文鮮明先生の教育哲学

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目次
  1. はじめに
  2. 第一章 教育とは何か
  3. 第二章 神様はどのように人間を教育されたのか
  4. 四 真の父母・真の師・真の主人の三大主体思想
  5. 第三章 文鮮明先生の教育哲学
  6. 五 犠牲と奉仕、そして公的なもののための教育
  7. 第四章 家庭と子女教育
  8. 五 祝福家庭の子女教育、これが重要だ
  9. 第五章 教育に全生涯を捧げた文鮮明先生
  10. 四 教育事業を展開する理由
  11. 第六章 教育、摂理的目標と課題
  12. 第七章 文鮮明先生はどのような教育を受けたのか
  13. 五 多様な経験を通して培われた人生観

はじめに

文鮮明先生の教育哲学



はじめに


世界平和のビジョンと実践


 この地に人類が存在して以降、最も重要なテーマは平和でした。強いて人間始祖アダムとエバの子供であるカインとアベルの殺人事件を記録した聖書の創世記を取り上げなくても、人類歴史は、最初から互いに殺し殺される闘争に染まってきました。二〇〇一年九月十一日、アメリカの心臓部であるニューヨークの世界貿易センターとワシントンD・Cの国防総省の建物へのテロ、そしてこれに対する報復、イスラエルとパレスチナ間の果てしない中東戦争、インドとパキスタンのカシミール紛争など、地球村の各地に起こる数多くの戦争を私たちは目撃しています。

 現在、全世界で進行中の紛争は、八十三箇所に至っています。特に、先の二十世紀は「戦争の世紀」と言うことができるほど、数多くの紛争が発生しました。二度にわたる世界大戦と韓国戦争、ベトナム戦争、中東戦争、湾岸戦争など、数多くの地域紛争で大量殺傷兵器が総動員されると同時に、数億人が殺傷されました。


人類平和のために生涯を生きてこられた文鮮明先生


 しかし、平和問題がどうして世界紛争の解決だけに局限されるでしょうか。国家内においても、人種と政党、地域などの様々な要因による葛藤が生じているのであり、社会は、あらゆる不正、腐敗と倫理道徳の堕落、階層間の葛藤などで病んでいます。社会の根幹である家庭も、夫婦の葛藤による離婚の増加と淪落行為の増加などで崩壊の危機に直面しています。人間自身も、心と体が闘争しながら、―常に不幸の底から抜け出ることができずにいます。

 それでは平和世界は、はるかに遠いものなのでしょうか。国連は、一九四八年に平和維持活動を開始して以来、今まで五十三地域で「紛争の解決士」を自任してきましたが、強大国の利害関係に縛られてその役割を果たすことができずにいます。人類は、政治や宗教、思想、科学など、あらゆる手段を動員して人間世界の葛藤を治癒するために努力してきましたが、それらは、紛争の原因を根本的に解決できませんでした。

 それで、文鮮明先生は、平和世界実現のための根源的処方を与えられたのです。神様を中心として心と体が一つになった真なる人間像を提示されたのであり、そのような真なる人間が夫婦を成して真なる家庭を築き、その真なる家庭が氏族と国家、世界に拡散されるとき、世界に初めて平和の園が実現されると考えられました。先生は、個人と家庭、社会、国家、世界の平和の根本的代案を提示されたのです。

 先生は、そのような平和思想を実践するためには、精神問題を扱う宗教が一つにならなければならないとされ、宗教の和解と一致運動を展開されました。また、数多くの教育・言論機関、文化芸術団体、企業、NGOなどを立てて、平和運動を展開してこられました。特に先生は、世界平和は南・北韓の統一が成し遂げられる時に可能であると考えられ、分断以降今に至るまで、統一のために献身してこられました。

 先生は、「世界平和のためには共産主義がこの地から消滅しなければならない」と主張され、勝共運動を国内・外に展開されました。先生の勝共運動は、国際共産主義運動に対抗して、韓半島はもちろん、日本、北米、南米等々、全世界的に拡散され、理論と実践、言論と社会教育、市民運動へと展開していきました。先生は、冷戦構造が先鋭化された一丸八五年、著名な世界指導者たちの前で共産主義の終焉を天の啓示として宣言され、共産主義の克服と資本主義以降の理念である「頭翼思想」を発表されました。最近では、国境撤廃と世界平和地帯宣言、国連改革など、実に驚くべき提案をされるとともに、二十一世紀の新しい平和運動を展開していらっしゃいます。

 先生が平和のために流された血と汗の滴は、筆舌に尽くし難い真実そのものの生き方であられました。「世界平和統一家庭連合」、「南北統一運動国民連合」、「世界平和超宗教超国家連合」、「世界平和女性連合」、「世界平和青年連合」、「世界平和学生連合」、「世界平和教授アカデミー」、「天宙平和統一家庭堂」など、すべての組織の前に「世界平和」という名前を掲げるほど、平和と統一のためにすべてのものを投入されました。


人類平和実現の指針書、万人の訓読教材


 「平和」は、私たちの時代の最も高貴な価値であることに間違いありません。先生は、平和は、他人、他国、他人種、他文化の存在自体を認めるとき、すなわち私が他者を排斥するのではなく、認めて受け入れるときに可能になると教えられています。テロや国家間の紛争は、相手の「違い」を容認できず、敵対視するときに発生するので、お互いの立場を理解する文明間の対話が大切であるという指摘です。また、平和は相対的関係において成立するものであり、関係回復は「ために生きる存在」としての自己認識があってこそ可能であると強調されています。

 このたび発刊される「平和思想」は、先生が一生涯心血を注いで説き明かしてこられた神様と人間、世界と歴史、そして霊界の実相を明らかにした「み言選集」三百五十巻の中から「平和」に関連するみ言を集大成したものです。この本は、先生の平和思想とその実践、すなわち平和の真の意味とは何であり、平和世界はどのようにして成され、先生はどのように平和運動を展開してこられたのかということが一目瞭然に整理されており、今後、世界平和実現のための貴重な指針書となると同時に、「万人の訓読教材」となることでしょう。どうぞ、読者の皆様に平和が訪れ、皆さんの家庭と国家、世界に平和の新しい気運が満ちあふれることを祈願いたします。

 最後に、八十数星霜を平和世界実現のために尽力してこられた私たちの真の父母であられる文鮮明先生御夫妻に頭を垂れて感謝を捧げ、すべての人々がその高貴なみ旨を支持して、平和のために先頭に立つことを誓いましょう。

 二〇〇二年一月



















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第一章 教育とは何か

文鮮明先生の教育哲学



第一章 教育とは何か


一 教育の真の意味


 皆さんは、息子、娘をどのように育てなければならないのでしょうか。神様がアダムとエバを造られたのと同じように、息子、娘を大切に、立派に、神様のように育てなければなりません。これが教育の標準です。

 それでは、神様のような人とは、どのような人でしょうか。神様のように顔が大きく、生命力があり、能力のある人ではありません。「神様のように愛する人になりなさい!」。そうであれば良いのです。そのようになろうとすれば、完全な人となって、神様のように愛することができればよいのです。神様に似たいと思うのが私たち人間なので、私たちも、神様に似ようとすれば、神様のように愛したという立場に立たなければなりません。

 それでは、神様の愛とは何でしょうか。それを分析すれば、父母の愛、夫婦の愛、子女の愛です。父母を愛するのであり、夫婦同士一つになるのであり、子女を愛するのです。この三段階、この三代が一つにならなければなりません。(七六−二八八、一九七五・三・七)

 学校に行って勉強するとしても、自分のために勉強するのではなく、神様がつくられたすべての自然の妙味を自分が深く理解し、神様の心情世界を把握するために勉強しようというのです。これは、どれほど素晴らしいことでしょうか! 神様を知ることによって、より深く愛し、より気高く愛するようになるのです。

 先生が自分に厳格な教育をしても、それは私をして天の愛と自然の愛を吸収するようにし、‘私を中心人物にするためにそのようにするのだ、と考えなければなりません。愛の主人にするためです。自分が社会に出ていって働くのも、激しい風が吹きつけてきても、愛を広めるためであり、愛の真価を表すためだ、と考えるのです。(一〇六−三九、一九七九、一二・二四)

 実力は、短い時間で備わるものではありません。すべてのことを経ていくことによって、実際に苦しんでみることによって、実力を錬磨することができるのです。皆さんが学校に行って勉強する目的は何かというと、人々が実践したすべての経験をそのまま受け継ぐためです。学ぶことによって、それをそのまま受け継ぐためのものが学校教育だということを知らなければなりません。そして、すべての人々の良い実績を受け継いで自分のものにするためには、それらを実際にやってみなければなりません。結局、知って実践することによって、それが自分のものになるのです。(二七−三〇三、一九七四・七・一四)

 誰もが学びの道、あるいは教育の道を行くのですが、その目的は何でしょうか。より善なる世界に前進するためです。より価値的な内容を備えるためです。ですから、より高い次元の前進を誓うのは、より価値的な中心と一致するためです。間接的でも、そのような目的追求の道を行くという事実を私たちは知っています。(一〇九−二六四、一九八〇・一一・二)

 学校で先生たちがザインして推薦しなければ、国に通じる道がありません。父母が「私たちの息子、娘は良い!」と推薦しても通じません。なぜそのようにしなければならないのかというと、社会における愛の公約の法度を通さなければ、国を愛する道がないからです。ですから、社会に出ていくにおいて、最初の関門が学校なのです。教育を受けなければなりません。そして、学校で愛を受けることが、この国とこの世界で愛を受ける基礎になるのです。(一三〇−二〇九、一九八四・一・二二)

 人間を救援するには、教育が必要です。人間始祖は、無知の中で堕落しました。原理結果主管圏から直接主管圏まで行かなければならない段階にいたアダムとエバは、無知でした。少年時代だったのです。幼い時から成長していく中で、神様の摂理の全般的なみ旨を知ることができませんでした。

 ですから、堕落とは何でしょうか。知っている立場で堕落したのではありません。知らない立場で堕落したのです。人間始祖として行くべき本然の道を知ることができずに堕落したので、堕落以後の人間たちは、人間始祖が知り得なかったその基準を越えていくことができません。ですから、この無知な人間を教育していかなければなりません。(一三六−一九八、一九八五・一二・一九)

 教育強化は、いつでも必要です。それゆえに先生は、今まで反対されながらも、いくら困難があっても教育しました。今回も、勝共連合活動を中心として大衆を教育するのです。思想を投入して教育するのです。強化するのです。強化とは、現在より一次元高いところに引き上げることです。

 ですから、自分が経ていくところには、絶対に損害を被らせてはいけません。自分が行ってきた、自分がどこどこを経ていくそのところでは、今現在より一歩でも前進することができ、後退があってはいけません。後退したとすれば、教育強化という、そのような論理は成立しません。

 日常の社会生活や対人関係の活動で、あるいは交渉するすべての分野において、その人たちを激励してあげ、その人たちに力を与えてあげ、毎日毎日影響を与えなければなりません。影響を与えて、良い結果とともに、あすの希望の結果を良くし得る動機を提示する、そのようなところにおいて教育が強化されるのです。

 本を持って壇上で教えることだけが教育ではなく、言葉一つ、行動一つがすべて教育です。女性の服装もそうです。統一教会は、女性が服を着ることも教育です。服装を見れば、自分たちの心と体の反映となり、体は必ず心の反映体なので、服装はその人の人格を反映するのです。

 そのような問題において、日常生活のすべてが教育となる生活圏を成すことによって、その生活圏自体がすべての人に刺激的な影響を与えるのです。教育強化の実効性を私たちの生活を通して連結していけば、そこから社会の発展が成し遂げられていくのです。世界の新しい希望がその場から生じます。(一四四−一七七、一九八六・四・二四)

 本来、教育は、難しい科学など、すべてのことを教えてあげることではありません。それも教えてあげなければならないでしょう。しかし、それが重要なのではありません。人を育ててあげなければなりません。「お前の父と母がこのようにしたので、お前も父と母に従ってこのようにしなさい」と言わなければなりません。ですから、父母が子女に「行ってどろぽうしてきなさい」と教育するのではありません。「お前は人のために、天地のために、数多くの人々のために、このように……」と言うようになっています。それは、天道がそのようになっているというのです。

 学校は、幼年時代から成長して成年になり、社会に進出するときまで教育するのです。大学は、学士、修士、博士コース、社会に進出する時まで教育するのであり、そして社会に出た人々を教育するのは言論機関です。これが破綻しています。今、言論機関が世の中で、自分たちを中心としてお金をもうけるために、あらゆることをしています。社会的な道義を世界に影響を与えるために立っている、という自負心をもたなければなりません。(二七〇−二八七、一九九五・七・一六)


二 真なる師、真なる教育


 神様を中心として動くところには、赤ん坊も必要であり、大人も必要であり、息子も娘もすべて必要です。一つの氏族を中心として、すべて必要です。どのような人でも、その世界ではすべて必要なのです。それゆえに、「世界人類を愛し、民族を愛してから自分を愛そう」、これが天に向かう道です。人類を愛してから自分の家庭を愛さなければならないのです。これが、今後皆さんが教育される伝統です。(二一−一二一、一九六八・一一・一七)

 韓国の人々は、死ぬ教育を受けてきたので、死ぬことには精通している人々です。死ぬ教育、正しく生きて、そして正しく死ぬ方法を教えてあげる教育が、修養の神髄の教育です。(二五−一五八、一九六九・一〇・八)

 預言者や烈士、孝子、孝女たちに、「真のお父様と真の息子、娘を知っているか」と尋ねれば、「知らない」と言うでしょう。世界三十億人類の誰に尋ねてみても知りません。これを教育したならば、教育の中で最高の教育になるのです。朝から夜まで教えれば、神様もこの教育に関心をもたざるを得ません。神様と因縁をもつようにする教育は、ただ一つ、この道しかありません。

 それゆえに、真の父母と真の子女の因縁を教えてくれる教育者は、天上天下の誰よりも偉大な師になることができます。その師は、時間と空間を超越して歴史的な欽慕の対象となることができ、いつでも人類が行く道の案内者になるのです。(二六−四〇、一九六九・一〇・一八)

 善が一瞬のうちに成されることはありません。善なる人になろうとすれば、必ず過去から受け継いでこなければなりません。ですから、教育が必要です。学校に行って学ばなければなりません。何を学ぶのでしょうか。昔から、歴史過程において善の道を築くために犠牲になった人たちは、豊かに暮らした人ではありません。ですから、犠牲になっていった人たちの歴史的思想を受け継がなければなりません。(五〇−九九、一九七一・一一・〇六)

 「黒人のおばあさんを自分のおばあさんのように愛しなさい」、このような教育が人間世界において最高の教育です。それを知らなければなりません。神様も、それ以上のことを教えることはできません。どのような聖人が来ても、それ以上のことを教えてあげることはできない、という結論が出てくるのです。いくら神様でも、いくら聖人でも、それ以上のことを教えてあげるすべがありません。(八九−一五八、一九七六・一一・〇七)

 正しい指導者は、「死ぬときには、愛のために死になさい」と言います。教育の中で最高の教育とは何でしょうか。「死ぬなら愛のために死になさい」ということが最も偉大な教育だということを知らなければなりません。それは、ハーバード大学に行って十の学位を取ることよりも、もっと偉大な教育だ、ということを知らなければなりません。

 私たち統一教会は、何をしようというのでしょうか。「最高の愛のために死にましょう。神様と人類と世界のために死にましょう」と言うのです。「このような作用も愛のために始まり、このような方向も愛のために始まり、このような目的も愛のために始まったのです。男性と女性も愛のために始まり、父と母も愛のために始まり、息子、娘も愛のために始まり、宇宙のすべてのものも、愛の贈り物のために始まった」ということを教えるとき、これ以上の教育はない、ということを知らなければなりません。これ以上の教育はありません。このように生きていった人は、間違いなく神様の前に行くことを恥ずかしく思わないでしょう。(九三−一八九、一九七七・五・二九)

 愛の生命力がそのまま通じることができる家庭を愛するのが孝子の道であり、国の生命力を中心として愛するのが忠臣の道であり、世界の生命力と愛を連結していく道が聖人の道です。このように考えるとき、このような方向を通して人倫道徳を教育してきた、という概念ははっきりしています。それが正しかったことを知らなければなりません。世界を愛することが聖人の道理だ、ということを知らなければなりません。これが人倫道徳教育の標準となってきました。それが間違いではなく正しかったことを、ここから見いだすことができます。(一一一−一七三、一九八一・二・一五)

 今日、学校問題が至急な社会問題として、アメリカでも、日本でも、全世界で登場しています。師は父母の代わりに、愛でその教え子を教育しなければなりません。永遠の愛をもって教育しなければなりません。その学級で出会った、その時だけの因縁ではないというのです。自分が教えてあげた教え子に対して、一生忘れてはなりません。このような愛の因縁を結ぶことに努力しなければなりません。ですから、自分のすべての知識を愛とともに連結させる師が真なる師なのです。何かの生活方便として月給をもらうために教えるのではなく、愛を抑えることができずに教えてあげざるを得ない、自分の生活が困難になっても教えてあげなければならないという、そのような師にならなければなりません。夜でも昼でも訪ねていき、自分がもっている知識を愛で永遠に伝授してあげ、またそれを受けたいと思う師弟間にならなければなりません。それが真なる師であり、真なる弟子です。(一二七−一六、一九八三・五・一)

 教授たちの断固とした決心と明確な価値観による後進への教育こそ、この時代の要請であるばかりでなく、教える者の基本姿勢でもあります。この点では、宗教指導者と教授たちに共通点があると思います。それは、私たちが知識を伝達し、また研究結果を教育するだけでなく、人生に責任をもって教えてあげなければならないからです。(一三〇−一五、一九八三・一二・一八)

 先生といえば、学校で知識を教えることだけがすべてではありません。人間的な面、人格的な面において、すべてが手本となることができる基準にならなければなりません。中心にならなければならないのです。

 ここに先生たちが大勢来ているでしょう? 父母の心をもって、主人の心をもって、自分の家を守るように学校を守り、学生たちを自分の息子、娘のように教育してみたでしょうか。そのようにしていなければ偽者です。兄弟同士でも同じ道理です。父と母の思想と心情をもたなければなりません。父母が子女を愛するにおいてこのようにしたので、本当に父母を愛するならば、子女も同じようにしなければなりません。同じ理論です。真なる兄になろうとすれば、弟のために自分のこと以上に投入しなければなりません。このような原則で和合した理想的基台と価値観の基本がこの宇宙に設定されれば、謀略中傷は、探し出そうとしても探し出すことができません。不正腐敗というものは、完全に解消されます。そのようになれば、今日、村と村との争いと、歴史過程における闘争論理は適応されません。(二〇三―三〇六、一九九〇・六・二七)

 真の愛を中心として、この社会にも、国家全体にも必要な要件とは何でしょうか。三つあります。一つは何でしょうか,父母が必要です。また一つは何でしょうか。先生が必要ではないですか。教育が必要です。それから何ですか。主人が必要です。ですから、父母は生んで育ててあげ、一人前にしてあげなければなりません。

 師は、三つの心をもたなければなりません。父母の心、そして自分の後継者になることができる、自分の家門を任せることができる人を育てるという心、自分の国を任せることができる人を育てるという心をもたなければなりません。そうしてこそ、一族も、国も、すべて良くなるのです。天国でも同じです。国を見てもそうではないですか。国の大統領が父母の立場であり、学校の教育者は師の立場であり、そして、会社のような所や行政部署は何ですか。主従関係です。会社には主人がいるではないですか。滅びつつあるこの混乱した世の中に、この三つのうちの一つでも出てくれば生きることができるのです。真なる主人に出会えば、真なる師は自然に出会うようになり、また真なる父母も自然に出会うようになります。一つだけ出会えばよいのです。真なる師さえいれば、真なる父母もそこにいて、真なる主人もそこにいるのです。なぜですか。神様がそのようなお方だからです。(二〇三−三六〇、一九九〇・六・一八)

 真なる師とは、真なる父母の心をもち、代身者として母の代わりに教育する、そのような立場に立った師です。そして、真なる父母は、生むだけではありません。育ててあげなければなりません。教育して、自分の一族を相続し得る主人にしなければなりません。枝をつくらなければなりません。(二〇四−四五、一九九〇・六・二九)

 神様は、真の父母であり、真の師であり、真の王です。しかし、世の中では、それを神様がなさることはできないので、神様の代わりに、父母の代わりに、真の教育をしなさいというのです。父母の代わりです。父母の代わりに愛さなければなりません。学費を出せない学生がいれば、自分たちが支援しなければなりません。募金運動をしてでも出してあげる、そのような学校にならなければなりません。もし学校で満たすことができなければ、班を中心として父母と先生が一つになり、彼らを一緒に教育していこうと考えなければなりません。自分の家庭第一主義は滅びるのです。霊界の自由天国に行くことができません。(三〇一−九三、一九九九・四・一六)


三 教育の目標と基準


 過去の歴史は、今の私たちの歴史よりも輝かしいものでした。したがって、このように教育するのです。国史を中心として見るとき、私たち大韓民国の歴史はこうして滅び、アメリカならアメリカの先祖たちがこうして発展したということは、今後、歴史を教育する一つの標準として立てることができます。時代を収拾し得る一つの標準として立てることができるというのです。皆さんは、そのようにすることができる立場に立たなければなりません。(二一−三〇七、一九六八・一二・八)

 私たちが生活するにおいて、自分個体の目的を中心として、それを成すために生きるよりも、全体の目的のために生きなさいというのが、今までの教育や道徳が指向してきた標準です。したがって、個体のために生きるよりも全体のために生きるべき立場に立っているので、人は必ず自分を中心としたものより、公的なもののために生きなければなりません。(二四−二一一、一九六九・八・一七)

 もし父母が子女に、「私がお前を愛し、お前のために尽くし、お前のために苦労して汗を流すのは、私のことを考えるのではなく、この国をもっと愛せよという思いからだ」という愛国者の心情をもって教育すれば、そのような父母のもとで愛の教育を受けた子女は、父母が願う愛国者になるために努力するでしょう。彼は、父母の愛を回想するたびに三千万民族を考えるでしょう。そして、民族のために生きる立場で学び、自分の民族が悲惨な立場に立つときには、自分の父母以上に悲惨さを感じるのです。

 しかし、そのような立場に立ったからといって愛国者になるのではありません。そのような立場に立って成し遂げた基盤がなければなりません。そうしてこそ、それを国民が千年、万年欽慕する要因になるのです。そうでなければ、それはすべて過ぎ去っていきます。このようなすべての問題を考えるとき、深刻だというのです。(二五−九七、一九六九・九・三〇)

 皆さんの家庭は、世界的な家庭になっていますか。もしそのような家庭になっていれば、町内中にうわさが立ち、すべての人々が、「どうしてそのように暮らすのか」と尋ねてみたいと思うのです。見習いたいと思い、教育を受けたいと思うのです。皆さんは、全員がチャンピオンの家庭となり、世界の人々が正しいと認める家庭にならなければなりません。(二九−七七、一九七〇・二・二四)

 一つの家庭で、兄弟がお互いに意見が異なって争っているとき、父母はどちらの側につくでしょうか。先に手を出し自分の欲心のために争う子女の側につく父母は、いません。ですから、今日まで歴史過程において教育と人倫道徳の標準は、「善でありなさい」ということだったのです。

 誰もが、高次的なもののために犠牲になりたいと思い、国に忠誠を尽くしたいと思うのです。しかし、忠臣は、すぐに出てくるのではありません。それは、家庭から、個人の心情から出てくるのです。言い換えれば、私自体の人格、天性と、家庭の教育を中心とした家庭生活から出てくるのです。そして、社会活動を経て、その国家の国威に影響を及ぼし得る立場に立つようになるのです。そのような基盤を土台として、国家で必要とされる立場に立たなければならないのであって、そのような基盤がなければ、奸臣や不当な利益をむさぼる輩にしかなることができません。

 歴史上に現れた英雄や偉人は、大勢見ることができます。個人の欲望をもって世界を制覇しようとするなら、苦労の過程を経たとしても、神様の立場に立って苦労していないので、彼は、必ず歴史的な批判を受けます。その道は、四方八方にふさがれるようになるのです。それは、かえって悪に接近してはいけないことを訓戒する教育の教材になります。そのようなことがあればあるほど、悪を防備する一つの条件になることもできるのです。しかし、善に立脚した苦労が万民の良心に認められる立場に立った場合には、それを天が目標とする戒律の標準として、あるいは、社会的な協力の基台として、歴史的な中心に、または世界的思想の中心に立てようとするのです。これは、私たちの良心作用から見てみるとき、否定することができません。このようなことを考えてみるとき、統一教会は、今まで受難の道を通して発展の道を整えてきたのです。これがどのくらい発展するのかということは、今後の問題です。(三五−一九六、一九七〇・一〇・一四)

 愛国者は、一日で育つのではありません。自分の先祖から教育を受けなければなりません。父母から、国を愛さなければならないという教訓を骨髄深くに染みわたるように受けた因縁がなければならず、そこで生涯の指針を定め、目的を決めなければなりません。自分自らが動機になるのではありません。どのような愛国者でも、自分自らが動機になって愛国者になったのではありません。必ず、自分の先祖から教育を受けるか、あるいは良心の深いところからある衝撃的な感動を受けたことが動機となり、生涯路程全体がその動機による結果を尋ね求めていくようになるとき、愛国者として登場するようになるのです。このことを皆さんは知らなければなりません。

 いくら悪の父母だとしても、子女に、「私が殺人強盗だったから、お前たちも殺人強盗になりなさい」と言う父母はいません。自分は悪だとしても、子女を教育するときには、「絶対に悪い人間になるな」と言うのです。子女に対して「お前は悪い人間になってはいけない」と言うのは、父母である自分は悪かったということです。「お前は正しく生きなさい」と言うのは、自分は間違っていたということです。

 子女のためには、自分を忘れて完全に投入するのが善であり、そうしてこそそれが残ることを知っているというのです。それが万古の教育原則です。これを社会化し、世界化すればよいのです。そうではないですか。「父母が悪い」と言う人がどこにいますか。

 以前に、ある父母が自分の息子を孤児園に送っておいて、世界遊覧に出ていったという報道を見たことがあるのですが、そのようなことをするから、その子女たちが悪くなるのであって、どこへ行くにも父母が子女と一緒に行くのに、子女が悪くなるのを見たことがありますか。

 世の中がそうです。うまくやったことも、しつこく「よくやった」と言えば嫌になり、失敗したことを「失敗した」と言えばもっと嫌がります。失敗したことを「よくやった」と言えば喜ぶのです。そうではないですか。収拾方法が違います。失敗したことも「よくやった」と言って、おだてながら機嫌をとらなければなりません。分別のない子供たちは、おだてれば喜ぶのです。子供たちを見れば、みな自分を中心として考えます。良いものがあれば自分のものにしようとします。ですから、教育が必要なのです。(三六一七三、一九七〇・一一・一五)

 今は、どのような時なのかというと、心と体が闘う思想戦時代です。誰の考えが良いか、心を見なさいというのです。そうではないですか。心の闘いなのです。歴史は何をしてきたのでしょうか。一人の人を失ってしまったので、人を再創造し、復帰していく道です。ですから、「体的世界の制覇を夢見る王子たちよ、あるいは英雄たちよ。出てきてやってみなさい! それで滅べば、そのようにしてはいけないという教育材料にするだろう」と、神様はそのようにされるのです。それを知らなければなりません。それが神様です。誰か、自分の心を中心として誇ることができる何かや体制があれば、出てきてそのようにしてみなさいというのです。そのようにして滅べば、その伝統的資料を収集するのです。そして、真なる息子、娘として教育することができる教本を作らなければなりません。(六〇―七四、一九七二・八・六)

 先生自身も、監獄で孤独だったことがどれほど多かったでしょうか。孤独な立場にいるとき、慰労してくれた事実はいつまでも忘れられません。親戚や、誰かが来たことは、忘れることができます。しかし、そのような愛の因縁を結んだ人は、忘れられません。それを見れば、怨讐だからといってすべて悪いのではありません。このような立場を通して教育になり、学ぶことがいくらでもあることを私は感じました。

 ですから、皆さんも、食口(家族)の中で誰かが軍隊に行くとか、あるいは監獄に行くようになれば、先生ももちろん訪ねていかなければなりませんが、行くことができなくても皆さんは、そのような人生を残し、そのような因縁の道を行かなければなりません。そのようにすれば、相手に、生涯このように良いことをしなければならないという教材を、一つの教育標準を残すことができるのではないでしょうか。そのような体験をした人は、自分が死ぬときに、その子孫の前に「そのような人になりなさい」という遺言をしてから死ぬようになるのです。(六三−三〇五、一九七二・一〇・一四)

 世の中に監獄を好む人はいません。ところが、これを友と思って歌を歌うことができ、友と思って話し合うことができ、戯れることができ、これに相対することができるようにする教育がなされたとすれば、それは、教育の中の最高の教育です。このような教育を受けることができる所は監房しかないので、監獄も悪くないというのです。

 私がこのような話をしようとすれば、きりがありません。はえ一匹でも、慕わしさの対象になります。「ああ、お前が言葉を話すことができれば、私の願いを聞いてくれて故郷にも伝えてくれるのに」、故郷まで飛んでいくことができるというのです。「便りをもってきてくれるのに」と、はえ一匹が友達になり得るのです。小さな虫のはえといえば、みな嫌いますが、このように友達の中の友達であり、人の対象であり、話し相手になり得るのです。それ以上の教育を受けることができる所は、天地に監房以外にはありません。ですから、監房は悪くないというのです。(六三−二一九、一九七二・一〇・一四)

 教育や倫理というものは、すべて善を標準として行くのです。善を標準として行く道は、易しい道ではありません。苦痛の道です。私の体が願うすべてのことは、本質と衝突する逆理的な路程です。ですから、その道を行かなければ、善なる結果を得ることはできないというのが、今日、私たちが受ける社会生活における教えの標準です。

 「万民は、善なるものを願っていくので、神様のために生きる前に、人のために生きなさい。人類全体のために生きなさい。人を愛しなさい。人のために生きなさい。人のために生まれたのだ」という教育を受けなければなりません。自分のために生まれたのではありません。自分のために生まれたのならば、天使長復帰の路程を明らかにすることはできません。天使長が人間のために生きることができない立場に立つことによって堕落をもたらしたので、自分だけのために生きるのならば、これを蕩減し得る道を見いだすことはできないというのです。(六四−一八、一九七二・一〇・二二)

 人々は、良い心をもって犠牲になる人を好むようになる、ということの具体的な内容は分からなくても、漠然と今日の人倫道徳を中心として、一律的に教育の目標になっており、教養の目標になっていることを知っています。それはなぜでしょうか。落ちた立場でより高い一点を望んでいるので、天は、そのような立場にいる者に一対一の立場で詳しく教えてあげることはできないのです。ですから仕方なく、ひそかに、象徴的に、あるいは比喩的に教えてあげるのです。そのように教えてあげたのが、今日の「善を行いなさい」、「積善しなさい」という言葉だ、という事実を知らなければなりません。(六五−一一七、一九七二・一一・五)

 教育するためには、教材が必要です。国を代表して教えようとすれば、国を代表した教材が必要なのですが、その教材の材料をどこで収拾するのですか。国の国民から収拾するのです。主権者と国民を中心として、為政者と国民を中心として、材料を収拾しなければなりません。韓国政府はどうで、韓国はどうでなければならないということと同じです。

 今後、世界的な教育をしようとすれば、世界復帰の教材をつくらなければならないのですが、それをどこでつくるのですか。その材料は、その国のために、その民のために犠牲になり、誰よりも苦労した善なる君主と善なる民でなければなりません。その民は、苦労した民でなければなりません。そのようになるときには誇ることができますが、そのようになることができないときには誇ることができません。ですから、韓国を誇ろうとすれば、韓国の群れを死ぬほど苦労させなさいというのです。大韓民国だけのために生きるという意味ですか、世界のために生きるという意味ですか。真心をもって犠牲になることが世界的でなければならないということです。(六五−二一六、一九七二・一一・一九)

 今日の人倫道徳の基準は、善なる人は人のために犠牲になる人であり、悪なる人は人から搾取する人だということになっています。教育の標準をそのように立てています。(一〇二−二三四、一九七九・一・一)

 神様はどうでしょうか。「お前たちが私を愛しなさい! お前たちが私のために犠牲になりなさい!」、このような神様ならば、どうなるでしょうか。それは、神様ではありません。神様が伝統を立てるためには、御自身が先に赤ん坊のおしめを取り替えてあげ、父母の下の世話をし、先に犠牲奉仕して、温柔謙遜な教育テキスト(教材)のセンターにならなければなりません。(一一六−八九、一九八一・一二・二〇)

 アメリカの人々は、今まで自分の子供たちをハーバードのような立派な大学や大学院に送り、博士コースを経ていくようにすべての精誠を尽くしてきたのですが、統一教会の教会員になれば、人間訓練をさせるのです。「千万人があなたを責めるだろう! 嘲弄するだろう! しかし、それを消化することができる人にならなければならない」と教育するのです。訓練です。伝道前線で、目前であらゆる侮辱を受けるのです。つぱを吐かれるのは普通です。足でけ飛ばされ、本当に悪辣なことを被りました。統一教会には、ありとあらゆる歴史がすべてあるのです。その歴史を皆さんは知らなければなりません。(一三八−二八〇、一九八六・一・二四)

 神様が平和の教育材料を地上の人間たちに教えてあげようとすれば、どのような材料を求められるでしょうか。愛の材料を求められるのです。愛の材料を求めようとすれば、愛という言葉、それは見えないので、愛をもった男性と女性を求められるのです。それは、必然的帰結です。女性が自分の体以上に男性を愛することができる、そのような概念をどのように発掘するのでしょうか。これが問題です。統一の起源、平和の起源をどのように探し出していくのか、ということが問題です。

 それを可能にし得る力がなければならないのですが、その力が愛だというとき、その愛をもって自分の位置を否定し、相対の位置を高めることができる、このようなことを理論的に何を追求して立てなければならないのかというのです。(一九三−一五三、一九八九・一〇・三)

 アダムとエバを中心として、子女教育の材料が出てこなければなりません。また、兄弟教育の材料、それから夫婦教育の材料、父母教育の材料、そして家庭がどのように育つという材料、氏族がどのように育っていくという氏族的材料が出てこなければなりません。このようにして、蘇生的家庭を中心として、蘇生、長成、完成ですべて終わるのです。氏族編成です。これをモデルとして世界化すれば、国になり、世界になります。そのような教育をし得る教材は、この地にはないのです。今から天の国や地上で、家庭はどのようにならなければならず、理想的家庭はどのようにならなければならないかという教材が、文総裁の教育方法として、ホワイトハウスの図書館や世界の図書館に納入される時代が来たのです。(二三三−三三五、一九九二・八・二)



















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第二章 神様はどのように人間を教育されたのか

文鮮明先生の教育哲学



第二章 神様はどのように人間を教育されたのか


一 神様が人間を教育された理由は


 神様は、四千年の歴史を通して、繰り返し受難の道を歩まれながらも、将来、イエス様のみ旨を受け継ぐことができる世界的な基盤ができることを願われながら、イスラエル選民を育ててこられました。しかし、そのようなイスラエル選民は、専門家であられるイエス様の前で、希望をもつことができない立場に立ってしまいました。このようなイエス様は、御自身が専門家としての権威をもった立場に立たれながらも、そのようなイエス様に対し得る相対がいなかったので、これを地上で新たに模索しなければなりませんでした。それゆえに、彼らを再び教育しなければならない立場に立つようになったのです。(二九−八三、一九七〇・二・二五)

 皆さんは、自分の子供一人を教育することも大変でしょう? その子供は、自分の血肉を受け継いだ息子、娘です。母親が涙を流せば、心が通じて共に涙することができるのが息子、娘です。父親が涙を流して悲しめば、共に悲しむ心が自然に生じてくるのが息子、娘であるにもかかわらず、彼らを指導し、教育しようとすれば、非常に難しいのではありませんか。それを見るとき、今日、私たち人間は、神様の息子、娘ではないというのです。神様がどれほど泣かれても、見て見ないふりをします。神様がどれほど悲しまれても、見て見ないふりをするのです。これは、人間がサタンの血肉を受けて生まれたからです。むしろ、神様が悲しまれるのを見て、褒めたたえるのです。’滅びる者を見れば、喜んで笑うというのです。神様は、このような人間を指導し、彼らに開拓の方向を教えてあげようと、どれほど苦労してこられたでしょうか。しかし、一から百、千、万まで「ため」に生きようとする心、哀れに思われる心が神様になかったとすれば、今まで神様が摂理歴史を抱き抱えてくることがおできになっただろうかというのです。

 今日まで摂理歴史を引っ張ってこられた神様の、その事情と立場はいかなるものだったかいうと、哀れに思われる心で、「私がいなければ彼らは滅びる、滅びることが本然の人間に賦与された目的ではないことをはっきりと知っている私によらなくては、彼らは滅ぶ」と思ってこられたのです。神様は、人間には絶対的に神様御自身が必要だということを御存じなので、これを教えてあげるために、今までの歴史過程において、意に介することなく受難の道を開拓してこられたのであり、数多くの人間を教育してこられたのです。これが神様の立場です。(四二−二五七、一九七一・三・二一)

 堕落した人類を救うために、今まで神様は、愛の心をもってこられました。愛の心をもってこられた神様は、摂理の出発当時から、人間たちに知識の内容を教えることよりも、人間はこうでなければならないという内的な真理を教育することよりも、また社会と世界に対する事情を話すことよりも、もっと価値のある愛に対する内容を教えてあげなければなりませんでした。

 神様が人類に対して教えるにおいては、最も重要なことを中心として教えなければなりません。愛する子女に父の立場で教えてあげることができる教育があるとすれば、それは何でしょうか。愛しかありません。(四二−三四〇、一九七一・四・一一)

 お父さんとお母さんを中心として生まれる時、新郎新婦として生まれるのではありません。息子、娘として生まれて、愛の教育を受けるのです。その父母は、息子、娘にどのような教育をしなければならないのでしょうか。知識教育をするのではありません。愛の教育をしなければなりません。お父さんとお母さんがけんかする愛の教育ですか。けんかする愛という言葉はないでしょう? お互いが一つになる教育をしなければならないというのです。

 それゆえに、神様の愛を中心として、神様の前で愛の教育を受けなければなりません。それでは、その起源とはどこでしょうか。人間から始まるのではありません。神様が父母なので、アダムとエバは、神様から愛の教育を受けなければならないのです。そのアダムとエバの価値基準の設定は、どこから成されるのでしょうか。神様の愛の教育からです。それでは、愛の教育を受けるのはいつまででしょうか。父が知っているすべての価値の基準を推し量ることができる時まで、言い換えれば、成熟する時までは、父母の愛を受けて育たなければならないのです。(五一−一七一、一九七一・一一・二一)

 愛の神様を中心として、愛の教育を受けなければならなかったアダムとエバに、愛の教育基準というものがあったでしょうか、なかったでしょうか。なかったとすれば、神様の理想というものはあり得ません。その愛の教育基準とは何か、ということが問題です。皆さん、天国に行きたいでしょう? しかし、天国に行ってからではそのような教育を受けることができません。この地上で教育を受けて生活したのちに行かなければなりません。この地上においてその教育をしなければ、大変なことになります。受けなければ大変なことになるというのです。

 それでは、アダムとエバが教育を受けようとすれば、どのような姿勢をもたなければならないのでしょうか。父母と子供という関係なので、父母が行く所には、常にそのあとについていかなければなりません。父母が山に登ればその山についていき、谷に下りていけばその谷についていき、洞窟の中に入っていけばその洞窟の中についていかなければなりません。常に父母と共にいなければならないのです。顔を見ないときは、見たいと思うでしょうか、見たくないと思うでしょうか。もし神様が、息子と離れなければならないとすれば、離れることができるでしょうか。神様は、絶対的なお方なので、絶対的に見たいと思われるのです。絶対的なお方なので、好んでも絶対的に好まれるのです。「神様、来るというのならば来て、来ないというのならば来ないで、どこかにいるというのならばいて、いないというのならばいないで……」。それでよいのですか。絶対的でなければなりません。

 それゆえに神様は、子供たちの生命の母体です。そうではありませんか。父母は、その子供の生命の母体でしょう? 生命を育ててくれるのです。生命の母体です。愛の母体であり、保護の母体です。生命を保護し、育て、愛してくれるのです。ですから、幸福はどこから出てくるのでしょうか。保護圏が成立しなければ、生命が脅威にさらされるようになります。生命が脅威にさらされれば、愛も成立することができません。今、正に死ぬというのに、愛が成立しますか。成立しません。それゆえに、保護圏がなければなりません。それで、保護圏をつくったのですが、保護すべき者が誰だったかというと天使長です。アダムとエバは、生命の起源であられる神様から生命を受け、天使長の保護を受けながら愛の教育を受けている途中だったのです。

 アダムとエバがその教育をすべて受けていれば、神様は、どのようにされたのでしょうか。「エバもこのように愛し、アダムもこのように愛し、私があなた方をこのように愛したので、あなた方は、お互いに、私があなた方を愛したよりももっと愛しなさい」と命令されていたのです。それでは、アダムとエバの二人が、神様が彼らを愛したよりももっと愛することができる道とは、どのような道でしょうか。彼らが成熟して、二人がお互いを愛すること以外には、神様よりももっと愛することができる道はありません。

 神様御自身は、一つの体です。二性性相の主体として存在されているので、御自身の中で愛すると言い、「男性的主体の位置だ。女性的対象だ」と考えて愛を感じることができるかもしれませんが、男性と女性が分立した立場においては刺激的な衝撃を感じることはできません。したがって、アダムとエバが、神様を差し置いて、自分たち同士でより衝撃的に愛する姿を御覧になる時、愛の主体であられる神様は、それを悪いとは思われません。なぜでしょうか。その二人が一つになったその位置を相対にして喜びを感じることができる主体者であられるので、その相対がより価値的な愛を感じるようになる時、神様も幸福をお感じになるからです。それが、人間創造を中心とした神様の愛の第一法度ではないかというのです。したがって、そのような愛の教育を受けなくては、その位置に進み出ることはできません。(五一−一七三、一九七一・一一・一二)

 本来のアダムとエバが神様から愛の教育を受けることができなかったので、イエス様が、「このように愛して生きなければなりません」と言って、その愛を父と母に教えようとされたのです。しかし、イエス様の父と母は、その言葉を聞きませんでした。

 愛を教育するにおいては、ユダヤ教の礼法を経た立場で、聖殿理想を完成した立場で行わなければなりません。イエス様は、神様の代わりとして、父の代わり、新郎の代わり、兄の代わりとして、愛の主人公として来られたので、マリヤの家庭全体は、イエス様を神様の代わりとして侍らなければなりませんでした。イエス様は、ヨセフに対して「おい、ヨセフよ!」と言わなければなりませんでした。ヨセフが父ではないというのです。また、マリヤに対しても、「マリヤよ!」と言わなければなりませんでした。彼らが教育を受けなければならなかったのです。

 しかし、彼らが教育を受けるようになっていましたか。人情を通して見るときは父子の関係でしたが、天情を通じて見るときにはイエス様が主体であり、イエス様が神様の愛の代わりとして来たので、その愛の道理に従って、その父母から兄弟までが、みなイエス様から教育を受けなければなりませんでした。お父さんとお母さんはどのように生きなければならず、兄弟たちはどのように生きなければならず、兄弟たちの中で、私の相対はこれこれこのような女性でなければならないという教育をしなければなりませんでした。ところで、イエス様がそのように教育してみましたか。聖書にそのような話がありますか。青葉を除き、二葉の話だけで「天国に行こう」と大騒ぎしているのです。(五一−一八七、一九七一・一一・二一)

 イエス様は、ペテロ、ヤコブ、ヨハネなどを中心として、三年の公生涯路程を歩んでいきました。イエス様が、「仕えられるためではなく、仕えるために来た」と言われながら、弟子たちの足を洗ってあげたのはどういうことでしょうか。それが父母の立場です。父母の立場で教育したのです。しかし、彼らは、教育されたとおりにすることができませんでした。死ぬ時は父母と共に死のうというのが、イエス様の教えられた思想の骨子でした。子供は、父母が死ぬ前に父母の身代わりに死ななければならないというのが、イエス様の教えだったにもかかわらず、彼らは、父母が死のうとしている場所から逃げていったのです。(五一−一九四、一九七一・一一・二一)

 人格的な価値は、相対を中心として決定されます。したがって、夫となった人は、その妻にとって神様よりももっと素晴らしい方として記憶されなければなりません。妻が「私は、神様を見ることができませんでしたが、私の夫を通して神様を見たのであり、世の中の純粋な愛を知りませんでしたが、夫を通して世の中の純粋な愛がどのようなものであるかを知りました。夫を通して兄の愛がどのようなものであるかを知りました。また、夫を通して兄弟の愛を私は知りました。夫は、すべての愛を教えてくれた主人公です」と言うことができる、そのような夫にならなければなりません。そのような、母の代表、新婦の代表、姉の代表としての心情を誘発することができる愛の因縁を体恤しながら生きていく男性にならなければなりません。

 そのような教育を受けて、そのような教育でなくては「窒息してしまう」と言うくらいに、それが生活において習慣化され、どの社会に行っても、年齢の高い人に対すれば、私のおじいさんだと思い、そうでなければ、私のお父さんやお母さん、私のお兄さんやお姉さん、私の妹だと思える心情をもたなければなりません。そのような心情が世界の至る所で普遍化し、そのような家庭における心情が普遍化できる環境が展開する所であれば、そこは間違いなく天国です。そのように生きる人は、どこに行こうと反対を受けません。その人がどこに行こうと、神様は、その人と共にいらっしゃるのです。それゆえに、その人は、どこに行っても寂しくないのであり、どこに行っても滅ぶことがないのです。(五一−一九九、一九七一・一一・二一)

 イスラエルという、選民思想をもった民族がいることを思うとき、私たちは、「神様はいない」と否定することはできません。それでは、イスラエルの国の主目的とは何でしょうか。サタン世界のいかなる国家よりも、神様のために忠誠を尽くし得る国とならなければならず、その国を支配し得る中心存在を迎えなければなりません。そのために神様は、数千年にわたってメシヤを送られることを約束され、それに対する教育をしてこられたのです。(五三−一二六、一九七二・二・一三)

 神様は、ごみのような人間たちが天国の王子となる日を見つめながら、彼らを教育してこられたという事実を知らなければなりません。天国の玉座圏内に行くにおいては、私の家庭を犠牲にして国を救い、国を犠牲にして世界を救い、世界を犠牲にして天の国を救わなければなりません。そのようにして、地獄を解放しなければならないので、統一教会の家庭が行く道は、涙が乾くことがないのです。(二三−九九、一九八一・五・三)

 宇宙天地間における最も気高いお方とは誰でしょうか。神様です。ですから、神様を中心として一つになって爆発的作用をなし、神様と人間との調和によって雷が鳴り、稲妻が走れば、その愛に夢中になっているのを誰が切り離すことができますか。独裁者が、それを「嫌だ」と言って、抜け出ようとしても、頭が離れても、足が離れません。抜け出ることができません。実感がわくでしょう? 愛の流れを中心とした天地の調和は、昼でも夜でも私たちに刺激を与え、私たちが活用することができるように、その教育教材となっているのです。しかし、それにもかかわらず、この堕落した悪の人間たちは、なぜこのように混乱し、なぜこのように「死ぬ」と言って大騒ぎし、邪悪な戦争によって滅ぶようなことを引き起こしているのかというのです。それを収拾し得るのは、いくら見ても統一教会しかないので、神様は、統一教会の文先生をつかんで永遠に離すことができないというのです。(一七三−五五、一九八八・二・一)

 数多くの宗教指導者は、どこを中心として連結されるのでしょうか。横的な誰かを中心として連結されているのではありません。イエス様のような人は、「ああ、私は、私のお父さんを信じて出発した」とは言いませんでした。横的な自分のお父さんやお母さんではありません。お父さんやお母さんを超越して、縦的な基準に立つことができる神様を中心として出発したのです。それが偉大なことです。

 このような観点から見るとき、全世界の宗教を批判するにおいて、生活法度を中心とした教育がより重要か、心情的内容を備えて神様と人間との愛の内容を強調する宗教がより重要かという問題を、私たちは分別することができます。(一七五−二四二、一九八八・四・二四)

 この世の中を原状回復するために、天は、聖人を立てて天道を明らかにし、宗教を通して人類を教育してこられました。悪なる世の中において、善を立てて実践することが簡単であるはずがありません。義人、烈士たちの犠牲もそのためだったのであり、真なる修養の道が、骨を削る自己犠牲であり、無条件に施す道でなければならないこともその例です。二九〇−三二二、一九八九・六・二・三)

 今まで神様は、どのように復帰摂理をしてこられたのでしょうか。神様は、父母の立場で今までこの人類を導いてこられました。さらには、師のような立場で、歴史を通して無知なこの人類を教育してこられました。それでは、父母のように、師のようにして教育し発展させたのちには、何をされるのでしょうか。父母の代わりに、師の代わりに主人の位置を任せてあげようとされるのです。これが、救援摂理の目的、さらには堕落がなかった時の創造目的でした。父母を身代わりし、師を身代わりする主人の位置−その主人は主体です。(一九八−六〇、一九九〇・一・二一)

 神様がこの宇宙を創造される時は、人類の愛の対象として父母の立場に立たれたのであり、その次には、この人間たちが愛の理想の立場に到達することができるようにするために、「これこれこのように歩まなければならない」という原則的路程を中心として教育し、訓示し、そして完全に成長したのちには、「父母の立場を代理し、師の立場を代理して永遠の中心の立場を守る主人となりなさい」ということを願われたのです。主人となってくれることを願われたというのです。(一九八−六一、一九九〇・一・二一)


二 神様の恨は人間を教育できなかったこと


 神様が教育することができなかった、息子、娘と、兄弟と、夫婦と、父母の伝統を受け継がなければなりません。それが、四位基台の完成であり、創造目的です。神様のみ旨の完成とは何かというと、創造理想の完成です。神様の創造理想の完成とは、四位基台の完成です。四位基台の完成とは何でしょうか。神様の真の愛を中心として、子女として教育し、兄弟として教育して、それから夫婦として教育しなければなりません。また、その家庭における父母として、神様の伝統を受け継ぐ教育を受けることができなかったことが恨なので、それを再現して、一つの王族的基準を皆さん各自の家庭から出発させなければなりません。そのようにすることによって、神様の再創造が完成した地上世界となるのです! (二二三−二〇一、一九九一・一一・一〇)

 神様の恨とは何でしょうか。息子、娘を教育することができなかったことです。本当に完成した息子、娘を教育することができなかったのであり、兄弟を教育することができませんでした。現在、それに対する代案がありません。教育原論がありません。統一教会の家庭原理を中心として、完成的基準、人格的完成……。愛を中心としたこの論理が教育の原本です。神様の願われた息子、娘を教育することができなかったことが恨です。兄弟であるアダムとエバが、兄弟の道理を守ることができる道を教育することができなかったのです。今まで神様は、本当に御自身の子女を教育したことがありません。統一教会を通してその教育をしたい、というのが神様の希望です。(二二三−二七七、一九九一・一一・一二)

 本当に神様の愛と一体となったその人間は、兄弟です。アダムとエバは、兄妹だというのです。その兄妹は教育されたことがありません。統一教会がそれをしています。それを終えれば、本当の夫婦になります。子女を生んで、神様が教えてあげたかった、そのような教育をした人はいませんでした。

 一つの家庭において、男性と女性の二人は、子女であると同時に兄妹です。アダムとエバがそのようになっているというのです。また、それが夫婦であり、神様の代わりとなる立場では父母となるのです。神様の理想である本家の教育をすることができなかったその基準を中心として、世界を教育しなければならないというのが統一教会の使命です。(二二三−三五七、一九九一・一一・二〇)

 神様の今までの願いとは何かというと、真の愛を中心として、息子、娘を神様の理想に一致させ得る教育をすることです。神様の愛を中心として、神様の真なる家庭における兄弟の因縁を教育し得なかったことが恨です。

 ですから、神様の子女として、神様の愛を中心として、家庭を中心とした教育をすることができなかった恨があるのです。それから、兄弟が生きていくべき教本が出てきていません。その次には、夫婦として生きていくべき教本が出てきていません。父母がどのように生きるべきかという教本が出てきていません。神様を中心として、天国の伝統的家庭を中心とした家庭的教訓が出てきていないというのです。これを再現するのが今日の統一教会です。(二二四−三〇、一九九一・一一・二一)

 神様の願いとは何でしょうか。今まで神様が教育することができなかったこととは何でしょうか。真の愛を中心として、御自身の息子、娘を教育することができませんでした。「息子、娘はこうでなければならない」という教育をすることができなかったのです。子女に対して、家訓を中心とした公式的基準による教育方法を実践することができなかったというのです。

 子女が大きくなれば、兄弟になるのではないですか。兄弟たちはどのように生きなければならないのか、という教育をすることができませんでした。その兄弟が大きくなって夫婦となるのでしょう? アダムとエバがそうではありませんか。その夫婦がどのように生きなければならない、ということを教育できませんでした。また、夫婦となれば、お父さんとお母さんになるのでしょう? 神様の真の愛を中心とした家庭のすべてのモデル的段階、すなわち子女から兄弟、夫婦、父母となる、このような面で教育をすることができませんでした。それゆえに、父母の真の愛を知らず、夫婦の真の愛を知らず、兄弟の真の愛を知らず、子女たちの真の愛を知らないのです。これを私たちが教育しなければなりません。

 また、女性の前において、アダム的代表のようなお兄さんがいませんでした。それから、兄弟と同じ因縁をもつことができる男性がいませんでした。「お兄さん」と言えば、兄弟のことでしょう? それから、真なる夫と同じ夫が現れませんでした。なぜでしょうか。完成しなかったからです。それから、父母となる基準も現れませんでした。それらすべてのものを失ってしまいました。それを再び探し立てようとすれば、女性たちの前に、そのような夫の代わりとなるモデルが現れなければなりません。(二二四−七九、一九九一・一一・二一)

 神様の恨とは何でしょうか。第一は、天の子女の教本を立てることができなかったことであり、第二は、天の兄弟の教本を立てることができなかったことであり、第三は、天の夫婦の教本を立てることができなかったことであり、第四は、天の父母の教本を立てることができなかったことです。四代を教えることができるテキストブックを作って人類を教育し得なかったことが神様の恨です。神様がすべて教え、すべて行くことができるようにされていれば、今日のこのような悲惨な姿はなかったでしょう。このような悲惨なすべての姿を見つめられる神様は、御自身が責任をもって教育し得なかったことを嘆かれながら、教育し得るその日を探し求めて今日まで歩んでこられたのです。

 それゆえに、新しい国となり、新しい国の民となるためには、このような教育原則に合格した人にならなければなりません。神様の恨を解怨し得る個人と家庭と氏族と民族と国家になってこそ、新しい国になるというのです。

 兄弟を憎むことは、神様を憎み、父母を憎み、将来の自らの相対圏を破滅し、否定することです。愛を取り去ってしまうことです。ですから、そのような人は、神様だけでなく、父母や万物全体が嫌います。神様から真の父母、被造世界全体の怨讐の位置に立つようになることを知らなければなりません。神様は、アダムとエバがそのように生きるように教育することができなかったのです。

 そして、万物を見れば、万物の半分……。右弦と左弦があるというとき、右弦をプラスとし、左弦をマイナスとすれば、こちらは男性を代表し、あちらは女性を代表します。また、男性は天を代表し、女性は地を代表していて、前後を中心として見れば、男性は前を代表し、女性は後ろを代表しているのです。ですから、球形理想を成す相対的条件を無視してはいけません。それはどういうことかというと、相対的条件を無視すれば、神様と人間だけでなく、被造世界もすべて嫌うというのです。相対的存在を否定するので、そのような立場に立つようになることを知って、今日、このような教育を徹底的にしなければなりません。それが、神様が教えてあげたいと願われた教本の内容です。

 その女性の前に神様がいて、その女性の前に父母がいて、その女性の前に愛の相対がいます。それがエバです。それと反対の立場にいるのがアダムです。アダムの前に神様がいて、アダムの前に父母がいて、アダムの前に相対であるエバがいます。このようになっているので、アダムとエバが、将来、神様の代わりとなり、父母の代わりとなり、息子、娘の代わりとなることができるのです。生産することは、全宇宙を代表した主人の資格をもつ息子、娘を生むことであって、自分の息子、娘を生むことではありません。三大愛を中心とした存在として、子女教育を徹底的にしなければならないというのです。(二二五−二一五、一九九二・一・二〇)

 神様の恨とは、アダムとエバが息子、娘として完成するように教育し得なかったことです。天地を代表した教育の原本、教育の定義を中心として、教育し得なかったことが恨です。それから、天の家庭の教育教本がないというのです。兄弟とはこうでなければならない、ということを教えることができませんでした。それから、夫婦とはどうでなければならない、という夫婦に対する教本がありませんでした。

 それを探し出さなければなりません。夫婦はどのように生きなければならないのか、男性はどのようにしなければならず、女性はどのようにしなければならず、普段、家庭において、どのように生活しなければならないのか、ということを教えることができませんでした。それから、宇宙の中で、天地に対して男性は天を代理し、女性は地を代理して合徳するという問題をはじめとして、男性は右側であり、女性は左側で、東西を連結するという問題、また前後の兄弟関係を円満にするという問題等を教えることができませんでした。このように神様の愛を中心として、夫婦が伝統として受け継ぐ教育を受けることができませんでした。

 この四大教育をすることができなかったのです。この教育を受けた人たちが息子、娘を生んで家庭訓練をすることができなければならず、また一族を従えた長となって霊界に入っていかなければなりません。霊界に入っていくときは、子女の完成、兄弟の完成、夫婦の完成、父母の完成をすべて成し遂げなければならないというのです。(二二六−一五六、一九九二・二・四)


三 伝統・教育・実践の三大綱領


 皆さんは、伝統を受け継ぐだけでなく、教育をしなければなりません。誰にですか。皆さんの息子、娘と、皆さんの夫、皆さんの妻に教育をしなければなりません。「私の夫は素晴らしい方だ」、「私の妻は素晴らしい方だ」と言って、尊敬しなければなりません。夫婦がそのようになって、息子、娘たちを教育しなければなりません。その次には、正しく教育するだけでなく、正しく実践しなければなりません。これが三大原則です。伝統・教育・実践、それだけが今後残るものです。

 ですから、先生もそのようなことをするのです。皆さんに伝統を立てさせるために、皆さんを教育するために、ひたすら先頭で走っているのです。先生の息子、娘たちは知らなくても、統一教会の人々は、それをすべて知っています。息子、娘たちも大きくなることによって、父親が立派であるということを知り、それをすべて学ぶようになっています。皆さんがすべて垣根となって動くので、先生の息子、娘たちは、自動的に学ぶようになるのです。そのように、一つの家庭を単位として、氏族、民族、国家、世界に拡大していかなければなりません。

 伝統を正しく受け継がなければなりません。先生の伝統、神様の伝統をです。先生が苦労したのも、神様の伝統を受け継ぐためでした。神様がこのように歩まれたので、その教育を受けて私がそれを実践するのです。簡単なことです。(一一三−三〇三、一九八一・五・一〇)

 今後、教育をするにおいて強調すべきことは、伝統と教育と実践です。伝統を知らなければなりません。私たちの伝統を尊重しなければなりません。新しい国の伝統を立てなければならず、その伝統を中心として教育しなければなりません。教育をするためには、韓国に対するあらゆることを知らなければなりません。また、日本に対して知らなければならず、アメリカに対しても知らなければなりません。また、アメリカの食口は、日本の伝統も知らず、韓国の伝統も知りません。日本の食口も同様です。韓国の伝統を知らないというのです。(二一六−一三六、一九九一・三・九)

 私たちの教会の三大目標は、伝統と教育と実践です。教育は、伝統がなくてはできません。伝統とは何でしょうか。もちろん、今まで歩んできた先生の蕩減路程もすべて教育しなければなりませんが、皆さん自身が、皆さんの各家庭において伝統を立てなければなりません。先生の歴史は、迫害を受けながら闘ってきた歴史ですが、皆さんの歴史は、迫害を受けずに歓迎されながら戦ってきた歴史です。この二つの歴史を一つにしなければなりません。先生が迫害を受けながら闘ってきた実績を褒めたたえなければならず、皆さんにおいては、迫害を受けない立場でどれくらい全国的に、アジア的に、世界的に影響を及ぽしたのかということを整理しなければなりません。その二つが一つにならなければなりません。

 それゆえに、二世や三世を中心として、各国の全体を中心として、行政省庁や会社、どのような組織にも影響を及ぼすことができる資格を備えた専門分野のクラブを編成しなさいというのです。最も貴いものはみ言です。彼らに精神的姿勢、垂直的姿勢を備えさせることができるものはみ言です。み言で教育するのです。横的な規定がいくらあっても、それには中心がありません。それは、この世においてのみ利用することができるものであって、あの世においては何の関係もありません。(二二六−二八一、一九九二・二九)

 伝統があってこそ、教育することができるのです。伝統に従って教育を受け、再度伝統を連結させることによって、実践舞台が拡大するのです。ですから、先生の教えは、伝統・教育・実践です。実践は、伝統の延長です。それでは、伝統の延長とは何でしょうか。先生自体ではありませんか。先生の歴史路程には、神様の復帰摂理。救援摂理のすべてが入っています。それを知らなくてはいけません。それを正しく教育しなければなりません。(二四一−二一六、一九九二・一二・二六)

 団体は、オーダー(綱領、規則)によって動いていきます。一段階、二段階、三段階、段階ごとにオーダーがあるのです。ですから、このオーダーに従っていくために訓練しなければなりません。私たちがすべきことは何かというと、一つは伝統であり、もう一つは教育です。伝統と教育、そして実践です。この伝統とは、神様の伝統、真の父母の伝統のことです。

 真の父母の伝統をもって教育するのです。その教育を通過すれば、摂理歴史を越えて神様と通じるようになります。荒野を越えて、このように小さな家でも建てることができるようになります。摩天楼のように大きくはなくても、皆さんのモデル型の家を建てることができるというのです。それを皆さん自身で建てなければなりません。誰も助けてくれません。自立しなさい。そのようにして、ほかの人々を助けてあげなさい。死地に落ちてはいけません。どれほど困難であっても、毎日一つずつプラスしなさい。そして、一つずつ投入しなさいというのです。今まで神様も、そのようにして投入して忘れるという生活をしてこられました。それが神様の伝統です。(二四八−一三三、一九九三・八・一)

 伝統を中心として教育し、伝統に合うように実践しなければなりません。「伝統」と言えば、縦的な神様を中心とした伝統、真の父母を中心とした伝統です。それをはっきりと学ばなければなりません。それを知って、それをそのとおりに実践しなければなりません。なぜでしょうか。主体と対象です。主体である天と真の父母の前に、伝統を完全に知って、対象の立場でそれを実践しなければならないというのです。

 これは、堕落していないアダムとエバが一人の王子、王女として心情圏を体恤しなければならない基準となるので、すべて公式化して、祝福家庭がこのような基準で生きなければならないのであり、このような基準を息子、娘に教育しなければなりません。王権とは何かというと、王子、王女になることです。(二五四−三三四、一九九四・二・一六)



















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四 真の父母・真の師・真の主人の三大主体思想

文鮮明先生の教育哲学



四 真の父母・真の師・真の主人の三大主体思想


 天使長が、神様の息子、娘であるアダムとエバを育てることができませんでした。どのように神様の息子、娘を育て、神様に必要な人として教育するのかということが問題です。皆さんは、先生になりたいでしょう? 模範になりたいのではありませんか。それで皆さんは、一生懸命に働いて国を代表することができる大統領の代理になり、またその国の会社やすべての行政省庁の主人になりたいと思うのです。出世しようというのです。そうではありませんか。それはどういうことでしょうか。真なる主人になろうということです。

 お父さんとお母さんが、生活しながらけんかをしてはいけません。お父さんとお母さんがお互いに愛し、息子、娘を愛しながら国を代表して見せてあげ、それから天地の代わりとなって見せてあげ、自分の親戚の代わりとなって見せてあげなければなりません。天地を愛する標本、世界を愛する標本、国を愛する標本にならなければなりません。将来に見せてあげることができる教科書とならなければならないのです。

 そのように教育して、その次に何をするのでしょうか。家の主人となるのです。すべての家庭には伝統があります。その伝統を立てる最初の先祖となり、次の世代に伝える主人とならなければなりません。そのような位置に立つことができる真の父母の代身者となり、先祖の代身者とならなければなりません。それで、父母は、先生を代理し、主人を代理するというのです。先生は、どのようにこの統一教会を正しく育て、教育して、所有権を相続してあげることができるのでしょうか。同じことです。

 国家を見てもそうです。大統領は、父母の立場に立ちます。すべての教育者は、師の立場に立ち、すべての組織の上司は、主人の立場に立つのです。天国もそうです。霊界に行ってみても、神様がセンターで教え……。すべて同様です。ですから、皆さんがどこに行ったとしても、このような三つの主流思想をもたなければなりません。ある時は、・師の位置を中心として、右側には父母、左側には主人でしょう? 主人と父母と師は一つです。このような観念が常になければなりません。

 それだけではありません。主人にしようとするので、父母の心情と師の心情と天の心情を知って、所有権を相続しなければなりません。同様の内容です。教会に入ってきて再び生まれ変わり、教育を受けて完成するのです。成長すれば、すべてのことを知るようになります。「私も主人の位置に立ちたい」と言うようになります。すべてを相続するのです。それが主人です。どこであろうと同様です。それが主流思想です。こちらに従っていっても真の師と出会い、あちらに従っていっても真の父母と出会うのです。すべて同様です。それゆえに、「天国はどこに行っても同じだ」と言うことができます。(二〇五−一九、一九九〇・七・一五)

 神様とは、いかなるお方でしょうか。父母の中の父母です。真なる人類の真なる父母の中の父母であり、師の中の師です。神様は、知らないものがありません。先生は、真の父母として来たので、今まで父母の立場で、師の立場で、宇宙の万真理の秘密をすべて教えてあげました。神様は、父母の中の父母であり、師の中の師であり、それから主人、王の中の王です。

 三大主体思想とは何でしょうか。三大の理想的本体とは誰でしょうか。神様です。神様とは誰でしょうか。私たち人間の欲望によって探し求めることができるすべてのもの、真の父母の中の真の父母です。真の師の中の真の師です。その師の教えとは、どのような教えでしょうか。神様は、既に知識の王になっています。しかし、知識を通して教えることができない内容である真の愛は、もつことができませんでした。

 神様は、アダムとエバを通して愛を行おうとされました。しかし、そのアダムとエバの完成的基準において、理想的愛の相対圏を備えることができなかった神様は、悲惨になりました。それゆえに、神様は、真の父母の位置に立つことができませんでした。

 私たち人類の始祖が、真なる息子、娘を生んで、育てて、立ててあげなければなりません。生むのは父母であり、育てるのは師であり、立ててあげるのは主人です。これは、どこにおいて言う言葉かというと、世界において言う言葉ではなく、一つの家庭において言う言葉です。

 父と母は、父母であると同時に、育ててあげる師であり、主人です。これは、国で見れば国王を身代わりし、小学校の時から二十年間を教える先生たちを身代わりし、その次には行動組織、主体と対象の関係を中心として、主人に属するのです。

 三大主体思想とは、「ために生きる」真の愛です。それを知らなければなりません。神様のように、自らを投入して忘れてしまうことができるもの、それが真の愛です。病気になった人を治すことが復帰ですが、復帰するためには、再創造原理を適用しなければなりません。再度適用しようとするので、神様がこの万物を創造なさったのと同じように、投入して、また投入しながら忘れてしまう立場に入っていかなければならないのです。

 それゆえに、七十年の生涯にわたって、文なにがしは苦労してきましたが、いまだに「終わった」と言うことができません。死んで霊界に行っても、さらに投入すべき道が残っているということを知っているので、この地上で生きている間、億万年の歳月を圧縮させ、夜も寝ずに、食べずに、歳月を惜しみながら投入するのです。一時間どこかに行ってくることによって一日を稼ぐことができるのであれば、夜の十二時でも行ってくるのです。投入して忘れてしまうのです。

 このような背後、この伝統を受け継ぐ統一教会の教会員は、自分を主張する前に宇宙を主張しなければなりません。宇宙の理想的愛の相対、神様の愛の相対を保護し、育てなければなりません。(二八五−二九九、一九九七・六・二九)

 三大主体思想が出てきた背景を知らなければなりません。神様の代わりに父母となり、神様の代わりに師とならなければなりません。師が三人です。おじいさん、お父さん、自分の夫が師となるのです。また、主人にならなければなりません。父母の心情をもたなければなりません。お父さんとお母さんは、生むだけではいけません。生んで育てなければなりません。教育しなければなりません。

 どのように育てなければならないのでしょうか。天国に行くことができる教育をしなければなりません。ほかの教育はすることができなくても、天国に行くことができる教育をしなければなりません。天国に行くようになる時、自分の一族がとどまるその場所に行くことができないようにしてはいけません。それゆえに、教育をしなければなりません。何の教育ですか。天上法に対する教育です。それが一番の教育です。(二〇八−九八、一九九〇・一一・一七)

 人間は、堕落することによって神様の愛と関係がなくなりました。それが恨です。霊界に行ってみれば、先生の言葉は一〇〇パーセント当たっています。人を愛し、万物を愛し、縦的な自分の中心者を愛さなければなりません。学校に行けば、学生の前における中心は、学校の先生です。会社に行けば、会社の中心は社長であり、あるいは自分の部署の責任者です。課長や局長など、部署の責任者が中心です。彼らを父母のごとくに侍らなければなりません。父母の身代わりとして師に侍り、社長を父母の身代わりとして、師の身代わりとして侍るのです。

 国王は何かというと、国の主人です。「国王」といえば、国の主人だというのです。彼を師の身代わりとして、父母の身代わりとして侍ることができる人であってこそ、国王に侍って生きる、その国の民となるのです。

 それゆえに、国王に侍るにおいては、父母のように、師のように侍らなければなりません。また、父母に侍るにおいては、師のように侍り、国王のように侍らなければなりません。また、師に侍るにおいては、父母のように侍り、国王のように侍らなければなりません。これを統一教会では、三大主体愛の思想、真の愛を中心とした三大主体思想というのです。(二一二−二八、一九九一・一・一)

 真の父母の愛、真の師の愛、真の主人の愛、この三大主体思想の中心位置は一つです。それは、父母の愛です。先生も、夜になれば家に帰っていくでしょう? 大統領であっても、夜になれば家に帰っていかなければならないではありませんか。それゆえに、父母の愛を中心とした代身者が教育する場所が学校であり、父母の愛を代理して国を治める者が大統領だというのです。(二一三−一二四、一九九一・−一・一六)

 教育の中で、最高の教育とは何でしょうか。天国の版図となる起源地が家庭ですが、その家庭における最高の教育とは、息子の道理です。神様から、その道理の教えを受けなければなりません。神様は、父であると同時に、師であり、王です。しかし、そのような息子としての教育を受けることができませんでした。真の父母の息子としての、真の師の息子としての、真の王の息子としての教育を受けることができなかったのです。その次には、真の兄弟です。王族としての真の兄弟たちはどのように生きるべきか、という教育を受けることができなかったのです。

 王室の王子、王女を教育するときは、「あなたは、この国に住んでいる何百万であろうと、何億であろうと、その半分を占める男性を代表した自分であるということを知りなさい!」と教育するのです。しかし、王孫としての代表的息子、娘の立場で教育を受けることができなかったというのです。それから、「兄弟であるあなた方二人が一つになることは、世の中に平和をもたらすことであり、男性と女性の国民全体は兄弟と同じ立場であり、あなたは長兄の立場なので、長子と同じような立場から国民を愛さなければならない!」という教育を受けることができませんでした。

 この世の中にいくら多くの国があろうと、そこには、おじいさんやおばあさんのような年齢の人々が暮らし、お父さんやお母さんのような年齢の人々が暮らし、兄弟のような年齢、夫婦のような年齢、そのような四大原則に相当する群れがこの地上に暮らしているのであり、天上世界にも暮らしています。その標本的なモデルの原則をここで教育しなければならないので、息子としての教育も、このような世界版図に合う内容を家庭で教えなければなりません。(二二〇−三四五、一九九一・一〇・三〇)

 今、私たちはみな、堕落によって神様がアダムとエバを教育することができなかったその恨を解いてさしあげるために、三大主体思想の相続を受けて教育しなければなりません。三大主体思想こそ、真の愛の実践原理であり、生活哲学です。三大主体思想の教育とその実践を通して、長子権、父母権、王権を復帰することができます。アダムとエバが教育を受けることができなくて、神様のみ旨である創造理想家庭を完成させることができなかったので、再度、真の愛で子女教育、兄弟教育、夫婦教育、父母教育を実践して、全体統一の基本である家庭を形成しなければなりません。そのようになるとき、理想的国家と世界が成し遂げられるのです。

 今後、韓国も、教育問題が重大な問題となっていくでしょう。教育の原理はどこにあるのでしょうか。神様は、子女であるアダムとエバを教育してみることができませんでした。神様は、子女に対する教育をすることができなかったのです。それから、兄弟愛とはどのようなものだ、という教育をすることができませんでした。これが恨です。それから、夫婦とはどのように生きなければならず、夫婦の天理とはどうである、という神様の愛を中心として展望される道理を教えてあげることができませんでした。その次には、神様の代わりに横的に立ち得る父母教育をすることができませんでした。失敗したということです。

 アダムとエバは、息子、娘でしょう? それから、兄弟ではありませんか。その兄弟が大きくなって、夫となり、妻となるのでしょう? 彼らが息子、娘を生めば、父母となるのではありませんか。そのアダムとエバを正しく教えることができなかったのです。

 同時に、アダムとエバが教育を受けることができなかったことによって、神様のみ旨である創造理想家庭を完成することができなかったので、その家庭が完成されるように、再度、真の愛で子女教育をしなければなりません。兄弟教育、夫婦教育、父母教育を再度実践しなければなりません。そのようにしてこそ、全体統一の根本である統一家庭が形成されて、理想的国家世界が成し遂げられるのです。これがまさしく「頭翼思想」と「神主義」の核心思想です。(二二二−四三、一九九一・一〇・二七)

 地上の国や天の国が形成されていくにおいて、その根本単位とは何でしょうか。それは家庭です。家庭を中心として見れば、必ず祖父母を中心として父母がいて、父母を中心として夫婦がいて、夫婦を中心として子女がいます。これを拡大すれば、世界のどの国にも子女のような人々がいるのであり、兄弟のような人々が暮らしているのであり、夫婦のような人々が暮らしているのであり、父母のような人々が暮らしているのであり、祖父母のような人々が暮らしているのです。これが、この世界に連結された一つの公式化された形態です。

 それでは、家庭とはいったい何でしょうか。国家形成と世界形成をするにおいて、一つのモデルです。それでは、家庭において愛というものは何でしょうか。世界と天国を形成していくにおいて、一つの出発的モデルとなるのです。

 ところで、この家庭という場所で子女として育ち、兄弟として育ち、夫婦として、あるいは父母として形成されるこのすべてのものは、愛を中心として形成されます。子女たちも愛ゆえに、兄弟たちも愛ゆえに、夫婦も愛ゆえに、父母も愛ゆえに形成されます。愛を除けば、すべてのものがみな散り散りばらばらになるのです。

 しかし、この地上で暮らす人々が最も貴く思うものは何かというと、知識です。皆さんも知識が貴いと言うでしょう。もちろん貴いでしょう。その次にはお金が貴いと言います。この学校を建設するにおいても、財政が必要です。お金が必要だというのです。もちろん必要でしょう。その次には何が必要だと言うのでしょうか。学校の権威が必要だと言います。どのような権威でしょうか。権力と同じ権威が必要だと言います。やはり、すべて必要です。

 しかし、これらのものをすべて備えて完成したとしても、それをもって一つの理想的なモデル形態として掲げることはできません。幼い子供から大人、あるいは老人たちまで、老若男女を問わず、すべて和合して一つになり得る根本要因は、お金でもなく、知識でもなく、権力でもないというのです。それは何かというと、愛しかないということを皆さんは知らなければなりません。

 先生とは何でしょうか。父母の延長です。先生がそうであるとすれば、国の主人である国王とは何でしょうか。師の延長、父母の延長だというのです。ですから国王は、父母の代理にもなり、師の代理にもなり、また国の主人にもなるのです。統一教会では、これらすべてを「三大主体思想」と言っています。三大主体思想、これは、取り除こうとしても取り除くことができないものです。家庭で教育を受け、学校で教育を受け、国で教育を受けなければなりません。

 今、世界的に見るとき、国においてそのようなことを教育する国はありません。それを教える教育体制が、みなそれぞれ分かれています。父母は父母の思うとおりに、師は師の思うとおりに、あるいは国は国の思うとおりに、自分勝手に分かれています。国家もそうであり、世界もそうであって、家庭も同様です。祖父は祖父なりに、父母は父母なりに、夫婦は夫婦なりに、子女は子女なりにです。このような実情を見ながら暮らしているのが現実の世界です。(二六三−三〇一、一九九四・一〇・二七)


五 神様の人間教育と宗教


 旧約時代を中心として見るとき、それ以前の人類は「僕の僕」の立場にいたのですが、旧約時代に入ってきて僕の立場に立つようになり、それによって初めて主人をもつことができるようになったのです。僕の僕の立場から僕の立場に来るまでの道は、人間が自ら開拓することはできないので、神様が開拓者の使命を果たしてこられました。僕の僕よりも、もっと悪の一族を教育しなければならなかったのが神様の事情でした。

 ところで、神様は無形でいらっしゃるので、人間の前に現れたとしても見ることができない立場であり、したがって特定の人、すなわち預言者を立てて教育してこられました。その預言者は、神様を代理してこの地上に来たのですが、人間として神様の命令に従順に従わなければならない立場でした。(四二−二八一、一九七一・三・二七)

 神様が一つの世界を模索し、統一された世界を願われるとすれば、神様御自身はどこからこの仕事を始められるのでしょうか。これが問題になります。神様は、私たち個人を中心として出発せざるを得ません。それで神様は、宗教を立てて人類歴史の背後から教育してこざるを得ませんでした。結局、今までの宗教は、個人教育の完成を標準としてきたのです。(五三−六四、一九七二・二・九)

 私たち個人の心と体を比較してみるとき、どちらが、中心である神様の前に近いのかということが問題です。それは心です。それで、心に屈服しようとしない体をいかにして屈服させるかという原則を立てておかなくては、中心を取り戻す道がありません。言い換えれば、悪が中心を除去したので、善を中心として悪を除去することによって、体を屈服させなければなりません。したがって神様は、良心を中心として、その良心が願う方向、すなわち体が願うのと反対の方向を中心として教育せざるを得ないというのです。

 それで、人を中心として、中心となる神様と反対となったサタンが闘いを始めました。悪は、体を引っ張っていって体が喜ぶとおりにしようというのであり、神様は、心が喜ぶとおりにしようというのです。そのような状態から中心と一つになる体をつくろうとすれば、体が願うとおりにしてはいけないので、体が願わない方向に教育してきたのが、今までの宗教です。(五三−六六、一九七二・二・九)

 神様が宗教を立てて教育する時、どのようにされるのかということが問題です。心と体、この二つが闘っているので、一方を屈服させる作戦を行わざるを得ないのです。それゆえに良心は、心を中心として体を打つ行為をするのです。いかなる宗教であっても、体を打ちなさいと教えます。そのように教えない宗教は、真なる宗教ではありません。それが体を屈服させる最初の方法です。それから、二番目の方法とは何でしょうか。心と体が一対一で互角なので、行ったり来たりしています。神様は、人々が体を打つのは難しいことを御存じなので、互角の闘いをしているここにおいて、心の側の力が二倍、三倍も強くなるように注入されるのです。(五三−一六七、一九七二・二・一九)

 宗教人たちが、神様を中心とした平和の時代を一度でも迎えることができないのであれば、神様はいないというのです。私たち人間は、宗教によってだまされたという結論が出てきます。ですから、神様がいらっしゃるとすれば、そのような時に対して備え、人間がそのようにする過程において、被害を受けることがないように教育をしておかなければなりません。

 それゆえに神様は、人間に「神様を絶対的に信じなさい」と言われました。「心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」(マタイ二二・三七)と言われました。神様だけを愛しなさい、とされたのです。これは、終わりの日が来る時までは、神様が私たちにすべてのことを許諾なさることはないので、私たちに神様との関係を結んでくださるために、これを絶対的な教訓にしておかれたのです。「心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」と言われるので……。このように考えると、神様は愛の独裁者に違いありません。そのようにしなさいという言葉は、命を懸けて愛しなさいということです。愛は、万人で成立するものではありません。そのように「愛しなさい」と言われたのは、神様がそのように愛するということです。神様は、私たち人間が最後に残ることができるように、教育してこられているのです。(五三−三〇六、一九七二・三・五)

 宗教とは、壊れた人間を修理する工場です。それでは、その修理工場の教育方法とは、どのようなものでなければならないのでしょうか。心と体が闘っているので、それをそのままにしておいては直すことができません。それで神様は、どのようにしなさいと言われるのかというと、「心を中心として体を打ちなさい」と教えざるを得ません。それゆえに、高次元的な宗教であるほど「体を打ちなさい」と教えます。イエス様のみ言を借りれば、「生きんとする者は死に、死なんとする者は生きん」ということです。体が行こうとする道と反対の道に追いやるのです。体が喜ぶ驕慢、自分を主張し、自分の思いどおりにしようとすることをなくそうとするので、天の側は、その反対の道を取らなければならないのです。それで「体を打ちなさい」と言われ、「犠牲奉仕しなさい」と教えるのです。(一三五−一二、一九八五、八・二〇)

 いかなる宗教であっても、天に導いていく宗教は、犠牲と奉仕と他のために生きるという原則を教えます。それは、その国の原則に符合させるために、言い換えれば、故郷の地に帰っていくとき、そこに合う習慣とすべての教育をするために、そのように教えざるを得ない、ということを皆さんは知らなければなりません。

 今日、私たちは旅人です。本郷の地に行く時に、私たち堕落した人間をそこに合うように教育して案内しようとするのが神様のみ旨です。善の世界は、このような原則に従うことによってのみ設定される、というのが神様の宇宙創造の原則なので、その原則に一致化させるみ旨がある、ということを私たちは知らなければなりません。(七〇−三〇五、一九七四・三・九)

 神様が教会という教育機関をつくっておかれた目的とは何でしょうか。ここにすべての人種を集めて教育訓練をするのです。これが訓練場所です。精神的な訓練場所、未来の国民と未来の家庭のための訓練場所だというのです。教会が、家庭の行くべき道、氏族の行くべき道、国の行くべき道を正しく教育しなければなりません。このようにして、過去のすべての預言者は、その国の責任者である君主が誤れば、その君主を引っ張っていくのです。訴えて引っ張っていくのです。それで神様は、教会という母体を中心として、未来の家庭と未来の氏族と未来の世界の民、市民を育てようとされるのです。(一〇六−三四、一九七九・一一・一一)

 宗教的価値観の崩壊原因とは何でしょうか。それは、第一に、科学技術の発達と経済成長などで、人間の精神が物質主義に流れているからです。第二に、共産主義をはじめとする各種の無神論と唯物論思想が急速、かつ広範囲に蔓延しつつあるからです。第三に、政治分裂の流れのもとで、国家の教育政策において宗教を教育科目から排除することによって、幼い時から無神論の思想を注入するという結果をつくりだしているからです。第四に、共産主義者たちが赤化工作のために、残された価値観さえも意図的に破壊する戦略を用いているからです。第五に、宗教的価値観を理論的に守護すべき確固たる本体論が欠如しているからです。(一二二−三〇〇、一九八二・一一・二五)

 宗教は、頂きとなる教えのことですが、家庭の頂きとなる教えとは何でしょうか。父母は、子供に対して、「おい子供よ、お前は適当に育ったが、一つ忘れてはいけないことがある。父母を愛する以上に神様を愛さなければならず、父母を愛する以上に国を愛さなければならない」と教えなければなりません。また、その子供は、そのような父母が真なる父母だということを受け入れなければなりません。「お前がそのようにすると同時に、私もその道を行くのだ。お前に模範を見せてあげながら、私は間違いなく行くのだ。死ぬ時もこのような遺言を残して死ぬだろう。お前を生んだその日から、お前が青年となり、お前が一生を生きていく間もそのように行くだろう。父が逝き、お前も逝く時まで、この伝統思想は変わることがない。お前も、お前の息子、娘の前にこのように遺言をして、そのような教育をしなければならない」と言うことができる父母は、正しい父母です。(一二七−二九〇、一九八三・五・一五)

 神様が宗教を立てて教育してこられるのは、神様の意のままに切って接ぎ木することができる、すなわち神様が管掌することのできる野生のオリーブ畑をつくる摂理です。このような宗教的基盤の上に真のオリーブの木であられるメシヤを送られて、より大きな神様の愛に接ぎ木しようというのがメシヤ思想です。聖書の中にある重生の根本道理も、このような点で理解ができます。

 宗教が現実的規範原理や所在を超越しているからといって、その現実的作用までも無視してはいけません。宗教は、現実問題自体に至大なる関心をもって、神様のみ旨の適用可否を深く調べなければなりません。また、政治、経済、社会、教育など、各分野の現実問題を解決すべき人々の心の中に、神様を中心とした新しい変化を起こすことによって、彼らが新しい人となって問題を解くようにしなければなりません。(一三五−二二二、一九八五・一一・一六)

 宗教とは、何をするものでしょうか。心を教育するためのものではありません。宗教は、心に力を与え、体に対しては制裁を加えるのです。なぜでしょうか。本然の位置に帰らせようとするからです。それゆえに、高次元的な宗教であるほど、心を拘束しようとしません。心を高めて体の世界まで和合することができるようにするのです。(一九五−一七、一九八九・一一・一)

 神様が聖子や預言者たちを地上に送られた目的とは何でしょうか。神様が願われる人格と生活の手本を見せながら、神様の真の愛のみ旨を万民に教育するのです。特に、為政者や指導者たちに天道を教育し、実践させることによって、心の世界と体の世界が、神様の真の愛のみ旨を中心として和合を成すためです。(二一九−一一〇、一九九一・八・二七)

 神様がいらっしゃるとすれば、人間を修理しなければなりません。修理する立場として、各文化背景の伝統が異なり、歴史が異なっているので、そこに相応する良心を中心として肉身を収拾し、良心圏に一致させる方法を求めてきたのが数多くの宗教の教育です。それゆえに、宗教教育は、肉身を拘束するのです。いかなる宗教であっても、肉身に従っていきなさいということは絶対に教えることができません。いかなることがあっても、肉身の根がある限り、これを切ってしまわなければなりません。そのようなことが問題となっています。(二二三−三五〇、一九九一・一一・二〇)

 きょう先生は、皆さんに二つの内容を話しました。心身一体と夫婦一体です。それで、神様と一体となれば、すべてがOKです。このように見るとき、世界平和も難しくありません。天下の大勝利基盤が、自分の暮らしている家庭だというのです。神様を中心として一つになれば、宗教は必要ありません。聖人の教えも多くあり、愛国者を中心として教育をしていますが、それらをすべて越えてしまうのです。神様の教えを中心として一つになればよいのです。その一つになるところは、国ではありません。最初の出発点は、自分と自らの相対です。(二五九−五三、一九九四・三・二七)

 神様の不変の目的は、真の愛の理想世界の実現です。宗教の目的達成は、真の愛と真なる家庭が実現化されることです。反対に、このような目的に寄与せずにそれ自体のためだけに存在すれば、たとえ神様を口実にしても、その宗教は神様とは関係ありません。宗教のために、神様や世界があるのではありません。本然の真の愛、真の家庭の世界へと回復しようとする神様のみ旨のために、宗教は立てられました。過ぎし四十年間、私が世界的に展開してきた超教派的な活動をはじめとする学術、教育、思想、文化、芸術、言論、科学技術、産業等のすべての事業は、みなこの目的のためにあるのです。(二六〇−一二六、一九九四・五・一)

 神様がこの時代を経綸するために願われる宗教は、「父母の立場にある宗教」です。父母の心情を抱いて生きる宗教を要求されるのです。私は、真の父母思想を教育し、各自がその伝統に似た真の父母になりなさいと教えています。まず家庭において真の父母となり、氏族における真の父母である氏族的メシヤの使命を果たすように指導しています。真の父母の心情を抱いた教会人、真の父母の心情を実践する宗教となってこそ、葛藤と憎悪と罪悪の世界において神様のみ旨を実現することができるのです。他の宗教や教派を軽蔑し、敵対視する宗教は、世界平和の実現にも、神様の摂理にも有用ではありません。(二六〇−一二八、一九九四・五・一)

 神様の真の愛による投入と注入がなければ、宇宙は生まれませんでした。宇宙の存在法則は、主体が対象のために生きることです。しかし、堕落した世界においては、主体が対象のために生きるのではなく、反対に、自分を中心として利用しようとするので滅ぴるのです。宗教は、まず相手が喜んだのちに自分が喜ぽうとする天理の原則を教育し、実践しなければならないと思います。

 「世界平和宗教連合」は、宗教間の和合と世界平和のために、共に建設的に働いていかなければならないと思います。「世界平和宗教連合」は、世界の良心のような機能を果たさなければなりません。政治、経済、教育等における世界の各界の指導者たちに助言し、指導するだけでなく、模範を見せなければなりません。偉大な宗教は、迫害と殉教の土壌の上に立てられたのであり、創始者の貴い伝統基盤の上に立っているので、私たちは、みな犠牲を忌避するのではなく、宗教本来の名誉を探し立てなければなりません。(二七一−七〇、一九九五・八・二一)


六 自然は人間教育の最高教材


 神様が愛する声とは、どのようなものでしょうか。はとは「クックック」と鳴くでしょう?神様が愛する声とは、どのようなものでしょうか。あーあーあー……。それがあれば、その声が最も大きかったことでしょう。すべての神経細胞が一〇〇八ーセント一つになって「あーあー」と声を張り上げたとすれば、どれほど大きいでしょうか。それで、自然は愛を教育するための宇宙の博物館だ、と考えてみなさいというのです。どれほど素晴らしいことでしょうか! どれほど美しいかというのです。もう、それが分かりましたか。(一三三−三一五、一九八五・一・一)

 万物世界は、お互いに愛します。動物を見ても、昆虫を見ても、植物を見ても、鉱物世界を見ても、すべて同様です。お互いに相対を中心として、歌も歌い、踊りも踊り、飛んだり、はったりします。このようなすべてのことを見つめながら、「彼らは何をしているのだろうか」といって、すべて見て学ぶのです。自然とは何かというと、アダムを教育する博物館です。アダムを教育する生きた教科書です。

 それで、だんだん大きくなっていけば、男性と女性における引力がお互いに強まっていきます。我知らず、しきりに触れたいと思い、触れれば、ただもう不思議な感じがするのです。アダムとエバは、引力が強まったことを感じたはずです。それは、間違いのない事実です。雄と雌が出会ってキスしているのをすべて見たというのです。すべて見て学ぶのです。自然が教育するようになっています。被造世界は、アダムとエバが理想的刺激を感じることができるようにする素材です。これは、とてつもないことです。(一三四−一九四、一九八五・七・二〇)

 天使世界が人間始祖アダムとエバを保護し、教育するようになっています。それゆえに、天使を僕にしたのですが、アダムとエバが成長する過程において堕落しました。それで神様は、このような過程、中央線まで達することができる時までに、二十歳という距離をおいて育っていく期間があったので、人間に「失敗してはならない。失敗してはいけない」という警告をせざるを得ませんでした。

 今日、キリスト教の信者たちは、「失敗とは何かというと、善悪の実を取って食べたことです」と言っています。「では、善悪の実とは何ですか」と尋ねれば、「果実です」と答えます。本然の人間は、本来失敗することができないのです。ただそのまま育てば、自然に愛の関係を結ぶことができるように、あらかじめ万物を通して教育していくのです。(一三七−一二七、一九八六・一・一)

 最初に神様の子女として生を受けたアダムとエバも、神様の保護圏内で幼い時から育っていき、次第に大きくなっていくのです。それによって知能が発達し、神様がなぜ被造世界を造られたのかということを知るようになり、その被造世界を通して教育を受けてくるのです。被造世界で活動しているすべてのものは、私たち人間の始祖、本来の先祖となるべきアダムとエバが生活することができるようにするために、あらゆることを教えてくれる教材でした。完成したアダムとエバが理想生活を営んでいく際の一つの標本であり、博物館だったという事実を知らなければなりません。(一三七−一二六、一九八六・一・一)

 神様に必要なものとは何でしょうか。愛です。神様が必要とされるものは、ほかのものではありません。神様は、天地万物をなぜつくられたのでしょうか。愛のためです。今日、このすべての植物界、動物界を見れば、ペアになっています。それでは、なぜペアにつくられたのでしょうか。人間に愛を教育するために、自然界を博物館のようにつくられたのです。そのようにして、「万物之衆、唯人最貴(注:万物の中で人が最も貴いの意)」とされたのです。ただ人のみが貴いということです。(一四二−一一三、一九八六・三・六)

 アダムとエバが成熟すれば、お互いに「あのアダムは私のお兄さんではないのだなあ。あのエバは私の妹ではないのだなあ。私たちはお互いに兄弟ではないのだなあ」ということを知るようになります。昆虫界や動物世界を見て、「ああ! すべてペアになっているのか! 雄がいて雌がいて……」と、このように教育を受けます。「ははあ、あのように雄と雌は愛するのだな。お互いに愛しながら歌を歌っている。昆虫も歌を歌い、獣も歌を歌い、すべてがペアで暮らしながら子供を育てて、宇宙と和動しているのだなあ」と、このように学んでいくのです。幼い時には分からなかったのですが、七歳、八歳、九歳、十歳が過ぎてぱっと見ると……。あなた方もそうでしょう? (一一三−八一、一九八六−三・一六)

 神様は、愛の対象を探し出すために被造万物をつくられました。その愛の対象を探し出して、それが完全な対象となるためには、小さいものから教育しなければなりません。大きいものがここにあれば、数多くのプラスとマイナスの相対圏を中心として教育していくのです。これが万物です。アダムとエバが理想的愛の人格を完成するために、愛の博物館の教材として活用するものが万物です。(一八〇−一七六、一九八八・八・二二)

 愛を中心として私たちを教育するための教材としてつくられたというとき、万物がどれほど親しいものですか。私のためにつくられたものです。愛ゆえに、私のために、私が行くことができる愛の道の教本とするためにつくられたのです。それゆえに、万物を愛し、万物の中のあらゆる万物を愛することができなければなりません。(一八三−一八九、一九八八・一一・一)

 なぜ被造物がペアシステムになっているのでしょうか。人間が愛の理想を展開することができる展示場として、博物館として見せてあげたのです。それゆえに、この鮭のような愛の夫婦は、世の中の人間が教育を受けなければならない本当に模範的な夫婦です。子供のために死に、お互いが出会えば、自らの身をすべて犠牲にしながら保護するという事実を見るとき、すべての人間が学ぶことができる教材だという事実を知らなければなりません。(一九三−三〇一、一九八九・一〇・八)

 アダムとエバは、ペアシステムでつくられた愛の自然の園を見ながら、学び、成長するようになっていました。大きくなってどのようにしなければならないのかということは、つくられた万物を見ながらすべて分かるようになっていました。万物が神様の博物館ではありませんか。アダムとエバを教育する愛の博物館でしょう? 分かるようになっていたのです。鳥も雄と雌、ちょうも雄と雌、すべてがペアで生まれて、愛しながら子供を産んで生きていくのを見ながら、成長するようになっていたのです。このように成熟して、神様の愛を代表したプラス的王子が男性であり、マイナスを代表した愛の王女が女性だということを悟るようになっていました。女性は、「あの男性がまさしく私に必要な男性なのだなあ!」と信じるようになり、男性も、女性に対して「本当に私に必要な女性なのだなあ!」と思うのです。きょうここに来た皆さんも、みな結婚して夫婦となり、子女を生んでみて、知っているであろうことを信じます。(二〇一−一六一、一九九〇・三・三〇)

 環境は、必ず主体と対象のペアシステムになっています。この宇宙は、愛を核とする一つの博物館です。ペアの博物館です。ですから、二羽の鳥がお互いに愛しながら一生懸命に巣を作り、ひなを産んでえさを与えるのを見ながら、学ばなければなりません。「私の子供のために、あれよりも何百倍もしてあげなければならない」と思わなければなりません。虫たちも、雄雌二匹が愛して子供を産みます。彼らも、自分の生命を懸けて子供たちを育てようとします。教育するのです。(二二九−二八七、一九九二・四・一三)

 どれ一つとして、人間と相対し得る愛の関係をもたないものはありません。それは、すべて私たち人間を教育しているのです。そして、雄と雌がすべて凸凹を合わせるというのです。それらはすべて、アダムとエバのために「学びなさい」としてつくられたものです。

 アダムとエバが愚かな者になって、二十歳になっても何も知らなければ、それは大変なことになるのです。小さい昆虫からすべての生物全体が運動するのを見て、すべて知らなければなりません。博物館の館長がそのすべてのことを知らなくては、「全体は私を手本にしなさい」と言うことができないので、よく知らなければなりません。皆さんがそのような愛を成し、彼らの前に教育をして、彼らを従えて主人とならなければならないというのです。何の主人ですか。理想的夫婦が一つになって、雄と雌が一つになった主人にならなければならないのが万物の霊長であるというのです! (二六五−六二、一九九四・一一・二〇)

















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第三章 文鮮明先生の教育哲学

文鮮明先生の教育哲学



第三章 文鮮明先生の教育哲学


一 教育、何が問題なのか


 世界をずっと歩いてみると、ほぽすべての分野でアメリカが基盤をもっています。科学分野であれ何の分野であれ、アメリカ人が世界最高の位置に座っています。ですから、ヨーロッパの人たちが一生懸命に勉強し、研究してみたとしても、ぽろぽろのふろしきのような扱いしか受けることができません。自主的な観念を強めて教育を実施し、自分たちがアメリカ社会圏内において最高の位置を占有しようとしていますが、それは既にアメリカの人たちがすべてやってしまいました。彼らがやってみたところでどうしようもありません。結局は、二番煎じにしかならないというのです。

 その人たちの教育方法は、自主的な思想を中心として、強力に個人思想を注入するのです。そのようにするので、ある学者の学説を聞いて、絶対順応するのではなく、すべて批判的な立場で見ようとするのです。ですから、固有の伝統思想を受け継ぐことができません。これが現在のアメリカの教育制度における、とても大きながんです。(二五−一四三、一九六九・一〇・三)

 今までの教育や修養、宗教は、個人を中心としてきました。長い歴史過程を経てきましたが、そのすべての目的を達成し、完全な個人と完全な家庭が形成されたのかというとき、今まで人倫道徳を立てて強調してきたすべての教養の標準を越えて真なる家庭を築いた人はいなかった、という結論を端的に下すことができるのです。(二三−一〇、一九六九・五・一一)

 今まで学んだ教育や主義、思想、このすべてのものを捨てなければなりません。サタン的な世界のすべてのものを完全否定しなければなりません。一〇〇パーセント否定しなければならないのですが、もし九八パーセントまで否定したとすれば、二パーセントが問題なのです。(一六−二四七、一九六六・六・一九)

 今、私たちが暮らしているこの世の中は、どのような世の中でしょうか。心を中心としなければならないのですが、心があるのかないのか考えもしない物質主義の世の中になってしまいました。これは、教育の現実を見ても知ることができます。すべて物質文明中心の教育に重点をおいています。貴く素晴らしいこの心を、目に見えるお金のためにないがしろにしています。また今では、心はないと否定する立場、そして神様もいないと否定する立場にまで流れていっています。(一九−二八八、一九六八・三・一〇)

 幸福も、真があるところで成立するのであり、神様の摂理も、真があるところで進行するのです。ですから、この「真」が問題です。この「真」の中には、真なる自分が必要です。その真なる自分になることができなかったので、教育を通して修養してきたのです。そして、今日の諸般の教育制度は、人間改造という問題を中心としてつくられたものであり、それを中心として今まで革新運動をしてきました。ところが、その真があるところがまだ決定できていなかったというのです。(二八−一五八、一九七〇・一・一一)

 今日、人々は、聖人の道理とは何かを知りません。これを知らなければなりません。今までの教育は、このことを教えませんでした。しかし、統一教会に来れば、すべて教えてあげます。それでは、統一教会の食口たちは、聖人になりますか、聖人を指導する聖人の王子になりますか。(八四−三三九、一九七〇・九・二〇)

 人類歴史、人間の組織形態の核を個人主義に立てることができますか。それはできません。そのようにすることはできません。そのようにすれば、すべて分かれていくのです。今日のアメリカの教育方法は、自主性のある人間を育てようというものです。自主性のある人間を育てようとしてそれを強調していくと、相対性を忘却してしまいました。これが間違いです。相対性のための自主性を強調せずに、相対性を忘却する自主性を強調することによって、個人主義に没落してしまいました。それでも、キリスト教思想があったので、宗教がこれを補充していたのですが、キリスト教までほうり出してしまえば滅びるのです。(七二−二一七、一九七四・六・二三)

 世界のすべての国の教育制度は、競争で勝利した者だけが獲得することができるという競争の長所と、それに最も適合する生活を、あまりにも強調しすぎてきました。これは、人類を一つの人間家族の構成員として導き、平和な共存の世界に導びこうとする健全な人間の努力を食い荒らす、伝染病のようなものでした。いずれにしても、現在の人類は、知性人の間でそのような競争を強調することが変更されつつあり、生存のための協同が不可欠な要素であることを悟り始めました。このような見解に照らし合わせて見るとき、教育の目的と教育哲学は、深層から変革を経なければなりません。(七四−一〇七、一九七四・一一・二二)

 大韓民国を見ても、大学なら大学を卒業すれば、そのまま卒業証書を渡して送り出します。ところが、その大学で教育を受けたことが社会に出て役に立ちません。これが完全に掛け離れ、お互いに分裂してしまいました。ですから、大学に機関がありますが、その大学機関と自分たちの卒業生、同窓生なら同窓生との関係が曖昧です。大学機関でもう少し強力な組織をもち、自分の同窓生の組織まで管理しながら地方を巡回し、彼らが卒業したのち、専門分野でどのように活用しているのかというデータを出し、そこから何人かを選んで国家で公認することができるようにしなければなりません。このような教育制度をつくれば、社会に出ていって相当に貢献することができるのです。(八四−一五、一九七六・二・六)

 父母に対する愛を知らず、先生に対する愛を知らず、その国の主権者に対する愛を知らない人たちが何をするというのですか。そこには、不平しかあり得ません。それを教えてあげるべきところは、教育機関と宗教しかありません。二箇所しかありません。しかし、教会は、教派争いをして、「国がどうで世界がどうであろうと、何の関係があるのか」、国がどうであろうと、世界がどうであろうと関係ないというのです。(一〇四−一八〇、一九七九・六・一)

 今まで皆さんが教育されたことは、この堕落した世界で出世することを願い、「もっと高くなりなさい。もっと立派になりなさい」ということだったでしょう。勉強でも何でも、それを標準としてやっていたのであって、反対の道を行こうとはしなかったのです。一つも努力しませんでした。ですから大変です。行けば行くほど、上がっていけば上がっていくほど、天と離れていくのです。行けば行くほど離れていきます。知識があればあるほど、天と離れていくのです。創造ではなく進化ですか。「進化ではなく創造だ!」、これが私たちの明らかにしなければならないことです。(一三二−一五、一九八一・五・一九)

 現実の社会制度は、個人主義思想を中心とした文化圏です。小学校から大学を出る時まで、自分を中心とした教育を受ける個人主義思想体制圏の世界なのですが、そのような人格が形成されている人間と、その環境をけ飛ばしてしまい、撃破してしまって、跳躍することができる人にするのは簡単でしょうか。不可能に近いのです。しかし、唯一、愛の力は、すべてのものを消化することができるのです。これが力です。真の愛の力は、死亡までも消化してしまうことができるのです。(一三七−六四、一九八五・一二・一八)

 皆さん、現在のアメリカの若者たちを見てください。二世は、既にすべて生ける屍です。今まで民主主義をもって国を導き、教育してきましたが、今の若者たちを見てください。麻薬を吸い、フリーセックスをし、個人主義思想に没落している事実を今、目にしているではないかというのです。そして、思想的な混乱です。キリスト教が思想的支柱になっているのですが、すべて混乱して方向を定めることができない現実に身をおいている、ということを皆さんはよく知っているのです。(一四六−三一七、一九八六・八・一〇)

 民主主義は、世俗的な人本主義を生み出し、神様を追放しています。人間の正義の道理、聖人、聖子たちが教えてくれた道理を追放して、フリーセックス、性解放とは何ですか。この亡国のサタンの血統、地獄の沼に根こそぎおぽれていくことを知らず……。日本もそうです。韓国の教育方法にもメスを加えなければなりません。これを防御しなければならない使命が統一運動にあるのです。(一九三−三〇四、一九八九・一〇・八)

 戦争は、後世を通していつも継続し、悲惨な出来事を果てしなくもたらす立場にいる、ということを知らずにいます。そして、数多くの歴史的・宗数的代表や聖人たちが来て人類を指導し教育しましたが、外的な教育をしたというのです。国を治め、家庭を治め、社会が平和になるというこのような外的なことを言い、平和世界のための外的な教育はしましたが、私たち人間自体における心と体が闘っているという内的な問題に対しては、教育することができませんでした。(二六九−二五八、一九九五・五・一)


二 教育が必要ない愛の世界


 皆さんは、家庭で愛し方を学びましたか。ある父親が彼の子女に、「私から愛し方を学びなさい」と言いますか。そのように教育を受けましたか。また、母親も、子女に「私から愛し方を学びなさい」と言いますか。また、父母が子女の愛し方を誰かに学びましたか。皆さんは誰かから、新郎新婦はこのように愛さなければならないと学びましたか。学んだことはありませんが、上手にできます。本当に神秘的なことです。すべての人間は、学んでいないのに上手にできるというのです。

 また皆さんの心は、学ばなくても、良いことと悪いことをよく知っています。心が誰かから、「おい心よ。誰かがこれこれこのようなことをすれば、それは悪いことだから、その時はお前が番兵になりなさい」ということを学びましたか。学んではいませんが、この心というものは、体がとても大きな力ではむかってきても問題にしません。かえってその力に比例して、電気よりも早く、即座に反応を起こします。他の心をもてば、即座に止めるようにします。どれほど教育を受ければ、そのようになるでしょうか。もし人が教育して、いつでもそのようにすることができるようにしたとすれば、これは人成功です。いくら偉大な教育者でも、このようにすることはできませんでした。それでは、皆さんは、このようなことを学びましたか、学ぶことができませんでしたか。学ばなくても、すべての人がよく知っており、よくできるのです。(二三−二〇、一九六九・五・一一)

 皆さん、結婚する息子に、「お前は、結婚するために二十年間教育を受けたのか」と言いますか。生まれてから、「お前が新婦をもらおうとすれば、このようにしなければならない」と教育を受けましたか。ここにいるおじさんたち! 教育を受けて結婚しましたか。愛の道は、すべてのものを超越しています。愛さえ知れば、夫がどうだという教育は必要ありません。子女がどうだということも、愛さえ知れば教育は必要ないのです。教育があれば、かえって妨害になります。夫婦で楽しく暮らしているのに、その父と母がドアを開けて人ってきて、「おい、お前たち!愛しているのか」と言えば、気分が良いでしょうか。その場は、平等圏であり、同等圏であり、また解放圏です。誰も干渉することはできません。ですから、愛は良いというのです。(六〇−八〇、一九七二・八・六)

 愛は、教育が必要ない世界を管掌しているという事実を知らなければなりません。教育は必要ありません! 誰が愛を教育するのですか。考えてみてください。すずめが愛し合ってひなを産むことを、どのようにして教えてあげることができますか。神様が指揮棒を持ってこのようにしなさいと教えてあげたのですか。出会えば、自分たちでするのです。それは、電気が通じます。引かれていくというのです。それは不思議ではないですか。それがどのようにしてひなを産むのですか。魚も、水の中でどのようにして子供を産むのですか。それは、どれほど神秘的でしょうか。誰かがそれを教えてあげるのですか。教えてあげる必要はありません。絶対に教育は必要ありません。自然の道理で、循環の道理で、すべての天理によってそうするようになっているので、教えてあげる必要がないというのです。(一三九−一九七、一九八六・一・三一)

 愛は、教育が必要なく、誰の干渉も必要ありません。自律的な内容に従って自分が体で感じます。誰かの説明で、頭を通して、意識構造を通して、体験を通して知るのではなく、既に体を通してすべて知っているのです。体験して知るのではなく、意識して、体験を通して知るのではなく、既に感じていて、体験する前に知っているのです。感じるというのです。(一三九−二〇一、一九八六・一・三一)

 私の心と体は、神様の愛を通して完全に一つになります。しかし、私の心と体が分かれて、一度も一つになったことがありません。堕落したためにそうなのです。堕落していなければ、神様の本質的愛を中心として完全に一つになるのです。その愛を中心とする愛の世界には、教育がありません。先生かいません。神様だけが先生です。教えてあげなくても、既に知っているのです。

 心と体が一つになれば、宇宙が……。すべて宇宙の縮小体です。すべて知っているのです。学ぶ必要がありません。人間がどのように生きなければならないのか、ということを教える必要はありません。倫理道徳を教える必要がありません。見てください。すずめの世界や動物の世界で、倫理道徳教育をしますか。自分たち同士で保護し、生理的に自分の一族を連結させて生きることを知っているのに、どうして万物の霊長がこのようになっているのですか。堕落したので争いが起きるのです。(一六二−二二一、一九八七・四・一二)

 愛だけが核になります。核は、千年回ってもその位置です。核が円形を成せば、核自体はどこに対しても垂直です。どこに合わせても、一瞬のうちに垂直になります。教育は必要ありません。ぴたっと止まれば、垂直になります。天地の度数に合わせるのです。(一九七−五九、一九九〇・一・七)

 統一教会の教えは、心身統一です。それには、秘法がありません。お金でもできません。何かの訓練でもできません。教育してもできません。真の愛に立って初めてできるのです。真の愛とは、どのようにすれば植えることができるのでしょうか。サタン的な世界の先祖が種を植えた時のその愛とその生命とその血筋が連結された、それ以上の立場においてのみ、神様が希望をおもちになることができるのです。このように考えてこそ、聖書の逆説的論理の意味が通じるというのです。(二〇六−一九五、一九九〇・一〇・七)

 愛があるとすれば、愛の帰着地はどこかという問題を理論的に探求しなければならないのですが、これが解決されなければ理論を編成することができません。理論を編成できなければ、大衆化することができません。教育することができません。それでは、愛というものはいったい何でしょうか。それがどこかに行って定着するところは、変わるところでしょうか、不変なところでしょうか。これは、深刻な問題でした。千辛万苦の末に知るに至ったことは、「愛は直短距離を通るのだ!」ということです。この一言を知って、千年を越える喜びに満たされ、踊りを踊ることができた、ということを皆さんは知らないでしょう。(二一一−二四一、一九九〇・一二・三〇)

 垂直と水平がどこで一つになるのでしょうか。これは、球形に運動するので、゛一番の中央線において一つにならなければならないという論理が出てきます。これを中心として線を引くようになるとき、その線に入っていけば全宇宙が共鳴します。霊界も明確に知り……。愛を中心として関係を結ぶ世界は、教育が必要ありません。教育が必要ないのです。誰かが支配する必要がありません。それ自体が私を支配します。真の愛には、神様までも絶対服従すると言ったでしょう?方向性を間違えれば、それ自体が私を正してくれるのです。どこに行かなければならないのかを知っているというのです。(二一四−二三二、一九九一・二・二)

 人間の貴重な価値を満点にすることは、真の愛と一体となる時に可能です。心身一体は、良心と肉身が共鳴圏に立っていることを意味します。音叉の周波数が同じとき、一つをチンとたたけば、その反対が響きます。それと同じように、真の愛によって良心をたたけば、肉身に響きます。真の愛で肉身をチンとたたけば、良心が共鳴圏をつくるようになるのです。そこには、教育が必要ありません。そのど真ん中に入っていけば、教えなければならないすべてのことを知るようになるというのです。(二二三−三五五、一九九一・一一・二〇)

 真の愛は、教育が必要ありません。自動的に知るようになっています。皆さんが結婚する時に、思春期になった時に、男性のことを考えなさいと教育してもらいましたか。教えてもらっていませんが、いくら家柄の高い女性でも、いくら母親が隠して育てたとしても、壁の向こうから男性の声が「わあわあ」と聞こえれば、我知らず飛び出すのです。それは、何者も止めることはできません。

 そこには教育が必要ありません。フリーセックスだ、性教育だというのですが、やめなさいというのです。動物世界で性教育をしますか。その横にさえ行けば、自動的に合わせるのです。あるものは、生殖器が翼の付け根にあるのですが、かかとでそれを合わせます。自然に合わせるようになっています。磁石が南北に通じるのは、合わせなさいといって合わせるのですか。自動的に合わせるのです。真の愛に一致することができる心と体になれば、神様の愛があれば、ほっておいても自分で東西南北の方向をただしく見つけて、自動的に行って合わせるのです。(二七二−九一、一九九五・八・三〇)


三 人を愛する教育


 愛の教育をしなければなりません。「そうだ、お前がこのようにすれば父と母が悲しむから、してはいけないだろう」と言いながら、愛の教育をしなければなりません。ですから父母は、子女の友達の中の友達であり、先生の中の先生にならなければなりません。

 その愛の教育は、誰から受けなければならないのですか。父母からです。父母が一つになって、はとのように楽しく「クククク」と愛するのを見て、それを見習わなければなりません。「ああ、お父さんとお母さんがあのように喜んでいるのを見ると、私万人では寂しい。私もお父さんとお母さんのように『クククク』と愛することができる、そのような相対が必要だ」と、このようにならなければならず、父母は、そうなるように教育しなければなりません。結婚して愛するのを見習うことができるように教育しなければなりません。そのようになれば、その息子、娘たちが父母のしていたことを反復するようになるので、世界は、善なる世界になるのであり、人類歴史は、善なる歴史になるのです。(五七−一二一、一九七二・五・二九)

 皆さん、愛する人同士、思春期の二人の男性と女性が、野ばらの咲く丘で愛をささやきながら、しおれた野ばらの花や葉だとしても、それを一つもらったこと、それを永遠に忘れられますか。愛を通した教育、愛を通した信仰生活、それが天国です。知識を通した国家、権限を通した国家、これは亡国の場です。愛を通した知識、愛を通した経済、愛を通した……。天国は、このようになったところです。(六〇−七八、一九七二・八・六)

 教育に関する問題とは何でしょうか。愛の教育をすることが最も良い教育なのですが、その愛の教材はどこにありますか。教材は私です。皆さん、本当に愛してみましたか。私が父母を愛しているので、父母も私を愛さざるを得ません。私が妻を愛しているので、妻も私を愛するというのです。完全なマイナスが生じればプラスが生じ、完全なプラスがあればマイナスが生じるようになるのです。

 愛は、私にかかっています。私が愛した分、私を愛するようになるのです。先に愛さなければなりません。誰が愛の教材ですか。それが難しいのです。人の夫の役割をすることが大変だということを知らなければなりません。子供のいる人が愛を知らないということは恐ろしいことです。夫としてその責任を果たし、妻としてその責任を果たし、父母としてその責任を果たせば、良く教育したことになるのです。教育材料として最も良い材料が私だということを知らなければなりません。

 それで、このような教育を私の父母を中心として、それから食口を中心として、国家を中心としてするのです。天国に行って暮らすことができる訓練をするのです。それを個人・家庭・社会・国家・世界的に連結します。自分が母親ならば、赤ん坊に対して、「愛している。愛している」と言う必要はありません。目を見れば、すぐに分かるのです。(一〇二−一二二、一九七八・一一・二七)

 皆さんは、父母の愛を中心として、師の愛、国の愛、聖人の愛、神様の愛をもっていかなければなりません。父母を好むのは、大概十八歳までです。それからは、先生を好みます。この少年時代、青年時代、壮年時代までは教育を受けなければなりません。愛に関する教育を受けなければなりません。私が父母を忘れることができないように、先生を忘れてはならず、先生を忘れることができないように、国の王を忘れてはいけません。また国の王を忘れることができないように、聖人を忘れてはならず、聖人を忘れることができないように、神様を忘れてはいけません。皆さんは生涯、それに対して感謝しながら教育を受けなければなりません。

 統一教会の文なにがしという人は、何をする人ですか。すべての愛を行うことができる教材として登場した男です。レバレンド・ムーンを愛する以上に父母を愛しなさい、それが先生の教育です。皆さんは、父母を愛することができませんでしたが、レバレンド・ムーンを中心として愛を学んだので、レバレンド・ムーンを愛する以上に父母を愛しなさいというのです。(一〇四−二八四、一九七九・六・一)

 家庭の愛を世界舞台に立体的に拡大しなければなりません。夫と妻が父母を考え、子女を考えるように、それを世界化しよう、このように教育を受けたことを世界的に拡大させようというのです。おじいさんとおばあさんの年齢に当たる人々を、皆さんのおじいさんとおばあさんのように考えなさいというのです。また、皆さんの父母の年齢と同じ世界のすべての人々は、父母と同じように考えるのです。男性を見るときに、「これは夫の延長線だ。延長線だ」と考え、自分より年下の人は、自分の弟のように考え、息子と同じ年齢の人は、息子のように考える、そのような愛で世界の人を愛そうというのです。(一〇四−三三六、一九七九・六・一〇)

 根本的に、男性という人格と女性という人格が、主体と対象の相対関係を中心として力の作用をしようとします。それは何でしょうか。愛というものです。愛の力を中心として、家庭形成が展開するのです。愛国とは何でしょうか。国の主権と国民の生活基盤が、愛を中心として絡み合うことです。聖人とは何でしょうか。世界の主体の立場で、愛を中心としてすべての歴史と絡み合うことができるようにする人です。それゆえに、聖人は、すべて宗教指導者だったのです。

 聖人の生活の基本は何かというと、愛の原則です。すべてそれを教育しました。仏教でいえば慈悲、キリスト教でいえば愛です。すべてそのようになっています。一般的には知られていなかったのですが、その作用は、宇宙の核となる愛の作用と連結するためのものなのです。そのような宇宙的な共通分母の作用原則があるのですが、この原則に符合することができないときには遊離するのです。遊離して相対を得ることができなければ壊れるのです。しかし、この主体的愛、核の主軸的愛に連結されれば解体されません。分解しないというのです。喪失がありません。永続するのです。(一三七−五六、一九八五・一二・一八)

 もし嫁が、「ああ、私は教育を民主主義的に受けた。お父さん、お母さん、おじいさん、おばあさん、すべて同じであり、息子、娘も同じだ」と不平を言い始めればどうなりますか。秩序が立つでしょうか。ですから、教育が必要です。今後、一つの教育が世界に残るとすれば……。法を中心とした教育時代は過ぎていきました。お金で交渉することができる時代はすべて過ぎていきました。力で治めるという時代は、すべて過ぎていったのです。それらは適応できません。いくらやっても適応できないというのです。行っても戻ってきます。定着が不可能なのです。今、残った一つのものは、公義に立脚した愛の秩序だけを必要とするのです。(一四七−二七三、一九八六・一〇・一)


四 良心が教えるところに行きなさい


 悪が行く道には、教育が必要ありません。教育を受けなくても、誰でも行くことができます。悪から始まった歴史なので、教育を受けなくても、誰でも行くことができるというのです。悪の道を行くように教育する必要性がありますか。自らそのようになったので、今日、人倫道徳を中心として、良心の標準を選んでいきなさいと教育するのです。

 何を中心とする教育ですか。善を中心とする、良心を中心とする教育をしたにもかかわらず、その教育の標準に立脚した人にどれはどなったのでしょうか。悪なることは、学ばなくても誰でもすることができます。誰でも満点をとることができるのです。(三六−五六、一九七九・一一・一五)

 固執する人も、自分の心は知っています。心は、自分が正しいのか間違っているのか、すべて知っています。ですから、心の世界には、教育が必要ありません。心の世界は、自分がしたことに対して正しかったのか間違っていたのか、すべて知っているのです。にもかかわらず、意地を張って固執するようになれば、どうなりますか。そこには、サタン相続が進行するのです。毒蛇が来てかみついているというのです。毒蛇がかみついているのに、じっとしていますか。しかし、それは、毒蛇にかみつかれるよりももっと恐ろしいのです。毒蛇にかみつかれれば、自分一代だけが滅びますが、心の世界が過ちを犯せば、数千万代が滅びるようになるのです。(三七−一三一、一九七〇、一二・二三)

 皆さん、誰が心を教育しますか。「私は心の小学校に通った。私は心の中学校に通った」という話を聞いたことがありますか。これは、教育を必要としません。絶対に教育は必要ないというのです。今日、いくら法がたくさんあるとしても、心以上の道理を教えてあげることができる法はありません。人は、良くないことをすれば、良心の呵責を受けるようになります。良心は正しいのです。大概、観念がそうです。良心が曲がっているのかまっすぐなのかというとき、良心が曲がっていると考える人はいません。普遍的に良心は正しいと考えるのです。(三八−二二八、一九七一・一・八)

 悪に教育が必要ですか、必要ないですか。悪くするのに教育は必要ありません。教えてあげる必要がありません。そのままほっておけば、自然に悪なる人になります。体の言うとおりにすれば、間違いなく悪なる人になります。善なる人になろうとは考えることもできません。間違いなく悪なる人になります。(三八−三〇一、一九七一・一・八)

 悪なる人になるには、教育は必要ありません。教育だけでなく、何も必要ありません。悪なる人になろうとすれば、何も教えなくてもすぐに悪くなることができるのです。ここには、教育が必要ありません。悪なる人になりなさいと教育しなくても、自動的になることができるというのです。しかし、善なる人になろうとすれば、自動的になるのはそれほど簡単ではありません。したがって、善なる人にするためには教育が必要なのです。すなわち、善に従って行動するためには教育が必要だというのです。善と悪が行く道は、お互いに相反する道なので、善を行うために行く道は、決して簡単な道ではありません。その道を簡単に行くことができれば、どれほど良いでしょうか。(三九−二二、一九七一・一・九)

 悪を行うことには、教育も必要なく、制裁も必要ありません。そのまますぐに飛び出していっても、世界で一番の悪人になることができます。道端に立って、人が来る時にナイフで刺せば、そのようになります。体の言うとおりにするとすれば、天下でもすべて切ってしまいたいと思うのです。悪なる者になるのに、教育は必要ありません。そのままほっておいても、いくらでも悪なる者になることができます。悪なる人になるのは簡単です。しかし、善なる人になろうとすれば、必ず制裁と犠牲の代価を払わなければなりません。これ自体が何かというと、悪なる世界に暮らしているという証拠です。(三九−二六六、一九七一・一・一五)

 本心は知っています。本心には説明は必要ありません。自動的に理解することができます。それは、偉大なことです。本心には教育が必要ありません。リーダーが必要ありません。自動的に分かるのです。磁石のように、N極とS極は、自動的に授受作用をします。同じことです。真に与えるところには、自動的に真に受ける力が結合し、そこで宇宙的な存在の雰囲気ができるのです。そのような雰囲気を、いわゆる自然というのです。(一四七−一四一、一九八六・九・七)

 皆さんが本然の人間の境地に入っていけば、そうです。神様は、私の心の中心です。心は、天の縦的な父母を受け継いで生まれたのですが、縦的な父母を通して生まれた心は、横的な父母を通して生まれた体と一つにならなければなりません。どこでですか。九〇度の角度で一つになるとき、神様がどなたなのか、地獄がどこにあるのか、天地天下がすべて見えます。教育は必要ないというのです。(一八七−一一七、一九八九・二・五)

 良心は、教育が必要ありません。なぜでしょうか。それは、垂直だからです。垂直がとどまり得るところは、ただ一つ、一点しかなく、上にも一点しかありません。それから、水平が完全にできていれば、水平という存在を教育することができますか。「お前はこのように直しなさい。あのように合わせなさい」と言うことができますか。考えてみてください。「私は水平を教育することができる」という人は手を挙げてください。それは狂った人です。水平といえば、それは永遠の基準として、永遠不変の型として受け入れなければなりません。垂直も同様です。(二一一−二三一、一九九〇・一二・三〇)

 良心が体のために、どれほど犠牲を被ったでしょうか。一生の間、蹂躙される良心の事情を皆さんは知っていますか。夜も昼も私を管理することに疲れているのが良心です。それでも倒れずに、体が悪い行動をしようとすれば止めるのです。「そのくらいすれば、もうやめなければならないではないか。私の言うことを少し聞かなければならないではないか」と、このように言うでしょう? 自分に最も近い、父母の代わり、神様の代わり、師の代わりの存在が良心です。心自体には、教育が必要ありません。しかし、体には教育が絶対に必要です。(二一一−二八二、一九九一・二・三)

 私たちの良心世界と体を見てみれば、どのようになっているのでしょうか。良心は教育を受けなくても、すべて善なることを知っています。例えば、五つの国があるとして、五つの国の主権者たちがそれぞれ異なる憲法をつくり、それが善なることだと結論づけ、それに従って治めようとしても、良心的な人は、その五つの国の主権者の中で、どの主権者がより善なる主権者なのかを判断できる能力があるのです。どの国が一等なのかを測定することができる力をもっています。その五つの国の中で、最も良い国を選び、最も悪い国を選ぶことができます。良心は、そのようなことを判断できるので、その五つの国の最も善なる側に従っていこうとするのです。

 教育の目的は何でしょうか。良心を教育するのが目的でしょうか、体を教育するのが目的でしょうか。良心は、五つの国の中でどの国が善なのか悪なのかを判断し得る能力をもっており、いつも自己の主体性を備えて私を管理しているのですが、体は、すべてのことがめちゃくちゃです。ですから、体を主管する教育が必要なのです。良心は、主体性を既に備え、永遠に定着しているのに、どうして教育が必要ですか。良い人に会えば、すぐに心が分かるのです。一度会って、二度会って、三度会えば分かるのです。「ああ、彼と一つになりたい!」と思うのです。

 では、心と体が一つになるというのはどうですか。心と体が闘えば、良心世界はそれを嫌うというのです。良心がそのような変わらない立場にいるので、変わらない霊界が良心を土台として活動せざるを得ないという論理は妥当です。啓示を受ける場合のように、霊界に接するときにはどのようになっていなければならないのでしょうか。それが水平になって動揺がなくなってこそ、霊界が自然に連結されるのです。体ではできません。(二一六−三〇六、一九九一・四・一五)

 皆さんは、良心と肉身の二重性をもっています。自分を中心として見てみても、ある時は、良心と肉身が反対し合い、お互いが嫌うことをすることもあります。そのようにして、一つになることができずに継続して衝突します。良心と肉身が統一されて一つになることができなければ、理想郷に行く道がありません。歴史を通して見ても、今までこの戦争をやめさせたものはありませんでした。教育でも、止めることはできませんでした。

 良心は、両親、父母に優ります。誰にも尋ねるな、父母が必要ないというのです。父母の生活様式や教えは必要ありません。良心は、教育する必要がありません。良心を教育するという話を聞いたことがありますか。良心は、教育を超越しています。法を超える絶対権限があるのです。(二一七−一二、一九九三・一・二一)

 良心は両親に優る! 良心は先生に優る! 先生が必要ありません。良心には、教育が必要ないというのです。そのような偉大なものをもっています。良心は神様に優る! 神様を必要とするのは愛を引き継ぐためです。愛に連結された場合には、いつでも神様が一体となっているのです。(二五二−一五一、一九九三・一二・二九)

 絶対的な良心は、絶対的な神様の立場です。神様に尋ねる必要はありません。良心に対して教育する人を見ましたか。父母が良心に対して命令することはできません。体が過ちを犯したので父母の干渉を受けるのであって、良心は父母に優るというのです。第二の神様なので、良心は父母に優るのです。良心は先生に優るのです。先生に尋ねる必要もありません。神様に尋ねる必要もありません。神様は、良心に対して教育されません。すべて教えてあげました。良心を絶対視しなければなりません。絶対視しなければ、心と体を一つにする道は永遠にありません。(二五二−二五五、一九九四・一・一)

 良心は、第二の神様です。良心を教育するという人を見ましたか。良心を教育するという人は見たことがありません。誰もが、出会って、あなたは良心的かと尋ねます。外交舞台でも、良心的な外交官かと尋ね、政治でも、良心を中心として尋ねます。経済人も、良心的かと尋ねます。

 「良心は父母に優る」、大きな声で言いながら書いてください。忘れないように、赤い線を三本でも百本でも引いてください。忘れてはいけません。自分は、一〇〇パーセント知っています。良心は、自分がしていることで知らないことがありません。ですから、良心には永遠に教育が必要ないのです。分かりましたか。(二五七−一一六、一九九四・三・一三)

 私たちの良心だけが、(三大)主体思想を達成する対象の立場で絶対的に一体とならなければならないので、良心の位置は、私たちを生んでくれた父母より、師より、国の王よりも優れた立場に立たなければ、神様の愛の対象の立場になることはできません。良心は、教育が必要ありません。神様の代わりとして絶対的に侍らなければなりません。(二五九−四一、一九九四・三・二七)

 「良心的な人士は、良心万能圏を主張し、良心解放圏を付与し、万世の勝者にならなければならない! アーメン!」と言うことができる万国になり、良心を神様よりも、自分の父母よりも、その国の何よりも価値あるものとして尊重し得る時代が来れば、良心の解放を受けた人たちが天下を支配する時が来ます。それで、最近教えていることは、良心は父母に優るということです。父母は、結婚して自分に困難なことがあれば別れることもできますが、良心は、私と共に永遠に離れず、父母の愛以上の愛をもって天上世界に還故郷する道の案内者になるというのです。

 良心は師に優ります。良心世界は、教育が必要ありません。今日、世界で教育部の長官が良心を教育しようと宣布したという話を聞いたことがありますか。良心は、教育が必要ないのです。良心は、自分の行くべき道をすべて知っています。あることをしようとするとき、良心に引っ掛かるものがあればしてはいけません。その道は、地獄に行く道です。良心は師に優ります。良心は神様に優ります。なぜですか。愛する相対は、自分よりも優れていることを願うからです。(二六六−二七七、一九九五・一・一)

 良心は父母に優ります。良心は師に優ります。良心は主人に優るというのです。父母や師や主人は、別れて暮らすことができます。良心は別れることができません。永遠に別れることがありません。その良心の言うとおりにすれば、完全に神様の直系の子女になることができます。例えば、朝と午後になれば影ができますが、正午になれば影がなくなります。実体しかないというのです。影がないので、この位置に入っていけば一つになります。本体とイコールになって、初めて影がなくなるのです。(二九一−一八三、一九九八・三・一一)

 良心は師に優ります。「良心をつかまえて教育しよう」と言う教育部の長官がいますか。いないではないですか。良心は、教育が必要ありません。本性の良心は、教育が必要ないのです。自らが、生涯の理想教育の方向を自然と提示するようになっているのですが、肉身がそれを妨害しています。絶縁関係になって妨害しているので、不可能になってしまったのです。良心が師よりも先です。

 自らの教育によって良心の声を聞くことができるようになれば、先生よりも先に良心に尋ねるとき、真理なのかそうでないのか、すぐに分かります。自らが定着しなければならない永遠の世界の主人を迎えるべき立場に立つか、それ以上の立場に立ち得るのかを知ることができます。そのようなことが備わっており、主人権、王権以上の立場にいるので、いくらその国の教えが立派だとしても、その国にいたいと思わないのです。(二九八−一八一、一九九九・一・一)

















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五 犠牲と奉仕、そして公的なもののための教育

文鮮明先生の教育哲学



五 犠牲と奉仕、そして公的なもののための教育


 み旨のために生きて傷ついたことは、後日まで自らの教育となり、子孫にも立派な教育になります。(二七−二九五、一九六九・一二・二二)

 皆さんが小学校の先生だと仮定してみましょう。子供たちを教育するのは簡単ではありません。そして、子供たちは、いつも自分の思いどおりにしたがります。私たちは、自分の思いどおりにしようとする子供たちを、訓練または教育することはできません。皆さんは、先生としてその子供たちを愛し、難しくても耐え、観察し、そして彼らを助けようとしなければなりません。それは簡単ではありません。

 もし、その子供が、先生が兄、姉、父母よりももっと自分を愛していることを感じれば、その先生は、本当に資格のある人であり、立派な先生でしょう。小学生のこのような例に見られるのと同じことが、私たちが教育しようとするところにも、私たちが行っている永遠不変の教育訓練にも適用されるのです。

 私たちは、その人々を連れてきて教育し、訓練させるために、私たち自らどれほど多くの準備をしなければならないでしょうか。その人々に対する私たちの奉仕、犠牲と献身がなくては、この歴史的な課業を成就することはできません。ここには他の道がありません。卓越した宗教指導者たちは、先生が語っているこのような奉仕と犠牲の方法を除外しては、この世界や人々を指導する道はほかにないというのです。(五二−二八五、一九七二・・一・九)

 神様が堕落した私たち人間を教育し得る道があるとすれば、それはどのような道でしょうか。人間が神様に相対し得る立場に立ち得ていないので、神様が人間を近くにおける唯一の道があるとすればそれは何か、と考えるとき、心で訪ねていく道──御自身が愛しているということを見せてくださる道──しかないということを、私たちは結論づけることができます。

 神様が「人間を再び救援し、人間を再び愛したい」という考えをもたれたとすれば、その神様の教える道理は何かという問題を考えてみるとき、「人のために生きて犠牲になりなさい」という、そのような道理になるでしょう。これは、間違いない鉄則であり、素晴らしい教育だ、ということを知らなければなりません。犠牲になるということは、素晴らしい教育です。聖書に、「人がその友のために命を捨てること、これよりも大きな愛はない」(ヨハネ一五・一三)といっています。聖書のどこを見ても、そのようなことを標準として教えているのを発見することができます。聖書を通しても、神様は、間違いなくいらっしゃることを理論的に結論づけることができるのです。(六九−四六、一九七三・九・九)

 先生は皆さんに、「アメリカのために犠牲になりなさい! 世界のために犠牲になりなさい!」という教育をしてきました。私がアメリカに来て、このように苦労するのです。私がもっている財産をすべてはたいて、これをするのです。アメリカのために韓国人を苦労させ、日本人を苦労させ、ヨーロッパ人まで苦労させています。皆さんは、苦労しませんか。それでは滅びます。滅ぶというのです。ですから、皆さんをもっと苦労させようと思います。ヨーロッパ人よりも、日本人よりも、韓国人よりも、もっと苦労させようと思います。そのようにしてこそ、愛を受け、伝統が立つのです。(一〇六−七一、一九七九・一二・九)

 体が「やろう」ということの一八○度反対の道を行きなさいというのが、宗教の主流教育です。ですから、「奉仕しなさい。犠牲になりなさい。驕慢になってはならない」と言うのです。下に降りていきなさいというのです。頭を上げずに、下に降りていきなさいというのです。そうなると、サタンは、地獄にしか行く所がありません。(二五一−一一五、一九九三・一〇・一七)

 皆さん、福を受けることを願いますか。犠牲になることを願いますか。そのようになろうとすれば、公的な人にならなければなりません。子女を教育するにおいて、自分の息子、娘だけを愛してはいけないというのです。世界の人々のために祭物的な息子、娘として愛する父母にならなければなりません。そして、子女を抱いてお乳を飲ませるときには、この地球星の人類を代表した母の立場で、人類を代表した子女にお乳を与えるという心で飲ませなければなりません。そして、かわいいといって自分の子女にだけお乳を与えるのではなく、人の子女でも自分の子女と同じ心情で接する母親になってみてください。そのような母親のお乳を飲んで育つ赤ん坊は、必ず偉大な人になるのです。すぐにならなくても、一代、二代を経ていく間に、必ずその子孫の中で世界を主管し得る人物が誕生するのです。これは公式です。(三一−一六七、一九七〇・五・一四)

 私的なことは悪に属するのであり、公的なことは善に属するのです。歴史も同様です。私的な歴史はサタンの歴史であり、滅びる歴史です。公的な歴史は神様の歴史であり、善の歴史です。皆さんが教育をするときにも、そのような観念でしなければなりません。目で見るときも、私的に見るのか公的に見るのか、鼻でにおいをかぐときも、私的にかぐのか公的にかぐのか、耳で聞くときも、私的に聞くのか公的に聞くのか、仕事をするときも、私的にするのか公的にするのか、歩くときも、私的に歩くのか公的に歩くのか、この基準ですべての問題を解決しなければなりません。(三六−六七、一九七〇・一一・一五)

 皆さんが受けている教育の中で、真なる教育とは何でしょうか。本当の教育、真なる教育は、人のために生き、そして死になさいと教える教育です。それ以上の教育はありません。(三七−一三三、一九七〇・一二・二三)

 皆さんの中で、滅びたいと思う人は手を挙げてみてください。それでは、発展したいと思う人は手を挙げてみてください。発展する方法は、ほかにありません。簡単です。真になれば発展します。なぜ発展するのでしようか。すべてがその人の側になってくれて、すべて与えてあげようとするので発展するのです。それでは、なぜ滅びるのでしょうか。すべてがはぎ取っていこうとし、削り取っていこうとするので滅びるのです。自分を第一として横行するようになれば、永くは続きません。反面、人を第一としていけば、永く続くようになっているのです。善悪の起源は、ここから分かれていくのです。(三七−一三四、一九七〇・一二・二三)

 皆さん、年を取った人たちは、「神様が私に息子を下されば、私はこのような息子にし、私がみ旨のために果たすことができなかったことを所願成就するために、代々それを受け継がせてお父様の偉業を成就させます」と言わなければなりません。子女たちをそのように教育し、そのように育てなければなりません。それゆえに、今皆さんが一つ知らなければならないことは、皆さんの汗と涙と血の犠牲に比例する祝福が皆さんの息子、娘にあるだろうということです。いつでもそのことを考えなければなりません。

 ですから、自分のために喜ぶ生活よりも、公的なことのために悲しむ生活を、自分のために良い生活をすることよりも、公的なことのために苦痛を受けることを幸福と思う生活をすれば、その息子、娘は、何十倍、何百倍福を受ける、ということを知らなければなりません。(九〇−一一九、一九七六・一〇・二一)

 今まで、このレバレンド・ムーンが統一教会の教会員たちに教えたことは、「あなたは愛国者の中の愛国者になりなさい」ということです。これは宣言です。「あなたは愛国者の中の愛国者になりなさい」、これが統一教会の教育第一条です。愛国者の中の愛国者になりなさい! それから何ですか。「教会の信者の中で誰よりも、いかなる宗教の信者よりも高い、一番高い立場に立ちなさい!」、このように教えるのです。(一一三−一一一、一九八一・五・一)

 家門において、立派な父母が教育する教訓とは何でしょうか。「お前は、いくら困難でもこの村のために犠牲になり、この村のために手本となるように生きなければならない」と、このように言わなければなりません。このように訓示する父母は、善の父母です。

 教育がある前に愛があります。最初の創造物が存在する前に、その原則的基盤が愛から始まったので愛があるというのです。本質がそのようになっています。物質もそうであり、物質を糾合して人体となる人間も、物質の器の中に含まれている愛、神様の最高の愛に帰っていこうとする心があるのです。本心がそうだというのです。(一四七−二九七、一九八六・一〇・一)

 教育理念をどのように立てるのでしょうか。アメリカだけのために生きるという教育は、取り残されます。国境を越えて、世界のすべての人を導いていくことができる教育をしなければなりません。「世界は一つだ」と言い、「学ぶのもすべて世界のためにする」と言わなければなりません。世界は一つにならなければならないようになっています。結局は、一つになるのです。

 そのような観点から教育する内容を考えてみるとき、宗教教育が必要です。それは、国境を越えることができます。その次に、思想的な教育が必要です。それは、世界的です。国境を越えることができるというのです。ですから、思想的な内容と宗教的な内容を兼ね備えた教育にならなければなりません。ゆえに今後、どのような国家だとしても、世界のために教育理念が後ろ盾とならなくては、世界人類の前に立つことができなくなります。(二〇七−六四、一九九〇・一一・一)


六 指導者の責任と姿勢


 統一教会のみ旨に従っていく人たちの中には、一等になる人もいて、びりになる人もいて、落伍者になる人もいるでしょう。統一教会に通う人たちの中でも差が生じます。そして、実際に競技場で展開する現象が、皆さんの家庭や、あるいは活動する基盤でも展開します。しかし、問題となる国家なら国家、団体なら団体で、上手に走る選手をどのように育てるのかというのです。すなわち、どのように教育し、どのように訓練して優秀な選手に育てるかが問題だというのです。この使命が皆さんにかかっています。

 選手たちを教育して訓練するためには、まず皆さん自身がそれに値する実力をもっていなければなりません。皆さんの指導を受ける後輩たちが、皆さんの記録を破るように訓練することができなければなりません。そして、統一教会のみ旨を中心とするマラソン競技において、国家を代表して世界の前に立てることができる人を育てあげなければなりません。そのような人を育てあげた指導者は、彼と共に歴史的に残るようになるのです。(二九―六七、一九七〇・二・二四)

 今後、後継者を選ぶようになるときには、冷淡に批判することもできなければなりません。自分と、ある部分は合い、ある部分は合わないことを知らなければなりません。そして、全体の責任を完全に相続してあげ得る適格者になっていなければ、何人かを立ててでも、このすべてのことを教えてあげなければなりません。教えてあげるときには、どのようにしなければならないでしょうか。甲が行かなければならない道、乙が行かなければならない道、丙が行かなければならない道がすべて異なるので、各自が該当する分野を中心として教育しなければなりません。教育して一つになり得る過程を経ていかなければなりません。(二九−八九、一九七〇・二・二五)

 先生は、一九六〇年代に全国を巡回しながら、核心要員を育てました。里に三人だけいればいいのです。大勢いても必要ありません。核心要員として三人だけいればいいのです。三人の核心要員のうち、一人は教育的な分野、一人は教会的な分野、一人は経済的な分野に責任をもつのです。このように三つの分野を三人が一つずつ責任をもち、み旨と共に死ぬことができれば、間違いなく全国を動かし得る時が来ます。そのような時が来るというのです。(三三−一九二、一九七〇・八・一二)

 先生は、ここにいる責任者たちの精誠の基準が何パーセントくらい接近したのか、ということを鑑定しています。世の中の知識を標準として見るのではなく、精誠を見るのです。

 ある人は、苦労の道に追い出します。人事処置するときに、とんでもない所に送ることもあります。思い掛けない所に配置してしまうのです。そのようにすれば、「ああ、今まで私はこのようにしてきたのに左遷なのだなあ……」と言うでしょう。しかし、左遷ですか。その左遷という認識を誰から教育されたのですか。先生が何かの職責をもっていますか。(五一−二八四、一九七一・一一・二八)

 教会は、原理ばかりを第一としてはいけません。もちろん、原理を中心として思想的基礎を立て、信仰生活の基礎をしっかりとつくらなければなりませんが、それに伴って対社会運動、その中でも教育をしなければなりません。最も重要なことが教育です。教育を良くしなければならないのです。家庭教育から、部落なら部落の公共生活の面を中心として、教育することができなければなりません。私たちの教会がそのような面に影響を及ぼしてこそ、教会を中心として、すべてを囲んで固めていけるのです。教会員ばかりに信仰の教育して、聖日にだけ集会をするのではいけません。

 物質的な面で影響を与えるためには、農業改良のようなものがあるのです。生活面で援助することができ、直接経済面で援助することができることを私たちが指導するのです。農作業のやり方や、教育の面で影響を与えるなど、とにかく彼らに利益を与えなければなりません。損害を与えれば、従ってこなくなるようになっています。物質的な面でも、精神的な面でも、一般教育的な面でも、何でも教会がプラスとなる道をもっているというとき、いつでもプラスとなる内容を補給するとき、そこに関係した人たちは、自動的に引き込まれてくるのです。

 それゆえに、今後教役者になろうとすれば、総合的な基礎教育を受けて、すべての面を備えた人にならなければならない、という結論が出てきます。結局、教役者は何かというと、神様の代身者なのですが、神様が一方的ですか。神様は、全世界を収拾して一つの理想圏に指導する総責任者なので、教会の責任者も、教会だけのために生きるめではなく、全体の行政分野の人々、派出所なら派出所の人たちまでが来て相談するほどに影響を及ぼすことができるようにしなければなりません。

 ですから、皆さんは、私たちの教会の機関が精神的な面を指導するのはもちろんですが、生活的な面や教育的な面にプラスとなる与件をどのように提示するかという問題を、いつも考えなければなりません。それで、「教会がなければならない」となれば、自然に教会も彼らが遣るのです。このような立体的な活動を皆さんが考えなければなりません。(五六−一三、一九七二・五・一〇)

 サタンの僕のような立場にいる人間を救うためには、人間たちを内的にもう一度教育し、その環境を飛び出すようにする運動をしなければなりません。そのようにするためには、神様が僕の僕の立場に立ち、彼らを指導し、教える責任者にならなければなりません。(七四−八一、一九七四・一一・一四)

 宗教を信じ、神様の息子になろうという人々は、よく食べて、豊かに暮らそうという考えを捨てなければなりません。済州島なら済州島に暮らしている道民を中心として、「私は、最も困難な立場で彼らを教育しなければならない責任がある。こじきの洞窟に行ってこじきの親分も教育しなければならないが、この道知事も教育しなければならない。この国の大統領も教育しなければならない」、そのように言うことのできる神様の息子、娘を必要とします。無価値な息子、娘になってはいけません。

 神様の代わりに人類に対し、下から最高まで教育しなければなりません。生涯を捧げてすべてのことを教えて教育しようというその道を行かなければ、神様の息子、娘になることはできません。(一二六−八六、一九八三・四・一九)

 今から責任者の皆さんは、きょう先生のみ言を聞いて、「私は新しい存在として、この国、この地上に新しい生活様式としての伝統を立てなければならない義務をもっている」という考えをもたなければなりません。そして、先頭に立たなければなりません。「三十六家庭」、「七十二家庭」を、今でも先生が連れて教育しています。今も教育しているのです。このニューヨークにいる時には、必ず「イースト・ガーデンに来なさい」と言って教育するのです。時間さえあれば、今でもそのようにします。

 先生がアメリカにいるときは、韓国の責任者に教育することができないのですが、死ぬ時まで教育する責任があります。始めたので最後までやらなければならないというのです。世界まで行き、天まで正しく行くことができる人にしなければならない責任があることを知っているので……。それは簡単ではありません。一年ではできません。

 幹がそうならば、大きな枝がそうです。大きな枝が小さな枝に、小さな枝が細い枝に……。同じです。先生が根ですが、根が枝に行くことはできず、枝が葉に行くことはできないではないですか。それで、各統一教会の責任者たちに会って統一教会の伝統的思想をキャッチすることができ、うかがい知ることができなければなりません。そのような枝にならなければなりません。先生の方針がそうなので、この原則に一致していない指導者は、すべて過ぎ去っていくのです。間違いなく過ぎ去っていきます。そうでなければ、私が江原道の金剛山に入っていって教育の場所を決定し、再び教育しなければなりません。(一二九−一一八、一九八三・一〇・一)

 皆さんは、自立して生活の対策を立てながら、天の民を育てなければなりません。教えるのは、専門分野の教育を受けて、自分の生計を立てるための努力よりも二倍の努力をしなければなりません。価値で見れば、どちらが重要かというと、二倍の努力をするものが重要です。そのようにすれば、教会員に世話にならず、教会員たちが暮らすことができる基盤、今後協助することができる基盤をつくることができます。

 指導者は、経済問題を扱う指導者が重要な人ではありません。政治問題や社会問題や科学問題が問題ではありません。今後、「統一思想」を完全に武装して、神様の人として新しい思想を中心として教えてあげ、教育することのできる指導者が中心だ、ということを知らなければなりません。(一三三−一九九、一九八六・七・一〇)


七 教育、このように変わらねば


 最も問題となることは、教育問題です。教育は、ビデオを通してします。将来、場所としての学校もいらなくなります。有名な先生の講義を、三時間のもの、七時間のもの、十時間のものとしてビデオで教育するのです。大学もそうです。ビデオを持って歩きながら、いつでも勉強すれば、四年ずつ通うこともありません。丁年でも、すべて片づけてしまうことができるのです。それで国家試験にパスすれば、その分野でどこでも超国家的に就職することができる道があるのです。(二〇六−三五〇、一九九〇・一〇・一四)

 最も問題となることとは何でしょうか。教育問題です。学校問題です。しかし、学校も問題ありません。最後は、言語が問題になりますが、言語教育は、ビデオでする時が来ます。そのようになれば、学校もいらなくなります。年度ごとに国家が指定した場所に行き、試験を受けて採点してもらい、合格さえすれば、学校に行かずに卒業することができ、学者や博士にもなることができるのです。(二〇八−一九、一九九〇・一一・一三)

 今後、中・高等学校も、大学の教育も、義務制度になります。義務制度というよりも、大学もなくなるのです。中・高等学校や大学の境界線もなくなります。ビデオを持って歩きながら勉強し、国家試験さえ受ければ、小学校も卒業することができ、中・高等学校も卒業することができ、大学も卒業することができるのです。ですから、天才的な人は、五年間で、大学ではなく大学院まで出てくることができるのです。言語が統一されれば、そのような時代が来ます。(二〇八−一〇一、一九九〇・一一 ・一七)

 将来、学校が必要なくなります。今私は、それを始めています。ビデオ教育時代に入っていくのです。世界的な学者たちを、各分野に該当する学者たちを招待してビデオ・テープを作る準備をしています。それで今、ワシントン・テレビジョン・センターを中心として行うのです。これは何でしょうか。今までは、文字通信社会でしたが、今からは、映像、映画通信社会に入っていくのです。それを開発して、既に二百八十の放送局を通して活用されています。(二〇九−三一五、一九九〇・一一・三〇)

 今、私たちがしようとしていることは何でしょうか。今、アメリカが滅びつつあります。それゆえに、青少年たちを動員して何をしようとしているのでしょうか。アメリカでは、ラジオやテレビジョンを二十四時間放送します。しかし、時事に関しては一時間半以上にはなりません。そして、教育放送でも、三時間以上にはなりません。それ以外は、すべて音楽と映画です。これは亡国の方向です。

 また、時事内容を中心とした映画を一週間に一編ずつ作ろうと準備しています。なぜそのようにしなければならないのでしょうか。世界の政治家から大学水準以上のすべての人々は、時事的な知識を基準として出世できる道が分かれるので、これをよく知らなければなりません。それを中心として、シリーズで映画を作るのです。その内容は、教育的なものでなければなりません。ですから、毎週一編の映画が出てくるのです。それは世界的なものです。

 それゆえに、今後、教会新築問題を早く解決しなければなりません。教会新築問題とは何かというと、三千三百の里に代わる千七百の教会をつくり、文化教育をしなければなりません。これは、国ではできません。約二千編の健全な映画を選定して、教育しなければなりません。地理学から動物学に至るまで、文化活動を通して教えてあげようと思うのです。地に生きる動物をはじめとして、すべての生物世界に関する学術的な面での文化水準を高めてこそ、民族がアジアを指導し、世界の文化圏に同参しても、同役者となって協助することができるようになります。そのようになることによって民族が……。皆さんがこれを受けて紹介することができるように準備しなければなりません。(二〇九−三三〇、一九九〇・一一・三〇)

 今、教育が問題です。今後、ビデオ教育時代が来ます。既に先生がそのような計画をしています。ワシントン・テレビジョン・センターで、一週間に一つずつ映画を作ります。時事映画を作ります。有名な学者を、すべて準備しています。文総裁が「動員しなさい」と言えば、どの学者でもすべて動員されます。今、「ワシントン・タイムズ」や「インサイト」、「ワールド・アンド・アイ」などで、世界の我こそはという人の原稿依頼も、電話通話で、「文総裁がしている会社です。あなたはどのように考えますか。このような原稿が欲しいのですが……」と言えば、「ノー」という学者がいないほどになりました。技術分野で、世界最先端の科学者と学者たちがたくさんいます。(二三三−一八五、一九九二・八・一)

 大学に何をしに行くのですか。先生の講義を聞きながら、学科の勉強内容をいつ記録することができますか。ですから、有名な教授たちが、おもしろい映画のようなものを挿入し、冗談も言いながら素晴らしく講義するのをビデオに撮るのです。それを一つ、二つ、好みどおりに聞けば、その学科を通過することができる実力がつきます。言語さえ統一すれば、世界のどこでも大学に行く必要がありません。ビデオをリュックに入れて、歩きながら聞いたとしても、国家を通して試験にパスすれば、学位を取ることもでき、卒業することもできるのです。そのようにすれば、お金がかかりません。教育する人たちの中に、どれほど詐欺師が多いでしょうか。ですから、このような準備をすべてしておきました。今からアメリカがそのようになるというのです。(二三八−一八五、一九九二・八・一)

 今後は、人口の都市集中現象が消えてなくなります。今までは、子供の教育問題や生活が便利なことがあるので都市に集中しましたが、今後、テレビや他の現代文明圏のすべての利器を通して、座って趣味を楽しみ、オーケストラの演奏を鑑賞することができ、踊りを見ることができます。テレビ一つで全世界の図書館にあるすべての本、秘密、演芸など、すべてのものを見ることができる時代に入ってきました。どこにも家を建てて暮らす必要がありません。(二六二ー二七〇、一九九四・八・一)

 今先生がワシントンD・Cで、ノスタルジアを中心として、世界の有名な学者をすべてつかんでいるので、その学者たちが教えるカリキュラム(教育課程)を編成して、世界的にテレコミュニケーション(注:電信、電話、テレビジョンなどによる遠隔通信)を通して学位を与える運動をしようと思います。

 そして、二十時間の講義なら二十時間講義のビデオ・テープを見るようにして、その教授が一年に三回か四回学んだことに関して、テレビを通して直接問答しながら教育するのです。ですから、学校と同じです。そのようにする時が来ました。専門的なビデオ講義をしたその学者が出てきて、問答形式で指導するのです。大学とちょうど同じだというのです。そのようなことを、今アメリカでしています。(二六二−二七二、一九九四・八・一)

 今は、テレビやラジオを持って、どこの谷間に行っても暮らすことができます。将来、学校がいらなくなります。すべてビデオで教育するのです。既にそのような時になりました。ですから、大学もなくなるほどです。国際管理体制で、ビデオを通して小学校課程を教育するのです。ですから、六年ずつする必要はありません。頭の良い人は、二年以内に卒業することができます。

 大学までも、ビデオを中心として勉強し、国家が公認する試験さえパスすれば、同じレベルでどこに行っても公認されます。言語さえ通じれば、アメリカの教育部次官が韓国の教育部次官と同じになります。同じように教育することができるのです。それゆえに、定着時代が過ぎていくのです。鳥のように、景色によって、自分が願う所に行って一つになるのです。学校がすべて必要なくなります。行政部署がなくなるというのです。(二六八−二三〇、一九九五・四・二)

 今、学制を撤廃するための運動をしています。学校があるために、教育問題があるために都市集中現象が起きるのです。これをすべてビデオを中心として学校をつくり、かばんに入れて勉強すれば、十六年、二十年勉強することを、頭が良ければ五年間で卒業することができるのです。そのような体制を今つくっています。このようにして都市集中体制によって環境的与件が滅んでいくのを防ぐことができるのです。公害問題! 分散させなければなりません。産業地帯のすべてのものを解体しなければなりません。今、そのような時が来ました。(二七三−二七一、一九九五・一〇・二九)

 これからは、学校がいらなくなります。何で教えるのかというと、言論媒体を中心として、ビデオを中心として教える時が来ました。今、ブリッジポート大学で全世界に大学課程を教育しようとしているのです。

 こうして言語さえ統一されれば、一瞬のうちにできます。先生の背後には、数多くの学者たちがいるので、大学教授の中で有名な教授たちを中心として、その人たちが講義することができる内容をビデオにすべて撮るのです。一時間半だけでも、その思想を入れることができ、十時間講義、数時間で講義する内容をすべてビデオにすることができます。このようなビデオを、その専門分野の三人のものだけ総括して入れておけば、その分野のすべての知識を把握して余りあるというのです。(二七四−一〇九、一九九五・一〇・二九)

 全世界の牧場にテレビとVTRさえあれば、アメリカの放送を聞いて、アメリカで教育するその教材をもって学ぶのです。自ら勉強することができる機会を与えてあげるのです。それで、一週間に一度か、二週間に一度ずつ集まるようにして、勉強したことをすべて問答してあげて指導できる体制ができ、彼らが集まることができるように車が必要なとき、救急車を中心として、学校に案内することができるようなことまでさせるのです。二重目的で使用することができるのです。

 その州の人口に比例して、幼稚園と小学校を造り、中・高等学校を造って大学に連結することができる教育体制をつくるのです。小学校の四年生から農作業の方法、木を植える方法、広野を扱うことができる方法、養殖をする方法、それを一つずつ教育します。そして、高等学校を卒業する時には、それに対して専門的な要員になるのです。大学まで行けば、地域大学の世界的な先生になり、指導者になり得る体制をつくらなければなりません。

 小学校を卒業すれば十二歳、十三歳なので、四年生からすることができます。八歳、九歳からは、実技訓練ができます。ですから、高等学校に入れば、高校生たちが牧場を守る訓練をするのです。牧場を開発して、将来競争するすべてのことを教えてあげるのです。高等学校を卒業して、大学を卒業する十六年間で博士コースまで終え、二十年間、牧場でこのような専門的な教育を受けなければなりません。一度私たちの体制に入ってくれば、自分の家に食べるものは必要ありません。すべて自給自足することができるのです。(二七六−一九六、一九九六・二・一九)

 通信教育をしなければなりません。誰でも通信教育を受けることができるのです。小・中学校は義務教育になっているので、高等学校から大学まで通信教育をするのです。インターネットを中心としてするのです。

 私が「世界の教育をしなさい」と言っていたのですが、インターネット時代が来ました。昔、五十年前にこのような夢のような話をしたとき、みな狂人扱いしました。「座りながら世界を教育する」と言ったので、狂ったと思ったのです。今、座りながら世界にすべて通じることができる時代に入ってきたではないですか。先生が死ぬ前に、そのような環境、自由天地が成し遂げられなければなりません。誰よりも幸福な立場で、限界線まですべて行き得ることを見て死ななければなりません。(二九〇−二四六、一九九八・三・二)

 今後、学校が必要ない時代が来ます。百科目の課程を完全に準備して、世界的に学校閉鎖問題が発生する大混乱時代が到来するようになりました。万民を平等に教育するのです。そのように実践していく先生に反対する国家や個人は、この地に残っていることができず、自動的に消滅してしまうのです。そのような可能性があると思いますか、ないと思いますか。可能性が絶対的にあるのです。(三〇七−二一二、一九九九・一一・一八)

 ここには、若い人がたくさんいます。四十を越えていない人たちは、希望に満ちあふれていますが、将来定着してマンションで暮らしたいと思いますか、バンを中心として暮らし、遊び、寝る、そのような環境的な与件を備えて、世界を旅行しながら暮らしたいと思いますか。どちらを願うのかといえば、理想的なタイプの青年男女たちは、旅行しながら暮らしたいという答えが九〇パーセントだというのです。

 その代わりに勉強が問題なのですが、それは、遠距離教育システムをつくってするのです。中・高等学校は、テープを六十くらい持っていって、それを百回ほど聞けば、どこでも試験を受けてパスすることができます。そのような体制をつくっておけば、二十年勉強して博士になるというそのようなことは必要ありません。十年以内に博士にすることができる道がいくらでもあるというのです。学校は必要ありません。

 世界的に看板を付けて、「何日に遠距離テストを行います、小学校何年、中・高等学校何年、大学何年試験です」と試駐日を発表して試験を受けるようにするのです。そして、新聞を見れば、どこに合格したかが分かるようにしてあげるのです。そのようにすれば、どこでも学校がなくても卒業し、学位を取ることができます。

 それで、その中で一つ、エックス表示や何かの表示を決めて、それを知らないときには、見て試験を受けたと判定するのです。カンニングしたということも、すべて座って分かるようにすることができます。試験を受けるときに、すべて理解して書かなければならないのですが、分からないで書く場合があるので、暗号表示を決めて、それが何かとして、それに合わせることができないときにはカンニングしたというのです。そのようにして完璧にすることができるのです。

 アイビーリーグ(注:米国東部の名門大学を一括した総称)の十の大学も何も知りません。リュユックサックに有名な教授の講義と有名な本を入れて、どこででも勉強するのです。どれほど素晴らしいですか! そのような時が来ました。そのようにしようと、今先生は計画しています。(三〇四−三〇一〜三〇二、一九九九・一一・一二)

















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第四章 家庭と子女教育

文鮮明先生の教育哲学



第四章 家庭と子女教育


一 家庭は最高の教育場所


 家庭は一つの教本です。家庭は、一つの理想郷、理想国家を成すことができる一つの教本であり、その国は、理想世界を成すことができる教本です。ですから、教本が四つあります。家庭教本、国家教本、世界教本、宇宙教本です。それでは、これをどこで教育するのでしょうか。家庭で教育しなければなりません。家庭で教本教育をしなければならないのです。(一一八−二三二、一九八二・六・六)

 家庭とは、天国と因縁を結ぶようにするための教材です。教育のテキストブックです。それを国に適用すれば愛国者になるのであり、世界に適用すれば聖人になるのであり、天地を中心として適用すれば神様の息子、娘、聖子になるのです。聖者ではなく、聖子です。聖子になるのです。人間は、みなそのような欲望をもっています。「一三七−七七、一九八五・一二・一八)

 家庭では、父母を中心としなければならず、社会を代表する教育機関では、先生を中心としなければなりません。父母は、自分に乳を飲ませて育て、すなわち生理的な発展を助け、情緒的な面を助けてくれます。それでは、学校はどうでしょうか。社会的な生活、未来の生活舞台を中心として訓練をするのです。家庭が情緒的な訓練場だとすれば、学校は、社会における実験的な訓練場です。

 家庭とは何でしょうか。心情的な訓練場です。愛を中心として心情的に……。それゆえに、学校において情をもって兄弟のように生活しなければならず、国においても、情をもって兄弟のように生活しなければなりません。そのような父母の教育は、学校のための教育になり、社会のための教育になり、国のための教育になります。父母は、情緒的なものをすべて後継者である子供たちに伝授してあげなければなりません。父母が生きたのと同じように、家庭ではこのように生きなければならず、社会ではこのように生きなければならず、国のためにはこのように生きなければならないということを中心として、情緒的土台を築いてあげなければなりません。(一八〇−一三〇、一九八八・八・二二)

 父親になったならば、子供を愛するにおいて夜も寝ないそのような人、そのような父母たちは、天のすぐ近くに行くのです。それゆえに、家庭を絶対基盤として立て、「この家庭は、天国の家庭を生産するための工場だ。生産基地だ」と考えなさいというのです。ですから皆さんは、息子、娘を生んでそのような幸福な家庭をつくることができるように教育しなければならず、そのようにすることができるように保護してあげなければなりません。(一九四−一三〇、一九八九、一〇・一七)

 天国を築く一つのモデル的な地上の基盤とは何でしょうか。それは家庭です。今まで、神様の恨は何であったのかというと、真の息子、娘になるように教育できる教本を作ることができなかったことです。なぜでしょうか。人間が堕落したからです。

 神様が人間にすることができなかった真なる息子、娘の教育を、いつするのでしょうか。これが歴史を通した願いだ、ということを知らなければなりません。その次には、人間が愛の世界を築くことができるように教育する教材を作り得なかったことが恨です。兄弟の中には、女性の兄弟もいて、男性の兄弟もいるでしょう? それは二人だけではありません。十人にも、二十人にもなり得ます。その兄弟たちに、どのように生きるべきかを教える教本を作ることができませんでした。

 アダムとエバが息子、娘として生まれ、兄弟として育って兄弟の教本を作り、その次には夫婦の教本を作らなければならなかったのですが、それを作ることができませんでした。今、そのようなものがありません。それから、夫婦になれば父親と母親になるのですが、その父母はどうあるべきかという伝統的教材を作ることができませんでした。このように四つです。(二二四−一六八、一九九一・一二・一五)

 真の愛の教育と訓練の場は、家庭です。家庭教育において子女を正しく教育しなければなりません。それから兄弟と夫婦、その次に父母を正しく教育しなければなりません。これが四大原則です。(二二五−一五八、一九九二・一・一二)

 理想世界の体制とは、どのようなものでしょうか。家庭が単位です。家庭が天国の基盤であり、天国創建の礎です。これが礎石です。どれほど民がたくさんいたとしても、家庭を拡大した愛をもって国家に対する人は、天国のどこに行こうと通過します。それゆえに、家庭において教本どおりに教育を受けた、そのような心をもたなければなりません。

 家庭に入っていけば、おじいさんとおばあさんがいるでしょう? お父さんとお母さんがいるでしょう? 夫婦がいるでしょう? また息子、娘がいるのではないですか。四系列であり、段階は三段階です。ですから、これを拡大すれば、世界のどこに行こうと、おじいさんやおばあさんの年齢の人がいて、お父さんやお母さんの年齢の人がいて、自分たち夫婦の年齢の人がいて、自分の息子、娘の年齢の人がいます。ですから、家庭において教本のとおりに愛の内容を体験した人は、世界のどこに行こうと何の問題もありません。教本どおりに生きることができるフォームをもっているので、合格者になるのです。このように生きる人は、今後、どこの家に行ったとしても食事を与えてあげなければならず、泊めてあげなければなりません。そのような時が来ます。この教育さえできていればよいのです。

 それは夢のような話ですが、行ってみなさいというのです。先生がうそを言ったのかどうか。その世界に合わせるために話すのです。それゆえに、家庭が絶対基本教本です。家庭で教育されたとおりに生きれば、どこに行こうと国境がなく、遮るものがありません。そのような心情をもっていくようになれば、閉ざされた門も、ふさがれた塀も、「よくいらっしゃいました!」と言ってすべて開くのです。そのような存在に対しては、良い庭や草原があれば、それらまでも「よくいらっしゃいました!」と言うのです。すべて花びらのように開いてあげる気分になるというのです。狂ったことを話していると思うでしょう? その世界のことを思うと、この世で暮らすおもしろみがなくなるのです。

 それゆえに、神様も同様です。もし神様が、「愛の理想はこのように偉大なものなので、あなた方はみな、自分の生命よりも相対を愛しなさい!」と息子、娘に訓示されようとすれば、「あなたはどうだったのですか」と言うでしょう。そのような時、「私がそのようにしたので、あなた方もそのようにしなければならない!」と言うことができなければなりません。神様御自身ができないことを、神様が教育なさることはできないというのです。「私自身が愛に絶対服従する努力をしてきたので、あなた方夫婦も、愛の生命線を越えながらでも絶対従順して助けることができ、『ため』に生きることができる道を歩んでいきなさい!」と言うとき、「はい!」と言うようになれば、天地の道理において、上下・前後・左右の衝突の論理がすべて解消されます。それゆえに神様も、愛には絶対服従されるというのです。

 それで、昼食の時になれば、「ああ、おじいさん! 私はおなかがすいたので、御飯を食べなければなりません。私のお膳を準備してくれないのであれば、分けてください!」と言います。それで、分けてあげれば、「もう一杯下さいませんか。年を取ったおじいさんよりも若い人のほうがもっと食べなくてはいけないでしょう」と言って、向き合って座って食べるのです。自分の孫のような人が向き合って座ったからといって、足でけ飛ばしたりするでしょうか。「やい、こいつ!」と言うでしょうか。そのようにすれば、「この家の家風はこうなのか」と言って問いただすのです。「宗家の家のようですが、孫を育てる時、おじいさんとおばあさんはそのように教育したのですか。若い青年たちが公的な仕事のために苦労し、迫害を受けているので、そこに同調することができるように教育しようと思って私がこのように訪ねてきたのに、同調してはいけないと教育したのですか」と問いただすのです。

 第一は何かというと、復帰です。長子権復帰、父母権復帰、王権復帰です。長子権復帰を成したのち、新しい国の民となり、家庭を中心として、神様の恨となっていた四大教本的教育内容を心情的に体恤しなければなりません。それから、理想世界の体制を中心として家庭的生活環境を国家に適用し、国家の生活環境を世界に適用し、世界の生活環境を天宙に適用し、天宙の生活環境を神様に適用して暮らす人は、どこに行こうと遮られることがありません。天上世界だろうと、地上世界だろうと、どこに行こうと歓迎を受けるのです。(二二五−二二三、一九九二・一・二〇)

 家庭は、あの世に行って完全な合格者となるための一つの教育場所です。家庭の主人は誰でしょうか。家族全員を最も愛する人が主人です。同じことです。今日、この世の中の主人は誰かというと、天国を大きな家庭として見れば、この地上に住んでいるすべての人々を愛する人が主人です。白人たちは、白人だけが一番だと思っているでしょう? 違います。そのようにはなっていません。東洋と西洋がありますが、西洋だけがあって東洋がなければ、西洋がないのと同じです。これは、すべて相対的に結ばれるようになっているのです。(二四七−三一一、一九九三、六・一)

 教育の本堂が家庭だ、ということを知らなければなりません。私が妻と結婚する時、約束したことがそのことです。子供たちの前に涙を見せる父と母にならないようにしようというのです。その子供に何の罪がありますか。罪はありません。いくら悔しく無念であったとしても、朝になってお父さんとお母さんにあいさつに来る子供の声を聞けば、どれほど涙を流していても、扉を開けるや否や涙をぬぐい、きのうと同様の姿勢を取らなければなりません。それで、母となる人は、その子供を優しく抱いて自分にキスをさせ、父にキスをさせることができなければなりません。そのようにすることができる女性たちがいますか、いませんか。

 子供たちは、先に母の懐に来ます。母は、きのうと同じように、ためらうことなく抱いてキスをさせ、父にキスをさせるのです。またそれよりも、父が子供をさっと抱いて、自分がキスすることができる、このような教育が必要です。統一教会の人は、そのようにしますか、しませんか。一生の間どれほど愚かであれば、子供たちの前に涙を見せ、その胸痛む姿、忘れることができない痕跡を残してしまうのかというのです。そのようになる可能性があれば、どれほど悟ったとしても無に帰してしまうのです。(二五一−九八、一九九三・一〇・一七)

 地上にある家庭とは何でしょうか。天国に連れていく民を再創造する工場です。ですから、私たちは、その工場の主人の役割を果たしたのちに霊界に行くのです。そして、正しい道さえしっかりつかんでおけば、息子、娘を教育する必要がありません。自然にそのようになるというのです。自分の神様をすべてもっています。教育は必要ありません。堕落したのでこのようになったのです。堕落して根本が分からなくなったのです。(二五四−二四六、一九九四・二・一三)

 神様の愛が結実する最小単位が家庭です。したがって、家庭は、人間の幸福と理想と生命の基台となるのです。私が生涯を通して家庭の貴重性を教育し、理想家庭のための祝福行事を世界的に主導してきた理由もここに由来します。(二七一−七四、一九九五・八・二二)

 家庭は、最も重要な愛の学校です。子女たちは、家庭圏において父母だけが行うことのできる愛の教育、情緒教育を通して、心情の深さと幅を育てます。これが子女の人格をつくる礎石となります。また、家庭は、子女に美徳と規範を教育する学校です。人は、このような情緒教育と規範教育を受けた土台の上で、知識教育、体育、技術教育を受けなければならないというのが天道です。(二七一−八〇、一九九五・八・二二)

 私たちの家庭は、焦点聖地にいなければなりません。焦点聖地であると同時に世界の中心の位置に立ったので、「焦点聖地の主人は私たちの家庭です! 根源聖地の主人も私たちの家庭です! 勝利聖地の主人も私たちの家庭です!」ということです。誰によってですか。神様と縦横の真の父母の苦労と蕩減復帰された勝利の基盤を継承することによって、私たちの家庭がこのようにならなければなりません。ここからすべての因縁を中心として、家庭と氏族、民族、世界の家庭を教育することによって世界の氏族編成、核編成を始める時、地上に希望の時が訪れてくるというのです! (三〇三−一四〇、一九九九・八・八)


二 子女とは誰か


 皆さん、子女とは何ですか。神様が人をどれほど愛されたかを教育することができるもの、それを教えてあげるためのもの、それを体恤させるためのものが子女です。子女というものは、自分たちを通して創造されました。その子女を通して、神様がアダムとエバを造られてどれほど喜ばれたのかということを知るようになるのです。皆さんが子供を愛するのは、神様が私たちの人類始祖を造って喜ばれたことを体験することです。神様と同じ立場で子女を愛することができる人にならなければならないので、息子、娘を生まなければなりません。

 このことをすべて理解して教育し、正しい道を歩むことができるようにしなければなりません。それを教えてあげる道理が、歴史上において初めて文総裁を通して聞かれました。神様の愛は、一人で受けることはできません。男性と女性が、生命以上の愛によって完全に一つにならなければなりません。生命以上の愛です。生命よりも前に立っているものが愛です。生命以上の愛で一つになることができる立場に、神様の愛が臨まれるようになるのです。(一四二−一一八、一九八六・三・六)

 自分の息子、娘を王子のように、王女のように育てなければなりません。そして、父と母に対して、王や王妃のごとくによく侍らなければなりません。天国の家庭法がそのようになっています。そこに争いがあり得ますか。命令一下で一瀉千里(注:ものごとが一気に進む)です。その家庭全体の背景にある根本思想は、「ために存在する」ということです。そのようにしなければ、平和が訪れてくることはあり得ません。この文総裁の教えは永遠の真理であり、万民はここに身を投じざるを得ません。身を投じて完全な僕になったとしても、そこにしがみついていようとするのです。今までは、自分のために生きようとしてきたのでしょう? これを何によって一八○度ひっくり返してしまうのですか。先生が教育しなければいけません。根本から、根がそのようになっています。(二一八−二六一、一九九一・八・一九)

 子女は、未来の王権を伝授されます。皆さんはまだ結婚していませんが、今後、未来の氏族の前に王孫を育て、大きな国の王として送るために王孫を育てているのだ、という心をもたなければなりません。ですから、生んで教育して育て、出世させることを願うのでしょう? 生まれた時に真の父母となり、真の師となって、真の主人の立場に立てようとすることが、人類のすべての父母と国家が望む願いではないのかというのです。それは同じことです。子女は、未来の王です。(二二一−二三、一九九一・一〇・二〇)

 本来、アダムとエバは、王子と王女でした。神様の恨は何かというと、王子と王女はどのように生きるべきかを教えてあげることができなかったことです。そのように教育することができなかった恨を解かなければなりません。

 アダムとエバは、神様の息子、娘として、神様から王子、王女としての教育を受けることができませんでした。それから、兄弟の教育を受けることができませんでした。兄弟の教育を受けていれば、万民兄弟の因縁を中心として、万天下が一つになるようにできていたのです。神様の兄弟が人類です。そこで長子権の長孫を中心として、兄弟が横的に広がったものが氏族となり、国となって、世界に拡張されていったのです。このように、本来の人間とは、天の王宮において王子圏、皇族圏の心情を体恤して暮らした人々なので、天国に行くのです。天国は、誰もが行くようにはなっていません。

 イエス様は、この地上に来たのちに、なぜ天国に入ることができず楽園に行ったのでしょうか。アダム完成者を代表した立場にいたイエス様は、この地上において、王子の教育と王女の教育を整えて兄弟の因縁を広げることができず、夫婦の因縁を広げることができませんでした。それゆえに、父母の因縁をこの地上で見せてあげることができませんでした。それを蕩減復帰しようとしたのですが、それを果たすことができなかったので、再び来てそれを再現しなくては天国を開門することができないのです。

 それによって再臨時代にこの仕事を再び成さなければならない立場なので、王子、王女として教育することができずに神様が恨を抱かれた教育の道理を、文総裁が代わりに立てて教えているのです。もう皆さんは、何をすべきかということが分かったでしょう? 皆さんは、神様の息子、娘として、王子、王女の心情を体恤しなければなりません。(二二六−一三〇、一九九二・二・二)

 息子、娘は、第三の神様です。第一の神様は自分のおじいさんであり、第二の神様は父母であり、第三の神様は息子、娘です。それで、息子、娘を神様のように愛しなさいというのです。

 エデンの園には、これを教育する方法がありませんでした。しかし、私たちには、これを教育することができる原典があります。テキストブックが出ています。これを見れば、誰もが一目暗影、完全に知ることができます。天国の皇族にならなくては、本然の天国に入っていくことができない、ということをはっきりと知らなければなりません。それを教育することができる本然のテキストブックのような生活環境圏の舞台が私たちの家庭です。(二三六−一四九、一九九二・一一・四)

 家庭が根です。家庭が根なのです。国が根ではありません。今日、世界的な問題は何かというと、家庭が問題です。家庭問題に重なって国家問題です。家庭問題が先に解決されれば、国家問題はきれいに解決されます。「家庭」と言えば、おじいさんとおばあさん、お父さんとお母さん、自分たち夫婦、息子、娘です。系列にすれば四系列であり、段階は三段階です。国家の手本となり、天地に認定されざるを得ず、公認されざるを得ない母体であり、定着地であり、「希望の基地だ」と言うことができる場所が家庭です。なぜ家庭が基地なのでしょうか。愛が定着する場所だからです。(二四〇−二八一、一九九二・一二・一三)


三 家庭と子女教育の重要性


 本然のエデンを探し求めていく皆さんは、今後どのように生活しなければならないのでしょうか。イエス様を模範としなければなりません。イエス様を模範として、宇宙的、天的な幸福の要素を探し出して神様の前に実体で栄光を現すと同時に、皆さんがとどまるすべての場所において、神様の幸福と愛と生命と栄光を紹介し得る真の人とならなければならず、多くの人々をして神様に感謝を捧げるように教育し得る皆さんとならなければなりません。(二−二五一、一九五七・六・九)

 人は、誰もが素晴らしい息子をもちたいと思います。それでは、素晴らしい人に育てるためには、どのように教育しなければならないのでしょうか。ある人は、幼稚園から大学まで学校がたくさんあるので、「そこで教育すればよい」と言うかもしれません。しかし、教育は、一生の間しなければなりません。精誠を尽くさなければなりません。父母が精誠を尽くして育てた子供に家門を任せる時、すなわちその代身者として立てる時は、父母の心と一致させ、その父母の因縁に従わせながら代身者として立てるのが常例です。(二四−二五六、一九六九・八、二四)

 自分の息子、娘を教育する時に、父と母だけを愛する息子、娘になりなさいと教えてはいけません。「私は、この国を愛する忠臣だ。愛国者だ。母としての愛国者ではなく、愛国者としての母、忠臣としての父だ」と教育しなければなりません。(二六−二九五、一九六九・一一・一〇)

 「み旨よ! 成就されますように」。そのために皆さんは、神様をお迎えしなければなりません。神様を皆さんの心にお迎えしなければならないというのです。神様を心にお迎えして、子女たちを正しく教育しなければなりません。責任をもっている人は、適当にしようとしてはいけません。そのようなものが父母です。

 それでは、四位基台は誰が復帰するのでしょうか。皆さん各自が復帰しなければなりません。私がしなければならないというのです。私自身が神様と一致し、また息子、娘と一致しなければなりません。霊の息子、娘を探し出して教育し、死の道を代わりに行くことができる信仰の息子、娘として立てておかなければなりません。そのようにして初めて一つの完全な安息の基盤がつくられるのです。自分一代においてこの基準さえ決定しておけば、偉大なところに行くことができます。(二八−八四、一九七〇・一・四)

 父母が、自分の息子、娘を中心として、「あなたと私は、離れてはいけない」と教育すれば、その家庭は滅びます。しかし、その社会、その国と離れることができないように教育する家庭は繁栄します。「私が卑しい仕事をしているので、子供であるあなたも卑しい仕事をしなければならない」、「私が商売人なので、あなたも商売人になりなさい」。このような教育をすれば滅びるのです。

 父母ならば、誰もが子供に、「あなたは国のために、国の偉大な人物とならなければならない」と教えます。今は、世界が私たちの目の前に迫ってきている時代です。「あなたは国家的人物となりなさい」と教える時代は、既に過ぎ去りました。今からは、「あなたは世界的な人物にならなければならない」と、このような教育をしなければなりません。世界と共に生きなさい! 皆さんの心理がどのようになっているのかを私は知っているので、このように結論づけて話すのです。(二八−一九二、一九七〇・一・一一)

 今後育っていく息子、娘に、どのように父母の思想を伝統的に植えつけるのでしょうか。これが問題です。神様におかれては、復帰摂理のために六千年間苦労されながら、サタン的な世界から神様の子女たちをどのようにして引き抜いてくるのかということが問題となるのですが、それと同じように、皆さんにおいては、サタン的な世界でどのように息子、娘たちを教育するのかということが問題です。皆さんは、このような二重の十字架を甘受しなければなりません。(二九−二七一、一九七〇・三・一一)

 最高の公的な生活は、天宙のために働くことです。私たち統一教会は、天地主義ではなく、天宙主義です。天宙の「宙」は、「家」という意味です。天宙主義は、人が主人ではなく、家、すなわち家庭が主人です。国家形成の起源も、人ではなく家庭です。家庭がなければ世界が形成されません。家庭が誤った方向に行けば、その国は滅びます。ですから、家庭教育は、今後その国が福を受けることができるかどうか、という運命を左右するものです。国のための公的な法理に基づいて暮らしている家庭が多ければ多いほど、その国は繁栄するのであり、私的な基準で暮らす家庭が多ければ多いほど、その国は滅びていくのです。(三一−二四二、一九七〇・六・四)

 一つの国を探し立てるためには、一個人から出発しなければなりません。ですから、どれほど大切に思ってその一個人に対さなければならないでしょうか。また、そのような個人が家庭を成せば、その家庭は国を代理し、世界を代理する家庭なので、その家庭をどれほど大切に愛し、貴い立場でどれほど一つになっていかなければならないでしょうか。今から私たちは、愛する息子、娘を中心として、この世の中において、サタンから分立した新しい氏族を創設しなければなりません。父母の立場で天情の因縁を鼓吹するために努力する家庭を築かなければなりません。そのためには、あらゆる力を尽くし、あらゆる精誠を尽くして、愛して教育する生活をしなければなりません。

 教育的な面から見れば、私が生きているのは、息子、娘の行くべき道を教えてあげ、息子、娘の幸福の基盤をつくるためであり、国と民族の福地の基盤をつくるためです。そのような立場で生きるならば、そのようなものこそ、新しい世界の起源となる厳粛かつ高貴なものです。これを、天宙に存在するいかなるものよりも貴く思うことができる立場に立ってこそ、神様の息子、娘としての責任が始まるのです。これは、どれほど素晴らしい生活でしょうか。(三四―六一、一九七〇・八・二九)

 皆さんは、息子、娘を教育する時、「私の愛する息子、娘たちよ! あなた方は、父母の前に負債を負ってはならない。父母に負債を負わないだけでなく、あなた方の兄弟にも負債を負わず、あなた方の隣人にも負債を負ってはならない」と教えることができる教訓の材料を自らもたなければなりません。「私は、一生を通して、負債を負わないように千辛万苦の努力をして、このように手が曲がってしまい、この指が馬の皮のようになってしまった」と教育しなければなりません。「この手は、村のために生き、他のために生きてこのようになったのだ」と……。それを見て「お父さん! その手はみっともないです」と言う息子がいるとすれば、そのような息子は罰を受けます。(八五−一三四、一九七六・三・二)

 父母は、どのようにしなければならないのでしょうか。兄弟同士愛することを教えてあげ、父と母を愛することを教えてあげると同時に、「私は、あなた方を愛するのと同じように国も愛しているので、あなた方も、国をこのように愛さなければならない」と教育しなければなりません。そのように教えてあげることさえできれば、一度に「あ!!」と言って分かるというのです。ほかの教育は必要ありません。「そうか、そうか、私たちのお父さんもそのように生き、私もそのように生き、私たちの家庭がそのように生きるので、アメリカの家庭がすべてそのように生き、大統領がそのように生き、アメリカの国民がそのように生きるのだなあ。我が家のように、世界的、国家的な基盤を成すことが、この国のための愛国なのだなあ」ということが一度に分かるようになっているのです。

 そのようになれば大統領が、「さあ、今から、我が国民は一つとなって、この怨讐をやっつけよう」と言えば、「わ!!」と言って一つとなり、いかなるものでもやっつけることができるようになるのです。大統領の言葉を父の命令よりも高い命令だと思うのです。自分の父母のために生きることよりも大きいと教えなければなりません。それゆえに、「あなたと私は、国に困難なことがあれば、国に忠誠を誓い、国に愛国を果たすために、あなたと私が共に死の道を行かなければならない」と教育しなければなりません。(九五−四九、一九七七・一〇・二三)

 子供を生んで育ててみることによって、その家庭を通して愛することを経験し、すべての人を愛することができるようになるのです。幼い子供から年を取った人々まで、男性はすべての女性を、女性はすべての男性を、そのようにお互いに愛することができるこのような因縁の世界が、より希望ある理想郷に近い世界なのではないでしょうか。ですから、家庭というものは何でしょうか。理想世界を紹介するための教育の場です。(一〇九−二八七、一九八〇・一一・二)

 息子、娘を生んで息子、娘のために生きるのは、世界を愛することを学ぶためです。息子、娘は、世界と連結され、未来と連結されています。息子、娘がいなければ、未来と連結されないのです。未来の世界と連結することができる教育の材料として息子、娘を与えた、ということを知らなければなりません。その次には先祖たちです。おじいさんとおばあさんがいるのは、霊界に対する教育のためです。おじいさんとおばあさんの前に孝行の道を歩めば……。霊界にそのシステムができています。霊界に対する教育を受けるためです。

 どれほど波が打ちつけようと、壊れることのない堤防をつくっておかなければならず、どれほど風が吹きつけようと、壊れることのない泰山をつくっておかなければなりません。そのような教育雑誌(「インサイト」、「ワールド・アンド・アイ」)をもって、世界をリードしなければなりません。そのようにしなければ、世界は滅びます。それで、世界の学者たち、「PWPA」(世界平和教授アカデミー)という世界的組織をレバレンド・ムーンがもっているのです。

 それでは、神様とはどのようなお方でしょうか。愛を中心として、僕になりながら人類を抱いてこられたお方です。人類はこれを知らないので、神様が教えてくださるのです。堕落したがゆえに、絶えずサタンが滅ぼそうとするので、新しい教育システムをつくって、神様御自身が教えてくださるのです。教えてくださるにおいては、何をもって教えてくださるのでしょうか。神様の愛を中心として教えていかなければならないのです。(一三五−一二〇、一九八五・一〇・四)

 人間にとって、誇りたいと思うこととは何でしょうか。息子として生まれれば、誰を誇らなければなりませんか。父を誇らなければなりません。その次には、兄弟を誇らなければなりません。これは、直接的な問題です。社会教育がある前に、国家的教育がある前に、家庭教育がなければなりません。家庭教育がある前に、個人教育がなければなりません。

 個人教育の中で、最初に植えつけるものとは何でしょうか。知識ではありません。父と母は「勉強だ」と言ってはいけないというのです。権力ではありません。お金ではありません。歴史を動かし世界を動かし得るもの、お金で買うことができない偉大なものとは何でしょうか。真の愛です。真の愛に絶対心服することができる王子とならなければなりません。王女とならなければなりません。真の愛の前では、僕になるほど、奴隷になるほど楽しいというのです。(一七五−一七、一九八八・四・一〇)

 息子、娘の特権とは何でしょうか。父と母と息子、娘では、誰が一番偉いですか。もちろん父が偉いでしょう。母と息子を見れば、どちらが偉いでしょうか。このような問題が、今後家庭教育において世界史的な問題となるでしょう。東洋の法では、父と息子が国家を論じ、天地の機密を論議するようになる時は、母は出ていかなければなりません。「出ていなさい」と言えば、どれほど気分が悪いでしょうか。東洋思想ではそのようになっています。「出ていなさい」と言って息子と……。

 そのような時、なぜ母がデモをしませんか。なぜでしょうか。母は畑です。父は種であり、種に連結したものは、母ではなく父だというのです。ですから、種同士で会って話し合おうという時に、畑がそこに入っていいのですか。天地の道理がそのようになっているので、東洋思想から見るとき、「出ていなさい」というのが元亨利貞(注:事物の根本原理)なのです。(一七七−三二四、一九八八・五・二二)

 父と母は、兄弟たちに全く同じように接してあげることを好みます。父母は、みなそうです。兄弟を憎むことは、母を憎むことよりももっと大きな罪だ、このような結論が出てきます。アメリカの家庭はそうですか。このような話は、初めて聞くでしょう? これが家庭教育における第一条です。これが読本です。(一八四−六〇、一九八八・一一・一三)

 天国の起源は、家庭です。真の愛を中心として、家庭を転換しなければなりません。それゆえに、家庭の中でも、二世である青少年が活動しなければなりません。青少年たちがすべて破壊されてしまいました。青少年たちが麻薬の巣窟に追いやられ、悪魔の矢に当たってフリーセックスが横行してしまいました。ですから、青少年たちが部落ごとに団結して、その村に乱暴者の群れがいれば、全員が一つとなって警察と共に除去運動を行うのです。その村に悪事を働く群れが現れれば、二世たちが責任をもち、父と母と一つとなって彼らを追い出し、またその部落で教育することができる、そのような時代に越えていくことによって、私たちの家庭は希望的な家庭になるのです。そのようにして、平和の王宮的基台を自分の家庭から世界版図まで拡張することのできる理念的世界が展開していくのですが、それを迎える準備をする人が、知恵ある国民であり、今後、福を受ける国民となるのです! (二〇八−二九九、一九九〇・一一・一〇)

 おじいさんとおばあさん、父と母、自分たち夫婦、息子、娘、これを東西南北に拡大したものが宇宙です。家庭は、すべての愛を統一した一つの理想的モデルなので、教科書と同じです。ここに適用するすべての愛の理念を世の中に拡大させなければなりません。自分のおじいさんのような年齢の人の前では、人種を超越して自分のおじいさんやおばあさんのように尊敬することができなければならず、全世界にいる自分の父や母の年齢の人に対しても、愛を中心として、家庭で自分の父と母を愛するように、その愛を延長した愛で愛することができなければなりません。そのような人が、天国を所有し得る人となります。この天下全体、天国の版図を受け継ぐことができる者となるのです。

 また、男性と女性がお互いに愛し合うように、世の中の男性と女性を愛する心を世界的に平準化させ、子女たちの年齢の愛を世界的に標準化させなければなりません。そのようにして、家庭が一つの教科書となったその教育方法を世界全体の前に正しく適用することができる人は、世界の中心であられる神様の愛の王子、王女となるのです。(二〇九−二三二、一九九〇・一一・二九)

 皆さんは、先生のおかげで、みな天国の民になったでしょう? 同じことです。皆さんの息子、娘が天国の民になることができるようにするためには、自分が死んだとしても、天国に連れていって暮らすことができる息子、娘として教育しておかなければなりません。それが皆さんの財産です。それをシステムにして、皆さんの息子、娘を教育しなければなりません。そのようにしてこそ、彼らが一つのところに行くのです。(二一五−一八二、一九九一・二・一七)

 自分の家庭でおじいさんとおばあさんに侍るのと同じように、万国でそのように生きることができる侍る心情をもっている人は、天国に入っていくにおいて、その道がふさがれることはありません。教科書とは、万国の統一的教育基盤、行動的な統一のために必要なものと同じです。年を取った人を見れば、自分のおじいさんやおばあさんのように思いなさいというのです。昼食の時になって食堂に入っていくのに、お金がなくて困っている姿を見れば、一緒に連れていって、自分のおじいさんやおばあさんのようによくもてなしてあげなさいというのです。そのようにすれば、そのおじいさんやおばあさんは、自分よりも長生きするのです。負債を負ったので、返さなければなりません。ですから、「ため」に生きれば福を受けるようになり、創造の実績が損害を受けることはありません。愛を中心として投入するところには、損害が発生する道理はないのです! (二一五−一〇九、一九九一・二・六)

 縦的基準から見るとき、おじいさんは最初の神様の立場を代理し、二番目のアダムとエバは父を代理し、私は未来の王子を代理するので、この家庭に横的に現れたおじいさんを神様の代理として侍らなければなりません。これが家庭教育の原論です。(二二一−二一四、一九九一・一〇・二四)

 家庭において厳格にしなければなりません。厳格にしなければなりません。どのような制裁を与えようと、サタン世界に染まらないように父母たちが責任をもって管理し、教育しなければならない時代だということを知らなければなりません。ですから、アメリカに従っていけば、すべて滅びます。フリーセックス、性の解放、ホモセクシュアル、レズビアン、このようなものがアメリカにどれほど多いでしょうか。これは悪魔の計略です。悪魔の版図を全体、全般、全権の行使によって展示しているのです。最後です。ここで一八〇度反対の方向に転換しなければならないので、天国は、この正反対の道を行くのです。ですから先生は、この世界の反対を受けるようになっているのです。(二四八−七八、一九九三・七・一)

 男性の特権は何かというと、生殖器をもったということです。皆さんは、生殖器をもっているでしょう? どのような生殖器ですか。神様と同じ生殖器、真のお父様と同じ生殖器です。いい加減には使いません。主人を知らない、そのような生殖器になってはいけません。女性も同じです。神様と同じ、お母様と同じそのような生殖器をもちました。それが今から伝統です。ほかの教育はあとからいくらでも補充することができますが、これは結婚する前に教えなければなりません。家庭教育がどれほど重要かということを知らなければなりません。(二六三−一二五、一九九四・八・二)

 父母としての最高の教育は、「孝子の道だ」と言うことではなく、「忠臣になりなさい」と言うことではなく、「聖人になりなさい」と言うことではなく、「聖子になってほしい」と言うことです。「私たちが暮らすことのできる理想の国において、その国の民を中心として、王宮の伝統礼法を守ることができる聖子の道理を全うしてくれ」と言うことが、父母としての最高の教育です。地上から天地の前に行くことができる最高の道を教えなければなりません。(二六七−一九三、一九九五・一・八)

 おじいさんは天国の特権大使、父母は現世の世界の大王陛下、自分は天国の王子であり、地上の王子です。それで、おじいさんは、孫と孫娘を自分の子供よりも愛します。先生がおじいさんになってみると、本当にそうでした。自分が教育的な基盤をつくって自分の学校に送らなければならないのですが、そのような基盤をつくることができない時は、おじいさんの使命を果たすことができなかったということです。二重三重の責任を追及するのが、孫と孫娘です。孫と孫娘は、地上天国と天上天国を再創造するための出発の父母とならなければなりませんでした。ですから、孫と孫娘がそのような立場に立つことができるように使命を全うするおじいさんとなり、先祖とならなければなりません。(二九五−二四三、一九九八、八・二八)


四 祝福家庭の父母の責任と姿勢


 祝福家庭も、夫が誤った時には妻が激しく打たなければならず、妻が誤った時は、夫が激しく打たなければなりません。そのようにすれば、その家庭は、神様の福を受けます。打たれることは、後世の教訓となり得る材料となります。打たれることがなければこのように誤るところだったのに、その恩徳によって良くなれば、打たれて涙を流したその環境が、結局は後世を教育することができる教本として残されるのです。このような教本を残して死ぬ人は、賢い人です。(二八−三五、一九七〇・一・一)

 今後、私は、世界と共に生きることができる教育を皆さんにしようと思います。歴史は、何を探し求めてきたのでしょうか。世界と共に生きることができる、その時を探し求めてきたのです。皆さんも、その時を中心として歩み、闘い、努力し、教えて、死ななければなりません。結局、その立場においても死ぬには死ぬのですが、そのようにすれば再び新しく復活するのです。(二八−三〇七、一九七〇・一・一一)

 父母たちが、み旨の生活において模範とならなければなりません。家庭における祈祷生活や家庭礼拝など、またいかなる面においても、既成教会に負けない信仰生活を子女たちに見せなければなりません。また、敬拝時間がどれほど重要かということを認識させてあげなければなりません。その時間には敬礼式だけで終えるのではなく、み旨を中心として、父母として子女たちを教育しなければなりません。

 子女を教育するためには、まず父母が実践しなければなりません。父母が模範となって、み旨の前に忠誠を果たさなければなりません。そのようにして、父母がどのようなことを言っても、子女たちが一言半句も口答えせずに、父母を畏敬する立場に立たなければなりません。そのようにしなければ、子女たちが従っていかないというのです。

 公式的に礼拝を捧げる聖日になれば、礼拝時間に合わせるために早朝から精誠を尽くし、その日を神様の前に捧げるのです。そのように生活化することを子女たちに教育しなければならないのですが、自分たちがすることをすべてして……。「み旨の生活をしている」と言いながらも、祈祷をしているのでしょうか、精誠を尽くしているのでしょうか、原理の勉強をしているのでしょうか、伝道をしているのでしょうか。何もしないで、聖日の礼拝時間が十時三十分ならば十時三十分、その時間に合うように参加するためには、九時三十分か十時には出発しなければならないのですが、礼拝時間になってから家を出発し、礼拝中に入ってきてこっそり座るというのです。このようになれば、必ず批判を受けます。いくら父母の立場で子女を教育したところで、受け入れられません。

 皆さんは、その洞ならば洞内のある班に所属して暮らしているはずです。そこで皆さんが生活するにおいて、その班全体をみ旨の前に吸収するためにどれほど努力したのかということが、子女教育に大変な影響を及ぼします。み旨を中心として生活したのちの生活的違い、すなわち洞内でどれくらい模範的な生活をし、対人関係においてどれくらい模範的な関係を結んだのかということが、子女たちの批判対象とならざるを得ません。したがって、公的な生活を強固に行わなければなりません。(三一−二六八、一九七〇・六・四)

 子供たちが昔見ていた父母と、現在見ている父母に何の違いもなければ、その父母は、子女たちを教育することができません。したがって、過去とは隔絶して変わらなければなりません。家庭生活やその洞内での対人関係において、このようなことが問題とならざるを得ません。子供は、自分なりに、「み旨を中心として歩む人はこうでなければならない」という観念をもって父母を見つめ、点をつけているというのです。(三一−二七〇、一九七〇・六・四)

 皆さんは、自分の息子、娘に影響を及ぼすことができる父母にならなければなりません。これが第一の使命です。そのようになろうとすれば、教会生活や公的生活を徹底的にしなければならず、私的生活において模範とならなければなりません。これは、今後子女としてみ旨の道を歩ませる教育をするにおいて、絶対的に必要です。(三一−二七六、一九七〇・六・四)

 夫は、息子、娘たちに教育しなければなりません。「あなたのお母さんは、世界で一つしかない神聖な仕事のために行ったのだ。このお父さんも、お母さんが行く道に従っていかなければならず、あなたも、父と母が行く道に従っていかなければならない」と、涙を流しながら教育しなければなりません。

 「お母さんは、国のために、世界のために苦労する道を行くのだ。冷たい風が吹いてくるこの冬の晩にも、お母さんは冷たい部屋で横になっているかもしれないのだから、私たちがこのように暖かい部屋で布団を掛けて寝ることを申し訳なく思わなければならない。お母さんがあのようにするのは、私たちの面倒を見て、私たちの行くべき道を築いてくれるためであり、お父さんが成功し、あなた方が成功するためなのだ。そのようなあなた方のお母さんは、世界にいない母親だ」と、夫は子女たちを教育しなければなりません。「この次には、お父さんもその道を行かなければならないが、あなたも大きくなれば、お母さんが行く道を受け継いで共に行こう」と言いながら、母を中心として、父子間に涙の因縁を結ばなければなりません。そのようにしてこそ、その家庭は、母の道を受け継ぐことができる家庭となるのです。(三八−二九二、一九七一・一・八)

 今は、皆さんがこの民族に新しい家庭的思想を吹き込んであげなければならない時なので、昼も夜も、ほかのことを考えてはいけません。会いたいと思って夫を考え、子供を考えながら涙を流してはいけません。涙を流したとしても、世界のために流し、神様のために流さなければなりません。神様を愛し、世界を愛した女性を真なる母として立てることができず、神様を愛し、世界を愛した男性を真なる父として立てることができなかったことが堕落の恨ではありませんか。それゆえに、皆さんも、夫が自分を「愛する」と言えば、「国のために、世界のために神様を愛してから私を愛しなさい」と言わなければなりません。「神様だろうと、氏族だろうとすべてほうり出して、私だけを愛してください」と言ってはいけません。そのような妻は絶対に愛してはいけないというのです。今まで、そのような女性がたくさんいたでしょう? 「神様のみ旨が何だというのですか。私と気が合えばよいのではないですか」と言う女性たちは、絶対に愛してはいけないというのです。男性たち、分かりましたか。それが先生の思想です。先生も、今までお母様に対して教育してきたことがそのことです。(三八−二九三、一九七一・一・八)

 皆さんが夫の行く道を教育するのです。エバは、夫に対する教育を誤ったので滅びるようになったのです。エバは、愛の道理と愛の因縁を中心とした生活舞台をサタンに売ってしまいましたが、今日、皆さんは、夫が行くべき正義の道理を立てなければなりません。女性が立てなければならないのです。それから、息子、娘を教育する正義の教育資料をつくらなければなりません。それゆえに、夫は、子供を懐に抱いて子守歌を歌うことができなければなりません。「坊や、坊や、あなたのお母さんは、世界で最も素晴らしいお母さんだ。天国の仙女よりも素晴らしいのだ。我が国の大統領の夫人よりも、アメリカの大統領の夫人よりも、イギリスの女王よりももっと素晴らしい、神様の愛するお姫様なのだ」と歌いながら、褒めたたえなければなりません。そのようにしながら、「そのようなお母さんを迎えることがお父さんの望みだ。あなた方も、そのようなお母さんを見ることを願うだろう?」と言って教育しなければなりません。

 「あなたのお母さんは、国のために、天地のために祭物となった立場で苦労しているので、お父さんも、そのお母さんのためにこのように朝晩祈祷している。あなた方は、そのようなお母さんを慕わしく思わなければならない」と言いながら、涙を流して教育しなければなりません。天下にいない貴い母だと教育しなければならないというのです。ここにおいて正しい教育が成し遂げられるのです。正しい夫も、ここから出てくるのです。(三九−一〇九、一九七一・一・一〇)

 皆さんは、息子、娘を愛しているでしょう? 子供たちを愛しているでしょう? 子供は、父と母が歩むとおりに歩むのです。それゆえに、皆さんの家庭に神様をお迎えして侍らなければなりません。子供に、「父は、祈祷する父だ」と教育しなければなりません。神様のために生きる父、他のために苦労する父だということを教えなければなりません。そのようにして、子供がひそかに自分を尊敬し、自分を立派だと思うことができる基盤を築いて奉仕しなければなりません。

 「私たちの父は、過去にこのような苦労をされた。私を育て、教育するためにこのような受難の道を歩んでこられた」。このように、父の背後を探るようになるときに悲惨で困難な事情が多ければ多いほど、それが子供を不幸にするのではなく、子供が孝行の道へと方向を転換させることができる鍵の役割を果たすのです。このようなことを私たちは多く感じることができます。自分のための涙が途切れない父母の背後を知っている子供は、父母の前に不孝をすることができません。(四八−七四、一九七万九・五)

 本部の責任と使命は重いのです。一度何かのうわさが立てば、それが全世界に波及していきます。ですから本部は、皆さん一身だけに影響を及ぼすのではなく、先生と直結しています。今、本部に出入りする人たちは、そのように名の知られた人たちではありません。今からは、早朝に出てきて皆さんに話をすることができる時も過ぎていきます。先生は、その時間に天の前に一人で祈祷し、私の家庭の子供に対する教育を少ししなければなりません。何のことか分かりますか。

 父であっても、早朝に起きて子供たちに対して教育することもできずにいます。だからといって、皆さんが教育をしてくれますか。今からは、家庭の子供たちも物心がつくので、教育をしなければならないというのです。

 今はもう、皆さんのために精誠を尽くすこと、皆さんに対して私がなすべき責任は、ほとんど果たしました。一九七二年まで、遅くとも一九七四年までです。第二次七年路程さえ過ぎれば……。そうすれば、教会に対する責任は、いったん終わるものと考えています。代わって、私たちの家庭にいる子供たちに対する教育を正しく行わなければならないというのが先生の考えです。そこに異議がありますか。

 そのようにしようとすれば、皆さんが教材となって模範となることができるように、よく垣根をつくってあげなければなりません。皆さんの問題が世界的な問題となるのを見れば、先生の直系の子女が世界的な問題となります。そのような問題があるので、原理的基準における行く道が変わるというのです。

 このようなことを中心として見るとき、今後この本部には、先生がいれば、誰でも入ってくることができるのではありません。祝福を受けた家庭でなければ来ることができないようになるのです。人々を特別教育しなければなりません。特別教育しなければならない時が来るのです。一般教育ではありません。それゆえに、教会にも、蘇生教会、長成教会、完成教会があります。そのような時が来るというのです。現在、そのような立場に立っている本部に出入りする皆さんの一切の行動は、外国人や他の道の人々、ほかの人々には、本部を代表したものとして現れるようになっているのです。背景がそのようになっているので、本部にいる皆さんの責任と使命が重要だということを感じなければなりません。(五一−二八二、一九七一・一一・二八)

 「メシヤが必要とする夫婦となり、メシヤが必要とする子供を生みなさい。国の伝統をもった国の息子となりなさい。主権者の伝統に従いなさい」。それを成し遂げる教育を行うことができる父母とならなければなりません。愛する者とならなければなりません。愛するにおいても、「かわいい、かわいい」と言う一方的なものであってはいけません。「あー、神様は、数千年間の復帰路程を通して、愛を受けることができる男女を、どれほど首を長くして待ってこられたことか」と言わなければなりません。そのような心情をもった愛する子女がいて、国があってこそ、世界が生まれると考えるのです。

 したがって、寝る時も、正しく寝なければなりません。そのように考えて教育するのです。そして、死ぬ時に遺言をする父母ではなく、生きている時に教える父母とならなければなりません。子供たちに、「よく教えてくださった」と言われて感謝されながら死んでいく父母とならなければなりません。遺言する時に忙しくて、「あー、これこれこのようにしてはいけない」と言う父母になってはいけません。秘密を共に知って分かち合い、共に成し遂げた実績を見つめながら、「もっとよくやってくれ」と言って、喜びながら死んでいくのが統一教会の父母なのです。したがって、メシヤが必要とする夫婦とならなければなりません。そして、家庭をつくって子供をつくり、氏族をつくって純潔な血統を今から残さなければなりません。数千年歴史において、神様は、血統転換のために数多くの犠牲者を残されました。

 メシヤに必要な家庭をつくらなければなりません。善良で純潔な、神様から受け継いだ伝統を継続させる氏族が、世界を支配する主体的な氏族となるのです。それを中心として祈祷するので、子供に関心をもたなくてはいけません。父母は、朝夕に、子供に対して関心をもたなければなりません。関心をもち、「ため」に生きようとするその真の心に対して子供たちが感服し、その立場を受け入れる環境において教育しなければなりません。(五五−八七、一九七二・四、二三)

 皆さんは、息子、娘の前に、このように生きなければならない、という伝統を残さなければなりません。皆さんが、このように各国に行って苦労しながら闘って暮らすことは、今後、皆さんが子孫の前に伝統を残すためであり、「私は、このように困難な中で働いたのだ」と言って子供たちに教育することができ、遺言を残すことができる伝統的な資料を収拾する、一度しかない素晴らしい期間だということを知らなければなりません。それゆえに、伝統が問題です。これは変更することができません。永遠の伝統です。(七一−一九、一九七四二子二四)

 父母は、神様を代理した父母にならなければなりません。その父母は、子女たちに教育しながら、「おい、私の息子、娘よ! あなた方は、私を愛する以上に、あなた方の兄弟を愛し、あなた方の隣人と国と世界を愛することができるようにしなさい」と言わなければなりません。このように教育する人であってこそ、父母の中の真なる父母としての資格をもつことができるのです。なぜでしょうか。そのようにしてこそ、自分の息子、娘たちと自分の家が、善の中心としてもっと大きく善なる立場に発展していくからです。(九五−一五二、一九七七・一一・一一)

 この世で、人間として回生の間生きながら残さなければならないことがあるとすれば、それは三つしかありません。一つは原理の道です。原理の道のとおりに歩んだという事実です。み旨のとおりに生きたという事実です。その次には、良い子孫を残していくことです。その次には、この地上に生きる時に、その子孫たちを世の中の立派な人材として育てること、教育することです。このような三大責任があるということを知らなければなりません。(一〇一−二〇〇、一九七八・一〇・三〇)

 先生は、「三十六家庭」を人類の長子のように愛しました。間違いなく愛したというのです。骨髄がすべて溶けるほど、肉がすべて溶けるほど、全員を愛したというのです。ですから皆さんは、天使長の立場に立って、先生の息子、娘を教育することができなければなりません。皆さんが教育しなければなりません。私が教育するのではありません。誰がアダムを教育しなければならないのですか。神様が教育するのではありません。天使長たちが教育しなければなりません。保護、育成しなければなりません。結婚する時まで、大切に、傷つくことがないように指導し、教育すべき責任が天使長にあったのです。統一教会もその原則に従わなければ、蕩減復帰の完成が出てこないので、今日、統一教会の「三十六家庭」を立てて、私の息子よりももっと愛したというのです。(一二一−二四〇、一九八二・一〇・二七)

 本来、先生の息子、娘は、誰が教育しなければなりませんか。アダムとエバは、誰が教育しなければなりませんか。先生がするのではなく、神様がするのでもありません。天使長がしなければなりません。原理結果主管圏内において、誰が教育しなければならないのかというと、天使がしなければなりません。三大天使が保護しなければならないのです。先生の息子、娘を誰が保護しなければならないのでしょうか。先生が教育するようにはなっていません。「三十六家庭」が教育しなければならなかったのです。私は、原理のとおりに歩みます。誰が子供を愛するのでしょうか。天使が愛し、アダムが愛さなければなりません。そのようにしなければならないのではないですか。

 したがって、先生の息子、娘は、皆さんの生死の問題にかかっています。それは、先生の言葉ではなく原理がそのようになっています。先生が立てた本然の家庭の伝統を受け継ぐことができる息子、娘とは誰でしょうか。誰がその伝統を受け継ぐのかという問題が大きいのです。彼らも同様です。今まで、先生が教えてあげた家庭における秩序、神様の愛を中心として、世界の愛と天宙の愛が連結することができる家庭的愛の圏を形成しなければならない責任は同様だというのです。それを皆さんが教育しなければなりません。(二一三−一九八、一九九一・一二〇)

 本来、アダムとエバは誰が教育しなければならないのかというと、天使が教育しなければなりません。神様が教育するよりも、成人する時までは天使が保護し育成するのです。それと同様に、霊の息子、娘は、その霊の父母が天に帰っていく立場に立つことができるように、すべて協助してあげなければなりません。その霊の息子、娘の協助を受けて天の前に祝福されて越えていくときに、霊の父母を協助したという条件によって、それに従って越えていくというのです。そのようにすることによって、天使世界の三天使が復帰されるのであり、アダムの三人の息子が復帰されるのであり、ノア家庭の三人の息子が復帰されるのであり、三段階の全体を代表した立場で越えていく条件が成立するのです。(一二七−五一、一九八三・五・三)

 三人の霊の息子、娘、先生の前における「三十六家庭」を代表した「三家庭」が責任を果たしたのでしょうか。十分には果たすことができませんでした。それでは、「三十六家庭」が責任を果たしたでしょうか。果たすことができなかったというのです。アダムとエバを天使長が教育するのと同じように、先生の息子、娘は、この「三家庭」と「三十六家庭」が教育するのが原則です。どのようなことをしてでも、結婚する時までに、どのように神様に仕え、どのように侍らなければならないのかということを教育しなければならないのです。アダムとエバを誰が教育するのでしょうか。天使長が教育するのです。

 本来、神様との愛の因縁をどこで結ぶのかというと、成熟期から結ぶのが原則です。それゆえに、先生の息子、娘たちも、祝福を受けるためには、真の御父母様を絶対的に信奉しなければならず、神様を絶対的に信奉しながら、天使長である「三家庭」と「三十六家庭」の教育を正しく受け入れて成熟し、結婚する時までは、ほかのことを考えてはいけないというのです。これが原則です。(一二八−一一〇、一九八三・六・五)

 私たち統一教会の食口は、自らの威信と威厳を忘れてはいけません。教育しなければなりません。町の子供たちを集めて教育し……。先生は、二十四時間教育します。二十四時間教育するので、人と会いさえすれば教育するのです。勝共連合運動、ホーム・チャーチなどを通して教育しなければなりません。アカデミーは、「統一思想」を教育するのです。教会は「統一原理」を講義し、勝共連合は「勝共理論」を講義し、今後アカデミーは「統一思想」を講義し……。哲学博士たちがそれをしなければなりません。そのようにすれば、すべて終わるのです。(一四八−三三、一九八六・一〇・五)

 統一教会の教育の中心とは何でしょうか。汗は地のために、涙は人類のために、血は天のためにです! 父母の心情、僕の体で、汗は地のために、涙は人類のために、血は天のためにです!そうです。そのようにしましたか。先生はどうですか。皆さんにそのようなことを発表する前に、先に先生はその道をすべて歩みました。すべて歩んでから、それを教えてあげたのです。

 それゆえに、皆さんは、今から家庭に入っていってどのようにしなければならないのでしょうか。先生が一代だとすれば、皆さんは二代です。皆さんが考えるべきことは、真の御父母様を中心とした真の夫婦、真の息子、娘にならなければならないということです。皆さんの後世を誤って教育すれば、皆さんの行くべき道をすべて台無しにします。神様の前に三世をもつことができなかった歴史的な汚点を残して恨多き蕩減の時代、血と涙と汗を流しながら復帰の道を歩んできたのと同じように、皆さんが息子、娘を誤って育てるようになる時は、皆さんの一家が引っ掛かっていくのです。(二一三−九八、一九九一・一・二〇)

 家庭で子女たちと一つになることができなければ、問題が大きいのです。祝福家庭は、自分の息子、娘たちの教育を正しく行わなければなりません。そして、自分の一家親族、姻戚の八親等までも同様です。これは、カイン、アベルと同じです。兄が天側にいるとすれば、兄の立場で弟を救ってあげ、育ててあげなければなりません。ですから、外部で伝道する時代は過ぎ去りました。カイン、アベルの闘いは終わったのです。外部伝道の時代には、どれほど多くの犠牲を払いましたか。家庭単位時代に入ってきたのです。(二六〇−一二一、一九九四・四・二八)

 今は、私が誇ることのできる祝福家庭がいます。一世家庭と二世家庭と三世家庭が……。皆さんの孫たちも、近い将来生まれることでしょう。三代を誇ることができる家庭から、新たに私が教育しようというのです。既に先生の年齢は、九十歳、百歳に近づいています。杖をついてでも、正しく教育しなければならないというのです。神様は、三代を従えながら教育することができませんでした。家庭の伝統、テキストブックを作っていかなければなりません。そのような班列に同参することを願います。(二六三−一九〇、一九九四・五・二三)

 聖日礼拝、敬礼式を絶対視しなければなりません。朝は、必ず子女教育をするのです。父と母が子女教育をしなければなりません。そのようにしなかったので、堕落した息子、娘となったのです。堕落した息子、娘を生んで、永遠に地球村から追放されるかもしれません。(二六九−四二、一九九五・四・六)

 皆さんがどのような負債を負ったのかというと、先生から青春を失うようにさせたという負債を負っているということを知らなければなりません。ですから、皆さん祝福家庭は、息子、娘を徹頭徹尾教育しなければなりません。「あなたと私が一つになって真の御父母様の青春時代を蕩減復帰しよう!」と教育しなければなりません。そのように教育することによって、国を失ってしまった悲惨さ、一族を失ってしまった悲惨さI文氏が受け入れなかったのです──一家を失ってしまい、家庭を失ってしまい、息子、娘を失ってしまった悲惨さを知らなければなりません。これは、過ぎ去ったことではなく、現実的に引っ掛かっていることであると知らなければなりません。(二七〇−三二五、一九九五・七・二三)

 子女たちが生まれて育っていく際に教育するその目的は、はっきりと決定しています。その行く道は、二つではありません。神様が共有することができ、創造本然の世界が願う中心の位置、王となり、女王となり、王子となり、王女とならなければなりません。これを失ってしまいました。ですから、完全に愛の基地が分かれたのです。神様とアダムとエバの愛の出発起点は一つなのですが、サタンが入ってきてサタンを中心として完全に分かれたのです。神様は一人孤独なのです。真の愛を中心として、神様が対象的目的をもって見つめられた愛の理想が、完全に壊れてしまったのです。(二七二−二七九、一九九五・一〇・八)

 本物にはならなくても、色は同じでなければなりません。それは、皆さんの家庭が先生の生きる形態を備えればよいということです。そのようにしようとすれば、自分がいかなる金なのかということを知らなければなりません。自分は分かっているのです。十四金なのか、十八金なのか、自分は分かっているので、子女たちに「あなた方は二十四金にならなければならない」と教育しなければなりません。教育方法を中心として行えばよいのです。そのようにして、二十四金に合わせていくのです。

 溶鉱炉に入れて、息子、娘を中心として再び純金をつくることができる道を見つめながら歩んでいるのです。皆さんが祝福を受ければ、そのような原則を中心として教育していかなければなりません。それゆえに、子女たちの教育を重要視しなさいというのです。未来の子孫たちを教育しなさいというのです。(二八〇−三一八、一九九七・二・一三)



















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五 祝福家庭の子女教育、これが重要だ

文鮮明先生の教育哲学



五 祝福家庭の子女教育、これが重要だ


 子女たちを教育する時にも、どのようにすればみ旨に対する使命を全うする人として教育することができるかということを考え、赤ん坊に乳を飲ませる時にも、このようなことを考えながら飲ませなければなりません。(一二−三四、一九六三・一・二五)

 祝福家庭は、家法をつくらなければなりません。そして、子女たちの教育基準と家庭の規範をつくらなければなりません。そのようにしないで、もし父母が誤って子女たちの追及を受ければ、返す言葉がないというのです。(二一−八七、一九六八・一一・三)

 父母になれば、どのようなことをしてでも、息子、娘に統一教会の正道を行かせなければなりません。そのようにしなければなりません。そして、自分自身も正道を行かなければなりません。自分が先に歩んでから子供に教えなければならないのです。子供を教育するためには、まず自分がそのように歩まなければなりません。そのようにしたのちに子供を教育しなければならないのであって、自分はしないで教育しようとするのは、天道から外れたことです。(二三−三二一、一九六九・六・八)

 皆さんには、祝福を受ける前に生んだ息子、娘である霊の息子、娘と、祝福を受けてから生んだ息子、娘がいるでしょう。まさしく蘇生、長成、完成と同じ形態をなしているのですが、この息子、娘たちをどのように教育するのか、ということが何よりも複雑な問題だと思います。皆さんがこの問題を模範的に解決しなければ、今後既成祝福を受ける数多くの家庭と彼らの息子、娘の前に、相当な影響を及ぽすのではないでしょうか。この問題は、皆さんが果たすべき重要な責任だと思っています。そのような立場で考えてみるとき、皆さんは、皆さんの息子、娘が教会生活を忠実にするようにしてあげなければなりません。(三一―二六六、一九七〇・六・四)

 今後、子女教育を正しく行わなければならないことはもちろんであり、早く祝福を受けさせなければなりません。皆さんの家庭の三代が祝福を受ければ、一つに結ぶことができます。皆さんが死ぬ前に、三代が祝福を受けなければなりません。そのようにして越えていかなければなりません。(三一−二八二、一九七〇・六・四)

 皆さんを中心として家庭的に新しい体制を備え、祭物的立場でより次元の高い出発をしなければならないというこのような時に、昔、皆さんが一人でいた時よりも、家庭をもった今のほうがみ旨の前にプラスとなっているのか、いないのかということを反省してみなければなりません。もし妻が、「み旨であろうと何であろうとすべてほうり出して、私だけを愛しながら生きてください」と言えば、その口を引き裂いてしまわなければなりません。

 そのような妻は、原理的に厳格に教育しなければなりません。「私たちは、先生を中心としてこれを行うために出会ったのだ」と言いながら、原理的な立場から、目から血のような涙があふれるほど妻を教育しなければなりません。しかし、夫が威信を失ってしまい、引っ張り回されていて話すことができないでいます。皆さんが教育しなければなりません。妻を教育して、より優れた立場を模索していかなければなりません。これを模索するために、今回、家庭的な活動を強化しようと思います。そのような時代が訪れてくるというのです。(三三−六二、一九七〇・八・一一)

 今、私が考えると、祖父と祖母、父と母、そして私の三代を通して神様に忠誠を尽くす基盤をもつことができなかったことが恨です。祖父、父、孫の三代が共に集まり、孫が父を呼べば「何だ」、おじいさんを呼べば「何だ」と答えて、「神様のみ旨のために、一緒に秘密会議をしましょう」と話せば、「うん、うん、そうしよう」と言うことができる先祖たちをもったとすれば、どれほど幸福でしょうか。皆さんは、それをよく考えなければなりません。今から皆さんは、息子、娘にそのような教育をしなければなりません。(三六−七九、一九七〇・一一・・一五)

 昔、名門の家では、子供を教育する時に、「朝は、できるだけむやみに話さないようにしなさい」と教えました。「朝は、できるだけ先に話さないで聞きなさい」と教えたのです。このような態度は、信仰生活でも必要です。(四〇−七二、一九七一・一・二四)

 皆さんは、皆さんの妻を、「あー、この娘は、神様の三大麦を受けるにおいて、世界にまたといない娘として愛を受けた人であり、世界にまたといない妻として愛を受ける人であり、今後世界の誰よりも母としての愛を受ける人だ」と思わなければなりません。それゆえに、皆さんは、子女教育をどのようにしなければならないのでしょうか。子供たちが、「私のお父さんとお母さんは世界で一番だ。神様以外には、私たちのお父さんとお母さんよりも偉大な人はいない」と誇ることができる教育を行わなければなりません。それが統一家庭の教育法です。神様が「そうだ」と言うことができ、皆さんの子孫が「そうだ」と言うことができれば、それが公認されるのです。

 私の子供たちを見れば、「神様の次には、私たちのお父さんだ」と言います。皆さんも、そのような思想を子女たちに教育しなければなりません。先生は、皆さんの家庭においてはおじいさんでしょう? 皆さんは子女たちに、「私はおじいさんの愛を受けたので、私もおじいさんと同じだ」という教育をしていますか。皆さんの息子、娘にそのような教育をしていますか。

 子供に、「先生は、神様の愛を受けてあのようになられたのだが、その神様の愛を受けられた先生があなたのおじいさんだ。この父は、そのおじいさんから誰よりも愛を受けたのであり、おじいさんと一つになっているので、世界中の誰にも負けない一番の父だ。だから、この父があなたを愛するにおいては、世界で一番だ」と教育していますか。自分の子供を愛するにおいては一番でしょう? そのような思想を注入してあげなければなりません。これが千年、万年継続しなければなりません。その血統が汚されることなく千年、万年継続すれば、あの世の先祖も、この地の子孫も、千倍、万倍福を受けるのです。(四七−二一九、一九七一 ・八・二八)

 私たち祝福家庭と祝福家庭の息子、娘たち、そしてその息子、娘の息子、娘たち、すなわち三代がどのように先生と共に生きることができるか、ということが大きな問題です。三代が功臣になれば、・天下にいない天上世界の功臣になる、ということを考えてみましたか。それゆえに、自分の息子、娘を抱いて、今からそのような思想を入れるために、教育して精誠を尽くさなければなりません。(五一−二六九、一九七一・一一・二八)

 「私が、統一教会の誰よりも精誠を尽くし、誰よりももっと立派に息子、娘を教育し、神様が記憶せざるを得ない立場に立って、もし先生がほかの考えをすれば、神様が命令してでも姻戚を結ぱざるを得ない家庭的基盤を築かなければならない」と言って、夜でも昼でも、生涯を捧げて夫婦が】体となり、その夫婦と子女が一体とならなければなりません。このように神様が記憶することができることをなしてきた家庭があるのか、ということを考えてみると、ありません。ないというのです。(五一−二七四、一九七一・一一・二八)

 堕落がなかった家庭とは、男性と女性が完全に神様の息子、娘として愛を受ける人々のことです。神様と完全に一つになった人々です。そのような男性と女性が、愛を中心として完全に一つにならなければなりません。その夫婦は、父母としてだけの目的があるのではありません。子女のために教育が必要です。なぜかというと、四方を備えなければならないからです。(五三−六八、一九七二・二・九)

 祝福家庭は、その息子にも、祝福を受けた家庭がどれほど貴いものなのかということを教えてあげなければなりません。時折、先生も、お母様に気合を入れます。教育する時があります。そのような時は、目玉が飛び出すほどに厳格です。このように厳格だとは思わなかったというふうにです。お母様も、教育を受ける時は涙を流さなければなりません。しかし、そのような時に子供たちが入ってくれば、そのような気配がないようにしようと約束しました。父と母が二人で話しながら涙を流すようなことは絶対に子供に見せないというのです。

 いくら話をしていても、子供たちが入ってくれば、すぐに話題を変えなければなりません。「おい、入ってきなさい……」。そのようにしなければなりません。そのようにすれば、「私たちのお父さんとお母さんは、けんかをしないお父さんとお母さんだ」と言うのです。そのようなことを教えてあげなければなりません。それゆえに、息子、娘は偉大な先生です。何も物心がついていないように見えますが、恐ろしい師と同じように思わなければなりません。良いものは見せても、悪いものを見せてはいけません。悪いものは見せてはいけないだけでなく、してもいけません。(五六−五三、一九七二.五・一〇)

 皆さんは、教育する時に、「国のためよりも世界のために生きる人になりなさい」と教えなければなりません。私、統一教会の文先生は、「国の忠臣になるのではなく、世界のために聖人の道理を果たしなさい」と教えてあげます。聖人の道理は、国を治める法があるので、聖人の道理だけではなく、天国に入っていって王子の道理を果たしなさいと教えるのです。王子の道理、天国の王子となることができる道理を教えてあげるのです。(一四八−一二四、一九八六・一〇・五)

 走っていきながら、子供に対して、「私が死んだとしても、あなたは、私のリレーのバトンを持って走らなければならない。私がこのように苦労するのは、世界を生かすためなのだ。そうすれば、そのような世界が訪れてくるのだ。それが神様の願いであり、真の御父母様の願いであり、あなたの父の願いであり、あなたの母の願いである。そして、あなたの願いであることに間違いなく、天下の人たちが永遠不変、万世に褒めたたえることのできる願いであることに間違いないので、この道を行かなければならない」という教育をすることができる真なる父と母にならなければなりません。死んでいきながらでも、このことを残していかなければならないという事実を知らなければなりません。(一四八−一二九、一九八六・一〇・五)

 私は、二世教育において、「あなた方は、あなた方の父母の言葉を絶対に聞いてはいけません」と言いました。聞いてはいけないというのです。今まで韓国で暮らした習慣性をすべて忘れてしまいなさいというのです。忘れてしまわなければなりません。統一教会から始まるのです。統一教会から伝統を受け継ぎ、習慣化しなければなりません。先生を中心として、神様を中心として習慣化しなければならないのであって、自分の父母を中心として習慣化してはいけません。(一四八−二一二、一九八六一〇・九)

 変わるような怪しいその家庭の垣根において、私だけは、娘として、息子として、革命的な旗手として天から派遣されているのだということを知って、父母にそのように対し、兄弟にそのように対し、上下・前後・左右を備えた永遠の真なる要素をもって父母に対さなければなりません。対応的な立場に立つのではなく、教育して相対的立場で育てて、「あなたのすべてのことに従っていこう」と言わせることができるように、「あなたの言葉ならば、絶対的に信じよう」と言わせることができるようにしなければなりません。そのような統一教会の教会人にならなければなりません。そのような息子となり、娘とならなければなりません。夫となり、妻とならなければなりません。舅、姑となり、嫁とならなければなりません。そのようにすれば、真なる家庭が現れます。真なる家庭をもってこそ、幸福な個人になるのです。(一六九―八五、一九八七・一〇・二五)

 祝福を受けた人々が息子、娘を教育しようとすれば、原理をもって教育しなければなりません。生んだからといって喜び、かわいいとぎゅっと抱き締めて、個人の情で喜んではいけません。天をお迎えして喜ばなければなりません。層層侍下(注:父母、祖父母など、仕えるべき目上の人がすべて健在している立場)です。一方的ではありません。東西南北に層層侍下で侍っているのです。(一九六−二八九、一九九〇・一・二)

 昔、韓国では、女性が自分の子供の教育に過度に熱心でした。韓国人は、息子、娘に大変な関心をもちます。人に負けることを嫌って、「勉強をさせなければいけない」と言って、家を売り、田を売り、それでも良いというのです。自分の心と体までも犠牲にして子女教育をします。それは、天理に通じ得るのです。ですから、そのような韓国の民には希望があると思います。(二四五−二一四、一九九三・三・七)

 神様と真の父母に侍って代表的な家庭となり、中心家庭となって、家庭では孝子、孝女、国では忠臣烈女、世界では聖人、天地では聖子の道理という、天が願われたすべてのことを私たちの家庭においては完成しようというのです。父母としての子女教育と、国家では民の教育と、世界では、天地ではその天国の一族、家庭の一員として合格者となることができるようにしようというのです。(家庭宣誓二)(二六〇−一八九、一九九四・五・八)

 子女教育の徹底化です! 日曜日の朝の敬礼式に息子、娘を参席させていますか。させなければなりません。毎日、真の御父母様の写真を見ながら、「このような悪いことがありました。あとで調査してみると、お父様が正しかったです」と言いながら報告するようになるとき、より一層、正しい報告を捧げなければならないということを悟るようになるのです。それゆえに、徹底的に参席させて教育していきなさいというのです。

 絶対信仰、絶対行動、絶対報告することができる一日一日の生活をしながら、内的に成長し得るように教育することによって、子孫たちが立派になるのです。日本を守り、日本を指導して余りある息子、娘がそこから出てくるのです。それ以外の方法はありません。(三〇五−八九、一九九八・三・二九)


六 父母が模範を見せなさい


 兄弟は、父母がお互いに愛するのを模範としなければなりません。父と母がお互いに愛しているではありませんか。母の代わりとしての娘であり、父の代わりとしての息子なので、父と母が愛し合う愛の伝統を模範としなさいというのです。しかし、今までのサタン世界にはそのような父母がいなかったので、真の父母を中心として孝行する道理を模範としなさいと教育しなければなりません。統一教会における先生の家庭と皆さんの家庭、先生と皆さん個人をおいて見るとき、皆さんの息子、娘も、先生に対する皆さんの心を学ぶのです。子供は、父母の心情を学ぶのです。

 子供たちが、「私たちの父母は、どれほど困難なことがあってもそれを実行される。時間を超越されている。また、環境を超越されている。疲れを超越されている」と言うことができる父母にならなければなりません。また、子供たちが、父母の命令であればどのような環境であっても動くことができる伝統を家庭に立てなければなりません。そのようにして子供たちに、「この道は、父母が歩んだ道なので行かなければならない。すべての条件から見るとき、実行することができることではないか」と言わせなければなりません。また、夫婦が父母のために生きるのを見て、その子供たちがそれを手本にするようにさせなければなりません。そのようにして、子孫たちを教育することができる基準を立てなければなりません。(三〇−八七、一九七〇・三・一七)

 天の教育をしなければならない時は、まず皆さんが模範とならなければなりません。先に孝子とならなければなりません。皆さん自身がまず天の法度に従って孝子、孝女となってこそ、そこから天の伝統的な「孝」の因縁が成立するのです。

 そのような立場で皆さんは、天国のために、み旨の前に忠臣となることができる道理を皆さんの息子、娘に教えなければなりません。大韓民国ならば大韓民国のために息子、娘が泣く時は、「あなた方は国のない民なのだ。あなた方が暮らしているこの大韓民国は、あなた方の本当の国ではなく、再び迎えるべき国があるのだ」と、手を握って涙を浮かべながら教えることができる父母にならなければなりません。懐に抱いた赤ん坊の呼吸を感じるがごとくに、天の憂いを共に感じながら涙を流すことができる立場で教育しなければなりません。そのようにすれば、恨を残した父母として、教育の幅が広がるのです。(三〇−一一二、一九七〇・三・一七)

 教会よりも国のために生きることができる愛国者として子供を育てなければなりません。そのようにするためには、父母が模範を見せなければなりません。模範を見せながら教育する父母が正しい父母です。愛で正しく教育したのちに、「しなさい」と言ってこそ、正しい父母だというのです。皆さんがそのような生活をするようになれば、神様は、皆さんから離れようとしても離れることができません。また、そのような人には、何か分からない強い力があり、すべての人の視線を自動的に引くようになります。その人には関心をもたざるを得ないというのです。(三四−三1、一九七〇・八・二九)

 私が私の子供を呼んで教育する時は、「私の願いがこうなので、あなたはこのように行かなければならない」と言い、夫が死ぬ時は妻に、妻が死ぬ時は夫に、父母が死ぬ時はその子供に、このような遺言をしなければなりません。「私が良心的に見るとき恥ずかしくなく、愛する息子に宇宙で最も良い贈り物を与えたいと思うので、私が歩んだこの道を継承してくれ」と言うことが最高の遺言です。それが遺産の中の遺産だということを知らなければなりません。「そのようにすれば世界があなたのものになり、神様と宇宙があなたの所有になる」というのです。これがどれほど驚くべき事実でしょうか。(一二五−一〇六、一九八三・三・一三)

 妻が見るときに、恥ずかしくない夫とならなければなりません。妻が神様の特使です。息子、娘が天の特使です。私を監視し、私を教育して、正しい道を歩ませるための一番の側近者としての特使だというのです。子供の前に恥ずかしくない父とならなければなりません。その天の特使たちを養うにおいて、盗んだものをもってきて食べさせてはなりません。詐欺を働いて天に侍ることができますか。先祖に侍ることができますか。そのようにして皆さんがあの世に行けば、すぐに先祖が審判します。神様は審判しません。先祖が審判し、結局は世界的公判廷まで引き出すのです。先祖たちがそこで報告して公判廷に引き出さなければ、その先祖たちが善なる者となることができません。そのような統治法を背後におき、未来に希望の基盤を決定づけなければならず、またそのような日々を迎えていかなければならないこの生涯の路程というものは深刻だというのです。(一六三−三三、一九八七・四・一八)

 父母は、どのようにしなければならないのでしょうか。父母の教えは、どのようなものでなければならないのでしょうか。本当の師とは、学問を教える師よりも、愛を教えることができる立場に立った師です。父母は、愛を中心として血筋が連結された一体圏内にいることはもちろんですが、子供に対して愛を中心として教育しなければなりません。それゆえに、「兄弟間においてはこうでなければならず、夫婦関係はこうでなければならず、あるいは一家を率いるにおいてはこうでなければならない」ということを教育しなければなりません。すべての面において、「家和万事成(注:家庭がむつまじければ万事うまくいく)」と言うことができるように、愛をもって教育し、「愛の主人になりなさい」と教えなければなりません。これが父母の役目ではないかというのです。(一九八−六三、一九九〇・一・二一)

 息子、娘たちに、「夫婦とはこのように暮らすものだ」という模範を見せなければなりません。「お父さんとお母さんは、あのように仲良く暮らしている。だから、私も早く結婚してあのように暮らしてみたい」と言わせるようにならなければなりません。すべて学んでこそ実践するのです。父母が教育するのです。父母にかかっているのです。(二六〇−二九六、一九九四・五・一九)

 皆さんが家庭で先生に侍る時、子女たちが教育を受けることができるように、すべて見せてあげなければなりません。「このお方は、これこれこのような歴史的な受難の道を経てこられたので、私たちがこのように侍ることによって、先生の代を継承したすべての祝福が私たちの家庭に訪れてくるのだ」と言うのです。水源地のパイプの大小に従って水が配給されるのと同じように、そのようにしなさいというのです。(二八三−七七、一九九七・四・八)

 父母は、子供のために生命を分け与えました。また子供は、父母から受けたので、返してさしあげなければなりません。真なる父母の前においては、孝子という言葉は必要ありません。一つになれば永遠に一つになるのが孝子です。真なる王の前に、忠臣という言葉や教育の材料は必要ありません。一つになれば終わりです。神様の前にいかなる聖子の道理も、何だかんだというものは、すべて必要ありません。一つになればよいのです。愛を中心として一つになればよいのです。(三〇一−一一九、一九九九・四・二五)


七 子女の前でけんかをしてはいけない


 夫婦が一つにならないところには、自由もありません。平和もありません。ですから、皆さんが平和を思い描こうとすれば、心と体が絶対的に一つにならなければなりません。これが、文総裁の教育の第一条です。今まで聖賢たちは、世の中がすべて悪く、自分たちは優れていると思ったのですが、そうではありません。第一条が誤ったのです。父と母、夫婦同士が一つにならなければ、天下がつばを吐くというのです。夫婦同士一つになり、一代と三代が一つになれば、天下が訪れてくるのです。(二四三−一六九、一九九三・一・三)

 皆さんに息子、娘がいれば、その息子、娘に父と母が言い争っている姿を見せてはいけません。絶対にそれを見せてはいけません。約束するのです。先生の家庭、お父様とお母様も同じです。今まで子供たちが成長してきましたが、「私たちのお父さんとお母さんは絶対にけんかをしない。私たちのお父さんとお母さんは、この世で一番のお父さんとお母さんだ」と言うのです。いかなる国の王よりも、誰よりも希望峰の主人公だと言うことができるように教育しなければなりません。息子がいれば、「私はお父さんのようになる」と言い、娘がいれば、「私はお母さんのようになる。お母さんのような女性になる」と言うことができるようにならなければなりません。それが教育です。(九〇−一二三、一九七六・一〇・二一)

 息子、娘たちが、「お父さんとお母さんがけんかするのを一生の間見ることができずに生きた」と言うようにならなければなりません。暮らしてみれば、ありとあらゆることがあります。そうではありませんか。小言も言わなければならないのです。うまくいかないこともあるでしょう? そうかといって、それをしつこく追及してけんかをし、手を出してはいけません。そのような時は、話をして教育していたとしても、子供たちが入ってくればすぐにストップしなければなりません。元の状態に戻らなければなりません。どれほど父が残念に思っても、赤い顔で息子に対してはいけません。これが先生の哲学です。それで、私の子供たちは、常に平和でむつまじいお父さんとお母さんだと思うのです。母の中で一番であり、父の中で一番だと思うのです。ですから、父と母は第二の神様です。「神様を所有したいか、父と母を所有したいか」と聞いたとき、「父と母を所有したい」と言うことを神様も喜ぱれます。それが貴いことです。教育の中で最も貴いことです。

 彼らの情緒的な標準、情緒的な方向は、父母を標準として準備されなければなりません。「私も、あの父と同じような夫となって、あの母と同じような妻を迎えよう。迎えることができなければ、育ててでもそのようにしよう」、このような教育をするのです。心情的教育は、そこからしなければなりません。ですから、けんかをすることは神様を追い出してしまうことであり、それから夫と妻を追い出してしまい、父母を追い出してしまうことです。それから子供まで追い出してしまうことです。破綻が起きるのです。(一六五−九四、一九八七・五・二〇)

 皆さんは、息子、娘を愛さなければなりません。人の父母になるということは簡単ではありません。生むということは簡単ではありません。それを知らなければなりません。天地を通して生むのです。真なる愛の因縁に従って天地の運勢と連結され得る愛の法度に連結され、横的な愛に一致し、縦的な愛に一致して天地が合同する、そのような立場にいる夫婦の愛を中心として因縁をもった立場で子供を生んであげなければならないのですが、そのような立場で子供を生むことができなかったのならば、悔い改めなければなりません。子供の過ちを見れば、その過ちをしかる前に、自分自身が悔い改める心で子供に教育することができなければなりません。父母の役割を果たすということは大変なことです。いい加減に生きてはいけません。

 先生が、お母様と暮らしながら腹が立ったことがあったでしょうか、なかったでしょうか。先生の性急な性格でこぶしを振り上げて、「この女!」と、そのようにしたいと思った時があったでしょうか、なかったでしょうか。自分一人では、いくらでもそのようにするでしょう。そのような時は、神様を思うのです。先祖から、真の父母の行く道はこうでなければならない、真の父の行くべき道はこうでなければならないとして……。その代わり、ずれていくようになる時は、涙がすっと出るように教育するのです。妻を教育しなければならない責任が夫にあります。それゆえに、私が手を振り上げて「この女」と言うことはできませんでした。「この女」という言葉は、一度も言ってみることができませんでした。愛を媒介として対さなければならないのに、サタン的な素性、サタン的な性質を媒介として妻に対そうとすることは、天地の原則に背くことです。それを知らなければなりません。(一六八−二一七、一九八七・九・二〇)


八 青少年教育は誰もができるわけではない


 今日、十代の青少年が問題となっていますが、なぜそのようになったのでしょうか。父母の愛の懐を離れたからです。家庭から、おなかの中からひっくり返ったので、世の中は言うまでもありません。それでは、今日のこの青少年問題を中心として、誰が秩序を正すのでしょうか。統一教会がしなければなりません。ところで、この青少年問題をお金で解決しようとすれば、どれくらいあげなければならないでしょうか。大学に通うには、数十万ウォン以上のお金がかかります。もし先生が、大学以上に行くそのような教育を行った代価としてお金をもらうとすれば、統一教会は裕福になるでしょう。そのようになれば、お金をあげて自分の生命を得た結果になります。

 過去のキリスト教徒や仏教徒たちは、生命を捧げてもこのような思想を得ることができませんでしたが、統一教会の人々はそのような恩徳を受けたので、皆さんはその恩徳に報いなければなりません。また、恩徳を受けようとすれば、ふろしきでも準備しなければなりません。嫁いでいくのに、をまとって嫁ぐ人がいますか。今、宝石箱を相続しなければならないというのに、むしろや袋のようなスカートをはいていって相続することができますか。それは失礼になるのです。準備しなければなりません。(二四−二七三、一九六九・八・二四)

 世界で一番の問題は、神側から見れば共産党です。その次には、宗教が終末を迎えてばらぱらに分かれたことです。それで、統一教会を立てました。その次には、青少年の淪落の問題です。サタンによって糞まみれとなり、糞のにおいを漂わせているのをすべて洗い、白い服を着せて天国の宮殿に入っていくことができる正しい人として教育しなければなりません。(一二七−三三、一九八三・五・一)

 アメリカの若者たちに国があるでしょうか。世界があるでしょうか。家庭もなく、「私だけが一番だ」と言っているのですが、これは滅ぶようになっています。学者世界においても滅ぶと考えており、軍に関係している人々、軍を指導してきた人々も滅ぶと考えています。これが現実です。それで、教育しています。すべて滅ぶしかありません。一つ一つ見つめるとき、手をこまねいているだけで、なすすべがありません。最近では、「レバレンド・ムーンだけが希望だ」と言っています。それが現実的事実ではないかというのです。

 どのようにして青少年の淪落問題を防ぎ、麻薬問題を防ぐのでしょうか。どのようにして防ぐのですか。国の指導者たちをつかまえて、分科委員を通して、教育制度から、社会浄化運動から法令を新たに制定していかなければなりません。そのようなことをすることができますか。国会にすることができ、大統領にすることができますか。誰にすることができますか。

 アメリカがそうなのですから、世界はすべてそうです。アメリカもそのようになっているので、世界は近いうちにすべてそのようになるはずですが、そのようになった時に、レバレンド・ムーンがそれをなすために、それができる人々をもっているのでしょうか。一人ではできません。アメリカにいますか。日本にいますか、韓国にいますか。統一教会の教会員たちをじっと比較してみるとき、一般の人々が落胆するのです。だからといって、社会にいる人々をつかまえてレバレンド・ムーンの行く道に歩調を合わさせるには、この人々を連れてきたところで、再び数十年教育しなければならないのです。ですから、数十年かかるというのです。この不幸の道をどのように補うのかということが、当面の問題となります。(一四六−八六、一九八六・六・六)

 蒔いたとおりに収めるのです。エデンの園で淫乱によって蒔かれたものが、終末時代になると、淫乱によって収穫される世界的混乱時代が到来します。十代の青少年がどうして木陰に入っていき、恥ずかしいことも知らずに地獄に直行する淫乱の行為を犯すのでしょうか。今、終わりまで来て、何かの道義的教育や軍事力、あるいは経済力をもってそれを是正することができるのでしょうか。その限界性を誰が越えるのでしょうか。(一九五−九八、一九八九・一一・五)

 アメリカという国は複雑です。アダムとエバが堕落した、その本性的実を結んだ青少年の淪落行為がアメリカ社会に氾濫しています。しかし、淪落したその社会を収拾する方法がありません。軍事力や政治的力でもできず、教育の力でも是正する道がないという難しい社会環境になっています。それゆえに、末梢神経の刺激に従っていって死亡世界である地獄に向かうという、サタンの喜ぶ現世となってしまいました。このようなアメリカを救うことができる方案がないというのです。このような環境において、統一教会だけがその処方便をもっています。(二〇七−三二一、一九九〇・一一・一一)

 青少年たちを正しく教育しなければなりません。アダムとエバが青少年の時に堕落したので、私たちは、青少年に火をつけてしまわなければなりません。道義的信念とそのような生活的必要条件に適合し、社会の進展と発展の道義的面に適合することができる人格基準を形成しておかなければなりません。(三〇九−三二五、一九九〇・一一・三〇)

 共産世界と民主世界を接ぎ木するにおいては、自分たちの力ではできないようになっています。文総裁が必要です。なぜでしょうか。淪落問題ゆえです。アメリカの青少年が淪落に陥っています。二世たちがサタン世界に追い込まれています。しかし、今、二世たちが先生の救済圏内に入ってきました。共産世界が私たちに反対する時も、ソ連の二世たちは、先生の側に立ったのではありませんか。きちっと正すのです。それで、今、二世たちを連れてきて教育するのです。既に始まっています。今年の七月になれば、三千人の教育を終え、ソ連の有名大学の総長や学長をしている人々が旗を掲げ、ラッパを吹きながら文パーティー・クラブになろうという運動まで起こっています。ソ連でも、民主世界は比較にもならないほど有名になりました。(二一五−一二四、一九九一・二・六)

 世界の人類は、男性と女性に区分されます。幼い子供たちは、最初は息子、娘として育ち、その次には一人の人間として考えるようになります。それが基本的な教育形態です。家族の構成体としてその人々を考え、愛すれば、本然の天地に入っていくことができます。私は、そのような環境をもってみることができませんでした。それで、死ぬことができません。原理観がそうです。

 フリーセックスによって、家族のすべてのものが破壊されていきます。フリーセックスは亡国の種です。神様の創造理想を完全に破壊しようとするものです。知っているように、サタンは、悪の勢力を構築するために、このすべてのことを引き起こしています。レバレンド・ムーンがアメリカに来て、そこで皆さんを呼び出して教育しているのは、サタン的な世界が使用することができないように、淫乱的思想をハンマーでたたいて壊すことです。それは、私たちが正しく武装されているということを意味します。強力な理論的なみ言と真理をもって敵対するのです。(二一六−一〇七、一九九一・三・九)

 十代とは何でしょうか。アダムとエバが十六歳で堕落したので、十代を越えて二十代になる人は神様が責任をおもちになるのです。アダムとエバが責任を全うすることができませんでした。この世界の淫乱の青少年たちは、どのように責任をもつのでしょうか。天が責任をもち、二世を一度に追い込んで教化する時が来なければなりません。アダムとエバがいちじくの木の葉でそのとがの部分を覆ったのと同じように、青少年たちは本の下で堕落しています。そのように蒔いたので、そのようになるのです。

 それでは、これを誰が清算するのでしょうか。文総裁でなければできません。真の父母の名によって、真の母のみ旨を中心として、真の子女教育と真の家庭教育と真の氏族、真の民族、真の国家、真の世界、真の神様の教育を中心としてこそ、地上天国、天上天国の理念を完成することができるのです。(二三二−二〇六、一九九二・七・六)

 今、家庭が一番問題です。国の力、経済やいかなる文化の力、教育の力、いかなる宗教の力も、家庭の破綻と青少年の淪落には手をつけることができません。それは、真の父母の特権です。神様も干渉できず、サタンも、フリーセックスによって堕落してしまったこの環境を転換させることができません。神様は、エデンにおいて手をつけることができなかったように、この世の中に手をつけることができないのです。誰が手をつけることができるのでしょうか。手をつけることができる主人は、真の父母だけです。偽りの父母が植えつけた破壊的で、すべての真の愛の道を破綻させてしまったその悪なるものを誰が蕩減するのかというと、天の全体、全般、全能の権限をもった真の父母だけが、メスをもって手術することができるのです。ほかの誰もできないというのです。(二八三−二二九、一九九七・四・一三)

 先生がこの青少年問題、家庭問題を解決しなければなりません。今、世界的に、いかなる政府や経済力や教育や芸術やいかなる力をもってしても、手をつけることができない青少年の淪落、家庭破綻が起こっているのですが、これは、先生がしなければならない特権です。世界がすべてそのようになっています。完全にそのようになっているのです。

 皆さん、考えてみてください。天地においてどれほど特権的立場に立っているか分かりません。この地上で審判することができる立場にいるのであり、教育においても、愛を中心とした父母の立場を代理しているのが私たち統一教会の立場だということを考えてみなさいというのです。(二九二−三〇一、一九九八・四・二七)

 今からは、中学、高校に入っていって教育しなければなりません。原理教育をしなければなりません。帰れば、すぐにそれを計画しなければなりません。子孫たちももちろんですが、自分の友人たちにそれを伝授し、定着して▽生の間歩んでいくためには、思想を注入しなければなりません。神様のみ旨から見るときこうだということ、天法がどうだということ、天理がこのようになっているので私たちもこのように行かなければならないということを教えなければなりません。何よりも重要な教育なので、学校で教えることができるようにするのです。今はプログラムすることが可能なのです。

 創造原理と堕落論、歴史的同時性を中心として、韓国で再臨するということを話し、真の父母を中心とした祝福がなぜ祝福なのかということを話すのです。それだけを話すのであれば、五、六時間あればできます。その次には本をあげるのです。先生にあげると同時に訓読会をしてもらうのです。学校で本を十二冊ずつ買って備えておくようにさせれば、万年教育をすることができるのです。

 「青年連合」があるでしょう? 婦人会と青年が一つになって、中学、高校の学生たちを教育するのです。兄と母の代わりです。母の代わりとなる女性を動員し、兄の代わりとなるカインを動員するのです。カインと母が問題でした。エバとカインが問題ではないですか。それを蕩減するために、カインの立場である「青年連合」と母の立場である婦人会が責任をもつのです。(二九五−七二、一九九八・八・一七)

 今まで純潔教育をしてきたので、今からは本当の教育を行わなければなりません。純潔教育は、この地上で生きる時に純潔を守って生きなければならないということを教えることであって、永生問題とは関係を結ぶことができていません。祝福を受けて永生問題と因縁を結ぶためには、必ず原理の骨子の思想を注入しなければなりません。それで、小学校から中学、高校、青年、父兄まで教育して祝福を受けさせるのです。その次には教育する必要はありません。学課、学制にするのです。小学校の学課から、中学、高校、大学の博士コースまで、学課を中心として原理の骨子の思想を表現することができるように教育しなければなりません。(二九五−七四、一九九八・八・一七)

 今まで、皆さんに純潔運動を指示してきましたが、大学や高校を問わず、私たちしか人がいません。自他がそれを公認しているのです。純潔教育を行うことができる資格者がいません。ですから、世界史的な召命的責任が私たちにかかっているということを知らなければなりません。過ぎ去る過程で青少年を教育するという、そのような考えではありません。私たちの血族を正し、私たちの国を正して、私たちの天国を建設することができる伝統的な道に入っているのだということを知らなければなりません。(二九五−一〇三、一九九八・八・一七)

 青少年教育は、先生の特許権です。誰も、青少年を指導することができません。教育することができません。その次に、堕落したこれらの家庭を救う道理がありません。それは、先生の特許です。特許権を侵犯すれば、法に引っ掛かるでしょう? どのような特許でしょうか。愛の特許です。真の愛を中心とした真の父母の特許権、真の家庭の特許権、真の血統の特許権です。千年、万年、純潔を守ることができる血統圏をもたせるのです。これが、先生のもっている特許権です。特許権をもっているので、先生のサインさえあれば、どこでも通じるというのです。(二九九―二三三、一九九九・一・一七)

 青少年の淪落と家庭破綻をどのようにして防止するのでしょうか。レバレンド・ムーンの教えを受けて、レバレンド・ムーンに従っていかなければなりません。それは、世の中がすべて知っています。すべての国家の為政者が知っており、教育者も知っており、宗教指導者も知っており、テロ集団、マフィアまでも知っているということを知らなければなりません。それは、私たちの専売特許です。それは大変なことです。その真理は、原子爆弾よりももっと強力な力をもっています。(三〇七−一一九、一九九八・一一・七)

















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第五章 教育に全生涯を捧げた文鮮明先生

文鮮明先生の教育哲学



第五章 教育に全生涯を捧げた文鮮明先生


一 文鮮明先生が人類の教育に立ち上がった理由


 人類のために私が真なる教育をしなければならず、真なる愛を教えてあげる先生にならなければならないというのです。それは何かというと、神様がなさることです。神様は体がありません。ですから、体のある人が必要なので、そのような人さえ現れれば、「私の代わりにしなさい」とおっしゃるのです。

 それで今日、統一教会は、神様が願われる世界を代表して、神様の代わりに登場したのであり、それゆえに、統一教会員を訓練して、世界を代表して神様の代わりに、父母の立場で愛を施す人にしようと思うのです。父母の愛を中心として教育しなければなりません。統一教会に入ってきてみ旨を知るようになれば、素晴らしい君子になります。「私は一度世界を愛さなければならない」、そのようになります。それは良いことです。立派だというのです。神様の代わりに教育し、神様の代わりに愛してみようというのです。(一〇二−二三八、一九七九・一・一)

 私は、人類と神様の究極的な理想である地上天国を実現するために、統一運動を創設しました。私たちの運動は、すべての人間の努力を傾注して宗教を復興させ、人間を教育する運動です。私たちのような霊的な運動が、他の関心事や方向を宣言した既成の勢力からの反対に直面したのは、歴史的に不可避なことだったのです。すべての宗教運動は、最初から激しい迫害と敵意を呼び起こしました。その運動は、このような困難を克服することによってのみ、未来世界のための主流思想と指導力になることができたのです。ユダヤ教、キリスト教、さらには民主主義と共産主義までもこの類型的な例でした。(一二九−二九八、一九八三・一一・二五)

 東洋の韓国から来た私が、神様のみ旨を中心として、積極的にアメリカを目覚めさせようとするとき、既に信仰的基盤が崩れていたので、悔い改めて従ってくる代わりに、誹謗し謀略する反発と抵抗がどれほど強かったでしょうか。私が受けた天命は、準備された基盤をもって目覚めさせる教育をし、駄目ならば勝手に放棄することができる、そのような性質のものではありません。私自ら、去る十三年間、激しい迫害と冷遇を受ける中でも、神様が理想とされる世界を代表して「ため」に生きる個人、そのような家庭、そのような氏族の代わりとならなければなりませんでした。そして、アメリカの若者たちの前に、私が実践して手本を見せることによって、神様に従い、世界を代表して「ため」に生きることができる家庭と氏族を編成しました。それは、アメリカと全キリスト教に代わって、世界のために生き得る新しい天民を育成していく作業でした。

 去る三十年間、私は第一に、神様を中心とした理想の普遍化と教育のために、全世界の学者たちを動員して、うまずたゆまず努力した結果、既に百カ国以上で確固たる思想的基盤を構築しました。第二に、地上天国の理想は、霊的な要求だけで成されるものではないので、技術と先端科学分野の発展のための投資と努力を継続し、驚異的な成果を収めました。第三に、神様のみ旨を地上に実現するための世界的な経済基盤を確保し、各種の経済活動と未来の金融秩序のための国際協力方案を模索、研究しています。第四に、正しい言論によって社会を教導するために、世界的な言論機関を育成しました。これ以外にも、多方面にわたって創意的な活動を積極的に展開しているのですが、これらのすべてのことは、神様のみ旨を地上に実現する課題と直接関係があるものです。(一三五−二三六、一九八五・一二・一一)

 愛の公的世界だけを立てるために、歴史始まって以来、今まで生涯を捧げてきました。去る六十六年間の生活自体を、私的生活ではなく公的生活をしてきてみると、世界的に有名になりました。今、大韓民国も私の手助けが必要であり、アメリカも私の手助けが必要であり、日本も私に世話にならなければならず、中国も私に世話にならなければなりません。すべて終わるというのです。あと残されたことは教育です。それで最近、私たちは教育しているのです。私は、私の行くべき道が忙しいのです。(一四〇−三二二、一九八六・二・一四)

 今日、私たちは、どのようにしなければならないのでしょうか。私個人は、神様を愛し、人類を愛さなければなりません。「人類を愛した」という表題と「神様を愛した」という表題を成就しなくては、その答えを出さなくては、神様の前に行く者がいません。それゆえに、今まで先生も人類を愛してきたのです。アメリカの国は怨讐の国ですが、愛するのです。監獄に入っていき、法廷闘争をしながら「ワシントン・タイムズ」をつくり、アメリカのために彼らを教育し得る機関をすべてつくっておきました。すべての人類を愛さなければなりません。ですから、私たち統一教会の五色人種が私を好むのです。(一四七−二一四、一九八六・九・二一)

 先生は、今でもそうです。祝福対象者たちを集めて、夜を徹して教育しているので、今でも疲れがとれていません。しかし、私が果たすべき責任を中心として見てみるとき、どれほどすべきことが多いか分かりません。ある時は、ジープに乗りながら居眠りしてしまう時があります。私は、居眠りする時も、「私は誰のために居眠りしているのか!」と考えます。自分が豊かに暮らすために居眠りしているという時は、それは恥ずかしいことです。自分の息子、娘のためにそのようにしているのならば、天地の前に面目が立ちません。しかし、天地のためなのでかまわないというのです。(一五八−一三九、一九六七・一二・二六)

 人生問題において誰よりも苦労した人がここに立っている人です。神様がいらっしゃるのか、その有無に関することを、自分で触ってみて、体験するまでは信じることができません。くまなく解き明かして、理論体系を中心として教育することによって、どのような知性人でも三泊四日で教化して余りある、三泊四日ではなく一日で教化して余りあるこのような実績をもっています。この素晴らしい武器は、大韓民国を代表して世界を指導することができる武器だ、ということを大韓民国は知らずにいます。知らないので、今からは知るようにするのです。誰が出てきてですか。大韓民国の人ではありません。西欧の人たちが来て教えてあげるのです。(一六三−一二三、一九八七・四・一九)

 共産主義は、政治をしますが、世界に利益になるようにしようという概念はありません。共産主義は、共産主義絶対理念の標準のもとで、共産主義の利益基盤拡大を通して自由世界の基盤を弱化させ、共産主義の拡大圏内に追い込もうというのが問題なのです。これは、情報世界の不均衡です。それでは、今後、何がこの均衡を正してくれるのでしょうか。それは、道義的な教育です。ところが、今、道義的教育をすることができません。

 それゆえに、影響を与えることができる世界的な言論人たちを一つにして、アメリカやソ連が、自らの利益を中心としていこうとすることにプレーキをかけなければなりません。そのように世界に公表して、その均衡をとり得る方法として宣伝しなければならないのですが、それができずにいます。今、それが問題です。それで今、私が言論界を教育しているのです。それが言論人大会です。ですから、ソ連に関してよく知り、アメリカに関してもよく知らなければならず、ヨーロッパに関してもよく知らなければならないというのです。第三世界に関しても、アフリカや南米の実情に関してもよく知らなければなりません。それを暴いて、今まで言論人たちが報道した事実は一方的な報道だった、ということを知らせるのです。

 世界の利益を考慮した立場や、公的な立場でせずに、自分の利益、二国の利益、一社会の利益のために報道したので、世界に致命的な損害をもたらしてきました。この均衡を正してあげなければなりません。ですから、今後、言論機関がこの世界を教導しなければなりません。言論機関が一つになって世界を教導しなければならないのですが、それは、言論人だけではできません。それで世界的な学者、全世界の学者たちと言論人が一つになり、一つの指導体制をもたなければ、一般の人が信じません。言論界は、既に世界が不信する段階にあるのです。しかし、教授たちは信認するのです。それで、有名な教授たちを中心として、言論界を連結させ、今後人類が向かわなければならない新しい方向に教育するのです。

 これを一つの指導的な教育センターとして残し、頂上会談のようなことをするときも、ソ連の力だけでするようにしてはならず、またアメリカが自分の利益のために、世界に不利になるように問題を解決させてはいけないというのです。ですから、世界が損害を被ってはいけません。頂上級の国家元首たちに指令を出して、会談をコントロールすることができるような体制をつくらなければなりません。それをしようとすれば、現在の言論界ではできないので、そこに世界的な学者たちを連結させて、公証された立場で明らかにしながら教導していかなければなりません。私たちは、そのようなものをつくらなければなりません。

 それで私がすることとは何かというと、言論人と学者たち、有名な人たちを集めて協会組織をつくり、方向性を世界に向かうように教えてあげるのです。そのように組織すれば、左右に分かれて争っていますが、「じっと聞いてみると、そうでなければならない」と言うのです。それで、世界の公益のための言論をつくろうと思います。しかし、そのようにするためには、これだけではできません。今、それを誰も公証しません。人々が公証し得る結果をもってこようとすれば、十年、二十年の歳月が必要です。ですから、ここで最も重要なことは、学者たちを中心とした言論人たちが、その主流をすべて変えなければならないということです。それで今、私がアメリカでそれをしているのです。(一六五−一六〇、一九八七・五・二〇)

 今日、文先生が祖国統一を願うのは、滅びざるを得ない国家背景を中心としたものではありません。歴史始まって以来なかった、超国家的で、神様が取り戻そうとされる祖国光復のための途上において、すべてのものを消化し得る思想的体系を備え、論理的な教育を通して変化し得る、社会を吸収、消化し得る主体思想を備えた人をつくっていこうというのです。ですから、共産主義が問題ではなく、民主主義が問題ではありません。それで共産主義が私を恐れ、民主主義が私を恐れるのです。丸ごとのみ込んでしまうと考えているのです。(一七二−四一、一九八八・一・三)

 私たち人類は、思想的な葛藤を克服し、道徳性を回復した基台の上に、国際協力を通した愛の地球村家族理想を実現しなければならないという課題を抱えています。長い歴史を通して、人類の精神文化を創出してきたアジアにおいて、新しい時代を指導する理念が出てこなければならないのですが、それが正に私が主張し、世界的に教育している「神主義」です。(一九三−三二二、一九八九・一〇・一二)

 レバレンド・ムーンが共産党に反対し、共産党に勝利すれば、どのようにするでしょうか。そのような問題を考えてみるとき、共産党をたたきつぶすのが目的ではありません。共産党をたたきつぶして何をするのだろうか、そのようなことをすぐに考えるのです。どのような対策を中心として共産党と闘争するのかというのです。滅ぼすことが目的ではありません。その後の問題をどのようにするのですか。それで、今は、日本をして教育させているのです。

 今までは、私がアメリカを教育しましたが、これからは、共産世界や民主世界や国家の最高峰を中心として後援会をつくり、全世界の人々を引っ張ってきて教育するのです。私たちが行う教育を凌駕する者はいません。それは、既に判定勝ちしました。アメリカの議会でも、すべて終わりました。このような立派な武器をもって、天下を掌握することができず、天下を一つにすることができなければ、指導層の実力が不足なのです。頭が不足だからです。そのような時が来ました。

 アメリカでも、有色人種を結束させるのは私しかいません。それは、黒人からスパニッシュ系、アジア系、ヨーロッパ系、アフリカ系を問わず、すべてそのようにできるというのです。今まで私がしなかったのは、なぜでしょうか。それをすれば、ケネディ大統領とキング牧師が暗殺されたようになるのです。それを知っているので、しなかったのです。ソ連を押さえておいて、アメリカ政界の指導者たちの名前を引き合いに出してすれば生きるのです。今、そのような時が来ました。ですから、教育をしなければなりません。アメリカでも、毎年四千人ずつ教育しています。今、五年目の教育を行っています。ですから、指導層は、すべて知っています。知らない人がいません。(二〇一−二四五、一九九〇・四・二八)

 私たち統一教会は、座れば教育します。先生は、会えば教育します。話をすれば、夜の十二時を過ぎます。すると、私のことを引き合いに出して、「先生、お年を召して疲れていらっしゃるので、もう十二時を過ぎましたから中に入ってお休みください」と言いながら、さっと立ち上がるのです。「あなたは、自分が疲れて休みたいから、先生を口実にして立ち上がったのではないですか。座りなさい!」と言えば、その人は顔を赤くして座るのです。そのように恥をかいて、面目を失う指導者が多いのです。教えてあげようと、どれほど血と汗を流したか分かりません。(二〇三−三〇九、一九九〇・六・二七)

 今ではもう、韓国全体において、教育問題を中心としては、私たちでなければならず、共産党や思想的世界において、腐敗した社会を正すのは統一教会の理念でなければならない、ということは既に決定された事実です。そのような時になったので、「真の父母宣布」が可能なのです。(二〇四一九五、一九九〇・七・一一)

 今日まで聖人たちが現れて、対社会問題を扱ってそれを整備する教育をしましたが、自分自身をきれいに整備してこれを祭壇で燃やし、新しい花畑に種として植えて香りを備えた実を刈り取り得るこのような花畑をつくりなさい、このように教えてあげた人はいません。今、文先生が現れて初めて根本を探し出して、「世界平和を願う前に自分自身の心と体の統一を成しなさい」と言うのです。(二〇六−八三、一九九〇・一〇・三)

 皆さん、「アメリカン・リーダーズ・カンファレンス」(American Leaders Conference)、「アメリカ指導者協会」というものを中心として、世界の優れた人をすべて、いわゆるオピニオン・メーカー(政策決定者)、自分が一番優秀だという人たちを集めて教育をしてきたのです。その人たちの頭の方向を変えなければなりません。五十億人類の頭の方向を変えようとすれば大変です。五十億人類の国家を支配しているのは、五十人にしかなりません。その約五十人の頭の方向を変えておけば、世界は回っていくのです。そのような体制をもって教育してみると、今アメリカでレバレンド・ムーンの思想を凌駕できるものはありません。哲学思想であれ、宗教思想であれ、理論的に凌駕することができません。(二一〇−二〇八、一九九〇・一二・二三)

 「頭翼思想」は、文総裁の思想ではなく人類思想です。神様の思想が人類の思想です。文総裁個人の思想ではなく、統一教会のための原理ではありません。それは、万民がもつべき原則的な道です。文総裁が霊界を通して預言者的使命を果たすことによって探し出されたものです。それは、文総裁の一族のためのものではなく、万民のためのものです。万民のものです。大学教授から中・高等学校の校長たちがすべて理解して、挙国的な人類教育の方向を備えるための原理です。文総裁の原理ではありません。そうであってこそ、既成教会から自由になるのです。統一教会の教理ではありません。(二一四−三四一、一九九一・二・七)

 私は、世界第一の反共指導者として知られてきました。しかし、政治的、経済的目的による反共運動ではありませんでした。私は、共産思想自体の非真理性を批判し、その代案を提示する教育的勝共運動を展開してきました。(二一九−一二三、一九九一・八・二八)

 人間と神様を一体化させたその功労の中心は、先生です。これは普通のことではありません。今まで、聖人の教えは、外的なものを収拾するものでした。外的な理想をこのように教育するものだったのです。しかし、いくら教育をしたとしても、心と体が闘っているという問題は解くことができませんでした。(二二四−一六四、一九九一・一一・二四)

 先生は、十二時間、十七時間までも伏して祈祷しました。そのようなことに耐えて、すべてを探し出したのです。十年を越えて、悲惨な中で涙を流して痛哭しました。それに比べれば、皆さんはどれほど楽ですか。皆さんが先生と同じ立場に立ったと考えてみてください。いつどこでも教育するのです。それをどのように相続するのか、それが神様と真の御父母様が願うことです。眠ることができず、食べることができず、寝ること、遊ぶこと、食べることをすべて忘れて、どのようにすれば昼夜教育することができるかということが、先生の一生の課題でした。皆さんが先生のあとに従ってきて一つになろうとすれば、そのような目的をもっていなければなりません。先生が行った道に従って行かなければなりません。(二四六−七九、一九九三・三・二三)

 私は、復帰摂理の先頭に立ち、ここまで開拓してきました。今からは、貧民たち、食べることができずに貧しく暮らす、死にゆく人を標準として、その人たちを生かすことができるモデルをつくっておこうと思います。これが先生の最後の事業です。

 金剛山も、金日成が部下に指令を下して私に譲ってくれましたが、今までそこに関心を傾けずにきたのは、それよりも教育が優先されなければならないからです。教育が優先されなければなりません。文総裁は、思想的基準を中心として、北朝鮮の思想的空白を埋めてあげる責任を果たそうとしました。ソ連でも同じです。(二六七−四〇、一九九四・一二・二七)

 先生は、どこに座っていても、一生の間教育をします。どこに行っても教育します。そのように生きるのです。そのように生きれば、心に負い目を感じません。負債がありません。語る時には、汗を流さなければなりません。涙を流さなければなりません。力が力を創造します。精誠が精誠を創造します。先生は、原稿をすべて自分で書いてはっきりと知っている言葉であっても、講演する日になれば、五回以上精誠を尽くして準備しなければなりません。(二七九−一三一二、一九九六・九・二二)

 私が執り行う三億六千万双祝福結婚式の第一次儀式は、私が生涯を捧げて理想家庭に関する教育をしてきた結実の一つです。祝福の式に同参する者は、既に神様の前に婚約し、神様の真の愛を中心として真の夫婦、真の父母となり、真の家庭を築く人たちです。平和世界実現のために、真の家庭運動を通した歴史的な真の愛の革命をとうとうと進行しているのです。(二九四−六八、一九九八・六・一一)


二 韓民族よ、目覚めなさい


 今日、皆さんは、統一の理念をもって壁を越え、境界線を越えて、三千里半島と三千万民族の前に立ち上がらなければなりません。今の韓国の実情は、道端の青年であっても、捕まえてきて統一理念を教育しなければなりません。そのようなことが起きてこなければなりません。そうでなければ、滅びるようになることを、すぐに感じるでしょう。(一五−三四一、一九六五・一二・七)

 女性たちは、赤ん坊の包み、夫の包みを背負って第二の行軍をしなければなりません。今からは、学校や官公署のような所に行って、その人たちを訓練し、教育しようと考えています。それが失礼ですか。男性たち、考えてみてください。失礼ですか、そうではないですか。若い人たち、どのように思いますか。どれほど良いですか。全員、命を差し出すほど良いですか。考える余地がありません。いい加減な姿勢ではいけません。(一七−一五三、一九六六・一二・一一)

 出ていって闘うときは、父母の資格で闘わなければなりません。すなわち、闘う相手が怨讐だとしても、究極的な意味においては自分の息子と同じです。ですから、私たちの標語は、「父母の心情、僕の体。汗は地のために、涙は人類のために、血は天のために流そう」というのです。そうしてこそ、完全復帰が成されます。このような人をつくるということが、神様の最高の教育指針です。(一七−三三八、一九六七・四・三〇)

 韓民族は、個人的に見ればとても優秀です。世界のどの民族と比較しても、一対一で見たときには、最高に優秀な民族です。ところが、父母たちが教育を間違いました。ですから、実父が教育を正しくできないので、私たちが義父のような立場で連れてきて、正しく教育して立派な人にしようというのです。これを統一教会がしようというのです。(一八−二三七、一九六七・六・一一)

 今ではもう、先生が死んだとしても、「統一思想」は残るのです。このように教会を中心として心配する時は過ぎていきました。ですから、今からは、国のために心配しなければなりません。だからといって、「政治的に何かをするようだ」と考えないでください。違います。教育しなければなりません。思想的な教育をしなければならず、生活的な教育をしなければなりません。このような面で、一九七〇年代には、三千万民族を再教育する運動をしなければなりません。これが神様の望まれる願いだ、ということを知らなければなりません。(二七−二四五、一九六九・一二・一四)

 皆さんは、寝ても覚めてもこの民族、大韓民国をどのように復帰するのか、また北朝鮮をどのように復帰するのかという問題を考えなければなりません。外的な世界が問題ではありません。今後、南北が統一されたとしても、解放以降、北朝鮮の地で育った若者たちをどのように教育するのですか。彼らは、完全に赤化されています。そのような彼らをどのように導くのでしょうか。彼らをどのように教育して私たちの側に立つようにし、私たちの代わりに一線に出ていき、中国の共産党、あるいはソ連の共産党に対して闘うことができるようにするのですか。言い換えれば、どのようにして、彼らをしてアベルの前に自然屈服したカインの立場で、責任をもって闘っていくことができるようにするのかというのです。そのようにしてこそ、韓国の山河が統一されるのです。そのようにしてこそ、南北が統一され、倍達民族(注:朝鮮民族の古風な表現)は初めて歴史的な恨を解き、天の前に一つの主権国家として立つことができ、また世界の前に登場することができるのです。このような運命の道が残っているということを、皆さんは知らなければなりません。(三〇−二一、一九七〇・三・一四)

 私たちが最初に勝共教育を始めたときは、田植えをする農繁期でした。そのような時期に、一週間も農作業をする人たちがいなければ、その村の農業はすべて台無しになってしまいます。そうではないですか。秋や冬ならば分かりませんが、この忙しい時期に何の教育なのかと不平を言って逃げ回るというのです。しかし、今回で十次の教育ですが、今まで成功率が一〇〇パーセントです。また霊界でも協助してくれるようになっています。今の時が、彼らの先祖を動員しなければならないようになっているのです。

 先生が精誠を尽くしたところに対しては、霊界が先生の立場を後援しなければならないので、彼らの先祖たちが協助するのです。それゆえに、その人たちが教育を受けて帰ると、「もう一度この修練所に来たい」と思うのです。(三四−四一、一九七〇・八・二九)

 大学街では、統一運動の傘下にある「原理研究会」が強力な団体として現れています。このように、内外に問題になっていくので、学者たちも自分たちが知らないでいてはいけないというのです。それで今回、クリスチャン・アカデミー・ハウスで、五十五人の学者たちが「統一思想」の教育を受けました。このような内容が新聞に載ったのです。この記事の内容が、また問題になるでしょう。

 これは、統一教会が願ってそのようになったのではありません。彼らが来て、私たちの思想を聞いてみると、「統一思想」こそ今後世界の宗教を統合して余りある真理の内容だ、と思ったのです。また韓国の実情において、さらには、大学街の若い青年たちの価値観問題と倫理問題など、一番の難問題を解決するにおいて、新しい指導理念として遜色ないと考えて、立ち上がるようになったのです。彼らは、すべてを聞いてみて、ただただ喜んでいました。そして、「このように良い内容だということを知っていたならば、立派な教授たちを連れてきていたものを」と言うのです。調べてみると、悪い内容ではなかったというのです。(三九−二六九、一九七一・一・一五)

 四十日修練まで受ければ、大概、自分がみ旨のために命を捧げる覚悟をする段階になります。七日修練までは、原理を聞いて、自分の過去を清算し、み旨の前に働かなければならないと決心するようになります。それで、七日修練の中で、内的に献身を決意するように目標を定めました。過去のすべてを清算することができるように、面接しながら「清算して献身するのですか」と言えば、決意するのです。決意したのちに、二十一日修練では何をするのでしょうか。その時は、み旨のために生命を懸けることができるかということが問題になります。み旨のために一生を捧げることができるかという問題を中心として教育します。そして、二十一日修練が終わることによって、自らが神様の息子であることを自覚します。このような基準まで引き上がっていくのです。

 それから四十日修練は、「唯一であられる神様の代身者になろう」と、それこそ完全に出ていって闘わなければならないと思うのです。神様が復帰摂理をするために、今まで歴史時代の先頭に立って闘ってこられたと同じように、すべての責任を負われたように、四十日修練のときには、自らが神様の代身者だということを自覚するように修練させようというのです。すべての課程をそのように組みます。それで、教育制度から公式化しようというのです。様々なことをやってみて、一番良い方法を中心として公式化するのです。東部の教育制度や西部の教育制度、そしてアメリカの全州の教育制度も同様です。(七五−九三、一九七五・一・二)

 私は、一九六七年度に「北朝鮮五道民を私に任せなさい。彼らを教育しなければならない。彼らは、共産主義の苦味を味わったので、自分の家庭で直接若い人たちに『勝共思想』を教育するようにして、防御陣を張らなければならない」と言いました。その時、韓国の情報部では、「レバレンド・ムーンが、統一教会が勝共組織をつくって北朝鮮の五道民を教育するというのか。ぷぷぷ」と言ったのです。その時に受けた悲しみは言葉にすることができません。そのような悲しみを受けながら、今までこの基盤を築いてきました。

 既に数年前から強調してきたことは、「里の支部長教育を急ぎなさい。七万近い里支部長を教育しなければならない」ということです。これは何かというと、一つの枝です。葉が出てくるためのものが枝です。ここから葉が出てこなければなりません。葉は、里の町民です。その里の人です。これが生きなければなりません。共産党がいう細胞組織です。細胞が生きていなければなりません。葉が虫に食われれば、その木は、枝も枯れ、幹も根もすべて枯れます。ですから、これが設定されれば、七万人を投入するのです。七万人投入は、どのようにするのでしょうか。皆さんは分かりませんが、アメリカで、空軍、陸軍、海軍はもちろん、すべての傷痍軍人の将軍級の名の通った有名な人は、すべてカウサ教育を受けています。そこにアメリカ在郷軍人全体の組織の長まで連結させる運動を促進させています。(一三五−二五三、一九八五・一二・一二)

 今は、様々な面から見ても、人類に新しい春風が吹いてきていることを知ることができます。自由世界の春風、共産世界にも春風が吹いたかもしれませんが、そのような時代はすべて過ぎ去っていきました。すべて失敗したのです。

 今、レバレンド・ムーン主義を中心として、世界に新しい春風が吹き始めました。皆さんの心に新芽が芽生えているのです。それで、韓国の統・班長を教育し始めたのです。花が咲くのに、下の枝から咲きますか。どこから咲きますか。花は柔らかい枝から咲きます。統支部長を中心とした所属において、班長を中心とした家庭は新芽に該当します。その新芽が花を咲かせる日には、韓国に希望があるのであり、絶対にソウルはスパイたちに籠絡されないでしょう。私がくまなく捕まえるのです。

 彼らを捕まえておかなければ、北朝鮮を解放することはできません。やられてしまうのです。それをしようとすれば、皆さんが班支部長を至急に編成しなければならず、班支部長を中心として、班の例会を通して徹底的に教育しなければなりません。ここから新しい芽を植えなければなりません。統支部長から班長を中心に芽が出てくれば、それを一本の枝として植えなければなりません。(一四二−二五五、一九八六・三・一二)

 今まで世界的な反対を受けながらも、このような基盤を築きました。歓迎を受けることができる環境では、何十倍、何百倍も早い速度で間違いなくできるでしょう。なぜ私がこのような話をするのかというと、皆さんを一食口だと考えているからです。そのような責任を肝に銘じて、ここで休むことはできません。もうすべて終わったと思うかもしれませんが、今からがスタートです。一万二千人統支部長の十倍である十二万人の班長を中心として、種を蒔かなければなりません。ですから、班員を中心として教育しなければなりません。そこに根を下ろさなければなりません。今まで政府も、それができていないではないですか。ですから、政府が大騒ぎです。それができなければ浮草になります。ここで根を下ろさなければなりません。(一四二−二五六、一九八六・三・一二)

 文総裁は、「勝共理論」、「統一思想」、「統一原理」という本を既に注文しました。班支部長をするという人に分けてあげるのです。その本が教材です。時間さえあれば、班の例会をしなければなりません。教育すれば滅びません。大韓民国が、六・二五動乱以降、今に至るまで、悲惨な立場から二十年目にこのように上がってきたのは、「大学は牛骨格」(注:農村の青年が牛を売って大学に行ったことから出てきた言葉)という言葉もありますが、学ばせたからです。思想武装しなければなりません。そのようになれば、全世界の国家に私たちの民族が出ていって指導者になるのです。それは間違いないことを私は知っています。

 皆さんの息子、娘をこの思想で教育しておけば……。これは、私の思想ではありません。どの社会、どの文化、どの先進国に行っても、その国の人々を指導することができます。その先進文化に土着させ得る実力者を育てることができます。大韓民国は、今移民のために大変なことになっているでしょう? 私に任せなさい、私の言うことを聞くようにしなさいというのです。大学の卒業生十八万人が就職できずに大騒ぎしていますが、この思想で武装すれば、外国に出ていってどのようなことでもすべてすることができます。

 私たちは、教育しなければなりません。三年間、一九八八年まで準備すればよいのです。八六年アジアンゲームを経て、八八年世界のオリンピックが終わったのち、金日成は、間違いなく「三週間以内に南北総選挙をしよう」と言ってくるのです。それは、自由世界でも歓迎します。そのようになれば、韓国が後退し得ないコーナーに追い込まれるようになるのです。彼らは、既に二重組織をすべて編成しておいたので、できる限り近い日に選挙日を定めるでしょう。そのようなことを前にして、楽に昼寝をし、酒を飲んで遊ぼうという人は滅びます。滅ぶことはできないので準備するのです。準備した人は滅びません。(一四二−二六〇、一九八六・三・一二)

 誰が大韓民国の啓蒙をすることができますか。私がしました。再建国民運動を起こして啓蒙運動をし、十九万五千人を啓蒙したと報告したというのですが、私が十六万五千人と縁をもって教育したそのすべての人員数をそのように報告したのです。「それを、再建国民運動をしたと報告しようと思う」と言って、そのようにしなさいと言ったのです。今、そのようにしています。セマウル運動を誰が指導することができますか。私が農道院を最初につくったのです。ですから、統一運動のような思想でなければ、この国を救うことはできません。その教育方法に従って、最近セマウル教育だ何だと言いながら、政府で四十日修練をするというのです。その四十日修練は、私から出てきたものです。(一四八−一二一、一九八六・一〇・五)

 共産主義理論は膨大です。哲学思潮から解いて、一対一で正しく認識させるということは、簡単なことではありません。膨大な思想体系をもった共産主義に関して教えてあげるためには、経験がなければなりません。さらには、短期間の内に四千万を教育するだけでなく、今から南北総選挙をすれば、北朝鮮の地まで拡大させなければならないのですが、実際、共産主義に染まった人たちを教育して、逆方向に転換させるということは全く不可能です。

 私たち韓国でもそうではないですか。長期間刑務所にいるスパイたちに教育して、教化運動をしたのです。そこで一番有名なスパイたちは、理論的に武装した責任者たちです。北朝鮮から派遣された人ですが、そのように捕まっている人たちを理論的に教育します。すると、「負けた」と言って手を挙げるのです。しかし、おいしいものをどうして食べないのかというのです。タバコは発癌物質があって悪いということを知っているのに、どうしておいしいものは食べないのかということです。

 「おいしく感じることができるようにする力があなた方の理論にはないではないか。習慣化されたものをどうすればよいのか」と言うのです。「あなた方の理論に負けた。既に負けている。理論を見れば、『神様はいない』と言うことができず、もともと人間は、二重構造になっており、私たちの根本がそのようになっているので、結果の世界も二重構造となって統一圏に越えていくということは分かった。しかし、それは実感がわかない」と言います。実感がわかないというのです。共産主義者たちは、どこかに行ってさっと会えば電気が通じるのですが、私たちとは電気が通じません。ですから、そのような人たちに、新しい習慣をもたせるようにするためには、どれほど犠牲にならなければならないだろうか、という事実を知らなければならないのです。(一七二−一九〇、一九八八・一・二一)

 勝共連合を創設し、二十年間で三泊四日の正式教育をした人たちが九十万人になります。誰ももつことができなかったこのような人的宝を連結させたという誇りをもっています。勝共連合だけでなく、教会が教育した人だけでも二百万人を超えます。二百万人を超えるこの人たちが、統一教会の教会員にはなりませんでしたが、全国の村々、津々浦々に私たちの縁故として連結しており、脈を打って血が流れていくことができる基地になっているという事実を、政府も知らず、どの党も知りませんでした。(二〇三−一三九、一九九〇・六・二四)

 勝共連合で二泊三日の教育をした人が百万人を超えます。そして、勝共大会に参席した人だけでも、延べ何千万になります。四千万以上、約七千万になります。何回か参席したのです。誰もいないようですが、「先生が来る」と言えば、いくら大きな体育館を借りて講演をしたとしても、三日以内に何十万人がぎっしり埋まるのです。(二三二−一七二、一九九二・七・三)


三 きょうも世界の人々への教育に走る


 日本の人たちに、「反共運動をしなさい」と言ったので、みな目を丸くしていました。韓国が日本の圧政下にあった時、先生は日本で勉強したので、日本に対して多くの関心があります。それゆえに、先生が日本の食口たちに、反共教育をして反共運動をしなさいと言ったのです。先生がしなさいと言うのに、しないでいることができますか。「反共運動をしなければ、すべて死ぬようになっているのに、しますか、しませんか」と言えば、「します」と言うようになっているのです。それで、反共運動をしてみると、本当に実感がわくというのです。そのようになるので、日本の政府が、「反共運動は私たちがしなければならないのに……」と思いながら、統一教会に関心をもっているのです。(二二−一〇〇、一九六九・一・二六)

 日本では現在、先生の指導に従って政界人に勝共教育をしています。彼らを教育しなければならないので、県議会などを中心として、いわゆる赤に染まった各都市の県議員を五千人近く勝共教育したのです。ここで、全国的に外的組織を編成し、共産党に対して質的・量的準備をしなければならないのですが、外形を備えることができなかったので、至急に日刊紙の創刊を提唱したのです。(七四−二九五、一九七四・一二・三一)

 今日、この背後にある宗教問題の団体も、すべてダンベリーに入っていってつくったのです。週刊誌、月刊誌を創刊したのも、怨讐であるアメリカを生かし、自由世界を生かし、キリスト教を生かしてあげるためです。七千人から七万人のキリスト教の牧師を教育しました。そして、三十万以上の牧師や聖職者に、大型トラックで百台に相当する統一教会の原理講義ビデオを贈りました。これが今、問題になっています。その人たちは、頭が良いので、本の要点をつかんで読むのです。それで、師に尋ねてみても「受け取った」と言い、友人に尋ねてみても「受け取った」と言うのです。「あなたは何章を読んだのか」と言えば、「ああ、何章を読んだ」と言い、感想がどうだこうだと言って今大きな話題になっているのです。(一三七−一七三、一九八六・一・一)

 なぜ、マッカーサーに関する映画の製作を提唱したのでしょうか。お金のためにそのようにしたのではありません。アメリカの国民たちを教育するためです。アメリカの方向を完全に提示してあげるためにそのようにしたのです。(一二五−三二八、一九八三・三・三一)

 今日、アメリカが世界を支配することができたのは、教育方法において、全体の環境で自己の主観を立て、すべての相対的なものを分析し得る能力を育てていったからです。それゆえに、今日、短期間の内に世界の文化を導き、指導することができ、また創建することができる立場に立ったのです。そのような牧師たちが−文先生は、今生きている先生です──凡一洞を聖地だといって訪ねてくるのです。彼らは、昔私が座って祈祷した所で祈祷するのです。それは、「何十年後にはこのようになるだろう」と言いながら、空想する人のように話していた所です。

 かつてその町内で、私が最初に出発する時は、「あの凡一洞の頂に、賢くて立派だが、狂った人がいる」といううわさが立ちました。「今後、世界がこのようになり、このようになる」という、そのような話を誰が信じますか。避難民暮らしをしていた時なのです。今、約四十年たってみると、その時に話したことがすべてそのとおりになりました。そのとおりになっただけでなく、そのような環境を私がすべてつくりました。ですから、その人たちは、今ではみなキリスト教では限界があると思っています。

 アメリカが生きるためには、今からレバレンド・ムーンの思想で再起しなければならず、再訓練を受けなければならないことを感じているので、教育を受けに来たのです。私が座って食事もした所に来て、その場に座り、ひたすら涙を流して痛哭する、ということが起きました。それを考えてみてください。それはどういうことですか。その人たちは、牛をほふって祝宴をするからといって、訪ねてくるでしょうか。黄金のふろしきをあげるからといって、訪ねてくるでしょうか。ただ一つ、自由世界の指導国であるアメリカが生きることができ、キリスト教が再び生き得る可能性があるので訪ねてくるのです。

 一人追われたレバレンド・ムーン、四十年前に孤独な人だったレバレンド・ムーン、コーナーで陰に隠されていたレバレンド・ムーンがどれほど凄惨でしょうか! 世の中は豊かに栄え、貧しく愚かな立場にいたレバレンド・ムーンが、コーナーに立ってそこから出発しようとした時、誰が歓迎したでしょうか。一人もいませんでした。私は私なりに、最低のところから歩んで上がってきたのです。最低のところから教育してきたのです。それゆえに、今では、韓国の学界が、世界の学界がレバレンド・ムーンの思想を研究する段階に入ってきました。(一六二−二九二、一九八七・四・一七)

 私がいち早くアメリカに世界本部を置き、自由世界の思想教育に力を注いできたことは、皆さんが周知の事実です。統一運動においては、「ワシントン・タイムズ」をはじめとするいくつかの言論機関を世界の各地に立て、世界の言論人を教育し、世界の各大学の教授たちに方向を提示し、世界各国の学生運動を主導し、退役将軍たちをはじめとする在郷軍人たちを糾合し、南米諸国を統合する運動を起こし、世界の宗教一致運動を既に以前から直接遂行してきました。(一六四−一九六、一九八七・五・一五)

 今までアメリカで教育をしてきました。若者たちを捕まえて教育しました。真っ赤だった者たちが白くなるようにしたのです。真っ黒だった者たちが黄色くなり、白くなるようにしました。黒人たちが白人たちよりも良くなったので、より白くなりました。心で見ればそうではないですか。白人を怨讐視していた人を、教育して白人のために死のうという人に育て、また、黒人をごみ箱だと思っていた白人を、教育して自分たちがごみ箱の中にある自分たちのごみを片づけるのが仕事だと思う人に育てました。そして、「文総裁のためにこのような姿になってしまった」と言う人は一人もいないというのです。文総裁のために、私が天地を往来することができ、東・西洋を往来することができ、南北を往来することができる神様の息子、娘になったと自負心をもつのであって、文総裁の悪口を言う人は一人もいないというのです。(一七七―三〇、一九八八・五・一五)

 アメリカを中心として見るとき、アメリカのキリスト教がアベルの立場にいて、アメリカの国がカインの立場にいます。このアベルとカインが一つにならなければなりません。ところが、現在、アメリカのすべてのキリスト教文化圏が、サタン側の世界である共産党の侵害を受け、本来、憲法によって、国会からすべての官庁と教育機関まで、全体が礼拝と祈祷を捧げたのちに働き、教育するようになっているのですが、そのような環境が一九七〇年代、一九八〇年代に入って、すべて除去されることによって、神様の摂理の基台であるアベル的基盤が完全に世俗化してしまいました。カイン的基盤にアベル的基盤が占領されるという実情になってしまいました。このようなころに、統一教会を中心として迫害が起きたのです。

 そのような環境の中で迫害を受けながら、今日まで統一教会は何をしてきたのでしょうか。キリスト教の新しい方向と国の新しい方向を選別し、世界的な蕩減基準を築いてきたのです。これが天から任された使命だったので、先生は、アメリカに行って若者たちを教育し、統一教会をつくってアメリカの国とアメリカのキリスト教に影響を与えるようにしてきたのです。その途中で監獄にも行ってきたというのです。ダンベリーの監獄を一つの限界点として、自分たちができるすべての行動をし、それを所願成就することによって、アメリカの宗教界は、レバレンド・ムーンをアメリカの国から除去したと思い、レバレンド・ムーンがアメリカとは何の関係もない立場に落ちたと思ったのですが、その反対の結果がもたらされたのです。監獄に入って出てくることによって、アメリカの政府とアメリカのキリスト教が協力して、闘っていたものが反対の環境に展開していったのです。

 そのような課程を経ながら、今までアメリカの朝野の核心的な要員たちを新たに教育してきました。既成教会とアメリカの朝野の中心的な人脈を教育することによって、希望のなかったアメリカが、レバレンド・ムーンの思想を中心として希望をもつようになり、絶望状態に落ちて疲弊一路で退化していたアメリカのキリスト教が、ついに新しい方向に向かって前進することができる新しい転換時期を迎えるようになりました。

 皆さんが知っているように、アメリカの宗教界の牧師七千人を韓国に連れてきて教育し、三十五万人のアメリカ宗教界の牧師たちに私たちの原理のすべての内容が含まれた冊子を贈りました。それが十トントラックで百台分にもなります。長さが約十メートルあるトラックがあるでしょう? そのようなトラックで、正確に九十八トラックです。これを全国にいる牧師に贈りました。先生の説教集である『御旨と世界』から必要なものを抜粋した内容と原理の本、勝共思想を含んだ冊子をすべて発送してあげたのです。(二〇七―三一九、一九九〇・一一・一一)

 共産主義に対してはどのようにしたのでしょうか。ゴルバチョフと金日成、この二人が一九八七年にレバレンド・ムーンを暗殺する計画で、アメリカに赤軍派二十五人を投入しました。彼らがCIAに捕まって取り調べを受けたのですが、その取り調べが終わらない渦中に、私は裸になって先頭で走ってモスクワに入っていき、ゴルバチョフと会い、彼らが行くべき道を収拾してあげるために進み出ていったという事実! 今になっては、ソ連でもレバレンド・ムーンを中心とする希望と願いが大きいというのです。

 それゆえに、共産党の青年指導者たちを連れてきて、今教育しています。既に一千人が終わったのですが、「今年の七月までに三千人を教育してあげることによって、ソ連が今後行くことができる方向を見いだすだろう」と言って、そのように実践しているのです。このようにして共産世界に、この巨大で希望的な門を開いているという事実が驚くべきことです。彼らのために、どれほど自分自身を投入したのかということが、すべての困難な問題を解決する鍵だ、ということを教えてあげました。(二一○−一一八、一九九〇・一二・一七)

 世界のトップクラスの人々が現在、方向を定めて一つの平和世界、統一の世界に行くことができる、このような時代を迎えています。そのようにしようとすれば、宗教が先頭に立たなければなりません。それで宗教国連をつくり、宗教議会をつくり、宗教連合をつくり、神学大学をつくりました。世界の宗教を代表した神学校がベリータウンにあるUTS(統一神学大学院)です。そこでは、イスラム教も教え、仏教も教え、すべて教えてあげるのです。教えてくださいと言えば教えてあげるのです。(二七七−五二、一九九六・三・二四)

 イスラム教圏から来て教育を受けるのは、歴史始まって以来初めて起きたことです。この人たちが来て、自分たちを中心として大騒ぎしているのです。それで、私がここに来る前に四十人を呼んで気合いを入れました。

 今日のキリスト教の人たちが、イスラム教の高位の人たちを連れてきて教育することができますか。私たちの教育を受けて感動し、コラーンを信じていたように神様の前に祈祷して賛美すればよいのです。お互いに争っていては滅びる、ということを知りません。これは、ちょうど病院に入院している者と同じですが、自分たち同士で争っているのと同じです。病院に入っていることを知らずにいるのがキリスト教徒たちです。それでは滅びます。死ぬというのです。(二一〇−二一〇、一九九〇・一二・二三)

 今から私たちは、共産党を対象として原理教育をする予定です。転換期のソ連主義は、それが良いものであり、私が彼らにとって唯一の希望の道を提供しようとしているということを彼ら自身が知っているのです。私たちは、モスクワが常にそのまま存在するようにするために、すべてのものを動員しなければなりません。それで、ソ連の指導者たちをアメリカで教育するために、支援しています。

 私が投資するのは、ソ連自体のためにするのです。ノーボスチ通信社も歓迎しましたが、「それを消化するには、すべきことがあまりにも多いので、その提案を受け入れることはできない」と言ってきました。それで、私はすぐに、事が最小限半分はうまく進行するようにするために、モスクワ大学を訪問し、その大学を中心にソ連を代表することができる教授協会を創設しました。その大学と連結して、大学内の若者たちを選択しました。今、モスクワ大学から選抜された大学生三百人が、ここを訪問して教育を受け、私が来るのを待っています。

 彼らが提案したことは、「マルクス・レーニン主義をこの教育機関で教え、『統一思想』と「神主義』の訓練教育をそちらで実施して、交換教育を実施してみよう」というものでした。もう一度準備してそのようにしようというのです。彼らの希望的な目的のために、それを実施したのです。今まで私がそのための支援をしています。最近、ソ連で注視していることは、教育、ソ連主義、思想指導、この三つです。(二一七−一八九、一九九一・六・一)

 ソ連の二世たちも、すべて先生の側です。連れてきて教育したでしょう? これが八千人を超えました。今回も教育したのですが、全員、一流大学の学生で英語に堪能な人たちです。今では、ソ連の十以上の共和国圏内に、私たちが立てた二世たちによって築かれた基盤は、どのような条件でも取り除いてしまうことはできません。先生が関心をもっているのは、二世教育です。二世をつかむことができなければなりません。二世をつかめば、南北統一をすることができます。(二二六−二八八、一九九二・二・九)

 共産世界、ソ連の若者たちと指導者たちも、四泊五日の修練を受けて一八〇度天の側に向きを変え、レバレンド・ムーンの思想に従っていくと誓っていきました。アメリカの若者たちは、今までレバレンド・ムーンに反対してきたでしょう? 「レバレンド・ムーンが何だ。異端なので私たちは嫌いだ!」と言いました。しかし、今日、アメリカの青少年たちが置かれた状況を見てください。凄惨なほどの混乱と無秩序の中に陥って苦しんでいます。希望が全くありません。以前に、私がソ連で教育したモスクワ大学の学生たちを連れて、アメリカのアイビーリーグ(注一米国東部の名門大学を一括した総称)の秀才たちを逆教育しました。アメリカの置かれた現実があまりにも深刻だからです。それを知らなければなりません。(二四三−二一一、一九九三・一・一〇)

 ソ連は、今ではもうどうすることもできません。ロシア正教が統一教会に反対してきても仕方がありません。既に過ぎたというのです。「後の祭り」です。中・高等学校の教科書を作り、大学の教科書を作り、軍隊向けの教科書を作って、今教育しています。それを、モンゴルを経て中国にまで拡大してきました。中国が反対し、ソ連が反対してみなさいというのです。反対すれば……。満州に三省があります。延辺からハルピンまで連結しておきました。(二七三−一二八、一九九五・一〇・二二)

 各国の教育機関は、人材を養成するところですが、その伝統が世界の歴史の方向と一致しなければなりません。そのような教育をしなければ、世界から脱落します。個体国家時代は過ぎていきました。ヨーロッパでも、今回、EU(ヨーロッパ連合)ができました。統一ヨーロッパを中心として、これに対処するために南北米統一連合を構成し、韓国でも統合機構を中心として、アジアでも統合を叫んでいるでしょう? 国家的次元の時代は過ぎていったのです。

 ですから、世界の先進国家、どのような国でも統一教会を捕まえることはできません。私がこのような話をしてあげるのは、今後、韓国が行くべき道のためです。韓国はどこに行くのですか。国際舞台に出ていかなければならないのですが、行くことができません。今、私が北朝鮮と連結して話していることが何かというと、「ソ連と中国がこのような方向に動いていくので、レバレンド・ムーンの思想を中心として、六ヵ月あれば、私がソ連と中国に派遣して教育することができる実力者を育ててあげるので、早く門を開けなさい」と言いました。そのようにすると、ソ連がこのように回っていき、中国が回っていくのですが、ここで教師として送ろうというのです。指導者を送るのです。(二八七−四五、一九九七・八・一〇)

















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四 教育事業を展開する理由

文鮮明先生の教育哲学



四 教育事業を展開する理由


 お金を、国家的で、世界的で、天的な内容を中心として使わなければならないと思ったので、先生は、清平に土地を買ったのです。そこに土地を買うのは、世界のためです。今後、世界のために働くことができる基盤を築いておくために土地を買ったというのです。今からは、民族時代を経て漸進的な世界時代の前に立っているので、この時代のための国際的な教育機関をつくらなければならないというのです。ですから、堂々としています。そのためには、いくらお金を投資しても良心の呵責を受けません。(三三−一六〇、一九七〇・八・一一)

 きょう、残った時間に木を植えます。精誠を尽くして木を植えなければなりません。この木々が育てば、今後皆さんの子孫たちが山に来て、この木々を見ながら喜ぶでしょう。私は、これからここに大学を建てようと思います。教育機関をつくります。ですから、精誠を尽くしてこの地に木を植えなければなりません。今後、他の新しい土地にも、ここから木を移して植えるか、種をもらって植えようと思っています。そのような意味から考えてみるとき、歴史を生かし守ることができる内的な事情を中心として、愛することのできる基盤が私たちの地です。青坡洞を中心として、永い月日と環境を経ていくために、ここにこの土地を買い、清平にある土地も買うようになったのです。

 人は、一つの動機を残さなければなりません。心が焦る時に、天が涙を流すことができることを残さなければなりません。そのような人の子孫は滅びません。そうでなければ、いくら忠誠を尽くしても、にらまれるのです。これが先生の生活哲学です。神様から教育された教訓であり、相続した真理だ、ということを皆さんは知らなければなりません。(四三−六〇、一九七一・四・一八)

 私は、国を生かすために大学を建てようと思います。韓国に世界的な大学を造ろうと思うのです。皆さん、ヒルトンを知っているでしょう? 世界的なホテル王がいます。それでは、統一運動は何の王になるのでしょうか。大学王になると思うのです。「統一運動の大学は、世界のどこにでもある」と言うことができるように造らなければなりません。それで、そのようなことをしているのです。

 今後、大学を造り、ソウル大学の学生たちが私たちの大学に編入学するための競争が起きるようにするのです。遠からず、そのようにすることができます。どのようにしてでしょうか。外国の学生を何百人も連れてきて、私たちの大学で一緒に教育しながら、ソウル大学の学生たちに、「あなた方を全員外国に連れていって何々大学で勉強させるので来なさい」と言えば、ソウル大学でも何でも、ほうり投げて来るのです。このように、何百人がソウル大学を捨てて統一大学に来たといううわさが立つようになれば、「韓国で一等になるな」と言ってもなるのです。(五一−二九四、一九七一・一一・二八)

 学問というものは、国境を超越しなければならず、歴史まで超越しなければなりません。そのような観点で、全世界の学者たちが一つに集って教育をするのですが、民族の限界線に支配を受けるそのような教育制度を克服しよう、越えていこうというのです。

 アメリカならアメリカのための教育制度ではなく、イギリスならイギリスのための教育制度ではなく、それを超越して私たちが新たに構想している一つの世界、平和の世界を建設することができる教育制度を準備しなければなりません。このような目標を立てて、そこにふさわしい教育施設を備えなければ、完全な教育をすることができないので、それにふさわしい大学を造ろうと思います。それで、「国際大学理事連盟」をつくろうと思うのです。(七一−一七五、一九七四・四・三〇)

 私は、「国際文化財団」と「世界平和教授アカデミー」の基盤を通した「世界大学連盟」の理想を描いてきました。今、実現する段階となり、六大州で最小限七十の総合大学を順番に設立し、高い次元で若い世代を育成、指導するのです。大学相互間の交換教授制度、交換学生制度、共同研究などを通した、体系性を備えた教育として、人類が一つの兄弟となる平和世界の理想を実現しようと思う次第です。(一三〇−一二、一九八三・一二・一八)

 私は、神様のみ旨を奉じ、善民完成の目標を立てて、若い知性を心情教育と天才教育による愛天、愛人、愛国の人格に育成し、新しい歴史の主役にしようと思うのです。神様の究極的摂理が特定の民族や文化や地域、そして教団的、または宗教的範囲に極限することはできず、このためには、進取的であり、開放的で未来志向的な若い世代が牽引車にならなければなりません。これが、私のCARP(大学原理研究会)に対して期待をかける、また一つの重要な側面です。(一三三−二八二、一九八四・一一・三)

 今、皆さんは、リトル・エンジェルス芸術学校で過ごしていますが、この芸術学校を造ったのは、統一運動の理想を世界に連結させて、文化創造の基本となる芸術文化をお互いに補給し、協力し得る因縁を結ぶためです。この学校の教育目標は簡単です。天を愛する愛天、国を愛する愛国、人を愛する愛人によって世界の人類を一つに連結することを教育理念としています。このリトル・エンジェルス学校は、韓国で有名な学校です。日本でもそうであり、アジアでもそうです。これからは、皆さんの国とも交流が行われることを願います。(一三五−二六一、一九八五・一二・一二)

 卒業生の皆さんは、UTS(統一神学校)の大学院において二年、あるいは三年間修学したのち、ここを出発して神様のみ旨を成し遂げるための聖職者としての職責を遂行しようとする、希望に満ちた出発の時を迎えています。私は、皆さんに対する激励の前に、この日の祝福を許諾し、加護してくださった神様に感謝をお捧げし、同時に皆さんのために貢献してきたすべての教授たちの輝かしい教育的成果に称賛の意を述べたいと思います。

 本大学院は、短い歴史であるにもかかわらず、その唯一性を全世界に誇るようになりました。本大学院は、学生たちに超教派的教育を実施するモデルとして、すなわち私たち自身が教派の学生たちと共に見解を分かち合っていきながら指導する教授を、各宗教の教派から招聘することによって学問的障壁を崩してしまう、そのモデルとして奉仕しています。これは、実に歴史的成果です。近い将来、世界的に偉大な各宗教を探求することに専念する学部も設置します。神様は、数多くの宗教を立てられ、創造理想世界の完全実現のために、私たちを導いていらっしゃいます。神様は、終末期において、同じ宗教内の教派はもちろん、宗教間の調和を実現し、神様のみ旨を完全に成就することができる宗教運動団体として、統一教会をお立てになりました。統一教会は、人間の意志によって立てられた宗教ではありません。

 私は、本大学院の最も適合した場所の選定のためにここを探査しました。ここは、簡単に探し出された所ではありません。山と川の精気が学生たちの人格教育の助けになるということを知っているので、私は、立地条件として美しい自然環境を備えた場所を選定することに力点を置きました。

 私は、本大学院が開設されて以来、今まで何度もここを訪問し祈祷してきたのであり、多様な学問的観をもった様々な学生たちを、自ら教育してきました。ハドソンの川辺とその周囲の山頂と木、草、さらには小さな石一つまでも、私の心情と理想が共に込められています。特に本キャンパスは、私の心情が体現された精誠そのものです。皆さんは、善霊界の保護のもと、神様が下さった生命の精気を吸い込みながら、ここで日々を生活してきました。私は、数年間皆さんの研究によって積み上げられた知識の宝庫だけでなく、皆さん個人個人のための神様の願い、そして各分野において、聖職者としての愛を実行する皆さんに対する私の期待も一緒にもって本キャンパスを出発することを希望します。(一六七−九八、一九八七・六・三〇)

 昔から、大学は最高の真理を教える殿堂として知られています。最高の真理とは何でしょうか。第一に、天をよく知り、その中心であられる神様を明確に知ることです。第二に、世界の中心である人間を明確に知ることです。第三に、神様と人間が一つになって成し遂げようとする理想の国となります。

 それでは、このような重要な大目標を、どのようにして関係を結ぶようにするのかを考えてみるとき、ひとえに愛だけがその要だという結論を下さざるを得ません。ですから、私は、平素教育目標を「愛天、愛人、愛国」に定め、真なる教育とは、この目標を実践するところにあると教える一方、世界的な大学教授連合と学生連合を結成するに至ったのです。(一九五−五一、一九八九・一一・三)

 韓国はもちろん、全世界は、今、価値観の没落によって大混乱しています。私は、このような世界に向かって、今まで世界的な碩学たちを対象として、愛を中心とする絶対価値を主張し、「頭翼思想」を宣布し、左翼と右翼の間違いを正し、新しい目標に向かう価値観の世界に行かなければならないということを指導してきました。

 私が十数年にわたって主導してきた「科学の統一に関する国際会議」と「世界平和教授アカデミー」を通して結束している数多くの大学教授と、「原理研究会」を通して連結している多くの学生たちは、私の祖国である韓国の地に、私たちの教育理念を成就することができる世界的な大学の建設を願ってきました。それゆえに、私が十年以上前から大学建設のために努力してきたことを、皆さんはよく知っています。

 これまで多くの受難を受けた末に、今大学の認可が出ました。今からでも、急いで拍車をかけなければなりません。今から、成和大学は、世界性を備えた教育目標として、「愛天、愛人、愛国」の思想を徹底して教育し、民主世界の弊害を是正し、共産主義の末路を再教育する歴史的大学として昇華させていかなければなりません。(一九五−五二、一九八九・一一・三)

 先生が神学校を立てたのは、アメリカを救うためです。会社を発展させるために立てたのではありません。現在の神学校には、アメリカを救うことのできる能力がありません。これからは、私たちの神学校出身者たちがこの国に影響を与えるのです。大学教育もそうです。今のような教育では、アメリカの進路を変えることはできません。再教育するのは、私たちしかいません。キリスト教自体が神様のみ旨を知りません。神様のみ旨が何か知らないという話です。それを知っている人は、私たちしかいないので、私たちが新しく教育しなければなりません。

 アメリカの行政部署も、私たちの思想を知らなければびりになります。私たちの教育体制、理論体制を凌駕することはできません。天下に恐れるものがありません。アメリカに関する問題、それから宗教に関する問題、政治に関する問題、協商に関する問題など、今後世界がどのようになるのかはっきりと知っているのです。どのような質問をしても答えることができる、そのような強大な力をもっています。政治世界、宗教世界、神学世界、哲学世界において、私たちは、強大な力をもっているのです。思想武装されています。原子爆弾が問題ではありません。水素爆弾が問題ではありません。それゆえに、レバレンド・ムーンのもとに大勢の学者たちを結集させた世界的な学者組織、頂上会議の組織、言論機関の組織、それから宗教の組織、それから文化の組織等々、多方面の組織をもっています。(二一六−四五、一九九一・三・九)

 私と私の妻は、「世界平和教授アカデミー」を通して、世界の若者たちが、超国家、超宗教的に和合する未来社会の立派な指導者になるように教育することを目標に、「世界大学連盟」を開設しました。尹世元総長とルーベンシュタイン総長の知恵深い指導のもと、鮮文大学とブリッジポート大学を中心に、私の構想が実践されることを期待しています。

 「世界平和教授アカデミー」は、一九七三年、世界平和のための学者たちの積極的な探求と実践のために創設されました。特に、大学社会において、世界平和のための能動的な研究と実践の機会を提供してきました。世界に山積した問題は、良心的な碩学たちの指導を待っています。

 教授たちは、理論を教えるだけでなく、学生たちに人格と価値を植えてあげるのです。教授たちは、学生たちの人格形成と発展に重要な影響を与えるようにすることによって、彼らを善なる道に導き、助けていかなければなりません。

 「世界大学連盟」の活動によって、世界各地の学生たちは、世界最高の学者たちの教えに接し、また教授たちは、国境を超越して多くの学生たちを指導することができるので、より良い未来のために、より大きく寄与するようになるでしょう。(二七一−七九、一九九五・八・二二)

 ブリッジポート大学が全世界の三千三百の大学界で、今問題になっています。今同じ趨勢で見れば、アイビーリーグ(注:米国東部の名門大学を一括した総称)の大学、天才たちが行く大学も、だんだんと学生が減ってきています。第二次大戦後、アメリカの文化生活は、子供を生まない個人主義の方向を中心として、フリーセックスを主張してきました。息子、娘は面倒だと思うのです。その結果、今は、完全に家庭が崩壊状態に陥ってしまったので、このあとに続く学生はいないというのです。

 今、これをどうするのでしょうか。不足した学生たちを埋めるために、アジアから連れてくるのです。中国から、韓国から、日本から、みな連れてくるのです。ハーバードやエール、プリンストン、コロンビアと同じ水準にあるのがブリッジポートです。有名な大学や、東大のような最高の名声をもった大学に学生がいなければ、問題が深刻になります。ですから、そのように学校の経営が困難になれば、私たちの学生を三分の一ずつ分けてあげるのです。そのようにすれば、同級圏をすぐにつくってしまうというのです。今、そのような目的をもっています。

 今、教育政策を中心として、エール大学、プリンストン大学、ハーバード大学、コロンビア大学のような有名な大学の学長たちを集めて、今後アメリカの教育をどのようにしていくのかということをテーマにセミナーをしているでしょう? それをブリッジポートでしています。有名な学校の教授たちを集めてセミナーをしているのです。今回、ブリッジポート大学でしたならば、次はハーバードに行ってするのです。このように移動しながらするのです。

 兄弟圏の紐帯を結んで、あちらで不足な場合、東洋から学生を連れてくるのです。これを国策として、国家が学費を出すようになれば、いくらでも東洋から学生を連れてこれる道があるのです。アメリカの有名な大学なので可能です。ブリッジポート大学は、東大を卒業した学生たちも入っていく所です。ですから、日本で東大のような所を出ようと努力する必要はありません。今後は、高等学校も造るのです。そのようにすれば、高等学校だけを卒業しても、英語を流暢に話せるようになるというのです。

 ここで大学を出れば、二カ国の言葉をパスしなければなりません。十分に言葉が通じることができる教育、国際的な感覚に合うように教育するので、難しくありません。ブリッジポートでは、今世界各国の言語を教えることを始めています。勉強は、若い時、三十歳以前にしなければなりません。三十歳以上の人は、手を挙げてください。このような人たちも、一生懸命に勉強してブリッジポートを卒業すれば、ハーバードのような有名な大学の博士コースにも行けるのです。

 先生が外交のようなことをしないだけであって、大学の総長や、それ以外の多くの指導者を知っています。「この人は良い人材なのでよろしくお願いします」と言えば、どこにでも行ける道が聞かれています。それで、ブリッジポート大学を中心に「大学連盟」をつくろうというのです。ブリッジポート大学は、超大学の基盤をもっているので、世界的な指導者を養成するというのです。そのような組織をつくろうというのです。世界の各国の有名な学者たちが、国連総会のような世界的な組織をつくり、「このような規定で一致する人は、超国家的な要員として活用する」と決議して、使うことができる権限を与えるのです。

 そのようにすれば、日本人でもアメリカの長官になることができます。アメリカ人でも、日本の大臣になることができるというのです。先進国の十カ国が納得すれば、これは問題ありません。先生は、そのような準備をしています。その超国家的な指導要員として第一線に立たなければならない人は、統一勇士以外にはいません。統一勇士は、思想的にすべてのものを消化することができる力をもっています。統一教会の勇士たちは、共産主義や民主主義に勝る内容を十分にもっているのです。

 これからは、世界を指導する時代が来るので、それに対して備える要員を訓練し、選抜の頂上の基準にどのようにして連結できるか、ということが先生の作戦です。それゆえに、「大学連盟」をつくらざるを得ないのです。ですから、ブリッジポート大学と同じ教室が、世界の各国の大学につくられるようになるのです。その時、私たちが願う学科をつくればよいのです。(二四七−二六一、一九九三・五・九)

 この息子、娘たちを勉強させることのできる大学がすべてあります。鮮文大学もあり、アメリカに行けばブリッジポート大学があります。国連大学から通信大学まで、今世界の百八十の大学が連結されています。千以上の支部をつくるようになっています。大韓民国が私のあとについてこなければなりません。(二九〇−二九三、一九九八・三・二)

 私たちのブリッジポート大学を中心として、国連大学を設立しようと思います。そこで推薦するすべての人を再教育して、国連の指導者として選出しようというのです。アイビーリーグ(注:米国東部の名門大学を一括した総称)大学と私たちの学校が一つになって国連大学をつくれば、送られてくる人たちをそこで教育して世界国連の人脈として使わなければなりません。天才的存在を、各外務部の次官補を中心として教育担当にさせ、その国全体を教育しようというのです。このようにして、一つの思想体制、価値体制として糾合しなければなりません。(二五二−二八四、一九九四・一・一)

 鮮文大とは何ですか。文鮮明大学ではないですか。私の名前を逆さまにしたのです。文鮮、鮮文ではないですか。それが、今後世界一等の学校になるのです。間違いなくそのようになります。誰でもアメリカに留学に行くことができますか。行くことはできません。ところが、留学することができる準備として、鮮文大学では、それを学則に通過させました。ここで二学年まで通い、三学年は、そのままそこに行って勉強することができます。ですから、二年までは、英語でも何でも流暢に話せるようにして、アメリカの教授たちが講義することができるように今、訓練しています。

 そのような学校に息子、娘が入っていけば、損害が出ることはありません。これから見ていてください。高麗大学が問題ではなく、梨花女子大が問題ではなく、ソウル大が問題ではありません。完全に世界に名の通った学校として育てる計画です。

 アメリカにも統一運動関連の大学があります。アメリカのブリッジポート大学には、通信大学をつくりました。これからは、学校を廃止するのです。一箇所で電波を発送すれば、全世界で受信機を通して、いくらでも勉強することができます。小学校、中・高等学校までもです。

 既に私が数十年前から準備してきたので、世界の学者たちを中心として、ビデオ・テープを作っています。学校を廃止して、有名な学者を何人か選び、三十時間なら三十時間、五十時間なら五十時間のものを作り、あとからは、三時間講義のものも作ることができるようにするのです。そして、順番にすべてを学ぶことができるようにしておき、世界的な大学者を三人だけさっと立ててそのようにしておけば、座ったままそれを勉強することができるのです。そのようにすれば、十年かけて学んでいたものを三年ですることもできるのです。

 大学を出て大学院まで出ようとすれば、どれほどかかりますか。小学校六年、中・高等学校六年、大学四年、修士コース二年で十八年になり、二十年を超えなければなりません。博士学位までとろうとすれば、二十四年かけなければなりません。頭の良い人は、そのようにする必要はないというのです。ところが、時間を消耗し、途中で学生たちの費用を使って、教育部のような部署があらゆることをすべてしているのです。

 そのように、世界の学者たちのビデオ・テープを作って勉強することができるようにするのです。今、韓国もそうではないですか。書店にならずにビデオ販売店になるのです。それゆえに、そのような通信大学を造るのです。それから何かというと、東洋医学と西洋医学が今闘っていますが、私が和解させて大学を造っています。統一医学大学というのです。灸や鍼も、すべて科学的な臨床実験をして、新しいカリキュラム、学科を組むのです。

 それから、国連大学を造るのです。私たちの学校から国連までは、ボートで三十分以内に往復できます。すべて見えるというのです。国連の我こそはという外交官たちが、私たちの学生と親しく過ごします。すべて先生と思うのです。そして、先進国家から国連に来た大使は、三代、三回は大統領をした人を立てるのです。四回、五回以上した人は、すべて来るのです。

 何年後には、国の大統領が、「私たちの学校だ……」と思って、各国から支援されるようになればその人たちの後輩となり、アメリカに来て孤独なとき、先生に侍ろうと食事も用意してあげて世話をしてあげるのです。このようにすれば、門下生になるのではないですか。そして、世界的頂上に登っていって私たちが定着すればよいのです。

 それゆえに、そこにアイビーリーグ(注一米国東部の名門大学を一括した総称)の十大学、エール大、プリンストン大、ハーバード大など、その大学の教授たちを私が大勢知っているので、彼らを全員連れてくることができるのです。それが特別な人たちですか。あなた方の学校を卒業した人を国連大学に入学させなさいというのです。

 国連大学に対して、アメリカが権限を失ってしまいました。みなアメリカを嫌うので、共産党が手を出したのです。国連大学は、アメリカがアイビーリーグの人材を勉強させなければならないのですが、それができないようにしたのです。

 ですから、国連大学は、第三世界の大学生を連れてきて、国連の最高人脈を中心としてリードすることができる人に育てなければならないのですが、それを受け入れませんでした。ですから、アメリカがボイコットしたのです。それで私がアメリカに来て国連大学を支援したのです。鮮文大学も入り、ブリッジポート大学もそこに入れようと思います。

 今まで私は、お金をもうけるために商売をしたことはありません。お金は、すべて公的な面で世界を生かしてあげるために使ったのです。神様がそうではないですか。世の中をこのように愛されて、世の中を救うためにその基盤を築いたのです。(二八五−五二、一九九七・四・一九)

 私は、「世界大学連盟」をつくりました。今からブリッジポート大学と鮮文大学が有名になるのです。ブリッジポートを中心として、世界の連合大学を造るのです。一千の大学を一つにするための計画を立てているというのです。どこでも、ブリッジポート大学の分校ができるのです。それで、遠い所でも座ったまま勉強することができるように、牧夫の息子、娘たちのように学校に行くことができなかった人たちも、電気さえ通っていれば勉強することができるようにして、試験を受けて学士、修士、博士コースを終えられるようにすることを考えています。

 そして、東洋医学と西洋医学の統一、この統一医学大学も造るのです。また国連大学を造ります。その万全の準備を終えました。そして、先生は、「世界平和島嶼国家連合」をつくっておいたでしょう? 日本が陥没してはいけないので、日本に対置することができる「(世界平和)島嶼国家連合」、そして「(世界平和)半島国家連合」、そして「(世界平和)大陸国家連合」もすべてつくりました。

 ですから、一つの土地の根拠地、統一運動の基地をつくれば、国を形成することができるというのです。土地があり、民がいれば、主権国家、国を立てることができます。それで、国連に加入して、国連に大使館を設置しなければならないというのです。外的大使館、内的大使館です。宗教圏を中心として連合し、ある基地を譲渡してもらい、そこの全信徒をその国民とし、その基地を国土として、新しい国家を形成するようになれば、全世界にアベル的大使館を造ることができるのです。

 既に統一運動は、百八十五カ国に国家的メシヤの基地をもっているので、これは、大使館設置を完了したことになるのです。(二八九−六七、一九九八・一・一)

 心情文化世界を創建するために、私たちは、真の愛、真の父母思想の教育を通して人格を涵養し、神様の祝福のもと、真の愛の家庭を築く運動を、さらに広げていかなければなりません。生活信仰の鍛錬を通して、「ため」に生きて投入し、また投入する真の愛の人格がつくられてこそ、理想的な夫婦、理想的な家庭が成し遂げられるのです。この道だけが極端な利己主義、個人主義、物質主義の惰性から抜け出し、人類の明るい未来を期待することができるのです。この道だけが不倫と青少年の堕落、家庭破綻を防ぐ道です。

 また、「世界平和女性連合」の活動を通して、真の愛の母像を教育しています。すべての女性が、真のお母様の心情をもって子女を正しく宿し、教育してこそ、真の家庭の理想が実現されるのです。神様のみ旨に従って自覚した女性たちが、堕落した男性たちを正しく教育する時が到来しました。全世界的にこの運動が拡散されていくでしょう。

 心情文化世界を成し遂げていく課程において、宗教の役割は、本当に大きいのです。宗教間の和合と協力なしに世界平和を成し遂げることはできません。これまでも、このことに全力を尽くしてきましたが、これからも、宗教人たちが宗派の高い壁を崩して、神様のみ旨を地上に実現するという大きな目的のもとに連合活動をしていくことに率先していきます。「世界平和宗教連合」を積極的に支援し、また『世界経典』を配布、教育することによって、宗教相互間の共同善に目覚めるように努力するでしょう。宗教人たちが実践と協力と模範を通して、神様のみ旨を成し遂げていくために先頭に立つでしょう。

 ゆえに、「国際文化財団」の「科学の統一に関する国際会議」と「世界平和教授アカデミー」の活動を通した良心的碩学たちの献身と教育と実践が、より貴いものとして要請されるのです。私が新しい百科事典を編纂する意味も、新世代の正しい教育のための作業です。様々な教育機関を運営し、学術活動を支援しているのも同じ目的です。

 韓国の解文大学とアメリカのブリッジポート大学などを育成し、「世界大学連盟」に発展させる計画も、到来する心情文化世界の基盤を教育するためです。情報化時代を迎えて、新聞などの印刷媒体と電波媒体を世界的に支援、育成することによって、正しい言論を通じて大きな次元の社会教育をしています。(二六〇−一二九、一九九四・五・一)

 鮮文大学の建立精神は何ですか。第一に愛天、第二に愛人、第三に愛国です。反対にすれば、愛国、愛人、愛天です。

 私たちの建立精神は、第一、「愛天、天を愛そう」です。天を愛そう。愛というものは、一人でするものではありません。愛というものは一人ではできないのです。「愛」というものは万人で成立する名詞ではありません。愛は、必ず相対的関係において成立する術語です。男性が「愛が必要だ」と言うときには、男性同士で愛が必要だと言いますか。相対が必要です。相対が必要なのですが、男性が必要とする愛の相対は、男性ではありません。これは女性です。(二八二−四〇、一九九七・三・一一)

 今から家に帰ったら、今まで妻に自分勝手にしていたならば悔い改めなければなりません。昼も夜も、結婚したその日から、一つになって神様をお迎えすることができなかった罪、神様をお迎えして愛し得なかったことによって天を理解し得ない息子、娘を生んだ罪、これを悔い改めなければなりません。そのまま流れてはいけないというのです。自分が経てきた生涯は、自分が責任をもたなければなりません。

 ですから、天を知るのではなく、天を愛そうというのです。愛天です。神様には、愛の相対が必要なのです。

 富者の主人は、大勢の息子、娘、家族を抱えたいと思います。世界一等の歴史を代表した富者が神様ですが、世界万民、私たちの先祖まで連れていって、天の国の民として、息子、娘として統治したいと思われるのです。神様が最も願われることは、万民を一つの懐に抱き、一つの所で眠り、一つの所で暮らし、同じ場で子女から、「私たちの父母、永遠万世でいらしてください!」という言葉を聞くだけでなく、「私と共に永遠にいよう」と言い、喜びの涙を流すことができる時間を願われるのです。今まで人類は、これを失ってしまい、以後、取り戻すことができなかったのです。そうではないですか。

 「愛天」、それから何ですか。「愛人」です。「愛人」とは何ですか。神様の子女を愛そうというのです。その原則において、人々が一つになることができずにいるので、一つになり得るようにしてあげようというのです。

 このように考えるとき、私たちの建学思想がどれほど素晴らしいですか! どうですか。このような場に来て教育したという事実は、良いことですか、悪いことですか。今まで良く思わなかったとしても、今からは良いと思わなければなりません。

 そして、神様と人が一つになり、国をもって永遠に天に侍り、人類を抱いて暮らしたその国は、二人が一つになった家庭基盤の上に立つのです。上下が一つ、左右が一つ、天に代わることができる家庭基盤に立つのが国です。一人の基盤には立つことができません。家庭が平和の基盤を築こうとすれば、家庭一つだけでなく、私を通して氏族、民族、大きな基盤を和合、統一させることができる基盤を拡大し、天の国に侍ろうと思わなければなりません。そうしてこそ、そこに忠臣の血族が、一族が生まれるのです。その国が繁栄する国になれば、個人を願うのではありません。忠臣一門を、一族を願うのです。

 ところが、神様の側から見るときに、和解させようという人を「神様の息子だ」と言ったのであって、紛争を起こす人を「神様の息子だ」と言う教えはありません。ですから、いくら大きなことを言っても、神様が好まれる道を行く人は繁栄するのであり、神様が嫌われる人は転がり落ちていきます。彼らの学校や彼らの願うすべてのことが、秋風に散る木の葉のように落ちていきます。(二八二−一七三、一九九七・三・一一)

 愛天! これをするために、心身統一をしなさいというのです。これをするのに、絶対的な努力をせず、絶対に一つにするまでは、天と相関関係をもつことはできません。

 結婚した目的は何ですか。東西が一つになるためです。男性と女性は半分のかけらです。この二つが一つにならなければなりません。完全に、絶対的に一つにならなければなりません。二人が一つになって結婚し、何をしようというのかというと、神様を占領しようというのです。水平になれば、垂直はどこにでも立つのです。神様は、どこでも自由です。皆さんの心と体が水平を成さなければなりません。そして皆さん、男性と女性が一つになって水平を成さなければなりません。次元の高い水平を成さなければなりません。一段階次元の高い水平を成せば、神様がそこに臨在されるのです。

 男性は、結婚すれば、半分である女性の世界を占領します。半分のかけらと半分のかけらが完全に一つになって、完全なものにならなければな力ません。そのようになれば、どのようになるのでしょうか。全体を代表した完全主体である神様を中心に、地がこのようにも回り、あのようにも回り、どこでも止まれば九〇度になるのです。

 それで、この宇宙は、完全球形をなしているのです。なぜですか。どこでも運動しようとすれば、九〇度を成し、軸をもって運動します。これをどのようにしても九〇度であり、どこに行っても九〇度を成すときには、この表面的世界が不平を言いません。統一的な完成的価値性をもつことによって、高い位置にいても低い位置にいても、すべて幸福です。

 ですから、「愛天」というときは、二つの目を一つにして手をこのように握り、「愛天」と言ってすべて統一されたならば、神様が臨在されるのです。「目も統一、鼻も統一、口も統一、耳も統一、心も統一、私の行動も統一、いっぱいに満ちた。足まで統一しよう」、このようになれば、神様は、私のところに来なければなりません。横的に統一されたので、神様が来なければならないのです。

 宇宙を支配される強力な主体である神様が、私に臨在されることによって、私の良心は、誰にも偏らずに支配し、この体の環境与件を支配して余りある余力をもつようになるというのです。愛には無限の力があります。このような主人になることを願いながら、「愛天、愛人、愛国」という建学精神をもったことを誇らなければなりません。(二八二−一七五、一九九七・三・一一)

 今まで、外的に新聞社を造り、世界的な大会を行いましたが、最後には、これをどのように収拾するのかというのです。今から教育が重要だということを知らなければなりません。徹底した教育をしなければなりません。祝福家庭の男性と女性が原理原則を中心として完全に一つになり、一つになった父母が子女と一つになり、子女と一つになったすべての一族が、一代、二代、三代、七代を結んで一つになることができる、このような強力な教育体制をどのようにつくるのかということが問題です。

 教育体制といえば二つです。一つは内的教育であり、もう一つは外的教育です。内的教育は、人性教育からすべての価値観教育、これは家庭で教育しなければなりません。家庭を中心として、そのような教育をすることができる外的な学校を造らなければなりません。ですから、ブリッジポート大学や鮮文大学を造った理由があるのです。それを造って、これを支持し得る体制をつくらなければならないというのです。

 新聞社も同様です。アメリカに千七百以上の新聞社があります。「ワシントン・タイムズ」 一つだけではいけません。ですから、「ワシントン・タイムズ」の論調を最高に引き上げて、言論界最高の王者の立場に上がっていかなければなりません。その影響力が国家を越えて世界的にならなければなりません。それが今までできていません。

 ですから、言論人大会をして連結するのです。その教育体制を中心として、一カ国だけはいけないので、世界に連結したのちに、「ワシントン・タイムズ」を中心として、アメリカ内に影響圏を引き起こすことができる連合前線を備えるのです。世界に影響を与えることができる超国家的な言論組織が必要です。

 また大学街においても、大学一つではいけません。大学で教育する制度において、先生から一元化された教育基準を中心として、アメリカのどの大学よりも超越的な未来像がなければなりません。人性教育や社会制度化したすべての疲弊を防いでいき、それ自体が昼も夜も、どこに行っても批判を受けずに支持される環境をどのようにつくるか、ということが問題なのです。

 このような問題は、国があり、その憲法を通して方向性を設定しなければならないので、国が必要なのです。個人、家庭、氏族、すべてが完全に基盤を築き、それを連合して一つの国家的勢力基盤よりも、すべての面で越えるようになるとき、国家が必要だというのです。その基盤ができなければ、いくら国家自体があっても滅びるということは同じです。かえってそのような理想の解決方法が難しくなります。

 そして今、先生が関心をもっていることとは国連の方向性です。頂上に上がってきたというのです。組織ができているではないですか。超宗教、宗教の頂上、超国家、国家の頂上、大学連盟、大学の頂上、言論人大会、言論界の頂上です。そして、経済界、銀行界の頂上で方向をつかみ、小さな国のような基盤さえできていれば、一瞬の内に収拾することができるのです。ウルグアイやパラグアイのような国は、完全に開発してあげることができます。後援基盤さえ世界に連結できれば、四、五年ですべて終わるのです。

 それから教育です。私たち統一運動は今、大学をもっており、言論機関をもっており、また思想的教育をすることができる教会をもっているので、完全に平準化するのは問題になりません。そのような塔を積み上げておいて、夜に灯台の明かりがともれば、灯台を中心として夜行動する群れに、「回りなさい! 右に行きなさい!」と言うとき、その明かりに従っていけばそのまま行くようになっています。

 そのような標準をつくるための外的基盤を、今まで先生が苦労して築いておきました。ワシントンD・Cにあるすべての基盤を、どのようにして一つの目的に結束して攻撃するか、ということが問題です。新聞社なら新聞社を中心として、「世界平和超宗教超国家連合」が一つになり、新聞社を中心としてブリッジポート大学が一つになり、新聞社を中心として言論人が一つになり、新聞社を中心として銀行家が一つになれば問題になるのです。

 ですから、一つにならなければなりません。今まで別々にしていました。蕩減時代は仕方がありません。平準化しようとするのですが、一度に平準化はできません。世界に広げておいて、そのようにしてきたのですが、今は平準化されました。蕩減時代を乗り越えることができる「九・九節」と「三・十節」を経ることによって、完全に連合しなければならないのです。連合するのは、対外的な威信と対外的な格を備えなければなりません。(三一二−一二九〜一三一、一九九九・一〇・七)

 若い人々は、三カ国語以上できなければならない時が来ました。ですから忙しいのです。皆さんの時代にできなければ、皆さんの息子、娘でも、そのような世界に同参させなければならない父母の責任があるということを知らなければなりません。私が全体に責任をもった父母の立場で、万民に対してそのような立場で接するのです。それで、大学を建て、世界的な大学を造らなければならないのです。

 清平に超宗教神学大学院を建てるための計画を立てています。世界民族村を中心として文化の殿堂を造り、世界の万民が訪ねてくるときに、自分たちの故郷の香気を感じ、本部に来て天の国の宮殿からすべての教育体制の訓練を受け、世界に出ていかなければなりません。そのようなことを構想しているのです。それは、妄想ではありません。目の前で見て感じることができる時代において、自分が行くべき道を行くことができなければ滅びなければなりません。滅んでも、誰も同情する人はいません。しっかりしなさいというのです。(三一九−三四、二〇〇〇・三・一六)


五 純潔教育と純潔学部


 今、「世界大学連盟」をつくっています。南米にもつくり、ヨーロッパにもつくります。アジアまでするのです。六大州につくり、全世界の大学連盟を中心として、青年活動と学生純潔教育を表題とし、純潔学部を中心に今後、導いていこうと思います。来年には、鮮文大学に純潔学部が始まります。そのような一連の計画を中心として、世界にまで連結させるためには、それが不可避なことなので急がなければなりません。(二九五−七四、一九九八・八・一七)

 鮮文大学に男女純潔学部を造ろうと思います。鮮文大学に男女純潔学部を造り、この学生たちに奨学金を与えるのです。このようになるときには、全世界の大統領たちが来て祝賀するでしょう。自分の国の学生たちが学ぶところに、世界の首相たちが祝賀するようになるとき、間違いなく文総裁の行く方向に歩調を合わせざるを得ない、という結論に至るでしょう。今、鮮文大学を、アジアのどの大学よりも立派に建てています。皆さんの息子、娘たちを純潔学部に入学させる自信がありますか。息子が父母の言うことを聞きますか。聞くという自信をもっていますか。

 父母が子女を信じることができず、子女は父母を信じることができません。妻を信じることができず、夫を信じることができず、兄弟を信じることができず、おじいさんとおばあさんを信じることができません。不信風潮のこの社会です。もともとこれは、悪魔が地上地獄を膨張化させてきたということを知らなければなりません。ですから、誰が必要ですか。この家庭を誰が救ってくれるのかというのです。それは、文総裁以外にはいません。文総裁の家庭編成の理念は、天の国の秘密の倉庫に入っているテキストブック(教科書)です。

 エイズは、私たちの手で! 大韓民国にブレーキをかけてこれを追放するのです。アメリカについていくなというのです。アメリカは、私がつかんでいてあげなければ滅びるようになっています。そのような話をするので、アメリカでは憎まれているのです。

 「どうしてコロンブスがアメリカを発見したのか。現地住民は人間ではないか。死ぬようにほうり出しておいて、ペテンにかけようとしている。インディアンが病気で死んだのか。このどろぼうのような者たち!」と言えば、アメリカは聞きたがらないので、胸ぐらをつかんで、「お前を整理するために私が来た」と言うのです。最近になってそれが分かったのです。文総裁は、恐れる人がいません。言いたいことを堂々と言うのです。正しい話は正しい話どおりに、一方通行の結実を結ばなければならないというのが、天地が願い、文総裁が願い、すべての人が願う道なので、その道を選ぶというのは正当な道だったのです!(二七三−二六七、一九九五・一〇・二九)

 今回、鮮文大学の総長を女性にしたのはどういうことでしょうか。今後、純潔学部を造らなければなりません。純潔学部を造り、そして十の女子大総長たちを動かすのです。このようにして、男性の総長たちもすべて招請することができなければなりません。そして、純潔学部で教育をして、すべて一箇所に集めなければなりません。来年から純潔学部を造るのです。そのようにして、女子大で純潔学部を一学年だけするのではなく、教育部の長官を動かして連合し、大学全体において一学年、二学年、三学年、四学年を募集するのです。その人たちを学校名義で数十人ずつ一学年から始めるのですが、一学年、二学年、三学年、四学年、卒業生までしようというのです。教育部が言うことを聞かなければ、説得するために渉外の準備をしなければなりません。(二九〇−三〇八、一九九八・三・四)

 これからは、鮮文大学に入るのは簡単でなくなります。先生の名前が看板としてついています。すべての若い人たちが夢に描く鮮文大学とブリッジポート大学になっています。ブリッジポートというのは、摂理的な言葉です。ブリッジポートとは何かというと、「橋を架けた港」という意味です。また、鮮文大学とは何ですか。「鮮」という字は、海(魚)と陸地(羊)です。ですから、今まで二十五年間、毎日のように先生は海で船に乗りました。五時に起きて十二時、一時、二時まで船に乗りました。

 皆さんに、「五十年間船に乗りなさい」と言えば、乗りますか、乗りませんか。博士学位をとった人たちを連れて船に乗ろうと思います。今は、時になりました。今ではもう、私が海から陸地に上がっていく時ではないですか。エバが、島国が陸地に上がってくる時だというのです。それで地帰島を買ったのです。地帰島は、日本を連結させるためです。ですから、重要なことはいつも済州島に行ってしてきたのです。修練も済州島でしました。

 今からは、純潔学部を造らなければなりません。単科大学を造るのです。家庭科からすべてを備え、そして男性純潔学部もつくるのです。純潔も、男女純潔学部にならなければなりません。女性を立てて復帰です。堕落とは何ですか。天使長がエバを誘惑したでしょう? 純潔大学の出発とともに、各学科をつくっておいて男性まで編入させるのです。では、男性の皆さんは、純潔女性と結婚しますか、堕落女性と結婚しますか。これは、世界の名門学校になるのです。その国の学者、その国の名の通ったすべての人が純潔学部の女性を嫁にしようとし、男性を婿にしようとするのです。

 純潔学部は、三年以内に……。総長を中心としてこれを動かし、十の大学を中心として、教育部の認可さえ出れば、一度に四学年をつくるのです。一学年は、最初に鮮文大学でして、それから女子大を連合して二学年、三学年、四学年まで学生を募集するのです。純潔の人がいれば、一つの総合大学を造り、ソウル大学を一つ借りるか、延世大学を借りるか、梨花女子大を借りるかして、そこで純潔学部二学年、三学年、四学年を編入させて連結しておくことができるのです。そして、卒業する時には、鮮文大学純潔学部の卒業証書を与えるのです。

 最近、高等学校の学生たちが、特に実業高校の学生たちが、なぜリュックを背負って通っているのでしょうか。自分の生活用品を入れて通うのです。女子実業高校に通う子供たちは、靴も、服も入れて通います。学校を出て、靴を履き替え、服を着替えてどこに行くのか知っていますか。繁華街に行くのです。家で父親と母親に、お金をくれというのは簡単ではありません。ですから、梨花女子大の学生についていき、女子大生についていくのです。ついていきながら、紹介してもらうのです。そのようなことをしてこのような姿になりました。それが今問題になっています。梨花女子大は、見る影もありません。ですから、純潔女性を捜し出すことは、金脈を探し出すことよりも難しいというのです。サタンがこのように滅びるようにしておいたのです。(二九二−七四、一九九八・三・二八)

 今回、鮮文大学では、学生の倫理規範を宣布してしまいました。この学校では、タバコも吸いません。アヘン(麻薬)はもちろん、恋愛もしません。恋愛をしようとすれば、校長先生の「してもよい」という承諾を受けなければなりません。革新運動が展開しています。それをしなければなりませんか、してはいけませんか。文総裁が主張していることは、正しいことですか、悪いことですか。皆さん、文総裁に従っていきますか、世の中に従っていきますか。世の中に従っていけば、間違いなくごみ箱に入っていきます。ごみ箱に入っていくというのです。文総裁が知っている知識をもっていけば、世界最高の指導者になり、最高人脈の中心存在になることができます。(二七四−九一、一九九五・一〇・二九)

 解文大学に純潔学部を造ろうと思います。今、その青年たち、学生たちが道義的な宣布をしました。祝福家庭の子女たちが堕落したならば、自分の一族の父、母、おじいさん、三代が引っ掛かるのです。そのようなことは、天が考えただけでもぞっとします。見るのも、考えるのも嫌だというのです。純潔を守らなければなりません。(二七五−二一四、一九九五・一二・三〇)

 鮮文大学では、純潔女子学部を始めました。お母様のように美人で、美しいと同時に謙虚で、謙虚であると同時に威厳があり、内外の、霊肉の実力を備え、どこに行っても、壇上に立てても自信満々で、昼でも夜でもすべてを感動させ得る力を備えた、そのような女性に解放しなければなりません。そして、女性たちが自分の国の夫たちを再教育することに価値をおく、ということが今から展開していくのです。(三〇二−二三三、一九九九・六・一四)

 純潔教育が今始まったのですが、全員講義しなければなりません。純潔講師たちがこれだけではいけません。それこそ学校ごとに責任者まで選定しようとすれば、現在の教師たちを中心として教育させ、訓読会式に教育すればすべて終わるのです。教師たちは、いつも聞くことは好みません。自分の学校で純潔教育を、一次、二次、三次、四次とすれば、自分たちがすると言うのです。ですから、自分たちがして学校当局が責任をもつことができるようにしておけば、私たちは、報告を受け、特殊な教師たちを教育し、特殊な学生を一つの班の中に何人ずつか選んで教育するのです。それこそ精鋭をつくり、その学校で、運動の先鋒分子をつくらなければなりません。

 そして完全に基盤をもち、崩れた学校内の教権を再び立てるのです。その人たちが感動して、道端でも、学校周辺でも、昼夜学生たちが思いどおりに悪いことができないようにするのです。社会運動に展開させるためには、校長を中心として先生たちが立ち上がらなければなりません。それから、学生たちを中心として、班ごとに訪ねていって学生の父兄たちを教育すれば、学生の父兄組織が自動的にできるのです。今から教材を作って教育しなければなりません。鮮文大学で教材を作って分けてあげるのです。一度だけ一通りやれば、堕落論や復帰原理や再臨論を一時間以内に簡単に話してあげることができるのです。「具体的にやれば、何年、何カ月でもすることのできる内容がありますが、摂理に従ってこの学校に合うように組みます」と言うのです。そのようなやり方で、概念をまとめて推し進めていかなければなりません。

 それを研究して、今後、放送局を通してするのです。放送局で駄目ならば、ラジオ放送で、私たちが時間を買って放送するのです。そのようにすれば、学生たちが喜びます。「私たちがしていた純潔教育が放送される」というのです。ラジオ放送、テレビ放送でもするのです。十二時以降は放送しません。十二時以降に新しく一時、二時まで全国に放送できるように交渉するのです。教育部で支持できるようにするのです。放送局まで活用しなければなりません。そのようにすれば、六ヵ月以内に四千万を、学生、大学生、教授たちを一箇所に座らせておいて、教育することができるのです。ニューヨークでも現在、放送で訓読会をしています。その影響が大きいというのです。その次には、訓読会式で朝、昼、夜に三十分ずつするのです。そのようにすれば、完全に思想武装することができます。(二九五−九八、一九九八・八・一七)

















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第六章 教育、摂理的目標と課題

文鮮明先生の教育哲学



第六章 教育、摂理的目標と課題


一 祝福家庭が通過すべき教育課程


 今後、統一教会自体において、子女たちに原理の道を教える責任があります。それから、皆さんの家庭が中心なので、家庭の中心として、サタン的な世界のいかなる息子、娘よりも立派な息子、娘をもち、自分が暮らしている周辺の家庭に、「本当に、あの家の息子、娘は立派だ。祝福されて生んだので違う」と言わせなければなりません。皆さんの家庭自体にとっても良いことですが、そのような言葉を残すことによって、周辺の信じない家庭の前に模範になるというのです。また、そのように生まれた息子、娘は、今後、教会で教育して世界的な人物に育てようと思っているのです。それが先生の計画だということを、皆さんは考えてみましたか。(一〇一・二〇二、一九七八・一〇・三〇)

 今はもう、すべての人が「原理」を知らなければならないようになっています。「原理」を知ることによって、方向を探し出すことができ、神様を知るようになっているのです。神様を知らなければ、方向が分からないのです。絶対価値の基盤が分からないというのです。教育の重点時代とは何かというと、原理教育のことです。それゆえに、誰もが原理講義をすることができるように準備しなければなりません。(二一七−七八、一九九一・四・一六)

 第一は、教育の徹底化です。ですから、三日教育、七日教育、二十一日教育、四十日教育を受けなければなりません。六ヵ月間で七十一日間の教育を受けなさいというのです。三日修練、七日修練、二十一日修練、四十日修練を、誰もが受けなければなりません。六ヵ月以内でこのような教育を受けなかった人は、統一教会の食口に願われる基準にはなれません。み言が分からなければ、統一教会のみ旨が分からないで引っ張られていくので、とても苦労をするのです。希望に満ちあふれて未来を見つめながら行かなければならないのに、全く分からない青盲(注:目はあいていながら、物の見えない眼病)となって引っ張り回されるので、心的な苦悶がどれほど多く、嘆きがどれほど多いでしょうか。最悪です。

 それゆえに、統一教会は、いかなることがあったとしても、六ヵ月以内で七十一日間の教育をするのが鉄則です。そのようにしなければ、統一教会の食口の真の基準になることはできないのです。(二六一−二四三、一九九四・六・一九)

 人間の堕落によって破壊されたものを早く復帰して、ここから、昔絶滅した種を再び世界に拡張しなければなりません。鳥も、千五百種がいます。昆虫博物館を造らなければなりません。それを造っておけば、ここは摂理の中で登場した場所なので、世界の人々が、万民の息子、娘の教育場所として訪問するのです。神様が、つくったものを見て喜ばれた、その事実を見て喜ぶことができる環境をつくるために、ジャルジンを開発するのです。ジャルジンは、エデンだということです。多くの人々が、その場所を通して「再臨主が来る」と言いました。ですからパンタナールは、世界の聖地になるのです。(二九四1 現在、先生は、ジャルジンで教育を行っています。そのジャルジンで何をするのでしょうか。祝福された家庭は、縦的には上がってきましたが、横的基準に立つことができていないので、今からは横的基準において神様と共に生きることができる家庭を築かなければなりません。そのために、世界平和に向かう理想家庭教育センターを造って、祝福された家庭を新たに教育しなければなりません。神様の絶対栄光となった家庭に同参することができる内容を、再び訓練させなければならないのです。それが、ジャルジンの家庭訓練です。(二九四−三一九、一九九八・八・九)

 教会は、特殊環境の教育を行っています。そのような時は過ぎ去ります。地上天国になろうとすれば、公開された教育内容を探し出さなければなりません。その代わり、その徹底した思想を中心として、社会と一体化させるための組織編成をしなければなりません。知っているだけではいけません。行動することができる体制をつくっておかなければなりません。軍隊に行けば三年間服役するのと同じように、その知っているものを何年かの間実践しなければなりません。七年路程が残っています。再び、そのとおりに経なければなりません。法によって通過しなければなりません。それを経ることができなかった人は、出世することができません。すべてふさがれてしまうのです。(二九五−七六、一九九八・八・一七)

 ジャルジンで行う教育は、天国を完全にフリーパスし得る家庭をつくるための教育です。ジャルジンに家庭教育の訓練所ができて、ここから理想家庭が出発するのです。天国に直行するのです。そこには家庭が入っていかなければなりません。ですから、四位基台の四人が来て教育を受けなければなりません。父母だけではありません。家庭が来なければならないというのです。これをしなければ、入籍だろうと何だろうと、真の意味で先生に従っていくことはできません。そこから転がり落ちるのです。祝福されたとしても、ここでこの教育を受けなければなりません。家庭が天国に入っていけるチケットを与える場所です。(二九七−七一、一九九八・一一・一五)

 サタンがついてこないように整備し得る家庭の四位基台教育が、ジャルジンの教育です。そこを通らなければなりません。国籍を失ってしまった家庭になるのです。ベツレヘムに戸籍(登録)を行うために行ってイエス様を馬小屋で生むという、それ以上に悲惨なことも起きるかもしれません。その道を訪ねていかなければなりません。適当にしてはいけないというのです。(二九七−八七、一九九八・一一・二〇)

 今、「三十六家庭」から「三徳六千万家庭」まで、すべて集まりました。集まって教育を受け、四十日が過ぎればどのようになるのでしょうか。古い先輩家庭を見て模範とするのです。それで、証をするのです。妻も証し、夫も証するのです。結婚してどのように生きたのか、自分が生きてきた生活をすべて証するのです。心と体に引っ掛かっているものをすべてありのままに話さなければなりません。それが家庭教育です。根本的な家庭教育だというのです。誤った内容は、根を抜きとってしまわなければなりません。隠しては、絶対に霊界に入っていくことができません。

 これが、神様が入っていくことのできる宇宙的な天国直行行路を築くことです。神様御自身は、宇宙的な直行行路を開拓することができませんでした。罪を誰が犯したのでしょうか。偽りの父母が犯したので、犯した罪を蕩減するために真の父母が来なくては、神様を解放することができません。真の父母がすべてのことを起こして教育することによって、それが可能になります。神様が先頭に立つことはできません。天国に入っていく時までは、神様が先頭に立つことはできないというのです。その神様に侍り、先生を中心として蕩減しなければなりません。蕩減されたサタン側の世界の家庭、祝福された家庭を天側に吸収しておき、その家庭には、今回祝福された皆さんの先祖を任命するのです。天使長世界に属する霊界の多くの先祖を天使長の代わりにカイン世界の家庭として配置しておくのです。

 皆さんの家庭は、神様と真の御父母様と国家的メシヤ、氏族的メシヤ、家庭的メシヤを中心として一つの垣根になったのです。左側の世界から先生が四十年間上がっていって勝利して、神様をお連れして下りてきたのです。真の父母が立つ場所がここです。それゆえに「世界平和統一」、それから何ですか。「理想家庭」、それから何ですか。「教育本部」です。世界平和統一理想家庭教育本部、歴史始まって以来、初めてここに神様が君臨されたというのです。(二九七ー二八二、一九九八・一二・二二)

 祝福は様々な所で受けましたが、天国に入っていく時のスタートラインというものは一点です。それが南米のジャルジン修練所です。それゆえに、世界平和理想家庭教育本部だというのです。天国に入っていく理想家庭です。それゆえに家庭的教育です。ですから、万人で来てはいけないのです。夫婦だけで来るのでもありません。本来は、息子、娘、四位基台を中心として教育を受けなければなりません。(二九九−二〇五、一九九九・二・一六)

 ジャルジンの世界平和理想家庭教育本部から天国の出発が起こります。そこで教育を受けて、この場所を経て天国に行かなければなりません。西洋からもここに来て、東洋からも来て、家庭的に、超民族的に結婚した家庭が、個人、家庭、氏族、民族へずっと上がっていくのです。ここを経なくては、この柱を垂直に上がっていくことはできません。南北が分かれました。南北が分かれたことを、ここで一つになるようにさせるのです。東洋と西洋が、家庭を中心として、統一的焦点起源に合わせなければならず、根源起源に合わせなければならず、勝利起源に合わせなければなりません。オリンピック大会の出発点がいくら遠いといっても、同じ出発点です。出発をどこかで勝手にしません。終着点も同様です。ここから出発して、本国である韓国に入っていって統一がなされなければなりません。これをすべてなして、あとでこの中で出会うのです。

 それで皆さんは、国の前に所有権を転換しなければならず、国も、国連の前に所有権を転換しなければなりません。国連は、神様の前に所有権を転換して、神様に帰っていかなければなりません。教育も、先生は小学校、中学校、高校を、アメリカにも造り、東洋にもすべて造ったのです。思想的基準の最高に上がっていったのであり、それから教育的面でも最高に上がっていったのであり、新聞社、銀行までも最高に上がっていきました。ですから今は、国連が行くべき道を指導しなければなりません。(三〇三−一三七、一九九九・八・八)

 今からは、天情の伝統の教育と実践が必要です。天の情、今までの世の中のものではありません。霊界を知ることによって天情を中心とした新しい伝統を知って、それを教育し、実践しなければならないというのです。それで、天情の伝統の教育と実践です。実践でも実績でもどのような言葉でもよいのです。(三一〇−一九八、一九九九・六・一四)


二 女性と教育


 家庭堂は、国家のあらゆる党に所属している人々を連れてきて教育する所です。統一堂は、母堂なので、母が息子、娘であるカイン、アベルをつかんで教育しなければならないのです。国はどのように行くべきであり、家庭はどのように行くべきかということを教育しなければなりません。南北統一は、家庭から出発するのです。サタンは、党を中心として闘う群れをつくりましたが、私たちは、闘う群れを連れてきて統一の群れをつくろうというのです。(二四二−六七、一九九二・一二・二七)

 今まで四十年間、お母様が先生の後ろに従ってきましたが、今は先頭に立っていかなければならないのと同じように、今は、皆さんが先頭に立っていかなければなりません。ですから、女性たちを中心として「世界平和女性連合」を創設したでしょう? 統一堂とは何かというと、母として息子、娘を教育することができる家です。それゆえに、これを村ごとに、どこでもすべてつくらなければなりません。母を中心として、息子、娘を教育して何をしなければならないのでしょうか。母と息子、娘が一つになって家庭の主人となる男性たち、天使長であったこの男性たちをアダムの立場に立て、アダムとなったその人々が、天使長となったこの世の国の者たちを教育しなければならないのです。

 それで、家庭堂という言葉が出てきました。家庭堂は、国の党を消化しなければなりません。天側のアダムが生まれたので、アダムは天使長を消化しなければなりません。彼らを消化するための教育場所が家庭堂です。政府では私が党をつくったといって大騒ぎしていますが、闘う党をつくるのではありません。群れをつくる党ではなく、一つにする堂です。

 統一堂は、のちには家庭堂になるのです。これは「世界平和統一堂」ですが、のちには家庭堂になるというのです。ここに何が入っていかなければならないのでしょうか。母が入っていって一つにならなければなりません。母が、息子、娘を教育して一つにして、家庭堂に来て父を教育しなければなりません。今まで、父は浮ついて遊び歩く人でした。これを教育しなければなりません。息子、娘が教育するのです。統一堂で母が息子、娘を教育し、その母と息子、娘が一つになって父を教育しなければなりません。そこが家庭堂だというのです。(二四三−一五三、一九九三・一・三)

 全世界的に、女性たちは天に帰っていくために、本然のメシヤである完成したアダムに出会って、神様と一つになったアダムのみ旨を中心として、新しい家庭の倫理と道徳の教育を受けなければなりません。堕落する時は、エバを中心として息子、娘が怨讐として分かれていきましたが、帰っていく時は、完全に統一されて、氏族的メシヤに従って天に帰っていかなければなりません。それが蕩減復帰です。(二四四−三八、一九九三・一・二九)

 「世界平和統一堂」とは何でしょうか。女性たちが、氏族的メシヤと一つになって息子、娘を呼んで教育するところです。母と息子、娘が一つになって、夫を救ってあげるようになるとき、統一堂が始まるのです。家庭堂が出てこなければなりません。「党」というものは党派のことをいいますが、ここでは統一です。統一されたことをいうのです。概念が異なります。

 それゆえに、母から息子まで、天が育てて復帰される時までは、平和統一堂で教育し、完全に一つになったのちには、夫を立てて家庭堂に帰っていくのです。ここでの「堂」は家です。家庭の主人となって……。この家庭の主人は、サタン側の世界の国と社会を占領した党に対抗して闘わなければなりません。二股に分けられるのです。

 堂は、母と息子、娘が氏族的メシヤと一つになってつくる教育場所です。ここで母と息子、娘が一つになって、自分の父、夫を復帰したのちには家庭が成立するので、家庭を代表したその男性がサタン側の世界の堕落した天使長たちを復帰しなければならないのです。それは復帰されるようになっています。家庭が消化されれば復帰されるのです。

 聖霊の願いとは何でしょうか。新郎を迎えて家庭を築くことです。それゆえに、氏族的メシヤ、新郎を迎えて家庭生活をし得る基盤を新たに築くことができるように教育しなければなりません。誰が教育をしなければならないのでしょうか。新婦がするのではありません。アダムが主体になるので、家庭を築くにおいては、アダムが妻を教育し、息子、娘を教育しなければならないのです。(二四四−四三、一九九三・一・二九)

 アダムが十六歳のころに落ちたので、そこで連結されます。成長して父になるでしょう? 父の枝を切って再び接ぎ木しなければなりません。完成アダムの位置まで……。それはすなわち、母と子女、エバとカインが一つになることを意味します。その教育をすることによって、その父が夫人を神様のように侍り、絶対従順しなければなりません。妻と子女は、アダムの前に従順にしなければなりません。このように堕落した世の中から男性を引き抜くことをしなければなりません。今は、女性が世の中全体を揺るがす時です。男性を天使長の世界から引き抜いて教え、その力をコントロールしなければなりません。(二四四−三三四、一九九三・三・一)

 超教育堂の「堂」は、「家」という意味の「堂」です。政党ではありません。各国で教育することができるものを強化しなければなりません。超教育堂です。書堂のように教育する家を始めなさいというのです。それをつくりなさいというのです。(三一〇−一九六、一九九九・六・一四)

 超教育堂は、韓国でいえば、与党と野党を中心として思想的な武装をさせ、南北総選挙に対して備える教育をするための堂のことをいいます。そのような教育のための堂をつくらなければなりません。政党ではなく家です。与党と野党を一つにする運動をしなければなりません。(三一〇−一九九、一九九九・六・一四)


三 訓読会と全人類教育


 父と母が、一日に一冊ずつ先生の説教集を読みながら、「本当に内容が良い」と言わなければなりません。息子、娘の教育材料です。「読んでみなさい。立派になることができる道があり、希望に満ちあふれたみ言がある。私がこれを贈り物としてあげるので、時間さえあれば見なさい」と言わなければなりません。教育材料です。(二七三−一七七、一九九五・一〇・二二)

 先生のみ言は、先生が語ったものではありません。天が先生を通して語られたみ言です。そのみ言は、皆さんがいつ、どこで聞いたとしても、心が動き始めます。それが違います。先生一人ではありません。縦横を合わせたその位置で語ろうとしたので、心も体も共鳴体となります。震動が起こります。体が震動しても心が一つになることができるので震動し、心が感動を受ければ、体に一大革命的変化が起こります。そのような力があります。それは、文総裁の言葉ではありません。

 訓読会の「読」は、言偏に「売る」という字です。売らなければなりません。もっていれば大変なことになります。売らないであげなさいというのです。物を積んでおいて腐らせてしまえば罰を受けます。それで、「み言を売りなさい」と言うのです。み言を売りなさいということは、お金をもらって売るよりももっと貴いことが起きます。売らなくても分けてあげなさい、これが訓読会の本然の意味です。(二八九−二九五、一九九八・二・一)

 「訓読」の「訓」は、言偏に「川」という字です。水は、すべての生命の要素です。緑地帯をつくり、流れるすべての雲をつくり、深い所に入っていき、高い所に流れていきながら世界を標準化させます。水は標準化させます。「読」とは何かというと、み言を中心として売りなさいという意味です。売らなければ、取り入れて使わなければなりません。水は、流れて大きな川となり、海を成してこの宇宙を生成させる、そのような力があるのと同じように、このみ言にはそのような内容があることを知らなければなりません。(二九〇−一五四、一九九八・二・一八)

 訓読会をすることができる人がいれば、誰でも来てしなさいというのです。政治を行う人もしなさいというのです。聞いて心に感動を受け、自分の行路を正すことができる教えがあるとすれば、それに自信があるならばしなさいというのです。することができなければ、後退しなさいというのです。今は、やらざるを得ません。面まで、統まで撃破することができる運動を始めました。世界的です。韓国を信仰の祖国にしているのですが、その祖国の領土にいる本国人たちが誰よりも訓読会のチャンピオンにならなければならないので、このような挙国的なことをするのです。(二九〇−一五八、一九九八・二・一八)

 今から教育は、訓読会だけすれば、すべて終わります。御飯を食べるたびに、家族、一族が集まって絶えず訓読会をしなさいというのです。先生が一生懸命にしているではありませんか。先生は、時間さえあれば訓読会をします。そのようにすれば、どんどん成長します。大豆もやしに水を与えるとよく育つように、我知らずどんどん成長するというのです。(二九〇−二一七、一九九八・二・二七)

 今後、父母は、祝福家庭の子供たちを率いてこのようにしなければなりません。おじいさんから父と母が感動を受け、その次に父母から自分たち夫婦が感動を受ければ、息子、娘たちが感動を受けざるを得ません。今、そのように杭を打ち込むのです。これが訓読会です。(二九〇―二二〇、一九九八・二・二七)

 訓読会の「訓」は、言偏に「川」ですが、川は水です。水は流れていくものです。水は流れてこそ生きます。「訓」とは、み言の水を象徴しているので、動いてこそ生きるのであって、そのままでいれば腐ります。訓読会というのは水です。み言の水を固定させれば死にます。統一教会のみ言は、聞いて固定させれば、そこですべて腐ります。「読」は、言偏に「売る」です。み言をあげるか、売らなければなりません。訓読会にそのような意味があります。定着してはいけないのであり、これを分け与えるか、売らなければいけないというのです。(二九一−八八、一九九八・三・五)

 訓読会を通して教育する道しかありません。皆さんは、原理をすべて知らないでしょう? そこの本にあることも知らないではないですか。ですから、それを何回も読んで、一時間見たものを三十分の間で重要なものを発表することができるように、番号を付けていきながらするのです。いくらでもすることができます。百分もすることができます。このようにして、訓読会を通して心霊教育ができるようにしなさいというのです。本が先生です。勉強しなければなりません。本だけ読みなさいというのではありません。(二九一−四二、一九九八・三・六)

 皆さんには、地上における訓読会が絶対的に必要です。ここに合わせて着地しなければなりません。既に霊界は、それをしています。霊界は、一週間以内ですべてのものが定着することができます。ですから、地上ですべきことがどれほど忙しいか、ということを知らなければなりません。訓読会を通して家庭が定着し得る時代に入ってきました。それで、訓読会が重要だというのです。これは、霊界にいる自分の先祖を解放し、今後自分の子孫を解放するためのプログラムです。過去と現在と未来が一つです。

 そして、今後、皆さんの父母がおじいさんの立場になれば、皆さんと皆さんの二世たちを中心として三代になります。三代を中心として地上に橋を架けて越えていくのです。それゆえに、今は二世たちが全体の責任者になります。二世たちは正道を行かなければなりません。祝福家庭の二世たちが祝福されれば、本当に自分たちの父母が誤ったことを越え、訓読会をするにおいてすべての精誠を尽くさなければなりません。(二九一−二三七、一九九八・三・一五)

 み言は、そのまま流れていくみ言ではありません。公判廷の証言書です。憲法の条文と同じです。ここに一致したのか、しなかったのか、絶対的・相対的自体を確定づけるのか、できないのかという審判過程を通過するのです。はばかることなく訓読会でみ言を聞きたがらなければならず、訓読会をしたいと思わなければなりません。自分の解放圏ができるのです。そこに引っ掛かるものがあれば、どれほど恐ろしいでしょうか。訓読会が御飯を食べることよりも楽しく、遊ぶことよりもおもしろくなければなりません。(二九二−七三、一九九八・三・二八)

 訓読会を重要視しなければなりません。御飯を食べることよりも重要視しなさいというのです。おもしろみ、趣味を感じなければなりません。「私は今どこに向かい、どのように生きているのか」と考えるとき、何点になるのかというのです。すべて点数をつけなければなりません。自分は、自分自身がよく知っています。御飯を食べることよりももっと楽しく、今生きることよりも現実的でなければなりません。御飯を食べることは忘れてしまっても、訓読会をすることを忘れてはなりません。

 一日に、朝だけしなければなりませんか、昼も晩もすべてしなければなりませんか。晩にまた御飯を食べる時間があれば、四度しなければなりません。朝起きてして、昼食の時に御飯を食べてしなさいというのです。夕御飯を食べてして、寝る前にもう一度しなさいというのです。そのようにすれば、霊的な生命が成長します。そのようにしなければ、真っ暗で、雨の降る日のようであり、霧がかかったように重苦しいのです。祈祷する時間よりも、訓読会の時間をより一層重要視しなければなりません。なぜでしょうか。これは完成することです。真の御父母様が完成させる時間だというのです。(二九五−二七四、一九九八・九・八)

 訓読会の「訓」という字は、言偏に「川」という字が合わさっています。川の水が流れるのと同じです。水は、動けば動くほど水蒸気となって万字宙に緑地帯をつくり、すべての動物が生き得る栄養素をはぐくんでいます。そのような事実を考えるとき、問題は、雨が降って雲がかかるというこのような循環運動をしなくなれば、自然は砂漠地帯となるということです。それゆえに、統一教会の訓読会は、川の水が休まず流れるように休むことができません。

 「読」における「売」は、売るということです。良いものを売るのです。分け与えてあげなければなりません。それゆえに、今後、村々で競演大会を開くのです。どれくらいしたのかという問題、そこに国家的ならば国家的に表彰をし、個人的な家庭に対する表彰をし、それから教会ならば教会、社会ならば社会で表彰をし、それからすべての国で、それから世界で表彰をする訓読会時代を開くのです。(二九六−二一七、一九九八・一一・一〇)

 今、統班撃破時代が訪れてきました。祝福家庭は、みな統班にいるので、完全に訓読会をすることによって統班撃破を成功することができる時が来ました。根まで引き抜く時が来ました。それを自分の家でするのですか、見物するのですか。それを自分の家ですることができる資格を与えるために、このことをしているのだということを知らなければなりません。帰っていけば、ただそのまま座って暮らすことができるようになっていません。「ふろしき包みをまとめなさい」と言ったでしょう? ふろしき包みをまとめて何をするのでしょうか。ふろしき包みをまとめ、それを担いで行商をしようというのではありません。大移動が起こらなければなりません。訓読会の精誠を尽くしたその涙のあととともに、霊界のどこに行こうと、真の御父母様の伝統に従って子供が相続を受けたので、真の御父母様が協助し、霊界が協助することのできる版図を全世界の村々ごと、家々に扶植しなければなりません。植えつけなければならないというのです。(二九六−二三五、一九九八・一一・一〇)

 訓読会が恐ろしいのは、五十年前、先生が一番の生死の境で語ったものだからです。このみ言を中心として万人で語った、天下が張り裂けていくそのような心をもって語ったみ言なので、これは、天の心情、霊界が協助すること、感じたことが生きています。永遠に時間圏を超越し、きのうであると同時にきょうのみ言なので、訓読会に入っていけば、私のような人は、み言を語った当時のそのような境地に引き込まれていきます。その境地に入っていくというのです。それが必要です。

 朝、太陽が昇れば、変化無双であっても常にその光であり、その世界であって、その力があるので、この宇宙が太陽の光の恵沢を永遠に感謝します。それと同じように、訓読会を中心として、永遠の天が生きていて、永遠の世界の因縁が時間と空間を超越して継続し得る感動的因縁をどこで結ぶのかというのです。生死圏です。死のうとする者は生きるのです。死ぬことは私の事柄であり、生かすことは神様の事柄です。そのような深刻な立場に入っていかなければなりません。そうでない人々は、使うことができない人々です。流れていくというのです。通り過ぎてしまうのです。根がなければなりません。(二九六−三二九、一九九八・一一・一八)

 今は、本をもって伝道する時です。訓読会をするようになれば、教師が必要なく、牧師が必要ありません。昼夜それを訓読すれば、天国家庭になるのです。(二九七−一一八、一九九八・一一・一九)

 訓読会を何度もして感動を受ける時、「私もあのように感動を受けるようにします。このようなことを模範として、それ以上にしなければなりません」と決意しなければなりません。ですから、何回すればよいでしょうか。百回した人よりも、千回した人の感動がもっと大きいのです。お母様もそうです。先生が原稿をすべて書けば、先生がどこに行こうと三回あるいは五回、ある時は七回、十回まで読みます。読めば、そのみ言の中に完全にすっぽりはまります。み言の中にすっぽりはまるという話が分かりますか。

 それでお母様にも、私が「あなたもこのように、先生以上にしなさい」と言うと、「本当にそうなるのですか」と言ったのです。やってみると、精誠を尽くして五回読み、十回読んでみると、感動を受けるのです。その次には、夜を明かしながら読めばもっと感動を受けます。これを読みながら涙を流せば、聴衆が一度に涙を流すというのです。ですから、皆さんがどこに行こうと講演材料となり得る素晴らしい内容なので、これを勧告するのです。(三〇一−一八一、一九九九・四・二六)

 誰よりも訓読会を一生懸命にする人が先生です。先生のみ言を聞くということは、天が苦労した公義の位置に立つことになるのです。感謝しなければなりません。しかし、それを皆さんは感じることができません。常に自分たちが負債感を感じながら、帽子をかぶって日光を遮らなければならないのであって、日光の前で帽子を脱ぐ立場ではありません。

 それで、三億六千万双の祝福が終わったといった時、国家的メシヤをすべて配置したのですが、皆さんがどのように教育するのかというのです。「教育するな」と言いました。「あなた方は、私が語ったみ言を知り、私が歩んできた道を知っているので、それをそのまま直接紹介することができる時間として訓読会をしなさい」と言いました。訓読会でできると思いましたか。韓国も、訓読会を中心として講義大会をする時、本当にこのようなことが起こるとは思わなかったというのです。新しい文化世界の創建です。訓読会をするということは、そのよすな意味があります。(三〇一−二九三、一九九九・五・五)

 伝統を伝授するために訓読会を始めています。訓読会のみ言は、過ぎ去る言葉ではありません。皆さんが地上で定着するためのすべての実践教材だ、ということを知らなければなりません。伝統を相続しなければなりません。伝統を知って実践しなければならないというのです。その伝統は、夜でも昼でも受け継がなければなりません。その伝統を受け継がせる訓読会が教育です。伝統を教育する場所なので、それを知れば、先生と天が苦労したその道に拍子を合わせて行動し、自分自身の国と家庭を設定しなければなりません。これは非常に重大なことです。誰も干渉してくれません。皆さん自身が中心にならなくては、霊界も協助し得る時代が過ぎ去るということを知らなければなりません。

 真の御父母様が立てた伝統、真の御父母様のみ旨を完成することができる伝統、その伝統を教育するのが訓読会です。訓読会でその伝統を学んだのちは、実践しなければなりません。それが浮いているのです。ですから皆さんの生活基盤に根を張って、その木が成長しなければならないという事実を知らなければなりません。

 先生は、どれほど忙しくても、訓読会を一日も欠かしたことがありません。きのうも、朝忙しくて晩にするといって、夜の十二時が過ぎるまで訓読会をしてきました。疲れたことが問題ではありません。呼吸をすることと同じです。私たちの背後には霊界が陣を張り、先祖たちが囲っているのですが、彼らの前に、自分の家庭が地上の責任を果たし得る家庭的伝統の標本とならなければなりません。その家庭で伝統の標本となるために、伝統を教えてあげて、実践するにおいて、霊界の祝福された家庭の先頭に立たなければならないのです。先頭に立たなければ、逆に皆さんが蕩減を受けるというのです。(三〇二−二七八、一九九九・六・二六)

 訓読会をすることは、私が逝く準備をすることです。千年、万年、歴史が私を抜きにしていくことができるのか、それが可能かというテストです。あなた方が「三億六千万双の祝福家庭の教育をどのようにするか」と言った時、私は笑いました。皆さんが教育するのですか。十年もたたずにふろしき包みをまとめて、すべて逝くでしょう。先生は、み言を残してあげてから逝くというのです。(三〇三−七九、一九九九・八・八)

 今まで、人性教育というものがありませんでした。技術教育しか甦りませんでした。技術教育は、人間の価値と連結される内容や、神様の心性と関係し得る内容を完全に抜いてしまいました。唯物論的見地での技術教育となっています。ですから、技術教育も、必ず神様の創造理想と連結され得る内容を中心として、神様の創造模型に従っていける立場の技術に連結させなければなりません。そのようにせずに技術教育をするようになれば、神様を否定する結果になります。そのような全般的なすべての問題を考えながら組んでおかなければなりません。人性教育を技術教育に取り入れるのです。それから、宗教教育が入っていかなければなりません。

 文学と思想、技術という三面をおいて見るとき、人性教育は、唯物論的教育になっています。物質的根源が精神に先立っているというのです。このような論理をもっているのですが、哲学と人性教育が一つとなって、技術教育と科学世界が連結されなければなりません。これをどのように連合させるのかが問題です。

 創造原理の内容、すべての存在はペアシステムになっているので、主体と対象の関係が愛を中心として連結されているということ、そのような内容が入っていってこそ、技術教育も相対的な面の一分野なので、神様を連結させていくことができるのです。これを分けておいてはいけません。

 若い人々を訓読会と修練セミナーを通して教育するのです。現在、民主世界と共産世界の脱イデオロギー時代において、それを新たに復活させることができるのは、「神主義」であることに間違いありません。「神主義」とは「頭翼思想」です。それが実際に事実なのか、そうでないかを検討するための訓読会です。それを認定するための修練会です。(三一五―一三四、二〇〇〇・一・二八)

 訓読会は、妻たちが一生懸命にしなければなりません。訓読会をすることによって、女性たちがサタン側の世界を制圧し、すべてのものを統治することができるのです。民主世界と共産世界を越えて、超国家的に、人々を息子、娘の立場で教育することができる立場に立つのです。お父様が新郎として出会わせて祝福してあげたその立場にいるので、それ自体がすなわち教材です。家庭の伝統、真の愛を中心として、真の息子、娘を生んで育てなさいというのです。その息子、娘を生むにおいて、カイン世界の息子、娘を接ぎ木してあげなさいというのです。それで、位置を変えておけば、サタンは離れます。(三一五−二三〇、二〇〇〇・二・三)

 神様は人類の真の父母です。神様は人類の真の師です。神様は人類の真の主人です。皆さんの家庭の伝統は、天から始めなければならないのです。皆さんが父母となったのは神様の代わりとしてなので、愛の道理を教えなければならず、愛の家庭や国の理想を教える師とならなければならず、その主人となり得る資格者を養育しなければなりません。今まで学校で教育をしてきましたが、それは教育ではありません。技術教育だというのです。本性教育は家庭でしなければならない、ということを知らなければなりません。そのようにしてこそ、本然の血統を相続することができるのです。

 父と母に似た継代を千年、万年血筋を通して残さなければならないという厳粛な使命があるのです。運命ではありません。これは宿命的な責任です。父と母、父母を替えることはできません。兄弟を替えることはできません。エデンの園で妻を替えることができますか。できません。このような原則を知ることによって、家庭の伝統を天の前に立てて、真の父母の実、真の師の実、愛を中心として血統を清めることをいいます。その次には、真の主人の位置、千年、万年同じ血統の主人の位置を残さなければなりません。これが重要だということを知らなければなりません。

 そのことを考え、今後、み言を愛すれば研究してみてください。皆さんが、多方面にわたって質問した内容に答えられないものがないという、そのような境地にまで行くようになれば、逃げることができません。喜んで従っていくようになっています。そのようにすれば、私が行く天国、私が指示した方向において神様が共にいらっしゃったのならば、皆さんにも共にいてくださるのです。私が艱難と迫害の中で滅び得る立場から生きて出てこれるように補助した神様がいらっしゃるので、その神様は、皆さんを補助し、皆さんの家庭を億千万世栄え得る主人の位置に立てて、皆さんの子孫と国を越えて統一天下の世界まで補助されるのだということを知って、深刻に研究してくれるよう願います。ですから、訓読会をしなければなりません。良いことがあれば、血統を分けた親戚にすべて教えてあげなければなりません。(三一六−一七一〜一七二、二〇〇〇・二・一一)


四 祝福家庭が育てるべき未来世界


 今後は、一つの地球村ではなく、地球家庭時代に入っていきます。それゆえに、思想的基調をいかにつくるか、ということが最も重要な問題です。私たちが超国家的な教育制度をつくらなければならないのですが、そのようにしようとすれば、思想的基調が、超国家的なそのような内容がそこに連結されなければなりません。そこに万民を兄弟のごとく、すべての家庭を一つの親戚のごとく思うことができる、そのような思想が必要です。そのようにしなくては、前進していく過程において相当に困難が伴うのです。出発を正しくしなければならないというのです。中間に行って正せば支障が多いというのです。(二六三−二九〇、一九九四・一〇・二七)

 神様を中心として白人と黒人と黄色人種が一つになるように、アベル的な神様の代理を中心として、諸民族が共に暮らせるコンドミニアムを造って生活を統一する、このようなことをしなければなりません。そのようにすれば、御飯も共に作って食べ、子女教育も共にし、四つの家庭が一つの家庭のようにして暮らすのです。それを訓練して合格してこそ、今後、未来の新しい天国家庭の新しい中心家庭として認定されるのです。

 五十億人類がすべて一箇所に、韓国の地に入ってくるようになれば、足を踏み入れることもできません。それで、十二の国を策定しました。このような訓練を行う所としてです。十二の国を定めるのは、三十六家庭、七十二家庭のように、七十二の国、百二十四家庭、いくらでもそのように便利な教育的版図をつくっていくためです。(三六八−三一七、一九九五・一・一)

 蕩減復帰は、どのようにしなければならないのでしょうか。堕落によって血統を汚したので、血統を復帰しなければなりません。血統を復帰し、その次には所有権を復帰しなければなりません。所有権を復帰しなければ、心情圏を復帰することはできません。アダム一族が暮らせる基盤がありません。息子、娘を生んでも、食べるものが問題になります。その次には、神様について教育をすることが問題です。イスラエル民族と同様です。カナン復帰路程において、イスラエル民族がカナン七族を前にしてカナンに入城したのち、食べるものと教育が問題になったのです。

 そのような過程として、先日話したように、アダム国家、エバ国家、アベル国家、天使長国家の四大国家が一箇所で暮らさなければなりません。一つの兄弟だというのです。それゆえに、コンドミニアム・システムを中心として、今後四大国家、アダム家庭で一つになることができなかった四大の代表的柱を再び立てて、一つになった家庭において超民族・超国家的な教育と生活を共にすることによって、兄弟の因縁をつくり出すのです。それが、今からしなければならないことです。(二六九−一三、一九九五・四・六)

 この世界は、腐敗や不正、そして戦争や罪悪と無関係であり、人類は、地球環境に対する公害要因を除去し、万物に対して真なる主人として愛し、保護しながら生きるようになっています。その世界において生活のための活動と作業は、他のために生きて愛する心情を土合とした喜びの奉仕であり、実践です。したがって、構成員の生活程度は標準化されます。教育は、あらゆる文明の利器を活用して受けるのですが、知識教育、体育、枝術教育はもちろんであり、祝福家庭を土台とした心情教育と規範教育を優先することによって、天道に従う選民を育てる教育となります。

 私たちは、真の御父母様のこのような伝統を実践によってまねし、また地と万物と人と神様を愛してこられた真の御父母様の生活をまねて、そのとおりに生きてこそ、理想的な国のモデルをつくることができます。新しい希望農場は、まさしくその実践のための訓練場です。投入して、また投入しながら、地と水と自然を愛し、万国の人々が一つ所で一つになり、一つの兄弟となって、神様の国を創建する実践道場です。ここで成果を収めて万民に見せてあげることによって、人類が皮膚の色と文化と国家を超越して、いかにして愛の共同体を築くのかを教育するのです。(新しい希望農場宣言文の要旨)(二六九−一五五、一九九五・四・一七)

 先生が青春時代に願った国の着地運動を、全世界に拡張しなければならない、ということを知らなければなりません。皆さんがその体制を知って実現できる環境をつくりました。皆さんに教育して伝授してあげるのです。開拓者としてさすらい……。先生ゆえに涙でその地に対し、墓の中に入っていっても天が記憶することができる位置、基盤を伝授してあげるのです。(二七六−二七六、一九九六・二・二四)

 今後、各国に何を組織しなければならないでしょうか。建築するにおいてコンドミニアム・システム建築、四家庭が一つになって暮らすことができる、そのようなシステムで訓練しなければならないというのです。お金を稼いで、食べるのも共に食べ、息子の教育も共にして、一つの家族のように暮らさなければなりません。共に暮らすことができず、和合することができなければ、霊界に行って制限された環境に追い出されます。共に和合することができません。(二七八−三二七、一九九六・六・二三)

 教育を強化しなければなりません。核心要員の基地をつくらなければなりません。人脈を掌握しなければなりません。そのようにしなければ、国家を動かすことはできません。人脈さえ掌握すれば、それを料理することができる環境条件はすべてつくっておきました。そこに大学まで造りました。中学、高校も造ったのです。

 新聞社と大学が大きな航空母艦です。その国の文化圏を動かし得る主体的な力量を培養することができる道です。現在よりも次元の高い、新しい世界に通じることができます。教育内容さえあれば、学識層はもちろん、国民全体が口を開けて歓迎し得るようになっているというのです。そのような内容を、すべてもっているではありませんか。何を心配するのかというのです。教育しなければなりませんか、してはなりませんか。伝道して教育するのではありません。そのような次元に越えてきました。(二八七−二二七、一九九七・一〇・四)

 今まで、統一教会を滅ぼそうとしたのが共産党です。言論で蹂躙して統一教会を滅ぼそうとしたのであり、大権を滅ぼそうとしました。それから教育を通して反対し、統一教会が定着できないようにするために世界的な反対をしてきました。

 しかし、このような状況で定着し、共産世界と民主主義を教育し、教育したその基盤を中心として今、どこに向かっていくのでしょうか。政治世界を越えて経済世界を連結させました。ここで経済とは、市場経済を掌握し得る組織を世界的に準備してきたという意味です。それを強調しなければなりません。

 超国家的、超世界的な環境でこのような準備をしてきたので、本格的な産業復興を中心とした教育体制を整えたのです。今は、精神的教育時代を過ぎて、産業的な教育体制に入ってきています。そのような内容を総合して、そこに背後組織と現実的な内容を結びつけて報告しなければなりません。(二九〇−二三四、一九九八・三・一)

 宣教師の責任とは何でしょうか。何をしなければならないのでしょうか。伝道する時は過ぎ去りました。家庭祝福をすべてなして万国が一体化されたというのに、何の伝道をするのですか。今からは家庭です。今は、家庭完成のために動けばよいのです。それゆえに、教育しなければなりません。宣教師たちがすべきことは、(任地国に)行って各国家的メシヤが一つになって児童教育機関をつくり、六大国家の子供たちを中心として各国で幼稚園から小学校、中学、高校を造るのです。そのように尽くせば、その国は、二十年後には私たちの後ろに従ってきます。それで、教育しなさいと送ったところ、教育は全くしないで、ほかのことばかりしました。

 六カ国に宣教師たちが入っており、大使館があります。六カ国ならば、その国にある様々な国の大使館を完全に一つにして学校を造って、すべて教育することができます。大使館全体の子供たちを教育し得る立場になれば、十年か二十年後には自然に私たちの世界になります。簡単なことです。いかにして多くの国の大使館に住んでいる子供たちをワン・ウェイ・コースで教育するか、ということが問題です。私たちがワン・ウェイ・コースで教育すれば、六カ国の子供たちが、小学校、中学、高校……。十年、二十年後には、その子供たちがすべて皆さんの後ろに従ってくるようになるのです。

 そのように徹底的に教育し、社会的に奉仕させることができるようにしなければなりません。国家は家庭を延長したものです。そのようにして、国家教育の伝統を立てなければならないのが母の責任です。

 一つの国家に百八十カ国の大使館が入っています。何の苦労をすることもなく、子供の時から完全に占領し得る方法があるというのに、そのようにしてみたことがありません。

 大使館に行って息子、娘を育ててあげれば、大使館員が集まって食べさせてくれるようになっています。そのようになれば、何でもすることができます。そのように教育すればよいのです。子供たちのお父さんとお母さんが大使館の重要なメンバーなのです。今後、何年後には、大統領候補になる人々が集まっているというのです。

 大使館に行って、翻訳した本を用いて幼稚園から教育します。自分自身の息子、娘のようにするのです。(三〇一―二六九、一九九九・五・二)

 「天宙兄弟主義の共同生活体験の拡大」が必要です。自分一家庭だけで暮らすべきではありません。四位基台ならば四位基台の四家庭、四カ国の家庭がコンドミニアムのような所で三年以上共に生活するのです。息子、娘も、自分の息子、娘ではありません。全体を自分の息子、娘のように愛し、神様が願われる兄弟家庭のような制度をつくって体験し得るようにしなければなりません。今から、共同生活を準備しなさいというのです。(三一〇−二〇〇、一九九九・六・一四)

















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第七章 文鮮明先生はどのような教育を受けたのか

文鮮明先生の教育哲学



第七章 文鮮明先生はどのような教育を受けたのか


一 文鮮明先生が育った環境


 先生が生まれた一九二〇年代の韓国は、三年続きの凶年となり、非常に困難な時でした。また、三・一独立運動を中心として、日本に対して反旗を翻し、新しい闘争が始まった時でした。三・一独立運動が起きた翌年である一九二〇年に、先生は生まれました。先生の一家が独立万歳事件を中心として試練を受けたその基盤の上で、先生は生まれるようになりました。(一六八−六八、一九八七・九・一)

 先生が生まれた一九二〇年は、日帝の植民統治下でした。先生は、強大国に踏みにじられる弱小民族の苦痛と悲しみが何なのかを骨身に染みるほど体験しました。青少年時代、先生は、悲惨な戦争と罪悪の世界を救援する道とは何なのかを深刻に悩まざるを得ませんでした(二二九−七九、一九九二・四・一〇)

 先生の家門には、おなかをすかせた人は絶対に手ぶらで帰らせてはならないという伝統があります。お客さんが訪ねてくる時は、絶対にそのまま帰らせないというのです。そのような家風があります。それで、全国の数多くの人々に御飯を食べさせて行かせました。日本統治の時代、日本人が搾取すると同時に生活が苦しくなると、人々が満州に避難していきました。我が家は道のわきにあるので、全国の数多くの人が立ち寄って御飯を食べていきました。母が毎日三十、四十人くらいに御飯を作って食べさせるのです。一生の間そのようにしながらも、不平一つ言いませんでした。(一一一−三一〇〜三一一、一九八一・三・九)

 我が家は、国道の横にありました。「どこどこの村の文氏おじいさんの家に行ってみなさい」と言ったので、ある時は、客間に約三十人が集まってきたこともあります。私の母は、激しい性格ではありましたが、舅に侍って、一生の間御飯を作り、汗を流しながらも不平一つ言いませんでした。(一九八−一四九、一九九〇・一・二八)

 私のおじいさんは三人兄弟だったのですが、おじいさんの末の弟(文潤國氏)は牧師でした。この方は、三・一独立運動当時、平安北道の総責任者をしながら、全国の責任者と内的な計画をしていました。そのようにして、五山学校の職員と教会の信徒、五山の住民たちを率いて万歳示威運動を展開しました。この時、首謀者として日本の警察に逮捕されることによって、獄中の苦しみの生活を二年間しました。獄中の苦しみから解かれて出てきても、故郷で平穏に暮らすことができず、一生の間、他郷暮らしをしました。日本の警察の迫害から逃げ回りながら、江原道の旌善で生涯を終えたのです。(二九−二〇九、一九七〇・二)

 私の父(文慶裕氏)について言えば、法で縛らなくても生きることができる方でした。もし父がどこからか急ぎでお金を借りてきた場合、そのお金を返すと約束した日に、利子まで返してあげなくては我慢できない方でした。いかなることがあったとしても、その約束を履行する人でした。約束を遂行するにおいて模範的な方でした。(四五−一三六、一九七一・六・二四)

 私の父は、四百ページになる賛美歌を暗唱するので、教会に行く時に持っていきません。「お父さん、なぜ持っていかないのですか」と聞くと、「それを持っていけば煩わしいのに、なぜ持っていくのか。なくしてしまったりするだろうから置いていくのだろう!」と言います。「それでは、どのように賛美歌を歌うのですか」と言うと、「どのように歌うか? 人が歌う時に、ついて歌えばよく、分からない時は、私の前に立った人のものを見て歌えばよいだろう」と言いながら、賛美歌をすべて頭に入れてしまいました。(一三九−五二、一九八六・一・二六)

 母(金慶繼氏)は、女傑です。大閑良(注:お金をよく使う人)です。閑良という言葉は少し悪いですが、私は母に似ました。前後がまるまると太っています。横からすっと見れば、ぺちゃんこではありません。母は、力持ちでした。(一三九−五二、一九八六・一・二六)

 先生自身、また今まで先生の家庭が生活してきたことをずっと振り返ってみれば、神様は、ある一時には祝福をしてくださるのですが、むごく、無慈悲であられます。先生の家庭は、曽祖父の時に神様の祝福を受けました。しかし、おじいさんの時になって蕩減を受けました。祝福されたのちには、必ず蕩減の役事が起こります。イスラエル民族も、祝福されたのちには必ず蕩減を受けました。十に値する祝福を受ければ、必ずそれに値する蕩減を受けなければなりません。あるものを維持し、その種を残すためには蕩減を受けなければなりません。しかも、家庭のための種ではなく、氏族のための種を残そうとすれば、サタンがその家庭に祝福以上の試練を浴びせるのです。したがって、先生が神様の召命を受けるまで、先生の家庭に相当な混乱が起こりました。家の財産が使い尽くされたのであり、人命被害もありました。

 先生がこのみ旨を探し出してくる時まで、その背後には三代に相当する蕩減の因縁が関係していました。おじいさんの代にも蕩減を受けたのであり、父の代にも蕩減を受けたのであり、私の代において、お兄さんまで蕩減を受けたのです。(二九−二〇八〜二〇九、一九七〇・一)


二 探究心が強かった幼年時代


 故郷は、私の人生において、重要な教育の資料を八〇パーセント以上供給する所なので、人間は、故郷と因縁を切ってしまうことができません。(一八七−二九〇、一九八九・二・一二)

 先生が生まれた故郷の地、昔私が育ったその庭、私が遊んだその村で、それらを実際の教材にして教育したいと思います。その山河で飛び回って遊んだその時、その時代を、皆さんが生きている間に直接先生を通して説明を聞くようになる時に、先生の歴史をはっきりと知る皆さんになるということを知らなければなりません。(五〇−一七七、一九七一・一一・六)

 北韓の定州の地、先生が生まれ育ったその場所に行って、先生が幼い時に飲んだ水を飲み、先生が飛び回って遊んだ丘に登って散策してみて、皆さんの息子、娘がその場所で神聖な賛美の声を高々とあげて神様の前に祝杯を捧げるようになる時、先生が生まれたことを祝賀できず、先生を敬うことができなかったことを解怨成就し、蕩減することができるということを知らなければなりません。

 先生が生まれた故郷の地、その村で、それらを実際の教材にして教育したいと思います。その山河で飛び回って遊んだその時、その時代を、皆さんが生きている間に直接先生を通して説明を聞くようになる時、先生の歴史をはっきりと知るようになるでしょう。いずれにせよ皆さんは、この師の故郷の山河を訪ねていかなければならない時が来るでしょう。故郷の山河のあらゆる動植物、自然界は、内的な人間、豊かさを育てるにおいて、その材料となり得ます。それゆえに、故郷の山河を慕わしく思い、自然を愛するのです。(一八七−二八四〜二八五、一九八九・二・一二)

 先生は、幼い時から、山を見ては「あの山の名前は何だろう。あの山に何がいるのだろうか」と考えたのであり、そのように考えれば、必ずそこに行ってみました。それで、約二里内外にあるものを詳しく知っていました。(二四−八四〜八五、一九六九・七・六)

 幼いころの活動範囲は、大きく広かったのです。定州一帯で行ってみなかった所は、ほとんどありません。高い山の頂にはすべて登りました。その向こう側まで行ってみなければなりませんでした。そのようにして初めて、朝、日の光に見えるあの中にはどのようなものがいるということが頭に入ってきます。そのようなすべての場所が、先生の信仰的な情緒を育てた故郷の山河です。故郷の水であり、故郷の木であり、故郷の地であり、故郷の春風であり、過ぎ去ったすべてのものが生き生きと生きているのです。(二二一−一七一〜一七二、一九九一・一〇・二三)

 幼い時、山に行き来しながら、花という花で直接触ってみなかったものはありません。知らない花がありません。自然があまりにも好きで、家にも帰らずに日が沈むまで自然と触れ合っているうちに、疲れて寝てしまうと夜の十二時になっていて、父と母が来て連れて帰る時が何度もありました。自然がそれほど好きでした。(二〇三−一八五、一九九〇・六・二四)

 我が家に行くと、大きな栗の木があります。約二百年になる栗の木ですが、とても美しい木です。私が申年だからなのか、よく木に登って歩きました。そのようにして歩きながら、小さな木のつえを一つつくって、それでこつこつと栗のいがを落とせば、本当におもしろかったのです。

 山に見えるすべてのもの、私の指揮下で飛び回るあらゆる鳥は、すべて私が鑑定してから飛び回るようにさせるのです。初めて見る美しい渡り鳥が来ると、この鳥が、雄はどのような形をしていて、雌はどのような形をしているのか、それが知りたくなります。しかし、それを知ることができる書物がありますか。ですから、仕方なく渡り鳥を探して研究するのです。一週間、御飯を食べずに待つのです。(一六二−二一三、一九八七・四・一二)

 一度、かささぎが卵を産んだのですが、毎日のようにそれが気になるのです。それをはっきりと知るまでは、夜眠ることができません。夕方に登っていって見るのであり、また、早朝から、かささぎが出てくる前にそっと登っていって見るのです。そのようにして、毎日のように登ったり下りたりしていると、かささぎと親しくなりました。初めはたまらないといって、「カーカー」と大騒ぎしたのですが、毎日のように登ってきても支障がなかったので、ただそのままじっとしているのです。そのようにして、ひなに何を捕まえて食べさせ、何をするのかをすべて観察しました。(五一−八三、一九七一・一一・一)

 先生は田舎に住んでいたので、昆虫を本当にたくさん捕まえてみました。捕まえてみたことのない昆虫がいないほどでした。また、捕まえてみたことのない動物、獣がいませんでした。とらは捕まえたことがありませんが、山猫から始まってたぬき、うさぎ、すべて捕まえてみました。興味津々です。それらは独りで生きていると思ったのですが、すべて相対がいました。すべてぺアです。(一四〇−二九六〜二九七、一九八六・二・一四)

 雪が降れば、何里にもなる丘を、夜にはつえを引きずって歩きながらいたち狩りをし、昼にはうさぎ狩りをたくさんしました。そうでなければ、村の犬を怒らせて追い掛けてくるようにさせたあと、一つの峠を越えて「やい、あの後ろに行って棒でひっぱたいてやれ」と言って、犬追いをしました。(二〇二−二九六、一九九〇・二・二五)

 海を学ぶために、夏休みのような時、毎日のように海に行きました。汚水のにおいがする池で、ぬかるみやかにの穴など、ありとあらゆる所をくまなく探すのです。その次には、釣りをするのです。うなぎを捕まえるにおいては、先生はチャンピオンです。(一四四−二九四〜二九五、一九八六・四・二六)

 お客さんが来るなどして、うなぎの煮込みが食べたいといえば、三十分、一時間あればよいのです。先生は、走るのもよく走るのです。一・五里の道を走ってある池に行き、そこで十五分もあればうなぎを五匹ぐらいずつ捕まえてきます。(二一四−一二四、一九九一・二・一)

 私たちは養蜂もたくさんしましたが、アカシアの蜜は本当においしいのです。このアカシアの花にはちがとまり、頭を押し込んで飲む時は、前後の足で支えて、おしりは下にしてしきりに吸うのです。そのような時、ピンセットでおしりをつかんで引っ張ると、おしりが取れても放しません。どれほどすごいことでしょうか。体が取れるほど引っ張るほうもすごいですが、その味を知って放すことができないほうはもっとすごいというのです。それを見て、「いやあ! これは、私もこのようにしなければならない」と思いました。(一八六−二〇三、一九八九・二・一)

 何でも知らずにはいられません。村でおじいさんが死ねば、「何の病気で死んだのか」と聞いてみます。なぜ死んだのか分からなくて気になれば、必ず葬式をしている所に訪ねていって聞いてみるのです。「どのようにして亡くなられたのか」と……。ですから、村のことを詳しく知っているのです。(一六四−三一二、一九八七・五・一七)

 あらゆることに興味津々でした。ある村に行って、糞をくみ取っているおじいさんがいれば、そのまま通り過ぎませんでした。人は、みなにおいがして鼻をふさぐのですが、「おじいさんの鼻はどのようにできているので、においをかぐことができないのだろうか。おじいさんの鼻はどのようになっているのだろうか」。それが気になります。それで、尋ねてみるのです。(五〇−三〇二、一九七一・一一・八)

 母がりんごやまくわうりをくれても、母に「このまくわうりはどうしたのですか」と、お尋ねしてみます。すると、母は「どうしたのかって、お兄さんが買ってきたのだろう」とおっしゃいます。そうすると、「どこの畑で買ってきましたか。畑で買う時、おばあさんがもぎましたか、おじさんがもぎましたか、そうでなければ、お兄さんに当たる人がもぎましたか、お姉さんに当たる人がもぎましたか」と、またお尋ねしてみるのです。それがとても気になるというのです。

 学窓時代、私の質問に答えることができなくて逃げていった先生がどれほど多かったか分かりますか。「物理学に出てくる公式や定義を誰が下したのですか。私は信じることができません。私が分かるように説明してください」と質問する、そのような人でした。(二〇三−三二八、一九九〇・六・二八)

 私がすべて検証するまでは、信じませんでした。学校で数学の先生が公式を教えてくれると、それを中心として学校の先生を追い詰めます。誰がこのように公式を作ったのかというのです。私が作る前に作って、気分が悪いというのです。私が作らなければならないのに……。ですから、掘って掘って掘り下げて、また掘り下げました。適当にしませんでした。(一六二−二七八、一九八七・四・一七)

 試験の前日に勉強したものは、間違いなく的中します。先生が講義したことの中で、試験に出てくる確率が最も高いもの、二番目に高いもの、三番目に高いものをさっと抜き出してみて、それ以外は見ません。それだけに丸をつけます。「私がテストすれば、このようにするだろう」と心理的に分析して準備すれば、間違いなく七〇パーセント以上当たるというのです。一、二、三、四、五、六……という先生の暗号があります。普通の人は、見ても分かりません。試験の時、一枚に数字だけ「ぱっぱっぱっ」と書いておけば、寝ながら書いても七十点以上もらいます。一生懸命に勉強したからといって、頭に残りません。そのまま流れていくのが普通でしょう。(二二九−一一六、一九九二・四・一一)

 相撲をしても負けません。サッカーのようなものも上手です。このような体格をしていても速いのです。若い時には鉄棒もしたのであり、様々な運動で鍛錬をしておきました。今も、人の知らない運動をしています。先生がその運動を開発したのです。(一九二−一五一、一九八九・七・三)

 六ヵ月間、わき部屋に入っていって、もう一度「カナダラ(注:日本語でいうあいうえお)」から発音練習をしました。発音をすべて把握する時まで訓練しました。それで、言葉が速くなりました。話し方も矯正することができるのです。(二五−三三九、一九六九・一二)

 先生は、昔、青少年の時代に音楽がとても好きでした。私が下宿していた家の主人は、当時車を運転するなど、江原道のある裕福な家庭の長男です。今から三十年前の運転士ならば、とても能力のある人です。その方は、全国の山河で巡り歩かなかった所がありませんでした。民謡ならば知らないものがなく、数百枚のレコード盤をもっていました。それで、その主人の奥さんに私の願いをかなえてもらうために、作戦を立てました。毎日のように、夕食には、お膳を持っていってあげました。主人の奥さんが何かの使いを頼めばしてあげ、やってほしいと言うとおりにすべてしてあげるのです。このようにして作戦計画どおりにいったところ、主人の奥さんが数日以内ですっかりほれ込んでしまいました。主人の奥さんが「婿にしたら良い」と言うくらいにしてしまったのです。そのようにして、そのレコード盤を私たちにすべて持ってきてくれるのです。何枚ずつか持ってきておいて……。主人が来て見ても露見しません。レコード盤をすべて聞いては毎回替えて、何枚ずつか持ってきてすべて聞くのです。「私は何日以内にすべて聞く」と決意し、二十四時間中かけておいて過ごしました。

 歌を上手に歌えば良い点があります。孝子は、母の背中をたたいてあげながら歌うのです。青春の男女たちがお互いに愛する心情を歌えば、その境地に入っていくのです。復帰に責任をもち先頭に立っていく人として、所願成就をどのようなことをしてでも成し遂げなければならないのではないですか。これは、すべて道です。道の境地だというのです。横にいる人は知っています。このようにして夜を明かすのです。寝る時は、初めから小さくかけておき、布団をかぶって聞くのです。私はこのようにすさまじいのです。私がすれば、何であろうと誰にも負けようとしません。(四六−二九三、一九七一・八・一五)

 高校の時は、相撲のチャンピオンでした。跳躍競技でも、何の運動でも、できないものがありません。ボクシングまでしたのです。悪い人がでんと構えていても、ぱっと投げて転がせば転がっていきます。そのような訓練までしました。なぜそのようにしたのでしょうか。けんかをするためではありません。偉大な革命をしなければならないという所信、世の中を一度正し、天理に符合する平和の世界をつくってみようという所信をもった以上、そのためには体が健康でなくてはならないというのです。(八五−二〇、一九七六・三・二)


三 ぬきんでた闘志と優れた予知力


 先生が泣き始めると、一時間で終わるのではありません。それで、あだ名は何かというと、「一日泣き」です。一日中泣いて初めて収まるので、「一日泣き」というあだ名がつきました。村のおじいさんやおばあさんたちは、みな出てきて見物しなさいというのです。村中を騒がせ、寝ていた人たちまで目が覚めるように泣いたのであって、静かにめそめそとは泣きませんでした。大変なことになったかのように泣き続けました。それで、のどがはれてかすれ、あとには声まで出ないほどでした。また、静かに座って泣くのではありません。ぴょんぴょん跳ねながら、傷ができて皮膚が裂け、血まみれになるように泣きました。そのくらいであれば、先生はどのような性格かということが分かるでしょう。(五〇−二九七〜二九八、一九七一・一一・八)

 譲歩しません。骨が折れても譲歩しません。死んでも譲歩しないというのです。物心がつく前、十代前のことです。母が明らかに間違っているにもかかわらず、子供に対して忠告すれば、「違う!」と言うのです。私に向かって「お前の意のままにはならないのだ」と言えば、面と向かって闘いました。大したものでしょう。一度は、どれほどたたかれたことか、私が気絶して仰向けに倒れてしまったのです。そのようになりながらも、降伏しないのです。(一三六−一三二、一九八五・一二・二二)

 おじいさんもそうでした。おじいさんも、私に忠告を受けました。孫を教えようと、きせるを持って何かを言うので、「おじいさんが孫を訓示するのに、きせるを持って訓示することができますか。それがこの家門の伝統ですか」とやり込めるので、おじいさんはどうすることができますか。小さな孫を軽く見ていたのですが、「お前の言葉は正しい。片づけよう」と言うのです。それゆえに、既に十二歳の時から、おじいさん、父と母、兄弟たちをすべて私の手につかんで暮らしました。(二一〇−二七二、一九九〇・一二・二七)

 幼い時は、けんかして降伏させなければ、私は、三ヵ月、四ヵ月、眠ることができなかった人です。その父親と母親までが降伏するまでは、その家族をそのままにしておかなかったのです。粘り強い男です。人に負けることを絶対的に嫌う人です。負けたことがありません。何であろうと、やれば必ず勝つのであって、負けることは考えもしません。(五六−二八四、一九七二・五・一八)

 五山の家の小さい子供、そいつは一度決意すればすると言われていました。「おので柱を切る」と言えば、柱も切るのです。「牛を殺す」と言えば殺すのです。「やる」と言えば、すべてします。それゆえに、私が出ていけば、屈服しなければなりません。おじいさんとおばあさんから、三代が来て屈服して初めて気が済んだのです。(一九七−三九〜四〇、一九九〇・一・七)

 私が八歳の時、一度殴られて、その一家を屈服させた人です。「火をつける」と言えば、火をつけるのです。どれほど激しい人か分かりません。目を見てください。もぐらのような目をしているので、天も恐れないのです。(一七一−一五二、一九八八・一・一)

 一度は、ある者が私に鼻血を噴き出させて逃げていってしまいました。それで、その家の門の前で三十日間待って、ついにはその父親と母親を降伏させたのです。また、餅までひと甑もらってきました。(四六−一六一、一九七一・八・一三)

 昔、めんこ遊びを本当によくしました。めんこ遊びを知っていますか。また、銭打ち(注。:地面に小さな穴をあけて硬貨を投げ入れる遊び)、お金を壁に当てて遠くに行くようにするものと、穴を掘っておいて打って入れるもののチャンピオンでした。(二二一−九〇、一九九一・一〇・二三)

 若くしては、私と同じ年ごろの者と腕相撲をして負けたことがなく、相撲をして負けたことがありません。私よりも三歳年上の人が私たちの村にいたのですが、その人と相撲して、私が一度負けたことがあります。負けてから六ヵ月の間……。田舎で暮らした人々は分かると思います。アカシアの木は、春になると水が上がっていき、皮をはがすと松の木の皮がはがれるよ今にはがれます。それで、春に水が上がる時、ひたすら何度も曲げると皮が取れるのですが、それをずっとはがして……。これが固いのです。このアカシアの木と相撲するのです。「こいつ! お前を私が組み敷くまでは御飯を食べない!」。このようにして、六ヵ月以内で彼を下敷きにして初めて眠れたのであって、そのようにするまでは、御飯を食べることも忘れ、寝ることも忘れてしまいました。そのように激しい人です。(一三九−五二、一五三、一九八六・一・二六)

 昔、十歳にもならなかった時、村の二里内外にいる子供たちは、私の子分でした。「おい、いついつお前たちの部落に行く」と言って、子供たちをすべて集めてけんかをするようなこともしました。殴られて、悔しくて泣きながら「親分は誰々だ」と私に報告をすれば、「そうか」と言って、夜寝ないで一人で行きます。行って呼び出します。「こいつ、お前、誰々をどのように殴っただろう? 何発殴っただろう? こいつ」と詰め寄るのです。(一八三−二五〇、一九八八・一一・二)

 私が幼い時、「きょう雨が降る」と言えば、雨が降りました。「一週間以内にこの村で人が一人死ぬ、あの上手の集落で、おぱあさんが一人死ぬ」と言えば、死にました。そのような逸話がたくさんあります。(二一三―二三六、一九八一・五・八)

 既に違っています。村にでんと座って「きょう、あの上手の集落の誰々の家の何々おじいさん、楽でないだろう、病気になるだろう」と言えば、間違いありません。すべて知っています。八の時から、村中の結婚相手を見てあげるチャンピオンでした。写真二枚を見て「この人と結婚すれば良くない」と言えば、間違いありません。すべてがらがらと壊れていくのです。そのような歴史があります。(一六二−二九〇〜二九一、一九八七・四・一七)


四 並外れた思いやりと隣人愛


 物心がついてからは、鳥たちに食べるものを持っていってあげ、井戸を掘ってあげました。私が精誠を込めて泉を掘って、「鳥よ、お前はここに来て水を飲まなければならない」と言えば、来て飲んだというのです。私が食べるものを持っていってあげれば、それを食べ、私が行ったり来たりするのを見ても、飛んでいきません。(一七三−二七、一九八八、二・一)

 魚は水の中ではすべて生きるものだと思い、一度は、水たまりを掘って捕まえて入れました。T晩寝て起きると、すべて死んでいました。それを見て、「精誠を尽くしてお前を生かしてあげようというのに、どうして死んだのか」と言いながら泣くのです。それを見れば、先生は情的な人です。魚に向かっても、「おい、お前のお母さんが泣くだろう」と言うのです。(一八七−二九四、一九八九・二・一二)

 私の父は、犬を食べることを最も嫌います。ところが、村の人々が母を立てて、私が愛する犬を……。私が学校に行って来ると、その犬をつるしているではありませんか。自分の首が引っ掛かっていることも知らず、ただ私を見て喜ぶのでした。私は、首をつるされた犬にしがみついて痛哭しました。このようなことを考えるとき、「人間は信じることができないが、犬は信じることができるのだなあ」と思いました。(七一−一四八〜一四九、一九七四・四・二九)

 先生は、冬に震えて通り過ぎるこじきを見ると、御飯を食べることができず、眠ることができなかった人です。そのような性格をもちました。父と母に、「そのこじきを居間に連れてきて十分に食べさせて行かせましょう」と……。そのような性稟は、天が愛し得る性稟ではないだろうかというのです。

 村で御飯を食べることができない人がいるといううわさを聞けば、夜眠ることができません。どうやって助けてあげようかと考え、母に話すのです。すると、父も母も「お前は、村の人までみな食べさせて養うのか」と言います。そのような時には、父と母に分からないように、米のかめから米をすくい取って与えたのです。(五六−三五、一九七二・五・一〇)

 我が家は、数百箱の養蜂をしていました。田舎では、油がなくて火をつけることができない家があるのです。それで、ろうそく(蜜ろう)をこねて、一つ一つ配給してあげたのです。当時のお金でいくらしたかは、私は物心がついていなかったので、知ることはできなかったでしょう。それで、結局、父からひどくしかられました。(一六三−一五九、一九八七・五・一)

 村の貧しい友達は、粟飯や麦飯の弁当を持ってきて食べます。私はそれを見て、私の御飯をそのまま食べることができませんでした。取り替えて食べるなら、食べたのです。また、友達の父母が、体の具合が悪いのにもかかわらず病院に行くお金がない時には、先生は父と母のところに行って、涙を流しながら「病院に行くようにお金を出してほしい」と言ったのです。お金を出さない時は、「私はお金を使うところがあって、何と何をもっていって売るから、そう思ってください」と宣布したのです。(五八−八三、一九七二・六・六)

 先生は、お金があれば、すべて友人にあげました。「誰よりも日本を愛する条件を立てよう」と思いました。いろいろな場所を歩いて回りました。大きな杉の木を抱いて、涙を流しながら泣いたこともあります。(一五−一八一、一九六五・一〇・八)

 日本の統治の時には、おなかがすきました。それで、苦学する人々がいれば、「君たち、おなかがすいているだろう? うちに来なさい」と言うのです。食券が出れば、ひと月食べるものをすべて集めて「食べろ、食べろ。思う存分に食べろ」と言うのです。そのようにすると、三日もすればすべてなくなってしまいます。(一五五−三一六、一九六五・一一・一)

 学校に通うことが難しい学生を卒業させるために、何カ月かの間、学校をやめて、彼らの父と母の役割までしました。(二六−七〇、一九六九・一〇・一八)

 徒党を組んで弱い者をいじめる時には、彼らをすべて単独で片づけるのです。公のために闘うのです。殴られる時のその気分、これはすべて人生哲学で必要な問題です。(一五−一三一〜一三二、一九六五・一〇・三)

 先生も、血を吐きながら死の境を何度も行き来しました。しかし、監獄では、共に活動した同志たちに対する責任と義理のために、命を懸けて「私万人で闘った」と言いました。「殺す」と脅しても話しませんでした。(二三−一三五、一九六九・五・一八)

 角材で身の毛のよだつような拷問を受ける時も、話しませんでした。義理を守ることができなければならないのです。一度約束をすれば、自分が滅びたとしても守らなければなりません。拷問を受けたあとに一晩だけ過ぎると、その日は悲しい日であると同時に忘れることができない日として残ります。(三三−一一六、一九七〇・八・九)

 私を監獄に閉じ込めたとしても、私の心と私の理念は閉じ込めることができません。私を打ちなさいというのです。私を打てば、今まで私が神様の前に歩んできた道と神様が築いてこられた道とが連結されるのです。ですから、怨讐を愛することのできる心がどれくらい強いか、鑑定しなさいというのです。打ちたければ打ちなさい! 私がお前を憎むか、憎まないか。殴られて血を吐きながらも、「あー! よく殴られた。歴史的なすべての恨みの人類を代理して殴られた。私は殴られて忘れてしまうのであって、これを記憶しない」と思いながら、「神様! 彼らを許してください」と祈れば、これはどれほど素晴らしいことでしょうか。その立場を通過しなければならないのです。そのためには、私を殺す立場に立たなければなりません。(二七−七四、一九六九・一・二三)


五 多様な経験を通して培われた人生観


 学窓時代、全国で行ってみたことのない所はありません。トラックの運転士が乗せてくれなくても、それでも乗り込むのです。運転席に乗ることができなければ、荷台に乗り込むのです。トラックに乗っていき、その翌日の晩に降りながら「おじさん、私が夕食をおごってあげましょう」と言えば、「そうか」と言います。それで、夕食を食べながらひとしきり話をするのです。そうすると、その話にすっかり引き込まれ、私が夕食をおごってあげると言った言葉も忘れてしまって、自分が代わりにお金を取り出して支払うのです。また、田んぼで仕事をする夫のために御飯を作って、そのかごを頭に載せていくおばさんを道端に立たせたまま話をして、その御飯をごちそうになった人です。(一一二−二四〇、一九八一・四・一二)

 この道を出発し、韓国の有名な牧師、名のある牧師にすべて会ってみました。熟したか、十分に熟していないか、すべて調べてみました。誰が何点で、誰が何点なのか、あらかじめ点をつけてから出発した人です。その人たちは、私を知りません。外から見れば、髪の毛がぽうぽうなので、ただの通り掛かりの旅人にしか考えなかったかもしれませんが、私は、彼らの皮をすべてはいで、あらかじめ天の報告書に記録していったのです。(六二−五六、一九七一・九・一〇)

 先生は、まず地下教会を遍歴しました。日本の神社に参拝した人々が現れるので、解放の三年前、すなわち二十三歳から地下教会の遍歴を始めたのです。(二一一−−一四二、一九九○・一二・三〇)

 私は編み物が本当に上手です。セーターのようなものも、一人ですべて作って着ました。ポソン(足袋)のようなものもよく作りました。パンツや麻のももひきのようなものも、一人でよく作りました。女性なしで一人で生きようと、すべてのものを研究した人です。一生の間独身生活をしたとしても、このみ旨を畢生の事業と決めて出発した人なので、できないものがありません。美しい帽子を編んでかぶることもできます。手袋を編んでも、本当に速く編みます。(五〇−二九六、一九七一・一一・八)

 女性の服を着て、首都ソウルで行ってみたことのない所はありません。非行の男性の者たちをみなひどい目に遭わせてやらなければならないというのです。暗行御史(注:季朝時代、王がひそかに地方言の治績や非行を調査するために派遣した官吏)にならなければなりません。世の中を調査しようとすれば、くまなく調べなければなりません。そのような歴史がたくさんあります。(一八五−三九、一九八九・一・一)

 青少年の時にはどれほど映画館に行ってみたいと思ったことか……。私のような人が映画を見れば、どれほど衝撃的だったか分かりません。楽しくて大声を出すことができる気質をもっているのです。しかし、私は行きません。それで先生は、「初めから行かないよりも、どんどん毎日のように行こう」と思って、一日に五回まで映画を見ました。そこに行かなければよいのではなく、最もたくさん行ってみて、最も相克となり得る体験をしてからは絶対に行かないのです。体験することもできずに行かなければ価値がありません。それで、一日に五回ずつ通ってからは、ぱっと切ってしまいました。「こいつめ、行かない」。このようにするのです。(一二三−二四〜四三、一九八二・一二・一)

 昔、鍾路三街のような所には遊郭がありました。それを私が調査しなければならないというのです。なぜ美しい女性たちがあのようなことをしなければならないのかというのです。もしあれが自分の姉だとすればどうするのか、自分の娘ならばどうするのか、父や兄であれば、どうするのか、問題が深刻です。そのような若い女性たちに対して、夜を明かしながら話してあげたことを思い出します。(一八二−一六七、一九八八・一〇・一六)

 黒石洞にいた時、市内に入ってこようとすれば、電車賃が五銭でした。五銭払うと、電車に乗って市内に行くことができます。しかし、市内まで歩いていきました。和新まで四十五分あれば行きました。早く歩く人でしょう。普通の人は、一時間半かかります。夏の日、学生服を着て、汗を流しながら歩いて通いました。そのお金はかわいそうな人に与えたのです。「千万金を与えたいという思いと、皆さんに福地をつくってあげたいという思いはこの上なくありますが、今、民族に代わって与えるので、これを受け取って、どうぞ福の種にしてください」と言いました。

 鷺梁津に、少しの間いました。そこから学校まで、五銭あれば電車に乗れるのですが、電車に乗らずにその五銭をもって歩いてきて、降りる場所ぐらいの所で積善し、帰る時は鷺梁津で積善し、そのようにしながら通いました。そのようにして通いながら、「私が一人前になるまで、しっかり育て。死なずに私と共に大きくなろう」と言いながら、木をたたいて通ったことが思い出されます。その時のそのプラタナスは、すべてなくなってしまいました。(一九七−七四、一九九〇・一・七)

 故郷から送ってきた学費をもって学校に行く途中、道端で死を前にした病人と出会い、その病人にお金を与えて入院させ、治療してから帰したこともあります。それで、学資金を出すことができなくなり、督促を受けた時のその気持ち、その時に友人たちが同情してくれたことなどは、▽生の間忘れることができません。そのような一時のことが、先生の一生にどれほど至大な影響を及ぼしたかが分かります。(九七−二五五、一九七八・三・一九)

 ハルピンの上にハイラルという所があります。日本で勉強する時から、満州電業という電気会社に就職して暮らそうとしていました。なぜそこに行こうとしたのでしょうか。ソ連の言葉を学び、中国語を学び、モンゴル語を学ぽうとしたのです。今後、アジアにおける大陸基地を料理することを考え、言葉を学ぶために行こうとしたのです。三年間を計画していました。

 満州電業は、満州の安東にありました。その後、その支店に行こうとしたのですが、よくよく見ると、情勢が穏やかでないのです。満州に行ってはいけないというのです。それで、就職して受け取ったすべてのものを返そうと思い、安東に行きました。辞表まで添付し、費用をすべてもって安東に行き、支店長に会って清算したのです。(一八六−三一〜三八、一九八九・二・六)

 昔、先生は、職場に行っても一番早く行き、一番遅くまで仕事をしました。そのような訓練をしました。一等にならなければ気分が悪いというのです。あとからは、最も貴い地位に進み、引き継ぎ者、主人になるのです。同じことです。天のみ旨に対しても、朝早く起きて▽生をこのように過ごす人が主人になるのです。天国の主人になるのです。(九九―四五、一九七八・八・二七)

 先生には、今も忘れられないことがあります。日本の東京に行けば、銀座という繁華街があります。その通りは、善男善女たちがとてもきれいに着飾って歩く、日本で最もにぎやかな場所ですが、先生が学生服を脱ぎ捨てて電信柱を載せた荷車を引いていきながら、「お前、この者たち、道をあけるか、あけないか見てみよう」と考えながら仕事をしたことがあります。(三七−三七、一九七〇・一二・二二)

 川崎造船所には、「バージ(barge)」という、石炭を積んで往来するぽんぽん船があります。その百二十トンになる石炭を三人が受け持ってすれば、夜の一時までに仕事を終えなければなりません。人が三日かかる仕事を夜の一時までに、一日で終えたのです。(二二〇−三〇四、一九九一・一〇・二〇)

 休日には、川崎にある会社にたびたび行きました。そこには乳酸タンクがあるのですが、労働者がその乳酸タンクの中に入っていって、浄化するために原料を下に送り込みます。その装置は、何年間か使うと使うことができなくなってしまいます。乳酸が入り込みません。そのようになれば、それを交換するためにタンクの中に入っていきます。しかし、その中では十五分以上仕事をすることができません。そのような所で闘いながら仕事をしました。(一五−一八一、一九六五・一〇・九)

 日本の留学時代、先生は貧民窟から私娼窟に至るまで、行ってみなかった所はありません。そうかといって、悪い行動をしたというのではありません。(二二−一二〇、一九六九・二・二)

 修養する時、静かで荘厳な所や、深い山のような所に入っていかなければできないというのは、話になりません。静かな所でしか勉強ができないというのは、先生には通じません。工場の何百万馬力のモーターやエンジンが回る所でも勉強したのです。そのようなことをよくしました。様々なことをしながら準備したのです。(一五−一三一、一九六五・一〇・三)

 先生の後ろには、常に刑事たちがついて回りました。私が韓国に来れば、あらかじめ彼らが電話し、「誰々が今、韓国のどこに行く」と連絡するのです。先生が駅の改札口を出てくると、願わない人々が来てあいさつするのです。(三四−二八九、一九七〇・九・一三)

 学生でしたが、要注意人物でした。しかし、普通の人は先生をよく知りません。韓国が日本の政権下にあった時、先生は何度か留置場に引っ張られていきました。東京にいた時には、ひと月に一度は警察署に呼ばれていきました。その警察署は、高田馬場通り、早稲田大学の右側にありました。(一五−一八一、一九六五・一〇・八)

 日本には食券というものがありました。その食券で「何杯食べることができるか、一度食べてみよう」と言って、友人たちを連れていきました。高田馬場をずっと下っていけば寺があるのですが、そこから食堂がずらっと立ち並んでいます。先生は親子どんぶりを七杯も食べました。七杯食べると、首が回りませんでした。それは、おなかがすくことよりももっと苦痛でした。動くこともできませんでした。

 先生は、いつもおなかをすかしていました。自分のおなかだけ満たしていれば、自分から民族が遠くに逃げていってしまうからです。神様も、自分から遠くに逃げてしまいます。おなかがすいて食べたいのですが、それ以上に民族と神様を愛さなければならないと思いました。それが真理であり、先生の信条でした。(一五−一八三〜一八四、一九六五・一一・二)

 四年間二食主義を実行してください。先生は、高校時代から三十歳まで二食主義を実践しました。三食は食べずに暮らしました。ですから、おなかのすかない日はありませんでした。食事一食を世界のために犠牲にしなさいというのです。それは高潔なことです。(一八五−一一一、一九八九・一・三)

 先生は、古着服で安い服を買って着ました。その服を見れば、てかてかと光沢が出ています。人々は、みな頭にはポマードや何かをつけます。「風が吹いたり台風が吹いたりすれば髪の毛がなびくからだ」と言ってつけます。しかし、先生はそのようにしませんでした。先生は、春の日や夏の日にもつけませんでした。また、歩く時は、下から四五度以上、上を見ませんでした。(一五−一八一、一九六五・七・一七)

 天命を全うすることができない男が、どうしてぬけぬけと調えるものをすべて調え、大路を闊歩しながら往来することができるのかと思いながら歩んできました。天理の公法の前に支払うべき代価を清算することができない立場では、そのようにすることができないというのです。(三七−三五、一九七〇・一二・二二)

 女性たちが裸になって布団の中にこっそり入ってくることが何度もありました。しかし、私は、日本の女性たちの前に罪を犯しませんでした。(二三一−三八、一九九二・五・三一)

 自分の性欲をコントロールしなければなりません。美人たちの間に入っていったとしても、生殖器が起きてはいけません。コントロールできる者にならなければなりません。統一教会の根が深いということを知って、その根に皆さんが接ぎ木して成長してこそ、緑の丘で先生のような木になるのです。(一八二−一七五〜一七六、一九八八・一〇・一六)

 学生の時にも、監獄の出入りを普通に行った人です。また、日本の警察の拷問台で、ずぶとさも見せた人です。彼らの拷問は、とてもひどいものでした。今、若者たちを捕まえてその時のように拷問すれば、服に糞をしながら、していないことも「した」と言うことでしょう。(二五−一六三、一九六九・一〇・三)

 四肢に死んだ血が回るほど、また血がどんぶりで何杯もあふれるほど、何度も殴られました。日本統治時代には、軍靴でおなかを踏みつけられる拷問も受けました。二人の者が左右から手をつかみ、また二人の者が上から踏みつけるのです。そのようになれば、おなかの皮がどのようになるでしょうか。そのようになって、便所に行って一度座ったのちに、立ってみてください。それは、どれほどつらいか分かりません。(一七−二九八、一九六七・二・一五)

 日本の統治時代、先生は、監獄に入っていって拷問を受けました。最も大変だったのは、角材をここに置いて拷問を受けることです。日本の統治時代には、軍隊で履く革靴がありました。ぴょうをはめ込んでカチャカチャ鳴る革靴で踏みつけるのです。それは、受けてみたことがない人には分かりません。(六三−二一九、一九七二・一〇・一四)

 一度は、十四時間の取り調べを受け、拷問を受けて二十メートルをはっていくことができないほどになったのであり、何度も生死を往復する過程が反復されたとしても、私は口を開きませんでした。(三三−一一六、一九七〇・八・九)


















▲ 目次へ

五 多様な経験を通して培われた人生観

文鮮明先生の教育哲学



六 文鮮明先生はどのような教育を受けたのか


 私が十歳の時、書堂に通う時は、一日に本一ページだけ覚えればよいのです。それで、三十分以内ですべて覚えるのです。ぐっと精神を集中して覚えれば、三十分ですべて頭に入れることができます。そのようにしたのちに、先生の前で暗唱すればよいのです。三十分もやればすべて覚えるというのに、一日中「孔子曰く、孟子曰く」と言って座っています。そのようにすべて覚えてしまってからは、先生が昼寝をする時、私は山を歩き回りました。(二〇四―二五〇、一九九〇・七・一一)

 昔、書堂に通う時、そこで先生から、大概論語や孟子のようなもの何枚かの講義を受けて、翌日の朝に必ず習った文章を先生の前で暗唱するのです。暗唱することができなければ、むちでふくらはぎをたたかれます。いずれにせよ、私がむちでたたかれたことを思い出します。(一〇一−六八、一九七八・一〇・二九)

 昔も、学校に入るための予備校がありました。ソウルにも大学に入るための予備校があるのと同じようにです。その当時でいえば、小学校です。国家が認定する学校に入るための前段階として、予備校がありました。その予備校に行って勉強し、編入試験を受けなければなりませんでした。その予備校に行くために、いとこをそののかして革命を行いました。(一七一−二五八、一九八八・一・二)

 四月、学校に入る前に、父と母は書堂に訓料、学費のようなものをすべて支払いました。その当時は、訓料といいました。その月謝金をすべて出したのですが、一年もたたずに逃げようと思ったので、父と母から説得しなければなりませんでした。父と母を説得し、おじいさんまで説得したのです。いとこまで説得しました。ほかの人々は飛行機を飛ばしているのに、「孔子曰く、孟子曰く」ではいけないというのです。すべて私が開拓しました。(二〇三−二七九、一九九〇・六・二七)

 先生は欲張りです。私が生きている間に博士学位を三つ以上取らなければ死ぬと考えた人です。ところで、今見ると、博士が最も簡単なのです。最近では、何かの名誉博士や、本当の博士学位をあげましょうというところがあまりにもたくさんあります。(二五−一六二、一九六九・一〇・三)

 予備校で勉強したのち、その当時でいう普通学校に入りました。五山小学校、ここも五山学校があるでしょう? その当時は、五山普通学校です。編入試験を受けて、その学校の三学年に入りました。そこで一年勉強するのに一生懸命にせざるを得ないでしょう。決死的に勉強したところ、成績が良くて、五学年への飛び級を許可されたのです。(二一一−一三三、一九九〇・一二・三〇)

 小学校に通う時は、二里の道のりを歩いて通いました。八キロを毎日歩いて通ったのです。それゆえに、中間ぐらいに住んでいる子供たちは、私がきっかりその時間に通るので、その時に出てくれば絶対に遅刻しません。すべて科学的だというのです。それで、峠ごとにずらっと子供たちが待っているのです。私は、本当に道を早く歩きます。八キロを一時間以内、四十五分で歩くのです。そうすると、後ろからついてくるのが忙しいのです。(一三三−一五五〜一五六、一九八四・七・一〇)

 五山小学校では日本語を使うことができないようにしました。皆さんが知っているように、三十三人の中の一人として、日本の怨讐の立場で闘争した代表的な人である李昇薫氏が建てた学校であり、そのような学校の伝統があるので、日本語を使うことができないようにするのです。

 問題は、私たちが敵を知らなければならないということです。敵に対して詳しく知らなくては、闘ったとしても対備策を立てることができないと思ったのです。それで、編入試験を受けて、公立普通学校である定州普通学校の四学年に入りました。それで、そこに入って日本語を学び、流暢に話すことができるようになって卒業しました。そのような過程を経ながら、信仰の道や人生の根本問題など、あらゆる難しい問題を考えるようになりました。

 学校に行くようになると、すべて日本語を学ばなければなりません。カタカナ、ひらがなを勉強した時が数日前のようです。一晩ですべて覚えてしまいました。そのようにしたのちは、稲妻のように一年生、二年生、三年生、四年生のすべての本を半月ですべて覚えてしまいました。そのようにすると、言葉が耳に入ってくるようになりました。(一七一−二五八、一九八八・一・二)

 最初に描いた絵が学校に張り出されました。学んでもいないのに、既に測定して描いていたのです。三等分して、それに沿っていくのです。あの図があの平原の何等分の中に入っているのだなあと考えて、ぱっとつかみ出します。センターを中心として測定していくのです。この画用紙が、センターを中心として三等分にして点をつけるようになれば、絵を描くことができます。(一三七−二四一、一九八六・一・三)

 先生が幼い時、ノートを書く時には、線が引かれている部分から書くのではなく、一番上から書きました。ある時は、一枚に二度ずつ書いたりもしました。そのようにすると、ノート一冊でたくさん書くことができます。物を大切に使わなければなりません。(三一−二六〇、一九七〇・六・四)

 先生は、小学校に通う時から、校長先生の行動を見て「私はこのように生きなければならない」という訓練を絶えず行いました。今でも祈祷する時は、そのようなことを中心として祈祷しています。

 皆さん、油皿のランプを知っていますか。油皿のランプのもとで勉強した時が数日前のようです。二時、三時、夜を明かしながら勉強するようになると、父と母は、「おい! 寝なさい。体があまり弱くなってはいけない」と言います。常にそうでした。その時、私が友達としていたのが夜の虫たちでした。夏の季節には、夜の虫たちを友達にしました。(一〇〇−一六一、一九七八・一〇・九)

 今も忘れられないことは、定州普通学校の卒業式の時のことです。多くの父兄とすべての先生が祝賀するために集まったのであり、定州邑の有力者が祝賀するためにすべて集まりました。その卒業式では、校長の訓辞があり、その次に祝賀客の祝辞があったのですが、その次に私が志願して壇上に上がっていき、日本に対して反駁したことが忘れられません。そのようなことを見ると、少年時代の気質が普通ではなかったようです。(二一一−一三四、一九九〇・一二・三〇)

 私が小学校を卒業する時、式場で大雄弁をしました。警察署長、郡守を前にして、「日本の者たち、ふろしき包みをまとめて行け!」と言って糾弾したのです。小学校の学生の時からそのようにしたので……。それで、警察署長に捕まえられていって、談判した人なのです。「これこれこのような内容が正しくないのに、このような場合に黙っていることができるか」。このようにして、その時からレッテルが貼られたのです。(六三−二三八〜二三九、一九七二・一〇・一四)

 ソウルに初めて来ると、環境があまりにも違っていました。定州は田舎でしょう。そのような環境で暮らしたのちに都市に入ってきたので、一八〇度違うのです。また、どれほどソウルの範囲が広いか分かりません。そこに拍子を合わせながら過ごしたすべての出来事が思い出されます。(一八七−三〇一、一九八九・二・一二)

 中学校時代、私が掃除をすべてしました。学校全体を私が先頭に立って愛したいという心があったからです。学校全体を代理して私が清掃すると思ったのです。そのようになるときは、人が手伝ってくれることが嫌だというのです。(一三三−一八二、一九八四・七・一〇)

 先生は、七年間自炊生活をしました。お金がなくてしたのではありません。女性たちを調査しようとしてそのようにしたのです。絶対にお湯では自炊生活をしません。冷たい水、ひたすらつるべで冷たい水をくみ上げてするのです。そのようにすると、手がぺたぺたとくっつきます。このようにして、米をとぐようなこともたくさんしてみました。(一五三−三一二〜三一三、一九六四・三・二六)

 習慣になって、多くのおかずは必要ありません。常に、手軽で、おいしく、実用的なものが一つあればよいのです。常に一食一菜です。おいしいおかずが一つあればよいのです。(四五−二六〇、一九七一・七・四)

 国もない身分で、御飯を三食ずつ食べる資格があるのかと思いました。御飯が慕わしい生活を本当にたくさんしました。御飯を慕わしく思うと同時に、民族を慕わしく思う道を行きました。「御飯よりも民族をもっと愛さなければならない、国をもっと愛さなければならない」としながら、故郷を離れてソウルに来ていながら、昼食を食べませんでした。ポケットにお金がなくて、そのようにしたのではありません。お金があれば、かわいそうな人々に分け与えたのです。(四九−七四、一九七一・一〇・三)

 誕生日は断食するのが常でした。自分の個人的勝利の基準も越えることができず、家庭的勝利の基準も越えることができず、民族、国家、世界の勝利の基準も越えることができていない者が誕生日を祝うことができますか。誕生日をどうして祝うことができますか。踊りを踊ることができますか。できないというのです。罪人は、天の前に責任を果たしたのちに、そのようなことをしなければなりません。先生はそのような生活をしました。(九三−二七八〜二七九、一九七七・六・一一)

 漢江を渡ってみると、中之島という所があります。そこで漢江の水を見て嘆息したことが生き生きと思い出されます。「お前は、千年、万年流れているが、どれほど熱い心をもってこの国、この民族のために流れているのか。生命線となり得るものが水であり、この肥沃な三千里山河を美しく飾ることができる泉、母の乳のような漢江水にならなければならないのだが……。お前ができなくても、私はする」と思ったことが、今も生き生きと思い出されます。その時は、橋が一つしかありませんでした。その橋を歩いて通いながら、そのようにしたことが思い出されます。(一九七一−七四〜七五、一九九〇・一・七)

 先生は、子供たちを希望の相対と思い、幼年聖日学校の生徒たちを指導した名指導者でした。彼らを誰よりも愛しました。その子供たちは、先生に夢中になりました。学校にも行かず、先生の後ろをついて歩こうとしたのです。(六〇−二〇一、一九七二・八・一七)

 私は、イエス教の朴在奉牧師や、李浩彬牧師などという人々の背後をよく知っています。その人々の背後に対してよく知っていますが、今まで私の口から、その人々の欠点に対しては一言も言ってみたことがありません。彼らにも、従う人がいます。彼らと彼らに従う人々とは、因縁があって出会ったのです。神様が百ぐらいの因縁を中心として出会うようにしてくださったのですが、それを五十ぐらいの因縁に引き下げれば、引き下げた人が責任を負わなければなりません。いったんその畑に植えたものは、その畑から収穫されなければならないのです。(三三一一三〇、一九七〇・八・一一)

 ある日は、ノート三十枚、一冊の分量の日記を書きました。その時、悲壮な心情を事実そのままにすべて書いたその日記が、日本の統治の時に事件が起きると同時に資料となりました。その記録の中には多くの人の名前が記されており、事件の連累者となって、いもづる式に連行された経験があるので、その時から日記を書かないのです。手帳ももたずに歩きます。重要なことはすべて頭の中に記憶します。(一三九−二八四、一九八六・一・三一)

 日記をすべて私の手で燃やしながら涙を流しました。「今後、私がこのような道を行くようになる時に必要な歴史的資料、塗炭の苦しみの中で呻吟する若者たちに解放の道を照らしてあげるべき記録がここにあるというのに、これを燃やすのだ」と思いながら、のどが詰まった記憶があざやかによみがえります。文先生は、青春時代におなかがすくのを克服し、民族の救済と世界の救済、そして神様の解放のために努力した人です。(一九七−一六四、一九九〇・一・三)

 日本に行く時―その時は京釜線列車ひかり号がありました──ソウル駅でその列車に乗りながら、「私が行って来る時は、つたない敗者の男として流れていくのではない。国を救うための熱い心を抱いていく男の道は、天が保護される。私が帰ってくる時は、お前は希望に満ちあふれているだろう」と思いました。(一九七−七五、一九九〇・一・七)

 ソウルから釜山に行く時、「私が日本に行って学んでくることは何だろうか。この国を解放させ、私たちの二世が希望に満ちた前進的出世をすることができる道、自主的独立国家を建てて出世することができる道を築いてあげなければならない」と思いました。龍山駅を出発して漢江の橋を過ぎながら、手すりをつかんでとめどなく涙を流したことが、今も思い出されます。(一九九−一八五、一九九〇・二・六)

 孤児のようなこの民族を置いていくのだという考えをしながら、ソウルから釜山まで外套をかぶって痛哭しながら行きました。日本のおばさんが泣いている私を見て、「青年、父と母が亡くなられたのですか。そのような悲しみは誰もが受けることではありませんか」と言いました。しかし、私の悲しみは、ただひたすら国を愛する心からわき出たものでした。(三九−六二、一九七一・一・九)

 先生が日本に留学するために出発した一九四一年四月一日午前二時、釜山の埠頭で、韓国を見つめながら祈祷したことが忘れられません。「私は、出発していくが、お前をより一層愛し、お前のためにもっと多くの涙を流してあげよう」と約束しました。(二二−一二三、一九六九・二・二)

 怨讐の国に行って足を踏み締めたその瞬間から、涙を流すのをやめました。そこから私が行くべき道を決定するのです。私は、日本の名勝地に一度も行くことができませんでした。国のない民がそのような看板のついた所には行かないというのです。(一五四−一六三、一九六四・六・一二)

 先生は、電気と科学を勉強しました。私の行く道が分かっていたのです。私が科学の勉強をしながら、電気の方面に手をつけたのは……。大きなことをしようとすれば、数学的な計算が速くなければなりません。鑑定力が速くなければなりません。それは、見えないものを管理するものなので、宗教と通じるものがあるといえます。すべての現象世界では、電気現象が発見されます。運動するすべてのものからです。(一二〇−三一六、一九八二・一〇・二〇)

 先生は、東京で勉強している時、市内をたくさん歩いて回りました。行ってみない所がありませんでした。将来、計画があったからです。「今後、何年後には、日本の若者たちが必ず立ち上がるだろう」と思いながらです。(一五−八七、一九六五・九・二九)

 学者たちはどうで、労働者たちはどうだということを実際に調査するために、先生は路地裏に何度も通いました。密使を送ったり、通ったりしたというのです。東京駅に降りた時から闘ってきたのです。話はしませんが、私が通った道です。「お前は分かるだろう、韓民族が行く道を」と思いました。道を渡っていこうとこようと、木を見つめようと、「この万物、怨讐の地にある万物、お前は天に属するものなので、私が分かるだろう」。このように思いながら通いました。(一五四−一六四、一九六四・六・一二)

 先生の卒業当時は、大東亜戦争中だったのですが、兵役問題もあり、六ヵ月短縮して、九月に卒業しました。(五一−一四七、一九七一・一一・二一)

 東京駅に行って汽車に乗ろうとするのですが、足が離れないのです。その船に乗っていれば逝くのでしょう。既に天は、先生を行くことができないようにされたのです。それをよく知っている人です。心が「後ろに戻れ」と言うのです。電報を打って「行くことができない」という連絡もせずに、友人たちと登山に行きました。その時が秋だったのです。富士山に行きました。私が登山に行った拍子で、何日かが過ぎました。一週間して戻ってくると、故郷では大騒ぎだったのです。(一〇五−二三八、一九七九・一〇・二六)

 故郷では大変なことになったのです。息子がその船に乗って何日の何時に来るというのに、来ないので、大変なことになったのです。大騒ぎになったのです。平安北道の定州では、警察署に二日間も出たり入ったりしました。(五一−二四二、一九七一・一一・二八)

 先生の故郷の村から定州邑までは二里です。母は、その二里の道のりをはだしで駆け、釜山まで汽車に乗っていったのですが、履物も服も何も、考える意識があったでしょうか。「息子が死んだ」とはだしで飛び出して、釜山の水上警察署まで行って確認すると、j名簿にはなく、知ることができないのです。ですから母は、「間違いなく息子が死んだ」と、そのように夢中になって考えていたので、足の裏にアカシアのとげが刺さったということも分からなかったのです。化膿してうみが噴き出す時まで分からなかったというのです。それから私が半月後だったか、いずれにせよ、十日くらいが過ぎたのちに帰ってきました。帰ってきてそのような話を聞いた時、「あー! 私はひどいことをしたなあ」という気がしました。そのような母でした。(四五−一三六〜一三七、一九七一・六・二四)

 先生は、日本を離れながら思いました。「二十年後に、私は間違いなく戻ってくるだろうから、その時に再び会おう。今は、民族の恨を解くことができずに行くが、将来、君たちの国の民、君たちの国の青年に命令して教える時が来るだろう。その時に再び会おう」。このような考えをしました。

 先生は二十年ぶりに日本に行きました。行くと同時に最も気になったことが何だったかというと、私たちの教会に青年男女がどれくらいいるのかということでした。若者たち約五百人が集まったのですが、彼らは、みな裕福な家の子女でした。今後、どのようにしなければならないのかと尋ねると、みな、「先生がしなさいと言うとおりにします」と言うのです。これは、どれほど素晴らしいことですか。統一教会と文先生が勝利することを願うというのです。また、「先生が命令すれば、どのようなことであろうとすべてしますか」と尋ねると、「そのようにします」と言うのです。(三四−三五三、一九七〇・九・二〇)


七 人生に対する苦悩、そしてイエス様との霊的出会い


 少年時代から、人生の様々な基本的な問題に対して苦悩し始めました。私は誰なのか。私はどこから来たのか。人生の目的とは何なのか。死んだのちに、私たちの生命はそのまま継続するのか。神様は果たして存在されるのか。神様は全能であられるのか、あるいは無力な存在であられるのか。もし神様が全能だとすれば、なぜ人類世界の問題を解決してくださらないのか。この地球上には、なぜ数多くの苦痛が存在するのか。(一〇二−二八八、一九七九・一)

 過去のことを振り返ってみるとき、これが追憶の一つになるのかもしれませんが、その時は、本当に深刻でした。自分の生涯の未来をかけて、どのように行くべきかという問題を談判する時期でした。これが人間だけの決定ではできないという事実を知ったので、神様がいらっしゃるとすれば、神様のみ旨によって決定的路程をとることができる道を行かなければならないと思いました。そのような、信仰の道で苦心したすべての追憶が生き生きと思い出されます。(二四一−三五、一九九二・一二・二〇)

 先生は、十六歳(数え)の時に、普通では考えられないような経験をしました。復活節の朝、長い時間、涙の祈祷の末に、イエス・キリストが先生に現れて、多くの啓示と教示を下さったのです。イエス様は、深奥で驚くべき事実に対して多くのみ言を語ってくださいました。苦痛を受けている人類ゆえに、神様は悲しんでいらっしゃると語られました。そして先生に、地上で神様の役事に対する特別な役割を果たしてほしいと要求されました。(一三四−一四五、一九八五・一・二)

 先生が幼い時に体験したこの事実を、言葉をもってすべて表現するということは、大変難しいことです。霊的な世界が忽然と広がったのであり、先生は、自由にその霊的な世界にいる聖者たちと通信することができました。北韓の地、静かな山中で、先生は何度もイエス・キリストと直接対話を交わしました。その時に啓示された真理の内容が、今、「統一原理」の核心になっているのです。(一二〇−一一九、一九八二・一〇・五)

 皆さんが霊的にイエス様を見れば、笑いながら「いやあ、うれしい!」と言いますか。そのようなイエス様に会ってみましたか。先生も会ってみることができませんでした。常に深刻で沈痛な姿で現れます。そのようにせざるを得ませんでした。天をよく知っているので、そのようにするのです。先生もそうです。(九七−一七四、一九七八・三・一五)

 私がこの道を出発した時は、年が皆さんよりも若い時です。二十歳の前に、その時にこの道を出発しました。その時は、天真爛漫な時代でした。良いものが何かあれば、すべて自分のものにしたいと思い、また村に何か変わったものがあれば、それを調べてみたく、関係を結んでみたいという心がとても強い時でした。

 そのような時代に天のみ旨を知り、天的な大命に従ってからは、その日から、この途方もなく大きな使命を成すことができる私自身になることができていない、ということを知りました。それに従うためには、内外であらゆるものを備えなければならない自らの責任がどれほど大きいか、ということを痛感せざるを得ませんでした。(一五六−一〇六〜一〇七、一九六六・一・九)

 私がこの道を出発する時は、青年でした。イエス様から使命を受ける時は、その大きな責任をいかにしてすべて成し遂げるのかということが、非常に大きな問題でした。私は、ノアやアブラハムやモーセが、いかなることがあったとしても目的とする道に行こうとする力が誰よりも強かったということを知りました。(一六−一四二、一九六六・一・九)

 知恵のある人は、困難な道を通して未来の希望を抱いていく人であり、愚かな人は、今この時の幸福のために未来を夢のように捨てる人です。先生も、昔若かった時、そのような考えをしたでしょうか、しなかったでしょうか。青春時代は一度しかないというのに……。どのような道を選んだだろうかというのです。知恵のある人が選ぶべき道を選びました。高い次元に比例して、その人格の価値や人間像が異なってくるのです。(一〇五一一八〇、一九七九・一〇・二一)

 神様は、御自身の時間表に従って私を選択して、受任されました。ところで、なぜそのようにされたのでしょうか。問題は神様に直接お尋ねしてみなければなりません。私がはっきりと分かっていることは、そのような使命が私に賦与されたということです。(八七−二八六、一九七六)

 今まで、救援の歴史に数多くの事情を残しながら、歴史の峠道を越えに越え、解決することができないまま、神様が門前まで訪ねてこられたのです。レバレンド・ムーンが少年の時、門前まで訪ねてこられて告知されたのですが、その時が、このみ旨を知って出発した時でした。(一二〇−二八一、一九八二・一〇・一七)

 道を歩いている途中で偶然誰かの言葉を聞いて出発したのではありません。ある牧師から感動を受けてこのことを始めたのでもありません。誰かから伝道されてこの道を歩んでいるのでもありません。それでは、その動機の出発点はどこでしょうか。神様です。(二〇−三一五、一九六八・七・一四)

 私がこの道を出発した時も、「神様はいるのですか」と最後まで突き止めて、神様がいらっしゃるということをはっきりと知ってから出発しました。次は、「神様、願いがありますか」と尋ねて、神様の願いがあるということを知りました。また、「神様、私が必要ですか」とお尋ねして、私が必要だということを知りました。「それでは、どれくらい必要ですか」と問いただしました。(一三−二〇一、一九六四・三・一五)

 十代を過ぎ二十代に向かいながら、信仰路程で様々な苦悩もしました。そのようにしながら、「日本に行ってみなければならない。日本を経て、アメリカに行って来なければならない。現地に行って、弱小民族が悲しみを受け、迫害されるとはどのようなものかを体験しなければならない」と考えました。神様を知るにおいてはどの程度まで知らなければならないのでしょうか。神様の内情から事情、神様が行かなければならない目的地まで知らなければなりません。それで、このような問題を中心として、キリスト教の聖書からあらゆる経典を探究してみました。(一九九−二一四〜二一五、一九九〇・二・一七)

 先生が、みすぼらしい立場で神様を知ることができるようになる経験をし始めたのは、十六歳の時からでした。いずれにせよ、それからの九年間、先生は常に全能であられる神様、そしてイエス様と共に生活しました。先生は、何度も霊界に入ってみました。漸次的に、神様は驚くべき真理を教えてくださいました。それはあたかも、長い長い夜が過ぎ去り、朝日が昇るかのようでした。その真理の中で、栄光なる新しい文化の曙光を見ることができました。先生が受けたこの啓示は、今日「原理」と呼んでおり、神様から「この原理を地の果てまで伝播しなさい」という指示を受けました。(一〇二−二八八〜一八九、一九七九・一)

 祈祷する時は、背中が曲がり、ひざにたこができるぐらいにしなければなりません。先生のひざには、昔祈祷しながらできたたこが今も残っています。祈祷は、板の間でしなければなりません。涙も流さなければなりません。先生は、祈祷しながら、涙のあとが乾かないほどに何度も涙を流した人です。(二五−三三四、一九六九・一〇・一二)

 人生の行くべき道を解決することができずに死んでいく人々が多いことを知って、それを解決するために、常に目を赤くして祈祷しました。祈祷しながら涙をあまりに多く流し、日の光を見ることができないほどでした。そのようなことをしながら、この道を訪ねてきたのです。(一四三−三三一、一九八六・三・二一)

 先生は、最も盛んな時は、十八時間、十七時間、普通で十二時間祈祷しました。うつぶせになってです。昼食を食べません。痛哭をするのです。そのようにしなくてはいられないのです。四方が完全にふさがれ、出ていく穴がありません。祈祷をしてこそ、天の穴が見えるのです。そのような試練の過程を経て原理を探し出したのです。(一九九−一九〇、一九九〇・二・一六)

 「精誠を尽くして造った塔が崩れようか」という言葉があるでしょう? 神様のために精誠を尽くさなければならないというのです。神様が慕わしくてたまらない境地まで入っていかなければなりません。神様がいらっしゃる所が地であるとすれば、一日に千回でも行ってきたいという思いがあるのですが、地ではないので、仕方なく先生を送られたのです。そのような何かがあるので、皆さんは、先生を愛さなければならないようになっているのです。意味もなく、そのように情が行きますか。涙を流しながら祈祷する時、冬の三ヵ月に綿入れのズボンと上着をすべて涙でぬらす時がありました。どれほど息が詰まっただろうか、考えてみてください。刃物を突き刺しておいて談判祈祷する時が、一度や二度ではありませんでした。(六〇−二一三、一九七二・八・一七)


八 文鮮明先生が天から受けた教育


 私が受難の道を歩む時、神様が私以上に苦労されたということを知っていたので、私は、神様の前に一言の不平も言うことができませんでした。加重された十字架が前をふさぐことが千万回あったとしても、それ以上に苦労された神様がいらっしゃるという事実を知っていたので、受難の道も平坦な道のように越えることができたのであり、試練も克服することができたのです。

 それゆえに、今、私が歩んでいるこの道に従う皆さんの前に、私が力の母体になることはできないとしても、皆さんの力をそいでしまう人になってはならない、ということが天の道理だと知り、天から教育を受けたのが先生の心です。

 私は、皆さんの師として、神様が私のために苦労され、私を慰労されたのと同じように、皆さんの前に慰労と力の母体となるために、昼夜責任を全うしようとしているということを知らなければなりません。(四三−二六二、一九七一・五・一)

 習慣的な観念をもって、統一教会に入ってきてはならないというのです。つまらないというのです。私は、そのような姿を見たいと思いません。統一教会を信じて自分の利益でも得ようという人は、ここに出入りしてはならないというのです。統一教会を信じることは、国に利益となるようにするためです。そのような思想です。文先生を愛するということを、私は願いません。愛することを願わないというのです。まず神様を愛し、人類を愛してから来なさいというのです。これが「統一思想」の教育です。そのようにしなければいけません。私自身がそのような訓練を受けました。(四九−三〇五、一九七一・一〇・一七)

 今まで先生が教育を受けて生きてきたことは……。最近では、私がある程度の峠を越えたのでそのようにはしないのですが、昔は、横になる時は必ず右側に横になるか、左側に横になるかして、えびのように背中を丸くして寝ました。祈祷する姿のように丸くなって寝たのです。頭を垂れ、足を曲げて寝る生活をしてきました。眠りから覚めると、神様はこの時間にも働いていらっしゃるということを思い、「お父様、申し訳ありません」としながら暮らしました。感情的に、ほかの生活をしませんでした。ですから、神様とどれほど近いかというのです。今まで、そのような生活圏内で過ごしてきました。(五〇−二八四、一九七一・一一・八)

 三千万民族(韓民族)のあざけりが大きければ大きいほど、その悲しみは三千万以上の立場に立ったので、また神様が、私を愛し、私と因縁を結び、私を捨てない父の立場で、三千万の心情以上の心情をもって対していらっしゃるということを知っていたので、私は監獄に入っていっても悲しい顔をしなかった人です。鎖につながれて引かれていきながら、多くの人の嘲弄を受ける時も、「よし、非難し、あざけりなさい。私は、教育ができていなくて、学ぶことがあるので、この道を行くのだ」と思いました。それで、多く学ぴました。(五一−二四五、一九七一・一一・二八)

 私は、お金があっても、良い家を建てたり、私自身の行楽を夢見たりするようなことはしませんでした。しかし、民族のためにお金を使うところがあれば、借金をしてでも使うという信念をもって歩んできました。なぜでしょうか。世界を愛される神様のみ旨を愛したという条件を残さなければならない使命を担った統一教会の指導者だからです。指導者が生活の中でそのような条件を立てなくては、皆さんを教育し得る教材を残すことができません。その教材を残すべき責任があるので、悲しくても、悲しい表情をつくることができず、悔しくても、悔しさを表に出せない立場で、今まで開拓者の使命を果たしてきているのです。(三二−二七四、一九七〇・七・一九)

 今から先生の路程は、皆さんが一生を通して立てていかなければならない伝統の族譜となるでしょう。ですから皆さんは、教育をもう一度受けなければなりません。(四三―三四七、一九七一・五・三)


九 文鮮明先生はどのように家庭教育をしたのか


 最初の七年間は、お母様を育てる期間でした。天的な家門や家法による教育をしてきました。それで先生は、夜が明けたのちにはそのようなことをしませんが、寝る時には、継続的にそのために祈祷します。お母様は分からないかもしれませんが、そのようにして、堕落の結果失ってしまった娘の基準と、その相対基準と、神様の前における真の父母の基準、この三つを実体で復帰したのです。これは、堕落した人間は、誰もが行かなければならない道です。(二二−二○六、一九六九・二・四)

 今まで先生は、多くの子供を率いなければならないお母様に、「子供の前で涙を見せてはならない」と教育しました。父母として子供を育てる時は、涙が出てつらいときがたくさんあります。しかし、どれほど涙が出てつらかったとしても、子供が父と母に涙を流しながら訴えるときは、洗い流すように、つらいことがなかったことにして、「よし」と言いながら、きのう喜んでいた父と母の姿に戻らなければなりません。そのようにすることができなければ、子供を教育する資格はありません。(二三−一八二、一九六九・五・一八)

 先生がお母様を教育することもそれです。お母様の愛する天国ではないというのです。お母様の愛する夫になることを願ってはいけないというのです。また、私の愛するお母様になりなさいとも言いませんでした。神様が愛し、人類が愛することができる、そのようなお母様になりなさいというのです。昼夜を分かたず、誰が訪ねてきたとしても、その人以上の実績を備えることができなかった時は、彼を否定してはならないというのです。(三三−一〇〇、一九七〇・八・九)

 宗教活動のために、私は大韓民国で一番たくさんお金を使います。飢えながらでもそのようなことをするということに対して、皆さんは気分が良いですか、悪いですか。先生が飢えながらでもそのようなことをするということが、気分が良いですか。先生が飢えて死んでもいいのですか。ですから皆さんは、先生を協助してあげなければなりません。神様の息子がすることは、すべて世界的です。先生は、母が死んでいくことも知りませんでした。今回、聖進が日本に行く時も、「その国に行って、ほかのことはしてはならない。これとこれをしなさい。あなたは日本の国民とは違うので、あなたが正しく行動して、父の威信を立てなければなりません」と言いました。日本に行ったときに最も重要な第一の問題は、対教会問題であり、二番目は対国家問題であり、三番目は先生の息子だという問題であり、四番目は男女問題ですが、この問題を中心として、自分の栄光のために動いてはならないと言いました。教育は、そのようにしなければならないのです。(三四−一九七、一九七〇・九・六)

 母は、本当に私を愛した方でした。私の前に来ては、いつも顔色ばかりうかがうのです。少しだけ失敗しても容赦がないのです。厳しく追及するのです。これは、この世的に見るときは、不孝中の不孝です。しかし、天の立場から見るようになるときは、違うというのです。息子は、天法と天道を知る価値的な母を見ようとするのに、その姿は何だというのです。容赦をしないというのです。先生は、公的な立場にいるので、母だとしても見知らぬ万人の女として、一人の女性として忠告する教育を行うのです。どのようにすることが孝行の道ですか。「ああ、お母さん、私を助けてください。どうにかしてください」と言う、このような人が孝子ですか。そのようにすることが良いのか知りませんが、私がそのようにしたとすれば、今日、統一教会の文先生は、このようにはなり得なかったでしょう。(三八−二六五、一九七一・一・八)

 皆さんの妻は、三時代の女性像を代表した一つの結実として、今日、自分の目の前に現れた神聖なる存在なので、神様の前に感謝することができなければなりません。先生は反対です。娘として育てるのです。娘として育てたのちに妻として育て、母として教育し、お母様の名を探し立てるのです。反対でしょう? 先生の年齢から見れば、お母様は娘のような年でしょう? お母様は娘のようであって、妻や母のようだとは言い難いというのです。考えてみてください。年齢がまあまあならば、所構わず「オモニ」と言うことができるのですが。ですから、私がお母様に使う言葉は、「オンマ」です。「誰々のオンマ」とは言いません。「オンマ」と言います。それが最も難しい問題です。分かりますか? 外から帰ってきて妻を探す時、「誰々のオンマ」と言って探すでしょう? 先生は「オンマ」と言うのです。(四七−二二二、一九七一・八・二八)

 家庭に責任をもった皆さんであり、妻を愛しているからといって安心しないでください。私がお母様に対して教育することがそれです。「私たちは天に負債を負ってはならず、天に負債を負わせるようになれば、私たちの息子、娘は、父母に対して怨讐視することはできないだろう。不孝しようとしてもできないので、私たちが最も注意しなければならないことは、天に負債を負う人にならないようにしよう」ということです。それが教育です。負債を負うようになれば、子供が讒訴します。子供がサタンになるのです。負債を負わず、天に負債を負わせるときには、子供もその前に屈服するのです。天道に従っていかなければならない人間なので、その前にはサタンも出てこれないのです。(六八−一五七、一九七三・七・二九)

 堕落していない天使長たちが、アダム家庭の垣根となって育てるようになっています。それで、その天使長を育てるのに、先生は今までとても苦労しました。逆賊天使長ではなく、天の忠臣天使長として育て、先生の子女たちのために千回、万回、命を捧げて死んだとしても、感謝の涙を流し得る存在となることを願いながら歩んできました。今まで、教育するために一生を捧げてきたのです。

 先生の家庭と皆さんの家庭と一つになるようにしなければなりません。それが皆さんの責任です。「三十六家庭」である皆さんの父母は、先生から伝統を受け継いだので、皆さんと、霊の息子、娘と、孝道様をはじめとする先生の息子、娘に教育するのです。教育しなければなりません。垣根をつくらなければなりません。それをはっきりと知らなければなりません。(一二〇−三二五、一九八二・一〇・二〇)

 今まで私は、子女たちに対して教育をしてみることができませんでした。ぎゅっとつかんで、夜を明かしながら内情の通じる教育をしてみることができませんでした。しかし、統一教会の教会員たちは、何百回もしたという事実を忘れてはなりません。しかし、私の息子、娘たちは、私が死んだとしても、ジグザグに交錯する道を行ったとしても、必ず正しい道を訪ね求めてくるということを、私は固く信じます。なぜでしょうか。天の大道の道だからです。いくら雨水が谷間にたまって流れたとしても、大きな川を通って大海を訪ね求めてくるようになっているのです。

 物心のつかない時は、その川の支流と同じであり、父は南側に流れているのに、北側に流れることもあり得るでしょう。しかし、時になって、一生の行路を歩むようになり、川に沿って大海へ行くようになるときは、正常なコースに沿って大海に入ってきて、父のすべての大道を受け継ぐことができる時が来るということを、私は信じています。そのようになるということが分かっています。それゆえに、話さないのです。待つのです。待っているのです。(一二七−二九〇、一九八三・五・一五)

 聖進が七年ぶりに父を訪ねてきた時、「お前が聖進か」と言って、私の手を差し出して、手を握ってみることができませんでした。この世の豚も犬も、自分の子供がいれば抱くものなのですが、人がどうしてそのようにすることができるでしょうか。木石よりも劣る男、無情な男、情のない男……。その母親が私に対してあいさつするのに、「これまで、どれほど苦労しましたか。人が知らないこの道、理解しない道を行くのに、どれほど大変だったでしょうか。み旨のためにそのように受難の道を行くのに、どれほど大変だったでしょうか。これまで、私にとって苦労だったそれらのことは苦労ではありませんでした。私を迫害する人もなく、私の道を遮る人もいませんでした。しかしあなたは、迫害する人も多く、遮る人も多いというのに、死なずに、追われて追い出されることなく生きてきたので、感謝するのみです」。このようにまずあいさつをしたのちに、その母親の口から息子に、「立派なお父さん、私が教えてあげ、教育してきた以上のお父さんが来た。あいさつしなさい」と言い得る妻を願ったのです。そのようにすることができる息子の姿を願ったのです。(一二七−二九八、一九八三・五・一五)

 私は、統一教会の教会員たちをつかんで涙を流したのであり、統一教会の未来のために涙を流し、忠告もし、教育もしたのですが、私の息子、娘に対しては涙が何ですか。一時間も深く話をする時間をもち得なかった私自身は、父母の立場では成っていなかったのですが、「大きなことのために忠誠し、より大きなことのために行きなさい」と教える師の立場では、その道を行くことができないのに教えるとすれば、それは偽物です。天罰を受けなければならないというのです。(一四五−二四〇、一九八六・五・二)

 今まで祝福された家庭は、どこに行くのでしょうか。家庭として行く人は、流れていきます。先生も、結婚したのは家庭を救うためでありません。結婚した目的は、家庭を救うためではないというのです。今も、私はお母様を教育していますが、家庭のために行くのではありません。国のために、天宙復帰の使命を果たすために行くのです。目を開ければそのことのために誓い、涙を流せば、そのことを胸に抱いて涙を流しながら行かなければなりません。これが、私たちの蕩減路程において、今後の歴史の前に父母として残してあげるべき贈り物ではないだろうかというのが、先生の家庭を中心とした生活哲学です。このような伝統がなければなりません。(一五七−三〇八、一九六七・一〇・一六)

 先生も、家で、お母様に対して教育をします。お母様を教育する時、どれほど腹が立ったとしても、三十分以内、三分以内にそれを許してあげることができる精神が素晴らしいというのです。もし私が訓戒する場合に、子供たちが見る時は絶対に涙を見せてはならないと言います。私もそうなのです。子供たちがぱっと入ってくれば、誰がいくら何と言おうと「それ、いつそのようなことを言ったのか」と言います。

 先生は、そのような面で、とても多くの訓練を積みました。少しの間でも、一度教育するのです。それが必要です。時間が長くかかれば、マイナスが多いのです。陰となることは良くありません。その事件に対して既に忘れてしまい、私が「すべて終わった」と言えば、二度とは……。そのようにしなければならないというのです。なぜでしょうか。私たちの家庭で一日になされることは変化無双であり、さらに私たち統一教会においては、周囲の四方が絡み合った因縁の中で暮らしているので、これが毎日の時間圏内で変化無双だというのです。この中で歩調を合わせていかなければならない責任が、主婦ならば主婦にもあり、夫ならば夫にもあるのですが、夫人がただひたすらこのように顔を覆って泣いていていいのかというのです。結局は、私が損害を被るのです。(一五八−二三三、一九六七・一二・二七)

 先生は、お母様に「絶対服従しなければなりません。エバの身代わりとして立ったあなたは、いかなる恨、いかなる苦しみがあったとしても、つらいという考えをしてはいけません。つらければ舌をかみ、唇をかみしめなさい!」と言いながら、誰も知らない涙を流しながら慰労しました。そして、「先生の後ろにぴったりくっついて従ってきなさい! 一歩だけ離れても打たれます」というのが先生の教育です。「いずれにしても私は、世界の十字架を背負って、これを解決しなければならない戦場に出ていく男です。その後ろを陰のように従ってこなければならないのがエバ、お母様です」と言いました。(二三四−八四、一九九二・八・四)

 先生は、先生の息子、娘三人を祭物として捧げたとしても、先生の息子、娘を先に愛することができなかったのです。そのようにすることができなければ、接ぎ木することができません。すべての子供たちの主体が先生の息子、娘です。そのように教育していますか。皆さんは、先生と同じように、後継者となり得る徹底した思想、み旨に対する思想を息子、娘に教育しなければなりません。生死の境界線を越えていったとしても、自らの決意を変えることはできません。(二五二−一八二、一九九三・一二・二九)


2004.6.20 了
















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