マルスム
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目次
- (一)御言に見る神との出会い 序
- 一、神をはっきり知れ!
- ニ、先生を研究せよ!
- 三、神と先生との出会い
- 四、先生の教示
- 五、最後に
- (二)御言に見る生活基準と自己主管 序
- 一、自分なりの生活観念を持つな!
- 二、自己主管せよ!
- 三、物欲
- 四、金
- 五、食事
- 六、七大怨警
- 七、御旨の道
- 八、時間がない
- 九、睡眠
- 十、疲れ
- 十一、最後に
- (三) 御言に見る真の子女 序
- 一、真の子女とは 1、親のために生きる者
- 一、真の子女とは 2、親の一番の願いを自ら悟って行なう者
- 一、真の子女とは 3、親を休ませ、代わりに御旨のために責任を持って動く者
- 一、真の子女とは 4、全世界の人々は兄弟姉妹という心情を持つ者
- 一、真の子女とは 5、世界は神から与えられた自分の園であると自覚する者
- 一、真の子女とは 6、親を何遍も泣かす者
- 二、真の子女としての先生
- 2、「先生は一人でも行く!」
- (四)御言に見る苦難と試練の克服
- 1、受難や迫害の場合
- 2、御旨に疲れをおぼえ、くたびれてしまう場合
- 1、天の願いがいつもきびしい、という場合
- 3、神からも人からも捨てられたような場合
- (五) 復帰の公式路程 一、復帰の道
- (五) 復帰の公式路程 一、復帰の道 僕の僕から
- (五) 復帰の公式路程 一、復帰の道 復帰の八段階
- (五) 復帰の公式路程 一、復帰の道 自然屈伏
- (五) 復帰の公式路程 一、復帰の道 夫婦で神の直接主管圏に
- (五) 復帰の公式路程 二、真の父母の道
- (五) 復帰の公式路程 三、七年路程
- (五) 復帰の公式路程 四、復帰路程の三段階
- (五) 復帰の公式路程 五、万物と旧約時代
- (五) 復帰の公式路程 六、伝道と新約時代
- (五) 復帰の公式路程 七、祝福
- 七、祝福 1、原理と祝福
- 七、祝福 2、愛の時代
- 七、祝福 3、男女関係
- 七、祝福 3、男女関係 ・自己中心愛
- 七、祝福 3、男女関係 ・愛の絶対基準
- 七、祝福 3、男女関係 ・悔い改めよ
- 七、祝福 3、男女関係 ・神の子女としての実感
- 七、祝福 3、男女関係 ・女性は注意せよ
- 七、祝福 3、男女関係 ・すべてを告白して
- 八、僕の僕から王の王まで
- 八、僕の僕から王の王まで ・大いなる特権
- 八、僕の僕から王の王まで ・七年路程の終末的意義
- 八、僕の僕から王の王まで ・死なんとする者は生き
- 八、僕の僕から王の王まで ・聖人の道
- 八、僕の僕から王の王まで ・神様は泣いておられる
- 八、僕の僕から王の王まで ・涙の基台
- 八、僕の僕から王の王まで ・心情の相続者
- 八、僕の僕から王の王まで ・神を知る者の道
- 八、僕の僕から王の王まで ・真の後継者
- 九、祝福家庭
- 十、ホーム・チャーチ
(一)御言に見る神との出会い 序
序
御旨の道を歩みながら痛切に思う一つのことは、自分の未熟さ、弱さ、罪深さであり、先生の偉大さである。先生の心情、愛、人格、言行、生活、睡眠時間、目的観、信念、執念、忍耐心、真剣さ、洞察カ、分析カ、霊力、主旨力、その歩み……どれをとってみても圧倒される。自分と先生とは、なぜこんなにも違うのか。先生はなぜあのような生き方をすることができるのか。どうしたら先生に少しでも近づくことができるのか。先生という御方を知れぼ知るほど、うなりながら考え込まざるをえない問題である。
しかし、いくらそのような先生であられたとしても、お生まれになったときから神様と人類のためにすべてを捧げきって生きてあられたとは思えない。いつからあのような生き方をされるようになったのか。それは、まさしく生きた神様と出会い、その心情を、姿を、立場を、事情をはっきりと知ってしまったからではなかろうか。
①
「先生が生命をなげうって、今までこういう道を出発してきた。何千、何万遍死ぬといつ覚悟をしたかわからない。自分はこういう使命、こういう悲惨な死にぶつかる時に動揺するか、そういう態度を決定して、それから出発した。
先生は韓国においても、今までこういうことやってきたのは、御飯がないからそうする
んじやない。名誉がほしいからそうするんじゃない。誰かが恋しいからそうするんじゃない。これは、たった、神様をわかったから。そなたの、その心情がわかったから。そなたの悲しみというのは、我々には問題にならない。千万倍にもなる。例に、例えることができない。」(一九六五・十・八)
先生は言われる。
②
「要は神様がいるということをはっきり知ったならば、すべては解決する。」(一九七二・四・二十三)
③
「神が自分を愛するということだけわかれば、心配ないというんだね。自分が神を愛すると共に神が自分を愛する、そのことをはっきり知っておけぱ、絶対心配するな。」(一九六七・六・二十一)
イエス様にしても同じことが言える。「私の父は今に至るまで働いておられる。私も働くのである」(ヨハネ福音書五・17)という言葉が、そのことを示している。人類の親として、不信し反逆し続ける人類を救うために働き続けてこられた神様の存在を、初めて知ったその時から、イエス様の歩みも大きく変わっていった。
我々も、神様の存在を知り、神様を信じ、神様に仕えている。しかし、生きた神様についてどのぐらいのことを知っただろうか。神様と出会ったと言っても、どのようなところで出会ったものなのだろうか。
先生は言われる。
④
「あなた方は、原理自体の力によって引き上げられて知的に原理を理解して来た者が多いために、啓示を受けた人々が無条件に神に従っていくのに比べて、何事につけ、あまりにも理屈で考えすぎる傾向がある。先生の指示に対しても無条件に反応するというより、『従うべきかどうか』と考えてしまう」(一九七七・五・一)。
神様がはっきりとわかれば、天から来る摂理の内容や意味について、そのつどそのつど、いちいち説明されなくとも、いかなる御旨に対しても従っていけるはずである。
一、神をはっきり知れ!
一、神をはっきり知れ!
①
「あなたは、神の存在を実感しているか?
毎日の生活の中で食べ物が恋しくなるような感じで神の存在を感じているか?
そのように感じていないなら、あなたの信じている神は、頭の中にある漠然とした観念にしかすぎない。近くにいる兄弟姉妹を感ずるように、神の存在を感じていくようにならなければならない。本当に神を理解するには、神を知り、神を感じなくてはならない。」
②
「神の存在を本当に知っているということは、神の存在を信じているということではない。」
③
「誰かが、あなたに、あなたの両親は実の両親ではないと説得したとしよう。それを数時間、数ヵ月、数年間説明してみても、やはり両額が実の両親でないとは確信できないだろう。それは、それほど深い愛情を両親に対して持っているからである。だから自分の両親を感じるように神の存在も感ずるようでなくてはならない。その感覚がないのなら、神を発見したとか言うことはできない。神の存在を知らないで神の子女だという資格があるだろうか。何よりも我々は神の息子、娘である。子供が両親を必要とするように、我々にも神が必要なのである。また、両親が子女を必要とするように、神も我々を必要としているのである。
もし神の心情に通じたら、この世界の果てまで手がとどく。そして全人類を飲み込んでしまう。しかしもし、今のままでいるならどうしようもない。何ら偉大なことほできない。神と一つとなった時、すべてのことが可能になる。これは真理である。」
④
「神の存在を本当に知っている人々が、すべての問題の中で、最も難しい問題を解決してきた。……そのことを経験している人にとっては、多くの言葉は必要ない。だから誰かがその人のところへ来て、喉を突き刺したとしても問題ない。それによって考えを変えることはできない。神を実感することができれぱ、殉教も恐怖には思われなくなる。
もし何か恐れるものがあるとすれば、それは神である。我々が最も恐れるべきことは神を失うのではないかという可能性である。他のことは問題にならない。神が我々と共にいる間は、敵であるサタンの中心を通り抜けることもできる。そうした自信と決意がある者には、すべてが可能である。」
⑤
「神が六千年の歴史を通して摂理してきたその基準は何であるか。それは真なる親の立場を人間に現わしてきた基準である。それが今まで摂理上において神が成さなければならなかった使命である。それがなされた場合、その真なる父母に対して真の子女として立ち得る関係を結ぱなければならない。これが果たせずして、真なる家庭、真なる氏族、国家、世界は望めない。だから、個人個人が、神に対して孝行し、奉仕し、そのなすこと、主張することにおいて、真の親に対しての関係をはっさりさせる立場に立たなければ、神とは何ら関係ない。」
⑥
「神を信じていても、神は存在するんだけれど、実感的にはこないんだね。これをいかにして体恤するかということは、非常に問題なんだね。」(一九七四・二・七)
⑦
「堕落した人間にとっては、神がいるかいないかということさえわからない(本当の意味において)。神は実にいます。その神たるは我々のすべてに代えても否定できない真なる父母の立場に立っている。こういう認識をいかに体験し得るかということが、何よりも重大な問題である。」(一九六九・四・二十)
⑧
「生きた神様が皆様と共に動いていることを生活圏内において体恤しなさい。それが必要である。それがあって疲れることがないのである。」(一九七一・三・十四)
⑨
「実力は神が天下最高の実力者じゃないの。そこにコードだけつけておけぱ、いつでも電流は流れる。」
⑩
「心の中で、いかに神と近づくかがすべてである。」
⑪
「要は神俵がいるということをはっきり知ったならぱすべては解決する。」(一九七二・四・二十三)
⑫
「『先生が先に道を開いて、先生がみんなとってしまったんだから、自分の行く道がない、それ以上になりたかったのに、もう行く道がない、しゃくにさわるし、そう思う人がいるかもしれない。しかし先生が願うのは、先生より以上、立派な人になれ、ということである。神に近寄るのを先生は願っている。」
ニ、先生を研究せよ!
ニ、先生を研究せよ!
では、どのようにすれば、神様をはっきりと知ることができるのだろうか。それは、神様がはっきりとわかった人物を研究し、その教示に従い、実践する以外にない。
先生は次のように言われる。
①
「先生はどんなに苦労が絶えなくとも、もっと苦労しよと思う。もっと誤解され、もっと非難されようとも、それに一言も文句を言わずすべて受け、たずさえて霊界へ行こう。そしてひき続いて伝統を立てて行こう。そうすれぱ、いずれは、我々のやっていること、我々の真理は勝利を治めるようになる。先生はわかっている。……先生は、霊界の組織、霊界のシステム、霊界の様子を熟知している。あなたたちには見えないけれど。あなたたちの目の前にほもう新しい天地が開かれようとしている。先生はその時間表をはっきりと知っている。必ず来る。新しい世界、新しい生活が必ず開かれる。」
②
「消えていくような姿ではあったけれど、神に慰めを残していきたいという信念を持って行ったならば、
「神は自分のためにいつもながらに導いてくれる神であったことを知った。だからこの道を行く。」
③
「この道を先生は発見してしまったから、今までこういう戦いをしてきた。」
④
「そういうことに間違いないから誰が反対しても、恐れずに生命がけで、天下すべて反対しても堂々と今までこの基盤を作ってきている。もしも不完全な道なら先生はもう風呂敷に持ち物を包んで帰っているよ。しかし他には行っても行くぺき道がないから、ずうっとこうやっているんだよ。先生は頭から言っても一番大きい帽子を二つ三つかぶったが大きいのでも合わなかったよ。それは何を意味するかというと、考えることにおいて復雑な事を考えている。だから、そういうことを考えるにも自分にマイナスになるような事を考えるか。本当に利益になることを探り探って考えた結果、この道に間違いないといって結論を出した。」(一九七二・四・二十三)
⑤
「この世界のすべてを知り、そのすべてを越え得た先生の心は、もはや何ものによっても動かされることはない。巌の如く堅く立った先生である。」
⑥
「先生は、成してあなたたちに教えているんだよ。」(一九七三・七・八)
⑦
「先生が語ることぱは、たやすく語るようであるが、これを語るために調査してみたり、照合してみたり、実験してみたりして、間違いないという結論が出たので、自信をもって叫ぶのである。」(「御旨の道』)
それゆえに、
⑧
「先生を中心として先生のすべての生活観と、自分の生活のすべてを一致化させることによって、先生が体恤した神の心情圏を体恤する。これを平面世界の中に、見で感じ、接することによって、その神の心情圏は自分の方につながるようになる、というんだね。」
⑨
「あなたたち、日本中にたくさんの統一食口がいるだろう。寂しかった場合には、電車などに乗っていけば、ちゃんと食口のところに行けるよ。そうだろう。夜を通しながら話もできるよ。励ましの言葉もかわすことできるよ。何で心配するの。先生はそういう人一人もいなかったんだよ。帰っても何もないんだよ。むなしい世界である。そういうような立場なんだよ。そういうところで開拓した先生を考えてみな。とんでもないことやってきたんだよ、そうだろう。原理の世界、原理観ということを考えてみなよ。先生が考えたその範囲はどのぐらいだろう。それ知りたくない?
先生ほどういうような立体的な考え方をしたんだろう。神の心情がジイッと伝わって凝視してそれを発見する。……どんなに考えたのか、あなたたちにはわからないや。見た顔は簡単だよ。目玉はこういう……。
しかし内容は複雑千万だ。サタンもまいったんだから。神様も先生の作戦に巻き込まれたんだから。神様も先生にほれてしまった。神様は初めからほれるためにいたんじゃない威信堂々たる立場におったのに……。だから先生を研究すべきだよ。」(一九七〇・十一・二十六)
三、神と先生との出会い
三、神と先生との出会い
①
「先生の今までずうっとやってきたことを若たちにちょっと教えてやりたい。そしたら心情的場面が多いんだよ。先生がそれを言ったら、みんな鼻から水が出る。三ヵ所かられるものが流れるんだね。人間はおもしろいよ。
先生は、そういう事を言いだしたら真剣になっちゃうよ。誰かが『先生はこういう先生です』と一言いったら大声で泣き出すよ。そういう心情を持ってる。その心情を君たちは研究じゃいけないね、考えじゃいけない、これは事実でなければ計り知れない。そういう境地があるわけなんだ。いわゆる神と先生と二人きりが知っているその境地、心情の境地それはサタンも誰も知らない境地がある。それを思うと、ああ、いくら疲れて人のった時でも、雷の時にスパークするような気持ちになる。まあ、できるんだったらそういう感情界に入らないようにしようと思うんだね。入ったらちょっと支障をきたす、現実界に。」(一九六七・六・十八)
②
「神は存在するや否や? ………神を考えるのに、まず自分というものを考える。自分はどこから来たか。人の母さんから。お母さんは人の母さんのまたお母さんから、と、どんどんさかのぼる。すると人間の初めはどうなっている? 本当に神が造ったのかな? いろんな人種が生きているが、自分はどういう系統の中に立っているのだろう? 神と人間とはどういう関係になっているのだろう。……歴史的関係は? 時代的関係は? 未来の関係は? 何の関係だろう? ……その関係は何を中心とし、キーポイントにしているか。それが間題である。………神がおれば神自体は何か。神の希望は何か。………我々の生活に事情があるように神にも事情があるだろう。神の事情はなにか。神が喜ぶ世界の心情は何を中心とするか、神の目的。……あらゆるものが問題になってくる。この希望やら心情、みんな総合して結論を下すと、それは『人間』ということになる。では人と神との関係は何か? それには心情基準を通過していかなければならない。結局、深いところに入って祈る。祈って聞いてみる。」
③
「かつて先生は体のどの部分をも見せたくない時があった。リラックスして体をのばし て寝たことはけっしてなかった。いつもエビのように丸くなって、まるで心地よく眠る資格などない者であるかのような姿で寝た。先生は神が今すぐにでも来られるかもしれないと思っていたので、いつ来られてもすぐ起きて飛び出して神をお迎えできるよう用意をしていたのである。」
④
「一週間も寝ずして、涙を流しながら、神はいるかいないか、見たい神はいずこにいるや、というような心壌でもって、涙の続く一週間以上の、そういう深刻な立場が何回もいくらでもあった」。そのために、「目が熟しすぎたカボチャの中味みたいにぐちゃぐらやになった。だから、太陽の光を見ることができなくて、目をつぶって過ごした。(一九六七・七・六)
⑤
そうして、「『宇宙の根本は何か?』と聞いてみると、『親子だ!』というのである。父母と子供。神と人間が親子の関係であるという。天的心情、天的血統を中心とした親子関係が宇宙の根本である。……では、いかなる論法でもってしても否定できないその親の心情圏にいかに入るか。その問題は心情でなければわからない。
『神よ。お父様!』と叫ベぱ、宇宙のすべてがそこに集まる。……それは、自分の心からどういういかなる心が起こっても、神が自分の兢であるということを否定できない。そして神自身も自分に対して『そうだ』という。そこに至って疑うことのできない親子の関係を結んでいく。」(一九六五・十・七)
ならば、親である神様は今までいかなる立場に立って、いかなる道を歩んでこられたのか?
⑥
「いくら自分が辛い立場にあっても、いくら悩めるどん底の立場に陥っても、……自分における苦労は限られた苦労である。……しかし、六千年間の神の苦労というのは、我々人間にどうにもこうにもわかり切れる悩みじゃない。……一瞬のその苦しみは、我々は忍びえることができる。しかし、堕落以後、今まで続いてきたその神の苦しみは、耐え忍び得る苦しみではない。しかし神はこれを耐え忍んできた。忍耐心を持って耐え忍んできた。」(一九六七・六・十二)
また、
⑦
「先生は神に祈りました。『善なる神の目的に生き、神の心情を中心とした善なる神の人格をもった、真なる神が求める人、その人はいずこにおりますか。過去におりましたか?』。『いない』。『現在、今おりますか?』。『いない』。『これから先、未来におるでしょうか?』。『私は知らない……』。」(一九六五・-・二十八)
⑧
「そうして天の心情の深奥に触れた。」(一九六七・七・六)
⑨
「神の悲しい心情、親としての苦しみを味わい知らされた時には、木を抱き締めていつまでもいつまでも泣き続けた。」
⑩
「あなたたちは、先生に対して一言その時の心情に触れるものがあったら、先生は涙を禁じ得ない。神様もそうだ。先生と神様と抱き合って泣いた悲しさは、地上の人々は誰も知らない。その深い神への心情は、はかり知れない。それを思うと体の細胞がしびれるようだよ。そういう心情で神への孝行の道を進んでいることが、あなたたちにわかる?」(一九七〇・十・十三)
⑪
「私は、早くから悲劇と苦痛の中で坤吟する人頬を救出する万案を模索するために長い間、心血を注いで来たのであります。それは、瞑想と苦悩と深求の道であり、凄絶な精神的戦いの茨の道であったのであります。千辛万苦の努力の果てに、遂に、実存する神に遭遇することが出来たのであります。神に会ってみた時、その神は栄光の神にあらずして、ユートピアを地上に実現するために、嘆かわしい痛ましい心を持っておられる父母としての神であられ、またその神は天道を明らかにされ、万物を胸に抱く真理と愛の光の神でありました。神のこの限りなき愛に接した時悟ったのは、神と人間と宇宙の関係を人間に明らかに知らせるために、神が深く抱いておられた深奥なる思想でありました。この思想を見る時、世界のすべての問題は完璧にわかり、直ちにユートピアが実現し得るということが証明されたのであります。この思想が、まさに統一思想であって、私が今、世界的に展開している統一運動の基本理念となっているのであります。
神に出会った後、私は今日まで一生涯、神の思想をもって神と人類の夢であるユートピアの実現のために統一運動を展開してきたのであり、その間の経験を通じ、この統一思想が問題解決の鍵であり、混乱収拾のキーポイントであることをより深く確認したのであります。」(一九八三・十二)
四、先生の教示
四、先生の教示
では神様との出会い方について、先生はどのように言われているのか。
そのためには、まず、
①
「神の歴史を知らなければならない。神を理解するには、これまで神の歩んでこられた道を知る必要がある。……そして我々が発見しなければならないのは、神が幸せな神であったか、ずっと不幸な神であったかということである。また、神の真の心情と行動をも発見しなければならない。もし神が不幸な悲しい神であるなら………その理由を知らなくてはいけない。神が最も不幸であった時を知らなくてはならな い。その悲しみはずっと以前に始まったものなのか、それとも最近なのか。今、神は不幸だというなら、以前は幸福だったのだろうか。そうなら何が神を不幸に変えさせたのか。
このことを知るのが問題の中心である。これらについて皆さんが勉強しているものが、原理である。
旧約時代を通して、常に神は失敗と悲しみの神であった。このことは新約時代においてもあてはまる。……また、堕落が生じた時のアダムとエバの状況を想像し理解することができるようになってきている。皆さんは堕落の結果神が感じた同様の悲しみと、それを乗り越えて勝ち取った喜びの両方を実感する必要がある。そのことで神がかつて感じた悲しみの段階と、その試練を乗り越えた喜びの段階を比べることができる。ノアの家族やアブラハムの時のことを同じように感ずる必要がある。ヤコブ、エサウ、モーセの状況をも実感することができなければいけない。知るだけでは不充分である。もし自分が神と親密になりたいのなら、神と同じような悲しみをも経験していくべきである。そうすれば、神は身近な存在となる。そしてすへてを犠牲にしても戦いたいと思うほど、根底から生まれ変わっていくようになる。」
②
「神においてどうにもこうにもすることができないところがあるということを、わかる人がいない。神御自身において悲しみの境地に落とされた瞬間の体験というものは、表現し尽くし得ない。その悲しみの境地、その悲惨なる境地、そういう境地を越えなければならない。」(一九六五・一・二十八)
③
「神の事情と心情を自分自身において体験し得る人、これが六千年長い歴史を通して、神が今まで求めてきた本当の子女なのである。」
④
「考えてこらん。どこで天の父と会うかというんだね。いずこに天の父を迎えるや。君の住んでいる部屋の中で? それは間違い。数多くの聖人たちの一生の目的を、部屋の中でもって果たしたものはいない。道端や、あるいは十字架上などが、神が本当に愛する子女と会うべき最高の場所である。イエス様も、そういうところで神に対した。誰もが欲するところではない。誰もがみんな慕うところではない。誰もいない、たった一人のところ、そこが一番、神の心の真中に記憶され、息子として神に会うことができる急所である。だから伝道に行くにも絶対二人で行かないんだね。伝道に出た時、友達や兄弟姉妹と訪問するのをいやがるぐらいでなければならないというんだね。」(一九六七・七・六)
⑤
「神の愛が、そう簡単にわからないようになっておる。」(一九六七・六・十二)
⑥
「常に誰もいない最も困難な所で神と出会うことを期待しなさい。」
⑦
「神の心情のわからない人は神の分身のような立場に立たなければならない。中心人物だったら、自分の愛する者を怨讐にわけてやってがまんし得るような心構えを持たなければならない。そのように我々は神の心情をたどっていかなければならない。」(一九六九・二・四)
⑧
「神に近よる道は、誰よりも誰よりも神のために自分を忘れて苦労することである。」
⑨
「与える時は真を与えなさい。真なるものを与えな古い。……一番貴重なものを与え、……死も覚悟して行かなければならないのが統一教会の道である。皆さんが、このことをなして人のために伝道してごらんなさい。天が共にある道を知る 一番早い道はそれしかない。」
⑩
「神様は今地獄を解放するために、下の方で寝たり起きたりしているのだろう。皆は高い玉座におられる神様に向って祈りをするけれど、それより自分の手先、足先に語りかける神様に対して、同情をもってそれを助けて懐しい自分の親にしたいという心で働くならば、その人は高い神様そのものを自然とつかむようになるだろう。」(一九六七・六・三十)
⑪
「この罪悪世界において、神に至る道はたった一つしかない。それは、何ものをもいとわず、罪の代価として犠牲になることである。自ら進んで、天のために犠牲になろうとする者にしか神は現われることができない。」
⑫
「開拓伝道をすると、生きた神がいつも一緒に我々の囲りで守っていることを体験するよ。」(一九七〇・十・十三)
⑬
「神は生きている神であることを知らなければならない。神は我々と共に働いておられることを知らなければならない。我々が神としっかり一つになっていれば、何も恐ろしいことはない。問題は皆さん自身にある。皆さんの前に何百人もの人がいるとして、その人々の救いを如何にして成すかを日夜考えるならば、神は皆さんを通して働き、皆さんの計画は成功に導かれるであろう。だから、神から助けを得ようと一生懸命になるのでなく、神に対して、『どうか人々があなた方を受け入れるように導いて下さい』と祈り求めなさい。そして、もしあなた方が強く神と一つになって前進するならば、使命を実行することは簡単であり、全州の人々があなたのところに引きつけられてくるようになるであろう。
我々は原理を通して、完全なるプラスのあるところに完全なるマイナスがつくられることを学んだ。
先生は、牢屋にいる時は、一言も話をしなくても多くの人々を伝道することができた。
迫害の中で、全霊界が動員されて、先生を守り、証しをし、多くの人々を先生のもとに導いてきた。先生に対して、かくも助けて下さった神は、同じようにあなた方をも助けて下さる方である。しかし、信仰がなければ、神は皆さんを証し、皆さんに働くことができない。
だから、話をする時は、神と共に話し、食べる時も寝る時も常に神と共に、どこにいても神と共にいること。このようになるならば、皆さんは神の臨在と神の心情を感じることができるようになるであろう。即ち、あなた方の心情が神の心情と同じようになることができる。
完全なプラスのあるところに完全なるマイナスが創造される。伝道して街に行けば、ひとりでに神を求める人々に出会うことができる。このような経験を多く持てば、神を否定することができないであろう。統一教会の食口達は、このような経験を多く持たなければならない。もし、あなた方が一生懸命祈って、導きを受け入れる備えが出来ているならば、神はあなた方の中に臨在し、あなた方を通して働くであろう。これがゆえに、我々の団体は恐るべきものとなるのである。」(一九七四・一・一〉
⑭
「神は生きておられる。その神は我と共に生きようとされている。ゆえに我は何事も成せる。」(一九八五・二・二十五)
⑮
「我々は神の愛を受けずしては蘇えることはできない。」 (一九六七・七・十)
五、最後に
五、最後に
①
「神を、口で愛するのではなく、心情で、心で愛しなさい。神は無形であるから、無形の心情圏に立ち帰らなければ愛することができない。」 (一九七〇・七・三)
②
「堕落した人間にとって絶対なる善なる神の前に自信を持って立つものが世の中にいると思うの? それはいないよ。だから自信もつな。み恵みを慕うまごころ以外には何もいりません。今、神が自分に何かを注いで下さるというような、慕わしい思いに打たれる境地が必要だというんだね。『お父様……』。静かな部屋の中で呼びかけると、お父様の声が部屋いっぱいになってしまう。そういう思いに打たれる境地が必要だよ。『お父様!』と呼びかけると、空気すべてがお父様の肌みたいに感じられる。そういう体験するの?
出発する時は『お父様、この子供は今日一日また行きます。神の権威と神のメンツと威信を立たしめるために今日は歩みますから、どうかそこなわない道に導いて下さい……』。それが幼子の心だよね。
神を中心として立った場合には心配するな。あなたたちもそういう境地に入れば同じようなことがたくさん起こるよ。幼い自分においては、十分な備えはないし、話をしなければならないし、生命を救ってやらなければならないし。そうした場合には、腹の底から悲しみがわき上ってくる。そういう立場に立って、『神様、どうすればいいのでしょうか…』。すると神様が話す。そういうのを体験するんだよ。……涙がいっぱいにあふれて、誰かがそっと涙を流せば、みんなの目から涙が流れる。……だから、あなた方は伝道にいった場合に、道を歩きながら自分もたまらず電柱をかかえて涙ぐむような路程が一日
に何回もなければならないよ。そうなった場合には伝道に対して天が先祖たちが応援してくれるよ。」(一九七四・二・七)
③
「統一教会の食口は涙の切れる生活であってはいけない。一週間、誰も自分を相手にしなくとも、自分で信仰生活ができなければならない。神様と向かい会った時、胸が裂ける程の悲しみを感する。こんな私を頼りにせざるを得ない神様は何とかわいそうか。辛い歴史を担当してきた神様の心情を私たちは慰めなければならない。神様には昼も夜もない。何千年も続けて失敗を繰り返しながら後退できす、ずっと摂理を続けてこられた神様はいかにかわいそうか。
涙が切れている統一教会の兄姉は食口ではない! 目がはれて太陽を見ることができぬほど泣き続けたことがあるか! 本当の孝行息子なら娘なら、一言の言葉で神を泣かせる。
また神の一言でわき上る涙を押えることができない。いつ自分の感動的一言で神が泣いたことがあったか! 神と抱きあって一体となって感謝しあったことがあったか!
世界の誰一人わからなくとも、神と私との間にあったその内容は、詮にも否定できない事実として存在している。それがなければ霊界に行っても惨めだよ。心情が問題だ。子としては、やってもやっても、もっとやりたくて、そしてもっと深し求めるような心情だよ。
神のためにやりたくてやりたくて、それが永遠に続くような心情だよ。こんな神様を自分の父として迎えるのが統一教会の食口だ。」(一九七〇・十・十三)
④
「ああ、神様に会いたい。ああ、先生に夢で会いたい。それで真心を尽くす。それしかないね。万民のために血を流す。朝早くから足を引きずり回して、そうして神様の一番近いところに行く。ああ、先生に会いたくてたまらない。寝るのも忘れて、先生と泣くような心情圏でなければならない。」(一九七四・五・十)
(二)御言に見る生活基準と自己主管 序
序
①
「我々統一教会は今までの生活主義を打倒しなければならない。今までの言語(真理)問題を打倒しなければならない。今までの人格問題を打倒しなければならない。今までの血統問題、家族問題、親子関係、………心情問題もみな打倒」しなければならない。
そしてそれらを
②
「打ち切って新しい起源となる交叉点を確立し、そこにおいて新しい転換点から新しい新生の世界の出発をなそうというのが統一主義である」。
では我々は、
③
「原理を習うことによって新しい世界観を持ったか、新しい国家観を持ったか、生活観を持ったか、これを自分ながら反問してみなければならない。いっそういう観を持ったか。自分がわからないものを勝利するということは絶対あり得ない。はっきりわかってなしてから勝利がある。では、いつそうなったか。七つのうち、一つか三つか四つか、いくつそうなったか。これを全部そうなったという確信を決定する基準を我々は一心に求めなければならない」。
④
「自分自体において、そういう交叉する時がいつあったか。交叉して新しい方向に転換して出発する起点を作ったか。」 (一九七〇・一・二十二)
そこで、今回は生活基準と自己主管ということについて、先生の御言を中心としながら考えてみよう。
一、自分なりの生活観念を持つな!
一、自分なりの生活観念を持つな!
①
「神は今まで六千年間、ずっと復帰路程を辿ってきながら、神自身の生活をなしてきた。
しかし神本来の生活はどういう基準か。みじめな生活基準か、それとも永遠なる栄光の生活か。それは永遠であり、それに栄光ある絶対的生活基準が神の生活基準である。それゆえ、一瞬間でも、自分は栄光の神である、自分は永遠の勝利の基準の上に立って住まなければならない者であるということを思い出した場合には、堕落した人間を復帰することはできない。堕落した人間はみじめな生活圏内に立ってサタンに奪われている。敵に蹂躙されつつある。こういう人を救うには、神自身ながらそれ以下の生活基準を持って地上に下ってこなければならない神の立場である。そういう堕落した人間を救うその主体格たる神として、もともとの栄光の生活基準の観念が残っていたならば、そこからみじめな主として地上に来て救いの手を広げるということは、これは絶対にできないのである。・・・・・・ゆえに神の栄光とか、辞意の生活観念は、愛する子女を復帰するため、それを犠牲にして、みじめであることを否定することのできない、避けることのできない悲惨な立場に神が立っていることを思う時に、その神を求めていく子女としての生活基準はいすこにありや。
『私は日本においては名家の子孫として生まれてきた。したがって、こういう生活基盤において、豊かに備わった中に生きなければならない自分である』と、いつでもそれを自分の生活の基準として思うものがいる。それ以上になったら喜び、それ以下になったらたまらない、と。そういうものを基準として幸福、不幸を論ずる世界である。それを思う時に、我々は如何なる立場の会員、幹部であるかを問わず、統一教会の食口としては、生活基準を観念的にでも持つな。 『私は大会社の社長である。社長の威信を認めてくれなければ気持が悪い。会社では一週間のうち、六日はみんなに頭を下げられるような立場にいたのに統一教会内では、若者に対して(頭を)下げなければならない。これはたまらない、私は行かれない。青年は行かれるが、壮年婦人にはできない。東洋の日本人だ。日本人は文明人じゃないか。立派なビルディングをもっている。文化生活をやっている。だから車をもたなければ生活できない』、というような生活観念を持つな。そういう観念を持つようになったら神の国に入れない。神の生活観念に徹せよ。我々統一教会の食口の中にも自分なりの生活観念に染まっている者がいる。自分なりの背後関係で立てた生活は、神が立てた生活の基準じゃない。神が立てた生活の基準を我々は復帰しなければならない。」 (一九六七・八・六)
二、自己主管せよ!
二、自己主管せよ!
①
「先生がこの道を出発する時のその第一の目標は、『天宙主管を願う前に自己主管を完成する』ということであった。それには第一に肉心を如何に主管するか。」(一九七二・四・二十三)
②
「一番おなかがすいた時、私の生の交叉路には、御飯のために生きるのか国のため死ぬのか、天の翌日を中心として死ぬのか逆らう者となるのか、二つの道があるのである。おなかのすいた時あなたは何と生命を交換することができるのか。」(一九七一・三・十四)
三、物欲
三、物欲
①
「物質を主管することができなければ大きいことをなせない。もっとも窮地に追い込まれた時、そこにおいて小さな物質が生涯の全人格を破綻させることが起こるものである。」
②
「統一教会の先生は何ものも願わない。何ものも欲しいものないよ。金が欲しい、家が権力が欲しい、地位が欲しいとは思わない。永遠の生命を保障しえる愛の立場に立って人生路程を通して、個人から世界まで万民に残すものを築いていきたいのが先生の生涯の目標である。」(一九七三・八・十)
③
「多くの人が『レバレンド・ムーンは豪華な邸宅に住んでいる』と非難している。しかし先生はそのようなものには何の未練もない。いつでも手離す用意ができている。ただ社会の基準からみて、またあなた方が恥ずかしくないような環境を整えているだけである。本当はいいベッドを使うより、手枕の方がもっと気持ちがいい。先生はむしろ、単純な生活や自然物の方が好きだ。神が命令する時は、いつでも行く準備をしている。」(一九七七・八・一)
④
「この(堕落世界の)地上に良いことがあったってどの位のことだろうか。成功したってどの位の成功だろうか。・・・・・・万国を契機として、過去・現在・未来において記憶される霊界の成功に比べ、何だっていうんだね。………(先生は)(良い所なんか住みたくないしね。良いもの食べる、もうそんなものみんな超越しているよ。どこへ行っても良いんだよ。先生は世界各国、みんな回っているけど、先生の気に入る所は一つもないや。霊界で住む多くの所を考えれば、そこのトイレの隅っこの方にもならないや。・・・・・・そういう素晴しい本郷の地が待っているというんだ。あなたたちは、そこへ行きたくないの?みんな行きたい。しかし行くにはそう簡単じゃないよ。どうするか。生命がけで走らなければならないこの一生、何十年という期間において・・・・・・。」
⑤
「先生は三十歳まで自分の金で自分の下着を買ってきたことがない。・・・・・・新しい洋服なども誂えて、そして着たことはない。なぜか。その期間は三十歳基準を中心としての先生の行くべき道がある美的使命を果たすその目的がある。その目的が最高の問題であり、重大なその焦点である。それを果たさずしてサタン世界の波に乗りながら、いい気になって着物を着たり、そういう事はできない。それをやるよりはかえって飢える、腹を減らす、それが一つの刺激の条件だ。こういう生活をするのは、神の目的を早くなさんがためであり、こういう惨めな生活をするのもその目的の成就を促進せんがためにと、すべての精神を集中させて今までやってきた。」(一九六七・六・十九)
四、金
四、金
①
「神の恵みで、まあ十円の硬貨を一つもったとすると、これはどこから回ってきたかを考えてみる。『お金よ、どこから回ってきたのか?』と金の歴史を聞く。十円の言うにはね、『私はもともと日本銀行のどこどこで十円硬貨として作られて・・・・・・』と言う。それで結局、『あなたの歴史は善の人によって出発したか悪の人によって出発したか?』、こう聞くんだよ。『最初に使われる時、あなたを持っていった者は善の者か悪の者か? そして、あなたの願いは何だったか、善の者に最初に行きたかったか悪の者に行きたかったか?』と。すると、それは言うまでもなく、『悪の者ではなく善の者だ』と言う。『それじゃ、それが願い通りではなく、悪の者に行ってしまった場合、君、気持ちはどうだ』と聞いてみるんだよ。それを聞いていけば、それは金ではなくて、自分と同じような立場に立つんだよ。そういう金の歴史がわからなきゃならない。
それで、最後に、ここに今現在、手中に入れて掴んでいる人はどういう人かというと、自分だというんだね。自分という者は、あなたの歴史上において、触った人のうちで一番か。何番か、そういうふうに思うんだよ。自分が一番と金が言えるか。その十円をどういう所に使っているか。金の願いは最善の所に使われることだ。最善の所だろうか。日本のために使う所か、それより、世界のために使う所か、天宙のために使う所か、神のために使う所か、どこだ。神のために使う所だ。神の愛情心と共に使える所だろう。そういうふうに考えるんだよ。
そう考えると、その金はそういう所に使われたことがあるか。なかった。そういう、ない歴史をいかに蕩減するか。『そういう人がいて、可愛がって使ってやれば蕩減になるのにね』、そう言って、お金十円を持って蕩減してやる気持ちになるんだよ。そうすれば、お金が話するよ、『御主人様、永遠に自分を他にやらないで下さい』と。しかしお金は流行するもんだからね、『さあ、回って行って来い』と言うんだね。」(一九七〇・十一・二十六)
②
「先生は、自分のためにお金を使わないんだよ。一銭でもそれは貴だよ。昼御飯を食べるとしても、お金に、『良いもの食べようか、悪いもの食べようか』相談してみるんだ
よ。 『あなたの気持ちはどうだ』。すると金が言うにはね、『先生としては良いものを食べるのが本当なんだけど、世界とか、万物復帰全体をするには悪いものを食べる方がもっといいです』と言うんだね。そう言うんだよ。そういう気持ろになるんだよ。だから、良いものは食べないで、一番悪いものを食べる。良いものを食べている者より、天国を造るのに、その使命を果たす者に食べられるその悪い食べ物が何百倍、何千倍も喜ぶじゃないか、というんだね。悪いのを食べながらも、良いのを食べるより良い気持ちで食べられる、そういう生活をやるんだよ。だからいずこに行っても、生活環境すべてのものに対して、主人として、子供みたいに相談しながら、内心の因縁を高い公的因緑に結びつけようという生活を続ける。・・・・・・あなた達はそういう背後関係の基盤が全然ないだろうっそうだろう。根のない浮き草みたいだ。いくらそこに現われた芽生えが小さくても、根が大きければ、一遍で大きくなっちゃうよ。こういうような心情的な背後関係が必要だよ。」(一九七〇・十一・二十六)
五、食事
五、食事
①
「お顔がすいても御旨を果たそうとする切ない心で空腹までも忘れて歩みなさい。」
②
「伝道するために誠意を尽くし、そのために自分はお腹がすいてグウグウ鳴っても、その人が御飯を食べれば、自分が食べた以上にお腹が一杯になって喜んで忘れられるところがある。」
③
「先生は三十歳を過ぎるまでお腹がすかなかった日はない。神に誓った基準がなされていないのにどうして安らかに食べて眠られようか。」(『御旨の道』)
④
「先生は一食ぐらい食へなくても食べたか食へないか思いもしないや。そういう観念が強いよ。」(一九七二・四・二十三)
⑤
「先生は生命がけでやる。だから先生はもう朝飯とは関係ない。天国に行く道において、御飯の一杯がどんぶりの一杯がなに問題や。御飯よりも、もっと真剣な道だ。」
⑥
「しかし、『先生は先生だからそうだ。我々は先生と違うじゃないか!』。そうはいかない。先生も御飯を食べなかったら腹が減るよ。また君たちの先々に、君たちの腹が減ることがわかるよ。なぜかといえば敏感だから。疲れるのも先にわかる。寒さも敏感だよ。暑さも敏感だ。先にわかる。・・・・・・先生には腹もなければ、その減る感じもないかというと、そうじゃない。感じがあり過ぎている。もしもその感情を出すというと全体に大きな問題を起こす。だから感じを出すことができない。そこまでなっているんだよ。」
また、御飯を食べる時には、
⑦
「私が食べて・・・・・・なす一挙手一投足が何のためにあるかを常に考えなさい。」(『御旨の道』)
⑧
「多くの人は『レバレンド・ムーンは幸せなやつだ。彼は何でも持っている。高価な生活をして素晴らしい大きな家に住んでいる。だから幸せなやつだ』と思うかもしれない。
・・・・・・しかしレバレンド・ムーンは、いつも誰よりも一生懸命に働いている。証よりも自分にきびしく烈しくムチを打っている。もし他の人よりも良い物を食べるとするならば、心の中では、他のメンバーが同じような食事をしていないということに対して、本当に申し訳ないと思っている。」
そして、
⑧
「食卓の前に行って涙し、日本の開拓地において世界の果てにおいて涙ぐみつつ、食事を抜きながら御旨のために拭い、涙の中に働いている食口を、いつも思っている。」
⑨
「しかし、ある時がきたら私以上に食べさせてあげよう、私以上に幸福な基準に立たせてあげよう。それを願うから、今こういう辛抱をしていくのだ。そういうことを考える。」
六、七大怨警
六、七大怨警
①
「若たちは頭(の中)をきれいに掃除して、人類解放と神の解放のために前進すると言ったね。では君たちはこれから眼鏡をつくってかけなさい。かけたくなくてもかけたと思いなさい。自分の目は人類解放の眼鏡と、神様解放の眼鏡を通して見る。自分の耳は、人類解放の言葉と神様解放の言葉を一番喜ぶ。それ以外のものは聞きたがらない。耳にもそのようなものを入れなさい。そうなれば、夜を徹しながらでも聞くようになる.二十四時間。そして口に対しても、『口よ! あなたは食べることが好きだけれど、なぜ食べるのか?』と言うと、『人類の解放のために食べる』と答える。・・・・・・鼻も神と人類解放のにおいをかぐためにあるのである。良い着物を着るのも、人類を神を、より解放するためである。手は柔らかいものをさわるのを好むが、それとは反対に岩をさわったりする。それは容易なことか、難しいことか?( 「難しいことです」 )。
この目は、劇場に行こうとばかりするし、良いものばかりを見ようとするからだめだ。この目が怨讐であるこの怨讐から防御することを知らなければならない。自分のそばにいる夫と、通り過ぎて行くハンサムな男性とを比較して、あの男性と一緒ならいいと思う、この日が怨讐である。このサタンを取り除いてしまわなければならない。また耳は、甘い話を好む。『まあ、人類の解放、神の解放とか言わないで、(そうしている間に)一生に一度の青春は過ぎてしまうから、良いものを食べ、良い物を着て、一時、生きたらどうですか? 気持ちもいいでしょう。私があなたの願うことは何でもやってあげるから、どうですか?』と言われるとその気になってしまう。耳が怨讐である。怨讐が出入りすることのできる通路なのである。それからこの口は言いたいと言う。米国の女性は機関銃のように不平を言う。これが怨讐である。
それから鼻が怨讐である。次には手が怨讐である。それから男性と女性の異なるもの、それが怨讐である。そこにブレーキをかけなければならない。それは容易ではない。どんな偉大な男性だとしても、美人に誘惑される。いくら美人だとしても、美男子に誘惑される。それはどこからであるかと言えば、目、鼻、口、耳、接触、感覚(からであり)、これらがすべて影響を与える。では怨讐がどれくらいいるか。それは、五感、七感である。
(五感のほかに)心があり、男と女の異なった部分がある。七大怨讐である。これは恐ろしい怨讐である。サタンは胃を取って食べようと待ち構えており、目を狙っており、すべてを狙っているのである。それらをあなたの一生のうちにおいて、永遠に征服することができない、と(サタンは)言っている。
では怨讐は自分の外部にあるのか、内部にあるのか?(「内部です」 )。それはあなた自身である。自分自身の中にいる。自分自身を防御できない人は、いつ敵に引っ張られて行くかわからない。いかなる所に現われるかわからない。苦労し、ムーニーとして迫害を受け泣いている時に現われるかもしれない。自分で自信がなくて、人類と神様を解放するということはナンセンスである。
タバコやドラッグ、酒などを飲んだり、雑談をしたりしていると、問題はいつも付いて回るだろう。それを分別するのは難しいので、『神様、私を助けて下さい。人類を解放し、神様を解放する私を助けて下さい』と祈るのである。米国の若者たち、男性たちは結婚前に経験しているので生殖器に弱い。そのことをわかっている? 女性はどうか?(あなた方は)東洋の女性にとって和服を脱ぐことがどれほど難しいことであるかがわからない。それで東洋はみんな覆い隠すけど、米国ではすべてを覆わす。(笑い)そしてよくウィンクするし、よく笑う。(爆笑)。東洋の女性は米国に来てはよく騙される。『あら! 私のことが好きなのかしら』と。それほど違う。米国の女性は自分の体をよく取り締まらなければならない。わかる? 何の話か。自分を守らなければならない・・・・・・
先生の場合にもそのような思いがなかったと思う? 先生は生まれながら、すべてをコントロールできたんだろうか?( 「いいえ」 )。更に一段と積極的だ。人類を愛するにおいても敏感だよ。女性は先生を追いかけたが、先生は女性を追いかけまわしたりしなかった。しかし、それは簡単なことだったろうか? もし、そのことに自信がなかったら、天の公的責任を負えない。自分の目にも、口にも、胃にも、自分の感情にも敗けるそのような人に、神様はどうして人類を預けられるか! どうして神様の解放ができるか! もし、美男子、美女が部屋に「入ってきて、自分が眠っているふとんの中に、服を脱いで、入ってきて誘惑したら、自分はどうするか? 腹を切る! そのように決めておかなければならない。自分の腹でなく、相手の腹をです。(大笑い)。すぐさま逃げなければならない。腹を切るまでいないよ。(笑い)。
女性たち、男性が誘惑しても落ちないという自信があるの?( 「はい」 )。自信をもつことはできません。心ではそうしようと思わなくても、足はそちらに動くんだよ。そして境界線まで来ると、『ああ! わからない』と言う。そのために自分を発見しなければなりません。
先生がこの御旨を出発するにあたって、どのぐらい多く考えたことか。西洋の女性、日本の女性、韓国の女性、世界中の邪な女性たちが私を誘惑しようとして来るに違いない。
そのように思っただろうか、思わなかっただろうか? それらをすべてコントロール(主管)できない人であるなら、神様を解放し、人頬を解放するということは全くナンセンスになってしまう。それだから祈祷するのである。それを知っている。
先生の目を鏡に映して見る時、自分の目が罪を犯さないように、自分の目に対して厳しく言い聞かせた。自分の鼻に対しても、鼻が高い高慢な人間にならないように厳しく戒めた。また、口に対しても、『三十歳になるまで十分に食べることができなかったでしょう』と言うと、口は『ええ、あの頃は本当に耐え難かったです』と答える。先生の耳もこれまで数多くの非難や迫害の声を聞いて来たが、そのことについて慰めると、『それでもあなたの耳であることができて一番幸せです』と答えてくれる。先生の手もこれまで困難なことばかりしてきたが、それでも『自分は一番幸せな手です。』と答えてくれる。このように身体のすべての部分が、『今こそ私の主人に出会いました。私の本当の主人はあなたです』と言っている。君たち、そのような主人になっているか?( 「いいえ」 )。真の部分になっているか?( 「いいえ」 )。だから君たちは祈らなければならない。 」(一九八三・六・十二)
七、御旨の道
七、御旨の道
①
「今から我々は天国を建設していかなくてはならない。我々は中断することができない。
挫折することができない。我々は、我々の家庭のためにだけ生きることができない。我々は、より偉大なるもののために出発しなくてはならないのである。現在いるところに、そのまま停っていることができない。我々は、我々がしなければならない全部のものを成し遂げなくてはならないのである。我々自身は救われなくてもいい、国家と世界を救わなければならないのだ! そういう思想を持たなければいけない。」
②
「他人も救わなくてはならない。世界も救わなければいけない。また、神も救わなければならないのが我々である。」
③
「涙と汗と血をもって奉仕して、彼らを自分たち以上に繁栄させ、彼らが喜ぶのを見て、笑いながら死んでいこう。・・・・・・すべてのかわいそうな国家国民に対して我々のすべての幸福、すべての文明の恵沢をみんな渡してやる。それで自分たちは裸になって、それを眺めながら喜んで死んでいこう。」 (一九六七・七・二)
これが神の心情であり、
④
「神の心情を体恤した人間の心情である。だから、我々は、いくら餓えても前進しなければならない。いくら難しくても、我々はしなければならないことを成し遂げなければならない。」
⑤
「霊界に行って合格できる人をつくるのが我々統一教会の教育目標である」。( 『御旨の道』 )
⑥
「短い肉身をもった生涯にどれだけ多くの人を愛したか。それが自分の財産になる。そういう心情でもって何人を愛したか。高い者も低い者も万民すべてに対する心情をもっていってこそ神の前に立つ資格がある。何もなしに神の前に立ったら、『なぜ来た?』、そういう質問をされる。神の前に立つ一時のために我々は生涯をかけて、その一時の体面をたたせるために生涯をかけて歩まねばならない。そうなんだよ。先生がこういう苦労の道を歩んで来たのは、その一時の自分の体面がどういう体面で神の前に立つか。恥ずかしい体面か、それとも万民が喜び、讃え、神も喜びほほえみながら『御苦労さん』という体面か。
君たちも結局は霊界に行かなければならないし、霊界に登録しなければならないんだよ。今は手続きの方法をしているんだよ。それを一生涯かけてやる。特に堕落した人間はそうだろう。・・・・・・だからこの期間にあってまだ手続きを終えていない者は休む暇がない」。(一九七〇・七・三)
⑦
「蕩減は誰によって統轄されるか、絶対に自分である。主管圏を失ったのが堕落だ。他からいかなる干渉があろうとも自分ながら確固たる主体性をもっていく。人がいかなる道を行こうとも、我行く道は忙しい。横でガヤガヤと何か言っても、それを気にしている暇がない。」(一九六九・二・四)
⑧
「日が暮れる前に自分の目的地に看かなければならない。」 (一九七〇・七・三)
⑨
「そういうような、現状にいつも追われている基準を立てなければならない立場にある。夜寝る時間がない、座って御飯も食べられない、磨かけて食べる暇もない、そ、ついう切迫した復帰の情にかられるあなたたちでなければならない。」 (一九六九・二・四)
八、時間がない
八、時間がない
①
「今わからない者は安心してグーグー寝たりね。しかし先生はそうはいきませんよ。明日のこと、来年のこと、何年間の世界情勢を見た場合、誰が責任を持つや。神様が責任を持っても、地上の基台ができなければ何事もできない。既成教会は反対するし、統一教会の現実の基盤は手でつまむような基台だ。これではアメリカとか世界を救うには追いつかないことになる。 」(一九七五・九・十八)
②
「街頭に出て百人にあたるとした場合、今日は百十人と思えばもっともっと忙しくならざるを得ない。その次の日には百三十人、百四十人とだんだん上がっていけば、心身ともに忙しいという気持ちがわいてくるという結論になっている。先生がアメリカにおいて、活動する秘訣も何もない。忙しいすべてを投入しても、まだ投入しえる自覚をいかに持ち続けるかとい、つことが成功の鍵だとい、つことをたくさん経験した。すべてにおいて心が誰よりも先に動いてなし、早く終わる時間がくればいいというのではなく、時間がもっとほしい。終わる時間がきたらまずいという気持ち。・・・・・・」
③
「あなたたち、考えてみな。一年に死亡率が百分の一だと考えれば、すなわち百人に一人死ぬと考えてみた場合には、三十六億の、つち三千六百万人は一年に死んでいく。そうした場合に三千六百万人は地獄にいく。神からみた場合に大損害である。サタンからみた場合、大勝利である。一年早ければ三千六百万が救われる。十年早ければ三億六千万人である。こう考えた場合に、世界まで早くこれを宣べ伝えるのにいかに忙しいかということが自然とわかる。もう時間がない。神がいかばかりそれを願っているだろう。 」(一九七三・七・八)
④
「人が眠る時眠らずに、人が遊ぶ時運ばずに、人が食べる時食べずに働かなければならない。最後の決勝戦に向かって走るのに休む間がない。」(『御旨の道』)
⑤
「伝道に行って、一年もたたないうちに、何日もたたないうちに、『ああ、お腹がすいてたまらない、寒くてたまらない』。それが問題でない。お母さんが死ぬし、子供たちが死んでいくのに寒いと言っていられるか。そのような心情を持たなければならない。国と世界のために生命の火花を散らすこの瞬間に、血と涙の出る歴史的な恨みをはらすこのチャンスをのがしてはならない。御飯が問題ではない。それができなければ時を失うのである。」
⑥
「一時間が惜しい。この一時間を努力しなかったならば数千年が飛んでしまう悲惨な運命となる。この一時間、この一瞬が危機に瀕している。」
⑦
「アメリカでは今度も休まないよ。今後、何年間は休む暇がない。そのために顔にしわがよるかもしれない。しかし、しわがよっても悲しいしわではない。アメリカの山川草木がそのしわに向けて頭を下げてくるよ。」
⑧
「天宙復帰はどういうふうにするんだ。伝道もしなきゃならない。勝共運動もしなきゃならない。それから、あれもこれも、勉強もしなければならない。勉強もしなければならないんだよ。だから時間があれば勉強するんだよ。あなたたち、英語も勉強しなければならないし、韓国語も勉強しなければならないし、これはうろうろしていたら、その間にもう一年二年三年、五年十年二十年過ぎ去って、『ああ、しまった、しまった』。すでにおそしだよ。みんな上看を脱いでしまって、足をのばしてひっくりかえってしまうような、そういう男になったらダメだよ。」(一九七〇・十一・二十六)
⑨
「何もないところで、自分一人でボヤーッとしていて、昼寝ばかりしているような者は罰せられるよ。将来の末はよくありません。」(一九七四・二・七)
また、
⑩
「雑念を持たない。だから昼間から絶対余計なことを考えている暇はない。もうこれ以上考えることないという、これでおしまいだと決まりがついた場合には、それ以上のことを考えるな。余計なこと考えると疲れちゃうよ。そうだろう。だからありったけの自分の現在必要とする分野のための時間を等分して、そして余りの時間を残し、自分で勉強するんだよ。先生は今でも勉強やっているよ。サタンの世界を知らなければこの世界を復帰することはできない。世界に被害を起こさせずして復帰するのが名将だ。だからそれにはわからなければいけない。」(一九七〇・十一・二十六)
九、睡眠
九、睡眠
①
「そうすると、一番時間が必要である。時間が先立つ。そうれにはどうするか。寝る時間を切ってしまう。」
②
「寝る時間が惜しい。寝る時間で決まっちゃうんだよ。寝る時間と戦う道しかない。」(一九七〇・十一・二十六)
③
「眠りを征服せよ。歴史的な人物たちは一日に三時間しか休まなかった。」(『御旨の道』 )
④
「明日には死刑台にのぼる時に、『君はこの一晩ちょっとでも眠らなかったら、それを避けることができる』と言えば君は眠るか。だからみな、まだ真剣じゃない。」(一九六五・九・三十)
⑤
「あなたたちが今やることをやらないで寝られるのか。蕩減条件がいくらでも残っているのに、それをそのままにしていびきをかきながら寝ることができるのか。とんでもないことである。そのようなものであるなら私は苦労しませんよ。」(一九六七・七・十)
⑥
「戦闘する時は不眠不休でなければならない。戦闘要員をつくる期間が必要だけれど時間がない。しかたないから突進しながら教育する。」
⑦
「もちろん人間は肉身を持った身だから、時には休まなければならない時もある。しかし、そのような時には神に対して」、
⑧
「『人類を復帰するための父の御旨があるのに果たせずして、彼らのために力を尽くせずに寝る自分を許して下さい』と祈って寝なければならない。」
⑨
「最近は、疲れた場合に昼でもちょっとスッとするんだね。昔は昼寝なぞ夢にも考えない。」(一九六七・六・十九)
⑩
「先生は夢うつつの境においても目が覚めればすぐに腹ばいになる。父母の心情を知った立場にいる先生が、平安に休むことができようか。」(『御旨の道』)
⑪
「自分から寝ようとしてはならない。」
⑫
「十二時になったら、『ああ寝る時間だ』と考えてはいけない。」
⑬
「知らずに寝ておった、とならねばならない。」
先生が北緯から
⑭
「南に下る八十里の道を歩く時、荷物を背負って居眠りしながら歩いた。」(一九七一・三・十四)
⑮
「先生はいつもトイレの中に入って腰かけながら眠り込んでしまう。・・・・・・また時には先生は風呂の中で眠り込んでしまうこともある。だから先生が風呂に入るときは、お母様はいつもはらはらして待っているのである。」
⑯
みんなを寝かして、それから三時半、四時半まで勉強した。時間がないから寝ない。疲れる暇がない。みんなは何時間寝るのだ? 六時間寝るのだったら、そのうちの二時間は先生のために、神のために費やせ。」(一九七三・七・八)
⑰
「眠りがなんだ。行く道がふさがれば国の運命が左右され、世界の運命が左右される。」
⑱
「神はそういうところに近づいてくる。」(一九七三・七・八)
十、疲れ
十、疲れ
①
「先生はいくら疲れた時でも、やらなければならない責任を思えば、そのすべての疲れが一時にふっ飛んでしまう。」(『御旨の道』)
②
「夜帰ってきて疲れて目が痛くなる時、そうであればあるほど苦痛である。その時、今日自分は何のためにこんなに疲れたのかということは孝える必要はない。公的路程に立っているため、天の前に自分が損害を与えてはならない。天の前に利益を与える道を行けば、『神よ私を思わないで下さい』と言っても神は思わざるを得ないのである。そのためにいつも必要なことを皆さんは知らなければならない。いつも神の前に同情をうける者にならなければならない。」(一九七一・三・十四)
③
「何千万里も自ら行かなければならないその路程が残っているにもかかわらず、今、辛いと言って休もうとする子供と、(なんとしても引き連れていこうとする)親との関係と同じようなことがいくらでも続いてきた。」
④
自分が「『疲れた、足が疲れた』、と思うよりも神の方がそれをもっとよく知っているよ。しかし、神は疲れた者を頼っても、まだ命令するものが残っているんだよ。それを思う時、神に申し訳ない。その疲れを忍びに忍んで神の命令はこれだと感じた時、夜通ししながらその通りやる。終えてそこに寝ころんで寝る時、神は抱いてくれるよ。本当なんだよ。だから苦労というものは苦労そのものが悪いというんじゃないんだね。十字架が悪いんじゃない。」(一九七〇・七・三)
⑤
「先生は韓国においても、今までこういうことやってきたのは、御飯がないからそうするんじゃない、名誉がほしいからそうするんじゃない。譜かが恋しいからそうするんじゃない。これは、たった、神様をわかったから。そなたの、その心情がわかったから。そなたの悲しみというのは、我々には問題にならない。千万倍にもなる。例に、例えることができない。
だから、いくら疲れておってもね、それを思えばね、ここに、あるいはこの場所に御心を受けついで、親孝行になることがあるかもしれない・・・・・・そう思った。
だから、いざという立場に立ってね、そういうのを思うと疲れを忘れる。寝るのを忘れる。しかし、そういう思いでなく、自分に帰ったら疲れが来るよ。疲れが。だから、神はいつも保護する。神がいつも同情する。神が、いつも自分が寝る時に、その寝るのを見て、その手を神自身ながら、さわってみたい、抱きあって共に寝たい・・・・・・。神の同情心が、自分の寝るところに、自分のとまる所に、自分の働く所に何%ぐらい強いパーセンテージの力が働くかというその問題である。それがあれば、絶対死ぬところに落とし入れられても、絶対死なない。反対する多くのクリスチャンたちが、先生を死なさんがために牢屋に入れた。しかし、先生をそういう立場に追い入れた者がみんな死んで、死ねと言われた者は死なずしてのこのこ残っている。」(一九六五・十・八)
十一、最後に
十一、最後に
①
「たとえ一日の生活としてもいい加滅にしてはならない。一日の生活を貴重なものと考えなくてはならないのである。一日一日をまじめに生活しながら、一歩一歩けだかく踏んで進まなくてはならない。」(一九七一・十二・五)
②
「古い歴史を持つのも重要であるが、瞬間を大切に過ごすのはなお貴重である。眠って食べるその一瞬間が歴史的な運命を決定する瞬間であることを忘れるな。一瞬間の失敗が一生かかって積み上げた功績を食いつぶしてしまうことがある。」(『御旨の道』)
③
「この世界とか人間は、一度生まれて去ることができるが、翌日は一度去ってしまえば再び訪れないゆえ、この御旨をなすために責任をもって常に誠をつくす生活をしなければならない。」(『御旨の道』)
(三) 御言に見る真の子女 序
序
①
「父子の因縁が天地の根本である。」(『御旨の道』)
②
その「真なる因縁は、途中で変わるものではない。(『御旨の道』)
③
「父子の間の心情は革命を起こすことができない。それは神様もなすことができない。神様は父子の因縁を教えて下さるのが最後の目的である。世界を統一することのできる武器は父子の因縁である。」(『御旨の道』)
したがって、われわれが神を自分の親として迎え、親子の因縁を回復して神の真の子女となっていくか否かということが、その働きと歩みのゆえに、神の摂理の進展を大きく左右する。
では、「真の子女」とはいかなるものであるのか。
一、真の子女とは 1、親のために生きる者
一、真の子女とは
1、親のために生きる者
①
「生まれたのも、親のために生まれたのであり、生きるのも親のために生き、死ぬのも親のために死ぬというような立場に立ったとするならば、この子供こそ、真の孝行者である。真の愛を受け、真の幸福、真の平和、真の理想の子供とならざるを得ない。」 (一九七四・五・七)。したがって、真の子女とは、ただひたすらに、親のために生きる者を言う。
一、真の子女とは 2、親の一番の願いを自ら悟って行なう者
一、真の子女とは
2、親の一番の願いを自ら悟って行なう者
①
「先生の息子の孝進について言うと、彼は非常に活発な子供である。ある日、ころんで足をすりむいた。見ると傷口がはれ上って、血を出しているのである。私は、『大丈夫か』と尋ねると、彼は鼻血を出しながらこう答えたのである。『大丈夫です。お父さん、何でもありません』。私は、あの場面を忘れたことがない。小さい子供が、泣き叫ぶかわりに父親を慰めたのである。
信仰者にも二つの立場がある。一方は、神の愛を受けたいので神に侍る立場で、その愛に満足している。しかし、もう一方は、父の心中を知っているゆえに、他の人々にも救いの手を差しのべようと努力する者である。
親が重荷を背負っていることを知っていながら、自分の悲しみを慰めてほしいと願う子供を持つのと、親を幸福にしたいと思う子供を持つのと、どちらが良いだろうか。親を力づけようとする子供を持ちたくないであろうか。我々の願いは、神に対してこのような子供になることである。そのためには、まず最初に、神に命令される前に自らその心情を悟って行わなければならない。
神は、人間始祖の堕落によって多くの子女を失ってしまったので、再び子女たちが神のもとへ帰ってきてほしいと切に願っている。もし失われた兄弟を捜しに行って、一生懸命尋ねまわり、長い間、父のもとへ帰らなくても、父親はこれに対して不平を言うだろうか。
失われた兄弟たちを捜し求めに行って、兄弟姉妹たちを家に連れて帰ったら、神はもっと愛して下さることは明らかである。失われた子女たちを復帰するために死にものぐるいで働く子供に対して、天の父は自分に従わなかったと言って怒るだろうか。神はこんな子供を誇らしく思うに違いない。神はこの子供の心情を慈しみより一層愛するであろう。
あらゆることをなす場合、言われる前にけっして不平不満を言わす、なすべきである。神が御旨を成就なさろうとする以上の真剣さを持たねばならない。神を助ける心溝えがあり、偉大な御業を成し遂げるためにはどこへでも行こうとする子供と共に神の愛はある。神はこのような子女を子々孫々に至るまで、末長く保護したいと思われるであろう。
この地上での働きを終え、霊界に行く時、もし神に対して、『私は天国に行きたくありません。地獄で苦しんでいる人々を救うために地獄に行きたいのです』、と言ったなら、神はその人のもとへ下って行かれるであろう。 『御心に従って最も貧しい社会に住みます』と言えば、神は、『息子よ、お前は非常に賢い子である』と言われるであろう。このような場合、仮に神に不従順であったとしても神は誇りとなさるであろう。こう思える人間は、まさに完全な善の実体である。神から、『お前はもう社会に出ていく必要はない。いつ私はお前に言って人々に伝道しなさい、と命令したことがあるか。なぜお前はここにとどまって休まないのか』と言われ、もし、それでも遂に出かけていくなら、神はこの子供を罰するであろうか。神は全人類を救おうとなさっているので、子女たちにもそうしてほしいと願っているのである。神は、このような信仰者になってほしいと願っておられる。」
神は全人類を一刻も早く救いたい。しかし、御旨のために苦労し、疲れ果てて帰ってきた子供に対し、休まないで働いてほしいとは言えない場合がある。その時に、親の一番の願いを自ら悟って、そのために歩む子供こそが真の子女である。
一、真の子女とは 3、親を休ませ、代わりに御旨のために責任を持って動く者
一、真の子女とは
3、親を休ませ、代わりに御旨のために責任を持って動く者
①
「たとえ天の父の助けがなかったとしても、積極的に進んで御旨のために働く者でなければならない。そして神に対し、『父よ、私がこの罪の世界を復帰する責任を持ちます。私が必ず成し遂げてみせます。信じて見ていて下さい。私を助けて下さる必要はありません。神様、どうかそこで見ていて下さい』と祈る人がいれば、神の心情は慰められるに違いない。そして、神は、こう語られるだろう。『私はあなたを助けずにはいられない。どんなところでも、私はあなたと共にいたい』と。
こうしたことから、どんな困難にぶつかっても、それを乗り越えていく決意を固めた時、神は既に皆さんの先に立ち、道を切り開いていて下さっているのに気がつくであろう。」
一、真の子女とは 4、全世界の人々は兄弟姉妹という心情を持つ者
一、真の子女とは
4、全世界の人々は兄弟姉妹という心情を持つ者
①
「物事をなす時、全世界の兄弟姉妹の救いのためになさねばならない。彼らは等しく神に愛されているからである。」
②
「人類万民は皆兄弟であり、姉妹である。イエス様を愛するような愛をもってあらゆる人にあたっていかなければならない。日本人もアメリカ人も同じだね。神の子供、兄妹だよ。国境を越えた、そういう心情の持ち主になった時、神はその民を国を愛することができる。我々はそういうものを遣っていくんだよ、この地上に。
すべての人間が兄弟姉妹という世界的心情を持たないと神の子女とはなり得ない。世界を救うことができない。食口というのは素晴らしいんだよ。自分だけが良いものを食べるとしたら胸がつまる。良いものを着る時も胸がつまる。良い床に寝る時も胸がつまる。寒さに震える兄弟、食べられない兄弟がいたとしたら胸がつまる。自分は、いっそ何もない方が安らかである。だからみんな与えてしまう。それが善である。悪は何か。自分のために集め、自分さえ良ければいいという、これは悪だよご宗教家というものは一文も持たない。しかし、心の世界には天国を持っている。」(一九六七・七・十)
一、真の子女とは 5、世界は神から与えられた自分の園であると自覚する者
一、真の子女とは
5、世界は神から与えられた自分の園であると自覚する者
①
「真の子女は、世界的決意を基準として立たなければならない。世界は自分のものである。真なる神の子として祝福された自分の園であるこれを犯す悪者があったら許しておかない。その決意が必要である。その決意をあなた違が持たなければ、今後世界へ向って進み行く先生とは関係がない。それは神の子供ではない。」 (一九六九・四・二十)
この被造世界は、神が神の子女としての人間に与えようとしたものである。それを汚すことは許さない、という決意がなければならない。
一、真の子女とは 6、親を何遍も泣かす者
一、真の子女とは
6、親を何遍も泣かす者
①
「先生は神より以上、犠牲になりたい。十年、百年の蕩減の道が残った場合には、一生涯に恒っても蕩減する。しかし死んではいけない。我は不具者になってもいいから、生命を残して蕩減の道を歩んでいく。それが子供の考えだ。それが報いる道だということがわかる。そう考えるよ。親もそういう子供を迎えた場合には、骨肉が分離し、にじみ出るような涙を流すんだよ。だから、神様も流しているに違いない。・・・・・・先生を泣かせ、神様を泣かせる場合には、泣いたより以上の悲惨な悲哀な立場に立つ子供に対して、親は永遠に別れようとしても別れることはできない、とういう結論になっちゃうんだよ。
親孝行は、親を何遍も泣かすことだよ。そうだろう。なんでそんなにも、こういうような親に対して忠誠を尽くすかと思った時に、感謝の思いで親は泣くんだよ。親を泣かせる、それ以上の孝行者はいない。競を泣かせて初めて、日本的世界的孝行者として立つことができるんだよ。」(一九七一・八・二十一)
②
「このようなことを行なうならば、神が最も愛する復帰された神の子になることができる。神はこの子を誇りとし、すべてのものを与えたいと思われるであろう。
神が栄誉とあらゆる良いものを与えて下さろうとする時、天の父にこう言うことができる。『お父様、あなたはすべての幸福と祝福を私に下さるとおっしゃいました。これらはみな私のものですね』。神はこう答えるであろう。『もちろんみな、お前のものだよ』。
こうして初めて、何でも好きなことができる立場に立ち得る。そして自分に与えられた祝福をみな、他の人々にわかちたいと思って、『私の受けたものは全部、兄弟のものです』と言えば、神は一層喜ばれるに違いない。
もし、このようにできるならば、最もふさわしい神の孝行息子、孝行娘になっているはずである。
このような位置に立てば、天の父の心情を引きつけてやまないであろう。事実の神の愛を所有することができ、これがすべての中心点になるのである。このような神の息子が自分の持てるものをすべて人に与えつくして無一文になっている時、神はこう言われるであろう。『私はお前のものである。お前には私がある』。
この方法に従って自分の道を歩もうとすれば、神自ら、降りてこられて共にいまして下さるであろう。どこに行っても神と出会うことができるのである。どんなに低い位置にいたとしても神は人間に焦点を合わせて、どこにでも共にあって下さるにちがいない。」
二、真の子女としての先生
二、真の子女としての先生
1、「先生はまだ神の前に真の息子だと言うことができない」
①
「今までの生涯をかけてきた先生におきましては、平安とか安楽の思いを持つことができない。まだまだなすべきことがある。夜であろうが、辛い立場に立とうが、それを乗り越えてなさなければならない使命の一点がいつも残っている。苦しみの立場を避けずして通らなければならない。苦労の道を通らないとすれば、それがサタンの起点になるかもしれない。生涯において、その一点をいかにサタンに奪われることなく勝利していくか、こういう切迫なる思いで復帰の路程を行かなければならない。一瞬一秒でも安心することができない生涯の道であるということを、あなたたちも知らなければならない。さらに、歴史過程における数多くの先祖たちの忠誠の道をすべて連結させて、完成という名前を付けて神に捧げる使命がまだある。それをなし得なければ、歴史過程において犠牲になった人々を復活させることができない。しかし、今までなした基準では、彼らを復活させることができない。彼らの基準に立ってなし得た勝利の基準を認めてから、彼らを復活させることができる。だから、復帰の道は難しい。
先生は、神の前に真の子女として立ち得ているかどうかというと、まだまだその道をさぐっている。世界の目的をなし得るまでは、堕落圏が残っている以上は、真の息子であると自分ながら言うことができない。神が自分に対してそう言っても、自分は神の前に真の息子であると主張することはできない。まだまだ果たさなければならない多くの使命、戦わなければならない多くの戦いが残っている。だから、いかなる迫害が襲ってきても、感謝で迎える心情の基準を今まで持っている。神の前に真なる子女になり得る、その基準までにはまだまだ遠い。これをいかに短期間のうちに果たすかが先生としての使命である。
こういう道を今まで開拓してきたし、これからも開拓していかなければならないのが先生の路程として残っている。では、いつ最後の基点をなし得るか。それは先生一人ではなされない。全体基準をいかにして連結するか、これが重大である。今まで六千年の歴史を通過してきた数多くの幸い復帰の路程より以上の辛さが先生のなすべき平面基準に残っている。」(一九六九・四・二十)
だから、
②
「祈りをするときも、『天の父よ・・・・・・』、祈りを始め、その後はものを言うことができす、そのまま夜を明かしてしまうことがいくらでもある。気がふさがることが余りにも多いので、天の父に対して面目がなく、祈りができないからである。天の父に対して申し訳がないからである。」(一九七一・十二・五)
2、「先生は一人でも行く!」
2、「先生は一人でも行く!」
①
『先生は生涯をかけて、神の行かれる道の前に障害となる悩み苦しみがあったら、これを一身に背負って戦っていく。いかなる苦労の道も、いかなる迫害の道も、生死の境地に立っていく。誰一人助ける者がなくても、失望しない。たった一人、神を慰め得る者は我しかない、という決意に徹して今まで戦ってきた。今もそうである。もし世界の人々がなさなくとも、我一人でなす!」(一九六九・四・二十)
②
「先生は皆さんに負けない。今も戦っている。・・・・・・一人でも行く。君たちが休んでもいく。援助されなくても行く!」(一九七三・七・八)
③
「ある時には、一人なりに神に対して逆らったことがあるんであります。一人の男として生まれて、こういうような天地の秘密の内容を暴露することによって、世界は動揺し、自分の一生がメチャクチャになる。この道以外におさめる道はないのですか、と何回も拒否した立場がある。しかし神は、『君が責任を持たなければ誰かがしなければならない。誰かがしなければならない』と。それで奮起して三十余年の歴史を費やしてまだ果たされていないこの道に、戦いをその合戦を続けていかなければならない、そういう立場に立っている。それがどうして落胆するでありましょう。『雄々しく、尊く、尊く、目的に向かって、神のために進んでいこう』、その決意は、日が変わろうとも年が変わろうとも頭の毛が白くなろうとも、その心情は、変わりません。」(一九七五・二・十三)
④
「神は私に、『休暇をとるように』と頼み続けているが、私は『それをもっと後で取らせて下さい』と頼んでいる。」(一九八一・二・十)
⑤
『今まで語った路程は、先生がたった一人で歩んだ寂しい孤独な道であった。共に行く友も、支える者も、理解する者もいない孤独な報いを、先生は闘い抜いたのである。今まで共に歩んでも、本当に先生を理解できる者は誰もいなかった。
三十年前に韓国の古い食口たちに語ったことも、誰も本当には理解できなかった。彼らは、知的にはわかったけれども、心情的にはわかっていなかったのである。そして三十年後の今になって、先生の所に来てこう言うのである、『先生が三十年前に言われたことが今わかりました』と。
あなた方も同じことで、先生が今語っていることが、三十年後に実現されてその時理解される、ということも多いだろう。
今なお孤独な先生である。人間なら行きたいとは誰も思わない孤独の極限の道である。
しかし神御郷自身がたった一人で孤独な方であることをよく知っているが故に、先生は子と
して責任を持ってその使命を引き受けたのである。葉の復帰の道はけっして安易な道ではない。それは実に困難な道である。先生についてくることも困難なことである。」
先生としてなすへきことはすべてなしてこられたにもかかわらず、今のままでは「神様にすまないよ」と言われる先生は、親に対する子としての責任を果たそうとして今も歩んでおられる。
(四)御言に見る苦難と試練の克服
(四)御言に見る苦難と試練の克服
序
御旨の道には、苦難と試練はつきものである。しかも、その苦難と試練にはいろいろな形態があり、また、何が苦難であり試練であるかとい、つことは人によって異なる。しかし、それが何であれ、その苦難と試練を乗り越えることができなければ、その人の信仰の歩みに多大な影響を与え、さらには全体の原理に大きく影響する。また、なかには勝利できないがゆえに、御旨の道から離れていく場合もある。先生が言われることく、「一番困難な時にいかに歩むかという哲学が」、はたして我々の中に「確立している」 (『御旨の道』)だろうか。それがなされていなければ、この道を最後まで歩みきるという保証はどこにもない。まして、その苦難や試練が個人的なものではなく、教会全体のものであった場合は、摂理が進展するか後退してしまうか、御旨が成就していくか否かという重大な問題になってくる。
御旨の前に心ならずも敗北者とならないために、苦難と試練の克服ということに関連する御言を集めてみた。
1、受難や迫害の場合
一、外的な苦難と試練
1、受難や迫害の場合
①
「自分の愛する者を打って怨警の子供たちを救うのが神の愛の摂理である。だから神は愛だよ。神が自分に忠誠を尽くす者だけを愛するならば世界は絶対救われない。神は敵の子供のために、自分に忠誠を尽くす僕とか養子たちを皆、死の境地、血を流すような境地に落として、彼らが犠牲になることによって三倍以上の収穫を目的として世の中の人を救っていく。だからキリスト教は今まで殉教の血統を引き継いでいる。いかなる国にでも、キリスト教は血を流さずして布教されたためしはない。善なる立場の子供たちが犠牲になることによって逆にその国に基盤をつくる。だから今までの歴史で善人で踏まれなかった人はない。追われなかった人はない。歴史が過ぎてから、あの人は良かったと讃えられる。孔子も釈迦もイエスもそうだった。みんな社会の邪魔者とされ、国家の反動者というような肩書きで、はりつけにされたりして死んでいったんだよ。神に近寄った善なる人間で、この悪の世界に歓迎された人は一人もいない。歓迎されるのは悪人であって善人ではない。
統一教会は善の立場に立っているから迫害を受けるのは当然である。それをいやに思うならここへ来る必要はないよ。しかし、追われて、踏まれてきた者の願いの国は来る。必ず来る。その国が我々の願う地上天国なんだよ。
先生は統一教会の兄姉たちを実に愛する。しかし、どういうふうに愛するか。それが問題だよ。神が今まで人間に対してきたように愛さなければならない。あなたたちを撫でながら可愛がる、そういうふうにすることはできない。瀕死の境地にあなたたちを追い出して、サタン側の子供たちを連れてこさせる。考えれば可哀そうだよ。でも、神の愛はそういうふうになっているよ。この方法を見せられた人間は誰も反対することができない。たとえば、自分の子供とよその子供がけんかした。見たら二人とも悪いという場合、お母さんが出てきて、『何です、あなたの子供は私の子供をなぐって・・・・・・』というふうにすると、まわりの人たちは、あの女はちょっとどうか、と言うよ。しかし、そういう場合、自分の子供には『お前はなぜそんなことするの、悪い子だね!』と言って、よその子供には『こめんなさい』と言ったとしたら、向こうの親は『いや、うちの子供が悪いんです。すみませんでした』と言うよ。完全に心情を勝利するにはそれしかないんだ。そういう戦法でもって勝利した世界でなくては天国は絶対来ない。刀を抜いて打った者は、また打たれるようになるから平和になれない。それは天の法則だね。だから、こういうふうにして世界的基盤を作る統一教会を、誰も侵害することはできない。だから神の戦法は、なぐられて占領する戦法だよ。怨讐が自然州屈伏する戦法はこれ以外何一つない。先生も日本帝国時代には、牢屋に入れられて殺される程の拷問を日本の刑事から受けたよ。血みどろの、思えば身震いするような民族間の憎しみがあるんだよ。しかし、それが問題ではない。神が打たれて復帰してゆくのであるから、打たれる方に立つ者が善に立つ者である。打つ方は善ではない。」(一九六七・七・十一)
②
「神は人間を試練の中に-のいて打つが、これは悪を断ち切って、私の心を神の心と一つとなるようにさせ、私の心情を神の心情と一つになるようにする基準にまで到達させるためである。」(『御旨の道』 )
③
「私に押しせまるすべての苦難と試練は、それを通じて神様の過去の日々を正しく体恤させるためである。ゆえに苦難が押しせまる時には喜んで感謝しなければならない。それはすなわち、神様が私を愛して下さっている証拠である。」( 『御旨の道』 )
④
「すべての困難を自分一人で受けていると思うな。神様と共に受けていると思いなさい。そしてわざわいを受けた時に、『父よ、私の先祖からの誤ちに対する蕩減を素直に受けます。以後はこのようなことがないようにして下さい』と祈れば蕩減として超えてしまう。」( 『御旨の道』 )
⑤
「ぶつかることをいやがってはいけない。」(『御旨の道』)
⑥
「試練と闘争を恐れる者には使命を授けることができない。」(『御旨の道』)
2、御旨に疲れをおぼえ、くたびれてしまう場合
二、内的な苦難と試練
2、御旨に疲れをおぼえ、くたびれてしまう場合
①
「我々が信仰生活を歩む時、くたびれた場合に前で引っぱってやったり、うしろから押してやったりする。そういうような環境をまちがいなく保っていくならば、その目的に向かっていくのに、そうむずかしくはないんだね。自分一人でその目的をなしていくというのは、これは人間というのは朝夕に心が違ってくるのだから、考え方によって違ってくるし、過去・現在・未来あるいは青年の時、壮年の時、その時によって違ってくるんだね。
だから、信仰生活という、生涯をかけてすべてを乗り超えるというようなそういう道を行かなければ、自分の正しい生来の目的地に達することはできないのが信仰生活の中心点だから、それを乗り越えるには自分一人ではできないんだね。
それから目的といっても、はっきりした科学的に実証的に我々が感じられる相対圏じゃないんだね。だから、ある時はあるようであるけれどないようでもある。そういうような観念的な目的基準に向かって行くには、非常にむずかしい道であるというんだね。
だから、こういう道をまちがいなく行くには自分一人では行けない。そのためには、信仰の友達とかが必要である。自分の事情をいつも連絡して、こういうような立場の現状を、いかに打破していくかということを相談しうる、あるいは先生とかね。そういう関係の基準を保てればそれは正しく行ける。また先輩があって、こういう時にはこういうふうに解決できる、というふうに直接関係をもって教えてくれればね。一つ一つそれは乗り越えることはできるのだけれど、そういう環境を持たなければ非常にむずかしいんだね。
また神を信じていても、神は存在するんだけれど実感的にはこないんだね。これをいかにして体恤するかという事は非常に問題なんだね。いったい、神と関係をもつ基準はどこかという。どこで持ちえるや。聖書を読めば聖書の中で関係を持ちうるか、というとそうでもない。だから聖書の中で神と因縁を満たせられなかったらどうするかというと結局、祈祷という問題になる。真心をつくして、自分のすべての忠誠をつくしてある目的とともに、それをつながせる神の存在をいかに体地させるかというと、祈り、祈りしかないのです。祈りが非常に重要な問題になってくるよ。
あんたたちの先輩があるといっても、指導しえる歴史的勝利基準を持っている者はいない。みんな、これから開発していくというんだね。そういう場合に、自分の毎日の信仰生活の刺激をどこで補給するか。人間が御飯を食べてエネルギーを補給するのと同様に、霊的エネルギー、霊的刺激をどこで補給するのか。考えてみた場合に原理の本を研究することも一部にはあろうね。しかし、真理の基準はその目的観念に徹し得るその理解の基準を開拓していくとなると、心情の基準とは通じないところがあるんだね。その基準を心情基準にまでつながらせるには、やっぱり深い祈りが問題。だから霊的体験が必要だという問題になってくるんだね。
信仰の道は、そのつど、そのつどにおいて神によって得られ、刺激されるような道であるから、絶対的に自信をもつことはなかなかむずかしい。毎日消耗ばかりしている。まあ、根がないような立場に立っているということを、自分がつくづく感じるということがたくさんある。信仰生活する者のむなしさと言おうか、そういうのがあるんだよ。そういう時であればこそ祈りが必要になってくる。だからイエス様にしてもいつも祈ったのだろうね。
静かなところへ行って、自分の行くへき目的に対し、あるいは毎日の出来事に関して霊界からの指示、どういう方向に進んだならば、どういう結果になるという予感的な基台に立ってこそ初めて強いんだよ。
だから、信仰者の立っている基準からみた場合、どこから力を得られるかというと原理とか教えね。指導される関係から刺激を受けるとともに、それ以外には祈りの他はない。あんたたち祈りというものがわからないわけだろう。祈りの世界に入ってこそ初めて信仰生活の味を知る。祈りの世界の背後には神秘的な立体世界が続いている。平面的な自分の感覚を超越した、立体的な感覚の世界が存在するということをつくづく感じるんだね。だからそれを自分たちが育てていかなければならない。」 (一九七四・二・ )
②
「先生がいてこういう関係をもって指導している時は問題ないんだけれど、先生の話を聞いて燃やされて帰っていくと、一週間くらいでまたダラーッとなってしまう。それをくり返している。あんたたちはもやしと同じだね。水をかけずにおけばみんな流れてしまうけれど、水をかけてやれば成長する。これと同じだよ。みんな、自分の生命力としてためて、根となり幹となり枝となる。そういうふうになればいいのだけれど、みんな流れていくんだよ。しかし、流れていくところに新しい発展の自分の基準が見い出される。流れていっても、それを乗りきる時ごとに成長していくんだね。こういうようなくり返しの人生の生活が必要だよ。
あんたたちは、いつも考えなければならないのは周囲の関係だよ。関係が必要だよ。人間は、心情的に欠けた場合はさびしいんだよ。これをどこで補給するかというと食口たちを通してだよ。だからあなたがたに食口たちは絶対に必要だよ。自分たちに力なき場合には、食口たちが信仰生活をやっているのをみれば、ある時には霊界から教えられる。そして自分をたずねて来て報告する。心に燃えて霊的に燃えて報告する。その報告は、君たちの何よりも尊い時間だよ。その時はいくら自分が責任者としても、その報告してくれる者は、日々の生活をしていくうえでのメシヤと思え。その報告は、神が自分を刺激するために授けたわけである。だからその報告をその者の報告と思ったら大間違いだっそれは自分の身代りの証しをしておる。そういう関係が必要だよ。だからそういう関係を結んでおれば、食口たちが恋しくなってくるよ。慕うのである。早くこないか。自分ながら下の食口たちを慕う心を持つようになる。自分が心霊状態が落ちた場合には、必ずそういうのがやってくることになっているよ。なぜかというと宇宙は相対的関係において補助作用をなすようになっているから、正しい立場に立った場合にはすぐやってくる。正しくない立場に立った場合には滅ぼす者がやってくる。正しい立場に立った場合には必ず助けがやってくる。それは宇宙の原則だよ。原理の観なんだよ。」(一九七四・二・七)
1、天の願いがいつもきびしい、という場合
二、内的な苦難と試練
1、天の願いがいつもきびしい、という場合
たしかに、成してほしいとする天の願いは楽なものではない。いつもきびしい。なぜか。
それは、我々が
①
「一見、実行可能に見えることを一つずつやってゆくのでは、世界を復帰するのに何千年もかかってしまう」からである。
②
「先生が普通では、とても不可能に見えることを命じなければならないのは、このため」なのである。(一九七四・一・一)
③
「あなたたちはこの事に関する神の摂理を知らない。世界情勢にも急激な変化が起こっているが、あなたたちはこれらを神の御意に沿って理解することができない。
起こっている様々な問題も外的世界情勢は内的神の摂理である神の御旨を中心として起こっているということである。これらの事もあなたたちは知らない。先生はこれらの事を知っているから、あなたたちを神の御旨に沿って導かなければならない。」(一九七四・二・二十八)
④
「皆さんにここで天国についてどんな話をしても皆さんには実感がわかないと思います。なぜなら、自分なりにしか考えることができないからです。それゆえ、皆さんはこの道に来てどれだけ信じていくか、ということが問題だということを知らなければなりません」。(一九七三・一・一)
⑤
「無理なこと、絶対できないと思うことをさせるのが先生の哲学だ。」
⑥
「先生は無理なことをさせるようだけど必ずできる。なぜか。先生が実体的に背後関係をようく計算して出しているんだ。先生をもっと信じるんだね。先生はできないことばっかりをやってきた。死ぬぐらいまでやってからできないと言いなさい。」
⑦
「できないような事を指令される人は偉い人になる。それ、偉くなる道なのよ。できないようなことを指令されて、やった時、偉くなるんだ。」
⑧
「できないといってくだけるな。できないからもっとやる、というんだね。問題があるからこそ自分が必要であって、問題のないところに自分は必要ない。そう思う者は発展するんだよ。そう思う者には神様は希望を持つよ。」(一九七五・九・十八)
⑨
「仕方ないからやれないという立場に立つよりも、仕方ないながらもやるんだよ。その仕方ない部門にはいくらでも成功の道があるし、いくらでも善の道もあるし、いくらでもそれは世界的な道も開かれる。だから人間は限界を立たしてはいけない。それによって、我々はヒョロヒョロした者が太い人になる。前だけしか知らなかった者が後を見るようになる。」(一九七二・四・二十三)
⑩
「御旨の道において苦労すれば悪くないんですよ。長ければ長いほど根が長くなるし、体が太くなるし、枝が太くなるし、葉っぱ自体が濃くなるし、青くなるというんだね。それ、立派な実が結ばれる。」
⑪
「罪があるからといって嘆くな!自分が及ばざるといって嘆息するな。及ばざる者でも、投入して犠牲になるようにその道をたどっていったならば、それが充満した場合には花が咲くんだね。その花が咲いた場合には、神様は降臨して踊ってくれる。」(一九七三・十一・十八)
⑫
「神様は、どういう人を深すかと言うならば、結局、『すべてに対して自分が責任を持つんだ』という人を深しているのである。『自分は罪深い立場の看であるけれども、今から責任を持つような人間になります』と言えば、神様は『いけない』などとは言わないよ。
あんたたちはどう? 今からでもいい。今からでもいい。どんなに過去の罪が多くてもね。 『今から間違いなく、全世界の責任を自分が持つ』と言えば、神様は『うん、やれ!』と言う。そして、それを願っているのである、それを。
そういう責任を持つようになれば、神様と同じように、すべてが自分に責任があるんだから、悪い結果がでてきた場合、『自分がやれなかったから、こういう事になったんだ』とね。」(一九七五・三・九)
⑬
「何事をするにおいても、神と誓った基準は必ず解決するようなそういう毎日の生活をやっていけば絶対しくじらない。そうなるには戦いだよ、これは。サタンはわざと試すために反発させる時がたくさんあるんだよ。」(一九七〇・十一・二十六)
⑭
「御旨のために本当にやるかどうか考えなければならない。自分は本当にやるんだという決意もしないでやっておったら、そういう者は流れてしまうんだ。本当に御旨のためにやるか。『本当かどうかわからないけど、先に入ってきた者がやるから仕方なしにやるんだ』。それは仕方なしに後退してしまうよ。だから、目的観念を徹底化する、これが問題だよ。いかに生活圏内に、目的観念の結果の喜びを、毎日の刺激として持ち出して開拓していくかという問題が重大な問題である。」(一九七〇・一一・二十六)
⑮
「何事を成すにも蕩減だと思って真剣にやる。その仕事の中に自分が蕩減を超えるかもわからないんだから、すべては真剣にやる。人が見ようとも見なくともそれは関係ない。世の中には、十人の人が働けば監督者がいて、やるか、やらないかと監督するんだけれども、我々においては必要ない。監督される方が、かえって気持ちが悪い。それで人が見ても見ていなくても神と一対一によって報告しながら、一歩一歩前進する価値を自分なりに積み重ねていくというような生活態度が必要ですよ。そういうように行く者は、決して堕落とか、あるいは絶望とか、そういう立場に絶対落ちない。」(一九七二・五・ )
⑯
「勝利というものは、過程において始まるものではなく、出発の時の内的基準によって決定された結果が現われてくるのが勝利である。」(一九六九・二・二)
⑰
「動機がないのに結果があるはずはない。先生を慕うということがあるが、それはただそうするのではない。思慕することのできる動機の実体がある。植えることをしないで収穫を得ることができるか。主体と対象は必ず相応ずるようになっているのに、その動機が完全であればその結果は完全なものである。だから生命をかけて生色の動機をもたなければならない。」(一九七一・三・十四)
⑱
「あんたたちは、『もうできない』という。できるかできないかは死ぬまでやってみてから結論すべきことだよ。」(一九七二・九・十一)
⑲
完全投入せずして、完全なる結果を願うところにおいて失敗が生じてくる。」(一九七三・十一・十八)
⑳
「完全否認より完全再創造が可能である。だから、信仰生活においては文句を言うな。」(一九七二・九・十一)
21 「周りの人間が不平を言っていても不平を言うな。」
22 「不平を言うのは、神を責めることだ。恩返ししなければならない人間の立場であるにもかかわらず、神に対してそういうことを言う立場には絶対立つことのできないのが、我々人間である。先生の今までの生涯がそうだよ。獄中に入れられても、拷問で血をはき出すような立場に立っても不平を言う男にはなりません。世界すべてが反対しても、サタン圏と縁が切れる、と思えばありがたいものだよ。怨讐圏がある場合には、一周するまで反対されるのが当然の道だよ。不平を言うな。感謝せよ。黙々と行かなければならない。」(一九七二・九・十一)
23 「やる以上は喜んでやらなきゃならない。そうしないと、・・・・・・絶対、天は自分と共にしません。・・・・・・霊界が共にしない。」
3、神からも人からも捨てられたような場合
二、内的な苦難と試練
3、神からも人からも捨てられたような場合
①
「ときたま、こういう時もあるんだよ。祈りなんかしても、ある時は一週間も祈ろうとして祈れない事があるんだよ。あるいは一ヵ月、あるいは半年以上もそういう時があるよ。必ず、そういうような長い期間に自分ながらもみあうような時があるんだよ。その期間も悪くないというんだよ。そういう期間が長ければ長いほど、神の恵みも必ず大きくたずねてくる。すべてが、上下関係、左右関係の立場で、神の恵みは我々人間にたどってくるんだよ。
だから、もし淋しい時期が来たとしても、力が出ないような基準があるとして、そこで落胆したりしてはいけない。そういう期間があるからこそ、谷を程えることができるんだね。そこには神も干渉できない、サタンも干渉できない、自分一人ながらやっていかなければならない、そういう期間があるんだよ。暗礁地帯みたいな、そういう期間が。腹いっぱい力を出そうとしても出せない。神に自分は捨てられてしまったような思いがする。神がいるかいないか思いもつかない時があるんだよ。そういう誓いかにして乗り越えるか。
過去の神によって祝福された恵みに対して、蜜に酔った時のような、その喜ばしい心持ち、それが必要だよ。過去の自分をこういうように守って下さった神は、愛する自分の親である。わしは間違いなく神の子供である。いかなる曲線をたどっても、結局は愛の目的の立場に神は我を立たせる。その問題は間違いない。こういうような過程を通過させるのも、我にもっと大きい何かを悟らせる、あるものがあるから、こういう期間を自分に下さるのであって、自分の行くべき道をふさぐために、神はこういう淋しい立場に立たしておくんじやない。そういう立場に立てば立つほど、今まで神共に我を守り、励ましてくれたそういう基準を中心として、間違いなく神は自分を愛しておるという、信仰でもって乗り越えなければならない。誰が何と言おうと、この期間は克服するんだね。誰も頼りにできない。自分ながらの存在を認められないような立場に落ち込んだとしても、絶対に落胆してはいけない。
そういう時に、過去において自分を神が守って下さった経験からみて、愛する自分の子供をこういう立場に立たせた神自体は、非常に苦悶しているに違いないというんだね。そうだろう。親は子供が苦悩の立場に陥った時、その子供を見て、あるいは知って、これはもう苦悩の立場に立たざるを得ないと同じ位置なんだ。まあ、そういう時になればなるほど、神は我々をもっと愛したい心が内心には高まっている。しかし、立場がこうだから愛することができない。しかし、これさえ抜け出れば、必ず神の愛は自分にたどってくる。そういうふうにして信仰で乗り準える。そして乗り越えて行った場合には、必ず大きい恵みにつながるんだね。こういう体験を、あんたたちは何画かすれば、いかに淋しい所でも、孤独な立場でも、絶対、郷旨に対して疑ったり、行くべき道に対して思案したり、そういうことはあり得ないというんだね。」(一九七四・十一・二十六)
②
「自分が苦労の道にいる時は、泣いたり騒いだりするな。生きておられる神様は話を伝えなくとも、私がおかれている立場をあまりにもよく御存知だからである。」(『御旨の道』 )
③
「あなたは、神と一つになっている限り、神は自分を見捨てないという確信を持たなければならない。」
④
「君たちは時々、自分は孤独だと感じることはないの? 誰も自分のことをわかってくれない。家庭からも反対され、教会のメンバーたちさえも、自分に同情してくれない。先生も自分のことはわかってくれない。そしてさらには、神様からも愛されていないのではないかと思うくらい、孤独で寂しいと思う時があるだろう。そのような時こそ、信仰が試される時だ。他人から何と言われようと、他人が何と思おうと、けっしてあきらめることなく、自分が正しいと信じる道を歩み続けると決意するならば、その瞬間、君たちは信仰者として最高の基準に到達することができる。その基準に到達した時に、神様は無条件で君たちを信頼することができる。そして君たちは飛躍的に発展することができる。だから孤独の時、寂しい時こそ神様のことを思いなさい。神様を信じて、けっして希望を失わないこと、これが信仰者にとって大切なことである。
苦難に直面した時、たとえ自分の身が死んでもこの道を行くという決意と勇気を持ちなさい。君たちは死ぬのは惨めだと思うかも知れない。しかし神様の御旨のために死ぬことは、けっして惨めではない。それは敗北ではなく勝利なのである。全霊界が君たちを英雄として歓迎するだろう。なぜか。それは蕩減復帰の法則からいって当然のことである。君たちは、神様のためにすべてを捨てた。愛する父母や兄弟姉妹、学校、職場、すべてを御旨のために捨ててきた。だから神様はこのような君たちに対して、すべてを与えようとされるのである。それが蕩減復帰の法則である。わかる? 先生は正にこのような道を進んできた。」
⑤
「先生はまあ死んではいないんだけれど、何十何百何千何万というような死の境地を中心として願い戦った。その時は何を残すか。いくらでかいことを言っても、その境をいかに通過するか。ああいうふうか、またこういうふうか、直行するか。直行するよりも神の御旨に効果がある場合にはこういうふうにもいける。しかし、それがマイナスになった場合には、目をつぶって行く。それには何の思いも持たず、ただ一念で行く。
それで、ああ泣き所をしながら、辛い、イエス様がそうだろう、カルバリの山頂に向かって、十字架をかかえつつ、追いに追われて行くその道端には、まあ、母さんとか、自分の弟子や、いろいろな心情的ひっかかりが残っている。それを考えれば悲しいその道である。しかし、イエス様自体、自分がこういうような惨めになっていくんだけれど、これは、神の御旨で十字架を背負って仕方なく行くのであって、あんたたちも仕方がない方法でやってくれとは絶対言わない。それで堂々と永遠の運命の道と思って、神にまともに向かいつつ慎重な悪度でいったという所に、イエス様が万民の救い主に至る権威に立たれた。その基準を我々は忘れてはならない。それ自体辛いとしても、辛いという思いを持つな。あるいは苦しくても、苦しいという思いを持つな。自分に関して繋がっているその苦労の件に対しては絶対に祈るな、祈るな。それを考えてみなさい。神は今まで、六千年の歴史を引き継ぎながらいかなる苦労があったであろうか。その苦労を今まで、誰に訴えることができたであろうか。一人もいない! あれやこれや積み重ねた、山程の、口先などでいい表わせない、その痛みの心中の堆積物はどれだけあろうか。これを思った時、我、自分の何十年の生涯を過こしたそのことが、辛いとして、神の前に、『こういうお方の前にこんなに苦しむことがありますが、どうぞ助けて下さいまして、どうかしてこの環境から逃がして下さい』と祈れるか。先生はそうしない。そういう時は絶対祈れない。自分に直結する問題であったならば、自分と直接の問題であったならば、それが自分の家庭に終結する問題であったなら絶対祈らない。
関係を持っても、国家的世界的内容の関係であったら、それは祈るのであって、自分のことに対しては、それは神が心配してくれる。いくら自分が問題をかかえて心配しても、解決するその力がないものが心配するのであって、愚かな者である。それは神に任せた!
我々はくるべきものを、自分の運命として、喜びに迎えて行くことができるか、それ自体が問題であってそれを神に背負ってもらって解決するよう願う者になってはいけない。それは孝行息子じゃない。だから神に近よる道は、誰よりも誰よりも神のために自分を忘れて苦労することである。その神のために苦労するというのは、自分を忘れて日本を愛する神のためである。日本を忘れて世界を愛する神のためである。故に我々は世界を忘れて神直接に侍るために、自分は苦労するというような立場に立ってこそ神と一体化する。」(一九六九・二・三)
⑥
「だから急ぐな!苦労の道を急いだら逃げ口しか見えない。十字架の道において急いだならば、それは後退の道しか見えないんだね。その道が千年続いても我は行く、そういう変わらない確固たる基準を自分自体、自分の足場の下に、いかにそれを正しておるや否や。そういう問題を中心として心配しないといけない。自分一人が過まるのは問題じゃない。自分一人滅びればいい。しかし自分のために関係してるあらゆる多くのその生命が引っかかっておる。嫌ながらもこれを克服しなきゃならない。それを考えてみなさいよ。」(一九六七・六・二十三)
⑦
「ある一時においては統一教会は良い、どの位良いのか。世界的だと聞いているが、処刑するような場において、君統一教会を信じるか。信じてないか。このような試みをしてみたい。これによって皆さんの信仰がわかる。私が今まで直面した信仰的な試練路程を思い出す。一度このような試験をして信じることができるのである。そして私が知っている最後の多くを教えたいのであって、そうでなかったら教えたくない。」(一九七一・三・十四)
(五) 復帰の公式路程 一、復帰の道
(五) 復帰の公式路程
一、復帰の道
①
「復帰という救援歴史は再創造の歴史であるから、再創造歴史を成していくには三段階過程を経ていく。神様を中心とした人格的基準からみる時はアダム、エバがおり、天使がいた。神様は主人であり、アダム、エパは子女であり、天使は僕であった。堕落によって私達は人間はどうなったのかといえば、僕が人間を主管したために僕の僕の立場に落ちてしまったのである。
それで、人間が神様の子女の立場に帰ろうとすれば、僕の僕の立場から飛び越えなければならない。それ故、人間は歴史過程を通じて僕の僕の立場から僕の立場へと復帰して来るのであり、それが旧約前時代から旧約時代をいうのである。サタンが我々人間を僕として主管しているゆえ、人間は堕落した天使長より秀れなければならない。その天使長は堕落しなかった天使長の基準に立たなければ堕落した天使畏を屈伏させることができない、これが我々の信仰の本質的な路程なのである。サタンと戦って勝たなければならないし、堕落したアダムができなかった基準をたてなければならない。」(一九七五・一・二十六)
②
「そうすると、神はこういう堕落した世界を救わんために、六千年の歴史の間、いかに苦労してきたか。我々は神に対して孝行を尽くすが、この現実において孝行を尽くすだけで、それですむか。そうじゃない。神は六千年の歴史を通過しながら数多くの我々の先祖を立てて、孝の道、忠の道を教えてきたが、我々の先祖は一時として善なる孝の位置、善なる忠の位置に立ち得ずして、皆失敗してしまった。それを神白身が引き継いで、ずっと今までの先祖仲達の失敗による残りなどを、すべて神がとり継いで、これを先頭に立って開拓していったのが神である。」(一九六七・七・九)
③
「神様自体からみた場合、神様自体が結局は、サタン世界において僕の僕の道を辿っていったというんだね。それから僕の僕の道、僕の主人の道、それから養子の道、庶子の道、実子の道、アダム、エバの道、すべてを全部、神様自体が原理を再び合わせるために、そういう道を今まで歴史を通して辿ってきているというんだね。それ一回だけじゃない。人間は知らないからね。行く途中に反対した場合、新しい者をまた立たして、何百回も何千回も繰り返しながら、この道を辿ってきたわけだ。だから歴史においての神が心情をつくしたことは、もう、言うに及ばないんだね。」(一九八一・十一・十三)
(五) 復帰の公式路程 一、復帰の道 僕の僕から
(五) 復帰の公式路程
一、復帰の道
・僕の僕から
①
「だから肉心の願う道は、身体を中心として自分の気ままに、自分を中心としてすべてをやって、自分に対して皆が崇拝するような、自分を中心としてすべてをなすということだ。これが肉心の欲望だね。それはサタンの欲望である。そういう立場だったら神につなぐことは絶対できないんだね。これを完全に無にしなければ神につなぐ道はない。犠牲とか、服従とか、奉仕とか願うものはないんだね。服従を願うものはない。犠牲を願うものはない。本当はないんだ。そういうふうにするのは、外的肉心につながっているサタン圏の要素を減滅させるための一つの作戦、方法である。
そういうふうにして、どうするかというと、上がって行かなければならない。では、最初の段階はどういうようにして上がっていくのかというと、この世の人たちは皆サタン圏におさまっている。サタン圏をみれば、サタンが主人になって、世の中の人はサタンの僕になっている。そういうような世界によって神が出発するには、サタン世界の主人の立場に立つことができない。一番の最後の立場、サタン世界の僕の僕の立場から始めなければならない。僕の僕の立場に立つというのは、サタン世界において主人がない。その主人たるものはサタン世界の僕である。だからその道からその信仰の再出発の基準を得なければならないんだね。だから僕の僕の道というのは、神様を中心としてではないよ。サタン世界の僕の僕の道に陥っていかなければならない。そうしたら、自分が信仰の道に行くためにサタン世界の僕の僕の道に立ったとするならば、その立った位置は、一人、その基準を代表したそういう一対一の立場ではないんだね。一対世界的である。だからこの僕というものは自分も知らないうちに(その僕の僕を)憎くて憎くてたまりきれないんだね。仕事をやらせても、『続けてやれ、死ぬまでやれ』という。
だからこの世の中の僕の中で一番悲惨な道を乗り越えなければ、僕の立場に行く道がない。それが歴史的である。歴史的というのは過去、現在、未来。だから毎日を、十字架をつけながら殺さないで、それを続けても行くような、そういう道を行かなければならない。一日の十字架ではないよ。生涯かけての十字架を僕の僕としていじめられながら、そうやつても神の国に入るには、それを続けて耐えていかなければならないのが、神に帰る道である。そういうふうにしてサタンの僕が、『あまりにも自分がやったことがひどい。彼に対してやらなかったことがない、すべてのことをやった。人間として考えてみた場合には、想像もつかないほどのことをやった』ということを、自分なりに感動するような、反省するような動機を持たなければならない。そういうように話かけてみた場合には、結局、だんだん感動するんだね。『自分は悪かった』という、悪かったという度がどんどん高くなることによって、天の方がその僕を感動させるというんだね。そういうようにして、自動的に服従しながら逆に『君が、わたしが君にやったより以上のことをやってほしい』。そういうふうにならなければ天に通じる道がない。そうなることによって結局、自分の内心が迫害を受けてサタンが屈伏して、(サタンが) 『自分が迫害したより以上のことをやってくれ』という立場に立つというと、内心の勝利圏が外身、身体の勝利圏まで拡大する。そういうような基盤を開拓していかなければならない。
そういうふうにして、僕として立ち、僕の相続圏を受けたとしても、それでもうおしまいではないよ。そうするとサタン世界の主人のものがまた、サタン主人として世界的に迫害するんだね。ありとあらゆる迫害をする。口で言われないほどに迫害する。その迫害を受けて受けて、ある期間を通過することによってその十二人が、迫害されるその者に感動されて自分自身を悟りうるようにしないといけない。『自分が間違っている』、こういうようにして自然屈伏されることによって、姓和局、サタンの十二人を屈伏させることができる。わかりましたか? その立場を越えて初めて、僕の上の養子圏に立つことになる。養子圏に立ったとしても、結局、サタン世界の養子を中心として迫害するより以上の迫害を受けるんだね。こういうふうな段階を毎度繰り返しながら上がっていく。」
(五) 復帰の公式路程 一、復帰の道 復帰の八段階
(五) 復帰の公式路程
一、復帰の道
・復帰の八段階
養子の上は何かというと庶子である。養子というのはまるっきり親が違うんだね。庶子になった場合には片親が同じだね。近くなるんだね。だから養子がその家のすべての相続を受けるには、その親に絶対的信頼を受けなければならない。親からみた場合には、世の中の子供たらと比べてみて、それに劣るような養子は願わない。多くの子供と比べて自分の養子になる者が、その子供より勝るように誇りたい、そういう立場に立つのを願うんだね。だからその養父母は、世に言われないほどのいろいろなことをやらせる。それでも服従しなくてはならない。そこに不平を言ったらいけない。完全に一つになるようにして、その養子によって養父母が自動的に感動されて、『私のすべてを、すべての財産を君に譲っていく』。こういうような立場に立つことによって、初めて養子圏の勝利権を得ることができるんだね。
それを終えた場合には、それから庶子の立場、庶子の立場に上がった場合には実子の立場、その実子の立場に上がるには、そのまま上がってはいかれない。実子になるには原理によって実体基台というのと同じように、カイン・アベル、カイン・アベル問題がいつもひっかかる。その親の前に必ずカインがある。カインは兄さんである。不良少年、不良兄さんだね。その兄さんを救ってこなければ実子になりません。庶子もそうなっているし養子も皆そうなっている。そういうふうにして実子になって帰るには、その二人が一つになる。兄弟が一つにならなければならない。その兄弟が一つになって初めて何に会うかというと、母に戻るんだね。その母は二人のカイン・アベルという子供を完全に一つにして、乳を飲ませても、兄さんに右を飲ませ、弟に左を飲ませ、それを何回も変えたとしても、その二人が威ったらいけない。完全に一つになったという外的に一つになった兄弟基準、そして母と三位基台一体となった後に初めて自分のアダムの方に帰るようになっているんだね。そのアダムは一人では神に絶対帰れません。エバを抱え、カイン・アベル四位基台をつくって初めて天に帰ることができる。それが復帰路程である。この道は、アダム一人が堕落したとしても、万民がその路程は皆受け継いでいる。誰でも、その道を行かなければならない。それで今までの宗教、キリスト教からみれば、独身生活を行った。結婚を許さなかった。それはカイン・アベル圏に属している。キリスト教をアベルとすれば、この世はカインとして、カイン・アベルが一つにならなければ、母のところに戻っていくことができない。そういうふうになっている。だから復帰路程は、僕の僕から、僕から、養子から、庶子から、実子から、母から、アダムから神まで八段渚。それから個人復帰、家庭復帰、氏族復帰、民族復帰、国家復帰、世界復帰、天宙復帰、神様、八段階。みんな八段階の段階をもっている。霊界へ行くにはこの道を勝利していかなくてはならない。霊界と地界には、こういうような八段階のはしごが残っている。その一つを上がるには、数千年、数億数万年もかかるんだね。そういうふうに上がっていく方法を知らなかった。上がっていくには、そのまま直接こちらからはしごを持って上がれば一番理想的だけれど、そう上がることは絶対できません。必ず上がっていくには、自分の家から出て他の所へ行って、怨讐の僕の僕の基準、それは自分の家でそうやるのではありません。自分の家の父母を中心としての僕の僕ではありませんよ。一番サタン的な所へ行って、そこの僕の僕の立場に立つ。結局、自分を中心として自分白身がアベル的僕の立場に立って、カイン的僕を求めていくんだね。わかりました?
(五) 復帰の公式路程 一、復帰の道 自然屈伏
(五) 復帰の公式路程
一、復帰の道
・自然屈伏
アベル的僕の僕の立場に立って、何を求めて行く? カイン的、サタン的僕の僕の立場を辿っていって、そのカイン的な僕の僕を感動させて、自然屈伏させて、その僕の僕がアベルの僕の僕に対して絶対服従する立場に立たなければ、帰ってこられない。絶対帰ってこられない。なぜそうかというと、この原理結果主管圏というその基準は、誰が上がる道かというと、アダムとエバが上がる道である。だから長男、長女が初めて上がる道である。長男、長女だよ。しかし堕落した世界において、長男が結局はサタンの方に立っているんだね、そうだろう。カインが長男だろう。それはアベルを中心として復帰の摂理をするんだから、カイン自体が長男の立場である。だからアベル自体がいくら原理結果主管圏を上がるといっても、上がる道はないんだね。上がれない。問題は、長男の立場の基準を受け継いだ後に上がる道が生まれるのであって、その前は絶対上がれない。それは原理である。だから長男のその権限を与えられるには、それを堕落したカイン圏がもっているんだから、僕の僕の立場にあるカイン圏に辿っていって自動(自然)屈伏させて、兄さんの立場の者(カイン)が、『どうぞ、君がわたしの前に立って、兄さんの立場に立って、我を率いて天に帰ってくれ』と言うような僕の僕の立場のアベルを、兄さん(カイン)の前に立たせて押してやらないというと、(アベルが)兄さんの立場に立つことができない。それを押してくれれば、兄さんの立場に立ったような基準になって、帰って来ることができる。そして僕の僕の基準から僕に一段階上がるというんだね。わかりました? 何の話か。
なぜここで直接上がれないかというと、もともと原理は長男長女が上がるようになっている。長男が上がるようになっているのに、摂理に則しているそのアベルは長男ではなく次男だよ。アベルだから。これが問題だ。この間題のために、歴史は、神の摂理は延長されてきた。これは宗教世界において一つの地獄のどん底みたいなものだね。その淵を乗り越えることができなかった。我々はそれを知っている。わかっているから克服して帰ってくることができる。こういうふうにして僕の僕の立場から兄さんの立場に立って帰ってきた。その基準において、僕の僕から僕の基準に上がることができる。長男の権限を持つことができる。わかりました? それから僕の基準に上がってきたとしても、主人の基準はまだない。自分は主人ではない。だから主人の基準を得るには、また出て、サタン世界の主人に対して自分は僕の立場に立って、自然屈伏をなすような、そういう苦労の代価を払って、その主人自体が『自分が僕になってもいいから、あんたがこのすべてを受け持って帰ってくれ』というように、(自分の)兄さんの立場、先頭の立場に立たしてくれるようにならなければ、主人の基準に帰っていくことはできない。そうして、僕の立場から主人の基準に上がる。それが復帰路程だよ。
それが僕の主人の基準では、まだいけないんだよ。養子の基準に行くには、またサタン世界養子圏に出ていって、そういう闘いをするんだね。そうして自然屈伏させることによって、弟の立場から兄さんの立場を得て、それから初めて帰ってきて僕の養子の権限を持って上がることができる。それを上がったといっても、庶子の立場には上がれないんだね。
また、こいうように横に行って、弟の立場から兄さんの立場を自然屈伏させる。そういう基準を立たせて、それから実子の基準に上がることができる。実子の基準に上がったとしても、それはそのまま上がっていかれません。カインがおるからカイン世界に行って、闘って勝利して、二つともに連れてこなければ、実子圏を乗り越えることはできません。これを乗り越えて初めて、アダムが堕落しない前の基準に立つことができる。
(五) 復帰の公式路程 一、復帰の道 夫婦で神の直接主管圏に
(五) 復帰の公式路程
一、復帰の道
・夫婦で神の直接主管圏に
そうなった場合には、アダム一人ではいけないんだね。エバが必要である。エバを得るには、自分自体が工バを創造しなければならない。この世の中にイエス様が来られた。メシヤはアダムの代わりだよ。もともとエバは、アダムの肋骨を抜いて造られた。それはアダムにかたどって造ったという意味だね。アダムによってエバは造られたんだから、アダムはエバを造る。エバを復帰しなければならない。エバを復帰するにはどうするかというと、結局、自分の直系、自分の一家内の家庭ではなくて、サタン圏のカイン的な家庭のある女性を復帰してこなくてはいけない。探してきた者がすべて完成されて理解する者ではありません。反対するものである。反対されるようになっている。あらゆる方面に合わないんだよ。旦那さんの言う、アダムの言葉がみな信じられないし、その旦那さんがいやである。この世的からみれば、仲の悪い夫婦間以上の基準に立たなければならない。それで反対するんだね。反対する内容を耐えて、反対したその者が悔い改めて自然屈伏する、そういう基準に立たなければ帰ってこられない。同じことだね。そういうふうにして復帰していくんだよ。それが反対した場合には、まるっきり反対される。なぜ反対するかというと、サタンの方に立つからだね。だからまるっきり反対する。その立場を耐えていかなければならない。こういうふうにしてエバを中心として、エバが絶対的にアダムに自然屈伏するようにならなければ、アダムとしてエバを迎えることはできない。
堕落は何かというと、エバがアダムを引っ張っていったことでしょう。その反対に、完全にエバがアダムからどんなことを言われても聞くようにならなければならない。アダムがエバに対して、他のところにお嫁に行かせても、どんな乞食みたいな者に行かせても服従するような、どこへ行かせても服従するような立場に立たなければ復帰はできない。それから(アダムが)他の人を愛したとしても、それを歓迎するような立場に立つような女でなければならない。なぜかというと、過去、自分自体が堕落をして他の男を愛した歴史をもっているから、それを蕩減するには、そういう立場に立たせても女は不平を言うことができない。だから今までの女の世界には、妾とかいう立場でも不平を言うことはできなかった。そういう歴史の基準が残っている。
こういうふうにして結局、初めて堕落しない前のエバの立場に立って、二人が一つになる。しかしそれは、絶対、自分自身を先に立てるのではありません。堕落はエパとかアダムとかが、自分を考えることによって起こったんだから、その反対に、絶対、自分の思いのままではいけない。自分の旦那様よりも神様に対して、より高く侍らなければならないし、男は自分の奥さんより神様を第一にしなければならない。そういうように絶対的な立場に立って神の愛を受けることによって、神の愛の主管圏に立つことによって、原理主管圏の長成期完成基準から、完成基準に上がるんだね。七年間で。いかなる迫でもこの道を行く、この道を行って成す、というような夫婦でなければ、神の直接主管圏に入ることはできません。これが復帰路程である。
これを果たすことによって、人間の失った責任分担を果たすことによって、神の愛の絶対性、原理の絶対性、創造の相続権を受けるというような、そういう権限を受けることができる。」(一九八一・十一・十三)
(五) 復帰の公式路程 二、真の父母の道
(五) 復帰の公式路程
二、真の父母の道
①
「我々は現実における神に親孝行するには、神がいかなる道を歩いて来たかという神の内情を知らなければならない。また、苦しい、寂しい、悔しい、あるいは悲惨だったという、歴史的なサタンと人間を中心としての戦いに対する神の心情を知って、今までにかかわりあるすべての神の苦悶を、我々地上における、現実における人たちが、みんな拭いとってしまわなければ、歴史を通しての神を慰めることはできない。現実の神であり、歴史的神だから、神の苦悶、神の寂しさ、神の辛さ、そういう問題を、この現世の、そして歴史過程の神の心の痛みとして、我々はそれを取り除いてやらなくてはならない。過去において孝なるものが現われなかった、忠なるものが現われなかったから、歴史を代表して、そういう立場をとり、心に掛かるすべての内情を解いてやらないと、現世において神を安らかな神、喜びの神として迎え入れることができないのです。そして、現世において神が苦労なさるすべてのことに対して我々がそれ責任を持って蕩減して、今後我々の子孫に残す罪がないように、これを我々一生において退けてしまわなければならない。そういうような責任を持って、我々は神に忠孝を尽くし得る者でなければ、歴史過程を通過し、現在と未来を通過する神を、本当に幸福な立場に立たせることはできない。」(一九六七・七・九)
②
「そういうふうにするには、歴史的犠牲になってすべての罪を我が背負い、現世のあらゆる国のすべての罪を我が担い、あるいは後世に残す、子孫に残すべき未来の罪まで我が背負って神のみ前に立って捧げものとなり得るような、いわゆるイエス様が十字架につけられたような、身代りになるような立場に立つ者でなければ、全体の、すべての罪を蕩減することはできない。思えばこれは神々しい歴史の荷が我々にかかっているということを知らなくてはならない。
こういう、いわゆる縦的歴史において、すべてのことを横的に、六千年間のすべての罪のことを、横的に、現実において、あるいは未来をも代表して、これを蕩減しなければならないという使命を持った人が再臨の主である。だからその人は、アダムの身代りとして涙を流し、ノアの身代りとして涙を流し、アブラハムの身代りとして、あるいはモーセの身代りとして、あるいは洗礼ヨハネの身代りとして、あるいはイエス様の身代りとして、あるいは二千年歴史の間の数多くのキリスト教会における悲惨な殉教者の身代りとして、神の心を休めるように贖いをしなければならないのが再臨の主の立場である。そして、歴史的にすべて神に反対してきたサタンが、何一つすることもなく、歴史を通して勝利した、自分が勝ってきたという条件を立てることもできないような立場に立ってこそ初めて歴史的な新しい天の勝利圏が始まる。」(一九六七・七・九)
③
「先生は自分の親や兄弟に対して伝道することをせずに、じっと黙っていた。なぜか。それは、初めから親や兄弟を自分の味方にして、いろいろ助けてもらったりする事は、神の伝統に反するからである。神はじっとただ一人で、あらゆる困難を耐え忍ばなければならなかった。だから先生も、そのような路程を行かなければならなかったのである。先生は神に対して『助けて下さい』と祈ったことはなく、『どうか私の闘いぶりを見ていてください』と祈った。」(一九七九・一・一)
④
「悲しみや涙の好きな人がいるだろうか。我々はいつも悲哀や涙などというものは、できることなら避けるべきものだと思ってきた。しかし、それは正しい観念だろうか。我々が神と人類のために悲しみを負い、涙するとしたら、その悲しみや涙は、最も価値あるものとなりうるのである。それは、君たちが神の心を占領するために、用いることのできる二つの道具だともいえる。
お金や知識や権力によって神様の心を奪うことはできない。しかし、他の人々のために献身する者の涙は、神様の心を占領することができる。北米大陸の最高峰はマッキンレー山である。しかし、君がそのマッキンレー山と同じくらい巨大なダイヤモンドを持っていたとしても、神様を買うことはできない。神様は、そんな安物ではない。しかし、その神様の心を、神と人類のための悲しみによって占領することができる。神様を君たちのものとすることができる。
神様は、どうしてそういう悲しみや涙の前には、どうしようもない気持ちになられるのか。それは、御自身が、いつも涙をためてこられた神様だからである。誰でも、そういう神様に似た心をもった人がいれば、そういう人の心にふれる時に、神様の心情は動かされるのである。そしてそういう悲しみのわかる者だけが、神様の真の心を理解できるのである。
もしここが天国であり、ここからが地獄であるというように、はっきりとわかれているとしよう。一方には、悲しみや涙を味わう機会を一切無視するような人々がいて、他方には、神と人類のために悲しみを味わう人々がいる。そこで、神の心情は、ちょうどその中間にあるのである。だから天国には、涙と悲しみにおおわれた神の心情圏を通過することなしに、行くことができないのである。その道を行く以外に、天国へ行く道はない。
神は全能なる方であるから、御自分の子女を失われたときの悲しい心情においても、誰よりも繊細に、鋭い痛みとして感じられた。また、この地上のどんな親でも、わが子を失った時、神以上に深く苦しむことはできないだろう。神は苦しむことにおいても、全能であるからである。全能なる神は、あらゆる面において全能なのであり、それは、誰よりも涙や悲しみを深く知る能力をもっておられるということである。神は全能なるがゆえに、涙や悲しみにおいても、無限に繊細で鋭敏な感受性をもっておられるのである。
では、その無限なる痛みの中にある神様を、何をもって慰めることができるのだろうか。誰が慰めることができるというのだろうか。そういう時にも、もし君たちが、神よりもっと多くの涙を流し、もっと深い悲しみを知った人であるならば、神は君の言葉に耳を傾けようとされるだろう。その時こそ、神様の胸をつかむようにして言うのである。『あなたの悲しみを、どうか私に味わわせてください』と。それが、神を君の慰めの言葉に耳を傾けようという思いにさせる、唯一の道である。そうすれば神は、君の言葉に耳を傾けられるばかりか、そういう君を抱きしめたいような気持ちにさえなられることだろう。
今までのような悲しみの涙ではなく、神のために献身的に尽くしてくれた子供たちに対する感謝の涙を流したいというのが神様の願いなのである。
誰かが、アダムとイヴが自分のために流した涙よりもっと多く、神のために涙を流し、彼らが自分のために苦しんだよりもっと深い神のための痛みを通過しない限り、復帰は不可能である。もしそういう人がいるとすれば、その人の心こそが、真に神の心情と神の想いの世界を感動させるのである。そしてそれが、神に悲しみと涙をもたらしたアダムとイヴが復帰されうる唯一の道でもあるのである。
我々は、神の悲劇の涙を、神の喜びと感謝の涙に変えなければならない。我々が、この転換をなしえないかぎり、人類の復帰を可能とする道は絶対にない。それは極めて論理的にそう結論しうる事実であり、真理である。
では、メシヤとはいかなる方であり、メシヤの資格とはいかなるものだろうか。メシヤとは、この地上に来て、神よりもっと苦悩し、神よりもっと涙し、神よりもっと働き、地獄の底のような苦難の中に自らを陥れながら、そこから自分で上がってきて神を慰め、神の涙を喜びの涙に変えるように運命づけられている人である。だからメシヤの候補者たる者は、自分のためにではなく、神のために苦悩し、神のために涙する者でなければならない。
メシヤは、神に助けを求める祈りをしない。『私は神を解放し救うためにいるのですから、どうか私を信頼して下さい』と神に嘆願して祈る者である。そういう人であって初めて、その人はメシヤ候補者になれるのである。それは先生のひとりよがりな思いつきではなく、先生が宇宙の原理を発見し、事理への扉を開いてみた時にそこに見い出したことである。
先生は、君たちに知ってもらいたいのである。神は、くる日もくる日も涙にくれ、くる年もくる年も涙にくれ、永遠なる神であるがゆえに、永遠に涙のかわく間のない神様であることを。あの日以来涙の虜となられた神は、今なお涙から解放されないのである。誰が神を解放することができるのか。神が神を解放することはできない。人間だけが、神に救いと解放をもたらすことができるのである。もっともっと多くの涙が、統一教会の君たちによって流されなければならない。先生白身、今までの人生に多くの涙を流してきたけれど、それでも今、もっと多くの涙を流していきたいと思っている。それが君たちの先生の姿なのに、君たちは安楽な生活を送りたいと思うの?
一つの家庭を復帰しようとするだけでも、多大のエネルギーを必要とする。それだけでも生涯にわたる献身が必要であるといっていいくらいである。しかしここでは、一つの家庭の復帰を問題にしているのではない。それさえ不可能な難事のことく思えるのに、ここでは天宙復帰という、人類数千年の課題について語っているのである。誰かがそういうことを言うと、人は狂人だと思うかもしれない。しかし先生は、何十年も前から、そのことについて語ってきた。この思想をもって世界を揺さぶろうというんだから、まさに狂気と見えるのも当然かもしれない。
しかしながらこの道は、なんの喜びも笑いももたらしてくれるわけではなく、むしろ悲哀と涙と苦労の道である。先生のことを、あまり繊細でないか、むしろ鈍感であるかのように思っている人がいるかもしれないが、そうではない。先生はおそらく誰よりも繊細な人間である。打たれたり、何か悲しいことにあえば、そのままでは先生も泣いてしまうだろう。しかしそういう時、先生はいつもまず神様のことを考える。そして、『私が神様を解放しなければ誰が解放するだろうか』と思うと、『神よ、大丈夫です。私はこんなに元気ですから心配しないでください』と神様を慰めずにはいられなくなってくるのである。それでも先生は、神様が先生のために涙してこられたことを知っている。だから神は、統一教会のことを忘れることができないのである。霊界と交流する霊能者たちの中で、時に、先生について知りたいと思って霊界に聞いてみる人がいる。すると霊界からの答えはいつも、毎日毎夜、痛突するという形で返ってくるというのである。先生の事は、涙でなくては言い表わすことができないのだろう。統一教会において涙のない者は、決して勝利的にこの道を歩むことはできない。
先生は、涙の味わいを知らないなどという人の心というものが、どうにも理解できない。また涙を知る人にしか、先生を理解することはできないだろう。ここにいることが、神に至る近道であり、神の心情へ通ずる一点だとすれば、当然ここは涙の味がわかる者たちのいる所であるはずだ。
先生は現在に生きているが、先生の涙は、歴史上のあらゆる聖人たちと交わってきた。この世界が先生のことを知る日が遠からす来ることを、先生は確信する。今は知らないために、先生を批難しているが、ひと度、先生を知る日が来たならば、世界の人々は涙して、先生に応えてくれるだろう。
我々は、涙と悲しみの基台の上に、神の国の王権を立てなければならない。悲しみの王となって初めて、真に神の国を建てることができるのである。神は、自らの王国を失ったいかなる皇帝よりも、もっと深く嘆き悲しまれた。自分の王国が滅ぼされ、妻や子供が敵に略奪されて陵辱を受けるとき、その様を見る王の心はいかばかりだろうか。悲嘆の極みであろう。しかし、神の国を失われた神の心情は、それよりもっと悲しく辛かったのである。
神様は、いかにして、その悲しみを忘れることができるのだろうか。この天宙の何を見ても、すべてが神の悲しい心情を刺激し、あの悲劇の一日の記憶を甦らせるばかりである。しかし、ついにある日突然、一人の人が現われた。『神よ。私に後を引き継がせてください。私たちが責任を持ちますから、あなたはどうか休んで下さい』という人が。」(一九七八・三・一)
(五) 復帰の公式路程 三、七年路程
(五) 復帰の公式路程
三、七年路程
①
「神は七千年の歴史を願って、今まで辛抱してきたのであるから、我々は最初の七年期間に蕩減せすしては、神の前に立つ資格がない。六千年の歴史をいかに七年間に縮小して蕩減し、これを心情的に受け継ぐことができるか。これは容易なことだと思う? 若い時に精一杯やってもやりきれないような復帰の路程が残っている。勉強するのも、何になるのも、すべてこのためにやる。先生がここまで来るには、どのくらいの蕩減の価を払ったか、どのくらい真剣だったかわからない。牢屋が問題ではない、拷問が問題ではない、首が飛ぶのが問題ではない。一度に時来たるその時を願って、黙々と何十年と全生命をかけてきた。その真剣さは神を感動させ、神が同情せざるを得ない。だから先生は黙っていても、世界中の霊能者は先生のために動き出している。世界の津々浦々で、先生の成功のために、霊界を総動員している。(一九六九・二・四)
②
「復帰とは、まさにすべての鍵となる言葉であり、それは実に、実に困難なる業である。そこにおいては、条件なしに段階を跳び越えたジャンプというものは許されず、厳密な公式に従って一歩一歩踏みしめながら、しかもその一歩一歩に全生命を込めて上がっていく以外にない。その途上に、もし自分という意識のある者は、そこに立ち止まることも、前に進むこともできず、そこで消えていかざるを得ないのである。
聖書的史観によると、創造から再創造の完成までは、七千年であると言われているが、この全七千年が、一人の人によって七年間の路程の中に実体化された。そしてそのためには一人の人、文先生の四十年間の人生は、七千年の負債を全部返し尽くさんがために歩み抜かれなければならなかった。もし原理というものを、先生がただ口で語って発表しただけだったとすれば、神も、サタンもそういう原理を原理として認めたはずがない。
公式に従って具体的に負債を払いきらなければならないのだから、そのためには、先生が自分から戦いを挑み、その背いに一つ一つ着実に勝利していく以外に道がなかったのである。サタンもそうして実証された原理に対しては、何も言う条件がない。
こうして語る前にすべて具体的に生活され、すでに実体化された原理だから、この一人の人によってすでに実体的に深し出された復帰の道を、君たちはただ一歩一歩歩んでいけばいいのである。
先生は実体基準ですでに四十年閏歩んで、その上で今、七年路程を歩むことを教えているのだから、あなたたちにはわずか七年間でいいにもかかわらず、この上もっと易しい道を与えてほしいなどという者がいるとすれば、それこそ盗人根性にも等しいものである。
神はこの復帰の道を七千年生きてこられた。神の復帰歴史の七千年である。キリスト教は人類のために七百年の歴史で貢献してきた。その土台の上に、キリスト教徒は七十年でこの路程を歩むが、統一教会は七年間で完了する。クリスチャンは同じ栄誉、特典を得るために七十年の期間を費す。七十年の犠牲と蕩減の道を歩んだあげくに結婚しても、その結婚は意味をなさない。しかし、君たちの場合、七年間という青年期のある期間を通して天国圏に入ることができるのである。
全七年路程において、三年半は夫と妻の立場で歩むが、純潔を保たなければならない。神と真の御父母様の目的に対し、完全に捧げていかなければならない。そしてその頂点に達した時は、天国へと進行するのである。それが原理である。本来は、蘇生期から完成期まで全期間を歩むのに二十一年間かかる。先生自身も二十一年間歩んできたし、統一教会の全歴史は二十一年路程を通過してきた。しかし先生は、君たちに特別な摂理路程を組んだ。二十一年路程をたった七年で歩む路程である。激しい七年路程の働きを通して、君たちはこの段階よりトップの位置まで運成できるようになる。それは祝福である。ある意味では大きな値引きだと言える。また君たちは、先生の電車に無賃乗車しているとも言える。
君たちが行く必要のある路程はこの七年コースである。この路程を完遂して欲しい、無事修了して欲しいと先生は願っている。君たちは七年間で全摂理路程を歩む立場に立つ。七年間は蘇生、長成、完成の三区分に別れる。
この期間に自分の事を考えるような、自己中心的な者がいるとすれば、その者は七年路程を歩めない。堕落性本性とは何か。それは自己中心主義、利己主義で、自分のみを貴重に思うことである。この堕落性本性の中に安住する者は誰でも、七年路程のどの領域をも歩むことができない。たとえ七年路程を歩んだとしても、そこから何ら益として得るものがないだろう。だから無私なる、公的生活をしなければならない。それは最前線においても、伝道においてもそうしなければならないのである。その生活を通過すると次の段階へと移行するのである。
長成期に移行し、真の父母の位置にまで到達するのである。真の父母は、すでにこの道を君たちのために開いて下さっているのである。歴史上、今までこの橋を渡った人は真の父母様以外にいない。君たちのために基台を造成して下さったのである。高速道路を建設して下さったので、その御跡を歩むことによって、同じ高峰に達成できるのである。これが理由で、たとえ祝福を受けたとしても、その後三年間は別離の路程をいかなければならない。 一心不乱に自分を犠牲として捧げていくのである。」(一九七八二・二)
③
「君たちの場合は、先生ほどの苦労をしなくてもすむ。先生がすべてに先を歩んだからである。先生の歩んだ道に従って歩めばよいのである。しかし先生の場合は、誰一人教えてくれる者もなく、自分で切り開いて行かねばならなかったのである。わかる? 安易な道を歩んでいたのでは、決して先生の道に従ってくることはできない。安易に思える道を自分なりに考えて歩んだとしても、結局は後戻りして再び元に帰ってこざるを得なくなるのである。
世間の人々は君たちが統一教会に入って、先生に従っているのを馬鹿にするだろう。『なぜそんな馬鹿なことをするのか』と笑うだろう。しかし君たちは、この道を歩むことが必要であることを知っている。なぜかうまく説明することはできないけれども、心の中の何かが、『この道を歩むことが最善なのだ』と君たちに命令しているはずである。それは君たちの本心で、この道が究極的に神様の愛を追求して行く道であることを知っているからである。先生の場合は、この道を歩むに際して、目に見えない神様に従ってきたが、君たちの場合は、目に見える先生に従って行けばいいのである。我々は神様の愛に向かって歩んでいる。だからこの道を歩むならば、何か気持ちが良いものを感じ、歩まない時は気持ちが悪い感じがするのである。それは本心がそのように働くからなのである。」( )
④
「あなたたちは、先生が歩んだと同じ路程を歩まなければならない。先生は、この道を三十年以上歩んできたが、あなたたちもまた、安易な道ではなく、苦労の道を歩まなければならないのである。なぜなら、まだ蕩減条件を充分に立てていないからである。
では、その蕩減条件を充分に立てているかどうかを証明するのは誰かというと、それはサタンなのである。だから、サタン世界に出ていって、サタンから蕩減条件が充分であることを証明するサインをもらってきて、それを神様に見せるのである。サタンが認めてこそ初めて、神様も認めることができるのである。こういうことから神には何の力もないかのように見える時があるのである。神は、何よりも人間自身が努力して、サタンに勝利してくるのを待っておられるのである。
あなたたちが先生についてきたいと思うなら、安易な道を選ぶべきだろうか、それとも苦労の道を選ぶべきだろうか。苦労して、神様と先生を愛するのと同じくらい、そしてサタンに認められるくらい、サタン世界を愛さなければならないのである。そのようにして初めて、神様からも『神様を愛した』と認められるのである。しかしあなたたちが、神様と先生以上に世界の人々を愛したとしても、神様も先生も決して不平は言わない。神様御自身がそうなるようにあなたたちを導いておられるのだから。」(一九七七・四・十八)
(五) 復帰の公式路程 四、復帰路程の三段階
(五) 復帰の公式路程
四、復帰路程の三段階
①
「原一理的観点からみて、神の摂理路程は三段階に分けられる。神自身を中心とした摂理、天使界を中心とした摂理、そして人間を中心とした摂理である。
まず旧約時代は、神が直接働き給うた期間であり、未来の摂理基台を造成する準備をするために、神御自身自ら先頭に立って、自ら模範を示しながら導いてこられた。次の新約時代は、天使を中心とした摂理時代であり、天使界の働きに相当する霊的摂理として、霊的救いのみを成就する時である。そして最後の成約再臨時代は、実体人間の接理である。 」(一九七七・五・一)
(五) 復帰の公式路程 五、万物と旧約時代
(五) 復帰の公式路程
五、万物と旧約時代
①
「創造原理の観点からみると、神は宇宙を先に創造された。経済基盤を造られたのである。万物、物質を先に造られたのである。復帰摂理は再創造の道である。故に創造原理にのっとっていかなければならない。だから我々は第一に物質を先に手がける。我々は再創造の時、神との共同再創造者となるのである。創造原理に沿って、万物再創造の条件を立てていかなければならない。
神がこの世界を創造される時、遊び半分で中途半端になさったであろうか。全身全霊を込めて集中して創造した。それと同じように我々も再創造の過程において、全身全霊を込めなければならない。自己を忘れた無我の目的のために一日中、くる日もくる日も黙々と働くのである。そしてそこで得たものを神と国家の偉大なる目的のために捧げるのである。三年間、それを続行することによって、犠牲的生活、奉仕精神は君たちの生活習慣となって身につく。それが君たちの人生の生き方になる。
歴史的にいえば、君たちがこの期間を経過することにより、旧約時代を通過することになるのである。なぜならば、旧約時代は万物を捧げることにより、神の前に近づいた時代だからである。だから、統一教会のメンバーであれば誰でも最初に、この基準を通過しなければならない。最初にそれをすることによって、旧約時代の歴史的な負債を支払っているのである。統一教会のメンバーは誰でも、先生もそうである。
君たちが最前線で活動する目的がわかりました? これを通じてアダムになろうとしているのである。今は君たちはまだ万物よりも劣る立場である。だから自分をひき上げ、アダムより以上の立場に位置させ、神に受け入れられたアダムに自分を造るのである。だから、結局は自分自身のための摂理路程を歩んでいるのである。
しかし、実際のところすべての物質、万物を復帰することは非常に困難である。君たちは必死になって働き、ひたむきに汗を流しながら多くのものを投資して行なうのである。したがってその体験、成したことは君たちにとって、本当に貴重なものとなるのである。君たちは、それに必死にしがみついていなくてはならない。君たろはこの責任分担で多くのものを投資する。心、魂、汗、労働など。そうしてここでの経験が成り、実績がでるのである。だからそれは、いつまでも君たちにとって忘れることのできない、貴重なものとなって残るのである。思い出の頂点に立つのである。霊界では蕩減や復帰ほど重要なものはない。蕩減を払って自分自身を復帰した人は、霊界では最も貴重な存在となるのである。
もし君たちがこの期間を通過できないとすれば、神と先生と何らの関係のない者となるのである。だから我々は乗り越えて旧約時代を蕩減していかなければならない。今、君たちはまさに、それをなしているのである。」(一九七八・一・二)
(五) 復帰の公式路程 六、伝道と新約時代
(五) 復帰の公式路程
六、伝道と新約時代
①
「次に君たちは、人間再創造の道へと移行していかなければならない。その理由は、神は万物を造られ、そしてアダムとエバを創造されたからである。人間再創造の道、これが伝道である。この期間は新約時代に相当する。
君たちは三年以内に三名以上、十二名までの霊の子女を復帰しなければならない。イエス様は、三年間に十二弟子を見つけられた。だから君たちも三年間に、イエス様の十二弟子の蕩減復帰をしなければならない。まず、十二人の霊の子女を見つけることである。しかし君たちにぜひ知って欲しいことは、イエス様でさえその三年の末に、十字架にかかる時、十二弟子は逃げ去ってしまったということである。君たちはどの点からも、イエス様より勝らなければならない。君たちは、自分自身が十字架につくような時にも、決して逃げ去ることのない十二人の霊の子女を見つけなければならない。
一つの魂を救うことがどれほど困難なことか、君たち、良くわかるだろう。その経験を通して、先生が復帰のためにどれほど困難な路程を歩んできたか、良くわかるだろう。伝道もまた公的生活、無私の生活をしなければできない。聖書に『一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただの一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる』とあるように、他者を生かすために自分を無にし、犠牲となって行なうのである。すべてのエネルギーを排出して自分を死なせ、その中から新しい生命が誕生するのである。それが伝道である。
だからこの期間はしっかりロープにつながって、公的生活をしなければならない。サタンも神も我々をじっと凝視しているのである。もしそれができないと、サタンが君たちを釣り上げて『これはわしの子だ。神よ、これはお前の子ではなく、自分のものだ』と言って、とりあげてしまうのである。
またある人が先生のところにきて『伝道にどれほど力を入れて働けば良いのでしょうか』と質問したとすると、それに対して『君たちは最前線で一生懸命頑張って、わずかなものを得ることがどれほどの苦労か良く知っているだろう。伝道に人のいてはそれ以上に一生懸命働くのである』と先生は答える。実際、前線の伝統は統一教会の運動の基準を定めるものである。なぜなら万物を復帰するには、大変な努力を注入しなければならないからである。だから万物以上に貴い人間を復帰するには、それ以上の力を注がなければならないことがわかるだろう。
このように伝道において一生懸命努力して十二名を復帰することにより、新約時代を乗り越えることができるのである。新約時代はイエス様が十字架につけられてから始まるようになったのである。十二人の弟子が逃げ去って始まるようになったのである。だから君たらは、十二人の霊の子女を復帰し、しかも十字架につけられるのではなく、新約時代を蕩滅復帰するために生き残り、乗り越えるのである。我々は、二千年前のイエス様の失敗を蕩減復帰していくのである。
そして同時に、アダムの再創造の道を歩むのである。君たちはアダムと工パの立場であり、十二人の弟子が看たちの子女の立場をとるのである。ヤコブの十二人の子供たちが、イスラエルの十二の氏族を率いていった。霊界には十二の門がある。一年には十二ヵ月がある。十二という数は全宇宙をさす。だから君たちは十二という数を勝利しなければならない。
君たち、伝道は何の目的のためにするかわかりました? それはイエス様の摂理路程を蕩減復帰するためである。祝福を受けるためには、イエス様を上回らなければならない。それはどういうことかと言えば、イエス様の弟子は裏切って去って行ったが、我々の霊の子女は決して裏切らない者でなければならないということである。そのためには霊の子女と共に、彼らの先頭に立って昼夜働かなければならない。危険が来たら君たちがそれを封鎖するのである。石で打つなら霊の子女を守って、君たちが打たれるのである。このようにして勝利するのである。」(一九七八・一・二)
(五) 復帰の公式路程 七、祝福
(五) 復帰の公式路程
七、祝福
①
「このような責任者として来られた彼のなすぺきことは、世界的なことであるが、出発はどこからなされたかというなら家庭からである。なぜ家庭から出発するかといえば、すべての事件が家庭から始まったからである。アダム・エバの家庭から始まったのである。
神を家庭から追い出したのもアダム・エバである。男性と女性が道を誤って、追い出したのである。また天使世界を追放したのも、男性と女性が誤った故である。そうだろう?万物世界を失い、人間の価値を失い、人間の愛を失ったそのすへてが何のためであったかというと、男性と女性が誤ったことによるのである。
では、反対にこれを連結させるためにはどうしたら良いのかというなら、正しく会わなければならないのである。誰がですか? 神と人間がですか? そうではなく、男性と女性が誤ることによってすべてを失ったので、原理的内容からみる時、男性と女性が正しく出会うことによって、これを再びなすことができるのである。それで、統一教会の祝福というのは何かと言えば、男性と女性が自分勝手に会うのではなく、神様を中心として正しく会うのである。誤って会った男性と女性により、世界すべてを失ったので、正しく会うことによって、全体が再び神のもとに帰れるよう基盤を整えようとするのが、統一教会の祝福であることを、君たちは知らなければならない。
それではその祝福を神の代りに誰がなすのかといえば、メシヤが来てなさなければならない。わかる?一人の男性が来て、新婦に会わなければならない。キリスト教の再臨時代には、新郎たるメシヤが新婦を尋ねてくるのである。その新婦を尋ねてくるということが、例え個人として会うということでも、縦を逆に上って横的時代における一つの基点を中心として会うそのところである故、これはあくまでも全世界を中心とした、中央の場において会うことを意味する。わかる?( 「はい」 )。このように中央で会うということは、サタン世界が完全に破壊されてしまうことを意味する。それ故、あらゆるサタン世界は、すべてを総動員して、これが成立できないように打ち砕こうとするのである。宗教という宗教はみんな一つとなって支持しない限り、それは必ずサタン側になるのである。支持しない限り、黙っているとしても、それはみんなサタン側に入っていくのである。
キリスト教が支える事ができなかったために、全体宗教圏と全体国家圏はサタン側に入って、キリスト教が基盤としているすべてを、悪辣な中心がサタン側に利用して攻撃するようになるのである。攻撃を受ける立場において、場を定めなければならない。わかる?歴史上かつてなかった最大の戦いの中において、立場を定めなければならない。それを一九六〇年に聖婚式を通してやった。三十六家庭の祝福の時も決死的であった。それで、三十六家庭の時代を経て七十二家産、百二十家庭時代にきてからは地上に立場を定め、七七七家庭時代に入ってからは、東西南北三六〇度に対する方向を定めて、世界的な発展をなしていくのが統一教会の歴史である。そうしながら二十一年間において、数多くの人類と数多くの氏族圏をすべて連結させる家庭の門口を開くのである。そこには五色の人種がみんな入るのである。
結局、神の接埋というものは家庭を中心として、個人的、家庭的、氏族的、民族的、国家的、世界的家庭編成を目標として復帰の理想を求めているのである。それで今、統一教会は世界的な家庭復帰建設の道を、本格的に進んでいるのである。
このように考えてみる時、堕落した人間が祝福を得る一日を迎えるために、神御自身か長い歴史を犠牲にして努力してこられたのである。そしてその間、個人が滅び、家庭、氏族、民族、国家と数千数百万の犠牲を払ってきたのである。それでもこのような神を中心とした祝福の位置を迎えることができなかった。それを統一教会に人のいて戦いぬいて、日本とかアメリカとか世界的になすようになったということは、時代的に非常な勝利圏を造ったということである。わかりましたね。
君たちは祝福される前に、自分の存在はこのような歴史的な中心性をもっているということを考えなければならない。神の摂理が今までずっと数千年の犠牲的歴史を通過してきたのは、結局自分を救うためだったのである。そこに神が動員し、数多くの預言者とか先駆者とか多くの犠牲を払ってきた各宗教とか、そのすべては自分を一人の勝利者として立たせるための、神の愛だったのである。統一教会の歴史もそうである。先生がこのように苦労したのは、先生の救いの道を開拓するとともに、万民に自分と同じような祝福の道を授けるためであった。結局、私のために天は動いてくれたという感謝の念に打たれながら一生を捧げても、なお神に報いることの足りない負債をしているのである。一生を捧げても、神が喜んで迎えてくれるような、そういう者ではない。
しかし、すべてを捧げた場合、神は勝利者として霊肉ともに永遠の世界で、勝利圏の世界で、栄光の世界で迎えてくれるということを考えた場合、恐しいことである。だから君たちは歴史的中心性を背負っている自分であると、そういう過去と現在を背負っている自分であると自覚して欲しい。現在の世界の四十億の生命を自分によって救わなければならい、全体的な関係をもっているのである。そのような価値の存在を得るために、神が犠牲を払い、各宗教が努力をしてきた。しかしこのように歴史的に犠牲を払っても、その価値の存在を迎えた場合には、すべてが報いられる。そのような中心的使命を持っているということを、はっきり知らなければならない。だから君たちが動けば歴史が運行し、日本はもちろん世界が動くのである。」(一九七八・九・二十二)
②
「堕落によって人間は自己中心的になり、自己を中心として愛を求め、サタンの血統に生きるようになってしまったのだから、我々がサタン圏から解放されるためには、まず我々自身が、自己中心の人間から脱却しなければならない。そうすることによって、我々は善なる天使界に相当する立場に立つことができるのである。
次に重要なのは愛によって霊の子女を生み殖やすことである。霊の子女を育て、一人前に完成させることによって、あなたたちもまた、完成した立場に立つことができるのである。このような霊の子女を少なくとも三名立てた時、それを基台としてあなたたちは、自分自身の肉の子女を生み殖やすに値する者となれるのである。
神が、エデンの園でアダムとエバを創造された時、神は一人で人間を創造されたのではなく、天使の助けを借りて、天使と共に人間を創造された。同じように再創造である復帰の過程においても、我々が自らを再創造するためには、神の助けと天使の助けを共に必要とする。そしてこれらの助けによって初めて我々は、自分自身を、完成したアダムへと再創道することができるのである。そうして後に、自ら自身の子女を創造することになる。
これらの過程を通過するには、七年間が必要である。それ故に、あなたたちが完成に至るためには、三段階を通過することになるのである。第一段階は、堕落したサタン世界から分別することによって、復帰された天使の位置に立つ。第二は復帰されたアダム・エバの位置に立つ段階である。さらに第三は、子女を産むことによって父母の立場に立つ段階である。子女がなければ父兄となることはできない。
我々自身は、サタン世界の中に生まれてきたのだから、復帰されたとはいっても、完全にサタン世界から分別しているわけではない。しかし、我々の子女は、祝福によって神の血統の中に生まれて来るから、我々もそれらの子女によって、より高い基準にまで高められるのである。だからそれらの子女が成長し、結婚するまで、あなた方はほんとうに細心の注意と愛を注がなければならない。
ではあなたたちがサタンの血統圏から神の血統圏へ入籍した、と認められるのはいつかというと、真の父母によって祝福される時である。この世に多くの結婚が行なわれているが、それらはすべてサタン圏の中での結婚である。我々統一教会が、裏に誇り得るのは、我々の結婚は神の御名によってなされ、それを通して、神の血統圏に入籍したと認められる祝福であるということである。
我々は祝福を通して、堕落と道程路を辿ることにより復帰されるのである。先生はこの秘密を解明することによって、サタンの妨害を退けて堕落人間が神に帰る復帰の道を開拓したのである。こうしたすべての路程を開拓するためには、誰かが、人一倍苦労して、道を切り開かなければならなかった。先生はこの道を開拓して、復帰の公式を確立したのである。後に続くあなたたちはこの公式をよく理辞して、それを応用して歩みさえすればいいのである。
最初に必要な子女は霊の子女である。あなたたちは、霊の子女を基台として祝福を受け、肉の子女を持つことができるようになるのである。それらの子女がどんどん生み殖えることによって、あなたたちを中心として、あなたたちの家系が拡大していくことになるのである。すなわちあなたたち自身がそれぞれの家系における真の父母の立場に立つのである。
先生の願いは、あなたたちすべてが真の父母になってくれることである。これは単なる理論ではなく、先生自身が実際に歩んできた路程であり、この路程の公式が、個人、家庭氏族、民族、国家、世界、天宙へと拡大してゆくのである。」(一九七七・四・十八)
七、祝福 1、原理と祝福
1、原理と祝福
①
「先生は今五十六歳だから、十六歳で使命に出発してからすでに四十年を経過した。その四十年間に先生は、あらゆる分野における路程を歩み尽くし、すべてを勝利的に完結して、その全路程を七年間で歩みうるものとして体系化した。その四十年間というものは、思えばすべてが大いなる体験ばかりであったが、実に言うに言えない茨の道の連続でもあった。こうして体系化された七年路程のうち、最初の三年間というものは、実際の所あなたたちが自分自身の必要を満たすための歩みであると言ってもよい期間である。神のためでも先生のため、教会のためでもなく、自分自身の祝福の資格を得るための期間とも言えるからである。三年間、我を忘れて自分の祝福の事も忘れてひたすら歩んでいる時に、祝福が突如として来たというのが本当である。
先生自身の小手の婚宴においても、ある日突如として啓示に次ぐ啓示を受け始め、『我が息子よ時が来た、祭壇を備え献祭を捧げよ』と告げられたのである。お母様にしても、先生の夫人になろうとは夢にだに思えない立場で、目立たない一教会員だった時、突如として小羊の婚宴の一日前に祝福を霊知したのである。
その日突然、『一人の男と明日結婚するのだ』と告知されたのである。それが原理の道である。だから自分から意識的に、『私は祝福されるべきだ』とか、『自分は祝福に値する』という思考過程自体が、カイン的、サタン的思考法に近いと言える。
厳密に見れば、祝福を受けるに値する者は一人としていない。このままで死んで霊界に行っても、完全には神の国に入れず、中間霊界の中継所に止って、天国への入口のロビーあたりで再教育を受けながら、天国へ入れてもらえる日を持つ他はない。
だから不平を言うことなく原理の道を歩むことである。先生でも、もし、『神よ、私にもっとたやすく歩める道をお与え下さい』などと不平を言ったとしたら、神は、『お前は私の息子ではない』と直ちに他の人物を立てられたに違いない。」(一九七七・五・一)
七、祝福 2、愛の時代
2、愛の時代
①
「これから以降は、最前線での勝利と十二名の霊の子女が復帰できなければ、祝福を受ける資格は持てない。去年までは、先生自身が蕩減を払って、それにより多くの人に祝福を与えてきた。先生は『神よ、私に蕩減を負わせて下さい。私に彼らの責任をとらせて下さい。私はそれを自分の肩に背負って参ります』と祈って今まで来た。しかし今からは君たちが背負っていくのである。今までは、その故にたった三人の霊の子女で良かったけれど、今からは十二名の霊の子女が必要とされる。
十二名の霊の子女を得ることのできない人の中には、教会を去る人が出てくるかも知れない。残念なことであるが、鉄則を曲げることはできない。妥脇は許されない。我々はあくまでも原理に従わなければならない。だから祝福は君たち次第である。教会に三年いたからと言って、それが祝福を受ける資格にはならない。どういう責任を完遂したかによって、資格が与えられる。すでに祝福を与えられた者であっても、責任を遂行していない者は一度戻ってでも、完遂する条件を立てなければならない。
この基準を越えた者を、先生は神の国へと移す。旧約時代と新約時代を蕩減復帰し、自分自身に関してアダム復帰をして、祝福圏へと移行するのである。君たちが小さなレバレンド・ムーンであるということは、まさに先生がこのようになしてきたことを、君たちもなしているからである。このような意味なのである。
このように旧約時代、新約時代と勝利して入る新しい成約時代は、愛の時代である。故に結婚を奨励する時代である。今までの宗教の世界では、そこまで到達しなかったために、結婚をむしろ思いとどまらせてきた。しかし、そのレベルまで到達した時、結婚は奨励されるのである。
成約時代圏まで来た時、君たちは祝福を受けることができる。神が自分に最高の花嫁を選んで下さるのである。君たちの人生は、明確に神によって形づくられているのだから、神は皆さんの人生を設定しておられるのである。神はアダムを創造して『アダムよ、行って好きなように女性を嫁にとりなさい』とは言われなかった。神はすでにアダムのために妻を準備しておられたのである。それと同じように、自分好みで女性を嫁にする立場にはない。神がその人を与えて下さるのである。それが創造原理である。創世記に『神はアダムを創造され、その妻エバも創造された』とあるが、それと同じである。すると、男性にとって十五億の女性は何ら関知するところではない。ある意味では堕落した天使長のようで、敵である。もし君たちが『堕落した天使長よ、私を誘惑しようと巧みに近寄ってきても、私は絶対揺ぎません。動じません』ときっぱりと堅固に神側に立つならば、神は『息子よ、私は誇らしく思う。さあ、ついてきなさい。一緒に天国に行きましょう』と言う。
しかし誰かが『神様、ここにもっと素晴らしい女性がいます。私はあの女性のところに行きたい』と申し出たら、神は『お前は何を言うか、お前に最高にふさわしい妻を造ったではないか』と言う。それが原理である。
このように神が授けて下さった夫、妻を最前線あるいは伝道で一生懸命に働き、尽くし、努力した以上に愛するのである。そして祝福の後、窮極の目的である神の愛を相続するために蘇生、長成、完成級の段階を経るのである。これは我々の絶対的な義務である。十字架にかかって死ぬのではなく、生き残って憶えられ、神の窮極の目的に達して、神の愛を相続するのである。天国にゴールインするのである。はっきりわかりました? 蕩減を完全に払い終えた時、歴史上で負債を完全に返済した人となるのである。そうすると、神の愛の世界にたどりつき、神の愛の中で信頼されるにふさわしい、神の愛の相続者になるのである。」(一九七八・一・二)
②
「では、神様はこれまで何をしてこられたのだろうか。神様は人間を創造本然の位置と状態に復帰しようとしてこられたのである。そのため、神様は宗教を立てられ、これを通して、個人的レベルから世界的レベルに至るまで、人間を復帰しようとしてこられたのである。原理が説明しているように、復帰は一人の人間から始まる。神様は一人の男を立てて、一人の女を復帰し、これによって一つの家庭を復帰する。そうしてそれを世界的規模に拡大するのである。この一人の完全な男性、これがメシヤなのである。
メシヤの存在が必要とされる理由は何であろうか。メシヤが来られる目的は、人間の間の不完全な愛を完全な愛へと完成することである。堕落によって愛はサタンに奪われてしまった。そこで神様はメシヤを通して、このサタンに奪われてしまった愛を取り戻し、純化し、聖なる愛へと高めようとされるのである。このためには、サタンの下に置かれている人間を復帰し、神様の真の愛を受けることのできる人間を造ることである。これがメシヤの使命なのである。
したがって、復帰された人間は、神様の愛を受ける資格を持つためには、愛の水準をより高い水準にまで引き上げなければならない。復帰された人間の使命は、サタン世界における愛よりも高い水準の愛を神様の前に示すことである。神様とメシヤは、サタン世界にいる人間を、前のままで愛することができない。神様がメシヤを送られた時、もし堕落世界にいる人間がそのままで復帰されるのであれば、世界の復帰は極めて短時間でなされ、長い復帰歴史は必要なかったであろう。
宗教の役割は人々を教え、彼らがサタン世界におけるよりも高い水準の愛をもって生きるように導くことである。だから、宗教者の役割は、サタン世界における愛よりも高い水準の愛を示すことである。神様を知った私たちが、サタン世界よりも高い水準の愛を身をもって示すときに、神様の愛が始まるのである。だから聖書には、『あなたがたは誰よりも私を愛しなさい。父よりも母よりも兄弟姉妹よりも、誰よりも私を愛しなさい。さもなければ、あなた方は私にふさわしくない』と書いてあるのである。これが正に、統一原理の核心でもある。
我々はこのサタン世界の誰よりも、神様に対してより高い水準の愛を示すことのできる者にならねばならない。なぜなら、そうすることによって、神様の愛を受けることのできる者となるからである。だから男も女もすべての人間は、神様とメシヤを最高に愛することによって、人間として完成することができるのである。この理由により、統一教会ではこの道を歩まんとする者は、神様とメシヤを愛するためにすべての愛を注ぐ七年間の路程を歩むことになっているのである。
統一教会に入教後、三年ないし三年半この道を歩むことによって初めて祝福を受ける資格ができるという規則になっている。そして実際には、家庭を持つまでの準備期間として、さらに三年半歩むことにより、合計七年間の路程を歩むことになっている。これは天からの大いなる恵みの期間である。個人から家庭、社会、民族、国家、世界へとすべてのレベルにおいて、三年路程が必要である。
入教後三年半経って祝福されたら、今度は共に夫婦として残りの三年半を歩む。この期間はちょうどアダム・エバが堕落したのを乗り越える期間である。完成するために二人でこの期間を乗り越えなければならないのである。だから子供を持つのは、普通、祝福されてから三年半経った後ということになる。これまでの祝福家庭は、三十六家庭、七十二家庭、一二〇家庭から今日まで、皆この路程を通過してきた。先人達がこのような条件を立ててきたおかげで、今回祝福された七十四双の場合は、七ヵ月の聖別期間を経て、子供をもつことが許されるようになった。
統一教会の目標は単純明快である。我々が統一教会のメンバーになるのは、主に出会い、神様の愛を実現することである。神様の願いを知り、それを実現しようと努力する者は、神様からの祝福を得る資格ができるのである。
神のための仕事をすることによって、あなたたちが将来、妻または夫にふさわしい人間となるように訓練されるのである。君たちが神様の願いをはたすために街頭に出て行くのは、いわば将来の妻や夫のためでもあるのである。エデンの園において、もしアダムが男として一生懸命にその責任を果たしたならば、エバはそれほど苦労しなくても共に祝福されたであろうし、また反対に、もしエバがアダムの分まで努力したならば、アダムはそれほど動かなくても祝福されることができたはずなのである。
堕落とは何か。簡単に言えば、神様を無視して、自分勝手の道を歩んだことである。神様の願う方向とは何かを知らずに、一生懸命働いても、神様から祝福を受けることはできない。君たらが神様の頗いを知って、そのために働くことは、つまり将来の配偶者や子供を幸せにするための貯金をし、道を直くすることになるのである。このように神様を中心として働くということが、サタン世界から脱却するために何よりも大切なことなのである。先生は朝早く目が覚めるとすぐ、君たちの仕事のために外に出かける。『もっと家で時を過こしたら良いのに』と言われることもあるが、先生はいつも外にばかり目を向けている。それはなぜかというと、先生は親の立場であり君たちは子供の立場にいるから、親として先生は一生懸命働くことによって、子たる皆さんも親に習って頑張ってくれるように願うからである。そしてまた、先生が頑張ることによって、弟子たる君たちにできるだけ多くのものを相続してもらいたいと思うからである。
先生は独身時代には、北韓で拷問されたり、牢獄に入れられたり、あらゆる苦労をしたが、そのような時でも先生は 希望を捨てずにいた。自分が苦労することにより、自分が築く基台の上に、将来自分に与えられる妻や子供は、それほど苦労しなくても幸せになれる。そういう希望を持って苦難に耐えたのです。いかなる苦しさ、いかなる困難の中にあつても、先生はそれによって将来の妻のため、家庭のために、今、蕩減条件を払っているのだと考えて、常に希望をもって耐えた。君たちも今、周じような立場にいる。将来の妻や夫、家庭を幸せにするために蕩減を支払っているのである。
君たちは三段階の蕩減の道を歩まねばならない。独身時代には最も困難な苦労の道を歩みなさい。その苦労を通して、蕩減条件を立ててこそ初めて祝福を受け、結婚することができるのである。配偶者を得てからは、独身時代ほど苦しくはなくても、また別の意味での蕩減復帰の道を歩まねばならない。そして第三段階としては、子供を持ってから、また、新しい復帰の道を歩むことになるのである。
神様はこれまでずっと誰よりも苦しんでこられた。それは一なるアダムを得るためであった。だから君たちは、神様に祝福されるアダム、エバとして結婚するまで、最も困難な苦労の道を歩み、迫害を耐え忍ばなければならない。苦労を通してこそ、真に人格を磨き、愛を深めることができるのである。このような苦労の道を通過して夫婦になってこそ、真に神様の願う理想家産を築くことができるのである。
君たちが本当に神様のため、世のため、人のために自らを犠牲にして尽くすならば、神様は君たちの苦労を決して忘れることなく、君たちに色々な形で恵みを返すだろうし、さらには君たちの子孫たちに恵みがもたらされるのである。だから君たちは独身の間に、将来の家庭と子孫のためにすべての蕩減を払ってしまう覚悟で、神様に対して『一層困難な苦労を与えて下さい』と要求するくらいでなければならない。蕩減をはたしておかなければ、結婚してからもサタンから借金を払うように要求されることになる。サタンが門口で待っていることになる。そのような者となってはならない。
独身時代に完全に蕩減条件を支払っておけば、祝福されてから相対者をサタンから守ることができます。蕩減をはたして神様の愛で一体となった夫婦には、サタンは指一本触れることはできないからである。そのような家庭こそ、真にサタンから解放され、自由を享受することができるのである。そのような夫婦は世界中どこへ行ってもサタンの譲訴を免れるとができるのである。
君たちは統一教会に雇われて教会のために勧いているのではない。それどころか、先生が苦労して築いた土台の上に、大きな恵みを受けるために歩んでいるのである。先生はそう思うけれども、どうか? あなたたちは自分が将来、天国に生きるために歩んでいるのである。だからあなたたちは、自分自身をその目的のために雇っているようなものである。
もし不満があるとしたら、それは自分に対する不満であるべきである。決して他人のせいにしてはならない。アダムは堕落した時、『それはエバが悪かったからだ』と責任を転嫁した。そのように責任を他に転嫁するような者となってはならない。不満があるならば、自分をこそ責めるべきである。他に対して不平不満を言う者は、天国への丘を越えることはできない。
先生にしても、もし神様に不平不義を述べるとすればいくらでもある。『神様、あなたはなぜ私にアメリカヘ来るようにと命じられたのですか。アメリカでは、歓迎もされないし、生命を狙う者さえもいます。なぜこのようなことをせよと命じられるのですか。あなたは本当に私の事を思って下さっているのですか』等々、いくらでも神様に対して不平を言うことができる。しかし先生は、決して神様に不平を言ったことはない。だから神様も先生に感謝し、受け入れて下さるのである。
先生は神様に対して、『どうか、もうしばらく待って下さい、必ず勝利しますから』と頼むだけである。君たちも神様や先生に対して、このような態度を示してほしいのである。わかる? 君たちはどちらを取るの? 不平不満の道なの?(「従順です!」)。では従順によって完成することがなぜ必要か。それは、真に神様の愛を受けることのできる人間となるためである。そうすることによって、万物を真に解放する力が神から与えられるのである。
統一教会の人生哲学はこうである。『私は万物に影響を与え、世界に影響を与え、神様に影響を与えるものとなります』。」(一九六七・六・十七)
七、祝福 3、男女関係
3、男女関係
①
「男女というものはおかしなものでね、これは社会問題にもなるし、歴史的な問題にもなるし、権力の根本的な原因もそこからというようになっている。それで今まで宗教も国家の指導理論としてもこれを問題視して、円満なる解決をするための要点を要求してきた。けれどもそれは解決されていない。まあ、若者として顔のきれいな女の子を見た時には、見まいとしてもクルッと横目が回ってしまう。(笑い)。そういう体験をするらしいな。(笑い)。すました顔つきをして、『私はもう二十歳前後のお嬢さん、純情な心情は誰にも劣らない』といって胸を抱いて歩くような女の目でもね、素晴らしい男が目の前にのこのこやってきた時には・・・・・・(ジェスチュア)。(笑い)。そういうのが罪かというと、その心情、そういう気持ちは罪ではない。春になって花を見れば歌が出る。 こういう陽気な春の気持ちというもの、それは自然現象そのものである。人間もそうである。方向が間違ったから悪いのであって、方向を正常にしておけば罪にならないというんだね。そういう立場から見た場合、誰でも、いくら顔つきが悪い人でも、たちの悪い人でも、顔つきのいい人でも、見る選択の権利は誰もが持っているのだから、見るんだったら正々堂々と見ろ。(笑い)。統一式に正々堂々とやれというんだね。しかし、そこで何かしてやろう、それはいけないというんだね。向かい合っても度は越えない。そこに素晴らしさがあると先生は思うんだね。」(一九六九・二・四)
②
「理想相対という問題は、歴史以来ずっと問題になっている。今の世界も、今後の歴史においても問題になる。ここにおいて、理想相対の絶対なる基準はいかなるものであるかを考えてみる。 美人としては美男子を望むのが当然であるか。そうではない。我々が統一原理によって教えられたことは復帰という問題である。神が願う真なる理想相対、夫婦関係が失われてしまったから、このようなやっかいな世界になってしまった。それを取り戻すにはどうするか。男性として自分の喜ぶ女を迎える、女性として自分の喜ぶ男を迎える。その立場だけではない。その限界を乗り越えてそこにはまだまだ立体性をかけ、神も喜び、万物すべてが喜ぶものでなければならない。そのような環境というものは、存在するすべてのものが、その夫婦に動員せられて、それに応じなければならない。鳥は彼らにさえずり、蝶々は喜んで飛ばなければならない。こういう現象界において神は喜び、人も喜び、万物すべてが喜び、小さな昆虫界も喜ぶ。こういう立場にあって我々先祖たちが出発したら、それこそ埋想郷だ。
女の子の心の中にある男性といったら、神の愛するその男、そしてその似合いの男の心の中には、神の愛するその女。そして共に讃えた場合には、神もそれを望んで喜ばれ、万物のすべても喜び合う。彼らが抱き合うその喜びの基準が、天地共に喜ぶ価値になるというんだね。そこに抱きあう、男女それ自体、宇宙が一体になるその場であり、神の理想の姿である。創造本然の姿はそうであった。
七、祝福 3、男女関係 ・自己中心愛
3、男女関係
・自己中心愛
それが堕落によって、神と万物の因縁を切ってしまった。自分ながらの抱き合い、自分ながらのつき合い、自分を中心としての愛の占領主義、これを思う者はサタンのものであり、サタンの特権にふりまわされていることを知らなければならない。
日本の場合は特にそうだ。若者たちがたくさんいるから、こうして団体生活をしていく中に復帰の実情を知って、厳然としたその位置を固守した立場を持たねばならない。神の御旨が成就しなかったのは男女間の堕落である。だから、一人で神の御旨を正すことはできない。男女共同して、そこに神の御旨を立たせることによって、そこから社会、国家の問題が復帰の立場となる。それなくしては、国家も世界も、あるいは天宙も復帰できない、そういう結論になっているんだね。それを責任をもって担当し、忠実にそれを完遂し得る男女こそが、神の愛による因縁を再び成すことができる。それが今まで神の心中の望みであったにもかかわらず、中間過程において堕落してしまった。天使長の愛に従って抱き合った結果が堕落世界の始まりであり、長い過程を通過してきた世界の歴史は、苦悶の歴史となってしまった。これを復帰しなければならない。
七、祝福 3、男女関係 ・愛の絶対基準
3、男女関係
・愛の絶対基準
愛の持ち主は一体誰か。愛の主人は誰か。男の立場から言った場合には、女がいなければ愛も何もあったものではない。愛の相対基準は男の前には、女である。女の前には男である。しかし、これは相対基準であって、愛の絶対基準には成り得ない。通過過程の存在としては認めるんだけれども、その主体としての価値を認める存在ではない。だから絶対的な立場にいる愛の持ち主、主人公は神様である。その神様の愛を、神様の御旨のままに成さずして、それを横取りしようというのは、泥棒である。エデンの園を氾したその犯罪人である。これがわからなければならない。堕落後の先祖の血統を受け継いできた人類は、蒔いた種を刈り取る時期になったんだから、若者たちが目に余る行動を平気でやるようになってしまった。日本も多いんだろう。青少年たちが、まだ、二十歳にもならない者たちが。これは、そういう種を蒔いたんだから、世界的に収穫しなければならない秋の時期になってきたのを表徴している。しかし、こういう時が来た場合、理悪的な新しい男女関係、理想的な相対基準、これを称えるある者が、ある動きが現われてこないと、神がおられない結果になってしまう。こう考えた場合、理想相対という称えがこの地上の一角に現われて、騒がれだしたということは、世界においての限りない福音である。神が喜ぶ福書である。
七、祝福 3、男女関係 ・悔い改めよ
3、男女関係
・悔い改めよ
統一教会の女の子たちは今まで培ってきたその心情を、路傍のつまらん男になんか握られるな。踏まれてはいけない。本当は信仰が深くなり、霊的体験をした場合などは、目茶苦茶に行動できないというんだね。だから愛は神様から。自分からはサタンだよ。神様を押しのけて自分たち同志愛し合おうという、これがサタンの世界である。
今まで自分ながらにそういうことやってきた者があったら、先生の話聞いた今から悔い改めなければならない。我々の先祖があやまった行動をして、とんでもない結果になってしまった訳だから、あなたたちは自分たち同志で結婚したりしたら、新しい先祖になれるどころか、とんでもない結果になってしまう。そんな立場で愛しあうことは絶対許さない。神にすべてをゆだねなければならない。そうして結婚式をした場合、神様を真ん中において神共に喜ぶその顔を見ながら愛しあえる、そういう関係、これが真の神様の喜びである。本来恥ずべきものでもなく、一番尊いものであり神聖なものであったのに、神の法則を犯し、罪と悪の恥ずべきものとして歴史は流れてきた。
気持が良くないね。いろいろやってきたんだろ。手紙をやるのは平気だし、つきあうのも平気、ウインクなんかはもう通りがかりにエンピツ買うぐらいの平気な顔してやっている。そんな者が祝福を受けるなんて、先生は気持が悪い。本来の祝福の基準は、そんな気持の悪い環境は全然なかった。原理からみたら、あなたたちにはその権利はない。だから堕落した後孫として、その時の基準を取り返さなければならない。神は真なる乙女と息子、神の愛をたっぷり受けたその子供を失った。そして男女同志を考えた場合、神を中心とした夫婦関係を失った。そして子供から見た場合、真なる父母の価値を失った。堕落の行動一つで、この三つがみな奪われた。だから、いかにしてこの三つの心情を一時に、蕩減復帰の原則によって、蕩減し、神認め得る基準を立てるかが問題である。まず神の前に真の娘、急子として神を愛する基準を復帰し、その過程を通過して、年頃になって神の愛を中心として夫婦が結ばれ、さらに神喜び願う四位基台の善なる子女を産まなければならない。
七、祝福 3、男女関係 ・神の子女としての実感
3、男女関係
・神の子女としての実感
我々が統一教会に入って信仰していく場合にも、最初の出発点は何かというと、神に対して子供であるという実感、神の愛を中心とした子女の立場を復帰することである。神より愛される自分であり、この偉大なる神の御言を誇りとして、天宙にそれを称え得るような心情になっていない自分であったとしたら、それは神の子として神の娘として立つことはできない。神の権威を中心として、その基盤が立ったことを、自分が自然に感じるような権威を持たなければならない。堂々とサタンの本拠地へ天の息子としての権威をもって、自信満々、いかなることがあろうとも立ち向かっていける基準、それがあるかどうか。アダム・エバを犯したそのサタンを屈伏し得る過程を通過しなければならない。そうでなければ、祝福の基準は立たない。
いかなることにも、そこに蕩減という一つのことがあるというんだね。それは、あなたたちの復活の祭物期間だよ。だから、『蕩減条件、ありがとうございました』というんだね。その内容はいかにして立てるか。
聖書にもあるでしょう。全世界をもうけても自分の命を現したら何になるか。どんな代価を払っても、命を買い戻すことはできない。だから我々はそれを願う、命を願う。
だから男女関係において恋愛は許されない。寂しい?(「いいえ」)。ほんとのことを言いなさい、『はい、寂しいです』と。寂しい?(「いいえ」)。教えなくても、本心によって恐れているからわかるんだよ。こういう内的価値がはつきりわかった場合には、自分が過去において、この手で、ああいう手紙を書いた、サタンの手先になって、自分の手が動いたこと、これはたまらないほどくやしい! 何遍泣いても泣ききれない。この身でもって、その時は思いもつかなかったけれども、こういうことをなしてきた。サタンの汚れた血によって汚されたこの肉体。これを清算するために、自分の肉体を切って処分してしまいたい。しかし、そうして死んでしまうわけにはいかないから、それを清算するための条件が必要である。サタンに使われたこの手、この体、みんな一遍に飛ばしてしまって、神の愛によって始まった肉体はいずこにありや。汚れ果てた関係を保っていこうというのはもってのほかである。こういう心情を体恤した?
神にとってエバは未来の奥さんである。なぜなら、アダムは神と一体となるのであるから神自身である。だから神は、自分の奥さんをサタンによって犯された。 そのように神を蹂躙してきた者を、今まで始末していない。神は悲しみのうちにも、創造理想を取り戻す希望を抱いて我慢してきた。それを思う時、あなたたちもまた、自分のために神の奥さんを奪ってきて、いい気になって自分の子供たちまでみんな、父なる神を何とも思わないようにすることはできないだろう。しかし、これが今の堕落世界であり、サタンと神との関係である。そういう基準において、サタンは私たちの、神の怨讐である。心のなたたちも、本来ならば堕落世界にあった。だから、どうせ復帰の道をたどらねばならないならば、一遍に終えてしまう。何事をやっても私は天辺にいたい、そういう燃え上がる心と訓練と力とで、本然の自身を発見していかなくてはならない。
我々が、統一原理によって教えられたのは心情圏である。この心情の基準は、堕落圏の先祖の基準を準えている。だからこれをわかって、もしも堕落した場合には、長成期完成基準において堕落させたサタンよりもこわい。サタンが彼を呪う。だから彼らには救いの道がない。そういう、恐ろしい恐ろしい最後の道があることを知らなければならない。それは真の父母をわきにして、天の神様をわきにして、直接、堕落の愛を増し加えることである。先祖の堕落は、まだそういう歴史が始まっていない圏内にあって犯された。しかし、これは歴史の限界を超した結果になって、サタンより以上に悪いことになる。そういう背後関係があったこと、今初めてわかったんだろう。
七、祝福 3、男女関係 ・女性は注意せよ
3、男女関係
・女性は注意せよ
だから女の子たち、特に女性は注意しなければならない。統一教会に入って従順なる女の子は、堕落前の女の子の立場である。そして従順なる信仰を持てば持つほど、周囲にいる男性たちがガヤガヤとついてくる。見たくて見たくて、寝られない程に恋い慕ってくる。男でも従順な信仰を持てば、一般の世間の女たちにはこういう現象が起こってくる。これらのことは、エバを見てサタンが燃え上がった現象であり、堕落したエバがアダムを犯そうと試みる現象である。それを体験することによって、この原理は永遠なる真理だということを実感することができる。そうでなければ、原理の価値はないだろう。ここまで乗り越えねばならない。こういうことを聞いてみるというと、今あなたの基準はどういう基準かということがわかるだろう。それでもって、先生がきたら、さあ祝福だ、準備しよう、先生は人の事情はよくわかる人だから、少しばかりのことはよく見てくれるに違いない、そういう考えによって支配される先生ではないよ。」(一九六九・二・四)
③
「祝福という問題についても、結婚というのは自分たろが動機になってやることは絶対しない。堕落は自分ながらの出発である。そういうふうな原因で植えた世界は、そういう結果の収穫時期がある。それが現世である。だから自分の気ままにやるとみんな堕落する。アメリカなんか公園の木の下で二人で抱き合っていろんなことする。エデンの園でアダム、エバがサタンの誘いによって堕落行為をするのと結局同じ。だから堕落世界の収穫期である。そういう愛による結実として収穫されてしまう。最後の世界の現象である。これを我々は完全になくしてしまう。あなたたち、恋愛したい?( 「いいえ」 )。お嫁に行きたいの?( 「はい」 )。じや恋愛したいということじやないの?(笑い)。あなたたちはもう天の神様の娘だよ。神様の娘として自分じゃないんだよ。神様のものだよ。神様の娘だから神様の気ままにする。だから結婚という問題は自分の気ままにやっちゃいけない。もしも恋愛した場合には純然たる捧物しなければぬぐわれないよ。蕩減過程を必要とする。だから女の子たちは絶対恋愛するな。男の子たちが何か境でペチャペチャしたら、『おい、このサタン、まだ残っているのか、サタンの実体よ、もう選手交代だ!』。そうするんだよ。( 「はい」 )。エヘヘヘなんてするなよ。(笑い)。」(一九七〇・一・二十二)
④
「君たちの頭の中は神様のことだけなの? 街頭で素晴らしい男に出会って、『将来あのような男と結婚してみたいなあ』と思ったことはないの? 男はどうだ? 澄ました美人がいて、その歩く姿を見ただけでも心引かれてしまいそうな、通りがかりの女性を見て、『奥さんにしたい』と考えたことはないか。一回そのような考えをしたら、三回悔い改めなければならない。そういう鉄則がある。そのような心情圏を清算しなければならない。」
七、祝福 3、男女関係 ・すべてを告白して
3、男女関係
・すべてを告白して
⑤
「祝福されるには蕩減されなければならない。音、汚れたことがあったら、洗ってしまわなければならない。自分の力によってそれをすることはできない。助け手が必要である。弁護士に助けてもらうためには、内心のあらゆる事情までみんな告白して訴えなければわからない。そうすれば弁護士は、自分のことのような立場に立ってそれを弁護してくれる。そうでなければ助からない。それと同じように、先生はあなたたちのとりなしの弁護士になってやるよ。だから、あなたたちはああ言いたくないと思っても、誰も知らない自分だけの秘密をみんな告白しなければならない。いやなことがまたできたと思うの? 先生はもっといやだよ。本当は、先生の仕事はこういうものに付き合ってやるのが使命ではないよ。しかし、祝福するためには、こういう立場を通過しなければならない。汚れたものであるけれども、消しゴムやインク消しで消して、白い紙に戻したという条件に立ってこそ、初めて祝福がなされるのであって、それができなければ、もともと目茶苦茶だから祝福も何もあったものではない。そうだろ?
先生はこういうことがあるんだよ、霊界の方から『先生、聞け』と言ってくる。聞いてみれば、みんなやっかいなことがあるんだよ。何のことか、みんなお金のことか男女関係のことだ。先生はみんなわかるよ。だからそんなこと聞きたくない。しかし、彼らはそれをどうしても辞決したい。今まで真暗な闇の中に隠されていたものが、白昼の中に飛び出すことになる。それはサタンの陣営が、白星の中でポロボロになってしまうことである。だから新しい世界の出発基準が立つというんだね。
兄弟以上の男女関係で、互いに見る者はサタンの実体と同じだ。そういうものは絶対に許されない。そういう要素が少しでもあれば、切っていかなければならない。先生は今まで、新しい祝福、新しい家庭のための蕩減条件をあなたたちが立てるようにしてやって、みんなの重荷を私が責任もって背負ってやろうというふうにやった。しかし、先生が責任を果たしたにもかかわらず、あなたたちが天法を犯したとするならば、それは何十代の子孫にまでひっかかる恐しいことだよ。もしも、統一教会の心情圏を土台として、それを主張してきた者が、自分の気ままにつき合って、結婚して子供を産んだとするならば、原理の限界を越えて誰が責任を持つか。神も責任持たない。旧約聖書では、淫行や姦淫の罪は石打ちで殺した。それ以上のものはどうするか。だから、日本においても、こういうことはもっと徹底しなければならない。」(一九六九・二・四)
⑥
「結婚した場合、四十日の蕩減期間があるよ。聞いたことあるだろう。それは、イエス様の霊的復活ではなくして、死せずして復活の祝福圏に入るための蕩減としてやらなければならない。それは夫婦になって相愛する立場において、ある規則を通過しなければならない。こういう難しい蕩減の道を勝利するために、自分の気ままな男女関係とか、そういう気持とか、そういう話かけというものを、今晩からは一切してはいけない。わかる?(「はい」)。祝福には必ず蕩減がある。間違いなくある。そこには許しがないんだね。だから恐ろしい所だよ統一教会は。これは脅迫じゃないよ、原理がそうなっているんだよ。原理の計画圏には一寸一隔も許しがない。それを乗り越えなくては神の計画はなされない。そして、乗り越えればサタンは讒訴できない。」(一九六九・二・四)
⑦
「こういうような貴重な天的賜物を、もしも誤った場合には行かれる所ないよ。サタンもあんたたちを譲訴するよ。サタンは、『自分は長成基準においてサタンになったんだけど、あなたは完成基準において堕落した大ものであるから、わしの僕になれ』、サタンが裁くよ。最後の道だから行く所ないよ。深刻なものだよ。いい加減な世の中の流れてしまうような結婚と思ったら大間違いだ。天宙の心情を中心とした貴重な時期である。この基準が家庭において、神が愛を中心として心身共結合の栄光の喜びの情的雰囲気を人格と共に完成し、完成したる男女が一体となって、結び合って、愛の感情における目的観に徹してその目的を完成させる路程には、悩むとか苦しむとかそんなこと思ったらいけないよ。感謝の念においてなすべき心情の目的現世界だったんだよ。わかる? そういうような基準に立ったならば、この地上には堕落とか悩みとかないはずだ。しかし、復帰の基準に叶った我々夫婦たる者は、今から世界目的に向かって進む我々にして、そういう今からの生涯の道においてどういう心情をいつも体恤しなければいけないかというと、堕落しなかった創造原理の心情圏にあふれて、生涯かけてのその路程において感謝の一念で過こすということが、今からの家庭が行く、創造目的に向かって行く路程である。わかる?( 「はい」 )。苦労があるとしても、それは我々を苦しめるためではない。天に今まで秘密に積んである無限なる祝福を自分にもっと多く授けるために、こういうような苦労の道を行かせる有難いものである。そして心情的愛によって結ばれた夫婦は、その愛情のあふるる感情が生活圏を乗り越えて、生涯を乗り越えて目的と一致するに間違いないという信念に立った家庭にならないと、永遠の神様のおられる天国に入れない。わかったの?(「はい」)。それが結論になるんだよ。これが創造した神の目的だ。夢みたいな話だよ、まるっきり夢みたいな話だけど、根がない夢みたいな話じゃないよ。今からそういう家庭に向かって先生と約束して進むんだよ」。(一九七〇・十・十三)
八、僕の僕から王の王まで
八、僕の僕から王の王まで
①
「しかしながら実際問題として七年路程を全うするためには、カルバリの丘を十字架を担いでいかれた、その瞬間のイエス様の如くに、それくらい真剣に歩むことを決意すべきである。何しろ七年間に、僕の僕から出発して、僕、養子期を経て、実子期、夫婦期、父母期を通過して天宙の王に至るまで、あらゆる障害を乗り越えてその一つ一つに勝利を勝ち得なければならないのだから。またそのためにはこの地上で肉体を持って歩みうる期間というものが、いかに貴重であるかがわかる。
一九五四年五月一日、先生が教会を創立した時、小さな古ぼけたむさくるしい家、つまり初代の統一教会の前に、ささやかな看板を出した。それは歴史上で最も小さな看板だったけど、しかしその小さな町の、一番小さな看板に示された言葉というものは、他のどんなに大きな看板よりも、もっと大きな内容を意味していた。『世界基督教統一神霊協会』とあるんだから。我々の教会の出発はそういう所からであった。部屋はといえば、頭を壁に付けてになると、足が向いの壁につかえるくらい狭かった。しかも当時は、その粗末な見すぼらしい家屋でさえ、教会のものではなく借家であった。
ここアメリカでは、全五十州に一つの実体的な基盤としてのセンターがすでに設置されているけれど、今君たちがなさんとしている内容自体は、先生が二十四年前に歩んだ路程のそっくりそのままである。
五十州から来ている地区長たちを見てみると、教会員たちから、まるで僕から侍られるように侍られているようだけど、もし初めから指導者が、『私は地区長であり、教会員に仕事を命令する立場である』と教会員に持られることを願うようでは、そういう州や教会は絶対に成功しない。先生はそういう指導者の道を教えたことはない。
僕の立場から出発して、養子、息子、夫、妻と段階を踏んでいく原則の道をいかない限り、決して成功することはできないはずであり、そういう道を行くことなしには、今日の統一教会もありえなかったことだろう。
例えば、統一教会の女性ならばどういう所から出発すべきかというと、『私には男性を見る資格すらありません。どんな男性も私にはあまりにも立派すぎてふさわしくありませんし、こんなに幼い自分ですからかえってその人の重荷になるだけです。また、路傍をさ迷う乞食が自分の夫になるかもしれないと想像してもみましたが、外的な乞食はかえって内的には神の人かもしれないと思うと、なおもその乞食にすらふさわしくないことがわかりました。ですから自分の祝福のことなど考えないで、ひたすら神の目的のために献身させていただきたいのです』と。
先生もそうした如く、君たちもこのように、僕の僕の立場、完全に自分を否定した立場から出発すべきである。
僕から出発して養子、実子と上がっていくということは、主人がある僕に対して、『お前は本当にいい僕だから私の養子にしよう』というようなものであり、またその養子の中から、『お前は本当にいい養子だから私の実の息子にしよう』ということになったり、実子の中から、『お前は私の頁の息子だから私が祝福してやろう』と夫、妻の立場に立てたりするようなものなんだから、そういうことが簡単に容易く起こりうることだろうか。具体的に『上がる』ということは簡単なことではない。
そして神があなた方を祝福するということは、そういうことであって、僕であった者が両親の立場にまで上がるというんだから、容易なことではない。
そして遂に祝福されて子供を産むと、その子供は、原罪と関係のない神の血統圏に生まれて、直接神の国に入ることができるんだけど、しかしその子供の両親に、『私は完全に原罪から解放された』という確信なくして、どうして自分の子供を罪なき子女として産み出すことができるか。そして実際にそういう確信を心からの実感として持つようになることは生易しいことではない。
こうして君たち自身が、父母を経て天宙の王の位置にまで上がって霊界に行くと、全霊界の貴族、知者、聖人等すべての高貴なる人々が頭を下げてくるし、自分の先祖たちもまた、『我々の一族を天国に引き上げてくれる暑がいる』といって集まってくるようになるのである。原理を知って主に出会った君たちは、真の先祖として、なんと家系図の頂点に位置しているのである!
八、僕の僕から王の王まで ・大いなる特権
八、僕の僕から王の王まで
・大いなる特権
摂理歴史は人間堕落の所産であり、堕落の故にのみ摂理が必要となった。これまで語ったことを通して、二十四年前の先生の心情を偲び、少しでも感じてほしい。当時それは、不可能に近いほど困難な道であった。またなんと寂しい孤独な道だったことだろうか。
当時先生は、頻繁に取り調べを受けけながら、苦難の道を歩んでいた。先生の未来に果たすべき天宙的使命を知る者もなく、一人先生自身のみ、人知れず自分が何者であり、未来に何を成し、どこに行かんとしているかを知っていたから、ひと度天の前になした誓いと決意を不変のものとしながらここまで歩み続けてきた。
多くの人々が、一度は先生を信じて従いながらも、結局自己中心的な人であった場合、この道を歩むことに疲れ果てて、耐えきれずにこの運動から去っていった。御旨のために自分なりの人生というものを完全に断念し、自らの生命を捨てることのできた者のみ、最後まで先生について歩むことができるのである。
先生が四十年間で歩んだ公式路程を七年間で歩むというんだから、その圧縮された七年間は急速に駆け足で過ぎ去る。だから一点の間違いもなく、絶対的基準で行くべきで-のる。
そしてこの期間において、個人のためだけでなく、家庭、氏族、国家、世界のために、心の張り裂けるような痛みと涙に満ちた体験をたくさん持つべきである。そのためには安易な道を願うのではなく、眠ることも忘れるほど御旨に燃えた生活を送らなければならない。最低の所から出発して、毎日、前日より自分自身の心霊基準がより高められたことをはっきり自覚しうるくらい、確実に具体的に成長し、上がっていくべきである。そういう実感は、自分自身が感じるだけでなく、瞬間瞬間にあなた方の成長を待っている霊界がそのように命じ、感ずるものでもある。
今後先生の教えが更に綿密詳細になり、より分析、整理されて、直接的、字義的に表わされてくる時、そこまで実体的に真理を知ることのできる君たらは、なんと大いなる時に、黄金の細く貴重なる時に生きている君たちだろうか。
可能な限りの最短の時間圏内に、かくも膨大なる七千年分の路程を踏破した条件を持つことができ、神の歴史に偉大なる貢献をなす人物となりうる立場が保証されている時が、まさに今なのである。
今我々は、神の歴史の登場人物となり、創造者ともなって、神の歴史の最後の一章を書き下してフィナーレを告げんとする、まさに復帰歴史の原点に生きているのである。そして生きている先生と共に働くことができるという偉大なる特権に与っている君たちである。
八、僕の僕から王の王まで ・七年路程の終末的意義
八、僕の僕から王の王まで
・七年路程の終末的意義
七年路程に対しては、自分白身が具体的に歩んで勝利すべきものとして、骨の髄まで実感しながら、神の前に、『これから出発する七年路程において二度とアダムとエバの如くなることなく、アダムとエバの完成する道までも歩んで、七年以内に必ず終了します』と神と対決するような真剣なる祈りをもって決意すべきである。
聖書にも、『七年間の患難の時が来たらん』と書かれ、『その時には生き残る者は少ないであろう』とも預言されている。この言葉は成約の時にも実に真ではないか。なぜなら、事実真に神を知り神への献身を決意した者のみ、七年路程を勝利的に通過して生き残ることができるんだから。
しかし君たちがかかる出発の決意をなして一つの方向を定めるや、まず環境からの反対やさまざまな障害、あらゆる苦難が一挙に襲いかかるような状況となり、サタンが君たちの行くべき道を破壊せんとしていることを知るだろう。
そして自分の一番大切にしているものが次々と、何も残るものがないくらいことことく奪い去られ、一切の事情環境がまさに最低の所まで追いつめられていく。神は君たちを最低の所まで陥れることにより、僕の基準まで一旦下らせるために、サタンを用いるからである。そこでその最低の事情環境を消化し主管していくことができなければ、そこを通過できないことになる。
八、僕の僕から王の王まで ・死なんとする者は生き
八、僕の僕から王の王まで
・死なんとする者は生き
では、その最低の僕の立場から出発したとして、どうしたら養子や息子の立場に引き上げられうるだろうか。そのためには、僕のために自らの生命を捧げて犠牲になることである。そうすることが結局は最も早道である。肉体をもった人生というものは、ふと一瞬たつてはたちまちかき消えてしまう朝がすみの如く、束の間のはかないものなんだから、喜んで犠牲になろうではないか。
先生が歴史のすべての秘密を発見して、歴史というものを改めて見てみた時にも、『死なんとする者は生き、生きんとするものは死なん』と言われたイエス様の御言を、己れの骨髄にまで泌みて痛感した。一度ならず何度も何度も、自分の生命を失うことが、勝利への唯一の道なのである。僕から父母に至るすべての段階において自分の生命を捨てきって歩むことである。
七年間ただ生命を断念して、勝利的にこの路程を越えていった時、突如としてあなたの前に宇宙は一変して、宇宙の全生命が自分を守っていることを感知することができるだろう。
ワシントン大会の時にも、その大使命を成就するために先生は、いつでも死ぬ覚悟があったし、無条件に全面的に生命を投げ出し、完全に死にきってもいた。それほど、のるかそるかの絶対的に追い詰められた境地に立たなければ、イエス様、先生、そして神の事情を到底理解することはできない。一つの絶対絶命の限界状況に直面してみて初めて我々は、自分がいかに憐れな足りない者であるか、自分というものが何者であるか、はっきりと知ることができる。
そのくらい真剣に歩むことによって日々自らを再発見しながら、一日一日を新しき日として、先生の基準をめざして日々発展していくというような我々の日常生活であるべきである。
外に吹き荒んでくる嵐を乗り題える最善の秘訣も、自分自身を乞食をも羨むような最低の位置に置くことである。良い食事や十分な睡眠、快適な生活等はかえって重荷になるだけである。
自分を僕をも羨むような僕の僕の位置に置いてみて初めて己れを知ることができ、知れば飛躍することができる。先生も三十五歳までは僕の僕たることに徹して、自分の服を買ったこともないし、整髪料等をつけたこともほとんどないくらいである。その上いつも四十五度以上は顔を上げずに下を向いて歩いていたほど、罪人の立場に自らを置いていた。一人の罪人になりきっていたのである。
また、自然が罪なき真の人間によって見られたいと競っていることを知りながらも、自らの摂理的使命を成し遂げるまでは、清き自然を見る資格も権利もないことを感じて、大自然の前から身を隠したくなった。罪人となって歩む自分自身が、責に罪深き者として感じられるほど、そうなりきっていたからである。
八、僕の僕から王の王まで ・聖人の道
八、僕の僕から王の王まで
・聖人の道
この世界のすべてを知り、そのすべてを越え得た先生の心は、もはや何ものによっても動かされることはない。巌の如く堅く立った先生である。自らの指を切って血で誓約を書き、先生の前に忠誠を示さんとした多くの女性たちもいた。宗教的試練を乗り越えるということは実に容易い業ではない。周囲に押し寄せてくるすべての誘惑を乗り越えて、基台を築いてきた創立に至るまでの苦難には、実にはかり知れないものがある。
そして先生がすべての十字架を越えて勝利したその結実に、今与っている自分たちであり、神と先生の前にひと言もないあなたたちであることを知るなら、常に自らを謙虚な感謝に満ちた立場に置くべきである。それは、あらゆる摂理的勝利を成した今もなお、先生が神の前に持ち続けている姿勢でもある。
この七年路程が、かかる苦難の結果としての恵みであることを知ったんだから、この期間をあらゆる体験をなす絶好の機会と思って、呪われ、嘲けられ、飢え、打たれ、迫害されるすべての体験を貴重なるものとしながら、『そういう体験があったからこそ、私は神と先生とイエス様の心清を知ることができました』というような歩みをなしたいものである。
先生のこの小さな手は、実に影大なることを成し遂げてきた手である。そして、このような人知れぬ霊的開拓の道の上に、創立に至る教会の基盤が築かれてきたが、それは真に容易い業ではなかった。
あなたたちも御旨のための活動中に、人々から殴られたり、蹴られたり、顔に唾されたりしたことがあるかもしれないが、そういう時こそこう考えるのである。『ああ、これが、歴史上のすべての義人、聖人、神の人が歩んできた道だったのだ』と。
八、僕の僕から王の王まで ・神様は泣いておられる
八、僕の僕から王の王まで
・神様は泣いておられる
しかし外にいる人々に唾をかけられたり、打たれたりしても、そういうことが苦しいことではない。かつて共に食口として歩んだ人が、神を裏切って去っていく時、それ以上悲痛なることがあるだろうか。
そういう痛みまで体験して初めて、イエス様が外的な敵、すなわち具体的に十字架に釘付けた人々による外的迫害、裏切りだけでなく、ユダによる裏切りの細く、最も痛い内部からの内的迫害を受けた方であることと、その痛みというものを少しでも理解することができるだろう。
先生は共産陣営のみならず、自由主義の韓国においてさえ、刑務所生活を体験した。西大門刑務所に行ったその日のことは、永遠に忘れることができないだろう。
その日刑務所に引かれていく時、一人の教会から去ったかつての食口が先生にかけ寄ってきて、侮辱にみちた嘲笑を浮かべながら言ったのである。『あんたはまだそんな馬鹿なことをやっているのかい、俺のように早く卒業することだな』と・・・・・・。
先生は永遠にその男のことを忘れることはできない。一言も語らず黙然として彼の前を引かれていったが、心の中で神に向かって呼んだ。『神よ、今こそあなたの義と、私のあなたに対する従順を証しさせ給え』と。 このようなことを一度ならず幾度となく味わってきたゆえ、自を閉じて祈り始めると、いつも涙を止めることができずに痛哭する先生である。神のそういう悲しい内情がよくわかるからである。そして同じ事情を味わい、その心情を知ればこそ、そういう神の心情を誰よりも慰めることができるのである。
親はもろろんのこと、妻も子供もわかってはくれない、一人として理解する者もない、そういう時こそ、孤独なる神の友となることができるのである。
一人の男がこんなにも弱くなりうるものか、と思ったこともあった。ある意味では同じ弱き一人の人間に変わりないのである。しかし自分をそんなにも頼りにしている神であることを知っているから、そういう神の心情を想うと、いても立ってもいられなくなり、神の願いを果たして神を慰めたいという想いにかられる。 『神よ、全能なるあなたは、その望むところの何事も成すことがおできになりますのに、御自分の子なるアダムとエバの罪の故に、御自分をそのような苦悩の中に陥れられました。苦しむべきいわれもないあなたが、かくも寄る辺なき身となられて、真に頼ることのできる子女を、そんなにも長い間ひたすら待ち続け、深し求めてこられました。私にはそういうあなたのお心がよくわかります』。
誰でも、先生の内面の世界をかい間見ることでもできたならば、ただ『わっ』と痛哭せずにおれないだろう。特に、常に神に祈り、霊界を見たり啓示を受けたりしている霊通者たちは、皆こういうことを言ってくる。
『文先生について祈る時は、いつもきまって神様からの答えは「涙」です』と。先生のことを祈ると神様は泣かれるというのである。寂しい一人の人、文先生を見つめる時、人知れずすすり泣いておられる神様なのである。
八、僕の僕から王の王まで ・涙の基台
八、僕の僕から王の王まで
・涙の基台
堕落による度史の糸のもつれは、それを解いて再創造することなどとてもできそうには思えないほど複雑なものとなり、神でさえどこから手をつけて摂理するかとまどうだろうと思えるほどである。
しかし今、一人の孤独なる人が、歴史の背後にある秘密のすべてを見い出し、それを公式化し、体系化したのみならず、その原理を自ら生活しながらここまで運動を発展させてきたのだから、神としても注目せざるをえないはずである。
ここまで来る道において、先生はいくら泣いても泣いても止めることができずに、いく日もいく日も泣きくらしたことがあった。ある時はあまり泣いたので、目が熟しすぎのカボチャの中味のようにグチャグチャになってしまい、太陽の光も目にしみて見ることができなくて、目をつぶって過ごしたことがあった。
涙によって開拓されたこの教会の基台である。あなたたちは何も知らない。第一先生は語らなかったのだから。なぜなら自分自身の歩んだかかる苦闘の四十年路程は、二度と誰にも味わってもらいたくないし、息子や娘たちにはできるだけ易しい道を残してあげたいのが、親としての先生の気持ちである。知ればあなたたちもそういう道を行かなければならないのだから。
誰でも深い祈りや霊的な体験を通して、先生の語られざる体験の一部でも霊的に知りうるならば、先生の通ってきた身悶えするような苦難の道を、一瞬でもかい間見ることができることだろう。
今あなたたちは、この地上で受けるのが当然であるかのように祝福を受けているが、それは今の時の時代的恵沢として、霊界における何千年、何万年分の内容を最短の期間で体験しうるからに他ならない。
先生はモーセという人の立場にはいつも同情を禁じえない。モーセが四十日四十夜の断食祈祷末に十戒を受けて、自分の民の所に下りてきた時、破らはなんと金の小牛を造って偶像としてこれを拝し、その周りで騒ぎ戯れていたというのである。
『よくもそんなことが・・・・・・。どうしてそんなにも神を裏切ることができるのか・・・・・・』とそのあまりの心情的蹂躙に対して、憤激のあまりに石坂を地に叩きつけて壊してしまったモーセであった。
そういうモーセに対して先生が同情せずにいられないのは、それとまったく同じような事情と心情を幾たびと味わってきたからである。山に行ったモーセは、民のために神の真理を勝ち得んとして、どんなに苦労したことであろうか。
先生も生来、非常に強烈な火の如き気性を持っているゆえ、そのような信じられないような裏切りを受けたりすると、そのありうべからざる背信に対して、直ちに心情的に切って捨てて、顔をそむけたくなってしまう。それは先生にとって最も厳しい修練の一つであった。
先生は一つの堅い信条を持っている。それは『天宙主管の前に自己を主管せよ』ということであり、これは先生が自らの弱さを克服し、激情を制しようとした結果得た信念である。
八、僕の僕から王の王まで ・心情の相続者
八、僕の僕から王の王まで
・心情の相続者
真の息子、娘となりたければ、両親の精神を受け継がなければならない。とすればあなたたちは先生の伝統と理念を受け継がなければならない訳である。そして真にそれを受け継いだ人であれば、伝道等の聖業に出かけていく時も、我知らず涙が流れてくるようになるものでさのる。御旨の前に立つと、神の逼迫した悲劇的な内情が胸に迫ってくるようになるからである。そしてそういう人となり、そういう道を歩む時に、その人やその教会は、必ずや神によって栄えていくに違いない。
いわれのない迫害を受ける時にも、呪うのではなく、逆に神に彼らの祝福を祈り求めるのである。そうすることによって、神の心情をより近く感じ、さし迫った神の事情をより切実に感ずることができるだろう。そしてあなたたちのなした行為のすべてが、それによって聖なるものとされるのである。
あなたたちは、見知らぬ人に出会ったのに神か主に出会ったかのように、訳もなくその人を抱き締めて泣き出したことがあるだろうか。先生の人生において、そういうことが何度も何度もあった。
神の悲しい心情、親としての苦しみを味わい知らされた時には、木を抱き締めていつまでもいつまでも泣き続けたことが、いく度となくあった。そういう体験こそは、祈りより遥かに尊いものなのである。そして自分がより惨めな立場にあるのを感じる時こそ、神をより近く感じうる瞬間ではないだろうか。
先生は、伝道や万物復帰において体験するさまざまな人間関係を通してあなた方を訓練し、ある基準以上の人格を形成させんとしているが、そうして先生が歩んできた人生のパターンを歩んで、先生のような人間となってもらいたいのである。
八、僕の僕から王の王まで ・神を知る者の道
八、僕の僕から王の王まで
・神を知る者の道
先生が生来の実力を伸ばして世俗的な分野に応用していったなら、偉大な実業家にでも、大政治安にでもなれるし、様々な分野で大いなる名声と尊敬をかちうる人物になれるだろう。しかしそれだけの能力や実力を持っていながら、そういう方向には行かなかった先生である。
そして、生涯において、先生より多く涙を流した者がいるだろうか。苦難の道は避けられないものではなかったが、神のために、無条件に、涙の道を選んだ。
人々から尊敬と讃美を受けつつ歓迎される道もあった。しかし先生は神御自身がそういう立場におられないことをよく知っていたのである。
では、先生は始めから何の個人的願望も、青年のもつ青空の如き夢も希望も持っていなかったかというと、そうではなく、当然、大志を夢を抱きながら、しかし、それらをすべて自ら捨てて、いつの日かこういうふうにという希望の扉のすへてを自らの手で閉じて、人生の最も悲惨なる道を選んだのである。ただ悲しい神の友になりたかったからである。
あなたたちもまた、ある意味では同様に苦難を負って歩んでいるが、それは過去において先生がすでに通過してきた道を引き継いでいるのである。そして我々がこのように自ら進んで苦難を引き継ぎ、それを負っていくのは、ただただ神を知ったが故である。
我々を避難し迫害する人々が言う如く、我々に何か間違っていること、罪深いことがあるとしたら、我々には一つの罪があると言えるだろう。それを罪と呼びうるなら、『我々が神を知っている』という罪である。ただ神を知るが故に、我々は迫害する者たちの非難の的となっているこれらのことのすべてを、なすべき使命として引き受けたのだから。
しかし過去において我々が何か悪なることを世界にもたらしただろうか。神を知ることがいかにして罪となりうるのか。神を知らないことの故にこそ、かくも混乱していく世界であり、教会は崩壊し、共産主義はますますその努力を伸ばしているのではないか。
神を知る者の道がいかに悲惨であろうと、神を知ることこそは我らの幸いであり、特権である。
八、僕の僕から王の王まで ・真の後継者
八、僕の僕から王の王まで
・真の後継者
賢い者はひと度歩み始めた道を全うする。中途で終わる者にはいかなる勝利もなく、勝利は耐え忍んで最後まで全行程を走り抜く者の上にのみある。先生も神の道を行きながら、常に第一の道のみを行こうとしてきた。御言に関しても、自分に従ってくる者たちのためにも、何度も何度もありうる限りの慎重さをもって、正しいかどうかを吟味せんとした。
実験室の研究者が、何か新しい発見をせんとする時に、その理論が本当に正しいかどうか絶対的に確実にしようとして、何度も何度もテストを重ねた末、それから世界に発表しようとするように、先生もすべてを絶対的に確実にするためには、自らの歩む全路程を通して、徹底的に実験し試験し尽くした。それを通してこの世界のすべての真埋を解明せんとしたのである。
あなたたちもすでに神への誓約書に署名した兵士として、中途半端な道を行くことなく最後までひたすら前進してほしい。そして『私は先生以上に行きたい、先生と競争して打ち負かしたい』と、そういう人物の現われることを先生は待っている。
先生は何度も思ったことがある。『私はまだ死ぬことができない』と。残念ながら自分が第一線を後にする時、使命を託すべき後継者がまだいないのである。
『この者に、自分の使命を残して行くことができる、死ぬことができる』という確信を先生に与えてくれる者はまだ一人もいないのである。
『誰が、私が神を愛したほどに神を愛してくれるだろうか、私が死んだ後に誰が私の神をみてくれるだろうか、親孝行してくれるだろうか』とそれだけが心配なのである。
誰か『私が神様をみますから、先生は後に立って見ていて下さい』という人がいるとすれば、その人こそは歴史においても私たちの教会においても主流的人物となり、永遠に滅びることなく、その子供はアブラハムの子孫の如く栄えることだろう。
先生は今、韓国式に数えて五十八歳であるから、七十歳までにあと十二年ある。そして二十二年たてば八十歳になることを考えると、自分が全面的に働くことができるのはあと十五年だとみている。この十五年間に誰か後継者を見い出さなければならない。
このような破滅へと運命付けられているかのような世界を後に残すのでなく、なんとしても復活していく世界を残したいと願っている先生であるから、生きているうちにこの運動の基盤を完成していくために、自分の生涯においてありとあらゆる苦難、頭の痛いこと苦々しいこと、嵐の如き非難、迫害等良くないことのすべてを一身に受けることを決意して、『どうか我にすべての重荷を負わしめ給え』と祈っている先生である。
そうすれば、あなたたちの時代、あなたたちを中心とした時代が来る時には、もはやそれらを過去のものとして、この運動は興隆していくことであろう。
あなたたちも迫害の中にあって、『これ以上迫害されるのなら去った方がましだ』と考えるか、それとも『迫害が大きければ大きいほど、より大きな責任や使命を持つことであるし、より大きな挑戦をしてより大きな実績を上げうるということだ。よし、私が全部引き受けて処理しよう』と考えるか、いずれか二つの立場がある。
先生が二十四年前に統一教会を創立したように、あなたたちも自分の任地であなた自身の運動を創始したのである。それぞれの地で新しい教会を創立し、その地のレバレンド・ムーンになろうではないか。」(一九七七・五・一)
九、祝福家庭
九、祝福家庭
①
「何十年の努力を重ねても、あなたたち夫婦が手をとりあって、過去の先祖たちの愛の道の過ちを後悔しつつ、深い深い心情圏に携わり、開拓していかなければならない。涙ながらに天を讃えながら、万民を自分の兄弟、親族のように思える心情をかかえて、死しても行かんという思いでもって、生涯を、愛の家庭を天に捧げものとしていきたいというのが、今からの祝福家庭の行くべき道である。
先生もそうである。今までずっと家庭を引っ張って、祭物の道、捧げ物の道である。それは個人から家庭を中心として、家庭を勝利した場合には、氏族の勝利圏を開拓しながら、そのためには家庭がメチャメチャにやられる。そうして勝利圏を得んとするならば、自分の家庭、氏族を中心としてカイン・アベルが一つとなるのである。それから氏族圏が中心となって、民族のために行かなければならない。その道はカインがアベルを殺したように、死力を尽くしてたたくのである。迫害する。迫害のないところには、復帰の道の発展がない。蕩減の道である。蕩減の道は笑いの道ではない。涙と血と汗を流す道である。砂涙のような荒野で、砂風が吹きすさぶような無情な立場である。それだけではなく、険しい所へ行けばコンドルが待っている、生命を狙う者がいるのである。
復帰の道、涙を流しながら別れた者たちが、涙を流しながら父母を迎えなければならない。それは個人を中心としてもそうであるが、家庭を中心としてムリである。先生は妻と一緒にアメリカヘ行って、喜んで生活したわけではない。涙ぐましい生活をしたのである。
国があれば帰したい思いもした。しかし行くところがない。復帰路程の先頭に立った者が、使命を果し得ずに帰る場合には、四方八方から狼にやられたように、悲惨で影も形もなくなることを考えた場合、死んでも先頭に立って死守しなければならない。生涯を終えるような覚悟で通り抜けなければならない。それが復帰の道である。そのようにして、今までアメリカでやってきた。
先生は一生一代においてやるべき仕事があまりにも多くある。もし先生がなくなるような場合、それを果たせる、まかせられるような者がいない。復帰路程の先頭をいく者は、先生のように歩まねばならない。
家族は氏族基台を造らなければならない。氏族基台を造らなければ、民族圏に参席することができない。だから、統一世界は家庭を中心として参席するようになっている。個人ではその資格がない。アダム・エバは家庭を中心として堕落したので、原理原則から見た場合、家庭を完全に造らなければ、地上天国建設圏内に入らない。だから地上天国に堂々として入るには、昔のアダム・エバより素晴らしい者でなければならない。それには迫害されても、自分の環境とか自分ということを考えるのではない。それを克服して勝利しなさい。あなたたちは、アダムより素晴らしい男の立場、エバより素晴らしい女性の立場に立って結婚するのである。それには堕落した自分を貴重に思わないことである。
それでは皆さん、家庭とは一体何であろうか。家庭とは神を迎え入れることができる所である。アダム・エバが堕落したので、神に侍ることができなかったけれども、家庭は神に侍り得る中心的土台である。次に、縦的な面において天使世界との関係を結ぶことができなくなったのを、横的な面において実体生活的な基盤の上で、霊界との直接的な関係を結ぶことのできる復帰された場となるのである。次は万物復帰の基盤を整える場に立つのであり、さらには神の子女、言いかえればアダム完成の位置を代表できる場に立つのである。次は神を中心として実体的な父母の基準を通して、神の霊肉完成圏、統一心情圏を帰結することができる責任を果たすための所である。それが、統一教会の内的責任となるのである。わかりますか。
統一教会において、今までの他宗教と異なる点は何であろうか。今までの宗教の目標とするところは、個人の救援にあった。理想的な人格完成を説いて、数多くの宗教が広まってきたけれども、統一教会はそうではない。統一教会は何を完成するためにきたかといえば、家庭を中心として完成するためにきたのである。過去、個人的宗教を通して救援を受けるためには、私個人だけが犠牲になれば、その御旨を完成することができたけれども、今や家庭完成を基準とするこのような時代に入ってからは、家庭を犠牲にすることができるようにならなければ、神の家庭完成の道が広まることができないのである。何の話かわかりますか。皆さんは祝福を受けているけれども、統一教会においては、男性と女性が神の前に立てられて祝福をうけたその日から、夫婦となったその日から生活に入るのではない。そうではなく、三年間の公式路程に入るのである。
それでは、なぜ三年路程はいかなければならないのか。それは、今日我々の家庭が出てくる前に、堕落した歴史的背景、蕩減条件が残されており、また家庭を持ったけれども、この我々が生きている世界には、我々の家庭だけでなく、神を中心としないこの世の家庭が多いのである。いいかえれば、我々が結婚する前に世界があったし、我々の家庭が誕生する前に世界の家庭が構成されていたし、国の前に世界のあらゆる国々が連結されていた。だから、我々はそれらとの関係を切り捨てて、世界を救うことができないので、二重的な責任を持たなければならない。私の家庭に対する責任を持たなければならないし、世界的家庭の責任を持たなければならない。それでは、あなたたちの家庭と世界的家庭の関係はどうだろうか。あなたたちの家産は内的家庭であり、世界の家定は外的家お姓である。統一教会式で言えば、統一教会の家庭はアベル的家庭であり、この世の家庭はカイン的家庭である。わかりますか。祝福家庭が祝福をうける前には、個人的アベルがあり、個人的カインがあるのを知らなければならない。祝福をうけた後には、家庭的アベルがあり、家庭的カインがある。
次に祝福を受けた後に版図が広まるということは、神を中心として主流的家庭圏が広まるので、統一教会の祝福をうけた家庭同志が氏族である。真の父母の因縁に従って、天倫の内的心情を受け継いで家庭が生まれ、横的にふえているということは、統一家において氏族形成から民族形成、国家形成へと進んでいくということである。それは韓国民だけに限るのではなく、全世界的である。世界国家全体を代表した出発であるため、これは超民族的であり、超国家的である。そして、そのように超国家的基盤から神の御旨を中心として出発しているために、例え私の家庭が金という個人であり、朴という個人であるとしても、その個人の立場に立っていく家庭ではなく、全世界の人類を代表した家庭である。いいかえれば、全世界、国家を越え、民族、氏族を越えて全体を代表した立場においての家庭であったということを、あなたたちは知らなければならない。わかりますか。そのような責任をもって出発したのである。そして父母様を中心として、三十六家庭、七十二家庭と全体の家庭的、氏族的蕩減復帰の基盤を広めながら世界へと今日まで発展してきたことを、あなたたちは知らなければならない。」(一九七八・九・二十)
十、ホーム・チャーチ
十、ホーム・チャーチ
①
「ホーム・チャーチというのは一体何であろうか。先生が世界的に勝利した、あらゆる氏族、民族、国家的基準を統合して縮少した、世界を代表した縮少基盤である。それは世界の主権を縮少した基盤であり、世界の人種を縮少した基盤であり、各民族を縮少した基盤である。だから、ここにおいて勝利した場合には、カイン圏の家庭ばかりでなく、民族、国家、世界にまで通ずるのである。故郷に帰っても、それは世界にまで通ずるアベル圏に、勝利的な圏であるのである。だから、反対されずして、世界復帰まで拡大することができるのである。だから、何としても自然屈服しなければならない。力でもって屈服するんではないよ。・・・・・・誰でもが三六〇軒を決めて活動することによって世界的な蕩減圏を授けられる。」(一九七八・九二一十二)
②
「家庭教会の摂理は、旧約、新約、そして成約における天国実現のための最高の原理であり、最大の収穫である。なぜなら家庭教会を通して、あなた方が最高の愛と真理の教育を実践することができるからである。なぜ家庭教会を行なうのか、わかりましたね。それは人々に対する教育と愛のためである。人々を啓発し、天国へ導くためである。
なぜ我々は家庭教会をしなければならないのだろうか。他にも、もっと楽なやり方があるのではないだろうか。しかし、家庭教会において勝利しなければ、あなたたちは自分の故郷へ帰って自分の氏族を復帰することができないのである。家庭教会を通してあなたたちの『カインの氏族』を復帰し、そのあとであなたたちの家族や親族、すなわらあなたたちの『アベルの氏族』を復帰して、共に天国へ行くことができるようになるのである。天国は個人で行く所ではない。家庭学位で行かなければ受け入れてもらえないのである。あなたたちはいかにしても勝利して、氏族のメシヤとなり、さらには国家、世界を救う者とならなければならない。
本来の原理からいって、家庭教会が完遂するまでは、あなたたちを祝福することができない。これからは家庭教会に勝利し、子女を復帰した者だけが、祝福を受ける資格があるのである。イエス・キリストは、まず十二弟子を復帰し、さらに七十人の門徒を復帰した。私たちの使命は、七年間で八十四人を復帰することである。そのためには、一人が一ヵ月に一人を復帰しなければならない。八十四人の弟子を完全に復帰し、一体化した後に、自分の家庭を造るべきである。イエスがそうであり、先生もまさにそのような路程を歩んできた。
だから我々は、まずカイン・アベルの摂理において勝利したのちに、アダム・エバの摂理、すなわち家庭を造ることができるのである。今日の世界はアベル側の自由世界と、カイン側の共産世界に分かれている。この二つの世界が一体化した後に、全人類の父母を中心とした一つの世界が実現するのである。カインとアベルが一体化することによって、初めて、より高次の目的に奉仕することができるというのが、原理である。個人において心と体が一体化して初めて、個性完成した人間として夫婦となり、夫と妻が一体化することによって家庭を造り、家庭が一体化して社会、さらに国家、世界へと一体化していくことができるのである。」(一九七九・一・一)
③
「ホーム・チャーチを造るにはカインを屈伏させなければならない。カイン的個人、カイン的家庭、カイン的氏族、カイン的民族、カイン的国家、世界的蕩減条件を立たせなければ、自分の故郷には帰れないのである。
だから、今まで宗教の道を歩む者はみんな出家して社会に奉仕して犠牲になり、理想の極楽に行くというようにしてきた。あなたたちも出家してやってきたんだろう。先生もそうである。原理は尊く素晴らしいということを知っているゆえに、自分の両親、兄弟に一番先に聞かせたいのである。しかし、神の摂理は、アベルを救うための摂理ではない。アベルを祭物として、カインを救う摂理であるから、尊いものをカインに向けるのであって、アベルに向ける原則ではない。だから先生のお母さんに対しては一着の着物も買ってあげたこともなく、一生涯を犠牲にした。万民に対してはいろいろな事をやりながら、子供に対しては何もやらなかった。それを個人から氏族、民族、国家、世界までやって条件を立たせて、それから自分の故郷に帰るようになっている。今から帰るのである。
今年になって先生は、お母様や子供たちに、着物やおもちゃを買ってあげた。買ってあげても先生は条件にひっかからない。そういう原理原則がある。日本の責任者たちは、『教会長だからアベルであり、君たちはカインだから、カインはアベルに屈伏するのが原理だから従え』と先生が教えない原理の教えをしているのではないか。そういう原理はない。愛の力でもって、自動的に自然に頭を下げるような、そういう使命を果たさない者はアベルではない。アベルの立つ基盤がない。勝利し得なかったんだから、神は認めない。それは個人的・家庭的・氏族的・民族的においても同じことである。だから統一教会が世界的なアベルの教会であるとするならば、世界的に血を流して蕩減条件を併利して、勝利の領収書にサインをサタンにしてもらって、そこで初めて世界的なアベルになれるのである。そのようになっている。」(一九七八・九・二十二)
④
「今日、ホームチャーチの摂理を行なっているが、あなたたちは訓練していずれ両親や親族のもとに帰って、この理想を実現していかなければならない。先生はすでに、国家、世界的なレベルにおいて勝利してきた。まず、あなたたちは家庭、氏族的立場において勝利しなければならない。それが我々の出発点である。あなたたちは、あなたたちの氏族を愛さなければならない。それが三六〇軒ホームチャ-チである。そこにおいてあなたたちは、迫害され苦労することだろう。しかしあなたたちは、あなたの肉親を愛する以上に無条件で愛さなければならない。三六〇軒すべてが天の家庭であり神の子女であるという思いで、愛して伝道しなければならない。そうすれば神は、『あなたは三六〇軒ホームチャーチを無条件で愛し尽くした。今度は自分の家庭をそれ以上に愛してもいい』と言って下さるだろう。そうなればあなたたちは、自分の家庭を何よりも愛していいのである。そしてその家庭は、氏族、民族、国家、世界を代表するのである。一度そういう家庭に到達すれば、あなたたちは決して家庭から離れる必要がない。」 (一九七九・三・二十八)
⑤
「統一教会には人種間における障害や争いはまったくなく、一つの家庭に向かっている。天の理想の家庭を築こうという目的は神の全摂理の目的であり、キリスト教、全宗教、全人類の目的である。今日、我々はそのような理想の家庭を築くための基盤を段階的に築いている。あなたたちは神の理想のために、自分の頭に新しい神の理念で包まれた愛の帽子をかぶって、真の家庭に住まなければならない。例えば、あなたたらが父母の日を祝うために集う目的は理想の家庭にあるゆえ、それを知り、理想の家庭を築くことに対して新しい決意を持つ者だけが集うことができるのである。そうでなければ集う資格はない。
今日、ホームチャ-チを行なっているが、それは蘇生的段階であり、次に長成へと進んんで、最終的には完成された理想の家庭へと進まなければならない。我々は最終的真の父母の日を復帰しようとしている。我々の願いは全世界に対して、真の父母の日を宣言することであり、これは全ムーニーの理想である。父母の日に真の父母を中心として祝うことができるように、あなたたちは自分の三六〇軒の中においてあなたたち自身が父母の立場に立って、人々が祝うことができるようにしなければならない。そうすることによって、あなたたちを父母として祝う日となり、そうしてまた、あなたたちは二十四時間、戸を開けて食事を用意し、あなたたちの霊の子供たちを迎えて祝うのである。そのようにしてカイン型のホームチャーチが完成すれば、次の段階としてあなたたちは故郷に帰り、両親・親族を中心としてアベル型ホームチャーチを造る。そこであなたたちは氏族のメシヤとなる。そうなれば伝道などの困難な道をいかなくても良くなるのである。そこでは神と人とを引き離すものは何もない。神の方に向くアンテナが示してくれるのである。
あなたたちは、人類歴史に必要なすべての困難を自分一代で終えるために、自分がすべての十字架を背負っていくと思わなければならないし、また、子孫にまで苦労させたくないという決意を持たなければならない。それを成すために、あなたたちは先生に会ったんだから、これは大いなる喜びであり、偉大なる勝利の宣言である。我々は必ずホームチャーチを勝利できる。それを成して故郷に帰り、氏族のメシヤになるのである。それは大いなる祝福である。そうなれば、サタンは永遠にあなたたちを讒訴することができないし、あなたたちの側に近づくことさえできない。しかしもし、あなたたちができなければ、その使命は蕩減となって、子供にもっと多くの犠牲の道をいかせるだろう。
今後は、二つのグループに分かれるだろう。一つの地域では真の家庭として喜び合い、もう一つの地域では、子供たちがホームチャーチにでかけていかなければならないのである。神はそういう姿を見たくない。先生も皆が故郷の人々に喜んで迎えられるようになってもらいたいと思うし、そこで幸福な家庭を築いてもらいたいと思う。」(一九七九二ニ・二十八)
⑥
「家庭教会は、六千年前のエデンの国における神の創造理想であったにもかかわらず、人類始祖の堕落によって実現されず、苦しみの世界となってしまった。しかしようやく二十世紀の今日において、レバレンド・ムーンがあらゆる困難に勝利して条件を立てたことにより、今や全人類が家庭教会を実現することができる道が開かれた。
だからあなたたちがどのくらい家庭教会を愛し、そのために努力するかが、全人類の運命を決定することになるのである。あなたたらは自分の夫や妻、子供、親兄弟よりも、家庭教会を愛するという条件を立てなければならない。二千年前、イエス様は『自分よりも親、兄弟を愛する者は自分にふさわしくない』とおっしゃった。今回先生は、『家庭教会よりも自分の夫や妻、子供を愛する者は、天国へ行くにふさわしくない』と宣言する。天国へ入るためには、家庭教会を通過していかなければならない。韓国にいようとアメリカにいようと、どこにいようと、それは変わらない。霊界へ行ったとしても、家庭教会のために地上に降りてこなければならない。イエス様は天国へ入る鍵をペテロに与えられた。今日先生は家庭教会を、あなたたちが天国へ入るための鍵として与える。」(一九七九・一・一)
(一)
マルスム(一)
(一)御言に見る神との出会い
一、神をはっきり知れ!
二、先生を研究せよ!
三、神と先生の出会い
四、先生の教示
五、最後に
(二)御言に見る生活基準と自己主管
序一、自分なりの生活観念を持つな!
二、自己主管せよ!
三、物欲
四、金
五、食事
六、七大怨讐
七、御旨の道
八、時間がない
九、睡眠
十、疲れ
十一、最後に
(三)御言に見る真の子女
序一、真の子女とは
1、親のために生きる者
2、親の一番の願いを自ら悟って行なう者
3、親を休ませ、代りに御旨のために責任を持って働く
4、全世界の人々は兄弟姉妹という心情を持つ者
5、世界は神から与えられた自分の国であると自覚する者
6、親を何遍も泣かす者
二、真の子女としての先生
1、「先生はまだ神の前に真の息子だということができない」
2、「先生は一人でも行く」
(四)御言に見る苦難と試練の克服
序一、外的な苦難と試練
1、受難や迫害の場合
2、教会の基盤ができ、迫害がなくなり物的にも豊かになり出した時の試練の場合
二、内的な苦難と試練
1、天の願いがいつもきびしいという場合
2、御旨に疲れをおぼえ、くたびれてしまう場合
3、神からも人からも捨てられたような場合
(五)復帰の公式路程
一、復帰の道・僕の僕から
・復帰の八段階
・自然屈伏
・夫婦で神の直接主管圏に
二、真の父母の道
三、七年路程
四、復帰路程の三段階
五、万物と旧約時代
六、伝道と新約時代
七、祝福
1、原理と祝福
2、愛の時代
3、男女関係
・自己中心愛
・愛の絶対基準
・悔い改めよ
・神の子女としての実感
・女性は注意せよ
・すべてを告白して
八、僕の僕から王の王まで
・大いなる特権
・七年路程の終末的意義
・死なんとする者は生き
・聖人の道
・神様は泣いておられる
・涙の基台
・心情の相続者
・神を知る者の道
・真の後継者
九、祝福家庭
十、ホーム・チャーチ