御旨と世界

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目次
  1. み旨と世界 序文
  2. 01_復帰と祝福
  3. 02_理想相対
  4. 03_生涯においてなにをなすべきか
  5. 04_血統的転換
  6. 05_勝敗と現在
  7. 06_統一戦線守護
  8. 07_復帰の道
  9. 08_真の父母と我々
  10. 09_我らはなぜ苦労しなければならないか
  11. 10_年頭のみことば(1973年)
  12. 11_勝祝日の制定にあたって
  13. 12_一心不乱 一生懸命
  14. 13_人間に対する神の希望
  15. 14_アメリカに対する神の希望
  16. 15_キリスト教の将来
  17. 16_伝統の旗手
  18. 17_キリスト教の新しい未来
  19. 18_総解怨式のみことば
  20. 19_私自身
  21. 20_歴史の転換点
  22. 21_統一式のみことば
  23. 22_新しい宇宙的な春は永遠に繁栄する
  24. 23_摂理的歴史の光の中にあって
  25. 24_歴史的父母の日
  26. 25_創立以前の内的教会史
  27. 26_再会の心情
  28. 27_刺激と冒険
  29. 28_愛の相続
  30. 29_祝福を迎える一日
  31. 30_七七七双祝福八周年記念に寄せて
  32. 31_私たち自身を知ろう
  33. 32_神の祖国
  34. 33_摂理と昔今の私
  35. 34_全体蕩減
  36. 35_信仰の三子女と本然の家庭基盤
  37. 36_私を中心とした父母と子女と万物世界
  38. 37_愛勝日の必要性
  39. 38_真の愛を中心とした本然のエデン
  40. /目次

み旨と世界 序文

御旨と世界
(全面表示)

 


序文



 文鮮明先生は、神のみ言を伝えたいという激しい願望をもっておられるお方です。文先生は生涯を通じて、あらゆる機会に、神について、すなわち神の心情、神のみ旨、神の苦悩の歴史について、溢れ出づる泉のごとくに語ってこられました。文先生は公式集会ばかりでなく、朝食の席で、車中で、フィッシング・ボートの上などで、実に可能な限りあらゆる場において深遠なる話をしてこられました。実際、四十年の公的宣教生活の間に、文先生は実に多く語られ、今や伝えられたみ言の量としては、恐らく歴史的、世界的記録をつくっていることでしょう。例えば、韓国統一教会では、二〇〇巻もの文先生の説教集の出版計画を進めています。文先生はコネチカット州ダンベリー連邦刑務所において、極めて不当なる刑に服している期間に、『忠孝の源』(今日まで、『ファミリー』等、日本で掲載されてきた説教を神山威兄弟がまとめたもの)など御自身の説教を読まれ、多くの箇所に訂正や註釈を加えられました。『御旨と世界』と題された本書は、三十八の説教からなり、神のみ旨と心情について、統一運動の教えの真髄を伝えるために、先生によって慎重に選ばれたものです。この説教集はまた、現代の摂理的時代と、文先生御自身の使命、重要性、心情を理解する上でも特に重要なものです。なお、本書の題字は、文鮮明先生御自身によって書かれたものです。文先生は、神をどのように見ておられるのでしょうか。先生は今日多くの人々が考えているように、神を単なる人間の考え出した概念や現象とはとらえていません。神は私たちの生活の中に実際に生きて働かれ、また、世界のあらゆる事象は神の存在を考慮せずしては考えることはできません。

 

 文先生は、聖書研究、祈祷、啓示を通して、神が真の父であることを悟られました。さらに、今日まで人類が幾度も神の立場を理解せず、自分自身や他人をも苦しめていたために、神の心情は深い悲しみに満ちているということを悟られました。すなわち、神は全人類を自分の子として愛しておられる、私たちの真の親であられるのです。神は私たちの苦しみと共に苦しまれ、私たちの善き行いを喜ばれ、私たちが創造本然の姿に成長するよう絶えず導いてこられたのです。文先生は、この世界の惨状を神が深く悲しまれているのを知ったその日以来、ずっと涙の祈祷を続けてこられました。もし皆様方が、文先生の祈祷を聞く機会があるなら、たとえ韓国語が分からずとも、必ず文先生と神との交わりの深さを知ることでしょう。

 

 今日、キリスト教界は数多くの宗派に分かれ、それぞれが特有の教義と儀式をもっています。しかし、いったい何人のクリスチャンがこの重要な時代に、神のみ旨を熱心に捜し求めているのでしょうか。イエス・キリストは神の苦しみと、失った子女たちをサタン世界から救おうとされる神の深刻さを御存じであられたので、神のみ旨を命懸けで成し遂げようとされました。イエス様は愛と哀れみのゆえに、御自身を神の御国建設のために完全に捧げられたのです。

 

 文先生が十六歳の復活祭の朝深く祈っておられる時に、神の子たちの苦しんでいることを悲しむ心情をいまだに抱えられたイエス様が文先生に現れ、現代の、神の摂理に責任をもってほしいと頼まれました。神の道はこの世の道とは違っているということを知っておられたので、文先生は誤解と迫害に遭うことを予想しながらも、この召命に応じられました。ですから先生は、社会に受け入れられたいという願望によって動いているのではなく、ただ神のみ旨と心情を宣言したいという願いによって動いておられるのです。文先生は気力溢れる説教者です。公式の宗教儀式で教会員たちに語りかける時であろうと、教会運営の会議あるいは誕生祝賀会、キャンプファイヤーを囲んでであろうと、文先生の説教は実に力に溢れ、その内容は神と人類がこれまでに経験したすべてに及びます。説教が早朝から始まり、一日中遅くまで続くことも珍しくありません。文先生は常に聴衆とのやりとりを交わしながら説教を進めます。楽しいユーモアを口にされたり、極めて深刻な話をされたり、時には悔い改めについて語られますが、常に壮大なビジョンと理想を語られます。

 

 教会員に話される時には、文先生は、深い信仰と献身の心情を喚起することによって、彼らが試練の時を耐え抜けるようにされます。ここに収められている説教は、本文を見ても明らかなように様々な状況の中で語られています。いくつかは、伝道キャンペーンで語られたものであり、重要な教会の記念日に語られたもの、また、新たに祝福を受けたカップルに語られたものもあります。これらの説教は、すべて日本語もしくは韓国語で語られています。アメリカやヨーロッパで語られた説教も、文先生は横に同時通訳者をおいて韓国語で語られました。

 

 文先生の説教は、従来の既成概念に対する大きな挑戦であり、また、通訳者、翻訳者、編集者の手を経ているため、さらに実際に語られた時の雰囲気を直接知ることができないために、その言葉を理解するには特別のものが必要です。本書の説教を通して、文先生はしばしばその特別なもの、すなわち、純粋で開かれた心情と明敏な心について触れています。それらは真剣な祈りによって導かれ、守られるものです。韓国語、英語から日本語に翻訳の際、神霊的な概念を翻訳することは困難であることを、心に留めておいてくださるようお願いいたします。しかしながら、これらの説教集を出版するために準備してくださった翻訳、編集スタッフの皆様方、そして、迅速な製作に少なからず協力してくださったすべての方々に、感謝の意を表したいと思います。本書を読み、熟考されるとき、天があらかじめ私たちに備えてくださっている賜物が、皆様の上に授けられますようお祈りいたします。


1985年8月20日

 ・



世界基督教統一神霊協会会長

 ・



久保木 修己

 ・









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01_復帰と祝福

 

 御旨と世界
(全面表示)

 



復帰と祝福

 

1969年2月2日

 東京 東京教会

 今まで歴史上において、人類歴史は復帰歴史であるということを知った人はいない。歴史の背後関係を、復帰という問題で決着をつけたということは、我々統一教会が歴史に残した大きな功績である。

 この歴史の背後の大本となるのは神であり、神が責任を担当して、今まで歴史をずーっと支配して発展させてきた。そのために、数多くのいわゆる「復帰」という使命を負わされた個人、家庭、氏族、民族、国家があり、それによつて段階的に歴史は発展してきた。この復帰歴史の完成、復帰の目的をいつ成し得るのか、これが歴史の問題であり、あらゆる問題解決の基準になっている。



統一教会の使命

 

 復帰完成ということを考えた場合、完成されなかった基準、アダムにおいて堕落した基準、イエス様において成就できなかった基準、それらすべてを現世に引っ張ってきて、解き明かし、再び蕩減して、復帰していかなければならないのが統一教会の使命であり、先生は自らそれを実行し、先生のあとをついてきてくれる世界に広がった統一教会の食口たちに、それを行わせるのが先生の使命である。あなたたちは命令されて、それを行うのが使命である。

 そういう立場に立つ男は、アダム以上の、イエス様の身代わりとして不足のない基準に立たなければならない。そういう立場に立つ女は、エバ以上の、イエス様の新婦として迎えられるに不足のない基準に立たなければならない。統一教会の使命はそのような男女を誕生させることである。イエス様は十字架に追われていく結果になって、いわゆる地上的基盤を完全に失ってしまった。こういうイエス様の成し得なかったすべてのことを一人一人が蕩減し、イエス様以上の基準に立たなければならない。

 すべてに反対される道



 蕩減するには数多くの混み人った歴史的背後関係によって、現世に基準を立てねばならない。そういう立場において、すべての者から反対され、これと戦って屈服させなければ、蕩減復帰はできない。統一教会の今までの道は、そういう反対される道だった。ただ追いに追われ、打たれに打たれて、それでも何の弁解も許されなかった。個人から、家庭から、氏族、民族、国家から追われた果てに、最も孤独な立場に立たされ、そして最後の心情をもって神を慰めなければならないのが統一教会の歴史であるということを、あなたたちは知らなければならない。それは誰にも分からない。先生にしか分からない。イエス様においては、最後には三人の弟子からも反対される結果になった。だから、この道を世界的に開拓していく時、三つの国家から反対されなければならない。

 三人の弟子は世界的国家の代表として象徴されるから、三つの主権から反対される。一つの民族内、すなわち、長成圏内で迫害されるのではなくて、これは全体的、世界的情勢の波のまっただ中にあって、そういう蕩減条件を立てなければならない。こういう中にあって、勝利の基準を積んできたのが第一次七年路程であった。一九六八年からは第二次七年路程が始まった。このような蕩減の道を先に勝利していかなければならないのは、イエス様の失敗の基準を取り戻し、アダム、エバの堕落の基準を取り戻し、内外ともの蕩減基準を通過し得なければならないからである。

 今あなたたちが学んでいる『原理講論』、これは歴史路程において成された結果的記録であり、これをいかにして湯減すべきかということについては、まだまだ述べていない。それは先生自身が闘って、勝利して切り開いていく。韓国においても、今や統一教会は、いかなる力を合わせても、どうすることもできない、この地上から抜き取ることのできないその基準を完全に勝利した。もしも悪のほうから統一教会を打とうとすれば、神御自身がこれを守ってやらなければならない。神が守って、サタンのほうから讒訴することはできない。そういう貴重な勝利圏である。これは、先生を中心として二十一年間で成してきた。神がイエス様を中心とした2000年間、あるいはそれ以前の4000年の間望んできた、イエス様の実体を中心とした過去の失敗の基準を、我々が終末の時期において成就し得たということは、歴史的、世界的、天宙的に喜ばしいことである。福音といえば、これほどの福音はない。

 いかなる人間といえども、縦的讒訴条件を免れることのできる者は一人もいないこの地上において、縦的讒訴条件ばかりではなく横的讒訴条件までも、我々は飛び越えることができる、こういう時を迎えたということは、これ以上の幸せはないということを、まず分からなければならない。蕩減復帰は反対であるからである。

 アダム家庭においては、アダムの堕落をカインとアベルを中心として反対に上がっていって復帰する。だから、カインとアベルを蕩減しないと、真の父母なるメシヤを迎えることはできない。そういう立場から考えると、来たるべき再臨のイエス様、神の心情に一体化し得たそのお方の来られる道は、平担な道ではなくして、イエス様の最後に負った十字架から戻って来なければならない。ゲッセマネやカルバリの最高の苦しみのまっただ中から、生死の問題、のるかそるかの問題を通過して、勝利し得た生きた祭物として立ち返らなければ復帰の足場はできない。

 牢屋から出発した統一教会



 だからメシヤとして来られる方の最初の道は、一番近いところ、一番遠いところ、すべてから反対される道である。まあ、日本にはそういうような歴史はなかった。世界的な摂理に対する神のみ旨は、先生を中心とした韓国にあったからこそ、そういう環境がつくられたのである。そういうことを考えてみるとき、我々は苦労のどん底から復活の道を開拓していかなければならない。だから、最初の統一教会はどこか?牢屋である。福音の初代教会はどこから始まったか?牢屋である。牢屋から第二イスラエル歴史は始まった。それを復帰するには、自然になっていくのではない。蕩減という問題が引っかかっている。だから統一教会も牢屋のどん底において、神直接に働いて、共に基盤を成すような過程を通過しなければならない。

 イエス様が牢屋に捕らわれた時には、弟子たちも追いに追われて、みな逃げてしまったけれども、今度はそれと反対である。恐ろしい、命懸けの立場において、みな、真正面から一体となって、自分から死の境地を責任をもって先頭に立ち得る者でなければならない。

 もともと、どん底から上がってきて七年で通過すべき神の摂理であったけれども、二十一年もかかった。民族共に迎えたならば、民族を代表し得る中心の宗教が迎えたならば、七年間でよかったのだけれども、我々はその環境を得ずして、二十一年間という路程を通過するようになった。

 あなたたちが知っているのは、一九六〇年からの第一次七年路程だけれども、その背後関係は知らない。その背後は神の家庭の歴史であり、この地上における神を中心とした氏族の歴史である。だから、この歴史を知るに
は祝福されなければならない。歴史基準においての相続権を受けなければ、それを教えることができない。その路程を完全に知った時、ああ復帰の歴史はこういうようにつらい道をたどってきたんだな、ということを感ずることができる。だから祝福がいかに貴いかということを、我々はさらに考えなければならない。

 生死を乗り越えよ



 そういうような立場を望んでいる我々にとって、まず第一に問題になるのは何か?み旨のための生死の問題である。イエス様のゲッセマネの祈りにおいて、自分の思いではなく神のみ旨どおりになし給えという基準、それ以外にない。個人の願いにおいては十字架の道を願わない。しかしこの道を行かなければ、神の摂理は成されない。白分はみ旨のために生きている以上、み旨のために行かなければならない。そういう基準において、生死の問題を乗り越え得るだけの確実な自信をもたなければ、復帰の道を迎えることもできなければ、行くこともできない。

 だから、いわゆるみ旨のために命を捧げ得るような自主性があるか。それも、自分一人ではなく、それを万民に訴える立場で、自分のあとに続く弟子たちを、その平安な心情で慰め得るような余裕しゃくしゃくたる態度をもち、しかも命を懸けた自主性をもつ者となり得るか。それが問題である。私はこういうような若い娘であり、こういうような美しい容貌をしていて、どこへ行っても、誰からも迎えられるにふさわしく、特に欠点もない、そういう乙女が命懸けの仕事など気に食わない。あるいは、我は男として、これだけの体格があり、家柄やその他の外的条件から見ても、天下どこへ行っても不足なところはなく、我願うことはことごとく成し得る。このような素晴らしい男が、みすぼらしい格好して、惨めな命懸けの仕事など、という方向に考えてはいけない。冒険の道、命懸けの道を行くにはつらい顔をしてはならない。

 もしも、イエス様が十字架を背負ってカルバリ山上へ向かう時、ああ悔しい、こういうことをやるんじゃなかった。男が三十三歳にもなって結婚もせず、こういう運命になってしまった。これでは男の使命は、男の価値はどこにあるかと考えたら、嘆息の種はいくらでもある。しかし、それは問題ではない。我は行く。襲いかかる十字架の重荷も、それが問題ではない。体力尽きて倒れても、その内心は倒れない。堂々たる気迫をもっている。道端に自分の母親や僕のヨハネを発見して、今後の問題を頼むような余裕のある態度、世界の歴史のいかなる偉大な人物といえども、その内心において神と通じた強い決意をもった男は一人もいない。その恩恵によって歴史は新しい命の方向に向かい、そこから地上における神の出発点となった。

 現在までに、2000年の歴史が通過したけども、イエス様の精神は汚れずにそのまま受け継がれているこの時代に生きる我々は、いかに幸福な者たちであるか。その伝統を直接受け継ぐべき偉大な使命をもった我々は、命一つぐらい問題ではない。だから、死の暗闇の中に叫び上がって、神の心情の光でその暗聞を切り裂き、そして世界にその光を輝かせるような、そういう内的歴史をもった男になっているか、女になっているか。それが問題である。

 もともと堕落は死の境地に陥ったものであるから、救いはその境地を乗り越えなければならない。どうせその過程を通過しなければならない運命ならば、気持ちよく、男らしく生きる若者たち、青年たち、壮年たちにならなければならない。これがあれば世界は新しい方向に進む。我々はその母体をなす心情に燃え上がっている。あなたたちの内心には、そのような生死の境を乗り越える自信があるか。先生は何十、何百、何千、何万と生死の境をにらみつけて対決してきた。そういうような運命が、いつ再び来ても、たとえ足を切られても、目玉を抜かれても、首が飛んでも、出発した決定の路程に消えていく。そこには何一つ条件はない。だから死んでしまわなければ勝つ。

 神の願う勝利



 この前、五十名近くの一行が韓国に来て、釜山の聖地の所へ行ってみただろう。そこは墓場の側で、石ころだらけの谷で誰もいない。そういう所に先生は豚小屋みたいな、仮小屋を作った。しかし、その小屋の中に寝る時でも、この地上のいかなる栄光の宮中に住む人より、神の子として親孝行し得る第一の道を歩んでいた。そして、誰も追いつくことのできない深い内心の基準に到達することが望みだった。

 その当時は、見ただけで外面的に何でもない、一文の価値もあるようには見えない。ひげが伸びているし、顔は黒くなるままになっているし、服装は西洋式を混ぜている。しかしその話は、これはでっかいものだ。大砲より、原子爆弾よりも大きい。あんまり大きいものだから、みな驚いて逃げてしまう。先生はそういう環境を味わってきたのだけれど、君たちはそれは分からないだろう。そういうことを話したら、五十年もかかるよ。

 君たちはいくら苦労して活動してその環境から追われても、自分自体を神の前に永遠に残さなければならない。イエス様は外的に、十字架路程に消えていったのだけれども、内的に神の心情に焼き付いた基準は、神御自身報いざるを得ない。イエス様がそれを願わないと言っても、神の心情を抜き去ることはできない。イエス様は四〇〇〇年の歴史上、最初の子供である。ここには300人近くいるだろう。この人たちがこういう決心だけするならば、日本四十三県の問題はふっ飛んでしまう。勝利というものは過程において決まるものではなく、出発の時の内的基準によって決定された結果、表れてくるのが勝利である。これが分からなければならない。その勝利が、生死の境を何百回も見て成し得たものだという場合には、それを奪い返すためにはそれ以上の決意が必要である。神は永遠なる勝利、サタンも追いつけない勝利を願っている。

 日本の現状にあって、まあ先頭に立って、厳しいつらい中を自分ながら苦労してきたけれど、ここでいいだろうか、効果があるだろうか、と思うかもしれない。しかし先生にはちゃんと計算の世界がある。だから統一教会が教えているすべてのものが、歴史を動かし歴史に残っていく。考えもしなかった、思ってもみなかったことをあなたたちに教えているんだよ。日本でも、相当統一教会はうわさになっている。若い青年時代をみな費やして、苦労の道を重ねていったいどうしようか。やっと東大に入学して、親兄弟や知人からたたえられていたのに、統一門下に入って、家中がめちゃめちゃの結果になってしまった。そういう人がたくさんいる。

 しかし、男であるならば世界を舞台にしなければ狭い。いくら苦労しても、日本圏内における苦労は神の理想圏に入り得る苦労ではない。統一教会は何か。神の理想圏に入り得る基準を目的とするから、それを知った我々は、より大いなる価値を中心とせざるを得ないという結論に達する。

 迫害される道を行こう



 イエス様の死の立場において、神はこれを復活させられた。ここから新しい世界が出発してきた。これを反対に蕩減していかねばならない。3人の弟子の信ずる立場、12弟子、70門徒、120門徒、反対からいうならば、120から追われ、70から追われ、12から追われ、3人の弟子から追われて十字架まで行かれてしまった。これを蕩減しなければならない。そのためには、死ぬか生きるかの問題を中心として、神の立場に立ち返るか、立ち得ないか?これをまず決定しなければ復帰の路程はもどかしくて仕方がない。

 そして、その基準が立った場合には、迫害の道を通らなければならない。今は民族的立場に立っている。国家基準を中心として我々は責任をもつ。自分の三代圏以内において、完全にそこまで復帰させ得る決意をもたなければならない。なぜ三代かというと、それは原理数で、四位基台というのは三代である。そういう決意をもって乗り越えて行かなければならない。

 蕩減献金と三子女



 イエス様は真の親として、真のお父様として来られた。その方をユダが売って、死の谷に陥れたその行動は、結局、世界万民がなしたと同じになってしまう。それをなしたる子孫として、摂理圏内にあるすべての民が、自分の真の親を売った結果になってしまった。これを蕩減しなければならない問題として、蕩減献金の問題がある。真の親を売ったのを蕩減しなくてはならない。一人の行動によって、真なる親をこの地上から追い払う立場になり、四方八方に神の摂理は完全にふさがれてしまった。その結果、四方八方にサタンははびこってしまった。

 これを蕩減しなければならないのが蕩減献金で、4年間3数に値する金額を、真の親を売ったその実体の値として、神のほうにお返ししなければならない。四年間というのは東西南北に値し、韓国においては三〇〇〇円を
四年間、そのお金は汗と涙と自分の死の値よりも精神のこもった、神のみ旨を思う基準において、勝ち得たお金を天の前に棒げる。この問題が蕩減路程に残っている。

 その次は三人の弟子、三主弟子の問題である。イエス様を中心として一体となるべき弟子が、イエス様を裏切るような立場になったのだから、これを復帰しなければならない。それから12弟子、70門徒、120門徒という問題になっている。これが蕩減路程において果たさねばならない我々の路程である。我々においては三人の信仰の子供を立て、それを中心として12人、70人、そして120人の門徒を立てねばならない。

 これが、先生の今まで成してきた二十一年間の路程であった。イエス様がこの地上で果たし得なかった運命は、神の悲しみであり、イエス様の悲しみであった。これを我々は解決しなければならず、それが統一教会の使命であり、我々の行くべき公式路程である。そして氏族を復帰して、新しい先祖の基準をつくっ民族復帰をし国家、アジア、世界という基準に立って発展させていこうというのが、神の摂理の行くべき路程である。

 迫書の中での聖婚式



 1960年の聖婚式の背後には、過去4000年に重ねて、イエス様から2000年という、歴史の週程に引っかかったすべての蕩減条件を果たさねばならなかった。そロ内容において世界的であり、天宙的立場に立たされているにもかかわらず、現実には数少ない人々によって成してきたのであるが、その迫害たるや想像に絶するものであつた。

 1953年から60年までの準備の期間は、迫害の時期だったのである。そこには、少なくとも360万以上の入が迫害の旗を立てて、教派としては三つ以上、そして、その時代の国家としては三主権以上の数多くの迫害のまっただ中におかれて、それでも蕩減条件を勝利の圏内に立たせられたのが、1960年における先生の聖婚式であった。これが、統一教会の運命を決定した最初の日である。

 これは、この地上において記念すべき世界的天宙的大事件であった。世界的基準における、縦的蕩減条件を横的にこの地上に解決する実体として、霊肉ともにおいて勝利の基準を成したということになる。それをするには、先生の聖婚式の前に三人の弟子を、反逆したその弟子を復帰しなくてはならない立場にあった。目的は何かというと、我々の親たるアダム、エバが大婦の関係において堕落した。堕落は大婦を通して成されたのだから、復帰は→人ではなされない。男一人では復帰できない。男一人では救いは完成されない。女一人でも天国にいかれない。したがって、二人でもって解決していかねばならない。真の父母がアダム、エバの基準を、この地上において立てなければならない。それには、三人の弟子の約婚という問題を中心としなければならない。

 イエス様の三弟子



 復帰はアダム家庭復帰を目標として成されるから、それがノア家庭に移され、ノアの家庭を中心として、世界のすべての人々を、洪水の裁きにおいて減ぼし、サタン侵入の条件を離れて乗り越えた家庭基準を立たせて、摂理の基盤を地上に置こうというのが神の摂理であった。それがアブラハムに、イサク、ヤコブを経て、モーセの時代に移り、イエス様へとずーっと延長されて、我々の時代まできたのだから、その道を蕩減しなくてはならない。アダムの家庭基準を蕩減しなくてはならない。その失った三人の子供を復帰せずして、真の父母の立場に立ち帰ることはできない。

 イエス様において、三弟子は絶対必要であった。その三人は何を象徴するかというと、アダム、エバにおいて三人の天使長がいたというんだね。三人の天使長が一体となってアダム、エバに服従し得なかった、侍らなかった。その結果堕落世界になったのだから、完成する父母の境地を乗り越えるには、三人の弟子の基準として、完全に侍り得る三人の天使長たるものがなければならない。これを果たさなければ、サタンを地上から追い払うことはできない。霊界において三天使を象徴し、堕落圏内において三時代、旧約時代、新約時代、成約時代の三時代を通過しながら、カインがアベルに服従し得なかった歴史を、完全に蕩減するには、第一のアダムの家庭におけるカインの代表、イエスの時代におけるそういう代表、再臨の時代におけるそういう代表、この地上に縦的歴史過程を通過し得るアベルに対して、カインの三人の代表を縮小したその三人が、いわゆる主弟子である。

 霊界においては三人の天使長、地上界において服従し得なかったカインの代表が、旧約、新約、成約の過程において、縦的歴史観をつくってこられた再臨の主によって一時に屈服される。アダムの身代わりはイエス様であり、イエス様の身代わりは再臨の主である。そのアベルに服従し得たという三人の信仰の子女をもたなければ、真の親の立場に返ることはできない公式となっている。自分の生死の境を乗り越え、迫害のまっただ中にも従いゆく、親孝行になりきれる三人の弟子をもたなければならない。その基準が1960年の4月に立った。

 復帰路程においては逆に上るんだから、祝福は子供の立場に立っている者が先に祝福される。家庭圏はヤコブの家庭だから、十二基準を基盤としなければならない。三人の弟子、三人の子供を中心として、そのような基準を通過しなくてはならない。

 十二弟子の祝福



 アダム家庭において、カイン、アベル、セツの三人の復活体として相対基準を成し、それを約婚の立場を乗り越えて実体的に親の立場を決定したのが、一九六〇年の聖婚式である。神の恨みとするアダムの家庭における三人の子供と父母が一体となったということが、地上において歴史始まって以来、初めて1960年に韓国で成就できたというのは世界的なことであり、新しい歴史の運勢が回り始めたといえる。すなわち、1960年4月、十二数を中心として祝福した。

 この基準は歴史的に見て何に値するかというと、イエス様の十二弟子復帰の基準に値する。聖書にも十二真珠のたとえ、イスラエルの歴史も十二数を中心として問題になっている。だから、二〇〇〇年前イエス様が成し得なかった、二番目の天の息子としての使命を蕩減しなければならない。それを天地に解決しないと、主的キリスト教の理想が、霊肉の地的基準の基盤をつくることはできない。神の悲しみは何かというと、地上において足場となり得る個人、家庭、民族、国家がないことである。これを立たせるためには、足場の基点となる個人、家庭の基準を成さねばならない。その家庭はノア家庭、ノアの三子息を中心として、アダムからノアまで十代、そこにカイン、アべルを兼ね、ノアの子供セムとハムを兼ねて十二代。そしてノアからアブラハム、イサク、ヤコブまで十二代になる。

 ここにおいて十二人を復活させたのは何かというと、アダム家庭からアブラハムまでの失った先祖たちを復活成し得た結呆となる。言い換えれば、縦的蕩減を横的に成し得た結果となる。だから、アダムからノアまでは十代だけれども、摂理上双子を中心として、カイン、アベルの基準を見た場合、十二代になるというんだね。その横的関係を実体圏において、十二の弟子を祝福して蕩減したということになる。サタンがいつも讒訴し得る第二の位置を、勝利圏に収めた結果になる。

 ノア家庭はアダム家庭の身代わりであり、ノア家庭を中心として復活させる基盤をつくったのだから、アダムよりノアまでのカイン、アベルを合わせて、すべて十二代を復活させることができる。霊界に行っている霊人体の立場を、地上において復活し得る窓口が開かれ、霊界解放の基準が、地上に決定することができたということである。

 三種の家庭



 アダム家庭、アブラハム、ヤコブ家庭という十二数を地上において初めて、縦的関係を横的関係において成し得たその基準がヤコブ家庭の祝福であって、統一教会の本部においては、アダム家庭、ノア家庭、ヤコブ家庭を第一家庭、第二家庭、第三家庭という。第一家庭は既に結婚していた、自分の気ままに結婚した人たちを祝福した十二人の人たちであり、ノア家庭というのはイエス様の立場に立っているような条件に引っかかっている者。それは何を意味するかというと、イエス様は2000年間何を願ってきたかというと、結婚式を願ってきた。祝福のその一日を願ってきた。その立場から、愛の問題を中心として関係はもっていたけれども、結婚式を成し得なかった者たちを引き集めて祝福したのがノア家庭である。これはイエス様がずーっと望んできた立場であった。ヤコブ家庭は、これは善なる男女を中心にして、三十六家庭を祝福した。

 ここにおいて統一運勢、天地ともの天宙統一の基盤を、地上において決定することができたということになる。三時代を通して先祖が目的を果たし得ず、失敗してきた神の悔しい歴史を横的現世において勝利成し得たというのが、統一教会の先生の成してきた歴史である。霊界が地上に降臨した結呆になっているというんだね。だから、神様はどこにおられるかというと、神臨在なし給う所は天上ではなく地上圏であるという、その基準が成し得たという結果になってしまう。神様が地上にいまし給うようになったのだから、地上的世界発展基準がそこから始められることになる。

 1960年からの七年間は、神の地上降臨の基盤を完成する期間であったというんだね。

 七十二双と一ニO双



 次に子女の問題がある。カインとアベルの闘いにおいて、カインがアベルに服従し得なかった先祖たちの立場であったのが、今まで延長の歴史となってきた。それを蕩減するには、先祖たちの一家庭、一家庭の前に、カインとアベルの服従の基準の蕩減をなさなければならない。それが七十二家庭である。三十六の二倍である。先祖の成し得なかった四位基台、サタンの譲訴条件となっていたものを、神のほうに勝利圏を成し得たのであるから、サタンは後退せざるを得ない。縦的関係を全部地上に引き降ろしてしまった。父母の地上的世界的発展の基準を立てた統一教会におきまして、七十二双の祝福とともに一二〇双の祝福がなされた。一二〇双は何かというと、世界万国の代表を象徴したものである。

 イエス様は、霊的において、世界的出発するには一二〇の門徒を世界代表の勝利圏の立場に立たせなければ、
世界発展をなすことはできないわけで、これを霊的でなく実体的に、先生が統一教会において呆たさねばならなかったのが二十一年間の使命であった。それが成されたのだから、次に何が始まるか?万物祝福。つまり聖地決定ということになる。神の願う人を探すことができたのだから、次に万物を得なければならない。これは一九六五年の世界聖地、四十カ国を中心として、一二〇カ所の聖地決定であった。これを世界的に成して、その運勢を大きく転換させるポイントとしてきたわけである。

 神の日の決定まで



 次に、素晴らしい日の一つに「父母の日」がある。我々堕落した後孫において、神から喜ばれる父母をもつことができなかった。しかし、これを復帰することができた。再び迎えることができた。これ以上の喜ばしいことはない。そして「子女の日」を迎えた。こうした、堕落の結果において失われた日を人類は迎えることができなかったのは、復帰の路程が分からなかったからで、これを成し得たということは、歴史的福音である。

 これによって、一九六八年一月一日「神の日」が決定された。「神の日」の決定とともに、地上に神の臨在の基準を立たせることができた。したがって、統一教会の発展は、地上において急速に日を追って進むであろう。そういう基準を成し得たのだから、統一教会の真理を中心として、霊界解放とともに地上解放、地獄を解放ということに発展していく。なぜかというと、神の日を迎えるその時には、地獄もサタンもない基準に立ち帰るということは理論的に可能だというんだね。「神の日」の決定とともに、先生の使命は完成された。

 イエス様の失敗を復帰



 先生は韓国に追われ、既成教会に追われたけれど、イエス様においては、ユダヤ教に迫われるようになり、その身において公式路程を開拓しながら、新しい、ユダヤ教を乗り越えて、ユダヤ教の失敗を収り除き得るイエス様の福きを中心とした、第二の新生のユダヤ教を立てようと出発したのが公式三年の路程である。それは個人から家庭、家庭から氏族、そして新しい民族と・・・・・・。これは、イスラエル圏のサタンを屈服し得る、霊肉ともの永遠の勝利の基準を立たせようとしたのだが失敗した。

 先生は、ユダヤ教においてイエス様が反対されたのと同じように、既成教会に反対されて、サタンのまっただ中に人って闘って、そうして反対に元に帰さなければならない立場に立ってしまったのだから、追いに追われるような身になって、先生は、北韓の怨讐の本拠地である平壌への道をたどらなければならない。神が祝袖して、今まで基盤をつくっておいた本郷の地である白分の故郷のソウルをあとにして、怨警の本拠地であるところに行かねばならない。そこにおいて闘って、また闘って講訴条件を乗り越えてこなければ、第二の出発をなし得ない。それが、先生の共産圏においての獄中生活であった。

 獄中生活においては、イエス様が追われ、弟子がみな反対するというような立場ではなくて、その牢屋の中においては歓迎されるように十二数以上の弟子を霊界から伝道し、先生に結ばれる基準が成された時、そこから、それ以上の基準が、新しい歴史が出発していったというんだね。

 そのようにして、南のほうに来て、新しく反対する既成教会を押しのけて、先生を中心としてあらゆる新しい教派、いわゆる今までの世界的基督教のすべての使命を一人において呆たし得、結合させようとする神のみ旨を行ったのだけれども、彼らは迎えなかった。そこで、我々はそれを押しのけて新しい教派の基準として、彼らに比肩するような教派圏をつくっていった。彼らなくしても、我々は神の摂理を受け入れて呆たし得るょうな基盤をつくったのが、韓国においての統一教会であり、統一教団である。

 そして、一九六八年をして既成教会とアカデミーハウスの問題が始まった。九月十日だったかね。あの時、既成教会の博士や、統一教会の先生に対して反対してた筆頭者ばかりが集った。約四十人ばかりだった。大きな顔をしているそこへ堂々と入っていった時の気持ちは悪くなかったね。

 我々はもう時勢において、こういう時を迎えなければならない。その人たちは今から何年か前に、自分の気ままに反対したその者である。あなたたちは〈今〉吹けばプッと飛ぶようなみすぼらしい者であるけれど、時来たり、時節過ぎてみた時に自分たちの思っていた男じゃない。今その両襟を正して、前に現れる立場になってしまった。結局その人たちが先生を迎え、統一教会の真理を推挙するようになったことは、勝利的な段階に入ってきているということである。そういう結果になった。だから韓国において、非常に問題である。統一教会が一番怖い。文先生は最高の総司令官である。キリスト教においても手のつけようがない。理論的にもとてもかなわない。だから相手にするなと、今まで烏合の衆みたいにガヤガヤやってきた。

 勝利の基盤



 そうした迫害の道をたどりながら、復帰の道は開拓されてきた。

 天下すべてが立って反対しても、これを太半のごとく肝っ玉をもって迎えるよ。我、何遍死しても天のみ旨は果たし得る圏をつくり得た。これがなぞであった。既に、神の六〇〇〇年の歴史を通過し得なかった歴史的問題すべてを、先生一代において成し得た。成功した。今は死んでも統一理論は世界を制覇する。いくら一億ガヤガヤ動員して反対しても統一主義には絶対勝てない。

 日本を神が必要とするのか。日本自体を要求するのではない。世界を必要とするからだ。霊界、地界、天宙を必要とするからだ。世界的環境を神はまずつくった。今はちょっと動けば、世界がすぐ動きだすような時代圏に入っている。私たち統一青年において、神がいないということは夢にも思わないだろう。神はいるが、観念的神ではなく、生活圏内においての神である。その心情たるは感傷的心情ではなくて、実証的な心情を兼ねている。これこそ素晴らしいものである。

 祝福の基準



 復帰の路程を完全に通過しなければ、個人、家庭、氏族、民族、天宙すべての圏内に入って、サタンに讒訴されない基準を立たさなければ、祝福の条件を立たすことはできない。

 一九六〇年が、いったいどの基準であったか?堕落したアダム、エバの立場、長生完成級の基準である。長成期完成級基準を中心として完成圏まで上がるには、七段階の七年の期間が必要である。それが第一次七年路程であるというんだね。完成基準に立ち入る時は神の直接主管圏に人る。直接といえば内外ともの直接だから、心情、生活圏ともに主管成し得る基準である。

 完成基準を残して祝福した基準が、一九六〇年である。しかし、その圏たるは今まで堕落したアダムにおいて、堕落した圏内に入っているのだから、サタンの主管圏にある。この主管圏内において、サタンを打ち壊す大物が現れてきたのだから、その家庭に対してサタンは総攻撃してきた。しかし、反対に追い払って闘ってぶつかって蕩減し、神の日の決定、子女の日、万物の日、父母の日と、四つの日の決定をこの七年間に成し得たのである。

 神からサタンが奪っていったものを、奪い取った基準が立ったのだから、そこにおいて完成基準が完全に地上に決定権を成し得ることができた。

 花婿と花嫁がサタンを押しのけて出会う。その一日が神の願いであり、二〇〇〇年のキリスト教の歴史であったが、花婿はイエスで、天を指し、聖霊は女性神で、地を指し、空間のサタンを突き破って天地が一つに成り得た宗教人の最高の目的を、我々統一教会が成し得たというんだね。だから、ここにおいて始まった先生の家庭を中心として結び合っている家庭は、一つの氏族である。それが日増しに発展していけば、これは民族になる。もう少し発展すれば国家、世界圏を成し得る。

 だから新しい民族、第三イスラエル民族ということになる。今までの歴史過程の先祖より受け継いだ血統による子女でなくして、新しい血統圏を受け継いだ神による子女圏となり得る立場を授けるのが統一教会である。我々の立つところは違う。サタンの讒訴を防ぎ、勝利圏を成し得た内容をあなたたちに教えましょう。どの基準にあなたたちはいるか。長成期完成基準にも上がってこないというんだから、祝福ということが問題だというんだよ。二人の男と女が追い出されてしまったのが堕落だから、二人は歓迎されない境地を乗り越えなければならない。それが祝福である。

 第二次七年路程



 祝福というのは完成基準における祝福じゃないよ。

 先生においての神の日、先生においての父母の日、先生においての子女の日、先生においての万物の日は世界的、天宙的に決定された。あなたたちはその圏内において祝福し得る、参席し得る立場に立っているというんだけれど、参席はし得てもその道はまだ行っていない。本当はあなたたちの父母の日、新しい氏族の先社として立ち帰る時が、あなたたちの真の父母の日であるというんだね。木村だったら、木村氏においての真の父母のHが生れてこなければならない。真の子女の日、万物の日をこの木村氏を中心として、そして神の日の決定という白い旗を立てて、永久に翻るその日を我々統一教会は迎えなければならない。

 この旗を掲げて出発したのが第二次七年路程である。それは長成期完成圏において勝利した男、堕落した後孫であるけれど堕落しないアダムより以上の立場、エバ以上の立場で、完成に向かって堂々と行軍し得る立場、サタンの邪魔があれば屈服させるその権威で押しのけていくのが、我々の唱えている全面的進撃である。それは先生だけに限るんじゃないよ。全世界的になっているんだよ。男も女も老いも若きも行かなければならない。第二次七年路程も全面的進撃の年である。

 先生の氏族



 そして、この第二次七年路程においても、先生の恨み、イエス様の恨みは何かというと、親戚関係を中心として真理を語り伝道したことがない。自分の使命も話すことができない。主張したことがない。先生の父母とか、先生の兄弟たちに、どういう使命を〈先生が)もっているかは分かってもらえないけれども、兄は「自分の弟は何か大きな人間というか、大きなことをやる。」「世界的な弟をもっている」と言ってくれたんだね。まあ、そういうことを知ってくれる兄さんや、お母さんに対しても、先生は八人兄弟だが、誰よりも愛したその肉親に対しては、この貴重な原理の内容を打ち明けることができない、悲運な男として立っている。これが先生の悩みであったo

 自分の血統的に近い、愛の関係をもっている父母とか、兄弟を中心として、血縁のものを愛することができずして、反対のサタンのほうに、カインその者を、自分の血統の親より以上、兄弟より以上愛さなければならない立場をたどってきた。それが今日の統一教会の発展となった。ちょうど自分の嫡子より以上に愛さなければならないようなものだ。自然屈服させなければ、アベルとして蕩減復帰はできない。だからカインがなければ、アべルが立たない、ということになるんですね。

 自分の血統的嫡子より以上の心情でもって、自分に孝行し、尽くしてくれる者を伝道しなければ、蕩減復帰はできないのだから、そういう立場を立たせるということはいかに苦労であるか。食べることも、寝ることも忘れて愛さなければ、彼らは心情的に屈服しない。そういう環境をずーっと広げて、勝利圏をつくってきたのだということを知らなくてはならない。

 氏族的メシヤになれ



 あなたたちにおいては、先生と違って、今から第二次七年路程が始まった以上は、自分の血統的、親、兄弟に対して自分の尊いものを直接与えることができる圏内にあるのだから、統一教会の食口たちは結局氏族のメシヤの立場に当たる。氏族のメシヤとして、第二次七年路程において成すことは、先生の成し得なかった、イエス様の成し得なかったことをあなたたちの氏族を中心として、親を中心として、兄弟を中心として、新しく成すがため、あるのであり、それによって神のほうの蕩減をみな完成させよという。そして個人から、家庭、氏族、民族、国家基準を愛したという基準を立たせるんだから、完全に個人から家庭、氏族、民族を通過する道が、世界までの道ができたということになっている。

 イエス様が四〇〇〇年の歴史の末に、ヨセフの家庭において、み旨をマリヤとヨセフに打ち明けて、協力して果たし得る基準を取り継いだ立場に立たせるのが、第二次七年路程の出発の基準であり、使命である。

 先生もそうであったけれども、神様も自分の近親の者を愛したならば復帰はできなかった。愛する民族を引き裂き、犠牲の立場に立たせて、十字架を背負わせてきたんだね。サタンのほうの家族を、サタンの氏族を救うために自分の一番近い、子供、家庭、氏族を犠牲にしてきたのが今まで神の摂理の路程である。

 だから、神様は愛だというんだね。十字架につけられる。その怨讐たちに対しても祝福をしなければならない。神に彼らの罪を、「彼らは分からないから赦してほしい」「助け給え」と祈りをなしたのも、神の心情圏を知ったイエス様であったからこそ、そのような祈りができたわけだね。

 復帰路程は拳による力ではない。心情的力によってすべてを屈服させる基盤をつくらなければ、蕩減完成は成し得ないということを、私たちは知らなければならない。結局、「復帰と祝福」という問題は、イエス様が成し得なかった祝福を我々として果たし得るところに、復帰完成と祝福完成があるということが分かれば良いという結論に達する。



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02_理想相対

 御旨と世界
(全面表示)

 



理想相対

1969年2月4日

 東京

 東京教会


 理想相対という問題は、歴史以来ずっと問題になってる。今の世界も、今後の歴史においても問題になる。ここにおいて、理想相対の絶対なる基準はいかなるものであるかを考えてみる。

 美人として美男子を望むのが当然であるか。そうではない。我々が統一原理によって教えられたことは復帰という問題である。神が願う真なる理想相対、夫婦関係が失われてしまったから、このようなやっかいな世界になってしまった。それを取り戻すにはどうするか。男性として自分の喜ぶ女性を迎える、女性として白分の言ぶ男性を迎える。その立場だけではない。その限界を乗り越えてそこにはまだまだ立体性をかけ、神も喜び、万物すべてが喜ぶものでなければならない。そのような環境というものは、存在するすべてのものが、その夫婦に動員せられて、それに応じなければならない。鳥は彼らにさえずり、ちょうちょは喜んで飛ばなければならない。こういう現象界において神は喜び、人も喜び、万物すべてが喜び、小さな昆虫界も喜ぶ。こういう立場にあって我々先祖たちが出発したら、それこそ理想郷だ。

 
女性の心の中にある男性といったら、神の愛するその男性であり、そしてその似合いの男性の心の中には、神の愛するその女性がある。そして共にたたえた場合には、神もそれを望んで言ばれ、万物のすべても喜び谷う。彼らが抱き合うその喜びの基準が、天地共に喜ぶ価値になる。そのようにして一体となる、男女それ自体、宇宙が一体になるその場であり、神の理想の姿である。創造本然の姿はそうであった。

自己中心愛



それが堕落によって、神と万物の因縁を切ってしまった。自分ながらの抱き合い、自分ながらの付き合い、自分を中心としての愛の占領主義、これを思う者はサタンのものであり、サタンの特権に振り回されていることを知らなければならない。

 日本の場合は特にそうだ。若者たちがたくさんいるから、こうして団体生活をしていく中に復帰の実情を知って、厳然としたその位置を固守した立場をもたねばならない。神のみ旨が成就しなかったのは男女の堕落である。だから、一人で神のみ旨を正すことはできない。男女共同して、そこに神のみ旨を立たせることによって、そこから社会、国家の問題が復帰の立場となる。それなくしては、国家も世界も、あるいは天宙も復帰できない、そういう結論になっている。それを責任をもって担当し、忠実にそれを完遂し得る男女こそが、神の愛による姻縁を再び成すことができる。それが今まで神の心中の望みであったにもかかわらず、中間過締において堕落してしまった。天使長の愛に従って抱き合った結果が堕落世界の始まりであり、長い過締を通過してきた世界の歴史は、苦悶の歴史となってしまった。これを復帰しなければならない。

愛の絶対基準



 愛の持ち主はいったい誰か。愛の主人は誰か。男性の立場からいった場合には、女性がいなければ愛も何もあったものではない。愛の相対基準は男性の前には女性である。女性の前には男性である。しかし、これは相対基準であって、愛の絶対基準にはなり得ない。通過過締の存在としては認めるけれども、その主体としての価値を認める存在ではない。だから絶対的な立場にいる愛の持ち主、主人功は神様である。その神様の愛を、神様のみ旨のままにモさずして、それを横取りしようというのは、泥棒である。エデンの園を犯したその犯罪人である。れが分からなければならない。

 堕落後の先祖の血統を受け継いできた人類は、蒔いた種を刈り取る時期になったのだから、若者たちが目に余る行動を平気でやるようになってしまった。日本も多いんだろう。青少年たちが、まだ、二十歳にもならない者たちが――。これは、そういう種を蒔いたのだから、世界的に、収穫しなければならない秋の時期になってきたのを表徴している。しかし、こういう時が来た場合、理想的な新しい男女関係、理想的な相対基準、これをたたえる、ある者が、ある動きが現れてこないと、神がおられない結果になってしまう。こう考えた場合、理想相対というたたえがこの地上の一角に現れて、騒がれだしたということは、世界においての限りない福音である。神が喜ぶ福音である。



悔い改めよ

 統一教会の女性たちは今まで培ってきたその心情を、路傍のつまらん男性になんか握られるな。踏まれてはいけない。本当は信仰が深くなり、霊的体験をした場合などは、めちゃくちゃに行動できないというんだね。だから愛は神様から。自分からはサタンだよ。神様を押しのけて自分たち同士愛し合おうという、これがサタンの世界である。

 今まで自分ながらにそういうことやってきた者があったら、先生の話聞いた今から悔い改めなければならない。我々の先祖が誤った行動をして、とんでもない結果になってしまったわけだから、あなたたちは自分たち同士で結婚したりしたら、新しい先祖になれるどころか、とんでもない結果になってしまう。そのような立場で、愛し合うことは絶対許さない。神にすべてをゆだねなければならない。そうして結婚式をした場合、神様を真ん中において神共に喜ぶその顔を見ながら愛し合える、そういう関係、これが真の神様の喜びである。本来恥ずべきものでもなく、一番貴いものであり神聖なものであったのに、神の法則を犯し、罪と悪の恥ずべきものとして歴史は流れてきた。

 ここに真の父母を地上に迎え、新しい歴史をつくり、新しい先祖となるために、真の父母よりその基準が出発しなければならないから、日本における統一青年も、アメリカにおける統一青年も、先生が来るのを首を長くして待ち焦がれている。あなたたちもそうなの?〈はい)。

 気分が良くないね。いろいろやってきたんだろう。手紙をやるのは平気だし、付き合うのも平気、ウインクなんかは、もうちょっとエンピツ買うぐらいの平気な顔してやっている。そんな者が祝福を受けるなんて、先生は気分が悪い。本来の祝福の基準は、そんな気持ちの悪い環境は全然なかった。原理から見たら、あなたたちにはその資格はない。だから堕落した後孫として、その時の基準を取り返さなければならない。神は真なる乙女と息子、神の愛をたっぷり受けたその子供を失った。そして男女同士を考えた場合、神を中心とした夫婦関係を失った。そして子供から見た場合、真なる父母の価値を失った。堕落の行動一つで、この三つがみな奪われた。だから、いかにしてこの三つの心情を一時に、蕩減復帰の原則によって、蕩減し、神認め得る基準を立てるかが問題である。

 まず神の前に真の娘、息子として神を愛する基準を復帰し、その過締を通過して、年ごろになって神の愛を中心とレて夫婦が結ばれ、さらに神喜ぴ願う四位基台の善なる子女を生まなければならない。

神の子女としての実感



 我々が統一教会に入って信仰していく場合にも、最初の出発点は何かというと、神に対して子供であるという実感、神の愛を中心とした子女の立場を復帰することである。神より愛される自分であり、この偉大なる神のみ言を誇りとして、天宙にそれをたたえ得るような心情になっていない自分であったとしたら、それは神の子として、神の娘として立つことはできない。神の権威を中心として、その基盤が立ったことを、自分が自然に感じるような権威をもたなければならない。堂々とサタンの本拠地へ天の息子としての権威をもって、自信満々、いかなることがあろうとも立ち向かっていける基準、それがあるかどうか。アダム、エバを犯したそのサタンを、屈服し得る過締を通過しなければならない。そうでなければ、祝福の基準は立たない。

 我々は世界的なサタンに向かって、より求めていくぐらいの基準、少なくとも、三カ国ぐらいの四位基台の国家基準に対して責任をもち得るような基準をもたないと、天的子女の立場、神の子となり得ない。それを考えると、たやすいことではない。しかし、ここにそういう過締を通過して、今までの歴史になかった、誰が見ても望ましい夫婦が地上に生まれてきた。数千年の歴史以来、数えきれない死の境地を乗り越えて、息詰まるその境地に立って、初めて神願う相対基準が成立した。神喜び、万物喜び、歴史が待ち望んだこの喜びの瞬間、永遠なる価値の御父母様は立った。そこから神の真なる愛による、貴い、こうしてたたえることのできる実体基準としての四位基台が出発したのである。

堕落で失われた相対基準



 夫婦になった場合、女性は自分の夫に対して夫は神の身代わりと思わなければならない。そういう立場になった場合には、妻は夫の娘にならなければならない。神が失った娘を、夫として復帰しなければならない。神は堕落のために三つのことを失った。だからその一つ、神の娘を神の身代わりの夫が復帰しなければならない。奥さんから見て夫はお父さん、お父さん以上に信じなければならない。自分の今までの体験を総合した価値より以上の価値を見いだすような基準に立って、向かい合わねばならない。そういう心情基準を復帰できなければ、サタンが破壊した理想相対基準を取り戻すことができない。その反対に、男性は自分の奥さんに対して、私は奥さんの息子であるというような心情をもたなければならない。自分の奥さんに対して、自分のお母さんのょうな、自分が子供になったような心情がわき上がるようでなければならない。それから、もう一つは、もし私がいなかったなら、一日も過ごし得ない、夜も昼も絶対的に必要な我々であるという心情。そのようにして、夫婦一体となっていかなければ復帰の条件は立たない。

 堕落はエバから始まった。何歳の時か。十六歳。未青年。天が信頼すべき父母の基準を女性が犯した。だから復帰の原則にょって、真の母になるべきそのお方は二十歳を越えてはいけない。そういう原則なんだよ。そして、先生の聖婚式は四十歳を越えてはいけない。そういう理由で先生は若いお母様を迎えて、娘のように愛した。それで最初の七年間は何をする時期であったか。お母様を育てる時期なんだね。天的な家柄や家法による教育、そうなっている。だから先生は、夜が明けた時にはそういうことはしないのだけれど、寝る時にはずっとそのことをお祈りする。お母様には分からないけれどね。そのようにして堕落の結果失われた、娘とその相対基準と神の前に真なる父母の基準、この三つを家庭において復帰する。これは堕落した人間としては、誰もが行くべき道なのである。

 自分ながら相対基準を勝手に決めたとしても、それを天的、地的、天宙的基準として決定するわけには絶対いかない。そういう決定基準を天から受け継いでおられる方が再臨の主である。メシヤである。その基準こそ、歴史が願い求めてきた万民の解放の終点である。だから、その基準が現れた時には、本心に近い、本来の精神に近い者は、そのお方の前に立った場合、説明せずとも、我知らず引き付けられる。

三段階の心情復帰



 このように、我々は心情的には三つを復帰しなければ祝福の基準が認められない。神を中心として上の立場から父母の心情、下の立場から子女の心情、そして夫婦の心情を出発し得る自信のある男性、女性でなければ、祝福を望むこと自体が神の掟に逆らうことになる。そういう立場に私は立っている、という自信のあるものは手を挙げて。日本においては誰も祝福される者はいないね。

 いかなることにも、そこに蕩減という一つのことがあるというんだね。それは、あなたたちの復活の祭物期間だよ。だから、蕩減条件ありがとうございました、というんだね。その内容はいかにして立てるか。それは先生に教わらなければ分からない。聖書にもあるでしょう。全世界をもうけても自分の命を損したら何になるか。どんな代価を払っても、命を買い戻すことはできない。だから我々はそれを願う、命を願う。

 だから男女関係において憐愛は許されない。寂しい?(いいえ)。本当のことを言いなさい。「はい、寂しいです」と。寂しい?(いいえ)。教えなくても、本心によって恐れているから分かるんだよ。こういう内的価値がはっきり分かった場合には、自分が過去において、この手で、ああいう手紙を書いた、サタンの手先になって、自分の手が動いたこと、これはたまらないほど悔しい!何遍泣いても泣ききれない。この身でもって、その時は思いもつかなかったけれども、こういうことをなしてきた。サタンの汚れた血によって汚されたこの肉体。これを清算するために、自分の肉体を切って処分してしまいたい。しかし、そうして死んでしまうわけにはいかないから、それを清算するための条件が必要である。サタンに使われたこの手、この体、みんな一遍に飛ばしてしまって、神の愛によって始まった肉体はいずこにありや。汚れ果てた関係を保っていこうというのはもってのほかである。こういう心情を体血した?

 神にとってエバは未来の奥さんである。なぜなら、アダムは神と一体となるのであるから神自身である。だから神は、自分の奥さんをサタンによって犯された。そのように神を蹂躙してきたものを、今まで始末していない。神は悲しみのうちにも、創造理想を取り戻す希望を抱いて我慢してきた。それを思う時、あなたたちもまた、自分のために神の奥さんを奪ってきて、いい気になって自分の子供たちまでみんな、父なる神を何とも思わないようにすることはできないだろう。

 しかし、これが今の堕落世界であり、サタンと神との関係である。そういう基準において、サタンは私たちの、神の怨讐である。あなたたちも、本来ならば堕落世界にあった。だから、どうせ復帰の道をたどらねばならないのならば、一遍に終えてしまう。何事をやっても私はてっぺんにいたい、そういう燃え上がる心と訓練と力とで、本然の自身を発見していかなくてはならない。

神の心情をたどる



 ここで一週間断食した者、手を挙げて。断食したことのない者にとっては、一週間目の夜の十二時三分前の気持ちはどうか、いくら何百冊の本を書いて説明しても分からない。砂糖の味はこうだと、いくら書いて説明しても一かけらの砂糖をなめてみる以上のものではない。だから十字架の道を信じたい人は、十字架の道を実際に行ってみる。神の心情の分からない人は、神の分身のような立場に立たなければならない。そういう中心人物の存在だったら、自分の愛する者を怨讐にも分けてやって、我慢し得るような心構えをもたなければならない。そのように、我々は神の心情をたどっていかなければならない。我々は神の心情から離れた堕落の後孫であるということ自体、神にとって許されないことであるのに、何やら人間を中心とした理論を作ってみたり、自分中心の相対基準とか、何を言うのかというんだね。

 我々が、統一原理によって教えられたのは心情圏である。この心情の基準は、堕落圏の先祖の基準を越えている。だからこれを分かって、もしも堕落した場合には、長成期完成基準において堕落させたサタンよりも怖い。サタンが彼を呪う。だから彼らには救いの道がない。そういう、恐ろしい恐ろしい最後の道があることを知らなければならない。それは真の父母をわきにして、天の神様をわきにして、直接、堕落の愛を増し加えることである。先祖の堕落は、まだそういう歴史が始まっていない圏内にあって犯された。しかし、これは歴史の限界を越した結果になって、サタンより以上に悪いことになる。そういう背後関係があったこと、今初めて分かったでしょう。

女性は注意せよ



 だから女性の皆さん、特に女性は注意しなければならない。統一教会に入って従順なる女性は、堕落前のエバの立場である。そして従順なる信仰をもてばもつほど、周囲にいる男性たちがガヤガヤとついてくる。会いたくて、眠れないほどに憐い慕ってくる。男性でも従順な信仰をもてば、世間の女性たちにはこういう現象が起こってくる。これらのことは、エバを見てサタンが燃え上がった現象であり、堕落したエバがアダムを犯そうと試みる現象である。それを体験することによって、この原理は永遠なる真理だということを実感することができる。そうでなければ、原理の価値はないだろう。ここまで乗り越えねばならない。こういうことを聞いてみるというと、今あなたの基準はどういう基準かということが分かるだろう。それでもって、先生が来たら、さあ祝福だ、準備しよう。先生は人の事情はよく分かる人だから、少しばかりのことはよく見てくれるに違いない。そういう考えによって支配される先生ではない。

 聖書に、乳飲み子をもつ女は不幸だと、あるでしょう。自分と切ることのできない関係をもった夫や子供や親をもった人は、いかにその境地を逃れるか。こういうような基準を解放するために、神は民主主義や自由主義を広げた。離婚も自由自在、子供が親に反対するのも平気、親の苦労を知らないのが、今の常識となっている。もちろん、そのようなことを神は願わない。だから、それを逆のほうへ飛躍させていくのが神の戦法である。みんなこうなっている。



すべてを告白して

 祝福されるには蕩減されなければならない。昔、汚れたことがあったら、洗ってしまわなければならない。自分の力によってそれをすることはできない。助け手が必要である。弁護士に助けてもらうためには、内心のあらゆる事情までみんな告白して訴えなければ分からない。そうすれば弁護士は、自分のことのような立場に立ってそれを弁護してくれる。そうでなければ助からない。

 それと同じように、先生はあなたたちのとりなしの弁護士になってやるよ。だから、あなたたちはああ言いたくないと思っても、先生には誰も知らない自分だけの秘密をみんな告白しなければならない。嫌なことがまたできたと思うの?先生はもっと嫌だよ。本当は、先生の仕事はこういうものに付き合ってやるのが使命ではないよ。しかし、祝福するためには、こういう立場を通過しなければならない。汚れたものであるけれども、消しゴムやインク消しで消して、白い紙に戻したという条件に立ってこそ、初めて祝福がなされるのであって、それができなければ、もともとめちゃくちゃだから祝福も何もあったものではない。そうだろう?青い目をした西洋人も、でかい黒人も、アメリカ人もみんなそれをしなければ、先生は「まあいいよ。わしは知らん」と言うよ。

先生はみんな知っている



 先生はこういうことがあるんだよ、霊界のほうから、「先生聞け」と言ってくる。聞いてみれば、みんなやっかいなことがあるんだよ。何のことか。みんなお金のことか男女関係のことだ。先生はみんな分かるよ。だからそんなこと聞きたくない。しかし、彼らはそれをどうしても解決したい。今まで真っ暗な闇の中に隠されていたものが、白昼の中に飛び出すことになる。それはサタンの陣営が、白昼の中でボロボロになってしまうことである。だから新しい世界の出発基準が立つというんだね。

 日本のほうでも、祝福とか何とかということで、男女関係がぼちぼち出てきている。自分勝手な約束をしても、先生は知っている。知られたくないと思っても、どうせ先生に告白しなければならない。兄弟以上の男女関係で、互いに見る者はサタンの実体と同じだ。そういう者は絶対に許されない。そういう要素が少しでもあれば、切っていかなければならない。先生は今まで、新しい祝福、新しい家庭のための蕩減条件をあなたたちが立てるようにしてやって、みんなの重荷を私が責任をもって背負ってやろうというふうにやった。

 しかし、先生が責任を果たしたにもかかわらず、あなたたちが天法を犯したとするならば、それは何十代の子孫にまで引っかかる恐ろしいことだよ。もしも、統一教会の心情圏を土台として、それを主張してきた者が、自分の気ままに付き合って、結婚して子供を生んだとするならば、原理の限界を越えて誰が責任もつか。神も責任もたない。旧約聖書では、淫行や姦淫の罪は石打ちで殺した。それ以上の者はどうするか。だから、日本においても、こういうことはもっと徹底しなければならない。

確固たる主体性をもて



 蕩減は誰によって統轄してくれるか。絶対に自分である。主管圏を失ったのが堕落だ。ほかからいかなる干渉があろうとも、自分ながら確固たる主体性をもっていく。人がいかなる道を行こうとも、我行く道は忙しい。横でガヤガヤと何か言っても、それを気にしている暇がない。そのような、現状にいつも追われている基準を立てなければならない立場にある。夜寝る時間がない、座って御飯も食べられない、腰かけて食べる暇もない、そういう切迫した復帰の情にかられるあなたたちでなければならない。

 神は七〇〇〇年の歴史を願って、今まで辛抱してきたのであるから、我々は最初の七年期間に蕩減せずしては、神の前に立つ資格がない。六〇〇〇年の歴史をいかに七年間に縮小して蕩減し、これを心情的に受け継ぐことができるか。これは容易なことだと思う?若い時に精いっぱいやってもやりきれないような復帰の路締が残っている。勉強するのも、何になるのも、すべてこのためにやる。

 先生がここまでくるには、どのくらいの蕩減の価を払ったか、どのくらい真剣だったか分からない。牢屋が問題ではない、拷間が問題ではない、首が飛ぶのが問題ではない。一度に時来たるその時を願って、黙々と何十年と全生命を懸けてきた。その真剣さは神を感動させ、神が同情せざるを得ない。だから先生は黙っていても、世界中の霊能者は先生のために動きだしている。世界の津々浦々で、先生の成功のため、霊界を総動員している。



合同結婚式

 ここで結婚式というものを問題にしてみよう。これもみんな蕩減歴史を通過している。なぜ合同結婚式をやるか、それを知りたくない?

 もしも、祝福という問題がエデンの園で行われたとしたならば、天宙の大事件である、国家的事件である。イエス様の場合も、少なくとも結婚式の晩はイスラエル全国的なものにならなければならなかった。こういう、エデンの園において天宙的な基準を成し得なかったことを、原理によって蕩減するために合同結婚式をするんだよ。

 だから四三〇組の時は、世界的問題になっただろう。それによって、世界がいろいろ問題にする。だから、世界的結婚式をしたことになるよ。神の結婚式は、それぐらい世界的なことをしなければならないというんだね。自動車は少なくとも何百台動員するとか、道端の人やソウル市内のすべての人が見るようにすれば、何千万人の人を動員したことになる。

蕩減が式場を通過



 統一教会の結婚式には条件がある。今までの結婚式は自分中心のものだったけれど、我々は神に喜びを返すような内容をもって、蕩減しなければならない。我々の結婚式というのは、蕩減だけが式場を通過するんだよ。原理ではそうなっている。イエス様の成し得なかった新郎、新婦の基準、神のその恨みを通過し得たことを原理は明らかに説明する。そういう蕩減条件を、先生はいかにして考え出したか。蕩減献金というのを知っているだろう。汗を流しながら得たものを献金する。一時にしてしまうのではなく、四年間にわたってする条件。そういう条件を先生はいかにして研究したか、いかにして分かったか不思議だろう。先生の頭の装置がどのようになっているか分からない。神が教えたら、それは蕩減にならない。アダムが自ら知って解決しなければならなかったことを知らずして、六〇〇〇年歴史は延長されてきた。

 だから、先生は自ら考え出さねばならない。それを先生一代において解明して、実行して勝利の旗を立てたということは、天宙的、歴史的な成功である。だから先生は勝利者である。死んで霊界にいる聖人たちも、イエス様も、孔子だとかいろいろな人たちも、みな先生を崇めるようになる。そうなるから霊界も統一される。地獄も解放される。本当にそういうようになっている。信じられなかったら、日本の有名な霊能者のところへ行って、先生のことを聞いてみればすぐ分かる。そういう霊界の背後的組織は地上界に連結されているから、一国、二国、三カ国が立つようになれば、世界は乗っかってしまう。そういう希望をもって、我は行く。



一寸一画も許しがない

 結婚した場合、四十日の蕩減期間があるよ。聞いたことあるでしょう。それは、イエス様の霊的復活ではなくして、死せずして復活の祝福圏に入るための蕩減としてやらなければならない。それは夫婦になって相愛する立場において、ある規則を通過しなければならない。こういう難しい蕩減の道を勝利するために、自分の気ままな男女関係とか、そういう気持ちとか、そういう話しかけとかいうものを、今晩からは一切してはいけない。

 祝福には必ず蕩減がある。間違いなくある。そこには許しがない。だから恐ろしい所だよ、統一教会は。これは脅迫ではないよ。原理がそうなっているんだよ。原理の計画圏には一寸一画も許しがない。それを乗り越えなくては、神の計画はなされない。そして、乗り越えればサタンは議訴できない。だから先生は、サタンが善に対して使った手段でもってサタンを打ったとしても問題はない。だから今からが問題だ。これが統一教会だよ。











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03_生涯においてなにをなすべきか

御旨と世界
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生涯においてなにをなすべきか


1970年9月27日

 韓国


 今、ここに集っている皆様の中には、年齢的に見て、いろいろの人たちがいるでしょう。三十代、四十代あるいは六十代の人々もいるでありましょう。しかし、年を取ったといって失望する必要はありません。今まで過ごしてきた自分の生涯が自分の理想としてきたところまでいっていないとしても、決して失望してはなりません。そういう人たちは、より一層努力するため全生涯を集約的に整理して、民族と国家と世界のために投入する準備をする必要があります。また、二十代、三十代の若い人々は国家のため、全人類の歴史のために大きな希望を抱いていることでしょう。しかし、希望を抱くということだけでは問題になりません。

 問題は、我々が環境に支配されるのではなく、環境を支配しながら、あるいは環境に影響を与えながら、寂しい人々を慰め、無力な弱い人々に力を与えつつ、未来のための希望を彼らに提示しながら、白分がいかなる生注を送るべきかという点について深く考えなければなりません。もし、我々統一教会の食口たちがこのようなことをしなければならない天命を受けているとするならば、我々は生涯をいかに送るべきであるか――これが重大な問題になるわけです。

 ここにおいて、皆様は歴史の復活体にならなければならないのです。

理想と現実

 この国で生涯を送ってのち、死んでいった我々の祖先たちのことについて考えてみましょう。彼らは、この国がアジアにおいて、かくも弱い国家として存在することを望んだでしょうか。(彼らは)もっと富強な国とし手栄えることを望んだし、また望んでいるのではないでしょうか?それでは果たして我々の担先たちが希望としてもっていたその理想をこの地上でいつ実現させてあげることができるでしょうか?我々はその希望を実現させてあげる実体としての条件を、この地上においてつくり上げなければならないのです。これが問題なのです。

 それゆえに、我々は国民に希望的刺激を与え、彼らに未来に対する新しい希望を与えなければなりません。こういう点において、我々は確固たる主体性を保たなければならないのです。しかし、果たして今、皆様がこういう実体になっているか、これが重大な問題であります。

 私でなければならない。少なくとも私が受け持っている分野においては、私でなければならない――こういう自信をしっかり抱いて、自分の周囲をして協調せしめる、そういう立場に立っていなければならないのです。こういう立場から現在を眺める時、我々は果たしていかなる作戦を展開させなくてはならないか、これがまた問題となるのです。

死んでも復活せよ

 正常的な作戦をするか。すなわち、宣戦布告をして戦うべきか。「我々は、これだけの十分な数と力をもっている。それだから、君たちと一つ戦ってみよう」こういう態度を、今の我々が果たしてとることができるでしょうか?

 いまだそういうところまでいっていないのです。それではどういう作戦をとるべきかーIー我々にとっては、これを成し遂げ得るにただ一つの作戦しかない。それは奇襲作戦である。

 いつ、それを敢行すべきか――真昼に奇襲作戦を行うべきでしょうか?そういう人はいないでしょう。真夜中にやるのが当然です。真夜中といってもいろいろあります。静かな真夜中と、嵐が吹きまくる真夜中があるとしたら、我々は嵐が吹きすさぶ真夜中に作戦を敢行するのです。誰もが嫌い、誰もが動こうとしない真夜中に攻めていくのです。

 こういう道は平坦な道ではありません。険しい山の絶頂を登るような道です。いばらの道です。生死を決定する最も険しい道に違いありません。そして、特攻隊でなくては、このような道を突破することはできません。今の、この国の中で、誰が、どの団体が、この特攻隊になり得るでしょうか。それは我々統一教会の食口たち以外にないのです。

 それでは、我々はいったいどのような精神的態度をもって、この道を突進しなくてはならないでしょうか。敵陣に攻めこむ途中、あるいは敵陣に攻めこんでいって、そこで死んでもいい――こういう態度ではいけません。我々は死んでも必ず復活する――こういう自信のある精神的態度をもって、これに臨まなければならないのです。結局はこの問題に帰着するのです。こういう確固たる態度でなくてはそのような難しい使命を全うすることはできません。我々はこのような信仰の道を歩かなければなりません。あくまでも信仰を通して行くのです。信仰的希望を抱いて行くのです。どれほど長い時間がかかっても、この道をたどって進まなければなりません。

 我々一代でこの使命が達せられない場合には、遺言を通して後孫になさしめてでも、これを成し遂げなければならないのです。それでなければ天の遺業を完成するという、我々の使命は全うされないというのです。

一人残されても

 このような立場から考える時、統一教会の歩むべき道は決して平坦なものではありません。誰もが想像もできないほどの奇跡を通して勝利しなければならない我々の運命であるということを、皆様がはっきり自覚しなければならないのです。こういう点から、我々は、新しい立場で我々自身を見直し、また批判しなければなりません。統一教会を指導している者もそうでなければならないし、また指導者のあとをついて行く皆様もそうでなければなりません。我々はこの目的のために生き、この目的のために死ななければならないのです。あらゆる努力をこの目的のために集中させなくてはなりません。

 こういう道を歩む時には、必ず多くの犠牲者を出すという事実もよく分かっています。最後の一人となるまで我々は戦わなければなりません。全員が犠牲になって、たった一人残されたと考えてみましょう。そういう時にはどうするか。敵と共に死ぬのではなく、天の父と共に死ぬのです。そういう人が知恵ある人であります。

天と共に行こう

 イエス様がそういう生涯を送ったのです。イエス様はあらゆる境隅において天と共に歩いた人でした。

 こういう道のみが、歴史を受け継いでいくことのできる唯一なる新しい伝統の姻縁を、サタンの世界の中に根深く植え付けることができる道です。それは、イエス様が最後に、「わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ二六・三九)と言いながら死んでいったその態度の中に、あらゆるものが含まれているのです。それゆえに、我々は天の意志と一致するそういう道を歩かなければなりません。我々にとってはこの道が、一番正しい道に違いありません。

 イエス様がそういう道を歩かれたために、彼の理想は歴史と共に動いて、今日の世界に重大なる影響を与えているのです。イエス様がそうであったために、キリスト教は世界的な宗教として発展しなくてはならなかったのです。こういう宗教は決して減びません。そういう宗教的な道が勝利の基盤をつくり上げ、伝統のきずなを固く植え付けることができる唯一の道であるということを、我々ははっきりと知らなくてはなりません。今日において、我々統一教会が歩いている道もこれと全く同じ道です。我々の教会は、世界のために建てられたのです。世界の生死の問題を解決するために建てられた教会なのです。

 この国には三十八度線が置かれています。しかし、三十八度線よりももっと大きいものがあっても、これを解決する覚悟がなければなりません。今、我々が深く考えなければならないことは、この国の三十八度線は問題ではないということです。中国とソ連の三十八度線がまだ残っているということを忘れてはなりません。韓国の三十八度線は、将来、中国あるいはソ連の三十八度線を取り除くための、一種の予備訓練のためにつくられたものなのです。もし、我々がこの国の三十八度線を解決し、さらにこれを乗り越えて、第二、第三の世界的な三十八度線を解決するとするならば、我々は新しい世界に対する主体性をもつことができるでしょうし、また新しい世界の方向を提示することができるでしょう。それゆえに、我々は世界的な共産主義を徹底的に撃破できる実力をいかにして保つことができるか――これが問題なのです。

 共産主義は、今まで偽装戦術を使って世界的な侵攻を敢行してきました。これはあくまでも、サタンであるということを、我々ははっきり知らなければなりません。悪を中心として活動体系を整えてきたのが共産主義です。これは確かにサタンの業です。このようなサタンに対して、我々が果たして勝利し得るかー――これが問題であります。

生涯を通して何を残すか

 一方、我々としては、個人として成功するということよりも、世界的な、歴史的な、天宙的な、広大なる目的に対して貢献することがどれだけ重要であるかということを、はっきり知っていなくてはなりません。

 ただ、食べながら生活していくことは誰もがみな同じです。しかし、問題となるのは、我々がいかなる生涯を送っているかということにあります。生涯を通して何を残すかということが重要なことです。また、何かを残すという点においても、これがただ一つの国のためであってはいけません。統一教会的な、統一教会式の何ものかを残さなくてはならないのです。統一教会的なものであっても、これは世界的なものでなければなりません。三十数億の全人類が両手を挙げて歓迎する、そのような世界的なものでなくてはならないのです。

 こういう我々の態度に対して、今日では共産主義者たちも非常に恐怖を感じています。共産主義者たちは非常なる憂いを抱き始めました。このような憂いが高まるにしたがって、彼らは第二の戦線、第三の戦線を敷くでしょう。しかし、我々は決して負けてはなりません。絶対に負けてはならないのです。どういうことがあっても勝たなければなりません。勝つためには、彼らよりも、もっと強い装備を整えなければなりません。生活力においても勝なければなりません。一から百に至るまで、すべての点において彼らより優れていなければならないのです。これができれば、間題はごく簡単です。

 しかし、現実にはこれができていないわけです。それゆえに、我々は負けても勝つという戦法をとらなければなりません。負けるのにどうして勝つことができるでしょうか。これが天の父の戦法であります。

打たれて勝利する道

 歴史上から見て、善人たちは常に打たれてきました。聖人たちも常に打たれてきました。ただそれだけを見ると彼らはみな負けたような姿でありました。しかし、彼らは決して負けたのではありません。彼らは必ず最後の勝利を勝ち取るようになっているのです。これが天の戦法です。イエス様もそのような戦法をとられたのです。それゆえに、我々の歩む道は決して平坦ではありません。苦痛と受難があふれている道を我々は歩いていくのです。平坦な道を歩もうとする者――そういう人は、天に対しては反逆者であると考えて間違いではありません。

 我々の統一教会におきましては、特に、個人的な利益のために走った人々はみな消え失せてしまいました。他人が見ていようと見ていまいと、国家のため、世界のために黙々と働いている場合、そういう人々は言葉の約束がなくても、深く深く一つに結ばれていくのです。それゆえに、祈りにおいても、人の知らないところで祈祷をすることが最も大切なことです。見えない至誠を尽くすことが大切なことです。そういう人が最後まで残る人です。そういう人が最後の宝となるのです。

 統一教会はそのような人をつくり上げるために、一生懸命になっているのです。千万人を代表し得る信仰の実体をつくり上げるため、我々は骨を折っているのです。こういう方法をもって、我々は初めて天を解放することができるのです。それゆえに、我々は、自分一人が肥料となって、天を解放し、後孫たちを解放させる覚悟を決めなければなりません。

 一人山頂に残って、涙を流す―――天のために嘆くその人は、世界の平和をたたえるその人よりも、もっと深刻なる人です。こういう意味において、イエス様のゴルゴタにおける三次の祈りは、いかなる祈祷よりも深刻なものであったのです。そういう人がいる場合、天は彼を取り巻いて深い関心をもたざるを得ないのです。そういう人が、全人類の希望の的となっていることを我々は知らなければなりません。そういう人を中心として、天は動くのです。自分一人の利益のために生きる人は光を残すことはできません。しかし、国家のために、世界のために、天のために生きる人は復活圏内に入ることができるのです。最後まで残る唯一なものは天であります。ゆえに天のために生きる人が最後まで生きることができるのです。













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04_血統的転換

 御旨と世界
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血統的転換


1970年10月13日

 韓国

 水沢里


 摂理の重要な目的はどこにあるかというと、救いの完成にある。救いの完成は完全なる完成を意味する。中途半端は誰も願わない。我々、人間は堕落した。結局サタンの血統を受け継いた。サタンはどういうものかというと、神の愛の怨讐である。

 本当は、未来の実体の神様の現れを目標としてアダムを造った。だからアダムは実体をもった神様である。この世界を造った、創造したすべての、その主管というものは、完全に知らなければできない。完全主管をなすには、その創造したる神以外に完全主管はできない。完全に知らないというと完全主管はできないから、完全に知っている神以外にない。だから神以外は完全主管はできない。アダムは被造物である。被造物自体が創造の全般をつかさどって、それを完全主管するということは不可能である。だから、そのようなアダムを前に立たせて、そのアダムの中に神直接臨在して、アダムという肉体を、神の共鳴体と同じような立場に立たせて、神両接この大宙を主管しようとした。



アダムの創造

 また、なぜ神様はアダムというタイプの象徴を通過したか。万物は形をもったものである。しかし神様は無形である。何のタイプももっていない。大きいというと無限大。小さいというと無限に小さい存在である。ある標準的タイプの形成、それを表示しても、実体をもった万物というものは、神から直接指示を受けることはできない。だから実体をもった被造世界においては、実体なる主人的人格なら人格、そのタイプを備えなければならな

 また、神はこの地上万物の主管だけではなくして、無限なる霊界も主管しなければならない。天使長とか、いろいろ形をもった実体、それは無形実体だね。無形実体世界までも主管するには、やはりその中心的なタイプ、形状が必要だ。その形が必要だから、それをどこからかたどるかというと、アダムを通しての形をとるのである。そして、霊肉ともの世界、無形世界、有形世界をアダムを中心として、主管しようというのが、神の創造目的であるというんだね。だから、人格的神様として、現れの表示をかたどるために、アダムという実体と関係をもたなければならないというんだね。そして、アダムの完成とともに、神様のいわゆる形式完成がなされる。そのアダムの形は、人相は、人格のその表れは、無形世界の中心にいますべき神様の表れと同じ一つのタイプに帰結するという考えでもって、アダムを造り出した。だから形がなければ、形の世界を主管できない。

 それから第二の目的は何かというと、アダムと神様が一つになる、その結びつけるものはいったい何によるか?ここに平面的代表者は人間であり、立体的代表者は神である。それを永遠に結びつける紐、結びつける結実点、結びつける中心のポイントがいわゆる愛であるというんだね。だから、この肉体をもった人間自体も、神様が臨在されて一体となるときのその心情、体恤感、その感情は無限なる愛に、自分が一致されたという最大の幸福感を抱くその基準を結んでおかなくてはならない。いわゆる最高の幸福感だ。

 その幸いな境地から呼び求める理想世界、善なる世界観、善なる創造理想ということ。それを見計るにも、愛情に包まれて、神と一体となったという愛の実感を感じながら世界を見つめる、世界を統一するというような立場で創造理想を願う。その願いが、結局愛を中心としての願いであるから、その目的を達するにも愛の環境を離れては達成できないというような実感を、生涯かけて体験する。だから愛によって一つになる。愛によって神と人間は一つになる。愛によって人間と世界が一つになる、という結論になる。これが神が創造した目的である。



愛の復活路程

 男性も女性もそういう立場に立つと、愛を感じ、そして、創造目的に対して一体化されざるを得ない。それが自然である。そういう立場に立たせたのは、神が人間と愛を中心として結びたかったからである。これが個人において、堕落によって反対の方向になってしまった。この中心のポイントを、天使長なるサタンがねらった。だから、宇宙はめちゃくちゃにならざるを得ない。中心のポイントが、神において結ばれるべき人格の基準がサタンによって結ばれた。その結ばれた動機は反対の作用を受けながら結ばれたのだから、結ばれたそれ自体もいつも反発する。だから、良心の基準とあなたの肉心の基準とが反発する。神様の愛ではなくして、サタンの愛を中心として結びつけられたのだから、結びつけられた紐をいかに解いて解放するかということが、今日までの人類の数千年の歴史を通して戦ってきた苦労の道であった。

 しかし、神はそのような基点を回復するために、直接人間の内心に入って全般的に支配しながら神の愛を結ぶことはできないから、間接戦法を通して、だんだん我々の良心の世界に臨在圏の深さを求めて今日までやってきた。それから、歴史上においては預言者とか数多くの先覚者たちが来て、神の愛の体恤をなし、その部分部分を今日までずーっと人々に教えて、それを全部取り次いで、だんだん発展してきている。それが、今日までの復帰の歴史であった。だから、中心の問題は神の愛の復活の路締をたどってきたという結論になる。その目的は何かというと、堕落以前の人間の体とその良心の中に臨在する神。その神の愛によって、一つになることを願ってきたというんだね。



メシヤを迎えたイスラエル

 それを歴史的になしてきたのがイスラエル選民である。四〇〇〇年の歴史を通過してイスラエル選民圏をつくって、選別された民族の代表、アベルの立場に立ったユダヤ教を中心として、ずーっとメシヤ思想をたどらせながら民族を率いてきた。ユダヤ教とメシヤ。国家は信仰基台に相対し、実体基台はユダヤ教が相対し、信仰基台と実体基台が、横的に国家基準を中心として一体と成された場合には、メシヤのための基台は自然に完成されたはずであった。その基台のために、神はその一時を願って四〇〇〇年の歴史を通過しながら苦労した。

 イスラエル選民圏に立つべきその民族も、その圏を日標として民族圏国家基台を願ってきたのだから、その基台は完成されずしても、原理的にその期間に到達したのであるから、神は急ぎながらイエス様を地上によこさざるを得ない。だから、ユダヤ教とイスラエルが一体となった場合には、イエス様は、メシヤのための実体を中心として真の父母を迎える。真の父母を迎えることができなかった場合には、新しい愛を中心としての血統の転換ということは思われない。原理的にそうなっている。



メシヤの必要性

 我々にはなぜメシヤが必要か、その目的はどこにあるか。それは救われるのが目的である。救われる根本の基点は何か。神の愛の接触点に再び立ち帰ることである。立ち帰るには、我々自体はどうなっているか。サタンの血統を引きずっている。一から十まで、すべてが神の血統とかかわりのない、そういう実体をもった人間になってしまった。これは神の愛とはまるっきり反対である。それを蕩減させなくてはならない。それを蕩減させるとは、原罪を取り除くことである。原罪を取り除くには、血統的問題のそれが恨本的なものとしてある。これをいかに解決するかという問題、これは堕落した人間としては到底できないというんだね。

 だからメシヤが必要である。この血統を、我々代々に刻み込まれているこのサタンの血統を活めるのは誰がしなければならないか。それをやるべき者がいれば、それは真の父母である。善なる神の愛と「体となり、汚なる相対基準を成して、世界を愛し得る真なる父母が現れてこない以上は、絶対これを清めることはできない。だから愛を中心とする戦闘基準を通過しなければならない。どちらが強いかと比べ合いながら、そしてみんな闘って最後に残るのが、サタンの愛であってはいけない。神の愛が残ったという基件において初めて血統圏が屈服する。



イエス様の道

 そういう基準をイエス様は願ってきたのだから、イエス様一身においてそれを成すのに、三年の功生涯に立つ前に宣布したのはなぜかというと、すべての者は誰よりも我を愛せ、妻よりも、親よりも、子供よりも、誰よりも我を愛せ、愛せざるものは自分の弟子にはなれない、ということであった。それから自分の弟子になるには、自分の十字架を背負って自分に従え。自分の十字架というものは、自分が背負わなければならない。血統を清めるのはメシヤがするかもしれない。しかし、清められるように行動しなければならない。そこに一体となって従わなければならない。この基準が成せない以上は、我々は救われない。

 それが清められるには、どういう立場でかというと、死ぬか生きるかの、その境地を通過しなければ清められない。生死の境だね。そこを基準として悪の血統が清められていく。これを清めるには、我々が話し合って、気持ちで解決できるものではない。その場に行かなければならない。四十日の断食祈祷とか、死の境地をたどっていくんだね。血を吐いて、生命よりも、この肉体の生命よりも神の愛を中心として、よみがえるその一心を慕いながら、この一心に讒訴される一つの負債も残らなかったという、その境地をいかにして体恤して乗り越えるかということが、イエス様において、第一の戦いであった。これは理論的にそうならなければならない。

 ところが四十日の祈祷とか、ヨセフの家庭における数々の迫害、人間としてたまりきれないほどの迫害を受けてきた。生きた感情をもった者が、生きた死体と同じような生活過締を通過しながら、そればかりか実際にそういうような生死の境を通過しながらも、一心不乱、内心で願うのは神の愛と自分の体が一つにならなければならないということであった。これは鉄則だ。ここに一つも許されるものはない。

 イエス様はそういう決心をして、そこまでいったとして、自分の勝利圏は成したかもしれないけれど、それを歴史的にいかに関係をもった勝利圏と結合させるか、これが問題だ。自分個人にとっては、神につながる勝利のものになるかもしれないけれど、歴史過締に、摂理上において、今までこのような血統転換をもってして、神の摂理したすべての過去において失敗したその悩みを、いかに自分が受け継いで勝利した基盤に立つかということが問題である。それを完全に受け継いだという基準に立たなければ、メシヤとして立つことができない。それを神はあらかじめ知っておられるのだから、その方法を歴史を通してずーっとやってきた。

 そうするとこの血統の転換はどこにおいて成されるか。一身においては、生死の境を通過しなければならない。これは信仰の基準になる。一身においては生死の境、死ぬか生きるかの境を抜き出るような立場で、神を愛し、未来の人格を愛さなければならない。



愛の基台

 神は創造本然の神として、人間を創造本然の人間として造って、神の愛を結合したかった、その神の愛というものを慕いながら、自分の一身を忘れてもかまわないという愛情心にあふれなければ、乗り越えることはできない。だから、完全なる宗教は肯定から出発するのではなくて、否定から出発するのである。完全否定だ、生命までも否定する。そうした立場を通り抜けないと、サタンの前に立つことができない。それが今まで、各個人の信仰生活をやっていく立場であった。

 しかしイエス様の場合は、個人の立場ではいけない。歴史の立場に立たなければいけないから、そのためにはどういう歴史過締を通過してこなければならないか。これを転換させるには、これをどこで転換させるか。自分が生まれて三十歳、死の境地に達して転換されたとしても、その基準からは、勝利の基準を出発はなすかもしれないけれども、それ以前の勝利圏はなかったのではないか。これが問題である。功式路締を出発する以前の勝利圏、功的出発以前とその生活圏は歴史的復活の生活に当たる。そして、これを完成させなければ、功的時代において出発基準を成すことができない。功的三年は、現世に対しての使命を全うするためである。

 三十年期間は歴史的、功的心情基準を開発して、現世を神の心情を中心とした愛の基台に取り次ぐ基台をつくらなければならない。

 そうするには、その基台はずーっとアダムからやってくる。その次は、いったいどこから埋められたか。愛によって埋められたんだね。何の愛か。家庭基準を中心として、悪から出発したのだから、これを神自身の真なる父母の家庭基準をたどって、そこから転換運動をやっていかなければならない。それには歴史的代表者を立たせて、蘇生、長成、完成と段階的、歴史的、あるいは世界的、そういうような代表者を立たせて、こういう転換運動を歴史の過締を通過しながらやってきた。



復活の教え

 その歴史は何か。人の誕生は男性から女性を通してなされる。そうすると、この転換の道はどこにいってその交差点をつくらなければならないか。それは女性の胎中だ。そこからずーっと、歴史はもとがえしの運動をしたという条件を立たせなければならない。そのため、神はある家庭を中心に摂理してきた。しかし、完全復帰ということを思う時に、男の骨肉の中に煎んでいる種が出発である。だから、その男の血肉の中の原姻の基準まで、神の愛を中心として一体となったという条件を立たせなければならない。そこを通過しなければ、これは完全な血統転換の基台をつくったという条件が満たされない。

 こういう立場から見た場合に、宗教はそのような道を行くのだから、この世界で世界的宗教はどういう宗教かといえば、再び生まれなければならないという内容をもった宗教である。だから、キリスト教は世界的宗教に名実共にならざるを得ない。再び生まれなければならない。ニコデモとイエス様の問答のように、再び生まれ変わらなければ天国に行かれないということだ。

 よみがえりの教えというのは、何で生まれてきたか、それは今まではっきりしなかった。どこをねらってよみかえりの基盤を出発するか、それもまだ見つけていないんだよ。今生まれて、大きくなってイエス様を信じて、三十歳で信じたからこそよみがえる、と思ったら大間違いだ。心情的内容の発生地は三十歳からではない。歴史からだ。それを取り次いだ心情の相統をした、という条件を自分にもたないと、よみがえる出発と動機はなされない。それが分からないといけない。

 今、血統的転換をさせるには、アダムの骨髄の中まで、骨肉の真ん中まで行って、将来の子供になるべきその原姻に、神の愛と結束した勝利的条件を満たさないと、将来神の子供として生まれることはできない。これは、理論的に間違いない。聖書はそのようにやってきたから、神の言葉だというんだね。



イエス様を慕う

 今までのクリスチャンは、イエス様を主様といい、すべての愛の大本と思って、心情的に一体となりたいという心をもつ。その一体となりたいというのは、教理や聖書の教えでは一体となれない。ああ憐しい、慕い焦がれるような境地に立ってこそ、イエス様は自分と同じである。自分もイエス様の一身である。イエス様が悲しくなると自分も悲しくなる。その骨肉の中に子供の源があるとすれば、イエス様の感情すべてはその源に影響を及ぼす。うれしい時にはうれしい影響を及ぼす。悲しい時は悲しい影響を及ぼす。そうならなければ、その実体とつながる子供の源とならない。

 イエス様を信じるとは何か。イエス様は男である。本当は堕落しない大本のアダムである。結局は霊的でありながらも、霊的にお父様だ。だからこのお父様と一つにならなければ、再び生まれ変わる道は全くない。だからキリスト教は、イエス様のすべての骨髄の中にまで入ったという、慕い焦がれる愛情に触れ合う、そういう生活圏を体血するたった一つの教えだ。イエス様を、慕う新郎として迎えた教えである。その新郎という、花婿として教えるのは、それは二重の効果を得ようとしている。一つはその骨肉に入る子供の源となるとともに、母の胎中を通過したという条件の基台も得ようというのが、新婦という立場である。

 人々はみなアダムの子供の立場にある。人類はアダムの中へみな帰れ帰れという。聖霊はエバの神である。これを復帰するのに、自分は生むことができない。生まれる前にアダムの中へ早く帰るような作用をしなければならない。その作用をするのが聖霊の働きだ。だからクリスチャンはみな、イエス様の体中の子女の立場にもとがえらなければならない。

 今、このような信仰をしているクリスチャンは何人いるか。こんなことは分かりもしない。夢にも思わない。ただイエス様を無条件に信じて天国に行きます、と言う。自分がそれがやさしいからそういうことを言う。やりたいから言う。それで天国に行けると思ったらとんでもないことだ。原理的に見て、こうならなければ完全復帰はできない。理論的にそうである。だから万民はイエス様に帰れ、といってもイエス様の前に群がるんじゃない。骨肉の中に帰れ。

 神がこれを歴史上果たすのがたやすいことかどうか、考えてみるとよい。この中間には数多くのサタン圏、怨讐圏が防備しているんだよ。神はこの妨害するサタン圏を突破するには、一遍にできない。数多くの戦いに、数多くの犠牲者を出している。では、イエス様の骨肉の中にまで煎りたいという信仰をもっている信者は何人ぐらいいるか。イエス様の骨肉に入るといっても、肉体は入れないよ。心情しかない。愛しかないんだよ。だから愛以外には姻縁を結ぶ何ものもない。真理でもなければ正義でもない。生命がある前に愛がある。父母の愛によって生まれてくる。愛なくしてそれを結ぶ方法がないというんだね。その愛があれば、それは完全に可能である。愛は歴史でも飛び越える。距離とか空間の支配を受けないというんだね。



今は生涯の転換期

 なぜこのようにはっきり教えるかというと、復帰の路締がこうなっているからだ。今からあなたたちは心情的問題を中心として、新しい世界圏の第一歩を踏み出さなければならない重大な転換期に立っているんだよ。この血統的転換期だけではなく、生涯の転換期に立っているから、立つにはこういうはっきりした内容の基盤の上に立っていかなければ、サタンが讒訴する。「オイ、どこから引っ越して来た?」「どこから出発した?」「堕落しないエデンの園、神の懐から」「何がそうか」といった場合、「ここがこうじゃないか」といって証しなければいけない。

 自分としては立つ瀬はないのだけれども、こういうお方が成してくださったそのものを、サインして、もらつたのだから、建物は世界的建築家が建てたのだけれども、その所有権は紙一枚で自由に行ったり来たりする、それを我々がもらったのだから、サタンは頭を下げざるを得ない。



新しく生まれる道

 そのようにして、イエス様を通して、神の愛に触れて、真の父母の血肉に接し得るその内姻を立てたという条件を満たした場合に、それから、イエス様と聖霊とが慕い合う愛の道をたどっていかなければ、生まれてこない。イエス様の相対者は聖霊であり、その生きた子供のよみがえりの実体そのものは、父母の愛の道を通過しなければ生まれてこない。そうするには女性が男性を慕い、男性が女性を慕い合う、それで一致なる愛の境地を通過しなければ、再び生まれてこない。それには何の疑問もないだろう。そうするには、聖霊の感動を受けるとイエス様が非常に憐しくてたまらない。聖霊はそういう感動の役目をする。イエス様は新郎、聖霊は新婦だ。これが慕う愛の道が、これが一つになった、霊的に一つになったという喜びを、その実体が体恤して初めて、失われた本来の愛の基準が新しく準備される。そこにおいて、よみがえりの体恤ということが成立する。

 キリスト教の復活の原理はそこだ。これは重大な問題である。神もこのために歴史過締を通過したし、イエス様も歴史的悲哀の運命を背負って乗り越えて今日まできた。こういうのがあるから、6000年もかかったんだよ。そうでなければ六日もかからない。誰が分かるか。神が教えてやった場合には、堕落した人間自体が主管圏を復帰することができない。人間自体がそれを求めて、これだという自覚した基準に、世界的人格権威をもとがえししなければ、神の前に立ち帰ることはできない。このような絶対的な世界に、先生のような男が現れてきたということは、悲しいことかうれしいことか。あなたたちはうれしいことというかもしれないけれど、先生はうれしくない。生涯死を懸けて闘ってきた。それをあなたたちは忘れてはいけない。

 世の中につらいことというのはやればできるものだけど、これはやればできるものではない。一人ではできない。腕力とか暴力ではできない。原則、鉄則のもとにやらなければならない。それは四方八方において、標準を定めながら、中心的位置を外さずにそれを保ちながらやっていくというのは、これは難しいことだ。その難しさは、神が天地創造をするより以上難しいのではないかと。そういうのを今までずーっと内的基盤を、蕩減の条件を立たせて、あなたたちが夢にも思わないその圏内において基盤をつくって、あなたたちが知らなくても乗り越えられるような平安圏を成したというのは、天宙的勝利だというんだね。そういう方面において、先生は一生かけて大成功したことになるんだよ。聖霊がイエス様を助けて、堕落させたエバを引き出して、サタンのほうに譲ったのを引き入れて、それから自分がもらって、本来の愛情を中心として生んだ条件を立てないというと、完全復帰の条件にならない。そうすると、イエス様誕生までの歴史的内縁の心情基準を結合させる摂理は、どうなっているかということになる。女性の胎中、ここにおいて問題を解決しなければならない。だから闘うんだよ。だから歴史は闘いから始まる。

 アダムの家庭においてはアベルとカインが闘う。闘って、それをどこへもっていくかというと、カインを弟の立場にもっていく。兄さんがいかにして弟になるか。そうしないとサタンも断ち切れない。ここにおいて、復帰の闘いをする。この闘いは、生まれてからの兄弟の闘いだよ。みな兄弟を中心に闘う。カインも一人生まれたし、アベルも一人生まれた。だから再びこういうことをやる。エサウとヤコブ、これは双生児でもって、双生児で生まれた者で闘う。ここで屈服した条件を立たせたけれども、どこから闘ったかというと、大きくなってから闘った。四十か三十か、四十代に闘った。それ以前の勝利はどこか。それをもう一回縮めて闘わせる。お母さんの胎中にあって闘う。



タマル

 タマル。あなたたちがタマルについて研究すれば、原理すべてが分かる。タマルは誰と関係して子供を生んだの?舅だね。舅と関係して生まれた子供が、いかにしてイスラエルの血統を受け継ぐことができたか。世の中にそのようなことがあり得るか。ソロモンの母は誰?バテシバ。バテシバはどういう女性か?ウリヤの妻だ。ダビデ王がウリヤの妻を奪い取った。その子供がいかにしてソロモン王になるか。ウリヤは何かというと、第二の主人だよ。これが堕落もしない前のエデンの園のその位置に再び帰った立場、すなわちダビデはアダムの立場、ウリヤは天使長の立場、天使長の妻は復帰しなければならないエバの立場。天使長がアダムの相対者たるエバを、堕落して引っ張っていった。愛によって占領して、盗んでいった。それを蕩減するには、そういう三角関係に立ってもとがえししなければならない。そういう原理的基準に立った条件を成した基台の上に生まれた子供は、天の愛の子供として、栄光の子供として生まれる。

 ソロモンは栄光の子供だ。タマルという女は自分の男と関係したが、その精神が立派だというんだね。その時の掟によると、淫行の女は石で打ち殺すというような時代圏において、自分の第一の夫、第二の夫が死んでしまった。この血統は神が愛しているということを知っている。この血統を守らなければならない。自分の体面とか、自分の威信が問題ではない。神が願う血統をいかに残すかという、愛するかという問題である。血統を愛する。血統を愛したから、血統を復帰しなければならない神の摂理の圏に立ち帰る。心情的に立ち帰る条件になる。それで舅と関係した。これを見た場合には舅はどういう立場か、自分のお父さんだよ。



マリヤ

 この勝利した、胎中勝利した基準を、伝統的イスラエル、伝統的歴史過締を取り次いで、ずーっとイスラエル、ユダヤ教の子孫を取り次いで発展していく。なぜそれが国家的基準に立たなければいけないか。それは、サタン世界に国家が立っているから国家的基準に立たなければ、サタン世界と、カイン、アベルとして相対的に立つことができない。だから、これをなすためのイスラエル市民権を、こうして発展しながら、内的、血統的勝利の米準をなしてきた。ここにおいて、歴史的先祖たちの、心情的取り次ぎをなしてきた。自分の体面とか、自分の威信とか、社会的環境とかすべてを忘れて、神のみ旨がすべてだという代表的な心情をかけた一人の娘がマリヤだ。

 そうすると、マリヤの胎中には、勝利したその基準を受け継いだ胎中には、サタンの譲訴する事実がないことになる。その基盤において、マリヤを通してイエス様がはらまれた。そうすると、イエス様は、歴史的闘いを済ませた勝利的基盤をもって、神の前に生まれる資格と条件を完成して来られた。こういう歴史を通過しない者は、メシヤになれない。だから、イエス様は、自分は命である、道である、自分を通さずして神の前に立ち帰ることはできないと言った。このような血統的内容を抱えて生まれたのだから、神の前に初めて愛されるひとり子となり得る。これは理論的に間違いない。

 このようにして生まれたのだから、イエス様はメシヤだ。だからイエス様を信じないと、神に立ち帰ることはできない。これは絶対的標語である。これが今まで分からなかった。だからいかなる宗教があっても、宗教はみな僕の宗教か、養子の宗教の圏には立つかもしれないけれど、絶対的実子圏に立つべき宗教は、イエス様の教え以外にない。これは理論的にそうなっている。



イエス様の誕生

 ここから生まれたイエス様は、生まれながらにサタンの讒訴を受ける立場に立ったか、立っていないか。立っていない。だから、天使が来て侍らなければならない。天地共に霊界総動員して、誕生を祝賀しなければならない。そこから新しい世界が始まる。もしもイエス様がここに生まれてきて、イエス様の前に天使長は、家庭的に、内的には、教会を中心としてはユダヤ教、国を中心としてはイスラエル主権者ピラトだ。この家庭が一つになれば、ユダヤ教は自然と一つになった。洗礼ヨハネと一つになればユダヤ教は完全に一つになれた。

 ヨハネは預言者として知られている。それで、家庭がみなでプログラムをつくって、祭司長を前に立たせて、そして踊らせながらみな働かせて、家庭内で指机して、ローマの反対する者なんか追放してしまえばいい。ユダヤ教、イスラエル民族が一体となれば、ローマなんか問題ではない。そして国家を立てた場合には、ローマをのみ込んで、そして地中海全般にわたったローマ文明圏が、イエス様のもとに入った場合には、世界統一はなされた。「そこを基盤として全世界を中心としてやれ″」、そういうようにして地上天国の理想を、イエス様を中心として成そうとしたのだけれど、成すことができなかった。それが数千年の犠牲の死の代価を払って、今ようやく世界的に発展した第二イスラエル圏を成して、再臨の主が来られる。しかし昔と同じように、第二イスラエル圏のキリスト教会は地上に国がない。それはイスラエル国家がイエスを殺した罪の贖(あがない)の期間として、2000年間放浪の民族として、世界万民からいじめられてきた。この蕩減の鉄則は許しがないよ。

 神の保護のもとで、すべてが歓迎するその環境において、イエス様を中心としてイスラエル国家を建投すべきその国を失ってしまったから、周囲八方と再び戦って勝利しなければ、イスラエル国家は立たない。これを再臨のメシヤは救わなければならない。そういう歴史的使命がある。こういうことが、時の来たのを証明することにもなる。だから、12弟子を失ってしまったから、イスラエルはアラブ圏の数多くの12以上の国家と対決して勝利しなければならない。

 このようにしてイエス様は生まれてきた。ところが、キリスト教には地上に国がない。神様と地上のイエス様とそれからサタンと対決して、これは神様の土地だ。そういうふうに決めた土地があるか。ない。第一イスラエル国家を、築いたすべてをみんな庖してしまった。浮かんだ雲みたいに、風の吹くままに追いに追われつつ、今までずーっときたのが、数は多いけれど地上に価値のない群れが宗教圏の群れだよ。数多くの政権に迫害されてきた。そして、その戦いを防備する法則がないから、宗教と政治と分離するという条件を出した。宗教と政治は分離するどころか、これは一致させなければならない。それは宗教と政治との間に長い虐殺問題があり、いろいろの悲惨なことになるから、仕方なしに革命の勝利の基盤に立って、宗教の自由権を確保するために政治と分離させた。そういうことを考えた場合には、これからはやらなければならない複雑な問題が多くある。



入籍する国は

 そうすると、神は地上に足場をつくりたいか、つくりたくないか?

 つくりたい。いったいどこにつくろうか。宇宙全体といっても、氷が張る時も一点が問題だ。氷であるかないかという境地にある。こことも、あそことも分別のつかない、そのものから始まる。だから、どこが本当かうそか分からない、そこから始まる。そういう時代が来る。今がこういう時だ。そこが何か氷になった、という場合には、世界は一度に凍ってしまう。だから先生は聖地を決定した。あなたたち聖地で祈る?祈るということは、祭物を捧げるということだ。自分のものでなければ、そんなことはできない。それは神が絶対権限でもってそういうことができる、という地上の基盤をつくった。

 それでは、ずーっと本源に帰って考えてみましょう。この世界は、誰の名前のもとに居たかったか?神様の前に居たかったし、真の父母の名前のもとに居たかった。万物はアダム、エバより、真の神様を中心として、神と一体となった完成した夫婦、父母の名のもとに居たかったのが創造本然の位置である。それを所有したのは天使長である。それを喜んでいるのは、天使長の子供たちである。それを思うとき、我々の統一思想は、真の父母を中心として考えた場合に、世界はそこにおいて一つにならなければならないという結果になる。

 そうすると、あなたたちには籍がない。入籍されていない。神様を中心として新しい入籍をしなければならない。入籍するには国がなければならない。あなたたちは国なき者だ。生きた形はあるのだけれども、サタン世界に、権威をもって自分の位置を堂々と言える基盤がない者だ。あなたたちは、それをはっきりと知らなければならない。天民として入籍する。その主権は大きくても小さくてもよい。アメリカでも小さい国でも投票の権威は同じだ。



国なきイスラエル

 外国へ行ったイスラエル民族と、そっくり同じだ。統一教会としては国なき第三イスラエル民族である。だから我々は本郷の地に向かっていかなる苦労、いかなる闘いをしてもそれを奪還占領して、その元の国へ帰って、思うままの主権のもとの民族統制を願わなければならない。だから第三イスラエルを中心として、主権基盤を中心として新しく、今まで歴史上に現れたつらい路締をたどり来たったその希望は何か。その国に帰って主権を復帰して、世界的に誇るような国民の位置に立って、人籍する一日が最高の願いである。早い期間にいかに達成するか。心から、言うに言えないその内心でもって、この目的に全部注いで進まなければならない。これは原理的である。人籍する、そういう時になった場合には、それは国を超越してみな帰りたい。今イスラエル民族はそうだ。今アラブと戦闘して、イスラエルへ帰りたい、そういう思想をもっている。

 入籍するとともに、自分のもったすべてをその国のものとしたいのが我々の願いである。人籍する順番において先祖が違う。第一入籍者は第一先祖の位置に立つ、第二は第二、第三は第三になる。そして、小さい数の序数は自然とその主権国家において重要なる権威を受け継ぐということは事実である。そうすると、いかなる国Rがそういう国民になるか。日本人がそういうような国民になるか、アメリカ人がなるか。それを思う時、競争して統一教会の発展を反対して禁止しても、禁止できるどころじゃない、夜も昼も競争して発展せざるを得ない。いくら日本がエバ国家でも、黙っていてエバ国家になれるかというんだね。自分のためである。誰でも自由自在に行ける道を広く開けることになる。それは自分の国のためである。そう考えると一つにならざるを得ない、栄えざるを得ない。それは最後の愛国心である。もしも、そういうような条件基盤がイエス様が来られる時に、今の統一教会基準くらいの基盤があった場合にはイエス様は死んだか、死ななかったか?それは死なない。



再臨の道

 イエス様はかわいそうに死んだ。イエス様を中心として、イエス様の骨髄の中に込められた子供の源が霊的結合して、実体的内容はいずこに求めるか。そうなるとそこにおいて、イエス様は歴史的使命を果たすという原理的観点から見た場合には、再臨、再び来なければならない原則になっている。再び、絶対的に地上に来なければこの宿命的課題の解決の道がない。再び来る。来るには追われていった、そういう悲しい立場を乗り越える世界的基盤を満たさないと、来られない。そのために、世界的キリスト教の宣教の問題が進められてきた。2000年もかかった。

 2000年もかかって民主主義国家圏を中心として、ローマとイスラエルが戦い合って勝利し得るその位置を、世界的その対立圏を、キリスト教圏と共産対立圏として、優位な立場に立った基準を準備したのが、今日の民主主義国家圏である。その内的思想、これは霊的第二イスラエル、世界的国家基準だ。そこの内容において、内的ユダヤ的世界基準に立つべき位置が、キリスト教会である。それは霊的基準である。その霊的基準完成が完全に果たされた場合には、内的相対基準は自然に生まれてくる。これは原理的観点だよ。だからそういう霊的世界基準、第二イスラエル圏世界基準を霊的であっても、その基準において世界圏民主国家、ユダヤ教圏、宗教圏、キリスト教圏を成してきた。ここに世界的キリスト教の基台を中心として、その基台を考えてみた場合には、そこには三段階の過締を通過してきている。

 カトリック、旧教が使命を果たさなかったから、堕落したアダムと同じように蘇生過締を通過して、長成過締を通過する。それが新教だ。それは原理的に見た場合には、旧教は律法的信仰だし、旧約的信仰、新教は新約的信仰。それで、新教の主張は言葉を主張する。その言葉の実体は誰か、再臨の主である。だから言葉の世界の基盤をつくって、今日までやっている。その実体は何を兼ねなければならないかというと、心情を兼ねた実体でなければ、神の前に立つことはできない。これはキリスト教史において、完成基盤として、その主体の位置を占める者は、心情一致した内容のキリスト教的真理をもたなければならない。それが統一教会である。



先生の使命

 統一教会がこういう基盤をつくるには、新約的使命のある新教を迎えなければならない。迎えて一致した場合には蘇生、長成、完成と一遍に完成される。一遍で教会が一つになるといった場合には、ユダヤ教を中心としてイスラエルが自然と一体となるように、キリスト教が一体となった場合には、民主主義国家世界は自然と一体とならざるを得ない。そうなると、世界は自然に救いの圏内に立たせられる。共産圏が近世において問題となったのは、第二次大戦後だ。少なくとも十四年過ぎてからだ。なぜ十四年か、十年までに解決をつけなかった場合には問題になる。それはまだ最後の七年の闘いをしなければならない、という基準になっている。原理で世界情勢を兇れば実におもしろい。詳しいことは言わない。

 そういう立場をたどるべき先生の使命は、先生は一人だよ。一人ぼっちだ。先祖もなければ誰もない。ここにおいて、新しく新教に対して基盤をつくろうとしたのが、失敗した。反対した。ハッとするほど反対する。弟を打って始めた歴史だから、迎えるということは本当に神を信じなければ、本当に神を知らなければ迎え難い。自分の環境に立った姻習的な教理とか、内容をそのままもってはなかなか難しい。それで、先生が教会に反対する立場に立った。それは何かというと、実体的に追われたイエス様である。実体的イエス様の立場を受け継いだのと同じである。再び、復帰の路締をたどってこなければならない。だから、2000年の歴史を20年で蕩減しようというのが今までの闘いだ。



北に行った先生

 そして蕩減はどこからするか。韓国以南、南の国ではできない。北に行く。北に行った場合には、サタンの本拠に行ったのだから、サタンの共産圏に行く。世界的サタンだ。共産圏に行って死を覚悟して入る。それは、キリスト教がユダヤ教に追われたときにローマに入った。ローマに入って、そこにおいて、それを占領し、400年の戦いの間に勝利圏をつくって、キリスト教の自由な平面的基盤をつくったのと同じように、北に行かなければならない。それで先生は北に行った。

 行って共産党との闘いだ。そこから基盤をつくった。何人も連れてこなければならない。これを詳しく言えば限りがない。何人か復帰してきたのだから、何人かというのは四位基台だ。数的四位基台をつくってきたのだから、南のほうに下って、それで牢屋の生活とか何とかいろいろやった。牢屋に追われたときでも、何人かが、イエスの弟子と同じように、みな反対して逃げてしまうような立場ではいけない。共産党の恐怖の圏がいかに怖いといっても、命を惜しんでみな逃げていくような立場であってはいけない。その環境において、何人かの食口が残らなければならない。牢屋に引き込まれるその場から、地上天国を失ってしまった。それを牢屋の中から復帰しなければならない。だからイエス様を中心として、反対しなかった内容の要件を復帰しなければならない。そして、イエス様の三人の弟子というものは男ばかりじゃない。本当は、その三人の弟子が家庭を維持して立たなければならない。そういう背後的内容を中心として、イエス様が来た目的は弟子を求めて来たのではない。最初には、弟子は方便である。天使長の三時代のカインが反対したのを、三時代カイン完成の要件を蕩減するに必要な存在である。



三弟子の立場

 イエス様はアベルである。ペテロ、ヤコブ、ヨハネは三時代を、神に服従しなかったカインの立場を、一遍に蕩減させるために立たせたカインの立場である。それが命を掲げて同じく死んだという場合には、イエス様は天上に行かない。地上において、聖霊とイエス様とこれは霊的であるけれども横的に分かれる。そうすると、キリスト教の発展は600年で世界的になれる。死んだのだから、旦那さんが霊界に行ったのだから、命懸けて祈らなければ会う道がない。もしも昇天しなかったならば、イエス様の弟子が一体となって、カイン、アベルが一つになった場合には、神を迎えることができる。原理がそうなっている。ここに神を迎えて、地上、横的基準において、神様と霊的アダムと霊的エバが、いわゆるイエス様と聖霊が一体となって、横的発展の基盤となる。先生を中心として、カイン的基盤ももちろんだけれども、それよりもイエス様の願いは何かというと、カインより、もともと願ったのは、三時代を中心として、第一回の摂理においてエバを失ったのは、神の恨みである。イエス様はその胎内においてマリヤを中心として、それを復帰するために来た。それもまた失ってしまった。イエス様が来て、三代目にそれを復帰しようとする、いわゆる、歴史的女性、お婆さん、相対だね。三代基準にわたった女性を、いわゆる、神が失ったことになっている。その三代圏の女の形を復帰できなければ、本当の夫婦を兼ねた子女を、カインとアベルとして一体とした子女を迎えることができない。そういう蕩減的な女性たちが必要である。



三役事

 三人の役事がなければならない。その基盤と一体とならなければ、三時代の目的は、相対的な国としての条件の平面基盤をつくらなければ復帰はできない。だからそういうような尊い方たちが三役事である。それで、あなたたちの地区を中心として祈れ。僑胞の人を何人か合わせて、四方八方に十二名立たせて祈れ。そういうことも言っている。それが立たなかったから、イエス様は死んだ。だから日本もそういう条件を立たせなかったら、復帰は速くできない。

 先生もそういう内容を決めて、北韓から救ってきたのもそれしかない。そうして一人の子供、その一人の子供は金さんだよ。二十年前だ。二十年前だから意議がある。三人の女性を連れて、一人の男性を連れてきて、南へ来て新しく統一教会の出発をなすことができる。原理は頭で考えることではない。原理は一歩も譲らない。それを基盤にすれば、共産圏から、既成共産圏から共に追われてきたことになるから、南に基台をつくって、いくらガヤガヤ言っても、今から発展だ。このようにして発展したのが、統一教会の出発である。

 イエス様がユダヤ教に追われてきたのだから、仕方なしにその逆を再びたどってこなければならない。そして勝利するには、その失敗の大本の内容を解決した基準に立たなければ復帰はできない。その基準を立たせて、今まで家庭の基盤をそこから中心としてずーっと発展してきた。そうするには、キリスト教会は反対するのだから、これは反対圏ではできないのだから、我々はキリスト教会圏をさておいて、アベル的キリスト牧会圏をつくろうとしてつくったのが統一教会圏である。二番目に生まれたのだけど、アベルに違いない。アベルが大きくなってから、その兄さんと対決し得るような外的条件を果たした立場が現状だ。だから二十年以前に会うべき兄弟の結合を失ったものを、国家的基準において、その時兄弟が一体となれば、家庭は自然結合、氏族自然結合、民族自然結合、国家自然結合と一遍にやるべきものを、結合過締を蕩減を重ねて、個人的アベルの基盤をつくるために先生は相当苦労した。家庭的個人の基盤、個人を中心とした氏族的基盤、そして民族的基盤から同家的基盤へと、このように押しかけて、統一の群れは十字架の道、犠牲の道を乗り越えて今まできた。

 この道は、生きた死骸の道をたどってきた路締である。だから韓国には残るものはない。見た目には、生きた死骸が残ったような、そういう過締を通過して、そこで死守して、このように国家的基準から認められるようになった。今、既成教会が反対しても、我々が優位な立場に立っている。先生の戦法に巻き込まれつつある。結局屈服しつつある。ユダヤ教圏である既成教会が屈服しつつあるというと、ユダヤ教を中心としたイスラエル圏は自然と向かい合う段階にきているから、ここを中心として修練所とか、国のために我々は手をつなぐ道となって両面作戦でやっていく。

 教会においては統一教会。外的に思想的には勝共活動。韓国は勝共を命懸けでやらなくてはいけない。そういう立場において、我々の作戦と一体とならなければ行く道がないような、その時点に接している。



血統的転換

 復帰路締には僕の僕として、先生は牢屋から、乞食みたいな生活から始めた。なぜそうしなければならないか。復帰は乞食からやらなければならない。牢屋から復帰の基盤をつくって、惨めな最下の基台からずーっと上がって、ここまで上がってきた。それが国家的基準になるまでは、先生は姿を現さない。イエス様はその理想的姿を現して願ってきたのを、姿を現さずして国家的蕩減基準を通過しなければならないその原理的観点があるから、今まで先生は功的席上に現れないでいる。

 これで勝利的な男になったのだから、これから横的基準において、国家的基準を中心として横的基準を迎えなければならない。その横的基準を日本を中心にしてやる。原理的に功式どおりになっている。

 こういう時代圏に立って、今まで数多くの預言者や開拓者が犠牲になった。結局何のために犠牲になったか。アダムを立たせるのはもちろんだけれども、結局はエバを探し求めるために苦労した結果になる。これをその使命の国は感謝して、いかに報いなければならないか。このような背後の関係でもって、日本は現在まできた。

 ここまでくるには、血統的転換をいったい誰がするかというんだね。これは誰もできない。先生がやってきた。これは涙ぐましい、並々ならぬ心情的十字架を背負ってきたということを、あなたたちは分からなければならない。それをなした基準があるから、あなたたちは何の功労もなしにただでこのような祝福という新しい血統を受けた。転換の勝利圏を立たせるには、数千年の神の苦労のもとに、実体を中心とした先仕の生涯のもとに植えて、神様を下に、先生を下に足場として立ったのがあなたたちだ。結婚するということは、切ってしまって接ぎ木する。接ぎ木することによって、血統が変わるんだね。



血統に責任をもて

 これは、先生によって今までなされてきた。もしも、こういうふうに通過した人と、霊界に行ったたくさんの人がいるが、彼らと我々といかなる価値の差があるか。信仰の基準において天地の差がある。相手にならない。このような貴重な天的賜物を、もしも誤った場合には、行く所はない。サタンもあなたたちを講訴する。サタンは、自分は長成基準においてサタンになったのだけれど、あなたは完成基準において堕落した大物であるから、わしの僕になれ。サタンが裁く。最後の道だから行く所がない。深刻なものだ。いいかげんな、性の中の、流れてしまうような結婚と思ったら大間違いだ。天宙の心情を中心とした、貴重な時期である。

 この基準が家庭において、神の愛を中心として心身ともに一致の、栄光の喜びの情的雰囲気を人格とともに完成し、完成したる男女が一体となって、結び合って、愛の感情における目的観に徹して、その目的を完成させる路締には、悩むとか苦しむとか、そんなこと思ったらいけない。感謝の念においてなすべき、心情の目的観の世界である。そのような基準に立ったならば、この地上には堕落とか悩みとかないはずだ。

 しかし、復帰の基準に立った我々夫婦たる者は、今から世界目的に向かって進む我々にして、今からの生涯の道において、どういう心情をいつも体仙しなければいけないかというと、堕落しなかった創造理想の心情圏にあふれて、生涯かけてのその路締において、感謝の一念で過ごすということが、今からの家庭が行く、創造目的に向かっていく路締である。苦労があるとしても、それは我々を苦しめるためではない。天に今まで秘密に積んである無限なる祝福を、自分にもっと多く樹けるために、このような苦労の道を行かせる。有り難いものである。

 そして心情的愛によって結ばれた夫婦は、その愛情にあふるる感情が生活圏を乗り越えて、生涯を乗り越えて、目的と一致するに違いないという信念に立った家庭にならないと、永遠の神様のおられる天国に入れない。それが結論になる。これが創造した神の目的だ。夢みたいな話だよ。まるっきり夢みたいな話だけれど、根がない話ではない。今から、そういう家庭に向かって、先生と約束して進むんだよ。そのようになりたいという者は両手を挙げて誓いましょう。そのまま挙げて、祈ろう。

 天のお父様、今神が慕ってきた本然の家庭がいかに厳粛なる家庭であるかということを知りました。その理想に残る家庭の境に向かって、我々は今から手をそろえ足をそろえ体をそろえて共に行かなければならない運命をもちました。どうか清い生涯を残しまして、純然たる血統を今から残しまして、神の永遠の愛の懐に強く抱かれるその者となることができますように、切に守り祝福してくださることをお願い申し上げます。このような歴史の過締におきまして、姻縁たる内的心情復帰の路締を重ね、それを延長させ、それを継続する間に、神がいかなる苦労をなさいましたかと思う時に、何一つ言いようもない者でございます。どうか一身すべてをあなたに捧げた決意のもとに、もう捧げましたから、両手を挙げて誓うこのかわいそうな者たちを清くしてください。今まで守って導いてくださった神の御恩に本当に衷心より感謝いたします。このようなすべての天的秘密を教えてくださった神様に、先生に、真心から感謝いたします。地上の万民は夢にも思わざるこの境地に立って、我々は生活感情の体恤圏として樹けてくださったこの御恩に、何を捧げて報いようかと知らないものでありながら、どうか生涯、実体すべてを祭物として、あなたの祭壇の前に捧げるほかないということをはっきり分かりました。このような恵沢圏をなしてくださった、地上にある真の父母様に感謝するとともに、天にいます神がいかに苦労なさったかと思います時に、何千万遍礼をしても、口々唱えてもたたえても限りつかない感謝の念で、従いたい決意を、もう一度なすこの瞬間でありますように。

 挙げた手を、直接両手をつかみまして、今後激しきあるいは険しきその罪多き社会に、この道をたどってゆくその路締におきまして、どうか守り合い、互いに助け合い、その相対者がなければ堕落しやすいということを思いまして、時間ごとに守り、時間ごとにそれを心配しながら、共に助け合う、世の中にほかにない親しき友となり、親しき親となり、親しき子供となって、そして兄弟となって、この大なる栄光の本郷の愛の世界に、その達するに不足ないような、その者となるように神励まし導いてくださることを切にお願い申し上げます。

 血統的転換という、恐ろしいことを今聞きました。こんなにも復帰の路締が難しかったことを思う時、我々は今まで何も知らない身としてついてきました。今までやったというすべての栄光は、自分に帰したいという心持ちでやってきましたことを思います時、いかに愚かな者であるかが分かりました。分かるたびごとに、分かれば分かるほどに、自分の一身の身の留める所がなくなり、すべてが天であり、すべてが父母であるということを思うばかりであり、それ以外にないということを今分かりましたから、その信念に包まれて生涯勝利の基準を助け合う夫婦共に、神の前にその栄光の足場として残されることができますように。そして神の記憶内において、永遠なる子女を抱いて、乳を飲ませ、そして親の接吻し合うような子女をもちまして、神にもう一層四位基台の愛の心情を帰すことができますように、真なる男に、女に、そして真なる夫婦となることができますように、祝福してくださることを切にお願い申し上げます。

 今、相対者の顔が問題ではありません。学力が問題ではありません。微妙なるその姿が問題ではありません。神が住みつける内情の心情の量がいかに立体的になっているかという、それが問題であるということを考え、共に神に近寄ることができますように。杖になり、それから励ましの、激励の薬となりますょうに、共に救い主となって、このサタンの世界の荒れ狂うこの悪の世界を通り抜けることができますように、今守り導いてくださることを、再三お願い申し上げます。今誓えるこの両手を、この身を、その夫婦を清くなさいまして、新しい天の世界に、入籍の、その約束者として、神清くなさいまして、彼らの行く道にいかなる苦労がありましても、神共に苦労なさったこと、涙ぐましい場面場面を、神はそれ以上のつらさを体験すること、天地開かなくとも互いに助け合い、互いに慰め合うその境地を忘れないで、真なる夫婦となることができますように、神励ましてくださることをお願い申し上げます。きょう、この長い時間を通して語りましたすべての言葉を骨髄に収めて、百遍死んでもそれを明記して残していく、そして成し得なかったなら遺言を残して、子孫万代にその完成を成していくような、真なる先祖となることができますように、神祝福なしてくださることをお願い申し上げます。今後すべての心情的一切は、神なくして我々は思わざる者であるということを思いながち、今新しい家庭の創造、心情の世界の開拓のその先駆者として恥ずかしくない身振りと身構えをそろえることができますように、神守り導いてくださることをもう一度お願い申し上げます。二二六双のその結末の悲劇が残ってはいけません。喜びだけ残る、その立場に立つことができますように、ああ神守ってください。そして神、世界万民のすべての前に立たせて、褒めざるを得ない真なる家族、夫婦となるように、守り祝福してくださることを切にお願いいたします。今後のすべてを任せますから、お父様、導いてください。真の父母のみ名を通してあなたのみ前にお棒げいたします。アーメン。












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05_勝敗と現在

 御旨と世界
(全面表示)

 



勝敗と現在


1971年12月5日

 韓国

 ソウル本部教会

 我々の周囲には悲しい人々が多い。また反面、そうでない人たちもいる。我々の、家庭、都市、また、国家もまたみながそうである。発展するものがあると思えば、そうでないものもある。笑う人があると思えば、泣いている人たちがある。

 このように一様でない現在―――ところが人間は、皆が悲しみを嫌う、と同時にまた孤独な場所を嫌う。そして、全体を願うのである。喜びと栄光、そして幸福を追求する。家庭と社会、そして国家もみな同じである。みなが悲しみを避け、栄光を迎えようとして、闘っているのである。世界もそうだ。



愛の最後の終着駅

 もし、このような全体のものを支配するある存在がいるとするならば、その存在もまた同じではなかろうか!天のお父様も、間違いなく我々人間と同じはずだ。

 愛は、孤独なそして苦しいところで与えられるべきものではない。あくまでも自由な、そして栄光ある場所で与えられるべきものである。そういう環境のもとで最高の愛を思う存分に与えたい。それが神の心情なのだ。

 今、この地上にそういうことができる人間がいるのだろうか?我々はそういうことに対して考えてみなくてはならないのである。そのような最高の愛は、ある個人だけに与えられるべきものではない。家庭を越えて、さらにまた、世界を越えてより高き次元のものに字えられなければならない。これが愛の本質なのである。

 一人よりは二人、二人よりは三人―――そしてまた十人―――このようにして拡大して、その対象を追求するのが愛の本質なのだ。それゆえに人類愛というのがこの地上にあり得るのである。自分の国家よりも世界を愛することができる力が、ここより発生するのである。愛の最後の終着駅、それは最大のものでなくてはならない。多くの子供たちを養った経験をもった親たちは、この深い心情をよく理解するだろう。で、そのような人たちは敵をもつことができない。そういう内容を分かるようになる。その理由は、すべての人はみな愛を受けなければならないという事実を知るようになるからである。

 世界を除外して私たちだけが愛を受けたい――このような思考方式がここから破壊されるのである。

 神の欲望はある個人にだけ限定されない。全体にわたるということを天は望む。「公」と「私」とが、ここから分別される。「公」というものは全体のためのものである。それゆえに、全体が望むもののために尽くすのが、「公的一であるということができるのだ。私、一人だけの喜びというものはあり得ない。それは全体的な喜びから結局追放されるのである。天の内容というものは、こういうものだと私は思う。それゆえに知恵のある人々は将来のために生きる。現在のためにのみ生きられるものではない。それで、そのようなところから信仰というのが必要になるのである。そこに希望というようなものがあり得るのだ。ゆえに勝利というのは個人的なものであってはならない。あくまでも全体的なものでなくてはならないのである。

 君は君である。私は私である―――そういうものではない。君は、私であり、私は君である。そういうところまでいかなければ駄目だ。個人の勝利においては、個人だけしか喜べない。二人が喜ぶということはできないし、また全体も喜ぶことができない。だが、個人的な勝利も、これを全体の前に棒げれば全体のためのものになることができるのである。



愛は犠牲の道

 それで、犠牲ということが生ずる。犠牲によって、我々は公的な勝利を追求することができるからである。三〇〇〇万の全体の民族が笑ってのちに、(幸福になってから)私も笑うことができるのだという考えが生まれるようになる。それは範囲が広くなればなるほど、その価値が増大するからである。

 ここで「道」ということが、初めて言われるようになるのである。

 ここに世界の絶頂があり得る。そこで愛の道には必ず犠牲というものが同伴する。ところが手段や方法をえてしてはこのような道は歩けない。純粋でなければならない。そうでなければ人に笑われる。個人的な人とでお互いが喜べない。このような意味において、勝利というのはある個人のためのみにはあり得ないのである。れゆえに宗教においては、個人主義というのがあり得ない。もちろん、我々はあくまで個人として存在する。かし、その個人というのはあくまでも国家のためにあるいは、全体のためにある個人であるという事実を我々は、はっきりと理解していなければいけない。そこで、我々個人というものは世界を象徴する存在でなければならいということになる。ゆえに個人は、より公的なもののために生きなくてはならない。

 このように果てしなく拡大していくのが神の愛である。我々は、統一教会のためにのみ生きてはならない。家のために生きてはならない。世界のために生きなければならないのである。たとえ、犠牲になることがあっも、我々は、この道を歩まなければならない。このようにして個人は生きられる。美しい黄昏を見る時、自分人だけ見たいと思う人がいるだろうか?そういう美しいものは、あらゆる人が眺めて喜んでほしいと思うの人間の本情であろう。永遠なる天国というものは、ある個人の内にだけはあり得ない。永遠なる天国というものは全体においてのみあり得るのである。

 それで宗教〈特にキリスト教)は強い。誰もこの力を取り除くことはできない。言うまでもなく、このような宗教の道を歩むことは楽ではない。悲惨な姿をしなければならない。しかしながら、人類の歴史はそのような人たちを通して発展する。それゆえに我々は高次的な願いをもたなければならないのである。そういうところにおいて、個人は死んでもその道は発展していく。滅ぶ場合においてもそのような人々は望みを抱いて滅ぶことができる。そうでなければ、そののちに発展というのがあり得ない。



永遠に残る思想

 世界のために尽くす統一教会───もしそうでなければ統一教会は滅んでしまう。我々は、このような立場で新しい文化世界、新しい文化的思想を打ち立てなければならない。我々は天と地を代表する思想を残さなくてはならない。それに成功すれば、たとえ天と地が崩れてしまうことがあってもその思想だけは永遠に残される。我々は国家のために受ける苦痛であるならば、それを誉れと考えなくてはならない。その当時は悲惨であるかもしれない。けれども、それは誰も取り消すことのできない愛なのである。

 イエスは十字架の上で死んだ。しかしながら彼を十字架に据え付けた天の愛は、この地上から消えてしまったのであろうか?そうではなかった。最も深く愛するひとり子を殺してまでもその深い愛をこの地上に顕現させたのが、神の愛ではなかったか!それが、真の父母の愛であったかもしれない。それは我々が想像することができないほどの次元の高い愛であったのだ。それゆえに、他の方面において新しい復活が開門されたということを我々は、はっきりと知っていなくてはならない。三〇〇〇万の、我が民を救う時までは、我々は悲惨な環境を忍んで闘わなければならない。それが、たとえ死の道であっても我々は行かなければならない。そのような所で我々は、初めて真に生きることができる。

 それゆえに統一教会が歩く道は一見して、死の道のように思われる。それは統一教会が、国のために生きるからである。我々は国が滅ぶのを、そのまま放っておくことができない。我々は全力を尽くして国のために働かなければならないのである。挙国的な活動の中心とならなくてはいけない。そうでなければ我々は滅びるほかはないだろう。



勝者と敗者の分岐点

 今、我々は勝者となるか、敗者となるか、その運命が決定される分岐点の上に立っている。それが今から十年後に決定されるのではない。今のこの時点において決定されるのである。この現在の時点を乗り越えることができない人は、勝利者となることができないであろう。現在を克服できない人は、未来の勝利をもたらすことはできない。我々はこの難関をうまく越えて神を解放しなくてはならない。ゆえに我々は、現在を勝利しなくてはならないのである。

 神の運命も我々にかかっているという事実、我々は、はっきりと認識していかなくてはいけない。他人も救わな公的な勝利は、暖かい部屋の中では勝ち取ることはできない。喜びの日というのは、今の我々には、よほど縁が遠い。我々は、既成教会と闘ってはならない。我々は彼らが願っている天国を建設してあげるために、全力を傾けなければならない。それは我々の目的が、あくまでも天国を建設するところにあるからである。

 では、今のところ天国が建設されているのだろうか?今から我々は、天国を建設していかなくてはならないのである。我々は、中断することができない。挫折することができない。我々は、我々の家庭のためにだけ生きることができない。我々は、より偉大なるもののために出発しなくてはならないのだ。現在いるところに、そのままとどまっていることができない。我々は、我々がしなければならない全部のものを成し遂げなくてはならないのである。

 我々自身は救われなくてもいい。国家と世界を救わなければならないのだ。そういう思想をもたなければいけない。我々は、いくら飢えても前進しなければならない。いくら難しくても、我々は我々がしなければならないことを成し遂げなければならない。歴史と共に歩きながら、新しい歴史創造に参与しなければならないのである。天の目的と天の悲しみと、天の権威のためにも我々はじっとしてはいられない。我々は、今、前進しているのである。我々は、今、眠っていることはできない。世界のために闘っている人々と共に、世界のために我々も闘わなければならないのだ。そうすれば、我々は自分一人だけが闘っていないという事実を発見するようになるであろう。霊界にいる聖徒たちと共に立体的に闘っている自分自身を発見するようになるのである。こういうことが、もちろん、たやすいことではない。難しいことである。我々は一歩も踏み誤ることができない。こういう道を歩く時には、ブルブル震える時が多い。深刻なところを我々は歩いているのである。共産主義と闘うために、サタンと闘うために、我々は国家を越えて前進しなくてはならないのである。



摂理の中心に立つ再臨主

 この世の中で、ある一人が生きているということは、その一人のためにのみ生きるということを意味するのではない。その人は、ある家庭に属しているだろうし、また、ある民族、ある国家に属しているのである。最少限度、民主主義の世界においてはそうだ。このような数多くの単位に取り囲まれて我々、一個人は生きているのである。しかし、今のところいったいどの個人が天の摂理の中心となっているのか?どの家庭が、どの国家がその核心となっているか?それをいったい誰が知っているだろうか?この内容を本当に知っている人は誰もいない。人間はこのように何も知っていないのである。

 それではいったい誰がそれを知っているか?聖書を見れば天の父だけはそれを知っていることになっている。このように天の神だけが知っているその摂理の中心――その中心がキリスト教でいっているいわゆる再臨の主なのである。それゆえにあらゆる人たちはこの天の個人とその家庭を中心として、一致的紐帯(ちゅうたい)を結ぴ、運命共同の生活をするようになっている。この一人を中心としてあらゆる人々が、何が善であり、何が悪であるかを知るようになっているのである。それゆえに我々は、その中心と一つとなって、悪を取り除くために全力を傾けなければならないし、またそのための訓練を受けなければならない。これができるかできないかによってあらゆる個人と、あらゆる国家、そして全体の人類が死ぬか生きるかという生死の問題が決まるわけである。

 ゆえにすべての人間は悪の世界を捨てて、この善なる中心と一つとならなければならない。この再臨の主は神の国が滅びるかどうか、またサタンの国が滅びるかどうかをはっきりと知っているそういう人である。

 その理由は、再臨の主が神の国とサタンの国に関するあらゆる秘密を知っているからだ。それゆえにその人は神の国とサタンの国が、あるいは興り、あるいは滅びるその間をくぐり抜けて、善の国を建設していくことのできる人であるのである。神の国を建てようとする人は、神もよく、またサタンもいいというような股がけの思想をもつことは許されない。そういう目的のために生きる人は徹頭徹尾、悪に勝利しなければならない。



勝利したヤコブになろう

 ヤコプは二十一年を闘い抜いて、そしてまた天使を勝ち抜いたあとでイスラエルという勝利の名を受けることができた。神の国を建てようとする人は、みんなこのような道を歩かなければならない。モーセもそういう目的のために、一二〇年の間一人で闘ったのである。神が悪の勢力を打つ以前に、我々がその願望を成し遂げてあげなければならないのが本当である。もし、神がお一人で悪の世界を処理することができるとするならば、人間は何のために必要であろうか!それゆえに我々は、神の身代わりとなって悪を打ち砕き、勝利の一日を迎えなければならないのである。途中で倒れては何にもならない。

 もし、ヤコブが天使と相撲をとる時、”あー、やりきれない。誰かが助けてくれないのかなあ!”というような弱い考えを抱いたならば、どうなったでありましょうか?神は確かにしょうのないやつだ!と嘆いたに違いない。しかし、ヤコブは自分一人で闘い抜いてそれに勝ったのである。それでイスラエルという、勝利という意味の名前を受けることができたのだ。

 このような勝利を得るためにヤコブは、腰の骨まで打ち砕かれたではないか!我々は命を懸けて天使と闘ったヤコブの姿を想像してみる必要がある。彼は勝つまで決して相撲の手を放さなかった。我々にもそのような、最後まで頑張る根強いところがなければならない。

 天国に入るためには、サタンに打ち勝ったという証明がなければならない。その証明書がなければ天国に入ることができないのである。けれども我々がサタンに打ち勝とうとする時、サタンはそのままいるのではない。最後まで抵抗し反対するのである。このようにサタンがしつこく反撃するために、神はそこに関心をもたなければならないようになるのである。

 神の道を歩く時には、ありとあらゆる困難にぶつかる。皆さんは女の人が子供を産む光景を見たことがあるか?女は歯をくいしばり死を覚悟してある力全部を懸け子供を産むのである。今、我々統一教会の人たちはそのような立場のもとにいる。



我々は後退できない

 このような立場において、我々は後退することができない。今、アメリカ人はその軍隊をベトナムから、あるいは韓国から撤収するといっています。しかし、我々は後退することができない。反対に我々は敵のほうに向かって突進しようとしているのである。それでは敵のチョンマゲを握り取って何をしようとするのだろうか!そうすることによって神様を喜ばせたいその一念しかない。神を喜ばせるところに我々の目的がある。サタンをなくすために、六〇〇〇年も闘ってこられた神を喜ばせるために、我々はサタンに打ち勝たねばならないのである。

 このようなことは一人ではできることではない。一人では到底不可能なことである。それゆえに国家と一つになって天のかたきに勝利しなければならない。我々はいかなることがあっても共産党を打ち砕かなければならない。それがすなわち統一思想なのである。誰が何と言っても仕方のないことである。我々は共産党に勝たなければならない。そうでなければ我々は目を閉じて死ねないのである。我々は共産党が滅亡するのを見なくては死ねない。これが統一思想である。

 未来の栄光を遮るサタンを我々は討ち取らなければならない。この目的のために今我々は包囲作戦をしている。敵を包囲するためにはもちろん多くの犠牲を払わなければならない。しかし致し方がない。我々は熾烈(しれつ)な戦争をしなくてはならない。

 皆さんは全部がそのような覚悟をしなければならない。我々は容易ならざる境遇において勝利しなければならないのである。悲惨な立場で勝利しなければならない。

 将来、神のほうで勝利したときいったい、誰が一番喜ぶでありましょうか?確かに統一教会の文先生が一番喜ぶでしょう。その理由は?我々は今までそのことのために夜も眼られなかったからである。勝利した場合には一番苦しんだ人が一番喜ぶのは当然なことである。我々は、敗者になってはいけない。絶対に敗者になってはいけないのである。それで私の祈りは全く真剣である。このような意味において皆様の祈りと私の祈りとはその質が違うはずだ。今や、我々は世界の運命を前において、我々自身の立場を考えてみなくてはならない。

 統一教会が滅んではいけない。三〇〇〇万の民族を生かすために、我々は敢然として闘わねばならない。このような闘いを敢行するところにおいて、ある個人的な事情のために中断することはできない。それは敗北を自らつくることになる。逃避者とならざるを得ない。神の責任を背負った人はそのようなことはできないのである。もちろん、悲惨な姿をする時があるだろう。絶望する時があるかもしれない。しかし、我々は後退するとか、中断することはできない。もし我々ができなければ、我々の子係が受け継いでやる―――このような覚悟を我々はもたなければならないのである。このような思想は最も恐ろしい。とにかく我々は、先頭に立たなくてはならない。我々は、一時に敵を攻撃することができる姿勢を整えなければならない。



死を覚悟して出発した先生

 我々は死を覚悟しなければならない。この文先生は、この道を出発する時、既に死を覚悟した。ゆえに私の生涯において一番遺憾なことは、私が軍隊生活を経験しなかったということだろう。しかし、私はいつでも命を投げ出して善のために冒険を敢行する勇気をもっている男だと信じている。一線に出て、先頭に立つ覚悟をいつでももっている。

 いったい、統一教会は誰によってつくられたか?この統一教会の運勢をいったい誰が動かしてきたか?持様が動かしてきたのだろうか?あるいは歴史が動かしてきたのだろうか?皆様が動かしたのではありません。歴史が動いてきたのである。我々はこのような事実をはっきりと知っておく必要がある。我々の力で動いてきたのではないという事実を。

 それは数千年間において、歴史的に血を流してきた先烈たちの功労が背景になっているから、我々が動くことができるという事実を明確に知っていなければなりません。それで我々は、歴史的な責任を背負わなければならないのである。我々は歴史に対する責任を負わなければならない。こういう道が現在統一教会が歩んでいる道なのである。

 このような立場において、我々は歴史の主体となるか、そうでなければ象徴となってその難しい問題を解決しなくてはならないのである。我々はそういう目的のもとに、お互いが同労者となって闘わなければならない。部屋の中に座って、このようなことはできるものではない。部屋の中にいながら、そのような事実を知っているとしても何の役に立とうか?

 とにかく美しい歴史に傷をつけた人は永遠に外されてしまう。我々はダイヤモンドに傷をつけるような、そういう人になってはいけない。統一教会という存在を歴史的見地から見る時、それはかつてなかった、また将来にもあり得ない貴いものであるためである。



歴史が待ち望んだ「真の父母」

 では、今までの人類の歴史が待ち望んでいたものはいったい何であったろうか?それは真の父母に会うということであった。真の父母がなかったために、今までの人類は悲惨な歴史の道を歩まなければならなかったのである。キリスト教でいうメシヤ思想というのは、この真の父母を迎えることを意味するものであった。いや、あらゆる宗教、あらゆる国家が探し求めなくてはならなかったものも、またこの真の父母だったのである。

 一

 今、北韓では金日成を「父」と呼んでいる。だが「父」が.一人いるわけがない。統一教会で、この先生を「父一と呼んでいるから、サタンもそれをまねているのだ。大韓民国が費いという理由も実はこういう内容があるからだ。ところが真の父母はいったい誰が選定するのだろうか?このことを子細に検討することは、人間がしなければならないのである。人間はどちらのほうが善なる父母か、そしてまたどちらのほうが悪なる父母であるかを分別しなければならないのである。真の父母が二つあるわけはない。一つしかあり得ない。一つしかない人類の真の父母は、歴史の起点であり、歴史の希望なのである。永遠なる生命であると同時に愛でもある。それゆえに皆様は真の父母の心情を詳細に知り、それに合わせなくてはならない。

 それでは、父母のほうでは子女に対してどのような態度をとるようになるのだろうか?悪の世界から選定された善なる子女であるゆえに、父母は無限なる神の愛をもって、彼らに対さなくてはならないのである。一般世間の父母とは、全然その子女に対する態度が違わなければならない。これと同じく、真の父母に侍る子女としての基本的な姿勢も、また、なくてはならないのである。万国から選ばれた、そして自分の国から選出された代表的な孝子として、孝誠を尽くすことのできるチャンピオンにならなくてはいけない。このようにしなければならないのがすなわち皆様なのである。

 もし、皆様がこのような立場から去るようなことがあるとすれば、それは億千万代にわたる悲しみとして残されるだろう。しかし前に言及したごとく真の父母に尽くす孝子たちが続出し、そのような人たちが一つに結束するならば、彼らはどのようなことがあっても滅びることがないだろう。このような焦点上に立っているのが今の皆様である。

 そのような人たちは自分の欲することを全部行動し、また、話したいことを全部話しながら生活することはできない。今のところでは、そのような自由は与えられていないのである。統一教会に対する責任を担っているこの文先生も、言いたいことを全部言いながら暮らしているのでは決してない。祈りをする時も、「天の父よ……」と祈りを始め、その後はものを言うことができず、そのまま夜を明かしてしまうことがいくらでもある。気がふさがることがあまりにも多いので、天の父に対して面目がなく、祈りができないからである。天の父に対して申し訳がないからである。



本当の孝子とは

 ところが皆様方はあまりにもずうずうしい。自画自賛的な人がいるかと思えば、自己を宣伝するためにきゅうきゅうする人たちがいくらでもいる。困ったことだ。本当の孝子というものは何も語らず、黙々として自分の責任を全うし、そして父母の前では顔も上げられないという態度をとるものである。そうでなくては孝子となることはできない。もちろん、忠臣になれるものでもない。このようなことを真剣になって実行している統一教会を世間では異端といっている。

 しかし、このように批判し続けていって、結局は、何も言われなくなってくる時が来るであろう。その時は統一教会がぐーっと浮かび上がるのだ。それゆえに皆様は、たとえ一日の生活にしても、いいかげんにしてはなら.ない。一日の生活を貴重なるものと考えなくてはならないのである。一日、一日をまじめに生活しながユ、一歩一歩を気高く踏んで進まなくてはならない。

 孝を全うするためには、不具になってもかまわないのだ。そのような人は時が至れば、太陽のように輝くであろう。星のように明るい焦点となる時が来るであろう。このような栄光を得るためには何も言わずに、黙々として歩まなければならない。

 弁明する人になってはいけない。登れと言えば登るし、下れと言われれば下らなくてはならないのだ。我々統一教会の人たちは弁明してはいけない。自己自身の基準がはっきりとしている人は弁明する必要がないのである。皆がそういうふうになれば、統一教会は絶対に滅ぶようなことはないだろう。



先生は「針」皆さんは「糸」

 今の、我が国(韓国)の情勢は非常に緊迫している。キリスト教では、既に二〇〇〇年の前からこのような時が来ることを警告している。では、いったい誰がこの国に対する責任を負わなければならないのだろうか?それは統一教会の勇士たちがその責任を負わなければならないのだ。

 我々は今、「破れた国」という着物を縫い繕わなければならない立場であると例えてみよう。すると、この私は針であり、皆様は糸のようなものである。糸は針にくっついていなければ着物を縫うことができない。針だけいくら通っても駄目だ。で、針も重要であるけれども、糸もまた重要であるという事実を皆様は、はっきりと認識していなければならない。皆様と私が一緒になって、針と糸との関係を結び、そして破れているこの国、あるいは世界という「着物」を修繕しなくてはならない。もし、国家が滅んでしまえば、統一教会は行くべき所がない。そういう意味からしてでも、我々はこの国家を固守しなければならない。我々はいたずらに共産主義を恐れてはならない。我々は、我々が既に決意したところを勇敢に実践しなくてはならない。我々は何も持たない裸の立場である。しかし我々は共産主義に勝ることができる。我々統一教会の人たちが国家以上のことをするようになる時には、天が我々を保護するだろう。ここに勝敗の鍵があると私は思うのである。それで我々は勝利を眺めることのできる勇士とならなければならない。

 我々は敗者としての悲しみを味わうようになってはならない。このような角度から我々は自我を分析し、批判しなければならないと思う。そして勝利のための苦難を克服する覚悟を決める時が今なのである。常に国を憂う人は悲しい人にならざるを得ない。もし皆様の中に本心から国家を憂い、世界を心配する人がいるとすれば、大韓民国を、この先生よりももっと愛し、世界をこの先生よりも、もっと愛さなければならない。そのような皆様は決して滅びることがないだろう。

 我々は自分の責任を尽くせない人になってはいけない。ゆえに我々は、我々の責任を全うするために倍の努力を傾けなければならないのである。

 我々は滅んではならない。滅ぶことができない。現在のあらゆる難関を克服しなければいけない。全体を投入して現実を救わなければならない。もちろん、金も必要だろう。その他の物質も必要な時があるだろう。判断に困る時があるかもしれない。

 しかし我々は勇敢に前進しなくてはならない。この先生はどこへ行っても皆様のために祈るだろう。ゆえに皆様も現在を克服しなければならないのである。

















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06_統一戦線守護

 御旨と世界
(全面表示)

 



統一戦線守護


1972年1月1日 アメリカ

 ワシントン教会本部

 年頭標語は、「統一戦線守護」であります。このようにして、アメリカに来て、新しい年を迎え、神の日を迎えることのできたことを栄光に思っています。

 昨年は、一年の生活標語として、「統一基盤確保」をもって、一年の間戦ってまいりました。我々は一年の間に多くの活動をしましたし、また天が多くの祝福をしてくださいました。



民主世界の危機と統一教会

 今年は、「統一戦線守護」という標語を掲げました。なぜこういう標語を立てたかというと、人間世界と神の世界とを戦線として我々は考えているのです。しかし、今の現情勢に立って見る時に、民主世界が相当に危機なる立場に立っていることを感じています。それは、共産主義の脅威によって、民主世界がそういう思潮に巻き込まれていることを我々はよく知っています。ゆえに、これは、米国ばかりでなく、民主世界全体にかけて、アジアあるいは西欧や、いかなる国家も、いかなる社会団体、いかなる教会を問わず、こういう思潮に巻き込まれているのです。外的な責任を負わせるために、民主世界を前に立たせているにもかかわらず、その使命を全うし得ず、脅威を受ける立場に立つ場合には、内的使命を負つたものが、外的使命まで兼ねて全うしなければならないということが当然の立場なのです。

 さて、民主世界圏内を見るときに、それは、宗教圏内に限るのでありますが、宗教圏内において、いろいろな宗教がありますが、その中でもキリスト教が内的使命を全うしなければならないと考えるのであります。そういう観点から見るときに、現世キリスト教が、共産主義体制に勝つことのできる体系を整え、実質的な対社会、対世界に活動をしているかというと、そうではないということを我々はあまりにもよく知っています。

 それでは、キリスト教が果たせなければ、どこからか、こういう使命を内的にでも全うし得る一つの宗派が生まれてこなければならないと思うのです。それが我々、統一教会であることは言うまでもありません。我々はキリスト教を守護すると同時に、すべての宗教を守護しなければならないし、共産主義世界からの脅威を防御しなければならない責任をもっています。

 そういう観点から、我々、統一教会が今まで発展してきた過程において、この二つの方向、キリスト教と民主世界において共藤世界を対備することのできる基準を強化するために、我々は今まで準備してきたのであります。

 こうして、神のみ旨ということを中心にして見るときに、現在、統一戦線こそ、世界的に神が最後の頼みとして信じる戦線であると考えざるを得ないのであります。ですから、この統一戦線を守るということは、単に個人ばかりではなく、我が教会、そしてキリスト教を救うために、民主世界を救うために、全般的な責任を負わなければならない、統一戦線守護という標語を立てるようになったのです。

 この観点から、外的にはこういう世界的使命があると見られます。その反面に、内的には摂理的、世界史的使命を担っているのであります。いくら内的勝利が完結したとしても、外的勝利がここに伴って完結しなければ、一つの全体的目的を完成することはできないというのが原理の観点であります。

 それでは、ここで、内的なものが重要か、外的なものが重要かが問題になるのです。それは内的なものがもっと重要視されるのであります。内的問題は、神のためであり、外的問題は人のためであります。その観点から見るときに、我々は神のみ旨を重要視せざるを得ないのであります。神のみ旨は、神と共に一つとなった個人を通じて、内的に一つになった家庭を通じて、内的に一つになった氏族を通じて、内的に一つになった民族を通じて、内的に一つになった国家を通じて発展させようとするのが、神のみ旨なのです。これは、どの時代にも、摂理の目標は国を目標として、今日まで至ったのであります。



再臨主を守護する基盤

 では、こういう全体的責任を全うし得る人は、いくら国を標準としたといっても、国を動かし得る人がなけれはなりません。こういう観点から、四〇〇〇年の歴史を準備してまいりましたし、一つの国を中心として、その国の中に一つの全体の責任を負える、内的に一つになった責任者、内的教会に一つになった責任者、あるいは氏族、民族、国家、こういう面から、内的全体の責任者を必要としたのであります。そういう中心の責任者として来られたのがイエス・キリストでありました。

 これが四〇〇〇年の歴史を通じて御苦労された結果のイエス様であったのです。しかし、我々が知っているように、イスラエル民族は、不信することによって殺してしまったのでありますから、神と内的に一つになり得る個人的勝利基盤ももつことができなかったし、家庭的勝利の基盤あるいは氏族的勝利の基盤、民族的勝利の基盤、国家的勝利の基盤、この全体を築くことができずして行ったのがイエス様であります。

 ですから、その歴史が再延長されて、二〇〇〇年の歴史を延長して、今日数多くの外的な民主世界圏にその内的なキリスト教圏内に、その中でももっと内的であるこの統一教会圏内を中心として二〇〇〇年のこの摂理が再び内的に決定しようとするのが神の摂理であります。

 では、ここに問題になるのは何かを、我々はもう一度考えざるを得ません。言い換えますと、二〇〇〇年前に、ユダヤ人たちは個人的にイエス様を神のみ旨どおり、神の内的み旨と一致し得る立場で守護することができなかったために、その個人的基盤を築くことができなかったのであります。

 その次には、ヨセフの家庭や、ザカリヤの家庭や、この家庭がイエス様と共に立つことのできる家庭を守ることができなかったのであります。そういうわけで、氏族自体が、その家庭を守ることができなかったし、民族自体がその氏族を守護することができなかったのです。こういう意味で、家庭的に、氏族的に、民族的に、国家的に守り得なかったこの基盤を再現させて、今日我々は再臨する主を中心として、個人的に守護し、皆さんの氏族で守護し、皆さんの民族で守護することのできるそういう基盤を強固にしなければ、再び神のみ旨を成就することができないのであります。

 ですから、我々統一教会は、天が外的に公認し得る個人的基盤を成就しなければならないし、家庭的基盤を成就することによって個人を守り、民族的基盤を成就することによって氏族を守り、国家的基盤を成就することによって民族を守ることのでき得る道を再びつくろうとするのが、今までの戦いの路程でありました。ですから、新しい内的因縁を中心として、新しい氏族を編成し、新しい民族を編成し、新しい国家に向かって我々は前進しているのであります。

 こういうわけで、皆さん個人個人は、自身がサタンの一線と神の一線の中間にいて、神の立場に立った自己自身を守って、サタンの攻撃を受けない、勝利の決定圏を皆さん個人が確定しなければならないのです。例えていえば、ペテロ、ヨハネ、ヤコブよりも、悪い立場に立ってサタンを退ける権威の位置に立たなければならないのです。そうならないと神が保護することができません。

 では、ヨセフの家庭とか、ザカリヤの家庭がサタン世界の一線で戦って、勝利して、イエスの家庭を守らなければならないそういう立場に立っていたにもかかわらず、それをすることができなかったために、イエスは家庭を成すことができなかったし、十字架につけられたことを我々はよく知っているので、持さんの家庭においてこういう基盤をつくって、主様の家庭を守らなければならないというのです。

 その次は、この家庭がイエス様の氏族を迎えるためには、イエス様の氏族を救い得る数多くの民族的保護圏があって、その民族圏に打ち勝って、サタン世界で勝利の基盤に立って、イエス様側の氏族に対することのできる守護圏をつくらなければならないということであります。一段階下がった立場ですから、イエス様の親類家庭があることによって、イエス様の家庭を救うことができ、氏族があることによって家庭を救うことができ、民族があることによって氏族を救うことができ、国家があることによって民族を救うことができます。



今までは主に守られこれからは主を守る

 そういう立場から見るときに、今までこういうことを今日、既成教会とか、いかなる民主世界の誰も考えた人がなかったので、皆さん自体からこれをつくらなければならない責任があるというのです。言い換えますと、皆さんがここに集まってきたのは、皆さんが救いを受けるために、あるいは、天国へ行くために集まってきたということよりも、神はどういうふうに考えているかと申しますと、来たるべき主様を個人的に保護するために考える人を天はもっと望んでいるのであります。

 そうして、その互いの立場が、カイン、アベルが一つにならなければならないと同じように、家庭的に、カイン、アベルが一つにならなければならないし、各自の立場が連結されて、垣根のようにならなければならないのです。

 それと同じように、我々、統一教会を信じる人たちは、その統一家庭を保護し、その家庭は全体家庭を保護して、完全に一つになるところから、サタンの審判を受けない立場に天が立って、新しい計画をし得る原動力の動機的基盤をもつことができるのであります。そして、国家自身が、我々統一氏族を守護する責任をもってこそ、イスラエル民族がイエス様を守護することができず滅びたことを、もう一度、守護することのできる立場に立つことによって新しいイスラエル圏国家を復帰することができるというのです。

 ここで、七二年度を期して、どうして「統一戦線守護」という標語を掲げたかというと、今年度こそ、越えていく年であるからであります。これまでの歴史は、皆さんのために、皆さんを保護し、皆さんの家庭を保護し、皆さんの氏族を保護し、皆さんの民族を保護し、皆さんの国を保護するための戦いを今までなしてまいりました。しかし、いつまでもそうであってはいけません。それは先生として、しなければならないどの限界、国家なら国家を中心として、先生なら、先生の氏族を中心として、立つことのできる一つの限界点をつくってきたと見るのであります。これからは反対に、皆さんが先生を保護するために、み旨をなすために、皆さんが一層大きな責任をもって、全世界的に活動しなければならない時が来たのであります。

 言い換えますと、今までは先生についてきながら運動してまいりましたが、これからはついてばかりではいけません。皆さんがついてきながら、かえって、奉仕する立場に立ってこそ、先生が位置をとることができるとい

 →うのです。

 今までの先生は、個人的に見れば位置がありませんでした。家庭もそうであります。先生の家庭が位置をとれれば、祝福された皆さんの家庭が次々と位置をとれるのであります。その次には、祝福を受けた全体の氏族が位置をとるのであります。そういう基盤が広くなって、一つの国家が成立すれば、世界国家は短い期間に復帰されるでありましょう。そうなると、個人的に皆さん自身が問題になるのです。皆さん自身が先生の使命を受け継いで、責任を全うすることができるか、ということが問題になるのであります。

 先生は、国の迫害を受けてきましたが、皆さんは世界の迫害を受けることを覚悟することによって、国は保護を受ける圏内に立つようになるのです。言い換えますと、先生が個人的に審判を受けるいかなる問題があるとしても、これを皆さんが守護する責任をもって、防御し、守護することができるか、が問題となります。それが個人ばかりではなく、家庭では、先生の家庭が歩まなければならないすべての受難の道を、あるいは、外的に内的に受けるべきことがあればすべて、どこまでも責任をもつという家庭がなければなりません。そして、統一教会の食口全体を外的に守護してくれる教団がもしあるとするならば、統一教会は立たされるのです。統一教会を守護する団体、この全体を合わせた宗教団体を国が守護してくれるというと、その宗教団体までも完成し得る位置に立つことができるのであります。

 そのように守ってくれるその国に対して、世界のいかなる国家でも責任をもつ立場に立てば、その国は、安息する基盤に立つことができるのであります。こうなると、世界復帰は、短い期間になされるのです。そして、皆さんが個人的に神の中心を守護し、家庭的に守護し、氏族的に守護し、あるいは民族的に守護し、国家的に守護し、それが別々ではなく、一つの国を中心とするその国の中で一つの民族として、一つの氏族として、一つの家庭として、一つの個人として守護し得る立場を整えるようになると、大きな問題が問題にならないというのであります。

 国家を代表する代表者が、氏族を代表する代表者が、家族を代表する代表者、このように一人ずつ代表者を立てれば、カイン、アベル復帰でありますから、個人的カイン、アベル、家庭的カイン、アベル、氏族的カイン、アベル、民族的カイン、アベル、またカイン、アベル国家の代表者たちがこの一つの中心を中心として、それぞれが完全に一つになれば、一時になされるというのであります。



国家的勝利基盤をつくる

 しかるに、我が統一教会はどうなっているか。国家の反対を受け、キリスト教の反対を受け、家庭の反対を受け、全体から反対を受けたのであります。

 そうして見ると、我々、何かといいますと、イエス様に反対する群れではなくして、イエス様を積極的に支持する、すなわち、皆さんたち祝福された家庭は、積極的に支持する、そして祝福された全体の氏族が支持し、そうすることによって、だんだん大きくなって、今韓国においては、統一教会がアベル教会になっており、既成教会がカイン教会になって、これが今、折衝する段階に入っています。同時に、国家と折衝する段階に入っているのです。

 しかし、万が一、既成教会が信じない可能性がありますので、ここに中間段階のユニオン教会をつくっています。この団体は、韓国と日本と台湾が合同してつくったもので、既成教会と一つになって、国を中心として、アベル圏をつくっていかなければなりません。

 それで、今年に入って、先生がアメリカでしなければならないことは、韓国のキリスト教を包囲作戦しようということです。韓国のキリスト教を滅ぼそうというのではなく、韓国のキリスト教を救ってあげるために、韓国はアメリカの直接的影響を受けますので、アメリカで、ある程度まで、命令に服従してくれれば、韓国は一度に回る可能性があるので、ここから間接的防御作戦を必要として、救援の可能性があると兄るのであります。万一、米国教会が応じない可能性がありますから、世界的集団をつくろうとしています。

 天の摂理作戦は、黙って座っていては成り立ちません。こういうふうに、防御線をつくる時はつくらなくてはならないし、処理していかなくてはなりません。橋を架けておいて発展していきますので、そこに防御し得る、また我々が前進し得る基盤を広くしておかないというと、復帰摂理は進行できないのです。

 滅びてはいけません。イエス様と同様に失敗してはいけません。この運動を先生がアメリカに来て、皆さんと手を取って活動すれば、皆さんが喜ぶだろうと思います。しかし、そうはいきません。その基盤を次々と広くしていかなければならないのです。それは、個人的基盤、家庭的基盤、氏族的基盤、民族的基盤、国家的基盤、その上に世界的基盤を築いていかなければなりませんから、国家的基盤を築かなくしては、来ることができないのです。万一、私がここにいて韓国が全部破壊されてしまったら、どうなるでしょう。

 そうでありますから、今までずっと韓国問題だけの作戦をしなければならなかったことを皆さんに理解してほしいのです。皆さんは米国にいますが、米国の食口という立場ではありません。これは、新しい一つの氏族圏内にいる氏族であります。み旨的立場から見るとき、一つの国家複帰の問題を中心として動くときは、皆さんはそこを中心として終わりまで、すべての真を尽くして、外的に守護する立場から戦わなくてはなりません。

 皆さんが今まで活動したことは、早くこの五十州に宣教部をつくって、アメリカをもっと早く復帰して、世界を復帰しようと考えたかもしれませんが、それではいけません。国家を復帰する前に、世界は絶対に復帰することができないのが原則であります。万一、どういう人が世界を復帰したとしても、できるのではなく、必ず、このコースを再び通っていかなければならないのです。

 皆さんが、もし、世界を握ったとしたら、その世界は国が土台となりますので、それを中心としないと、世界が回る時には、全部が破れてしまうのです。ですから、これをするためには、何をしなければならないかというと、五十州を通じて世界復帰をするには、その基盤を築いた勝利の結果を、復帰基準の前に帰して、それを合わせて、世界に向かうべき道をつくらなければならないということです。これが非常に重要なのであります。



一つになろう

 このような立場が、個人的にいっても、私が家庭を中心として、三位基台になるのです。

 家庭を中心として氏族を求めようとしますが、アベル家庭がなくして、カイン家庭の立場だけではいけません。家庭もカイン、アベル家庭が一つになって氏族を復帰しなければならないので、カイン家庭だけでは氏族を復帰することができません。二つが一つとなって復帰しなければ正常的復帰にならないのです。これは、氏族も、民族も国家もみな、そういうふうに通っていかなければなりません。

 どうしてそうしなければならないかと言いますと、これを保護して、一つになって、一緒に進まなくてはならないから、こういう関連をもたねばならないのです。この基準を失えば、二つに分かれてしまいます。今、我々が土台を築いて、何をしようとするのか。それを守護しようとするのです。そうするためには、一つにならなければいけないので、一つになるには、完全に一つにならなければなりません。カインを屈服させて、例を挙げれば、骨と肉というような関係で、当たる場合には骨が当たってはいけません。イエス様がこの世に来られて、体を打たれ、みな打たれましたが、骨は打たれませんでした。この骨が打たれたとするならば、みな滅びてしまったというのです。

 我が統一教会が、二十年間、世界的土台をつくるために、あるいは、この世界の宣教部だとか、みな、自分の国を早く復帰して、世界を早く復帰するには、それも団結しなければならないし、その目的は早く団結させなければならない目的だという観が確かに立っていないといけないことをはっきり知ってほしいのです。先生はそう考えているのです。

 これは、韓国を救おうというのではなく、神の国を復帰しようというのです。先生が生まれた国でありますが、私の国ではありません。今まだ闘っているのです。皆さんが、思いもつかない家庭で、一人で今まで闘ってきたのです。皆さんは、蘇生、長成まではいいですが、完成時代は子女の時代に入っているので、父母に侍らなければなりません。父母が苦労しているのに、自己を守護するのは親不孝者です。父母が当たるべきことを、代わりになって、自己が責任を負って出なければ、父母を守護することにはなりません。

 それが同じように、皆さんは統一教会において、個人と家庭に適用されることを忘れてはなりません。カイン家庭はアベル家庭のためにあるのであり、カイン氏族はアベル氏族のため、カイン民族はアベル民族のために、カイン国家はアベル国家のために立っているのです。

 こう考えてみる時に、初めて守護圏が生まれてくるのです。そのために存在するのですから、難しいことがあれば、自分が全体の責任を負うという時に、そこで安息圏の建国が始まるのです。

 イエス様が死んで、イスラエルの民族が滅びたのは、この思想が反対になっていたからです。イエス様が来てからは、自分たちのために尽くしてくれると思ったのです。自分たちは何もしないで。

 例を挙げれば、我が祝福家庭が、自分たちだけ行って暮らすと考えるならば、それは大きな誤算です。それはいけません。自分たちが祝福を受けたのは、先生の家庭を代表してアベル的立場を相対的に防御するために祝福を受けたのです。ここアメリカにいる家庭はみな、韓国の家庭が何だ、と非難する家庭があってはいけません。韓国にいる家庭と一つになるために、すべて一線に立って活動する責任感をもっていくことによって、その家庭を中心として、一つになっていると同じように、一つになれるというのです。ここで一つになって協助しなければならないのに、みな、分かれていて、自分勝手にしていてはいけません。これから、世界的に、約一二〇カ国の家庭たちが一緒に住めるアパートを造って、共同生活する訓練をさせる時が来るかもしれません。そういう生活を考えてみたことがありますか。

 これから、我々祝福家庭は一つになれなければならない。ですから、一九七二年度は、「統一戦線守護」というこの標語を立てたということは、我が教会の歴史的時点であるというのです。皆さんがもし、先生が家を建てるというのなら、皆さんがここで一番立派な家を建てて住んでいるその家よりも、もっと立派に建てなければなりません。それは、先生の手で造るべきか、皆さんの手で造るべきか?今、韓国では、先生の家を造ろうとして、幹部たちが募金をしています。その計画を、いくらで造るべきか、それを知って、みな基金を約束したのです。

 今、韓国では、家も建てなければならないし、教会も建てなければならない。これから世界的修練所も建てなければならない。すべての広大な計画をもって、その韓国でしなければならない計画も必要でありますが、韓国でなさなければならない計画を、アメリカにもってきてしたいという考えを先生はもっています。

 先生は神学校も設立しようとしていますが、それはアジアだけでするばかりでなく、我々が万物を送らなければならないと考える人があるならば、貧乏にならない。そうする自信がありますか?そういうことがあれば、団結して、その幾倍を我々の手でしなければならない覚悟をもたなければなりません。

 復帰はまっすぐでなければなりません。まっすぐ成長することによって、枝もみな、四方に平均して伸びていくのです。これが曲がってしまえば、みなゆがんでしまいます。ですから、これがいかにまっすぐ伸びていくかを考えなければなりません。

 先生はこれを心配しているのです。いくら葉が多くあっても、枝が曲がってしまえばいけません。枝はまっすぐに伸びないと使い道がありません。しかし、私が心配しないのは、これを標準として、伝統的なこの基準を間違いない方向性をもって発展させる内容をもっているからです。もう結論を下しましょう。

 「統一戦線守護」ということは、内部が安定する内容を外部にいる人がみな責任をもってなすときに、内部は安全でありますから守護になるのです。ですから、全国にいる食口たちが中心のためにお互いが一つになって動かなければなりません。こういうふうにして、個人的世界的であり、氏族的世界的であり、民族的世界的であるこの圏がどんどん広くなれば、天国は成就されるのです。ですから、統一戦線を守護する原則的この思想的基盤、あるいは生活的基盤、活動的基盤ができないと、このような理想天国は不可能でありますから、七二年度から皆さんがそういう使命をしなければならないと考えたので、「統一戦線守護」という標語を定めたのであります。














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07_復帰の道

 御旨と世界
(全面表示)

 



復帰の道


1972年4月1日



フランス パリ教会


 堕落によって、我々はサタンの血を受け継いでしまったのです。父母なるアダムとエバが、もし堕落しなかったならば、罪のない神の子女であったはずでありますが、堕落によってサタンの子女となってしまったのであります。本来ならば、主符は神からのみくるものであり、神のみが人間の主人でなければなりません。ところが、人間とサタンとが不倫なる関係を結ぶことにより、人間に対してサタンが不倫なる主人となってしまったのであります。

 愛は統制力、支配力を伴うものであると原理が語っているように、たとえそれが不倫なる愛であっても、サタンは、人間に対してその所有権を主張するだけの力、あるいは権威とか権利をもったわけであります。ところが、創造原理によれば、あくまでも神が本来の主人なのですから、結局、この両者は共に人間に対してその所右を主張することができることになります。しかしながら、だからといってアダムを三つに切断して、神とサタンの間で分け合うことは、物理的に不可能であります。そこで神は、原理的観点から、人間を二つに分立するためにあるルールを定められたのです。すなわち内的存在としての神と、外的存在としての被造物という立場から、内外の関係と、主体、対象の関係によって、神はその分立のルールを定められました。すなわち神は、堕落したアダムとエバを、彼らにより生まれた二人の子供を通して、分立されたのであります。



復帰の公式

 カインはサタンを表示する側であり、アベルは罪なきアダムの立場を表示する側であります。次男(アベル)を神は、内的立場に立たせたのであり、これは、悪の要素のより少ない側、言い換えるならば、アダムとエバの間に結ばれた第二の愛を表示しているのであります。アベルは、第二の愛の実でありますが、一方のカインは、第一の愛の実であって、その愛の中にあるサタンを表示しているのであります。つまり、次男アベルのほうが、エバと天使長との関係よりも、エバとアダムとの関係により近いので神側に取れたわけであります。

 さて、本来の命令系統は、神から始まり、アダムヘ、アダムから天使長ヘという順序だったのですから、この場合には、その関係は神からアベルへ、アベルからカインへという順序にならなければなりません。これが復帰された位置関係であります。そこで神は、まず、この公式を復帰することにより、失われた原理を取り戻していくのであります。堕落行為によって、人類の血統は交叉されました。言い換えれば、サタンの血が人類の血統を占領しているのであります。それゆえに、これらの復帰は、根源までさかのぼってなされなければならず、そのために、次男アベルが長男の長子権を復帰しなければならなかったのであります。

 堕落は、原点であるところの母の胎内で起こりました。それゆえに復帰もまた、母の胎内からなされなければなりません。そこが悪の原因となり、出発点となったのでありますから、復帰においても我々は、その原因に戻っていかなければならないのです。そこで、神はこれらの二人の兄弟を用いることによって、長男の長子権を復帰する摂理を行おうとされたのであります。すなわち、カインはアベルの位置に下りなければならず、アベルはカインの位置、すなわち長男の位置に上がらなければならなかったのであります。ところが、カインはアベルを殺してしまいました。この行為は、アダムとエバの時の堕落行為の反復であります。すなわち、復帰されるどころか、再び天使がアダムを主管した立場に立ってしまったのでありました。この辺はなかなか、理解の困難なところですから、図解して説明しましょう。……このように年齢の違う兄弟を用いたのでは、あまりに距離がありすぎるので、神はもっと近いものを求められました。すなわちこの復帰摂理をもっと近い基準、原因により近い基準にまでもってきて行おうとするのであります。最善の方法は、カインとアベルの生命を引き戻して、母の胎内にまで立ち返らせることですが、それは物理的に不可能であります。

 (黒坂に……これは中央でたたみ込むような形になっています。ⅠとⅡは互いに一致するものであります。Ⅰの部分はⅡの領域に反復されているのです)。そこで、その神の摂理は、エサウとヤコブという双子の兄弟を用いて現れてきました。カインとアベルに対して用いられたと同じ原理で、ヤコブは兄エサウの位置に復帰されなければならず、エサウは、弟ヤコブの位置に下りなければならないのであります。

 双子の兄弟の母はリベカでした。彼女が身ごもっていた時、その胎内で、二人の子供は互いに争いました。そこで彼女は、主の所に行き、主に尋ねました。主は答えて「二つの国民があなたの胎内にあり、二つの民があなたの腹から別れて出る、一つの民は他の民よりも強く、兄は弟に仕えるであろう」と言われました。これは、神御白自身が語られたことなのであります。



ヤコブの勝利

 ヤコブは讒訴を免れる条件を立てていたので、レンズ豆のあつものを売ることによって、ヤコブがエサウから長子権を買い取ることができたのであり、それゆえに、ヤコブがエサウから長子権を奪い取っても、サタンは彼を讒訴することができないのであります。かくして長子権は復帰され、父親からの祝福はヤコブに与えられたのでした。ところが、エサウは、あまりに怒り狂って、かつてカインがそうしたように、ヤコブを殺そうとしたのです。

 ヤコブは失われたアベルの位置と同様、アダムの位置をも復帰すべき立場にありました。そのために彼は二十一年間、ハランに逃れていかなければならなかったのです。そのために当然彼は、その間は、自分のその全使命を完全に果たすことはできずにいたわけであります。二十一年ののち、富を蓄えて、彼は故郷カナンの地に帰りました。堕落の過程において母親が、その堕落行為を先導し、息子がその行為を完結したのでありますから、両者は協力し合って、人間に堕落をもたらしたことになります。ゆえに復帰の過程においては、この逆の経路をたどらなければならないのですから、ヤコブの時には、母リベカと、次男ヤコブが、ヤコブの目標達成のために共に協力し合ったのであります。

 堕落の過程において、エバは父親にうそをつき、自分の兄アダムにうそをつきました。ゆえに復帰においても、リベカは、ヤコブに祝福を得させるために夫にうそをつき、長男にうそをついたのであります。二人の兄弟の父親イサクは、神の立場であり、その息子エサウは、カインの立場であります。

 さて、このようにして基台は立てられましたが、まだ実体としての復帰はなされていませんでした。つまり、その時までにヤコブの母は、その使命を全うしていましたが、次は、ヤコブの番だったのであります。ヤコブの使命とは、天使によって侵害されたアダムの位置を復帰することであり、また、カインによって殺されたアベルの位置を復帰することでありました。そして、ヤコブは、エサウの位置に帰り、ヤコブの位置に下りたエサウを屈服せしめなければならないのであります。

 さて、二十一年後のヤコブの使命は何であっのでしょうか?皆さんは、アダムがどのようにして失われていったかということを考えてみなければなりません。なぜなら、そのアダムの位置の復帰ということが、まず第一に重要な彼の使命であったからであります。アダムは誰に主管されたのですか?天使に主管されたのです。ですから、その立場を復帰するためにヤコブは天使と闘わなければならなかったのであります。これがヤボク川で起こったことであります。彼は天使と一晩中闘いました。その結呆、何が起こりましたか?天使は、ヤコブの勝利を求め彼を祝福したのであります。

 このようにして、本然の位置関係は復帰されたのでした。では、なぜ、天使はヤコブを祝福する前に、彼の腿(もも)を打ったのでしょうか?人間の堕落行為は、体のその部分、腿の誤用からもたらされたものでありました。それゆえに、その罪ある部分を打つことにより、償いの法則は全うされたのであります。すなわち、旧約聖書にある「眼には眼を、歯には歯を」という法則からなされたわけであります。それゆえに、天使は、ヤコブを祝福することかできたのでありました。

 ヤコブの第二の使命とは何でしょうか?天使に勝ったのであります。ですから、勝利――すなわち内的勝利は獲得され、アダムの位置は復帰されました。そこで次に、その条件のもとで、彼は、アベルの位置を復帰すべき立場にあったのです。そこでヤコブは、二十一年後にハランから帰り、兄エサウの心を和らげるために自分の全財産を贈り物として与え、自分はただ、兄から祝福されることを求めたのでした。そのために、兄エサウは、彼を受け人れ歓迎したのであります。

 かくして、エサウは弟の位置に下り、ヤコブは兄の位置に上ったのであります。それゆえにこういう事情から、ヤコブは、その係、すなわちヨセフの子供を祝福した時、腕を交えして、左手を長男マナセの上へ、右手を次男エフライムの上に置いたのでした。ヤコブはエサウの位置を復帰していたので、そうすることができたのであります。

聖書によると、ヤコブの性格は非常に狡猾に思えます。なぜ、神が、このような狡猾な男に恵みを与え、用いて、さらに祝福を与えられたのか、それは、不思議なことではありませんか。それは、このような理由があったからであります。原理がこのように解答を与えているのであります。ヤコブはこのようにして、神から与えられた使命を全うした立場に立ったのでした。

 皆さんは、このようなことが信じられますか?それとも、これは先生の作り事だと思いますか?これらの出来事は数千年も前に起こったことであります。しかしながら、原理が解かれるまで、誰一人として、その本当の意味を知るものはなかったのであります。このようにして、この図の(D)点から、イスラエルという名は出発しました。しかし、ヤコブが勝利の基台を立てても、それはまだ、この(E)における原因そのものの立場には帰っておらず、そのためにさらにこの位置まで復帰してくる路程を通らねばならなかったのであります。すなわち、この距離(D)を復帰するために、さらにもう一つの業がなされなければならなかったのであります。もし神が、その摂理を、ヤコブの年齢のその時点で止めてしまったならば、ヤコブのその時の年齢以下の基準は、復帰されずに残ってしまうことになるからであります。

 神の摂理が、ヤコブの時に始まって、彼のある年齢において完成されたと仮定してみましょう。そうだとすると、完成された時の、そのヤコブの年齢以上のすべての世代はこの条件により復帰されますが、その年齢以下の世代、すなわち生まれたばかりの年代から中年に至るまでの世代は、復帰されず、触れられないままになつてしまうのであります。それゆえに、さらに徹底した摂理が、原因そのもの、すなわち母の胎内において始まらなければならないのであります。



ユダとタマル

 かくして、神の第三次の摂理は、もう一度堕落の原因そのもの、母の胎内において始まったのであります。最初の母エバは、神を不信仰したために堕落したのでありますから、その、エバの位置を復帰すべきタマルは、逆に神に対する絶対的信仰を貫かなければならなかったのです。そのために彼女は、自尊心も、誇りも忘れ、さらに命さえも捨てる覚悟をしなければなりませんでした。エバは、不信仰により父なる神を捨て、その代わりにサタンを父として受け入れ、神の立場に置いたのであります。それゆえに逆にタマルは、父なる神と共に歩まなければならなかったのであります。エバは父親と一つになることができませんでした。これが堕落であったのです。それゆえにタマルは、父親と一つにならなければならなかったのです。ユダはタマルの義父の立場にあり、父親の役目にありました。父親と娘が一つになることによって、彼女は身ごもった。つまり、タマルは、義父によって子を身ごもったのであります。

 創世記三八章を参考にして、さらに見てみましょう。ユダには三人の息子があり、タマルはその長男の妻でした。ところが彼女の夫は死に、このような場合、普通ユダヤの習慣ではその次男によって子を生まなければならないのですが、次男も死に、三男は、あまりにも若すぎました。そこで、タマルは、神の復帰されてきた血統を継続することが、何より重要であり、必要なことであると考え、義父ユダにより子を身ごもるという最後の手段をとらねばならなかったのであります。その時、彼女は、誇りも捨て去り、その命をすら懸けていたのでした。彼女は遊女を装い、義父の通る道のかたわらに座っていました。そして、ユダが農場へ行く途中、彼を誘惑し、関係を結んだのであります。

 ユダは、彼女が、自分の義理の娘とは気づきませんでした。賢い女タマルは、後々のために、三つの証拠品を要求しました。一つは印、もう一つは杖、そしてもう一つは紐でした。なぜ、彼女はこのようなことをしなければならなかったのでしょうか。当時のユダヤの律法によると、もし寡婦が、夫をもたずに身ごもった場合には、石で打ち殺されたのであります。月日がたって、タマルの妊娠は人目につくようになってきました。そこでうわさは広まり、ユダの耳にも入ってきました。ユダは非常に怒り、その義理の娘を連れてきて、火で焼き殺そうとしました。その危機的な瞬間に、タマルはもっていた証拠品を取り出して人々に示し、自分はその品の所有者によって身ごもったと言明したのです。タマルは、自分の使命を全うするために命を懸けたのです。そうじゃないですか?

 彼女は、神のみ意を成し遂げるということ以外には、何の目的も、何の考えもなかったのです。このようにして、タマルは、エバと全く逆の経路をたどることにより、堕落したエバの位置を復帰する条件を立てたのでした。ここに集まってきたエバさんたち、タマルは、よくやったと思うでしょう。そうは思いませんか?

 このことは、神のみが知り、神以外には誰も知るものはなかったのです。皆さんは、その隠されてきたなぞと、秘密をほんの三十、四十分で知ることができるのですから、最高に恵まれた幸運な人たちなのです。

 このようにして、タマルは身ごもり、その双子は母の胎内で争いました。そこでタマルが祈ると、主が現れて、リベカに語られたことと同じことを言われました。「二つの国民があなたの胎内にあり、一つの民があなたの腹から別れて出る。一つの民は他の民よりも強く、兄は弟に仕えるであろう」と。皆さんは神が、そう言わずにおられたと思いますか。神は二〇〇〇年間、その成就の瞬間を待ってこられたのです。出産の時が来て、長男ゼラがその手を押し出したので、産婆はその手首に緋糸を結びました。これは、終わりの日には、共産主義がまず最初に現れるということの象徴的な予言であります。これは、歴史の七〇〇〇年(六〇〇〇年復帰歴史プラス千年王国───歴史の完成)の象徴として、サタン的共産主義の歴史が、七十年目にして滅び去るということを示しています。一九七八年という数字が出てくる理由はここにあります。すなわち共産主義は一九一七年に始まったのでありますから、大体それから六十年間持続してピークに達し、その七八年を境として、その後は下り坂になつていき、七十年目には絶滅するということなのであります。これは真実であります。それゆえに今は、共産主義を学んでいる人々がそれを棄て去る時なのであります。

 さて、争いは母の胎内で起こりました。次男ペレヅはゼラを押しのけ、先に出てきました。この復帰、この逆転は母の胎内で起こったのです。イエス様がユダの血統から生まれてこなければならなかったという原理は、この点において打ち立てられたのであります。

 さて、この一点から、カインは下になり、アベルが上になってきたのです。そして、この点から歴史はさらに広い範囲、すなわち、家庭から氏族、氏族から民族、民族から国家基準へと進行してきたのです。それと同時に、サタン世界の拡大もまた、それに並行してなされてきました。そして、この二つの異なった陣営は、国家的レベルまで進行して、二つの異なった地域へと分立されているのです。図の(F)はイスラエルの歴史であり、(G)はイスラエル民族を示しています。

 サタン世界は、家庭的基準から氏族、民族、国家基準まで拡大して、サタン国家を形成しています。小さな、家庭的基準から、氏族、民族的基準へと拡大している円の(H)はカイン国家であります。したがって(G)はアベル国家、すなわちイスラエル選民国家でなければならず、やはり、家庭から氏族、民族、国家へと拡大してきたものでなければなりません。神は、その一つの国家として形成されたイスラエル選民を二〇〇〇年間待ってきたのであります。サタンが既に、一つの国家を形成していたために、神は二〇〇〇年間待たねばならなかったのでありますから、神の国家は、サタンの国家よりも優れたものでなければならないのです。ところが、イスラエル民族は、家庭的基準から、氏族、民族、国家的基準へという歴史路程を通過する過程において多くの過ちを犯しました。

 洗礼ヨハネは、キリストなるメシヤが、完全に確立された基台の上に来られるように、イスラエル民族の犯したすべての過ちを復帰すべき使命をもって来たのであります。洗礼ヨハネは、カインの立場で現れ、一方、イエス様は、アベルの立場で来られました。そして洗礼ヨハネと一体となったイスラエル選民は、アベルとして(+)となり、そこで、イエス様がメシヤとして、この民族の上に来られたのであります。ひとたび、イスラエル民族がイエス・キリストと完全に一体となったならば、彼らは、絶対的(+)を形成し、そこで絶対的(-)が形成され、決して破壊されることのないものとなったはずであります。



来られる真の父母

 かくして出発した神の摂理は、最後に、絶対的(+)と絶対的(-)であられる真の父母において頂点に達し、完成するのであります。イエス様の時は、イエス様が十字架にかけられたために、肉身をもった真の父母は実現されませんでした。すなわち、神の血統は打ち立てられたけれども、霊肉ともの真の父母の、肉身をもっての顕現は実現されなかったのであります。図の(I)は、キリスト教の歴史を示していますが、それは霊界のみに限られており霊的救いのみなしてきたのであり、肉的救い、すなわち肉身の贖いは、実現されなかったのです。つまり今日まで、キリスト教には霊的なる父と、霊的なる母しかなかったのでした。ですから、真の父母が来られて、我々はすべてその父母により、霊肉共に再び生まれるために、我々は条件的、あるいは象徴的に母の胎内にあることによって、新しい生命として新たに生まれるべく、そのための路程をたどりながら歩んでいるのであります。今日までのキリスト教においては、聖霊は、母親の役目をなしてきました。母なる聖霊を通過し、父なる霊、すなわちイエスの霊を通過して、我々は、霊的基準において新生するのであります。

 もちろん我々は、母の胎内で生まれたわけですが、さらにもう一歩深くさかのぼって考えてみると、生命の起源は父親から出発するのであります。母親の胎内までさかのぼることによって、血統は交叉し、復帰されましたが、この場合、まだ父親を迎えていないのであります。それゆえに、今日まで、クリスチャンは、母の霊による聖霊の力により、根源そのもの、すなわち、生命の起源であるところの父なる来たるべきキリストのもとへ帰ることを待ち望んできたのであります。堕落する前に、既に息子や娘の生命は、すべて、父親なるアダムの体中で、一つの種として出発していたはずであります。すなわち、息子や娘になる種は父親の体中にあるのです。

 このように、根本的に考えてみると、我々は、霊的にのみ生まれるということで満足はできません。霊と肉すなわち霊肉共に生まれなければならないのであります。そのために、我々は霊肉共に再出発するために、種の立場にまで立ち返らなければならないのであります。その摂理を成就するために、イエス様は、真の父母となるところの花婿と花嫁が来て、その真の父母を通して我々は再び蒔かれる種に立ち返り、新しい生命として、この世に生み直されて出てくるということを約束されたのであります。ゆえに、我々が再び生まれてくる時には、一つの、新しい復帰された生命として生まれてくるのであります。では今まで述べたことからすると、再臨の主、新しいメシヤは、必要であるか、必要でないか、おのずから分かってくるのでありましょう。



新しいメシヤ

 イエス様の時、この現象界は完全に復帰されなかったので、そのまま今日まで拡大を続け、世界的基準にまで拡大してきました。そのため、終わりの日には、世界は二つに分けられ、一方はサタンを代表し、もう一方は神を代表して、それ以外のものは存在しなくなるのです。そして、その終わりの日には、大きな混乱と危機があるのです。新しいメシヤは、これらすべての背景と、基台とを相続しなければなりません。新しいメシヤは、霊的に、イエス様の体中にある種の立場に立っているクリスチャンのすべてを相続しなければなりません。クリスチャンはいまだ完全には生まれていないのです。それゆえに、彼らは、イエス様の体中にある種のようなものだといえます。しかし、彼らが、このような要素をもっているのは、あくまでも霊的にのみでありますから、まず、実体なる父が初めに現れ、基台を立てるのであります。図中の(E)において、母親がその使命を全うしましたが、(J)においては父親が大きな使命をもっているのであります。

 このようなわけで、誰でも、母親が現れる前に、真の父と一体化しなければならない七年期間があるのであります。ですから、皆さんはまだ結婚していないので、完成したアダムの体中の種の立場に帰っていくのです。恨源そのものにまっすぐ立ち返っていくのです。すなわち、我々はみんな、堕落しない人間である父親から出発しなければならないということです。つまり、堕落しない独身のアダムの体から出発した種が、母親の胎内に身ごもられねばならないのであります。そこにある種は、本物であり、我々はその位置に帰らねばなりません。そして、正にその仕事は統一教会によってなされたのであります。

 イエス様は、イスラエル民族に排斥されたのでありますから、そのイエス様の位置を復帰するためには、再臨による困難な仕事が残されているのです。もちろん、既に肉身をもって生まれ、成長してしまった我々は、文字どおりに、完成したアダムの体中の種の立場に返ることはできません。ですから、我々は、真の父母および、その父母から生まれられた真の子女と一体化することによって、再び生まれるための条件を立てていくわけであります。カインとして、完全にアベルに屈服することによって、両者とも復帰されるという原理があるので、この原理により、我々カインの立場にあるものは、アベルであるところの真の父母、真の罪なき子女と一体化しなければならないのであります。彼らと一体化することにより、我々は復帰された子女として、同じ恵みを受けることができるのであります。それゆえに、真の罪なき子女が、真の父母を通して生まれられる時、我々は、食物やその他、同じ成分のものを分かち受けるための条件を立てなければならないのであります。このようにして、我々は真の子女の立場に参与する路程を通過していかねばならないのであります。



真の子女様との一体化

 皆さんは、誰を通じて真の子女と一体化し、新たに生まれたる子女となる条件を立てるのですか?父親だけでは十分ではありません。真の父母を通じなければならないのです。いかに父親が重要であるといっても、父親だけではなく、父母とその子女を通じなければならないのであります。では女性は誰を通じて―─もちろん真の子女を通じてでありますが、真の父母は、男の子女様と、女の子女様をもっておられます。だから、女性はみな、真の父と真の母と、その女の子女様と一つにならなければなりません。では男性は?それは真の父母とその男の子女様と一つにならなければならないのです。女が先に堕落したので、女の復帰が先になされ、その次に男の復帰がなされるのです。

 では、その最初に復帰された女の立場に立つのは誰でしょうか?それは、真の父母から生まれた最初の女の子女様なのです。最初の男の子女様は、真の父母の第二子であります。これらのことは、ほんの骨組みであり、非常に簡単な説明であります。これらの説明の背後には、非常に深く複雑な過程があることを知らなければなりません。

 これらの罪なき真の子女の誕生により、天的四位基台は、歴史上初めて復帰されるのであります。これが、我々統一教会における天的四位基台の復帰であり、サタン世界の何ものも、この基台に対して触れることはできないのであります。選民国家が復帰されなかったために、天的四位基台という一点から始まって、家庭的基準から氏族、民族さらに国家的基準へと拡大していく路程を通らねばならないのであります。その中心核となるのは、四位基台をもって復帰されたところ天的家庭なのであり、そこに築かれる国家こそ、最も強く、無敵の国家であり、それこそイスラエル国家の勝ち取ることのできなかったものであります。



国家的勝利基盤

 その国家は、他のあらゆるサタンの主権に打ち勝って、外的世界の中心となるでありましょう。図の(L)は、サタン世界を示しております。ひとたび、天的国家が復帰されるならば、それは二つの主権へと拡大し、さらに三つ、四つと、やがて全世界を覆い尽くすまでに拡大していくでありましょう。そして、その天的国家に属する民族は、自動的に何もかも一緒に復帰てしまうでしょう。その一つの神の主権を復帰するまでは、絶頂を行くような路程を通らねばならないのです。一つの国家主権を復帰するところまでいかない限り、いかに多くの復帰の業をなしたとしても、もし、サタン元首あるいは政府が立てば、すべてのものは崩れていく可能性があるのです。

 それゆえに、一つの主権を復帰することが、我々の最も緊急な任務なのであります。そのことのために、我々は、真の父母と完全に、絶対的に一つにならなければなりません。そして、韓国、日本、その他の世界中の食口たちと、完全に一つにならなければならないのであります。

 このような過程を通して、皆さんは、この復帰の道が、いかに困難な道であったかを悟るでありましょう。イエス様はニコデモに対して、「あなたは新しく生まれなければならない」と言われました。これに対してニコデモは、「人は年を取ってから生まれることがどうしてできますか。もう一度、母の胎内に入って生まれてくることができましょうか」と反論しました。するとイエス様はさらに、「あなたはイスラエルの教師でありながら、これぐらいのことが分からないのか」と言われたのでした。この時、イエス様は、正に、この原理を語っておられたのであります。

 キリスト教における復活と新生という言葉は、すべてこの同じパターンを意味しているのであります。図の(E)点、すなわち、血統の復帰は、ついに母親を通してなされ、原理は復帰されて、汚れた血統は、天の血統へと復帰されたのであります。しかしながら、我々が完全な新しい生命として、新たに創造され、根本的に新生されるのは真の父を通して、真の父の体を通して初めてなされるのです。ゆえに、その新しい創造の時から、初めて霊肉ともの贖いによる完全なる救いは、可能となるのであります。かくして、我々の子供たちは、救いの過程を通らずして天国に行くようになるのです。

 皆さんは、復帰ということが、どれほど困難な過程であるかを知らねばなりません。先生は、真理を見いだしただけではなく、その真理のすべてを成就しなければなりません。今、先生はそれを皆さんに無償で教えているのです。皆さんはまるで、何もしないで卒業証書をもらう大学生のようなものです。ですから、この立場がどれほど貴重な価値あるものであるかを知らねばなりません。



統一戦線守護

 統一教会の今年の標語は、「統一戦線守護」であります。これは、我々が、この天の基台を守り、防御しなければならないということを意味しているのです。ですから、どこにいようとも、我々すべての統一教会の食口たちは韓国の食口と一つになって、統一戦線を守護するために共に前進して行かねばならないのであります。全世界的な状況から見て、我々の歩みの中で、韓国は最も強固なる基台が打ち立てられている国であります。もし、他の国において、新しく摂理を始めようとするならば、すべての路程を最初の出発点からやり直さなければなりません。

 第二次七年路程の終わる一九七四年までは、これはヤコブの第二次七年路程に相応する期間であります。この期間が過ぎると、次は世界的基台をつくっていくようになり、天国の復帰のための十分な経済力をも、もつようになるでしよう。一つの国家さえ復帰されたなら、すべての国家は復帰されていくのであります。
















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08_真の父母と我々

 御旨と世界
(全面表示)

 



真の父母と我々


1972年5月7日

 東京

 東京教会


 神様の創造理想から見た場合には、我々人間の先祖であるアダム、エバは間違いなく神様と一つになって善なる血統を全人類を通して引き継いでこなければならないのが、理想的神の願いでありました。その願いが堕落によって思いもよらない結果となったということを、我々は堕落論を通して習いました。現在、我々サタン圏に属している者は、神の血統とは全然関係ありません。すなわち善なる父母の子女として生まれるべき我々が、悪の父母を中心として、因縁をもって生まれてきました。それで、悪を中心とした家庭、氏族、民族、国家、世界となっている。これを蕩減し乗り越えなければなりません。そういうふうにするには、サタン世界は上中下というような、階級を中心としてずっとつながっているんだから神様のほうもそういう基準を、元の理想の基準にまで引き上げるには、ただ神様の願いのままにやることはできません。それは段階を経て、ずーっと歴史的に上げていかなければなりません。それで僕の時代から養子の時代、実子の時代から真の父母の時代、こういうような段階を通しての悪の世界からこれを蕩減して再び神の善なる元の理想世界に戻そうとするのが全般的神の摂理である。そこには数多くの宗教や民族、あるいは文化の背景の違う宗教を立たして、これをまとめてきている。

 一つの大きい川を成すには、その上の多くの支流がより合って大きい川となるように、川の谷間を流れる川の方向はいろいろと違う。東西南北、あるいはこういうような支流から見た場合には、東に流れるものもあれば南に流れるものもあれば、北に流れるものもある。本流を成すまでに上のほうではいろいろな宗教の形がある。これが今まで、世界的人類の背後にあって神の摂理をこの地上人類の上に働きかけてきたんだから、その方向はいろいろあります。これがだんだん歴史の流れによって支流が本流に合併するように、文化はだんだん、だんだん一つの思想の方向をたどりながら、ある宗教の目的地に向かって今まで発展してきたのである。この間においてのその時間というものは、発展していかれない。その期間においては多くの蕩減を成さなければならない。その蕩減たるものは、アダム家庭におきまして植えたとおりの内容を通過しながら蕩減していかなければならない。

善と悪



 カイン、アベルの問題が、引っかかっている。カインという者はアベルを打った者である。より善なる立場に立ってより神のほうに近いものとするそのものに対して、いつも反対をしてきたものがカインの立場である。こういうような関係は堕落以後、今日まで歴史を通して引き続いている。あなたたちの生活内においても、そういうような環境に包まれる。我々一日の自分自身のみでも一日の生活においても、朝夕においてもそれは自分を中心として見ればカイン的であるかアベル的であるか、そういうような内容になっている。あるいは一時間においてもそういう関係にある。前後関係、左右関係、上下関係みんなそういう善悪を中心としてどっちのほうが神に傾いているか、どっちのほうが反対のほうに立っているかという我々一切のものに引っかかってくる。もしも一つの言葉を言うとしてもその言葉を中心としてもそれはカインかアベルか、きのうの基準からきょうの話す自分の立場が違うという場合には、より良ければ、きのうよりアベルの立場に立つ。悪ければカインの立場に立つ。一切がそういうような関係にこういう因縁を結んで神はよりアベルのほうに向けようとして働き、サタンはその反面のほうに引っ張っていこうとしている。人間から見た場合には、アベルのほうにより寄って高く上がっていくという喜びがある。これはうれしい。喜びがくる。その反面にサタン圏カインの方向に引っ張られていくというと何気なしに悲しみを感じる。だからうれしい、悲しみの交差点をつくってきたのが、我々先祖より今まで人類の行かれる道になっている。だから我々の毎日の生活を見た場合には、自分に損害なる場合には悲しさを感じ、自分に利益になる場合にはうれしさを感じる。その悲しさを感じる、うれしさを感じるというのは、結局カイン、アベルの問題を中心としてこれは行き交うそういう立場においてそれが成される。善なる立場に立てば一歩前進して、善なる立場に立つというと神のほうに近くなる。神を中心として世界が解放される。それが今まで、アベルの立場に立ったものが、その立場に立ったものが、その立場より前進したいのがその願いであるにもかかわらず、それに反して後退した場合には、それに比例した悲しみが自然と生じてくる。それは何を意味するかというと、結局神様に到達する。そういう基準を中心として我々は喜びを感じ、悲しみを感じる。

個人の救いから



 そういうような立場を我々人間が個人より家庭を通して社会をつながらして、国家をつなげ、世界につながっている。こう考えてみるというと、いくら個人、家庭、社会人としても、社会人というものは、個人をつなげて連結したものが社会であり、国家であり、世界である。結局このような人間たちを解放するには、個人を中心として解放運動を初めからしなければならない。家庭の解放の動機も個人にある。国家を解放して世界に行く道を開くのも結局、個人個人合わせてそのような運動をしなければならない。これを目指して神は、宗教というような機関をつくって、神の摂理の方向に近くさせようとしてきたのが今までの摂理である。そうすると、摂理の究極の目的というものは何か、今までの宗教の使命として考えたのは、世界のために、世の中のために献身するとか、世の中のために利益になるような使命を果たすべき立場が宗教であるということを一般の人は考えてきました。一般の宗教も、そういうふうに考えてきた。しかし神から考えれば、一般の世界に対して、善なる影響を及ぼすのは第二の目的であって、直接の目的は何かというと真の父母を地上に立たせなければ、何にもならないんだね。悪の父母より生まれたものを、完全に蕩減し勝利するには、善なる父母をいかに立たすかということが、神の立場として解決しなければならない重大な問題である。

メシヤ



 そういう立場から見た場合には、外的にはもちろん、世界的に発展する。悪の世界が個人より家庭、氏族、民族、国家、世界より成り立っているから背後において、神もそういう基台をつくり上げていくには、あるいは天使長圏、あるいは僕の圏を広めていく、そこから一段上げて養子圏を広めていく。そこから養子圏から一段上げて、実子圏にまで行かなければならない。実子圏を中心として見た場合にも、ここにもカイン、アベルがある。いつも、カイン、アベルがある。堕落した父母によって生まれたカイン、アベルは、争って落ちていったカイン、アベルである。我々復帰時代におきまして、実子として立つべく、神様を中心として実子というような問題を引き出す所は、カイン、アベルというような戦いの立場ではありません。カイン、アベルが完全に一つになったという基準を立てないと堕落圏を越えることができない。我々の原理からいえば、実体基台を立たせることによって、初めて堕落圏を乗り越えることができる。しかし堕落圏を乗り越えたけれども、そのまま蘇生、長成基準の堕落圏に今までは引かれて、蕩減の世界を通過してきているんだけれど、長成基準を乗り越えるということは、実体基台を勝利的に立たせなければそれを乗り越えることができない。そうして、完成基準に入ったとしても、これはどこまでも、血統的には、まだ清算されていない。サタンの血統を受け継いだものだから、血統的にはまだ清算されていない。血統的清算を成すには必ずメシヤが必要である。だから信仰基台、実体基台、メシヤのための基台というものは、堕落した人間において絶対に必要である。最後の問題は、何かというと、メシヤのための基台をつくってメシヤを通して自分が血統転換を成さなければならない。そういうふうな立場に立つには、必ず神の実子の立場に立てるようなものにならなければならない。それで、アダムとエバが堕落したためにアベル、カインが縦的に一つになる道がありません。アダム、エバが堕落したために、カイン、アベルを通してアダム、エバの失敗を復帰する立場に立っているんだから、アダム、エバが縦的に結ばれる基準がない。アダム、エバの立場でこれがなくなったから、実子圏を願っている我々にとっては、それは縦的に結ばれる父母とその子供が一つになったところが得られなければなりません。それが養子という立場において一つになっては、上がっていかれません。完成基準は堕落しない実子の立場を結ばせないというと完成基準を神様と一つになって上がることができないと同じように、我々人間においても、そのことを再び通過しなければならない段階に復帰されて上がっていく、そうなるというと、いくら神の子供になったとしても、いくらカイン、アベルが一つになったとしても、そこにいわゆる堕落しなかった父母の基台を復帰しておかないというとこれは縦的に上がる道は生まれてこないんだから、この問題の責任を果たすには、神様は今まで、真の父母という基準を再びよこさなければならない。それを中心として初めてカインとアベルが結ばれるにしたがって上がる道が生まれてくる。結ぶ基準においては、必ず血統転換を成さなければならない。これを結ぶには、ただ一人ではできない。

祝福



 堕落が長成完成基準において堕落したんだから、これをもとがえしするには、堕落した反対の方向を通して、もとがえししなければならない。堕落する時は、アダム、エバが愛の問題を中心として堕落したんだから、我々復帰の路程におきましても、その基準に到達したならば、必ず愛の問題を中心にして乗り越えていかなければならない。その愛の問題というものは、今までは、サタンの父母から受けていたものだから、愛の問題を中心として乗り越えるには、神の愛を中心とした真の父母の愛を中心としてつながらせないというとこれを乗り越える道がありません。だから堕落した父母の血統を受け継いだ我々堕落圏にある人類は、最後には父母を迎えて縦的には一つとなって、堕落圏を乗り越える道をたどっていかなければならない。これが原理の立場である。これを乗り越えるのは一人ではできない。必ず男女が組まなければならない。これが統一教会でやっている祝福問題である。だから祝福というものは、自分なりにやって成されるものではない。これが縦的の中心である父母を中心としてそれが始まる。堕落世界において堕落血統を受けて結婚する者まで自分を中心としてやったのではない。父母を中心としてやってきたと同じように、復帰路程においても真の父母が生まれてきて、縦的父母、父母が完成するとともにカイン、アベルが一つになって、一つになるところにおいて、勝利の条件を満たす圏において祝福を成すことによって、堕落した限界を初めて乗り越えることができる。

三時代を通過



 それは一人で上がっていくんではないですよ。必ず祝福という問題を通して長成完成基準を乗り越える。すなわち完成蘇生基準に立ち返ることができるというんだね。そこから祝福された家庭は七年間という期間が必ず必要である。三段階というものは、蘇生期間も長成期間も完成期間も二十一年の期間だから、完成基準は七年間ということが残っている。これはまだまだ誰でも行っていない過程に属している。ここにおいて、各自誰でもが七年間を通過しなければならないというのが原理の基準になっているから、統一教会に入ったら必ず七年間は通過しなければならない。この期間においては何をするかというと、この七年間という期間は、その期間において、我々堕落したその父母の心情を受け継ぐとともに失われたすべてのものを復帰しなければならない。堕落する時に人間はどういう結果になってしまったかというと、まず万物を失ってしまった。それから実体がサタンに汚されてしまった。それから心情を奪われてしまった。これみんな蕩減復帰しなければならない。

 いわゆる物の問題、実体の問題、心情の問題を、これを完全に神を中心にして結束させて完成期間を通り抜けないというと完成基準に到達することができない。これが我々の原理原則だ。完成基準に上がるまでには七年間は、人類歴史の六〇〇〇年、あるいは、聖書でいえば我々再臨の主が来られた場合には、千年王国時代が来るように、その一〇〇〇年をプラスさせて七〇〇〇年の歴史に値する。それをこの七年間において、再び蕩減するようなその内容を、内外共に勝利した基準を決定していかなければならないというんだね。この期間に祝福を受けて、それから万物と、祝福を受けるというといわゆる家庭の基準が出発する。万物を復帰しなければならないし、実体を復帰しなければならない。それから心情を復帰しなければならない。これを横的に見た場合には、万物は蘇生であり、実体は長成であり、心情は完成である。この横的基準というものはこれは、歴史的今まで縦的の摂理をすべて横的に並べた基準になる。だからものの基準は旧約時代に当たるし、実体基準は新約時代に当たるし、心情基準は、これは成約時代に当たる。だから我々成約時代は心情の世界をとらえるようになったのもそれを意味するというんだね。三つが完全に一つにならなければならない。旧約時代は物を中心として蕩減し、新約時代にイエス様を通して、イエス様、神の子供実体を中心として蕩減する時代、それが勝利的結果になるんだから心情的基準が生まれてくる。そういうような家庭基準が、地上に初めて立つという基準が祝福されて立つという立場である。

子女



 祝福された家庭から見た場合には自分の子女というものがある。その前に何があるかというと信仰の子供がある。イエス様みたいな外的な実体の立場が信仰の子供である。自分の子供は再臨した実体の子供みたいな立場である。イエス様が死なず、地上において完成すべき立場の子供の位置が、自分の子供の位置になるんだね。今は霊界のキリスト教と地上のキリスト教が一つになっていないんだよ。

 霊界のキリスト教圏いわゆる今まで楽園圏というものが生まれてきたね。それとキリスト教が地上にある。これは霊的キリスト教圏、これは地上のキリスト教圏が一つにならなければならない。これはイエス様が、これ二つに分かれてしまっているんだから、これを再び一つにつくるような立場をもとがえさなければならない立場が我々平面的基準において、自分の子女と信仰の子供と、これは霊的象徴だよ。いわゆるカインの立場だよ。カインというものは天使長圏をいうんだよ。アベルというものはアダムの立場では地上圏をいうのである。だから地上と霊界が一つになる。これ地上と霊界が分かれたんだから、これを一つにさせるには、あんたたちの信仰の子供と実子の子供が完全に一つにならないというと、分かれた霊界と地上のキリスト教が一つにならない結果となる。だから根本的に、家庭によってこれが分かれた結果が霊界と地界が、これは結果として分かれたことになっているのだから、それを復帰するには、地上において、平面的にこれを一致させる基点をつくっておかなければならない。それをなすために信仰の子供と、祝福された家庭から生まれる子供と一つになって霊界と地界が分かれたのが結ばれるようになるんだね。

父母の位置



 こういうふうにして、これが初めて一つになってこそ、カイン、アベルが一つになってこそ理想的父母が生まれてきますよ。理想的父母、カイン、アベルが一つにならないというと父母を復帰することができないというんだね。カイン、アベルが一つにならないというと父母に帰る道も出てこないし、カイン、アベルが一つにならないというと父母というものを復帰することもできません。だから地上において蕩減の基台として、信仰の子供と自分の子供が完全に一つになるというような立場に立っていることによって、堕落しない時の天使長とアダムが一つになった立場である。そういうような立場に立った場合には神様はいつでも愛されると同じだよ。神様は父母の立場である。これを横的に自分の信仰の子供と自分の祝福され生んだ子供と完全に一つになるというと、神様の理想の愛の位置に立たされる真の父母の位置が初めて復帰される。これは縦的歴史過程を横的にこれを再び表して蕩減勝利していかなければならないのが、我々統一教会の行かなければならない道だよ。

 だから結果を復帰するには、その原因をもとがえしして正しておかなければ、それは復帰される道はありません。それで、我々に絶対必要なのは何かというと信仰の子供が必要である。これは何かというと、アダムにおいて見た場合には三人の天使長がありましたね。エバにおいても三人の天使長があったね。まあそういうような立場から見て、アダム、エバにおいては三人の天使長を迎えてその天使長たちが生まれると同時に一生涯自分のために奉仕する僕の立場に立たせなければ、完成された天の娘と息子になれません。それを蕩減復帰しなければなりません。そういう立場から見た場合に、立つ我々男も女も、三人の信仰の子供というものは、平面的においては三人の天使長になるんだね。それは完全に一つとならなければならない。しかし我々が伝道したのは、あるいは二十歳、あるいは三十歳、大きくなって伝道して、一つになる道を求めて行っているんだよ。もともとは、天使長が神と一つになったところにおいて、アダム、エバが造られたんだよ。そうだろう。天使長が先に造られて神と一つになったところにおいてアダム、エバが造られたんだよ。その基準を我々は復帰しなければならない。だから信仰の子供が先に生まれておらなければならない。本当はね。信仰の子供が前もって準備された基台において、アダム、エバが造られると同じような結果に立たなければならない。そういうふうになるべきなのが原則だよ。だからイエス様を中心として見た場合には、信仰の子供の基台みたいのは墮落しない時の天使長を初めて造ってアダムを造ったと同じような立場と、そういうような基準を、イエス様が来られる時には、イスラエル国家とユダヤ教が、もう既に天使長圏をつくっておいた基準だよ。ここに、イエス様と一つになった場合には、念願がその時にみんな解決したよ。

再臨の主



 だから我々統一教会が望んでいくように、我々もしも国家基準が一遍に復帰された場合には、そういうような条件を正して、我々は苦労しなくてもみんなそれを原理基準に一致させることができる。これがどういうようになったかというと、再び反対してイエス様を殺したために、すべてがなくなってしまった。特にキリスト教を中心として見た場合には、これは霊肉ともの天使長の立場ではありません。どういう立場かというと、霊的立場に立った立場がキリスト教である。だから霊肉一致した基準をなすには、必ず、再び霊的には天使長基準になっているんだけれど、肉的にはまだつながっていない。これを再びつながらせる蕩減条件を通過しなければいけないのが再臨の主が来られてやらなければならない道になっている。イエス様の時代はそうじゃない。霊肉ともの天使長基準が地上にあったから、その時、霊肉共にアベルを中心として、イエス様を中心として一つになったならば一遍にやれるんだけれど、イエス様が死んだために、霊界と肉体が別れたよ。イエスとキリスト教は霊肉ともの完成を求めて来たんだから、肉的部分を再びつながらせなければならない。それで、霊的世界が発展する背後の蕩減の道を再びたどって、地上においてもとがえし運動をして勝利させて、一致させておかなければ霊肉実体圏の天使長、いわゆるカイン圏が生まれてこない。

 ここにおいて、まず再臨の主が地上に来られて個人の勝利圏を地上に立たせ、家庭の勝利圏を立たせるというと、その家庭の勝利圏は、限られた一環境の家庭ではありませんよ。その家庭は世界の家庭ではありませんよ。その家庭は世界のキリスト教を代表した家庭になるよ。

 それから氏族が連結された場合には、その氏族が一氏族に限らず世界的な氏族になるよ。だからそれは再臨の主が地上に来られて、それをキリスト教がもしも反対しなかったならば、つなげて発展させるのは問題ではない。

勝利の時



 しかし再びそういう過程があるというんだね。イエス様の時代の時と違う。霊肉が分かれているんだから、これを再び歴史的蕩減の道を通って世界的に来た道を、実体的基準においてそれを結ぶ簡単なる蕩減の過程でも通過しなければならないのが、再臨の主が地上に来られてやるべきことである。再臨の主はもともと地上に来るには、霊界において勝利圏を完成されて地上に来なければ地上の出発をなすその基準がとれないんだね。だから地上に来て、霊界の勝利のその基準を地上において再び、これを屈服させなければならない。これはどういう立場であるかというと、ヤコブがエサウを屈服する前に、天使長を屈服して勝利した基準を得ているから、実体的エサウを屈服したのと同じである。これは、イエス様が天使を屈服したのは、アダムが天使によって屈服されたのを蕩減復帰する立場だよ。それからエサウを屈服したのは、アベルがカインによって屈服されたのを地上において、これを再び地上において復帰したのがイエスの復帰だよ。

 内外二つの勝利圏をきたすと同じことを地上に成さなければならない。だからヤコブが天使に勝利することによって、霊的基準をすべて引き継ぐようになった。その基台の上に実体エサウを屈服することによって実体世界のカインを勝利したことになる。だから霊肉勝利の基台が初めて立たされたのである。これがイスラエル民族を中心としてイエスと一つになったならば、霊肉勝利圏をそのまま成立することになったにもかかわらず、イスラエル民族は、イエスを殺したために霊的基準と肉的基準が分かれてしまったんだから、これを再び勝利しなければならない立場がまさしく、ヤコブの立場と同じような立場に立った、再臨主がやらなければならない立場である。こういうふうにして蕩減の道を進めて行く。しかしキリスト教が反対する。反対するということになるとキリスト教が今まで霊的に発展して上がっていったそのコースに比例する地上の闘いが再び起こってくる。それが今まで、統一教会のやってきた歴史である。それはイエス様を中心として二〇〇〇年の歴史を通して闘ってきたんだけど、これ自体においては、霊的基準において勝利した基準が、霊的サタンを屈服し得る勝利の基準をもって地上に来たんだから、霊的サタンが今まで霊的な勝利基準の上、優秀なる立場に立ってキリスト教が反対したんだけれど今の時代にはそうではありません。霊的基準においてもう既に勝利した基準だから、反対してもそれは、結局はヤコブの前にエサウが屈服したと同じような立場におかれるようになる。だからその期間というものは長くありません。また今の時は昔の時と違って、イエス様の時は国家を中心として働く時代だよ。
今の時代は霊的ではあるけれども世界を中心として働く時代である。再臨の主というものは国家を中心として来た者ではなくして霊的ではあるんだけれどもイエス様の時代より一段階上がった世界的基盤を中心として来られる者である。だから世界が一つになって反対しない以上は、国を越える道は勝利し得る必然的な基台の上に立ったことになるよ。

統一教会



イエス様が求めたのは何かというと個人完成、霊肉勝利基準と、家庭完成霊肉勝利だよ。それから氏族霊肉勝利だよ。国家霊肉勝利した場合には、そこから初めてローマを屈服させる実体勝利圏を出発させるのがイエス様の使命だよ。イエスが再び個人復帰、家庭復帰とかそれを果たすのが目的でなくして、イエスが出発しなければならない目的というのは、国とイスラエル教団が一つになったその基準においてローマ帝国を屈服させるのが、イエスの本当に地上に来られてやるべき使命である。それはユダヤ教イスラエル民族が一つにならなかったんだから、再び復帰の道をたどってくるそういう立場において、追われて十字架につけられた。その失敗した基準を我々はもとがえししなければならない。霊的には世界的勝利をしてきたとしても、行くべき道は、イエス様が失敗された地上基台を再びこれを勝利の基台に立たせなければ歴史的イエス様の蕩減ができない。イエス様は何かというとイエス様は父母だよ。この勝利の父母として立つべき使命をもって来たんだけれども、それを果たせずして死んで行ったんだから、これを再臨時代においてそういう立場を再び勝利基台としてつくって、蕩減復帰しなければこれ以上の世界に上がることはできません。そのことを今までやってきたのが統一教会だ。

 それで統一教会の先生を中心として、霊肉ともなる勝利圏をいかに獲得するかという、霊的には獲得したんだけれども、肉的には反対するキリスト教を迎えているんだから復帰されていないことになる。それでイエス様はユダヤ教を捨てて、新しいキリスト教を中心として、霊的でありながら出発したと同じように、キリスト教が反対した場合には、新しい方向を通して二度、そのキリスト教の基台をつくり替えたという基準をつくらなければ、復帰実体蕩減基台をつくることはできません。それを今まで成そうとしてやったのが統一教会の先生だよ。世界的統一教会なんだよ。それでこれは氏族的基盤がなければ、家庭が安息することができません。氏族が包囲して垣根の使命をしてくれないとその中に一つの家庭が安息することができない。

サタン不可侵圏



 アベルの家庭が初めて氏族圏を勝利的に抱えることによって、アベルの圏の家庭が初めて安息することができる。サタンに攻められない。サタンに攻められたらいけない。もともとアベルの家庭は復帰完成したアダム、エバの家庭と同じだから、それはサタン圏に犯されたり、侵害されてはならない立場だから、それを侵害させるのは天使長の立場にあるカインが、サタン的天使長の立場にあるカインが、サタン的天使長に勝つ基台をなしたところにおいて、それが保護されるんだね。だからサタンを中心として見た場合には、自分の立場より以上の神に仕える天使長の立場に立った者があった場合にはサタンも防備することはできない。

 サタンは堕落した天使長だから、堕落しない神と一つになった天使長の立場に立って、自分の前に立った場合には、それを据えることができない。そうなれば神のほうに立った天使長はサタンを屈服することができる。勝利圏に立つ天使長の基台をもった所はサタンは侵入ができません。その侵入ができない圏をつくっておかなければ、勝利した天使長が生まれてこなければ、アダムという勝利の圏は、生まれることができません。だからそれは何を意味するかというと、家庭を中心として見た場合にアベルの家庭がある。アベルの家庭にカイン的な家庭が生まれて初めて、サタンを防備することができる。それでイエス様が、個人が安息するのは、個人が侵害されないためには、家庭がそれを周囲に包囲して垣根の使命を果たす。そういう立場に立ったならば、イエス様は個人的に攻められません。すなわちエデンの園において、堕落しなかった天使長に守られるアダムは堕落しない。復帰基準において、アダムの立場において、その安息圏に、いわゆる理想的な生活基台が立つには、理想的な天使長がイエス様に従うような蕩減復帰したカインというものがアベルなるイエス様に完全に一つになったとするならば、そこにはいわゆる再びサタンが侵入する道がなくなる。こう考えてみるとイエス様の家庭がイエス様と一つになっていなかったことになる。それはマリヤとかヨセフを中心としてその兄弟とか親戚は本当からいえばイエス様と関係ないんだね。それだからイエス様は全体の家族から氏族から追われる男だよ。だから家庭基盤が垣根の使命を果たして防備させるのである。完全な基台に立つようなイエス様の立場であったならば、イエス様は絶対家出をしません。三年公生涯という期間は絶対必要でありません。そういうふうな家庭と完全に一つになったならば、イエス様は個人の基準より家庭の基準の編成が可能である。これによってそれは父母とか親戚のところを経ながら、初めて地上に新郎新婦の基台をつくることができるんだよ。それがつくられたならば、イエス様を中心として、新しい血統が地上に生まれる。これはエデンの園において堕落しなかった神を中心として一つになったいわゆる新しい理想的家庭の出発をなすことができるにもかかわらず、イエス様はそういう基台を見つけ得ずして、十字架につけられたんだから、新しい血統を受け継いだ家庭はまだ生まれていない。だからこれを再び、歴史を通してイスラエル民族の失敗を世界に、霊的でありながら世界基台まで上げて発展させてきたのはキリスト教である。

一九六〇年



 イエス様も真の父母だから、真の父母が損なったというのは、真の父母によって生まれるすべての子孫が損なった結果となる。父母が引っかかったんだから、父母より生まれるすべてのものは、その基準を凌駕せずして、世界に向けて神のみ旨を思って出発することができずして、イエス様の十字架のもとに集まっているような立場が今の世界的キリスト教徒である。そういうふうな立場から霊的には個人的勝利、家庭、氏族、民族、国家、世界基準をつくったけれども、肉的にはなっていません。しかし、再臨の主と一つになって絶対に服従したならば、この時には特別な氏族を中心にして働きかけないといけません。世界的時代圏に立っているから民族を超越した基準においてこれを再び組み合わせて、そういうことを成さなければならない。それは、イエス様において氏族を中心として失われたその基台を蕩減復帰するには、それ以上の基準の内容でなければ蕩減復帰できないから、ここには氏族自体で基準を越えるんだね。それでいろいろ心情を中心として心情基台は新しいイスラエルである。心情基台は世界的実体基台だから、その基台を通して蕩減復帰していかなければならない。これは再臨の主において立てなければならない問題だよ。それで家庭基準をつくる。家庭基準をつくるには、統一教会を中心として新しい氏族圏みたいな、対敵において命懸けで家庭を保護するような氏族的環境をつくっておかなければ、家庭出発をなすことができません。それは一九六〇年の聖婚式の前の立場である。統一教会というものは新しい教団として生まれ出して、サタン世界はもちろんキリスト教が反対するとしてもそのキリスト教の身代わりの基台として氏族圏を成してきた。だから絶対的氏族圏が成されて、一つになってもしも家族が生まれてきた場合にはその家族を命懸けで守るような基台が造成されたんだから、その中において初めて祝福という問題が生まれてくるよ。聖婚式が生まれてくるよ。これは一九六〇年だよ。その家庭が生まれるとともに、だんだんそれに比例して氏族圏、民族圏に拡大していくのが今で、韓国において我々が働きかけた働きである。それによって既成教徒は、我々統一教会の支柱が向こうがだんだん下がっていくとともに我々がだんだん上がっていくんだよ。結局ユダヤ教がイエス様を打って殺してしまったその基準を、家庭、氏族、民族、あるいは教会を失ってしまって民族までも失ってしまった結果になったのを再びこれを復帰して、それ以上の基台を目指して発展していかなければならない。

三人の子女



それが今までの世界統一教会である。そういうふうにして発展してきた。先生の家庭を中心として一九六〇年を中心として、それから何をしたかというと、イエス様が家庭編成した場合には氏族を編成しなければならない。その氏族が何かというと、イエス様を中心とした弟子たちがイエス様と同じような立場に立たないといけない。それでイエス様がもしも相対基準を得て家庭をつくったとするならば、イエス様の弟子たちも相対基準を得て家庭をつくらなければならない。ユダヤ教内において新しく氏族を編成するんだよ。それでイエス様が聖婚式をなさった場合には、十二弟子が、聖婚式をなして完全に、それはイエス様の家庭を中心として誰でも侵入することのできない、霊肉共に侵入することのできない勝利圏が固められるんだね。その祝福されて新しく編成された氏族というものは、堕落圏の養子圏とはまるっきり違うんだよ。ここにおいて初めて神の実子氏族圏が生まれる。そうするとイエス様の子供たちが生まれる。それで十二弟子の家庭があってイエス様の子供の生まれるそういうような子供と完全に一つにならなければならない。それは何かというと地上において我々が統一教会に入ったとしても、二十歳とか三十歳とかみな違うんだね。ある者は五十歳で入った者である。五十歳以前はサタン世界であった。五十歳以後において段階まで上がったものであって、だから本当からいえば生まれながら一つの基台をもっておくべきところが堕落しないアダム、エバの立場である。その基準を復帰するには、もう既に生まれて統一教会を信じるようになって、そうして統一教会で伝道するようになってカイン、アベルの基台をつくった。生まれない前からそういう基台をつくっていないからそれをいかにして蕩減するかというと、あんたたちの祝福された子供、祝福された父母の信仰の子供たちは、希望の相対者として侍るとともに、その子供が生まれるのを待ち焦がれながらはらんだ子供を、はらんだ腹の中から侍らなければならない。これをはっきりさせないと復帰の道は分からないよ。信仰の子供が腹の中から侍って一つになったという立場に立たないと三人の天使長が神と神の援助によって創造されてくるアダムと一つになった結果に立たない。信仰の子供だけではいけないよ。統一教会の信者、あなたたちはもう二十以上三十以上になって入ってきて伝道して信仰の子女を横的な基準において結んだよ。それは天使長的基準においてのカイン、アベルであって、父を中心としてはまだ蕩減されていない。だからそれをいかにして蕩減するかというと、祝福されて生まれてくる子供を腹の中から、三人の信仰の子供が侍るような立場に立つというのが、アダムを創造するとき、喜んで三人の天使長が援助しながら侍ると同じような地上基台を蕩減復帰しなければならない立場を通過しないというと完成基準の立場に立つ家庭が生まれてきません。だからあんたたち祝福されて子供を生む。子供をはらむ時には、三人の信仰の子供が自分のおなかの中にある子供と完全に一つになるような基準を蕩減復帰しなければなりません。そうして祝福された父母より生まれた子供は、二十一歳以上結婚するまで信仰の子供は堕落させるようなことをさせたら絶対にいけません。天使長が成長するまで保護して、理想的夫婦になれるように守ってやるべき使命がある。天使長がやるべき使命と同じように、信仰の子供は、自分の信仰の親が生んだその子供は初めて造ったアダム、エバである。アダム、エバを堕落させたのが今まで神の恨みである。神の悲しみであるから、堕落させないような天使長的使命を信仰の子供は果たさなければ、天使長の立場に立っている信仰の子供の行く道が生まれてきません。これが信仰の父母と信仰の子供の関係においてそういう因縁をなすにしたがって、その子供を中心として初めて父母も復帰された父母の立場に立つことができるよ。結局堕落したアダム、エバは、アベルによって復帰されると同じだよ。だから祝福された父母も、二代目の子供によって完成されるのは、まさしくアベルによって堕落した父母が復帰されると同じである。こういうふうにして蕩減復帰される。だから、信仰の子供がなければ、自分の子供をはらんではいけないというんですね。生んで愛することもできないというんだね。これが原理の道だ。だから復帰原理は、堕落した反対の方向に落ちたんだから、反対の方向に当てはめて水が漏れないように当てはめて一致させて、上がって行く道が復帰の道である。だからあなたたちは絶対に必要なのは何かというと、まず信仰の子女。メシヤよりそれが問題だよ。神様も、いくら神様に愛されるといっても、神様に愛されるのが問題ではありません。愛された立場から立った場合にはアベルの立場に立つんだよ。アベルというものは、これはアダムの立場だから、アダムの立場の前には三人の天使長がなければならない。それは三人の天使長がアダムに完全に服従する基台において堕落しなかったアダムが生まれるというんであって、三人の天使長が主管し、それを恐れるような立場だったら、絶対復帰できない。

 迫害時代

 だから統一教会の食口たちもみ旨を知った場合には神の愛を受けるようになった場合にはアベルになるよ。そういう基準になった場合には、それなりの善霊人を中心としてアベルの立場だよ。あるいは二十歳に入った場合には二十歳を中心として、三十歳に入った場合には三十歳を中心としてそれなりの年齢を中心として、アベルの立場に立つ。そこから伝道した場合には、それなりの年齢基盤上に立ったカイン、アベルの基準が復帰された基台で、それ以外は許されていない。それを再びしなければならないから、子供を通して復帰していかなければならない。そうするには三人の信仰の子供が絶対に腹の中から侍る、それから子供が結婚するまで力を尽くしてすべてを援助するような伝統を正さなければ、完全復帰はできません。これは先生もその道を行かなければならないし、あんたたちもその道を行かなければならない。先生は世界的使命をもったとするならば、あんたたちは国家的使命までやればいい。先生は一段先だ。このようにして世界的勝利基盤をつくって、あんたたちは国家的勝利基台はあなたたち個人がしなければならない。世界的勝利の基台をつくるにはどういうようにするかというと、それを相対基台を広めることによって蕩減の勝利圏を今つくってきておる。それが第三次世界路程である。

 第三次巡回路程だね。だから個人の完成は、カイン、アベルがなければならない。統一教会に入ると神様の愛を受ける。神様から愛を受けるところは必ずアベルの立場である。アベルの立場は一人ではアベルになれません。カインがなければアベルになれません。カインは先に生まれてきた。だからカインというものはそもそも根性が悪いものである。反対するものである。アベルのためのものではない。カインというものは先に生まれた。天使長というものはアダムよりも先に生まれた。同じことだ。だから天使長がアダムを打ったそういう伝統的な血統を受け継いでおるんだから、これを打つようになる。どのくらい打つかというと、神に愛される立場に立って打たれるのは個人的に打たれるよ。個人的に攻撃する。サタンの世界はどのように打ってきたかというと、キリスト教、あるいは信者たちを、宗教人を、個人的に迫害したね。宗教を信じる家庭まで迫害した。あるいは部族氏族全体までも迫害したね。あるいはキリスト教民族自体も迫害したよ。そういうようにやってきた。だから個人的迫害時代、家庭的迫害時代、民族的迫害時代、こういうふうな迫害を受けながら、打たれて奪っていくよ。個人的に完全に世界的に打たれた場合には、個人の勝利圏が生まれてくる。打たれてもこの部落において打たれただけでは絶対なりませんよ。これは世界的でなければならない。世界的になるには、ある環境内に特定なる一人を神が世界的に選抜したならば、それが世界的な個人として勝利圏に立つには、それ部落内においても世界的に迫害する。結局世界的な迫害の的は何かというと、生命をねらう。生命が襲われるというと、これは個人的である。いくら環境内の個人対個人でも、世界的な迫害すべてを代表することができる。

二十一年間



 だから、生命を捧げるならば、捧げながら、神の国家的その理由を心に留めて死を覚悟して立ったならば、いくら個人に反対されてもそれは、反対されるアベルの立場は国家的でなく世界的になる。だから死ぬまでやり抜け。これには期限があるよ。七年とか、二十年とかいうことになるよ。その期間には頭をふりかけたりしてはならない。こうすればいいか、ああすればよいか、神のみ旨に入らなければよかったと、入らなければよかったなら完全に引っかかってしまうんだよ。そうなった場合にはそこからまた七年間、七年間は絶対ヤコブもラケルをラバンからもらうために約束して七年間、それが成され得なかった時には、二十一年かかったね。同じように七年間で成せなかった場合には二十一年かかるよ。それで先生からいえば七年の路程が二十一年に延長されて、統一教会にも二十一年の路程が残っているよ。一九六〇年から一九八一年までだ。世界はこれで完全に回ってしまうよ。一九六〇年は新しい歴史時代に入った。これは世界的歴史学者はみないうんだね。

第三の父母



 ある者は自分の親を殺した者もあるし、あるいは兄弟を殺した者もあるし、いろいろな者があるんだね。親戚同士で殺し合い、あるいは氏族同士で殺し合い、こういうような縦的数千年の歴史のすべてがこの地上に横的に現れてくる。それでみな個人主義になってくる。神も何もあったものではない。先生も何もあったものではない。社会も何もあったものではない。個人主義だ。それが今の世界だよ。あなたたちもみなそうだ。文化国家になればなるほど個人主義になってくる。これがサタン世界の一番先頭に立つ機関車だ。みな国もなければ家庭もなければ、兄弟もなければ誰もない、個人だ。それが天使長の立場だよ。天使世界には相対関係は許されていない。だからみな個人主義になるにしたがって国を失う。家庭を失う。すべてを失ってしまう。自分だけしか思わない。これがそういうふうにして分裂していくよ。それで蕩減の道を行くには、個人、家庭、氏族、民族だよ。少なくとも十二家庭以上なければならない。氏族になりません。それから氏族を中心として日がたつにしたがってだんだん増えて民族になるよ。民族編成して、その民族が他の民族と戦って勝った民族にならないというと国を立たせることができない。そういうようになっている。なぜか、サタン圏にどこかの民族に支配されている民族になっているんだよ。どこかの支配圏に入っている。だから最後において国として生まれてくるには、その支配されている民族と戦って勝った基準に立たなければ新しい国家は生まれてきません。そうなっています。だから復帰路程も同じである。

 ある民族をサタン圏内に編成して、これが反対されるものと戦って勝利しなければ新しい原理的国家が生まれてきません。同じ道である。そういうことを成してイエス様を中心として国家基盤において世界的サタン世界の誰よりも、いかなる国よりも優位なる国家を編成して、ローマ帝国を世界的カインを屈服させたらそれ以後はもうおしまいだよ。そういう段階を通して上がってきます。それで一九六〇年を中心としてイエス様は父母だろう。イエス様は神様が送られた第二番目の父母である。この父母が失敗したのをもとがえししないというと第三の勝利した父母は生まれてきません。これはもっともである。第二の父母様は、第一の父母様になるべきアダム、エバの失敗をもとがえししなければ、第二の父母として勝利の基台に立つことはできません。第一の父母の基準を復帰できなかったんだから、イエス様は死んでいったんだから、第三次まで延長する。だから第三次に来られる再臨の主は、第一の父母の失敗、アダム、エバの失敗と第二の父母の立場で来られたイエス様と聖霊の失敗を、霊肉共にこれを実体的勝利基盤を立たさなければ、地上に勝利した真の父母として現れることができません。だから子女たちが蕩減するのは問題ではありません。カイン、アベルを復帰するのを問題視するのは、その根本は何かというと真の父母である。

真の父母と我々



 きょうの話は「真の父母と我々」。この真の父母という方は、これは人類歴史の最高の希望の存在である。歴史の最高の勝利の基台である。いかなる民族も求めなければならない歴史的希望の中心点である。今まで歴史がたどってきたのは、どこに行くべきかというと、国に行くのでなく、世界に行くのでもない。日本の国に執着するんじゃないんですよ。日本の国は通過過程に立ち寄った旅館みたいな所である。歴史の願いの的は何かというと国でもなければ世界でもない。これ外的から国のように世界のように見えるんだけれども、それが外的世界において解決しない。神の摂理はどこを中心としてやってきたかというと、世界を救うのが目的であるけれども、世界を救うには善なる父母がこの地上に完全に基台をつくって、これが生まれてこないというと、完全なる国家、世界を救う道は生まれてきません。だから歴史の全体なる希望というものは何か、国じゃない。世界でもない。何か、真の父母。これをあんたたちは、はっきり知らなければならない。ここには民族観とか世界観というものは許しません。民族観も父母の血統を受け継いだあとにおいて願う問題だよ。それができて初めて、氏族を編成しなければならないし、民族を編成しなければならないし、世界を復帰しなければならないという問題になってくるのであって、父母がなければ何にもない。真の父母を迎えなければ何事もなりません。これをはっきり知らなければならない。だから我々が日本の国に定着するのが我々日本にいる統一教会の使命じゃありません。また日本人の使命じゃない。それはどうでもいい。世界の中心になればいい。みんなそう思うよ。しかしそう思ったってそうなりません。絶対なりません。常に行けば行くほど希望が我々に迎えられるように思うんだけど、希望はありません。だんだん暗闇になってくる。そうなってくる。だから最後まで行って見て、ああしまった、回れ右しなければならないというように、今まで人間がやったそういうような方式は捨てて、新しい方式でなければ、回れ右して行く道を見いだすことはできません。神はその場になって世界が回れ右するそういう段階になるまでは神様は摂理の準備をなさいまして、個人復帰完成、氏族復帰完成、国家復帰完成を成して、この行く道を知らないものだと、こう行かなければならないような状態をつくろうとしているのが、今統一教会を立たせてやる仕事なんですよ。どうせ民主主義社会でもって世界は救われない。共産主義でも世界は救われない。しかし、仕方ないから行くだけ行ってみたらめちゃくちゃになっている。行けば行くほどめちゃくちゃになっている。だから仕方なしにこれじゃ行けない。一番最高の者も、最下の者も帰らなければならない。ここから新しい方向を見いださなければならない。こういう世界でうごめくそういう段階まで行くようにして、その背後においては彼らが知らないうちに、個人復帰、家庭復帰、氏族復帰、民族復帰、国家基準まで立たせて、これは世界に通じる道に、はしごをかけるようにしてこの道でなければならないという場合には、一遍に世界はこの道にたどりつく時には問題になるんだよ。その時は、一番の先祖より一番恐ろしい困難な時代が来るよ。なぜ困難かというと、先を争って行きたいという。その時には圧死事件とかそういう事件が起こるかもしれない。統一教会には、その時には誰も入れない。窓を狭くするんだ。そういう時が来ますよ。

勝利の結実体



そ

 ういうような作戦を歴史を通して神はやっていく。それがまさしくそういうような現実を我々が見て、測り知る時代に来ているというのは末の時であるというんだね。これは世界人類が分からない時に、統一教会の君たちはここに入って、世界はこうなるんだろう。真の父母が何とかかんとかという、あんたたちが思うのに、真の父母といえば、君たちの部落における有名なお金持ちの父母だと思ったら、それは大間違いだよ。国家の主人であれば、王様とか、あるいは貴族とか、いろんな問題がある。これは一時の、ホテルの主人に違いない。だから歴史のすべての目的は世界を一つにするどころじゃない。世界を一つにするには真の父母を迎えなければ、世界を一つにする道を人間として見いだすことはできません。だから真の父母というお方は、歴史の希望の結実体である。望みの結実体だよ。

 
すべてを蕩減した勝利の結実体である。これを知らなければならない。真の父母とアメリカと取り換えることができるの?

地上から



 今までの歴史は過去の歴史だよ。今までの貢献したものは、君たち自体にはありません。今まで摂理上に貢献した者たちは、みなどこに行っているかというと霊界に行っている。この霊界に行っている者たちでも真の父母を求めているんだけれども、真の父母が現れた場合には、真の父母は、今まで貢献なさった霊界に行っている者の真の父母じゃありません。これはもう永遠に因縁をもつことができません。地上にいる者のための真の父母に限るというんだね。霊界に行っている者はこれは天使長世界と同じだ。だから援助してやって、地上の世界はアダム、エバの世界と同じだよ。真の父母が来ることによって、今まで霊界において、数多くの者が蕩減復帰に動員してきた。その蕩減復帰は何かというと、天使長が堕落したんだから、天使長圏を復帰するために、堕落したサタンのために、それを蕩減復帰した基準というものは僕圏の天使長とみなすんだよ。

 あんたたちにおいて、天使長と同じだよ。天使長の使命は、三大宗教だね。回教は左手にコーラン、右の手には包丁を持って闘っている、これは宗教の本質に一致しない。だから悪の内的宗教というんだよ。だから三人の聖人、三大宗教は三人の天使長と思えば間違いありません。

 そういうような形においてイエス様はその中心の使命を果たしている。だから今から、サタンに向けて闘うのにイエスを大将にして、霊的サタンを追い出し、地上において基盤をつくってやる時が来たよ。カインを祝福してやったと同じように、先生はイエス様を祝福してやったよ。ここにおいて初めて地上に影響を及ぼす。霊人体を動員して堕落したサタンの霊人体を追い出す勝利の基盤を必然的にもつようになるんだから、地上のサタンの主管圏の因縁ある人類を神のほうに引き戻すことができる。

アメリカと世界



 もう少したてば世界はすぐ回るというんだね。だから今まで数多くの宗教が苦労してきたんだけれど、それは真の父母が生まれる基台をつくる。その道の準備をしてきたのである。それは、真の父母は完成したアダム、エバだから、アダム、エバの前に生まれた者は、すべてが天使長である。だから統一教会より前に生まれたすべての宗教は天使長宗教である。そうなるというと統一教会は素晴らしいの?

 内容は素晴らしい。事実は、日本的においていまだに追われているや。内容は素晴らしいんだよ。しかしこれが大きくなって鷲の子みたいに、羽には完全に毛が生えて、飛んだ場合には、世の中の飛ぶものはすべて自分の目の下だ。だから今は、雛だから何でもないんだね。動かされるものがたくさんあるよ。それと同じだよ。これから成長した場合には、国をもつ時代をつくったならば、かなうものはありません。その国の編成にも民族を立たせてやるのではありません。世界人類を立たせてやる。ここにはニグロも入っていく。みんな入っていく。そういうようなあらかじめ天使長国家として準備したのがアメリカで、それは二〇〇年の祝福期間だよ。二〇〇年の祝福期間と全く国家的基準の代表的国家はアメリカだよ。だから一九七六年までが建国二〇〇年になるんだよ。アメリカの祝福は、アメリカの運勢は二〇〇年内の運勢だから一九七六年からはこれを越えていくんだから、アメリカの危機が来るというのは原理的見方だよ。二〇〇年の歴史内にあれだけ世界的な国家になったのは、神がなければそんなことにはならないよ。これは二〇〇〇年の蕩減である。二〇〇〇年の蕩減復帰である。それにつれて今までアメリカは世界的に発展してきたよ。だからアメリカの構成を見るというと超国家的であり、超国民的である。だから日本民族も移民して直ちにアメリカ民族となるんだよ。それは未来の神の国となっている。遠からず、直ちに天国に入ってその国の国民としての仕事をするようになるよ。それはキリスト教が先生を迎えた場合には、一時にそれがアベル圏に復帰される。それが追い出されて、神のほうを打ったんだから、サタンがまた打つんだよ。それで共産党にやられていくんだよ。中共がサタンのエバ国だよ。

 日本も二十年間に世界的な経済復帰を成したと同じようにサタン的なエバ国家である中共も二十年間で世界上に立っている。UNから追い出された侵略国家として、一九五二年にUNにおいて決定したものが二十年間において侵略者が世界的国家として帰るなんてそういうような前例がない。それと同じように統一教会もそうなるかもしれませんよ。二十年だ、二十年。統一教会が第一次七年路程を中心とし、第二次七年が七四年までだよ。第二次七年を越えたら世界的とならざるを得ないだろうというのが原理観である。その期間に世界はぶつかるよ。とんでもない日本を中心としてアメリカとソビエトと中共とぶつかるんだよ。この世界のこのような激動する圏内において、それは舵をとって港に着かなければならないのが、統一教会だよ。侵害せず、破船せずして今生きようとするのだね。それをコントロールするのは先生だ。真の父母というその基準は、世界すべてがそれによって動かされている。だから摂理すべてがそれによって動かされる。神は、神自体もそれを願っている。神自体もそれがなければとんでもないことになるから、それが、今まで神存在して以来最高の望みである。そんなに恐ろしいほど素晴らしい世界であるということは世の中は知らないだろう。

父母の必要性



 あんたたちは先生に対して関心をもたなければならないという結論に到達しますよ。先生はこういうような原則をよく分かっているんだけれども、君たちは分かりません。真の父母は我々にどのくらい必要だろう。また神様はどのくらい必要だろう。神様は真の父母をどのくらい必要だろう。絶対的に必要だよ。全能なる神様も真の父母をどのくらい必要とするか。絶対的に必要とするんだよ。霊界に行っている数億数百万の霊人たちは真の父母をどのくらい必要とするだろう。それがもう絶対的必要とするんだよ。真の父母が生まれてこない以上は天使長界は地上において涙ながらに神の前において、これを何とかしなければならない。蕩減の道を開拓していかなければならないのが天使長の使命。だからアダムを復帰する前に天使長が堕落したんだから、堕落しないみ旨の前に、完成された天使長圏を果たさなければならない使命がある。復帰といえば、アダム、エバの復帰だけではない。天使長復帰をしなければならない。

理想世界



悲しいとか、嘆きとかない未来へ出発する基台が、今から我々のあとに残る。そこには、嘆息とか蕩減とかいう基台がなくなってしまった。それは理想ばかりの一つの夢みたいな世界が現れてくるというんだね。だから、あんたたちの後孫は実に素晴らしいだろう。

 それにはある限界があるよ。何年までに入らない者たちは、みんな痛いほど涙する時が来るよ。神の摂理には年限がある。だから第一次、第二次、第三次期間というものは重要な期間ですよ。そうなるというとあんたたちは一つにならなければならない。一つになるには自分なりの過去の罪を清算しなさい。過去の罪があった場合には大変だね。過去の罪は早く清算せよ。罪ある者が真の父母と一体となることはできません。本当はね。だからまず歴史的罪を清算せよ。それは先祖以来今までのずっと歴史につながった血統的汚れを清算しなければならない。自分を中心として、今までなしてきたみ旨の路程を中心として比較対照してみた場合に間違ったすべてを、清算しなければならない。それから自分が将来善なる先祖にならなければならない立場である。善なる先祖になるには、善なる後孫に何か自分が残した荷物を残したらいけない。重荷をその後孫に譲ってやるような先祖になったならば、讒訴されるような先祖になった場合には、真の父母の統治主管する圏内に入ることはできません。だから統一教会の祝福された家庭たちは、今、現在においてすべてを蕩減して、それを清算しなければならない。だから復帰路程において誰よりも先頭に立って蕩減の道を自分一代の蕩減の道よりも、国家民族の蕩減を背負って立っていくんだから、後孫においては、誇りの先祖だというんだね。これは国が立った場合には、祝福家庭が先頭に立って、初めて永遠に基台をつくって、地上安息とともに永遠の霊界安息の基準をつくる場合には地上に完成される。その時には、歴史は世界的注目の的になるだろう。だから現実においてあんたたちは、あんたたちの足場からじゃない、過去、現在においての、自分より気のあったすべての危害を早く清算しなければならない。清算するには一番良い方法が何かというと、まずもってサタンと闘って勝たなければならない。それが第一の条件だよ。サタンと闘って勝つ人間にならなければ、それはサタンに打ち勝っておかなければ、いくら歴史的清算をしたとしても、再びまたサタンが寄りかかってくる。だからまずもって、根本的サタンを屈服させなければならない。屈服させるために教えるのが我々の原理だよ。

 サタンがどういう罪を犯したかということ、それを教える。それを中心として、サタン世界に行ってサタン屈服させたという条件は、サタン世界に行って三人のカイン的存在をとってきて、これを完全に自分の命を懸けて奉仕し得るイエス様の前に、堕落しないアダムの前に、命を懸けて、死を覚悟して、保護してくれる天使長のものとして、自分の防備隊となれるようなものにつくってやらなければならない。それは真の子女というような、真の信仰の子女というような、真のカインというような勝利したカインの立場は何かというと、イエス様を中心として見た場合には、イエス様が十字架につけられるという、そういうような恐ろしい環境ができた場合に、みんな逃げてしまうような者となったらいけません。イエス様を守る。イエス様に先立ち、死を覚悟して立つ。そういう者にならないというと、完全なる勝利し得た三人の天使長として、それは、信仰の子供が立つことができません。そういうような人をつくらなければならない。そういうような人をつくるには、自分の実体の子供を育てるよりも三倍あるいは七倍以上難しい。

愛の復帰



 だから愛は誰によって始まったかというと、サタン、天使長より始まった。復帰するにはサタン、天使長より奪い取ってきて、天使長(カイン)を通して、信仰の子供を愛して、自分のほうに帰ってくるんだよ。信仰の子供を愛して、その後自分の子供を愛して、真の父母がなしたように復帰される道なんだよ。愛はサタン圏より始まったその愛の圏から、奪い取ってこなければならない。サタンが奪い取っていったんだから、それを反対において、サタン圏から探してきたものが、勝利的天使長、絶対服従する天使長の立場に立つ三人の信仰の子供を求めて、そこにおいて完全に神と同じような立場で愛したというような立場に立つんだよ。愛の問題で愛を失って堕落したんだからそれ以上の愛をなさなければならない。だから信仰の子供をどのくらい愛せばよいかというと、この世の中の父母が自分の子供を愛するより以上愛さなければ、信仰の子供が復帰されません。これは父母はサタン的な愛だろう。それ以上の愛の道でなければ人は引っ張られてこない。だから愛によって引っ張られた者は、愛によってもとがえししなければなりません。そうすることによって勝利した愛の基準が三人の信仰の子供において勝利されたその基盤において初めて、自分の子供を愛することができる。これは公式だよ。先生もそういう生活をずっとやってきている。その公式を通過しなければ完成基盤は生まれてきません。だから、いくら子供があっても信仰の子供が完全に復帰されない場合には、この子供を自分の家に入れて一緒に住むこともできません。神様から見れば蕩減復帰するために今までイエス様を地上によこして、死ぬ所においてもそれは共に死ぬような信仰の子供を完全に愛して、自分の子供のために犠牲になるような基台を立たせないというと自分の子供を愛する道は生まれてきません。信仰の子供なくして何ものもない。

完成の時代



 それを復帰することによって、相対理想アダム、エバを組み合わすと相対理想を合わせた場合に八人の堕落したアダム家庭を神の愛によって復帰された基台をつくることができる。それがみんな堕落圏より復帰された基準であって、本来の神の愛のもとにあって生まれた子供は一人もありませんよ。堕落しない圏は本来の神の愛によって初めて生まれたものが長成完成基準圏を通過するのが原則だよ。だから神の愛によって生まれた自分の子供、結婚して生まれる子供によって完成時代を初めて上がってくる。その祝福された家庭は父母の日を決定しなければならないよ。自分なりの父母の日だよ。自分なりの子女の日を決定しなければならない。自分なりの万物の日を決定しなければならない。自分なりの神様の日を決定しなければならない。それは先生に比べれば、先生は世界的であるけれど、あんたたちは氏族的、あるいは民族的勝利をして国家基準まで引き上げて国家基準まで勝利しなければならないのがあんたたちの使命だよ。こんなに厄介とは思わなかったね。こんなに厄介だから神様は六〇〇〇年かかりましたよ。そういうものを専門的に分かるものが生まれてこなかったから。堕落は人間がやったものだから、復帰も蕩減も人間自体がやらなければならない。罪を犯したものが罪を蕩減しなければならないのが原則である。だから父母が偽りの父母になったんだから、偽りの父母を乗り越える真の父母が来て、それすべて分かって、蕩減してやらないというと歴史が新しく神に帰る道がない。このすべてを解決してくれたお方が真の父母だ。だからあんたたちの生命を何千万、何億人やっても換えられない。だから自分が早くそういうお方の前で、「自分が命を懸けて奉仕します」ということを言えるのは、無礼なことだよ。だからイエス様の宣言もそうだ。死なんとする者は生き、生きんとする者は死ぬ。出発点はそこだよ。まずもって切り換えの転換点はそこにあるんだよ。ちゃんと背後の目的はそこだ。最後の結論を下しているのがこのアジアだよ。統一教会に入ってああ幸福になろうという者は幸福になれません。自分が幸福になる前に父母が幸福にならなければ、自分の幸福の道は絶対に生まれてきません。世の中、宇宙において神様が幸福にならなければ宇宙に存在する全ての万物は幸福になりません。同じだ。完全に蕩減するには罪を清算しなければならない。君たち、過去、現在。そういうふうにしながら原理原則に正すようなことをしなければならない。だから統一教会で一番恐ろしいのは伝道するなというのが一番恐ろしい。信仰の子供を連れてくるな。それ、なくてもよいというのはサタンの願う第一条だ。

涙の道



 子供を、生まなくても良いの、子供必要なの?

 それなければ滅んでしまうや。何も残らない。父母が生活するような様式を自分も将来そういうふうに生きていかなければならない公式になっているんだよ。だから結婚するんだよ。

 今までの宗教ではできなかった。真の父母がこの地上に生まれて初めて我々地上に宗教を中心にして結婚しなければならないという教団が生まれたということは歴史的問題になる。そういうふうに考えなければならない。信仰の子供を育てるには三倍あるいは七倍以上愛さなければならない。信仰の子供を愛せないものは自分の子供を愛する資格はありません。復帰はそうだよ。サタンを屈服させる過去、現在を悔い改めるにはただ「天のお父様これこれこういうわけでした。許してください」そいううふうにしては許されません。

 そこにおいて涙を流さなければ帰れない。それはもう顔がふくれるような痛みを感じながら、内臓がひっくり返るような痛みを感じながら、黙って罪を悔い改めなければならないということが我々の現実の問題であるということを知らなければなりません。そう考えると自分と関係をもっているんだよ。みんな自分一人のためにそうなっている。あんた一人のために……みんなそうなっている。結局自分のためであり、我々の国のためであり、我々の世界のためにこんなに苦労している。それは自分が行かなければならない国のためであるし、自分が行かなければならない世界を征服するためにこういうふうな苦労の道を逃れることはできない、あるいは国家的闘いを逃れることはできない。あるいは内的闘いを逃れることはできない。統一教会がこういうふうになったのは個人的逃れる道、家庭的逃れる道、氏族的逃れる道、国家的逃れる道、民族的逃れる道を取り払わなければならなくなってきている。だからこういう環境が必然になったと思ったら大間違いだ。数多くの涙のキリスト教会圏が犠牲になって蕩減の条件として犠牲になられてこういうふうな状態になったことを知らなければならない。真の父母がここまで来られて立ったというんだからその背後であんたたちの思いもつかないような涙ぐましい泥水の重なる、あなたたちの知らないところの背後に、いかばかり涙を流したかその一点においてそういう涙が問題ではない。過去を通じて現在に至るまでいまだにそういう闘いをやっているということを知った場合には涙ぐまずには語れない、そういう自分を発見するのである。それが神である。自分の過去、現在、罪を犯しながら何でもありませんよ。泣くものは泣くんだがそれは問題ではありません。だから涙を流しながら落ちていったものが神の前に感謝の涙を流しながら復帰していかなければ天の世界に入る道がありません。その心情は誰でもそれはそうなるようになっている。神様が迎えておられる親子の一点は実にそうである。

 アダム、エバと、天使長を代表した真の父母がなくなった場合には深い痛みを感ずるようになる。それがイエス様が地上に来られて死の道を行かれたことはいかにつらい神様の心情が分かるようになる。そして第三次再臨の主を遣わして第三代目のアダム完成基準を願って神は数千年来キリスト教ばかり中心として、考えてみなさい。自由民主国家にすべてがキリスト教関係がピッタリとして入った。そうだろう、その上にキリスト教は数千年の歴史を通して行くところに、血を流さなかった日はありません。日本においてもそうだろう。島原の乱というのは。

聖婚式



 だから一九六〇年において聖婚式をする前に約婚を初めにして、式を挙げる前に三十六家庭の三人の既成家庭を約婚して先生が聖婚式を挙げた途端に三人の家庭を祝福しました。それはイエス様を中心としてペテロ、ヨハネ、ヤコブが一遍に神の理想圏に立ったという条件に立つ。完全に分かれることができないという勝利的基盤を立てたことになるよ。それが反対した。それが最高の迫害だよ。分かったの?

 イエス様は国家から追われ、教会から追われ、全部から追われた環境圏に立たなければ復帰できません。このために韓国民は総動員して迫害してきた。総動員して、これが警察とか保安庁には数十名の統一教会の投書があって統一教会の文先生は捕らえてしまわなければならない……。いろんな投書が入るんだよ。これは国家民族挙げてこれを倒して、それでもそれを終わらしてしまわなければならない。終わらない。それが統一教会だよ。聖婚式の前の日までもみんな先生は投書されたよ。だから劉協会長と協力しながら一九六〇年、闘いのまっただ中にのるかそるかのそういう環境においてその聖婚式があんたたちの思うような心安らかな神に栄光を帰す立場ではありません。闘いである。門の外では反対する声、そこで結婚式を行った。そういうことをしながら、闘いのまっただ中で統一教会は勝利する。そうした場合には善悪が交代する。我々がそうならなければ神様は喜ばない。三家庭を立てながら三人の弟子が死なずして生きて新郎新婦の理想を死んで残した基準を勝利した平面的基盤を立てたことになる。イエス様が死なない立場に立ったことになる。それから三家庭を中心として三家庭というものは歴史全体のすべてを蕩減する家庭の中心だから歴史はどういうふうになってきたか。

 先生の時代には、第一アダムと第二アダムのすべてのことを蕩減してやらなければならない、歴史的過去のことを蕩減してやらなければならない。だから旧約時代完成、新約時代完成、成約時代完成圏を蕩減してやらなければならない使命なんだよ。そうするには、過去の歴史を無視することはできない。過去の歴史、それがアダム家庭よりヤコブまでは、ヤコブ時代までは、ヤコブまでの基台は、ヤコブに初めて養子圏の出発がなされるんだよ。これはイスラエル圏を中心としてメシヤというものを送るようになりながら、選民圏の初めは何かというと養子圏だ。養子圏の初めそれ以前は僕の圏だよ。だから蕩減復帰において僕時代と養子圏時代を蕩減してやらなけれはならないのにそういうように全般的歴史を蕩減しなければならないんだから、まずもってアダム家庭よりノアを通してヤコブ家庭までの歴史というものはヤコブ路程の延長がモーセ路程であり、モーセ路程の延長がイエス様の路程なんだね。だから、第一基台はヤコブ路程、これは養子だよ。イエス様路程が一度、実子を迎えるには民族的蕩減時代を経なければならないんだから、それを代表したものがモーセだよ。

 だから民族的勝利をなすようになったんだから、家庭は勝利じゃない。家庭的勝利はその層を経た国内においてはなすことができるんだけれども、それは民族的や日本的だね。だからイスラエル民族をエジプトに送って勝利した基台をつくらなければならない。そういうようになっている。それでモーセの路程というものは、ヤコブの家庭的勝利と天使と基盤を受け継いだ上に範囲を広げた民族的勝利の基台だよ。イエスの時代はその民族より範囲を広げた国家基台をつくったものだ。

三十六家庭



 こういうように発展していくんだよ。それで一番問題なのは、歴史全体復帰である。それで三十六家庭というのはどういう家庭か、最初の家庭は旧約時代を象徴するんだよ。第二家庭は新約時代を象徴するんだよ。第一家庭は旧約時代を象徴するんだからそれは神が許されない前に結婚した立場だよ。そうだろ、新約時代は初めて神様が求めた地で結婚を願った時代だよ。願ったけど失敗した。成約時代は失敗でなくて神様が願い求めて完成したのが成約時代だよ。出発は家庭より出発だ。だから神の復帰摂理はヤコブの時代より元帰るんだね。復帰されるよ、だから先生の復帰しなければならないのは僕の基準、それから養子の基準。養子圏国家的基準がモーセを通してイエスまでだよ。それから実子が失敗したね。実子、イエス様だよ。これは三つを象徴して復帰しなければならない立場に立っている。この三つがいつでも十二派を、十二数を、十数か十二数の平面的基盤を中心としてイスラエル民族を率いた。これは原理的内容になるんだよ。旧約時代に当たるのは、復帰前に結婚した立場だろう。そうだろう。イエス様時代は結婚の願いをなすのだけれどなせなかった時代である。ヤコブにおいて苦難の時代である。それを全部継ぎ合わせたような立場に立って三十六家庭は旧約時代、イエス様時代、再臨時代それが歴史的象徴の基準として、アダム、エバよりヤコブ二〇〇〇年を蕩減するんだよ。それに勝利したのは、先生自体においては一代、旧約時代ばかりではないよ。家庭勝利の完成だからその内容は三時代、歴史的なものだよ。三十六家庭はアダム家庭というんだね。アダム家庭というのは、カイン、アベルを中心として、それからノアまで十二数だよ。だから十二家庭が生まれてくるんだよ。それからノアを中心としてアブラハムまで十代だよ。それがイサク、ヤコブまで延長して十二代が、これがサタンに取られていかなかった情的、天的な立場に立たないというと、ノアからアブラハムまで、それは神に立つ先祖が生まれないというとそれは時代を確立できないから、だからそれをつなげる数の十二代が、それはノアの家庭というんだよ。それから最後にヤコブの家庭というのは、そこで初めて個人的になったんだよ。これは縦的になるんだね。ヤコブにおいて初めて蘇生、長成を地上に現したのがヤコブ家庭の十二双だよ。それがまさしく旧約時代、新約時代、成約時代に入るんだよ。こういうふういにヤコブ時代になった場合は、アダムを中心としてこういうふうに六〇〇〇年の歴史を延長するならばアダムを中心としてイエス様の時代はノアに当たる。再臨の時代はヤコブに当たるのだね。分かったね。これは数的基準を中心として大きく同時的歴史性を象徴して立つことができる。分かった?



勝利した先祖

 三十六家庭は何か?

 すなわち復帰路程において我々の先祖が神に召されて果たし得なかったすべての思いを実体でもって地上に再臨してすべてのことを勝利した結果をきたすことによって、サタンによって蹂躙された歴史を再び神によって情的歴史性を復帰したことになる。何の話か分かる?

 すなわちこの人類というものは復帰現象上から見た場合に、神の復帰現象の心情を受け継いだそういう完成の人類にならなければならないというんだね。それは先祖になるべきすべてのものは、神の摂理において失敗した先祖でなくて勝利した先祖の基準を地上に確立されたのが三十六家庭である。だから三十六家庭は何かというと人類の先祖である。復帰された人類先祖だよ。それを中心として七十二家庭は何かというと\96AB\96AB。今まで二つの家庭を中心として家庭を完全復帰するには、カイン、アベルの家庭が一つにならなければならない。アダム、エバが完全に神の前に立つには、カインとアベルが完全に一つになった基台の上に乗らなければならない。この先祖というものは父母の立場だよ。この父母の立場が完全に神の前に立つには、カイン、アベルの基台を復帰してからと同じように、三十六家庭は先祖である。先祖が立つにはカイン、アベルが一つになった家庭の基盤をつくった上に立たなければならないんだから三十六家庭の二倍が七十二家庭になる。七十二家庭はイエス様に対しての七十人に当たるんだね。それが一つになったという地上の蕩減圏をなし得た基盤になるから、神の摂理の時代はだんだん地上の壮婦の基台を訪ねてきたんだよ。

七十二家庭



 こうなるというと、家庭先祖を中心としてカイン、アベルの家庭が一つになったんだから摂理歴史においてそれは家庭を中心として要求したすべてのことは家庭復帰完成自体をなしたことになるのは、七十二家庭までの祝福だよ。それが来られるに従って初めて地上に神を中心として平面的でも立体的でも段階ができるよ。蘇生、長成、完成を見れば線が四つになるよ。だから三家庭を縦にすれば神様を中心に三段階になるんだね。それを横的に見た場合には四位基台になるんだね。分かったの?

 だから、これが決まるに従って、中心的基準が立つんですよ。すなわち神の摂理によって決まるべき中心点が縦的の足場として完全に歴史性の勝利として立ったのが、三十六家庭、七十二家庭が一つになることによって、それを完成することになる。その中心点が決まったんだから、神が要求するすべてのその求めてきた中心的先祖の勝利圏を成したことになるから、その原因が完全な基台なんだからそれを横的に引き付けられる。その基準を中心として一二四家庭の祝福があるんだよ。一二四家庭というのは、イエス様が十字架につけられたあの五旬節がペンテコステにおいて聖霊が降臨されたね、その時一二〇人の門徒が集まって一つになって祈った結果によってそれは聖霊の降臨を迎えることができましたね。聖霊降臨はこれは国家基準を越えた基準においてそれは降臨すべきだよ。イエス様が新婦を国家基準の基台の上にそれを結ぶことによって彼が一つになれる基台を、これは霊的ながらそれを結んだ基台だよ。それで一二〇人は何を象徴するかというと、一二〇国家を象徴するんだよ。だから西洋が基準となった時には神のほうに一二〇国家以上の基台ができるというんだね。

 それがちょうど、まさしく一九六七から六八年にかけてそういう基台がもうできている。歴史は偶然に蕩減することはないよ。そういうふうにして全部が、内外共に数的な発展として現れている。だから一二四というのは世界国家を象徴する。ここに正常基準が立ったという勝利的基盤に立ったんだからこれは世界的構成だね。それをみんな一つにまとめて結びつけるようなそういう相対理想基台をつくってやったのが一二四双の祝福、一二〇をとっているんだけれど四双をプラスさせた。四双は何かというと今まで結婚した家庭の四家庭が入るよ、なぜかというと、結婚された家庭が神の国に帰る道が開けてこない。だから東西南北の門を象徴して祝福された四家庭を加えて一二四家庭、これによって人類が今まで望んだのは相対理想というのを望んでいるんだよ。

世界的時代圏



 今まで宗教が望んできたものは相対不可侵圏を望んできたよ。今までの宗教は独身生活だ。家庭的な相対理想は先生の時代に入って初めて、相対的理想圏をこれは勝利的イスラエル圏から世界的イスラエル圏に拡大して、これは勝利的基台を横的に引き上げたのが、一二四家庭である。

 神様から見た場合には、イエス様の場合は三人の弟子より、十二人の弟子より、七十人の弟子より、一二〇人の門徒、すべての地上の願いにおいて、神の理想的家庭編成をなし得ずして死んでいったのを地上において蕩減復帰してやることによって、第一アダム、第二アダムのこの失敗圏を地上において復帰完成したことになる。その次は人間が堕落したことによって万物を失ってしまったから、万物が神のほうに帰る道を一九六五年を中心として世界的一二〇聖地を決定することだよ。韓国の石をもって同じここに築いた勝利の基台を世界的に平面的に結んでいく。万物基台がないと働けない。神の活動舞台が成立しないから、その条件として一二〇聖地、四十国家を中心として四十年の勝利の基台、いわゆる真の父母の勝利の基台を世界的に決定した。四十カ国、一二〇聖地を決定したのは、世界的に万物を復帰する天的道が開けた。だから韓国の土と石をもって本部のように黙祷するんだよ。だからそれを中心にやって世界において相対圏内において復帰される道が開かれる。だから初めて神を迎えることができるんだよ。それが一九六七年を越えて一九六八年の十月において第一次七年路程が完全に終わるというと、それが終わって初めて完成基盤をなし得なかったすべてを解決しておかなければならない。だから七年間においてこれをすべて蕩減して勝利した位置に立ったから、一九六八年において初めて完成基準に立って神様と一つになるそういう位置に立ったのが神の日というんだよ。

 父母の内的において神様が初めて相対者を中心として結びつけられるその結婚式であるために、人間にとっては真の父母の結婚式である。だから神様の日と共に、父母の日と共に、それが子女の日と共に、万物の日をきちんと迎えるのが、これが七年間を通過して、蕩減復帰して、元の位置に帰ったんだから、そこから世界的時代圏に入るよ。

四三〇双



 先生を中心として、アメリカとか世界各国において力を入れてやれるだけやったらいい。そして日本と共同作戦をさせるようなこともさせるんだよ。それは日本のためになるんだよ。三年間真心を尽くして物と実体と心情が一つになって、それはアダム国家の先生がなしたその勝利の基台を復帰するそういう基台をつくらなければ、日本がエバ国家として、何らかの使命をなし得たという条件が成立しません。これは同じくイエス様において三年路程においてエバを迎えることができなかったこれを再び、国家的基準において蕩減するようなことも、日本の統一教会はしなければならない。それ以前は先生は絶対命令しなかった。命令するなと止めてきた。三年路程が済んだ場合にはそれから先生を中心として日本にすべての解決策を、祝福家庭のアパートもいろいろな問題を考えている。七四年までに解決しなければならない。そういう使命が残っている。それをしながら、そういう関係を結びながら四三〇家庭を祝福したり、そういう世界的因縁の条件を立てるための、韓国においては統一教会内において蕩減するんであって、国家基準の蕩減の因縁はまだ結んでいない。これが四三〇組の祝福なんだよ。四三〇組という数字は何かというと、その年がまさしく韓国が四三〇〇年であり、それがイスラエル民族においてエジプト路程四三〇年目に当たるんだよ。四三〇の数字に当たるんだよ。だからイスラエル民族の民族解放理想を願ったのだよ。だからその基準を中心として韓国全体にわたるすべての国民が、天のみ旨に立つような道を開いてやる。それは相対的理想の道だよ。今の宗教は、個人の理想を中心として開いた道をやったんでは役に立たない。我々統一教会は相対的理想の道を四方八方にこれは全国民を動かして歴史を通してそれを一致した歴史的蕩減実体自身をこれを一代で成し遂げなければならない。四十三数というのは数から見た場合に掛ければ十二、プラスすれば七つになる。それが四数に東西南北に相当する。三数は蘇生、長成、完成人間の発達からすべての万物の数を象徴するそういう数に当たるんだから我々は蕩減復帰によって絶対的数である。だから四三〇双の祝福をしたんだよ。それで韓民族は誰でも入れられて祝福を受けることができるというんだね。その国家的基準をつくったんだから一九六九年にその基台を、相対的基台を外国につくっておかなければならない。それが一九六九年の第二次世界巡回の時に四十三双を祝福させて相対国家を結んだよ。世界的になるよ。内的なものを優先して十国家圏を中心として四十三家庭をつくり、相対圏を世界的に広めたよ。

七七七双



 世界は統一教会の運勢に入ってだんだんと動くようになるよ。それが一九七〇年に初めて七七七双だ。これは地上において世界的においてすべてが寄ってくるんだね。しかし、四三〇双までは先生が行ってずっとしてやったことになるんだよ。韓国に連れてきて祝福をさせたら駄目なんだ。初めて韓国で全世界的な、すべてが祝福家庭を中心として残りなく七七七双を完成していくのである。そこにおいて十カ国がある。こういうふうにして家庭的理想を中心として世界いずこの国でも神に立ち帰ることができるそういう道が完成できた、この時を中心として開いたことになるから世界の運勢は統一運勢へと一致するようになってくる。だから国家も南北の国家も世界の左翼、右翼の人たちも我々と対立する段階になってくる。そこにおいて今、我々はこれを引き続けて我々は生めよ、殖えよ、そういうふうにしてだんだん伝道しなくてもいいという。本当はね、伝道しなくても、もう何だからこれは全部連れていってアメリカに行って一つの州に固まって、黙っておっても世界は復帰されていくというんだね。分かる?

 我々は汗を流し本当に反対して汗流し、もうこれ血流し、そういう苦労する必要ないというんだね。生めよ殖やせ、そうしてそれを新しい民族編成をして国家基準を、一つの国が自然とできるよ。我々はエジプトにあって、イスラエル民族が健康な子供を生む。これはもう生んだ子とみな子供ばかりあってそういう子を同じく祝福して双子がたくさん生まれてくるよ。我々には産児制限できません。こういうふうにして世界に新しい血統的基盤を広げる世界超民族国家的にもう組んでおるんだよ。

家庭の行く道



 だから我々家庭においては、それを祝福された家庭は東西南北を問わず、それは将来には一カ所に、教育も一カ所に連れてきてするんだよ。それで先生は韓国の大学問題も考えておるんだよ。幼稚園から中、高等学校から、大学まで行くよ。だから祝福された家庭は、本国に留学するのが最高の望みになるよ。できればその時に日本とか、そういう世界的なそれは我々を父母が真心を尽くしてそういう大学を立てるに賛成したとすれば、歴史の誇りの時が来るというんだね。そういうふうに、新しい文化、新しい世界が生まれてくるんだね。これが真の父母を中心として我々が行かなければならない世界的な蕩減の道だから、君たちは何も知らなかったんだけれど知らない中に世界的内外蕩減基準を完成するようになった。その基台がつくられる先生は堂々と何も引っかかるものがないというんだね。世界に初めて旗揚げしてきた。もう今先生は死んでもイエス様みたいに失敗の男ではありません。死んでも、このみ旨はサタン世界を占領してしまう。そういうふうになっているんだよ。再び来なくていいということになっている。これは、今度だけ帰って先生祈っておけばすべてが完成される。だから、韓国に滞まる先生にならないということになるんだね。日本に来ておるのが気持ちが良かった場合には、日本にも来ておることができるし、アメリカが良かった場合にはアメリカにいてそれこそ世界を舞台として先生、万民もいかなる大統領でもなれないような道を世界的に進んで行かなくてはならないのが、今からの先生の生涯だよ。

変わってはいけない



 だから真の父母と我々、結局は真の父母は完成したアダムであり失敗した第一の父母基準を完成復帰しなければならない、第二イエス様の失敗した父母の基準を完成しなければならい。しかし、再臨の時代においては先生がもっと苦労したのは、イエス様は霊的勝利基台だけそれは世界的につくることができたんだよ。先生においては霊肉とも世界的なその統一圏のみ業としてここまで上がってきている。今から三年、我々は結束して日本でも力を出して動けば、日本が世界的に認められるその国になるだろう、なぜならエバ国家だから今から日本は発展しますよ。発展するようになっている。三年間の期間が過ぎた場合には発展するようになるのが原理の観ですよ。だからそれを迎えるために特別にそれを成就するために、今機動隊編成をしたんですよ。分かりました?
早く人材養成しなくてはならない。人材養成より数が問題である。そう思って日本においては先生にそれを心配かけるようなことになった場合には、エバとして忠誠を尽くす忠孝の烈女としての使命を果たせません。未来性において我々はフラフラする人間になっては困ります。今にも行ったり来たりする者は神の信ずる者にはなりません。だから絶対変わるな。それが先生の結論になる。
こういうように素晴らしい歴史的勝利の基台に立って何が欲しい、何が欲しいかというんだね。それ以上のものはないというんだね。ここにおいてそれを得た自分たちの価値を世界に分けてそれを無上の価値の実体者として誇り得るようにして、神が信じなくても、神を信じせしめる主体者になるという信念をもって絶対、行ったり来たり、あるいは変わるようなふうになってはいけません。今から三十年、四十年死ぬまで変わらない?
(はい)

 しっかり手を挙げて、先生は信じて帰るよ。












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09_我らはなぜ苦労しなければならないか

 

 御旨と世界
(全面表示)

 



我らはなぜ苦労しなければならないか


1972年9月11日

 韓国

 水沢里


 いかなる宗教でも、苦労ということが目的に行く過程において絶対的要件となっている。なぜ苦労が必要か?

 これが問題である。

 原理で教えられるところによると、人間は堕落し、無原理段階に落ちてしまった。人間としての形はもっているんだけれど、本然の神の理想に沿うような基準から見た場合、それは原理の内容に立っている価値のものと見ることはできない。そういうような人間が、再び復帰の目的に戻っていくには、反対の方向をたどっていかなくてはならない。反対の方向というのは結局再創造の道である。

 こう考えてみると、自分というものは、神を主体とすれば相対の立場に立つ。堕落しなかった場合には、主体と相対は同一な次元において理想を果たすべき存在であった。それが堕落してしまったのだから、我々は相対的立場にいるんだけれど、その相対的価値、あるいは内容においては、神は相対者として認めることはできない。



人間創造の目的

 神はなぜ、人間を造るようになったか?

 第一の目的は、相対者を必要とするためである。第二の目的は、無形世界と実体世界の万物に通じるに、神自体が形をもたなければならないためである。

 そう考えてみた場合に、アダムという存在はどういうものか?

 結局、無形の神がアダムの形をとって、主体者として実体界に立ったものである。第三の目的は、主体と相対が一つになる愛の理想を果たさなければならない。愛の理想圏を永遠に残すためである。この三つの目的を中心として人間を造るようになった。人間を造るには、神から見た場合に力を投入しなければならない。創造というものは、結局主体なる神から力を加えられる、ということである。その限界というものは、相対者が完全になるまで、そこに力が加わらなければならない。そして一つになってこそ、初めて神の理想が生まれてくる。

 創造理想から見れば、神の愛というものは完成した基準において生まれるべきである。その完成基準まで上がるには、我々、原理で教えられるように、三段階過程を通過しなければならない。それは成長の期間でありながら、神がエネルギーを投入する期間でもある。その力が完全に投入されて、相対者として立ったならば、そこから初めて戻ってくる。戻ってくるには、より以上の力でもって主体に向き合う力が加わらないと戻ってこれない。それが愛の力である。愛なくしては、神が投入したエネルギーが戻ってくる道が生まれてこない。

 そう考えてくると、神自体が相対者を造るということは、これは消耗する立場である。あるものを存在させるには、そこに力の投入、力を犠牲にさせなければならない。これが創造の本然の姿である。



我らの犠牲の道

 だから、再創造の復帰の道をたどっていく我々人間としては、その道をたどっていかなくてはならない。自分においては再創造することができない。神によって、再び理想の自分に向かって投入する道を経過しなければならない。ここに神が、再び力を投入したという立場に立たなければならないのだから、そこに犠牲という道が生まれてくる。相対者を造るということは、結局、犠牲の道の始まりである。

 それが原理の本源の基準になっているから、理想世界、あるいは完成の人間を求めていく宗教においては、苦労の道を行かなければならない。自分を中心として、現実のそのものを犠牲にしていかなければならない。その犠牲の度合いによって、神の本性がもとがえされる。いわゆる再創造の道を、自分なりに開拓していかなければならないのが堕落の結果我々の立場である。だから宗教においては苦労、苦行の道をたどって行かなくてはならない。それが根本になっている。

 発展の段階を見た場合、神はそもそも、実体界を造る前に天使界を造った。その天使界は、実体者としての理想を授けるところではない。それは目的に向かって過程を通過する期間と同じである。それが、神を中心として、天使と一つになって、実体の相対圏を造り出したのが、それが万物世界である。そして、天使と神が一つになって人間を造った。

 神が霊的基準において相対圏を求めて造ったのが天使界で、実体者である人間が、神に向かって何かの感覚を授け、価値の刺激を与える立場ではない。その道がないから、中間的天使界を通して、人間を創造する過程において、刺激されたいとして、天使を相対の立場に立たせて、あるいは讃美の立場に立たせ、あるいは相談する立場に立たせて人間を造った。

 天使は、人間が造られていく段階ごとに、相対的な感謝とか、刺激を神に与えることによって、人間を造る過程の喜びを得ることができる。自分なり消耗の立場に立っておりながら、天使長の神に対する讃美、あるいは慰めの刺激、喜びの条件をもってして) 、神に刺激させ、人間を造る過程において喜びを得るようになっていた。そういうふうにして、天使と共に人間を造った。そうすれば、人間というものは、天使的価値、目的を完成させるような立場に立たなければならない。あるいは、神の目的をかなえるような、二重の価値の基準に立ったのが人間である。だから、神は人間を目的としている。天使長は人間に対して希望をもって援助してやる。

 こう見れば、アダムという存在は、天使長の理想の完成者にならなければならない。そしてアダムというものは、神の理想の完成者にならなければならない。

 それでは、なぜ、エバを造ったのか。神と天使長、あるいは神とアダム、こう見れば、一対一の立場において縦的関係である。上下関係である。それは一点にとどまる。天使長が中心点に立った所は、神も立たなければならない。

 なぜ、相対圏を必要とするかといえば、共に横的基準を広める、中心を中心として相対圏を求める、相対圏は面積が必要である。ここにおいて横的な基準がつくられる。縦的な関係を横的に適用しよう。それが創造の目的である。もしも、神と天使長、神とアダムという立場から見た場合には、すべて完成した場合に、中心点は一つにとどまる。その縦的一点を横的に広めるためにエバを造った。だから縦的な愛が横的な愛に展開される。

 アダムという存在は、天使長の目的完成の位置に立つものである。神の理想の中心者として立つものである。だから、天使長の目的と神の目的を共に完成した位置に立つものがアダムである。そのアダムという立場を、縦的な神の愛を刺激的な二重相対者として、横的に立たせたものがエバである。それが再び一つになった場合には、縦的な愛の力が横的につながることができる。だから、そういう立場を堕落のために成し得なかったのだから、この立場を再び復帰してくるのが、今までの歴史の摂理である。まず、天使界を神が創造したと同じように、天使的な使命を完成させなければならない。その次に、アダムの目的完成がある。アダムというものは、神の相対者の立場に立つべきで、神の理想の完成者として立ったならば、そこにおいて、縦的の愛の理想が横的に展開される、それが創造の相対世界である。神を中心とした天国である。



エバの創造

 あなたたちにおきましても、父母を中心とすれば、子供も縦的関係になっている。もしも親がいない場合には、横的な立場においての相対圏が生まれてこない。だから、親につながる愛のその実感を横的に共に適用される環境をもつことによって、相対圏の理想圏が成り立つ。だから縦的に一つになったのちには必ず、横的に一つになる道がある。縦を主体とすれば横は相対圏である。

 それを、神を中心としての愛を中心として、つながせたいとして求めてきたのが、アダム、エバの創造である。だから縦的な愛を横的に広げるために、相対者を造らざるを得ないのである。もしもエバがなかった場合には、人間は神ばかりの縦的理想にとどまり、天使界と同じ立場になってしまう。実体世界ではない。実体世界は横的理想をつなげるために、絶対造らなければならない。その横的の代表者として立つべきなのが、エバという存在である。

 アダム、エバが一つになった場合には、共に相対となり、また主体、相対関係になる。一つになった基準から見た場合には、神は縦的な主体者になる。だから縦横共に、その愛の中間機関として連絡させることができる。ここにおいて、霊的理想と実体的理想が生まれてくる。だから、我々人間において、アダムの前にエバがなければならない。これが横的に一つになると、自然と縦的に一つになるようになっている。アダムが完成したとするならば、神が力を投入したその力が、マイナスになるのではなくて、相対者として神に向かうアダムの理想が、神に引き付けられ、神を求めるそういう力の作用になるから、結局、神が投入したより以上の力となって戻っていくことができる。そして神を刺激することができる。その刺激の力の基準がいわゆる、愛というものである。愛なくして戻っていくことができない。戻っていく愛によって、神自体が投入したより以上の強い愛として神に戻っていくのだから、そこにおいて初めて神は喜びを感じることができる。

 親が子供を愛する。愛の道は犠牲が基台になっている。愛する者に対しては犠牲になっても、何の苦しみも感じない。なぜかといえば、子供を愛するんだから、愛の心情がその中に秘められているから、いくら力を投入しても愛によって再び力が戻って刺激となる。力を投入すればするほど、十の力を投入したとすれば、子供がそれ以上の姿だけとって立っても、親はそこに喜びを感じる。苦しみを乗り越える力の刺激を受けて喜ぶようになる。

 男女でも、愛する者に対しては、犠牲になっても、自分の命を懸けても喜びを感じて、愛すればこそ無限に投入しても、無限に喜びを感じることができる。愛というものは自分の創造したより、強い力として神に戻って、刺激となるから喜びを感じるようになる。

 犠牲自体から考えてみれば、これは消耗である。マイナスである。マイナスになりながら、いかにして喜びを感じるようになるや。現実の平面的立場から見た場合に、絶対そんなことはあり得ない。しかし、愛あればこそ、これは可能である。

 なぜ神は愛を投入するようになったか?

 愛がなければ帰ってこない。共に愛するところには、共に犠牲の力を投入したより以上の力でもって、授受作用を永続させることができる。だから永遠というものは、愛なくして成立できない、という結論になる。だから神は愛なり、といえるのだ。力の作用から見た場合には、力学の立場からいえば、出力は入力より大きいという法則はない。しかし、マイナスになった場合には神のもとに帰ることができない。入力より出力が大きいところに理想がある。



愛の背後は犠牲

 だから、本当の親子、本当の夫婦、本当の兄弟関係が成り立つには、犠牲なる愛の目的の立場に立たなければ、「本当」という名前が成立できない、という結論になる。

 もしも子供から考えた場合、自分の親が本当に自分を愛するというのは、本当に犠牲になって愛している立場をいう。犠牲になった親は悲しい立場である。しかし、子供がそれを完全に理解して、それに自分の愛をプラスさせて親に返してやれば、親は犠牲になったより以上、喜ぶというんだね。だから本当の夫婦というものは、共に犠牲になって、相対者と共に行くような立場に立てば、永続的に犠牲の力に加わって愛というものがもとがえされる。だから夫婦というものはそれ以上の苦しみで結ばれたら永遠に一つになれる。

 本当の友達というのは、自分のためにすべて犠牲になるものである。結局、愛というものが位置をとって立つには、本当に犠牲になり授けてやる立場に立って成立するものである。だから愛の背後には犠牲が伴う。今まで、神は人間を本当に愛せなかった。堕落したのだから、完成されるまでの力の投入を、まだ神が完全にしていないから愛することができない。

 愛というものを、本当に願う者があったならば、神と同じ立場に立って、神自体が愛の相対者を完全に完成するには完成するまですべてを投入する。子供が成長して結婚するまで、親は一切を投入する。すべてを犠牲にし、親に対する心情圏が分かるまで投入しなければならない。そして心情圏が分かり、親孝行する立場に立つようになれば、犠牲にしたすべてを忘れて、親は喜びを感じるようになる。それが愛の道である。

 愛の目的を完成する道においては、原理原則から見た場合に、神の立場から考えた場合に、犠牲ということを我々も通らなければ、完成基準を満たすことは絶対不可能である。堕落した人間は、自分自体では力の投入ができないから、完成するまで力を投入し得なかった神の基準を、自分を通して理想の自分を再創造させていこうと、神を背負い、働きかけて、自分の完成をなしていくのが復帰の道である。



一人のアダムを求めた歴史

 神から見た場合、天使長、アダム、そして愛の理想の基準を求めて創造してきたのだから、我々復帰路程において、再創造の原理を通して行かなければならない立場から考えてみた場合、我々人間は、まずもって天使長圏を復帰しなければならない。

 信仰というものは、相対者がはっきりしていないものだ。相対圏がはっきりしていれば、これは信仰ではない。だからこれは何を意味するかというと、信仰をもつというのは、無形実体圏を求める立場が、信仰圏である。信仰は理想の実体がはっきりしていないというんだね。それを求めつつ行くところが天使長圏である。過程圏においた立場が天使長圏だから、その過程を通過する期間において、我々信仰生活が必要である。信仰生活の行くべき道は、天使長が行くべき道の過程を、我々は歴史を通して、たどって行かなければならない。

 復帰原理から見た場合に、僕の僕時代から、僕時代に上がってくるんだね。再創造の道だよ。僕の時代から養子圏を通して、実子圏を通して、本然の完成基準を通して、理想的な愛を横的な世界において求めていくのが、アダム、エバ、イエス様を中心として新郎、新婦の理想である。その完成まで行くには、天使長過程、アダム完成過程を通し、縦的な神の愛を受けることによって、横的な出発がなされる。だから今までの歴史は、結局、アダム一人を完成させ、神の相対の位置に立たせて、神を迎え、完成された愛を満たすことによって、その愛がアダムと一つになっているから、横的な中心者に立つのが新郎である。中心者の前に相対的に立つのが新婦である。これが一つになったとすれば、神とアダムが一つになり、アダムとエバが一つになり、神とアダムとエバが一つになれる。そこにおいて、愛によって縦横が完全に統一される。だから四方八方、どこに行っても喜びの立場である。その環境を我々は天国という。

 ここを願った神の御理想が堕落のために破られてしまったのだから、それを再創造する。ここにおいて問題になるのは、サタンの存在である。天使長圏が完成されれば、サタンというものはなくなってしまわなければならない。天使長の完成は天使長によってなされるのではない。アダムの完成によってなされるのである。だから、アダムが完成した場合には、天使長理想が完成されるとともに、サタンという存在位置はこの天宙になくなってしまう。天使長が未完成圏にいるのであるから、未完成のサタンもいることができる。完成された場合には、残ることができない。サタンは完全に退けられる。だから、アダム完成が最後の問題である。だから神は、今まで、アダムを完成させるためにやってきた。これがメシヤである。

 堕落した人間が再び神のもとに帰るには、天使長のところを通過していかなければならない。天使長は僕である。僕を主人として迎えていかなければならないから、僕の僕となる。僕の僕として立ち帰ろうとすれば、サタンというものは偽りの主人である。僕としての最高の理想は何かといえば、最高の主人を迎えることである。最高の主人は誰かといえば、自分のためにやってくれる主人、を求めなければならない。

 堕落は、自分を中心として神の理想を奪い取ろうとした。神の理想は愛である。その愛を自分に引き付けようとしたのが堕落である。だから自分を愛するという条件を満たすところには、絶対復帰の道は生まれてこない。



不平不満は許されない

 神は、我々人間になぜ服従を要求するか。それは神自体が喜ぶためではない。我々人間を喜ばせるためである。神の理想相対圏に立たせて、再創造の目的を完成させることによって、堕落した要因を逆に押しのけて、乗り越える立場でなければならない。堕落はそもそも服従しないところから始まったのだから、それをもとがえすためには、絶対必要な要件として、「絶対服従せよ」と命令せざるを得ません。だから宗教においては文句を言えません。弁明が言えません。絶対服従である。こういう結論になります。

 絶対服従、それは苦労である。苦労の目的は、結局は神の創造本然の位置から、完成される立場にまで立った条件として認められる。だから苦労を、犠牲をしていけば、我々は完成圏に立つ。それ以外に道がないからその道を満たし、宗教は相応した苦労の道を強調せざるを得ない、ということを理論的に整理しておかなければならない。堕落の道を乗り越えるには、絶対服従の道以外ない。だから神は、仕方なしにこの道を求めざるを得ない。

 復帰の道においては、不平不満は絶対禁物である。許されない。絶対犠牲なる道で、泣き泣き行くとしたらどうなるか。絶対服従しながらも、希望に満ちて喜んで行かなければならない。なぜ、そういう道を行かなければならないか?

 それは再創造の道であるから、希望の道を、今行きつつある立場だから喜ばざるを得ない。信仰の道は落胆を感じながら行く道ではありません。だから犠牲と苦労は、すべてを授ける器になるというんだね。

 だから宗教の中で、歴史が愛する宗教は何かと見た場合、命を捧げきって、歴史過程を通過した宗教は、世界のすべてを愛することができる。キリスト教は殉教の宗教である。血を流して、世界に発展してきた宗教である。だからキリスト教は、宗教を中心として見た場合、神の前に一番の親孝行をした立場にある。だから、神様がいれば、キリスト教を中心として、世界が治まらなければならないという結論になる。だから、愛の心をもって、いかに長い間犠牲しながらやっていくか、ということが自分の勝敗を決める内容になってくる。

 しかし、本当の親である神であるならば、神がそういう苦労を子供にさせて喜ぶ立場であろうか、つらい立場であろうか?

 この世の堕落した親子関係から考えみた場合にも、自分の子供に苦労させたい親は、絶対一人もいません。しかし、神はなぜ、こういう苦労の道を人間にさせるか。こういう摂理のみ旨を率いていかなければならない神の立場はいかばかりつらいであろうか。神の立場を考えてみた場合、いかにかわいそうな神であろうか。我々、いかに苦労するといっても、一生以外にはない。地上生活は一世紀以内の生涯である。

 だから、神に対して、今日一日の励ましのものを授けてあげるのが孝の道であり、忠の道である。ここにおいて、自分ながらの不平、不満を言うものは天宙的に許されない不孝者である。



悲惨な神の立場

 現実の自分と神様と因縁を結んで、これを永続させ、引っ張っていこうとすると、サタンが中間にいて、いつもその橋を爆破してしまうようなことを毎日やっている。それを誰が防備するか。誰も知らない。ただ、知っている神、知っている霊界、再創造しなければならない天使長の助けの環境にいる者たちが援助し合って、復帰の目的に向かって行かなければならないその神様と天使界というものは悲惨である。完成するまでの期間が長ければ長いほど、神というものは、言うに言えない悲惨な立場に立つ。もしも、あなたたちが神様の立場に立ったならばどうするだろう。我々、いくら苦労するといっても、一生涯、何年にしかならない。

 統一教会に入って苦労したといっても、何年くらいになるの?

 長い者でも十何年にしかならない。十年にもならない者がたくさんいるじゃないか。十年にもならないのにつらいとか苦しいとか、こういう姿はもう話にならない。我々は天宙的な借金を負って、弁償する道を見いだせないような、悲惨な運命をもっている者が堕落人間である。それが、顔を上げて、神様に不平を言うことなど、夢にも思われないような立場である。

 このような神の立場を知っている我々としては、親に対し親孝行しなければならない。親の最大の苦しみを自分がすべて引き受けようとする者があればあるほど、親孝行の最大の者になれる、というんだね。



メシヤの犠牲

 アベルはどういう者かといえば、再創造過程を通過する立場であるとともに、再創造させる神の立場に、心情的に立つものがアベルである。苦労の道をたどり、神の心情で再び造り変えた勝利的圏をもつことによって、神の愛の相対圏、いわゆるカイン圏を神に返すことができる。だから愛の心情でカインを屈服させなければならない。それは横的において、アベルは神様の立場であるカインを、神が堕落人間を見るように、愛の心をもち続けて、その一人を復帰するために命を懸けて立つ者がアベルである。アベルの道は犠牲の道である。これをなすことによって、地上に神の愛が実現されるという条件として生まれてくるんだね。そこにおいては、すべてが頭を下げなければならない。命を捧げた者にはいかなる者も頭が下がる。それで、アベルの歴史は血を流す歴史になってきた。それが聖書の根本思想である。

 こういうふうな立場をたどりながら、歴史的摂理をなしている神様は、いかにかわいそうであるか。自分が全世界すべてに責任をもって、「神様お休みください、自分にすべての十字架、すべての蕩減の道を任せてください」と言うのがメシヤの立場だよ。だから、イエス様は、ゲッセマネの祈りにおいて、自分の思いでなく神のみ意のままになし給え、と最後の祈りまで成し得たというのは何かというと、すべての十字架を自分に任せて、神を休ませたいという立場がメシヤの使命感である。霊界、地界、あるいは神の心情界において、神に苦しみがあった場合にはすべてを自分に背負わせてもらいたいというのがメシヤの使命感である。だからメシヤたる者は、苦しいことがあっても、苦しいという思いだにすることすらできない。

 苦しいとしても、それは一生だ。長くて百年にすぎない。この期間を克服することができないというのは、それは話にならない。いくらやっても神に申し訳ない。自分が自分を誇るという思いなどいくら研究しても見いだすことができないのが、我々堕落人間の信仰の道である。



自分を完全に否認せよ

 だから堕落とは何かといえば、自分を中心としてすべてを比べ合わせた。そしてその結果は「不満」である。そして行動の道、反発に行くというのである。だから不満というのは信仰者には許されない。信仰生活に入ったならば、自分の自覚を否認してしまえ。対照比較をするな。ペテロなどもそうだね。十字架につくことをイエス様から言われると、「あのヨハネはどうか」とイエス様に言った。その者は生きてもどうでもいいじゃないか。

 比較対照しだすというと、不満が生まれてくる。その目玉は何かというとサタンの目玉である。天使長の血統を受け継いだそのままの目玉だよ。だから、みんな取り消してしまえ。神を中心として完全否認されることによって、すなち完全に裁いてしまった、という結果になる。完全に清算してしまった、というのは完全に蕩減してしまったという結果になるよ。完全に蕩減したんだから、再創造される道ができる。

 宗教の本質はこのような基準から、いろいろな経典はそういう結果的歴史において書かれているのだから、本質を知らない立場においてそれをなしていくにはこれはたまりきれない。現実に苦しい。理論的に整理されていない。これではやっていけない。

 そういうことを思えば、神のために悲惨な犠牲をなしたならば、時来たならば、それ以上の価値圏に立たせる。祭物に対しては、神自体も頭を下げる。だからその条件によって、神もサタンも頭を下げるという結果になる。完全否認により完全再創造が可能である。だから、信仰生活においては文句を言うな。

 あんたたちは、「もうできない」と言う。できるかできないかは死ぬまでやってみてから結論すべきことだよ。不平を言うのは、神を責めることだ。恩返ししなければならない人間の立場であるにもかかわらず、神に対してそういうことを言う立場には絶対に立つことができないのが我々人間である。

 先生の今までの生涯がそうだよ。獄中に入れられても、拷問で血を吐き出すような立場に立っても、不平を言う男にはなれません。世界すべてが反対しても、サタン圏と緑が切れる、と思えば有り難いものだよ。怨讐圏がある場合には、一周するまで反対されるのが当然の道だよ。不平を言うな。感謝せよ。黙々と行かなければならない。












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10_年頭のみことば(1973年)

 御旨と世界
(全面表示)

 



年頭のみことば(1973年)


1973年1月1日



アメリカ ニューヨーク

 六度目の神の日を迎えて

 本日は、六度目の「神の日」であります。今年で五年間が過ぎたことになります。神の日が決定されたということは、今までの歴史になかったことであり、堕落したこの世界に神の日という一日をもったことは誇れることなのです。今までこの世の人々にとって、自分たちの記念日や自分たちの国の記念日は数多くありましたが、神を中心とした日はありませんでした。

 この神の日が地上に現れるまでの歴史を考えるならば、多くの記念日より最高の日として引き上げた、そのような勝利の日を迎えてのみ、神の日を迎えることができるのであります。

 この世では、皆さんの誕生日とか父母の日とか、建国の日とか、勝利した日とかを記念していますが、国について一番記念し得る日はいかなる日かといえば、それは国を失って、再び建て直した日なのであります。そして、自分の息子、娘を失って、再びそれを探し出したならば、それが記念日になるのです。その次には、自分が結婚した日が記念日になります。

 こうして見る時、神を中心として、そのような日を祝し得る立場は今までなかったのです。アダム、エバが堕落しなかったならば、その完成する日は、神を中心として見る時、子女たちにとって一番うれしい日であります。すなわち、新しく家庭が始まる日だからです。息子、娘にとって最高の日として祝福される日なのです。それは、全天宙を代表した家庭が勝利の日として登場する、万物すべてが願った日となるのであります。そして、神の日となると同時に、天使までも喜び得る日となるのです。

 言い換えますと、それは創造主を中心として造られたすべての万物が、その主人と共に最高に喜び得る記念の日となるのであります。すなわちその日が、神として最高に記念し得る神の日となるのであります。それが人類の始祖としての真の父母を立てるその日になるのです。それが息子、娘として最高に誇れる日となるのであります。そして万物が最高の栄光の日として迎えるのです。

 私たちは、このような一日が、一度に成就されることが創造の御理想であったことを知っています。堕落によってそれがすべて失われてしまったので、それゆえに、この日を探し求めていくため、万物が動員され、人間が動員され、天が動員されてきたのが復帰の歴史でありました。したがって、神に導びかれてきたというのであります。それが、ヤコブ家庭において、民族圏を拡大し、イスラエル国家圏を広げ、世界的な基盤に拡大させ、勝利の一日を迎えることを天は願ったのであります。このような歴史的因縁を受け継いで、私たちは一九六〇年に初めて父母の日を迎えるようになったのであります。

 



神の日を決定した真の父母

 父母の日は、個人、家庭、氏族、民族、国家基準を中心として、全体から讒訴される内的条件を蕩減復帰した基盤をもたなければ、その日を迎えることができないのであります。そして、その日を起点として、子女の日が決定されるのであります。

 今日まで、この地上に多くの父母がいましたが、真なる父母の立場には立つことができなかったのであります。そのために子女も、真なる子女の立場に立てなかったのです。

 子女の日というのは、神の前に真の父母を迎え、再び生まれたというそのような日を世界的、天宙的に設定した日なのであります。子女の日が決められたことによって、初めて人間と家庭の基準を探し出し、アダムとその家庭を中心として失った世界、万物を探し得る基準を準備することができたのであります。

 そのような父母の日と子女の日を基盤として、万物の日を設定したのであります。その日を中心にして、一国から世界に連結させなければなりません。一九六五年に四十カ国を巡回して、一二〇カ所の聖地を決定したのはそのためでした。真なる家庭――父母と子女を中心にして、世界のすべての万物を連結させたのであります。父母の日、子女の日、万物の日を基盤として、イエス様がこの地上に来られ、祝福基準を中心として、勝利すべき基盤を越える立場に再び立たなければならないのです。民族の峠を越える前に、一つの氏族的勝利基盤があれば、民族基準は越え得たのであります。そうしたならば、神の日はイエス様当時に決められたのです。

 このような内的基準を再現して、蕩減復帰すべき責任を我々が負っているために、一九六八年一月一日を期して、初めて、氏族的、民族的基準を中心としてイエス様が追われ殺された立場を越えた基準を立てることにより、神の日を決定することができたのであります。これを中心にして、神の復帰の摂理は本格的段階に入っていくのであります。

 それでは、神の日を決定するのは誰でしょうか?

 それは真の父母がなすのであります。父母の立場に立つべきアダム、エバが堕落することによって神の日、父母の日、子女の日、万物の日のすべてを失ってしまったため、これを蕩減復帰するためには、真の父母の立場で復帰すべきなのであります。真の父母はこのような使命を受けて来られなければなりません。それゆえ、真の父母がこの地上に来られ、初めて基本的要件をすべて蕩減復帰して、最高の日を迎えたのが神の日であります。



七年路程の勝利基盤

 堕落は長成期完成級でありました。それゆえに長成期完成級から完成期蘇生級を越えるためには、必ず新しい父母が現れなければならないのです。完成級というのは七年間に該当します。そのため蘇生、長成、完成の二十一年を探し立ててくるのです。ですから、満二十一年を越えて完成期を越えることになります。それで、六〇年から六七年までの七年間の完成段階を越えながら、神の日、父母の日、子女の日、万物の日を一致させなければならないのです。そして初めて、この地上に新しい神の願う国家を立てることができるのです。

 この七年間は、先生が真の父母の使命を担当し、個人、家庭、民族、国家、世界に対し、すべての復帰の道を開いて、天と向かい得る道をつくることが、神の日を迎えることによって始まるのです。それが第一次七年路程であります。

 それから第二次の七年路程が始まります。この第二次七年路程は、本来堕落しなかったならば第一次の七年路程になったのであります。

 第一次の七年路程は結局堕落したために必要となったのです。言い換えれば、イエス様が来られる前に、イスラエル国家があり、それとイエス様が一つになるべきでありました。そのイエス様が責任を果たせなかったことによって、父母も子女も責任を果たせなかったのであります。それを蕩減復帰するために、父母の日と子女の日を分けて復帰してきたのです。国を探し立てることができなかったために、私たちはこれを復帰しなければなりません。

 第一次七年路程を成就することによって、イエス様が父母の使命を果たし得る基準を成してきました。その真の父母として責任を全うした勝利基盤に、子女たちが国を探し立てなければ、イエス様がこの地に来られてみ旨を成就することができないのであります。

 その真の父母が勝利した基盤に第二次七年路程を迎え、子女たちが父母の勝利基盤を、再び国家基準を越えるところまで立ててきたのです。それゆえに、これはイエス様当時、ユダヤ教が反対し、国が反対した立場を越える期間に当たります。



国家基準を越えていく年

 本来、真の父母の行く道は、個人や家庭として行くのではなく、国家的基準において世界へ行くべきでありました。イエス様は国を基盤として、世界へ発展していくべきでありました。イエス様が死ぬことによって、霊的世界と実体世界が一つになれなかったため、今日、統一教会はこれを霊的に結合させる路程を、今まで歩んできたのであります。

 言い換えれば、国家基準を霊的に越え、世界的基準を霊的に勝利することによって、実体国家基準と世界的基準を連結し得る道が開かれるのであります。このように見ると、今は、霊的に国家基準を越えて、世界に連結し得る時に今年から出発するようになるのです。そして霊的な基準において、イエス様を中心として反対になっていた、キリスト教と国を屈服させれば、実体基準でそれが収拾されていくのであります。

 今、皆さんが知らなければならないことは、今年七三年が、第二次七年路程の終わる七四年の前年であり、第二次七年路程が終わる前に、霊的な基準において世界的基準を連結させなければならず、また実体的国家基準が連結される日には、一時に世界基準が結ばれてしまうみ旨があるために、私たちは今年を出発しなければならないのです。

 イエス様を中心として見る時に、イエス様の思想、生活観、世界観、宇宙観すべてを人々が継承したならば、国家基準は勝利的に収拾され得たのであります。第一次七年路程の勝利基盤を継承する第二次七年路程を歩んでいる食口たちが、この七年路程で、国を動かし得る使命をすべて成せば、そこから世界の運勢は一時に開けていくのであります。先生は、国家基準から世界的基準にまで可能なる道を見いだすため、第一線に立ち、アメリカにやって来たのであります。昨年からのこの三年期間を、世界的代表国であるアメリカを中心に、世界基準をいかに立てるかによって、世界的第三次七年路程が出発し得るのです。



勝利は父母と一体化して

 霊的においては勝利した国家的基準に立っているために、イエス様とユダヤ民族が一つになれば全うされたと同じく、世界の食口が先生と完全に一つになれば、この道は難なく突破できるのであります。結局、第三次七年路程が終わる日にはこの世界が統一思想を中心として、これが主導的思想として登場しなければならないのです。

 第三次七年路程まで、皆さんが世界的基盤のもとで、霊肉を中心として天が登場し得る場を迎えなければ、勝利の一時と勝利の日を迎えることができません。今、皆さんが考えられないことであっても、事実として、原則のまま一体化する日には、必ず天は世界を生かされるのであります。蕩減復帰というのは、全体を代表して条件を立てたならば、そこから回りだすのです。真の父母を中心として、歴史上に現れた数多くの忠臣、義人が再臨復活した実体理想の責任を担当するかしないか、という問題になるのです。

 それはすなわち、イエス様が、当時立てるべきであった氏族的基準を越え得る責任を、皆さんが一人残らず全うしなければならないのです。結局、皆さんが問題になるのであります。

 それは個人完成、家庭完成、そして氏族基準にまで引き上げることであります。イエス様が十二弟子、七〇人門徒、一二〇人門徒を率いる立場に立たなければならないのです。それで統一教会は、氏族復帰と言うのです。それゆえに、イエス様当時に立てることができなかった立場を再現し、この歴史路程において、数多くの先人たちがキリスト教史を通して真を尽くしてきたそれ以上の基準で、皆さんが真を尽くさねばなりません。そして国家を経て、世界へ前進してこそ、成就されるのであります。



死を覚悟して行こう

 キリスト教は霊的国家基準を立てるために、今まで数多くの血の代価を払ってきました。私たちは、霊肉を中心として、これを復帰すべき責任があるために死をも感謝する心情で越えていく時が、今であることを皆さんは悟らなければなりません。霊的基準が立てば肉的基準は勝利できるようになっているのです。このために、皆さんが犠牲にならないでも立ち得る立場にあるのです。しかし、自分自身の犠牲を覚悟し、自分以外では不可能なのだという自覚を皆さんがもたなければなりません。こうして、第三次七年路程が終わるまでには、我々が打ちたたかれても決して反対し得ない基盤を、我々はつくっておかなければなりません。それは、イエス様がキリスト教を通して成してきたことを二十年に短縮し、より高い基準にまで勝利圏を広げなければ、イエス様の使命を継承したことにはなりません。皆さんがこれを知れば、先生が今まで摂理を前進させてきた方向が分かるようになります。我々は原理原則の道を進んでいるのであります。

 きょう祝っている神の日は、いまだ我が教会の記念日であり、国家の記念日、世界の記念日として記念することができないでいます。それであっては、父母の日も、神の日もそれが本然の基準に立っているとはいえないのであります。そのような観点からいえば、この神の日にわずかな群れしか集い得ないということは、あまりにも恨みであり、嘆きであることを知らなければなりません。

 皆さんは今死ねば、天国と楽園のある中間霊界にとどまるのです。それゆえに、先生が地上にいる間、いかにして世界基準を越えるかという問題は、皆さん個人や、先生個人のみの問題ではなく、世界的な問題であり、霊界、地上界すべての問題であることを知らなければなりません。そのような時にきているのです。なぜかといえば、我々統一教会は祝福を受けた家庭をもっています。これを地上において立てることができなければ、その収拾には、昔よりもっと複雑な問題が派生するのです。過去には、一人来て成し得なかったために、一人来て再臨復活できるのですが、今はそうはいきません。家庭を中心にした再臨復活というのはあり得ないのです。このような巨大な問題が加わっているために死を覚悟しても、霊肉を中心として世界基準を越え得たという立場を、いかに条件的にでも残していくかということが、先生の生涯の願いであることを皆さんは知らなければなりません。そのために、今回先生は、世界的舞台に出るようになったのであります。

 ある国やある陣営を犠牲にしたとしても、真の父母が世界的基準を中心として条件を立て得るか否かが、より大きな問題であることを知らねばなりません。天はそのような責任を今日、地上において真の父母が負っているのを知っているがゆえに、真の父母の家庭にいかなることがあっても、この道を突破させたいというのが天の願いなのです。このような道を皆さんはついてこなければなりません。そして家庭を中心としてはイエス様と弟子たちが一体化できなかった立場には、立ってはならないのであります。我々は家庭を中心に強力に一体化しなければなりません。批判は許されません。行くことができないと言ってはなりません。この道を出発したならば、帰っていくことは絶対できないのであります。このような深刻な道に立たされているのが世界の統一食口の運命なのです。



勝利の日まで

 そうであるために、第三次七年路程が終わるまで、我々は完全に中心と一つになって、自分自身を犠牲にしても感謝する心情をもち、世界基準を突破しなければならない、歴史的課題を背負っている立場であります。一九八一年度までにこの基盤をつくり得るか否かは非常に深刻な問題であります。しかし、神がいて、原理がそうなっているならば必ずできることなのです。それは、皆さんと先生が一つになって行くかどうかが決定するのです。皆さんは消えることができても、先生はできないのであります。

 本来、イエス様を中心にして、ユダヤ教とイスラエル国家が一つにならなければ、イエス様は世界の道を行けないのです。それゆえに、現在ユダヤ教とイスラエル国家の立場に立つ、キリスト教と民主世界を犠牲にしても復帰を進めなければなりません。このような関係から見る時、皆さんはユダヤ教の最高の祭司長の立場と、王となり得る立場を代表し得る、勝利の決定をなす覚悟がなければなりません。

 皆さんが今、先生の言葉を聞いて理解できないのは、夢のような立場にあるためであります。ですから、それを越えた条件を立てるためには、無条件に苦労し、無条件に服従することを、天は我々に願っているのです。「死なんとする者は生き、生きんとする者は死なん」と言うのです。死を覚悟して出発しなければ行くことができない道であることを、皆さんは知らなければなりません。このような歴史的に深刻な時であるにもかかわらず、自分個人の幸福や、自分の国、自分の教団の幸福を考えていてはなりません。

 み旨を知らない数多くの人々におきましては、家庭が壊れたり、親友関係が崩れ、国家間においてもすべてが崩れていく、大混乱時代に突入していることを皆さんは知らなければなりません。世界を越えて天に直行する自分にならなければなりません。それは個人だけでなく、氏族まで率いていかねばならないのです。この七年がいつまでもあると思ってはいけません。イエス様が氏族を率いて国を越え得る道を行けなかったために、そのみ旨を受け継いで、我々が再び行かなければならないのです。



父母の願う道

 皆さんがイエス様を中心にして見る時、イエス様より優れた立場に立たねばならず、皆さんが祝福を受ける問題を中心として見る時、三年路程を行かねばならず、三子女を復帰しなければならないことは基本的な皆さんの使命であります。そして、そのような氏族圏をもっていたとしても、皆さんだけでは国家を越えて世界へ行き得ないのであります。真の父母がこの地上に来られ、国家と世界へ行き得る道を備えておいたため、皆さんはこれが可能なのです。天国では、栄光の価値を中心にして見る時、その九五パーセントを既に備えてあったために、皆さんが五パーセントをなして、一〇〇パーセントの天国生活をすることができるのであります。

 皆さんは何も知らないでいるのです。それゆえに子女は父母と一緒に行けばよいのであります。皆さんにここで、天国についてどんな話をしても皆さんには実感がわかないと思います。自分なりに考えることしかできないからです。

 我々の願う国は自分が生まれた国よりも慕わしい国であります。真の父母が願う家庭、真の父母が行く国、私が行く家庭が一つになっていけばそれは絶対的基準であり、それが再臨思想なのです。実際はこのようになっているでしょうか?

 どのくらい統一教会と一つになっていますか?

 真の父母に近づかなければみ旨は成し得ないのであります。そのために何か成していても、不足な心情をもたなければなりません。どんな立場に立たされても感謝する心がなければこの道は行くことができません。

 世界で恐ろしいのは真の父母であります。神も恐ろしいことであり、サタンにとっても恐ろしいのであります。堕落圏内にあって自覚できない人間が、父母を中心として審判されるから、神も恐ろしいのであります。またサタンにとっては、自己のすべてが破壊されてしまうのであります。



父母をどれほど信じていくか

 それゆえに、皆さんはこの道に来てどれだけ信じていくかということが問題だということを知らなければなりません。皆さんがそのような先頭に立ったならば、行動の一つ一つを千年以上の真を捧げて行かなければならないのが、今日皆さんの行く道であることを知らなければなりません。このように見る時、皆さんが真の父母の日をいかに真を尽くして迎えたことがあるか、子女の日をいかに喜びの中で迎えたか、また万物の日をいかに迎えたかが問題であります。

 こうして、父母の日、子女の日、万物の日、神の日が私の王の日であり、父母の栄光の日であり、私の誇りの日であり、父母の誇りの日として守られたならば、この地上に、初めて天国を完成し得るのであります。その日に、神が動く時は、全宇宙の神の日に通じる日であり、その日に、父母が喜ぶことは、全人類が喜ぶ日となることを皆さんが知らねばなりません。このような使命をもって生涯の道を行かねばなりません。完全にサタンを屈服しなければなりません。世界を屈服させていく信念が先立たなければなりません。勝利の日まで我々は前進するのです。

 皆さんの短い生涯の中で、もし、行かないとすれば天の永遠の恨みとなって残るこの道であるから、いかに試練と苦難が増し加わろうと、“それでも行く”という信念に燃えて行かなければなりません。国を救うその一日のために我々は行かなければなりません。一日一日の生活を貴重にしながら、我々は闘って行かなければなりません。私たちは最後までこの道を行くという誓いを、今なさなければなりません。















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11_勝祝日の制定にあたって

 御旨と世界
(全面表示)

 



勝祝日の制定にあたって


1973年7月1日



アメリカ ニューヨーク・ベルベディア


 皆さんも知っているとおり、きょうは一九七三年七月一日であります。そして、きょうは聖日でもあります。今、私が(韓国語で)捧げた祈祷の意味がたとえ分からないとしても、皆さんたち統一教会の食口にとって、きょうは非常に意義深い日であります。

 一九七二、七三、七四年は、第二次七年路程の最後の三年間であります。先生がアメリカにやって来て、皆さんと共に摂理を進めるということは特別な、そして画期的なことなのです。

 皆さんと先生は、アメリカで三年路程を出発しました。一九六〇年からの七年間、そして第二次七年路程の最初の四年間を通してつくってきた基盤を、この三年路程をもって全うしたいと考えるのです。統一原理は、歴史は同時性をもって展開すると教えています。二〇〇〇年前に来られたイエス様が使命を全うできなかったがゆえに、歴史は再び同じように繰り返されるのです。私たちはイエス様の使命を全うしなければならない立場に立っています。



メシヤの来られる国

 皆さんが原理によって知っているように、メシヤは栄光の王としてこの地上に来られるのではないし、一人でやって来られるのでもありません。イエス様御自身におかれましても、ユダヤ人の信仰の基盤の上に、やって来られたのです。しかしユダヤ人たちは、彼を受け入れるのではなく、彼を見捨てたのです。したがってその摂理を復帰するために、我々は再び同じ道を通らなければなりません。神はそれ以来、再びメシヤが来られる備えをし、イエス様の再臨を迎える基台として、同じような困難な道をたどってきた民族と国家を探し求めて来られました。その立場として韓国が選ばれたのです。地理的に見ても、国民性から見ても、イスラエルと韓国の間には多くの同一性があります。

 韓国の歴史は、カイン、アベルの闘いを様々な形で繰り返してきました。外敵の攻撃にさらされ、国内においても争いが絶えませんでした。そして日本に三十六年間支配されたのですが、その期間の韓民族の苦難は、ローマ帝国の迫害を受けたクリスチャンの苦難に匹敵するものであります。

 御存じのように、日本は女性神を崇拝してきた国であります。そして、日本がこの一〇〇年間に目覚ましい発展を遂げたのは、摂理的観点から見て重要なことであります。日本は一二〇年で第一級国家にのし上がりました。日本がそのような外的発展を遂げたのに対して、韓国は内的、精神的な発展を遂げてきました。それはちょうど、韓国にキリスト教が入り八十年を経過して、四十年の苦難時代を受けたのです。カインとアベルが争って以来、歴史はカインによって支配されてきました。日本はカインの立場であり、韓国はアベルの立場であるといえます。そして、日本の支配が終わり、韓国の新しい歴史が始まったのであります。そして、それからの四十年間は、カインがアベルに屈服しなければならない時代なのです。

 一九六〇年がその出発の時でありました。それからの二十年間において、神は摂理を完全に全うしようとなさっているのです。この二十年間はイエス様からの二〇〇〇年を象徴しており、また堕落以後の六〇〇〇年歴史の象徴でもあります。この二十年間が、人類歴史の蘇生、長成、完成の三段階を意味しているのです。六〇〇〇年の縦的歴史がこの二十年間に横的に蕩減復帰されるのであり、この二十年間のすべての内容は、直接、間接的に六〇〇〇年歴史の再現なのであります。したがって、この二十年間は前例のないほど混乱する時代であり、予期できないことが次々と起こるのです。



新しい希望

 三段階に分かれた時代のうち、旧約時代は万物の献祭を通して、新約時代は神の子女が犠牲になり、成約時代は父母が蕩減の道を歩むのです。したがって、縦的な歴史が、この二十年間において横的に一時に蕩減復帰されるのであります。

 復帰の摂理にあって、初めの段階において万物を否定(献祭)したゆえに、統一教会の歴史におきましても、物質の否定を強調した時代があり、次の段階においては子女が犠牲になったがゆえに、皆さんたちが犠牲の道を歩む時代に入るのです。そして最後の段階においては、真の父母が誰にも言えない困難な道を歩むようになるのです。したがって、復帰の歴史は、父母が蕩減の道を歩むことによって全うされるというのです。先生はすべてを否定される道を通ってきました。先生がプラスの立場に立ち、先生の家族はマイナスの立場に立たねばなりませんでした。その中で先生の家族は苦難の道を通ってきました。メシヤの来られる国自体も苦難の道を通ってきました。その国は絶望の底を歩み、国民も家庭もそのような立場に立つのです。その中に新しい希望が生まれ、新しい真理、新しい生命、新しい歴史が出発するのです。

 一九四五年の解放という希望がこの国に訪れたのです。ここに新しい希望の民族と、希望の国家が生まれることになったのです。これはイエス様の時代に復帰された時点であり、ここにおいて、失われた家庭、氏族、民族、国家を神が復帰する環境圏が整えられたのであります。イエス様が、ここに、失った希望を取り戻し、新しい国を建設することができる状況をつくり上げたのであります。イエス様の時代は、イスラエル民族が神に対する信仰をもっていなかったがゆえに失敗しました。したがって、それを復帰するには、失われた信仰を再び来られたメシヤに対してもつことなのであります。キリスト教が再臨主を受け入れなければならなかったのです。



韓国の分裂

 韓国の新しい歴史が始まって、キリスト教は、大国(英米等)によって保護されました。先生はそのために、当時公的な伝道を開始し、それらの高官たちにみ言を伝えようとしたのです。その人々の中に、数人のクリスチャンがおりましたが、聞こうとはしませんでした。先生は、今まで皆さんに語ったことのない内容をお話ししているのです。

 当時、そのクリスチャンたちは、韓国のクリスチャンの中に非常に大きな影響力をもっておりました。復帰のための準備が三年間費やされました。一九四八年までであります。そのころ、一人の人の背後にある、膨大な歴史の意味を知る者は一人としてありませんでした。先生は、イエス様がなぜ失敗したかを知っていたので、それを防ぐため本当に様々な闘いをなしてきたのです。同時に、神は先生の使命が容易なものではないということを知っておられたので、多くの霊的集団を備えられました。それらによって他に影響を与えようとされ、神はそれほどまでに再臨主に対して準備されたのでありますが、当時のクリスチャンたちは、イエス様の時と全く同じく、政府と一つになって再臨主の行く道をはばんだのであります。

 不幸にも最初の路程は失敗してしまったのです。イエス様当時におきましても、イスラエルの全民衆と、政権の座にあった人々が一つになって十字架につけてしまったのでありますが、韓国におきましても、韓国のクリスチャンたちも政府と一つになって、再臨主の使命と生涯を破壊しようとしました。そのことのゆえに韓国は不幸にも二つに分裂してしまったのです。一九四八年には北韓が独立したのであります。そして今や、二つの国ができ、内的にはキリスト教徒からの迫害、外的には共産主義政権の迫害にさらされるようになったのであります。ここに共産主義の侵入は不可避なものとなったのであります。

 第二次大戦の時、イスラエルの民がヒットラーによって大量に殺されたごとく、不信仰した韓民族は驚くほどの苦難を受けるようになるのであります。既成教会はそれゆえに力を失い、共産主義勢力が拡大の道をたどってくるのです。共産主義が全世界と既成教会を攻撃する中にあって、私たち統一教会は共産主義に対抗し、道を切り開いてきたのであります。私たちは、既成教会を復帰するとともに、共産主義に対抗する力を備えなければなりません。

 先生が公的伝道を開始して、一九六〇年には聖婚式が行われました。最初の神の家庭がこの地上に現れたのであります。それは、イエス様が十字架につけられる瞬間と同じ時であったので、既成教会と国家が一つになって、この聖婚式を破壊しようとしてきたのです。イエス様の十二弟子に当たる者たちが、先生と統一教会を破壊しようとしました。先生の周囲には敵しかおりませんでした。既成教会と国家が先生を迫害し、その最も厳しかった時が六〇年の四月であり、先生の踏む一歩一歩は、正に生か死の道であったのです。そのような迫害の中で、先生は神の第一歩の勝利を収めることができました。したがってこの日(旧暦三月十六日)は、神が最も祝すべき日になったのであります。イエス様は花嫁をもつ前に十字架にかかりましたが、この日に、初めて神の家庭が地上に復帰されたのであります。イエス様は十字架より四十日後に霊的に復活しましたが、先生は霊的のみならず肉的にも復活し、最初の二十年間にそれを全うしようとしています。その日より、地上に新しい基台がつくられるようになったのであります。神は自らの子女を自分の懐に招き入れることができるようになったのであります。そこから伝道の蘇生期が出発しました。完成期まではサタンの主管下にあるので、そこを行く皆さんも闘いの覚悟を決めなければなりません。

 モーセの時は、神が直接人間の行動に干渉しました。これは創造原理に矛盾すると思われるかもしれませんが、蘇生期の旧約時代は、神が直接に責任をもったのであります。なぜ神がそうしなければならなかったかといえば、それはモーセを通して、イエス様の典型路程を示さなければならなかったからであります。そして、イエス様の路程は皆さんの歩む路程になるのです。



七年路程の出発

 第一次七年路程は旧約時代に相当し、神が直接導いたのと同じく、真の御父母様自ら模範を示し、皆さんがそれについてきたのであります。第一次七年路程において、先生はあらゆるサタンの迫害を退けてきました。もちろん、皆さんは最初のこの神の家庭の隠された深い内容については知りませんが、深い心情の世界はやがて全世界を覆い尽くすでありましょう。世界の中にこのきずなを結ぶため、それ以降、祝福が行われてきました。そこで私たちは、国家、民族、人種などを超えて、神の子女として結ばれるのであります。七七七双の祝福では、国家を超えて全世界的な祝福が行われました。この祝福にすべての民族を含むことによって、すべての民族が勝利できる基盤がつくられたのであります。

 第二次七年路程は、祝福家庭が行かなければならない路程であります。イエス様は自分の家族や氏族を復帰できませんでしたが、皆さんの家庭や氏族を復帰しなければなりません。イエス様は自分の氏族をもつことができませんでしたが、皆さんは祝福された氏族をもっています。

 公生涯に立つため、イエス様は家庭を捨てなければなりませんでしたが、その立場を復帰するために先生も、第一次七年路程において自分の親族に手を差し伸べることができなかったのであります。したがって、第一次七年路程では、先生と共にみ旨をなす親族は一人もいませんでした。皆さんは今、自分の親族に手を差し伸べることのできる例えようもない恵まれた立場にあるのです。復帰摂理の目的は、神の家庭を復帰することであります。その神の目的を成就するためには、自分に一番近い親族を伝道しなければなりません。

 先生はかつて、家庭を捨てて北へ行かねばなりませんでした。そこには厳しい拷問が待ち構えておりました。先生はそれを一人で受け、死力を尽くして闘ったのであります。

 北韓の獄中から解放された時、一時間も行けば家族に会えるそのような立場にありましたが、会うことはしませんでした。それ以来、先生は、先生を深く愛していた母親、そして兄に会うことはできなくなってしまいました。共産主義者の犠牲になってしまったのです。先生は自分の親や兄弟を捨てて、見知らぬ人々を集めてやって来たのです。こうしてそれゆえに、皆さんがここに来るようになったのであります。先生は皆さんと会うためにこうしてやって来たのです。これが統一教会の歴史であります。



アメリカの復帰

 韓国には数多くの既成教会がありますが、本当に生きているのは統一教会だけなのです。イエス様当時は、ユダヤ教が反対し、イエス様を十字架につけたのですが、今や既成教会は統一教会に屈服するようになってきました。

 先生はアメリカにやって来るまで果たすべき責任をすべて果たしてやって来ました。韓国、日本、台湾に対して、先生の果たすべきすべての責任を果たしました。それゆえにアメリカに来ることができたのであります。もちろん、台湾は天の願いを受け入れなかったので使命を全うできませんでしたが、それは先生の責任ではなく、忠告を受け入れなかった台湾自体の責任であります。台湾は、蘇生期的天使長の立場でありますが、アメリカは長成期的天使長の立場であります。したがって先生は、最終的決戦場としてアメリカを選んだのであります。

 アメリカにおいて、神側の天使長とサタン側の天使長、共産主義が闘うようになるのです。現在、サタン側の天使長は、あらゆる面において優勢であります。先生は一九七二年、サタン側の天使長に対する闘いの準備のために、アメリカにやって来なければなりませんでした。

 イエス様は、三年の公生涯路程において最終的なサタンとの決戦がありました。先生におきましても、韓国での三年間があり、アメリカにおいても、七二年からの三年間があるのです。その三年のうちでも、二年目が最も重要な年であります。それが今年なのです。この年が勝利か敗北かの決定をなしてしまうのです。

 先生が司令官としてアメリカに上陸する時には、その司令官を助ける部下と軍隊が用意されていなければなりませんでした。しかし、そこには指導者がいなかったのです。七二年はそれゆえに、外に対する闘いよりも原理に従って、内部の再編成をしなければなりませんでした。それゆえに、各州に教会をもち、十字軍をもつようにしてきたのです。各州の教会が内的な位置を占め、十字軍が外的な位置を占めるのです。これは天宙史の観点から見て非常に重要なことであります。これを七月の終わりまでに全うしなければなりません。そこにアメリカの運命と世界の運命がかかっております。

 地区長はユダヤ教を代表し、団長はイスラエル国家を代表しています。イエス様とユダヤ教とイスラエルが一つになることが勝敗の鍵になっています。もし三者が一つになったならば、その軍隊はローマに進軍して勝利を収め、ローマを復帰できたはずであります。これから皆さんは先生と完全に一つになって行かなければなりません。このようなことを皆さんに宣言するのは非常に重要な内容であることを知らなければなりません。もし皆さんがそれを果たせば、二〇〇〇年前にイスラエルの人々が失敗した内容を蕩減復帰できることになります。

 今ここに十カ国の食口が集まっております。皆さんは今、新しい歴史をつくり出そうとしているのです。皆さんはここで、十カ国が一つになってみ旨を果たしていく、という固い決意を固めなければなりません。

 この三年路程において、あと一年半しか残されておりません。昨年は七つの市で初めて講演会が開かれ、今年は二十一市を計画しています。来年は五十の市になるはずであります。

 この三年間で、すべてのアメリカ人に統一原理を伝えなければなりません。皆さんが、アメリカを救わなければなりません。共産主義者の攻撃目標はアメリカであります。この三年間において先生はアメリカの良識ある人々の関心を得なければなりません。

 これからは、アメリカの既成教会が皆さんに反対してくるかもしれません。しかし我々は行かなければならないのです。アメリカでの講演は、先生の生涯において初めての公的宣言であります。メシヤは一つの地域に宣言されてやって来るのではありません。メシヤは世界的規模で来られるのでありますから、公的な宣言は世界的な規模でなされるのです。この三年間は歴史に記憶されるでありましょう。人類の歴史に対して最も強固な衝撃となるに違いありません。

 世界十カ国の食口が一つになって進まなければなりません。そして十字軍の背後にある深い内容を知らなければなりません。十字軍は祈りから出発しなければなりません。皆さん一人一人が、勝利できるという確信をもたなければなりません。全霊界が皆さんを協助しているのです。アメリカが統一教会に関心をもてば、世界が関心をもつようになるのであります。

 先生が今回アメリカにやって来て七カ月間、様々な意義深いことが起こりました。既成教会は力を失い、民主主義も力を失いつつあります。そんな中で私たちは力を得てきました。



ゴリアテに立ち向かうダビデ

 数においては小さな我々ですが、負けることはできません。共産主義との闘いはダビデとゴリアテの闘いに例えることができます。

 先生は砂漠の中の羊飼いであり、アメリカを導かなければなりません。しかし、アメリカの中には、それを自分自身の責任として、共産主義から国を守ろうとする者はいないのです。どこにゴリアテに立ち向かうアメリカのダビデがいるでしょうか?

 ダビデは武器を持っておりませんでした。みすぼらしい格好をしていました。しかし、敢然と立ち向かったのです。アメリカのダビデは――ここにいる皆様です。アメリカの統一教会です。たとえダビデは小さくとも、神が共にいてくださることを信じていました。

 しかし皆さんは、ダビデより優位な立場に立っています。ダビデは自分の国をもっていました。しかし、私たちは自分の国をもっておりません。何もないところからここまで上がってきたのです。私たちの闘いは、ダビデよりももっと劇的であります。

 ダビデにゴリアテを撃て、という命令が下った時が七月一日のきょうであります。

 先生は皆さんが信仰においても、決意においても、体力においても、その備えができていることを信じています。これからいかなることが起こるかを皆さんはよく知らなければなりません。もし失敗したならば、口では表現できないほどの苦難がアメリカと全世界に振りかかってくることを知らなければなりません。私たちは犠牲の血と信仰以外に、今、捧げるものがありません。

 統一教会は一九六〇年から二十年間を目指しているのです。そして、この三年間、先生と一つになって行かなければなりません。先生はこの時を待ってきました。六〇〇〇年の歴史は、この時を待ち焦がれてきました。世界はこの時を待ち続けてきました。残された一年半で、私たちは死力を尽くさねばなりません。私たちの行く道は生か死かの二つに一つしかありません。進軍するか、それともここで滅びてしまうかの二つに一つしかないのです。

 さあ、進軍していきましょう!















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12_一心不乱 一生懸命

 御旨と世界
(全面表示)

 



一心不乱

 一生懸命

一九七三年七月八日

 東京

 東京教会


 日本は、この二年間に、運命の審判を下さなければならない。

 我々はもう既に刀を抜いている。これをさやに収めることはできないのである。切るか切られるか、いずれかの道を行かなければならない重大時点に立っている。

 日露戦争の時、乃木大将は二〇三高地において、自分の子供を失いながらも、数多くの日本の青年たちに攻撃命令を下した。トンネルを掘り、爆薬を仕掛け、これを爆発させて、勝利の起点を得たと同じように、我々もその道しかないのである。後退するわけにはいかない。死を覚悟して前進しなければならない。今、少なくとも五万人が必要である。七四年まで五万人をもたなければ、統一戦線も後退せざるを得ない。それで、十一月(昨年)に日本を発つ時、皆さんに話したように、我々は七三、七四年を目指して総進軍しなければならない。この七三年も、もう六カ月が過ぎてしまった。きょうは七月八日である。七二年から世界路程を開始して以来、三年期間において準備をしなければならない重大時点は、もう半分が過ぎてしまった。

 この時点において、アメリカを中心としてぶつからなければならない。共産党をして、世界的にぶつかるようになっている。韓国から見ても、日本から見ても、中国から見ても、世界中どこから見てもぶつかるようになっている。そういうような運勢圏にならなければ、これは摂理を中心として勝者と敗者を決定することができない。それを決定しなければ、神の勝利の基準は満たされないから、神はそういう摂理の時点を外的、内的に我々に迎えさせてくれたのである。

 この期間のためにアベルは血を流したし、この期間のためにノアは一二〇年の箱舟の勝利を果たしたし、この期間を求めるために、ヤコブの二十一年が必要であり、この期間を立てるために、イスラエル民族のエジプトにおける四三〇年の苦労の道があった。この期間を残すために、クリスチャンのローマ迫害時代四〇〇年があり、数多くの先祖たちが血を流し、蕩減の道を受け継いでここまでたどりついたのである。この三年間はそういうような、歴史的重大な時点に立っているのである。

日本が危ない。

 世界的に恐ろしい軍隊があるとしたら、恐ろしいほど訓練された軍隊である。素晴らしい軍隊があるとしたら、素晴らしいほど訓練された軍隊である。それ以外にはない。例外はない。実践には例外がない。奇跡ということは例外の例外であって、それは、一時あった場合には千年の穴があく。我々はそれを知っている。

 訓練が必要である。でたらめな訓練ではない。計画的であり、科学的であり、理論的であり、実践的な計画の訓練が必要である。

 先生が好きなのは、「一心不乱、一生懸命」である。一生懸命、一心不乱に目的に向かって進んだ場合にはどうなるであろう。だから、実践の現場を迎え合った全世界の宗教のうちで、何が宗教界を代表したダビデの任務を果たし得るや。こう考えてみた場合に、いくら考えてみても統一食口以外にないということを、先生はようやく結論するに至りました。もしも神様がいたとするならば、それは先生が考えたそれを、認めざるを得ないでありましょう。

 先生においては、残してきた子供たちから手紙が来る。思いがあったら、わざと切ってしまう。それで今回帰って来る飛行機の中で、初めて済まない心情を精算してきた。七カ月と二十日近いこの期間済まなかった。しかし、仕方ない。子供たちに対していろいろな手紙を、お母様が涙しながら出す時、先生は、「その涙は神に対してで、子供のために流してはいけない」と何回も言っている。会いたいことはお母様も先生も同じ思いである。だからできるだけ写真も見なかった。真を尽くさなければならない。

 先生が言ったことを君たちがやってくれると思ったのに、半年たって、この間の報告を聞いてがっかりした。これではいけない。作戦を変えなければならないし、方向を転換しなければならない緊急事態に入った。再び決意を固めなければならない。目的に向かって突進するような道を満たさなければ日本は危ないのである。先生が言ったとおりの日本の情勢になった。アジア情勢になった。時間がたつごとに、遅くなってしまう。だから準備をなさない者には勝利は得られないじゃないか。準備をなすために、七二年から七三、七四年までに五万人以上の基準を必ず突破しなければならない。

 先生は皆さんに負けない。今も闘っている。先生は今、四十年の闘いの路程を歩んでいる。先生は三十代まで準備時代、四十代まで実践時代、六十までに完成したいと、ちゃんと原理的に組んでいる。一九七七年から一九七八年まで、アメリカに影響する最高の絶頂期と決めている。一人でも行く。君たちが休んでも行く。援助しなくても行く。

 今まで一月に一人伝道してきた者、手を挙げて。――一人もいない。失敗だよ。摂理は人が滅びても、国が滅びても、摂理は残さなければならない。残すために今まで神は働きかけている。一点の家庭基準を、氏族基準を我々は抱えて、先生がそれを保って働きかけている。真剣な問題である。だから一時間が惜しい。この一時間を努力しなかったならば、数千年が飛んでしまう悲惨な運命が生まれてくる。この一時間、この一瞬が危機に瀕している。

 涙ながらに神の摂理に近寄って、神の悲惨なその姿を思ってみた場合に、我々に対して信頼できない神の立場はどんなものであろうか。統一教会が信頼できなかったなら、神は救いを受けることができない。もうおしまいである。それを君たちがいいかげんに考えて、こうでもいいし、ああでもいいと適当なやり方でこれを妨げることがあったとしたら先生は相手にしない。黙っていればいかにたやすいことだろう。しかし、そうはいかない。果たすべき使命を残している以上は、それを果たすために、嫌と言っても、転んでしまっても、落ちてしまっても仕方がない。正義に立って、正当なことを教えて、命令するのが善の指導者であって、天的指導者としての使命だから仕方がない。



先生は二時間しか休まない

 先生はアメリカで平均二時間しか眠らなかった。十二時にみんなを寝かして、それから三時半、四時半まで勉強した。時間がないから寝ない。疲れる暇がない。七年間は寝なかった。みんなは何時間寝るのだ?

 六時間寝るのだったら、そのうちの二時間は先生のために費やせ。神のために費やせ。神はそういうところに近づいてくる。余った余分な力でやっても何の効果もありません。誰でもそれはやる。何の条件にもならない。だからこれからは、実力と実行力をもたない指導者は消えていくよ。邪魔になる。

 原理には三大裁きがある。真理、人格、心情において裁く。堕落は三大要件を犯したんだから。先生は成して、あんたたちに教えているんだよ。復帰の道は成して教えるべきであって、成さないで教えるべきであったら、聖書は六〇〇〇年前にもう既にやってきているよ。なぜか?

 原則がある。父母の信仰が立たないから、父母が先に知らなかったから、知るのも父母が先に知らなければならない。父母が先に実行できなかったから、実行するのも父母が先に実行してからこそ、知るようになるのが原則である。だから、原理は先生から、もう成した基準に立っていないと教えられない。

 だから、あなたたちは、原理をパスしなければならない。原理をパスして、原理基準に引っかからないような自分となって、それから実体者となって、原理に適用される。しかし、蕩減原則に適用されるそういう者があった場合には、実体復帰はなされません。そういう条件が残った場合には、サタンがいつも私のものだと引っ張っていく。だから実体基準を勝利するには、サタンを正面的に抱えてやれ。



八十四の基台

 今、我々は、十カ国を中心として、七七七双の世界的な氏族圏をもっている。どこかに迫害があった場合には、これはみな手を取り合って援助する。イエス様の親族より素晴らしい。我々はイエス様が失った親族、氏族を復帰した基準に立っている。その次には、それを民族と結びつけなければならない。イスラエル民族のモーセを中心として見た場合には、民族と十二支派と七十二門徒がある。聖書には、七十二とか七十になっているが、七十二でなければならない。なぜかといえば、十二の六倍である。七十ならば欠けている。

 七十二家庭を勝利しなければならない。イエス様が天国をつくれなかったのは、十二弟子が一つになれず、七十二門徒が一つになれなかったからである。だからイエス様は七十二人に追われ、十二弟子に追われ、最後には三人の弟子に追われて一人ぼっちで十字架につけられてしまった。父母に追われ、家族に追われ、イスラエル民族と国から追われ、闘ってきた三年間の道は信頼されず、天国はめちゃくちゃになってしまった。それを我々は再編成して、イエス様の実体基準を蕩減復帰してやらなければ、天国は絶対にやってきません。これは原理の骨子である。

 蘇生期は家族であり、氏族である。長成は、十二弟子と七十二門徒がなければ、イスラエルの六十万を動員することはできない。問題は十二弟子と七十二門徒である。

 統一教会においては、我々は父母をもっている。兄弟をもっている。血肉を共に受け継いで生まれたより以上の我々の兄弟をもたなければならない。だから我々は、国を超えて超国家的心情基準を備えている資格ありや?

 天国は超国家である。それを果たせない者は天国に入れない。天国をつくり得る者にはなれない。先生はその道を過ぎた。あなたたちは今から十二弟子を組め!

 七十二弟子を組まなければ天国はつくれない。それがあなたたちに残されたものである。

 昨年から先生が命令したのは、一月に一人ずつ伝道しなければならない。至上命令だ!やれ!

 先生は何の準備なしにあなたたちに言ったのではない。鉄則の基準をあなたたちに教えた。イエス様は三年ないし、三年半に、霊肉ともの基準を一致させようとした。それが失敗した。我々がイエス様と同じ蕩減復帰をするには、霊的三年間以上、肉的三年間以上を費やさなければ、霊肉ともの勝利の基台を結びつけることができない。それで七年間という年月が必要になってきた。七年間は全部がみ旨のためにこの天国をつくらなければならない。七年間に何するか?

 イエス様が失った十二弟子と七十二弟子を、これを家庭を中心として、蘇生、長成、完成しなければ天国をつくれない。

 七十二と十二は八十四だから、七年間に十二掛けると八十四だ。十二弟子と七十二弟子を我々各自が組み合わさなければ、天国は、イエス様が世界的になし得た天国の橋を造ることができないんだから、我々生涯をかけてこの橋を結びつけなければ天国につながらないという各人の使命がある。一月に一人伝道して、七年かかって初めて八十四人になる。だから最小限度、一月に一人伝道するという結論は、世界的な基準の核心になっている。あなたたちもこういう信念を世界的に武装した場合には、その目的のために全国一致してはっきりさせた場合には、いかばかりサタン史が崩れていくか。

 各自が、一人が一人ずつ一月に伝道するところに、その実績の基台に、天国は社会的に開かれる。これは間違いない原理の原則である。七年間は行かなければならない。一月に一人ずつ伝道すれば七年費やしてこそ、初めて八十四人の条件的な基準がつくられるから、それを至上命令として下したのである。今、初めて詳細に話した。

 死してもこの基準を解決しなければ行く道がないというのが、鉄則となっている。だから先生も、生涯をかけてこの問題に引っかかったよ。イエス様もこの問題に引っかかったよ。神様も六〇〇〇年間、救いのために苦労したのも、この問題のためである。これを解決しない以上は、神様の心情的恨みを解く道はありません。

 この三年間というのは、世界的基準において、霊的ではありながらも、イエス様が三年間に世界的心情基準をなし得なかったその基準を、世界的に再び編成しなければならない。だから各国の青年たちを組ませて、こういう時代において、イエス様が死ぬ時、みな逃げていったのではなくして、死ぬ時に共に死ぬような覚悟をもつ、そのような青年に武装させるための訓練所が、ベルベディアの訓練所である。それを整え、ある軌道に乗るようになるまで、七カ月かかった。満六カ月費やして、そういうことを成して、今帰る時である。

 あなたたちは、天国づくりがどういうようになっているか、はっきり分かりましたね。話では通じない。実績が問題である。霊界に行っても、先生に対して、「天国に行く正しい道を教えなかった」と讒訴できないだろう。今、教えた。

 きょう、一九七三年七月八日は、七数から見て、再出発を数えるそういう日である。アジアの一角、日本において、最初に詳細に説明した。

 あなたたちにすべてがかかっている。今からやらなければならない。今から先生は命令する。十日に一度ずつ自分の親、兄弟に手紙を出せ!

 君たちが社会に向けて活動する三分の一の努力があったら、氏族復帰は可能である。天国づくりは氏族基台を中心として、それから社会につながる十二弟子と七十二門徒である。それがなければ、社会を率いることはできない。世界的になりたければ一二〇人を立てよ。先生はそれをやってきた。

 日本の問題として、今残っているのは、数的問題である。もしも日本が、ある期間までやらなかった場合には、先生は日本の使命をほかに回す。世界を救うには仕方がない。そうせざるを得ない。あなたたち、考えてみなさい。一年に死亡率が百分の一だと考えて、百人に一人死ぬと考えてみた場合には、三十六億のうち、三六〇〇万は一日に死んでいく。そうした場合に三六〇〇万人は地獄に行く。神から見た場合に大損害である。サタンから見た場合、大勝利である。一年早ければ、三六〇〇万が救われる。十年早ければ三億六〇〇〇万人である。

 こう考えた場合に、世界にまで早くこれを宣べ伝えるのに、いかに忙しいかということが自然と分かるであろう。もう時間がない。神がいかばかりそれを願っているだろう。

















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13_人間に対する神の希望

 御旨と世界
(全面表示)

 



人間に対する神の希望



1973年10月20日 ワシントン リスナー講堂にて

 

 紳士、淑女の皆様、まず初めに、私は、今夜この場に皆様がおいでくださいましたことに対して、心からの感謝の意を表したいと思います。そして、私は、この街を訪れ、皆様にお会いすることをずっと心待ちにしておりましたので、このような機会が与えられたことを、神に感謝するものであります。

 私たちは、互いに異なった言葉を話していますので、たとえ私が話すことができても、皆様から見れば、私はおしであり、また、たとえ皆様が聞くことができても、私から見れば皆様は、つんぼであります。このおしとつんぼの間を正しくとりもつものとして、私の通訳としてこの隣に立つ人が必要になるわけであります。しかしながら、御存じのように、一つの言語から、他の言語への通訳は容易な仕事ではありません。ですから、この私の横に立っているこの人は皆様の温かい御理解を本当に必要としているのです。

 今夜は、「神の人間に対する希望」と題して語ってみたいと思います。このテーマは広大で、その内容は複雑なものでありますので、私はこのテーマの中心点からそれないよう最善を尽くしたいと思います。

 もし神がおられるなら、神は絶対的に人間を必要とするのであります。神は、あらゆるものを創造されました。しかし、その神のあらゆる被造物の中で人間は、最高かつ中心的な位置を占めているのです。そのために、神と人間との関係に対する明確な理解をもつということが、私たちにとって非常に重要であるわけなのであります。この神と人間との関係に関しては、歴史的に様々な説がありました。様々な意見や、神学的概念、学派などがありますが、しかし、本当の生きた神と人間との関係というものは、いまだ解明されない問題として残されているのです。

 神と人間との関係というものは、人生における非常に根本的な問題でありますから、この問題を完全に明確にしない限り、我々の物事に対する理解は、それ以上進まなくなってしまうのであります。この問題に対する解答を追求していくと、主に二つの立場からの見方があるということを発見します。一つは、神の立場からの見方であり、もう一つは、人間の立場からの見方であります。様々の宗教が、この二つの見解を追求することを通して発展してきたのでありますが、これらのすべての宗教に共通した、神と我々との関係を明確にする原理があるはずであります。そして神は、我々がその真理(原理)を本質的な意味において理解することを望んでおられるのです。

 皆さんは、もし誰かに「あなたの人生において最も尊いものは何ですか?」と聞かれたなら何と答えますか?

 ある人は「力」と答えるかもしれません。またある人は、きっとお金と答えるでしょう。「金がすべてだ」と。そしてまた、ある人は「知恵と知識」と答えるかもしれません。それでは、これらの要素、すなわち力とか金とか知識とかが人生において最も重要なものなのでしょうか?

 この問いかけに対して深く掘り下げてみると、もっと違った考えが浮んできます。そして、やがて最も貴いものは愛である。愛は人生において最も貴いものであるという結論に到達するのであります。そして、愛に次いで貴いものは生命それ自体であります。さらに我々は、愛と生命とをもったならばさらにもう一つのもの――理想を必要とするのです。これら三つの要素――愛と生命と理想――は単にその価値において、貴く深遠であるというのではなく、これらの要素自体がまさしく我々の人生を生きがいあるものとなさしめるものなのであります。

 さらに、もっと深く考えてみましょう。すべての人々は、永遠の生命を慕い求めます。同様に人間の愛と理想を表現するにおいても我々は、生来それが不変であり、唯一であり、永遠であることを願うのであります。歴史上に現れた多くの作家たちは、永遠の愛の美しさを描いてきました。夜に昼にと変わるような愛に感動を覚え、それをたたえた作家は一人もありません。また、この地上を越えた生命を証明するところの世界の多くの宗教は、我々人間の永遠への願望を支えているのです。もしある宗教が永遠の生命を説かないとするならば、その宗教は善なる目的にかなうものとはいえません。

 「愛」と「理想」という言葉は、それ自体が独自に意味をもつものではありません。愛は愛する者と愛される者とがあって初めて存在するのです。また、理想は誰かによって分かち合われなければならないのです。愛と理想とは、相対的に補足し合う、ギブ・アンド・テイク(授受)の関係が成立するときに生きたものとなるのです。我々人間は対象の立場にあり、常にその主体的存在を必要としています。愛と理想とは、二つのものが主体と対象の関係をもって存在するときにのみ、初めて、つぼみから花へと開花するのであります。

 この宇宙の原因、根源は人間なのでしょうか、それとも、誰かが我々人間を造ったのでしょうか?

 自分自身を創造することすらできない人間が、どうして宇宙の原因たることができるでしょうか。我々人間は結果的な存在であるということは明白であります。我々は、ある原因から生み出されたものであります。ですからある主体、あるいは原因なるものが存在しなければなりません。人間の存在に対して、その原因がなければならないのです。ゆえにこの主体、あるいは原因なるものは根本的な実在であります。我々は我々自身の存在に対して明確に認識し得るように、この根本的実在に関しても明確に認識しなければなりません。その原因なるものを、皆様がどのように名づけても、それはかまいません。最も重要なことは「彼」が存在するということであります。そして、我々は彼を「神」と呼ぶのであります。

 では、我々の問いかけを神に向けてみましょう。「神様、あなたにとって最も貴いものは何なのですか?」彼の答えは、皆様や私の答えと何ら変わらないものでありましょう。「愛と生命と私の理想とが私にとって最も尊いものである」と神は答えるでしょう。神はお金を必要とするでしょうか?

 彼はすべてのものを造られたのです。いずれにせよ、すべてのものは彼のものなのですから、彼はお金を必要としません。では神は力を必要とするでしょうか?

 彼は、既にすべての力の根源なのです。知識についてはどうでしょうか?

 神は全知であり、すべての知識の源なのです。そうです。神はこれらすべてのものなのです。しかしながら、彼は愛と生命と理想とは、御自身一人でもつことは決してできないのです。彼は、相対関係において誰かと共に授受し合う必要があるのです。全能なる神であっても、お一人では愛と生命とその御理想の価値を体験することはできないのです。それゆえに、神は御自身の対象として人間を造られたわけなのであります。

 では、次に尋ねてみましょう。「我々人間はどうしてこのように行動するのでしょうか?」。答は簡単であります。なぜなら、神がそのように行動されるからです。なぜ我々は、このような我々なのでしょうか?

 なぜなら神がそのような神であるからです。

 我々は、神の性稟を映す鏡であります。神はちょうど皆様や私のようなお方なのです。神は、根源者であります。ゆえに我々の愛は、神の愛から生まれてきたものであります。我々の生命は神の生命から、そして我々の理想は神の理想から生まれてきたものなのであります。神がまず初めに、これらのものを最も貴いものと感じられたがゆえに、我々人間はこれらのものを最も貴いものと感じるのであります。神は愛の主体、生命の主体、理想の主体であります。我々は愛の対象、生命の対象、理想の対象であります。ゆえに、神が絶対であるならば、我々もまた、絶対でなければなりません。神が不変であるならば我々も不変でなければなりません。神が唯一であるならば、我々も唯一でなければなりません。神が永遠であるならば、我々も永遠でなければなりません。我々の永遠の生命は、単なる幻想ではありません。それは現実であります。神が永遠でありますからその対象なる人間も永遠なるものとして創造されたはずなのです。そうでなければ、我々は永遠なる神の性稟を映すことはできません。

 もし、愛なる、生命なる、理想なる神が存在されて、その神がこれらのすべての性稟をその対象なる人間の中に現さないとしたならば、神は、その神の創造の目的そのものを覆すことになってしまいます。神は、その対象の中に御自身の価値のすべてを投入されたか、あるいは何一つとして創造されなかったかどちらかであるはずなのです。神は人間に対して主体であり、我々は神の対象であります。対象は主体の完全なる反映であります。ゆえに人間は神の見えるかたちであり、神は人間の見えないかたちであります。主体と対象とは本質において、一つなのであります。神と人間とは、一つなのであります。人間は実体化した神なのであります。そうでなければ、我々は神の完全なる像を反映させることはできないでありましょう。神の創造の目的である神の喜びを実現することができないでありましょう。我々が対象として神御自身が完全であるごとく完全でないときには、我々は神の完全な愛と生命と理想とを反映させることができないのであります。ゆえに、神の対象なる人間はその価値において、神御自身と同様に重要なものなのです。

 もし、私が空っぽの誰もいない聴衆席に向かって大きな身振りをしながら大声で叫んだとしたら、そのような私を見た人は誰でもきっと“あれは、気違いか?”と思うに違いありません。しかし、もし私が誰か授受する相手、誰か私にこたえる対象――私の前にいる一人の小さな子供であってもよい――をもち、私の心と魂を彼に注入しているならば、そういう私は正常であると見られるのです。ただ一つの違いは、誰かが対象として存在しているということであります。しかし、その小さな子供すら聴衆席にいないとしてみましょう。私は、必死になってごみの一かけらを拾い上げ、それを見つめながら、それに向かって話しかけ、私の心を注ぎ込むことができるでありましょう。そうすれば私は、少なくとも気違いではなくなるのです。なぜなら、一かけらのごみでさえ一つの対象となり得るからであります。私が今言いたいのは、対象というものの価値であります。我々は、神の対象でありますので、神は我々を神と等しい位置に置かれました。このように、人間は神と同様の価値をもち、神と同様に重要なのであります。神は最も高く貴く、力ある方でありますけれども、神もまたやはり、その対象を必要とする方なのです。そうでなければ神は喜びを感じることができません。喜びは対象から刺激を受けるときに生ずるものであります。神であってもただお一人で喜びに満ちることはできないのです。皆様は、神が喜びのために、人間と宇宙とを創造されたということを知らなければなりません。しかし、神の喜びは神がその対象と授受することができる時まで潜伏したままになっているのです。

 今日まで、キリスト教において、我々は神を天国のあまりに高いところに置き、人間を地獄のあまりに低いところに押し込んできましたので、神と人間との間には越えることのできない断絶がありました。広く、荒れ狂う川が人間を神から引き離してきたのです。人々は、あえて、神を生きた実在としてとらえようとしないのです。人間は、神が非常に近く、非常に現実的であり、非常に近づきやすいお方であって、神と共に住むことさえできるということに気づかずにきたのです。我々は、生ける神の宮として造られているのです。しかし、因習的なキリスト教は、それを現実化することができずに今日まできてしまったのでした。

 あなたがどれほど裕福で、どれほど有名であったとしても、あなたの喜びと悲しみとあなたの意見と理想とを分かち合える、授受する誰かがいなければ、あなたは一人の哀れな人でしかありません。我々が喜びや悲しみを感ずるのは神の心が喜びや悲しみを感じられることができるからです。歴史上今日に至るまで、神が悲しみを感じられるお方であるということを我々は、思ってみたこともありませんでした。また、神が我々と同じように興奮や憤りを感じられるお方であるということも、我々の主体なる神がこういう情緒、能力をもっておられるので、神の対象である我々もまた、このような情緒を感じる能力をもっているのです。神は、第一の人格であり、人間の人格はその神から来るのです。では我々は、いかにして、神の真の対象となり得るのでありましょうか。ただ努力して一生懸命働くことによってでしょうか?

 いいえそうではありません。神と一つになるためには、ただ一つの道しかありません。それは愛を通して、神との愛の中に一つになる道であります。

 分かりやすく説明してみましょう。ある有名な人がいるとします。そして彼の向かい側に、美しくもなく教育も受けていない一人の謙遜で、柔和な婦人がいるとしましょう。一たび、この素晴らしい男とその謙遜な婦人が愛によって授受の回路を結んだなら、彼女は即座に、彼と同等の名声を得ることになるのです。例えば、彼の名前をジョーンズとして、彼が、その婦人と恋愛し、彼女と結婚するとしましょう。そうすると、彼女はジョーンズ夫人となり、彼の愛を彼女の心のすべてをもって受けて返すようになります。ジョーンズ氏に与えられる、あらゆる力と権威と名声と、そのことごとくすべてをジョーンズ夫人も共に分かつことになるのです。さて、この話は我々に何を教えてくれているのでしょうか。我々は、一たび神と愛の関係を結び神と一つになったならば、我々の価値は即座に神の価値の基準にまで高められるのです。そして、そのような愛は、永遠で不変で唯一なのであります。

 今の時代はこの神と人間との基本的な関係を正しく成就すべき時なのです。主体と対象とは、ちょうど原因と結果が一つであるように、一つでなければなりません。それゆえに聖書は、「わたしはアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終りである」(黙示録二二・一三)と述べているのです。神にあっては、二つのものは一つなのです。彼は、始めであり、我々は終わりであります。そして神と人間との関係は、始めと終わりが一つになるので、一つの回路をなすのであります。

 平和と幸福と喜びとは、愛における調和から生まれるものであります。それゆえに、神は、その創造の御理想において、神と人間との関係を愛において調和し、生命において調和し、理想において調和し合いながら生きるものとして計画されたのでありました。

 このようにして、我々は神が主体であり、我々が対象であるということがよく分かるようになりました。そして、対象は、主体と同じように重要なものであるということも分かりました。次に我々は、神の対象としての人間の位置というものが、何を意味するかを明確に知りたいと思うのであります。

 神は、人間を創造されたとき、人間に知恵と野心とを与えられました。知恵は我々に比較能力を与え、野心は我々に最善を求めて闘う力を与えます。もし我々の前に、AとBという二つのものがあり、どちらかを選ぶという場合、我々は自動的に、どちらがより良いかということを判断するために、比較してみるようになります。我々人間の欲望が選択を導き、野心が、最終的な完成に我々が達するまで決して我々を休ませようとしない働きをするのです。

 もう一つの例えをしてみましょう。一人の非常に端麗な人がいるとしましょう。彼は端麗なだけでなく非常に力もあり、また、知恵もある人であります。あなたは、きっとこの素晴らいし人と何らかの個人的な関係をもちたいと願うようになるでしょう。では、どのような関係をあなたは望むでしょうか。彼の召使でありたいと思いますか?

 いいえあなたは心の中で召使よりもっと良い立場があるということを知っているのです。では単に彼の友人でありたいと思いますか?

 いいえ、それでもあなたはまだ、幸福を感じることはできません。では、単に彼の養子でありたいと思いますか?

 その立場はあなたに完全な幸福をもたらしてくれますか?

 いいえ、私はそうは思いません。あなたは、さらにもっと近い立場を求めるようになるでしょう。それ以上の親密な関係はあり得ないというほどに近い関係がもう一つあるのです。この関係をもって初めてあなたは最終的に満たされ、それ以上何も求めることがなくなるでありましょう。

 では、なぜ我々は実の息子、あるいは娘でありたいと願うのでしょうか。それは、その位置がその人の愛を最も完全に受ける位置であるからです。人間の社会において、親子の関係以上に近く深い関係はほかにありません。一たびあなたが、父親の愛を受けたならばあなたは父親のもつすべてのものを所有することになるのです。父親のすべての喜び、すべての力、すべての能力と知恵と、野心と、欲望と、それらすべてが、あなたのものとなるのです。父親の愛を受けるとき、父親が息子にこれらのものを与えるための手続きとか書類とか儀式とかは一切必要でないのです。父親と息子は自動的に一つなのです。この原理は、人類すべてに当てはまるものであり人間と神との関係に当てはまるものであります。

 それでは、あなたはどのような関係を神との間にもちたいと思いますか。彼の召使で満足できますか。あるいは、彼の友人でありたいと思いますか。彼の養子でありたいと思いますか。それとも、神御自身の実子になる道を見つけたいと思いますか。私は、あなたが神の息子、あるいは娘という最終的な位置に至らない限り満足することはできないということをよく知っているのです。

 神の、人間を創造された最終的目的は、人間に御自身のすべての愛とすべての生命とすべての理想とを与えることであります。あなたは、神の全き愛をその愛の心の深みまで完全に占領すべく造られているのです。神の実の息子、娘となることによって、あなたの欲望は完全に満たされるでありましょう。それがあなたの究極的、最終的な運命なのです。そしてあなたは、神の愛に浸されるでありましょう。あなたは喜びに満たされ、完全なる生命の充足感に打ち負かされるでありましょう。

 喜びに限界はありません。幸福に終わりはありません。あなたが神の愛の内に立っているとき、あなたの身体のすべての細胞は喜びに躍動するのです。あなたは全宇宙と共に呼吸するのです。このようにして、あなたの生命は、全うされるのであります。これが、神が我々をして、愛と喜びに酔って生きるべく造られたということなのです。そして、我々の喜びを通して神は、御自身の喜びを得るのです。人間の喜びは神の喜びであり、神の喜びは人間の喜びなのであります。

 私の幼少のころ、神は私に、神の器としての使命をお与えになるために私を呼び出されました。私は神の預言者として、神の真理を神のために明らかにするよう命ぜられました。私は霊界の丘や谷間をさまよいながら、その真理の追求に決然として専心しました。そして、ある時、突然天界が私の前に開かれ、私はイエス・キリストと生ける神御自身と直接通じ合う特権を与えられたのです。その時から、私はたくさんの驚くべき啓示を受けるようになりました。神御自身が私にこの宇宙の最も根本的、中心的な真理は神が親であり、我々人間がその子であると語られたのです。我々はすべて、神の子として創造されているというのです。そして、神は父と子が一つになるとき――愛において生命において理想において一つになるとき――それ以上に近く、それ以上に深く、それ以上に親密な関係はほかにないのだと言われました。

 愛と生命と理想とは親と子とが出会う中心点にあるのです。我々が、一たびそこにおいて結ばれたなら、その時神の愛は我々の愛となり、神の理想は我々の理想となり、神の生命は我々の生命となるのです。そして、あなたが生命の結合、愛の結合、理想の結合をもち得るのは、親子の関係をおいてほかにはあり得ないのです。これが宇宙の根本的事実なのです。

 我々はどのようにして、この世に生まれてくるのでしょうか?

 父親と母親が愛によって一つになり、彼らの生命と理想を共に携えてくるのです。我々の誕生の中に、彼らの愛が先行するのです。夫と妻は愛によって一つになります。これは夫の愛と生命と理想とが妻のものとなり、妻の愛と生命と理想とが夫のものとなるということを意味します。これが二人が一つとなって生きる道であり、二人が一体となる道なのです。この愛による一体化の基台の上に新しい生命が生まれるのです。

 一人の子供が生まれるとき、その子供は、その両親の愛と生命と理想の表れであります。あなたがあなたの子供を見るとき実際はもう一人のあなたを見ているのです。あなたの愛の結実、生命の結実、理想の結実を見ているのです。第二のあなたを、もう一人のあなた自身の目に見えるかたちを見ているのです。

 では、この真理を宇宙的スケールに拡大してみましょう。神は、男と女とを、神の息子、娘として創造されました。神は御自身の姿を人間の中に見たいのであります。それゆえに、聖書に「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」(創世記一・二七)と書いてあるのです。

 人間は、神のかたちに創造されました。言葉を換えて言うならば、神は御自身を人間に具現化されたのであります。人間は生ける神の鏡であり、神のすべての価値と、特性と、性禀とは、この鏡に映し出されるのです。神は確かに、人間が、神の愛と生命と理想とを映し出すことを願っておられるのです。人間は、神の愛と、生命と、理想の結実であります。

 この完成された神の生命に生きるということは、何と素晴らしい、どんなに素晴らしいことでしょうか。それがいかなる地上の喜びにも勝る真の喜びの生活なのです。一たびこのような完成された状態に到達したならば、あなたはもはや祈る必要もなくなるのです。どうして、祈る必要などあるでしょうか。あなたは顔と顔とを合わせて神と会い、心と心を合わせて神と共に生活するのです。神と一問一答し、あなたはもはや宗教を必要とせず、救い主を必要としなくなるのです。これらのすべての宗教的な事柄は、治療の過程、すなわち復帰の過程における一側面にすぎないのです。完全に健康な人は医者を必要としないように、神と完全に一つとなった人は救い主を必要としないのであります。

 神と一つになった生活は、一つの偉大な生き方であります。それは、神と共にある生活、神にある生活、そして神があなたの中に生きておられる生活です。これは、イエスが「わたしが父におり、父がわたしにおられる」(ヨハネ一四・一〇)と言われた状態であります。神と人間とは焼き尽くすような愛で一つに抱き合うでしょう。それが、神が生きた実在としておられる状態なのです。もはやあなたは、信じるのではなく知るのであります。そして真理に生きるのであります。もし、本当にこの種の愛を体験し、このような神との一体感を体験したならば、あなたは人生における最高の体験を味わったということになるのです。皆様方の中にも、多くのキリスト教の指導者の方がおられると思います。しかしその中で、何人の人が神の深い愛を受けて、この素晴らしい体験をもったことがあるでしょうか。

 神は人間を興奮(酔い)のうちに生きるように創造されました。人間は、神の愛に酔うように造られているのです。ところが人間はその本然の位置を失ってしまったので、酒や麻薬や薬などを飲んで酔っぱらうというように、不自然に技巧的に興奮を求めるようになったわけです。しかし、完成された人間は神の愛に酔うように造られているのです。その喜びの感覚に勝るものはほかにありません。あなたの体の細胞の一つ一つが喜びで爆発するでしょう。目も耳も顔の神経も、腕も、足も、すべてが喜びの歓喜のうちに新たに生きるようになるでしょう。この喜びの質にかなうものはほかにありません。これが神の本然の創造の御計画であったのです。「天の父よ」と言うとき、あなたは本当に神の臨在を生き生きと実感しますか。あなたは、神が「我が子よ」と答えられるのを聞いてみたいと思いませんか。

 ここに、今夜私が皆様に差し上げたい贈り物があります。私は、皆様に、神と人間との真の関係は主体と対象の関係であるということを、本当に知ってほしいのです。皆様は、神の息子であり、娘なのです。一たび神と一体化したならば、もはや何ものも皆様を悩ますことはなくなるでしょう。この世のいかなる悲しみも孤独も病いも、あるいはその他のいかなるものも、あなたを落胆させることはできなくなるのです。神は最終的な安全圏であります。あなたが幾百万ドル払ったとしてもそのような安全を買いとることができません。それは、価格のないものであり、お金で買うことができないものであります。それは、絶対的な生命の体験なのです。我々は、神と共に生きるべく造られているのです。

 それゆえにあなたの生命は、この宇宙でもっとも価値あるものなのです。それゆえにイエスは、「たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか」(マタイ一六・二六)と言われたのです。イエスは神と共にある生活について語られています。神のない生活は、燃え尽きて、もはや光を放たない電球のようなものなのです。神のない生活は死であります。

 イエス・キリストは、神の御理想を完璧に実現すべく生きた一人の人間であります。彼は地上で初めての完成された人間であり、神と人間との真の関係を復帰されたのです。しかし、彼の十字架上の死以後、キリスト教はイエスを神にしてしまいました。これが、神と人間との間の断絶が、今日まで埋められることのなかった理由なのです。イエスは、神がその中に具現化されたところの人間であり、神御自身ではありません。

 聖書には「神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである」(テモテⅠ・二・五)と書いてあります。イエスの中に神が住んでおられることは絶対的事実であります。彼は「わたしが父におり、父がわたしにおられる」(ヨハネ一四・一〇)と言われました。イエスは本当に神から生まれた、たった一人の息子でありました。しかし、神は、御自身の息子としてただイエスのみを願われたのではありません。すべての人類が、「わたしが父におり、父がわたしにおられる」と言うことができるように造られているのであります。これは、すべての人が完全に到達し得る境地なのであります。

 我々が神の実の息子、娘となるための第一段階は、まず神の善悪観を明確に理解することであります。善とは何であり、悪とは何でありましょうか。

 ここでは、人間のつくり上げた善悪の定義は関係ありません。善悪の永遠なる基準は神によって定義づけられるものであります。はっきりした善悪の定義は、エデンの園に悪が入り込んでくるよりずっと以前、神の創造の時に既に存在していました。神の善悪観は決して変わることがないでしょう。神は永遠であり、神の法則は永遠であり、神の善悪の定義は永遠であり、時の流れにかかわらず不変であります。

 我々人間のすべての特質は、神から来ているのであります。我々は、人間には利己的な傾向があるということを知っています。これはある一時期、神御自身が自己中心的であられたので自然なことなのです。この事実はあなたを驚かすかもしれませんが、しかし、神は人間と宇宙とを創造される前は、たった一人で、御自身以外の何ものをも意識することなく存在しておられたということを理解しなければなりません。しかしながら、神が創造に着手されたその瞬間に、神の中の生命という概念が完全にかたちとして現れてきたのです。神は、今や、御自身のためではなく、その対象物のために生きるようになったのです。

 創造とはどういうことでしょうか?

 創造とは創造主なる神が、御自身を実体のかたちに投影していかれること以外の何ものでもありません。神は御自身を、宇宙の中に象徴的に実体化され、人間の中に直接的に実体化されました。霊がかたちをとるとき、それが創造であります。神は、その創造において御自身を投入されました。神のエネルギーの投入が創造なのであります。

 聖書の創世記は、創造というものを単純に、簡単に感じさせます。神の創造は神のみ言の魔力によって成就されたというような印象を与えるのです。神が、簡単に「世界あれ」と言われて急速に世界が出来上がり、また「人間あれ」と言われてすぐアダムとエバが生れた、というような印象であります。

 しかし、今日では、この創造は決して簡単なものではなかったことが明らかにされてきています。神は御自身のすべてをその創造に投入されました。ほんの一オンスのエネルギーをもとっておくことはされませんでした。創造は、神の仕事の一切であり、御自身を与える努力の一切であったのです。神は、その対象の創造に御自身の心と魂のすべてを注がれた時、御自身を百パーセント投入されていたのです。このようにして初めて神は、第二の御自身、すなわち目に見える神を創造することができたのです。

 それゆえに、創造ののち、神はもはや、単に御自身のために存在されるのではなく御自身の息子と娘、すなわちアダムとエバのために存在されるようになりました。神は愛するために存在し、与えるために存在されるのです。神は完全に利他的な存在であります。神はお一人で存在されることはできないのです。「愛」と「理想」は二者が互いに補足し合う関係にあるときにのみ、その意味をもつものであります。神は創造に着手され、失うことのできない投入をされました。神はそのすべての愛と、生命と、理想とを第二の自己に注入されるとき、ある意味において、利益を生み出さなければならなかったのです。神は、御自身のもてるすべて、百パーセントを投入するとき、その対象は、成熟して何倍も何十倍もの愛と生命と神の理想とを御自身に返してくるようになるということを知っておられました。神の対象となる人間は、神にとってすべてなのであります。対象のもつ生命は、神を引き付けるのです。神は、対象なる人間のところに行き、共に住みたいと願われるのです。

 例えて考えてみましょう。一人の偉大な芸術家がいるとします。彼がもし、何の心情もなくでたらめに作品を造ったならば、彼は何一つとして、価値あるものを生み出すことはできないでしょう。その人生における最高の傑作を生み出すためには、芸術家は自分のすべての心と魂とをその作品の中に投入しなければなりません。それが、偉大な芸術作品を生み出す唯一の道なのです。もし、一人の芸術家がこのような取り組み方をするならば、彼の芸術は彼の人生そのものとなってくるのです。

 神はあらゆる芸術家に勝る、最も偉大な芸術家であります。神がその傑作である人間を創造されたとき、神はその過程において、御自身の心を注がれ、魂を注がれました。また、すべての知恵とすべてのエネルギーとを注がれたのであります。神は、ただ、アダムとエバと、そしてすべての人類のために存在されることを願われたのです。神は、彼らを創造されたとき、ほんの一オンスのエネルギーをも残して、とっておくということはされませんでした。このようにして、人間は、神の命となったのです。

 神は宇宙に一つのパターンを敷かれました。理想的生活においては、我々は、他者のために生きるのです。主体は対象のために存在し、対象は主体のために存在するのです。神の善の定義は、完全に与えること、完全に仕えること、絶対的利他主義であります。我々は我々の人生を他者のために生きるべく造られているのです。あなたは他の人のために生き、他の人はあなたのために生きるのです。神は、人間のために生き、人間は神のために生きるのです。夫は妻のために生き、妻は夫のために生きるのであります。これが善であります。そして、ここに初めて統一と、調和と、繁栄とが生まれてくるのであります。

 もし私が、あなたは一人の女のために創造されたと言ったならば、あなたは男として憤慨しますか。恐らくあなた方のうちの幾人かは、自分の男らしさを誇りとしていて、そのようなことは聞きたくないと思われるでしょう。しかし、これは神の創造の原理であり、このような言葉を聞いて悲しく思う必要は全くないのです。男はその配遇者のために生きるのであり、彼自身のために生きるのではありません。

 例えばあなた方、婦人のうちの一人が、美しい女王であると仮定しましょう。あなたがどれほど美しくても、あなたのその美しさは、あなた自身の満足のためにあるのではなく、男性の喜びのためにあるのです。我々は、お互いのために生きるように創造されているのです。これが正に我々の存在の理由であります。我々は他者のために、対象のために、相対物のために存在しているのです。これが社会における、すべての人間関係に関する原則なのです。両親は子供のために存在し、子供は両親のために存在します。そして、親と子の両者が互いに与え合うとき、彼らは回転運動を起こして一体となるのです。

 この回転運動は一体化の運動です。あなたが授け受けるとき、その授受の作用は回転運動を起こすのです。回転運動のみが永遠性をもつことができます。なぜなら、それには終わりがないからです。それゆえに神の創造のすべては回転運動のパターンに基づいています。なぜなら、神は永遠性をもって創造されたからであります。我々の顔でさえ、その真ん中に垂直線があるにしても、やはり丸いし、我々の眼球も丸く、またこの上唇と下唇も合わさって一つの丸い口を形づくのるです。太陽は丸く、月も、地球もすべての天体は円形であります。

 それらは、それぞれ、それ自身の軌道を自転しながら他の周りを公転しています。この宇宙にあるものすべてのものは、主体と対象との間で、完全な授受の作用をしています。授受作用は、動脈と静脈との間にも行われ、それによって血液が、体内を循環しています。人間の病気は、授受のバランスが壊れ、正常な循環運動が停止した状態であります。主体と対象の間のこの授受作用なくして、この原理を守ることなくしては、いかなるものも永遠性をもつことはできないのであります。そして、この神の原理に基づいたすべての存在は善なる存在であります。

 では、悪とは何でありましょうか。悪とは、この世界への利己心の顕現であります。神の利他的な与える原理は、神ならぬ利己的な奪う原理へとゆがめられてしまったのです。仕えるよりも仕えられることを望む邪悪な立場が、その時から打ち立てられたのです。悪の根源はサタンであります。彼は神に仕えるべき立場におりました。しかし、彼は、もう一つの神のような態度をとり、人間を自分自身の利益のために従属させたのです。神は、この宇宙における絶対的なプラスの力であります。そして、サタンもまた、もう一つのプラスの力をとろうとするのです。二つのプラスは、互いに反発し合うものです。サタンは、堕落した天使長であり、神と人間に対する忠実な僕としての立場を離れて、神に挑戦し、神と競争したのです。彼の動機は利己心でありました。彼の利己心から悪と罪の源が出てきたのです。

 事の次第はこうでありました。つまり、エバはサタンの最初の犠牲となり、自分自身を利己的な存在へと変身させて、神の最初の娘としての位置から落ちてしまったのです。そして、エバとサタンは一緒になって、首尾よく、アダムを彼らの利己的な世界へ引き込むことに成功したのでした。この悲劇的出来事により、神は、エデンの園において、人間から孤立させられてしまったのです。かくして、人類歴史は、神のいない、悪なる立場から出発したのでありました。人間の悪なる歴史の土台は据えられ、サタンはこの世の支配者となったのです。利己心は、人類歴史の出発において存在するようになり、そして今や世界は、殺人と虚偽と盗みとに満ちているのです。罪悪世界におけるこれらすべての行為は、利己心から起こってくるのであります。悪は、自己自身の利益のために他を支配するものであり、善は、他の利益のために自己自身を犠牲にするものであります。

 人間の堕落以来、神の仕事は、本然の善を復帰することでありました。神は悪なる世界を滅ぼし、善なる世界を再創造することを願っておられるのです。我々は健康を失ってしまったのです。我々は病人になってしまったのです。それゆえに神の救いは、もう一たび人間を健康な状態へと復帰することなのであります。

 神は、善なる種を蒔きました。しかし、その実を刈り取る前にサタンが悪なる種をもって侵入し、悪なる実を刈り取ったのです。このために、神はもう一度善なる種を蒔かなければならないのです。その仕事のために神は、何らかの、ある道具を必要とするのです。世界の宗教は、そのような神の道具としての役目を果たしてきたのです。歴史を通して、善なる宗教は、犠牲的愛と奉仕を中心とした神の生き方を教えてきました。それゆえに、キリスト教は、その犠牲的愛と奉仕とを最高の形において教えているために、最も進んだ宗教と考えられてきました。

 イエスは、救い主として来られましたが、彼の教えは、「人の子は、仕えられるためではなく、仕えるために来たのである」(マタイ二〇・二八)と説いているのです。イエスは世界でもっとも大きな愛は、敵のために生命を捨てることであると教えました。聖書の教えは、この世の一般のルールには反しています。それはこの自己中心的世界の方向とは全く逆なのです。聖書は完全に与えることと、全き犠牲とを説いています。「自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう」(マタイ一〇・三九)。この悪なる人間社会においては、このような生き方をまじめに考えることすら、ばかげたことに思われます。しかし、一たび神の原理を知ったならば、実際これよりも偉大な知恵はないということを発見するようになるでしょう。

 イエス・キリストの教えは、正にこの根本的な真理の真髄を突いていました。人は、与えれば与えるほど、受けるようになるのです。神は、完全に与えるものに対しては、完全な愛をもって報われ、完全な犠牲に対しては、完全な生命をもって報われるのです。与えることは、神の愛が入ってくる空間を生み出すことなのです。あなたが与えることによって空間ができ、それが大きくなればなるほど、ますます急速に、あなたは神の愛の流れによって満たされるようになるでしょう。

 良くしてもらうためには、まず、あなたが、他の人に対して良くしてあげなければなりません。あなたは、蒔いたごとく、刈り取るのです。悪を蒔けば悪を刈り取り、善を蒔けば善を刈り取るのです。あなたの関心はどのように与えるか、どのように良く与えるかということに向けられなければなりません。それは神が取り計らってくれるからです。

 善なる人と悪なる人の例を挙げてみましょう。ここに十人の友人をもっている一人の人がいるとします。来る日も来る日も、この人は、その十人の友人たちに自分を忘れて仕えています。人々は、その人を愛さずにはいられません。そのようにして、彼はその十人の人々にとって最良の友となり得るのです。そうして、彼の影響は、その十人の人々の親戚や友人へとさらに広がっていくでありましょう。自分を超えて与え、仕えることによって、この人は栄えるようになるのです。彼は、神の原理に基づいて生活しているので、彼は調和と統一の中心となるのです。自分を超えた無私の精神は繁栄をもたらすのです。このような人が善なる人であります。

 しかし、反対に、例えば、この人が、友人に「十人の者たちよ、すべてのものを私のところにもってきなさい。あなた方は、私に仕えるためにここにいるのです」と言ったとしましょう。彼がこのようなことを彼の友人に向かって三度も言わないうちに、誰もがみな、彼との関係を断ち切るようになるでしょう。彼らは、彼とは一切の関係をもちたがらなくなるのです。そして、やがて彼はたった一人取り残されるでありましょう。こういうことは我々の実社会においてもよく見られることではありませんか。

 これは普遍的な真理なのであります。自己中心的な主義、自己中心的な哲学、自己中心的な生き方は、自己崩壊という悲劇的な道にあなたを真っ逆さまに放り出してしまうのです。しかし、もしあなたの人生を他への奉仕に生きるならば、あなたは栄えるでありましょう。そのような生き方は、あなたを滅亡に導くように一見、見えるかもしれませんが、決してそうではないのです。それが必ずしもあなたに繁栄をもたらさない、ただ一つの理由は、あなたが最後の最後まで、すべてを与えるということをしないということです。途中で、突然あなたは、懐疑的になるのです。そして、あなたは自分で自分の慈悲の心を変えて、完全に与えるという神の法則から外れてしまい、そのため、善なる結果は決して実現されなくなってしまうのです。完全に与えることは、繁栄への道であります。なぜなら、それが神のやり方であるからです。

 もし、ある個人が、もう一人の人のために自身を犠牲にするならば、その個人は他の人々にとって英雄となるのです。もし、ある家庭がもう一つの家庭の幸福のために犠牲になるとするならば、その家庭は、他のすべての家庭の中で英雄的な家庭となるのです。他のために自らを犠牲にする民族や国家は、国々の中で勝利者となるのです。自分の命を親のために捨てる人は孝行息子であります。自分の命を王のために捨てる人は忠臣であります。また自分の命を全人類のために捨てる人は聖人であります。

 イエス・キリストは、皆様が今聞いておられるこのような真理を宣言したのでした。彼は、神の御理想をこの地に成就するために闘われました。彼は、イスラエル一国の利己的な目的を満足させるために来られたのではなく、全世界の救いを全うするために来られたのであります。

 神は、イスラエル選民を、メシヤの世界救済の使命に対して準備する器として用いようとされました。しかし、イスラエル民族は、それを知らなかったのです。彼らは、来たるべきメシヤを、ユダヤの栄光のために、ダビデ王国を再び復帰するところの無敵の軍事的征服者としてとらえていたのでした。何という間違いを犯していたことでしょうか!

 神の目的は、ある特定の個人、あるいは教会、あるいは国家の救いではありません。神の目的は、全世界を救うことなのです。ですから真の教会は、世界の幸福のために、自身を犠牲として与えるものであります。そうです。真のクリスチャンは、自分の命を、世界と全人類の救いのために捧げたいという願いをもっているはずであります。しかしながら、今日のクリスチャンの教えは、自己中心的になってきています。クリスチャンは、自分自身の個人的な救いを追い求めているのです。彼らは「私の救い」と「私の天国」を叫んでいるのです。これは、神の真理に反し、神の理想に反するものであります。我々は、断固として与え、愛し、犠牲になり、他のために生きていかなければなりません。

 我々はすべて理想的な生き方を求めて働かなければなりません。私は、私の家庭のために存在し、私の家庭は、社会のために存在し、社会は国家のために、国家は世界のために、そして世界は神のために、神は、あなたと私のため、全人類のために存在されるのであります。この偉大なる授受のサークルの中に調和があり、統一があり、永遠に増し加わる繁栄のプロセスがあるのです。さらに言うならば、この回路の中で、すべての存在がこの創造の目的を成就するようになるので、そこにはあふれんばかりの深い喜びが存在するのです。これが幸福感の充満する天国なのであります。

 この世界において、利己心はすべてのものを破壊します。家庭内における利己心は不調和を生み出し、それは苦しみと闘争とに爆発していくのです。誰しもが、仕えることよりも仕えられることを願うのです。妻は夫に仕えられることを求め、夫は妻に仕えられることを欲するのです。親は子に仕えられることを期待し、子は親に仕えられることを当然のこととするのです。このような現象は、我々の家庭や社会や国家においてよく見られることであります。

 今日の世界においては、国家は、単に自国の利益のためにのみ存在しています。彼らは、策略を用い、共謀し、だまし、そしてうそをつくのです。彼らは、自国の利益のために、他の国々を破壊するのです。この地上に、たった一国でも神に向かって「神よ、もしそれがこの世界を救う道であるならば、どうぞこの国をあなたへの犠牲として供え物として用いてください」と訴える国があるでしょうか。教えてください。どこにそんな国がありますか?

 どこに?

 アメリカが、世界における奉仕と犠牲の精神を示して援助を必要としている国々に対して、その援助のために出かけていったとき――すなわち、アメリカが生活と資金と援助の手を差し伸べたとき――アメリカは、ゴールデン・エイジの繁栄を得たのです。しかし今やアメリカは、利己的な姿勢をとっています。今日のアメリカ国内の問題は、非常に深刻であります。アメリカの現状は、今、混沌としています。今日、この地には、かつてなかった分裂と崩壊とゆゆしい問題がみなぎっているのです。

 私は誰をも、また、どの国をも批判しているのではありません。私はただ、すべての人類の探し求めている天的真理を明らかに宣言しているだけなのであります。

 私は、統一教会を創設しました。もし、この統一教会が統一教会自体の利益と幸福のために存在しているとするならば、それは必ず滅びるでありましょう。私は、世界の救いの前進のために、私の命と、私の心と、私の魂を与えるために統一教会を設立したのです。ここの聴衆の中にも、統一教会のメンバーがたくさんおります。彼らの大きな願い、彼らの唯一の動機は、ただ他に仕えること、この国と、世界を救うことなのであります。

 イエスは、その弟子たちに、報復の法則は教えられませんでした。「もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬を向けてやりなさい。……もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい」(マタイ五・三九~四一)。あなたは、決して報復する必要はないのです。あなたのなすべきことはただ完全に、絶対的に与えることだけであり、そうすれば、神がもっともっと豊かに与えてくれるでしょう。

 イエスが十字架につけられた時、ローマの兵士たちは、イエスをやりで刺し通しました。そして、そのイエスは、敵のために祈ったのです。「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ二三・三四)。十字架上における死の瞬間でさえ、イエスは許すことに懸命であったのです。彼の、正に最後のその行為は、彼の敵に対する愛によって誘発されたものでした。彼は、与えることの最高のかたちを見せてくれたのであり、愛の模範を示してくれたのです。イエス・キリストの例は、全人類にとっての絶対的な基準であります。イエスのような人ばかりで構成された国を、ちょっと考えてみてください。そのような国を何と呼んだらよいでしょうか。それが、地上天国であり、それ以外の何ものでもありません。

 イエス・キリストは、その全生涯を通して、その並ぶもののない愛と奉仕と犠牲のゆえに「主」でありました。彼は、永遠に「主」であるでしょう。それと同様に、この宇宙に神の全き奉仕と愛とに勝るものは何もないのです。それゆえに、神は永遠に神であり、すべての被造物を支配されるのであります。

 ローマ帝国の衰亡を見てください。全ローマ帝国は、武器をもたない軍隊、すなわち、イエス・キリストの軍隊の前に崩壊してしまったのです。クリスチャンは、いかなる方法でローマを征服してきたのでしょうか。彼らの、自分の命までも捧げるような愛と犠牲と完全な奉仕によってであります。歴史は、いかなる帝国も、犠牲的愛の軍隊には負けてきたことを証明しています。そして、そのような歴史は繰り返されるものでありましょう。

 今日までの我々の人生において、我々は、善悪の定義も明確に知らずにきました。我々はどこに自分を委ね、いつ行動し、何に仕えるべきかを明確にできなかったのです。これが、人間の生活における大きな混乱の原因であります。我々は、自分自身の幸福のみを切望するようなクリスチャンになってはいけません。クリスチャンとして我々は、イエスのような生活をしなければならず、他の人々が生命を得ることができるように、他の人々の幸福のために我々自身を完全に与えて行かなければなりません。これが、神のやり方なのです。

 この現在の世界は、神の怒りを呼び起こしています。本当に世界は今、神の容赦ない審判に値するのですが、神は愛であられるがゆえに、長い間忍耐しておられるのです。我々すべてを救いたいがために、その怒りを止めておられるのです。神は、我々に生まれ変わるチャンスを与えておられるのです。神は待っておられるのです。

 私は、西洋文明は個人主義でもって特徴づけられるということを知っています。しかしながら、利己的な個人主義は滅びるのです。そして、犠牲的個人主義が花開くのです。個人主義それ自体は善であります。神は、我々一人一人に独特な、仕える道を与えてくださいました。しかし、神のいない個人主義は、崩れ去る砂の上に城を建てるようなものであります。

 私は偉大なる変化、偉大なる新しい革命の波が、アメリカにやって来ているのを見ることができます。それは、火や、銃による革命ではなく、人間の心の革命に火をつける、神の真理による革命であります。私は、この精神の革命に火をつけるために、ここにやって来ました。私は、ホワイト・ハウスの前や、ラファィエット広場で、デモンストレイトする必要はないのです。答えは、そこにあるのでなく、利己心から利他心への静かなる革命の途上にある人々の心の中にあるからです。

 あなたは、理想世界がどんなに素晴らしいか想像することができますか?

 個人は家庭に属し、家庭は社会に属し、社会は国家に属し、国家は世界に属し、世界は神に属し、神はあなたに属しているのです。もつともよく与えるものは、もっとも深く神を知るようになるでしょう。

 ある若い人々は、私に向かって「ムーン牧師、あなたはここに今までと同じような古いことを繰り返し言うために来たのですか」と言うかもしれません。しかし、それは全く間違っております。私は、理論からではなく、生活から話をしているのです。私は、我々すべてが、イエスが真理に生きたように真理に生きるべく、ここにいるのだということをあなたに告げているのです。これは、理論でもなく、哲学でもなく、神学的教義でもありません。それは、神の究極的真理であり、それは話されるべきことではなく、そのごとく生きられるべきことなのであります。

 人間が、この真理に生きるとき、それは地上に非常に大きな変化をもたらすでありましょう。私が今まで語ってきた真理は、ある意味で、あなたの既に知っていることかもしれません。しかし、誰も本当の意味で信じていなかったのであります。誰も信じていなかったので、誰もその真理に生きた人はいなかったのです。この真理は、神のごとく古いけれども、実際は二十一世紀のごとく新しいのです。あなたは真理に生きなければなりません。もし、統一原理の啓示が、この年を経てきた真理を、あなたの心の中で、現実のものとしてとらえられるようにしてくれるなら、あなたはその結果として、新しい真理を発見するのです。統一原理は、我々の現実の神への道を指し示しながら数百万の青年たちの心を動かしております。世界の多くの人々が、神は絶対であり、完全であり、その完全なる神がその対象として、完全なる人間を求められるということを学んできています。イエスは、「それだから、あなた方の天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ五・四八)と言われました。彼は、我々の価値の基準は、神のごとく完成することであるということをはっきり示しているのです。そうでなければ我々は、神の対象であることはできず、神も我々を受け入れることができないのであります。

 我々は、誰しも完全でありたいと願い、地上に天国を願っております。しかしながら、我々は「それは、どのようにしてなされるのでしょうか」と問わずにはいられないのです。果たして、人間が完全であることなどできるだろうかと思うのです。ある人々は、はっきりと弁明して、そのような野望を抱くこと自体が甚だしい間違いであることは、ただ人間を観察してみればすぐ分かることであると主張します。また、我々は、すべてのものの中に、最も神聖なものの中にさえ、本来的に罪や苦悩というものが備わっていると強調し、「神のみが完全なのだ」と言うのです。しかしながら、神の創造の構想の中における人間に対するイメージについて、十分に理解してみると、完全ということが我々の手の届かないものではないということが分かるようになるのであります。

 神の創造理想において、我々は神の宮、神が主人として住まわれる神の霊の宿る宮として設計されました。「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか」(コリントⅠ三・一六)。

 我々は、神の宮となるべく設計されました。我々が、そのような身分を自分のものとするとき、もはや我々は堕落に向かう意志というものをもてなくなるのです。制限とか、法則とかは、もはや必要でなくなるでしょう。なぜなら、神の意志が、我々の意志となるからです。神の霊が完全に我々の中に住まわれるので、我々はただ神の命ずるままに動くようになるのです。そうして、我々を導き伴っていく力は完全な力ですから、我々は完全なものとなるのです。

 人間が、この最終的目的に到達したとき、彼は、神と完全に一つとなるのです。彼は、もはや人間的基準にのみ生きるのではなく、神のような基準に生きるようになるのです。完全な宮である彼の中に神の霊が住み、彼を所有するので、彼は神の性稟をもつようになり、神の神性と力とを反映するようになるのです。このようにして、人間は天の父が完全であられるように、完全になることができるのです。これが、神がアダムを通して全人類に及ぼそうとされた本然の姿であったのです。

 結婚は、地上に神の国を実現するための最も重要な手段であります。アダムとエバは、神の最初の子供でした。彼らは神から生まれ、神の中で育ち、そして神にあって完成すべく造られていました。神は、アダムとエバを天的婚姻によって、一つにしようと計画されていました。彼らは、罪のない子供として生まれ、やがて全人類の真の父母となるはずだったのであり、地上に神の国を成して、最初の「王」と「女王」になるはずだったのであります。

 しかし、そのような神の国が、果たしていつ存在したことがあるでしょうか。一度たりとてなかったのです。その代わりに歴史は悪なる方向へと出発して行ったのです。悪の最初の出発の時からずっとサタンは、この世の神となってきました。それゆえに、神がこの地上に神の国をもつことができるよう、一つの完成された国を復帰するということが神の復帰の目的、神の救いの目的であったのです。そのために、神は一つのモデルを必要とされたのです。では、誰がこの地上に完成の基準を示すことができるでしょうか。この必要を満たすためにメシヤが来られるのです。

 イエス・キリストはメシヤとして来られました。彼は、あらゆる基準における完成のモデルでした。個人、家庭、氏族、民族、世界的基準のすべてにおいて、彼は、彼の生きている間に完成された世界を建設しようとされたのであり、何世紀にもわたって成そうとされたのではありません。

 神は、勝利者なるイエス・キリストを送る前に、イスラエル選民をもってその受け入れる基台を整えられました。彼らは、メシヤ降臨のための基台だったのであります。イスラエル民族は来たるべき主と一つになったならば、自分自身とその国家とを完成することができたはずなのであります。そして、あの時、神の国は実体として実現されていたはずなのであります。

 しかし、イエスは、御自分の民に受け入れられませんでした。迎えられるどころか、彼は、あらゆる基準における迫害を受けたのです。イエスは、復帰されたエバの立場にある花嫁を迎え、最初の神を中心とした天的家庭を打ち立てることを否定されたのです。その代わりに、イスラエルの人々はイエスを十字架にくぎづけてしまったのです。コリント前書二章八節に、「この世の支配者たちのうちで、この知恵を知っていた者は、ひとりもいなかった。もし知っていたなら、栄光の主を十字架につけはしなかったであろう」と書いてあります。このように、イエス・キリストの使命は地上に成されないまま残されてしまったのでした。

 神の摂理歴史は悲しい、悲しい物語なのです。神の心を慰め、神のみ旨を成就するために、我々は、神の復帰の路程を明確に理解しなければなりません。

 神が人間を創造されたとき、神は、アダムとエバという男と女をエデンの園に置きました。彼らは、二人ともサタンと一つになり、罪を犯し、それによって、神を置き去りにしてしまったのでした。復帰の過程において、神は、アダムとエバの両者を復帰しなければならないのです。イエスは、罪のないアダム、完成されたアダムとして来られたのであり、それゆえに、彼の第一の目的は、花嫁を復帰して、最初の神の家庭をつくることであったのです。そして、すべての堕落人間が真のオリーブの木である彼に接ぎ木され、神を中心とした家庭、氏族、国家がそのようにして、復帰されていくはずだったのです。すべてのものが、隅々に至るまで、完成されるはずだったのです。罪なき神の国は、過去二〇〇〇年の間ずっと現実のものであったはずなのです。コリント前書一五章四五節に、イエスが「後のアダム、第二のアダム」と書かれてある理由はここにあるのです。

 イエスは来られました。しかし、十字架につけられてしまったのです。彼は、彼の花嫁を復帰するチャンスを与えられませんでした。そして、これがイエスが再臨を約束された理由なのです。イエス・キリストは、二〇〇〇年前、未完遂のまま残した彼の使命を完成させるために、再び来なければならないのです。繰り返して言いましょう。イエスは完成されたアダムであり、彼の使命は全人類を復帰することでありました。その第一の段階は、彼の花嫁エバを復帰することであったのです。イエスは、人間であり神そのものではなかったのです。彼が再び地上に来られる時、彼は第三のアダムという立場で一人の人間として来られるのです。

 これらの啓示をもう少し深く理解してみましょう。黙示録に、小羊の婚姻に関する預言があります。神は、エデンの園においてアダムとエバが天的婚姻において一つになるよう計画されていました。その時、それが実現されなかったために、神はイエスにその生きている時にこの結婚を成就させようと計画されたのです。しかし、イエスもまた、イスラエル民族の不信によってそれを成就することができなかったのです。

 イエスは第二のアダムでした。彼が復帰された花嫁である第二のエバと、天的婚姻において、祝福されることが神の願いであったのです。神は、彼(イエス)がこの地上に罪のない子を生み殖やすことを願われたのです。そして、イエスとその花嫁は人類の真の父母となるはずだったのであり、全人類は、彼らに接ぎ木されることによって生命によみがえるはずであったのです。

 イエスは人々に警告しました。「あなた方は自分の父、すなわち悪魔から出て来た者であって」(ヨハネ八・四四)人類の出発点から我々はサタンの子として生まれてきたのです。真の父母が復帰されることによって、我々は神の子になる完全な救いを得て、天の父なる神の子として再び生まれなければならないのであります。

 神のみ意は、イエスの時成就されないまま否定されてしまいました。そのために、彼は再び第三のアダムとして来られるのです。小羊の婚姻の宴は開かれるでしょう。全人類の真の父母は、我々の時代に実体として立たれるでしょう。神は、神の真の家庭をこの地の表に生み出されるでしょう。すべての人々が、真の父母を通して新たにつくり変えられるでしょう。すべての人々が、この世界に罪なき子供たちを生み殖やすことができるようになるでしょう。これらのことは、イエス・キリストが再び来られる時に成されるのであります。地上天国は、その時始まるのです。これが希望の日、再臨主が来られる日なのであります。

 これが、神の本然の御理想が初めて実現される日なのであります。これが、神が人と共に住む日なのであります。神は喜びに満たされるでありましょう。そして、神のひとり子が完成された第三のアダムとしてこの地上に全く新しい歴史を出発させるでしょう。その日には、我々は神の生きた似姿となり、かくして、神は神の国を地上にもたらされるでありましょう。

 私は心の底からこれらのすべてのことの実現が、神の時の満ちている今、すぐ間近であるということを皆様にはっきりお誓いするものであります。このような理想の最終的実現は、人間の希望であったと同様に、神の希望であったのであります。

 熱心に聞いてくださって本当にありがとうございました。御静聴を感謝いたします。どうもありがとうございました。
















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14_アメリカに対する神の希望

 御旨と世界
(全面表示)

 



アメリカに対する神の希望



1973年10月21日 ワシントン リスナー講堂にて


 紳士、淑女の皆様、私の講演に参席くださいましたことを今夜再び感謝いたしたいと思います。今夜は「アメリカに対する神の希望」と題して話したいと思います。

 私は皆様方すべてを非常に愛しております。というのは、私は神を愛するからであり、そして神はアメリカと、アメリカの国民を愛しておられるからです。神の祝福を受けるためにその祝福に自分が値することを実際に証明しなければならないのは、神の摂理の基本的な原則でありました。歴史を通じて、犠牲の生活を送ることによって、神の祝福に値した多くの義人がおりました。にもかかわらず、私たちは、私たちが今日生きている世界が神の国からは全く程遠いということを知っております。私たちは人類の歴史が誤った所、すなわち悪なる所から出発したことを知っています。これが、聖書がこの世の神はサタンであるといっているゆえんであります。

 世界を復帰し、神の国をつくるためにこの悪なる世界から闘志を呼び出すことは神の戦法でありました。神のやり方を理解するために、神が摂理された歴史を調べてみましょう。アダムの家庭は、神が創造された最初の家庭でありました。この家庭にはアベルという一人の男がいて、神は彼を最初の闘士として選んだのであります。アベルは神に心から仕えました。そして彼は神の目的のために自分の命を投げ出した最初の人となったのであります。

 その後神は、神の闘士としてノアを呼ばれました。そしてノアは全く考えられないような使命を成し遂げたのです。神はノアに、舟を造るよう命令されました。そして、彼はそれを山の頂上で造るということになったのです。さて、舟を造るにあたっては、水のある造船所を必要とするというのが常識です。しかし、ノアに与えられた指示は海岸や、川辺ではなく、山の頂上に箱舟を造ることでありました。ここにいる我々のうちで、何人がそのような使命を受けることができるでしょうか?

 何人がそのような命令に従い、みじんも疑いもせず仕事に取りかかることができましょうか?

 ノアの時代には、ノアが神から命令を受けたことを誰も信ずることができませんでした。ましてや誰も来たるべき洪水審判を知らせる彼の使命を理解することはできなかったのです。ノアがその時代の人々にどのように思われたか想像できますか?

 この講堂におられる御婦人方のうちで、どなたか自分がノアの妻の立場であったらということをお考えになりませんか?

 私は、あなたがとても幸福な奥さんであったろうとは考えません。

 ノアの妻は毎日、ノアの弁当箱には少しの食物しか入れなかったに違いありません。ノアは箱舟を造るのに忙しく、家族の面倒をみる時間がなかったのです。数カ月間のうちに、家族のうちで口論が始まったに違いありません。しかし、ノアの妻がそうした状態を続けざるを得なかったのは、十二カ月間でなく、十二年間でもなく、一二〇年間だったのです。それではなぜ神はノアに、そんなにも理解し難い使命を与えたのでしょうか?

 なぜ神はそのようにせざるを得なかったのでしょうか?

 それには理由があります。それは悪なるがゆえにです。神は悪と共におられることはできません。神の方向は悪のそれと一八〇度違っています。神は悪なる世界を受け入れることはできないのです。だから、神は罪悪世界すなわち、悪に染まったあらゆるものと関係をもつことを望まれないのです。

 我々はすべて神の構想によって造られ、従って我々人間の性質には神に似た特徴が見られます。まずあなたがたに強烈なある感情をもっている一人の敵があると考えてみてください。あなたは、その人に似たいなどとは思わないのです。そのように神も悪、サタン世界とは何も関係がないのです。ですから、神がサタンに対処するには人間が理解し難い方法がよくとられるのです。

 神はまた人間の信仰を試されます。神は単に人間の常の事を望むことによって人間の信仰を試すことはできません。私たちは神の途方もない命令に喜んで従わなければならないのです。これは簡単なことではありません。人々はノアが箱舟を造っているのを見て、ノアは気違いだと考えたのです。誰も彼が神の構想の中心的な立場にいるなどとは考えませんでした。ノアばかりでなく神が選んだ他の男たちも、彼らを世界的な視点から見た場合には特殊な行動をとっているように見えるのです。アブラハムの場合を見てみましょう。

 神はアブラハムを、神を信ずる人の家庭からではなく、偶像商人の家から呼び出されました。そして、彼の悪なる環境を分別し故郷を離れるよう命令しました。神はアブラハムが神の闘士となることを望んだのであります。これは神の個人的な命令でありました。もし、アブラハムがこのことを父親に相談したら、その偶像商人は疑いなく彼にこう言ったでしょう。「お前は気でも違ったのではないか……」と。アブラハムはそう言われることをよく知っていたので、神からの命令を父親には告げなかったのです。誰が彼を信じたでしょうか?

 彼の命令は隣の人に挨拶するようなそんな簡単なものではありませんでした。神は見知らぬ土地、はるかエジプトに向かって旅立つよう指示したのです。その時のアブラハムの決意は、彼の信仰と神への信頼に基づく孤独なものでした。信仰のみによって、神の命令に従う以外の何物も心にもたず彼は決意し、故郷をあとにしたのです。私は彼が真夜中に、そっと出て行ったことを知っています。ある日突然、彼は自分がジプシーのようにさまよっているのを見つけるのでした。彼は自己否定をして生きたのです。すなわち、すべてをあきらめたのでした。

 神の闘士は共通のある性質をもっています。彼らは一様に、自己と環境を否定することから使命を出発しているのです。イサクの息子ヤコブも例外ではありません。ヤコブは神に仕えることにおいては強烈な意志力をもった人でした。彼は、神にいまだかつて見たこともないような情熱をもって仕えようと願っていました。彼は誰もまねのできないような何かを成し遂げることによって、模範的な道を開こうと願っていたのです。

 聖書にはヤコブの話がたくさん載っています。その一つに、彼があつものと引き替えに長子権を買った非常にずるがしこい話があります。そしてその後、彼は兄エサウに与えられるはずの父親の祝福を奪ったのです。この事件からヤコブは、彼が兄の敵になるだろうということをいち早く知ったのです。彼はそれでも敢えてしたのでした。ヤコブの願望、すなわち神の祝福に対するあくなき欲望は彼の心の中でそれほど強烈だったのです。神は本当に慰められたのです。イサクの祝福を受けてのち、ヤコブはふるさとを離れ、見知らぬ地ハランに行くことによって兄から殺される危険を免れたのです。

 二十一年間ヤコブはハランでの艱難の生活に耐えたのでした。その間ヤコブは彼の伯父のラバンに何度もだまされました。ラバンはヤコブを十回だましたのです。しかし、ヤコブは一度も文句を言わなかったのです。彼は、自分の祝福された、故郷に帰る日まで忍耐し、待ち続けたのでした。ついにその日が来、帰る道すがらヤボクの川辺で、神は天使をヤコブと闘わせるために送られました。さて、このことを考えてみてください。神から来た天使が突然ヤコブの前に現れ、恐ろしい敵となったのです。神は本当にヤコブを追い詰め、彼の信仰を試したのです。ヤコブは天使と相撲を取らねばならず、そしてそうしたのであります。

 ヤコブは一晩中闘いをやめませんでした。彼は決してあきらめませんでした。その時、神はヤコブが最後まで、死ぬまで闘う気であることを知ったのです。天使が彼のもものつがいを外した時でさえ、ヤコブは激痛にもかかわらずあきらめようとしませんでした。ヤコブはついに試練に勝ち、神側の天使は降参したのです。それで神は、「あなたはもはや名をヤコブと言わず、イスラエルと言いなさい。あなたが神と人とに、力を争って勝ったからです」(創世記三二・二八)と言われたのです。

 次に、神はモーセを神側の闘士として選ばれました。モーセがぜいたくな生活をほしいままにできるようなパロの宮中で育ったことがどれほど幸運なことであるか考えてみてください。しかし、ある日彼は、彼の同胞の闘士として突然立ち上がったのです。彼はもはやエジプト人の同胞に対する抑圧に我慢がならなかったのでした。その時彼は、神が彼と共におられることを知っていました。彼は、彼を取り巻く環境を拒否し、自己を否定することによってミデアンの荒野に向かって出発したのです。彼は四十年間神の祝福の価値を忍耐して増し加えながら最終的な使命をもったのです。モーセの生活は極めて質素であり忍耐強いものでありました。毎日、彼は神の目的に新しくなり、来たるべき使命を心待ちにしつつ、彼の同胞をエジプトから連れ出すため神の導きを待っていたのでした。

 アベル、ノア、アブラハム、ヤコブ、モーセ等これらの人々はみな神の闘士でありました。さて、それでは洗礼ヨハネを見てみましょう。聖書には偉大な聖人、預言者として書かれていますが、洗礼ヨハネは乞食のように国中を巡ったのです。らくだの毛皮に皮の腰ひもをまといながら……。そして、いなごと野蜜で食を保ちながら、彼は靴も履かず歩き回ったのでした。これはヨハネの時でさえ尋常な生活ではありませんでした。私は洗礼ヨハネの両親が息子を誇りに思っていたとは考えません。彼らは息子を恥ずかしく思っていたのに違いないのです。

 何年も何年も荒野に居て、乞食のような生活をしている息子、洗礼ヨハネの両親の立場に自分をおいて考えてみますと、どうでしょうか?

 私はイスラエルを旅行してみましたが、砂漠には、いなごも野蜜も多く見つけられるとは思いませんでした。洗礼ヨハネは何度も食物を乞い求めなければならなかったのです。もし、私が今夜あごひげをはやし、動物の毛皮を身にまとい、この演台に上がり、そして神の言葉を述べているとしたなら、あなた方は、きっと私が気が違っていると考えるだろうと思います。

 それでは、このようにしてイエス・キリスト御自身の立場を考えてみましょう。この中にはきっとイエス様の生涯について、種々の意見をもつ敬虔なクリスチャンの方々が多くおられることと思います。あなた方はイエスの出現をどのように眼前に思い浮かべますか?

 イエスの公生涯以前の三十年間を、イエスは何をやっていたのでしょうか?

 彼は大学のようなところで勉強していたのでしょうか?

 聖書には彼が小学校へ行ったということさえも記されていません。彼は労働者であり大工の見習いでした。聖書の中には知るべき多くの、またはっきりと書かれていない隠された真理があります。もし、私がそれらの秘密をいくつかをここで説明するなら、私はきっと皆さんが驚かれると確信しています。たとえもし、私がこれらのことを知っているとしても、私はこれらの話を軽々しく皆様に語ることはできません。なぜなら、皆さんはその時きっとこう言うであろうからです。「どうしてそんなことがあなたに分かるのですか」……と。

 私はそれをイエス様から知らされました。そうです。私は神から学んだのです。思い出してください。アブラハムの時代は誰もアブラハムを信ずることができませんでした。同じように、たとえ私が正直にイエスの時代に実際に起こったことを皆さんに言ったとしても、誰も簡単に私を信じはしないでしょう。このような時代の社会的見地からイエスは父なし子、私生児でした。神の側から見れば彼は聖霊によって生まれたのでした。しかし、どうやってそれを人々に納得させることができるでしょうか。それでは現実の問題として考え、私が言おうとしていることの価値を考えてみていただきたいと思います。

 マリヤは結婚する前にイエスをはらみました。ユダヤの法律では、そのような女は石打ちの刑によって死ぬ運命にありました。ヨセフはマリヤのことで憤りを感じ、彼女と離婚する適当な時をひそかに待っていたのでした。その時天使がヨセフに現れ、彼にこう言ったのです。「マリヤを妻としてめとりなさい。彼女を責めてはいけません。彼女は神の特別な使命をもっているからです」。もし、ヨセフが全き人でなかったらマリヤは必然的に石打ちによって死に追いやられたでしょう。

 さて、皆さんはヨセフがこのことを両親に向かって、「お父さん、お母さん、私の妻となる人、私の婚約者は妊娠しました。しかし、天使がこれは神の意志によるものであると言いましたから、私は彼女を妻とし、彼女のめんどうを見なければなりません」などと相談できたと考えますか?

 ヨセフの両親は何と言ったでしょう?

 この中には年配の御夫婦がおられます。ヨセフの両親の立場になって考えて見てください。ヨセフがそのようなことを言っても信じようとはしないでしょう。ここでヨセフは孤独な決定をしなければならなかったのです。誰にも相談することなく、彼は婚約者をある秘密の場所に連れていったのです。

 私はヨセフがマリヤに対して大きな疑いをもつような極めて苦しい時を通過したということを確信しています。ヨセフは妻となるべき人にこう聞いたに違いありません。「マリヤ、私たちは心が通じ合っているのだからお互いに秘密はもっていないはずだ。何が本当にあったか私に話してくれるね。お前のおなかの子の本当の父親は誰なのか?」どんな夫もこのことに関してはとても知りたがるものなのです。しかしマリヤが夫に対して、「この子供の父親が誰であるかは私は本当に知らないのです。私は神によって妊娠したからです」と彼女は真実を言ったのです。何人の人が彼女の言葉を信ずることができるでしょう。

 今、信ずることはより簡単です。私たちはイエスが誰であるか知っているからです。しかし、これはイエスが生まれてからの問題ではありませんでした。それ以前の問題なのです。

 ですから、ヨセフは確実に疑いをもち心に傷ついた心情をもっていたのです。彼は“私の妻は真実を言っていない”と考えました。このような状態から、彼が生まれる以前からイエスの家庭には感情的な食い違いや動揺があったのです。

 こうした事実に良い証の場面があります。ある日、イエスがカナで結婚の祝いがあった時、そこで母親に会いました。マリヤはイエスに、「ブドウ酒がなくなった」と言いました。彼は母親に向かってこう言ったのです。「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか」(ヨハネ二・四)重要なことは、彼がお母さんと言わずに「婦人よ」と言ったことです。のちにイエスの弟子の一人が彼の所にやって来て、「あなたのお母さんと兄弟たちがあなたに会いに来ておられます」と言うのを聞いて「わたしの母、わたしの兄弟とは、だれのことか。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」(マルコ三・三三〜三五)と言っています。これは、イエスの目からは、彼の家族が神のみ旨を行っていないということを示しているのです。

 イエスは彼の家庭に対して非常に大きな憤りを感じていたのでした。まだ明かされない多くの隠された話があります。彼の怒りの事実の多くがまだ知られていません。聖書はイエスの公生涯前の三十年はほとんど記録されていないのです。もしこれが栄光ある記録でしたら、神やイエスの弟子たちがそれを表したことでしょう。しかし、イエスは嘆きと悲しみのうちに生きたのです。すなわち彼は三十年の目立たない存在であったのです。だから人々は彼が、「私は律法を成就するためにやって来た。モーセは私について書いているのである」と言うのを聞いて、ある日突然、ショックを受けたのです。彼はこう言いました。「私は神の息子であり、天の父が私を送られたのである」「私は道であり、真理であり、命である。誰でも私によらないでは、父のみもとに行くことはできない」。その時代に私たちが生きていたとして、ここにいる何人がそのような途方もない言葉を信じることができたでしょう。イエスは人々を困惑させました。彼はそんなにもけたはずれであったのです。洗礼ヨハネでさえ、イエスを神の息子として見ることは難しかったのです。そしてヨハネは人々の心を準備させ、主の道をまっすぐにするため来るはずでした。

 今日、イエス・キリストを神の息子として受け入れることは非常に簡単なことです。なぜなら二〇〇〇年の間、キリスト教は彼を神としてたたえてきたからです。しかしその当時は年上の者たちは彼を受け入れず、また祭司たちも彼を受け入れなかったのです。彼らは、今日の我々に勝るとも劣らないほどインテリでありました。事実、我々がもしナザレのイエスの時代に生きていたら、多分彼ら以上の過ちを犯したかもしれません。彼らは単に、見捨てられた、不敬な、無法な異端者を見たにすぎないのです。彼らは率直に神の息子を見ることができなかったのです。

 イエスは長い間待ち望まれてきました。メシヤは二〇〇〇年の間、その到来を待たれてきたのであります。しかし彼がついに現れた時、彼を受け入れることができなかったのです。ユダヤ人のその当時の信仰が力なかったのではありません。今日のクリスチャンの信仰に劣らず献身的でありました。しかし、我々はイエスが関係をもった人たちはことのほか売春婦、取税人そして漁夫たちであったということを知っています。

 我々は、ある日若い女が高価な香油をイエスの体に注ぎ、彼女の髪の毛で足を洗った話を知っています。もし、私たちがこれらのことを見たとしたら、皆さんのうちの何人が敬虔にイエスを神の息子として受け入れると言うでしょうか?

 イエスの三年の公生涯は待ち望まれたメシヤの立場からは程遠い叫びでした。誰一人としてキリストの真の使命を理解することができなかったのであります。人々は彼らの地上の基準で、神の息子を罪深い目でもって裁いたのであります。彼らはイエスを自分たちの思うままに取り扱いました。この罪の世界はキリストの清さには決して相いれられません。彼は人々に近づきました。しかし、人々は彼を受け入れなかったのです。

 既に申し上げましたように歴史上のすべての聖人、預言者、義人はまず第一に完全なる自己否定をし、神に自分を捧げました。神が彼らを呼び集められた時、彼らは自分の家や財産、家族、また国までも捨てました。神は神の闘士を個人的な立場において、また家庭的、民族的、国家的、世界的な立場において必要としました。神は各々の立場において神の闘士を必要としました。そしてどの立場においても、神の闘士の資格は常に同じでありました。神はどのような使命が下されてもついていくことのできる、完全なる疲れを知らない信仰者を要求しているのです。神は神のみ旨に完全に服従することを要求しています。

 それでは、我々は神のみ旨とは何であるか調べてみなくてはなりません。なぜ神は人間にそのような困難な時を与えるのでしょう。個人的な救いは確かに、神の側においては重要なことです。神はそれをないがしろにはされません。しかしながらそれが神のなされる仕事の最終的な目的ではないのです。神は世界の救いのために、一つの家庭をその手段として呼ばれました。神は世界の救いを完成するため、人々を呼び集められるのです。神は世界救済の最終的な成就のために、神の闘士として一つの国を必要としています。

 イエスの時代の人々はメシヤの到来を切望していました。しかし彼らはイスラエルとして、神の選民として、彼らの国家的栄光のみを考えていました。彼らはイエス・キリストの世界的な使命を理解しませんでした。メシヤを選民に送るのは神の目的でありました。そしてメシヤは選民と一つになるのでした。そして彼らは信仰をもつ戦士となり、世界の救いのため戦い、成就するのです。

 メシヤのための基台は家庭的闘士であるヤコブ、そして民族的な闘士であるモーセを通して築かれました。最後にメシヤはイスラエルという国家に来ました。彼はその国の闘士であり、世界全体の闘士となるべきでした。神の目的は一つの教会や、一つの国家の救いではないのです。より多くのためにより少なきを犠牲にするのが神のやり方であります。もし、今日のクリスチャンが自分たちのみの救い、自分だけの天国そして自分たちだけの安寧を考えていたら、彼らは神の目的に沿って生きていないのです。もし私たちが自分だけの家族の救いのみに関心を寄せるなら、私たちは神の祝福を受ける価値はありません。もし人々が自分の同胞、すなわち自分の国の利益だけに焦点を合わせるなら、彼らは完全に神の意志に反して進んでいるのであります。

 神はそれぞれに救いを与えるでしょう。もしあなたが世界の救済のため神の闘士となるなら、あなたの救いは保証されるのです。今、クリスチャンの人口は世界の人口の多分七分の一くらいだと思います。しかしこの中でも献身的なクリスチャンは非常にわずかです。その献身的なクリスチャンの中で、いったい何人が人間の救済のために本当に励むでしょうか?

 私たちはすべて世界救済のため我々自身を捧げなくてはならないのです。

 神は、私たちが自己中心的に生きるのを喜ばれないのです。私は個人的にイエスと会いました。そして、神の嘆きが非常に大きいという啓示を受けました。今日も神はすべての人類の最終的な救済のために休みなく働いておられます。神はこの仕事を相続する神の闘士を必要としておられます。神の教会の目的は全世界を救うことであります。教会は神の手段です。イスラエル選民がイエス時代に忘れたのは正にこの事実でした。

 この知識をはじめとして、さらに我々の歴史的展望を続け、いかにアメリカが祝福されてきたか調べてみましょう。イエスの十字架と復活ののち、キリスト教は小アジア中に広がりました。主要な進出はローマでした。ローマはその中心ともいうべき所でした。というのは、その当時ローマが“世界”を意味していたからです。救われなければならない世界にとって、ローマはイエス・キリストの軍隊によって征服されなければならない所でした。しかしこれは、不可能な戦い、想像も及ばない目標でした。ローマ帝国は征服できない難攻不落の要塞のようでした。イエスの軍隊は手に何も持たなかったのです。彼らは武器を使わなかったのでした。剣もやりさえも。彼らはただ神とイエス・キリストの愛で武装したにすぎません。彼らはただ、確信と力をもって恐れずに前進したのでありました。彼らは血と犠牲の代価を払ったのです。

 さて、軍隊といっても死を恐れない軍隊ほど強いものはありません。信仰をもった軍隊に打ち勝つ敵はないのです。歴史はイエスの軍隊の証をしています。ローマ帝国はついに亡びましたが、イエスはローマを征服したではありませんか。世界救済の神の摂理の中心にローマ・カトリックはなったではありませんか。パウロというのは神の闘士になる立場におかれました。

 しかし、中世になって教会は大きく破滅の道をたどっていったのです。キリスト教はその精神において分裂してきたのです。中世教会の教会制度はその力、権力、その繁栄のみに携わり、教会は政治的に経済的に莫大な力をほしいままにしました。教会制度はこの力を保ち、乱用し、神の目的を忘れてしまったのです。彼らは自分の地位に執拗にぶらさがり、いかなる反対者も容赦なく迫害したのです。教会の指導者たちはイエスの弟子の直系でありました。なのに、自分の罪から立ち上がることができないのでした。これらの人々のキリスト教精神は完全に死んだものとなってしまったのです。

 しかし、神は前に進まなければならなかったのです。神は完全な答え以外には満足されないのです。教会は改革される必要があり、したがって宗教改革がこれに続いたのです。マルチン・ルターは新しいプロテスタント改革を始めました。この不満の花火は直ちにヨーロッパ中に広がり、教会の権力に対して反乱の嵐が巻き起こったのです。これらの反対者たちは、彼らの先祖の代からの古い教会を放棄したのです。全地域の義なる人々は、古い教義や習慣から解放されようと意を決しました。彼らは明らかに、教会ではなく神に礼拝したかったのです。彼らが望んでいるのは神のもとでの平等でした。最終的なる目標に世界を近づけるよう、彼らは神に加担したのでした。

 あとになって再びイギリスでは、貴族教会の耐え難い腐敗に対する反乱がありました。それはイギリス教会を浄化するための叫びでした。清教徒運動も始まりました。それはまたたく間に、迫害にまで広がっていったのです。これらの新しい求道者は、そうした新しい運動に、あらゆる手段をもって抑圧してきた既成教会の教会指導者たちを、恐れさせました。真実に礼拝の自由を求める者は、逃げ出してしまうか投獄されるかのいずれかでありました。彼らの精神は確固たるものであっても反抗する力に欠けていました。しかし彼らは屈することを知らなかったのです。ある者はオランダに逃げ、彼らが自由に礼拝することのできる新世界、新天地、新しい土地を求めたのです。

 新しい世界を夢見る者にとって、アメリカは魅力的なものであったに違いありません。アメリカが未踏の地だとしても、自分たちの切望する自由な礼拝を約束していました。清教徒も彼ら自身の社会共同体をつくるという強い願いを感じていたのです。アメリカはそれには理想の土地であったのです。彼らは勇気をもってそこに出かける決意をしたのです。彼らは大西洋に出て、おぼつかない旅に出たのであります。自分の命よりも強い信仰に力を得ながら彼らは命懸けの旅に出たのです。

 考えてみましょう。彼らは家族も、親戚も、環境も国も捨て見知らぬ土地に向かったのです。彼らのたった一つの望みは神でした。彼らが取るどの手段も神によっていました。旅は長く、嵐にもたくさん出会いました。彼らは絶え間なく神に祈ったのです。彼らは何にも屈せず、ただ神に屈服したのです。船で病気になり死にそうになったからといって、彼らには飲む薬もなければ、診てもらう医者もいないのです。神に屈服する以外なかったのであります。これらの清教徒団の男も女も神と一つでありました。それは生きる手だてだったのです。

 神に全面的に頼るという立場に自分を置いてみましょう。何と素晴らしい信仰ではありませんか。この英国清教徒団の信仰は、神の心情に触れたのだろうと私は確信します。神はその心情が動かされた時、約束事をされるのであります。そしてその約束がなされると神はそれを成就されるのです。神は彼らの願っていた最終的なもの――礼拝の自由――をこれらの信仰篤い者たちに授けようと決意されました。そしてそれ以上に恵みを与えようとされました。

 皆さんも御存じのことと思いますが、メイフラワー号はニューイングランドにあるプリマスロックという所に冬のさなかに到着したのです。ニューイングランドの十一月はかなり寒いものでした。新しく到着した者は飢えに瀕したのです。彼らが死ぬほどおなかがすいても、メイフラワー号に積んである穀物の蔵に手をつけなかったという事実は、本当に私を感動させました。彼らは春の穀物の植え付けのためにとっておいたのです。これは実に犠牲の崇高なる例であります。数日の生命のために自暴自棄になるより、あすに希望をもちながら死のうと思ったのです。

 清教徒団は目的と希望とにあふれてこの地にやって来ました。彼らは自分たちの命を全うするより、彼らの目的のほうが重要であることを知っておりました。神への信仰を除いて何が彼らにこの勇気、献身、犠牲の精神を与えたでしょう。彼らがプリマスに着いた時、航海に耐えた四十一人の男は一緒になって政府に対する彼らの考えをまとめました。「メイフラワー盟約」は神のみ名によってアーメンと結ばれ署名されました。これは本当に素晴らしい話です。この小さなグループは神に希望をおいてヨーロッパをあとにしたのです。彼らは神のもとにあって病にかかり死んでいきました。そして神のもとで生きのびたのです。彼らは最初の政府をつくりその公式文書に“神のみ名によって”と署名しました。

 アメリカの清教徒の話は神の歴史の一つです。それは歴史上の義人アブラハム、イサク、モーセ等のパターンのうち、これらの清教徒たちは現代歴史のアブラハムの家庭に当たります。ですから「メイフラワー盟約」がサインされたのちも多くの苦労に立ち向かっていかなければならなかったのです。

 アメリカでの最初の冬、大胆なメイフラワーの生存者は最初の人数の半分になっていました。来る日も来る日も、その冬は愛する者との心を引き裂くような別れの日々でした。これらの勇敢な開拓者が次々に死んでいきました。しかし、朝から晩まで、晩から夜明けまで彼らの生活は神のみ意を中心としていました。神が彼らの唯一の慰めであり、彼らの唯一の希望であり、彼らの唯一の安全でありました。神が彼らにとって第一の仲間であったのです。ここにまれなる純粋なる神の人の一団の例があったのです。彼らはあくなき信仰を証明し、神は代わりに力と勇気を与えられました。彼らは決して神への信頼を失わず未来の展望を失わなかったのです。アメリカに来ることの目的は神を中心とした国をつくり、神が住むことのできる、そして本当に親交を分かち合い神と共に親交を喜ぶことのできる天地をつくり上げることにあったのでした。これはすべて神の摂理の中にあることでした。なぜなら神は最終的な永遠の世界救済のため、神の闘士として仕える一国を必要とされているからです。

 それから、もう一つの奇跡が清教徒たちにもたらされたのです。辛うじて彼らが生き残り彼らの人口が半分になった時、インデアンの一撃は簡単に彼らを全滅させてしまうことができたのでした。しかし、ここでも神は彼らの盾となりました。メイフラワー号の生き残りの人々が出会った最初のインデアンは敵ではありませんでした。インデアンは、移住者を歓迎しました。もしその時清教徒たちが殺されたとしたら神のためのアメリカは多分存在しなかったでしょう。神はここアメリカでも神の人々を救うため介在されたのです。これは私の信念です。神は、彼らが定住することを望まれたのです。そして清教徒にその機会を与えられたのです。

 人口が増すにつれて、彼らは自分たちの植民地を拡大するためにインデアンを追いやらなければならなくなりました。もちろん、この地はもともとは新しいアメリカ人のものではありません。インデアンはこの地の住民であって清教徒たちはインデアンの目から見れば侵略者であったに違いありません。それでは、なぜ神はこれらの新しい移住者に大きなチャンスを与えたのでしょう。私の説明はこうです。神はアメリカの移住者に味方されました。それが、神の御計画の中にあったからです。さらに、これらのアメリカの移住者たちは神の要求に見合い、真に神への揺がない信仰を証明したからです。神は彼らに約束事を与え、その約束事を成就せずにはいられませんでした。

 アメリカの存在は神の摂理と一致しています。神は将来の仕事として地上に一つの強力なキリスト教徒の国をつくらなくてはならないのです。結局アメリカは、まず神のものになり、それからインデアンのものになるのです。これが、清教徒の立場を正当化することのできる唯一の解釈なのです。

 アメリカ大陸はそれまで特別な目的で隠されていました。そして適当な時まで発見されなかったのです。神の選んだ人々は決められた時にやって来ました。彼らは新しい生活方式を形造るためにやって来たのです。彼らの第一の相談相手は神でした。家では、子供の面倒をみながら農作業をしながら、あるいは、料理や建築作業をしながら彼らは神と仕事を分かち合っていました。神は彼らの唯一の安全でした。農夫は子供と畑仕事をする時、“神の名において耕そう”と言ったのです。彼らの毎日の生活は神のみ名においてなされたのでした。

 最初の春が過ぎて、彼らは整地し種を蒔き耕し、実りを刈り入れました。そしてすべての収穫を神の前に捧げました。感謝祭という美しい伝統はこうして始まったのです。次の厳しい冬に引き続いて彼らが最初に建てたのは教会でした。彼らが最初につくった道は教会への道でした。夜に、明け方に、朝に、昼に、彼らは神に祈ったのです。彼らはこう祈ったに違いありません。「神よ昔いた土地よりもっとあなたの住み良い教会をつくりたいと思います。私たちはあなたが住まわれ、主人となる場所をつくりたいのです」。

 そして彼らは、このキリスト教国家が地球上のどの国より世界のために良いことをなすだろうという未来の展望をもっていたのです。私は教会の次に学校を建てただろうということを確信しています。彼らは子供たちにかつての世界にあったどの学校より良い学校を望んでいました。彼らの住む家は最後に彼らの家を建ててからそれを神に捧げたのです。これが、私の知るアメリカにやって来た清教徒団の歴史です。初期のアメリカが美しいアメリカとして私の目に浮かびます。というのは神はあらゆる所におられたからです。学校に教会に、台所に、通りに、どんな集会場にも、マーケットにも神はおられたのです。

 アメリカでは、今建国二〇〇年を迎えようとしていることを知っています。それでは、一七七六年に独立運動を指導した人々を見てみましょう。これらの自由の闘士は英国本国の目から見たなら裏切り者でした。しかし神は、神の手段として神の遣わす人としてこれらの裏切り者を使われました。そして、彼らを通して地上に最高の国をつくろうとされたのです。

 大陸軍の総司令官、ジョージ・ワシントンは引き続く争いに、敗戦のつらさを味わっていました。彼がついにバレーホードで最後の心が張り裂けるような寒い冬を迎えた時は深刻でした。ジョージ・ワシントンはこのように祈ったに違いありません。「神よ、ヨーロッパから導き出し、新しい世界に連れてきたのはあなたでした。あなたは、重い灰色のヨーロッパの歴史を繰り返したいとは望んでおられません。あなたは私たちを解放し自由を与えました。あなたはヨーロッパでの誤りをこの地で繰り返されるのを望まれないはずです。私に誓わせてください。私は神のもとに一つの国をつくります」。そうして、ジョージ・ワシントンは彼の戦いを神の戦いにしたのです。そして得た勝利を神の勝利にしたのでした。

 この勝利とアメリカの独立は、神が多くのアメリカ人の祈りとともにジョージ・ワシントンの祈りを受け入れたからだということを知っています。神は、彼の選んだ闘士が新しい国のために働くだろうということを御存じでした。

 しかし、ジョージ・ワシントンは戦う何ものももたなかったのです。一方、イギリス軍はすべてをもっていました。力、権力、伝統、そして装備、彼らは軍の力を誇っておりました。アメリカの大陸軍は弾薬をもたず、わずかの兵隊しかおりませんでした。ジョージ・ワシントンはたった一つの武器しか持っていなかったのです。それは神への信仰でした。私はジョージ・ワシントンの立場がちょうどダビデが巨人ゴリアテと戦う立場と同じだと思っています。ダビデは主の名によって勝ちました。ジョージ・ワシントンも主の名によって戦いに勝ったのです。彼らは両方とも彼らの敵を神をして退散させたのです。そして、その二人とも全身全霊をもって、全存在と犠牲的精神を投入して戦いに勝ったのでした。

 さて、歴史を通して神の選ぶ人々は彼らの故郷では決して祝福を受けないという重要な事実があります。神はふるさとから導き出し、異国の地に移住させ、そこで神の人、神の国になることができるのです。その方式によれば、アメリカの人々は彼らのふるさとから信仰の旅に出て、大洋を越え新しい世界にやって来ました。そして、ここで彼らは神の祝福を受けたのです。神はアメリカに対してはっきりとした計画をおもちです。神は神を中心とした一つの国家としてこの国を繁栄させることを必要としておられました。神をもってしたなら何事も不可能なことはありません。不可能なるところからアメリカの独立は現実となり、その基台の上で大きな繁栄がやってきたのです。イギリス軍は国王のために戦ったのです。彼らにとってイギリス君主は絶対でした。アメリカ軍も彼らの王のために戦ったのです。神は彼らの唯一の王でした。そして神のみが絶対なのでした。新世界は神の名のもとに開拓されたのです。アメリカは絶好の地と思われました。ここは人々にとって最良の土地でした。

 アメリカのキリスト教の伝統は、外国人がこの地に来た時に目にし得る最も美しいものでした。私は毎日議会が祈りで始まることを知りました。あなた方の大統領は聖書に手を載せて誓います。ある日私は議事堂の小さな祈祷室を訪ねてみました。あなた方の指導者が何か重大な決定をする時、そこに来て、謙虚に神の前にひざまずき、神の助けを願うのです。そこにはジョージ・ワシントンが祈りのためひざまずくのを描いたステンドグラスがありました。ここに私はアメリカの本当の偉大さを見たのです。議会の最も高い立場から田舎の素朴な習慣まで神に頼る証はアメリカのどこでも見られます。

 この点でアメリカは、特殊な存在です。あなた方のお金、紙幣やコインにさえ、美しい字で「我神を信ず」と書かれ刻まれています。他のどこの国もそのような習慣はありません。それでは誰のお金でしょうか。あなたのでしょうか、アメリカのお金でしょうか、いいえ、それは神のお金なのです。どの紙幣も硬貨もそう言っています。あなたは管理する人です。神があなたの手に神の富を積まれるのです。そうです、この国はアメリカの国ではありません。神の国なのです。そして、そのような国はアメリカだけのために存在するのではありません。世界全体のために存在するのです。そうです、アメリカは新しい国として造られました。新しい伝統をもつ新しいキリスト教国家なのです。古い伝統の足かせはアメリカにはなくなったのです。あなた方は神のもとでの新しい国をつくることを望まなくてはならないのです。

 神の目的は世界のそして人類の救いであります。ですから、今日アメリカにおいて、皆さんはあなた方自身が偉大であるからそのような富を得た、と考えてはいけないのです。私たちは神の祝福が、神が世界を救うため、この国を手段として使うのが目的で、アメリカにもたらされたのだということを謙虚に悟らなければならないのです。もし、アメリカが神を裏切るなら、神はどこへ行くのでしょう。もし、アメリカが神を拒絶するなら、神はその目的を成就するのにどこに行くことができましょうか?

 共産主義世界に行かせてみようと望んでいますか?

 未開発国へでしょうか?

 神はアメリカを神の基台、アメリカを神の闘士として望んだのです。そしてアメリカは、神の目的を追い求めながら、犠牲の精神をもち出発させられたのです。アメリカは神の目的のために同じ犠牲の精神で歴史を完成しなければならないのであります。

 二つのはっきりとした例えを挙げてみましょう。アメリカ――北アメリカに来た人々は神と礼拝の自由を求めてやって来たのです。最初の移住者の唯一の動機は神でした。神のためにやって来た時、彼らは神ばかりでなく自由も富も得たのです。同時に多くの人々が南アメリカに行きました。彼らの唯一の動機は金でした。南アメリカは北アメリカ大陸に劣らず肥沃な土地でした。しかし、植民者の動機が金であった時は、金はおろか神も自由も見いださなかったのです。そして、南アメリカは低開発国のままで残ったのです。

 アメリカの近代歴史の奇跡です。あなた方は短い期間に歴史における最も強力な国家をつくり上げました。この奇跡はあなた方が、苦労して働いたから可能であったのですか?

 確かに皆さんは苦労しました。しかしながら、一生懸命やっただけでは十分な説明になりません。もし神が第一の仲間でなかったら、今日のアメリカをつくり上げることは不可能だったのでしょう。神は、アメリカの歴史において、一番大きな役割を果たしたのです。そしてこのことを神はアメリカに知ってほしいと願っておられるのです。

 アメリカの国民が目覚める時がきました。この国の高貴な出発があって神は祝福と約束を贈られたのです。皆さんの祖先の犠牲的献身は神の祝福の基でした。もし、皆さんが祖先を裏切ることがあるなら、もし、あなた方が神を裏切ることがあるなら、アメリカの行くべき道は一つしかありません。減びしかないのです。アメリカが神への信仰の柱の上に建ったのなら、もし神がアメリカの生活の中から出てしまわれるということがあるなら、あなた方の国は支えのない国となってしまうでしょう。あなた方の国の衰退は著しいものとなるでしょう。

 我々は種を蒔き、刈り入れます。今日、世界は二つの大きな陣営に分かれ、地球全体の争いが迫っています。なぜこのような現象が起こったのでしょう。歴史はイエスの時代に種を蒔かれました。イエスは歴史の種だったのです。彼の十字架は種蒔きなのでした。イエスと共に、右と左に十字架にかかった二人の泥棒がいました。

 十字架によって天国に行かれてから、刈り入れの時彼は十字架を通して戻ってくるでしょう。イエスの十字架の時の状態は彼が帰ってくる時、世界的な規模で繰り返されるのです。そして、今がその時なのです。

 今、我々は世界中で共産主義が強い勢力となっているのを知っています。民主主義世界あるいは自由主義世界は、神は存在すると言います。なぜ私たちは政治で民主主義の方を右、共産主義の方を左と呼ぶのでしょう。このような言葉はどこから来たのでしょう。今、私たちが追ってきた歴史の展望の中に最終的な理由があるのです。これは既にイエスの十字架の時代に決定されたことです。イエスの右側で十字架につけられた泥棒は民主主義世界を表し、イエスの左側に十字架につけられた泥棒は共産主義世界を意味するのです。

 左側の泥棒はイエスが十字架につけられてからも「おまえはキリストではなかったか、自分を救ってみよ」と言ったのです。彼はこうも言ったのです。「もし、おまえが本当に神の子であるなら降りてきて自分自身とこの私を救ってみよ」。イエスは黙っておりました。その男の言うことに答えませんでした。右側にいる泥棒はイエスを弁護したのです。その男は左にいる泥棒に言いました。「同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか、お互いは自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」(ルカ二三・四〇〜四一)。

 十字架の右側の男は何という信仰を表したのでしょう。自分が死ぬということを忘れ、イエスを弁護したのです。何と気高い行いでありましょうか。イエスは答えました。「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」(ルカ・二三・四三)。

 この瞬間、神を否定する世界が出現することを――すなわち今日の共産主義世界が出現するということが左側にいた泥棒によって暗示され、そして、神を恐れる世界の出現が右側にいる泥棒によって暗示されたのです。自由世界は右側にいた泥棒の立場に当たります。そしてアメリカは、これらの神を恐れる自由諸国の中心であるのです。アメリカは神の擁護者として選ばれました。ですから共産主義は“神はいない”と言うのです。

 共産主義者に向かってアメリカはこう言わなければなりません。「神はおられるのにあなた方は何を言っているのか、神は私たちと共にここに住んでおられます」。アメリカはこう言っているでしょうか?

 いいえ、今日のアメリカは急速に自己中心的になっていき、神から離れていっています。アメリカは他の国々のことをあまり気にかけなくなってきているように見えます。しかし皆さん方はアメリカを神の闘士として他の国々に捧げなくてはならないのです。アメリカが他の国々を援助する時、宣教師を送ったり飢えている人々を助けたりする時、黄金時代を迎えるのです。共産主義との対立はその時代の力の状態から起こりました。

 しかし今、アメリカは後退しています。大きな悲劇が同時代に絶え間なく起こっています。例えば、ケネディ大統領の暗殺や、国連事務総長であったハマーショルドの突然の死とかがアメリカや世界を揺り動かしているというのは、単なる偶然の事件ではありません。アメリカの精神はその時以来、下降線をたどっているのです。この国がなくなったら、この国の指導者に神から与えられた使命の生命がなくなったら、多くの問題がみんなを悩ますでしょう。神はアメリカを離れつつあります。これは神の警告なのであります。

 この時代においてはすべてのクリスチャンは神のために、右側の泥棒の役割をなすように定められた、世界の闘士となるべきです。クリスチャンは立ち上がり、世界の救いのために喜んで闘わなければなりません。しかし、今日のクリスチャンは、彼らの分裂した宗派を完璧なものにするため、そして教会の利益のため、それどころではないのです。私たちは主の来臨と一つにならなければなりません。世の終わりは再臨の時期が近いということを意味しています。神はどこかにその足場をもっておられるのに違いありません。神が成就できる基台があるに違いありません。アメリカはその基台であります。なのにアメリカは深刻に悩まされているのであります。

 アメリカに最初に来た時、私はニューヨークに来て、ラッシュアワー時の五番街に立ってみました。そうしましたら突然涙があふれ出て仕方がありませんでした。私はエンパイア・ステート・ビルや世界で一番高い新しい貿易センタービルを見上げてみました。私はこれらのビルの中に神がおわし給うか自問してみたのです。

 ニューヨークはますます神のいない街となっていきます。犯罪の街です。美しい街は今やずたずたになっています。その街にはもはや不道徳や、神不在のしるしを認めるばかりです。ラッシュアワー時に私の目にしたものは本当に私にショックを与えました。私は神の目からは全く耐えられない多くのことを目にしたのです。

 私は神に聞いてみました。「あなたがアメリカを祝福されたのはこの目的のためでしょうか」。私は神がこれらの巨大な建物の中に神の霊を宿らせたいと望んでおられるのを知っております。美しい車の中で若者たちが神への情熱と他人への愛情で意気立っているのを見たいのです。神を讃美するのにエンパイア・ステート・ビルはいりません。神を讃美するのに一九七三年型の自動車も必要としません。もしあなたが祭壇としてたった一つの岩を持っていて神に仕え、そこに希望と涙を注ぐなら神はあなたと共におられるのです。私は神が大きなニューヨークの街を離れつつあるのが本当に分かるのです。ニューヨークは、かえって悪の街になりつつあります。

 アメリカはいろいろな人種、いろいろな信念、国籍をもった人が一つの新しい血統となった、るつぼとして知られてきました。何かを溶かすためには熱が必要です。皆さんは、アメリカに熱を与えたのが誰だと思いますか?

 神がその熱だったのです。神なくしてはあなたがたを溶かして一つにすることは決してできなかったでしょう。

 アメリカはキリスト教精神を通して本当の兄弟の関係を達成することができました。しかし、この基盤なしにはアメリカの道徳はより低下するでしょう。今日、アメリカの衰退の多くの徴候が見られます。アメリカの若者はどうでしょうか。覚せい剤や青少年の犯罪はどうでしょうか。あなた方の家族の崩壊は?

 私はアメリカでは四組のうち三組が離婚すると聞いています。カリフォルニア州連邦政府は、結婚証明書より離婚証明書のほうを多く発行しています。

 人種問題や、共産主義の威嚇はどうでしょうか?

 経済危機はどうでしょうか、どうしてこういう問題が起こるのでしょうか。これらは神がアメリカを離れているしるしなのです。私は神が今アメリカを離れつつあるのが分かります。この調子が続けば、本当に短い間に神はもはやアメリカと共におられなくなるでしょう。神は、アメリカの家庭を離れつつあるのです。かつて、神中心であったこの国には多くの無神論の徴候が見られます。神不在の社会だけが受け入れるような多くの法律が出てきました。アメリカ人の食卓にはいつも祈りが聞かれました。今日、アメリカの学校ではお祈りもしません。

 皆さんはこう質問するかもしれません。「アメリカ人に向かってこんなことを言うあなたはいったい何者ですか」と。どうかあなた方の中でこの国のために責任を取ろうという人がいたら手を挙げてください。過去十年間、アメリカの教会はその精神において堕落してきました。アメリカの教会は中流家庭のようになってしまいました。アメリカの将来は若者にかかっていますが、若者たちの心に躍動を与えることができないのです。アメリカには精神的革命が必要なのです。心の革命がアメリカにもたらされなければならないのです。個人主義は神中心のイデオロギーにつながらなくてはなりません。誰がこのことをやるのでしょう。誰がアメリカの若者の心を燃やすのでしょう。大統領がするのでしょうか?

 金持ちのアメリカの事業家がするのでしょうか?

 アメリカの教会がやるのでしょうか?

 私は神が私をアメリカに送られたということを知っています。アメリカでぜいたくな生活をしに来たのではありません。全く逆です。私自身の目的できたのではありません。神が送られたのです。六〇〇〇年の間、神はこの国をつくるため働いてこられました。全世界の未来はアメリカにかかっているのです。神はアメリカに非常に大きな賭けをしておられます。誰かがアメリカに来て神が離れるのを止めなければなりません。

 韓国の私の信者たちは涙で私に別れの挨拶をしました。私は韓国でもやらなければならないことがたくさんあることを知っています。しかし、韓国のみに携わっていたら、世界の救いは遅れるのです。アメリカは神の闘士でなくてはなりません。私は、神のみ旨がアメリカに中心点をおいているのをはっきり知っています。ちょうど、神の摂理歴史において多くの人々がそうであったように、私は韓国を去り、韓国での環境を捨ててきました。この国でお金をもうけるために来たのではないのです。私はアメリカに来た時、財産、家族、アメリカでの私の全生活をゆだねました。私は神のみ旨に奉仕することのできる新しい国にやって来たのです。

 私たちは質素でなければなりません。我々はこの瞬間から地上に最も大きな運動、神を取り戻す運動を率先してやっていかなければならないのです。あなたの誇りも、富も、車も、大きな街もすべて神がおられなかったら、ちりのようなものです。神を取り戻さなくてはなりません。あなたの家に、教会に、学校に、国家的な生活に神の目的のための仕事を始めなければなりません。神を取り戻しましょう。神のアメリカでの存在を生きた現実としましょう。

 私は、アメリカの歴史上で多分いまだかつてない若者の運動を始めました。これは新しい清教徒団の運動です。韓国から来た男が神のためにアメリカの若者の運動を始めるというのは奇妙なことには思われませんか?

 あなたの家族が病気になったら医者が来るでしょう。家が火事になったら消防士が来ます。神は目的を成就するため、それに合う方法を取られるのです。もし、アメリカにあなた方の必要とするものがないなら、外部の人がその役割を成就してはならないという理由はありません。アメリカは、アメリカを最も愛する者のものです。

 アメリカのクリスチャン人口の数は何らの印象にも値しません。皆さんは数では神を感動させません。燃えるような信仰によってです。その基準はアブラハムの信仰です。アメリカのクリスチャンの何人が神に対する情熱で本当に泣いていることでしょうか。何人のアメリカのクリスチャンが神の仕事が己の仕事になっているでしょうか。幾人の人が神を第一と考え、神のために死ぬ用意があるでしょうか?

 誰かが始めなければなりません。今始めなければならないのです。迫害のもとにあっても誰かが始めなければなりません。誰かが神の目的のために自分を捨て、神を取り戻さなくてはならないのです。我々は、燃えるような信仰で教会を満たさなくてはなりません。私たちの家族が本当に幸福になれる新しい家庭をつくらなくてはなりません。神がいまし給う新しい社会、新しい国を最終的にはつくらなくてはなりません。アメリカは、アメリカを越えていかなければならないのです。それがこの国が生き残るたった一つの道です。私は次のことがはっきり分かります。すなわち、これが神のみ旨であり、それゆえ私がアメリカに来、そしてここで私は二十世紀に叫ぶ一つの声となっているということを。

 過去数週間、特にこの二、三日統一教会の者たちがあなた方一人一人に一度ならず二度も三度も出会ったと思います。私はきっとあなた方はそれにうんざりされたと思います。しかし、御自分をこの若い者たちの立場においてみてください。なぜこんなことをしているのでしょうか?

 彼らにとって物質的利益になるのだろうか?

 この運動をしている若者は八五パーセントまでが大学卒業生です。彼らは年間、数万ドルを稼ぐ能力があります。しかし、そうしないで彼らはこの講演に来るように街頭で皆さんに呼びかけているのです。彼らは非常に情深いのです。彼らには一つの目的があります。アメリカを救いたいのです。彼らはアメリカに神を取り戻し、世界に尽くすことによってアメリカが救われることを知っているのです。

 これらの若者は、アメリカの精神を再び意気揚がらせるためここにいます。アメリカは偉大な伝統をもっております。すべきことは再び生き返らせることです。新しい考えをもった清教徒の新しい運動を必要としているのです。これは必ずなされなければならないのです。アメリカにはもう他に行く道がありません。皆さんにはもう曲がる他の方向がないのです。新しい清教徒の運動がやって来ました。アメリカのためにではなく、世界のためにです。言い換えれば世界救済の運動はこの国において始まらなければならないのです。アメリカはその基台であります。アメリカがその使命を成就する時、永遠の祝福が約束されるのです。

 これはアメリカに対する神の希望です。これは神の皆さんに対する切々たる希望です。私自身は、我々がこの大きな十字軍のため、神と一緒になって励むということをアメリカの若者と共に誓いました。私は皆さんにこの若者たちに加わって応援してほしいと思っております。どこへも曲る道はないのです。もし、神をあなた方の家に連れ戻すならあなたの家庭は安全です。青少年の犯罪も解決されるでしょう。神を除いて人種問題のよい解答はないのです。共産主義の問題も、神の存在が実際となったら恐れることはなくなるでしょう。神はあなた方の健康も増すことでしょう。これがアメリカが自らを救う、たった一つの方法です。

 アメリが新しい輝かしい日を迎えるというのが私の心からの強い願いなのです。そして、こうした理由から私は「アメリカに対する神の希望」という題をもって講演しに来たのです。

 私は特に、今夜講演会に来てくださった一人一人の非常に思慮深い皆様方に心から感謝いたします。御家庭とお仕事に神の祝福がありますように。ありがとうございました。
















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15_キリスト教の将来

 御旨と世界
(全面表示)

 



キリスト教の将来


1973年10月28日



ルイジアナ ニューオーリンズ市芸術公演劇場

皆さん、今夜はお越しくださってありがとうございます。今夜の私の話題は、「キリスト教の将来」というものです。

 今夜、私はすべてのクリスチャンが知らねばならない、神から示された新しい天啓について話そうと思います。私はまた、選民イスラエルについてもたびたび言及するつもりです。聴衆の皆さんの中には、きっとたくさんのクリスチャンやユダヤ人の方々がいらっしゃることだろうと思います。私はすべてのクリスチャンの兄弟姉妹を心から愛していますし、ユダヤ民族を高く評価しています。私がこれから話すことには、決して私の個人的な感情は入っていないということを、最初に御理解願いたいと思います。私はただ真理の証をしているだけなのです。

 時として真理を証言することは苦しいことです。それでもそれは、私が成し遂げなければならない使命であり、私の義務なのです。今夜私が話すことは、皆さんがこれまでもっていた知識と食い違うかもしれません。ある事柄は皆さんにとって、とても耳新しいことかもしれません。どうか皆さんが、聞いたことについて真剣に考えてくださるようにお願いします。

 私が何か新しい秘密を公開するのでなければ、皆さん方の前でわざわざ話したりはいたしません。もし皆さんが既に御存じの事柄を繰り返すのならば、なぜ私が来なければならないでしょう。今夜は、神の霊が直接我々の魂に語りかけることができるように、私も皆さんも共に心を開いてこの一時を過ごそうではありませんか。イエス様も山上の垂訓でこのように教えておられます。

 「こころの貧しい人たちは、さいわいである。天国は彼らのものである。柔和な人たちは、さいわいである。彼らは地を受けつぐであろう。義に飢えかわいている人たちは、さいわいである。彼らは飽き足りるようになるであろう」(マタイ五・三、五、六)。

 どうか今夜は、心の貧しい人になってくださるようにお願いします。柔和であってください。そして義に飢え渇く人になってください。そうすれば我々は共に神の国を見るでしょう。そして満ち足りるでしょう。それでは始めましょう。

 クリスチャンとキリスト教自体が、最後に越えなければならない峠があります。聖書の預言によるとクリスチャンは、世の終わりを通過し、大いなる恐るべき主の日に火の審判を受けなければなりません。聖書によると、終わりが近づくにつれて、天にも地にもたくさんの異変が起こるといいます。

 イエス様が再臨を約束された時、非常な危機感をお伝えになりました。イエス・キリストが天に昇った日より、クリスチャンは彼が地上に再び帰る日を待ってきました。過去二〇〇〇年間の歴史の中で、キリストの再臨を見ることがすべてのクリチスャンの希望でした。しかし、この劇的な出来事は決して起こりませんでした。多くの人々は待つことに疲れてしまいました。ある人々はついにこの再臨は文字どおりには起こらないのだと決めてしまいました。彼らの考えは、「これは神様が我々の注意を換起する方策なのだ」というのです。

 今晩、我々は聖書が預言するところの終末の意味を明確にしなければなりません。我々はまた、時が満ちて主が来られる時に、いかに再臨されるかということも知らねばなりません。

 まず第一に知らねばならないのは、神は破滅させるために世界を創造されたのではないということです。神は常に善なる世界が永遠に続くことを望まれました。もし永遠なる世界を創造されなかったとしたら、神は全知全能ではないことになります。しかしながら現在の世界は、終わりを迎えねばなりません。なぜならば、我々は神が望まれた善なる世界を完成することができなかったからです。善なる子女になる代わりに我々は、現実には悪なる被造物になってしまいました。

 アダムとエバはエデンの園で堕落しました。彼らは当時、まだ神の意志をはっきりと知る位置にはおりませんでした。彼らは混乱状態に陥り、誤った選択をしました。彼らは、善なる世界をもたらしたであろう神への忠誠と、実際に堕落をもたらしてしまったサタンへの忠誠の、どちらを取るかを迫られました。二つのはっきりした選択のうちで、アダムとエバは誤ったほうを選んでしまいました。彼らは悪をこの世にもたらしました。神の本来の願いは理想の世界――神が永遠に保とうとした善なる繁栄の世界を創造することでした。しかし人間が堕落し、神の善なる世界は突然終わりを告げ、人類の歴史は間違った方向に向かって出発したのでした。

 それゆえに、人類の歴史は悪の歴史です。神は善の種を蒔き、そして善の実を刈り取るつもりでした。しかしサタンが、それがまだ熟する前に盗んで、悪の実を刈り取りました。人類の歴史は雑草の実なのです。

 それでは終末とは何を意味するのでしょうか。いったい何が終わるのでしょうか。悪が終わるのです。神が悪に終止符を打つのです。神が用意された新出発から人間に対する新しい機会が訪れます。そして神が最初に望まれた理想である善の世界が実現されるのです。

 エデンの園で人間は、善を発展させる代わりに悪に陥ってしまいました。人間はサタンに征服され、罪の子になりました。ゆえに聖書では、「あなたがたは、自分の父、悪魔から出たものである」といっています。もし人間が堕落していなかったとすれば、本当の支配者は神だったはずです。しかし神は今日この宇宙の王様ではありません。なぜならば、サタンが神の王座に座っているからです。神が本当に世界を治めるためには、その前に、人間の堕落から生じたすべての結果を取り除かねばなりません。

 それでは皆さんに、終末のはっきりした定義を申し上げましょう。終末とは神が悪を終わらせ、新しい神の時代が出発すべき歴史上の時点なのです。それは古い悪の歴史と新しい善の歴史とが、交叉転換する時なのです。この定義から考えて、なぜ聖書は、天変地異が終末の印だと預言するのでしょうか。預言にあることが実際に起こるのでしょうか。聖書では次のように書いてあります。

 「しかし、その時に起る患難の後、たちまち日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう」(マタイ二四・二九)。これは何を意味するのでしょう。何を我々は予期すべきなのでしょうか。

 まず第一に、これらのことは文字どおりに起こることはありませんから御安心ください。神は宇宙の中で何ものをも破壊されたりしません。神はたびたび、その真理を比喩や象徴で表されます。それゆえに、これらの聖句も象徴的に成就されるのです。第二に、神は宇宙を破壊する何らの理由ももっておられません。罪を犯したのは人間であって宇宙ではありません。人間だけが、本来の神の創造の理想からそれてしまったのです。なぜ神が、神の願いのごとくに創造の目的を達成した動物や植物や他の被造物を破壊しなければならないのでしょうか。神はそれら無実のものを破壊されたりはしません。

 それゆえに聖書は、「世は去り、世はきたる。しかし地は永遠に変らない」(伝道の書一・四)といっています。しかし黙示録によると、「わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった」(黙示録二一・一)とあります。この新しい天と新しい地というのは、神による歴史の到来、新主権の時を意味します。皆さんが家を買ったなら、家族と家財道具をもって引っ越すでしょう。そして、私は新しい家をもったと言い、また、その家の新しい主人になったと言うでしょう。それと同じように、神の子たちがこの宇宙を支配すれば、それは新しい天と新しい地とになるのです。

 冬が終われば春が来ることを、我々は知っています。しかし正確にどの時点から春が始まるか、言えるでしょうか。いったい誰が移り変わりの正確な一瞬を指摘できるでしょうか。できません。なぜなら、一つの季節から次の季節への移り変わりは静かに、また気づかぬうちに起こるからです。冬の終わりは春の始めと似ていますから、はっきりと変化を識別できる瞬間は存在しません。

 いったいいつ前の日が終わり、新しい日が始まるのでしょうか。変化は暗闇の中で起こりますが、ある日から次の日に移ることは疑えません。変化は最初は分かりませんが、それはまた必ず起こるものであり、取り消すことはできません。三十億の人々が地球上に生活していても、そのうち誰一人として、どの瞬間に前の日が終わりを告げ、新しい日が始まるのかということを指摘することができません。だから人間の側から見る限り、物事が起こる正確な瞬間をいつも知ることができるとは限らないということが分かります。しかし神はいつ冬が過ぎ春が始まるのか知っていますし、いつ夜が明け昼が始まるのか知っています。だから、神は新しい時代への変化を指し示すことができるのです。

 我々が新しい歴史に一歩を踏み出すことは、真っ暗な夜の中から明るい夜明けが出てくるようなものです。善と悪の交叉点ははっきりとしていません。それが交叉した時にも気がつかないでしょう。しかし、太陽があす昇ってくるのと同じくそれは確実に起こるのです。

 それでは我々はいかにして、いつ終末が来るかということを知ることができるでしょうか。神はこの瞬間を人間に秘密にはしません。神は警告もなしに、急に地上に裁きをもたらしはしません。神は大いなる恐るべき日の到来を、預言者を通して宣言されます。アモス書三章七節には、「主なる神は、そのしもべである預言者にその隠れた事を示さないでは、何事をもなされない」と記されています。神は御自分の代身者を選び、その人を通して御計画を宣言されます。聖書の歴史の中で神はいつもそうされてきました。

 預言者として神に選ばれる人は、この悪の世界に生きている人間の一人でなければなりません。しかし、彼は神に使われる価値があることを示すことができる信仰者でなくてはなりません。彼は絶対的信仰を示さねばなりません。これをなすためにはこの世のすべての成功を捨て、完全に自分自身を邪悪な世界から切り離さねばなりません。彼は自分に関するすべての邪悪な関係を断ち切って、自分を清くしなければなりません。彼はこの邪悪な世界ではもてはやされないでしょう。神は絶対善であるがゆえに悪の全くの正反対に当たります。だからこそ、いつも悪の側は神より遣わされた者を迫害するのです。

 ノアはそのように、神によって選ばれ、悪なる世界でさげすまれた人でした。神はノアに舟を造るように命じました。神は、川岸や海辺に連れていく代わりに、ノアを高い山に連れていきました。神の命令は悪の世界の目から見ればあまりにもばかばかしいものだったので、多くの人々がノアを笑い者にしました。彼がばかにされたのは、人々が彼を特別に変わり者だと思ったからではなく、ノアが神の命令に忠実に従ったからでした。世間の目からは、神のやり方は理解できなかったのでした。このように、とても本当とは思えない命令を与えてこそ神は、御自身の闘士として選ばれた人間の信仰を試すことができたのです。これがノアの時代に起こった物語です。

 そしてアブラハムの時も全く同じでした。神は偶像商の息子であるアブラハムを召命し、「すぐに故郷を離れなさい」と命じました。神はいかなる妥協をも許されません。神は悪が完全に否定される立場をとられます。それ以外のどんな方法でも善は出発できません。

 神は悪の一かけらも残らない新しい歴史を始めると言われました。神は人間から完全な応答を求められます。神の命令に従う者はまず、悪の世を完全に否定するところから始めなければなりません。このゆえにイエス・キリストは、「自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう」(マタイ一〇・三九)と教えられたのです。イエス様はまた、「そして家の者が、その人の敵となるであろう」(マタイ一〇・三六)と言われました。

 皆さんは、これはどういう意味だろう、と思われるかもしれません。これが、神が御自身のための人間を選ばれ、その人々を、悪によって完全に拒まれる位置に立たせられる方法なのです。さもなければ、神の闘士は神のために何もできないことになります。そうすると、神の立場から見ると、現在のクリスチャンたちはとても安楽に過ごしていることになります。これはとてもおかしなことです。なぜなら、キリスト教の教えの中では、安楽な道はないからです。いったいどれだけのクリスチャンが、本当に神の道を歩もうと真剣になっているのか、私には不思議に思えます。神の要求は絶対です。それは中途半端を決して許しません。

 それでは、いかにして我々は、神願う道を知ることができるでしょうか。神の摂理の歴史を調べてみましょう。今日我々は、終末を予期しています。神は以前にも終末をもたらそうとされたことがありました。例えば、ノアの時です。この時は神が悪の終わりを告げ、善の世界を始めようとされた歴史の交叉点です。ノアは神の摂理の中で中心人物として選ばれました。ノアの使命と終末の意味をよりよく理解するためには、我々はいかにして悪の世界が始まったかということを、よりよく知らねばなりません。

 エデンの園で神はアダムとエバに戒めを与えられました。その戒めは神の言葉でした。そして、サタンが彼らに近づき、うそでもって彼らを誘惑しました。そしてそのうそは、悪の言葉でした。アダムとエバはその二つの言葉から選択しなければいけない立場にありました。真理が一方にあり、偽りが他方にありました。彼らは偽りのほうを選びました。

 これが人間堕落の経路だったのです。世の末には、神は人類に真理を与えられます。神の言葉はその預言者を通して与えられます。もし人間が神の言葉を受け入れたなら、その人は死から生命に移ります。真理は生命をもたらすからです。人間は偽りによって死に、真理によって生き返るのです。

 それゆえに裁きは言葉によってきます。これらの神の裁きの言葉は、神によって選ばれた預言者によって明らかにされるでしょう。これが終末の経路です。新しい真理の言葉に耳を傾け、これに従う者は生命を得るでしょう。この言葉を否定する者は、死の中で生き続けるでしょう。

 神はその言葉を宣言するためにノアを選びました。ノアの宣言は、「洪水が来るぞ!

 箱舟に乗れ!」でした。人々はノアの言葉に従っていれば助かることができました。しかし、人々はノアを気違いのように扱い、自分たちが滅びました。なぜなら、彼らは神の言葉に逆らったからです。聖書によると、ノアの直接の家族である八人だけが箱舟に乗ったのです。この八人だけが信じ、この八人だけが助かったのです。

 これより先に、神はノアに、「わたしは、すべての人を絶やそうと決心した。彼らは地を暴虐で満たしたから、わたしは彼らを地とともに滅ぼそう」(創世記六・一三)と言われました。このとおり実際に起こったでしょうか。確かに悪い人々は滅びましたが、それと一緒に物質世界がなくなったでしょうか。この聖句は文字どおりに成就したのではなく、神は地球を滅ぼされませんでした。神はノアの家族の善なる人々のみを残して他の人々を根絶し、悪主権を打ち壊しました。これが、ノアを通して、本来の善なる世界の復帰を始めようとされた神の御計画でした。

 もし神がこの時に復帰を完成していたなら、我々は終末についてあげつらうこともなかったでしょう。いったん善の完全な世界が実現されたなら、もう終末は必要ありません。そうなれば何ものも、神の完全な王国の永遠の統治を妨げることはできません。

 しかし、我々が今日終末を予期しているという事実こそが、神がノアの時に成功を収めなかったという証拠です。洪水のあとで何がノアに起こったかは、一部始終お話ししなければなりませんが、私は今夜はそのことについてあまり時間を割けません。簡単に申しますと、またもやノアの息子ハムを通して、ノアの家庭に罪が入り込んだのです。これによって神の洪水審判は無に帰し、邪悪な人類歴史はイエス・キリストの時まで続いたのです。

 キリストの降臨によって、神はもう一度終末をもたらそうとされました。イエス様は、天の新しい王国を地上に建設するために来られました。だからイエス様が最初に言われた言葉は、「悔い改めよ、天国は近づいた」でした。確かに、イエス・キリストの到来の時は終末でした。大いなる恐るべき日の到来は、イエス様が生まれる約四〇〇年前に預言者マラキによって預言されました。

 「見よ、炉のように燃える日が来る。その時すべて高ぶる者と、悪を行う者とは、わらのようになる。その来る日は、彼らを焼き尽して、根も枝も残さない」(マラキ書四・一)。

 イエス・キリストの裁きは文字どおり火によって行われたでしょうか。イエス様の時に、その日は、すべてのものを文字どおり灰にしてしまうという形で訪れたでしょうか。違います。我々はそうではないことを知っています。これらの預言が当時そのごとく起こらなかったので、ある人々は、それらのことは再臨の時のことを指しているのだといいます。しかし、そんなことはあり得ません。

 洗礼ヨハネは、最後の預言者としてこの世に来ました。イエス様は言いました。「すべての預言者と律法とが預言したのはヨハネの時までである」(マタイ一一・一三)。洗礼ヨハネの到来によって、すべての預言とモーセの律法は終わりを告げるべきだったのです。これがイエス様の言われたことなのです。イエス様以前のすべての預言の目的は、イエス様を迎える準備をすることであり、そして、イエス様の到来によって何が成就されるかを知らせることでした。これらの預言はキリストの再臨の時のためではありません。神は完全な救いを成し遂げるために、その子イエスをこの世に送られたのてす。最初の降臨によって救いが成就されなくなって、初めて再臨が必要となったのです。

 それではなぜ、イエス様の時が終末だというのでしょうか。我々はもう答えを知っています。イエス様は悪主権の終わりを告げ、地上に神の主権をもたらすためにやって来られたからです。これは旧約時代の終わりであり、新約時代の始めでした。イエス様は新しい真理の言葉をもってこられたのです。

 イエス様がもたらした福音を、人々はどのように受けとめたでしょうか。ユダヤ教徒たちは彼を訴え、十字架につけました。彼らは旧約聖書の文字に捕らわれていて、新しい真理の中に、神の霊が宿っているのを感じることができませんでした。彼らはイエス様を神の子として証言すべきであった。その預言のゆえに犠牲となられたということは皮肉なことです。モーセの律法の文字によって、彼は罪人にされたのです。盲目な人々は彼を、十字架にくぎで打ちつけました。

 イエス様の時代には、多くの有識者、多くの教会指導者、そして律法と預言書によく通じた多くの著名人たちはメシヤを待っていました。もしメシヤが来て、旧約聖書をそっくりそのまま一言一句まで正確に繰り返したとしたら、彼らはどれだけ喜んだでしょうか。しかしイエス・キリストは、モーセの律法をそのまま繰り返すために来られたのではありません。彼は新しい神の律法を宣言するために来られたのです。人々は全く見当外れだったのです。そしてイエス様は訴えられました。イスラエルの人々は彼に言いました。「あなたを石で殺そうとするのは、よいわざをしたからではなく、神を汚したからである。また、あなたは人間であるのに、自分を神としている」(ヨハネ一〇・三三)。

 聖書にはこう書いてあります。「そこで彼らは彼をののしって言った、『おまえはあれの弟子だが、わたしたちはモーセの弟子だ。モーセに神が語られたということは知っている。だが、あの人がどこからきた者か、わたしたちは知らぬ』」(ヨハネ九・二八、二九)彼らはイエス様をこのように見ていたのです。モーセの律法に従順に従った者たちはイエス様に背いたのです。ユダヤ教の最も信仰深い人々が最初に、イエス様によって裁かれ、永遠の火の中に投げ込まれたのです。

 それでは、ここで「火の裁き」の意味を明確にしたいと思います。新約聖書によると「天は燃えくずれ、天体は焼けうせてしまう」(ペテロⅡ三・一二)と書いてあります。この途方もない預言はいかに実現するのでしょうか。文字どおり、そのごとく起こるのでしょうか。そうではありません。この表現には象徴的な意味があります。神は、地上に理想を実現せずして、創造した地球や星やすべての被造物を滅ぼすはずがありません。もしそんなことをすれば、神は敗北者になってしまいます。すると誰が征服者になるでしょうか。サタンです。神がこんな目に遭われるはずがありません。

 我々人間の間でさえ、いったん何かをやると心に決めたら、それが成就するまでやり遂げます。全知全能の神がその意志を成就されようとするなら、もっともっとそうであるに違いありません。聖書の中で、火の裁きについて神がいわれていることは、炎によって裁きをもたらすということではありません。この重要な部分の意味は象徴的なものなのです。

 それでは、火について書いてある聖書の他の句を考察してみましょう。イエス様はこう慨嘆されました。「わたしは、火を地上に投じるためにきたのだ、火がすでに燃えていたならと、わたしはどんなに願っていることか」(ルカ一二・四九)。イエス様は実際に燃え盛る火を投げられたでしょうか。もちろん違います。

 聖書の中の火は象徴です。それは神の言葉を意味しているのです。だからヤコブ書三章六節では「舌は火である」と記されているのです。舌は言葉をしゃべり、そして言葉は神から来ます。イエス様御自身も「わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう」(ヨハネ一二・四八)と言われています。

 現代の社会では、裁判所の言葉が審判を下します。その言葉が法律です。この宇宙の中では、神が裁判官の立場にいるのです。イエス様は弁護士として、人間を訴えるサタンに対抗する権威をもって来られました。サタンは彼の言葉で人間を讒訴しますが、これらは偽りの訴えです。イエス様は、信仰者たちの主張を擁護します。彼の基準は真理の言葉です。神が判決を下されます。神の愛が基準となり、そして愛はその言葉のことです。地上の法廷も天の法廷も何ら変わりがありません。共に言葉によって裁判を行います。火ではありません。ですから審判が下される時に、世界は火で焼かれてしまうのではありません。聖書はいいます、「この者(邪悪な者)を、主イエスは口の息をもって殺し、来臨の輝きによって滅ぼすであろう」(テサロニケⅡ二・八)。神の言葉は彼の口の息です。イエス様は神の言葉によって邪悪な者たちを殺すために来られたのであり、そして「その口のむちをもって国を撃ち、そのくちびるの息をもって悪しき者を殺す」(イザヤ書一一・四)のです。それでは「口のむち」とは、何でしょうか。これは彼が神の言葉を語るべき舌を象徴していると見ます。

 この点を完全に解明しましょう。イエス様が人々にこう教えている所を見てください。「よくよくあなたがたに言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである」(ヨハネ五・二四)人は真理の言葉によって死から命に移るのです。神は皆さんを燃やしてしまうためにメシヤを送るのではありません。神は皆さんの家に火をつけたり、社会を滅ぼすためにメシヤを送るのではありません。しかし、もし我々が主によって語られる神の言葉を拒否すれば、我々は裁きによって罪に定められるほかはありません。その理由はこうです。

 初めに神は人間と宇宙とその言葉――ロゴスによって創造されました。人間は神の言葉を否定し、そして堕落しました。霊的な死が、それ以来支配してきました。救いのみ業を通して、神は人間を再創造されてきました。人間は神の言葉に対する不従順によって堕落し、同じく神の言葉に従順になることで再創造されるのです。神のみ言は、主によって与えられます。み言を受け入れることは、死から生に移ることです。そのような死とは、我々が今住んでいる地獄のことです。このように、神のみ言は裁きであり、そしてそれは皆さんに、真っ赤な炎よりも、ずっと深い影響をもたらすでしょう。

 それではここで、もう一つの重要なことについて調べてみましょう。もしイスラエルの民が、真心からイエス・キリストを受け入れていたとすれば、どうなっていたでしょうか。イスラエルの国がイエス様と一つになることを想像してみてください。それは何を意味したでしょうか。第一に、イエス様は殺されなかったでしょう。人々はイエス様を、生きている主としてたたえたでしょう。それから彼らは、生ける主を司令官としてローマに進軍していたでしょう。そしてローマは神の子の前に、彼が生きているうちに降服したでしょう。しかし、歴史の悲しい現実の中では、イエスの弟子の群れがローマを征服するのに四世紀もかかったのです。イエス様は一度もイスラエル選民に受け入れられず、彼が必要としていた彼らの支持を得ることができませんでした。彼は神の国を地上に建設するために来ながら、実際は弟子たちに自分が誰であるかを秘密にするように注意されたのでした。なぜなら、人々は彼のメシヤとしての正統性を受け入れず、それゆえに、彼は王の王となれる力が得られなかったのです。

 今日、我々は多くのことを学ばねばなりませんし、また盲目的に信じてはなりません。我々は、聖書の背後にある隠された真理を知らねばなりません。イエス様が十字架についたのは御自身の意志によるのではなく、他の人々の意志によってでした。イスラエル選民の不信仰がイエス・キリストを殺したのです。

 今、私は大胆な宣言を行っています。イエス様は死ぬために来られたのではありません。イエス・キリストは殺害されたのです。繰り返しましょう。イエス・キリストは殺害されたのであり、彼の同族が彼を殺したのです。ローマ総督のピラトでさえ、イエス様を許したかったのです。彼らはイエス様のとがを見つけることができませんでした。しかし、キリストと同族の人々が彼を排斥し、ピラトに迫ってバラバを代わりに釈放させたのです。何と残念なことでしょう。何という悲劇でしょう。

 このことは皆さんにとってショッキングな、非常にびっくりするニュースかもしれません。しかし皆さんが単に驚くだけなら、私の目的が分かっていただけてはおりません。私は真理の証言者となるという私の義務のためにこれらのことを明らかにしているのです。

 ピラトの法廷で、「彼を十字架につけろ!」と叫んだのはイスラエル選民であり、祭司長たちであり、長老たちであり、律法学者であり、そして信仰深い人々だったのです。パウロは言いました。「この世の支配者たちのうちで、この知恵を知っていた者は、ひとりもいなかった。もし知っていたなら、栄光の主を十字架につけはしなかったであろう」(コリントⅠ二・八)。

 イエス・キリストの時代に生きていた人々は恐ろしい間違いを犯しました。しかし、彼らは今日の我々と比べて、そんなにも無知であり、盲目だったでしょうか。全くそうではありません。彼らは旧約聖書を一字一句学び、モーセの律法を暗記していました。彼らの理解に基づけば、イエス様はメシヤとしての資格に合わなかったのです。

 ユダヤ人たちはとても難しい立場にいました。もし律法の預言を信じようとすれば、彼らは自分たちが学んだモーセの律法を捨てなければなりませんでした。四〇〇〇年間の伝統が旧約聖書に基づいているのです。人々がある朝、目を覚まして、すぐ律法を捨ててイエス・キリストを神の子として完全に受け入れるということは、とてもとても難しいことでした。人々の目が旧約聖書の文字に縛りつけられていたので、律法の精神はただ頭の上を飛び越えていったのです。

 旧約聖書を開いてマラキの預言を調べてみましょう。「主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす。彼は父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる」(マラキ書四・五、六)。イスラエルの人々は神の約束をはっきりと知っていました。彼らは暗唱していました。ですから、彼らはメシヤが現れる前にエリヤの来ることを予期していました。メシヤが来た時に彼らは当然、「エリヤはどこですか」と尋ねました。

 エリヤはイエス様より約九〇〇年前に奇跡的な業を行った預言者でした。そして彼が火の車に乗って天に昇ったということが書かれていました。エリヤが天に昇ったのですから、彼は天から下ってくるものだと思われていました。そのような奇跡がイエス様が現れる前に起こったでしょうか。人々はエリヤの到来について何かニュースを聞いたでしょうか。いいえ聞きませんでした。しかし彼らが実際に聞いたのはある日、「私は神の子である。神のひとり子である」と宣言しているイエス様の声でした。そしてイエス様は、弱々しくではなく、権威と力をもって語りました。そんな人間は無視することはできません。これはイスラエルの人々に大変なジレンマをもたらしました。彼らは直ちに、「もしイエスがメシヤなら誰がエリヤだ」と聞きました。彼らは当時、メシヤを待ち焦がれていたので、エリヤをも待っていたのです。彼らはエリヤは空の上の天国からまっすぐ下ってくるものだと信じ、メシヤもそのすぐあとで同じようにして降臨するものだと思っていました。

 ですから、イエス様が神の子として宣言された時、ユダヤ人たちは困惑しました。もしエリヤが来ていないのなら、メシヤが来るはずはありません。そしてエリヤが来たということは誰も聞いていません。イエスの弟子たちもまた、混乱しました。彼らが福音を宣べ伝えに出かけていった時、人々は、イエスの弟子たちがエリヤの到来を証明できなかったので、イエスがメシヤであることを執拗に否定しました。彼らはどこへ行ってもこの問題に直面しました。

 イエスの弟子たちは旧約聖書については知識がありませんでした。彼らが宣教に出かけていくと、多くの知識人たちは、「君たちは旧約聖書を知らないのですか。君たちはモーセの律法を知らないのですか」と質問して彼らを言い負かしてしまいました。弟子たちは律法や預言者の文を通して攻撃されると、困惑しました。ある日、彼らはイエスのもとに帰ってきて質問をしました。

 『いったい、律法学者たちは、なぜ、エリヤが先に来るはずだと言っているのですか』。答えて言われた、『確かに、エリヤがきて、万事を元どおりに改めるであろう。しかし、あなたがたに言っておく、エリヤはすでにきたのだ。しかし人々は彼を認めず、自分かってに彼をあしらった。人の子もまた、そのように彼らから苦しみを受けることになろう』。そのとき、弟子たちは、イエスがバプテスマのヨハネのことを言われたのだと悟った」(マタイ一七・一〇~一三)。イエスによると洗礼ヨハネがエリヤだったのです。

 これは本当です。我々はイエス・キリストの言葉に従って真理を決定してきました。しかしイエスの弟子たちはこのことを、長老や祭司長や律法学者たちに納得させることができませんでした。彼らにとってこの話はただばからしいものでした。そのような考えを支持する唯一の権威は、ナザレのイエスだけでした。だからこそ、洗礼ヨハネ自身の証言がとても重要だったのです。でもどうでしょう、ヨハネ自身も質問を受けた時に、自分はエリヤではないと否定したのです。彼の否認によってイエスは偽り人のよう見えました。

 聖書によると、「さて、ユダヤ人たちが、エルサレムから祭司たちやレビ人たちをヨハネのもとにつかわして、『あなたはどなたですか』と問わせたが、その時ヨハネがたてたあかしは、こうであった。すなわち、彼は告白して否まず、『わたしはキリストではない』と告白した。そこで、彼らは問うた、『それでは、どなたなのですか、あなたはエリヤですか』。彼は『いや、そうではない』と言った。『ではあの預言者ですか』。彼は『いいえ』と答えた」(ヨハネ一・一九~二一)。ヨハネは自分で「私はエリヤではない」と言いました。しかし、イエスはその前に「彼はエリヤである」と言ったのです。

 ヨハネの答えで、人々がエリヤが来たことを知ることはほとんど不可能になりました。しかし、イエスはとにかく真理を宣言したのです。彼は、「もしあなたがたが受けいれることを望めば、この人(バプテスマのヨハネ)こそは、きたるべきエリヤなのである」(マタイ一一・一四)と言ったのです。イエスは大部分の人々は真実を受け入れることができないことを知っていました。その代わりに彼らはイエスの動機づけを質問しました。イエスがメシヤらしくあるためにエリヤがまず最初に来ていなければなりません。そこで人々は、イエスが自分を偉く見せるためにうそをついていると思ったのでした。

 これはそれほど深刻な状況でした。あの当時、洗礼ヨハネの影響力はイスラエルの隅々にまで及んでいました。しかしイエス・キリストは、彼の社会の中では、世に知られない目立たない人物でした。誰もイエスの言葉を真理として受け取る立場をとれませんでした。このヨハネの失敗がイエスの十字架の主要な原因となったのです。

 洗礼ヨハネは既にヨルダン河で神の霊がイエスの頭の上に下っているのを見ていました。その時に彼はこう証言しました。

 「わたしは、御霊がはとのように天から下って、彼の上にとどまるのを見た。わたしはこの人を知らなかった。しかし、水でバプテスマを授けるようにと、わたしをおつかわしになったそのかたが、わたしに言われた、『ある人の上に、御霊が下ってとどまるのを見たら、その人こそは、御霊によってバプテスマを授けるかたである』。わたしはそれをみたので、このかたこそ神の子であると、あかしをしたのである」(ヨハネ一・三二~三四)。

 なるほど、洗礼ヨハネは証を立て、その時神が彼に望んだ使命を果たしました。しかし、あとになって彼は疑うようになり、ついにはイエスを取り囲む多くのうわさに負けてしまいました。あるうわさは、イエスは父なし子、私生児だと言いました。洗礼ヨハネはもちろんそのうわさを耳にし、そんな人間がどうして神の子であるはずがあろうかと疑いました。彼はイエスの証をしましたけれども、ヨハネはのちに疑うようになり、彼を裏切りました。もし洗礼ヨハネがイエス・キリストと真に協力していたとすれば、彼は人々をして、イエスをメシヤとして受れ入れさせたでしょう。というのは、当時洗礼ヨハネがもっていた力と影響力はとても偉大だったからです。

 私は皆さんに、尋常ならざることを話していますから、皆さんは私が何の権威によって話しているのかと聞かれるでしょう。それは聖書の権威と啓示の権威です。さあ、一緒に聖書を一語一語読みながら、洗礼ヨハネがいかに振る舞ったか見てみましょう。

 「さて、ヨハネは獄中でキリストのみわざについて伝え聞き、自分の弟子たちをつかわして、イエスに言わせた、『“きたるべきかた”はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか』」(マタイ一一・二、三)。

 これは彼がイエスを神の子として証してからずっとあとのことです。どうして彼は、「あなたが神の子として来たるべきかたですか」などと、神霊の証を受けたあとで聞くことができるのでしょうか。イエス様は本当に悲しかったのです。彼は怒りを感じられました。イエス様は洗礼ヨハネに対して、「はい」とか「いいえ」という明解な答えを与えることを拒否しました。その代わりに答えて言いました。私につまずかないものは幸いである」。イエス様が言われたことを言い換えてみましょう。「ヨハネよ、私はあなたがわたしにつまずいたことを残念に思う。一度はあなたは私を認めた、しかし今は私を疑っている。あなたの信仰がそんなに弱かったのを見て、とても残念だ」。

 この出来事のあとで、イエス様は御自分の弟子たちにヨハネのことについて話されました。彼は弟子たちに修辞的な疑問を発したのです。

 「あなたがたは、何を見に荒野(あらの)に出てきたのか。風に揺らぐ葦であるか。では、何を見に出てきたのか。柔らかい着物をまとった人か。柔らかい着物をまとった人々なら、王の家にいる。では、なんのために出てきたのか。預言者をみるためか。そうだ、あなたがたに言うが、預言者以上の者である。『見よ、わたしは使いをあなたの先につかわし、あなたの前に、道を整えさせるであろう』と書いてあるのは、この人のことである」(マタイ一一・七、一〇)。

 ここでイエス様が言おうとしていることはこういうことです。「ヨハネよ、あなたは、荒野に預言者以上のもの、神の子メシヤを見に行ったのだ。あなたは多くのものを見たが、あなたの使命の中核である重要なところを見逃してしまった。あなたは、本当に、私を認めることができず、神の期待に沿うことができなかった。あなたに『備えられた民を主のために準備する』ことを期待したのは神なのだ。あなたは失敗してしまった」。

 イエス様はこのように結びます。「あなたがたによく言っておく。女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起こらなかった。しかし、天国で最も小さい者も彼よりは大きい」(マタイ一一・一一)。従来のキリスト教の解釈では、決してこの矛盾する一節を完全に説明することはできませんでした。

 歴史の流れの中で、預言者の使命はメシヤのために備えかつ証をすることでした。預言者はいつもずっと先のことを証してきました。洗礼ヨハネは預言者の中でもっとも偉大な人でした。なぜなら、メシヤと同時代の預言者というだけでなく、自ら生けるメシヤに証言できた預言者だったからです。霊界にいるどんな小さな預言者でさえも、イエスが神の子であることを知っていました。だから、最も偉大な使命を与えられたヨハネが失敗した時、最も小さい者よりも小さい者になったのです。

 イエス様は言いました。「バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている」(マタイ一一・一二)。洗礼ヨハネは神によって選ばれた器でしたが、イエス様の第一弟子になることを拒んだのです。彼は自らの責任を果たすことができず、シモン・ペテロが、彼の信仰の力で自らの長所のゆえに、中心の位置を獲得したのでした。洗礼ヨハネよりも信仰の面でより強く、がむしゃらな他の人々が、イエス様と共に、地上における神の国の実現をかけて、ひたすらに闘ったのです。洗礼ヨハネに忠実に従った篤信な人々は、本来なるべきであったキリストの十二使徒や、七十人門徒になれませんでした。もし洗礼ヨハネがイエス様の第一弟子になっていたとすれば、この二人は協力してイスラエル全土を統一していたでしょう。しかし現実には洗礼ヨハネは、神の子に従わなかったのです。

 ある日、ヨハネの弟子たちがヨハネのところに来て尋ねました。「先生ごらん下さい。ヨルダンの向こうであなたと一緒にいたことがあり、そして、あなたがあかしをしておられたあのかたが、バプテスマを授けており、皆の者が、そのかたのところへ出かけています」(ヨハネ三・二六)。彼らは質問の中でこう心配しているのです。「イエスのところへ行っているたくさんの人々を見てください。あなたは行かないのですか」。洗礼ヨハネの答えは「彼は必ず栄え、わたしは衰える」でした。

 通常クリスチャンはこの句を、ヨハネの謙遜な人格の表れと解釈しています。これは彼の言葉の意味を間違って理解しています。もしイエスとヨハネが一致協力していたなら、彼らの運命の盛衰は同じはずでした。そうすれば、ヨハネの地位が下がっていくならば、イエス様は御自身の評価を高めることはできません。自分の勢力の減少こそが、ヨハネが恐れたことなのです。ヨハネはかつて、メシヤは「そのくつを(私が)ぬがせてあげる値うちもない」(マタイ三・一一)方であると言いました。そうでありながら、イエスが神の子であると知ってからも、イエスのあとに従うことができなかったのです。洗礼ヨハネにはどんな言い訳もできません。彼はイエスに従うべきだったのです。

 神はヨハネをメシヤの先駆者として送ったのでした。彼の使命は次のごとくはっきりと定義されていました。「整えられた民を主に備える」(ルカ一・一七)と。しかしヨハネの裏切りによって、イエス・キリストには彼の宣教を始めるべき何らの基盤もありませんでした。人々はイエスを迎えるべく整えられてはいませんでした。それゆえに彼は故郷から出て、人々が彼を信ずることができる基盤をつくろうとして、たった一人で働かれたのです。洗礼ヨハネが失敗したことについては疑いの余地がありません。彼はイエスの十字架について直接責任があります。

 皆さんは、新たに「何の権威によってこれらのことを言うのか」と問われるかもしれません。私は霊界でイエス・キリストと話をしました。そして洗礼ヨハネとも話をしました。これが私の権威です。もし皆さんがこの場で、私の言葉が真理かどうか決めかねるとしても、いつか必ず分かる時が来るでしょう。これらは皆さんに、新しい天啓として示された隠された真理です。皆さんは私が聖書によって話すのを聞きました。もし皆さんが聖書を信ずるなら、私の話をも信じなければなりません。

 それゆえに、我々はこの厳粛な結論に到達しなければなりません。イエスの十字架はユダヤ人の不信仰の結果生じたのです。彼らの不信仰の主な原因は洗礼ヨハネの裏切りです。このように我々は、イエス様は十字架上で死ぬために来られたのでないということを学びました。もし彼が死ぬために来たのだとすれば、ゲッセマネの園において、あのような悲劇的な、苦痛に満ちた祈りは捧げなかったでしょう。

 「『私は悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい』。そして少し進んでいき、うつぶしになり、祈って言われた、『わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたくしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい』」(マタイ二六・三八、三九)。

 イエス様はこのように一度のみならず、三度祈ったのです。もし十字架による死が神の目的の成就ならば、イエス様は代わりにきっとこう祈ったことでしょう。「父よ、私はあなたのみ意によって十字架上で死ぬことを光栄に思います」。

 しかし、イエス様はこの杯を自分から過ぎ去らせてくださいと祈ったのです。もしこの祈りが死に対する恐怖から来たとするなら、そのような弱さは、神の子としての資格を失わせるでしょう。我々はキリスト教の歴史を通して、多くの殉教者たちの勇敢な死を見てきました。そしてどこにおいても、人々は死の恐怖を克服したのみならず、彼らの最後の犠牲を勝利的なものにしたのです。そんなにも多くの殉教の中で、特にイエス様の十字架が神の願いを成就する栄光の瞬間だとするならば、なぜイエス様だけが恐怖と弱さを見せなければならなかったのでしょうか。イエス様は弱さのゆえにこのように祈ったのではありません。そのように信ずることはイエス・キリストを侮辱することです。

 ゲッセマネの園におけるイエス様の祈りは、死や苦しみに対する恐怖から出たものではありませんでした。もし神のみ意を成就することができるならば、イエス様は喜んで千回でも死なれたでしょう。彼が死の直前まで苦しまれ、神に最後の訴えをされたのは、御自分の死が単に神の摂理を遅らせることになることを知っておられたからです。

 イエス様は生きてその使命を果たしたかったのでした。イエス様が人間的な心の弱さから、もう少しの間の地上での生命を乞うたと信ずることは、悲劇的な誤解です。アメリカ独立戦争において、青年ナタン・ヘイルは、自分の処刑の際にこう言い得ているのです。「私は国のためにたった一つの命しか捧げられないことが残念だ」。皆さんはイエス・キリストはナタン・ヘイルよりも、小さな魂の持ち主だというのでしょうか。違います。ナタン・ヘイルは偉大な愛国者でした。しかしイエス・キリストは神の子だったのです。

 このことを考えてみてください。もしイエス様が十字架で死ぬために来られたとすれば、彼を引き渡す人間を必要としなかったでしょうか。皆さんはイスカリオテのユダが、イエスを裏切った弟子だと知っています。もしイエス様が十字架で死ぬことで、神の意志を成就したとすれば、ユダは、十字架を可能にしたことのゆえに、たたえられねばなりません。ユダは神の摂理を助けていたことになります。しかし、イエス様はユダについて言われました。「たしかに人の子は、自分について書いてあるとおりに去って行く。しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生まれなかった方が、彼のためによかったであろう」(マタイ二六・二四)。ユダは自殺しました。

 それに付け加えると、もし神がその子を十字架につけようとされたなら、選民を整えた四〇〇〇年間は必要ではなかったでしょう。神はイエスを野蛮人の一部族に送り込んで、もつと早く殺させることができたでしょう。そうすれば神の意志はもっと早く実現したことでしょう。

 みなさんにもう一度申し上げましょう。人々がイエス様を受け入れることが、神の意志だったのです。だからこそ神はメシヤという天の種を蒔くために希望をもち、苦労しながら、豊かな土壌を用意しようとされたのでした。これが神の選民イスラエルを立てられた理由なのです。このゆえに神はイスラエル自身を主に備えるために、次から次へと預言者を送られたのです。

 神は彼らに警告し、また、懲らしめました。説得し、叱りました。無理やりに押し出したり、罰を与えたりしました。なぜなら、神は神の民が神の子を受け入れることを望んだからです。ある日弟子たちがイエスに質問しました。「神のわざを行うために、わたしたちは何をしたらよいでしょうか」。イエスは彼らに答えて言われました。「神がつかわされた者を信じることが神のわざである」(ヨハネ六・二八、二九)。イスラエル選民は神が防ごうと骨折られた、正にそのことをしたのです。彼らは神が送った人を拒否したのです。

 イエス様は三年間の公生涯を通して、一つの目的をもっていました。受け入れられることです。そうしなければ彼は自分の使命を全うできませんでした。第一日目から、イエス様は、人々が真理を聞いて自分を神の子として、受け入れてくれるために、あいまいな言葉を使うことなく、福音を説教されました。神の言葉によって彼らはイエスを受け入れるべきだったのです。しかしながら、イエス様は人々が神のみ言だけでは、自分を受け入れそうもないことを知って、奇跡を行われたのです。イエスは人々が奇跡を通して自分を認めてくれることを望んだのでした。

 「イエスは、この書にかかれていないしるしを、ほかにも多く、弟子たちの前で行われた。しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである」(ヨハネ二〇・三〇、三一)。

 イエス様はめくらの目を開け、癩病患者をきれいにされました。彼はびっこを治し、つんぼの耳を聞こえるようにされました。イエス様は死人をよみがえらせました。彼は人々に受け入れられるために、すべてこれらのことを行われたのです。それでも人々は彼についてこう言いました。「この人が悪霊を追い出しているのは、まったく悪霊のかしらベルゼブルによるのだ」(マタイ一二・三四)。何と悲しい状況でしょうか。イエス様はまもなく、人々に受け入れられることは、望みがないことを知りました。怒りと絶望の中から彼は叱りました。お前たち、「まむしの子らよ」(マタイ一二・三四)。彼は憤怒を隠すこともなく、怒りの中で爆発させました。「わざわいだ、コラジンよ。わざわいだ、ベツサイダよ。おまえたちのうちでなされた力あるわざが、もしツロとシドンでなされたなら、彼らはとうの昔に、荒布をまとい灰をかぶって、悔い改めたであろう」(マタイ一一・二一)。そしてイエスはエルサレムに近づいてきた時に泣いて言われました。

 「ああエルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとはしなかった」(マタイ二三・三七)。

 誰がかつてこの胸が張り裂けんばかりのイエス様を理解したでしょうか。彼は言われました。「もしおまえも、この日に、平和をもたらす道を知ってさえいたら……しかし、それは今おまえの目に隠されている」(ルカ一九・四二)。この時までに、イエス様は、死を免れるどんな希望もないことを知っておられました。それでも、イエス様はゲッセマネで神にすがり、十字架上でも神に訴えられたのです。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ二七・四六)。

 このようにイエス様は御自分の意志でもない、人々の意志によって十字架上で亡くなられました。その瞬間からキリストが再び来ることは決まっていたのです。キリストは自分の地上における使命を全うするために再び来られます。人類は世界の完全な救いのために彼の再臨を待たねばなりません。

 ここで多くの方々はこう聞かれるでしょう。「イエスの十字架の死に関する旧約聖書の預言はどうなんだ」。私もイザヤ書五三章にあるそのような預言を知っています。我々は聖書の預言には、二つの側面があることを知らねばなりません。一方はイエスの受難と死を預言しています。もう一方は、例えばイザヤ書九章、一一章、六〇章のように、人々がイエスを神の子として、王の王として受け入れた場合の栄光の統治を預言しています。例えば、

 「ひとりのみどりごがわれわれのために生まれた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、『霊妙なる義士、大能の神、とこしえの父、平和の君』ととなえられる。そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもってこれを保たれる。万軍の主の熱心がこれをなされるのである」(イザヤ書九・六、七)。

 これが王の王として、君の君としてのイエスが栄光の主であるという預言です。もう一方にはこう書いてあります。

 「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ」(イザヤ書五三・四、五)。

 これが苦難のイエスの預言です。これは全く、十字架の預言です。それではいったい、なぜ、神は聖書の中で二つの側面をもった預言をされたのでしょうか。その訳は、神はその摂理の中で人間、すなわち堕落した人間を相手にしなければならなかったからです。そして堕落人間は、邪悪で信用できず、裏切る可能性があります。

 ある意味では、人間の裏切る才能のゆえに神もサタンも人間を恐れています。神は絶対善でありますから立場を変えることはありません。サタンは絶対悪ですから、彼もまた、立場を変えることはありません。この点において神とサタンは類似しています。しかし、人間は善と悪の混じったものです。人間は神とサタンの間に立って、転換できる才能を備えています。それゆえに人間は予測できないのです。ある日、ある人が神に対する変わらない信仰を告白し、神に仕えることを誓ったとしても、次の日にはその同じ人が神を呪い、サタンと組んでサタンの奴隷になるかもしれません。

 神は人間がメシヤを送る摂理にどのように反応するか分からなかったので、仕方なく相反する二つの結果を預言せざるを得ませんでした。二つの預言は人間の行為によってどちらともなり得たのでした。このように人間の信仰が、この二つの預言のどちらを成就させるかを決定する要素でした。

 イエス様の場合にはイスラエル選民が信仰を示し、彼と一つになっていれば彼は受け入れられたでしょう。その結果、栄光の主の預言が完全に実現したでしょう。

 ところが反対に、もし人々が不信仰でメシヤが来た時に拒んだとすれば、不可避的に受難のイエスの第二の預言が成就されたのです。そして歴史は、選民たちが後者の道をとったことを示しています。それゆえに、栄光の主の預言ではなく苦難の主の預言が実現したのでした。このようにして十字架とキリストの受難が歴史に現れたのでした。

 イエスの時代に苦難のキリストの預言が実現したので、栄光の主の預言は全うされないまま残されました。そしてこれは、再臨の主の時に成就されるのです。

 私は、聖書にはイエス様の公生涯以前の生活の記録が御生誕と少年時代の少しの説明を除いては、あまりないということを申し上げたいと思います。皆さんはどうしてか、お考えになったことがおありでしょうか。

 三十年間というものイエス様は大変な迫害と辱めの中で生きてこられたのです。イエス様を悲しませ、苦しませる多くの出来事や環境があったのです。彼は本当に、社会の中でも、家庭の中でも誤解ばかりされてきました。誰も、ただの一人さえも彼を神の子として取り扱った人はいませんでした。彼は誰にでも与えられる通常の敬意さえ、与えられませんでした。彼の社会は彼をばかにしました。神のみ意はイエス様の生涯によって深く悲しめられました。皆さんに目立たないナザレの男であったイエス様の、青年時代の痛ましい、悲しい状況の一端をお話しすれば、皆さんはびっくりして肝をつぶすだけではなく、悲しみのために泣きだされるでしょう。

 神はこのイエス・キリストの痛ましい、辱めの悲劇の現実を人間に知らせたくはありませんでした。イエスの死は彼の意図でもなく彼の失敗のゆえでもありませんでした。イエスの死は殺害であり、彼の肉体はサタンによってとられたのです。キリスト教の救いは十字架から来るのではなく、復活から来るのです。復活がなかったとすれば、キリスト教は何らの力もなかったでしょう。十字架そのものは、不信仰による犯罪なのです。しかしながら、復活のイエスは、新しい希望、新しい贖い、そして救いの新しい力をもたらしました。ですから、我々が復活のキリストを信じ、これと一つになれば我々に救いが来るのです。

 どうか皆さんの祈りの中で真剣に、これらの事柄についての最終的な答えを求めてみてください。イエス・キリストか、神御自身に尋ねてみてください。もしイエス様が、生きて神の国を実現するという本来の目的を成就されていたなら、キリスト教は決して、今日のようなものであるはずがありません。イエス降臨の目的は世界の救済のためでした。ユダヤ民族は神の道具だったのです。しかし、救いは神の選民のみに与えられるものではなかったのです。イエスは、地上のすべての人々のための救い主だったのです。彼は全人類の救い主です。イエス様はその使命を完成されなかったので、再臨の約束をされたのです。

 それでは、いつ終末が来るのか考えてみましょう。これは私たちにとって、とても重要なことです。聖書には、終わりの日には神は、羊とやぎとを分けると書いてあります。この二つの動物の違いは何でしょうか。羊は彼らの主人、羊飼いを見分けますが、やぎは飼い主に従いません。今日、我々の世界は二つの対立する陣営に分かれています。一方は民主世界であり、他方は共産世界です。我々の自由世界は「神はいる」と言います。我々は飼い主を受け入れています。共産世界は「神は存在しない」と言います。彼には自らの主人を否定しています。このように自由世界は羊によって象徴され、共産世界はやぎに象徴されます。これら二つの対立するイデオロギーの世界が形成されていく時に、我々は、世の終わりが来たことが分かります。

 再臨主はどのように来られるのでしょうか。クリスチャンとしての我々の立場は、イエスの時代の長老や律法学者や祭司たちと全く同じです。当時の人々はエリヤとメシヤが天の雲に乗って来るのを待っていました。どうして人々はこう考えたのでしょうか。なぜ、彼らはこのような信仰をもったのでしょうか。

 彼らは単に、ダニエル書七章一三節に記されている預言に従っていただけなのです。「わたしはまた夜の幻のうちにみていると、見よ、人の子のような者が、天の雲に乗ってきて、日の老いたる者のもとに来ると、その前に導かれた」。偉大なる預言者ダニエルのゆえにメシヤが天の雲に乗って来るということを期待するのは、イスラエルの人々にとって、もっともなことでした。クリスチャンたちは今日同じように再臨の主が天の雲に乗って来るのを待っています。

 ヨハネは言いました「なぜなら、イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白しないで人を惑わす者が、多く世に入ってきたからである。そういう者は、惑わす者であり、反キリストである」(ヨハネⅡ七節)。聖句によると、多くの人々がイエス・キリストが肉体で現れたのではないと言っていたそうです。それで、ヨハネは彼らを反キリストだと宣告したのです。しかし、旧約聖書の預言にある、天の雲に乗って来る神の子の来臨のことを忘れてはなりません。我々は、真理の全体を知らない限り、イエスの時の人々と同じように聖書の言葉の犠牲者となります。

 それでは皆さんにお尋ねしますが、もし主が雲に乗ってではなく、肉体をもった人間として地上に来られたらどうなさいますか。さあ、どうでしょう。私は皆さんに再臨主は人間の子供として肉と骨をもって事実現れるということを言っているのです。皆さんはまず「文先生、あなたは異端者なのですか」とお尋ねしたいでしょう。

 重要なのは、どちらの側に神がついているかということであり、神はいかにして、神の計画を成就されるのかということです。ある人間やその考えが異端と受け取られているかどうかということは、重要なことではありません。私が世界をどのように見ようが、皆さんが世界をどのように見ようが関係ありません。神がどのように世界を見られるのかということだけが問題となるのです。そして、神の目から見ると再臨の主に関して、またもや聖書の中に二つの側面のある預言を見つけることができます。黙示録一章七節は明確に雲に乗った再臨主の到来を預言しています。しかしながら、テサロニケ前書五章二節では「あなたがた自身がよく知っているとおり、主の日は盗人が夜くるように来る」と書いてあります。それでは相反する二つの預言があることになります。我々はどうすればいいのでしょうか。皆さんは単に自分の都合の良いほうの預言を選ぶのでしょうか。

 たぶん、主は天の雲に乗って大きな音をとどろかせながら現れるでしょう。そう預言は書いてありますから。しかし、一方では主は夜の盗人のように現れるかもしれません。もし主が雲に乗って来られるとすれば、盗人のように隠れてこの世に、入り込むことはもちろんできません。ものすごく大勢の人が雲による来臨の壮観に注目するでしょう。そのようなものがどうして我々の目から隠され得るのか私には分かりません。

 それではいったい、何が真理なのでしょうか。我々は目の前に困難な問題を抱えています。何が真理なのか。終末の様相を見たなら、暗い室に入って祈れ、と聖書は教えています。誰が終末の時を知らせることができるのでしょうか。天使たちはその日を知りません。イエス様は、人の子でさえいつその日が到来するか分からないと言われました。ただ神のみが終末の時を知っていらっしゃるのです。ですから、私たちは神から答えを得るのです。私は皆さんが私の言うことを信じなければならない、などと言っているのではありません。私は私自身が真理であることを知っている事柄を公表しているにすぎません。しかし皆さんは、この真理が本物かどうか神に聞いて確かめなければなりません。

 終わりの時には誰も信じてはいけないと聖書は言っています。私を信じてはいけません。そして皆さんの教会の長老をも信じてはいけません。牧師も有名な大衆伝道者をも信じてはいけません。天がとても近くなって、聖霊によって、高く持ち上げられれば、そしてもし、非常に熱心に祈れば神と語り合えるし、直接神から答えを得ることができます。

 ニューオーリンズには、たくさんの牧師や英国教会牧師や多くの教会の長老たちがおります。彼らのうちのどれだけが真実に神の声に耳を傾けていることでしょうか。

 我々が霊的な耳と霊的な目をもたなければ、我々のこの耳もあまり意味がなく、この目もあまり有用な目的に使えません。イエス様は言われました、「耳のある者は聞くがよい」(マタイ一一・一五)。そして弟子たちには「しかし、あなたがたの目は見ており、耳は聞いているから、さいわいである」(マタイ一三・一六)と言われました。彼は肉体的感覚器官を指して言われたのではありません。

 皆さんが霊的五官を通して、神のみ言に耳を傾けるとき、神の指令と導きを見いだすでしょう。しかし、天国の住民となることは、なまやさしいことではありません。外国人にとってアメリカ合衆国の国籍を得ることだけでも、とても難しいことです。我々がこの世の生活から天国の世界へ我々自身を移籍させることは、どんなにか難しいことでしょうか。しかし、我々はこのことを成し遂げることができます。

 私たちは、アダムとエバがエデンの園で堕落したのちでも、彼らはまだ神と直接通じ合うことができたことを知っています。旧約と新約の時代のあとで神が何らかの理由で、つんぼとおしになったのでしょうか。いいえ、神は生きて働かれ、今日我々は、神と直接話すことができます。神は皆さんに話しかけることができますし、そうすれば皆さんは神と直接対面することができます。

 使徒行伝では、終わりの日には「あなたがたのむすこ娘は予言をし、若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るであろう」(使徒行伝二・一七)。我々は真理を知らなければなりません。我々はいかにして天国の市民権を得るかを知らなければなりません。我々は、いつ主が来られるのか、そしてどのようにして来臨されるのかを知らねばなりません。

 我々の生活の中で、はっきりした導きがある場合でさえ、ゴールに到達できずに失敗する可能性があります。しかし、今日我々には何の導きもありません。そして、確信して従うことのできる何の命令もありません。

 聖書を見て、いかに再臨の主が来られるかを明らかにしましょう。ルカ福音書一七章二〇、二一節でイエス様はパリサイ人に、天国はどのようにして来るのか尋ねられました。彼は答えて言われました。「神の国は見られるかたちで来るものではない……神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。それから弟子たちに言われました。「あなたがたは、人の子の日を一日でも見たいと願っても見ることができない時がくるであろう」。しかし、もし主が雲に乗って来られるのであれば、我々はどうしてそれを見ることができないのでしょうか。黙示録一章七節では「すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう」とあります。

 これは何を意味するのでしょうか。なぜ皆さんは彼を見ることができないのですか。我々がその日を見逃すことがあるとすれば、主がある方角から来ると思って待ち望んでいて、ちょうどイエスの時のエリヤがそうであったように、違った方角から全く予期しなかったふうに現れるという場合のみです。これが皆さんが再臨の時に主を見ることができないかもしれないという理由です。

 もう一つ不可能な預言がイエス・キリスト御自身によって与えられました。彼は再臨の主について宣言されました。「しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない」(ルカ一七・二五)。もしキリストが再臨の時に、天の雲の栄光の内に現れるなら、だれがいったい彼を否定するでしょうか。誰も彼に苦難と痛みを与えたりしないでしょう。

 この預言が成就する唯一の場合は、人々が彼が雲に乗って来ることを期待していて、主が突然に肉体をもった貧しい人間として現れた時です。今日のキリスト教の指導者たちがイエスの時の祭司や律法学者や、長老たちと同じ誤りを犯すとは思いませんか。そうです。彼らはたぶん主を否み、拒むでしょう。なぜなら、彼の現れ方はキリスト教指導者たちにとって、とても受け入れ難いものだからです。このようにして、聖書は成就されるでしょう。彼はまず、苦しみを受け、この世代によって捨てられるでしょう。

 イエス様はかつて、もっとも大切な疑問を述べられました。「人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」(ルカ一八・八)。キリスト教の教えが、地球上をあまねく覆っている今日、この疑問は我々とどんなかかわりがあるでしょうか。なるほど、我々は信仰をもっていますが、それは主が天の雲に乗って来るという期待をもった誤った信仰だからかもしれません。もし、人の子が肉体をもって現れても、彼を迎えることのできる信仰をもった人は地上にはほとんどおりません。もし、このとおりでないとすれば、聖書は成就されません。イエス様は、信仰者が見られないと言ったのではなく、信仰が見られないと言われたことに注目してください。

 イエス様は、またこのようにも言われました。

 「その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』(マタイ七・二二、二三)。この預言は、もし彼の再臨が天の雲に乗って来るのであれば実現されるはずはありません。

 再臨の時に人々は「主よ、主よ」と叫ぶことでしょう。それと同時に、再臨の主が自分たちの期待とは違ったふうに現れたなら、その再臨の主自身を十字架につけようとしているかもしれません。そうすれば、彼らは誰よりも悪者になります。

 これが聖書です。本当に目をもっている人々は見るでしょう。本当に耳をもっている人々は聞くでしょう。歴史を通して神は、成就される前に預言者を送っています。彼は御自身の計画について人々に警告を与えます。どれだけ今日のキリスト教信仰が篤く、何億人の人々がキリスト教会に属していようと、いったん再臨の主を――彼がどんな格好をしていようと――受け入れることができなければ、彼らの世界は没落の運命にあります。これが、イスラエルの人々が他の面では信義に篤いのにもかかわらず、イエス・キリストを否んだがゆえに味わった悲劇です。

 ですから我々もまた、新しい言葉を受け入れる用意が必要です。イエス・キリストはモーセの律法を繰り返すために来られたのではありませんでした。ちょうど、イエス様が新しい真理で御自身を証されたように、再臨の主も今日における新しい真理によって証されるでしょう。その真理は、ただ単に新約聖書を繰り返すことではありません。

 主は天の雲の中に奇跡的に現れるのではありません。なぜでしょう。それは、神はその子を、一度失われたものを復帰するために送られるからです。人類始祖は地上の神の国を失いました。サタンが世界を侵略し、エバを横取りし、そしてエバはアダムを堕落させ、神をたった一人、人間から離れた状態にしました。それゆえに、すべての人類は、悪の拘束のもとに苦しみました。神は、新しい歴史を始めるために新たな人類始祖を送らねばなりません。

 神のみ業は復帰であり、いつも最初に失った経路と反対の経路に進みます。つまり、神は最初に、神を裏切る代わりに、神と一体となり得る完成したアダムを見つける必要があるのです。そしてアダムはエバの立場に当たる相対者を復帰しなければなりません。完成したアダムと、完成したエバが一体となればサタンを打ち負かし、これを世界から追放することができるでしょう。このようにして、最初の正当な人類の祖先が新しい歴史を始めるのです。

 神の最初はアルファでした。これが悪に侵入されたので、神はオメガにおいて世界を復帰するのです。イエス様はコリント前書一五章四五節で第二のアダムについて言及されています。神はアダムとエバが完成した時に、祝福して結婚させてやりたかったのです。天の夫婦として、彼らは神の子供を生むことができたはずです。この生活はエデンの園では実現されませんでした。だからこそ、イエス様がアダムの位置に来られたのです。神は真の花嫁を見つけてイエスと結婚させたかったのです。人類の真の父母は、イエスの時代に出発しているべきでした。そして世界の悪の歴史を克服し、これを転換させることができたはずでした。この希望がイエスによって全うされなかったので、彼が部分的にのみ果たした使命を完全に果たすために、二〇〇〇年を経て地上に再び来られるのです。その時には、地上に天国が築かれるでしょう。

 善の新しい歴史はこのようにして始まります。神の真理と人類の真の父母をもってして、神の歴史の新たなアルファが始まり、永遠に続くのです。神の理想は最初の神中心の家庭を地上に復帰することです。このひな型を中心にして、他のすべての人類はこの家庭につながることができます。我々はそのごとくになるでしょうし、最初の天の家庭は広がって繁殖し、氏族的、国家的、そして世界的な神の王国が地上に出来上がるのです。

 神の国が文字どおり、目に見える形で出来上がるのです。イエス様はペテロに天国へ入る鍵を預けて言われました。「あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」(マタイ一六・一九)。ですから、地上における完成が天国での成就よりも先に来なければなりません。天国はまず地上で完成されるのです。

 現在では霊界においては、媒介地点となる所だけが開かれています。そこは「パラダイス」と呼ばれています。イエス様と弟子たちはパラダイスにいますが、彼らでさえ、天国が地上に完成されるまでは、天国に入ることは実際にはできないのです。その理由の一つは、天国は個々人のために備準されているのではなく、父と母と神の子供たちによる神の家庭のために備準されているのです。

 皆さん、私の言わんとするところはとても明確で、簡単であると私は思います。神はアダムから善の歴史を始めようとされました。しかし、アダムは堕落しました。神は歴史を復帰しようとされ、イエス・キリストより再出発しようとされました。しかし、当時の人々は信仰が足りず、イエス様に機会を与えませんでした。ですから、再臨の主に関する約束は成就されるでしょう。彼は肉体をもって人間の子供として、地上に必ず来ます。彼は第三のアダムとして来られます。彼は花嫁をめとり、黙示録に「小羊の婚宴」として書かれている天の結婚式という最も喜ばしい日をもたらすでしょう。彼は真の父母としての役目を成就するでしょう。神の本当の血統が打ち立てられ、そうして地上天国がそのごとくに完成され得るのです。

 今日のキリスト教が明らかな危機にあることは疑う余地がありません。これは、確立した宗教団体が、神の子を退けたあのイエスの時代と類似した危機です。我々の時代のこの危機を我々は認識しています。しかしそれと同時に、もやを通して、新しい希望に輝く一日をかいま見ることができます。

 終末は単にクリスチャンだけではなく、世界中の人々に差し迫っています。神の新たな歴史は、主の到来とともに始まります。彼を見、かつ受け入れる人は幸いな人です。再臨の主を認め、迎え、そして受け入れることがキリスト教の希望です。機会は我々すべての前にあります。すべての人間の人生の中で最も偉大な機会が、我々の戸をたたいています。どうか謙虚になって、偉大なる新しい希望に対して自分自身を開きましょう。現代はかつてなかったような霊的な覚醒の時です。皆さんは、自分の目と耳を開き真理を悟ってほしいと思います。私の希望はこれです。つまり皆さんとこの福音を分かち合うことによって、再臨の主の栄光に備えて我々が一つになることです。歴史の神を見ましょう。摂理の神を理解しましょう。そして我々の生涯の中で、生きている神を抱き締めましょう。

 きょうはこの市での私の最後の日です。皆さんがこれらの事柄を徹底的に調べられることを望みます。ニューオーリンズの私たちの教会に来て学ぶ機会や、修練会に出て統一原理の真理を探究してみる機会もあります。私は皆さんに何か新しいことを言うために用意してきたのでなければ、ここに来なかったでしょう。私は新しい真理を明らかにしています。このことだけを取ってみても、この話を深く掘り下げて研究することを要求するだけの理由となります。

 今夜、最初に申し上げたとおり、皆さんも共にこれらの考えを真剣に考え、かつ神に祈ってください。神は答えてくださるでしょう。

 どうもありがとうございました。
















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16_伝統の旗手

 御旨と世界
(全面表示)

 



伝統の旗手


1974年5月10日

 東京

 小金井公会堂

 神の切なる願い

 きょうは「伝統の旗手」という内容で話しましょう。

 一つの家庭を中心として見れば、その家庭の伝統を受け継ぐ者は、年寄りでなくして若者である。一つの国家も、その国の伝統を受け継ぐ者は、やはり、その青年である。それは、過去もそうであったけれど、今もそうである。だから、伝統を受け継ぐのは、いわゆる青年である。

 例えば日本の国についていえば、日本の国の伝統を受け継ぐ者、またそれを全体に引率させる者が、正当な伝統を引き継がなかった場合には、この日本の将来というものはとんでもないことになる。その伝統と違ったところに行くということは当然のことである。世界を背負う者、あるいは理想世界を建設する者、あるいはすべての責任をもつべき者は、いったいどういう者だろう。やっぱり、その世界を背負う者、世界の新しい伝統を立たせる者、そういう者は青年であって、神の摂理から見てもやはり、神に至る伝統を青年たちによって立たせてもらいたいというのが、神の切なる願いである。

 旧約時代を振り返るというと、旧約時代はみんなおじいさんが伝統を立たせてきたのですね。ノアのおじいさんとか、アブラハムのおじいさんとか。それからヤコブは例外だね。しかし、これも年を取ったもんだ。それからモーセにしても、みんな年寄りだね。その年寄りの旧約時代より、新約時代に移ってくると、洗礼ヨハネを見ても、イエス様を見ても、これは青年だね。いわゆる二十代と三十代の期間において、すべての天の伝統を受け継いで、その伝統を現実の世界に、結ぼうとしたその中心的存在が、イエス様あるいは洗礼ヨハネだった。そのイエス様に、洗礼ヨハネを中心として神の国の理想的な現実的伝統を築いたとするならば、その伝統はイエス様を中心として、後世に世界的伝統基準として定立したに違いないだろう。青年というものは、それはまだまだ社会に接していない、一方に向かっている時期である。自分の熱い心の中で決めたものには、直ちに行動する。だから、先生によって教えられたその内容を、直ちに実行して、自分を築こうと願うのが、これが青年あるいは学生である。

 神様も何としても、年寄りよりも青年を願うことになるというのがその思いに違いない。だから成約時代は、青年を中心として出発するのが原理的だ。



堕落前 アダムとエバを眺めた神

 伝統はどういう目的に向かっていくのであろうか。これを我々は、はっきりと知らなければならない。まずもって個人完成を目標としなければならない。国を救う前に氏族を救わなければならない。自分の家族を救う前に自分自身を救わなければならない。我々統一教会の成約時代におきまして、神様の願うところは、老年でもなければ壮年でもない。これはまさしく青年を願うに違いない。君たちの年齢は、まさしく成約時代のすべてを背負う神の希望の中心として召され、中核の使命を果たし、そればかりでなく、中心的な基準を立たせるにふさわしい存在であるということを結論的に言っても、それは間違いないと思う。それは日本ばかりではない。海外の統一教会メンバーは、みな青年である。アメリカでは、平均年齢をとってみれば、二十三から二十五歳というような年齢であることを思えば、この若き者たち全部が、目的に向かって行動するのに、命を捧げ、すべてを捧げて、自分たちはこういうふうに行くんだというような、その決意において毎日の生活をしていくならば、その生活の背後には新しい伝統が築かれるに違いない。

 このような青年があればこそ、未来の日本は、新しい希望を抱くことができる。ここにおいて、日本の祝福を受けるような目標をもつことはもちろんであるが、あすをつくり、世界をつくるというような、その決意に燃えて、国を越えて、アジアの青年と手をつなぎ合って、交流しながら超国家的な心情を一つにして、超国家的な行動を、実践的になしていくならば、そのなしていく基台が長ければ長いほど、この動きはそれは滅びるのではなくして、大きくアジア的になり、それを伸ばしていけば世界的な一つの中心なる道として、現れていくのは当然のことである。君たちは、そういうふうな伝統を受け継ぐ使命をもっているとともに、受け継いだ伝統を、また築き上げなければならない。

 今、我々統一教会としては、この観点から見た時に、世界的青年の教育と理念を、正しく一つの方向に、超民族的に固める教育制度が必要になってきたのであります。ここに集まった者たちはみな青年である。まだ汚れていない。この世的に汚れていない素直な心をもっている。その新しい心に新しい決意をもつ。新しい決意をもったその決意の自信をもって、心身が一つになり、神に完全に愛される完成された男女となったとするならば、これをいかに神様が喜ぶだろう。エデンの園においてアダムを造り、エバを造った神様から見た場合に、神様の最高最大の願いは何だったかといえば、神に永遠に愛されるにふさわしい、神の創造目的にかなった完成された男、完成された女、いわゆる息子、娘を求めてきた。神様はそういうふうにして、ありったけのすべての希望を自分の息子、娘にかけて、そうして未来の発展を夢見たに違いない。そうしたすべてが堕落によって崩されてきてしまった。そののちに救済摂理を通して、これをもとがえし、老年時代から壮年時代、青年時代へというような歴史を通過して、今の時代においてついに青年層を迎えるようになった神様においては、堕落したアダムとエバを堕落する前に眺めていた神はどれだけ希望をもって眺めていたことか。そう思う時に、こういう立場が今の成約時代の我々青年ではないか。



愛す愛されるという伝統

 神が君たちを愛すると同じように、君たちも神を愛するのは当然だね。それは原理原則である。だから、神を縦的な中心と慕いまつるならば、父なる神の子として、神の娘としての関係において愛される時、そういう愛する伝統が始まらなければならない。それを果たさなければ、個人完成の出発点は満たすことはできない。家庭というものは個人ではない。相対圏を満たしていくのだから、まずもって、個々において神に愛される。しかしそればかりではなく、愛される神を我は親として迎えるとともに、神から受けた愛を神にお返しする。親孝行をする。縦的な立場において、親子たる心情が結ばれた基準に立ち返らなければ、個人完成の出発点は生まれてきません。

 君たちの平常言うような、個人完成というものは、いったい何か。それは) 縦的に親子関係の信仰を結んでいくことにある。そうして神が自分を愛したと同じように、子供も神を愛し、愛は相対関係間に成立するものであるから、神と子供は離すことはできない。

 自分が泣くのは、自分のために泣くのではない。神のために泣く。主体、相対関係を円満に統一圏をなすために、それをなす。自分のすべての活動の範囲を広げるのも、その主体相対関係を固めるために、それを広めていく。そうすることによって、神の主管圏が次の主管圏に拡大されていく。

 それが家庭を中心として、その主管圏を広める相手と相対したら、それは夫婦である。男に対して女、女に対して男、その男女は自分なりにおいて結ばれる男女の関係ではない。それは神を中心として、横的立体的に強く結ばれる中心的な心情圏として立たせたのが家庭の基準である。その夫婦は、神より愛される自分の夫を、神と同じように愛することができる。神が愛する奥さんを、自分も同じく愛することができる。神を中心として、男と女の授受作用のそういう関係、愛されたら愛するという関係を、共に自分のものと同じような立場に迎えるところに、この二つが共に入り交って一つになり、共に愛するその結果となる。

 アダム、エバ二人が愛するのを見て、神様が寂しいものではないんだね。ああ、自分の内心にあったその愛の素質というものがあれだけ強いものだったのか。アダムとエバが絶対的に一つになって愛し合うその関係は、自分の内心の相手が実体に現れたんだから、それを見るたびに反発するんじゃなくて、それはプラス、マイナス関係になっている。



本当の幸福の伝統がない

 こういうような家庭を中心として、本当の幸福の伝統がこの地上界を中心として始まらなかったというのは、これは、人類の最初の先祖が堕落したからだということは我々のよく知っていることである。我々は堕落の後孫として生まれたに違いない。それは否定できない。だから、こういうふうに考えると、自分の父母も善なる父母とはいえない。そうなれば、それを拡大すれば、その民族も善なる民族の基準を受け継いできたものではない。だから堕落の後孫である以上、神によって出発したのではなくして、サタンによって出発した圏内に我々はいるのである。こういう圏を正してもらいたいのが、堕落圏内、死亡圏内の願いに違いない。

 こう考えてみた場合に、我々は自分なりには解決できない。いくら解放を願っても、サタンに主管されているから、天使長以上の知恵をもっていない。サタン以上の力をもっていない我々としては、これを克服するということは絶対不可能である。永遠の死亡圏に、人類は滅亡していくというのは当然の結論である。だから、もし、救ってやれるお方があるとするならば、サタンの怨讐圏に立っている善なる神自体以外にない。神は哀れな人類に救いのみ手を差し伸べて、数多くのその聖人たちは神から遣わされたのだから、神の遣わした聖人の基台が拡大されるというと、サタン世界の家庭が破壊されるんだね。サタン世界の社会が破壊されるし、サタン世界の国が破壊されるから、サタンは命を懸けて神から遺わされた聖人、義人、預言者たちの首を切って殺してしまうのは当然のことである。だから善なる預言者、聖人、義人たちはこの世界に来て迫害され、あるいは殺されていった歴史を我々はよく知っている。そこには死亡の基台があり、そこから新しい個人圏、家庭圏、氏族圏、民族圏、世界圏の方向に広げて、神は摂理していったんだよ。そうしてそれをなすために数多くの宗教を立てた。



キリスト教は神の足場

 近世に入ってきて、すべての宗教圏が世界的文化圏を抱くようになったから、神はこれを一つにまとめなければならない。その新しい宗教文化圏の世界を、総まとめにして、一つの神の理想とする善なる世界へもとがえししていこうというような運動をなす神の摂理がある。この計画を完成させるために遣わされるお方が救世主、いわゆるメシヤ思想である。

 このメシヤが来たとするならば、一人ぼっちで来ても何にもならない。メシヤが来るんだから、メシヤの思想に相応する、それなりの超民族的な足場をつくらなければならない。そういう文化圏を世界へ発展させた特定なる宗教が、いわゆるキリスト教である。なぜキリスト教が世界的な宗教になれるか、他の宗教でもよいではないか。しかし理論的に見た場合に、最も神のみ旨に合う、最も神が願われるその内的心情を代表した宗教であればこそ、世界的になる。そう見た場合に、キリスト教はまさしくその核心を突いて、今までその内容を抱いてきた。だから、このキリスト教は神が好きなんだから、神が世界的な神だから、世界へ世界へと発展するのは当然の話である。それでは神が主張する内容は何か。愛を主張する。それを、イエス様が言うには、天、地、人に対して神は裁きの主ではないんだね。「愛のお父様」と言うように、こういうふうに位置づけた宗教はほかにはありません。



誰が神を動かせる

 「ああ、神よ。全知全能なる、永遠に唯一絶対なる、無限なる神におけるひとり子である」。ひとり子という) 、そのことを言った一言で、これは万民のメシヤになれる資格がある。「ああ、自分は神のひとり子だ」と言う者はいったいどういう立場に立つ者であるのか。神が愛の心をもったとするならば、その愛を初めて得たものがひとり子だよね。愛を占領する者もひとり子だよね。そうだろう?

 そのお父様の心中に潜んでいる愛の核、そのものを溶かして、動かすことができる。それを動かすことができる者が何?

 (ひとり子)。そういう観点に立ってみた場合に、ああ、イエス様は神様の心情の中において、その心情を完全に占領し得る資格をもってきた代表者である。神様の心情を万民が願うならば、そういう内的な心情を占領し得る、そういう経験をもったものでなければ神の愛の世界を指導することはできない。だから、それはメシヤの資格に当たる。



まずもって神の愛を体恤

 イエス様は神のひとり子である。とともに、我々も救われた時には、また立場は違うけれども、我々も神の子となる。だから君たちに甘柿を接ぎ木した時には、完全に甘柿になるんだよ。イエス様に救われてからは、イエス様が救い主かといえば、そういうものではなく、兄弟となる。そして、イエス様は新郎であり、君たちは新婦になる。イエス様からのこういう伝統は、兄弟の愛によって始まった。これは天宙的な宣言だね。今までのような堕落圏内に示された兄弟の伝統ではなく、新しい伝統を築くのである。それが君たちであるというんだね。

 だからここにおいて天が願う新しい兄弟の伝統を植え付ける、新しい兄弟の伝統を築くとともに、新しい夫婦の伝統を受け継ぐものでなければならない。それは理論としての話ばかりでない。歴史的にそれを押し進めていく。そうすれば、兄弟の伝統が生まれ、新郎新婦の伝統が生まれ、神による愛の伝統を受け継いだとするならば、そこにおいての夫婦により生まれる子供は、神によって愛される子供になる。堕落した圏内において生まれるのではなくして、堕落しない神の愛される圏内において生まれるのだから、サタンに引かれる立場ではない。だから罪はないよ。だから罪なき子供が生まれて、親子関係の伝統がキリスト教を中心として、決まるようになっている。

 そういうふうに約束した時が、新約だね。旧約の約束が成されなかったんだから、新しい約束が新約聖書だね。真の兄弟になるんだから、愛を相続して、真の神の子供になるんだと、それを約束してくれた。そして再臨の時には絶対に成る約束だよ。その時代が統一教会のいう何時代だって!?

 (成約の時代)。

 約束ばかりする神様ではないよ。素晴らしい約束を成さなければならないから、成約時代に入ってくる。だから、イエス様みたいな子供がたくさん生まれなければならない。イエス様みたいな新郎新婦がたくさん生まれなければならない。イエス様のような理想的相対をして、子供を抱くような家庭がたくさん生まれなければならない。この理想的世界はここから始まるのです。それは、誰から始まる?

 (個人)。個人から始まる。

 完成しない前に心情的に罪を犯して堕落したんだから、アダム、エバの堕落は心情的に未熟の時に、神の命令、神の指示なきところにおいて、心情的行動の第一歩を踏み出したのが動機となっている。そういう環境が、成約青年におきましては、環境がいくら四方八方に偏っても、それは無関係、無関心なのである。無関係で無関心ではなければ、サタンは最後の蹂躙された愛の倫理を受け継いだ親玉だから、来世においては、全人類の心情を蹂躙しようとして、サタンは最後の知恵を働かせる。

 共産党は、遊べ!踊れ!歌って踊って恋をしろ!では、どうなるか、それは破壊である。サタンはそういうような環境をつくって、破壊しようとするんだね。だから、共産党が一番嫌がる団体は統一教会である。彼らは、歌って踊って恋をして、自分の宣伝に乗り気になるように誘う。しかし、いくら言っても、気にしないのが統一教会の青年である。分かりましたね?(はい) 君たちは神の前に立って、まずもって縦的に神の愛を体恤しなければならないんだよ。



直接この目で神を見る

 神様は二性性相のお方であるから、「なぜ人間を造りましたか」と言えば、それは) 一人でいれば刺激がないからですね。喜びというのは、相対関係によって生まれるものだから、刺激が必要である。一人では刺激が得られない。相対圏の刺激を愛するんだね。最高の神様の相対的愛に立って初めて愛を受けられる。そうすれば、神の内性がそのまま実体化されたものとなる。神様が悲しくなれば人間も悲しくならなければならない。だから人間と神様は別れることができないんだね。いくら研究しても疑問を抱くことはない。もう既に別れられないようになっている。だから、個人完成は縦的な神と自分の関係をもつものである。

 縦的な神は見えない。その見えない神が、その実体相をもつためにアダム、エバを造った。アダム、エバの心の中に神がいまして、アダム、エバが完成されて神の愛を受けるようになって、神は内的な父であり、アダムは外的な父となるんだね。そうした場合に、外的姿は内的姿と同じである。神様は人間の姿をよく見つめている。そうすれば神様は人類のお父様として、アダムの姿をとって、それからエバが人類のお母様としてや宇宙の姿をもった、実体の姿をもったものとなって、この人間、万物世界において、親として万民に似せられたものとなる。神様自体をそのアダム、エバの姿を通して、いつも神様がいるということを歴史を通して知りながら、似せさせることができる。そうなったとするならば、神に対して疑う必要がないね。いつも見えるようになっている。堕落しなかったならば、呼べばすぐ現れるようになっている。そういうような基準になったら、「神様がいない」と言って説明できるの? (できません) 、誠を尽くせば返ってくる。宇宙の原則だよ。それで自分の親ということを証明できる人いるの?

 横に座っている親に対して、この親が自分の親である以上、何十年説明したって、これ説明することできるの?

 君が一億万民が総動員しても、誰が自分の親じゃないと説明できるの?

 世界万民が総動員したとしてもこれは説明できないんだね。

 それで、神様は何を願っているかというと、この末世時代において、神様の姿を現さなければならないという。それは、完全に心情的、縦的に復帰された、完成された男、すなわち、メシヤとして再び現そうとしているのである。完成されたアダムの身代わりとして行くんだ。完成されたエバの身代わりを中心として、その成約時代には、神様自体が真の父母の姿をもって、万民の前に現れる。だから、統一教会は、権力、あるいはいかなる政治によるてすべての力を投入しても、主管できない偉大な力をもっているのである。生きる神様を、生きられる神様を、我々は直接この目で見、この感覚で体恤し得る圏内において、体験を重ねながら行くのが我々統一教会の道である。分かりました?

 過去にイエス様を信仰しながら、イエス様を信じながらイエス様に会った人は、何人いるか?

 (一パーセントもいない)。少なくとも二十年、四十年間信仰を保たなければ、十字架につけられたイエス様に会うことはできない。統一教会では一週間だけ原理を聴いて誠を尽くすとお会いする。それが違うんだよ。ああ、偉大なること、天宙的革命の道は一つ開かれた。数千年の歴史を通しても、どうしても、会える一点を見いだすことができなかったのが、統一原理によって、我々は一週間以内にその触覚をして、通じる道を発見するとは、本当に偉大な奇跡の統一教会の道である。その背後には六〇〇〇年がたっている。この人類文化には、六〇〇〇年かかって人類の生活圏にもたらしてきた神が、六〇〇〇年の蕩減のすべてを築いてきて、ここに蕩減の犠牲がすべて集結されている。勝利的な結実体として結びつけたのが、親子の愛の関係である。



神と同じ悲しみで世界を眺めよ

 「ああ、神様に会いたい」。「ああ、先生に夢でも会いたい」。それで、真心を尽くす。それしかないね。万民のために血を流す。神様と同じような……。血を流す。朝早くから足を引きずり回して、そうして神様の一番近いところに行く。ああ、先生に会いたくてたまらない。寝るのも忘れて、先生と泣くような心情圏でなければならない。一番近い道だからすぐに行く。すべてを総合し得る力をもったものが人間である。神様が造ったものが人間であるからね。そんなに素晴らしいものが人間であるよ。

 神様も一人だけでは生きられません。だから、統一教会の教えは神のため、人のため、だからもっと大きいもののため、まず神様は主管圏、天宙復帰の目的を完成させるお方だから、より大きい基準を復帰することによって、より大きいところの救いの手を伸ばすができるのだから、より大きいものを中心にし、より小さいものは吸い込まれ、犠牲になれ、とね。それが宇宙の原則だよ。だから個人は家庭、家庭は氏族、氏族は民族、民族は国家、国家は世界、世界は天宙、天宙は神、神、神。そして、そういう基準を成し得た場合に、神様の天宙的立場に立ったという勝利を目指して闘う者でなければ、神様の子供になれません。神のために、天宙のために働くような自信をもたない者は、神の子供になれません。統一教会において真の父母に従うというのは、原理原則にかなった結論である。分かりましたね? (はい) 。いいかげんな問題じゃない。こういうような縦的体恤を各自がすることによって、こういうような者となる」。「お父様、天のお父様」と呼ばれるようなその悲しみを、天のお父様が願う国が満たされていない時の立場で言ったならば、神様が悲しいと同じように、神様がその世界を眺めて、それ果たさなければならない使命を抱いて、決意するのと同じような悲しみを抱きつつ、日本を眺め、世界を眺めるというならば、その人は、一人でいても神の子である。

 "神の欲望が自分の一心にみなぎっている”と思うんだよ。“神に決意し、絶対にこれを果たしたい”と思うようにならなければならない。何年、何十年、何百年にも延長されていくとするならば、神の内心の苦痛はいかばかりか分からない。その一瞬を勝利していかなければならない。これを犠牲にしても自分は喜んで生きるというような、和気あいあいの自分の思いをすべて尽くす子になったとするならば、そういうものをもった者が、日本を救う。将来、日本の霊界を支配する基準になる。現世においては目立たなくても、未来の霊界に行きましては、数多くの超民族的世界万民を、神の代身として、支配しようとする者となる。神はそういうような、我々統一教会の青年を願っている。未来への伝統を立たさなければならない。こういう現実において、我々にそういうような実体者を願っている。そういう者が、いわゆる統一教会の青年でなければならない。



十字架を堂々と歩んだイエス様

 旧約、新約時代の歴史を顧みて、神の心情を迎えるために涙ぐんで、十字架の道を堂々と行きつつ、神様の心情を慰めて死んで行くようになる子供となければならない。神様の歴史において、現実的世界のその道を開く伝統を立てたのは誰か?

 イエス様である。ゲッセマネの祈りにおいて、血潮を流すような痛みを感じながら祈ったのも、それは神の伝統をもたらすためである。神の伝統を、正統にこの地上に残すために、もがくように祈祷をなさざるを得なかったイエス様である。そういうことをして、この地上に初めて、人間世界の開拓の道の第一人者としての伝統を立てたのがイエス様である。そのイエス様の伝統を、正統に受け継いで、それを公的世界に発展させていくのが宗教である。善なる伝統を受け継いで、後孫へ後孫へ与えていって、キリスト教となった。

 キリスト教の教える心情圏は一つである。目的に向かう希望と心情圏は一つである。それを一つにするためには、神に立ち帰らなければならない。まずもって、統一教会は神に立ち帰る。神様の心情圏に立ち帰らなければイエス様の心情圏は分からない。イエス・キリストもキリスト教の伝統も分からない。未来のその希望の伝統も分からない。神に立ち帰って、再びこの地上圏の生活圏内に、あるいは教会圏内に宣べ伝えていこうというのが統一教会の今までやってきた道である。分かりましたね? (はい) 。まずもって、縦的関係の心情を体恤しなければならない。神に指導を受け、理想的人間にならなければならない。分かりました?はい) 。



失っている三つの心情

 堕落した人間においては、一遍に三数を失ってしまった。アダムは神の子供である。エバは神の娘だね。子供としての心情、子女としての心情を失った。それから、兄弟同士の神の愛を中心として愛すべき、それを失ってしまった。エバはアダムを殺してしまったね。アダムはその兄さんである) にもかかわらず、エバに引かれて、エバを主管できなかったね。善なる兄妹でなく、悪の人間となり、だから善なる夫婦が堕落して悪なる夫婦になった。神の愛の心情圏を一遍に失ってしまった。一遍に失った心情をいかに復帰するや。だから、復帰のそういう立場に立った場合には、男の子は兄さんと同じような思いがわくよ。心情の世界に入ればね。

 そうなったとすると、先生に対して自分は心情圏においては子供だね。兄弟の心情、親の心情、子供の心情、三心情を一遍に失ったのが堕落であるから、これをどうにかして、心情的に体恤し、復活圏を盛り返さないというと、完全復帰はできません。分かりました? (はい) 。



聖徒こそ神のために涙ぐむ

 心情復帰、神の心情、横的蕩減復帰、これらの蕩減復帰が始まるんだよ。一斉に心情圏が始まる。神のために、そういうことになった基、統一教会がこうなったもとを、いくら研究しても分からない。なぜ統一教会に気違いみたいに先生が命令しているか、心情一致して動くのか分らない。君たちは先生と心情一致して動くの? (はい) 。信じられません。男は天使長だよ。天使長、だから、統一教会の勇士におきましては、男としても、先生を見たくて涙を流すようでなければ、統一教会の聖徒ではありませんよ。先生を見たくて涙ぐむ者でなければ統一教会の聖徒ではない!

 涙ぐむそういう子供になるんだね。それが先生のためではなく神様のためである。

 先生は神の愛を中心に君たちを愛し、君たちは先生を愛し、神を愛し、君たち同士愛するんだね。それだけ愛すれば世界万民を愛せるんだね。君たちが先生を愛すると同じように食口を愛する。先生の願いは、先生が愛する以上に愛せ!

 それをすれば兄弟同士、自分の親以上に愛するようになるというんだよ。こういう伝統が日本全国に広がった場合には、日本は神様が、いくら滅ぼそうとしても滅びません。君たちは理論的に勝利する者ばかりではなくて、理論に先立って心情でなすそういう者となれ!

 兄弟みたいに、兄さんみたいに、弟みたいに、妹みたいに、親みたいに愛するそういう群れとなれ!

 そうなった場合には、その食口の友達に「来るな」と言っても、もう見たくて見たくて来るんだよ。先生はそうだよ。同級生の親友はみんな先生のところに来る!

 それは何しに来るや?

 誰にも相談する者ないんだよ。神の心情圏を相続する、それを実践するところに、そういう理論があって、神と一つになるようになる。そういう伝統を立たせるんだね。

 そういう覚悟でもっていま一度目的に向かってやりたい者、手を挙げて。(はーい)。そういうふうにやりましょうね。その次、神の伝統を万民に促す。よみがえらせる。そういう統一勇士、そういうふうになりたい者手を挙げて。(はーい)。それを先生は信じています。

















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17_キリスト教の新しい未来

 御旨と世界
(全面表示)

 



キリスト教の新しい未来


1974年9月18日



ニューヨーク マディソン・スクェア・ガーデン


 紳士・淑女の皆様、私は今夜この場に立ちました皆様に心から感謝申し上げたいと思います。私達はこうして今夜、このマディソン・スクェア・ガーデンの印象深い情景の中に、神の名の下にひとつに集わしめられたのであります。

 今晩、私は「キリスト教の新しい将来」と題して語りたいと思います。しかし、その本論に入る前にひとつの前置きしておきたいと思います。私は皆様がすでに知っておられるようなことをくり返し言うためにこの場にやって来たのではありません。私はある新しいことを明らかに示すためにやって来ました。私は、神からの新しい啓示を皆様に分かちたいのであります。

 神は唯一であり、キリストは唯一であり、聖書は唯一であります。しかしながら、今日、キリスト教界ひとつとってみても、そこには、四〇〇種以上の異った宗派があり、それらはすべて同じひとつの聖書を、非常に違った観点から、様々な解釈をもって見ているのであります。そせて、今日の我々の関心事は、もはや、聖書に対する人間の解釈ではなく、神のどのように聖間を説かれ、何が本当の神のみこころであるか、ということになってきています。この問題に対する解答は神から啓示というかたちでもならされなければなりません。その啓示を、私は今夜、皆様に分かちたいのであります。このメッセージは、神から来たものであり、神の観点より示されたものでありますから、その内容は、人間の理解してきたものとは、違ったものであって、当然と言えましょう。故に、それは皆様にとって、きわめて新しいものであると思います。しかし、我々が必要としているのは、新しい思想――神の思想――なのですあります。なぜなら、人間は、すでに、自らが創りあげた思想のすべては、研究し尽してしまったからであります。私が今夜、皆様にお話するために、この場にやって来ました理由は、ここにあるのです。故に、私は、神の霊が直接、皆様に語りかけることが出来ますよう、皆様ひとりひとりが、思いをひらき、心をひらいて下さるようお願いするものであります。



神の目的

 歴史を通して、世界のクリスチャン達は、ひとつの重大な絶頂の日、すなわち、聖書に預言されているところの主の再臨の日を待ち望んで来ました。これは、神の約束でありますから、キリストの再臨は、必ず成就されるのであります。

 では、何故主は、再び来られるのでしょうか?彼は、神の目的を成就するために来られるのであります。では、神の目的とは何でしょうか?神は、永遠であり、不変であり、唯一であります。そして神は一つの目的を持たれ、その目的も又、永遠、不変、唯一なのです。神ははじめに、すなわち、全天宙を創造される前に、ひとつの明確な目的を持っておられました。そして、その目的が、創造の根拠であったのであります。神は、その目的を成就するために、宇宙と人間の創造を始められたのであります。

 聖書によると、はじめの男と女−すなわち、アダムとエバが創造された後、神は、彼らにひとつの戒めを与えられました。その戒めとは、「善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう。」−創世記二章十七節−というものでありました。神は、彼らに、御自身の与えられた戒めに従うよう求められました。神は、アダムとエバのこの戒めに対する従順が、神御自身のの目的成就につながるということは、暗示としてしか示されなかったのでありますが、戒めに対する不従順の及ぼす結果については、非常に明確に示しておられました。神は、「それを取って食べるときっと死ぬであろう」と言われたのであります。不従順の結果として示されていたものは死でありました。

 しかるに、アダムとエバは、神に対すて不従順を犯してしまいました。その結果が、人間の堕落であります。霊的死が人間に訪れ、神の目的は実現されなかったのです。彼等は、誤った選択をなし、その結果として生じたものは、神が、はじめに意図されたものとは、全く逆のものでありました。彼等が不従順を犯した後、神は、この男と女をエデンの園から追放する以外、仕方がなかったのでした。エデンの園は、地上の神の国の象徴的表現であります。アダムとエバは、もはや、神の国の住民としての資格を喪失してしまったために、自ら創り出した邪悪なる王国、すなわち、生き地獄に投げ入れられてしまったのであります。



地上天国

 もし、アダムとエバが、神に従順に従ったならば、彼らは、地上に天国をもたらしたでありましょう。その天国とは、どのようなところなのでしょうか。アダムとエバは、完成されるべきものとして創造されました。そして創造されました。そして彼等は神の戒めに従うことにより、成長し、完成するようになっていたのです。彼等が、完成された男性と、完成された女性になるまでの成長期間に於いては、彼等の関係は、兄妹の関係でなければなりませんでした。彼等は、兄弟関係というものの真の伝統を立てるべく期待されていたのです。

 神はひとりの男とひとりの女を創造されました。何故でしょうか?神は、彼等が完成の基準に達した時に、天的婚姻という祝福によって、彼等を天的夫婦としてひとつにすることを願っておられたのです。神は、神の国を、このアダムとエバを最初の夫婦として立てて、出発しようと計画しておられたのでした。もし、それが実現されていれば、神の“生めよ、ふえよ”という祝福は、成就されたはずであります。神は、彼らに、神の子を生みふやす力を与えられたはずであります。そしてそれらの子供達は、罪なき完全なものであったはずであり、それ以外の何ものにもなり得なかったはずであります。罪は決して、人類の中に入りこむことはなかったはずなのであります。子供を生むことによって、アダムとエバは、神を中心とした父と母、すなわち、人類の真の父母となったはずであります。

 もしアダムとエバが、この最初の、神を中心とした家庭を形成していたならば、そこから、神を中心とした民族、神を中心とした国家が生れ、さらには、神のみが、支配する神を中心とした世界がいち立てられるはずでありました。そして、はじめから、永遠にわたって、完全なる世界となったはずなのであまます。

 もし、このようなことが、そのはじめのときに成就されていたならば、我々は、今日、このような、多くの異った言語をもつことはなかったでありましょう。我々はすべてアダムの立てたひとつの伝統の下に、アダム族というひとつの民族に属していたでありましょう。そして、アダムのひとつの言語が、我々すべての言語となっていたでありましょう。そして、実に、全世界が、神のもとにひとつの国であったはずであります。

 このように、神の御計画に於ては、すべての人々が、地上の神の国に生まれるべく定められていたのです。我々は、地上に於いて、天国生活を楽しむべき存在なのです。そして、地上で肉身の寿命が切れたときに、霊界にある神の国に上り、そこに於て永遠に生きることになっているのです。これが神の、はじめ青写真でありました。その世界には、サタンも悪も、存在し得ないはずなのであります。神は御自身の子供のために、地獄を創造されるようなことは決してなさいませんでした。善良な父親が、自分の子供が、生れるやいなや、その子供の為にろう獄を建てるなどということはあり得ないのです。ましてや、神が、御自身の子供のためにどうして、地獄などを必要とするでありましょうか。天国のみが、神の本然の目的であったのです。しかしながら、罪の故に、人間はその本然の価値を失い、塵のような存在になってしまったのです。地獄は、その塵のような存在を入れておく神の監のようなものです。しかし、それは、人間堕落の後にはじめて必要となったものなのであります。



地上地獄−失楽園

 それでは、堕落した人間と、堕落した世界の状態を、さらに調べてみましょう。ヨハネによる福音書八章四四節に於いて、イエスは、「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきたものであって、…」と言っています。堕落により、人間は、サタンという偽りの父の下に、ひき連れていかれてしまったのです。人間は、その父親をとりかえてしまったのです。我々は、真の父、偽りの父、すなわちサタンとひとつになってしまったのです。このようにして、はじめの男と女とは、サタンの子となってしまったのでありました。サタンという偽父の下に、アダムとエバは、神の祝福も、ゆるしもなしに、不法にも、夫婦として一体になってしまったのです。そして、彼等が子供をふやしていくときに、その子供達もまたすべて同じ偽父の下に生れることになったわけであります。彼等はすべて、神の子としてではなく、罪の子として生まれてきたのです。このようにして、アダム以後、時代から時代へと、罪の子を生み殖やし続けて、この堕落した罪悪世界が、もたらされて来たのでありました。

 我々が、神を中心としないが故に、罪の世界、不信の世界、犯罪の世界、憎しみと争いの世界が生れてきたのです。そして、この世界に住む我々も、我々の国家も社会も互いに、破壊し合いながら、何の苦痛も感ずることがないのであります。これが、まさしく、地上の地獄であります。実にこの世界の主人は、神ではなく、サタンなのであります。ヨハネの福音書十二章三一節に、サタンがこの世の支配者であることが示されているのは、そのためなのです。我々は、この宇宙が神によって創られたということを知っています。我々は、神が人間を創られたということを知っています。しかし、今、神は人間の主人ではないのです。何故なら、人間が、自ら、その主人を替えたからであります。人間は神を裏切り、偽りの主人サタンと結んでしまったのです。そして、このサタンが、ずっと、今に至るまで、人類の父となってきたのであります。



救いとは復帰である

 全能なる神は、愛の神であり、あわれみの神であります。神の心は、御自身の子の生きながらの死に、深く病まれ、悲しまれました。神は、いかなる人であっても、自らの力で罪のなわめを断ち切り、罪を取り除くことはできないということを知っておられます。神は、人間を救いに導くことの出来るただひとつの力は、神御自身であることを知っておられるのです。そして神は、あわれみによって、この世界を救う決意をされたのでありました。

 救いとは、何でありましょうか?救いとは、すなわち、復帰であります。医者は、患者を救うために何をするでしょうか?彼は、患者を正常な健康状態へと復帰していくのであります。それが、治療であります。あなたは、溺れかかっている人を救うときに、どうしますか?彼を水からひきあげて、乾いた陸地に帰すでしょう。それが救助であります。

 これと同様に、神の人間に対する救いとは、人間を異常な逸脱した状態から、本然の善なる状態かへと復帰すること以外の何ものでもありません。故に、救いとは、復帰なのであります。神は、地獄を天国へと復帰しようとされているのです。神は、御自の決意を聖書に於て明確に示されています。「わたしはこの事を語ったぬえ、必ずこさせる。わたしはこの事をはかったゆえ、必ず行う」(イダヤ書四六章十一節)神は、行うかもしれないと言われたのではなく、必ず行うと言われ、人間とその世界を本然の姿に復帰するという御自身の絶対的決意を示しておられるのです。

 では、どのようにして、それをなそうとされているのでしょうか?メシヤによってであります。人類を救うために、神はそのひとり子イエス・キリストを、救い主として、メシヤとして、この地につかわされたのでありました。

 二千年前、イエス・キリストは生命の創造主として、この世界に来られました。彼は、すべて罪人達を、キリストの如き人に造り変えるために来られたのであります。彼は、その第一の福音として「悔い改めよ、天国は近づいた」と宣言されたのであります。イエス・キリストの降臨よって、人々は、事実、そのとき、天国の入口まで来ていたのであります。



メシヤを迎える準備

 しかしながら、神は、世界を復帰するべく、そのひとり子をつかわす前にそのメシヤをことの出来る信仰の基台を立てるために、個人からはじめて、国家へと拡大して、その道を一歩一歩整えて、準備しなければならなかったのであります。

 結局のところこの世界は、今日まで、ずっとサタンの世界でありました。もし、メシヤが、この地上に準備された基台もなく来られるならば、サタンは彼を殺してしまうにちがいないのです。故に神は、ひとつの国家、すなわち、御自身が支配することの出来るひとつの主権をうち立てるために、こつこつと、注意深く働いてこられたのであります。イスラエル選民は、そのメシヤを迎えるための準備の結果として生まれたのでありました。神は、イスラエルの国を、メシヤの“着陸地”として準備されたのです。イスラエルの信仰の基台の上に神の最後の勝利者−メシヤを送ることが出来たのできたのでありました。



イエスは死ぬために来られたのではない

 今だかつて解かれたことのない、ひとつの歴史的ななぞがあります。イエス・キリストの降臨の四千年前に、神は、前に述べたように、メシヤのためにイスラエル選民を準備しておられました。預言者を通して、神は選民に対してメシヤのために備えるよう、あらかじめ知らせておかれました。神は人々の間にそういう期待を築き上げるよう働かれ、事実イスラエルには、メシヤを待望する非常な熱意が見られたのであります。そして、その定められた時に、神は御自身の約束を成就されたのでありました。神のひとり子イエス・キリストは時至って、御自身の民の上に降臨されたのであります。

 そして、そこで何が起ったでありましょうか。歴史は事実を証すものであります。人々は彼を知りませんでした。彼等は彼を否定し、彼に反対し、最後には彼を十字架に釘づけてしまったのであります。何故なのでしょうか。キリスト教の教会は「その問に対する答は、神がイエス・キリストを十字架上で亡くなるべくつかわされたからと言うことが出来るでしょう。十字架ははじめから予定された神のみ旨だったのです」と言うのです。

 では、そう言うクリスチャンに「イエス・キリストが今日、あなたのもとに再び来られたら、あなたはどうしますか」を尋ねてみましょう。すべてのクリスチャンは、間違いたく「私達は彼を受けいれるでしょう。彼を迎え、彼とひとつになり、彼に従って行くでしょう」と答えるにちがいありません。さらに、「キリストら現われたら、あなたは彼を十字架につけますか」を尋ねてみましょう。あなたの答は「ノー」と言うにきまっています。

 もしそうであるならば、二千年前のイスラエル選民達はどうだったのでしょうか。もし彼等がイエスを受けいれたならば−あなたが今日受けいれるように−彼等はそれでも、彼を十字架につけなければならなかったのでしょうか。いいえ、それは誤りだったのです。彼等はその無知ゆえにイエス・キリストを殺してしまったのです。

 神の選民がメシヤを受けいれることが、神のみこころでありました。しかし、彼等は受けいれるどころか彼を十字架につけてしまったのです。そしてクリスチャン達は、それは神のみこころであったと言って責任逃れをしてきたのでした。何というばかげたことでありましょうか。これは我々の論理に合わないことであります。何かが恐ろしく間違ってきたにちがいありません。それは何だったのでしょうか。



無知がイエスを殺した

 人々はナザレのイエスがどういう方であるかを知らなかったのであります。彼等は、彼が神のひとり子であることを知らなかったのであります。もし、彼等は、彼等が、イエスが神のひとり子、メシヤであることを明確に知っていたならば、彼等は彼を十字架につけはしなかったでありましょう。「彼は自分のところに来たのに、自分の民は彼を受けいれなかった」(ヨハネ福音書一章十一節)

 また、聖パウロの証言に傾けて下さい。「この世の支配者たちのうちで、この知恵を知っていた者は、ひとりもいなかった。もし知っていたなら、栄光の主を十字架につけはしなかったであろう」(コリント人への第一の手紙二章八節)

 もし彼等が、彼が誰であるかを知ってさえいたならば、彼等は栄光の主を十字架につけはしなかったでありましょう。それは誤りだったのであります。イエス・キリストを殺したのは人々の無知と盲目であったのであったのです。

 世界のクリスチャンはイエスの時に実際起ったことが何であったかという事の真相に目ざめていないのです。もし、神のひとり子をつかわす唯一の目的が彼の十字架に釘づけにすることであったとするならば、なぜ神は、まずはじめに、イスラエルの選民を備えるために時を費やされたのでしょうか?神にとってはそのひとり子を不信者やあるいは野蛮人達の中に送った方がずっと簡単であったでありましょう。かれらはもっとすみやかに殺し、救いはもっとすみやかにもたらされたでしょう。メシヤを殺すためならば、選民もイスラエルも何も必要ではなかったはずであります。旧約聖書に於て、神はくりかえしイスラエルが神の子の降臨によって栄光を受けるであろうことを約束しています。しかし、メシヤが来られた後、その選民の上に何が起ったのでありましょうか?かれらは罰せられ信じ難いまでの苦しみを受けたのであります。彼らの国は滅ぼされ、その民は世界中に散らされたのです。しかしそれはただ彼らが神のみこころにかなって生きなかったからなのであります。彼らは、メシヤを受け入れることが神のみこころであったときに、彼を拒否してしまったのです。



旧約聖書の文字の奴隷

 さて、そこで問題はイスラエル民族がイエスがどういう方であるかということをなぜ知らなかったのか、ということであります。信じていただけないかもしれませんが、神の選民がイエスをメシヤであることを認めなかった第一の理由は旧約聖書の故なのです。こう言えば皆様は驚かれるかも知れません。しかし、イスラエル選民は旧約聖書を文字通りに解釈していました。彼らは聖書がひとつの暗号であることを知らなかったのです。彼らは聖書を文字通り、一言一言、一字一字解釈していました。言葉を換えて言うならば、彼らは旧約聖書の文字の奴隷になっていたのであります。

 それに対する証拠をあげてみましょう。旧約聖書のマラキ書は、新約聖書の黙示録と類似した意味をもっています。それは、メシヤがどのようにしていつ来られるかというプログラムと終りの時のようすを明確に示しています。マラキ書四章五節から六節に「見よ、主は大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす。彼は父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる」という言葉があります。ではエリヤはどういう人だったのでしょうか。彼はイエス・キリストより九百年ほど前に生まれた人であります。そのため人々は、エリヤが旧約聖書の文字通り、青い空から火の戦車に乗って再びやって来て、神の子の到来を告げるであろうと信じていたのであります。このようなことを人々は期待していたのです。

 しかし、エリヤは来ましたか。問題は、エリヤが彼らが期待していたような形ではやって来なかったということなのであります。イスラエル選民は、エリヤのその奇跡的な再臨の知らせも何も聞いていませんでした。しかるに、ある日、彼らは、ひとつの並はずれた宣言を耳にしたのです。ナザレから来たイエスという名のひとりの若い青年が、神の子メシヤでするとして、世に向って宣言されていたのです。それは実に信じがたい宣言でありました。

 そして、それに対する人々の即座の反応はどうだったでしょうか。“そんなことはありえない!”と彼らは彼らは言ったのです。“どうしてナザレのイエスが神の子であるはずがあろうか。我々はエリヤについて何も聞いていないではないか。“エリヤが来なければメシヤは来ないというのであります。エリヤが再臨するというマラキの預言は、実にイエスの使命遂行の障害になったのであります。イエスの弟子達が、イスラエルの町々で福音を述べ伝え、イエスを神の子として証して行ったときに、人々は「もし、あなたの先生が神の子であるなら、エリヤはどこにいますか。聖書に、エリヤが先ず来なければならないと書いてあります」と言って、彼らの言葉を拒否したのです。



バプテスマのヨハネがエリヤ

 イエスの弟子たちは、この質問に答えるだけの十分な備えがありませんでした。事実、彼らは旧約聖書の知識をもっていなかったのです。すなわち、彼らはガリラヤの身分の卑しい漁師であり、取税人であり、売春婦でした。そこで、困った弟子たちはある日、このことについてイエスに教えを乞うために彼のもとに行くことに決めました。マタイによる福音書十七章十節から十二節にはこう書かれています。

 

 弟子たちはイエスにお尋ねして言った、「いったい律法学者たちはなぜ、エリヤが先に来るはずだと言っているのですか」。答えて言われた、「確かに、エリヤがきて、万事と元どうりに改めるであろう。しかし、あなたがたに言っておく。エリヤはすでに来たのだ」

 

 これは弟子たちにとって本当にショックでした。そしてその時彼らはイエスが、バプテスマのヨハネのことを言われていることを理解しました。弟子たちは、「バプテスマのヨハネがエリヤなのですか」と聞きました。するとイエスは「そうです」と言われました。しかしイスラエル選民は決して納得しませんでした。彼らは「そんなはずがない」と言ったのです。こうした事柄を現代に置きかえて考えてみましょう。二千年前のバプテスマのヨハネは非常に影響力のある人で、偉大な預言者、神の人としてイスラエル全土に大いなる信望をもった人でした。それはちょうど現在の、偉大なキリスト教の指導者であるビリーグラハムのような人です。

 ところが、ある名もない青年が突如として現われ、世に対して自分こそ神の子であると宣布しだしたとしましょう。あなたが聖書を学んでいる人であればきっとこう尋ねるでしょう。「もし、あなたが神の子ならば、聖書に、キリストより先に来ると記してあるエリヤはどこにいますか」。もしこの青年が「ビリーグラハムがだということを知らないのですか」と答えたなら、あなたは、どんな反応を示すでしょう。

 あなたは、間違いなくこういうでしょう。「そんなことはありえません。どうしてビリーグラハムがエリヤであると言えましょうか。彼は青空から降りて来なかったではないですか。彼はノースカロライナの生まれであることは我々皆が知っています」あなたはこうしたことを認めることはありえないでしょう。

 まさに、これと同様の不信仰が我らの主イエス・キリストに対すてなされたのです。人々は、バプテスマのヨハネがただ、天から降ってこなかったという理由だけで、彼が、エリヤであることを認めることができなかったのです。二千年前の選民たちは、エリヤの再臨の預言が、聖書の文字通り実現されなければならず、したがって天より降臨しなければならないという信仰にかたくなに固執しました。彼らは旧約聖書の文字の奴隷だったのです。

 失敗者、バプテスマのヨハネ

 それでもなお、イエス・キリストは嘲笑する大衆のば声を受けながらも力と権威をもってイスラエル全土で伝道を続けました。人々はそういう人間をそのままにしないわけにもいきませんでした。彼らは、自分が正しいという確信を欲しました。そこで彼らはバプテスマのヨハネのところに行って尋ね、彼らがいろいろな疑問に最終的な決着をつけようと決心しました。そして、ヨハネ福音書の一章十九−二十一節にあるように彼らはそのごとくに行ったのです。彼らはヨハネを尋ねました。「あなたはどなたなのですか」彼は告白して否まず「わたしはキリストではない」と告白した。

 そこで彼らはさらに問うた。「それではどなたなのですか。あなたはエリヤですか」。彼は「いやそうではない」と言った。「では預言者ですか」彼は「いいえ」と答えた。このようにバプテスマのヨハネはすべてを否定しました。彼は「私はエリヤではない」と言いました。彼は預言者としての立場さえも否定したのです。誰もが彼は神の預言者であることを知りかつそう認めていました。しかし彼は「私は預言者などではない」と否定しました。何故でしょうか。

 彼は当時の状況を判断しイエス・キリストが彼の属する社会からのけ者として扱われているのを知っていました。イエスは負け犬のように見えました。そこでヨハネはイエスの側に立つまいと決心したのです。彼はすべてを否定する立場の方がずっと得策であると考えたのです。そうすることによってバプテスマのヨハネはイエスを隅の方に追いやり、彼を誰からも擁護されない大イカサマ師に仕立ててしまったのです。ヨハネに否定されたイエスは、このことに関してヨハネ以上に頼みとする人はいませんでした。

 それでは、何故イエスは十字架につけられたのでしょう。第一には彼は、聖書の文字通りの解釈の犠牲者となったのです。第二にバプテスマのヨハネが使命成就を矢敗することによって捨てられ、ついには十字架につけられたのです。

 我々はマタイ十一章一−三節、牢獄で首をはねられるのを待っていたヨハネが彼自身の弟子のなかの二人をイエスのもとに遣わして次のような質問をさせたのを知ることができます。

 「『来たるべきかた』はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきなのでしょうか。」(マタイによる福音書十一章三節)

 

 これはイエスが神の子であるという信仰をもった人の質問でしょうか。バプテスマのヨハネは以前にヨルダン川でイエスを(神の子としての)証をしたことがあったのです。

 わたしはそれを見たので、このかたこそ神の子であると、あかしをしたのである〉(ヨハネ一章三十四節)

 ところが、その同じ人間がその同じ口で今度は「あなたは本当にメシヤなのですか、それとも誰か他の人を捜すべきでしょうか」とイエスに迫ったのです。この質問はイエスにとって失望をもたらしたことでしょうヨハネは、何と信仰の薄い人間だったのでしょう。



ヨハネの使命成就を願っていたイエス

 バプテスマのヨハネの使命は、メシヤの使命を成就するために非常に重要なものでした。神は「主の道を直くし、備えられた民を整えるため」に特別にマタイを送ったのです。それが、キリストに先立つ者としてのヨハネの使命でした。イエスはバプテスマのヨハネが使命を成就することを心から頼みとしていました。ですからバプテスマのヨハネその人が、イエスのもとに来て「あなたは本当にメシヤなのですか」と言った時、それは、彼がイエスをナイフで刺したより以上の苦痛をイエスに与えたのです。

 イエスがどんな心情であったか、あなたは想像できますか。彼の心は打ちのめれたのです。怒りに震えたに違いありません。イエスはこのあまりに心外な質問に対して「イエス」とも「ノー」とも答えられませんでした。そのかわりにこう言ったのです。「私につまづかないものは幸である」マタイ十一章六節)

 これは、彼の惨めな失敗を知ったイエスのヨハネに対する慰めのことばでした。イエスは本当はこう言いたかったのです。「あわれなヨハネ、失敗した男よ。あなたはもはや私に対する信仰を失ってしまった。あなたは神の子につまづいてしまったのだ。かわいそうなヨハネよ」

 したがって、イエスはマタイ十一章十一節でこう言われたのです。「よくよくあなたがたに言っておく。女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起らなかった。しかし天国では最も小さいものも、彼よりは大きい。」

 ヨハネは、天国では最も小さいものも彼よりは大きいといわれるところまで落ちてしまったのです。イエスのこのことばの意味は今まで定かではありませんでした。クリスチャンは、バプテスマのヨハネが、その使命を失敗した人間であることに気づかなかったのでこのことばの真意を理解できませんでした。今夜我々はその真意を知ることができるのです。

 バプテスマのヨハネは神の子を直接に証しするがゆえに、女の産んだ者の中で最も大きいものでした。それまでのすべての預言者達も同じような使命を与えられてきました。しかし、ヨハネより前に来た預言者は彼らと主の間に時間的隔たりをもってメシヤを証ししてきました。

 ヨハネはイエス・キリストと同時代の人として生まれたのです。ゆえに、キリストが姿を現わした時に“生けるキリスト”を証しする特権をもっていました。彼の使命に関する限り、バプテスマのヨハネはすべての人のうち最も偉大な、栄えある人物でした。かくして、イエスは彼を、女の産んだ者の中で最も大きい人物であると言われたのです。

 しかし、彼の使命の成就という点では、ヨハネは最も小さい者であり、すべての人のうちで最も惨めな敗北者でした。彼より前に存在したすべての預言者たちは、霊界で天国にいました。彼らはイエス・キリストが誰であるか知っていました。しかし、ヨハネは知りませんでした。彼は疑ったのです。彼は懐疑的になり、とうとうイエスの身分がわからなくなってしまいました。遂には、神の子であると自ら証したことさえ確信できなくなったのです。彼は失敗者となり、従って天国にいるすべての者のうちで最も小さい者となってしまいました。

 バプテスマのヨハネは首をはねられるという最期を逐げました。もし、彼が天命を行い、世人に対してイエス・キリストこそ神の子であると証しをし、宣布していたがために首をはねられたとしたなら、彼は栄えある最初の殉教者となりえたでしょう。しかし、ヘロデ王の個人的な愛情問題のスキャンダルに関わったという理由のみで彼は首をはねられたのです。

 そういうことはヨハネの為すべきこととは全く関係がなかったのです。神の子に仕えることが、彼の唯一の使命でした。しかし、ヨハネはこの聖なる使命から離れて、無意味な破廉恥とさえいえる死に方をしたのです。この真実は、それがたとえいかに心苦しいことであっても言明されなければならません。

 もし、バプテスマのヨハネが偉大な信仰者であったなら、その結果はどうであったでしょうか。彼は実際、神の子イエス・キリストの第一弟子となっていたでしょう。もし、イエスが王であったなら、バプテスマのヨハネは首相になっていたでしょう。それこそ、神がヨハネに予定した地位でした。その場合には、イエスが選んだ十二使徒、七十人門徒、百二十人の弟子達はすべて、ヨハネ自身の弟子の中から選ばれたでしょう。ヨハネはイスラエルの選民と神の子の間に、統一の隔和をもたらす仲立ちとしての役割を果したでしょう。そうなれば、その情況のもとで、誰が敢えてイエスを十字架につけたでしょう。誰もいません。十字架による刑は決して起らなかったでしょう。

 あなたはこういうかも知れません。「文先生、あなたは何の権威によって話されているのですか。何故あなたはそんなに確信をもっておられるのですか」と。

 私はまさにこれらのことを言う権威をもっています。神が私にこの真理を示されたのです。私はイエスに会いました。イエス自身が私にこの真理を示されました。そして私はバプテスマのヨハネにも霊界で会いました。彼自身、この証しの真実性を証言してくれました。このような特別な霊的体験をした後、私が現実の世界に戻った時には、私はそれまで読んでいた同じその聖書が今度は、全く新しい意味をもつようになりました。たとえ、あなたが今、私が話したこれらのことを真理と認めることができなくても、少なくとも是否の判断を保留すべきだと思います。いつの日か、我々すべてが真理を知るようになるでしょう。最終的には我々は全て死んでゆくのです。誰もが霊界に行きつきた時、そこでは真理が太陽の如く輝いています。そこでは唯一人、真理から免かれることはできません。その日こそ我々は全き真理をまのあたりに知るでしょう。

 しかしながら、この地上に生きてうる人間に、真理を受けいれるほど謙虚さを持ちうる人は幸いです。真理と神に対するこの地上の知識があなたの永遠の生命を決定するのです。



イエスは天の雲に乗って来ると思われていた

 イエスがメシヤとして受けいれられなかったもう一つの決定的な、三つ目の理由があります。それは、二十年前選民イスラエルはダニエルの預言に従って、神の子が天の雲に乗ってくると思っていたからです。

 「わたしはまたしはまた夜の幻のうちに見ていると、人の子のような者が天の雲に乗ってきて…」(ダニエル書七章十三節)

 しかし、イエス・キリストは天の雲に乗って奇跡的に現われては来ませんでした。彼は、ヨセフの妻であるマリアから生まれました。人々は言いました。「どうしてこのイエスが神の子などといえようか。彼は私とかあなたと全く同じ人間に過ぎないではないか」

 これこそ選民がイエスを見捨てたもう一つの動かしがたい理由でした。

 ダニエルの預言はイエスの伝道に非常な困難をもたらしました。我々はヨハネの第二の手紙の七節にこのことを見ることができます。そこで使徒ヨハネはこうして驚告しています。

 「なぜなら、エバイエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白しないで人を惑わす者が、多く世にはいってきたからである。そういう者は、惑わす者であり、反キリストである」

 これは、キリストが肉体をとって来られたということだけで彼を見捨てた、イエス・キリストを信じない人々に対して、二千年前にヨハネが述べていることばです。彼らは、誰かこの世のものでない者が天に乗って現われることだけを待っていたのです。ゆえにイエスを受けいれませんでした。ヨハネはこれらの人々のことを「そういう者は反キリストだ」と言って厳しく糾弾したのです。このような歴史的事実がキリスト教の世界から隠されてきました。現在、初めて、このイエスの伝道にまつわる、これらの全ての情況が白日の下に明らかにされたのです。

 では何故、この時に、こういう真実があからさまにされたのでしょうか。それはキリストの再臨が近いからです。そして神はイスラエルが犯したのと同じあやまちをクリスチャンにさせたくないからです。天の父からの明々白々なる真理の啓示によってのみ、全てのキリスト教会は一つになることができるのです。そうです。真理が我々を一つにするのです。もし、我々が真理を知るなら、その真理が我々を誤った不一致から自由にするでしょう。そして神の明白なる真理が今、明らかにされているのです。

 十字架、それはイエスの二次的使命

 十字架の死は全く神の子の本来的使命ではなく、予定された路程の変更されたものでした。それは二次的使命だったのです。それは変貌山上で決定されました。このことに関する記述が、ルカ福音書九章三十、三十一節にみられます。

 「すると見よ。ふたりの人がイエスと語り合っていた。それはモーセとエリヤであったが、栄光の中に現われて、イエスがエルサレムで遂げようとする最後のことについて話していたのである。」

 イエスの第一弟子のペテロが、イエスから彼がエルサレムで苦しみを受け、十字架につけられるであろうということを知らされた時ペテロは、マタイ十六章二十二節にみられるように、激しく反対しました。

 「主よ、とんでもないことです。そんなことはあるはずはございません」

 するとイエスは彼に強く迫ってこう言われたのです。

 「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで人のことを思っている」マタイ十六章二十三節)

 クリスチャンはイエスが十字架上で死ぬために来られた証拠として、この件をよく引用します。多くの人がこう言います。「イエスの言われたことを聞きなさい。彼は死ぬために来られたと言われた。だから、彼はペテロをとがめ、彼をサタンと呼んだのだ。なぜなら、ペテロはイエスが十字架につくのに反対したからです」

 しかし、現在その解釈は一つの核心的な点を見落しています。イエスは神がその御計画を変更され、イエスの使命を変えられたことを知った後に、ペテロをとがめたのです。イスラエルがイエスを拒んだので、神は地上天国実現というイエスの本来的使命を成すには、民の協力が必要である以上もはやイエスがそれを続けることができない、ということを知っておられたのです。

 それで、イエスの伝道の終りの時点になって、神は彼に霊的救いという限られた目標のみを達成するように願いました。イエスは従ってこの二次的目標達成のための準備をしていました。しかし、あわれなペテロは、イエス・キリストの使命がこのように変更されたことについて何も知らなかったのです。

 イエスは、ペテロの慰めときこえる言葉が、その時にはすでに神のみこころと何の関係もなくむしろ妨げとなったので彼を「サタン」と呼んだのです。ペテロは無知蒙味から語ったのです。しかし、イエスは、この二次的使命を失敗することは決してできませんでした。というのは、そうなれば、彼が来たことが全く無に帰してしまうからでした。



イエスを受け入れれば神の国は実現していた

 もしイエスが、イスラエルの民によって受け入れられていたなら実際には何が起ったか、ということを考えてみましょう。そうなれば、イスラエルの王として、彼は彼の弟子達と、ヤコブの十二の部族と、全てアラブの部族とを含むアブラハムの全ての子孫とを統合したことでしょう。彼らの全ては、神の子を中心とした一家族となったはずであります。

 イエス・キリストは、イスラエルの選ばれた民族を中心として神の主権をうちたてたでしょう。神の国の憲法が、イエスの時代に発布されたでしょう。神の主権が現実化された無敵の国家が建てられたことでしょう。神のもとにある一つの国家、それは、人類始祖・アダムがうち建てるべきであったのですが、それは後のアダム、イエス・キリストを王として実現したことでしょう。ローマ帝国でさえ、神の王国の前にはひざまづいたでしょう。これが、イザヤ書九章七節の預言なのです。

 「そのまつりごとと平和とは増し加わって限りなくダビデの位に座して、その国を治め今より後とこしえに公平と正義とをもってこれに立て、これを保たれる。万軍の主の熱心がこれをされるのである」

 イエスは死んだ後でさえ、彼の弟子達は、何も持たず苦しみをうけ血を流しつつ、ローマに向って進軍しました。しかし四〇〇年以内に、ローマ帝国はこの何も持たない軍隊の前に崩壊しました。もし、イエス・キリストが十字架につけられず、生きてこの聖なる軍隊の指令官であったなら、その時には全ローマ帝国はイエス自身が生きている間に神の下に入ったことでしょう。

 当時、偉大なるローマ帝国は世界の中心でした。神の救いの御計画は全世界を復帰することでした。一旦、神の王国がローマにできたならそれが全世界に容易にもたらされるように神はローマを全ての国々の中心として備えられました。もし、イエスが、ローマ帝国に彼の王国の建設することができたなら、その時、ローマの力の影響によって、イエスが地上に生きている間に、世界の隅々までイエス・キリストの福音が宣べ伝えられたでしょう。イスラエルの国は、神の王国の栄えある中心となったのです。今日、キリスト教は最早存在しなかったでしょう。ローマンカトリックも、長老派教会もメソディスト教会も、キリスト教も存在しないでしょう。これらのうちのどれも必要ではなかったでしょう。あなたが既についていればそのめの車は必要ないからです。

 我々は既に、神の王国の市民となっていたでしょう。キリスト教の歴史には流血とか、殉教者はなかったでしょう。そして、教会の尖塔には十字架はなかったはずです。そうなれば、キリストの再臨の理由もなかったのです。なぜならばメシヤの使命は既に完成されているだろうからです。

 しかし、悲しいかな、現実はイエス・キリストは反逆に会いました。アダムとアダムの従順なくして神はエデンの園にその御理想を実現することはできませんでした。そして、イエス・キリストも選民の協力なくして、地上天国を建設することはできなかったのです。



十字架は霊的救いのみをもたらした

 それでイエスは、彼の第二番目の使命であった霊的救いに移ったのです。選民であるイスラエル民族の無知もうまいのために、イエス様の犠牲が必要になり、仕方なく神はそうされることを許されたのです。そこが十字架の重要なところなのです。神はサタンに払う身代金として、イエスが十字架でなくなられることを許されたのです。それと引き換えに、イエスの復活の時に、神は身体の贖いは出来なくとも、魂は要求することが出来たのです。ですから、神の勝利は十字架にあったのではなく、復活にあったのです。これがキリスト教の救いなのです。

 イエスの十字架と共に、キリスト教も十字架にかかりました。主が苦境におられる時誰も彼に信仰をたてなかったのです。誰もがイエス様を裏切ったのです。あのペテロでさえ、イエスを否定したのです。しかし、イエス様の復活と共にキリスト教も息をふき返したのでそれから四十日間というもの、イエスはちりぢりになったキリスト教の残骸を集められ一つにまとめられました。それが今日のキリスト教の始まりであったのです。我々の救いは勝利された復活からきているのです。これは、サタンの力の及ばないキリスト教の勝利なのです。しかしイエス・キリストの身体は牲牲として、またつぐないとして取り去られてしまいました。御自身の肉体をとられた故、人間の身体についても同様にあきらめざるを得なかったのです。ですから我々の救いは魂のあがないのみをもたらし、限界があるのです。この理由は、二千年前に肉身のあがないが成されなかったからであります。この世はいまだにサタンにじゅうりんされています。この世界ではいまだに罪は私達の身体を通して荒れ狂い、私達を支配しているのです。聖パウロは、ローマ人への手紙七章二十四−二十五節で苦悩のうちに次のように叫んでいます。

 「私はなんとみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだからわたしを救ってくれるだろうか。わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。このようにして私自身は、心では神の律法を仕えているが、肉では罪の律法につかえているのである」

 聖パウロは主の恵みの中に生きた人です。しかし、彼のような人でさえ、心では神につかえることができても、身体は罪の律法につかえていると告白しているのです。彼の肉体は救われていなかったのです。依然として、罪の中で苦悩していたのです。それは私達にとっても同じです。キリストを受け入れることによって我々は霊的救いを受けました。しかし、私達の肉体はキリストが再び来られて、我々を罪の束縛から解放されるまで、サタンの支配する罪の法則につかえているのです。

 再臨の主は全き救い、すなわち霊的な救いと肉的救いの、その両方を与えることの出来るたった一人の御方であります。今日のキリスト教は霊的救いを与える力しか持たないのです。その当時のイスラエルと違って、キリスト教は実体的な国の基盤を持っておりません。ですから、キリスト教における神の支配圏は霊的な国のみであります。従って人間のもっとも大きな希望はメシヤの再臨なのです。これはアメリカの希望であり、世界の希望でもあります。アメリカ−このユニークなキリスト教国は今、目覚め、メシヤの到来の日に備えなくてはならないのです。

 アメリカのキリスト教国は今日、二千年前のクリスチャンと同じ霊的な立場に立っております。アメリカははメシヤが二十世紀に足をおろす場所に定められているのです。神は世界に救いの手をさしのべたいのです。しかし、そうするためには、神はまずアメリカから着手していかなければならないのです。アメリカの役割は二千年前のローマ帝国のそれと同じです。ローマがその当時の世界の中心であったように、アメリカは現代の世界の中心です。イエス様はローマに目をつけられました。ですから、キリストが来られる時、彼はアメリカに目を注がれるのです。



再臨は如何になされるか

 今日、我々は論理なくして何事も信ずることが出来ません。真理は論理的であります。無知には完全というものがあるはずがありません。キリスト教の祈りだけでは、ニール・アームストロングをして月を踏ませることは出来なかったのです。科学的真理が必要だったのです。私自身は、かつて科学部の学生でありましたし、神が科学の神であるということを知っています。このように神の言われることは二十世紀の人間にとって、科学的であり、論理的であり、説得力のあるものでなければなりません。

 さて、キリストの再臨がいかになされるかを語ることによって今夜の話の頂点に移りたいと思います。聖書のマタイによる福音書二十四章三十節を読んでみますと、

 

 「そして力と大いなる栄光をもって、人の子が天の雲に乗ってくるのを、人々は見るであろう」とあります。また、黙示録一章七節には「見よ、彼は、雲に乗って来られる」

 とあります。ところが、テサロニケ人への手紙五章二節には



「主の日は盗人が夜くるように来る」

 となっています。ある預言書には、主は天の雲とともに来ると言っており、また別の預言は少しく矛盾しています。もし彼が盗人のごとく来るなら、同時に雲の中に現われることなど出来ません。では一つとって別の預言を捨ててしまいましょうか。

 二千年のイスラエルの選民は神のお告げが象徴で表わされていることがわかりませんでした。彼等のお告げを文字通り解釈したのです。それは重大な誤りでした。我々、クリスチャンが新約聖書を読む時には、同じあやまちを犯してはなりません。我々は神の側に立って聖書を読むべきであり、比喩や象徴の真なる意味を知るべきであります。二千年前、すべての人々が、エリヤが青空から現われることを期待していました。しかし、彼はそのようには来ませんでした。また、彼等はメシヤが天の雲と共に来ることを期待しましたが、そのようには来られませんでした。今日、クリスチャン達は再臨の主が雲に乗って来ることを期待しています。しかし、あなたにはこの時代にそのような期待が裏切られないという保障がありますか。



主はいかに来られるか

 では、天の雲に乗ってくるというのと盗人のごとく夜来るという、二つの可能性を謙遜に、そして心を開いて受けいれてみることにしましょう。もし、あなた方が、主が雲に乗って来られるのみと考えているならば、肉体をもった人の子として到来というのはあなた方の期待にそわないでしょう。あなた方はきっと二千年前ユダヤ教信徒達が犯したのと同じ罪を犯すようになるでしょう。けれども、もしあなたが謙遜であって、肉体を持った人の子としての主を敢えて受けいれるならば−それは主が盗人の如く来ることの出来る唯一の方法なのですが、−あなたは見失うことはありません。どのような方法で来られようとも、主にお会いすることを確信するでしょう。もし、あなたが主を全く見失うということがあるなら、それは彼が盗人のごとく来られた時のみでしょう。もし、彼が雲に乗って来るなら心配するには及びません。誰でもその時、彼を見るからです。テレビ放送がこれを確めてくれるでしょう。

 しかし、私は皆さんに、神は彼の息子を文字通り雲と共に送りはしないだろうということを言わなければならないのです。

 主の再臨を待ち望んで空を見上げていても失望するばかりです。彼はもう一度、肉身を持った人として来るからです。これは神の啓示であります。聖書の要な預言を読むことによってそれを証明させて下さい。ルカ福音書十七章二十節には、

 「神の国はいつ来るかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、』神の国は、見られるかたちで来るものではない』」

 とあります。誰もが天の雲を見るでしょう。しかし、イエス様は「我々は御国の到来は見ないだろう」と言われました。ユダヤ教信徒達はメシヤの到来を見たでしょうか。いいえ、見ませんでした。なぜなら、彼は肉体を持った人の子として来るからです。

 次にイエス・キリストのもっとも驚くべき発言を見てみましょう。たいていの人は「聖書はそう言っていますか」と聞きます。ルカの十七章二十五節を見ますとイエス様はこう言っておられます。

 「しかし、彼(再臨の主)はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない」

 主がもし、誰が敢えてその方を拒絶したり、苦しませたりするでしょうか。あなたでしたらそうしますか。これはイエス様の語られた言葉です。その方の苦しみ拒絶されるのです。なぜなら、その方は肉体を持った人の子として来られるからです。最初はその人をキリストとして認めることはむずかしいでしょう。全キリスト教会、そして全キリスト教会献身者達は天の雲に乗って主が来られることを待ち望んでいます。彼等は空を見あげ、そのお方の現われるのを待ってするのです。しかしもし、その期待がはずれ、丁度イエス様がこの世に初めて来られた時のように、人の子として突然現われたら、どうでしょうか。

 まず初めに、人々は彼を拒絶し苦しみを与えるでしょう。最初はキリストを受けいれはしないでしょう。多くのクリスチャンは石をとって彼にむかって投げるでしょう。また多くのクリスチャンは、その方を不敬な者とか異端者と呼び、また悪魔にとりつかれていると言って非難するでしょう。これらは二千年前、イエス様に対してなしたと同じ罪であります。

 しかしながら、イエス様は十字架にかかるために再び来られるのではありません。彼は栄光の主として来られるのです。この世を審判し、善と悪を分け、神の国を創るために来られるのです。神の義が地上に広がるようにされるのです。ルカ福音書十七章二十六節、二十七節を読んでみますと、

 「そして、ノアの時にあったように、人の子の時にも同様なことが起るであろう。ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていたが、そこへ洪水が襲ってきて、彼らをことごとく滅ぼした」

 これが人の子の時のあらましです。そして、これは主が肉身をもって人の子として来られる時おこるのです。

 一人の人間として、来臨されるイエス様は天国を唱えるでしょう。しかし、誰も耳を傾けはしないでしょう。きっと彼を笑いあざけり、あらゆる悪いことをやるでしょう。そうして主が審判の座にひきあげられるまで、この世は、その常のごとく肉欲的なもの――食い、飲み、めとりなどを続けるのです。世が彼を審き主としてみとめる時はもう遅すぎるのです。箱舟は閉まり、審きがまさに始まらんとしているでしょう。

 さあ、イエス様が言われているこの一節を聞いて下さい。

 「あなたがたに言っておくが、神はすみやかにさばいて下さるであろう。しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」(ルカ十八章八節)

 イエス様は、キリストがもどられた時地上に信仰があるかどうか問われました。何故でしょうか?歴史は繰り返すかも知れません。二千年前、十字架イスラエルには、すさまじい程の信仰がありました。彼らは朝に昼に夜にユダヤ教会で祈りをささげました。彼等は絶えず経典を読み、えりにそれをしるし毎日暗唱していたのです。又、彼等は十戒を守り、あらゆる律法に従いました。農作物の十分の一をささげ、断食に断食を重ねました。それでも、神の子が現われた時彼をみとめることができず、十字架につけてしまったのです。イエス様は信仰を見たでしょうか?イエス・キリストの目には、地上に全く信仰が見られなかったのです。

 ですから、彼が再び肉身をもった人の子として現われる時、地上に信仰が見られないかもしれません。何百万ものクリスチャンや何千万もの教会は、人の子の到来を決して見ないかもしれません。なぜなら主が肉身を持ってこられるからです。

 では、最後にマタイ七章二十二節、二十三節を読んでみましょう。

 「その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い事し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。」

 これはどういうことでしょうか。何故これらの主の名を尋ねる献身的なクリスチャンが悪を行なうとして非難されるべきなのでしょうか。どんな悪事を犯したというのでさょうか。歴史を通して、多くの重大な罪が神の名のもとに犯されてきました。それは生命の創造主を殺そうとたくらんだ祭司であり、長老でありました。彼等はそれを神の名においてやったのです。

 キリストがもう一度肉身を伴った人の子として来られる時、まず第一に、彼は二千年前来られた時と同じようにあつかわれるでしょう。しかし彼は十字架をくり返すために来られるのではありません。この時は、神の力が明らかに現われるでしょう。再臨の主は本当に審きの場につかれ、審き主として審判されるでしょう。

 彼がその座にひきあげられる時誰もが彼を見るでしょう。彼が誰であるか、誰でも間違いなく、はっきり知るでしょう。そしてすでにそのお方を非難したり、拒絶したりした人達はそのお方になした悪事のために泣き叫び、深く悲しむようになるでしょう。しかし、その時はもう遅いのです。主は彼らにこう言われるでしょう。「あなた方を全く知らない。不法を働く者どもよ行ってしまえ」

 主は来られます。そして主は、人として来られるのです。そのうえ神の力と栄光を持って来られるのです。そしてこの世を審判されるのです。柔和な者達だけが祝福されるでしょう。ごう慢な者達は消すことのできない火を見ることでしょう。



神の目的は成就される



第一のアダムとエバ

 :

 御存知のように神は創造の初めから、地上の天国を最初のアダムとアダムと共に造る計画でした。彼等がもし神に対して本当に従順であったなら、彼等は完成し、また神は彼等に天的な結婚をもたらし、神の意志のごとく地上に最初の家庭を造られたでしょう。この家庭は地上天国の基いとなり、アダムとエバは人類の真の父、真の母となられたでしょう。エデンの園というのは、そういう国の象徴的表現であります。そして、この世は神の喜びの世界になったでありましょう。

 このとどまりは、子羊の婚宴の話として、黙示録に預言されています。再臨の主はその子羊であり、その完全なるであり、その完全なるアダムであります。主は完全なるアダムとして来られるのです。そして彼は完全なエバを復帰されるのです。それから彼らはひきあげられ、人類の真の父母となられるのです。そしてついに、神の喜びは完壁なるものとなるのです。

 



第二のアダムとエバ

 :

 しかし第一のアダムとエバは失敗してしまいました。しかし神の理想は変わりませんでした。神は初めに計画されたように神の国を実現し、喜びの世界を創ろうと決心されました。そして、聖書の歴史で四千年後に、神はもう一人の完全なアダムを通じて地上の神の国を復帰しようと計画されたのです。イエス・キリストがその完全なアダムであります。聖書のコリント人第一の手紙十五章四〇五節には、イエスは「最後のアダム」、すなわち第二のアダムであるとあります。彼は失敗した最後のアダムのかわりに二千年前に、完全なアダムとして来られたのです。

 アダムだけの復帰では、神の国は出来ません。花嫁であり、母親である第二のエバがいなくてはなりません。ですから神は、この第二の完全なるアダムであるイエス・キリストに彼の嫁となる人、完全なるエバを復帰する予定でありました。これがエデンの園失われた第一の家庭の復帰でありました。



第三のアダムとエバ

 :

 しかしながらイスラエル選民の反逆のために、これは達成できませんでした。それにもかかわらず神は御自身の意志を成就することを決心されたです。そうしてキリストの再来を約束されたのです。

 イエス様がなくなられてから、約二千年が経ちました。そして、今、神はもう一度、第三のアダムの立場で神の息子を送られたのです。歴史を通して、神は常に三度目でその目的を果して来られました。教字の(三)が完成の数であるというのは本当です。この時、神は完全なるアダムとエバに天的な結婚をあげさせて、神の長い間の理想を確実に成就され、地上の天国の基いを敷かれるのです。

 十字架にかけられる少し前、イエス様はペテロにこう言われました。

 「わたしはあなたに天国の鍵を授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは、天でも解かれるであろう」(マタイ十六章十九節)

 この地上で失敗したのです。罪はこの地上で犯されたのです。ですからそれは、この地上で償われ根絶やしにされなければならません。イエス様は私達にこう祈るよう言われました。

 「み国が来ますように。みこころが天に行われ通り、地にも行われますように」



地上に天国実現

 地上が問題なのです。それが何故キリストが地上に帰って来られなければならないかの理由であります。

 世の終りが来る時、神はすべてを破壊され、日は暗くなり、星は落ち、わずかひと握りのクリスチャン達が空中に引き上げられ、キリストと共に至福千年を迎えるということを多くのクリスチャンは信じております。

 しかし、もし神がそうされるなら神は失敗の神になってしまいます。というのは神の本来のみこころが、この地上において決してなされないからであります。サタンのためにこの地上を見捨てることになるからであります。それではサタンは事実上の勝利者となってしまって神は敗者になってしまうからです。そのようなことは決して起らないでしょう。神の国はそう計られた故、成るのです。このニユーヨークもまた神の国となりましょう。もしあなた方がメシヤのおとずれを見るなら、あなた方は神の国の住民となれるでしょう。彼はあなたの希望であり私の希望であり、アメリカそしてこの世界の唯一の希望なのであります。

 しかし、もし私達が彼を見ることが出来なかったら、その時キリスト教にはもはや希望がなくなるでしょう。キリスト教は衰えるでしょう。その神霊の火は消えてしまうでしぺう。教会は古い遺物の墓と化してしまうでしょう。その時には、この世は暗い運命を持つようになるのです。

 皆様、今夜私は神の命令によって、ここマディソン・スクェア・ガーデンに来ました。聖書の使徒行伝二章十七節にはこうあります。

 「神がこう仰せになる。終りの時には、わたしの霊をすべての人に注ごう。そして、あなたがたの息子娘は預言をし、若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るであろう」

 私達は、新しい時代の誕生というとてつもない時代に今生きているのです。天国は非常に近づいております。そしてもしあなた方が熱心に神に求めるなら神はあなた方に答えてくれるでしょう。ただちに神にたずねなければなりません。「文師が、真実を語っているかどうか、どうしたらわかるでしょうか?」どうか私や誰か他の人にその答を聞かずに、神が直接あなたに答えるようにして下さい。心静かに、そして神に熱心に、心を込めてたずねて下さい。祈りの中で神と対決して下さい。神は答えられるはずです。

 人類にとって新しい希望は、メシヤであります。主の大いなる、かつ恐しい日はすぐそこに近づいているのです。その日が素晴らしい日か恐しい日かは、あなた方次第です。もしあなた方が救い主に会うなら、あなた方にとってその日は素晴らしい日となるでしょう。しかしもし、救い主に会うなら、あなた方にとってその日は本当に恐るべき日となりましょう。

 神の祝福がありますように。御静聴ありがとうございました。カンサハムニダ!ありがとう。そしてよき晩でありますように。





















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18_総解怨式のみことば

御旨と世界
(全面表示)

総解怨式のみことば1975年5月1日 韓国 清平


 神を中心として回らなければならない。回るには復帰の道であるから、堕落した道と反対に回らなければならない。これがキリスト教においての再臨論で、新郎新婦としての立場に立って、本然の一人の男と女を中心として家庭をなし、この家庭と連結される氏族、民族形態を経て、国家基準への蕩減式を行わなければならない。

 そうするにはどうすれば良いかというと、神様の恨みがあってはならない。神様は堕落した人間に対して、復帰はしたけれど、今まで悲しかった恨みの立場においては回ることができない。そのために恨みを解いてあげる復帰式をしなければならない。また、今までアダム時代、イエス時代、再臨主時代の三時代を経て父母の立場に立ち得る真の父母自身に恨みがあってはならない。怨讐に対しての恨みや、この世に対しても全部解いていかなければならない。父母の恨みが解かれてこそ神様の恨みも解かれるのであり、神様の恨みを解いてあげることは、真の父母が現れ恨みを解くことによって、神様の恨みも解かれるのである。神様の恨みを解き、父母様の恨みを解いたのちにおいて、初めてすべての氏族、民族、国家、世界的な恨みが解けるようになるんだね。

 それで、きょうはどのような式を行うかというと、今までカイン、アベルが分立した時から、復帰歴史は、真の父母が来られる基盤を世界的に整えてきた。幼児から少年、青年、壮年へと成長していくように、復帰時代においても数多くの子女たちを犠牲にさせ、その道を開いてきたのであり、それが国家的基盤を準備して、メシヤになる方は国家的基準から見て、代表的宗教(者)として登場しなければならない。これを基準として、アベルの歴史を国家的に成していた国がイスラエルであり、ユダヤであった。そのユダヤを中心として主権を取るために来られた方がメシヤであり、イエス様の死によって、これが、二度目の収拾の道をたどってきたのがキリスト教である。キリスト教は霊的のみであったために、今日、統一教会において、霊的キリスト教圏をいかにして肉的キリスト教圏へと連結させるかが先生の使命であった。

 それで、みんなが知っているように、大韓民国においては、七〇年、七二年度まで霊的基準において、我々が先頭的立場でこの国の根となり、そこにおいて、国家的なすべてにおいての方向を提示しなければならなかった。そして、その基準を中心として、世界キリスト教へ霊的に連結させるのが七三、七四年度である。霊的な世界キリスト教形態を中心として、再び肉的国家基準を中心として、イスラエルの時と同じように大韓民国において連結させなければならない。これが七五年に入っての摂理である。一月のバンケットにおいても、二月の国際合同結婚式、四月の国際機動隊(IOWC)等、この短い期間において全体を動員した。バンケットは先生が民族の前に、数多い著名人の前に知られるためであり、我々祝福家庭が全世界に知られなければならないための、それが合同結婚式だというんだね。

 そのような歴史的蕩減期間がこの四月末(陰暦)まで完全に総蕩減しなければならない期間であった。四月は陽暦では五月に入っている。

 このような時であるために、先生が初めて大韓民国、国家の前に現れたのである。これは我々家庭が国家、全世界の前に現れなければならないし、その次には、統一教会の全世界の食口たちを世界の前に現さなければならない。それで、今回このような大復興会を行うことによって、どのような現象が現れるかというと、全国家、民族が我々と一つになってこなければならない。これが歴史の大きな事件になるのである。

 イエス様の時は、ユダヤ教を中心として見たとき、ユダヤ教と当時のローマの主権者が一つになって、イエス様を殺してしまった。今はそれが逆にならなければいけない。今は、統一教会と大韓民国が一つになった。それにキリスト教が反対している。このようなことが起こったのは歴史的であり、蕩減時代においての原則的基準が一致して越えていくということなんだね。警察も自分たちがなぜ手伝ったのか自分たちでも分からない。世界各国から入ってきたので、これを国家的な基準で迎えなければ条件に引っかかる。平面的世界から見ても、二十五カ国の外国人が入ってきて、殴られるとか血を流すようなことがあったなら、これは世界的な政治問題になってしまう。直ちに大使館を通じて国家自体を讒訴する条件になるために、警察はどうしても守らざるを得なかった。大韓民国全体が我々を擁護したことは、蕩減復帰原理の原則において国家基準を完全に適合して越えていくことを象徴している。

 それで、今日、この協会を中心として見る時、創立二十一周年になっている。そして第二次七年路程の最後の期間であり、陰暦四月になるので、先生個人からすると三十年を超えていく時であるというんだね。このような時であり、そのような基準の時代において、解怨式を行わなければならない。

 それにはまず、神様の前に解怨式を行わなければならないし、次には真の御父母様の解怨式、その次には還暦を迎えた崔元福先生の、これは堕落世界の真の婦人として、一人の母の立場に立ってすべて新しい復帰歴史を蕩減する式になる。それで崔先生を中心として全部が変わってこなければならない。霊的世界、今まで堕落した世界がすべて崔先生を中心として蕩減されなければならない。

 本来、父母を中心として蕩減するのではない。堕落しなかった本然の世界においては、善なる完成した父母を中心としては堕落の条件が成立されないのである。もちろん、今まで先生が全部整えてきたが、女が立つことができないため、そのような条件を中心として一度に集めて蕩減しなければならない。そうするため、崔先生が全部蕩減して越えていく場合は、一人ではできない。ここには今までの数多くの道、数多くの宗教、キリスト教、回教、仏教、儒教。その次には、今までの歴史時代における善軍、忠臣たち。各々の国を中心にして善軍と忠臣が一つになった。それから、歴史時代において、今まで宗教は信じないが良心的立場に立って、神に侍らなかった、哲学者や良心的な人々をすべて集めるのである。その次には、カイン的な世界、ルーシェルからユダ、ネロ皇帝から今の共産党に至るまで連結されている。

 このようなすべてを集めて、蕩減条件の道を開いてあげなければならない。このような道を開いて一つにして、今日ここに屈服させ、天倫に従っていくという式、全部が屈服したという式をしなければならない。

 これを通して、崔先生を中心として全部を連結させて、全部解怨成就した基準のもとで、御父母様の解放と神様の解放が始まる。

 この祭壇は何かというと、統一教会が今まで歩んでくる中で、信じて霊界に行った霊がある。その食口たちの霊の解怨もしてあげなければならない。例えば喜進様、恵進様がいるし、劉協会長や統一教会を信じて行った人人の、霊的解怨と、地上の解怨もしなければならないし、統一教会を信じて、ああだとか、こうだとか言われた人々を連結して、蕩減してあげなければならない祭壇である。この壇は、神様を中心として、キリスト教、宗教人、哲学者、良心家、善軍と忠臣、カイン世界の子女、天使界の解怨をしなければならない。キリスト教を東に、天使界を西に、善軍愛国志士を南、カイン型サタン世界を北に、解怨成就しなければならない。

 きょうは総解怨の日である。歴史において総解怨を立てた日である。今日は、これがあるから越えて行けるのである。

 これからは、天法(神の法度)が成立して、キリスト教やその他数多くの宗教がこの道をたどってなし得なかったが、これからは統一教会を中心として、このような転換式をしたので、霊界も勝手には行動できなくなる。今までは、多くの悪霊が働きかけてきたけれども、これからはできなくなる。天法に従って、自分の系統と自分の現在の良心基準に該当する相対的地上人を通して、蕩減条件を立てることができる秩序ができたのである。これからは神の国の憲法が制定される。

 これが三年過ぎると、世界的民主世界の代表国家のアメリカと韓国が連結されなければならない。これが終わる日には、それこそ、全世界は神様が直接的に干渉される世界になる。そうなると誰も統一教会に反対できなくなるんだね。反対すると心臓まひや、眠っている間に行ってしまう人がたくさん出てくる。

 今までは悪霊たちがこの世を主管するためにあらゆる方法を使ってきたが、これからは善なる側において、完全に一方的に処分する方向になるんだよ。

 一九七七年から七八年を越えるまで、アメリカにおいての実体的国家基盤が、今日大韓民国が我々に対するのと同じような環境になれば、世界は完全にみ旨に入ってくる。これが世界的基盤を整えるようになると、次には共産党が我々の相手になるだろう。

 今までの国家基準を見ると、復帰歴史は縦的な歴史であるので、国家的な一つの形態をもって初めて世界へ行ける基台になるので、ユダヤ教が失敗してキリスト教が再蕩減し、それでもキリスト教が霊的基準を立てておいたので、我々が霊的基準を蕩減して、肉的基準にまで上り、今日この日を中心として国家基準を越えるという、驚くべき一日なのである。

 これからは、この基点を中心として世界へ行ける時になる。イエス様の一二〇門徒を中心として、世界的基台のもとでキリスト教が出発したのと同じく、今日、統一教会は、ここで一二〇カ国を中心として、そのため一二〇カ国に三人が行くようになり、今年の四月から全世界に出発する。

 全世界一二〇カ国において、イエス様を中心として四位基台を全世界に広める作戦が、この一二〇カ国の宣教であり、国家基準を中心とした基台と世界的横的基台が相対的関係を結んで、すべての霊が再臨して、世界に協助し得る基盤ができるのである。すべての霊が、地上を自分の活動舞台として、自由に活動する基盤ができるというんだね。分かりましたね。

 それでは祈りましょう。

 愛するお父様。

 あなたの創造の偉業を、この地において成就できなかった悲しい事実を、我々は知っています。アダム、エバの失敗がどれほどまでにあなたを悲しませ、その悲痛な恨みを晴らすため、あなたが先に苦労してくださり、数多くの我々聖徒たちを導きながら、犠牲にされたすべてを今一度考える時、真の父母の因縁を立てようとされるそのみ旨を、地上に長い歴史を経て、真の父母の基準をこの韓国の地に、この統一教会を中心として立ててくださった恵みを深く感謝申し上げます。

 ここにいる息子と娘、この二人があなたの前に呼ばわれ、責任を果たし、この場に立ちました。恨みの多い復帰路程において、悲痛なお父様の心情をたどり、人類の始祖アダム、エバが失敗したその悲しい事実を思う時、その心情を受け継いで、神を裏切ったその道を変え、お父様のために忠誠を尽くすその日を誓い、生まれた時から神のみ旨に従い、三十年の歳月が過ぎました。

 その間、誰にも語ることができない、誰にも示すことができない内的心情の苦痛が、あなたの心から、今日この息子の心にあったことを、あなただけが知っておられます。

 何としても民族の限界を越え、あなたの恨みを晴らし、イエス様がこの地で十字架で亡くなられた悲運なる事実を、どうにかして解怨成就する日を望み、その願いの日がちょうど、一九七五年五月一日であるという、この驚くべき事実を感謝申し上げます。

 協会を創立して以来二十一年になる日でもあり、また世界的なキリスト教に対する蕩減路程に向けての第二次七年路程をも終わるこの時であります。この息子を中心として、三十年歴史が終わるこの場でもあります。このすべてがお父様の数理的な復帰路程を備えてきたことを思うと、もう何の言葉もありません。

 お父様、堕落した人類の祖先を迎えたその日の悲しみ。イエス様を送ってあなたの願いを成就しようとされたのに、その息子を十字架につけてしまった悲しみ。その息子に従っていた数多くのキリスト教人たちが虐殺されたその悲しみ。そして数多くの宗教が犠牲の道をいとわずに、明らかでない神を慕いながら、その過程において、犠牲になったすべての者を眺めておられた、お父様の悲しみがいかに大きかったかを知っています。

 そして背後において、あなたの名とあなたの役事を代理し、アダム、エバの完成基準を協助できなかった天使世界が残されており、解怨成就できずにいるすべてのかわいそうな群れに、み旨と共にあなたが同情してこられたことを知っています。

 今、この場は、お父様、あなたが探してこられた真の父母の家庭であり、真の父母の体であることを思う時、この日お父様の前に、ここに一人の息子と、一人の娘がいるのであります。そしてこの息子、娘を中心とした子女たちがこの場に来て祈っていますので、どうかお受けください。

 家庭を中心として失われた恨みの土台を、家庭を中心としてあなたの前に、この時間、この国家、民族を基盤として、奉献し得るこの一日を感謝申し上げます。あなたの心の解怨成就によって、真の父母の解怨成就となり、天使たちも解怨されるこの日になるようお願い申し上げます。

 神様と真の父母と天使世界が解怨されることによって、真の父母の背後に連結されているキリスト教、その次には儒教と孔子、仏教人、回教とマホメット。そのほかに全世界に広まっている各民族の背後において、それを内的に収拾してきたすべての宗教を一律に連結させて、お父様の解怨がなされ、御父母様の解怨がなされ、崔先生の解怨があったために、今、この地上にいるすべての宗教人たちが解怨される、一つの因縁を許すこの式になり、この日になったことを感謝申し上げます。

 宗教の解怨の権限をもつことによって、今や、お父様の国の主権的権限を立てて讃美し得る群れが生まれました。そのほかに良心的な人々、哲学者たち、それに各国の善軍と各国の文官、武官が一つになって、その国が善なる国家として、神の国へと前進する過程において、善なる道を行くのに助けになった、また数多くの霊をこの喜ばしい日に、お父様連結させてください。今まで彼らが行く道を知らず、解怨の日を待ち焦がれてきたその日が、ちょうどこの日になることを許してくださいますことを、切にお願い申し上げます。

 そして、父母を探し、天使世界を解放し、宗教世界を解放し、良心世界に、あるいは善軍や忠臣たちの解放をもたらしてはきましたが、今ここに神に反対し、宗教に反対し、良心に反対してきた、かわいそうなカイン世界が残っているのを知っています。ユダとネロ皇帝を中心として、共産党が今、神に反対して進んでいるので、今日この時を期して、天宙の勝利した一つの因縁をもって総解怨するこの時間に、彼らを神の審判台に載せて掃いてしまうことができない事実を知る時、ここに真の父母の名をもって、あなたが立てた尊厳なる天宙の勝利的権限をもって、彼らまでもあなたに寄与し、真の父母に寄与し、数多くの宗教と、数多くの良心的人々に寄与することのできる道を模索することを、お父様お許しください。

 この間、神の心情に釘を打ち、あるいはあなたの息子イエス様を殺し、あなたが愛していた多くの人々をかみ殺した、怨讐に対する恨みに対し、愛し得るこの場となることができるようお願いいたします。あなたの愛の心を広め、彼らを解放することによって、地獄の門が開かれ、地獄撤廃の道が整えられることを知っています。今、このような恵沢圏内にいるカインの一群は、今や善なる霊が、あるいは神様が、あるいは子女たちが忠誠を誓い、死の道を歩んできたのと同様、今、立ち返って悪なる世界に反旗を翻し、神の前に忠誠を誓い、悪なる世界のすべての霊を収拾し、悪なる霊を収拾して、あなたが願われる世界へ行くことを誓うこの時間となるようにお願いいたします。そして、それを誓う者たちとなるように……。

 そうすることによって、天の特権的恵みを付与しても余りある喜ばしい心で、全世界に広がっている悪霊のもとにある悪の主権全体が、この時間、神の主管圏内において、真の父母の前に、善なる天使世界の前に、善なる宗教人たちの前に、善なる善軍と、良心的人々の前に頭を下げ、改心して、神の善なる版図を開拓することを、お父様の前に責任を果たすことを誓うこの時間となりますように。

 お父様。愛のお父様。イエス様が十字架上において、真の生命を捧げながら祈ったその祈りを、今日この時間において、成就してくださることを切にお願いいたします。

 ここに立っている真の父母にも、やはり三十余生を民族と数多くのキリスト教、数多くのサタン世界から国を挙げて反対を受けた歴史が残っているのであります。こうして彼らを怨讐にするのではなく、あなたの天倫の道理を完全に広めるために、影は実体を離れては存在できないように、実体について回る影になり得るこのような立場に、大きな愛をもって、真の父母と、これまで犠牲になってきた多くの人々の恨みを晴らし、許してくださることを願うのであります。

 お父様。イエス様が願ったその基準を果たして、あなたの心の傷になったことをすべて解いてくださることを願うものであります。イエス様も死の道を行きながら、内的に自分だけがもっている恨みがあったことを知っています。その恨みをすべて晴らし、怨讐のために祈っていたことがこの地上に果たされない限り、あなたの恨みが晴らせないことを知る時、イエス様の解放がこの時間に始まり、キリスト教の解放が始まり、今や、存在するすべては、万物や人間はもちろんであり、サタン世界のルーシェルや数多くの悪人までも神様のものとして、この時間、真の父母の名で奉献いたしますので、どうかお受けくださることを切にお願い申し上げます。

 あの霊界にいる、神様を中心として侍っている多くの聖徒たち。二十四宗教を中心として、神の宝座にいる善なる宗教人たち。この時間、真の父母の訴えに応じて一緒にお父様に切に願いますゆえ、悲しかった事実をすべて許してくださることを、切に切にお願い申し上げます。

 これ(式)が始まることによって、この世界の混乱のただ中に、新しい転換点を備えて、神の勝利を高めることができる厳粛なこの時間であることを知っています。お父様も御存じでしょう。きょう、一九七五年五月一日八時五十分。この時を期して、この全天宙世界に宣布してください。発表してください。

 神の名によって、天使世界の解怨を喜び、真の父母の解怨を喜び、真の父母を中心として今まで信頼してきた宗教界の解怨を喜び、それのみならず良心的人々、哲学者たちの願いを成就したことを喜び、サタン世界のかわいそうな恨みまで忘れて、彼らの解放まで喜ぼうと、お父様の名で宣布してくださることを切にお願いいたします。

 今、この息子と娘は、お父様の宣布に従って、この実体世界に、神のみ名と父母のみ名とによって、このような総解怨の日をお父様のみ名で宣布しますので、万物全体はこの宣布の言葉と共に神の法度に順応し得る、神の願いの前に順応し得る、すべての国がそうであり、すべての民がそうであり、すべての霊界がそうであり、善なる霊も善なる民もそうであるために、悪なる民もそうであり得る恵沢圏内に自らの基準をつくって、一つの功績に順応し、お父様の胸に入られる道を、この時間に解放しようとするので、両手を挙げて許してください。

 そうすることによって、これから、その条件を成就させる式をもちますので、お父様、喜びの心でもって愛で施してくださるようお願いいたします。今、あなたの権限を広めて、善を用い、悪を追い出して、善の前に屈服させることによって、カイン、アベルを中心として蕩減復帰しようとしたすべてを、今は民族と世界をおいて成していけるようにし、そうすることによって、今や神が行くその幸福の前に共産世界も頭を下げて、勝利の位置に順応し得る一日をもってくださることを切にお願いいたします。

 今日、ベトナムが共産圏内に屈服したことは、一つのサタン世界を代表する祭物として、共産世界が韓国を初めとして、世界、神の前に屈服し得るように)

 、再び蕩減してあげられる起源になることを、切にお願い申し上げます。

 今、神様の名と、天使世界と、真の父母の名と、善なるすべての霊人たちを動員してこの意義を宣布いたしますので、これを神を中心として、鉄石のごとくに立てるために、数多くの霊界を動員し、良心的人々が動員されますように。この清平の地で、この日この時間に全霊界が注目し、全天使世界が注目し、神様が注目し、地上にいる真の父母が注目し、地上にいる全キリスト教と、数多くの宗教と、数多くの善なる国々、それに忠臣たちが注目し、そして共産世界が注目するこの場に、お父様の胸にのみ抱かれるこの日として奉献することを願いますので、どうかお受けください。

 すべてをお父様にお委ね申し上げますので、あなたの勝利として受けてくださることを切に切に願いながら、すべてのことを真の父母のみ名で伝え、宣布いたします。

 















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19_私自身

 御旨と世界
(全面表示)

 



私自身


1975年7月13日



ニューヨーク ベルベディア


◆歴史の結実体としての「私」



 今の私たち個々人の存在というものは、私たちの二十年、三十年の過去の結果だけというものではありません。人類始祖アダム、エバから、ずーっとつながっているのです。川で例えるならば、急流とか、広々とした川のゆるやかな、とうとうとした流れとか、滝とか、カーブとか様々の状態、様相があります。そのような流れの一場面に当たるのが、今の私たち一人一人の存在であるということができるでしょう。

 君たちの先祖には、いい先祖、あるいは悪い先祖があるでしょう。とんでもない結婚とかいう因縁で、ゆるやかに、一方向に流れていた川の流れが、まあ強い奥さんをもらうことによって、横になってしまうということもある。またある時には、とんでもない因縁で、渦巻いてしまうという現象が起こる時もあるでしょう。そういうふうに考えてみた場合には、君たちは、その流れの一つの場面に現れた、一つの現象として考えることもできるでしょう。

◆個性真理体としての「私」



 そこで、私たちの先祖をずーっと、眺めてみましょう。ここには、今、白色人種、あるいはニグロとか、黄色人種とかみんな集っていますね。今の時点から見た場合、あるいは白色人種であり、ニグロであり、あるいは黄色人種です。三色人種が集っていますが、ずーっとさかのぼってみれば、みんな一つの先祖から生まれているのです。これは、一つの先祖からずーっと分かれてきた、その結果なのです。人類は一つの先祖から歴史を通して分かれに分かれてきましたが、それが続いた場合には、一つになるのはいつなのでしょうか?それが問題です。

 分かれに分かれてきたその結果を考えて見る場合、そこには、いろいろな歴史過程があったのです。戦争とか、あるいは文化の交流とか、そういう、いろいろな歴史的な事件があったのです。そのような中で、特に宗教は、分裂したものを一つにするようなことをなしてきたのです。宗教は歴史的に偉大なことをなしてきたと思います。いくら人種が違っても、あるいは環境の、生活の背後関係、あるいは風俗が違っても、宗教的儀式、あるいは目的が一つであるゆえに、それを克服することを、難なくできたということを知っているのです。宗教の中で、特にキリスト教を中心として、各宗派が数百派に分かれに分かれています。その各宗派は、神の国の建設を目的として進んできました。

 ところがその背後関係は、いろいろと複雑な内容を抱いてきたのです。そういう中で、一つの統一という名前でもって、各キリスト教、宗派が一つになりましょう。あるいは人種的、白色人種とか、黄色人種あるいはニグロとか、そういう人種の差別圏を乗り越えて、一つになりましょう、というような運動を打ち立て得るのが統一教会であります。そういう立場から見た場合に、いったい、統一教会は、この世界の入り混った流れの中で、入り混った血統的背後関係、因縁を、ずーっと、総合的に考えて見た場合に、どういうようなことをなして、どういう方向に行ったものが統一教会か、ということ、それが問題なのです。

 川を見てみましょう。川が大きければ、大きいほど、その流れが段々ゆるやかになり、海に入っていくのを、私たちは知っています。結局、大きければ、大きいほど、その流れが急激であったなら、いろいろな副作用が起こりやすいのです。その流れは、下流を通って海の中に入るのです。海を見てみましょう。海自体を見ても、流れているのです。大概の人は、海に入れば水はみんな一つになって、静かに止まってしまうと思っています。しかし川の流れよりもっと急激な流れをなしているのです。そのことを一般の人は、すぐには感じないんですね。

 私たち、地上に住んでいる自分という存在を考えてみた場合、流れが海に入れば、それでおしまいというのが、一般の人間の考えであります。君たちの生涯を考えてみた場合にも、一つの川と例えた場合、川の流れが、ある海に着いた場合、海でストップするのではなく、海からまた新しい方向の流れに従うといように、私たちの肉身生活ばかりでなく、霊界があるということを、私たちは分かりました。

 そういうふうに考えてみた場合、私たち個人というものは、あるいは天から落ちた一粒の水滴であると例えることができます。それが、相合わせて、だんだん大きくなって川になって、あるいは国になって、あるいは世界の流れとなって、大洋に向かっていくのです。このように、人間の一生は航路であると思う時、自分という存在が不思議なものである。川の流れが、どの沃地から流れてきたかということによって、水のいろいろな内的要素が変わってくる。そのいろいろな要素が入り混って、一つの川になって、そういう川が大洋になる。そしてたくさんの川が入り混ってその流れになる。

 そのように考えてみた場合、いったい自分という存在は、大洋とか、大きな川から比べてみた場合、何でもないんだけれども、しかし、その何でもないような自分というものは、大洋を無視しても、その川の流れを無視しても、自分なりの個性をもちたいのが、私たち人間なのです。私たち人間は、自分という存在を正してみた場合、自分があるものに吸収されるよりは、あるものを吸収したい。あるものの比較の中心になりたい、比較されるそういう存在でなくして、比較の中心体となりたいというのが人間の考えであります。

◆純粋な人間とは



 君たちは、ああ、あの人はいい、あの人は悪いという。あるいはこの場所はいいとか、あの場所は悪いとか、あの国がいいとか、あの国が悪いと判断するのは、結局、神を中心として判断するのではないのです。その国だったら、その国を中心として、あるいは友達を判断する時、自分を中心として、大体は判断することが多いというのです。

 私たち個人を見た場合、我に国家があります。国家があり、そして二十四時間活動しておりますが、それは何のために活動しているかというと、自分を守るためです。結局、自分のためにすべてが動いているんですね。考えるのも、自分から考えを始めるんです。自分からね。そうした場合には、自分を主張したい、自分を中心的に立たせたい。その自分たる者は、いったい何者か。どういうものか、私たちははっきり、再びこれを反省し、究明しなければならない。

 水で例えた場合、水は塩からい水が本当の水なの?割合から考えたら、海は地球の四分の三になるでしょう。地球上の水の大部分が塩水じゃないの。君たちはどうなの?塩からい水なの、純粋な水なの?それを考えてみた場合、純粋な水というのが問題である。川が流れている。その川から水をくんできてみた場合、それは純粋な水なの?純粋なように見えるけれども、純粋な水ではありません。川からコップ一杯の水をくんできて、分析してみた場合、みんな違う。場所によってみんな違う。例えてみれば、ベリータウンのコップの水と、テリータウンのコップの水は同じではない。素人から見たら、それはベリータウンの水も、テリータウンの水も同じじゃないかと思うでしょう。しかし専門的に分析し、比較してみた場合、これはまるっきり違う。

 そういうふうに考えてみた時に、私たち人間は、川の流れとか、海の流れの現象の一部分、一分子であるといえます。結局、コップにくんできた一杯の水と思った場合、そのコップが数千、数万みんな違うと同じように、私たち人間の個性もみんな違っている。そのように考えたなら、いったい自分というものは、どんなものやというなかなか難かしい問題に返るのであります。

 そうして、あなた方に、自分が純粋な水と同じような人間として、自分は純粋な者だと主張し得る者があるかと聞いてみた場合、まあ今は黙っているであろう。いったい自分は正しい者であるか、純粋な者であるかと自分から考えてみた場合、普通から見ても、何も自分は間違っていない、自分は正しい者だと、このように考える。自分は間違いない、純粋な者だという人を、今から問題にしなければなりません。

 いったい、純粋な者とは何であるか。何を中心としてこれを決めるか。それは、すべてのものは、それ以上変えるということができないという限界をもっているんだね。君たちも知っているように、水も純粋な水はH20で、それは、いくらやってもそれしかなりません。いくらやってもね。春だからと、夏だからと、秋だからと、冬だからと違うんではありません。だから、それ以上分けることもできなければ、圧力をかけても、どんなにしても変えることができない。そういう基準を中心として、純粋ということを話してみたいと思います。

 真のもの、真理なるものというのは、その基準において、初めて生まれてくるのであります。そうでなければ、それはある基準の比較の中心点になることはできません。君たちはそうした場合、水はH20だからすぐ分かるが、人間は何で分かるか。いったい何じゃあ。何が純粋なものだー。これが問題だ。純粋な人間を探りだす。その原則は、何を中心として決めていかねばならないか。変わらないものでなければならない、という結論が出るのです。それは、私たち人間の場合はいったい何か。

 例えば、金といえば、大変なものだ。みんな好みます。アメリカの歴史を見た場合、西部に向かって、金の鉱山に向かってみんな大移動をなしたように、金はみんな好みます。君たちも金を好むの?

 みんな好むでしょう。なぜ好むのか考えてみた場合、それには変わらないものがある。固さはもろいんだね。だが色において何千年、何万年たっても変わらない。色において絶対不変である。だから金は、そこにおいて価値がある。金の特性というのは、変わらない色をもっているということです。それで、金は私たちの宝物として扱われるのです。

 それから君たちは、ダイヤモンドを好むね。ダイヤモンドね。特に女性はね。いったいダイヤモンドは、なぜ人間たちのあこがれの対象となっているのか。それは固さにおいて、誰もこれは侵害したり、侵入したりすることができない。侵すことができない。まあ、普通の岩も、鉄とかも風化作用によって変っていくんだけれども、ダイヤモンドは、そういう風化作用を受けない。ダイヤモンドが貴いというのは、宝としてあずかるのは、その固さにおいてである。

 それから君たちは、真珠を好むんだね。真珠ね。その真珠は何で宝として、人間に好まれるのか。それは柔和な、何か、みんなに好かれるような柔和な色をもっている。そのように見た場合、その色は真珠であればこそ、何年たっても変わらない。そういうふうに見た場合、貴いとか、価値あるとか、貴重なものであればあるほど、第一の条件とすべきことは、変わらないということです。それは、誰かが外部から、どんなに力を加えても懐れない。変えることができない。侵害を受けないのです。

 今説明したものは、私たちの生活の外的な環境のものです。また前にも、純粋な水は変わらない基準をもったものであるということを説明しましたが、これらと同じように私たち人間も、価値あるもの、あるいは正しい、あるいは絶対的な人間の基準を、変わらないということの中に満たすことができます。

◆その出発点は神から



 そのように考えてみた場合、君たちはどういう存在であるや。変わるものや、変わらない者や?

 変わる自分であるということが今、分かりました。変わる自分を中心として、変わる自分を主体として考えることが、正しいことか、悪いことか。君たちは変わる者だ。じゃアメリカはどうか。アメリカ自体はどうか。アメリカは変わるものか、否か?

 あるいは人類自体は、あるいは人類の歴史はどうか。世界はどうか。

 理想とか、永遠とかそういう分野は、どこに生まれてくるか。このアメリカの中から生まれてくるの?

 このアメリカの中に希望があるの?

 君たちの中から、この目から、あるいは五官から、そういう国が生まれてくると思うの。君たちの少年時代から、青年時代からそして今のように統一教会の素晴らしいメンバーになった、このような過去、あるいは現在を批判検討し、あるいは未来はどうなるべきかと分析してみたらよい結果が出てくるでしょう。

 では、分析してみて、変わるものはみんな取り除いて、変わらないものを残してみよう。まあ、そういうふうに考えてみた場合、私たち人間は、肉心と良心二つがあるというんだね。その二つの部分を、まず私たちが観察してみた場合、その中でも、変わらないもののほうに属するものは、どちらであるかと考えてみた場合、肉心よりも良心である。より内的問題に関するほうである。変わるものと、変わらないものをそういう内外的立場から見た場合、変わらないものは、より奥底にあるのです。内的な、内面的なということは、みなそういう意味なのです。

 真なる人間の価値、正しい人間の価値、本来の歴史的中心になるべき人間、あるいは宇宙完成の中心的立場に立つべき人間が、どこから始まるのでしょう。外的に表れた、歴史の表面から、それは生まれてくるはずがありません。そうしたら、歴史を戻って、その基準はいったいどこか、探してみましょう。そう考えると、私たち人間の理想的存在圏が、未来に表れてくると考えるのは間違っている。

 だから、本当に純粋な人間の本性、あるいは本来の人間を探していくには、現在の立場から前に進むということではなくて、逆に現在の立場からさかのぼっていくことです。それを認めるの?

 それで、ここで結論的にいうならば、人間が理想的な世界へ立ち帰るには、まずもって本来の基本的立場に帰れということです。本来の純粋な人間の価値なる存在を探してから、未来の世界にいくことを誰でも歓迎します。それを探さないで、未来にいくら大声で叫んだとしても、誰も歓迎しません。それで結論としては、理想的人間に向かって進むよりは、神に帰れという結論がここに下されるのであります。だから神に帰れ!というような、神に帰らなければ、人間は正しいことを生み出すことができない、という結論になるのであります。

 いくら未来に向かって人類が進んでいったって、そこにおいては、純粋なる本来の価値ある人間を生み出すことはできません。だから世の中で、こういう観点から見た場合に、歴史過程において、この世の中において、神に帰れ、現在を否定して、回れ右せいというような信仰を訴え、そういうような内容で主張したのが、いわゆる宗教です。歴史はこの一点を中心として、神に帰る努力をしたのです。

◆蕩減復帰の道を歩む「私」



 そうすると、神に帰るために、どういう段階を通って帰るかということが問題になってきます。(黒板で説明)こういうふうに上ればいいか、こういいふうに行けばいいか。こういうふうに行くのは、これは不可能である。しかしこういうふうに行くのは可能である。だから、この方向が良いと。ある人はこちらからこう行く、こう上ってみた。しかしふさがってしまった。それでこちらから戻ってみて……。こういうことを歴史過程において、人類は数多く繰り返してきた。宗教あるいは宗教の開祖が(テープ接続のため中断)

 みんな利口だから、早く行く道を選ぶだろう。このように、あるいは宗教観から見た場合、あるいは個人的、あるいは氏族的宗教観、あるいは国家的宗教観、あるいは世界的宗教観があるとしても、根本基準から考えてみた場合、この基準を主張して出る宗教でなければ、我々本来行くべき道を探し出すことはできないというのであります。今までの宗教は漠然として、神に帰る、みんな神に帰っていると言っていますが、そうはいきません。だから神に帰るには、一番基準とすべきところはどこかというと、人間は間違っている、純粋な人間になっていないということです。間違っていないその基準は、人間自体が生活する以前に満たす以外にない。ここにおいて数多くある宗教世界において、我々統一教会ばかりが変わっているというその基準は何かというと、本来堕落しなかったアダム、エバの立場に帰れ、とそれを主張しているのであります。純粋な基準はここにありそうです。

 アダム、エバの堕落しない前に帰れという主張は、これは最も歴史的な発見として重要な点を指摘している。アダム、エバは堕落の先祖であった。罪を犯しているから純粋な先祖ではない。だから堕落性を越えていこう。統一教会が、世界中の数多くの宗教界で、初めてこういうことを指摘して勝利したのです。黒板に書いておきますか? (はい) 。

 そもそも、純粋なる人間とはいったいどういう者か。変わらない者であるけれども、自分一人でいるのではなくして、神と共にあって変わらない者である。この基準が変わらない本来の人間である。そこまで帰ってきた。

 さて、君たちは変わる者だ。今まで、もう、始終変わってきた。統一教会を信じて、自分が統一教会の思想に一致して、自分がもうこれ以上の真理がない、自分はもうこの基準において、すべてが変わっても、自分は変わることがないという基準が問題になってきました。どうです?

 変わるの、変わらないの?

 ああ、統一教会よりも共産主義のほうがいいんじゃないの?

 ああ、どこどこの民主主義のほうが、いかなる宗教よりもいいんじゃないの?

 他の宗教ほうが、統一教会よりもいいかもしれない、と行ったり、来たりするような。それ鑑定してみましたか?

 まず、統一教会が世界を救う、あるいは神のもとに帰るような、その基準を満たすには、統一教会の真理が漂う我は、絶対変わりません。それは個人的環境から、生涯的基準において、変わらない決意を完全になせるようになったならば、その中から、その基準から希望、あるいは純粋な人間、純粋なる人生の道を見いだせる可能性があるのであって、それが見いだせない場合は、それは絶対不可能です。

 君たちは、先生は昨年も一生懸命、国のために尽くせと言ったのに、今年はもっと、世界のために尽くせと、もうだんだん大きくなるばかりだ、と思うでしょう。本来の価値ある人間に帰るのに、一昼夜かかって帰ったほうがいいか、それとも三カ月かかって帰ったほうがいいか。速さでいえばどれだけ速いか。考えてみたら、数千年の歴史をかけたものを、一日で通るというとどれだけ速い?

 どちらを選ぶの?

 もっと速いほうを選ぶだろう。それは君たちの願いです。押す力が強くなると、それはもっと速くなるんだね。空気は何もないんだけど、速く行ったら邪魔になります。どうなるの?

 君たち知っている?

 人工衛星なんかは、無重力圏から重力圏に入る場合、摩擦によって光る。だから速く行くには、邪魔が多い。では統一教会は速く行く教会なの、遅く行く教会なの?

 それで速いと、音がないのだね。それから光る。君たちは融けてしまうような思いがするでしょう。こんなこともやれるか。こんなこともあるか。もうおしまいじゃないかと。しかし、くぐり抜けていかなければ、とんでもないことになる。それをまずもって考えねばならない。先生は復帰は速く、復帰は速くと考える。

 だから、こうなぐられた場合、痛いと感じない。なぐれ、一度でおしまいだ。一度なぐられた場合と、三度続けてなぐられた場合、一遍のスピードだよ。それは、最も理想的だよ。そういうことはあるんだよ。どうせ蕩減の道行くのだから、速く行く、速く行くんだよ。それは一番神様も願うことであるし、先生も願うんだよ。君たちも願うだろう。君たちは願わないの。神が願うことは、先生も願うんだ。だから、歴史の中でそういうふうに蕩減していく。これを統一教会では蕩減復帰という。

◆天国建設に責任をもとう



 こういう現象を横的に展開していくと、(黒板で説明)横的に統一教会を……。それで、今までこういう歴史を、ずーっと考えてみると、個人から、家庭、氏族、民族、国家、世界と発展してできてきた我々は、歴史の始めから、逆にこういう現象をつくっていく。逆にする。だから、今の時代が一番うるさい時だ。そういうことを我々は目標として、できれば、この基準をだんだん下げていこう。そうすると、天国が地上に来るんだね。この点が、これが天国だ。天国が地上に来る。完全に地上天国だ。

 そうするにはどうする。一人が世界のすべての罪、多くの世界が犯した罪、あるいは一国が犯した罪、あるいは氏族が犯した罪、全家族が犯した罪、全個人が犯した罪、すべてを自分が責任をもつんだ。こういう人間が必要だ。そういう考え方をする? (はい) 。天国を地上に引き下げてしまう。そうすると、この中の蕩減は、私だけで、みんな一人で、引き受けてしまう。

 そういう自信を君たちもっているの? (はい) 。全員イエス?

 (イエス)。そうだったら、いくら迫害があっても、ドンと行くんだね。どんなふうにくるか。ぶつかってくるか。あるいは飛んでくるか。どんなふうに迫害がきても、私はビクともしない。みんなそうなっているの。

 君たち空手やる?

 空手をやる時には、ブロックなんかをサァーッと割っちゃうでしょう。あれは精神力だ。何かが飛んできても、カァーッと割れてしまうんだ。「ああ、恐ろしい」と敵に後ろを向けて逃げたら駄目だ。先生がアメリカまで来るまでには、戦いだった。個人から反対する者、家庭から反対する者、国も反対した。みんな反対する。ここまでいった。またアメリカが反対しているんだね。アメリカのマスコミが全部総動員して、レバレンド・ムーンを攻撃しても、反対してもビクともしない。もしアメリカの国が反対しても、ビクともしない。いくら牢屋に入っても、ビクともしない。そういう決意をもってやってきた。そういう決意が、アメリカを救う。君たちが、そういう決意をもっていなければ、アメリカは滅びてしまう。君たちそういうふうになっているの? (はい) 。ちょっと不利だったら逃げていくんじゃない? (いいえ) 。

 君たちはアメリカ人である。先生は韓国人である。アメリカ人はアメリカを守れ。先生よりも強くなれ。それは正しい教えである。私より強くなれ!

 先生は強い者をつくるんだ。そうなったら、アメリカは統一教会を中心として、アメリカが優秀な先導国となるのだ。もし日本人がアメリカ人より、もっと強くなったら、日本人に支配されるよ。力の世界の基準がそういうふうになっているよ。

 今、統一教会は、アメリカにおいては、救うには何でもないような、微々たる力です。でもだんだん時がたつに従って、いかなる団体、いかなる多くの人々にも、できないようなことをやるであろう。さあどうだ。君たちそれを信じるの? (はい) 。信じるどころではない。死ななきゃならない。死ななきゃ。これを絵で説明しよう。(黒板で説明)

 神の国よ下がれ、下がれ。アメリカも切ってしまえ。ここにおれない者は逃げてしまえ。共産革命で逃げてしまえ。君たちがそういう決意をもっていたら、共産党とかサタンなんか、みんな逃げてしまうよ。そういう決意を君たちもっているの? (はい) 。そうしたら、この基準を中心として、こちらがなくなってしまう。この基準だね。このようになるんだね。この国がなくなってしまう。この基準を下げて、ここまできた場合、こうなるんだ。永遠に、地上にサタン世界がないんだね。ここは何だ?

 地上天国なんだよ。地上天国は、こうしてできる。誰の力によって?

◆すべての価値決定は神から



 話を元に戻して、私という純粋な者をどこで探るか、という問題を結論づけなければならない。まずもって、この統一教会の真理が、唯一の真理であるというその自信をもたねばならない。それから、変わらない、天然、霊界も、地界も、あるいは歴史を通しても、永遠に変わらない真理である。誰も、国も変えることができなければ、世界も変えることができない。神様も変えることができない。先生自体もね。この真理によって、従っていく道であるというんだね。だから変わらない。過去、現在、未来において変わらないという真理であるとするならば、この真理は、人間本来が願う、理想的な価値をもっているに違いない。

 この真理によって、一つになった人々が、国を越えて、世界を越えて一つになる。ここにおいてはみな一つだ。みな兄弟だ。そこには白人もなければ、ニグロもなく、黄色人もない。考えてみると、ニグロと言ったって、顔だけ違うんであって、みんな同じです。骨も同じだし、肉も同じだし、血も同じだし、心も同じです。顔が少しだけ違うだけなんです。それは気候的に、地域的に変わっているんであって。それは仕方がない。気候とね。環境によって違ってくるだけです。

 例を挙げればね。松の木を見てみよう。極寒地帯から、ずっと温帯圏にいけば、種類がだんだん違ってくる。松の木の生えている地域的変化によって、だんだんと、それが出発した基準と、歴史を通して種類が違ってくる。あるいは熊を見てみよう。北極の熊は白熊だ。白くなければならない。環境からね。保護色なんだから、白人種は何であるかというと、北極の白熊であり、黒人種は暑い所の、温帯地帯の熊である。それだけだ。

 それが、黒熊と白熊がいた場合、ああ、君は白熊だ、ああ、君は黒熊だから、ここで一緒にできないと、そんなこと言えるの。もしも西洋人が、白色人種が、そのような思想をもっていた場合、黄色人種と黒色人種にやられてしまう。数からも。やられてしまう。その白色人種は、三分の一にもならないよ。共産主義なるものが、猛威をふるっているこの時代にあって、そういう考えをもっていると、それはめった打ちにされるよ。だから、そういう考えは、もう過ぎ去った考えである。そういう問題がある。

 だから、こういう基準において一つになる。それで統一教会は、結婚式も国際的にやる。ああ、アメリカ人と東洋人が結婚する。ああレバレンド・ムーンは悪魔であると。それは悪魔じゃないよ。人種を越えて、愛し合う姿、それは歴史にない美しさだよ。それが、そうできないから問題なのであってね。それは最も美しい。

 こういう主張は、先生が死んでも、死んだのち、今から十年、二十年、三十年後には必ず、こういう主張を訴える世界的思想がなければ、人類は滅びてしまう。神においては、神様においては、みんな兄弟である。神様の前には、一つになれないはずがない。アメリカの建国の精神は“One Nation Under God”これは素晴らしい精神だ。まさしく、そのようになってきている。そう考えてみた場合、我々統一教会は変わらない。結局変わらない。我々民族的調和をなしたその基準は、誰でも引き付ける。

 いくら反対したって、ビクともしない。まあ、そういうように、変わらない。絶対変わらない統一教会は、世界復帰のために統一教会文鮮明先生がやってきたと同じように、そのあとを貫いていく者は、みんな同じ形でいく。それは変わらない。君たちそうなの? (はい) 。

 まあ、そうなった場合、ここに集った者は、世界的に違う者だね。君たちの一生涯を考えてみな。いつも変わる。朝に変わり、夜に変わり、若い時に変わり、老人になって変わる。行ったり、来たりするそういう人間であってはいけない。変わらない人間が集って、氏族、民族、国家ができる。

 まさしく、君たちそういう気持ちになっているの? (はい) 。もしも「イエス」となっているなら「ああ、わしを信ぜ」と言える。そして「自分を愛せ」と言える。信じることができる。愛することができる。そして共に生活したい。そういうふうにして、初めて幸福になる。君たちの願いは何か。信じてもらいたい。それから何か。愛してもらいたい。そして、自分と共に生きたい。そうしたら幸福になれる。これに間違いない。このことに間違いない。

 万民と共に、国を越えて、そういうふうになるとともに、神様が自分を信じてくださり、神様が自分を愛し、神様が自分と共にいる、神様と共に生きるから幸福である。それ以外にないんだね。君たちはみんな幸福になりたいでしょう? (はい) 。幸福になるには、まず信じてくれるパートナーが必要です。心情が、朝に変わり、夕に変わり、きのうは信じたが、きょうは変わる。若い時は信じたが、また変わる。永遠に変わらずに信じ合う。そういう信じられる人から、愛される。永遠に愛される。それは愛してから、離れて、逃げていくんじゃなくて、永遠に共に生きるんだね。この三つを備えて、生涯をかけていく者が、幸福な人間である。真の人間である。

 だから女の子に尋ねてみると、どういうような夫が良いか。永遠に変わらず信じてくれる、そういう夫が良い。そうでしょう。それ以外にない。男はどうだ。男もそうです。神もそうである。神も、そういう人を願うから、その神の願う相対者として、信じられ、愛され、生きられるそういう者だったら、それ以上純粋な人間はありません。そういう男、女が共に神様を信じてくれるね。神様を信じてくれた時、神様が、ああ、まさしくありがとうと言うような人。また、人間同士、お互いに信じ合い、愛し合っている姿を見て、神様は、ああ、私の願ったような立場で、愛してくれる者だと見た場合、神様が共に生きたいと思う人。そういう立場に立った者こそ、責任ある人間になることができる。

 幸福な個人は、信じてくれる、愛してくれる、共に生きる人。そして、そのような相対者同士、夫婦が共に信じ合い、愛し合い、共に生きたいと願う状態、神様と共にいる。氏族を中心としてみた場合、氏族が幸福になるには、氏族同士が信じ合い、愛し合い、共に生きたいと願うことです。民族も、国家も、世界も同じことである。

 国の主権者においては、例えばアメリカの大統領であるならば、国家が信じる、国民が愛する、国民が共に生きたい、それが理想なんだね。世界中、神様を中心に考えた場合も同じですね。神様も、結局同じだ。世界中の人々が、神様を信じ、愛し、共に生きる。だから我々は、正しい人、純粋な人は、何によって決定するか。信じる、間違いなく信じる人、愛する人、共に生きたい人、それは何によってなされるか。それは結局、神によってなされる。

◆復帰は信じ愛すること



 神が人間を創造した目的は何か、というと神が信じてやりたい、そういう変わらない人間だと、神が信じてやりたいと、人間がいくら変わっても、歴史を越えて、その基準を維持してこられたのが、神様である。さあ君たちは信じることのできない者でも、信じてやる。騙されても信じてやる。それが神様である。愛してやる、共に住みたがる。お父さんもそうだよ。父母がそうでしょう。信じられない者を信じてやる。その基準において、変わらない純粋な人間、そのような人にならないといけないということを我々は知っております。本当の人、真の人はその基準において、一致したところにおいて、満たすことができるのではないか。そういう人同士、信じ合う、愛し合う、共に生き合う、その世界が地上天国である。天国の世界である。君たちもそうでしょう。神様みたいな人を、旦那さんに、奥さんにと願うでしょう。それは同じである。

 信じられない者を信じてやるし、愛されない者を愛してやるし、それは自分と共に住めないような者であっても、住みたがる。そのような思いが、変わらないでいくならば、必ずその人間は、そういうところを見合った場合は、感動して、再び帰る道があるから、神様は、今まで復帰の道をたどってきているというんです。イエス様が、聖人と言われるようになったのも、怨讐たちまでも祝福していった、愛していったということが、神様と世界中の人々を感動させたからです。共に住みたがる、共に信じたがる、そういう思いでいたのです。だから、イエス様は、歴史を動かしました。

 聖書六十六巻、たくさんのことが書かれていますが、すべて総合すれば、信じることを、愛することを、共に生きなさい、とそれ以外にありません。では我々統一教会において、どちらがもっと純粋で、信ずべき人かと言うと、そうした場合、神様みたいに、それは信じられない立場にあっても、信じてやる、愛されないような立場であっても、愛してやる、共に住むことができないような立場であっても、住んでやるというようなことを、続ける人ならば、必ず、その環境において、その人は勝利する。

◆東洋と西洋を一つに



 私はアメリカにおいて、いろいろと体験したことが多い。アメリカ人は、統一教会を信じていって、それからずーっと一生懸命働いた者たちが、それが去っていく時に挨拶もしないで、すーっと逃げて行く。少し変わっているね。そして東洋人と違うのは、出た者が再び教会に帰ってくるのが少ない。東洋人はそうじゃない。帰ってくる者が多いんだね。それは教育制度が、そうであったからということもあろうけれども、摂理路程が、非常に大きくなればなるほど、もっと厳しい訓練をしなければならないのが、アメリカ人ではないか。

 みんな自分を中心として、自由主義、個人主義を主張している。みんながそれぞれ自分を主張しているから、めちゃめちゃだ。しかし、東洋思想はそうじゃないんだね。みんな中心を重んじるんだね。中心を重んじて、自分は相対的立場に立つんだね。アメリカのような教育の方式は開拓時代にはよいが、統一したら難しいのではないか。開拓した今は。今は世界開拓という時代は、過ぎ去っている。いかに一つになるかという問題、こういう時代に入ってきている。

 まあ、そういう方面から見た場合、我々統一思想が西洋文明圏において、絶対必要なのではないかと思います。こういう組み合わせで、世界に向けて動き出している。あるいは国に向けて動きだしているということは、これは素晴らしいことである。

 それは、神が公平だからだと思う。アメリカは物的、あるいは物質文明の外的基準において、神から祝福された。だからその外的基準から内的基準に急激に変わることは、難しい。東洋は、物質文明基準ではなく、精神的な方面を重んじるんです。統一教会に入るに、スムーズに入る。無理がないんです。西洋は、外的基準を祝福されたから、内的基準において欠けてくる。東洋は、内的に祝福されたから、外的基準において欠けてくる。結局、神は公平だ。公平である。

 これは、三年ないし七年たてば、大概釣り合うんじゃないかと思っています。アメリカの青年も、相当変わりました? (はい) 。座ることを覚えた。イスでなければ座れないのに、こんなこと夢にも思わなかったでしょう。だから、宗教という精神を中心とする時には、物的条件を跳ね返す。東洋は精神文明を中心として、みんな外的基準を跳ね返してしまった。それを西洋人が、かき集めた。アメリカとか西洋が、今のように幸福になったというのは、東洋の物質的条件をみんな援助されて、このように西洋文明を発展したのです。しかし、それは限界に達している。そして東洋の精神文明も限界に達している。だんだん、東洋は西洋文明、物質文明を要求するようになっている。西洋文明は東洋文明、精神文明を要求するようになって、これらが交替するような時点に立っています。授受作用です。

 理想世界になったら、西洋人が東洋に行って住んでも、東洋人が西洋人に行って住んでも、これは無理がないように回らなければならない。そうするには生活基準、思想基準、目的基準が一致しなければならない。東洋の風潮を見れば、今まで、アメリカへ行って研究すればいいと考えていた。しかし今はそうじゃない。西洋へ行って研究すれば、人が悪くなる。何にもならない。頭だけあったって、何にもならない。君たちはみんなヒッピーの部類だ。その反面、アメリカ人は、外的なこと、食うこと、飲むこと、生きること、もうやるべきことを、みんなやってみて、その結果今は、すべての外的基準を捨てて、原始人間に帰ろう。それから何か精神的なものを求めてみようと、東洋に関心をもつようになってきた。

 東洋人は素直なところがあって、純粋であって、変わらないところがあるのです。アメリカ人は、これは変わりっぽい。そういう方面で、東洋をアメリカの青年たちは慕うようになってきた。東洋人は、アメリカ人の女はもう日ごとに変わると、そういうふうに思っているよ。特に女性が、そうなんです。離婚率が高い。男より女がそうだという。男より女が多い。東洋はその反対だ。女より男が多い。だからこれを入れ替えたら理想的になるや。まるで反対だね。

 東洋では、歩く時にこういうふうに歩けと教えるんだね。西洋ではそういうふうに教えないだろう。東洋では、こういうふうに、ずーっと高い所を見て歩けと教えるんだね。西洋は、それ物質的だよ。東洋人は寝るのを見たら、こういうふうに寝るよ。それから東洋は右手を主に使うんだね。左手は使わない。西洋は左手を使うね。はっきりと区別できる。西洋人は食べる時静かに、話をしない。東洋人は、みんなで話をしながら食べる。これは、まるっきり反対だ。そのように見ていけば、東洋と西洋を一つにする動きは、何としても統一教会以外にないんだね。何と考えても。東洋人と西洋人が一つになって、地球を持ち抱えたらどうなると思う。西洋人が物質面でいくらやっても世界を動かすことはできない。東洋人がいくら精神面で動かそうとしてもできない。

 それを考えてみた場合に、東洋と西洋を結束させる。二つを合致させることのできる一つの精神的な宗教が必要である。

◆真なる世界を描く統一思想



 国民を思想において結束しようという考えは、間違いである。なぜかというと、それは変わっていく。しかし変わる世界において、それでも変わらないのが宗教である。キリスト教は、二〇〇〇年の歴史をもっても滅びなかった。今の今までいくら打ったか。数多く人々、数多くの国が、キリスト教を打ったんだけれども滅びなかった。そう見れば回教もそうだね。イスラム教も、インド教もそうだ、儒教もそうだ。だから宗教圏を中心として文化が発展している。しかしこのように今までは、発展してきたが、今までの宗教は、変わりつつあるそれは純粋な宗教でなかったので、歴史をずーと過ぎてみると、風化作用を起こして、荒れかけたり、割れたり、破れたりする。

 それで宗教界において、一大革命時期が到来した。それから東洋文明も西洋文明も、一大革命期に入ってきた。宗教を信じる人と、宗教を信じない人とどちらがいいか、分からなくなってしまった。それは永遠性がない。今のキリスト教、宗教圏の者たちを中心としては、変わらない理想世界をつくることができないということが、証明されてしまった。民主主義世界の末期において、あるいは共産主義自体を見ても、みんな、それも信じられなくなった。民主主義の指導国であるアメリカ自体を信じることができるかというんだね。それは信じられない。共産主義も信じることができない。だから宗教界において、世界の思想界において、一大革命が必要な時になってきた。それは必ずしなければならない。個人から家庭から、氏族から国家から世界へわたってしなければならない。

 そういう革命を果たし得る内容、思想的内容、伝統的な理論体系がない。今、新しい宗教が生まれてきて、新しいアメリカ、民主主義の主体性をもって、指導してきたアメリカ国民を再び教育する、その宗教がない。共産主義の悪らつな、サタンの悪魔的な哲学に対して、ブレーキをかけ、それを克服し、解明した内容を提供した宗教がなかった。現実の宗教界すべてにも、新しい方向に導く内容を提示する何ものも、なかった。こういう世界の交流する、入り乱れたこの時点にあって、我々統一教会以外に、こういう内容を、こういう思想をもって、訴えるところがないと考えた時、我々の今の立場というものが、重大な位置にいるということを忘れてはなりません。

 人間は、より尊いもの、価値あるものに近づきたいと思います。そのように考えてみた場合、神様以上に、より価値あるものはない。だから問題はどこにあるかというと、神様をはっきりと知らないところに、問題が起きてきました。共産主義も、神様がいるということを知らないところに、生まれてきました。民主主義政体も、神様の理想、神の国がどのようにいくべきか、知らないから、このような腐敗圏の末端期にくるようになった。宗教が腐敗しているのも、神様をはっきり知らないことにある。だから神様はいずこに現れるか。堕落しなかったアダム、エバに現れる。そこにおいて神様を発見した。そこで我々は堕落以前のアダム、エバ、罪なきアダム、エバに帰り、その中において、真なる父母を迎え、真なる氏族を迎え、真なる国家を迎え、真なる世界を築こうというのは、統一思想以外にない。

◆神を解放する「私」



 ここまで到達するには、反対する逆の道を、突き抜いていかねばならない。だから蕩減の道は、堕落した者には原則として表れてくる。だから、これを克服しなければ、いかれないという教えなのである。それで自分を清算する。個人的問題から、家庭をいかに復帰するか、氏族、国家をいかにするか、世界をいかにするかという、はっきりした理論体系でもって……。

 そうして我々は、人格的神様を信じるだけでなく、心情的神様を論じていくようになった。それは、今までの宗教には見いだせなかったことである。神様は悲しんでいるということが分かった。神様が、拘束されているということを、今まで知らなかった。個人のため解放されなければ、あるいは家庭のため、解放、氏族、民族のため、国家あるいは世界のために解放され、世界的解放がなされるには、我々はその目的に向かって、進まなければならない。

 新しい宗教を提供した統一教会。その主体は神である。我々は客体である。主体が喜ばない以上、客体が喜んではなりません。だから神を世界的に解放してこそ、幸福の道ができてくるのです。神解放されてこそ、我々の幸福、家庭的幸福、氏族的幸福、国家、世界幸福が生まれてくる、これが統一史観である。だから神を解放しなければなりません。

 それを今までの宗教は、やらなかった。神によって我が解放される、こういう宗教、神によってうちの家庭が解放されると、まるっきり反対だ。国家も、神はどうでもよい。我は国家的宗教を信じるだけだ。このような国が解放された?

 そうじゃないでしょう。間違っている。だから我々は正しいことをしているのだから、世界がいかに反対しても、堂々と主張し、堂々と行進しなければなりません。だから、我々統一教会はこういう信念でもって、我一身を捧げて、世界を救うというのはもちろんだが、神を解放して、世界を救うという信念でもって、四方八方、命を懸けて進むならば、神はいつまでも共にいます。だから、神様は自分の解放のために努力するんだから、我々を援助せざるを得ません。

 では統一教会を信じるのは、何のためか。私が救われるためか。私よりは国、国よりは世界を救ってやる。それを救っておけば、自分の国は自然と救われる。こういう思想をもっていたとしたらキリスト教は、あんなに数百という宗派に分かれることがない。世界が救われていない。神が解放されていないのです。だから我々は分かれることができません。

 だから西洋人と東洋人とニグロが、一つにならなければ神を解放することができない。だから先生は、神の解放という一点に、生涯をかけてきた。神のほうに心を向けて、神の国に帰る。今まで人間は、民主主義を中心として、人間の自由を主張してきた。人間解放を主張した。それと同じように、今は神の自由、神の解放を願って、天宙を主管し得る神につくり変えなければならない。神様は自由になっているの。人間解放、自由を主張する前に、神様の解放、自由を主張しなければならない。その問題を解決することによって、人間解放はもちろん、人間の自由主義は生まれてくるのだ。

 きょうの題である私自身は、この私自身は、神を解放し、世界を解放してやるために、生まれてきたという自覚をもたねばならない。世界を占領、個人的、家庭的、氏族、民族、国家的、いくらでも、つらいつらい戦争を越えても、世界の果てに勝利を旗を見て、神を解放して、神の自由を主張して、神がそうだと返事して喜びながら我を迎えてくれる。そういうところまでいかねばならない。そうして神の解放とともに、神の自由世界の基準に立って、君も解放、君も自由だと、共に神と人間が歩調を合わせて、一つになったところに、世界的な解放と、世界的自由の本源があると主張する時が来なければならない。

◆不屈の精神



 統一教会行くところ、今解放されているの。邪魔が多い。それから後退することができるの。できない。すべてを克服して、前進しなければならないのが統一教会の運命である。アメリカにおいて、解放した場合に、世界が解放される。君たちそう思うの。この国は、力をもっている。金をもっている。あるいは科学をもっている。あらゆる組織的なすべての関係、因縁を世界的基準で、神が祝福して準備した。神様は、この国が汚されて、その基準につながることを願わない。汚されないで、そのままその国に、つながることを願うであろう。

 あなたたちの家庭、あるいは社会構造、共産主義の恐怖、あるいは人種問題、内的に腐敗しているそういう問題を、誰が解決してくれるや。アメリカ人自体においてはできない。自らが、自分の国を眺めて、落胆せざるを得ないような、そういうアメリカ人自体が神を解放することができるか。そういう教会が神を解放することができるか。できない。だから神様はアメリカに出てくることができない。期待することができない。この新しいアメリカの理想、新しいアメリカに、神のために立つ群れを願うに違いない。それがまさしく、我々である。CIAが調査しながら、中傷させているレバレンド・ムーンである。アメリカが無視し、反対しているレバレンド・ムーンである。

 先生は、そういう者ではありません。それを誰が証するか。それは君たちであります。アメリカ人のために、あなた方がしなければなりません。命を懸けて、先生以上に命を懸けて、自分の国のためにやらなければなりません。そうして、神を解放し、神の自由のために立った、これは本来の神を保護し、神を守るべき正しい人間として、アメリカ、世界に旗揚げしている自分であるということを、はっきり知らなければならない。君たちそういう自覚をもっているの?

 戦いの戦場に向かう時、激戦の場に行くか、やすい戦場を選ぶか、どちらを選ぶの。ベトナムから、カンボジアから生きて帰ってくるアメリカ兵士を見て、我々は興奮せざるを得ません。アメリカに神の祝福を残すために、いかなる激戦であっても、我々新しい統一思想は、世界共産主義の悪らつな戦場であっても、堂々と征伐するというそういう自覚をもたねばなりません。

 我々は変わらない、正しい人間としての使命を果たすということは、神を解放して、神を自由なる立場において初めて、そのような資格をもつことができるのです。そういう自信あるの。統一教会に入ったけれども、何でもないことが好き。何でもないと思って入ったかもしれないが、分かってみれば恐ろしい、が素晴らしいところである。サタン世界においては、これは恐ろしい。神の世界においては、これは素晴らしい。

 どんなに反対されても、先生の不屈の精神でもって、それを受け入れ、消化してしまう。アメリカも、君たちが先生と結束して、天にすがって、最後の戦いの戦場に立ったという自覚をもって、我、神の解放、神の自由のためにいかなる苦難の道、いかなる戦いでも、我先頭に立って行くという、この精神一本でいくならば、この巨大なアメリカも、遠くなく神のもとに帰る日が、近いと確信しております。だから、伝道して一人を解放させる一人自由にさせるということは、神を解放させる。神の解放の道を開拓していくという道である。こういう意味である。解放の火をつけるのである。家庭、民族、国家、世界へと。

◆神の子女になろう



 このようにして神を解放しましょう。先生自身は解放されているの? (いいえ) 。そのような解放を誰がするの?

 神様がするの?

 神様はできません。君たちと先生以外にはできません。君たちと先生以外に人がいません。これは、アメリカ自体もできないし、他の数多くの国でもできません。だからすべてが滅んでも、我々は神様を残したい。

 神自体が解放、神自体が自由になる。こういう考えをもった宗教、こういう考えをもった思想、こういう考えをもった人が、今までいなかった。まさしく今私たちは、こういう考えをもっているだけでなく、行動して、世界に向かって号令をかけている。こういう基準を、神様は望まざるを得ないよ。地上において、我々統一教会しかないじゃないの。我々が、アメリカで勝利すれば、その勝利的影響を、世界の各国に与えることができる。しかし、これはやさしいことではない。難しいことである。

 なぜアメリカ人として、統一教会文先生の前に集ってきたのか、と憂うんじゃないよ。神を中心として、神の解放者としての先頭者であると自覚しなければならない。歴史的に悲惨な我々の様子であるが、これは歴史を通過した未来において、いかに幸福なことかと考える場合、感謝しなければならない。それで先生は、太平洋を越えて、アメリカまできた。異国の地に来た。君たちは西から東に、自分の国を飛んでいる。南から北に、自分の国を飛んでいる。それは最もあるべきことである。

 男、女決意を固めて、こういう使命を果たすという自覚して、覚悟して、宣言して、誓って出た者が、いまだに故郷に帰ることができない。先生と共に、勝利の旗を揚げる運命を、天が授けているということを忘れてはならない。それを信じるの? (はい) 。それを知ってるの? (はい) 。君たち、そういう使命を果たせると思うの? (はい) 。そうしたら君たちは間違いなく、正しい人になるでしょう。この地球上において誰よりも正しい、天下すべてのものにもまして、正しいに違いない。そういう立場において、自分自身、間違いなく神に誓って、神に代って戦い抜けるという覚悟を、今もつの? (はい) 。そういう覚悟のある者、手を挙げて。

 きょうは、七月十三日第二回目の聖日である。我々は、この巨大なアメリカに向かって、こういうような世界的な使命を抱いて、今四方八方で急いで活動しなければならない。こういう間際に立っているということを、はっきり分かりました。今、あなたたち自覚したその者には、落胆はあり得ません。躊躇はあり得ません。前進に前進。我々に敗北ということはあり得ません。勝利の結果をもたらし、神に栄光を帰さねばなりません。そういう貴い自分であるに違いないと思いつつ、この多大な目的を達成するために、忍んで、忍んで勝利し、天下自由、解放のために、我々は驀進しなければなりません。そうだったら君たちは、最高の神の勝利者として、神にたたえられるばかりではなく、神の永遠の愛を、全体的に、全部もらうでしょう。それで十分神の子女になり得る、そういう自分である。













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20_歴史の転換点

 御旨と世界
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歴史の転換点


1975年12月1日



ニューヨーク ベルベディア

◆人間の責任


 ある個人、ある国家、そして今の巨大なる世界を見ても、ある時をおいて、転換時期がある。復帰摂理は、宇宙歴史の失敗を再び、三たびと繰り返してきた。本来なら、復帰摂理というのはあってはならないのだけれど、堕落――その一事によって、起源が生じたのである。失った本来の立場をもとがえすにおいて、神様とサタンと人間、この三者が絡み合いながら、転換点をもって歴史をなしてきたということを、我々は復帰摂理を通して学んできた。ここにおいて問題は、この転換点を、神様が起こすか、サタンが起こすか、あるいは人間が起こすかということである。

 今日までの既成宗教、既成信仰者においては、人間が、この悪なる世界を転換させていく中心的責任があることを知らなかったし、考えもしなかった。神様が成したいと思えばすべてが成就する、そのように信じてきた。神様がやりたいと思えばサタンも反対しない、そう思ってきたのである。

 我々統一教会においては、人間こそが、すべての責任をもたなければならないという。サタンを追放せずしては、真の新しい転換期を迎えることはできないというのである。ここにおいて、必ず、人間が主導的立場に立たなければならない。

 結局、神側においては善なる人々を中心として、これをもとがえそうとするし、サタン側においても悪なる人々を中心として、もとがえすことに反対する、こういう反復を繰り返して歴史は発展してきたのである。

◆ヤコブの勝利



 今日、皆さんが知っているように、カインとアベルを中心として見るとき、カインはサタン側であり、アベルは神側であり、ここにおいて、必ず、互いに衝突が始まるようになるのである。神と神の内的な立場に立つ者と、サタン側は反対に外的な立場に立っている。この二つを克服していかなければならない。すなわち、カインとアベルはそのような闘いをしたのである。そしてその闘いは神側において勝利したのではなく、結局、サタン側において勝利したということである。もしこの時に、神側において勝利したなら、歴史は簡単に転換時期を迎えたであろう。

 そのことはノアの時代も同じだったのである。内的な神様と外的なノアと、反対する外的なサタン側の社会と国家とサタンとが、互いに攻防戦を始めたのである。アブラハムの時代においても、結局はサタンが勝利した。歴史的転換においては、必ず、象徴、形象、実体、この三代条件を中心にして闘ってきたのである。我々がこれを歴史的立場において見る時、旧約、新約、成約、あるいは蘇生、長成、完成という、常に三段階をかけた問題を介入して闘いがなされるが、アブラハムの時において、象徴的祭物条件を立てて、一挙に、これらの問題をかけて転換しようとしたけれど、できなかったのである。ゆえに、イサクを通し、ヤコブを通し、このように三段階を経て、象徴、形象、実体の過程を経て、ここにおいて初めて、歴史的転換時点をつくり出すのである。歴史上において、神側の人間とサタン側の人間が闘って、いつ、一つの転換時期をつくったかという問題を見る時、それは実に、ヤコブの時だったのである。

◆勝利的伝統の確立



 ヤコブを中心として、ヤコブが勝利することによって、その家庭が初めて、ヤコブを中心としてついていくことができたのである。では次に問題となるのは何か、新しい一つの伝統が始まって、必ず、いつも問題になることは何かというのである。

 ヤコブが勝利した伝統的思想、伝統的信仰、伝統的その行動――これがヤコブの家庭がいつの時も立ててついていかなければならない、新しい伝統として残されるものである。ここから、新しい伝統は始まるのである。そうするために、ヤコブは、個人ではあるが、この個人というのは、個人としての立場での蕩減条件を立てるよりも、歴史的立場において蕩減条件を立てなければならなかったということを、皆さんは知らなければならない。そのようにしてヤコブが立てた歴史的転換点は、個人から家庭に引き継いで、民族の時代まで、ヤコブが勝利した伝統を引き継いでいかなければならない。これが原理で学んだヤコブ路程である。

 そのヤコブとヤコブの家庭が行く道を、歴史時代を通して、民族的モーセの時代まで、イスラエルの民はその道を合わせて、その道についていかなければ、サタンに勝利したというその歴史的偉業を相続することができない。モーセの時代まで、それがどのように難しい路程であったとしても、この法は、エジプトにおいても他のどのような異邦の国に行ったとしても、守り通さなければならないものである。この法は、自分の国にだけ適用するものでなく、たとえどこに行ったとしても守らなければならないものであり、その上に、モーセ時代に入って民族的転換時代をつくらなければならない。

◆モーセとイスラエル



 サタンはいつも、一段階先に立っている。エジプトという異邦の国において、神と神の民は、サタンとサタンの民とサタンの国に対さなければならなかったのである。神に民族があれば、サタンは先立って既に国をもち、神が国をもてば世界をもつ、いつもこのように闘ってきたのである。

 モーセはパロ宮中において、しかもパロ宮中の代表的な人であった。がしかし、彼はイスラエルの人である。その時にはエジプト人を代表するゆえにサタン側の人であった。それゆえにモーセはこれを飛び出して転換した。転換したその日から、モーセはイスラエルの民となり、神側の人となって、昔宮中にいたモーセ、サタン側にいたモーセではなくなったのである。そしてモーセ自身、神側の立場に立って、ちょうど、かつてヤコブが、神の前に選ばれて恵みを受けてハランに行って闘って、そしてその家庭を導いていける基盤を整えたのと同じように、モーセも、ミデアン荒野四十年の期間を通過して、初めて、自分の民族を導いていける基盤をもつことができたのである。こういうモーセとイスラエルの民が一つになって、パロ宮中と闘って、神側とサタン側と相闘ってこれを征圧し、そして出エジプトさせるのである。この時に、皆さんが原理で学んだように、ヤコブやモーセは転換時期においては、三日という三数をおいて転換の闘いをしたということを知らなければならない。

 このような、様々の闘いを経て、イスラエル民族は出エジプトをして、再び、イスラエルに帰還するまで四十年間を要したのである。延長されて四十年間荒野生活を通過しなければならなかった。イスラエル民族の放浪の起源がそこから始まった。もし、一度にパッと入ったならば、民族的転換が完全になされないのである。これを幾度も繰り返すゲームを荒野においてなした。そのようなゲームを、なぜしなければならなかったのか。それはイスラエルの民族が、命を懸けて目標に向かって指向できなかったからである。すなわち、人間の考え、思い、サタン世界と通じ合うそういう思いをする人々のために、神のみを信じて指向することができなかった。

 そのようにしてモーセを通して、出エジプトして、イスラエル民族がイスラエルに帰還して、次の国家時代のメシヤが来るまで、どの伝統を受け継がなければならないかといえば、エジプトの路程において勝利したモーセの伝統を受け継いで、これを守っていき、これに従っていかなければ、民族的勝利の基盤を受け継ぐことはできなかったのである。結局、モーセ以後のイスラエル民族は、民族的転換点を何でもってもたらすことができるかといえば、モーセが残した伝統を守ることによってもたらすことができる。その上に、メシヤ時代においては、イエス様が来られて国家的基準を中心として、世界に向かおうとされたのである。

◆歴史発展の公式



 国家時代に入っては、国家的段階は民族的段階より一段上っている。国家の中には家庭と民族が含まれるのである。それゆえに国家時代に入っては、民族的時代を繰り返さなくてもいいし、家庭的時代を繰り返さなくていい。であるからイエス様がメシヤとしてこの地上に来て、国家的基準を勝利的に立てたとすれば、それはすなわち、民族的時代も家庭的時代も成し得ることができたのである。

 民族的段階において、モーセならモーセ自身思わなければならないこと、成さなければならないことは何であったか?

 それは伝統的なヤコブの路程を、そのまま引き継がなければならないということである。これを知らなければならない。モーセ、その人はヤコブ以来、この歴史的発展過程の中において、すべてを代表してヤコブ以後に残されたその伝統を受け継いで、その伝統の上にモーセが立つというのである。例えば、発展する過程においては蘇生なくしては長成がないし、長成なくしては完成がない。そのためにヤコブの時代が蘇生だとすれば、その蘇生時代の基盤を土台にして、長成時代のモーセが出てくるようになる。それは何かといえば、縦的歴史的過程から見れば過去を受け継いで現在に立ったということである。そのようにして何をしようというのか、後退しようとするのか、前進しようとするのか?

 前進しよう!

 というのであり、その前進しようというところから、過去、現在、未来という概念が生まれてくるのである。

 イスラエルのヤコブの家庭を見ると、ヤコブ家庭は、ヤコブを中心として蘇生を経て長成してそれから民族に出発するのと同じなのである。そのような公式がある。過去、現在、未来の三段階の外形を整えて越えていくのである。モーセについていえば、モーセが立てられてそのまま条件なくして、「イスラエルに帰ろう」ということはできないのである。蕩減しなければならない。ヤコブ時代から今までの歴史過程において失敗していたすべてを再び、きれいに清算しておいて、サタンを除去する基盤を立てておいてこそ、モーセは初めて国家形成に向かっていくことができる。公式は同じである。

◆国家的転換点



 それで次に、国家時代に入って何をなすべきか?

 勝利したモーセの立場を、イエス様は行かなければならない。イエス様の土台は、民族的基盤が土台であるために、完全に勝利したモーセの立場をつないでおかなければ、イエス様は行くべき道がない。イエス様が立つ、そのイエス様の足台はサタンが侵入した条件のある、そういうような過去であってはならない。勝利した、きれいに漬算された足台であり、過去でなければならない。

 イスラエルの国、モーセが導いたその民族が、そのようなイエス様の足台にならなければならないという話である。そういう結論が出てくる。それが民族まで到達して、結局は一つになって出発しなければならない。そのためにモーセ時代において失敗があったすべてをイエス様の時代において清算し、その漬算したのち、イエス様は民族的基盤を整えた上で国家的基盤にまで結びつけて、初めて世界に行くことができる。一次元高い世界へ行くことができるのである。

 このように歴史的伝統を立てて転換点をつくるということができるという、この発展的な原則に従って見る時、イエス様は国家基盤を形成することができずして、すべてを失ってしまったのである。

 神様を内的にして、外的なイエス様を中心として、外的にすべて成されたのが一つの国家形態をとって、サタン世界のローマと対抗しなければならなかった。その当時、もし、国家的な転換点をつくっておいたとすれば、イスラエルのような国は、この地上に永遠に残すことができたのである。そういう結論が出る。イエス様以後、信ずる人も信じない人もイエス様の本然の伝統をいつでも提示して、団結させて、国家的基盤をつくり上げることができるようになければならない。このように見る時、死んでからみ旨を成就し得る個人がどこにあり、家庭がどこにあり、民族がどこにあり、国家がどこにあるか?

 結局、転換点と勝利の基点となるのは人間――実体としての人間なのである。イエス様が死ぬことによって、これがどのようになったのか、これがなくなったのか、残るようになったのか?

◆転換は地上において



 今日、キリスト教徒たちは、イエス様だけを信ずればすべてが成るという。これはとんでもないことである。イエス様が死したことによって、キリスト教徒たちは地上に、過去、現在、未来の基盤を形成して立つことができる足台がない。個人的にもそうであり、民族的にもそうであり、国家的にもそうである。転換点はどこでなされなければならないかといえば、地上においてこそ、なされなければならない。地上が問題である。肉と霊をもった人間が堕落して落ちてしまったゆえに、肉と霊をもった人間が個人から家庭から、氏族、民族、国家、世界から戻ってこなければならない。イエス様が死ぬことによって、これがすべて、なくなってしまったのである。それでは過去がなく足台がない。したがってイエス様時代においては霊的基盤から、民族的に世界にまで行ける基準まで、再び、これをつくり直さなければならない。つくり直すにおいては、キリスト教が完全に霊肉を中心として実体を受け継いでつくり出す資格があるか。国家的転換点をつくって、世界へと前進しなければならない時が今であるにもかかわらず、イエス様が死ぬことによって、国家的段階から世界へと行く道が生まれなかったばかりか、再び、歴史的過程をつくり出す運動をしなければならない。

◆サタンが打ってきた歴史



 キリスト教とは、イエス様の伝統を立てていくものである。イエス様はどうであったのか、イエス様は死ぬことによって霊的になったということ、これを知らなければならない。霊的というのは何であるか、地上において精神的にだけ侵されない、精神圏とでもいおうか、そういう内容である。ここにおいてキリスト教徒たちが知らなけばならないのは、イエス様の思想である。「我が神、我が神、出来ることならこの苦杯をとり除いてください。しかし私の願いでなく、あなたのみ旨のごとくなさしめてください」ゲッセマネの園で祈ったように、キリスト教徒全体が父にみ旨に帰することができる、そのような団結の運動をせずしては、本来の霊肉を中心とした実体世界へと向かう道を見いだすことができない、そういう結論が出るのである。

 結局は、空中に浮いているのである。イスラエル民族は放浪したのか、それとも定着したのか?

 実にイスラエル民族はモーセが立てておいた伝統的基盤まで打ち壊してしまった。いったい、メシヤは来たほうが良かったのか、来なかったほうが良かったのか。事実は、メシヤが来なかったよりも悪くなった立場になってしまったのである。

 ここにおいてはキリスト教は国のない民であり、土地のない民である。そして家庭にあっては家長のない民である。誰でも来て侵すことができる。いつでも侵犯することができる。そのようにいつ侵犯されるとしても、神が個人的勝利、家庭的勝利、氏族的、民族的勝利の基盤を整えたその民族を保護すべき何の保証もない。いくら全能なる神としても、何の保護し得る土台もないのである。そのために宗教歴史上において、最も悲惨な歴史を残したのは、キリスト教歴史しかないという論理がここに立つのである。

 それゆえにキリスト教は殉教の歴史となった。今日まで神様がいらっしゃるなら、なぜ個人的に民族的にこのように悲惨な道を行くのかは大きななぞであった。それは個人、家庭、氏族、民族、国家の基準がないために、サタンが常に実体を攻撃するのである。

◆再び来られるメシヤ



 さあ、それではイエス様は再び、来られるべきなのか、そうでないのか。絶対に再臨しなければならない。今日、クリスチャンは、「イエス様が来ても来なくてもいい、必要ない」と言う。“再臨の主は雲に乗って来てすべてを焼き滅ぼして、神様の、イエス様の思いどおりになる世界が広がる”と思っている。そういうことが起こり得るか?

 そのようなキリスト教は滅びてしまう。本気ではないのである。それは人類を復帰する摂理歴史とはあまりに離れすぎているため、そういう信仰をもってしては、原理を立て、道理を立てていくそのような再臨の主に、絶対会うことはできない。

 再び来られる再臨の主は栄光の中に来られようか?

 サタン個人を、その家庭を民族を国家を一度に踏みにじることのできる、原理的権限があるかどうか?

 メシヤが国家的基台の上に立とうとすれば、民族的基準を受け継がなければならないし、民族の基準を受け継ぐためには、必ず、完全に清算された家庭的基準を受け継がなければならない。そのようにして初めて、国家基準において確実に向かって立つことができる。そういう基盤なくして、再臨の主が栄光の中に来られることはできない。甚だしい苦痛と悲惨の中に来るという言葉が成就されるのである。

 今日、現時点においてキリスト教を見ると、雲が空を漂っているようである。風の吹くままに飛んでいく。現在、世界にキリスト教を国教としている国が多いが、伝統的な個人勝利、家庭勝利、氏族勝利、このような基盤を整えた上に立っているのではない。言い換えれば選民イスラエル圏になっていない。どこまでも霊的であり、実体はない。それが問題である。それでは再臨主が来て何をすべきか。イスラエルの国で失ってしまった個人、家庭、氏族、民族、国家、世界的基準までいける実体の基盤を整えずしては、世界を救うことができない。そうせずして世界のキリスト教を収拾することができない。

◆神の基点となる国



 ふわふわした霊的なものが、二〇〇〇年の間、どこへ定着しようか。イタリア民族はローマ法王庁に籍を治めるか、アングロサクソンだったら英国に定着しようか、そして今に至って、アメリカに定着することができると思うか。どこにも定着し得なかったものがアメリカにおいて成功すると思うか。

 神様は基地をどこに置いたらいいのか。ローマにおいて失敗したし、英国において失敗し、このキリスト教国家であるアメリカにおいても様子が芳しくないから、神様は東洋においての最も小さい国に基地を置いたのである。神様はできるだけ簡単で容易な国を探すのである。そうでありながら長い歴史をもった国、その中においても単一なる民族の国、それはなぜかといえば、たやすいからである。中国のように七億もの人口があったら、それは難しい。ゆえに神様はやむを得ず、蕩減実体圏を再び形成されるのにおいては、簡単でたやすい民族であり、しかも長い歴史的な距離を中心として、四〇〇〇年以上の歴史をもつ、そういう国でなければならない。そういう国を我々は、世界中で探さなければならない。そういう国を探しているという結論は、私が神様であっても、皆さんが神様であっても同様である。

 そういう意味からして、大国は不合格である。そうしたらアメリカはどうか。合格か不合格か?

◆イスラエルの条件



 イスラエルの国が今は二つに分かれているが、歴史上に単一民族として、最も小さい国としてイスラエル民族は復帰されているゆえに、他の国を侵略することができ得ようか。選民が自分を侵略することができるか。たとえ侵略を受けることはたびたびあっても、自分は侵略することができない。神様が許した戦いにおいて戦うことはできるが、侵略はできないのである。

 メシヤが来るべき国は、第一に小さい国である。第二に四〇〇〇年以上の歴史をもたなければならない。第三に単一民族でなければならない。第四に国家という国自体は不安定な状態だとしても、国の形態をもっていなければならない。たとえ属国だとしても……。第五は侵略をしてはならない。小さければ小さいほどいい。第六番目には問題の国であること。その民は、また多くの問題をもたなければならない。なぜなら、蕩減をしなければならない民だからである。

 歴史的過程において、このような名前をもった国は二つある。その一つはイスラエルとイスラエルの民である。放浪して国がないのである。それでもメシヤを迎えるためにあらゆる冷遇をされながらも、滅ばずして国ない国のままに維持してきたのがイスラエルである。そうでありながら、文化民族でなければならない。土人のように無知ではなく、優れていて世界文化史においても、問題となる民族でなければならない。そのように見る時、それはイスラエルと、東洋においては韓国なのである。

 前に語ったように、文化は蕩減復帰歴史を中心として、西洋の文明はアジアに戻っていく時、韓国が帰着点になる。韓国は、そのような国なのである。西洋文明圏に隷属されてはならない。敵、サタン側の支配を受けてきたのである。なぜなら、イスラエル民族がローマの支配を受けたような、そういう形態をもたなければならない。とすれば、再び来られる主はどちらに来る可能性があるのか。一九四八年、イスラエルの国が独立したのだからそこに来たらいいではないだろうか。

 韓国はいつ、独立したか、同じ一九四八年である。そして同じ時、イスラエルにはなかったけれど、韓国は支配を受け植民地化されていた日本から解放されたのである。それは摂理的に当てはまることである。霊的なイスラエル圏から受けたものを肉的イスラエル圏において、という、同じ基地で同じ年に独立したということは、理論的にも当てはまるのである。

 イスラエル民族が、イエス様を殺害した罪で、二〇〇〇年間、世界の中に放浪していたのに独立できたということは、謝罪することができたということである。謝罪することができたゆえに、再び国を探し求めることができ、そして本然の位置に戻ってくることができたということである。それは、イエス様が再び来る時が来れば、必ず、イスラエルが回復されるという言葉が成就できたのである。逆にいえば、イエス様を殺害した罪を蕩減して、許しを受けることができるようになったために、再臨の主が来られるというのである。韓国は侵略したことのない国である。そのためにアジアのユダヤ人という名をもっているくらいである。

◆再臨主の行かれる道



 再臨の主が韓国に来られれば、何をしようというのか。良い暮らしをするのか。それとも蕩減の道を備えなければならないのか。蕩減の道を行くとすれば、再臨の主はそれを喜んでいるのであろうか?

 韓国に泣きながらカラシを食べる、という言葉があるけれど、そのように仕方なくやるのである。そうしなければ生きる道がないからやる。しなければ、死ぬ道しかないからである。

 韓国に来るとすれば、かつてのユダヤ教と同じような立場に立つ、韓国のキリスト教が問題となる。ふわふわと浮いた霊的キリスト教が問題となるのである。とにかく、無条件に体のいくところに心がついていくだろう。キリスト教が統一教会を気に入らなくても、ついてくればいいのである。これからメシヤを迎える一つの集団があるとすれば、気持ちが悪くてもついていけばいいのである。そういう話が成立する。

 そのような立場から見る時、韓国で新しく、神を中心とした世界史的使命を負う新興宗教が生まれたとしたら、その団体を通して再臨の主は現れるという、この理論は妥当である。このような結論は理論的である。それは何か?

 統一教会である。その意味は一つになるということである。そして神霊が中心であり、世界を、キリスト教を一つにしようとするのである。それは何を意味するか?

 メシヤが来るということである。反対しないで全部受け入れたらどうなるか。七年の間に、この手続きは全部終わる。キリスト教は絶対に服従しなければならない。家庭の蕩減条件をつくり、氏族、民族、国家の蕩減条件をつくって、これを全部、一つにまとめておくのである。それが何年間でできるか。七年かかる。韓国の独立が解放後、三年目である一九四八年である。それから三年間において成されるのである。すなわち解放された一九四五年から七年目である、五二年までに成されるのである。

◆再創造の過程



 一という字には七という字がついて歩く。神様は一週間で創造を成した。七日目は安息日で数には入らない。先生はこの期間何をしたか。監獄に入っていた。一九五一年に解放されるまで、監獄においては何をしたか?

 イエス様の時においては、イエス様が死の道に行く時、みな、逃げてしまったのであるが、先生においては、監獄にあって裏切って逃げるのではなく、監獄で信ずる十二弟子を探し求めなければならなかったのである。このような蕩減復帰路程が始まるのである。

 そこから出発して、世界的カナン圏に向かって歩まなければならない。それが共産圏である。キリスト教は民主圏である。そのキリスト教が反対するということは、民主世界が反対するということである。そうすれば世界、どこへ行っても民主世界があり得ないことになる。すべては敵の国になり、それが共産圏であるから、それで共産圏内へ行ったのである。そしてそこへ行って、奪い返す。そこから再び、再創造が始まるのであり、先生を中心として、個人のヤコブの立場から出発して、家庭形成を目指すのである。

 それが一九六〇年代である。韓国の解放後十四年である。イエス様が失敗したのを復帰しなければならないゆえに、七年を蘇生とすれば、さらに長成と二段階を経なければならなかった。ヤコブも一次、二次において、完全に家庭を探し求めることができ、十四年後に、彼の妻と彼の家族を求めた。そのために一九六〇年代において、神とサタンとの家庭の分立が始まるのである。

 世界史的な使命を中心として、そのような家庭をつくって、先生が新しく祝福として何をつくるかといえば、新しいイスラエル圏の編成である。祝福家庭を中心として、第三イスラエルをつくるのである。一九六〇年から、我々は上っていくのである。そして、歴史過程のすべてを通っていく。家庭時代、氏族時代、民族時代を経て世界時代までゆくのである。家庭、氏族、民族、国家、世界、これに合わせていくのである。

◆祝福家庭の出現



 統一教会は今まで、ヤコブの家庭を中心として、氏族、民族編成をしてきたのである。三十六家庭は三段階の十二双を代表するものである。三十六家庭のカイン、アベル、これを合わせたのが七十二家庭である。一つの復帰過程は三十六家庭の歴史であり、一つの家庭は三十六代が延長されたのであり、そこにおいてカイン、アベルが失敗したのに付け加えたのが、七十二家庭である。このように、元来失った歴史的家庭を探さなければならないし、そしてこれを復帰するのである。イエス様当時においてもイエス様に三弟子がいた、み旨を成したということは、その三弟子を祝福してあげることだったのである。そして十二祝福数を満たさなければならない。さらに、過去、現在、未来この三段階を経て、これを横的に延長させておいたのが三十六家庭である。蘇生、長成、完成を横的に延長させておいたのが、三十六家庭である。

 アダムからノアまで十代、ノアからアブラハムまで十代であるけれど、この十数は十二数を表す。なぜかといえば、カイン、アベルの数、あるいはイサク、ヤコブの数を合わせるからである。十数は十二数に該当する。これがそれぞれ、蘇生、長成、完成を考えると、合わせて三十六。三十六家庭がここに、起因するのである。さらに三十六家庭のアベル、カインの形をとるから、七十二家庭になる。これが一つになるのである。

 その次には、三十六は家庭の中心であり、七十二は氏族の中心であり、さらに一二〇数。これはイエス様が一二〇門徒を中心として世界路程を出発したと同じである。世界国家の代表である。これをイエス様は祝福して、団結して、ここにイスラエルの国を連結させなければならなかったけれど、それは全部、失ってしまった。ゆえに、先生はここを行く。イエス様が成し得なかったことを成すのである。もし、イエス様が、一二〇名門徒まで祝福してイスラエル国から歓迎されたとすれば、イエス様は殺されただろうか。そうではなかった。殺害されて、これをできなかったのだから、蕩減しなければならない。これを三年間で全部、成さなければならない。これはたやすいことか?

 次に、四三〇家庭である。四数と三数は合わせて七数であり、また四数と三数はいつも、解放数に当たる。イスラエル民族は四三〇年ぶりに出エジプトしたのであり、韓国の歴史においても、四三〇〇になる年である。四三〇〇年ぶりに、イスラエルの国を探し求めたのである。だから四三〇年というのは、イスラエルの民族を探し求めた期間であり、四三〇〇年はイスラエルの国を探し求めた期間である。だから韓国に、どのような氏族、民族も全部含まれるのである。韓国内において、全民族が入ってくる道を開いておくためである。国家基準がこのようになって、ここに、西欧世界に四十三双の祝福をした。これは四三〇と相対的に合わせたのである。そして次には七七七双である。このようにして発展してきたのである。そこには十カ国以上が含まれ、そこには世界が入っていくのである。条件としても立てるのである。

 結局、統一教会が新しい民族として、国家を形成していくのである。何の話か分かるの? (はい) 。これが分からなかったら、これからの摂理がどうなっていくのか、分からなくなる。皆さんが伝統を受け継いで、それを守り、維持していかなければならないのに、それができるの?

 知らずしてどうしてそれを守り、維持していくことができるの?

◆一八〇〇双の祝福



 六〇年から今年まで、何をしたか。一八〇〇双の祝福をしたのである。本来は一九七四年にしなければいけなかった。しかし、摂理を一九六〇年四月から出発したゆえに、今年の四月までも十四圏内に数えることができる。十四年において成したのである。統一教会の第二次七年路程の終了路程として一八〇〇双を祝福するのは、全世界の者を中心として、完全に世界に向かう基盤を整えていくのである。

 一八〇〇というのは何を意味するのか?

 六数はサタン数であるが、その六数に、六数に、六数をプラスした十八数、これを象徴する。これはサタン世界を制圧するという意味である。完全に制圧する。最初の六はサタン側の蘇生、次の六はサタン側の長成、最後はサタン側の完成を意味する。ここにおいて世界的基盤を我々が整えたことになるので、これから、国家を中心として我々の思うとおりに動かすことができ、世界を思うままに動かせる時代へと入っていくのである。

 まず六月、ヨイドの大会を中心として、韓国においては二月から六カ月間の準備期間で大会をなし、韓国の全運勢を引っ繰り返した。既成教会も引っ繰り返さなければいけないし、韓国に我々全体が現れなければいけない。完全に先生がつかまなければならない。そうなるために、どのような現象が起こるか。

 霊的キリスト教圏が世界分野において残っている。これを個人から家庭、民族、国家、世界基準まで韓国に連結させておいて、今日、世界的キリスト教国、アメリカという国に来た。これを霊的に連結させてこそ、肉的基準を中心として、世界へ行ける道が開かれるのである。ゆえに、七二年から三年路程で蕩減復帰して、アメリカの建設をなすのである。今まで、先生を中心として、霊的において氏族基準、民族基準まで上ってきたが、世界基準は、まず霊的を中心として始めて、国家を超えて外国に活動部隊を送り、七二年から三年路程を経て霊的基準を勝利的基準に結びつけた。この霊的世界基準を韓国に連結させておくことによって、韓国は世界的実体の中心として立ち得るのである。

 国家基準を立てておいて、そして世界的国家基準を拡大するために、韓国においてはもう既になされたのであるから、これをなすための期間が三年路程である。前三年においてはキリスト教世界的基準を探し求めるのであり、霊的キリスト教を引き受けなければならない。そして、のちの三年は、霊的基盤の上に、実体的基盤の上に、国家を中心として動かさなければならないのである。これはイエス様を中心とした、世界的時代における肉的三年期間と同じである。それは何を基盤とするかといえば、ヨイドの大会である。既成教会も押さえてしまったし、国家もそうであり、ここにおいて霊肉を中心とした勝利的基盤を整えた、その基盤の上に、アメリカの世界的摂理三年の路程が始まるのである。

◆最高の転換点



 一九七五年度から、世界史的第三次七年路程がなければならない。分かりますか?

 世界的な、霊肉を中心とした歴史的転換点なのである。これを知らなければならない。一九七五年、七六年、七七年のこの三年間は、アメリカの運命が変わってくる時であり、世界の運命が分立される時である。

 結局、先生は今まで、韓国にあって、イスラエルにおいて失ってしまったすべてを蕩減復帰して、国家基準を整えたものを、世界キリスト教圏内にあるこれを、霊肉を中心として完成させて、国家的形態をもった国家をつくってここに合わせ、世界の蕩減条件を立たせてきた。前三年の霊的基盤の上に、のちの三年は肉的基盤をつくくるのである。だから七七年から八一年までに、世界的問題を完全に蕩減して越えなければならない。七七年度の前三年を勝利して、八一年までにどこに行っても統一教会は反対されない圏をつくらなければならない。共産圏は反対するかもしれないが、自由圏ではどこでも歓迎されなければならない。それはアメリカにかかっているのである。

 さあ、それでは今はどのような時であるか。歴史的転換点から見る時、イエス様時代の国家基盤を受け継いだのである。その土台の上に世界の基盤を受け継ぐ、この時であるということを知らなければならない。霊的だけではない、霊肉を中心としてである。ゆえにこの三年は国家基盤をつくるための闘いであり、先生においては、世界的基盤を整えるための、三年期間の運命が決定される時である。蕩減復帰原則においてである。そのために七五年、七六年、七七年は、それこそ歴史以来、最高なる転換点であることを知らなければならない。そこに今、我々は立っているのである。

◆天国実現の時



 それではイエス様当時、イエス様とその弟子たちの行くべき正しい道は何であったか。国と世界のためには、イエス様と生死を共にしなければならないということである。それが結論である。我々三年間において、アメリカに影響を及ぼすことができるか。どうすればいいのか?

 だから神様は既成教会を容赦なくふるいにかけるのであり、そこにおいて統一教会が現れてくる。これを皆様は理論的に整理しなければならない。

 我々は摂理的史観をはっきりともたなければならない。もちろん史観だけではいけない、現実がどうであるかを知らなければいけない。我々が、どこに位置しているか。過去、ヤコブは知らずして摂理してきた。モーセもイエス様も知らずして摂理してきたのである。そのために全部滅びたのである。しかし今の時は違う。すべて知ってなすのである。なぜ知らなければならないのか?

 蘇生時代のアダム、イエス時代は長成時代であり、今は完成時代であるから知らなければならない。そのため、我々は神の事情を知るのである。

 それゆえに私の基盤の上においては、国のために立ったのであり、その国は韓国である。それはアメリカではない。肉的実体を再び、探し求めずしては霊的基盤、キリスト教を吸収する道がないのである。時代をさかのぼってイエス様とその弟子たち、そして君たち、誰が最も歴史的時代に位置しているのか。イエス様当時において、民族、国家的時代であったが、我々は世界的時代に立っている。どれほど、偉大な時であるのか。皆さんはイエス様の弟子より高い位置にいる。理論的には、偉大であらざるを得ない立場にいることを知らなければならない。イエス様の弟子たちはみな、ローマにおいて首を絞められたとしても行くというのに、君たちがモスクワにおいて首を絞められたらどうなるの?

 イエス様の弟子たちよりも優れるか、劣るか?

 民主世界が救われるのに、我々は何年やらなければならないか?

 三年やらなければならないし、共産圏なら、できるだけ七年期間内になさなければならない。そうなれば、民主世界が戦わずしてそのまま越えていくことができる。それをなせず残したならば、戦いがあり、また戦いがあるのである。そうすれば、統一教会の食口として、血を流したとしても、勝利に向かって行かなければならない。そのために、この三次路程において、どうしても世界問題を解決しなければならない。これが眠ても覚めても先生が願うことであり、神が願うことであり、霊界のイエス様の願いであり、数多くの霊人たちも、「今日、ここまできたのだから、どうか、残りの一歩を勝利してほしい」と言うのである。これを我々は霊界に対して祈るのであり、霊界が我々に祈ることである。

 昔、霊界は協助しなかったけれど、今は協助するようになっている。道だけ開けておけばすべてがなされる。そのためにどれほど、天国が近づいてきたことか!

 七年残っている。その事実を知っているの?

◆ヤンキー・スタジアム



 ではこの戦いは、どこから転換させるかというと、マジソン・スクェア・ガーデンにおいては、霊的には事実上、転換したのである。そして今は、外的な国、国民が問題なのである。長成がいつかといえば、ヤンキー・スタジアムである。世界的勝敗はどこにかかっているか、次のヤンキー・スタジアムである。第二の立場がかかっている。過去から見れば現在の立場に当たるのである。神の国を転換させる第二番目の時代である。カイン、アベルの時代に、二番目の息子であるアベルを中心として、神の転換がなされたのである。家庭的に見れば、ノアを中心として、天と地が分かれたのである。二番目が問題である。アブラハム、イサク、ヤコブを見る時、イサク実体をおいて、死ぬか生きるかの闘いがあったのである。全歴史において見る時、二番目のアダムであるイエス様を中心として、世界が回るか否かが問題であった。そのため長成は、縦的に見れば真ん中であり、横的に見てもそうである。そして今日、世界的舞台において転換点の鍵を握るのが、ヤンキー・スタジアムである。事実、世界史的な問題がかかっているのである。

◆すべてをかけて成そう



 数字的に七数で見れば、七数は蘇生、十四数は長成、二十一数は完成になる。ゆえに、二十一万集まることができれば勝利である。そうするとアメリカを持ち上げておくのと、同じことになる。そのため我々は、全体をかけ、命を懸けて、全財産をかけてやらなければならない。ヤンキー・スタジアムに向かわなければならない。神の国を皆さんは思うのではなく、体で感じなさい。もし、ヤンキー・スタジアムに集まったら、神はとても痛快だろう。イエス様もそうであり、先生もそうである。全霊界が感謝するだろう。そして世代が変わってくるだろう。反対する群れは縮まってしまうだろう。夢のような話であり、なぞのような話である。

 先生は、このように深刻な立場に立っていることを、知らなければならない。これまで基盤を積んできて、初めて世界基盤の霊的勝利の上に立って、肉的基盤を見つめているのである。ここで勝利するなら、三年以内に、八〇年までに間違いなく死守するようになるのである。これをいかにして共産圏まで適用させていくか。我々は闘わずして、全世界は解決されたと、堂々と神に向かって証することができるのである。ヤンキー・スタジアム大会を二十万人以上勝利することができれば、ワシントン大会で六十万、七十万以上、勝利することができる。「レバレンド・ムーン支持」と六十万が言えば、新しいイスラエル圏の出発が始まるのである。世界的カナン復帰のため、国家復帰のためイスラエルが出エジプトしたと同じように、全世界に向かって、新しいイスラエル圏の出現の時が始まるのである。

◆霊界を総動員して



 三年間は世界的基盤をつくる時である。蕩減復帰は三年間やるのである。既に韓国においては一二〇万を勝利した。皆さんがイエス様のような心情、先生のような心情と一つになって頑張れば、霊界が全体動員されて勝利できる。何となくヤンキー・スタジアムに行きたくなる。ヤンキー・スタジアムを思うだけでうれしいし、皆さんを見ればついていきたくなる、そのように心に働きかけてくるのである。だから、転換をするには最大にしなければならない。それは前にもあとにもない最後の闘いなのである。神様が深刻であり、イエス様が深刻であり、先生が深刻であり、イエス様の霊界が深刻であり、そして統一教会の皆さんが深刻になっているのである。そうなると霊界がついて歩きながら業をなす。理輸的にそうである。キリスト教を信じて霊界に行った人々が、協助する。これからはキリスト教が反対する時は長く続かない。ヤンキー大会が終わって勝利すれば反対することもなくなり、何となく統一教会に来たくなり、吸収されるのである。

 ヤンキー・スタジアムの勝利は、長成を越えていくため、堕落圏を越えていくことになるのである。それが何かといえば、世界的神の権威が立つようになるので、サタンは行く所がなくなってしまう。そのために反対することができなくなる。ヤンキー・スタジアムにおいて結論が出るのである。皆さんはヤンキー・スタジアムの大会が早くきたらいいと思うか、遅くきたらいいと思うか?

 先生は恐ろしい。もし、失敗する日はどうなるか、その点が一番、深刻なのである。それを知らなければならない。どのようにしても、いかにしても、これをなさなければならない。ヤンキーを勝利すれば、長成期を越えたことになるのである。

 アメリカの歴史は二〇〇年になる。これはユダヤ教で失敗した四〇〇〇年を、ローマ四〇〇年で蕩減復帰したように、キリスト教で失敗した二〇〇〇年を二〇〇年で蕩減して、霊的、実体的に収納しなければならない。これを収拾解決して、天的に収められるかどうかということが、二〇〇年蕩減期間と一致されるのである。イエス様の霊肉を中心とした、このような蕩減期間が二〇〇年であったということ、これは神が数理的摂理をしているのであることを、知るのである。

 これでヤンキースタジアム大会のタイトルは、「アメリカ建国二〇〇年、神よアメリカに祝福あれ」という。天国へと越えていくということである。そのようにして第二番目の峠を越えていくのである。君たち、寝る時、手も足もヤンキー・スタジアムに向けて、押し込む気持ちで寝なさい。そのように思っていればなるものである。

 そのように皆さんが成功を収めていけば、皆さんは上に上がっていくのである。イエス様も頭を下げる。神様もそうであるし霊界もそうである。

◆先生は深刻である



 きょう、十二月一日、先生は非常に深刻な話をした。きょう先生が語ったことを、これからの四十日、ないし三十日で準備していけば成功するだろう。

 先生が思うに、大会の日は五月二十七日がいいと思う。今月十二月から五月まで、六カ月ある。そのうち一カ月が三十一日の月が三回ある(十二月、一月、三月)から、五月二十七日であるからこの三数をプラスして、完全なる六カ月になるのである。五月二十七日は歴史的転換点になるのである。皆さん一人一人が、六〇〇〇年の歴史を集結して、神様の歴史自体において、聖人先人たちが信じていた、あるいはすべての我々の先祖たちが信じていた復活体となって、イエス様以上に精誠を尽くす時なのである。摂理歴史において間違いなく、あとにも先にもない歴史の最頂点に立ってあらゆる力を尽くして、私が神様の前に立って「君はそれ以上できなかったのか」と聞かれた時、「自己のでき得る最大の基準までやりました」と言えるようになれば、皆さんも先生も、責任を免れるのである。これをもし、知って、あらゆる精誠を尽くさないとするなら、億千万代の恨みとなるのである。皆さんと先生が一つになって、二十四時間、サタンも休まないし神様も休まない、我々も休まない。そのような思いをもって、これからの六カ月、最後の地獄のような期間であり、再び、あってはならない期間であり、思うだけでも身震いするような期間を、皆さんは真剣に越えなければならない。

 そういう思いでもって、あらゆる精誠を尽くして神の前に誓い、きょうから六カ月、総動員していこう。














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21_統一式のみことば

御旨と世界
(全面表示) 統一式のみことば1976年1月31日 韓国ソウル本部教会

◆歴史的な年

皆様がよく知っているように一九七六年というのは歴史的な年である。昨年のヨイド大会は国家的に、統一教会が霊的国家的基盤を整え、実体的国家基準を立てる年であった。それは何かというと、イエス様が十字架上で亡くなったことによって、ユダヤ国家とユダヤ教が一つになることができなかった、これを蕩減復帰する、歴史的な期間である。当時、ユダヤ教徒と政府が一つになってイエス様を追い込んだ。

 昨年、どのようなことが起きたかというと、統一教会と政府が一つになって既成教会を追い込んだのである。逆になってしまった。そして、六十カ国の統一教会の食口たちが来たということは、世界の数多くの国家を代表して、横的な国家の立場から見ると、民主世界は霊的なキリスト教の使命であり、霊的な世界基盤を中心としたその土台の上におくためで、それで) 国際機動隊(IOWC)を編成したのである。

 だから、西欧の人たちがここに来たという事実は、霊的な西欧世界の、キリスト教全体の勝利的基盤を持ち込むことによって、アジア諸国に来ていた数多くの霊人たち、あるいはキリスト教で犠牲になった数多くの霊人たちが、今まで一つになろうとしても一つになり得なかったことを、私たちがあのような行事をすることによって、アジアと西欧文化圏がここで一つになり得る、契機となったのである。それが一つになることによって、今までアジア地域で自分の国の主権のために忠誠を尽くしてきたすべての善なる霊人たちと、今まで西欧社会の文化圏を中心として善なることを行ったすべての霊人たちに、接触し得る時が生まれたのである。

 韓国という国は、世界を代表した歴史的蕩減条件を立てた国であるために、全世界を代表する一つの統一的な教えを立てておかなければならない。韓国が、霊でもって一つになるという事実は、これは西欧の文明圏とアジア文明圏が一つになると同時に、キリスト教と、今日の統一教会が一つになることである。言い換えれば、キリスト教世界にある霊的世界の土台が、今日韓国の統一教会を中心として、霊的基準を中心として世界まで連結させなければならないし、その霊的基準を中心として世界に連結された、この世界のキリスト教におけるすべての恵みを再び持ち込んで韓国で肉的基盤を連結させなければ、肉的に世界へ行く道がないのである。

 そのようなことを決定する大会がヨイド大会である。これは歴史的な行事であった。やって来た人々は自分たちの力でやって来たのではない。すべての霊界が動員されて、自分も知らずにやって来たのである。こうすることによって、韓国の歴史にない記録を作り出した。また世界の集会の歴史にない、記録を出したのである。このような事実は、国家を中心として、一つの基本に沿って超えていく時を意味している。そのため、その条件をもって私が米国に行って、三年目に入って、今年、非常に言論界が攻撃してきた。しかし、四月までには峠を越えるということを私は知っていたため、四月からは我々のほうが攻勢をとるのである。また有り難いことには、共産党たちの、「レバレンド・ムーンは洗脳している」という非難がすべて却下されたということである。

 その事実が法廷で問題となって、みな、刑を受けるようになり、向こうが完全に追われるようになったのである。米国の全言論界は、ニクソンの時から反対してきたし、「幹部たちが来て、アメリカ全体を追いまくる」と言って追い出そうとする。そこには狡猾なものがある。

 自分たちが今まで西欧文明を中心として、四〇〇年の歴史的伝統を立てて豊かに生活しているのにとんでもない人が現れて、若い人たちを集めていると訴えているのである。私たちから見ればそれは犠牲であるが、彼らから見れば訴え出る内容に見えるのである。しかし私たち食口の考えは、自分一人犠牲にして世界を生かすのが目的である。この世の人たちが見れば、自分自身の生活のためにでも八時間忠実に働いたりすれば、その人を褒めたりするが、私たちがこの世の人たちと同じようにしていたら、どうして国を救うことができようか。「それ以上やらなければならない」というのが理論的に成り立つのである。

 自分のために八時間働き得るそのような人たちよりも、私たちは他人のためにそれ以上しなければならない。人のために、世界のために、それ以上やらねばならないのである。これが我々の観点である。このような観点を彼らは理解できない。それゆえ、朝早く起きて、夜十二時、一時に帰ってくる。このようなことは、米国の社会から見れば、それこそ酷使である。これらのことを彼らは想像することができない。いくら研究しても研究しきれない。調べても分からない。(彼らは)共産党がアメリカを手に入れるために、レバレンド・ムーンを立てて、協助するのだと思っていた。それで、CIAを立てていくら調べても分からない。レバレンド・ムーンが勝共活動をしていなかったら大変なことになったであろう。勝共活動をして、韓国とアジアにおいて反共主義者としては第一人者である、という烙印が押されているため、それを無視することはできない。

 このように、今までに、私の所に夜来て、写真を撮っていったり、あらゆることをしてきたのである。ある時は尋ねて来て、捕まえようとしたこともあった。これはFBIの人々の仕業である。

 この前、金公使の所にCIAの責任者が尋ねて来て、聞いたことがあるそうだ。「本当にレバレンド・ムーンは、どういう人か分かりませんね。お金を使っているのを見ると、韓国政府がお金をくれる以外は、お金がどこから出るか分からない。共産党であるはずがないから、あなた方政府しか道がないのに不思議でならない。これはどうなっていることか」。その時、金公使の答えが非常に傑作だったのである。さあ!

 聞いてみなさい。

 「韓国大使館の費用が年間三〇〇万ドルである。これはあなたたちがよく知っている。しかしレバレンド・ムーンが使っているお金は、一年に何千万ドルである。そうだとしたらどのような主権国家が、自分の公式的な大使館をさておいて、個人を立ててその相手国を料理するために何十倍、何百倍の金を支援するか、そのような国があるだろうか」と。そう言ったら、「あ!

 分かりました」と。

 それゆえ、私に対して、非常な関心をもっているのである。だからあらゆることを問題視して、条件さえあれば引っ掛けようとするのであるが、思想的に見ても共産党でないし、宗教の立場からもキリスト教の立場で、私が指導的な立場であるし、いかなる条件にも引っ掛けようとしてもできないのである。

◆ヤンキー大会



 これはみな、神が時を合わせるための摂理である。これは、世界的な中心国家がアメリカであるために、霊的なキリスト教文化圏にいるにはいるけれど、我々が昨年三年路程において勝利の基盤を収め、霊的基盤のキリスト教と統一教会が連結された。このようなことを成したために、霊的な土台は、民主世界やキリスト教がどれほど騒いでも、主権は我々が握っているのである。その基盤の上に、韓国においての国家的基準、霊肉を中心とした実体的基準を立てたのが、三年路程における米国全土においての摂理であり、このような基準を立てるべく、七六年、七七年、七八年四月まで、私たちが四月から始めてその時までに、米国は必ず先生を中心として大混乱の渦の中に入る。そして問題は二年目から峠を下るようになることである。イエス様が十字架にかかるようになったのは、二年目の時から食い違って、逆になってしまったためである。しかし今日、(私たちは)二年から反対になって、さかのぼっていくのである。そのために七五年から七七年まで、この三年期間は何かというと、霊的な勝利の基盤の上に、世界的勝利の基準の上に、肉的な勝利の基盤を連結させる時なのである。それはヨイド大会において、霊肉を中心とした国家基準の勝利の条件を立てたためである。それゆえに可能なのである。

 私たちをいくら打ってきても、勝利できないというような、原理的な絶対なる権限を私は知っているため、気を大きくもって闘っているのである。それでヤンキー・スタジアムを中心として、大きな闘いが始まるのである。

 統一の群れは全部出てくる。中にはいろいろな人もいるでしょう。その過程の中においては、ワシントン大会まで、それがマジソン大会を中心として第二次戦であり、この基準さえ越えれば、次のワシントン大会が終わる日には歴史的な転換点になるのである。

 今、みな敵は落胆していて、「レバレンド・ムーンは何者か」とか言っている。自分たちが不利な立場に追われることが確かであるから、テロしようとするのである。パリの統一教会をテロしたのと同じように。そのような現象が、アメリカにおいても起こり得るのである。ベルベディアを爆撃するといって、消防署や警察を動員して、相談したりした。パリでのあの事件は、既成教会と共産党が野合してやったということを、ニューヨーク・タイムズが正式に報道したので、今は、共産党が背後にいるということを私たちが白昼に宣伝しても、アメリカの国民は反対できなくなってきた。

 このような有利な条件を中心として越えていくのである。そしてこの統一式を越えておけば、これからは個人より家庭より氏族、民族、国家、世界まで一つの統一の境界線(個人、家庭、氏族、民族、国家)が始まる。分かりましたか?

 今までそのような式は、なかったのです。全部がさかのぼっていく式はしたが、個人的に横的に、統一戦線を中心として、一つの分水嶺をつくる式はなかったのです。このような歴史的転換式を一九七六年に、統一教会が国家的蕩減の峠を越えて、世界的な恵みをかき集めて、することができたということは、これから統一教会は、永遠に勝利し得る決定的な次元へと越えていくということを、皆さんは知らなければなりません。

◆新しい時代



 年頭の辞において、思想を統一しなければならないと発表した。このようなことを土台として、教授アカデミーから、韓国の著名な人たちは、統一教会の統一思想が偉大であるということを、今や分かるようになってきた。そのため、思想武装をする教育を、内務部と情報部でやっていたが、結局は、彼らが一つとなって、私たちに依頼してきているのである。

 その成果が、教育を受けた九八パーセントが「この教育は挙国的な国民教育として展開しなければならない」と、このように見るとき、間違いなくこの国は、新しい思想を中心として武装しなければならないし、新しい次元を結成することのできる基盤をつくっていかなければならない、という結論になり、すべてが内外共に一致してくるのである。

 このような時であることを、皆さんは知ってください。これから何が始まるかというと、私たちの教会自体が、先生の家庭を中心として見ても、最後に行く道は原理の道しかない。今までは複雑な道を歩んできたが、原則的な基準を中心として、収拾していかなければならない。それで、今度は崔元福先生は連れてこなかった。今度からは、できるだけ家庭を中心として収拾する時である。内的、外的、家庭において、いろんな問題がある。子供たちを中心としていろんな教育問題等を解決しなければならない。今までは前線で闘ってきたが、これからは母が前線に立たなければならない時である。そして内外共に秩序をつけなければならない。今までは秩序を整えることができなかったのである。今までは場を定めることができなかった。なぜ、場を定めることができなかったのか?

 いくら一個人が場を定めたとしても、堕落しなかったアダムの場というのは、世界史的な場である。

 国家を越えて、この中に世界的基盤を定めることのできる蕩減条件を立てずには、個人の場を定めることができない。それが原理なのである。そのために、その意味からして、ただ場を定めようとしてもできない。世界史的な蕩減条件を立てなければならないために、そのような行事を今までやってきたのである。今ではその条件を立てたために、個人から場を定め始められ、家庭も位置づけられ、氏族を中心とし、民族を中心とし、世界を中心として位置づけられる段階へと行かなければならないのである。

◆統一式



 統一というのは何か、これまではカインがアベルを打ってきた。悪が善を攻撃してきたのであるが、今からはそのような時は去っていくのである。善が悪を打つが、悪は善を打つことはできない。これの交換する歴史的な日が、今日であることを皆さんは知らなければならない。それでこの式を統一式というのである。分かりましたか? (はい) 。

 統一教会の食口は、これからは、心と体を中心として見る時、いつも公的な思想の前においては、心の基準の前に、体は完全に一つにならなければならない。これが問題である。それがなされていないのである。心で願うその目的を中心として、体はいつも動揺することなく、一つにならなければならない。いかに難しい環境だとしても、その難しい環境を中心としての目標は、心と体を中心とした目標と変わりがない。先生はいくら悲惨な立場におかれたとしても、その悲惨な立場を克服して成してきたし、そのような思想をもって成してきたのである。そこには少しの動揺もなかった。

 それと同じく、皆様は、心を中心として神のみ旨、神の摂理世界、神の創造理想、そういったことを中心として、体はどんな犠牲を払ったとしても、一致化させるのに、喜んで甘受できるこのような人にならなければいけない。ここには讒訴はない。これに反する時、必ず病気になるか蕩減を受けるようになる。だから心を中心として体が一つにならなければならない。そのようにして一つになった男性と女性が家庭を中心として、家庭を中心とするというのは、男性女性が愛するのもその愛は創造理想を中心として愛さなければならない。男性(夫)を愛するとか、女性(妻)を愛するとかという愛は、どこに帰結されなければならないかといえば、自分たちだけの愛で帰結されるのではなく、創造理想の愛を中心として一つにならなければならない。

 創造理想の愛とは、神を中心とした愛なのである。これと一つにならなければならない。このようにして夫婦が一つになって、創造理想の愛をもって愛さなければならない。縦的愛の圏内に立体的な、横的な愛の圏内に縦的な愛が成立して、それで初めて真なる父母の立場が形成される。それから子女は分立しても分立し得ない立場に立つ。分立しては必ず、彼ら自らが蕩減を受けるようになる。そのために、父母を中心として必ず子女が一つにならなければならない。子女を中心としてカイン、アベルのように、兄はカイン的立場で弟を打ってきたのである。

 神を中心として、父母を中心として父母の前に孝行する、み旨の前に兄弟は一つになり得る教育をし、見本とならなければならない。そうするためには、父母たちが教育しなければならない。今まで子女たちは、学校で教育したのだけれども、これからは父母が教育しなければならない。父と母が一つとなって見本を見せることによって、子供たちは兄弟間においてもその見本にならって、男性はこう生きなければならないという、女性はこのように大切にしなければならないという、そのような伝統を立てて、新しい家庭をつくらなければならない。

 そのような家庭を中心として、すべての周り近所の見本になるし、自分の親戚全体の見本になる。そうすることによって一つの統一圏が始まるのである。なぜこうなるかといえば、内容を追求するようになれば、統一教会を信じ、神の創造理想的愛を中心として生活し、家庭をつくるからである。このようになれば、自然に近所の人々がその家に集まり、相談に来るようになり、そして親戚全体も何か事があれば、すべて相談しに集まってくるようになる。

◆すべてが一つになる。



 私たちはこのごろ超教派運動をしているが、牧師が原理の話を聞いて、自分も知らずに、心の中のすべてをほどくようになる。それと同じように、自然に一つの愛の圏が始まれば、自分のすべてが順応し、自分のすべてが順応化しようと思えば、自分のすべてをほどいておかなければならない。ほどいておくことによって一つになり得るので、我れ知らず、すべてを明らかにするのである。それは家庭を中心としてその周り近所、親戚たちが一つになり得ることができ、彼らの秘密を全部聞いて、それを解いてあげるのである。秘密を知って、秘密を中心として彼らを善の方向に指導する時、信頼されるようになる。

 このようにして、氏族、民族が一つになり得るのである。金さんだったら、金氏の氏族が一つになって金氏の氏族が良くなるというのは、民族が良くなることである。数多くの民族が一つにならなければならない。その民族というのは何かというと、横的な国であるから主権を代身する。必ず祖国的決着点をつくらなければならない。氏族と民族の祖国的決着点が何かといえば、主権なのである。これは神の身代わりを形成する。これは必ず神を代表した主権を中心として、一つの、神の国となる国を形成しなければならないのである。それがアダム、エバの行く道であった。堕落して世界的な蕩減を残してきたので、仕方なく、世界のある国が再び蕩減して結実させなければならない。私たちが蕩減の道を行くのに副作用が多く、ここに蕩減の行事が始まるのである。

 国家が息子の立場において一つになり得るそういう国家が始まるとしたらどうなるかといえば、国家の蕩減を全部受けるようになるのである。さらに北韓、共産主義というのが出てきたために、今韓国において二つの国が完全に一つになって、イスラエルの国家形態をもったとするならば、世界的な国家を支配することができる。なぜならば、共産主義の一線にいる国家、額を合わせて戦っている国家において、ここで共産主義を凌駕し得る主義が出たならば、それは世界的なものである。そのために、共産主義の嫌いな民主世界は、どんな国であろうともこの主義を、この国の思想を全部見習わなければならない。共産主義に対する一つの防波堤になっているからである。そうすることによって、サタンに対してまでも、「君(共産主義者)によって道を備えるのに助けになったので、許してあげよう」という条件が成立するのである。

 全民族、全人類、全主義を越えて、人類を救援しようとする神の国の摂理をうかがうことができる。統一教会だとして、私たちが勝共活動をしないで、統一教会のことばかりやれば何の問題もない。反共という理論をもって出てきたが、国家が共産党の脅威を受けているので、私たちが主導的な基盤を整えて行けば、国家と一つになることができるし、一方では共産主義が私たちに対して攻撃する。

◆勝利の時



 打ち倒したいのは政府ではなく、私なのである。こうなることによって国民は自然に結束されてくるのであり、主権も一つになるこの段階に入ってくるのである。私が、今年の四月まで一回り(韓国、日本、アメリカ)する時には、必ずアジア圏内までも拡大できる、良い時代になってくる。どんなことが起こるか見てみなくては。摂理的観点から見ると、四月までが一つの峠なのである。一次年度(機動隊の活動)は四月まで、我々の第二次の機動隊の活動は四月からである。一年が過ぎたら国家にもアジアにも変動が起こる。

 このような時代に、神の前に有終の美をなし、治めるために、このような式がどれほど重要であるかを知らなければならない。三十六家庭から、七十二家庭、一二〇家庭、これが一つのチームである。分家をおくことはできない。三十六家庭は歴史の歴代祖先をいい、そして七十二家庭は子供たち、息子、娘をいうのである。そして一二〇家庭は何かといえば、世界の国家、カイン圏をいい、十二支派をいうのである。世界的分派である。そうなると祖先とカイン、アベルが一つになり十二支派が一つになるのである。これが復帰歴史である。復帰歴史がどこにあるかといえば、父母が一つになってカイン、アベルの悪い息子たちを、本来の神の息子として娘として一つにならしめ、七十二家庭は三十六家庭のカイン、アベルの型である。だから一つにならなければならない。そうなったとしても、家庭が一つになったのであって、家庭が一つになったとしても世界的横的基盤がないのである。十二支派のようなものを世界へと広めたものが一二〇門徒なのである。七十二門徒、一二〇門徒、これは世界的な拡大型である。その基準を蕩減するのである。きょうはここに三十六家庭も七十二家庭も来ているが、三十六家庭は祖先であり七十二家庭はカイン、アベルの型であり、これが闘ったためにみ旨が一つにならなかった。だからこれが一つにならなければならない。七十二家庭は三十六家庭と一つにならなければならない。カイン、アベルの型である。祖先を中心としてカイン、アベルが一つになることは十二支派が一つになることである。

 イエスを中心として見ても七十二門徒が一つになり、イエスを中心として蕩減復帰して、十二支派の中で代表を立てて、そこで祖先を立て、七十二門徒、一二〇門徒を中心として初めて一つの条件を立てて越えていく。これができずして失敗したのである。蕩減条件においてこの三段階をつくって越えていくことができるのである。そのために、きょうここに一二〇家庭が出席するようになったのである。そして韓国において九カ地区はそれは世界の代表である。

 この地の代表である地区長たちは族長を代表したのである。九カ地区というのは国であり、国と世界の代表、この地の代表であり、地区長というのは族長のようなものであり、そのためにこのような一つの形態が、この場、韓国の一角ベランダでの式であり、韓国の本部の二階でする式であるが、その意味は世界的な式である。個人から家庭、氏族、民族、国家、世界まで境界線がある。

 今まで家庭だとしても境界線が見えなかったが、これからは直線上になされなければならない。それが直線上になされる時、私たちは勝利的になるであろう。そのような意義をもった式であり、統一教会において最も貴重な式なのである。

 このたび、本当は孝進様と誉進様を連れて式をしようとしたが、学校があって仕方なく、権進様とやって来た。

◆子女様の運勢



 孝進というのは、孝行することによって祝福家庭が勝利するのである。興進の「興」はさかえ、顕進の「顕」はあらわれるという意味である。祝福を受けて初めてあらわれるという。国進様はどこで現れるかといえば国に現れる。国進様はそのような責任がある。権進様は国に現れて権勢をもたらし、統一教会の権進様は、権勢をもたらしてくれる。

 そのために生まれてからみな、それぞれ違うのである。生まれて十七日ぶりに笑ったりして、みんな他の人と違う。抱くようになれば、普通の子供たちは喜ぶが絶対にそうしない。抱き始めたらずーっと抱かねばならない。すべてが違う。それが非常に不思議である。そのように賢い。そのように統一教会は権進様と共に押し進めていくのである。摂理史的なことが名前と共に一致するために、その名前が権進というのであり、権進様が米国で出生されたから米国を代表するのであり、アメリカの市民権をもっているために、アメリカを代表した立場であり、これが全部韓国に連結されるのである。それでこのたび権進様を連れてきたのである。

 そして、家庭において、社会、国において一つになり得る、一致し得る、統一の群れであり、統一の国と統一の世界と一つの目的を中心として、変わりない皆さんにならなくては、これからは蕩減を受けるであろう。

 皆さんが蕩減を受けるには三段階がある。物質的に苦しいとか、子供が病気をするとか、あるいは自分が病気になるとか、これが蕩減法である。旧約時代は供え物で蕩減をした。新約時代においては子女でもって蕩減した。息子、娘、子女を通して蕩減したし、成約時代においては父母を通して蕩減した。そのような現象からである。だから皆さんの体を打ったり物質的な苦労を受けたりする。家庭をみ旨に合わさなければならない、そうでなければ、子供たちが蕩減するのである。それでも聞かない時には打ってくる。その時、悔い改めなかったら、打たれるのである。蘇生、長成、完成級において悔い改めないで打たれたら、それは最後である。蕩減法がこのようになっている。

 それを知って、皆さんは心と体が一つになって、家庭が一つになり、教会、国、世界が一つになり、個人を犠牲にしても家庭が一つになることが天倫である。善なる道理が行く道である。家庭を犠牲にしても親戚を救おうとすれば、親戚を救う道に行かなければならない。今までと違うのである。

 国家を犠牲にしても自分がよければいいし、親戚を犠牲にしても自分がよければいいし、妻を犠牲にしても夫がよければいいし、そういうこととは全く反対なのである。私を犠牲にしても夫を生かさなければならないし、家庭のために夫婦が犠牲になり、私たちは氏族のために犠牲になり、氏族は民族のために、民族は国家、国家は世界のために犠牲になる。そのために、韓国がこれから神の国の祝福を受ける国になるには、世界の国家の息子の立場に立って世界のために犠牲になる伝統を立てるようにする。そうなれば永遠に滅びないのである。今までとは全く反対である。今、すべての国家は、自分の国を中心として、アメリカであろうがあらゆる国を利用しているのである。今までと反対でしょう?

 これから神の国は反対なのである。いかなる国が犠牲になった以上に、世界の幸福のために神の国のために、どんな反対があったとしても神が願う世界のためには、その国を犠牲にさせる。世界国家のために犠牲にすることによって、結局指導的国家にしようというのである。それでもって歴史的な伝統と業績を残す。どのような実績を残すかといえば、犠牲精神による実績のみが、今日堕落した世界においては、よき実績だけが残るのである。

 そうじゃないか?

 そうでしょう。そのような人々が聖人であり、そのような人々が歴史的人物、中心として、功労者として残されてきたのである。そのための犠牲というのは、そこには一理がある。必ず、犠牲になることによって人のために与えるということは何かといえば、再創造するのに神様自体を消耗させる、そのような立場と一致するのである。私を投入するということは、第二の自分をつくるためのものであり、神様が自分を投入して再創造したと同じように、再創造の歴史が復帰路程において蕩減されるのである。蕩減は再創造の力を投入するところにおいてのみ、始まる。再創造の歴史が始まるには、やむを得ないという結論である。結論は理論的に出る。先生自身もそうなのである。

◆犠牲の道は公式路程



 韓国の統一教会の文先生が来ると、韓国のお金をかき集めて、韓国を犠牲にさせてアメリカに持っていく。アメリカはお金持ちで豊かな国であるけれども、韓国と日本を犠牲にしてアメリカを救うというのは、再創造の歴史である。そしてすべてを投入するのである。真に私がすべてを投入したのである。神がアダム、エバを創造してすべてを投入したのであり、そこには天使長も投入したのであり、万物も投入し、自分の精神すべてを投入したのである。全体を投入するのが再創造である。

 そのために韓国が、神の前に全体を投入して、行く道を開くのである。そのような国は決して滅びないであろう。必ず味方する国があって、韓国が祝福を受け、栄えるようになるため、その国が行く道をみんなついてくるようになる。そのために復帰の道、統一の原則は蕩減路程においてのみあるのである。自分を犠牲せずしてはなされないのである。そうするためには心と体を中心として、たとえ体を中心として心が犠牲になったとしても、いかにしてでも心と一つにさせる努力をしなければならない。体に苦痛があったとしても、心を慰めながら苦難を乗り越えて、行かなければならないのである。その公式と原理は一致するのである。個人、家庭を中心として氏族、民族、国家、世界、また霊界と地上世界もやはり同じである。この道を行くための公式的な路程が原理である。個人は家庭のため、家庭は氏族、氏族は民族、民族は国家、国家は世界のために、世界は天と地のために、天と地は神のために、そうすることによって神が精誠を尽くした実を収めることができる。これが理論的になっている。そのため、神の道はこのようである。それでは、主人は誰になるか、種を蒔いて収穫する人が主人になる。主人は一人である。霊界がそれと同じである。秋に、豊年になって収める時喜ぶのは種を蒔いた人である。天倫がこうなっている。そうするためには精誠をもって蒔き、精誠をもって収めなければならない。

 これが一つの完成を成す土台となる。これが原理である。創造理想というのは、神が真心で植えた理想を真心で収めなければならない。それが創造の理想、原理である。世界的に収める。それが創造理想完成である。

 皆さんが統一というのは、皆さん自身がその分野まで自分自身がやっているかを自ら問う必要がある。自分自身がよく知っている。知らないといったらうそになる。自分が本物であるかどうか知っている。知っているために発展するのである。知らなかったら発展することができない。良心がすべてを知っている。今、自分たちの夫婦が本当に原理の立場に立てっている夫婦なのかどうか、夫も知っているし、妻も知っている。また父母が子女に責任を追求する時、原理的に主管しているかどうかをみな知っている。そして、その家庭が氏族を代表して責任を果たしているかどうかみな知っている。知っているがゆえに実践することができる。実践することによって神の恵みを受けることができると、みんな教えてくれるのと同じである。教えてあげたにもかかわらず実践できなかったら責任を追求される。それが天法である。良心というのがあって皆さんが知らないという時には、霊界において教えてくれるのである。

◆努力すれば発展



 このような過程を経て、家庭、教会、国、世界、霊界が一つになるこのような道が、今まで開かれなかったのである。個人がいくら完成しても、家庭がいくら完成しても、世界の基準が開かれるまでは保留される。それが霊界の立場である。その家庭がいくら忠誠を尽くし、精誠を尽くしたとしても氏族、民族、国家を通して世界史的な立場において道が開かなかったため、個人の完成した立場において、その道は保留されたのである。霊界において理想的生活ができないというのはそのためである。理想的生活ができないという結論が、そこから出るのである。

 今日の歴史において、統一教会に入って我々のこの神を通して、個人から家庭から氏族、民族、国家、世界に行ける道を開いておいたために、皆さんが努力さえすれば飛躍的な発展をなせる時である。何の話か分かりましたか。

 全部がよくしなければ、いくら忠誠を尽くしたとしても、何カ年、何万年忠誠を尽くして待ったとしてもこの道が残っているために、避けて行こうとしても行けない。歴史は蕩減路程が残されており、自分の一生、七十、八十年においてこれをどうすることもできないのである。それが霊界に行って、後輩に再び再臨して再蕩減しなければならない。そのためにこれからどんなことが起こるかといえば、すべての善なる霊が昼夜、自分たちの後孫を追い立てる時が来る。そういうような結論が出る。そうでしょう。霊界においては黙っていないのである。

 霊界自体が変わる時には、自分たちの後孫たちを追い立てるとき、後孫たちが統一教会に来ない時には病をしたり、このごろアメリカにおいてもそのような現象が起こってきているのである。団体が追われるようになる。心霊的業をなして先祖たちが教えてくれる。このようなことが起きるのである。先祖たちが総動員して、あらゆることをして追い立てる。そのような時である。そのために論山ハルモニが祖先の解放をするのであり、祖先が行ける道を開いておくのである。祖先の道を開いておかないと。万代の祖先の解怨をしてあげて、このような式典をすることによって、この式典などを通してその土台を整えるというそのような意味があるのである。これから祖先たちが再臨する道を開いてくれるのである。そのようなおばあさんを通して業を成すのである。何の話か分かりますか。幹部たちは理解できないでやるが、祖先を解放するのである。昨年の五月一日を期して、総解怨式をやり、サタンまでも解怨した。あなたたちも全部飛躍しなさい。

◆原理で収拾

 今年に入ってこのような式をするということは、歴史的な事件である。これから仏教だったら仏教も、全部飛躍する時が時た。摂理の中にあった宗教が追われるようになるのである。そのような時なのである。これからは、霊的な原理を知らずしては、霊界の混乱を収拾する道がない。そのような時が来る。霊的な世界と接近する時である。そのために皆さんが統一される直接的な期間に立たなければ、霊界が打つ。今からはどのようなことが起きるかといえば、善なる霊界は善なる天使長圏であり、アダム圏が生じ堕落して後孫のアダム圏が生じ、たのである。このように、神と天使長とアダムが一つになったことになる。そのためにサタン世界がないのと等しいのである。

 エデンの園では元来、神とアダムとは統一された世界であった。これは何のことかといえば、善なる霊界と統一教会と一つになったのである。一つになったというのは、神様と天使長とアダムと一つになったのと同じである。ほかのは自滅しないために服従しなければならない。カイン世界だからである。カインが屈服することによって生きることができるのである。そのような時が来たのである。個人から、家庭から、世界まで全部神と天と結びつく条件を立てておいたために、事実上、飛躍的に統一教会が発展する条件を立てることになった。神の世界がそのような方向と一致することができることを私たちは知る。そのようなことを皆さんが知って生活する時、その生活も、個人の自分たちの生活ではなく、必ず、世界のために国家のために、一銭でも献金して努力しなければならない。こうなるのである。特に三十六家庭は、公職にいる人たちは、絶対に私的な生活をしてはいけない。お金を使う時も私的に使ってはならない。公的な神のみ旨に使うのであれば神に引っかからないが、私的なことに使えば、蕩減を受けるようになるのである。

◆統一の原則



 この原則を皆さんが知って、韓国の三十六家庭から七十二家庭、一二〇家庭は一つにならなければならない。七十二家庭が三十六家庭を評したり、七十二家庭がどうだとか、一二〇家庭が何だとか言ってはならない。いくら七十二家庭がよくやったとしても、三十六家庭に対してよくやった基準を見なかったら、その人たちを表彰することができない。褒めることができない。いくら一二〇家庭がよくしたとしても、七十二家庭に対してよくやった基準を見なかったら、それを祝福することができない。それが統一の原則である。そのために三つが一つにならなければならない。

 三十六家庭は人類歴史の、堕落した人類の先祖たちの復活であり、七十二家庭はその先祖たちの子女たちが復活したものであり、そして一二〇家庭は、世界の人たちが復活したものである。だからこれが一つになれば、結局は家庭と子女と世界が一つになるのである。そのために一二〇家庭まで責任をもつのである。こうなるのである。分かりましたか?

 だからこれからの思考方式がそうなる。一つの世界を中心として、世界を救うためには国を、国を救うためには私の一族、文氏の氏族を動員して韓国の民族を救わなければならないし、また私の家庭を中心として見る時、氏族を救わなければならない。そこから、氏族的メシヤという言葉が出る。氏族的なメシヤになるためには民族的メシヤを整えなければならないし、民族的メシヤ圏に代わり得る時、国家圏に上っていくことができる。氏族的な基準が始まれば、民族的基準と連結され得る原則を整えて、民族的な基準に上っていく。蕩減復帰路程がそうである。そのために主体と対象が一つになってこそ神が臨むことができる。そうでしょう。

 主体と対象が一つになるには必ず中心が立たなければならない。必ず神が臨在されるのである。主体と対象が受けて授けるところにおいては必ず中心がなければならない。そこに神が臨在される。主体と対象が授受すればそこに運動をなし、運動するところには一つの中心点、永遠に一つの所にある、中心点を求めるのである。主体と対象が完全に一つになって受け授けなければ、神の前に相対的な条件を立てることができない。それでは神と関係がないのである。

 夫婦が一つになるというのは神を中心として、また、父母と子供が一つになるというのも神を中心として、父子の因縁を結ぶのであり、そのような観点から見ると、皆さんは漠然とした生活をしているのである。実質的な生活をしなければならない。実質的な生活の中においてそのような関係を結ぶ心の姿勢を、そのような生活的姿勢をつくって、結実的な何かを成していかなければならない。これが献金の制度である。今までは十一条であったがこれからは七条になる。

 こういうものを中心として、原理と一致した生活をしなければならないのである。














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22_新しい宇宙的な春は永遠に繁栄する

  • 文明の春夏秋冬
  • 冬に成長し続ける常緑の小枝
  • 私たちを変えた神秘的な力
  • 永遠に繁栄する宇宙的春の文明
  • 春は愛を携えて
  • 御旨と世界

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    新しい宇宙的な春は永遠に繁栄する



    1976年4月18日 ニューヨーク

     

    文明の春夏秋冬

    春が来た。植物も草も木も昆虫も鳥も動物も春を歓迎している。春が来ると、何が起こるだろうか。自然においては、あらゆるものが躍動するだろう。春は愛の季節である。鳥は早朝の愛の歌をさえずっている。神もまた、愛の歌、春の歌を歌うことができる春を探し求めている。生命と繁栄の印が自然にある。すべてのものがメロディーの中にある。創造主と被造物は同一である。したがって、神もまた春のために歌う用意をしている。が神は春の歌を歌う位置にあるだろうか。

     一日は、四つの季節に分けることができる。朝は春を表現し、昼は夏を、夕方は秋を、夜は冬を表現してる。人類の歴史も、また同じ季節的な道をたどっている。人類の歴史は、人間の堕落に起因する悲しみの春から出発した。次いで、エジプトや中国の熱帯文明を伴った、悲しみの夏へと移行した。次に、文明は英国や米国や日本等の国々が栄え、亜熱帯領域へと移動した。これらの近代の文明は、人間の歴史の秋に相当する。秋は収穫の季節である。

     寒い季節――文明の冬が近づきつつある。それは、ソ連を中心とする共産主義の脅威である。打ち震え、凍りついた文明の中で、根と種をもった木だけが残る。寒い文明の中で生き残ることのできるのは、生命の力を内部に宿し、種としての生命の源をもっているものだけである。我々は根をもたねばならぬ。それは神である。根をもった人間は、寒い文明を生き残ことができる。エネルギーをもっている種子は、生き残る。種子はそれ自身の中に、根と枝をもっている。この胚芽は生命の小宇宙である。

    冬に成長し続ける常緑の小枝

     もしあなた方が、季節的歴史の計画を本当に理解するならば、冬がその終わりでないことを期待しなくてはならない。新しい春が来るだろう。神は歴史の方向を知っているので、春のための人々を準備するのに、先駆者を世界に送るだろう。神は長時間にわたって、樹を育て続けている。

     宗教は麻痺状態の崩壊と、破滅の方に向かっている。それは、あらかじめ定められた目的に沿うものではない。民主主義の危機は、キリスト教の危機によって代表されている。神は常緑の木を望んでいる。根は神である。しかし、今日の宗教の幹は麻痺している。新しい生命の印が、そこから生じなければならない。あらゆる寒い天候にもかかわらず、新しい印がなければならない。

     もし新しい春が、宇宙的レベルに達した時、誰がそれを歓迎するであろうか。それはひからびた枝や幹ではなく、その小さな生命の印であり、その小さな小枝である。根から生じた小さな枝は常緑であり、冬の間でも成長し続ける。枝は小さいけれども、神なる根に結合している。

     神は、宇宙的な春の用意をしようと試みられている。春のために、王子と王女を育てている。春が生命をもってくる準備ができた時、神は腐った枝や幹を切り離してしまう。そして根によってもたらされる、すべてのエネルギーは常緑の枝に費される。切断はすべての水準、例えば家庭、民族、国家で起こる。しかし、一方、この枝はすべてのレベルに調和をもたらしている。統一教会はまだ小さな枝のようであるが、しかし家庭的なレベルより、国家的レベルへ成長してきている。今や、それは世界的なレベルへと動きつつある。一度、我々が世界的なレベルを越えたならば、宇宙的春が待機しているのが分かる。春が来た時、雰囲気が自動的に変化するだろう。寒いシベリアの気候にも死に絶えるだろう。

     今日、共産主義はそれ自身に、大きな亀裂がある。初期の理想的な国際的共産主義は既に崩壊して、国粋主義となっている。サタンの樹もまた成長している。しかし、その葉は落ちつつあり、その枝は倒れつつある。共産主義の黄金時代は終わった。

     転機はいつ起こるであろうか?

     年は一九七六年で、日は六月一日である。一度、我々がヤンキー・スタジアムで際立った記録を達成するならば、自由世界は宇宙的な春に入って、繁栄のための努力をするであろう。我々は、世界中の尊敬と信頼を受けるであろう。神は非常に強力なので、すぐに偉大な樹をもって来るだろう。この常緑樹は、シベリヤの風で固くされているので、春が来た時、早く成長する。我々が自由世界に春をもたらす時、その同じ春が共産主義の冷たい文明に、暖かい気候を与えるだろう。

    私たちを変えた神秘的な力

     どこを見ても、世界は希望をもっていない。しかし、種子が新しい生命を与えるという希望がある。あなた方は、冷たい気候により固くされている。しかし、内側に燃えている火――生命の印がある。春の温度は殻を破ることができる。その結果、常緑樹は新しい葉を出すだろう。

     神が望んでこられた文明は、まだ花咲いていない。御存じのように、神は歴史の喜びを十分に味わっていない。さらに、過去の宗教を中心にした過去の文明は、国の限界を越えることができなかった。したがって、新しい常緑樹は国際的水準で始まらなければならない。また、過去の宗教は、皮膚の色の障害を乗り越えることができなかった。しかし、神は色盲であることを、我々は知っている。

     共産主義は、唯物論を越えることができなかった。他方、宗教は精神界に中心をおき、物質界にあまり価値をおいていなかった。それらは、両方とも一方的であった。しかし、統一教会は、今宇宙を掌握している。いかに我々がはるかに異なっているか、考えてみよう。他の者は、その恵みを受け取るために、神を礼拝する。我々は神を自由にしようとしているのである。これが真理であるということを知ったなら、これ以上良い、これ以上高い、そしてこれ以上偉大なものは他にない。

     あなたは、古い自我と比較すると、精神的にも道徳的にも、新しい人間である。あなたの顔は変わらないが、その思想や心は変化してしまっている。それは見ることができないが、あなたの思想を広げた、その神秘的な力は破壊することができない。あなた方は、非常に力に満ちあふれた男性と女性になっている。我々は完全性に関する公式をもっている。あなた方は、その公式を応用し、拡張しさえすればよい。二十年前、教会の構成員は個人的な水準で働いていた。今や、教会の活動は同じであり、公式も同じである。しかし、領域が拡大してきた。

    永遠に繁栄する宇宙的春の文明

     アメリカ人は誇り高き人間である。しかし、今やこれらの誇り高きアメリカ人は失われた。彼らは無目的である。もしアメリカ人が、新しい希望を見いだすなら、残りの世界は従うことができる。

     ヤンキー・スタジアムは巨大な岩を、巨大な湖に落としたようなものである。大きな衝撃が中央でできると、波はふちに向かって動く。我々の衝撃は、全世界で感じられるだろう。共産国世界でも同様である。神は、その波が動くかどうかを見て、我々を試している。だから三月には、我々に反対する否定的な嵐があった。神は、フランスの爆弾事件のような否定的事件を(通して)、耐えるに十分強いかどうかを見ようと望んでおられる。私は、あなた方が胆力をもつことを望む。

     私は一二〇カ国に使節団を派遣した時、私は彼らに、「あなた方は天の種である。あなたがたは広がらなければならない。そして、繁栄しなければならない。その種子は根を成長させる。そして、根は大地を貫き、そして成長する。彼らは胆力と確信をもっている」と言った。

     神はひそかに、宇宙的な巨大な春を用意している。そのために、冷たい気候から飛び出た、一つのグループを用意している。そのグループは生き残ることができるし、新しい文明を世界にもたらすことができる。古代や亜熱帯や共産主義の文明は、判決を下されている。新しい宇宙的な春の文明が来て、永遠に繁栄するであろう。

     我々は冬の間、悩んできた。しかし、時が来た。今や春が我々の上に、ほほえみかけている。一九八一年までには、宇宙的な夏が来るだろう。我々が宇宙的な夏に入っていく時、すべての自然は、常緑樹で覆われるだろう。あなた方は、その宇宙的な春の歓迎者となることを望んでいますか?

     あなた方の笑いは非常に大きいので、歴史に前例のない喜びを含んでいる。あなた方は、世界の端から端まで笑うので、神も大笑いをするでしょう。その時、神と人間はお互いに抱き締め合うだろう。太陽の下のすべてのものは、春の歌を歌う。自然も、草も、樹々も、昆虫も、鳥も。

     

    春は愛を携えて

     春は、愛が私たちを訪れることを意味している。なぜ愛の力が不滅なのであろうか。なぜなら、それは二つのものを一つにする。愛は生命を生み出す。愛の力は非常に強く、かつ熱いので、宇宙を溶かすことができる。その愛の力は、地球に花咲く春をもたらすだろう。

     国や、皮膚の色の境界を越えて我々は、愛の神が主管しておられる宇宙的な春を迎えるために、前進するであろう。宇宙的な春は必ず来る。我々は、その春の先駆者として、神に選ばれたのである。我々は、ヤンキー・スタジアムに向かって、春を宣言するために行進する。どんなに喜ばしいことであろう。

     ニューヨークは絶望の都市である。我々はニューヨークに復活をもたらさなくてはならない。我々は春のための雰囲気を創造する。ヤンキー・スタジアムは、全宇宙に対する春の歓迎宴となるだろう。我々は、最も際立った春のための歓迎宴をもつことができるだろうか?

     春はすべての場所を訪れる。あなた方は、ニューヨークのそれぞれの通りや、それぞれの家を訪問しなくてはいけない。我々はあらゆる場所に、それぞれの細道、それぞれの街角で、春の印を示さなければならない。あなた方の手を挙げなさい。本当に春の先触れになることを望んでいる人々よ!













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    23_摂理的歴史の光の中にあって

     御旨と世界
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    摂理的歴史の光の中にあって


    1977年2月23日



    ニューヨーク ワールド・ミッション・センター

    ◆人間としての誇り



     きょうは、皆様も御存知のように、私の誕生日です。私のきょうのメッセージは、「摂理的歴史の光の中にあって」です。

     原理によって私達は、アダムとエバの堕落が人類歴史の行く道を決定したことを知りました。堕落していなければ彼ら自身、全人類と宇宙を伴って完成したはずでした。アダムとエバの完成、そして地上における神の下にある彼らの家庭の完成と繁殖は、神の最初の計画でした。最初の国家ができ、それを繁殖し、ついには、すべての国家が神に仕える世界が築かれるはずでした。

     アダムの一族が唯一の民族、すなわちアダム民族となり、一つの国家、アダム国家ができ、そして全世界が、アダム民族によって満ちあふれる世界となるべきでした。さらに全宇宙の中心は、神でありアダムとエバとなる予定でした。

     神は、宇宙のすべての生き物の中心なので、私たちの毎日の生活は神を中心としております。すべての伝統的生活の方法も、神に根源を発するべきでした。全歴史、伝統、習慣は、神に端を発したものとなるはずでした。そしてそれらは、すべて神の愛を根底とし、神の愛につながったものとなるはずでした。完成された世界は、神の愛から離れることのできない世界となっていたことでしょう。どんなに神の愛から離れようと努力してみても、離れることのできない世界であったでしょう。

     この地上において人間には、親から離れると寂しく、会いたいと願う傾向があり、特性があります。とくに、幼なければ幼いほどそうです。二、三日も両親から離れていると、すぐに会いたくなります。この人間の性質は、人類の本性から来たものです。ですから、この切っても切れない関係は、維持できるのです。この関係が壊れた時、人間は、神なくして孤独に耐えることができません。

     もし、人間に誇りうるものがあるとすれば、それは何でしょうか。完成された世界における人間としての最高の誇りは、神を自らの父親として所有することです。神が、自分の父であることを、皆さんは、知らないのですか。

     次に最高の誇りであるのは、神の愛を所有することです。神の愛の独占権を持つことです。完成された世界において、三番目に誇りうることは、神の持っている物を、すべて相続するということです。神の持っているものすべてが、私のものとなるのです。この世には、多くの社会的地位があり、多くの人が「私の父は、博士号を持っています「私の父は、医者です。」とか「私の父は、スウェーデン王朝の出身です。」とか言って誇っております。しかし、考えてみて下さい。皆さんは、「私の父は、神です。」と言えるのです。

     多くの人々は、自分が有名人の息子であることを誇りにしていますが、しかし父親とは何の愛情の関係も持っていない人が多いのです。しかし皆さんが、神は私の父です、と言うことは、すでに皆さんが、天の父と愛のきずなを持っているということなのです。

     あなたが、天の父の子だとしましょう。するとすべての召使いは、あなたがその家の主人になるということがわかります。もしあなたが、神の子であるとすれば、あなたがすべての創造物の主人となるであろうということを全天使たちは、知っておりますから、彼らは、あなたを敬まわなければなりません。神は、神自身を父とし、人類を息子とした歴史を予定しました。神の家庭、神の歴史と文化は、千年、万年とそれは続ちたでしょう。それは、神の最初の願いでした。人間の野心と希望は、どこに根源を発しているのでしょうか。

     人間の最高の誇りとは、何でしょうか。ここで私達は、人間の第一番目の最高の願いは、神の息子、娘となることであるという結論に達します。第二には、神の愛を所有すること、そして第三には、神の国を相続し、神のもっているもののすべてを相続することです。

     人類にとって、これ以上大きな希望はありません。それでは、人類の希望と願いとは何でしょうか。第一に神の息子、娘となること、第二には、神の愛を所有すること、第三に、この地上を受け継ぐことです。神の息子、娘となるには、どうすべきでしょうか。

     

    ◆善悪の判断



     もし、堕落がなったとしよう。あなたが生まれる時、あなたは、どうして生まれてきたでしょう。自動的に、神の息子として生まれてきたことでしょう。それでは、堕落とは、何でしたか。それは、人間が、神から離れたことです。その堕落とは一体何でしょうか。その不倫な愛から、堕落した国家が始まりました。

     神の下にあって一つとなる代りに、天使長は、神の立場に立って、アダムとエバを奪い取り、自分の僕として主管してしまいました。それ以来、全人類は、神の血統ではなく、サタン直接の血統を受け継いで、生まれてきたのです。この堕落が、現実となった今、私たちが、いくら神を父と呼んでも、無意味なものとなってしまったのです。

     この堕落世界では、利己主義と自己中心がすべての中心となっています。私たち人間は、すべてを無視し、神御自身までも無視しようとしています。なぜなら、私たちの主人は、神ではなくサタンだからです。サタンが、私たちの主人なのです。堕落の後、人間の中に柔盾が生じてきました。家庭での闘争が、歴史上で繰り返されてきました。サタン文化の中にある堕落人間は、分裂と分離をくりかえして発展してきました。神の歴史は、統一と調和の歴史であり、サタンの歴史は分裂の歴史であります。

     しかしながら、堕落世界においても全人類は、元の中心である神に帰りたいという願いを内蔵していま。このために、人類は周囲のサタン的状況から、救わなければなりません。原点へ帰ろうとする人は、壮烈な持いをしながら生きるでしょう。壮その人は、サタン世界の中にあって、厳しい戦いを通過しなければなりません。

     人類歴史は、お互を引っぱりあっている網引に描写されます。この闘争は、個人から始まり、家庭、国家へと拡大してきました。原点を見つける戦いが、人類歴史でした。人類の戦争歴史は、家庭、国家、世界に至るすべての段階においての善と悪との闘争歴史なのです。各家庭に各々の厳しい戦いがありますが、しかしどのような戦争であろうと、すべての段階において、神側の勝利者は、神の領域を拡大してきました。

     戦争においては、多くの殺人と破壊がなされます。善悪の両方の側とも、破壊と混乱をまぬがれません。どちらが善く、どちらが悪いかを、どう判断したらいいのでしょうか。悪の印は、攻撃することです。攻撃をしかけた方が、悪となります。

     教室の中で二人の男の子が、顔中血だらけにして、猛烈なけんかをしていました。先生のところへ行くと、まず先生はや「どちらが、最初に始めたのですか。」と聞きます。教師は、大体いつでも攻撃するものより、攻撃された者の味方となります。そうですね。

     たとえば、ここに一つの学級があるとします。その中の一人の男の子はとても乱暴者でした。いつもクラスで問題を起こしていました。ある日彼は、とても静かにしていましたので、それを変えようと、誰かがいたずらをしかけました。その日彼は、どういうわけか、先生の同情を得ることができました。突然、誰かが彼を襲ったのです。彼が、どんなに乱暴者であろうと、その日彼は、同情を得ました。悪はいつつもイニシャチブを取ります。最初に攻撃してきます。

     しかし戦争歴史において、先生に攻撃して来た者は、最後には、滅んでいます。何故なら、先生とか神、敗北者の味方であり、攻撃された者の味方だからです。何故でしょう。最初に攻撃してきた者はなぜ悪なのでしょうか。

     

    ◆歴史発展のパターン



     人類の歴史を、考えてみて下さい。これは堕落の悪い部分です。神、アダムとエバは、外部から攻撃される立場でした。これは悪の本性です。攻撃者は、文句をつけて破壊します。攻撃者が損害を賠賞し、復旧させるだけでなく、多額の代価を払って罪の償いをしなければなやないことは、宇宙の法則です。その法則を知っておられる神が、最初に攻撃の手導権を握ると思いますか。神は、攻撃することもなく、先導権を取ったこともあります。

     そういう神にある人はこういうでしょう。「神様、あなたは、攻撃しないなんて善良すぎます。あなたに代ってが攻めましょう。」このような人は、神の民と言えますか。神の民は、決して先頭をきって攻撃することはありません。神の民はいつも攻撃されてきましたが、進み続け決してあきらめず、とどまらず、ゴールを目指して歩みけています。攻撃されながら、どうして勝利を治めることができるのでしょうか。サタン者は、損害を賠償し罪を償うのが天宙の法則です。あはな方は、忍耐し、個人、家庭、世界のレベルに至るまで、生きのびていかなければなりません。そして最後に勝利し、悪側は、蕩減を払い罪を償わなければならないのです。たとえ全世界が、あなたを攻めようとも善なる目標を持って耐えていく限り最後には、生き残り勝利します。そして全宇宙が、あなたのよのとなります。これ以上、拡げようのない程の天宙を所有します。サタンには、攻撃する者の王です。

     それでは、神はどのような御方でしょうか。神は、信頼の主であり頼みの網です。わかりますか。攻撃者が、善を全滅させるなら神は、善側の人数と力を増し加えて、人類が勝利できるように導かれるでしょう。悪人が、善人を攻撃して倒れてしまうと、神は、もう一人のもっとも強い善人を立てて、悪を滅ぼそうとなさいます。すべての段階の悪が、滅ぼされるでしょう。

     神は、決してあきらめません。善と悪との激しい戦いで、善が打ち倒されたとします。しかしそれで終わりではありません。神は、決してあきらめないからです。善と悪との闘いは、そこで終わるのではありません。結局の所神は、絶対的擁護者です。神が生きておられる限り、善が滅びることはありません。神の目から見れば、その戦いは、始まってさえいないのです。神は、いつも善悪の戦いを延長してきました。

     神が、復帰歴史を延長してきたことを、原理は教えています。神には、それができるのです。ここに最終的な歴史の公式、パターンがあります。それはサタンは、いつも神側を攻めそして敗北するが、神側は、いつも攻撃されながらも勝利するということです。歴史の中に、いくつかの例を見ることができます。第一次世界大戦を例にとりましょう。誰が最初に、この戦争を起こしたのでしょうか。ドイツですドイツは、この戦争で勝利しましたか、どうして、敗北したのでしょう。これが原理です。ドイツは、自分が敗北すると思いましたか。勝つと思っていました。しかし、天の法則を破ることはできません。

     それでは第二次世界大戦は、どこが勝利したでしょう。日本ですか。日本は、戦争に負けると思ていましたか。絶対に勝つと決めていましたね。だから戦争を起こしたのです。しかし勝ちましたか。彼らも、天の法則を破ることはできませんでした。天の法則を犯したことは、最大の審きとなったのです。

     現在この世界はは、民主主義側と共産主義側の二つの勢力が、対立しています。どちらが戦争屋で、どちらが主導権を握っていますか。それでは、原理と天の法則から見た場合、どちらが勝利者となるでしょう。共産側ですか。どれだけ、その勢力を拡大できるか興味深いところです。共産側は、世界の三分の二以上はできないということを知っておいてほしいと思います。

     第一次、第二次世界大戦において、最初の三分の二は、攻撃側が勝利していました。彼らは、絶対に勝利しつつあると思っていました。第二次世界大戦を見てみましょう。ドイツは、フランスを占領し、さらにヨーロッパを占領し、日本は真珠港と米軍基地をサタンし、一時は太平洋全域を占拠しました。しかし、最後の三分の一をサタンは取ることができませんでした。どうしてでしょう。なぜなら、人類歴史において堕落は、三分の二の段階において生じました。ですからサタンは、完成期である残りの三分の一を奪うことはできないのです。これが全人類歴史の発展の公式です。

     

    ◆新しい宗教運動



     歴史を通して、いつも同じ目的を持った、理解できない、おかしな団体が現われてきました。それは宗教団体です。神を目標とし、神とともにある宗教者は、人類歴史、国境、文化的背景をのりこえることができます。そのような人々は、始末に困るのです。

     すべての政府が、そのような団体は取り扱いにくいと言っています。何物も、彼らを妨げることができず、死さえ恐れません。政府は、いつもその団体の勢力が大きくならないうちに、それを吸収しようとしますが、死さえ恐れない彼らの前には、到底、不可能なことなのです。

     その団体が、目に見えるほど顕著になってくると国家は、それを悪の勢力と見るようになります。なぜなら、すでに国家の範囲を超える勢力となりつつあるからです。しかし宗教者には、敵はなくかえって敵のために門を開きます。政府は、そのことでいつも不安です。それで国家の主権者は、彼らは暴力的であり、秩序を乱す行為をするとか、宗教者に対して様々な嘘をつくりあげて、迫害するのです。

     宗教者は、典型的なケースで、いつも神の原理を使っています。四百年間、ローマのクリスチャンは、武器も持たず、武装もせず、弾丸ひとつも発砲しませんでした。ローマ人は、あらゆる面において非常によく訓練されていました。ローマ帝国は、何度も何度もクリスチャンを迫害しました。クリスチャンは、そのむち打ちに耐え、多くの殉教者を出し、ついに四百年後、ローマ帝国を降服させました。

     考えてみて下さい。原理を知らなければ私たちは、全能の神がいるのだろうかと疑問が湧いてきます。もし神がいるならば、どうして人類を苦しい目にあわせるのか。その答として多くの人々は、神は本当いないのだと言います。どうして彼らは、そう言うのでしょうか。原理を知ると、あなたは神がどこに存在し、その位置はどんな位置であるかわかりますので、事情がわかります。

     原理の公式的観点から見ると、私たち自身で終末を知ることができます。世界の状勢を観察することによって、それは可能です。まず第一に、新しい宗教運動が起こり、世界全体がそれを禁止し破壊しようとするでしょう。それを見たら、終末だと言うことです。

     終末においては、高邁な目標を持ったひとつの団体が現われます。白人、黄色人、黒人をとわず、また多くの宗教団体が、反対し打ち壊そうとするでしょう。おもしろいですか。打たれる準備は、できていますか。どちらの側につきたいですか。

     歴史は、でたらめに、気まぐれにつくられたのではありません。歴史は、原理によってつくられ、原理からそれることはありません。原理によって、あなた自身の位置をはっきり見てみると、高邁な理想を掲げた孤独な団体であることがわかるでしょう。そして世界は、死に至るまで打ち続けようとしています。そのような団体に属していることは、最高の名誉です。あなた方は、原理を知っており、神に対する全知識を得ています。

     

    ◆試練を受ける者



     終末時代に、神が一人の使命者を遣わしたとします。その使命者は、この世界を復帰するための輝くたいまつとなれるような戦略をたてるでしょう。彼自身を隠すことなく、その姿を現わして、人々に打たせるでしょう。世界は、彼を打つでしょう。それは彼の存在を全世界に知らせ、復帰するのに一番賢い、一番早い方法なのです。

     それでは全世界として私達を打たせ、世界復帰のたいまつとするには、一体、どうしたらよいでしょうか。世界中に知らせるにはどうすべきでしょうか。お金や権力を奪い取りますか。人々は、そんなことには気をとめません。しかし、自分の愛する者たちに接したら誰でも変ります。その愛する者たちとは誰のことでしょうか。そうです。あなた方のことです。妻であり、娘であり、息子達です。それは、とても敏感なデリケートな所です。もし誰かが、その部分に触れたら、誰でも飛び上ってしまいます。

     人類の全宗教史において、これまでかって自分の子供たちを取り戻そうとする反対父母の運動を見たことがありませんでした。子供を必死になって探している父母の組織がどきたのは、歴史上初めてのことです。また、両親が自分の子供を誘拐するということも、これまでの歴史上起ったことがありません。普通、誘拐とは、親から子供を奪すのですが、今は親が自分の子供を誘拐しています。なぜこのようなことが起こるのでしょうか。今私たちは、善と悪との最後の対決の時を迎えています。そして、その最後の戦いはもう行なわれております。

     これは、私の考えですか、それとも神の考えですか。これは、神の原理であり、神の公式です。今でもユダヤ教は、私たちを反セム族だといって反対しています。

     共産主義者は、私たちを好んでおりますか。アメリカ政府は、どうでしょうか。私のために、赤いじゅうたんをひいて歓迎しますか。全世界には百二十カ国に宣教師が行っております。このことが、全世界で、もっと騒ぎの元になっています。

     一般的に、統一教会は、孤独な団体であり、『出る釘は打たれる』と言った状態です。国の指導者や他の宗教団体は、私たちをつぶそうとしています。それではレバレント・ムーンは、どこへ行くのでしょうか。すべての者たちが反対している中にあって、レバレント・ムーンは、夜も眠れません。人々はどうしてレバレント・ムーンは、もっと外交的にやらないのかと、ワシントン・ポストに、もっといいように話をすればいいのにとか言います。

     私たちは、社交的にやりますか。それとも世界中をまわって真実だけを伝えましょうか。なぜ、なぜそうしなければならないのでしょうか。そうです。世界が、私達に注目するように前進しましょう。そうすれば、一つの重要なポイントにぶつかります。それはレバレント・ムーンは、どちら側の人物であるかということです。

     あなた方は、レバレント・ムーンを、神の代身者であると言いますが、この世の人々は、サタンの代身者であると言っています。レバレント・ムーンが、神側であると言っているのは少数派であり、大多数のものがサタン側であると言っています。レバレント・ムーンがどちら側の人間であるかを、どう判断しますか。私たちは、新しい民主的法則を知らなければなりません。つまり、少数派プラス神イコール多数派という法則です。

     ですから歴史的公式によれば、レバレント・ムーンと統一教会が、双肩に担っているものは、歴史的使命であることがわかります。私たちは、神側の最高の理想を代表しているのであります。神が私たちの側についていて下さる限り、私たちは、多数派です。

     私たちは、レバレント・ムーンと統一教会の秘密を知らなければなりません。私は、迫害され続けましたが、けっして諦めませんでした。私は忍耐しながら、み旨を押し進めて来ました。これが統一教会の歴史であり、今日の歴史です。

     

    ◆私の唯一の誇り



     聖書に、最後まで耐え忍ぶ者は、勝利するとあります。私の歴史において、使命を遂行する時に神から「私はあなたを知ってもいない。」と言われた時がありました。あなたの責任分担においてさえも神が反対し、試練する時があります。その時じっと忍耐し、神の与えた試練に打ち勝つように努力しなければなりません。そうすれば神が降参して、「この人こそ、私のすべてを相続できる者である。」と言うでしょう。

     そして、神と私との間に契約が結ばれるのです。神は、「あなたこそ、私が人類歴史をかけて探してきた人である。私は、神に「私は、永遠をかけてもあなたを探し求めたいと思っておりました。そして今、私は、あなたが、私の父、天にいます私の父のことを知りました。」と言うでしょう。そして、両方の間で、誓約がかわされるのです。それは、父と子の誓約です。

     神は、そんなに簡単に『神の子』という称号を与えません。神の息子にふせわしく、人類歴史の勝利者でなければなりません。人類の全ての負債を復帰できる立場にいなければなりません。その人は、貴重なかけがえのない個人です。だからこそ神は、この一人の人物を探し出すのに、数千年の年月を費したのです。

     レバレント・ムーンの誇りは何でしょうか。私は、ただ一つを除いて、他に何も誇るものはありません。それは、すなわち「神は、私の父である。」ということです。ですからレバレント・ムーンは、神のすべての愛の受取人であり、神の愛の通る徑路になったことを誇りに思っています。私は、神の愛の受ける神の国を相続することを誇りに思います。

     エデンの園において、人間にとって、最初で最大の願いは、神の愛を受けるにふさわしい人物となることでした。彼らは、神の国の相続者となる予定でした。蕩減の法則と復帰路程を通して今、私は、全世界に神と人類の本来の願いは、人間によって達成されたと高らかに宣言したいのであります。

     

    ◆記念すべき一九七六年



     さて、いつこの世は、あなた方を打ち倒しにやってきたのでしょうか。その記念すべき日年、一九七六年でした。神の全歴史は、二つの大きな出来事で頂点に達しました。それはヤンキー・スタジアム大会と、ワシントン大会です。ワシントン大会は、神における最高峰の勝利でした。一九七六年に私は、全世界に知れわたりました。

     私たちが一九七六年に打ち建てた勝利は、人類歴史から忘れさられることはありません。一九七六年私は、歴のたいまつとして、その姿を現わしました。公生涯において、私は、人々の前に立って訴えてきましたが、今その公的摂理は終わりました。レバレント・ムーンは、敗北しまたか、それとも勝利しましたか。

     この世は、レバレント・ムーンが失敗することを全世界っています。しかし大会の結果は、どうでしたか。成功でしたか、失敗でしたか。敵は、どうしましたか。敵側は私たちの成功を認めました。大統領も、反対する人も花火大会のあることを知って、花火を見たでしょう。ワシントン大会は、人類の歴史に転換点をもたらしたということを覚えておいてほしいのです。

     

    ◆終末時代の現象



     それまでは、レバレント・ムーンは、無視され失敗する人だと思われていました。しかし世界が一勢に攻撃しましたが、私は負けませんでした。私は、負けないで歩み続けました。神の歴史の公式を知らなければ、それは奇妙に思われます。

     もし、神が、彼と共に働いているならば、彼は、どうして孤独であり、困難と苦悩を通過しなければいけないのでしょいか。もし、神が本当に怒って、その怒りを爆発させたらどうなるでしょう。神様が、何かをたたきつぶしたいと思えるでしょうか。

     もし、神が愛する人間がニューヨーク・タイムズやワシントン・ポストにひどく書かれたら、それらを、たたきつぶすことができますか。もし、神が本当に気ちがいのようになったら、そうすることができますか。アメリカで、あるいは、他の国においてどうでしうか。

     統一教会のメンバーは、必死に祈ります。「神様、どうか審きをくだして、ワシントン・ポストを、ニューヨーク・タイムズをたたいて下さい。ちょっとでもいいですからそうして下さい。」また「どうか、ラビ・ディビス(ユダヤ教のリーダで、先頭を切って統一教会に反対している)に、審きを下して下さい」と。しかす神はそうできないことを知っていますね。敵を打ちくだくために、審き主を遣して、審きを下すことは、できません。それは神の目的自体を、壊してしまいます。

     神は、この世にその人を打つことを許しています。彼らは、その行為によって、自らの祝福を失い、あきらめているのです。そしてその祝福は、レバレント・ムーンに行くことになるのです。その行為は彼らにとって、自らの祝福を譲り渡す橋を築いていることになり、神から受ける祝福を自ら放棄していることになるのです。これは、終末時代の現象です。

     レバレント・ムーンを迫害すれば、彼らは、自らの祝福を、彼に譲り渡さなければならなくなります。それが大きな祝福となって、やって来るのです。ですから今、神のメッセージがよくわかります。どうして、統一教会のメンバーたちを苦しませ、「あなたが苦難を背負い他の人々には、安易な道を行かせなさい。」と証うのかわかります。すべての苦難をひきうけようではありませんか。

     

    ◆恵みの橋渡し



     今、私は、世界中の人々にや祝福を与える橋になりたいと思います。そして皆さんにもそのような橋になってほしいと思います。私は、世界中のすべての祝福に関与したいと思います。私は、あなたたちを、お父様と同じような苦労と苦難の道を行ってほしいと思います。なぜなら、私が祝福を受ける時、あなた方もともに受けることができるようにしたいからです。

     皆さんは、世界中に神の愛を示していくことになるでしょう。あなた方が世界中、神の祝福を述べ伝えようとする時、人々は、これを神の祝福として受け取ることを拒むでしょう。するとその祝福は、あはなの内にとどまり、それを拒むことはできません。

     あなた方は、虐待されたいですか。今まで私たちは、打たれ続けその迫害者をふりかえって見ることもありませんでした。しかし今、彼らに顔を向け、祝福を与え、その祝福を、また、他の人々に分かち与えるように励まさなければならない時が来ました。統一教会が一度に迫害を受けなければ解放はありません。私は今、統一教会は、このレベルまで完遂したのだということを知ってほしいと思います。

     私たちは、個人、家庭、国家、そして世界と、正確な神の予定に従って歩んできました。従わなければならない神の正確な予定があり、私は、その如くに歩んできました。

     もし、アダムとエバが堕落していなければ、彼らは、個人、国家、世界のレベルにおいて模範となっていたはずでした。アダムとエバは、完成されたもののすべての実体となるべきでした。堕落の故に、そのようなモデルを誰も見た事がありません。旧約時代の諸国家は、人類の敗北の歴史をつくり、この時代には、勝利はそれほど多くありません。

     三つの時代、つまり旧約時代、新約時代、成約時代は、各々払うべき多くの蕩減がありましたが、私たちは、それをすべて払わなければなりませんでした。縦的歴史の失敗は、すべて完全に償ってから、横的勝利圏を拡大していかなければなりません。これが成されるまでは。勝利はおぼ四かないものです。団結がないのですから、摂理的蕩減条件が地上において払えません。これまで、全霊界はバラバラでした。ユダヤ教はここ、キリスト教は、あそこ、仏教は、また別の所というように各々が違った場所に存在していました。

     堕落がなければ、キリスト教、儒教などというものも、混乱もなかったでしょう。ただアダム・イズム(アダム教)があり、ただ一組の真の父母がおり、皆、そこから生まれるはずでした。

     

    ◆復帰歴史の流れ



     神は救い主を立てるまでに、何千年も働いてこられました。イスラエル民族イスラエル国家も、一つの基台から出発しました。そして、その基台から、新しい摂理が始まるのです。復帰歴史を通して、一つのパターンが流れています。このパターンは、家庭、民族、国家、世界の段階においてもそれがあります。たとえばヤコブ家庭は、家庭段階におけるそのパターンでした。しかしそのパターンは、たやすくやってくるものではありません。

     ヤコブは、ハランに行って言い尽くせない苦労を、二十一年間しなければなりませんでした。そしてカナンへ帰った後、恵みを得たのです。さて次に、イスラエルという国を見てみましょう。選ばれた民は、エジプトへ行きそこで苦難に出会いました。しかしその後モーセに率いられてエジプトを出たのです。これがパターンが打ち建てれられる方法です。ヤコブは、家庭的段階の勝利者であり、モーセは民族的段階の勝利者です。

     キリスト教をみてみましょう。ローマ帝国の下にあって彼らは、四百年間苦難を受けました。この苦難の後、彼らは勝利したのです。出エジプトの後にユダヤ人は、イスラエル王朝を立てることができました。同じように、もしイエスが十字架にかかっていなければ、全アラブ地域も統一しその時代に、統一された神の国を建設していたはずです。

     イエスは、象徴的にではなく、実体的に王の王であったのです。イエスがイスラエル国家を統一することができたら、アラブ世界を吸収するというのは、神の御計画でした。インド、中国、そしてローマ帝国がいかに強大であろうと、それらが統一した神の国に吸収されることは、大して問題ではなかったはずです。その時代に統一王国は、地上に建設される予定でした。もしイエスが十字架にかからなければ、それは違った方向へ行ったのです。つまりインド、中国、韓国を通過して、西洋世界へ行くはずでした。ところが、十字架のために、百八十度方向を転換して、ローマ、イングラヰド、アメリカをまわり東洋に戻ってきたのです。

     今日のアメリカは、模範的キリスト教国家であり、全世界のキリスト教文化の結実でもあります。キリスト教国家のモデルとして今日のアメリカは、第二イスラエルの立場にあります。最初のイスラエルは、二千年以上前のユダヤ国家でした。象徴的に、この第二イスラエルであるアメリカは、全世界の人々が国際的に集まって、統一されたひとつの国家となっています。今までの歴史の中で統一が見られなかったのは、神の愛がまだアメリカにおいては、最高に注がれていないからです。

     

    ◆心をつなぐ運動



     ですから統一教会の運動は、心をつなぐアメリカの精神となるでしょう。このアメリカにおいて、私たちは、すべての人種と人々の心を結び、調和よく統一する強力な接着剤となります。原理でわかるように、そのような状況をつくり出すためには、蕩減を払わなければなりません。アメリカは、今日の摂理において貴重な存在です。

     しかし、メシヤ的使命はアジアにおいて花開くでしょう。なぜならアジアは宇宙の心のようなものだからです。神は、深い宗教的性質を持った単一国家を選ぶでしょう。このような人々は、アジアから選ばれるでしょう。

     東洋と西洋において、相似するものがあります。たとえば摂理において日本のキリスト教は、ヨーロッパの英国のそれも同じ立場にあります。アジアにおける韓国は、ヨーロッパにおけるイタリアに相当します。

     半島は、橋の役割を果たして大陸と島国を結ぶ理想的領域なのです。文化運動は、いつも半島から出発しますた。ギリシャ半島から、強大な文化が発展しました。ローマの強大な文化も、イタリア半島において発展しました。半島、二つの文化が生じ触合し、一つの統一された文化を形成する場所でもあります。終末においては、西洋文化と東洋文化が合併され、宇宙の中心を形造る、統一文化が生み出されます。

     いつの時代も歴史上半島は、重要な役割を果たしてきました。戦争上、重要な役割を果たしたベトナムを見てみましょう。第二次世界大戦においては、マレーシアとシンガポールがそうでした。第二次世界大戦後に、韓国の解放がなされました。それまで韓国は、いつもどこかの国に併合されていました。

     アジアには、アメリカが関係を断つことができない国がひとつあります。アメリカはベトナムから撤退しました。現在新しちい政府は、韓国からいかにしてアメリカ軍を撤退させることができるか、盛んに論じております。それはアメリカの将来にいい影響を与えません。摂理において、アメリカは、韓国とつながっていなければなりません。なぜなら大きな恵みは、アメリカと韓国が連結している中から生じて来るからです。その連結が切れてしまうとアメリカは、大変困ることになるでしょう。

     第二次世界大戦では、連合軍が他の軍隊を、ことごとく打ちくだきました。これは、神のアメリカへの贈り物でした。神の法則によればアメリカは、すべての富と土地を所有してよいことになっていたのです。アメリカが、取り扱っても良いことになっていたのです。とくに、アメリカは、共産側にどんな領域も奪われてはならなかったのです。

     アメリカは、世界において神の位置を占めるために建国されました。国連においても神は、アメリカに、神に反する共産勢力を除いた国連をつくる主導権を握ってほしかったのです。しかし第二次世界大戦後アメリカは、世界的責任をとることを辞退し続け、共産勢力の侵入を許しました。共産勢力は、参加を許され、公的な場所で宣伝活動ができるようになりました。現在国連は、共産主義者の宣伝活動のための道具以外何物でもありません。

     多くのアメリカの若き青年たちの血と汗が、流されました。その血の代価と価値をどこに見い出すことができるでしょうか。アメリカはそれを敵の手に渡してしまいました。神の手にではありません。

     アメリカは、神の目から見たら失敗したことになります。あなた方は、神の贈り物を収穫し、それをサタンの手へ渡してしまいました。どうしてそれが許されるのでしょうか。その贈り物を受け取った悪なる人々は、そこでとどまらないしょう。国連の心臓部へ侵入し、今ではその息の根をとめようとしています。経済的衰退、政治的衰退、すべての分野においてアメリカは、衰退しつつあります。家庭や道徳においても、急速に衰退しております。アメリカは、世界の指導的福音国家でした。しかしこの二、三十年にアメリカのキリスト教文化は、くずれつつあります。どうしてでしょうか。なぜならアメリカは、キリスト教国家としては失敗したからです。

     一九六〇年に、国連事務総長であるダッグハマーショルドが亡くなりました。若きケネディ大統領の暗殺事件もありました。自由諸国において今やが終焉の不吉な印がでております。それ以来アメリカは、衰退の危機にさらされております。

     ニクソンの事態と、ウォーター・ゲート事件は、アメリカを深い苦悩に陥れました。政府は、変われましたがだれかが現われて、もっと強く訴えなければなりません。だれかがその流れを変えなければなりません。何がおこるか見てみましょう。宗教指導者として、ウォーター・ゲート事件の危機に臨んで、私は、アメリカの意識をキリスト教精神へ戻すことを望みました。私がそうしたのは、ウォーター・ゲート事件が、共産主義者にとってのみ、都合のよい事件ことを知っていたからです。共産主義勢力がはびこつつあります。もしアメリカが、ウォーター・ゲート事件によって、完全に麻痺させられていたら、共産学生が勢いよく社会に流れこんだでしょう。

     たとえばコロンビア大学においては、白昼堂々と共産学生によるデモが行なわれており、看板をかかげ、ポスターを貼り、ビラをまき、盛んに宣伝活動をしていました。実際に今回初めて、アメリカの大統領選挙に、共産主義者が加わりました。彼らは、自分たちにとって通合のいい人を送り出そうと必死で努力したのです。実際、このニューヨーカー・ホテルのすぐ前でも、彼らは、デモをしていました。

     彼らはカーターのために、デモをしたのです。カーターのどこに興味を持ったのでしょうか。カーター政権は、用心深くあらねばなりません。それらのグループの輩下には、アメリカ人でない団体があり、彼らは、カーターを説得して彼らの利益となるような事態が来るように虎視たんたつと、狙っているからです。

     

    ◆人権問題は反共産主義から



     カーター政権における人権問題は大切です。しかしいかに運用するかが問題です。北韓では、三百万もの生命が金日成によって、絶滅させられました。中国では、毛主席が数千万の生命を奪い取りました。ニューヨーク・タイムズは、その当時、六十万の生命が消えていったと伝えております。一体、誰が人の生命を犯しているのでしょうか。

     今日、韓国問題が大きくなり韓国に関係することは、すべて試練に会っております。朴大統領政権は、独裁だとか、厳戒すぎるとか、非難されていますが、十四年間の政権中、ただ二人しか死刊を執行しなかったのです。一人は、北韓で訓練と教育を受けた、シグマン・リーというスパイであり、もう一人は、サンドォー・キムという暗黒街のボスでした。この二人の人物は、合法的に死刑の判決をくだされたのです。

     米国会議員の増収賄問題が、人の話題にのぼっています。この事件は、アメリカ議会へ働きかけようとしているの大きな国家のしている事と比べたら、本当に小さな問題なのです。イスラエル、英国、ギリシャ、ドイツ、日本のような友好国でも、何らかのかたちで国会に働きかけています。とくに、共産主義者たちの働きは、ますます活発になりつつあります。

     アメリカにおける韓国問題は、非常に大きくなり、この市は、韓国の工作員であふれているのではないかと考えている人も多いのです。実は、そんなことはありません。しかしソ連側は、現在、独自の組織KGBを持ち、数千人の工作員が活躍しています。それは目に見える活動ですが、その他に数千人の学生の背後にあって、アメリカ社会のあらゆる問題や分野に侵透しつつある工作員がいるのです。

     もし誰かが、人権について語りたいと思うならば、まずその人は、強烈な反共主義者にならなければなりません。なぜなら、歴史上共産主義ほど、人権を侵したものはないからです。共産主義は、人間の生命を否定しています。彼らにとって、人間の生命は、虫けらの生命と、全く変わりありません。虫けらのように、何百万の人々が首を切られるのです。

     人権も大切ですがそれ以上に大切なのは、共産国家の下にある人々の生きる権利を保証することです。それが私が、共産主義者の頑強な敵とし、神の敵として、先頭を切って戦っている理由なのです。私は、共産主義を人類の敵とし、神の敵として宣言しています。そこから、微動だにしないと決意しています。共産主義者は、レバレンド・ムーンが共産主義者にとって最も手強い敵であると知っています。今、人々は、共産主義者の作戦に乗せられて、全教会も政府の要人も、彼らと祝いの会などをしています。これは悲しい光景です。新聞は、レバレンド・ムーンとKCIAを結びつけようとしていますが、これは全く信じられないことです。

     私の観点は、韓国、アメリカだけでなく、全世界に向けられております。いまだかつて、ヤンキー・スタジアムでレバレンド・ムーンが語ったようなことを、語り得ることのできる大統領は現れておりません。

     

    ◆真実の発言



     レバレント・ムーンは、そのスピーチの中でこう語りました。「この国には火事が起っています。その火事を消すには、外部からの消防隊員が必要です。この国は病気にかかっています。医者が必要です。私はこの国に、医者として消防隊員としてやってまいりました。」と。

     ワシントン大会で私は言いました。「あなたは私に若き青年たちを与えて下さいません。だれがその流れを変えなければなりません。何がおこるか見てみましょう。宗教指導者として、ウォーター・ゲート事件の危機に臨んで、私は、アメリカの意識をキリスト教精神へ戻すことを望みました。私がそうしたのは、ウォーター・ゲート事件が、共産主義者にとってのみ、都合のよい事件であることを知っていたからです。共産主義勢力がはびこりつつあります。もしアメリカが、ウォーター・ゲート事件によって、完全に麻痺させられていたら、共産学生が勢いよく社会に流れこんだでしょう。

     たとえばコロンビア大学においては、白昼堂々と共産学生によるデモが行ながれております。さいました。」と。レバレント・ムーンは、世界へ出て世界を救うことのできるように、アメリカの青年を立派にしたいと思っています。どの宗教指導者も、どの政治指導者も、このように大担に語った人物はありませんでした。ただレバレント・ムーンだけが、それをなしたのです。私にはそれを言うだけの理由がありました。

     実際レバレント・ムーンは、アメリカから冷遇され、アメリカ国民は私に対して無知であり、ほとんど何も知りません。もし知っていれば、きっと、レバレント・ムーンが、アメリカになくてはならない、高遇な理想を持った協力者であることに気がつくでしょう。あなたたちも、このことに気がつくでしょう。あなたたちも、このことのために戦わなければなりません。

     これが、神と神の国に対する献身であり、忠誠であり、理解であり、自信なのです。だれもそれを奪いとることはできません。誰もその思想を奪うことはできません。不可能です。原子爆弾であろうと、どんな武器を持ってこようと、どんな軍隊の力でも奪いとることのできないものなのです。あなた方に敵はいません。私は、政府を喜ばせ、政治家を嬉しがらせるために来たのではありません。私は預言者であり、神のメッセンジャーであります。どんな場合でも、言わなければならないことは、訴えてきました。私は、ある意見が政府を恐らせたことを知っています。他の人は信頼できませんが、自分を頼りとしていけば良いのです。私たちは神によって定められた使命を持っています。自分のためではありません。私たちは、この国へ影響を与えていかなければなりません。それが結局、神様が私たちに願っている道なのです。私はすでに、その生命を韓国のために捧げました。自分の生命を投げ打っております。ですからアメリカも韓国も、この結びつきを断ち切ることができないのです。その関係が切れてしまうと両国に悲劇が起こります。神はよくご存知です。

     歴史の流れは自由主義へと向かっていますが、共産勢力もまだまだ強いのです。悲観的な状況にあります。ですから、神は、レバレント・ムーンをアメリカへ送りました。「行ってアメリカをしっかりと神に向けさせなさい」とおっしゃったのです。神の代身として「アメリカとアジアとの関係を保ちながら、常に前進し、キリスト教世界を解放し、共産主義を解放しなさい。」と。

     レバレント・ムーンが、次の目標を宣言したら、それは、実現可能なことであり、空しい言葉ではありません。もし共産主義が、私たちの目標を知ったら笑うでしょう。しかし二十年前、雨が降れば漏るような、ほんの数人しか入れない、小さな小部で私は、世界の将来についてまた、百二十カ国の海外宣教について語りました。その当時は、とうてい考えられないことでした。

     だれも、それは気違いじみたことだと思ったものでした。しかし今日、二十年前の、あの小さな部屋と同じような、このニュー・ヨーカー・ホテルで、共産主義とその国々を解放しようと話しているのです。他の人たちはきっと笑うでしょう。しかし、それは可能なことです。なぜなら、共産主義世界にあって、共産主義指導者の子供たちは、神側に立っているということです。彼らは、レバレント・ムーンの側なのです。霊界がそうしてくれます。霊界が彼らの前に現われ、彼らは、自分の親に対して反対するようになるでしょう。それが神の摂理であり、もうすでに神はその摂理を始められました。アメリカにおいても強烈な霊的啓示が、この国の議会の指導者たちの上に降りています。背後では、目に見えない驚くべき霊的現象が起こりつつあります。霊界の攻撃が始まりました。

     

    ◆すべてを経験



     さて、二時間がすぎましたね。みんなで私の誕生日を祝ってくれていますが、私はまだ朝食もとっていないのです。みなさんは、何と無慈悲な人たちなのでしょう。(笑い)

     私が、一人の人間として歴史になしましたことは、天と地の人間を代表しています。そして、神の名によって勝利を宣言しました。天と地の勝利者として立ち、歴史を通し誰も成し得なかったことを成したのです。どうして苦難を避けて通らないのでしょうか。なぜなら、原理を知っているからです。この地上の、他の誰よりも、最も多く苦しまなければならないことを知っているからです。数千年の歴史を通して、人間は、汚れた、犯してはならない罪を犯してきました。全ての罪を解放するために、私は、この罪深い世界のあらゆる職業を経験するという条件を立て、地の底まで降りて行かなければなりませんでした。

     私が経験しなかった事は軍隊生活だけです。それ以外に私が経験しなかったものは一つもありません。ある時は乞食として、寒空の下で夜を明かしました。労働者、農夫、波止場の人夫、スポーツ・マン、登山家、そして石炭を堀り出す抗夫などと、すべて味わったことのないものはありません。なんのためでしょうか。それは、生存しているすべてよ人たちへ、その救いの糸を垂れてやり、その生活からはい上がることを願ったからです。ただ韓国民族によってのみ、苦難を受けたのではありません。今、私は西洋に来て白人から迫害を受けております。またあなた方は、私のためにお金を持ってきますか、それとも、私があなた方の資金をつくりましょうか。

     私は、あなた方にも、またすべての人々にも親の立場で働きたいのです。世界でも親が子供にお金を持ってくることは、当然のことです。統一教会も同じです。私は、子供たちのために、もっと働いてお金を上げたいのです。たとえば、小さな国は、外国からの、経済的・軍事的援助を仰ごうと努力しますが、私は、これとまったく反対です。私は、どんなに貧しくとも持っているもののすべて、エネルギー、情熱、そして生命までをも、この国の上に注いでいます。それらの全てを豊かに、アメリカの上に施したいのです。私の考えは、はっきりしています。外部の人が何んといおうと、変わりません。

     世界の歴史的条件を分類するために私は、条件を立てたいと思います。世界中のすべての貧しく、さみしい人々のために、家を買いたいのです。黒人、白人、プエル・トルコ人、アフリカ人、ヨーロッパ人、アメリカ人、すべての人に買うのです。

     私は人間です。しかも最も独特な人間になりたいのです。なんでも成し遂げる人間、人間にできることはなんでもやれる人間になりたいのです。私の姿かたちはどうですか。皆さんは好ましく思いますか。ここでは、ふつう男性は、ほっそりした腰をしていますが、私は、とても大きな体をしています。

     高校生の頃、私は、岩ののようなレスリングのチャンピオンでした。だれも勝てませんでした。そして話が上手で、書くこともうまく、芸術家で、一夜で一冊の本を書き上げたこともありました。ある時は、日曜学校で教えたりしました。私は、子供たちの間で特に人気があり、私の語る物語ひは、面白く魅力的であり、その神を中心とした物語りの展開は、聞いている全員が夢中になりました。私は表状が豊かで、顔の表情で多くを語りました。偉大な文学のほとんどを知っていたし、簡単にその内容を把握することができました。

     北韓の牢獄の中でも、みんなが友達であり、後輩であり、仲間でした。彼らを理解できたのです。私と一緒にいたら、疲れや苦しみを忘れてしまい、まるで春を迎えているような気分にさせられました。農場や農家に行けば、すぐに農夫と友達になりました。それは私が農民の心をよく知っていたからです。ですから、農業をしている所へいったら、すぐにその家の主人となるのです。彼らは私招待して、入って一緒に夕食を食べるよう自家製のじゃがいもを食べてくれ、とたのみます。しかし、私は何にもまして、女性の間で一番人気がありました。それが批難の因もなりました。

     

    ◆歴史に生命を



     歴史において、歴史の主な流れである斡がこわれてしまいました。人体の血管のように動はあったとしても、しかし静脈と細動脈がマヒしているのです。私の使命とはその治療法を持たらすことです。川には、本流があり、支流がありますが、水が流れるように生命を取り戻させるのが、私です。私は、すべて創られたものは人間のために存在するという確信を持っています。「天の父よ私にはできません。」とは到底言えません。私は、歴史上における最高の霊的指導者として、その位置を決定し、それを成してきました。ですから実際に、すべての段階において私は過去の偉大な霊的指導者のなしたすべての失敗を復帰しているのです。

     霊界においては、循環作用がなく、すべてがふさがれていました。私は、その循環が円滑になり、霊界と地上界の両方に等しく公平に流れることを望みました。今はすべての障害物は取り去られ、一人の人間の体の循環作用のように、すべてが順調に流れるようになりました。

     歴史において、また家庭的、民族的、国家的、世界的な段階において、支流がありました。しかし私は、その一番上から始めすべての障害を取り除き、水が流れるようにしたのです。今まで全宗教は、独自の一つの流れを持っていました。ユダヤ教以外考えられないとか、キリスト教以外考えられないとか、仏教も他宗教もそうです。各々が傲慢であるために統一できないのです。

     しかし誰かがその異なったすべての流れを一つにしなければなりません。そして統一する人は、そのすべてをよく知らなければなりません。霊的には、私はすでに統一したのです。それでその川は今、四つの方向へ向かって流れています。

     この調和と美の世界は、地上界へ展開されようとしています。地上にも同じものをつくろうとしているのです。それが、この地上における使命のすべてなのです。霊界でなしたことを地上に展開し、地上で霊界が釣り合った相似形の一対となるようにするためです。どうして相似形でなければならないのでしょうか。今までは何の関係もありませんでした。ですから、このために私たちの心と体もまた、分離してしまったのです。

     霊界をおろして来なければ、心と体を一つにする方法がありません。各段階において、異なった試練、苦難、困難があります。個人的、民族的、国家的、世界的に試練があります。そのために、私はいつも前進するように励ましているのです。それは、こんなに話している様に簡単だと思いますか。話すことは簡単です。しかし、考えてみて下さい。私達が生きている間になすことは、ほとんど不可能です。

     しかし私たちは、勝利者にならなければなりません。世界に耐えられるだけの重みをつけなければなりません。そしてこの地上界があなたにのしかかってきても、自分自身の重さでそれに耐えなければなりません。

     

    ◆世界に耐える家庭基盤を



     イエス・キリストは、個人として霊界の重さに耐えました。すべての試練に耐えました。しかし、世界的試練に耐えうるだけの家庭を組織することができませんでした。また、三十六家庭の祝福の時は、外部からの迫害が激しく、穏やかに式典を催すことができなかったのです。

     非常な事態でしたので、私は、花嫁、花婿を、三つのグループに分けなればなりませんでした。最初は簡単に急いで、次は昼間に、そして最後は夜に行ないました。

     三十六家庭の祝福がある日、政府から取り調べを受けました。私は裁判所へ出かけ、証言し、帰ってきて、祝福をなしたのでした。このような白熱した戦いでした。私たちは立つ場所さえありませんでした。わずかな場所さえなかったのです。ですから、行動の一つ一つが、生命を賭けた冒険でした。一九六〇年、私と三家庭がつくられ、真の家庭の基準が打ち建てられました。最初の祝福は、三十六家庭に与えられました。彼らは歴史的摂理において、全世界の家庭を代表しています。人類の先祖の立場となったのです。そしね、そのその次に七十二家庭の祝福がありました。これは、世界的三十六家庭のカインとアベルを代表しています。そして百二十家庭は、イエス様の十二弟子に相当し、世界的基盤における十二種族を代表する立場になります。その基台の上で、神は土地や地域の所有を主張できる基盤を打ちたてたのです。そこで聖地を決定しました。

     次に四百三十家庭は、韓国全体を代表しています。韓国は、四千三百年以上の歴史を持っています。これは、エジプトを去ったイスラエル民族に匹敵するものです。彼らは、エジプトで四百三十年間苦しみました。そこから彼らは、カナンの地へ向かって旅を始めました。そのような旅をするためにも、天国は、世界的レベルで建設されなければなりません。ですから、四十三組のウエスタン・メンバー祝福があったのです。これは、韓国における四百三十家庭に相当します。

     この四百三十家庭と四十三家庭がつながれることによって、韓国の救いが世界の救いにつながるのです。

     

    ◆七十二年度からの講演



     次の七七七の祝福は、全世界が祝福されるための基台をつくるためでした。そして、私が世界的使命を果たす時がきました。それで一九七二年以降は、アメリカに来たのです。三年半の間に。私は、神のメッセージを宣言しながら、西洋世界に基盤をつくったのです。それらは全て、韓国へ帰る前の、マジソン大会において頂点に達しました。このキャンペーンは、巨大な主要八カ都市講演で始まり、ロスアンジェルスにおいて、成功裏のうちに終わりました。この講演旅行で、私は名誉市民の称号と、多くの宣言文をもらいました。これまでどんな歴史上の人物も、こんなに多くもらったことはないでしょう。これは、アメリカが最初に私を受け入れたことを示しています。韓国は私を迫害しました。しかしアメリカが最初に私を受け入れたことによって復帰されました。九百から千通ものこの国の市や町による宣言文を、私は受け取りました。それは世界的なものとなり、この勝利の基台の上に私は勝利者として帰ることができました。

     世界へ出て、世界から受け入れられ、そして今、韓国へ帰る基準を得たのです。私が韓国へ持っていくものは、指輪やお金ではありません。もっと大切なもの、それは、世界からの若者たちの精神です。私が、西洋であるアメリカで築いた勝利の基台は、今、その勝利の果実をもたらそうとしています。すなわち、それは世界からの若者たちです。

     そしてその基台に立って、自国へ戻るのです。どうして戻るのでしょうか。イエス・キリストは、二千年前に、ピラトやカヤパや民衆の手によって十字架につけられました。その悲しみと苦しみと難きを解放する基準をつくるために、私は韓国に帰らなければならなかったのです。

     二千年前のユダヤ教は、今日のキリスト教に相当すます。また二千年前のイエス様の使舎は、今日の統一教会の使命に匹敵します。わかりますね。二千年前、ローマ帝国・イスラエル国家、そしてユダヤ教団は団結して、イエス様を十字架にかけてしまいました。

     天の父現代に同じ状況をつくり出しました。この現代におけるローマ帝国の使命は、アメリカでありそのアメリカは最初の勝利をもたらしてくれたキリスト教の果実である若き青年たちを集わせました。韓国へ帰ると、私に反対するかわりに私を歓迎しました。蕩減は晴らされたのです。二千年前のユダヤ教はピラトと団結して、イエスに反対しました。しかし、今回は国は受け入れましたが、キリスト教会は反対しました。私は始めて釜山から出発し、主要都市を公的な場として認めて、韓国民に向かって講演をなしたのです。釜山、大邱、大田、ソウル。市から市へと重ねてきました。そして、それは私たちの圧倒的勝利でした。人々はまるで雲の上に乗っているかの如くに、ぞくぞくと会場へ集まってきました。会員を中へ入れることは、とても不可能でした。私の講演を聞こうと集まった何千という人が、外に立ち続けました。

     韓国の帰国キャンペーンと、西洋における実体的勝利を結論づけるものとして、私は、私は、世界救国大会を開きました。六十カ国の代表が参加しました。それは百二十万もの参加があり、私たちは国から受け入れられたということを意味します。それによって、韓国の勝利を全世界に伝える一つの接点ができたのです。

     

    ◆喜びの年を迎える



     一九七六年は、劇的な輝やかしい勝利の年でした。ニュー・ヨークにおけるヤンキースタジアムの勝利は、同じ年の九月十八日のワシントン大会へと発展し、その勝利は、神の摂理的勝利を最高頂へと引き上げました。ヤンキー大会とワシントン大会、とくにワシントン大会は、一番歓迎されない状況の中ですすめられました。マスコミは冷たく、レバレント・ムーンが何者であるかを調べ上げ、恐れを抱いていました。可能な限りの手段を使って、運動をくい止めようと努力しました。そのような不利の状況のもとに行なわれた大会は、そのことの故にかえって、より勝利に輝き、より価値あるものとなりました。

     四十日間のワシントン大会キャンペーンは、イエス様の四十日復活路程に相当すます。その四十日の後に、イエス様は天国へ昇ることができました。同じように、レバレント・ムーンも、ワシントン大会における四十日間の勝利をもって、この地上の実体的使命を成就しました。ワシントン大会は、人類の歴史、神の歴史において、最も意義深いできごとでした。

     これにより、天のすべての区分が破られすべてが融合し、生命の水が流れ出しました。すべての区分がなくなりました。霊界が開かれました。すべてが解かれ、生命の水が全身に満ちあふれ、流れ出しました。霊界は解放されました。障壁は破壊されや境界線は取り除かれました。霊人たちは地上へ下り、伝動活動に参加し、協力するでしょう。たとえ、私が死んだとしてもそれは続けられます。私の使命は成就されました。神の神聖なる使命も完遂されました。その勝利を基台として、私は十月四日に天勝日を宣言しました。私は歴史的戦いを勝利したのです。神の勝利の故に、これは天の喜びであり、地の喜びであります。疑う余地もありません。それは、私と霊の喜びであり、祝福家庭、統一教会のすべての家庭の喜びであります。

     新暦二月二十日は旧暦の一月三日でした。二月二十日までに、陰暦と太陽暦は完成したのです。喜びと勝利の年が公的に始まりました。七百七十七双、千八百双の中に、信仰的であり従順でありながらも、相対者の不幸に者舞われた人たちを、私は知っています。幸福になりる立場にありながら、幸福になれない状況の下にありました。ですから、神は、特別に、彼らを祝福したのです。

     それは最も記念すべき祝福となりました。このニューヨーカーホテルで、二月二十日に行なわれました。私は、すべての人が、幸福になるすべての条件をたてました。天が喜び、地が喜んでいます。神が喜び、全祝福家庭、統一教会の全食口が喜び、幸福になりました。すべての幸福と喜びが、すべての人へ分かち与えられました。三日後のきょう、陰暦の一九七七年の一月六日は私と妻の誕生日であり、全員でそれを祝いました。全宇宙も祝ってくれます。事実なのです。きょう、妻は三十四才を越えます。イエス様は、三十三才以上行くことができませんでした。イエス様は、三十四才の誕生日を神と共に祝いたかったのです。しかし、十字架の故にできませんでした。今年、妻は、三十四才を越え、イエス様の三十三才を越えていくことになります。ですから、そういう意味でも、きょうは最も記念すべき日なのです。

     

    ◆摂理的歴史の完成



     これから、サタンは決して神の玉座にざん訴することができません。サタムのざん訴が、神の玉座に至ることを天が許しません。なぜでしょう。アダムとエバと天使長とともに宇宙がありました。これは神が予定した一つの統一された宇宙でした。その世界では、誰もざん訴することはなかったはずです。一人の体の中に、四つの体が存在し、敵対することはありませんでした。誰も敵ではありません。もし誰かが、その調和と統一を乱すならば、その人自身同時に崩れてしまうのです。それが原理です。

     原理によって、この勝利的成就は、神をざん訴するサタンの道を防ぎました。サタンはもはや神をざん訴することはできませんでした。これは原理です。わかりますね。これを信じ、認め、百パーセント受け入れるなら、完全にサタンを屈伏できます。

     この歴史的瞬間に、私と妻と、神の名によって、サタンを屈伏させる権威と特権をあなた方に授けます。あなた方はサタンを屈伏させる力を得たのです。あなた方と統一教会のメンバーのために。(拍手全員立ち上がる立ったままでいる。)

     私は、今、宣言します。今日のメッセージの題の如くに、摂理的歴史の光の中にあって成就されました。すべての蕩減条件は完遂されました。これからは、反対を受ければ受ける程、私たちは勝利していくでしょう。損害、苦難、試練などの圧力、ざん訴を受けることもなくなるでしょう。かえって、受けたと同じだけの恵みを与えられます。

     これにより神の領域は拡大され、二千年まで続きます。その年までには、私たちは実質的勝利を勝ち得なければなりません。苦労が積み上げられ、二千年までには神の国が建設されるでしょう。このサタン世界は、もはやこれ以上発展することはありません。私たちは常に前進し発展している団体であり、力であり、運動です。サタン世界が私たちに向かって、銃弾を発するならば、かえってその故に、退却せざるをえなくなるのです。二千年までには、この地上に、神の国を完成させなければなりません。(祈り)















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    24_歴史的父母の日

     御旨と世界
    (全面表示)

     



    歴史的父母の日


    1977年4月18日



    ニューヨーク マンハッタンセンター

    ◆喜びの宣言の日



     きょう私たちは、十八回目の父母の日を祝っていますが、「真の父母の日」を祝賀している団体は、この世界中に私たちだけです。統一教会では、「父母の日」「子女の日」「万物の日」「神の日」を四大名節として重視し、天地の新生を記念するものとして祝っています。しかし本来、人間の堕落というものがなかったならば、これらの四つの祝いの日は別々ではなかったはずなのです。

     人類始祖たるアダムとエバの二人だけは、この神の日、父母の日、子女の日、万物の日というべきものを祝ったでしょうが、その後孫は、こうしたすべての勝利の基台がつくられた一日だけを、合わせて祝えばよかったはずなのです。言い換えれば、アダム、エバの子孫たる私たちは、それらの四つの日の基台の上に生まれてくるべきものであったということなのです。しかしながら堕落によって、この地上にはそのうちどれも達成されなかったのであります。そのために神様にとっては、喜びの日が一日もなかったというのです。喜びがすべて失われてしまったために、祝うべき神の日も、父母の日も、子女の日も、万物の日もなかったというのです。そして万物も人間も、共に苦しみの中におかれるようになってしまいました。それでも何とか創造本然の世界を復帰せんと求めてきた歴史でしたが、今日まで復帰は成されないままにきたのです。

     この世界には数多くの祝日や休日がありますが、それらは、サタン主権下にある堕落した人間が祝っているだけであって、神が祝うことができる祝日ではないことを知らなければなりません。例えばあなた方も、誕生日や結婚記念日を祝うでしょうが、それらは果たして堕落世界の水準を越えるものでしょうか。依然として堕落した水準にとどまっているのではないでしょうか。では、神と人類が共に祝うことのできる日とはどのような日のことをいうのでしょうか。それは決して、あなた方自身の誕生日や、結婚記念日や、あるいはあなたがたの国の独立記念日といったような日ではありません。

     歴史を通して人類が待ち望んできたのは、神が喜びを宣布することのできる一日でありました。それが「神の日」であり、「父母の日」です。そしてこの日が神の喜びの日として宣布されれば、自動的に子女の喜びの日、万物の喜びの日も宣言されたでありましょう。しかしこれまでの歴史において、「神の日」、「父母の日」、「子女の日」、「万物の日」を祝う者は誰もいなかったというのです。しかし本来一年、三六五日の中で最も重要な日は、神をたたえ、神御自身もその喜びを宣言する日、すなわち「神の日」であるべきです。この世的にいえば、それは「王の王の日」とでもいうべき日なのであります。

     そしてきょう、私たちは父母の日を祝っています。本来の私たちはそのような日を祝うに値しない者たちではありますが、ただ真の父母に出会ったということによってその恵みにあずかっているのです。この日は喜びの日ですが、しかし同時にまた、悲しむべき日でもあります。なぜなら、この日の意義を知って、この日を祝っているのが、私たちのようなほんのわずかな者たちでしかないからです。そしてまた私たちがこの日を祝っているこの環境が、依然として堕落した世界であることも悲しいことです。

     

    ◆愛の病気



     人間が堕落したのち、堕落人間を創造本然の状態に復帰するために、神がどのような過程を通ってこられたかを考えてみましょう。堕落によって二つの結果がもたらされました。第一は、神の権威が失われたことであり、第二は、人類が本来あるべき位置と状態から離れて、地獄の状態に堕ちてしまったことです。

     人間が堕落すると同時に、天使界も堕落してしまい、さらにまた、万物世界も苦しみの状態におかれるようになってしまいました。言い換えれば人間の堕落によって、すべてが病気の状態におかれるようになってしまったのです。病気になった者は、自分で自分を治すことはできず、医者がなければなりません。それは誰でしょうか。病気の状態にある人類を救う能力と意志をもっておられる方は、ただ神だけであります。

     堕落して病気の状態にある人間が、本来の健康を回復するには、堕落したのと反対の経路を通らなければなりません。だから救いというのは、本来の位置と状態へ復帰することであり、神の立場からは人間を救うことですが、救われる人間の立場からは、創造本然の状態に復帰することになります。

     もう一つの重要な原理は、堕落人間が復帰するためには蕩減を支払わなければならない、ということです。例えば、病気の人が病気を治してもらいに医者の所に行けば、苦い薬を飲まされたり、痛い注射をうたれたりします。たとえ嫌であっても、病気を治すためには我慢しなければなりません。本当に効く薬は、普通苦いものであって甘くはないものです。堕落人間は、病気にかかった患者のようなものなのですから、健康な状態に回復するためには、それなりの苦しい過程を経なければならないというのです。

     堕落によって人間は、どのような病気になってしまったのでしょうか。堕落人間の病気とは、「愛の病気」です。すなわちサタンを中心とした愛によって、サタンの虜となり、サタンの血統を受け継ぐようになってしまったことが、堕落人間の病気なのです。言い換えれば、堕落の結果すべての人間は、サタンの血統をもった、サタンの子として生まれるようになってしまったということです。

     

    ◆自己中心という病源



     では、この「愛の病気」は、どのようにして始まったのでしょうか。この病気の始まりは、そもそも自己中心の思いによってもたらされました。自己中心こそが堕落の動機となったのであります。自分を中心として考え、自分を中心として愛を求めようとしたことによって、堕落がもたらされたのです。

     自己中心の愛が堕落をもたらしたのですから、復帰するためには、神を中心とした愛、すなわち自己中心でない愛を求めなければなりません。エデンの園においてアダムとエバと天使長が、自己中心ではなく、神を中心として愛し合ったならば、堕落はあり得なかったことでしょう。この地上で自己中心でない愛、神を中心とした愛をもって、互いに愛の関係を築いた人々が最後に行く所が天国です。これが神のみ言たる原理の基本の基本であります。

     あなた方は自分を愛しているでしょうか。愛しているとしたら自分中心にでしょうか、神中心にでしょうか。一日二十四時間、あなた方は、神を中心として自分を愛していると言えるでしょうか。そう言えない者は、天国へは行けないかもしれません。そういう者は自分に対する束縛から自己を解放する必要があるのです。それは、あなた方が毎日行わなければならない熾烈な闘いであり、その闘いに勝利しない限り、天国に行くに値する人間にはなれないのです。

     もし、あなた方が他人から打たれたら、その人を打ち返すというのが、人間の本性からいって当然のことに思えます。しかしそのような時にもあなた方は、我慢しなければなりません。弱いからではなく神の名において、神の子女たるにふさわしい者となるためには、我慢するほうが良いというのです。

     イエス様は四六時中、神のことを考え、神を中心として生きた方です。だから他人からどのように攻撃されても、サタンに支配された堕落人間がするような仕方で、対応しようとはされなかったのです。イエス様が敵を讃美し、迫害する者のため祈った時、イエス様はサタンのすべての讒訴から解放され、神のみ座と直結することができました。そしてそこから救いのみ業を発揮することができたのです。

     サタンはいつも、人間を自らのほうへ引きずり込むため、人間の中に鉤がないかと探しているのです。普通の人間は、至る所に讒訴条件があるので、サタンはたやすくそれを見つけることができます。しかしイエス様という人は、どこを探しても、サタンが引っ掛けることができる鉤をもっていない方でした。だからイエス様はサタンの讒訴から完全に自由となって、神と一体化することができたのです。イエス様がそのようにしてサタン世界を越えて、神と一つになったからこそ、神はイエス様を百パーセント用いることができたのです。

     それゆえに神はサタンに対して、「サタンよ、お前は私の子イエスを十字架につけて殺したのだから、私は私でイエスを復活させるのだ」と堂々と主張することができました。かくして神は、サタンに対して何の遠慮もなく、自分の力を行使して、イエス様を復活させることができました。このようにイエス様の勝利によって、イエス様を通して新しい世界、新しい秩序、新しい生命が生まれるようになったのです。

     だからこの原理によって考えるならば、人類の救いのためにメシヤが再び来られる時も、その方は、栄光の中に来られるのではなく、むしろ惨めな中においでになり、神がそうされたごとく、すべてを耐え忍ばれて、最後に勝利の栄光を実現されるに違いない、ということが分かるのです。だからそのように、忍耐の道、苦労の道を教える宗教は、どのようなものでもいずれはメシヤに到達するのです。

     

    ◆統一の本義



     では、統一教会とは何でしょうか。「統一」という言葉は大きな言葉です。この言葉のもとに私たちはすべての宗教を一つにすることを願っています。すべての人々を神のもとに帰するために、私たちはすべてを許し合って一つにならなければなりません。それが「統一」という言葉の意味するところです。だから統一教会は、メシヤ的な道を歩まなければなりません。それは安易な道ではなく、苦労の道であり、惨めな道です。始めから終わりまで、人類の最も惨めな最低の状態を通過していく道です。言い換えれば、統一教会は真に「世界の宗教」としての責任を負って行かなければならないのです。

     私たちが、今こうしてここにいるのは何のためでしょうか。それは統一教会のためではなく、世界、天宙のためです。統一教会は正に神と人類のためにのみ存在しているのです。私たちは神の直接の擁護者として、何よりもまず神のため、そして人類のためにある存在です。神がそのように考えておられる以上、私たちもそのように考えなければなりません。私たちは、今苦労と迫害の道を通過していますが、それは私たち自身と私たちの教会のためではなく、神と神のみ旨のために苦労しているのです。私たちがそのように考えない限り、決してサタン世界を乗り越えることはできません。

     この世は、すべてが自己中心的にできています。だから、私たちがこのサタン世界から自らを解放するためには、百パーセント、絶対的に、この世とは異なった生活様式、すなわち、自己中心的な生活ではなく、神中心の生活をしなければなりません。そうすることによってのみ私たちは、このサタン世界から自らを解放することができるのです。

     あなた方が伝道に出かける時、もし、「ああ疲れた。自分はどうもこの仕事には向いていないから、どこかで休んでいよう」などと考えたとしたら、それはとても神を中心とした考え方であるとはいえません。多くの人が、「統一教会のメンバーはよく働く」というかもしれませんが、神の立場からすれば、まだまだ決して十分とはいえません。たとえあなた方がこれまで忍耐して一生懸命頑張ってきたものとしても、ここで音をあげてしまって、“ああ、もう疲れた、もう自分の道を歩もう”と考えたり、さらには、神や統一教会のことを悪く考えるようになったりしたら、サタンはここぞとばかりにあなた方の中に鉤を見いだして、引っ掛け引きずり込もうとするでしょう。

     だからもし、疲れ果てて、もう駄目だと思ったら、“神様、あなたは私よりも、もっと苦しんでおられます。主は私よりももっと苦しんでおられます。私が今このようにして、いるだけでも感謝であります。命ある限り、体の中の血が最後の一滴になるまで、私はあなたのために行きます”というように考えるのです。あなた方がこのように考えて感謝するならば、背後にいるサタンは、あなた方を捕らえる鉤を見つけることができず、あなた方も、イエス様と同じようにサタン圏を乗り越えて、神と完全に一つになることができるのです。

     これが神の基本的な原理なのです。だから、苦労が多くなればなるほど、困難が多くなればなるほど、私たちがサタン圏から解放されて、神の主管圏に近づきつつあるしるしである、ということをはっきり知らなければなりません。

     

    ◆先生の十字架



     今の期間、すなわち一九七六年から一九七七年六月までの期間は、このような意味で、サタン主管圏から私たちを解放する路程の最後の段階なのです。この期間は非常に重要な問題です。アメリカ議会のある消息筋によると、現在、統一教会に関する賛否両論の見解が、多くの人々から寄せられていて、国会議員たちは、そのことで、まるでウォーターゲート事件の時のように忙しくしているとのことです。

     だから私たちは、正に世界的な問題になっているというわけです。今に全世界が、私たちに反対して立ち向かってくることでしょう。いわば私たちは今世界を双肩に担わなければならなくなるのです。だから時間がないのです。私たちの敵は世界的です。彼らは世界中で私たちに反対しているのみならず、時には非常に汚い手を使います。例えば彼らは、その勢力下にある者を、善良なる人間であるかのように装って統一教会に入会させ、そして統一教会の会員として、様々な問題を引き起こさせるのです。そのようにして統一教会の会員が問題を起こしたことにして、統一教会と、レバレンド・ムーンの評判を悪くしようとしているのです。かわいそうなのは先生です。統一教会の外から数々の攻撃を受けるのみならず、内部からも会員たちの行為によって、先生が恥ずかしい目に遭わされるのですから。

     あなた方は、先生をどのように見ているのでしょうか。確固たる信念と、鉄の意志をもち、決して崩れない人間として見ているのでしょうか、それとも、臆病で、神経質で、弱い人間として見ているのでしょうか。先生は自分でも、単なる普通の人間とは思いません。先生は、ある意味では火のように激しい、極端な性格をもっていますが、それは正に神から授かったものです。しかしそれでいながら、あたかも骨のない人間のように、じっと打たれるままに我慢しているのです。

     誰をも呪わず、誰にも復讐しようとはしません。なぜならそうすることが、神の願いであることを知っているからであり、ただ神のみ旨を成就することのみを考えているからです。イエス様は、十字架上の死に際して、なお敵を許し、彼らの祝福を祈りました。しかし、レバレンド・ムーンは、この地上において、生きてこの世から打たれ、迫害される苦しみを通して、敵を許し、この世と、この世の罪人を祝福するという条件を立てたいと願っているのです。

     イエス様は、十字架について死することによって、サタン圏から自らを解放しましたが、先生はこの地上に生きている間に、それを完遂しようとしているのです。そこに大きな違いがあります。なぜ、そうしなければならないかというと、神は、この地上において勝利が実現されることを望んでおられるからです。全人類をサタン主管圏から解放することを使命としている先生は、したがって自ら先駆けて、この地上において勝利の基台を完成しなければならないのです。

     

    ◆新しい日、新しい歴史



     そうしてそのための摂理の絶頂は、ワシントン大会の勝利によって乗り越えることができました。ワシントン大会の勝利ののち、今年の二月二十三日、御聖誕記念日に、先生は、天地を前にして特別なお祈りをして、この日から新しい日と新しい歴史が始まったことを宣言しました。正に新しい日と新しい歴史と言うのにふさわしい出発がなされたのです。

     それからまた、きょうは、十八回目の「父母の日」です。人間は十八歳になればもう大人であり、アメリカでは州によっては、十八歳で選挙権が与えられるところもあります。厳密にいえば女性が先に成熟して、十八歳で大人になり、男性は二十一歳で大人になるのです。だから十八回目の「父母の日」から、二十一回目の「父母の日」までの三年間は、本当に多くのことが成される期間となります。

     この期間は、私たちが統一教会の権威を復帰する期間となるでしょう。神は、何もレバレンド・ムーンと統一教会に対して、いつまでも、骨のない人間のように、打たれっぱなしで我慢していなさいと命令されているのではありません。条件が満ち、時が来れば、神は私たちに対して個人、家庭、社会、国家、世界のすべての基準において、神側の権威を宣言するように命じられるでしょう。これまでは私たちは堕落したサタン主管圏内において、忍耐してきました。しかし、いつの日か時が来れば、私たちの権威を宣言し、主張することができるようになることでしょう。

     長い神の歴史において、神はそのみ旨を真に実現してくれる人間が現れる一日を、待ち望んできました。だからもし現実にそのような人間が現れ、神に代わってサタンに勝利し、神の勝利をこの地上で宣言する時が来たとしたら、それは神の歴史において最も偉大な、記念すべき時であるといえます。先生は既にそれに勝利しました。だから、たとえ今死んだとしても、天の前に堂々と勝利者として立ち、勝利者の栄光を受けることができるのです。

     

    ◆天の主権



     しかしながら先生が確立した復帰の公式は、サタン世界が残っている限り、引き続き適用されなければなりません。先生がサタン世界に勝利し、これを乗り越えたと宣言する時、それは先生だけが乗り越えたことを意味するのではなく、全霊界もまた、サタン世界を乗り越えたことを意味するのです。

     霊界は天使界に相当しますが、本来天使は、アダムの僕としてアダムに従うものとして造られたものです。だからアダムが行く所にはどこへでも、霊界がついてくるのです。この意味で先生は、今や全霊界を背後に従えているわけです。したがって神は、先生を中心として、この地上に新しい主権を宣言したことになり、これからはこの主権に反抗する者たちは、かえって損害を被るようになるのです。

     アメリカは偉大なキリスト教国です。しかし、もし、アメリカが、この天の主権に反対するようなことがあれば、アメリカはその時から衰退せざるを得なくなることでしょう。これまで二〇〇〇年間発展してきたキリスト教が、一九六〇年ごろからこれまでの約二十年間に、著しく衰退してきた最も根本的な原因は、実にキリスト教が、この新しい天の真理と主権に反対するようになったからです。キリスト教がこれを改めない限り、今後キリスト教文化圏がますます衰退していくのは避けられない運命です。

     だから結論としていうならば、もしキリスト教が、悔い改めて真理を受け入れるならば望みがありますが、そうでなければ、もはや希望がないのです。また、アメリカについても、もし悔い改めて真理を受け入れるならば希望があります。そうでなければ、今後ますます衰退していかざるを得ないことになるわけです。こういうことを聞くと、中にはそれはあまりに大言壮語である、と思う人がいるかもしれません。またこういう言い方を好まない人がいるかもしれませんが、こう言わざるを得ません。先生は真実をありのままに語っているにすぎないのですから。

     

    ◆七年路程



     しかしながら、私たちは統一教会だけが栄えて、他の人々が滅んでいくことを願ってはいません。それは神のみ意ではないからです。神はあなた方に、この天の主管圏からこの世界に出ていって、そこに住む人々を救うために命を懸けて努力せよ、と命じておられるのです。だから先生もあなた方に、この世界に出ていって人々を救え、と命じざるを得ないのです。あなた方は、先生が歩んだと同じ路程を歩まなければなりません。先生は、この道を三十年以上歩んできましたが、あなた方もまた、安易な道ではなく、苦労の道を歩まなければならないのです。なぜなら、まだ蕩減条件を十分に立てていないからです。

     ではその蕩減条件を十分に立てているかどうかを証明するのは誰かというと、それはサタンなのです。ですから、サタン世界に出ていって、サタンから蕩減条件が十分であることを証明するサインをもらってきて、それを神様に見せるのです。サタンが認めてこそ初めて、神様も認めることができるのです。こういうことから神には何の力もないかのように見える時があるのです。神は、何よりも人間自身が努力して、サタンに勝利してくるのを待っておられるのです。

     あなた方が先生についてきたいと思うなら、安易な道を選ぶべきでしょうか、それとも苦労の道を選ぶべきでしょうか。苦労して、神様と先生を愛するのと同じくらい、そしてサタンに認められるくらい、サタン世界を愛さなければならないのです。そのようにして初めて、神様からも神様を愛した、と認められるのです。しかしあなた方が、神様と先生以上に世界の人々を愛したとしても、神様も先生も決して不平は言いません。神様御自身がそうなるようにあなた方を導いておられるのですから。

     私たちが神様の前に出るためには、二つのものが必要です。第一は、霊の子女であり霊の子女をもつことによって、あなた方は霊界を解放することができます。第二は肉の子女であり、肉の子女をもつことによって、地上界を解放することができるのです。この二つを得るために、あなた方もサタン世界に出て行って闘わなければなりません。ですから普通、統一教会に入ってから最初の三年間は、霊の子女を復帰するために邁進しなければならない時であり、祝福を受けてからの約三年間は、肉の子女を得るための準備をする期間となります。

     ですから全部で七年間の路程を行かなければならないのです。天地創造のために七日間の路程があったのと同じ意味で、統一教会の食口は七年間の路程を行かなければなりません。三十六家庭であろうと、教会長であろうと、単なる会員でろうと、この原則には変わりありません。この路程を通過しない者は、先生に従う者としてふさわしくないのです。先生は今なお苦労の道を歩んでいるのです。

     今日、先生ほど真剣に、神のみ旨を考え、それを実現しようと努力している宗教家がほかにいるでしょうか。神のためには何ものをも恐れず、すべてを懸けて、神のメッセージを宣べ伝えようとしている人。それがレバレンド・ムーンその人なのです。

     今、この話を聞いているあなた方の中には、共産主義のスパイや、政府関係者や、マスコミ関係者がこっそり入り込んでいて、レバレンド・ムーンの話に何か問題となることがないかと聞き耳を立てているかもしれません。たとえ、そういう人がいたとしても、先生は何も遠慮することなく堂々と話します。もし言うべきことは言わなかったとしたら、神の命令に従っていることにはならないからです。

     

    ◆真の父母になるまで



     世界を真に復活せしめる者は誰か。それはキリスト教でも、ローマ・カトリックでも、まして共産主義でもありません。それをなす力と確信をもっているのは、私たち統一教会をおいてほかにはありません。それは正に私たちの責任であります。私たちの決意なのです。

     第十八回目の「父母の日」というこの意義ある日にあたって、私たちはいま一度、私たちの使命は何か、私たちは今どこに立っているかを深く認識しなければなりません。堕落によって人間は自己中心的になり、自己を中心として愛を求め、サタンの血統に生きるようになってしまったのですから、私たちがサタン圏から解放されるためには、まず私たち自身が、自己中心の人間から脱却しなければなりません。そうすることによって、私たちは善なる天使界に相当する立場に、立つことができるのです。

     次に重要なのは愛によって霊の子女を生み殖やすことです。霊の子女を育て、一人前に完成させることによって、あなた方もまた、完成した立場に立つことができるのです。このような霊の子女を少なくとも三名立てたとき、それを基台としてあなた方は、自分自身の肉の子女を生み殖やすに値する者となれるのです。

     神が、エデンの圏でアダムとエバを創造された時、神は一人で人間を創造されたのではなく、天使の助けをかりて、天使と共に人間を創造されました。同じように再創造である復帰の過程においても、私たちが自らを再創造するためには、神の助けと天使の助けを共に必要とします。そしてこれらの助けによって初めて私たちは、自分自身を、完成したアダムへと再創造することができるのです。そうしてのちに、自ら自身の子女を再創造することになります。

     これらの過程を通過するには、七年間が必要です。それゆえに、あなた方が完成に至るためには、三段階を通過することになるのです。第一段階は、堕落したサタン世界から分別することによって、復帰された天使の位置に立ちます。第二は復帰されたアダム、エバの位置に立つ段階です。さらに第三は、子女を生むことによって父母の立場に立つ段階です。子女がなければ父母となることはできません。

     私たち自身は、サタン世界の中に生まれてきたのですから、復帰されたとはいっても、完全にサタン世界から分別しているわけではありません。しかし、私たちの子女は、祝福によって神の血統の中に生まれてきますから、私たちもそれらの子女によって、より高い基準にまで高められるのです。ですからそれらの子女が成長し、結婚するまで、あなた方は本当に細心の注意と愛を注がなければなりません。

     ではあなた方が、サタンの血統圏から神の血統圏へ入籍した、と認められるのはいつかというと、真の父母によって祝福される時です。この世に多くの結婚が行われていますが、それらはすべてサタン圏の中での結婚です。私たち統一教会が、真に誇り得るのは、私たちの結婚は神のみ名によってなされ、それを通して、神の血統圏に入籍したと認められる祝福であるということです。

     私たちは祝福を通して、堕落と逆の経路をたどることにより復帰されるのです。先生はこの秘密を解明することによって、サタンの妨害を退けて堕落人間が神に帰る復帰の道を開拓したのです。こうしたすべての路程を開拓するためには、誰かが、人一倍苦労して、道を切り開かなければなりませんでした。先生はこの道を開拓して、復帰の公式を確立したのです。あとに続くあなた方はこの公式をよく理解して、それを応用して歩みさえすればいいのです。だから、復帰されるためには何が必要かというと、子女が必要なのです。サタン世界から最初に復帰されるときは一人ですが、完全に復帰された段階に到達するためには、子女をもたなければなりません。

     最初に必要な子女は霊の子女です。あなた方は、霊の子女を基台として祝福を受け、肉の子女をもつことができるようになるのです。それらの子女がどんどん生み殖えることによって、あなた方を中心として、あなた方の家系が拡大していくことになるのです。すなわちあなた方自身がそれぞれの家系における真の父母の立場に立つのです。

     先生の願いは、あなた方すべてが真の父母になってくれることです。これは単なる理論ではなく、先生自身が実際に歩んできた路程であり、この路程の公式が、個人、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙へと拡大していくのです。

     

    ◆我らは正統中の正統



     先生はこれら一つ一つの水準において、自ら勝利することによって、サタンからの解放を宣言してきました。個人の解放、家庭の解放、氏族の解放、民族の解放、世界の解放、天宙の解放、そしてさらには、「神の解放」を宣言したのです。これまで悲しんで来られた神が、先生によってついに解放されたのです。これこそ恐るべきことではないでしょうか。あなた方にはこの重大な意味が分かるでしょうか。

     先生がこのようなことを言っているのをキリスト教の牧師が聞けば、きっと、“レバレンド・ムーンは異端だ”などと考えることでしょう。しかし、神の国から見て、どちらが正統で、どちらが異端でしょうか。レバレンド・ムーンの言うことこそ、「正統の中の正統」であることが、いずれ分かる時が来ることでしょう。

     私たちは、復帰の聖業をすべて、霊界と地上界の両面においてなさなければなりません。地上でなすべきことをしないで、霊界へ行った場合には、霊界から地上に降りて来なければならなくなります。先生は、ここではっきりと宣言します。「統一教会の食口は、三人以上の子女をつくらなけば、祝福を受ける資格がありません」。イエス様は、霊の子女を基台にして祝福を受け、地上に真の父母として立つことが願いだったのです。しかし、イスラエル民族の反対により、その願いを果たすことができませんでした。

     だからイエス様は、再び人間としてこの地上に再臨しなければならないのです。もしイエス様が、クリスチャンの多くが信じているように、雲に乗って天からやって来るようでは神の願いを果たすことはできません。それどころかキリスト教全体が、無力となって崩壊せざるを得なくなるでしょう。

     人間始祖の堕落は、決して霊界において起こったのではなく、この地上においてなされたのですから、復帰も、正に、この地上においてなされなければならないのです。天国は、まずこの地上において実現されなければなりません。イエス様は、天国建設の鍵をこの地上に残して行かれました。だから、マタイ福音書一六章に、「地上でつなぐことは天でもつながれ、地上で解くことは天でも解かれる」と書かれているのです。この意味が分からなくては、聖書全体の意味を理解したことにはなりません。

     私たち統一教会は誇り高き存在です。私たちは神のみ旨を成就し、天国をこの地上に建設するために、神によって直接選ばれて集まってきました。私たちの使命は、この地上からサタンを追い払い、天地に神の栄光と勝利を宣言することです。「復帰の公式とは何か」について、もう、よく分かったことと思います。しかし大事なことは、その公式に従って「歩む」ことであります。今日のクリスチャンたちはある意味でこの点をあまりにも安易に考えています。彼らはただイエス様を信じさえすれば、それで自動的に天国に行けるかのように考えていますが、それはあまりにも安易な考え方です。神のみ旨は、そのようなことでは決して成就するはずがありません。神の見地からすれば、そのような考え方こそ異端です。異端は統一教会ではありません。終末が近づくと、すべてのものが混乱し、真実が偽りのように、偽りが真実であるかのように見えてきます。そうしたことが、正に今日起こっているのです。

     レバレンド・ムーンの統一教会は正しい真理を語り実践しています。それなのに外部の人々の多くは、先生が怪物か何かのように考え、マフィアよりも悪いと思っているのです。先生は科学も数学も勉強して知っていますし、科学的真理に基づかないでたらめなことをするような馬鹿ではありません。

     

    ◆誰よりも我を愛せよ



     では、なぜ世界が統一教会に対して反対するのでしょうか。答は簡単です。彼らは私たちを恐れているのです。ユダヤ教とカトリックは過去二〇〇〇年間争ってきました。カトリックとプロテスタントは過去四〇〇年間争ってきました。それなのに統一教会に対しては、ユダヤ教も、カトリックもプロテスタントも、一致して反対しています。これを見て一般の人々は、レバレンド・ムーン一人に対して、ユダヤ教と、カトリックと、プロテスタントが一緒になって反対するからには、彼は大した巨人に違いないと考えているのです。

     また、このようにして、これまで相争ってきた、ユダヤ教と、カトリックと、プロテスタントが団結していることは、将来、神を中心として、これらの三つの宗教が団結する可能性があることを示しています。この点では喜ばしいことです。いずれにしろ、レバレンド・ムーンと統一教会がなかったら、これら三つは団結することはあり得ないことでしょう。ここにも統一教会の役割があるといえます。

     私たち統一教会の食口が伝道に行く目的は二つあります。一つは、言うまでもなく、霊の子女を獲得することであり、もう一つは統一教会の親戚を復帰することです。統一教会にとって、プロテスタントは最も近い親戚ですし、その次はカトリックまたユダヤ教も、他の二つよりは遠いけれども、やはり統一教会の親戚です。また、信仰をもたない人々といえども、私たちにとっては遠い親戚です。このような親戚の人々を復帰することが、統一教会の任務なのです。

     あなた方が蕩減復帰の道を歩む中において、それはあくまで条件的なものであることを知らなければなりません。あなた方だけで蕩減条件のすべてを支払うことは不可能ですが、わずかな条件を立てることによって、復帰の道を飛躍的に進むことができるのです。ではどのような条件によって、それが可能となるのでしょうか。お金でしょうか、権力でしょうか、それとも知識でしょうか。永遠に変わらない条件とは何なのでしょうか。それは愛です。永遠の愛、これこそがそういう条件となるのです。

     イエス様はメシヤとして、二つの使命をもってこの地に来られました。外的使命と内的使命です。外的使命とは、王の王としてこの地上を治めることであり、内的使命とは、父母として人類を愛することです。イエス様といえども、権力によって真の父母となることはできません。では何によるかというと、それは愛によるのです。いかなる愛か。サタン世界のすべての愛を合わせたよりも、もっと高く、深く、広い愛です。イエス様はそのような愛をもっておられました。だからこそ、イエス様は人々に対して、「我を愛せよ。あなた方は自分の王、自分の父母、夫、妻、子供、恋人を愛するよりも、もっと、私を愛さなければ私にふさわしくない」と宣言されたのです。

     そのように、堂々と言うことができないようでは、メシヤとなる資格はありません。イエス様は真に、誰よりも大きな愛で人類を愛する方でありましたから、このように堂々と宣言されたのであり、その意味で、正にイエス様は、真実メシヤであられたのです。イエス様は、最高の愛で人類を愛する自信があったからこそ、そのように宣言されたのです。

     

    ◆愛の貿易



     これはすなわち、当時の人々についていうならば、自分たちの王や家族以上の大きな愛でイエス様を愛したならば、彼らは、イエス様と共に天国を築くことができたはずでした。それと同じように、あなた方も、あなた方の父や母や兄弟や子供に対する以上に大きな愛で、主を愛するならば、あなた方は天国の市民になる資格ができるというのです。イエス様は、いわば愛の貿易のために地上に来られたようなものです。イエス様は、神の愛をもって来られたのですから、当時の人々は、彼らのもち得る最大の愛をイエス様に与えるべきでありました。人々にとって、これは決して損な取り引きではなかったはずです。なぜなら、イエス様を愛することによって、結局は、イエス様、さらには神の愛をも得ることができる立場にあったのですから。だからこそイエス様は「誰よりも我を愛せよ」と宣言されたのですが、当時の人々には、そのことの意味がよく分からなかったのです。そのために、イエス様は、あたかも大言壮語する者、神を冒涜する者のように思われ、ついには十字架にかけられるようになってしまったのです。

     メシヤたる者の道は、実にいばらの道であります。神は、正に不可能なことをせよと命じられるのです。それをしなければならないのがメシヤの役割だというのです。あなた方の中で、メシヤになりたいと思う者がいるでしょうか。メシヤたる者は、神の命令によって、普通の人の目には気違いのように見えることさえもしなければならないのです。決して生易しい仕事ではありません。それをなし得る力は愛の力だけです。真の愛は時間、空間、そして歴史を超越するからです。

     神は、愛を最高のものとして創造されましたから、真の愛は何ものにも支配されないのです。

     あなた方の中にいる中年の女性はお分かりになることと思いますが、初恋というものは、いくつになってもきのうのことのように、甘い思い出として感じられるものです。だから今でも、もう一度初恋の味に浸りたい、という思いをもつことがあるはずです。愛は時空を超越します。もし、恋人が南極にいたとしても、遠く離れているからといってそれだけ愛が弱まるものでしょうか。愛は、時間、空間によって限定されるものではありません。真の愛は何ものによっても変えられないのです。神すらも真の愛を変えることはできないのです。真の愛は、始めから終わりまで不変なるものです。

     例えばこの小さなハンカチが、ある愛する人の愛を象徴するものであるとしたら、その人にとってそのハンカチは、アメリカ大陸に勝る価値をもっていることでしょう。このように愛は、時空を超越するものであるがゆえに、愛のみが天国を復帰するための条件をつくることができるのです。

     

    ◆真の父母を求めた歴史



     では真の愛、歴史的な愛を復帰するためには、神はどのような路程を経て働いてこられたのでしょうか。私たちはそれを知らなければなりません。人間の堕落によってすべてが、天使界も、万物すらも、創造本然の世界から堕落世界におかれるようになってしまいました。だから復帰とは、これらすべてを、神と一体化した状態に、もとがえすことでなければなりません。

     本来人間は、神に最も近い存在として創造されたにもかかわらず、堕落によって神から最も遠く離れた存在となってしまいました。したがって堕落した人間は、何かを通してでなければ神に帰ることができないのです。

     旧約時代には、万物が神と人間とをつなぐ仲介者となりました。人間は万物を供え者として捧げることによって、神につながろうとしたのです。このように旧約時代においては、人間は、万物を通して下僕の段階におかれていました。その後イエス様が神の子として来られ、下僕の立場にある人間を、神の子女の立場に復帰しようとされたのです。イエス様御自身は、神の子の立場から、人類の父母の立場に立つべき使命をもっておられました。だから聖書には、イエス様のことを「祭司長」とか、「神の子」とか書かれているのです。しかし、「真の父母」とは書かれていません。それはイエス様が、その段階まで到達することができなかったからです。イエス様の時こそ、人類が下僕の立場から、神の真の子女にまで一気に復帰される絶好の機会であったのですが、イスラエル民族の不信仰により、このみ旨は成就されなかったのです。そこでイエス様は、自らを供え者として捧げることにより、将来再臨されるための道を直くする条件を立てられたのです。これによって新約時代が始まりました。

     その後の二〇〇〇年間は、十字架上に供え物となったイエス様をメシヤとして信じることによって、人類が神の養子の段階にまで復帰することができる期間となりました。さらにまた、この期間は、将来、来られる再臨主を迎えるための基台をつくる期間となったのです。再臨主は人類の父母となるべく来られて、人類は再臨のメシヤを通して、神の真の子女として復帰されるのです。

     

    ◆大いなる供え物の日



     イエス様が来られた時、イエス様を迎える基台として準備されていたのは、内的にはユダヤ教、外的にはイスラエル国家でした。再臨主が来られた時には、内的にはキリスト教、外的には自由世界が再臨主を迎え、これを支える基台とならなければなりません。キリスト教と自由世界が再臨主を迎えて、これと一体化するならば、共産世界を含めて全世界が、神のもとに復帰されるのです。復帰の路程においては、必ずアベルとカインの間に抗争があり、アベルとカインが一体化したときに、復帰摂理が推進されるのです。

     現在、統一教会とキリスト教、統一教会とアメリカ国家とが対立している関係にあります。もしこの三者、すなわち、統一教会とキリスト教とアメリカが一体化する道が見いだされるならば、世界の復帰は短期間になされ得るのです。しかしながら、現実には、キリスト教もアメリカも、私たちを歓迎するどころか、反対している現在です。もし、このまま反対し続けるならば、私たち統一教会は旧約時代、新約時代を蕩減復帰する基台を、自らの手によってつくらなければなりません。万物を復帰する時代に相当する旧約時代、子女を復帰する時代に相当する新約時代、父母を復帰する成約時代。この三つの縦的な蕩減復帰を今、統一教会は、横的に復帰する条件を立てつつあります。

     第一に統一教会は、今や自らの土地、建物、さらに、多くの部門の経済力を有しています。第二に、私たちは数多くの青年たちを神の子女として復帰しつつあります。第三に、私たちの運動の中に、既に祝福された家庭がたくさんでき上がっています。

     統一教会内において、万物と子女と父母という三つの要素が横的に展開されています。このように統一教会は、現代のこの時点において、旧約時代、新約時代、成約時代を象徴する、万物、子女、父母を一度に復帰する条件を立てつつあるのです。私たちは、これらを供え物として、神に捧げています。そして神がこれらを受け入れ、これに対して恵みを返してくださる時、天国がこの地上に実現されるのです。

     一九七二年に先生が、アメリカに来てからこれまでの期間に、先生は世界的な規模で、これらの万物、子女、父母を神に捧げる条件を立てることに成功しました。なぜなら、ニューヨークは全世界を象徴する所だからです。このニューヨークにおいて、土地や建物等の経済基盤と人材を復帰し、神に捧げたことは、世界的に、万物と子女を捧げた条件となるからです。また、全世界を象徴する供え物を捧げる条件とするために、ニューヨークにおいて投入されたお金と人材は、全世界の兄弟姉妹たちの血と汗と涙の努力によってまかなわれました。

     そして、この供え物の最大なるものが、ワシントン大会の勝利だったのです。一九七六年九月十八日は、復帰摂理において、正に全世界的な規模における「供え物の日」だったのです。ワシントン大会には、全世界の人類を象徴する、すべての人種が集まりました。そして、神がこの供え物を受け入れてくださるように心を合わせたのです。

     このような意味でこの日は、復帰歴史上において、輝かしい勝利の日でした。全霊界が、勝利を宣言したのです。地上においても、神を愛するすべての人々が勝利を宣言し、祝うべきでありましたし、アメリカ自体が私たちと共に勝利を宣言し、祝うべきであったのです。しかし、アメリカはそれをなすことをしなかったのです。

     

    ◆どれほど真剣だったか



     ワシントン大会を決行しようとする過程において、様々な障害がありました。多くの人々が、「ワシントンでそのような騒ぎをするのは、ためにならないから取りやめてはどうか」と進言してきました。統一教会の幹部の中にさえ、「財政的にも技術的にも、困難が多いから、今ワシントン大会を行うことは不可能だ」と言う者がいました。

     しかし先生は、断固として言いました。「これは先生の一生一代の勝負である。いかなる犠牲を払っても、成し遂げなければならない。私たちのもてるすべての力をこの勝利のために捧げなければならない。それは神のために捧げる供え物なのだ」と。

     先生は、ワシントン大会は、レバレンド・ムーンのためのものではなく、神自体にとって、のるかそるかの大勝負であり、それだけに、先生以上に、神御自身が必死であることを知っていました。だから必ず神が働き、私たちはきっと成功するだろうということを知っていました。それが、その時の先生の確信となっていたのです。

     一九七六年九月十八日、大会が始まる前の先生の気持ちは、正に死刑囚が死刑を執行される日のように真剣なものでした。その数日前から朝食と夕食とを取り違えるほどに時間の経過すらも分からないほど、必死だったのです。九月十八日の大会は、正に復帰摂理歴史上における最大の善悪闘争の時であり、統一教会の浮沈をかけた一大決戦でありました。これに勝利するためには、何としても神と霊界の協力が必要です。しかし神と霊界が働くためには、何よりも人間が命懸けで頑張らなければならないことを、誰よりもよく知っていましたから、先生はそれこそ真剣だったのです。

     ワシントン大会に、多くの人々が集まり、雨も降らず、事故もなく、始めから終わりまで大会が見事に成功裏に行われたのは、正に神の力が働いたことによる以外の、何ものでもありません。人間の力だけでは不可能なことを、奇跡的に成し遂げたのですから、正に、神が働いたとしか言いようがないのです。

     ワシントン大会の時、一人の男の子が迷子になって行方が分からなくなってしまいました。ラジオやテレビでもそのことが報じられました。しかしその子は、三日目に無事に発見されたのです。それを聞いて先生は、このことは、神から離れてしまった人類が、必ず神のもとに復帰されることを見事に象徴している、と思いました。人類の復帰は必ず成る、と先生は確信したのです。

     このワシントン大会の成功は、実に大きな成果です。アメリカの歴史においても、一九七六年九月十八日は、レバレンド・ムーンが築いた最も意義ある日として記録されることでしょう。先生が太平洋を渡ってアメリカへやって来た時は、全く孤独でした。しかし先生は、神に対して深く祈り、必ず勝利すると誓いました。それから三年半後に、見事に、なすべき責任を果たしたのです。

     ワシントン大会の勝利によって、その後一九七六年十月四日を「天の勝利の日」と宣言し、さらに一九七七年二月二十三日には「天地の勝利」を宣言することにより、霊界と地上界のすべてが許され、解放されることが宣言されました。こうして新しい時代が出発しました。新しい天の歴史が出発したのです。そういう理由により、きょうの第十八回目の「父母の日」は、極めて意義深い日となりました。

     

    ◆アメリカを救うもの



     以上述べたことにより、統一教会が先生を中心として、何を成さんとしてきたかが、よく分かったことと思います。なぜ、私たちが経済力を必要とするのかが、今はよく分かったでしょう。経済は万物を象徴しますが、その経済力がこれまですべて、サタン圏の支配のもとにおかれてきたのです。私たちは、これを神のもとに取り戻さなければなりません。そのために先生は、この世のいかなる企業の経営者よりも努力してきました。先生は、自分のためではなく神のみ名のために、経済においてもこの世の誰よりも勝るものとなって、神のかたきを討ちたいのです。

     先生は、あなた方、一人一人を心から愛しています。あなた方のすべてが、神の子女として力強く成長し、偉大な人物になってくれることを、切に願っています。キリスト教をはじめ、宗教が衰退しつつある今日、これらに代わって使命を果たすのは、あなた方において、ほかにはないのです。

     先生は韓国人であり、アジア人です。そしてここは世界一豊かな国、アメリカです。しかし驚くべきことに、アメリカにおいて私たちの運動を、ここまで発展させていくために費やしたお金は、アメリカのお金ではありませんでした。韓国、日本等の兄弟たちが貧しい中を血と汗と涙を流して、アメリカのために捧げたお金を用いたのです。先生はアメリカが、神の国に非常に重要な国であることを知っています。だからこそ、アメリカを愛するために、自分の国やアジアを犠牲にしても、アメリカのために尽くしてきたのです。

     それでは、アメリカの役割は何でしょうか。先生はアメリカに対しては、今までアメリカのために用いたお金を返せ、などと言うつもりは毛頭ありません。アメリカに対して願うことは、アメリカの富と人材を、真に世界のため、各地で苦しんでいる人々を救済するために用いてほしいということです。アメリカがこの使命を果たすならば、アメリカは永遠に祝福された、最も豊かな国として繁栄するでありましょう。

     愛こそ鍵です。愛こそすべてのものを結びつける力です。私たちは、愛によって、すべてのものを神にもたらさなければならないのです。そうすれば神も、私たちに祝福を与えてくださるでしょう。それによって地上天国が出発することになるのです。

     先生は、外部の人々が何と言おうと気にしませんでした。ただひたすら、使命を果たすことに努めてきました。アメリカに住む多くの人々が安楽な生活を楽しんでいる間も、私たち兄弟は清貧な生活を我慢してアメリカのために働いてきました。アメリカを救うために、何度も断食までしたのです。アメリカの若者の多くが、自己の快楽をのみ追い求めて、安易な生活をしている中を、先生は、あなた方に対して苦労の生活を強いてきました。先生は、アメリカのためには命さえも捧げる覚悟をしています。先生はかわいそうな人間です。ただひたすら神のために、このような道を歩まなければならないのです。神のおかげで今日のアメリカがあるのです。のみならずアメリカは、統一教会のあなた方のおかげでによって今日あることを許されているのです。

     先生は、あなた方を心から愛しています。しかし、現在の状況のもとにおいては、あなた方に優しくすることはできないのです。それは今日の場合、あなた方に対する愛の表現とはならないのです。むしろ残酷なまでに厳しくむち打たねばならないのです。あなた方が苦労してつくるお金は、一ドルといえどもアメリカ全体の富の代表であり、あなた方が苦労して伝道してくる人々は、一人一人がアメリカ人全体の代表です。

     先生は、このことを思うたびに神に対して、このように国を代表して神のために努力しているメンバー一人一人をどうか祝福してください、と祈らずにはいられない気持ちになります。あなた方の、もたらすお金の一つ一つに、あなた方の汗が込められており、あなた方が連れてくる一人一人に、あなた方の涙が込められていることを先生はよく知っています。それは、あなた方の血と涙と汗の苦労の結晶であることを。だからいかなるものよりも貴く、価値があるのです。












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    25_創立以前の内的教会史

     御旨と世界
    (全面表示)

     



    創立以前の内的教会史


    1977年5月1日



    ニューヨークベルベディア

    ◆はじめに



     縦的な摂理歴史を横的に蕩減復帰することによって、み旨を成し遂げようとして、歴史の中に働いてこられた神は、韓国においても、教会を創立した一九五四年よりはるかに前から働いてこられて、「新時代が来たり、大いなるみ業が成されん」と韓民族に約束された預言を成就してこられました。これは私たちの教会の創立に関連しての、最も重要かつ偉大なる、神のみ業についての証です。

     

    ◆復帰路程の三段階



     原理的観点から見て、神の摂理路程は三段階に分けられます。神自身を中心とした摂理、天使界を中心とした摂理、そして人間を中心とした摂理です。

     まず旧約時代は、神が直接働き給うた期間であり、未来の摂理基台を造成する準備をするために、神御自身自ら先頭に立って、自ら模範を示しながら導いてこられました。次の新約時代は、天使を中心とした摂理時代であり、天使界の働きに相当する霊的摂理として、霊的救いのみを成就する時です。そして最後の成約再臨時代は、実体人間の摂理です。そして人類歴史の終末期において、これらの神の摂理全体を代表する国、すなわち歴史の主要なる局面のすべてを縦的に取り戻す、一なる実体国家が現れなければなりません。

     ここでアブラハムの供え物について見てみますと、彼は、祭壇上に鳩と羊と雌牛の三種の供え物を捧げました。ところがその時、鳩と羊は一対でしたが、雌牛だけは単独で捧げられたのです。それは摂理歴史において、一対の鳩で象徴される蘇生期と、一対の羊で象徴される長成期は成就しましたが、一頭の雌牛で象徴される完成期だけは、まだ成就しないことを意味するというわけです。そしてそのいまだ成らざる人類史の最後の章を成就するために、韓国が神によって備えられました。ですからこの国において、アブラハムの供え物のすべてが、横的に、実体的に現れなければなりません。

     またこの国において、旧約時代を代表する神のみ業と、新約時代を代表するイエス様と聖霊の役事と、成約時代を代表する再臨の主のみ業が現されなければならないのです。それらのすべての摂理の基台が、この地上のどこかに実体的に立てられなければならないからです。

     

    ◆女性の道



     神の最終目的は、一人の完成されたアダムの創造でありますが、そのためには、エバが見いだされずしては、アダムは生まれ出てきませんし、エバを通してのみ、アダムも完成することができるのです。言い換えればアダムは、神によって送られた中心人物ではありますが、アダム一人だけでは全責任分担を全うすることはできません。エデンの園における人間堕落の動機については、全面的にエバに責任があるのですから、復帰においても、堕落の蕩減をするエバが現れて、その責任を果たさなければ、アダムの完成の道がないというわけです。

     しかしまた、そのエバもまた、アダムなしには完成する道がなく、エバが完成するためには、まずアダムを生み出し、そのアダムから創造されなければなりません。結局、まずアダムが、この地上に生まれ出てこなければならないことになりますが、そのことに対しては、直接責任があるのは神でもイエス様でもなくて、その責任はエバにあるのです。エデンの園でも、エバがアダムを破滅させたのですから、アダムを育て、生み直す責任はエバにあるというわけです。

     二〇〇〇年前のイエス様の時には、洗礼ヨハネがそのイエス様の相対の使命をもっていて、彼の使命が完遂されることによってイエス様がメシヤとして来るようになっていました。同様に再臨主の時には、エバ(女性の代表者)が洗礼ヨハネの役割を果たさなければなりません。しかも二〇〇〇年前には国家基準においてでしたが、再臨時代においては天宙的基準においてその使命を果たさなければなりません。

     復帰摂理は、神の王座という最高の立場から出発するのではなく、人間としてのあらゆる面で、最低の立場から出発しなければなりません。なぜなら、アダムにこそ全人類の復帰に対する全面的な責任があるのですから、アダムは、その路程を地獄の最低の所から出発して、あらゆる人間の立場をすべて体験しながら、神の王座に至るまで上がっていかなければならないのです。そしてそこでエバに会い、初めはそのエバに仕えて、自らをアダムとして完成させていかなければなりません。

     女性のもち得る最も尊い名称は、「母」でありますが、アダムは、その尊い自分の母に仕えるごとく、エバに侍らなければならない期間があるのです。また女性のもう一つの名称は妻あるいは花嫁であり、第三には、母、妻という家庭内にとどまる存在に対して、外的にはすべての女性の立場と栄光のうち最も高いものである女王です。そしてもちろん、これらのすべてを総合した神の国の女王が、女性だというわけです。女性は最終的には、このように三つの局面をもっているのです。

     女性なら誰でも、もし、「あなたは良き母になれると思いますか」と問われたら、女性なら当然のこととして普遍的に、「はい」と答えることでしょう。それは「良き妻になれると思いますか」と問われたときも同様で、普遍的に「はい」と答えるでしょう。事実、女性である限り誰でも普遍的に、母と妻の役割はうまく果たせますし、これらの名を得る資格があります。

     しかし、「あなたは女王になれると思いますか」と問われた場合、現実には社会においてすべての女性が一国の女王になれるわけではありません。誰が女性に女王の名を与え、その資格を認めるのでしょうか、神様でしょうか、それともイエス様でしょうか。

     原理的にも、エバは、アダムに会うまではその名を与えられないというのです。しかし歴史を通して、この地上に数知れない多くの男性がいましたが、そのすべてが堕落したアダムの立場でしたので、実際は神の側の女性にとって、一人も真の男性がいなかったというわけです。ですから女性は長い間その名を受けることができず、歴史を通して常に誤った扱いを受け、虐げられてきたのです。そして歴史を通して、悪なる人、悪なる家庭、悪なる社会、悪なる国家、そしてサタンから悪なる方向に利用されてきました。

     

    ◆女性解放史の原理的背景



     それではいつ女性は解放の時を迎えるのでしょうか。キリスト教はこれを明らかに示しているのですが、すべての女性は一人の完成した男性を待ち望んでいて、その男性に会うまでは命によみがえることができないのです。ですから過去の全歴史を通じて、惨めな女性の歴史が続いてきました。

     このように常に縛られてきた惨めな女性の立場に対して、一九一八年から一九八八年までの約七十年間は、多くの女性上位運動が起こり、女性の位置が向上してくる時で、男性を支配しようとする女性たちすら出てきます。最も典型的なウーマン・リブ運動の国はもちろんアメリカですが、今日のアメリカ社会でなら、ある意味ですべての女性が普遍的に、女王の役割を果たしているともいえます。この国では、女性たちが主人のごとく振る舞い、男性たちは小さくなってビクビクしていることが多いのです。

     しかし本来の女性の立場はこういうものではなく、歴史的にも、聖書に書かれたヘブライ史を見てみると、女性の権利などというものはほとんど与えられていなかったことが分かります。そして神の摂理の中心的役割を果たしてきたのもすべて男性であるというように、聖書的概念によると、現代のかかる主管性転倒的状況は、正に異常な事態であるといえます。また聖書には女性は「ベールを被るべし」とありますが、それは女性は謙遜であるべしという意味であって、謙遜な立場で夫に会おうとする、ヘブライの女性の立場を表しています。

     しかし、現代においてはどうかというと、ベールを被るどころか、自分の身に着けた衣服まで取ってしまう者まで現れてきました。先日先生は、ニューヨークの街で信じられないような光景を見ました。何人かの貧しそうなみすぼらしい男たちが、集まってピケを張り、デモンストレーションをしているのですが、そのプラカードには何と、「女性たちよ、我々を解放せよ」とあるのです。それは実にほかでもない、「男性解放運動」だったのです。

     それにしても先生は、彼らが、原理を知らないがゆえにこういうことで時間を無駄にしていることを、残念に思わずにはいられませんでした。このようにこの世界に起こっている一時的、時代的な現象ですら、ただ漠然と起こっているのではなく、すべて背後には原理的な背景があるのです。

     

    ◆神様の女性観



     では、女性が権利を主張して、女性上位運動を続けていく期間は、どうして七十年間なのでしょうか。それにこの八八年までの期間はどういう時かというと、人類史上でも最も危機的な時代であり、神の全復帰歴史を終結せんとしている終末期に当たります。七十年は完成を意味しますが、今や女性は、女性本来の立場を回復しつつあります。それは真の男性に会う準備をする七十年間であるともいえます。ですからアメリカにおいて、女性が能動的、主導的になることにも理由があるわけです。しかし、時が来れば女性は、本来の相対的、受動的立場に戻るべきであり、その時が既に来たのです。それにそうしなければ女性はすべての男性を失ってしまうことでしょう。女性は、女性らしいしとやかな人と思われたいでしょうか、それとも、勇敢で男のような性質の人と思われたいでしょうか。

     また男性の方も、男らしい奥さんが欲しいものでしょうか。先生がアメリカで祝福をした時、ある驚くべき事実を発見しました。先生が西洋の男性たちに、どんな女性、どの国の女性と祝福されたいか、と尋ねたところ、何と九九パーセントの男性が、「東洋の女性がいい」と答えたのです。西洋の男性と東洋の女性の組み合わせはよいでしょうが、西洋の女性が東洋の男性を夫にもつ場合には、不利な条件があるかもしれません。第一に女性のほうが背が高いということです。一般的に女性の中には、背の高い男性を夫にもちたがる人が多いし、男性のほうは、自分より少し低めの背丈の人を妻にしたい人が多いといえるのです。

     女性のほうがより低く見えるほうが、より自然であり、正常であるといえるでしょう。神は、女性が常に男性を見上げ、尊敬するように、概して女性を男性より低くつくられたのです。それは女性のためにそうされたのであり、もし女性のほうがより高かったら、歴史を通して女性は、もっとトラブルの多い悲惨な道を歩んだに違いありません。神はまた、子供を生むために強い土台が必要であり、ほとんど家の中に座っている立場にある女性に、安定した下半身を与えられましたし、男性は、常に立っていて、女性のために働き、走り回っているので、やせてたくましくつくられています。

     神は、神御自身の概念、構想理想に従って創造されましたが、それによると、男性は主導的、能動的であり、常に働いて実績を得てくるべく造られているし、女性は常に消極的、受動的で、夫を待っているというように本来造られているというわけです。

     神が本来女性に与えた立場に帰る時が来ました。ことにアメリカの女性はそうしなければなりません。アメリカ社会では、女性があまりに強すぎるので、本来女性にあまり主管されたくないようにできている男性は、女性と一緒にいたいと思わないものですから、結婚してもなかなか一体化しにくいのです。男性は結婚しても、ホテルかアパートの個室に住みたいという人もいます。それに女性は結婚すると、金や楽しみやすべてのものを男性から奪い、いざ離婚するとなると、男性に何百万ドルもの莫大な慰謝料を請求します。ですからアメリカの社会通念によると、男性は一回以上、二回も離婚すると、惨めにも貧しくなり、女性からすべてを奪い去られてしまう。しかし女性のほうは逆に、二回も離婚すれば、ますます金持ちになるということです。そしてそのことにも意外な原理的理由があるのです。

     神は男性に、サタン世界のすべての富にあずかることを許されました。そして歴史上にサタンは、女性を利用してその男性のもつすべての富を奪い取ってきましたので、今日終末時代に、神がすべてのものをサタンから奪い返そうとする時にも、女性を用いるというわけです。そういう摂理的理由があるのです。

     では、どこに真の母、妻、女王を見いだすことができるでしょうか。今のアメリカ社会のホームにおいては到底見いだせません。女性たちを真の妻、母たるべく再教育しなければここにはいないというわけです。

     

    ◆摂理の中の女性(一)神の花嫁



     神は歴史を通して、一人の完全な理想の女性を探し求めてこられましたが、すべての女性の中で誰が、真の妻、真の母、真の天宙の女王に値するのでしょうか。ある意味ではすべての女性が、それらの範疇に属し得るそれらの候補者であるといえます。

     女性が権利を主張して上位運動を起こし力を得てきたのは、終末期に神が、実体聖霊を選ぶ徴候だと考えられます。神は終わりの日には、最も典型的な真の妻、母を動員しようとしますが、彼らは自らをサタン世界のすべてから完全に分別して、神を中心とした典型的な妻、母、女王として神に来なければなりません。神は、そのように過去のすべての因縁を断ち切って、神に帰ることのできる勇気ある女性を探してこられたのです。そして神中心のある女性を選び出されました。そして神はその女性に命じられました。「あなた自身の今いる環境にありながら、サタン世界を完全に断ち切って勝利的な女性として立つために、神に対する絶対的な忠誠をもって真の女性としての使命を果たしなさい」と。

     そしてその女性が、自らを完全に神の目的のために神の器として捧げ、神に服従せんと決意した時、サタン側に立つ夫が現れて、子供と一緒になって、「私のもとに帰ってきて忠実な妻として仕えないのなら、お前を殺さなければならない」と言って責め寄ってきたのです。子供も、帰ってこなくなったお母さんに、「どうしてお母さんは私たちを愛さなくなったのですか」と反抗するようになってくるし、周囲の人々、環境のすべてが、絶対的な信仰と忠誠を決意した彼女の道に激しく反対するという状況になってきました。

     神はその女性が想像を絶する苦難に耐え抜いて、夫と子供との情的な因縁をはるかに超越した、そこまで絶対的に神を中心とした、信仰の極致にまで行くのを見届けなければならなかったのです。その女性がそのような蕩減や試練を通過していようとは、神ならぬ誰も知らなかったのですが、真のエバを復帰するためには、そのような人知れぬ試練の道を通過しなければならなかったのです。

     この女性が真に神を中心として立つためには、神への忠誠のゆえに、夫と子供、全家族が、一度ならず二度、三度と、三回以上彼女を殺そうとする試練を通過しなければならないというのです。その女性は夫と子供の憎悪の対象となる心情的十字架を耐え忍び、ナイフで体を切られたりして迫害されながらも、その最高の迫害に勝利しない限り、絶対的神中心の男性の花嫁の立場に立つことはできないのです。

     カトリック教会には二〇〇〇年来、尼僧と呼ばれる人たちがいますが、この尼僧とはどういう存在でしょうか。尼僧たちは、「自分はイエス様と結婚しました。イエス様が私の花婿であり、私の父でもあり、王でもあります」とイエス様を自分の夫、父、王の立場においています。ですから尼僧の生活は摂理的にいえば、いつの日か真の男性、すなわち真の夫、父、王に会う一日のための準備だといっていいでしょう。しかし神の最終的な目的は、女性をそういう立場にとどめておくことではなく、あくまでも女性が真の母、妻、女王になることでありますから、尼僧はそういう立場で、神中心の女性としての訓練をしている者であるといえます。

     しかしながら、神に仕える女性に二つの型があって、一方は完全に絶対的に神に従い、想像を絶する迫害に耐えて、自分自身のいたその環境の中で勝利します。そしてもう一方は、自分自身を壁で囲い込んで完全にサタン世界から隔離しますが、そう苦痛もなく気持ちよく生活しているとしますと、前者のほうがより困難な道でありますし、神の同情は当然そのほうにあるに違いありません。

     

    ◆摂理の中の女性(二)霊的メシヤの花嫁



     韓国に、神の摂理歴史において中心となる代表的な女性が現れなければなりません。「私の夫は神であり、イエス様です。そして神とイエス様と常に交流しています」という、選ばれた女性が現れなければならないのです。

     そしてある女性が選ばれ、「あなたは真の妻であり、母であり、女王である」という啓示を絶えず神から受けていました。その女性は、普通の人が見ても美しくはなく、あまり苦労しましたので顔色も青ざめて栄養失調のように見えますし、常に山に祈りに出かけてむしろ惨めな者に見えました。しかし心の中ではいつも、自分はイエス様の母であり、妻であり、花嫁であるということを感じていました。そして彼女が、「メシヤの妻となるために準備しなさい」という啓示を受けるのです。ところが神が彼女に啓示を与える時に、そのメシヤなる人は、息子のようでもあり、夫のようでもあり、王のようでもあるというように、三つの立場をもつ者として啓示されました。

     実際、メシヤが来られる時、メシヤたる者は王として現れるのではなく、人間の基準として最低の所から、最も惨めな僕の僕の立場で現れ、そこから出発します。メシヤはまず、「僕の僕となれ」という啓示を受けて、その人生を人類の僕の僕として出発するのです。またメシヤは、二つの面における完成を全うする使命をもっています。一つは霊界に対してであり、霊的な地獄から天の王座という最高の立場にまで霊的に上がっていくことによって、全霊界の解放者となるべき使命です。

     ですから先生はまず霊的地獄からその路程を出発し、不敗不屈の霊的勝利者として天の王座にまで上がり、霊界において主管者であることを宣言し、それからまた実体として地上に下りてきて、実体的な地獄生活を出発し、同じ道をずーっとたどって頂点まで上がっていくのです。

     実体的な摂理路程においては、メシヤは神によってではなく、エバによって祝福され、生み直されなければなりません。その備えられた女性を見いだしたなら、まずそのエバによって祝福されなければならないということです。ですからその女性が初めて主に会う時は、彼女に仕える僕の立場にあります。

     人類の代表たるアダムでありながら、なぜ僕であるのかというと、エデンの園における堕落において、男性は女性を主管すべき立場であったにもかかわらず、女性に主管されてしまいました。ですからその主管性転倒を復帰するために、信じられないような仕え方でその女性に侍っていくのです。考え得る限りのことを、その女性の体を洗うことまでもして僕として侍らなければなりません。

     その女性は自分の夫より、息子より先生を信頼しました。

     

    ◆歴史を生きるメシヤ



     そうするうちにこの女性は、「あなた(男性・僕の僕は天使界を意味する)はもう既に僕の道を卒業しました」という啓示を受けました。メシヤは僕の立場から出発しますが、僕の段階は旧約時代に当たります。そこから養子の基準、実子の基準と上がり、それから夫の段階へと進みます。

     このようにある人がメシヤとして来た場合、その人自身の一生の間に、旧約から始まり新約、成約というように、全人類史を通過しなければならないのです。そしてその路程を通じて、メシヤにおいてあらゆる段階が全うされなければなりません。すなわち、僕の立場も、養子の立場も、実子の立場もすべて全うし、さらに夫の立場、父の立場、そして最後に王の立場まで全うして、それらの各段階で完成しなければならないのです。

     一人の男性において、この全プロセスのすべてが通過されなければならないというわけです。しかもその過程においては、神が主管するのではなく、女性が主管していきます。そのために選ばれた女性は、メシヤを僕の段階から次第に最頂点にまで引き上げながら、自らも僕段階から、養子、実子段階と全歴史内容を横的に通過し、完成していかなければならないのです。

     しかし彼女を非常に混乱させたことには、絶えず神の啓示が下りて、各段階を卒業したという告知がたった四十日間に立て続けにあったのです。どこにいても神の声が聞こえてきて、次々と前とは違ったことが啓示されました。まず、「彼はあなたの僕だから僕として彼を用いなさい」と言われたかと思うと、次の日には、「彼はあなたの息子だから息子として愛しなさい」と言われますし、その翌日には、「彼はあなたの夫だ」という具合なのです。そしてついには突如として、「彼はあなたの王であるから彼を王として(彼に)仕えよ」という啓示が来たのです。

     メシヤが歴史路程の各段階を最高の立場で完成し、全歴史路程を横的に通過した時、初めてメシヤとして夫、王の位置に立つことになり、今度は女性のほうが、男性の前に僕の立場から完全に服従していかなければなりません。しかし彼女は、先生を王として侍ることを願わなかったのです。むしろまだ僕として使うことを願ったからです。それが原理を知らなかった彼女には最高の立場に思えたからです。

     イエス様も初めは、洗礼ヨハネから祝福を受けて侍る立場でしたが、一度主管性転倒を復帰してその段階が終わると、完全に主体は逆転します。再臨主においても、僕の段階を完成して主管性転倒を復帰すると、完全に女性を主管し、命令する立場に立ちます。

     これまでこの女性が与えた祝福は、すべて霊的なものでしたが、一度男性が王の立場に立つと、彼女は神の器として、僕の位置から出発し、養女、娘、妻、女王の立場と上がっていかなければなりません。そして女性のほうもすべての段階に勝利して、今度は男性がメシヤの立場において実体的祝福を与えることになります。この女性の場合も、一度主管性の転換がなされると、絶対的に服従する立場に立ち、そうしなければ彼女自身の責任分担を果たせないことになるわけですが、彼女にとって、それは容易なことだったでしょうか?

     先生は原理を知っていますから、通過すべき路程はつぶさに知っていますし、今どこを通過しているかも分かりますが、この女性の方はただ啓示を受けただけで、盲目的にその啓示に従ってきただけであり、原理は全く知らなかったのです。何しろついこの前まで、「その男性は僕である」という啓示を受けていたのが、しばらくするとすぐ、「この男性はあなたの王である、彼に服従しなさい」というのですから、原理を知らない彼女の心はますます乱れ、今や完全に混乱してきました。

     彼女はそれでも神への絶対的な忠誠を示して使命を果たすべきだったのですが、絶対服従ということは、その時の彼女にとって容易なことだったでしょうか。彼女はまるで神様から裏切られたかのように感じてしまったのです。今や神様は私をお見捨てになったのだ、とその女性はその場で気が狂ったようになってしまいました。「どうしたというのでしょうか、神様、あんなにも私を愛しておられたのに、今になってこんなにひどい扱いをなさるとは」と狂ったように先生の周りを回っては、「あなたはサタンだ、サタンに違いない、あなたを殺さなければならない」とサタン扱いし始めたのです。

     しかし一度メシヤが主の立場に勝利している以上、その女性がどういう立場に立とうと、メシヤの勝利は不変であり、摂理は不変であります。もし彼女が悟って悔い改めないならば他の女性が代わって摂理されるだけです。

     

    ◆創立以前の内的摂理



     これらのことは、外的な教会が創立されるまでの内的な経過として、外的な教会史の始まる背後に隠されていた象徴的、内的な摂理であり、肉身世界に現れるまでに、霊界を通じてなされたものです。

     先生がひとたび、このような内的な勝利基準を立てると、今度は実体的に目に見える形で世界に現れることができます。そして実体的に僕の立場、養子、実子、夫、父、そして王の立場まで勝利していきます。主自身の肉的な一生の間に、六〇〇〇年の全縦的歴史が横的に蕩減されなければならないわけです。一九四七年に先生の公的伝道期間が始まる以前にこれまで述べた内的摂理の経過があったのです。

     今はすべて実体的に現れてきましたから、あなた方も主が来られたことを知っています。それは、既成の常識的な思考法からは何と異なった、革命的な事実でありましょうか。

     一九四七年から統一教会の公的な復帰が始まる一九五四年までの七年間は、統一教会が実に信じ難い苦難を通過した期間であり、この七年間に実体的な組織を発足するための実体的な条件を立てるために北韓共産陣営での苦役等、言語を絶するようなあらゆる苦難を通過したのです。それによってこの七年間にすべての基台が立てられて、一九五四年には正式に世界基督教統一神霊協会の創立に至りました。

     今まで語った路程は、先生がたった一人で歩んだ寂しい孤独な道でした。共に行く友も、支える者も、理解する者もいない孤独な闘いを、先生は闘い抜いたのです。今まで共に歩んでも、本当に先生を理解できる者は誰もいませんでした。三十年前に韓国の古い食口たちに語ったことも、誰も本当には理解できませんでした。彼らは、知的には分かったけれども、心情的には分かっていなかったのです。そして三十年後の今になって、先生のところに来てこう言うのです。「先生が三十年前に言われたことが今分かりました」と。あなた方も同じことで、先生が今語っていることが、三十年後に実現されてその時理解される、ということも多いことでしょう。

     今なお孤独な先生です。人間なら行きたいとは誰も思わない孤独の極限の道です。しかし神御自身がたった一人で孤独な方であることをよく知っているがゆえに、先生は子として責任をもってその使命を引き受けたのです。真の復帰の道は決して安易な道ではありません。それは実に困難な道であります。先生についてくることも困難なことです。

     

    ◆秘められた真の統一教会史



     きょう、統一教会の創立二十四周年を迎えましたが、この二十四年間は教会の外的な歴史であり、協会創立の基台をつくろうとした創立以前の歴史こそ本当の統一教会の歴史です。そしてそれはわずかな人々のみが知っています。そして先生が真に信頼できるのは、そういう時代を共にしたこの人々だけです。

     きょう語った「エバの道」も、外的歴史の背後に秘められた歴史であり、かつて語られたことのないことです。先生は僕、養子、実子、夫、父、王というすべての段階において、歴史上でその範疇に属したどの人より、すなわちどの僕、養子、夫、父より苦労して、それらの範疇に属するすべての者たちを復帰しなければなりません。そういう苦難の道を行くべく運命付けられている先生です。しかしこれらの蕩減時代、苦難の時代ももうすぐ過ぎ去るでしょう。長くて一九八一年までです。そしてついに神のみ旨は成就するに違いありません。

     

    ◆原理の力と復帰



     原理が明かされるまでは、数多の哲学者や宗教家はあれど、誰一人として秘められた神の心情と聖書の真義について知る者はなく、霊的には暗闇に覆われているかのような世界でした。そして、その闇の中に昇った明るい太陽のごとくに現れた先生は、陽光が万物にくまなくさし通ってすべてを照らし出すごとく、すべての宇宙の原理を詳細に明かしました。今や万人が、真理の光に照らし出された神の真の像と、歴史の真像を知ることができます。

     先生は、真理を理論的に解明し発表しただけでなく、真理に生きた人です。実人生における体験を通して宇宙の真理を知ることができました。そしていち早く、その原理を知ってここにいるあなた方は、いわば霊的エリートといえるかもしれませんが、事実は特別な啓示を受けたわけでもなく、人並み優れた高い良心基準をもっていたわけでもなく、別段エリートらしき何ものもない、たまたまそこに居合わせた見物人のような立場でありながら、どうして幸運にもここに来ることができたのでしょうか。それは原理自体の力によるのです。原理には、神の直接の啓示にはるかに勝って、人間を指導し造り変える偉大な力がありますから、原理を知ること自体が、啓示や高い良心基準の役割を果たしたのです。

     しかしながら原理自体の力によって引き上げられて、知的に原理を理解してきた者が多いために、啓示を受けた人々が無条件に神に従っていくのに比べて、あなた方には何事につけ、あまりにも理屈で考えすぎる傾向があるようです。先生の指示に対しても無条件に反応するというより、「従うべきかどうか」と考えてしまうというのです。とにかく何のゆえにかたまたま、幸運にも先生と巡り会ったことによって、あなた方の上に大きな変化が起こり、あなた方は急に献身的な信仰生活を送るようになったわけですが、それも原理の力によって、あなた方の心の中に何か奇跡的な内的変化がもたらされたからこそ喜んで献身生活のできる人間に変えられたのだといえます。

     復帰の業は困難です。それに比べると自分たちで自家用の飛行機を造ることでさえ簡単だといえるくらいです。他のどんなことも復帰の業の難しさに比べたら簡単なものです。復帰という仕事だけは文先生にさえ難題です。よくぞ神は、全人類の復帰の直接の責任をあなた方に与えられなかったと思います。神からそういう使命を与えられなかっただけでも、あなた方は本当に幸せです。そのあまりにも重い責任に耐えて、それを消化し得る人が、文先生以外にいるとは思えないからです。

     あなた方が先生、マスター等どんな尊称で先生を呼ぼうと、生きている間には決して先生の真価は分からないでしょう。そして死後霊界に行って初めて、突如として自分がいかに先生にふさわしくない者であったかを悟らされるはずです。

     

    ◆歴史的失敗と清算



     アダム、エバそしてカイン、アベルから始まった聖書史は、初めから失敗の記録であるといえます。そのあとに続くアブラハム、ノア、モーセ等の歴史上の預言者たちもすべて、歴史の上に失敗を残し、洗礼ヨハネも取り返しのつかない失敗をしました。そしてイエス様の使命でさえ、第一次摂理としては失敗だったというのですから聖書全巻を通じて失敗の記録だというわけです。

     そしてレバレンド・ムーンの時が来た今、先生において過去の失敗のすべてが償われるべき時が来ました。今や過去に失敗した失敗のすべてを寄せ集めて蕩減し、清算し尽くすことによって、歴史の糸のもつれのすべてを解いて、再びより合わせて勝利へと結ぶ時なのです。

     今、驚くべき奇跡の上に立って、一人の驚嘆すべき人物を見ているあなた方です。この一人の人において歴史上の失敗のすべてが清算され、正しく復帰されて、一つの統一されたみ業として帰結せんとしているのですから。こうして家庭基準から世界基準へと拡大する勝利の基台を築き上げ、先生自身としては、なすべき責任のすべてを果たし尽くして、いわばもう休んでもいい立場にあります。罪なき神の息子としての誇りをもって、誰に恥ずることなく霊界の王座に座しながら、「愛する父よ、私はついになしました」と言うこともできます。

     先生は、盲目にして無知なる人間の行為の記録ともいうべき人類歴史の背後に、一つの公式とパターンのあることを悟り、その歴史の秘密のすべてを解明して歴史の法則と原理を見いだしたのです。

     

    ◆出会いは興亡の接点



     先生と出会うということは実に難しいことです。その出会いにおいて誤れば大変なことになるからです。先生が直接伝道していた人々の中にも、正しく出会わなかったがゆえに、自らを滅ぼしていった人々がたくさんいました。

     過去の歴史においても、主に正しく出会わなかった個人、家庭、氏族、国家は、最後には十字架に追われ滅亡していった事実を多く見ることができます。先生は最も重要な人物でありますが、それと同時にもし正しく出会わなければ最も難しい人物です。アメリカにとっても、もしあなた方アメリカ人が先生に正しく出会わないとすれば、先生があなた方の十字架になるかもしれません。世界もまた例外ではなく、正しく出会わなければ滅びていくほかありません。谷底へと転げゆく汽車のごとくに、下り坂をまっしぐらに駆け下りてきて、今にも谷底に転落せんとしていた人類史でしたが、先生はその滅びゆく個人、家庭、国家、世界と出会って、その滅亡を止めるために来たのです。

     神のみ業は、常に最も衝撃的革命的な逆転の業ですが、統一教会のなせることも正にそれでした。そしてあなた方は今、そういう運動に参加しているわけですが、歴史の重荷を自分のものとして担い、下向する歴史の方向を逆転せしめる原動力となるのは自分たちだと考え、それだけではなく実際に自分の肩にその重みを「重い」と感じている者でない限り、参加しているつもりでも、見物人にすぎません。

     また、ある一つの宗教運動が起こるためには、その道を直くするための多くの教団が立てられますが、この運動のためにも、旧約から新約、成約に至るまで、あらゆる段階の教団が立てられ、一なる最終的目的を求めて立てられたこれらの教団は、ある段階における、ある目的を達成しては、歴史の中に消えていきました。

     そういう歴史的に積まれた基台の上に、韓国から現れた統一教会と文先生は、世界中に論議を巻き起こしましたが、その革命的性格からして、私たちの前には二つの運命が考えられます。私たちが滅びるか、世界が生きるかであり、二つに一つです。

     

    ◆七年路程と七千年歴史



     「復帰」とは、正にすべての鍵となる言葉であり、それは実に、実に困難なる業です。そこにおいては、条件なしに段階を飛び越えたジャンプというものは許されず、厳密な公式に従って一歩一歩踏みしめながら、しかもその一歩一歩に全生命を込めて上がっていく以外にありません。その途上に、もし自分という意識のある者は、そこに立ち止まることも、前に進むこともできず、そこで消えていかざるを得ないのです。

     聖書的史観によると、創造から再創造の完成までは、七〇〇〇年であると言われていますが、この全七〇〇〇年が、一人の人によって七年間の路程の中に実体化されました。そしてそのためには一人の人、文先生の四十年間の人生は、七〇〇〇年の負債を全部返し尽くさんがために歩み抜かれなければなりませんでした。もし原理というものを、先生がただ口で語って発表しただけだったとすれば、神も、サタンもそういう原理を原理として認めたはずがありません。

     公式に従って具体的に負債を払いきらなければならないのですから、そのためには、先生が自分から戦いを挑み、その戦いに一つ一つ着実に勝利していく以外に道がなかったのです。サタンもそうして実証された原理に対しては、何も言う条件がありません。

     こうして語る前にすべて具体的に生活され、既に実体化された原理ですから、この一人の人によって既に実体的に探しだ出れた復帰の道を、あなた方はただ一歩一歩歩んでいけばいいのです。いわば勝利の基盤の上に既にガソリンも入れられて走っている、経験ある運転手(先生)の車に、たまたま拾い上げられたヒッチハイカーのようなあなた方です。先生自身の目標は既に果たされたともいえる今、そういうあなた方はむしろ重荷になっているかもしれません。本当は先生を親のように呼ぶ資格もないのですから、親と呼ぶ前に息子、娘としてふさわしい成長をしてから来てほしいものです。

     先生が、七〇〇〇年人類失敗史を七年間の路程で償えるように、七年間で七〇〇〇年分を歩み尽くせる道を示したのですから、つまりあなた方は、わずか七年間を歩むことによって全七〇〇〇年歴史を歩んだ立場に立てるというのですから、いわば誰でもが走ることのできる超高速道路が敷かれたようなものです。なすべきことは、ただこの七年路程を走り抜くのみです。しかしながら実際問題として、七年路程を全うするためには、カルバリの丘を十字架を担いでいかれたその瞬間のイエス様のごとくに、それくらい真剣に歩むことを決意すべきです。何しろ七年間に、僕の僕から出発して、僕、養子期を経て、実子期、夫婦期、父母期を通過して天宙の王に至るまで、あらゆる障害を乗り越えてその一つ一つに勝利を勝ち得なければならないのですから。またそのためにはこの地上で肉体をもって歩み得る期間というものが、いかに貴重であるかが分かります。

     先生は実体基準で既に四十年間歩んで、その上で今、七年路程を歩むことを教えているのですから、あなた方にはわずか七年間でいいにもかかわらずこの上もっと易しい道を与えてほしいなどという者がいるとすれば、それこそ盗人根性にも等しいものです。

     

    ◆出発の原則



     一九五四年五月一日、先生が教会を創立した時、小さな古ぼけたむさくるしい家、つまり初代の統一教会の前に、ささやかな看板を出しました。それは歴史上で最も小さな看板でありましたが、しかしその小さな町の、一番小さな看板に示された言葉というものは、他のどんなに大きな看板よりも、もっと大きな内容を意味していました。「世界基督教統一神霊協会」とあるのですから。

     私たちの教会の出発はそういう所からでした。部屋はといえば、頭を壁に付けて横になると、足が向かいの壁につかえるくらい狭かったのです。しかも当時は、その粗末なみすぼらしい家屋でさえ、教会のものではなく借家でした。ここアメリカでは、全五十州に一つの実体的な基盤としてのセンターが既に設置されていますが、今あなた方がなさんとしている内容自体は、先生が二十四年前に歩んだ路程のそっくりそのままです。

     五十州から来ている地区長たちを見てみると、教会員たちから、まるで僕から侍られるように侍られているようですが、もし初めから指導者が、「私は地区長であり、教会員に仕事を命令する立場である」と教会員に侍られることを願うようでは、そういう州や教会は決して成功しません。先生はそういう指導者の道を教えたことはありません。僕の立場から出発して、養子、息子、夫、妻と段階を踏んでいく原則の道をいかない限り、決して成功することはできないはずであり、そういう道を行くことなしには、今日の統一教会もあり得なかったことでしょう。

     例えば、統一教会の女性ならばどういう所から出発すべきかというと、「私には男性を見る資格すらありません。どんな男性も私にはあまりにも立派過ぎてふさわしくありませんし、こんなに幼い自分ですからかえってその人の重荷になるだけです。また、路傍をさまよう乞食が自分の夫になるかもしれないと想像してもみましたが、外的な乞食はかえって内的には神の人かもしれないと思うと、なおもその乞食にすらふさわしくないことが分かりました。ですから自分の祝福のことなど考えないで、ひたすら神の目的のために献身させていただきたいのです」と先生もそうしたごとく、あなた方もこのように、僕の僕の立場、完全に自己を否定した立場から出発すべきです。

     

    ◆僕から王まで



     僕から出発して養子、実子と上がっていくということは、主人がある僕に対して、「お前は本当にいい僕だから私の養子にしよう」というようなものであり、またその養子の中から、「お前は本当にいい養子だから私の実の息子にしよう」ということになったり、実子の中から、「お前は私の真の息子だから私が祝福してやろう」と、夫、妻の立場に立てたりするようなものですから、そういうことが簡単にたやすく起こり得ることでしょうか。具体的に「上がる」ということは簡単なことではありません。

     そして、神があなた方を祝福するということは、そういうことであって、僕であった者が両親の立場にまで上がるというのですから、容易なことではないのです。そしてついに祝福されて子供を生むと、その子供は、原罪と関係のない神の血統圏に生まれて、直接神の国に入ることができるというのですが、しかしその子供の両親に、「私は完全に原罪から解放された」という確信なくして、どうして自分の子供を罪なき子女として生み出すことができるでしょうか。そして実際にそういう確信を心からの実感としてもつようになることは生易しいことではありません。

     こうしてあなた方自身が、父母を経て天宙の王の位置にまで上がって霊界に行くと、全霊界の貴族、知者、聖人等すべての高貴なる人々が頭を下げてくるし、自分の先祖たちもまた、「我々の一族を天国に引き上げてくれる者がいる」と言って、集まってくるようになるのです。原理を知って主に出会ったあなた方は、真の先祖として、何と家系図の頂点に位置しているのです!

     

    ◆原理と祝福



     先生は今五十六歳ですから、十六歳で使命に出発してから既に四十年を経過しました。その四十年間に先生は、あらゆる分野における路程を歩み尽くし、すべてを勝利的に完結して、その全路程を七年間で歩み得るものとして体系化しました。その四十年間というものは、思えばすべてが大いなる体験ばかりでありましたが、実に言うに言えないいばらの道の連続でもありました。こうして体系化された七年路程のうち、最初の三年間というものは、実際のところあなた方が自分自身の必要を満たすための歩みであると言ってもよい期間です。神のためでも先生のため、教会のためでもなく、自分自身の祝福の資格を得るための期間ともいえるからです。三年間、我を忘れて自分の祝福のことも忘れてひたすら歩んでいる時に、祝福が突如として来たというのが本当です。

     先生自身の小羊の婚宴においても、ある日突如として、啓示に次ぐ啓示を受け始め、「我が息子よ時が来た、祭壇を備え献祭をささげよ」と告げられたのです。お母様にしても、先生の夫人になろうとは夢にだに思えない立場で、目立たない一教会員だった時、突如として小羊の婚宴の一日前に祝福を霊知したのです。

     その日突然、「一人の男とあす結婚するのだ」と告知されたのです。それが原理の道です。ですから自分から意識的に、「私は祝福されるべきだ」とか、「自分は祝福に値する」という思考過程自体が、カイン的、サタン的思考法に近いといえます。厳密に見れば、祝福を受けるに値する者は一人としていません。このままで死んで霊界に行っても、完全には神の国に入れず、中間霊界の中継所にとどまって、天国への入り口のロビーあたりで再教育を受けながら、天国へ入れてもらえる日を待つほかありません。ですから不平を言うことなく原理の道を歩むことです。先生でも、もし「神よ、私にもっとたやすく歩める道をお与えください」などと不平を言ったとしたら、神は「お前は私の息子ではない」と直ちに他の人物を立てられたに違いありません。

     

    ◆大いなる特権



     摂理歴史は人間堕落の所産であり、堕落のゆえにのみ摂理が必要となりました。これまで語ったことを通して、二十四年前の先生の心情をしのび、少しでも感じてほしいものです。当時それは、不可能に近いほど困難な道でした。また何と寂しい孤独な道だったことでしょうか。

     当時先生は、頻繁に取り調べを受けながら、苦難の道を歩んでいました。先生の未来に果たすべき天宙的使命を知る者もなく、一人先生自身のみ、人知れず自分が何者であり、未来に何を成し、どこに行かんとしているかを知っていましたから、ひとたび天の前になした誓いと決意を不変のものとしながらここまで歩み続けてきました。多くの人々が、一度は先生を信じて従いながらも、結局自己中心的な人であった場合、この道を歩むことに疲れ果てて、耐えきれずにこの運動から去っていきました。み旨のために自分なりの人生というものを完全に断念し、自らの命を捨てることのできた者のみ、最後まで先生について歩むことができるのです。

     先生が四十年間で歩んだ公式路程を七年間で歩むというのですから、その圧縮された七年間は急速に駆け足で過ぎ去ります。ですから一点の間違いもなく、絶対的基準で行くべきです。そしてこの期間において、個人のためだけでなく、家庭、氏族、国家、世界のために、心の張り裂けるような痛みと涙に満ちた体験をたくさんもつべきです。そのためには安易な道を願うのではなく、眠ることも忘れるほどみ旨に燃えた生活を送らなければなりません。

     最低の所から出発して、毎日、前日より自分自身の心霊基準がより高められたことをはっきり自覚し得るくらい、確実に具体的に成長し、上がっていくべきです。そういう実感は、自分自身が感じるだけでなく、瞬間瞬間にあなた方の成長を待っている霊界がそのように命じ、感ずるものでもあります。今後、先生の教えがさらに綿密詳細になり、より分析、整理されて、直接的、字義的に表されてくる時、そこまで実体的に真理を知ることのできるあなた方は、何と大いなる時に、黄金のごとく貴重なる時に生きているあなた方でありましょうか。可能な限りの最短の時間圏内に、かくも膨大なる七〇〇〇年分の路程を踏破した条件をもつことができ、神の歴史に偉大なる貢献をなす人物となり得る立場が保証されている時が、正に今なのです。

     今、私たちは、神の歴史の登場人物となり、創造者ともなって、神の歴史の最後の一章を書き下ろしてフィナーレを告げんとする、正に復帰歴史の頂点に生きているのです。そして生きている先生と共に働くことができるという偉大なる特権にあずかっているあなた方です。七六年、先生と共にワシントン大会のための歴史的一戦に参加し、その勝利にあずかったことも、今後入ってくる人々が決して得ることのできない特権でした。それは歴史上に一度だけあり、二度とないのですから。

     

    ◆七年路程の終末的意義



     七年路程に対しては、自分自身が具体的に歩んで勝利すべきものとして、骨の髄まで実感しながら、神の前に、「これから出発する七年路程において二度とアダムとエバのごとくなることなく、アダムとエバの完成する道までも歩んで、七年以内に必ず終了します」と神と対決するような真剣なる祈りをもって決意すべきです。聖書にも、「七年間の艱難の時が来たらん」と書かれ、「その時には生き残る者は少ないであろう」とも預言されています。この言葉は成約の時にも実に真ではないでしょうか。なぜなら、事実、真に神を知り神への献身を決意した者のみ、七年路程を勝利的に通過して生き残ることができるのですから。

     しかしあなたがかかる出発の決意をなして一つの方向を定めるや、まず環境からの反対や様々な障害、あらゆる苦難が一挙に襲いかかるような状況となり、サタンがあなたの行くべき道を破壊せんとしていることを知るでしょう。そして自分の一番大切にしているものが次々と、何も残るものがないくらいことごとく奪い去られ、一切の事情環境が正に最低の所まで追い詰められていくものです。神はあなた方を最低の所まで陥れることにより、僕の基準までいったん下らせるために、サタンを用いるからです。そこでその最低の事情環境を消化し主管していくことができなければ、そこを通過できないことになります。

     

    ◆死なんとする者は生き



     では、その最低の僕の立場から出発したとして、どうしたら養子や息子の立場に引き上げられ得るでしょうか。そのためには、僕のために自らの命を捧げて犠牲になることです。そうすることが結局は最も早道です。肉体をもった人生というものは、ふと一瞬たってはたちまちかき消えてしまう朝もやのごとく、束の間のはかないものなのですから、喜んで犠牲になろうではありませんか。

     先生が歴史のすべての秘密を発見して、歴史というものを改めて見てみた時にも、「死なんとする者は生き、生きんとするものは死なん」と言われたイエス様のみ言を、己の骨髄にまで染みて痛感しました。一度ならず何度も何度も、自分の命を失うことが、勝利への唯一の道なのです。僕から父母に至るすべての段階において自分の命を捨てきって歩むことです。七年間ただ命を断念して、勝利的にこの路程を越えていった時、突如としてあなたの前に宇宙は一変して、宇宙の全生命が自分を守っていることを感知することができるでしょう。

     ワシントン大会の時にも、その大使命を成就するために先生は、いつでも死ぬ覚悟がありましたし、無条件に全面的に命を投げ出し、完全に死にきってもいました。それほど、のるかそるかの絶対的に追い詰められた境地に立たなければ、イエス様、先生、そして神の事情を到底理解することはできません。一つの絶体絶命の限界状況に直面してみて初めて私たちは、自分がいかに哀れな足りない者であるか、自分というものが何者であるか、はっきりと知ることができます。

     そのくらい真剣に歩むことによって日々自らを再発見しながら、一日一日を新しき日として、先生の基準を目指して日々発展していくというような私たちの日常生活であるべきです。外に吹きすさぶ嵐を乗り越える最善の秘訣も、自分自身を乞食をもうらやむような最低の位置におくことです。良い食事や十分な睡眠、快適な生活等はかえって重荷になるだけです。自分を僕をもうらやむような僕の僕の位置においてみて初めて己を知ることができ、知れば飛躍することができます。先生も三十五歳までは僕の僕たることに徹して、自分の服を買ったこともないし、整髪料等をつけたこともほとんどないくらいです。その上いつも四十五度以上は顔を上げずに下を向いて歩いていたほど、罪人の立場に自らをおいていました。一人の罪人になりきっていたのです。

     また、自然が罪なき真の人間によって見られたいと願っていることを知りながらも、自らの摂理的使命を成し遂げるまでは、清き自然を見る資格も権利もないことを感じては、大自然の前から身を隠したくなるのでした。罪人となって歩む自分自身が、真に罪深き者として感じられるほど、そうなりきっていたからです。

     

    ◆聖人の道



     この世界のすべてを知り、そのすべてを超え得た先生の心は、もはや何ものによっても動かされることはありません。巖のごとく固く立った先生です。自らの指を切って血で誓約を書き、先生の前に忠誠を示さんとした多くの女性たちもいました。宗教的試練を乗り越えるということは実にたやすい業ではありません。周囲に押し寄せてくるすべての誘惑を乗り越えて、基台を築いてきた創立に至るまでの苦難には、実に計り知れないものがあります。そして先生がすべての十字架を越えて勝利したその結実に、今あずかっている自分たちであり、神と先生の前に一言も言えないあなた方であることを知るなら、常に自らを謙虚な感謝に満ちた立場におくべきです。それは、あらゆる摂理的勝利を成した今もなお、先生が神の前にもち続けている姿勢でもあります。

     この七年路程が、かかる苦難の結果としての恵みであることを知ったのですから、この期間をあらゆる体験をなす絶好の機会と思って、呪われ、嘲けられ、飢え、打たれ、迫害されるすべての体験を貴重なるものとしながら、「そういう体験があったからこそ、私は神と先生とイエス様の心情を知ることができました」というような歩みをなしたいものです。

     先生のこの小さな手は、実に膨大なることを成し遂げてきた手です。そして、このような人知れぬ霊的開拓の道の上に、創立に至る教会の基盤が築かれてきたのですが、それは真にたやすい業ではなかったのです。あなた方もみ旨のための活動中に、人々から殴られたり、蹴られたり、顔に唾されたりしたことがあるかもしれませんが、そういう時こそこう考えるのです。“ああこれが、歴史上のすべての義人、聖人、神の人が歩んできた道だったのだ”と。

     

    ◆神様は泣いておられる



     しかし外にいる人々に唾をかけられたり、打たれたりしても、そういうことが苦しいことではありません。かつて共に食口として歩んだ人が、神を裏切って去っていく時、それ以上悲痛なることがあるでしょうか。そういう痛みまで体験して初めて、イエス様が外的な敵、すなわち具体的に十字架に釘づけた人々による外的迫害、裏切りだけでなく、ユダによる裏切りのごとく、最も痛い内部からの内的迫害を受けた方であることと、その痛みというものを少しでも理解することができるでしょう。

     先生は共産陣営のみならず、自由主義の韓国においてさえ、刑務所生活を体験しました。西大門刑務所に行ったその日のことは、永遠に忘れることができないでしょう。その日、刑務所に引かれていく時、一人の教会から去ったかつての食口が先生に駆け寄ってきて、侮蔑に満ちた嘲笑を浮かべながら言ったのです。「あんたはまだそんな馬鹿なことをやっているのかい、俺のように早く卒業することだな」と……。先生は永遠にその男のことを忘れることはできません。一言も語らず黙然として彼の前を引かれていきましたが、心の中で神に向かって叫びました。「神よ、今こそあなたの義と、私のあなたに対する従順を証させ給え」と。

     このようなことを一度ならず幾度となく味わってきたのですから、目を閉じて祈り始めると、いつも涙を止めることができずに痛哭する先生です。神のそういう悲しい内情がよく分かるからです。そして同じ事情を味わい、その心情を知ればこそ、そういう神の心情を誰よりも慰めることができるのです。親はもちろんのこと、妻も子供も分かってはくれない、一人として理解する者もない、そういう時こそ、孤独なる神の友となることができるのです。

     一人の男がこんなにも弱くなり得るものか、と思ったこともありました。ある意味では同じ弱き一人の人間に変わりないのです。しかし自分をそんなにも頼りにしている神であることを知っていますから、そういう神の心情を思うと、いても立ってもいられなくなり神の願いを果たして神を慰めたいという思いにかられます。

     「神よ、全能なるあなたは、その望むところの何事も成すことがおできになりますのに、御自分の子なるアダムとエバの罪のゆえに、御自身をそのような苦悩の中に陥れられました。苦しむべきいわれもないあなたが、かくも寄る辺なき身となられて、真に頼ることのできる子女を、そんなにも長い間ひたすら待ち続け、探し求めてこられました。私にはそういうあなたのお心がよく分かります」。

     誰でも、先生の内面の世界をかいま見ることでもできたならば、ただ“わっ”と痛哭せずにおれないでしょう。特に、常に神に祈り、霊界を見たり啓示を受けたりしている霊通者たちは、みなこういうことを言ってきます。「文先生について祈る時は、いつも決まって神様からの答えは“涙”です」と。先生のことを祈ると神様は泣かれるというのです。寂しい一人の人、文先生を見つめる時、人知れずすすり泣いておられる神様なのです。

     

    ◆涙の基台



     堕落による歴史の糸のもつれは、それを解いて再創造することなどとてもできそうには思えないほど複雑なものとなり、神でさえどこから手をつけて摂理するか戸惑うだろうと思えるほどです。しかし今、一人の孤独なる人が、歴史の背後にある秘密のすべてを見いだし、それを公式化し、体系化したのみならず、その原理を自ら生活しながらここまで運動を発展させてきたのですから、神としても注目せざるを得ないはずです。

     ここまで来る道において、先生はいくら泣いても泣いても止めることができずに、いく日もいく日も泣き暮らしたことがありました。ある時はあまり泣いたので、目が熟しすぎのカボチャの中身のようにグチャグチャになってしまい、太陽の光も眼に染みて見ることができなくて、目をつぶって過ごしたことがありました。涙によって開拓されたこの教会の基台です。あなた方は何も知りません。第一先生は語らなかったのですから。なぜなら自分自身の歩んだかかる苦闘の四十年路程は、二度と誰にも味わってもらいたくありませんし、息子や娘たちにはできるだけ易しい道を残してあげたいのが、親としての先生の気持ちです。知ればあなた方もそういう道を行かなければならないのですから。

     誰でも深い祈りや霊的な体験を通して、先生の語られざる体験の一部分でも霊的に知り得るならば、先生の通ってきた身もだえするような苦難の道を、一瞬でもかいま見ることができることでしょう。今あなた方は、この地上で受けるのが当然であるかのように祝福を受けていますが、それは今の時の時代的恵沢として、霊界における何千年、何万年分の内容を最短の期間で体験し得るからにほかなりません。

     先生はモーセという人の立場にはいつも同情を禁じ得ないのですが、モーセが四十日四十夜の断食祈祷の末に十戒を受けて、自分の民のところに下りてきた時、彼らは何と金の小牛を造って偶像としてこれを拝し、その周りで騒ぎ戯れていたというのです。「よくもそんなことが……どうしてそんなにも神を裏切ることができるのか……」とそのあまりの心情的蹂躙に対して、憤激のあまりに石板を地にたたきつけて壊してしまったモーセでした。そういうモーセに対して先生が同情せずにいられないのは、それと全く同じような事情と心情を幾度となく味わってきたからです。山に行ったモーセは、民のために神の真理を勝ち得んとして、どんなに苦労したことでしょうか。

     先生も生来、非常に強烈な火のごとき気性をもっていますから、そのような信じられないような裏切りを受けたりすると、そのあり得べからざる背信に対して、直ちに心情的に切って捨てて、顔を背けたくなってしまいます。それは先生にとって最も厳しい修練の一つでした。

     先生は一つの固い信条をもっています。それは、「天宙主管の前に自己を主管せよ」ということであり、これは先生が自らの弱さを克服し、激情を制しようとした結果得た信念です。

     

    ◆心情の相続者



     「真の息子、娘となりたければ、両親の精神を受け継がなければならない」とすれば、あなた方は先生の伝統と理念を受け継がなければならないわけです。そして真にそれを受け継いだ人であれば、伝道等の聖業に出かけていく時も、我知らず涙が流れてくるようになるものです。み旨の前に立つと、神の逼迫した悲劇的な内情が胸に迫ってくるようになるからです。そしてそういう人となり、そういう道を歩む時、その人やその教会は、必ずや神によって栄えていくに違いありません。いわれのない迫害を受ける時にも、呪うのではなく、逆に神に彼らの祝福を祈り求めるのです。そうすることによって、神の心情をより近く感じ、差し迫った神の事情をより切実に感ずることができるでしょう。そしてあなた方のなした行為のすべてが、それによって聖なるものとされるのです。

     あなた方は、見知らぬ人に出会ったのに神か主に出会ったかのように、訳もなくその人を抱き締めて泣き出したことがあるでしょうか。先生の人生において、そういうことが何度も何度もありました。神の悲しい心情、親としての苦しみを味わい知らされた時には、木を抱き締めていつまでもいつまでも泣き続けたことが、幾度となくありました。そういう体験こそは、祈りよりはるかに貴いものなのです。そして自分がより惨めな立場にあるのを感ずる時こそ、神をより近く感じ得る瞬間ではないでしょうか。

     先生は、伝道や前線の活動において体験する様々な人間関係を通してあなた方を訓練し、ある基準以上の人格を形成させんとしていますが、そうして先生が歩んできた人生のパターンを歩んで、先生のような人間となってもらいたいのです。

     

    ◆神を知る者の道



     先生が生来の実力を伸ばして世俗的な分野に応用していったなら、偉大な実業家にでも、大政治家にでもなれるし、様々な分野で大いなる名声と尊敬を勝ち得る人物になれるでしょう。しかしそれだけの能力や実力をもっていながら、そういう方向には行かなかった先生です。そして、生涯において、先生より多く涙を流した者がいるでしょうか。苦難の道は避けられないものではなかったのですが、神のために、無条件に、涙の道を選びました。人々から尊敬と讃美を受けつつ歓迎される道もありました。しかし先生は、神御自身がそういう立場におられないことをよく知っていたのです。

     では、先生は初めから何の個人的願望も、青年のもつ青空のごとき夢も希望も、もっていなかったかというと、そうではなく当然、大志を、夢を抱きながら、それらをすべて自ら捨てて、いつの日かこういうふうに、という希望の扉のすべてを、自らの手で閉じて、人生の最も悲惨なる道を選んだのです。ただ悲しい神の友になりたかったからです。あなた方もまた、ある意味では同様に苦難を負って歩んでいるわけですが、それは過去において先生が既に通過してきた道を引き継いでいるだけです。そして私たちがこのように自ら進んで苦難を引き継ぎ、それを負っていくのは、ただただ神を知ったがゆえであります。

     私たちを非難し迫害する人々が言うごとく、私たちに何か間違っていること、罪深いことがあるとしたら、私たちには一つの罪があるといえるでしょう。それを罪と呼び得るなら、私たちが「神を知っている」という罪です。ただ神を知るがゆえに、私たちは迫害する者たちの非難の的となっているこれらのことのすべてを、なすべき使命として引き受けたのですから。

     しかし過去において私たちが何か悪なることを世界にもたらしたでしょうか。神を知ることがいかにして罪となり得るのでしょうか。神を知らないことのゆえにこそ、かくも混乱していく世界であり、教会は崩壊し、共産主義はますますその勢力を伸ばしているのではないのでしょうか。神を知る者の道がいかに悲惨であろうと、神を知ることこそは我らの幸いであり、特権です。

     

    ◆真の後継者



     賢い者はひとたび歩み始めた道を全うします。中途で終わる者にはいかなる勝利もなく、勝利は耐え忍んで最後まで全行程を走り抜く者の上にのみあります。先生も神の道を行きながら、常に第一の道のみを行こうとしてきました。み言に関しても、自分に従ってくるものたちのためにも、何度も何度もあり得る限りの慎重さをもって、正しいかどうかを吟味せんとしました。

     実験室の研究者が、何か新しい発見をせんとする時に、その理論が本当に正しいかどうか絶対的に確実にしようとして、何度も何度もテストを重ねた末、それから世界に発表しようとするように、先生もすべてを絶対的に確実にするためには、自らの歩む全路程を通して、徹底的に実験し試験し尽くしました。それを通してこの世界のすべての真理を解明せんとしたのです。あなた方も既に神への誓約書に署名した兵士として、中途半端な道を行くことなく、最後までひたすら前進してほしいものです。そして「私は先生以上に行きたい、先生と競争して打ち負かしたい」とそういう人物の現れることを先生は待っています。

     先生は何度も思ったことがあります。「私はまだ死ぬことができない」と。残念ながら自分が第一線をあとにする時、使命を託すべき後継者がまだいないということです。「この者に、自分の使命を残して行くことができる、死ぬことができる」という確信を先生に与えてくれる者はまだ一人もいないのです。「誰が、私が神を愛したほどに神を愛してくれるだろうか、私が死んだのちに誰が私の神を見てくれるだろうか。親孝行してくれるだろうか」とそれだけが心配なのです。誰か「私が神様を見ますから、先生は後ろに立って見ていてください」と言う人がいるとすれば、その人こそは歴史においても私たちの教会においても主流的人物となり、永遠に滅びることなく、その子孫はアブラハムの子孫のごとく栄えることでしょう。

     先生は今、韓国式に数えて五十八歳ですから、七十歳までにあと十二年あります。そして二十二年たてば八十歳になることを考えると、自分が全面的に働くことができるのはあと十五年だと見ています。この十五年間に誰か後継者を見いださなければならないということです。長男の孝進さんとも真剣にそのことについて話し合ったことがあります。「お前は先生の息子として、自分がどんな道を歩み、どんな備えをなしておくべきか分かっているだろうね」と。その瞬間、いつも元気いっぱいな熱血家で行動的な孝進さんも、さすがに真剣そのものになりました。

     このような破滅へと運命づけられているかのような世界をあとに残すのでなく、何としても復活していく世界を残したいと願っている先生ですから、生きているうちにこの運動の基盤を完成していくために、自分の生涯においてありとあらゆる苦難、頭の痛いこと、苦々しいこと、嵐のごとき非難、迫害等良くないことのすべてを一身に受けることを決意して、「どうか我にすべての重荷を負わしめ給え」と祈っている先生です。

     そうすれば、あなた方の時代、あなた方を中心とした時代が来る時には、もはやそれらを過去のものとして、この運動は興隆していくことでしょう。あなた方も迫害の中にあって、「これ以上迫害されるのなら去ったほうがましだ」と考えるか、それとも「迫害が大きければ大きいほど、より大きな責任や使命をもつことであるし、より大きな挑戦をしてより大きな実績を上げ得るということだ、よし私が全部引き受けて処理しよう」と考えるか、いずれか二つの立場があります。

     先生が二十四年前に統一教会を創立したように、あなた方も自分の任地であなた自身の運動を創始したのです。それぞれの地で新しい教会を創立し、その地のレバレンド・ムーンになろうではありませんか。














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    26_再会の心情

     御旨と世界
    (全面表示)

     



    再会の心情


    1977年9月11日



    ニューヨークベルベディア

    ◆暖流と寒流



     七十日後、あなた方とこうして再会することができて、本当にうれしく思います。私が、ここを出発したのが七月三日ですから、ちょうど七十日間です。この七十日間に皆さんが、私を恋い慕う思いで待ってくれましたことを、心から感謝しうれしく思います。再会に際して、互いに慕い合う情や、懐かしいと思う情と意志が起きなければ、共通の目的と目標がないということになります。

     私は韓国人で、アジアから来ましたが、あなた方はアメリカ人です。一方は東、一方は西という文化伝統の全く相異なる両極の世界をつなぎ合わせ、結合させるという背後には何か深い摂理的な内容があるのです。そうでなければ今あなた方が、こうしてアジアから来たある人物を慕い待ち望んでいるということは、起こり得ないはずです。

     御承知のように海には、暖流と寒流があります。海は、たとえじっと静止しているように見えても、決して止まっているのではなく、絶えず異なる二つの海流によって動いているのです。この二つの海流は、それぞれあちらの方向、こちらの方向と激しく動き回りながら、しかも常時ぶつかり合い、出合っているのです。人の目には、膨大な海原は不動で静止しているかのように見えますが、実はその広々とした海洋に、大いなる運動が展開されているのです。流れ、走り、ぶつかり、うず巻き合い、その他あらゆる動きを海洋の中に見いだすことができます。

     海洋の動きを観察する人は、一日に少なくとも二回、海がふくれ上がったり減少したりして潮が出入りするのを見届けるはずです。しかし海の動きは、それだけではないのです。潮が流れ激突し合って動いていく中に、全地球の動きが、実にこの動きの中に包含関連づけられているのです。

     海中には、この潮の流れに従って、多種多様の驚くべき魚がひしめき泳いでいるのです。海の多数の魚が、暖流と寒流の巡り合う所に住んでいます。世界でも有数な漁獲地、例えばボストン北部やヨーロッパ北部といった漁獲地は、例外なく暖流と寒流が交流しているのです。魚の種類は、川の魚と海の魚の二つに分けることができます。しかし魚が産卵する時には、通常、川と海の魚が出合う場所を探し求めるのです。産卵の目的のゆえに彼らが特定の交合点に集まるということは、実に驚くべきことです。出合いということ、共に一緒になるということは、非常に大切なことです。

     さらに古代文化の根源を見る時、いくつかの世界的に有名な文化発祥地は、例外なくどこも水と陸が合流しているのを知ります。陸も港も川もみな一つに集合する。そうでなければ人類の文明は発生しません。例えばギリシャ文明やイタリア文明は、陸または半島、あるいは港と川とが合致している特別な地域です。これらの地域は、人類文明のために特別に選ばれた地域です。

     

    ◆劇的な出会い



     そして出会いや再会のその距離が、短ければ短いほど感激は少ないのです。しかし遠く離れた両極が再会するとなると、その感激は、劇的な感動ぶりで迎えるのです。ある意味で私は、地球の反対側の最も離れた所から来たことになります。多くの人々は、韓国といえば遠く離れた国、ともすれば月よりも遠いように思っています。アメリカ人の心の中には、韓国は戦争で知られ、戦争の惨事で惨めに傷ついた跡が思い浮かぶのです。韓国とは、この国ではそれほど色鮮やかな国としては映らないのです。

     例えていいますと、米国は山の高峰にそびえ、韓国は谷底の奥深い所にあるとしましょう。ところで世の人々は不思議がっています。「いったい、この理解できない事態は何だろう。誇り高き近代文化の頂点にあるアメリカで、谷底の奥深い所にある韓国から来た人物に、全くどんな力と理由があるのだろうか。この両者には、どんな関係があるのだろうか」。人々はとんと見当がつきません。

     広大な海は、表面では分からなくてもそこには暖流と寒流とが交わり合って大運動が展開しています。同じように、レバレンド・ムーンと皆さんたちが、大洋の潮流のように二つのものが一つになる時、偉大な、普通でない出来事が生じるのです。ではそれはいったい、誰の意志なのでしょうか?

     レバレンド・ムーンの意志ですか、皆さんの意志ですか?

     私は、そうとは思いません。そこには何かそうせしめる摂理的な意志とかみ旨があるに違いありません。二つの極を押し合わせ、一つの偉大なものへと結び合わせるある宇宙的な力が働いているに違いないのです。そこには、何か超自然的なものがそうせしめているのです。

     何か興味を引く音楽を作曲する場合、高い音から低い音あるいは強い音から弱い音への急激な変化のある音やリズムの動きのある曲にします。ドラマーを考えてみましょう。彼はただ、ドラムを上下に打つだけではないのです。わくわくするようなドラムをたたくためには、彼の動きは大きく幅広く上に跳ね上がったり下がったりする必要があります。その動きが私たちをわき立たせるのです。ドラム自体が興味をそそる音を出すのではなく、ドラムをたたく人間であり、また彼のすべての動作、顔つき、その他すべての動きが総合されてそのような音をつくり出していくのです。こうして出てきた音が、聴衆者に響き、共鳴をもたらし、興奮へと導くのです。バイオリンは、細い弦を使う楽器です。非常に女性的で、美しい音を奏でます。しかしこのバイオリンにも、高い音と低い音があり、大変音の変化の激しい楽器です。太い弦は低音を、細い弦は高音の響きを奏でます。この弦によってバイオリンの美しさを奏でているのです。

     

    ◆調和による美



     人類の東と西の融合を考えたら、バイオリンと比べることができるでしょう。皆さんは、バイオリンの低音部の弦のようなものです。アジアの文化は、まるで高音でバイブレーションは極めて高く、貫く音を出します。歩き方も東と西とでは、大層な違いがあります。アメリカの人たちはターザンやキングコングのように歩きます。しかし日本人の歩き方は、小刻みです。ダンスを見ても、調和のとれたよいダンスを演出しようとすると、ここでも日本人のような小さな動きと、アメリカ人のような大きな動きの両極がなければならないのです。こうしたすべての動きが総合的に結ばれ、一つの調和された動きとして描き出される時、そこに偉大な芸術がつくり出されるのです。

     調和という言葉を用いる時、その言葉は単に同じものを結び合わせる目的のために存在しているのではありません。調和の状態が美を生み出す時は、両極端に異なるものが融合し一つの美を創出する時なのです。調和の価値は、相異なる二つのものが結合し、一つの意味をかもし出すことによってつくられるのです。ではいつ、それがなされるのでしょうか?

     皆さんは花が好きですか?

     どんな種類の花が好きですか。赤い花ですか、あるいは黄色ですか?

     一人一人違った好みをもっていると思います。もしすべての人が、黄色だけを好んだとしましょう。そうしたらその世界は、たちまち黄色と化し、黄色の衣服、黄色の口紅、黄色の化粧になってしまいます。その世界は、実に色の地獄になっています。気の狂った世界です。

     宇宙の神秘とは何でしょうか?

     調和です。すべての色を統合した時の調和です。ある時は黄色、赤色、青色、それが混じり合ったもの、斑点のあるものなど、様々です。様々な色があるから、私たちはいろいろ解釈鑑賞することができます。私たちの心情をいろいろ反映することができるのです。そこには美があり、私たちはその美に決してあきることがないでしょう。

     

    ◆人間にある調和



     朴普煕先生を御覧なさい。けさ朴先生は、様々な色を携えているでしょう。黒い髪と少し日焼けした額と唇、それに灰色のスーツ。一人の人の中に既にたくさんの異なった色があるのを見つけることができるでしょう。女性は、自分自身を引き立てるために、何か一つよけいに装います。ネックレスとか指輪とか装飾品を身につけます。皆さんは、いつも同じものを身につけますか?

     一つ一つ違うはずです。赤い色の服を着た時、それにマッチしたものを身につけるはずです。マッチするということが、つまり調和ということなのです。

     あなた方は、すべての人が例外なく青い目をもってほしいですか?

     私の目が黒と茶であるという理由だけで、私のことを「ノー」と言うのではないでしょうか。皆さんは、心底では青い目が好きなのでしょう。それでは皆がみな、青い目、青い歯、青い舌をしていたらどうでしょう。その上に青い顔であるとしたらどうでしょう。なぜ神は、そこに青い目を与えたのでしょう。白い肌と高い鼻それに黄色い髪、その中にちょうどうまく対照的に調和するようにはめられた二点、それが青い目だったのです。まるで二つの小さな池のように。

     特にアメリカ人の鼻は高く、目は深いので奥をのぞき込むのに何マイルも行かなくてはならないのです。考えてもごらんなさい。目の井戸の奥深い所が黒であるとしたら、何か恐ろしくある意味では地獄のようです。しかし神は、黒い目を収められなかった。神は青い目を置き、そして劇的に美しさと完全な調和をかもし出されたのです。皆さん、私の説明はなかなかよいとは思いませんか。黒い歯をずーっと並べた人を想像してごらんなさい。たとえその人が笑っても、恐ろしい顔に映ります。

     被造物を見ると、神は実に見事な芸術家だと感じます。それを観察すると、それ以上に優れた調和は考えられません。すべてのものがうまく調和しているのです。東洋人の顔は、特に女性の顔は平たくつくられています。神は、その顔に合わせて目の色を与えられました。神は、いかにして事物をマッチさせるかを知っておられます。ですから被造物は、実に美しく調和を保って創造されているのです。

     

    ◆交わる時の混乱



     極と極とが出合い統合して、調和の美がつくり出されます。暗黒の世界も二つのものが出合う時、そこにはいつも、何か稲妻のような閃光があるのです。文化の最果ての極、すなわち韓国からきたアジア文化、それを代表するアジア人のレバレンド・ムーンに、その逆の極地にあるアメリカの若者がなぜ従うのですか?

     私たちは、ここに東と西の両極を合致させ、調和された文明へと統合して、宇宙的な美をつくり出すために集まっているのです。

     ところがあなた方の両親の多くは、私に反対しています。川が流れる時、いつもどこかに何らかの妨害物があります。水が岩を打ちつける時、そこにはざわめきや混沌、そういうものがつくり出されるのです。ですから二つの巨大な文明圏が一つの融合となって交わり合う時、必然的にどこかで生じる騒動は避け得ないのです。しかし、ある混乱や騒動が生じても、しまいにはそれらも統合されるのです。それは水がすべてつながり合っているように、一つの主流に最終的に巻き込まれていくのです。一度主流に加わったものは、主流の先を越えていくことはできません。どこまでも主流と共に流れていくのです。

     現在、両親が反対し否定的であったとしても、時は、必ず来るのです。ぶつぶつ文句を言いながらも、しかも我知らず両親はこの遠い流れの末端に連なって、従ってくる時が必ず来るのです。そうすることによって、また一つの大規模な融合がなされるのです。川の流れは、あらゆる種類の動きがあります。急流、うず巻き、混沌、激突が行われ、主流へと流れ込むのです。しかしその動きが滝にさしかかるとしましょう。その時は、すべての水の動きが前向きへと向かってしまうのです。

     

    ◆味わいある水



     あなた方が山へ行くと、たくさんの岩やあらゆる形をした小石や、多くの種類の木々を見つけるでしょう。この無数の岩石や木々を通り抜け、わき上がって出てくる水は、実に健康に良い水なのです。それは、この水があらゆる種類の物質からたくさんの要素を吸収して、うまく調和されているからなのです。

     私は時々、美しい山の鳥がなぜ山に住むのか、と考えたことがあります。それは、美しい水がそこにあるからなのです。ですから山から離れ去ることができないのです。このように、すべて論理的になっています。山を流れる川、入り江を形成する小石の一つ一つ、崖に突き出る岩々、山川草木のあらゆる色や形や種類は、全体を美しく調和的にまとめ上げているのです。その一つ一つが重要な役割を果たし、何物も無駄な存在とはなっていないのです。こういう観点から見ると、すべてのものがより一層美しく映えてくるのです。

     あなた方も、高い山に登りわき水を見つけてごらんなさい。山からわき出る水は、決して人を害するものにはなりません。山の鹿やトナカイを御覧なさい。いつも澄んだ水を飲み、清い美しい公害のない空気を吸って、あんなにたくましく、健康的に速く走っているではないですか。すべては一言に尽きます。それはハーモニー、調和されているからです。調和された世界とは、画一化され編成化された世界のことをいうのではありません。調和とは、個々別々にそれぞれが各自の独特の個性を発揮しながら、互いに引き立て合っていることなのです。何が山を素晴らしくするのですか?

     あなた方は、高く伸びた松の木だけが山を美しくすると考えるのですか?

     そうではありません。一種類の木だけではなく、すべての種類の木々、巨大な木、曲折した木、様々な影と色を映し出した木々が、その山の美しさをつくり出しているのです。

     

    ◆出会いの理由



     本来の話に戻りましょう。私たちは、なぜここで出会うのですか?

     なぜハーモニーが必要なのですか。なぜ東と西の文化が出合うのでしょうか。またどんな調和で、どんな目的があるのでしょうか。それを話すために私は「再会の心情」という題を選びました。外的な統一、一致だけだとそれは浅薄なものです。そこには深く心情的な愛を中心とした理由があるに違いないのです。出会いの、何かの理由が。

     この世には、あらゆる研究分野があります。その中でも、最も私が重要だと考える研究分野は、調和についてだと思います。もしある大学が、調和科という学部を設けたとして、その学部で研究した学生が結婚する時、単純な画一化された同種の文化民族同士の結婚を願うと思いますか?

     きっと願わないでしょう。皆さんは、反対の人を願うといいました。では白人に対する反対というと、それは黒人です。これは、実に意味深いことです。アメリカには、白人と黒人がいます。全く正反対の者が、共に住んでいます。これには、いったい何の目的があるのでしょうか。そして今日、アメリカには完全な調和が見られますか。調和を保てない理由は、どこにあるのでしょうか。いったい、誰に責任があるのでしょうか。率直にいって、調和を妨げるきっかけをつくっているのは誰ですか。黒人ですか、白人ですか?

     ここアメリカには、全く調和がありません。神様は、二極を組み合わせ調和をつくろうとされてアメリカを祝福されました。ですからこの国の不調和に対する責任をとらなくてはならないのは、まずもって白人です。神は、アメリカ人が世界の中でも最も調和学部を必要とする国であると思っておられます。あなた方は、調和学部の生徒でなければなりません。そしてあなた方が、この特別課目をよく修了した時に初めてこの世界に調和が見られることでしょう。

     

    ◆昼の文化と夜の文化



     真昼は明るく膨大な太陽の陽光が、全くその逆の立場にある真夜中に向かって照らし出すのです。しかし真夜中を通過しなくては、翌日の真昼を迎えることができません。もし真夜中の暗闇を通過することを欲しなければ、次の日の真昼の中に現れることはできないのです。

     今日、西洋文化は、原則的に白人文化です。白人文化は、非常に尊大であり、また権威主義的なのです。例えば、「我々白人文化は、他に何もいらない。最高の文化である」と言っています。他の原始的で暗黒の文化や黄色人種の文化を排斥したりして、自分たちのみが生き残ろうとするのです。それは、あたかも真夜中を通過することを拒否する真昼のようなものです。そして二度と再び、次の昼を迎えないでしょう。他を排斥するような西洋文化圏に住む人々が、どれほど必死になって食い止めようとしても結局は滅んでしまうのです。

     今日、西洋文化は、真昼のような最高の明るさの中にありますから、今後の西洋文化の方向性は、原始的で暗い文化のような人種の暗い文化へと移りつつあるのです。西洋文化に、他の何ものかを混ぜ合わすように努力すれば、新しい創造と新しい日が始まるのです。もう一つの栄光に満ちた繁栄が訪れるのです。そうしなければ西洋文化は、何の希望もありません。

     さて、どちらが完全な調和に近いでしょうか?

     高い文明は高い文明にとどまり、低い文明は低い文明にとどまっているのと、二つの文明が互いにその位置を交換するのと、どちらが完全な調和をつくり出せるでしょうか。かつてのギリシャも、彼らは自分たちの文明の精華を悦楽していました。彼らは、その文明が永遠に存続するものと考えました。また強大な力を誇ったローマ帝国も同様です。彼らは、自ら享楽している文明が未来永劫に存続する、と考えていたのです。彼らの文明が滅んでしまうなどとは、誰も考えたり予感すらしなかったのです。しかしいつしか、いずれの文明も滅亡してしまったのです。

     今日、最高の頂点を謳歌している西洋文明も、夜というものを探し求め通過していくビジョンがなければ、かつて不滅を誇ったすべての文化と同じく、この文化もまた消えていくのです。それが自然の理であり、普遍的法則なのです。例外のない何人も避けることのできない真理なのです。

     

    ◆和合者による調和



     このように調和が、文化を存続させたり繁栄を約束したりする鍵になるのです。そしてこの調和をつくるためには、和合者がいなければなりません。ゴム糊とか接着剤のような、間に来るような人物がいなくてはなりません。しかしこれは、一瞬の内にできることではありません。原理的で規則正しく厳正な過程を経なければなりません。例えば極と極である白と黒とが調和されるためには、その中間色である黄色がこれら二つの中間に立たなければならない、ということは論理的に正しいのです。ですからあなた方は、神様がなぜレバレンド・ムーンをアジア人種の中から選び出したか、明瞭になったと思います。調和をつくり出すためには、絶対に和合者や媒介者が必要なのです。

     神は、白人と黒人とが険しく激突している事態に遭遇しているこのアメリカに、レバレンド・ムーンを連れてきました。私は、一本の腕で白人を支え、もう一本の腕で黒人を支え、踊りを踊りながらバランスを保つよう努力しているのです。私は、二つの人種を闘いの形相から微笑の形相に変えようと試みているのです。今、白人が私を拒絶する割には、黒人が私に親愛の情を示しているということは、非常に驚くべきことです。ある意味では素晴らしいことですが、これは神様は黒人だけが好きだとか、白人だけが好きだということではありません。神が人類を救済するために、こうした現象が起きつつあるのです。このことは、重要な真理なのです。

     

    ◆二つの脅威



     白人文化すなわち西洋文化には、基本的に二つの脅威があります。この二つの脅威のゆえに西洋文化は、滅亡の危機を通過しつつあります。一つは、共産主義によってもたらされ、もう一つは、黄色人種によって引き起こされるものです。このことは、西洋人自身が認めている事実です。そしてこのことに対して彼らは、非常に神経質であり偏執病的であり懐疑的です。彼らは私に対してさえ、「彼は共産主義者ではないか。彼はイエロー・パワーの中心的人物ではないだろうか」などとささやき合うのです。

     さらにこのイエロー・パワーと共産主義の力とが一つになって、あなどり難い勢力として西洋世界に対峙しているのです。それが中共です。アメリカは、今この国に恐怖を感じております。共産主義国家中共は、巨大なイエロー・パワーなのです。ですからアメリカは、中共の関心を勝ち取るために、外交使節を送ったり上手に振る舞ったりしております。しかし中共の共産主義者たちは、「我々は真の友人をもっている。だからアメリカは出ていけ」と言っております。アメリカ政府は、中共を相棒にすることができませんでした。これがアメリカのおかれている現実的な立場です。

     なぜ太陽のもとにおける最強最大の国家アメリカは、中共に威嚇されているのでしょうか。なぜ建国三十年前後の中共に、アメリカが関心を払うのでしょうか。それは、西洋文化に打ち勝つ何ものかが押し寄せてくるのを感ずるからです。イエロー・パワーと共に共産主義という巨大な津波が打ちかかって来るのです。そこに一種の恐怖を覚えるのです。しかしこれは、必然的な一つの歴史の流れなのです。

     

    ◆もう一つのイエロー・パワー



     私は、同じ領域のアジアから来ましたが、私の道は中共とは全く反対の立場です。現実問題として共産中国は、イエロー・パワーと共産主義とを合わせもって現代のアジアに恐るべき勢力を築きました。一方私は、共産主義とは全く逆の立場から、もう一つのイエロー・パワーとして登場してきました。彼らは、「神は存在しない」と主張します。しかし私は、「神は実在する」と訴えるです。

     今日、共産中国は、「我々は、実に長い年月にわたって辛苦をなめ続けてきた。しかし今や我々は、共産主義によって世界を征服する。我々黄色人種が世界を征服するのだ」と言っています。しかしもう一つのイエロー・パワーである私は、「いいや、我々はそれは許せない。我々がなすべきことは、全人類が一つの共通の親、すなわち神のもとに一つになることである」と言って西洋の若き青年たちあなた方と結び合い、巨大な神の基盤を築いているのです。

     これらの二つのイエロー・パワーは、現在互いに面と向かい合い、また激しい戦いの中に対峙しているのです。しかし私は、西洋文化に対するイエロー・パワーの脅威から彼らを防御するために、西洋文化にアプローチしているのです。私は、巨大なコンテナー(入れ物)としてこの容器を満たすべく、アメリカという西洋世界に参りました。私たちはこの容器の中をまだまだ材料で満たさねばなりません。そしてやがてこの容器がいっぱいとなり、あふれ出すような時が必ず来るのです。何者もこの巨大な潮流に逆らうことは不可能なのです。私はこの巨大なパワーが、神の願いのごとく働くことを願っています。そしてこれは、単に黄色人種のためのものでは、絶対にあり得ないのです。西洋文化と全人類を救済するために、すべての人種を黒人や黄色人種などの区別なく、一つの大きな流れとなるのです。ナイアガラの滝よりも、もっと巨大な流れに成長してくるのです。

     

    ◆統一教会の行く所



     それでは統一教会は、いずこへ行くべきでしょうか。統一教会は、この潮流を動かさねばならないのです。私たちが高い位置にあるとするならば、一番底辺に降りていかなければなりません。また仮に、一番低い所にいるとするならば、最頂へ向かわなければなりません。現在、統一教会は、アメリカにあって底辺にいるのです。今あなた方は、この国を神の方に向かわしめるための、準備をしていますか?

     今からこのことが、現実的な問題として展開してくるのです。ですから私たちは、底辺から頂にはい上がっていくのです。そしてその次に私たちは共産圏に向かうのです。海が熱帯地方の水が北極に向かい、北極の水が温暖水域に向かって流れていることは、一般的事実です。すべては、回転しなければならないのです。

     人類の文化の流れも、同じように回転しています。古代文化は、熱帯文化でした。インド文明もエジプト文明もギリシャの文明も、すべて熱帯か亜熱帯地域に属しているのです。現代文明は、温帯文明圏にあります。例えばアメリカ、西ドイツ、日本、イギリス等々の国は、みな温帯地域の中にあって世界的な大きな勢力になっているのです。そして歴史は必然的に、寒帯地域に向かうようになるのです。それが共産主義のソ連です。ですから今日、この寒帯文明は、全世界に吹きまくり暴風雪をもたらしているのです。

     しかし聖書的歴史から見ると、元来人類文明の源エデンの園は、熱帯地域にありました。これが秋に相当する涼帯文明に移行し、さらに現在共産諸国が存在する冬の文明である寒帯文明へと移ったのです。私たちの生きている所は、涼しい秋の季節です。共産主義が、この秋の文明圏に吹き暴れ、冬の到来を告げています。

     

    ◆新しい世代の種子



     すべての葉が色づき落ちていきます。そしてそれと同時に、秋は収穫を代表しています。収穫とは、新しい世代を約束する種子がある、ということを意味しています。葉が落ち実が落ちて、木は枯れ木となりますが、その実の中に種子が威厳をもって存在しています。冬が過ぎてやがて春に相当する新しい文明が、種子を蒔かれて誕生するのです。では誰が、この新しい人類の種子になるのでしょうか?

     私は、あなた方に人類文明の流れが、正確に復帰のパターンに当てはまることを知ってもらいたいと思います。復帰には、ある基本的な骨組み、筋道があるのです。中心点があるのです。それがすなわち種なのです。種子は、外皮の中に隠された要素で、どんな天候にあっても腐らない、いかなるものにも勝って堅いものです。新しい日が来るまで、じっと耐えて自己を守っているのです。種子は、ある意味で小さく醜い存在ですが、内部には強力なパワーをもっています。どれほど寒い冬が襲ったとしても種子だけが春を迎えるのです。そしてこの厳しい冬が種子を鍛え上げる唯一の助けになるのです。

     これは、歴史的な原則であって、私が作った特別な理論ではありません。ではどこにこの真実を見いだすことができるのでしょうか。この新しい生命の道、信仰の道は、共産主義によって犯されるような弱いものではありません。共産主義も、西洋文化も他のいかなる思想、宗教、イデオロギーも、この生き方に対して何の力ももたないのです。種子は、四季のいかなる温度によっても影響されず幾十年幾百年も生命を保ち続けるのです。その種子こそ統一教会なのです。

     あなた方は、本当に自分たちがいかなる厳しい天候にも生き残り、春を迎えることのできる種子になっていると実感していますか?

     こういう概念を、今初めて気がつき意識するようになったのでしょう。そして賢明なあなた方は、その考え方を私から盗んで自分のものにしようと思っているのですから、泥棒みたいですね!

     ここであなた方が、間違いなく種子になれるという絶対的確信をもったとしたら、これは歴史的事件です。良い意味で重大な問題です。あなた方は、巨大な力の源泉になるのです。

     

    ◆冬を通過する種子



     けさの私の説教を要約すれば、一つの力強い黄色い勢力、イエロー・パワーが、他のもう一つの中国という神を否定する勢力に、相対するようになるということです。私は、地球上のすべての人種を神という共通の父母のもとに導きつつあります。それは、言葉だけのことではなくして注目に値するイデオロギーをもっているのです。私は今日まで、み旨を実らせるために、巨大な文化を築くために、様々な試練を乗り越え何回となく冬を過ごしてきました。ですから、あなた方も訓練されなければなりません。

     西洋文化は、秋の文化に相当しています。秋は急速に過ぎ去っていくのです。そして今日、人類の前に冬が戸をたたいて訪れているのです。私たちが一粒の種子になるためには、冬の冷たい気候に耐え得る堅い殻が必要なのです。そのためにあなた方は、規則正しく厳しく訓練されなければなりません。アメリカの人々は、夏が来ると涼しい所に避暑に行き、冬が来ると暖かいマイアミビーチに出かけています。統一教会は反対です。私たちは冷たい気候で衝突する。また暑い気候の所で衝突する。それに出会い勝利する。これが私たちの生き方なのです。あなた方は、堅固な種子になりましたか?

     共産主義のような、冷たい天候に試される準備をしていますか。彼らの拷問にあい、信仰の放棄を強いられるようなことを、考えたことがありますか?

     実際問題として、あなた方は相当の問題児とされています。誰もあなた方を、正しく評価していません。しかし私たちは、歴史の必然的流れが明確に分かっています。ですから寒い冬の中でも、私たちは元気はつらつになるのです。やがて春が来て種子が芽生えるように、私たちの時代と希望が実現されるのです。

     

    ◆中和文化の到来



     今、私たちは、人種と文化の異なった環境から集まり、ここで出会っています。ここで私たちのなしていることは、清く崩れることのない何ものかを、互いに交換し続けているのです。一粒の堅固な種子となるためには、いろいろな要素からエネルギーと成分とを吸収する必要があるのです。土、水、肥料と太陽光線などが一つになって初めて、一つの種子を形成するのです。美しい白人の女性たちは、どう思っていますか?

     あなた方は心の中で、“私は黒人も黄色人種も好きではない”と考えているのではないですか?

     それとも人種偏見から完全に抜けきっていますか。黒人の女性たちは、どうですか。今もなお“白人には我慢できない。たとえ原理を聞いたあとでさえ嫌だ”と決心しているのではないですか?

     私は、きっとあなた方が神の愛のもとで、互いに一つになっているのだと信じます。

     私たちは、互いに不滅の美のエネルギーを引き出し合っているのです。ですから不滅の種子を創造することができるのです。やがて春が到来します。新しい日、理想の世界が到来するのです。それは春の文化であって、私はこれを中和文化と名づけます。中和とは、中心的調和あるいは中心的平和を意味します。あなた方は、この中心的調和の要素になる準備ができていますか?

     今、人類歴史は、春の文化に向かって移動しつつあります。それがエデンの園、すなわち地上天国なのです。それが人類歴史の最終目的地なのです。

     

    ◆神の愛による種子



     一粒の種子は、いったいどこから来るのですか?

     レバレンド・ムーンからですか?

     その種子の原因は、神御自身です。神が根であり、あなた方が種子です。神は愛のプロセスを通じてこの種子を創造されました。この愛のプロセスにあって神の愛の丹精あることによってのみ、種子が堅くなる道があるのです。

     私たちは、基本的に二つの調和的愛をもっています。一つは人類の愛、人間性の愛であり、他は神の愛です。二つの愛は、一つの愛の中で調和しなければなりません。円は、ある点を中心に回転しています。この円運動が中心点に来れば、再び中心点外に行かざるを得ません。自由に内と外を動くことは、行き詰まりがありません。この円運動の中心点は、運動の中心、核心です。そしてこの位置を占めるために、メシヤが来られるのです。メシヤによって天的愛が中心からもたらされ、私たちは外に出ることができるのです。

     今日まで、この人間と神の愛の完全に調和した理想社会は、単に理想としてあるいは、夢の世界に存在するものとして考えられてきました。メシヤは、この不可能と考えられてきた現実を、実際的なものにされるお方なのです。そしてそれが今は、手の届く所にあるのです。統一教会は、この目的を達成するために誕生しました。レバレンド・ムーンの最大の貢献は、人類と人類歴史に対して一つの共通の目標のもとに、人類を一つに織りなし、神の愛によって一つの調和的理想を実現していくところにあります。

     

    ◆争いの原因の統一



     今日まで、常に、北と南の間には争いがありました。アメリカも例外ではありません。南部と北部が互いに敵となり、南北戦争を引き起こしました。東洋と西洋も互いに戦ってきました。このことは、国家間の問題だけではありません。家庭にあっても、団体同士も、常に争いがあったのです。

     何をもって、私が勝利している、といえるのでしょうか。それは、争いの原因を統一させることによってです。私はそれを試みているのです。小さな韓半島にあってさえ南北の人々は、それぞれがプライドをもち互いに敵意を抱いています。彼らは、歴史的に憎み合ってきました。しかし統一教会の結婚では、南北の一致があるのです。初めは南部の花婿と北部の花嫁は、互いに敵同士のように相対し、まるで二人の騎士が決闘をして捕らえているようでした。しかしやがて二人は、微笑し夢中になり、ついには最高の幸福をつかんだのです。この二人ですら初めは敵同士のようだったのですから、家族がどれほどの関係であるか言うまでもありません。しかし彼らも、いつしか花婿と花嫁の喜びに包まれてしまうのです。そして今では、韓国にあって大勢の青年たちが、「今度の合同結婚式はいつか。自分も加わりたい」と外部の人までが興奮を抑えきれないでいるのです。小さな波が、津波のように大きく成長しているのです。日本も同じです。初めは反対したけれど、今では、統一教会のカップルを見守っているのです。

     アメリカでも同じです。私の一挙手一投足を色メガネで見ながら、「次の結婚式はいつか。アメリカの青年たちの反応はどうか」と言っているのです。しかしいつかは理解されるようになるのです。全世界の人種が一つになる一番近道は国際結婚しかありません。二つの全く違った文化圏と環境から選ばれた男女が、神の愛によって仲むつまじく一つになる。これが完全なる調和と統一なのです。

     

    ◆神の心情を知る私たち



     このような空想を実現するのが、私たちです。偉大な仕事を成就するために、私たちは巨大な愛の力を探らねばなりません。ただ最高の愛の力によってのみ、そのような力を発揮するのです。社会の動きや環境によって翻弄されるような愛ではありません。最高の愛こそが、国境を越え、人類の境を越え、文化の境を越え、知識の境を越えるのです。

     人類歴史を通じて展開してきた人類愛は、こうした壁を乗り越えるには限界があります。私たちの統一教会は、一なる神の愛と神の心情を中心に存在しております。統一教会は、人類歴史上初めて神の心情を語る、最初のグループになるのです。神の心情は一度感ずると、朝の太陽のように広がり、誰もとどめることはできません。さらにその輝く朝の光が、全世界をあまねく照らし出すのです。人間には一つの中心的ポイント、心があります。それは全人類を代表して神の愛を人間の基準につなげる点です。それは一つの点にとどまることはありません。遍在的であって、全地にあまねく広がり内外に出入りし授受作用するのです。神の心情、仮にあなたがそれを中心に回転する時、あなたの意図は、神の心情と出会うことでなければなりません。

     そしてその中心点と出会ったら、あまりに美しく圧倒される経験のゆえに、再び外に出ていくのです。神の心情に出会って、外に向かってはじき出される時、家族や、社会や、国家や、世界を抱き抱えたいほどの興奮を味わうのです。このようにして私たちは、あらゆる国内を通過しながら、地上天国実現へと向かうのです。

     これが、喜びの再会、心情の再会に関する中心的真理です。東洋と西洋が、共に出合い、喜んでいる。二つのものを一つにつなげる中軸、核心が神の心情なのです。私たちは、言葉でもって十分に神の心情を表現することができません。しかしそれは、私たちの心を温め力づけてくれます。あなた方が、心の空虚さを感ずることは間違いです。あなた方の心の中に、その中軸に神の心情の動きがないならば、たとえ統一教会員であっても、内面に空洞を感ずるのです。神の心情がすべてです。神の心情が心の中に入り住みつくようになれば、一人でいても決して寂しくはありません。すべてが充実してくるのです。完全に満たされた人は、完全に幸福なのです。

     幼い子供が外から帰った時、兄や姉が楽しく談笑していても、もし母親がいなかったらその子供は、「誰もおうちにいないの」と言います。実際は、楽しく優しい兄と姉がいてもです。それは、母親がいなかったからです。すなわち母親が愛の主体者だからです。愛の中心、中心軸がそこにあるので、皆は満たされ無心に振る舞うことができるのです。

     今あなた方は、主体の位置に立ち、その愛を広めなければなりません。この愛を十分に捧げ尽くした時、理想の倍化と実現化があるのです。愛は、距離を超越します。そして愛のスピードに対して光の速さは、比べものになりません。愛は最も速く、最も明るく、最も満ち足りているのです。愛は最高の甘さです。全宇宙の中で、愛を越えるものは何もありません。例えば、退屈で味気のない人生を送っている女性が、この愛の可能性を知った時、突然彼女は、体全体が輝くばかりに変わるのです。このような奇跡は、ただ愛の力によってのみ可能なのです。脅迫や銃口ではできません。

     

    ◆統一教会の生き方



     私は、あなた方に統一教会の生き方を、知ってほしいと思います。私たちの哲学、原理の核心は、宇宙の中心、神の心情に連結しているのです。私は、あなた方に私自身が統一教会にあって、最高のもの、最も光沢あるもの、最も甘美に満ちたものを所有しているということを、知ってほしいのです。

     あなた方は、なぜ朝早くからここに集まって来るのですか。なぜそう好男子でもない私を見に来るのですか。私は、何のプレゼントも持ってきておりません。あなた方は私が愛の特別な力を発散していることを知っているから来たのでしょう。そしてあなた方も、自分で愛を広めていくことができるようになりたいからです。もちろん愛は、形に見ることはできません。しかし父母のいない家庭には、味わいがないのと同じように、私が存在しない統一教会は、無人のように感じられるのです。

     私は、人間としてはあなた方と同じです。では、何が違うのでしょうか。私は、生涯神の心情を受けることに捧げ尽くしてきました。誰も私ほどには、神様のことについて知っている人はいないでしょう。神様を知っているだけでなく、神の心情を感じとっているのです。だから私は、神によって光を放つ愛を与えることができるのです。

     あなた方は、太陽になることはできませんが、灯台になることはできるのです。あなた方が、街頭に出るとムーニーであることが分かって軽蔑されたり、つばを吐きかけられたりしたでしょう。しかし今、あなた方がいなくなれば、「あの快活な青年はどこへ行ったか」と言うに違いありません。もはやあなた方は、灯台になっているのです。そして人々は、これに気づくのです。私は、あなた方に灯台であるという、自信をもってほしいのです。灯台は、台風が来ても変わらないのです。まっすぐ立ち、もっと力強く輝かなければなりません。逆境の中だからこそ、より強く輝くのです。それが灯台の使命なのです。

     

    ◆私の立てた伝統



     私はグロスター港に七十日間滞在しました。そこで私は、伝説的人物になりました。私が海上で錨を下ろすと幾隻もの船が集まり、遠くから双眼鏡で私を観察し始めるのです。反対派の人々は、「魚よ逃げてしまえ」と言っているのです。しかし魚たちは私に従順なのです。あまりにも早く魚を獲るので、皆びっくりしています。そして彼らは、“彼は何かつき運をもっている。悪く言うのはよそう”と感じ始めるのです。

     私は、常に一番早く行きました。ですから私は、熟練の漁師たちにも良い影響を与えました。彼らは、魚を売った代金をみな酒に換えてしまいます。しかし私と競争し私を負かすためには、酒も飲まず一生懸命に働かなくてはなりません。まもなくうわさが広まりました。「この衰退しつつある漁港を救うのは、レバレンド・ムーン以外ない」と言うのです。市長も警察署長もこのことを言い出しました。

     私は、例外なく毎朝三時に起床しました。三時三十分には、もう外にいました。月影の下に船は出航し、もう一つのムーンとの間でいろいろなことが起こるのです。ところであなた方は、朝早く起きることができますか?

     ボートのメンバーは、私に従うしかないのです。眠いなどとは言っておられないのです。この夏、私は金銭的にはもうけたものは何もありません。しかし伝統を立てた、ということでは何千億ドル以上の価値ある仕事をしました。今後この伝統の上で、あなた方が歩むことでしょう。伝統を立てる、ということは私にとってさえ、重労働です。しかし統一教会の後孫のためにも、伝統を築かなければなりません。これが私の七十日路程でした。

     私がどれほど、伝統のために心血を注いだか、あなた方は知りません。七年間、私は二時間しか睡眠をとりませんでした。毎日毎日私は、原理を語り続けました。ある食口が非常に眠気に襲われた時、突然その眠気がすっ飛ぶような大きな衝撃を受けました。天使が現実に出現し、その人に、「何をしているのか。先生を見なさい。先生は毎日汗と涙と血の中で働き続けているではありませんか……」と叱ったのです。

     

    ◆アメリカの代表としての自覚



     アメリカの兄弟たち、私のこういう話は多分、今まで聞いたことがなかったでしょう。私があなた方に願っていることは、既に昔、私自身が体験し、今も実践している内容なのです。あなた方は、決して不平を言うことができないのです。私の全生涯は、そうした経験とエネルギーと霊的力の豊かなる蓄積なのです。

     私は、こうした財産をすべてアメリカにもって来て、すべてをアメリカに降ろしているのです。政治家をはじめ、世界のすべての人々は、この国に来ると何か自分たちの国にもって帰ろうとします。大統領は、たとえ小さな国の元首であっても、国賓として迎えるでしょう。また他の誰が来てもこの国は、お客として迎えるでしょう。しかしレバレンド・ムーンが、神のみ言を携えて来ても、誰一人迎える人もなく、反対に拒絶されたのです。

     もしあなた方がいなかったならば、もしあなた方が私を慕っていなかったならば、私は、アメリカに関心をもつことができません。あなた方が私の力を引き寄せているのです。あなた方は、二億四〇〇〇万のアメリカ人の代表なのです。あなた方は、この国の希望です。この国の生命を守っているのです。あなた方なしには、アメリカは滅亡してしまうのです。統一教会は、神のみ言を中心にした統一と再統一の運動なのです。稲妻のように、あるいは雷の響きのように、私たちの運動は国中の隅々まで広げられるのです。私たちが神の心情を心に秘めていれば、私たちは、これをなすためのエネルギーをもつことができます。重要なことは、あなた方の心情です。激烈なる力をもっているか否か。そうした潜在的エネルギーをもっているか否かが重要なのです。

     

    ◆再会の日



     きょうは、再会の日です。七十日後に再び私とあなた方が再会したのです。しかしより重要なことは、天と地が再会する場所だということです。あなた方が、きょうの再会を期して、エネルギーと心情をもってほしいのです。ニューヨークは、私たちの活動の舞台としては、狭すぎるのです。そういう思いをもってほしいのです。

     「私」は、天と地の文化を一つにする中心であり、和合者である。「私」は愛の焦点である。「私」は神の愛の伝達者である。「私」はこの国に、春の季節をもたらす思想を広める無限なるエネルギーを保有している。そう自覚してほしいのです。

     きょうは、そういう意味で新しい日、再会の日なのです。心情の再会の日なのです。私たちが、この再会の心情、愛慕の心情、神の心情、父母の心情をもつようになれば、新しい建設的で、創造的な力が生じてくるのです。私たちの動きを中心として、世界は回るのです。私たちは、本当に世界、文化を創造する発電機になれるのです。再会のある所に、目的がなければなりません。目的のない所は、誰も二度と出会うことはありません。目的をもって、それを達成した時、再び出会うのです。そのために準備いたしましょう。私たちの最終的ゴールを成就するために、再び前進しましょう。けさから違った私たちにならなければなりません。

     そのような人は、両手を挙げて祈りましょう。神の祝福がありますように。
















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    27_刺激と冒険

     御旨と世界
    (全面表示)

     



    刺激と冒険


    1978年4月16日

    ニューヨーク ベルベディア

    ◆春は新生のとき



     春の季節になりましたね。春の嫌いな人はいません。すべての人が春を好みます。とくにティーン・エイジャーを含めた若い人達はそうです。春を愛し、春の訪れを待っています。人々は、自然に、春の気持ちや何か新鮮なものを感じて春を慕うのです。しかし、若い人達が春を楽しむのに反して年配の人達は、春がくると大きな責任を感じます。同じ季節の中にあっても、彼らは、異なった次元、側面から春を感じています。なぜなら彼らには、責任があるからです。彼らは、子供を育てて大きくしましたが、今は、空虚な気持ちになっています。子供たちが自分自身の道を行き、結婚し、家庭をもっているからです。

     このように、春は異なった側面を人々に与えます。とくに年配の人たちは、過去に起こった出来事を思いだします。人生の黄金の時である青春時代のこと、また、家族や子供のことを回想することを好みます。良き思い出を回想し、古き時代を新鮮に思い起こすのです。それらの人々にとっては、これが春の時なのです。彼らにとって春は、過去の時代と生活の回想と再評価、再分析の時です。

     しかし、これは動物界には、あてはまりません。けれども、春は、その動物にさえ、その良き側面を提供します。ここニューヨークは、予期しない大雪に見舞われましたが、動物、たとえば鹿や狐や昆虫のことを考えてみてください。彼らは、冬中、春を待っていました。そして今、春がきて、新たな希望、新たな復活の心情で、この春の貴重な時を楽しみながら、大きな希望を抱いているのです。厳しい冬が過ぎ去ると、鳥はうたいだし、食物を捜し始めます。春は、鳥にさえも、未来への希望とインスピレーションを与えます。春は誇らしげに、こう言うでしょう。私は、すべての生物に生命を与える活力をもっているのだと。春は、また、こうも宣言するでしょう。私は、新しい生命を蘇生させ、成長させる新鮮な要素を与えるのだと。

     この美しいベルベディアにおいても、冬の間は、木々の葉がすべて落ちてしまいます。が、今、この春のときを迎えて、木々は新しい芽を出し、葉をつけ、新しい生命を生みだしています。新生が始まったのです。

     すべての人は、新しい芽、新しい生命、また新生を好みます。動物だけでなく、植物も、また、人間も春を楽しみ愛します。とくに、季節ごとに移動する鳥は、新生を与える春の力を、彼らなりに楽しんでいます。

     では、春には、どんな季節鳥がいますか。こまどり、ガチョウ、カナダガチョウ、白鳥、つばめ、彼らは、移動の時を、決して間違えることはありません。あなた方のように大都市に住んでいる人達は、田舎でつばめがどのようにして巣をつくるのか知らないでしょう。韓国では、つばめは、玄関の軒先や屋根の下に巣をつくります。とてもおもしろいものです。そうやって移動していきます。カナダガチョウは、このように鳴きます。(鳴き方をまねてみせる)とても簡単です。

     つばめは、欧米人にとっては、見慣れない鳥です。韓国では、つばめは規則的に往来します。つばめは、東洋的香りや性格をもっています。そして、東洋の言葉をもっています。東洋の言葉で鳴いているのです。東洋人にとっては、英語で鳴いているように聞こえますが。また、つばめは、まるでネクタイをしめ、タキシードを着ているようにみえます。とても印象的な姿をしています。そして雄鳥と雌鳥は、一緒にうたを歌います。それは、とても感動的でロマンチックです。一羽では歌いません。いつも一緒に歌うのです。他の鳥を誘って、一緒に歌います。異性を呼んで歌います。これが鳥の世界の法則です。

     これは、人間も同じです。男性も女性も、一人では歌いません。ですから、男性と女性は、一緒にいなければなりません。声楽家が恋の歌を歌うときは、必ず、彼と彼女の間に、このような関係が生じます。主体と対象の授受作用があります。一緒に歌えば、そこには愛があり、春があります。

     

    ◆春は変化のとき



     統一教会において、ほとんどの人は、若い人ですか、年老いた人ですか。(若い人です。)けれども、あなた方の声は、まるで引退した人の声のように聞こえます。若い人は、力にあふれていなければなりません。力強い響きがあり、声は、前進的でなければなりません。しかし、あなた方の声は、使い古した車のようです。新しい車は、もっと強力で、前進的です。

     “ムーニー”は歌が好きですか。好きですね。それは、あなた方が若いからです。統一教会の運動の特徴はなんですか。それは、若さです。それが特徴です。一年には四季があります。それは、人生にもあてはまります。あたた方は、今、人生の春の時にいます。あなた方の顔は、厳しい冬の後に、新しい芽をつけた木々のように輝いています。あなた方の顔は、光り輝く新しい生命に似ています。あなた方は、怠惰や感傷を捨て、真っ直ぐで、力に満ちています。

     私は、額や顔を髪でおおっている女性は好きではありません。女性は髪をあげ、後ろに結ばなければなりません。そうすると、春のように、さわやかにみえます。顔をおおってはいけません。私は、あなた方が若いのに、余分な服を持っていないことを知っています。しかし、春になると、あなた方は黄色やピンクの美しい色で装います。リボンを髪に飾って、春にふさわしくしています。もし、あなた方が自分を飾るものを何も持っていなければ、一枚の白いハンカチでもいいのです。とても役に立ちます。それで、春の雰囲気をかもしだすことができます。自然や季節に、自分の雰囲気をあわせることを知らなければなりません。今朝、あなた方はすばらしい気分でいますね。こんなに気持ちのいい日は、ここにきて、じっと座っていたくないでしょう。

     新しい春の気持ち、力強さ。春に関する例をあげてみましょう。つばめを考えてみましょうか。カナダガチョウにしましょうか。では、動物を例にとりましょう。動物は何が好きですか。(虎、熊)虎や熊が現れたら、人はびっくりするでしょう。ですから、それは例にとりません。話の中で殺してしまってはいけませんから。春で、一番愛らしい動物は、鹿です。鹿は、新芽や柔かい葉を食べます。とても賢い動物ですね。もし、あなた方が春の動物になるとするならば、私は、鹿になってもらいたいと思います。

     春は、すべてにおいて良い時です。ベルベディアの本館の前に大きな木がありますが、私は、それがとても好きです。冬になると、その木は死んでいるのか、生きているのかわからなくなります。しかし、春になると、力強い生命力を備えていることがわかります。

     また、春は種をまく時です。四季の中で、種をまく唯一の時なのです。種をまいたら、水を注がなければなりません。苔むした所、湿った所だと、種は眠ったようになりますから、適切な場所にまかなければなりません。これは重要なことです。

     春は、変化をもたらします。すべての生物は、春になると変化していきます。変化は、消極的要因ではなく、向上するために必要なものです。それは、進歩的で、前進的で、躍進的な要素です。

     アメリカを考えてみましょう。アメリカは、今、春の時を迎えていますか、それとも、冬の前の秋の時ですか。もちろん、自然は春の時ですが、霊的には、アメリカは今、どの季節にいるでしょうか。(春です)あなた方“ムーニー”は、春といいますが、科学的な観察者は、今、霊的または精神的には、秋の時を迎えているのだと言っています。では、ムーニーはどうでしょうか。秋の時に住んでいると思いますか、それとも春ですか。(春です)すばらしいことですね。

     

    ◆枝や根のように



     ムーニーは、どのような特徴をもっていますか。成長しない若い芽ですか。私たちは成長しなければなりません。本当の“ムーニー”にならなければなりません。木の枝にならなければなりません。あなた方は、木の枝になりたいですか、それとも葉になりたいですか。枝は、葉をしげらせます。花は、葉からではなく、枝から咲いてきます。ですから、枝は未来へつながっています。花を咲かせるだけでなく、実も結びます。木の生命を支える栄養の通る道も、枝にあります。枝は、とても重要な役割を果たします。花から種がつくられ、その種が、新しい生命をつくります。花が咲くのは古い枝ではなく、新しい枝です。

     この世界において、今、誰が、新しい花を咲かせるすばらしい木や枝になるのでしょうか。そのような役割を果たす若い人たちは、誰でしょうか。(ムーニーです)あなた方は“ムーニー”だから、それは“ムーニー”だといいますが、クリスチャンは、“それは私たちだ”というでしょう。ヒッピーだってそういうでしょう。共産主義者もそういうでしょう。(でもそれは、ムーニーしかできません。)あなた方は、よく知っていますね。あなた方“ムーニー”が、世界の花となり、新しい枝になりたいということは、とてもすばらしいことです。これは、この世界の人類の、新しい希望となります。そのような人々は、とても輝かしいものです。すばらしいことです。探しても探しても、この世では、統一教会以外に、それができる団体や組織はないことでしょう。私は、私たちが、世界中でそれをできる唯一の団体であると、確信いたします。

     では、もう一つ話しましょう。花を見てみましょう。花が咲く前に、何かがその準備をしています。そのために葉や枝があります。花を咲かせるために、必要な要素があることを知らなければなりません。水や空気、光などがそうです。それらは、植物の成長になくてはならないものです。それがなければ、生命は生まれません。生命は、突然生まれてくるものではありません。その前に、それらの要素を調和させる準備が必要です。その作業が、ずっと続けられているのです。そうして、新しい生命が創造されます。このような準備がなければ、新しい芽や枝は生まれてきません。

     人間社会においても、そのような準備が必要です。世界には、五種類の人種が住んでいます。争いもなく、調和を保って住めたら、どれほどいいでしょう。調和とは、木の中の水のようなものです。水は、木の中を、上へ下へと自由に動きます。もし、人類間に、このような調和、統一、平和、親愛に満ちた関係がなければ、この世界に新しい枝を生みだし、見事な花を咲かせることはできません。その作業は、見えないところでなされなければなりません。

     木の中の水が、「私は、西の方の水です。ですから、東へ行く必要はありません。私は、北へ行くように言われています。南には行けません」などというでしょうか。根から吸収された栄養素が、「私は、上に行きたくありません」といいますか。言えません。それは、同じ木に属しており、同じ枝で、同じ根につながっているからです。根は、そこで授受作用を続け、栄養素を木全体に送る作業をやめません。昼も夜も活動を続け、岩があっても、それを乗り越えて根を拡げていきます。どんな障害でも飛び越えていきます。根は、そんな力をもっています。

     私たち“ムーニー”は、このような力をもたなければなりません。ある民族主義者は、統一教会の人たちはお互いに愛しあっているというでしょう。彼らは、批判することができません。この世の人々は憎しみあっているからです。この世界の新しい枝や花は、調和や統一がなければ生まれてきません。私たちは、それを実践していきましょう。この時代のどの組織も、統一教会を受け入れていませんが、そういう意味では、ムーニーは優秀で偉大な種類の人種に属します。

     ムーニーは、とても忍耐強く、岩を乗り越え、力強く拡がっていく根のようです。雨や嵐がこようと、地下で、あらゆる方向へ向かって根を拡げていきます。その忍耐強さは、ダイナミックで、理性や想像を超えていますから、普通の人には理解できません。あなた方は、忍耐強く前進しています。知識や論理では、あなた方を理解することができません。一般の人に、家庭訪問をしながら伝道することは、とても難しいことです。でもあなた方は、辛棒強くやっています。それは、とても大変な仕事です。時には基準が下がり、侮辱され、拒絶されますが、あなた方は、とにかくそれを続けています。忍耐、力強さ、前進的姿勢の根をあなた方はもっています。それは、あなた方が優秀で、頭のいいことを意味しています。

     あなた方の根や幹は、この世界全体にとって、理想的な根であり、幹であります。私たちは世界に向かって、「私たちは、世界的な理想の根となり枝となり、世界的な美しい花を咲かせる可能性をもっている」と誇らしげに宣言することができます。あなた方は、この世を救う、世界的な美しい果実なのです。

     長い冬の後で、地中から顔を出す芽は、空に向かって上を向いていますか。それとも、地に向かって下を向いていますか。(空に向いています)どうして、空を向いているのでしょうか。なぜ、下も向いていないのでしょうか。それは、空に太陽があるからです。木は自然に、太陽という大きな力に向かって伸びていくのです。新しい芽や葉も太陽に向かっています。それが自然の法則です。そこには生命力があります。光の力があるのです。あなた方は、早く成長しなければなりません。統一教会が成長するためにも、私たちは、空に向かっていなければなりません。天宙の太陽は、天のおとうさまです。上に向かいましょう。私たちは、神から、愛の力と光の力を受けるでしょう。

     

    ◆みんな一つに



     周りを見てごらんなさい。スペイン人や東洋人、黒人、白人など、すべての人種がここに集まっています。考えてごらんなさい。四種の違った人種が一緒にいます。新しい芸術作品が創り出されたようなものです。全部の色を混ぜあわせると、どんな色になりますか。それは、傑作です。東洋人、黒人、白人の色を一緒にするのです。神さまは色がないのですから、問題ではありません。

     すばらしい芸術家がしばしば街頭で絵を描いていますが、人間の描いた絵の最高傑作であっても、自然の一輪の花のような価値さえもつことができません。その花の価値は、天のおとうさまによって決定されるからです。最高傑作である花の絵を、花壇に置いてみましょう。どうなりますか。比較の必要はありません。絵に描いた花の美しさと、実際の花の美しさは、比較しようもありません。あなた方には、この違いがわかりますか。本物でないものと、本物の違いが。

     さて、画家がどんな色の花を創りだすかはあまり問題でありませんが、四種の人種を混ぜあわせると、どんな色が生みだされるかは、大切です。美しい現実的な色が出てきます。科学的に言えば、私たちは七つの色をもっています。それを一緒に混ぜあわせると白になります。色がありません。試してごらんなさい。循環作用が一つの色をつくります。そこには、良き授受作用が存在しています。そして、統一と調和が生まれます。平和の象徴は白です。戦争のとき、敵に包囲された場合、白い旗の意味するものは、平和と友好でした。

     それでは、白人の特徴はなんでしょうか。白人は、実際は、平和の象徴なのです。しかし、過去の歴史を振り返ってみますと、白人は平和性を示してきませんでした。反対に搾取してきました。それが問題です。白人は、肉が好きで、よく食べます。黄色人や東洋人、黒人は、野菜を好みます。そうですね。

     北極の白熊も白いですが、どうして白いのでしょうか。それは、自然界で身を守るためです。では、白の源は、どこからきたのでしょうか。その原点にもどってみましょう。白熊の先祖が、白の先祖ではありません。白熊が、もともと白である必然性はないのですから。いったい、白人はどこからきたのでしょうか。文化人類学的に言うならば、白人は、スカンジナビア、つまり、ノルウェーやフィンランドのような北欧からきました。ですから、彼らは、北極のように白いのです。北極は、寒くて食べる物が何もできません。だから、彼らは、動物を殺して肉を食べるようになりました。もし、あなた方も北極で、何も食べる物がなかったならば、動物を殺して食べたことでしょう。

     では、黒人のいるアフリカをみてみましょう。アフリカは雪がなく、一年中、野菜やココナッツ、バナナに囲まれています。黒人は、自分で耕して食べ物を作らず、自然にできているものだけを食べます。だから、動物を食べる環境ではありません。

     結論をいいましょう。今、もうすでに、黒人が、真の神を礼拝する時が来たということです。黒人であっても、あなた方と同じように、祝福を受ける機会を与えられるでしょう。黒人の兄弟姉妹が、祝福を受けるときがくるのです。しかし、それには一つ条件があります。すべての兄弟姉妹が寛大にならなければなりません。そして、善に対しては、絶対的忠誠をもたなければなりません。それが、条件です。また、怠惰であってはいけません。怠惰から脱けださねばなりません。あまりにも怠惰であるのは問題です。怠惰を捨てて、神を礼拝すると希望をもつことができます。今は、昼食や夕食など全てが用意されて、いつも、あなた方の前に差しだされますが、意欲を失ってはいけません。そして、白人たちが生き残るために動物を殺したように、あなた方は、悪に対して攻撃的で、敵意をもたなければなりません。

     私は、天のおとうさまに会って以来、復帰の摂理を歩まなければなりませんでした。ですから、天の父が、人類を神側に復帰するために、最初に白人を召命するのだという理由はどこにもありません。幸いにも、白人であった人々は、過去において世界を支配してきました。なぜならそれは、キリスト教が、白人とともにあったからです。キリスト教の故に、白人はこれまで、世界を治めることができたのです。しかし、失望する必要はありません。大きな希望があります。過去において白人は、攻撃的であり、他の国を支配していましたが、それはやめさせなければなりません。これは過去の罪悪歴史の話です。

     東洋人は、本質的に宗教的です。木から果実を取って食べるときにも、人生とはなんであろうかと瞑想します。自分とは、なんであろうかと。これは、哲学的であり、宗教的であり、そして東洋的です。

     人種には、その価値において優劣もなく、上下もありません。問題は、各々の民族が、どのような伝統、文化人類学的背景をもっているかということです。それぞれに歴史があり、伝統がありました。どちらが優れ、どちらが劣っているか、それが問題です。

     

    ◆母体から離れて独立する



     統一教会の運動は、全世界、全人類に、春のような新しい希望をもたらします。ムーニーは、全世界に、春の枝を繁らせることを考えなければなりません。新しい希望として、全世界に輝けるムーン・ピープルとして自覚していきましょう。

     あなた方は、成長を続ける葉や枝でしょうか、それとも、怠惰に座して成長を止めた葉や枝ですか。(成長する枝です)本当ですね。ではそれは、太陽の光や空気が与えられた時だけ成長して、夜になると成長を止めてしまうでしょうか。それは、夜でも成長し続けているのです。芽に聞いてごらんなさい。きっと、「私たちは夜も昼も成長し続けています」と答えるでしょう。毎日、成長することが好きなのか、後退することが好きなのかと聞いてごらんなさい。それは前進することだと答えるでしょう。また、こう聞いてみましょう。早く成長したいですか、それとも少しずつ成長したいですか。大きく成長したいですか。それとも、そのままでいたいですかと。

     そうするためには、葉や枝は、木と完全に一つとならなければなりません。一つになるということは、すべてを備えることです。幹、葉、枝、花、種、根の全てを包括しなければなりません。そのような木になりましょう。そのような完全に独立した木となるためには、母なる木から切り離して、完全に一つの木とならなければなりません。一つの木になるには、切りとられなければならないのです。その他に、方法はありません。病院の外科手術のように、独立するためには、霊的なナイフやのこぎりを使って、母体から切り離されなければなりません。そしてそれは、すばやく動くでしょうか、それともゆっくり動くでしょうか。春は成長する時なのですから、私は、あなた方をせきたてます。

     それは、切断するための一つの過程です。これが本部教会の体制です。本部教会というのは母体である木を意味し、そこからあなた方は、地方へ行かなければならないということです。ですから、最初の切断作業は、このニューヨーカー・ホテルのワールド・ミッションセンターから、あなた方に行ってほしいと願うことなのです。あなた方は原理をよく知っていても、そうされると少し心が痛むでしょう。私は、あなた方の心をよく知っていますが、あえて無視します。私にとっても、それは心が痛むことなのです。しかしそうすることによって、あなた方は大きな木となっていきます。もし、他の木に接ぎ木されたら、別のものになります。その木の能力、可能性が、あなた方に付加されるのです。そして移り変わる自然とともに繁殖していきます。活動的になります。

     ですから組織においても、人事は春になされるのです。もっと発展的な使命分担に移るには、春が一番良いのです。秋は、すべてが寂しく孤独です。冬は、生命の息吹が感じられません。春のような恵みの時が、人事にふさわしいのです。大学も春に新しい学期を迎えます。宇宙の現象も、その法則によって、春に変わります。人事も春の時が必要なのです。私は苦心して、あなた方に任地を与えるのです。

     

    ◆冒険的、刺激的な春



     春は、ただ単に、喜びのためにだけあるのでしょうか。それとも苦労や犠牲のためにあるのでしょうか。春は苦労の時でしょうか。それとも、なまける時でしょうか。それは変化の時であり、動く時です。これが希望に満ちた春です。動き、変化しているものには希望があります。個人的な冒険は、大きな欲望と刺激と希望を含んでいます。歴史は、このような冒険好きな活動的な人たちによって、発展してきました。そのような哲学や信念をもっている人たちによって創られてきました。

     では、統一教会のメンバーはどうでしょうか。私たちの未来は、希望に満ちていますか。それは、前進的な躍進的な未来です。野心的な冒険です。偉大で高邁な、希望に満ちた未来です。またそれは、冒険的でしょうか。感傷的でしょうか。(冒険的です)それは、若者を魅了します。

     一般の若い男女は、愛やロマンスの甘美さについて語っています。が、また勇気や大胆さをもって、何かを成したいと思っている若者もいます。どちらがすばらしいでしょうか。きれいな花咲く花壇で、ロマンチックな話をしている若者がいて、その隣では、ブルドーザーを使って、新しい農場をつくる作業をしている若者がいるとします。どちらがいいですか。私たちは皆、一緒に働いています。男性はブルドーザーを運転し、女性は一生懸命、雑草をむしったり穴を掘ったりしています。

     春は、女性のように甘い気分にさせますが、それでは刺激がなくなります。刺激や冒険的要素には、春が反応します。春は、ときどき眠けを誘いますが、同時に、活発な気分や刺激、興奮を与えます。春は、そうでなければなりません。刺激的な春です。

     

    ◆天の父の愛をとかす



     もう賢いメンバーは、私が、甘く、優しい事を語るためではなく、自分たちをプッシュするために話しているのだということに気がついているでしょう。では、天のおとうさまの真実について語りましょう。

     天の父に聞いてみましょう。「あなたは、春を味わったことがありますか」と。天の父は答えるでしょう。「私は四季をつくりました。それは何も目新しいことではありません」「あなたは、かつて、愛を味わったことがありますか。愛されたことがありますか。人間の愛を経験したことがありますか」。天の父は、かつて経験したことがないと答えるでしょう。天の父は、四季や自然を含め、天宙を創造されたにもかかわらず、かわいそうに、春の時に愛を経験したことがありません。「その通りだ」と父はいうでしょう。私たちの天の父は、哀れな神でしょうか。幸福な神でしょうか。(不幸な神です)

     もし、あなたが天の父に、「もし、あなたが、かわいそうで不幸な神ならば、幸福な神となるために、一緒に働こうではありませんか」と申し出たら、「私とともに働いてくれる者がいるとは、なんとすばらしいことだろう」と答えるでしょう。しかし、神にも事情があります。ですから、たとえ誰かが来て、「行きましょう。私は、あなたを幸福な神にしたいと思います」と言ったとしても、神を行かせることはできません。なぜなら理由があるからです。行きたくても行けない秘密があるのです。その問題が解決されるまでは、たとえ、いろいろな人が来て、ともに行こうと提案したとしても、私は行けないと神は答えるでしょう。なぜなら、天の父は、春を味わったことがないからです。神は、春にすべてを創造されましたが、人間の堕落以来ずっと、冬の時を過ごしてきました。すべてが冷たく動かず、真っ白で単調で退屈な冬をです。

     ではどうしたら、天の父の心を溶かすことができるでしょうか。ちょうど冷蔵庫の氷のように、天の父は凍りついているのです。どうしたら氷を溶かし、天の父を解放することができるでしょうか。それは力強い熱、高い温度によってのみ、氷を溶かすことができます。

     誰が、天の父の凍りついた愛を溶かすことができますか。それは、機能でなく、愛そのものが凍りついているのです。人間の堕落によって全被造物が、それと同じ状態になってしまった事が問題です。天の父によっても、その状態を変えることができません。その凍りついたものを溶かす何かが必要です。どのように溶かしますか。知識の力、科学の力、あるいは他の力ですか。どのようにして、天の父の心を溶かしていきますか。(愛でです)

     それは、どのような愛でしょうか。男女の愛ですか、それとも家族の愛ですか。それは不変の唯一の愛によってです。なぜなら、天の父の中に、その要素があるからです。絶対不変で唯一の愛が、天の父の凍りついた心を溶かすことができるのです。それでは誰が、その愛を提供しますか。人間の堕落の故に、神自身ではできません。神は、それを受動的に受けますか、それとも能動的にですか。私たちは、その方向を行くことを許された唯一の運動なのです。神は自らで幸福になることはできないのです。

     宗教は、神を喜ばせるその一端を担ってきました。その責任の一端を担ってきました。もし、愛によって統一されていたら、戦争はなかったでしょう。争いもなかったことでしょう。もし宗教が、その使命を果たしていたならば、互いに争うことを認めるはずがありません。

     それ以外に天の父の凍りついた心を溶かす道はありません。縦的な愛が、天の父の愛を溶かすために必要なのです。宇宙的な地球的な、縦的で力強い愛が、加わらなければなりません。

     また、白人だけの愛では、天の父の心を溶かすことができません。四種の人類の愛が必要なのです。ですから、私たちは一緒になって、天の父の心を溶かすためにぶつかっていかなければなりません。三世代の愛の力が、ここに含まれなければなりません。集中された愛が必要です。全民族が、この一つの目的に集まらなければなりません。それは今から始まります。六千年の氷が、今、溶け始めるのです。天の父の心を溶かすためには、どのような要素が必要でしょうか。

     きょうは、多くのことを学びました。多くの過去の運動は、その方向へと導き教えてきました。しかし、そこには希望がありませんでした。私たちには希望があります。希望をもちなさい。それは、私たちにとっては実現可能なことです。天の父は、これを少しずつ理解するようになっています。そのような人が、天の父を解放するのです。私たちが、たとえそのような人でなくても、天の父の愛について聞くだけでも、私たちは溶け、その愛に酔ってしまいます。天の父の愛の力によって刺激を受けます。そのような人が、ゴールに到着できます。あなた方は、そのような人になりたいですか。

     

    ◆神の愛の注射



     さて、天の父の愛の言葉は、すべての国籍を忘れさせ、前線での活動の苦しさも、そのときに受ける迫害も、なんなく乗り越えさせてくれます。この世の愛しあっている男女さえも、天の父の愛を知れば、その方を好むようになります。そのような愛なのです。あなた方は準備ができているでしょうか。統一教会のメンバーも祝福を受けたら、互いに原理的に愛し合うようになりますが、神の愛を知ると、一緒になるよりも、神のために、別々になっても前線で働いていこうとします。神の愛は、祝福の夫婦をも問題なく、別々に働かせます。あるメンバーは、将来、北極で働くかもしれません。天の父は、こう聞きます。「あなたの妻は、今、どこにいますか」。そのメンバーは、「彼女は南極にいますが、私は、少しもかまいません」というでしょう。神の愛は、祝福の夫婦さえも、問題なく別々に働かせ、それでいても二人が全然気にしないほどの力をもっているのです。なぜなら、神の愛は、それほど慈悲深く甘美だからです。

     三十歳をすぎたメンバーでも、神さまが、祝福をあきらめて神のために前線に行って活動しなさいと言えば、即座に前線に飛んで行くことでしょう。そのような愛を、ムーニーはもっているのです。それがムーニーの特徴なのです。とくに、オールド・ミスといわれている女性はそうです。ですから天の父の愛は、必ずや、溶けるに違いありません。

     私たちは、どこにでもいます。アフリカの奥地にも私たちのメンバーはいます。私は韓国から来て、ここアメリカで働いています。それは、天の父が私に、アメリカへ行ってそこで住むようにと命令されたからです。私は今、天の父の愛の注射をあなた方にしているのです。その中身は、韓国産です。それは韓国で手作りされたもので、その容器は古く、針はさびついており、注射をする時は難しくて痛いのですが、その中身は神の愛であり、生命を与えるものです。注射する時は、痛みを感じますが、それでも、神の愛を打ち続けなければなりません。注射を打つと、すべてが良くなります。私は、それを保証します。神の愛が、あなたの体の中を、血となって流れるのです。そしてすばらしいムーニーが誕生します。そのような人たちを“ムーニー”と呼ぶのです。それはすばらしいことです。そして、“サニー”や“キンギー”となります。

     困難に出遭ったときは、痛くて、神の愛の注射を拒否したくなるかもしれませんが、たとえ心が進まなくても、続けていかなければなりません。なぜなら、あなた方は、すでに神の愛を味わったからです。やめることはできません。神に影響を与えなければなりません。あなたは、神にさえ影響を与えているのです。ですから、その点において、神は受動的な神です。あなた方から、能動的な要素を受け取っているのです。あなた方は、愛を天の父に与えています。ですから、天の父の愛は、すぐに溶けてしまうでしょう。これが、レバレンド・ムーンが、国際的に天宙的に計画していることなのです。

     

    ◆愛の注射を打とう



     五つの民族、白人・黒人・黄色人等の五つの民族からの愛の注射を、天の父は待っています。ある者は足に、ある者は手にと、天の父の体全体に注射を打ちます。するとすぐに、天の父の体は溶けていくでしょう。天の父の大きな体を考えてごらんなさい。この方法以外に、天の父を解放する道はありません。天の父は、それを喜ぶでしょうか、それとも失望するでしょうか。凍った神の心や体は、溶けて動きだします。手から氷が溶け、砕かれ、体の機能が規則正しく動きだし、血液の循環が始まり、顔には微笑が浮かぶようになり、そして輝きだします。

     凍りついた神が、今、溶けていくのです。すべての細胞が蘇っていきます。神は、踊りだすでしょう。踊りのステップは、アジアに、そしてアメリカに、太平洋にと地球の上を踊り歩くでしょう。そのとき、はじめて天の父は、春の時を迎えるのです。

     全ての被造物を創造された神ですが、春の香り、春の時を味わうことがありませんでした。私たちの愛によって、天の父の愛が溶かされたとき、初めて天の父は、「私の春は、今やってきた」と、高らかに宣言することができるのです。そして、春を楽しむのです。天の父の春の時は、全ての被造物にとっても、春の時を意味します。神は誇らしげに笑うでしょう。ですから、あなた方は個人的に、天の父に注射をしなければなりません。腕でもどこでもいいのです。すぐに天の父の腕は、注射する余地がなくなるかもしれません。天の父には、私たちの愛の注射は必要ないと言う人がいるかもしれませんが、天の父は、私たちの愛の注射を受けたとき、喜ぶに違いありません。

     しかし、その愛の注射は、サタンの愛の要素が入っていてはいけません。清い愛が必要です。あなた方は、天の父の外科医になるのです。その愛の注射を打つために、天の父に向かって、私のいうことを聞きなさい、と言わなければなりません。

     では、その注射は、どこで打つことができるでしょうか。怠惰で安易な場所でなされますか。それとも、困難や迫害のある所でなされますか。なぜ、そのような場所が最高なのでしょうか。なぜなら、あなた方が、神に注射を打とうとする時、サタンがそれを見つけて邪魔し、代わりに自分のサタン的注射をしようとするからです。ですからサタンの侵害や妨害のある所では、注射することができません。サタンのこない所に行かなければなりません。そこは、困難、迫害、艱難のある所です。そのような場所を選ばなければなりません。サタンの侵害できないところ、つまり、人々があなた方を迫害し拒絶し、あなたの家族でさえも試練を与えるような場所です。マリアのように、一人になっても行くという決意をしなければなりません。そのような場所は、サタンさえ侵害できません。

     これで、どこが最適な場所かわかりましたね。その愛の注射は、天の父にだけでなく、アフリカの奥地や低開発国の原始人にも、打たなければなりません。そこがあなた方の行く所であり、そこは、サタンの注射に対して免疫のつく所です。あなた方は、天の父を凍った状態から解放すると宣言できますか。この世の人々は、怠惰で、ぜいたくで、安易な場所を好み、だらしなくしています。しかし、私たちは、より困難で、迫害のある場所を探して行かなければなりません。そこでこそ初めて、天の父に、注射を打つことができるのです。

     あなた方は、注射器や針を持っていますか。それはなんでしょうか。それは、あなたの体です。あなた自身が、医者であり看護婦なのです。そして神に対して、人類に対して、愛の注射をするのです。あなた方を迫害し、拒絶し、ざん訴する人たちにも、愛の注射を打ってあげなければなりません。

     子供を医者に連れていくと、医者は注射をします。それは、何か悪い所があるからです。子供がどんなに抵抗し、拒絶し、泣き叫んで憎しみ、噛みついたとしても、その子供を治療するためには注射をしなければなりません。同じことです。相手が好きでも嫌いでも、注射を打たなければなりません。統一教会の運動から、彼らは何かを感じています。しかし注射を打つと、私たちのことを嫌いになります。それでも私たちは、注射を打たなければなりません。後で彼らは、あなた方にほほえみ、感謝するでしょう。好きであろうと嫌いであろうと、あなた方は、人々に、天の大切なものを与えているのです。

     スリを、あなた方は知っていますね。もちろん、サタン的ですが、彼は毎日の目標をもっています。彼は人込みの中にまじってサイフを盗みます。それは、とても素早いのです。相手のネクタイにちょっと触れるような感じで、ポケットからサイフを巧妙に取り出すのです。あなた方の注射も、このようでなければなりません。一見、あなた方は、何か不思議なことをやっているように見えるでしょうが、そのようにしなければなりません。少し変わった分析の仕方ですが、そのようにしなければなりません。

     人々は病気ですから、天の父の愛の注射を打ってあげなければならないのです。すばらしいことです。それはおもしろいことです。最初は、肉体的迫害を受けることでしょう。しかし、彼らは後で病気から回復し、あなたのもとへ来て、感謝のことばをいうでしょう。この過程は絶対的です。彼らが二度目にムーニーに出会った時は、態度が変わっていることでしょう。あなた方は、彼らに生命を与えているのです。変化が起こってきます。年配の人は、私が拒絶したあの若者に、自分は本当にやりすぎたと、申し訳なく思うでしょう。何か違ったものを感じるはずです。年配の人も、あなたの所へ来て、申し訳なかったとわびるでしょう。「あなたを尊敬し、ほめたたえます」というでしょう。これが、私たちのやっていることです。

     

    ◆天宙の新しい春を迎えるために



     さて、あなた方は、春がきたことを、単純に喜びますか。それとも外へ出て、一生懸命に活動し、神の愛の注射を多くの人に打っていきますか。私たちは、神の愛を伝えているのです。食べるときも寝るときも、夢の中でさえ神のことを考え、伝道するときや家庭訪問しているときには、いつも神の心情を思います。“心情”を思うのです。

     あなた方は、今朝、私が言ったことを、充分に理解しましたか。あなた方ムーニーによって、統一教会によって、私によって、天の父の凍りついた心が、春を迎えて溶けていくのです。それは同時に、宇宙全体が新しい春を噛みしめるときなのです。なんという栄光の時でしょうか。

     私たちは、これから天の父だけにでなく、全人類に愛の注射をしていきましょう。これは冒険的であり、刺激的であります。















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    28_愛の相続

  • ◆恐ろしい祝福
  • ◆愛の相続
  • ◆先生の苦悩
  • ◆中心は家庭
  • ◆永遠の因縁
  • ◆未来を見つめて
  • ◆強靭な精神力
  • ◆命懸け
  • ◆素晴らしい時代
  • 御旨と世界

    愛の相続1978年9月21日 埼玉 神川村

    ◆恐ろしい祝福


    今までの神の歴史を考えてみた場合、六〇〇〇年どころでない、何千年、何万年、何千万年が、アダム一人を復帰するためにかかってきました。そのために、歴史過程で犠牲になった個人、あるいは家庭、氏族、国家は数えきれない恐ろしいほどの数になります。堕落前のアダムの基準を復帰する、たったそれだけのためにです。そのようにして来られた方が、メシヤであり、またそれがメシヤ思想です。

     それでは、そのようにして来られたメシヤの使命とは何でしょうか?それは、本来の原理原則に通じる男性をつくることです。そのようにアダムをつくってからエバをつくるのです。アダムによってエバは再創造されるということです。ですからアダムが復帰され、エバが復帰され共に神の前に立ってすべての蕩減条件を越えて祝福されるということは、実に恐ろしいことです。歴史の中に消えていった数億万の犠牲者が、私たちに讒訴の目を向けているということです。自分たちがあのような立場に立ったなら、そんなふうにはやらない、ああすべきなのにというようにです。それなのに、何ということです。日本が罰せられるし、世界が罰せられます。それは一個人の問題ではなく、宇宙的問題を抱えているのです。

     あなたたちはここに来て、祝福される何の条件があるのですか!二年もたたない、三年もたたなくて、神の目から見たら泥水の中のうじ虫のような存在なのです。前後関係はどうか、背後関係はどうかと何の原理原則も知らないで、何ということです。女性を無視することは、お母さんを無視することです。お母さんを無視することは、お父さんを無視することで、天を無視することです。そのような連体関係をもっているということを考えられないあのような者は、生きる価値がありません。そういう者は、善なる先祖が七十代も引っかかります。霊界に行った場合、地獄どころではありません。統一教会は、地獄をも復帰しようとしているのですが、このように完成基準に、親の心情圏を蹂躙する者は救う道がありません。救う道があるとすれば、それは神の理想を果たしてからです。愛の心情圏を蹂躙する者は、絶対に許されないし、救われません。今度、第三次七年路程を終えた場合には、再祝福は絶対にありません。二人が別れた場合のその罰は、二人とも地獄に行ってしまったほうがかえって簡単です。

     だからイスラエルの歴史が、そうなっています。姦淫の罪を犯した者は、石で殺してしまうというのが聖書の教えです。天が祝福した者が、自分勝手に再び結婚してこの地上にその血統が残るということは、先生が非常に苦悩する重大な問題です。エデンの園にそういう者が存在すべきでしょうか?

     理想天国建設から見て、そういう者は許されるべきでしょうか?そういう原則はありません。結婚して旦那さんを不信したり、妻を不信したりするようになれば、それは宇宙に顔を向けることができません。心情圏を全面的に犯した者です。そのような者は、行く所がありません。

    ◆愛の相続

     男性にとって妻は、お母さんの分身であり、結集体です。お姉さんの結集体であり、妹の結集体です。そして宇宙の女性の結集体であり、代表した存在です。そのような内容をもっている妻を愛するということは、すべての人類を愛したという結果になりますし、すべての女性を愛した立場に立ち、自分の家のお母さんとお姉さんと妹を愛したことになります。ですから家庭とは、人類愛を教育する代表的修練所です。代表的心情の中心を立たせる場です。だからそこにおいて信頼され、幸福を得る生活を営むということは、全天宙の中心として幸福な生活をし、幸福な愛の中心に据えることを意味します。それが理想圏の始まりです。愛なくしては何もありません。何にもなりません。同じように女性にとっても、旦那さんはお父さんの分身であり、お兄さんの結集体であり、弟の結集体です。これが私たちの家庭の理想です。

     それで、父母が結婚を願うのは、自分たちの愛のすべてを相続し、伝授したいからです。親は死んでいくのですから、後孫にその実体を残していくのです。だから自分の後孫が必要です。愛は、永遠に続くべきです。愛は、人間の最高の願いだから万民がもろ手を挙げて相続したがるのです。それを残していくのですから、霊界でも、「自分たちはこういう素晴らしいものを残してきました」と、堂々と神の前に出ることができます。それを果たし得る所が家庭です。ですから家庭を通して天国に通じるということは、その愛の一体圏においてということです。それをなし得ない立場においては、絶対不可能です。

     人間は、自分が願って生まれてきたのではありません。それは、何によってでしょうか。お父さん、お母さんの願いによってでしょうか?

     そうではありません。天の願いによって生まれてきたのです。天の身代わりの父母の愛を通して、新しい生命体として生まれてきたのが自分です。そして愛は、全体を創造する力をもっているので、宇宙の愛のすべてを受けて、全天宙の中心的な立場に立つ存在として生まれてきた自分です。そのような素晴らしい内容をもって生まれてきたのです。愛によって生まれ、愛によって育てられ、愛によって生き、愛してまた愛を残していく、それが人生の最高の目的です。天宙あるいは世界を制覇することが問題ではありません。自分の家庭において天宙の中心たる愛の使命を果たすことが、もっと素晴らしいことです。

     このように夜が遅くなったのですから、適当にやってしまえば良いのですが、そうはいきません。仕事は、始まりよりも終わりの時のほうが貴重です。愛の世界も、そのように考えるのです。神もアダムとエバを創造した時よりも、そののちにもっと貴いものがくるようにしました。それが、創造目的です。愛を中心としての四位基台の完成ということです。

    ◆先生の苦悩

     人との付き合いもそのように考えるのです。男女が付き合って、最初気持ちが悪いということは先生も分かります。しかし、それ以上に信念を高めて、将来を見つめていくところは、理想が育つのです。そのような祝福です。それなのに何ですか! あのような者はどこに行っても通じません。あなたたちは、感謝しないからです。サタンは、祝福の基台を崩そうとして、先生に生涯かけても戦いを挑んできます。そのような無責任な者が、天に責任をもつようなことはできません。自分の奥さんから信じられない男が、世の中で信じられるということはありません。

     天の原理原則を中心にこの世と対決した場合、固くて強いものが残るのです。そのような戦いの真っ最中なのに、何ですあなたたち!

     先生があのような者を見たということ自体があなたたち全体の恥です。あなたたちは原理を知らないのですか。先生も原理を知らなければ、とんでもないことになってしまいます。人間の誘惑ばかりではありません。サタンの誘惑、試験がいくらでもあります。六〇〇〇年の間、神に対して讒訴し続けてきたサタンとは、有能な力をもっています。大概の者はみんなやられてしまいます。先生が今ここまできたのは、原理原則、天の鉄則がどうなっているのか、はっきり知っていたからです。ですからそのような誘惑に巻き込まれません。あなたたちは、それを誇りにしなければなりません。

     あなたたちの中で、祝福されてから、どこかにいい女、男がいるといって子供を残した場合、これは許されません。その子供まで消えていくでしょう。この問題を将来どうしていこうかと、先生は今、非常に苦悩しています。先生は万民を救うために来たのです。原則を中心として、これをいかに処理していくかが実に重大な問題です。それができない場合は、目をつむって行かなければなりません。

     男女の貴重な愛を、神の心情を破壊するそのようなところで使うものではありません。これは悲惨なものです。原理からいってどうなるか、先生はよく知っています。しかし先生は、それは教えません。もう議論の余地がありません。遊び半分ではありません。そんなことだったらやる必要がありません。

    ◆中心は家庭



     先生はもう六十近くで、地上にいる時が長くはありません。このように考えた場合、世界に、万民に通じる伝統を立てなければなりません。そのように伝統を築いて、韓国に帰る途中なのです。

     それなのに何です。こういうことで。本当に恥ずかしいことです。ですから一八〇〇双の中でそのような者が出そうだったら、一八〇〇双すべてが一心一体となって防備作戦をとりなさい。これは一八〇〇双すべての汚点ですよ。真剣ですよ。

     この問題を中心として、神様は今まで苦労してきたのです。イスラエル民族を滅ぼしたのもその問題のゆえです。統一教会を生かすために神は苦労してきました。統一教会を生かすというその最も中心は、家庭を生かすということです。神から見た祝福家庭とはそういうものです。家庭部長もそのことをよく理解して、しっかり教育しなければなりません。先生は命懸けです。滅亡のどん底に落ち込んでいく人類のために、新しい道を切り開いて、一人ずつ修理して生かすのです。これが神の摂理です。これは家庭の修理工場であり、愛の修理工場です。

     本当ならば、あなたたちの中で恋愛したことのある者は、家庭を完成することができません。恋人を慕ってその手で手紙を書いたそのこと自体が、恥ずかしいことです。原理的観点から見たらそうです。それにもかかわらず、日本はもうでたらめでしょう。若者は、動物のようにみんな乱れています。そういう者を祝福するのです。だから悔い改めずに、そのまま統一教会の祝福を受けられると考えたら大間違いです。先生の使命は、純粋なる童貞と処女を神のみ前に復帰することです。今回は特赦です。先生は以前、第三次七年路程を終えないと祝福がないと、みんなに宣布したのですから。

     ですから、そのような倫理問題を解決しなければ、統一教会が地上に生まれてきた使命を果たせないことになっています。乱れきった世界を、きれいな世界にしなければならないのが、先生と統一勇士の使命です。このような使命をもっているにもかかわらず、あのような者がいるとはどういうことですか。「再び祝福してください。頼みます」と言える資格は全くないのです。そのような使命を考えたこともありませんでした。今は復帰路程があるから、第三次七年路程まで世界的限界が終わらないから、それを引きずりながら処理しなければならない先生です。第三次七年路程以降はそれはありません。

     一九六〇年以降、歴史がこのように変わっていったのは、統一教会を中心としての神の摂理があるからなのです。なぜこのような大転換期に入ったのか、現代の歴史家は分かりません。それは小数の統一教会のゆえです。ですからあなたたちの祝福とは、模範を示すためである、ということを忘れないでおきなさい。

    ◆永遠の因縁

     先生は愚かな者ではありません。先祖に対しても、現実の社会に対しても、後世にとっても良いということをよく分かっているのです。ここで祝福されて、自分たちでお互いに努力していけば、必ず良い方向に行くと理論的に分かりきった上でやっているのです。それを理解して理論的基盤の上に実行して、その実行基台の上に結果が理論原則に一致したかどうか検討するのはあなたたちの使命です。

     万民は兄弟です。もしも、自分の兄弟の中に不具者がいたら、それを心情で犠牲になるのが兄弟愛です。父母がそのようになっているのですから、父母に従って犠牲になるのが孝行の道です。それは原則です。先生もそうです。このような時でも、人並みに素晴らしい顔もしていないし、背も低い者がいた場合、父母の立場に立てば、その子が何とも言えずにかわいいのです。天の心情に立って誰よりも十分にその子を愛していく、それが親の心です。

     先生が、永遠に責任をもつのです。一生だけではありません。祝福された者が霊界に行っても、先生が主管し、指導し責任を負います。祝福とはそのように永遠に先生と因縁を結んでいくということです。

    ◆未来を見つめて

     先生は、韓国へ行けば韓国の先生です。日本の帝政時代に相当に拷問されたこともあります。そのことを思うと、日本が滅びる道があれば、それを考えてもおかしくない過去の歴史をもっているのですが、先生はそうではありません。第二次大戦で日本が負けた時、先生を拷問した人たちをみな夜中に呼び出して、「あなたたち、韓国にいたら危ないから逃げなさい」と荷物を積んで送り出した先生です。先生はその時、今までの日本は敵国であったが、将来はそうではない、神のみ旨によって、兄弟になるであろう未来を思いつつ、現実の許し難い日本を許そうと思ったのです。その時の日本は韓国を迫害したけれども、未来の日本は韓国と共に神のみ旨に生きるであろうという願いをもちつつきたのです。今、日本人が命懸けで慕いつつ、ついてくる背後には、先生がこのように歴史的な条件を立ててきているからです。

     学生時代もそうです。川崎の造船所から山谷周辺の貧民街まで、先生の行かなかった所がないくらいです。先生は、日本を知り尽くしています。共産党は日本を破壊してしまうようなことをしますが、先生は日本の未来のためを思ってすべてに対しています。すべてを見ても将来性がありません。なぜなら、それを受け継ぐ青年がいません。今、日本は、小学校、中学校、高校でも国旗に敬礼することを拒む者さえいるのでしょう。日本を憂える者があるとすれば、経済問題が問題ではなく、政治問題が問題ではなく、それらを受け継がせる青年層がどこにいるかということです。これは、重大な国家的問題です。先生は、数十年前からそのように見てきました。それらを受け継ぐだけでなく、世界に向けてより発展させるような青年をと、決意しています。そのような青年は、統一教会以外におりません。すべての面から見ても素晴らしい内容をもっています。歴史、伝統から見ても恥ずかしくありません。統一教会は、素晴らしさをもっているのです。個人完成、家庭完成、氏族完成、国家完成、世界完成、天宙完成、神の解放まで、神の愛の理想圏まで理論的に公式化されているのです。それは死んでも行かなければなりません。

    ◆強靭な精神力

     韓国において、今から三十年前には、統一教会の文先生は、人のようには思われていませんでした。「人間ではない」と。それこそ悲惨に扱われてきました。今の先生と、その時の先生にそんなに違いはありませんでした。かえって、その時の先生のほうが素晴らしいくらいです。今は六十歳近くですが、その時は若く、勇気はあるし、血気も盛んで頼もしい限りでした。そのような先生であったにもかかわらず一番価値のない、どん底に陥っていました。なぜでしょうか?先生には分かります。サタンがいるからそうならざるを得ないのです。

     サタン圏とカイン圏というのは、アベル圏を全面的に死ぬまで打たなければ気が済まないのです。それでまた姿を現すのを願わないのです。それがサタンの心情です。それで先生は、そのようなどん底から、一言も言わずに、すべての迫害の道を甘んじて受け入れながら、それを消化して今日まできました。あらゆる迫害を真正面に受けて、それを克服し得る強靭な忍耐心と精神力をもって、ここまで闘ってきました。先生という男は、強靭な精神力をもっているのです。一度決心した場合、命を捧げても進んでいきます。先生は、体を見たらあなたたちと大差ありません。同じような人間です。しかしその思想、精神力、考え方が違うのです。一瞬のうちに決定した思想ばかりでなく、人類共通のものであり、それにプラスして神が摂理を兼ねて決定した、そのような考え方をもっているので強いのです。

     そのように考えると、滅びるのは自分一人ではありません。全人類の将来がなく、天宙復帰の理想が破壊されるし、神自体の存在を汚すような結果になるということをよく知っています。ですから、自分一身にいかなる迫害があったとしても、幾百万の迫害を加えられても、人類のために、あるいは神の名を汚さないように、自分一身に背負って立つというのが先生の思想です。

    ◆命懸け

     ですから、アメリカに向けての出発もそうです。一九七一年十二月十八日に韓国を発つとは誰も知りませんでした。先生は、内心において、神とこのような世界的路程を行くと、プランを組んでいました。

     アメリカでも最初、皆は韓国人がニューヨークに来て講演をするというけれども、西洋を知らない東洋人が成功するはずがないと結論づけていたのです。しかしアメリカでの長い間の闘いに完全に勝利して、イギリスでヨーロッパの基盤をつくってきました。そして、日本を素通りして韓国に帰り、勝利の祝杯をあげるつもりでした。そして韓国で四十日ぐらい休養をとり、それからアメリカに行けば良いのに何でこんなに暑い日本に来たのでしょうか?汗をたくさんかきました。祝福を神のために喜ぶのではなく、自分のために喜ぶという結果になってしまいました。いくら弁解してもそうです。先生はきのう、二十四時間も飛行機に乗って日本に来たのです。そしてここに来て夜通しで(祝福を)やって、実に感謝すべきです。先生は、命懸けでやっているのです。それほど感謝しているかどうか分かりませんね。

     霊界は先生にひざまずいて感謝するでしょう。それも分からないで、ああいうことをするのです。平気なことを考えるし、先生は大変です。そう思うでしょう。

    ◆素晴らしい時代

     男性は、恥ずかしい時はあごに手をやります。女性は「ホホホ」と口をふさぎます。誰が教えたわけでもないのに西洋の女性もそうです。それは女性は口を注意せよということです。家庭に入って問題なのは女性です。五〇〇CCのオートバイのように、女性は口が早いのです。だから女性は口に注意しなさい。男性はどうでしょうか。男性は権威をもたなければなりません。悪い者を立って審判する、そういう権威ある者です。

     祝福の内容を知れば知るほど、みんながあなたたちに感謝するでしょう。そのような、どこにも誇れるような夫婦、立派な家庭をつくってください。でも今日のような、あのような者はまずいです。あなたたちは、あのような者になりやすいでしょう。先生は、たくさん煮え湯を飲まされてきました。人間はちょっと不利になれば逃げていくし、有利になればサーッと顔を出します。それが人間の実相です。あなたたちもそうでしょう。顔にそういうレッテルが貼ってあります。歴史がそうだし、現実もそうです。イエス様の十二弟子まで逃げたのです。十二弟子は、あなたたちよりも素晴らしい者たちです。人間とは弱いものです。

     夫婦の心情基準の高まりと一体基準によって、生まれてくる子供が違ってきます。だから人の親になるということは、たやすいことではありません。また人の妻、人の旦那さんになるということは実に恐ろしいことです。

     闘いの真っ最中から統一教会の祝福の歴史が始まりました。サタン世界は死に物狂いで反対しました。しかし韓国では今、反対した者たちが統一教会のメンバーになっています。韓国では、統一教会といえば「合同結婚式」というようにあだ名がつくようになっています。もう反対する者はいません。日本も今度で三回目です。そのような伝統をつくりましょう。














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    29_祝福を迎える一日

    御旨と世界
    (全面表示) 祝福を迎える一日1978年9月22日 埼玉 神川村

    ◆見えない法則

    きょうは、約婚式と血統転換という、サタン世界で生まれたから、真の父母によって再び生まれたという条件を立たせる、蕩減式があるのですね。それは女性が先に堕落したのですから、復帰も女性が先に復帰されて、それから男性を再び生んでやるような過程を、内的に通過する聖酒式です。そして結婚して四十日以降に、それを外的に通過する式があります。それは全部蕩減式です。そのようにして、堕落したアダム、エバより以上の基準、いわゆる完成基準に上がらなければいけません。そうして天を中心として、絶対的自分という位置を確保してから、愛の基準を結んで、そうして結婚が成立するのです。

     この前、先生はイギリスでこういう話をしました。女性の美というものは顔だけにあるのではないと。普通の人は顔を見て、美人だとかそうでないとか言いますが、顔は身体の一部分です。全体を見るのです。顔は三番目ですね。手足、歩き方、声、前からも見るし、横からも見るし、全体から見ないといけません。人間の美というものは、顔だけにあるのではなく、四方八方にあります。立体、球と同じです。上から見ても、横から見ても、それは一つの自分なりの完成された美をもっているのです。そういう見地から見るのです。ですから自分の奥さんの顔はどうだとか言ってはいけませんよ。美人には貧乏な者が多いのです。しかし、徳とか福をもっている女性は違います。それから一生涯を生きていくのに、顔だけきれいという美人は、子供を二、三人生むともうペチャンコになってしまいます。ですから、子供を生んでも将来の美を保てるような女性というように見なければいけません。

     夫婦を組として見てもそうです。顔がみんな違うように、人の運もみんな違います。一生の運命が違います。男性の運命が悪かった場合には、女性の運命の良いので埋めるのです。逆に女性の運命が悪い場合は、男性の運命の良いので埋めるのです。ですから夫婦とは、山と谷を崩して平地をつくるようなものです。そう考えるといいのです。そうして平地にしてそこに自分なりの理想をもって、木を植えたり、畑を耕したり、いろいろな計画ができます。

     そういうことを考えて見た場合、外面的に見てみんながすぐに合うというわけにはいきません。結婚とは恐ろしいものです。顔を見てもそうです。専門的です。多くの人々を指導しながら、あるいは責任分担とか使命を任せるには重要なことです。人は鼻一つでもすべてを象徴しているのです。耳もそうです。ライオンを見ても、神様は原理にかなって創造しておられることが分かります。前足もすーっとしていて、すべてが良く釣り合っています。ですから百獣の王と言われるだけのものを備えています。人間もそうです。先生は手を見てもすぐ分かります。彫刻の素質があるか、文学の素質があるか、芸術の素質があるか、泥棒の手をしているか、特に足はよく走れるかどうかなど、すぐ分かります。普通の人には分かりませんね。

     結婚がよくなかった場合には、男性は死ぬし、女性も死ぬし、事故でも死ぬし、二人とも死ぬようなことがいくらでもあります。だから、そのような、あなたたちの見えないところの法則が働いていることをよく知ってください。そして一代を見て、あの家は栄えるとかは言えません。少なくても三代、七代以上をみましょう。こう考えた場合、君たちの目から見た場合には合わないと思っても、三年以上過ごしてみなさい。先生は歴史と伝統をもっているということを考えて、安心して、一生懸命に一つになるように努力しなさい。分かりましたね。

    ◆歴史と祝福

     堕落した人間におきまして、神を中心として祝福されるということは、夢にも思われなかった事件でした。その一日を迎えるために、神は、宗教を通して今まで摂理をなしてきました。神は、イスラエルの民に対して選民観を広めて、選民にメシヤ思想を教えて、国家的基準の勝利圏を回復しようとして計画したのですが、イスラエルの民の不信によって失敗してしまいましたね。それで、キリスト教が第二イスラエルの立場に立ちました。ユダヤ民族は滅びて、国家を失って世界に流浪の民となってしまいました。そして神によって裁かれて、血の道を開拓していきました。メシヤに侍れず、(メシヤを)十字架につけてしまい、その結果、十字架の道を人類に導き入れたその民族は、人類の前で血を流し、血と共に開拓して、今まできました。それで、地球上のいかなる国の人も、ユダヤ人を好まないのです。どこに行っても迫害されて、追いに追われつつ、今までやってきました。

     そして時が再臨の時代になったので、一九四八年、韓国と同じ年に独立して国を得るようになりました。イスラエルという話にならないほどの小さな国と、アラブ圏が戦って、周囲がみんなやられています。それは再臨期になって、そのように祝福される時代になってきたからです。ユダヤ教は、国と宗教を抱えて、世界の中心的使命を果たすべき立場に立ったのですが、キリスト教は、イエス様が十字架にかけられてしまったために、地上圏をなくしてしまいました。それで霊的天国に向けて、今まで、二〇〇〇年ずっと血を流しながら開拓してきました。イスラエルは外的に血を流し、キリスト教は内的に血を流し、肉的に霊的に血を流して共に今まで開拓してきました。

     そして再臨の一時になって、霊的基盤を肉的基盤に切り換えなければならない時になりました。キリスト教が再臨の主を信じなければならないのです。そのような摂理の、中心的な思想を受け継いで世に出発したのが、統一教会です。最初に、統一教会が出発すると同時に、一九四五年の韓国解放以降に、韓国のキリスト教を中心として、キリスト教が統一教会と一つとなって受け入れていた場合には、今の民主主義世界はこういう状態ではありませんし、共産主義は地球上から消えていたでしょう。反対したために、すべてを失ってしまいました。個人、氏族、民族、国家、世界基準まで発展してきたキリスト教の霊的基盤を、肉的基盤にまでつなぐには七年間の期間が必要でした。統一教会を中心として、そのような目的に向かって、既成教会の最高の人たちと付き合ったのです。その一点を求めて摂理をまとめようとしたのが、先生の韓国解放以降の仕事でした。

     それが反対に追われて、結局霊的基盤をなくすとともに、肉的基盤もなき立場に追われてしまいました。どん底に落ちてしまいました。六〇〇〇年の摂理歴史は、すべてが灰になってしまいました。それを霊肉共に韓国という地を中心として、一つの基準をつくらなければ、先生が地上に生まれた使命を果たし得たという条件を立たせることはできません。それで、まずもってその基盤をつくるために、一九七〇年代まで、迫害されながら何の弁明もせずに、無言の立場で開拓、拡大運動をなしてきました。統一教会だけで、霊的に肉的に勝利基準を果たし得るようにして、拡大していくのです。そのためには、私たちは統一教会の使命だけに生きるべきではありません。より国家基準を先に果たすのが、統一教会の使命です。そのため、教会自体は十字架につけられるようなことがあっても、果たさなければなりません。

     そうして一九七〇年代、七七七双の時代までずーっとやってきました。そのように、天の摂理は内的家庭基準を果たして、国家基準まで上がることだと分かっていると思います。それで六〇年代から家庭編成を始めました。三十六双、七十二双、一二四双、四三〇双、七七七双と、それらの家庭は世界的な条件家庭として勝利圏を獲得するのです。このようにして国家基準の勝利圏をなし得たのだから、先生は世界へ向けての出発をなさなければなりませんでした。韓国内において勝利基盤をつくったとしても、キリスト教基盤は世界的ですから、世界のキリスト教と出会わなければなりません。韓国のキリスト教は反対したのですが、イギリスとかアメリカのキリスト教は反対しなかったのです。反対した条件には引っかかっていたけれども、直接には反対しませんでした。

     先生がアメリカにいよいよ出かけていったのは、アメリカのキリスト教界に道を開くためでした。アメリカで先生は、七二年、七三年、七四年と三年間に全国的な勝利の基盤を築きました。その時はアメリカの市という市は先生を大々的に歓迎しました。一般の人々はこのように大々的に歓迎したのですが、キリスト教は歓迎しませんでした。昔はローマとユダヤ教が一つになってイエス様に反対したのですが、今は違います。社会全体が先生を歓迎したのです。キリスト教は、その中の一つの群れとして反対する立場なので、結局、先生は大勝利圏を獲得したのです。

     このように大勝利を果たして、それから国際伝道隊を世界から集めてきました。それで韓国に連れていきました。なぜそうしたのかというと、霊的自分の救いは得られたけれども、肉的基準をつなげなければならないからです。それが一九七五年の国際伝道隊運動です。そしてその規模を中心として、再び肉的アメリカ教会建設という歩みでしたが、サタンはそこにおいてぶつかってきました。それで全米を中心としての反対運動です。これは真正面からぶつかってきました。その闘いで、先生は砕かれて敗北者として帰ったのではなく、完全に勝利者として帰ってきました。

     歴史は延長してきているのです。結局、神の摂理というものは家庭を中心として、個人的、家庭的、氏族的、民族的、国家的、世界的家庭編成を目標として、復帰の理想を求めているのです。それで今、統一教会は、世界的な家庭復帰建設の道を、本格的に進んでいるのです。

     このように考えてみる時、堕落した人間が祝福を得る一日を迎えるために、神御自身が長い歴史を犠牲にして、努力してこられたのです。そしてその間、個人が滅び、家庭、氏族、民族、国家と数千数百万の犠牲を払ってきたのです。それでもこのような神を中心とした祝福の位置を迎えることができませんでした。それを統一教会において闘い抜いて、日本とかアメリカとか世界的になすようになったということは、時代的に大変な勝利圏をつくったということです。分かりましたね。

    ◆三時代をかけた祝福

     君たちは祝福される前に、自分の存在はこのような歴史的な中心性をもっているということを考えなければなりません。神の摂理が今までずっと数千年の犠牲的歴史を通過してきたのは、結局自分を救うためだったのです。そこに神が動員し、数多くの預言者とか先駆者とか多くの犠牲を払ってきた各宗教とか、そのすべては自分を一人の勝利者として立たせるための、神の愛だったのです。統一教会の歴史もそうです。先生がこのように苦労したのは、先生の救いの道を開拓するとともに、万民に自分と同じような祝福の道を授けるためでした。結局、私のために、天は動いてくれたという感謝の念に打たれながら、一生を捧げても、なお神に報いることの足りない負債をしているのです。一生を捧げても、神が喜んで迎えてくれるような、そういう者ではありません。

     しかし、すべてを捧げた場合、神は勝利者として霊肉共に、永遠の世界で、勝利圏の世界で、栄光の世界で迎えてくれるということを考えた場合、恐ろしいことです。ですから君たちは歴史的中心性を背負っている自分であり、そういう過去と現在を背負っている自分であると自覚してください。現在の世界の四十億の生命を自分によって救わなければならない、全体的な関係をもっているのです。そのような価値の存在を得るために、神が犠牲を払い、各宗教が努力をしてきました。しかしこのように歴史的に犠牲を払っても、その価値の存在を迎えた場合には、すべてが報いられます。そのような中心的使命をもっているということを、はっきり知らなければなりません。ですから君たちが動けば歴史が運行し、日本はもちろん世界が動くのです。

     それからもう一つ考えなければならないことは、人類祖先のアダム、エバは堕落したために、後孫にこれだけの血を流し、苦労をさせるような悲惨な歴史を残してきました。しかし、あなたたちはそうではありません。いかなる犠牲を払っても、自分の後孫には蕩減の罪を伝えない、堕落の後孫のような立場ではなく、新しい次元においての善なる後孫を残すのです。ですから生涯いかなる犠牲を払っても、感謝して行くのです。それを不安に思ったり、不平を言いだしたりした場合には、大変なことになります。そういう立場です。ですから過去、現在、未来の三時代を解放する使命があるのです。今、後孫に蕩減の伝統を残さないために、徹底した勝利の伝統を残さなければなりません。祝福された立場とは、過去も全人類も私たちに頼っている、そういう重大な使命をもった立場です。メシヤが再臨されて、新郎新婦の立場に立つということは、口では表現できないほどの価値あることです。

    ◆勝利圏の相続

     偉大な父親の子供として生まれた者の責任は、父親のすべてを受け継ぐことです。立つ中心地は同じですが、その範囲が家庭的か、氏族的か、民族的か、あるいは国家的か世界的かの違いです。中心点は先生が立っている所と、君たちが立っている所は同じです。二つはありません。このことをはっきり覚えておいてください。先生が世界的使命をもっていたとすれば、君たちは個人的使命、あるいは氏族、民族、国家と努力によって自由にその範囲を拡大することができます。日本人だからと、限界(線)を引いていません。中心は同じです。先生の家庭生活もあなたたちの家庭生活も、先生を中心としての氏族的生活も、あなたたちの氏族的生活も、民族的、国家的、世界的、天宙的な生活様式は、先生のそれは範囲が広いだけであって、その公式内容は同じです。それをはっきり知らなければなりません。ですから先生は君たちに氏族的メシヤになれと言います。それに関連してホーム・チャーチの問題を時間をかけて話さなければなりませんが、今は時間がありません。

     善なる神からの血統を受け継ぐ、その道、方向は絶対変わりません。先生は世界的勝利圏を完全になし得た立場ではありません。闘っている立場で、中間的な作戦をやっています。ですから、まだまだやるべきことをやらずに保留したままでやっています。君たちがもしも世界的になった場合は、もっと全面的にやれる時になるから、残さずに徹底した立場に立ってください。それが将来、君たちの行くべき立場であるとはっきり自覚してください。分かりましたか?

     あなたたちの使命が、いかに重大かということを考えなければなりません。天国をつくる礎を置いて柱を立てるとすると、君たちの柱が先頭になって、標準となる柱になれるでしょうか?

     ですから、休むとか喧嘩をするとか、私の言うとおりにせよとか思う暇がありません。男性は女性のために生まれたし、女性は男性のために生まれたのです。為に生きるのです。自分という存在を持ち出せば神は逃げるし、相手を尊重するだけで神が入ってきます。そのような原則的原理的考えによって、私たちは両足となって歩くのです。一本足ではありません。

     中心性ということ、はっきり分かりましたか?

     そのような基準を考えてみる時、あなたたちと先生の立場は違うのです。今までの中心性に立っていないし、家庭的な相続を受けていません。ですから、今からそのような立場に立つために、まず何をしなければならないでしょうか。あなたたちは、サタンに打ち勝たなければなりません。サタンに打ち勝っていますか。全日本が、あなたたちの生命をとるほどに反対したら、逃げていくような者たちがたくさんいるでしょう。神の愛の前には、絶対不変です。唯一、絶対なる神、永遠なる神です。その神の心情圏をうんぬんする者は、そのような心情の立場に立たなければなりません。ですから統一教会の道に入って、出たり入ったりする者は信用できません。絶対不変なる、永遠不変なる心情圏を求めることにより、神の愛もそこに住むのであり、それ以外の所に神の愛はとどまりません。そうするには、サタンを屈服する永遠不変の自我を得なければなりません。君たちは、まだそのような立場に立っていませんね。そのような立場に立たせるために、先生の勝利基準を相続しなければなりません。

     日本に大きなビルディングがあるでしょう。それは誰が建ててもいいのです。台帳に自分の名前をサインすれば、誰が建ててもそれは自分の所有物になりますね。紙一枚で、そのビルディングの主人になれます。先生のすべてを相続するとは、これと同じことです。天宙復帰勝利圏をすべて勝利して、立派な世界的な建物を建てて、台帳を作って、譲渡するのです。これを汚す者がいる時は命懸けで闘うのです。そうすればよいのです。簡単ですね。分かりましたか。ここにいる全員が主人です。今、全員が競技場の同じスタートラインに立ったような立場です。走ってみなさい。きっと日本の中心の氏族が生まれてくることでしょう。そうなっています。私たち自身には何の価値もありません。ただ原理を唱え、主張する、そういう保証をもっているので、サタンもどうにもならないのです。そういう原理のすべての伝授式をやるのです。

    ◆約婚式と聖酒式

     祝福とは何でしょうか?

     永遠の宝物として、子孫万代に残すようにと願って、今から出発するという約束で、祝福を授けるのです。それを汚した場合には、一族が引っかかります。イスラエルは、イエス様を十字架につけることにより、一国家が引っかかりました。それと同じように一族が引っかかります。ですから、今からの私たちの行くべき道は、天から授けられた純粋な血統をいかに保持するかということです。堕落するような血統ではなくして、純粋な血統をいかに築くかです。そのために、すべての真心を尽くさなければなりません。汚れのないエデンの園でも堕落したのに、この罪悪世界においていかに清くあるかということは、非常に重要な問題として浮かんできます。いろいろな問題があります。罪悪世界で生まれた父母は苦労しても、今から祝福されて生まれてくる子供たちに、汚されないような環境をつくってあげるために、私たちは犠牲になっても、早く準備しなければならないと思うのが先生の考えです。急がなければなりません。

     純粋な血統を受け継ぐには式があります。まず約婚式です。約婚式はなぜするのでしょうか。エデンの園でのアダム、エバは約婚の期間でした。今は堕落した後孫が殖えて世界的になっていますが、そのような環境で祝福するのですから、自分以外に何人でも男性でも女性でもいるので、目が方々に回るのですが、エデンの園ではアダムとエバと天使長しかいませんでした。天使長が堕落してサタンになったのだから、サタンに勝利しなければいけません。サタンに勝利するには、サタンはどういう者かを知らなければなりません。神に近寄った者ではなく、サタンとは、自分を中心として愛をむさぼった者です。私たちは違います。神を中心として愛を立てていくのです。まるっきり違いますね。あなたたちは今から約婚をするのです。

     この世のすべての男性、女性は、堕落したアダムとエバです。堕落したエバ、アダムは、サタンの娘と息子になっています。ですから、このサタンの世界に行っていかに神の子息と娘を得るかが問題です。それは原理によってなされます。原理は何をいっているかというと、完全なるアダムが造られた場合には、完全なるエバが復帰されるというのです。完全なるプラスが現れた場合には、完全なるマイナスは自動的に生まれてくるようになっています。それは創造の原則です。完全なるマイナスになった場合には、完全なるプラスが生まれてくるようになっています。ですから、世界人類の女性と男性の比重はあまり変わりません。天地の理知によって、そうなっています。空気がいかに自分の気ままに往来しても、それは平均をとるためのものであると同じようにです。完全なる男性が生まれた場合には、完全なる女性が生まれるようになっているということを、聖書では、女はアダムによって造られたと象徴的に書いてあります。

     ですから、君たちは堕落したアダムとエバです。堕落したので、蕩減条件を逆に上ってきました。そして、蕩減圏を乗り越えるには完成したアダムでなければ上る道がありません。原理はそうなっています。そうして完成したアダムとは、愛の神の実体対象でなければなりません。そのような基準に立たなければなりません。再臨の主は、その立場を完成するために来られるのです。完成アダムです。愛を中心として、万民を引き付けるため磁石として来られます。プラスの磁石には、「慣れ慣れしく、行くな行くな」と言っても、マイナスの磁石は引っ張られていくのです。そうして、くっついたマイナスの磁石は逆にプラスの磁石を引き付ける力をもつのです。

     復帰原則もこれと同じです。約婚後、堕落したのだから、約婚後、復帰摂理をなすのです。磁石の公式と同じように、エバを中心として完全なるマイナスの磁石になった女性が、完全なる男性をつくる式をなすのです。そのような条件を世界に立たせるのが聖酒式です。霊的復帰式です。霊的に女性を生み、その女性によって、霊的にアダムを生むのです。そうして、四十日後に三日間、それは一カ月にわたっても、四十日にわたってもいいのですが、実体的な復帰式があります。四十日は歴史的な総合的な蕩減期間です。

     人間が愛を中心として復帰の権限を保つようになったのは、蘇生期でもなく長成期でもありません。完成期に入ってなされます。ですからアダム時代と次の時代は、失敗の時代です。その結果、旧約時代の蘇生的神の愛の圏を受け継げなかったし、キリスト教を中心として長成的神の愛を受け継げませんでした。その蘇生、長成の愛の圏を受け継いだのちに完成的な成約時代の圏に立つことができるのです。そのような蕩減式です。第一日は、旧約時代の復帰です。堕落したアダム、旧約圏を復帰します。第二日は新約時代を経て、イエス様を完成する時です。これを蕩減しなければいけません。第三日はイエス様の身代わりの新郎として立ち、新婦を再創造するのです。そこにおいて、初めて正式に軌道を正して出発することができます。このように複雑です。もっと具体的に蕩減条件を立てなければいけません。

     イエス様がパンとぶどう酒を「これは私の肉であり血である」と言われたと同じような内容が、聖酒にはあります。だから聖酒式は真の父母と一つになったという条件を立てるのです。真の父母と一つになったこの身は、サタンと一体とはなりません。永遠にサタンと無関係です。今からあなたたち二人は、永遠のエデンの園で、アダム、エバの新しい理想の天国をつくると出発の覚悟をするのです。

     約婚式はなぜやるかというと、アダム、エバの堕落前は約婚期間であり、その期間を何の讒訴もなしに復帰しなければなりません。そしてアダムが旦那さんになり、エバが奥さんになって愛すればそれでおしまいです。それが果たせなかったのです。逆転してしまったので、それをもとがえさなければなりません。それを血統転換式、アダムは主管転倒式と言います。堕落によってエバはアダムを失ったのですから、親の立場に立ってアダムをいかに苦労しても定めて、自分の旦那さんをもたなければ、エバは相対者を得られません。ですから今までの世界は、女性が苦労する世界なのです。女性はもう公式的にどこでも大変でした。特に日本の女性は悲惨な歴史をもっているのです。女性はみんな、堕落した天使の餌食になっていったのです。それを復帰するのです。これをはっきり分からなければいけません。

    ◆愛の戦争

     それで聖酒は何かといいますと、サタンの讒訴のない万物のすべてが入っています。その聖酒を頂き、真の父母と一つになった者が、それを永遠に汚した場合は大変です。サタンよりももっと恐ろしい立場に立つのです。サタンは長成期完成圏を汚し、蹂躙したのですが、祝福された者は、完成期完成圏を神の実体を犯した罪が残るから、永遠に許されません。恐ろしいことです。神はそのように考えます。生涯かけてこの道を開拓した先生も、そう考えます。あなたたちは分からないかもしれませんが、原理的に話を聞いてみた場合にまさしくそうです。もしも誤るような場合は大変です。第三次七年路程が終わった場合は、本当に厳しいです。私たちの戦争は愛の問題です。それは将来、許されません。その自信のない者は、こういう場に参列しないほうがいいですよ。原理的にそうなっているので、サタンはレバレンド・ムーンのために完全に打ち負かされてしまいました。歴史の秘密を探り出して、このように整然とした実体的勝利基盤の上に立った男は、サタン世界においては悔しい存在ですね。

     サタンは自分の気ままに、どんなことでも先生に向けてやってきました。いろいろなことをやりました。七六年まで先生は攻撃したことがありませんでした。七六年になって初めて、「新しい時代に入る」という宣言をして出発しました。時代が変わりました。今までは保守的でした。カインがアベルを蕩減させた時代から、アベルがカインを蕩減させる時に入りました。これからは復帰が早いです。昔は悪らつなサタンが善をむち打って地獄に連れて行きましたが、今は、反対に滅びる者を生かして天国に連れて行くのです。

     統一教会が世界をどのように開拓していくか、何が重要か、全部分かります。私たちの歩みは天国に向かって進んでいます。天国へ行く途中の駅が、個人駅と家庭駅と氏族駅と民族駅、国家駅、世界駅、天宙駅そして永遠の駅である神の心情圏に行って、すべてが完成するのです。ちゃんと公式になっているのです。個人駅を犠牲にしても家庭駅を得なければなりません。家庭駅を犠牲にしても氏族駅、氏族駅を犠牲にしても民族駅、民族駅を犠牲にしても国家駅、国家駅を犠牲にしても世界駅、世界駅を犠牲にしても天宙駅、天宙駅を犠牲にしても神様の心情駅です。

     先生は復帰がいかに難しかったかよく知っています。復帰がこんなにもつらく、こんなにも難しいことであったかと思う時、堕落せよと言われても、恐ろしくて堕落することができません。二年半、三年とあれをしてこれをして得た祝福だと、簡単なものだと思うでしょう。そんなにたやすいものではありません。

     一六一〇双が一生懸命、真剣な生活をして神にたたえられるような家庭になるように願います。

    ◆七年公式路程

     結婚、祝福されることは恐ろしいことです。摂理的歴史から見た場合に、神の中心思想はアダム、エバの家庭です。それをモデルとして、同じような家庭を型抜きして造るのです。型を造って鉄板を入れてパカッと押せば、パカパカパカと何千何万個が出てくるのです。先生はその型を造るのに今まで苦労してきました。その型がペチャンコだったら何にもなりません。神の摂理の中心思想はメシヤの家庭、アダム、エバの家庭、堕落圏を勝利した家庭です。人間の中心思想は、堕落圏を越えて、堕落しなかった勝利圏である神と共に愛を中心としての家庭編成です。それは同じことです。ですから君たちの家庭は、堕落歴史家庭に生まれて、それを果たし得たということは貴く、今まで歴史上にそういうことがありませんでした。復帰とは何かという内容を理論的に明確にしてなす、このような祝福をした例は今までありません。この時代に入って、初めて地上でなされるようになったことは、不思議な時代に入ったからです。ですから家庭ということを痛切に考えなければなりません。鈴木家だったらその鈴木一個人の家庭ではありません。歴史性を中心とした中心性の家庭です。

     アダム家庭の完成は、家庭的完成の出発であり、氏族、民族、国家すべての始まりで、天国の始まりでした。あなたたちは、家庭を中心として氏族圏の使命を果たすかどうか、民族圏の使命を果たすかどうかという基準に立っているのですが、先生は世界的使命をもっています。その立つ中心点は同じです。

     イエス様は、氏族基台を得ることができず、結婚されませんでした。そのことをはっきり知らなければなりません。ヨセフの家庭とザカリヤの家庭です。洗礼ヨハネの家庭を中心としてその使命を果たして氏族的基盤がつくられた場合には、イエス様は伝道しなくても、大工さんをしていても、天国はつくられました。騒がれながら、信じられない大衆を引きずりながら、いろいろやる必要はありませんでした。自動的にコツコツと家庭を中心として、子供を生んで四位基台をつくれば、それでおしまいです。四位基台を中心として理論的歴史の蕩減の内容を解明するのを、基台をつくりながら徐々にやっても、死ぬような悲惨な運命には遭いませんでした。家庭基盤をつくって子供がいたら、その後のキリスト教は大分違っていました。イエス様の直系の子孫を中心として、世界がのみ込まれていたことでしょう。そのような基台がみんな流れてしまいました。分かりますか。

     氏族的家庭基盤がなくて、イエス様は死んだのですから、私たちはそれを命懸けで蕩減復帰しなければなりません。それが、今後の救いの道を立てていく、統一教会と万民の行くべき道です。それは三年半以上、七年の期間公式路程として、連綿として、地上天国が完成されるまで残るようになっています。その運命をあなたたちは無視することはできません。ですから結婚前三年と、結婚して七年ですね。イエス様は三年路程で家庭を求めて、そして七年路程を果たそうとしたのですが、私たちはそれを公式的に、三年間で三弟子、十二弟子を復帰して、祝福して、そして七年路程を歩むという原理観です。イエス様が七年間でイスラエル国家、あるいはユダヤ教をして、すべて世界に向けて出発すべき基台として果たし得なかったのを、私たちの一身において、総合的にまとめて蕩減復帰しなければならないというのが、現実的歴史すべてを総合した五パーセントの私たちの使命です。

     その七年間を中心として、一カ月に一人ずつ、八十四名伝道しなさい。十二弟子と七十二門徒を中心として、それは氏族圏です。民族的な七十二長老は民族指導者です。そうなった場合には、氏族的十二弟子を立てることができます。三人の弟子は家族圏です。それを果たし得ずに死んだイエス様の身代わりに実体基台を、霊肉共に汗と涙を流し、家族的実体十字架にかかっても、それを果たすべき使命が私たちに残っているのです。

     ですから、統一教会は結婚しても、それを果たすために家庭的十字架の道を行っているのです。分かりますか?

     イエス様は十字架ののちに復活して、十二弟子と七十二門徒を中心として、再び固めて霊的出発をしたと同じように、私たちも十字架につけられる前にそれを治めなければ、天国へ行く道がなくなってしまいます。天国につながる橋がなくなってしまいます。それを再び完成するための闘いを、私たちがしなければならないということが、七年路程です。一カ月に一人ずつ伝道して八十四名を伝道しなければなりません。公式的ですね。適当に組み合わせているのではありません。

     最初は、三人の弟子です。アダム家庭復帰ですから八人が家庭編成をします。その家庭を守るには、十二人の兄弟をもたなければなりません。ヤコブの十二子息です。それが氏族の基盤になります。その氏族を拡大して民族基盤になります。その民族的基盤を指導し得る中心者が七十二長老です。それがイエス様を中心として治めたとすれば、イエス様は絶対に死にませんでした。それが蕩減路程に残っているのです。先生もその公式を行きました。三家庭祝福、十二家庭三時代、三十六家庭、七十二、一二四、四三〇、七七七、一八〇〇というように、一八〇〇は祝福の終わりです。六数の三倍の一八で、サタン圏の及ばない基準に超越したという条件の祝福です。分かりましたか?

    ◆ホーム・チャーチ

     あなたたちは絶対的にこの道を行かなければなりません。それをずっとまとめて、世界的蕩減をなさなければ、アベル圏の国家基台がなくなります。勝利したということは、アベル圏における世界的基地を得られる時代に入ったということです。それが三六〇軒を中心としての、私たちのホーム・チャーチ活動なのです。二年前からそういう計画をしていました。今から本格的です。ホーム・チャーチのない者は、蕩減復帰を中心として行く道がなくなってしまいます。いくら昔のイエス様時代に、あるいは三年前にロンドンにニューヨークにいて、先生がホーム・チャーチをつくったとしても、それはサタンが認めません。神様も認められません。

     勝利の基台を得たのだから、ホーム・チャーチを中心とした民族を編成することができるのです。ホーム・チャーチを中心として、民族を中心として世界を攻撃することができるのです。そのような基盤ができました。ホーム・チャーチをつくるにはカインを屈服させなければなりません。カイン的個人、カイン的家庭、カイン的氏族、カイン的民族、カイン的国家、世界的蕩減条件を立たせなければ、自分の故郷には帰れないのです。

     ですから、今まで宗教の道を歩む者はみんな出家して、社会に奉仕して犠牲になり、理想の極楽に行くというようにしてきましたね。あなたたちも出家してやってきたのでしょう。先生もそうです。原理は貴く素晴らしいということを知っていますから、自分の両親、兄弟に一番先に聞かせたいのです。しかし、神の摂理は、アベルを救うための摂理ではありません。アベルを祭物として、カインを救う摂理ですから、尊いものをカインに向けるのであって、アベルに向ける原則ではありません。ですから先生のお母さんに対しては一着の着物も買ってあげたこともなく、一生涯を犠牲にしました。万民に対してはいろいろなことをやりながら、子供に対しては何もやりませんでした。それを個人から氏族、民族、国家、世界までやって条件を立たせて、それから自分の故郷に帰るようになっています。今から帰るのです。

     今年になって先生は、お母様や子供たちに、着物やおもちゃを買ってあげました。買ってあげても先生は条件に引っかかりません。そういう原理原則があります。日本の責任者たちは、「教会長だからアベルであり、君たちはカインだから、カインはアベルに屈服するのが原理だから従え」と先生が教えない原理の教えをしているのではありませんか?

     そういう原理はありません。愛の力でもって、自動的に自然に頭を下げるような、そういう使命を果たさない者はアベルではありません。アベルの立つ基盤がありません。勝利し得なかったのですから、神は認めません。それは個人的、家庭的、氏族的、民族的においても同じことです。ですから統一教会が世界的なアベルの教会であるとするならば、世界的に血を流して蕩減条件を勝利して、勝利の領収書にサインをサタンにしてもらって、そこで初めて世界的なアベルになれるのです。そのようになっています。

    ◆天に届く愛

     このように考えると、復帰の瞬間においては、エバがアベルの立場です。ですから三年間は絶対服従しなさい。女性と共にあって従うよりは、離れて働いたほうがかえっていいですね。男なのに朝夕に女性に挨拶しなければならないし、いろいろな式があるのです。先生は話さないですが、直接そのような式をやってきました。ですから、かえって離れて活動して、女性に勝る実力をもって、三年後に女性の前に現れたほうがいいですね。祝福されてからの三年路程とは、そういう期間です。

     日本文明というのは、みんな世界からの模倣文明です。ですからそれを自分だけのものにしておかずに、世界のために使わなければ日本は滅びます。統一教会に入った日本人は天民になりなさい。万民のための中心性を立てていくのが天民です。

     あなたたちは祝福されても、三弟子、十二弟子、七十二門徒という歴史的蕩減条件が残っているということを考えなければなりません。祝福される何の資格もないのですが、先生がそうするのです。復帰の絡み合った糸を解いた立派な内容を、ビルディングの台帳を、無条件に今晩皆さんに寄付してあげましょう。自分の家ですから、汚した場合には命を懸けて修理しなさい。日本で一六一〇カ所でなされますから、サタンの世界は大変です。穴がポコポコと明いてしまいますね。それで資格はないのですが、台帳に自分のサインをもっている立場で、真の父母の子女として親のすべてを相続するという天倫の原理原則があるので、それが可能なのです。分かりましたか?

     そうするとあなたたちはいかにして、アダム、エバより以上の基準に立つかということですね。先生とお母様の肩によじ登ってジャンプするのです。自分に向かってではなく、神と万民に向かってジャンプするのです。下は地獄でもいいです。神と霊界の万民の親たちがサッと支えてくれます。妻とは、旦那さんとは、いったい何者でしょうか。自分のものですか?

     神のものであり、宇宙のものです。愛とは何でしょうか。自分のものではありません。神のものであり、人類のものです。ですから三年間、神のために走りなさい。愛の心情が高められて走りなさい。神にある妻を愛するのは、神様をあがめるように愛するのです。まだ愛が足りないから、神様はビクともしません。周囲が模範的家庭とまだ言わないのは、まだまだ愛が足りないからです。

     女性も同じように、神様をあがめるように愛するのです。神に向けて届くような愛の授受がなされれば、そのような家庭は自動的に四位基台ができます。すべてが自動的になります。コマの先端をまっすぐにして回せば、よく回りますが、先端をふにゃっとして回すと、フラフラとなるのです。ですから、中心性の立ったコマを作れば子供どころではなく、孫までも間違いありません。子供が欲しかった場合には、コマがまっすぐに回るようにしなさい。すべてが解決します。そのような愛を中心として、四位基台の家庭をつくらなければなりません。

     ですから男性は天を考え、万民を考え、妻を考えながら三位基台です。天、人、夫婦一体となってやっていくのです。そのような基準を立て得ずに堕落したのですから、私たちはまずその基準を立たせるために努力するのです。天を愛し、万民を愛して、自分を犠牲にしながら愛を高めるために、私たちは生きているのです。そのために祝福されたと思いなさい。そうすればアダム、エバ約婚時代堕落圏は何の讒訴条件もなく、訴えられることはありません。原理からいえばそうです。堕落とは自分を中心とする世界です。神の愛とか人類とか後孫とか万物とか宇宙とかを思わなかったのです。私たちは、それを思うようになっているのです。

     完成期完成基準を凌駕するための七年間が残っています。三年間準備してイエス様の公的路程を中心として、三人の弟子と蕩減の原則基盤をつくるのです。そして民族的なメシヤの使命を果たすのです。ですから、私たちは日本統一教会のために働いているのではなく、国家のために働いているのです。先生は世界のために働いています。あなたたちより一段階先を行って、あなたたちの将来行くべき道の土木工事をしたり、橋を置いたり、機関車を造ったりして、忙しく働いてきました。そういう立場です。

     堕落は、サタンがエバを引っ張って、アダムまで引っ張っていったのですが、反対に復帰はエバを完成基準まで引き上げるのです。そうして復帰されたエバによって次の摂理がなされます。堕落した天使長は復帰された天使長の立場に立つのですが、神の子としては血統を受け継ぐ道はどこにもありません。しかし原理的にいって、堕落前は神の子であったという立場で、養子として接ぎ木をするような作戦で真の実を結ぶような仕業をするのです。接ぎ木は女性によってなされます。どのような原理原則によってそうなるのでしょうか。エバによって天使長は堕落したのですから、それを蕩減してもとかえすには、復帰されたエバによって天使長がつくり変えられるのです。分かりましたね。ではお祈りしましょう。

     天のお父様、ここに勝利的なエバの復帰の基台をなし得ましたから、永遠なる相対者として新郎の復帰をなす霊的基台が必要でありますから、聖酒を中心として新しく生まれ得る子女の立場に立つように祝福してくださらんことを切にお願い申し上げます。

     そのことにより新しく生まれ変わり、そうして蕩減の復帰圏を勝利的に屈服させ得て、神様の愛に接するような道を、今後三年間果たすように守ってくださることを切にお願いしながら、お祈り申し上げます。どうぞお守りください。真の父母のみ名を通して感謝いたします。アーメン。













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    30_七七七双祝福八周年記念に寄せて

    御旨と世界



    七七七双祝福 八周年記念に寄せて

    1978年10月22日 韓国 水沢里


    ◆祭物的基盤イスラエル



    きょう私は、本部教会においてホーム・チャーチの話をしましたけれども、ホーム・チャーチは統一教会として行くべき最後の関門です。最初でなく最後の関門ですから、これを通さずしては統一教会の使命も完成できないのであります。このような重要な基点にいることを知らなければなりません。では、ホーム・チャーチの話を、もう一度してみましょう。はい) 。

     本来、人間が堕落していなかったならば、ホーム・チャーチという言葉すら必要なく、完成された家庭基盤ができていたことでしょう。その家庭基盤の上に神が臨在され、同時に天使世界が直接アダムとエバを中心として、平面的な地上において霊界と自然に通じながら、神に直接侍れる家庭となったでありましょう。そのように家庭の出発がなされ、そして子供を生んで氏族を形成し、民族、国家を形成し、そして長い歴史を通して世界はアダム一族の世界となったでありましょう。このことは、原理を通してはっきりと知っていることと思います。どうですか? (はい) 。

     では、堕落したためにどうなったのでしょうか。堕落することによって、神様から追放され、天使世界から追放され、そして万物世界、人間自体の基準、家庭基準、国家基準すべてを失ってしまったのです。失ったということは、アダム、エバ自体が追放されたことであります。では、その責任はどこにあるのでしょうか。それは神様にあるのではなく、天使世界にあるのでもなく、万物にあるのでもなく、あくまでも人間の責任として残されているのであります。それが、復帰摂理を歩む人間の行くべき運命の道でありました。それは一人で行くことができないのであります。必ず再創造の原理を通して、神と霊界の協助を受けていかなければならないのが救援の歴史であります。それゆえに今日、地上の堕落した人間たちに神と霊界とが動員して、再創造の歴史をなしているのであります。神と天使の協助によって、万物世界を創造したのちに人間創造をなしたので、復帰は万物世界を復帰したのちにおいて、実体アダム復帰の基盤が始まるのであります。

     それで旧約時代には、祭物を通して万物的条件を、神と霊界との協助を受けてなすのであります。神と霊界と万物が一つになれるような物質的、実体的万物条件の基盤を整えるための時代が祭物時代、いわゆる旧約時代というのであります。分かりますか? (はい) 。それで、旧約時代にこのような祭物的基盤がイスラエルという特定選民圏においてのみなされるのか、といえばそうではなく、元来は世界化しなければなりませんでした。世界化するために特定の国を定めたのであります。それで世界の主流中心国家を立てて、すべての国の中で一番トップに上れる国のように立てたのが選民イスラエル国家でありました。それで、イスラエルの国でそのような基盤が整えられれば、祭物基盤は世界を代表した基盤として完成され、その基盤の上に万物基盤が立てられた結果となるので、その基盤の上に、完成したアダム、エバが基盤をもつようになるのであります。

    ◆愛の十字架の道

     新約時代に入って、完成のみ旨を目標としてきたイエス・キリストが祭物となって、これが始まるのです。これが今日、全世界的にキリスト教という版図をなして、世界的人間復帰の環境を開拓するのです。分かりますか。それであらゆる宗教の中で、中心宗教となるのがキリスト教なのです。

     しかし、キリスト教は霊的基盤のみであります。人間が堕落せず、価値を失っていなかった本来の基準は霊肉ともの完成基準であります。そうして世界を代表することのできる中心位置にいなければならないのですが、霊的基盤だけですので、再臨ということが問題になってくるのであります。それを目標として、神は世界的基盤に第二イスラエル、キリスト教を発展させてきたのです。その基盤の上に、実体としてメシヤが来られ、霊肉一体化した基盤を通して、世界的な中心であるアダム完成型を蕩減復帰して来られることを知らなければなりません。分かりますか? (はい) 。

     それでは、なぜ統一教会が現れるようになるのでしょうか。世界的なキリスト教の基盤の上に霊肉を中心として結束させて、世界の基盤を代表する中心的完成した人物がいるからです。堕落しない完成した立場に立つ人物として、神の愛の理想圏を世界化させるための責任をもって、今日、統一教会はこの地上に現れるようになったのであります。旧約時代には祭物を通して血を流してきました。新約時代には人が血を流してきました。それでは今日、我々の統一教会時代にはどのようなことが起こるのでしょうか?

     愛を中心として、犠牲の血を流していくのであります。愛を中心として犠牲の血を流すということは、どんなことか分かりますか。統一教会時代になって、皆さんの家庭に複雑な問題が起こってくるのです。堕落によって人間は神を失い、次には天使世界を失い、万物を失い、人を失い、その次には愛の責任を失ったのであります。その最後の愛を中心として、犠牲的な道を行かなければならないのが統一教会であるということを、皆さんは知らなければなりません。

     先生が今まで歩んだ道というのは、愛の十字架の道を代表になって歩んでいるということを、皆さんは知らなければなりません。一個人の代わりにそうであり、氏族、民族、国家、世界の代わりに、代表となって、その道をきたのであります。愛の十字架の道において敗者となる時には、統一教会はみ旨を完成することができなくなるのであり、勝者となる時、神様のみ旨を地上に移して天国時代が可能になるのです。そのことを知らなければなりません。分かりますか? (はい) 。

     それでは皆さん、家庭とはいったい何でありましょうか。家庭とは神を迎え入れることができるところであります。アダム、エバが堕落したので、神に侍ることができなかったのでありますが、家庭は神に侍り得る中心的土台であります。次に、縦的な面において天使世界との関係を結ぶことができなくなったのを、横的な面において実体生活的な基盤の上で、霊界との直接的な関係を結ぶことのできる、復帰された場となるのであります。次は万物復帰の基盤を整える場に立つのであり、さらには神の子女、言い換えればアダム完成の位置を代表できる場に立つのであります。次は神を中心として実体的な父母の基準を通して、神の霊肉完成圏、統一心情圏を帰結することができる責任を果たすためのところです。それが、統一教会の内的責任となるのであります。分かりますか。

     統一教会において、今までの他宗教と異なる点は何でありましょうか。今までの宗教の目標とするところは、個人の救援にありました。理想的な人格完成を説いて、数多くの宗教が広まってきましたけれども、統一教会はそうではありません。統一教会は何を完成するためにきたかといえば、家庭を中心として完成するためにきたのであります。過去、個人的宗教を通して救援を受けるためには、私個人だけが犠牲になれば、そのみ旨を完成することができたのでありますが、今や家庭完成を基準とするこのような時代に入ってからは、家庭を犠牲にすることができるようにならなければ、神の家庭完成の道が広まることができないのであります。何の話か分かりますか?

     皆さんは祝福を受けていますけれども、統一教会においては、男性と女性が神の前に立てられて祝福を受けたその日から、夫婦となったその日から生活に入るのではありません。そうではなく、三年間の公式路程に入るのです。

    ◆人類を代表する家庭

     それでは、なぜ三年路程は行かなければならないのでしょうか。それは、今日我々の家庭が出てくる前に、堕落した歴史的背景、蕩減条件が残されており、また家庭をもったのでありますが、この我々が生きている世界には、我々の家庭だけでなく、神を中心としないこの世の家庭が多いのであります。言い換えれば、我々が結婚する前に世界があったし、我々の家庭が誕生する前に世界の家庭が構成されていたし、国の前に世界のあらゆる国々が連結されていました。ですから、我々はそれらとの関係を切り捨てて、世界を救うことができないので、二重的な責任をもたなければなりません。私の家庭に対する責任をもたなければならないし、世界的家庭の責任をもたなければなりません。それでは、皆さんの家庭と世界的家庭の関係はどうでしょうか。皆さんの家庭は内的家庭であり、世界の家庭は外的家庭であります。統一教会式でいえば、統一教会の家庭はアベル的家庭であり、この世の家庭はカイン的家庭であります。分かりますか。祝福家庭が祝福を受ける前には、個人的アベルがあり、個人的カインがあるのを知らなければなりません。祝福を受けたのちには、家庭的アベルがあり、家庭的カインがあります。

     次に、祝福を受けたのちに版図が広まるということは、神を中心として主流的家庭圏が広まるので、統一教会の祝福を受けた家庭同士が氏族であります。真の父母の因縁に従って、天倫の内的心情を受け継いで家庭が生まれ、横的に増えているということは、統一家において氏族形成から民族形成、国家形成へと進んでいくということです。それは韓国民だけに限るのではなく、全世界的です。世界国家全体を代表した出発であるため、これは超民族的であり、超国家的であります。そして、そのように超国家的基盤から神のみ旨を中心として出発しているために、たとえ私の家庭が金という個人であり、朴という個人であるとしても、その個人の立場に立っていく家庭ではなく、全世界の人類を代表した家庭であります。言い換えれば、全世界、国家を越え、民族、氏族を越えて、全体を代表した立場においての家庭であったということを、皆さんは知らなければなりません。分かりますか。そのような責任をもって出発したのです。そして父母様を中心として、三十六家庭、七十二家庭と全体の家庭的、氏族的蕩減復帰の基盤を広めながら世界へと今日まで発展してきたことを、皆さんは知らなければなりません。

    ◆三次七年路程の設定

     それでは、統一教会の家庭を神のみ旨を中心として見る時、どのような立場に立っているのでしょうか。祝福を受ければ、それですべてなのでしょうか。伝道とか信仰の道を歩まなくてもいいのでしょうか。これが疑問であります。今日、我々が祝福を受けたということは、世界を超越した立場にいるのではありません。世界の中で祝福を受けたのであります。しかし、我々が祝福を受けて家庭圏をなしたとしても、我々の家庭圏よりも先に、サタン圏においては氏族圏があり、我々が氏族圏をなしたとしても、既にサタン圏においては民族圏をなしており、我々が民族圏を形成したとしても、サタン圏では国家圏をなしており、国家圏を形成したとしても世界圏が残っているということを知らなければなりません。分かりますか? (はい) 。

     それであくまでも、祝福というのはサタン世界圏内においてなされたために、世界と祝福を受けた我々の立場には、行くべき段階的距離があるのであります。個人、祝福家庭を中心として見る時、氏族的峠が残されており、次には民族的峠が残っているのであります。そして次には国家的峠が残っており、その次には世界的峠が残っているのであります。そして天国的峠が残っているのであります。皆さんは祝福を受けたらすべてであると思うかもしれませんが、この世を離れて、世に勝利して、すべてこの世が屈服できるという立場において祝福を受けたのではありません。世界的サタン圏内において、アベル的家庭の祝福を受けたために、外的面において一段階先に立っているすべてのカイン世界は、自分たちよりも一段階劣っている立場にあるアベルに対して屈服するようにはなってはいないのであります。必ず迫害し、つぶそうとするのであります。そのような過程が残っています。

     先生自身も一九六〇年に聖婚式をなしましたけれども、その家庭というのはあくまでもこの世に勝ち、霊界、地上界全体の勝利を基盤としてなされたのではなく、勝利したとしても韓国の基盤を中心として、イエス・キリストが完成できなかったその立場を受け継いで出発しました。それゆえ、民族が支えることができない限り、国家が支えることができない限り、世界が支えることができない限り、一つの家庭的出発圏を中心として、新しい氏族、新しい民族、新しい国家、新しい世界へと進んでいくのに、必ずサタン世界と衝突しながら、サタンの迫害を受けなければならない、そのような運命に立っているのであります。

     それで、先生や皆さんの家庭の必然的な運命は世界をいかに越えていくかということです。これは死んでからやるのではなく、生きている時、生存している時に蕩減という役事を通してなすのであります。その歴史を蕩減するために必要なのが期間であります。ある期間内にやらなければなりません。そして、ある条件物が必要であります。蕩減するためには、ある期間が必要であり、条件物が必要であります。その次には、アダムの代わりの存在、アベル的存在が必要なのであります。期間と条件物と、必ずアダムの代わりのアベル的存在が必要です。

     先生を中心として見ても、先生自身がある期間、世界史的な蕩減期間をおいて、その期間内にどのような条件を立てるかということになります。その条件は国家と世界です。それで、アベル的立場において、あらゆる個人的迫害、家庭的迫害、民族、国家、世界的な迫害の中で、滅びず生き残って勝利的な基盤を整えない限り、アベルを中心とした理念を個人から家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙までに至らせる道がないのであります。これを一代になせないと、問題が大きくなるのであります。

     それで統一教会は、先生を中心として一九六〇年から三次七年路程を設定するのであります。分かりますか。三次七年路程を設定して、この七年路程においてどのようなことをするのでしょうか。キリスト教が二〇〇〇年間において発展したその基盤の上に、二十年内の期間を中心として、霊肉が一つになれず闘ってきたそれを蕩減するのであります。イエス様が死ぬことによって、霊的基盤の上に実体が犠牲となったのですが、これは何を意味するかといえば、一つになることができず、闘える基盤となったのです。それゆえ、キリスト教が霊的基盤の上に立ち、統一教会は霊肉基盤を中心として一体となっているのでありますが、それが闘える基盤となるのであります。ですから今まで、キリスト教があらゆる迫害をし、どこまでも反対してきたのであります。そのような闘いをしながら、今日まできたのであります。分かりますか。

    ◆祝福家庭自身が歩む復帰路程

     一九七〇年を限界点として、新しい時代へと入っていく宣布をしたという事実があります。アメリカという国は、世界的キリスト教を中心とした版図であります。全世界的キリスト教の結実国家であるために、その国においてあらゆる闘争をなして、三年半という期間を過ごしました。一九七三年四月一日から一九七六年九月まで、三年半の闘争期間を通じて、勝利のくさびを打つことによって、世界史的な統一教会の勝利の土台が霊肉を中心として整えられるようになりました。分かりましたか。そうして、一九七七年二月二十三日を中心として、新しい時代へと越えていくという宣布をなしました。そしてその時を中心にして一九六六、六七、六八年が第二年代に該当するのであります。この三年期間を中心として越えていくのであります。

     このような過程を通して見る時、全世界キリスト教圏も、統一教会に反対しても、今はどうすることもできないという諦念をもつのであります。いくら反対しても、統一教会は滅びないのであります。反対すればするほど、自分たちにとって損であり、統一教会には利益がもたらされるのであります。霊的に見ても、肉的に見ても、そのような両面の利益が我々に移されるようになる時、サタン世界のすべての霊的基盤や彼らの外的なすべての祝福、物質的祝福も、みな統一教会に奪われてしまう結果となるのであります。反対していては、すべてなくなってしまうのであります。このようなことが早急に起こるようになる時代に入ってくるのであります。

     それでは今、ここにおいて皆さん祝福家庭、皆さん自身はどうなっているのでしょうか。先生はこのようなことをしてきたのでありますが、祝福家庭という家庭が韓国において、今まで世の動きも知らずにきているのであります。神様のために犠牲にならなければならないのにもかかわらず、自分勝手な生活をし、自分勝手になしてきたのであります。これでは、あくまでも国の限界を越えることができません。てんやわんやしながら、祝福家庭というのはこのように生きるのではないか、ほかに何があるだろうか、子女を生んで、このように食べていけばいいのではないか、これが祝福家庭ではないか、と思ったのでしょう。

     このような中で信じていけば、祝福もみんな成し遂げられるし、先生がみな天国まで連れていってくれると思ったのであります。そうではありません。蕩減復帰の道を皆さん自身も歩まねばなりません。皆さんの家庭を中心とした蕩減復帰や、民族を中心とした蕩減復帰を、先生と同じ道を皆さんも行かなければなりません。誰でもが行かなければなりません。

     先生が歩んだとそっくり同じ道を行こうとすれば、無限に困難な道でありますが、整えられた基盤を相続して、接ぎ木されていくのであります。接ぎ木されることを通して、皆さんがこの世界史的な摂理の祝福の因縁を受けて、越えて行かなければなりません。分かりますか?はい) 。

    ◆心情を通して連結されてきた歴史

     それでは、ホーム・チャーチというのはなぜできたのでしょうか。「私は忙しくて、ホーム・チャーチはできません」と言う人がいると聞きますが、それはよく知らないからです。ホーム・チャーチはやりたくてやるのではないのです。皆さんは今まで統一教会を信じて、国のために闘ったり、伝道をしたり、子女を生んだり、と祝福の条件がとても多いのに、何の今更ホーム・チャーチかと思うかもしれません。しかし、今、先生は三六〇軒というホーム・チャーチを定めて、これを一つにさせなければ、天国に行けないという看板を掲げてきたのであります。

     地球があります。黒板を持ってきてください。地球は丸いですね。(黒板に地球を描かれる)良く描けましたね。はい) 。誰かの顔に似ていますか。このような顔の人は恵みを受けるでしょう。描いてみると、私によく似ていますね。(笑い)

     ホーム・チャーチとはいったい何でしょうか。丸い球の中心を通る距離はみんな同じです。東から見ても、西から見ても、南から見てもみんな一つです。中央までの距離はみんな同じなのです。誰でも地の果てまで行こうと思えば、必ずこの中央の点を通らなければなりません。中央を通らないで行くなら、とてもやさしいと思いますが、必ず中央を通って端から端に行かなければなりません。

     これは神の摂理もそうであるといえるのであります。アベル的基盤を通らなければならないのであります。個人的アベル、家庭、氏族的アベル、民族的アベル、国家的、世界的アベル、その次は神の愛を受ける完成したアベルとならなければなりません。そのための絶対的要件というのは、アベル的な核心的内容を通過しなければなりません。それは何かといいますと、アベルの行くべき道は反対側を貫いていくことです。反対側を貫いて、あちらの果てまで行く責任をもっているのがアベルなのです。何の話か分かりますか。これは個人的アベルから始まって、家庭、氏族、民族とずーっと上っていかなければならないのです。個人的アベル圏だけではできないのです。氏族的アベル圏へ上っていかなければならないし、ずーっと上って中心基準にまで行かなければなりません。中央に入っていかなければなりません。

     このような因縁を通して、個人から、個人時代、家庭時代、氏族時代、民族時代と今まで六〇〇〇年かかってきたのです。これはキリスト教の文化史をいうのであります。これは一代でやるべきことであって、長い歴史を通してやるべきことではありません。原理はアダム、エバ一代において完成すべきであって、何千年かかって完成することではなかったのです。うそではありません。

     しかし、心情というのは変わらないのです。一〇〇〇年前に愛する人を失ったなら、一〇〇〇年後にも失った痛みがあると思いますか。どうでしょうか。愛の世界において、神は変わらない、時空を超越したお方であります。ですから、長い時間が過ぎたとしても、その神の心情的に愛を中心とした痛みは、時空を超越して常にその原因と結果の因縁は同じ価値、同じ内容として表れるのであります。そのために個人的アベル時代、家庭的アベル時代、氏族的アベル時代、民族、国家、世界、天宙的アベル圏へと拡大するまで、神の心情においての痛みというのは同じなのであります。

     そのため、心情的基盤を受け継いで個人的アベル圏と家庭的アベル圏が通ずるのであります。分かりますか。連結されるのであります。また、氏族的アベル圏と民族的アベル圏が何千年たったとしても、これは心情を通して一つになるのであります。それで心情的相続圏を通して、連結されてきた長い歴史的基盤を一代で完成しなければならない責任があるのです。そのため、このような核心的内容を代表したという基盤の上で、世界的キリスト教圏の中から一人の中心的メシヤが出てきて、キリスト教を中心として連結されるのであります。縦的に連結させ、横的に連結させなければならないのです。この二つだけを連結させれば、四方がみんな通ずるようになるのです。

    ◆決死的な祝福

     このような縦横の歴史的基盤を総集結させる歴史を代行させるために、メシヤという方が来られるのであります。分かりますか。個人として来られるのでありますが、世界のキリスト教を代表した立場で来られるのであります。世界のキリスト教を代表すると同時に、世界のキリスト教国家を代表する意味もあります。世界のキリスト教国家群の、民族と氏族と家庭と個人を代表した全体なのであります。

     このような責任者として来られた彼のなすべきことは、世界的なことですが、出発はどこからなされたかというなら家庭からです。なぜ家庭から出発するかといえば、すべての事件が家庭から始まったからであります。アダム、エバの家庭から始まったのであります。神を家庭から追い出したのもアダム、エバです。男性と女性が道を誤って、追い出したのです。また天使世界を追放したのも、男性と女性が誤ったゆえであります。そうでしょう。万物世界を失い、人間の価値を失い、人間の愛を失ったそのすべてが何のためであったかというと、男性と女性が誤ったことによるのです。

     では、反対にこれを連結させるためにはどうしたらよいかというなら、正しく会わなければならないのです。誰がですか?

     神と人間がですか。そうではなく、男性と女性が誤ることによってすべてを失ったので、原理的内容から見る時、男性と女性が正しく出会うことによって、これを再びなすことができるのであります。それで、統一教会の祝福というのは何かといいますと、男性と女性が自分勝手に会うのではなく、神様を中心として正しく会うのであります。誤って会った男性と女性により、世界すべてを失ったので、正しく会うことによって、全体が再び神のもとに帰れるよう基盤を整えようとするのが、統一教会の祝福であることを、皆さんは知らなければなりません。

     それではその祝福を神の代わりに誰がなすのかといえば、メシヤが来てなさなければなりません。分かりますか。一人の男性が来て、新婦に会わなければなりません。キリスト教の再臨時代には、新郎たるメシヤが新婦を尋ねて来るのであります。その新婦を尋ねて来るということが、たとえ個人として会うということでも、縦を逆に上って横的時代における一つの基点を中心として会うそのところであるゆえ、これはあくまでも全世界を中心とした、中央の場において会うことを意味します。分かりますか? (はい) 。このように中央で会うということは、サタン世界が完全に破壊されてしまうことを意味します。それゆえ、あらゆるサタン世界は、すべてを総動員して、これが成立できないように打ち砕こうとするのであります。宗教という宗教は、みんな一つとなって支持しない限り、それは必ずサタン側になるのであります。支持しない限り、黙っているとしても、それはみんなサタン側に入っていくのであります。

     キリスト教が支えることができなかったために、全体宗教圏と全体国家圏はサタン側に入って、キリスト教が基盤としているすべてを、悪らつな中心がサタン側に利用して攻撃するようになるのであります。攻撃を受ける立場において、場を定めなければなりません。分かりますか。歴史上かつてなかった最大の闘いの中において、立場を定めなければなりません。それを一九六〇年に聖婚式を通してなしました。三十六家庭の祝福の時も決死的でありました。それで、三十六家庭の時代を経て七十二家庭、一二〇家庭時代にきてからは地上に立場を定め、七七七家庭時代に入ってからは、東西南北三六〇度に対する方向を定めて、世界的な発展をなしていくのが統一教会の歴史であります。そうしながら二十一年間において、数多くの人類と数多くの氏族圏をすべて連結させる家庭の門口を開くのです。そこには五色の人種がみんな入るのです。

    ◆家庭を中心とするカナン復帰

     それで、我が統一教会は、四三〇家庭を中心とした時から世界史的であります。韓国における四三〇〇年の歴史を意味し、四三〇双を中心として新しい出発です。また四三〇というのは、イスラエル民族がカナン復帰していった年数であります。四三〇年間、カナン復帰してくるのです。それで、これは世界史的なカナン復帰の出発となすのに、個人でなすのではなく、家庭を中心としてのカナン復帰の出発が始まるのです。イスラエル民族はその時、家庭がなかったのであります。独身生活をしなければならなかったのです。家庭をもっているなら、それはみんなサタン世界になるのです。み旨の立場から、個人的立場においてカナン復帰する時代でありました。統一教会時代は何といいましたか?

     歴史以来、家庭的カナン復帰運動が世界的に起こるのであります。それで、韓国も日本もアメリカでも、統一教会のメンバーたちはいつの時も動いているのです。世界を、地球をジプシーのように動いています。いまだに定着できないのであります。統一教会のカナン福地はどこでしょうか?

     (地上天国です)。それは個人としての地上天国でしょうか、世界的地上天国でしょうか。それは地球星であります。その地球星のカナン福地に入ってきたということを、言い換えれば幸福に生きているという時、それをいわゆる地上天国というのです。

     昔のイスラエル民族のカナン福地はどこでしたか。特定のイスラエルの国でありました。我々のカナン福地はどこと言いましたか?

     地球星です。世界なのであります。次元が異なるのであります。そのために、イスラエル、カナン福地時代は家庭中心ではなく、個人を中心とした時代でありました。統一教会時代のカナン福地は何を中心としていると言いましたか?

     家庭を中心としたカナン福地として、今日統一教会のすべての道を歩んでいるのであります。

     そして、二十一年路程を今歩んでいるのであります。性相と形状が変わらず、信じていけば、二十一年の間に世界的カナン福地の路程にその道を定め、基盤を整え、四十年代は全世界が平和な天国になるのであります。何の話か分かりますか?

     二〇〇〇年代になれば、六〇年から四十年がたつと、地上の天国が完結されるでありましょう。天国が明らかに現れるでありましょう。それで、今統一教会はどのような時かといいますと、荒野に四十年間放浪するイスラエルのような道を行くか、それとも二十一日路程で直行して世界のカナン福地に行くか、という運命をもっているのであります。もし、二十一日間で行けなかったとすれば、四十年間放浪して、もしかすると全世界が滅亡の道に行くかもしれません。それを思う時、我々は二十一年間において、カナンの中心のような、地球の中心であるような、神が準備したアメリカを中心として、世界の版図を広げていくのであります。地球星を早く復帰しようとして、それであくまでもこのような点を中心として、ここから出発するのです。

     個人より家庭、氏族、民族、国家を中心として、ここにおいては五色の人種が入るのであり、世界が連結されるのであります。そのようなことを、今まで統一教会はやってきたのであります。七七七家庭とはいったい何でしょうか?

     これは結婚式としては最後の結婚式なのです。それでは四三〇双とは何でしょうか?

     韓国には朴氏、李氏、金氏とか数百の姓がありますが、世界の数多くの人々は姓をもっていますが、それらの人々が連結できる道を四三〇家庭を通して開くのであります。統一教会において、結婚式を行うということには意味があるのです。四三〇を中心として見ると、国内の四三〇家庭、国外の四十三家庭があります。これは日本とアメリカ、全部合わせて相対圏をなすのであります。

     このようにして、全世界の五色人種においての四三〇数の相対数を決定して、再び三家庭として束ねておくのであります。それで、韓国は世界を代表した国家的基盤が立っているので、四三〇は韓国の人であればみな、ハイソサエティーの人であろうが、獄に入っている人であろうが、死なないで生きている人たちはみな、地上から天国に行ける門が開いているのです。それで代表的な四十三というのは、全世界すべての民族が天国に行ける基盤なのであります。

     このようにして、そのような土台の上で七七七双家庭を祝福することによって、どのようなことが始まるかといえば、今日の数多くの宗教を一つにし、天国と連結され得る家庭を一つにするのにおいて、いかなる家庭も、いかなる氏族、いかなる民族、いかなる人種をもすべて神と関係を結ぶことのできる世界的な門を開くのであります。七七七双の門についていけば、どこに行くかというなら天国に行くのであります。そのような門ができたのであります。統一教会においては、それが初めて七〇年代に入って世界に出発できる新しい次元の最後の祝福であります。

    ◆家庭的大移動

     このようにして、数多い統一教会の家庭は七〇年から七一年、七二年と三年間は外に出て行ったのです。追い出したのです。それは世界的カナン福地に向かって出て行ったのです。韓国はもちろん、日本ももちろん、全世界の祝福家庭が世界に出て行って自分の故郷、自分の祖国に帰って地域を超越して総動員して家庭的大移動の活動が始まったのであります。

     そのため、韓国を中心として全体祝福家庭が三年間活動したことがありますね。それをなしながら、先生は世界の舞台であるアメリカへ行きました。それまで先生は、青坡洞の小さな教会で原理のみ言、天国に行こうという話をしましたけれども、公席上に現れたことはありませんでした。復興会などはみな弟子たちにやらせたのであります。先生の使命は世界にあるのであります。国家基盤を超え、世界に向かって出発する時であるために、七一年以降は全世界に出て行くのです。神のために歩むのです。三年間は自らを捨てて、妻と子を捨て、妻は子を捨てて、夫は北の方へ、妻は南へ、子供は東へと、みな東西南北へとバラバラに分かれるのであります。

     大韓民国が恵みを受けられる条件というのは何でありましょうか。祝福家庭に厳しい道を歩ませながら、統一教会が滅びるのではないかと思われるほどの悪口を買って出たことがあります。統一教会の祝福家庭がみ旨のために、子供を捨てて出て行くのですが、どこに捨てていったのでしょうか。アメリカの地にでしょうか。大韓民国の両親や親戚の所に預けました。結局、大韓民国ですね。それを、大韓民国が殺さずに育て上げたとみなすのであります。親戚や反対していた両親や家族も、食口が子供たちを連れてきて置いていくので、仕方なく、どんなことをしたかはともかくとして、大韓民国を代表して殺さず、食べさせて育ててくれたのです。このことによって、大韓民国は罰を受ける道から遠ざかったのであります。

     大韓民国の経済復興がいつから起きたかといえば、五、六年前からです。我々の家庭がみな七二年度には出ていたので、その時から霊的に祝福を受けられる道が開かれるのであります。そうであるかどうか調べてみなさい。統一教会の食口たちがそのようにして出て行くことによって、どれだけ非難をされたことでしょうか?

     「文という人は木や石よりも、もっと悪い人だ。虎でも自分の子をかわいがることを知っているのに、文という人は祝福をして『楽しく暮らしなさい』と言っておきながら、鍋やスプーンを持ち寄ってやっと生活ができるようになったと思ったら、今度は家族が離れ離れになるのに『東西南北に出発せよ』と言う」と悪口を言われました。皆さんもその時、先生に不平を言ったでしょう?

     (言いませんでした)。その時、七七七双はまだ家庭をもっていませんでしたね? (はい) 。それでは皆さんは、不平を言うことは何もありませんでした。その時、三十六家庭、七十二家庭、一二四家庭は不平を言ったことでしょう。原理がそうなっています。

     そのような期間が七二年で終わりましたけれども、七三年からはアメリカで本格的な闘いを展開していきました。先生は講演をし始めたのであります。三年半で先生は世界的に有名になって、アメリカと大きな闘いをしました。朴普煕氏の「朴」とは何を意味するのでしょうか?

     丸いとかぐるぐる回るという意味があります。「普煕」という字は一般的に喜ばれるという意味があります。「普」は広いという意味で、「煕」は明るいという意味です。ですから、大韓民国にもアメリカにおいても、善きものをもたらすというのです。丸い朴が明るくなって、すべての人に福をもたらすというのです。大韓民国の僕なのです。先生もぐるぐると回し、普煕氏も回って、このように大韓民国に福をもたらしてくれたのです。先生の名前は鮮明ですね。「鮮」という字は曇った日をいうのではなく、雲一つない明るい日をいうのです。さわやかで気持ちがよく、空は青く秋の空のような天気をいうのです。ですから、それは清く光るという意味です。

    ◆アメリカにおける闘い

     今、統一教会は世界的にどのような時代に処していると言いましたか?

     家庭的カナン福地時代に処しているのです。そのために、我々は荷物を重くもてばもつほど大変なのです。ですから、三次七年路程が終わるまでは家を買わないほうがいいのです。家をもつにしても国があって家をもたなければなりません。国がないのに家をもったとしたら、いつどうなるか分かりません。世界のために、我々は大韓民国を神のみ旨に立たせ、奮い立たせて、世界を生かす役割を果たしてこそ、大韓民国は安息することができるのです。天国復帰ができる方法を知っているのです。このような勝敗が決まったのち、地上天国が現れるのであります。

     アメリカという国はいかなる国でしょうか?

     世界的なキリスト教国家から超アベル的な人たちが来てつくった、超民族国家がアメリカなのであります。事実がそうです。ヨーロッパに新教が生まれることによって、旧教が新教を信じる人々をみな殺してしまっていたのですね。国家的にそうだったのです。ですから、仕方なくその国から逃れて、しかし、神に侍るためには生死をかけて、すべてを犠牲にしたとしても、神を中心として動こうとした人々が集まって国をなしたのがアメリカです。ですから、アメリカが動けば、世界が動くようになっているのであります。それが第二次大戦直後の時代でした。

     このような基盤を受け継いで、統一教会は三次七年路程を中心として、キリスト教が裏切り、すべての国家が神から離れるのに、我々は新しい国と世界基盤をもって進んでいくということを、皆さんは知らなければなりません。神が決定的にアメリカは世界の理想国家であると、公認したならば、統一教会の行く道がありません。しかし、神は許しませんでした。統一教会時代になってからは、世界を越え、共産圏を越えることができ、神の真の理想世界を見つめることができる道をもって出発したために、我々の前にいかなる試練があるとしても、神を中心として突破して進む時には、必ず勝利があるはずです。もし勇気がなくて、突破していけない時には、仕方なく負けるのです。今日、アメリカのフレーザー委員会と闘う時、先生が決断しないで後退したなら、完全に倒れてしまったのであります。

    ◆三次七年路程内の祝福家庭の使命

     今日、このような勝利の基盤を築くのに、統一教会の祝福家庭は何をしたでしょうか?

     もし、この勝利の基盤を整えなかったとするならば、皆さんの家庭がそれぞれにこの道を愛でもって行かなければなりませんでした。先生が代表してこの道を整えてあげたことに、皆さんは心から感謝しなければなりません。皆さんは心情的基準において距離を超越し、環境を超越し、歴史を超越することのできる立場にいるのです。時代圏を中心として、同じ心情圏において先生が悲しめば、皆さんも悲しみ、呼吸を合わせてすべての善を行うことのできる立場にいる皆さんが、先生のアメリカの勝利圏のために、どのような生活をしてきたでしょうか。家庭のために特別な祭壇を設けたり、祈ったりしてきましたか。皆さんが子供を生んで、育てて、かわいがったりすることは問題にならないのです。皆さんが貧しい生活をしたことは問題になりません。それ以上に、先生を中心とした精誠の心情度が先に立たなければならないのが、三次七年路程内に祝福を受けた家庭が行くべき当然の道であったのです。そのことを皆さんは知らなければなりません。何の話か分かりますか? (はい) 。

     皆さんはそのようにしましたか。どうですか?

     喧嘩ばかりしたのでしょう。喧嘩をしなかった人は手を挙げてみなさい。それでは喧嘩をした人は手を挙げてみなさい。手を挙げれば許しを得るのですが、手を挙げなければ許しを得られません。喧嘩をする余裕があったのですか。子供が手を切って、血が少し出て大変だと言っているのですか。世界が滅び、国が滅び、民族が滅ぶかもしれない一番危険な時に、自分の子供が怪我をして血を出したとしても、自分の子供がどうだとか、学校がどうだとか、自分の夫がどうだとか、言っていられるのでしょうか。一切の心を集めて、生命が犠牲になることがあるとしても、忠誠が足りないと精誠を尽くし、あらゆる誠意を誓わなければならないのにもかかわらず、そのような生活ができなかったということは、きょう、皆さん七七七双家庭として悔い改めなければなりません。

     それで、きょう帰ってから、喧嘩をした人は蕩減棒で清算するのですよ。悔しさが溶けるまでそうするのです。私は今回、韓国に帰ってきて、じっとしていても心が穏やかでなく、皆さんを叱る言葉ばかりが出てきます。私に初めて会う人は、どうして先生はあのようなのか、と思うかもしれませんが、本来の私はそうではありません。子供が病気で、お金もなく、食べさせる物もなく、死にそうな時、父母である皆さんたちは胸が痛むでしょう。それ以上に、神の深刻な問題について考えてみたことがありますか?

     自分勝手な生活をしてきたのです。

     先生が他国で世界的な苦労をしている時に、夫婦喧嘩ばかりしていたり、食べ物のためにみ旨をおろそかにしたりして、精誠を尽くさなかった夫婦は、帰ってから蕩減棒で清算するのですよ。分かりましたか? (はい) 。それで先生の心も溶けそうです。先生はそれほどまでに残酷で悪質な人ではありませんよ。み旨をどれぐらい考え、み旨をどれぐらい中心としてやっているか、よく認識しなければなりません。自分勝手に喧嘩ばかりしていては、神も離れていってしまいます。神は協助できません。

     先生が勝利して帰ってきて、何をしようとしていると思いますか?

     世界史的な恵みをもってきたのであります。故国を離れて戦って、勝利して帰ってくる将軍のように、すべての国の栄光と世界の栄光をもって帰ってきたのです。そのような中において、協助した人たちは恵みを受けるようになるのであります。さあ、先生は何のために帰ってきたと言いましたか。蕩減棒で苦痛を与えるためにでしょうか、それとも恵みを与えるためでしょうか?

     霊的な面において、恵みを与えるために来たのでしょうか、禍いを与えるためでしょうか?

     恵みを与えるために来たのに、なぜ「蕩減棒で清算せよ」と言わせるのですか。七七七双家庭は世界的な代表家庭として祝福してあげたので、七七七双家庭を中心として、蕩減棒で清算することから出発しなければならないのです。それを歓迎しますか、どうですか?

     (歓迎します)。たとえ、蕩減棒でどれほどの痛みを覚えたとしても、喜んで恵みを受けたいと思いますか? (はい) 。そうであれば恵みを受けることができます。

    ◆ヨルダン川を渡る

     皆さん、三次七年路程における二十一年のうち三年間が短縮されました。皆さんはこれから実践的に先生の分をやらなければなりません。それはなぜでしょうか?

     接ぎ木しなければならないからです。芽が死んでしまっているので、それを接ぎ木して生かさなければなりません。生きたいと思いますか。接ぎ木されたいと思いますか? (はい) 。皆さんは結婚当時より以上、一つにならなければなりません。家庭が問題を起こしたら、それまでです。先生の家庭を通して家庭的に接ぎ木して、世界的カナン復帰路程を正々堂々たるものとなし得るよう歩んでください。自分一人が遊離していては滅んでしまうのです。

     モーセが六十万イスラエル民族の代表として立ったと同じように、統一教会において先生もモーセのような使命をもっているのです。そしてそれは、統一教会の家庭を中心としたものです。統一教会の家庭は自分の家庭を中心に生きてはいけません。「あなたの家庭は外国に行きなさい」と任命されて、子供のためとか、妻のためにとかブツブツ言ってはいけません。モーセ路程を思い起こしてみなさい。川を渡る時には渡らなければなりません。捨てる時には捨てなければなりません。泳いで川を渡らなければならない時もあるのです。子供に縄をかけて、向こう岸まで泳いでいかなければならない時もあります。子供を死なせないためです。そのような試みをしなければなりません。どうせ川は渡らなければならないのです。

     イスラエル民族はヨルダン川を渡ることができずに、滅びたのです。ヨルダン川は何を意味していると思いますか?

     サタン世界と神の世界との境界線をいうのであります。そのヨルダン川を夫が先に渡って、自分の妻を縄で縛って引き寄せようとして気絶したとしても、再び人工呼吸で生かして、第二の生命を享けて生きていこうとする心をもたなければ、その家庭は救われないのです。お父さんもお母さんも、その子供のためにそのような冒険をして渡るのです。そして、子供たちの腰にロープをつけて引っ張るのです。そうしなければ、みんな死んでしまいます。分かりますか? (はい) 。このようにして、家庭が神側のみ旨と一つになって、妻がみ旨と一つとなって、共同的な生を中心として世界的な一つの生きた姿として、これから先生に接ぎ木されなければなりません。家庭的に接ぎ木されなければなりません。

     皆さんは統一教会における祝福家庭であります。統一教会には家系図がないのです。男性と女性が一心同体となって、神様と先生の心と完全に一つになって、最後の命令がある時には、家庭を全部この瞬間に、という時が我々の目前にあることを知らなければなりません。ヨルダン川を渡る、という命令が出る時があるのです。紅海を渡る時にもそうであったように、神様が波を二つに分けておいたその瞬間に渡らなければ、その時機を逃してしまえば、全部水の中に流されてしまうのであります。このように、息が詰まるほどの歴史の路程を歩んでいるという事実を、統一教会の人々は知らないでいるのであります。

    ◆家庭的十字架を背負う

     久しぶりで会うという喜びで、涙とともに神が喜び、歌声が満ち、共に踊り回るということが起きていなければならないのに、帰ってきてみると雰囲気がこの世的になっています。前線に行って戦ってきた将軍が、国家の歓迎を受けて帰ってきてみると、妻が子供を捨てて他の人のところに嫁いでしまっていた、というような気分が致します。口を開けば怒りが込み上げてくるので、私は口を開けないでいます。ですから、私は地方に行けないでいるのです。悪口を言われるのに、「よく来た」と言うでしょうか?

     この大韓民国というのは何ですか。アダム国家でありながら、エバ国家よりも劣るし、天使長国家よりも劣るではありませんか。何をしているのですか?自分の顔に汚物がついていることを知らなければなりません。

     多くの教育者たちが空になった講堂で眠っているのですか。金日成がこの国を虎視眈々とねらっているのに、眠っていられるでしょうか。西北部、北部から中共とソ連がこの国をねらっているのです。共産主義に包囲された、その包囲網の中で眠っているのですか。我々全員が協力し合っても足りないのです。全員が東西南北に行って、生き残るためにあらゆることをやってみて、犠牲を甘受しながらいって、国家が生き、世界が生きる道を開拓しなければならない責任が統一教会にもあるのです。そのように考える時、御飯を食べて眠ることができるでしょうか。自分たちの生活の心配ばかりし、喧嘩ばかりしているのに、それでも先生に帰ってきなさい、と言うのですか。

     女性は夫に、「み旨のために頑張るように」と忠告しなければならない立場であるのに、夫が自分を愛してくれないと不平を言ったり、「教域長をやっていても生活が苦しいから、会社に勤めなさい」と言っているのでしょう。男性諸君はこのような女性の声をよく聞いたでしょう。三次七年路程を行く先生が、このように苦労しているのですから、祝福家庭も共に苦労の道を行かなければなりません。家庭的十字架を背負うのでなければ、神様もその家庭を訪ねていくことができません。皆さんは給料をもらって、み旨の道を行くのですか?神の名のもとに、先生の名のもとに白い御飯を食べさせられて喜んでいる子供たちを見るよりは、私の家庭が祭物になる方が天的恵みが大きいのです。先生は国を助けることができず、み旨の前に捧げることのできない会社に未練はありません。そのためにどれほど統一教会が迫害を受けたか分かりますか。この民族を救うために、一生を犠牲にして、夜も眠らず、献身の道を生かすために努力していく、そういう食口になってください。自分のために、天のものを利用する者となってはいけません。

    ◆すべての生活は神のため

     さあ、今日、我々はどのようなカナン復帰時代に処していると言いましたか?

     家庭的世界カナン復帰路程に立っているのです。ここにヨルダン川があります。神の国へ行くためのヨルダン川です。家庭的勝利基盤を天国に、本郷の地に移しておくのが、皆さんの責任であることを知らなければなりません。できなかったら、それは千年、万年に延びるでありましょう。モーセはヨルダン川を眺めながら死んでしまいました。イスラエル民族は荒野でワシの餌食になってしまいました。そのような歴史が、我々の前にあるということを知らなければなりません。先生はそのことを知っているので、生命を覚悟して歩んでいるのであります。病気になろうとしても、病気になる暇がありません。休もうと思っても、休む暇がありません。私が生きてみ旨を、責任を全うできなかったら、あの世で弁解もできないのであります。皆さんは、はっきりそのことを知らなければなりません。

     きょう、子供たちを連れてきている人がいますが、自分の妻が苦労したり、子供が苦労するのをかわいそうだとか思ったら、この道は行けません。家には米を一粒も与えることができず、子供にも何も与えることができず、一銭のお金も残さずに先生がその道を行ったので、皆さんもそのような道を行くことができる姿勢をもっていなければなりません。祝福を受けて、そのように苦労するというのは、世界を代表して祝福を受けたためです。ですから、世界を代表して恵みを受けるようになります。その恵みは高いところで受けるのではなく、悲惨で血を流すような場で、家庭的な十字架上で、生命が消えていくその瞬間に相続されていくのであります。それを皆さんは知らなければなりません。

     今回、私が韓国に来る時、孝進と仁進が来ているので、お母様が今度は子供たちを慰めてあげなければと言っておりました。そうしてあげなければならなかったのですが、韓国がこの姿ではどうしようもないのであります。清平に行くといっても、それは遊びに行っているのではありません。レバレンド・ムーンは先生という看板を掲げているので、この人たちを何とかしなければなりません。私がいない時にこそ、心して神の喜ぶ歩みをすべきです。家庭においても、教会においても一つになりなさい。神が皆さんを記憶し、祝福することのできる歩みをしてください。何の話か分かりますか? (はい) 。

     七七七双はこの機会に悔い改めて、帰ったならば清算するのです。韓国は同情されるような歩みをしなければなりません。喧嘩を一度したならば、十回蕩減棒で清算しなければなりません。そうしたら、悔しさが全部晴れるでしょう。その後、再び喧嘩をしますか? (しません) 。夫と妻が一つになって、子供たちの見本にならなければなりません。「父母がこのように一つになって、神が喜ぶ道を行くので、あなたたちもこのような道を行かなければならない」と教育するのです。家庭的祭物になってこそ、神の恵みを受けるのであります。そうしてこそ、神を迎え入れることができるのであります。

     祝福家庭というのは、アダムの代わりに完成して、家庭完成をなし、神を迎え入れ、天使を迎え入れ、万物の恵みを受け、万物が尋ねて来るようになるのであります。そのように生きるとすれば、絶対に飢えることはありません。神はサタン世界を食べさせて、生かしたのですから、祝福を受けて神のみ旨のために忠誠を尽くしている皆さんを、絶対に飢え死にさせるということはありません。神があらゆることを通して備えてくれます。先生を見てみなさい。今日、国のため、世界のために闘っている先生を思ってください。どうすることもできないような事情があったのであります。気が狂っている人のように、どれほどあえいでいる歩みをしたことでしょうか。そのたびごとに、神は私が心配する以上助けてくれたのです。そのような神がいたので、私はこの道を歩んでくることができたのであります。

     皆さんは神のことを心配する前に、子供たちを心配し、妻のことを心配していますが、み旨はそうなってはいません。家庭を犠牲にして氏族を救い、氏族を犠牲にして民族を救い、民族を犠牲にして国家を救い、国家を犠牲にして世界を救い、世界を犠牲にして地獄を撤廃しなければならないのです。そういう道がはっきりとあるにもかかわらず、自分の子供や妻のために、自分の行動を自由にできないというのは愚か者です。そうであれば、滅びてしまうのです。

     我々のすべての生活は神のためのものです。苦しい中にあっても神を中心とし、父母様を中心とし、全世界を中心として行く道が統一教会なのであります。そうせずしては、砂漠のようなこの荒野の中にあって、イスラエル民族は行く方向を失ってしまうのであります。羅針盤を失った船が北極星を見つけ、方向を定めてその方向に向かいますが、もし神を中心とした生活をしなければ、砂漠のようなこの地上で行く方向を失ってしまうのです。これが統一教会なのであります。自分が間違っていたなら、すぐに悔い改めるのです。(はい、分かりました)。

    ◆先生の家に伝わる家訓

     夫婦で来た人は手を挙げてみなさい。どれ、顔を見てみましょう。あなたたちのカップルは妻のほうがよく喧嘩をしたり、苦しめたりするでしょう?

     率直に言いなさい。顔に表れています。おとなしい旦那さんだから、あなたは一週間に一度喧嘩しなければ、心が休まらないのでしょう。喧嘩はいつもあなたからしかけるのでしょう。神のような夫ですからみ旨を大切にできます。喧嘩をしないようにしなければなりません。

     家庭天国をなす、というみ旨ですが、天国とはどのようなものでしょうか?

     通り過ぎていく乞食もこの家に入って休みたいと思うし、犬もその家の前でおしっこをしたいと思うし、鳥もその家の門に巣を作りたいと思うし、村中の人々もその家に行きたいと思うようにならなければなりません。そうならなければ、神が共に住むことができないのであります。神の愛が注がれている所ですから、すべて生命あるものの平和の安息所になるので、その家に行きたいと思うのです。祝福家庭はそのようにならなければなりません。お客様が家に来た時、生活が苦しいから一日も早く帰ってほしいなどと思ってはいけませんよ。祝福家庭というのは、お金がない時には自分の洋服を売ってでも、お客様を接待してあげなければなりません。そのような人の未来には、上着が何着も下着までついてくるような恵みがあるのです。

     先生の家にも代々伝わる一つの家訓があります。それは通り過ぎていくお客様をよく接待してあげることです。私の祖父の時代にも寒い冬の日に乞食が来て、三回以上「何かを恵んでください」と物乞いする声が聞こえると大変なことになります。直ちに、御自分が召し上がっていたお膳を持って行って全部与えてしまうのです。そして、祖父と祖母の喧嘩が始まるのです。分かりますか。もし、あなたたちが乞食になったと思ったらどうでしょう。冬の寒い日に、他人の家の前に行って物を乞うことが簡単なことでしょうか。その時には食べさせてあげなさい、というのです。命を懸けているので、神の前に、天道を行く人間が、その人は命を懸けてやっているので分かってあげなければなりません。それで、御飯をたくさん食べさせるのです。祖父は妻が大切であるというよりは、乞食が大切であると思うのです。子孫万代を考える時、乞食がもっと大切なのです。そのような思考方式をもたなければなりません。私の父もそうでした。絶対に三回以上物乞いをさせませんでした。父もお膳をそのまま持って行って与えるのです。そのため、母と喧嘩をするのを見たことがあります。

     神がそれを見る時、記憶することと思います。先生のような人がそのような家庭から生まれたのです。何の話か分かりますか。他人のために夫婦喧嘩をするのです。他人を助けないといって、夫婦喧嘩をするのです。その責任は主人にあるのです。主人が他人を助けない時には罰を受けます。教会長も外国から訪ねて来るお客様をよく接待してあげてください。いくら御飯がなくて、飢え死にするような時でも、一膳の御飯を村の人と分けて食べなければなりません。そうすれば、私が飢えるようになる時、私の知らないうちに誰かがお米を持って来てくれます。

    ◆子供の模範に

     お母さんたちはどうしてかわいそうな統一教会の男性を苦しめるのでしょうか?

     男性は四方八方に飛び回ってみ旨をなしているのに、女性は昼寝をし、化粧をして、疲れて帰ってきた夫に、「私を愛してください」と言うような家庭ではいけません。それは真なる神の家庭ではありません。七七七双は満八年が過ぎたのですね。今まで喧嘩ばかりをしていて良い歩みができなかったでしょう。七八年十月二十二日から、まず喧嘩をしてはいけません。良い歩みをしましょう。

     それで私は、もう一つ皆さんに苦言を呈します。家庭的天国をなしていく上で、一番怖いのは子女たちです。子女たちの見本になりなさい。皆さんが自己中心的になっているならば、その子供たちもすべて自己中心的になるのであります。すべてをその子供たちも見習うのです。もし罪のない息子、娘たちが、自分の両親のために十字架の道を行くとすればどうなるでしょうか。子供の前で両親が喧嘩をするとすれば、統一教会の祝福は滅びてしまうのです。自分の子供たちが一番怖いのであります。その次に神が怖いのであります。これからも喧嘩をしますか、どうですか? (しません) 。

     先生もそうです。うちのお母さんとは、死ぬまで大声を張り上げて喧嘩をしたことがなかった、と天地すべてにおける公的な証人となるのは息子、娘たちであることを知らなければなりません。私の両親は一番である、と言われたいと思いますか。そうなりたいと思う人は手を挙げてみてください。そうなり得る皆さんの家庭基盤となっているならば、先生が今回帰ってきて、どうしてこのような気持ちになるのでしょうか。皆さんは全国に帰って、先生がこうおっしゃったと言って、全体家庭の前で悔い改めるようにしなさい。分かりましたか?

     七七七双であるゆえによく頑張ってください。

     皆さん、喧嘩をする時は気分がいいですか。悪いですか?

     (悪いです)。愛する時はどうですか?

     (気分がいいです)。これから一度喧嘩をしたら、三年間は聖別しましょう。神の前にこのように約束しましょう。それとも、これからは一切喧嘩をしませんか?

     一度喧嘩するよりは、三年間聖別したほうがいいです。この世では、夫婦喧嘩は水を切るようであるといいますが、統一教会の夫婦喧嘩というのは、鉄を切るよりも難しいというのであります。このように無責任なものではありません。さあ、神の前で、先生の前で喧嘩をしないことを決意しましょう。私はきょう、あなたたちを叱りに来たのではありません。叱って私に何の得になるでしょうか。ただ胸が痛むばかりです。皆さんがそうすれば、神も許してくれると思います。これからは、二度と喧嘩をしないことにしましょうね。いいですか。

     統一教会の祝福家庭が模範にならなければ、どうなるでしょうか。祖先たちに叱られてしまいます。これからは間違いなく一心同体になりますか? (はい) 。夫婦一心、父子一心、そうなりますか?

     この世の人々もそう教えて、そうなりたいと努力しているのに、統一教会の祝福家庭がそうならずして、どうなるのでしょうか。それは正しいことです。夫婦が一心になることによって、神が臨まれるのであります。これは原理です。主体と対象が完全に一つになれば、中心が立つのであります。主体と対象の中心、これが核です。そして、この核は愛をもってなるのであります。そのため、アベルの歴史は核を設定するためのものです。愛でもって家庭を尋ね、氏族、民族、国家、世界を尋ねて復帰がなるのです。

     子供に、両親が喧嘩をしたという記憶を残させてはいけません。きょう家に帰ったら子供に、「あなた、パパとママが喧嘩するのを見たでしょう。あれは喧嘩ではなくてちょっとやってみただけで、これからは、あのようなことはしないから、全部忘れなさい」と言うのです。私は遊び半分で言っているのではありません。間違いなくそうしなければなりませんよ。分かりましたか? (はい) 。エンジェルス学校の小学生、中学生、高校生に、「お父さんとお母さんが喧嘩するのを見ましたか、それはいつですか」と聞いてみます。きょう以前に見たのと、きょう以降見たのでは違います。

    ◆世界と永遠のための家庭

     これからの家庭総会で、もしそういうことがあったら、みんなで注意するのです。その伝統を立てていかなければならない責任があるのです。全体に有意義になるような総会にならなければなりません。忠孝の道理を誓い得るその土台を広めるために、このような集いが必要なのであります。そうでなければ、その必要はありません。復帰歴史の全体的蕩減路程において、先生がこのように代表的な蕩減条件を立てたために、皆さんはこれに接ぎ木されなければなりません。先生につながっていかなければなりません。皆さんは先生と一つになるためには、家庭的に夫婦が一つにならなければならないし、子女と一つになって、家庭的に接ぎ木されなければなりません。夫だけ接ぎ木してはいけません。夫はもちろん、妻ももちろん、夫婦が一つになって、その子供たちまでも接ぎ木されなければなりません。

     このようになった時、先生が築いてきたすべての恵みは、祝福家庭が先に受けるのです。そのことを皆さんは知らなければなりません。それで先生は韓国を訪ねてきたのです。このようなつもりで来たのにもかかわらず、三十六家庭も七十二家庭も、み旨中心、神中心にではなく、自分中心に歩んでいる人が多いのであります。そうであるならば、みな滅んでしまうのであります。み旨を中心とした生活がどれほどせっぱ詰まったものであり、摂理の時がどれほどせっぱ詰まっているかを知らずに、自分中心に、自分の家庭を中心として動く人は許すことができないのであります。そのことをよく知って、忠誠を誓うことのできる父母となり、模範的な家庭となり、伝統を相続できる家庭となるよう努力してください。そして、その家庭が一族において天の伝統を守り続けられるように、子孫万代にまで遺言を残していかなければならないことを知ってください。正しく模範を示してあげなければなりません。私のようにしてはいけません、というのは駄目です。

     孝進と仁進は、今回韓国にいながら自分の父親に会うことができないでいるのです。それは、親の立場からすれば非常に申し訳ないことであります。子供たちが両親と一緒にいたいと思うのは当然です。しかし、どうすることもできないので仕方がありません。私のお父さん、お母さんは自分の苦労を構わず、全体のために、全人類のためにやっているのであると、理解させなければなりません。自分個人の利益のため、自分個人の平和のためにそうするのではなく、全体のためにそうであるということを、何よりも印象に残してあげなければなりません。そうする時、それが子供たちにおいても恵みとなるのです。

     ですから皆さんも、これからお父さんが疲れて帰ってきたならば、子供たちにそれをよく理解させてあげなければいけません。「あなたのお父さんお母さんは、他のお父さんお母さんとは違います。神のために、人類のためにこのように生き、このような歴史をもってきました。そして、このように貧しい中にあっても、普通の家庭ならば喧嘩をし、別れてしまうようなところでも、少しだけ忍耐すれば、神が恵みを与えてくださるだろうという希望をもち、神に感謝する生活をしています。神に忠誠を尽くし、精誠を尽くすところに、神の恵みがあるのです」と訓戒することによって、子供たちはそれをそのとおりに受け継ぐのであります。

     そうすれば、皆さんの後裔は子孫代々にまで繁栄するでしょう。そうでない時は、凋落してしまうのであります。我々は一代のために家庭をもつのではありません。そういう家庭であってはいけません。世界と永遠のために家庭をもつ、そういう家庭になってください。そして愛の土台を広めて万人の心情を集めて、そこにろうそくの灯をともし、香をともして、天と地、万民の前に共通の因縁を結んでいきたいという家庭になってください。そのような家庭となる時、共産主義者が入ってきて、すべてを殺すとしても、神はそのような家庭を残しておくでしょう。その種が残るのであります。私は皆さんの家庭が、そのようになることを願います。

    ◆家庭的勝利圏の相続

     それは今まで、先生は前線で皆さんを苦労させてきました。本当に苦労させてきましたよ。先生も悪口を言われ、迫害を受けてきましたけれども、皆さんも悪口を言われ、迫害されてきました。それはすべて一つの目的のために、一つのみ旨のためであります。そのため一つの基準を立てて、勝利を誓ってきたためです。ですから、その基準の勝利を勝ち得た時の栄光は、個人のものではなく全体のものです。それゆえに、皆さんの栄光として連結されるのです。そうすれば謙虚に受け入れることができるでしょう。そして、神とすべてに対して感謝の気持ちが充満していて、一言言えば慟哭しながら神の前に感謝し得る心情が、常に整っていなければなりません。

     皆さんがみ旨の前に迫害を受け、困難を受け、悔しさを受けていたその日が胸に染みていて、「ああ、苦労したね」という一言で、我知らずに涙の心情で慟哭できる、そのような感謝の心情が通じるならば、神は必ず皆さんに恵みを与えていくということを知らなければなりません。皆さんを飛び越えていくことはありません。何の話か分かりますか?

     先生がそういう人であります。誰かが一言言えば、私は慟哭することができるのであります。そのため、神はレバレンド・ムーンを踏みにじっていくことができず、彼の前に恵みを与えていくのであります。そういう心をもって、生きている私であります。何度でも滅びることができる、何度でも流されることができる、難しく、つらい中にあって、神は恵みを与え、世界に誇り得る事件を残しておいたという事実を、私はよく知っているのであります。皆さんも同じであります。

     そういう基盤をもって家庭を築くのであります。妻に対しても、疲れて寝ているその妻に恵みを祈ってあげられる、そういう人にならなければなりません。私のような夫で、彼女は苦労しているなという気持ちをもつのです。お母様もかわいそうです。きのうは二時間ぐらいしか眠っていません。きょうはめまいがするのです。それを私が連れてきたのです。公的な人であります。めまいがして寝ることのできる、幸福な立場にいるのではありません。行くべき責任と全体に対する表象となっているために、行かなければなりません。だからといって、先生に不平を言うのでもありません。先生は公的に厳格な人であります。死んで倒れてしまうとしても、お母様はそういう私の生活を知っているので、ついてきてくれるのです。公的な責任、全体はやることができないとしても、条件を立てて越えなければなりません。それでお母様は、皆さんの前に顔だけでも見せようと来てくれるのです。皆さんは蕩減条件を知っているでしょう。このような道をついてきている皆さんです。先生の家庭を中心として、このように進んでいるのです。ついてこないで、あとで見物しながら行けば、必ず罰を受けるのであります。このような心情に満ちていくとすれば、皆さんは必ず恵みを受けるでありましょう。

     そうすれば、皆さんの子供たちは自然にみ旨の道についていくでしょう。大きくなればなるほど、歳月が流れれば流れるほど、感謝すべきことが多くなります。一月に一度あったことが、毎日あるようになります。先生も今まで寂しい路程を歩んできましたけれども、行けば行くほど、感謝すべきことがだんだん多くなるということを知っております。それと同じです。そして、それはどこからくるかといいますと、家庭からです。それで、先生が皆さんに相続させることは家庭的勝利圏です。

    ◆万民のために生きる祝福家庭

     それはどのような家庭かといいますと、世界を代表した家庭であります。メシヤになる家庭の使命というのは、世界を代表した家庭としてすべてを抱いて世話してあげられ、世界万民に対することができる、そういう家庭であります。五色人種がその家庭と関係を結ぼうとします。円には中心があります。心情圏においても、万民の全体の心情はその中心点を通って、四方八方に伸びていくのが原則であります。そのために、天国も真なる核心的家庭がない限りなされないのであります。家庭天国も一人の男性と一人の女性が完全に一つにならなければできません。個人天国も心と体が完全に一つにならなければなりません。そして家庭天国は、完全に一致した夫婦と子女が完全に授受しなければなりません。そして、それはみ旨と一つになるのであって、他と一つになるのではありません。そのみ旨とは何かといいますと、万民であります。み旨の中心は何かといいますと、神であります。神を中心として、万民のために生きる時、家庭が連結されるのであります。ためにするとは、神のためにするのではなく、神を中心にして万民のためになるような家庭になることです。それが祝福を受けた家庭であります。世界が復帰されるまで、神の代わりに万民を愛する家庭を立てずしては、万民、万家庭を救うことはできないのであります。そのために呼ばれたのが祝福家庭であるということを知らなければなりません。分かりましたか? (はい) 。

     神は家庭の中心であり、万民の世界は神の国であります。家庭とは国を連結させることのできる、為に生きる家庭であります。そこから氏族が始まり、神の代わりに為に生きるその基盤から氏族が始まり、そのような民族から国家が形成され、為に生きる国家から世界へと拡大されていくのです。このような観点から見る時、家庭は重要な意味をもちます。そのような内的実績いかんによって、世界が神の前に恵みを受けることができるかどうかが決定されます。それをはっきり知らなければなりません。分かりますか? (はい) 。

     先生を中心とした統一教会は世界的な一つの氏族のようであり、世界的な一つの民族のようであります。そのため、単一民族がなし得なかった世界的不和を誰よりも天のために生きるということをもって、五色人種が一つになって、一つの氏族、民族、国家へと形成し拡大していくことが、統一教会の目的なのであります。それが神が統一教会の先生を通してやろうとする目的なのであります。そのために、祝福家庭はその町へ行けばアベル家庭であり、アベル家庭は為に生きなければなりません。喧嘩をしてはいけません。カインを自然屈服させなければなりません。血を流したとしても、自然屈服させることによって、勝利の判定がなされるのであります。そして、ここから天の道が始まるのです。

    ◆長子権の回復

     天の道、天の道理とは何でしょうか。父母がいて、長男、弟がいて、そのすべてが神のものであるべきでした。ところが堕落によって、すべてがサタンのものになってしまったのであります。父母がサタンの代わりになり、長男もサタンの代わりになり、サタンの流れをくむようになったのであります。ここにおいて、反対の道が生じてくるのであります。これが神の道であります。そのため、アベルが行く道とカインが行く道が異なるのであります。この世の人たちが生きる道と、統一教会の人々が行く道が違うのであります。カイン世界が歩む道と、アベル世界が歩む道が違うのであります。天の世界は反対になっているのであります。サタン世界はこの世を支配し続けようとして、闘争が始まるのであります。歴史的に宗教を中心として、地上の主権者、権力者と生死をかけた犠牲の闘争をしてきたのであります。血を流して、後代には必ず屈服させるという道を経てくるのであります。統一教会も同じであります。

     先生は一九七六年、ワシントン大会が終わると攻撃をするのです。今まで攻撃の歴史はありませんでした。カインとアベルの歴史的闘争が終わるまでは、アベルから攻撃することはできませんでした。いつも攻撃を受けたのであります。個人的に攻撃を受けて、自然屈服をさせ、個人的な版図を広め、その基盤の上に、次に家庭的な攻撃をカインから受けて、自然屈服をさせて、それが家庭的な基盤となって、氏族的、民族的、国家的、世界的にカインの攻撃を受けて自然屈服して、版図を広めていく道を行かなければなりません。そのような闘いをしなければなりません。

     では皆さん、ホーム・チャーチというのはどこから出てくるのでしょうか。このようなアベル国家をつくるためには、必ずアベル自体が今まで父であるサタン世界の中において、神の国のすべてを訓練するのであります。それで神はアベル的存在を集めて、地上においてすべてを捨てさせて、分立させるのであります。真なる宗教には出家が必要であります。国を捨てて、家を捨て、父母を捨て、妻子を捨てて出る道が宗教の道であります。このように、自分を中心としてではなく、全体を中心として行くのであります。ここが違うのであります。内容が異なるのであります。

     それで今まで、数多くの宗教人たちはみな真なる道を求めるために出家して訓練を受け、再び帰ってきて闘って自然屈服させるのであります。サタン世界に行って、カインを屈服させるのであります。愛でもって屈服させるのであります。愛でもって感化するのです。カインたる兄は、家庭的な兄の立場であり、氏族的な兄の立場であり、民族的な兄の立場であり、国家的、世界的、天宙的な兄の立場であります。先に生まれたその立場を、一段階一段階を全部収拾して越えなければなりません。そのために訓練を受けて、再び入ってくるや否や、命を懸けて闘っていかなければならないのです。人類歴史がそうだったのであります。

     カイン圏における死の基盤を勝利して、勝利の基盤を整えるのに、必ず血を流した過程を経てこそ、初めて復活するのであります。それで先生もワシントン大会の前までは、悪口を言われながら祈祷して、死んだようでした。神のみ旨はこういう道を通してなされるということを知っていたので、攻撃の体制をとれない時でした。なぜ攻撃体制をとれなかったのでしょうか?

     今まで、神様が世界を中心として父母の立場に立てなかったし、長子の立場に立てなかったのです。それで次子の運命を背負っていかなければならないのが、私たちであります。次子の立場において父母の権利を回復し、長子の権限を回復しなければならないのです。分かりますか。堕落することによって、父母の立場を切ってしまい、長子の立場を切ってしまったがゆえに、これに再び神が責任を負うのではなく、神の側の次子、アベルの立場の者がこの責任をもたなければならないのです。そのために、長子を屈服させて、父母を屈服することができなければなりません。

     そのためにカイン圏が拡大して、世界的になった時には、それは世界を救うことになるのであります。それで歴史はいつも、執権者に対して宗教者たちが血を流してきたのであります。このような歴史がいつ終わるかといえば、世界史的な立場に立って、家庭的なアベルの峠を越え、氏族的なアベルの峠を越え、民族、国家、世界的なアベルの峠を越えて、サタン側の兄が弟の立場にいるアベルに屈服して、アベルが兄の立場に立った時であります。その時初めて、天地において長男も次男もみんな神の息子である、ということができるのであります。そのような立場が設定されない限り、父母が尋ねてくることができないのであります。そうだと思いませんか?

     それで長子が次子の立場に立ち、次子が長子の立場に立って、天の道理を受け継いで長子の立場に立って、兄たるカインに対して、「神の国の法度は、あなたが今まで生きてきた世界の歴史的な背景と反対であったとしても、従順に引き継いでください」ということになり、長子の立場にアベルが立ち、次子の立場に立ったカインは侍りながら接ぎ木される心情が生まれることによって、天倫が立つのであります。兄弟世界において、天倫にかなった長子権、次子権が立ち、正常的な立場に戻るのであります。これが世界史的な立場で、カイン、アベルを中心として解決しなければならないことであります。何の話か分かりますか。そうして二人が一つになってこそ、最初に生まれた子も神の息子であり、二番目に生まれた子も神の息子であるというのです。それで初めて、父母がこの地上にその位置を占めることができるのであります。それで、アベルを通してアダム、エバは復帰されるというのであります。

     そのような天倫があるために、ヤコブがエサウの長子の権限を奪うことを、神は協助したのです。そのことを、皆さんはよく知っていますね。そのために、統一教会は条件をかけて長子の権限を買うのであります。長子の権限を奪うのであります。そこからイスラエル民族が生まれてくるのであります。そして長子の権限を奪われないために、あらゆる苦難を克服し、次に長子に対する天使長を打ち砕き、長子権を整えたのであります。その時イスラエル圏をして、初めてその天倫の前に長子の民族形成をなしたのであります。復帰原理が分かったでしょう。

    ◆新時代の主流

     このようにして、アベルが兄の立場に立って世界的カイン、アベルの勝利の旗を掲げてくる時、天道を代行することができる、世界史的な父母の立場がなされるのであります。ここにおいて、カイン、アベルが一つになることができる勝利的な基盤が集まることによって、父母がこの地上に臨在することによって、恵みを受けることができるのです。天国の新しい基盤を代行する父母に侍って、天国に入って行くのであります。誰でも入ることができないのであります。父母に侍って、父母と共に天国に入って行くのであります。統一教会において、既に父母は神の圏内にあるのであります。

     カイン、アベルの世界的蕩減路程にあって、今統一教会の祝福家庭は祝福を受けたのであります。これがなっていないのであります。家庭的に見る時、カイン家庭とアベル家庭があります。この両者が一つになって、その村の人々が頭を下げて祝福することのできる、そのような家庭にならなければなりません。天道を立てる時には、長子が立たなければなりません。長子の権限で弟を打つことができるのであります。このような原則があるのです。天倫の法度により、長子は父母の代わりに弟を支配することができます。この権限が解消されないために、今までの歴史路程において、悪なる人が思いのままにしてきたのは、このような理由によるのです。このようにして、世界史的な父母と共に長子権をめぐる戦いに勝利して、父母が神の権限をもつ時、長子もその立場を確立するのであります。そしてカインの時代は終わって、アベルの時代になるのです。そして、アベルが長子になるので、サタンがいくら努力をしても無駄であります。アベルは世界的な長子の立場に立つので、法的に強制的に屈服させることができるのであります。このような時代が来るのであります。

     このような歴史的な一つの転換点に向かって、世界終末のその日に向かって、神は今まで世界的な分立をすることのできる、一つの宗教を立てていったのです。そのために、このようなことをためらうことなく、みな成し遂げていくのであります。それがいわゆる、統一教会の文先生を中心とした、アメリカにおける闘いであったのです。先生は今まで、次子の権限を超越して、長子を屈服させ得る世界的な版図をアメリカを中心としてやってきました。それで統一教会は、今まで次子権限を超越して、長子の立場のアベルとなって、カイン的長子をアベル圏に入れて命令できる時代に入ったのです。逆になってきましたね。サタン世界において、カイン的兄の立場において善弟を打ってきたものを、逆にキリスト教から善なる弟を分立させて、悪なる地獄に行く兄を打って天国に行くようにするのです。悪を転換させて、善を求める時代となるのです。一九七七年二月二十三日を中心として、新しい時代へと入ってくるのです。新しい時代の主流、統一教会をいくら世界が反対したとしても、統一教会は滅びません。

     統一教会の先生は、国のために世界のために民族のためにやったので、それは正義の涙を流す群れとなり、正義の同情の涙を流す群れとなり、正義の神を同情するようになるのです。今までは時にならなかったので、悔しくても打たれてきたのです。ちょうど夫がいない時妊娠した妻は、いくら弁解をしても通じません。夫が現れて「私の子供です」と言ってくれた時、千年の恨みも一時に解けてしまうのです。恨みの多い統一教会ですが、レバレンド・ムーンが現れ喜びと栄光を受け、万民が敬う日が近いことを知っているために、我々は耐えなければなりません。分かりますか。先生を知った青年たちが歯を食いしばって、夜昼なく一生を通して走っているのです。この恨み多き国を乗り越え、平地に王国を築くべく基地を造っておくのです。

    ◆長子権復帰の基盤ホーム・チャーチ

     皆さんには条件的な基盤が必要であります。それがホーム・チャーチです。このような世界を代表するすべてを合わせて(黒板に図を描いて示している)、世界的全体の勝利的版図を最小限に縮小した一つの祭壇がホーム・チャーチです。三六〇軒とは世界の三六〇種族をいうのであり、また時間をいいます。時間と空間を示すのであります。また三六〇数とは三数と四数を表す十二数の三倍であります。民族的旧約時代、新約時代、成約時代において、十二数を中心とした三時代を経るのであります。全体、三十六数の拡大数です。縦的な時間をいい、空間をいうのです。そして一年は十二カ月、三六〇日です。数多くの復帰時代の日々をいうのであります。その日々ごとに失敗したのであります。一日の失敗によって、五年、十年、百年が失敗してしまったのであります。分かりますか。地球の復活の日も意味します。

     それで三六〇数というのは、何を意味するかといいますと、世界を代表したカインなのであります。皆さんの前に、世界を代表したカインが残っているのであります。ホーム・チャーチというのは、長子の立場に立てるカイン世界を意味するのであります。

     皆さんは天国に入ろうとするならアベルとして弟として、兄を屈服させなければなりません。そして長子権を復帰しなければ、父母に侍ることができないのであります。堕落によって、カインが長子の立場に生まれましたが、それを解消するために、次子の立場において、世界を代表した長子圏を一度に屈服させるのです。先生を中心にして、世界史的な舞台において勝利したために、その勝利の心情を受け継いで、皆さんにおいては三年半という期間で、この世界を代表したカインを屈服させることができるのであります。皆さんは真の父母の息子、娘であり、アベル的な立場に生まれたのであります。そして、霊的な意味において、完全に勝利の基盤を立てたために、実体圏をもつことができるのであります。旧約時代のように、僕の僕の立場から、僕の立場から、養子の立場、実子の立場を経て、父母の立場を再現していく道が、ホーム・チャーチの活動なのです。言い換えれば、神の前に歴史的、世界史的長子復帰の世界史的なすべてを、一時に蕩減することのできる一つの祭壇がホーム・チャーチなのであります。

     今回、統一教会においてホーム・チャーチという、天国と地獄を地上において解決することができるという、一つの基盤が整えられたということは、革命的なことであり、驚くべきことであります。地上の悲哀の歴史にあって、言い表せない光明と希望をもたらす福音であることを知らなければなりません。このみ言を聞いてなお、「ホーム・チャーチが何だ」と言うことはあり得ません。希望に満ちて、過去自分たちが責任を果たせなかったことを悔い改めて、ここに覚悟と決意を新たにして、ホーム・チャーチを舞台にして頑張ってください。歴史過程において神の前に悲しみを残していた過去の生活を清算し、今日起こるサタンとのもろもろの戦いを、私一身で消化しても残るという気勢をもって出発できる皆さんになってください。

     個人を中心として屈服するのです。家庭を中心として屈服するのです。三年間は家庭をもつことはできません。三年半の間、男女それぞれが忠誠を尽くし、男性であれば、その村の人々が、「どうぞ早く夫人を連れてきてください」と家財道具をみな準備して待つような基盤が整えられていたなら、夫人を連れていくことができるのであります。女性の方もホーム・チャーチで精誠を尽くして、そこの人々が全員、「あなたの御主人をこの地域に連れてきてください。もし生活が苦しいことがあれば、私たちが責任をもちますから」と言われるようにならなければなりません。そのようにして二カ所が会うようになれば、その二カ所が自分たちの氏族圏になるのです。この夫婦を中心として七二〇家庭の家庭的氏族圏がなされるのです。そして皆さんが行く所ごとに、すべての家庭が自然に皆さんの伝統的思想を受け継いでいくとするならば、それは新しいイスラエル天国型の大移動が始まるのです。そして、その氏族から国に向かって移動するのであります。

    ◆氏族的メシヤ

     このようにして氏族的なメシヤ圏をつくっておいたのち、家庭をもっている人々は夫婦共に故郷に戻って、自分たちの親族を中心として氏族的メシヤ圏をつくることができるのであります。神様と同じであります。神様も今までそうでした。このようにして、内的カイン圏と外的カイン圏が心的、霊的に一つになって、カインとアベル氏族圏が一つになることによって、初めてメシヤの立場が確立するのであります。そして氏族的メシヤの立場において、真の父母になるのであります。これをはっきり知らなければなりません。それゆえに、皆さんは信仰の子女を愛したという条件を立てなければ、自分の子女を愛することができないのです。

     先生もそのために、自分の子女を捨てて三十八度線以北に入って、怨讐の国家に入って、そこで数多くの人々を愛したという条件を立てて、再び戻ってこなければならないのであります。怨讐の国家を屈服させて帰らなければならない道が、個人、家庭、氏族、民族、国家、世界とあるために、メシヤが来られて全体を代身して、世界的方向性、基盤を整えて、全体の前に中心となって、世界的な勝利圏をなすのであります。その三十年の歴史を三年半に短縮させて、皆さんが蕩減復帰するのがこの期間です。

     解放後、きょうまで三十三年がたちました。統一教会における三十三年期間でもあります。それで、イエス様の恨みを解いていける国家的時代の次元を越えていくので、大韓民国が今日先生の帰国を歓迎するのも、みんなそれなりの理由があるのです。既成教会が反対しても、これから大韓民国の中から、統一教会の文先生のために闘ってくれる人が大勢出てくると思います。それで、我々統一教会の祝福家庭が完全に団結して、大韓民国が完全にみ旨の前に一つとなっていくならば、カインである北韓をのみ込むことができるでしょう。この伝統的な愛を中心として国が立つ時、誰もがその国を慕ってくることでしょう。三次七年路程が終わって、三年延長した一九八四年以降は、北韓がいかなる野望をもっても無駄です。一つの民族的な祭壇を備えて、世界万民と共に意気盛んに行軍のラッパの音を高らかに鳴らしていく時代が、遠くないということを皆さん知って、これからその準備に頑張らなければなりません。これに歩調を合わせることができなければ、必ず落伍するでしょう。落伍兵になるでしょう。

     そうならないためには、どうしたらよいでしょうか。ホーム・チャーチがなければならないのであります。そして、氏族的メシヤとなって天国へ入って行くのであります。これは、イエス様がなせなかった氏族的蕩減をなすことを知らなければなりません。皆さんにおいては、国家基盤をなし、世界への勝利基盤を自然に連結させて、迫害のない発展舞台を通って天国へ行くのであります。統一教会の迫害時代はもうすぐ過ぎ去るでしょう。三次七年路程で終わらせるのであります。いくらアメリカがいろいろ言っても、終わるようになっているのであります。それゆえに、皆さんの家庭が民族の前に模範となってください。統一教会において、特にこの七七七双家庭にはそのような使命があるので、皆さんが模範となるのです。年齢から見ても三十代ですね? (はい) 。三十三歳未満ですね?

     そのために、七七七双家庭がそのような立場に立って、先導的な仕事をしなければなりません。分かりますか? (はい) 。皆さんは、過去の兄たちの家庭を見習わないようにしなさい。新しい立場において歩んでください。兄たちの家庭は、子供を寝かせて活動しましたが、皆さんは子供をおぶって活動しなければなりません。ホーム・チャーチ活動をそのようにしていますか? (はい) 。

    ◆ホーム・チャーチと新しい系図

     人工衛星のケープケネディー基地があるでしょう。ブーンと飛んで月まで行くことができますが、天国には行けないのです。皆さんのは天国に飛んでいける基地なのです。接ぎ木をしたので、そうできるのです。ホーム・チャーチを定めるにおいても、それは世界史的であります。アフリカに行きたいと言って、そこで三六〇軒を定めてやるならば、それは国境を超越したということになります。民族を超越したのであります。分かりますか。そうできる時が来るのです。世界万民が文先生に反対したとしても、あのアフリカの一国が文先生を歓迎したとすれば、そこから世界へ行くのです。洗礼ヨハネのような無数の国家が現れるのです。

     今までの復帰歴史において、このようなサタン世界において、新しい光明を発して、昼よりももっと明るい行軍ができる希望を備えたということは、驚くべきことであります。ホーム・チャーチ行軍、難しいですか?

     五大洋を自由に行き来して、復帰の恨みを晴らそうとしたのに、今日自分の行動が三時間以内に知れるような活動の舞台に立っているし、自由に闘えるし、言語の問題もないのに、ホーム・チャーチの勝利ができないとしたら、滅びてしまいます。皆さんが天国へ行けるか否かは、献身的活動によって決定されるということを知らなければなりません。これが真理であり、伝統であり、神を求め宗教を求めていく人々の行くべき道であります。ですから、統一教会の道は行きたければ行くし、そうでなかったらやめるのです。行かない時は、あちこちに大移動が始まるのです。

     既成教会の統一教会に反対する人々は、ホーム・チャーチの時が来ると、荷物を持って自分の民族、国を背にして、先生が歩んできたと反対の道を行って、南の民族に迫害を受けたなら南の民族を尋ねてきて、南の民族を通して救いの恵みを受けて生きる道を探していかなければなりません。一般の人々も、統一教会の祝福を受けた人と一緒に行動する時、祝福と恵みがくるのです。ホーム・チャーチ基盤を中心として、これから統一教会の系図が生まれます。統一教会の先生を中心として、父母を中心として、そしてホーム・チャーチを勝利して長子の権限を得た人を旗手として、統一教会の系図ができるのです。このことを分かっていましたか?

     (分かりませんでした)。長子の権限を引き受けて、父母の前に孝なる一片丹心の心情を捧げていくならば、系図に入るのであります。

     次子として、天に入ることができますか?

     入ることはできません。皆さんが長子であれば、長子の立場を中心として、次子を踏み台として上がっていくことができるのであります。そのようになる時、先生を中心とした皆さんは恵みを受けるのであります。そこから生まれてくる子女たちは、悪口を言われません。種が良いと、その種は世界各国に行くようになります。良い種になりたいと思いますか、悪い種になろうと思いますか。喧嘩ばかりしていては、良い種になることはできません。平和の安らぎが潜み、愛の香りが漂う時、すべての世界は歓喜の基盤を整えるのであります。はっきり分かりましたか? (はい) 。

     それでは、ホーム・チャーチに臨んでみたいと思いますか。今まで三十年生きてきたなら、それ以上やるのです。三六〇軒を十二ずつ分けると、それは歴史的な国家のようなものです。忠誠を尽くす忠臣とは、どのような人でしょうか?

     忠臣としての威信を保つ家庭を築き得、神が臨在し得る勝利の歴史をもつには、適当にやることはできないのであります。神がみんな記憶しています。今までは、みんな避難民でありました。ジプシーのようなものであります。天倫の法度を永遠に植えるために、実際の行動と生活を通して伝統を立てなければなりません。これがホーム・チャーチでなすべき責任であります。ホーム・チャーチ、分かりますか?

     長子の権限を相続するのです。次子の立場では相続できません。長子がいるのに、次子が相続するというわけにはいきませんね。ですから、天倫の相続権を得るために、長子の立場に立つ必要があるのです。では、天倫の相続権を受け継ぎたいと思いますか? (はい) 。そのためには、ホーム・チャーチでの勝利を果たすことができるよう頑張ってください。













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    31_私たち自身を知ろう

     御旨と世界
    (全面表示)

     



    私たち自身を知ろう


    1979年9月30日



    ニューヨーク ベルベディア

    ◆自分自身の価値を問う



     自分自身を知るということは、たぶん私たちの人生において最も重要なことの一つでしょう。あなた方は、「私たち」あるいは「私」と言う時、心に、ある同一性をもちます。例えば、アメリカでは「私はアメリカ人だ」という二億四〇〇〇万の人々がいます。しかしそれらの人々は、最下層のアメリカ人であったり、非常に高貴なアメリカ人であったり、その中間であったりします。あなた方は自分をどう思いますか。アメリカ国民であることはさておくとして、あなた方は何者ですか?

     あなた方は親から見れば、その子供です。この国では、あなた方の親は多くの国籍の混血から生まれた子孫ではないでしょうか。ですからあなた方の家系を調べると、多くの種類の国籍が見られることでしょう。あなた方の血統は誇らしかったり卑しかったり、また、あなた方の先祖は誉れ高いか不名誉であるかの、いずれかです。親の血統は、互いに争い合っていたことがあるかもしれません。

     統一教会のメンバーとして、「自分は何者か」と自問してみてはどうでしょうか。ここに基本的には二つのタイプがあります。ある人は教会の支柱の一つになっているでしょうし、またある人はここにいてもいなくても大した違いがないかもしれません。あなた方は自分がここで重要人物であるかどうか、ある程度認識しているのではないでしょうか。

     人は誰でも、何らかの状況で自分が中心に立つことができるという見方で、物事を考えがちです。なぜかというと、人はそれぞれ、自分は何らかの価値とか重要性をもっていると思っているからです。また誰でも、何らかの野心とか熱望をもっており、人間が欲することには際限がありません。あなた方は、自分が重要人物だと感じますか。また人生において、何らかの熱望をもっているでしょうか。この点に関して、民族間、あるいは過去、現在、未来の人々の間で相違点があるでしょうか。ありません。あらゆる人はこの点で同じです。人は自分が重要であり、認められたいと思っており、また毎日、自分自身を向上させたいと思っていると結論づけることができます。これは人間共通の熱望です。

     私たちが善人であるか、悪人であるかを判定してみましょう。善人という概念にも、様々な種類や基準があります。善人か悪人であるかを決定するのが誰であるか、それを知ることは重要なことです。それは、あなた方がするのでしょうか。それともほかの誰かがするのでしょうか。それは、ある人の個人的な権利でしょうか。それとも多くの人々の意見で、善か悪かを決定するのでしょうか。善は、公的な観点から判断されなければなりません。そして一人の人が善かどうかは、彼が全体の幸福と利益にどれだけ貢献したかによって決定されることになるわけです。ある人は、自分が美男子だとか美人だとか誇るかもしれません。しかしもし、その人の指の一本が欠けていたとしたら、その人の容貌は完全と言えるでしょうか。その人は全体的な観点から見て、ある部分が欠けています。価値は、全体的な観点、すなわち全体あるいは完全という観点から判断されます。善人とは、全体が善だと認めることができる人のことです。

     ある人が、自分は家族の中で一番善人だ、と考えたとしましょう。すると、私の両親だけは私を良い子だと思うかもしれませんが、もし妹が私をひどい兄だと思っているならば、自分には何かが欠けていると思わなければなりません。それでは、家族の中で一番の善人かどうかを決定するのは誰でしょうか。それを決定するのは、家族全員の一致した見方によります。では、どうしたら家族全員から賞賛されるようになれるでしょうか。それは、私利私欲を捨てて彼らに仕えることです。そのように自分にとって重要な人として彼らに対してあげるならば、彼らはあなたを尊敬するでしょう。

     

    ◆宇宙の根本的法則は犠牲と奉仕




     世論に認められるための基本的な公式は何でしょうか。そこには二つの鍵となる要素がなければなりません。それは犠牲と奉仕です。もしあなた方が、他人から仕えられることを願い、他人を犠牲にしようと思っているとすれば、あなた方は善人だと言えるでしょうか。あなた方自身が犠牲と奉仕の中心にならなければなりません。

     私たちのこの群れは重要な群れです。なぜならば、この群れは世界の縮図であり、ここには、あらゆる国籍や人種の代表者が来ているからです。もし、この代表者の群れの間で「これが、善なる男、女が誰であるかを決定する原則だ」と意見が一致したならば、それは全世界に通用する原則であるに違いないでしょう。ある人々は、奉仕と犠牲は良いことだ、と賛同して努力するでしょう。またある人は、この問題についてくよくよ考えるだけで、何もしないかもしれません。あなた方はどちらのグループに入るでしょうか。

     もし、このような生き方を自ら実践してきたと感ずる人がいたとしても、あなたは全世界から善人だと認められるような基準に立っているでしょうか。あなた方は二億四〇〇〇万人のアメリカ国民から仕えることを当てにして、奉仕と犠牲を実践するのでしょうか。それとも、自分で二億四〇〇〇万のアメリカ国民に仕えなくてはいけないと思って、そうするのでしょうか。明らかに、そうしなくてはならないからするわけです。

     さあ、私たちは、善人の定義について意見が一致しました。では、あなた方はアメリカという限られた範囲で最高の善人になりたいですか、それとも世界的な基準でそうなりたいと思いますか。アメリカは世界の縮図です。あなた方は、アメリカにいるあらゆる人種や国籍の人々を愛しますか。もし、人種に対する偏見をもっている人がいるとしたなら、その人は善人と言えるでしょうか。その人が黒人を嫌った場合、黒人だけが“彼は偏見をもっている”と思うでしょうか。それとも彼の態度は、彼自身の人種の人々からも非難されるでしょうか。こうしたことは一人種だけが下せる判断でしょうか。それとも、もっと普遍的な判断があるのでしょうか。

     私たちは、どんな人種であろうとも、それにかかわらず、そこにはある普遍的な原理が関係しているということを認めなくてはなりません。宇宙にはある根本的な法則があり、それを犯す人は、その人の人種や才能がどうであれ、それなりに審判されるでしょう。そのような宇宙の構造の根本精神は何でしょうか。それは、他人のために生きようとする男性や女性を、守り支えようとするものです。それはまた、他人を利用し、自分の利益だけを得ようとする人々を排除しようとします。こういうわけで善人とは、他人のために存在する人間のことであり、善行とは、他人の利益になるような行為だと言うことができます。

     

    ◆罪とは宇宙的法に違反すること




     もし、ある人が裁判にかけられて、憲法を犯したとして有罪宣告を受けたとするならば、彼は良い気持ちがするでしょうか。有罪とされた被告は、よく裁判所の判定に強く抗議して、「社会にはこんなに間違ったことがたくさんあるのに、どうして自分だけが悪いのか。それを教えてくれ」と申し立てます。通常、裁判所は、被告が抗議したという理由だけで、その判断を覆すようなことはしません。人間の裁判所でもそのようなことはしないのに、「宇宙的な裁判所」が判決を覆すようなことをするでしょうか。

     正義の司法制度には、常に情状酌量の余地を残していますが、それを受けるためには、心からの悔悛の情を示さなければなりません。「悔い改め」ということが重要な言葉です。ですからイエス様は、「悔い改めよ、天国は近づいた」と宣言したわけです。では私たちは、何を悔い改めたら良いのでしょうか。それは非常に単純です。私たちは、他人のための犠牲と奉仕に生きるという規則に違反したすべての行為を、悔い改めなければなりません。これが第一のイエス様の教えであったわけです。キリスト教の本質は、貪欲と利己心の罪を悔い改めるように求めるところにあります。罪とは、他人に対する奉仕という宇宙的な法に違反することである、と定義できるでしょう。

     大きなデパートからドレスを盗むということは悪いことです。そのドレスには、それを調整した人から生まれた価値があり、それを盗む人は、その公的な価値を無にすることになるわけです。それは明らかに罪です。また、ある人はいつもうそをついて、それでいて自分の良心が痛まないかもしれません。うそをつくという動機には、いつも他人を利用するために何かを隠すということが含まれています。そうでなければうそをつくはずがありません。あらゆることがこの宇宙的な原理に包括されており、それに従って、あらゆる行為を判断することができるのです。

     ある人が道端で醜い女性を見て、彼女を殴り倒したとします。その理由として、自分はその女性を見ることに耐えられないし、また同じようにその女性を見たくないと思っている他のアメリカ人のためになることをしたのだ、と思ったとしましょう。もし、それが彼の動機であったとした場合、彼の行為は罪でしょうか。そのようにその人は自分の行いを正当化しようとするかもしれませんが、しかし、宇宙的な法はそれを認めないでしょう。宇宙的な法は、彼女がどんなに醜くても、他の誰とも何ら変わらない価値があると宣言するでしょう。なぜならば、彼女も創造主によって造られているからです。ですから、誰であっても彼女を殴り倒す権利はありません。

     この原理に関するあらゆる事柄は、二つのキーワードに集約されます。つまり犠牲と奉仕です。他人に対する犠牲と奉仕の生活をしなかったからといって、ある人を有罪とする判決を支持する判事が、今日の人間の裁判所にいるでしょうか。どんな法律によって、犠牲と奉仕の行為に対する判定を下すのでしょうか。確かにそのような行為は国家の法律には扱われていませんが、それは公的な承認によって支持されるものです。もし、ある人が自分の国家に対して犠牲的な奉仕を行ったとすれば、その国は彼にメダルを授与し、国家的な拍手喝采浴びせて褒めたたえます。

     これに対して、「奉仕に関する宇宙的な法は自分には似つかわしくない」と不平を言い、「どうして自分には表彰状がもらえず、また自分の生活を楽しむことができないのか教えてくれ」と言う人がいるかもしれません。そのような利己的な貪欲な人々をたたえる社会は長続きするでしょうか。もし、そのような生き方が繁栄するとすれば、どのような統一も調和もあり得ないでしょう。もし創造主が利己心を宇宙的な法として施行したとすれば、その法はあらゆる人間のみならず、全物質世界にも適用されることになります。すると、小さな細胞の一つ一つが、宇宙のすべては自分だけのために存在し、他の細胞にはどんな権利もないと主張するかもしれません。そのような態度は、分裂と破壊以外の何ものも生み出しはしないでしょう。

     しかし、実際は、宇宙的な法はそのようには働きません。誰も、目の細胞が重要であることを否定しません。それらの細胞は、体全体の利益のために存在しています。全体目的は目の存在に優先しますから、目は、体全体に共通する普遍的な法に従わなくてはなりません。なぜならば、宇宙がその見方を支持し、そのような生き方は繁栄につながる生き方であるからです。

     

    ◆宇宙的法のもとの公的目的




     あなた方は毎朝、朝食を食べるでしょう。あなた方の食事を構成する動物や植物は、どこから生まれるのでしょうか。食物を食べるために、あなた方はいろいろな植物を無慈悲に切り倒し、それからそれを歯でかみ砕き、それらを飲み込まなくてはなりません。そうしてもサラダの中にある野菜は、あなた方に反抗しません。なぜならば、それらは宇宙的な法を知っており、自分たちはより大きな目的のために存在している、と思っているからです。それらの食物がそういう姿勢をもっているので、人間が公的な目的に向かって奉仕するために、それらの食物を食べたとしても、彼らは感謝するわけです。ここでは目的が調和しています。

     皿の上の食物は、人間の生きている目的に対して、ある感謝をもっています。そこにのみ、人間と食物との調和が成り立つことができるわけです。もしそうでなければ、食物は食べられるたびに人間を嫌い、人間の笑い声を聞いても憤りを示すでしょう。重要なことは、食物は人間が公的な目的のために生きていることを知った時に、初めてあなた方を受け入れるのだということです。食物は、自分を食べたいと思っている貪欲な人間の笑いに対しては、憤りを示します。

     もし、人が公的な目的のために生きていないならば、食物は時々、それを食べた人のおなかの中で人間に対してデモを行います。すると、その人は病気になったり、場合によっては死ぬこともあります。宇宙的な法のもとでは、善は栄光、悪は滅びることになっています。今、あなた方は明確に、善の方向が奉仕と犠牲を伴っていることが分かりましたが、今までの歴史においては、その定義はあいまいで焦点がぼけていました。

     この定義が正しいか間違っているかを調べてみましょう。この世界のあらゆるものは、善悪二種類のうちの一つに属しており、あなた方の目から流れ落ちる涙一つでさえも、善か悪のいずれかに分けられます。耳や目も、二つの働き方があるのです。もし、目が世界を見渡し、困っている人がいれば行って助けてやりたいと思っているのであれば、その目は善の働きをしています。もし目が、その人を利用するために、人の弱点を見つけようとしているのであれば、それは悪の働きをしているわけです。

     アメリカにはあらゆる種類の音楽がありますが、それは誰のために演奏されていますか。ディスコやロック・ミュージックは善であるとか悪であるとかは言えません。それらがどんな目的のために役立っているかが、考慮すべき核心部分でなければなりません。もし、それらが公的な目的のために役立っているならば善です。もし、そうした音楽やダンスが、個人の肉体的な喜びや、人からお金を得ることだけのために用いられているならば、それらは悪の目的のために役立っていることになります。ところで、ディスコ・ミュージックが今日、私利私欲を忘れて、公的な目的のために演奏されているという気配が見られますか。そういうわけで私は、ディスコに行くことには賛成しないのです。もし、ダンスをしたり、そうした音楽を聞くことが、人々を暗闇から光に引き上げるのに役立つならば、一年間の三六五日、行き続けなさい。それだけの確信があなた方にありますか。これは私の考えにすぎず普遍的でないから、私がいなくなれば、それはもう適用されなくなる、とあなた方が思うのは正しいでしょうか。

     この宇宙的な法が、いかに過去、現在、未来を通じて不変のものであるかを示す、二つの素晴らしい実例があります。イエス・キリストは地上で最も惨めな生活を送りましたが、彼は十字架上で自分の敵を許すことができました。彼が死ぬ時、彼はこの世的な意味では敗北者のように見えました。しかし、彼の思想は過去二〇〇〇年の間に、ほぼ世界を征服し、歴史は彼の誕生の年から数えられています。一方、これに対して、武力で世界を征服したと思ったヒットラーやナポレオンは、一時的には成功者のように見えたかもしれませんが、彼らの業績は今も残っているでしょうか。残っていません。それは、彼らも宇宙的な憲法の主管のもとにおかれており、彼らの活動は受け入れられないものだからです。

     歴史上の聖人たちはこの原理を生き、善なる生き方を実践した人々です。聖人とは、神と同時に人類に仕えて生きた人々であり、宇宙的な基準で生きた人々なのです。人々は、聖人と親戚であるとか、同じ国の出身者であるとか言って、聖人と何らかの因縁をもっていることを誇りとします。どうしてそのように誇りとしたいのでしょうか。なぜならば、それは、聖人が宇宙の最も根本的な原理を生きた模範であるからです。

     

    ◆押し出すのは公的目的のため




     きょうの説教の題目は、「私たち自身を知ろう」です。あなた方は、どのような種類の人なのでしょうか。あなた方は今、自分自身の行動を評価する何らかのガイドライン(指針)を得ています。たぶん、あなた方の体は、ちっとも人のために働きたいとは思わず、他の世界が自分のために働いてほしいと願っているでしょう。普通あなた方は人に命令されるとき、反逆的な姿勢をもっていますが、天国ではそうではなく、あなた方はその人を通して宇宙につなげられていると思えるのです。

     そういう意味で、あなた方は私が好きなのですか。それは、あなた方は私が仲保者であり、私を通してより素晴らしい幸福に前進跳躍できることを知っているからです。私は、どのような種類の人間なのでしょうか。ある人々は最もひどい言葉で私を表現し、「ヒットラーやスターリンのような悪人でも、自分の国民に賃金を払って働かせたのに、レバレンド・ムーンは誰にも賃金を支払わずに、彼らをこき使っているから極悪人だ」と言っています。私があなた方にお金を与えずに、あなた方を働かせているから極悪人だ、と彼らは言っているわけです。もし私が、彼らが言うように悪人だとしたら、あなた方はどうして出て行かないのですか。私は悪人ですか、それともそうではないですか。

     私は、歴史上どんな独裁者よりも強くあなた方を押し出そうとしている、という非難を受け入れることはできます。しかし、問題の中心は、私の目的が何であるかです。私の目的は、あなた方を今のあなた方よりも国家よりも偉大なるもののために働かせることです。それは世界のため、神のためということです。したがって私の目的は、完全に私利私欲から離れた動機から出発しています。あなた方が一生懸命に働いている時、私はあなた方以上に懸命に働いています。私の行動の一つ一つは、他人のための犠牲と奉仕の生活をするという、この原則圏内にあります。私はこれを自らが行っているだけでなく、他の人々をも公的な目的のために生きるように押し出しているわけです。すると私は悪人なのでしようか。それとも善人なのでしょうか。

     親は時々、子供を勉強させようとプッシュします。そういう時は非常に残酷に見えますが、その動機は自分の利益のためではなく、子供を強くしょうとすることです。これらの両親は、子供が未来の指導者になってくれるよう願っています。そうした親は善人でしょうか。悪人でしょうか。また別の親は、子供にしたい放題のことをさせるでしょう。それは子供には素晴らしいように聞こえるでしょう。しかし親というものは、しっかりとしていて、子供をプッシュして、その人格を神中心に形づくるほうが素晴らしいのです。表面的に素晴らしく見える優しさは、実は、親が公的な目的を気に留めないという事実を反映していることがあるわけです。

     教師もまた二通りに分類することができます。学生は決まって勉強することを嫌がり、先生には放っておいてもらいたいと思うものです。また妻にも二通りあります。一方の妻は、自分の夫が今までどこにいたか、彼がどれだけお金を使うか、どうして彼はもっと多くの時間を子供と一緒に過ごさないか、といったことについてがみがみ言います。もう一方の妻は、夫がいない間に自分の楽しみをもとうと決めています。この場合、がみがみ言う妻のほうが、公的な目的のために働いていると言えます。ある夫は、妻に、「許可を得ないで外出してはいけない」とか、子供や家の面倒を見ることについて厳格です。また別な夫は、優しく、“お互いが好きなようにやれば良い”と感じています。この場合、最初の夫のほうが非難されるべきでしょうか。

     監督者を十人もつ人と誰一人もたない人とでは、いずれの人が善の側に立ちやすいですか。監督は重荷のように見えるかもしれません。しかし監督の規律と要求は、あなた方により多くのことを成し遂げさせようとプッシュすることができるのです。

     統一教会のメンバーは一時に一つのことしかできません。それでは普通の人々と同じです。私の方針は、あなた方に、一時に百ものことに取り組んでほしいということです。時々私が一時にあまりにも多くの指示を出すので、アメリカのメンバーたちは動けなくなって、どちらに動いたらよいか分からなくなることがあります。しかし、ごく小さい東洋のメンバーは、一つの使命から別の使命へと飛び回りながら、蟻のように走り回り、どうにかこうにかして結果をもってくるのです。

     

    ◆神と一つになる




     さあ、あなた方はもう善と悪を判断する方法が分かりましたね。神はいかなるお方でしょうか。神は宇宙の公法の主人であり、中心です。ですから次の一つのことだけは言うことができます。つまり、神は宇宙で最高に公的なお方です。神は、奉仕と犠牲という二つの基本的な原則の創造主であり、創始者です。これらの際立った特徴をAタイプの血統と呼んでみましょう。もし、あなた方の親が両方ともAタイプの血統であったとすれば、あなた方もまたそのようになることは、ほぼ確実です。同様に、もし私たちが神によって造られているとすれば、神の原則は、また私たちのものになっているはずです。

     神はそのような生き方を宣布しておられるのですから、すべてのものも、またそのような生き方に従うはずです。そのようにして神が宇宙を思い描いたので、その原則に違反するものは何であれ、苦痛を受けます。私たちがそのように生きて神との授受の関係を造成すると、そこから、生活に調和と活力がもたらされます。誰でもそのような授受の関係につながれるものは、永遠の生命を満喫するでしょう。なぜならば、そこには終わりがないからです。なぜ、私たちは犠牲と奉仕の生活をしなければならないのでしょうか。究極的には、神と授受関係を結び、神のエネルギーに連結されるためです。

     なぜ私たちは、神と一つにならなければならないのでしょうか。それは、そうすることによって永遠の生命を満喫するためです。神は力の根源です。神は最高の方ですから、神と一つになることによって、あなた方も同じく最高になるのです。神は絶対です。神と一つとなることによって、あなた方もまた絶対的な存在となり、そうした一体化の中であなた方は守られるでしょう。なぜならあなた方を傷つける力をもつ者は、他には誰もいないからです。神と一つになることによって、神の力とエネルギーはあなた方の力とエネルギーになり、あなた方は神の似姿に似た子女となります。ありとあらゆる種類の愛がありますが、太陽のように輝く神の愛に勝るものはありません。そうしてあなた方は、その愛を受ける者になるのです。

     太陽は暖かさと光を発しますが、あなた方が神の愛という太陽の一部になる時、あなた方もまた、生命を与える存在となり、どこへ行っても、調和と生命をもたらすことができるでしょう。そのような人はいつも生命とエネルギーをもたらし、天的でないものを溶かしてしまいます。あなた方の多くは、最初統一教会に来た時、その教義を不信していました。あなた方は一塊の氷のようでしたが、原理を聞くと、あなた方は溶けて水になり始めました。そのとおりですか、違いますか。もし、このことが本当だったら、これは歴史的な事件です。

     あなた方をこのように鼓舞するために、私はどのようなテクニックを使うというのでしょうか。私は催眠術師や魔術師なのでしょうか。ここには何の魔術もなく、ただ宇宙的な法が働いているだけです。私がしなくてはいけないことは、この法則を教えることです。私が時々、あなた方に「出て行って宇宙的な目的のために働きなさい」とお願いするとき、非常に残酷なように見えることがあります。しかし、それは善のためでしょうか。悪のためでしょうか。それは善のためであり、その善も、非常に大きくて、神の大きさくらいのものです。

     

    ◆すべての歩みは人類と神の解放のため




     私は、この宇宙的な法以外に、私自身の所有物をもっていません。さらに私は、この運動のために誰よりも一生懸命に働き、より多く苦しもうと熱望しています。神は、私がどんな原則のもとに生活しているかを、よく知っておられます。もし、サタンが神に対して、私があまりにも多くの成功と繁栄を得ることを許されてきたことに不満をもらし、私がそれにふさわしいどんなことをしてきたかを示してほしいと願うならば、神は私をサタンにテストさせることを躊躇されるでしょうか。私がこれまで共産政権下の収容所で信じられないほどの迫害や拷問を受けたのは、サタンが私をやめさせようとしているからです。しかし、そのすべてを通過しなければならなかった時でさえ、私は心変わりをしたでしょうか。

     全世界が私を迫害してきたというのは、真実でしょうか。アメリカは盛大な待遇をして、私を歓迎しなかったではないですか。多くの国家元首は、私が彼らの国に来るのを歓迎しないではありませんか。キリスト教徒やユダヤ教徒は私たちの友人であるはずですが、実際にそうですか。共産主義者たちは、私を友人と呼んでいますか。歴史を通じて、私ほど全世界から迫害され、多くの反対を受けてきた個人はいなかったと思います。しかし、この反対のために私は粉々になったでしょうか、それとも私は、以前よりも強くなりつつあるでしょうか。

     私はなまぬるくもなく平凡でもありません。つまり、私は本当に悪か、本当に善であるかのいずれかなのです。私は東洋人ですが、白人の人々でさえ、あなたは善だ、と私に語っています。それは世界にとってなぞであり、彼らはそれを解明することができません。あなた方は本当に、私が善であると信じますか。だから人々は、私があなた方を洗脳したと思うのです。それはあまりにも驚くべきことなので、彼らには信じられないわけです。実際、私は洗脳したでしょうか。あなた方がしたことは、宇宙の原理に自らを連結させたにすぎません。しかしあなた方自身でさえ、いつ自分が変わったかを悟っていません。あなた方は、以前はこの世の人々と何ら変わりませんでしたが、この生き方に従うにつれ、膨大な距離を踏み越えて、非常に変わりました。

     最近では各々の宗教が、それぞれ誇りをもっています。現在、ローマ法王が多くの国々を訪問しており、何百万という人々が彼を見に詰めかけます。しかし彼らの歓声は、カトリック教会のためのものでしょうか、それとも世界の救いのためのものでしょうか。もしその声が、カトリック教会のためだとしたら、それは十分だとは言えません。しかしもし、その集まりが神と人とが一緒になって人類を救済する手助けをしようとするものであるならば、それは善です。もし彼らが、公的善のために、より多く自分を犠牲にしようとする決意を強化するために集まっているのだとすれば、そのような集合は良いものです。

     統一教会員は、良いグループ(団体)の人々ですか。では、私たちのどこが良いのですか。私たちは統一教会のために集まっているのではなく、神と人類の解放のために集っています。私たちが行うことは、最高の神のためです。もし私たちが、神の祝福と特権を受けるためだけに集まっているのだとすれば、私たちは善なる人々ではありません。私たちは、人類と神の解放のために、私自身を捧げるために集まっています。だから私たちは、神を中心とした教会であるわけです。その場合、それを創設した指導者も、同様に善であるに違いありません。私たちがより熱心にゴールを追求すればするほど、それだけの成功と繁栄がやってきます。私の哲学と理想は、神の解放のために生きることであり、ただ単に人類とか霊界のためだけではありません。誰も、これまでにそのようなゴールについて語った人はいませんでした。

     

    ◆ゴールを目指して犠牲を捧げよ




     これはむなしい言葉でしょうか。それとも、私は本当にそれを行っているのでしょうか。私にとっては、夜も昼もありません。なぜなら、私はいつも、そのゴールのために働いているからです。あなた方は私に会えて幸運でしたか、それとも不幸でしたか。実際、私は野心家であり、貪欲で無慈悲です。しかし、私はこれらの特質のすべてを、あなた方一人一人を神を中心とした指導者としてつくり上げるために使っているのです。それは、私があなた方を敗北者ではなく、勝利者にするために、あなた方を鉄の意志で言い知れない苦難と困難に追いやるということを意味しています。たとえ誰かが、「お前がこの教会を捨てないなら、お前の目をえぐり出してやる」と脅しても、あなた方は、「あなたが私の目をつぶしてしまっても、私は変わりありません。私の目は善のために犠牲になります」と答えることができます。あなた方は、このように感じたそのあとには、たとえ「痛い」と言ってもかまいません。すると、神もまた、その痛みを受けられるでしょう。

     あなた方がからかわれ虐待される時、あなた方は当然、苦痛を感じます。しかしもし、神の解放という絶対的なゴールのために仕えているならば、あなた方が背負うあらゆるものを、神もまた背負ってくださいます。神は、あなた方が神のために、また人類のために死んだと宣言されるでしょう。すると、神と人類はあなた方の前に敬礼をするでしょう。なぜならば、あなた方は、最も聖なる祭壇の上で犠牲を捧げたからです。

     ここに初めて来た人は、手を挙げてください。あなた方は、私が真実を語っていると思いますか。それとも思いませんか。あなた方は、まだ、見るだけのために来たのですか。それとも、自分も共に参加したいと思っているのですか。この宇宙的な原理を、暗闇と混乱の中にいるアメリカの青年に教えなければなりません。私たちがもたらす光は、アメリカに必要なものだと、あなた方は思いますか。夜であろうと昼であろうと、答えは、なお「イエス」です。もし私がこの任務を全うしなければ、神は、それをする別の人を探し出すでしょう。これはアメリカに残された唯一の道であり、誰かがそれをしなくてはいけないのです。さもなければ、希望はありません。

     毎日神のみ旨を達成しようとする人は、議会などから褒めたたえられるのではなく、逆に人々から迫害され嘲笑されるでしょう。彼の任務は、そうした立場にあっても、達成されなければなりません。犠牲と奉仕は、私たちの生活の信条でなくてはなりません。美しい女性は、神の法のために、その魅力を喜んで捧げようとするでしょうか。最もハンサムな白人の男性と、最も醜い黒人の女性とが一緒に祝福されて結婚し、祭壇において神に献身することを想像してみてください。それは想像できる、最も劇的なことです。彼らはたぶん、この世で最も幸福で最も魅力的な夫婦になるでしょう。彼らは歴史的な天国への扉を開くことにより、神は彼らの結婚によって解放されるでしょう。神は真に命であり愛であり、このような劇的な結婚を探し求めています。

     あなた方の目を見ると、ある波動を感じますが、それはまだ百パーセント清いものではありません。もし、美しい男性が、女性の中から可能な限り、最悪の女性でも受け入れることができると確信をもつならば、このギャップは埋められるでしょう。二人の極と極とが一つになり、幸福になることができた時、それらの極と極とによって包含されるすべての人々は、幸せなカップルになることができます。両極端を代表するカップルが天国に到達すると、彼らはどこへ行っても完全な自由を満喫し、会いたと思う人には誰にでも会えるでしょう。それが統一教会の精神であり、地上の神の国の建国精神です。

     

    ◆自然は私たちの第一の親




     全世界があなた方に敵対する前に、私がサタンの役を務めて、残酷で無慈悲でいようと思います。あなた方は、それを受け入れますか。それだけでなく、神もまた私以上に、あなた方に対してつらく当たることでしょう。あなた方はそれを、なぜ受け入れることができるのでしょうか。それは、あなた方が最もやっかいなテストを通過することによって、神の最も深い愛を相続することができるということを知っているからです。その唯一無二の愛を受けるために、あなた方は、どんな重荷をも背負うことができると感じているのです。このような信念をもった人々は、陰気で不幸せそうな顔つきをしているでしょうか。それとも彼らは、雨が降っても晴れていても、とっても元気にあふれているでしょうか。なぜ私たちはこの任務を担い、私が言うように、この生命の狭い門を通っていかなければならないのでしょうか。

     神は、御自分の二性性相をもって、すべてのものを造られました。それらのものは神と縦的につながれているだけでなく、互いに横的にもつながれています。神は霊であり、被造世界は物質です。また、物質世界が横的であるのに対して、神と霊界は縦的です。神の見えない二性性相は見える形に現されました。したがって、あらゆるものは神のかたちに従って造られているわけです。ここにおいてあなた方は、どこに属していますか。一人一人は宇宙の縮小体です。あなた方の体は、世界のすべての要素で造られています。自然は、あなた方の体を造るすべての成分を、供給したわけです。ということは、つまり宇宙は自らを捧げることによって、あなた方を造ったということになります。もし自然が、あなた方に貸し付けたものをすべて返してくれと要求したとすれば、あなた方には何か残るものがありますか。あなた方は、宇宙があなた方を生み、あなた方を造ったと感じることができます。

     だから、自然があなた方の第一の親であるわけです。あなた方は、自分が宇宙の縮小体であるということを気持ちよく感じますか。あなた方のうちには、すべての宇宙の型とか公式とかいったものが見いだされます。厳密にいうと、あなた方は動くことのできる小さな歩く宇宙であるのに対して、宇宙は静的です。あなた方は動き行動できるので、宇宙を治めることができるのです。宇宙はあなた方に主管されたいと望んでいますから、あなた方の第一の義務は、自然を愛するということです。そこで、あなた方はどこにいようと被造物を愛し、それを鑑賞することができるのです。

     あなた方は草木や花、鳥や流れる水を愛したいという衝動を感じるのですから、どうしてあなた方の同胞たる人間を愛せないことがあるでしょうか。浜辺に横たわる時、あなた方は親の懐の中に横たわっているように感じたり、木にもたれかかっている時、兄弟にもたれかかっているように感じることができます。自然はそれに対して、抗議したりするでしょうか。それとも、あなた方がそれを真に愛し、知ってくれていると感じるでしょうか。すべてのものは、あなた方のために存在しています。だからその理由のために、あなた方はそれらを鑑賞することができるわけです。男性は宇宙の一人の息子であり、女性は宇宙の一人娘です。それならば、両者間にどれだけ深い愛が可能となるでしょうか。

     あなた方はかつて、太陽と会話し、自分はそれを愛すると言ったり、それに対する愛の歌を歌ったりしたことがありますか。自らを詩人と考えている多くの人々は、この真理の深さを理解していないので、彼らの詩は表面的で浅はかです。私は真実を言っているでしょうか、それとも、そう装っているだけでしょうか。

     

    ◆すべてを親として愛しなさい




     あなた方の第二の両親は、あなた方自身のお父さんとお母さんです。彼らは宇宙を代表しており、あなた方の命を生むために働かれました。男性と女性たちは、自分は宇宙の中心だと感じてもよいでしょう。なぜなら、宇宙の代表者である両親が、肉体の生命をこの地上に生み出してくれたからです。あなた方の両親は、父親と母親だけではなく、全人類――つまり教師や近所の人たち、親戚をも表しています。ですから親に仕える時、実にあなた方は、ただ単に二人の個々の人々に仕えているだけではなく、全人類に仕えているわけです。そうすることによって、全人類に愛されるのです。このような歴史的な背景から、息子、娘である私たちの徳は、親に孝行心をもって仕えることだといえます。あなた方の目の前の家族や近所の人々は、人類の縮小体を表しているわけです。あなた方の姉妹は全女性を表し、あなた方の兄弟は全男性を表しています。したがって、あなた方の家族は人類の縮小体です。

     真実の人間は、すべての人々を、「一つの人間の家族」とみなす人です。真なる男性、あるいは女性であれば、年上の人を見ると、その人を自分自身の親、あるいは祖父母とみなします。また、別の若い男性や女性は兄弟姉妹であるわけです。もし真なる人間であるならば、自分の家族だけでなく、全人類を愛します。自分の家族だけを愛して他の世界を愛さないということは、原理に反しています。もし、たまたま白人である人が黒人の家族の一員となったり、年上の人や若い男女を自分の祖父母や兄弟姉妹のように愛するのを見るのは、最も刺激的な冒険です。

     もし誰かが大変な困窮状態にあるのを見たならば、あなた方は彼らの必要を満たしてあげたいと思うでしょう。なぜなら、彼らは単なるあなた方の同胞であるのみならず、あなた方の兄弟姉妹であるからです。ここアメリカでは、親が年を取って自分自身の世話もできなくなったとき、彼らは子供の家に行くでしょうか。それとも老人ホームに行くのでしょうか。どちらが理想的ですか。あなた方は、他のすべてのアメリカ人と全く同じように、老人は老人ホームへ行くべきであると思いますか。おばあさんは、自分の孫を訪ねるのと、老人ホームを訪ねるのとでは、どちらがうれしいと思いますか。

     あなた方は自分のおばあさんを、自分の家に受け入れたいと思いますか。あなた方は現実的にそれをしようと思っていますか、それともここにいるから、「はい」と言っているだけですか。あなた方は自分が新婚の妻だとしたら、大勢親戚のいる夫の家族と一緒に住みたいと思いますか。それとも、彼と二人きりで生活したいと思いますか。もし、宇宙の公法に従って生きたいと思うならば、彼の家族と一緒に住みたいと思うでしょう。

     あなた方は自分を生んでくれた親をもっていますが、究極的には、あなた方はあなた方を創造した非常に重要な親をもっています。……それは神です。あなた方の両親は、神があなた方を創造するために用いた道具であったわけです。真の父母を求める旅は、第一の親である自然を愛することから始まり、その次は自分を生んでくれた親を愛し、それから究極的な親、つまり私たちの創造主である神のもとに行きます。神は究極的な目的であり、私たちの永遠の父母です。現在誰もが恐れている死の瞬間は、実は成就の時間です。もしあなた方が、この地上で正しく生活を送っていれば、あなた方の生活は、究極的には一人の共通な親のもとに導かれます。すると死の瞬間は、あなた方を、その親と永遠に生きるために解放する時なのです。神は私たちすべてにとって真の親であり、終わりのない真の愛をもっています。神と共に生きる生活こそ、私たちが天上天国と呼んでいるものです。

     その世界の主たる雰囲気は最高の愛です。その愛は利己的なものではなく、犠牲と奉仕に基づいています。それがそのような宇宙的な法を基盤としているので、その最高の愛は繁栄するのです。

     

    ◆統一教会の存在理由




     霊界における天国は、私たちの究極的な目的地であり、この地上における私たちの肉体をもった生活は訓練にすぎません。私は、宇宙の中核となる真理を発見したとき、このことを見つけました。地上生活は永遠の生活のための準備にすぎず、私たちがそれに合格するか失格するかは、この地上で決まるのです。そうした認識を得て、私は、さらに宇宙の根本原理を取りたいと祈りました。すると解答が与えられました。……父子の関係が宇宙の根本なのです。それは被造物(自然)とあなた方との関係であり、両親とあなた方との関係であり、そして神とあなた方(人間)がもつ関係です。

     私たちは地上にいる間、あらゆるものの内で最も大切な訓練に参加しているのであり、究極的に天にある私たちの目的地に到達し、永遠に神と父子の関係を満喫できるように、この原則を学んでいるのです。これが統一教会の存在する理由であり、私があなた方を指導している理由です。すべての生活は、神との永遠の関係を築くための訓練です。

     例えば、物質――お金を扱う場合を考えてみましょう。それは自然から生まれたものであり、それゆえに私たちはそれを大切にします。あなた方はお金に、「君は今まで、神の目的のために使われることを待ってきたのでしょう。今ようやく、本来の位置についたんだよ。私が君を真の父母と神につなげてあげよう」と言うことができます。

     あなた方は世界のどこへ行っても、ある困難や迫害に遭いますが、そこからあなた方は、自分の仕事にふさわしい、より大きな価値を獲得するのです。もし、容易にできるとするならば、それにはあまり価値がないでしょう。あなた方は持っているお金や物が大きかろうと小さかろうと、それを真の父母に連結させたいと願っています。そうすることによって、それが真の価値をもつためです。万物は熱心にこの関係を待ち望んでおり、あなた方はその仲保者なのです。たとえあなた方が、年を取った著名で社会的に熟達した人であったとしても、あなた方は自然とこのような連結をつける、そういう役割を果たす必要があるのです。

     私たちの使命のもう一つの重要な部分は、人間の復帰です。人々を見るとき、彼らは長い間、神のもとに復帰されることを待ち望んできたと考えることができます。あなた方は人生の道と目的を知っているのですから、今、彼らの所へ行くことができます。あなた方は、彼らを神のもとに連れてくる仲保者となることができます。あなた方は人々に手を差し伸べることによって、実は自分の両親にも仕えていることになるのです。あなた方を子供としてもっているおかげで、あなた方の両親は栄光を受け、救われるのです。あなた方がアメリカの迷える息子、娘たちを見いだすことによって、実はあなた方は自分自身の両親を愛し、さらに彼らに仕えていることになり、彼らと一緒に、あなた方は真の父母のもとに来ることができるのです。

     あなた方が真にこの気高い生活を送るとき、あなた方を歓迎しない親はいないでしょう。あなた方が世界の人々を愛することを実践する分だけ、あなた方は確実に、あなた方自身の親、兄弟、姉妹を愛することができるようになるのです。あなた方は彼らを、真の父母に対するのと同じように、また神から付託を受けた人に対するのと同じように、彼らを愛するのです。彼らは、それだけの価値をもっています。どのような家庭も、そのような子供を拒みはしません。むしろ、その子に頭を下げるでしょう。

     

    ◆真の父母の必要性




     もう一つのトレーニング・コースが残っています。霊界の訓練です。あなた方は、霊界をいかに取り扱い、そのために働き、それを解放するか、その方法を知らなくてはなりません。あなた方は霊界を愛する立場にいるべきである。メシヤ以外にこのことをあなた方に教えられる人はいません。これは、あなた方が神を愛することができる前に残された、最も重要な訓練です。

     メシヤは訓練の責任者として来られ、どのように人々や世界や霊界を愛するか、その模範を示します。そこであなた方は、究極的なテストを通過することができます。メシヤが来られるまで、霊界は分裂しており、そのあらゆる複雑さのただ中で調和や協力はどこにもありません。しかし、メシヤが来られると、彼は統一をつくりだし、障壁は取り除かれるでしょう。彼が地上にいる間に、これを成し遂げるということが、彼の資格の一つででもあるのです。彼は霊界を主管する力をもった、地上でただ一人の人間なのです。

     真の父母は物質世界だけでなく、霊界と神をも代表する方であり、あなた方はその方のもとで愛を実践するのです。もしあなた方がメシヤを知らないで霊界に行ったならば、そこで人々を愛することを学ぶには、数百万年もかかるかもしれません。しかし、あなたが地上にある間にメシヤを受け入れるならば、あなた方は、何百万年もかかる仕事を、短い時間で成し遂げることができます。この地上で真の父母に従うことによって、全霊界を愛し、そのすべての規則に従ったという承認を受ける資格をもつのです。真の父母はこの物質世界だけでなく、霊界と神をも代表し、あなた方は神の代表者である真の父母に従うことによって、神に対する従順を示すのです。真の父母を愛することによって、あなた方はあらゆる基準を通過することができるわけです。なぜ真の父母と一体となることが必要なのか、今、あなた方は分かったことでしょう。真の父母は神の心情を代表しているので、あなた方が真の父母を愛することは、神と霊界を愛したことになるのです。それはすべての父母――つまり、自然とあなた方の両親と神を愛することの頂点なのです。

     真の父母が立てられるまでは、すべての愛は分裂し、何の調和もありませんでした。今、真の父母を愛することによって、あなた方はすべてのものを愛することができる立場にいます。もしあなた方が他の基準で失敗したとしても、最後に真の父母を受け入れるならば、あなた方はすべての過去を蕩減するだけの忠誠と愛を示したことになるのです。もしあなた方に米国大統領がサインした証書を与えられていたとしたならば、その証書は、この国のどこにおいても効力をもっています。それと同じように、もしあなた方が真の父母を愛するというこの最後の基準を通過するならば、他のあらゆる基準をも通過することになるのです。それが、真の父母をもつことが絶対必要であるという理由です。

     万物を復帰することによって、あなた方は宇宙の物質的な資産を相続します。世界の人々を伝道することによって、あなた方は自分の両親を愛したという条件を受け継ぎます。そして、あなた方が真の父母を愛する時、あなた方は神の世界と神の愛を相続しているのです。そのように、地上における神の代身者である真の父母を愛することによって、あなた方は地上で愛すべきすべてのものを愛することができるのです。ここにおいて、あなた方は、天上天国に入る特権をもつために必要な一切の資格を全うすることができるわけです。あなた方は、この統一教会でその中心を得ているのです。

     世界の人々はあなた方を軽蔑したり嘲笑したりするだけです。しかし私たちは、彼らの前でムーニーであることを誇りとしています。あなた方の誇りの声は、ここでも、また世界中でも、否定的な声よりも強くなることでしょう。もし誰かが、ムーニーとして大声で話すのを嫌がるならば、私もまた天の前で、彼のために大声で話すことはしないでしょう。あすは十月一日です。一九七九年のこれまでの十カ月間は、これまでの一切のことに対する蕩減の日々でありました。それは新しく生まれた亨進様の誕生で頂点に達しました。

     私たちは自分自身を知っています。私たちはムーニーであり、そのことを誇りにしています。私たちは現在の自分について喜んでいます。ですから私たちが世界とかかわる時、私たちは大胆です。世界におびえてはいけません。誇らしくして静かに「ただ待って見ていてください。二、三年したら真実が分かるでしょう。あなた方が分かる時がやって来ます。その間、私たちは誇らしくしています」と言いなさない。人々が私たちを誤解している間、私たちはベルトを固く締め、勝利をもたらすためにもっと働くのです。あなた方が前進し、そして私があなた方を後押ししているならば、あなた方は決して失敗する場がありません。

     霊界は私たちを後押ししています。あなた方も、霊界の介入がより強くなってきていることを知っています。私たちにとって恐ろしいものが何かあるでしようか。私たちは真理を見いだし、真の父母の子女であることをどんなに誇りとしていることでしょう。朝、あなた方は鏡の前に立つ時、自分に挨拶して、「あなたは今まであまり自分を誇りに思っていませんでした。でも今、あなたはムーニーであることを誇りにしています」と言いなさない。きょうを出発として、ニューヨークの街を誇りをもって歩き、この町を神のもとに返す中心的な人物になろうと誓う人は、手を挙げてください。どうもありがとう。お祈りしましょう。














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    32_神の祖国

     御旨と世界
    (全面表示)

     



    神の祖国


    1980年2月21日



    ニューヨーク ワールド・ミッションセンター

    ◆祖国の起源



     きょうは何の話をしましょうか。皆さん、題目を一度言ってごらんなさい。題目に従って話してみることにしましょう。あなた方が話の題目を選べるなんて、これ以上うれしい日はないでしょう。言ってごらんなさい。(心情について)(証をしてください)。さあ、それはみんなあり得ることだけど、私たちにないものがあります。私たちにないものは何でしょうね。私たちにお金がないだろうか。お金はあるでしょう。では、人がいないだろうか。何がないだろう。私たちが持とうとするものは、何でしょう。神様はお金がないだろうか、力がないだろうか。みんなあるじゃないか。何がない、神様に。国がない!国が!さあ、それではきょうは「神の祖国」、そういう内容を話してみることにしましょう。

     あなた方は、どの国の国民ですか。ここはどこでしょう。アメリカです。アメリカは、あなた方の祖国です。先生の祖国はどこでしょうか。もちろん韓国です。久保木会長の祖国はどこですか。もちろん日本です。デニス・オーム氏、彼の祖国はイギリスです。ポール・ワーナー氏に「あなたの祖国はどこか」と聞くならば、「ドイツ」と答えるでしょう。フランスの人、イタリーの人、それからナイロビ、アフリカ、南アメリカ、ウルグアイ……。ここには百カ国余りの名前があります。

     神様の立場から見る時に、神様の祖国はどこにありますか。ありません。神様は地上に祖国を見つけられないでいます。それでは人々が祖国と呼ぶ世界のすべての国々は、どこから起源しているのでしょうか。神様から起源しているのか、それとも他の何かに起源しているのかが問題です。歴史には、起源があるものです。

     世界の国々の出発を考えるとき、全部がみな、戦争や闘争による世界の分裂によって生まれました。そうではありませんか。ある二つの国があるとすれば、二つの国の境界線は、ずーっと怨讐の境界線となっています。この境界線で戦いが繰り広げられ、血を流す歴史的な欠点を、数多く残したのです。その境界線に壁があるとすると、どの境界線にある壁が一番高いでしょうか。隣の国との壁が一番高いのです。戦いはいつも、何万里も離れた国とは起こりませんでした。近代的な技術をもたなかった過去の時代、戦闘は隣の種族、隣国との間で起こりました。数多くの国々は、戦争、闘争、殺戮、流血によって、興っては滅びました。国境線はいつも人間の血で汚されてきました。

     そういうことが、なぜ必要だったのでしょうか。それは堕落の結果によるのです。堕落という名詞は、何を意味するのでしょうか。神様と人間の闘争が繰り広げられたものであり、神様とサタンとの闘争が繰り広げられたものであり、神様と人間とサタンとの間に闘争が繰り広げられたものが堕落なのです。人類歴史を通して、この地球上に数多くの国があるということは、数多くの闘争があって、その闘争の結果、これらの国々がつくられたという結論を下すことができるのです。

     そのようにして生まれたそれらの国の行く道は、どこに向かっているのか。平和な世界を追求し、平和な世界への道を行くことができるか、という問題が、現在、人類の共通的課題として現れているのです。平和の世界は、どのようにして実現されるのでしょうか。原因が誤って出発したとすれば、結果の世界も間違ったものになります。これは論理的なことです。結果は原因の反映にすぎません。人類歴史には、これまで闘争、戦争、流血、憎悪の種が蒔かれてきました。ですから、そのような結果しか刈り取ることができません。

     したがって世界平和を達成するには、新しい原因で出発しなければなりません。私たちは平和の種を蒔かなければなりません。平和の種を蒔く、新しい畑をもたなくてはなりません。世界に新しい平和の種を蒔くことによってのみ、初めて理想祖国の出発の道を探すことができるのです。原因が完全になることによって結果が完全になり、原因が平和的に始まることによって、平和の過程を通過することができるのであり、平和の結果である目的の世界に達するということが成り立つのです。

     

    ◆進路転換の出発は「汝の敵を愛せよ」




     このように考える時に、今日の諸国家はみな、憎しみで満ち満ちています。特に隣り合っている国、種族、国民同士は、愛し合うよりも憎み合っています。それが今日の結果です。個人的に家庭的に国家的に、憎み合いつつ戦っているのです。そのような実情を見る時に、私たちが新しい原因をもって新しい出発をしない限り、私たちが願っている理想世界を実現することは不可能です。人類歴史は間違った起点から出発しました。ですから私たちは正しい点から、偽りでなく真実から、歴史を再出発させなければなりません。そして今までの反対方向に向かって、より以上の内容をもって進むことのできる新しい運動が必要です。このようにいうのが統一理論です。

     神様がいるとするならば、神様がこのような現実の世界、数多くの国家の背景を眺め見るとき、神様は、ただそのまま放置しておくべきか、それともこれを変革して理想的な国家にすべきか、という問題が生じてくるでしょう。そう考えるとき、もしこの地上に神からゆだねられて神の使命を担い、神のために戦う誰かがいるとすれば、そうした人はいったい何を主張するでしょうか。その第一は非常に明確なものです。神の人、歴史の進路を変えるように神に任せられた人々は、「今の方向は間違っているから、方向を転換しなくてはいけない」と言うでしょう。その人は、「今していることを、そのまま続けなさい」とは言いません。神の人は、「あなたは進路を一八〇度転換しなければいけない」と言わなければなりません。

     それでは、どういう道を歩むべきでしょうか。その代表的な標語は、何でしょうか。もしあなた方が賢明なら、その標語がどんなものであるべきか分かるはずです。それは単純なものです。「怨讐を愛せよ、敵を愛せよ」。このような標語において、誤った歴史が繰り広げられてきた、その歴史の進路を変えることができるのです。それは帆船の帆のようなもので、進路を変えることができるのです。

     あなたの敵を愛しなさい。これより強力なものを、ほかに見つけられますか。誰かが「それは容易な解答だ。先生が私に、もう数分与えてくれていたら、その標語を言えたかもしれない」と言うかもしれません。その標語が何であるか言われれば、それは容易な解答のように思われます。しかし、その解答を聞いていない時、あなた方は五里霧中で全く分かりませんでした。歴史を通してあらゆる聖人、偉大な賢人たちがその問題について、答えを見いだすことができませんでした。

     人を愛すること、特に敵を愛するほどの愛は非常に高く、その力はあらゆるものを溶かすことができます。間違った世界を溶かし、正しい世界に建て直す。そういう人々がいなくてはならず、そういう人々が情的な世界的な基盤を確保しなければならないという結論になります。そのような運動を神様に代わって進めるものとして現れたのが、宗教運動なのです。

     

    ◆イエス様の示した手本とキリスト教諸派




     それでは、この地上に生まれた人々の中で、神様の一番愛することのできる人は誰でしょうか。その答えは非常に簡単です。もう誰かがそれを言ったと思います。世界歴史の数多くの聖人の中で、一人の巨人が立っています。イエス・キリストです。実に彼がそれを言いました。「あなたの敵を愛しなさい」と。その点で、彼はすべての聖人の中でもメシヤといえるでしょう。イエス様が降臨された時、一つの大きな帝国と小さな国イスラエルとの間には、大きな壁がありました。その帝国とは、もちろんローマ帝国のことです。憎しみ、権力、征服の壁があり、その一方は征服者であり、もう一方は抑圧された国家でした。この二つの国は怨讐の関係にあったのです。それ以上高くはできない、世界で一番高い壁がローマとイスラエルの間にあったのです。

     イエス様はどうされたでしょうか。イエス様は、ローマ帝国を征服する唯一の道は、愛によってであるということを知っていました。「あなたは私の国民、国家を、政治力、軍事力によって征服した。しかし私は、私の愛、神の愛によって、あなたを征服しよう」。イエス様は、そう宣言しました。「汝の敵を愛せよ」。これがイエス様の新しい哲学であり戦略でした。イエス様は十字架にかけられながらも、ローマの兵士に対して、「神よ、彼らをお許しください。彼らは自分のしていることが分からないのです」と祈ったのです。そうすることによって、世の人々ならば憎しみ、怨讐となるそのような国境を越えることのできる一つの本然の手本を示したのです。

     イエス様はどう考えたのかというと、個人の怨讐があり、家庭の怨讐があり、氏族の怨讐があり、民族の怨讐があり、国家の怨讐があり、世界の怨讐がある。これらによって数多くの人々が縛られているというのです。家庭的怨讐、氏族的怨讐、民族的怨讐の間に戦いがありました。このような戦いの前に登場して怨讐を愛していく道によって、いつかは勝利することができるのです。私たちもその日を求めざるを得ません。

     万一、神様がこの世の国やサタンと同様に、復讐する立場に立ったとするならば、この世界はすべてなくなってしまうに違いありません。それで、キリスト教を中心にして神様が、神様の祖国をどこから出発するのかというと、このような思想をもった個人から出発するに違いありません。それゆえに、愛でもってすべての怨恨を越えていきながら、これを解いて消化させながら、怨讐までも愛することのできる運動を提示しなければなりません。この宗教が、キリスト教であったのです。キリスト教が、その運動の中心です。豆を植えれば豆が実り、あずきを植えればあずきが実り、花を咲かせたい人は花の咲く種を蒔いて、赤い花を咲かせるのと同じように、怨讐をはらんだ種を蒔いたサタンは怨讐の世界を結実したけれど、怨讐を愛する種を蒔けば、その怨讐を愛する木を得ることができるのです。

     誰がそれをするのでしょうか。今日、キリスト教について言うならば、キリスト教の数多い教派は、なぜ生じたのでしょうか。キリスト教の中に多くの教派が生じたという事実は、怨讐を愛せよという原則が失敗しつつあることを示しています。長老派はメソジストを、メソジストは他の教派を、というように、他のクリスチャンの仲間を愛しているでしょうか。正統的なキリスト教は何かというと、怨讐を愛するという原則を実践する人々です。それを実践する人々が神に近いのです。そのことによって、真なる神様の願う本来の個人と家庭と国家と世界が現れるのです。

     そう考えると、キリスト教が一つにならなければなりません。それによって数多い国が一つになっていく道が、開かれるのです。それでは、今日の統一教会は、いったい何者でしょうか。あなた方は異端ではないですか。いいえ) 。どうして「ノー」ですか。出かけていって、世界のすべてのクリスチャンに「統一教会とは何か」と聞いてごらんなさい。彼らは、「あなた方は異端だ」と言うでしょう。いいえ) 。どうしてあなた方は「ノー」と言うことができるのですか。あなた方が「ノー」と言うのは、NOとつづるのではなく、あなた方は真理を知っているのでKNOWと言うのですね。

     怨讐を愛するということは、簡単な内容のようです。しかし、歴史の中心がここに脈打っているということを知らなければなりません。重要なことは、キリスト教の真の伝統を受け継ぐということです。私たち統一教会が、この基本的教えを実践している限り、私たちこそ正統派の中の正統派です。

     

    ◆神の祖国を取り戻す方法




     アメリカは敵をもっていますか。それは誰ですか。レバレンド・ムーンです。いいえ) 。事業界の敵、宗教界の敵は、レバレンド・ムーンです。彼らは、レバレンド・ムーンを悪者だ、とさえ批判しています。しかし、統一教会やレバレンド・ムーンを真に知っている統一教会員たちは、誰が何と言おうと、自分の信仰を変えることはできないと確信しています。「怨讐を愛する」という道を進むなら、たとえ反対する人々は倒れることがあったとしても、レバレンド・ムーンが倒れることはないでしょう。

     ある人々は、「レバレンド・ムーンを、早く霊界に連れていってください」と祈っています。それに対して、ムーニーたちの祈りはこうです。「たとえ私が十字架を負ってもいいですから、アメリカを許してください。アメリカを目覚めさせてください。アメリカ人をして、真に神を中心とした男女たちにしてください。私はこの国のために犠牲になっても結構です。もし、そうしなければならないとしたら、私はそれを受け入れましょう。どうか、この国を許してください」。神は、この二つの祈りを聞いています。アメリカの許しと目覚めとを求めている人々を見ると、彼らは貧しい青年たちです。神が「私は勝利者の味方です。ムーニーは、あっちに行け」と言うと思いますか。

     私は、霊界にある生命の書に記されている人々を知る機会を得ました。それらの人々は歴史の中で迫害された哀れな、時には殺されて犠牲になった、そういう人々でした。一方、百万長者、偉大な政治家、地上での偉大な人々の名前は、そこには出てきませんでした。

     怨讐を愛するという原則にかなう個人と家庭から、氏族、民族、国家を形成して、無条件に怨讐の国家、怨讐の国民を愛する国になったとすれば、その国が神様の願う理想の国となることができるのであり、今日の成すべきすべての神の摂理を、神の理想を、実現することができるのです。神の祖国をあなた方の手で取り戻すには、怨讐を愛さなければなりません。怨讐を愛するとは、個人の怨讐を愛し、家庭の怨讐を愛し、氏族の怨讐を愛し、国家、世界の怨讐を愛するということです。このような原則を通さずしては、そのような理想の国は現れることができないということを知らなければなりません。

     その道の途上において、敵対するものがあったとしても、私は遺憾には思っていません。アメリカのある人々は、私に対して友好的ではありませんでした。すべてが終わったとき、私はこのことのゆえに、これ以上のことを神様に報告しようと思っています。もし、私が平和的で友好的な環境を与えられていたならば、何も劇的な実績は生まれません。彼らのゆえに、私は自分を確かに証明することができるのです。どのような迫害の中でも、私は決して呪いの一言も口にしませんでした。決して不平も言いませんでした。復讐もせず、人を悪く言うこともしませんでした。なぜならば、反対が強ければ強いほど、それだけ大きな同志を神は送ってくださるからです。それは宇宙の大気のようなものです。高圧点が生まれると低圧点も生まれます。否定的な要素があるとき、常に別な方面で私の周りに肯定的な要素がつくられます。私は、迫害が甘美なものだ、という秘密も学びました。正しい心でそれを耐えると、戦わずして常により多くの同志を勝ち取ることができるからです。

     

    ◆愛は至高の力




     あなた方は、ホーム・チャーチ伝道をします。あなた方は喜んで、人々に奉仕に行こうとしています。ホーム・チャーチであなた方は、いろいろな迫害に遭うでしょう。統一教会のことを全然知らず、あなた方のことも全然知らない人々は、あなた方がそんなに虐待されているのを見て、ムーニーは精神病ではないか、どこかおかしいのではないかと考えるでしょう。しかしよく見ると、精神病でもないようだし、身なりもきちんとしているし、テストをしてみると考え方も健全だし、その目を見れば輝いているし、交わす会話も非常に知的だし、聞いてみると大学の学士、博士の資格もみな取っている。それがムーニーだったのか、と思うでしょう。

     そこで人々は、「あなたはどうして、こんなことをしなくてはいけないのですか」と聞きます。彼は、「私たちは思想――人々を愛し、人々に宣べ伝えるべき思想をもっているからです」「何ですって。私はそれについて知りたい」「私は地上に神の祖国を建設したいと思っています」「どうしてあなたは、神が国を必要としていると思うのですか。神はすべてをもっているではありませんか」「では、どうして神に祖国が必要か、またどうして神はこの地上に足場が必要か、どうぞ私の講義を聴きに来てください」。

     あなた方がホーム・チャーチの地域で受ける迫害は劇的なものです。それは、劇的であればあるほど良いのです。殴られて追い出される、殴られて倒れる、あるいは死にそうになる。そういうことが繰り返されている間に、あなた方はホーム・チャーチの地域全部を復帰してしまいます。あなた方は、それを全部、勝ち取ってしまうでしょう。

     あなた方は私を、どのように見ますか。世の人々は、私を悪い人と思っているでしょう。いいえ) 。たとえ全世界の人々がそう言ったとしても、一人の方――神様は「そうではない」と言われるでしょう。ですから、レバレンド・ムーンは、人々が言うことは気にしません。私は常に神様が何を言われるかを気にしています。神が私を良い息子だと思い、神が私を神のチャンピオンだとみなしてくださる限り、周りの世界のことを気にかける必要があるでしょうか。レバレンド・ムーンが一人でなく二人になり、一〇〇人になり、一〇〇〇人、一〇〇〇人が一〇〇万になる、若い青年男女がそのようになって五色人種が一つになり、五色人種が一つになって神様が祝福する家庭が編成され、氏族が編成され、民族が編成され、国家と世界が編成されて神様の理想が実現されていくのです。

     私たち統一教会では極端から極端まで、途方もなく劇的なことが起こり得るのです。それは神の愛の至高の力を示すためです。極めてハンサムな白人の男性と醜い黒人の女性との結婚もありました。そして麗しい天の家庭をつくるのです。蜜のように甘い生活を築き上げます。それは神の目から見て、何と麗しいことでしょうか。夫婦は大きな旗を立てて行進します。その旗には「私たちは、私たちの敵を愛します」と書いてあります。そして神の王子、王女のみ座に行きます。それが私たちの目標です。刺激的な生活です。どんなちっぽけな人種差別もなくなります。ちっぽけな文化の違いや国籍の違いは、何の意味もなくなります。それらすべてを超越します。

     去年はイギリスで大きな祝福がありました。たくさんのカップルが生まれましたが、大抵の場合、二人とも敵同士だった国の市民でした。例えばイギリス人がドイツ人と結婚したり、フランスとドイツもあまり友好的な国同士ではありませんでしたが、両国の男女が甘い蜜のような夫婦になりました。ある場合には、お互いに言葉が通じず、互いに新しい目の合図による言葉、アイ・トークをつくり出しました。アイ・サインです。このように、愛の力で私たちが克服できない障壁は何もありません。その力は、至高のものです。

     

    ◆怨讐を愛するという単純原則




     しかしながら、ある人はこう言うかもしれません。「私はどんな敵をも許せます。問題ではありません。統一教会は理想的なところです。真理があり兄弟愛があり、私が夢に見ていたことを私は得ているのです。でも、伝道だけはどうも……。私は人に近づけません。人に話しかけられないのです。それが私の敵です」と。

     さて、きょうあなた方は、その答えを得られました。あなたの敵を愛しなさいということです。もし、ある人が、自分にとって苦手な人であるとしましょう。彼が敵なら、彼を愛しなさい。するとあなた方は彼を征服するでしょう。天国はその法則から生まれます。あなた方が敵を愛する行為、その一点から天国は栄えるでしょう。ですから、レバレンド・ムーンの哲学は非常に単純です。原理は非常に単純です。怨讐(敵)を愛するという姿勢をもち、実践するという一つの原理によって、あなた方はどんなものをも克服できるでしょう。どんな障害も、あなた方の前に立ちはだかることはありません。

     私は六十年の生涯の中で、あらゆることを体験してきました。したくなかったこと、取り組みたくなかったこと、行きたくなかった所が、あまりにもたくさんありました。だからこそ私は行きました。だからこそ、私はしたのです。なぜなら私は敵を愛したいと思ったからです。一番嫌なことを私は率先してやりました。だから私は労働者になり、農民になり、乞食にもなりました。船着き場の労働者にも、鉄鋼労働者にも、炭鉱夫にも……。すべてです。私はまた、グロスターで漁師にもなりました。そこではプロの漁師たちも降参しました。私の記録に誰もついてくることができませんでした。

     ですから私は毎日生活しながら、この原則を行っています。ですから、統一教会の原則は単純です。私たちは単純な原則を実践します。私たちは、その原則にのっとって生きるのです。外部の人々は顕微鏡を使って、統一教会の秘密を見つけようとしますが、見つけられません。そんな単純な原理が顕微鏡によって見えるはずがないからです。でも私たちは、それを行います。私たちはそれに対して真剣です。

     きょう私が話している題目は、何でしたか。「神の祖国」です。神は一つの国を必要としています。地上の神の祖国です。私たちはそれをもちませんでした。その国は「あなたの怨讐(敵)を愛しなさい」という一つの原理を実行します。

     きょうは、私の六十回目の誕生日です。六十回目、それはある面ではサタンの数字です。これまでの私の六十年の生涯は、蕩減を支払う歳月でした。人間の罪の途方もないほどの蕩減が、私の血と汗と涙によって支払われました。さて、この日から、七十年が始まりつつあります。完成数、新しい数は、完成の日です。その十年間が来つつあります。それは成就のため、そして完成のためです。

     多くの皮膚の色をした人々がここに来ています。この会堂は天国の縮図です。五つの肌の色、一二〇カ国の人々が、この会堂に集まっています。私たちがしなければいけないことは、「あなたの敵を愛する」ことです。私たちは、敵に復讐しようとしてはいません。敵を滅ぼそうとしてはいません。敵を愛することによって、彼らを解放しようとしています。

     

    ◆神の祖国復帰実践の場




     どこで、「あなたの敵を愛しなさい」を実行するのか、あなた方に理解してほしいと思います。「家庭教会天国基地」は、一九八〇年の標語です。ホーム・チャーチが「あなたの敵を愛しなさい」を実践する場所です。そこであなた方が学び、重荷を負うことができ、迫害を受けたり、神の涙、神の悲しみの心情のすべてを味わい経験することができます。それが、ホーム・チャーチの摂理です。

     ホーム・チャーチには地域(テリトリー)があります。あなた方は、あなた方の任地をもっています。メンバーが増えると私たちの任地が大きくなり、ニューヨーク市全部を、それからニューヨーク州全部を、そして東部を越え、中部を越えてアメリカ合衆国全部、全世界をカバーするようになります。そして世界にあふれるようになり、そこで私たちは霊界までもカバーするようになるでしょう。そして神様までも占領してしまうでしょう。私たちは神様までも、ホーム・チャーチのメンバーとみなします。ですから世界のホーム・チャーチのメンバーが神様に対して、「神様、あなたはそこにとどまってください。出てこないでください」と言うと、神様は、「いや、我が息子よ、私はあなたと一緒にいたいのだ」と言うでしょう。神様は一人で高い所におられますが、「私はホーム・チャーチに一緒にいたい」というわけで、神様はやって来られます。そこで神様は言うでしょう。「これが私の家だ。これが私の国であり、これが私の世界だ。すべてが成就されたのだ。一緒に踊って歌いましょう」と。

     偉大な勝利の日が来ようとしています。その日には、神様が神の祖国を復帰して、神の国、神の国民、神の国土を見るでしょう。そして、天の憲法を宣言します。神のもとにある生命、自由、幸福の追求、神のもとの真の民主主義、人間の生存の権利。それは人間の基本的な権利です。

     ですから、私たちは解放の任務に従事しています。私たちは、あらゆる分野の人々を解放しなければなりません。経済分野、文化的分野、共産主義と闘っている分野。あらゆる分野です。私たちは、神の真の心情で彼らを解放するのです。私たちは国境に疑いをもっています。アメリカ国民があまりに反対したからといって、私はアメリカ国民を憎む立場にはありません。私は彼らを憎みませんでした。私は、私たちがあらゆる障壁を打ち壊すことができるという確信をもっています。この国には、人種的、文化的、言語の障壁があります。私たちの思想と働きが、それを破壊し得ると確信しています。なぜ私たちは、それをすることができますか。それはひとえに、神の祖国の復帰という理由からです。

     あなた方の敵は、どこにいますか。どこにも敵はいません。なぜなら私たちは、死や損害を愛で償うからです。それでは怨讐は何でしょうか。肉身の好むものは、全部、敵だということを知らねばなりません。それが、あなた方が注意しなければならない、唯一の敵です。外に敵がいるのではありません。敵は、常に内部にいるのです。

     きょう、私たちは神の祖国の復帰について話しました。私たちの祖国は、神の祖国です。神の祖国の復帰のために前進することを誓いましょう。神の祖国の復帰に参加する勇士は、手を挙げてください。アーメン。神が皆様を祝福されますように。ありがとうございました。

















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    33_摂理と昔今の私

     御旨と世界
    (全面表示)

     



    摂理と昔今の私


    1981年2月22日



    ニューヨーク ベルベディア

    摂理と昔今の私


     あなた方には、英語の題目のほうが分かりやすいでしょう。言葉というのは本当に不思議なものです。一つの良い言葉によって死んでいた人も生き、言葉を間違えれば生きていた人も死んでしまいます。言葉一つによって、すべての世上がつづられていくのです。

     私たちが霊界に行ったとしたならば、どのように話すと思いますか。何か霊界で中心になる言葉があるに違いありません。この世では聞き終えてから初めて相手の考えが分かります。神はどうされるのでしょうか。神は考えると同時に話される、言い換えれば、考えるや否や話されるのです。つまり、言葉を使わなくても、考えがそのまま通じてしまうのです。ですから、霊界において神は、考えていることを見ることができ、知ることができ、聞くことができる、このように言うことができるのです。また、その考えの中には、過去、現在、未来が含まれます。ですから、神は過去と、現在と、未来を見ることができる、このように考えられるのです。そして、その考えを言葉で表現することができるのです。

     アメリカの歴史について話しましょう。アメリカがどのような国かは、アメリカの国民を見れば分かります。なぜなら国民が国家を構成しているからです。それでは、その国民は、どこから来たのでしょうか。アメリカ人のほとんどはみな、ヨーロッパから来ました。そして、今では五色人種が集まってきています。そしてこの人たちが共通の言葉を通して、一つの文化を創造してきました。アメリカは、こういう歴史をもっているのです。このように見るとき、アメリカにおいてつづられた歴史は、アメリカ人の生活そのものであり、その生活の背後には考える生活――思想があるのです。その考え――思想は、何を中心としたものかというと、キリスト教思想です。このキリスト教思想を中心にして、アメリカという国家が形成されてきたのです。そして、アメリカは、世界的なキリスト教文化世界の中心地となりました。

     そして建国以来二〇五年目を迎えました。このようなアメリカの歴史について神は、過去、現在、未来までをも見つめておられる。こう考えてごらんなさい。それでは、神が見るとき、アメリカは成長し続けているのでしょうか、あるいは、もう成長を終えてしまったのでしょうか。若い時代から年老いた時代へと向かっていますか。病気になっているでしょうか。それとも健康で元気はつらつとしていますか?

     (病気です)。病気だとしたら、何の病気ですか。風邪ですか。目の病気ですか、鼻の病気ですか、それとも耳の病気ですか。体の病気もありますが、精神はどうですか。健全ですか、それとも病気ですか?

     (病気です)。最も重要なのは精神です。精神の在り方がそのまま結果として、その人の体に表れます。ですから人が、間違った考えをもてば、その体が病気になったり死ぬようにさえなるのです。

     きょうの題目は、「摂理と昔今の私」です。この「摂理」とは、何でしょうか。神を中心としてつづられるすべての出来事をいうのです。あなた方は、「自分の摂理はうまく進んでいる」という言葉を使いますか。果たして私たち人間が、そのように言うことができるでしょうか。「神の摂理はうまく進んでいる」という言葉ならば、納得がいきます。摂理とは常に神を中心にしてつづられる歴史です。歴史や文化も神の摂理によるものであり、神の摂理による文化、神の摂理による歴史なのです。そのような観点から見れば、人間にも、神の摂理によって立てられた人間、つまり摂理上の人間がいる、ということができます。この摂理上の人間とは、国家、世界、人類を代表する人間のことです。神の摂理による歴史、神の摂理による文化、そのような過去と現在の(世界の)所産として、私が存在しているのです。

     アメリカ式の朝食には、ソーセージ、サラダ、パン、チーズなどがいろいろの並べられています。それでは、アメリカ式の朝食の歴史的な由来は、どのようなものでしょうか?

     (笑い)

     皆さんは笑っています。こっけいに聞こえるでしょう。しかし、神の目から見ると、現在の現実、出来事は、起源をもたなければなりません。(黒板に書きながら)皆さんが使うフォークは、一番最初は木で作られました。木では使いにくいので鉄で作られるようになったに違いありません。元来フォークは、手から生まれました。自然のフォークは五本指です。しかし、仕事をすると、手が汚くなるので、手を使って食物を口に入れるのはあまり良くありません。そこで人々は“手の延長を作ったらどうか”と考えました。そして木を削って、自分の手に似たものを作ったのです。初めそのフォークは五本指だったでしょう。ところが口に入れるとき、やたらと唇に引っかかるのです。ですから、この一本を取って四本にしたのです。フォー、フック。これがフォークの由来です。(笑い)

     フォークの握りの部分が、ちょうど腕に当たるのです。

     そういうことを考えると、あるおじいさんのころには、一本指のフォークもあったでしょう。このほうが作りやすかったからです。さあその次には、もう一本必要になってきました。二本指です。すると一本のものと二本のものとでは、どちらのほうがいいですか。二本のほうです。なぜかというと、一本はお父さんの象徴であり、もう一本はお母さんの象徴だからです。(笑い)

     三本がもっと良いのです。そして息子、娘が入って四本になるのが、もっと良いのです。そのように、フォーク一本をとっても、お父さん、お母さん、息子、娘と説明することができるのです。

     フォークがどこから生まれたかというと、きっと腕からに違いありません。フォークでさえ、歴史をそのように掘り下げていくことができるのです。それは、どれほど複雑なことでしょう。いろいろな話があるとすれば、誰の話が道理にかなっているでしょうか。それには過去、現在、未来についての説明が、みな、納得のいくものでなくてはなりません。

     このように見ると、フォーク一本は簡単なものですが、そのフォークの歴史は、世界史的な内容をもっているということになるのです。フォークが、「すべての人々、特に西洋世界の人々は、私のおかげで命をつないできました。どれほど素晴らしい食べ物であっても、私を経てこそ食べることができるのです。これは、どれほど素晴らしいことでしょう」。このように見ると、神よりももっと大切なものがフォークなのですね。(笑い)

     このフォークは、西欧社会の文化を創造するために、どれほど多くの貢献をしたことでしょうか。「ああ、私が一番多く貢献した」とフォークは言うでしょう。

     すると横にいたスプーンがすかさずに一言、「君がどんなにそう自慢したところで、君は一滴の水もすくい上げることはできないじゃないか」と言います。スプーンは、「君は人体の四分の三が水で出来ていることを知らないのかい。それを私が供給することによって、すべての人間世界の生命を維持してきたのだよ。人が生まれるためにも水が必要であり、すべての細胞も水がほとんどでしょう」そう演説します。それぞれに言い分があるのです。この髪の毛も、「君、すべての人間は私の世話になっている」と言います。全部がそうです。人体のあらゆる部分、五つの感覚、手、目、耳、それぞれがみな自分の主張をもっています。自分自身の役割が世の中で一番重要なものだというのです。人体だけでなく、服も、靴もそうです。

     そのように見ていくと、今まで述べたような関係、歴史の背後をどれだけ知って、過去と現在全体を見つめながら、それらの事物を歓迎しつつ、私たちはここに存在しているのでしょうか。あなた方が存在するにも、そのような背景があるのです。あなた方の前には、お母さんとお父さんがいます。そのお母さんの前には、おばあさんがいました。おばあさんの前には、ひいおばあさんがいます。さらに……。そして一番最後にはエバがいます。男性はどうですか。今の私自身には、お父さん、おじいさん、ひいおじいさん……。

     女性の歴史は、どうでしょうか。あなた方は自分一人で歩んでいると思っているかもしれません。しかし、そうではありません。あなたの背後に女性の歴史がついて回っているのです。そのように考えたことがありませんか。女性の歴史博物館に行って見物している立場で考えてみましょう。そこには白人女性も、黒人女性も、黄色人種の女性も、みないるのです。では自分は、どのような歴史をつづってきたアメリカに生まれた女性なのでしょうか。または、どのような歴史を引き継いで生まれた男性なのでしょうか。

     また、その女性と男性は、互いに多くの話も交わしたでしょう。人間が話す言葉は、一生の間にどれくらいになると思いますか。私たちが一〇〇年生きるとしても、一〇〇年を日数にすると三万六〇〇〇日にしかなりません。たったそれだけです。十年生きるとすれば三六〇〇日です。あなた方は、一日に何語ぐらい話すでしょうか。一〇〇〇語話すとすれば、人生全体で三六〇〇万語になります。

     言葉は考えの表示ですから、考えることは話すことでもあるのです。しかし、話は一人だけでできるものではありません。相手がいてこそできるのです。そうだとしたら、あなた方は言葉を話すとき、どのように考えたのですか。自己中心の思いで考えましたか。相手を中心にして考えましたか。それが大きな問題です。一度、それを考えてごらんなさい。この言葉は、自分を守るために言ったのですか、それとも他人のために言ったのですか。大部分の言葉が、自分を中心にして語られています。言葉は機関銃よりも、もっと恐ろしいものです。女性たちは、ちょっと気分を害すると、夫に対して言葉をもって攻撃します。言葉がそのように恐ろしいものだということを、考えたことがありますか。もし、言葉を一日に一〇〇〇語話したとして、一言でも、国のために神のために全体のために話したでしょうか。多くの言葉の中の万分の一でも、一〇〇〇語の中の十ぐらいでも、そのような言葉はあったでしょうか。さあ皆さん、考えてごらんなさい。きょうは、あなた方自身について考えるための題目、「摂理と昔今の私」です。

     この口が、機関銃の穴です。あなたが大砲を何百、何千回撃ったとしても、あなたのお父さん、お母さんは、びくともしないでしょう。何だ、大砲を撃っているのか、としか考えません。しかしながら、父母の前で自分の愛する子供が、一言、鋭い言葉を撃ち込むならば、お父さん、お母さんは完全にノック・アウトされてしまうでしょう。夫が愛する妻から一言言われることで、精神が正されることもあるのです。

     統一教会の原理から見た場合、公的ということはどのようなことか、一度考えてみましょう。一般の人々の語る言葉と行動には、公的なものが多いでしょうか、それとも私的なものがもっと多いでしょうか。では、あなた方の過去と現在について考えてみましょう。過去のことは、もう考えたくないかもしれませんね。国のことにも世界のことにも無関心でした。それが今、統一教会のレバレンド・ムーンに会い、統一教会に入って変わったのです。霊的に洗い清められたのです。それはムーン・ウォッシュと言えるかもしれません。それによって私たちの関心の向く方向が変わってしまったのです。統一教会の精神に触れて霊的に洗われた人は、神様のことを考えるようになるのです。そして私たちは真の父母について、ホーム・チャーチについて、その他いろいろなことを考えるようになるのです。普通の人々には思い浮かばないことさえあります。毎日、朝から晩まで、そのことを考えるているのです。そう考えてみると、過去のままの私が話し、考えているのではありません。今は、自分の考えの一〇〇〇の中の一〇〇〇、つまり百パーセントを集中して、他人のために考え、話しています。

     あなた方は、ナンバー・ワンが好きですか。はい) 。ナンバー・ワンとは何でしょう。これが本当のナンバー・ワンです。(黒板を使いながら)ナンバー・ワンがどこから出てきたのかというと、数学からいえば、分子と分母が同じ分数から出てきたのです。一は分子と分母が等しくなったときに生まれるのです。ですから、上下が同じであり、左右が同じであり、前後が同じである。これがナンバー・ワンということです。

     それではナンバー・ワンの人とは、どういう人でしょうか。考えと行動とが全部一致した人のことです。考えと行動が違えば、ナンバー・ワンではないのです。

     いろいろ述べてきましたが、公的な言葉を多く語る人は善人であり、私的な言葉を多く語る人は良くない人だと結論できるでしょう。そのような原則があるのです。私たちの過去の言葉やすべての行動、言い換えれば教会に来る以前の私たちの生き方というのは、本当に地獄のようなものでした。そのとおりだと思いませんか?

     (思います)。

     善悪には、どこかに境界線があってしかるべきです。アメリカでは、アメリカ憲法を中心にして善悪の基準を立てています。それなのに、公のために働くということを制裁する、裁くという法はありません。どんなに善を行っても、法律には、それを規制する何の規定もありません。しかしながら、自己を中心とした生き方には、「するな、するな」と言います。法には、自己中心になったときの問題が多く規定されているのです。第二に、法律は、自分の欲心を中心とする人々を監視しています。それらの人々は利己的な利益のためには、共同物を破壊するという方法をもいとわないからです。このように見ると、私たちが痛言を吐いて他人を傷つけることも、法に引っかかります。

     それでは、民主主義には、そのような基準――法がないのでしょうか。民主主義においては、常に数によって善悪を判定します。過半数になればいいのです。ですから、この民主主義は、行ったり来たりする、流動的なものです。悪い人がたくさん組んで参席すれば、悪いところに引っ張っていくことができるものなのです。このように見ると、民主主義とは、何なのでしょう。共産党員が多く参席すれば、共産党が力を行使できるような制度なのです。

     こういう観点から、「より公的なものは何か」という問題が生じてくるのです。絶対に変わらない永遠、不変性をもつものでなくてはなりません。そのような公的なものが必要です。公的であればあるほど、そこには個人も入っていくことができ、家庭も入っていくとことができ、国も入っていくことができ、世界も入っていくことができます。なぜなら、絶対的に公的なものは、無限に大きいからです。アメリカは大きい国ですか、小さい国ですか。あなた方は、アメリカは大きい国だと言いたいのでしょう。では地球はどれぐらいの大きさですか。地球は太陽に比べると、一三〇万分の一です。地球と太陽を比べれば、地球は豆粒ぐらいなのです。この地球は、それほど小さいのです。あなた方が、いくら大きいと言ってみたところで、それほどのものでしかないのです。

     あなた方が少年時代のころを振り返ってごらんなさい。外で遊んでいた時、蟻の世界を見たことがあるでしょう。小さな黒い§蟻あり§は、行きつ戻りつ、大変多くの仕事をしています。あなたは巨人のように、蟻の世界を見下ろしたことでしょう。そんなに小さな蟻でも目をもっているし、足やひげやしっぽなど、あらゆるものをもっています。小さな生物もすべてのものをもっているのです。さらに、それらの蟻はアンテナやコンピューターのようなものをもっています。それがあまりにも神秘的なので、私たちもまだ発見していないのです。しかし蟻は、そのアンテナを使って、自分をある方向に導く能力をもっているのです。

     ロンドン博物館は、世界的に有名な博物館です。しかし、その博物館がどれほど大きいといっても、また、その博物館何百をもってしても、一匹の小さな蟻の様相、秘密を説明することができないでしょう。考えてみてください。小さな昆虫、取るに足りない、一見重要とは思えない小さな蟻が、ロンドン博物館何千個分の膨大な知識を背負って歩いているのです。

     法というものは何やかやと、うるさく規定したもののように感じられるかもしれません。しかし、法律とは、社会や人間を貧欲や自己中心性から守るために、最小限のことを規定したものなのです。

     私がアメリカに来て、おかしいと思ったことがあります。アメリカの人たちはコメディが好きですね。テレビやラジオでもこっけいなことを話し、誰もがただもう、「アッハハハ」と笑いころげます。いったいどうなっているのでしょう。そのようなおかしな言葉を好むことによって、おかしな国民になってしまいました。それが良いと言っているならば、そういう行動をするようになってしまいますよ。このままでいけば、アメリカ人は内容のない国民になってしまうでしょう。アメリカ人は、哲学とか詩とかを考えもしません。精神世界のより深い所を探求しようともしません。すべての存在の起源というような問題が、ユーモアによって解けると思いますか。

     冗談ばかり言う人は、いつも負けるのです。話をしない人が勝つのです。言葉の多い人は負け、言葉の少ない人が勝つのです。過去、現在、未来の真実の思想家は言葉数の少ない人々でした。彼らはむしろ座し、§瞑めい想そう§し、考えた人々です。常に語り、楽しみ、笑う人々は表面的な人々です。

     最近のアメリカの若い人々の傾向は、楽しみを求めようとすることです。法則から外れ、閉じ込められることを好まず、何に対しても従うことがありません。ただ跳び回り、したい放題です。どんな音もたてたい放題です。叫びたい放題です。それが音楽になり、ダンスになっています。例えばディスコがあります。お父さん、お母さんと踊ることができ、両親をけとばすこともできます。「お母さん、私はあなたをけとばしました。でも、それは冗談だからね」。すべてが冗談なのです。「真に受けないでね」。息子はけとばすのが常識になってしまったのです。これらは深刻な問題です。

     このような問題を解決するには、何が必要でしょうか。それには、まず公的なことと私的なことを、より分けなればなりません。そのためにはこの宇宙には、絶対的であり永遠、かつ不変なる大公的な主体がなければなりません。もしなかったとしたら、仮想的にでもつくっておかなければなりません。

     また、中国とアメリカが外交問題で交渉するとき、アメリカはいつも言葉数が多くて敗北しています。共産主義国との交渉においてもそうです。何でも冗談にしてしまうので、彼らにやられてしまうのです。「私は冗談のつもりで言ったんです。本気ではなかったんですよ」と言っても、それはもう後の祭りです。彼らは相手の弱点を探しながら攻撃をする準備をしているのです。

     そのようなことを防ぐには、公的なお方を、仮想的にでもつくらなければならないという話です。しかし、神は仮想的な神としてではなく、真の神としておられるのです。それは、どれほど驚くべきことでしょうか。神は、過去も、現在も、未来も変わることのない方です。蜂蜜の味は、過去、現在、未来、変わりますか? (いいえ) 。金は変わりますか? (いいえ) 。ダイヤモンドは変わりますか?

     同じですね。そういう不変のものが宝物となるのです。

     神は本当に公的な方です。神はどのように考えられるのでしょうか。神は、私的なことも考え得るでしょう。しかしながら神は、公的なことを考えたその基盤内で、私的なことを考えられるのです。公的な考えの圏内で、自分をも考えるのが、神です。そこで、神のすべての§性せい禀ひん§が空気のようなものだと考えてみてください。宇宙全体は、この公的な空気でいっぱいに満たされています。その宇宙空間の中で、神は中心に位置づけられます。言い換えれば、人は常に、このような公的生活の中心に自分をおきたいのです。人は、そのような公的な中心の位置に行かなくてはならないのです。自分をその中心におくと、どんなことをしたとしても受け入れられ認められるのです。中心から発するどんなものも善であると認められるのです。なぜかというと、公に益を与える、他人のためにしていることだからです。

     自動車の車輪を考えてごらんなさい。心棒は小さいのですが、大きな車輪をいくらでも回すことができます。この心棒の回転はわずかなものです。でもこの心棒の回転によって、何千何万キロの距離を行くのです。

     神は、そのように見ておられるのです。神は、自分は公という概念の中の最も中心に位置している、という思想をもったお方です。ですから、神は私が存在するのは宇宙のためであり、宇宙が存在するのは私のためであると見るのです。神は、過去、現在、未来のあらゆる人間の中で、その真ん中に立っておられる方なのです。(黒板を使いながら)それでは、人はどのように存在しているのでしょう。ある人はこちら側に、別な人はあちら側に、頭をこう向けたり、バラバラになって存在しているように見えます。しかし、みな中心からの力を受けているために、全部がみな中心に向かっているのです。

     さて、世界の情勢が変われば、アメリカの情勢も変わるでしょう。アメリカも回っているものの一つだからです。環境が変われば、あなた方の生活も変わり、あなた方自身も影響されざるを得ないのです。レーガン大統領が就任して、国民に対して、アメリカ経済のために腰のベルトを引き締めるように協力を求めています。男性だけにではなく、女性にも求めています。結婚式までも豪華にせずに、質素にしなさい、と言っているのです。何の話かというと、アメリカの一人の中心人物がこの国をある方向に向けようとすると、人々はみな、何らかのかたちでその影響を受けるというのです。

     神は、どういうお方でしょうか。神は、公という概念の最も中心の位置に立つという観をもっておられるお方です。神は巨大な歯車を回転させる中心軸の位置におられます。巨大な歯車が回るには、その中心軸が強くなくてはなりません。全知全能というのは、絶対的な能力をもった、という意味です。その全能の神だけが、いつも中心軸となることができるです。どんな位置にあっても全能だというのではありません。中心においてのみ全能となるのです。何の話か、分かりますか? (はい) 。

     人間は神に似せて造られたために、私たちは公的な概念を中心として、そういう位置に立とうと考えるのです。ですから善なる公的な概念が絶対に必要であるというのです。分かりますか。それには全体のための中心、全体を代表した中心というものが必要です。(黒板をたたきながら)ですから、全体が(その中心として)神を必要とするのです。そこにおいて神は、永遠の勝利の座におられるのです。神のおられるこの位置は、幸福の中心であり、すべての祝福の栄光の中心なのです。神がまず全体のために考えてから、次に自分のことを考える方であるとしたならば、すべての栄光を占有したとしても、誰も不平を言う者はありません。

     あなた方男性も女性も、神に似た存在なのです。ですから神のような考えをもって生活しなければなりません。それが宇宙の公法です。ですから人は、今までの歴史を通して、公的なものを保護しよう、残そうとしてきたのです。分かりますか。

     たとえば孝行息子とは、家庭の中でのノーブルマン(気高い人、高尚な人)です。ノーブルマンとは、常に公の利益を守ろうとする人のことです。愛国者は国のノーブルマンであり、聖人は世界のノーブルマンです。宇宙全体を代表したノーブルマンが神様です。それでは、聖人が霊界に行ったとしましょう。(黒板を使いながら)聖人という範囲の中には、愛国者も親孝行者もみな入ってしまいます。神はすべての人たちに、愛国者になるよりも聖人になることを望むでしょう。ですから家庭の孝行息子になるのは愛国者になるための訓練であり、愛国者になるのは聖人になるための訓練である、という論理が成立するのです。

     年輩の、いわゆる指導層の人々は、今、一二〇日間の修練会を受けています。そして時々、心の中で“私は十分な教育を受けてきたのに、さらに修練を受ける必要があるのだろうか”と考えるかもしれません。なるほど、あなたは分かっているし、働いてきました。そして今、あなたは孝行息子、愛国者の基準にいるでしょう。しかし、私はあなた方に“聖人の基準まで成長してほしい”と願っているのです。それにはあなた方全員を訓練し、世界に送り出さなければならないという、こういう結論になるのです?

     (拍手)

     公的な人は、話も公的な立場からするし、見ること、聞くこと、考えること、それから衣食住すべての生活を公的な精神でするのです。公的な心というのは、すべてのものを愛する心のことです。例えば耳の形がみっともなくても、その耳を愛するのであり、鼻がおかしくても、その鼻を愛するのであり、口の形が良くなくても、それを愛するのです。なぜかというと、神が愛されるからです。

     先生も同じように考え、生活します。先生も全体のための中心の位置にいるのです。その中心に立つ私一人が滅びれば宇宙が滅びてしまうし、中心に立っている私が狂ったことをすれば、宇宙全体が狂ってしまうでしょう。ですから私は、宇宙の秩序を保ち宇宙を保護するために、中心の位置を守らなくてはならないのです。それが統一教会の生き方です。なぜ統一教会のいう原理を守らなければならないのでしょうか。教会の原理――法を守らなければならないということは、宇宙の中心の立場に立ちなさいということなのです。そう考えてみると、それは一番偉大な言葉だということになります。

     (黒板を使いながら)あなたは、この位置から統一教会に入ったかもしれません。ずっと外側です。しかし、より多くの責任をもつようになると、あなたは中心に近づいていきます。あるいはもっと原理を実践し、教会の伝統を引き継ぐようになると、もっと中心に近づいてきます。それでは中心に近づいてくればくるほど、重荷は軽くなるでしょうか、重くなるでしょうか。(より重くなります)。(先生の笑い)

     重荷は嫌だけれど、中心は好きだという話がありますか。そういう考えをもった人は地獄へ行くしかありません。

     先生の考えていることはこうです。神の胸の奥に愛があるでしょう。その愛と一つになってぐるぐる回りながら、より神様と固く一つになつていきたい。その心情も重荷も、すべて引き受ける者になりたいということです。

     あなた方は有名になりたいでしょう。それには何が必要かというと、内と外が同じにならなくてはなりません。そうして全体の中心に立っている自分を発見するとき、初めてナンバー・ワンになるのです。ところが、全体を捨ててしまって、自分だけを中心にしてナンバー・ワンになろうとする人がいます。何の話か、分かりますか。一日の生活で一〇〇〇語話すとすれば、その一〇〇〇語を公的立場で話したとすれば、それは地でも天でも、どこへ行ったとしても、必ず(黒板をたたきながら)この中心を通ることができるのです。分かりますか。

     さあそれでは、摂理とは何でしょうか。摂理とは全体の目的を実現するために現れたものであり、その全体目的の中に現れたものが自分なのです。ですから、自分という存在は、摂理の所産として生まれた公的存在なのです。あなたが地上に生まれ成長するためには、お父さん、お母さんの世話になりました。そのことを有り難く思わないですか。自分の子供を生むということは、世界のために宇宙のために後孫を生み出す、ということを意味するのです。大抵の両親は知らないのですが、宇宙を代表した息子を育てる、という観念をもって子供に対さなくてはならないのです。ですから父母は、真心を込めて子供を愛さなくてはなりません。父母の立場は、そのように真心を込めて愛するという公的な立場であるということは知られておりません。しかし、本当はそうなっているのです。そして子供は、父母の真実の愛を受けて、家庭を中心となるように育てられるのです。そして孝行息子、娘となれば、父母は「愛国者になれ、愛国者になれ」と言うのです。アメリカでは、こういう話を聞いたことはないでしょう。

     両親は子供に対して、「勉強しなさい。熱心に勉強しなさい。寝るのも食べるのもやめて勉強しなさい」と追い立てます。天の摂理よりも厳しいかもしれません。そして時々、子供を殴ることもあります。子供は殴られることによって、後退するのかというとそうではなく、前進していくのです。では、両親はなぜそのようにするのでしょうか。(黒板を使いながら)それは、より一層この中心に近づかせるためです。あなた方も、アメリカの愛国者になりなさい。孔子や釈尊やイエス様のような聖人になりなさい。

     アメリカは先生に反対していますが、(黒板を使いながら)この圏内にアメリカがあるのです。なぜ反対するかというと夜だからです。昼になれば太陽を歓迎するように、迎えられる時が来るのです。夜には月しかありません。月光は薄暗い光です。ではナンバー・ワンとは何でしょうか。ナンバー・ワンになるには、昼も好きだし、夜も好きだというようにならなくてはなりません。夜は嫌いだ、と言ってはいけないのです。それは何の話かというと、ナンバー・ワンは、迫害されるのも好きであり、指弾されるのも好きだということです。若い時に苦労すれば、年を取ってから楽なのです。そのようになっているのです。このような思想がどれほど偉大なものであるかを知らなくてはなりません。それをしっかり捕まえるのです。

     敵を打ち砕かなければならないのです。そのためには、自分は何百回、何千回倒れてもいいのです。鼻血が出て、目はつぶれ、歯が欠けてしまってもかまいません。訓練しながら、最後に相手をノック・ダウンしてこそ、チャンピオンになるのです。最後の勝利を得るためには、苦労と苦難に直面しなければなりません。それは正しい話ですか。はい) 。もし誰かが、「私は世界チャンピオンになりたい。私は誰からも打たれたくない。私の近くに誰も来させないでください」と言って一度も打たれることなく、倒れることもなかった人が、「私は世界チャンピオン」と言ったとしたら、そういう人は泥棒です。

     統一教会の人々の中には、「楽をしながらみ旨の道を行こう」と思っている古い人々がいるかもしれません。「私はドイツのタイトルを取りました」、「私は英国のタイトルを取りました。でも、世界のチャンピオンにはなりたくありません」と言う人がいるかもしれません。そういう人を連れてきて、「あなたはここまで来たのだから、どうしても世界チャンピオンになるのです。殴られても、ひたすら死に物狂いで進みなさい。たとえ休みながらでもやり遂げなさい」と言うのです。するとその人は、「はい、分かりました」と言って行くでしょう。そうすることは悪いことですか、それと良いことですか?

     (良いことです)。

     統一教会は、世界の外にありますか、世界の中の統一教会ですか?

     (中です)。ということは、世界に何が起ころうとも、統一教会の人は中心を保持し、そこから絶対に飛ばされない、と決意するということです。たとえ誰かがあなたを引っ張ったとしても、常に中心と一つになって回っていくのです。それが何の話か、分かりますか?

     これは絶対に必要なことです。

     統一教会は、世界に対して影響を与え、世界を動かす力をもっていますか? (はい) 。統一教会は、(黒板を使いながら)この歯車の中心軸に例えられます。そしてここに鉛の重りがついていて、片ちんばになっているとします。回るときに何度もぶつかるのです。中心軸――これはあなたですが――に重みがかかるでしょう。そうしたら軸が壊れるべきでしょうか。壊れるべきではないでしょうか。チャンピオンが不具になるべきか、不具になるべきではないかという話です。いくら回っても、軸がしっかりしていて何の影響も受けず、かえってどんどん早く回っていくとしたら、かえって鉛自体が回るのが大変になるでしょう。そして最後には鉛のほうがこの円から飛び出していってしまうでしょう。その鉛とは、今日の共産主義のことです。統一教会の運動によって、共産主義が逃げていくようにしなくてはならないのです。そのように見るのが神の摂理観です。

     きょうの題目は、「摂理と昔今の私」ですが、昔のあなた方は、どのような生き方をしていたでしょう?

     自分の気ままに、世界も人類も中心に何もない生き方をしてきました。それは気違い、精神病者と同じようなものです。過去はそうだったのです。女性たちは、「男性と一緒に住むのに、何をああだこうだと言うのですか。思うようにやってもいいでしょう」と言ったかもしれません。それが自由でしょうか? (いいえ) 。自由とは、中心と一つになって回っていくことです。それが自由です。真の自由とは、どういうものでしょうか。あなた方が自分勝手にすることが自由だと考えていたとしたら、それは愚かなことです。原理原則を離れた、方向性を離れた、目的観念を失った自由はありません。自由は、原理を離れることができないし、方向性と目的性を離れることができない、という事実を知らなくてはなりません。そこにおいて、あなたは自由を楽しむのです。

     それなら以前のあなた方は、どうであったでしょうか。話す言葉はすべてサタン的な言葉でした。サタン的な言葉を話す人は地獄に行くのです。なぜなら悪い話をしたのですから。それでは、今のあなた方はどうでしょうか。

     あなた方は、「どうして一二〇日修練会をするのだろうか。自分は責任者だけれど、なぜ妻たちまで連れてきて教育するのだろうか」と思っているのではありませんか。なぜかというと、それは、あなた方の家庭内で完全な調和、完全な協力が必要だからです。夫が仕事に夢中になると、女性は「どうしてあなたはいつもそうなのですか。少しはあなたの子供や妻に関心を払ったらどうなのですか。私を嫌いになったのでしょう」と愚痴をこぼします。(黒板を使いながら)男性は円の半分であり、女性も円の半分なのです。あなたは自分をどこに位置づけますか。中心を通る線が分割線です。この中心線はでたらめの位置ではないのです。ある男性たちは、女性のためにみ旨を変えてしまいます。み旨とは何でしょうか。あなた方は、自分自身のことや自分の家庭のことを先に心配して、それから神について心配します。統一教会は、全体のために生きる結婚をするのです。それなのにあなた方は、仕事をして家に帰ってくる途端に、全体のみ旨はさておいて、家庭を主としたみ旨にしてしまっています。そうであってはいけません。家庭も、全体のための家庭であることを知らなくてはなりません。これを正しておかないと大変なことになります。

     結婚だけすれば、それでいいのですか。「天宙的使命をそっちのけにして、家庭的使命が第一だ」と。そうではなく、夫婦は一つになって、宇宙を支えていく責任をもって生まれてきたのです。完全な円をつくることによって、あなたは本当に自分を中心におく用意ができるのです。それが統一教会における結婚の意味です。ですから、あなた方は、そして息子、娘も全員が軸を中心にして一つになり、その軸を中心にして回ってこそ、父母、息子、娘、つまり家庭がしっかりと一つに固まるのです。中心から外れた家庭ではなく、この中心軸と共にある家庭をつくらなくてはならないのです。「結婚するのにもお金がかかったのに、今度は子供が生まれてくる。昔の自分一人の時のほうが、ずっと公的な歩むことができた。子供が多くなれば、重荷になるだろう」と、あなた方は言うかもしれません。確かに子供が多ければ、重荷にはなるでしょう。しかし、子供を多くもてばもつほど、あなたの円は、中心においてより大きくなるのです。

     (黒板を使いながら)ここに春夏秋冬があります。十二人の子供が生まれたとしたならば、それは春夏秋冬がすべてそろったということを意味します。お母さんは、このように生まなければならないでしょうね。こうすることによって、十二方向を連結させることができるからです。これは、どれほど素晴らしいことでしょうか。§紐ひも§を全部に通すのです。このように考えてごらんなさい。ですから、息子、娘が多ければ多いほど、十二方向を連結しやすいので幸福だというのです。確かにこれは苦労ではありますが。だから伝道しに行くときには、五色人種を伝道して、全部を連結させるのです。離れているものを連結させる、これは容易ではありません。困難であるのが原則です。

     さあ、モスクワ大会に行く準備をしなければなりません。共産主義者はレバレンド・ムーンを憎んでいるのですから、モスクワに行くということは難しいことです。アメリカの国務長官さえも、共産主義の拡張をどうしてよいか分からないのに、何も持っていないレバレンド・ムーンが、国境線の防衛ではなく、モスクワという中央地に行って共産主義からの防衛をしようというのです。ですから、莫大な犠牲を払ってでも、それを成し遂げる覚悟をしなければなりません。(拍手)

     そういう仕事をするために、先生は人を必要とします。誰かを行かせなくてはなりません。そのために誰かが死ぬということもあり得るのです。私も、そのような道に行こうとしています。そうするよりほか、道はないのです。

     そのような時、「先生、私の夫をその場に送らないでください。誰か他の人をお願いします」と言うならば、その妻は落第です。誰一人死ぬ覚悟もしないでモスクワ大会ができるなどとは、私は考えてもいません。ここにいる女性たちは、ソ連のすべての女性を消化し、言葉やすべての面において屈服させて余りある実力をもたなければなりません。そして男性は、共産主義世界全体に対して、闘う決意をもたなければなりません。「先生、私を最前線に立たせてください。私は一インチでも、ほんのわずかでも譲ることはしません。必ず勝利します」。あなた方がそのような男になってほしいと願っています。

     私はアメリカに来て仕事をしながら、アメリカの監獄のことも考えたし、ソ連の監獄のことも考えました。何も予期されなかったものはありませんでした。私がある映画で、ある使命が失敗し、発見され、射撃隊によって処刑される場面を見るとしましょう。私は、ただその場面を無感動に見るのでありません。私はその立場に自分をおきます。私もその立場におかれることがあるかもしれない。それがもし神のみ意ならば、自分もそれを喜んで受けよう、と。

     国が滅びるのを救うためには、国民が先に犠牲にならなくてはなりません。そうしなければ国を生かすことができないのです。世界が死んでいくのを救うためには、聖人が先に死ななくてはなりません。聖人たちは、そういう意味で世界のために犠牲になったのです。イエス様は世界を救うために亡くなられました。神と世界のために、この世界の中心において亡くなられたのです。“私はここで(黒板の図と思われる)この思想をもって倒れ、すべてを捨てて死ぬことができる。私はこの思想の中に子女として生まれたのであり、この思想の中に暮らしたのである。たとえ死ぬとしてもこの思想の中に死ぬのだ。それが男だ。そして、死ぬことによってなくなるように思ったけれど、怨讐に対して許すことができるとすれば、(未来に対して)もっと大きな期待をもつことができる。そうするならば、どれほど素晴らしいことか”。このような立場で、イエス様が十字架において亡くなられたのです。この宇宙の中心においてです。それでこういう意味をもった十字架という言葉が現れたと考えるのです。何の話か、分かりますか。神は摂理をこのように見られるのです。

     公的思想をもつという神の考えは、今まで変わることがありませんでした。数千年の間、人間が変わり、歴史が変わり、人々が天に背いても、神の考えは変わりませんでした。神は決して変わらないお方なのです。(黒板を使いながら)神(GOD)の「G」は、円を完成させてしかるべきでした。しかしそれでは、誰もが入ってくるドアがありません。ですからここに神は、小さなドアを開けたのです。(笑い)

     そしてそこにみ座を設けられました。それが神です。だから誰もが入ってこられるのです。その次には「D」です。時が来ると、ドアを閉鎖します。裁きの日が来ると、これが伸びていってふさいでしまうのです。神は、常に公的思想をもって生活をしておられるでしょう。考えてごらんなさい。神は、過去もそのような生活をしてこられたのであり、今もそのような生活をしておられるし、未来もそういう生活をされるに違いありません。「私」にも、小さい時がありました。神と同じように、過去があり、現在があり、未来があるのです。「私」の過去は神と同じように生きてきたし、きょうも、神と同じように生きているし、未来も神と同じように生きていくとしたら、その人は善なる人なのです。それがナンバー・ワンです。分かりますか。

     自分の過去について考えてごらんなさい。あなた方は統一教会に来て今になって、初めてみ旨を知ったのです。先生の話を今聞いて知ったのであって、それまでは知りませんでした。あなた方の過去の生活は、勝手気ままでいいかげんでした。何の中心も方向もない放浪者だったのです。そして、「こうして生きていてはいけない。真なる道はないだろうか」と探していると、統一教会というものがあったので入ってみることになったのです。そこに入ってみると、全く新しい世界を発見したのです。

     しかし、いいことはいいのですが、昔のように気ままに踊りを踊ったりできません。昔のように遊べればどれほどいいか、それは私にも分かりますよ。その上、大変な仕事もしなくてはなりません。伝道に出かけると、人から「君はムーニーだな」と悪口を言われます。攻撃があらゆる方向からやってきます。前から後ろからあなたを打ちます。それであなたは完全に中心を失い、自分を失ってしまって、「ああ、私はどうもとんだ所に来たらしい。先生すみません。私は出て行かなければなりません」と風呂敷を包もうとします。(笑い)

     笑いごとではありませんよ。統一教会であなた方に、豪華な食事と良い服と、たっぷりの睡眠時間を与えてあげるならば、誰が出て行くでしょうか。出ては行きません。先生もよく知っています。

     しかしながら、このような生活を継続し、アメリカに反対されることによって、最後には、アメリカが私たちを追い出すのではなく、かえってアメリカの国がわき上がってくるのです。本当に純真な人々、この国を心配し、世界の運命を心配している愛国者たちがやって来て、「どうぞ出て行かないでください」と言って、しがみついてくるでしょう。言い換えれば、私たちには、真に純真な人々を結集する力があるのです。そのように私は考えています。この話は間違っていると思いますか?

     (正しいです)。十年かかろうと二十年、三十年、四十年かかろうと、かまいません。復帰摂理から見れば、四十年など何でもありません。先生が使命を始めた十六歳(数え年)から数えると、四十六年たちます。四〇〇〇年の歴史をほどくには、少なくとも四十年はかかるのですね。

     もし、レバレンド・ムーンが、自分の将来における困難な使命を避けたいと考えていたならば、とっくにこの仕事から離れていたことでしょう。行けば行くほど、もっと難しくなるこの道を「嫌だ」と言っていたならば、風呂敷を包んでいるというのです。しかし私は常に、“これは出発だ。私はまだ戦い始めてもいない。これから始めなくてはならないのだ”と考えたのです。それが私の姿勢でした。何の話か、分かりますか。そのような見解から、あなた方を鍛え、訓練して、世界に出て生き残る人間をつくりたいのです。それを考えたら、今のことは何でもありません。それがあなた方に満たしてほしいと願う基準です。しかし、あなた方が実際していることは、あまりにも先生の願う基準以下です。もし、今がローマの迫害時代だとしたら、あなた方のうち何人がカタコンベに入れますか。あなた方のうち何人が、それらの環境から生き残るでしょうか。一世紀のクリスチャンでさえ、それらの試練を耐え忍びました。そのようなことを私たちも越えなくてはならないのです。

     あなた方は神様がいることを知っていますね。神様がレバレンド・ムーンを好きだということを知っていますか? (はい) 。それはなぜだと思いますか。それは、レバレンド・ムーンの哲学、生き方、信念が正しいというだけでなく、世界の五色人種を一つにして、彼らを同じ信念、同じ方向、同じ目標に導く能力をもっていると神が見ておられるからです。神は、レバレンド・ムーンは自分自身を繁殖させる能力をもっていると見ているのです。

     レバレンド・ムーンは六十歳を越してしまいました。これから先、どれくらい生きられると思いますか。多くのクリスチャンたちは、“一度キリストを受け入れたならば、決して死ぬことはない”と考えています。それはおかしい考えです。何千代も前の人々が生きているとしたら、地球上は、人々が立つ§隙すき間ま§さえなくなるでしょう。そうしたらどこに住むのですか。だから死ぬということがあってしかるべきです。そうでないとしたら、新しく生まれた人々はどこに住むのでしょうか。ですから、死ぬということがあって、うまくいくようになっているのです。神がどれほど数理的、科学的な方だと思いますか。霊人体になれば、何億、何十億でも大丈夫です。なぜなら霊界は時間と空間に制限されないからです。ですから、人間の肉体は必ず死ぬようになっているのです。

     では、レバレンド・ムーンはどうするのでしょうか。レバレンド・ムーンが死んだのちにも、その息子、娘たち、あなた方は世界に広がっていくのです。最初に生まれたレバレンド・ムーンのような父母を代身することのできるようなあなた方につくり上げること、それが神様の喜び楽しまれることなのです。(歓声、拍手)

     そのようになれば、あなた方は、真の父母と真の子女という真の伝統を全部相続するようになるのです。伝統を立てなさい。教育をしなさい。行動しなさい。それによって結局、福を受けることになるのです。第一に伝統、そして教育、行動です。

     レバレンド・ムーンの目標は、あなた方一人一人を、私よりももっと立派なことを成し遂げるように、レバレンド・ムーンの先を行くような人にすることです。ただ先生を複写するだけではなく、内容においてより優れた人にすることです。あなた方は、“先生だからこそ、それをすることができるのであって、自分たちにはできない”と思っているようですが、そうではありません。あなた方もみな、それをすることができるのです。なぜならあなた方は、大変多くの支援を得ているからです。レバレンド・ムーンを支えている神は、あなた方をも同じく支えています。さらにあなた方をレバレンド・ムーンも支えています。そして統一教会も支えているのです。

     それなのに風呂敷を包んで出て行きたいというのなら、出て行ってもかまいません。出て行く人を必要とはしないのです。私たちは、宇宙のために、国のために、教会の伝統を立てるために、清く保たなければなりません。ですから出て行こうとする人を育てようとして苦労するのではなく、そのような人は好きにさせておくのです。そのような人を育てる力で、三人の人を伝道することができます。なぜかというと、どれほど多くのエネルギーを注いでその人を指導したとしても、その人は、み言を聞いてすべてのものを捨てて出発した入教時の基準を、なかなか越えることができないからです。

     さあ、古い葉は落ちました。そのあとに強い緑の葉が出てきます。分かりますか。外から多くの人を伝道してこなくてはなりません。統一教会は滅びません。レバレンド・ムーンは決して後退しません。滅びるどころか、かえって発展するでしょう。(拍手)

     一二〇日修練会の話に戻ります。先生は、修練会に参加している人が、「先生が私たちを呼ばれたのに、どうして一度も来られないのだろう。二週間、三週間もたったのに」と言っているのを知っています。でも実際は、あなた方が先生の所に会いに来るべるきではないでしょうか。そうでしょう? (はい) 。それがきょう、あなた方がここにいる理由です。日曜日の朝のこの時間が、あなた方の修練会における最良の時間です。そうですか? (そうです) 。

     昔のあなた方はひどい人間でした。それなのに天国に行くつもりでいたのでしょう。どうして天国に行くことができるでしょうか。昔のあなた方は天国ではなく、地獄に行ってしまう基準だったのです。なぜならあなた方はみな、公的なことをすることもなく、あちこちをただ歩き回っていただけだからです。そして今でも、統一教会で約十年ぐらいたって古くなると、昔のことを意識してしまいます。そうなりやすいのです。「昔住んでいた家が懐かしい。昔の生活のほうが楽だった。あのころが良かった」と。教会に入った最初のころは熱心に仕事をするけれども、約十年ぐらいたつと、そのように過ごしやすいのです。それでいて、「私は正常です。私こそが統一教会の模範的ムーニーです」と言うのです。そんなに自分勝手に、自分の思いどおりにしたければ、しても結構です。でも、それは絶対に間違っています。

     真の模範的ムーニーは、個人の段階よりも家庭的段階、家庭的段階よりも国家的段階、国家的段階よりも世界的段階、世界的段階よりも天宙的段階と、それぞれの段階でより一層働く人です。大きな活力、それが、あなたが究極的に成功する唯一の方法であり、先生の見る模範的ムーニーです。比較的新しいムーニーたちは、誰が模範的ムーニーであるかを見極めなくてはなりません。間違った先輩を絶対に見習ってはいけません。国のために働き、国のためよりは世界のために、世界のためよりは全天宙のために忙しく走り回って、一つの国よりも十の国のために責任をもたなければなりません。それが模範的ムーニーです。「先生、この国にはあまりにも宣教師が多過ぎます。私一人でこの国のために全責任を負って働きます」と言える心をもった人が立派な人です。(拍手)

     このような公的考えからいくと、本当は言葉が行動の一〇〇〇分の一でなければならないのに、自分を中心にすると、それが反対になってしまいます。(黒板を使いながら)一〇〇〇分の一よりも一万分の一、十万分の一、一〇〇万分の一。このようにあなたの言っている言葉が、あなたの行動と業績よりも小さければ良いのです。そうすればそうするほど神様の前に近くなっていくのです。このことを確実に知らなくてはなりません。

     食事をするときにも、私は公的に食事をしているのか、それとも私的に食事をしているのかを考えなければなりません。私的な食事とはこうです。何かおいしい物があったとすると、他の人に食べさせたくないので、自分が先に食べるのです。「この肉に誰も触ってはいけない。これは私の肉です」。これが私的な食事です。公的な食事とはこうです。手は何かおいしい物を求めますが、「手よ、やめなさい。おいしい物は他の人に食べさせなさい。人にそれを楽しませてあげなさい。それで私にも余分があったら取りましょう」。

     テーブルを囲みながら、もし誰かが常に人のことを思いやるならば、彼はすべての人に尊敬されるでしょう。自分だけを満たそうとする人は誰であっても、「貪欲な人だ」と言われるでしょう。たとえ口に出して言われなくても、心の中では“ああ、彼を追い出してしまいたい”という感情が積もっているに違いありません。人間の本性からして、そうではないでしょうか。どうですか? (そうです) 。公的生活は、食事においてだけでなく、一日のあらゆる生活を通してなされなければならず、そうしてこそ尊敬と愛を集めることができる、という話です。私たちは共同生活をしているわけですが、ある式典で「いい席には私が行く。すてきな場所を私は取りたい」と言ったとしたら、それも私的な生活です。分かりますね。それについては、もう話す必要はないでしょう。

     国の尊敬を受けるためには、国のために犠牲になって仕事をするのです。国の最もひどい場所に行って犠牲になるのです。そういう仕事をすると、国の人々が自動的にあなたを中心に立てます。

     あなた方は、統一教会の看板があろうとなかろうと、たとえ統一教会の看板を外してしまったとしても、先生の行く所ならどこへでも一緒に行きたいでしょう。このニューヨーカー・ホテルが、巨大なビルであろうと、あなたには何の意味もありません。私がアフリカに行ったとしたら、あなた方も一緒に行きたくないですか?

     (行きたいです)。私はニューヨーカー・ホテルを生かすためにアメリカに来たのではありません。ですからこれを手放すことによってアメリカを早く救うことができるならば、もちろんそうするし、また、アメリカを犠牲にして世界を生かすことができるのならば、そうしなくてはなりません。そうすることによって世界を救うことができれば、それは結局、アメリカをも救ったことになるのです。なぜならば、アメリカも世界の一部だからです。これが公的なものの考え方です。分かりますか。例えば家庭を犠牲にしてアメリカを救ったならば、アメリカ全体の家庭が、自分の家庭のために犠牲になってくれます。家庭を犠牲にするという代価を支払うことによって、その家庭は尊敬を受けることができるのです。何の話か、分かりますね。こういう観念を、はっきりと知らなければなりません。

     先生がじっとしていると思うべきではありません。先生はなおも前進しています。昔から先生は、常に公的に物事をなし、生活することを考えています。私は公的な話をし、公的な目をもち、公的な鼻、公的な口、公的な腕、公的な思想をもって生きてきました。それが私の生活信条です。私はそういう生き方をしてきたので、たとえ私が死んだとしても、私の生き方は生き続けるでしょう。人々は写真を見て、先生の生涯を思い出すでしょう。歴史も先生を追慕しながらついていくでしょう。公的に生きるなら、その人の肉体は死んだとしても、永遠に生き続けるという話です。この原則は、過去にも通じるのであり、現在にも未来にも、そして天宙にも通じるものなのです。

     皆さん、自分自身を見てごらんなさい。そして自分が正確にどこに立っているかが分からない人は手を挙げてください。では、知っている人は手を挙げてください。どちらでもないのですか。(笑い)

     誰でもみな、分かっているのです。どういうのが公的であり、どういうのが私的であるか、分かるようになっているのです。

     例えば、「お金を大切にしなさい」というのは、公的なことです。何のためにお金を大切にするのでしょうか。それは、自分が金持ちになるためではなく、国を生かすためにです。ですから国を生かすために自分が金持ちになるのです。それが善、公的なことなのです。それと同様に、世界を救うために、まずアメリカが節約をしなければなりません。それが善です。アメリカは税金の高い国ですが、その税金が世界のために使われるならば、世界はアメリカに頭を下げるでしょう。しかしアメリカは、国民のために使うためにのみ税金を集めるので、アメリカ国民もかえって政府に反対し、世界もアメリカ政府に反対するのです。ですから、世界を滅ぼすそういう風潮を変えるために、私が働いているのです。

     あなた方の過去の生活は間違っていました。ですから新しい生活に変えなくてはなりません。それでは、これからあなた方は、何を自分の息子、娘に語るべきでしょうか。あなた方は自分の子女に対して、また夫になる人は妻に対して、妻になる人は夫に対して、自分が今まで築いてきた公的な伝統を、彼らが受け継ぐことができるように教えてあげ、示してあげるべきなのです。そして子女たちは、家庭において、お父さん、お母さんから伝統を受け継いだという合格の認定を受けるのです。その伝統を受け継いでから学校に行って教育を受けることによって知識を獲得し、帰って来て、「お父さん、お母さん、私はこれだけのことをしました。どうぞ見てください」と両親に報告して捧げるのです。何の話か、分かりますか?

     サタンがはびこる家庭になってはいけません。あなた方は、サタンを中心とするのではなく、公的な父母にならなくてはなりません。サタンを中心とした愛の、私的な父母になってはいけないのです。もしアメリカのすべての家庭が、息子、娘、夫に対する公的な愛をもたないで私的な愛をもったとしたならば、アメリカという国は崩壊するのです。アメリカの家庭の父母たちが自己を中心とした愛をもてばもつほど、それは社会を滅ぼし、世界を滅すのです。何の話か、分かりますか。一番身近な人との関係の中に、この偽りの愛があるのです。そしてこの偽りの愛が世界を包囲しているのです。ですからサタンは、「統一教会が本当に公的愛に立っているか、自己中心の愛か、見てみよう」と言うのです。そしてサタンとの闘いに勝ったのちに、神は私たちをより中心に近づけ、愛するのです。そのようになっているのです。分かりますか?

     そういう教えから、「摂理と昔今の私」を結論づけましょう。(黒板を使いながら)あなたは自分一人で出発しました。そして次に家庭をもって二人で出発したのです。そして息子、娘をもつことによって、より大きいものになっていくのです。そして次には氏族を中心にして、もっと大きいものを率いていかなくてはならないのです。そしてそれが社会、国家、世界、天宙と広げられていくのです。

     さて、ここでモーセの出エジプトを思い出してください。私たちは出エジプトをしているジプシーと同じです。ですから私たちは、同じ所にとどまることができません。まだカナンに到着していないからです。息子を連れて、氏族を連れて、民族を連れて進み続けなければなりません。カナンへの道すがら、常に、紅海、越えるべき山、渡るべき水のない砂漠があります。ですから私たちは目的を達成するために、訓練されなければなりません。夜も寝ないで、二十四時間活動を続けるのです。非難されながらも活動するのです。それらは精神的な鍛錬となるのです。もしあなたが一番最後の門の敷居の所まで来たとしても、万が一そこで倒れたとしたならば、それは滅びた者、失敗した者となってしまうのです。成し得ずして死んだ者となってしまうのです。

     さあ、先生も走っています。まだ走っているのです。あなた方はどこにいますか。あなた方は後ろで私の足を引っ張っているのですか。それとも、「先生、早く行ってください。後ろから押してあげます」と後押ししているのですか?

     (後押ししています)。ありがとうございます。(笑い)

     もう、分かりましたね。休んではいけません。先日、お母様は十二番目の子女を出産されました。それなのに私はけさ、「お母様、あなたは立ち上がることができますか。ベルベディアへ行きましょうか」と言いました。医師の話によれば、あと二、三日は休養が必要だということでしたが、私はお母様をどうしても連れてきたかったのです。体の大変なお母様に対してさえ、そのように考える先生だとしたら、今のあなた方に対してはどう願うでしょうか。あなた方が部屋でのんびりと寝ることを願うと思いますか? (いいえ) 。あなた方が先生の仕事を相続するにふさわしい立派な人になれるよう、将来の大いなる日のために、これからもあなた方を訓練するのです。あなた方は新しい人となるのです。

     たとえカナン七族が来て、あなた方を遮ろうとしても、問題ありません。闘います。私たちがカナン復帰、天国をつくる路程において、前進をはばむ共産主義があれば、共産主義と闘うし、他のものがあれば、それと闘うのです。弾丸は強くて固いほうが良いのです。例えば共産主義の弾丸と私たちの弾丸があるとしましょう。この二つの弾丸が真正面でぶつかると、どうなるでしょうか。統一教会の弾丸が共産主義の弾丸を真っ二つに裂き、それを貫通していってしまいます。私たちはそういう人間をつくろうというのです。(拍手)

     ところで私たちは、ただ闘いだけをするのでしょうか。私たちは闘って勝利した天国の兵士、神の兵士となって天国をつくるのです。ですから、サタンに讒訴されるようであってはいけないのです。もしあなたが自分の弱点をそのままにしておくと、サタンがそのあなたの弱点を握ってしまいます。だからサタンが讒訴することのないように、あなた方は自分の弱点と闘い、それを克服しなければなりません。あなた方は今、そのような人になっていますか、なっていませんか? (なっています) 。あなた方は今、「なっています」と言いました。それでは、あなた方は今、サタンが讒訴することのできる立場に立っているか、サタンの讒訴を受けない安心し得る立場に立っていますか。

     神は、過去においてもサタンの讒訴を受けたことはないし、現在においても、未来においても讒訴を受ける方ではありません。ですから私たちも、きょうのこの時において、サタンが讒訴することができないように、神のもっておられるのと同じ公的な考え――公的思想をもたなければならない、という結論になるのです。これを知らなくてはなりません。そういう自分を決定したと言うことのできるのはいつか、というのです。(今です)。ここにいる責任者たちは、みな、それを決定していますか? (はい) 。昔決定したのですか、それともきょう決定したのですか。それが問題です。

     公的思想をもつということは絶対に必要だ、ということを知らなくてはなりません。もし、あなたがそれを失ったとすれば、あなたの後孫とあなたの国、あなたのあとに来るすべてのものが失われてしまうでしょう。その決意に基づいて歩くことによって、あなたは完成されるのです。それは先生が保証します。もし、あなたがそのようにしたにもかかわらず滅びるとしたならば、先生は霊界に行って、あなた方に殴り殺されてもかまいません。もしそうだとしたら私は霊界に行って、どこにもいる所がありません。私が霊界の高い場所であなた方を待つためには、あなた方よりもより公的な基準をもたなければならないのです。そうでしょう。霊界に行って公的な座に住むためには、サタンが讒訴することのできない、そういう人でなくてはならないのです。

     ここには約二三〇名います。ということは、二三〇の基準の霊界があるということになります。分かりますか。あなた方はどの位置にとどまるのですか。それは、自分自身が決定するのです。私は可能な限り、あなた方をより高い位置に行かせたいと思って訓練しているのです。訓練を通して世の中のあらゆる苦労を体験させ、どんな仕事でもできるような人間にするのです。何の話か分かりますか。私があなた方にしてあげられることは、そのほかに何があるでしょう。

     先生が生きている時に先生の言うことを聞かなかったとしたら、あなた方はいったい誰の話を聞くのですか。今するしかありません。今しなくてはならないのです。やるのだったら、先生のいる今が最良の機会です。先生のようにあなた方を訓練する人は、統一教会にはほかにいません。そうでしょう。先生はあなた方が疲れているのを知り、あなた方が哀れに思えたとしても、それでも命令します。あなた方は、たとえ疲れていても先生の言葉を実行しようとするでしょう。それと同じことを誰ができるでしょう。一国の責任者だからといって、先生と同じようにあなた方を導くことはできないでしょう。例えば、私が一人の人の頭を、思う存分たたいたとしても、彼は怒らないでしょう。でも、あなた方がたたいたとしたら、たとえ一度であったとしても、喧嘩になるでしょう。(笑い)

     だから私が生きている間に、あなた方を指導して伝統を打ち立て、その伝統をつくり上げておかなかったとすれば、大変なことになるのです。それはあなた方のためです。あなた方がこの美しい天地に住むことができるように、百パーセント、伝統を相続させるのです。そうすることによって、将来、あなた方のすべての後孫も、自然に天国に行くことができるのです。理解できますか? (はい) 。

     しかし、あなた方が統一教会で今までやってきた仕事は、点数でいうならば、まだ五十点にしかなりません。あなた方は五十点のものがいいのですか。それとも一〇〇点のものになりたいですか?

     (一〇〇点です)。あなた方は一〇〇パーセントを願っているのに、実際は五〇パーセントにしかなっていないのです。だからもっと頑張らなくてはならないのです。ですから私はいつでも、「よくやった」という話はしないのです。何の話か、分かりますか?

     完全な者を育てなくてはならないからです。ある人が完全なものを受け継ぎ、より一層完全なものになろうとするならば、その人は美しい花や飾りをもってたたえられるでしょう。歴史がそのように望み、摂理がそのように望み、人類と天地すべてがそのように望んでいるからです。私たちは自分を、歴史の方向に、摂理の方向に、天地の方向に向けなくてはなりません。そういう宿命に従っていくことが、公的な生涯を行く道理ではないでしょうか。

     さあ、あなた方に、この時間に教えたことについて質問します。あなた方は本当に天の基準にかなった生き方をするよう努力していますか? (はい) 。イエス様以上に、神様、先生以上に、もっと苦労しなくてはなりません? (はい) 。さあ、今からでも遅くはありません。先生がいるのですから。先生のいる間ならば、故障しても直すことができるのです。はっきりと分かりましたね。このように進むべきです。はい) 。

     きょう二月二十二日は、先生が北鮮の共産主義者たちによって監獄に捕らわれた日です。それでけさ、こういう話をしているのです。そこにおいては公的な苦しみがありました。それは悲しいことではありましたけれど、栄光の資格を与えるための場であったということは、今日、証明されているのです。

     あなた方が先生がしたのと同じ決心を、きょうこの時間にしたということを、私は死ぬまで忘れることができないでしょう。あなた方が決意をしたという事実は、歴史の中に記憶されるのです。そしてあなた方と統一教会は、天の祝福を受けるでしょう。あなた方は希望の太陽(サン)としてこの瞬間から、人類と世界のために昇ります。私たちは今まではムーニーと呼ばれていましたが、この瞬間からサニーに格上げされました。(拍手)

     あなた方はすべてを知ったのですから、たとえ先生がいなくても、死を覚悟しても己の責任を全うして余りあるでしょう。先生がいなくても、です。イエス様もおっしゃっていますね。死なんとする者は生き、己を低くしようとする者は高くされるのです。















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    34_全体蕩減

  • ◆愛なくしてはすべての存在の価値がない
  • ◆堕落の結果、主体が二つになった
  • ◆なぜサタンを否定するのか
  • ◆絶対否定条件
  • ◆理想完成基準を求めて
  • ◆迫害を通して神自体が否定圏をつくる
  • ◆メシヤとは何か
  • ◆統一教会運動の目指すもの
  • ◆蕩減復帰完成
  • ◆神の道を行くべき者の伝統的な道
  • ◆世界的迫害の絶頂期を越えて
  • ◆エバ国日本の位置と使命
  • ◆摂理的四大国家
  • ◆男性理想完成基盤の復帰
  • ◆エバの再創造と家庭安息基盤の確立
  • ◆アメリカ、韓国の救いのために
  • ◆今は世界的出エジプト路程の三年期間
  • ◆なぜ怨讐を愛するか
  • ◆総進軍の三年間
  • 御旨と世界 全体蕩減

    1983年4月3日 韓国 ニュー・ソラクホテル

    ◆愛なくしてはすべての存在の価値がない


     きょうは、全体蕩減という内容を話しましょう。全体蕩減といったら、宗教全般に限って、それから歴史全般に限るし、そうなれば人類全般に限っての話。それに人間世界ばかりではなくして、霊界も含めるという内容になるんです。

     神の御理想といえば、理想世界は簡単だった。それはアダム、エバと、それから神様と、天使世界、この四つが一つになったら、すべてが完成すべき世界であった。神がいるからすべての理想があり、神の理想を引き継いだ真の父母がいたんだから、そこではすべてが相続されるようになる。それが一つの基点となって、横的に全体化された宇宙になるはずだったというんだね。その中心は何か?

     神の愛。神にも必要なのが愛であり、人間にも必要なのが愛であり、天使世界も愛を中心としてすべてがつながるようになっている。神の愛がもしも中心になった場合には、その出発点も、もともと理想の出発であり、行く方向も理想の方向であり、その決着点の世界、終着点も一つであった。そうなれば、神と人とそれから天使世界、これは一つの世界になったはずである。そうなったとするなら、神の愛を中心として完成された場合にはすべてに通ずるというような、そういう内容の理想世界だから、一点からすべてに通ずるという立場であるから、すべてが分かる。

     だから、人間の完成は何によってなされるかというと、知識でもなければ、それはこの世の権力とか金でもなく、愛であるというんだね、愛。その愛は今までの俗化した堕落世界の愛ではなくして、本来の愛であり、それによってすべてが完成される。我々は感覚、すなわち視覚などのいろいろな五感をもっている。その五感のすべては、愛の完成基準から出発すべきである。五感というのは、完成された愛を中心として始められる。それは耳とか、鼻とか、口とか、手とか触覚すべてが、愛を中心として完成化される。だから、そういうような愛を中心とした五感が一つになって、すべての相対世界を感ずるというその立場は、理想の立場である。それは一言で表現すれば、酔う立場である。すべてに酔ったような、愛によってすべての相対世界に同和されて、自分自体がその環境に酔ってしまうような、そういうような境地である。その境地では、自分一人ではないんだね。自分一人ではない。永遠に続くすべて、同化するそのすべての存在が違うんだね。存在が違うというのは相対のもろもろが違うし、そのもろもろが違う相対者に対して、いわゆる触覚というか、感じ方が違う、そういうような世界だというんだね。

     そう見れば、拡大すれば無限に拡大し、縮小すれば自分の一点にすべてが固まるようなそういう力をもつのが真の愛だね。天的愛だというんだね。だから、愛の目を通して見れば、小さくても大きくてもそれは一つだというんだね。小さければ価値を縮めたものであり、大きいものは拡大したものである。こういうような愛の世界を創造したかったのが神の御理想であった。神はその愛を中心として昼も夜もいつもすべてを主管できる立場である。時間を越えて、空間を越えてそれを主管し得るその基準が愛であるから、神自体も宇宙を主管するにはこの愛が絶対必要である。こう考えれば、愛なくしてはすべての存在の価値がない、そういう結論になる。

     

    ◆堕落の結果、主体が二つになった




     こういうような理想が堕落によって失われた。何によって堕落したか?それは愛によって堕落した。愛の基点はどこかといえば、目でもなければ口でもない。男女共に、夫婦共に愛し合う、そういうような愛の器官を中心として堕落してしまった。こういうような結果になったことを考えてみた場合に、すべてがやられてしまった。だから、愛の結合点であるその基準は、感覚のすべてを総合した部所だというんだね。そういうような基準がやられてしまったことにより、人間夫婦が全宇宙に被害を被らせてきた。

     こういうような結果になってしまったから、今後、再創造、あるいは再びもとがえさなければならない。もとがえすには、堕落した結果どうなったかというと、主人が二つになってしまった。主体が二つになってしまった。もしも主体が一つだったら、復帰とか、もとがえすのに問題はありません。帰るのに何の問題もありません。しかし主人が二つになった。言い換えれば、マイナスは一つなのに、プラスが二つになった。主体が二つになった。これが問題である。一つだけなら問題ではないのに、二つだから問題である。真なる主体である神様に対しては、すべて万物は、自動的にはまるようになっている。矛盾とか衝突する何ものもない。しかし、ここが反対の方向のプラスになっている。神と反発しながら、別のプラスの立場になったから、堕落の結果、それは元のプラスに立つよりは、愛を中心として反対のほうに立ち寄る力が強くなってくる。そういうふうにして、反対の力が強くなったということは、それは外的力と内的力とが分かれるということである。だから、サタンは外的力を中心として愛の世界を結ぶようになっている。神は内的力を中心として結ぶようになっているんだね。だから、一つのものと対応するのに、二つの主体者が立つような立場になった結果、サタンは外的主体者になったし、神様は内的主体者になった。

     そうすると、内外共にプラスになっているから反発作用をいつもきたす。それが堕落人間の肉心と良心の争いである。生涯共に一体、融合すべき両者が一体にならずして、反発する二つの体があるみたいに、方向を別にしながらそれに引きずられている人間である。あるときには外的なほうに、あるいは内的なほうに行ったり、そういうような方向を失った人間になってしまった。人間がそういうふうになったから、すべてがそういうような基準に引っ張られる。だから、アダムもそういうアダム、エバもそういうエバ。それから、そこで生まれる子供たちは、皆そういうような子供たちになって生まれてくる。十人おれば十人それぞれの方向が一致しないというんだね。バラバラになってしまう。こういうような結果の世界、すなわち) 堕落世界になってしまった。

    ◆なぜサタンを否定するのか

     こう見れば、神の本来の理想とした世界はいずこより求めるべきか。これを整理して元の方向を立たせなければならない。それはそう簡単ではない。これを整理するというのは、それはアダムだったらアダム自体を否定しなければならない。エバだったらエバ。十人の家族がいた場合に、家族十人全体が肯定の立場で一つになっても、完全なものは生まれてこないというんだね。だから十人家族があっても十人全体を否定する。神は最初に、堕落した人間世界に否定を求めざるを得ないというんだね。理想を先に求めるよりは、これは否定を求める。すべての否定。肯定という条件はない。これが神の立場である。

     そうすると、否定するその順序はどうか。外的なほうから。堕落した現状から見れば外的な世界がある。そして国があるんだね。それから民族、氏族がある。それから家庭がある。それから夫婦、男女関係すべてが……。その外的な、外から否定してくる。結局、最後にはどこまでくるかというと、自分の体と自分の良心まで自分自体を否定する。ここまで追求せざるを得ない。自己否定から全般に否定するような結果になったのは、堕落した世界だからである。神の願いを求めるには、必ず肯定の一点をこの地上に求めるには、完全に否定しなければならない。その基準によって新しい作用を成したのちに、新しい出発点がなされるというのは理論的である。

     それで、統一教会でいっている蕩減、蕩減復帰はなぜ必要か。いったい、何のために蕩減が必要か、それが問題だよ。これをはっきり知らなければならない。なぜ蕩減が必要か。蕩減しなくてもいいじゃないか。統一教会のメンバーが個人蕩減、家庭蕩減、氏族、民族、国家蕩減といっても、それをはっきり知っている者はいない。なぜそんなことをしなければならないか。それは全般にわたってなぜ蕩減が必要かという問題は重大だね。

     神が新しく出発するには、すべてを清算しなければならない。サタンがない、他のプラスがない、神は絶対的主体、ただ一人であるべきなのに、相対的な立場に立った悪のプラスがある。それを除去してしまったその基準にいかなければ、神の出発点を新たに立たせることはできない。だから、人間自体の否定は問題ないんだね。人間自体の否定は問題ないけれど、人間を主管するサタン自体の否定が問題である。だから、人間否定、人間自体を完全に否定したのちに、その次にはサタン自体が完全に否定されたその基準を立たせなければ、結局、主体者がまだ二つ残っている結果になるんだね。そうだろう。人間は否定してもサタンは残っている。そうすると、神の前、宇宙の前に偽りの愛を中心とした別の主体者が残っていることになるんだから、この主体者が、二つの基準が残っていたとするならば、完成される出発点はできない。だから人間否定はもちろん、その次は堕落の神、悪魔が残っている。サタンが残っている。サタン否定をいかにするか。これが神の立場からしても、人間の立場からしても、新しく出発点を地上に立たせるには絶対必要な要件である。分かりました?何否定?人間否定とそれから悪魔の否定。偽りの神の否定をなさなければならない。そういう否定圏に立って初めて神自体が主体の独自圏に立つことができる。主体は一つである。みんな否定されて、なくなった条件圏に立ったから、その条件圏上に初めて神が主体として、愛をもった主体として立つその足場が生じてくる。分かりました?

     それで、これをいかに立たせるか、それが問題だね。その基準はみんな堕落圏の二大主体、二重の主体が立っているその世界に立っているから、これは個人的にそういう立場、それから家庭的にそういう立場が残っているんだね。それから氏族的に、民族的に、国家的に、世界的に、天宙的に残っているというような理論的な結論だね。分かりました?

    ◆絶対否定条件

     アダムは一人が堕落したけれども、それは全体の中心だから、そういうような結果から追求して新たにこれを整備していくには、一遍にパアッとできない。一つ一つ復帰していかなければ。それは個人のそういう環境、家庭の環境、氏族の環境、民族の環境、それから国家の環境、世界、天宙まで拡大しているというんだね。そうなれば個人、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙、神様の八段階。理想世界を求める人間としては、これを解決しなければ、もともと愛の主体である神様に自由自在に会える道を得ることはできない。どこかふさがった場合には、その基準以下には通ずるんだけれど、それ以上の理想世界ができません。それ以上の理想世界に通じないというのは、絶対なる神と一つになる道を完全に得ることはできないということなんだね。こういうような段階を経た場合には、蘇生圏、長成圏の霊界まで勝利した霊人たちは援助し、その霊人たちは通ずることができるであろうけれども、本来の神様と通ずることは難しい。だから、これをいかに拡大して、個人から神様へ直通し得る環境拡大をするかということは、神なりの心配である。神自体としての悩みである。堕落した圏内にある人間自体としての悩みであるというんだね。この二大悩みは、誰によってふさがれているかというと、堕落したその人間によってふさがれている。堕落した人間は天使長によってやられているから、これを整備しなければならない。整備するには、肯定圏では絶対できない。分かりました?否定!

     そうなると蕩減復帰というのは何か。絶対唯一の主体を願う者は絶対否定を通過しなければならない。絶対主体を願う、唯一の主体を願う者は、この環境に広がっているすべてのものに対して、絶対否定という条件を満たさなければならない。それ分かりました?

     絶対否定。そうすると、蕩減復帰はいかなる場所で決めるか。絶対肯定の条件が少しでも残ったらいけない。絶対否定条件の立場で、絶対否定の条件によって蕩減条件が立てられる。そうすると、そういうような基準が個人的、家庭的、氏族的という八段階で満たされれば、人類歴史の理想郷につながる。その段階ごとに、必ずそういう過程を通過しなければ、神と通ずる理想郷を結ぶことはできない。

    ◆理想完成基準を求めて

     こういうようなその実情の堕落圏の世界を眺める神様としては、これをいかにして復帰するかというと、全体復帰よりも、まず一つのモデルを造る。だから、大量生産する時、型を造るんだね。型を造ってそれを当てはめるようにして造る。個人だったら個人の型を造ればいい。そうすれば個人の型に当てはめるように造ることを考える。家庭だったら家庭のその型を造る。氏族だったら氏族、民族だったら民族、国家だったら国家、こういうようなことを考えなければならない。そういう結論になるんだね。そうすると、その型を造らなければならない。それで歴史を通して完全に個人の型を造るには、それは創造原理によって蘇生、長成、完成という三段階を通過しなければならない。環境を迎えて相対基準を結んで愛というように……。すなわち環境があれば必ず相対。相対圏の中心が人間である。人間の中心が愛というようになっている。そういうような段階になっているから、人間自体、個人の蕩減をする。個人の基準を立たせるにはそう簡単でない。周囲から、個人の周囲をね。

     だから、こういうことを考えてみた場合に、歴史上今までなぜ、愛なる神様は宗教世界に女が参席することを許さなかったか?

     今まで男ばかりだね。男を中心として摂理したんであって、女は例外ものとした。それはなぜか?個人が完成するそのモデルを造るにしても、アダムモデルを先に造ったのちに、それからエバモデルというふうになっているというんだね。それはモデル自体が人間一人ではいけない。神様が、霊界がここに加入して万物界と共につながらせて、心情的内容を中心として元を造ったんだから、神様が心情の中心であり、霊界の中心である。神様が中心になって初めて万物圏のすべてを消化し得る人間の立場に立つんだね。そうなるには、人間自体が神様のためには完全に吸収される。何も残すものなくして完全吸収される。残るものがあったらいけない。完全吸収されるような立場、それが宗教人の行く生活の態度だ。完全吸収だから、そこには自分の意志とか自分の意見を介入してはいけない。絶対的に神の意志どおり。私は存在しても存在しないような完全否定圏内。完全否定圏内ばかりではなくして、我自体は完全否定の上に完全吸収、完全に吸い込まれる。

     神様に対し、プラスの自分の主体性を主張すればこれは反発する。すぐサタンのものになるんだね。反発する主体がサタンだから、自分が反発するような逆の主張をもつというのは反対する主体圏に立った結果になるから、サタンのものになる。だから、神の理想圏につながらせることは絶対できない。ここにおいて、宗教世界には絶対服従ということが出てくる。これをヨーロッパのメンバーたちは、はっきり知らなければならない。分かりました?なぜ絶対服従を要求するかというんだね。自分を考え、自分の何かを考えて持ち出すというと、第二の主体性が生じてきたような立場に立つ。第二の主体性はサタンであり、それはサタン圏に属するから、サタンのものになってしまう。だから、これによって完全否定圏を主張する。その基盤において、自分の何かがあった場合には、それはサタンの条件物になる。こういうような闘いを堕落した人間世界を中心として、神とサタンは分け合い、清算し合うそのことをせざるを得ない。人間が存在する目的もサタン(天使長)が存在する目的も、もともとは理想完成のためというんだね。サタンもそれを知っている。

     神が我々を造られたのも、もともとはすべてが理想完成の基準において造られた。それを知っている。だから、サタン自体それを否定しない。そこで、理想基準を完成し得るこういう条件だった場合には、それは神に属する。理想基準に即さないものはサタンに属する。不完成だね。不完成品はサタンに属するし、完成品は神に属すべきである。しかし、完成品を造り出すのはそう簡単ではない。絶対否定と絶対無の境地。自分の主張をした場合にはできない。

     まあ、こういう観点から見た場合には、こういう世界の今の現状から見て、こういう思想をいかなる世界で求めることができるか。そう見れば、自由という表題のもとに立っている西洋思想ではこれはなかなか難しい。自由観念においては、最後には自分一人が残るんだね。親、夫婦共に住むというと、旦那さんの自由、奥さんの自由、二つの自由の主張が、四人になった場合に四人の主張、十人になったら十人の主張圏を求めてくる。そうなった場合には最後には別々、孤立化、みんな別れてしまう。そこには家庭もなければ、父母もなければ、国家もなければ世界もない。みんな孤立して、最後には落胆して、我すべて持ちたがる本性の願いはあるんだけれども、現実にすべてを失っているような、それは落胆の絶頂に達する。それは自己否定を神のみ旨に立って否定するのではなくして、自分個人の満足、個人理想を求めるその目的が不可能だから、自己否定してしまう。それは自己放棄をしてしまうような結果にならざるを得ない。それが今の自由世界、アメリカだ。

     こういう世界ではこういう完成基準、神が願うこういう基準を求めることはできない。そう見れば、西洋思想よりは東洋思想においてそういうことが可能である。父母に絶対!父母に絶対に服従するとともに、自分の兄さんに服従する。その服従するその観念を拡大して、それは族長だとか、あるいは氏族だったら氏族長、民族長とか、国家の代表とか、そういうふうにつなげて、完全な服従体系をもったそういう基盤を得なければならない。得なければ神の願う家庭より氏族、民族、国家、世界圏は生まれてこない。分かりました?これを、はっきりしなければならない。

    ◆迫害を通して神自体が否定圏をつくる

     それで、神様はいかにしてそういう環境をつくっていくか。自分なりにそういう環境をつくれと言ってもつくれないよ。「宗教を信ずる者たちが自分自体で否定せよ!自分が否定圏をつくれ」と。それはつくれない。自分で否定圏をつくることができないから、相対関係において否定される基準をつくればいいんだね。立場が同じだよ。誰かに否定されるような立場に追い込まれればいい。何の話か分かった?自分自体が否定圏をつくることができないから、神様自体が否定圏をつくってやる。それみんな逆に打つんだ、みんな。これが迫害の動機である。分かった?何の話か。だから、神様を信じ、宗教を信ずるというと、みんな一番近い者が、親とか愛すべきもの自体が反対する。それは何を意味するかというと、結局はサタン自体が第二の主体圏に立って第一の主体を打ったことになる。だから、不正の者が聖なる者を打った場合には弁償しなければならない。この弁償の道をたどって宗教の発展がなされる。何の話か分かったの?

     だから、なぜ迫害させるのか?神様は宗教圏内において自己否定圏を個人より家庭、氏族、民族、国家、世界圏まで拡大しなければならない。自分自体がそれをやることはできないんだね。やれない。否定するとしても人間自体が否定の限界も分からない。“このぐらいでいいだろう”と思うんだね。それは蕩減復帰において個人否定基準が“これだったら、もう個人肯定完成、蕩減完成しただろう”と考える。それではいけない。世界的な蕩減のその個人蕩減基準に向けて、否定基盤をつくらなければならない。それは人間自体も知らないんだね。しかし、サタンと神様は知っている。分かりました?

     それで人間肯定否定基準においては、その限界を人間自体は分からないから、それの分かるサタン自体がその人間を、世界的な個人否定基準に向けて、これをぶっかけてくる。だから、今まで歴史過程において、迫害を受ける時に宗教は発展した、というような結論を出した。それはなぜかと。なぜか分からないが、そうなっているというんだね。それはこの意味だ。はっきりしたね。自己否定を自体ができないからサタン自体にそれを否定させることによってそれで屈服し、それに勝利し得た場合には否定圏勝利基準に立つのだから、その者は別の主体の相対圏に立つことができる。分かりました?だから、絶対主体なる神の前に絶対否定の迫害の結果において、神の相対圏に立つんだから、神は干渉することができる。だから、迫害の絶頂点をつなげながら宗教は発展してきているという理由はここにある。はっきりしました?

     だから、こういう一点から見た場合に、世界的に宗教を通して完成したがる者は、この世の中を否定して、山に行って祈ったり修行して完成する道が生まれてくるかというと、そうではありません。世界のまっただ中に立って、神と反対の立場に立っているサタンのすべての迫害のまっただ中にあって、神と一つになって完全に突き進み、攻撃する中で成し得る。その中でへこんでしまうものはなくなるよ。浮かんでくるものだけが成し得る。だから、今まで歴史を通して神様はたくさんの人を使っては、捨てた。未練なく捨てた。これらの人を中心として摂理してきた。何十年、何百年経てそれを摂理してきたんだけれど、それが最後になって迫害圏に立つ。

     そこで、個人的に勝利した場合、個人圏の発展の段階までは残るんだね。それが家庭迫害圏を乗り越えなければ、その時にはやられる。やられて新しいものを取り継いで摂理していく。そこではもうやられてしまうんだね。そこには同情も何もない。サタンがペチャンコにしてしまう。神様は手を打つことができない。それを神様は放棄してしまわざるを得ないのが、今までの無慈悲なる宗教の歴史路程である。

     こう見れば、大概、君たちなりにも蕩減復帰はどういうふうにやるべきかが分かる。自分一人で否定できない。だから、迫害を通して否定された条件圏に立たせて、神様と共に相対圏を拡大していっているのが、宗教を中心とする摂理の行くべき道である。分かりました?

     だから、迫害は絶対必要じゃない?(必要です)。絶対必要。迫害過程を通過せずしては、神に帰る道はない。みんなそうである。仏教にしても、儒教、キリスト教にしても、ああいうような過程を通過したんだから、世界的発展の時代を迎えるようになってくるんだね。このことを宗教は分からない。この基準を今まで分からなかった。なぜ、宗教は苦行しなければならないのか、迫害を受けなければならなかったのかということが分からなかった。その基準のポイントを、君たち分かったね。はい) 。

     そうなると、今先生の言う全体完成は、全体蕩減なくしては成せないということは理論的である。全体を完成に引っ張っていくには、全体的蕩減過程を通過せざるを得ないということが、これは宗教歴史において、絶対不可欠になっている。だから、宗教を信じて自分は祝福される、この世の中において幸福に生きるということは、そもそも間違った思想である。

    ◆メシヤとは何か

     宗教圏内には、再臨思想がある。再臨思想、つまりメシヤ思想が残っている。メシヤたる者はいったい何者なのか。神様の一番愛する者がメシヤだ。では、どういう立場が神の一番愛する立場か。神様から送られるメシヤを神様は愛するのに、いかなる位置において、いかなる立場において愛すべきか。神様の前に立つ者はいろいろいる。国を代表した者もいるだろう。あるいは社会を代表した者、あるいは団体を代表した者、いろいろな代表の男がいる。メシヤたる者はいったい、神の前にどういう男か。神もそういう者が必要だね。しかし、メシヤたる者はいかなる者か。メシヤは、ただ一つ、神の内心にあったその愛があるとすれば、その愛の全体が集結したその愛、方向を固め、出発点を同じくして、一致した方向のその愛を、総合された愛を受ける最初の者である。その者とは何か。神の前に初めて生まれた長男。長男だね。分かりました?

     メシヤとは何かというと、神の愛の前に初めて生まれた、神の愛の前に立った、初めて神の長男としての愛を受けるそういう立場に立った者がメシヤだ。だから、イエス様もそういうことを言ったんだね。イエス様はひとり子、一人息子である。ひとり子、息子であるというのは、全体の愛を受けることである。始めから終わりまでね。神が絶対なる主体となれば、(メシヤは)男として、絶対なる主体圏に立つ者だ。それはどんな立場か。親子の関係だ。親子の関係。分かりました?だから神の全体の愛を、個人に向ける愛、それから家族に向ける愛、氏族、民族、国家、世界に向ける愛。神の長男の子供として、すべての圏を超越したその基準において、代表的な愛を受ける資格をもって来られる者が何?(メシヤ)。だから、神の子供。神の愛する子供が生まれてきた。

     しかし、愛する子供一人で何になるか。子供自体は、その相対者を得なければならない。相対者をどこから得るか。天上から得るんじゃない。堕落の結果地上で失ったんだから、地上で再創造しなければならない。それで地上において宗教は何をやったかというと、天がプラスと言えば、地はマイナス。だから、天に向けてメシヤを願う。愛の主体者を願うところは神様ではなくして、この地球だね、人間世界だね。主体の愛を願うんだ。その思想がメシヤ思想だ。

     メシヤを迎えるために、世界版図を拡大して、個人の環境を超えて、氏族の環境を超えて、国家環境、世界圏につながるようなそういう基台を拡大しよう。拡大して、世界全体がその主体の神の愛の男の前に一つになる。何も反対する者がない。絶対服従する。自分自体はもう存在しない。ただメシヤのために存在するというようなそういう雰囲気を世界的に準備しようとするのが、旧約時代、新約時代の使命だ。こうなれば、簡単になるんだね。旧約時代、新約時代の使命は何かというと、地上にその相対者を求めてくる。そのメシヤの前にエバをつくる。絶対服従するエバ圏の拡大を成し得て、その反対する者のない立場で、愛の主体にその一点で結ばれれば、自動的に全体が結ばれる。そのような環境、世界的環境をつくろうとするのが、旧約時代の使命であり、それから新約時代の使命であった。そうなると、今のキリスト教、ユダヤ教はメシヤに完全に服従すべきである。

     しかし、今まで、信仰してきたクリスチャン、信仰してきたユダヤ教の人たちは、メシヤが来た場合には、すべてを捧げる、完全に服従するというような信仰観念をもつべきなのに、今のクリスチャンはどうだ?今のユダヤ教はどうだ?神の願う伝統精神から見た場合に、これは一八〇度違う。まるっきり反対だね。地上に来られるメシヤはともかく、神の摂理の勝利圏はともかく、自分が地上において成功すればいいと、こういうような考えをもつ宗教は、最後になれば神にやられる。最後になった場合には、この地上に影も形もなくなるように打ってしまわなければならないのが神の立場である。

     だから、そういうキリスト教や宗教は、末の時期になったら完全にやられる。天の鉄槌に打たれる。理論的だね。こういうような、その末の時期に、世界のクリスチャンは、「ああ、メシヤ、主様……」と再臨を願う。その願う内容を分析してみると、「ああ、自分が救われたい」。神の勝利圏については何も思わない。自分が天国に行きたい。自分の家族が救われたい。自分の国。自分の国以上、それは限界である。みんな国を越えて世界の果てまで、霊界まで拡大すべきなのにその限界を縮小して、自分自身、自分の国以上拡大できない。これは、サタンの作戦においては成功した作戦だ。この基準が残っている以上は、神の世界は生まれてきません。分かりました?

    ◆統一教会運動の目指すもの

     そうすると地上に新しくこの環境を真っ二つに打ち分ける、そういう運動をなさなければならない。全部否定!万民、宗教人が願うのは世界復帰だ。世界完成の神のみ旨を完成して、世界の果て、天宙まで拡大する。そういう理想の宗教が地上に現れるべきである。現れなかったら、神様のみ旨を果たすことができない。神様がいないことになる。神様がいた場合には、そういう運動が生まれてくるし、神様がいてみ旨を果たそうとすれば、そういうような環境を地上につくらなければならない。だから、必ずそういう運動を母体とした新しい宗教が生まれてこなければならないという結論は、理論的である。

     その運動は、いかなるものか。それが、まさしく統一教会です。分かりました?統一教会運動。統一教会運動とはいったい何か。今、先生が言ったような内容に合格すべき内容をもたなければならない。まずもって、自己否定を個人から世界まで拡大する。もしも、ある人が自分で、「自分は世界万民の前に、自己をすべての段階において否定した。認めよ!」と言ったとしても、それを認めることができるか?絶対認めることができない。メシヤが来た場合に、もしもキリスト教が完全服従して、完全に一体になったとすれば、それでおしまいだよ。

     メシヤが来た場合、「私がメシヤだ」と言えば、「ああ、そうですか」と言ってみんな従わなければならない。しかし、それができない。だから神様は今まで、数十万年の歴史を延長してこざるを得ない。これを知らなければならない。こういう内容になっていることを誰が分かるか。神様がいて、迫害すること自体これは矛盾している。愛する者に対して、神はローマでの四〇〇年間、キリスト教徒をなぜ迫害させたか。原則から見た場合、世界の果てまで通ずる基準が現れるまで迫害は続く。だから四〇〇年間で世界的になった。はっきりするだろう? (はい) 。それで、キリスト教基盤を中心として、統一教会の先生が地上に現れたのは第二次大戦後だね。これを話せばずっと長くなるよ。

     先生が願っていたのは何か。こういうような天的摂理の全体観を中心として立つ時、キリスト教はメシヤの話を聞かなければならない。「それを聞くか否かにキリスト教の生死がかかっている」ということを誰が信じるか。それは、まさしくそうだね。信ずれば生きるし、信ずるには自己否定しなければならない。自分の歴史を、自分の家庭を、自分の信仰基準を、すべてを否定するような基準に立って認めることができる。しかし、今まで信じてきた聖書観の眼鏡で見た場合には、再臨はこうだというその眼鏡に合うようなメシヤだったらいいんだけど、その眼鏡には合わないや。(笑い)

     自分たちの年齢からくる欲望とか自己成功ばかりを願っている。そういう個人主義的な眼鏡をかけて見ているから分からない。メシヤは天宙主義である。天宙主義だから、自分のはかりで知ることができない。あんまりでかいからね。言っていることは、耳で聞こえるんだけれど、内容は分からない。それは二十年、三十年先、永遠のことを言っている。自動的に距離がある。それは理解できない。そういうようになれば、結局、再臨の主が来られても、再び反対せざるを得ない。再び反対した場合は、これはすぐサタン圏に回る。神の永遠なる愛の実体、平面的地上の主体者として生まれるのがメシヤであり、それを否定するのはサタンだ。別のプラスの立場に立った者だから、すぐ、サタン圏に回る。分かりました?即時にサタン圏だ。いくら(規模が)でかくても即時にサタン圏だ。

     メシヤのための基台をつくるべき者が、即座に銃をメシヤに向けて、サタンの軍の先頭になっている。銃を天の方に向けている。それで、こういう歴史的伝統の内容を抱えている人間社会にメシヤが来られた場合には、必ず歓迎よりは迫害に追われやすいというのが、堕落した歴史世界の歴史観を通して見た結論である。分かりました?キリスト自体を否定するようになる。特に第二次大戦後において、アメリカ国家を中心とした全世界のキリスト教文化圏が最大の勝利をした。この歴史以来、宗教圏に世界を完全に譲った時代はたった一回だけあった。それが第二次世界大戦後である。そうだろう?

     アメリカを中心として、ソビエトだけ少し残して、それ以外のもの全部が民主主義圏内に、キリスト教文化圏内に完全に入った。その主体なるアメリカ自体が、メシヤに完全に服従したとするならば、世界はどうなったか。神様の世界に自動的になるべきだったんだね。それが、そうならなかった場合にはどうなるか。それが、そうならなかった場合には、再びサタン世界に帰って、その神の摂理の中心者に対して、それは総攻撃する結果になる。それが、この世の中のサタン世界の伝統的歴史観である。それで今まで先生は、何をやってきたか?

    ◆蕩減復帰完成

     天から見た場合、天に対して先生は、果たしてどういう使命を果たすべきか。一方から見れば迫害ばかりだ。それは、個人から家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙、すべてから反対された迫害の道である。それをたどってきた。そのものは歴史にない。そういうような人がいたとするならば、それは今の時における先生しかない。それをみんなは認めるだろう?宗教史上、一番最大の迫害を受けた者は誰か?(先生)。統一教会のメンバーだから答えるんではなくして、みんな教会に来ていない人も、レバレンド・ムーンであるに違いないとね。アメリカの主権者たちに聞いてもそうだろう。共産主義者に聞いてもそうだろう。仏教、キリスト教、すべての宗教、存在するすべての者に聞けば、「世界歴史上において、宗教指導者として、個人から世界的に一代において迫害された、そういう宗教指導者は誰か」と言えば、レバレンド・ムーンをさておいてはいない。第一の者はレバレンド・ムーンだ。分かりました?それは何年間?六十年間?集中的には四十年間の蕩減の道を行くだろう。原理原則を中心として考えればこういうふうに予想されるんだね。

     もしも、このサタン世界、外的世界、すなわち、世界から、国家から、民族、氏族から、全部総合して反対される中で迫害されるその者が神を持ち出した場合には、これは歴史的問題の男となるんだね。分かりました?こういう原則から見た場合に、こういうような立場に立った男がいたとするならば、その男がサタンとか、世界とか、神とか主張しながら自分のためでなく、世界と神のために生きるというような立場で、犠牲の道を教えて引っ張っていくような立場に立ったとするならば、これはまさしく神のみ旨にかなう摂理の路程、蕩減の路程を担当した者に違いない。そういう結論が下されるんだね。

     そうして、歴史上そういうような立場に立った先生自体は何を考えてきたか。個人蕩減完成。蕩減完成もなしには、個人完成という話はない。サタン世界においては、個人完成ということを成り立たせることはできない。成り立たせた場合には、サタンの世界の終わりだということになってしまう。だから、ここにおいて、それは決算するとか、清算したその内容の観念が必要だというんだ。ここにおいて、完成は蕩減完成というその観念がはっきり植え付けられるんだね。完成は自動完成じゃない。何の完成?蕩減完成。分かりました?だから、堕落世界の人間において人格完成をなすということはあり得ない。

     どういうふうにすれば、自己完成がなされるかというと、蕩減完成をなすと言えばなされる。蕩減を入れない者には、絶対、完成の道はない。それは、内から見れば個人完成をいうんだけど、神様から見た場合には、それを復帰というんだね。蕩減完成したその基準を復帰完成というんだね。だから、復帰は蕩減を通してなされる。だから蕩減復帰だよ。そうだろう?蕩減復帰完成をなすことだ。だから蕩減復帰は、もう、これは離すことができない。復帰するには?(蕩減)。蕩減して何するか?(復帰)。一つの形容詞になるね。蕩減、形容した場合は復帰が目的。復帰が形容詞になれば蕩減が目的である。分かりました?

     蕩減復帰を嫌がる統一教会のメンバーは、統一教会にいたとしてもサタンの王者である。君たちどうだ?今までどうだ?歴史過程をずっと通過しながら先生についてきてみると、「先生、何だ。昔も復帰、復帰、蕩減復帰、蕩減復帰。何年続くのか。もう何年もなぜ続くのか。十年も、二十年も……。二十年にもなった場合は、二十年延長だ。また、四十年になれば、また、二十年延長だ。そういうふうなやり方が文先生のやり方じゃないか」。それはそうだよ。(笑い)

     完成圏を一遍にやらなければ三回延ばすよ。それ原理観じゃないの。七年でやらなければ二十一年になる。二十一年を九段階に分けてやる。なぜ分けるか。一回でやって負けた場合、みんな失ってしまうんだから、一段階、一段階成して、つなげてやった場合に失わない。それを総合して、結合して、各段階基準に勝利したものを合併して一とおり越えれば、蘇生圏を越えることができる。そういう作戦をやっているんだから、見てみればみんなめちゃくちゃのようだけれど、神の摂理は収拾の目的に向かっている。

     サタンは知恵がある。サタンは頭がいいよね。利口だから、先生のやる方法をまねて自分は中心に立つ。そういう者、たくさんいるんだね。自分の欲望を中心としてやる。それは宗教の中で最悪の者だ。その目的は何のため?自分のために。名目は日本とか神とかそういうんだけれど、自分のためである。先生がみんな出発点になっているのに、それを全部さておいて自分のものにする。他人の金を持ってきて自分のものに使うのは泥棒だね。強制的に何の許可も得ずして自分のものだと片っ端から主張するのは強盗である。そういう人を見てみなさい。自分の内部でやられてしまうだろう。これをはっきりさせるんだね。分かりました?蕩減復帰、復帰完成。復帰のための蕩減だ。復帰蕩減。完成を中心として、復帰蕩減して完成する。蕩減されたのちに復帰する。復帰されて、完成の道を行く。同じことだよ。だから蕩減復帰は一つと思えばいい。

     年取った者、統一教会にいる古いメンバーは、みんなどうだ。別の主体者をもっていないか、どうだ?先生はいつでも公的に話して、責任者を公的にたたくんだよ。「おい、ああでかい体して、みっともない格好して、何ブラブラしている!」蕩減復帰だ。そういう腹(別の主体性)をもっていたら、引っかかるからね。公的に先生が代表して、世界的に代表して攻撃した場合、絶対服従すれば越える。そうすれば間違いなく出る。出た場合には、先生は黙って見ている。先生がけっとばせば最高だよ。大概整理できたね?蕩減復帰。蕩減は何のためだ?完成のためだ。何の完成?

    自己完成、家庭完成、氏族完成、民族完成、国家、世界完成、天宙完成のために。天宙完成は何のため?神の解放だ。神の解放をするためだ。目的は神の解放である。そこまで我々は願っている。分かりましたね。(はい) 。

    ◆神の道を行くべき者の伝統的な道

     先生は、それが分かったんだから、文句なしに、雪が降っても、風が吹いても、季節が変わっても、春が去っても、その季節を忘れて、一心不乱、蕩減復帰の道をむさぼりつつ、開拓していった道が先生の生涯の道である。だから、その生涯を総合して一言で表現すれば、それは悲惨な惨めな生涯だ。誰も同情しないその過去を残している。しかし、神はそれだけは知っている。先生について天に向けて祈ってみた場合には、泣かせる以外にないというんだね。何度も泣かせる。先生はどういうお方かと聞いてみれば、泣かせてくれる。目から、鼻から、口から、涙が、鼻水が、よだれが流れる。三つのその水が流れてくるような痛みを、心中の痛みを感ずるような中を……。それはなぜか。もともと先生はそういう立場に立つべき男じゃないというんだね。キリスト教文化圏が歓迎すれば、七年以内に、先生は三十代に世界を統率すべき能力をもっていた。真理をもっていた。その理論をもっていた。今教えるこの理論は今始まったんじゃない。ちゃんとその元を明らかにして、先生はこの道を出たんであって、今そういう基盤を果たして、自分の一生かけて成し得たんだから、これを教えてやるというんだね。空論じゃない。成し得たんだから、教えてやる。成しえない前には話せない。話した場合には、サタンの世界にあなたたち引っ張られていく。

     こう見れば日本のメンバー、反省してみましょう。この一点から見て皆今まで、ずーっと先生に従ってやってきた。十年、二十年の月日が流れた。その過程において、自分を反省してみた場合に、先生は世界に向けての蕩減の基準を、蕩減の峠を、絶頂を、ヒマラヤよりも高い、歴史にない、誰も越えたことのないこの絶頂を越えるために、よじ登って行く。現実において、日本から世界にロープをかけて上がっている。そこで、全部が苦労しながら足場を求め、爪を石に突き込めて、そして、できれば先生と共に縄を引っ張って、その縄を緩めてやるべきなのに、逆に引っ張ったことがないか?自分を中心としてブツブツ不平を言ったり、批判してどうだこうだ、韓国の先生だからそうだとか何とかいろいろ言う。もしも先生が韓国のことだけを考えたら、どうなっただろう。先生はもう霊界に連れていかれただろう。そういう者は世の中においても無用な者である。蕩減復帰、世界復帰、拡大整理したのちに再び帰ってきて、自分の子供とか、自分の家庭とか、自分の国を考えるようになるのが摂理観から見た神の道を行くべき者の本来の伝統的道なのに、自分を中心として、自分の家庭とか、自分の国とか考える。それを考えるようになった場合には、みんな世界はペチャンコになる。それを考えてみた場合、自分はどういう自分であったか、自分のことをよく知っている。自分で説明しなくてもいいよ。

     自分は果たして、神の前に面目を立たせる自分であったか。復帰の世界的開拓の道を先生が先頭きっているのに、自分はどういう基準において先生に向かい合ってきたか。冷静に批判して、今日の位置をはっきりさせないと、あすの勝利の基準は、はっきりした勝利は迎えられません。国家的側面から見た場合に、日本の国がアダム国家に対応するエバ国家の位置にあったとするならば、先生に一瞬の疑い、一瞬のその悩み、一瞬の苦労をかけてはいけないという観念をもたなければならない。堕落したエバによって、歴史的伝統が犯されたことを考えれば、その生涯の全体をかけて、世界を代表して、心情に一点でも傷をつけるような、そういう思いを残させるようなことをしてはいけないという立場に立つのが、エバ国日本の立場である。分かりました? (はい) 。不平を言うな。そういう意味だ。文句言うな。完全否定。伝道してみ旨の最前線に立て。

     この原則があるから、今の一時において、完成できなかったとしても、未来においては完成できる。理論的保証をすることができる。そう考えてみた場合、君たちどうだ。歴史を延長して完成するのがいいか。先生が生きている時代に完成するほうがいいか。(今です)。そのためには、死に物狂いで力をつけて、それはやらなければならない。今日までの歴史過程において生まれてきた宗教を信ずる者たちは、現代に生まれ変わろうと思ってもできないし、この一時は他のいかなる時代とも、取り換えることのできない価値ある時代だとして霊界で侍っている、臨んでいるということを考えてみた場合、我々はこの時世に、この地上に先生から、正面的にこういう話をされ、教育されながら、成して行くという素晴らしさに対して感謝しなければならない。分かりました? (はい) 。それははっきりしている。

    ◆世界的迫害の絶頂期を越えて

     全世界的に最後の絶頂期は、一九七六年だね。ワシントン大会を中心として、絶頂だ。先生は、それを知っているから、七五年に全世界に宣教師を送った。宣教師を一人送ったら、みんな関心をもたないよ。日本人だったら、東洋ばかりになるんだね。アメリカだったら、西洋ばかりになる。だから、全世界を代表するようにした。東洋人と、それからヨーロッパを代表したドイツ人と、それから南北アメリカを代表したアメリカ人。それが世界的である。それから韓国の文先生。三人は、レバレンド・ムーンを中心として出てきたんだから、日本人もみんなムーニー、ムーニーと言われるんだね。イギリス人、アメリカ人もムーニー、ムーニー。ドイツ人もムーニー、ムーニー。こうだろう?みんな相対圏だ。

     君たちだけだったら、ばらばらになってみんな喧嘩をやっているよ。日本は、「日本人が先に祝福を受けた。自分が最初であって、自分がアベルだ」。アメリカは、「文化的に見たら、アメリカが世界の民主主義を指導する国だから、自分が第一だ」。ドイツは、「そんな馬鹿な、ゲルマン民族は頭がいい、組織的で分析的で、理論的だ」。自分がみんな第一だ。第一の者が集まる。それはみんな主体だ。主体。ここにおいて、主体無の政策。主体性観念無。無観念政策。そうすれば、神は必ず援助する。そうはっきり言ったよ。「君たち三人が一つになれば、絶対的に神は援助する。発展する。もしも、闘った場合は、絶対発展しない」。そのとおりになってるよ。巡回師の報告を聞けば間違いない。原理原則は間違いない。それで、みんなずっと世界に散らばって、一三〇カ国に拡大したんだから、みんな、もうアメリカで闘うし、世界でもどこでも闘う。世界全体が傘みたいに広がっている。

     そこで、レバレンド・ムーン追放、地球上追放運動だよ。それで、ワシントンの大会前に追放しようとした。そう簡単にいきません。闘って、大勝利を得た。こういう闘い。まあそう見れば、文先生を中心として歴史的迫害の最高の絶頂期の一九七六年に結局、新しい時代を迎えるというのは理論的である。保証があるんだね。それで、一九七七年二月二十三日を中心として、新しい紀元が始まるということを発表しただろう?

     一九七七年二月二十三日、先生の誕生日を中心としてね。

     なぜ、そういうことが言えるかというと、これはレバレンド・ムーンがその世界的迫害の絶頂期において自分の苦難の苦しみによって回り道しながら、天のために、世界のために前進に前進する。だから共産主義世界は分裂。日本は、そこから五年以内にもう世界的になった。そこから上がった。エバを高らかに上げた場合には、アダムはエバのあとをのこのこついていっても、同じく救うことはできない? (できます) 。できる。日本を立たせて。だから神様は利口である。

    ◆エバ国日本の位置と使命

     目を見張って、四方全体、日本全国を回って、ああ、任すべき者がないかと見れば、これ任すべき者がいる。見てみれば、それはみすぼらしい、これはもう、日本人として無用な屑みたいな者がいるんだね。それがムーニーだ、ムーニー。しかし付き合ってみれば正直であり、その内容を見れば、国のため、世界のためには、すべてを捧げ、自分は協力して金なんかいらないと。あの人は尊いなと。それは摂理的にそうなったから、日本は責任をもてばいい。日本はエバだから、エバは乳を飲ませなければならない。飲ませるのに堕落したエバはその乳を一番最初に誰に飲ませたの?

     (カイン)。カイン。それから?(アベル)。アベル。女(娘のこと)はもういてもいなくても、それは勘定に入れないんだよ。今までは女は存在する者だけど、存在しない扱いをされても不平を言うことができない。

     だから、その乳を誰に飲ませたかというと、カインに飲ませたし、それから誰に飲ませた?

     (アベル)。アベルに飲ませた。飲ませて育てた者が二人喧嘩し合う。それはもともと喧嘩し合う要素があるからだ。だから、蕩減復帰において、もともとそういう要素をもっていない双子という立場に彼らは復帰できないのだから、腹の中からヤコブとエサウとは、闘うんだね。だから、母の腹に再び入れて、再びもとがえさねばならない。だから妊娠を通して、双子がはらまれても腹中で闘わない子供にならなければならない。共に抱き合う。そういうようにして生んだときに、乳を飲まそうとしたら先に飛んで行くんじゃない。君、先に行け、君、先に行け。二人で、それを抱えて乗った場合にはけっとばすのではない。それは交代を一日に何十回しても、もう不平を言わないで愛し合う、そういう子供を生まないと、そうならないと、旦那さんのところへ行くことができないんだね。それが母の運命、エバの運命である。

     だから、このエバ国家を立たせて世界的なでかいカインを立たせる。カインとしては話を聞かない。アベルとしてもでかいアベル。話をよく聞くアベルではない。話を聞かないアベルを先生が探してみれば、日本人内のカイン、アベルは話をあまりによく聞く。それで、世界的蕩減の条件として見る場合には、カインとして一番話を聞かない者、それが日本人の前にはドイツ人だ。ドイツ人は昔、主体だった。兄さんが対象になれといえば嫌がるよね。嫌がる者のナンバー・ワンがドイツ人。それからアベルとしては一番問題のある男、自由、自由だという。神を呼ぶけれど、ブランコみたいに主張がない。行ったり来たりする。それが何かというと世界的代表のアメリカだ。その双子の立場に立つドイツ人とアメリカ人が、共に親しいとしたらそれは駄目だ。みんな怨讐。全部が怨讐。母と子供も怨讐、子供同士怨讐。性格的にもそうであり、歴史的にも、そういう内容を抱えたものでなければならない。そう見た場合にはアメリカとドイツはぴったり合う。原理的にぴったり合うんだね。みんな怨讐、怨讐。

     それからもうアダム国家、エバ国家、天使長国家、みんな怨讐になる。みんな一つになるときに崩れてしまったんだから、再びそれを再編成するには、同じような立場に立ってやり直す。アダム国家の韓国とエバ国家の日本は怨讐だ。日本とそれからアメリカと怨讐。アメリカとドイツと怨讐。みんな怨讐。怨讐の者たちを集めて、愛によって生命力を中心として母の乳を飲みながらアメリカ人、ドイツ人、一つになれ!アメリカ人、ドイツ人、日本人、三人が一つにならないとアダムのところに帰ることはできない。死んでも帰ることはできません。これ原理観だ。蕩減復帰によるとそうなっている。堕落によって、神様とアダム、エバが怨讐圏に立った。すべてが怨讐だね。アダム、エバ怨讐。それから、カイン、アベル怨讐、父母、子、みんな怨讐。バラバラの怨讐圏のその種子を植えたその者が末になった場合には、そういうふうに結実する。そうなるとどうなるかというと、サタン世界のアダム国家、サタン世界のエバ国家、サタン世界の天使長国家、こういうような結果になる。それに反して、天的アダム国家、天的エバ国家、天的天使長国家、こういうふうに二つに分かれて戦ったのが、第二次世界大戦である。枢軸国家とそれから連合国家だね。それが世界的である。

     戦争は誰が先に始めたかというと、世界的なサタン側である枢軸国家が始めた。サタン的エバ国家である日本が、韓国を中心として東洋を占領。大東亜共栄圏は、神の理想を先取って、その理想を実現しようと思って出たものだね。天照大神の女の神。八百萬之神、多神教国家が日本である。それに反して、イギリスはエバ国家だね。天を中心として来る再臨の主、アダムを中心としてエバ国家。それからアメリカはエバの子供であるというんだね。アメリカはイギリスから生まれてきたというんだ。これはいつもくっついて回る。

     フォークランドのアルゼンチンとの戦いにおいて、アメリカとイギリスはいつまでもくっついていては世界は滅ぶ。分かれていかなければならない。それで天の基準を中心としたアダム国家として将来立って行かなければならない。アベルは、堕落する前の復帰されたアダムだろう、アベルはね。それが目的だよ。そのアダムの前に復帰されたエバ国家がイギリスで、復帰された天使長がフランスである。これに対し、サタン世界のアダム国家ドイツとエバ国家日本と天使長国家イタリア、これらが三つずつ組んで、神を中心として、サタンを中心としてそれぞれ四位基台という基準において、世界的に分裂して衝突したのが、第二次大戦である。その戦いは天下分け目の、地球分け目の戦いだ。それで天のほうが勝利したんだから、サタン世界のすべてを天のほうに返す。それで、サタン側の世界的な最後の舞台としての共産主義がずっとそれは共に存在していた。

     その共産主義とは何か。再臨の主のもってこられる理想を先取って出発した。神の側が、もしも失敗した場合に備え、サタンが既に準備してあるのが共産主義である。スターリンのやっているのをみるとまさしくそうだね。全世界を一つにする。しかし共産主義は、マルクス、レーニン、スターリン、マレンコフ、ブルガーニン、フルシチョフ、ブレジネフ、それからアンドロポフで八代目、だからもう終わりである。今からはもう下る一方だ。再臨の主が精神的全世界統合理想をもってくるのに対し、その反対の肉的基準において、世界統合理想をもったのが共産主義である。だから、共産主義は唯物論であり、再臨主は唯物・唯心論を世界的に統合して出る。

     だからキリスト教が神の前に再臨の主を中心として一つになったとするならば、良心とメシヤを中心として、心的基準と肉的基準を一致させた場合には、原理原則においてサタンの存在すべき基台がなくなってしまう。そうだろう?

     神様が主体圏と相対圏を管轄し得るような基準に立ったんだから、サタンの管轄すべき相対、世界圏はない。だから、共産主義はそこできれいに流れてしまう。民主主義世界が再臨のメシヤに侍ったとするならば、一九四五年から七年後に世界は平和郷に移るべきなのにもかかわらず、それが一つになれず反対したんだから、完全にサタンの先頭に立って神を攻撃するような立場に立った。そのために、個人的、家庭的、氏族的、民族的、国家的、世界的基準において、共産主義、民主主義、キリスト教、ユダヤ教、仏教、それらすべてが総合して反対した。それから、今アメリカ対文先生の裁判の闘いだね。分かりました?

     原告は誰かというと原告はアメリカだ。アメリカは自由世界全体を代表して、レバレンド・ムーンは一人。誰が勝つか。最後の絶頂に立って、それは勝敗を決する一騎打ちのそういう境地に立ったのが今の期間である。

    ◆摂理的四大国家

     きょう四月三日は、原理的に見た場合には、四数は地上平面数だね。三数は、蘇生、長成、完成の垂直線で三段階だね。四月三日というのは素晴らしいというんだね。それから、一九八三年は(一、九、八、三合わせて)二十一数。三月一日を中心として、全世界の統一教会、キリスト教信者、宗教全体をみ旨のために動員すべしとしたのが三月一日である。それが何かというと二十一数と四数、それから三数と四数、合わせて七数が結合するきょうではないかというんだね。だから、この日において、全体的蕩減、全体完成の話をせざるを得ないという結論になっている。もうすべてがきれいになったら、おしまいである。これを教えた以上はもう行きたかったら行くし、行きたくなかったら行かなくてもいい。先生には責任はない。

     こう見れば第二次大戦を中心として、先生が出動する、先生の出動の足場はどこか。韓国のキリスト教?

     それはアメリカを中心としている。アメリカは宗教改革の時に旧教からみんな追われて逃げてきた。宗教世界で、それはみんなアベルたちだ。旧教を中心として反対される時期に、ヨーロッパ全体から引き抜いて集めたのがアメリカの国である。それはキリスト教内で見た場合にはアベル。アベルたちを集めて新教国家、独立国家をつくったのが二〇〇年前。それが今、先生の願う一九八五年まで、アメリカの独立の日から、二一〇年になる。一七七六年からして、一九八五年はちょうど、二一〇年に当たる年になる。それで四十代の大統領レーガンを中心として決戦を果たすべしとなっている。みんな原理的である。日本では明治維新一二〇年に当たるんだね。みんな、その基準を中心として集中している。こういうような歴史的世界を前にして、先生自体が摂理観的に、こういうふうに新しい出動命令をするというのは、世界の絶頂圏で新しい何か、破壊でないとすれば結束の運動に違いないんだね。そういう時期に入ってきた。破壊の運動ではなくて結束である。

     二つの意味がある。それは統一教会のやっている破壊の運動ではなくて統一の運動だ。統一の運動ね。だから、ここにおいて民族統一はもちろん、人種統一、宗教統一、西洋、東洋統一を果たさなければならない。それを今、成しているのが、現実の場である。それが統一教会だね。分かりました?

     こう見れば、歴史もこの基準に集中しているんだね。日本歴史も、アメリカ歴史も、西洋歴史もみんなそこに集中している。それから、韓国から見てもそうだよ。韓国から見て、今年、四三一八年。十八と言えば、サタン六数の完成数になる。六数完成、それは、いつでも二十一数、十八数以降に登場するんだね。まあ、そういう意義があるんだね。こう見れば、すべて歴史がそうだ。摂理観がそうだ。摂理の中心国家の歴史も、みんなこういう悲願を中心として最後の結末をつけるように歴史は発展してきたということを考えてみた場合に、神様は科学者で数理的な方である。だから、蕩減復帰は数理的条件を条件として復帰していく。そうだろう?

     期間とそれから人と条件物。

     だから今、我々統一教会から見た場合には、四十年の期間内に、条件物は三大祭物だね。先生から見た場合には、アダム国家、エバ国家、天使長国家。先生を抜いて見た場合には、エバ国家、カイン国家、アベル国家。それが、条件物を中心として期間を中心として、アダムという存在がアベルの存在だよ。世界全体を代表すべきアベルの基準、それは、メシヤの立場であるんだね。だから、こう見た場合に、四十年前の立場に復帰される今においては、我々は聖なる捧げ物を、世界的に総合した世界的な者たちを神の前に捧げなければならない。そうしてサタンと神と、それから祭司長であるメシヤと談判して、サタン世界からすべての世界を勝利のサインをして、戻してこなければならない。サインを誰がするか。勝利のサインを誰がする?

     神様がするんじゃない。メシヤがするんじゃない。サタンがする。

     だから、今どういう時期かというとすべての国家を代表して、四大国を選出した。韓国はアダム国家であり、エバ国家は日本である。なぜか。キリスト教文化圏が反対したからである。反対しなかった場合には、イギリスがエバ国家であった。第二次大戦において、アダム国家はアメリカで、エバ国家はイギリスであり、天使長国家はフランスであった。しかし、神側のキリスト教文化圏が反対した。だから、サタンが頭を持ったんだから、しっぽを天が取らなければならない。それは何かというとキリスト教文化圏をサタンが握ったんだから、天は反対の一番しっぽから。しっぽがどれかというと(第二次大戦におけるサタン側の)アダムであるドイツだよ。それからエバ(日本)だよ。それから天使長国家。そういうふうになっている。

     それから、韓国自体はキリスト教文化圏が反対したんだから、逆の立場において反対の立場をとるようになったことによって、先生の故郷である北がやられる。頭がやられる。しかし、しっぽが残っているというんだね。分かりました?それが南韓である。サタンは今誰を握っているか?

     アダムの頭と天使長のしっぽを握っているんだね。それが北韓と東ドイツだ。韓国は北と南。ドイツは、西ドイツ、東ドイツ。これは、それぞれ垂直と平面。サタンは北韓とそれからドイツの東部、ベルリンを中心として握っている。だから、韓国で共産主義問題を解決すれば、ドイツは自動的に消化する。こうなれば共産主義は自動的に地球上から後退し始めるんだね。分かりました?それから、金日成は北のほうで親というんだね。「自分が父だ」。南のほうの統一教会では、「真の父母だ!」。どっちが父だ。真の父が二人になってきた。主体者が二つになってきた。これをどういうふうに消化していくか。世界万民が蕩減条件を立たせればいい。世界のために犠牲になれば自動的に一つになる。世界万民が先生と一つになって犠牲的立場に立てば、自動的に解決する。共産主義も自動的に消化する。そうなれば、その世界はもうおしまいだ。

     こうなってみれば、今アメリカも末にきている。イギリスもドイツもみんな末にきている。どうにもならない。もう仏教圏、イスラム圏、キリスト教圏、みんな末になっている。民主主義も末、家庭も末、国も末、みんなめちゃくちゃになって何が何だか分からなくなってきた。愛の秩序が乱れて世界が破壊状態になったんだから、ここから新しい愛の秩序を立てなければならない。蕩減復帰条件を立たせて天に忠を尽くし、天地共につなぐ。真なる愛の中心圏を立たせることによって、一つから二つ、二つから三つと秩序を拡大して秩序が世界化された場合は、そこから新しい地上天国実現が完成される。そうなってしまうんだね。それで今統一教会は、このすべての難しいサタンの迫害圏を満たした基準から、それを総合して結合し得る核心国家を選ぶ。それを見れば、サタンが一番愛する国だ。

     今の世界情勢から見れば、韓国はアジア情勢において一番重要な位置にある。そうだろう?日本はアジアにおいて、アジアの海洋国としては、それは一番重要な立場にある。太平洋を中心として、海と関係をもって、海の権限をもった者は日本を願うんだね。なぜかというと、日本を中心に大陸につなぐには島国を中間に置かなければならない。だから西洋文明は東洋に向けて入るというんだね。西洋文明は太平洋を通して入る。そうなった場合には、西欧文明は日本を必要とする。だから今まで日本を必要とするように、日本がお世話になったり負債をしてはいけない。天的摂理にかなわないというんだね。世界からやって来るその者たちを、ちゃんと基盤をつくって教育する。何かやりながらなだめながら教育するような立場にならなければならない。

     それで、日本は緊急に、三十年間、四十年間の期間に世界的物的祝福がなされたね。それはどこに行くためだ。日本にとどまらず大陸に行くためである。島はエバ国、女と同じである。大陸を慕っている。大陸に行くのに、どこを通って行くかというと、韓半島を通って行くようになっている。こういう現実だから、韓半島を通って行くのに船で行くのは大変だ。陸続きに早くしなければならない。それがトンネル問題、ハイウェイ問題に通じてくるんだね。

     だから韓国において、いよいよ先生がもっともっと必要になってきた。統一教会が必要になってきたし、世界外交問題にしてもね、国内問題にしても統一教会がいよいよ重要になってきた。おもしろいもんだ。

    ◆男性理想完成基盤の復帰

     こう見た場合にすべてを統合して、今そういう基準から見た場合に、蕩減復帰しなければ完成はなされない。全体完成というものは、全体蕩減基準において生まれるんだから、ここにおいて我々はどういう結論を出すべきか。蕩減は反対の者たちと組み合うんだね。分かりました?

     反対の者。だから、怨讐の者たちを組み合わせて、血を流すようにして捧げ物を捧げた場合に、神様がそれを受ければ、宗教自体が終わるんだね。何の話か分かった?

     今まで神の愛されるものを祭壇に捧げたけれど、今の時期には、怨讐のその主体の一番愛するものをもってきて、蕩減させて、壇上に捧げて、神様がそれを受け取ったとするならば宗教圏が過ぎてしまう。宗教はいらない。宗教は分別のためだろう?

     分別時期がなくなってしまうんだね。だから祭物は、平面の存在すべてをどこからもってきても、神に捧げた場合に、神が受けるという結論になるというんだね。何の話かわかった?

     そういうようなことを世界的になさなければならないから、統一教会の文先生は何をやるか。怨讐を愛して、そこから出発せざるを得ない。それが原理だ。天国は、天の基盤というものは、サタンの本郷の地のまっただ中から出発しなければならない。そうするには、サタンが一番愛するものから反対される立場でやられながら、愛の心情をもって、一番端から、ずっと自然屈服させていくんだね。正しい基準を打った場合には、損害賠償をしなければならない。それは宇宙の原則である。賠償基盤を通して蕩減復帰していく。そうするには、サタンが打つと同じく打った場合には賠償がなくなってしまうんだね。打たれる時に、素直に打たれ、打たれて復帰してくる。こういうことをしながら、外からずっと復帰しながら、サタンの内部の一番重要なものを復帰する。そうなると、植えたものは、それは収穫するんだよ。種を植えれば、必ずそのとおりの立場において収穫される。悪いものは悪い倉庫に、良いものは良い倉庫に分けるのが主人の使命である。この地上に二つの種を植えた。悪い種と良い種を植えたんだね。だから、良い種は天の倉庫に、悪い種はその火のやぶに入れて燃やしてしまうんだ。だから今の時はどういう時期か、収穫の時である。

     サタン世界の収穫を見た場合に、みんなバラバラだね。限界の立場に立っている。だから、みんな一つにする。赤も白もニグロも、四グロも八グロもみんな一つにする。そういう運動をやっているのが統一教会だよ。それから、この世界は個人主義の世界である。家庭も、親も、夫婦も、子供も、兄弟も、氏族、民族、みんなバラバラになっている。しかし、統一教会はもう世界から、国家を越えて、氏族を越えて、家庭を越えて、みんな一つだ。反対のことをやっているんだね。

     それで結婚にしても、昔は同族の中でやってきた。しかし、我々は世界の果てからみんな世界から来た。日本人が夢にも思わなかった韓国人と結婚するしね。それから、黒人と結婚するとは夢にも思わなかった。夢にも思わなかったことを平気でやるようになってきたね。誰によって?

    神様によって。そういうふうにして何をするのか?

     みんな一つになるためである。なぜ一緒にしたがるのか。それは、サタン世界は分裂して破壊して滅亡の世界に引っ張られていくが、その分裂するさなかで統合して神の世界に引き入れるためである。

     この過程において、誰が蕩減するのか。蕩減の責任は誰がやるか。統一教会、その主流にいる者たちがそれをやる。その主流の長であるレバレンド・ムーンが、代表的に世界に向けてこういう蕩減路程を歩む。個人的蕩減をするには、男を代表した蕩減だよ。そうなれば、女性たる者、すべて、もう悪辣な女性もたくさんいるだろう?そういう女性までも自分の奥さんに迎え入れたいような、そういう心情の運動を起こさねばならない。何の話か分かった?

     そういう環境から、これを蕩減復帰しないと、これは個人としての男の理想完成基盤は生まれてこない。だから、老いた女、若き女、霊界にいる昔の何千年も前の女たち、地上に生まれ、その目を開けて、ああ男だと認識できる四、五歳の女の子供、すべての女性たる者から慕われ、愛されてこんな男を旦那さんにすればよかったなあ、と思われるようにならなければ、個人の人格、男完成基盤は生まれてきません。こういうことは初めて聞くんだね。それ、日本のあなたたちも、そうだろう?みんな日本の女性たち、結婚するまで、先生をみんな慕っていたよ。そうだろう?

     霊界が、霊的にそういうように見せるよ。ずっと、二人共に手をつないで、散歩しているのを見せるんだよ。みんな経験あるだろうね。それは、なぜかというと、一人の男が三大愛を総合しなければならない。お母さんの愛、それから妻の愛、姉さんの愛の三大愛。それを、堕落したアダム一人の結果によって失った。だから、三大愛の分別期間がなされてきた。これを統合しなければならない。アダムを主体として、個人完成、世界的な、歴史的なその蕩減条件を立てる。あらゆる層の女性たちが、誰もが慕わざるを得ない、慕うような環境に立たなければ、サタンを分離できない。いよいよそうなったという場合に勝利するには、あらゆる女性を正しく導くそういう方向をとらなければならない。何の話か分かった?

     それはもう公娼街の女性にも正しい道を教えてやる。慕っていくように教える。真なる男として迎えるようにする。そういう環境を経て誘惑のまっただ中に入ることだ。それは、引き罠だね。しかし、引き罠に引っかかるのでなくして、その引き罠を抜いて解いてしまって勝利をなさなければならない。何の話か分かった?

     いくら美人であっても、その女性が誘惑したといっても、個人の欲望のためにその道をたどっていくことはできないというんだね。正義の道を立たせるためには、善なる教育からしていかなければならない。そういうふうにして、サタンのすべての雑多な男女関係に、引っ掛けていって、堕ちるようなことをしてはいけない。そういう伝統的な基盤を立たせなければならない。そうしないというと、個人完成、男性基盤が地上に生まれてこない。

    ◆エバの再創造と家庭安息基盤の確立

     そういう個人完成した場合は、次に何をするか。エバを再創造しなければならない。エバはアダムを型どって造ったんだからね。神はアダムを造って、アダムを標本としてエバを造った。それは何を意味するかというと、再創造原理において、アダムはアダムの責任を果たせないで、エバを堕落させたんだから、アダムは再び、エバを創造しなければならない。もう体は造っているんだね。サタンがもっている。それをサタンから取ってこなければならない。そういうような地上基盤を天は準備するんだね。それで、二十歳以下じゃないといけない。だから、その年齢の何も知らないお母様を連れてきた。それは再創造だ。「君は絶対服従」。七年間の期間、それは、七〇〇〇年の歴史の蕩減復帰だ。七年の期間、服従しなければならない。あらゆる面において、どんな場においても、その旦那さんに服従しなければならない。

     こういうような過程を通じて、父母の日を決定して、子女の日を決定し、万物の日を決定して、神の日まで行くにはこれだけの内的問題、いろいろな問題を蕩減復帰して、御父母様自体がすべてに讒訴圏を乗り越えて得た勝利の条件を満たさなければ、神の日を決定することはできない。神の日は完成したアダム、エバの出発基準を意味するんだね。そこから一九六八年から、その基準によって統一教会は何をしたかというと、先生が家庭を中心として出発するんだから、その時、祝福家庭、一二〇家庭までを全部、全国的三年間迫害の道へ追い出した。蕩減生活である。その三年蕩減の基盤を中心として、先生はアメリカへ大移動するんだね。民族的家庭基盤を完成した基盤の上に、歴史をつなげて、世界の中心地であるアメリカに向かう。それは七〇年を中心に、そういう意味で、三年間の家庭出動を命令した。それは国家的家庭蕩減だ。いろいろなことがある。子供をそれはもう孤児院に入れたり、ある時には自分の親戚に子供を夜に預けたままみ旨の道を行く。

     人類の過去の歴史にあったすべての女性が、その親が、子供に対してやったと同じようなことを、この期間に家庭を中心としてやらなければならない。それで、先生はいろいろ迫害された。統一教会の家庭自体からもそうだ。「祝福家庭が生活できる基盤づくりをしたのに、やっと何とかして仮小屋を一つ造って、鍋とか匙とか箸とか、家具なんか、みすぼらしい物だけれどちゃんとそろえたのに、先生はそれをまた、みんなけとばして、ぺちゃんこにして、なぜまた追い出すのか」。いろいろ不平を言う者もあったんだね。それでも「おい、行け!」。それはなぜ?家庭完成基盤を得るには原則がある。氏族的蕩減をなさなければ、家庭安息基盤は生まれてきません。個人完成安息基盤を得るには、家庭安息基盤において勝利蕩減をしなければならない。蕩減復帰して勝利した基盤を得なければ、個人安息基盤は生まれてきません。それは鉄則である。分かりました?

     

    ◆アメリカ、韓国の救いのために




     それで家庭蕩減のその三年が終わり、先生はその基盤を中心として世界へつなげたのが七七七双。世界につなげて。その後に、世界の新しい主体圏に向けて、アメリカという地に飛ぶことができた。その背後をサタンはよく知っている。韓国のその空港からもう三カ国を通して、日本を通して、カナダを通して三カ国、四位基台をつくった。韓国、日本、カナダ、アメリカ、四カ国だよ。みんな原理的だよ。

     それで、着いたのが一九七一年十二月十八日だね。ちょうど、リトル・エンジェルスがカーネギーホールで公演する、その時だった。まあ、そういうふうにして、アメリカに大移動した。その時は誰も知らない。先生がアメリカに行くことは、先生と神様以外には分からない。金協会長も知らなかった。その時の先生の説教をずっと読んでみると、みんな、その内容を言っているよね。そういうふうにして三年半以内にアメリカにおいて、イエス様の苦労の道を蕩減復帰しなければならない。

     アメリカに行って何をしたかというと、キリスト教圏を中心として、大々的復興会をした。その時は、七四年の時には大歓迎を受けた。その時の先生は、いろいろな賞状をもらった。一二〇〇枚もの賞状をもらったんだね。市民権を得たり、いろいろの名前をもらって大歓迎を受けたよ。その時大歓迎を受けたというのは、韓国においてキリスト教が反対したんだけれど、世界の全体的キリスト教はアメリカだね。だから、アメリカを中心として歓迎される基盤をつくれば、韓国から反対されたキリスト教の過ちを復帰することができる。それで一九七四年の十一月二十四日までの全国的大復興会の時に、アメリカの教会すべてが歓迎した。勝利の歓迎を得てそのあとに何をした?それ以降に、七五年四月一日を中心として、IOWCを引き連れて西欧文明のキリスト教文化圏を韓国にぶっつけた。韓国に西欧的なキリスト教、西欧キリスト教中心の二世が来た。それで、釜山から統一教会の機動隊を中心として回った。

     二〇〇〇年前、ローマとイスラエルとユダヤ教と組んで、イエス様を殺し反対しただろう?

     今は反対にアメリカと韓国と組んで、それはイエス様と一つになるように統一教会と一つになるんだね。韓国でそれを蕩減復帰だ。それで、釜山、大邱\D00C\D00E11、大田、それからソウル。四段階目に完全に勝利した。どこまで行ったかというと、ヨイドのその大会まで、一二〇万の大会まで拡大して勝利した。それで、そういうような基盤をつくってアメリカで実践部隊と共に七六年のヤンキー・スタジアム大会とか、ワシントン大会で実践だ。こっちは質が違う。アメリカは先生の話聞け!それは、先生の話を聞けというんだね。それは、大会の内容がそうだ。アメリカは火事になったんだから、火事になった場合には外から消防車を呼ぶ。アメリカを救うには外から来た者が救ってあげなければならない。それがレバレンド・ムーンである。

     病気になった時には、医者を外から呼ばなければならない。それは何かというと、アメリカの病気を治すには、統一教会、レバレンド・ムーンしかいない。そういうことを、みんな正面きって言うものだから、これはもうしゃくにさわるどころではない。腹がむくれて仕方がないね。それで上から下まで総動員して、レバレンド・ムーンに対して総攻撃時代に入った。それでフレーザー委員会が旗揚げした。共産党とフレーザー委員会を中心として、七七年から本格的に闘争時代に入るんだね。その時に、朴普煕氏が先頭に立って闘った。朴さんの立場は、天使長の立場と同じである。天使長の闘いだ。なぜ天使長かというと朴さんは既成家庭だよ。(三十六家庭のうちの)アダム家庭、最初の家庭だからね。それは、アメリカを中心として誰かが勝利しなければならない。聴聞会は、もう闘争だね。フレーザーに対し真正面から攻撃する。今までの歴史において、そういう抗議をされたことがない。

     カーターと正面衝突した。それはもうカーター就任中の四年間。説教は毎日カーター攻撃だ。「民主世界を売る者である。共産主義のその手先だ」と。だから、カーター時代はもう大変だった。先生に対して、「政治的だ、怨讐だ」と言って、世界の大使館に統一教会のメンバーが通行できないように封鎖していた。それを日本もまねた。ドイツもみんなまねた。しかし、もうすぐ三年以降にみんな解放されると思うよね。それ解放しなければならない。

     思想においても、統一教会は完全に優位な立場に立っている。それは大学教授らの知識階級は先生を支持している。大学界において学生活動を中心として共産主義運動は、いよいよ大混乱に陥っている。それで、法廷闘争しながら言論界動員。それから経済問題。それから、司法協会。いろいろ最高基準の結束基準を成し終えて、今度帰った。

    ◆今は世界的出エジプト路程の三年期間

     だから、この前も言ったように投げ網をずーっと投げて数千匹の魚にかぶせて、紐を伸ばしておいて、時が来た場合には、ああ、春だ、時になった。いよいよ必要となった場合には、巻く。ウィンチで巻けばいい。神様がね。それで、引っ張る紐は何かというと、統一教会の思想である。統一思想のその縄に引きずられて巻かれていく。そうしたら、その中の魚はみんなどこの懐に行く。神様のところへ行く。すべてが神様のところに。だから、こういうようなまっただ中において、最後の決断をなして出動命令をなす時が来なければならない。それが今の時期である。もう過ぎている。三月一日、そういう命令を出してアメリカにおいて全員動員した。それはカナン復帰において、カナンの地を前にし、三年をあとにして訓練する時期である。

     エジプト時代において、三日を中心として、我々の神に侍るように期間をパロに願ったと同じような自由期間三年。そこではもう死に物狂いに活動しなければならない。自由期間三日と同じようにね。そういう神に忠誠する三日を願ったと同じように、その期間に当たるその三年が今からの三年期間である。分かりました?その荒野において、六十万人の一世はみんな、それは鷹の餌になって死んで行ったんだけど、後世、二世は、カナンに入った。今も、アメリカの地とか、日本の地とかの第一世は統一教会にみんな反対した。しかし、二世は分からないね。

     我々は二世を生育して二世を整備する。今、三年の荒野の中にある。廃れたその立場に飢え死ぬような境地に追われていても、そこにおいて国を愛し、祖国を愛する熱情によって、すべての環境を克服する熱情と信念と出動の訓練をするのが今の三年間であるというんだね。分かりました?その訓練をなさなければカナンの七部族を解放できない。だから今からそれを訓練しなければ、その共産主義を壊滅させることはできない。荒野の果てに立っておる我々統一の信徒は、決意を固めて天の心情を中心として、天の心情の兜をかぶれ。いかなる時でも、征服しなければならない。実戦場に向かう勇士をつくらなければならないのがこの三年間の使命である。分かりました?

     だから、世界の果てのどこでも、二十四時間どこに行っても、勝利の旗を揚げよ。町は町、市は市、郡は郡、村は村で、いずれの津々浦々の一軒の家だに残さずして、そこにおいて勝利の優勝者たる、優勝兵たる使命を果たさなければ、天意にかなうイスラエルの全体的使命を果たし得なかったことになる。この期間に、「統一教会は荒野の道を越えてカナンに行く群れである。統一教会をリードするレバレンド・ムーンはこの時代のモーセと同じである」ということを早く、はっきりと、絶対に宣布、通告しなければならない。分かりました?

     この期間が三年の期間であって、そういうふうにして反対するすべてを踏み越えて、我々は神と世界のためにすべてを捧げる。我々は国があっても国がない。家庭があっても家庭がない。すべてを神の一念に任せてその声に従う。神とその理想の世界万民の愛の世界のためにすべてを捧げて、絶対服従圏でもって捧げて一体化して、超国家的、超民族的に、そのエリコ城に向けて直進して行かなければならない期間がこの三年間であるということが分かりました?

     何ら躊躇することを許さない。すべてを投入する。力があれば、力を投入せい。すべてあるだけの尊いものすべてを天意に任せて投入する。そればかりでなく、命と共に神の愛の心情をそこに打ち込んで、すべが砕けてなくなっても愛の心情は永遠に残るという信念でもって進んでいかなければならない。こういうような歴史的、最終着点に立っていることを各人が知らなければならない。その場にあって我々は敗北者になってはならない。敗北者は悲惨である。勝利者にならなければならない。超民族的、西洋、東洋の統一教会のメンバーは氏族を超えて、国を超えてその一点に花を咲かせる。火をつける。そして一緒に爆発する。爆発すれば心情世界に新しく生まれてそこで再復活する。神様も復活する。神の解放圏がそこにおいて生まれる。こういうような偉大な蕩減復帰基盤を目前にして、前進する今の我々の隊列であることをはっきり知らなければならない。

     こう見た場合には宗教全体もそうだ。今年になったら、神様会議が三年目である。「ゴッド・コンファレンス」。それで、今年も全宗教を動員してその中核のメンバー、若い者をずっと結束する。そういう「ワールド・ユース・フォー・ゴッド・セミナー」をやっている。世界を含んでいる。宗教界を超え、人種を超えて、結婚を中心として組んでいる。それから知識を超えて組んでいる。あらゆる方面を組んでいる。だから、今から世界の知識者は考えている。「世界的に考え、世界的に活動する歴史的人間を数えてみれば、それはレバレンド・ムーンしかいない」というように、知識階級の人たちがもう、そういうふうに認定するようになった。

     だから、世界的問題はレバレンド・ムーンがやらなければならないという基準にまでなっている。今度この三年間で我々がその使命を果たす。天が支持する勝利の基盤をつくった場合には、完全にマスコミが新しく我々について書き始める。そう見るよ。その時は、日本で反対されるムーニーの、蕩減復帰条件を必要とする迫害の時代は、我々の目前から永遠に消えていくだろう。行く先々に歓迎の歓声が天を衝くほどに、それはとどろきあふれるであろう。

     そうなれば、我々はもう伝統をつくったね。伝統的家庭基盤をつくった。世界宣教師を中心として伝統的教会をつくっている。そして思想の目標は統一の世界、一つの国を慕っている。「私の誓い」と同じようにその国は一つの主権であり、一つの国民であり、一つの国土であり、一つの文化である。一つのその真の父母を中心とした血統でつながっている。心情圏によって犯すことのできないそういうような理想的な後継者になるというような誓いをすべて成し得る。聖書の、「怨讐を愛せ」というすべてが成し得る。聖書で教えたイエス様のその教えについて、一般のクリスチャンは、怨讐は個人と思ったのに、そうではない。統一教会は怨讐国家とか世界とか、国家を中心として愛する。怨讐国家圏に天国出発基準の目標をおいている。怨讐国家の中心点に天国の出発点をおかなければ、伝統的基盤をつくって出発をなさなければ地上天国は生まれてこない。こういうふうにして伝統を立てたならば、いかなる歴史が続いてもこれ以上の思想、これ以上の消化する主義は生まれてきません。最後だね。四大怨讐国家による世界的基盤を中心とした、勝利的天の伝統の基盤の上に天国を出発せしめる。それをなし得た場合には、そこから地上天国は始まる。分かりました?

     それで今、この三年間は全体蕩減。もし三年でできなければさらに三年、我々は延長できる特権をもっている。六年間。三年間に全体蕩減。蕩減して何をするか。復帰。復帰は何の復帰か。完成。個人復帰は、アダム個人完成は、家庭完成の基であり、氏族、民族、国家、世界の完成の基であるんだね。そういう基盤がなされる。それで、先生が全体的蕩減条件を立てて、サタンから勝利的基盤を得て、それを縮小して、君たち万民ともどもが、それを成し得るような環境的勝利圏を授けるためのものがホーム・チャーチである。それは、カナンの福地を復帰した時の遺産を譲与する基盤である。分かりました?

    ◆なぜ怨讐を愛するか

     今、我々のカナンの復帰はどこか。地球上。地球上がカナンの地である。地球上全体にもう既に勝利の条件を得て、ホーム・チャーチ基盤拡大は国境を超えて、主義主張を超えて果たしつつある。今、共産圏でもやっている。それが広がって共につなぐ時には、天国になる。だから、ホーム・チャーチはカナン復帰し、それは土地分配されたと同じような所有物になる。所有地、自分に属する所有地になる。堕落しなかった人間は宇宙を所有する権限がある。ホーム・チャーチは宇宙を所有する条件物である。分かりました?

     万物とそれから人々、それから父母、それから神様。だから、ホーム・チャーチを通さずしては、真の父母と天の神様と一体化する平面基準を果たし得ないから、その基盤を通過しない者は天国に行かれない。行くようになっていない。だから、天国はホーム・チャーチを通して行くようになる。ホーム・チャーチをもたない者は天国に行かれない。それは原理的だ。それは何の異論もない。こういうような、全体的、総合の蕩減の内容を原理を中心として、勝利的な基盤を成し得てホーム・チャーチをレバレンド・ムーンが八〇年代に発表したということは、これは福音の中でも人類の福音である。

     この中から地上天国、この中から神の解放、この中からすべての理想国家、すべての理想天国が生まれてくる。我々が直接、平面的生活圏内にこれを受け継ぐようになったということは、これ以上の福音はないというんだね。それなのに、そんな貴重なものを神から授けられたにもかかわらず、そこに行ってもみないね。毎日毎日、何十回、何百回そこへ行って走り回って、疲れて死んでしまっても感謝すべきなのに、いつになっても一回も行かない。その分配した所をもたない者もいる。それをしないというと、カイン的氏族を得なければ、アベル的氏族は復帰できない。分かりました?

     アベル的自分の家族を復帰するには、カインを先に復帰しないといけない。これが宗教世界の一番難しい点だ。それを今まで分からなかった。先生が生まれてきてみんな教えているのであって、今まで誰も分からなかった。なぜ怨讐を愛するか問題だ。なぜ神様は、それを残して今まで闘ってきているのか。サタンなんか一遍に切ってしまえばいいのに、全知全能の神がなぜそのままおいておくのか。宗教、哲学が質問する重大な問題だ。なぜか?なぜ?分からないんだね。あなたたちはそれをはっきり分からなければならない。

     サタンは今何をねらっているか?

     神様をちゃーんとねらっている。「神様が神様になるためには、永遠なるその理想の基準を永遠に保つお方でなければなりません」。それを神様に言ったら神様は、「それはそうだよ」と言うんだよ。サタンは言うよ。「神様、わしをそもそも天使長として立たせた時には、一時的に愛するために立たせたか、永遠の愛のために立たせたか」。神様困るよ。どう答える?

     (永遠に愛するためです)。一時的に愛するためにやったとしたら一時的神様だ。永遠に愛するという基準をもたなければ、サタンの前に神様の権限を押し出すことができない。だから、神様が神様になるには、サタンがいかなる世界をかけて反対しても神は神でなければならない。神様が愛した条件基盤を強要した場合には落第だ。大変なことだね。「わし(サタン)は堕落して、こういう悪い者になったんだけれど、君(神)は、善なる者は変わったりするような、わしに似たような方法をとることはできないじゃないの。わしは喧嘩好きになっても、君は喧嘩好きになったらいけないじゃないの。ぶたれても黙っていなければならないじゃないの」と言うんだよ。無抵抗主義だね。

     それはなぜか。世界に天国理想、悲願の世界を果たすまで、いかにつらい立場においても天使を愛すべきなのが、神の理想ではありませんか。神は、サタン圏内において暴れ回るといっても、罰するとか切ってしまうことはできません。どこにおいても愛したという基準を立て、サタン自体が、「ああ、実に神様は神様である。参りました」と告白しない以上は、神様は権限を振るうことができない。それが問題だ。分かりました?

     その問題で神様は紐で縛られている。どうにもならない。だから、天国に行くには、サタンが試験してみる。神みたいに神の子たる者は天国に行くようになっているから、神様がそういうような立場に立って、サタンを愛によって屈服させていかなければならない基準をとっているとするならば、神の子供としては、その道を行くのが正義の道であり、伝統的親から受け継いだ子供の行く道である。ちゃんと理論的である。

     だから天国に入りたい者は、みんな神様の位置と同じような立場に立って、サタンを愛した条件の権限をもたなければなりません。愛はどのくらいか。世界的に迫害されても、世界的な怨讐圏に立っても、愛するという条件を満たさなければならない。そのことは神も引っかかっているし、神の子供になろうとする宗教界のすべての者が引っかかっているというんだね。これは大変だ。内容は簡単だけれど、神様とサタンの戦いの、天下分け目の境界線になっているということは誰も知らなかった。この峠を越えるのに、神が敵を敵として、怨讐を怨讐として、それに復讐するという思想をもったとすれば、絶対にこの峠を越えることはできない。そういう観点から、神はどういう作戦をしたかというと、「怨讐を愛せ、怨讐を愛せ」。説明は通じなくても、説明はしなくても、結論として言うのは、「怨讐を愛せ」ということである。

     だから、イエス様が神の愛をもった神の相対者、第一の子供として生まれた以上は、サタンの前に立って、自分を殺そうとする怨讐に対して祈ったということは偉大なことだ。偉大だ、それをしたんだから。イエス様は死んでも、怨讐に対して敵愾心をもったら摂理は逆転する。愛の主張でもって乗り越えたんだから、サタンはそこから屈服する。神の子供になり得る資格が立つ。サインするんだね。神の前にあって、「おお、サタン。わしは神の子供に違いないだろう?」「はい、はい、よろしゅうございます」「わしみたいについて来る者は、今から神様の愛の相対圏を拡大する。個人から家庭、氏族、民族、国家、世界圏を拡大するのに意見はないだろう?」「はい、それは原理的だから仕方ありません」。

     こういうような契約の条件に従って、キリスト教文化圏を中心として摂理を進めてきた。犠牲の道、殉教のそういう境地、血だらけの境地において神を愛する主張をする運動。それは家庭運動、社会運動、国家、世界運動。反対した国家を愛するキリスト教の愛によって、その反対したローマ帝国が屈服される。カインが屈服する。そういうふうにして世界的な宗教になった。分かりました?

    ◆総進軍の三年間

     君たち、それを考えなければならない。それで先生から見れば、日本民族は怨讐だった。殺害したり、いろいろなことをしてたね。「あいつ」と言ってね。もう怨讐だったんだ。しかし敗戦後には先生は日本人を愛した。追われている敵をね。分かりました?

     それで、今、日本の若者がなぜ、文先生に永遠の命を懸けてやるのか?

     因果原則によって報いなければならない。国を超えて神の心情的み意に従って、世界に向けて、国家的怨讐を愛して、愛して生きる道に導くような心情的基盤を植えたんだから。それはもう、かかわった警察などは先生の話次第ではみんな銃殺なのに、しかし、荷物を造って帰した。今の日本のあなたたちは、それはもう捕囚だね。自分も知らないで、それは天に従っている。それから、イギリスはキリスト教文化圏であった。日本をさておいて、神様が他の国を選んだらどうか。しかし、一番悪いその怨讐国家を中心として統一教会は出発した。分かりましたか?

     それは原理に合うだろう?

     また、日本人が怨讐であるアメリカを救うために、アメリカを救うために血と汗と涙をすべてを投入する。これは偉大なことだよ。これは、世界的サタンを屈服するその道を拓こうとする。その前にサタン自体が道を分ける。その運動をやっているんだね。だから、三十七年前に怨讐であったアメリカに対し、日本の若者がアメリカの地に行って命を懸けて死ぬ者がある。怨讐国家を救って天の国につなごうという運動を、今なしている。これは素晴らしい。これは歴史にないことである。それは何のためか?

     アメリカのためではない。世界のためである。世界のため。アメリカ人が今やっているのは、アメリカの伝統的基準をそのまま受け継いで働くことではない。この前、あのアメリカの責任者にはっきり言った。「アメリカ人は今、慣習的なその観念をみんなもっている。自由主義で教育された自動的な伝統習慣をもって、この世界的活動するのは駄目だ」と。「自分の環境を犠牲にして世界のためにやれ」と。「自分の環境を全部超越したときに、世界伝統を立たせられるということを考えれば、君たちも怨讐(日本)以上に働かなければならない。恥ずかしいことである。怨讐(日本)がアメリカのためにやっているのに、それを受け継ぐその国の者はそれ以上働く。日本に負けるな」。

     「ヨーロッパでアメリカ人と祝福受けたメンバー全部来い」。アメリカの運命は世界に通ずる。ドイツもそうだよ。ドイツ人を連れてきてアメリカを救え。アメリカは今単なるアメリカではない。世界民主主義圏を代表した、新しい文化につなぐ未来の統一教会の旗に立つべきアメリカ作戦のために世界動員をなしている。分かりました?

     日本はみんな野原になっても、アメリカが生き残れば日本はたちまち生きる。神を知る者は何でもできる。だから今まで、ずっと十年間、みんなアメリカに投入だね。韓国のものをアメリカを助けるためにもっていく。この作戦を見てみた場合に、原理にふさわしいことを先生はなしてきたことになる。そう認めるの? (はい) 。異論はないだろう?

     そういうふうにして迫害を受けながら、統一教会は発展してきた。

     四大国家。だからエバ国家は、カインとアベルに伝統的精神を受け継がせたのちにアダム国家に入る。絶対服従なるアメリカ人とドイツ人を教育してから、そこから韓国の地に入る。それは原理観だよ。それを成し得なかった場合には、絶対帰ってこられません。

     エバ国家だから、ソビエトと中共がねらってとんでもないことになる。こういう観点から見た場合、韓国のその防衛問題は、日本の運命をかけた防衛問題である。摂理的観点から結論づけることができる。分かりました?

     だからそれを結合させるトンネルを掘らなければならない。早く……。日本の総力一億二〇〇〇万の総力を固めて。こういうような重大時期に入ってる。分かりましたね。

     今先生のやってるのは、最後の最後の終着点だ。歴史において、蕩減条件として四大国家を集めて、一つにまとめて祭壇に上げて蕩減復帰するというような歴史的意味をもったものはなかったね。これが始めであり、終わりである。はっきりしただろう。これを勝利した場合には天国は出発する。三年間こういうふうに一体化して、太鼓をたたいて、ラッパを吹けば我々に反対するものはないんだね。もう、レバレンド・ムーンをアメリカで支持する運動が起こっている。南米は完全に、「レバレンド・ムーンは歓迎」。こう言っている。それはもう、アフリカもそうだね。アジアもそう、アジア人もね。アメリカにおける日本人もね、「レバレンド・ムーン。レバレンド・ムーン」。東洋人はみんな気持ち悪くなって、「文先生、文先生」。中国人もみんなそうだ。だから反対されたマイノリティ(少数者)が完全に一つになって、今のマジョリティ(多数者)がマイノリティになってしまう。だから何十年の迫害の怨み、それを怨讐として復讐のためにそれをみんな消耗するんじゃなくして、敵を救うために消耗する。素晴らしい神の愛なる思想だね。我々はこういう思想で行くという決意を固めなければならないこの瞬間である。どうだ?

     これを成せばここにおいて完全蕩減を成し得たんだから、完全蕩減は完全復帰に通ずる。完全復帰は何に通ずる?

     完全完成に通ずるのが原理的、原則的な理論である。

     きょうのタイトルは何だったかね?(全体蕩減)。全体蕩減、全体蕩減は何を目標としているかというと、全体復帰完成のためである。それが理論的すべてだ。分かりました?

     全体的蕩減。四大国家を蕩減した場合、これが神様にみんないいものを捧げるよ。みんなこれ四カ国がもってる。韓国は何をもってる?

     (精神)。宝の思想をもってるし、日本は美。それからアメリカは力。ドイツは技術、頭。世界をみんな統合して余りあるものをもっている。全体として見れば、そこにはいろいろ入っている。女も男もみんな。個人蕩減、家庭、氏族、民族、国家蕩減まできて、こういう世界蕩減基準をサタン世界の本拠地(四カ国)であるここから、新しい天国の伝統的その出発点をなせば、そこから地上天国はもう理論的に可能である。どうだ? (そうです) 。

     こういう立場で見ても、四大国家群の怨讐国家が集まって、そのまっただ中に、その国の中に天の国の伝統的中心点を立たせて出発する。まあ、こうなれば地上天国は遠くない。地上天国は間近に来たということがはっきり分かるだろう?それで全体蕩減、全体蕩減は全体何だ?

     (完成)。分かりました? (はい) 。では今度帰れば、もうヨーロッパも、四グロも、八グロも、ニグロも、もう何もない。全部が一つになって、総進軍、死にながらも感謝しなければならない。だから今度、日本に帰るメンバーはアメリカの三倍以上の活動が必要である。はい) 。道端にみんなもう倒れても、枯れた木みたいに倒れても不平言うことができない。その精神で、三年間はもう断食しながら一日一食でもやっていくよね。

     それはもう歴史的だね。そういうふうにして帰れば、間違いなく三年間は、もう獄中に追われた者と同じく、もう忍び忍んでたまりきれずして、もう口開けて気違いみたいに、三年はもう津々浦々まで、どこまでも声を出して回るとかしてね。それはもう信じてもいい、信じなくてもいいというんだね。声だけ聞けばそれで完成される。分かりました? (はい) 。だからラジオ放送、それを考えている。アメリカを中心として、いかにラジオ放送で世界的放送をしようかと。人工衛星を使って一週間やったら完全に終わるんだね。統一教会の使命も三年もいりません。一週間たったら世界すべてが通ずる。かえって田舎の者がラジオなんかもう、テレビなんかよく見るよね。(笑い)

     そういうふうにして、三年間においてエジプトにいるイスラエル民族にいかに伝えるか、もしもそのイスラエルが山の奥に行っていたとしてもそれを通達しないと、その祭司長が引っかかる。共産党までも、ちょっと考え直さなければならないというように騒ぎを起こさせなければならない。分かりました?

     日本では三年間どんなことをやっても、日本の津々浦々に、日本人たる者にみんな通報しなければ管轄の責任者たちは霊界で引っかかるよ。これは注意としての話ではない。本当にそうなる。事を成した場合には、君たちは七十代から一二〇代の先祖を動員する。解放することができる。もしもそれが可能だったとするならば、霊界は自動的に地上を援助するんだからね。七十弟子、

     一二〇門徒圏を地上圏内に、自分の氏族を中心として自動的に編成可能であるというんだね。偉大なものだ。

     だから、君たちがここに入ったのは、君たちが立派な顔をしているから入ったのではない。先祖のため、君たちの先祖のために入ったんだ。何千代のその先祖がみんな犠牲的、奉仕的に神様の声に従うような一念のもとにおいて善なることを成し得て、その先祖たちの善なる、善すべてを集めて、その功労の結実体として統一教会に入っている。だから君たちが先生の時代に集まって、そうして会ってから、その命令に従わずして落第生になったらどうなるか?

     霊界へ行ってみな。これは先祖たちはみんな怒るよ。「この野郎」。大変なことになる。君、統一教会に君のために入ったと思うな。背後の先祖の功労によって入教させたのに何で落第したのか。我々がもし霊界へ行ったら、それはその最初の目的を成し得た者として侍られるべきなのに何だ。霊界へ行って立つ所がないよ。君たちが偉いからではない。先生がこんな、そういう歴史的使命を果たすために来たと考えているとするならば、神は相対圏を自動的に準備するようになっている。環境を創造して、相対自体創造するのは創造原理じゃないの。だから先生は来る前にみんな霊界で準備して、その相対者として会うようにして、みんな集まって来たのに、自分の一瞬のその安楽をむさぽるようなそういう態度は許されない。

     だから、今までの観念を早く全体にきれいにして、きょう先生に会って得た基準によって、全部を固めて打ち込んで乗り越えなければならないというような決意を固める。分かりました?

     (はい)。今度から昔みたいな活動をしたらいけない。奥さんも先頭に出せ。子供もみな。君たちそうだろう。自分の子供を先に愛することはできません。それはサタンの諌訴条件から見た場合に、神のその子供になるには、サタン圏を全部愛した条件を達成した証明書を持って自分の家に帰って、自分の子供から、自分の家族から、自分の氏族、民族、国家を愛するようになっている。

     だから、先生がそうだ。今の今まで先生の生活はそうだ。原理どおりに生活をしている。先生の子供、みんな放りっぱなしているよ。イースト・ガーデンにいても、毎日先生が教育するのではない。アダムの教育は誰がするのか。天使長がやる。神様がその使命をやるのではない。先生の子供を誰が教育するのか。三十六家庭が教育しなければならない。その伝統的教育姿勢をつくるべき基盤が統一教会にない。だから先生の子供たちに対して、みんな三十六家庭の祝福家庭において不平を言う者がいれば大変だ。誰がそれをなだめて、平らげてやるか。それまで先生がしなければならない。だから先生がそれをする。蕩減復帰、個人的カインを愛さないと家庭的カインを愛する基盤をもつことはできない。家庭的カインを愛する基盤をもった者は、氏族的カインを愛さなければ、家庭的カイン圏を復帰できない。

     氏族的カイン圏を復帰するには、民族的カインを愛した基盤でなければならない。これは復帰の原則だよ。民族は国家、国家は世界、だから世界のためにいつも先生は全部を犠牲にしている。先生は生涯かけたすべて、統一教会の精髄をみんな打ち込んで、世界復帰のためにアメリカに向けて、今やってるんだね。それは、子供も家庭も国も統一教会もそういうふうにして世界蕩減条件を立たせたのちに、帰ってきて初めてカインを愛したより以上愛する伝統を立たせることによって、愛された者がついてきて、それを愛することによって、平面的基準において本当の天的アベル家庭とカイン的家庭が愛に結ばれる。カインとアベルと先生の子供をつなぐことによって、蘇生、長成、完成基盤によって、

     一つの中核を中心として世界の母体伝統が築かれる。それは原理観だよ。

     君たちは君たちの子供を愛することはできません。日本人を愛して先生の子供を愛したのちに、日本人が認め、先生の子供が認めたのちに自分の子供を愛するようになってる。こう考えてみると三十六家庭みんな引っかかっている。蕩減は先生の家庭が受けるというんだね。責任者でなければ蕩減できない。先生の子供に何かあってもみんな蕩減条件。先生は何とも言わない。「なぜ、そのようなことをやる!」と言って打ったら三十六家庭みんな打たなければならない。切ってしまったら、みんな切ってしまわなければならない。自然屈服を願いつつ、愛でもって消化運動を目指していく。分かりました?

     だからそれには、統一教会全体の運命がかかっている。批判するとか、そういう立場ではない。サタンはそれをねらって攻撃してくる。攻撃の前に愛の心情圏をもって防備して、サタン自体もひざまずく一日を願って国家基準を超えた場合はすべてがOKだ。分かるだろう。国家基準を終えればすべてがもうおしまいである。それで法的時代が来る。天的憲法時代が来るよ。今度、先生がアメリカを立つ時、ある有名な憲法学者を呼んで宇宙憲法草案を指示してきた。そう見れば、もうすぐ門前に来ている。総合的なこのバックグラウンドのその全体的理論的な観占から見て、自分の立っているところがいかに貴重なる立場かということをはっきりわきまえて、自分の今の姿を正して、方法をわきまえるべきなのが、今の瞬間の期間であることを、分かりました?

     (はい)。今から三年路程においては、そんな歴史的な過ちを再び繰り返さないように各自注意して前進すべきことを先生は頼む!

     (はい)。そう決意する者は両手を挙げて天に誓いましょう。(はい)。じゃあ祈祷しましょう。

     天にいます尊きお父様。長い歴史を通してのあなたの恨みの道を解放するために数多くの宗教を立たせて、数多くの指導者を犠牲にしながら、

     一日の勝利の的に向けて進められてきた歴史的なる課題を考えるときに、いかなる犠牲を払い、いかなる犠牲者を出したかということを思いますとき、天に向けて申し訳なく感ずるものでございます。どうか新しい時代を迎えるように神様が準備なさいまして、統一教会をこの地上に誕生させ、先生をこの地上に来たらせて、こういう膨大な内容を瞬間の期間に解読なさしめ、理解し得るような立場に立たせた偉大なこの場を我々は両腕を挙げて神に感謝するものでございます。神のみ旨のために誓い誓って、いかなる戦場でも命を懸けて進むことを決意しました。どうかこの決意を喜ばしい心でもってお受けくださることを切にお願いするものでございます。ここに国を超越して各国の代表の者たちが集まりました。この集会のすべてを神が管轄してください。天の愛を中心として一体化させ、神が怨讐を自動的に屈服させてその圏を拡大してきたその内容もはっきり分かりましたから、今いかなる環境におきましても、その伝統のみ旨に逆らうような行動をなさないという誓いをいたしましたことを感謝するとともに、今後ともいかなる迫害の内に立ちましても、突進して余りあるような各自になるように一層励ましてくださることを切にお願い申し上げます。残りの時間を守って未来の生涯とともに、未来の国家、世界の運勢を神のみ旨に引き付けるまで我々は前進に前進を続けることを誓いましたから、み旨にかなえ得る方向をもっていかれるように指導してくださらんことを切にお願いしりつ、すべての祈りを真の父母のみ名を通してあなたのみ前にお捧げ申し上げました。

     アーメン。













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    35_信仰の三子女と本然の家庭基盤

     御旨と世界
    (全面表示)

     



    信仰の三子女と本然の家庭基盤


    1983年5月13日

     韓国

     済州島



    ◆宗教生活の本質

     今、先生があなたたちに一番心配するのは、宗教という観念が薄らいでいくことです。それは恐ろしい。非常に心配している。現実的生活が増えてくると、そういう傾向になりやすい。本来、先生があなたたちとこういう集会を行うときでも、ちゃんと祈って、讃美歌を歌ってやるほうがいいんだね。しかし、環境が違うからこうしているが、何か会議に入るときも、(いきなり始めては)いけないよ。いつも正式な教会儀式が必要である。分かりました?

     外的な活動だけに力を注いでいけば宗教観念が薄らいでいく。それは大変なことである。そうなれば、霊界の援助圏が完全に切られるというんだね。霊界が我々と関係なくなってしまう。だから、いつでも霊界を引っ掛けて、人間が集まらなければなりません。それは創造の原理なんだね。霊界と地上界は親子関係になっている。それをはっきりしておかなければなりません。

     先生自体もそうだよ。こういう生活をしていても、必ず静かな所へ行って整備しておく。そういうふうにして二十四時間いつでも、本心のコースに自分なりに帰ることのできるような訓練が必要だというんだね。釣りをしていても、大きな魚を獲った場合には、「君偉いよ、魚の歴史のうちで、先生に獲られた最初の魚だろう」と、天的に捧げられた第一の捧げ物として捧げる。そういうふうに考えて、式をしてやるんだよ。先生が山で猪を捕った時なども、ちゃんと条件を立たせておる。それは宗教生活の本質である。今はサタンと闘っている時だよ。一線に立って闘った環境に触れた場合には、みんな心情的原因を正して、整備しておかなければなりません。それはいつでも必要だ。先生だにそうやっているのに、あなたたちは毎日、それを考えなくてはいけないよ。そうでないと、習慣性がついてしまったら大変なことになる。「宗教なんかもう入りたくない。あの団体なんかもう入りたくない」と、皆さんは人々から言われないようにしなさい。自分一人で、ちゃんと祈る時間を設けて、整備して、元に返す訓練が心要だよ。分りました?

     なぜかというと、我々が堕落したということは間違いない。理論からいっても、宗教上から見ても絶対に間違いないからである。

     ヘーゲル弁証法は間違っている。ヘーゲルは弁証法における「闘争」という観念をどこから引き出してきたのか。人間の心の中に深く入ってみれば、良心と肉心は闘っている。そこで闘争観念が元々からあるというように考えられてきたのである。だから、神が創造した世界そのものに闘争があると曲解されてきた。それは堕落観念が分からなかったからで、根本的問題である。

     人間の本心を深く探ってみれば、人間は相反する二つの性質でもって対立しているというように考えられてきた。ですから、そういう二つの要素が組み合わされた人間の、良心的な基準と肉心的な基準に対応しながら、歴史が発展してきたという観念がすぐ生まれるのです。それゆえ、ヘーゲルにおいては「堕落観念」を生み出すことができなかった。これは、根本的問題である。堕落した結果としての人間自体を分析してみれぱ、相反する二大性質で結合している。それが、そもそも神の創造の原則だと思うから、宇宙はそうなったとする根本的原論を立てるようになった。

     そういうふうに考えてみた場合、今の共産主義思想は現在のすべての事象を弁証法理論による歴史的発展の中で主張する。現実の一切を上部構造と下部構造に分立させ、論争、対決の相対圏を立たせて解決し、発展させようという戦闘的な理論を引き出している。発展するには、以前のものを破壊しなくてはならないという理論が必要になってくる。そもそも、ヘーゲルの弁証法は、その基準を堕落しなかった人間の立場から考えた。しかし、事実はそうではない。堕落した人間であったから、良心と肉心の対立、闘争が始まったのである。もともと、人間の中には矛盾した性質はなかった。

     そういう面から見た場合に、我々は、本源の基準に一致する現実的な運動というものが絶対必要である。ヘーゲルは、「生活の場」が矛盾をはらんでいると見た。それが平常なものであって、宗教は異常なものだと思うようになったのである。そうではありません。ヘーゲルの考えは間違っている。堕落した結果の人間を中心として、堕落前の本然の人間の出発基準において考えた点が間違っていたのである。

     我々がここで強調しなければならないことは、堕落観念を早く宣布することである。我々人間自体の中で、良心と肉心とが相争って闘っている。その二つの力の拡大が、世界の分立体として、民主主義世界と共産主義世界、唯心、唯物の世界として現れている。その結実として収穫期に向かって進んでいるのが、末世紀(終末時代)の時代思潮の現象である。はっきりしているんだよ。

    ◆堕落観念を忘れるな

     ここで、我々統一思想はどうするか。出発点が間違っているから、我々は一次元高い本源の元に帰らなければならない。一次元高い本源の元という人間は何か。これは良心と肉身が闘っている人間ではなくして、良心と肉心が一致している人間である。絶対一致、永遠一致という基準において霊界は地上と一体となる。もともと原則の立場から見れば、人間は霊肉一体基準において、神の心情圏を中心に立つようになっているんだよ。その心情基準が中心になった場合には、良心と肉心は絶対に分けることができません。

     だから、堕落観念をいつももたなければなりません。分かりました?

     それをもたないと、とんでもないことになる。それが失われて、習慣性になると、恐ろしいことになる。神も霊界も関係をもつことができなくなる。我々は心情世界とは何ら関係ないことになります。分かりました? (はい) 。

     だから、我々は、堕落圏にいるという自覚をいつでももたなければなりません。食事をするときもその観念を忘れてはいけません。何をするときも、その観念を忘れてはなりません。いつかは整理しなければならない渦中にある。時が来たら、間違いなく整理する。個人からはっきりと整理するし、家庭、氏族、国家、世界に至るまで整理する。この整理の徹底化した伝統基盤を各自が確立しなければ大変なことになります。

     この世の中の生活は、堕落圏だから、神様に通ずる生活ではありません。この世界の八〇パーセント以上がサタン世界に彩られているというんだね。これを否認して、肯定の立場に立ち帰るには、嫌々ながらも、習慣性に自分なりに気づかなければ崩壊に遭うというんだね、分かりました?

     この世の中では、子女関係、親子関係、国家関係がみんな堕落結果の基準を中心としてつながってきている。子供がいるとしても、みんな堕落の血統をそのまま認定した子女関係、家庭関係、氏族、民族、国家関係である。ここに、新しく我々が持ち出すのが“霊の子”という問題です。

     



    ◆三人の霊の子は絶対必要である

     霊の子とはいったい何か。これは失われた三人の天使長を意味する。アダム、エバが、三人の天使長の共同圏、協助圏に立てなかったから人間は堕落した。それを蕩減しなければならない。だから、三人の霊の子は三人の天使長に当たる。それらが一つになって、アダムに対して命を捧げるような立場に立たなければなりません。

     あなたたちは霊の子に対して、アダムの立場、エバの立場に当たる。そうなった場合、三人の天使長の代わりに立った霊の子は、その霊の親に対して、命を捧げても何の未練もないような心情圏をつくらなければなりません。教育して、そのような関係をつくらなければなりません。そして、アダムの立場から見た場合、自分自体が結婚するのを遠慮しなければならなかったのが、天使長の立場だね。三人の天使長がつくられた目的は、アダム、エバを教育して、家庭をもつことのできる心情圏確立の日まで遠慮せざるを得ない立場であったのに、逆に問題を起こしてしまった。そのことが堕落でした。

     ですから心情圏の復帰は、三人の天使長自体が一体となって、あなたたちのために命を捧げても、天の法に違反しないというような決定的な三人の天使長をあなたたちがもった立場に立つことによってなされる。そうして初めて、アダムが三人の天使長を一致させ得なかったその基準を蕩減復帰した立場に立つ。分かりましたか? (はい) 。

     それで、イエス様の三人の弟子も、イエス様のために死ななければならない。イエス様は親である。本当は、天使長には子供はないんだね。堕落して、天使長系の子供の立場に立ったのであって、切って離すことはできません。だから、それを結びつけながら、元のほうに帰るために天はそれを認定せざるを得ないんだね。それが、アベルの道である。まず、三人の天使長が一体化した基準であなたたちの一切の祝福を援助し、準備してくれなければなりません。だから、統一教会は三人の霊の子がなければ生活することができません。分かりました?

     三人の霊の子がいなければ、三人の天使長が完全に援助した基準に立てないから、その基準は、そのまま堕落圏内にある。サタンはいつでも引っ張っていく。

     だから、三年間、霊の子が絶対的に一体化した基盤の上で、すべてを犠牲にしながら祝福の一日を待つような環境で、三人の天使長はアダムとエバに侍らなければなりません。それを通過したのちに神の認定を受けて、神の心情圏を共にしながら、アダムは三人の天使長に対し、「どうぞ、成熟いたしましたから、相対者と祝福を受けさせてください」と言う。これが統一教会の原則である。だから、三人の霊の子女がいなければ祝福できないということは、理論的であり、原則的である。絶対できない。それをもたないで結婚した者は、堕落圏内にとどまる。

     今はいい時にきた。あなたたちは、万物を与えてでも伝道する時にきたよ。ヤコブがエサウを屈服させる時、金を与え、万物を与え、すべてを捧げて屈服させたように、我々は物を使って、平面的に天に屈服させることができるようになった。だから、我々は万物に恵まれる。統一教会は世界一、万物の祝福を受けるようになるだろう。分かりました?

     ただ、日本一になるかもしれない、と思うのでは霊界は援助しません。このような徹底した理論を確信して、実践すれば世界一になる。理論が間違っていなければ、いかなる反対を受けても必ず世界一になる。先生がなすことは原理基準以外ありません。だから、霊の子は絶対に必要か、必要でないか?

     (必要です)。

     将来、反対がなくなった時には、自分のおじいさんが孫になるし、お父さんが子供になるし、それから子供が親になる。「天地開闢」という言葉があるんだね。まるっきり反対になる。まるっきり主人が違うというんだね。向こうに引っ張っていたサタンは、永遠に惜別して、神に向かって回れ右して天国に入る。そうするには、蕩減条件という反対のコースを正して、サタンの防備をして、君はこうだからここには入れないという、絶対的、理論的壁をつくらないと、サタンを後退させる何の力もありません。これが復帰の真理だというんだね。

     だから、三人の霊の子がなければ、祝福もできなければ生活もできません。今はそれが逆になっておる。条件なくして生活している者もいるだろう!

     早く正していかなければならない。それを七年間でやる。我々は結婚したのちに、夫婦共に三人の天使長が援助したがるようにならなくてはなりません。自分個人のためには、三人の天使長、霊の子が援助したんだけれども、家庭、夫婦を援助したことはありません。その援助の基台をなすために、三年間という期間が必要である。分かりました?

    ◆家庭編成のための七年期間

     そういうふうにして、夫婦が一つになって、霊の子が各々三人で、合計八人になる。そうして、天使長の立場の者たちが、親に対して、共に完全に一つになったという条件が満たされることによって、そこから新しく、伝統的なアダムの直系として、そのアダム家庭の八人兄弟(食口)が家族として復帰される。

     共々に、霊の子供をもっている男、女が組み合わされて、夫婦が相互に愛して一つになったという基準に立ち、そうして命を捧げても天に逆らうような精神を、我々の中に見いだすことができないというような立場に立って、初めて生活圏に入り、三人の天使長圏が三人の養子圏に入るんだね。

     堕落したアダム家庭の八人は、サタンの実子圏に立って落ちていったね。ただし、「実子」といっても血統が違う。違うものが神の直系に入ることはできません。それは養子圏に立つ以外に道がないというんだね。養子圏に立つ子供は親と一つになって、(再び)落ちていくのではなくて、長成期完成基準から七年間上がっていかなくてはならない。あなたたちは完成基準にはまだ上がっていないだろう。神の直接主管圏内に上がるには、完成基準を乗り越えなければならない。それは原理の教えだよ。今はまだそうなっていない。それをまとめたのが長成期完成基準だ。アダム家庭は、ここから落ちていったんだけれど、ここを中心として七年間上がっていく。それは家庭編成のための七年間である。

     どういうふうにして養子になる?

     夫婦アダム、エバと絶対的に一つになり、原理的にも逆らうことなく、アダム、エバのためにすべての存在価値を向けてきたという基準が立つことによって、養子圏になる。そして、アダム、エバの堕落前の夫婦圏が保たれる。分かりました?

     アダム家庭の堕落のために、世界の一切が堕落してしまったのだから、霊の父母と一つになって、世界の復帰を目標として上がっていく家庭でなくてはならない。堕落は八人の家族を中心として、サタンによって無原理圏に落ちていったね。その反対の方向に、親と霊の子が一つになって、上がっていくことによって、堕落の天使長の子孫と、養子圏の天使長の基準に分かれる。一方は上がるし、他方は下がる、その境目になっているというんだね。

     だから、この八人が完全に一つにならなければならないという原則なのである。分かりました?

     そして下がるのではなくして、世界復帰のために犠牲の道を行かなければならない。サタンは周囲を犠牲にさせる道を行きながら落ちていった。我々は自分自身を犠牲にさせながら、世を救うためにやっていく。サタンは世を滅ぼすために、自分を中心にさせながら堕落していったんだから、我々は自分自身を犠牲にさせながら反対に、この世の中を救っていく。理論的だね。分かりました? (はい) 。この原則はもう揺るがせない。上がっていく八人の家庭編成圏において、堕落世界の家庭と、復帰された親の家庭とに分かれる。

    ◆再臨を待つ心情で霊の親の実子に侍りなさい

     そういうふうにして、この霊の子は何を待つか。霊の親の実子が生まれるのを、歴史において、再臨の救い主が来られるように思わなければならない。分かりました?

     だから、この霊の子はいろいろと何も思う必要はないというんだね。ただ一つ願うべきことは、その霊の親の実子が生まれるのを待ち望まなければならない。胎中にいる時から実子を敬わなければならない。天使長は、アダム、エバに対しそれを貴く思い、相談し、援助するように造られたと同じように、腹中にはらむその時から愛し、自分の命よりも貴く思うような基準において、生まれる日を指折り数えて待つ、何よりも高い希望をもって待たなければならない。

     そして、生まれた場合には自分の財産をすべて捧げ尽くさなければ、天使長基準の所有権を復帰する道が生まれてきません。それで、イエス様がお生まれになった時、東方の三博士たちがなぜ訪ねてきたか。それは、世界的な基準を連結させる蕩減条件として、霊的に高い水準の者が訪ねて、捧げ物を捧げるためである。彼らは、どこかに世界の救い主が来られることを、親がはらむ以前から待っていた者である。その誕生を知れば、すべてを捧げて、すべての冒険を乗り越えてでも自分たちは侍りに行くというようになっていた。イエス様の前に現れたこの東方の三博士は原理的である。

     イエス様が三人の弟子を連れながら、死んでも生きても歩んでいかなければならなかったのも、「霊的子女」という原則があるからである。その原則を我々は今まで、はっきりと理解できなかったから、サタンがこの世界を蹂躙して、自分の気ままに、すべてを卑しくしてしまった。そういうふうにして、アダム、エバを愛さなかった天使長、アダム、エバがはらむ、その子供を愛さなかった天使長がサタンであるというんだね。

     天使長圏をもとがえすには、霊の親であるアダム、エバを愛するとともに、おなかにはらむ子供を愛した基準を通して、その子供が生まれ、さらに、その子供たちが結婚する日まで責任をもたなければならない。それが、原理原則の道だね。これを先生の家庭で見れば、先生の子供を、先生が干渉して育てるようになってはいない。三家庭が責任を果たさなければならなかった。

     霊の親の中にはらんだ子供が、宇宙と取り替えることのできないほどの喜びと希望でもって生まれた場合には、自分のすべての成功をなし得た喜びでもって迎え、その子供を結婚させて、定着させることによって、天使長がアダムと、カイン、アベルを愛し得なかったすべてをなし得た基準において、サタンは完成基準を中心として完全に分別される。そうしなければ、サタンを回れ右させる道はない。あなたたちはいつも蕩減復帰と言うんだけれど、いつ蕩減復帰したか。それは、家庭を中心としたこういう徹底した内容でもって、分別させる原理があるから可能なのである。だから、霊の子は絶対必要だ。分かりました?

     そのために、先生は生涯をかけている。そういう伝統的精神を国家伝統基準として、国を越えて世界各国に植えつけながら、六十数年の生涯をかけて闘っておる。それが第三次七年路程であったというんだね。分かりました?

     六〇〇〇双の祝福を終えた今、もうサタンは世界的に反対することができない。だから、霊的に見れば各国の先祖はみんな大変だったろうね。

     祝福によって、“あわよくば、結婚して家庭をもって、幸福をむさぼれる”と思う者もいるかもしれないが、この道において、そういうことはできません!

     歴史において、サタンが残した悲哀に満ちたいろいろな闘いの悪辣な基台、伝統が残っている。民族差別運動とか、家庭紛争とか、親子分裂とか、破壊運動とかいったすべての過去の災禍を、我々自身において消化して、新しい伝統を自分によって、アフリカの地に、世界の地に立てなければならないのが、日本のエバ国家としての使命です。それは先生の話ではありません。原理観がそうなっている。

     それは、男性ではできません。だから、女性の国が必要である。それで、あなたたちが現在の摂理を担当しているからといって、あなたたちが偉いのではありません。霊界が援助しているからといって傲慢になるのではなく、感謝しなければならない。我々は、エバ国家的蕩減条件を素直な童女のような姿でなしていきましょう。

     だから、我々の行く道において、迫害やいかなる困難があっても、あなたたちがそういう伝統的精神をもっていけば、国が反対したとしても、国自体が二つに分かれてしまう。共産党も分かれてしまう。すべてが分かれてしまう。それは、神が直接に働きかけるから、カイン、アベルにすぐに分かれてしまう。先生を中心として、アメリカも二つに分かれているよ。世界も二つに分かれている。レバレンド・ムーンの側とその反対の側とに、必ず二つに分かれる。それは日がたつにつれて、サタンのほうは下がっていくし、神のほうは発展する。

    ◆今は所有観念を捨てなさい

     それで霊の子が必要であるということがはっきりと分かりましたね。はい) 。それは、アダム家庭の堕落天使長を中心として、堕落して、落ちていった基準を、養子圏の家庭を中心として、実子の子供と共に侍り、一体となって完成基準、つまり天の直接主管圏に向けて、七年間を通過して越えることができる。その間はあなたたちは働かなくてはならない。しかし、その基準を越えたとしても、その霊の子の連結体、すなわち、個人、家庭、氏族、民族、国家、世界の復帰はアダム、エバの使命だというんだね。それと同じように、祝福家庭の各家庭自体が世界を復帰しなければならない使命をもっているというんだね。分かりました?

     だから、その家庭が世界復帰するまで、犠牲にならなければなりません。それを先生が身代わりになって、世界的、全体蕩減の代表的基盤として、家族、氏族、民族、国家、世界へと順繰り大きくしたのが第三次七年路程である。

     だから、あなたたちは、霊の子と同じだから、養子圏として、一致して真の父母に侍ることによって、それが世界的基準に発展するまで、その精神でもって一貫して進み、世界が反対しない基準になれば、世界完成圏を越えることができる。だから、その時まであなたたちは家庭安着できない。世界の荒野路程をさまよう環境を乗り越えることはできません。カナンの地に定着する、つまり、自分の国をもって定着する時期にまだなっていないというんだね。分かりました?

     だから、日本のあなたたちも、家庭定着するとしても、それは永遠の定着ではありません。それで、今は、自分の所有物をもってはいけないようになっている。

     世の中のあらゆる物は、自分の所有物になる前に、まずもって、神の所有権の認定を受けなければなりません。それから、真の父母の所有物になる。神の物から、真の父母に相続されたあとに、真の父母によってあなたたちの相続物が始まるのである。国家以上の基準から、そういうような整備の基準がまだなされていない。統一勇士は今、国を求めてさまよっているというんだね。それを果たさないと、あなたたちの分配地、所有権は生まれてきません。それをイスラエル民族に例えれば、カナン復帰基盤をもたなければ、十二支派に対して土地分配とかいったものはなされません。今までの蕩減復帰圏内では、アベルを犠牲にしてカインが発展してきたけれど、今はカインが犠牲になってアベル圏を確立するためにやる。つまり、カイン圏がアベル圏を援助する立場に立っている。時が違うというんだね。分かりました?

     だから、韓国の古い兄弟、家族に対しては、世界の家族として、みんなが支えなければならない。そうすることによって、古い家族は先生を支えるようになる。あなたたちは、ちょうどイスラエル民族がモーセに侍ったのと同じように、直接、先生の家庭に侍るのではありません。原則からいえば、韓国の古い家庭たちを押し立てて、先生に侍るようにするのが原理の道である。だから、世界すべてのものが今その伝統をつくるために、三十六家庭をアメリカに派遣している。今から、アメリカに新しい天の伝統をつくるんだね。日本はもう、そういう伝統はつくらなくていい。だからといって、先生がいない韓国は、自分たちとは関係がないといったら大間違いである。先生がいる時以上に一つにならなければなりません。分かりました?

     日本民族が、アダム、エバみたいに一つにならなければ、神の願う国は生まれてきません。

    ◆ホーム・チャーチと天国への入籍

     だから、霊の子は絶対に必要である。霊の子を中心とするその父母たる祝福家庭は、それは五パーセントではあるんだけれど、各自において世界的蕩減基準を立てていかなくてはならない。先生の立場からいえば、先生はもうずうっと根から幹を中心として、穂先までつないだところの生きた木になっている。だから、今苗が生えだしたらすぐに大きくなるようになっているんだね。

     それで、枝の方向には同じ木が横になっているんだけれど、それらをみな一つの根から、幹から、穂先につなぐような組織体制が必要である。それを我々は、「ホーム・チャーチ」(家庭教会)というんだね。だから、家庭教会がなければ、その元の木とつながることはできません。元の木とつながることができないものは、天国とつながることはできません。だから、家庭教会がなくては、天国に入ることができないという結論になる。分かりました?

     先生は生涯かけて、世界的蕩減条件を立たせた。先生が九五パーセントを払ったので、あとはあなたたちが五パーセントの蕩減条件を立てることによって、親子関係が決定されるというんだね。そこに初めて、入籍という問題が出てくる。あなたたち、いつかは入籍しないといけないだろう。天国への入籍は、霊界に行ってからやるのではありません。地上の完全なるアダム一族において、天国の入籍は決定されるべきである。その入籍の基盤はまだまだできていません。だから、一国を中心として早く入籍の基盤を世界的に準備しなければなりません。早くつくらなければ、世界は滅亡してしまう。分かりました?

     あなたたちは入籍しているの? (やっていません) 。今から、先生ははっきりした天の憲法をつくらなければならない。そういったたくさんの問題が残っている。だから、世界のために先生はいかに内的に焦っているか。一日も、一瞬も休む暇がありません。

     また、トンネルを掘るのは何のためかというと、日本の運命が永遠につながる道だというんだね。そうでなければ、日本は島国を免れる道はありません。日本を半島とつなげた場合には、大陸と一つになって、いわばアジア結婚式が可能になるんだね。アジア圏の父母を中心として、アジアの三人の天使長が兄弟のようになって、新しい西洋文明圏とつなぐ。東洋が夫になり、西洋が妻になって、世界的な八人アダム圏が自由自在につくられる。そうして、地上の世界最上級に立つアダム理想郷と、天の心情を一致させる道がそこにおいて終わるというんだね。分かりました?

     今日、東洋文明を中心として、西洋文明がよくも慕ってくるようになってきているね。

     西洋の三国が一つになって、西洋の三人の兄弟の立場に立ち、その兄弟の親の立場に立つことによって、八人の世界的家庭の親になった場合には、それは再臨の理想の決定基盤になる。地上におけるすべてのことは終わって、そのまま天国に直通する。それは、理想の地上天国に展開していく。分かりました?

     必ずそうなっていくんだよ。だから、我々はすべてを犠牲にさせても、この道を行かなければなりません。国とか民族とか、そういう感情をもっていては何もできません。分かりました?

     漠然とではなく、はっきりと知らなければなりません。サタンと真正面からぶつかって、勝利した実績をもって、これを神様に捧げる。あなたたちは、いつサタンと別れを告げたか?

     理想家庭編成のために、すべての面で、いつ区別をつけたか?

     今まで、霊の子をそんなに貴重に思わなかったね。ですから、今後は霊の子を自分の子供より以上に愛してあげなければなりません。














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    36_私を中心とした父母と子女と万物世界

     御旨と世界
    (全面表示)

     



    私を中心とした父母と子女と万物世界


    1983年6月5日



    ニューヨーク ベルベディア

     この世の中には多くの人が住んでいますが、その中の一人が私です。今生きている地上の人たちは、いかなる関係にあるでしょうか。多くの国がありますが、各々の国は一つになることができません。そして、国の各々の民族、数多くの氏族、家庭も一つになることができません。また、皆さん自身を見たときに、家族を見ても、体を中心として見ても、一つになることができません。このような実情をもっているのが世界の現実です。私たちがいかなる所に行ったとしても、あまりによく見ることは、一つになることができないということです。不信の環境があまりに強いことを感じて生きています。そのような激動する中に、自分という存在が立っているのです。

     しかし、私たちの本然の心は、このような社会、このような環境を願わないで平和で統一された何かを追求しているということは、否定できない実相です。このことが事実であれば、その事実の定着地、あるいは目的地はどこでしようか。自分自身を見ても心と体が闘っている、これを見るときにこの宇宙において、信じることのできる、あるいは頼ることのできるところがあるでしようか。今、私たちが頼りとしている世界、国家、社会、家庭、また父母、妻子とありますが、この自分自身において頼りとすることのできる何ものもないことを発見するのです。心と体が分立しているので、自分自身においても頼りとすることができません。

     したがって、今自分が生きている世界が問題ではありません。国家も、社会も、家庭も、夫も妻も問題ではありません。結局のところ、自分自身がいかなる統一的基盤を整えるかということが、極めて重要な問題です。自分が平和なる統一世界を願うなら、自分自身から統一し、自分自身が一つになったところにおいて求めなければ、統一的な世界と関係を結ぶということは、理論的な矛盾なのです。

     では世界の願うところは何でしようか。不信に満ちた嘆きの世界であり、統一されていないこの世界は、一つになることのできるところを、願うに違いありません。国も同様であり、また、私たちにおいても。一つになることができるところがどこかを求めています。このように、世界と国々が、統一された中心、その一点を探し求めていると見るときに、その全体が探し求めている中心ポイントは、結局私という人に帰着されるのです。真なる人に帰着されます。すべてが一つから出発して完全に統一された基盤なしでは、全体統一形成は不可能です。それが不可能であるとすれば、理想だとか、善だとか、すべてがおしまいになってしまいます。結局私というものを拡大させたのが宇宙なのです。

     皆さんは距離を計る尺度を知っていますね。もし一センチメートルだとしたら、そのオリジナルモデル(原型)があって、それは絶対的です。それと比較して同じであれば、みな正しいのです。原型に合わせてみて、合わなければ不合格なのです。一センチメートルは十ミリメートルですが、一ミリメートルは絶対的な尺度と見ることができます。それを十倍すれば一センチメートル、一〇〇倍すれば十センチメートル、このようになります。そうすることによって互いが連結され、いかなる所においても共通であり、統一的内容をもつことができます。

     人間の世界には、そのような尺度がないのでしょうか。人間世界が統一されようとすれば、そのような原則的基準において、心と体が闘わずに一つになったその型が、必ずこうでなければならないという型があるはずです。このように思ってみれば、自分自身を管理することは、たやすいことでしょうか? (いいえ) 。心はこちらに、体はあちらに行くのです。東京に、「人心朝夕変あり、山川古今なり」という格言があります。皆さんはどうですか。朝夕変わるのにいつ統一されますか。歴史上に有名な聖人たちを考えてみてください。イエス様はどうであったでしょうか。釈迦や孔子はどうであったのでしょうか。私たちは、心と体が一時間に数百回も変わりますが、それらの聖人というのは、一つの場において変わることのない人たちです。

     (しかし、聖人たちといえども)まっすぐ立っていることはなく、ゆらゆら揺れたことでしょう。イエス様はそんなことはなかったでしょうか。ちょっと聞いてみましょう。(笑い)

     イエス様は男性でしょうか、女性でしょうか?

     (男性です)。男性が女性を見たら、女性と考えないでしょうか。間違いなく女性と思うでしょう。すると、自然の理法からプラスとマイナスがあれば、自然に引力関係になります。そうなったでしょうか。イエス様はそれを感じたと思いますか、感じなかったと思いますか?

     (感じたと思います)。だからイエス様も立ってはいましたが、ゆらゆらと揺れたことになります。手も同じであったと思いますが、しかし足は離れませんでした。足が離れれば倒れてしまいます。普通の人ならば、手よりも足が先に動くのですが、イエス様は手は動いたとしても、足は動かなかったのです。私たちはいくら偉いといっても、イエス様以上にはなれません。イエス様がそうであるといって、いつまでもそうなのではありません。倒れそうになっても、これはいけないと言ってすべて切ってしまい、心と体が一つになることのできる位置を得なければなりません。

     男性は男性として、どこで電気がスパークされなければならないかといえば、宇宙の宮殿においてスパークされなければなりません。そのような場においてこそ、男性と女性は出会うことができます。なぜかといえば、最も貴いことであるので、最も貴い場でなされなければなりません。だから今日のアメリカ式のように、男性と女性が会うことはできません。先生が話した方とアメリカ式と、どちらが良いでしょうか?

     (先生のほうです)。しかし、それは大変難しいことです。アメリカ式のほうが、どれほどたやすいことでしょうか。ちょっとかわいい女性がいれば、勝手にキスをします。(笑い)

     何百万、何億とキスはありますが、本当のキスは何でしようか。先ほど一ミリメートルとか尺度の話をしましたが、ミリメートル的キス(標準化されたキス)はどのようなものでしょうか。(笑い)

     それは必要ですか?

     (必要です)。義人、聖人が願うのは、尺度化(標準化)された型における中でキスし、愛そうとすることであり、そうする人は正しいという結論になります。今日、堕落した人、この地上に生きる人たちは、そういうことを考えることすらしなかったのです。しかし、義なる人、新しい何かを願う人、理想を見つめて生きる人であるならば、こうなるしかないという結論になります。もしも自分自体が、これを地上においてなすことができるかといえば、これは不可能なことです。

     神がいるとするならば、このような内容を解決してくれる希望的宣言だとか、または、そのような宣言をすることのできる人を送ってくれなければなりません。神がいるとすれば、私たち人間の前に予告するであろう内容が何かといえば、宗教でいうメシヤ精神です。そうだとしたら、これは正しいのです。そのような思想を歴史を通して今までもち続けてきたのであれば、神がいるということを、私たちはここにおいて、理論的結論として出すことができるのです。分かりましたか?

     メシヤが男性であれば、男性のモデル(原型)です。彼を中心として、女性はモデル的(原型的)な女性につくって、愛し合うのは、モデル的な愛をつくるためです。その責任者はメシヤです。だから遠い話ではありません。男性と女性が一つになって完全に愛するとき、それは神様のモデル(原型)と同じであるべきでしょうか、異なるべきでしょうか。(同じであるべきです)。同じであれば、それは愛を中心とした宇宙のモデル(原型)になる、このような結論になります。

     神が私たちに対して、男性女性がそれぞれに対して何を願うかといえば、神様も私たち人間に対して愛を求めるであろうし、男性も女性の前に、女性も男性の前に愛を求めるのです。その愛が異なるものではなく一つであるならば、それは宇宙の中心にならざるを得ません。宇宙の原則的なミリメートルのような標準的型になります。それが真の愛です。真の愛は人間同士の愛ではなく、宇宙を代表することができるために、神もその) 愛に入れたくなくても、入れざるを得ないのです。

     女性の中で結婚している人は手を挙げてください。結婚していない女性も手を挙げてください。「私は真の女性の愛をもっているので、すべての真の男性は私のもとへ来なさい」。(笑い)

     女性の皆さん、(このように言える)自信がありますか。なぜないのですか?

     こんなに大勢いるのに一人もいないのですか。男性はどうですか。問題は簡単です。この世の中の男性で、数学、哲学、宗教などをやるのをすべて投げ捨てても、真の愛をもって生きることができる、神様と共に生きることができる人であればいいという、一つの結論的なことをいうことができます。真の愛をもって、神を中心として生きる夫婦であれば最高です。そうなると男性が生きる世界のどこにでも行くことができ、女性が生きる世界のどこにでも行くことができ、神様が住んでいる世界のどこにでも行くことができます。このように見るとき、聖人たちを考えながら行動するのもいいですが、一つの(真の愛をもって生きればいいという)結論がここにあります。簡単ですね。そう思いますか。

     レバレンド・ムーンが、けさここにおいて結論を出したことに対して、神様に尋ねてみたとき、神様は「あなたの話は正しい」、男性に尋ねてみても、女性に尋ねてみても、「あなたの話は正しい」、三者がみな正しいと言うでしょうか? (はい) 。(拍手)

     高貴な人はなぜ必要ですか?

     高貴な夫婦のためです。高貴な夫婦になってどうするかといえば、高貴な神の愛を成し遂げるためです。では高貴な神の愛を成して何をするかといえば、宇宙をすべて所有し、中心として公布するためです。(黒板で)ここではすべてがこれを通じます。すべてをコントロールするのです。これがなぜ中心となるか、それはすべてが私のものになるためです。ではこの中心は、お金であるべきでしょうか。権力であるべきでしょうか、愛であるべきでしょうか?

     (愛です)。この地上を見るときに、愛を売って知識を買う人がどれほど多いでしょうか。愛を売って金を求める人、愛を売って権力を買う人がどのくらい多くいることでしょうか?

     それらはみな偽りです。皆さんはどうですか?

     (違います)。

     それでは、宗教を売って、宇宙を売って、神の愛を買うとしたらどうですか。そのようにすることは悪いことですか?

     宗教がいくら利用し、世界がいくら利用し、利用されても、神の愛をなすことができるのであれば、それは善いという話です。何の話かといえば、そのような宗教があるとしたならば、その宗教は宗教よりも愛を強調し、世界よりも愛を強調する、そのような宗教であるという結論が出ます。このようなことを教えてくれる宗教がなぜ必要でしょうか。それは宗教は元来神を中心としたものであり、神の愛を論議します。したがって、宗教以外には、神の愛といったより大きな愛を教えてくれるものがありません。それで宗教がなくてはならないために、統一教会がつくられたのも、その意味における(神の愛をなすための)方便です。どうですか? (そうです) 。

     宗教における統一教会のその原則は、何でなければならないでしょうか。男性と女性を完全に愛で一つにし、神が定着することのできる内容があれば、ここで統一ということ(概念)が可能なのです。中心において主管することのできる理想的内容があるがために、可能となります。それで何を売っても、何を犠牲にしても。統一教会の人たちは行かなければなりません。それがどんなに困難な道であろうとも、たとえ死ぬようなことがあるとしても、私たちは行かなければなりません。イエス様も最初は、この世においてこのように歩むと定めておいたのです。宇宙がどうなるかと考えるとき、この結論が最高の理想郷に行ける道であります。なぜ、男性は女性を探し求めるかといえば、それは神の愛を求めるためです。目的は女性でもなく、男性でもありません。家庭でも、国家でも、世界でもありません。神の愛に到達するために、私はそうするという結論をしっかりと理論的に整理しなければなりません。

     今まで皆さんは、そのように決定してやってきましたか、み旨がそうであるから(といって決意もなしに)そのままきたのですか。皆さんの心と体が、今まで一度も崩れずに、完全に一つになりましたか。心と体が完全に一つになれずに、そのような愛をすることができません。そうなりましたか? (いいえ) 。心と体が一つにならなければなりません。この心と体を一つにすることのできるものは愛のみです。愛のみが可能なのです。いつそのようになるかといえば、愛することを知り始めた時です。愛の道を訪ね求めて行くときには、心と体は一つになることができます。その愛は本然の愛です。

     それはいつかといえば、思春期においてです。愛を求めているときは、心と体、すなわち心の目と体の目が一つになるのです。それほど強いのです。父母の話も聞かず、勝手に回っていきます。目もそうであり、鼻もそうです。愛の鼻はもっと、普通ではかぐことのできない嫌いなものも、好きになります。また、心と体が一つになったなら、味も、何でも良く感じます。聞くことにおいても、夜明けまで聞いても良いのです。触覚も同様です。それは愛のみが永遠であるためです。その話は、正しいと思いますか? (はい) 。思春期になると目がおかしくなります。(笑い)

     なぜか分かりませんが、みんな良く見えてくるのです。服も着飾るし、(ジェスチャーを交えて)とにかく好きでたまらないのです。愛というのは、消化することのできない骨までも消化し、また汚いものもおいしく食べられ、すべてを消化してしまいます。愛は神秘なのです。心と体が均衡になり、一つになって、二人が一つになって、ここで愛という銃を撃ちます。(笑い)

     もう一時間たちましたね。もうやめましょうか。これだけでも偉大な成果があります。やめましょう? (いいえ) 。(笑い)

     そのような愛を願う人は手を挙げてみてください。本当の愛をもって、醜い男を見るときに、美男子に見えると思いますか? (はい) 。そうです。愛は素晴らしい力をもっていると私は思います。

     思春期において、初愛において結ばれた男女は、永遠に忘れることができません。美人とか、不美人とか、そういうことは見えません。初愛を捨てる人は神の前に行くことができません。この地上において天国に行ける人は、初愛を中心として生き、初愛によってすべてをあきらめ、初愛のゆえに生き死ぬという人です。そのために初愛を良くしなければなりません。レバレンド・ムーンが今まで善男善女ということで結んであげたのは、これを成すためです。統一教会の信者たちは、国境を越え、人種を超越して合同結婚式をし、世界から騒がれる狂った人々です。その気違いは何のためかといえば、本然の愛のためです。

     このような観点において、皆さんは一度反省してみなさい。自分はどれほど不完全な人でしょうか。どれほどよこしまな心と体をもっているかを反省してみなければなりません。自分の体を偽り、心を偽り、全体を偽っているよこしまな自分自身ではありませんか。このような自分自身を発見して、「ああ!

     神様、私を愛でもって救ってください」と言う前に、皆さんは自分自身を否定し、是正することが先決であることを知らなければなりません。心と体を一つにしなければなりません。

     体が行く道を中心として、心が一つにされるべきですか、心が行く道を中心として体を一つにさせるべきでしょうか。(心を中心として)変わることがあっても、心のほうがよりましだからです。心を中心としてこの体――鼻、目、口などすべて――を一つにしていかなければなりません。理想的な男性に会うためです。理想的な男性に会って何をするのでしょうか。理想の神に会うのです。それから理想的愛を探し求めます。不可避的にそこに行かざるを得ません。すべてをみな捨てて、この道を決定し、決定的な判断を下さなければならないことを、はっきりと知らなければなりません。どうですか? (そうです) 。レバレンド・ムーンがそのように言うから、そうやるべきなのですか。レバレンド・ムーンが言わなくても、本来の心がそうなのですか。どちらですか?

     (本来の心です)。

     なぜ心と体が一つになれなかったのでしょうか、これが問題です。神がいるならば、なぜ心と体が一つになるように造られなかったのでしょうか。私という人間は愛が何であり、男性と女性が何であるかを、知らないで生まれてきました。男性として生まれ、女性として生まれたならば、(互いに探し求める)そのような可能性の道を行くのは事実であります。しかし、そのように行く道が愛の道であるならば、なぜ、元来一つになることのできる基盤をもたないままに生まれたのでしょうか。神がいるなら、なぜそれができなかったのでしょうか。これが問題です。絶対的な神がそのような愛を必要としているのであれば、女性を造った時に、その女性をして理想的に造ることができなかったのでしょうか。そこで、正常なる男性と女性の立場に至らなかった、正常なる神様の所へいまだ至っていなかった、という論理が成り立ちます。思春期まで行ける一時を願ってきたのに、その所まで行くことができずに、事故を起こしてしまったという話であれば、分かるというのです。

     それではなぜ、その時まで待たなければならなかったのでしょうか。愛において成熟する思春期までの期間があるためです。それでこの期間までには、いかなる過重的要求があるとしても、私たちは理解できます。このために、成熟する前に愛によって故障となり、神も離れ、男性も女性も嫌だと言って離れる立場に立ったならば、大きな問題です。そのような一時があったとしたら、すべてが説明可能となります。もしそれがなかったならば、この宇宙は神もなく、永遠でもなくなります。愛の事故が起きた、これ以外にはありません。そのために神が問題となり、人間が、歴史が問題となりました。宇宙の大事件として、ショック(衝撃)を与えることができるのは、愛の事故しかありません。

     それで神様は、「取って食べるな」と言われました。この言葉はある過程的な内容を中心とした愛の警告であるとするならば、それは愛の思春期という成長期間があるためであって、永遠にではありません。なぜ「善悪の果を取って食べるな」と言われたのでしょうか。それは何かといえば、人間と神との基を整えるための動機の内容があるために、問題視したのです。そうでなければ問題視する必要はありません。このように見たときに、今日何も知らない人たちにとって堕落という言葉は、偉大なる福音です。この世界を眺めるにおいて、このような苦痛の時代の中においては、かえって) 堕落という言葉は偉大な福音なのです。

     善悪の木の実は(文字どおりの)実ではあり得ません。億千万人類が呻吟し、このような破綻の場で争うこととなるそのような木の実であるならば、神はなぜ、そのようなものを造ったのでしょうか。レバレンド・ムーンのみが、これは愛の内容を中心とした、そのような木の実であったという宣言をしました。結果として現れている事実が何よりもその理論に近いのです。そこで愛には善の愛と悪の愛が生じました。その結果次のように分かれます。成熟した人は真の愛を知る人であり、堕落した人は真の愛を知らない人です。神の愛に生きる人は真の愛を知る人であり、サタンの世界の地獄に生きる人は真の愛を知らない人です。

     それでは、神が認める愛はどのようなものでしょうか。アダムとエバが十六歳から十八歳になり、目が勝手に動いて、お互いに見つめ合って、「私が求めていた人はあなただったのです」と言うことのできる段階にならなくてはなりません。その時は思春期で、心と体が一つになったのです。目を見つめると神秘的な目であり、鼻をつければ電気が通ずる、このようになって男性、女性が心と体が一つになったときに初めて、花が完全に咲き開いて香ります。その香りは宇宙の香りであるので、宇宙の万物がくんくんと香りをかぎ、良い気持ちになっています。そのとき神はどうでしょうか。神もこれは不思議だと我知らず、(愛の)銃に撃たれたようになります。神は、「ああ、彼らは引力で私を引っ張ろうとしている」と言い、また「私の創造は最後に愛によって活性化された、私は移動するとしよう」と言うでしょう。その時に神は降りて来て、アダムとエバの周辺に共にいるようになり、結婚の世話人になります。そして彼らが一緒になった時、愛の爆発が起こります。それは男性、女性、神と三者による爆発です。

     純潔な男性と女性が神を中心として一つになり最初の愛を完成すると、それは宇宙の核になります。そしてすべてを愛で主管し本来の軌道に入るはずだったのに、脱線してしまったのです。脱線しなければ素晴らしく展開したはずです。この核はあまりにも強力に引き付ける力があるために、神様も首を縛られたようになって、これを離れることができません。体は離れても足は地面に付いています。男性も女性も離れることはできません。だからここから生まれる子供たちも、みな紐を持って、引っ付き引っ付きして世界となったのです。そして家庭、氏族、民族、世界となっていきます。この宇宙世界は何と素晴らしいことでしょう。そこは大変神秘的な所です。これが地上天国です、真実の世界です。皆さんはどう思いますか。(拍手)

     レバレンド・ムーンは空想家ですか? (いいえ) 。

     先生が初めて、恨みは愛からであったということを、このような歴史的背景を通して理論的体系において宣言しました。それは否定できない事実です。それが分かったならば、それを一つ一つ解くことは容易なことでしょうか。すべてが反対になり、分かれてしまっています。この理論が正しいならば、いくら世界の人が多くいたとしても、ばらばらに分かれ分立された人間像が発見されるはずです。そしてこの現世が(理論に)合っているという事実を否定することができません。したがって、堕落によってできた世界であるということは、正当な結論です。(黒板を使用して)ここからみな分かれたので、神もなく、父母もなく、男も女も世界もない混乱状態が起こるということは理論になかった現象です。ここでは自分自身でもっては、絶対に一つになることができません。希望がありません。人々は方向を探しますが、全くその方向が分からず、光も見えません。それで、これらのすべては今や神を求めるのです。

     しかし、「神はいない、神は死んだ」と言っています。それはすべての終わりを意味し、人間の滅亡を意味します。希望とか、理想とか、ユートピアとか、何もありません。それは人間たちがつくり出したものです。いかにしても(真理は)分かりません。個人を見ても、家庭を通じてみても、世界を通じてみても分かりません。有名な学者、聖人君子たちもみなこの中で(図を示して)見つめているので分からないのです。神様(の立場)に来てみて、初めて分かります。聖賢たちもここに行ったり、来たりしてやめたので、世界がどのようになっているか知ることができませんでした。

     このような実情を見るとき、(図で説明)このようになっているために、愛のため、真の愛を求めてこの世界圏を克服しなければなりません。そのような宣言が必要です。本然の愛はこの世の愛よりも次元が高いのです。そこで「誰よりも私を愛せよ、この世のすべてを捨てても私を愛せよ」と言える男性がいたとしたら、その人は偉大な聖人です。それは何の話かといえば、堕落した世の愛の圏を超越することのできる、愛の圏をつくるということなのです。

     神様はどうでしょうか。このように堕落した世界にあっては、神様もこのような人を願うことでしょう。このような世界に生まれたとしても、真正なる心の要求から、「私はこのような愛を求めて行きます」と言う時、神様は黙っているでしょうか。それにこたえなかったならば、神様に責任があります。なぜならば神が人間を造ったからであり、神が造ったからこうなったのではないですかと言われれば、神はどうすることもできません。私はここで生きているけれど、「あなたが願う理想的愛の圏に行きたい」として、行こうとするのに歓迎してくれないならば、神はいないに等しく、否定されざるを得ません。神は必ず答えなければなりません。「あなたの答えは正しい、あなたを待っている」と。

     数多くの聖人の中においてイエス・キリストのみが、人格的神として、神を父として宣布しました。イエスは万民の愛を中心とした先導者であり、救世主であらざるを得ません。もしそのような人が誕生したとしたら血統的に愛はどうなっているのでしょうか。イエス様でもサタンが離れてくれません。神とは一つになることができても、サタンは離れてくれません。なぜかというと、愛は本来の創造の原則において、主管することのできる権限があるからです。サタンは非合法的な愛ではあっても、アダムとエバを愛したに違いありません。「私はアダムとエバを愛したので主管することができる。だから、それ以上私を愛さずしては、連れて行くことはできません」と言うでしょう。だからサタンの血統を取り除いて生まれなければ、問題が残ります。

     イエス様(の家系)においても、カインとアベルに分立し血統的な浄化運動をしたという歴史的内容が、聖書に記録されています。ヨセフの血統を見ると、ずっとめかけの血統です。そのような複雑な問題をみな解決して、これらをすべて脱ぎ捨てなければなりません。そして、「神様、私はこれらのすべてを脱ぎ捨ててきました。今や、あなたの前に立つことのできる息子であり、あなたが探し求めていらっしゃる本然の愛を立てることのできる男性です」と言えるようにならなければなりません。どれほど膨大(な内容)でしょうか。今日統一教会において一つ一つを知って、一つの完全な体系に基づいて勝利的に現実問題に理論立てたということは、驚異的であります。そして、ここに来て座ることは、天下においても最も価値があり、名誉あることとして、誇りと思わなければなりません。そのために今日堕落圏にある皆さんは、堕落した国と世界全体を否定して、それ以上愛する愛をもって愛さなければなりません。しかし、そうだと決意しても、そのとおりにやることはできません。なぜならば、サタンを中心としているからです。

     アベルは神の息子であり、神の息子は本来アダムとエバが行かなければならなかった天国に(行くに)は、天使長を愛し、天使長の種族たち(カイン氏族)を愛して行かなければなりません。それが原則です。誰よりもサタンを愛したという条件を立てなければなりません。そこで必要なのがメシヤです。私たちにメシヤを送ってくださいということになります。メシヤは堕落圏とは関係ありません。本然の愛の主体型として来られる方です。エデンの園における神の息子、娘には堕落圏がなかったように、本然の子女として生まれたのです。

     宗教の歴史の中でこのような歴史をもっているのは、ユダヤ教です。ユダヤ教を中心としたメシヤ思想があるということは、神がいらっしゃるということです。神を中心としたメシヤと一つになることのできる民族として、世界において準備されたのがユダヤ民族でありました。このような世界の上に一人の方を誕生させるために、ユダヤの国を選び、選民として立てたのです。そして一つになったならば、愛をもってローマを消化します。イエス様はメシヤとして来られて何をするかというと、愛でユダヤ教を消化しなければなりません。

     メシヤは男性であります。それでアダムにかたどってエバを造ります。メシヤは堕落した世界に来てエバを探さなければなりません。サタンが奪っていったからです。そのために新郎を迎えるまで、女性たちは歴史時代においていつも苦痛を受け、蕩減の道を歩むようになります。そして真なるメシヤと一つになって、永遠に変わることのない男性に出会って、絶対的な本然の愛の中で、爆発的な愛をこの地上に再現させて、ここで夫婦の因縁を結ばなければなりません。その中心は神の愛です。このようなこと(道)が、どこでなされるのでしょうか。国を治めることのできる宮殿において、あるいはユダヤ教の大祭司の家庭でなされなければなりませんでした。ところが、祭司長たちがメシヤを追い出したのです。

     (黒板を使用して)これがなくなったので、メシヤは死んでしまいました。そこでこのような歴史を経て再び来なければなりません。これは非常に論理的なことです。それで再びこのような歴史をつくるために、世界的なキリスト教をつくってメシヤは再び来られるのです。どこに来るかといえば、キリスト教にです。そのキリスト教を代表する世界的中心国家がアメリカです。第二次世界大戦直後において、そのアメリカの権限が歴史上に一度しかない最大の期でした。しかし、その期を失ってしまったのです。もしそうでなければ) 共産主義をみな除去することができたのです。

     この時がメシヤが来られる時でした。終わりの日、サタン世界の終わりの日だったのです。そしてそれは、統一教会から始まりました。ローマは太陽神を信じ、怨讐の立場にあったときに、イエス様を殺しましたが、蕩減路程においてこのローマと同じ立場に立っているのが、キリスト教文明圏の中心国家であるアメリカです。そしてローマとイスラエルの関係を蕩減しなければならないのが、アメリカと韓国の関係です。統一教会はこのような使命を中心として出発しましたが、キリスト教において歓迎を受けることができませんでした。もし受け入れていたならば、私たちはずっと以前に共産世界を克服していたことでしょう。しかし、受け入れられなくて、メシヤはモーセの四十年荒野生活のように荒野に追い出されました。そして四十年間で再びキリスト教文化圏(に相当する基盤)をつくるのです。アメリカとキリスト教が反対したのを蕩減復帰しなければなりません。蕩減するということは、愛するということです。統一教会の信者はキリストを、これまでイエス様が愛された以上、数多くの人たちが愛する以上に愛さなければなりません。それが認められる日、この国は生きるのです。

     これからの三年間、アメリカの言論界や自由世界の言論界は統一教会に反対する気力がなくなるでしよう。それよりもこの世界に希望がなく、この世界が滅びていき、手がつけられなくなります。統一教会よりも、さらに悪いものを見ることになります。ムーニーが一番悪いと思っていたのに、自分の子女のことを心配して、自分の子女たちの生きている社会、自分たちが生きている国家、世界を見ると、かえってムーニーの思想がはるかに優れており、この世はめちゃくちゃになっています。

     私たちは世界主義が必要です。神様も世界主義であるに違いありません。統一教会は共産党よりも、キリスト教よりも世界主義であることを、一度に理解させなければなりません。それは共産主義も恐れるものであり、それを打破し、新しい世界をつくり出すことのできるものであることを。共産党よりはレバレンド・ムーンがましである。そうなれば、共産党を捨ててレバレンド・ムーンを取るでしょう。(拍手)

     アメリカの青年たちはどこか行く道がありますか。フリー・セックス、ヒッピー、ストリーキング、レズ、ホモ、やるだけやってみたのです。ところがムーニーはレズも知らず、ホモも、ドラッグも知りません。たった一つだけ知っています。東洋の女性とアメリカの青年が一つになっても互いに喜んで、苦労してもそれでも希望をもっています。どこに行っても苦労を喜ぶということです。背が高くすてきなアメリカの男性女性同士が、周りで見てもうらやましいほどの人たち同士が結ばれても、すぐに) 争い離婚したりします。ムーニーたちは完全に離婚しても余りあるほどの二人であるのにもかかわらず、喜んで生活します。これはいったいどうしたことでしょうか。不思議なことです。姑を愛し家族たちを訪ね回りながら、一つになろうと苦労しながらも、よく耐えて喜んでいます。だから彼らは現代の青年と比べ、統一教会のカップルを最も不思議だと思うでしょう。しかし、最も不思議なお方は神様です。(拍手)

     アメリカは行く道がありません。間違いなく統一教会のレバレンド・ムーンがよく、ムーニーが素晴らしいといううわさがこだまのように全国に広がるようになると、その時は私が逃げ回らなければなりません。我々の父母は良くなくて(先生に反対しましたが)、我々はそうではありません、と言うでしょう。(拍手)

     「(モーセの)荒野時代の四十年間において、先祖たちは神を裏切ったが、その後孫を連れてカナンの地へ入ったではありませんか。このように草創期から四十年ぶりに会ったのですから、レバレンド・ムーンは私たち後孫を引き連れて行く責任があるではありませんか」そのように讒訴されれば、レバレンド・ムーンはどうすることもできません。そのような時代が来るのです。

     だから、どうせやるのならば、皆さんは初めから歓迎し前もって自分たちの責任を果たし、これらの人たちを救えという宣布がされるのです。統一教会が黙っていれば、彼らの後孫が訪ねて来て、「あなたよりも私のほうが優れているし、国が私の味方であり、世界が私の味方です。皆さんは何をしてきたのですか」と言われます。「ムーニーは大変小さい。しかし私たちには国があり、世界があります。皆さんには何がありますか」と言われたら何と答えますか。神はどちらを準備しましたか。小さなムーニーですか、大きなアメリカの若者ですか?

     (ムーニーです)。クリスチャンは国をもち、世界をもっています。しかし、私たちは指導権を失ってはいけません。

     三年間動員すべきですか? (はい) 。皆さんは伝道が嫌いだと言うけれど、問題ありません。ハーバード大学出身、エール大学出身、博士、学士たちが押し寄せて来て、自分たちが先頭に立とうとする日が遠からず来るでしょう。ドクター・ダースト教会長も復興会で回り、言論人たちとミーティングをすると、彼らが非常に親切であるので、どうしてこのようになったのか、と驚いています。昔は黒い色メガネを掛けて見ていた人たちが、今はそれを外してしまっているのです。どちらが良いか、悪いかが分かるのです。

     生きた魚は清い水の流れに沿って生きるのが原則です。腐った中においても良心があり、真を求める人は、清い流れを訪ねて来ます。そうだとしたら、アメリカの志のある若者たちは、ここに来ざるを得ません。ここに来て問題になれば、一度に巻き込まれます。その時が来ると思いますか? (はい) 。その時、立派であるという彼らに、「未来の世界に対して自信がありますか、生きていくことに、妻を愛し、父母としての自信がありますか、兄弟を愛する自信がありますか、自信のある人は手を挙げてください」と言うと、彼らも自信のないことが分かるでしょう。ではムーニーはどうでしょうか。自分自身に対して、家族、民族、世界、未来、神に対して自信がありますか? (はい) 。我々はすべてに対して自信をもっています。(拍手)

     先生はそのような時を見計らって、時を合わせてやっています。私たちはライフルを撃っているのではなく、機関銃を撃っているのです。それはどうですか。何と興奮させる内容でしょうか。そう思いますか? (はい) 。私もそう思います。(笑い)

     世界がだんだん近づいてくるでしょう。

     神がキリスト教文化圏をして世界が動かせるよう計らった三年間がありました。それは一九四五年から一九四八年までの三年間です。しかし、この三年期間を失ってしまいました。韓国は一九四八年に独立しました。その時に、韓国と共に統一教会も独立させてくださったのです。ユダヤ教も一九四八年に独立しました。その時から数多くの国々が独立し兄弟国となっています。真の父母が弱者となり、敗戦国が強者となりました。最近はどうですか。ドイツと日本が、イギリスとアメリカを屈服させることのできる段階に入ってきています。そう思いませんか。アメリカだけのために、ヨーロッパだけのためにと考えるときには、下がっていくようになります。ドイツは一九八〇年まで、日本は一九七八年まで、自分の国のみを中心としたら下がっていくのです。自分のためにという国はみな下がっていきました。しかし、ムーニーは世界のためであるから下がりません。(拍手)

     私たちの目標は理想世界を求め、それは霊界にまで行くのです。それで霊界のためにやるので、早く早く地上を処理するために、霊界は私たちを助けその道を教えてくれます。

     今までレバレンド・ムーンは、宇宙世界の代わりの立場に立ってキリスト教文化圏を凌駕し、共産世界を追い出すことをしてきました。自由世界は共産世界に浸透され倒れそうになっているので、仕方なくレバレンド・ムーンを前に立たせるのです。(拍手)

     彼らは嫌であっても、生きるためには仕方ありません。最初はこちらから来ました。(ジェスチャーを交え)そして回り始めます。(笑い、拍手)

     夢のような話ですが、これは理論的です。ここに座っていることを誇りとしなければなりません。レバレンド・ムーンにおいて共産世界が終われば、すべてが終わります。世界を見てみると、統一教会が一番優秀であることは、既に決定しています。統一教会はこの世で最も恐ろしい団体です。(拍手)

     そして、サタン世界が震え上がる時、神は喜ぶのです。(拍手)

     一世は(反対、賛成)と二通りいますが、二世たちは、共産党の二世たちも私たちを好きになります。そのようになりますよ。最後の勝者は誰でしょうか。共産主義者ですか? (いいえ) 。最も嫌われているムーニーが勝利を得るでしょう。そうですか? (そうです) 。(拍手)

     そうなると私は考えています。そうならなければ、私がそのようにつくりましょう。いかにして?

     それは神の名のもとに。(拍手)

     このようにしてすべてを取り戻し、その次には天使を愛するのです。アダムとエバは万物を愛してから、天使を愛することができませんでした。本然の天使を愛することができなかったのです。

     誰が先に愛さなければならないかといえば、天使長がアダムとエバを愛して堕落させましたが、(本来)アダムとエバが天使を愛さなければならない立場です。この天使長の息子が誰でしょうか。アダムとエバがその後孫です。堕落した天使長がサタンとなりました。だから後孫がアダムとエバです。そこから探し出して、天の国の天使長にしなければなりません。

     (黒板使用)これが三年半、これが三年半、合わせて七年です。これが統一教会の七年路程です。ですから本来は七年以前に結婚することはできません。祝福を受けるには、三年間伝道して三人の信仰の子女が必要ですが、そのように祝福を受けてもさらに三年間待たなければなりません。婚約は許可するのです。そうしながら何をするのでしょうか。ここでは万物と天使世界、本然の世界を愛し、神を愛さなければなりません。これを整えずに、神の愛を受けることができません。これが公式です。このようにして初めて、神を愛することができます。万物を取り戻し、天使長を探し出して愛することのできたのちに初めて、神を愛することができるのです。今日統一教会はこの公式どおりに歩んでいます。

     万物の条件がなければ、自分を再創造することができません。伝道し三人の信仰の子女がなければ、自分が天使長を愛したという条件を絶対立てることができません。これが堕落しなかった状態です。万物を愛し天使長を愛し自由自在に接して、神に接することができる、そのような場が必要です。だから男性も女性も三人の家族をつくるのです。アダムが八人の家族を通じて落ちてしまったので、八人の家族をつくらなければなりません。男性と女性が三名ずつ伝道すると、自分たちを含めて八人になります。このような条件を立て、三人という条件が成立することによって、初めてここで、神を中心として上がっていくことができます。

     上がり始めたといっても、それはサタン圏内から外に出られません。そのままでは家庭から、氏族、民族、国家、世界まで出て行く道が分かりません。これは誰がやるかといえば、メシヤが来てやります。家庭を中心として接ぎ木しながら、この世界へと貫いていきます。これが三次七年路程になっています。

     レバレンド・ムーンが世界的に一九七六年を中心として世界的な迫害を受けながら貫いていきます。共産党、キリスト教、ユダヤ教、すべての世界が反対します。それで何で勝利するかといえば、愛しかありません。反対する人たちを愛で救ってあげる、それしかありません。このアメリカは怨讐の立場に立っていますが、「オー! 仁川」を作ってアメリカに愛国精神を植え付けようとし、ワシントン・タイムズを作ってアメリカを救おうとしています。これを見れば、レバレンド・ムーンが怨讐を愛したという結論になります。怨讐の世界的代表国家から、一つになってこのようなことを成しています。そうしながらより世界的な怨讐を愛します。このように貫いてきました。それでレバレンド・ムーンに従ってきた者はみな、(黒板で)ここを出たのです。

     ところで、ただ越えて行くのではありません。自分だけ行くことはできません。自分が神の国へ行く前に、このカインの世界、国家、家庭、これらのカインを連れて行かなければなりません。本来カインは兄です。双子の兄なのです。生まれる時には、兄が先に生まれてから、自分が生まれるようになっています。それでカインは先に生まれさせなければなりません。信仰の三子女が完全に一つになって愛してこそ、初めてアダム、エバが生まれることができます。堕落とは、この三人が一つになることができず、逆に支配したことなので、反対に三人が一つになって、アダムをアベルを崇拝しなければなりません。

     ムーニーの世界(Moonie World)は男性と女性(Man, Woman)という意味です。人間の世界は男性と女性ですから、ムーニーの世界です。英語は便利ですね。人間から始まって人間で終わるのです。アダムとエバから始まったので、アダムとエバで終わります。このように言うと耳によく入るでしょう。TM, TW, TG(黒板に)TMはTrue Man(真の男性)、はTrue Woman(真の女性)、TGはTrue God(真の神)です。今まで神は(TM, TWを)探してこられました。真の神、真の男性、真の女性は何をするのですか?

     (真の愛です)。真の愛はどこにおいてするかといえば、「家庭において」、これが統一理念です。これについて話そうとすれば、十時間ほどかかるので、ここで結論づけようと思います。

     皆さんが必要なのは何でしょうか。それは本来の状態です。そこには神がおり、アダムとエバがおり、すべてがありました。これらを連結させるものは愛でなければなりません。では私を中心として真の愛をしようとするとき、何が必要でしょうか。そこには三つが必要です。男性であれば、女性が必要であり、女性であれば男性が必要です。アメリカの皆さんは男性、女性を探すために、命懸けで探したのですか。それともただ、自分勝手に探しましたか。じっとしていたらやって来た人を、たまたま相手にしたというのではありませんか?

     皆さんはアメリカという国をもっています。しかし問題なのはこちらの中心が、この神ではなく異なった神であるということです。そして、サタンの愛と連絡されています。それで蕩減していくということは、失った反対の道をたどっていくことなので、私たち統一教会は信仰の子女が必要です。少なくとも三人ですね。

     アダムの家庭では八人の食口が堕落しました。その中でサタンを中心として三人の息子が落ちました。そのために三人の息子と三人の娘が必要であり、これ(三人の娘)は三人の息子を中心とした三人です。ここではサタンを中心として上っていかなければなりません。サタンの愛を中心として落ちたので、神の愛を中心として、ここから上がっていかなければなりません。そして何があるかといえば、万物があります。

     堕落してすべてを失ってしまいました。そこで万物の条件も立てなければなりません。統一教会が万物の条件を立てるのは再創造するためです。サタン世界になってしまったので、神の側には何もありません。神側に何もなくては、アダムとエバを再創造することができません。神はアダムとエバを先に創造しましたか、万物を先に創造しましたか?

     (万物です)。では万物をサタン世界に行って、取り戻してこなければなりません。世界代表を中心とした所に行って、世界代表した精髄を取ってこなければなりません。そこにおいては、すべての国が反対します。そのようにサタンが反対する中において、仕方なく探してきました。

     本来、すべての万物の所有は、真なる愛をもつ人がするのが原則です。「君(サタン)は真の愛をすることができなかったけれど、私は真なる愛をしたので、このものを私に渡してくれなければならない」と言うときには、サタンも仕方ありません。サタン世界の所有として愛する以上の愛する心で愛さなければなりません。それで十一条、サタン世界でも十一条の代わりに(税を収めています)。三掛ける三は九で、これが三段階(黒板使用)、十数は神側に入り十一条に対するものを取り戻してこなければなりません。その意味において、サタン世界から取り戻してこなければなりません。人類を愛し、世界を愛し、神を愛するにおいて、君(サタン)よりは優れているという立場に立って、取り戻してこなければなりません。精誠を尽くしてそうするのです。それは万物において、条件を立ててやったことであって、全体ではありません。全体の核心、種を取り戻してこなければなりません。条件というのは種です。それを取り戻してから、初めて自分自身が再創造されるのです。自分を通して再創造するにおいて、万物が必要です。万物を愛するうちに、万物を愛する本然の私になります。

     レバレンド・ムーンがこのような世界の人々を連れていく時、ただ連れていくことができないので、ここで蕩減条件を立てなければなりません。レバレンド・ムーンは堕落世界を出て、再びその世界に入らなければなりません。そしてここで中心にならなければなりません。何をもって中心になるかといえば、皆さんの三六〇軒ホーム・チャーチを基盤として、それが拡大されるその圏内に中心を求めなければなりません。皆さんが先生に従って、これから世界的に代わりに出て闘って、再び入ることのできるのがホーム・チャーチです。ホーム・チャーチで四方を経ていくときには、四方にそびゆる基盤になります。レバレンド・ムーンは迫害を通してやってきましたが、皆さんは歓迎を受けるでしょう。そのような時が来ます。三年路程だけ終われば、すべてが終わってしまいます。そう思いますか? (はい) 。三年以前にホーム・チャーチ分配を受けて、出て行かなければなりません。

     機動隊の活動をしても、ホーム・チャーチはなければなりません。それは根拠地であり、基地なのです。機動隊は出かけていって戦います。それは戦争する時、統一教会が勝ったという基準をつくろうとするのです。勝ったということは、すべてのうわさが良いということになることです。それによってホーム・チャーチを早くつくろうとするのです。何の話か分かりますか。だからホーム・チャーチがなければ、天国は成せません。先生が六十年間やったことを、皆さんは七年でやるのです。一九八八年まで行けば、アメリカはみな摂理圏内に、ホーム・チャーチ圏内に入ってくるでしょう。良いというイメージが必要です。

     信仰の三子女が必要なのは、三大天使長と、アダムの三子女の基準と、サタン世界の兄のカインを探し求めるためです。また、旧約、新約、成約の時代(を完結することになります)。旧約時代は民族、新約時代は国家、成約時代は世界時代です。モーセは六十万大衆を連れてカナン復帰、イエス様は国家から天宙へカナン復帰、統一教会は世界から天宙へカナン復帰、最終的カナン復帰です。このような意味において、三段階に広がっていかなければなりません。そしてアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と、三代の神で表示されます。(そして父母は)第一アダム、第二アダム、第三アダムです。これらの者は、三人の信仰の子女として復帰される三天使長によって表されます。それゆえに三人の子女がなくてはなりません。絶対に結婚することも、生活することもできません。それでイエス様も三人の弟子を必要としました。分かりましたか?

     統一教会においても、三家庭があったでしょう。それを知らなければなりません。それから十二名です。この十二名でもって初めて四方が整い、私が中心に入ることができます。イエス様も十二弟子の家庭をつくっておいてから、イエス様の家庭が保護されるのです。十二家庭はイエス様も同様です。信仰の子女がどれほど重要であるか、分かりましたか?

     三つのカインを求めなければ、自分が天国に行くことはできません。

     旧約時代にアベルとして生まれてみると、既に旧約時代の(カインの)世界があり、新約時代にアベルとして生まれてみると、新約時代の(カイン)の世界があり、成約時代にアベルとして生まれてみると、成約時代の(カインの)世界があります。三段階カイン、アベルが旧約、新約、成約をみな連結させるためです。それぞれの代表者として立てて、それが一つになることによって、このカイン世界が初めて方向を変えて順応する道が始まります。

     このような基準をなしていくのです。ここで復帰するにおいては、失った方向と反対の方向に、父母から、子女から、家庭から、氏族から、民族から、国家から、世界に、七段階になっています。このような全体が環境的に成された型が何かといえば、これがユダヤ教のイスラエル国家圏です。これは世界に対しての国家圏です。この中心からは自由に出入りできる圏、これがユダヤ教文化圏でした。メシヤはこの中心であるので、自由に出入りできます。そうだとすれば、七年以内にすべてできてしまいます。このようにして国家が形成されるとしたら、ローマは自然になくなっていきます。ローマは自然に腐敗して滅びていきます。これが成されなかったので、再臨時代にきてキリスト教文化圏が一つの世界的文化圏をつくります。そしてキリスト教はみんなメシヤを願っているので、メシヤは自由に出入りできます。同様に七年以内に世界が完全に一つになります。

     一九四五年に七年をプラスすると一九五二年、この時には完全に成されたのです。キリスト教文化圏が反対することによって、メシヤはほかの所に出ていったのです。そして再び堕落したと同じように反対の方向に行ったので、再び解いていくのです。

     これがレバレンド・ムーンを中心として見ると、ここには個人、家庭、氏族、民族、国家、世界の形として今まで基盤を築いてきました。今やユダヤ教やキリスト教と比較して統一教会は劣ることがありません。それで私たちはユダヤ教に勝つことができる人にならなければなりません。ユダヤ教を消化する群れです。次には、キリスト教の実を結ばせることができます。私たちはアメリカに勝つことかできます。サタンにも勝つことができます。このような基盤をつくりました。キリスト教がアメリカを中心として反対したので、キリスト教の代わりにこれを再び救ってあげようとするのが、この三年路程です。結局、キリスト教は反対したけれど、再び迎え入れる立場において、反対していたカインを愛でもって救ってあげるのです。

     これが一つになる日には、モスクワです。それでアメリカや、アメリカの教会や、自由世界が、レバレンド・ムーンに反対しては神の前に立つことができないと言って、レバレンド・ムーンと一つになる日には、自由世界と共産世界を救うことができるということが言えます。すべての世界がレバレンド・ムーンを中心として、自分の国を救おうという運動を展開させていくでしょう。南米がそういう結果になっています。アジアも共産世界から生き残るためには、レバレンド・ムーンが必要です。アメリカがレバレンド・ムーンが必要だというときには、世界が生きるのです。

     このようなすべての歴史の背後に隠され入り乱れたことを解くことのできる人は、いくら研究しても考えても、私しかいないと思うのです。いくら研究し調べてみてもいないのです。(拍手)

     レバレンド・ムーンが「そうだ」と言い、皆さんが「そうだ」と言い、神様が「そうだ」と言えば、それですべてが終わるのです。(笑い)

     すべての人に真の父母が必要です。(黒板で)これは全く逆に上がっていきます。一番最初には兄弟が上り、次には男性と女性を中心として、次は神が上っていきます。歴史時代において父母に出会うという事実は大変なことです。父母を失った孤児たちであるから、一つになることができないのです。どこに行っても一つになることができません。本然の父母の愛からすべてが始まって、父母と一つになって、神と一つになって、そこから生まれることによって子女となります。祝福を受けた皆さんと私は、このような立場に立っているのです。皆さんは父母と子女と万物世界の中心の位置にあります。男性と女性は各自が中心にならなければなりません。いくら父母があるとしても、父母と一つになるにおいては、皆さんが中心です。息子がいくら理想的な息子であるとしても、み旨と一つになる自分が問題です。自分自身が自分の怨讐なのです。心と体が一つになれなかったことが怨讐なのです。この心と体が一つになるにおいて、真なる夫の愛、真なる妻の愛、真なる神の愛があります。真なる神に侍ってから、真なる息子を愛する父母とならなければなりません。そうすることによって家庭が成されるのです。

     心と体が一つになるところに真なる愛が臨み真なる愛がなされ、夫婦の中で一つになって行くところに神の真なる愛が臨んで一つになってから、子女を生まなければなりません。自分の夫よりも、神様を重要視し、自分の妻よりも神様を重要視する、そのような人にならなけばなりません。皆さんの子供の時代にはそれは必要ではありません。それは父母たちがそうするからです。真の父母を自分の夫よりも、妻よりも愛する立場をとってから、夫を愛し子供を愛するのが原理です。

     それで、この三天使に当たる信仰の子女が、皆さんの子供を愛することができ、教育することのできる立場に立たなければなりません。この三子女は養子であって血統が異なるので、神の国に入ることができません。皆さんの子女を命懸けで絶対的に信任し、命までも捧げるほどに愛したという立場に立たなければなりません。そして皆さんの子女が、「あの三天使をして私と共に生きるようにしてください」と言うことによって、この三天使が神の国に入ることができます。このようにして、この信仰の三子女は神の国を相続する権限が与えられます。

     私たち統一教会の家庭からいえば、この三家庭全体が先生の子女たちをあまりに愛したので、先生の子女たちが、「三家庭も祝福を受けるように、神の国に共に連れていって住みます」と言うようになって、神の国に入るのです。そのように先生の子女たちが愛して、祝福してあげてくださいと言うことによって、特権を与えられるのです。このような伝統が立つために、このような原則があるために、ここから、ここで始まる伝統的、歴史的なことは変えることができません。いかなる強者が現れたとしても、奪っていくことはできません。何の話か分かりますか。

     これから皆さんの祝福家庭も同様です。皆さんの子女が信仰の子女に対してそのようにしなければならないし、信仰の子女と一つになった皆さんの家庭が先生の子女たちとそうしなければなりません。そうすれば、世界の人がいくら多くとも、全部がこの家庭の中心、血統についていこうとするようになります。だから統一教会の信者は家庭をもって、自分勝手にあちこちと行ったりすることはできません。ある一カ所についていきながら生きるのです。そのためにこれからの世界は、四十億、何千億の人類が生きるとしても、その中心圏において子女が一つとなっていこうとする世界、互いが「為に生きる」そのような世界になるでしょう。

     皆さんは今は教会の祝福を受けましたが、国の祝福、世界の祝福をすべて終えてから、その次にはそうすることができる(完全に自由にすることができる)時代に入ります。しかし、中心においては、先生の家庭においては神に対する伝統を受け継ぐ後孫、中心家庭――直系を受け継ぐ一中心があると思います。その中心一人だけいれば、その一人を中心として一つになることによって、すべてが上へと上っていくことができます。そうして先生はすべてのことを成したことになります。その時は中心を中心として先生の後孫たちも一つになります。(荒野)時代に皆さんが一つになるのと同じように、三代祝福圏を越えてそれが可能であって、それ以前においては絶対的に先生一代を中心としてそのような運動をしなければなりません。

     このような問題を見るときに、すべての世界において、私自身はいかに重要であるか、私が問題なのです。皆さんが問題なのです。皆さんがよくしなければ後孫がどうなりますか。サタン世界に生きて祝福を受けた人、その人は自分自身が問題になります。皆さんの後孫はそれほど問題になりません。信仰の子女が極めて精誠を尽くして侍って一つになって、その中で育てば(後孫には)信仰の子女が必要ありません。はっきり分かりましたか。だから皆さんは絶対的に信仰の子女が必要です。分かりましたか? (はい) 。信仰の子女のない人が生きようとするそれ自体どうでしょうか?

     すべてが明確でなければなりません。このように見るときに、信仰の三子女、先生においては三十六家庭を代表した三家庭が、家庭の責任を成すことにかかっています。

     アダムとエバを天使長が教育すると同じように、先生の子女はこの三家庭と三十六家庭が教育するのが原則です。結婚する時までに、いかに神に侍るべきかをアダムとエバに誰が教育するかといえば、天使長がするのです。では) 父母はどこから要るか、神の愛の因縁はどこから要るといえば、成熟期において要るのが原則です。先生の子女も祝福を受けるためには、父母様を絶対的に信奉し、神を絶対的に信奉しながら、天使長に当たるこの三家庭三十六家庭の行動をよく引き受けて、成熟して結婚するまでには脱線してはならないのが原則です。先生の子供たちを見ても、原理的基準があります。

     今は自分自身が問題です。サタン世界にいるゆえに、自分の夫以外、自分の妻以外、子女以外には天使長しかいません。他の考えをもってはいけません。祝福を受けた子女たちは、祝福を受けていない人とは絶対に結婚できません。それは地獄の中の地獄に行きます。祝福を受けた人が外に出て結婚した、そのような人は再蕩減しなければなりません。あの世に行ってもそれが分別されます。祝福を受けて不正をすれば、サタンよりも悪いのです。サタンが讒訴します。これは直接主管圏に入って堕落したことになります。皆さんは知らないだけで、天理の法度は定立されています。だからよく知らなけばなりません。皆さんは、いかなる伝統を立てるかが重要です。このように(伝統を)立てておくことによって、そのまま父母の伝統を引き継ぐことができます。それで先生を中心とした三つの国家、三子女の代わりの三つの国を収拾していきます。アダム国家、エバ国家、カイン国家、アベル国家、先生を中心として三支派になります。そうすることによってすべて治められます。では信仰の子女が必要であることが分かりましたね? (はい) 。

     皆さんの受けた祝福は国の祝福ですか、統一教会の祝福ですか?

     (統一教会です)。これから国の祝福を受けるとき、皆さんが良心的に妻と夫と子供の報告を書いて、条件に合格して、再び(国家的)祝福を受けることができます。それに合格できなければ参加できません。それで特別な期間を設定してそれを許す期間があります。それは荒野時代を乗り越えるものです。分かりますか?

     何も食べるものもなく、難しい立場に(立つけれど)、外勢の侵入を受ける原因が残っているので、そうしたのです。その次は世界時代において祝福を受けるとすれば、皆さんは身内(族属)となるでしょう。そこに合格して初めて、天国に入ることの入籍が始まります。何の話か分かりますか。その時までは、先生の家庭と完全に一つとならなければなりません。

     その時が過ぎれば、先生の後継者が一人立ちます。世界が一つになり、先生の家族が一族になり、全部が一族圏にならなければなりません。そして先生の家庭においても、すべてを集めて会議をし、この原則に誰が一致したかを公的な会議によって決定します。より犠牲になり、より家族全体のためとなる人でなければなりません。それは、私たち統一教会の全体が知っており、統一教会の祝福を受けた全体が知っており、統一教会の先生の一族がみんな知っており、先生もお母様もみな知っているのです。その人が決定されたのちには世界は法的時代に入ります。天法、神の憲法時代に入っていくので、いくら神に近い人でも法にかかれば、法的処理として処罰を受けなければなりません。その法にかからない後継者を探して永遠に続くのです。分かりましたか? (はい) 。

     そのような歴史過程において、現在祝福を受けた家庭がどれほど恐ろしい立場にいるか、知らなければなりません。皆さんが問題です。皆さんは先生がいないとしたら、先生の子女を訪ねていくでしょう。間違いなくそうなります。多くの兄弟がいますがみんな知っているでしょう。皆さんは遠くに離れていても、先生の子女たちの性稟を研究してみて) 、一つになるようにしなければなりません。これで統一教会信者が、これからどうなるかということを大概話しました。祝福を受けた家庭の子女たちも父母と一つにならなければ、国の祝福と世界の祝福の場に出ることができません。滅びゆくアメリカにおいて、(この世の)動物のような者を訪ねていって(交ざろうとする傾向がありますが)、祝福の子女におけるこのような行動は許されません。分かりましたか? (はい) 。大体これからどうなっていくか、分かりましたね? (はい) 。

     このような立場において、自分がいかに重要(な立場に立っている)でしょうか。自分を中心として、子女と万物と世界が私に祝福を(という立場ではありません)、祝福は皆さんが与えるようにしなければなりません。心と体が一つにならなければなりません。今日このような基準が立てられなかったならば、天国に入ることはできません。誰が命令したからではなく、志願して行くのです。機動隊生活は強制的にやるのではなく、志願してやらなければなりません。自分の妻や夫がいれば、「あなたはどうしてそのままいるのですか、早く出なさい」と言わなければなりません。イスラエル民族が四十年荒野時代において、子供たちはみな子供の責任をもつ部署に預けて、移動する際には、子供の責任をもつ部署が子供を連れて行くことになっているのであって、自分たちが抱いていたらみんな落伍してしまいます。皆さんも落伍者になり、子供も落伍者になります。夫を愛し、神を愛し、国を愛さなければなりません。私たちは統一教会よりも統一教国を愛さなければなりません。分かりましたか? (はい) 。このような分かれ目を決定する自分にならなければなりませ。心と体が一つにならなければなりません。先生もお母様に対して考えるとき、心と体が一つになって愛するか、と常に反問するのです。他のことは考えません。お母様もそうであるはずです。

     それでどこに行くべきでしょうか。カナンの地に行くのは難しいけれども、ついて行かなければなりません。離れたならば、いつ見失ってしまうか分かりません。方向も分からなくなります。方向は先生が知っているのであって、お母様は知りません。お母様も先生のあとにぴったりと、ついて歩かなければなりません。「きょうは子女たちを思って子供たちを市場に連れて行くので、先生一人で行ってください。あるいは) どこに行くにも一人で行って来ます」と思ったら大変なことです。荒野時代にあるゆえに子供たちもみな、「父はどこに行ったのか」と他のことは思わないで、どこへ行くにもついて行くという考えをもっていかなければ大変です。

     考えてみなさい。父母は皆さんの指図で行動するようになってはいません。むしろ、皆さんが父母を見失いはしないか、聞いたお話が実現できなかったらどうしようと、心配して夜を明かしながら待たなければなりません。もし、先生が船でハワイに行くときには、ついて行かなければなりません。国がない時には仕方がありません。寝ても覚めても、先生は神の国が指標です。そこにおいて民とならなければ、神の国に入ることができません。その国に倒れて死ねば、その国(霊界)に行って待たなければなりません。

     どこの国が先に、国民全体が一つとなって「レバレンド・ムーン、私たちの国を救ってください。早く来てください」と言い、神の国を引き受ける段階に入るでしょうか。そのような国が、一つ、二つ、三つ、四つとなれば、世界は一つになるでしょう。そのような時が来るでしょうか? (はい) 。朴普煕氏が南米の大統領に会うと、「レバレンド・ムーンに私たちの国に来ていただけますか」と聞かれます。皆さんに対して説教する時代は過ぎていきます。先生はいつかアメリカを離れなければなりません。アメリカが先生を迎え入れない限り、他の国に行ってやらなければなりません。アメリカのほかにも国は多いのです。カインは準備しています。

     それで、先生は三年間でアメリカを祝福を受ける国にしようと動員しました。そこに後悔しないで、自由世界に被害を与えないように、どうせ始めたのだから、最後までやって決定しようとするのです。(先生がアメリカにいる間)他の国はどれほど悩み苦しんでいるか知ってください。それは私の便利な国を探して行くのではありません。世界万民にとって便利な国を探そうとするので、このようにしているのです。国の中心として、皆さんの家庭はこのように行かなければなりません。先生の家庭のように行かなければなりません。先生の家庭は子女たちも犠牲になっています。皆さんの家庭もそのように行かなければなりません。

     祝福を受けた家庭は手を挙げてみてください。皆さんそのように行きますか? (はい) 。

     神様の祝福がありますように。(拍手)














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    37_愛勝日の必要性

     御旨と世界
    (全面表示)

     



    愛勝日の必要性


    1984年1月15日



    ニューヨーク ベルベディア

     統一教会の活動は平面的な世界だけでなく、立体的な世界とも連結されていることは皆さんがよく知っているとおりです。

     堕落ということは人間が本然の世界から落ちてしまったことであり、復帰ということは、この落ちた人間を再びたどっていって、落ちる以前の状態に連れ戻すことです。これが神様の摂理される歴史の主流です。ではなぜ人間は落ちたのでしょう?

     それはサタンの愛を通して、サタンの世界の血統的愛を通して落ちてしまったのです。では堕落の愛とは何でしょうか?

     これは行けば行くほどすべてが分裂してしまうことです。個人的愛に変化することです。世の終わりとはどのような時代かというと、堕落した血統の愛を中心として見るとき、全世界の人類が個人的な愛を絶対視する時代が世の終わりだという結論になるのです。国家に対する愛とか、民族への愛、家庭への愛等、すべてを否定して、自分を中心とした愛のみを中心として、人間の倫理や道徳観念はおろか、動物以下の愛の道を行く時代をいうのです。

     このような傾向は、人間が十五、十六歳の時に堕落したので、十代にまでそのような濁った観念ができているのです。それが現世です。この青少年たちの乱れた愛を、父母も規制することができないし、社会も規制することができない段階に入ってきています。それが今の状態です。ではサタンがなぜ、人類をそのような破滅の状態に引っ張っていかなければならないのでしょうか?

     問題はここにあります。

     神様は愛を中心として復帰、救援摂理をしてこられました。サタンと反対の愛を糾合して、家庭の愛、氏族の愛、民族の愛と、すべてをたどっていくのです。だからサタンは自分の敗北を防ぐために、(仕方なしに)不可避的にこのような場に人間を連れていかざるを得ないのです。サタンが人類を堕落させた究極の怨恨目標は何かといえば、人類の愛を完全に壊すことです。では神様はどうかといえば、これを明るい本然の愛の世界へ引っ張って行かなければならない立場にあるのです。このように見る時に、サタンの堕落した病弊に染まっている代表的な国がアメリカなのです。どうして、キリスト教思想を中心としたアメリカが、このようになったのでしょうか?

     「あなたの家の食口(家族)が怨讐である」と、キリスト教文化圏国家がこのようになることを免れない内容が聖書にあります。サタンが常にこのことを闘いの目標としているからです。

     それでは、このような腐敗はいつ始まるのでしょうか?

     腐敗のこのような現象はいかなるとき始まるかといえば、それは物質的な環境が楽で、奢侈に流れるとき、そのような傾向に陥りやすいのです。そのために第二次世界大戦以後の四十年間は、荒野時代として過ごし、完全な神の国を準備しなければならないのに、サタン世界では、荒野圏内において偶像を崇拝したのと同じように、愛の偶像、淫乱の偶像を完全に氾濫させてしまったのです。アメリカ自体に、世界を一つにするための世界カナン復帰の目的があり、なさなければならない第二次世界大戦以後の目標があったなら別ですが、それもなく、ただ「私たちの世である」と言って、思いっきり自分中心の生活をした結果、このような姿になったのです。

     第二次世界大戦における勝利は世界的な勝利であるゆえ、この勝利を神に返すために「再臨主が来られる時が来た」と言って、栄光を天と共にたたえ、来たるべき再臨主のために国民が団結して、世界のキリスト教を統合するための運動をして、一つの理想世界へと展開する収拾策を講じなければならなかったのです。キリスト教がその勝利の栄光を天と共に、世界と共に延長させるための、メシヤのための準備をしなければならないのです。そして“神様の愛の加護があり、メシヤの愛が民主世界を代表したアメリカと自由世界の未来にあり、より偉大なる宇宙的な愛を受けるその日のために、苦労をしても前進すべきである”というような運動をしなければなりません。

     アメリカの国民が、自分たち同士で愛するよりは、アメリカを愛し、世界を愛し、メシヤと神を愛すべきであるという運動をしなければなりません。終末こそ、再臨時代を強化しなければなりません。そうできたなら、今日のようなアメリカのこの悲惨な歴史は防げたことでしょう。しかし時既に遅く、アメリカの青少年の多くが、麻薬に冒され、すべてが堕落したサタンの愛によって完全に腐敗しているのです。そしてそれはアメリカだけではなく、アメリカを先頭にすべての自由世界に流行し、全世界を汚染しているのです。今日、アメリカの人々の中に世界を往来しながら、やることは何かといえば、各国の女性をみんな蹂躙し、このような腐敗を広めるものがいるのです。これを収拾できない限り、アメリカや世界は滅びざるを得ません。いや滅びるのです。

     ソドムとゴモラが滅びたのも、その時の奢侈と不信と偽りの愛のためです。ローマが滅びたのも外部の勢力によってではなく、内的な勢力によって滅びたのです。ローマを支えていたのは愛でしたが、この愛が破れたのです。生命の力とは何かといえば愛の力です。民族と民族が互いに愛し合い、家庭が愛し合い、国と国とが愛する力なのです。

     このように歴史的な観点から見るとき、米国も例外ではあり得ないのです。このような実状なのです。そこで神様はそのために何をなさるかというと、これらに対して新しい対策を立ててもとかえす運動をしなければなりません。このような人間の今までの未知であったすべての根本問題を中心として、サタンと神が怨讐となったのです。この根本問題を掘り起こさずには解決の方法がないのです。人間とサタンとの関係は、偽りの愛、サタン的な愛を中心として行われます。神様の愛はこれとは正反対です。それは真の愛、統一的な愛なのです。このように神様とサタンとは、愛を中心として戦ってきました。これまでは、この戦いにおいて神様のほうが負けてきたように見えます。負けたのと同じです。その結果サタンはますます傲慢になって神様に対して「私はこのような世界をつくってしまったのに、神様はいかにして復帰するというのですか。愛を中心としていかに復帰していくというのですか?」と言っています。

     このように見るとき、人間が地上に生きている時にサタン的な自己中心の愛で生きるとしたら、霊界へ行ってから神様を愛することができるでしょうか。全体を愛することができるでしょうか。一方、国を愛し、民族を愛したすべての世界の歴史的人々は、一つの霊界に行ったのですが、すべての愛はあっても愛の歴史で連結できた道がないので、神様も全体も愛することができないのです。本来霊界は、本然の愛を中心として本然の家庭、本然の民族、本然の国家、本然の世界、本然の天宙を愛することのできる世界なのです。その愛に同和され、その本質に通ずることのできる、そのような雰囲気、環境になっているのであって、今日のように個人を中心とする、サタン世界の堕落した愛を中心として関係されているような雰囲気では絶対にありません。それで霊界は数多くの境界線ができてしまったのです。そして地上もまたすべてが分裂しているのです。民族と民族、男性と女性、すべてが好きなもの、愛するものから分かれているのです。

     このような状況において、サタンは誇らしげに神様に言います。「神様、これらのものたちをみな統一することができますか。あなたが数千年間指導してきたユダヤ教とか、キリスト教とか、すべてがめちゃくちゃになっています。そこが共産党の温床になっています。どうしますか?」と主張するのです。また、「今日の教会は、社交的にならなければならないといってダンスをしたり、男性と女性が踊ったりしています。そんな所にいかにして神様が来られますか。あなたに関係はありますか?

     関係ないですか?

     世の中に、また全宇宙にあなたのみ旨を立てることのできる宗教者が誰であり、キリスト教信者が誰であり、何宗教、何宗教、本当の宗教といえるそのような本質的な道を歩む人はいったい誰ですか」と言い、「ハッハッハッハッ」と笑うのです。「あなたが送るといったメシヤはどの人であり、どのようにして来るのですか?

     本質的な愛をもってこの世界を一つとし、国を一つとし、天と地を一つにすることのできるそのような人がメシヤですが、その人にそのようなことができますか。神様、あなたにさえできないのに、やることができるのですか?」と言うのです。

     ではこのような観点から見るとき、これから来たるべきメシヤがもって来なければならない宗教と、神様が立てるべき宗教とは、何の宗教でなければならないかといえば、愛を中心として、個人、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙を統一しようとする強力な力をもった宗教でなければならないという結論が出るのです。サタンも「それが、メシヤが来なければならない目的であり、神様がメシヤを送る目的ではありませんか」と言うのです。彼はメシヤがやらなければならないことをよく知っているのです。

     皆さんは統一教会の何ですか、何をする群れですか?(それぞれの答え)答えは確かです。皆さん、神とメシヤのために愛の伝統を立てることのできる一つの群れが統一教会なのです。どうですか?自分は統一教会の信者であるという人は手を挙げてみましょう。では、統一教会で何をするかといえば、生死を顧みないで愛の伝統を立てなければなりません。すべてを犠牲にしてでも国のために、世界のために、自分のもっている生命を犠牲にしてまでも、本然の、神が願いメシヤが願う愛の伝統を立てなければならないのが統一教会のメンバーの重要な骨子であることを知らなければなりません。

     ボクシングの訓練所に行けば、サンドバッグを打って練習するのと同じように、この天井ではなく、神の国の一番上から大きなサンドバッグをつるしておいて打つのです。その時、サンドバッグが言うことには、「この世のチャンピオンは私を打ったが、私がここにつながれて以来一番上まで打つ者はいない。どうか一度打ってみなさい。一度打ってみなさい」と、それを願うのです。(笑い)力いっぱいに打ってみなさい。遠くに打ち飛ばしてしまうのです。その時、サンドバッグが「ああ降参!」と言います。神の国から地上までそのようなサンドバッグがつり下ろされているが、真のチャンピオンが出ることを神様は願っています。それは間違いなくメシヤです。

     しかし、今までこの愛のサンドバッグを誰一人として打った者はいないのです。堕落した人類の中で、打った人も、触ってみた人もいないのです。それはそのはずです。サタン世界はサタンが血統を通じて人類を主管しているので、この圏内には神様のサンドバックがあり得ないのです。この圏外に、すなわちサタン圏を越えたところにあるのです。一度も触れられることもなく、サンドバッグはそのままにあるのです。では何で打つかといえば愛の棒で打たなければなりません。家庭を愛し、国家を愛し、世界を愛し、そのような男性と女性が一つとなって打たなければなりません。皆さんの夫婦同士はどうですか。どうですか?(笑い)どうですか?


     皆さんは境界線も越えないで、サンドバッグが自分に訪ねてきてください、私がいる所へ訪ねてきてください、私を訪ねてきてくださいと言うのに、これを越えようという考えはもてないのですか。ではそれを天からもってくるのに、誰が引っ張ってきてくれるのですか?天使が引っ張ってくれるのでもなく、神様が引っ張ってきてくれるのでもないのです。それはできないことです。原則にないのだから……。ではどうするのですか。仕方がないので、サンドバッグのある所に行かなければなりません。そこで「あなたは私が好きです。私が好きです」と言っていいでしょうか。私を愛していますか。愛していませんか?

     サタンが父母を連れて歩き、兄弟を連れて歩き、昔の初恋の人を連れて歩いて、あなたのしっぽを捕まえようとしています。

     私の背後にはサタンの紐が一つも付いていないという人は手を挙げてみなさい。(笑い)一人もいませんね。(笑い)大きなことは言えませんね。そのようなことでは自分に対して誇りをもって、人に話すことがどうしてできるでしょうか。何の話か分かりますか?

     皆さんが禿頭であろうと何であろうと、それが問題ではありません。たとえ博士号をもっていたとしてもこのような意味においては何よりも大きな価値があることにはなりません。サタンの紐を切り捨てるために、皆さんは大変な努力をしなければなりません。そして、サタン主管圏の境界線を乗り越えて、新しい神の主管圏に入らなければならないのです。どう思いますか。そのようにすべきだと思いますか?(はい!)。

     それまでは、男性と女性はコンクリートをしなければなりません。セメント・コンクリートをするのです。神の国ではいかに強いセメント・コンクリートでも溶けてしまうのです。(笑い)分かりましたか。統一教会は何をする群れであるかということを知らなければなりません。

     サタンの秘密、サタンの愛を個人的に打ち、家庭的に打ち、国家的に打ち、世界的に打つ鍵をもっている群れが統一教会の真のメンバーなのです。このようにサタンの世界で勝利し、神の愛に勝利するのです。私がこのように一度打ったら「なぜ先生は私を打つのですか?」と言うでしょう。なぜ打つのでしょうか?(笑い)

     そのように知らないから逸れるのです。理由を知ったあとで怒らなければならないのに、理由も分からずに怒ったら、すべてが終わってしまうのです。それはサタン世界の影響なのです。そのような意味からも皆さんに衝撃を与えなければなりません。サタン世界のこのような苦しさ、困難を克服することのできる衝撃を与えなければなりません。ではどのようにして衝撃を与えるかといえば、個人の愛を否定し、家庭の愛も否定し、国家すべての愛を否定することです。完全否定です。完全否定です。それでも否定しないのでサタン世界全体を打つのです。反対の否定式です。それで先生が皆さんを打つのです。「お父さん、お母さん、アメリカの皆さん私を助けてください。死にそうなのです」と言うのですか。それとも「神様私を助けてください。メシヤよ、私を助けてください」と、どちらを言うのですか。あなたたちはどちらですか。あとのほうです) 。本当にそうですか? (はい) 。

     今日、世界でこのようなみ旨をもって、宗教というタイトルをもって世界的に闘っている一人の人がいます。その人がレバレンド・ムーンです。これは認めなければなりません。(拍手)

     しかし個人、家庭、国家、全世界、最近は共産党までもがレバレンド・ムーンのすべてがめちゃくちゃになることを願っているのです。

     そこでレバレンド・ムーンが一つ行ったことは、愛のサンドバッグを捕まえてあちらの側から境界線にまで引っ張ってくるのです。(笑い)

     それで、若者たちが統一教会の話だけ聞いて、これをつかめば全部くっ付いてくるのです。先生がサンドバッグを引っ張る力と自分の父母が引っ張る力とどちらが強いかといえば、こちらが強いのです。このサンドバックを引っ張れば、全部がいくらでも引っ張られてくるのです。あのサタン世界の真ん中から、すっと引っ張られてくるのです。そうしたら愛はどこにでも行くことができるのです。それで初めにレバレンド・ムーンがサンドバッグを抱いて、家庭的には反対にこれぐらい動かしたのです。その次には国をこのぐらい動かしたのです。そして世界から霊界まで全部動かしてここまで来たのです。反対されてここまで来たのです。家庭的、氏族的、民族的、国家的、世界的に勝利して、ここまで来たのです。それで次に何をするのですか。皆さんの祝福は何ですか。白人なら白人同士が結婚することですか? (いいえ) 。

     南極は北極に向かっていかなければなりません。磁力線のような愛の力が授受するのです。それでこの磁力線はどこに入っていくかといえば、南極の中に入って回転するのです。二つになって回転するのです。ここに感応電極があって、電気がこのように通ずるのです。愛の自転圏内にすべてが含まれるのです。どこにでも通じるのです。どこにでも通じるのです。通じない所がないのです。

     では神様の愛とは何かというと、北極の愛です。人間の社会の愛は南極の愛です。このようになればいいのです。それで磁場が両極を結ぶのです。(黒板に書かれる)このようになれば自然に回転するようになるのです。皆さんが地球を見る時、経度があるようなものです。本質的には神様の愛を中心として宇宙がすべて和合するようになっているのであって、サタンを中心として和合するようになっていません。サタンの愛は冬のようなものであるのに対して神の愛は春のようなものです。春が来ると、人々は気持ち良くなって重い服を脱ぐようになります。しかし、冬の間は寒さから身を守るために厚着をして「チャック」を閉めるのです。(笑い)

     だから神の愛を受けることはできないのです。今日、このように冷酷な、雪、寒風の吹きつける北氷洋のようなこの地球上に、初めて神の国の春が訪れてきたのが、統一教会運動なのです。皆さんのお母さんたちは、「ああ、家にいなさい」と言い、皆さんたちは「私は家は嫌です。私は教会に行きます」と言います。

     神様から見るとき、皆さんは正常で健全で幸福な人ですが、サタンから見ると、気が狂っているように見えるのです。では、皆さんは神とサタンのどちら側にいるのですか?

     (神様の側です)。神様の側に立っていると言っていますが、まだ完全に神様の人とはなっていませんよ。(笑い)

     国境に垣があるとするならば、片足が境界線に少しでも引っかかっていたら神側であります。(笑い)

     皆さんは境界線から足が越えていますか。あちら側ですか。こちら側ですか?

     (境界線の内です)。(笑い)

     もし皆さんが今なおサタン的な愛や、入教前の恋人に対して未練をもっているとしたら、皆さんの片足はまだサタン側に立っているということになります。(先生が手で表現される)そうなのですか? (いいえ) 。また「教会の活動は嫌いだ!」と不平を言っている人はこうなるのです。(先生がしぐさで示す)

    I don't like that kind of central figure.

    ハッハッハッ

    How can I say that Abel special man is central figure.

     こっちに動いたり、あっちに動いたりするのです。(先生が行動で示す)

     率直に言いなさい。私は忙しいのです。「愛勝日」の必要性をいつ話しますか。もう一時間もたったのですよ。

     きょうから、日記を書く時、自分がどちらの側にいたか記録しなさい。一〇〇パーセント神側に越えることを目標として日記を書きなさい。きょうは七〇パーセントだとか、八〇パーセントだとか、一〇〇パーセントになるようにするのです。自分が越えたのは何パーセントであるか、皆さんは自分でよく知っているはずです。既に説明を聞いたので、もう問うてみる必要はありません。皆さんはみんな良心をもっているのですからすべて知っているのです。すべて知っているのです。すべて知っているのです。まだ「私は分かりません」と言う人は手を挙げてみなさい。たとえ堕落世界に長く生きていたとしても、各自が自己の中に神の側に立ちたいという要素をもっています。それがあるからこそ各自が自分の中の指針に従って神のもとに帰ることができるのです。

     皆さんは神とサタンのどちら側にいたいですか?

     (神側です)。ではどのようにして行くのですか。神側に行くためには、サタン世界に勝利して行かなくてはなりません。そのまま行くのではなく勝ってから行くのです。どんなに神の側に行きたいと思っても、サタン世界と戦って勝利しなければなりません。皆さんはもう勝利しましたか?

     勝ったのですか、負けたのですか?

     (はい、勝ちました)。ではどのようにして勝利したのか私に話してください。どのようにして勝ったのですか。

     ワシントン・レッドスキンズがスーパーボール(アメリカン・フットボールの最強チームを決める決勝戦)のチャンピオンになる時、彼らがどうやってその出場権を獲得したと思いますか。一つ一つの試合を勝ち抜いていかなければ、スーパーボールに出場する資格を得ることはできません。それは容易なことですか? (いいえ) 。それは最も難しいことであり、苦しいことでもあります。多くの人々は、「この世は楽しく生きたら良いのに、この人生は短いのに、おいしいものを食べて、良い暮らしをして、美人でなくても、食べて眠って、生きていけば良いのではないですか」「時には盗みもしたりして」と言います。犠牲的な生き方をするという統一教会の教えは間違っているのでしょうか。統一教会の何が悪いのですか?

     (いいえ、正しいです)。ではそのために勝利して行かなければなりません。

     先生は全世界に対して闘ってきました。個人的な代表が来て私を攻撃する時は、それと対決し、家庭を代表して来たらまたそれと対決し、氏族の代表、国家の代表、すべてと対決するのです。先生は今、「最後のサタン世界よ出て来い」と宣言しています。

     それで、統一教会は今どこまで来たのですか。どこまで来ましたか。先生は民主世界のアメリカで闘い、共産世界のモスクワで闘うのです。同様に数多くの宗教団体、ユダヤ教信者、キリスト教徒、すべてが敵対しています。しかしいかなる者も先生から愛のサンドバッグを奪って行くことはできないのです。先生がこのサンドバッグを打てば、それは三六〇度回転します。愛は無制限圏であります。愛の感性を妨げる力はありません。モスクワまで一回転するのです。先生はどこまで来たのですか、今から始めるのですか、もう最後まで来たのですか?

     (最後です)。

     先生はこれまで、五色の異なる人種を祝福しました。祝福は皆さんの一番重要な問題であり、国家にも両親にも任すことはできないのに、皆さんはその権利をレバレンド・ムーンに与えてしまいました。それはどうしてですか。皆さんはそうすることによって、自分を神の愛に結びつけることができるからです。皆さんは神の愛の圏内に飛躍して行くことができるのです。愛の紐につながることが、飛行機よりも何よりも速いのです。分かりましたか。皆さんが霊界に旅行するとしたら、速度は地上界と同じでしょうか。違うでしょうか?

     (違います)。それはどうしてですか。地上界における愛の実績、すなわち愛の記録によって非常に異なっているのです。

     皆さんは霊界で先生と一緒に旅行したいですか? (はい) 。ではどうしたらそのようになれると思いますか。そのためには、皆さんは神様の心情圏と一つになった先生の心情と一致する基準を相続しなければなりません。この無限なる宇宙が神様の愛に完全に一致した時、一瞬で到達できるのです。それは何の力でかといいますと愛の力です。神様が宇宙を創造する時にすべて愛の力でもってやったからです。この愛の力で人類を越え、天宙を越えることができるのです。この本質の愛の世界を追究して行くのが統一教会の道であり、神様がこの終末に全世界の人々に与えてくださった最も重要なる贈り物なのです。皆さんはこのことを知らなければなりません。そのため先生は今まで法廷闘争をしてきたのです。北の金日成共産政権、また南の韓国は、李承晩政権をはじめ、先生に対決してきました。米国でも政府が問題になっています。サタン世界では、モスクワのクレムリンです。先生のことをよく知っているのは、自由世界と共産世界のどちらだと思いますか?

     (共産世界です)。

     自由世界のアメリカでは、もう先生を否定する道がなくなりました。最近では、言論界においても先生を支持するようになり、反対していたキリスト教も今や、自分たちの自由も脅威を受けていることを認識して、レバレンド・ムーンの味方をすると声明しています。また著名な学者、哲学者、神学者等すべての学者は共通して、アメリカが将来へのビジョンを失ってしまっていることを嘆いています。アメリカは物質的には豊かですが、精神的には貧困です。今やこの国は草一本もない砂漠のようなものです。ところがこのような砂漠の真ん中に木陰や水や草を見つけることのできるオアシスがあるのです。それが統一教会であり、ムーニーたちなのです。(拍手)

     ある人々は、「それはレバレンド・ムーンだけの見解にすぎない」と言うかもしれませんが、皆さんは先生の意見に同意しますか? (はい) 。霊的に飢え渇いた人々が来た時に、皆さんには与えるべき水や食物がありますか? (はい) 。それとも皆さん自身が霊的に飢えていて何も与えることができない状態ですか? (いいえ) 。泉の水は地中からわき出るだけの力があります。皆さんもそんな力強い泉の水となっていますか? (はい) 。時には大きな岩をも押しのけて出て来なければなりません。泉の水は決して止まりません。いつも地下から表面に出て来ます。味も良く、いくら飲んでも飽きないような水だからこそ人々に生命を与えることができるのです。

     皆さんは先生の話を聞きにベルベディアに来るのが好きですか? (はい) 。なぜですか。もし先生がいない場合はどうですか?

     (様々な答え)(笑い)

     皆さんが自分自身の泉をもっている限りは問題ではありません。皆さん一人一人が自分にも、また他の人々にも力を与えることのできるような十分な泉の水をもった人間とならなければなりません。先生はどこに行っても人々がついてきます。それは、先生の中の泉を、くみ取ろうとしているようなものです。(笑い)

     このように、地上で試練することによって、サタン世界から境界線を越えて神側に行くのです。これはどれほど難しいことか知れません。第二次大戦において、ドイツ、イタリア、日本の三国と戦って、連合国側では何百万名もの人々が死にました。ましてや、堕落した人間を救うことはどれほど難しいことか、皆さんはどうですか?

     世界の堕落圏を越えることは第二次大戦よりも簡単だと思いますか? (いいえ) 。このサタン圏に対する最終的な戦争での我々の最高司令官は神御自身であることを知らなければなりません。

     このサタン圏を越えるためには、今日のキリスト教がその責任を果たさなければなりません。キリスト教が完全に一つになってメシヤを迎えて、生死を越え一つになれば一度に勝利できるのです。しかしながら既成のキリスト教は、神のみ旨に反対するようになってしまいました。今でも多くの人々が統一教会に反対しています。そのため先生はキリスト教の助けを借りずに、自分自身の基盤をつくったのです。個人的な勝利、家庭的な勝利、氏族的な勝利、民族、国家、世界的な勝利圏を準備してきたのです。今やアメリカは諸問題を解決するための自信もなければ方法ももっていません。同様に、共産世界のほうも行き詰まっています。「国を救い、世界を救おう」と言う自信のある団体はアメリカに一つもなく、共産世界にもありません。数多くの宗教団体があっても、指導的な役割を果たす自信をもった者は一人もありません。しかしたった一つ腐敗し滅びゆく米国に、「我々しか米国を救い、共産世界を救い、全世界を救い、神様のみ旨を成就することができない」と主張する群れがあります。皮肉なことに、それは非難され、迫害されているムーニーの団体です。

     皆さんは、レバレンド・ムーンは能力があると思いますか。それとも無能だと思いますか。(能力があります)。何の能力ですか。マラソンの走者ですか、ボクシングのチャンピオンですか。先生には二つの特長があります。一つは先生が神と世界を代表して、この世界に現れたということであり、もう一つは、先生はサタンすらも愛し、彼を解放してやることができるということです。サタン圏内では、「怨讐を愛する」という言葉すらありません。そのようなことができるのは神の愛の主管圏においてだけです。韓国も先生の怨讐であり、日本も怨讐であり、アメリカも怨讐であり、ソ連も怨讐でした。しかし、先生は彼らに対しては愛の態度をもって報いました。アメリカを救い、日本を救うために膨大な仕事をしていることを皆さんは知っていますね。アメリカでは、先生は大きな投資をして「仁川」の映画を製作しました。これは映画史上にない記録です。アメリカの人々に、特に青年たちに、国を愛し、神を愛することを教育するためにこの映画を製作したのです。アメリカは世界に対して負債をもっています。先生はアメリカの若者が人間の屑になっていくのを防ぎたいと思ってこの映画を作ったのです。

     また、先生はアメリカの首府であるワシントンが、「ワシントン・ポスト紙」だけに独占されているのは良くないので、ワシントンのためになるようにと、「ワシントン・タイムズ紙」を創設しました。これは、お金をもうけるためつくったのではありません。米国のために、さらに多くの投資をなさなければなりません。世界中の人々は米国でお金を得ようとしますが、逆に我々は必要な時はいつでも犠牲的になすべきことはします。先生はそのように考えて実行してきました。皆さんもそのような若者ですか? (はい) 。それならば、世界に出て行ってどんな人間をも救い上げて、彼らを生命のもとに連れ戻さねばなりません。彼らを今のような死人同様の生活のままにしておいてはなりません。

     米大統領一人が誤ったら、米国が滅びるという結論に到達しました。先生の目標は神の世界を確立することです。ですからこのような問題で、生死の境を彷徨している米国を心配しないわけにはいきません。レバレンド・ムーンほどこのことを心配している者はいないのです。皆さんは、ただじっと座って何か良いことが起こるのを待っているのですか? (いいえ) 。仕事に取りかからねばなりません。皆さんは、エゼキエル書にいうような「死の谷間の骸骨」のような存在ですか、それとも、筋骨たくましく神の戦いを闘う存在ですか?

     (後者です)。ただ単に口で言うだけでなく、実行によって、何ができるかを先生に見せなさい。

     皆さんも自分だけの力では誰もサタン圏を脱け出ることはできません。だから人類を導いてくれるチャンピオンが必要です。チャンピオンを立てて、応援し、(拍手をしながら話される)そして他の人々は一体化して従っていけば良いのです。祝福家庭の皆さんはどうですか。どちら側にいますか。堕落圏ですか、それとも神の主管圏ですか。皆さんはまだ完全に堕落圏から出てはいません。なぜなら、国をもっていないからです。我々には教会とその法律がありますが、国家の法律はありません。それゆえに、先生は今年の標語として、「祖国創建」を宣言したのです。

     先生一人を中心として見るとき、キリスト教が本来先生を受け入れることが神様のみ旨でありました。ユダヤ教とキリスト教の六〇〇〇年の摂理の目的は、先生を受け入れるための基台の準備でした。第二次大戦後、アメリカは世界を指導することのできる立場にありました。韓国はアメリカと完全に一体化していました。このような状況で、先生の二十代、三十代の若い時にキリスト教が反対しないで受け入れていたらどうなったでしょう。どうなったでしょう。その時に、「祖国創建」は成就されていたであろうと思いませんか?

     (はい、思います)。しかし、いくつかの大学を中心とする既成キリスト教会が、神のみ旨に反対したのです。神様は先生にキリスト教界が完全な接ぎ木をされることを願っていたのです。一度に世界的に接ぎ木できる道を整え、国までも合わせて接ぎ木しようとされたのですが、彼らが拒否したために、彼らは一番最後になったのです。

     それで先生はどこに行ったかといえば、先生は北韓の共産党の監獄に入ったのです。そこではみんなが死んでいきました。先生はイエス様の二年八カ月の路程を蕩減するために死なないで、獄中で霊界からの協助を得て、失った十二弟子を捜しておかなければなりませんでした。このようにして初めて、サタン世界から自由世界、神の世界へ到達することができたのです。出獄して初めて、サタンに奪われた自由世界の祖国を創建するための地を探すことができるのです。監獄に入って、失ったものをみなサタンから勝利して取り戻して来るのです。

     十二月号の『TODAY'S WORLD』の本に朴正華氏の証が載っているでしょう。それを読みましたか?

     先生は彼を背負って六〇〇マイルの道を歩きました。すべての人々が自分自身が生き延びることさえ難しかった時に、先生はそのように彼を背負って歩むことによって、神の愛は利他的なものであることを示したのです。一九四五年ころも、多くの人々が先生を非難し、捕まえて殺そうとさえもしました。しかしその怨讐が飢えていた時、先生は食べ物を買ってあげたり、子供たちの学費も出してあげたりしたのです。彼らは誰がそのようにしてくれたかも知りません。でも先生は自分は飢えながらも、そうすることによって民族を越えて、そのように世界的になったのです。このように、キリスト教が反対してしまったために、完全にサタン世界が変化してキリスト教が共産党の温床になってしまったのです。

     その結果、失ったキリスト教文化圏を統一文化圏で対処して、本来ならば神様を中心としてのさらに高い次元の基準をもつことのできるこの統一教会が、今、キリスト教と民主世界のレベルを越える段階にきているのです。しかしサタンも、そうやすやすと自分の支配圏を譲歩しようとはしませんでした。そのため多くの犠牲者を出してしまいました。皆さんも知らないうちに多くの犠牲者を出したことは事実であります。既成キリスト教会に対し統一教会はアベルの立場なので、統一教会が打たれなければならないのです。世界的にも打たれなければなりません。それは、今まで宗教的次元で、国家的次元で反対を受けてきたのですが、今や世界的次元に上がってきたからです。

     民主世界も共産世界も滅びていくのに対して、統一教会は新しい光を得て、勝共運動や、人類の名における全世界の統一運動を盛んにし、そして統一主義、あるいは神主義が世界的問題となってくるのです。すべてが再び入れ替わるのです。一三〇余カ国の国家と、統一教会が連結され、世界的潮流が変わったために昨年の一九八三年にこれらが韓国と連結されたのです。レバレンド・ムーンはアベルの立場であり、韓国の国民はカインの立場です。韓国のキリスト教と韓国政府は先生に反対しましたが、韓国という国が先生を歓迎するようになるならば、以前反対した人々も、先生を受け入れることになるのです。

     アメリカでの法廷闘争も今年ですべて終わります。今年は大変重要な年で、韓国問題、アメリカ問題、ソ連問題が今年から来年までにはっきりしてきます。またアメリカにおいて、レバレンド・ムーンの正しさが認められるようになれば、世界的に雪崩のごとく、人々が賛成するようになるでしょう。特に若者たちは、レバレンド・ムーンと統一教会の良さに対して最も目覚める人々です。それは第一に、皆さんたちムーニーが非常に国を愛する群れであること、第二に、皆さんが共産主義に反対する群れであること、第三に、皆さんが将来に対して楽観的な希望を抱き、必ず理想世界が来ることを確信していること、これらのことを彼らが理解するようになるからです。若者たちが願うのはこの道しかありません。

     このような愛国主義を広めるために、IOWC(国際機動隊)が各地を訪問していますが、市長や知事などに会見するのもそのためです。これらの指導者に影響されるのでなく、我々のほうが彼らに影響を与えなければなりません。学者たちもムーニーによって影響されつつあります。レバレンド・ムーンとその運動は過去十年間にわたって、常にマスコミその他から攻撃されてきたにもかかわらず、生き延びてきました。環境に対しての強い忍耐力があるからです。

     思慮分別のあるアメリカ人は、いずれは我々のほうにやって来て指導を求めるようになるであろう、と先生は思っていました。今や多くの人々が先生の所に来つつあります。しかし有名な人に仕事をさせることはあっても、いくら会いたいといってきても先生と会うことは難しいのです。ワシントン・タイムズの編集長も、先生に会ったのは八カ月目でした。しかし、皆さんはこのように毎週日曜日に先生に会って先生の話を聞く機会をもてるのは、皆さんにそれだけ価値があるからではなく、毎週話をすることは先生の摂理的な務めだからです。何の話か分かりますか? (はい) 。

     我々はこのくらい上がってきました。(先生しぐさで示す)

     これからさらに越えて発展します。この時の運勢の先頭に立つのは韓国です。韓国は世界中で共産主義に対峙している第一の地です。「板門店」とは「板の門」という意味で「金門店」の代身です。(黒板に書かれる)板門店は民主世界と共産世界が合うということであり、金門店は天国世界と地上天国が合うということです。板門店では、偽りでだまそうとし合いますが、金門店はお互いが譲り合おうとするのです。何の話か分かりますか?

     このような「門」をもっている国は韓国しかないのです。東ドイツと西ドイツは自由に行き来しています。「金日成」という名前は、「金と太陽が成就する」という意味です。北韓の人々は彼を「お父さん」と呼んでいます。

     これに対して先生の名前「文鮮明」を漢字で書けば、「文」は真理で、「鮮」は明確で、「明」は照らすです。(黒板に書かれる)「鮮」は魚と羊で、「明」は日と月です。すべてが象徴的なのです。日と月が合わさって明るい光を放つということで「父」というのです。このように一つの国が南北に分かれ、それぞれに「お父さん」と呼ばれる人物がいるような国はほかにありません。人間は二人の父親をもつことができると思いますか? (いいえ) 。本当の父は一人しかいません。先生は金日成を恐れていると思いますか。それとも金日成のほうが先生を恐れていると思いますか?

     (金日成です)。どうしてですか。金日成が先生を恐れているのは本心において、自分の支配は偽りに基づいていることを知っているからです。それが明らかにされる日には、完全に負けてしまうからです。先生が偽りを暴露するので、先生を嫌い統一教会を恐れるのです。

     民主世界においては、一番憎んでいたレバレンド・ムーンを一番好きになりますが、共産世界では一番憎むようになります。そのような転換期が来ていることを知らなければなりません。アメリカの人々が、「アメリカの政治家や他の権力者は信用できなくても、レバレンド・ムーンだけは信用できる」と言う日が来るでしょう。この国の大統領も任期は四年か八年ですが、レバレンド・ムーンと結ぶならば、永遠に保証される天国へ向かうことができると知っているのです。(拍手)

     そのためにアメリカのどんな人でも、レバレンド・ムーンに対して、いかなるアメリカ人よりも尊敬せざるを得ない、という結論になるのは当然であります。それは偉大なことであります。

     人々はより高い価値を求めて、従来の考え方を変えつつあります。レバレンド・ムーンの教えは、この国の指導者、国会議員たちをより良い指導者にすることができるでしょうか? (はい) 。いずれは、大統領に立候補する人がレバレンド・ムーンの支持を求めるようになる時が来るでしょう。

     If time will not come, I'll make it.(歓声と拍手)

     先生はこのような観点で見ています。

     先生はこれまで何年にもわたって、学界の人々を通して、学者や指導者がこの国を将来のために正しい方向に導くように働きかけてきました。

     このような先生の話を聞いた皆さんは、早く仕事に出かけたいという気になりましたか? (はい) 。今日ここに座っている皆さんの中で、賢明な人は、“先生がアメリカを全部復帰したのちには、モスクワに行くだろうから、今のうちに私はモスクワに行って向こうで準備して待っていよう”と考えているかもしれません。しかしモスクワでは先生のことを、「お父様」と呼んではいけません。「ミスター・ムーン」です。(笑い)

     皆さんは先ほど頭が良いと言ったのですから、どんなに頭が良いのか見せてください。(笑い)

     誰かがスマートであると言ったでしょう、(笑い)

     どうですか?

     皆さんスマートですか? (はい) 。女性たちはどうですか、将来上院議員の夫人や副大統領の夫人になりたいですか。どうなるか分かりませんよ。今、皆さんの夫たちを育てていますから、どんなことでも可能性があります。先生は皆さんに最善の訓練を与えるために、アメリカについて正確に勉強しているのです。時間がたつのが速いですね。さあ、もう二時間ほどになるでしょう。時計よどうしてどんどん進むのか。(笑い)

     もうここらでやめましょうか? (いいえ) 。

     もし自由世界とキリスト教がレバレンド・ムーンに反対したら、どのような蕩減を払わなければならなくなるでしょうか。その蕩減条件はどこで誰が立てなければなりませんか。アメリカですか、キリスト教ですか。誰がそれを蕩減すれば良いのですか。レバレンド・ムーンを拒絶したことによって引き起こした負債に対して誰が責任をもたなければなりませんか。それは統一教会です。統一教会は彼らに対してアベルの立場にあるからです。ではアベルの立場は何番目ですか。三番目ですか、一番目ですか?

     (第二番目です)。

     統一教会においては、第二番目の立場にいる者がいつも犠牲的な立場で蕩減しなければならないのです。統一教会と先生の家庭が合わさって蕩減しているのを知らなければなりません。二番目が問題なのです。十三年前に、統一教会の三十六家庭の中の二番目の劉孝元協会長が病院で死んだのです。国家的次元においての三年路程を三十六家庭が蕩減しなければならない一番難しい闘いの最中のことでした。また、先生の息子の中で二番目の喜進様が、一九七〇年に伝道に行く途中で事故に遭ったのです。また、お母様が生んだ子供の中で二番目の恵進様が一九六四年に亡くなりました。その次に、二男である興進様です。このような一連の出来事は二番目がすべて蕩減したという、原理的な事実です。このような蕩減を払うことなくしては、復帰していくことができないということを知らなければなりません。理屈ではなく事実がそうなっているのです。原理は作り上げたというものではなく、歴史を導いてきた真の原則なのです。

     今回、韓国での勝共大会のために、先生は七十二カ国の学界の指導者を招待しました。世界平和教授協議会の七十二人の議長団はイエス様の七十二人の弟子を代表するものでした。彼らは最高の知識人たちであります。国家の首班までも指示することのできる、その国においては最高の立場にある彼らを、「韓国に来てください」と要請しました。何のためなのか理由は説明しませんでした。そこで彼らは何のためか分からないままに、とにかく行けば何だか分かるだろうと考えて、信仰をもってやって来たのです。

     シカゴで開催された「科学の統一に関する国際会議」に参加した彼らは、十一月二十九日にシカゴを発って帰途に就きました。先生は十二月三日韓国に向けて出発したのですが、その時空港で指示したのです。それを聞いた時、それらの学者のうち三分の一はまだ自分の国へ到着してもいませんでしたが、先生が北韓の獄中で十二弟子を見つけたのと同じように、信仰をもって韓国まで先生を慕って来た忠実な学者たちでした。

     韓国に来てから何をしたかといえば、共産主義を防御する世界的な宣言をしたのです。彼らがソウルの金浦空港へ着いた時、何のために自分はここに来たのか知らなかったのです。レバレンド・ムーンが、「来なさい」と言ったので来たのであって、何も知らなかったのです。そのような旅行がありますか?

     (笑い)

     学者にとって十二月は一番忙しい時です。しかし彼らはやって来ました。それは特別の人から来るようにと言われたことがその動機となったのです。

     十二月は誰にとっても忙しく、慌ただしい時です。韓国において、このような大会が十二月に開かれるというようなことは、これまで一度もなかったことです。韓国の政府も信じないし、ここにいる統一教会の幹部たちでさえ、「大会はいけません」とみな反対したのです。できると言ったのはたった一人、先生しかいなかったのです。統一信者が先生に対して信仰を保ち得なかったのです。韓国の幹部たちは、なぜ十二月に大会を開催すべきでないかを、あれこれと説明しましたが、先生はそれをすべて一蹴しました。先生は小さなノートを取り出して見せ、「この大会は神からの命令だとここに書いてある。だから必ず成功する」と言いました。

     今回の韓国における勝共大会は、歴史的かつ世界的なものです。これによって共産主義に対する全く新しい方向性が与えられることになったからです。韓国の既成教会は、レバレンド・ムーンが勝共大会を開催するということを聞いた時、統一教会に反対していた彼らは困ってしまいました。もし反対すれば、人々から「共産主義に賛成するのか」と言われるので、今回ばかりは、レバレンド・ムーンのすることに反対できませんでした。韓国政府も、この十二月に大会をするなんて大きな誤りだ、大きな体育館を借りたところで、半分はガラ空きになるだろう、一万五〇〇〇名が集まる広場で、一五〇〇名か二〇〇〇名くらいしか集まらなくて、レバレンド・ムーンが面目を失うだろう、と考えていたのでした。しかし大会が予想外に成功したのでショックを受けてしまいました。北韓の金日成政権を倒して、南北を統一することができるのは、統一教会とレバレンド・ムーンだけだと国民は知っていましたが、それを示すことになりました。

     光州は、勝共大会の開かれた最後の八番目の都市です。これがサタンにとっては、先生を攻撃する最後のチャンスです。サタンは何とかして先生が韓国で成功するのを阻止しようと必死でしたが、既に先生は、勝利を確保するすべての条件を立ててしまっていました。

     先生が韓国にいる間、日本とアメリカは韓国の動静に注目していました。このように、サタンの勢力が先生を攻撃する余地は全くなかったのですが、先生の子女たちは、統一教会の基準にあります。サタンの攻撃に興進様が相手になったのです。それをはっきり知らなければなりません。すべての大会が成功裏に終えようとする時でした。先生がちょうど講演の壇上に立つ時間だったのです。光州は、共産主義の地下組織が多く潜伏して、彼らに有利でした。当日、大会は十一時開会なのに、十時に会場の体育館は完全に超満員になってしまいました。共産主義者たちが入って来て活動する時間もなく、活動することもできないほどにいっぱいになってしまったのです。身動きもできないほどでした。工作隊員はあまり早く会場に到着して、人目につくようなことはしません。そこで開会の間際に会場に来たところが、光州の大会会場はもう既に超満員でした。そのようなことが自然に、先生を防御できる良い環境となったのです。

     そこで、サタンは仕方なく先生の一番愛する息子を選んだのです。先生の生涯を通して、犠牲になったのはいつも二番目の息子や娘でした。二〇〇〇年前、イエス様が十字架で亡くなりましたが、復活によって新しい霊界の城門が開きました。同様に、神は生命を捧げた興進様を復活させるでしょう。

     皆さんは興進様が行くことによって、これからどのようなことが起こるかということを知っていなければなりません。

     今大会で重要なことは、地上の真の父母を中心として国家的運勢、すなわちイエス様が国家基準において勝利できる基盤を韓国の地で、先生の時代になしたということです。国家的次元で大会をする時に、先生夫妻はいつもそろって壇上に上がりまりした。

     さらにまた、この大会の準備を東洋と西洋のメンバーが一つとなってやったのです。大会参加者も、七十二カ国の代表を含め、国際的でありました。この大会は完全に大勝利を得たのです。

     先生の時代において今はどういう時かというと、国家的基準を七十二カ国合わせることのできる、イエス様の時代に成し得なかったことを成したのです。それは何を意味するかといえば、世界的勝利に向けて進むことができるのです。一九八三年十二月十八日は意義ある歴史的な日となりました。先生は皆さんに、十二月十八日がどのような日であるか祈祷して、答えを先生に報告しなさいと指示したことがありますね。それはどういうことか分かりますか。

     十二月十八日は、先生がこの地上において忘れることのできない日なのです。人間世界の先生に対する背信を中心としても忘れることのできない日です。先生が監獄から出てきて、第二の出発基地に向かった時、信じていたすべての人々から背信された忘れることのできない日です。しかし、今は、世界の代表たちが私を信じて、すべての国民が歓迎する中で、統一教会が一つとなって、また勝共連合やあらゆる環境のすべての人たちも完全に一つとなって、この大会を支援して、共産主義に対する闘いに献身することを先生夫妻の前に誓ったのです。これはちょうど、二〇〇〇年前にイエス様が弟子たちと共にローマへ行き、「世界のために神のみ旨に従いなさい」と宣布したことに匹敵するものです。

     先生はこれまでアメリカで迫害を受けながらもこのような基盤をつくったので、「レバレンド・ムーンは言ったことは必ず実行する人だ」という評判になっています。法廷闘争をしながらもこれだけのことをやっているので、アメリカでは勝手に先生に対して手を出すことができないのです。先生が、「韓国に行って勝共大会を開催したい」と通知したところ、すぐに許可してくれました。このことは、ちょうどイエス様がローマの元老院に行って、元老院の支援を受けて全世界にキリスト教文化圏を宣布したことに匹敵する内容で、「私は地上天国を建設します」と宣言したのに対し、元老たちが「もちろん、どうぞそのお仕事を進めてください」と答えたようなものです。先生は十日間で完全に国民を覚醒させました。韓国政府のある人々は、先生の成功を認めるのに気が進まないようでしたが、下級の官僚たちはすべて先生の味方でした。「レバレンド・ムーンがどこへ行っても絶対に警察の車でエスコートするな」と通達を出したのですが、各地の警察署長は争って、最善の警備員を派遣してきました。(歓声―拍手)

     このような先生の成功を見て、サタンはどのように感じたか想像してみなさい。今や、はっきりと統一教会の時代に入ったのです。六〇〇〇年間サタンが今まで民主世界とすべての世界を食い荒して、九〇年代になれば全世界が思いのままにできると思っていたのに、これは何事かというのです。

     レバレンド・ムーンはこの大会で、韓国の人々の中に信頼を獲得しました。それまで韓国国民はKAL機撃墜事件や、ラングーンでの閣僚爆殺事件によって、意気消沈してどうしていいか分からずにいたのが、レバレンド・ムーンによって希望と目標を与えられ、元気を回復したのです。ソ連と北韓は主体と対象の関係にあり、KAL機の撃墜事件は主体であるソ連によって引き起こされました。このようにして二つの国が打って来たのですが、レバレンド・ムーンが現れて十日間で国民の停滞したムードを変え、最高潮に引き上げてしまいました。また、グレナダもアメリカの救出作戦によって、共産陣営は西半球でも後退を余儀なくされました。一九八三年の十二月は、これまでの歴史上かつてなく白熱した重要な月となったのです。

     一九八三年は、一九四五年から一九八五年までの四十年荒野路程の最後の三年間の最初の年ですので、それが終わる時に抵抗を受けるようになっているのです。昨年の私たちの標語は、「家庭教会は我々の定着地」と言いました。それで今年は、「祖国創建」というみ言が出たのです。これは歴史的な転換点だとは思いませんか?

     (はい、思います)。イエス様が十字架につけられた時、左右に二人の強盗がいました。それは何を意味するかというと、民主世界と共産世界です。(黒板に書かれる)そうでしょう。共産主義者は神様がいないと反対し、こちらは神様はいると言うのです。

     興進様の事故が起こった時、その車にはほかに祝福の子女が二人乗っていましたが、二人は生き返ったのです。これはとても良いことであると思います。今回、その事故の現場に行ってみましたが、(黒板を使いながら説明)車道がこのようになっていて、相手の車がこのように、州道第九号線を走って来ました。その時、車は氷の固まりを避けようとして、ブレーキを踏んだところが、車は反転してセンターラインを越えてしまいました。そこへ興進様の車が突っ込んで行ったのです。普通このような場合には、運転手は無意識のうちに自分の身を守ろうとしてハンドルを切ります。しかし、興進様はあえてハンドルを右に切ったのです。どうして興進様は自分から突っ込んでしまったのか、これが問題なのです。道がこうなっているのです。(黒板を使いながら説明)こちらからトラックが道をこのようにふさいだのです。この辺りから来て……。それで興進様が乗った車はどうなったかといえば、運転台がここで、左側にあるのです。興進様はここに乗っていたのですが、こちらを打った場合、死ななかったのです。それなのに、どうしてかこちらをこのように打ったため、ここが壊れたのです。(先生、しぐさで示す)運転をすれば自然にこちらに行くのにどうして反対側に行ったのか、これが問題なのです。

     興進様は、コーナーに突っ込んだのです。それで助かった二人は、「自分たちを意識して、車をそちらに回した」と言うのです。その話を聞いて、どれほど有り難かったか分かりません。このように興進様が他の二人を助けるために、自らを犠牲にしたということは、世界のために自らを捧げたことを象徴するものです。興進様はそのように犠牲になる可能性を決して恐れませんでした。むしろ自ら、それを志願したのです。イエス様の時は、十字架につけられた三人はみな、死んでしまいましたが、興進様の時は、興進様だけが他を助けるために犠牲となり、二人が生き残ることにより、民主世界と共産世界の道が開かれるのです。

     興進様は、珍福、珍吉の二人を父親のような思いで常に愛していました。父親がいないので、いつも彼らの家に行って過ごしていたのです。その二人を息子のごとく保護する思いでそのようにしたのだと思います。分かりますか?

     そのために自由世界と共産世界の蕩減条件を立てることのできる道が開かれたのです。興進様はこの両世界が将来一体化するようになるために、自らを国家的蕩減基盤に立てて犠牲としたのです。事故は自由世界であるアメリカで起こりましたが、身体は韓国に帰ったのであります。祖国に帰ったのです。このようにして興進様の身体は西洋世界と東洋世界に連結しているのです。彼は世界のために死に、国家的基盤である韓国へ帰りました。勝利的な国家基盤の上で生き、そして死んだがゆえに、興進様は今後、霊界と地上界を自由に往復することができます。

     二〇〇〇年前、真の父母がいなかったために、イエス様は民族的基盤をつくることができませんでした。しかし、興進様には既に国家的基盤をつくった真の父母がいましたから、それを相続することができます。そしてイエス様御自身も興進様によって、地上の国を訪ねてくることのできる基盤が連結されたのです。このことの意味は、イエス様と二人の強盗が死から復活することができ地上に再臨できる基盤が連結されたということです。これまでに劉協会長ほか、古い幹部や、多くの食口たち、またその子供たちが死んだのは教会基準の犠牲であって、国家的基準で世界を蕩減するレベルにはならなかったのです。しかし、今回の興進様によって、初めて国家基準の犠牲となりました。ですから、興進様は霊界において最高司令官となり、地上世界との間を自由に行き来することができるのです。それで、先生は興進様の死ぬ前に、「養子を探してあげる」と約束したのです。したがって、祝福を受けることができるのです。

     また、興進様は統一教会に対するすべての責めを負って犠牲になったのです。これによって、他の者がそれらの責めから解放されました。その恩恵は、我々統一教会の者ばかりでなく、自由世界と共産世界の人々にも及びます。ですからすべての人々は興進様を愛さなければなりません。自分の生命を犠牲にして愛というタイトルを全世界の人々に残したので、皆さんも世界を愛することができるのです。

     興進様は先生の身代わりとなって行きましたので、皆さんが興進様を愛するその愛は、先生に対する愛となって表さなければなりません。分かりますか?

     今まで霊界は、真の父母に連絡する道がありませんでしたが、興進様が霊界の代表となられたので、今や、興進様を愛するすべての霊界が直接に先生に連結することができます。また興進様は、統一教会のために行かれましたので、統一教会にも連結することができます。

     興進様は命を懸けて、自分の仲間を愛するという模範を示しました。また、自分の父が世界のために生き続けることができるようにと願って行きました。霊界にいる人々は、興進様を愛することによって、地上にいる真の父母と連結することができます。ですから、彼が霊界へ行ったことは、霊界にとっては大きな喜びです。彼が霊界のメシヤとしてやって来たからです。興進様は、統一教会のための殉教の模範を示しました。それゆえ、統一教会のメンバーは、興進様をますます愛するでしょう。彼は霊界と地上界の両方から愛されるのです。

     では真の父母はどうすれば良いのか、これが問題なのです。神の愛を歓迎し、地上の愛を歓迎する意味において、自分の息子を祭物として捧げたことを栄光と思い、誇りと思わなければなりません。

     神様はアダムとエバが十代で堕落してしまったために、今まで、霊界においても一人の青少年も真に愛する機会をもつことができませんでした。しかし、今や、清い未婚の息子が霊界に行きましたので、復帰のために苦労してこられた神様が、純潔な子供を愛することができるようになったと、思うのです。それで先生が祈る時、「私が十代の少年だった時に、神様の前に基盤を整え得ず韓国を十分に愛せなかったことを申し訳なく思います。今、ようやく世界的な基盤を整え、国家基盤を蕩減した上でこのアベルを私の代身として、栄光を受けてください。私の時に栄光を受けられなかったのを蕩減してください」と祈ったのです。しかし、今や、自分の息子を犠牲として捧げたことによって、先生は韓国と世界に対して責任を果たしました。過去にできなかったことを今や興進様を通じて神様に受けてもらうことができたのです。

     先生の二番目の息子としての興進様は死にましたが、先生は死なずに地上世界と霊界において愛の復活圏を成就します。死を通して興進様は霊界へ行きましたが、先生は死を通して霊界をつかみ、地上界もつかんで、愛の復活圏を設定します。もはや死は何の力ももたなくなりました。死亡圏と分かれるのです。ですから葬式も悲しみで行ってはなりません。それで興進様が地上から(黒板を使い説明)ここを通る時に、先生は特別な霊界と肉界とを中心とした式を行いました。その過程の話は複雑ですが、すべての蕩減条件を成して、「愛勝日」という日を宣布するために、死体を前にして、神様の愛のために闘いをしたのであります。これは何の話かというと、母や父が、死んだ我が子を思うよりは、神様の愛をもっと思って、死亡圏に勝つことのできる時であるというものです。

     先生はあくまで神の摂理を中心として考え、行動します。それで病院で「統一式」を行いました。そして、この愛の勝利のゆえに、真の父母は本当に誇らしく思っていること、また、全霊界と地上界がそのために真の父母をたたえるであろうことを、神様に誓いました。この時、神様が見ても誇れる父母となり、霊界の先祖たちや、天使世界や聖徒、聖人すべてが誇ることができ、また地上世界の人々も、「なるほど、死亡圏を除去することのできる愛の権限をもっている方に間違いない」と、頭を下げることのできる勝利をしたのです。「愛勝日」とは、興進様の犠牲によって、真の父母が新しい基準に到達し、今後、その基準の上に前進して行くことを宣言した日です。分かりましたか?

     それゆえ、先生は、お母様に対して、「涙を見せてはいけない。今は涙を流す時ではない。神様と人類にとって栄光の時なのだから……。私的な場所では母親として涙を流しても構わないが、特に葬儀の時間は、公的場であるから涙を見せないように……」と言ったのです。そのような時間があったことを知っていなければなりません。それゆえ、民族的、世界的な新しい愛の方向を立てることができたので、「愛勝日」という日を宣布したのです。

     一九八四年一月三日、午前四時に、先生は「愛勝日」を宣布しました。この時間の表す数は、一月三日の四時ですから、一プラス三プラス四で、再出発を表す八数になるからです。このことによって、地上において愛の連合戦線が始まるために、霊界においても愛の連合戦線が開始され、興進様には新しい使命が与えられました。それは、真の自由人として、霊界と地上界を自由に往復することができ、霊界と地上界の若者を導いて愛の力によって清めることです。

     イースト・ガーデンの興進様の部屋は、そのままにしてありますが、おもしろいことに兄弟たちがみなそこに行って眠るというのです。あの部屋には何か引きつけられる力があります。このように興進様が若い人々を引きつける力をもっていることが、既に示されています。

     先生は今回、新しい運動として民主世界の若者が先生の写真を携帯する運動を始めました。すべての青少年が先生の写真をもつ運動に参加すれば、霊界が完全に変わります。共産世界の青少年も、我知らず先輩や両親に反対して、新しい理想を探してさまようようになります。そのうち善なる霊が協助してくるようになるのです。このように先生の写真をもつことによって、その人の背後に善なる霊たちが再臨して協助することができるようになるのです。しかし、そのような恵みを受けるためには一つの条件があります。一定期間を、献身的に活動をしなければなりません。そうすれば何か良い恵みが与えられます。

     この「愛勝日」の期間は、死んだ息子を側において、結婚式をする時以上の喜びの心情をもって神様を愛するという、心情圏を勝利せずしては越えることができないのです。それで先生は、興進様の葬儀の間は一滴の涙も流しませんでした。そして、朴先生が来て昇和式の報告をした時、初めて父親として泣きました。息子のために涙を流しました。公的な人は、自分に対しても厳格でなければなりません。先生は、お母様にこう話しました。「あの木の頂の芽は、一番高いところにあるので風が吹けば、一番多く、最も危険に揺れ動いています。しかしそんな中でも育っていかなければなりません。そのためには中心がなければなりません。台風がきても、根は深く張っていなければ芽は育ちません。私たちが神様の愛を必要とするのではなく、神様の愛により芽である子供たちが育たなければなりません」と。何の話か分かりますか? (はい) 。

     今回の出来事によって、飛躍するのです。そのようにして偉大な世界統一教会に成長するのです。我々がこれから行く世界は、真の父母の大勝利の橋頭堡を中心として、最高の最大の条件を立てる時代なのです。皆さんが自らの命よりも、もっと先生を愛する限り、もはやサタンはどこからも侵犯できないのです。それは興進様が皆さんの代身となって行かれたからです。ですから、何よりも真の父母を愛することによって、皆さんはサタンに打ち勝つことができるのです。今までの愛はサタンが支配するものでありましたが、これから神様が愛を主管するのです。「愛勝日」はそれほど偉大な日なのです。分かりますか。分かりますか?

     先生の話は一度聞いただけではよく分からないでしょう。録音されていると思いますので、二度三度と聞くようにすれば良いのです。

     先生がそのようにして神様と一つになって「愛勝日」を宣布したという事実を皆さんは知っていなければなりません。皆さんの活動に反比例して、今後サタン世界は急速に崩れるでしょう。皆さんは今の三年間をみ旨のために夜昼なく走らなければなりません。死にそうになったら、“私は三年後に復活する”と考えなさい。イエス様は一人で復活したのですが、私たちは“三年後には国家的に復活する”と考えなさい。イエス様は三日間で個体復活を成したのですが、私たちは三年間で国家復活をさせるのです。何の話か分かりますね。私たちはその日に向かって進み大勝利を獲得するのです。アーメン。(アーメン)。

     誰しもいつかは肉体が死にます。しかし皆さんはサタン圏内で死ぬのではなく、神の圏内で死ぬことになるのです。ですからこれからの葬式などすべての式は根本的にサタン世界と異なるのです。先生は葬式と埋葬の新しい伝統を樹立しました。もう皆さんは、この「愛勝日」がどれほど必要であるかを知りましたね。分かりましたか? (はい) 。

     興進様は夜昼休みなく皆さんの側にいて、アメリカの若者たちと共産世界の若者たちと、すべての霊界の先祖と子孫たちと共に活動します。皆さんは興進様に負けないように決意しなければなりません。できますか?

     (はい!)。やるという者は手を挙げなさい。(全員、手を挙げる)

     興進様が皆さんに礼を言うでしょう。霊界も皆さんと共にいるのです。これで「愛勝日」の必要性が完全に分かりましたね。

     この「愛勝日」を宣布したことによって、イエス様もこの勝利の一時に同参する時代となりました。それで全キリスト教会の反対もなくなったのです。既にそのような基盤を整えたのです。それで、神学者と教授たちを組織し、次には牧師たちを中心として既成教会です。昔は、どこへ行っても嫌われたが、どういうわけか好きになるのです。彼らは先生につながっていれば気持ちが良いのを発見するのです。国際機動隊メンバーも既成教会に入って行くのが今まで嫌であったのが良くなるというのです。それでトレーラー・ハウスを出てどこに行って眠りますか?

     路上ではなく既成教会に入って眠るのです。入って行くのです。「愛勝日」によって、カインがアベルを愛で歓迎する時になったのです。昔は愛すれば蕩減を受けなければならなかったのですが、今は愛すれば福を受けるのです。

     昔はカインがアベルを愛したら、サタンに殺されたり、苦労が多かったのですが、今や、そのような時は去ってしまったのです。神様が福を与える時が訪れたのです。もはやサタンは私たちの進む道に反対の旗を持って立つことができない時を迎えたのです。外的にもアメリカも全世界もそうなってきました。分かりますか?

     春が来たのです。統一教会の春が来たのです。

     欧米では春になると、ピクニックに行ったり、楽しみを求めますが、私たちは春は種を蒔かなければなりません。分かりますか。サタン世界は遊びに出歩きますが、私たちは種を蒔くのです。心の種、愛の種を蒔くのです。このように、この三年間は、夜も昼も休みなく努力しなければなりません。皆さんもそうすることを決意しますか? (はい) 。

     どうもありがとう。(拍手―歓声)
















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    38_真の愛を中心とした本然のエデン

     御旨と世界
    (全面表示)

     



    真の愛を中心とした本然のエデン


    1984年5月27日



    ニューヨーク ベルベディア


     皆さんがエデンの園と言ったとき、聖書に出てくる善悪の実の問題を中心として、そこに神様と人間と天使たちがいるという場面を私たちは思い起こします。

     「善悪の実を取って食べるな」という神様の啓示は、今日の一般のキリスト教において言われている善悪の実ではなく、愛の問題を中心として言われたみ言であるということを私たちは知っています。皆さんも御存じのように、神様のみ旨は創造理想を実現することでありました。ではその創造理想は何かといえば、それは四位基台の完成です。四位基台とはもちろん、神、父母、子女をいうのであります。では四位基台の中心は何でしょうか。その中心は神様でもなく、アダム、エバでもなく、子女でもないのです。真の愛のみが中心となることができるのです。

     では、愛の出発はどこでしょうか?

     誰がその愛を考えたのでしょうか?

     それが問題です。愛の出発は誰なのか。これは、神様が愛の理想を中心として出発したということに異議はありません。アダムでもなくエバでもなかったのです。すべての被造世界をつくられた主体なる神様がおられるとしたら、神様がその中心の愛を考えたのでしょう。

     皆さんの目にも、右の目、左の目にフォーカスがあります。三点を連結できるものがあります。そのポイントに合わせれば見ることができるのであって、このポイントが少しでも違ったら狂ってくるのです。では、スタートしてから、動く主体としての神様の愛はどこへ行くでしょうか?

     神様が中心となって、来なさいと言うのであります。それは神様がじっとしているのでなく、神様も動くのです。神様は万能ですが、それでも何か願いごとがあるのでしょうか。願っている何かがあるのでしょうか。もし願うことがなかったなら、ストップしてしまうのです。そうではないでしょうか?

     願うことがなかったなら無の状態で停止してしまうのです。すべての存在は停止してはなりません。停止していればそれは退化していくのです。このように見る時、神様においては全知全能であるからお金が必要でもなく、知識が必要でもなく、権力が必要でもないのです。しかし何も望まないとすれば、それはストップしたことになってしまいます。そこで神様が必要とするものは何かといえば、愛なのです。神様も愛が必要なのです。神様が希望するものがあるとしたら、その希望を中心としてすべてを活用したいと思うでしょう。お金も活用したいし、知識を活用するとしたらそれはいいですが……。それで神様にお聞きします。あなたが必要なものは何ですか。知識ですか?

     「さあ」。権力ですか?

     「さあ」。ではお金が必要ですか?

     「さあ」。では何が必要ですか?

     それは最も貴重なもので一つしかないのです。その一つしかないものは何かといえば、真の愛なのです。では神様、真の愛が必要ですか?

     「そうだ」。(笑い)

     それしかないのです。

     お金とか知識はすぐに作ることができます。しかし愛は直ちに作ることができません。愛は探し求めていかなければなりません。愛には行くべき道があります。分かりますか?

     愛は他とは異なります。それは未来や希望を表します。そうですか? (はい) 。

     したがって神様はじっとしていることができずに、そこに向かって行かなければなりません。動かなければならないのです。愛を創造するためには、未来の過程を残しておいて、自分の全体を統合した内容を整えて作用することのできる時間的、距離的内容が必要です。分かりますか、何の話か。さらに愛を探し求めたならば、そこで終わってしまってはなりません。より大きく、さらに大きいものを神様は必要とされるのです。愛は神様が探し求めていく永遠なるものです。皆さんはどちらが好きですか。最初は小さくても、だんだん大きくなって永遠に発展していくものが好きですか、それとも最初は大きくてだんだん小さくなっていくものが好きですか?(笑い)

     それで神様も真の愛がこれぐらいのボールだとしたら、(先生が手で表現される)このボールがだんだん大きくなっていくのを好むのであります。そういう話ですよ。このようにして(黒板を使用)、この中に必要なものは全部あるというように、限界にまで大きくなって、作用することを神様も願っておられるでしょう。そしてここにいる者たちが(黒板を使う)そのような愛の理想に向かっていくときに、すべてがこれに調子を合わせながら、呼吸を共にするのがいいでしょうか。それとも反対したらいいでしょうか。それは真なる愛にすべてをゆだね呼吸するようになるのです。何の話か分かりますか。それですべては、真の愛に歩調を合わせ存在しなければならないということになります。

     アダムは男子であり、英語からの内容を見るととてもおもしろいんだね。(黒板を使う)(笑いと拍手)

     女にはwomanのwo(ウ)というのが付いています。それで英語の言葉において男と女とどちらが先でしょうか。言葉から見ても明らかなように、男が先であり女が後からで、男が上であり女が下で、男がプラスであり女がマイナスで、男が主体であり女が対象であります。

     しかし位置を反対にし、自然を反対にするということは、「オー!私は太陽も必要ないし、空気も必要ないし、水も必要ない」という言葉と同じなのです。男と女を運動させるものは何か。女の力ですか、男の力ですか。女の知識ですか、男の知識ですか。女の持っているお金ですか、男の持っているお金ですか。どうですか?(真の愛です)。

     では、このようなことから見て、愛とお金とは交換できますか? (いいえ) 。今日、米国の女性たちはお金のためによく結婚しているでしょう。そういう女性は本当の女性ですか。偽りの女性ですか。また、知識を中心としている人もいますね。州知事であるから結婚するとか、何々大学を卒業したので結婚するとか……。どうですか?(事実です)。

     女性は何のために生まれてきたのかといえば、お金のために生まれてきたのでもなく、知識や権力のために生まれてきたのでもありません。男性一人を探し求めるために生まれたのです。では男性は何のために生まれてきたのですか?愛のためです。それは正しい話ですか?(はい) 。

     先ほど言ったように、愛の伝統を中心としてすべては作用するのです。鉱物世界においてもプラスとマイナスになって、すべてが相対的になっています。それは動物界においても、また昆虫においてすらも同じことです。すべてが作用するので、歌わないで舞わないものはないのです。すべてが芸術的です。昆虫も歌を歌うでしょう。鳥や動物すべてが歌います。人間も同様です。このようにすべてが和合するのです。それは主体、対象の関係を中心としてです。同じです。そうしながら大きくなっていくのです。だからすべてはこのような主体、対象から出来ていて、それが各段階を通って発展しています。ある意味ではダーウィンの言う進化論が当てはまっているような、そういう具合に進化し発展しています。しかし進化論というのは、そのままが真実なのではありません。より小さな段階からより価値のある段階へと発展しているのが、進化の本当の意味なのです。そして小さなものはより大きなものに対して自らを与えます。それによって小さなものがより大きなものと同じ段階へ発展し、同じ価値をもったことになるのです。このような内容をもっているのが、宇宙の発展であり、法則なのです。だから小さなものは将来に希望をもっており、より大きなもののために、自らが対象となって、より大きな主体のために役に立つという、そういう希望をもっています。それは小さなものがより大きなものに対して、自らを対象となして価値を与え、そしてより大きなものと価値を同じくするという、宇宙の方向なのです。だからそれは愛の表れであり、小さなものがさらに大きなものへと愛を示すことになるのです。このようにすべての中に愛の動きがあるということがいえます。

     世界に一人しかいないというくらい、誰からも羨しがられるような高い所にいる女性に対しても、愛を中心として私の下に来なさいと言ったら、「はい」と言うのです。そうでしょう。愛のみが極大になることも極小になることもできるのです。どんなに傲慢な女性も、(愛を中心として)下がれと言ったら下がらざるを得ないのです。主体が下に下がって行こうとすれば、対象である女性も下がって行こうとします。そのようなことができるのは愛の力しかありません。どうですか?(はい、そのとおりです)。

     このように愛は非常に巨大なものであり、大きなものでありますから、神御自身も一つの場所にとどまることはできません。神様が堂々と一番頂上に構えているとしたらどうしますか?小さな谷間には行くことができないのです。しかし愛をもっていれば行くことができます。このように主体が何をしようとも、対象である女性はありのままにそれに応じていくというのが本来の女性の在り方です。愛があれば子供を抱き締めて、どのような汚いものをも飲み込むことができます。(笑い)

     このように見ると、愛は何と巨大で素晴らしい不思議な力をもっているのでしょう。どうですか?それで愛が好きなのです。どうですか?間違ってるの?合ってるの?(合っています)。愛の中に神様が入るでしょうか?神様の中に愛が入るでしょうか?どうなの?(神様が愛の中に入ります)。神様はどちらが好きでしょうか?(神様が愛の中に入るほうです)。どうして、どうしてなの?神様の希望は大きくならなければならないので、神様はもっと愛を希望しておられるのです。そのために、神様は愛の中に入らなければならないのです。それで理論にも合うのです。何の話か分かるの?

     神様も希望として願う愛なので、神様よりも愛のほうが大きいのです。私が愛を懐かしく思う時には愛を引き寄せ、愛が成就すれば私のほうが引っ張られていき、このようにして求心運動で回るのです。

     それでは自然はどうなっているでしょうか。夏になれば虫とか昆虫が集い合い、小鳥たちが鳴く時、すべてが愛を歌っているのだということを知らなければなりません。このような時、「ハハアー、宇宙はこのようになっているのか」と、このような宇宙的神様に人間は歩調を合わせなければなりません。(どんどんどんとたたく音)

     そしたら神様は何と言われるでしょうか。「うるさい!」と言うでしょうか。座っておられた神様も、立って一緒にリズムを合わせるのです。(拍手)分かりますか?

     神様はそのように思って万物を創造されたので、私もそのように考えるのです。

     本来、アダムとエバが手を取り合って通り過ぎると、宇宙はそれに歩調を合わせ、喜び反応し、神様もそれに対してすべての主体的作用を起こします。どんなに素晴らしいことでしょう。それは何か、昔話とか伝説のような話ではなく、今日、私たちの生活圏内における、感情の世界と連結する本然の世界であるというのです。直接的に今日の私たちの生活環境と接することができるのです。愛は退化しません。千年万年も続いている父母の愛、先祖たちの愛の原則は変わってはならないのです。そして万物間の境界線も非常に厳格な(愛の原則がある)のです。このように厳格なので、決してダーウィンの言うような進化論は当てはまりません。ダーウィンは、宇宙の本質を見抜くことができなかった無知で異常なる人間であったと言わざるを得ません。主体と対象の出会いということは、本当に厳格なものなのです。

     ダーウィンのような人は狂人なのです。彼によるなら、人間は昆虫とでも相対になることができるということになるのです。人間は人間とのみ相対を結ぶべきであって、人間と猿とでは結べません。もしそうなったならば、どのような子供が生まれるのでしょう。(笑い) このように厳格なものがいかにして関連しているというのか、ダーウィンの論理で説明されていません。では人間が愛し合うことについて、今日の米国式の愛が本来の人間のもつべき理想的な愛でしょうか?自分勝手に一夜の外出をして、自分勝手に愛するそのような愛なのですか。自分たちが勝手にすることのできる愛なのですか?(いいえ) 。なぜいいえですか?私たちの先祖を見ても、アダムとエバは何人もいたのですか?それとも一人でしたか? (一人ずつです)。絶対的に一人ずつです。今日のアメリカの男女のような愛ではなかったのです。

     そこで私たち統一教会は、絶対なる基準に合わせていくのです。なぜそうしなければならないのでしょうか。なぜですか?神様が一つの方向をもって創造されたので、アダムとエバも一つの方向をもって生まれたのであり、神様の願う方向に生きるべきであります。人間は生まれた時は小さく、成長するにつれてだんだんと大きくなっていきますが、人間の方向性は全然変わりません。例えば鼻は、小さい時も、大きくなってからも常に下を向いています。(笑い)一つの方向しかないのです。二つの方向はありません。それはいいことですか?悪いことですか?いくつもあったらいいのに、なぜ一つしかないのですか?それは真の愛をつくるためです。真の愛というのは三つの存在、神様とアダムとエバのいる所に存在します。だからその方向に向かって行かなければ、真の愛に出会うことはできないのです。

     また、神様は二性性相の存在であり、その二性性相は立体的になっています。それに対して人間の二性性相(アダム、エバ)は横的になっています。(黒板を使いながら説明)

     それで、人間の男性と女性が出会う時に、そこに愛の火花が飛び交うのです。火花が飛び交う地点は真の愛の地点です。愛がスパークするのです。スパークすればアダム、エバばかりでなく神様も接触するようになるのです。そうするためにはどこに行かなければならないかといえば、この三点です。

     電気のマイナスが生ずれば、プラスが必要であるということは考える必要もないのです。完全にマイナスになれば、プラスが訪ねてくるようになっているのです。宇宙はそのようになっています。それが自然です。なぜ女は男を探し求め、男は女を探し求めるかといえば、二人が合わされば(神の前に)マイナスとして現れるようになっているからです。それで神様と火花を散らすのです。全宇宙がとどろきをもって火花を散らすのです。(笑い)

     そのような時にすべてのものが完遂します。

     皆さんが愛する時においてのみ、男性と女性の細胞は一〇〇パーセント作用するということを知らなければなりません。そのように愛し合う時に作用の力が働いて、愛を通じてその男性(父親)の細胞、女性(母親)の細胞を超越したあなたたちが生まれるのです。分かりますか。愛を通してすべてを得るのです。その細胞が眠っているとしたら選ぶことができますか。愛の力は闇も克服するし、死をも克服することができるのです。分かりましたね。

     それでは、皆さんは夫を必要とし妻を必要としますか?

     どうですか?

     結婚式を宇宙に発表するのはなぜかといえば、神様が臨在し、愛が訪れてくるようになるからです。何の話か分かりますか?

     それは(黒板を使いながら)プラスの要素とマイナスの要素との間に授受関係が結ばれるからです。天と地に通ずる男性の愛の心、女性の愛の心がこのような場において一つとなることによって、天と地が一つとなった愛の巣、夫婦生活の場となるのです。そこに神様が臨むようになります。このような愛を中心として見るときに、女性は、宇宙とも、神様とも交換することのできない価値のある夫が横にいることを知らなければなりません。これだけは永遠に残るものなのです。それはなぜかというと、(男性は)神様の代身であるからです。何の話か分かるの?

     男性も同じです。女性は神様の相対的な性相を受けたお母様の代身であり、換えることのできない価値があるのです。それが一つとなって(黒板を使用)本来はここから生命が生まれてくるのです。これが真の愛を中心とした本然のエデンの園の人であります。このようになったとき、その子女は自分の子女ではなく、神様の子女となるのです。それが本来の子女なのです。これが原則です。

     堕落とは何かというと、真の愛と反対の方向に行って、男性と女性がサタンを中心として出会ったのです。これまで地上には何十億という人間が生まれてきましたけれども、そのような創造本然の本質をもった子供はこれまで生まれてきたでしょうか。誰もいません。誰も、そのような子供を生んだと言う者もいませんし、またそれを探そうともしませんでした。なぜこのことをはっきり知っておかなければならないかといえば、堕落した私たちの生命は神様と関係がないからです。ですから私たちは、本然の姿と反対の立場に来ている自分自身を発見しなければなりません。そして本然の世界に戻っていくためには、いかなる冒険をしてでもという決意をしなければならないのです。これをはっきり知らなければなりません。何の話か分かりますか。これは間違いのない事実です。この事実を正さなければ、永遠に神様との関係を結ぶことができないのです。これがはっきりしなければ、堕落人間にとって宗教が絶対に必要であるということと、今日メシヤが絶対に必要であることと、真の父母が絶対に必要であることが分からないのです。

     今日、統一教会では真の父母という言葉を使っていますが、この真の父母という観念はどれほど偉大なことでしょうか。偽りの父母から生まれたので、真の父母が現れて再び新生しなければ、創造本然の世界に戻って行くことができないというのが結論です。そこで、メシヤの使命とは何かといえば、メシヤは新郎であるからプラスであり、マイナスとしての新婦を探さなければなりません。このような内容があるために宗教の中においても新郎を探し新婦の基盤を整えてきた宗教が、理想世界へと連結することができるという結論になります。

     有史以来、人間として完全な真の新郎の立場で来られるのがメシヤであります。メシヤは真の愛を示すために来られるのですから、真の新郎という概念が宗教にあれば、その宗教がこれから神様のみ旨を成就することができ、世界を一つにすることができるということは理論的です。

     それでは、メシヤが新郎でメシヤの相対は新婦ですが、メシヤが来られる時、相対的立場であるイスラエルの国だとか、数多くの宗教者たちはどのようになるかといえば、地上の国家的次元においてマイナスの立場が完成されれば、主体(プラス)となる新郎が現れるのです。

     ユダヤ教を立てて、イスラエルの国を導き、国家的次元において新郎のための基盤をつくることがユダヤ教の歴史であったのです。ですから、旧約世界においては神のみ言のみを信じなさいと言うのです。新郎のためには生命までもすべて捧げなさい、あなたたちは零となりなさいと教えてきたのです。そしてイスラエル民族とユダヤ教は一つとなって新郎を迎えるべきでした。しかし、イエス様は来られた時に「あなたが探していた新郎として私が現れました。私を新郎として迎え入れなければなりません」と言えますか。それは言えません。なぜかというと、愛の起源は堕落した世界の新婦につながっているのではなく、ただ新郎のみに真の愛の線でつながれているので、真の愛のつながりをもとうとすれば、新郎は新婦の復帰のために最低の所に行って、公認されなければなりません。

     それでは、新婦はメシヤが現れた時、どのようにすべきでしょうか。新婦はメシヤに対して、自分の生命、その他すべてのものよりも貴く思い、犠牲になっても不平を言うことなく、イエス様が自由にみ旨ができるような立場に立たせなければならないのです。サタン側に立ってはいけないのです。新婦に対して「私に従ってきなさい」と言ったらそれに従い、ある人の家に行って、「あれをしなさい、これをしなさい」と試練しても、不平を言わずに従うことによって個人路程を通過することができるのです。そして個人から家庭、氏族、民族、国家路程を通過して、すべての試験をパスしてこそ初めて世のすべての伝統と神の国の伝統を受け継いだことになり、国家基準にまで上がって、相対となることのできる特権を与えられ、相対的な特権の時代に入っていくのです。そして次に、世界的な基準にまで引き上がっていくためには、すべてのイスラエル民族がメシヤに順応し、学ばなければなりません。「私は私なりにやりますから、あなたはあなたなりにやってください」と言ったらいけないのです。そうすることはできません。どうですか。その話は正しいですか、間違っていますか?

     (正しいです)。

     イスラエルという国とユダヤ教が新婦の代表として立ったならば、彼を中心にすべてのイスラエルは七年であろうが何年であろうが、その道に従い学ばなければならないのです。自分を主張して「私は知りません」と言うときには、誰であろうとサタン圏内に入ってしまうのです。サタンは、これは私のものであると言うのです。それは正しい話ですか、間違った話ですか?

     誰か国境を好きな人がいますか? (いません) 。大きな国であっても、小さな国であっても、国境を好きな人はいません。しかし現実は仕方がないのですね。

     では、新郎の国と新婦の国とが異なっているとしましょう。新郎の国の法律と新婦の国の法律とが違うときは、新郎の国の法律を学ばなければなりません。それと同じように、新郎たるメシヤが来られる天の世界においては、その法律は極めて厳格に守られなければならないのです。今、黒板に書きましたが、これが新郎の国であり、こちらが新婦の国であり、そこに国境線があります。そしてこの国境線を通してお互いが出会うのです。これはちょうどワシントン・D・Cのようなものです。はっきりとした国境線がまっすぐにできています。(笑い)

     その国境線を越えて来る人に対して、「あなた方は自分の国でやっていたように、自分の好きなように振る舞ってもいいのです」と言うでしょうか。そうは言えません。またこちらから境界線を越えて向こう側に行く場合にも、自分の国でやっていたとおりにして、相手の国の法律を守らないで勝手にすることはできません。ワシントン・D・Cという場所についても、そこにはそれなりの法律があるわけで、その法律を守っていかなければなりません。

     それと同じように、イエス様も天の国から来られたお方ですから、新婦としてのイスラエル民族を天の国に入るにふさわしいように教育しようとなされたのです。しかしイスラエル民族はサタンに支配されていたため、“我々はもうここまで来たのだから、これ以上厳格な法律を守らなくても、ここらで妥協すればいいじゃないか”と思ったかもしれません。しかし神様は「神の法律は厳格に守らなければならない」と言って、決して妥協はしませんでした。「もうここまで来たのだから、もう一歩、もうしばらく我慢してでも天の国に入って法律を守れるように、そういう訓練と準備をしなさい」と神様は言ったことでしょう。

     それで真の愛を経た真の父母の愛の圏を通過しなかった新婦であるイスラエル民族とイスラエルの国は、新婦自体としては生むことができないので、新郎を探し求めて一つとならなければなりませんでした。探し求めていって、真の愛を基にして一つとなったという決定を受けなければなりません。そして新郎と一つになり、再びサタンの支配しているイスラエルに戻って行き、サタン世界を完全に復帰してから、また新郎であるメシヤのところへ帰って来なければならないのです。自分の国へ行って復帰するということは、民族の宗教や教会を完全に一体化させて、一つにして、そして再び新郎であるメシヤにつなげるようにするということなのです。なぜそうしなければならないかというと、神様を中心とした真の愛はアダムとしてのメシヤを通してのみ表れるからです。

     したがって、真の愛が新郎を通して新婦に完全に接ぎ木されたならば、今度は国家と宗教と教会をすべてメシヤに接ぎ木しなければならないのです。(黒板で説明)

     メシヤが来たならば、新婦がここに来て接ぎ木され、一つとなったという公認を受けてから、教会と国を一つにして、初めて真なる愛が連結された一つの国の圏をつくることができるのです。

     これがなぜそれほど重要であるかといえば、本来の愛というものは生まれる時、父親のほうが種であって、母親を通して生まれてくるのです。父親は種で、母親が畑です。真なる愛を中心として、そのような過程を経て生まれるのが本然の状態なのです。しかし、そのような状態で生まれることができなかったので、接ぎ木されなければならないのです。愛する条件を中心として接ぎ木されるためには、新婦となって、愛に絶対服従しなければなりません。この世で愛する以上の愛をもってメシヤに対さなければ、父との因縁を結ぶことができません。これが原則です。父親との因縁を結ぶことができないのです。それでイエス様は、「わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない」(マタイ一〇・三七)と言われたのです。

     またイエス様は、あなたたちの家族は怨讐であるとも言われました。妻が夫よりもイエス様を愛するので夫は反対し、夫が妻よりもイエス様を愛するので妻が反対し、自分の両親よりもイエス様を愛するので父母が反対したのです。そしてまた、イエス様がメシヤであるかどうか、どうしても分かりませんでした。同じ男でもぼさぼさ頭の独り者なのです。そして大工の息子が何でメシヤなのかと思ったのです。妻が、人が変わったように早朝に出かけたり、夜遅く帰ってきたりすることに対して、なぜそのようなことをしなければならないかと思ったのです。

     イスラエルの教会も、イスラエルの宗教も、ユダヤ教もすべてが父としてのメシヤの中に入っている種子のような立場に入らなければならないのです。愛をもって入らなければならないのです。サタン世界で愛することのできた条件よりも、もっと愛することのできる条件をもって入らなければならないのです。堕落によるサタン世界の愛の(黒板を使う)それ以上に上ることによって、神の直接主管圏内に入って行くのです。より愛することのできる愛のみが、メシヤと一つとなることのできる道であり、これ以外にはないのです。訪ね求めて一体化したという条件は、愛でのみ果たすことができるので、メシヤを愛することによって、父の中にある、堕落しないで生まれることのできる種子の立場を経たという条件を立てることができるのです。

     そのようにしてメシヤの相対の立場に立って、お互いが人類を代表して愛しながら生きる基盤をつくることによって生まれてくることができるのです。もちろん、生まれ変わるためには母親がいなくてはなりません。新婦を通して母親に……。

     それは七年かかります。七年で果たせなければ二十一年かかります。

     イエス様が成せなかったことを、統一教会が世界的な次元で果たすのです。統一教会において、先生を中心としてそのようなことが始まるのです。統一教会に入会したすべての男性も女性も、妻や家や子供を全部捨てて先生に侍ってきたのです。これは女だけでなく、男もそうでした。

     父の中の種のようになって、母親を通して、七年過程を経なければなりません。皆さんは知らないでしょうが、先生の子女たちを中心に統一教会を一つにして「再生式」を行いました。先生の子女が一人生まれ、二人生まれ、三人生まれるそのたびに、世界的な舞台へと拡大させて、再び生まれた(新生)という条件を立てるのです。すべてを拡大し、環境的に拡大させていくのです。分かりますか。私の家庭から三十六家庭、七十二家庭、一二四家庭、四三〇家庭と世界的な家庭と連結させなければならないのです。先生と先生の子女たちと韓国の統一教会を中心として、これらのことを果たしてきたのです。先生はこのような役事をしてからアメリカに来たのです。

     世界的な運勢をすべて率いて、キリスト教を探すためにアメリカに来ました。また、韓国において樹立したすべての霊的基盤をもって、アメリカにキリスト教を中心として、実体的国家基準に連結しようとしてきました。そして実体的な国家基準に連結したのが、昨年の韓国での大会であります。興進様がすべての蕩減条件を背負って行かれたので、歴史的な蕩減が始まるのです。それで霊界をすべて統一し、天使長の息子、娘の立場にある地上のサタン世界に対しても霊界から統一圏をなして、今日連結されているのです。そうするために、父母がそのように抱き愛したという条件を立てたのです。先生が「愛勝日」を定めたわけは、興進様が霊界を中心として霊界の地獄撤廃運動に勝利したからです。そこで先生は地上界の地獄を撤廃するのです。私が監獄に行くとしても、監獄を監獄とは思いません。分かりますか?

     興進様が霊界に行かれることによって地獄の門が開放されたのです。サタンは法廷闘争を通じて統一教会を引っ張り出そうとしたのですが、先生は地獄を解放するために監獄に入っていくのです。それ自体も天国の延長として見ています。そのような条件のもとで、父母の愛を中心として神様とサタンの前に“間違いありません”という轄を打ったのが「愛天日」です。愛天日とは、神様の愛を中心として主管することのできる時代へと越えていくということです。地上の地獄を撤廃したので、監獄までも撤廃することができるのです。(拍手)

     このような意味において、皆さんの「一情会」祈祷会をつくりました。一情会とはどういう意味かといえば、今話したとおり、心情圏を連結することのできる世界的時代へと入ったので、いかなるものよりも父母を中心に、愛する心情をもって一つとなるための運動であり、宣誓する時間が一情祈祷会であり、それが一情会運動の意味であり内容なのです。そのようにして、すべての人々が精誠を尽くし、神様と父母様と一つになるための運動なのです。分かりましたか。このような舞台が(黒板を使う)世界的に天と地に延長されるのです。それは愛のみが可能です。イエス様が十字架を越えていくのと同じように越えていくのです。分かりますか。先生には死とか三日路程とかはないのです。(拍手)

     先生は誰よりも愛する心をもって、お母様のおなかを通して三十六家庭、七十二家庭、一二四家庭、四三〇家庭、七七七家庭、一八〇〇家庭、八〇〇〇家庭を経て、個人から世界の頂上にまで来たので、一情会という精神を通してこのような条件を立てることによって、ここに神様が主管することのできる「愛天日」を設定することができたのです。分かりましたか。

     先生を通して、三十六家庭とか七十二家庭が生まれました。皆さんもその過程を通して今は先生と共に世界的な家庭に生まれたのです。サタンと闘って、サタンを全部分別して勝利してきたので、皆さんも同じなのです。先生を中心として、先生が歩んできたその歩みを通して世界的頂上にまで来たのです。皆さんが八〇〇〇双であれば、一八〇〇双、七七七双、四三〇双すべてが皆さんの先祖であります。家庭の木に生まれた一つの新しい枝として、世界的な形態をもった統一教会の一本の木のようになるのです。分かりますか。

     我々はこの家庭の木のそれぞれの枝です。この枝が全部集まって一つの大きな家庭をつくっていくのです。我々は自分を個人として見るのではありません。個人は天国においては存在しません。天国における単位は家庭です。だからその家庭という幹から出発し、そして大きな木となっていくのです。我々はどの枝に属しているのかを知らなければなりません。我々は今完全になろうとする途中であります。過程であります。今が最も良い時です。今は皆さんが一つになって、それぞれが使命を果たすために共に働くことができます。今まで、三十六家庭、七十二家庭、一二四家庭、四三〇家庭、七七七家庭、一八〇〇家庭のすべての家庭が先生と一つとなっていなければならなかったのに、一つとなることができず多くの問題が起こったのです。皆さんは“祝福家庭も大したことはないな”と思っているでしょう。皆さんは今回の六〇〇〇双とか、二〇〇〇双とかの八〇〇〇双はその上に一八〇〇双、七七七双、四三〇双があるということを考えていないからです。皆が離れているのです。一つの木のように考えていないのです。そのため一つになることができなかったのですが、先生の今度の事件を中心として、これが一つの契機となったのです。この事件を通じて、三十六家庭、七十二家庭、一二四家庭、四三〇家庭、七七七家庭、一八〇〇家庭、八〇〇〇家庭が責任を果たし、一つになることができる良いチャンスです。分かりますか。私たちは多くの過ちを犯しました。多くを誤ったのです。一つになっていなかったのです。ですから一つになることができるのが今なのです。先生が監獄に行くということを条件として、皆さんが蕩減条件を立てることによって、一つとなることのできる良いチャンスなのです。分かりますか。そのために全員で祈るのです。

     もし皆さん一人一人が、これから刑務所に行って先生の三倍も長く服役しなければならないとしても、「私は行きます」と言える心情になっていますか。神様の愛が逆に皆さんの家庭を通して、八〇〇〇家庭、一八〇〇家庭、七七七家庭、四三〇家庭と、このように逆に父母のところに通じる道が全部開かれているのです。それは父母からこのように出て行く道に通じ、一情会を通して統一的心情圏が始まったのです。

     このような基盤が立った今、神様が主管されるのです。そして愛が主管するという轄を打ったのです。それが「愛天日」です。神様を中心として、神様の愛と父母様の愛を中心として完全に一つとなったのちには、サタンも支配することはできないのです。神様のみが主管することのできる時代へと越えていくのです。それで愛天日を定めたのです。分かりましたか。

     アダムとエバは長成期完成級で堕落しました。(黒板を使って説明)それゆえ、完成期に達するまで七年過程で行けるようになっていたのに、キリスト教が反対したので四十年過程を経て復帰してこなければならなかったのです。七年過程はサタン主管圏内となってしまいました。堕落によって、原理結果主管圏が全部サタン圏内に入っていったのです。そこで誰がこの過程を復帰するかといえば、もしキリスト教が受け入れたとしたら一挙にできたはずでした。しかし、三次七年路程を中心として四十年かかって復帰しなければなりませんでした。

     今は国家を代表し、世界を代表し、父母様の家庭を中心として、世界的蕩減条件が果たされ、世界的な版図が作られました。今や、統一教会の信者たちは全世界に広がっていても、心情圏はこの基準で全部一つとなっているのです。今まで神様の直接主管圏と、地上の間接主管圏が分かれていたのですが、このようにして完全に神様の愛の圏内において統治される時代へと越えてきました。世界的な基盤の上で、直接主管圏と間接主管圏が真の父母によって完全に連結されたのです。

     今度のこの事件によって、先生が十字架を背負うのですが、これを機として、一つとなることができなかった皆さんが全部連合され、統一教会とキリスト教が連合されるのです。キリスト教が連合されれば、アメリカも連合するという条件が立つのです。このようにして世界へ行く道を開くための驚くべき時代が、今度の法廷闘争として現れたのです。これからは私たちが団結して、団結して進む時、国も回るし、アメリカの国民(自由世界の国民)も、回るようになります。私たちが一つとなって進んで行く時、世界が完全に回り、回転するのです。何の話か分かりますか? (はい) 。

     したがって今度の期間は、統一教会が新たに復興することのできる期間であり、新生することのできる期間であります。お互いが悔い改めて、心情的に連合して再出発する時期であるために、先生をはじめとしてすべての家庭と統一教会全体が一つに固く結ばれて、すべてこのことにおいて私たちの前には敵対する者はいないという「愛天日」を定めたのであります。これから神様の愛が支配するという信念をもって行くのです。

     それが一つのエデンの園の原理なのです。一つの愛がそうなるのです。真の父母の愛の圏を世界的舞台へ連結したので、サタンが支配することはできないのです。もし支配したときには自分たちが何十倍、何百倍の損害を支払わなければなりません。完全に一つとなって、先生が指し示すことを完全に信じていく時、すべてが解かれていくのです。何の話か分かりますか。強く雄々しくあれ!

     その日時も不思議です。六月はサタンの六数であり、十八日というのは三掛ける六で六数の三倍です。数字もちょうどそのとおりになっています。サタンのすべての要求を清算するのです。すべて清算するのです。しかし先生はそのために自分が監獄に行くとは思いません。地獄解放に行くのだと思います。その世界に父母の愛を分け与えるために行くのです。分かりますか。

     今や潮の流れが変わりつつあります。これまでアベルの位置にいるものが犠牲となりましたが、これから変わっていくのです。蕩減させるのです。そのような自信をもたなければなりません。分かりましたか。

     本然のエデンは真の愛の原則を中心とした世界でしたが、今日、現実世界においてはすべてが欺かれている事実を知らなければなりません。統一教会が誤り、アメリカが誤り、共産主義者たちが誤ったことのすべてを、この期間に本然の世界における真の愛の状態と形態を立てて越えていくのだということを知らなければなりません。

     一年六カ月の三倍は何カ月になりますか?

     五十四カ月ですね。四年半です。私たちがこれから三年半だけ推し進めていけば世界は完全に変わります。一九八八年までです。これは韓国の解放後の四十三年目に当たります。

     イスラエル民族も四三〇年かかってエジプトを出てきたのです。今や世界的なエジプトを出発する新しい時代が訪れました。三年後です。それでこの闘いを糾合しようとするのです。我々統一教会においてはアメリカ人も、ドイツ人も、黒人も、白人もみな一つであります。完全に一つなのです。真なる愛を中心として世界人が一つになるのです。一九八八年、アメリカの次の大統領の時代になると、統一教会は世界的になります。間違いなく世界的になります。そのころになると、多くの国々に先生を迎え入れようとする運動が始まります。多くの国々で先生を連れて行こうとする競争が始まるでしょう。分かりますか。一九八八年を越えれば私たちの願う国が成されるのです。(拍手、歓声)

     このことを理解して、皆さんも熱心に頑張ってください。なぜこのような話をするかといえば、真の愛、真なる愛がなければならないからです。先生には敵がありません。先生は敵を抱き抱えて、敵が先生を愛するようになるまで放しません。(笑い)

     何の話か分かりますか? (はい) 。サタンは人間を支配する権利がないことを知っています。それで私とは何かというと、父母様から生まれ、三十六家庭を通して生まれ、七十二家庭を通して生まれ、一二四家庭を通して生まれ、四三〇家庭、七七七家庭、一八〇〇家庭、八〇〇〇家庭を通して私が生まれたのだということを知らなければなりません。今や、世界的な頂上において生まれたのですから、私たちには敵がありません。サタンは私たちに屈服し、後退するしかありません。

     先日、愛天のローソクを受けた家庭は手を挙げなさい。これは、夫と妻が完全に一つとなった基準で受けるのです。相対者と真の父母と神様と一つとなった基準であります。この夫が永遠なる夫であり、この妻が永遠なる妻であると思う人でなければローソクを受けることはできません。それを知らなければなりません。はっきり知らなければなりません。何の話か分かりますか。このローソクをもっている家庭は一つの道しか行くことができません。愛の道一つしかないのです。

     先生は真の愛をもって神様について行くようになっているし、皆さんは真の愛をもって真の父母と神様に従って行くようになっているのです。それが先生と皆さんの異なる点です。だから先生の話を絶対視して歩まなければなりません。異議はありませんね。だから過去のすべてをきれいに整理するのです。

     今、この世のために先生と皆さんが十字架を背負う時代に入ったのです。イエス様が十字架を負って引かれいく時、「エルサレムの娘たちよ、わたしのために泣くな。むしろ、あなたがた自身のため、また自分の子供たちのために泣くがよい」(ルカ二三・二八)と言いましたが、今はそれと同じです。私はあなたたちの代わりに蕩減条件を払うから私のために心配するのではなく、あなたたちは完全に一つにならなければなりません。完全に一つとなることが重要です。そうなればすべてが解決すると思います。

     そのような統一的雰囲気は、すべてのものを溶かします。原理の見解は本然の見解であり、真の愛、神と父母の愛がすべてを支配します。その世界にはサタンはいません。先生について来ますか?

     (はい!)。サタンはそこにはいません。すなわち、反する者はそこに存在しないのです。すべてのものは真の愛の中心に敬礼します。たとえサタンの力がどんなに強くとも、そこでは活動できないということです。したがって愛天日を中心とした愛天のローソクを中心として、統一心情圏と完全に一つとなりなさい。そうすればすべてが整理されるのです。それゆえ、先日三年をかけて、ありったけの力を尽くして先生の監獄生活以上に決意して行こうとみんなで決意しましたが、きょうまた「決意しなさい」と言ったら、再び決意しますか。そこに連合し、一つになるように、神様までもこの場に臨まれるように誓ってください。そしてこれからは神様の世であることを宣誓してくれることを願います。分かりましたか? (はい) 。皆さん、宣誓しますか。はい) 。誓う人は手を挙げてください。神様もやはりここに同参されるのです。では祈りましょう。そのような内容のお祈りを致しましょう。

     祈祷



    愛するお父様!

     歴史的に息詰まるほどの最後の峠を越えるこの時代の上に、お父様が祝福してください。今、愛勝日を定めたのちに愛天日を定め、一情会を定め、心情的統一圏を立てて統一教会と、韓国と、アメリカと、全世界が誤ったことを今度のこの期間を通して悔い改め、このような悲報を聞くこの瞬間から、すべての統一教会の信者は身悶えしながら、父母様のためならいかなることでも成すことを決意し、深い底から完全に心情を一つにすることのできる良い時を迎えたことを、この期間にすべてをお父様の前に全宇宙の前に重ねて発表いたします。愛天日が生まれ、一情会が生まれたので、先日の集まりの中で、すべてをお父様とお母様と子女たちを中心として、祝福家庭と統一教会全体が宣誓いたしました。もし失敗があるとしても、その失敗は神様と父母様には及ばないと宣誓いたしました。きょうは、統一教会全体と世界全体をかけて宣誓すると同時に、神様までも宣誓する瞬間ですので、手を挙げてこれから愛天日を中心とした天上世界と地上世界に、神様の名で私が主管する世界であることを宣布しますのでお受けくださることを切にお願い申し上げます。こうすることによって、統一家族が行き、統一教会が行くすべての世界に万事が一致するように……。直接指導することのできる時代となってきますので、悪の版図を退け、善の版図が朝の太陽のように高く輝くことのできる時代へと越えていくように……。万万歳の恵みと愛のみ手が共にあらんことを願いながら、真の父母のみ名を通してお祈りいたします。アーメン、アーメン、アーメン。

     皆さんは信じて行かなければなりません。すべてが解決されることを信じるのです。皆さんは本然の愛の世界の人であるというのです。皆さん方すべての家庭が本然のアダムであり、エバです。神様と共に生きています。すべての世界は私の足のもとにあるのです。だから堕落以前のアダムとエバが創造本然の世界を見たように、皆さん方もこの世界を見なければなりません。そのために先生はけさこのような話をしたのです。皆さんはこれから不平を言ってはなりません。先生は興進様が亡くなる時、涙を流さなかったのです。死ぬ直前に天と地を統一させる統一式を行ったのです。そのような問題を中心として、一歩前進したのであって後退していません。

     今度の事件をこの世的に見れば、葬式を出す家のように悲しみに満ちた事件でしょうが、先生の場合は一つも悲しまないのです。一歩前進し、一情会を設定し、愛天日を設定したという驚くべき事実があります。これは困難なことを前進的な基盤に消化させ、それを活用するのです。それが先生の思想なのです。そしてまた、今までそのように歩んでまいりました。分かりますか。

     私が興南にいた時、神と霊界と先生が合わさって、監獄の教会と監獄の食口をつくったのと同じように、今回も同じことであると思います。監獄の食口とすべての世界が統一教会の先生のあとにつくと思うのです。地上の地獄が従うと見るのです。このような条件を立てたので、監獄生活をする必要がない時代が来るのです。なぜかといえば、サタンが蕩減条件を提示する何もないからです。すべての境界線を越えた基準をつくったのです。先生がもし監獄に入るならば、アメリカが騒ぐでしょうし、全世界が騒ぐでしょう。命令すれば何でもできるのです。何の話か分かりますか。

     皆さんは自信がありますか?

     (はい!)。これから先生の旗のもとで世界的に動くようになるのです。アメリカも収拾することができないし、共産主義も収拾することができません。ただレバレンド・ムーンのみが収拾することができるのです。では皆さん、先生が監獄に行けば皆さんも監獄に行きたいですか? (はい) 。その心があれば何でもできます。だからこれからこのような決心をもって前進しなければなりません。そして神の、天の権威を失わず、天の子女の信義をもって前進すべきです。そういうことができますか?

     (はい!)。

     神が共にあらんことを。アーメン。(拍手、歓声)














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