物を摂取し、密かに〔交互に〕立ち座ることによって〔感官の働き〕を停止させるべし。感官を制御し、愛憎を消滅させ、生き物に危害を加えないことによって不死にふさわしくなる。
マヌ法典6.41 ~ 60(ヒンドゥー教)
謙遜の一番目の段階は、躊躇なく従順にすることである。これは誓った聖なる服従のために、あるいは地獄に対する恐怖や永生の栄光のためにするのである。修道院長の命令が下れば、まるで神が下さった命令のように、あなた達はいかなる躊躇もあってはならない。……
語る自由はめったに許してはならない。……修道院長に質問することがあれば、低く慎み敬う姿勢で尋ねるようにせよ。しかし、基準の低い笑い話や意味のない言葉、大きな笑いを誘発する言辞は、どこでも禁じられなければならない。口を開いてそのような言葉が出てこないようにしなければならない。……
個人の所有物は、いかなる場合も修道院に入れないように根絶させなければならない。そして、誰も大修道院長の命令なく物を交換することを想像もできないようにしなければならない。そのいかなる物も、許諾なく個人の所有物としてもってはならない。本、黒板、ペン、その他の物も許諾されない。修道僧は「自分」という意思や肉身も許諾されないからである。
しかし、必要なものがあるときには、その寺院に責任をもつ神父に要請しなければならない。しかし、大修道院長が与えたり、所有することを許諾していない物は、いかなる物も与えてはならない。すべての物がすべての人に平等であるようにせよ。
ベネディクトス規律(キリスト教)
― み言選集 ―
何を抑えようとするのでしょうか。この体を抑えようというのです。ですから、「断食をしなさい、祈祷をしなさい、眠ってはいけない、結婚せずに一人で生きなさい、犠牲、奉仕しなさい」と言うのです。高次的な宗教、カトリックのようなところでは、神父と修道女たちが独身生活をしていて、仏教も高次的な宗教として独身生活を強調するのです。ところが、アメリカの若者たちはどうでしょうか。宗教では体を征服するために、このように正反対の生活を強調しているのですが、アメリカの若者たちの生活は、このような生活とは完全に遠い距離にあります。サタン世界に包囲され、また包囲されて、地獄の底に入っていって暮らしている事実を知らなければなりません。神様が願わない地獄の底で生きているという事実を悟らなければなりません。それでは、なぜ体を打たなければならないのですか。これがサタンの舞台になっているからです。
(215-236、1991.2.20)
体が大きければ、その次には良心を踏みにじるのです。力のない私を押しのけます。良心がそれを主管しなければなりません。宗教がそれをするのです。これは自分自ら停止するまでは継続するということを知らなかったので、中世のキリスト教で苦行をしたのであり、大勢の宗教が道を修めるために苦しみました。しかし、中断した理由はこの原則、規範を知らなかったからです。その怨讐がどこにいるか分からなかったのです。今ではもうはっきりと分かりました。その時はそれを知りませんでした。この体がこのような怨讐だということを知らなかったのです。この体が平定されなければ継続しなければなりません。継続しなければならないのです。
(254-222、1994.2.13)
プラスとプラスは相反です。互いに反発し、押し出すのです。サタンとは何かというと、神様がプラスの立場なのに、マイナスの立場に立たずにプラスの立場に立とうというもの、これが正にサタンです。既に話したように、修養の生活では禁欲主義を叫んでいます。それはサタン側、すなわち悪に属するプラス的な面を経てマイナス的な立場に転換させるためなのです。
(4-23、1958.2.16)
宗教は否定するのです。ですから、すべて捨てなければなりません。「食べることも捨て、寝ることも捨て、好きなことをみな捨てなさい、情欲、食欲、睡眠欲を捨てなさい」というのです。食べて寝て、好きなことをみな捨てなさいというのです。人は本来、食べて寝なければなりません。そして好きなことをしなければなりません。ところが、そのすべてのものが肉身を通して死亡の行路になったので、これを追放しなさいというのです。体に爆弾を爆発させなさいというのです。粉々にしてすべて占領しなさいというのです。体は高められることを好み、楽な位置を好みます。またごつごつしたものは嫌い、ぽちゃぽちゃし、すべすべし、ふかふかしたものを好みます。私達は、この体が好むことを好んではなりません。ですから私達は、まるまるとしたものではなく、ごつごつしたもの、固いものなど、体が好むものと反対のものを好まなければなりません。体は高まることを好み、他人のお金を奪ってでもよく食べることを好みます。他人はどうなろうと、自分が豊かに暮らせれば喜びます。ですから、そのような根性をすべてたたき壊さなければなりません。高まることを好む体を低くしなさい、温柔謙遜になりなさい、犠牲奉仕しなさいというのです。
(18-67 ~ 68、1967.5.21)
2. 断食
― 宗教経典 ―
第七の月の十日は贖罪日である。聖なる集会を開きなさい。あなた達は苦行をし、燃やして主にささげる献げ物を携えなさい。
レビ記23.27 (キリスト教)
信仰する者よ、なんじら以前の者に定められたように、なんじらに斎戒が定められた。おそらくなんじらは主を畏れるであろう。斎戒は定められた日数である。だがなんじらのうち病人、またはたび路にある者は、後の日に同じ日数を斎戒すればよい。それに耐え難い者の償いは、貧者への給養である。すすんで善い行いをなすのは、己れのために最もよい。もしなんじらがよく、その精神を会得したならば、斎戒はさらになんじらのためによいであろう。
ラマダーンの月こそは、人類の導きとして、また導きの明証正邪の基準ために、クラーンが下された月である。それでなんじらのうち、この月家にいる者は、この月じゅう斎戒しなければならぬ。病気にかかっている者、またはたび路にある者は、後の日に、同じ日数を斎戒する。神はなんじらに易きを求め、難きを求めたまわぬ。これはなんじらが定めた期間を全うして、導きに対し、神をたたえるためである。おそらくなんじらは感謝するであろう。
クルアーン2.183 ~ 85(イスラーム)
私の息子よ、お前は同僚の何かの助けにならなければならない。その理由として、私はお前に断食することを勧告する。私達の中にいる私達の先祖は、あらゆる種類の祝福を送っている。努力してこの祝福を受けよ。ウォーチーフの中の一人、私達の先祖の中の一人が、お前を哀れに思うようにせよ。そうすれば、ある日、(生命の)道に従って旅行するとき、お前は何をしなければならないかが分かり、障害物に出会わないだろう。
そうすれば、お前はどんな問題もなくお前が望む褒美を追求することができる。そのとき、栄誉はお前のものである。どんな問題点にも接することなく、お前はそれを獲得できるからである。存在するすべての戦争の力は、戦争を統制している私達の先祖に所有されている。そしてもし、敬虔にお前が死ぬことをお前自身に渇望すれば、そのとき彼らはお前に祝福を下すだろう。今もしお前がお前の足を疲れさせなければ、もしお前がお前の顔を炭で黒く塗らなければ、お前がお前自身に苦痛を与えることは何の意味もないだろう。
この祝福は、努力なくして獲得されない。大地の創造者によって創造された霊魂の中の一つがお前を哀れに思うように努力せよ。その霊が語ることは何でもそのとおりになるだろう。もしお前がお前を強くするために一つの霊魂を所有しなければ、お前は全く大したものではなく、人々はお前をそれほど尊敬しないだろう。
ウィネバコ族の父の訓戒(アメリカ先住民の宗教)
「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠
れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」
マタイによる福音書6.16 ~ 18 (キリスト教)
― み言選集 ―
宗教では、体が願うことを否定します。体が願うこと、体が喜ぶこととは何ですか。平安なところを願います。ですから、その反対に苦痛の道を行きなさいというのです。その次には何ですか。食べることを好みます。良いものを食べようと考えるのです。ですから、「断食をしなさい」と言うのです。
(140-25 ~ 26、1986.2.1)
世の中で空腹なことほど痛ましいことはありません。おなかがすいていることを越えて、おなかがすいている以上に神様を慕わなければなりません。統一教会員はみな1週間断食をします。断食しながら12 時になる10 分前になれば、「ああ、9分残っている。ああ、8分残っている、ああ、1分、60 秒残っているなあ。ああ、チクタク、チクタク……。ああ、20 秒残っている。ああ……」と考えて12 時になれば、「ああ、御飯だ!」と御飯のことを考えましたか、神様を考えましたか。御飯を食べたいと思うよりも神様をもっと慕いましたか。おなかがすいていると思う以上に神様を慕わなければならないのです。先生は、ですから30 代までおなかがすかない日はありませんでした。どれほど御飯を食べたいかというと、そばで御飯と言えば、口がこのように広がります。そのたびに、「ごは~ん」と言うよりも「神様~」と言うのです。このおなかがすいたというその力が、神様の愛が入ってくることができないようにすべてふさいでしまいます。
(94-294、1977.10.9)
私達の生活に神様の愛を接ぎ木するために、最も必要なものは何ですか。先生が恐れるのは体です。体が怨讐だということです。この体を中心として最高の三大真理があります。第一には食べることです。食べることは真です。空腹のときに御飯を食べたいと思うのは真理です。問題は、食べることが私を完全に占領してしまうことです。食べることを克服しなければなりません。食べることよりも神様を、空腹以上に神様を愛することができる基準をもたなければなりません。そうすれば、体を支配できる愛の道が開かれるのです。それで断食するのです。イエス様も40 日間断食しました。ほかのすべての修行者たちも断食をします。
二番目は眠ることです。眠りから解放されなければなりません。眠りを克服しながら、眠りに打ち勝つことのできる位置で神様の愛をどのように発見するのでしょうか。眠りが来るときにも、眠りを越えて眠ること以上に神様の愛を敬い慕わなければなりません。大勢の修行者たちは眠りと闘いながら精誠を尽くしました。眠りが怨讐なのでナイフで足を切ったり、ありとあらゆることをするのです。眠りを凌駕できる位置で神様の愛を敬い慕わなければなりません。先生は7、8年間、一日平均2時間も眠りませんでした。空腹の境界線を越えてこそ、神様の愛が接近することができ、眠りたいと思う境界線を越えてこそ、神様の愛が接近することができるのです。
(94-293、1977.10.9)
3. 独身生活
― 宗教経典 ―
イエスは言われた。「だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。」
マタイによる福音書19.11 ~ 12(キリスト教)
復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。
マタイによる福音書22.30 (キリスト教)
師(ブッダ)は答えた。「メッテイヤよ。婬欲の交わりに耽る者は教えを失い、邪まな行いをする。これはかれのうちにある卑しいことがらである。」
スッタニパータ815 (仏教)
思い煩わないでほしい。独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を遣いますが、結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれるかと、世の事に心を遣い、心が二つに分かれてしまいます。独身の女や未婚の女は、体も霊も聖なる者になろうとして、主のことに心を遣いますが、結婚している女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世の事に心を遣います。このように私が言うのは、あなたがたのためを思ってのことで、決してあなたがたを束縛するためではなく、品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるためなのです。
コリントの信徒への手紙一7.32 ~ 35(キリスト教)
妻子や家などに対して執着や愛着のないこと。好ましい、または好ましくない出来事に対し、常に平等な心でいること。ひたむきなヨーガによる、私への揺るぎない信愛(バクティ)。人里離れた場所に住むこと。社交を好まぬこと。常に自己(アートマン)に関する知識に専念すること。
バガヴァッド・ギーター13.9 ~ 10(ヒンドゥー教)
私は神々と人々と動物とのあらゆる性的快楽を放棄した。私が生きている限り、私は決して肉体的な欲望に屈服することはなく、他の人たちがそれに屈服するよう原因となるものを提供することもなく、他の人たちがそれに屈服するのを容認することもないだろう。
アーヤーランガ・スッタ24(ジャイナ教)
妻子も父母も、財宝も穀物も、親族やそのほかすべての欲望までも、すべて捨てて、犀の角のようにただ独り歩め。
スッタニパータ60(仏教)
― み言選集 ―
人類始祖が怨讐の罠にかかり、その圏内から抜け出ることができずにいます。ところが、そのような圏内でつくられた家庭が神様の公認を受けることができますか。それで、宗教では独身生活をしなさいというのです。ここにいる皆さんも、息子、娘をたくさん生みましたが、独身生活をしていなければなりません。これは、統一教会の文先生の言葉ではありません。宗教がそのように教えているということです。皆さんが知っているように、仏教もそうではないですか。カトリックもそうではないですか。それはなぜそうなのか知っていますか。神様の近くに行くのでそのように教えたのです。
人類の真の先祖にならなければならなかった方たちが、まだ結婚式をしてみたことがありません。ところが、生まれてもいないような立場にいる人間たちが結婚式をするのですか。堕落した子孫として生まれた息子、娘たちは、すべて救援のみ手を経て復帰の道を行かなければなりません。本来、私達人間には、宗教であるとか、復帰であるとか、祈祷であるとか、何の救世主であるとかいうものは必要ないのです。神様の愛の圏内ではそうなのです。
(21-45 ~ 46、1968.9.1)
今の堕落した世の中は、天が求めてくる摂理歴史の背後と根本的に違います。それで、この地上で宗教の道を行くときは、既にあった社会制度を全幅的に支持するところから出発しません。そのような宗教はないのです。否定から出発したというのです。肯定で出発したのではないのです。完全否定で出発しました。
仏教は山中修道を行い、キリスト教もやはり社会生活から離脱する、もちろん社会制度の中で生きるのですが、家庭をもてないこのような独身生活をしなければなりません。禁欲生活をすると同時に、その次にはあらゆる血気を抑えなければなりません。人間が喜ぶあらゆる要件を、すべて否定するところから出発しなければならないのです。なぜそのようにしなければならないのですか。根が間違ったからです。
(155-288、1965.11.1)
原理で見るとき、世の中の男性たちは天使長の子孫なので、結婚する資格がありません。(注22)ですから、独身生活をしなさいというのです。まだ本然の父母が結婚できていないのに、いい加減になって下水のたまりに入っていった人たちが、自分勝手に愛することができますか。そのような愛は非法です。それで高次的な宗教が独身生活を強調するのです。
(25-203、1969.10.4)
天使に何の相対がいますか。それで、今まで宗教においては独身生活をするのです。本来、比丘が原則です。妻帯僧は不合格者です。本当はキリスト教の牧師たち、すべて不合格者です。
(62-257、1972.9.25)
天使長とは、どのような存在ですか。天使長には相対の因縁を許諾しませんでした。皆さんが聖書を見れば、「私達のところに7人の兄弟がありました。長男は妻をめとったが死んでしまい、そして子がなかったので、その妻を弟に残しました。次男も三男も、ついに7人とも同じことになりました。最後に、その女も死にました。すると復活の時には、この女は、7人のうちだれの妻なのでしょうか」とサドカイ人がイエスに尋ねるとき、イエス様は、「復活の時には、彼らはめとったり、とついだりすることはない」と答えました。
なぜそのような話をしたのかというと、天使長圏の復帰時代なのでそのような話をせざるを得ないというのです。まだ相対の因縁をもつことができないのが天使長圏です。ですから、今まで宗教が求めてきたものとは何でしょうか。天使長の使命圏内に立っているので、相対の因縁を付与できないのが宗教の歩んできた道でした。(注23)ですから、高次的な宗教であるほど、一人で暮らす独身生活を強調した理由がここにあることを、皆さんは知らなければなりません。
(50-193、1971.11.7)
4. 禁欲問題 : 愛の欠乏
― 宗教経典 ―
たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、私に何の益もない。
コリントの信徒への手紙一13.2 ~ 3(キリスト教)
たとえ裸形の修行者であり……たとえ野菜を食い、稗を食い、ニーヴァーラ種子を食い、たとえ麻の衣をまとい、半衣をまとい、……かれに、かの戒めの完成が実修されず、心の完成が実修されず、知恵の完成が実修されずに、体得されることがないならば、かれは、人の道から遠く、バラモンの道からも遠いだけです。
カッサパよ、修行僧として、敵意のない、憎悪のない、慈しみの心を実修し、またもろもろの(煩悩の)汚れを滅ぼし尽し、(煩悩の)汚れのない心の解脱、(煩悩の)汚れのない知恵の解脱を、現世において、みずからよく知り、まのあたりに見て、体得し、完成して暮らすならば、カッサパよ、実に、この修行僧は、道の人ともバラモンともいわれるのです。阿含経長部i.167 (仏教)
教典に規定されない恐ろしい苦行を行う人々、偽善と我執に満ち、欲望と激情と暴力に満ちた人々、無思慮で、身体に存する元素の群や、身体の内部に宿るこの私を悩ます人々、彼らを阿修羅的な決意を持つ者と知れ。
バガヴァッド・ギーター17.5 ~ 6(ヒンドゥー教)
おお、兄弟よ! 色を貪る心と利己的な我執を当然のように刈り入れよ。禁欲と苦行により、ただこの強い肉身を衰えさせたとして、何の役に立つのか、ただ衰えた肉身をもって、あなたは自ら苦行者であることをたたえられようとするのか。
ニシーハ・バシャー3758(ジャイナ教)
あらゆる聖なる諸儀式を捧げても、これを誇る心があれば、それらは自ら苦労するだけで無駄なことである。あらゆるつらい苦行をしても、これに偉ぶる心があれば、ただ天界と地獄を行き来し、輪廻を抜け出すことができないだろう。あらゆる努力にもかかわらず、自ら慈悲の心を示すことができないのだから、どうして神の国に入ることができるだろうか。
アーディ・グラント、ガウリ-・スクマニー12、M.5、p.278 (シーク教)
昔、厳しい誓いを立てた聖者であり、法において最も賢く、多くの学識を積んだマンダパーラという行者がいた。彼は(純潔を守って)自らの種を断つ聖者の道に従い、欲望と感覚を統御していた。彼は肉体を離れた後に、先祖達の世界に到達した。しかし彼はそこに自分の行いの実を見出すことが出来なかった。
彼は苦行によって徳を積んだにも関わらず、自分の世界にその報いが無いのを知って、ヤマに問うた。「なぜ私が苦行によって勝ち取ったこの世界は閉ざされているのか? これが私に対する報いだというのなら、私はどこで失敗したのか?」ヤマは言った。「人は生来疑いもなく祭儀とヴェーダの学習と子孫の恩恵を受けている。あなたは苦行をし、犠牲を捧げたが、子孫を持たなかった。この世界は子孫の事のゆえにあなたに対して閉じられているのである。一人の息子が父をプットすなわち隠遁と呼ばれる地獄から救う。しかるに、ああバラモンよ、子孫の継続のために努力せよ。
マハーバーラタ、アーディ・パルヴァン(序章の巻)220(ヒンドゥー教)
それからわが使者を、かれらの足跡に従わせ、さらにマリヤの子イエスをつかわし、福音を授け、またかれらに従う者の胸に博愛と慈悲の情を持たせた。だが禁欲の修道制は、かれらが自ら作ったもので、われはかれらにそれを指示してはおらぬ、神の喜びを得たいばかりであり、それもかれらは守るべきように工夫していなかった。それでわれは、かれらの中の信仰する者には報奨を与えた。だがかれらの多くは違反者である。
クルアーン57.27(イスラーム)
そのころ、ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、「私達とパリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と言った。イエスは言われた。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる。
マタイによる福音書9.14 ~ 15(キリスト教)
私達は喜び、大いに喜び、神の栄光をたたえよう。小羊の婚礼の日が来て、花嫁は用意を整えた。花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。この麻の衣とは、聖なる者たちの正しい行いである。
ヨハネの黙示録19.7 ~ 8(キリスト教)
― み言選集 ―
それでは、どうして仏教とカトリックでは独身を強調するのでしょうか。それが全的に人間の幸福の土台だと言うことができますか。違います。この地上のいかる宗教も幸福の土台は何だと提示してくれなかったのであり、家庭の土台を中心とする計画もなかったのですが、その家庭自体も現れなかったために、いつかはそのような家庭が間違いなく現れるという事実を知ったために、独身を強調してきたのです。そうしてこそ、人間たちが純潔で正しい家庭を建設できるのです。
(23-15、1969.5.11)
神様が永遠であれば、これも永遠であり、この子女の位置も永遠になるのですが、ただこれが壊れていったので、このようなものを合わせたいですか、合わせたくないですか。それを願いますか、願いませんか。願うのです。それでは、その愛するものが聖なるものですか、罪ですか。聖なるものです。今日の堕落した世の中が生じた以降に、このような聖なる愛をしてみた夫婦がいたでしょうか、いなかったでしょうか。これができなかったのです。
ですから、皆さんは今まで宗教の目的を知らなかったというのです。救援とは何ですか。救援とは何かということを知りませんでした。すべて知らなかったのです。ほかの国だと思っていました。天上天国に行くと思っていたのです。天国はすべて準備されていると、既に準備されていると信じていました。……問題はすべて自分にあるということです。天国に合う愛の男性と女性になれるか、ここにかかっているのです。イエス様にかかっているのではありません。メシヤにかかっているのではないのです。それを今まで知りませんでした。
(92-225 ~ 226、1977.4.17)
天国は、夫婦が行かなければならないのであり、家庭が行かなければならないのであり、家庭だけでなく、家庭の八親等など、一族が行かなければならないのであり、その国家全体が行かなければなりません。全体が行くことができるその世界が天国だというのです。それが統一教会の行く道です。統一教会は個人救援が目標ではありません。ですから、合同結婚式もこの原理原則に一致させるためにしなければなりません。今日、合同結婚式が嘲弄の対象であり、見せ物と思っていますが、内容を知ってみると、唖然とすることが起きているのです。
天使長圏の宗教時代には、結婚しなければなりませんか、してはいけませんか。できません。しかし、これからは天国でも結婚時代に入っていくのです。地上で比丘が勝利するか、妻帯僧が勝利するかというとき、妻帯憎が勝利する時が来たのです。旧教の神父や修道女が残るのではなく、これからはカトリックもそのまま逝けばすべて地獄に行くようになります。今の天地の運勢は新郎新婦の因縁を求めることができるときが来たのです。カトリックも結婚しなければならない特が来たので、結婚することに反対していては、そっくりそのまま滅んでしまいます。
(50-61、1971.10.31)
カトリックの神父や修道女も結婚させてあげなければならず、仏教の僧侶も結婚させてあげなければなりません。そうしなければこれから滅びます。すべて浮気者、フリーセックスの場になってしまうのです。サタンが占領し、男性と女性にすべて浮気心を起こさせて流れていってしまいます。レバレンド・ムーンの前で神父と修道女が結婚し、仏教の比丘が先生の前で何百万双が一度に祝福を受ければ生き残るのです。そのようにしなければすべて滅びます。そのまま消えてしまうのです。今、一部の神父たちが浮気心を起こして、そのような行動をしています。それはすべて時になったからです。潮水が入ったとき、その水を飲まないようにしようとすれば、どんどんついていかなければなりません。同じように、溺れて死なないようにしようとすれば、結婚してはいけないということを彼らが破って、回れ右しなければなりません。
(246-24、1993.3.23)
高次的な宗教ほど、独身生活をしなさいと言いました。なぜそのように言ったのでしょうか。人類の父母になる方がまだ結婚式をしていないからです。それで独身を主張したのです。宗教という宗教は、すべて結婚するなと言ったのですが、歴史時代に統一教会という宗教が出てきて、結婚を認め、合同結婚式をするのです。
ですから、仏教もこれからは妻帯憎が増えます。比丘を主張していても、相対を結んで妻帯僧になってしまいます。カトリックも同じです。カトリックも結婚を否定するので、問題が起きます。大部分が教会を離れるのです。真の父母が結婚した1960 年からそのような時代に入っていくので、その時からすべて変わり、サタン世界はフリーセックス時代に入っていくようになります。サタン世界はフリーセックスを通して破壊工作をしていき、宗教圏では結婚時代に入っていきます。このように変わるのです。
(244-148、1993.2.1)
第19章 家庭
家庭
1) 人生の基本形態
家庭は人生の基本形態である。家庭は、家族関係を通して自身の性格と価値とアイデンティティーを形成し、育てる環境を構成する。人間は時折、伝統的な家庭の代わりを立てようと努力したが、この代案は、およそ1、2世代を越えて持続することはできなかった。家庭には一つの「形態」がある。それは一連の精密な役割を意味するというよりは、片親家庭や子供のいない家庭、義理の父母など、異なった関係が混ざり合う家庭が、最善を追求する一般的な意味である。家庭の「形態」とは何か。外見上では父母と子供、夫と妻、兄弟姉妹を連帯する関係をいう。内面的には、このような関連性を支配する真実で敬虔な愛をいう。
家庭が人生の基本形態だということには、またほかの意味がある。それは、社会関係に対する「教材」である。立派な家族関係は、立派な市民を育成する。彼らは、家庭で父母、兄弟、そして子供と関係を結んで体得した教訓を、社会において目上の人、同僚、目下の人との関係に、そのまま適用するようになる。
文鮮明先生は、家族形態の両側面に関して広範囲に教えている。家庭の構造的形態は「四位基台」で表現され、これは神様を真の家庭の構成員、すなわち真の家族として連帯する特別な意味をもった教えである。先生はまた、家族関係を空間的に6方向に拡張して説明する。どんな場合でも、その形態は球形であり、すべての位置が同等な価値として現れる。これは、真の愛がすべての家族関係の求心力になる時に可能だ。家族構成員の各々は、互いに「ために生きる」美徳の生活回路を創出する。そのような家庭は、理想社会建設の基本的土台となるのである。
1. 家庭理想
― 宗教経典 ―
妻を私のように愛せ。妻を私よりも尊重せよ。子供を正しい道に養育せよ。結婚適齢期には子供を結婚させてあげよ。このすべてのことを実践する人は、「その家庭に平和があるだろう」。
タルムード、イェヴァモート62(ユダヤ教)
父母につかえること、妻子を愛し護ること、仕事に秩序あり混乱せぬこと、これがこよなき幸せである。
スッタニパータ262 (仏教)
天下の達道は五つ。それは君臣の義であり、父子の親であり、夫婦の別であり、兄弟の序であり、朋友の交わりの信である。(注1)
中庸20.8 (儒教)
人の道義とは何であろうか? それは、父の慈、子の孝、兄の良、弟の弟、夫の義、妻の聴、長の恵、幼の順、君の仁、臣の忠である。これら十の道義というのである。
礼記7.2.19 (儒教)
この家庭では、規律が動揺に勝ち、平和が不和に、慈悲が貪欲に、献身が驕慢に、真実な言葉が聖なる秩序を壊す偽りの言葉に勝つようにしてください。
アヴェスター・ヤスナ60.5(ゾロアスター教)
家庭には自然な温和がなければならない。誓願を固く守ることは温和に帰結する。家族の間には正しい信仰がなければならない。不正直と欺瞞は家庭に不幸をもたらす。行動と言葉と考えにおいて、正直と率直さは家庭を幸運の道に導く。清浄、恭敬、絶えず知恵を追求すること、他の人たちに対する奉仕、これらは家庭を幸福にする。
タットヴァールタ・スートラ6.18 ~ 24(ジャイナ教)
父は父らしく、子は子らしく、兄は兄らしく、弟は弟らしく、夫は夫らしく、妻は妻らしくあってこそ、家道は正しいと言えるのであり、家を正しくしてこそ、天下もきちんと治まるのである。
易経37、周易下経、家人(儒教)
心の一致、意の一致、無敵意を、われ汝らのために致す。汝ら互いに他に愛情を示せ、牝牛がその生まれたる仔牛に〔愛情を示す〕ごとく。息子は父に従順なれ。母と意(こころ)を同じくせよ。妻は夫に蜜を含む優しき言葉を語れ。兄弟互いに、姉妹互いに憎み合うことなかれ。和合し、同じ掟(規律)に服し、言葉優しく語り合え。それにより神々が離反せず、互いに憎むことなきこの呪文(brahman)を、われら汝らの家に施す、家人のために和合を〔もたらすところの〕。年長者に従い、思慮深く、離散することなかれ。同じ軛(くびき)のもとに一致協力し、互いに言葉優しく語りつつ来たれ。われ汝らを、結束固く意を同じくする者となす。
汝らの飲水は共通なれ。汝らの食物の配分は等しかれ。共通の馬具にわれ汝らを共に繋ぐ。一致してアグニを崇拝せよ、車の輻(や)の轂(こしき)の回りに〔集まる〕ごとく。われ汝らを、結束固く意を同じくする者となす。和解によりて群(むれ)を同じくする者となす。不死の飲料(amrta)を守る神々のごとく、夕(ゆうべ)に朝(あした)に、好意をして汝らの有(ゆう)たらしめよ。
アタルヴァ・ヴェーダ3.30(ヒンドゥー教)
― み言選集 ―
私達の因縁と言ったので、私達同士では、特別に感じたり、目を合わせたりしなければなりません。そこには、妻も必要で、夫も必要なのです。また、若い人も必要で、年を取った人も必要です。このために、私達は、万民の世論がどうであれ、共通の姿を備えてきたのです。
(21-120、1968.11.17)
家庭には必ず、父母がいなければならず、妻子がいなければなりません。そうであってこそ、その家庭が幸福の基台となるのです。神様が人類を探し求めてきた目的も、神様御自身の幸福を模索するためであったに違いありません。ですから、神様御自身が幸福の基台を求めようとしても、人間を離れたところには、そのような理想はあり得ないのです。人間と関係を結んでこそ、一致点をもたらせるのです。私達が家庭において、情緒的な内容をすべて備えた立場で幸福を感じるのと同じように、神様もやはり、そのような立場で幸福を感じようとなさるのです。
(32-198、1970.7.15)
男性が男性として生まれたのは、男性自身のために生まれたのではありません。女性がいくら美人で、男性を嫌う女性だとしても、その生まれた姿を見てください。自分のためにそのように生まれたのではありません。私達は、自分のために生まれたのではなく、相対のために生まれたのです。そのために生まれたというのです。父母は子女のために生き、子女は父母のために生きるようになるとき、互いにために生きるときに回っていくのです。ために生きればために生きるほど、早く回っていけます。それが理想形です。四角形ではなく、立体的に丸いのです。互いにために生きることは互いに押してあげることなので、互いにために生きれば早く回っていき、回っていけば球形を成し、永遠になるのです。
(69-83 ~ 84、1973.10.20)
父母の真の愛、兄弟の真の愛、夫婦の真の愛、子女の真の愛、このように四大愛を完成し、四大心情を体恤できる最小単位が真の家庭です。したがって、真の家庭は、人間の真の愛と真の幸福の土台であり、真の生命と真の血統が芽生える所になります。ですから、真の家庭は、人間が創造本然の真の愛と真の人格を育て上げる修練所であり、真の愛の学校です。
(294-65 ~ 66、1998.6.11)
理想的夫婦を中心とする家庭が学校です。これは教材だというのです。夫婦が一つの単位になって家庭という教材をつくり、この教材に合格したすべての存在は、世界のどこでも共通して通過できるのです。それが公式です。
(131-112、1984.4.22)
理想的家庭とは何ですか。「互いによく信じるのが理想的家庭だ。互いによく理解するのが理想的家庭だ」と言うかもしれませんが、それは違います。互いに心情的に一つになり、離そうにも離すことができず、家族の痛みを自分の痛み以上に感じられる心情圏があれば、理想的家庭ができるのです。自分が犠牲になっても、すべての家族の苦痛を代わりに背負っていこうという情が宿った所には、理想的家庭という言葉をつけられます。
(228-46、1992.3.3)
人間は愛で生まれ、愛の道を行かなければなりません。そして、死ぬときも愛のために死ななければなりません。したがって私達の人生を見るとき、生命より愛がもっと貴いのです。そして、それだけでなく、愛が生命よりも先なのです。したがって、愛のためには生命まで喜んで捧げるのです。愛は永遠です。小説や詩のような文学作品を見ても、すべて「不変の愛」「永遠なる私のあなた」という表現が多く見られます。これは、私達が瞬間的な愛、限られた時間内の愛を願うのではなく、永遠な愛を願うということなのです。
赤ん坊が生まれると、お母さんの愛の電波に沿って自動的に乳首を探しにいきます。醜女でも美女でも関係なく、お母さんであればいいのです。これこそ創造の妙味であり、神聖で偉大な姿なのです。人は愛で生まれ、愛を受けながら成長します。このような立場で見るとき、「私」というものは、父母の愛の実なのです。お父さん、お母さんの愛がどういうものだと、実際の実として見せたのが自分なのです。愛の実なので、父母は「私」を愛さなければなりません。その実を通して、無限の愛がまた実を結ぶのです。個人的愛、家庭的愛、氏族的愛、民族的愛、世界的愛、宇宙的愛、そして本質的な神様の愛まで連結できる道が、ここにあるというのです。
出生したのち、肉身時代には、自分を生んでくれた父母が子育てを受け持って正しい人に育てるのです。世界と国と家庭を代表し、父母がすべてを教えて供給してくれます。私達が父母から物質を供給され、教育され、個体として完成すれば、愛を中心とした横的な基盤に連結させなければなりません。それが結婚というものです。父母は結婚するまで責任をもつのです。結婚してお父さん、お母さんが愛し合ったものを引き継ぐのです。父母が自分を生んでどれほど愛したかを、自分が結婚して子供を生んで育ててみて知るようになり、その愛を引き継ぎます。そうすることによって自分は、愛を完全に受け、与え得る人になるのです。そのようにして、完全な一人の男性、女性として成熟するというのです。
父母の縦的な愛で生まれて成熟し、横的に愛するようになって初めて、総合的な愛の圏を見いだせるのです。天地は球形世界なので、縦横と上下、左右、前後の愛が連結されてこそ、それが授受して回り、すべてが総合されて一つの調和のセンターとして現れるのです。したがって、天地の縦的愛が内外に軸としてしっかりと立てば、その次に横的な愛が必要になるので、思春期というものがあるのです。
(298-298 ~ 308、1999.1.17)
夫婦が愛するということは、神様を植えることです。本来父母は、本然の神様の立場を代表し、ここで夫と妻は、互いに他の一方の神様になります。そして息子、娘は、また一つの小さな神様です。神様は真の愛の本体であられるので、真の愛と連結されれば、みな同じ体になります。父母は神様の身代わりをする、生きている神様であり、夫婦も神様を身代わりし、子女も神様を身代わりするのです。このように三代が真の愛を中心として、神様の立場を身代わりします。
ですから、父母も、夫婦も、そして子女も真の愛を必要とするのです。このように真の愛を中心に成された家庭組織が天国の基盤です。そのような基盤を成さずには、天国が実現しません。これが公式です。家庭とは、すべての宇宙の現実世界の中心です。今日、人々は、自分の家庭が国と世界と宇宙を代表した家庭であることを知らずにいます。中心としての家庭であることを知らずにいるのです。ですから、家庭を破綻させることは、国と世界と宇宙に対する反抗になります。家庭完成は、宇宙完成の基礎になるので、家庭で愛するように宇宙を愛すれは、どこでも無事通過です。この場合、神様は、宇宙全体の父母として、愛の複合的な中心の立場にいらっしゃいます。
(298-307、1999.1.17)
2. 家庭は愛と美徳の修練場
― 宗教経典 ―
主よ、目を喜ばせる妻と子孫を、私達に賜い、主を畏れる者の模範にして下さい。
クルアーン25.74 (イスラーム)
君子の道は、例えて言えば、遠くに行くには、必ず近くからし、高く上るには、必ず低い所からするようなものである。中庸15.2(儒教)
自分の家庭を治めることを知らない者に、どうして神の教会の世話ができるでしょうか。
テモテヘの手紙一3.5(キリスト教)
「天下を平らかにするのは、その国を治めるにある」とは、上が、(その家の)老人を尊べば、民は感動して起こって孝となり、上がその長者を敬えば、民は感動して起こって弟となり、幼くして父を失った者を哀れめば民は背かない。
大学9.1(儒教)
一族の滅亡において、永遠なる一族の美徳(ダルマ:義務)は滅びる。美徳が滅びる時、不徳(アダルマ)が一族を支配する。不徳の支配により、一族の婦女たちが堕落する。婦女たちが堕落すれば、種姓(ヴァルナ)の混乱が生ずる。このような混乱は、一族の破壊者と一族とを地獄に導く。
バガヴァッド・ギーター1.40 ~ 42(ヒンドゥー教)
― み言選集 ―
家庭とは何でしょうか。心情的な訓練場です。愛を中心として心情的に……。ですから、学校において、情をもって兄弟のように生活しなければならず、国においても、情をもって兄弟のように生活しなければなりません。そのような父母の教育は、学校のための教育になり、社会のための教育になり、国のための教育になります。父母は、情緒的なものをすべて、後継者である子供たちに伝授してあげなければなりません。父母が生きたのと同じように、家庭ではこのように生きなければならず、社会ではこのように生きなければならず、国のためにはこのように生きなければならないということを中心として、情緒的土台を築いてあげなければなりません。
(180-131、1988.8.22)
家庭は、人生において最も重要な愛の学校です。
(271-80、1995.8.22)
神様の愛がどこに現れるのかというと、父母の愛、夫婦の愛、子女の愛、この三つの愛が一つになった所です。これが絶対的に一つになる所は、神様が絶対的に永遠に共にいるのです。ここに神様がいらっしゃいます。変わらない父母の愛、変わらない夫婦の愛、変わらない子女の愛、この三つの愛が存在する所には、いつでも神様がいらっしゃるのです。
(131-112、1984.4.22)
家庭は、天国を成すことができる教材です。天がつくっておいた教材です。家庭は、天国と因縁を結ぶようにするための教材なのです。ですから、軸を中心としてそれを国に適用すれば愛国者になるのであり、世界に適用すれば聖人になるのであり、天地を中心として適用すれば神様の息子、娘、聖子になるのです。聖者ではなく、聖子です。聖子になるのです。
(137-78、1985.12.18)
道徳というものは何でしょうか。家庭で訓練された平等の価値が道徳です。「徳」の十の字は、宇宙を象徴しますが、「統一原理」から見れば、天上と地上のことをいうのです。そこに四位基台(四)で、天と地(十)が願う四つの群れ(四)が一つの心(心)になっているのが「徳」という字です。二人(彳)が天地の環境の中で「十」の字、天と地に四位基台を完成した一つの心であり、おじいさんの心も、父母の心も、妻の心も、子女の心も、先祖を中心として、息子、娘を中心として六つですが、二つに分ければ12 の群れです。心と体を中心として12 の群れです。このすべてのものが一つになれる、そのような存在を徳というのです。
(375-59、2002.4.13)
今日、全世界にわたって家庭が変わっており、伝統的な家庭は様々な面から挑戦を受けています。産業化、現代化が加速するとともに、人類は価値観が崩壊し、倫理、道徳の基準が揺さぶられています。ざらには、個人主義、快楽主義、拝金主義などによって人間性が抹殺されていき、フリーセックスと不倫がより一層助長され、家庭が破綻しています。これは、どれほど不幸な風潮ですか。このまま放置すれば、人類は未来に希望をもつことができなくなります。いくら社会的条件が変わっても、父母と子女の関係の重要性は揺るがすことはできず、家庭の貴重性もやはり変わりません。愛は人の幸福と喜びの源泉であり、家庭はその幸福と平和の基台になります。
(271-81、1995.8.22)
今日、家庭が崩れ、青少年たちが堕落するのを防ぐことが、エデンの園で干渉できなかった神様の悲惨な思いを解放し、喜びをお返しすることになるのです。
(305-272、1998.8.21)
3. 完成した家庭は球形を成す
― 宗教経典 ―
このように私は聞いた。ある時、仏は羅閲祇(らえつぎ)の耆闍崛(ぎじゃくつ)山の中に、千二百五十人の比丘たちの大集団と一緒におられた。その時、世尊は時間になると袈裟をまとい鉢を手に持って、城内に托鉢に出かけた。ちょうどその時、羅閲祇城内には長者の子、名は善生という者がいた。朝早く城外へ出て、園林に行ってゆったりと歩きまわり、沐浴しおわると、体じゅう濡らしたままで、諸々の方角に向かって礼拝し、東西南北上下のそれぞれの方角に対して、すべてぐるりとひととおり礼拝していた。
その時、世尊は長者の子、善生が園林に行ってゆったりと歩きまわり、沐浴しおわると、体じゅう濡らしたままで、諸々の方角に向かって礼拝しているのを見た。世尊はそれを見ると、ただちにその場所に行って、善生に言った。「お前はどういうわけで朝早く城外に出て、園林の中で体じゅう濡らしたままで諸々の方角に向かって礼拝しているのか」その時、善生は仏に申し上げた。「私の父は亡くなる時に、遺言として私にこのように命じました。『お前は礼拝する時には必ず東方、南方・西方・北方・上方・下方を礼拝するように』と。私は父の教えを守り、……礼拝しているのです」
その時、世尊は善生に言った。「しかし、私の賢者・聖人の教えにおいては、この六つの方角を礼拝することがつつしみ敬うことであるとは考えない」 善生は仏に申し上げた。「どうかお願いです。世尊よ、私のために賢者・聖人の教えにおける六つの方角を礼拝する方法をよく説明して下さい」 「よく聞け、よく聞け。そしてよく心にとどめておくのだ。お前のために説明してあげよう」
仏は善生に言った。「六つの方角のことを知るべきである。六つの方角とは何か。父母は東方であり、師は南方であり、妻は西方であり、親族は北方であり、召使は下方であり、沙門・婆羅門など高潔な行いを実践する者は上方である。善生よ、そもそも人の子たる者は、五つのことによって父母を敬い父母に従わなければならない。……父母に物をささげて生活の不自由をさせない。何か事を行おうとする時はいつもまず父母に申し上げる。父母の行いに対してうやうやしく従って逆らわない。父母の命令に逆らわない。父母の行った正しい事業を断絶しない。……
父母はまた、五つのことによって自分の子を敬い愛する。子をおしとどめて悪いことをするのを許さない。子を教えて善を指し示す。父母の慈愛が子の骨髄にしみとおる。子のためによい結婚相手をさがす。必要なものを時に応じて与える。善生よ、子が父母に対して敬い従ってうやうやしく仕えたならば、かの方角(東方)は安らかで憂いはない。善生よ、弟子が師に敬い仕えるのも、やはり五つのことがある。……そばに仕えて必要な物の世話をする。礼を尽くして師に物をささげる。師を尊んでいただき仰ぐ。師が何かを教えれば、それを敬いそれに従ってそむかない。師に従って教えを聞き、どれもしっかりと保って忘れない。
師はまた五つのことによって弟子を敬い見る。しかるべき方法に従って弟子の行動を制御する。弟子がまだ聞いたことのないことを教えてやる。弟子の質問に応じて十分に意味をわからせる。善き友を示す。知っていることをすべて惜しまず弟子に教え授ける。善生よ、弟子が師に対して敬い従ってうやうやしく仕えたならば、かの方角(南方)は安らかで憂いはない。善生よ、夫が妻を敬うのにも、やはり五つのことがある。敬って丁寧に待遇する。威厳をもって妻にのぞみ、なれなれしくない、必要な時に応じて衣食を与える、しかるべき時には身を飾ってやる、家の中のことをまかせきる。……
妻もまた五つのことによって夫を敬う。夫より先に起きる。夫より後に坐る。おだやかにものを言う。夫を敬って夫に従う。夫の気持ちをあらかじめ知りそれにさからわない。……このようであれば、かの方角(西方)は安らかで憂いはない。善生よ、そもそも人たる者は、五つのことによって親族を親しみ敬わなければならない。施し与える。じょうずにものを言う。利益を与える。利益をともにする。欺かない。親族もまた五つのことによって人を親しみ敬う。勝って気ままな行いをしている時に譲る。勝ってきままな行いをして財産を失った時に護る。恐怖におちいったときに護る。かばって教えさとす。いつもほめたたえる。善生よ、このように親族を敬い見るならば、かの方角(北方)は安らかで憂いはない。
善生よ、主人は召使に対して五つのことによって教え導く。能力に応じて働かせる。必要な時はいつでも飲食を与える。功労に対してほうびを与える。病気になれば薬を与える。自由に休暇を与える。召使は五つのことによって主人に仕える。朝早く、起きる。仕事のしかたが細かくゆきとどいでいる。与えられないものを取らない。順序よく仕事をする。主人の名前をほめたたえる。これが主人が召使を待遇するということである。かの方角(下方)は安らかで憂いはない。善生よ、施しを行う者は五つのことによって沙門・婆羅門に物をささげなければならない。身体によって慈しみを行う。言葉によって慈しみを行う。心によって慈しみを行う。しかるべき時に施しを行う。門でおしとどめない。
善生よ、もし施しを行う者がこの五つのことによって沙門・婆羅門に物をささげたならば、沙門・婆羅門はまた六つのことによって彼を教え導かなければならない。彼を護って悪いことをさせない。善を指し示す。善い心を抱かせる。まだ聞いたことのない教えを聞かせる。すでに聞いた教えを十分に理解させる。天に至る道をよくわかるように説き示す。善生よ、このように施しを行う沙門・婆羅門にうやうやしく仕えたならば、かの方角(上方)は、安らかで憂いはない。
阿含経長部iii.185 ~ 191、善生経(仏教)
― み言選集 ―
宇宙で、その核のようなものが家庭の概念です。天を父母と見れば、地は子女です。東西を見れば、東側は男性を象徴し、西側は女性を象徴するので、女性は結婚することによって、どこであっても夫の位置についていくのです。西側が太陽の光を受けて輝くとき、東側と同じ価値をもつのと同じです。兄弟関係も同じです。長子の兄を中心として仕事をするとき、弟が協助するようになるのです。
ですから、人間は父子関係をもたなければならず、夫婦関係、そして兄弟関係をもたなければなりません。すなわち、この三つの関係が一点になければならないのです。その中心点は一つです。上下、左右、前後の中心が変わってはいけません。この中心点がずれれば、上下、左右、前後の関係の均衡がすべて崩れるのです。
それで、結局、上下、左右、前後、そして一つの中心点まで、すべて7数を成すようになります。このように7数を成すというのは、すなわち神様を中心として完全な真の愛で一つになり、このすべてが完全に球形を成し、調和と統一を成す家庭になるのです。私達がよくラッキーセブンと言うのも、このような観点から一理があるというのです。
(287-20 ~ 21、1997.8.10)
父母を中心として子女が一つにならなければなりません。また、そこには、神様を必ずお迎えしなければなりません。必ず神様をお迎えしなければならないのです。それが理想的です。男性と女性で成す夫婦は、相対的なので、プラス・マイナスは必ず神様を中心としていなければなりません。神様には父母の愛があり、子女の愛があり、夫の愛があり、妻の愛があります。これが理想的です。この愛を中心とする神様が主体なので、その主体的な立場の神様と一つになれば、この愛と一つになるので、永遠に壊れない理想的家庭が成立するのです。理論的に、そのように成立します。
父母の愛は子女のために集中し、子女の愛は父母に連結されます。夫の愛は妻に連結され、妻の愛は夫に連結されます。しかし、その人たちがどのように一つになるのかというのです。自分たちでは一つになれません。ところが、それを一つになるようにできる主体的な力が神様の愛です。ここに主体が臨むので、このすべての存在は自動的に一つになります。それで、神様を抜かしては、愛もすべて自分中心の愛になるのであって、一つに結ぶことはできません。
一つになったとき、この愛の道も、この愛の道も、この愛の道も同じです。平均になるのです。これが円形を描く一つの物体になったからです。原因と結果が一つになり、縦横が一つになり、神様と一つになり、この二つが愛の力で動かすこの世界は、愛でないものがありません。どこに行っても、愛でないものがないのです。理想の、愛の所なので、そのような世界が理想世界であり、このような世界が地上に展開し、家庭に展開するとき、地上天国という言葉が出てくるのです。そのようなものが神様の理想です。
それで、父母を神様のように思いなさいというのです。その論理は、ここから出てくる論理です。妻を神様のように思い、父母のように思い、夫を神様のように思い、父母のように思い、子女を神様のように思い、夫のように思い、妻のように思いなさいという結論がここから出てくるのです。また、神様を思うときは、妻のように、夫のように、自分の父母のように、息子、娘のように思えば、すべて天国に行きます。
(89-154 ~ 155、1976.11.7)
夫が死ぬと、妻がなぜ泣くのですか。息子、娘がいなければ、なぜ泣くのでしょうか。宇宙の根本原則は、東西、四方をすべて備えなければなりません。したがって、宇宙の存在の力は、相対理想を擁護する力になっているのです。
ですから、すべて与え合うのです。南北が与え合います。北極と南極が与え合うのと同じように、星と星が与え合うのです。相対がいなければ存在できません。完全に一つになった理想的な存在は、完全に与え合う存在は、この宇宙が擁護します。永遠に維持できるように、それを擁護する天運が流れるのが原則です。すべて、それを協助するのです。
したがって、息子、娘がいなければなりません。今日、西欧では息子、娘は必要ないという主義が出てきていますが、必要ないか見ていなさいというのです。霊界に行ってみなさいというのです。私が立っている所には、必ず上があり、下があります。3数を通らなければなりません。3段階を経なければならないのです。
(70-76 ~ 77、1974.2.8)
過去、現在、未来が連結され得る最小限の基準とは何でしょうか。それは家庭です。家庭は、世界の縮小体と同じです。そこでは、過去と現在と未来が連結されるのです。それはどういうことかというと、家庭にはおじいさんとお父さんと息子が共存するということです。お父さんがおじいさんの位置に上がっていけば、自分がお父さんの位置に上がっていって息子、娘をもつようになります。おじいさんからお父さん、自分の3代が一つにならなければなりません。すなわち、過去、現在、未来、この三つの因縁が一つにならなければなりません。そのような家庭は、世の中がいくら揺れ動いても、揺れ動く社会の侵犯を受けずに、幸福な基台をもてます。
(28-162、1970.1.11)
2) 孝
孝は、子女が父母に尊敬と栄誉を見せてさしあげる伝統的道徳原理である。それは、父母に対する義務である。なぜなら、父母が子女を生んでくれ、食べさせてあげ、子女に人生の良い出発を提供しながら、子女のために犠牲になり、奉仕するからだ。それで親孝行な子女は、彼らの父母が老いたとき、彼らを世話するのを負担とは感じない。これは、義務という問題ではなく、感謝する心的姿勢を誘発する、自発的で自然な理想的姿勢とみなされるのである。
文鮮明先生の孝に関する広範囲な教えには、次のようなものがある。孝は、絶えることのない血統的な連帯関係において、世代を連結する永続的な伝統として鼓舞されなければならない。孝は、自分の父母の困難と苦難に同情し、これを自身の問題よりもさらに重要なこととして痛感し、円熟した利他的な聖子、聖女の心的姿勢において完成される。ここで何より重大なのは、孝は、神様、すなわち真の父母との関係を構築する礎石であるという点である。
1. 孝は徳の根源
― 宗教経典 ―
あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長ぐ生きることができる。
出エジプト記20.12 (キリスト教)
人間には主なる神、父、そして母、この三人の同伴者がいらっしゃる。父と母を恭敬すれば、神はこのように語られた。「あなたが父母を恭敬するとき、私は、私がそこにおり、彼らが私を恭敬しているのだと考える」。
タルムード、キッドゥシーン30b (ユダヤ教)
神々および父祖に対してなすべきつとめを怠ることなかれ。母を神として敬え。父を神として敬え。師を神として敬え。
タイッティリーヤ・ウパニシャッド1.11.2(ヒンドゥー教)
なんじの主は命じたもう、……両親に孝行であれと。もし両親かまたそのいずれかが、なんじと一緒にいて老齢に達しても、かれらに軽侮の語や、荒い言葉を使わず、かれらにねんごろな言葉で話せよ。
クルアーン17.23 ~ 24(イスラーム)
君子は根本のことに努力する、根本が定まってはじめて〔進むべき〕道もはっきりする。孝と悌ということこそ、仁徳の根本であろう。
論語1.2 (儒教)
かの仏国土に生れたいと思う者は、……一つには、父母に孝養をつくし、師につかえ、慈しみの心を持って生けるものを殺さず、十種の善行を行なうこと、……。
観無量寿経27(仏教)
このことを御身にわたくしはお尋ねします。正しくわたくしに語してください、アフラよ。だれが吉祥なるアールマティを王国といっしょに創造したのですか。だれが子を、その心情において父に敬意を抱くようにしたのですか。
アヴェスター・ヤスナ44.7 (ゾロアスター教)
さて、忠孝はすべての徳の根であり、そこからすべての道徳的教えが派生する茎である。どの髪の毛も皮膚の一かけらも、我々の体は両親からいただいたものだから、それを敢えて痛めたり、傷つけたりしてはならない。これが忠孝のはじめである。我々は、将来に自分の名前を有名にするために、子どもとしての道を踏み行うことによって、自分自身の人格を確立するとき、それによって我々の両親を賞賛することになる。これが忠孝の終わりである。これは両親の奉仕で始まる。それは、為政者の奉仕へと発展する。そして、良い性格の確
立によって完了する。
孝経(儒教)
父母はあなたの歯が生えるまであなため面倒を見たのだから、父母の歯が抜けるとき、あなたは彼らの面倒を見なければならない。
アカン族の格言(アフリカ伝統宗教)
― み言選集 ―
孝子には、自分を考える心をもっていてはなれません。
(62-37、1972.9.10)
孝子とは何ですか。父母が最も喜ぶことを中心として常に考え、そのことを行動でなして相対役をしようと考える人、そのような立場に立った人が孝子です。五官があれば、目で見て何かを感じるとき、父母がより喜ばれるものを見て感じ、話を聞くときも、「ああ、このような話は喜ぶだろうか、どうだろうか」ということを中心として聞くようになります。感じるときもそうであり、あらゆる五官の感情が父母を中心として愛と化す、そのような人が孝子です。悪いものがあってはならず、良いものだけがあることを願い、より良いものに発展し、より立派になることを願うのです。
(161-132 ~ 133, 1987.1.18)
ですから、父母が悲しむ内容を深く知っている子女であるほど、その父母の悲しみが解消されることをひたすら願い、自分が働いている環境を越えて、その心配している事実が解消されることを望むのが、その子女の願いではないでしょうか。自分に悲しみがあるとしても、自分の悲しみよりも父母の悲しみがより早く解消されることを願う心をもった人がいれば、彼は孝子だと言えます。しかし、父母にも心配事があり、自分にも心配事があるのですが、「父母が私の心配事を考えてくれなければならない」と、父母の心配事よりも自分の心配事をより考える人であれば、その人は、父母と一つになっていない人です。
孝の原則を中心として見るとき、父母の立場を忘却した人は、父母と大切なところで一つの因縁を結べません。自分を主張し、自分の悲しみを理解してくれと要求したり、父母の悲しみは後回しにしておいて、自分の悲しみばかりに責任をもってくれと言う息子がいれば、彼は孝子にはなれず、不孝者になるのです。これは、私達が日常生活の周辺で、あるいは家庭生活でいつも体験することです。孝子としての価値とは何でしょうか。自分の困難もありますが、父母の困難をより心配しながら自分の困難を問題視せず、自分の困難の上に父母の心配を加えて心配する立場に立ったとしても、これを当然のこととして消化して受け入れ得る立場から、孝の道は始まります。子女が父母の困難をないがしろにし、遠ざけるとき、ここで決裂が起きるのです。孝の道ではない、不孝の道が生じます。
(62-187、1972.9.25)
孝子とは何でしょうか。孝子は、父母の悲しみに代わって責任をもつために、困難な場を探していき、責任を果たすことにより、父母に喜びを捧げる人です。父母が10 の仕事をするのに子供は15 ほど努力をしたならば、父母は5に対する喜びを感じるようになります。そのような分野をどのように補充して、父母のために捧げられるかを考えながら努力する人が孝子なのです。
(24-261、1969.8.24)
孝子は、いつでも父母の心の方向と常に一致していなければなりません。孝子の道を行く人は、父母と掛け離れた行動をする人ではありません。父母が東に行けば東に行かなければならず、父母が西に行けば西に行かなければなりません。行く目的を提示したのちに、行く途中で回れ右をすれば、一緒に回れ右しなければなりません。そこに異議があってはなりません。10 度行き、10 度回れ右をしたとしても、また回れ右して従っていかなければなりません。「ああ、どうしてそのようにするのですか。10 度行って、10 度回れ右し、10度も行ったり来たりする。ああ! お父さん、お母さん、これは私の心に合いません」と反抗すれば、孝子の道理を最後まで守ることはできません。父母が狂ったことをすれば、子供も狂ったことをしなければなりません。父母の命令ならば、狂ったことでもしなければなりません。狂ったことをすること自体はいけないことであり、父母が分からずにしているのならば知りませんが、分かってしているというのです。
それでは、なぜ父母は狂ったことをするのでしょうか。孝子の中から最高の孝子を選び出すためには、その道しかないからです。100 人の孝子がいるとすれば、その100 人の中から1番になれる孝子をつくるために、その父母は狂ったことをするのです。しかし、その気まぐれを真実だと思い、生命を捧げてその父母の命令の前に絶対従順をすれば、その人は、孝子の王にもなれるのです。そのようになるとき、そのような狂ったことを天職と思って行えなければなりません。「ああ! これは自分の常識に合わないので私は知らない」と言えば、ここで孝子の道理はふさがってしまいます。孝子の道は、断ち切れてしまうというのです。ですから、最高の一つの峠を貫いて越えていける世界的な孝の道があるのです。
(62-32 ~ 33、1972.9.10)
自分の息子、娘を教育する時に、父と母だけを愛する息子、娘になりなさいと教えてぱいけません。「私は、この国を愛する忠臣だ。愛国者だ。母としての愛国者ではなく、愛国者としての母、忠臣としての父だ」と教育しなければなりません。孝の道を教えるときも、父母が孝の道を行く姿を見せてあげなければなりません。(注3)そのようにできない人は、秋風に散る木の葉のように落ちるのです。
(26-296、1969.11.10)
今まで人間たちは、自分の息子、娘を生み育てる目的を自分の家庭が良くなるところにおいてきました。逆さまになりました。今日では逆さま時代です。天が喜び、世界が喜び、国が喜び、社会が喜んだあとに私が喜べるのです。これが本来の原則ですが、堕落して逆さまになりました。「私から喜び、次に私達の家が喜び、その次に私達の社会が喜ぶようにしよう」という主張です。逆さまにしているのです。
(8-106、1959.11.22)
2. 父母と子女の不可分の絆
― 宗教経典 ―
われは、両親に対して孝行であるよう人間に命じた。母は懐胎に苦しみ、その分娩に苦しむ。懐胎してから離乳させるまで三十個月である。それから、かれらが十分の力を備える年配に達し、それから四十才になると「私の主よ、私と両親に対して、あなたがお恵み下された恩恵に感謝することを、お許し下さい。またあなたのおよろこびを賜わるよう、私が善い行ないをなし、また子孫についても、私を多幸にして下さい。私は悔悟してあなたに帰依いたします、まことに私は、ムスリムであります。これらの者は、われがその最も善い行ないを受け入れた者たちで、その誤った種々の行ないは見のがした、楽園のともがらのうちにいる者であろう。これはかれらに結ばれた、真実の約束である。
クルアーン46.15 ~ 16(イスラーム)
比丘衆よ、我は二人には報い尽すこと能はずと説く。誰をか二人とす。母と父なり。百歳の寿あるて、百歳の間活きて一肩にて母を荷ふべし、一肩にて父を荷ふべし、彼は父母を塗身、揉和、沐浴、按摩に由って看護すべし、父母は肩上にて放尿遺棄するも、比丘衆よ、されど尚ほ父母に事へ、恩に報ひしに非ず、比丘衆よ、父母をして、この多の七寶に富める大地の支配者たる王位に就かしむるも比丘衆よ、尚ほ、父母に事へ恩に報ひしに非ず、其は何故か、比丘衆よ、父母は多の方法にて子を扶養し保育し、この世を見せしむ。比丘衆よ、而して不信の父母に勧めて信を発せしめ、〔信に〕入らしめ、佳せしめ、破戒〔の父母〕に勧めて戒を持たしめ、〔戒に〕入らしめ、佳せしめ、慳悋〔の父母〕に勧めて捨施を行わしめ、〔捨施に〕入らしめ、佳せしめ、悪慧〔の父母〕、に勧めて正慧を発さしめ、〔正慧に〕入らしめ、佳せしむ、比丘衆よ、此を斉って父母に事へ恩に報ひたるものなり。
阿含経増支部i.61 (仏教)25
教友の一人が、「神の使徒よ! 私にとって最も高貴な人は誰ですか」と尋ねると、彼は、「お前の父だ」と答えた。「二番目に高貴な人は誰ですか」と尋ねると、使徒は「お前の母だ」と答えた。「私の母の次は誰ですか」という問いに、神の使徒が答えた。「お前の父だ」。
ブハーリーおよびムスリム・ハディース(イスラーム)
息子よ、お前はなぜお前の父と争っているのか。彼がこれまでお前を育てたのだから、彼と言い争うのは罪悪だ。
アーディ・グラント、サーラング、M.4、P1200(シーク教)
父に聞き従え、生みの親である父に。母が年老いても侮ってはならない。真理を得よ、知恵も諭しも分別も手放すな。神に従う人の父は大いに喜び躍り、知恵ある人の親は、その子によって楽しみを得る。父が楽しみを得あなたを生んだ母が喜び躍るようにせよ。
箴言23.22 ~ 25(キリスト教)
父よ、私を寵愛なさることに感謝します。母よ、私を平安にしてくださることに感謝します。衣服よりもっと大切な知恵で私を包んでくださり、父母よ! 感謝します。奴隷たちはあなたに奉仕するでしょう。下人たちはあなたを助けるでしょう。私が生んだ子供たちはあなたのお世話をしてさしあげるでしょう。
ヨルバ族の結婚式の祝歌(アフリカ伝統宗教)
― み言選集 ―
皆さん、父母と子女の関係を誰も改めることはできません。説明で否定することはできません。それは力でも否定できず、いかなる知識、いかなる権力、いかなる金力でも否定できません。何をもってしても、この父子の関係を否定できないのです。これは宿命的です。いくら分かれても、永遠に分かれる言葉がありません。ですから、これは、愛と生命と血筋によって、神様を中心に永遠に一体になれるのです。
(206-235、1990.10.14)
父母の関係は、どのようなものですか。父と息子、娘として、永遠に切り離すことのできない愛の関係です。それを否定できますか。堕落した世の中であっても、父母が子女を愛するのは変更させられません。動物世界で母親が子供を愛するのは、教育や革命を通しては変更させられないのです。億千万世継続するのです。永遠なものです。不変です。ですから、母性愛は不変の真理です。宇宙全体が母性愛を中心として回っていくのです。
(143-52、1986.3.15)
皆さん自身は、誰のものですか。父母のものであり、息子のものです。そうなると、父母は誰のものですか。父母は、子女のものであると同時に神様のものです。ですから、皆さんはまず神様のものになって、子女のものになったのちに、自分のものになるのです。そのようになる時に、初めて完成されます。ですから、父母を敬うその法度が地上に残り、人間の生活に残っているのです。ここから、父母を敬い、子供を愛しなさいという言葉が出てきます。父母がいなければ孤児です。父母の愛を受けてみて、子女を愛してみてください。そうしてこそ、「私」という人が四方を区別でき、上も下も区別できるのです。
(18-209 ~ 210、1967.6.8)
父母は子女のために、子女に命まであげたので、子女は父母のために……。生命は愛から生まれたので、本質的な愛の前には、生命を犠牲にしていくのが論理的な結論です。矛盾した結論ではありません。
(137-76 ~ 77、1985.12.18)
父母の愛に報いなければなりません。父母が子女を育てるとき、父母が食べることができなくても、食べる物があれば、自分の減ったおなかを押さえ、歯を食いしばって空腹を克服しながらそれを子女に与えます。その愛は、父母のためにそのようにできる子女として育てるためです。父母が先に苦労の路程を行ってこそ、父母のその苦労が土台となり、子女が父母を慰労できる苦労の路程を行くのです。皆さんがまず父母を慰労できる心情をもってこそ、皆さんの息子、娘もそのようにできる息子、娘になるのであり、そのようにできる息子、娘をもってこそ、善の血族として残れるのです。
自分自身ばかりを中心として父母は知らないとすれば、その人は絶対に孝子にはなれません。それでは、どのような人を孝子と言うのでしょうか。父母が子女のためにしていたのと同じように、子女が父母にすることができれば、その子女は孝子だと言えます。それは天とも通じます。父母は中間で精誠を尽くしていきながら育てたにもかかわらず、その子女が自分にはかかわりのないことだと思っていれば、その家は滅びるようになるのです。与え合う道理において相対的基準が造成されてこそ回っていくのであり、またそのようになって、初めて神様がその場に臨在され、天国を成していくことができるのです。
それでは、天国に残れる子供とは、どのような子供でしょうか。父母の愛によってつくった借りを、自分自身が返さなければなりません。父母が年を取ってぼけた時には、自分が幼い時に大便をし、小便をしたものをぬぐってくれた父母の心で困難に耐えて、父母に仕えてこそ孝子になれます。
(35-241 ~ 242、1970.10.19)
家庭で「孝行しなさい」と言いますが、なぜ孝行と言うのですか。それは父母を中心として、父母が行くべき愛の道に、同参者になりなさいということです。その父母の真の愛の道には、天倫がついていくのです。父母だけが行くのではなく、見えませんが縦的な天倫がここに因縁を結んでいくので、父母と一つになりなさいというのは、天倫の役事、見えない縦的な役事と横的な役事の両面の心情圏を受け継いでいきなさいということです。
これが、「父母に孝行しなさい」と言う理由です。これを知らなかったのです。最近は、「父母に何を孝行するのか」と言います。アメリカでは、そのような考えをもっています。「父母が私達を生むとき、私達のことを考えて生んだのか。自分たちがよくて生んだのだろう」という考え方です。それは、この原則を知らない考えです。
すべての役事は、縦的な基準が立ってこそ、横的な基準が立つようになります。ビルを建てるときも、まず垂直線を合わせてこそ建つのです。そして、水平線を合わせなければ、いくら高い建物でも倒れます。同じように、私達人間が世の中に立っていること自体が、既に縦的基準に合わせているのです。
(136-203、1985.12.9)
最近は、子女が父母を否定します。人倫道徳まで否定しています。人倫を否定するときは、終わりの日です。私達統一教会は、このようにしてはいけません。このような現在の思潮に調子を合わせてはいけないのです。統一教会は、真実で永遠に肯定できる因縁をもたなければなりません。父母は父母で、子女は子女で、師は師で関係を結ばなければなりません。したがって、若い人だけではいけないのです。み旨には、年を取った人も必要です。
(21-121、1968.11.17)
3) 兄弟愛
兄弟間の愛と調和は、家庭平和具現の本質的要素である。父母にとって、兄弟の対立闘争より大きな心配事はない。しかし、一般的な傾向から見るとき、兄弟間の競争により、調和が簡単には維持されていないのである。
兄弟関係は、父母の愛に基づく。兄弟は、自分の父母の生活様相を反映する。そのため、父母が子女を世話して模範を見せれば、子女たちはお互いに世話をしながら、簡単に調和を成せる。さらに兄弟愛は、社会における友人と同僚の間の円満なつながりを形成するための第一歩である。神様を家庭の父母として侍るとき、全人類は兄弟姉妹の関係が造成される。ここで兄弟愛は、人類愛として拡大されるのである。そのため、自分の「兄弟」間の赦しと和解に関する経典の教えは、家庭における兄弟だけでなく、信仰共同体における兄弟姉妹に、そして究極的に世界の全人類に適用されるこどを教示する。
― 宗教経典 ―
見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。かぐわしい油が頭に注がれ、ひげに滴り、衣の襟に垂れるアロンのひげに滴り、ヘルモンにおく露のように、シオンの山々に滴り落ちる。シオンで、主は布告された。祝福と、とこしえの命を。
詩編133(キリスト教)
信者たちは兄弟である、それでなんしらは、ふたりの兄弟の間を融和せよ、そして神を畏れまつれ、おそらくなんじらは慈悲にあずかるであろう。
クルアーン49.10 (イスラーム)
孝と悌ということこそ、仁徳の根本であろう。
論語1.2 (儒教)
『詩経』に言う、「妻子はよく和合し、おおごととことを弾いて相和するようである。兄弟は和合していて、和楽してまた深く楽しむ。汝の家がよく和して、汝の妻子は楽しむ」と。孔子が(上の詩を賛嘆して)言われ.た、「(妻子と和し兄弟とよければ)父母は安楽である。」
中庸15.3(儒教)
あなたがたも聞いているとおり、昔の人は「殺すな。人を殺した者は裁きを受ける」と命じられている。しかし、私は言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に「ばか」と言う者は、最高法院に引き渡され、「愚か者」と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。
だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。
マタイによる福音書5.21 ~ 24(キリスト教)
― み言選集 ―
子女間の愛は、どのようなものでなければなりませんか。何を基準として愛さなければならないのでしょうか。父と母が愛するように、兄弟も愛さなければなりません。愛は誰から学ぶのかというと、父母から学ばなければならないのです。愛を受け継ぐための準備は、兄弟を通してしなければなりません。もし妹がいれば、その妹を愛するとき、自分の母親を愛するようにしなければなりません。妹が兄を愛するときは、父親を愛するようにしなければなりません。男性の兄弟と女性の兄弟は、互いに父母と子女の間の愛を感じなければならないのです。すなわち、父が息子を愛するように兄は弟を愛し、母が娘を愛するように姉は妹を愛さなければなりません。
. (66-121、1973.4.18)
いったい、どのような人が孝子ですか。「お父さん、お母さん、愛しています。ああ、愛しています。愛しています。すべて愛しています。しかし、弟とはけんかします」と言えば、その人は孝子ではありません。その母親は、「あなたが私を愛するように、いや私を愛するよりも兄弟をもっと愛するのが孝子だ」と言うでしょう。この原則は、簡単です。この原則さえ人類が信じ、命を懸けて愛すれば、地上に天国は成し遂げられざるを得ません。
(95-189、1977.11.13)
ある家庭に兄がいて弟がいるのですが、その兄は大統領であり、弟は労働者だとすれば、兄が弟に、「おい、お前は労働者だから、家に入ってきて労働でもしろ」と言うことはできません。真の兄だとすれば、弟が自分のようにできないことを恨に思いながら、立派にしてあげたいと思う心情が動くのが真の兄の心です。
(7-38、1959.7.5)
兄弟の困難を、自分の困難よりも重要視しなくなるとき、兄弟間の関係は疎遠になります。このように見るのです。
(62-188、1972.9.25)
一つの家庭で、兄弟がお互いに意見が異なって争っているとき、父母はどちらの側につくでしょうか。先に手を出し、自分の欲心のために争う子女の側につく父母は、いません。ですから、今日まで歴史過程において教育と人倫道徳の標準は、「善でありなさい」ということだったのです。
(31-235 ~ 236、1970.6.4)
理想は、どこにあったのでしょうか。男性と女性には、息子、娘が理想です。男性もいて、女性もいるのが理想的な兄弟姉妹でしょう? 男性ばかりだと、けんかしかしません。兄が妹をたたき、一度えんえん泣いても、翌朝になれば、また来るでしょう? 男性同士では、一度けんかすると1週間はかかりますが、女性は頼りたい心をもっているので、一晩寝れば忘れてしまい、「お兄さん!」と言ってやって来るのです。兄弟姉妹が、そのように一緒に和合しながら幸福な家庭を築く中で成長する人は、天宙の展示会をするのと同じです。
(205-81、1990.7.7)
今まで皆さんは、兄や姉とけんかし、兄弟同士でけんかして、くるっと背を向けて出てきたことがあるなら、宴を開いて満足させてあげ、「私を許してほしい。これからは、私達の父と母が愛するように愛し合おう」と言わなければなりません。それは、どれほど美しいことですか。父母が二人とも霊界に行ったあと、兄弟たちに、残った父母として私が侍ろうと考える人は、どれほど幸福かというのです。兄弟は父母の身代わりなので、残った父母に侍ろうということです。兄弟が苦しんでいれば私が助けてあげ、母親にしてあげたのと同じようにしてあげれば、それはどれほど美しいですか。そこから天国が始まるのです。
祖父がいるでしょう? 父母がいるでしょう? おじさんがいるでしょう?おばさん、お姉さん、すべているでしょう。この3代圏を中心とする、そのすべての親戚を中心として生まれたすべてのものは、私達の父母を見せてあげるためであり、私達の祖父母を見せてあげるためです。さらには、神様を見せてあげるために私にくれた贈り物だと考えてください。このようなことを一つの家庭を中心として考えるとき、これを拡大したのが世界なので、社会を見れば、祖父母の年齢、叔母の年齢、叔父の年齢、父母の年齢、兄の年齢、姉の年齢、弟の年齢、すべてがそうです。年を取った人たちには祖父母として、侍ってために生き、そのように愛するのです。その次には、父母のように、兄と弟のようにために生きようとしなければなりません。
神様も同じです。神様は、私達の父ではないですか。世界の人を見せてあげ、兄弟として愛しなさいと言うのです。かわいそうな乞食がいれば、その乞食が父親の年齢なら、父親のようにために生きていける心、それはどれほど美しいですか。神様から見るとき、すべてが自分の息子、娘なのに、けんかしていていいでしょうか。同じ道理です。全人類が神様の息子です。同じ概念です。
(184-65 ~ 66、1988.11.13)
カインとアベルが一つになれず、分かれてはいけません。一方は正しいほうであり、一方は悪いほうです。ですから誰でも、私の神様であると同時に、あなたの神様であり、私を愛するだけでなく、あなたを愛する神様であるという信仰の立場で、お互いにアベル的な存在を求めて侍り、カイン的な立場を避けて、最大の努力をしなければいけません。
(3-207 ~ 208、1957.11.1)
4) 友情
兄弟関係で学んだ教訓は、友人関係の維持に直接適用される。友情は、兄弟愛の社会的な拡大形態である。堅い友情は、情緒的つながりを造成し、社会倫理を定着させる。良き友人は、正直で信実で真実である。そしてそれは、友人、すなわち他人の利益を追求する原動力になる。反面、悪しき友人は、自身の利益のために友人を利用する。経典は、何よりも友人選択に慎重であることを勧告する。
1. 真実な友人と偽りの友人
― 宗教経典 ―
男の信者も女の信者も、互いに他の保護者である。かれらは正しいことを命じ、邪悪を禁ずる、また礼拝の務めを守り、定めの喜捨をなし、神とそのみ使いに従う。
クルアーン9.71(イスラーム)
友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
ヨハネによる福音書15.13(キリスト教)
曾子がいった、「君子は文事(詩書礼楽)によって友だちを集め、友だちによって仁の徳〔の成長〕を助ける。」
論語12.24 (儒教)
あなたをため私は悲しむ。兄弟ヨナタンよ、まことの喜び、女の愛にまさる驚くべきあなたの愛を。(注4)サムエル記下1.26(キリスト教)
犬が言った。「お前が転び、私が転べば、その遊びは楽しいだろう」。
ヌペ族の格言(アフリカ伝統宗教)
羊が二匹一緒に歩くのは、一匹の羊が他の羊の目にある埃を吹いてあげなければならないからだ。
アカン族の格言(アフリカ伝統宗教)
同人九五の交辞には「人に同じうするに先には号き叫び後には笑う」とある。これについて孔子は次のように言う。君子の道は、時には出でて朝廷に仕え、時には退いて野に処り、時には黙して語らず、時には大いに語り論ずるなど、時に応じで様々であるが、その心情の正しさを重んずる点においては変わりがない。正しい心情の持主が二人して心を合わせればその鋭さは金鉄をも断ち得るほどであり、心を同じくする者のことばは、蘭の香りのごとくにかぐわしいものである。
易経、周易繋辞上伝1.8.6 (儒教)
孔子がいわれた、「有益な友だちが三種、有害な友だちが三種。正直な人を友だちにし、誠心の人を友だちにし、もの知りを友だちにするのは、有益だ。体裁一つたのを友だちにし、うわべだけのへつらいものを友だちにし、口だけたっしゃなのを友だちにするのは、害だ。」
論語164 (儒教)
威に服して心にもなく親しくなる者、口先うまい仲間もまた同じこと。うわべは従順で人をたぶらかす仲間、悪事の友悪いことをする仲間、これらの仲間はあてにならない。知恵ある者は心して、すみやかに彼らを遠ざけよ。ちょうど険しい道を避けるように、悪を防ぎとどめる友、人を慈しみ大事にする友、人に利益を与える友、一緒に事を行っでわが身のごとくみなす友、こうした友にこそ親しめよ。智者が近づくのはこうした人、友の中でもたぐいなき友、慈母がわが子を慈しむように。
阿含経長部iii.187 善生経(仏教)
私達が周りにいないとき、私達が不在のとき、私達のために行う者はごくまれだ。しかし、私達がいるときはすべての人たち、奴隷であれ自由人であれ、私達に愛を表す。
ヨルバ族の詩(アフリカ伝統宗教)
― み言選集 ―
この世の中で最も良い友人がいるとすれば、その良いという友人は、億千万世までもお前と私の間を断ち切ることはできないという、そのような良い立場の友人かというのです。いかなる高価なものよりも、自分の妻よりも良いと言える友人が良い友人です。一日の生活感情の一言で捨ててしまえる、そのような因縁の立場ではありません。命自体を刈り取られていっても断ち切れない立場が、このような友人の立場なのです。そのような、同情の立場ではないと言える立場が善の母体なので、今日、私の本心に共にあった善と関係を結んだすべての因縁は、永遠に断ち切ろうとしても断ち切れません。分けようとしても分けられないのです。
(42-218、1971.3.14)
真の友人とは、どのような人ですか。「私のためにいなさい」と言うところには、真の友人はいません。真の友人は、友人のためにいようというところにいます。10 人の友人がいれば、その10 人の友人のために一生の間奉仕したというとき、その10 人の友人に「今までであなたにとって1番の友人を選びなさい」と言えば、彼らはみな、その10 人の友人のために一生の間奉仕し、犠牲になった人を選ぶでしょう。
(70-72、1974.2.8)
人間はつき合うにおいて、互いに知る時から、その時間が長くなれば長くなるほど、そこには生活的な面でも通じ合えるようになります。それだけでなく、情緒的な問題までも連結されるのです。私が生きている立場、全幅的な分野が関係している相手と共に立体的な立場を備えることを願うようになります。それが大きく、広く、高いほど、彼は私の前からいなくなってはいけない、友人なら友人なのであり、あるいは家庭なら家庭になるのです。
(59-296、1972.7.30)
幸福な人とは、どのような人ですか。悲しいとき、自分の心を分かってくれる友人をもった人です。幸福な人とは、どのような人ですか。苦痛を受けるとき、「その苦痛は私が代わりに受ける。あなたはその苦痛の場に行くな。私が代わりに行く」と命を覚悟して立ち上がれる友人や愛する息子や娘をもった人です。その人は、幸福な人です。
(150-196、1961.2.15)
友人との間でもそうです。ただ顔だけを知っていて、互いにあいさつだけをして過ごす友人の家に行けば、自由ですか。自由ではないのです。友人との間でも、必ず互いの心情的紐帯があり、私が友人の生活に思いどおりに入り込むことができてこそ、自由なのです。このような因縁を結ぶためには、必ず情的に近くなければなりません。そのようになれば、外的な間題は、すべて解決されます。したがって、最も問題になるのが心情的な問題です。
(33-133、1970.8.11)
友人になり、誰よりも親しく愛される人になろうとすれば、その人の悲しみと苦痛を理解して、それを慰労してあげなければなりません。心情を通して愛で因縁を結べば、その人が私の思いどおりに動き、私もその人の思いどおりに動けるのです。
(7-306、1959.10.11)
2. 友人選択の知恵
― 宗教経典 ―
悪い友と交わるな。卑しい人と交わるな。善い友と交われ。尊い人と交われ。
法句経78(仏教)
悪いつきあいは、良い習慣を台なしにする。
コリントの信徒への手紙一15.33(キリスト教)
汚れたものを近くにすると、一緒に汚れるだろう。純潔なものを近くにすれば、純潔になるだろう。
ミシュナ、ケリーム12.2(ユダヤ教)
立派なものは友とすること、それはあなたが体と霊魂で徳を実践するのを助けるだろう。邪悪なものとは距離を置いて離れること、それは悪があなたに接近するのを防いでくれるだろう。
陰隲文(道教)
正直者の群れの中に座せ。善良で高潔な者と交われ。いや、敵意が和らげられない所において高貴な敵を探し、邪悪で不義なる者と関わりを持つな。たとえ捕らわれの身にあったとしても徳のある者、学識のある者、真実なる者と共に生きるべきである。しかし王国のために、汝は邪悪で敵意のある者と共に留まってはならない。
ガルダ・プラーナ112 (ヒンドゥー教)
誰かを友とし、誰かと交われば、彼はその人と似た者となる。なぜならば、交際とはそのようなものである。交わる者はおのれと交わる他者を、接触する者はおのれと接触する他者をけがす。きたない矢がけがれていない矢束をけがすごとくである。けがされることをおそれて、賢者は、けっして悪人の友となるべきではない。
如是語経76(仏教)
共に住むことによりて〔初めて〕、戒は知らるべきことなり。それも長き間〔共に住むことによる〕。又少しく思惟することによるにあらず。如何に況や思惟せざることにおいてをや。それは又智慧ある者によりて〔知らるべく〕智慧なき者によりてにあらず。大王よ、共に交ることによりて〔初めて〕清浄なることは知らるべきなり、会話によりて〔初めて〕、智慧は知らるべきなり。それも長き間……乃至……智慧なき者によりてにあらず」と。
感興偈65 ~ 66(仏教)
友をつくるときは、試してからにせよ。すぐに彼を信頼してはいけない。都合のよいときだけ友となり、苦難のときには、離れてしまう者がいる。また、心変わりして敵となる友もいて、争いでお前が吐いた悪口を暴露する。食事のときだけ友であり、苦難のときには、離れてしまう者がいる。
お前のはぶりがよいと、お前のようにふるまい、お前の召し使いたちになれなれしくする。しかし、お前が落ちぶれると、背を向け、お前の目から身を隠す。敵からは遠ざかれ。友達には気をつけよ。誠実な友は、堅固な避難所。その友を見いだせば、宝を見つけたも同然だ。誠実な友は、何ものにも代え難く、そのすばらしい値打ちは計り難い。誠実な友は、生命を保つ妙薬。主を畏れる者は、そのような友を見いだす。主を畏れる者は、真の友情を保つ。友もまた、彼と同じようにふるまうから。
シラ書〔集会の書〕6.7 ~ 17(キリスト教)
― み言選集 ―
私達の人生の問題を考えてみるとき、皆さんが今まで生きてきたのもそうですが、これから生きていくにおいてもそうです。一言の言葉が人生を左右することがいくらでもあります。言葉を一言話すことによって、人生を台無しにすることがいくらでもあるのです。それと同じように、聞くこともそうです。一言、一度間違って聞くことによって一生を台無しにするのです。また、行動においてもそうです。一度間違って行けば、やはり人生を台無しにするのです。また、皆さんが友人とつき合うにおいても、一人の友人と間違ってつき合うことによって一生を台無しにすることもあります。
そのようなことが人生に1度や2度ではないので、昔から、考える人たちは、言葉に気をつけ、聞くことに気をつけ、行動に気をつけ、友人に気をつけなさいと教えてきました。これは古今東西を問わず、あるいは洋の東西を問わず、同じ公式として通じるのです。人を見ると、自分が不利で、自分が困難なときには、人のことを考えるのが難しいのです。これは公式的であり、共通です。そのとき、自分の困難を免れるためには友人も利用でき、環境も利用でき、話も変えられ、行動も変えられます。そのような環境が待っていることは事実です。
このように見るとき、人間の世の中で誰を信じるのでしょうか。私が誰かを頼って、あらゆる正しい道を行くことが難しい立場はいくらでもあります。良い友人だと私が信じていたにもかかわらず、あとでその人が私を踏んで利用する境遇が多いのです。そのようにできるようになっています。ですから、そのような観点から見るときに、誰を友人とするのか、誰と一緒に良いきっかけをもつのか、このような問題が世の中の大きな問題です。
(91-29 ~ 30、1977.1.2)
皆さんが友人とつき合おうとするときは、発展できる友人か、そうでなければ希望がない友人かということが問題になります。希望がない友人と関係を結べば結ぶほど、自分にだんだんと無価値な結果が現れざるを得ません。ですから、より良い友人と関係を結び、より良いあすのために準備して、努力しなければなりません。
(32-14、1970.6.14)
皆さんの中に、個人主義の思想が濃厚な人を友人にしようという人がいますか。自分だけのために生きようとする人は、良い友人ですか、悪い友人ですか。悪い友人です。なぜ悪いのですか。分けてしまうからです。個人と家庭と氏族から、すべて分けてしまいます。ついたてで仕切るようにふさいでおくのです。
なぜ悪いのか、はっきりと知らなければなりません。悪とは何ですか。悪は私的なものと通じます。もとから悪を好む人がいますか。種粒ほどもいません。皆さんも良い友人を願うでしょう? 悪い友人は嫌うでしょう? それでは、良い友人とは、どのような友人ですか。「御飯も食べず、学校にも行かずに出てこい!」、そのような友人が良い友人ですか。友人が、御飯を食べる時間に御飯を食べていなければ御飯を食べさせ、学校に行かないと言えば、学校に行くようにする、このような友人が良い友人です。悪い友人は、これと反対だというのです。ここから善悪が分かれます。
(36-69、1970.11.15)
「ああ、あの人は、私の友人の中でこの類型の人のようだ。あの人は、私が知っている100 人の中でこの類型の人だ」ということを比較、研究しなければなりません。それで、3、4の類型の人を選んで確認してみるのです。温柔な人なのか、驕慢な人なのか、強烈な人なのか、その次には、もたもたする人なのかを確認するのです。
(54-177、1972.3.24)
5) 夫婦愛
百年佳約(夫婦の一生の契り)は、神聖なものとして許される。それは、神様の祝福と約束を伴っている。夫婦愛の喜びは、神様の贈り物である。夫婦愛を通し子女を養育することによって、私達は神様と共同創造者として、宇宙秩序に参与する。ここにはまた、一つの重要な意味が内在している。私達は、夫婦愛を通して神様に出会ったのち、最も親密で現実的な方式で、神様の愛を直接体恤する一定の位置を確保することができる。
文鮮明先生は、この主題に対して広範囲に数える。先生の教えによれば、結婚は、人間完成の必須的な前提条件である。結婚の配偶者が自身の愛を強化して人生を再創造する方法に関し、文先生は様々な次元で実際的な忠告を提供する。夫と妻の双方の愛情は、彼らには半分にすぎないものである。より一層根本的なことは、祝福結婚を通して神様と人間の間に垂直的な愛が具現されるという点てある。愛の神様は、自身の愛を反映するために男女の間の人間的愛を創造した。そのため、それは絶対的であり、不変であり、唯一なものである。神様が私達各自を個別に愛するのと同じように、配偶者たちもそのように互いに誠実に愛さなければならない。今日、多くの人々が結婚の価値に対して尋ねるとき、彼らは自らの人生を神的な設計に立脚し、結婚の位相を格上げするために、宗教の声に深く留意する。
経典の様々な章句は、神様がエデンの園で制定した本然の計画に基づき、結婚に言及する。ここには文先生の独特な寄与がある。先生は、人間堕落の過程を明らかにし、本来の高貴な夫婦愛がどのように転落したのかを具体的に解明する。堕落の結果、やむを得ずに伝統的な人間の愛は神様の愛の秩序から逸脱し、このことにより結婚理想は具現され難い立場に置かれた。文鮮明先生の中心的な使命の一つは、全人類が本然の夫婦愛を回復するようにすることである。それを具現するための一環が、祝福結婚の儀式である。
1. 夫婦愛と愛情
― 宗教経典 ―
互いに甘い目くばせを交わし、私達の顔が真の和合を示さんことを。私をあなたの心の中に秘め、同一の霊が私達の内に住まわれん事を。私はマヌより受け継いだ我が衣をもってあなたを覆う、あなたが完全に私のものとなり、他の者を求めぬように。
アタルヴァ・ヴェーダ7.36 ~ 37(ヒンドゥー教)
ただ一緒にいるからといって夫婦なのではない。真実に結ばれた二人は、一つの光として生きる。
アーディ・グラント、ヴァール・スーヒーM.3、p.788(シーク教)
またかれが、なんじら自身の中からなんじらのために配偶をつくりたまえるは、かれのしるしの一つである。なんじらはかれらによって慰安を得、なんじらの間に愛と情けの念をうえつけたもう。
クルアーン30.21 (イスラーム)
私を刻みつけてください。あなたの心に、印章として、あなたの腕に、印章として。愛は死のように強く、熱情は陰府のように酷い。火花を散らして燃える炎。大水も愛を消すことはできない。洪水もそれを押し流すことはできない。愛を支配しようと、財宝などを差し出す人があれば、その人は必ずさげすまれる。
雅歌8.6 ~ 7(キリスト教)
ぶどう酒にもましてあなたの愛は快く。あなたの香油、流れるその香油のように、あなたの名はかぐわしい。おとめたちはあなたを慕っています。お誘いください、私を。急ぎましょう、王様私をお部屋に伴ってください。
雅歌1.2 ~ 4(キリスト教)
切断、細分、また分割、見よ、スーリアー(新婦)の形態(または色)を。されど祈祷者はそれらを清む。われ幸運のために汝の手を握る、汝が夫たるわれと共に老寿に達せんがために。バガ・アリアマン・サヴィトリ・プランディ(豊饒の女神)、もろもろの神々は、汝を家政のためわれに与えたり。プーシャン(道祖神)は、勝れて吉祥なる彼女を送りよこせ、そが中に人間が種子を播くところの。その彼女は慾望に満ちてわれらのために両腿を開かん、われらは慾望に満ちて、その彼女の中に陽を入れんと欲す。……両人は〔常に〕ここにあれ、離るるなかれ。寿命を完うせよ。子と戯れ、孫と〔戯れ〕、おのが家に楽しみつつ。
プラジャー・パティ(造物主)はわれらに子孫を生ましめよ。アリアマンは〔われらを〕、老ゆることなく合体せしめよ。凶兆なく夫の世界(家)に入れ。われらが二足のもの(家人)に幸福を、四足のもの(家畜)に幸福をもたらせ。不吉の眼差なく、夫を殺すことなかれ。家畜に親切に、好意に満ち、光彩に富み、男子を生み、神を敬い、心地よく、われらが二足のものに幸福を、四足のものに幸福をもたらせ。
恵み深きインドラよ、汝はこの婦人をしてよき息子をもち、幸運に富む者たらしめよ。彼女に十人の息子を授けよ、夫を第十一番目の者となせ。舅に対して全権ある者となれ。姑に対して全権ある者となれ、夫の姉妹に対して全権ある者となれ。夫の兄弟に対して全権ある者となれ。一切の神々は、また水は、われら両人の心を合体せしめよ。マータリシュヴァンは、ダートリ(創造神)は、またデーシュトリー(「指示者」、女神の名)は、われら両人を一体ならしめしよ。
リグ・ヴェーダ10.85.35 ~ 47(ヒンドゥー教)
かうかうとみやこどり
かはのなかすに
たをやかのかのひとは
よきひとのつま
おひいづるじゆんさいを
みぎひだりかきてとる
たをやかのかのひとは
よすがらにもとめつつ
もとめつつあひえねば
よすがらにものおもふ
おもひつつわびしくて
いねがてにふしまろぶ
おひいづるじゆんさいを
みぎひだりつみてとる
たをやかのかのひとは
ことかなでしたしまむ
おひいづるじゆんさいを
みぎひだりえらびとる
たをやかのかのひとは
かねうちてたのしまむ
詩経、周南、1 關睢(儒教)
からからと車の舝が鳴り
美しい末娘が嫁いでゆく
心飢ゑて求めるのではない
魂あへる人なれば
よき友人ともしとも
うたげして喜ぶべきぞ
生ひ茂る林に
飛ぶは山鳥
うましかの人
めでたくぞいます
やすらひたのしみて
君をいとふことあるまじ
うま酒なけれども
いざ酌みたまへ
よき肴なけれども
いざ食したまへ
ふざはしき徳なけれど
しましくは歌ひ舞はむ
かの高山に陟(のぼ)り
柞(はなそ)の枝を切る
柞の枝を切れば
その葉しなやか
めぐし君を見れば
心晴るるぞかし
詩経218 車舝 (儒教)
― み言選集 ―
神様の最高の傑作品として造られた美しい男性と女性が、神様を中心として愛することができれば、それは最高の愛であり、超越的な愛であって、世の中的な愛ではありません。その愛は、最高の美しい愛であり、愛の中の代表的な愛であり、永遠に輝くことのできる愛です。そのような愛が成し遂げられる所とはどこかというと、家庭です。
(26-154、1969.10.25)
愛する妻と夫の愛は、何かの条件的な愛ではありません。無条件的な愛です。その愛は、永遠に絶対的な愛です。
(112-294、1981.4.25)
愛する立場では、女性が男性の胸深くに入り込んだとしても、男性は反対しないのです。男性も同じです。千万世の壁がふさがっていても、誰も侵犯できない壁があっても、その壁を無難にかき分けて越えていけるのは、愛です。
(49-52、1971.10.3)
愛するときは、一つの体になって愛さなければなりません。男性と一つの体になった女性が真の愛で一つになり、その夫婦が離れられない関係になったとき、永遠に共存するのです。
(187-47、1989.1.5)
結婚がなぜ重要なのですか。愛を求めるものだからです。愛を知る道だからです。生命を知るものだからです。女性の生命と男性の生命が一体になる道です。次に、男性と女性の血統がここで混合されるのです。これを通して歴史が生じ、国が生じ、世界が生じ、理想世界が生じます。これがなければ、個人もなく、家庭もなく、国もなく、理想世界もありません。これが公式になっているのです。
(279-114 ~ 115、1996.8.1)
夫婦の天国は、どこからできるのでしょうか。プラスどマイナスが完全に一つになる所です。それは、結婚した日から喜んで暮らしていて、何年もたたずに離婚してグッバイするものではありません。もう夫婦の天国が、どのような所か分かりますか。誰も夫婦を離すことはできません。ダイナマイトが爆発して足がなくなっても、上のほうでくっついているのです。皆さんは、どのような愛を求めていきますか。真の愛を求めていくのです。皆さんの心と体が完全に一つになってこそ、そのような愛があり得るのです。
(96-29 ~ 30、1978.1.1)
結婚に目的があれば、その目的とは何でしょうか。「男性と女性が出会い、ただそのように暮らすことだ」、それが結婚の目的ですか。違います。「心の世界を、男性と女性の心の完成を成し遂げるためのものであり、男性と女性の愛の完成を成し遂げるため」です。このような観念が全くありません。結婚したということは、「私はそのような証拠をつくろう」と宣布することです。そして、「結婚生活を通してつくろう。死んでいくとき、私はそれをつくってから逝く」と考えれば、間違いなく天国に行くのです。天国は、ほかのものではあません。
(97-277、1978.3.26)
女性は男性を、父を身代わりし、夫を身代わりし、兄を身代わりし、弟を身代わりした立場の者として愛さなければならず、また男性は女性を、母を身代わりし、妻を身代わりし、姉を身代わりし、妹を身代わりした立場の者として愛さなければなりません。この四つの立場を身代わりし、世界を愛する心で最も近い所で愛し、尊敬しながら、互いにその刺激を感じるように結ばれた因縁が夫婦です。
世界を愛する代わりの立場で、世界的な愛を与え合える最も基本単位的な基盤が夫婦です。その基盤をイエス様が立てられなかったので、それを立てるために世界を代表する人間として愛し得る二人の男女が、新郎新婦の名で出会う場が、小羊の婚宴という場です。ですから、結婚すれば、妻を母の代身として、姉の代身として、妹の代身として愛さなければなりません。また、夫を父の代身として、兄の代身として、弟の代身として、それ以上に愛する心をもって愛さなければなりません。これが理想相対を中心とする家庭的夫婦の愛です。
(37-109、1970.12.22)
神様は、平安であるよりも、自分を抑えながら昼夜走るのを好まれます。なぜですか。サタンを滅亡させられるからです。結婚も同じです。結婚は、私のためにするものではありません。女性は男性のために結婚するのです。結婚するとき、器量の良い美人が優れた男性をもらおうとすれば、それはすべてサタンだというのです。そのような結論が出てきます。
この原則を知れば、一人の男性として結婚するとき、本当に女性のためにするのであれば、「自分は美男子だが、本当に醜い女性であっても、美人以上に愛そう」という考えをもたなければなりません。これが原則的な考えです。私が一人の女性として生まれ、夫を神様のように愛し、人類のように愛し、この世界の誰よりも愛し得るという観念が立たなければ、天の国には絶対に行けません。また、一人の男性として、一人の女性を愛せない人が、神様を愛し、人類を愛することはできません。
(97-321 ~ 322、1978.4.1)
それでは、統一できる方法とは何でしょうか。互いに愛することです。相手が哀れに思えて愛することもでき、好きでも愛せます。夫婦同士、初めから好きで愛せる人はいません。(注11)だんだん愛せるようになるのです。ある夫人が夫を見ると、性格が意地っ張りです。その意地っ張りのおじいさんを誰が愛するかというのです。
けれどもその夫人は、「あの意地っ張りゆえにどんなにぶつかることが多いか」このように考えて、かえってかわいそうに思うというのです。そのようにかわいそうに思って愛してあげれば、そのおじいさんは一番孤独で悲しい時に、夫人の所に行き訴えるようになっています。そのようになるのです。
また、そのおじいさんが頑固なのを見れば、自分は頑固でないので、おじいさんの頑固が使い道のある時もあります。ですから好きでも愛し、かわいそうでも愛せます。そのような心だけもつようになれば統一されるのです。
(41-332 ~ 333、1971.2.18)
私達統一教会の食口たちは、貧しい暮らしをしています。だからといって、これが不幸なのではありません。一つのパンでも分け合って食べて暮らす生活、それがどれほど良いでしょうか! 互いを大切にし、互いに一食抜き、自分の妻に食べさせようとし、夫に食べさせようとする、その愛の谷間は、どれほど深いでしょうか。
(216-270、1991.4.7)
人には、いつも刺激が必要です。幸福は、刺激なしには成されません。刺激がなければなりません。いつも食べる御飯も、おなかがすいていてこそ食べるたびに新しいように、夫婦間の愛も同じように、いつも新しくなければなりません。妻と夫が、互いに見れば見るほどもっと見たいし、一日中共にいたいと思わなければなりません。そのために、自らに対する研究をしなければならず、神様に対する研究をしなければなりません。
(23-57 ~ 58、1969.5.11)
祝福家庭を天の国で神様が見れば、星のように光り輝いているというのです。神様も喜ぶというのです。最高の太陽のように、月のように光り輝く、愛するカップルになろうと思わなければなりません。そして、掘って、掘って、掘って、掘っても、10 年暮らしても、その愛の谷間を探し出せません。それで一生の間、掘って掘り続けながら死んで、天の永遠な世界に行って、初めてすべて合わせるのです。ですから、夫に対して研究してください。夫を見れば性格がこうだと思っていたのに、後ろを見ると宇宙全体があるのです。神様よりもっと驚くべきものだと思うというのです。上から下に、東西、四方に違うではないですか。ですから、結婚する時に私の夫はこうだと思っていたことから抜け出せなければ、愛の理想を成就できません。回って上も見て、下も見て、寝ている時も見て、すべて研究しなさいというのです。
あなた達は、夫に関して、死んでも忘れられない魅力的な部分を記憶していますか。それは何ですか。体全体です。じっと見てみてください。お互いにけんかをする時も、目を見ればパチパチするのが私と似ている、息をするのが私と似ている、聞くことも私と似ている、唇も私と似ている、感じることも私と似ている、そこに私が喜ぶ愛も私と似ているので、それを手放すことはできない、そのようなことを感じてみましたか。心は年を取らないのです。心が年を取らないならば、愛はどうでしょうか。生命はどうでしょうか。その次に、血統はどうでしょうか。神様の真の愛を中心としては、すべて年を取らないのです。愛が10 年、20 年と深くなっていけばいくほど、もっと美人になるというのです。世の中で一番の美人になり、美男子になるというのです。
地上では醜男醜女でも、黒人でも、愛の中心として見れば、一番の美人になります。愛の光以上に明るいものはないので、あの国では、どんな哀れな姿でも最高の美しい姿へと、どんどん若くなっていくというのです。世の中で考える美人たちは、どんどん老けていきます。世の中の美人は、あの国に行けば醜女になり、この世で美しさを中心として夫婦が愛すれば愛するほど、さらに美男になり、美人になります。愛の光は最高に高く、最高の光なので、そうならざるを得ないことを知らなければなりません。さあ、ですから愛する妻は、天宙の私の光であり、私の夢であり、私の幸福であり、私の平和はそこにあるのです。天の心以外には、美人にする道はありません。
(297-168 ~ 170、1998.11.19)
先生が祝福してあげるにおいて、円満な家庭になるようにしようとすれば、極と極が出会うようにしなければなりません。東と東、北と北が出会うようにしてはいけません。北と南、東と西が互いに出会うようにしなければならないのです。背の高い男性に背の高い女性を出会わせてあげなければなりませんか、背の低い女性を出会わせてあげなければなりませんか。太った男性が太った女性を好むことはありません。また太った女性が太った男性を好むことはありません。やせた男性は、太った女性を好むでしょうか、やせた女性を好むでしょうか。太った女性が好まなければ、自分もやせているのに、女性までやせたらどうなるのですか。山に大きな木ばかりあれば、見栄えが良くないのです。小さな木もあれば、見栄えが良くなります。
(26-333 ~ 334、1969.10.3)
天国は、家庭からである。相対から善なるものを見いだせない人は、天国に入れない。
御旨の道、天国
2. 男性と女性を完全にする結婚
― 宗教経典 ―
主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」主なる、神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。
主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。「ついに、これこそ私の骨の骨、私の肉の肉。これこそ、女(イシャー)と呼ぼう。まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。
創世記2.18 ~ 24(キリスト教)
結婚しない者は、喜びも、祝福も、善の行いも享受できない。
タルムード、イェヴァモート62b (ユダヤ教)
天地(あめつち)の初めには自我(アートマン)がただ独り存在した。彼は願を立てた。「願わくば我に妻ありて、子を生み、財を獲、祭祀を行なわんことを」と。およそ人の願望といえば以上で尽きているのであって、これ以上のことはたとえ願っても得られるものではない。……
かれ自我はこれらの願望の中の一つでも達成されぬ限りは満ち足りない思いをする。しかしながら、彼は快々(おうおう)として楽しまなかった。この故に、人は孤独では楽しめないのである。彼は第二者(相手)を求めた。彼はちょうど男女が相擁した程の大きさであった。彼はこの自体を二分した。ここに夫と妻とが成った。それ故に、ヤージナヴァルキャは「我自身は半片(かたわれ)にすぎぬようである」といっている。されば、この空虚は婦人によってのみ満たされ得る。彼(自我)はこの婦人を抱いた。そして、人類が発生した。
ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド1.4.17、1.4.3(ヒンドゥー教)
義なる者たちは、アブラハムとサラのように、彼らが男女一緒にいるときに栄えることができる。
ゾハール1.82a (ユダヤ教)
男は妻と自身と子供があってそれだけのものとなる(完全な男となる)。それゆえブラーフマナは言う。夫であるもの、それは妻である(夫と妻は一体である)と言われている、と。
マヌ法典9.45(ヒンドゥー教)
妻がいない人はまだ成人ではない。
ベンジャミン・フランクリンプーア・リチャードの暦
― み言選集 ―
結婚とは何かというと、半分にしかならない男性と女性が完成するためにするものです。その完成のための愛は、自分が自分のために生まれたというそのような愛ではありません。そのような愛は、流れていく愛であり、偽りの愛です。自分が自分のために生まれたのではなく、相手のために生まれたと考え、その相手のために投入して忘れ、投入して忘れるところから真の愛は始まるのです。
(262-67 ~邱、1994.7.23)
宇宙の存在秩序は、ために生きることを根本としています。真の理想、真の愛、真の平和の世界は、神様の創造理想であると同時に人間の希望です。ですから、理想の起源、幸福と愛の起源は、相対のために生きるところにあるのです。宇宙を見れば、そのどの存在物も自分だけのために存在するものは一つもありません。動物界は、植物界のために、鉱物界と植物界は、動物界のために、また、このすべてを合わせた万物は、人間のために存在します。それでは、人間は、誰のために存在するのですか。人間は、神様のために存在するのです。その神様はまた、万物のためにそれらが存在するようにされ、成長、発展するようにされます。
このように「ために生きる」ことが存在世界の基本秩序なので、誰もがために生きる存在として生まれたのであって、自分だけのために生まれたのではありません。男性が生まれたのは、男性のためではなく、女性のために生まれたのです。女性の場合も同じです。いくら美人でも、女性が生まれた本来の意味は、女性のためではなく、男性のために生まれたのです。男女がもつ素性と感情も、すべて相対のためのものであって、自分のためのものではありません。
夫婦の場合、結婚しながら、「あ! 私が生まれたのもあなたのためであり、生きるのもあなたのためであり、死ぬのもあなたのため」と思えば、これを理想的夫婦、幸福な夫婦というのですが、存在世界の基本秩序から見て、これはごく当然のことだといえるでしょう。そこから真の愛は始まります。このように、真は「ために生きる」ところから起源を求めなければなりません。
(135-234、1985.12.11)
今日の若い男女は、今後立派な人になれば、良い家庭を築き、その家庭の父母になろうとします。ですから、夫は夫で、妻は妻で、男性は男性で、女性は女性で立派な相手を要求します。それは、なぜですか。自分が不足なことを感じるからです。このようなことを感じる一方、立派な息子、娘を願うのです。相手を通して自分が不足な面を補充し、より良くなれればどれほど良いですか。そのようなことを胸の奥深くに、しっかり抱いて愛したいと思うのです。
(26-147、1969.10.25)
エバは女性の性稟、アダムは男性の性稟を中心として分立して、何でまた一つになるのですか。別れてから合わさることによって、神様御自身が内的に抱いていた愛が、どれほど強いかということが分かるのです。そうでなければ分かりません。自分に愛がありますが、愛が分かりません。相手に会うことで分かるのです。内省的な愛を、人を通じて感じてみるのです。
(185-187、1989.1.8)
夫にとって妻になる人が、妻にとって夫になる人が、世界で最も必要な人です。互いに勧告してあげながら杖になり、同労者にならなければなりません。
(27-87、1969.11.26)
男性たちは、夫人が自分の妻である前に、人類の女性であり、神様の娘であることを知らなければなりません。人類が愛する女性として愛することができ、神様が愛する娘以上に愛することができれば、夫になれるのです。そうでなければなれません。女性は、その反対です。あの人は私の男性だと考えるのではなく、私の男性である前に神様の息子であり、人類の男性を代表した男性と考え、人類が愛する以上に私が愛し、神様が愛する以上に私が愛し、たくさんために生きてあげなければなりません。夫をそれ以上に愛するので……。
それで、「私が男性として片方の足になり、女性がもう片方の左足になり、人類のために、神様のための愛の足跡をなした家庭をつくって幸福になる」、このような夫婦になることを神様は願われるのです。右足は夫であり、左足は女性です。片足の人になるなというのです。「私は間違いなくきちんと行きます」と言えなければなりません。また、そうしてまっすぐに行かなければならないのです。このようにすることができてこそ、結婚する資格があります。
(88-318、1976.10.3)
3. 本当の夫婦の愛によって男性と女性、そして神様が一つになる
― 宗教経典 ―
男性が家にいるときにも、家庭の根幹は妻だ。妻によってシェキナー(聖なる存在)が家から離れないからである。私達の師は、創世記のこの言葉を理解していたのである。「イサクは、母サラの天幕に彼女を案内した。彼はリベカを迎えて妻とした。イサクは、リベカを愛して、亡くなった母に代わる慰めを得た」(創世記24.67)。これは、シェキナーがリベカについてイサクの家に入ってきたことを意味する。より具体的に言えば、聖なる母は、家が整頓されており、男女が一緒にいるときにだけ、男性に臨むことができるということである。そのときに聖なる母の祝福が彼らに下されるのである。
ゾハール1.50a (ユダヤ教)
おお、ゴータマよ、女性は祭祀の火であり、彼女の性器は油であり、髪の毛は煙であり、陰部は火花であり、性交は燃え残ったものであり、享楽は閃光です。この火に神々は、神酒によって精液を与えます。この精液から新しい人が生まれます。
ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド6.2.13(ヒンドゥー教)
天と地の原始の創造者。かれはなんじらのために、なんじら自身の間から、夫婦を、また家畜にも雌雄をつくりたもう。このようにして、なんじらを繁殖させたもう。
クルアーン42.11 (イスラーム)
欲望が男女を一つにすれば、その結果、彼らに似た息子が出てくる。主なる神も御自身の息子をそのように造られたのである。したがって夫は、そのときに自らを貞潔にし、それに似た形ができるかぎり完璧に生まれることができるようにしなければならない。
ゾハール、創世記90b(ユダヤ教)
夫が聖なる目的で寝る前に自らを聖別すれば、男女二つの性によってなされた聖霊がその上に臨む。そして、主なる神は胎児に責任をもつ使者に命令され、この特別な霊魂を任せられ、胎児をどこに置くかを教えてくださる。ヨブ記の「男の子をみごもったことを告げた夜も」(ヨブ記3.3)がその意味である。……そして、子供の霊魂は天にいらっしゃるその方に似たかたちをもって下りてくる。(注14)このかたちに似た子供が育ち、世の中を生きていく。
ゾハール3.104b (ユダヤ教)
主は、最初の婚礼巡行として、結婚生活での日常の義務に関する条例を見せてくださる。経典は主の言葉であるから、これを通して正しいことを修得せよ。そうすれば、主があなたを罪悪から自由にするだろう。……
2番目の婚礼巡行として、あなたは主が真のグルに出会わせてくださったことを知るようになるだろう。あなたの心の中の恐れは消えた。あなたの心の中にあった利己心の不潔さは洗われた。……
3番目の婚礼巡行として、主に対する熱望が宿り、世の中に対して無関心になる。……4番目の婚礼巡行として、心が神の知識にまで達するため、神が心の中で感じられる。グルの栄光により私達はたやすく神に近づいた。愛の甘さが私達の体と心に満ちる。敬愛し、楽しいのは、私達にいる主である。
昼夜私達の心は彼に固定されている。主を賛美することによって、私達は主に至る。私達の心の結実が願ったものであるが、彼がこの婚礼を整えるからである。霊魂が、配偶者が愛する名の中で喜ぶだろう。主が彼の花嫁と一つになり、新婦の心が彼の名によって花開く。
アーディ・グラント、ヴァール・スーヒーM.4、p.773 ~ 774 (シーク教)
― み言選集 ―
女性として生まれたのは、男性を求めていくために生まれたのであり、男性として生まれたのは、女性を求めていくために生まれたのです。女性と男性に生まれたのは、より次元の高い、二人が一つになって神様の愛に接するためです。一人ではその愛に接することができません。一人では、神様の愛に、本当の愛に接することができないのです。接したとしても、これは一方的です。立体的な、球形的なこのような愛には接することができません。ですから、男性と女性がより次元の高い立体的な愛の圏内にジャンプするために男性と女性が結婚するのです。本来、本然の人は、堕落しなければ、男性と女性が一つになればなるほど、その力が作用すればするほど、ここには偉大な中心が生じて球形になります。横的に連結されればされるほど、ここには縦的な力の愛の母体が連結されて入ってくるようになります。すべての心も、体も完全にそこにぴたっとくっつくのです。一つになるというのです。
(109-275、1980.11.2)
このようなすべてのものが夫婦として成し遂げられれば、夫婦自体が一心になります。夫婦自体が一心なので、一体にならなければならず、その一体となったものが神様と一つになるのです。夫婦が愛の光の中ですべて一つになるのですが、一つになるその夫婦は、神様が覆い、自分でも分からない光の力が私を抱き、同化するようになります。あらゆる神秘的な境地に押し出すのです。
(296-33、1998.10.11)
神様は、御自身の体としてアダムを先に造りました。アダムは、神様の息子であると同時に、体をもった神様御自身でもあります。その次に、アダムの相対者としてエバを造り、横的な真の愛、すなわち夫婦の真の愛の理想を完成しようとしました。エバは、神様の娘であると同時に、神様の横的な真の愛の理想を実体で完成すべき新婦でもあったのです。アダムとエバが完成して神様の祝福のもとで結婚し、初愛を結ぶその場は、神様が実体の新婦を迎える場です。アダムとエバの夫婦の真の愛の理想が横的に結実するその場に、神様の絶対愛の理想が縦的に臨在、同参なさることによって、神様の真の愛と人間の真の愛が縦横の基点を中心として一点から出発し、一点で結実、完成するようになるのです。
(277-198 ~ 199、1996.4.16)
誰のために結婚をするのでしょうか。神様のためにするのです。言い換えれば、神様の創造目的というみ旨のためにするのです。み旨は創造理想を完成することです。創造理想は、自分を中心として成し遂げられるのではありません。すべての心情が主体的な神様と一体となり、神様が動じれば私も動じ、神様が静まれば私も静まり、心情的一致点を中心として、内外が一つにならなければなりません。このように、神様と和合できる基準を立てなければ、創造目的を成し遂げることはできません。
(35-231、1970.10.19)
4. 結婚は二人を神様の姿と一致させる神聖な結合
― 宗教経典 ―
われは彼なり、汝は彼女なり。われは旋律なり、汝は詩節なり。われは天なり、汝は地なり。われら二人はここに共に住み、子供達の親とならん。
アタルヴァ・ヴェーダ14.2.71 (ヒンドゥー教)
このよのぢいとてんとをかたどりて
ふうふをこしらへきたるでな
これハこのよのはじめだし
みかぐらうた(天理教)
しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。
マルコによる福音書10.6 ~ 9(キリスト教)
祝福を受けてください! 私の主なる神、宇宙の主人であられ、あなたの形どおりに人類を創造され、人間のために永遠の場を用意してくださった方よ、
祝福を受けてください! 私の主なる神、人間の創造主であられ……。
エデンの園で太初に、あなたの被造物をご覧になって喜ばれたように、このあなたの愛する人たちを見て喜んでください。祝福を受けてください! 私の主、宇宙の主人であられ、喜びと歓喜、新郎と新婦、楽しみ、歓呼、踊り、愉快、愛、兄弟愛、平和、同僚愛をもたらされた方よ、どうぞ早く、私の主なる神、喜びと歓喜の声がユダヤの地とエルサレムの地に響き渡るようにしてください。
新郎新婦の声、賛美から聞こえてくる歓喜に満ちた新郎の声、歌の宴に集まってきた青年たちの声がすべてこの地に響き渡るようにしてください。祝福を受けてください! おお、主、新郎新婦に喜びを施される方よ。
タルムード、クトゥッボート8a(ユダヤ教)
愛の福音は……。これ以上、結婚した二人の個人としてではなく、一つの存在内にいる二個体的本性として、男性と女性の一致を提供する。そして、このように一つになった霊的個体性は、一つの有形的存在としてではなく、父母としての神を反映する。この神聖な統一された霊的意識から永遠の天国の喜び――神の創造の完全性――へと向かうにおいて、障害物はない。
科学と健康576(クリスチャンサイエンス)
権能の主、神の作品であるこの世の霊魂たちは、不思議にもすべて一つである。しかし、それらが世に降りてくるときは、男性と女性に分離される。それでも、依然として互いが一つに結ばれている。最初に姿を現すときは、男性と女性として一緒に現れる。そのあとに世に降りてくるときは分離されるということである。のちに神は、彼らを縁結びしてくださる。神以外に誰も互いに最もよく合う縁を知る人はいない。幸福な者は正当で真理の道を歩む者だ。そのようにして霊魂は本来の相手を求め、真に完璧な人間になるのである。
ゾハール1.85b (ユダヤ教)
日の栄えの栄光には、三つの天、すなわち三つの階級がある。その最高の階級を得るためには、人はこの神権の位(すなわち、結婚の新しくかつ永遠の聖約)に入らなければならない。そうしなければ、その人はそれを得ることができない。
さらにまた、まことに、私はあなたがたに言う。もしある男が私の律法である私の言葉によって、また新しくかつ永遠の聖約によって妻をめとり、そしてそれが、私からこの力とこの神権の鍵とを与えられた油注がれた者によって、約束の聖なる御霊により彼らに結び固められ、また彼らに、「あなたがたは第一の復活に出て来るであろう。……その栄光とは、とこしえにいつまでも子孫が満ちて続くことである。
教義と聖約131.1 ~ 3、132.19(末日聖徒イエス・キリスト教会)
真の結婚の神聖な結合は、神と人間、すべての意志により成される。結婚は神から始まり、神で終わる。結婚を支配する法とその中に流れる祝福すべてが主なる神から来たものである。主なる神の御加護により、男性と女性は一生の間、配偶者に対して従順にし、天から来た祝福と義務をもち、その結婚の主人公となる。……
配偶者間の夫婦関係は、眩しく輝く祝福が許諾されたため、禁欲生活とは異なる。夫婦生活を通して、夫と妻が天と自然の法に従ってふるまい、常に天に向かって畏敬し、神聖で知恵深いその方の御意志に従うよう努力しなければならない。……
私達が語る愛は、瞬間の情欲で起きる感情ではなく、快楽ばかりを語るものでもない。愛は行動によって証されるがゆえに、愛とは行動によって表現される深い心情である。家庭で愛を表すことは互いを助けることである。
しかし、ここで終わるのではない。内的に自分たちを完成させる過程で、一日一日互いに協力することが、夫婦の最高の目的にならなければならない。そうすれば、夫婦関係を通して互いの徳目を啓発するようになり、結局、神と隣人への真なる愛の中で自らが成長するようになるだろう。
教皇ピオ11 世カスティ・コンヌビイ一結婚の尊厳―(キリスト教)
― み言選集 ―
愛を成すことができなければ、どうなるでしょうか。神様が喜ばれないのです。神様に出会うことができません。ここから、今日の家庭倫理の根本問題が解決されます。今まで宗教をもった人たちは、結婚することを悪く考えていました。結婚の最高の神聖さを私達はうたわなければなりません。男性と女性が愛することができる道は、結婚生活です。男性と女性が一つになることによって、誰に似るのですか。神様に似るのです。男性と女性が一つになってこそ、御自身の形どおりに男性と女性を造られた神様に似るのです。そうしてこそ、神様が臨在されるようになります。
(70-76、1974.2.8)
今、自由世界で最も難しい問題とは何かというと、愛の秩序問題です。愛は愛ですが、どのような愛ですか。単純に男性と女性が楽しむものが愛ですか。そのような愛は、歴史過程もなく、未来観もなく、方向もない愛です。これは、自分勝手なものだというのです。そのような愛では、自由の原則と統一の原則、平和の原則になり得ないのです。
お互いに愛する人が、きょうは好きなのに、あすには別れるのですから、どうして平和があり、どうして統一があり、どうして自由があるのかというのです。そこに自由がありますか。そこに幸福がありますか。そこに平和がありますか。そこに統一がありますか。すべてが反対です。そのような愛は、破壊ばかりを招来するのです。破壊の動機であり、受け入れない内容だというのです。
その愛は、反対にサタンが利用してこの人類を破壊させ、人類の理想を破壊させるための一つの戦略的な武器だ、ということを皆さんは知らなければなりません。私達から真の平和を奪っていき、私達から真の自由を奪っていき、私達から真の統一を奪っていく怨讐の戦略的な方法であることを知らなければなりません。
(104-140 ~ 141、1979.4.29)
結婚は、なぜするのでしょうか。神様の形に似るためです。神様は、二性性相が合体化した一律的な存在であり、その神様の分性自体が男性と女性なので、彼らも合性一体化して種のようになって、神様の本性の位置に帰らなければならないのです。しかし、その種をつなげるためには、愛の道を通じなければならないために、生まれながらも愛され、育ちながらも愛を目標として育ち、暮らしながらも愛を中心として暮らし、行きながらも愛に帰るために行かなければならないのです。
(138-99、1986.1.19)
なぜ結婚しなければならないのですか。神様が二性性相をもたれたので、その二性性相に合うようにしようとするのです。ですから、二つの世界の現象を結ばなければなりません。人間愛の発展過程で必然的要件が結婚だったのです。神様の形に似て人間が互いに相対をつくるために、愛によってこの地で結ばれるとき、結婚をします。なぜ人を造ったのですか。神様の愛の相対形として造りました。神様も愛が必要で万物を創造したという結論は、否定する道がありません。神様が愛することができる完全な愛は、どこから出てくるのですか。地上の夫婦から始まります。ですから、結婚する日は喜びの日です。
(123-217 ~ 218、1983.1.2)
私が結婚をするのは、私のためではありません。男女が結婚するのは、男性が右側にいれば女性は左側にいるので、宇宙のためにするのです。天地の道理は、上下の調和です。男性が主体なので、主体である男性が上ならば、女性が下なので、上下を備えるために愛するのです。前後を備えるためにします。男性のためにするのではなく、女性のためにするのではありません。天宙の法度に合わせるためにすることを知らなければなりません。ですから、天理の法度を合わせられるよう、男性はそのような姿をしているのであり、女性もそのような姿をしているのです。
(101-38 ~ 39、1978.10.28)
男性と女性が出会うのは、宇宙の出会いです。これが壊れれば宇宙が壊れ、縦的世界がすべて壊れていくのです。結婚がどれほど重要かを知らなければなりません。結婚は、縦的な地上天国と天上天国の出会いであり、横的な永遠の世界と瞬間的な世界の出会いです。男性と女性が真の愛を行うことによって、永遠の愛が中心地にどんどん接近してくるのです。男性と女性は、神様を中心として中心地で一つに結ばれます。
(118-32、1982.4.26)
世界、宇宙を見てください。鉱物世界もプラスイオンとマイナスイオン、植物世界も雄しべと雌しべ、動物世界も雄と雌になっています。近ごろは細菌まで雄と雌があるといっています。すべてのものは、愛を中心として、自分のレベルを中心として一つになるようになっています。このようなペア・システムの宇宙を見れば、これらは、人間の理想的愛が天地を代表して一つになる時、共に連結されて信奉するために、そのようになっているというのです。家を建てようとすれば、初めに基礎をつくるのと同じように、人のためにこのようなペア・システムですべてつくったのです。動物も、そうではないですか。雄と雌とが歩いていて、雌が被害を受けるようになれば、雄が命を懸けて守るのを見たでしょう。子を見れば、子のために命を差し出すのです。愛の道理はそうなのです。それは本来、根本がそうだからです。
(222-123、1991.10.28)
結婚は、天地の合徳であり、縦横、左右、前後の全体を完成するのです。結婚は、子女、兄弟、夫婦、父母の理想の完成地です。したがって、アダムとエバの夫婦は、神様が最も愛する父母であり、そうして第二創造主の位置に立ったことによって、神様が第一創造主として感じる全体を相続し、子女、兄弟、夫婦、父母の位置を神様の代わりに体恤するためにあるのが子女の繁殖なのです。
結婚して夫婦が愛し合う場は、神様と人間の愛と生命と血統の根源的王国の場であり、理想のための地上天国と天上天国の出発地です。神様は、愛の根であり、生命の根であり、血統の根であり、地上天国と天上天国の根です。アダムとエバの結婚の時には、神様がアダムとエバの心に入っていって一体的愛を成されるのです。神様は、縦的な真の父母であり、アダムとエバは、横的な真の父母です。そのような二つの父母の血縁を受けて生まれたので、心は縦的な私であり、体は横的な私になるのです。
このようにして神人愛一体圏を形成するので、心身一体愛を完成した者は、神様の息子、娘になります。神様の王子、王女になれば、神様と父子の関係となって神様の全体を相続することができるのです。このような子女が、真の愛を中心とした夫婦一体を完成すれば、神様に侍って暮らす家庭になるのであり、その家庭は、平和と理想の基地になるのです。半分である男性と女性が一体となり、神様の相対として理想愛を完成させるようになるというのです。
(254-107、1994.2.1)
人間始祖アダムとエバは、堕落してしまいました。エデンの園から追われるとき、彼らは子女を抱えてはいませんでした。神様は、追い出したアダムとエバをエデンの園の外まで訪ねていき、祝福と結婚式をしてあげるはずは決してありません。全人類は、神様の愛とは関係なく繁殖した、追い出された先祖の子孫です。アダムとエバの堕落は、神様の真の愛の理想に背いた不倫の犯罪です。守るべき戒めが必要だった堕落前のアダムとエバは、未完成段階、すなわち成長期間で堕落しました。
人類始祖の初愛の結合は、神様自身の愛の完成でもあるので、当然、神様もアダムとエバも宇宙万象も、歓喜と祝福の中に酔う幸福な祝宴の連続でなければなりません。神様の愛と生命と血統が、人間の中で始原を成しながら定着する幸福な儀式でなければなりません。ところが彼らは下部を覆い、木の後ろに隠れて不安に震えました。天道に背く偽りの愛、偽りの生命、偽りの血統の根源をつくった不倫の関係を結んだからです。
(288-127、1997.11.26)
神様が創造当時の理想として願った真の愛、その偉大な真の愛を中心として、人間との真の愛の関係を結んで一つになり得る、このような神人愛一体の家庭を築いたとすれば、今日私達は、天国に行くのか地獄に行くのかと心配する必要がなく、そのまま天国にすべて入っていくようになるのです。ここで問題になることは、神様の真の愛と真の人間の真の愛が、主体的真の愛と相対的真の愛として一つになって一点から出発しなければ、神様の真の愛と人間の真の愛が異なり、二つの愛の出発になるので、二つの愛の方向と目的地になるというのです。このようになる時は、神様と人間が願う絶対的理想世界は見いだせません。
この二つの真の愛が一点から出発できることを願った神様のみ旨は、堕落によって完全に停止されてしまいました。サタンの愛を中心に偽りの父母が生じたのであり、人類は偽りの愛、偽りの生命、偽りの血統を受け継いだこの子孫なので、これはすべて地獄に行くようになります。天国とは関係がないのです。
(275-55、1995.10.31)
堕落によって、偽りの父母から偽りの愛、偽りの生命、偽りの血統を受け、偽りの結婚式をした家庭になりました。今、ここから始まった汚されたものを完全に清算して復帰し、真の神様と真の父母の愛を中心として……。真の愛の種、真の生命の種、真の血統の種を接ぎ木して、偉大な祝福を伝授してあげる復活の礼式が、正に国際合同結婚式なのです。世界の全人類が偉大な祝福を受けて天国家庭に転換し、地上天国に入籍することを願ってやみません。
(275-59、1995.10.31)
6) 結婚生活の倫理
結婚の愛は、感情の節制が要求される。その愛は、結婚生活の鍛錬を通して生存し、繁栄する。結婚生活は、約束を共有する夫婦に特別な挑戦を要求するようになる。そして、その挑戦は、人格精練の道として、愛の完成の学校として奉仕する。
経典は世代を通し、結婚に関する情報を提供する伝統的、倫理的規則の一部を明確に説明する。経典は、夫婦が家ですることは互いに異なるが、補完的な役割を説明する。夫は妻を敬わなければならず、妻は夫に従順でなければならない。二人の配偶者は信実で、すべてのことを共に分かち合い、決して離婚を考慮してはいけない。時折、このような伝統的な役割は、二重的な基準を正当化するために使われてきたが、正しく知れば、その役割は相互互恵的な責任を叙述する(社会的両性平等を議論する、第20 章7、「女性の権利」参照)。文鮮明先生は、結婚の理想は夫が妻を神様の娘として尊敬し、妻が夫を神様の息子として尊敬しながら、配偶者が互いにために生きることであり、その時、天国が実現されると教える。
1. 夫婦愛の核心倫理 : 夫婦は互いに服従しなければならない
― 宗教経典 ―
キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。
夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。
そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。私達は、キリストの体の一部なのです。「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」この神秘は偉大です。私は、キリストと教会についで述べているのです。いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい。
エぺソの信徒への手紙5.21 ~ 33(キリスト教)
同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。神を畏れるあなたがたの純真な生活を見るからです。……同じように、夫たちよ、妻を自分よりも弱いものだとわきまえて生活を共にし、命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい。そうすれば、あなたがたの祈りが妨げられることはありません。
ペテロの手紙一3.1 ~ 2、7(キリスト教)
夫は妻に、その務めを果たし、同様に妻も夫にその務めを果たしなさい。妻は自分の体を意のままにする権利を持たず、夫がそれを持っています。同じように、夫も自分の体を意のままにする権利を持たず、妻がそれを持っているのです。
コリントの信徒への手紙一7.3 ~ 4(キリスト教)
あなたの妻は、あなたに対する権限がある。
ブハーリー・ハディース(イスラーム)
夫は妻に夫婦としての義務を無理に強要してはならない。
タルムード、エルヴィーン100b(ユダヤ教)
妻はなんじらの耕地である、それゆえ意のままになんじの耕地におもむけ。だが己れの魂のため、あらかじめ何かよいことをせよ。神を畏れよ。
クルアーン2.223 (イスラーム)
― み言選集 ―
愛の道は、自分の夫と妻を千倍、万倍の絶対的に高い基準に置くことです。神様は、全人類に対してそのような絶対従順の位置を経てその対象圏まで出てこられたのです。それで、そのような愛で結婚した夫婦は、そのような高い水準を期待します。神様もまたこのような高い基準の対象を願われるのです。すべての存在は、絶対従順の立場で投入して忘れ、投入して忘れます。そこで夫婦間の愛が花咲くのです。
(288-68 ~ 69、1997.10.31)
私が一人の女性として生まれ、夫を神様のように愛し、人類のように愛し、この世界の誰よりも愛せるという観念が立たなければ、天の国には絶対に行けません。また、一人の男性として、一人の女性を愛せない人が、神様を愛し、人類を愛せますか。人類を愛することも、神様を愛することもできません。
(97-321 ~ 322、1978.4.1)
男性の前にいるその女性は、神様の娘であり、人類の女性であることを男性たちは知らなければなりません。自分の妻である前に、人類の女性であり、神様の娘であることを知らなければなりません。人類が愛する女性として愛し、神様が愛する娘以上に愛することができれば、夫になれるのです。そうでなければなれません。女性は、その反対です。あの人は私の男性だと考えるのではなく、私の男性である前に神様の息子であり、人類の男性を代表した男性と考え、人類が愛する以上に私が愛し、神様が愛する以上に私が愛し、たくさんために生きてあげなければなりません。夫をそれ以上に愛するので……。
それで、「私が男性として片方の足になり、女性がもう片方の左足になり、人類のために、神様のための愛の足跡をなした家庭をつくって幸福になる」、このような夫婦になることを神様は願われるのです。右足は夫であり、左足は女性です。片足の人になるなというのです。「私は間違いなく、きちんと行きます」と言えなければなりません。また、そうしてまっすぐに行かなければならないのです。このようにできてこそ、結婚する資格があります。
(88-318、1976.10.3)
今、皆さんに残ったこととは何でしょうか。愛の十字架を背負って犠牲にならなければならず、絶対服従しなければならず、絶対愛をしなければならない、これだけが皆さんに残ったことです。先生を失ってしまい、すべて失ってしまってもよいのですが、私自体内において天に対して絶対服従であり、絶対犠牲であり、絶対愛をしなければなりません。神様に対してする前に、皆さんの妻に対して行い、夫に対して行いなさいというのです。
(97-312、1978.3.26)
人間で最も貴い所は、愛の器官です。愛の器官とは、生殖器です。生殖器とは、自分のものですか。違います。誰のものですか。妻のものです。それは、誰がそのように言ったのですか。誰がそのように決めたのですか。神様です、神様。天地がすべてそのようになっています。存在するものはすべて、愛のために生まれたので、愛のための存在は、自分のためにもつ生殖器はもっていないのです。相対のためにもっているというのです。
相対と連結しなくては、真の愛を完成できません。これが天法です。絶対、唯一、不変、永遠の主人になるのです。男性一人で愛の主人にはなれないのです。生殖器を中心として相対と連結される時に完成が展開するのです。真の愛に連結してこそ女性が完成するのですが、男性の生殖器を完全に占領するその場で、完成が展開するというのです。男性も同じです。
(297-156、1998.11.19)
女性のもの、凹は凸のものですか、凹のものですか、男性のものです。男性のために生じたことを知らなければなりません。ですから、自分勝手にできません。それは男性の思いどおりにするのです。男性のものは女性の思いどおりにするのです。これが天法です。
(130-126、1984.1.1)
男性と女性が、自分の生殖器の主人が自分ではなく相対だと思うとき、愛の相対に対しては、丁重に頭を下げて受けなければなりません。愛は、相対によって得るのです。愛は、相対がいなければ来ないのです。相対によって来ることを知っているので、相対には丁重にしなければなりません。ために生きないところに愛はありえません。絶対的にために生きてこそ、絶対愛を見いだすことができるのです。
(279-123、1996.8.1)
夫婦同士でも、愛するからといって、夫がいる所を裸で勝手に出入りすることはできません。「私はこうですが、かまいませんか」とあいさつして動かなければなりません。妻はぐうぐう寝ているのに、夫が「おい、お前!」と言いますか。寝る時間にも規範があるのです。うるさくすればたたいてもかまいません。また、愛するときも、男性が女性にぶらさがってよいのですか。女性が男性にぶらさがらなければなりません。
(225-161、1992.1.12)
2. 両性関係 : 責任は異なるが愛において同等
― 宗教経典 ―
男は女の擁護者(家長)である。それは神が位置を他よりも強くなされ、かれらが己れの資財から、費やすゆえである。それで貞節な女は従順で、神の守護の下に、夫の不在中を守る。
クルアーン4.34 (イスラーム)
家人は女が位を内に正しくし、男が位を外に正しくする象である。男女それぞれ正しい位に在るのじゃ、天地陰陽の大義にのっとるものである。
易経37、周易下経、家人(儒教)
あなた達はすべて保護者であり、あなた達の非保護者に対する責任をもっている。統治者も一人の保護者であり、男性は家族の保護者である。妻もやはり一人の保護者として夫の家と子供たちに対する責任をもっている。したがって、あなた達はすべて保護者であり、あなた達の被保護者に対する責任をもっている。
ブハーリ・ハディース(イスラーム)
主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。「ついに、これこそ私の骨の骨、私の肉の肉。これを、女(イシャー)と呼ぼう。まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」
創世記2.21 ~ 23(キリスト教)
聖句(マントラ)による清めの儀式(結婚式)を行なった夫は、この世とあの世において、受胎適時(リトゥ)であろうとなかろうと常に妻に〔性の〕喜びを与える者である。夫は、性悪で、勝手気ままに振舞い、良い資質に欠けていても、貞節な妻によって常に神のように仕えられるべし。妻に単独の供犠はない。誓戒も断食もない。夫に仕えることによって〔死後〕天界において栄える。貞節な妻は、夫の世界を望むときは、夫が生きている間も死後も、彼にとって好ましくないことをしてはならない。……心と言葉と身体を抑制して夫を裏切らない妻は、夫の世界を獲得し、善き人々によって貞女(サードゥヴィー)と呼ばれる。
マヌ法典5.153 ~ 165(ヒンドゥー教)
あなたの妻を虐待してはならない。女性は神聖である。もしあなたが妻に苦痛を受けさせれば、あなたは遠からず死ぬだろう。私達の祖母、大地は女性である。あなたがあなたの妻を虐待することは、大地を虐待することである。したがって、私達を保護する私達の祖母を虐待するあなたの行為によって、実際にはあなたがあなた自身を殺すだろう。
ウィネバコ族、父の訓戒(アフリカ伝統宗教)
女性が男性のあばら骨から出てきたのは真に正しかった。第一に、男女間の社会的統一性のために女性が男性の上に君臨してはいけないので、男性の頭から出てくることはできなかった。反対に女性が男性の僕として蔑視されてもいけないので、女性は男性の足から出てきてもいけなかった。ゆえにあばら骨から出てきたことは真に正しかったと言えよう。
トマス・アクィナス神学大全じ1.1.92.3 (キリスト教)
女性もやはり男性と同じ被造物である。女性が男性から出てきたということは、女性が男性の一つであることを見せてあげるためである。これはまた、キリストと教会が一つであることをあらかじめ形状化させで見せてくださったのである。
アウグスティヌス神の国22(キリスト教)
― み言選集 ―
男女平等という言葉は、愛を中心に言う言葉です。女性が力で男性にかないますか。跳躍競技で男性にかないますか。服を作ることにおいて男性にかないますか。女性が男性に勝てるものが何かありますか。何もありません。ただ、愛を中心として見るときは女性が男性より優れていて、それが平等圏です。それを知らなければなりません。男女が愛を中心として平等圏なのであって、それ以外は平等ではありません。
(209-208、1990.11.29)
女性が幸福な時はいつですか。男性が幸福な時はいつですか。これが問題です。そのように考えてみるとき、二人が互いに喜べる時だというのです。そのような結論しか下せません。何を中心としてですか。拳ですか。それで夫に勝てますか。女性は、1度拳をぎゅっと握れば身動きできません。拳でけんかしては駄目です。力で競えますか。力で競えば、いつでも押し出されるようになっています。しかし、力も愛の支配を受けるので、力のある男性も、互いに一つになって押したり引いたりしながら愛の懐に抱かれるようになれば、女性を抱えて回っていくのです。そのときは気分が良いでしょう? 「ああ、なぜ私を抱えて回るのか」と言いながらも、そのときは自分の足もほうっておき、自分の体全体をほうっておいて、愛の懐に抱かれて回っていく、その時間は幸福だというのです。
(137-217、1986.1.3)
夫と妻に対する公的な愛の道を行かずに、私的な愛の道を行ってすべてが壊れていっています。アメリカの家庭の父母たちが、自分を中心とする愛をすればするほど壊れていくのです。社会を滅ぼし、世界を滅ぼします。
(111-257、1981.2.22)
妻とは、夫に対して順応し、彼のために助けてあげる人にならなければなりません。もちろん、そのようにしようとすれば、夫が責任を果たさなければなりません。
(81-318、1975.12.29)
愛がある所では上がってもよく、下がってもよく、中間にいてもよいという論理が成立します。愛する夫が自分より高いといって嫌い、愛する妻が自分より低いといってそれを憎みますか。一つです、一つ。一つになれば思いどおりに低い所から高い所に上がることもでき、高い所から低い所に下がることもでき、中間にいることもでき、どこでも行くことができます。ここは制裁がありません。
(91-141、1977.2.6)
家でも、父親は良く、母親はいてもいなくてもいい存在ですか。父親の誕生日は盛大に祝いながら、母親の誕生日は覚えてもいないのですか。父母という因縁は天地調和だということは、今日、信仰をもっていない人たちも知っています。すべて相対的です。何であっても、合わさってこそ調和がなされるのです。目も、鼻も、耳も、唇も、すべて互いに合わさるところで講和がなされます。そのように、父母の二人が一つになってこそ、世の中のすべてのものを抱くことができるのです。一人で、いくらやっでも駄目です。
息を吸うだけでは生きることができません。吸うことも必要ですが、吐くことも必要なのです。皆さん、酸素を吸って生きているので、息を吸うことだけが必要ですか。3回続けて吸ってみてください。そのようになれば、かえって吐くことが必要なのです。息を吐いて炭酸ガスを体の外に送り出してこそ、酸素がたくさん入ってくるようになっています。男性だけが出てきてはいけません。最近の世の中は、男性に偏った世の中です。ですから、根本的に女性解放運動をしなければなりません。原理的に見るとき、3年以上、男性は女性に従順にしなければならないのです。
それで、一つの個体が復帰するには正道どおりに経ていかなければなりません。堕落によって、アダムとエバが二人で落ちたので、上がっていくときも二人で上がっていかなければなりません。上がっていくのは、再創造のようなものです。創造するとき、アダムを先に造り、エバを造りました。したがって、再創造するときも、アダムを造っておいてからエバを造るのです。(21-194、1968.11.20)
3. 夫婦の良し悪し
― 宗教経典 ―
有能な妻を見いだすのは誰か。真珠よりはるかに貴い妻を。夫は心から彼女を信頼している。儲けに不足することはない。彼女は生涯の日々、夫に幸いはもたらすが、災いはもたらさない。羊毛と亜麻を求め、手ずから望みどおりのものに仕立てる。商人の船のように、遠くからパンを運んで来る。夜の明ける前に起き出して、一族には食べ物を供し、召し使いの女たちには指図を与える。
熟慮して畑を買い、手ずから実らせた儲けでぶどう畑をひらく。力強く腰に帯し、腕を強くする。商売が好調かどうか味わい、灯は夜も消えることがない。手を糸車に伸べ、手のひらに錘をあやつる。貧しい人には手を開き、乏しい人に手を伸べる。雪が降っても一族に憂いはない。一族は皆、衣を重ねているから。敷物を自分のために織り、麻と紫の衣を着ている。夫は名を知られた人で、その地の長老らと城門で座に着いている。
彼女は亜麻布を織って売り、帯を商人に渡す。力と気品をまとい、未来にほほえみかける。口を開いて知恵の言葉を語り、慈しみの教えをその舌にのせる。一族の様子によく目を配り、怠惰のパンを食べることはない。息子らは立って彼女を幸いな人と呼び、夫は彼女をたたえて言う。「有能な女は多いが、あなたはなお、そのすべてにまさる」と。あでやかさは欺き、美しさは空しい。主を畏れる女こそ、たたえられる。彼女にその手の実りを報いよ。その業を町の城門でたたえよ。
箴言31.10 ~ 31(キリスト教)
居士よ、汝の住処の中にて人々が漁師漁労に於けるが如く高声、大声なるは実に何なるや、と、大徳よ、こは嫁善生にして富み、富貴に生れ、彼女は姑を世話せず、主人を世話せず、世尊を恭慕せず、尊重せず、供養せず、と。その時世尊は嫁善生に告げたまはく、来れ善生よ、と、然り大徳よ、と嫁善生は世尊に答へ奉り世尊の在す所に詣り已りて世尊を問訊し、已りて一辺に坐せり、一辺に坐せる嫁善生に世尊は告げたまはく、善生よ、是等が七の男子の妻なり、悪心ありて、〔夫の〕為を念はず、他に著して夫を軽蔑す、財を以て購へし〔夫〕を殺さんと望む男子に対する是の如き妻は「殺人者なる妻」と云はる。
主人が妻の為に、工、芸、商業、農業に努力して得る財をば僅にても彼より取らんと欲す、男子に対する是の如き妻は「盗賊なる妻」と云はる、仕事を好まず懈怠大食し、粗悪暴悪にして、粗悪語を話し、勤勉なる〔夫〕を壓服して住す、男子に対する是の如き妻は、「支配者なる妻」と云はる。
常に〔夫の〕為を念ひ母が子になすが如く夫を護り、それより彼の貯へたる財を護る、男子に対する是の如き妻は、「母なる妻」と云はる。譬えば妹が姉を尊敬する如く、自己の主人を尊敬し、漸心あり、夫に従順なり、男子に対する是の如き妻は、「姉妹なる妻」と云はる。又ここに友が、久しくして来れる友人を見て喜ぶが如く、生れ貴き具戒の妻は、主人を喜ぶ男子に対する是の如き妻は、「友人なる妻」と云はる。
打杖にて脅かされて怒らず、悪心なくして夫に対して忍び、怒りなくして夫に従順なり、男子に対する是の如き妻は、「婢なる妻」と云はる。而してここに妻が「殺人者」と云はれ、「盗賊、又支配者」と云はれ、破戒者にして粗悪、不敬なる者は、身壊して地獄に行く、又ここに「母、姉妹、友」と、又「婢なる妻」と云はれ、戒に住し、長時自律の者は、身壊して善趣に行くと、善生よ、是等が七の、男子の妻なり、汝はそれ等の何れなるやと。今日より以後、大徳よ、世尊は我を婢に等しき、主人の妻と存念し給へ、と。
阿含経増支部iv.91、無記品(仏教)
もしあなたが一人の男性と結婚し、彼を手放さずに常にしっかりとつかんでおこうとすれば、彼のために働け。彼のために働くことによって、あなたは常につかんでおくことができるだろう。もしあなたが、あなたの夫が満足するだけのことをすれば、彼は決してあなたから離れないだろう。
あなたの夫に信頼されるようにせよ。あなたが何人かの男性と同時に結婚したかのように行動してはならない。純潔な人生を歩め。私があなたに言うことに耳を傾けず、あなたの夫に信頼されなければ、すべての男性たちがあなたをあざ笑うだろう。彼は気の向くままに語り、誰もこれを止めないだろう。あなたの夫に横柄にふるまってはならない。彼があなたに言うことは、何でもやりなさい。あなたがあなたの夫に従順にすれば、彼も同じようにあなたに接するがゆえに、親切があなたに戻ってくるだろう。
ウィネバコ族、先祖の教え(アフリカ伝統宗教)
ソクラテスの妻クサンチッベが、先に彼に悪態をつき、その次には水をかけた。彼は、「クサンチッベが今雷を落としているのだが、すぐに雨が降ると私が言っていたか」と冗談を言った。アルキビアデスが彼に「クサンチッベが悪態をつく気質は我慢ならない」と言ったとき、彼は「しかし、私がいつも滑車の騒音を聞いていればそれに慣れるように、そしてあなたが、がちょうの鳴き声を我慢して聞いているように、私はそれに慣れてしまった」と答えた。
これにアルキビアデスが、「そうだ、しかしがちょうは私に卵とひなをくれる」と答えた。ソクラテスが「そうか、クサンチッベは私に子供たちを生んでくれた」と応酬した。あるときは、彼女が市場で彼を殴り、彼の上着を破り、彼の友人たちが彼に手で防げと忠告した。彼は、「そうか? 私達がたたき合うと、あなた達はみな歓迎するだろう?『いいぞ、ソクラテス! いいぞ、クサンチッベ!』」。ソクラテスは次のように言った。「男性は扱いづらい女性と暮らさなければならない。乱暴な気質の馬を扱うことのできる調教師は、他のすべての馬を簡単に扱うことができる。このようにクサンチッベを相手にしたあと、私は誰とでも簡単につきあえる」。
ソクラテス(ヘレニズム)
― み言選集 ―
アメリカの家庭で問題になることは何ですか。夫と妻が互いに相手に対して、いつも私のために生きてほしい、私だけを愛してほしいということではないですか。そのようなものはサタンの本性なので、そこからは神様が離れていくようになるのです。サタンが入ってきたので、壊れるようになるのです。父母は子女を育てて、「お前は私のために生きなさい」と言い、息子、娘は「親は私のために生きてほしい」と言い、互いに自分のために生きてほしいと言うので壊れていくというのです。
(69-87、1973.10.20)
女性は、夫にいろいろなうそをつき、何でも隠す境界線があります。一日の生活の中で、自分自身が主体性をもちたいと思っているのです。祝福家庭でありながらそのように考える人たちは、依然としてサタン世界に連結していることを知らなければなりません。
(396-257、2002.11.10)
男性と女性の関係で、妻が夫に「こっちに下さい」と言えば「はい」と言い、夫が妻に「こっちに下さい」と言えば「はい」と言い、お互いに「はい」と言えば、一つになりますか、なりませんか。そのようになれば、愛がだんだんと逃げていきますか、愛がもっと大きくなりますか。それで、どのようになるのですか。何が中心になりますか。男性が中心になりますか、女性が中心になりますか、愛が中心になりますか。愛です。愛が中心にならなければなりません。
(91-221、1977.2.20)
夫になるのは簡単ではありません。疲れているからといって、妻に責任がないのではありません。難しいからといって、妻に責任がないのではありません。難しければ難しいほど、妻に責任がもっとあるのです。疲れた立場にいても妻に責任があるのです。夫も同じです。良いからといって、夫に責任がないのではありません。悪いからといって、夫に責任がないのではありません。共同責任が原則です。その夫の前には、その妻の前には、この国の誰より、この世界のどんな人よりも、神様の代わりにこの地上で生きるように配置されているのです。
このように考えるとき、父母は、息子、娘の前に、一生の間、「私達のお父さんとお母さんはけんかした」という声を絶対に聞かないようにしなければなりません。「私達のお父さんとお母さんはよくけんかした」、このような話を聞けば、いくらうまくやっても地獄に行くのです。その息子、娘が話すとき、「私達のお父さんは、神様の代身だ。私達の家の神様だ。私達の家の大統領だ。私達の家の聖人だ。私達のお母さんもそうだ」と言わなければならないというのです。昔、聖人たちが言うには、「家和万事成」と言ったでしょう? 私達統一教会で主張するのは「家和」ではありません。「天和」です。天宙を中心として天と和合しなさいということです。
(101-41 ~ 42、1978.10.28)
女性がヒステリーを起こすのですが、男性がその女性よりもっとヒステリーを起こせばどうなりますか。女性がヒステリーを起こすのを見ても、「あ!そのようなこともあるのだなあ」と鑑賞できる男性が必要なのです。女性はヒステリーを起こすのですが、男性は「ははは」……。神経質に「ジョン」と言って男性を呼べば、「オオ、イエース」と言わなければなりません。「ジョン」と言うときに「イエス!(早く)」と言わずに、「ジョン」と言うときに「イエー、イエー、イエース(ゆっくり)」と言わなければならないのです。
やまびこは山が険しいほど良いのです。山が険しくて大きいほど素晴らしいのです。「ピー」とすれば「ブーン」と響きます。やまびこは良いものです。それと同じように、男性は、顔が良くなくても響きがなければなりません。女性が「わあ」と言うとき、「うんうんうんうん」とならなければなりません。本物であれば、そのようなものがなければならないのです。そのような神秘的なものがなければなりません。違わなければならず、同じではいけません。
(118-225 ~ 226、1982.6.6)
妻の財布が別にあり、夫の財布が別にあって、「あなたのお金です、私のお金です」と言う、それが完全な愛ですか、そのようなものを超越して「あなたのお金であり私のお金です、私のお金でありあなたのお金です」と言うのが完全な愛ですか。皆さん自身が結婚すれば、お金の条件、あるいは権利の条件など、自分の条件を立てていきますか、愛の条件一つだけを立てていきますか。このような条件を立てていく人が本当に愛そうとする人ですか、偽って愛そうとする人ですか。愛を利用しようとする人ですか、愛のために生きようとする人ですか。どのようにならなければなりませんか。ために生きなければなりません。私達統一教会の教会員たちは、結婚するとき、「ああ、私のものだ!」と考えなければなりませんか。自分までプラスし、夫を愛して変えようというのです。
(92-192、1977.4.10)
それでは、真の父はどのような父ですか。真の母はどのような母ですか。創造原則を立てられた神様のように、100 年投入して生きても夫のためにもっと投入したいと思う妻が真の妻です。涙を流し、「ああ、あの人のために私は滅んだ」と思うのではありません。「私が忠誠を果たし尽くせなかったので、夫を幸せにしてあげられなかった」と思いながら涙を流して生活する、それが真の女性像になっていく道です。真の夫も同じです。
(204-41、1990.6.29)
真の夫婦は、真の妻はどのような妻ですか。夫のために生まれた、夫のために生き、夫のために死のうとする人です。その立場においてのみ真の妻が成立するのです。反対に真の夫はどのような立場で成立するのかというと、妻のために生まれ、妻のために生き、妻のために死のうとする人です。
神様が天地創造の理想的起源をここに設定したということを私達ははっきりと知りませんでした。このような観点から見るとき、私達は一つの公式を知りました。「ために存在する」という公式においてのみ、真の愛を見いだすことができるのです。ために存在するという、そこにおいてのみ真の理想があり得るのです。神様がそのような原則を立てたので、人間の幸福と希望をそこから発見できる可能性があることを、私達はここから結論を下せます。
(77-293、1975.4.25)
4. 離婚は神様が呪う : 夫婦は死のあとまで信実でなければならない
― 宗教経典 ―
合法的なものの中で神が最も嫌われるものが離婚である。(注19)
アブー・ダーウード・ハディース(イスラーム)
パリサイ派の人々が近寄り、イエスを試そうとして、「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と言った。イエスはお答えになった。「あなた達は読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。」そして、こうも言われた。「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」
すると、彼らはイエスに言った。「では、なぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか。」イエスは言われた。「あなた達の心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。言っでおくが、不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる。」
マタイによる福音書19.3 ~ 9(キリスト教)
あなた達は、なぜかと問うている。それは、主があなたとあなたの若いときの妻との証人となられたのに、あなたが妻を裏切ったからだ。彼女こそ、あなたの伴侶、あなたと契約をした妻である。……私は離婚を憎むと、イスラエルの神、主は言われる。
マラキ書2.14 ~ 16(キリスト教)
神は、己れの夫についてなんじに抗弁し、なお神に不平を申し立て祈る、女の言を聞きたまい、また神は、なんじら両人の議論をも聞きたもうた。まことに神は、全聴者・全視者であられる。なんじらのうちズィハールによって、その妻を遠ざける者があっても、かの女はかれの母ではない。母はかれらの生んだ者以外にはないのである。実にかれらの言うことは不法な、虚偽の言である。まことに神は、赦免者・寛容者であられる。
クルアーン58.1 ~ 2(イスラーム)
夫は神より与えられた妻を娶るのであって、自らの意志によって〔娶るの〕ではない。常に、神々にとって好ましい事柄を行ない、貞節な彼女を扶養すべし。〔夫婦は〕死ぬまでお互いを裏切ってはならない。一言で言えばこれが夫婦にとっての最高の生き方(ダルマ)であると知るべし。
マヌ法典9.95、101 (ヒンドゥー教)
身は捨小舟川中にただよふ前髪の、凜々しき人ぞ我が夫と定めたる人。命かけふ.た心なしわが母は心廣きもわが心うけたまわず、身は捨小舟岸べにただよふ前髪の、凜々しき人ぞ我が夫と定めたる人。命かけたがふことなしわが母は心廣きもわが心うけたまはず。
詩経、装浴iなんぷう)、45 柏舟(儒教)
そのような純潔を守り通した者たちのように、夫の死後、純潔を決意した貞節な妻は息子がなくても天界に赴く。
マヌ法典5.160 (儒教)
法によって彼らは婚姻の神聖さを脅かしてきたのであり、離婚の合法性を認めよと言う。また、いわゆる新しくより人間らしい法が旧時代の法に代替されなければならないと主張する。離婚を正当化する理由は多く多様だ。しかし、その中の一部は関連する人たちが犯した罪と悪行に起因する。……つまり、結婚生活が大変でつらい理由が何であろうと……この永久不変の神の法は離婚に反対する。キリストが再び確認してくださったこの天の法は、人間の行為や考え、あるいはある立法者の意志によっても撤回されない法である。「主なる神がつづっておかれたものを、誰も掘り返してはなI らない」。
教皇ピオ11 世カステイ・コンヌピイ―結婚の尊厳―(キリスト教)
― み言選集 ―
夫婦になれば、あなたと私との相応関係が一時的でなければなりませんか、永遠でなければなりませんか。永遠でなければなりません。最初に喜んでいれば、最後も喜ばなければならないのです。その始終一貫というものは、「始」で喜んでいれば、「終」でも喜ばなければならないというのです。離婚するのは、良いことですか、悪いことですか。悪いことです。
(86-109 ~ 110、1976.3.14)
皆さんの父母が離婚しようとするとき、子女が、「親が離婚したならしたで、私達の家ではそれくらいのことは関係ない」と言ってもよいのですか。どのようにしなければなりませんか。「父も母も、私の言うことを聞かなければならない。離婚してはいけない!」と言うのと、「離婚するならして、しないならするな」と言うのとでは、どちらがよいでしょうか。どちらをとりますか。今後、このような運動をしなければなりません。若者たちが団結して、父母が不義の離婚をすることは、もう許せないとして、「私は父母を誰よりも愛しています!」、このようにしようというのです。このようにできる子女は、父母が離婚しようとするのを絶対的に防げる孝子です。
(95-50 ~ 51、1977.10.23)
このアメリカの若者たちは、「私が嫌なら好きなように離婚できる」と考えていますが、宇宙はそのようになっていません。自分が貴ければ愛も貴いと考え、1度結べば永遠を標準として、そのように行かなければなりません。それが人間の行くべき道です。人間の価値がそこにあるのです。
(117-292、1982.4.11)
神様は唯一、絶対、無二の方です。ですから、アダムもその属性が顕現したので、絶対的な存在です。アダムは神様の男性的な属性であり、エバは神様の女性的な属性として顕現したのですが、その属性自体が絶対的です。その内的な属性と外的な属性を備えたそれらを一つに結べるものが愛なのですが、その愛は、神様までも絶対服従できる絶対的愛だというのです。ですから、その絶対的な愛の前に夫婦として来られる方は唯一無二なのです。絶対的であると同時に、永遠不変です。分けられません。このような論理的理論基盤を知らないので、夫婦が好きなように離婚するのです。しかし、このような理論的基盤がある限り、絶対に離婚することはできません。
(226-171、1992.2.4)
夫婦が、なぜ夫婦げんかするのですか。お互いが愛されようとするからです。お互いが愛されようとする群れは、長続きしますか、できませんか。長続きできません。長続きすれば、それは原理ではないのです。お互いが愛されようとする家庭は壊れますか、壊れませんか。壊れます。それでは、お互いが愛そうとする家庭は、どうでしょうか。お互いに相手をもっと愛そうと大騒ぎする家庭は、「壊れよ」と祭事を捧げても壊れません。お互いがために生きてあげようとする愛は、永遠なものです。分かりますか。
(36-76、1970.11.15)
女性として生まれて、自分を誇り、男性を無視すれば、地獄に行きます。「ヘル(地獄)」とは何ですか。「ヘル」とは何かというと、ごみ箱です。女性が地獄に行っても、男性が「ああ、いけない! 行ってはいけない、行ってはいけない!」と言えば、仕方なく……。愛の力が1番なので地獄に行かないというのです。男性も同じです。これが宇宙的最高の福音です。
(161-324 ~ 325、1987.3.8)
夫婦がお互いに愛するにおいて、いつまで愛するのかと尋ねるとき、若い時だけ愛すると言えば気分が良いでしょうか、悪いでしょうか。いつまで愛することを願いますか。「永遠に」ということもありますが、まず死ぬ時まで、その次に永遠に愛することを願うのです。永遠は、未来を中心として全体を身代わりにするのです。死ぬ時まで愛そうというのは、自分のすべてのものをありったけ与えて愛そうということです。そうでしょう? 「永遠に」は全体的であり、「死ぬときまで」は根こそぎ愛そうということです。そう言ってこそ喜ぶのです。
(37-24、1970.12.22)
5. 一夫多妻制の問題
― 宗教経典 ―
誰でも妻をたくさん率いる者は、それゆえに悩みに陥るだろう。妻たちと同居するために、その中の何人かを欺瞞し、うそをついて騙すだろう。祈りをよくするからといって、彼が平安を得ることができるか不確実だ。
ヨルバ族の詩、(アフリカ伝統宗教)
大勢の妻に対して全部に公平にしようというのは、いかにそのつもりになっだとてできることではない。
クルアーン4.129 (イスラーム)
何人かの妻をもつ者は、男性の道徳的本性を蝕む。
シュリーマッド・バーガヴァタム11.3(ヒンドゥー教)
― み言選集 ―
女性が結婚すれば、男性との関係を一人としなければなりませんか、100 人、1000 人としなければなりませんか。一人です。なぜ一人ですか、真の愛のためです。絶対的真の愛のために、ただ一人と結婚するのです。
(122-234、1982.11.14)
自分が結婚する人は、宇宙に一人しかいません。男性と女性の二人しかいないのです。初愛というものは、たった一人の男性と一人の女性がするものです。それは、神様と共にするのです。
(265-251、1994.11.23)
7) 父母愛
父母の位相には、最上の高潔性と、極大の利他的情緒が要請される。父母ならば誰でも、子女のために自身の人生自体をすべて犠牲にする。子女の所有の意味は、高揚された人生の経験として道徳的な力を発揮し、無節制な生活様式を清算し、子女のために責任をもつモデルの役割を発揮するということである。そして、子女の養育の必須条件は、犠牲と忍耐と容赦であり、それは、ほぼ神的境地に近い愛を啓発するということである。
父母の愛は、家庭の最上の段階だ。夫婦段階から父母段階に格上げしようとするならば、夫婦は必ず子女をもたなければならない。それはまた、人間完成のための必須義務である。そして、父母の基本的な課題と責任は、子女の教育である。文鮮明先生はこれを、心情教育と規範教育であると説明される。このような一連の教育には、各段階別に扱われる三つの側面がある。道徳的教育、連帯的訓練、典型的生活設定がそれである。世界経典の「知恵」では、子女の適切な成長のために愛と配慮の教育を父母の本質的義務とみなす。一方、父母の愛が乱用されれば、子女の教育は失敗する。愛の乱用は、誤った性格を形成するからである。特に父母の手本は、神様に向かう父母自身の特別な信仰と献身の手本とに関連している。それは、子女自身の信仰を発達させられる鍵になるからである。そして、父母は害悪から子女を保護する最大の守護者である。
十代の娘をもった父母ならば、どこの誰でも子女の安全保護を心配し、夜も眠れないでいることを私達は知っている。最後の部分の章句は、子女のための犠牲的な愛、父母の心情に対して記述し、子女が失敗するとき、彼を赦して、彼のための最善とは何かを記述する。
1. 子女の本質的価値
― 宗教経典 ―
神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」
創世記1.28 (キリスト教)
出産をわざと抑制する人は、神の神聖な形状に害を及ぼすのと同じである。
創世記ラッバー34.14 (ユダヤ教)
見よ、子らは主からいただく嗣業。胎の実りは報い。若くて生んだ子らは、勇士の手の中の矢。いかに幸いなことか、矢筒をこの矢で満たす人は。町の門で敵と論争するときも、恥をこうむることはない。
詩編127.3 ~ 5(キリスト教)
子供は男性の服である。
ヨルバ族の格言(アフリカ伝統宗教)
国民の全未来は、その国民の子供たちに対する態度にかかっている。そして、女性を「つまらない用途」と規定したり、経済と政治の分野で性の競争が、未来世代の創造より価値のある努力だと信じる国民は、死んでいく国民だ。
L.ロン・ハバード生存の科学(サイエントロジー)
― み言選集 ―
結婚すれば、息子、娘を生まなければなりませんか、生んではいけませんか。生まなくてもよく、生んでもよく、それは好きなようにすればよいと思うかもしれませんが、そのようにはなっていないので、生むことを願うのです。生まなければなりません。なぜ生まなければならないのですか。生まなければ愛のみ旨を成し遂げられません。愛も東西南北があり、中央の愛があるのですが、ぴたっと中央を中心としてこそ、その根が東西南北の四方に伸びていき、大きな木を支えることができるのです。
(214-12、1991.2.1)
子女がなぜ必要ですか。神様の愛を知り、父母の愛を知って父母に侍ることができ、夫の愛を知って夫に侍ることができ、子女の愛を知って子女に侍ることができなければなりません。子女に命令ばかりするのではなく、侍ることもできなければならず、「ために生きる」ことができなければならないというのです。そうしてこそ、神様の愛を理解できます。教材として必要なのです。子女がいなければ未完成です。神様の愛を知ることができません。神様が人間を、子女をどれほど愛したか、知らないのです。夫になってみなければ妻の愛が分からず、妻になってみなければ夫の愛が分かりません。自分がまた父母にならなければ、父母の愛がどのようなものか分からないのです。すべてそれを年代ごとに分かるようにするための教材としてつくったので、皆さんに息子、娘がいなければ真の父母になれません。
(133-138 ~ 139、1984.7.10)
お母さんとお父さんは、愛なしには一つになれないのです。皆さんは、なぜ愛を好みますか。「好まない」と言っても好まざるを得ないようになっているためです。お母さん、お父さんが互いに愛する力が、個体のための力よりも強いほど、より理想的なのです。お母さん、お父さんを完全に一つに縛りつけるものは愛の綱です。鉄で作った鎖は時間が過ぎれば錆がついて切れますが、愛の綱は永遠なのです。そして父母と子女の関係は御飯でもお金でも縛りつけられません。ただ、父子関係の愛でのみ縛りつけられます。
(18-329、1967.8.13)
それでは、結婚して何をしようというのですか。家庭を築こうというのです。家庭を築いて子女を生もうというのです。息子、娘を生めなければ、その家庭は家庭のグループにも入れません。息子、娘を生むことができなければ、分かれ始めるのです。息子、娘を生んでおいてこそ、家庭がしっかりと築かれるのです。妻が憎くて、事のついでに離婚したいと思っても、息子さえ生んでおけば、その夫もどうすることもできません。否応なく一緒に暮らさざるを得ないのです。ですから、家庭を築くにおいては子女がいなければなりません。
(23-25、1969.5.11)
自分の息子、娘を自分の夫より、妻よりもっと愛さなければなりません。
(130-165、1984.1.8)
夫が良いか、息子、娘が良いかというとき、夫よりも息子、娘がもっと良いのです。夫婦は別れられますが、息子、娘とは別れられません。族譜から抜いたとしても、血筋を受け継いだので、分けることができないのです。夫と妻は離婚して別れれば忘れることもできますが、息子、娘は、時間が流れれば流れるほど、もっと慕わしく思い、会いたいと思うようになります。このような事実は、子女をもってみた人なら、誰もがよく分かるでしょう。
(18-112、1967.5.28)
父母が子女と向き合うとき、その愛する子女が自分よりも劣っていることを願う父母はいません。ある美男美女が結婚して最初の子供を生んだとき、その赤ん坊の顔が父母の顔と比べて何でもなく、ただそれなりの顔だとしても、その赤ん坊の顔を見て、「あなたの子供は、あなたよりどれほど良いか分からないほど立派に生まれた」と称賛すれば称賛するほど、その父母は、口がにこっとなるのです。それは間違いありません。子供が立派だと称賛するのに、「父親と母親をさておいてそのように言えるのか」と思う父母はいません。
(77-102、1975.4.1)
私が母から聞いた話があります。私の母は(注25)子供をたくさん生みました。10 の峠を少し越えて三つの峠を越えたので、13 人を生みました。13 人を生んだので、イエスの一派をすべて満たしたことになります。12 弟子とイエスまで合わせれば13 人になるのです。そのように13 人生んだのですが、母が言ったことがあります。「世の中に楽しみといってもほかの楽しみはありません。赤ん坊を生んでお乳を飲ませて育てるとき、それ以上の楽しみはありません。老いて子供が生めないので、すべてがおもしろくなくてつまらない」、このように語ったのです。
(44-200、1971.5.7)
霊界では、息子、娘を生むことができません。この地上でしか、息子、娘を生むことはできないのです。そこでは息子、娘を生めません。天国の民を生むことができる所は、この地上しかないのです。ですから、この地上で神様の真の愛を中心として息子、娘をたくさん生まなければなりません。
(218-200、1991.7.28)
2. 堅実と愛で子女を養育
― 宗教経典 ―
父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。
エぺソの信徒への手紙6.4 (キリスト教)
若者を歩むべき道の初めに教育せよ。年老いてもそこからそれることがないであろう。
箴言22.6 (キリスト教)
鞭を控えるものは自分の子を憎む者。子を愛する人は熱心に諭しを与える。
箴言13.24 (キリスト教)
魚は新鮮なときに巻きつけなければならない。(注26)
ヌペ族の格言(アフリカ伝統宗教)
あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。更にまた、私達には、鍛えてくれる肉の父があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるのが当然ではないでしょうか。
肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父は私達の益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的で私達を鍛えられるのです。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。
ヘブライ人への手紙12.7 ~ 11(キリスト教)
善男子、人の小さき時、土塊・糞穢・瓦石・枯骨・木技を拾ひ取りて、口中に置くに、父母見已りて、其の患を為さんことを恐れて、左手に頭を捉へ、右手に挑り出すが如し。菩薩摩訶薩の、是の地中に住するも、亦復是の如し。諸の衆生の、法身未だ増せず、或は身口意の業の、不善を行ずるを見、菩薩見已りて、即ち智手を以て之を抜きて出でしめ、彼をして生死に流転して諸の苦悩を受けしむることを欲せず。是の故に、此の地を復一子と名く。……
善男子、譬えば父母に唯一子有り。其子の睡寤に、行王座臥に、心に常に之を念じ、若し罪咎有れば、善霊誘喩して、共に悪を加へざるが如し。菩薩摩訶薩も、亦復是の如し。諸の衆生の、若し地獄・畜生・餓鬼或は人天中に堕し、善悪を造作するを見て、心に常に之を念して、初て放捨せず。若し諸悪を行ずるも、終に怒りを生じて、悪を以て之に加へず。是の故に、此の地を復一子と名く。
大般涅槃経471 (仏教)
子供が天性に従ってあらゆる過ちを犯すとき、父は彼を訓戒し冷遇するだろう。しかし、彼は再び彼を懐に抱くものである。
アーディ・グラント、ソーラトM.5 (シーク教)
彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。「お父さん、私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。」
しかし、父親は僕たちに言った。「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」そして、祝宴を始めた。
ルカによる福音書15.20 ~ 24(キリスト教)
娘は父親にとって、人知れぬ不眠のもと。娘への心配で彼は夜も眠れない。若いときには、婚期を逃しはしないか、結婚すればしたで、夫に嫌われはしないかと。またおとめのときには、父の家にいるうちに、辱めを受けて、子供を宿しはしないかと。夫を持てば持ったで、過ちを犯しはしないか、結婚してからは、子ができないのではないかと。
シラ書〔集会の書〕42.9 ~ 10(キリスト教)
― み言選集 ―
世の中がそうです。うまくやったことも、しつこく「よくやった」と言えば嫌になり、失敗したことを「失敗した」と言えばもっと嫌がります。失敗したことを「よくやった」と言えば喜ぶのです。そうではないですか。収拾方法が違います。失敗したことも「よくやった」と言って、おだてながら機嫌をとらなければなりません。分別のない子供たちは、おだてれば喜ぶのです。子供たちを見れば、みな自分を中心として考えます。良いものがあれば自分のものにしようとします。ですから、教育が必要なのです。
(36-73、1970.11.15)
父母がむち打って、「こいつ、勉強しなさい! 出ていって僕になるぞ、こいつ」と言いながら叱責するのは、すべて子女のためにそのようにするのです。そして、その父母はその子女のために泣きながら祈祷し、胸が痛んで夜眠れません。これが真です。
(102-253 ~ 254、1979.1.14)
真の父母の愛はどうですか。子女を愛するとき、「ああ、これは利子をつけてすべて返してもらおう」という心をもつ父母は、真の父母ではありません。昼夜犠牲になりながらも、ために生きて愛し、また愛して、また愛そうとし、市場に出掛けたとき、そこでも忘れずにもっと与えてあげようとし、24 時間、距離を超越してその子女のために生きる愛こそ、本質的な愛に近いのです。このような愛の起源があるので、人間を救い、救援できる基礎を見いだせるのです。
(142-35、1986.3.3)
父母は、自分が最も好きなものを先に与えたいと思うのです。最も良いものを与えたいと思うのですが、与えることができないのは、それを管理できないからです。それを与えれば、それをもらった人が被害を受けます。ぎらぎらと鋭く光る研ぎ澄まされた刃を与えたいと思っても、間違って与えれば、それ自体が滅び、家が滅び、全体が滅びます。ですから与えないのです。
(29-108、1970.2.25)
韓国の格言の中に、「愛する人にはむちを与え、憎む人には御飯を与えよ」という言葉があります。一理がある言葉です。なぜかというと、正しい伝統を受け継がせるためです。父母の愛のむちを通して痛みを感じ、その愛に涙を流せる人にならなければなりません。
(95-81、1977.10.23)
父母が子に対して憤って、手でたたけばどうですか。父母がすぐに悔い改めなければならないというのです。そうするのではなく、ただ子供がかわいそうで、お母さんが涙をぽろぽろと流しながら愛すれば、かえって効果があるというのです。皆さん、そうではありませんか。そのようにすれば、お母さんは屈服しないで、いつでも勝利者として、その息子、娘を屈服させることができるのです。むしろ、たたけば効果が少ないというのです。
(41-333、1971.2.18)
皆さんに息子、娘がいれば、その息子、娘に父と母が言い争っている姿を見せてはいけません。絶対にそれを見せてはいけません。約束するのです。先生の家庭、お父様とお母様も同じです。今まで子供たちが成長してきましたが、「私達のお父さんとお母さんは、絶対にけんかをしない。私達のお父さんとお母さんは、この世で一番のお父さんとお母さんだ」と言うのです。いかなる国の王よりも、誰よりも希望峰の主人公だと言うことができるように教育しなければなりません。息子がいれば、「私はお父さんのようになる」と言い、娘がいれば、「私はお母さんのようになる。お母さんのような女性になる」と言えるようにならなければなりません。それが教育です。
(90-123 ~ 124、1976.10.21)
父母として子供を育てる時は、涙が出てつらいときがたくさんあります。しかし、どれほど涙が出てつらかったとしても、子供が父と母に涙を流しながら訴えるときは、洗い流すように、つらいことがなかったことにして、「よし」と言いながら、きのう喜んでいた父と母の姿に戻らなければなりません。そのようにすることができなければ、子供を教育する資格はありません。
(23-184、1969.5.18)
愛の本質とは何ですか。人のために生きようということです。自分の自主的な本質を中心として人に与えようとするのが愛の本質です。その愛は、どこかも来たのですか。天から来たのです。神様は、絶対的愛の主体なので、与えようとすることが愛の本質です。このように見るとき、父母の愛がその本質に最も近いところにあるので、子女に対して常に与えようとするのです。その子女が受け取らなくても、いくら強盗の一味だとしても、父母が昔愛したよりもっと大きな愛をもって現れて愛すれば、悔い改めて戻ってくることができます。
しかし、「こいつ、私がお前をこれほど愛したのに、寡婦の身で、老いて腰が曲がっても愛したのに、その愛が分からないのか。こいつ!」と言ってキセルで額をたたいたとすれば、そのように3回しただけでも、その子女は荷物をまとめるでしょう。父母が涙を流し、「私の愛が足らないからだ。すべてのことは私がお前をもっと愛することができなかったせいだ」と言いながら、その子女の骨髄が溶けるほど涙を流して、より大きな愛をもって子女の前に立つようになるとき、その子女はどうなりますか。戻ってくるのです。より大きな愛には、弱い愛をすべて消化、統合させることができる主管性があるのです。
(48-182 ~ 183、1971.9.12)
霊界に行けば、法の中で最も恐ろしい法とは何でしょうか。子女を死の場に立てた罪を裁く法以上に恐ろしいものはないことを知らなければなりません。なぜそうなのかというのです。神様もできないことをしたのです。ですから、赦す法がありません。赦すことができないのです。神様もできることであれば、赦すことができるのですが、これは神様もできないことなので、神様御自身も赦すことができないという結論が出てきます。ですから、最も恐ろしい罪です。これは赦されないことを知らなければなりません。その代わりに、子女のために死のうという父母は神様が擁護してくれます。「私と同じだ!」と言われます。子女のために死ぬ父母は、天国に行けることを知らなければなりません。
(93-335、1977.6.17)
3. 先祖の伝統による子女の教育
― 宗教経典 ―
主は言われた。「私が行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか。アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る。私がアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである。」
創世記18.17 ~ 19(キリスト教)
(ルクマーンは言った)「むすこよ、礼拝の務めを守り、善いことを命じ、悪いことを禁じ、おまえに降りかかることに耐え忍べ。まことにそれは、ものごとを決定し成し遂げる」。
クルアーン31.17(イスラーム)
ある人が子供に遺産として譲り渡すべきものは学びだ。他のものは本当の財物ではない。
ナーラディヤール134 (ジャイナ教)
あなた達はこれらの私の言葉を心に留め、魂に刻み、これをしるしとして手に結び、覚えとして額に付け、子供たちにもそれを教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、語り聞かせ……。
申命記11.18 ~ 19(キリスト教)
わが子よ、父の戒めを守れ。母の教えをおろそかにするな。それをいつもあなたの心に結びつけ、首に巻きつけよ。それはあなたの歩みを導き、あなたが横たわるとき見守り、目覚めればあなたに話しかける。戒めは灯、教えは光。懲らしめや諭しは命の道。
箴言6.20 ~ 23 (キリスト教)
子供にあげると約束したことを破ってはいけない。それは子供にうそを教えることだからである。
タルムード、スッカー46b (ユダヤ教)
あなたが抱いている純真な信仰を思い起こしています。その信仰は、まずあなたの祖母ロイスと母エウニケに宿りましたが、それがあなたにも宿っていると、私は確信しています。
テモテヘの手紙二1.5(キリスト教)
― み言選集 ―
父母が息子、娘を呼んでおいて、「お前はこのような人になり、またこのようなことをしなさい」と教えたとしても、「お前は神様を知っている人になりなさい」と教えることには及びません。
(11-308、1962.3.5)
皆さん、息子、娘にこのように生きなければならないという伝統を残さなければなりません。
(71-19、1974.3.24)
家庭は、人生において最も重要な愛の学校です。子女たちは、家庭圏において父母だけが行うことのできる愛の教育、情緒教育を通して、心情の深さと幅を育てます。これが子女の人格をつくる礎石となります。また、家庭は、子女に美徳と規範を教育する学校です。人は、このような情緒教育と規範教育を受けた土台の上で、知識教育、体育、技術教育を受けなければならないというのが天道です。父母は、子女に真の愛を施す真の父母になると同時に、真の師になり、心情教育、規範教育を正しくさせるようになっています。たとえ父母が真の師であることを自覚できなくても、子女は、父母からありのままを学んで似るようになります。父母の役割は、このように重要です。子女は、父母が施す真の愛と父母の愛の生活に似ながら、愛の人格が形成され、霊性が開発されるのです。
今日、全世界にわたって家庭が変わっており、伝統的な家庭は様々な面から挑戦を受けています。産業化、現代化が加速するとともに、人類は価値観が崩壊し、倫理、道徳の基準が揺さぶられています。さらには、個人主義、快楽主義、拝金主義などによって人間性が抹殺されていき、フリーセックスと不倫がより一層助長され、家庭が破綻しています。これは、どれほど不幸な風潮ですか。このまま放置すれば、人類は未来に希望をもてなくなります。いくら社会的条件が変わっても、父母と子女の関係の重要性は揺るがすことはできず、家庭の貴重性もやはり変わり得ません。愛は人の幸福と喜びの源泉であり、家庭はその幸福と平和の基台になります。
(271-81、1995.8.22)
父は子女と、どのように向き合わなければならないのでしょうか。友人の中の友人にならなければなりません。そうなれば、自分の友人と遊んでいても、父が現れると、友人をおいて父のところに駆け寄ってくるのです。そして、師の中の師にならなければなりません。心情においては、いつでも支柱、すなわち中心にならなければなりません。
(57-282 ~ 283、1972.6.4)
父母たちが、み旨の生活において模範とならなければなりません。家庭における祈祷生活や家庭礼拝など、またいかなる面においても、既成教会に負けない信仰生活を子女たちに見せなければなりません。また、敬拝時間がどれほど重要かということを認識させてあげなければなりません。その時間には、敬礼式だけで終えるのではなく、み旨を中心として、父母として子女たちを教育しなければなりません。子女を教育するためには、まず父母が実践しなければなりません。父母が模範となって、み旨の前に忠誠を果たさなければなりません。そのようにして、父母がどのようなことを言っても、子女たちが一言半句も口答えせずに、父母を畏敬する立場に立たなければなりません。そのようにしなければ、子女たちが従っていかないというのです。
(31-268、1970.6.4)
いくら悪の父母だとしても、子女に、「私が殺人強盗だったから、お前たちも殺人強盗になりなさい」と言う父母はいません。自分は悪だとしても、子女を教育するときには、「絶対に悪い人間になるな」と言うのです。子女に対して「お前は悪い人間になってはいけない」と言うのは、父母である自分は悪かったということです。「お前は正しく生きなさい」と言うのは、自分は間違っていたということです。子女のためには、自分を忘れて完全に投入するのが善であり、そうしてこそ、それが残ることを知っているというのです。それが万古の教育原則です。これを社会化し、世界化すればよいのです。そうではないですか。「父母が悪い」と言う人がどこにいますか。以前に、ある父母が自分の息子を孤児園に送っておいて、世界遊覧に出ていったという報道を見たことがあるのですが、そのようなことをするから、その子女たちが悪くなるのであって、どこへ行くにも父母が子女と一緒に行くのに、子女が悪くなるのを見たことがありますか。
(36-73、1970.11.15)
皆さん、福を受けることを願いますか。永生することを願いますか。そうしようとすれば、公的な人にならなければなりません。子女を教育するにおいて、自分の息子、娘だけを愛してはいけないというのです。世界の人々のために祭物的な息子、娘として愛する父母にならなければなりません。そして、子女を抱いてお乳を飲ませるときには、この地球星の人類を代表した母の立場で、人類を代表した子女にお乳を与えるという心で飲ませなければなりません。そして、かわいいといって自分の子女にだけお乳を与えるのではなく、人の子女でも自分の子女と同じ心情で接する母親になってみてください。そのような母親のお乳を飲んで育つ赤ん坊は、必ず偉大な人になるのです。すぐにならなくても、1代、2代を経ていく間に、必ずその子孫の中で世界を主管し得る人物が誕生するのです。これは公式です。
(31-168、1970.5.24)
この世で、人間として一生の間生きながら残さなければならないことがあるとすれば、それは三つしかありません。一つは原理の道です。原理の道のとおりに歩んだという事実です。み旨のとおりに生きたという事実です。その次には、良い子孫を残していくことです。その次には、この地上に生きる時に、その子孫たちを世の中の立派な人材として育てること、教育することです。このような三大責任があるということを知らなければなりません。
(101-201 ~ 202、1978.10.30)
8) 祖父母愛
祖父母は、家族に知恵、経験、孫と孫娘に対する歓喜の愛を施す。3世代が一つ屋根の下で暮らす伝統的な文化では、子女は祖父母を栄誉とし、日常生活の一部分として病弱な状態にある彼らを世話する。子女は、その過程で愛と尊敬に対する教訓を学ぶ。祖父母は、道徳的な碇(いかり)である。父母が薬物と犯罪で腐敗し、子女を世話するには不適格な相対になる事例があまりにも多い。その時、祖父母が父母の役割を果たすために代役をする。文鮮明先生は、利己心に寄与して道徳を墜落させながら、都市化し、産業化した社会で3世代家族が消滅することを批判している。
多くの伝統において、父母と祖父母に与えられた栄誉は、献身の垂直的連鎖にある先祖と神様に捧げる栄誉と連結されている。このような面で、文鮮明先生は、祖父母を家庭における神様の代身者だと表現する。彼らに栄誉をもたらすことは、すべての人類の最も偉大な祖父母、神様に栄光を捧げる道である。
― 宗教経典 ―
白髪の人の前では起立し、長老を尊び、あなたの神を畏れなさい。私は主である。
レビ記19.32 (キリスト教)
孫に対する祖父母の感情は、このように表現され得る。「私達の子供たちは、私達にとって愛らしい。しかし、孫たちが生まれたとき、彼らは私達の子供たちよりもっと愛らしく見える」。あなたは、その祖母が彼女の孫たちに対する有り難さを表現しようと、あまりにおおげさだと言うかもしれない。
それは、彼女たちが幼い少女だったとき、彼女たちに形成された希望を思い起こさせる。その希望とは、彼女たちが生きていきながら、ある日祖母になるだろうということである。そして、時になって祖母になれば、彼女たちの有り難さを表現しようと、まれな任務を遂行する。
ヘンリー・オールド・コヨーテ(アメリカ先住民の宗教)
神々および父祖に対してなすべきつとめを怠ることなかれ。母を神として敬え。父を神として敬え。師を神として敬え。
タイッティリーヤ・ウパニシャッド1.11.2(ヒンドゥー教)
父母は我が家の神己が神と心つくしていつけ人の子(父母は自分の家の神、私の神と心を尽くして敬いつかえよ。人の子たるものよ。)
本居宣長玉鉾百首(神道)
子よ、年老いた父親の面倒を見よ。生きている間、彼を悲しませてはならない。たとえ彼の物覚えが鈍くなっても、思いやりの気持を持て。自分が活力にあふれているからといって、彼を軽蔑してはならない。主は、父親に対するお前の心遣いを忘れず、罪を取り消し、お前を更に高めてくださる。
シラ書〔集会の書〕3.12 ~ 14(キリスト教)
父が私を呼ぶために人を送られた。私は彼の臨終を見た。私は彼を湾曲した美しい渓谷に埋めた。私は世の中のどこよりもそこを好む。自分の父の墓を好まない人は獣にも劣る。
ネズポス族の伝承(アメリカ先住民の宗教)
― み言選集 ―
皆さんは、子女の位置にいるのですが、どのような運勢を受けるのでしょうか。祖父母と父母の運勢、この二つの運勢を受け継がなければなりません。祖父母は、なぜ必要なのですか。過去を代表するからです。祖父母は、過去の生きた歴史を代表します。その次に、父母とは何でしょうか。現在を代表するのです。また、その次に、子女は、未来を象徴します。このようにすべて入っています。そこには東西も入っていて、南北も入っています。すべて入っているのです。全体の中心です。祖父母の中心、父母の中心、子女の中心、神様の中心、すべてがこの真の愛を中心としています。皆さんの家庭を考えるとき、このことを考えなければなりません。
ですから、おじいさんを愛し、おじいさんを尊敬することは、過去をすべて受け継いで過去の世界を学ぶことです。父親からは現在を学ぶのであり、子女を愛すること、子女を大切に思うことは未来を学ぶことです。家庭の中にこの三者がいれば、それは宇宙があるようなものです。宇宙の愛を学ぶ教科書だからです。おばあさんがいなければ不安定です。おじいさんがいなくても不安定で、誰かほかの人がいなくても同じです。
(162-140 ~ 41、1987.4.5)
おじいさん、おばあさん、舅、姑、夫の姉妹、孫まで一緒に暮らそうというのです。蘇生、長成、完成、3代が定着するのです。父母だけを愛するのではなく、おじいさんを愛することができてこそ、神様を愛するのです。父母の上におじいさんをおいて愛することができてこそ、神様を愛するというのです。
(128-18、1983.5.29)
祖父母は、霊界の神様を身代わりしています。祖父母の位置は、天の国です。家庭で最も年を取った人がおじいさんで、天の国の位置です。天の国を開くことができる代表的実体存在です。ですから、神様の代身者として侍らなければなりません。天の国の王を代表しているので、神様の代わりにその位置に迎えなければならないのです。これが家庭の伝統的教訓です。これが創造理想的モデルです。
(251-219、1993.10.17)
夫婦でけんかすれば、おじいさんとおばあさんが愛で、「おいおい、やめなさい」と、また息子、娘がけんか、孫がけんかすれば、「おいおい、やめなさい」、このように愛をもって僕の役割をするのです。すべて「あなたが上だ。あなたが立派だ」と言いながらために生きてあげます。愛の僕の役割を最大にする方がおじいさんだということを知らなければなりません。
夫も妻が「ええんええん」と泣けば、「お前、泣くのはやめなさい。私はすべて分かっている。あなたが願うことはすべてしてあげよう」と言うのです。宇宙で最も偉大で、驚くべき1番の権勢をもった人とはどのような人かというと、愛の僕の道を行った人です。
(135-121 ~ 122、1985.10.4)
美しい嫁が白髪混じりのおばあさんとおじいさんに、愛の心をもって自分の愛する夫よりもっと良いものを買ってあげようとすれば、どれほど美しく、どれほど愛らしいでしょうか。美しい嫁が、自分の愛する夫に何かを買ってあげる以上の喜びの心で、しわしわのおばあさんとおじいさんに買ってあげるその場面は、どれほど素晴らしいかというのです。そうすれば、おじいさんとおばあさんが隠しておいたすべてのもの、愛に関するすべてのものをくれるというのです。世の中で最も年を取ったおじいさんとは誰ですか。神様です。ですから、そのおじいさんのために生きる愛を、自分のおじいさんから学ぶのです。この伝統を学べば、神様の秘密倉庫にあるすべての愛の宝を受けられます。どれほど素晴らしいことでしょうか。
(107-329、1980.6.8)
おじいさんの杖やおばあさんの杖を、孫嫁たちはみな見るのを嫌います(注27)。なぜですか。早く死になさいということです。しかし、愛をもった孫嫁は、「ああ、あの杖がなくなる日は、私の目から雨のような涙が流れるなあ。ああ、千年、万年一緒にいればよいのに」と思うのです。
(184-270、1989.1.1)
年を取った人たちは必要ないといっては、将来どのようになりますか。年を取った人をすべて無視する立場に立てば、その国の国民性がなくなるのです。年を取った人を嫌う人になれば、その民族の伝統性を中心として見るとき、民族性を売り払う人になるのです。
(21-120、1968.11.17)
第20章 社会
社会
1) 社会の土台としての家庭
社会は、各家庭が細胞の役割をする一つの有機体である。各細胞である家庭が健康であってこそ、その細胞が集まった社会も健康になる。反対に家族が破壊されれば、社会も同じように混乱してしまわざるを得ない。最近、家族解体の拡張は、国家の未来を憂慮する心配事である。
しかし、「家庭の価値」を家庭中心に解釈することは誤りである。「私の家庭は私の聖体である」という態度は、また一つの利己主義にならざるを得ない。「愛の修練所」(第19 章1.「人生の基本形態」参照)である家庭で学ぶ教訓は、すべての水準の社会組織に適用されなければならない。それゆえ、儒教の倫理は、孝行の規範を社会奉仕のための基礎倫理であると見る。すなわち、家庭で父母に侍って生きることが、国に奉仕する訓練になるのである。同じように、兄弟、父母、そして子女に対する愛が、私達と同年配、私達の父母のような世代、私達の子女と同じ世代の隣人たちを思う愛に拡張されなければならない。これによって、各家庭での愛の関係が、人類大家族を包括するように拡張されるのである。
1. 健康な家庭が堅固な国家を形成する
― 宗教経典 ―
人の道はいたって手近かなところにあるのに、人はこれを高遠なところにさがし求めている。また、人のなすべき事はきわめて容易いことなのに、人はこれをわざわざ難しいものとして考えている。実は各人がみな自分の親を親として尊び、長者を長者として敬いさえすれば、天下はおのずから泰平に治まるのだ。
孟子Ⅳ.A.11 (儒教)
一族の滅亡において、永遠なる一族の美徳(ダルマ、義務)は滅びる。美徳が滅びる時、不徳(アダルマ)が一族を支配する。不徳の支配により、一族の婦女たちが堕落する。婦女たちが堕落すれば、種姓(ヴァルナ)の混乱が生ずる。このような混乱は、一族の破壊者と一族とを地獄に導く。
バガヴァッド、ギーター1.40 ~ 42 (ヒンドゥー教)
本然の家庭の姿が社会の基礎である。その家庭は、堅固であり、一夫一婦制の家庭である。一夫一婦制は神が設定されたのであり、キリスト教で神聖視される法である。この家庭の中では、いくつかの世代が共に暮らし、知恵が成長するように互いに助け、他の社会的欲求を個人の権利と一致させるように協力してくれる。
教皇パウロ6世諸民族の進歩推進について(キリスト教)
歴史が証明するように、国の根幹である道徳秩序が弱化し、国の生命の源泉である結婚と家庭構造が悪習に侵害されるとき、その国の反映と国民の幸福は、これ以上保障され得ない。
教皇ピオ11 世カスティ・コンヌビイ―結婚の尊厳―(キリスト教)
― み言選集 ―
人類が一つになるための最も堅固な基礎は、正に真の家庭理想から始まる普遍的で核心的な真の愛であることが明確になりました。
(330-252、2000.8.18)
家庭教育は、今後その国が福を受けられるかどうか、という運命を左右するものです。国のための公的な法理に基づいて暮らしている家庭が多ければ多いほど、その国は繁栄するのであり、私的な基準で暮らす家庭が多ければ多いほど、その国は滅びていくのです。
(31-243、1970.6.4)
現代社会において、青少年問題が大韓民国だけでなく、世界的に物議を醸しています。それは、父母をきちんともつことができず、兄弟をきちんともつことができないところから、男女関係において欠如した諸事情が原因となり、そのような結果をもたらしたのです。このような事実を見てみるとき、このあらゆる病弊を是正できる基準となるものとは何かというと、これはやはり家庭なのです。(23-13、1969.5.11)
今日の青少年問題やあらゆる社会の問題の内容を掘り下げて調べてみると、その由来がすべてそこから始まっているのです。だからといって彼らに父母がいないわけではありません。父母がいることはいるのですが、父母の心が息子、娘の心の深い所にないというのです。言い換えれば、父母の情が子女たちの骨髄に深く固められていないのです。ですから、そこから父母と子女の間に隙間が生じるのです。
(25-60、1969.9.28)
世界で人類を苦しめる最も大きな問題は、私が洞察したところでは、正に家庭の価値を破壊する不倫と退廃の問題です。道徳的退廃こそ人類を苦痛と絶望のどん底に追い込む原罪なのです。未来の世界は、家庭の純潔を保全し、家庭の価値を守護するという道徳律が定着するかしないかによって、天国と地獄の分かれ目に置かれるようになるはずです。
(288-140、1997.11.26)
アメリカは滅びるようになっています。愛の問題が混沌としたローマは、戦うことなく、それ自体の腐敗によって滅びました。同じことです。アメリカも滅んでいます。長続きしません。今最も混乱しています。文明国であるアメリカが性に対してめちゃくちゃであり、発展途上国でもめちゃくちゃです。その秩序を立てることができない日には、人頻の希望の世界、幸福の世界、理想の世界はありません。
(118-296、1982.6.20)
2. 家庭の徳目は社会の徳目の土台
― 宗教経典 ―
自分の父母を尊敬するのと同じ心で他人の父母も尊敬し、自分の子弟を可愛がるのと同じ心で他人の子弟も可愛がる。さすれば、広い天下もちょうど手のひらに物でものせてころがすように、思うがままに治めていけるものです。詩経に〔文王の徳をほめたたえて〕「まず夫人をみちびき正しくし、ひいては兄弟を、〔さらには民草を〕、そして国家(くに)をば安らかに」とありますが、つまり、これは身近なものに対するその心を、そのまま他人にも移せよというたまでのことです。だから、このなさけ心をおし広めてさえゆけば、広い天下でも治めてゆけますが、もしも〔反対に〕この心をおし広めなければ、身近な自分の妻子でさえも治めてゆけません。むかしの聖人が今の人に優れて偉大だったのは、外でもありません。ただ、よくこの心をおし広めたからなのです。
孟子IA.7(儒教)
若い男は兄弟と思い、年老いた婦人は母親と思い、若い女性には常に清らかな心で姉妹と思って諭しなさい。
テモテの手紙一5.1 ~ 2(キリスト教)
老女を見ては母の如く、長じたるを見ては姉の如く、年少のものを見ては妹の如く、幼いものを見ては子の如く思い、女に愛着して心を動かすことなく、悟りの心を起して、悪念の生ずることのないようにしなくてはならない。
四十二章経29(仏教)
親縁の発生する源泉として祖先を尊び、従って祖先の直系たる宗子を敬い、従ってわが親族を好く収め和合させて宗子に仕えるのであり、宗子が敬われるからこそ、宗子の祭る宗廟で尊厳なのであり、従って、宗廟の安泰を欲するが故に、社稷を尊重して国家の平安を祈り、それ故に人民を愛して、人民が忠良であることを求め、それ故に刑罰が公正であることに努め、それ故に人民みな安心して産業にいそしみ、それ故に国の財物が殖え、政治の費用も充分であり、それ故に万人の願うところを多く実現することができ、それ故に万人みな礼に従い、風俗が乱れず、かくてこそ万人みな心安らかに身は楽しい。
礼記、大伝(儒教)
孝は天地の不変の法則、秩序の常道として、聖人によって明示したことから、民人はこの天地不変の常道に則り、孝道を以て行為の準則として、人間の本務を全うしなければならない。だから、聖人が人々を教える方法は、天に輝く日月が万物を明らかに照らすという、不変の法則にならい、地の高下や土地の肥瘠の宜しきに従って、万物を培ひ育てる。この故に聖人は広く天下の人々に対してねんごろに教えを垂れるのである。恒久の秩序や法則に従って、広く天下の人々を教え導いてきた。それ故に、聖人の教えは、ことさら厳粛にしなくても自然に成り、聖人によって示された政治は、ことさら厳粛にしなくても自然に治まる。
孝経7(儒教)
― み言選集 ―
人間は、自分の父母を愛するように隣人の父母を愛し、自分のおじいさんを愛するように隣人のおじいさんを愛さなければならず、自分の息子、娘を愛するように隣人の息子、娘を愛さなければなりません! それで、上下関係が展開し、左右関係が展開し、前後関係がそこで展開するのです。それが展開してこそ、この縦的な心情の基準が定着し、天道が生じるのです。
(70-152、1974.2.9)
出ていって闘うときは、父母の資格で闘わなければなりません。すなわち、闘う相手が怨讐だとしても、究極的な意味においては自分の息子と同じです。ですから、私達の標語は、「父母の心情、僕の体。汗は地のために、涙は人類のために、血は天のために流そう」というのです。そうしてこそ、完全復帰が成されます。
(17-338 ~ 339、1967.4.30)
私の父母は先生の代身であり、友人の代身であり、あらゆる愛を下さる主体の代身です。それで人類を身代わりすることができるのです。それはなぜでしょうか。人類の愛を受けるためです。ですから、父母に孝行しなければならない、ということは歴史的な結論をもった理論です。
(105-108、1979.9.30)
真の父母は、孝子になってから忠臣になってはいけないと言いません。真の父母は、その孝子に家庭を犠牲にして忠臣の道を求めて国に仕えなければならず、国を犠牲にして聖人の道理を果たして世界のために生きなければならず、世界を犠牲にしてでも天地が願う道を行かなければならず、天地を犠牲にして神様を求めていかなければならないと、教えてあげなければならないのです。
そのようになろうとすれば、個人は家庭のために犠牲にならなければなりません。家庭のために犠牲になってこそ孝子になるのです。また、国の愛国者になろうとすれば、その家庭全体を犠牲にしてでも、国を救って愛国者になるのです。聖人というのは、自分の国を犠牲にして世界を救わなければなりません。聖子は、世界を犠牲にして天の国と地、地上天国と天上天国を成し遂げなければならないのです。
(287-25、1997.8.10)
2) 社会の道徳的基盤
良い社会は、霊的道徳的基盤の上に建設される。今日、科学的で物質的な時代に文鮮明先生は、現代の多くの霊的指導者らと共に、道徳性と霊的価値がますます墜落しているのは、社会的平和が不安に近づく脅威だと警告される。
今、私達の社会で軽視されている基本的なことは、以下の内容である。第1に、正しい市民を形成する道徳と徳行である。第2に、教育、特に若者たちに目的意識と方向意識を提示して、セックスと麻薬による快楽的な生活様式を遠ざけようとする人格教育である。第3に、宗教である。宗教は和解と平和のメッセージを通して、戦争や派閥政治、人の自己利益の極大化の態度を鎮静させることができる。そして宗教は、神様に祈祷をすることによって、国家のために神様の祝福を取りもつことができる。
特に、アメリカで建国の先駆者たちは、アメリカの自由を確保し、繁栄を維持するために道徳と宗教の役割を明確にした。アメリカでの長い牧会活動の過程で、文鮮明先生はしばしばアメリカが神様に帰ること、神様のみ旨を尊重するこどを勧告した。
1. 道徳の基盤
― 宗教経典 ―
地上は激情を抑制し、正義の実践に従い、欲望と貪欲と怒りに汚される事のない者達の誠実さによって支えられている。
ヴィシュヌ・プラーナ3.12(ヒンドゥー教)
彼らの考えと行動の根本が敬虔さと信仰心、真理と正義に根ざしていれば、どの個人も損害を受けることはなく、どの国家も繁栄と成功が拒否されないだろう。
ナフジュ・アル・バラーガ説教21(シーア派イスラーム)
世界は三つの上に立っている。法、天に対する敬拝、人に対する好意。
ミシュナ、アヴォート1.2 (ユダヤ教)
武力で人民を服従させるのは表面だけで、心からの服従ではない。ただ力が足りないのでやむなく服従したまでだ。徳によって人民を服従させるのは、心の底から悦んでほんとうに服従する。
孟子Ⅱ.A.3 (儒教)
身が修まれば家がきちんとする。家がきちんとすれば国が治まる。国が治まれば、天下は平らかになる。天子から庶民に至るまで、一切みな身を修めることを本とする。その本(である身)が乱れて、末が治まるなどということはない。その厚くすべきもの(家)を薄くして、薄くすべきもの(国や天下)を厚くすることはあり得ないのである。
大学(儒教)
またなんじらのうち一団の者は、人びとを善いことに招かせ、正しいことを命じ、邪悪なことを禁ずる。これらは成功する者たちである。
クルアーン3.104 (イスラーム)
『詩経』にいう、「汝が室に(独居して)いるのを見るに、願わくば、屋漏で恥ずかしくなくあるべきだ」だから君子は、まだ動かない前にも、慎んでおり、まだ言わない前にも誠実である。
中庸33(儒教)16
私達には、道徳と宗教に制御されていない熱情と闘うことのできる力で武装した政府がない。私達の憲法は、ただ道徳的で宗教的な国民のためにつくられた。それは、異なる国民の政府にはとても不適切なものである。
ジョン・アダムス
政治的繁栄に導くあらゆる資質と慣習の中で、宗教と道徳はなくてはならない支柱となる。人間の幸福のためのこの巨大な柱、人間と市民の義務を最も確固として支えるこの支柱を崩そうとする人は、いくら愛国の功徳を叫んでも、無駄に終わるだろう。
ジョージ・ワシントン大統領離任辞
結局、普遍的な諸権利はどこから始まるのか。小さな所から、最も近い所から、あまりに近く、あまりに小さいため、それらは地球のどの地図にも見ることはできない。しかし、それらは個々人の世界、すなわち隣人、学校や大学、工場、農場、または事務室にある。そのような所は、すべての男性と女性、子供たちが、差別がない平等な正義、平等な社会、平等な尊厳を追求する場所である。それらの諸権利がそこで意味をもたなければ、それらは、どこであっても全く意味がないだろう。最も近くでその諸権利を支えようとする市民の行動に関心をもたずに、私達がより大きな世界で進歩を求めることは無駄なことだろう。
エレノア・ルーズベルト
― み言選集 ―
聖書には聖霊の九つの実に関する記録があります。愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制(ガラテヤ5・22)とあります。この聖霊の九つの性稟、これは神様が主張し、神様が建設し、神様が立てようとされるその国の標準であり、その社会の制度であり、生活の理念ですが、これを皆さんは心ど体にしみるように感じてみたことがありますか。(4-112、1958.3.16)
国に忠誠を尽くす忠臣は、すぐに出てくるのではありません。それは、家庭から、個人の心情から出てくるのです。言い換えれば、私自体の人格、天性と、家庭の教育を中心とした家庭生活から出てくるのです。そして、社会活動を経て、その国家の国威に影響を及ぼし得る立場に立つようになるのです。そのような基盤を土台として、国家で必要とされる立場に立たなければならないのであって、そのような基盤がなければ、奸臣や不当な利益をむさぼる輩になるしかありません。
(34-19 ~ 20、1970.8.29)
平和と人間の幸福は、人々の道徳性と霊性の開発にかかっています。世界平和や和平した国も、その構成員個々人と家庭によって成されるからです。科学と技術も善の人々によって応用されるとき、これが人類の生活向上のために価値あるものとして使われるのです。歴史を通しても聖賢たちや偉大な師たちが、平和で幸福な世界のために家庭、社会、国家を指導することに彼ら自身を捧げてきました。私達は21 世紀に挑戦するため、道徳的に霊的に完璧な指導者をはぐくめる人類の真の父母、真の師、真の主人を必要とします。
(271-74、1995.8.22)
共義主義は、真の愛を中心とした普遍的な倫理道徳を守り、構成員すべてが善と義の生活を追求する主義のことをいいます。これは、神様の真の愛による絶対価値のもとで、万民が倫理道徳を普遍的に実践する道義社会を指向する理想となるのです。理想世界は、理想家庭と完成した人間を前提にしています。真の愛による理想的な父母、理想的な夫婦、理想的な子女の統一的な調和が理想家庭の要件になります。また、完成した人間は、真の愛によって心身の調和、統一を成した人になります。このように完成した人々が、真の愛の基地である家庭生活、またその拡大である社会生活において、自律的に善と義を行う最高の愛の世界、道義世界がまさしく理想世界です。
(271-78、1995.8.22)
2. 教育の基盤
― 宗教経典 ―
教育の視察中だったラビ・アシとアミは一つの村に入り、その村の守護者に会おうと要請した。村の議員たちが、自分たちが守護者だと言って現れると、ラビが言った。「この人たちは、守護者どころか、かえって村を破壊する者たちではないですか! 村の守護者とは、青年たちの師であり、老人たちの指導者です。詩編にもあります。『主御自身が守ってくださるのでなければ、町を守る人が目覚めているのもむなしい。』(詩編127.1)」。
哀歌ラッバー(ユダヤ教)
先生が衛の国に行かれたとき、冉有(ぜんゆう)が御者であった。先生が「〔衛の人口は〕多いね。」といわれたので、冉有は「多くなったら、さらに何をしたものでしょう。」というと、「富ませよう。」といわれた。「富ませたら、さらに何をしたものでしょう。」というと、「教育しよう。」といわれた。
論語13.9 (儒教)
まるで毒のように個人と国民と国家を壊し、多くの人たちの心を混乱させる悪の根源と根は、正に真理に対する無知、さらには、真理に対して軽蔑し、徐々にこれから遠くなることである。ゆえに正しさと健全さにより、悪で誤った媒体に立ち向かう必要がある。悪習を広げ、誤った考えを誘発する放送、映画、テレビプログラムに立ち向かい、真理を死守し、健全な道徳性を守るためのプログラムがつくられなければならない。
教皇ヨハネ23 世アド・ペトリ・カテドラム(キリスト教)
― み言選集 ―
民主主義は、世俗的人本主義をつくり、神様を追放しました。人間の正義の道理、聖人、聖子たちが教えてくれた道理を追放してしまいました。フリーセックスとは何ですか。この亡国のサタンの血、地獄の沼に丸ごと落ちていくことを知らずにいるのです。これを防御しなければならない使命が統一教会にあるのです。
(193-306、1989.10.8)
未来の世界は、家庭の純潔を保全し、家庭の価値を守護するという道徳律が定着するかしないかによって、天国と地獄の分かれ目に置かれるようになるはずです。世界各国が一様に悩んでいる青少年の退廃と絶え間ない麻薬による犯罪、増加する家庭破壊と離婚、エイズの蔓延、性犯罪などを、政治権力によって解決することができますか。現在の学校教育や宗教的教えでも解決できずにいます。
すべての家庭の悩みが解決されない社会が、経済的に豊かになって何をし、政治的に自由になって何をするのですか。人類は今、家庭の価値を守護し、高揚させることができる教えとその方法を探し出さなければならない時点に来たのです。冷戦以降の時代は、正にこの家庭の価値を守護し、高揚させなければならない時代です。
(288-140、1997.11.26)
3. 神様と宗教の基盤
― 宗教経典 ―
結局は、天のための集会が開かれる。そして、これ以上天の意志に反する集会は開くことができないだろう。
ミシュナ、アヴォート4.14(ユダヤ教)
主御自身が建ててくださるのでなければ、家を建てる人の労苦はむなしい。主御自身が守ってくださるのでなければ、町を守る人が目覚めているのもむなしい。
詩編127.1(キリスト教)
私達に命を下さった神が自由を下さった。それでは、私達がその唯一で堅固な基礎、つまりこの自由が神の贈り物だと考える国民の確信を除去するとき、一つの国の自由が保障されると見ることができるだろうか。自由は、神の怒りなく侵され得るものてはない。実に神が正義だということ、そしてその方の正義は、永遠に眠りにつかないことを考えるとき、祖国を憂慮し私は戦々恐々とする。
トーマス・ジェファーソン
アダムの子孫は、二つの部類に分類されなければならない。第一は、神の王国に属する者たちであり、第二は、世の中の王国に属する者たちだ。……前者は敬虔さを重視し、後者は外的な平和を成し、悪の行為を防止しようとする。世の中は、このうちのどちらか一つでもなければ完全ではない。
マルチン・ルター世俗の権力(キリスト教)
この誤った人間の氏族は、政府と社会の政治機構を通して、その環境を完全にしようと夢見る。しかし、外的な環境が完全になり得るのは、ただ内的霊魂の完全によってである。「あなたは中にいるものであり、あなたの外にあるものを享受しなければならない」、そのいかなる政治機構も、あなたの存在の法則からあなたを救うことはできない。
シュリ・オーロビンド(ヒンドゥー教)
この国の法律の根本的な基礎は、シナイ山にいるモーセに与えられた。私達の権利規制の根本的な基礎は、私達が出エジプトと使徒マタイ、イザヤと使徒パウロから得たその教えから来た。私は今日、私達がそれを十分に強調していないと考える。もし私達が正当で、根本的な道徳的背景を確保しなければ、私達は結局、国家以外には誰のための権利も信じない全体主義的な国として終わってしまうだろう。
ハリー・S・トルーマン28
主なる神が自ら立てられたこの教会を、人間の生と法、青年教育、国内政治から排除させることは、重大で致命的な過誤である。宗教が追放された国は、きちんと規制されないのである。
教皇レオ13 世イムモルターレ・デイ(キリスト教)
― み言選集 ―
私達は、失われた本然の園、
失われたお父様の理念を探し出して、
万物を主管し、守るべき者であり、
万物と共に愛の因縁を結び、
それを束ねてお父様のみ前に
帰し奉るべき者であり、
お父様が天地を創造された
御心情を通して、
お父様の愛の花を咲かせ、
結んでさしあげるべき全体的な責任を
負っているということを知っています。
そうですので、
一歩も踏み出せないまま、
深い眠りの中に入っている
すべての世界人類を
目覚めさせてくださって、
新しい光明の朝を迎え、天を見つめ、
再び目覚めることのできる
群れとなるよう
許諾してくださいますことを、
愛するお父様、
切にお願いいたします。
(5-277、1959.2.15)
今後の世界秩序は、政治主権が道徳的、霊的価値と別個に作用しては、公益と平和が保障されるのは難しいのです。
(359-143、2001.11.6)
神様は、心と体、そして宗教と政治が一つになり、「ために生きなさい!」という原理を実践する国だけを祝福されます。しかし、天の権能に対して考えない盲目の政治家たちは、いまだに地上ばかりを見ています。共産主義の指導者たちは、70 年以上の間、神様なしで富を実現しようと努力してきましたが、彼らの国は既に破産してしまっています。同じように、西欧の国家も、景気後退、犯罪、社会的腐敗などで恐ろしい熱病にかかっています。しかし、このような問題は宗教指導者たちが、目を見開いてそれらの真の原因を発見する時までは解けないのです。
(234-225、1992.8.20)
国家の指導者の中には、独裁者が多かったのです。自分個人を中心として家庭を収拾するだけでなく、自分の一族と一国を越えて世界を自分の思いどおりにすべて収拾し、自分の欲望を充当しようとした政治家がたくさんいたのです。ですから、歴史の背後を見れば、今日この世界のあらゆる国家は、力の政治によって自分の民族を導いてきました。民族を中心とする善とは何だったのかというと力でした。力をもって弱い人たちを占領し、自分の版図圏、所有圏を拡張してきた歴史的事実を私達はよく知っています。
それに反して、今日の私達が見る宗教の歴史は、博愛主義が中心思想です。宗教は、広い意味で神側を中心とした主流なので、愛を語り、慈悲を語り、公義を語る立場に立っています。ですからそれは、自己の野望を拡張しようとするのではなく、公的な利益に符合することができる自分のすべての素性を悪の世界の霊に投入して、悪の世界を天側に移そうというのです。それは、悪を中心として争う世の中ではなく、善を中心として和平を企図し、平和を企図し、最近多く使われる言葉である「和解のムード」を造成するためにするのです。
(213-7 ~ 8、1991.1.13)
私達は、このような危機が神様を否定したところに由来していることを悟らなければなりません。共産主義は神様の存在を否定したので、滅亡したのです。アメリカもアメリカの精神的遺産を回復しなければ、大きな困難にぶつかるようになるでしょう。また、キリスト教も神様を無視する場合、世界の没落を防ぐ力を失ってしまうのです。哲学と経済、政治と芸術なども、神様の意味を悟ってこそ、その本然の役割を果せるのです。したがって、今日の世界的問題の解決は、「神様」に帰結します。神様の摂理を理解することこそが、私たちが直面した問題の解決策を提示してくれるというのです。
(262-234 ~ 235、1994.7.26)
今、時が来ました! アメリカが再び目覚めるべき時が来ました。第二の建国運動を挙国的に展開し、神様を中心とした真の父母、真の家庭、真の国家、真の世界を取り戻すべき時です。そうして離れようとされる神様(注4)を再びお迎えしなければなりません。6000 年間も準備して訪ねてこられた神様が、アメリカを離れられたら、どこに行きますか。神様さえ正しくお迎えすれば、家庭問題、倫理問題、青少年問題、人種問題は自動的に解決されます。五色人種が一つに相まみえて生きていくアメリカは、地上天国のモデルなのです。
真の家庭と世界平和p.544、2000.1.22
3) 愛国心と社会奉仕
市民精神、愛国心、社会奉仕などの用語は、家族と友人の水準を越える倫理的行動範囲を規定する。市民が公共の利益のために自発的に奉仕し、近所と地域社会問題の解決のために積極的に参加して責任を負う姿勢をもてば、その社会は各機能がきちんと発揮される。特に「国民の、国民による」政府である民主主義社会において、社会奉仕に対する態度が立派な市民の特性を決定するのである。
国家が危険に直面する時、愛国心は犠牲を発散する。愛国者たちは、必要ならば自分自身を、自分の生命まで国に奉仕し、犠牲にするのを誇らしく思う。聖書の人物エステルは、自分の命を懸けて人々を滅亡から救ってくれと嘆願する。詩篇の詩人はバビロンの川のほとりで嘆き、祖国に対する愛を表現する。王朝に絶対的忠誠を誓った中世の韓国人の詩一編をここに紹介する。その詩は、神様のみ旨に対する献身の歌として善用しできた統一主義者には、非常になじみのあるものだ。私達は、国家の福祉のために犠牲と献身の模範となり、暴政に対抗して国民を勝利に導いた、現代の愛国者たちが残した記念碑的な語録をここに補充する。そのような神前の英雄の中で、文鮮明先生は、幼い少女として韓国独立運動の火をつけ、日本警察に処刑された柳寛順を特別にたたえる。
文鮮明先生は、国家は国民、国土、そして主権の3局面をもつと言及する。多くの経典の章句で、統治権力への服従強要は、政権維持のための秩序と共同体安全のために、独裁者にも忍耐するよう根気よく勧告していることを記述している。しかし、文鮮明先生は、統治者に対する忠誠と尊敬を、神様のみ旨に従って統治するよう統治者に訓戒して案内する預言者の義務に連結させる。先生は、愛国は家族に対する愛で始まり、人類と宇宙と神様に対する愛で連帯される宇宙的愛のはしごまでが一つの段階と教える(第20 章11.「世界市民」参照)。先生は、このような愛を葛藤、反目ではなく、連帯、提携の中で探すことを強調し、特に父母は、若者たちに愛国心を鼓吹させなければならないと強調する。
1. 国家に奉仕する市民の任務
― 宗教経典 ―
(整列している者たちは言う)「私達のうちひとりも、定められた所を持たぬ者はない」、「私達は(奉仕のため)、整列して……」。
クルアーン37.164 ~ 5(イスラーム)
人々はあなたの古い廃虚を築き直し、あなたは代々の礎を据え直す。人はあなたを「城壁の破れを直す者」と呼び、「道を直して、人を再び住まわせる者」と呼ぶ。
イザヤ書58.12(キリスト教)
信仰をもった者が死後にも報償を受けるようになることと善行は、彼が教え広めた知識であり、彼が残しておいた優れた知識であり、彼が遺産として残した一冊のクルアーンであり、彼が建てたモスクであり、彼が旅行者のために建てた一軒の家であり、彼が流れるようにした川の水であり、彼が生前に裕福だったときの財産で施した寄付である。これにより彼は、死後にも続けて報償を受けるようになるだろう。
イブン・マージャ・ハディース(イスラーム)
アルジュナよ、私にとって、三界においてなすべきことは何もない。得るべきもので未だ得ていないものも何もない。しかも私は行為に従事しているのだ。何故なら、もし私が孜々として行為に従事しなければ、人々はすべて私の道に従うから。もし私が行為をしなければ、全世界は滅亡するであろう。私は混乱を引き起こし、これらの生類を滅ぼすであろう。愚者が行為に執着して行為するように、賢者は執着することなく、世界の維持のみを求めて行為すべきである。
バガヴァッド・ギーター3.23~25 (ヒンドゥー教)
もし私達がある思想家たちのように、自由と平等が民主政治において主に発見され得るものだと考えるなら、それらは、すべての人たちが最大限度に同じ政治的権利に参与するとき、最もよく達成されるだろう。
アリストテレス政治学4.4 (ヘレニズム)
国民の皆さん! それゆえに国が皆さんに何をしてくれるのかを問うのではなく、皆さんが国のために何ができるかを問うてください。全世界の人類の皆さん! アメリカが皆さんに何をしてくれるかを問うのではなく、私達が心を合わせ、人類の自由のために何かできるかを問うてください。
ジョン・F・ケネディ
あなたが寄付することをやめたとき、あなたは死ぬようになる。
エレノア・ルーズベルト
― み言選集 ―
一つの国家に属して暮らせば、その国の国民を愛することができなければなりません。
(1-336、1956.12.30)
愛国者とは何ですか。国を中心として、自分の五官で見るときに、心配の対象にならずに、より良くなることを願う人です。悪いことがあれば、自分が責任をもち、それをすべて解決してあげようと思える愛の心をもった人です。
(161-133、1987.1.18)
黙って忠誠を尽くし、黙って奉仕する群れは、どのような国家、どのような社会、どのような所に行っても主人になります。
(5-16、1958.11.9)
先生は、いつでも最前線で生きようとします。苦労し、困難な道を行こうとします。皆さんが暮らす村で最も悪い所を見れば、「あれは私が掃除しなければならない」と考えなさいというのです。
(248-154、1993.8.1)
さらには、「世界で最も困難なことを私がやった」と言えなければなりません。これを気分悪く思いながら行い、嫌々やれば、僕として終わるのであって、養子の橋を架けて上がってくることはできません。今日の世界のあらゆる困難を、僕たちがするあらゆる困難を、私が喜びで消化しなければなりません。そうすれば、僕の位置から養子の位置に上がっていくのです。
(113-111、1981.5.1)
自分を中心とした主義や思想をもった者は滅びます。自分の欲望のために人命を傷つけ、自分の欲望のために国に被害を与えたというときは滅びるのです。国は、個人に利用されるものではありません。かえって国に利用されなければならないのが国家圏内にいる国民の道理です。また、それが国民の行くべき方向です。人間は本来、自分個人だけのために生きるようになっていません。ところが、今日のこの地上には、自分個人だけのために生きる人が多いのです。「私のために働く」と言います。つまり自分自身のために生きるというのです。どれほどかわいそうな人ですか。父母も兄弟もいない孤児と同じです。「私は世界の人類のために生きる」と言うことができなければなりません。
(24-20、1969.6.22)
人間は、社会的次元で、家庭的、民族的、国家的、世界的、宇宙的次元で、神様を中心とする犠牲、奉仕、真実と真の愛の実践を通して、貪欲、放縦、不信と偽りの愛など、悪の根拠を除去しなければなりません。
(167-100、1987.6.30)
2. 王、国民、そして国家のための愛国者の犠牲
― 宗教経典 ―
バビロンの流れのほとりに座り、シオンを思って、私達は泣いた。竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた。私達を捕因にした民が、歌をうたえと言うから、私達を嘲る民が、楽しもうとして、「歌って聞かせよ、シオンの歌を」と言うから。どうして歌うことができようか、主のための歌を。異教の地で。エルサレムよ、もしも、私があなたを忘れるなら、私の右手はなえるがよい。私の舌は上顎にはり付くがよい。もしも、あなたを思わぬときがあるなら、もしも、エルサレムを、私の最大の喜びとしないなら。
詩編137.1 ~ 6(キリスト教)
モルデカイは事の一部始終、すなわちユダヤ人を絶滅して銀貨を国庫に払い込む、とハマンが言ったことについて詳しく語った。彼はスサで公示されたユダヤ人絶滅の触れ書きの写しを託し、これをエステルに見せて説明するように頼んだ。同時に、彼女自身が王のもとに行って、自分の民族のために寛大な処置を求め、嘆願するように伝言させた。ハタクは戻ってモルデカイの言葉をエステルに伝えた。
エステルはまたモルデカイヘの返事をハタクにゆだねた。「この国の役人と国民のだれもがよく知っているとおり、王宮の内庭におられる王に、召し出されずに近づく者は、男であれ女であれ死刑に処せられる、と法律の一条に定められております。ただ、王が金の笏を差し伸べられる場合にのみ、その者は死を免れます。三十日このかた私にはお召しがなく、王のもとには参っておりません。」
エステルの返事がモルデカイに伝えられると、モルデカイは再びエステルに言い送った。「他のユダヤ人はどうであれ、自分は王宮にいて無事だと考えてはいけない。この時にあたってあなたが口を閉ざしているなら、ユダヤ人の解放と救済は他のところから起こり、あなた自身と父の家は滅ぼされるにちがいない。この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか。」
エステルはモルデカイに返事を送った。「早速、スサにいるすべてのユダヤ人を集め、私のために三日三晩断食し、飲食を一切断ってください。私も女官たちと共に、同じように断食いたします。このようにしてから、定めに反することではありますが、私は王のもとに参ります。このために死ななければならないのでしたら、死ぬ覚悟でおります。」
エステル記4.7 ~ 16(キリスト教)
平和の名は甘美で、それ自体は有益だ。しかし、平和の奴隷状態は大きな違いがある。平和は、平穏な中での自由である。奴隷状態は、戦争だけでなく死にすら抵抗しなければならない、あらゆる邪悪なものの中の最悪である。
マルクス・キケロ(ヘレニズム)
鎖や奴隷制度をもって手に入れなければならないほど、命がそれほど大切で、平和がそれほど甘美なものなのか。これを禁じてください、全能の神よ! 私は人々がどの方向に行くのか分からない。しかし、私には自由でなければ死を与えよ!
パトリック・ヘンリー
私は祖国に捧げる命が一つしかないことが残念でならない。
ネイサン・ヘイル
幾度死すとも砕け散るとも
たとえ身も魂も朽ち果つとも
慕わしきわが主に捧げまつる
熱きこの胸の忠誠消えず
鄭夢周丹心歌(儒教)
私達の義務を引き受けよう。そして、耐え忍びましょう。大英帝国と英国連邦が千年続けば、そのときにも人々は、「この時期が最上の時だった」と語るでしょう。
ウィンストン・チャーチル(注10)
― み言選集 ―
国には愛国心が必要です。国が動いていくためには、愛という錨綱が必要ですが、これをいわゆる愛国心と言います。愛国心のある人は、国を捨てられません。出ていっても、また訪ねてくるものです。(注11)その愛国心という綱がどれほど強いか、かわいそうな民族のためには大きな成功も否定し、自分が不幸になることを意に介さず、その道を選んでいくこともできます。愛の力がなければ、それは不可能です。
(175-204、1988.4.17)
愛国者たちが圧政下で、あらゆる条件に対抗して闘ってきたのは、もちろん民族を愛し、国土を愛する心があったからです。また、彼らには勝利の一日を願い、希望する心とその勝利の一日が必ず来ることを信じる強い心があったがゆえに、そのような圧政下でも屈することなく闘うことができたのです。これを私達は知らなければなりません。
(5-321、1959.3.1)
きのうは三・一節でしたが、柳寛順は、当時16 歳だったので少女ではなかったですか。倭警(日本統治時代の日本警察のこと)によって無惨に殺された少女ですが、なぜ民族を挙げて彼女を愛国者としてあがめるのですか。国のために自分の命までちりあくたのように捨て、もっと国を愛そうとしたのであり、民族を愛そうとしたからです。幼いときから死ぬまで、誰よりも国を愛したのであり、自分の命を投入して国を愛した、それが貴いのです。
(141-293、1986.3.2)
一つの国において、どのような人が愛国者ですか。裕福に暮らして号令する立場にいる人ではありません。末端の立場でぼろを着て、塩汁に麦飯を食べて貧しく暮らしながらも、麦飯のお膳を通り過ぎる外国の人たちが見るのではないかと心配し、国の威信を考え、自分の姿が目につかないように隠れようとする心をもった人が愛国者です。自分の国の体面と威信は考えず、ねたみ、嫉妬し、面子もなく行動してはいけません。自分の国を少しでも美しく、価値あるものとして現そうと努力する人が愛国者です。
(26-136、1969.10.19)
愛国者は、愛を中心として主権を愛さなければならず、国土を愛さなければならず、国民を愛さなければなりません。「国家」といえば、主権、国土、国民がいなければなりません。この三大要素をすべて愛さなければならないのです。そのためには、自分の家庭を、一家自体を投入しなければなりません。一家自体を引き入れなければなりません。すべての家庭的要素が結合して国家の形成が展開するようになります。家庭を前に立てる人が国を愛するという論理は、この宇宙に公認されません。愛は、より大きなものを連結しようとするのです。
(207-251、1990.11.11)
あらゆる理想の原点であり、未来に向かい、永遠に作動する真の愛は、青年たちに生命以上の力になります。青年たちが真の愛を中心とする新しい国家観をもつとき、国家は新しい発展の可能性を見いだすのです。真の愛の姿勢をもつことによって、あらゆる集団は、衝突する利害関係の枠を飛び越えて協力と調和と発展の社会を築くのです。国を動かし、導く原動力は、犠牲的な愛国衷情の真の愛から出てきます。私達が尊敬する大勢の愛国的英雄烈士たちは、真の愛を中心として犠牲の生涯を経ていない人がいないのです。
(288-201、1997.11.28)
3. 支配権威の尊重
― 宗教経典 ―
「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らは、イエスの答えに驚き入った。
マルコによる福音書12.17(キリスト教)
帝国の繁栄のために祈れ。帝国が鼓吹する恐怖がなければ、人間たちは互いを生きたままのみ込もうとするからである。
ミシュナ、アヴォート3.2 (ユダヤ教)
サルタンは地上にいる神の影なので、過ちを犯した彼の僕たちは、それぞれ彼に従って過ちを直さなければならない。彼が公正であれば報いを受けるのだから、彼に感謝しなければならないのは、一般の民の義務だ。しかし、彼が暴政に従事すれば、その荷が彼にあるがゆえに、一般の民たちは忍耐心を見せなければならない。
バイハキ・ハディーズ(イスラーム)
人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。実際、支配者は、善を行う者にはそうではないが、悪を行う者には恐ろしい存在です。
あなたは権威者を恐れないことを願っている。それなら、善を行いなさい。そうすれば、権威者からほめられるでしょう。権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです。
だから、怒りを逃れるためだけでなく、良心のためにも、これに従うべきです。あなたがたが貢を納めているのもそのためです。権威者は神に仕える者であり、そのことに励んでいるのです。すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。
ローマの信徒への手紙13.1 ~ 7(キリスト教)
神の意志に逆らう行為をするよう命じない限り、好きでも嫌いでも、政府の施策を聞いて従うことはムスリムの義務である。もちろん、反対の場合、ムスリムは聞くことも、見ることもしてはならない。
ブハーリーおよびムスリム・ハディース(イスラーム)
― み言選集 ―
私達個人は、尊重され、高く評価されなければならず、宇宙を身代わりできる価値をもっている存在ですが、横的な関係を結んで家庭に入っていけば、家庭の祭物にならなければなりません。天理原則がそうです。ですから、自分個人を天地に匹敵する価値として評価するほど貴いと思っても、家庭があれば、家庭のために奉仕しなければなりません。個人よりは家庭を中心としなければならず、家庭よりは社会を中心としなければならず、社会よりは国家を中心としなければなりません。さらには、国家よりも世界、世界よりも天、天よりは神様を中心としなければなりません。
(10-329、1960.11.27)
国王に侍るにおいては、父母のように、師のように侍らなければなりません。また、父母に侍るにおいては、師のように侍り、国王のように侍らなければなりません。また、師に侍るにおいては、父母のように侍り、国王のように侍らなければなりません。これを統一教会では、三大主体愛の思想(注13)、真の愛を中心とした三大主体思想というのです。
(212-28 ~ 29、1991.1.1)
今日のアメリカの青年たちに、「国を愛しなさい」と言ったとき、「その国に対する愛はどのようにするのか」と言いながら目をぱちくりさせ、「それはしなければならないが、どのようにすることが国を愛することなのか」と言います。そこに対する教育をする人がいません。
家の父母もすべて、動物的な因縁しかありません。兄弟も、動物的因縁しかありません。すべて動物のような愛、さらには動物にも劣る愛、そのような段階に落ちたのです。ですから、「国を愛するとはどういうことか。私が税金を払うことが国を愛することだ」、これしか知りません。観念がそれしかないのです。
愛をどこで学ぶのですか。それを家庭で教えなければなりません。それでは、父母はどのようにしなければなりませんか。兄弟同士で愛することを教えてあげ、父母を愛することを教えてあげると同時に、「私がお前を愛するのと同じように、私が国をこのように愛するから、お前は国をこのように愛さなければならない」と教育しなければなりません。そのように教えてあげさえすれば、すぐに「ああ!」と言って分かります。ほかの教育は必要ありません。すぐにうなずきます。
「アメリカに対する愛国心とは何か」と目を見開いて尋ねる人たちにそのように話をすれば、頭にさっと入っていきます。ほかのことは必要ありこません。そのような伝統をつくっておかなければなりません。これをつくっておけば、すべてがない所でも、いくらでも再びつくりあげることができるのです。
そして、大統領の言葉を父親の命令よりもっと高い命令だと考えるのです。自分の父母のために生きるよりもっと偉大だと教えてあげなければなりません。ですから、「あなたと私は、国に困難なことがあれば、国に忠誠を尽くし、国を愛するために死の道を一緒に行かなければならない」という教育をしなければなりません。ですから、考える人はそのような伝統を中心として考え、国家的歴史を立て直し、国家的伝統を残そうとするのです。
(95-51 ~ 52、1977.10.23)
4) 労働
大部分の人々は、基本的に労働を通して社会に奉仕する。人間は大人になり、自分と家族のために仕事をしながら人生を営む。しかし、私達の労働は、個別的利益を得る前に国家全体の豊かさと繁栄に連結される。一歩進んで労働は、天地を創造した神様に私達が似ていく一つのやり方である。神様は、労働する人間に満足し、労働の結果を見て喜ばれる。それが神様の人間創造の目的と言える。結局人間は、労働することで神様と共に共同創造者になるのだ。
社会の構成員は、労働倫理に関する教育を受けて、自己啓発ができる社会的機会を得る。そのようにしなければ、どんな社会も発展し得ない。宗教の実体的な機能は、政治的、経済的成功のために、社会構成員を激励し、鼓舞させることである。それは、仕事場で勤勉、節約、信頼、責任感と誠実さ、そして自分の職業に対する愛着だ。
ある伝統宗教は、生産的なことを奨励することよりも、貧困と清貧生活を強調するが、大部分の伝統宗教は、聖職者にまで誠実に労働することと、自給自足を奨励する。大部分の宗教が世俗的な利益ばかりを追求する生活を拒否するにもかかわらず、その利益は、社会奉仕、慈善行為、正しい礼拝などに適切に使われれば、そのような人生は、神様が認定してくださったと高く評価する。
1. あらゆる仕事は神聖であり、天に奉仕すること
― 宗教経典 ―
アブ・フライヤが言った。「私達が使徒と共にいるとき、ある若者が現れた。私達が言った。『この若者は、彼の若さ、エネルギー、力を祭物として捧げ、神に礼拝を捧げなければならない』。使徒が私達の言うことを聞いて答えた。『ある人が神のやり方どおりに殺害されたり、彼の父母を扶養したり、彼の家族を食べさせたり、自分が生きるために努力したこと以外に神のやり方は何もなかった。これらが神のやり方だ』」と。
スユーティ、ハディース(イスラーム)
精いっぱい働くこと、それがすなわち祭祀である。
パラシャイバの金言(ヒンドゥー教)
労働は偉大だ。労働者に栄光が授与される。
タルムード・ネダリーム49b (ユダヤ教)
鋤を握り、突き棒の扱いを自慢する者が。また、牛を追い立て、仕事に忙しく、話題は子牛のことばかりという者が。彼は畝作りに没頭し、夜も寝ないで若い雌牛にえさを与えている。職人や職人頭も同じだ。彼らは昼夜を分かたず仕事に励む。印章を彫り込む人々、さまざまな下絵書きに没頭する者も同じだ。彼は本物そっくりに表現しようと精魂を傾け、夜も寝ないで仕事を仕上げる。
鉄床のそばに座るかじ屋も同じだ。彼は鉄の細工物を一心に見つめる。熱風で体はやけどを負うが、炉の熱にあてられながら、懸命に仕事をする。彼の耳には、金づちのやかましい音が鳴り響き、目は器の形に注がれる。彼は仕事を完成させようと精魂を込め、夜も寝ないで見事に仕上げる。仕事場に腰を据える陶器職人も同じだ。彼は足でろくろを回す。常に仕事に熱中し、その作品を数える。彼は足で粘土をこねて、固さを除き、手でそれを形づくる。
上塗りをかけて仕上げるのに精魂を込め、夜も寝ないで、窯を掃除する。これらの人々は皆自分の腕に頼り、それぞれ、自分の仕事には熟練している。彼らなしに、町は成り立たず、住み着く人も、行き来する人もいない。しかし、彼らは民の会議では意見を求められず、集会においても責任ある地位には昇れない。裁判官の座にもつけず、法律にかかわる決まりも理解していない。教訓や法律を説き明かすこともできず、格言にも精通していない。彼らは造られたこの世界の調和を固く保つ。彼らの願いは、仕事を全うすることにある。
シラ書〔集会の書〕38.25 ~ 34(キリスト教)
ヤブネのラビが語った有名な言葉がある。私は主なる神の被造物であり、あの隣人の小作農も神の被造物だ。私は村で働き、彼は田舎で働く。私は私の仕事のために早く起き、彼も彼の仕事のために早く起きる。彼が私の仕事を無視しないように、私もまた彼の仕事を無視しない。果たして、私がより多く働き、彼は少なく働いていると言えるだろうか。私達は学んできた。「その人が、人より仕事を多くすることも、少なくすることもできる。しかし、その心がいつも天に向かっていれば、結局は同じことである」。
タルムード、ブラホート17a (ユダヤ教)
すべての位置は天が任命される。清掃人の仕事までも、天が決められたのである。
タルムード、バヴア・バトラ91b (ユダヤ教)
仕事を愛し、権力を憎悪せよ。
ミシュナ、アヴォート1.10(ユダヤ教)
主はモーセにこう仰せになった。見よ、私はユダ族のフルの孫、ウリの子ベツァルエルを名指しで呼び、彼に神の霊を満たし、どのような工芸にも知恵と英知と知識をもたせ、金、銀、青銅による細工に意匠をこらし、宝石をはめ込み、木に彫刻するなど、すべての工芸をさせる。私はダン族のアヒサマクの子オホリアブを、彼の助手にする。私は、心に知恵あるすべての者の心に知恵を授け、私があなたに命じたものをすべて作らせる。
すなわち、臨在の幕屋、掟の箱、その箱の上の贖いの座、幕屋のすべての祭具、机とその祭具、純金の燭台とそのすべての祭具、香をたく祭壇、焼き尽くす献げ物の祭壇とそのすべての祭具、洗盤とその台、祭司アロンめために織った衣服と祭服、アロンの子らが祭司として仕えるときの衣服、聖別の油、聖所でたく香ばしい香である。彼らは私が命じたとおりに作らねばならない。
出エジプト記31.1 ~ 11(キリスト教)
― み言選集 ―
私はここで、永生と真の愛を実践する人です。永生と真の愛を私は、ここで実践する人だというのです。ですから、私がここでしているすべての仕事、工場で仕事をして何かをするということが、永生を延長させ得る材料だというのです。
(216-127 ~ 128、1991.3.9)
仕事をするとき、なぜあらゆる精誠を尽くしなさいと言うのですか。仕事をするとしても、うわの空で仕事をするなというのです。それは、使いをする人がすることです。使いをする人は、定着できません。仕事をするときは、本心からこれが私の絶対的相対だと考えなければなりません。(注15)絶対的相対を創造するところには、投入して忘れなければなりません。忘れてこそ私と関係を結ぶのです。
(330-117 ~ 118、2000.8.14)
経済問題はいつでも、私と物質の関係です。商売をするとしても、その事業を愛さなければなりません。ですから、私に100 という価値があるとき、この物は100 に対する対象の価値が生じるのです。私に1000 という価値があれば、いくら小さな物、小さな手帳一つでも、これはいくらにもならない物ですが、1000 に対する相対的価値をもつようになるのです。万世の中で立派な人がもっていた万年筆や、どこかで使っていた物がなぜ価値があるのですか。その人の愛が宿り、相対的価値をもったために貴いのです。
(102-126、1978.11.27)
経済を重要視するよりも、経済を重要視する人を重要視しなければならず、もちろん科学も重要視しなければなりませんが、科学を重要視する人を重要視しなければならず、芸術を重要視するよりも、芸術を重要視する人を重要視できなければならないという結論が出てきます。そのように結論を下さなければなりません。ところが、現在はどのようになったかというと、経済を中心として見てみるとき、経済圏内の人を重要視しているのではないというのです。科学なら科学の圏内にいる人が重要視されるのではなく、科学が中心になったのであり、経済が中心になったのであり、外交が中心になったのであり、芸術が中心になったのです。人は、どのようになったのかというと、無価値になってしまいました。人を通して技術を見て、人を通して経済を見て、人を通して芸術を見なければならないのですが、今は逆さまになっているのです。
(99-116、1978.9.10)
先生は、建築現場に行けば労働者になり、農村に行けば農夫になります。先生は、できないことがありません。何でもできます。大衆を指導するためには、そのような経験をしなければなりません。山に行って、炭を焼くことも知っています。鉱山に行って穴を掘ることも知っています。もし迫害を受けてどうすることもできなければ、鉱山に行き、石炭を掘る穴の中で運動すると考えたのです。そのような訓練もできています。
(256-100、1994.3.12)
皆さんは、ほかの人たちのために涙を流してみたことがありますか。この地上で汗を流してみたことがありますか。労働もしなければなりません。公的に汗を流すこともしなければならないのです。10 里、20 里の道でも、人を救うために一日行ったり来たりすることができなければなりません。そのような鉄則を立てておいて、そこに一致する生活をしなければならないのです。言葉だけではいけません。真理は実体と一体にならなければなりません。日本全国のために、どれほど汗を流したかというのです。父母の心情をもって人類のために涙を流すのです。神様がそうです。それで、1960 年代まで、先生が説教をするときに、涙と汗を流さないときがありませんでした。汗の滴をぽろぽろ流しながら痛哭する、胸が張り裂けるような説教をしました。
(256-146、1994.3.12)
2. 勤勉、誠意、そして自助の徳目
― 宗教経典 ―
ここで人々が勤勉を実践するようにしよう。人々が窮乏した者たちを助け、繁栄を享受するようにしよう。
アヴェスター、ウィスプ・ラト(ゾロアスター教)
礼拝が終わったならば、なんじらは大地に広がり、神の恩典を求めて、神をたたえ多く唱念しまつれ、おそらくなんじらは栄えるであろう。
クルアーン62.10 (イスラーム)
怠け者よ、蟻のところに行って見よ。その道を見て、知恵を得よ。蟻には首領もなく、指揮官も支配者もないが、夏の間にパンを備え、刈り入れ時に食糧を集める。怠け者よ、いつまで横になっているのか。いつ、眠りから起き上がるのか。しばらく眠り、しばらくまどろみ、しばらく手をこまぬいて、また横になる。貧乏は盗賊のように、欠乏は盾を持つ者のように襲う。
箴言6.6 ~ 11(キリスト教)
涙は貧しさに対する答えではない。おなかを空かせた怠け者は、自分以外には誰も非難することができない。怠け者にだけ成功する土台がない。おお、神よ! どこにも私に適合しない所がありません。
ヨルバ族の格言(アフリカ伝統宗教)
朝と晩には仕事をせず寒さ暑さにまた怠けてしまう。している仕事は最後までやりおおせずやり遂げた仕事もだめにしてしまう。もし寒さ暑さをものともせずに朝晩まじめに務めるならば、仕事は必ず完成し最後まで憂い苦しみはないだろう
阿含経長部iii.185、善生経(仏教)
雇われの生活も楽しい。
シラ書〔集会の書〕40.18(キリスト教)
あなたの手が労して得たものはすべて、あなたの食べ物となる。あなたはいかに幸いなことか、いかに恵まれていることか。
詩編128.2 (キリスト教)
また、だれからもパンをただでもらって食べたりはしませんでした。むしろ、だれにも負担をかけまいと、夜昼大変苦労して、働き続けたのです。援助を受ける権利が私達になかったからではなく、あなたがたが私達に倣うように、身をもって模範を示すためでした。実際、あなたがたの、もとにいたとき、私達は、「働きたくない者は、食べてはならない」と命じていました。ところが、聞くところによると、あなたがたの中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです。そのような者たちに、私達は主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。
テサロニケの信徒への手紙二3.8~12(キリスト教)
折れたつるはしで自ら生産した少ないものが、他の人から得た多くのものよりもよい。
プジ族の格言(アフリカ伝統宗教)
放浪し乞食をして自ら聖なる者だと叫ぶ人、彼の足元に敬拝してはならない。熱心に働いて生計を維持し、へりくだって乞食として一部を求める人、ナナーク、そのような人が真に神の道を知る人である。
アーディ・グラント、ヴァール・サーラングM.1、p.1245(シーク教)
窮乏した人にお金を貸してあげる人が、慈善を施す人よりも偉大だ。貧しい者を助けて事業を行い、自らお金を稼ぐことができるように助けてあげる人が、誰よりも偉大な人である。
タルムード、シャッバト63a (ユダヤ教)
世に善男子の如法の財あり、起策し、精励し、汗を流し、腕の力にて集め、徳に由りて得たり。彼は、我に如法の財あり……と思惟して楽を味ひ、喜を味ふ、此を所有の楽と名く。長者よ、又云何なるが受用の楽なるか。……起策し精励し、汗を流し、腕の力にて集め、徳に由りて得たる如法の財を受用し、又財に由りて福を作る、彼は、我は起策し、精励し……如法の財を受用し、又財に由りて福を作る、と思惟して楽を味ひ、喜を味ふ、長者よ、此を受用の楽と名く。
阿含経増支部ii.68 (仏教)
怠惰は霊魂の敵である。
ベネディクト規律(キリスト教)
― み言選集 ―
「お金持ちの家は、きりぎりすのように食べ、酒を飲み、遊んで踊れ。私は蟻のように腰が細くなるほど働く。歌うことを好み、踊ることを好み、冗談を言ってふざけるのを好む、そのような行動を続けなさい。私は地を掘って入り込み、あなた達を葬る穴をつくっておいても、私が暮らせるところまでつくっておこう」と考えれば、地獄まで占領して天国の王になるというのです。
(339-146、2000.12.10)
事務室にいた人たちは、現場に行って一日だけ仕事をすれば、ストレスがすべてなくなります。ストレスは考えることもできず、眠れなかったのも解決されます。ストレスのために眠れないそのような人たちがいるときは、捕まえて穴掘りに連れていき、何日か働かせればぐっすり眠るようになります。
(230-168、1992.5.1)
おもしろさを感じなければなりません。農作業するのも楽しいことです。土地を掘るのも楽しいことです。一生汗を流していけます。家を建てるのも楽しいことです。私がしてみなかった労働はありません。自然と和合して、環境条件において自分と関係を結び、そのようにして事に着手すれば、成功しないことがありません。
(355-96、2001.10.3)
皆さんが仕事をしようとすればお金が必要です。誰もお金をもってきてくれません。私の手でつくらなければならないのです。今日の世界的な基盤をすべて私の手で築きました。誰かがしてくれたのではありません。先生は、追い出されても、島国であれどこであれ、生きていけます。皆さんがすべて死んでも、私は生きます。どのきのこが食べられるものであり、薬草がどれで、毒草がどれか、すべて知っています。そして、糸と針金1本あれば、釣りざおを作って、いくらでも釣れます。どこでも生き残れます。いつでも自立できる知恵があります。統一教会では、33 歳前にこれを公式的に訓練しなければならないというのが先生の哲学です。
(117-24 ~ 25、1982.1.30)
私には、できないことがありません。鉱山に行けば鉱夫になり、坑木まで支えることができる人です。反対を受ければ、み旨を鉱山に行ってでも成し遂げなければならないと考えました。山中の山賊のような生活をしながらでも、どろぼうせずに山中であらゆるものを食べて生きていける訓練をしたのです。食べる物は、いくらでもあります。海に行けば、漁夫の中の漁夫です。農村に行けば農夫の中の農夫です。農作業をすべてよく知っています。この地球星のどこに行っても3周だけすれば、手ぶらで基盤を築くことができる能力のある人です。
(273-305、1995.10.29)
福祉の恵沢を受けてうまくやろうという人は、永遠に駄目です。世話になれば、僕にしかなりません。地上で人を助けてあげなければなりません。助けてあげてから逝かなければならないのです。そうしてこそ、あの国に行って高い所に行くのです。いくら優れていると思っても、霊界に行ってみてください。自分だけのために生きる立場で世話になり、受けることを好み、与えることを嫌う人は、すべて真っ暗な地獄に行くのです。
(248-98、1993.8.1)
5) 自由
自由に対する渇望は、人類歴史で最も強力なエネルギーとして噴出した。神様は、エジプトにいるイスラエル人の奴隷たちに、神様の自由に対する愛を見せてくださり、彼らを解放することによって、あらゆる所にいる自由を愛する人の手本とした。神様が私達を自由ある存在として創造されたために、人間は、どこに行っても自由を渇望する。神様は人間の自由を尊重する。神様は、人間が誤った選択をしても、そして罪を犯して悲惨になっても干渉しない。
それでも、神様は人間の存在をして、神様の理想的な対象として完成しなければならない目標を指向するように自由を賦与した。そのため、自由はそれ自体に目的があるのではなく、真の愛、真の共同体、神様の国など、より大きな目的に向かう一つの手段である。さらに、自由は、人間の生に対する神様の計画の助けとなる時にだけ意味があり、有効なものである。罪を犯す場合のように、誤って使われた自由は奴隷状態に導くのである。それで神様は、人間を創造しながら、人間の自由意志を善良な方向に案内する内的羅針盤として良心を与えた。そして、すべての子女に、自由を適切に使用するよう教育して、愛することができる父母を送ってくれた。自由をめぐる論争は、主に民主主義に基づいている。そのため、私達は、世俗的民主主義の自由に対する観念の批判、特にカトリック教会の批判は、自由に対する過度な価値付与と西洋民主社会で大きく広まった乱用に対する文鮮明先生の一部の否定的な判断と共鳴する。
最後に、経典は、神様は自由ではなく、どこの誰よりも多くの解放が必要な方だという文鮮明先生の独特な教えを描写しでいるいくつかの章句を含めている。
1. 神様とその創造から具現した自由の礎石
― 宗教経典 ―
ここでいう主とは、“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。
コリントの信徒への手紙二3.17 (キリスト教)
主は言われた。「私は、エジプトにいる私の民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、私は降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。」
出エジプト記3.7 ~ 8(キリスト教)
この五十年目の年を聖別し、全住民に解放の宣言をする。
レビ記25.10(キリスト教)
主は私に油を注ぎ、主なる神の霊が私をとらえた。私を遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために。主が恵みをお与えになる年、私達の神が報復される日を告知して嘆いている人々を慰め……。
イザヤ書61.1 ~ 2(キリスト教)
信仰する者よ、なんじら自身を守る責任は、なんじらにあるのだ。
クルアーン5.105 (イスラーム)
あなた達は真理を知り、真理はあなた達を自由にする。
ヨハネによる福音書8.32 (キリスト教)
私達の故郷と私達の領土で、自己決断、正義、自由、そして平和に対する私達の要求は……白人の兄弟たちが海を渡って入ってくるまでに、私達が楽しんでいたことの更新だ。私達は偉大な平和の法、すなわち“ガイ・エネシャ・ゴ・ナ”のもと、満足して生きていた。私達は、平和、平等、正義、善心の力の原理に基づく社会をつくるように教育された。私達の社会は、人々の権威に対する偉大な民主的原理と男女に対する同等な責任に基礎をおいている。これがこの巨大な亀島に横たわる生活の大道だった。尊重を伴う自由はあらゆる所にある。私達の指導者は、ビジョンをもった人であるほど、そしてすべての決定では、未来の7世代に代わって判断するように学んだ。まだ生まれていないあの世代に対する哀れみと愛をもてということである。
私達は、私達を生存させるすべてのものに感謝するよう学んだ。それで私達は、自然界の生命を与える力に対する大きな感謝祭をつくった。私達がこの儀式を行う限り、命は継続するだろう。私達は、“種が法”と聞いた。実にそれは命の法だ。それは“再生の法”だ。種の中に命と創造の神秘な力が入っている。私達の母は、あの種を養育し保護する。ゆえに私達は私達の母を尊重し愛する。私達が私達の母なる大地を愛するのと同じ霊的な努力と神秘によって。
オーレン・ラオンス酋長(注18)(アメリカ先住民の宗教)
私達は、次の事実を自明な真理と確信する。すなわちすべての人は平等に創造されたのであり、彼らは創造主によって一定の譲渡できない権利を賦与されたのであり、その中には、生命、自由および幸福を追求する権利が含まれている。
アメリカ独立宣言書
人権、例えば宗教の自由、社会建設の共有の自由、組合結成の自由、経済創出の自由を制限し否定すれば、人間から物質を奪う分、人間を疲弊させるのではないか。
教皇ヨハネ・パウロ2 世社会的関心について(キリスト教)
― み言選集 ―
自由は、実に創造主から受けた最も貴重な贈り物の中の一つです。人間は自由な精神的存在として創造されました。
(133-289、1984.11.19)
今、この世界の人類は、自由を享受する個人となり、自由の社会、自由の国、自由の世界で生きることを、誰彼を問わず願っています。私の心に平和がなく、私の心に自由がなければ、真の幸福はあり得ません。今日、自由を叫んでいますが、心情からあふれ出て生きる自由な環境になっていないことを自認しています。
(7-14 ~ 15、1959.7.5)
人間は、堕落によって自由を失うこととなったのである。しかし、堕落した人間にも、この自由を追求する本性だけは、そのまま残っているので、神はこの自由を復帰する摂理を行うことができるのである。歴史が流れるに従い、人間が己の命を犠牲にしてまでも、自由を求めようとする心情が高まるというのは、人間がサタンによって失った、この自由を再び奪い返していく証拠なのである。ゆえに、人間が自由を求める目的は、自由意志による自由行動をもって、原理的な責任と実績をはっきりと立て、創造目的を完成しようとするところにあるのである。
原理講論、堕落論5.2
皆さんは、神様が全知全能であられ、できないことがないと知っています。しかし、いくら能力の多い神様だとしても、神様の心情をかき分けて入っていき、その心が果たして自由な立場にいるのかと尋ねるとき、私は「そうだ」と答えられません。また、神様の本心は、希望に満ちた摂理を前にして解放の喜びの中にいらっしゃるのかと尋ねるとき、これもやはりそうではないというの
です。
神様も自由になることを願われるのが本性であり、本然の心情です。そして、神様は解放された立場で万宇宙を主管すべき、お父様であられます。ところが、そのようにできないことが神様の悲しみであり、全被造万象の悲しみであり、歴史上の悲しみの原因となりました。
いまだに神様も自由な立場にいらっしゃることができず、解放の位置にいらっしゃることができず、統一された位置にいらっしゃることができないがゆえに、今日この地上で自由を叫んでいますが、その自由は私達が享受すべき真の自由にはなれないのです。神様の自由と解放と統一が、正に人間たちが願う自由と解放と統一の基準であることを、私達は、論理的見地から否定できません。
(4-315 ~ 317、1958.10.12)
愛というものを中心として自由の起源を設定しなければ、理想的な起源はないのであり、理想的な起源がなければ理想的な世界の完成はあり得ません。愛する夫には、すべてのことが自由です。また、愛する妻には、夫がどんな行動をしても自由です。たたいてもよく、すべてを触ってもよいのです。どれくらい自由なのでしょうか。胸を出して夫を求めていってもよく、裸になってどんなことをしてもかまいません。それ以上の自由がどこにありますか。女性が裸になるのは、自由のゆえに裸になるのですか、愛のゆえに裸になるのですか。愛のゆえに裸になるのです。自由はどうですか。愛を中心として自由だというのです。
(203-10、1990.6.10)
この自然の保護の中で、私自身が豊かに暮らすことができる道を行くのが最高の自由の道だということを知らなければなりません。宇宙の法の中で保護を受け、そこでぶつからないように私自身が矛盾なく行くとき、そこのその場に自由が保障されるのです。これを知らなければなりません。それ以外にはありません。
(117-290 ~ 291、1982.4.11)
私達が自由を求めるために立ち上がった私達の心中をたどって判断してみるとき、果たして私達の心に、このすべての万象の前に一つになることができる自由の心情があるのかということが問題なのです。私達が神様の自由の立場になったなら、私達のそのような自由の心情は、全天下の万民と共に楽しむことができる、そのような基準になるはずのものだったのです。
(4-318、1958.10.12)
今まで民主主義は、「人間の自由」と「人間の解放」を主張してきました。これに対して、私達は「神様の自由」と「神様の解放」を主張しなければなりません。この問題さえ解決されれば、人間の解放はもちろん、人間の自由の回復はおのずと成し遂げられるのです。
(344-54、2001.3.1)
2. 道徳法によって自我を主管するとき、自由を享有する
― 宗教経典 ―
イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。」
ヨハネによる福音書8.34(キリスト教)
キリストは私達を自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷のくびきに二度とつながれてはなりません。
ガラテヤの信徒への手紙5.1(キリスト教)
兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。
ガラテヤの信徒への手紙5.13(キリスト教)
快楽の追求は苦痛を呼び込むだけであり、邪悪な欲望は首に鉄鎖をかけるだけである。過った快楽を追い求めていくあなたよ、解放はただ神の愛によって成されるのである。
アーディ・グラント、ガウリ-・アシュタパディーM.1、p.222(シーク教)
では、どうなのか。私達は、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか。決してそうではない。知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました。
ローマの信徒への手紙6.15 ~ 18(キリスト教)
自分自身の主人になれない者は、誰であっても自由人ではない。
エピクテトス語録2.10(ヘレニズム)
― み言選集 ―
自由は、実に創造主から受けた最も貴重な贈り物の中の一つです。人間は自由な精神的存在として創造されました。しかし、人間は自由な存在として創造されたと同時に神様から責任も賦与されました。自由は自己規律と自己抑制を必要とするからです。自由は法則を離れて存在することはできません。神様は創造主として自ら創造目的を定め、精神的法則を定められました。私達は、創造主が定めた人間の根本的な目的を成就するために、この地に存在しています。人間の精神的幸福は、人間が神様の定められた道徳律に従って個人としての責任を果たすことによって、増進するようになっています。人間がこの法則に違反すれば、自然の法則に違反するときと同じように、自分の破滅を招いてしまうのです。
(133-289 ~ 290、1984.11.19)
神様が許諾した真の自由は、責任性を前提とします。もし、責任性なしに個々人が愛の自由だけを主張し、実践するなら、どれほど大きな混乱と破局が訪れるでしょうか。至高な愛の理想を求める人間は、愛に対する責任性をもつときに完成が可能なのです。
(277-201、1996.4.16)
愛によって完全に占領するところで自由が始まります。皆さんの体が自由に行動しようとすれば、真の愛に属さなければなりません。アメリカの自由に対する観念がどれほどでたらめかを知らなければなりません。歴史以来、最も困難な存在が自分です。したがって、自分自身に無慈悲になりなさいということです。分かりますか。そのような人にならなければ自由がありません。
(203-23 ~ 24、1990.6.10)
アメリカの国民が誇れる真の愛がありますか。アメリカ人の愛は、どのようなものですか。それはごみのような愛です。自由世界をすべて滅ぼしたのはアメリカの人です。そうではないですか。アメリカの人から自由という言葉を片付けてしまわなければなりません。自分一人がよいといって、享楽の中の享楽を求めていくのですが、自分の息子、娘が泣き、妻が泣き、自分の一家が泣いているのに、それが幸福の道ですか。自由を求める前に愛を求めなければなりません。自由を求めようとせずに真の愛を求めなければならないのです。真の愛を求めれば、自由はついてくるようになっています。愛が本当の自由をもたらしてくれるのです。
(203-12 ~ 13、1990.6.10)
真の自由に対して論議してみれば、原則を離れた自由は真の自由ではなく、責任を逃れた自由は真の自由ではなく、実績を残さない自由は、真の自由ではありません。ですから、どのような自由行動であれ、原則を離れてはならず、責任をもたなければならず、その行動の実績がなければなりません。それでも、このような条件を具備できない立場で自由にしようとすれば、自然に天倫とは遠い距離に置かれるようになることを、皆さんは認識しなければなりません。
(4-318 ~ 319、1958.10.12)
3. 個人主義を離れ社会的連帯を要求する自由
― 宗教経典 ―
あなたは、この世で他の人の自由を保護することによってのみ、あなたの自由を保護できる。あなたはただ私が自由であるとき、自由でいることができる。
クラレンス・ダロウ
人間の自然的な自由は、地上のいかなる優れた権力からも束縛されず、そして、人間の意志や法的権威の下にはなく、ただ自然法を自己規則としてもつことを意味する。社会で人間の自由とは、国家内に同意によって確立された法的権威の上に、何かの立法権の下にもないのであり、立法府が自らに付与された信託によって制定するもの以外の、いかなる意志の支配や法の拘束にも従属しないことを意味する。したがって自由というのは……人ごとに自分がしたいと思うことを行い、自分が好むとおりに生活し、何かの法によって縛られない自由ではない。しかし、政府のもとで人間の自由は、その社会のすべての人に共通的で、その社会で確立された立法権によって制定された一定の規則に従って生きていくのである。
ジョン・ロック統治二論2、4.22(ヒューマニズム)
人が社会契約によって失うものは、自然的自由と、もとうとするすべてのものに対する無制限の権利である。彼が得るものは、市民の自由と所有したすべてのものの所有権である。
ジャン、ジャック・ルソー社会契約について(ヒューマニズム)
彼らは人権の重要性をあまりに強調しすぎるように見えるが、実際にはそれを無惨に否定する。このような矛盾の根には、自由という概念がある。このとき「自由」は、絶対的に独立した個人を強調し、社会的結束と寛容、奉仕は念頭に置かない。時折、利他主義と同情心の名で接近することもある。しかし、このような文化は、結局個人の自由概念を完全に否定するものであり、結局は、「弱者に対する強者の自由」の概念に帰結するという事実を否定することはできない。これは、ちょうど主なる神がカインに、「お前の弟アベルは、どこにいるのか」と尋ねられたとき、カインが言った答えと同じだ。カインはこのように答えた。「知りません。私は弟の番人でしょうか」(創世記4.9)。
そうだ、すべての人は、自分たちの「兄弟」を守る人である。なぜなら、神が私達に互いを任せられたからである。つけ加えて、神が私達に関係性を含む自由を許諾されたという側面からもそうである。人に奉仕するとき、これは創造主が下さった最大の贈り物なのである。……しかし、個人的次元の自由ばかりを絶対視すれば、自由本来の内容は消え去って空になってしまい、その真の意味と権威が否定される。
事実、より深刻な側面がある。これ以上自由と真理の結合を認め尊重しないとき、そのような自由は結局、自分を否定し、破壊してしまい、他人までも破壊に導き得る。伝統と権威から抜け出そうとする欲望に起因する自由は、その上に最も普遍的で客観的で、個人と社会の根幹を成す真理の内容までも否定してしまう。そして結局、その人は善悪に対する真理を自分なりの観点で理解する。しかし、このような観点は、主観的で変わり易く、自己中心的な理解と気まぐれにすぎない。
間違った自由は、社会的関係にも深刻な歪曲をもたらす。絶対的自律という側面から「自分」を強調しすぎれば、結局は互いが互いを拒否するところまで至る。私以外の他の人はすべて敵になり、……社会はただ何の紐帯感もなく共存している個人の集合程度とみなされる。……そして、社会的関係を結ぶことは、完全相対主義の流れる砂の中に身を投じるのと同じことになる。協議できないものがなく、取引できないものもない。はなはだしくは、人間の根本権利の中で最高の生命権までも協議の対象になってしまった。
教皇ヨハネ・パウロ2 世いのちの福音(キリスト教)
― み言選集 ―
ために生きて従う、そこではすべてのものが解放です。ために生きれば、自分も解放されますが、ために生きること自体が解放になります。相対が解放されるのです。それで、「ために生きなさい」と言うのです。
(323-73、2000.5.31)
皆さんが以前に「自由」と言っていましたが、自由とは何ですか。自由は自己主張することです。自己主張するにおいて最大の楯とは、自由です。10 人が自由を主張すれば、それぞれの性格が異なり、趣味が異なるため、10 人の境界線が生じることを知らなければなりません。この西欧社会は、自由のためにすべて滅んでしまっています。今日の自由世界が自由を主張するのですが、皆さん、自由という言葉を本当に恐ろしく思わなければなりません。自由とは何ですか。神様とこの世界の上に上がっていって「自由」と言うならば、それは誰もが願います。ところが、このように下で個人を中心とする自由が、どこにあるのかというのです。
(107-272 ~ 274、1980.6.1)
より次元の高い秩序を完全に維持するための主張から自由が出てきたのであって、秩序を破綻させ、体制を破綻させるために出てきたのではありません。今日の若者たちが、「私達が1番だ! 食べて、踊って、ロックミュージックを楽しんで、ディスコダンスするのが1番だ」、このように言います。社会と国家と制度をすべて破綻させ、無視してしまい、秩序を破綻させるのが自由ですか。それは放縦であり、破壊的な悪魔の操作法であることを知らなければなりません。
(116-102 ~ 103、1981.12.27)
自由であれば自由であるほど、その世界は秩序と規約が守られなければなりません。精密な機械であればあるほど、縦横に原理原則によって秩序どおりに、法則的な軌道に従って動くのです。このような法則に従うようになるとき、自由な活動の結果が出てくるようになります。これは、今日の科学文明と社会制度を中心として見るとき、否定できません。この社会の構造も自由な形態を必要としています。人間だけ自由を必要とし、社会制度は自由を必要としないのですか。
社会制度も人間と相応するものなので、社会制度が組織と体系の既成の規制のもとで形成されていれば、人間はその体系化された制度に応じて、そこに備えられなければならず、それを主体的な立場で、かえって保障させてあげなければなりません。そのようにしなければならない人間だという立場から見れば、放縦な自由はあり得ません。行くところには必ず道が設定されなければなりません。方向が必要です。今日、自由主義思想は無方向です。自分の好きなようにするのに、方向があるでしょうか。しかし、方向のない心がどこにありますか。そのような思考は、滅亡の思考です。
(49-190 ~ 193、1971.10.10)
彼らに最後に残るものとは何でしょうか。孤独が残るのです。それで、この孤独が極致に達する境地に入っていくようになるときには、あなたも信じられず、私も信じられない、不信の自らになるのです。そして、孤独と不信の自らになるとき、宇宙的な恐怖が支配するのであり、結局は自滅を招いてしまいます。今日の歴史は、このような趨勢で動いているのです。ですから、私達が自由を叫ぼうとすれば、過去に叫んでいた自由や、今日叫んでいる無責任な自由ではない、神様の愛の理念が同伴した真の自由を叫ばなければならず、理念的であると同時に、心情に通じ得る自由を叫ばなければなりません。
(4-319 ~ 320、1958.10.12)
6) 平等
すべての宗教経典は、貧しくても裕福でも、黒人でも白人でも、男性でも女性でも、束洋人でも西洋人でも関係なく、すべての人が平等だと宣言する。しかし、この高貴な理想は実際とは全く異なる。私達の制限された文化的見解から、異質民族を差別し、偏見をもって相対する傾向がある。平等原則を宣言する民主社会でも、人種的、文化的差別はいまだに広まっている。
平等の基礎は何か。第1に、平等の基礎はアブラハム系統の宗教の信仰者はみな、創造主、神様から創造されたという点、アダムとエバを父母とみなすということである。第2に、すべての人を平等に扱うべきだという倫理的法的規定である。第3に、人種や階級に関係なく、すべての人は同じく、悟りと自我実現を成就できるということである。しかし、文鮮明先生の観点によれば、これらは真の平等を成すための十分条件ではない。文先生は、真の平等は神様の愛と利他的人生に基づいた実践が基礎にならなければならないとされ、思想、人種、文化を連結する最善の方策は、すべての偏見を愛の炎で燃やせる超人種的、超文化的な祝福結婚だと主張される。
1. 共通父母、共通人類、そして神的可能性による平等の土台
― 宗教経典 ―
我々は皆、唯一の父を持っているではないか。我々を創造されたのは唯一の神ではないか。
マラキ書2.10(キリスト教)
人びとよ、なんじらの主を畏れまつれ、かれはひとりからなんじらをつくり、また同類のその配偶をつくりたまい、かれら両人から、無数の男と女をふやし広めたもう方であられる。
クルアーン4.1(イスラーム)
人間たちの中にただ一人(アダム)だけが平和のために創造された。したがって、誰も「私達の父があなたの父より偉大だ」と言うことはできない。
ミシュナ、サンヘドリン4.5(ユダヤ教)
そこではもはや、ユダヤ人もギリシァ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。
ガラテヤの信徒への手紙3.28 (キリストト教)
私は万物に対して平等である。私には憎むものも好きなものもない。
バガヴァッド・ギーター9.29 (ヒンドゥー教)
高山にくらしているもたにそこに
くらしているもをなしたまひぃ
おふでさき13.45 (天理教)
先生がいわれた、「教育〔による違い〕はあるが、〔生まれつきの〕類別はない。〔だれでも教育によって立派になる。〕」
論語15.39 (儒教)
実に、私に帰依すれば、生まれの悪い者でも、婦人でも、ヴァイシャ(生産業者)でも、シュードラ(従僕)でも、最高の帰趨に達する。いわんや福徳あるバラモンたちや、王仙である信者たちはなおさらである。この無常で不幸な世に生まれたから、私のみを信愛せよ。
バガヴァッド・ギーター9.32 ~ 33(ヒンドゥー教)
われは、(バラモン女の)胎から生れ(バラモンの)母から生れた人をバラモンと呼ぶのではない。かれは「〈きみよ〉といって呼びかける者」といわれる。かれは何か所有物の思いにとらわれている。無一物であって執著のない人、かれをわれは〈バラモン〉と呼ぶ。
法句経396(仏教)
五祖は言われた、「お前は嶺南の人間で、そのうえかつりょうだ。どうして仏になることができようか。」そこで私は申し上げた、「人間には南と北の区別がございますが、仏性にはもともと南北の違いはございません。かつりょうという身分は和尚と違いますが、仏性にはどんな差別がございましょうか。」
六祖壇経1(仏教)
人間は互いに固有な体型と皮膚の色、歩き方、そして声をもっているが、また、もって生まれた長所と能力が互いに異なるが、結局、すべての人間が最初につくられた先祖から出てきた子孫だという事実には疑う余地がない。
アウグスティヌス神の国15.8(キリスト教)
― み言選集 ―
皆さんは、アメリカ人でも、イギリス人でも、ドイツ人でも、黒人でも、白人でも、黄色人でも、すべて一つです。完全に一つです。
(132-130、1984.5.27)
誰もが同等に神様の愛に同参できる、そのような道があることを願うのですが、そのような道とは神様を中心とする家庭を成し遂げることです。
(97-266、1978.3.19)
心情的な世界は、平等である。
御旨の道、心情
人は、優れていても、劣っていても、その母親が生んで、同じわかめスープと御飯を食べさせ、同じ愛を与えたのです。自分自身の個人の高貴な生命体を、父母の前に任せて育ってきたのは、みな同じなのです。父母の心情には、人を差別することなど、あるはずがありません。
(33-164、1970.8.11)
人は平均的なものを願います。同じものを、水平を願うのです。それでは、あらゆる人、あらゆる環境が異なるそのような人たちを同等にできるものとはいったい何でしょうか。愛です。愛らしい赤ん坊には何もありません。言葉も話すことができず、何の価値もないようですが、見ればかわいいのです。見ればキスしたくなり、このように手で触れたくなるのです。赤ん坊も喜びます。そこには高い、低いがありません。どこでも、すべて水平です。どこでも、平均化させ得る能力があるのです。
(254-208、1994.2.13)
西洋人が見て泣く場面を、東洋人は見て泣きませんか。西洋人が涙を流す場面は、東洋人が見ても涙を流すのです。韓国人が見て涙を流す場面は、怨讐である日本人が見ても涙を流すのです。情的な世界は統一されています。お母さん、お父さんが子供を愛するにおいて、韓国の父母は愛さないのに、日本の父母は愛しますか。そうではないでしょう? 統一されているというのです。
(41-331、1971.2.18)
2. 人種平等
― 宗教経典 ―
なんじらは見ないか、神は天から雨を降らせたもう。それでわれは、色とりどりのくだものを実らせる。また山々には、白や赤の縞があり、その他多くの色合いで、真っ黒いところもある。また人間も鳥獣家畜も、同色異色とりどりである。神のしもべのうち、知識のある者のみ、かれを畏れる。
クルアーン35.27 ~ 28(イスラーム)
エジプトから青銅の品々が到来し、クシュは、神に向かって手を伸べる。
詩編68.32 (キリスト教)
イスラエルの民たちよ、あなた達が私にとって、エチオピアの民と何が違うのか。主の言葉であられる。イスラエルをエジプトから導きだしたのが私なら、パレスチナの民をカフトルから連れ出してきたのも私ではないか。
ミシュナ、アヴォート9.7 (ユダヤ教)
使徒がアブ・トゥルに、「アブ・トゥルよ、お前は彼らより公正な者であるのに、黒人や黄色人から、好感を得ることができていない」と言われた。
アルガマ・アルサガイル3.2740 (イスラーム)
栄光の主であられる神は、アーリヤたちと賤民たち全員に属している。
リグ・ヴェーダ8.51.9 (ヒンドゥー教)
小さなものでも、大きなものでも、四足獣にも、(種類の区別のあることを)知れ。かれらの特徴は生れにもとづいているのである。かれらの生れは、いろいろと異っているからである。腹を足としていて背の長い匍うものにも(種類の区別のあることを)知れ。かれらの特徴は生れにもとづいている。かれらの生れは、いろいろと異っているからである。
次に、水の中に生まれ水に棲む魚どもにも、(種類の区別のあることを)知れ。かれらの特徴は生れにもとづいている。かれらの生れは、いろいろと異っているからである。次に、翼を乗物として虚空を飛ぶ鳥どもにも、(種類の区別のあることを)知れ。かれらの特徴は生れにもとづいている。かれらの生れは、いろいろと異っているからである。
これらの生類には生れにもとづく特徴はいろいろと異っているが、人類にはそのように生れにもとづく特徴がいろいろと異っているということはない。髪についても、頭についても、耳についても、眼についても、口についても、鼻についても、唇についても、眉についても、首についても、肩についても、腹についても、背についても、臀についても、胸についても、陰所についても、交合についでも、手についても、足についても、指についても、爪についても、脛についても、腿についても、容色についても、音声についても、他の生類の中にあるような、生れにもとづく特徴(の区別)は(人類のうちには)決して存在しない。身を禀けた生きものの間ではそれぞれ区別があるが、人間のあいだではこの区別は存在しない。人間のあいだで区別表示が説かれるのは、ただ名称によるのみ。
スッタニバータ603 ~ 611(仏教)
彼らは、一方では躊躇し、好奇心で、または同情心で私を見つめ、私に近づいてきた。そしてそのとき、「問題になることがどのように感じられるのですか」と直接的に言う代わりに、「私は、私達の村で卓越した有色人を知っています」、または「私はメカニックスヴィルで戦いました」、または「この南部人の無道さがあなたの血を煮えたぎらせるのではないですか」と言った。
これに対して私は、さも必要なことのように笑顔をつくったり、関心を見せたり、煮えたぎるものを抑えたりした。本当の質問は「問題になることがどのように感じられるのですか」だ。私は一言も答えなかった。
しかし、特にこのような時期とヨーロッパでのことを除外しては、その他のいかなるものでもなかった人としてさえ、問題になることは異常な経験だ。言わば、啓示がある日突然現れたのは、飛び回っていた少年時代の初期だ。私はその影が私をなでていったときのことをよく覚えている。
……とても小さな木製の学校の建物で、あるものが少年だちと少女たちの頭の中で、一束10 セントのきれいな訪問カードを買って交換することを提案した。その交換は、新しく来た背の高い少年が私のカードをちらっと見つめては、断固として拒絶するまで楽しんだ。そのとき私は、人とは違うことが突然はっきりとした。また、まるで心の生活で熱望したが、巨大な幕によって彼らの世界から排斥されたような感じだった。
ウィリアム・エドワード・バーグハード・デュボイス
すべてのアメリカ人が、皮膚の色ではなく個人の個性で評価されるその日を夢見ています
マーティン・ルーサー・キング・ジュニア(キリスト教)
― み言選集 ―
真の愛の色は、何ですか。愛には色がありません。色を語る人は、真の愛をもてません。色を目で見る人は、真の愛がない人です。
(161-22、1987.1.1)
神様の目には、黒い色、黄色い色、白い色の区別がありません。神様の目は、愛の色盲の目です。外的なカラーを御覧になりません。心情のカラーが、より華々しく強いカラーになるのです。
(258-122、1994.3.17)
神様が理想とする芸術作品は何ですか。人を中心として見るとき、黒白が闘って傑作品になれますか。白人たちは、白いペイントだけで絵を描いてみてください。絵ができるか描いてみてください。できません。なぜできないのですか。絵を描くときは、黒い色も必要で、中間の色もすべて必要です。絵を描くときは、背景が必ず必要なのです。ところが、その背景を白くする人の絵を見たことがありますか。では、何がなければならないのですか。いろいろな色がなければなりません。様々な色がなければならないのです。そうしてこそ、それが傑作品です。一体が展開するためには、そのようなものがすべて調和していなければなりません。和合しなければならないのです。
(96-220、1978.1.22)
ムーニーは、双子を生むとき、一人は黒人を生み、一人は黄色人を生めばよいと思います。白人の女性がそのようになれば、どれほど素晴らしいですか。三つの人種が一つになり、それがどれほど素晴らしいかというのです。神様が見るとき、「この狂った女性は! そのようにする心ではない」、このように言われますか。白人の女性が黒人と黄色人を生んでお乳を与えるのを見るとき、神様が「あれは滅んでしまえ」と言うでしょうか、「いやあ! 素晴らしい。感謝だ。アーメン!」と言いますか。皆さんは、黄色い花に黄色いちょうばかりが来ればおもしろくないのです。白いちょうも来て、黒いちょうも来て、黄色いちょうも飛んできてこそ、それが素晴らしいのです。
(130-102 ~ 103、1984.1.1)
イエス様が十字架を背負っていくとき、助けてくれた人が黒人です。クレネ人のシモンは黒人です。終末が来れば、黒人が登場するのです。
(91-219、1977.2.20)
私達が黒人の手を握るときには、歴史的に涙が交錯したその手を白人が握ることで、事情を分かち合える高次的な関係が実を結んだことを知らなければなりません。その次には、天と地が分かれて手をつなげなかったものが、再び手をつなぐのです。白いものが天を象徴するとすれば、黒いものは地を象徴します。黒白が手をつなぐことは、地と天が手をつなぐことだと考えます。雪が積もった高い山が白人であれば、最も下の枯れ葉の積もった谷は黒人です。この二つが手をつなぐことは、その高い名山の価値を表す形を形成していることを知らなければなりません。白人を象徴する山頂が、「私には、あの深い谷は必要ない!」、また谷が「あの山頂は、必要ない!」と言えば、それは名山になれないのです。「私は、白人は必要ない!」、「私は、黒人は必要ない!」、それも同じことです。
(95-140、1977.11.6)
皮膚の色が違うのは、住んでいる地域の保護色に合わせるためであり、気候と環境の影響によるものなのです。ですから、雪が多い地域には白人がたくさんいます。反対に太陽の光が強いアフリカのような所には、黒人がたくさんいるのです。しかし、人間は根本的に同じです。例えば、血の色や肉と骨の形はすべて同じです。そして、お互いに愛することも同じです。ですから、人種の差別はあり得ません。それで、自然の順理と原則を尊重するので、五色人種が結婚するようになったのです。黒人と白人が結婚することは、北極と南極が一つになることと同じです。また黄色人と黒人が結婚すれば、お互いの良い点を伝授してより良い子孫が生まれると思うのです。愛がある所には葛藤がありません。たとえ皆様の生まれた故郷と祖国が違ったとしても、一つ間違いないことは、信仰の本郷であり、平和と統一の本郷地とは、真の愛を中心とした祖国と故郷だということなのです。
(315-212、2000.2.2)
この宇宙は、自然なバランスをとっていくようになっています。見てください。この唇も、神様がどれほど絶妙につくりましたか。皆さん白人は、顔が白いので青い目をしています。真っ黒な目より、青い目がどれほど魅力的ですか。青い目は、横の白目がぼんやりと見えます。瞳ははっきりと真っ青で刺激的なので、白目が刺激的ではいけません。しかし、黒人や黄色人を見ると、何が刺激的かというと白目が刺激的だというのです。黒い瞳だからです。黒人の目は何が魅力的かというと、白目が魅力的です。青い瞳だと白目がぼんやりするのです。
そして、笑うとき、この歯がどれほど刺激的かというのです。1度笑ってみてください。黒人の人たち、笑ってみてください。そして、舌が真っ赤でしょう? どれほど刺激的ですか。そして、黒人たちは、いくら歯を出して笑っても、舌を出す資格がありません。見てください。これがどれほど魅力的ですか。ですから、黒人たちはできるだけ歯が見えなければなりません。黒人たちはなぜ唇が厚いのでしょうか。自然に歯が見えるように厚くなければならないのです。それは本当です。すべて魅力があります。そのように見るとき、神様は素晴らしい方です。これからは、白人たちが黒人を好む時が来ると思うのです。なぜそう思うのかというと、白人の女性たちは刺激的なもの、多様な刺激を好むからです。
今まで人間世界では、この本然の状態を破壊し、本然の状態を無視する者たちが多かったのです。黒人たちを見ると汚れているようですが、汚れざるを得ません。この谷間にすべて押し込んで腐るので、においがします。それは悪いことではありません。そうしてこそ肥料になって、生命が繁殖できるのです。人類世界で黒人がすべて血と汗を流し、白人社会の文化を創造するときの肥料になりました。それを知らなければなりません。アメリカの文化を誰がつくったのかというと、黒人たちがつくったことを知らなければなりません。
それで、ここは生命力があり、愛が宿ることができるのです。それで黒人たちは強いのです。また、100 パーセント信じます。誰でもよく信じてくれます。なぜですか。これは谷なので、何でもすべて積み重なるのです。白人は何かというと、高い山頂と同じです。ここは何もつきません。薄情です。ですから、白人は信じられません。冷淡だというのです。白人たちは、馬が脚を折ると銃で殺してしまうのです。それは良くありません。それは自然主義、本然の形態ではないのです。本然の人は、そのようにしません。黒人もそのようにしないというのです。白人は、愛においても、決闘して決めます。命を保護するところに理想的な愛があるのであって、命を懸けて決闘するところに理想的な愛はありません。このようなあらゆることが分かるとき、ここに文化のあらゆる旗印や現在のあらゆることも、この本然の状態を知ることによって理解し、是正できる原則を見いだせるのです。
(107-308 ~ 309、1980.6.8)
3. 天の国には人種や階級の差別がない
― 宗教経典 ―
何事も同じで、同じひとつのことが善人にも悪人にも良い人にも、清い人にも不浄な人にも、いけにえをささげる人にもささげない人にも臨む。良い人に起こることが罪を犯す人にも起こり、誓いを立てる人に起こることが、誓いを恐れる人にも起こる。太陽の下に起こるすべてのことの中で最も悪いのは、だれにでも同じひとつのことが臨むこと、その上、生きている間、人の心は悪に満ち、思いは狂っていて、その後は死ぬだけだということ。
コヘレトの言葉9.2 ~ 3 (キリスト教)
すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが下り、すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。神は人を分け隔てなさいません。
ローマの信徒への手紙2.9 ~ 11(キリスト教)
すべての人類が聖なる光の宝庫であることを知らなければならない。彼らの階級を問うてはならない。これ以降、階級は消えていくのである。
アーディ・グラント、アーサー、M.1, p.349(シーク教)
人間として私達は死の前にすべて平等である。
プブリウス・シルス(ヘレニズム)
― み言選集 ―
霊界に行けば色がありません。あまりに明るくて銀色のように見えるのです。銀色に見えても、あまりに燦々と輝いているので、紫色に見えるのです。
(293-224、1998.5.26)
もし霊界に白人と黒人が行って、白人が天国に入っていく時、黒人の番人を立て、黒人が天国へ入っていくとき、白人の番人を立てたとすれば、どうするでしょうか。後ろに戻りますか。では、どうしますか。その番人が「行くことはできない」と叱責してたたけば、「私を殺してください。昔は分からなかった」と言いながら、ただ取りすがって「助けてください!」と、このように頼みますか、逃げますか。
(116-110、1981.12.27)
4. 平等基準による人生
― 宗教経典 ―
家畜を打ち殺す者は、それを償うことができるが、人を打ち殺す者は死刑に処せられる。あなた達に対する刑罰は寄留する者にも土地に生まれた者にも同様に適用される。私はあなた達の神、主である。モーセがイスラエルの人々に告げ終えると、彼らは神を冒pした男を宿営の外に連れ出して石で打ち殺した。イスラエルの人々は主がモーセに命じられたとおりに行った。
レビ記24.21 ~ 23(キリスト教)
寄留者があなたの土地に共に住んでいるなら、彼を虐げてはならない。あなた達のもとに寄留する者をあなた達のうちの土地に生まれた者同様に扱い、自分自身のように愛しなさい。なぜなら、あなた達もエジプトの国においては寄留者であったからである。私はあなた達の神、主である。
レビ記19.33 ~ 34(キリスト教)
ある王子が、牧童が寝ているときに顔を叩いた。牧童がこれに対して、ウマール・ビン・アル・カッティブに訴えると、彼は、同じやり方で王子にやり返さなければならなかったという判決を下してくれた。王子が、「私は王子であり、彼はただの平民なのだから、どうして彼が私をたたくことができようか」と言った。ウマールは、「イスラームでは、あなた達は同等な立場にいる」と答えた。
ムハマド・アーマド・アル・マウラ(注26)アラブの話126.2 (イスラーム)
もし私の聖なる教団で授戒したバラモン、クシャトリアなどが、依然としてカースト制度に同意し、そこで意気揚揚としていれば、彼らはまるで生まれ変わることのできなかった存在のように行動するのである。
ストーラクリタンカ1.13.10 ~ 11(ジャイナ教)
白人が黒人に、アラブ人が非アラブ人に、富者が貧しい者に、強者が弱者に、男性が女性に優越感をもつのは、不適切で過ったことである。
イブン・マージャ・ハディース(イスラーム)
奴隷たち、キリストに従うように、恐れおののき、真心を込めて、肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとして、うわべだけで仕えるのではなく、キリストの奴隷として、心から神の御心を行い、人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。あなたがたも知っているとおり、奴隷であっても自由な身分の者であっても、善いことを行えば、だれでも主から報いを受けるのです。主人たち、同じように奴隷を扱いなさい。彼らを脅すのはやめなさい。あなたがたも知っているとおり、彼らにもあなたがたにも同じ主人が天におられ、人を分け隔てなさらないのです。
エぺソの信徒への手紙6.5 ~9(キリスト教)
慈悲深い人は、僕が主人と平等でなければならないと主張する。あなたは白いパンを食べ、僕に黒いパンを食べさせてはいけない。あなたは古いぶどう酒を飲み、僕には今仕込んだぶどう酒を飲ませてはいけない。あなたは毛皮で覆われた寝台で眠りながら、僕にはくずの寝台で寝かせてはいけない。ゆえに、次のような言葉がある。「ヘブライの僕を得ることは主人を得ることと同じだ」。
タルムード、キッドゥシーン20a(ユダヤ教)
あなたがあなたの奴隷だと呼ぶその人も、同じ人間として生まれたのであり、同じ良き天のもとにいて、あなたが息をするように息をして、あなたが生きるように生き、あなたが死ぬように死ぬのだ! あなたは彼を自由人と呼ぶかもしれず、彼はあなたを奴隷と呼ぶかもしれない。可能性は同じなのだから。
セネカ道徳書簡47(ヘレニズム)
わずか80 年前に私達は、「すべての人は平等に創造された」と宣言することによって出発しました。ところが今、その出発点から私達は、ある人が他の人を奴隷にすることが「自治の神聖な権利」という異なる宣言を下しています。これらの原理は共存することができません。それらは神と、貪欲の神のように相反するものです。どちらか一方を固守する人は、誰でももう一方を嫌悪しなければなりません。
エイブラハム・リンカーン
― み言選集 ―
人事処置を間違えて、人権を蹂躙するなというのです。男性であれ女性であれ、黒人であれ白人であれ、平等です。人権を差別して、人権を蹂躙してはいけません。
(342-298、2001.1.13)
愛の世界は、上下を区別しない。
御旨の道、天国
南米に対して先生が関心をもつのは、食糧問題のためです。人類の1500 万人から2000 万人が1年に死んでいきます。一日に6万人が死んでいくというのです。さらには、5歳以下が35 パーセント死んでいきます。誰がこれに責任をもつのですか。先進国が責任をもたないので、真の父母だという人がこれを考えなければ、あの国に行って問題になります。
それで先生は、そのためにこれから伝統をつくらなければなりません。先生の日常生活は、その人たちを救うための節約の生活です。数十年前からその準備をしてきました。先生は普通、ネクタイを締めずに歩きます。これからネクタイ返納です。家に帰れば裸足で過ごします。靴下代を受け取らなければなりません。今からそのようにしなければなりません。
タオルも大きなものは使いません。この四角いもの、あるいは七分ぐらいのものを使います。今まで数十年間そのように使ってきたので、私がワイキキ・ホテルに行くと、色とりどりのタオルが数十枚ありますが、一つも使いません。これが公式になりました。「先生はタオルも使うことを知らない」と思うかもしれませんが、違います。伝統とは一度にはできないのです。
(273-53、1995.10.21)
愛を中心として、ために生きてあげるときだけが平等です。
(107-152、1980.4.20)
人種差別や宗教的葛藤、そして国粋主義は、人権蹂躙に対する原因を提供するようになります。力で支配する時代は終わりました。そのような時代は、既に過ぎていったのです。21 世紀は、共に生きていく超人種、超国家、超宗教の時代です。真の愛が支配する時代が開かれたということです。
(369-221、2002.2.15)
今まで平等圏がなかったので、その平等圏をつくる作戦とは何かというと、他のために犠牲となり、福を祈ってあげ、打たれていきながらその打った者たちを屈服させ、同じ福を与えることによって、ここには完全平等圏の役事が起きるのです。
(56-335、1972.5.18)
歴史的上層と下層の人を一体化させるために、上層の人たちは下層に同化させ、下層の人たちは上層に引き上げなければなりません。そのようにしようとすれば、絶対的価値の中心点が必要です。それが神様の愛なのです。神様の愛とは何でしょうか。それは、最上級の人たちにも同じようにでき、また最下級の人たちにも同じようにできます。神様の愛は、決して一方向的なものではありません。神様の愛は、球形に回転作用をする力です。最高から最低に至るまで、自由に移動できます。それがどこに現れても、すべてのところで全体から歓迎されます。
神様の愛は、いつ、どこででも絶対的な価値をもっています。私達が神様の愛と共にいれば幸福であり、あらゆるものが満たされ、保障されます。最低のところにいても最高の人を愛することができ、最高の立場にいても、最低の立場にいる人を愛することができるのです。このように、この上なく自由です。このような神様の愛の中にいる人は、世界のどこに行っても大歓迎を受けるで
しょう。
(115-172 ~ 173、1981.11.10)
自分が白人だからといって、「ああ、私は、白人だけが好きだ。白人のおじいさん、おばあさんを愛するので、黒人のおじいさん、おばあさん、アジア人のおじ.いさん、おばあさんは愛せない。身なりの良い立派なおじいさん、おばあさんを愛するのであって、あの未開のおじいさん、おばあさんは愛せない」と考えてはいけません。そのおじいさん、おばあさんを自分のおじいさん、おばあさんのように愛さなければならないのです。自分の家でおじいさん、おばあさんを愛するように愛さなければなりません。それが公式です。
(130-274、1984.2.5)
黒人であれ白人であれ、平等です。人権を差別して人権を蹂躙してはいけません。先生は、黒人だ何だと差別したり、大学を出たとか、そのようなことですべてを決めるのではありません。人権を正しく指導する真の愛をもって、「ために生きる」愛をもって暮らす人が主流です。天地創造は、そこから始まりました。その主流思想をすべて流してしまうのは許せません。弟の体が不自由だからといって、弟を無視することはできません。親戚を無視することはできません。世の中は、すべて無視するでしょう? 知識があって何々大学を出たという人は、高卒の人でも無視してしまうのです。これは、人権蹂躙になるので
す。
(342-298、2001.1.13)
先日、ある中国料理店に行ったのですが、ネクタイをしていないから出ていきなさいと言うので、引き返してきました。出てくるときに、後ろ指を指されました。私はアメリカの食口を20 人くらい連れていったのですが、ネクタイを出してつけてくださいと言うのです。それで私は気分が悪くて出てきてしまいました。ネクタイの締め方が分からなくてそのようにしたのではありません。出てくるときにひそひそ話しているのです。20 人くらいを連れ回り、すごい車を乗り回している人が、そのようにネクタイもしないで歩き回るとは夢にも思わなかったのでしょう。
その人たちは商売を誤りました。私達のような人が宣伝すれば、たくさん売ることができていたでしょう。次からはそこに行きません。ネクタイ一つで人をそのように扱ってはいけません。私は二度と行きませんでした。レバレンド・ムーンもそうなので、黒人たちが入っていけば足で蹴飛ばされるのではないか、そのように思ったのです。
(93-67 ~ 68、1977.5.1)
民主主義の根本的な伝統は自由だとか平等だとか言いますが、そのようなものではありません。そのあらゆる伝統には愛がなければなりません。平等というものを見てみるとき、女性と男性は平等になることができますか。愛する男性と女性がいるのですが、その男性と女性が平等ではないそのような素性をもった男性と女性なので、願う平等の世界、自由の世界、あらゆる民主主義の世界というものは平等になり得ないのです。
それでは、何をもって平等になりますか。愛を抜かしてはなれません。アメリカというこの民主主義の世界の中に愛の概念がありますか。自由という概念の中に愛の概念がありますか。平等という概念の中に愛の概念がありますか。ありません。
ここに真の愛をもってくれば、すべてできます。男性と女性も平等になれ、その次に、その愛を中心として自由になれます。その愛を中心として民主主義が形成されるのです。
(230-87 ~ 88、1992.4.26)
今後、五色人種が一つになります。愛というものは一つなので、東西南北の方向と階層が違うからといって、その軸が異なるものではありません。同じなので、真心のこもった愛の心に咲く花は、ほかのいかなる種類の花でもなく、神様の愛の種類の花です。したがって、南極に行って咲いても、北極に行って咲いても、東極に行って咲いても、西極に行って咲いても同じだというのです。分かりますか。このような観点から、今日、超民族的な結婚観が可能なのです。
(101-74 ~ 75、1978.10.28)
7) 女性の権利
先の世紀に始まった女性の権利と男女平等のための運動は、人間の進歩のための主要なエネルギーである。しかし、豊富な女性主義的思考と傾向の中で経典は、私達に何が最上で最も持続的なものなのかを区別するように教える。この節は特別に女性の社会的権利を扱う。より根本的な男女関係は結婚である。結婚において性の役割と男女平等の問題が格別な関心の中で扱われる。(第19章6.「結婚生活の倫理」参照)
女性への持続的な虐待に対抗し、経典は、神様の前で男女の本質的平等と尊厳性を確認する。経典はまた、教育と最上の信仰目標の追求において女性の権利を明確に語っている。女性は悟りに適していないという悪魔のささやきを克服する女僧の決意を称賛する、仏陀の章句が際立っている。
一方経典は、女性的尊厳性の根拠として、子女を生む伝統的女性の役割を激励する。その上、女性の従属性を、堕落と人類始祖の女性が犯した罪の結果だとして証拠を提示する経典がある。文鮮明先生は、女性の従属性に関して、少なくとも部分的には、男性を堕落させた「天使長」が原因であるとする独特の批判を加えている。
男性と女性が身長と肉体的能力において、明確に異なることは否認できない。仏教の経典は、心が唯一の実在という観点から、そのような外形的な差が何かの意味をもつという考えはこっけいと見る。創造された世界を実在と確信する文鮮明先生にとって、それは無意味なことである。むしろ先生は、愛が男女平等の基礎と教える。先生は、出産を女性に対する神様の特別な贈り物とみなし、その伝統的価値を支持する。しかし、先生は同時に、社会で指導者の位置を熱望する女性を称賛する。そして、女性の追従者たちが伝統的な男性の役割を担当するように激励する。このような観点から、先生の考えは、アメリカの先駆的女性主義者としてここに引用されたスーザン・アンソニーの夢と共鳴する。
1. 男女平等の土台
― 宗教経典 ―
神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。
創世記1.27(キリスト教)
主はかれらの祈りを聞き入れたまい、仰せられた、まことにわしは、男でも女でも、なんじらのだれの働いた働きもむなしゅうしないであろう。なんじらは互いに同士である。
クルアーン3.195 (イスラーム)
女たちが敬われるときは神々は満足する。しかし敬われないときはいっさいの祭儀は果報をもたらさない。女の親族が悲しむときはその家はたちまちに滅ぶ。しかし彼女たちが悲しまないときはその家は常に栄える。
マヌ法典3.56 ~ 57(ヒンドゥー教)
私の愛する姉妹、女性たちよ! あなた達はこの世で苦難の人生を生きてきた。しかし、あなた達がいなければ、この世は現在のようにはなっていなかっただろう。ワカン・タンカは、あなた達が多くの悲しみを耐え忍び、悲嘆の中にいる人たちを慰労することを願う。(注28)あなた達の手によって家庭は維持される。
神聖なパイプに関するスー族の伝承(アメリカ先住民の宗教)
ソーマー尼は、……托鉢したのち、食後に、食事から還ってきて、昼間の休息のために、うす暗い密林に入った。うす暗い密林をかきわけて入って、昼間の休息のために、ある樹木の根もとに坐した。そのとき悪魔・悪しき者は、ソーマー尼に、身の毛もよだつほどの恐怖を起こさせようとして、瞑想から離れ去らせようとして、ソーマー尼に近づいた。近づいてから、ソーマー尼に向かって、詩を以て語りかけた。「達成しがたくて、仙人たちのみが体得し得る境地は、二本の指ほどの〔僅かな〕知恵しかない女人がそれを体得することはできない」と。そこでソーマー尼はこのように考えた。「詩をとなえているこの者は、誰なのだろう? 人間なのであろうか? あるいは人間ならざる者なのであろうか?」と。
つづいてソーマー尼は、このように思った。「これは、悪魔・悪しき者が、私に、身の毛もよだつほどの恐怖を起こさせようとして、瞑想をやめさせようとして、詩をとなえているのだ」と。そこで、ソーマー尼は、「これは悪魔・悪しき者である」と知って、悪魔・悪しき者に詩を以て語りかけた。「心がよく安定し、知恵が現に生じているとき、
正しく真理を観察する者にとって、女人であることが、どうして妨げとなるでしょうか。『われは女であろうか?』『われは男であろうか?』また『われは何ものなのだろうか?』と、このように迷っている人こそ、悪魔が呼びかけるのにふさわしいのです。」そこで悪魔・悪しき者は、「ソーマー尼は私のことを知っているのだ」と気づいて、打ち萎れ、憂いに沈み、その場で消え失せた。
阿含経相応部i.128、尼僧に関する集成(仏教)
汝は女子なり。汝は男子なり。汝は童子なり。はたまた童女なり。汝は老人にして、杖に仗(よ)ってよろめしき歩む。汝は生まるるや一切処に現わる。
シヴェーターシヴァタラ・ウパニシャッド4.3(ヒンドゥー教)
シャーリプトラが言った。「あなたはどうして女身を転じて男の身とならないのですか?」天女は言った、「わたくしは十二年このかた、女人の性を求めて来ましたが、ついに不可得でありました。いったいどうして女身を転ずる要がありましょうか? 譬えば幻術師が幻の女をつくり出したようなものです。もしもひとが幻の女に『あなたはどうして女身を転じて男の身とならないのですか?』と問うたならば、この人は正しい問を発したと言えるでしょうか?」
シャーリプトラは答えた、「それは正しい問ではありません。幻には一定の特性はありません。どうしてそれを転ずる要がありましょうか?」天女は言った、「一切のことがらもまたそのとおりです。一定の特性はありません。〈女身を転じて男の身とならないのはなぜか?〉とどうして理由を問う必要がありましょうか?」と。天女は即時に神通力をもってシャーリプトラを変じて天女の如くならしめた。また天女は自ら身をかえてシャーリプトラの如くならしめた。そうしてシャーリプトラに問うて言った、「どうして女身を転じて男の身とならないのですか?」 シャーリプトラは天女のすがたをしながら答えて言った、「わたくしは女人の身となってしまいましたが、どうしてこのようなことになったのか解らないのです。」
天女が言った、「シャーリプトラさま。もしもあなたが御自分の〈女人の身〉を転ずることができるなら、一切の女人もまた女身を転ずることができるでしょう。あなたが実は女ではないのに女人を現わされたように、一切の女人もまたそれと同じです。かれらは女身を現わしているけれども、実は女ではないのです。だからこそ、仏は、一切のものは男に非ず、女に非ず、と説きたもうたのです。」(注29)
維摩経7(仏教)
― み言選集 ―
アメリカでも、いまだに女性の権利よりも男性が優勢で、女性たちが女権復帰運動、女権伸張運動を通して男女平等を主張しています。それで、アメリカの女性たちは少し違いますが、全世界の女性たちが、女性として生まれたことに恨を抱いて生きてきたという事実は歴史的に否定できません。アメリカで女性たちがいくら「社会がきちんと保障してほしい」と言っても、女性二人で男性一人に勝てますか、勝てませんか。このような点から、男性に生まれていれば良かったと思わない女性がいないというのです。
ですから、歴史的に世の中の人の中でかわいそうなのは、男性より女性です。歴史を通して見てみれば、今まで女性が男性を強奪しましたか、男性が女性を強奪しましたか。男性が女性を強奪しました。何パーセントくらいになると思いますか。90 パーセント以上でしょう。そのような意味で女性が、男性に対する敵愾心とともに、いつも女性の権利を心の中から追求してきたことは、否定できない事実です。神様がいるならば、そのようなことを解決してこれをすべて平等にして、これに反対して迫害する男性たちを屈服させることをせずに、なぜ今までそのままほうっておいたのでしょうか。これが問題です。
(243-268、1993.1.28)
平等権をどのようにして主張するのでしょうか。力で、外的に、そうでなければ情的にですか。愛です。愛をもてば、男性と対等になることができ、愛をもてば、いくら息子が大統領だとしても、その息子と母親は対等になれるのです。愛をもったところには、すべてのものが平等になれる内容があるという事実を知らなければなりません。そのような意味で、愛を中心に平和の家庭を願う男性と女性に、平等となる中心の核があるという事実を私達は知らなければなりません。
夫は、妻の懐に帰ることを願うのであり、妻は、夫が懐に帰ってきて一つになることを願うのです。ここには、低いものもなく、高いものもありません。それこそ、平等を体験するのです。他のところに平等がありますか。どこか他のところに平等があるか調べてみなさいというのです。男女の平等権は、平和な家庭においてのみ形成されるということを知らなければなりません。
(129-51 ~ 52、1983.10.1)
平等というものは、「私達」がいなければできません。「私」を中心としてはできないのです。「私達」でなければなりません。それを知らなければなりません。「私達」を中心とする平等であり、愛を中心とする平等です。それを知らなければなりません。個人を中心とする平等ではありません。
女権主義者も間違いであり、男権主義者も間違いだということです。人間主義者、人権主義者が正しいです。これをはっきりと知らなければなりません。「私達」と、愛を中心とする平等という言葉になるのであって、女性だけでは駄目です。
女権運動ではなく、男権運動でもありません。はっきりと知らなければなりません。
それでは、男性は誰のために生きなければなりませんか。女性は誰のために生きなければなりませんか。女性は男性のために生きなければならず、男性は女性のために生きるのです。これが人間はなぜ生きるのか、この地でどのように生きなければならないのかのすべての答えになり、哲学的なあらゆる質問に対する答えになるという結論です。
(131-109、1984.4.22)
人間が生きていきながら神様に会うことを願うように、神様も真の人間に会いたいと思われます。ところが、人間の中でも、男性か女性のどちらか一方に先に会いたいと言われれば、恐らく互いに不平を言うでしょう。したがって、神様は愛を前に立てざるを得なかったのです。愛さえ立てておけば、男性と女性が一緒に会うことができ、一緒に触れることができ、一緒に分かち合うことができるからです。世の中で最も貴いものがあるとすれば、男性と女性が互いに先にもとうと争うのです。それが愛であることを知れば、二人とも一つになり、互いにために生きて、それをもとうとするのです。
(300-213、1999.3.14)
2. 男性支配の原因としての人間堕落
― 宗教経典 ―
アダムは答えた。「あなたが私と共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」 主なる神は、蛇に向かって言われた。「このようなことをしたお前は、あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で、呪われるものとなった。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に、私は敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。」神は女に向かって言われた。「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め、彼はお前を支配する。」
創世記3.12 ~ 16(キリスト教)
すべての男の頭はキリスト、女の頭は男、そしてキリストの頭は神であるということです。男はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶるなら、自分の頭を侮辱することになります。女はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶらないなら、その頭を侮辱することになります。それは、髪の毛をそり落としたのと同じだからです。女が頭に物をかぶらないなら、髪の毛を切ってしまいなさい。女にとって髪の毛を切ったり、そり落としたりするのが恥ずかしいことなら、頭に物をかぶるべきです。
男は神の姿と栄光を映す者ですから、頭に物をかぶるべきではありません。しかし、女は男の栄光を映す者です。というのは、男が女から出て来たのではなく、女が男から出て来たのだし、男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。だから、女は天使たちのために、頭に力の印をかぶるべきです。いずれにせよ、主においては、男なしに女はなく、女なしに男はありません。
コリントの信徒への手紙一11.3~11(キリスト教)
私が天国をのぞいてみると、そこの居住者の多くが貧しい者であるのを見た。そして、(地獄の)火をのぞいてみると、そこの居住者の多くが女性だった。
ブハーリー・ハディース8.76.554 (イスラーム)
女性に敬意を示せ、女性は夫の僕ではない。女性は、支配ではなく指導を受けることのできる存在であることを見せてあげよ。女性は、小言を言わなければならない結婚不適格者ではない。夫は、夫人を操舵手のように扱え。人生の伴侶として尊重し、栄光を共に相続した人として接し、共有せよ。
女性の誘惑が最も深刻な誘惑だ。アダムもエバの誘いに引かれ、聖なる戒めに背いた。彼が過ちを悟り、罪を犯したことを知ったとき、アダムは隠れたいと思ったが、できなかった。そして、神がこのように尋ねられた。「アダムよ、どこにいるのか。……お前は女性一人によって、お前の主なる神を離れようとした。お前はあれほど会いたいと思っていたその方を捨てたのである。
女性一人によってお前を隠そうとし、世の鏡と天国の居場所とキリストの栄光を放棄したのだ」(注31)。ここでイザベルがどれほど残酷にエリヤを迫害し、ヘロデがどのように洗礼ヨハネを死に追いやったのか、付加する説明がこれ以上必要だろうか。
ミラノのアンブロシウス書信59.60 (キリスト教)
― み言選集 ―
今までは女性の貞節を強調しました。エデンの園で誰が貞節を失ってしまっだのですか。女性が失ってしまったのですか、男性が失ってしまったのですか。女性です。男性も失ってしまいました。エデンの中心である男性も失ってしまったのです。アダムがエバに誘惑されていき、結局は、本来の根である男性まで切れてしまったのです。女性のエバが男性のアダムを堕落させたのです。それを蕩減するために今まで女性が男性に蹂躙されました。女性たちが男性たちに蹂躙されたのはそのためです。それで先生が女性を解放させるために、男女平等運動と女性解放運動をするのです。それは、世界のどの人よりも、後世の人たちのためにしなければなりません。
(6-334 ~ 335、1969.10.3)
女性たちが来たので、一言言わなければなりません。女性というのは、妖しげですか、妖しげではないですか。女性は今まで罰を受けましたか、福を受けましたか。妖しげなので罰を受けたのです。今までなぜ女性が苦労したのかというと、夫が自分の夫ではないので苦労したのです。分かりますか。男性たちは天使長型です。本来男性は、妻を迎えるようにはなっていません。ですから、レベルの高い宗教ほど独身生活を強調するのです。男性は天使長型なのですが、本来の天使長はそのときに相対を許諾されていませんでした。それにもかかわらず、非原理的に愛したのです。ですから、女性にはその人が夫ではありません。
(39-214、1971.1.10)
神様の心情にエバが釘を打ち付けたので、男性たちが、天使長がエバの心情に釘をたくさん打ったのです。
(302-232、1999.6.14)
エバは、未来の神様の王女です。王女であると同時に将来の神様の相対でした。エバを育てて何をしようとしたのかというと、愛の相対にしようとしたのです。神様の夫人になるというのです。なぜそうなのかというと、愛を分かち合うためには体が必要です。被造世界の相対が必要なのです。体が必要だったのです。あの国に行ってみれば、神様は無形です。空中で太陽のような光が24時間いつも浮かんでいます。空中から無形の神様がすべて管理するのです。
その無形の神様が、実体をもった人間の愛の対象ではむなしいのです。ですからアダムとエバは、無形の神様の愛の理想の絶対作品です。パートナーとして体をもったアダムとエバを造ったのです。神様は誰の姿かと言えば、アダムとエバの姿です。一つは内的な父であり、一つは外的な父なのです。一つは内的な父母であり、一つは外的な父母だというのです。
(199-361 ~ 362、1990.2.21)
3. 男女平等の追求
― 宗教経典 ―
学びはすべて、信仰する者、男性と女性に付加された義務である。
イブン・マージャのスナン224 (イスラーム)
いずれにせよ、主においては、男なしに女はなく、女なしに男はありません。それは女が男から出たように、男も女から生まれ、(注34)また、すべてのものが神から出ているからです。
コリントの信徒への手紙一11.11~12(キリスト教)
女性たちは、同等な労働に対して報酬を受けなければならず、彼女たちは、長官と監督者、教授と大統領の任務において同等の資格があるとみなされなければなりません。ですから、あなた達は、性ではなく、能力が地位と給料を決定すべきだと主張しなければなりません。
スーザン・アンソニー
夫と妻も平等である。違いは尊重するが、その違いが主導権を握るために利用されてはならない。社会との協力の中で、教会は女性の人権を確認し擁護しなければならない。
教皇ヨハネ・パウロ2世(注33) (キリスト教)
平和をつくりあげるにおいて、女性は自然と重要な役割を果たします。ほぼ私達全員は、平和な生に関する最初の教えを母から受けます。なぜなら、愛に関する、私達の愛に関する要求は、人間存在の土台そのものだからです。私達の成長でごく早い時期から、私達は全的に母の世話に依存し、母が自らの愛を表現することはとても重要です。……もし子供が適切な愛を受けることができなければ、あとで彼らは人を愛することが難しいことを知るようになるでしょう。このように母の愛は平和をつくることに大きく寄与します。
テンジン・ギャツォ、第14 代ダライ・ラマ(仏教)
男性が女性を暖炉の家だけでなく、国家の議会で彼の同僚として認める日が来るだろう。そうなれば、そのときまでは違うが、人類を最高の進歩へ導く両性間の完璧な同僚関係、すなわち理想的な結合があるでしょう。
スーザン・アンソニー
― み言選集 ―
男性は女性の先生であり、女性は男性の先生です。互いに学ぶのです。
(247-174、1993.5.2)
女性は、男性がすることをして、男性は、女性がすることをしなさいということです。そうすれば通じます。そのようになれば、すぐに何でもできます。
(116-183、1982.1.1)
女性の船長たちが多くなれば、そのときに反対していた者たちは、「ああ……」。そのような時が来るでしょう。間違いなく来るというのです。間違いなく女性の船長たちをたくさんつくっておきます。そして、優秀な若者たち、ハーバード大学や何とか大学を出た若者たちを僕としてこき使わなければなりません。それを願いますか、願いませんか。願いますか。どうして女性たちの声が「イエス」なのですか。(イエス!)。そうです。おお、イエス! 度胸を学ばなければなりません。
最も良い方法は、台風が来ていても、押し進めて船員たちに号令し、拳も使う、そのようにできる訓練をしてこそ、偉大な女船長になるのです。また、船で子供におっぱいをあげながら、「おい、この男たち! こうしなさい、ああしなさい」と言うとき、「はい、はい」と言えば、どれほど気分が良いか考えてみてください。
(95-97 ~ 98、1977.11.1)
何が平等ですか。御飯を食べることが平等ですか。男性は二人分の御飯を食べ、パンを四つ食べるのに、女性は御飯1杯、パンは一つしか食べられません。仕事をするにおいても、女性は「えんえん」言いながらついていきますが、男性は「がんがん」やります。それが平等圏ですか。相撲をしても、レスリングをしても、平等ですか。女性と男性がレスリングをするのを見ましたか。絶対に平等になりません。しかし、愛においては平等です。そういうものです。では、それ以上に願うものがありますか。
神様が女性を愛され、男性は一生の間苦労し、闘い、ありとあらゆることをします。今は御飯を食べたりパンを食べたりしますが、昔は山に行って獣を狩猟してこなければならず、虎と闘い、ライオンと闘いました。それにもかかわらず、女性は今まで同等な立場に一つも立たずに一緒に暮らしているのです。それでも、一つ女性が男性に誇ることができるものは子供を生むことです。地上で歓迎される平等を主張できる一つの条件として、神様が女性に子供を生む権限を与えたと私は考えます。創造主が傾いたものを立て直すために子供を生むようにしたのですが、この女性たちが子供を生もうとしないのです。ですから、これは闘うこともできません。
(103-273、1979.3.11)
「女は弱し、されど母は強し」という言葉があります。女性自体はこの上なく弱いものですが、もし女性が母として愛の主体的立場を取り、また妻、娘として愛の中心的役割を成す時、女性はこの上なく強くなるものです。なぜならば、女性が母、妻、娘として愛の主体的立場を取り、100 パーセント相手のために与えようとする時、その空白を神様の愛が埋め尽くしてくださるからなのです。神様の愛の能力が発動し始めるのです。だからこそ女性であったとしても、神様に似て燃えるような愛の主体的立場を取るようになれば、その愛の能力は家庭を生かし、国を生かし、世界を生かす驚くべき力として現れるのです。
真の家庭と世界平和、1992.5.1
私達会員は、到来した女性時代とともに夫を抱き、子女を正しく養育する真の愛の模範的な実践運動を全世界的に展開しなければなりません。そうして、世界平和具現のための政治、経済、文化、そして社会各分野で私達女性が先頭に立たなければなりません。
女性として救援摂理歴史の主役を担当したリベカ、タマル、マリヤのような苦難と迫害の先烈たちを記憶しましょう。彼らが命を懸けた冒険と逆境に打ち勝って天倫の道理を立てたその強靭な意志を伝授され、私達の家庭を真の父母、真の夫婦、真の子女の家庭として養い育てていくことによって、今日のこの罪悪世界を天国世界に変化させる聖業に私達全員が決起しましょう。
世界平和女性連合創設大会、韓鶴子総裁基調講演文1992.4.10
8) 正義
不義と圧制は、神様と人類に対する犯罪の原因になる。人々はどこでも、正義のために戦おうとする。しかし、すべてのものを包容する神様の愛を体感する信仰者は、正義を増進させるために彼らの影響力を用いなければならない特別な責任がある。経典は、虐待を受ける者たちが当然の正義を享受できていないのに、信仰者が彼らのそばでのんびりと座り、彼らを救済しないことを警告する。挫折の中で抑圧を受ける者たちが、自分たちを抑圧する環境に対抗して反乱を引き起こして武器をもつ前に、宗教者たちは、長い間不義を受けた者たちが義なる人生を享受できるよう当局に促し、社会的良心によって苦闘しなければならない。
文鮮明先生は、たびたび自身が不義を体験したが、自分を迫害した者たちに決して復讐しなかった。その代わりに先生は、奉仕と犠牲の道がすべての側面の不義を克服する最も確かな道だという確信の中で、常に愛と忍耐、信念の道を選ばれた。
― 宗教経典 ―
主はこう言われる。正義と恵みの業を行い、搾取されている者を虐げる者の手から救え。寄留の外国人、孤児、寡婦を苦しめ、虐げてはならない。またこの地で、無実の人の血を流してはならない。
エレミヤ書22.3 (キリスト教)
なんじら信仰する者よ、証言には、神のため公正を堅持する者であれ、たとえなんじら自身のため、または両親や近親のためでも。かれが富者でも、また貧者であっても公正であれ、神はなんじらよりも双方にもっと近いのだ。それゆえ私欲に従って公正からそれてはならぬ。なんじらがたとえ証言を曲げ、またはそむいても、神は、なんじらの行うことを熟知したもう。
クルアーン4.135 (イスラーム)
お前たちの騒がしい歌を私から遠ざけよ。竪琴の音も私は聞かない。正義を洪水のように恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ。
アモス書5.23 ~ 24(キリスト教)
抑圧される者たちの嘆願を注意するのだから、彼はただ彼の当然の権利を最も高貴な神に嘆願する。神は権利をもつ者が正当なものを受けることを妨げられない。
バイハキ・ハディース(イスラーム)
わが下僕らよ、私は不正を私自身に禁じ、お前たちの間でも禁じた。それゆえ互いに不正を働いてはならぬ。
ナワウィー40 のハディース24(イスラーム)
主はモーセに言われた。「ファラオのもとに行って彼に告げなさい。ヘブライ人の神、主はこう言われた。『私の民を去らせ、私に仕えさせよ』と。
出エジプト記9.1 (キリスト教)
お前たちの誰でも、悪行を見かけたら自分の手でそれを変えるようにするがよい。それができなければ自分の舌で。それもできなければ心で。だがそれしかできない者は、もっとも信仰の弱い者。
ナワウィー40 のハディース34(イスラーム)
悲嘆にくれる者の苦痛を減らしてあげ、抑圧される者を助けてあげることは、多くの罪過に対する報いと贖罪の行為と同じである。
ナフジュ・アル・バラーガ語録22(シーア派イスラーム)
罪を犯したり、過った道に従う人を見れば、それが自分自身に対する罪であることを知らせてあげ、その人が善の立場に戻るようにしなければならない。これは私達の戒めである。聖書では次のようにある。「同僚を戒めよ」。誰かを叱責するときは、そのことが人の間の問題であれ、神と人間の間の問題であれ、私的に平静心をもち、柔和な声で語らなければならない。そして、その言葉が彼のためになるものであり、彼が今後訪れる世の中で新たに生まれるのを助けるためだということを理解させなければならない。
マイモニデスミシュナ・トーラー(ユダヤ教)
ある人が「恩徳で怨みのしかえしをするのは、いかがでしょう。」といった。先生はいわれた、「では恩徳のおかえしには何でするのですか。まっ直ぐな正しさで怨みにむくい、恩徳によって恩徳におかえしすることです。」
論語14.36 (儒教)
アニス・イブン・マラクが伝えた。使徒が「抑圧したり、抑圧されるあなたの兄弟を助けよ」と言われると、アニズが彼に尋ねた。「神の使徒よ! 抑圧される者を私は喜んで助けましょう。しかし、抑圧する者をどのようにして助けるのですか」。すると使徒が、「彼が過った行為をすることができないように制裁することによってである」と答えられた。ブハーリー・ハディース(イスラーム)
不正を目撃しても中立をとる人は、結局迫害者の側を擁護したのと違いはない。象のしっぽがネズミの口にぶらさがっているのに、その状況で私が中立を願ったとしよう。ネズミはあなたに感謝しないだろう。
デズモンド・ムピロ・ツツ(キリスト教)
悪が勝利するのに必要なすべてのことは、善の人としてするべきことではない。
エドマンド・バーク
正義は良心である。個人の良心ではなく、全人類の良心である。自分の良心の声をはっきりと認識する人たちは、普通、正義の声も認識する。
アレクサンドル・ソルジェニーツィン
自分自身の首を絞めるもう片方の鎖を発見しなければ、誰も自分の友人の足首に鎖をかけることはできない。フレデリック・ダグラス
今のように、この世に依然として女性たちが泣く日があれば、私は立ち向かうだろう。今のように、「男性たちが監獄を頻繁に出入りする現実が続いても、私は立ち向かうだろう。世の中にいまだに大酒飲みが残っていて、道に貧しく行き場を失った少女がいれば、神の光なく暗闇で生きている人が一人でも残っていれば、私は闘うだろう。最後のその瞬間まで立ち向かうだろう。
ウィリアム・ブース(キリスト教)
― み言選集 ―
神様は私達を呼んでいらっしゃいます。世の中の不義と罪悪に挑戦し、真の愛を施すことを熱望していらっしゃいます。
(234-273、1992.8.26)
宗教者たちが、この時代の状況と様々な非理に対して責任を感じ、深い自己省察が先になければならないと思います。神様は私達指導者、特に宗教指導者たちを召命していらっしゃいます。世の中の不義と罪悪に挑戦し、真の愛を施すことを熱望していらっしゃるのです。
(330-247、2000.8.18)
一日の勝利基準をもてない人がどのようにして天の国に行くことができ、1年の勝利基準をもてない人がどのようにして永遠の世界に入っていくことができるでしょうか。このようなことが問題にならざるを得ません。ですから、信仰者の生活において、永遠を夢見ていくことも重要かもしれませんが、それより重要なことがあるとすれば、それは今日の現実において、どのように悪を清算して善の旗手になるかということです。
(37-219、1970.12.27)
不義を見て、そのままにしておく者は、良心家ではない。
御旨の道、人格
この宇宙間において、最高の良心的中心が誰かというとき、誰ですか。神様です。しかし、いくら良心的だとしても、不義を見て、「ああ、良い、黙っていなければならない」と言いますか。不義を見れば、怒りが爆発するのです。良心的な神様が不義を見て、6000 年間激憤し、闘いの場を準備してきたのではないですか。皆さんは、それを知らなければなりません。個人を中心として世界を滅ぼすこと、家庭を中心として世界を滅ぼすこと、氏族を中心として世界を滅ぼすことは、神様に親不孝することです。そのような一切を神様は赦すことができずに打ってきました。そのように先頭に立って打たれるキリスト教を迫害したローマ帝国だったので、400 年間世界を席巻し主導的な役割をしてきたローマ帝国も、亡くなったイエス様によって400 年以内に屈服してしまったのです。
(51-44、1971.11.4)
先生は、「正義は闘って勝つのではなく、耐えて勝つのである」として忍耐してきました。今もそうです。あるときは全身が麻痺するほど憤るときがあります。しかし、「神様がそれ以上に憤慨しても耐えてこられたのだから、その息子になった罪で忍耐しなければならない」と思って耐えるのです。争ってはいけません。
(74-252、1974.12.31)
青年たちが神様の真の愛を中心に犠牲と奉仕の努力を注ぐとき、世界の貧困と飢餓問題、そして、さらには貧富の格差と、歴史上の異質な経験からくる葛藤と憎悪の感情は、初めて治癒の糸口を見いだすことができるのです。
(288-201 ~ 202、1997.11.28)
人間世界で真の愛を完成したならば、政治的に、文化的に、また環境的に何の問題が起こるでしょうか。真の愛の世界では、解決することができない問題はありません。真の愛の世界は、まさしく歓喜と理想が充満した自由と平和と幸福の世界です。真の愛の同位権、同参権、相続権によって、喜びと幸福が無限に、そして永遠に拡散していく世界になります。
(294-65、1998.6.11)
9) 経済的正義
どの社会でも実際の次元で貧富の格差が維持される限り、正義の社会として認定されない。そのような格差は、市民の紐帯の結束を弱化させ、階級差別とそれに伴う偏見を引き起こすようになる。しかも、貧者より富者がすべての利点を享受する社会において、機会の均等と法の前の平等は、虚像にすぎない。今日まで人類の知性人たちは、政治的民主主義に伴う経済的民主主義を探求した。多様な類型の社会主義が、人間本心による恒久的欲望に相応して現れた。
経済的正義は、盗むなという戒めから始まる。どろぼうのタイプには他人の所有物を盗む者だけではなく、さらに危険な形態として公共の収入源を奪取する権力者などもいる。このような問題は、何が「公的」なことであり、何が「私的」なことかに対する質問から出発する。聖書によれば、神様は地球、空気と水、そして鉱物資源を創造し、イスラエルのすべての土地は、人間を僕として立てられた神様に帰属した。このような観点は、資本主義の私的所有概念に挑戦し、義なる経済体制は共有の概念を含まなければならないと提案する。
神様の次元で見るとき、全人類は神様の子女として一つの家族の構成員である。ところが、自身の兄弟姉妹がおなかをすかせているとき、富者が良心的にどうして寝ることができるだろうか。初期のキリスト教徒は、すべての所有を共同体に従属させた。これは今日、ユートピアを指向する社会主義者の実験を通しても主張されてきた。文鮮明先生によれば、社会主義の成功の鍵は、慈悲心と兄弟愛の源泉である神様の愛の実践にある。それは、富者が自身の祝福を社会全体と共有するように刺激できる。そのようにすれば、人類社会には分配と共有の美徳のライフサイクルが持続的に公転されるはずだ。(第13 章10,「慈善」参照)
一方、共産主義は、富者のものを強奪して貧者に分配する社会制度を設定し、共同所有を制度化しようと試みた。共産主義は、これを実現するために暴力を正当化して残酷な蛮行を行いながら、無産階級の怒りを悪用した。文鮮明先生は、共産主義の理論自体が無神論的であり、宗教に敵対的であるために、このように卑劣な戦略を選択せざるを得ないと批判される。
私達が経済的不均衡を是正するためには、国家の政策に優先して、私達自身を省察しなければならないだろう。私達は、個人的利益のための経済行為より、人類全体の福利のための経済行為に主力を注がなければならない。それは、人類が兄弟姉妹、すなわち神様の家庭の一員であるからだ。家族構成員が毎月予算を立てて収入と支出を決定するように、各村や近隣の人々が公正と平等の増進のための均衡的基盤の上で、自発的に収入と支出を分類することもできる。進んで企業次元で雇い主と工場所有者は、労働者の努力を激励し、人間価値を省察する中で、彼らの共同生産物に対する適正な賃金を待遇しなければならない。
国家家族という側面で、先進国家は、地球上の全人類は同等な生活水準を維持すべきだという目標のもと、開発進上国に援助と技術的支援を自発的に提供しなければならない。これを支持しながら、私達は所有価値より他の人たちに与える慈悲心を土台にした存在価値にさらに比重をおき、人間尊重の文化を育成しなければならない。文鮮明先生は、これが経済正義を実現する実際的な方法だと言われる。
1. 窃盗と公的財産の濫用
― 宗教経典 ―
不正に孤児の財産を食い減らす者は、まことに、腹の中に火を食べる者である。かれらはやがて烈火に焼かれるであろう。
クルアーン4.10 (イスラーム)
盗んではならない。
出エジプト記20.15 (キリスト教)
村にあっても、林にあっても、他人の所有物を与えられないのに盗み心をもって取る人、かれを賤しい人であると知れ。実際には負債があるのに、返済するように督促されると、『あなたからの負債はない』といって言い逃れる人、かれを賤しい人であると知れ。実に僅かの物が欲しくて路行く人を殺害して、僅かの物を奪い取る人、かれを賤しい人であると知れ。
スッタニパータ119 ~ 121 (仏教)
窃盗した男も女も、その手を切断せよ、これはかれらの行いに対する、神の見せしめである。(注42)
クルアーン5.38 (イスラーム)
災いなるかな、量を減らす者こそは、かれらは人から計って受け取るときは、十分に取り。人に計るときは、少く計量する者たちである。
クルアーン83.1 ~ 3(イスラーム)
次の行為、すなわち他の人がどろぼうするようにあおる行為、わいろをもらう行為、度を超した額の請求や不十分な支給を引き起こす行為は、どろぼうに含まれる。
アカランカタットヴァールタラージャヴァールッティカ7.27 (ジャイナ教)
あなたのものも真にあなたのものではないのに、あなたのものではないものを、どうしてあなたのものだと考えることができるのか。
タルムード、デレフ・エレツ・ズータ2.5 (ユダヤ教)
石油、硫黄、鉄のような金属と天然資源は、水、ガラス、塩のような公共財産である。したがって、いかなる統治者も、誰かにそれらに対する独占権を与えることはできず、もしそのようにすれば、それは誤ったことである。
シャーフィイー346.5 (イスラーム)
自然は万民が共に使用できるように万物が注がれている。神も万物が生産され、すべてが同じように食べることができる食べ物があるようにされた。そして、すべてが地を共同で所有するようにされた。自然は平等な権利を与えたが、略奪者たちがその公的権利を私的なものに変えてしまった。
ミラノのアンブロシウス聖職者の義務について1.132(キリスト教)
私的財産でも、それが絶対的で無条件的な権利まで保障してはいない。他の人たちが窮乏するとき、不必要なものを一人で独占することは正当化され得ない。
教皇パウロ6世諸民族の進歩推進について(キリスト教)
― み言選集 ―
宗教の教えは、この体が喜ぶことをすべて拒否しなさいというものです。体は、おなかがすけばどろぼうをしてでも食べなければならないと考えます。これに対して天は、「いけない。死んでもどろぼうしてはいけない」と言うのです。
(131-25、1984.3.11)
どろぼうがなぜ悪いのですか。私がやりたくて服を盗んだのに、何か悪いのでしょうか。そこには、その一つの服にも犠牲の代価が含まれていて、奉仕の代価が含まれています。公的なものが含まれているのです。それをそのままもってきたので罪なのです。
(105-92 ~ 93、1979.9.30)
家庭を中心として「ために生きる」ことができるところでは、ために生き、犠牲になり、愛さなければなりません。これが創造的理想です。これに反対になるものが堕落したことですが、悪の始まりは憎悪だというのです。アダムを尊敬してために生きなければならないのですが、「ために生きる」ことができなかったのです。それが何ですか。欺瞞です。犠牲にならなければならないのに、詐欺を働いたのです。その次に略奪しました。略奪と破壊、詐欺は何ですか。憎悪と詐欺に括弧して欺瞞を入れ、略奪に括弧して破壊とすればよいのです。このようなことをすれば、地獄に行くということです。
(310-199、1999.6.15)
公金を使うときは、先生が気をつけながら使っていた、それ以上の心で一銭でも自分の生命以上、手足を切って使うような痛みを感じながら使わなければなりません。そうでなければ発展できません。うまくいくように思いますが、うまくいきません。360 度入っていって最初の姿に合わせなければ、最後になってすべて崩れていくのです。詐欺に遭ったり、どろぼうされたり、自分が死んだりするのです。
(360-321、2001.11.18)
歴史的なすべての動きは個人を拡大させたものです。今まで、個人が出世やある目的を達成するために、どのような手段を使ってきましたか。自分の目的を達成するためには、団体を利用したり、個人を利用したりしました。このように第3の舞台を利用することがよくあったのです。それが今までの歴史的伝統でした。結局は、自分一人が成功するために「第三者を利用しよう」と考え、個人を利用し、団体も利用してきたという話です。そして、今では国まで利用する腐敗像が多くあります。それは滅びるのです。これが今までの歴史的方向でした。人間が堕落して出発したその日から、サタンの血を受けたその日から、本意ではない驕慢を中心に間接的な舞台を利用し、自分の利益を渇望してきたのがその歴史的方向ではなかったかということです。堕落が蒔いた種が正にそれです。
(46-141 ~ 42、1971.8.13)
どこかに行って良いものがあれば、ビルから金塊が落ちてきたとしても、それを使えば横領です。自分勝手に使うことはできません。公的な公金です。先生は、皆さんが金品を持ってきても受け取りません。お母様を通して受け取ったとしても、私は使いません。それは毒薬よりもっと恐ろしいのです。あの国に行って、がちっと引っ掛かってしまうのです。
(342-300、2001.1.13)
自分の私的なものを公的なものよりもっと重要視する人は、天道に背く人です。私的な自分の人格を公的人格よりもっと重要視する立場は、み旨に背く立場です。
(51-291、1971.11.28)
自分がもっているもの、あるいは自分所有の財産は、自分がしばらくの間管理する過程にあるものです。すなわち、皆さんは管理人だというのです。
(23-334、1969.6.15)
私のものはあなたのものであり、あなたのものは国のものであり、国のものは世界のものであり、世界のものは神様のものであり、神様のものは私のものです。これが「統一思想」の正道です。
(57-272、1972.6.4)
2. 共同財産の分配と経済安定
― 宗教経典 ―
穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。私はあなた達の神、主である。
レビ記19.9 ~ 10(キリスト教)
七年目ごとに負債を免除しなさい。負債免除のしかたは次のとおりである。だれでも隣人に貸した者は皆、負債を免除しなければならない。同胞である隣人から取り立ててはならない。主が負債の免除の布告をされたからである。外国人からは取り立ててもよいが、同胞である場合は負債を免除しなければならない。あなたの神、主は、あなたに与える土地において、必ずあなたを祝福されるから、貧しい者はいなくなるが、そのために、あなたはあなたの神、主の御声に必ず聞き従い、今日あなたに命じるこの戒めをすべて忠実に守りなさい。
申命記15.1 ~ 5(キリスト教)
この五十年目の年を聖別し、全住民に解放の宣言をする。……五十年目はあなた達のヨベルの年である。種蒔くことも、休閑中の畑に生じた穀物を収穫することも、手入れせずにおいたぶどう畑の実を集めることもしてはならない。この年は聖なるヨベルの年だからである。あなた達は野に生じたものを食物とする。ヨベルの年には、おのおのその所有地の返却を受ける。……もし同胞の一人が貧しくなったため、自分の所有地の一部を売ったならば、それを買い戻す義務を負う親戚が来て、売った土地を買い戻さねばならない。
もしその人のために買い戻す人がいなかった場合、その人自身が後に豊かになって、自分で買い戻すことができるようになったならば、その人は売ってからの年数を数え、次のヨベルの年までに残る年数に従って計算して、買った人に支払えば、自分の所有地の返却を受けることができる。しかし、買い戻す力がないならば、それはヨベルの年まで、買った人の手にあるが、ヨベルの年には手放されるので、その人は自分の所有地の返却を受けることができる。もし同胞が貧しく、自分で生計を立てることができないときは、寄留者ないし滞在者を助けるようにその人を助け、共に生活できるようにしなさい。あなたはその人から利子も利息も取ってはならない。あなたの神を畏れ、同胞があなたと共に生きられるようにしなさい。その人に金や食糧を貸す場合、利子や利息を取ってはならない。
私はあなた達の神、主である。私はカナンの土地を与えてあなた達の神となるために、エジプトの国から導き出した者である。もし同胞が貧しく、あなたに身売りしたならば、その人をあなたの奴隷として働かせてはならない。雇い人か滞在者として共に住まわせ、ヨベルの年まであなたのもとで働かせよ。その時が来れば、その人もその子供も、あなたのもとを離れて、家族のもとに帰り、先祖伝来の所有地の返却を受けることができる。エジプトの国から私が導き出した者は皆、私の奴隷である。彼らは奴隷として売られてはならない。あなたは彼らを過酷に踏みにじってはならない。あなたの神を畏れなさい。
レビ記25.10 ~ 43(キリスト教)
文公は孟子のこの言葉をきいて、助法を行なおうと思い、その後、家臣の畢戦を使いとして井田(せいでん)法を詳しく質問させた。孟子はいわれた。「貴方のご主君が今やまさに仁政を行なわれようとして……ところで仁政とは、まず耕地の境界(さかいめ)を正しくすることからはじまるものです。境界が正しくないと、井田の土地の分け方が均分にはいかないし、つれて役人の俸禄も公平というわけにはいかなくなります。それで昔から暴虐(むどう)な君主や貪慾(よくばり)な役人は、みなこの境界をいい加減にし〔て私利私欲をはかっ〕たものです。ところが、ひとたび境界さえ正しくなると、井田を分けることも俸禄を決めることも、いながらにしてたやすくできるのです。……どうか滕(とう))の国でも、郊外の遠く広いところでは助法によって九分の一の税を〔役人が〕取り、郊内の近く狭いところでは〔井田を区切りにくいから、助法にはよらないで〕、徹法によって個人個人がめいめいに十分の一の税を納めさせるようにしたいものです。……一里四方の田地が一井(いっせい)で、その面積(ひろさ)は九百畝あります。これを井の字型に分けると、百畝ずつ九つに分けたことになります。その真中の一つすなわち中央の百畝が公田(おかみのた)で、周囲(まわり)の八つを私田(こじんのた)とします。八家族でまず共同に公田を耕して、それがすんでからめいめいの私田を耕すのです。
孟子Ⅲ.A.3 (儒教)
信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。
使徒言行録4.32 ~ 36(キリスト教)
それで、最善の政治的共同体は、中産層の市民によって構成されることと、中産層が大きく、可能であれば他の二つの階層より強い国家が、よく統治され得ることは明白である。
アリストテレス政治学4.11(ヘレニズム)
私有財産が存在し、すべてのひとがなんでもかんでも金銭の尺度ではかるようなところでは、社会が正しく治められたり繁栄したりすることはほとんど不可能だと思えます。
もっとも、すべて最善のものが一つ残らず、極悪の人間の手にはいるところに正義が行なわれているとお考えになったり、ものがごく少数の人々のあいだで分配され、しかもその人々でさえもあらゆる点でぐあいよく暮らしているのではなく、残りの人々たるや、完全な貧困状態にある、というようなところに幸福な暮らしがあるとでもお考えになるなら別ですけれども。
そういうわけで私は、ユートピア人たちの賢明しごくで尊崇に値する諸制度のことを繰り返し想いうかべるわけです。彼らはごくわずかの法で社会をかくもよく治め、そのためにあそこでは徳能あるものが酬いられ、しかも物が平等に分配されるので、すべてのひとがなんでも豊富に持っています。腰を上げずに、ただ怠けている者がひとりもいないように、皆が自分の職業に勤勉にたずさわるように、しかも荷役の動物のように朝早くから夜おそくまで絶えず働き続けて疲労しきったりすることはないように…
ユートピア人たちは夜も含めて1日を24 時間に等分し、そのうち6時間だけを労働にあてます。そのうち3時間は午前中、引き続いて昼食をとりに出かけ、あとは午後2時間休憩し、そのあと3時間をまた労働にあて、夕食の時間になるところできりあげます。彼らは1日の最初の時間を正午から数えますから、8時ごろに床につくわけです。睡眠は8時間とります。労働、睡眠、食事などのあいだにある時間は各人の自由裁量にまかされていますが、それはこの時間を飽食、無為に過ごすためではなく、労働から解放された時間を自分の好みに従い、なにかの活動でよく生かすためです。……
このように彼らはみな有益な職業にたずさわっており、しかもそのさいに労働はふつうよりわずかで足りるのですから、あらゆる物質が豊富にあるのも、またときには公道修理のために(もし傷んでいるならば)莫大な人手をかり集められるというのもあたりまえのことです。しかし、そういう労働の需要がないときには、労働時間の短縮が公示されることもしばしばあります。というのは、役人は市民たちの意志に反して彼らを不要な労働につかわせたりはしないからです。その理由は、あそこの社会制度がなによりもまずつぎのただ一つの目標を追求しているということにあります。
すなわち、公共の必要という点から許されるかぎり、すべての市民ができるだけ多くの時間を、肉体労働から解放し、精神の自由と洗練のために確保できるようにすることです。精神の洗練にこそ人生の幸福があると彼らは考えているのです。
トマス・モア、ユートピア1.2.4 (ヒューマニム)
― み言選集 ―
理想的な社会や国は、すべての人が国境と皮膚の色を超越して相互に協力して調和を成し、幸福に生きていく社会です。この社会は、人々が一つの神様の息子、娘であることを自覚して、真の父母を中心として一つの兄弟となった大家族社会であり、そこは、血統と所有権と心情を復帰した祝福家庭が、真の父母の言語、真の父母の文化のもと、自由と平和と統一の世界を成す所です。人々は、神様の心情文化の中で共生、共栄、共義の生活をするようになるのです。
ですから、この世界は、腐敗や不正、そして戦争や罪悪と無関係であり、人類は、地球環境に対する公害要因を除去し、万物に対して真の主人として愛し、保護しながら生きるようになっています。その世界において生活のための活動と作業は、他のために生きて愛する心情を土台とした喜びの奉仕であり、実践です。したがって、構成員の生活程度は標準化されます。
(269-156 ~ 157、1995.4.17)
自分の家庭を中心として標準にしてはいけません。その村なら村の上、中、下を中心として、そこに合わせて暮らさなければなりません。それでひと月に1度ずつ、私達の上、中、下の生活基準はいくらだとして、週の生活費はいくらで、経費はいくらで、消耗費はいくらなので、その基準を中心としてどこどこに何をしてどのようにしていくということを、会議して決定するのです。翌月はその会議の結果によってどのようにしていくということを自動的に決めれば、そこに合わせて暮らさなければならないのです。
私達の生活方法を保障するのは常に法です。今月、月給をいくらもらう人が何パーセントだ、このように上、中、下によって基準が変わるのです。それを鉄則として守ります。それを間違うと、霊界の自分の生活が侵害を受けるのです。霊界はそのようになっています。資本主義社会のように、お金を積み上げておいて暮らすことはできません。私はお金を積み上げていません。これから息子、娘と一緒に暮らすとしても、息子、娘の村の全体標準基準が3であれば、3を基準として4、5になるとき、自分たちが協力して生活基準を付加しなければなりません。100 軒が暮らしていれば、100 軒が分割して子供の多い家を助けてあげるのです。兄弟なのでおいと同じように考えなさいというのです。それで、今後村で結婚します。助けてあげた家、助けてあげた因縁によって連結されることによって平和の基台がだんだんと拡大していぐのです。
(324-254 ~ 256、2000.6.24)
政治の方向も、家庭理想を中心として、真の愛に合わせなければなりません。経済やすべての文化もみな、真の愛に合わせなければなりません。これからは、自分の思いどおりに進んでいけば間違いが多くなるのです。ですから、世界が一つにならなければなりません。一つになるとすれば、経済的体制を中心として一つになるのであって、政治体制で一つになってはいけません。政治体制は、支配階級と被支配階級の基盤の上に立っているというのです。ですから、経済体制を中心とする管理体制に転換されてこそ、平和と統一の世界になるというのです。
家庭モデル世界化時代に入ってくるので、その次に何かというと、平準化時代になるのです。生活標準化と平和というのは経済問題です。ですから、国連がこれから経済をきちんと管理しなければ、人類は滅亡するというのです。闘争概念を中心とした、または優劣を中心とした先後関係をもつ、このような指導体制があってはいけないのです。愛を中心として、相対的関係として進んでいかなければなりません。
(303-192 ~ 193、1999.8.25)
神様の愛を完成した人間がつくりあげる理想世界においては、全体目的と個体目的は自然に調和するようになっています。人間には欲望もあり、愛の自律性もあるので、個人所有や個体目的は許されています。だからといって、無制限な個人所有、あるいは全体目的を害する個体目的を追求することはありません。完成した人間は、自らの良心と本性によって、自分の分限に合った所有量を取るようになるのです。
特に、真の愛による万物の真の主人の人格をもった理想的な人間の経済活動は、愛と感謝を底辺とするので、欲張ることや不正はあり得ないのです。同時に全体目的に反して地域や国家利益が強調されることはあり得ず、経済活動の目標は、利潤の追求ではなく、全体の福祉に焦点が絞られるのです。共栄主義は、神様の真の愛を基盤として共同参加し、自由、平等、幸福の理想が実現される政治を追求する主義です。
(271-77、1995.8.22)
霊界の組織とは何かといえば、生活を中心としてすべて系列になっているのであって、政治はないというのです。神様の直属の愛を中心としていて、強力に軍事拡張であるとか政治的目的のために、この世では手段、方法を選ばないのですが、そのようなことがないのです。経済の平準化運動を中心として、どのように豊かな生活をするかということです。地上もそのようにならなければなりません。
真の愛というものは、政治、経済をすべて越えていきます。真の愛は何かというと、力やお金や知識やあらゆるものを越えていきます。真の愛を中心として何をするのでしょうか。生活の平準化です。政治的な手段、方法を拡大させるのではなく、生活拡大のための世界です。それが天上天国、地上天国なのです。
(303-193-194、1999.8.25)
3. 富者は自分の財産を国民に分かち合うべき
― 宗教経典 ―
飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと。そうすれば、あなたの光はあけぼののように射し出で、あなたの傷は速やかにいやされる。あなたの正義があなたを先導し、主の栄光があなたのしんがりを守る。
イザヤ書58.7 ~ 8(キリスト教)
施こし(サダクァ)は、貧者・困窮者・施こしの事務を管理する者、および心が真理に傾いてきた者のため、また身のしろ金や負債の救済のため、また神の道のために率先して努力する者、ならびにたび人のためのものである。これは神のおきてである。神は、全知者・英明者であられる。
クルアーン9.60 (イスラーム)
私が貧しい人々を失望させ、やもめが目を泣きつぶしても顧みず、食べ物を独り占めにし、みなしごを飢えさせたことは、決してない。着る物もなく弱り果てている人や、からだを覆う物もない貧しい人を、私が見過ごしにしたことは、決してない。……神の下される災いを私は恐れる。その怒りには堪えられない。
ヨブ記31.16 ~ 23(キリスト教)
邪悪な人間が繁栄し、正義の人たちがそうなることができない。そのような状況が継続するならば、義人は挫折してしまう。ごく小さな針のように、偽りの行為の最初はそのように始まる。それが独楽のように大きく々る日には人を殺すようになる。
ヨルバ族の歌(アフリカ伝統宗教)
最高の慈悲は、貧しい同僚の仕事の手を助け、贈り物や(利害関係なく)お金を貸してあげられることだ。また、その人の同業者となって働くことだ。そうすれば、その貧しい者は、これ以上公的な補助に頼らず、手助けを通して結局、トーラーで教える独立心のある人に変わることができる。レビ記25 章35 節に次のように記されている。「もし同胞が貧しく、自分で生計を立てることができないときは、寄留者ないし滞在者を助けるようにその人を助け、共に生活できるようにしなさい。」
アイモニデスミシュナ・トーラー(ユダヤ教)
雇用者と非雇用者は、法則によって自由に互いの同意を導き出さなければならない。特に賃金においてはそうである。そうでなければ、人間相互間に行われるそのいかなる取引よりも旧時代的で、不平等な関係が成立し得る。言い換えれば、報酬を策定するときは、質素で誠実な賃金労働者の家庭を扶養する分、つまり彼と妻、そして子供たちが安定した生活を維持するように策定してあげなければならない。
教皇レオ13 世レールム・ノヴァールム(キリスト教)
富がより平等に分配されたとき、国家が繁栄する。
フランシス・ベーコン(ヒューマニズム)
― み言選集 ―
問題はお金の管理です。食べて生きていくにおいて、誰が良いものを食べ、誰が良いものをもつのかということです。これが問題です。良いものをお互いがもとうとしてはいけません。良いものは全体のために与え、中以下のものを自分か願う、このようにしていけば自動的に標準化になるのです。
(324-253 ~ 254、2000.6.24)
水も回っていかなければなりません。運動しなければならないのです。暑ければ冷たくならなければならず、冷たければ暑くならなければなりません。暑い所が豊かで、冷たい所が貧しければ、暑い所が冷たい所に移動しなければならないのです。それは自動的に移されます。お金のある人は自動的に村の貧しい人たちに責任をもち、すべて一緒に生活できなければなりません。このようなことが伝統になれば、そのような村はお互いに助け合うのです。そうすれば、お互いに世話にならないようにしようとします。お互いに助けようとするので繁栄するのです。
(253-238、1994.1.30)
歴史的上層と下層の人を一体化させるために、上層の人たちは下層に同化させ、下層の人たちは上層に引き上げなければなりません。そのようにしようとすれば、絶対的価値の中心点が必要です。それが神様の愛なのです。神様の愛とは何でしょうか。それは最上級の人たちとも一緒にいられ、また最下級の人たちとも一緒にいられます。神様の愛は、決して一方向的なものではありません。神様の愛は、球形に回転作用をする力です。最上から最下に至るまで、自由に移動できます。それがどこに現れても、すべてのところで全体から歓迎されます。そして、いつ、どこでも同化します。
また、神様の愛は、いつ、どこででも絶対的な価値をもっています。私達が神様の愛と共にいれば幸福であり、あらゆるものが満たされ、保障されます。最下のところにいても最上の人を愛することができ、最上の立場にいても、最下の立場にいる人を愛することができるのです。
(115-172 ~ 173、1981.11.10)
皆さんが本当に父母と子女の関係の事情を知れば、すべてのことができます。経営哲学で見れば、雇用主と非雇用主の関係です。共産主義が上部構造と下部構造の間の闘争を原則としているのですが、これを解決できるのは、ただ父子関係の心情的因縁なのです。父子関係の愛だけが解決できます。企業の所有者になることができる立場は父母の立場であり、非雇用主の立場は子女です。父母が子女に対して関与するようにしなければなりません。父母がお金を節約して包んでおくのは、子女に与えるためです。のちに子女に相続してあげるために、そのようなことをするのだと考えなければなりません。
(116-121、1981.12.27)
アメリカのような自由世界、民主世界は、労働組合のゆえに滅びるのです。労働組合です。労働組合の解決方法を話してあげます。統一教会の団体で労働組合があるものは、私が捕まえてつぶそうと思います。労働組合は問題ないというのです。労働者と農民に労働組合があるのと同じように、株主の労働組合をつくるのです。二つ(労働組合と株主組合)が一つになり、「自分たちの家庭の妻や子供たちをきちんと食べさせていかなければならないので、去年の生産量よりも今年はもっと増やさなければならない。そのために、私達株主労働組合とあなた達労働者労働組合が一緒に競争しよう」というのです。
このようにして生み出した利益は、3年間主人に与えずに自分たちで分け、労働者の労働組合が一生懸命にしたら、その分の何パーセントかを多く与え、株主の労働組合が一生懸命にしたら、その分多く与えるのです。このようにすればけんかするでしょうか。西洋社会でこのような考えをする人はいません。それができないときには、レバレンド・ムーンが、「宗教連合の世界組織よ、集まれ! 全世界の祝福家庭、集まれ! 今から私達で宗教ユニオンをつくろう」と言えば、宗教ユニオンをつくれます。そのようにすれば、統一教会の人たちは、一生涯奉仕しようとするので、給料は3分の1も必要ありません。
「会社が倒れそうなので、他の所で稼いででもここで働く」、そこまでしなくても、「もらった給料の30 パーセントを会社に捧げて働く」と言えば、労働組合はどのようになるでしょうか。仕事をしないでもらうものをもらうことができますか。仕事をしないのにもらおうとする人は、どろぼうと同じです。そのような人たちは、先生の前に立てません。
(342-288 ~ 289、2001.1.13)
新しい時代、21 世紀は共義の時代です。新しい時代、21 世紀は物質が牛耳らない、精神と霊の時代です。新しい特代、21 世紀は、神人一体になって生きる時代です。新しい時代、21 世紀は、他のために生きることが自分のために生きるより、もっと永遠な価値があることを悟って生きる時代です。利己主義が色あせ、共生共栄共義の利他主義がついに凱歌をあげる時代、それがまさしく明けてくる21 世紀なのです。
(219-120 ~ 122、1991.8.28)
4. 市場資本主義の徳目 : 正直な労働と「見えざる手」
― 宗教経典 ―
私達は、夕食を精肉店の主人や、醸造場の主人や、パン製造業者の慈悲に頼らず、彼らの利益に対する関心に期待する。私達は、人類愛に力点を置いて扱わず、彼らの自己愛に力点を置いて扱い、私達は私達の必要性に対してではなく、彼らの利点に対して話をする。
アダム・スミス国富論
すべての個人は、必然的にその社会の年間収益を自分ができるだけ大きくするために努力する。彼は一般的に、実に決して公益を増進しようともせず、彼がどれだけ多く公益を増進しているのかも知らない。……彼はただ、彼自身の利徳を意図する。そして、彼は多くの異なる場合のように、この場合にも一つの目的を増進するよう、見えない手によって導かれる。
アダム・スミス国富論
私は、自分ができる限り早く財産を集めるよう、すべての人を自由にしておくのが最善だと主張します。ある人々は裕福になるでしょう。私は、人が裕福になることを妨げる法を信じません。それは、有益であるよりはより害でしょう。私は、すべての人が自分の与件を改善できる機会を迎えることを願います。そして私は、黒人もその資格があると信じます。彼が前を見つめ、今年と来年に雇用される労働者になることを願うのなら、あとからは自分のために働くことができ、最後には自分のために働く人を雇用するようになるでしょう。
エイブラハム・リンカーン(注50)
― み言選集 ―
私はお金を稼いでも、私のために稼ぎません。自分の父母のために稼ぎません。世界のために稼ぐのです。世界に行こうとするので、教会で必要であれば教会のために使い、国で必要であれば国のために使います。国が生きる道は、世界が生き残ることができる道を行くことなので、世界のために使うのです。その,ように行かなければなりません。
(113-52、1981.4.26)
お金はどれほど力が強いですか。お金はどれほどよいですか。そこに真の愛さえあれば、その真の愛をもった人がもっているお金は、お金自体も喜びます。真の愛を中心とする人が力をもつのならば、そのような力をもってもよいのです。なぜかというと、その力は世界を保護しようとし、天と地を保護しようとするからです。その知識はこの宇宙を便利にしようとします。私のためにするのではなく、世界のために用いようとするのです。真の愛を中心とすればすべてのことが解決します。
あらゆる力が堕落したこの世界で不平を言います。すべてのお金が、「真の人に出会わなければならないので、出会うようにしてください」と言うのですが、それをすべてあの悪の権勢、世界を支配する人たちが妨げてしまったのです。知識も、力も、それを願っているというのです。ごの世の中で最も貴いことは、お金を集めることでもなく、知識をもつことでもなく、力を求めることでもなく、真の愛を求めることです。これが問題ですが、この堕落した世界では真の愛を知らないのです。
(161-300 ~ 301、1987.3.1)
問題は何かというと、南北の格差です。白人と黒人の問題も同じです。白人は裕福に暮らし、黒人は貧困なのです。貧富の格差があるというのです。このように問題になっている現実において、白人たちが自分の財産を売り、自分のあらゆるものを売って、黒人たちを助けるために荷物をまとめて黒人世界に訪ねていく運動が起きれば、新しい世の中が訪れるのを知ることができます。また、黒人たちは、「私達が間違ったために冷遇され、貧しく暮らしたのであって、白人たちが間違ったのではない。私達が一生懸命に白人たちについていき、白人たちに負けないように働こう」と考える運動が起きなければなりません。
(161-19、1987.1.1)
5. 共産主義とその誤り
― 宗教経典 ―
今まで存在したすべての社会の歴史は階級闘争の歴史だ。……共産主義者たちの理論は、私的所有の撤廃という一つの文章に要約できる。……支配階級をして共産主義革命の前にぶるぶると震えさせよ。プロレタリアが失うものは鎖だけであり、得るものは世界全体だ。全世界の労働者よ、団結せよ!
カール・マルクス共産党宣言
共産主義社会のより高い段階で……。そのとき、ただ有産者(ブルジョア)権利の狭い水準が完全に後ろに押されるようになり、社会は次のような表題で説明できるだろう。「各自は能力に応じて、各自は必要に応じて!」。
カール・マルクスゴータ綱領批判
共産主義は、自然法に反する理論である。共産主義を通して成し遂げようとするものは、すべての私的財産権と、その上に人間社会までも破壊する結果を招くようになるだろう。
教皇ピオ9世(キリスト教)
プロレタリアの使命は信仰的綱領と同じだ。マルキシズムは、科学と政治学を飛び越え、信仰であり宗教でもある。マルキシズムの力はこの信仰と同じ基盤の上から出てくる。
ニコライ・ベルジャーエフロシヤ思想史(キリスト教)
いかなる矛盾もなく社会奉仕だけの目的で、政治参与を通して信仰を実践しようとする人たちは、注意する点がある。彼らは、人間に関する定義と信仰に反する急進的で物質主義的理念体系を攻守してはならない。マルキシズムが個人と歴史の超越性を解釈する論理と無神論的物質主義、暴力の弁証法を主張する内容から無制限の個人自由を強調する自由主義の思想まで、このようなすべての理念を固守してはならない。
教皇パウロ6 世(キリスト教)
社会主義は……だんだんとキリスト教の伝統で擁護してきた真理と近づいている。真実に社会主義の進歩は、時としてキリスト教改革者たちの要求に相当に近いことを否定できない。
教皇ピオ11 世クワドラジェジモ・アンノ(キリスト教)
― み言選集 ―
歴史始まって以来、人類は上下間の格差を解消しようとする方向に進んできたことは明確な事実です。このような潮流の中で最も代表的な例が共産主義です。共産主義思想は、人類社会において階級間の搾取をなくし、階級のない社会を建設しようというものです。しかし、共産主義の最大の問題点は無神論であり、神様を否定した土台の上でそのような理想世界を建設しようとするところにあります。また、共産主義は、一部の独裁者の私意によってすべてのことを行おうとするところに問題があるのです。
(115-170、1981.11.10)
共産世界では、「労働者、農民が主権者だ」として、悲惨な人たちを英雄視するのですが、このような面を見れば民主世界はかないません。ですから、もし神様がいるとすれば、民主世界を滅ぼしても共産世界を残すでしょう。神様がいるとすればです。共産世界が民主世界より優れているというのです。ところが、「神様はいない」と言うので、これが問題です。「神様はいない」と言っているのです。
(130-103、1984.1.1)
今日、共産主義者たちからは、「おお、資本主義世界の農民を解放しなければならない」という声が高らかに聞こえてきます。その解放の声が果たして、神様が人類歴史を通して完全に主体となって善の側で主導するある特定の宗教、その主力となる宗教人たちが願う解放の基準と一致する、そのような喚声であったのかといえば、違うのです。この共産主義は、唯物論に立脚した世界の解放を夢見るのです。これは、神様までも否定して、宗教は悪であると烙印を押してこっぱみじんにし、その世界では形態すらもなくしてしまうのです。このような立場から解放を主張するのを見るときに、これは、理論的な見地から見ても一致できないのです。そればどこまでも神様の前に正反対となる対立的な解放に違いないために、悪なる悪魔の神がいるならばそれが旗手となり、神様が願う宗教的旗手の前に正面から世界的攻勢を加えてくるのです。それが今日の共産党であるという結論を、そのような観点から下せます。
(85-230 ~ 231、1976.3.3)
共産党は、「労働者よ、団結せよ!」というモットーをもっています。私達も一つのモットーをもっています。「すべての良心のある人々よ、一つになって団結しよう!」と言うのです。共産党は中上流階層の人々を否定しますが、私達良心家は、三つの階層を団結させ得るでしょう。これが私達の闘いの場です。私達は、すべての人、すなわち黒人、白人、黄色人をみな抱くでしょう。私達がそのような人々を動員して共産主義者たちに打ち勝つ時、その時に真の平和の世界が来るのです。
(52-136、1971.12.26)
皆さんが楽しむために御飯を食べれば、穀物、あるいは野菜、魚などもすべて楽しく思うと言います。皆さんは楽しいですが、その食べ物たちも楽しく思うのですか。これが問題です。ここで歴史的な問題、上下関係の調和や強者と弱者の調和を求める道がないというのです。ここにいわゆる弁証法的論拠があると見るのです。歴史的な上下闘争の概念があると見ることができます。へーゲルのような人は、そのように見たのです。これを解決できなければ、歴史のあらゆる理想世界や、上下関係の構造的組織をもった何らかの組織体の平和や理想郷というものを見いだす道がないのです。強者は弱者を無視し、奪おうとし、冷遇し、どんな扱いをしても罪ではないと考えています。
(132-142、1984.5.31)
共産主義の経済体制は国家のためのものであり、民主主義の経済体制は個人のためのものです。妥協点を探してその隔たりを埋めなければなりません。妥協点を探して発展させていく国家が理想国家になるのであり、その国家が理想的な経済体制をもつようになるのです。
(52-267、1972.1.2)
6. 地球化と資本の平準化
― 宗教経典 ―
人類は、互いを一家族として結んでくれる結束力がある。それゆえに、富裕な国家は貧しい国の国民が最小限の人権も享受できない、貧困と絶望、空腹の現実に処しているとき、無関心でいることはできない。諸国家は、だんだんとより全世界的に相互依存を図っている。しかし、社会経済的不均衡が依然として存在する限り、永久的平和は維持できない。生産品、特に食糧を必要以上に過剰生産する諸国家は、正義と人類愛の名で、多くの人が飢餓で苦痛を受けている国家に援助を施さなければならない。人の生存のために必要な物を浪費したり、捨てたりすることは、人類愛を蹂躙する仕打ちである。
しかし、飢饉が時として実際にそうであるように、その国の経済の原始的状況に起因しているとすれば、緊急援助自体が究極的解決策になり得ない。永久的な治療法は、すべての方法を動員して、その国の国民たちに、科学、技術、専門的訓練をしてあげることだ。そして、近代化されたやり方で経済発展を加速化するために必要な資本を流通させてあげることである。開発途上国は、あきらかに国ごとに独特な特性がある。……。その中の一つが、彼らの由緒ある伝統と慣習だ。したがって、彼らを援助するとき、先進国は彼らの個性を尊重し、理解しなければならない。援助をしてあげるときにも、自分の国家の事例をこの国に適用させることに対して了解を求めなければならない。経済先進国が避けるべき、もう一つの誘惑がある。技術、財政的援助を通して貧しい国に政治的支配権を得ようとする考えが、巧妙に仮装された……
このような新しい形態の帝国主義は、世界が最近になって抜け出した旧時代的な帝国主義を再び追い求めるものである。そのような行為は、国際関係に悪影響を及ぼすだけでなく、世界平和も危険にさらすことになる。技術的、財政的援助をしてあげるときは、その国に対する政治的支配を念頭においてしてはならない。代わりに低開発国が社会的、経済的成長を成し遂げられるよう助けることに目的を置かなければならない。
教皇ヨハネ23 世マーテル・エト・マジストラ(キリスト教)
自由放任の経済原則は、時として独占市場を形成してきたため、貿易関係はこれ以上この原則にばかり依存することはできない。自由貿易は、それがただ社会正義に符合したときにのみ正当化される。経済体制自体を否定するのではない。ただ、競争は一定の限界内で公正で正当になされなければならず、そして真正な人間の努力によって定着しなければならない。
現在は、貿易取引において開発途上国と高度に先進化した国家の間に、全体的に、そして行為の自由において、大きな不平等が横たわっている。国際貿易がより人間的で道徳的であるためには、社会正義の次元で参加国に機会が平等に与えられなければならないだろう。
幅広い次元での国際的協議を通して、価格規制と生産設備の拡充、初期段階の発展産業に対する恵沢などの規範を設定することができる。このようにしたとき、国際貿易においてより大きな正義を構築しようとするこの試みが、開発途上国に大きな恵沢をもたらし、彼らは持続的な結果物を創出できるようになることは明白ではないだろうか。
教皇パウロ6世ポプロールム・プログレッシオ(キリスト教)
― み言選集 ―
先進国にはお金がたくさんありますが、そのお金は誰のものですか。神様のものです。権勢は誰のものですか。神様のものです。知識は誰のものですか。神様のものです。それでは、神様は誰のものですか。万民のお父様です。ですから、そのお父様の人格、経済、権勢、真理はすべて万民のものです。それで最近になって民主主義が出現するようになったのです。
民主主義で主権は民のもの、すなわち万民のものです。ですから、民が主権を左右しなければならないといいます。ところが、今日、主権が民にあるといいますが、実際その主権は財閥たちがもっています。今アメリカはおなかをいっぱいにしていますが、一人だけ裕福に暮らすようにはなっていません。
すべて分かち合ってあげなければならないのです。天理がそうなので、アメリカは外国に援助してあげなければなりません。そうでなければ生きられません。アメリカがもっているすべてのものは、アメリカだけのものではなく、世界のものです。いかなる学識も先進国だけのものではありません。世界のものです。
(13-27、1963.10.16)
今日のアメリカがどのようにして世界的に信望を受ける国になったのかというと、第2次大戦以降に戦争に敗北した国々、すなわち怨讐の国にも援助してあげたからです。つまり、神様を身代わりして与えたので、アメリカの地位が高まったのです。しかし、これがだんだんと減っていくことによって落ちていくのです。
(26-53、1969.10.18)
皆さんが食べる食べ物は、皆さんのものですか。それはアメリカのものですか。宇宙のものであり、万民のものです。自分を中心としてこれを互いに自分だけがもとうとしています。すべてのものが均衡を成して統一された環境に存在するのです。空気がこのくらい密集していれば、これがいつも密集していますか。ないところがあれば自然に満たしてあげるようになっています。
アメリカのここが真空状態になったとき、ほかのところから空気が来ます。水もそうです。水も流れていきながら、空いているところをすべて満たしてあげていくのです。食べ物を食べるのも、満たしてあげることです。おなかがすいているので満たしてあげることです。そのようなものを吸収しなければなりません。今2000 万が飢えて死んでいくのですが、アメリカは消費があまりにも多いのです。これは宇宙の法則に違反します。アメリカがいくらうまくやろうとしても、思いどおりにやってみても、うまくいきません。
(247-94、1993.4.25)
自分の国だけのために進んでいけば滅びます。ほかの国を自分の国の経済復興だけのための足場と思って搾取していく国は、滅びるというのです。アメリカがほかの国を経済的に後援してあげ、そこに加えて商売をしようとするので、アメリカが今まで援助をしてあげても非難される国になったのです。
(26-294、1969.11.10)
今、アメリカがしなければならないことは何でしょうか。自国の経済力を動員して最も貧しい国を訪ねていき、父母の心情をもって与えなければなりません。そのようにしなければ滅びます。父母の心情をもって僕の立場で心から、涙を流しながら与えなければならないのです。涙を流す人たちに対しては、涙を流す立場に立って与えなければなりません。与えるときにも、今までもっていた権勢の立場で与えてはいけません。それでは反発が起きるのです。誰が先に涙を流さなければなりませんか。受ける人が先に涙を流すのではなく、与える人が先に涙を流さなければならないのです。それが父母の心情です。
ですから、与える人が涙を流して与えなければなりません。そのようになっているというのです。それでは、与えるときは、どのように与えなければなりませんか。涙で与えなければなりません。あざ笑って与えては滅びます。これを知らなければなりません。アメリカが時々援助していますが、権勢をもって与えれば滅びるのです。それが原則です。大韓民国もそうです。アメリカに対して、「あなた達は援助したといばっているが、いつかあなた達がもらってみなさい」と言ってはいけません。与えるときは、涙で与えなければなりません。涙で与えることができる人になれなければ、兄弟ではなくお互いに怨讐だというのです。
(13-27 ~ 28、1963.10.16)
技術平準化、政治平準化、経済平準化をしないために、先進国が後進国に教えてあげず、かえって今まで搾取してきました。それは世界のものであって、アメリカのものではなく、ドイツのものではないのです。早く早く平準化、平準化、平準化させなければなりません。これから中国に、そのような平準化をさせたとしてみてください。中国の国民たちがどのように思うでしょうか。そうしてこそ、地上天国が早くできるのではないかというのです。
(135-107、1985.9.30)
私達の真実の奉仕の基準である絶対的価値の水平的側面に目を向け、世界の欠点をまた点検してみなければなりません。例えば、物質的技術的な面で祝福を受けてきた国々が、そうではない国に行き、喜んでこれを分かち合おうとするまでは、世界平和というのは決して成し遂げられません。科学と技術の恵沢は、全人類のためのものです。そして、それは分けて共に享受されなければなりません。すべての国家は、国民の福利のために技術を利用する公平な機会をもたなければならないのです。これは、あらゆる国家の選手たちがコーチの指導を受け、一つの運動場で競争する道理と同じです。そのようにしなければ、先進国はそのようにできない国々のねたみと嫉妬の対象になるのです。統一運動は、技術における祝福をすべての国に分けてあげ、開発途上国の経済的独立の必須条件である自らの工業基盤を立てるのを助ける役割を担うようになりました。
第17 次ICUS 基調演説、1988.11.25
いまだにこの世界には、多くの所に貧困があり、飢餓があり、不平等があまりに深化しています。これに対する宗教者の責任は、とても大きいと言えるでしょう。私は過去20 年間、海洋資源開発のために直接先頭で船に乗り、多くの資源を投入しながら努力しました。高たんぱく質の水産物パウダーを開発することに成功し、人体に大切な製品を継続して研究開発しています。このすべての成果は、アフリカなどの地に効果的に支援されています。
地球上の飢えの惨状をなくそうという私の決意を実践しています。農業開発と海洋企業を通して食糧を生産し、発展途上国を支援することに各宗教が互いに連合、協力することができなければなりません。各宗教が先導するこのような人的、物的投資を通して真の愛が実践されれば、世界に希望を与えると見ています。
(271-71 ~ 72、1995.8.21)
行政府がウルグアイ・ラウンドを中心として、世界のあらゆる弱小国家に対して余剰農産物をすべて売ろうと固執しています。それで、私が主張することは、「農産物を自由流通するのと同じように、人間の自由流通を許諾せよ」というものです。国境を撤廃しなさいということです。これを強制すれば、アメリカは立つ場がなくなります。
それで、今後、統一教会の教会員たちのもっている所有物と財産をすべて売らせ、アフリカの人のための僕になるよう送り出さなければ、アメリカは滅びると見ているのです。アメリカの人は、そのようなことを嫌います。仕方なく統一教会の教会員にそれをさせようと思います。それで、そのような行動をするようにして、滅びるアメリカに均衡を取らせることによって、継続して存在することが可能であることを知らなければなりません。
(261-309、1994.7.24)
10) 和合と共同体
すべての宗教は、自らの信仰の和合に対するビジョンをもつ。今日の私達は、あらゆる人種、宗教、そして国籍を含む人類全体の和合に対する、巨大なビジョンを念願している。しかし、共同体形成のための原則原理だけが残っている。すべての宗教は、普遍的教えを中心として新しい社会を形成するため、分裂した様々な集団を統合する和合運動を始めた。世界経典はそれに対する指針を提示している。
文鮮明先生は、家庭がすべての社会的和合の基礎であるため、この和合は家庭を洞察しなければならないと教える。この節の様々な章句は、人体の多様な器官が協力して自身の機能を遂行するため、これを比喩として用いている。これは、調和がとれた共同体の中で、互いに支持しなければならない多様な社会的役割を表示するためである。人体は、最も低いものから最も高いものまで、すべての部分の適切な機能遂行に依存している。このように真実の共同体において、すべての人は、栄誉ある地位をもっている。
1. 神様の民と家庭として和合
― 宗教経典 ―
またなんじらのうち一団の者は、人びとを善いことに招かせ、正しいことを命じ、邪悪なことを禁ずる。これらは成功する者たちである。明証がかれらに来た後分裂し、また論争する者のようであってはならぬ。これらの者は、きびしい懲罰を受けるであろう。
クルアーン3.104 ~ 5(イスラーム)
見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。
詩編133 (キリスト教)
信者たちは兄弟である、それでなんじらは、ふたりの兄弟の間を融和せよ、そして神を畏れまつれ、おそらくなんじらは慈悲にあずかるであろう。
クルアーン49.10 (イスラーム)
主はその民をシオンと呼ばれた。彼らが心を一つにし、思いを一つにし、義のうちに住んだからである。そして、彼らの中に貧しい者はいなかった。
高価なる真珠、モーセ書7.18(末日聖徒イエス・キリスト教会)
父よ、あなたが私の内におられ、私があなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らも私達の内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたが私をお遣わしになったことを、信じるようになります。あなたがくださった栄光を、私は彼らに与えました。私達が一つであるように、彼らも一つになるためです。
ヨハネによる福音書17.21 ~ 22(キリスト教)
和合して行け、和合して語れ、汝らの意は和合せよ、太古の神々が、和合して〔供物の〕配分に立会いしごとくに。勧告は一致して〔あれ〕、会合は一致して〔あれ〕。思考は一致して〔あれ〕、彼らの心は一致して〔あれ〕。共同の聖語をわれ汝らに唱う。共同の供物をわれ汝らに捧ぐ。汝らの意向は一致して〔あれ〕、汝らの心は一致して〔あれ〕。汝らの思考は一致してあれ、いみじき和合が汝らにあらんがために。
リグ・ヴェーダ10.191.2 ~ 4(ヒンドゥー教)
そこではもはや、ユダヤ人もギリシァ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。
ガラテヤの信徒への手紙3.28(キリスト教)
私達の本質は、どこでも制限されておらず、私達のぶどう酒の活力は、いかなる器にも入れられていない。私達の壷をつくっている陶磁器のような中国人とインド人、私達の体を形成している土のようなトルコ人とシリア人、私達の心情はインド、シリア・ルーマニア、どこでもなく、イスラーム以外にどの祖国も、私達は宣言しない。
ムハンマド・イクバール滅私の秘義(イスラーム)
人は誰でも人との相互関係の中に置かれています。そして、その関係は運命という服をまとっています。一人に直接的な影響が加えられれば、他のすべてに間接的にその影響が返ってくるようになるものです。他の人たちが自分の位置で本分を果たすとき、私もやはり私の位置を見いだすことができ、私が私の位置で責任を果たすとき、他の人たちも自分の位置を見いだすことができます。
マーティン・ルーサー・キング・ジュニア(キリスト教)
― み言選集 ―
歴史上で神様が最も希望することとは何ですか。神様の希望があるとすれば、救援も個人救援が問題ではなく、白人救援が問題ではありません。最も希望することとは何かというと、人類が、五色人種が一つになり、神様と生死を共にしようとすることです。
(93-15 ~ 16、1977.5.8)
外的統一よりも内的心情統一が重要です。
(60-34、1973.8.1)
先生は、未来世界の問題点の中の一つである人間と関連した障壁を崩そうとしているのです。いかなる類の有名な指導者も、文化的背景の障壁、習慣などと関連した人間間の障壁を崩すことはできません。誰がそのような障壁を崩せるのかというのです。ただ私だけができます。未来に迫る人種問題、文化と関連した諸問題、国家間の国境問題などを解決するために、アメリカを中心として、文化が異なり、文明が異なり、宗教が異なる世界の国々を一つに統一する方法を模索しているのです。
(215-203、1991.2.17)
皆さんは今後、一つの家で暮らすのです。私がコンドミニアムを造れば、4世帯が暮らせる家を造ります。レセプションの場を一つ造り、食堂も一つ造り、韓国人、日本人、アメリカ人、ドイツ人の4世帯が暮らせるコンドミニアムを造らなければならないと考えています。ですから、一つにならなければなりません。一つにならなければ天国ができません。
(131-244、1984.5.4)
最も呪わしく、夢にも見たくない怨讐の家庭と、祝福結婚を通して一つの家族になったと考えてみてください。恨みの思いに凝り固まっていた父母たちの血統は消え去り、新しい強力な真の愛の血統が創造されるのです。両家の子女たちが夫婦となり、互いに愛し合い、幸福な家庭を築いて暮らすことを呪う父母がどこにいるでしょうか。いくら憎い怨讐の娘であったとしても、自分の息子の愛を受ける嫁となり、水晶のように清らかで澄んだ真の天の孫と孫娘を抱かせてくれるとしたら、喜びの笑顔を見せないおじいさん、おばあさんがどこにいるでしょうか。
白人と黒人が、東洋と西洋が、ユダヤ教とイスラーム(イスラム教)が、さらには五色人種が一つの家族になって暮らせる道は、交叉結婚の道をおいて、ほかに方法があるでしょうか。共に暮らす生活の典型は家庭です。父母と子女は愛と尊敬で、夫婦は相互信頼と愛を基盤として、兄弟姉妹間は互いに信じて助け合い、一つになって暮らす家庭の姿が、正にモデル家庭なのです。私達が命を懸けてでも、真の父母様から祝福結婚を受け、天の伝統である理想家庭を探し立てなければならない根本理由が、ここにあるのです。
平和神経、平和メッセージ1.23 ~ 24 2005.9.12
2. 公共の敵に対抗する一致団結
― 宗教経典 ―
イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。
マタイによる福音書12.25 (キリスト教)
私の子供たちよ。戦争、恐れ、そして不一致があなた達を、あなた達の村からこの聖なる集まりの火につれてきた。共通の危険に遭遇し、そしてあなた達家族の生存を心配しながら、あなた達はまだ分裂し、漂流している。
各部族が自分たちばかりを考え、自分たちばかりのために生きながら。私がどのようにあなた達を小さな集団から導き出し、大きな部族連盟に育てあげたか考えてみよ。あなた達は今、再び結合し、一つの体のように行動しなければならない。どの部族も、単独で私達の野蛮な敵に対抗することはできない。
あの者たちは、私達の永遠の法に対しては何の関心ももたない。あの者たちは、すべての所に死と破壊を広げながら、極寒の暴風のように私達を一掃してしまう。私の子供たちよ、よく聞きなさい。あなた達は兄弟であることを覚えておきなさい。あなた達は必ず一つの火、一つのパイプ、一つの戦闘組織をもたなければならない。
デガナウィタ(アメリカ先住民の宗教)
真実に私達は、みな共に団結しなければならない。そうでなければ、最も確実なことは、私達は分裂しつるしあげられるだろう。
ベンジャミン・フランクリン
「一つの家庭が分かれて、それぞれ戦えば、その家庭は持ちこたえていくことができない」と言います。私は、この国がいつまでも半分は奴隷で、半分は自由という状態を保てるとは信じていません。私は、連邦が解体されることを願いません。私は、一つの家庭が倒れることを願うのではなく、紛争が終息することを期待します。こちらになるかあちらになるか、きっぱりと決めなければなりません。奴隷制度の反対者が奴隷制度の蔓延を防ぎ、一般の国民によって奴隷制度は究極になって消滅してしまうと信じて安心することができるのか、あるいは奴隷制度の擁護者たちが奴隷制度を押し進めていき、ついには新と旧、南と北を分けることなくすべての州においてこれを合法化させるのか、二つのうち一つになるでしょう。
エイブラハム・リンカーン
ナチが共産主義者たちを支持したとき、私は沈黙した。私は共産主義者ではなかったからだ。彼らが社会民主主義者たちを監禁したとき、私は沈黙した。私は社会民主主義者ではなかったからだ。彼らが労働組合員たちを支持したとき、私は支持声明を発表しなかった。私は組合員ではなかったからだ。彼らが私を支持したとき、私のために立ち上がってくれる人は誰もいなかった。
マルティン・ニーメラー(キリスト教)
― み言選集 ―
完全に悪のローマ帝国の属国になったのは、何をしようとそうなったのですか。イスラエル民族は、内的に一つになって独立運動をするのです。ローマに向かって対抗できる、このような基盤をつくるのです。強い怨讐をもたせたのは、内的に一つになった、一つの統一運動をさせるための天の作戦だったことを知らなければなりません。摂理というものを知らなければなりません。ローマ帝国時代のカタコンベのようなところに行ってみれば、キリスト教徒たちが洞窟で暮らしていたのを見ることができます。それを見れば、ローマから迫害を受けながらも、キリスト教を中心としてどれほど一つになっていたかを知ることができます。神様がそのようにしたのは、キリスト教を一つにさせて強力な統一性を付与するためです。
(105-124 ~ 125、1979.10.4)
今日、皆さんと私は共通の運命の前に一緒に立っています。私は、この悪の世界で正義を擁護する人が、もし何らかの実質的基盤をもつことができなければ、簡単に除去され得ることを骨の髄まで深く悟っています。したがって、学者と学生たちの連合戦線と共に、クリスチャンとすべての宗教の信仰者たちは共に働かなければなりません。
(129-304、1983.11.25)
3. 人間の体をモデルとした相互依存
― 宗教経典 ―
体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、私達は、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。
体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、「私は手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、「私は目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。
だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。
私達は、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。
コリントの信徒への手紙一12.12 ~ 26(キリスト教)
アブ・ブサが使徒の言葉を伝えた。「信者とは、互いに各部分を支える建物と同じだ」。そして彼は、彼の両手の指を組み合わせて見せた。
ブハーリーおよびムスリム・ハディース(イスラーム)
肉体の欲望と、堕落した心の抱く欲望とによって、汝等の間に分裂が生じることのないよう注意せよ。汝等、一つ手の指のごとく、また、一つ身体の器官のごとくあれ。啓示のペンは、かくして汝等に勧告するのである。おお、汝等、信じる者ならば。
バハオラ落穂集72(バハイ教)
指一本が痛むからといって、それを切ってしまうことはできない。
ウンジャク族の格言(アフリカ伝統宗教)
― み言選集 ―
理想世界を創建するために、私達は全体的なモデル、すなわち青写真をもたなければなりません。統一運動が提示する理想世界像は、心と体が和合して完成した一人の人間に例えられます。神様を中心とする人間の精神的および霊的生活から人生の理想と目的が出てきます。神経組織は、心がしようとすることを各細胞に伝達し、四肢五体から入ってくる情報を頭脳に伝達します。この授受の過程が順調なとき、個人は調和した状態にあると言うのです。
人類全体の精神的および霊的生活が、一個人のそれになぞらえることができるとすれば人類社会の経済的および外的な側面は個人の身体に例えることができるでしょう。人類の霊的理想と神様に向けた念願と愛は、宗教を通して社会と文化の中に表現され、それを中心に神学、哲学、芸術およびあらゆる文化が回転するのです。ここで宗教指導者、神学者および哲学者たちは、ちょうど人体の神経組織と同じように、神様から来るメッセージを解読し、全人類に伝達しなければなりません。
(133-272、1984.8.13)
ここの細胞を通っていた血が、足の底の細胞を通っていた血に、「ああ、頭のほうに来るな」と言うことができますか。このような境界線がありますか。頭のほうに来るなという境界線があるのですか。ありません。そのような意味で、黒人、白人、黄色人のような区別はありません。皮膚がここは白く、ここは黄色く、色がすべて違います。目の色も違い、髪の毛も違い、すべて違います。だからといって、「ああ、お前は私と違うから別種だ」、そのように言えますか。
(91-280、1977.2.27)
肺臓と心臓と胃腸が、末梢神経を通じて伝達される頭脳の命令に従って、お互いに衝突することなく円満な授受の作用を維持している。この三臓器に該当する理想社会の立法、司法、行政の三機関も、政党に該当するキリストを中心とする信徒たちを通じて伝達される神の命令によって、お互いに原理的な授受の関係を結ばなければならない。人間の四肢が頭脳の命令に従い、人間の生活目的のために活動しているように、四肢に該当する経済機構は、神の命令に従い、理想社会の目的を達成するために実践する方向へと動かなければならない。
また、人体において、肝臓が全身のために栄養を貯蔵するように、理想社会においても、常に全体的目的達成のために必要な貯蓄をしなければならないのである。しかしまた、人間の四肢五体が、頭脳と縦的な関係をもち、肢体の間で自動的に横的な関係を結びながら、不可分の有機体をつくっているように、理想社会においても、あらゆる社会の人々が神と縦的な関係を結ぶことによって横的な関係をも結ぶようになるので、喜怒哀楽を共にする一つの有機体をつくるようになるのである。それゆえに、この社会においては、他人を害することが、すなわち自分を害する結果をもたらすことになるので、罪を犯すことができないのである。
原理講論、メシヤ再降臨準備時代3.2
11) 世界市民
世界的潮流は和合に向かって絶えず流れているように見えるが、ある遠心力がその流れを脅かしている。今日、通信、教育、運送と貿易などにおいて、国家と国家の間を互いに有益で依存的なネットワークとして制度化しながら、世界化する傾向が現れている。
しかし、世界の和合は、単に貿易の土台ばかりに依存することはできない。世界的懸案が経済的な主導勢力により調整されるなら、開発途上国の国民は世界化の犠牲者として残り、致命的な脅威を感じるであろう。人類歴史上、栄誉ある国民は、自身の慢心を担保とする代案を講じる。イスラム主義の登場がその一つの例である。世界和合の鍵は、経済に譲渡されることはない。その鍵の主人公は、正に宗教である。
各宗教の教えには、不和反目の要素があることは事実だ。しかし、各宗教には世界和合の理想を高める教え、人類の父母である神様に根源をおいた教え、を含有している。つまり、世界和合の主人公は神様である。全人類は神様の子女だ。したがって、世界は神様を中心とした一つの家族共同体である。宗教の教えは、このような和合を現実化する方法を提示する。例を挙げれば、文鮮明先生の超国家、超人種、超宗教的祝福結婚がそれである。
― 宗教経典 ―
人びとよ、われはひとりの男とひとりの女から、なんじらをつくり、民族にした、これはなんじらを、互いに認識させるためである。神のみもとで最も尊い者は、なんじらのうち最も主を畏れる者である。
クルアーン49.13 (イスラーム)
人類という家族を一つと思わなければならない。
ジナセーナアーディプラーナ(ジャイナ教)
せかいぢういちれつわみなきよたいや
たにんとゆうわさらにないぞや
このもとをしりたるものハないのでな
それが月日のざねんばかりや
おふでさき13.43 ~ 44(天理教)
全人類があなたの側になるようにせよ。
アーディ・グラント、ジャプジー28、M.1、p.6(シーク教)
おお、地上で争っている民族や種族の人々よ。汝等の敵を和合の方に向け、その光の輝きを、自分達の上に照りはえさせよ。ともに集い、たとえ自分達の間の論争の源は何であろうと、神のためにそれを根絶するよう決心せよ。さすれば、世界の偉大な輝かしいものの光輝が全地球を包み、そこに住む者は、全て一つの町の住民となり、ただ一つの王座の居住者となるであろう。
バハーウッラー落穂集111(バハイ教)
あなたは世界の市民であり、世界の一部分である。補助的部分ではなく、重要な部分である。あなたは、神聖な秩序を把握し、事物の連関性を考慮する能力がある。そうだとすれば、市民的特性は何を約定するのか。個人的利益を主張しないこと、ちょうど手と足のようにもてなすだけであって、分離した個人としては何に関しても熟考しないことがそれである。手と足に理性があり、自然法を理解するとすれば、それらは決して全体に関連することなく何かを願ったり求めたりすることはないだろう。
エピクテトス語録2.10(ヘレニズム)
私はアテネ人でもギリシャ人でもなく、世界の市民である。
ソクラテス(注60)(ヘレニズム)
あなたが宇宙から地球を見れば、地球でどの民族や国家の境界も見ることはできない。この地球は、近づいてくる新しい神話学の象徴なのかもしれない。地球は私達が育てるべき国であり、人類は私達が共に一つである人々である。
ジョーゼフ・キャンベル神話の力
絶対真理の観点によれば、私達が日常生活で感じ、経験することは、すべて幻影である。そのあらゆる多様な幻影の中で、私達自身と異なる人に対する分別意識は、最悪の形態の幻影だ。なぜなら、それはどちらにも不幸ばかりもたらすからである。もし私達が究極的真理に対して理解し、瞑想することができれば、それは私達の心の垢をきれいに洗い、分別意識を除去するだろう。これは互いに対する真の愛をつくりあげることに助けとなるだろう。
テンジン・ギャツォ、第14 代ダライ・ラマ(仏教)
もし愛の一致が一つの家庭にはっきりと現れていれば、その家庭は発展して光り輝き、神霊に満たされるだろう。しかしもし、その家庭に不和と憎悪が存在すれば、破壊と解体が必然的である。これは一つの都市でも同様である。もしその中に居住する人たちが和合と親睦の精神を現せば、その都市は着実に進歩し、生活の状況は明るくなるだろう。反面、不和と闘争を現す都市は崩れ落ち、その住民はばらばらになるだろう。このように一つの国の民も、愛と和合を通して発展し、文明と教化で進み、戦争と闘争によって崩壊するのである。
結局これは、人類全体でも同様である。愛が実現され、理想的な霊的連帯が人々の心を一つにするとき、全人類は高揚し、世界はより崇高でまぶしいほど美しく成長するだろう。そして、人類の幸福と平穏がはかりしれないほど増大するだろう。戦争と闘争は根絶され、不一致と軋轢も消え去り、宇宙的平和が世界の諸国家と民たちを一つに結ぶだろう。全ての人類は、一つの家族として共に暮らし、一つの海の波として混ざり、一つの蒼空の星々として輝き、同じ木の果実に見るだろう。これが人類の幸福であり慶事である。これが人間の啓蒙であり、永遠の光栄であり、生命である。これが聖なる贈り物なのである。
アブドゥルバハー万国平和の普及(バハイ教)
― み言選集 ―
私達人間に国籍を超越した一つの統一世界で生きようという強力な欲望が各自の内面世界からほとばしっています。このような内面の叫びは、真の人間の理想であり、心情であり、これはすなわち神様の心情であり、希望でもあります。
(115-177、1981.11.10)
超民族的な主義でなければなりません。超民族的な心情を中心として、自分の民族より、その国をもっと愛することができる民族が出てこなければなりません。
(34-337、1970.9.20)
これからは「私の国」という定義が発展的でなければなりません。もちろん私が生まれて育った国が、まず「私の国」であることに間違いありませんが、より大きい見地から見たならば、私の父であられる神様がつくられた世界が、すべて「私の国」なのです。
(219-121、1991.8.28)
今まで歴史を、国家を、自分の国を中心としてそのようにしてきました。人間たちはそのように考えましたが、神様がいるとすれば、神様はどのように考えたでしょうか。神様いわく、「私はアメリカの国だけを愛する!」と言われたのなら、その神様はアメリカの神様にしかなりません。その神様は、アメリカが滅びるときに滅びなければならない神様です。しかし、神様はそのように考えません。人間たちよりも次元の高い考えをするので、家庭のために生き、国のために生きる思想よりもっと徹頭徹尾な世界のために生きる思想を神様は立てようとするのです。
(95-53、1977.10.23)
アメリカを立てた目的は、アメリカを中心に世界を救うことです。アメリカ人たちは、アメリカが世界を救わなければならないことを知らずにいます。世界の歴史上において、単一国家が中心となって宗教と文化的に世界全域を統一したことがたった1度だけあったのですが、それが正に第2次世界大戦直後のアメリカが全世界を占領したことではないですか。アメリカとカナダの大統領を中心とするアメリカは、全世界の貧しい国々を助けてあげる立場にいたのです。
(215-200 ~ 201、1991.2.17)
天宙主義というものは、世界を一つの家にしようというものです。それでは、この家には父母がいなければならないのですが、ここで天は父であり、地は母です。次に、兄弟がいなければなりません。
(36-296 ~ 297、1970.12.13)
「私達の家庭は真の愛を中心として、神様の創造理想である天宙大家族を形成し」、神様の理想は、世界がすべて一つの家庭になることです。「天宙大家族を形成し、自由と平和と統一と幸福の世界を完成することをお誓いいたします」(注61)、自由というものは個人の自由ではなく、全世界の大家庭にいる人たちの自由であり、大家庭の平和であり、大家庭の幸福です。全人類がすべて幸福だということです。霊界に行ってみれば、全世界の人たちが1度に集まるのですが、国境がありません。五色人種が集まっています。誰が過去、現在、未来まで、すべて一つになることができる家庭的理念をもって準備しているかが問題です。
(260-191 ~ 193、1994.5.8)
7か国の人と因縁を結んだ生活をしてこそ、天国に入れる。
御旨の道、天国
人は、空間の世界に立てば必ず上下が必要であり、左右が必要であり、前後が必要です。そうしてこそ、自分の存在位置が確定するのです。皆さんが上下に正しく合わせているか、左右、前後を正しく合わせているかによって、様々な姿になるのです。皆さんの上下、左右、前後関係、そして家庭の問題や国の問題、世界の問題を扱うとき、公式は一つです。個人を中心として上下、左右、前後があるように、家庭でも父母と子女がいなければならず、夫と妻がいなければならず、兄弟姉妹がいなければなりません。
これと同じように、国にも国の主人を中心として、あらゆる家庭が東西の文明、南北の文明をすべて抱き、その次に世界の万民を兄弟姉妹のように抱き、結局、一つの家庭モデルを成すのです。モデルは同じです。そして、私自身がそのモデルの中心です。自分がいる次には自分の家庭がなければならず、国と世界と天地、そして神様まで進んでいかなければならないのと同じ道理です。
(287-19 ~ 20、1997.8.10)
このようにすることによって、神様が願われていた摂理の家ができるのです。その家が私達の国になり、私達の世界になり、私達の天地にもなります。私達の家に行けば、五色人種がすべています。アメリカ人、ドイツ人、フランス人、イタリア人、その次にイギリス人、日本人、怨讐同士がいるのです。昔の怨讐の感情を感じようとしても感じられません。昔のドイツ人、アメリカ人、イギリス人、日本人という、このような感情を感じようとしても感じられないのです。いくら怨讐だとしても、「ために生きる」愛をもてばすべて一つになります。
(106-83、1979.12.9)
自分の一つの民族を中心とする宗教をもって、世界的なみ旨を成就しようとするのはとても不可能なことです。自分の民族や国家を越えなければならず、自分の民族の伝統的な社会制度や文化、その他のあらゆる慣習をすべて打破してしまい、世界人を中心とする社会、神様のみ旨と和合できる一つの世界を模索しなければなりません。そこにあらゆる心情を一体化させ、生活全体を一体化させなければなりません。人生観なら人生観を、世界観なら世界観を一体化させることを断行しなければ、宗教として残ることはできないでしょう。
民族を中心とする幸福の理念を求めようとするのではなく、世界を中心とする幸福の理念を求めようとする統一教会にならなければなりません。歴史過程の宗教を中心として見てみるときに現在がそのような時点だということを私達は知らなければなりません。自分を中心とする観念、自分の家庭を中心とする観念、自分の国家を中心とする観念では世界化が成されないのです。
(27-179、1969.12.14)
歴史は一つの世界を指向してきているので、個人、家庭、民族、国家のためのことはすべて過ぎてしまいます。神様は、皆さんに世界的な標準存在に接ぎ木してくださいます。それは永遠に残ることができる基準を望んで生きる皆さんにするためです。
(12-45、1962.9.10)
第21章 指導力とガバナンス
指導力とガバナンス
1) 神様を畏敬する指導力
神様は、すべての人間の制度を主管される。したがって、指導の第一原理は、天法によって政府が運用されなければならないということである。指導者は、神様を畏れ、神様が受け入れられるやり方で国民を統治しなければならない。指導力は公的信頼である、すなわち神様の代理人として発揮する力量だ。
したがって、一つの国の指導者は、神様の霊的価値を中心として国家を運用しなければならない。国王や大統領は、神様の前に責任があることを認識しなければならない。神様は、自身の信頼を破った指導者には断固として罰を下される。また指導者は、神様が人間社会の出来事に同参できる高次の法を設定し、それにより運用する責任がある。
― 宗教経典 ―
イスラエルの神は語り/イスラエルの岩はわたしに告げられる。(注1)神に従って人を治める者/神を畏れて治める者は/太陽の輝き出る朝の光/雲もない朝の光/雨の後、地から若草を萌 え出させる陽の光。
サムエル記下23.3〜4 (キリスト教)
ダビデよ、われはなんじを地上における代理者にした、それゆえ人びとの間を、真理によってさばき、私情に従って、神の道からなんじを誤らせてはならぬ。神の道から迷う者は、清算の日を忘れた者で、必ずきびしい刑にあうのである。
クルアーン38.26 (イスラーム)
天の聡明は、わが人民の聡明による のでございます。天の明威は、わが人民の明威によるのでございます。上(天) 下(民)に相通じております。敬わねばなりませんぞ、有土者よ。
書経2.3.3,皐陶謨(儒教)
統治者が至高至純であられる神を畏敬し、善政を施せば、彼に大きな報いが与えられるだろう。そうしなければ、応報が彼に戻ってくるだろう。
ムスリム・ハディース(イスラーム)
天の怒りを敬み
戯れはしゃぐことなかれ
天意の変ることを畏れ
気ままに振舞ふことなかれ
天つ神 明らかにして
汝とともに出でまさむ
天つ神 明らかにして
汝とともにゆきまさむ
詩経,254板(儒教)
人間に属することがらを離れて超えて、神々のことばを選んで、〔あなたの〕すべての朋友とともに〔師の〕指導にしたがえ。
アタルヴァ・ヴェーダ7.105 (ヒンドウ一教)
もしあなたの王権が、名声のためでなく、また欲望のためでなく、法のためにあるならば、きわめて実り豊かであり、もしそうでなければ、値打ちのないものとなるでしょう。
龍樹 宝行王正論327 (仏教)
あなたが、あなたの神、主の与えら れる土地に入って、それを得て、そこに住むようになり、「周囲のすべての国々と同様、わたしを治める王を立てよう」と言うならば、必ず、あなたの神、主が選ばれる者を王としなさい。同胞の中からあなたを治める王を立て、同胞でない外国人をあなたの上に立て ることはできない。王は馬を増やしてはならない。馬を増やすために、民をエジプトへ送り返すことがあってはならない。「あなたたちは二度とこの道を戻ってはならない」と主は言われた。王は大勢の妻をめとって、心を迷わしてはならない。銀や金を大量に蓄えてはならない。彼が王位についたならば、 レビ人である祭司のもとにある原本からこの律法の写しを作り、それを自分の傍らに置き、生きている限り読み返し、神なる主を畏れることを学び、この律法のすべての言葉とこれらの捉を忠実に守らねばならない。そうすれば王は同胞を見下して高ぶることなく、この戒めから右にも左にもそれることなく、王もその子らもイスラエルの中で王位を長く保つことができる。
申命記17.14 ~20 (キリスト教)
この金輪宝はおまえの父の財産ではない。おまえが聖王として正しい法をひたすら懸命に行い、正しい法をなして、……法に依拠して、法をしっかり立て、法に欠けることなくそなえ、恭しく法を尊重し、考察し、法を第一とし、正しい法を守るべきである。さらに、法にもとづいて、王子や大臣、す べての官僚たちや国民、沙門、婆羅門、さらに鳥やけものに至るまでみまもり、いましめるべきである。みなをまもる べきである。
阿含経長部iii.60〜61.転輪聖王修行経(仏教)
少数で、今日の無用な人々と呼ばれてはいますが、決して邪悪ではない哲学者たちによって、偶然にある必然性が、彼らが願おうと願うまいと、国を管理するようになります。国は国でこれに従うようにするまでは、または、現在の権力を掌握していたり、君主として統治をしている当事者たちや彼らの子孫たちに、何かの神的な感化によって本当の哲学に対する本当の愛の感情が不意に襲ってくるまでは、国も政体も、また個人さえも同じように、決して完全になることはできません。
プラトン 国家6 (ヘレニズム)
― み言選集 ―
皆さんは、自分のどこが不足なのかを知っています。自分がよく知っているのです。自分の神様は、自分です。自分の神様を知らない人は、神様を知ることができません。神様の代身の立場で影のようにいる私が、その神様を中心として相対的な対象体として完全に一つになってこそ、どこでもリードできるのです。そうであってこそ、顔を上げて堂々と語れます。
(237-144.1992.11.13)
指導者は、神様を身代わりし、天倫を身代わりし、そのみ旨を地上に成し遂げようとする人です。
(11-172,1961.7.9)
世界の秩序は、政治主権が道徳的、霊的、思想的価値と別個に作用しては、公益と平和が保障されるのは難しいのです。神様の理想に基礎をおく、宇宙の公法と通じる霊的、道徳的高次元の指導力が要請されます。政治力やそのいかなる力も、神様と天理の上に立つことはできません。
(359-321.2001.11.8)
本来は、政府の大統領から上下議員まで、すべてキリスト教の正常な合格者たちでなければなりません。神様がそれを願われるのです。議会や大統領までも神様がコントロールしなければならないということです。神様に尋ねれば、神様が「私は政教を分立する神だ。宗教だけのために生きる神だ」、そのようにおっしゃいますか。 違います。キリスト教がすべて政教分離をしていけば、これから完全に滅びます。今からでも遅くないので、キリスト教全体が宗派主義を打破して完全に一つになり、UNから統一運動、一つになる運動をすれば、世界が生き得る道があることを、ここから見いだせます。宗派主義を打破し、キリスト教が一つになって運動をしなければなりません。UNも、キリスト教が押し進める中で、アメリカも、キリスト教が押し進める中で、全世界が一つになる運動も、キリスト教が推し進める中で展開しなければなりません。
(93-81-82.1977.5.15)
今、宗教が世の中でその指導力を発揮する時になりました。指導力とは、盲信的であったり、偏狭から来る傲慢と独善的な態度からは出てきません。真の指導力は、天のみ旨に私を従属させ、利他的であるときに生じるのです。宗教者たちは、この時代の状況と様々な非理に対して責任を感じたいと思う 自己省察がなければならない時だと思います。今まで宗教者たちは、愛の実践において手本になることができず、自分個人の救援や宗派利益にきゅうきゅうとするあまり、全世界の救援のために尽カできなかったことを悔い改めなければなりません。今こそ、信仰だけでなく愛の実践が要求されている時です。
(234-273.1992.8.26)
良し悪しを何で決めますか。何を標準とするのかというのです。それはアメリカの大統領でもなく、民主世界の責任者でもなく、共産党の責任者でもありません。歴史を支配し、この天地を動かしているある主人がいるとすれば、その主人だというのです。その主人に仮名をつけて、神様としてもよいのです。その名前は、何でもよいというのです。
(104-206.1979.5.6)
2) 義なる指導力
指導者の必須的な資質の一つは、義であることだ。義は、自身の利益に関係 なく、ただ公共福祉に献身することである。義なる指導者は、難しい問題に直面しても委縮しない。彼は、公的正義を立ててそれに責任をもち、自身のすべてのものを投与しながら、それを具現させるにおいて、どんな障害物も克服する者である。彼は、公的な業務の成就において、自身はもちろん、自身の同僚にも犠牲が要求されることを知っている。彼は、決して同僚たちの苦痛を当然だと考えず、彼らが克服しなければならない逆境に対して格別に心配する。そして、自分自身も、その逆境に喜んで同参する。彼は、未来の世界のビジョンを提示し、現実的課題を果敢に遂行する。個人的水準で義なる指導者は、正直性を担保としている。彼は、自身の職務から利益を追求せず、自身の利益のためにどんな形の公金も誤用しない。不正腐敗には何らかの毒性が含有されているため、彼は、どんな犠牲を払ったとしてもそれを回避する。
1. 正義に対する情熱と人間に対する熱烈な愛
― 宗教経典 ―
神が人間を、互いに抑制し合うようし向けられなかったならば、大地はきっと腐敗したことであろう。
クルアーン2.251(イスラーム)
主はモーセに言われた。「ファラオのもとに行って彼に告げなさい。ヘブライ人の神、主はこう言われた。『わたしの民を去らせ、わたしに仕えさせよ』と。
出エジブト記9.1(キリスト教)
ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれ た。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」
ヨハネによる福音書2.13-16 (キリスト教)
お前たちの誰でも、悪行を見かけたら自分の手でそれを変えるようにするがよい。それができなければ自分の舌で。それもできなければ心で。だがそれしかできない者は、もっとも信仰の弱い者。
ナワウィー 40のハディース34 (イスラーム)
そういえば、人々にして、天則とともなる行動をもって、マズダーよ、御身の宣告を充ち足らわせることに、善思でもってこれ従うなら、彼らは諸邦のサオシュヤントらとなるでしょう。彼らはアエーシュマの打倒者として使命づけられているからです。
アヴェスター・ヤスナ48.12 (ソロアスター教)
私の任務は、使徒時代の任務と同じだ。私は不敬と不浄をなくし、正義で真実な統治と人道的で天国と同じ政権を樹立するときまで奮闘するだろう。 必ずや! クライシュ族よ、私が誰なのか忘れたのか。私は彼らに信仰がなかったとき、彼らと闘い、彼らを敗北させた。そして今、彼らの暴悪で、不浄で、信仰がない統治を除去するために、彼らと闘うだろう。現在の私は、聖なる使徒として生存していたときの私自身より、もっと彼らがよくなることを願う。私の勇気と決意は減ってはいない。
ナフジュ・アル・パラーガ 説教38 (イスラーム)
先生がいわれた、「(人を)愛するからにははげまさないでおれようか。(人に)誠実であるからには教えないでおれようか。」
論語14.8 (儒教)
私たちは、当然、共同体が経験する困難を分かち合わなければならない。私たちの師であられるモーセが共同体の困難を共に分かち合ったことを私たちは知っているからである。
タルムード・タアニート11a (ユダヤ教)
わたしが見たのは、あなたたちがあなたたちの神、主に罪を犯し、子牛の鋳像を造って、早くも主の命じられた道からそれている姿であった。わたしは両手に持っていた二枚の板を投げつけ、あなたたちの目の前で砕いた。主の目に悪と見なされることを行って罪を犯し、主を憤らせた、あなたたちのすべての罪のゆえに、わたしは前と同じように、四十日四十夜、パンも食べず水も飲まず主の前にひれ伏した。わたしは、主が激しく怒りに燃え、あなたたちを滅ぼされるのではないかと恐れたが、主はこのときも、わたしに耳を傾けてくださった。
申命記9.16-19 (キリスト教)
私は人間の心を抑圧するいかなる形の暴政に対しても、最後まで抵抗することを神の祭壇に誓った。
トマス・ジェファーソン
私は血、苦労、涙、そして汗しか捧げるものがありません。
ウィンストン・チャーチル
― み言選集 ―
本当の大将になれる人は、どのような人ですか。死が立ちふさがっても、困難があっても、それを消化しようとする人だけが大将になれるのです。涙を流し、食べることができなくても、行かなければなりません。涙を流すことができるその場面を見ても、行かなければならないのです。死ぬことがあっても、行かなければなりません。現在の私と関係のある利益はなかったとしても、未来の世界と神様と関係のある利益があるので行くのです。
(118-41 ~42、1982.52)
環境に引っ張られていくのではなく、私が環境を引っ張っていかなければならない。
御旨の道・指導者
善をつかんでいく人の道は、平坦な道になり得ないという事実を知らなければなりません。人知れず善の人格を追求する人がいるとき、その彼を歓迎する人は、この地に多くないという事実を私たちは知るようになります。善の個人が善の家庭を慕い求めていくにおいても、環境が歓迎してくれないことが分かるとき、善の家庭が善の氏族を慕い求めていく道には、より難しい悪条件がその環境を取り巻いていることを感じるようになるでしょう。さらには、善の氏族が善の国家を慕い求めていくとすれば、より途方もない悪の勢力が反旗を掲げ、その氏族の行く道を妨げようとすることは間違いありません。また、善の国があり、善の世界を追求していくとすれば、この世界が善の世界になれないので、悪の国々がその善の国が行く道を協助するのではなく、四方から反対してくることは間違いありません。
(36-52.1970.11.15)
責任者になろうとすれば、
① 立つべき立場を整えて、環境を主管しなければならない。
② み旨の目的に向かっていく立場において、先頭に立たねばならない。
③ 数においては負けても、全体を思うことにおいては勝たねばならない。
④ 食べる前にも眠る前にも、彼らを思い、祈ってあげなければならない。
⑤ 彼らが私のためにいるのではなく、私が彼らのためにいると思わなければならない。
⑥ 神が与えてくださったものの上に、私がプラスさせようという心がなければならない。
御旨の道・指導者
イエス様が復活なさったのちに弟子たちを訪ねられたのは、彼らと立てた誓いを彼らは裏切っても、天は裏切ることができなかったので訪ねていったのである。誓いが果たされるまで、責任者は責任を放棄することができない。
御旨の道・指導者
現在だけを考え、未来を考えるのを嫌う人を好む人がいますか。そのような国はなく、そのような指導者はいないと思います。「国の未来のためには、皆さん国民が耐えて苦労しなさい。苦労しなさい」、このように指導するのが国の偉大な指導者であることを知らなければなりません。皆さん、アメリカの青年たち! 先生の話が理解できますか。
(97-88. 1978.3.1)
指導者は、涙がなければ指導することができない。押し迫ってくる民族の苦難と試練を知って、ここに備えることのできる苦痛を与え、試練を与えて鍛錬させる者が、真なる指導者である。
御旨の道・指導者
2. 指導者の原理的生活と自己犠牲
― 宗教経典 ―
先生がいわれた、「利益ばかりにもたれて行動していると、怨まれることが多い。」
論語4.12 (儒教)
斉の景公が孔子に政治のことをおたずねになった。孔子がお答えしていわれた、「君は君として、臣は臣として、父は父として、子は子として〔それぞれ本分をつくすように〕あることです。」公はいわれた、「善いことだね。本当にもし君が君でなく、父が父でなく、子が子でないようなら、穀物があったところで、わたしはどうしてそれを食べることができょうか。」
論語12.11(儒教)
以後、神に最も近く、最も愛される者は、公正な統治者であり、神が最も遠く、最も憎まれる者は、好戦的で不浄な統治者である。
トウハピット・アル・アファジ1327 (イスラーム)
孟子はお答していわれた。「王様は、どうしてそう利益、利益とばかり、ロになさるのです。〔国を治めるのに〕大事なのは、ただ仁義だけです。もしも、王様はどうしたら自分の国の利益になるのか、大夫は大夫でどうしたら自分の家に利益になるのか、役人や庶民もまたどうしたら自分の身に利益になるのかとばかりいって、上のものも下のものも、だれもが利益を貪りとることだけしか考えなければ、国家は必ず滅亡してしまいましょう。いったい、万乗の大国でその君を弑めるものがあれば、それは必ず千乗の領地をもらっている大夫であり、千乗の国でその君を弑めるものがあれば、それは必ず百乗の領地をもらっている大夫であります。万乗の国で千乗の領地をもらい、千乗の国で百乗の領地をもらうのは、決してすくなくはない厚禄です。 それなのに(彼らが)十分の一ぐらいでは満足せず、その君を弑めてまでも(全部を)奪いとろうとするのは、仁義を無視して利益を第一に考えているからなのです。昔から仁に志すもので親をす てさったものは一人もいないし、義をわきまえたもので主君をないがしろにしたものは一人もございません。だから王様、どうかこれからは、ただ仁義だけをおっしゃってください。どうして 利益、利益とばかり口になさるのです。
孟子l.A.1(儒教)
そなたは予に教えて予の志を導いてくれよ。もしも予が醴酒を作るとすれば、そなたはそれを発酵させる麹である。もしも味こまやかな羹を作るとすれば、そなたは味つけの塩梅である。
書経4.8.1〜3 (儒教)
領議政になろうとする人は、必ずその心と目を準備しなければならない。目が清いとき、人は正直さと不浄さを知ることができる。心が公明正大であれば、そのとき人は正直さに向かい、不浄さを退けることができる。
朱熹(儒教)
君子は官職に就く前に、周辺の他のものではなく、その能力を深思熟考する。
朱熹(儒教)
― み言選集 ―
どのような人を人格者だと言うのですか。ある社会制度の中で中心的な位置に立つことができる人を人格者と言います。例えば、ある村に尊敬される人格者がいるとすれば、彼はその村の内外に暮らしている人たちに、生活的にも、精神的にも、中心的な作用をすることができる人です。そうであってこそ、彼が尊敬の対象になることができるのです。それは、国家においても同じです。 国家もやはり国家の代表者、すなわち一人の人格者を中心に国家が形成されるのです。その人格者を中心に国民が相対的関係を結ぶことによって、実体的な組織が形成されます。このように考えてみるとき、範囲が広い世界にもやはり一人の中心的な人格者がいなければなりません。
(29-125.1970.226.)
木が大きくなればなるほど、根は地下に深く人っていく。根の浅い木は枯れるか、あるいは風が強いとき、引き抜かれてしまうだろう。指導者とは、根のような者である。
御旨の道・指導者
「国で最も困難なことを私がやった」と言えなければなりません。さらには、「世界で最も困難なことを私がやった」と言えなければなりません。
(113-111, 1981.5.1)
犠牲になる人は、必ず中心者になります。家庭において孝子は、より犠牲になる人です。ですから、家庭の中心になるのです。国の愛国者は、より犠牲になる人なので、国の中心者になるのです。聖人の中でも、より犠牲になる聖人が聖人の中の聖人になります。これが天理だからです。
(113-326.1981.5.10)
指導者の不足を補いはぐくんであげなさい。指導者を批評する者は、カインの王である。指導者の欠点を包み、責任をもとうとする者は、いつの日かアベルの立場に立つようになる。
御旨の道・指導者
1番の問題が政治問題です。政治家たちが詐欺を働いてはいけません。管理体制に移っていくのです。法によって保障された道を行かなければなりません。問題は何かというと、お金の管理です。食べて生きていくにおいて、誰が良いものを食べ、誰が良いものをもつのかということです。これが問題です。良いものをお互いがもとうとしてはいけません。良いものは全体のために与え、中以下のものを自分が願う、このようにしていけば自動的に標準化になるのです。それで、これから1番の問題とは何かというと、公金活用です。これが1番の問題です。その次には、人事措置です。
この二つです。人事措償を自分の系列を中心として行い、民主主義や何々主義として野党と与党に分かれたのです。ですから、国家の傷がどれほど大きいですか。今までしていたこと に熟達していた人たちが、敗れて、流れていってしまうのです。そうでなければ、中間でへし折られ、そこからそれ以上は上がっていけません。その場で回りながら下がっていくのであって、上がってはいけないのです。政治がなくなって管理体制になるのです。すべて管理するのです。お金を分配して良 くできるのかできないのか、ということを管理する体制になります。
(324-253 〜254 2000.6.24)
3. 正義の指導者は腐敗を遠ざける
― 宗教経典 ―
個人的利益を取ろうと高い位置に座る者は、自分の快楽ばかりのために女性の体を貪る者と同じだ。主なる神は言われる。「私が聖なる者と呼ばれるように、あなたたちもまた聖なる者となれ。私がもつ性稟に似ることができなければ、指導者の位置にいることはできない」。
ブスィクタ・ラッパティ111a (ユダヤ教)29
権力の地位を要求するな。もしあなたの要求によってその地位に上がれば、あなたは自らその職から退くようになるだろう。しかし、あなたの要求なくその職が与えられたのなら、あなたは(神の)助けを受けるだろう。
ムスリム・ハディース(イスラーム)30
必ず、正当な事由なく公金を詐取する官僚は、誰でも最後の審判の日にそれに対して尋ねるその主に出会うようになるだろう。
ムスリム・ハディース(イスラーム)31
賄賂はあらゆる種類の罪悪が訪れる門である。賄賂で買う人たちは、自分の母の乳房を切り取る。
ソーマデーヴァ ニーティヴァーキャームリタ17.184(ジャイナ教)32
大きな道はまったく平坦であるのに、人々は小さな近道を行きたがるものだ。宮廷はきれいになっていても、人々の畑はひどく荒れはて、倉庫には穀物の貯えはなにもない。
支配者は高価な衣服を着て、立派な剣をつけ、腹いっぱい飲み食いし、法外な財宝と高価なものを持っている。これこそ最大の盗人であり、大きな道からはずれたことである。
道徳経53 (道教)33
貪欲より嫌悪すべき悪徳はない、地位の高い人から特にそうだ。そして、国家の統治で偏向されたものより嫌悪すべき悪徳は ない。
マルクス・キケロ(ヘレニズム)34
― み言選集 ―
宗教指導者であれ、政治指導者であれ、最も大きな欠格事由は利己主義です。
(299-106-107.19992.6)
二人の中で、自分がいる位置以上の者を中心として、上のために、よりために生きようとする人は善側の位置に立つのであり、自分のために、より低いものについていこうとする人は悪側の位置に立つのです。官職にいる人が、国のために生きなければならない立場であるにもかかわらず、自分の家庭だけのために生きれば、悪になるのです。
(170-176.1987.11.15)
公金を略取してはいけません! 公的な環境を破壊させることは、国家財産の略取と同じで恐ろしいのです。そのように生きる人は、いくらうまくやろうとしてもできません。
(347-85. 2001.7.3)
自分の私的なものを公的なものよりもっと重要視する人は、天道に背く人です。私的な自分の人格を公的人格よりもっと重要視する立場は、み旨に背く立場です。公的な席で私が批判するのは、そのような観点で批判するのです。私的な人格は私が激しく非難します。恥ずかしければしないのです。しかし、公的な人格は異なる対応をします。
(51-291-292,1971.11.28)
霊界に行けば、最も恐ろしい罪は何でしょうか。公金を誤って使うことが第1です。2番目は、公的な立場で公的任務を果たさなければならないのですが、任務を無視することです。3番目は、原理原則に違反することです。これが三大罪です。(注8)
(97-155 ~156.1978.3.12)
自分を中心として全体を利用するの は、神様を利用するのと同じです。皆さんは、これをいつも考えて、絶対的に注意しなければなりません。ですから、人が教会に訪ねてくる時や、あるいは皆さんが伝道する時、「この人は献金をたくさんするだろうか」という考えは、絶対にしてはいけないというのです。
(33-164.1970.8.11)
3) 典型的指導力
最高の指導者は、徳性と義の模範である。ある社会の精鋭構成員である政治家、教授、著名人、そしてスポーツの英雄たちが、正直、誠実と道徳性の手本になることを自身の義務として認識するとき、その社会は祝福を受けるだろう。彼らの役割がモデルになるとき、普通の人々は自然に彼らの模範的な姿に従うだろう。私たちは、模範的な指導力を三つの側面から識別できる。
一つ目は、指導力は家庭で始まる。指導者が自身の配偶者と子女に配慮して家庭を治める方法は、より広い領域の統治と社会的責任分野を担当する自分自身への出発点となる。
二つ目は、胸と心を刺激して統治することが指導力である。中国では、孔子と彼の追従者たちが法治主義者などの観点に反対しながら、模範的な指導力の理想を表明した。法治主義者たちは、法と法の強力な施行、すなわち毛沢東がのちに語ったように「銃弾による力(権力)」から指導力が流れ出ると教えた。孔子は、もし指導者たちが腐敗したならすべての国家権力は、不満をぬぐい去ることはできず、これとは反対に、国民は、ただ暴力と抑圧を学ぶようになると対抗した。
三つ目は、私たちは、神様がこの地上に送った聖賢と宗教的な師たちから、模範的な指導力の手本を見ることができる。ナザレのイエスは、単に彼の説教、み言だけではなく、犠牲的愛を実践することによって教えた。イエスの足跡に従っていくキリスト教徒たちは、「イエスが何をしようとしたのか!」を尋ね求めながら、そのようにするという。イエスは、十字架で自身の怨讐を愛した。これは、私たちが従うことが困難な手本である。それゆえ、怨讐を愛して迫害者のために祈ることが、それ以後、キリスト教徒の信仰の土台となった。政治指導者たちがこの聖賢の模範に従うとき、彼らは確実に世界平和を成し遂げるはずだ。
模範的な指導力の資質は、文鮮明先生の教えにおいて「三大主体思想」として要約される。指導力の標準は、「真の父母、真の師、そして真の主人」となることである。そのような指導者は、主人としてこの世界を監督し、深い父母の愛をもってすべての被造物を世話し、私たちを真の生命の道に継続して教導していく私たちの天のお父様、すなわち神様の本性に参与する。しかし、いまだにこの教えを知らない指導者たちが、あまりにも多い。彼らが正に私自身ではないか、と省察してみなければならない。
1. 模範的で徳望のある個人生活
― 宗教経典 ―
先生がいわれた、「わが身が正しければ、命令しなくとも行なわれるが、わが身が正しくなければ、命令したところで従われない。」
論語13.6 (儒教)
国王が正直になれないのに、どこの民が正直にできるだろうか。国王が律義にできないのに、どこの民が律義にできるだろうか。
ソーマデーヴァ ニーティヴァーキャームリタ17.183(ジャイナ教)
単に世界の維持のみを考慮しても、 あなたは行為をなすべきである。
最上の者が何かを行えば、他の人々も同様にする。彼が手本を示せば、人々はそれに従う。
バガヴァッド・ギーター3.20 ~21(ヒンドウー教)
河水を渡る牛群の首が曲り行くならば、 すべての牛群曲り行く導首が曲り行くゆゑに、かく人間の中にても第一恭敬せられたる人が非法を行はば餘の人々尚更ぞ、王若し非法なるならば、一切国上苦に沈む。河水を渡る牛群の首が直に行くならばすべての牛群直に行く導首が直に行くゆゑに、かく人間の中にても第一恭敬せられたる人が正しく行はば餘の人々尚更ぞ、王若し正しくあるならば一切国土を受く、と。
阿含経増支部ii.75 (仏教)
律義なものが心にあれば、それは心の光であり、威厳であり、栄光である。しかし、それが心を離れれば、それらも離れてしまう。
創世記ラッパー 68.6 (ユダヤ教)
先生がいわれた、「〔法制禁令などの小手先きの〕政治で導びき、刑罰で統制していくなら、人民は法網をすりぬけて恥ずかしいとも思わないが、道徳で導びき、礼で統制していくなら、道徳的な差恥心を持ってそのうえに正しくな る。」
論語2.3 (儒教)
季康子が政治のことを孔子にたずねていった、「もし道にはずれた者を殺して道を守る者をつくり上げるようにしたら、どうでしょうか。」孔子は答えていわれた、「あなた、政治をなさるのに、どうして殺す必要があるのです。あなたが善くなろうとされるなら、人民も善くなります。君子の徳は風ですし、小人の徳は草です。草は風にあたれば必ずなびきます。」
論語12.19 (儒教)
『詩経』にいう「深遠なる文王、ああやむことなく光り輝き、慎んでとどまる (所に安んずる)」と。人の君となっては仁にとどまり、人の臣となっては敬にとどまり、人の子となっては孝にとどまり、 人の父となっては慈にとどまり、国の民と交わっては、信にとどまる。『詩経』にいわれている、「あの淇水のくまを見ると、緑色の竹が美しく茂っ ている。りっぱな君子がおられる。切り出して、みがきあげるように、割り、 みがきあげるようにである。細かなことまで厳正で猛く雄々しく、明らかで盛んである。りっぱな君子がおられる。ついに忘れることができない」と。切するがごとく磋するがごとしとは、講習討論のことをいうのである。琢するがごとく磨するがごとしとは、よく反省して自分を鍛えることである。瑟たり僩たりとは、恐れおののくことであ る。赫たり喧たりとは、威厳と態度である。斐たる君子あり、ついに誼るべからずとは、明徳を明らかにし至善にとどまった君子を、民が忘れることのできないのをいうのである。
大学3.3〜4 (儒教)
まことに神のみ使いには、神と終末の日を切望し、神を多く唱念する者にとり、立派な模範がある。
クルアーン33.21(イスラーム)
イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを『先生』とか『主」とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだ から、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」
ヨハネによる福音書13.12〜15 (キリスト教)
あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたが たのために苦しみを受け、その足跡に 続くようにと、模範を残されたからです。
ペトロの手紙一2.21(キリスト教)
もしあなたがりっぱな性根をもっていれ ば、あなたは自然に他の人たちの尊敬の対 象になるでしょう。しかしもし、あなたが 利己的な動機をもっていれば、たとえ面前 では尊敬されるとしても、背後で彼らが言 うだろう。「自分がラマ、グルだからといつ て、何の役に立つのか」。彼らは自由に語 ることができるので、そのように言い、そ れは責められることではありません。同じ ように、ある指導者が利己的な動機を強く もてば、たとえ人々が彼の面前で彼を尊敬 し,賛辞を浴びせたとしても、あとでもし 彼が難関に逢着すれば、彼らは喜ぶのであ り、それは当然のことです。
テンジン・ギャツォ、第14代ダライ・ラマ
― み言選集 ―
全体のために生きる人は、全体の運行に合わせ、生活や仕事や言行心事のあらゆる面で模範となるので、自動的に上の人として尊敬されるのです。
(318-147. 2000.3.5)
何が善なのかというのです。悪いものはなくし、善いものは求めると言いました。それは善いものをもって中心者になるということです。中心者とは何ですか。あらゆる人たちの一つの標準となり、彼らがついていこうとする人です。中心者は、それと関係したあらゆるものと隔離されるのではありません。いつでもそれを管理し、保護できる存在です。保護してあげる責任があるのです。それで中心者が必要だということです。ですから、彼に従っていこうとし、彼を標準にしようとする のです。
(118-38.1982.5.2)
自ら、自分の人格を崇拝できる人となりなさい。万物に対しても、恥ずかしくなく、崇拝を受ける感じがなければならない。その次に「私を見習いなさい」と言って、そののちに相対的な世界を見つめなさい。
御旨の道・人格
指導者になろうとすれば、経済問題を扱うことができなければならず、外交ができなければならず、大衆を説得できるよう雄弁でなければなりません。
(85-263.1976.3.3)
神様が聖子や預言者たちを地上に送られた目的とは何でしょうか。神様が願われる人格と生活の手本を見せながら、神様の真の愛のみ旨を万民に教育するのです。特に、為政者や指導者たちに天道を教育し、実践させることによって、心の世界と体の此界が、神様の真の愛のみ旨を中心として和合を成すためです。
(219-110.1991.8.27)
2. 真の父母、真の師、真の主人になるための指導者の努力
― 宗教経典 ―
だから、監督は、非のうちどころがなく、一人の妻の夫であり、節制し、分別があり、礼儀正しく、客を親切にもてなし、よく教えることができなければなりません。また、酒におぼれず、乱暴でなく、寛容で、争いを好まず、金銭に執着せず、自分の家庭をよく治め、常に品位を保って子供たちを従順な者に育てている人でなければなりません。自分の家庭を治めることを知らない者に、どうして神の教会の世話ができるでしょうか。
テモテへの手紙ー 3.2 ~5 (キリスト教)
天地は万物を創造する父母、人間はその万物の霊長である。その人間のうちで真に聡明なものが元首となり、元首は人民を養う父母となるのである。
書経5.1.1.周書(儒教)
いわゆる、「国を治めるには、必ずまずその家をきちんとする」とは、その家を教えることができないで、人を教えることのできる者はいない。だから、 君子は家から出なくても、国じゅうの人を教化できる。孝は君に仕える道である。弟は上長に仕える道である。慈は民衆を使う道である。
大学9.1(儒教)
天、地、人間は、万物の根本である。天は万物を生み、地は育て、人は完成してあげる。賢明な君主は、必ずこのような道理を信じるがゆえに、この三つの根本を丁重で厳粛に受ける。天の祭祀に恭敬を尽くして執り行い、先祖のやしろの祭祀に丁重に仕え、孝道と丁重を好んで表し、孝行をたたえることによって天の根本に仕える。自ら農器具を手にして直接田畑を耕し、桑の葉を取って直接蚕を育て、草を切って種を南き、荒れ地を開墾して衣食を豊かにすることによって地の根本につかえる。学校を建て、孝道、丁重、恭敬、譲歩などと徳目を習わせ、教化によって賢くし、礼楽によって感化させることによって人間の根本に仕える。
董仲舒 春秋繁露
昔、文字をつくった人物は、まず「三」 を書いたのち、その中を連結して「王」の 字とした。「三」はそれぞれ天、地、人を 意味する。その中を連結した「王」は、「三」 の道理にすべて貫通することを象徴する。 天、地、人の中を貫通させて連結したため、 もし王でなければ、誰がこれを担うことができるだろうか。ゆえに王だけが天の作用を代行する。天の命令に基づき、他の人たちをそれに従うようにする。最も美しい愛は天にあり、天は愛そのものである。天は万物を覆ってあげ、育ててあげ、変化させ、命を与えて生きていくようにし、また育ててあげて閑静させてくれる。人は天から命令を受け、天から愛をとって愛を表現する。ゆえに人は天の命を受け、天の尊貴さを備え、父、兄、子、弟の親しさをもち、忠実と信仰、慈悲と恩恵の心をもち、礼儀と謙譲の品行を備え、正と否、順応と逆行の治める道理を備えており、筋道が明瞭で豊富であり、知識が幅広く、ひとえに 人の道だけが天に参与できるのである。天は常に(万物を)愛し、利益をもたらすことに志をおき、育て成長させることを自らのなすこととしているが、春、夏、秋、冬、四つの季節はすべてそのようにするための手段である。王もまた常に天下を愛し、利益をもたらすことに志をおき、一つの時代を平安で安楽な世にすることを自らのなすこととしているが、楽しみ、憎み、喜び、怒りがすべてそのようにするための手段である。ゆえに君主の楽しみ、憎み、喜び、 怒りが(正しく表現されることは)正に天の温かさ、すずしさ、寒さ、暑さ(が適切な季節に表現されること)であるがゆえに、その道理を慎重に見きわめて表出しなければならない。
董仲舒 春秋繁露
― み言選集 ―
私たちの三大念願は、一つは真の父母、その次には真の師、真の主人です。 皆さんも出世してアメリカの州知事になりたいし、大統領になりたいでしょう? そうですか、違いますか。しかし、その前に、家の主人にならなければなりません。家庭の伝統を相続して、先祖に代わり得る、神様に代わり得る主人の立場に立たなければならないのです。そうすることによって、すべての家庭と国が尊敬するのです。
(205-20,1990.7.15)
よりために生きるそのような父母が、あらゆる父母の中で子女のために生きる父母が、真の父母であり、いかなる師よりもよりために生きようとする師が、真の師であり、いかなる大統領よりも、よりために生きて犠牲になろうとする大統領が、真の大統領です。
(285-226.1997.3.19)
中心存在は、責任をもたなければなりません。責任をもつだけでなく、保護してあげなければならないのです。 保護だけでなく、育成してあげなければなりません。
(210-98. 1990.12.1)
皆さんにはすべて、父母がいます。そして、師、先生がいて、大統領という国の主人がいます。それは誰にとっても必要なのです。父母がいなければならず、先生がいなければならず、その国の主人がいなければなりません。それでは、父母はどのような父母であり、師はどのような師であり、国の主人はどのような国の主人ですか。様々な形態があります。皆さんは、どのような父母になりたいですか。どのような学校、どのようなレベルでの師になりたいですか。エール、ハーバー ド、プリンストンのようなアイビーリー グに属した大学や、イギリスのオクスフォードやケンブリッジ大学には立派な先生がたくさんいますが、彼らを本当に真の師だと言うことができますか。最近では、家庭で父母を信じられません。学校で先生を信じられません。息子が父母に対して信じられないので、その父母を中心として見れば、それは誰の責任ですか。夫婦が一つになれないので、息子が父母を信じられなくなり、夫婦同士も互いに信じられず、兄弟同士も壊されているのです。ですから、皆さんが願い、誇りたいと思い、もちたいと思っていたこの主要な三大主体が、真だという基準を中心として合格できるものが、どれか一つでもあるかというのです。
(285-214 - 215.1997.5.19)
皆さんが本当に父母と子女の関係の事情を知れば、すべてのことができます。経営哲学で見れば、雇用主と非雇用主の関係です。共産主義が上部構造と下部構造の間の闘争を原則としているのですが、これを解決できるのは、ただ父子関係の心情的因縁なのです。父子関係の愛だけが解決できます。企業の所有者になれる立場は、父母の立場であり、非雇用主の立場は、子女です。父母が子女に対して関与するようにしなければなりません。父母がお金を節約して包んでおくのは、子女に与えるためです。のちに子女に相続してあげるために、そのようなことをするのだと考えなければなりません。
(116-121.1981.12.27)
神様は、皆さんが真の父母になり、真の師になり、真の主人になることができると言うのですが、そのような世界最高のタイプ、そのあらゆるモデルの中心とは誰なのか、それを知らなければなりません。誰が真の父母と真の師、真の主人の最高の絶対的モデルですか。レバレンド・ムーンですか。神様はどうですか。神様は、父母の中の父母であり、師の中の師であり、王の中の王です。永遠の父母であり、永遠の師であり、永遠の主人です。では、神様の息子になればどうですか。神様のような父母にならなければならないでしょう? 神様のような師の道を行かなければならないでしょう? 神様のような主人になれる道を行かなければならないでしょう? 問題は神様です。
(285-224.1997.5.19)
4) 国民のための政府
政治の主な関心事は、市民福祉である。世界の経典では、統治者は自分自身の必要に先立ち、国民の要求を優先視しなければならないと確言する。これは、統治者の名称によく現れている。イスラエルの預言者たちは、彼らの統治者を「牧者」と呼び、イエスは王国の統治者を「僕」と呼び、中国の伝統では皇帝を「民の父母」とみなした。
指導者は、自身の追従者たちに個人的親切、彼らの失敗に対する寛容、事態に対する認識不足、無知、背信なども、しっかりとした信頼性で配慮しなければならない。指導者は、高位職の虚礼と誇示を排除することによって、そして国民の一人として素朴に生きていくことによって、追従者たちの困難を共有していることを見せてあげることができる。経典は、景気低迷期の税金減免、雇用創出のための投資、国民への主人意識涵養のための権限付与、貧民福祉のための準備などをはじめとした、慈愛深い統治政策を激励する(第20章 9.「経済的正義」参照)。
慈愛深い規則を追求して作られた政府の教令は、ほぼ普遍化されている。それゆえ、古代君主制時代に記録された教令が伝承され、現在でもそれが有効なのである。しかし、ここでは現代民主主義に関するいくつかの文献が紹介されている。現代に「国民の国民による」政府が、「国民のための」政府をつくり出す最も確実な方法であることが立証された。しかし、民主主義は少なからず極悪非道さを招いた。フランス革命がその事例である。民主主義の背後の自由選挙と代議政治の活気に満ちた精神は、自由の祝福と全体主義的暴力の間の、すべての差別をつくり出し得るものである。西洋の経験論的キリスト教の価値に立てられた民主主義は、物質主義に基づいた民主主義よりも良いと見ることができる。文鮮明先生によれば、個人の自由を強調するアメリカの民主主義においても、様々な次元で欠点があることを看破できる。先生は、民主主義の土台は真の愛の精神であることを明らかにしている。
1. 奉仕する指導力
― 宗教経典 ―
君王の幸福は民の幸福にある。彼の福地は彼らの福地にある。自分自身を楽しませることは、何であっても善とみなしてはならず、民を楽しませることであれば、何であっても善と考えな ければならない。
カウティリヤ カウティリヤ実利論1.19 (ヒンドゥ一教)
益は上を損して下を益すことであり、このようにすれば民のよろこびもかぎりがない。上より下に下るのであるから、その道は大いに光明である。
易経42.周易下経、益(儒教)
統治者が人々の指導者になろうと望むならば、
まず、人々の前でつつましくしなければならない。
人々の先頭に立とうと望むならば、
まず、彼らのあとに身をおかねばならない。
彼が高い地位にいても、人々は何ら障害も感じることがない。
だから、すべての人々は彼を支持し、いやがらない。
道徳経66 (道教)
大きな国を治めることは料理を準備するように簡単である。
道徳経60 (道教)
大多数が担うことのできない重荷を民に背負わせてはならない。
タルムード、バヴァ・パトラ60b (ユダヤ教)
先生がいわれた、「われとわが身に深く責めて、人を責めるのをゆるくしていけば、怨みごと(怨んだり怨まれたり) から離れるものだ。」
論語15.15 (儒教)
そもそも仁の人は、自分が立ちたいと思えば人を立たせてやり、自分が行きつきたいと思えば人を行きつかせてやって、〔他人のことでも自分の〕身近にひきくらべることができる、〔そういうのが〕仁のてだてだといえるだろう。
論語6.30 (儒教)
人民の守護はクシャトリアにとっての最高の生き方(ダルマ)である。というのも、〔それを遂行するとき〕王は上述の利益を享受し、〔人民が蓄積する〕功徳 (ダルマ)と結ばれるからである。
マヌ法典7.144 (ヒンドウ一教)
(最高統治者であり神の地上代理人である)カリフとは、民の世話をする牧童と同じであり、彼の民に関して問いかけを受けるだろう。
ブハーリーおよぴムスリム・ハディース(イスラーム)
そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者に存り、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」
マタイによる福音書20.25-28 (キリスト教)
なんじが、かれらを優しくしたのは、神の恵みであった。なんじがもしも厳格で、心が荒々しかったならば、かれらはなんじの周囲から離れ去ったであろう。それゆえかれらの過失を許し、かれらのために神のお許しを請え、そして諸事にわたり、かれらと相談せよ。
クルアーン3.159 (イスラーム)
イムランのモーセの子孫が言った。「主よ、あなたの考えでは、あなたの僕の中で最も優れた者はだれでございますか」。彼が答えを聞くと、「権力の座にいるとき、赦しを行なう者である」だった。
パイハキ・ハディース(イスラーム)
保護とは、命令することではなく、自分自身を与えることである。
ナイカ族の格言(アフリカ伝統宗教)
公人は国家の僕になることを誇りとし、国家の主人になることを恥とする。
ウィンストン・チャーチル
― み言選集 ―
無限に与えることのできる人が、無限に受けることができる。我々は、千万の人によく用いられる材料となろう。
御旨の道・人格
他人を支配しようと思う者は、まず自分自ら支配を受けてごらんなさい。
御旨の道・指導者
従っている人たちが願わないところにおいて命令する指導者は、滅びる。
御旨の道・指導者
高い位置の人になるためには、低い位置の人をよく収拾しなければなりません。
(34-250.1970.9.13)
主権者は、国民と一つにならなければなりません。国民と一つになり、自分にあるすべてのものは自分のためのものではなく、天のためのものであると考えなければなりません。そのようになれば、その国は繁栄するのです。
(30-88.1970.3.17)
私たちは、人のために生きる生活をしなければなりません。利己的な生活は、人を不快にするのはもちろん、天道に背くことです。人のために生きる人生は、すなわち神様に似るための実践なのです。神様の真の愛を相続し、家庭と社会、国家と世界を愛することは、宇宙の基本秩序に順応することです。真の愛の実践を通してこそ、人格を完成した真の人、真の父母、真の師、真の主人になります。こうしてこそ、平和を成し遂げる主体になるのです。人のために生きる人生は、平和に向かう最初の関門になります。
(356-276. 2001.10.20)
自分を中心とする人は、いくら大学を出て学位をもっていて、教授だとしても、その人は、責任者になれません。中心者になれないのです。しかし、すべてを備えて全体のために生きようとする人は、頂上に上がっていくのです。選挙をするときもそうです。責任者を決めるときは、個人主義者を嫌います。 全体のために生きる人を選択するのです。それがこの社会において、歴史を存続させる一つの方法であり、ーつの公式だというのです。それが真理です。
(102-139-140.1978.12.10)
初めて向き合う人が間違ったときは、私がこの人に何を与え、何を投入したか、考えなければなりません。そうしてこそ、失敗しても赦してあげる天理を、そこから発見できます。私が主体者として歓迎してあげて、喜ぶことを願わなければならないのであって、そのようなこともせずに喜ぶのを願うのは、どろぼうです。
(81-305.1975.12.29)
もし悪いことがあれば、悪いことをすぐに処理してはいけません。悪いことがあっても、その悪いことを中心として喜べる条件を探していきながら、善いことが悪いことより小さくても、小さいものを見て悪いものを保留して処理できる余裕をもたなければなりません。
(72-313.1974.7.14)
責任者は、分かっていてもだまされてあげなければならず、分からなくても模範を見せてあげなければなりません。
(324-202. 2000.6.24)
人は日常生活で、事の道理に明るくなければなりません。愚鈍ではいけないのです。事の道理に明るいということは、道理に合っているということです。前後左右を見渡すことができなければなりません。愚鈍ではいけません。上下、前後、左右を見分けることができなければならないのです。次に、それを包括できるのは情です。情のふろしきはすべて包みます。おじいさん、おばあさんも包み、赤ん坊も包み、すべて包みます。理論のふろしきは一方的ですが、情のふろしきは包括的です。ですから、先生は80歳のおばあさんも喜び、幼い赤ん坊も喜び、愛のふろしきで包めば、すべて喜ぶのです。互いに握り締めて離れず、永遠に休みたいと思い、眠りたいと思う所が愛のふろしきの中です。
(81-328.1975.12.29)
2. 貧しい者たちへの配慮
― 宗教経典 ―
上の人が豊かな胸をもっていれば、すべての人たちが乳を飲むことができる。
アカン族の格言(アフリカ伝統宗教)
政府は保護者をもてない国民のための保護者である。
ハディース(イスラーム)
さて仁徳天皇は高い山に登り、四方の国をごらんになって、「国の中に炊煙が立たない。国の人民はみな貧しいのだ。だから今から三年の間、人民の租税と夫役をすべて免除せよ」と仰せられた。この免税の結果、宮殿は破損し、あちらもこちらも雨漏りがするけれども全く修理をなさらず、器物でその漏 る雨水を受けて、ご自身は雨の漏らない所に移って雨漏りをお避けになった。そうしたのちに国の中をごらんになったところ、国中に炊煙が一面に立った。そこで天皇は人民が豊かになったとお思いになり、今は課税してもよかろうと租税と夫役を課せられた。こうした次第で人民は繁栄して、苦しむことはなかった。それゆえ、その御世をほめたたえて聖帝の御世と申すのである。
古事記110 (神道)
人の子よ、イスラエルの牧者たちに対して預言し、牧者である彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した。彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった。わたしの群れは、すべての山、すべての高い丘の上で迷う。また、わたしの群れは地の全面に散らされ、だれひとり、探す者もなく、尋ね求める者もない。それゆえ、牧者たちよ。主の言葉を聞け。わたしは生きている、と主なる神は言われる。まことに、わたしの群れは略奪にさらされ、わたしの群れは牧者がいないため、あらゆる野の獣の餌食になろうとしているのに、わたしの牧者たちは群れを探しもしない。牧者は群れを養わず、自分自身を養っている。それゆえ牧者たちよ、主の言葉を聞け。主なる神はこう言われる。見よ、わたしは牧者たちに立ち向かう。わたしの群れを彼らの手から求め、彼らに群れを飼うことをやめさせる。牧者たちが、自分自身を養うことはもはやできない。わたしが彼らの口から群れを救い出し、彼らの餌食には させないからだ。
エゼキエル書34.2-10 (キリスト教)
あなたが呼べば主は答え/あなたが叫べば/「わたしはここにいる」と言われる。軛を負わすこと、指をさすこと/呪いの言葉をはくことを/あなたの中から取り去るなら/飢えている人に心を配り/苦しめられている人の願いを満たすなら/あなたの光は、闇の中に輝き出で/あなたを包む闇は、真昼のようになる。
イザヤ書58.9〜10 (キリスト教)
神よ、あなたによる裁きを、王に/ あなたによる恵みの御業を、王の子に/お授けください。王が正しくあなたの民の訴えを取り上げ/あなたの貧しい人々を裁きますように。山々が民に平和をもたらし/丘が恵みをもたらしますように。王が民を、この貧しい人々を治め/乏しい人の子らを救い/虐げる者を砕 きますように。
詩編72.1~4 (キリスト教)
疲れている人、障害者、足が不自由な人と病弱な人、孤児、自信のない人、男やもめと寡婦は、みな私の兄弟たちであり、誰にも頼れず、よろけて倒れる人たちだ。君子が政府を治めるとき、このような人たちを扶養しなければならない。
朱熹(儒教)
貧しく無気力な人たちは、個人の権利を擁護するという側面で特別な待遇を要求する。富裕な階級は、彼らを防御する多くの手段があり、国家からの援助を必要としない。しかし、極貧な人たちは頼る資源が何もなく、大概は国家の援助に頼る。それゆえに、弱く窮乏した群れに属する貨金労働者たちも、やはり政府から特別に保護を受け、管理されなければならない理由が成立する。
教皇レオ13世 レールム・ノヴァールム
私に与えよ、あなたの困苦の貧しさを、
自由を味わおうと渇望する労働大衆を、
豊かな海辺の哀れな廃物を、これらを私に送れ、
家なく暴風雨にさらされてきたものたちを、
私の明かりとして掲げよう、黄金の門のそばに!
エマ・ラザルス
― み言選集 ―
道を歩いていてかわいそうな人を見ると、自分の体を抑制できない衝撃を受け、精神を収拾してみると、電信柱にしがみついてむせび泣いている、そのような心情で心を痛める指導者は、「発展するな」と言っても発展するのです。
(160-197.1969.5.12)
大統領が官邸に暮らすよりも、砂場に砂の家を建て、一代、一代、崩して暮らそうというその国は、復興するのです。そして、民のために生きなければなりません。神様は、それ以上にされるのです。
(382-149 〜150、2002.621)
自分のために生きるのは自分で終わるのであり、人のために生きるのは永遠に継続します。ですから、善が存続する方法は、私が主体の位置に立っても、全体の対象圏のためにいなければなりません。ですから、世界的人物に なろうという欲望をもった人であれば、世界のために生きなければなりません。 それで、世界的人物になれば、彼は世界的主体になるのです。しかし、相対圏を踏みにじる世界的主体はあり得ません。世界的主体は、世界的相対の形を輝かせるための主体にならなければなりません。
(57-63 - 64.1972.5.28)
政治世界は、管理体制であり、政策というものは、計画を立てる必要がありません。原理的観点から、平和のために生きるのです。国家のために生きて全体の前に手本を見せることができる、「ために生きる」管理体制であって、指導体制ではありません。
その管理体制を通して経済的問題、すなわち人が食べて生きていく生活を自動的に解決できるようにしなければなりません。ですから、生活において上、中、下の3階級に分け、上級は生活基準がいくらであり、中級はいくらであり、下級はいくらかを調べてみます。これを中心として平準化するので す。中級を中心として連結させ、平準化をしなければなりません。そのようにしようとすれば、世界は必ず、UNと一つにならなければならないのです。整備、管理を徹底してやらなければなりません。政策を誤って立てれば、経済管理体制を破綻させてしまうようになります。ですから、一つの家の生活のような計画を立て、1年にいくら、全世界の予算がどのくらいかかるということ、上はいくらで、中はいくらという正確な統計が出てこなければなりません。そして、上はできるだけ中を中心として下がっていきながら、下を引き上げて平準化させて合わせていかなければなりません。(注14)そのような体制をつくらなければならないのです。
(324-253〜254 2000.6.24)
発展途上国の貧困を解放し、強大国は発展途上にある新しい民主主義国家を犠牲的に助けなければなりません。各国の政策が利己主義を指向するそれ自体が大きな革命です。その方法は、私たち全員が父母の立場に上がっていって見下ろしてみるのです。そうすれば、あらゆる国家が兄弟に見えざるを得ません。一つの父母のもとに、一つの兄弟国家社会を成し遂げられる歴史的機会に直面しているのです。(219-120.1991.8.28)
3. 民主主義
― 宗教経典 ―
民主主義の理想を標榜する為政者、その統治は永遠である。
アーディ・グラント、マールー、M.1(シク教)
あなたさまの国土には、盗賊がはび こり、抑圧があります。村では略奪が行われ、町では略奪が行われ、都市でも略奪が行われています。街道では追剥が横行しています。このような盗賊がはびこり、抑圧があるいまの国土で、国王陛下が税を取りたてるとすれば、あなたさまは、してはいけないことを する者となるでしょう。ところで、あなたさまには、この危難を、賊を、死刑や捕縛や財産没収や体罰や追放などによって、取り除くことができるとお考えになるかもしれません。しかし、そうなさっても、この危難は完全に除かれるわけではありません。生き残った者たちが、後日きっと王国を悩ます ことになるでしょう。しかしながら、次のような対策によって、こうした危難は、完全に取り除かれるのです。すなわち、あなたさまの国土にあって、商業に励む者たちには、食料と給料をお与えになることです。そうすれば、これらの者たちは、自分の仕事に専念し、あなたさまの王国を悩ますこともないでしょう。その結果、あなたさまの蓄財も増大し、国土には平和が保たれ、盗賊などの危難もなく、抑圧もなく、国民は満足し、喜び、子供を胸に抱き、家の戸を閉めることなく、安心して暮すようになりましょう。
阿含経長部i.135.究羅檀頭経(仏教)
私たちは、以下の諸事実を自明なものと見なす。すべての人間は平等につくられている。創造主によって、生存、自由、そして幸福の追求を含む侵されてはならない権利を与えられている。これらの権利を確実なものとするために、人は政府という機関をもつ。その正当な権力は被統治者の同意に基づいている。
アメリカ独立宣言書
私は、国民自体以外には、究極の社会的力を保管する安全な場所を知らない。もし私たちが、国民の健全な裁量権によって自己調節を発揮するのに十分な開明がなされていなかったと思うのなら、その解決策は、国民から彼らの裁量権を奪うのではなく、教育によってそれを知らせてあげることである。
トーマス・ジェファーソン
私は、広い港と巨大な川でアメリカの偉大さと特徴を探した。しかし、そこにはなかった。肥沃な野原と道のない森で探した。しかし、そこにはなかった。豊かな鉱山と途方もない世界貿易で探した。しかし、そこにはなかった。民主的議会と無敵の憲法で探した。しかし、そこにもなかった。私がアメリカの教会に行き、燃えるような説教を聞くとき、初めて私はアメリカの特徴と力の秘密を知ることができた。アメリカは善であるがゆえに偉大だ。もしアメリカが善であることをやめれば、偉大であることもなくなるだろう。
アレクシス・ド・トクヴィル アメリカの民主政治
一個人に責任を任せること、そして人々が彼を信頼していることを知らせること、それより彼をたくさん助けることはあまりない。
ブッカー・T・ワシントン
― み言選集 ―
人類歴史の終末を告げるこの最後の段階において、天倫はついに、財物や土地、あるいは人間を奪いとれば幸福を増進させることができるだろうと考えてきた歴史的な段階を越えて、民主主義という名を掲げて、この世に到来してきたのである。
原理講論、人類歴史の終末論23
イエスの時代でも、人の命は権力者の前にハエの命と同じでした。イエス様は、為政者や権力者たちが願えば、いつでもハエが捕まるように捕らえられて葬り去られる、無法天地の制度下で生まれました。根本的な人間革命を叫ばれた革新的なイエスのみ言が、その社会制度のもとで容認されるはず がありませんでした。イエス様が十字架にはりつけにされたのは、当時の制 度のもとでは避けられない事情だったと言えます。これをよく御存じの神様は、メシャが再び来られる再臨の時に何よりも必要なのは、人をむやみに捕らえて命を奪う、そのようにできない 政治制度であることを御存じです。このために、2000年間汗を流して準備された制度が、正に今日の民主主義です。民主主義は、人権を尊重する制度です。民主主義は、少数派も多数派の中に入り込んで生き残れる制度です。民主主義は、すなわち自由を保障する制度です。その自由は、正に言論の自由であり、宗教の自由であり、結社の 自由であり、出版の自由であり、集会の自由です。その民主主義の代表と見ることができるアメリカの憲法を見れば、自由の中で最も絶対的な自由が宗教の自由であり、アメリカ議会と政府は、宗教を規制できるいかなる法も作れないようになっています。
(100-245 〜246.1978.10.19)
革命により、「人権宣言」が公表されることによって、フランスの民主主義は樹立されたのである。しかし、フランス革命による民主主義は、あくまでもカイン型の人生観を立てるために、唯物思想に流れこんだ啓蒙思想が、絶対主義社会を打破しながら出現したものであるから、これをカイン型の民主主義というのである。ゆえに、啓蒙思想の主要人物たちもそうであったが、フランス革命の思想家ディド 口(Diderot 1713-1784)や、ダランベー ル(D'Alembert 1717-1783)なども無神論、または唯物論系の学者たちであった。この革命のいきさつを見ても分かるように、フランスの民主主義は、個性の自由と平等よりも、全体主義へと転化 される傾向性を内包していたのである。イギリスやアメリカで実現された民主主義は、フランス大革命によって実現された民主主義とはその発端から異なっている。後者はカイン型人生観の所産である無神論および唯物論の主唱者たちが、絶対主義社会を打破することによって実現したカイン型の民主主義である。これに対して前者は、アベル型人生観の結実体である熱狂的なキリスト教信徒たちが信教の自由を求めるために絶対主義と戦い、勝利して実現したアベル型の民主主義であったのである。
原理諸論・メシャ再降臨準備時代3.1.1-2
民主主義は、兄弟主義だというのです。すべて平等だと言うでしょう? 世界の人類は、自由を中心として平等だと言いました。自由で幸福を見いだすことができますか。できません。しかし、愛を中心とする自由では、幸福を享受できます。
(201-73. 1990.3.1)
民主主義でも、もし愛を母体とすれば、世界が一つになれます。愛を母体として、世界が愛で一つになることを主張するそのような民主主義であれば、それは世界的な民主主義になるのです。共産主義も同じです。本当に真の愛を中心とした共産主義であれば、それも世界を一つにできるでしょう。愛があれば、粛清という言葉も成立しません。
(90-311-312,1977.1.15)
そのような観点から、アメリカという国をじっと見てみると、ある面ではぱっと見て好ましく思いやすいのですが、根本的に入っていくと好ましく思いにくいのです。そこには必ず民族主義の色あいがあります。すべてのものが、いまだに孤立しています。ーつになることができていません。法と人権が調和しなければならないのです。
(90-304.1977.1.15)
民主主義世界は、どれくらい持続するだろうかというのです。民主主義世界は、個人主義世界です。ここには、夫婦関係や何々関係というものがありません。すべて自分第一になってい ます。しかし、この世界というものは、関係を離れては存在できません。すべて関係圏になっています。これが成され れば、その次には対応関係を成し、このようにして世界は、一つの核を中心としてお互いが一つになるように回るのです。ですから、皆さんの家庭がーつになっていれば、その次には部落と一つにならなければなりません。家庭が一つになれば、その部落と対応関係を成すのです。これが、この世を構成し、一つの連結的な体制をつくるときの不可避的な原則となります。
(228-8,1992.3.1)
5) 法と罰
政府は、市民を保護し、法律違反者を制裁して、公共福祉を増進するために法を制定し、執行する。神様は、法の根源である。その方が科学的法則により機能する宇宙を創造し、正しいことと正しくないことを分別する良心を、個別の人間の心に植え付けられた。一つの国の法を構成する憲法と法令は、天法に似ている。これが、私たちが良心の指示に従う理由である。
法は、邪悪を制裁する。正しく行動して不道徳なことを避けるように命令する良心の指示に従わない人々は、正しいことと正しくないこと、すなわち許されたことと禁止されたことの間を鋭く分別する法によって、制裁を受ける。良心的な人になるために自身の人格を修養する人々は、法にほとんど抵触しないで生きていく。
犯罪抑制策として、正義守護のため、法令は、法律違反者を刑罰により処罰する。刑量を決定する政府は、正義の最終分配者である神様の同労者である。地獄とは、霊界の巨大な監獄として、天の領域を蹂躙する法律違反者を制裁するための所だ。罪の代価を払う法律違反者の刑罰は、一つの契機、すなわち「蕩減」により無にさせることができる。
法律違反者を懲罰して正義を守護する体制には、常に慈悲の要素を前提にしなければならない。そして、法律違反者は本当に改心して、生き方を新しく転換しなければならない。文鮮明先生は、監獄の主な目標は、原状回復の教育でなければならないと教える。これは、収監者たちの残酷な監獄を原状回復のための教育の場「教導所」に改造しようとする、21世紀の先進化運動の核心概念である。このように正義と慈悲の両極は、死刑宣告などの倫理的問題を省察する観点を、新たに形成する。
1. 法の高潔な目的
― 宗教経典 ―
そこで、彼は自己以上に勝れた色(現象)たる法を産み出した。法とは権力の権力である。この故に法より勝れたものはない。法の力を籍れば、たとえ無力な人間でも有力な人間に対抗することができること、あたかも王の力によるが如くである。
プリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド1.4.14 (ヒンドゥー教)
そなた自身もよく法典に敬い従って 人民を導くようにしなければならぬ。文王でさえも敬い慎んで民を導き、『予といっしょに行う者があるならば、予一人は大いに喜ぶであろう』とおおせられたのであった。
書経5.9.3 8 (儒教)
真の審判にうなずく者が神の同業者である。
出エジプト記メヒルタ18.13 (ユダヤ教)
王が正しい裁きによって国を安定させても/貢ぎ物を取り立てる者がこれを滅ぼす。
箴言29.4 (キリスト教)
〔真実〕を吟味し、〔刑罰が〕正しく保持されるとき、それはすべての人民を幸せにする。しかし吟味せずに用いられたときはすべてを滅亡させる。王は罰せられるべき人間に対して刑罰を倦まず用いないときは、強者は、弱者を焼き串に刺された魚のように焼くであろう。……刑罰を誤用すれば、すべての身分は堕落し、すべての境(区切り)は破壊され、全世界に怒りが持ち上がるであろう。黒色、赤目の刑罰が歩き回って罪人を滅ぼすところでは、〔刑罰を〕適用する者がよく監視すれば人民は迷いに陥ることはない。
マヌ法典7.20-25 (ヒンドゥー教)
善行および悪行の業の成熟と果報を現わし示すために、種々さまざまの所行をする人、それが王と呼ばれる。彼は、自身のために、また他人のために、また国土の秩序のために、神々の群れに加護され、諸々の神より王として承認されている。王国における凶悪な悪人を取りおさえようとして、国土の秩序のために、生命や王位を捨てることもあろう。
金光明経12 (仏教)
マルドゥクが私に人を正しく案内し、地を監督することを委任したとき、私は国民の福地を増進するために、その地の言語からなる法と正義を制定した。
ハンムラビ法典
法律とは、一方では、ともすれば善人たちが互いに友誼を守りながら生きていけるかを教えようと、彼らのために制定されたものであり、もう一方では、このような教えを拒否し、これに従わず、心が素直になれず罪悪に陥ることを防げない者のために制定されたものです。
プラトン 法律9 (ヘレニズム)
自分の中にある神的分別力によって支配されるのが、すべてのために良いからです。もしそうできない場合には、外部によってでもそのようにするのがより良いのですが、これは、できる限りすべてが同一のものによって導かれることによって似るようになり、友となるようにするためです。……そして、国の中にいるすべての協力者である法の趣旨が、そのようなものであることは明らかです。子供たちに対する統率もそうであり、国の場合と同じように、彼らに統治体制が確立されるときまでは、そして、彼らの中にある最善の部分を私たちの最善の部分によって世話したのち、その子供の中に私たちのものに似た守護者と統治者を私たちが代わりに入れ込むまでは、子供たちを自由にすることは許容せず、それができて初めて自由にすることを私たちは許容します。ところが、知らずに正しくないことをしても差別を受けないことが、どうして利益になりますか。そのようにしても発覚しない者は、一層邪悪になりませんか。反面、発覚して罰を受けた者の野獣的な部分は眠って純化され、その一方で彼の従順な部分は、自由になり、彼の魂全体が最も優れたその本性に戻り、知恵と節制、そして正義を得て、価値のある状態を実現すること……。
プラトン 国家9 (ヘレニズム)
― み言選集 ―
法とは何ですか。自体的に保護されたものを、破壊しようとするものを除去するためのものが法です。宇宙の法がそうなので、そのような形態に拍子を合わせ、国家の法もその適応が可能だというのです。これを知ってこそ、遵法精神が必要だということを理解できるのです。
(118-198, 1982.6.1)
一つの国を中心として見るとき、国法というものがありますが、善を支える目的で法を考えます。どの国の憲法を見ても、国家管理体制の法を見ても、すべてが喜べる面を擁護するためにできているのであって、これを破壊するために作られている法はありません。もしこの原則から外れるときは、どのようになりますか。どの国にも監獄というものがあって制裁するのです。ところが、一つの国の主権者によって善の基準が異なることもありました。良心というものは、教育を受けなくてもあらゆる善のことをすべて知っています。良心は、最も善の側についていこうとします。良心は、何が善なのか悪なのかを判断できる能力をもっており、いつでも自己の主体性をもって自分を管理しています。
(216-306,1991.4.15)
国家の形成や国家の法は、それを支柱とし、それ以外のものを制裁するものとして現れていることを知らなければなりません。ですから、私を中心とし、外的な肉を中心とするあらゆるものはすべて制裁です。行けば行くほど狭くなります。
(105-15-16.1979.7.8)
純粋な良心に一致できる普遍的な社会体制を形成しようとするので、法令も必要なのです。ですから、結局人倫は、どこに根拠を置くのですか。天倫に根拠を置くのです。
(33-44 1970.8.2)
良し悪しには、いつも境界線がなければなりません。アメリカも憲法を中心として良いこと悪いことの基準を立てるのです。そうではないですか。ところが、公的なことを制裁するそのような法はありません。公的なことは、無限定にいくらでもしなさいというのです。それを制裁する法は一つもありません。いくらでも歓迎するということです。しかし、自分を中心とする提案は、「やめなさい、やめなさい」と制裁するのです。自分を中心とするときに、法が問題視します。自分の欲心を中心とすれば、問題視するのです。その次には、破壊することです。破壊することを問題視します。公共の建物を破壊するのは、すべて罪悪だというのです。このように見るとき、私たちが人に悪いことを言って傷つけるのも、法に引っ掛かるのです。
(111-239.1981.222)
法が立てられれば、法のとおりにしなければなりません。天の国の家庭の法がなかったのであり、天の国の氏族の法がなかったのであり、天の国の国家の法、家庭の法、氏族の法、民族の法、国家の法がありません。憲法がないのです。それが、今まで神様が人類をすべてほうっておき、自由奔放にして秩 序を破壊することに手を出すことができなかった理由です。サタンが主人になっているので、神様が取り戻してこようとしても、その秩序の原則がこのようになっていて、これができていないので、これはこちら側に属していると、分け得る法がありません。これからは、そうではありません。統一教会で自分勝手に生きた人たちは、赦しがないというのです。
(356-315. 2001.10.22)
堕落は、悪が先に出発して上がっていったことなので、悪を引き下ろして善を引き上げる作戦をしなければなりません。この作戦をするときは、どのようにしなければならないでしょうか。それを知らなければなりません。まず驕慢を取り除かなければなりません。堕落は、神様を押しのけて、自分が高いところに行こうとしたことからなされました。サタンの本性が、そこから出発したのです。自分だけが高いところに行こうとすること、環境がどうであれ、秩序がどうであれ、法度を無視してしまい、自分ばかりを主張するのが驕慢です。そこには、義理もなく、法度もありません。法度に従い、法のとおりに生きる人を、何と言いますか。驕慢だと言いますか。そのように生きる人を、正直な人と言います。正直とは、正しいの「正」の字と、まっすぐの「直」です。正しくてまっすぐだということです。法というのは何ですか。まっすぐなものを立てることです。それでは、善と悪は 何によって分けるのですか。法によって分けるのです。驕慢は、法度を無視します。法度を無視し、位置と環境を無視して行動することを止めておかなければなりません。驕慢を制御し、謙遜を備えなければならないのです。
(37-130.1970.12.23)
天の国の憲法とは何でしょうか。それを知らなければなりません。愛の力、愛の生命力です。天の国の憲法のすべては、これを保護するために活用されざるを得ないというのです。
(111-171. 1981.2.15)
2. 正義の行政
― 宗教経典 ―
またなんじらが、人の間をさばくときは、公正にさばくことを命じたもう。神がなんじらに訓戒されることは、何と善美なことよ。まことに神は、全聴者・全視者であられる。
クルアーン4.58 (イスラーム)90
わたしはそのとき、あなたたちの裁判人に命じた。「同胞の間に立って言い分をよく聞き、同胞間の問題であれ、寄留者との間の問題であれ、正しく裁きなさい。裁判に当たって、偏り見ることがあってはならない。身分の上下を問わず、等しく事情を聞くべきである。人の顔色をうかがってはならない。裁判は神に属することだからである。事件があなたたちの手に負えない場合は、わたしのところに持って来なさい。わたしが聞くであろう。」
申命記1.16-17 (キリスト教)91
あらあらしく事がらを処理するからとて、公正な人ではない。賢明であって、義と不義との両者を見きわめる人、粗暴になることなく、きまりにしたがって、公正なしかたで他人を導く人は、正義を守る人であり、道を実践する人であり、聡明な人であるといわれる。
法句経256〜257 (仏教)92
泥棒は髪を解き、「私はかくかくの事をした。私を罰せよ」と窃盗の罪を告げながら、走って王のもとに行くべし。罰せられるなり、放免されるなりいずれによっても泥棒は窃盗の罪から解放される。しかし彼を罰しないときは王が泥棒の罪を得る。
マヌ法典8.314. 316 (ヒンドゥー教)93
あなたの先祖を滅ぼしたのは、彼らの中の高い身分にある者が盗みをしたとき、彼をそのままにしておいたことであり、彼らの中で弱い者が盗みをしたとき、彼に規定された処罰を加えたことである。私は、私の娘ファティマが物を盗んだとしても、誓ってその手首を切ってしまうだろう。
ブハーリーおよびムスリム・ハディース(イスラーム)94
どろぼうが何かの物を盗もうとしたら、彼は自分の運命を決定する誓約を受け入れなければならない。ところが、誓約が何かの物を盗もうとすれば、それは何を受け入れなければならないだろうか。
イガラ族の格言(アフリカ伝統宗教)95
隣人に関して偽証してはならない。
出エジプト記20.16 (キリスト教)96
過失または罪を犯して、これを食味の者のせいにする者は、虚偽と明白な罪を負う者である。
クルアーン4.112 (イスラーム)97
いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立 証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない。不法な証人が立って、相手の不正を証言するときは、係争中の両者は主の前に出、そのとき任に就いている祭司と裁判人の前に出ねばならない。裁判人は詳しく調査し、もしその証人が偽証人であり、同胞に対して偽証したということになれば、彼が同胞に対してたくらんだ事を彼自身に報い、あなたの中から悪を取り除かねばならない。ほかの者たちは聞いて恐れを抱き、このような悪事をあなたの中で二度と繰り返すことはないであろう。申命記19.15〜20 (キリスト教)98
― み言選集 ―
国家の刑法も、罪を犯した人間たちに罰を与え、その国家の安寧と秩序とを原状どおりに維持するための蕩減条件を立てる、一つの方法であるということができるのである。
原理講論、緒論1.1
原理原則と秩序を離れた自由は、あり得ないのです。法の中で最高の法とは何ですか。愛の法であり、心情の法です。自由とは何かというのです。法もなく、何の秩序もないものは破綻です。滅亡です。国法に背けば刑務所に行かなければなりません。「アメリカは自由の国なのに、なぜ刑務所があるのか、片付けてしまえ」として、そのようになればどれほどよいですか。裸になって走っても、何をしても自由です。ホモセクシャルがあり、ありとあらゆることがあります。女性でも男性でも、好きなように私 娼窟で娼婦行脚をすればどうですか。それで、天の国の法で見れば、天の国の刑務所がなければならず、弛上の法で見れば、地上の刑務所がなければならず、学校の法で見れば、学校の刑務所がなければなりません。家庭の法で見れば、家庭の刑務所がなければならないというのです。
(112-73 - 76. 1981.4.1)
もし、ある検事が個人的に人を殺すようになれば、天法によってその検事は死刑場に行くのです。死んだ人には賞を与えるのであり、殺した人には罰を与えるのです。
(93-111,1977.5.21)
3. 正当で慈悲深い処罰
― 宗教経典 ―
人を打って死なせた者は必ず死刑に処せられる。ただし、故意にではなく、偶然、彼の手に神が渡された場合は、わたしはあなたのために一つの場所を定める。彼はそこに逃れることができる。しかし、人が故意に隣人を殺そうとして暴力を振るうならば、あなたは彼をわたしの祭壇のもとからでも連れ出して、処刑することができる。
出エジプト記21.12〜14 (キリスト教)
統治者は過度の罰を与えてはならず、ひどい言葉を使ったり、彼の背後にいるいかなる人の悪口も言ってはならない。
マッヤ・ブラーナ220.10 (ヒンドウ一教)
君子は学誠によって人を感応させることにつとめ、獄事をとりさばき死刑に対して寛大を心がけるなどしてすべてその孚誠をもってする。
易経61,周易下経.中孚(儒教)
信仰する者よ、殺害に対する報復が、なんじらに定められた。自由人には自由人、奴隷には奴隷、婦人には婦人と。 (注17)が加害者に、兄弟から軽減された場合は、妥当と認められる額を、丁重に弁償せよ。これはなんじらの主からの緩和であり、慈悲である。
クルアーン2.179 (イスラーム)
私(イマーム・アリー)が死ななければならないか! 広範囲な報復がないことを見よ。剣を抜いて徘徊せず、私の競争者と敵たちを殺害するな。見よ! ただー人、私の殺害者だけが殺人罪として処刑されるだろう。そして、その誰も苦しめられたり、被害を受けたり、苦しんだりしないだろう。殺人を試みた者の処罰は、彼による傷で私が死ぬようになるときに執行されるのだから、彼に対する処罰も、一刀で彼の命を断ち切るものでなければならない。彼は死ぬ前に拷問を受けてはならず、手足を切られてもいけない。私は次のような聖なる使徒の言葉を聞いたからである。「誰の手足も、さらには噛みつく犬の足でも切ってはならない」。
ナフジュ・アル・バラーガ 手紙47 (シーア派イスラーム)
王よ、あなたはつねに慈愛によって、すべての人々に対して利益する心を起しなさい。たとえ恐ろしい罪を犯した人々に対してであっても。慈愛は、ことに恐ろしい罪を犯した悪人たちに向けられねばなりません。このような憐れむべき人びとこそ、心の高潔な人の慈悲にふさわしい対象でありますから。毎日または五日ごとに、カの弱った囚人を釈放し、また残りの者も適宜釈放してください。決して拘禁しておくことがないように。もしあなたに、ある人びとを釈放する心が起きないならば、彼らに対しては自制を欠くことになります。このように自制を欠くならば、永久に罪をうけるでありましょう。また、彼らが拘禁されているあいだは、牢獄を楽しいものとし、理髪師、浴場、飲食物、薬、衣類を備えつけておきなさい。処罰をなすときは、あたかも値打ちのない息子たちを値打ちある者にしようと願って処罰を加えるように、慈悲をもって行なわねばなりません。けっして憎しみからしてはなりませんし、また財を欲してはなりません。
事情を正しく考慮し判断して、たとえ罪深い殺人を犯した人びとであっても、死刑に処することなく、また責苦を与えることなく、彼らを追放しなさい。
龍樹 宝行王正論331~37 (儒教)
たとえ正当な理由があっても、人間の処罰は依然として許容されていない。
教皇シクストゥス(キリスト教)
― み言選集 ―
罪を犯した死刑囚は、国が葬ります。しかし、国は罪に問われません。なぜかというと、世界のために生きていくという公約のもとでするからです。自分の国のために生き、世界のために生きる公約のもとにあるので、そのような論理が成立することを知らなければなりません。
(88-298.1976.10.3)
聖子は、天国においての国民法と皇族の法となる宮中法を守るのです。日本の一般国民たちは、宮中と関係なく六法全書の中で自分が属する一つの方面だけ守ればよいのですが、王子はそうではありません。王宮の法と六法全書の内容をすべて適用し、一つも背くことなく、尊敬され得るセンターにならなければ、王子になることはできません。それは深刻なことです。
(306-62-63.1998.8.27)
今後、罪を犯せば、死刑宣告があるでしょうか、ないでしょうか。10人を殺し、100人を殺す可能性があるのに、そのような人をそのままほうっておくのですか。そのような人は死ぬ境地に置いておくのです。国境地帯や北極、南極にほうり出すのです。それで、1年、2年、3年、5年くらいして飛行機で見渡してみて、生きていれば、熊の餌になって土に帰らなければならないのですが、それでも精誠を尽くして天が赦せば、生きるのです。生きている人たちは、互いに集まり、無期刑のようになって地上で生きます。
そのようにすれば、世界を巡りながらその人たちを、いくらでもただで呼んで使えます。労働現場や国の公的な建設などをするとき、どこの誰でも呼んで使うことができるのです。その人たちに対する工賃は、70パーセントであれ、30パーセントであれ、すべて国に捧げるのです。それで、すべて「囚人」 という服を着て、何級、何級とこのように書き、そのような仕事をするために村の家々に入っていって、「私がすることはないですか」と尋ねます。絶対従順、絶対服従するために自分の体を投入するというのです。
あの国に行けば、犯罪者たちは、そのまま入っていけません。霊界の蘇生圏、楽園など、すべて霊界の監獄を経て、そこで修錬し、再び分別された心と体を検証するのです。霊界ではすべて、水晶体のように照らして見ることができるので、きれいになったのか、なっていないのかを鑑定し、そのレベルの基準に行くのです。再び上がっていかなければなりません。ですから、監獄が必要ないということです。
(298-234 〜236.1999.1.8)
アメリカならアメリカの憲法を中心として、法廷では赦しを受けることもできますが、宇宙的なこの憲法を中心として見れば、赦す法があるでしょうか。しかし、犠牲になり、奉仕すれば赦されます。このようなときは、同情を受けることができ、生きる道があり得るのです。「悔い改めなさい」という言葉があります。イエス様がこの地上で、「悔い改めよ、天国は近づいた」と言いました。何を悔い改めなさいというのですか。簡単です。その結論とは何かというと、犠牲になり、奉仕しなければならない道理に背いたすべてのことを、悔い改めるのです。
(105-92.1979.9.30)
4. 法の目的
― 宗教経典 ―
互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。
ローマの信徒への手紙13.8〜10 (キリスト教)
知恵のある者はいつも自由である。彼はいつも栄誉がある。いつも法の主人になる。法は正義ある者たちではなく、不正な者たちのためにつくられた。義なる人たちは、心の中に戒めを刻んだままで主の法に従い、いつも心にその法を抱きながら歩いているので、自分自らが法自体になり、あえて法を必要としない。知恵のある者は自由である。願うとおりに行なう者は自由だからである。すべての願いが善なることではない。しかし、知恵のある者は、ただ善なることだけを願う。彼は善だけを選び、悪を憎悪する。善なることだけを選ぶため、彼は正に自己選択の主人であり、自ら自分のするべきことを選ぶがゆえに、彼は自由である。
ミラノのアンブロシウス 書信54 (キリスト教)
― み言選集 ―
一つの国を中心として見てみると き、国法というものがあるのですが、善を支えるという目的から法を考えるのです。私たちの良心世界と体を見てみれば、どのようになっているのでしょうか。良心は教育を受けなくても、すべて善のことを知っています。例えば、五つの国があるとして、五つの国の主権者たちがそれぞれ異なる憲法をつくり、それが善のことだと結論づけ、それに従って治めようとしても、良心的な人は、その五つの国の主権者の中で、どの主権者がより善の主権者なのかを判断できる能力があるのです。どの国が一等なのかを測定することができる力をもっています。その五つの国の中で、最も良い国を選び、最も悪い国を選べます。良心は、そのようなことを判断できるので、その五つの国の最も善の側に従っていこうとするのです。
(216-303~307.1991.4.15)
法は、個人を中心として社会的生活をして、国家の仕事をして、世界的な生活をする人たちを規制するための方便です。それでは、法に引っ掛からないようにしようとすれば、どのように生きなければなりませんか。人のために生きようという人は、法に引っ掛かりません。ですから、法から解放されなければなりません。私たちが世の中の法に引っ掛からない人になろうとすれば、どのようにすれば引っ掛かりませんか。私のために生きるという人は、行くところすべてで引っ掛かります。私はより大きな世界のために生きようとするとき、あらゆる法から解放されるのです。
(93-301.1977.6.12)
もし世界がこのような真の家庭で満ちるならば、そこには弁護士も、検事も、さらには判事も必要がなく、天道と天法が治める世の中になるでしょう。
平和神経、平和メッセージ3.69、2006.4.10
6) 預言者とメッセンジャー
この世の王国が神様の王国の基準に至らないため、神様は天の義を代表させ、世俗的指導者たちに責任を問うために、預言者とメッセンジャーを立てられる。彼らは、社会正義を叫びながら、さらに高い社会ビジョンを宣布するために、いかなる危険もいとわなかった人たちである。彼らは、権力者の良心を刺激し、悪の沼に落ちている統治者に対して果敢に警告し、時に国の惨禍を免れるための天の特別なメッセージを伝達したりもした。
ムハンマドのような一部の預言者たちがそのように召命されたが、預言者の役割は神様の啓示を世の中に伝達するために、特別に選択された宗教創始者などに制限されない。ここでいう預言者は、すべての時代、すべての文化の聖賢と義人たちを含む。彼らは昔、初めて啓示された真理を自分の当代の統治者に想起させようと孤軍奮闘した。彼らはたびたび、天のメッセージを現代的用語に直して話さなければならなかった。私たちは、彼らの名簿にソクラテスと孟子を含めた。私たちはまた、アッシジの聖フランチェスコ、マルティン・ルター、日蓮、マハトマ・ガンジー、マーティン・ルーサー・キングなど、現代人物を追加することはできる。しかし、私たちは、現代人物の中で少数だけに言及する。そのような意味から、文鮮明先生は、既に預言者として召命されていて、したがって、先生の預言の一部がここに含まれざるを得ない。
預言者は、権力者を不安にさせる挑戦的な表現を躊躇しなかった。それゆえ、彼らは迫害に遭って嘲弄を受け、時には処刑された。ナタンと孟子のように、ある義人は、統治者の良心を正しく立て直すための真理を比喩で表現することによって、自身を保護したりもした。しかし、彼らの大部分は、自分の統 治者の好意を受け続けることはできなかった。例を挙げれば、預言者エレミヤは、何回も投獄された。彼は自身が危険な路程を経る時、それを内的闘争によって克服した。
預言の属性は、未来をあらかじめ知らせる能力である。預言者らは、単純な占い師ではない。彼らの才能は、国家的なことに対して権威をもって伝達することにより、彼らに確信を与える。神様と密接な関係を維持している預言者の手には、国家の命運がかかっていることもある。ゆえに、彼らの預言は正確である。
1. 預言者の使命
― 宗教経典 ―
それぞれの民に対して、ひとりの使者がつかわされるのである。かれらの使者が来るとき、事は、かれらの間で公正に裁決されて、不当に偶せられることはない。かれらは「おまえたちの言が真実なら、この約束が果たされるのはいつか」と言う。言え「わたしは、神のおぼしめしがないかぎり、なんら 自分を害しまたは益する力はないのだ。それぞれの民には定められた期限がある。かれらの期限が到来すれば、一刻も猶予することはできない、またそれに先んずることもできぬ」。
クルアーン10.47〜49 (イスラーム)
主の言葉がわたしに臨んだ。「わたしはあなたを母の胎内に造る前から/あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に/わたしはあなたを聖別し/諸国民の預言者として立てた。」 わたしは言った。「ああ、わが主なる神よ/わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。」 しかし、主はわたしに言われた。「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ/遣わそうとも、行って/わたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて/必ず救い出す」と主は言われた。主は手を伸ばして、わたしの口に触れ/主はわたしに言われた。「見よ、わたしはあなたの口に/わたしの言葉を授ける。見よ、今日、あなたに/諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。抜き、 壊し、滅ぼし、破壊し/あるいは建て、植えるために。」
エレミヤ書1.4〜10 (キリスト教)
七日の後、主の言葉がわたしに臨んだ。「人の子よ、わたしはあなたを、イスラエルの家の見張りとする。わたしのロから言葉を聞くなら、あなたはわたしに代わって彼らに警告せねばならない。わたしが悪人に向かって、『お前は必ず死ぬ』と言うとき、もしあなたがその悪人に警告して、悪人が悪の道 から離れて命を得るように諭さないなら、悪人は自分の罪のゆえに死ぬが、彼の死の責任をあなたに問う。しかし、あなたが悪人に警告したのに、悪人が自分の悪と悪の道から立ち帰らなかった場合には、彼は自分の罪のゆえに死に、あなたは自分の命を救う。また、正しい人が自分の正しい生き方を離れ て不正を行うなら、わたしは彼をつまずかせ、彼は死ぬ。あなたが彼に警告しなかったので、彼は自分の過ちのゆえに死ぬ。彼がなしてきた正しい生き方は覚えられない。また彼の死の責任をわたしはあなたに間う。しかし、あなたが正しい人に過ちを犯さないように警告し、彼が過ちを犯さなければ、彼は警告を受け入れたのだから命を得、あなたも自分の命を救う。」
エゼキエル書3.16-21(キリスト教)
私は、終日どこへでも行き、皆さんと向き合って座り、皆さんを目覚めさせ、教え諭し、叱るために、神がこの国につけておいたウシアブのような人です。
プラトンソクラテスの弁用31(ヘレニズム)
良心に反して生きるのは、正しくも安全でもないために、私は何も否定できず、また否定しません。私はこの位置に立ちました。私がする役割はここまでです。お助けください、私の主なる神。アーメン。マルチン・ルター(キリスト教)
― み言選集 ―
神様が聖子や預言者たちを地上に送られた目的とは、何でしょうか。神様が願われる人格と生活の手本を見せながら、神様の真の愛のみ旨を万民に教育するのです。特に、為政者や指導者たちに天道を教育し、実践させることによって、心の世界と体の世界が、神様の真の愛のみ旨を中心として和合を成すためです。(注20) しかし、ちょうど良心が願うとおりに体がついていかないように、多くの為政者たちが聖賢を理解できず、その教えを受けずに警告を黙殺してきました。価値観の混乱、道徳的腐敗、麻薬中毒、テロ、人種差別など、現代社会の惨状と病弊に誰が責任をもてますか。政治家が公権力によってこのような諸問題を完全に解決できるでしょうか。特に、いつの時よりも多元化した社会、また国際的に互いにもつれ合っているこの時代に、政治家たちの判断と選択に伴う責任がどれほど重大でしょうか。為政者たちが重要な事案を決定するときは、謙虚に天から来る声に耳を傾け、天道に従って解決の道を探し求めてい かなければならないと思います。
(219-110.1991.8.27)
このように見るとき、この世界には、哲学者が必要なのではなく、預言者が必要です。これは否定できません。それでは、民主主義はどこから出てきましたか。預言者たちが主張して出てきましたか、哲学者たちが主張して出てきましたか。はっきりと答えなければなりません。それを分析しなければならないのです。共産主義が預言者によって提唱されてきましたか、哲学者によって提唱されてきましたか。(哲学者です)。今日の世界人たちは、哲学者が主張する主張に従っていきますが、私たちが彼らの主張を完全に信じ、知ることによって受け入れられるのかという質問に対しては、「できない」という結論が出てきます。このような観点から見るとき、哲学者が主張する世界は飛んでいってしまい、預言者が主張する世界が訪れてくるということです。それでは、哲学者はどこにいるのですか。大学にいるのです。その次に、預言者はどこにいるのですか。宗教にいます。それでは、預言者はどこにいるというのですか。宗教を信じる人の中にいるのであって、それ以外にはいません。人々は宗教を好みますか、学校を好みますか。(学校です)。この者たち! では、学校に希望がありますか、宗教に希望がありますか。どこに希望があるのですか。(宗教です)。このように見るとき、世界の有名なハーバードやケンブリッジ、オクスフォードという大学よりも、かえって名もない宗教に希望があるのです。ところで、預言者という人の中には、学士、博士が多いですか。無学な人が多いですか。(無学な人です)。それを見るとき、一般の人が見れば、勉強をたくさんした人を信じますか、勉強もしていない無学な人を信じますか。(勉強した人です)。そのように考えれば、世の中は誤った方向に行くようになるという結論が出てきます。
(79-334.1975.9.28)
教会が、家庭の行くべき道、氏族の行くべき道、国の行くべき道を正しく教育しなければなりません。このようにして、過去のすべての預言者は、その国の責任者である君主が誤れば、その君主を引つ張っていくのです。訴えて引っ張っていくのです。それで神様は、教会という母体を中心として、未来の 家庭と、未来の氏族と、未来の世界の民、市民を育てようとされるのです。
(106-35.1979.11.11)
2. 権力者に真実を語る
― 宗教経典 ―
最も立派な聖戦は、不正な統治者の前で真実を語ることである。
ティルミズィー・ハディース(イスラーム)
主はナタンをダビデのもとに遣わされた。ナタンは来て、次のように語った。「二人の男がある町にいた。一人は豊かで、一人は貧しかった。豊かな男は非常に多くの羊や牛を持っていた。貧しい男は自分で買った一匹の雌の小羊のほかに/何一つ持っていなかった。彼はその小羊を養い/小羊は彼のもとで育ち、息子たちと一緒にいて/彼の皿から食べ、彼の椀から飲み/彼のふところで眠り、彼にとっては娘のようだった。ある日、豊かな男に一人の客があった。彼は訪れて来た旅人をもてなすのに/自分の羊や牛を惜しみ/貧しい男の小羊を取り上げて/自分の客に振る舞った。」ダビデはその男に激怒し、ナタンに言った。「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ。小羊の償いに四倍の価を払うべきだ。そんな無慈悲なことをしたのだから。」 ナタンはダビデに向かって言った。「その男はあなただ。イスラエルの神、主はこう言われる。『あなたに油を注いでイスラエルの王としたのはわたしであ る。わたしがあなたをサウルの手から救い出し、あなたの主君であった者の家をあなたに与え、その妻たちをあなたのふところに置き、イスラエルとユダの家をあなたに与えたのだ。不足なら、何であれ加えたであろう。なぜ主の言葉を侮り、わたしの意に背くことをしたのか。あなたはヘト人ウリヤを剣にかけ、その妻を奪って自分の妻とした。ウリヤをアンモン人の剣で殺したのはあなただ。それゆえ、剣はとこしえにあなたの家から去らないであろう。あなたがわたしを侮り、ヘト人ウリヤの妻を奪って自分の妻としたからだ。」
サムエル記下12.1~10 (キリスト教)
孟子が斉の平陸という町へ行かれたとき、そこの大夫(長官)の孔距心に向っていわれた。「あなたの部下の警護の兵上が、一日に三度も列(隊伍)を離れて勝手なことをしたら、あなたは軍法にかけて処分しますか。」孔距心がいった。「いや、三度といわず、一度だってすぐ処分します。」すると孟子はいわれた。「あなただってその兵士と同じこと、職務の怠慢が随分ありますよ。現に悪疫や飢饉の年には、あなたの領内で老人や病人は飢え凍えて溝や谷間に転げ落ちて死に、若者は食を求めて四方に散り散りになって逃げだすものが、何千人あるか分りません。」孔距心がいった。「しかし、先生、それはこの距心(わたし)などの力では、何んともできないことです。」孟子はいわれた。「では今、ここに牛や羊をたのまれて牧う人がいたとします。その人は牛や羊のために必ず牧場と牧草とを探すことでしょう。 もしも牧場や牧草が見つからぬときは、もとの持主にしますか。それともまたぼんやり立って、その死ぬのを見ていますか。」距心は大いに恐縮していった。「いや、よく分りました。これは距心(わたし)の責任であります。」
孟子II.B.4 (儒教)
ベテルの祭司アマツヤは、イスラエルの王ヤロブアムに人を遣わして言った。「イスラエルの家の真ん中で、アモスがあなたに背きました。この国は彼のすべての言葉に耐えられません。アモスはこう言っています。『ヤロブアムは剣で殺される。イスラエルは、必ず捕らえられて/その土地から連れ去られる。』」アマツヤはアモスに言った。「先見者よ、行け。ユダの国へ逃れ、そこで糧を得よ。そこで預言するがよい。だが、ベテルでは二度と預言するな。ここは王の聖所、王国の神殿だから。」アモスは答えてアマツヤに言った。「わたしは預言者ではない。預言者の弟子でもない。わたしは家畜を飼い、いちじく桑を栽培する者だ。主は家畜の群れを追っているところから、わたしを取り、『行って、わが民イスラエルに預言せよ』と言われた。今、主の言葉を聞け。(注22)あなたは、『イスラエルに向かって預言するな、イサクの家に向かってたわごとを言うな』と言う。それゆえ、主はこう言われる。お前の妻は町の中で遊女となり/息子、娘らは剣に倒れ/土地は測り縄で分けられ/お前は汚れた上地で死ぬ。イスラエルは、必ず捕らえられて/その土地から連れ去られる。」
アモス書7.10~17 (キリスト教)
なんじ以前の、ノアとアードとサムードの民。ならびにかれらの後に来た者たち。また神以外には何人も知らぬ者たちの、消息がなんじらに達しなかったか。諸使者が明証を持ってかれらに来たが、かれらは手で予言者たちのロを押さえて、言った「わしらは、おまえたちがつかわされたことを信じない、 またわしらをまねく教えについても、ほんとうに不安な疑いをいだく」。使者たちは言った「おまえたちは天と地を創造された方、神について疑いがあるのか、かれはおまえたちを招きたもうのは、おまえたちの罪を許したまい、定められた期限まで、おまえたちを猶予なさるためである」。かれらは言った 「おまえたちは、わしらと同じ人間にすぎない。おまえたちは、祖先が仕えてきたものから、わしらをそむかせようと望んでいる、それならわしらに明りょうな権威を現わせ」。使者たちはかれらに言った「もちろんわたしたちは、お まえたちと同じ人間にすぎない、だが神は、そのしもべのうち、み心にかなう者に、恩恵を施こしたもう。神のお許しがない以上、おまえたちに一つの権威をも、もたらさないのだ。それですべての信心ある人びとを神に信頼せしめよ」。「どうしてわたしたちは、神に信頼しないでおられようか、かれはわたしたちの従うべき道に導きたもう。わたしたちは、おまえたちが加える迫害に、どこまでも耐え忍ばねばならない。信頼する者たちは、神に信頼すべきである」。すると、信じない者は使者たちに言った、「わしらは、おまえたちをこの国土から必ず追放するであろう、それともわしらの教えに帰れ」。そこで主は、使者たちに黙示したもう「われは不義者たちを、必ず滅ぼし」、「われはかれらの後、必ずなんじらをこの国に住まわせるであろう。これらはわしの審判に立つのを恐れる者、ならびに処刑の約束を恐れる者である」。かれらは裁断を望んだが、すべてのがんめい な反逆者には失望であった。
クルアーン14.9-15 (イスラーム)
王がたとえ真理に背くこと(非法)や非道をなすとも、王に仕える人びとは概して称賛します。それゆえに、王にとっては正当か正当でないかを知ることがむずかしいのです。
たとえほかの人であっても、その人の気に入らないばあい、正当なことを語るのは難しいのに、まして、あなたは大王であり、その王に修行僧である私が語るときはいうまでもありません。しかし、あなたによって下される慈愛によって、また世の人々への憐れみから、私はひとりあなたに、たとえまったくお気に召さないことであっても、道にかなったことを語るでありましょう。・・・・・・。教えが説かれるとき、怒りを起さず、また真実の言葉に耳を傾けるならば、その人は囲くべきことをうけいれるでしょう。沐浴をするときに良水をとる ように。私がこの言葉を述べるとき、あなたはそれがこの世にあってもかの世にあってもふさわしいものであると知って、自らを利益するためばかりでなく、世の人びとをも利益するために、それを実行してください。
龍樹 宝行王正論301~6 (仏教)
― み言選集 ―
これからは、神様のみ旨を代弁する宗教人たちが勢力を得る時が来ることでしょう。宗教指導者は、神様のみ旨を地上に宣布し、人類に進むべき方向を提示してあげなければならない預言者です。
真の家庭と世界平和、2000.1.22
南北王朝分立時代において、イスラエル民族が、神殿理想に相反する立場に立ったびに、神は、継続して、四大預言者と十二小預言者を遣わされて、彼らを励まし、内的な刷新運動を起こされたのである。しかし、彼らは、預言者たちの勧告に耳を傾けず、悔い改めなかったので、神は、彼らをエジプト、カルデヤ、シリヤ、アッシリヤ、バビロニアなどの異邦人たちに引き渡して、外的粛清の摂理をされたのであった。
この時代を、実体的な同時性をもって蕩減復帰する東西王朝分立時代においても、同じく、法王庁が腐敗して、トマス・アクィナス、聖フランシスなど、修道院の人物たちが彼らに勧告して、内的な刷新運動を起こしたのである。しかし、彼らもまた悔い改めず、堕落と腐敗に陥ったため、神は彼らを異邦人たちに引き渡して、外的な粛清の摂理をなさったのであり、これがすなわち、十字軍戦争であった。
原理講論、摂理的同時性から見た復帰摂理時代と復帰摂理延長時代4
神主義は、過去にも変わらず、現在 にも変わらず、未来にも変わり得ないことを知らなければなりません。神様は、旧約時代に預言者を通して、国の主権者たちが過ちを犯せば攻撃させるようにしました。預言者たちの話を聞き、忠誠を尽くしてその言葉を生命視し、その言葉によって治める主権者が いる国は栄えました。また、新約時代にも同じです。悪の時代になれば、預言者が出てきて新しい時代を覚醒するよう、天の使者を中心としてその時代の主権者たちに忠告するのです。その忠告を聞いて従っていけば、その時代的国家は栄えます。新約時代に中世まではそうでしたが、中世以降は政教分離だ、預言者でも何でも政治とは関係ないと言いました。
これが滅びる徴候でした。神様と預言者から分かれたのです。この時から、サタンがあいくちを鋭くとがらせ始めたことを知らなければなりません。今日、レバレンド・ムーンがアメリカならアメリカの政治問題、カーター政府ならカーター政府に対して批判をします。「これは間違っている」と言いながら攻撃します。
私がアメリカの二クソンと手を握ったのは、ニクソンが私を必要としたからです。神様をアメリカ国民に紹介するためにニクソンと手を組んだのです。ニクソンが私の言うことを聞いていれば、あのようになっていません。アメリカがこのようになっていないのです。また、ベトナムはあのようになっていなかったでしょう。
私はベトナムが 緊急であることが分かったので、チュー大統領に会って話したのです。このようにしていては遠からず滅びると強力に忠告したのです。1974年に会って、今からでも強力な体制をもって、国民全体が憐牲を覚悟して総攻撃をしなけ ればならないと言いました。アメリカを信じるなと言いました。アメリカを信じるなと言ったのです。神様の作戦、神様の歴史は、過去も現在も未来も変わりません。
預言者を通して主権者を教育するのです。これが神様の法度です。今、アメリカで私が政治をしようというのではなく、政治家を正しく指導しなければならないというのです。これがレバレンド・ムー ンの思想です。私がアメリカに来てこのようなことをするのは、御飯を食べるためですか。
非難されたくてこのようにしているのかというのです。レバレンド・ムーンは、そのように愚かな男ではありません。神様の名のゆえに、このようにしていることを知らなければなりません。為政者たちが話を聞かなくても、これか らこの国を継承する若者たちがレバレンド・ムーンの話を聞くでしょう。ですから、皆さんが集まってきたのです。
(93-83~84, 1977.5.15)
3. 預言者は反対と迫害を忍耐しなければ
― 宗教経典 ―
エリヤは答えた。「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。」
列王記上19.14 (キリスト教)
「たわごとを言うな」と言いながら/ 彼らは自らたわごとを言い/「こんなことについてたわごとを言うな。そんな非難は当たらない。ヤコブの家は呪われているのか。主は気短な方だろうか。これが主のなされる業だろうか」と言う。わたしの言葉は正しく歩む者に/益とならないだろうか。昨日までわが民であった者が/敵となって立ち上がる。平和な者から彼らは衣服をはぎ取る/戦いを避け、安らかに過ぎ行こうとする者から。彼らはわが民の女たちを楽しい家から追い出し/幼子たちから、わが誉れを永久に奪い去る。立て、出て行くがよい。ここは安住の地ではない。この地は汚れのゆえに滅びる。その滅びは悲惨である。だれかが歩き回って、空しい偽りを語り/「ぶどう酒と濃い酒を飲みながら/お前に とくと預言を聞かせよう」と言えば/その者は、この民にたわごとを言う者とされる。
ミカ書2.6-11(キリスト教)
エレミヤは、主が預言させるために遣わされたトフェトから帰って来て、主の神殿の庭に立ち、民のすべてに向かって言った。「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。見よ、わたしはこの都と、それに属するすべての町々に、わたしが告げたすべての災いをもたらす。彼らはうなじを固くし、わたしの言葉に聞き従おうとしなかったからだ。」主の神殿の最高監督者である祭司、イメルの子パシュフルは、エレミヤが預言してこれらの言葉を語るのを聞いた。パシュフルは預言者エレミヤを打たせ、主の家の上のベニヤミン門に拘留した。主よ、あなたがわたしを惑わし/わたしは惑わされて/あなたに捕らえられました。あなたの勝ちです。わたしは一日中、笑い者にされ/人が皆、わたしを嘲ります。わたしが語ろうとすれば、それは嘆きとなり/「不法だ、暴力だ」と叫ばずにはいられません。主の言葉のゆえに、わたしは一日中/ 恥とそしりを受けねばなりません。主の名を口にすまい/もうその名によって語るまい、と思っても/主の言葉は、わたしの心の中/骨の中に閉じ込められて/火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして/わたしは疲れ果てました。わたしの負けです。わたしには聞こえています/多くの人の非難が。「恐怖が四方から迫る」と彼らは言う。「共に彼を弾劾しよう」と。わたしの味方だった者も皆/わたしがつまずくのを待ち構えている。「彼は惑わされて/我々は勝つことができる。彼に復讐してやろう」と。しかし主は、恐るべき勇士として/わたしと共にいます。それゆえ、わたしを迫害する者はつまずき/勝つことを得ず、成功することなく /甚だしく辱めを受ける。それは忘れられることのない/とこし えの恥辱である。万軍の主よ/正義をもって人のはらわたと心を究め/見抜かれる方よ。わたしに見させてください/あなたが彼らに復讐されるのを。わたしの訴えをあなたに打ち明け/お任せします。
エレミヤ書19.14~20.220.7~12 (キリスト教)
また、他の人たちはあざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭いました。彼らは石で打ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました。
ヘブライ人への手紙11.36~38 (キリスト教)
― み言選集 ―
預言者たちは、すべて非正常的な人たちです。み盲を求めていく、アベルの道を行く人は、非正常的な預言者たちです。非正常的なことをする、そのような預言者たちが現れるのです。旧約聖書を見ても、新約聖書を見ても、預言者はすべて非正常的な人です。ですから、人から指さされ、反対され、迫害を受けるのです。
(89-129. 1976.11.1)
正義の、真理体制に属することができる人になれば、完全に天運が保護します。ですから、ここに反対すれば、天運が打ってしまうのです。いくらア メリカのような国、いくらソ連のような国でも、私が本当に神様を中心として相対し、完全に一体圏内に入っていくときは、ここに反対すればソ連を打 ち、アメリカを打ってしまいます。このような原理を知ったので、文総裁は堂々としているのです。
(214-194.1991.2.2)
今まで神様の摂理歴史の中で、預言者が主権の前に僕になりました。生死の境を越えて攻擊され、どれほど犠牲になってきましたか。そのような全体の犠牲の結実として、代表的にアベル的王者の立場に立ったのが再臨主です。真の父母が臆病者になってはいけません。何千年、何世紀を経てきながら、困難のたびに預言者たちがどれほど命を絶たれ、血を流したか、考えてみることを願います。その結実を刈り取らなければならない先生が、世の中が恐ろしくて言うべきことを言えないでしょうか。監獄に6度も行ってきました。いつでも最前線に立つのです。
(343-263, 2001.2.17)
お父様が怨讐の世界に対された御心情を感じながら、私は悲しみの立場を体験してきました。日の当たる所で生きてこられなかったお父様の悲しみを、日の当たらない所で働かれたお父様の御事情を、私は知りました。
今日まで、そのような生活の中で、ある時はお父様に反論し、お父様を恨む息子になりはしないかと焦燥しながらきました。また、あなたも焦燥なさるお立場で、そのような私を探してこられたことを知っています。
お父様は、私が悲しい以上にもっと悲しく、私がつらい以上にもっとつらいお立場で、御自身の責任を感じながら、行くべき道を準備していらっしゃるということを知りました。それゆえ、私は追われ、追い回される立場、手錠に両手を締められる牢屋暮らし、奴隷の身の上、僕の身の上を経たとしても、絶望したりお父様に落胆させないと決意いたしました。
そのように決意したその時から今日まで、死なずにお父様のみ前に残るようにしてくださった恩賜に感謝をお捧げいたします。
このような姿を立てられるために、お父様は、どれほど御苦労されたでしょうか。私が行くべき道のために、どれほど犠牲になられたでしょうか。お父様はそれ以上のことをしていらっしゃるという事実を知ったのちには、寝ても目覚めても、罪人のように「許してください」とお父様に請わずにはいられませんでした。
御飯を食べていても、さじを止め、涙でお父様に過去の過ちに対して許しを求めずにおられませんでしたし、疲れた体を支えることができず、床に横になる時ごとに、あなたを心配する心をもてなかった自らをしからずにはいられませんでした。かわいそうな方はお父様です。いくら統一教会の文なにがしがかわいそうだといっても、それは何でもありません。
(30-270,1970.3.29)
4. 預言者の未来のビジョン提示
― 宗教経典 ―
僕なる預言者に示さずには/何事も なされない。
アモス書3.7 (キリスト教)
主はわたしに答えて、言われた。「幻を書き記せ。走りながらでも読めるように/板の上にはっきりと記せ。定められた時のために/もうひとつの幻があるからだ。それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。
ハバクク書2.2~3 (キリスト教)
おお、主よ! あなたの権能はすべての他の力よりも偉大です。あなたの霊も、下にいる私たちはいかなる恐れもありません。私たちに預言者的力を下さりすべてのものを理解し推し量ることができるよう許諾された方は正にあなたです。
ディンカ族の祈り(アフリカ伝統宗教)
身に至誠ある者は、あらかじめ知ることができる。国・家が興隆しようとするときには、必ず吉兆がある。国・家が滅亡しようとするときには、必ず凶兆がある。占いの善と亀に現れ、亀の四足に動きがでる。災いや福が起ころうとするときには、よい福も必ずあらかじめ知るし、よくない災いも、必ずあらかじめ知るのである。だから、至誠は鬼神のようである。
中庸24 (儒教)
死体でいっぱいの都城に座り、ナナークが主をたたえてこのように教えを広げる。一切の万有を生まれさせ、至高の喜びでこれを行った彼が、一人で座りこれをかがんで見ている。聖なる者が主であり、彼の正義は神聖である。彼が下す判決は真である。衣服がずたずたに裂かれるとき、インドは私の言葉を覚えよ。78年に彼らが来て、97年に彼らが離れていく。また他の英雄がふと立ち上がる。ナナークが真理の言葉を伝える。彼が真理を説 く。時代が真理を呼ぶのである。
アーディ・グラント・ティラング.M.1.p722f (シク教)
― み言選集 ―
先生が50年前に夢のような話をしましたが、世界が一日生活圏に入っていくという話でした。それを「狂ってい る」と言っていた人たちが、すべて落ちていくようになりました。文総裁は、50年前に世界的なあらゆる興亡盛衰を預言した預言者の代表者、教育者の代表者、愛する父母の代表者、主人の代 表の位置に生涯を通して上がってきています。
(397-154. 2002.11.17)
レバレンド・ムーンも数万、数千の人たちと向き合ってきたので、さっと見れば分かります。人を見ることができるので、アメリカがどうで、アジアがどうで、世界がどうだということを語れるのです。今よりも未来に必要なことをしていくので、皆さんがついてくるのが大変で、信じるのが難しく、行動するのが大変なのです。1年がたち、2年がたち、歳月が過ぎれば過ぎるほど、価値が高まります。それで、レバレンド・ムーンにすべて反対していた韓国が、今になって変わりました。
(103-111.1979.2.11)
1954年に先生は、共産主義は73年以上もたないと教えてきました。それで今、このイスラーム世界に対して……。共産主義が問題ではないというのです。共産主義が終わったあとにムスリムを含む宗教圏が問題になります。ユダヤ教とキリスト教の争いを誰が止めるのかという問題に対して、既に50年前に語りました。
(225-19-20.1992.1.1)
第22章 平和
平和
1) 神様の平和
神様が平和の源泉である。私たちが周囲を見回して葛藤と紛争ばかりを見たとき、地上で平和を求めて絶望するとき、私たちは神様、すなわち平和の王に視線を戻す。神様が私たちを訪れる時、その方は私たちの胸にある怒りを鎮静させてくださり、私たちの怨讐を他の観点、すなわち兄弟姉妹の観点で見るようにされる。神様は愛である。神様と共にあることで私たちは、私たちの怨讐さえも愛し得る力をもつようになる(第13章5.「怨讐を愛しなさい」参照)。したがって、平和に至る糸口は、神様と一緒に暮らすことであり、神様の愛を表すことである。
これに対して文鮮明先生は、特別な洞察力を提示した。神様の愛が特別に結婚と家庭の深い人間関係に臨むため、神様を中心とした平和な家庭こそ、平和な社会と国家と世界を建設する実質的な単位である。
― 宗教経典 ―
いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。
ル力による福音書2.14 (キリスト教)
主が御顔をあなたに向けて/あなたに平安を賜るように。
民数記6.26 (キリスト教)
神は平和であられ、その方の名もまた平和であるので、すべてのものがその平和の中にとどまるのである。
ソハール3.10b (ユダヤ教)
わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。
ヨハネによる福音書14.27<キリスト教)
まことに神は、人を平安の家に招きたまい、またみ心にかなう者を直き道に導きたもう。
クルアーン10.25 (イスラーム)
トーラーの目的はすべてこの地に平和を成すことにある。
タルムード、ギッティーン59b (ユダヤ教)
堅固な思いを、あなたは平和に守られる/あなたに信頼するゆえに、平和に。
イザヤ書26.3 (キリスト教)
私たちの先祖よ、これはあなたの世界であり、あなたのご意志です。私たちを平和にされ、人々の霊魂を落ち着かせてください。あなたは私たちの先祖、私たちの人生の道においてあらゆる悪を除去してください。
ヌエル族の祈り(アフリカ伝統宗教)
どんなムスリムも、彼の舌や彼の手から恐れを感じなくてもよくなるとき、本当のムスリムになる。
ブハーリー・ハディース(イスラーム)
「道」は実在し、何事もしない。だが、それによって為されないということはない。もし統治者がそこにとどまるならば、あらゆるものは自然に変わるだろう。もし変わる過程で意図があらわれるならば、名前のないもともとの非区別によって抑制するべきである。名前のないもともとの非区別を経験すれば、意図のない状態があらわれる。意図がなくなれば静かになり、天下は自然に安らかになるであろう。
道徳経37 (道教)
― み言選集 ―
神様御自身は、愛の王であられ、あるいは平和と幸福の王であられ、理想の中心者に違いありません。ですから、人間がそのようなものを追求していきながら限界にぶつかってしまうようになれば、神様を通して打開していく道以外にはないと思うのです。
(72-11.1974.5.7)
争っていた人たちが、神様さえやって来れば、互いにために生きようとするのです。
(330-267. 2000.820)
真の平和、真の幸福、真の自由は、人間から訪れるのではなく、真の神様 から訪れるので、神意に一致し得る立場に立てず、何か間違った立場に立っている人間は、そのようなところに到達できないと考えられるのです。
(78-103.1975.5.6)
今まで、平和を追求しなかった時代はありませんでした。しかし、変化と不信に満ちたこの地が、今はそのような理想的要件を成就させ得るのではなく、袋小路にぶつかっています。私たちは、変わる人間世界を越えて、絶対的で、不変であると同時に永遠であられるお方がいらっしゃるならば、そのお方を通して、このような要件を成就させられると考えるようになりました。 そのようなお方がいらっしゃるとすれば、そのお方は神様に間違いありません。その神様は、理想の主体であられ、愛の主体であられ、幸福と平和の主体です。神様を中心として、このような幸福や理想、あるいは平和や愛という言葉を考えてみるとき、これらの言葉は、神様お一人をおいて言える言葉ではなく、どこまでも相対的関係において成立する言葉です。神様の前に相対的な存在がいるとすれば、いったいその存在は、どのような存在でしょうか。そ れは、私たち人間以外にはあり得ません。私たち人間は、神様の愛を成就させる、神様の理想と幸福と平和を完結させるところにおいて、なくてはならない存在なのです。
(74-46 〜47、1974.11.27)
争えば、なぜ悪なのですか。争う所に神様は、いらっしゃいません。これが問題です。神様は、平和の主人であり、統一の主人であり、最高の善の主人でいらっしゃるので、争う所にはいらっしゃらないのです。神様が離れるので、悪の世界になるというのです。
(261-292,1994.7.24)
「平和」とは、何を前提にして言う言 葉ですか。平和は、一人を前提にして言う言葉ではありません。必ず相対圏を前提にして言う言葉です。そこには必ず愛がなければなりません。愛が離れた所に平和はあり得ないのです。
(175-196 ~197,1988.4.17)
平和になるという言葉は、主体と対象が互いに一つになることをいいます。これを東洋の漢字で言えば、「平」は「ホリゾンタル」、「和」は「ハーモニー」という意味です。それが何を意味するのかというと、相対は、中心が回ろうとするときに一緒に回ろうとするのですが、それは、中心と相対が衝突する のではなく、和解しようとするときに展開するのです。
(注3)(82-133,1976.1.4)
神様を核として東西、四方、球形形態の均一的な愛の感謝、愛の心情の統一圏をもたなければ、人類平和の起源の着地が生じないことを知らなければなりません。そのような立場では、神様の平和理想を成し遂げられる「私」、「私たち」と言える基盤をもち得ないという話は理論的です。
(357-131.2001.10.29)
神様が平和の教育材料を地上の人間たちに教えてあげようとすれば、どのような材料を求められるでしょうか。 愛の材料を求められるのです。愛の材料を求めようとすれば、愛という言葉自体は見えないので、愛をもった男性と女性を求められるのです。それは、必然的帰結です。平和の起源をどのよ うに探し出していくのか、ということが問題です。それを可能にし得る力がなければならないのですが、その力が愛です。
(193-153.1989.10.3)
平和世界の基本単位は、国家ではなく、和平した家庭です。神様を迎えた人格、すなわち心と体が—つに調和を成した男性と女性が、神様の祝福のもとに夫婦となった家庭がその単位になるのです。人類歴史始まって以来、真の父母を通して初めて取り戻される福のある家庭です。真の愛で家庭の構成員が調和、一体を成した和楽する家庭です。このような家庭が増え広がり、平和の氏族、民族、国家、世界を成し遂げていくようになるのです。
(400-98、2002.12.27)
神様は、人間を神様の形状どおりに造られ、人間はまさしく神様の聖霊がいらっしゃる家と同じ聖殿として造られたのです。人間一人一人が神様の聖殿として、神様に侍って暮らす家として完成したならば、どうして人間同士の闘争と殺戮が可能でしょうか。創造本然の世界で人間が争うのは、右腕が左腕と争うのと同じことであり、自分が自分の手で自分の目をくり抜くのと同じことなのです。このような本然の世界では、戦争はあろうとしてもあり得ませんし、互いに愛し合い、和睦して生きる世界であり、どのように神様にもっと栄光を捧げるかという善意の競争だけがある世界です。そこには葛藤がなく、誤解もなく、美しい協調と相互協助でもってただただ和睦、団結して、真、善、美 を追求する平和の世界のみが永続する のです。その世界は、神様に似た世界であり、神様の理想と本質のために生きる世界なのです。私たちは、このような世界の基本理念を「神主義」、または「頭翼思想」と称するのです。「ため」にする愛、互いに「ため」に生きるところに平和は当然なのであり、このような世界を宗教的に表現するならば、地上天国であるというのです。
(219-116.1991.8.28)
2) 内的平和
平和は、平和的な個人からわき出る。内的平和に至った人々は、人に平和を 拡散する。彼らは人と平和的に相対する内的な力、明晰さ、情熱をもつ、文鮮 明先生のみ言によれば、体と心の統一を育成することによって、私たちは、人 と豊かな愛を授け受けするのに適した器になる。
内的平和の育成は、外的平和の創造の出発点になる。いかなる政治的、経済 的プログラムであっても、それを助けてくれる人々が自分たちの胸の中に憎し みと暴力を抱えているならば、公正で適切な平和を導くことはできない。
― 宗教経典 ―
深い湖が、澄んで、清らかであるように、賢者は真理を聞いて、心清らかである。
法句経82 (仏教)
人は流れる水を鏡にしようとしないで、静止した水を鏡として、自分の姿を映すものである。ただみずから静止するものだけが、静止を欲するものに静止を与えることができるのである。
荘子5 (道教)
海に水が流れこむ時、海は満たされつつも不動の状態を保つ。同様に、あらゆる欲望が彼の中に入るが、彼は寂静に達する。
パガヴァッド・ギーター 2.70 (ヒンドウ一教)
あなた自身の欲心に対して聖戦をせよ。そうすれば、あなたの心を知恵が占めるだろう。最上の聖戦は、誰かが他の人に背こうと考えることもできない、それを守ることである。
ハディース(イスラーム)
主は万物の心の中にある。その幻カにより万物を、からくりに乗せられたもののよう回転させつつ。全身全霊で彼にのみ庇護を求めよ。アルジュナよ。彼の恩寵により、あなたは最高の寂静、永遠の境地に達するであろう。
パガヴァッド・ギーター18.61〜62(ヒンドウ一教)
このすべてのものが満ち、あのすべてのものも満ちている。満ち足りたものから満ち足りたものが出てくる。満ち足りたものが満ち足りたものから取られるとき、満ち足りたものはそのまま残っている。オーム、平和、平和、 平和。
イーシャ・ウパニシャッド、ピース・チャント (ヒンドウー教)
修行者は心のうちが平安となれ。外に静穏を求めてはならない。内的に平安となった人には取り上げられるものは存在しない。どうして捨てられるものがあろうか。海洋の奥深いところでは波が起らないで、静止しているように、静止して不動であれ。修行者は何ものについても欲念をもり上がらせてはならない。
スッタニパータ919〜920 (仏教)
何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。ま た、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。得られ ないのは、願い求めないからで、願い 求めても、与えられないのは、自分の 楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。
ヤコブの手紙4.1〜3 (キリスト教)
肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。 肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。
ガラテヤの信徒への手紙5.17 (キリスト教)
自分の欲望と聖戦を行え。そうすればあなたの心は知恵で満たされるだろう。最高のジハードは、他の人に罪を犯すとは考えもしないことである。
ハディース(イスラーム)
人々が自分から自分を侮ってだらしない行為をするから、他人もその人を侮辱するのであり、家庭も自分から破滅するような原因をつくるから、他人もその家庭を破滅させるのであり、国家も暴政を行なって国内の怨みをかうようなことをするからこそ、他国も侵略してきてその国を亡ぼすのである。されば、〔書経の〕太甲篇にも、『天の降した(自然におこった)災難はどうにか避けられもしようが、自分の招いた災難はとても遁れられない』とあるが、まさにこのことをいったものだ。
孟子IV.A.8 (儒教)
戦乱や闘争、そして党争は、どうして生じるのですか。ただ肉体と肉体の欲望から生じるのですか。実に戦争は財物を得るために生じ、財物は肉体を保存し、保持するためになければなりません。
プラトン パイドン(ヘレニズム)
たしかに一人の人の内でも、「肉は霊に逆らって欲し、霊は肉に逆らって欲する」のである。それゆえ霊の欲するものは他の人の肉の欲するものに対抗し、あるいは肉の欲するものが他の人の霊の欲するも のに対抗して、ちょうど善人と悪人とが互いに闘うように、闘うことがありうる。あるいは善人ではあるがまだ完全ではない人々の場合、彼らが癒されてその健康が最後の勝利に導かれるまでは、二人の肉の欲が、ちょうど悪人同士が闘うことがありうるのである。
アウグスティヌス 神の国15.5(キリスト教)
精神的な暴力は何の力ももっことはできず、ただ自らの考えが暴力的なその人を傷つけるだけである。それは精神的非暴力と全く異なる。精神的非暴力は、世界がまだ知らない力をもっている。
モハンダス・カラムチャンド・ガンディー (ヒンドウー教)
― み言選集 ―
心と体が闘うのに、そこに幸福があり得ますか。心と体が一つになっていないところに、幸福がどこにあり、平和がどこにあるのかというのです。
(242-60.1992.1227)
世界に対する不平を言い、世界に対する平和と真の幸福を叫ぶ前に、皆さん自身を中心として、心と体が一つになって平和の基点を成しているのか、平和の中心基点が神様となっているのか、これが問題です。
(140-17 〜18、1986.2.1)
昔から数多くの聖人、賢哲たちが天国を語るとき、怨讐と闘う激しい場で、自分の憤怒と自分のすべての血気をあらわにして怨讐と争う場で語ったのではなく、怨讐の刀の前でも自分自身を忘れ、静かに天を慕い参拝する場、安らかに天の懐に抱かれる場、 怨讐の環境を超越する場で語ったということを知るものです。
(25-38 - 39.1969.9.28)
「人の体は神様の聖殿である」とこのように言います。聖殿とは、どのような所ですか。仕事をする所ですか。どのような所ですか。聖殿というならば安息所という言葉と通じます。それでは、休むには何の中で休みますか。愛の中で安息するのです。聖殿とは何でしょうか。神様の愛の中で休める所です。私たち人間が願う理想があるならば、そのような内心的基準が最高の理想の基準ではないですか。これを知っているのです。そうした心の愛をもった所を、心情の世界というのです。それは、わき出る泉の水と同じであって、くみ出しても、くみ出しても、終わりがありません。なぜ でしょうか。神様がそこにいらっしゃるから、終わりがないというのです。
(91-78、1977.1.30)
平和とは、何ですか。心と体が一つになり、家庭が平和であってこそ、国家的平和、世界的平和ができるのです。人間が造作した思想では、平和はできません。本然的な神様の心情から心と体が一つになり、その次には夫婦がーつになり、父子が一つになった家庭的基盤が、平和の礎石になるのです。そ の家庭に宇宙まで載せたとしても、根の指示を受けなければなりません。
(305-203.1998.7.14)
UNは、過去60年をかけて努力してきましたが、いまだに世界平和は、はるか彼方です。体と心のカイン・アベ ル関係も解決できない人間の努力だけでは、不可能なことです。
平和神経、平和メッセージ121、2005.9.12
自分の中で永遠に続くこの戦争を、どのように平和に裏返してしまうかという問題です。これは、何よりも重要な問題であることを知らなければなりません。これができなければ、世の中が平和世界になっても、それはすべて地獄になります。先生がこの道を出発する時、第1の標語とは何かといえば、「宇宙主管を願う前に自己主管を完成しなさい」ということだったのです。
(131-34.1984.3.11)
3) 和解と平和の仲裁
イエスは、平和の仲裁者を神様の息子、娘と呼んだ。実際に、葛藤する集団を和解させることは、その方の家族の構成員が互いに平和に生きることを願われる神様の偉業に同参することである。しかし、平和を仲裁する人の仕事は、難しくもある。たとえその人が双方に公平で、関心を見せて共感しようと努力したとしても、平和の仲裁者は、どちらか一方から攻擊されたり、非難されやすい。 したがって、平和の仲裁者は、平和のために喜んで犠牲になり、危険を甘受しなければならない。さらには、自分の命さえ捨てることを覚悟しなければならない。
和解は、反目する集団に多くを要求する。それは、一時的休戦を越えて、真心からしみ出る寛容を要求する。究極的に和解は、以前の怨讐を愛の絆と結束へと導かなければならない。文鮮明先生は、私たちが私たちの怨讐を愛し、怨 讐の国と和解し、怨讐の宗教と和解しなさい(第13章5.「恩讐を愛しなさい」参照)という宗教経典の倫理を適用するよう、教えている。
1. 和解
― 宗教経典 ―
あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と 仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。
マタイによる福音書5.23~24(キリスト教)
身内との和合われらにあれ。他所人との和合〔われにあれ〕。アシュヴィン双神よ、汝らはここに和合を確立せしめよ。(注7)われらをして意と和合せしめよ、知と和合せしめよ。われらをして神意に抗して戦わしむることなかれ。激しき殺戮において、喊声の立ちのぼることなかれ。インドラの矢をして落 ちしむることなかれ、決戦の日の到来したるとき。
アタルヴァ・ヴェーダ7.52.1〜2 (ヒンドウ一教)
信仰して、主に信頼しまつる者にとっては、神のみもとにあるものこそ、もっと善美でずっと長持ちする。また、大罪や破廉恥の行為を避ける者、及び怒ったときでも寛容する者。……悪 に対する報いは、それと同様の悪である。だが寛容して和解する者に対しては、報酬は神の務めである。まことに かれは、悪い行いの者をめでたまわぬ。 ……だが耐え忍んで寛容する者、まことにそれらは、あらゆる事に果断でそれを成就する。
クルアーン42.36〜43 (イスラーム)
だがかれらがもし、和平にかたむいたならば、なんじもそれにかたむき、神に信頼せよ。
クルアーン8.61(イスラーム)
神の使徒が言った。「現在と未来に最も優れた教訓を教えようか。あなたを抑圧する者を赦し、あなたから背を向ける者と紐帯を結び、あなたを侮辱した者に親切にし、あなたから奪った者に与えることである」。
ハディース(イスラーム)
誰にも悪意を抱かず、すべての人に慈愛で、神が私たちに見せられたその正義に対する固い確信で、私たちが直面することを終えるために、この国の傷を縫い合わせるために、戦闘をしなければならなかった者と彼の未亡人と孤児を世話するために、私たちの間の、そしてすべての国々と、正しく恒久的な平和を成し遂げ、これを保持することに全力を尽くすために邁進しましょう。
エイブラハム・リンカーン 2番目の大統領就任辞
― み言選集 ―
一人でも、和平したところで条件を立てていかなければなりません。争うところでは駄目です。神様が離れていくのです。どこで条件が立てられることを願うのでしょうか。あらゆる悪のものが屈服し、除去された善のところで、これが立てられることを願うのです。争い、不平を言う立場では、条件を無視するのです。ですから、兄弟同士で何か問題があれば、祭祀を行うときには和解してから来なさいというのです。
(286 209 ~ 210.1997.8.11)
自分は自分のために存在するというところでは、お互いに一つになれません。食口たちが平和の動機を成すことができ、お互いが慰安の対象となるためには、「私は、あなたのためにいる」という立場に立たなければなりません。 私はあなたのために、食口のためにいるというところにおいてのみ、平和は 描かれるのです。
(60-21,1972.8.1)
今まで国家の形成過程は、自分に引き付けるものでした。しかし、これから世界に越えていく過程では、自分を捨てなければなりません。自分の愛する国が世界を指導する国家になるためには、その国を捨てなければなりません。そのようにできない国の主義や思想は、世界を糾合できません。
(26-294、1969.11.10)
各国が自分の国を中心として、神様が愛していると言いながら自分の国以外の国はすべて怨讐視すれば、その世界は、どのような世界ですか。争いの世界です。これを皆さんは知らなければなりません。神様の息子、娘になろうとすれば、神様が愛するように愛さなければなりません。人類を愛せなければならないのです。先生は、神様が怨讐と怨讐の国家が互いに和解するのを願い、親和することを願い、互いに通じて一つになることを願っていらっしゃると知ったので、今日、国境を越えて世界をーつにするためのことをしているのです。
(83-312.1976.225)
2. 平和の実現
― 宗教経典 ―
かれは、愛欲を離れ、よくないことを離れ、思慮のある、思考のある、遠ざかり離れることから生じた、喜び・快楽からなる第一段階の精神統一に到達している。
阿含経長部xiii.75.三明経 (仏教)
平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
マタイによる福音書5.9 (キリスト教)
もしも信者の中の二団が争えば両者の間を調停せよ。もしかれらの一方が他方に対して、無法なことをするならば、反逆者が神の命令に服従するまで戦え。かれらが応じたならば、正義と公平を旨として、かれらの間を調停せよ、まことに神は、公正な者をめでたもう。
クルアーン49.9 (イスラーム)
劫中に武器があらわれると、そのために慈しみの心を起して、ひとびとをみちびいて、争闘のない境地に安住させる。もしも大きな戦争が起ったならば、ぼさつは敵に対して等しい力を現じて、敵を降し伏して、威勢を現じて、平和、安らかならしめる。
維摩経8 (仏教)
フーザのラビ・パルカは、たまにラベットの市場に行った。ある日、預言者エリヤが彼に近づいてきた。するとパルカはエリヤに尋ねた。「この者たちの中に、これから来るその日を見る者がいますか」。エリヤが答えた。「あの二人がそうなるだろう!」。パルカがすぐにその二人の新しい者たちに尋ね た。「あなたの職業は何ですか」。彼らは答えた。「私たちは道化役者です。私たちは、悲しい人に会えば笑わせ、争う人たちに会えば、彼らの間に和解をもたらしてあげます」。
タルムード・タアニート22a (ユダヤ教)
全ての王達が席につき、完全なる静寂が続いた後、真白な歯と大太鼓のように深い声をもつクリシュナは話し始めた。「バーラタよ。わたしはクル家とパーンドウ家の間に、勇士達を殺すこと無く平和を樹立せんがために来ました。王よ、わたしにはこの事のほかに何も語るべきことはありません。…… ドウルヨーダナに率いられたあなたの卑劣な息子達は、徳も益も捨て、道徳を無視し、欲望に溺れ、今や最も近い同族に対して不義なる行いをしているのです。この(大殺りくという)重大な危機は、クル家の行いに端を発している のです。もしあなたがそれに無関心でいるならば、それは大いなる殺りくを生み出すでしょう。おおバーラタよ、もしあなたがその気になればその危険を避ける事ができ、平和を得る事さえ難しくはないと思うのです。平和を樹立する事は、王よ、あなたとわたしとにかかっているのです。あなたの息子達を正道に引き戻しなさい。わたしはパーンドウ家を正します。」
マハーバーラタ、ウディヨーガ・パルヴァン (挙兵の巻)95 (ヒンドウ一教)
私には、世界に教える新しいものは何もない。真理と非暴力はあの神々ほども古いものだ。私ができる最も幅広い範囲で、その二つにおいて試みたこと、それが今まで私がしてきたすべてだ。
モハンダス・カラムチャンド・ガンディー (ヒンドウ一教)
私たちは、千年の反目を忘れるために、 川の水のように血が流れてきた国家の間 で、欧州国家連盟を追求しています。
ウィンストン・チャーチル
― み言選集 ―
神様の愛の中には相克はあり得ないし、ただ相和、相応のみがある。聖書に、「平和をつくり出す人たちは神の子と呼ばれるであろう」というように記録された意味もこのような点において理解しなさい。
御旨の道、信仰生活
神様がどれほど耐えたのか、ということを皆さんは知らなければなりません。皆さんは少しでもつらければ不平を言い、ロをとがらせて……。そのようなとき、神様はどれほど耐えたでしょうか。そのように、私たちも耐えなければなりません。千年、万年酎えなければなりません。争ってはいけないと いうのではありません。二人とも利益があるときは争います。争っていって滅びるときは、争ってはいけません。 争うとしても、私の味方にして教育するために争わなければならないのであって、怨讐になるために争ってはいけないのです。
(104-33 - 34,1979.3.25)
世界的次元でも、やはり地域、人種、 宗教、文化、慣習、言語、国籍など、一つの平和世界のために飛び越えなければならない挑戦の課題が山積みされています。しかし、本来宇宙万象をつくられた神様の視覚、神様の真の愛の目を通して世界を見る時、世界は、人種、言語、宗教、理念的差異を越えて一つに見えるのです。青年たちが神様の真の愛を中心に犠牲と奉仕の努力を注ぐとき、世界の貧困と飢餓問題、そして、さらには貧富の格差と、歴史上の異質な経験からくる葛藤と憎悪の感情は、初めて治癒の糸口を見いだせるのです。愛せないものまでも愛することこそ真の愛だという定義から、私たちは観念、葛藤関係が克服され得る明確な方向性を知るようになります。自由と平等の間の理念的矛盾も、真の愛の場で初めて、一つの出会いの場を見いだせます。与えて、また与え、そして与えたことを忘れたまま、より与えることを願う神様の真の愛によって利己主義を克服し、和合と繁栄の世界に進んで いけます。特に、家庭は国のために、国は世界のために、そして世界は神様のために犠牲になる位置に進まなければならないという真の愛の倫理展開から、民族利己主義、国家利己主義を越えて永遠の平和の世界を望めるのです。
(288-201~202.1997.11.28)
レバレンド・ムーンのような人がここに来て、黒白を調整しています。今 まで黒白問題を調整してきたのです。それで、レバレンド・ムーンが教えることは、白人が黒人に奉仕できるようにすることです。
(124-275~276.1983.227)
黒人たちは、このアメリカで天の蕩減路程において、アベル的歴史において奴隷の道を歩んできました。この国を創建したのは皆さん黒人たちであって、白人たちではないことを知らなければなりません。白人ではなく黒人です。まず黒人を犠牲にして、その次にインディアンを犠牲にしてきたのでは なかったですか。争えば黒人たちが恨みを晴らすのであり、有色人種が白人種と争えば、白人の皆さんを残しておくと思いますか。そのようなことを知らなければなりません。レバレンド・ムーンは、なぜここに来たのですか。事実、インディアンは私たちの親戚と同じです。国で見れば、親戚関係、兄弟関係だということです。彼らをすべて葬り去ろうとするので、私が来て止めてあげなければなりません。恨みを晴らそうとして来たのではなく、救ってあげ、和解させるために 来たのです。そのようなことを誰がするのですか。白人がしますか、黒人がしますか。それはできません。できないというのです。白人の話も聞かず、黒人の話も聞きません。「ここで絶滅させられた有色人種と同じ黄色人の私たちも、怨讐であるこのアメリカを赦すのだから、あなたたちも赦しなさい」、そうしてこそ 黒人が話を聞くのです。「あなたたちの怨讐よりも、黄色人の怨讐、インディ アンの怨警、アジア人の怨警だが、彼らを私が赦すのだから、あなたたちも赦しなさい」、このようにすれば統一できるのです。歴史的に、アベルが行く道はそうでした。
(106-241、1979.12.30)
ペルシャ湾の問題をキリスト教の責任者たちができないので、先生が全世界のキリスト教の重鎮とイスラームの重鎮に会い、これを防御するための会合を今も行っています。韓国に暮らす人が、ペルシャ湾が滅びるなら滅び、原子爆弾が落ちるなら落ちるのであって、私と何の関係がありますか。しかし、世界人類の行く道が暗澹としていることを知っており、暗礁に乗り上げるのは間違いないので、それを知っている私が責任をもち、お金を使いながら、侮辱されながら、外交的舞台で彼らを生かしてあげようとしているのです。ここに、アメリカとソ連まで巻き込み、これに拍子を合わせて行動しなければなりません。私は、このようなことをしているのです。中共と台湾のナンバー 2を和解させたのは、誰です か。私です。ユダヤ教とアラブ圏とを和解させたのは、私がつくった「世界平和教授アカデミー」です。そのようなことをしているのです。
(211-183.1990.12.30)
私は、もう85歳の老齢になりました。しかし、この崇高な天命を完遂し、この地球星が神様の真の家庭で満ちあふれるその日まで、中東地域から銃声が消え、平和と歓喜の祝砲が響き渡るその日まで、そして、私の祖国韓半島から聞こえてくる統一の万歳の声が、太平洋を越えてこのアメリカにまで響き渡るその日まで、レバレンド・ムー ンは誰よりも先頭に立って走ることでしょう。
(443-191,2004.3.23)
3. 平和実現の鑑であるイエスの犠牲的愛
― 宗教経典 ―
「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。 自分が何をしているのか知らないのです。」〕 人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。
ル力による福音書23.33 ~34 (キリスト教)
しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。
エフェソの信徒への手紙2.13-16 (キリスト教)
それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとして も、今はもうそのように知ろうとはし ません。だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。
コリントの信徒への手紙二5.16 ~19(キリスト教)
― み言選集 ―
イエス様は、闘っているこの世界に新しい方向を提示してくださいました。ローマやイスラエルのような圧迫国家と非圧迫国家の間には、お互いを怨讐視する高い障壁があるのですが、イエス様の哲学は、それを壊してしまうべきだというものです。イエス様は「ローマよ、あなたは力で私を征服しようと するが、私はその反対に愛であなたを征服する」と考えられたというのです。それで、十字架にかかりながらも怨讐のために福を祈ってあげたのです。そのような思想は、ローマの兵士たちに対して「彼らは、自ら犯した罪が分からないので、彼らを許したまえ」という驚くべき宣言として現れたことを知らなければなりません。イエス様がそのようになさることによって、世 界のすべての国がお互いを怨讐視することを乗り越え得る、二つの国家間の国境を乗り越え得る、一つの原型、または模範となりました。イエス様は、個人的な怨讐がすべてではないと知っていたというのです。家庭的な怨讐があり、氏族的な怨讐があり、民族的な怨讐があり、国家的な怨讐があり、世界的な怨讐によって四方から縛りつけられていることを知っていました。これは、私に従い、私が行く道を行こうとする人には、数多くの怨讐が待っているということです。そして、「家庭的に行けば家庭的な怨讐が待っており、氏族的に行けば氏族の怨讐が待っていて、熾烈な闘いが予 想されるけれども、その時にこそ恩讐を愛しなさい」というみ言です。このような精神をもっていれば、いつかは勝利できるというのです。真の家庭と世界甲和、悪を自然屈服させようとする神様の戦法は、「怨讐を愛せよ」ということで した。内容は、簡単ですが、これが神様とサタンの間で勝敗として分かれる境界線となってきたことを誰も知りませんでした。キリスト教の愛の精神によって、激しく迫害を加えてきたローマ帝国が屈服しました。キリスト教は、そのようにして世界的な宗教になりました。これまで、クリスチャンは、個人的な怨讐だけを考えてきたのですが、そうではありません。怨讐国家とか、さらには怨讐世界も愛さなければなりません。怨讐の間柄である国家を、自分の祖国以上に愛し得る基盤と伝統を成さない限り、地上に天国は顕現できません。このような歴史的な伝統の樹立は、神様の真の愛の中でのみ可能なのです。
(316-81,2000.2.10)
聖書に、怨讐の個人を愛しなさいという言葉はありますが、怨讐の国を愛しなさいという言葉はありません。私たちは、怨讐の個人を越えて怨讐の国を愛そうというのです。国を愛するだけではなく、死地にある国を救ってあげようというのです。それがメシャ思想です。
(93-160,1977.522)
和睦させる者は神様の息子と呼ばれ る、と聖書にあります。私が神様のみ旨を知ったために、天の国を中心として、神様のみ旨を中心として人類が和睦できるようにしようとするので、そこで槍を受けるとしても、先に受けなければなりません。和解させようとすれば、そのようにしなければならないのです。血を先に流さなければなりません。それを意に介さず、争う二人を生かすためには、そのようなこともできなければなりません。
(211-182.1990.12.30)
4) 償還
平和は、正義がある所で栄える。正義は、葛藤する双方の人々に同一には現れないかもしれないが、誤りを正し、負債を返し、損傷した信頼を回復するためには、何らかの措置が取られなければならない。隣人に過ちを犯したことに対して、普通に悔い改めをすることでは十分ではない。悔い改めには償還が伴わなければならない。
償還は、損害に正確に相応する値段でなくても、誤った人が損害を受けた人に自ら補償するときに、最も効果的である。ベルサイユ条約により第1次世界大戦が終わったのち、ドイツがフランスとイギリスに提供するように強要された戦争賠償金と、第2次世界大戦後、ドイツがユダヤ人とその他のナチ犠牲者に提供した償還とを比較してみよ。ドイツに戦争賠償金が強要された前者の場合、その戦争賠償金は、ドイツ人の大きな怒りを引き起こし、ヒトラーの登場に直接連結する、復讐に対する要求に油を注ぐ結果となった。ナチの犯罪に対してドイツ人が本当に悔い改めた後者の場合、その償還は、ドイツと以前の怨讐国家の間に善の意志を広げるのに役立った。
私たちが犯した誤りに対する真心に満ちた悔い改めに続いて、私たちが損害を及ぼした人々に自発的に償還を提供することが平和創造の原則である。また、私たちが意識しないまま犯した罪、または私たちが過去から受け継いだ負債、または私たちが集団的に責任を負わなければならない誤りもあり得る。 私たちは、これらに対しても償還しなければならない。
文鮮明先生は、この概念を「蕩減復帰」の教えとして確立した。先生は、「蕩減」とは保険の損害賠償請求額のように固定された金額ではなく、むしろ相手側の苦しい心を和らげるために必要なものは何でも与えることだと教える。もし、相手側が赦す心をもっているならば、それは小さくなる。そうではなく、数年の間背信と不信で関係が緊張した状態ならば、それは大きくなるだろう。
「歯には歯、目には目」という一節は、本来の聖書的意味で返還するための法的公式として受け入れられる。そして、ユダヤ教では、そのように理解された。人々は、先天的に自らが借りたすべてを返さなければならないことを知っている。しかし、その一節は、たびたび復讐の正当化のために誤って引用された。それは完全に異なる問題である。苦痛に遭った集団による復讐は、一種の乱暴な正義だが、それは平和への助けにならない。それは、ただ暴力の悪循環を助長するだけだ。世界経典は、赦すことがより良いと教えている。
― 宗教経典 ―
ああ肉体に住む者よ、汝がなしてきた全ての事に対して償いをせよ!
ガルダ・ブラーナ235 (ヒンドウー教)
贖罪の日は、天に対する罪を贖罪する日だ。しかし、人間に対する罪は傷を受けた者が赦さない限り、贖罪を受けることはできない。
ミシュナ、ヨーマ8.9 (ユダヤ教)
サママがイマーム・マリーに、計画的な殺人を犯した者が悔い改める方法があるか尋ねた。彼が答えた。「ない。殺害された者の親戚に慰謝料を払い、奴謙たちを解いてあげ、2カ月間断食し、神の赦しを求め、自発的な祈りを行う方法以外にはない。もし彼がこれを行えば、私は彼の悔い改めが受け入 れられただろうと希望する」。サママが言った。「それでは、彼にお金がなければどうしますか」。彼が言った。「それは、ムスリムにお金を求め、彼の血族に賠償することができる」と 言った。
ハディース(シーア派イスラーム)
もし、その他の損傷があるならば、命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足、やけどにはやけど、生傷には生傷、打ち傷には打ち傷をもって償わねばならない。
出エップト記21.23〜25(キリスト教)
われはかれらのために律法の中で定めた。生命には生命、目には目、鼻には鼻、耳には耳、歯には歯、もろもろの傷害にも、同様の報復と。しかしその報復を控えて許すならば、それは己れの罪の償いとなる。およそ神が下したまえるものによって裁判しない者は、不義を行う者である。
クルアーン5.45 (イスラーム)
深い怨みを和解させても、必ずいくつかの怨みがあとに残る。このように、和解は最善の方法とはいえない。賢者は借人の契約書を握っているけれど、借人に支払いを求めない。だから、「徳」のある者は契約書を握るだけであり、「徳」のない者は税金のとりたてをする。
道徳経79 (道教)
以前には悪い行ないをした人でも、のちに善によってつぐなうならば、その人はこの世の中を照らす。雲を離れた月のように。
法句経173 (仏教)
もしある人が本当に悪の行為をして、その後に彼の道を変更して悔い改めれば、邪悪ないかなることも行わず、あらゆる善のことを敬虔に実行することを決心したのなら、彼は結局、間違いなく良い運命を得るようになるだろう。これを災いを福に変えると言う。
太上感応篇、感応と報い5 (道教)
また、悪人に向かって、わたしが、「お前は必ず死ぬ」と言ったとしても、もし彼がその過ちから立ち帰って正義と恵みの業を行うなら、すなわち、その悪人が質物を返し、奪ったものを償い、命の捉に従って歩き、不正を行わないなら、彼は必ず生きる。死ぬことはない。彼の犯したすべての過ちは思い起こされず、正義と恵みの業を行った者は必ず生きる。
エゼキエル書33.14 ~16 (キリスト教)
そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。……しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。」
ル力による福音書19.2.8~9 (キリスト教)
― み言選集 ―
復帰摂理は、必ず蕩減を中心として発展もし、新しい契機を用意するというのが原則です。なぜ蕩減が必要なのですか。歴史的な失敗を清算するのと同時に、歴史的な罪を中心として常に讒訴してくるサタンを分別するためです。このような立場に、個人も全体も引つ掛かっているのです。皆さん個人を中心として見ても、現在の「私」というものが現在だけの「私」ではありません。歴史的な全体を受け継いだ子孫になっているのです。そして、現在の「私」というのは、今日の個人を中心としている現在の「私」ではなく、全世界を代表した立場にいる「私」だというのです。各自がそのよう な立場にいます。
(99-164 〜165.1978.9.18)
蕩減復帰は、失ってしまったそれと同じ、正常そのものをもって復帰するのです。蕩減復帰だというのです。病気になれば、病気になった状態から逆さまに上がっていかなければなりません。ですから、旧約時代は、目には目、歯には歯です。
(252-128.1993.11.14)
法廷で判事、検事たちが求刑するとき、それを有り難く受けようとする人には減刑してあげようとするのが判事の心情であり、検事の心情だというのです。判事や公判廷を恐ろしく思うよりも、自分に忠告する個人を恐ろしく思う人は、罪を犯して刑を受けても免れる道があるのであって、それを恐れることがなければ免れる道がないとい うのです。
(104-279 ~ 280. 1979.6.1)
私たちの同僚関係においても、一言間違って失敗すれば、それで関係が壊れることもあります。夫婦同士でもそうです。一言の言葉が動機になって気分が悪くなれば、それによって別れていくのを見ることができます。そのような苦痛を受ける立場に落ちたときは、どのようにしなければなりませんか。まず、語ったことの根本を掘り下げ、「これは間違っているが、これはこうで、これはこうだ」として、あなたが間違ったのか私が間違ったのか、友人であれば彼が間違ったのか私が間違ったのかを判別して、これを清算してこそ、そこから解決していくのであって、そのまま覆いかぶせて「そうしょう」としてはいけないのです。そのような内容が残れば残るほど、それによって永遠に怨讐となり、永遠に残ることを知らなければなりません。国家間で戦争をしたときも、戦争が終わったあとには、誰が正しくて間違っているのかを判断し、損害賠償を請求したり何かをするなどして、埋め合わせて越えていかなければならないのです。
(89-116~117.1976.11.1)
ある人に負債を負えば、その人の僕となる。そうでなければ滅びる。反対しようとしても反対することのできない立場まで行って、そのときに初めて位置を確保することができる。
御旨の道、試験・試練
蕩減復帰は、外的世界を完全に否定するところから蕩減が始まるのです。完全復帰するためには、神様の愛を中心として完全否定する段階が残っているということを知らなければなりません。真の愛の基準の前に立つことができなければ、完全否定です。
(312-334,1999.11.7)
神様は、打たれて奪ってきます。レバレンド・ムーンは、今まで打たれて反対されながら奪ってきました。全世界が反対したのです。全世界が反対するのは、全世界が屈服するという予告であることを私は知っています。反対すればするほど、世界と向き合っていた神様は、レバレンド・ムーンの側に行きますか、反対する側に行きますか。なぜ先生の側に来るのですか。反対する人までも愛そうとしたからです。違うのです。反対する怨讐に復讐しようとしないのです。血には血、歯には歯、目には目でするのではありません。愛で消化しようとするのです。
(168-204.1987.9.20)
5) 戦争の無用性
戦争は平和を生むのではなく、さらに多くの戦争を生むだけである。第1次世界大戦は、すべての戦争終息させる戦争と思われていた。しかし、30年もたたずにヨーロッパは第2次世界大戦に巻き込まれた。このような事実を理解するにおいて、偉大な聖賢たちが非暴力主義を教えた。彼らは、報復せずに、優しい心をもって、喜んで攻撃に耐える。これが平和世界を建設するにおいての最上の教えである。これ以外に、どのような方法によっても神様の王国は具現されない。
それでも、栄枯盛衰の歴史において、人々が残酷な侵略者に遭ったとき、神様は彼らが自分を自ら防御することを許諾した。葛藤する二つの集団の間で、神様は侵略者に対抗する防御者の側に立った。そのため、歴史を通して、自分が勝利すると確信して戦争を起こした侵略者は、ことごとく敗北者になった。これは、国家政策の手段として戦争が無用だということを再度悟らせるものである。
1. 非暴力の道
― 宗教経典 ―
そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした。そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」
マタイによる福音書26.51~52(キリスト教)
わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頰を打つなら、左の頰をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、ーミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。
マタイによる福音書5.39〜41 (キリスト教)
勝利者からは怨みが起る。敗れた人は苦しんで臥す。勝敗をすてて、やすらぎに帰した人は、安らかに臥す。
法句経201(仏教)
見よ、彼らは、敵の命であっても、その命を奪うよりはむしろ自分の命を犠牲にする方を選んだ。そして彼らは、同胞を愛していたので、自分たちの武器を地中深く埋めてしまった。
モルモン経・アルマ書26.32 (末日聖徒イエス・キリスト教会)
罪を犯した者たちは死ななければな らないと祈るのか。それよりも、彼らが悔い改め、これ以上の悪がないように祈れ。
タルムード、プラホート10a (ユダヤ教)
武力は平和ができることをすることができない。もしあなたがさとうきびで願う目的を果たせるなら、どうして毒薬を使うだろうか。
ソーマデーヴァニーティヴァーキャームリタ344 (ジャイナ教)
「この乱れた天下は、いったいどこに落ちつくのだろう」とおたずねになる。 そこで「いずれは、必ず統一され〔て落ちつき〕ましょう」とお答えすると、また「だれがいったい統一できるのだろう」と問われる。そこで、「人を殺すことのきらいな仁君であってこそ、はじめてよく統一できましょう」とお答えすると・・・・・・。
孟子l.A.6 (儒教)
何人かの子供たちが川辺で遊んでいた。彼らは砂の城をつくり、それぞれ自分の砂の城を守って言った。「これは私のものだ」。彼らは自分の砂の城をつくりながら、崩れないように最善を尽くした。砂の城が完成したとき、一人の子供が他の子供の砂の城を足で蹴飛ばし、完全に崩してしまった。崩れた 砂の城の主人が怒り、崩した子供の髪の毛をつかみ、拳でたたいて叫んだ。「この子が私の砂の城を壊した! みな来て、私がこの子を懲らしめることができるように手伝ってくれ」。他の子供たちが来て彼を手伝った。彼らは、砂の城を崩した子供を棒でたたき、その子供が地面に倒れると、踏みつけることまでした。そうしたのち彼らは、各自の砂の城で遊びを続け、「これは私のものだ、他の誰もこれをもつことはできない、近くに来るな! 私の砂の城に触るな!」。しかし、夕方になって暗くなり始めると、彼らはみな家に帰らなければならなくなった。もう誰も自分の城を惜しいとは思わなかった。ある子供が自分のものを足で蹴飛ばすと、他の子供は両手で自分の城を押さえてつぶした。そうしたのち、彼らはそれぞれ家に帰っていった。
瑜伽師地論4 (仏教)
主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦う ことを学ばない。
イザヤ書2.4 (キリスト教)
暴力を使えば、殺人者を処分することはできます。しかし、殺人自体をなくすことはできません。暴力を通してうそをつく者は処分できますが、それで真理を成就することはできません。暴力を通して私を憎悪する者を処分することができますが、憎悪自体をなくすことはできません。暗闇は暗闇を終わらせることができません。ただ光だけができるのです。
マーティン・ルーサー・キング・ジュニア 黒人の進む道(キリスト教)
憤怒と憎悪は調和をもたらすことができません。武器の減少と軍備の撤廃は、対決と非難によって成し遂げることはできません。
テンジン・ギヤツオ、第14代ダライ・ラマ
― み言選集 ―
武器を使って平和の世界をつくろうとすることは、神様のみ旨ではありません。また、レバレンド・ムーンのみ旨ではありません。力を使わず、愛によってどのように消化させるかを考えていらっしゃるのです。
(103-184.1979.2.25)
過去の歴史的な偉人たち、聖人たちの中で、その時代に迫害を受けなかった人がいますか。そのように歴史過程で反対を受けるようになるとき、私が正しいと弁明した人たちは、聖人の中に入れません。イエス様は、歴史と共にそのような非難を受けて恨を抱きましたが、黙って口を閉じて逝きました。しかし、歴史時代の勝利者として再び登場したのは、なぜでしょうか。悪と争わなかったからです。
(80-34,1975.10.4)
宗教を信じる人たちは、一発打たれれば同じように打ち、争って対抗できないのですか。権力者がいれば、権力者を激しく打ち、闘いなさいと教えてあげられないのかというのです。本来の人類が希望を求めていくときに、争いを通して希望を求めたとすれば、どのようになっていたでしょうか。しかし、エデンの園の理念がそうではないのです。神様の創造理想がそうではなかったというのです。本来、私たちが救援摂理の道を行くのは、本然の園に帰ろうとすることですが、その本然の園での理想世界実現というのは、争いをして求めていく世界ではありませんでした。互いが自分を高めようとする世界ではなく、謙遜と愛が宿る世界だったのです。このような本来の園の内容を追求していく理想の道を訪ねていく人たちが、争い、嫉妬し、妬んでいては、その本質の世界とは関係のない結果になり、そのような者たちは天に属せないので、そのような道を天は今まで、歴史を通してコーチせざるを得なかったのです。今ではもう、本来の世界がどのようなものだということを知りました。自分を中心として驕慢な人は、いくら誇っても、天国に行けば神様と関係がないのです。その次には、争う人、妬み、嫉妬する人たちも同じです。これからの真の宗教は、「出ていって闘いなさい」というものではありません。人を利用し、人をすべて支配しなさいという宗教ではないのです。愛をモットーとして生きていくのです。
(98-33.1978.4.8)
2. 侵略戦争の不道徳性と無用性
― 宗教経典 ―
土地の争奪で戦っては、原野をーぱいに満たすほどたくさん人を殺し、城の奪合で戦っては、城を埋めつくすほど無数の人を死なせるというようなのは、なおさらのことだ。つまりは、人の肉を土地に食べさすようなもので、かかる連中はその罪死刑にしてもまだ足りぬ。されば……戦争の上手な連中は最高の重刑に処すべきであり……。
孟子IV.A.14 (儒教)
武器は、人々によって蔑視される不吉な前兆をもった道具である。だから、「道」を有した人はそれに身をおかない。武器は不吉な前兆をもった道具である。避けることができない時だけ、それを知る。たとえ戦闘にあたっても、冷静で冷淡であるのがよい。たとえ戦争に勝ったとしても、光栄とすべきではない。光栄とは、人を殺害するのを楽しむことを意味するからだ。人々を殺害するのを楽しむような人は、天下で成功しない。
道徳経31(道教)
できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言わ れる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火 を彼の頭に積むことになる。」悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。
ローマの信徒への手紙12.18~20 (キリスト教)
怒りを解き、憤りを捨てよ。自分も悪事を謀ろうと、いら立ってはならな い。悪事を謀る者は断たれ/主に望みをおく人は、地を継ぐ。しばらくすれば、主に逆らう者は消え去る。彼のいた所を調べてみよ、彼は消え去っている。貧しい人は地を継ぎ/豊かな平和に自らをゆだねるであろう。主に従う人に向かって/主に逆らう者はたくらみ、牙をむくが/主は彼を笑われる。 彼に定めの日が来るのを見ておられるから。主に逆らう者は剣を抜き、弓を引き絞り/貧しい人、乏しい人を倒そうとし/まっすぐに歩む人を屠ろうとするが/その剣はかえって自分の胸を貫き/弓は折れるであろう。
詩編37.8-15 (キリスト教)
イマーム・マリーが神の使徒のさやで手紙を発見したが、このように書かれていた。「神の目に最悪の人間は、彼と争わない者を殺す者であり、彼をたたかない者をたたく者である。ゆえに、彼は神がムハンマドに下されたクフル(不信仰)の罪を犯すようになるのである」。
ハーディース(シーア派イスラーム)
彼らが先に争いを始める前に争うな。そうすれば、神の恩寵であなたたちは正当化されるだろう。そして、彼らが争いを始める前まで彼らをそのままにしておくことは、また一つの正当性になるだろう。そうしてからあなたたちが彼らを退けたのなら、逃亡する者を殺さず、負傷した者の命を奪わず、服を脱 がさず、死体を切り刻んではならない。
アミール・アル・ムウミニーン・アリーダアイム・アル・イスラーム(イスラーム)
― み言選集 ―
アメリカが過去3年の間、イラク戦 争につぎ込んだ戦費がどのくらいになるか御存じですか。約20兆円(2000億 ドル)に迫っています。それだけ予算があれば、ベーリング海峡プロジェクト(注14)を完成しても余るお金です。なぜ私たちが、互いに殺し合う戦争に、このように途方もないお金をつぎ込む愚かな蛮行を続けなければならないのでしょうか。聖書のイザヤ書第2章4節の教えのように、今や、「銃や刀を溶かして、すきとくわを作る」時です。人類はもうこれ以上、戦争のための戦争に子女たちの命を犠牲にし、天文学的なお金を費やす悪業を繰り返してはなりません。世界のすべての国家の力を総動員し、大宇宙の主人である神様が願われる平和理想世界王国創建に、総邁進すべき時が来たのです。
平和神経、平和メッセージ1.32 2005.9.12
今まで神様が万民の平和の武器として下さった科学技術を、特定の一国が使用して世界をむさぼり、幸福になることを神様は容赦されません。万民の幸福のために人間に下さったのが科学技術です。特定の白人だけがその恵沢を享受し、平和を無視した武器として使用することはできません。そのような観点から先生は、技術平準化を語るのです。
(190-178,1989.6.19)
戦争について見てみるとき、何によって善の側と悪の側を分けられますか。何もしていないのに、先にたたく人が悪の側だというのです。二人の学生がけんかしているとき、誰が先にけんかをしかけたかが問題です。先生は攻撃されたほうに立ちます。それで、必ず先に打った者が負けるということを知らなければなりません。なぜかというと、先生が攻撃された側に立ってくれ、神様が攻撃された側に立ってくれるので、負けるようになっているのです。それでは、なぜ先に打つのが悪ですか。本来、この宇宙で善が先に出発しなければならないのですが、悪が先に出発しました。アダムとエバが何もしていないのに、先に打ったのです。神様が何もしていないのに、先に攻撃をしたのです。それで悪だというのです。もし悪の人が善の人を侵害したときは、その侵害したものを支払ってあげなければなりません。侵害された人は、損害賠償を請求することができるのです。そのような戦略を、作戦を知って、そのような内容を知っている神様は、じっとしているでしょうか、攻擊するでしょうか。じっとしているというのです。また、神側にいる人はどうでしょうか。神様がじっとしているので、神様に従い、神様と—つになろうとする人たちも、じっと打たれているのです。 打たれてじっと最後まで耐えれば、損害賠償を請求できます。サタンは攻撃者の先祖です。サタンが悪の先祖なので、攻撃者の先祖であることを知らな ければなりません。神様は守備の王です。したがって、打たれれば打たれるほど、その基盤のもとには蕩減復帰を短縮させていける原理があります。このような観点から、サタンは攻撃をして奪われていくのであり、神様は攻撃を受けて取り戻してくるという結論が出てきます。第1次大戦のとき、ドイツが勝ちましたか、負けましたか。負けました。なぜ負けたのですか。ドイツは絶対に負けたくなかったのです。サタンも絶対に負けたくなかったので す。しかし、天理原則によって負けたのです。その次に、第2次世界大戦のときは、誰が先に打ちましたか。日本とドイツです。それでは、負けましたか、勝ちましたか。なぜ負けたのですか。神様が、公義の審判官が、「おい! こいつ。いくらやっても、お前が間違っている!」と言うのです。
(91-243〜244、1977.223)
6) 国家の栄枯盛衰
神様は、歴史において活動し、国家の栄枯盛衰を決定する。これは、神様がイスラエルに下した啓示の第一原理であった。イスラエルの預言者たちは、その民族が神様のみ旨に忠実なのかどうかによって、神様が彼らに祝福と懲罰を分けて与えられることを知っていた。儒教は、天命が義なる統治者を助け、腐敗した王朝を滅亡に導く高次的カだと語っている。これに似て、クルアーン(コー ラン)では、強力な国家が勃興して滅亡する歴史の中に、義なる神様の審判を識別している。神様の審判は、古い偉大な国家の痕跡をアラビアとエジプトの砂漠の中に埋もれた廃虚の中に残されている。
一時、強力だったローマ帝国の滅亡は、無神論と道徳的堕落が破滅に至らせたという、もう一つの証拠である。文鮮明先生は、アメリカと西洋の様々な国々が同じ運命を通して苦痛を受けることもあると警告しながら、このような経典の伝統を受け継いでいる。しかし、先生は国民が神様へ向かいさえすれば、彼らの差し迫った滅亡は逆転できると希望を提示している。
― 宗教経典 ―
わたしは陶工の家に下って行った。 彼はろくろを使って仕事をしていた。陶工は粘土で一つの器を作っても、気に入らなければ自分の手で壊し、それを作り直すのであった。そのとき主の言葉がわたしに臨んだ。「イスラエルの家よ、この陶工がしたように、わたしもお前たちに対してなしえないと言う のか、と主は言われる。見よ、粘土が陶工の手の中にあるように、イスラエルの家よ、お前たちはわたしの手の中にある。あるとき、わたしは一つの民や王国を断罪して、抜き、壊し、滅ぼすが、もし、断罪したその民が、悪を悔いるならば、わたしはその民に災いをくだそうとしたことを思いとどまる。またあるときは、一つの民や王国を建て、また植えると約束するが、わたしの目に悪とされることを行い、わたしの声に聞き従わないなら、彼らに幸いを与えようとしたことを思い直す。」今、ユダの人々とエルサレムの住民に言うがよい。「主はこう言われる。見よ、わたしはお前たちに災いを備え、災いを計画している。お前たちは皆、悪の道から立ち帰り、お前たちの道と行いを正せ。」
エレミヤ書18.3-11(キリスト教)
彼らの胸に恐れをもたらす神によって、略奪品に対する不正が現れ、彼らの間に広がる死によって偶像崇拝が蔓延し、彼らの食物が減っていくことによって人々は秤を削るようになり、彼らの間に広がる流血、殺害のために人々は不公正な判決をするようになり、彼らの上に君臨する敵のために誓約を破るようになる。
マーリク・ハディース(イスラーム)
孟子がいわれた。「夏・殷・周三代の王朝が天下を得たのは、その開祖兎王・ 湯王・文王・武王がよく仁政を行なったからであり、それが天下を失ったの は、その末代の架王・糸寸王・幽王・属王がいずれも不仁の政治を行なったからである。……諸侯の国々の興廃・存亡する原因もまた同じである。故にもし天子が不仁であったら、天下を安らかにすることができず、諸侯が不仁であったら、社稜すなわち国家が安らかにすることができず、卿・大夫が不仁であったら、祖先代々の霊廟すなわちその家を安らかにすることはできず、……士や庶民が不仁であったら、自分ひとりの身体さえ安全にすることはできなくなる。ところが今の人々は、……死んだり亡んだりするのを忌みきらいながら、しかも不仁なことばかり楽しんで行なっているのは、ちょうど酔うことをきらいながら……無理をして酒を飲むようなもので、矛盾も甚だしい。」
孟子IV.A.3 (儒教)
三十三天の天王たちによって、王者の分けまえを与えられ、人間界の支配者はすべての神々の息子の身分を得た。不法なことを絶滅するために、悪事の破壊者である彼は、衆生を神の住処に送るために、かれらを善事に従事させよ。人間であれ、神であれ、ガンダルヴァであれ、人間の王であれ、ラークシャサ(羅刹)であれ、あるいは、チャンダーラであれ、彼はそれらの悪事を破壊する。王は善事をなす人々 の両親であり、所行の実行とその果報を示すために、王は神々の加護を受ける。王がその国土にある悪事を見逃すとき、また、悪人に相応しい処罰を課さないときは、悪事を見逃したことにより、不法が劇しく増し、その国には凶悪な事件や争いが生じる。そして、王がその国土にある悪事を見逃すとき、三十三天の天宮にいます神王たちは怒る。その国土は凶悪きわまる残忍な悪事の害なわれ、敵軍の襲来するとき、その国土は亡び、だれが金を貯えていようと、その楽しみも家庭も、種々の凶悪な事件により、互いにそれらを失う。いかなる方法で統治するにせよ、為すべきことを果たさないとき、あたかも象が蓮池を踏みつぶすように、かの王は自国を滅ぼす。吹いてはならない風が吹き、降ってはならない雨が降り、曜星・星宿の星まわりは不吉で、太陽と月の運行は凶である。穀物も、花も、果実も、種子も正しく実らず咲かず、王が義務を怠るところでは、飢饉が生ずる。……そして、すべての神王たちは互いに語るであろう。「この王は不法に味方して、不法である。この王が神々を怒らすのも、遠いことではない。神々の憤りによって、かの王の領土は滅びよう。……愛する者たちから孤立し、兄弟・息子にも見離され、また、愛する妃妾と別れ、また娘も死のう。流星が降るように堕ち、さらにはまた幻日が見られよう。他国の軍勢の脅威と飢饉の被害は物凄く増大しょう。信頼した大臣は頓死し、また愛する象も瀕死し、これらのものが死んだ直後に、愛馬もまた廳馬もたおれ、……そして、諸地方には、口論・争乱・凶悪な事件が起こり、凶悪な鬼霊が国内に入りこみ、激烈な疫病が発生する。……したがって、王は自身の 愛する生命を捨てることがあっても、この世を安楽にする正義の宝を捨ててはならぬ。」
金光明経12 (仏教)
かれらは地上を旅してかれら以前の者の最後が、どうであったかを観察しないか、かれらは、これら(マッカの多神教徒)よりも有力で、地上に残す遺跡においてもすぐれていた、(注15)しかし神は、かれらのもろもろの罪のために捕まえたもうた。そのとき神から、かれらを守れる者はひとりもなかった。それはかれらの使者たちが、明証をもたらしたとき、かれらはそれを拒んだので、神はこれを捕まえたもう。まことにかれは強力で、懲罰に厳重であられる。
クルアーン40.21~22 (イスラーム)
なんじは神が、いかにアードの民を 処分されたかを考えないか、そびえたつ柱をもつイラムの町、これに類するものは、諸都市において、造られたことはなかったではないか、また谷で岩を切り刻んだサムードの民、杭のぬし、ファラオを考えないか、これらはすべて諸都市において、法外にそむいた者たちで、その地に邪悪を増長させた、それでなんじの主は、懲罰のむちをかれらに浴びせかけたもうた。まことになんじの主は、油断なく監 視したもう。
クルアーン89.6〜14 (イスラーム)
ああ、皇天の上帝は、その長子、大国殷の王に与えられた命令を改めて周に与えられ、ここにわが王が万民統治の大命をお受けになることになりました。限りなくおめでたいことでありますとともに、限りなく重大なことでございます。ああ、何ともどうしてつつしまずにおられましょうか。天は、もはや大邦殷の命運を断絶されましたので、殷の多くの在天の祖先の明王と、その子孫の王と主だった人々とはその天命が絶えたことに服従しています。ただ愚かな奴とあさはかな者どもとは、その子どもを抱きかかえ妻と手をとりあって、天に悲しんでさけび訴えることを知るだけで、その亡国をのろって、不安におののいています。ああ、天も四方の人民のことを哀れんでいます。どうか天命をかえりみてお励みなさいますように。王はどうかつとめて徳を慎みなさいますように。古の先王、夏王国を考えてみますのに、その先王には天の霊異降って、先王は面と向かつ て天神に謀り従っていましたが、今になってもはやその天命を失ってしまい ました。近くは、殷王国を考えてみますのに、その先王には霊異が降って、面と向かって天神に謀り従っていましたが、今となってもはや天命を失ったのです。……王は、ここにおでましになって上帝の命令をお受けになって、みずから、この天下中央の地から王業を行いなさいますように。
書経5.122周書第八(備孜)
ゆかしくいます 文王 ああ 徳すぐれ恭し大いなるかな 天命 商の子孫たち商の子孫たちその数億ならず上帝既に命じたまひ 周にこと底さしたまへり周にこと依さしたまへり天命は定めなし殷士のおほどかなるも 都にて祝ごとすその祝ごとするになほ殷の服つけたり王の忠臣たちよ 先祖の名を汚したまふな
先祖の名を汚したまふなひたすらに徳を修めよ永く天命にそひ 多福を求めゆかむ殷の未だ滅びざるときよく上帝の命にかなへり殷のことに鑑みたまへ天命を得るは易からず
天命を得るは易からず汝の身にて絶たすまじぞ名声をかがやかせ殷の滅びたる次第を考へよ天意の動きには 声もなく 臭もなし文王を規範としすべての邦よ 精誠を致せ
詩経、235文王(儒教)
誰かが仏陀の弟子たちを悩ませるならば、その人は、梵天王とインドラによって送られた外国の軍勢によってただちに攻撃されるだろう。
大集経(仏教)
楽浪の 国つ御神の うらさびて 荒 れたる京 見れば悲しも
万葉集I (神道)
主がバーブルの侵略からコーラサンを守護され、ヒンダスタンに恐怖を預けられた。主が自ら罰を下されることはなく、ヤーマ(死に神)のように死を扱うムガールのバーブルを送られた。民たちが苦痛の中で泣き叫んでいるとき、あなたは彼らに何の哀れみも感じられなかったのか。万有の創造主であられるあなた、もし力の強い敵が同じように力の強い者を苦しめるのなら、心はこれほど悲しくないだろう。しかし、凶暴な虎がおとなしい雌牛の群れの中に放たれたとき、あの聖なる師を恨めしく思わざるを得ない。あらゆる宝(インドの資源)を強奪し、これを蕩尽した犬のような者たちは、最後には恥ずかしい終末を迎えるだろう。あなただけが結束させ、再結合させるとは、あなたの権能はこのように偉大だ。あらゆる快楽を飽きるほど楽しみ、自ら偉大な者だと偽りを語る者は、主の目から穀物をかすめるつまらない虫にすぎないのである。
アーディ・グラント、アーサー、M.1. p.360 (シク教)
主はこう言われる。イスラエルの三つの罪、四つの罪のゆえに/わたしは決して赦さない。彼らが正しい者を金で/貧しい者・を靴一足の値で売ったからだ。彼らは弱い者の頭を地の躍に踏みつけ/悩む者の道を曲げている。父も子も同じ女のもとに通い/わたしの聖なる名を汚している。(注17)祭壇のあるところではどこでも/その傍らに質にとった衣を広げ/科料として取り立てたぶどう酒を/神殿の中で飲んでいる。その行く手から/アモリ人を滅ぼしたのはわたしだ。彼らはレバノン杉の木のように高く/樫の木のように強かったが/わたしは、上は梢の実から/ 下はその根に至るまで滅ぼした。お前たちをエジプトの地から上らせ/四十年の間、導いて荒れ野を行かせ/アモ リ人の地を得させたのはわたしだ。わ たしはお前たちの中から預言者を/若者の中からナジル人を起こした。(注18) イスラエルの人々よ、そうではないかと/主は言われる。しかし、お前たちはナジル人に酒を飲ませ/預言者に、預言するなと命じた。見よ、わたしは麦束を満載した車が/わだちで地を裂くように/お前たちの足もとの地を裂く。そのときは、素早い者も逃げ遅れ/強い者もその力を振るいえず/勇者も自分を救いえない。弓を引く者も 立っていられず/足の速い者も逃げおおせず/馬に乗る者も自分を救いえない。勇者の中の雄々しい者も/その日には裸で逃げる、と主は言われる。
アモス書2.6〜16 (キリスト教)
幾度か月が傾き、幾度か冬が過ぎ ば、あるとき、この広い大弛の上に移されて歩き回ったり、幸せな家庭で暮らし、偉大な聖霊の保護を受けた力強い部族の子たちの中には、生き残り、あなたたちよりもっと強く希望に満ちた部族の墓で誰も悲しまないだろう。しかしなぜ、私たちの部族の運命を悲しまなければならないのか。海の波のように、部族は来ては行き、氏族も来ては行く。それが自然の秩序なのだから、後悔は無駄なことだ。あなたたちが衰え落ちるときは遠くにあるかもしれないが、必ず訪れるだろう。神と友のように、共に歩いて語る白人たちさえ、共通の運命から抜け出すことはできない。結局、私たちは一つの兄弟なのである。それを私たちは知るようになるだろう。
シアトル酋長(注19)(アメリカ先住民の宗教)
はるか遠い昔に下された呪いのように 私たちに恐ろしい呪いが下るだろう。そのように人の創造者は言うが人々は聞かない。はるか遠い昔に下された呪いのように私たちに恐ろしい呪いが下るだろう。しかし、私たちはこの一言だけを語るだけだ。怠惰よ!無精よ!このような人たちは父から何も聞くことができない。その方の声を知らないからである。その方は人を愛する存在である。
ディンカ族の祈り(アフリカ伝統宗教)
― み言選集 ―
歴史の方向が悪に向かっていくように思われますが、そうではありません。人間が自分の心を中心として体を抑制し、新しい覚悟と新しい決心をもって進むべき方向を選ぶように、歴史も、歴史自体で指向するのではありません。ある一時と時期、世紀を歴史の背後にいらっしゃる神様が干渉し、支配する 過程を経てきている事実を知らなけれ ばなりません。
(4-191.1958.4.20)
私たちは、歴史を通して、多くの文明が栄枯盛衰を繰り返してきたことを知っています。様々な文明が、一時は巨大になり栄華を極めましたが、その後、滅亡し忘れられていきました。このような文明の衰退は、気候や疾病、外敵よる侵略、自然災害、このような外的な要因によるものもありますが、大部分は内的な腐敗、特に宗教や道徳性が衰退したことによるものです。
(343-155. 2001.127)
栄枯盛衰の曲折が現れるのは、自分を中心として統一しようとするのか、全体の平和の世界を中心として統一しようとするのかにかかっているのです。この二つの間で栄枯盛衰が展開します。
(369-178. 2002.2.14)
この地上のある国で、私たちの国は滅んでも、神様のみ旨と世界を救うことができれば犠牲になろうとする、そのような国がありますか。アメリカが外国のために協助しようとするときは、アメリカは全盛時代でした。しかし、「ああ、私たちの国が滅び、世界が栄えてどうするのか。世界をほうり投げて、 私たちの国をしっかり握っておかなければならない」、今はこのようになっています。
(69-87.1973.10.20)
人種を差別する人たちは滅びます。神様がいるとすれば、必ず滅びるようにするのです。歴史時代において、数多くの文明圏がすべて滅んだ理由は何ですか。文明が発達すれば、すべて自分を中心として世界のために生きようとするのではなく、世界をすべてのみ込み、自分たちの思いどおりにしょうとしたために、すべて滅んだのです。アメリカで言えば、アメリカは世界の主導国家であり、全世界のあらゆる文明圏を動かせるので、驕慢になって差別するのですが、そのようにしていては滅びます。自然に滅びるのです。このように世界的に名をはせていますが、内部的には息子、娘をすべて打つのです。最も愛する子孫を打つというのです。
(97-322. 1978.4.1)
イギリスが日の沈むことのない国として、キリスト教文化を中心として統一世界をつくりましたが、イギリスのための世界だと考えました。世界のためのイギリスだということが分からなかったのです。アメリカが世界の中心国家になったとして、これがアメリカのための世界だと思いますか。違います。世界のためのアメリカだということを知らなければなりません。そうでなければ滅びます。神様の摂理はそのようなものです。
(247-111.1993.4.25)
迫害されていた群れが迫害していた群れを支配していくのです。ひつくり返ります。歴史はそのように回っていきます。支配していたその時代の思想的な基準以上の思想的な基準さえもてば、必ず謀属されていた民族が支配していたその人たちを支配するようになるのです。迫害される群れが第二の主人になるという事実を知らなければなりません。第二の主人です! このような原則があるので、迫害される人たちが主人になれます。この堕落圏内では、不可避な原則なのです。
(95-105-106. 1977.11.1)
歴史学者シュペングラーが指摘したように、文明は、1年に春夏秋冬があるのと同じように、興亡を繰り返しています。今は大西洋文明の時代が過ぎ去り、太平洋文明の時代が来る時です。
(115-171,1981.11.10)
低気圧圏に空気がなければ、高気圧圏の空気が流れていって満たしてくれますか、満たしてくれませんか。水が高い所にあれば、下の穴に流れていって満たしてくれますか、満たしてくれませんか。均衡が理想です。それでは、今日、先進国家と発展途上国があるのですが、発展途上国は飢えて死んでいっています。1年に2000万人が飢えて死んでいるのです。これが神様のみ旨ですか。宇宙の自然な運動圏を迫害するのが先進国家です。先進諸国が今、雷に打たれます。天が打つのです。審判するのがエイズと麻薬です。フリーセックス、ホモセクシュアル、レズビアンです。神様が最も憎み、サタンが最も好むものです。反対です。レバレンド・ムーンが消費の多いアメリカの国、先進国家をすべて飢えさせて、飢えて死んでいく発展途上国を助けてあげようという運動をしようと思います。自然世界は、すべて均衡を取っているのです。「天宙大家族を形成し、自由と平和と統一と幸福の世界を完成することをお誓いいたします」、 自由というものは個人の自由ではなく、全世界の大家庭にいる人たちの自由であり、大家庭の平和であり、大家庭の幸福です。全人類がすべて幸福だということです。
(260-192.1994.5.8)
歴史時代にローマがいくら強かったとしても、その内部から滅んでいきました。何ゆえに滅んでいったのですか。このセックスのためです。セックスのために滅んでいったのです。それが事実ですか、違いますか。今から2000年前のポンペイを見れば、すべてがひたすら飲み食いし、踊りまくって滅びました。このようなことを見るとき、死亡と滅びることと直結されるものとして、最も効果的な道とは何ですか。愛の秩序が紊乱になるとき、滅びるというのです。これはレバレンド・ムーンの話ではなく、歴史的な事実です。それが事実だと思いますか。それは、白人もそうであり、黒人もそうであり、有色人種、黄色人もすべてそうです。このようなものが蔓延し、このような行いが増大した国とそのような文化がある国家を見るとき、どのような文化がそうで、どのような国がそうなのかというと、強くて、権力をもっていて、お金をもっていて、知識をもっている国がこの病にかかるようになっています。ですから、アメリカのような国があらゆる面で良いと思っていたのに、そのような面では未開の民族より劣るのです。この病にかかれば、歴史時代に滅びなかった国がなく、倒れなかった国がないというのが事実です。その文化にもちこたえられる国がありません。これによってどのようになりますか。若い人たちに秩序がなくなります。 若い人たちに秩序がないので、家庭の秩序が破綻し、教会の秩序、社会の秩序、あらゆる秩序の破綻をもたらすのです。今、アメリカがそのような実情ですか、違いますか。私は、アメリカの青年たちがいい気になって着飾り、得意になっているのを見るとき、あなたたちが何年もつかを見てみようと思うのです。
(103-97~98、1979.2.11)
最近は、フリーセックスだ何だといって、若い人たちは、独身の男女が出会って思いのままにキスもし、ー晚過ごすことも思いどおりにしています。滅びます。絶望だというのです。方法がありません。アメリカも方法がなく、イギリスも方法がなく、フランス、イタリア、全世界も方法がありません。ところが、先進国がそうなので、発展途上国がすべてそのままついていきます。ですから、神様が世界を愛する立場で、アメリカでも、先進国でも、早く滅ぼさなければならないという結論が出てきます。なぜかというと、世界を助けるために、発展途上国が侵食されないようにするためです。そのような考えが、そのような話が、合っていると思いますか。神様の立場がそうかというのです。神様がいれば、そのような反対の道を取るのであり、また考える人がいれば、これを防いで反対に行ける道を模索するでしょう。
(117-201-202.1982.3.7)
神様は、なぜアメリカを祝福してくれたのですか。神様のみ旨です。人類を救うために、世界平和の基地をつくるために、人類を神様のみ旨の中で解放するためです。サタンを追放して地獄を解放するためだ、というのがその目的です。一つの服を着ても、その服が歴史過程でどれほど多くの人たちの血痕を残し、どれほど多くの民族を泣かせ、どれほど悲惨な谷間を経てきたかを考える人がいますか。—の服を着るにおいても、世界人類を代表して着るので、負債のある立場で着ていると考えるアメリカ人がいますか。服もそうですが、住む家、環境もすべてそうです。自分たちが優れているから、そのようになったのではありません。ここよりも世界のために生きる神様のみ旨があり、神様の心と考えがあることを考える人がいますか。そうでなければ、ここにいる人たちから取り上げて、より世界のために生きる人たちに与えざるを得ない、という結論になるのです。このアメリカの白人たちによって犠 牲になった人たちが、霊界に行っているでしょうか、いないでしょうか。イ ンディアンたちだけではありません。今まで白人たちが弱小国をすべて侵犯し、どれほど略奪しましたか! 今までアメリカが、あらゆる面でヨーロッパより優れていると言いました。イギリスが宣教するので、「私たちもイギリスに負けない」と言いながら競争しました。「ヨーロッパの人たちよりも私たちが優れている、優れている」と言いながら世界のために援助もしました。第2次大戦前後までは、全世界を援助していたのです。アメリカが宣教師をたくさん送った所とはどこですか。ヨーロッパではアフリカや南米に送りましたが、アメリカはアジアに送りました。宣教師を送って未開な地域を占領し、アジアに対して力を及ぼし、フィリピンもすべて自分の国に入れました。アジア版図を中心として、宣教師を送りながらこのよ うに拡大したのです。植民地にしたこと自体は悪いことではないのです。ア メリカが占領した植民地の人たちを、アメリカ人よりもっと愛すれば神様が賛成します。アメリカ国民より、本土の人よりもっと愛すればです。かわいそうなので、愛さなければなりません。自分の家を売ってでも、愛しなさいと いうのです。そのようにすれば、植民地が問題になりません。世界が一つになります。そのようになれば、植民地の人たちがなぜ反対しますか。「アメリカ! おお、ありがとう、ありがとう」と言いながら、神様のようについていくようになります。それを願ったのですが、そこに行って奪ってきたのです。 すべて足で踏みつけたというのです。 歴史に反抗しました。そこからずれていきました。
(202-332~ 333.1990.5.27)
世界のすべての知性人は、今は急変する世界だと言っています。このように急変してどこに向かうのですか。ー般の人々は、このように急変すれば絶望の世界に到達する危険性が大きいと考えています。希望の世界に到達すると思っている人はとても少ないということを知っています。「近代文明を指導 してきた西洋文明は、既に没落しているだけでなく、夜の世界に入り込んでいる」と言う人もいます。西洋文明を指導するにおいて精神的な支柱であったキリスト教はもちろん、キリスト教を中心とした家庭や、社会や、国家が、傾くだけ傾いたというのです。世界の若い人々の中で未来を考える人たちは、なお一層、とても暗澹とした立場で悩まざるを得ないという時代に来ています。このような実情の中で、もし神様がいらっしゃるならば、神様はそのような絶望の終着点に向かって、そのまま走らせるのではなく、これを整備し対処させて、新しい次元の世界に、希望の場に連結させる道を考えざるを得ないという結論に到達するのです。
(103-39〜40.197922)
アメリカ人、アメリカの青年たちは滅んでいきます。これはアメリカの為政者たち、アメリカの学者、アメリカを知っているという人たちが、すべて語っています。アメリカの宗教指導者たちはもちろん、すべて語っているのです。これが共通の結論です。この病を誰が治療するのでしょうか。アメリカの軍事カでも治せません。アメリカの経済カ、アメリカの政治力、アメリカのそれ以外のあらゆる科学的な力で、月世界に行くと誇っていますが、それを治すことができるのかというのです。誰もできません。レバレンド・ムーンだけがこのアメリカを救う人です。神様がレバ レンド・ムーンを立ててアメリカに送らざるを得なかったと、私は思います。
(93-122. 1977.5.21)
7) 世界平和
新千年期に全地球的な環境汚染、不足した天然資源の競争、暴力、そして核兵器拡散問題に直面した世界で、世界平和の建設を叫んでいる。以前は預言者たちや夢想家の漠然とした夢だったことが、今は人間の生存と直結した現実となった。このような状況は、現代にだけ出現したものなので、私たちは過去の世紀の主要な宗教家と夢想家の発言で補充する。
神様は文鮮明先生に、世界平和のための実際的で、数え切れない構想を提案するように霊感を与えられた。先生は、私たちの時代の世俗的な平和の使徒とは、特別に変わった観点をもつ。世俗的な平和の使徒は、科学と技術の進歩を通し、人類はみな共に豊かさを享受する世界を創造するようになると主張する。彼らによれば、世界では宗教と文化の古い偏見は、世俗的な民主主義的価値と市場の自由に席を譲るという。文先生は、平和は神様から発見されなければならず、宗教と霊性は世界人類が一家族理念を具現するのに中心の役割をしなければならないと教える。ユートピア建設の世俗的、楽観的進歩観は既に、ほぼ出尽くしており、人類は、世界平和に向けて、宗教の重要性と内的基盤の必要性を再考しつつあるとの文先生の言葉は、新たな説得力を得てきている。
文先生は、平和世界建設のための非常に特別な構想をもっている。その構想は、霊的次元を加えたUNの改革、国境線の撤廃、超文化的結婚による文化の連帯、そして世界都市を連結する国際高速道路を含む。世界平和は真の愛の実践によって建設されるという、先生の根本的信念が現実化しているのである。
1. 神様は世界平和の土台
― 宗教経典 ―
終わりの日に/主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち/どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい/多くの民が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。主の教えはシオンから/御言葉はエル サレムから出る。主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。
イザヤ書2.2~4 (キリスト教)
狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共 に伏す。子牛は若獅子(主20)と共に育ち / 小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ/その子らは 共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草 を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ / 幼子は蝮の巣に手を入れる。わたしの聖なる山においては / 何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように/大地は 主を知る知識で満たされる。
イザヤ書11.6-9 (キリスト教)
我の希望は、世界の各宗教の指導者達や支配者達が、現代の改革とその繁栄の復興のために、一致して立ち上がることである。世界の窮乏をとくと考えておたがいに話し合い、これを案じて充分な討議を行ない、病んで、ひどく傷めつけられている世界が必要とする治療薬を施すがよい。
バハオラ 落穂集110 (バハイ教)
私は永久的な世界平和に対する希望を見ることができない。私たちは努力したが、惨愉たる失敗に終わった。世界が霊的に再生しなければ、文明は滅亡するだろう。
ダグ・ハマーショルド
― み言選集 ―
冷戦時代が終息し、世界はしばし平和のための祝杯を挙げることができました。しかし、間もなく人類は、その冷戦の終わりが自動的に平和時代に連結されるのではないということを知るようになりました。世界のあちらこちらで、激烈な戦争が起こり続けています。今も、前ユーゴスラビアと中東で、またスーダンや南アジア等の地で殺戮戦が繰り広げられています。これらの紛争は、主要宗教間の根深い葛藤が背景になっていることは周知の事実です。宗派間の対話と和合がいかに重要であるかを悟らせてくれる事例です。現代において宗教的な理想の実現は、しばしば世俗権力と一定の距離をおいて活動してきました。今日の一般的な認識は、これを当然なものとして受け入れています。しかし、世界平和理想に貢献する国際組織は、世界の偉大な宗教的伝統と自分たちとの関係を再検討すべき時になったと見ています。
(330-245,2000.8.18)
神様の経綸と歴史の帰趨を見れば、人類は国境と人種を超越し、神様を真の父母として侍って生きていかなければならない巨大なーつの家族です。ーつの世界家族として、一つの囲いの中で調和して協力しなければならない運命共同体です。これ以上、隣人とほかの国の困難が私とは関係ないとは言えない時代が来ました。私たちは、人類が戦争と犯罪、麻薬と暴力、環境汚染と生態系の破壊、不倫とエイズなどに巻き込まれて落ちていくのを傍観する ことはできません。これから私たちは、神様と歴史の前に答えなければなりません。大きく和合してーつにならなければならない人類が、何をもって、どのように現実を克服し、近づいてくる新千年を希望の中で迎えることができるでしょうか。また、個人と自国の利益を超えて「ため」に生き、信頼して生きていくべき平和世界を成し、またこれを支える新しい価値観をどのように定立するのでしょうか。科学技術の燦爛たる楼閣の上で人本主義の眼鏡をかけ、物神の誘惑のもとでではなく、本心の扉を開けて謙虚に答えを探さなければなりません。地上で探せなければ、天から来る声を通して解決しなければなりません。
(279-211~212.1996.8.20)
2. UNとグローバルガバナンス
― 宗教経典 ―
慈悲深い主の命令が世に宣布されるため、人を害したり、苦痛を与える者は二度といないだろう。すべての人類が平和の中で慈悲n盾のもとで生きていくだろう。
アーディ・グラント・ラーグM5.p.74(シク教)
われら連合国の人民は、われらの一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救い、基本的人権と人間の尊厳及び価値と男女及び大小名国の同権とに関する信念を あらためて確認し、正義と条約その他の国際法の源泉から生ずる義務の尊重とを維持することができる条件を確立し、一層大きな自由の中で社会的進歩と生活水準の向上とを促進すること、並びに、このために、寛容を実行し、且つ、善良な隣人として互に平和に生活し、国際の平和及び安全を維持するためにわれらの力を合わせ、共同の利益の場合を除く外は武力を用いないことを原則の受諾と方法の設定によって確保し、すべての人民の経済的及び社会的発達を促進するために国際機構を用いることを決意して、これらの目的を達成するために、われらの努力を結集することに決定した。よって、われらの各自の政府は、サン・フランシスコ市に会合し、全権委任状を示してそれが良好妥当であると認められた代 表者を通じて、この国際連合憲章に同意したので、ここに国際連合という国際機関を設ける。
国際連合憲章「全文」
過去には、各国の公職者たちだけが普遍的な公益を提供する立場にいると思われていた。彼らが外交チャンネルや頂上会談を通して法と条約を締結するなど、法的手段を活用することによってそれが可能だと考えた。しかし、今日の普遍的な公益は、全世界的様相の周題点を私たちに提示してくれている。この諸問題は、世界的次元の公権力と組織、対策がなければ解決されない。結局、道徳的秩序のためには、世界的単位のある共通の公権力が設定されなければならず、その力は、強制ではないすべての合意によって導き出されなければならない。補完牲の原則により、世界単位の公権カは、各国の公権力の行使範囲を制限しようとしない。各国の国家的地位もやはり侵害しない。その真の目的は、世界的次元で各国の政治権力と市民、団体がより 安全に各自の任務を遂行し、義務を果たし、権利を享受できる環境を造成することである。私たちは、真実にUNが —UNの組織 と手段— 本来の高貴で巨大なUNの使命に、より忠実になることを希望する。人々が徐々に地球村の一家族の一員であることを意識していくにつれて、このような願いがより一層強くなってきている。
教皇ヨハネ23世 地上の平和 (キリスト教)
― み言選集 ―
アダム家庭で始まったカインとアベ ルの闘争歴史は、人類歴史をそのまま戦争と葛藤の歴史にしてしまいました。小さくは人間個々人の心と体の葛藤から、大きくは国家と国家が、さらには全世界が物本主義と神本主義に分かれ、対立、闘争をしてきました。極度の利己的個人主義は、きょうも私たちの生活を脅かしています。人類の希望であり、未来を約束された若者たちを、フリーセックスと麻薬の奴隷に転落させています。物質万能主義に陥った先進国は、自国の利益にばかり目がくらみ、一日に数万人ずつ飢えて死んでいくかわいそうな生命から顔を背けています。誰が、この数千年にわたるカインとアベルの歴史的な葛藤を解いてくれるのでしょうか。世界平和を掲げて出発したUNに、それができると思われますか。UNは、過去60年をかけて努力してきましたが、いまだに世界平和は、はるか彼方です。体と心のカイン・アベ ル関係も解決できない人間の努力だけ では、不可能なことです。今こそ、天命に従って出発したアベル的平和理想世界王国の創建が必要な時です。(注21)
平和神経、平和メッセージ1.20〜21、2005.9.12
神様は、私たち指導者、特に宗教指導者を召命していらっしゃいます。世の中の不義と罪悪に挑戦し、真の愛を施すことを願っていらっしゃいます。すべての宗教人が一つの心となり、神様の人類に対する熱望を代弁し、実行しなければなりません。体と外的な世界を代表する政治家や外交家たちの経綸と実践だけでなく、心と内的な世界を代表する世界宗教指導者たちの知恵と努力が合わさってこそ、平和世界が完全に達成され得るのです。そのような点から、UNを再構成する問題まで深刻に考慮すべき時です。恐らく、両院制の形態をもったU Nを想像することもできるでしょう。国家代表で成された既存のUNを、各国家の利益を代弁する下院に代えて考えられます。著名な宗教指導者と文化界、教育界など、精神世界の指導者たちで、宗教議会、あるいはUNの上院を構成することも考慮できるのです。このとき、宗教議会は地域的な個々の国家の利害を越えて、地球星と人類全体の利益を代弁すべきなのです。両院が相互に尊重し協力することによって、平和世界の実現に大きく寄与できるのです。世界指導者たちの政治的経綸は、世界の偉大な宗教指導者たちの知恵とヴィジョンにより効果的に補完できます。(330-247~248. 2000.8.18)
3. 平和の文化構築と人類統一
― 宗教経典 ―
人びとよ、われはひとりの男とひとりの女から、なんじらをつくり、民族にした、これはなんじらを、互いに認識させるためである。神のみもとで最も尊い者は、なんじらのうち最も主を畏れる者である。
クルアーン49.13 (イスラーム)
小さくて人口の少ない国がある。数多くの道具があったとしても、誰もそれを使わない。人々は生命を大事にし、誰も遠くに移住することを望まない。船や車は役に立つが、誰もそれらに乗らない。すばらしい武器を所有していても、誰もそれを使わない。人々にもう一度、縄を結んで約束のしるしとしたような時代に戻らせ、すばらしいごちそうで楽しませ、立派な服装を着させる。自分の住居でおちつかせ、週間を楽しませる。隣の国はすぐに見えるところにあり、鶏の鳴き声や犬の吠えるのが聞こえるけれども、人々は互いに往き来することもなく、その人生を送るのである。
道徳経80 (道教)
ジャンプ=ドヴィーバにおいて、八万四千の都に住む八万四千の王者たちが、それぞれの国土において楽しく暮らすだけでなく、その王国と王権に何ひとつ不自由することなく、自己 所有する財宝に満足して互いに傷つけあったりしないであろう。また、互いに傷つけあうようなことを起さないであろう。そして、それぞれに前生の業の集積に従って、王位に即き、それぞれの王国と王権に満足するだけでな く、互いに征伐せず、他国の領土の征服のために進撃することもしないであろう。そして、ジャンプ=ドヴィーバ において八万四千の国土ならびに都城における八万四千人の王たちは、互いに相手の幸福を願うようになるであろうし、また憐れみの心を持ち、相手の安楽な生活を願って、互いに喧嘩や口 論や反目や抗争がないように努めて、それぞれの国土で楽しく暮らすであろう。……ジャンプ=ドヴィーバは栄え、食料ゆたかになるだけでなく、美しく、多くの人々が住み、また大地はさらに一層肥沃となるであろう。
金光明経(仏教)
その日には、エジプトからアッシリアまで道が敷かれる。アッシリア人はエジプトに行き、エジプト人はアッシリアに行き、エジプト人とアッシリア人は共に礼拝する。その日には、イスラエルは、エジプトとアッシリアと共に、世界を祝福する第三のものとなるであろう。万軍の主は彼らを祝福して言われる。「祝福されよ/わが民エジプト/わが手の業なるアッシリア/わが 嗣業なるイスラエル」と。
イザヤ書19.23~25 (キリスト教)
多様な信仰と政治経済の体系によって、平和で友好的な地球家族をつくりあげようとすれば、私たち各自はそのような調和のために全力を尽くすという責任を果たさなければならない。それ以外に他の代案はない。
テンジン・ギャツオ、第14代ダライ・ラマ
戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。相互の風習と生活を知らないことは、人類の歴史を通じて世界の諸人民の間に疑惑と不信をおこした共通の原因であり、この疑惑と不信のために、諸人民の不一致があまりにもしばしば戦争となった。……政府の政治的及び経済的取極のみに基づく平和は、世界の諸人民の、一致した、しかも永続する誠実な支持を確保できる平和ではない。よって平和は、失われないためには、人類の知的及び精神的連帯の上に築かなければならない。
ユネスコ憲章,前文
平和はあなたたちと私、または少数の偉大な人たちが、即刻つくり出せるものではない。さらには、百万人のキリスト、またはクリシュナたちも、それをすることはできなかった。『マハーバーラタ』に出てくるように、主クリシュナは、パンダヴァ族とカウラヴァ族の間の大戦を防ぐことができなかった。すべての人類は、地上に平和をもたらすキリストのようにならなければならない。私たち各自が自分の生をキリスト、クリシュナ、ブッダの知恵と典型に従って私たちの生を具体化するとき、私たちは正にここから平和を謳歌することができるだろう。神の子たちが、「私たちはインド人であり、あなたたちはアメリカ人、また、私たちはドイツ人であり、あなたたちはイギリス人」と区別する限り、彼らは迷いにとら われ、世界は分裂するだろう。もし私たちが違いを無視し、差別と偏見なくすべての人たちに対する愛を学べば、数多くの戦争と苦痛と破壊が防止されるだろう。どこかの国籍をもっているという事実よりは、あなたたちが神の形どおりにつくられているという事実を誇りに思わなければならない。なぜなら、「アメリカ人」、または「イ ンド人」は、時が来れば捨てられる上看にすぎないからである。しかし、あなたたちは永遠に神の子である。あなたの子たちにそのような理想を教えるのがよりよいのではないだろうか。それは平和のための唯一 の道だ。学校で真の平和の理想を確立し、あなたたち自身の生において平和を成さなければならない。
パラマハンサ・ヨガナンダ(ヒンドウ一教)
世界の指導者たちが、国家間の相互依存のためには政治的ブロック体制を放棄し、すべての形態の経済的、軍事的帝国主義を犠牲にし、相互協力への変化が必要だという事実を悟ることができない限り、世界平和は遥遠である。個人と国家間の結束のためには、これが必ず必要だ。
教皇ヨハネ・パウロ2世 真の開発とは (キリスト教)
― み言選集 ―
21世紀の人間は、宇宙を創造した神様の根本原理を離れては、これ以上地球星の主人として存在できません。人々が願わなくても、人類の未来は、より密接な人間関係を要求します。未来には、人々が地域と民族と肌の色を超越して、より密接に絡み合って生きていかざるを得ない「地球一家族時代」が近づいてきています。様々な宗教と文化、伝統、そして互いに異なる生活意識をもちながらも、利害の次元を超えて互いに交わり、受け入れざるを得ない世の中が来ています。個人やある集団が、利己的な選択で自分だけの隔離された逃避地を所有することはできなくなります。
(219-9.1991.8.24)
私たちがこの世界にあるすべての国境線を撤廃すれば、平和の世界は自動的に訪れるようになるのです。そこで私たちが覚えておかなければならないことは、この世界に現存する国境線の主人が果たして誰なのかということです。神様ではないということは明らかです。国境をつくり始めた張本人は、正にほかでもない悪魔サタンなのです。したがって、国境線がある所には、必ず悪魔と悪魔の実体が潜んでいるということを知らなければなりません。このような結果は、人間始祖の堕落によって善悪の分岐点となる血統が入れ替わってしまったからです。東洋と西洋を比較してみても、文明圏を中心として相反する国境線ができていますが、そこには、悪魔が陣を張っているというのです。悪の文化的背景、歴史と伝統的背景、人種差 別など、このようなあらゆる種類の落 とし穴を掘って国境線をつくった張本 人は、神様ではなく、悪魔サタンだと いうのです。神様が願われた善の世界は、統一の世界です。すなわち、全人類が一つの大家庭を成して暮らす一つの世界なのです。そのような世界に、どうして国境が存在できるでしょうか。国境がない世界なので、怨讐もあり得ません。それは、怨讐という言葉の中に国境が内在しているからです。怨讐を愛して一つになれば、国境が崩れていくのです。ですから、神様の戦略戦術は、常に「怨警を愛しなさい」というものです。「怨讐を愛しなさい」 というみ言ほど偉大な戦略はなく、また、これほど偉大な戦術はあり得ません。このような素晴らしい内容を、今日まで人類は、歴史的に知らずに生きてきたのであり、今生きている現代の人たちも知らずにいるというのです。
(419-190〜191.2003.10.3)
霊界では国境を認めません。国境を超越しています。私たち統一教会の教会員は、このようなみ旨を主導する立場にいるので、国境を超越しなければなりません。私たちは氏族を超越しています。摂理で見るとき、アダムの三人の息子の中で白人は3番目の息子であり、黒人は2番目の息子であり、黄色人は1番目の息子です。その三人が一つにならなければなりません。それで、先生を中心として、文氏の氏族をセンターとして数多くの氏族をすべて連結させるのです。次には、統一教会を中心として数多くの宗教を連結させるのです。そのようになれば、中心氏族と中心宗教が一つになります。一つは内的なものとしてプラスになり、もう一つは外的なものとしてマイナスになり、全世界的なプラスとマイナスが一つになるのです。ですから、国境を越えて東洋人が西洋に行くことができ、西洋人が東洋に行くことができ、 東洋の霊が西洋に行くことができ、西洋の霊が東洋に行くことができ、イスラームの霊がキリスト教に行くことができ、キリスト教の霊がイスラームに行くことができるのです。どこでも往来できます。今までは、それぞれ別々でした。今、ヨーロッパ経済共同体のような運動が起きているでしょう? ヨーロッパの人たちは、思いどおりに行ったり来たりしているではないですか。これからこれを妨げる日には世界が滅びるのです。
(101-331-332.1978.11.12)
人間世界に真の愛を完成したならば、政治的に、文化的に、また環境的に何か問題が起こるでしょうか。真の愛の世界では、解決すことができない問題はありません。真の愛の世界は、まさしく歓喜と理想が充満した自由と平和と幸福の世界です。真の愛の同位権、同参権、相続権によって、喜びと幸福が無限に、そして永遠に拡散していく世界になります。今日、世界人類が抱いている難問題は、真の愛の完成によってのみ、その根本的な解決が可能なのです。
(294-65.1998.6.11)
将来には戦いがありません。今までの戦いは、自分を中心とした、くだらない戦いでした。それは、互いに奪うための戦いでしたが、統一世界は、神様の王権を立てて「ために生きる」世界なので、戦争は必要ないのです。兄弟同士、互いに奪う必要はありません。 あまりにも与えようとするので、逃げていかなければなりません。ですから、自分の部落に暮らすようになれば、そのまま通過です。下宿のようなものは、部落でするのです。そのようになれば、朝、昼、そしてタ御飯を食べることができるよう、精誠を込めて準備してくれるのです。そして、そこで寝ていくこともできます。そのような時代が来るのです。将来は三権分立というものもなくなります。法律もすべてなくなります。愛の自治権が完全に成し遂げられれば、法律が自動的に完成します。「ために生きる」愛、それを成し遂げた所には、何の問題もないのです。上下が一つになり、前後、左右が一つになります。
(224-173,1991.11.24)
これから私たちは、神様と歴史の前に答えなければなりません。大きく和合して一つにならなければならない人類が、何をもって、どのように現実を克服し、近づいてくる新千年を希望の中で迎えることができるでしょうか。また、個人と自国の利益を超えて人のために生き、信頼して生きていくべき平和世界を成し、またこれを支える新しい価値観をどのように定立するのでしょうか。科学技術の燦爛たる楼閣の上で人本主義の眼鏡をかけ、物神の誘惑のもとでではなく、本心の扉を開けて謙虚に答えを探さなければなりません。地上で探せなければ、天から来る声を通して解決しなければなりません。
(279-212.1996.8.20)
私は、きょうこの貴い神様の摂理歴史的完成の場をお借りして、もう一度、神様と人類の摂理的最後の目的である平和天国創建のために、そして神様の祖国と本郷の創設のために、実に摂理的で革命的なプロジェクトを宣布しようと思います。歴史的に、サタンによって東と西、南と北に分けられ、地理的には、北アメリカ大陸とロシア大陸を分けるベーリング海峡に、橋を架け、海底トンネルを通そうというのです。そうして、アフリカの喜望峰からチリのサンティアゴまで、イギリスのロンドンからアメリ カのニューヨークまで、自動車で全世界を巡回、疾走できる「世界超高速道路」を連結する「ワールド・ピース・キング・ブリッジ-トンネル」を完成し、世界を一日生活圏にしようというのです。これ以上の分断と分裂は容認できないというのが天の警告です。全世界を一日生活圏で結び、サタンがつくった人種、文化、宗教、国家の壁を崩し、神様が何よりも願ってこられた平和理想世界王国を、この地球星に創建しよようというのです。アメリカとロシアが一つになり、ヨーロッパ大陸、中国、インド、日本、ブラジルなど、世界のすべての国家、そしてすべての宗教が一つになり、共に力を合わせ、この歴史的なプロジェクトを成功させなければなりません。この事業の成功こそ、人類にとってこれ以上戦争と分断が必要ない平和理想世 界王国を創建するのに、決定的な役割を果たすことでしょう。
平和神経. 平和メッセージ1.30~31 2005.9.12