訓教経 下

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目次
  1. 訓教経(下)
  2. 訓教経(下)003
  3. 訓教経(下)004
  4. 訓教経(下)005
  5. 訓教経(下)006
  6. 訓教経(下)007
  7. 訓教経(下)008
  8. 訓教経(下)009
  9. 訓教経(下)010
  10. 訓教経(下)011
  11. 訓教経(下)012
  12. 訓教経(下)013
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  14. 訓教経(下)015
  15. 訓教経(下)016
  16. 訓教経(下)017
  17. 訓教経(下)018
  18. 訓教経(下)019
  19. 訓教経(下)020
  20. 訓教経(下)021
  21. 訓教経(下)022
  22. 訓教経(下)023
  23. 訓教経(下)024
  24. 訓教経(下)025
  25. 訓教経(下)026
  26. 訓教経(下)027
  27. 訓教経(下)028
  28. 訓教経(下)029
  29. 訓教経(下)030
  30. 訓教経(下)031
  31. 訓教経(下)032
  32. 訓教経(下)033
  33. 訓教経(下)034
  34. 訓教経(下)035
  35. 訓教経(下)036
  36. 訓教経(下)037
  37. 訓教経(下)038

訓教経(下)



文鮮明先生のみ言集

訓教経(下)



 

はじめに


 人類の真の父母であられる文鮮明先生は、神様から人類救援の天命を受け、神様の真の愛の理想を完成されるため、天道を明らかにした多くのみ言を語られました。
 神様のみ旨を中心とした全体摂理内容を明らかにされた真の御父母様は、み言を通して神様の心情を初めて教えられ、神様と人間が父子関係であるという事実を明確に説明されました。また、人類が実践すべき真の愛の実践原理を究明されました。
 この本に選定された七十二の題目のみ言は、様々な人々に天道を教え、また生きていらっしゃる神様を理解させるだけでなく、人生の根本道理を悟らせる生命のメッセージです。
 真のお父様自ら命名された『訓教経』という題目からよく分かるように、これは人類を訓導し、教育する根本の教えとなる貴いみ言です。
 人類に必要なものは、本然の心情の深いところから生命力を誘発させ、根本的な人格変化を起こす神様から来るみ言です。
 私たちすべてがこの『訓教経』を一生懸命訓読し、新しい生と愛の人格を培っていかなければなりません。それと同時に私たちは、大小様々な集会において、要約整理された真のお父様のみ言を選択して、聴衆に簡単に伝えることができるようになりました。
 このみ言を通して、本然の心情人格体として完成していき、また、このみ言による講演などを通じて、この世のすべての人々が真の御父母様の尊さを悟るだろうと確信しながら序文に代えさせていただきます。

  一九九九年四月十六日 第四十回「真の父母の日」に



 

日本語版発刊によせて


 一九九七年十月十三日に真の御父母様によって制定された「訓読会」も、真の御父母様御自身よる「訓読大会」、「訓読ツアー」から、「世界平和超宗教超国家連合」の「国際訓読セミナー」へと拡大、発展し、世界的な伝統として定着しつつあります。
 私たちにとって、み言は生命の源泉です。原理は、人間は神霊と真理によって神様へと復帰されていくと語っています。私たちは、今真の御父母様により多くのみ言、すなわち真理を与えられています。これを、目、耳、口を使って訓読することによって、真理のみならず、自分の声に感動を受け、様々な霊的な恩恵を受ける神霊の役事が起こります。この感動体験こそ、私たちの心霊を高め、希望に満たしてくれる源泉になるのです。
 「訓読会」はこの感動の輪を広げていくものであり、これを数人、あるいは数十人、あるいは数百人で行い、参加した人が受けた恵みを集めれば、より高く、より公的な神の願いも明確になってくることでしょう
 熱心に訓読し、感動するみ言を心に蓄積し、それを実践することによりみ言を人格化すれば、そのみ言が自然と私たちの周辺に広がっていくことでしょう。そのような「訓読会」の伝統と恵みを与えてくださった天と真の御父母様に、心から感謝するものです。
 本書は、膨大な「文鮮明先生のみ言選集」三百巻の中から、特に重要だと思われる七十二のみ言を集めたもので、集会などに用いやすいように、適度な長さに要約されています。
 このたび、本書が日本語に翻訳され出版されるようになり感謝に堪えません。そして、この恵みに、より多くの人が浴することができるよう願ってやみません。

  二〇〇〇年十一月




























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訓教経(下)003



文鮮明先生のみ言集

訓教経(下)



任命された人々


一九七〇年六月二十一日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第三十二巻


 今日私たちは、一つに連結された社会に生きています。私が立っている地点から東西南北に走っていけば、世界に連結されます。これを連結させる中心とは誰かといえば、決して世界が中心になるのではありません。

◆天命によりそれぞれ異なる使命を担っている人間


 私たちは、宇宙を創造した絶対者から命を与えられ、「その生涯において、これこれの責任を完遂しなさい」と使命を与えられました。その使命の内容は、人によって違います。甲という人、乙という人、丙という人など、世界にいる人がそれぞれ異なるために、使命も互いに違います。

 しかし、その責任がまだ完遂されていないので、民族が世界に向かって立ち得る立場ではありません。けれども、その民族が責任を完遂すれば、世界に向かって立てる時が必ず来るでしょう。

 私たちの心の根本と素性を分析してみると、そこに現れる素性が個人にあるなら、家庭にもあるでしょうし、民族、国家、世界にもすべてあるのではないでしょうか。それなら、全世界はそのような中で、どのようにしなければならないのでしょうか。お互いに合わせなければならないのです。小さなものに良いことを合わせて、大きなものに良いことを補充していくことが、目的に向かっていく過程において必要なのです。

 歴史は変遷していくのです。その変遷していく歴史の中にいる私たち一人一人は、天命による本分によって命を懸ける時もあるということを知らなければなりません。

 私たちは天命によって生涯をかけ、誰ももっていない使命を果たすべく任命された者だというのです。したがって、皆さんは使命に対してどれほど忠誠を尽くすのかという問題に対して、皆さんの生涯をかけて開拓していきながら、「良い実績、良い結果を残す」と誓わなければなりません。ところで、生活の中で自分が使命を与えられたという事実を、どれほど感じながら生活していますか。

◆自己の責任を完遂しようとするなら


 召命された人には、必ず受け持った責任の量があります。職場で課長、または部長として任命されたなら、必ずその責任によって彼が成し遂げるべき責任の量があるのです。また、その責任の量を完遂するには限界点があります。永遠にするのではありません。ある期間に限定されているのです。

 では、その期間とその量はどれぐらいになりますか。皆さんの一生を七十年、八十年、あるいは百年とすると、この一世紀圏内において、どれだけの仕事ができるかということが問題になるのです。

 また、どのようにすべきなのでしょうか。他の人と共に忠誠を尽くすなら、その忠誠の量を満たすためには、他の人が十時間すれば私も十時間し、他の人が十年すれば私も十年をしなければなりません。そうすれば、同じになり得るのです。しかし、その人より早くやり遂げようとすれば、十時間以上しなければならないのです。

 そのためには、人一倍の努力と精誠が必要です。人より早く目標を達成するためには、人一倍の努力と精誠を投入するしかありません。ですから、寸刻を惜しんであらゆる精誠をすべて傾けなければなりません。寸刻が勝敗を決定するということを感じながら生きる人であれば、その人の一日は輝く一日になるでしょうし、永遠の価値の世界と通じることができるので、永遠の世界の因縁の上に立つようになるでしょう。

 また、家を建てる時もどのように建てるのか、また、いつまでに建てるのかなど、全般的な設計をしなければなりません。このようにある設計のもとで着手しなければならないように、私たちも一定の設計のもとで任命を受けて仕事に着手しなければなりません。与えられた期間内に完遂すれば、そこで必ず表彰されるでしょう。

 与えられた期間内に、設計したものよりも完全に成したというときには、それは普通に成したものではありません。非正常的に成したのです。それはどういうことでしょうか。それはその人の努力と精誠が加えられたので、そのように成し遂げることができたのです。設計どおりにすれば、何の問題も起こらないでしょう。それは誰にでもできます。けれども、設計したもの以上に完璧を期しながらも、設計者が計画した時間を短縮させるということは、誰もができることではありません。

◆任命された者の特権と権威


 それでは今日、任命された者としてもつことのできる特権とは何でしょうか。この特権というのは、固定された量を、指定された期間に完遂する特権をいうのではありません。それは誰もができることです。任命された人の特権は、誰も干渉できないものであり、設計者も干渉できないものです。すなわち、絶対視できる権限でなければならないのです。十時間一緒に仕事をし、一緒に寝たとしても、その時間内に多くのことを考え、また他の人の二倍以上その仕事に対して苦労をし、精誠を込めたなら、その人によって成された結果を、この宇宙は最大に表彰することでしょう。

 そのような立場を備えた人が残っている限り、世界は永遠に残るのです。その人以上の価値をもった人が現れない限りです。運動競技において、一度立てた記録は、それが破られない限り永遠に残るのと同じです。ですから、その記録をもって、そこに到達するための方向を示さなければならないのです。

 任命された者として、これは当然なのです。指示された量を、与えられた時間にこなせば、メダルを取ることができ、表彰を受けることができます。それは自分自身の使命です。直接的な使命なのです。これを、私たちができなければならないのです。

 個人ができないからといって、二人でしてはいけません。賞を受けるとき、二人で受けることができるでしょうか。こういう観点で考えてみると、命令を受けた人は、自分を中心として責任を遂行したがります。誰かに干渉されることを嫌うのです。これは、自分自身の権威があるためです。この厳粛な権威をもっていることを忘れてはいけません。

 ところで、ある人は「宗教は、年を取ったときに天国に行くために信じるのだ」と言います。こう言う人は、ひどい人です。ちらっと見るには本当に賢くて、すべてに通じた人、すべてを知っている人のように見えますが、そのような人ほど愚かな人はいないのです。

 結果というのは、量を超越できないのです。また、時間を超越できないのです。勝利の結果というのは、始めるや否や、短時日内に決着がつくのではありません。結果が大きければ大きいほど、謹厳な時間を要するのです。時間がたくさん要るのです。


◆任命された者が知るべきこととすべきこと


 一つの国家が一つの勝利圏を固く誓うためには、どのようにしなければならないのでしょうか。一つの国家が樹立し計画を完遂する、それは国家的な量ですから、短い時間に莫大な量を成就するためには、国民の精神的な姿勢と力量を短時間内に圧縮させなければならないのです。どこの誰がやってもそうです。

 こういうことを考えてみれば、日常生活においてもただ何気なく、習慣的に一日三食食べながら時間を過ごしている場合があるのですが、それでいいのでしょうか。ごく小さな昆虫も、自分なりの関連性をもって生きています。

 人間の世の中でも、隣と関連をもって生きているのです。隣人との関係を切れないのです。皆さんは皆さんの町内で自分なりに生きていますが、そこだけを中心に生きているのではありません。町が豊かであるというときは、その町が豊かだということにもなりますが、国のために豊かに暮らすことになります。また、国のために豊かになれば、世界のために豊かに暮らすことになります。そして、世界のために豊かになれば、それは天地のために豊かに暮らすことになるのです。このように上がっていくのです。

 では、皆さんが一生涯を生きていくにおいて、与えられた使命の量を知っていますか。今まで一生をかけて責任を遂行する立場にあるにもかかわらず、その量を知らないのです。そうかといって、「私にはどうしようもない。だから努力する必要もない」と言う人がいれば、その人は最も哀れな人です。努力しなければならないのです。

 私は何をするのでしょうか。「この民族の前にどんな人物になるのか、世界の前にどんな人物になるのか、また、天地の前にどんな人物になるのか」と、こういう心になっていません。こういう心を備えていない人は、任命される資格がありません。それでそれを知るために、哲学や宗教が出てきたのです。また、「今私たちはどこへ行くのか」という問題が起こるのです。現在の位置と立場を知るためには、まず四方、前後左右がどのようになっているのかを知らなければなりません。

 任命された主体的な権限をもった人自身は、干渉されるのを嫌がります。しかし、干渉し得る絶対的な存在が現れれば、干渉を受けるのです。

 今日の人々が、「私を愛しなさい」と言うのは、言葉だけで終わりやすいのです。絶対的な立場で愛することのできる人になるためには、「愛せよ」と言う前に、まず愛さなければなりません。そこで相対的に報われれば、それは絶対的な基準になるのです。

 人が主管されることを嫌うのは、完全な相手、つまり絶対的な相手が決定されなかったからです。絶対的な立場で主張するのは、完全な相手を決定するためのものです。完全な相手が現れるようになるときは、全部あなたのものであり、私のものであるとして和することが、因縁の世界での法度です。したがって、どんなに有名な男性や女性がいたとしても、自分が絶対視できる完全な相手が現れるまで待たなければなりません。

 こういう観点で考えてみるとき、皆さんは生涯をかけて召命されてきた内容があるのですが、それには、どこの誰も干渉できないのです。絶対的な基準の前に、絶対的な相対的基準にならなければならないからなのです。そうでなければ、それが個人、氏族、民族、国家、世界へ進んでいけないのです。これをよく知って、召命された責任を全うしなければなりません。

◆責任の量と使命の期間


 責任を果たすにおいて、任命を受けた量が大きければ大きいほど、そして範囲が広ければ広いほど、そこに対する期間も、十年、百年、千年の時間がかかるでしょう。普通の人が十年、百年、千年尽くさなければならない精誠、または数十代を経て成し遂げるべき精誠の度数を、たった一代において尽くさなければならないことも起こるのです。その時に、そのような千年史の精誠を尽くすことができるか、できないかということが問題です。

 そのような意味から、精誠を尽くした先祖がいれば、その子孫は千年を過ごせる因縁と連結するようになります。このように連結して、後代の後孫が恵みを受けるようになれば、個人的なそのみ旨をその民族が受け継いで、一つの障壁を突き抜けるために闘争するようになるのです。歴史的な使命を背負うようになるのです。このようになれば、その民族を中心に選民思想が起こるのです。

 その選民思想が芽生えるためには、あらゆる最善を尽くし、総進撃することができ、一つの勝利的内容を誇れる時代が来なければなりません。イスラエルという名前を残したヤコブは、ヤボク川の川辺で天使と闘う時、命を懸けて自らのすべてを越えて天に談判する、その瞬間に勝ちました。それゆえその勝利は、ヤコブだけの勝利ではなく、民族の勝利だったのです。

 「天使長がどんなに私を屈服させようとしても、私は屈服しない。神様のみ旨を信じるためにいかなる恨があっても、このみ旨だけは残さなければならない」という心で闘ったのです。そうしてひっくり返すことのできる限界点で天使が離れたので、天使のすべての権限までも相続できる勝利の条件を立てることができたのです。すなわち、天使世界の祝福の内容に対する勝利圏を相続したのです。

 今日、統一教会員の姿勢はどうあるべきでしょうか。み旨の道がどうだということを、皆さんはよく知っているでしょう。この時代に生まれてみ旨を知るようになったことは、皆さんにおいては一度しかない良い機会です。世界人類の前に、そして過去、現在、未来の歴史時代において、たった一度しかない機会であり、二度とは立ち上がることのできない一時だというのです。

 この一度しかない機会に、流れいく歴史をしっかりつかんで爆発させなければなりません。流れいくすべてのものを一点に糾合させなければなりません。それを集めておけば全体になるのです。その時の一点というのは、中心になるためには絶対的なものなのです。

 中心は二つにはなり得ません。人は永遠の絶対的な主体を要求するために、その主体に干渉されることを望みます。したがって、絶対的な主体の前に相手が決定されれば、絶対的な価値と同等になるのです。これは一つの絶対的な主体が、絶対的な相手を探して一つになったためです。

 皆さんの家庭も同じです。歴史上に二つとない夫婦として、誰にでも自慢できる家庭になって、万民の前に模範にならなければならないのです。そのようになろうとすれば、一つの絶対的な主体が、絶対的な相手を探して一つにならなければなりません。皆さん自身が、そのような限界点に到達しようと努力しなければなりません。ところが、そのような限界点に到達するためには、それくらいの量と期間が必要だということを知らなければなりません。ところで、私たち統一教会員はその時、どのようにしなければならないでしょうか。第三者のような立場をとらなければならないのでしょうか。

 人は大抵、干渉されることを嫌います。それは、干渉されるのを嫌う絶対的な権をもったということです。そうかといって、それは欲ではありません。自分が責任を負った問題に対しては、自分が責任を負わなければならないからです。そうするには、原理的な相対基準を決定して進まなければならないのです。

◆最善を尽くす姿勢が必要


 私たち人間が、復帰時代をたどっていこうとすれば、個人、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙を越えて神様まで、八段階を越えなければなりません。

 では、これをどのように越えるのでしょうか。六千年の歴史を経てきながら、今まで頂上を越えた人がいませんでした。個人と家庭を越えて、氏族、民族、国家、世界、天宙、そして神様の前まで行く道は、険しい道です。このような人間に対して神様は、創造の希望があったので、「私はあなた方の父であり、あなた方は私の息子、娘である」と、父母の心情でずっと人間を探してこられました。

 親子関係において、息子がお父さんに対して、「あなたが私のお父さんですか、そうではないですか?」と尋ねた時、お父さんが返事をしなければ、お父さんが引っ掛かるようになります。神様も同じです。神様が私たち人間の父親であるにもかかわらず、「そうではない」と言えば、絶対的権威をもって行使したとしても、信じないというのです。

 では、皆さんは神様の息子、娘になっていますか。本物は、二つはあり得ません。ここには神様も干渉なさることができません。ところが皆さんを見れば、本物と偽物が混ざってまだらです。皆さんは、「自分がまだらだから、神様もまだらな神様だ」と思いますか。

 聖書を見れば、「あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない」(申命記六・五)という一節があります。皆さんは、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、神様を愛してみましたか。心を尽くして愛したのであれば、なぜまだらになったのでしょうか。

 ある人は「四十日断食をしたから神様を愛している」と言いますが、それをもって神様を愛しているとはいえません。それは、どこの誰もができるのです。心を尽くし、精神を尽くしてみ旨を全うしなければならないのです。ところで、心だけ尽くして何になりますか。それだけではいけません。

 心は、人によって違います。み旨も、人によって違い得るのです。しかし、精神は違わないのです。精神は変わることがありません。心から行うときは、自らの利益や自分の側の利益のために実行します。み旨も、そういうことはあり得るのです。しかし、性稟はそうではありません。したがって、その精神を尽くして、主、あなたの神様を愛しなさいというのです。

 ここで「主」という言葉は、中心をいうのです。あくまでも神様を絶対的な中心として、その中心の前に絶対的な仲保者としての息子、娘になれというのです。そういう基準を中心として、歴史上において神様の前に最高の忠孝を残した人が、正にイエス様です。ですから、イエス様がどれだけの忠孝を尽くしたのかと批判してはいけません。そうすれば、新しい問題が起こります。

 イエス様は死の場で、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ二六・三九)と祈祷しました。その祈祷から推し量ってみれば、そのような孝子がどこにいるかというのです。すべてがお父様のみ意であって、私の思いはないのです。このように絶対的な基準の前で、相対的な関係をつくらなければならないのです。

 こういう観点から見ると、「私が入教してから何年になった」と自慢する人がいますが、そうであってはいけません。また、教会で奉仕し始めてから何年になったと自慢しますが、私たちのみ旨の前に量が何か必要でしょうか。十年でなく千年が過ぎたとしても、それだけの年の値打ちもない人に何ができますか。

 また、「教会で仕事をし始めてから何年になった」と自慢しますが、私たちのみ旨の前に量の必要がありますか。他の人が二十年かかった量を一年間にすべてこなせば、精誠を尽くすことにおいて私のほうがより優れているのです。

 召命された人がその責任を遂行するにおいて重要なこととは、人よりももっと精誠を尽くさなければならないということです。

 この組織社会において、世界を率いていく中心とはどこでしょうか。また、統一教会での中心は、誰でしょうか。統一教会においての中心は、先生です。それでは、先生はどのような人でしょうか。先生といっても特別な人ではありません。ただ、質が違うのです。量が同じでも、質が悪くてはいけません。したがって、正常な質を備えたのか、ということが問題です。

 したがって、正常な質と量を備え、与えられた期間内に復帰の使命を完遂しなければなりません。もし、ここで損害をもたらしたとすれば、それは今後、み旨の前において審判される内容にもなり得ます。

 そのような意味から、責任を引き受けたなら、与えられたことをきちんと処理しなければなりません。十年でも二十年でも関係なく、任命されたその使命が終わるまで責任を負わなければなりません。これはいかなる荷物よりももっと大きく、重い荷物だということを知らなければなりません。その責任を全うするために身もだえする行路を経ずには、真の個人になるための善の足場を築くことができない、ということを知らなければなりません。

 「自分は善良だ」と考える人は、たくさんいます。しかし、内的な面でも、外的な面でも神様のために尽くし、使命を果たすために、心を尽くし、精誠を尽くしたとしても、足りないのです。すべて成しても足りない思いがするので、またするのです。このようなことを自ら感じ、責任を果たすために努力をせざるを得ない、復帰の使命に責任を負った私たちであるということを、皆さんは知らなければなりません。

 では皆さんは、どのような分野で責任を受け持っているのですか。神様のみ旨を中心として、どのような分野で仕事をしているのですか。皆さんは、その責任を通して真の自分を感じられなければ、自らの責任を成し終えることはできません。

 皆さん、本物は、偽りに絶対主管されることはありません。お互いに相対できる要因が残っていれば、互いに相対するのです。それでお互いが完全なプラス、マイナスの関係で会うようになれば、合わさるのです。相対というのはお互いを必要としますが、プラス(+)とプラス(+)で会えば、お互いに反発するようになります。

 責任を果たすことにおいても同じです。誰かが責任をもつというとき、その人に善なる要素があって相対的要因になって動くようになるときには、神様が対してくださるのです。また、自分の先祖の功績があったり、自らの忠誠の実績が残っていて神様が必要とするときは、その人に対してくださいますが、我をもって進むようになれば、対することはできないのです。

 いまだに、自分のために生きようとする人がいます。そのような人は、天のためにいくら生きようとしても生きられず、天の前に、いくら行こうとしても行けない要因が残っているというのです。

◆神様が好むことのできる人


 今まで私がこういうことを行ってきながら見てみると、「あの人は駄目だ」と言った人は残りませんでした。自分なりに動いていて、結局はその動いたすべての事実が、自分自身を全く身動きがとれないように縛りつける結果になり、どうすることもできなくなるのです。離脱した立場で後悔するしかなくなるのです。

 善は、いつも真として残るのです。真は、悪を打っても耐えることができるけれども、悪は、真を打てば耐えることができません。真なる立場に任命されても、その与えられた責任を全うすることができず、方便としてなす人がたくさんいます。そのような人は、みな流れていってしまいます。召命された立場で自らの命を投入して、一生の天職と思い、最善を尽くさなければならないのです。

 人々の中には、自分は最善を尽くしたのに、先生や統一教会員は自分のことを認めてくれないといって寂しがる人がいます。先生はみ旨の立場では認めようとしますが、実際にその人がそれを通してそこで満足すれば、それ以上は行けないのです。

 それで先生は、その一人を大物にするために、より大きな仕事ができるようにするために、そうするのです。言い換えれば、その人がより広い環境をもって、そこで自らの絶対的権限を成し遂げ、神様と関係を結んで、私と天全体のみ旨として残るようにするためです。

 なぜ、神様が先生を愛しているのか分かりますか。先生は助けてもらおうと思わないからです。神様は先生を、死の立場に追い込んだこともありました。神様は、先生を蕩減復帰のために死の立場に追い込んでも、かかわろうとされなかったのです。

 ある人は、誰かが協助してくれることを願うのですが、協助を願う前に、「自分の力でやる」という心の姿勢をもたなければなりません。先生はそのような心をもって、助けを願いもせず、「協助してくれ」とも言いませんでした。天を助けてあげれば、「協助してくれ」と言わなくても、協助してくださいます。

 人間の堕落によって、この世界のすべてのことが逆にひっくり返りました。ですから、天道を正さなければなりません。逆になった世の中をひっくり返そうとするのですから、どれほど大変でしょうか。すべてを清算して、再び取り戻そうとするので大変なのです。したがって、この仕事をしようとすれば、自らの一生の中で一時を捨てる立場に立たなければなりません。

 摂理の真のみ旨を探していく道、その道は休みながら行ける道ではありません。生涯において決して休まずに行ってこそ、み旨の道において、真なる結果をもたらし得ることを、皆さんは知らなければなりません。

 このような立場から見て、皆さんは今どんな立場にありますか。皆さんには、置かれた位置と立場があるでしょう。世の中でなすべき任務がない人ほど、かわいそうな人はいません。

 どんな父母であっても、息子、娘を生めば、みな喜びます。しかし、父母が責任を果たせなければ、子供たちから抗議を受けるようになります。父母には、子供を育てるべき責任があり、社会に出て仕事をして、活動できるすべての条件を備えてあげなければならない責任があるのです。

 前にも言いましたが、人は誰からも干渉されることを望みません。私だけが絶対的だというのです。私たちも、やはりそのような心をもっています。

 ところが皆さんは、み旨を中心として、どれほど考えてみましたか。私たちは堕落圏内で生まれたので、普通私たちの主張することは、堕落圏を抜け出せない内容がたくさんあります。私たちは、み旨の道についてきながら、一時に希望の限界線を越えようとしましたが、み旨を知っている者として主体的な立場で相対して、「自分だけは必要だ」ということを切実に感じる生涯路程を経てきたかというのです。

 それを考えれば、私たちはそうできなかったというのです。一年がたち、二年がたって歳月だけを過ごしてきたのです。み旨の道はそうでしょうか。み旨の道はそうではないのです。

◆忠孝の道


 歴史には、意味をもって残っている年があります。では、その歴史の中で、千秋万代の子孫が称賛できる一日がありましたか。そこで称賛できる内容は、世界的でなければなりません。称賛できる内容が世界的でなければならないという話は、世界のどの国でもみな喜ばなければならないという意味です。私たちはこれから、世界的に共に喜べる日、こういう時をもたなければならないのです。

 そのような意味から、先生が聖婚した一九六〇年四月十一日、その日はどんな日ですか。外的に見れば、御飯を食べたり寝たりする平凡な日であって、特別な日ではありません。しかし、その日は何が違うのでしょうか。その時にしたことが違うのです。その日、聖婚式をしたことが、他の日と大いに異なるというのです。聖婚式によって、今は一家庭によって左右されるようになりました。

 その一家庭が現れる時まで歴史的な因縁を経て、時代的な因縁を経て、未来の因縁を経て成就したのです。現れれば簡単に見えますが、それが全体を集約させた代表的な核になるので、歴史はその日を研究するようになるのです。

 皆さんの中で、「絶対的な神様もこれだけは無視できない」と言える内容を備えた人がいますか。「私は神様の息子、娘である」と言える条件を備えなければなりません。「そのように神様が信じるに値する内容を備えている人がいるのか」ということを考えると、いないというのです。

 皆さんは命を懸けて、涙と血と汗を流して、国を愛し、万民を愛することができなければなりません。子供に、「お父さんだけを愛する孝子になれ」と教えるよりは、「私を愛するように国を愛し、世界を愛せよ」と教える父母になってこそ、孝子を育てることができるのです。そのようにできる私たちにならなければならないのです。

 ですから、「自分のために尽くし、自分を楽にしてくれることが孝だ」と教えてはなりません。そのような孝は、孝ではありません。皆さんが統一教会の文先生のために忠誠を誓い、孝行することを、先生は願いません。おなかがすいた時に食べ物を持ってきてくれ、大変な時にお金を持ってきてくれる、そのような孝心を願いません。先生に対してできなくても、国のために、世界のために生きなさいというのです。

 そのような忠孝の道を行きなさい。先生は、一生をそのように生きてきました。自分は実践しないのに命令したとすれば、素直に従う人は誰もいないのです。

 ところで皆さんは、統一教会を愛していますか。命懸けで愛しているかというのです。皆さんは公的な心をもって、絶対視できる結果をもってこなければなりません。「このように愛しています」と言うようになれば、どうすることもできないそのような結果がなければならないというのです。

 法廷では、どんなに「殺人強盗だ」と言っても、証拠品がなければ、判事もどうしようもありません。強盗が、「私が人を殺したのをいつ見たのか」と言って出てくれば、どうすることもできないのです。しかし、証拠を突きつければ、どうしようもないのです。証拠がなければ、証拠を探さなければなりません。

 賛美歌に、「イエス様、イエス様を信じるのは受けた証が多いから」という句があります。皆さんには受けた証がありますか。証を受けたと胸を張って伝道へ行くのですが、そのようなものが証だと思いますか。

 皆さんは天国へ行く時に、贈り物として包んでいく物がありますか。霊界に行けば、殉教した功臣が前にずらっと並んでいるのですが、彼らの前に皆さんが包んでいった包みを広げることができると思いますか。皆さん、一度考えてみてください。苦労をしたにはしたけれども、「私は苦労したと思いません」と言わなければなりません。

 私たちが何の苦労をし、皆さんが事実、何の苦労をしましたか。それくらいの苦労もしないで、「国のためだ、世界のためだ」と言えますか。「私は苦労したと思いません」と言わなければなりません。まだ行くべき道が残っています。霊界に行って包みを解いて、「これは一生の間、私が用意した贈り物ですから、どうぞお受け取りください」と言えなければならないのです。皆さんがお嫁に行く時には、一つずつ包みを持っていくのに、天国へ行く時には、手ぶらで、体だけで行けますか。

◆任命された者の責任


 皆さんは、天国の役軍として神様から使命を受けました。皆さんは神様の精兵として、神様の息子、娘として、その家門を引き継がなければならないのです。そのために皆さんは、独立性を育てなければならないのです。こういう偉大な使命が、皆さんにあるのです。したがって、先生と毎日生活できず離れていても、また神様がいつも皆さんに直接命令しなくても、皆さんは神様の管理圏内で使命を与えられた人だということを忘れてはなりません。

 皆さんは、自分を絶対視しなければなりません。そのようにして、その絶対的な価値の結果として成し遂げられた成果を万民のものとし、後代の後孫のものとし、天上世界の宝物として永遠に保証されるという決意をもたなければなりません。これが、任命された者の責任なのです。その責任を全うすることができなければ、どこの誰よりも哀れになります。乞食は、時間になればもらってでも御飯を食べますが、責任を果たせない人は、時間に合わせて御飯も食べられないのです。

 こういう責任を完遂するにおいて、神様が願われる期間内に忠誠と最善を尽くさなければなりません。歴史を輝かせることのできる子女の道を、価値ある道に復帰していかなければなりません。そうして、その期間を短縮しなければなりません。そのためには、私の汗が必要であり、私の血が必要であり、私の努力が必要であり、私の苦労が必要なのです。その消耗の代価を通して、量と質をそこに補充せずには、国家的で世界的な版図を吸収できないのです。私たちは、こういう責任を負っていく人にならなければなりません。

 今日、世界にそのような時代が来たのです。既に基礎を築いて、外部工事はすべて終わって、今は装飾をする時代です。内部装飾は主人の腕前が必要なために、先生がいなくてはならないのです。壁のようなものは直接関係がないけれども、直接関係する内容を中心として、必要なすべての条件を備えるためには、必ず段階的な期間が必要です。それゆえ準備時代、実践時代、成就時代があるのです。

 それゆえ、自らの生涯を中心として、時期に合わせて計画していかなければなりません。準備時代にはあらゆる精誠を尽くして準備し、実践時代にはあらゆる精誠を尽くして実践し、成就時代にはあらゆる精誠を尽くして成就しなければなりません。そうすれば、内部装飾がうまくいくのです。その装飾は誰が見ても、「精巧さにおいて、精誠を尽くした度数が飛び抜けている」という話を聞くことができなければなりません。文化と価値は、そこに現れるのです。

 したがって、皆さんはみ旨の生活において準備時代が来た時、「準備しなさい」という命令を受けても、準備ができなければ駄目なのです。その次には、実践時代が来ます。その時には昼夜を問わず、実践をしなければなりません。その次は成就時代が来るのですが、その成就時代は希望が宿る時期です。今まで原理を中心として頑丈に築いた基盤があるので、み旨とともに生活するようになるのです。こういう生涯の路程を教訓にして、世界史的な道を行かなければならないのです。

 人が責任を負ったことに対して、責任を取れない立場に立ったときほど哀れなことはありません。み旨の道で、み旨を成し遂げられないことほど哀れなことはありません。しかし、「それ以上価値のあるものはない」と言える立場で闘った人は、表面的には不幸に見えるけれども、彼の終わりは明るく見えます。そのように生きるようになれば、自分によって永遠の歴史を取り戻すことができるようになります。逆に戻る歴史を、反対に取り戻す原動力になり得る絶対的な基準が、自分によって決定されるのです。それは、天上の世界に、あるいは永遠の歴史と共に残るようになります。

 私たちは残ったそれを、万民のものとして相続してあげ、万民のために分けてあげることができなければなりません。それが、現在の私たちの絶対任務であるということを知って、責任を全うしなければなりません。私が会社で責任を全うしたとすれば、それは私のためではなく、その会社のためのものとして返して、国のために責任を全うすれば、それは私のものではなく、私たち民族のためにしたものと理解しなければなりません。また、世界の人のために責任を与えられて、それを遂行し、私がやったことによって世界がすべて喜ぶようになれば、それが栄光なのです。したがって、皆さん各自が、日常生活でぶつかってくる障壁を賢く打ち破り、栄光の立場に行くことができるようにと願います。















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訓教経(下)004



文鮮明先生のみ言集

訓教経(下)



天が尋ねきた道


一九七〇年七月十二日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第三十二巻』


 今日、多くの人が信仰生活をしていますが、人間が神様を尋ねていく道や神様が人間を尋ねてくる道について考える人は多くいません。

◆直接会えない神様


 人々は祈りを、自分たちに困難なことがあるときに神様の前にひざまずいて祈るという、そのような単純なこととして考えています。けれども、神様に祈りを捧げるその場は、神様が私たちと関係を結ぶ場であるということを、私たちは知らなければなりません。

 今日、皆さんが生きているこの場は、天に属した立場ではありません。そればかりではなく、皆さん自身も神様が直接主管できる内容を備えた人ではありません。このように、直接主管圏の外にいる人間が神様に祈った時、神様がその祈りを聞いて干渉したり、あるいはその祈りをかなえるために応じるということは、簡単な問題ではないということを知らなければなりません。

 皆さんの周囲には、「天道を行く」と立ち上がった皆さんより、相対的に悪なる人がたくさんいるでしょう。個人的にも、家庭的にもそうでしょう。このように見れば、神様のために生きていくという環境より、悪なる環境側の家庭、氏族、民族、国家が、世界的に取り囲んでいるという事実を知ることができます。

 それが、平面的な基準の人間の世の中でだけそのようになっているのではなく、人間を中心とした人間以上の世界、言い換えれば、四次元の世界である霊界も、今日私たちが生活しながら感じる以上に、神様と関係を結べない悪なる霊の群れに囲まれているというのです。

 そのような環境の中にいる私たち個体が神様に祈る時、神様がその祈りを聞いてそこに応じようとしても、深く、高く、神聖なる天の玉座から直接的に私を尋ねてくることはできないというのです。

 それゆえ、直接尋ねていけない立場で因縁を結ぶときは、順次的な段階を経て因縁づけるようになるのです。言い換えれば、一つの組織的な形態をもった群れがあれば、その上層部から末端の中の最末端部にまで連絡するためには、組織的な順序を通るべきだということを、私たちは一国家や社会を通して知ることができます。

 それは霊的な世界にあっても同じだというのです。皆さんは祈るとき、最高の立場にいらっしゃる至高で聖なる神様に祈るのですが、その祈りを受けられる神様の立場と、皆さんの立場との間には長い距離があるのです。

 したがって、それを何で埋めるかということが問題です。玉座にいらっしゃる神様との距離を埋めるために、多くの人が橋を渡すべき立場にいるということを皆さんは知らなければなりません。それゆえ、信仰者はこのような橋を経てこそ神様に会うことができるのに、今まではこのようなことを知らずにいたのです。幾重にも重なり合って横たわっている霊界の組織社会を経て、私たち個体と連結できるように、数多くの連絡体制が組織されているというのです。

 したがって、私たちが地上で精誠を込めて祈ることに神様が直接応じてくださるまでには、長い期間を要するのです。けれども、その人の精誠が懸命であればあるほど、距離を短縮させることができるという事実を私たちは知らなければなりません。

◆神様に会おうと思えば


 私たちが神様と関係を結ぶためには、神様と私たちの間にあるすべての段階を越えていかなければなりません。それゆえ、私たちがこの道を開拓するということは、ほとんど不可能に近いのです。霊界もやはり数多くの組織的な環境の中に包まれているので、霊人がこの道を開拓するということも不可能だというのです。

 ただ一つ、この道を開拓し得る方法は、皆さんが多くの精誠を込めることです。そうして皆さんの尽くした精誠が神様にまで知られて、神様が呼応なさることのできる一つの動機を準備しなければなりません。そのようになれば、神様は命令し、指示することができるのです。そのような過程をたどって因縁を結ぶようになるとき、初めて神様と私たちの間に関係が結ばれるというのです。

 私たち自身は、極めて高い神様の立場まで、一気には行けないため、歴史時代に生まれ死んでいった数多くの聖人たちを中心として行かなければなりません。その中でも、神様が特別に送られた人がいれば、その人を橋渡しとして進むのが最も早道です。それで今日、この地上で人倫の道理とか天理を明らかにした真の真理を教える人がいれば、その人を橋渡しとして行きたいと思うのです。

 それゆえ今日、私たちに最も重要な問題は、立体的な世界に向かって垂直的に上がっていく前に、横的な世界においてどれほど広く影響を及ぼす人になるかということです。

 この横的な世界は、歴史的な結実の土台をもっているのです。今日のこの現実は、現実自体がおのずと生じたのではありません。歴史的な因縁をたどって存在するのです。その歴史的な因縁の中には、この地に生まれ死んでいった数多くの聖人の道理や、真なる人々の教えがあります。こういうことを中心として、組織の形態や社会の現象が生じるようになるのです。また、このようなことが国民の愛国精神にまでつながるのです。それは、この地上に聖人が残していったその道が短縮され、集約されて、社会を形成できる一つの内的な因縁になったということです。

 こういうことを私たちが注意深く考えてみると、そういう内的な因縁を他人の因縁として考えずに、自分の国家の因縁と思ってそれに責任をもち、自分と直接的に関係を結ぶために努力する人にならなければならないというのです。そのような人がいれば、その人は因縁を結ぶ環境がだんだん広くなるばかりでなく、その国家の為政者ならば為政者との直接的な距離も短縮するというのです。

 このように内情的な因縁が横的に広がれば、それが正に歴史過程に生まれ死んでいった数多くの先祖が教えた因縁に接することのできる道になるのです。このように、霊界に行った聖賢たちと私たちが因縁を結ぶようになれば、その人々が、私たちを真理の世界へだんだん近づける橋の役割をする背後の因縁になるというのです。

 それゆえ今日、修道の道を求めていこうとするなら、ただこの地に来て善なる道理を教えて逝った聖人だけでなく、その教えを中心として地上に因縁が結ばれた宗教までも、ずっと探し求めていかなければならないということを私たちは知らなければなりません。

 このように見ると、ある社会や新しい文化形成の背後には、必ず宗教が動機となっているというのです。宗教は、人倫だけを中心として進むのではなく、天倫を紹介して天倫の道理を中心に教えてくれるのです。

◆霊界との距離を短縮するには


 今日、私たちが精誠を尽くすときは、過去に生まれ死んでいった聖人が教えてくれた道理を中心として、彼らが願った最高の基準を自分の願いとし、それを相続できるように精誠を尽くさなければなりません。そのように精誠を込めてこそ、直接的にも間接的にも霊界との距離を短縮できる内容になるのです。

 したがって、今日地上の人間はそのような聖人の中の真の聖人をあがめながら、その聖人の道理を自分の命を捧げて自分の道理のように守りながら、それが最後まで行くべき道と考えて行かなければなりません。そのようにすれば、その聖人が霊界で影響を及ぼす圏が大きければ大きいほど、その大きな影響圏は私が地上で霊界と直接関係を結べる因縁になるのです。そのような基台の上で神様に祈れば、多くの精誠を尽くさなくても早い時間内に霊界と直接関係を結ぶことができ、その距離も近づくというのです。

 それゆえ、人間がこの地上に暮らしながら神様に仕えるためには、必ず歴史的な道理を基盤にした宗教の形態を通さなければなりません。そうして、今までの過去の数多くの宗教指導者が行った道を自分も当然行くべき道と思い、「その道を希望して行く」と誓う人にならなければなりません。そうして宗教を中心として現れ、去っていった数多くの宗教指導者たちと一つになれば、その修道の世界、宗教の世界に自然に位置が定まるのです。

 そのような基盤の上で祈るようになれば、それは一つの宗教圏を超えることのできる立場に立つようになるために、それだけ神様との距離を短縮させることができるのです。それゆえ、地上で宗教の道を尋ね求める人は精誠を尽くさなければならないのです。

 では、神様はいつもそのような人を中間に立て、彼らを通して役事なさるのかといえば、そうではありません。私たち人間の中には、精誠を込めて宗教の道を尋ねていく人もいますが、善なる先祖がたくさんいて、ただまっすぐに行く人もいます。では、彼らが願っていたものとは何でしょうか。彼らが追求しているものは、宗教が追求している目的の世界です。

 宗教の目的とは、一人の真の人を探し出すことであり、真の家庭、真の国家と真の世界を探し出すことです。これは、宗教の目的であると同時に、神様の目的です。それがすなわち、神様が地に対して摂理される目的なのです。したがって私たちが、宗教指導者が精誠を尽くしたその基台の上に立つようになれば、神様の目的圏内に自然に接することのできる境地にまで行くようになるのです。

 それゆえ、ある特定の宗教を信じる人がいれば、その人はその宗教の最高指導者だけを信じるのではなく、その宗教についていった人々と、その宗教のために四方で精誠を尽くしている指導者を信じるようになるのです。それだけでなく、その宗教が世界的な基盤をもっていれば、世界の数多くの指導者まで、信じてついていこうとするのです。それはなぜかといえば、霊界と宗教圏との距離を短縮させるためです。

 天国にも、東西南北に分かれて数多くの宗教圏があります。上には最高の宗教圏があり、その下にはより低い霊界があり、またその下には良心的な人と善なる人々で構成された霊界、そしてその下は悪なる霊界に連結しているのです。したがって、私が精誠を込めて宗教圏の世界と関係を結ぶようになれば、今までの末端世界との関係を越えることができるのです。

 それゆえ、道を中心として精誠を込めた聖人の教えを、他人のための教えとしてではなく、「私のための教えだ」と思って、その教えに従って生きようと努力する人にならなければなりません。そのような人になれば、道を教えた聖人を通して、地上で霊界に直接連結できるというのです。

◆信仰の道と絶対信仰


 では、絶対信仰とは何ですか。自分が信じている限り、宗教の指導者がいるならば、その指導者と自分とは歴史的に数千年という遠い距離がありますが、信じる心を中心としては、彼と平面的に対等な時代圏内に立ち入ることができます。それゆえ、絶対的に信じなさい。絶対的に信じるとき、その人と共にあるということが分かるようになります。また、その人と共に生きているということが分かるようになります。こういうことを新しく認識させて、刺激するためのものが信仰だというのです。

 その宗教の指導者が、神様のために哀切に祈った事情を、信じる人は知らなければなりません。しかし、その事情を知っている基準だけで終わってはなりません。その事情を知れば知るほど、より深い情的な因縁、あるいは忠誠の因縁を結ばなければなりません。そうすれば、霊界に行っている人が必ず協助するようになっています。

 では協助するにおいて、誰を通して協助させるのでしょうか。地上に真の道理を残した人を通して協助させるのです。そうして、私がその指導者の内情を知っている立場でその人に代わって、その人と共に精誠を込める立場に立てば、その人が神様に対した立場に同参できるようになるのです。これが信仰の道であることを、私たちは知らなければなりません。それゆえ宗教を選ぶときは、真の宗教を選ばなければならないし、その真の宗教の中で、真の信仰者の残した歴史的な因縁を知らなければなりません。

 今日、キリスト教を中心として見るときも、キリスト教徒がイエス様と直接的な関係を結べる立場に入っていけるなら良いけれども、そのようにはならないというのです。イエス様と直接的な関係を結べる立場にまで行くためには、必ず橋を渡さなければなりません。神様と私たちの間、あるいはイエス様と私たちの間にある間隔を埋めるためには、地で苦労して精誠の礎を築いてきた人に頼って、精誠を尽くしていくことが一番早い道です。

 それゆえ、その道を探し出すためには、キリスト教ならばキリスト教を中心として、長い歴史を経てきた過程で忠誠を尽くした過去の聖賢、あるいは指導者が、私に代わってその道を行ったという立場で祈らなければなりません。そうすれば、彼らが、私の行く道を協助するようになっています。

 これはなぜかといえば、蕩減復帰の原則において、彼らも完成の世界を見ることができなかったために、修道の道、すなわち自分が行った道についてくる後代の人に対して、引っ張ってあげるべき因縁が残っているためです。ゆえに、そのような立場で祈って精誠を尽くすようになれば、霊界にいる宗教指導者や、道の指導者が、必ず地上にいる人に連絡をするというのです。

◆段階的に踏んで行くべき信仰生活


 そのような人が、精誠を尽くして探し出そうとしたけれども探し出すことができなかったことを、私自身が探して出てくるようになれば、その時は主客が転倒するのです。自分を指導したペテロ、あるいはパウロが、その当時に探し出そうとして探し出せなかったことを、私が探し出すようになれば、彼らと位置が入れ替わるのです。

 ところが、新しい革新をしてパウロ以上、ペテロ以上の立場を尋ねていくためには、まず彼らが精誠を込めた立場を尋ねていかなければなりません。そして、その場でそれ以上の道を模索しなければなりません。そうでなくては、それ以上の道を探し出せません。

 では、ペテロが行った道を尋ねていこうとするなら、どのようにしなければなりませんか。ペテロが信仰の代表者ならば、ペテロが信仰の代表者として行ったその立場に代わる立場に立たなければなりません。その場が強く雄々しい立場ならば、強く雄々しい立場を求めていかなければなりません。そうでなくては、新しい分野を開拓できません。

 信仰の道は、自分が自分なりに判断した道、自分が眺めるそのような道に行ってはならないのです。信仰の道は、霊界に行っている多くの道の指導者と因縁を結んで、高い段階に一段階ずつ上がっていかなければならないのです。ペテロ、ヨハネ、ヤコブ、この三弟子以上の立場に進んで初めて、イエス様と関係を結べるというのです。

 このように考えてみると、皆さんは自分が信仰生活において、どんな道が栄光に接するために早道かということを知らなければなりません。それは修道の道に責任をもっていった人々の道を、私が探してついていくべきだということを知ることです。そして、数多くの道の指導者が自分の代わりとなっていったのだと思い、彼らと関係を結ぶ道が、一番早い道だというのです。

◆恵みを受けた人の行く道


 恵みを受けた人が、恵みの中で生活をしている途中で、その恵みを逃す場合が多いのですが、それは次の段階に越えるべき時が来たにもかかわらず、越えられなかったからです。それで、恵みを逃すのです。

 こういうことについて考えてみると、今日私たちに必要なこととは、そのような因縁を漸進的に発展させなければならないということです。そうするには、どのようにしなければなりませんか。自分一人で信仰生活をしてはいけないのです。必ず、ある特定の人を探し出さなければならないのです。

 神様が一つの国を中心として恵みの役事をする時には、一人だけ立てては行いません。必ず東方の分野の役事をする人、西方の分野の役事をする人、南方の分野の役事をする人、北方の分野の役事をする人を立ててなさるのです。

 道の世界でも、神霊なる人が、たくさん来ては去っていったことを私たちは知っています。牧師級、長老級、執事級、一般信者級など、各級で神霊なる人々が現れて、千態万状に恵みの役事をしていきました。けれども、今日私たちはそれがいかなる組織で、いかなる系統として形成されて、そのような役事が起こったのかということを知らずにいます。

 それゆえ、東方ならば東方の一分野を中心に役事する一人を中心として役事することが、天全体であるように考えるのです。そうしてそこに、あらゆる精誠を尽くしていくようになるのです。しかし、それが全体ではないために、時折ふさがってしまうのです。そのようになれば、今まで全体だと信じて出てきた良心的な問題、心情的な問題が完全に中断されてしまうために、探し出した恩恵を逃してしまうという悲しい目に遭うようになるのです。

 それゆえ、終わりの日(終末)には恵みを受けた人一人だけに通じるのでなく、必ず何人かの人を比較してみて通じなければなりません。高い内容をもった霊的指導者に会って、自らその段階を高めていく賢い方法を取らなければならないというのです。ところが今日地上に生きている信仰者は、こういうことを知らずにいます。

 ゆえに、ある新しい道を行くときは、必ずそのまま行ってはならないのです。私自身が今、甲という人についていて、その限界線に到達したということを感じるようになるときには、乙という他の人を尋ねていかなければなりません。尋ねていこうというその時には、必死に祈らなければなりません。自分が属していた宗教圏内で精誠を尽くしたそれ以上の最高の精誠で、「天よ、私が行くべき道はここで終わってはいけないのではないですか」と命懸けで祈らなければならないのです。自分が過去に対していた霊界、その基準以上の立場に私自ら上がることのできる精誠の度数を備えるようになれば、私がとどまる所はそこではないということが分かるようになるのです。

 では、それ以上のこととはどのようなものなのでしょうか。もしそれ以上の立場がないときには、「それ以上の立場を私自身が開拓するのだ」という覚悟をして行かなければなりません。そうすれば、その人には恵みの生活が途絶えないのです。しかし、いつも恵みを受けようとばかりしてはいけません。他人が掘った井戸から水をくんできて飲むのではなく、その井戸の水脈をつたっていき、新しい飲み水の流れを探すために努力をしなければならないのです。

 これと同様に、自分を指導し、恵みを与えてくれた指導者の限界点に到達したと思われるときには、その指導者が最も恵みを受けていた時、精誠を尽くしたそれ以上の精誠を込めてこそ、その道を越すことができるのです。ところが今日の信仰者は、このようなことを知らずにいます。

◆神様の愛の内容


 ある指導者を愛するということは、単純に私と君との関係として愛するのではありません。神様を中心とした兄弟の因縁で愛し、兄弟の因縁でなければ新郎新婦の因縁で愛し、新郎新婦の因縁でなければら父と母のような因縁で愛せよということです。愛する道は、この三つの道しかありません。

 神様の愛とは何かといえば、父母の愛、夫婦の愛、子女の愛を合わせたものです。それゆえ神様の愛を左右に分けてみれば、兄弟の愛であり、夫婦の愛であり、父母の愛だというのです。信仰の道理の中で、神様の愛を母体として一番近い愛の因縁を尋ねていくのが道の道であり、道が越えるべき最高の峠なのです。私たちがこれを知っていれば、問題は簡単です。

 したがって、私たちはどのような道を行くべきかといえば、父母の使命を全うするという宗教を尋ねていかなければなりません。

 それゆえイエス様も、「私たちすべては神様を中心として兄弟だ」と教えたのです。また、「神様を中心として私たちすべては新郎新婦だ」と教えたのです。これを教えたのちには、神様を中心として人類の先祖である父母の内容を完結として教えなければならなかったのに、これは教えることができませんでした。皆さんは今日、統一教会が教えてくれた、このことを知らなければなりません。

 今まで神様の愛を中心として宗教の道を行った数多くの神霊なる人は、神様の愛の因縁が地上の因縁として結ばれた人間関係を願いました。そのような関係で結ばれた人間関係は、兄と弟(妹)の関係であり、そうでなければ新郎新婦の関係であり、その関係でもなければ父母の関係なのです。皆さんが考えるときに、兄弟が暮らす生活や、夫婦が暮らす生活や、父母が暮らす生活を見れば、その模様は似ているけれども、内容は違います。これを分析することができなければなりません。

 このような観点でペテロ、ヤコブ、ヨハネを見てみると、彼らはどんな立場でイエス様に従ったのでしょうか。彼らは、イエス様に対して、ひたすら師としてのみ従ったのです。兄弟の絆であるとか、主体と対象の相対的な因縁とか、あるいはより次元の高い父子の因縁で従うべきであったのに、彼らは、師と弟子の因縁のみで従いました。それゆえに、最後の峠に行ったとき、互いに捨てざるを得なかったのです。

 では、信仰の道において、追求する最後の道を行くには何がなければならないのかといえば、まず最初に神様の愛を中心として、兄弟の因縁をもって出てくる指導者の道理がなければなりません。その次には主体と対象、すなわち夫婦の因縁を中心として出てくる指導者の道理がなければなりません。その次には、父母の因縁をもって出てくる指導者の道理がなければなりません。

 終わりの日とは、数多くの宗教が以前語ったことを追求して出てくる歴史が、世界の途上に平面的に展開する時です。したがって、そのような時には、宗教の中でお兄さん的宗教、夫的宗教、父的宗教を尋ねていかなければなりません。霊界は、このような圏を中心とした各自の目的に対して、数千万個の道に分かれているというのです。

 したがって、皆さんはどんな内容を中心として祈らなければならないのでしょうか。「数多くの宗教指導者の中で、お兄さんの使命をもった人とは誰であり、新郎の使命をもった人とは誰であり、父の使命をもった人とは誰なのか」と祈らなければなりません。そして、彼らを訪ねていかなければなりません。この三つの内容をすべて備えてこの地上に来る人がいれば、その一人の人だけにすがりつくのです。そのようになれば、私自身、弟(妹)にもなれるのであり、妻にもなれるのであり、お母さんにもなれるのです。キリスト教は、このようなことを教えるのです。

◆主従関係を結んだイエス様と弟子


 イエス様とはいかなる方かといえば、お兄さんの責任を担って来られた方なのです。ゆえに、すべての人間が神様の息子になるならば、イエス様と人間は兄弟だというのです。イエス様は人間のお兄さんだというのです。その次には、イエス様は人間の夫だというのです。さらには、イエス様は人間の父だというのです。このような三つの内容を備えて来た主体的な存在が、歴史上の数多くの道人の中で、イエス様しかいなかったという事実を私たちは知らなければなりません。

 では、イエス様はどのような道を行かれましたか。私たちがイエス様を信じるならば、イエス様が行った道が、どのような道なのかを知らなければなりません。イエス様が行った道が、兄弟の絆を結んで行った道なのかといえば、そうではありません。ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、この三弟子を中心として見れば、彼らはイエス様と兄弟の絆を結ばなければなりませんでした。そうして、その絆が強くなれば、新郎新婦の因縁を結ばなければならなかったのであり、新郎新婦の因縁が深くなれば、父子の因縁を結ばなければならなかったのです。ところが、彼らは兄弟の絆さえも結べなかったのです。そういうイエス様とペテロ、ヤコブ、ヨハネであったがゆえに、結局イエス様が死の立場に立つようになったということを、皆さんは知らなければなりません。

 もし、彼らがイエス様に従う時、一父母の血統を受け継いだ兄弟であるという観念をもっていたならば、自分のお兄さんのようなイエス様、自分の弟のようなイエス様が死んでいく立場に処した時、そのままにしてはおかなかったでしょう。血が逆上し、愛する弟のようなイエス様に代わって自分が死ねる道があるならば、その道を探し求めていったのではないでしょうか。したがって、彼らは兄弟の因縁も結んでいない主従関係にあったということを、私たちは知ることができます。彼らは単に師と弟子の立場でした。そのような関係では、親戚の関係も結べなかったというのです。

 このように結ばれるのが兄弟の道理だということを考えてみると、私たちはそれ以上の立場に進まなければならないというのです。そうするには、イエス様をお兄さん以上に愛することのできる立場に入っていかなければならないのですが、これが問題です。

 ペテロ、ヤコブ、ヨハネは、どのような立場でイエス様を排斥しましたか。イエス様がペテロに、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」(ヨハネ二一・一五)と愛の問題を強調した内容は、君が弟の中の弟、お兄さんの中のお兄さんになれるかという内容であり、あるいは夫と妻の心情以上の立場に行けるかという内容なのです。また、あなたは息子であり、私は父の立場にまで行けるのかという内容だったのです。したがって、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」と言ったのは、ペテロの愛を分析した話なのです。

 今日、私たちが信仰の道で考えるべきことは、イエス様が探している弟とは誰なのかということです。それを模索する人は、ペテロ、ヨハネ、ヤコブ以上の立場まで行けるのです。ペテロ、ヤコブ、ヨハネがイエス様に仕えるのにどれほど精誠を尽くし、忠誠を尽くしたかということを知って、それを近道として、彼らよりももっと優れた道を探していく人にならなければなりません。ペテロが十字架に逆さにくぎを打たれて死んだのは、イエス様に反対して裏切った不信の立場を越えようという一つの方便としての死であって、イエス様の前でのあすを約束して誓うという死ではなかったということを私たちは知らなければなりません。すなわち、蕩減する死にはなるかもしれないけれども、神様の恩恵を直接連結することができる死ではないというのです。

 それゆえ皆さんは、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの三弟子が行ったその道を越えてこそ、彼らよりもイエス様をより愛する立場にまで接して入っていけるのです。

 では今日、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ以上の人がいないとすれば、神様はどうされるでしょうか。ペテロ、ヤコブ、ヨハネを立てて、彼らに橋を渡す役事をなさるというのです。その当時の使徒以上の人が出てこなかったときは、その使徒を立てて橋を渡す役事をなさるのです。これを越権して越えていけないのです。

 例えば、部長がいて、その下に課長がいて、係長がいて、班長がいるにもかかわらず、部長が直接班長に「こうしろ、ああしろ」とは言えないのです。そのようになれば、秩序を混乱させるのです。自らの位置を守って、その周囲に関係している系列を通して順理的に動かなければならないのです。霊界の組織も、これと同様だというのです。

◆善なる先祖以上の基準となれ


 ここで「天が尋ねきた道」という題目が出てくるのです。

 では、神様がペテロ、ヤコブ、ヨハネ以上の信仰者を、どのように探すかということが問題です。今日、信仰者の中からペテロ以上の信仰の道を尋ねてくる人がいれば、その人には必ず数多くの蕩減路程があるということを知らなければなりません。

 その蕩減路程をすべて経ながら、精誠を込めて尋ねてくる人がいるならば、神様はどのように役事されるでしょうか。もちろん、ペテロを中間の橋として立てて役事することもあり得ますが、そうでないときには、ペテロが蕩減できなかった内容を、天が背後で探してくださるのです。ゆえにそのような立場にある人は、ペテロがイエス様を裏切った立場を越えなければなりません。ペテロはイエス様を裏切ったけれども、ペテロ以上の立場に立とうとするなら、死の場に臨んでも裏切らない心情的な作用がなければならないのです。それゆえ、神様はペテロの過程を踏んでいく人がいれば、その人が裏切らないように、背後で責任を負わなければならないのです。そういう恩賜を通して、神様と直接対面できる道が開かれるようになるのです。

 皆さんがたくさん祈って、熱心に信仰生活をしていると、そのような「時」が分かるようになります。さっと対してみると秋のような気分になるのではなく、春のような気分になるというのです。そのようになれば、新しい恩賜の因縁が醸し出されるのです。祈祷の内容も変わってくるのです。

 神様は、道の世界に責任を負った人々がその責任を完遂できなかった道の背後で、数多くの霊界の因縁を中心として、いつでもまた責任を負わせることのできる恩賜の基台を準備して、再びその道に沿って出てくる人々に、失敗の道を免れるようにしてくださるというのです。この時は、神様が自分の立場を中心としてお考えになるのではなく、道の道のために精誠を尽くす立場を中心として役事してこられるのです。神様は、このように一段階一段階、高く上がっていけるように役事なさるのです。

 ところが、もしこういう道の世界と関係のない人に対したときは、彼らの善なる先祖を通して役事なさいます。したがって、自分の善なる先祖が道理に従って生きた、その先祖の道を模範として行かなければならないのです。模範として行くには行くものの、先祖は修道の道を行く時、自分を中心として行って終わったために、彼ら以上の立場に行かなければなりません。その先祖が国に忠誠を尽くした以上の忠誠を尽くさずには、先祖が残した善なる基準を越えていけないのです。もし、そのような道を歩んで、先祖が失敗した立場まで出てきた人がいれば、神様は必ずその人を守って失敗しない道を模索してくださる、ということを知らなければなりません。

◆神様が尋ねくることのできる道


 皆さんは、全部宗族が違い、氏族が違い、また個性も違うために、信仰の道を行く過程もすべて違います。個人個人の個性が違うので、その行く道も違うというのです。それぞれ個性が違う人々なので、選民として行くべき過程において、神様は天国まで私一人を導くために多くの苦労をされるというのです。

 皆さんが知っているように、蕩減には個人蕩減時代があり、家庭蕩減時代があり、氏族蕩減時代があり、民族蕩減時代があり、国家蕩減時代があり、世界蕩減時代があります。ここで自分に該当する蕩減路程を中心として、段階ごとに、その代価を払わずしてはその道を行けません。また、その代価を払おうとしている途中で失敗し、意を成し遂げられずに去っていった数多くの指導者や先祖の失敗までも蕩減しなければならないのです。それゆえ、自らの先祖が尽くした精誠以上の精誠を尽くさなければならない、ということを知らなければなりません。

 では、この地にいる人々は、どのようにしなければならないのでしょうか。指導者についていって、それ以上行くためには、彼らが失敗したその立場で特別な精誠を尽くさなければならないのですが、その「時」を知らなくても、神様は皆さんのために精誠を尽くしてくださっているということを知らなければなりません。神様はどうにかして皆さんを連結させようと、皆さんの代わりに、死の道を免れながらすべてに責任をとり、犠牲になって歩まれるのです。それゆえ、皆さんが深い恵みの生活をしてみれば、一段階一段階越すたびに、飛躍的に神様の恩賜を体験できるのです。

 皆さんが恵みの生活の中にある時は、初めは何だか分からずに「良い」と言っていても、「これではいけない」という気持ちになる時は、精誠を込めなければなりません。そのような時であるほど精誠を尽くすようになれば、神様はそれを成し遂げてあげるために、父母の心情をもってその場に尋ねてこられるのです。神様が私たちを尋ねてくることのできる道は、その道しかありません。

 宗教について見ても、甲という宗教があれば、その宗教もある基準を中心として出てきてきたので、その甲という宗教のほかには、救われる別の道がないと考えるのです。その宗教には、その宗教なりの法則があるのです。ところで、その宗教が限界点に至った時は、倒れるようになります。そのような時に、ここに倒れる者のために、神様は必ずその場に尋ねてこられるのです。そのような時、甲というその宗教の基準を越えて、それ以上の基準で尋ねてこられるのです。そういう過程をたどって発展するのです。

 このような点から考えてみると、修道の中の修道は何かといえば、宗教です。また、人の中で義人とはどのような人でしょうか。神様は歴史を通してその義人を探してこられるのです。今日、世界の文化は真なる真理を中心として発展してきました。ところが、どれが真なる世界的真理なのかということは、その真理を主張する人の精誠の基準を中心として決定されるのです。すなわち、そうして新しい思想と理念が立てられてきたというのです。

◆僕の立場を克服すべき私たち


 神様は必ず宗教圏を中心として役事なさる、ということを皆さんは知らなければなりません。キリスト教を中心として見るときも、同じです。イエス様が十字架で亡くなることによって、成し遂げようとされたみ旨が失敗したというのです。霊的救いだけを成し遂げたのであって、霊肉併せた完全な救いを成し遂げられなかったのです。

 イエス様を信じる聖徒が、自らの精誠を尽くすことでイエス様の内情をみな知っていたなら、イエス様がお兄さんであり、新郎であるということが分かったはずです。さらに、イエス様が父になるということも分かったでしょう。

 しかし、イエス様もペテロ、ヤコブ、ヨハネを中心として、主人と僕の関係が結ばれた立場で精誠を尽くしたのです。それゆえ、「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない」(ヨハネ一六・一二)と言われたのです。では、どのようにすれば主従関係以上の立場に上がっていけるのでしょうか。イエス様は、僕に対する立場でのみ弟子たちに教えました。ですから、今日の私たちは、どのように僕の立場を克服するかを追求しなければならないのです。そうするには、兄の立場、新郎の立場、父母の立場の基準を中心として精誠を込めなければなりません。イエス様はそのような立場で精誠を尽くすことができなかったがゆえに、私たちがそのような立場を探していくために、イエス様が精誠を尽くしたそれ以上の立場で精誠を尽くすようになれば、どのようになるかというのです。

 また、イエス様が精誠を尽くしたのと同じ僕の因縁を探し出すために精誠を尽くすときは、イエス様が苦労して教え、胸に抱いて歩んだけれども、彼が失敗した立場の因縁を誰が教えてくれるのかということが問題です。それはただ、神様だけがなさるのです。

 聖書を見ると、イエス様は「私は神様の息子だ。神様のひとり子だ」と言いました。では今日、多くの人の中に、「私も神様のひとり子だ」と言える人がいますか。イエス様は、「神様のひとり子だ」と言いはしましたが、ひとり子になることはできませんでした。

 「ひとり子」とは何でしょうか。神様の愛を独り占めする人です。本来神様の愛は、独り占めするようになれば、死ぬようにはなっていないという事実を知らなければなりません。イエス様がこの地に来られる時、霊界で既にひとり子という因縁は決定されていましたが、それは地上を通して決定されなければならないことです。ゆえに、イエス様は洗礼ヨハネを通して決定しようと、洗礼ヨハネ以上の精誠を込めたので、洗礼ヨハネは養子の立場になり、イエス様は息子の立場を相続したのです。

◆主従関係を越えた立場


 皆さんも同じです。皆さんがどこまで行くべきかということを知らなければなりません。僕の位置か、息子の位置か、新郎新婦級の位置か、あるいは父母の位置か、ということを知らなければならないのです。

 その道を尋ねていこうとすれば、この地でその道を引き継いで、イエス様が行った基準以上を越えなければなりません。ところが、イエス様が洗礼ヨハネ以上の精誠を通して引き継いだのと同様に、引き継ぐ人がいなければならないのです。

 そのためには、イエス様が頼める内容をもって出てこなければなりません。そうすれば、イエス様も頭を下げるようになるというのです。道理がそのようになっています。

 神様の息子として来たイエス様には、神様のみ旨を成し遂げてさしあげなければならない使命があります。ところが、それをみな成し遂げることができずに逝くことによって、彼自身はもう成し遂げることができないので、彼に代わる人を通して成し遂げなければならないのです。それゆえ、イエス様の代わりに立てられた人は、そのすべてを相続できるのです。

 では、代わりに相続した人はどのようにしなければならないでしょうか。イエス様が主従関係として結ばれた弟子たちを中心として、責任を果たしたそれ以上の立場に進まなければなりません。それで、それ以上の立場に立てる心情的つながりが結ばれれば、地上で結ばれたその因縁によって、霊界の内容を決定づけることができるのです。

 では、統一教会を中心として見るとき、先生と皆さんは、いかなる責任をもっているのでしょうか。また先生と皆さんは、どんな関係にならなければならないのでしょうか。主人が僕に対するような関係ならば駄目なのです。兄弟のような立場にならなければなりません。世の中では、父母と息子の間でもそのようにできず、夫婦間でもそのようにできませんでした。男性が見るとき、心で見れば女性のようなのに、体は男性だというのです。女性が見るときも同じです。心では女性のようなのに、体で見れば男性だというのです。このように、相対的な関係を中心として、何をしても離せない内情的な因縁が私たちの間に芽生えなければなりません。そのようなことが感じられなければならないというのです。

 その次には、先生がお父様のように感じられなければならないのです。このような三段階の情緒的な因縁が、皆さんの生活圏内で結ばれなければならないのです。そのような立場にまで入っていくようになれば、道を越えた立場なのです。

◆精誠の必要性


 先生が侍るお父様、皆さんがそのお父様に直接対する立場に臨むようになれば、その場は正にイエス様が行った修道の道の最後の場であるために、そこから神様の直接主管圏内に入っていくのです。そのようになれば、息子、娘、妻と弟(妹)の立場に入っていくようになるのです。その場では横的に主管しても、神様の代わりに主管する立場なのです。その場で兄が弟(妹)を主管することや、夫が妻を主管することも、すべて天に代わって主管するのです。ここから、新しい世界復帰の運勢が始まるのです。

 では、皆さんがこれからすべきこととは何でしょうか。精誠を込めることです。誰を中心に精誠を込めなければなりませんか。皆さんが先生を中心として精誠を込めるようになれば、先生が精誠を尽くすようなものなのです。このような生活が、皆さんの信仰生活の根幹となり、鑑にならなければなりません。

 したがって皆さんは、先生が精誠を尽くしたこと以上の精誠を尽くせる環境をつくっておかなければなりません。先生が国に忠誠を尽くしている途中で死ぬ場合、国だけでなく世界にまで忠誠を尽くすべき道が残っているので、皆さんはその忠誠を、どのように尽くすのかを考えてみなければなりません。そうして、ただ一つの道しかないと思って行くべきです。そうでなくては、この道を世界的に発展させることはできないのです。

 ある人が、こういう立場を探し求めて精誠を尽くして出てきたとすれば、神様はその人と親子の関係を中心として出てきたので、その場を訪ねて、その人が滅びないように、その人に代わって内的な精誠の基盤を築いてくださるというのです。そうして時が来れば、その人にみ旨を相続してあげ、新しい出発をさせるのです。

 今まで数多くの宗教がありましたが、歴史の過程で消えてしまった宗教もたくさんあります。しかし神様は、その宗教を信じてきた人を新しい恩賜の因縁に集めて、宗教が一つに収拾されるようにしてこられたということを私たちは知らなければなりません。

◆他宗教をむやみに批評しない


 このように見ると、神様はどれほど苦労されたでしょうか。神様は歴史始まって以来、今まで四方に散在している多くの人々を中心として、こういうことをしてこられました。甲という人に直接役事できないときは、乙という人を立てて間接的に役事なさいました。この時の役事は、天使を使ってなさるのです。すなわち、神様が人間を創造なさる時に、協助するように使命を受けた天使を中心として、役事されるのです。それで、マリヤに天使ガブリエルを送ったのです。マリヤが、「主の女の僕であるので、み意のままになさってくださいませ」というその場は、女性として行ける最高の立場であるがゆえに、神様が直接行かずに天使を送って精誠の道をつくろうとなさった、ということを皆さんは知らなければなりません。

 では、ヤコブがヤボク川で天使と相撲をした時、神様が協助なさいましたか。協助なさらなかったのです。それはなぜでしょうか。エサウとヤコブを中心として見れば、ヤコブがヤボク川へ行くまでは、神様がそのような方向に追い詰めてくださったのです。神様がヤコブに精誠を尽くすように外的、内的に衝撃を与えたのです。それゆえ、ヤコブが夜を明かして祈祷したのです。それで天使を送り、蕩減させるための外的な戦いをさせたのです。神様は、このようなことを中心として、数多くの宗教を連結させてこられるということを知らなければなりません。

 このような点で考えてみると、すべての宗教はその次元を問わず、長い歴史を経てくる間に、神様の数多くの苦労の基台を残しているという事実を知らなければなりません。

 そのような面で、今日私たち統一教会の言う「統一」とは、キリスト教だけを統一しようというのではありません。統一の理念をもって歩んできた私たちにおいては、キリスト教の理念だけがすべてではないのです。仏教ならば仏教を「悪い」と言ってはいけません。仏教の道の限界線までの精誠を尽くさない人が仏教を批判すれば、それだけ精誠を尽くした釈迦ならば釈迦が、かえってその人を批判するのです。分かりますか。

 ですから、他の宗教をむやみに批評してはいけません。自分とは行く道が違うといって、「あの人はなぜああなの!」と批評してはいけないのです。お互いに系統が違うというのです。系統が違うということは、他の系統の責任者を中心として連結している立場なので、そのような点で私たちを助けてくれているというのです。そして、私たちがその系統の限界線を越えるたびに、神様は見えない中で蕩減的な恩賜の役事をしてくださるということを知らなければなりません。

 それで、神様がかわいそうだというのです。神様はこのように、人間が一段階一段階越えるたびに引き上げる役事をなさるために、消耗戦をしていらっしゃるというのです。ですから皆さんは、神様がどれほど御苦労されているのかを知らなければならないのです。

◆より重要な問題


 私たち統一教会を中心として見るとき、統一教会の行く道が、正にそのような道です。皆さんは知らないでしょう。先生は、統一教会が一段階一段階越えていく時が、間違いなく分かります。その時は、本当に深刻です。その時は、ある個人とか家庭が問題ではなく、教会が問題ではありません。またある国が問題ではありません。ただ、主従関係ならば主従関係をどのように立てて越えていくかということが問題です。私たちは難しい峠を、一段階一段階越えて上がっていかなければなりません。そうして、世界的な立場まで上がっていかなければならないのです。このように、最高の立場まで上がっていかなければなりません。神様は、このように役事なさるのです。

 私たちが神様の心情をもって進む原因も、ここにあります。神様の心情以上のものはないというのです。神様の心情が最高です。神様の心情の中に、すべてが包括されるのです。したがって、すべてのことは心情をもってなさなければなりません。神様の心情の中で一段階上がろうとするなら、必ず犠牲の代価を払わなければなりません。私自身が犠牲の代価を払わなければ、天で必ず責任問題が起こります。

 それゆえ賢い人は、この時に必ず祭物を捧げて提示するのです。精誠を込めるときも、甲という人が精誠を込めたならば、その人以上の真心を込めなければなりません。彼が十日断食したとすれば、その倍以上の断食をしなければならないのです。このように、彼が精誠を尽くした限界線以上の精誠を込めて、彼が精誠を尽くし捧げた以上の祭物を捧げてこそ越えていけるのです。そのように、その場を越えていけるように心の準備ができるならば、神様は準備しなくてもいいというのです。

 これはどういうことでしょうか。終わりの日(終末)になれば、生きるか死ぬかという峠が来るようになります。その時、私たちは判決を下さなければならないのですが、神様は私たちが滅びないようにするために、まず準備をなさるというのです。しかし、神様よりも先に地でそれを知り、あらかじめ準備して祭物を捧げたり精誠を込めるようになれば、神様は苦労しなくてもいいのです。

 統一教会が出てくるまで、神様はどれほど御苦労なさったでしょうか。多くの蕩減の路程をたどり、個人復帰、家庭復帰、氏族復帰、民族復帰、国家復帰、世界復帰と段階を高めるために、神様は言うに言えない御苦労をなさったのです。

◆統一教会の原理と統一教会の聖殿


 では、統一教会の原理とは何でしょうか。このような峠の道を越えていくにおいて展開する神様の血のにじむ闘争の歴史を、地上であらかじめ知って蕩減することのできる教理です。これが統一教会の原理です。分かりましたか。これにさえついていけば、直接的に息子の立場にも行けるのであり、兄弟の立場にも行けるのであり、父母の立場も尋ねていけるのです。それ以上の立場はないのです。神様の愛を中心として築かれた家庭の立場まで入っていけるというのです。

 今、皆さんが座っている場は最高の精誠を込めたり、多くの涙と血の代価を払って見つけられた立場であることを知らなければなりません。この立場のために、数多くの先烈たちが消えていき、彼らが流した血が川となるほどの犠牲の代価を払った基台の上に、私たちが立っているということを知らなければなりません。したがって、この立場がどれほど怖い立場かを知らなければならないのです。

 では、この立場にいる私たちは何をしなければならないのでしょうか。親子の道理、夫婦の道理、子女の道理、兄弟の道理を中心として、兄弟の中の兄弟にならなければならず、夫婦の中の夫婦にならなければならず、親子の中の親子にならなければならず、子女の中の子女にならなければなりません。そのような仲になれば、その仲を引き裂ける他の力があるのかどうかという問題が、私たち統一教会が滅びるか、滅びないかということを決定するようになります。

◆復帰しようとするなら愛の因縁を結ばなければ


 先生は、皆さんに霊的に教えます。皆さんが捧げる祈りの中で、先生に会わない人は偽者です。皆さんが祈祷さえすれば、先生は間違いなく教えます。教えるときは、公式によって教えます。科学的だというのです。公式的に教えるというのです。初めの段階は何で、二段階目は何であるのかを、皆さんが祈祷さえすれば教えるというのです。霊的に先生を見れば、誰のようですか。先生がお兄さんのようだというのです。アダムは、エバのお兄さんです。それゆえ、そういう心情を復帰しなければなりません。本質的な、霊的心情を復帰しなければならないというのです。この基準を復帰するには、男性と女性の立場が違います。男性は天使長型で、女性はエバ型で、先生はアダム型です。

 これをこの世的に見れば、男性はアダム型で、女性たちはエバ型というのです。それゆえ、完成したアダム型として来た先生と、けんかをするのです。けんかして何をしようというのでしょうか。盗んでいったものを奪ってこようというのです。それで、男性を全部天使長の立場に立てるのです。それゆえに、「主が盗人のように来られる」という言葉にも一理あるのです。

 堕落した人間は、誰でも死亡線の峠を越えていかなければなりません。ところで、その峠を越えていく方式は、すべて同じです。その峠は、新郎新婦としての立場でなければ越えていけません。一人では越えていけません。堕落する時、この峠を越えてきたがゆえに、復帰する時には、逆にこの峠を越えていかなければならないのです。

 神様を中心として見ると、アダムが堕落することで、神様はアダムを真の息子として愛することができませんでした。またアダムも、神様の本当の息子として神様を愛することができませんでした。真の夫婦の愛も味わうことができませんでした。すなわち、真の夫の立場で愛することができず、その次には真のお父様の立場で愛することができず、その次には父母の立場で愛することができなかったというのです。この三つの愛を味わうことができなかったのです。堕落することによって、そのようになったので、これを復帰するためには、その愛の因縁を再び結ばなければならないというのです。

 皆さんが先生に対する時、兄弟のように感じられ、夫婦のように感じられ、その次にお父様のように感じられなければならないというのです。なぜそうなのかといえば、この三つの因縁を一人の人の愛を中心として感じることによって、堕落した全部を蕩減し、その心情が天の前に復帰されなければならないからです。

 そのようになれば、全世界の統一教会の信徒に、どんなに「先生を忘れてしまえ」と言っても、忘れないというのです。イエス様が、霊的になのか肉的になのかよく分からないうちに弟子を指導してあげたように、先生も霊界なのか肉界なのか分からないうちに統一教会員を指導してあげるというのです。それゆえ、その人々が先生を証し、仰ぐのです。先生は、ここにじっと座っているけれども、全世界的にそのような役事をしているのです。

◆世界を収拾しなければならない統一教会


 今日、私たち統一教会のこういう三段階の心情的な愛の因縁が最終的な決定を見ることのできる立場にあるので、統一教会でなくては世界を収拾できず、道の世界もまた収拾できないのです。

 ここで、皆さんが知らなければならないこととは何でしょうか。そういう心情的な愛の因縁は、歴史過程をたどって無限の代価を払って見つけられた宝物だというのです。億千万金を与えても買えない宝物です。多くの国を滅びるようにしてまでも探し出した、無限の宝物だというのです。それなのに、皆さんがそのようなことについて戦々恐々としながら祈っている姿が目に見えます。それを大事に大事に保管し、永遠の先祖としていかなければなりません。

 皆さんをそういう立場にまで引き上げるためには、霊界の先祖がすべて動員されなければならないのです。何も知らない皆さんと因縁を結ぶために、霊界では最高の精誠を尽くしているのです。そのような精誠の因縁を通して、皆さんが統一教会に入ってきたのです。それゆえ皆さんは、皆さんの無限の価値を知らなければなりません。

 昔は、信徒が祈祷する中でイエス様に会おうと思えば、昼夜の別なく七年以上の精誠を込めなければなりませんでした。そうでなくては会えませんでした。けれどもこのごろは、七日間だけ精誠を込めれば先生に会うことができます。ある問題について七日間だけ断食をして精誠を尽くせば、先生が間違いなく教えてあげます。

 皆さんは神様が尋ねてきた道が、どれほど苦労の多い道であったかを知らなければなりません。先生がこの道を尋ねてくるにはきましたが、尋ねてきた道をまた探していかなければなりません。私を尋ねるために今まで苦労された神様に侍って、誤ったことを蕩減しながら行かなければなりません。では、神様に侍っていくときには、どんな立場で行かなければなりませんか。皆さんを中心として行くのではありません。霊界から天の因縁を通して決定された基準をもって、この世界の前に先駆けて走っていくのです。

 では、誰がこの世を征服するのでしょうか。神様が征服するのではありません。「統一原理」と先生が征服するのです。ある一時が来れば、神様の前に世の中をえり分けていく、その先頭に先生が立つのです。

 ゆえに、世界の統一は、神様ではなく先生がするというのです。アダムが堕落して責任を果たせなかったがゆえに、アダムを復帰した立場に立たなければ、蕩減すべき血統が残るのです。それで先生が先頭に立って行くのです。

 したがって皆さんは、先生の前に荷物にならないようにしなければなりません。先生の後援者になり、先生の手足になりなさい。

 統一教会員が統一的な心情を備えて、自分の引き受けた分野で責任を全うしなければなりません。そのようにして統一された因縁を備えれば、その因縁によって霊界も全部統一されるのです。

 霊界にも数多くの階級があると言いました。霊界の数多くの縦的な階級が統一されて、横的な階級に発展していくようになるのです。これが原則です。このような点から考えてみると、み旨が成就する日は遠くないということを知らなければなりません。

 神様が世界を経てこの立場まで探して入ってこられたので、これからは私たちが世界を経ていかなければなりません。世界的なキリスト教の版図をつくった基台の上に、統一教会を立てて探して入っていくのです。世界には多くの国家があります。その中央に位置するためには、内的な基準を中心として外的な基準を経なければならないのです。そうして神様の内的、外的基準を実践できてこそ統一が成されるのです。

 したがって皆さんは、神様が皆さんの前に霊的に尋ねてこられたこと、肉的に先生が皆さんの前に尋ねてきたということには、どれほどの苦労があったのかを知らなければなりません。これを価値に計算するなら、無限の価値なのです。全天宙を差し出しても買えないような代価を払って得られた、最後の勝利的結実体だということを、皆さんは知らなければなりません。

















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訓教経(下)005



文鮮明先生のみ言集

訓教経(下)



明日を迎えよう


一九七〇年七月十九日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第三十二巻』


 この地に生きる多くの人々は、みな希望をもって生きています。希望をもたずに生きている人はいないはずです。きょうよりはあす、あすよりはもっと良い一日を求めて生きているということを私たちは知っています。どこの誰であろうとも、未来が現在に劣ることを願う人は誰一人としていないはずです。

◆今日を生きる人間が願うこと


 皆さんが現在置かれている立場は、歴史を代表する立場であり、未来に向かって出発することのできる立場です。七十代であろうが、五十代であろうが、二十代であろうが、人が置かれた立場というのは、過去と現在と未来の中心なのです。そこを中心として、千態万状の過去があり、現在も千態万状であり、未来も千態万状の様相を見せることでしょう。

 このような立場から考えると、皆さん自身は一人で立っているのではなく、過去、現在、そして未来と因縁を結んで立っているということが分かります。自分個人という立場で立っているようであっても、自分一人で立っているのではありません。社会であれば社会を代表して立っているのであり、民族であれば民族を代表して立っているのです。それだけではなく、世界を代表して立っているのです。このような立場に置かれている個人が、あすを迎えるとき、過去や現在よりはもっと良い未来を願うということは言うまでもありません。

 それでは、今よりももっと良いあすを願うとするならば、どうすればよいのでしょうか。今持っているものよりも価値あるものを持たなければなりません。そして過去よりも、もっと良くなるための因縁をもたなければならないのです。自分の置かれた立場というのは、四方の環境を代表する立場であるため、どの環境にも勝る自分自らの位置を定めることなくしては、未来に良い環境を備えることができないということは言うまでもありません。

 このような立場にある自分であるがゆえに、歴史を代表した私であるということに違いはありません。歴史を代表する立場というのは、過去や現在に劣る立場ではありません。劣るような立場では、歴史を代表することはできません。

 今日この世界を見てみると、この世は善なる世の中として、また私たちの永遠なる理想の基盤として神様が保障できる世の中でしょうか。そうではないということを私たちは知っています。

 それゆえ、人類はここから抜け出して、より良い自由と平和と統一の世界、いわば一つの世界を追求しているのです。したがって、私たち自身も今後来たるべき希望の世界に向けて、より良い人格を追求していかなければならないのです。ここで新たに感ずべきことは、私自身がより価値的な存在にならなければならないということです。

 過去もそうであったように、今この地には数多くの人間が生きています。この地には民族があり、民族を越えて国家と世界があります。ここに生きている多くの人が、現在の立場にあって、より良い自らの立場を定めることなくして、より良いあすの価値的世界を追求することはできません。

 結局、どんなに歴史が良く、社会が良かったとしても、その良い歴史と社会の前に自分自身がより良い位置に立ってこそ、より良い未来の世界と関係を結ぶことができるのです。ところが、今よりも良くない立場に立ったならば、歴史と環境の前に審判されるのであり、批判を受けることになります。

◆人間が備えるべき価値


 人間が神様によって創造された存在であるとすれば、その人間は過去の事実を今日に立証できる価値をもった存在として創造されたはずです。現在においても、より価値的な内容を未来に立証できる存在にならなければなりません。

 このような観点から見ると、人は希望を抱くだけでなく、希望する全体の内容を決定できる価値的存在として生まれなければならないのです。「万物之衆唯人最貴(注:万物の中で人が最も貴いの意)」という言葉があります。これは、人間が万物の中で最も高く貴い存在であるという意味です。それゆえ、人間が立っているところは、歴史が仰ぎ見る位置にあり、この時代が、時代の中心として見つめる位置にあり、未来がその価値の前に出て、頭を下げるような位置にあるのです。このように未来まで抱いて進むことのできる価値的な存在となって初めて、「唯人最貴」の位置に立つことができるのです。また、人間は万物の霊長だといいます。ところが私たちが霊長というからには、必ず中心に立って全体の価値を代表することができなければなりません。

 また、優秀な人も、そうでない人でも、人は世界的な中心になろうという欲望をもっています。無限の価値をもった中心になりたいと願うのです。ある種の存在があれば、その存在の中で最高の存在になろうとし、また絶対的な中心があれば、その中心と一つとなろうとするのです。このように、より価値のあるものと関係を結ぼうとするのが、私たち人間の心です。

 それでは、私たち人間の心はなぜそうなっているのでしょうか。それは本来人間は、歴史全体の価値を代表する中心的な価値をもっているためです。

 今日、私たちは自分で自分を見て喜びを感じ、自分の生活環境で喜んでいるのかというと、自分自身に喜びを見いだし、自分自身の生活によって幸福を追求しているという人は、一人もいません。そのような人がいるとするならば、その人は全体の中心であり、全体の幸福の価値を代表できる人にほかなりません。このように考えると、私たちは、そのような価値をもった中心存在とは距離があるということが分かります。

 それでは、どうやってその距離を短縮するのでしょうか。その距離をどうやって縮めて、その決定的中心の前に一致するかという問題を考えざるを得ません。これは単に私たちだけではなく、歴史時代を経る中で、み旨を抱いてきた多くの人が考えてきた問題です。この問題を念頭において、間隔を縮めるために闘うのが、正に人生なのです。

 ところが、その絶対的価値の基準と一体化するために、私たち人間だけが苦労するのではありません。私たちが絶対的価値の基準にまで達することができるように、協助する神様がいらっしゃるのです。神様が人間を絶対的な存在として創造され、また神様が人間に責任をもち、人間と絶対的な関係をもっているとするならば、いつかは必ず絶対的価値の基準に人間が一致する時が来るはずです。

 神様は絶対的な存在であり、無限な能力をもったお方であるがゆえに、人間もそのような存在になることを願い、またそうなる日が必ず来ることを信じています。それゆえ良心的な人は、あすのために、未来に向かって一つの世界を目指してきました。このようにして、今まで発展してきたのです。

 今日の歴史は、無限なる発展が始まる時ではなく、歴史的な終末時代にとどまっているのです。私たちは今この時、神様と私が一体化するための基点を、自らの生活圏内で自分の人格を中心として完結できるかという問題について考えなければなりません。現在を「終末であり、終わりの日だ」と言いますが、これは今日の私たちにとって、大変重要な問題です。

 それゆえ、私たちがどのような希望を抱くべきかが問題となるのです。例えば、一つの家門を中心とする希望をもっているならば、その希望の基準は、歴史の希望と一致し、今の時代の希望と一致し、未来の希望と一致しなければなりません。そうではなく、ある特定の氏族、特定の民族、特定の国家を中心とした希望であるならば、最終的に唯一残ったその希望の前に、審判を受けざるを得ないことでしょう。

◆歴史的代表となるべき私たち


 それゆえ今日の人間は、審判の道を避けるために良心が願う道を求め、永遠に残る道を求めていかなければなりません。人間として誰もが行かなければならない道を模索せざるを得ないのです。これは人間のみならず、神様も人間と関係を結んで、解決のための道を摂理歴史と人類歴史路程に連結しなければなりません。このような因縁を結ぶのが、宗教の行く道なのです。

 宗教の行く道は、歴史の背後によって引きずられていく道ではなく、歴史過程を超え、環境を超え未来を追求していくことのできる、より新しい価値的な内容を提示する道です。このような内容を扱わない宗教は、歴史の審判を受け、時代圏内で糾弾を受けることでしょう。したがって、未来と通じることのできる内容、時代を率いて未来へ行くことのできる宗教的な道を求めて行かなければならないということを知るべきです。

 人間が歴史的中心の立場にあるとするならば、私たちがより良いあすを迎えるためには、より良い歴史的実体となり、より良い時代的中心とならなければなりません。そのためには、この時代で、一つの氏族や民族を中心とした代表にとどまるのではなく、歴史的かつ時代的な代表とならなければなりません。同時に、全世界を代表する価値と能力をもたなければなりません。そのような存在こそ、今日私たちが願う中心なのです。

 そのような基点に立って、より良いあすを引き込むならば、あすは引き込まれてくるのです。たとえ悪なる世界、死の世界、すなわち死亡の世界が目前に迫ったとしても、より良いあすを引き込むことができるのです。そのような世界的な価値の中心、あるいは歴史的、時代的、摂理的な中心の位置を定めたならば、その人は過去を支配し、現在を動かすことができるはずです。

 そのような立場に立てば、今後行く道にどんな困難があるとしても、その困難な環境の彼方にある新たなる願いを引き寄せることで、困難な環境を除き去ることができるのです。それを可能とする人格をもった存在がこの地上に現れるならば、人類歴史の終わりの日が遠いとしても、その終わりの日を短縮する主体的な中心となるという事実を、私たちは知らなければなりません。

 そのような立場であすのために進むとき、過去と現在は、未来を保証し、未来の中心となるのです。未来は、過去と現在との因縁を通した関係にあるために、過去と現在を代表して勝利できる立場に立つならば、そこから未来を調整することができるのです。

 歴史過程で未来に願いを抱き、開拓者の使命を果たそうとして生まれては死んでいった聖人たちの前には、試練と迫害の道、捨てられる道、死の道が横たわっていました。その横たわったものを彼らが除き去り、なくそうと対決しましたが、それは一時的な対決にすぎませんでした。時代を超越し、永遠の勝利として残されることはありませんでした。これはのちの日に、一つの中心によって収拾されるしか方法がないのです。

 彼らがもし統一された神様のみ旨、絶対的な神様のみ旨と完全に一つとなり、一〇〇パーセント体得した立場でその環境と闘ったとするならば、彼らは生涯路程の中で、み旨を完成したことでしょう。

 そのみ旨とは、絶対的な息子のためのみ旨であり、絶対的な娘のためのみ旨なのです。絶対的な価値を中心とした息子、娘のためのみ旨であるがゆえに、そのみ旨を完成した息子、娘がこの地にいたとするならば、神様の摂理路程の前に過去を代表する者となり、現時代の中心存在となり、未来の出発者となり得る、確固たる中心として定められるのです。そのような存在として、神様の愛と理想を丸ごと抱くことができる代表的な存在となったならば、そこから新しい創造の歴史が始まり、歴史を超えた新しい能力の役事が起こることでしょう。

◆あすを迎えることのできる人


 それでは、未来を迎える主人となるのは誰でしょうか。今日の私たちだけが主人になることはできません。私たちは、すべて絶対者によって創造された結果的存在であるために、主体的な立場にあるのではなく、相対的な立場にあります。

 それゆえ主体が描く一つの圏があり、主体が描く一つの勝利的環境があり、主体が描くあすの理想があるはずです。そこに一致する自己の価値をもった人がいるとするならば、完全に一致するところまではいかなくても、主体の愛、主体の願い、主体の現実がその人に連結されるのです。そうしなければ、未来の実体と、未来の環境、そして未来の勝利的価値に連結されないために、神様の永遠なる理想の出発はなされないのです。

 そのような立場で、未来に責任をもとうという人が現れるならば、その人が行く道というのは、個人が行く道ではありません。その道は、世界の人に代わって行く道であり、人間だけではなく絶対者に代わって行く道なのです。

 そのような立場に立った人にとっては、いつでも過去が現在に代わることができ、現在も過去に代わることができるのです。言い換えると、過去はあすの希望をもたせるための刺激を与える立場に立つということです。すなわち、過去は過去としてただ流れていくのではなく、現在とより良い未来のための刺激となる因縁として残ります。現実も、やはり単なる現実として終わるのではなく、未来に向かう刺激的な現実となるべきです。

 このような立場で進むならば、過去と現在と未来の間には差がなくなるのです。未来において過去のことを追求しても、その存在の価値を感じることができるのです。また現在を考えても、この現在の位置が未来の中心ともなるのです。

 もし、そのような人がいたとするならば、その人は歴史に勝る人となり、歴史上最高の希望の中心となることができるのです。そして時代の前には、最高の勝利的中心となり、未来においても中心となることができます。

◆神様の最高の願い


 神様のそのような存在が、天と地、そして過去、現在、未来を含むこの世での因縁を中心とする環境なり生活圏において、その中心となる存在が決定される一日を、私たちの生涯路程にいかにして残すかということが何よりも重要な問題です。

 このような観点から、統一教会は心情世界について論じているのです。神様の最高の願いとは何であり、最高の希望とは何であるかという問題について考えているのです。神様は、全世界を御自身の懐に抱こうとしているのでもなく、天と地を御自身の権勢で治めようとしているのでもありません。たとえ外的な相対的条件がすべて満たされていたとしても、それは神様にとってはあくまでも間接的な問題にすぎません。喜びによってのみ包括され、喜びによってのみ動く主体的な運動の中心、すなわち核となり得るものとは何でしょうか。それは、神様の愛にほかなりません。

 神様の愛を中心とした一体化、神様の愛を中心として歴史を率いていくことのできる勝利圏、神様の愛を中心として時代を包括することのできる主体圏、これをどのように見いだすかが問題なのです。それゆえ私たちは、心情の世界について論じているのです。

 歴史は今までこの世界の統一に先駆けて、統一の根源となり得るものを探し求めてきました。すなわち神様の真の息子と真の娘を立てて、神様と一つとなって時代環境を開拓し、時代の中心に立たせてこられたのです。神様はこのようにして、人間を引っ張っていかれるのです。

 それゆえ、神様の導きに引かれていくことのできる、心情的な絆をどれだけもっているかどうかが問題なのです。神様と私が個人としてだけではなく、世界を代表した位置で関係を結んでいるのかが問題なのです。

 それゆえ神様は、より価値的な存在になろうとする人よりも、人間を誰よりも愛する人を求めていらっしゃるのです。その人の前に、世界が屈服するとかしないとか、あるいは時代と環境が収拾されるとかされないとか、それが問題なのではありません。神様の心を動かすことができ、全体の心を代表した一つの相対として現れるための真の愛の因縁をもっているかが問題なのです。そのような息子、娘はいるのでしょうか。

 神様は、愛の神様です。その愛は過去を収拾し、時代を主管し、未来を開拓することができます。その愛によって苦労も克服し、困難な環境も消化することができるのです。また愛の力は強いため、その力と一つとなることのできる起源をもった人であれば、その人はどんな困難にぶつかっても、うまく消化することができ、主管して余りあるのです。愛は、このような力の母体であるがゆえに、神様は愛について話されたのです。

 神様の言う愛とは、歴史と掛け離れた愛ではありません。時代から分離した愛でもありません。未来に訪れてくる愛のことでもありません。出発から永遠に至るまで、共にある愛のことを言われたのです。したがって、人間が生まれて生涯路程を経る間、すなわち生まれてから死ぬ瞬間まで、このような愛を携えた人がいるとするならば、その人は、永遠なる神様の愛の対象であると言うことができます。

 皆さんの一生のうちで、み旨を知って神様の愛を体得した期間が生涯の三分の一に当たるならば、残り三分の二に該当する期間は、皆さんにとって悲しみの期間とならざるを得ません。また生涯の半分を神様の愛を中心として神様のために生活したとするならば、その残り半分の生涯は恥ずべき生涯だと言わざるを得ないのです。今日私たちは、そのような恥ずべき生涯と悲しみの生涯を残してはなりません。

 今までの歴史過程において、神様の愛を中心として人間と結ばれた愛が何パーセントであったかを考えてみましょう。未完成の愛から歴史が流れてきて、今でもそのような時代圏にあることが分かります。

 したがって、今私たちが追求すべきことは、神様の愛を一〇〇パーセント所有できる境地を求めていくことなのです。そのような立場に立てば、その人には息子という言葉は必要なく、神様と共にありたいと願う必要もなく、また神様を求める必要もないのです。なぜなら、探し求められた位置にあるからです。これこそ、永遠に幸福な立場なのです。

 ところが、いまだ収拾すべき内容を残した立場にあるとすれば、永遠の幸福というものはあり得ません。完全に収拾されて絶対的な基準を決定できる立場に立ち、また神様の愛と一致する立場に立ってこそ、永遠な勝利の座につくことができます。

◆絶対的な因縁で連結された神様と人間


 本来、人間は勝利の本郷から出発するはずでしたが、堕落のゆえにそうではない立場から勝利の世界を求めていくことになりました。その求めていく基準とは、人格を完成した立場です。もちろん人格も必要ですが、その人格を動かすことのできる内心的な核、すなわち愛がより必要とされます。その愛とは、すなわち神様の愛です。

 その神様の愛を見いだして関係を結ぶと、私が悲しむとき、神様も悲しむのです。父子の関係、あるいは夫婦の関係を中心として見ても、父母ならば父母、息子ならば息子が悲しめば、我知らず骨の髄から悲しみが込み上げてくるのです。それは説明を超越し、環境の因縁をすべて超越して存在するのです。それは距離と事情を超越して、相手と一致した感情が誘発されるからなのです。

 このように愛は説明を超越し、事由を超越しているのです。喜ぶにしても、その内容や事情がどうあろうとも、それを超越して共に喜ぶのです。相手が息子でも父母でも、共に喜ぶことのできる相対的存在として、我知らず引き込まれていくのを感じるようになります。それは純粋に、自分と絶対的な因縁をもった一つの血筋を中心として、永遠を共にする内的な心情の因縁で結ばれてきたからなのです。このように私のすべての動き、主体との相対的な関係をもっているために、主体が喜べば私も喜び、主体が悲しめば私も悲しまざるを得ないのです。

 このように考えると、今日私たちが喜べば、絶対者も喜ぶということができます。もしそれが確かだとすれば、私たちはどのようにしてでも喜んで生きなければならないという結論が出てきます。なぜならば、私が悲しめば絶対者も悲しみ、絶対者が悲しめば私だけでなく全世界も悲しむという相関関係をもっているからです。

 神様が私以外の人によって悲しみを感じるとき、私も自然に悲しみを感じ、私が喜べば、自然に神様も喜ぶことができるのです。私が悲しい環境を超えて、より高次的な位置で喜びを感じれば、喜びをこの地上に反映させる動きが、霊界を中心として人間の背後で起こるのです。

 祈祷生活を多くして、霊的に高い見識をもって生きる人は、我知らず悲しみが押し寄せてくることがあります。その時に、神様が悲しい立場にいらっしゃるということを体験するのです。また、我知らず心に満ちる喜びを感じる時があるのですが、それは神様が喜びの座にいらっしゃることを感じているのです。

◆体 恤的な愛を感じる立場


 私たち人間は、現実では時間と空間の制限を受けていますが、霊界ではそうではありません。時間を超越した圏内では、これがそれであり、それがこれなのです。霊界を中心として反映されてくる関係の世界では、悲しみと喜びは、いつも私を中心とした一日の生活を通して現れるのです。ところが今日私たちは、これを感知するには到底及ばず、あまりにも足りない立場にあるということを知らなければなりません。

 「あすを迎えよう」、「真のあすを迎えよう」と言うためには、真の私とならなければなりません。そうしてこそ、真のあすが私と関係を結ぶことになるのです。ここで一番重要なのは、体恤的な信仰です。

 体恤的な信仰というのは、神様が悲しむとき私も悲しみ、神様が喜ぶとき私も喜ぶという信仰のことです。皆さんは、毎日毎日そのような生活を中心として神様の悲しみの心を解き、世界の前に喜びを分かつことのできる人とならなければなりません。そのような人となったならば、私によって世界は収拾されていくのです。

 歴史上に現れた聖徒を見ると、彼らは当時は排斥を受けましたが、彼らが残した道は歴史を収拾してきました。しかし、それは距離をおいて収拾してきたものです。しかし、神様の愛を中心として完全に一体化すれば、距離を超越して収拾することができます。そのような立場で神様を喜ばせ、主体と共に時代の環境を克服し、飛躍できる立場に立ったならば、その人によって世界は新しく改革されることでしょう。

 彼から発せられる波長は、全世界の人類と過去、現在、未来の世界にまで及んでいくはずです。また、その時の喜ばしい事情は世界を消化し、世界を感化し得る主体的な役割を果たすことでしょう。それゆえ、「義人の祈祷には感化する力がある」といわれるのです。したがって皆さんが、どうすればそのような人となり、どうすればそのような境地を見いだすことができるのか、ということが問題なのです。それには、体恤するしかありません。

 それでは、私たち人間が、その体恤的な愛を最も近く感じる位置とはどこでしょうか。それは皆さんの家庭で、皆さんが父母であれば息子を愛するように、自分が神様の前に相対的な立場で神様に代わって、その愛を広く全人類に適用する位置なのです。

 神様は、私たち人間とは違います。私たち人間は、自分の息子、娘が困難に陥れば、万人を犠牲にしてでも自分の息子、娘を救おうという思いをもちます。それが堕落した人間です。しかし神様は、万人を救うために御自身の息子、娘を犠牲にするのは当然なことと考えていらっしゃいます。ここで人間の心を、どのようにして神様のような心に変えていくかということが問題になります。

 ところで、天国に行くことができる人とは、どのような人でしょうか。アブラハムが信仰の先祖となった動機とは、何だったのでしょうか。アブラハムは、神様に自分の息子を燔祭の祭物として捧げました。彼が祭祀を捧げたのは、未来の子孫のためです。これがまさしく、彼が祭祀を捧げた動機なのです。未来の子孫のために、自分の息子を祭物として祭祀を捧げるアブラハムの心は、どれほど悲愴なものだったでしょうか。

 現在よりも未来の世界のために自分の息子、娘を神様に祭物として捧げ、祭祀を捧げることのできる人は、未来の勝利の基盤を現在に引き寄せることができるのです。アブラハムは、自らの息子を未来の世界のために祭物として捧げました。

 そのような心をもって進むとき、神様が共にいらっしゃいます。そして、そこで天国に行くことができる人なのか、行くことのできない人なのかが決定されるのです。自分を中心として欲を出す人は、天国に行くことができません。自己中心的なものは捨て、自分を犠牲にして祭物となろうとする人だけが天国へ行くのです。

◆神様の救いの摂理の原則


 それでは、神様の愛を完全に占領することのできる人とは誰なのでしょうか。自分の体はもちろん、自らの息子、娘までもみな祭物として捧げて万民を救い、愛そうという主体的な心をもった人です。このような心こそ、神様の心なのです。

 神様は今まで摂理してこられた中で、怨 讐を打って摂理を進めたことはありませんでした。怨讐を打って摂理されるよりも、御自身の愛する存在、一番近い存在を犠牲にして摂理を進めてきたのです。神様は、そのように摂理を発展させてきたのです。その発展とは、天国に向けての発展なのです。

 したがって、未来を相続できる人、尊敬される人、その時代の人から優待される人は、自分を犠牲にする人です。そういう心をもって、自分の息子、娘までも世界のために、神様のために犠牲にすることのできる心をもったとき、そこから神様の所有として決定されるのです。

 神様は今まで、愛する多くの僕を犠牲にしてこられました。それでも足らずに、ひとり子イエスをこの地上に送られましたが、イスラエル民族が反対し、迫害することによって、結局十字架の道へと追いやったのです。

 イエス様は、十字架の道を前にして、神様の前に訴えられました。「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ二六・三九)と祈られました。父のみ旨とは、自分を犠牲にしてでも、世界を愛し救いたいと思うものであるがゆえに、ただひたすらにそのみ旨に従順に従っていくことが、息子としての道理であることをイエス様は知っていたのです。そうして、ひとり子イエスは、祭物となっていきました。

 イエス様は、祭物の中の祭物となっていきました。たとえ自分は犠牲になったとしても、神様の愛だけは残るということを御存じだったイエス様は、願ってきた一つの世界が必ずや築かれると信じて死んでいかれたのです。そこから世界は収拾されるのであり、そこから新たな歴史が、その起源を一段階高い次元に定めて始まるのです。

 したがって、そのような限界線と自分がどのように関係を結ぶかということが、すなわち自分があすの天国を現在において迎えられるかということが問題となるのです。きょうがなければあすがないように、きょうの勝利の起源を切っても切れないあすの因縁に結びつけなければなりません。

 神様の愛は、自分が最も愛する人を犠牲にして怨 讐を救おうという愛です。カイン・アベルを中心とした摂理歴史が、正にそれです。したがってアベルは、自分個人だけではなく、家庭までも犠牲にしなければなりません。家庭だけではなく、民族を救うためには氏族までも犠牲にしなければなりません。そして国家を救うためには、民族までをも犠牲にしなければならず、世界を救うためには国家までも犠牲にしなければならないのです。このような圏をつくらなければなりません。

 神様が私個人を犠牲にしたとしても、感謝しなければならず、私の家庭を犠牲にしたとしても、感謝しなければならず、私の氏族を犠牲にしたとしても、感謝しなければなりません。また私の民族を犠牲にしたとしても、感謝しなければならず、私の国を犠牲にしたとしても、感謝できなければなりません。そのような国が現れてこそ、世界はその国を通して収拾されるのです。

 神様も、過去の歴史路程において、そのような国を探し求めて摂理を進めてこられたのです。国のために生きる個人がいるとすれば、彼の個人としての伝統を受け継いだ家庭を通して、国のために犠牲になれるようにし、また氏族と民族がその家庭の伝統を受け継いで、国のために犠牲となれるようにしたのです。こうして、その国を探すために、神様が今まで摂理を進めてこられました。

◆国を求めて立てようとされたイエス様の悲しみ


 今日、私たちがこの地上に生まれた目的は、国を愛するためです。神様が今まで摂理してこられたのも国を愛するためです。それでイエス様は、「何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。……まず神の国と神の義とを求めなさい」(マタイ六・三一〜三三)と語られました。

 ここでいう「神の義」とは、行動の価値のことです。国のために犠牲になることなくして、義が成立しないということです。

 それでは、どのような立場で犠牲となるべきなのでしょうか。神様と私が切っても切れない立場、すなわち、縦的な歴史を垂直に流れる直系の心情を相続し、世界を愛し、国を愛することができなければなりません。また、個人をその国の代表として愛し、多くの氏族をその国の代表として愛し、多くの民族をその国の代表として愛し、神様が求めていらっしゃるその国のために、多くの国を愛することができなければなりません。

 このような愛の伝統の因縁をもって、その国を愛するために犠牲の道を行ってこそ、義人の立場に立つことができるのであって、それ以外には義人の立場を決定することはできません。国のために死ぬとしても、絶対的に正義に立脚した生活をして初めて義人となれるのです。したがって、国を愛する心がなければ義人になることはできません。それゆえ聖書には、「義人はいない。ひとりもいない」(ローマ三・一〇)とあるのです。これは、国を愛する人がいないために、そう言ったのです。

 イエス様も、国を愛したくても愛することのできない立場に立っていました。心では愛していても、実際に愛し得るイスラエルとなっていなかったので、イエス様は国を愛することができなかったのです。国がまず欠け、民族が欠け、氏族が欠けてしまったのです。さらに、十二使徒までが全部欠けてしまい、愛するための条件がすべて崩れるという立場に置かれたのです。ですから、嘆息せざるを得なかったのです。義人が一人もいないというのは、悲惨なことです。これこそ、歴史を通して今までつづられてきた神様の事情なのです。

 イエス様は、それを感じて落胆するよりも、神様は自分自身よりもっと哀れな方であると考えたのです。「私は一人の人間として生まれ、三十年余りの短い生涯の過程で国をもつことができなかったということはあり得るとしても、お父様は最初から歴史の背後で復帰の使命に主導的な責任をもち、これを収拾するためにどれほど苦労してこられたことか。愛する国のないお父様がどれほど哀れなことか。その国が現れるまでの長い間、歴史を導きながら犠牲の代価を払ってきたにもかかわらず、いまだに国のないお父様は、どれほど悲しいことだろうか」と考えたのです。

 イエス様はこのように考えたため、「お父様!」と呼びつつ、神様のために祈祷する立場に立たれたのです。それゆえ、イエス様こそが、神様の心情を代表した息子であるということを皆さんは知らなければなりません。天国と地獄は、ここから分かれるのです。

◆愛と犠牲


 それゆえ、息子、娘と自分の家庭を中心として引きずられる身となってはなりません。また世の中の、ある民族や国家を中心として引きずられる身となってもなりません。信仰をもった人は、国家から制裁を受け、社会から糾弾を受け、家庭と、最も愛する人からさえ迫害を受けました。しかし、そのような迫害を打ち切り、乗り越えてきた人が、今日の宗教を開拓した中心的な責任者であるということを皆さんは知らなければなりません。彼らがその時代に排斥され、追われたとしても、神様は生きて働かれ、彼らを通して歴史を動かしてきたのです。

 精誠を尽くす人には、生命の春というものがあります。その時、神様は精誠を尽くすその場に来られ、その人を中心に因縁を結んで役事されるのです。そして、その人の一生を通して条件を立てながら、新たな希望の歴史へと接近してこられるのです。こういう観点から統一教会では、心情の世界観を論じているのです。

 それでは、統一教会が心情を中心とした個人的な人格、心情を中心とした家庭的な基準、心情を中心とした民族と国家形態について論じるその目標とは何かというと、今日のこの国のためのものではありません。今日私たちが観念的、習慣的に言っているような国のためではありません。神様に代わることができる内容に立脚した、心情のことをいっているのです。つまり、自分の息子、娘を愛する以上に世界を愛そうということです。自分の妻や夫を愛する以上に、世界を愛そうということなのです。自分という存在を中心として、「ああだこうだ」と言う者は、「滅びるな」と言っても滅びます。歴史は、それを証明しています。

 もし、そのように世界を愛する人が千年の恨の歴史を抱き、悔しく死んでいったとするならば、その人は、未来の希望として来た多くの人間に、自分の恨を解いてくれるよう誰彼かまわず取りすがって願うことでしょう。そのような多くの選民の死と、義人たちの流した血が恨となり、歴史に残っているがゆえに、終末に神様の摂理のみ旨がこの地上と関係を結ぶことができるのだということを皆さんは知らなければなりません。したがって、皆があすを迎えることのできる個人とならなければならないのです。

 ところが今日、この地上で自らの息子、娘だけを愛するのにきゅうきゅうとしている人が多いのです。そのような立場を離れ、神様に代わって愛し、あるいは神様の保障のもとで愛することができてこそ、より大きな愛となるのです。

 私たちは堕落した人間であるがゆえに、いつかは希望の時を迎えるために進んでいかなければならない立場にあります。したがって、この悲しい事情を私が知り、その悲しい事情を私の心情で感じて、神様の愛と交差する交差点に立たなければなりません。その交差点が、私の生活圏です。そうならなければならないという心が骨の髄からあふれ出て、愛する息子、娘を祭物として捧げることができるでしょうか。世界のために自分の息子、娘を犠牲にし、自分の家庭を犠牲にし、私の氏族を犠牲にし、私の民族を犠牲にし、私の国まで犠牲にすることができるかどうかが問題です。国までが問題なのです。

 今日、統一教会がたどるべき運命の道は、あすの国、あすの世界を相続するために行く道です。私たちは、その道を行くために結束した群れなのです。したがって、自分の息子、娘を祭物にして、自分の氏族を犠牲にしてもこの国のために生き、この世界のために生きることができなければなりません。こういう問題を考えると、今日の統一教会を指導する先生は、皆さんを苦労の場に追いやらざるを得ないことを皆さんは知らなければならないのです。

 犠牲の場に追いやることが愛なのです。それ自体は悔しいことかもしれませんが、倒れて死んで祭物となるその背後に、神様の愛の基盤が自分さえ知らない間につくられていくのです。それゆえ、これを広げて氏族圏を超え、これを広げて民族圏の前に影響を与え、これを広げて国家の基準を変える日には新たな国の旗を掲げ、世界に向かって進軍を始めることができるのです。その目的に向かう道が、統一教会の道なのです。

◆私たちが行くべき道


 したがって皆さんは、この国を、自分の息子、娘を愛する以上に愛さなければなりません。み旨に従っていく場合、代表的に責任をもっていく時を多くもたなければなりません。神様の前に祈祷するとき、こちらに行こうにも行けず、あちらに行こうにも行けないという立場、こちらに行ってもうまくいかず、あちらに行ってもうまくいかないという時があります。そのような時は、祭物を通して行くしかありません。そのまま行くことはできないからです。

 その祭物をどのようにして模索するかという問題を考えてみるとき、自分の愛する息子、娘と家庭、自分の愛する氏族、自分が愛して率いる統一教会をどうやって祭物として捧げるか、という問題について考えざるを得ません。それができる宗教があるとするならば、その宗教によってこの国は救われることでしょう。

 そのために生まれ、そのために生き、そのために死ぬことが私の本来の天職であり、神様が私をこの地上に送り、賦与された任務なのです。ゆえに、その任務を遂行する運命の道を行かなければならないのです。皆さんも、当然そうでなければなりません。したがって、自分の生命の峠、生命の限界線を超えた立場で肯定し、是正することのできる自分自身の姿をいかにしてもつか、ということが問題とならざるを得ないのです。

 もし、「国を取るか、自分の家庭を取るか」と聞かれたならば、私たちは「国を取る」と答えなければなりません。また、「教団を取るか、国を取るか」と聞かれても、「神様が訪ねてくる国を取る」と言わなければなりません。また「民族を取るか、国を取るか」と聞かれたならば、「民族を犠牲にしてでも国を取る」と答えなければなりません。

 超民族的な時代が迫るこの時点で、私たちは落胆したり、希望を失ってはなりません。これは時が近づいたという証拠です。その時の絶頂を迎える三角地点において、すなわちサタンの悪と神様の善が交差し、ぶつかる瞬間に、これを善の側に転換するのは、神様でもなくサタンでもありません。唯一人間なのです。

 今や、国がそのようなことができる時が近づいたのです。アジアの情勢が世界のすべての運命を左右するという気運の押し寄せる切迫した時の到来は、世界的な運勢を決定する最後の瞬間が、私たちの目前に迫っているということを意味しているのです。このような瞬間を迎えて、「いかにしてこの時に合わせて越えていくのか」という問題に取り組む群れと氏族、団体がなければなりません。それゆえ、神様を中心とした、そういった団体が必要なのです。

 それで、統一教会がそういう団体になろうとしていることを、皆さんは知らなければなりません。私たちの願いは統一です。統一のためであれば、愛する教団さえも祭物とすることができなければなりません。そういった感情を一つの基点に一致させれば、ここから新しい創造の能力は無限に広がっていくことでしょう。そのようになれば、歴史が収拾されるのです。

 統一教会を中心として神様の愛の因縁を結束し、国を愛する心を合わせた位置に立てば、その中に国が、国の中に民族が、その家庭の中に個人が存在するのです。このように国を復活させ得る国民になったとするならば、その国民は、自動的に解放を迎えることができるのです。

 その国民が善主圏内に立てば、それと同時に神様の前に行くことができるのです。このように国の主権が立てば、民族も救うことができ、氏族も救うことができ、家庭も救うことができるのです。したがって問題は、国が定められなければならないということです。平面世界では、これが核になるのです。今まで地上で人類が探し求めてきたものが、まさしくこの核なのです。

 一つの国家形態を備えるためには、あくまでも個人が問題となります。そして次に、個人を中心とした家庭が問題です。統一教会で祝福を受けた家庭は、国のために祭物となることができなければなりません。この点を皆さんは、明確に知らなければなりません。

 天国か地獄かが、ここで分けられるのです。聖書をよく学び、話がうまいということで、天国と地獄が決定されるのではありません。実績と心情が問題となるのです。結局、天国と地獄の境界線は、心情の境界線、実績の境界線によって左右されるのです。

 今日、祝福を受けた家庭は、祝福を受けて生まれた子女たちが貴いといって、かばおうとしますが、そうであってはならないのです。祝福を受けた家庭の子女を祭物とすることができなければなりません。その子女を、国を愛する以上に愛してはなりません。今日のこの国のためではなく、神様が訪ねてくるその国のために犠牲にすることができなければなりません。それゆえ、神様の国を建てるために子女をも犠牲にするという覚悟で進まなければならないのです。

◆真のあすを迎えるために祭物の道、犠牲の道を行け


 そのように生き、そのように闘い進む人がいたとするならば、その人は明らかに現在においてあすを迎えることができ、あすを占めてなお余りあることでしょう。与えられた立場であすに備えて進むゆえ、未来の天国は、その人のものとなって当然です。

 今日、宗教を信じる人々が「天国へ行こう」と言いますが、天国へ何もせずに行くことができますか。まず、この地上で天国を迎えてから行かなければならないのです。地上に天国を迎えるためには、愛の法度を経ていかなければならないことを、明確に知っていなければなりません。皆さん全員が、そうなることができるように祈祷しなさいというのです。

 皆さんの家庭に愛する子女たちがたくさん生まれれば生まれるほど、神様の国をより一層愛するための十字架が増すということを感じなければなりません。その家庭に息子、娘をたくさん送るということは、担うべき十字架が多いということであり、国のために捧げるべき責任が多いということを意味します。そのような内容を知り、責任を全うする人とならなければなりません。そういう家庭にこそ、その家庭に後代を相続することのできる運勢をもった息子、娘が生まれるのです。

 皆さんが過去、現在、未来を占めるためには、皆さん自身が過去、現在、未来を通した心情的な代表者とならなければなりません。家庭がそのような心情的な代表とならなければならず、氏族がそのような心情的な代表にならなければなりません。そうなれば、その個人、家庭、氏族は、世界を指導することができるのです。

 そのような個人、家庭、氏族となるためには、いつ、いかなる時も、自分の家族、自分の氏族全体が犠牲になるとしても、神様の前に当然のこととして捧げることのできる伝統を残さなければなりません。そのようにして死んだ家庭と氏族は、死んだことにはなりません。勝利を収めて未来を自らのものとした氏族であるがゆえに、死んであの世へ行ったとしても、それは変わることはありません。あの世に行っても、中心になるのです。したがって、皆さんがこのような道をたどることなくしては国を救うことができないということを、明確に知らなければなりません。

 そして、この民族全体を団結させて、心情的一致点をもたせ、この国を今後来たるべき希望の国のために祭物として捧げなければなりません。そうして、この環境の基盤の上に、天上の因縁を結び、新しい創造の歴史を築くことのできる世界的な結実を結びたいというのが、先生の考えです。それで「明日を迎えよう」という題目でお話をしましたから、皆さん、よく覚えておいてください。

















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訓教経(下)006



文鮮明先生のみ言集

訓教経(下)



手本になろう


一九七〇年八月三十日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第三十四巻』


 世の中の万事は、より良いもののために、より価値あるもののために努力し、またそのために発展しているのを、私たちは生活の中でよく見掛けます。

◆神様と万物が接したいと思う人


 皆さん自身について見ても、より価値あるものをもつために、より価値のないものを捨てるときがあるでしょう。二つのうちどれが良いかと聞かれれば、つまり、良し悪しを見分けるときは、より価値ある内容がどちらにより多く介在されているかという問題をおいて、選択するようになるのです。

 物を選択するときも、そのようにします。人に接するときも、同じです。友人の中でも、どのような人と親しくなろうとし、またどのような人と縁を結ぼうとするのでしょうか。自分より価値があり、より善で、より高く、より広い内容をもった人に近づこうとします。また、その人がもった内容を、いかなる縁を通じてでももちたいのが、私たち人間の心です。

 このように見ると、私たち人間を造られた神様も、やはり同じだというのです。より価値あるものを中心として、神様の愛が集中し、神様の願いが集中し、神様のすべてのみ旨が集中するということは、とやかく言う必要もありません。

 こういう立場にある私たちも、より良くなり得る価値をもった人、すなわち万民が要求するより広く、深く、高い内外の内容をもった人がいるなら、その人に近づこうとするでしょうし、神様もその人に近づこうとするでしょう。そのような時、人間のために造った万物も、彼に近づかざるを得ません。このように見ると、「人間は万物の霊長だ」と言うことができるのです。

 では、全体の前に、手本になれる中心的な存在は、どれほど価値ある存在にならなければならないのでしょうか。彼は、無限に価値ある存在にならなければなりません。神様がいらっしゃるなら、神様御自身も手本となるそのような人を取って、彼と一つにならなければならないのです。ですから、その人は絶対的な価値を包括しても、残ることのできる存在にならなければならないのです。

 このように見ると、神様とも一つになれ、すべての万物と宇宙とも一つになり得る、そのような手本になる人とは、いかなる人かというのです。その真の人が願う理想的な標準と生活、そして人格を成す基準、あるいは私たち人間として願う理想的なすべての内的な要素をもったその基準が、哀れでないことは明らかです。

◆手本となる立場


 人は、誰でも悲しいことは嫌うものです。誰でも困難が自分と関係ないことを願うものです。私たちはある家庭が困難に遭うのを見れば、その家庭に同情するようになります。同情というのは、自分自身のものを彼らに与えることです。その不幸の要件を取り除くためには、周囲の助けを借りなければならないので、そのような立場は願わないのです。

 では、本当に幸福な立場とは、どのような立場でしょうか。いつも与えることができる立場です。与えるとしても、悲しみを与えるのではなく、いつも喜びを与えなければなりません。これは、皆が願うことです。

 万有の中心になる、手本になることのできる人がいるなら、その人はいかなる立場で手本になるのでしょうか。その立場は、明らかに真の立場であり、喜びの立場でしょう。またその場は、無限に幸福な立場でしょう。その幸福は、有限圏内の、限界線内での幸福ではなく、無限の立場での幸福でなければなりません。そういう価値の内容をもった人が、この地上にいなかったのです。

 神様の息子として、この地に来られたイエス様御自身はどうだったのでしょうか。もちろん、万有の手本になれる方だったのですが、悪なる世の中に処していたがゆえに、与えるべき立場でした。イエス様御自身が相手をしている世の中が哀れなので、いつも与えなければなりませんでした。与えたのちは、高かった立場が低くなります。水がなみなみとあったとしても、くめば減るのと同じです。どんなに高い立場にいるイエス様であっても、哀れな環境に接するときには、与えるのです。

 では、イエス様御自身は、どうして喜べる立場に立てなかったのでしょうか。与えたのちは、必ず困難な環境にぶつかり、喜べる内容が減少するためです。この減少したものを、どのように補充するかが問題です。もしこれを補充できなくなれば、彼は、言いようのない不幸を感じるのであり、言いようのない孤独と苦しみを感じるようになるのです。

 では、与えてからこれを補充できる、ただ一つの道とは何ですか。悲しい人を慰労してあげ、その人と一つとなり、その人を自分が助けてあげることにより、彼を悲しい立場から、より良い立場に上げてあげ、もう少し良い立場に引いてあげることです。与えたあとに、自分があげたものの補充を受けることができるなら、彼は幸福な人です。幸福は、そこから始まるのです。自分を中心として損害を受けたり、減退するのではなく、自分を中心として発展の現象が起こるようになるときは、それだけ喜びがやって来るのです。

 また、百ほどの仕事を計画したとしても、その仕事が一度に成されるのではありません。十ぐらい成され、二十ぐらい成されて、三十、四十、五十、六十、七十、八十と、このようにして、その成される可能性が高まることによって、願っていたことがますます近くなります。ですから、それを見て人々は喜びを感じるのです。

 このような点から見ると、きょうのみ言の題目のように、私たちが人生の手本となる人になり得るのかということが問題です。

◆手本になる人の人格基準


 では、手本とは何ですか。手本になれる人とは、低いものを高めてあげたり、自分自身も高まることのできる立場に立つ人です。言い換えれば、手本になれる人は、上下にも必要な人であり、左右にも必要な人であり、前後にも必要な人です。こちらにも補強してあげられ、向こうにも補強してあげられる人です。補強してあげて終わるのでなく、補強してあげてから、補充を受けられる立場です。

 手本になれるその基準とは、東洋でのみ手本になるのでなく、西洋でも手本にならなければなりません。また、地上世界だけでなく、天国でも手本にならなければなりません。一時、あるいはある環境内でのみ手本になるのではなく、全体の代わりをした立場で手本にならなければなりません。また、相手に影響を及ぼして、それにより損をするのではなく、かえって一つ受けられる人です。

 このような点から見ると、私たち人間よりも、より高い価値と連結するようにならなければなりません。木を例に挙げてみれば、木には根があって、幹があって、枝があります。太い枝は、根から多くの影響を受けるので、たくさんの枝が伸びていき、たくさんの葉が出るのです。このように太い枝は、枝の中の中心の枝として現れるように理致的なものです。

 皆さん自身が多くの人と因縁を結ぶとき、彼らが皆さんを手本として、皆さんが行うとおりに行うことができる立場に立たなければなりません。しかし、それで終わってはなりません。一時的ではなく永続的な内容をもって、自らの影響を全体の前に及ぼすことができ、自分自身も影響を受けられる立場に立たなければなりません。そのようになれば、無限に発展せざるを得ないのです。

 したがって、自分が相対している存在が高まってこそ、自分も相対的影響を受けて存在価値が高まるのです。このような立場になれば、必ず真の因縁がますます発展するようになるのです。

◆神様は皆さんが哀れな人々の慰労の対象になることを願われる


 堕落した私たち人間は、悪なる世界で悲しみの中にあることを知っています。では、み旨を中心として生きる皆さんは、悲しみをもっている人々の前に、何をもって手本にならなければならないのでしょうか。悲しみを慰労できる内容を与えずには、喜びを与えることができないのです。言い換えれば、悲しむ対象の基準が十ならば、その十の基準以上の十一、十二、あるいは二十の基準で満たしてあげれば、その悲しむ人は喜ぶようになるのです。

 では、この悲しみを取り除くための天の摂理を推進しなければならない皆さんが、一番問題視しなければならないこととは何でしょうか。皆さんが、神様とどれほど近くにあり、また神様に侍るとき、いつも喜んで侍っているかというのです。私によって神様が悲しまれるのでなく、私によって神様が喜ばなければならないのです。私が感じたどんな悲しみよりも、孤独を感じ、苦痛を感じた神様が、それを解かれるために神様自ら補充なさろうとするとき、私がその代わりに補充してさしあげることができる慰労の対象になるなら、その人は神様の前に、絶対的に必要な人ではないでしょうか。

 皆さんが悲しい人々にとって慰労の対象になるならば、それはどれほど価値あることでしょうか。したがって、天国は他の所にあるのではなく、私の心の中にあるのです。天国を所有した人は、悲しみに生きる人ではなく、喜びに生きる人です。また、有限な価値を追求して生きるのではなく、無限の価値を追求して生きるのです。

 私たちは、終わりのある生涯路程を行っていますが、終わりのない生活を追求しなければならないのです。横的な生活にあっても、それで終わるのでなく、必ず縦的な内容と関係しなければならないのです。縦的な深い内容が、随時横的環境に影響を及ぼすことによって、環境をより輝かせることのできる立場に立つようになるときに、その人は必ず、その環境において生活の中心になるのです。

 このような意味で、私たちがこの悲しみの世、サタンの世、悪の世をより良くするためには、必ず与えなければなりません。ではここで、皆さんが無限に与えることのできる補給路をもっているか、ということが問題になります。もし手本になることがあれば、その手本が一箇所にだけ適用されてはなりません。絶対的な内容をもって、すべての環境を超越して標準にならなければならないのです。それで、一致させるために努力しなければならないのです。

 このような自分になって環境を純化させ、中心存在が喜ぶようになれば、その環境に置かれている人々も、手本になる人を中心として喜ぶようになります。きのうよりもきょうが喜ばしく、きょうよりもあすが喜ばしい内容を、その中心から感じることができるなら、これは神様が愛し、神様が共にできる人間として、万民の手本になる人に違いありません。

◆内的に深く、高い生活をされたイエス様


 イエス様を見ると、イエス様の生活は単調でした。三十余年間、大工のヨセフ家庭で、助手として手伝ってきた彼の生活は、とても単調でした。外的には変化のない生活でしたが、しかし、彼の単調な生活の裏面においては、すべての環境を克服しても余りある、広く、高く、深い内容をもって生きたのです。

 それゆえ、受難の道と孤独の道も、その内的な深い生活で補うことができたのです。イエス様は自分の苦痛だけを埋めるのでなく、他人の苦痛まで埋めてあげられる内的な影響力をもったがゆえに、神様は、新しい歴史を創造するにおいて、手本になる人物として彼を立てざるを得なかったのです。

 ですから、イエス様の外的な生活は、ヨセフ家庭という制限された環境を抜け出すことができず、また、その仕事場から抜け出すことのできない生活でしたが、内的には、ヨセフ家庭を超え、イスラエル民族を超え、世界を超え、さらには天国で暮らせるほどに広く、高く、深い内容をもった生活をしたのです。

 それで神様は、イエス様を、いかなる人間よりも手本になれる人間として認めざるを得なかったのです。したがって、神様もイエス様と関係を結ばざるを得ず、イエス様を協助せざるを得ない立場に立ったのです。それによってイエス様は、誰も感じられず、誰も悟れない、深く、広く、高く、新しい世界観を中心として出発するようになったのです。

 では、イエス様がそのような立場に立つために、どのようにしたのでしょうか。日常生活において、外的な生活、すなわち横的な生活だけをしたのではなく、神様と深い関係を結ぶための縦的な生活までしたのです。誰もできない、こういう二重的な生活をしたということを皆さんは知らなければなりません。

 言い換えれば、与える生活だけしたのではなく、神様からの高くて大きい価値を永遠に補給できる基盤があったがゆえに、難しい環境、悲しい環境を耐え抜くことができたというのです。

◆手本になる人になれば


 統一教会の信徒は、教会に入って最初にみ旨に接したときは、喜びで出発しました。世の中のすべてが、私を中心として生まれたと感じたでしょう。恩恵を受ければ受けるほど、自分を中心としてすべてが復活し、自分を中心としてすべての関係が結ばれると感じたでしょう。皆さんは過去に、そのようなことを体験したことでしょう。

 しかし、その時のその基準と、今とは違います。その時に感じた感覚というのは、平面的に感じられる感覚ではなく、立体的な感覚だったのです。人に対しても、その人の悪いところを見るよりも、良いところを見る目がより開け、感じることも、悪い面を感じるよりも、良い面を感じる感覚が早くなる、そういう体験をした人がたくさんいました。

 ところが、それを基盤としてより高く、より広い内容を中心に生きていくべきなのにもかかわらず、社会生活や信仰生活において、過去の行動を習慣的に、そのまま行っています。このような鑑別機能をすべて失うようになったのは、非常に残念なことです。

 み旨に従っていく途中で、恩恵深い立場に臨むようになれば、自然に喜びを感じるようになります。他の人が見れば、理解できないくらい喜びが訪れるようになるのです。春を迎えてすべての草木が、花を咲かせ、香りを漂わせるような時があります。あるいは、秋にすべての穀物が熟し、主人の手を待っていて、それを刈り入れる喜びを十分に感じるような時があるのです。そういう時をもっていない人は、かわいそうな人です。

 神様と親しくなって、神様と一つになる価値的な立場に行けば行くほど、彼は永遠に手本になれる人なのです。その手本になれる中心が決定される日には、万有の存在が彼と一緒に和動して、彼と一緒に楽しく相応するようになるのです。そのような立場が、人間において手本になることのできる立場ではないでしょうか。そのような立場が、私の心に天国を所有したという立場ではないかというのです。皆さん自身の心がそうなってこそ、皆さんの家庭も、そのような家庭へと導くことができるのです。

◆本当に善なる人になろうとすれば


 このような点から見ると、本当に善なる人とは、どのような人でしょうか。悪が十ぐらいあれば、十ほど嫌う人は善なる人ではありません。その悪を忘れてしまって、その悪の中に宿っている善の価値を悪以上に評価できる人であってこそ、善なる人です。そうしてこそ、その悪い人を善なる立場で相対し、新しい立場に導くことができ、新しい立場で彼に幸福の要件を提示できるのです。そうすることによって、その人が私を手本にしてついてくることができるのであり、私を中心として関係を結ぶようになるのです。

 自分がその悲しい立場に入っていって、悲しみを蕩減してあげ、自らの喜びをその悲しい人に与えることのできる立場に立つようになるならば、その人は、いかなる環境においても手本になり得るのです。

 では、そのような人になるためには、どのようにしなければならないのでしょうか。平面的な習慣や観念を超越しなければなりません。

 善良な人になるためには、悪を他人のことと考えるのではなく、自らの痛みとして感じて、夜を明かして彼らのために涙で祈祷してあげ、彼らの罪のために贖 罪の祭祀を捧げる心をもって生きなければなりません。そのような人は、悪い人の本性の中心存在にならざるを得ないのです。

◆宇宙的な手本になられたイエス・キリスト


 そのような立場に立った人が、イエス・キリストです。イエス・キリストは平面的な立場で時代的な救い主であるだけでなく、歴史時代を経て過去の救い主であり、過去だけでなく、未来の救い主です。したがって、今後生まれる人間の歴史的なすべての瞬間を見ると、過去の人もこういう悲しみをもち、現在の人もこういう悲しみをもっていて、未来の人もこういう悲しみをもつだろうといって、人類の悲しみを自ら体験なさったのです。

 そのような人類のために、内的な中心と外的な中心の立場に立って彼らを理解し、彼らを同情し、彼らのすべての困難を自分の困難と感じ、涙しながら身もだえした方が、イエス・キリストだったのです。

 したがって、良い人、つまり善なる人とはどのような人でしょうか。自分を犠牲にしながら人を助けてあげ、人を許してあげ、人に困難があれば、その困難を自分の困難として思う人をいうのです。そのような人に接したいのが、私たちの心が願う道であり、私たちの心が訪ねていく道なのです。そのような手本になる人がいるなら、その人によって善は発展するのです。

 なぜ子供は親を好きなのでしょうか。親は子供がどんなに悪くても、そのままにしておくのでなく、その息子を引っ張って良い所に移してあげようとするためです。悪い子供にしておかないのです。その親の心が、悪い所にある子供よりももっと切実なので、子供は親を好むのです。このように親は、子供の前において、善なる立場です。

 これと同様に、人間が神様を絶対的な善の中心として追求して、神様と共にすべてを収拾し、すべてを決定づけようとするのは、神様が親の立場であるからです。神様は、子供である人類が悲しめば、その人類をそのままほっておくのでなく、悲しむ谷間まで下りて、その悲しみを自らの悲しみに変えて、自分が代わりに悲しもうという立場に立とうという方であるがゆえに、私たちはその方を手本とし、その方と完全に一つになって、一緒に暮らしたいのです。その方と離れたくなくて、永遠に永遠に共に生きたいのです。

◆手本になる人になろうとするなら、神様と近い立場に立ってこそ


 神様と近ければ近いほど、問題は単調です。神様と私、二人しかいないのです。けれども、それは全体の代わりができるのです。なぜなら、それは全宇宙の手本になり、千人、万人に接することのできる内容になるからです。善を踏み台として四方に関係を結べる内容があるので、私自身がそこを掘り下げて入っていけばいくほど、無限の刺激を感じることができ、無限に新しい面に接することができるのです。人間は、そこで幸福を感じることができるのです。

 今日、学者とか文学者、あるいは世界的な人物は、そういう縦的な立場、言い換えれば、人間の本性や手本になる中心の近くに行けば行くほど、立体的な感覚を感じることができるのです。その感覚を直接感じるようになれば、その内容を確実に表現できるのです。そのようにして表現されたものは、世界的な文学作品になり、世界的な学説になるのです。

 したがって、手本になれる真の立場に立つためには、神様と近い立場に立たなければならないのです。神様は、永遠の存在であり、無限の存在であるがゆえに、その真の本性とともに無限な内容をもたなければなりません。そうして、与えて終わるのでなく、千回、万回与えても、また与えることのできる心をもたなければなりません。

 皆さんが信仰生活をするにおいて、神様を尋ね求める路程において手本にできる人、すなわち「彼は手本になれる人だ」と言える人は、私が悲しみを感じるとき、その悲しみを解消してくれることができる人です。また、喜びをより永遠に残せる人です。そうしてこそ手本になるのです。神様がそうだというのです。

 皆さんが恩恵の中で感じた喜び、夢や啓示、あるいは神様を信じる人と共に喜んだそれは、一時的なものではありません。それは、一生忘れられないのです。それはなぜでしょうか。真に近いためです。真であるほど永遠です。真であるほど手本になる立場であるために、全体と共に関係を結ぶことができるのです。それゆえ、忘れたくても忘れられないのです。

 私たちが信仰生活をするのを神様が御覧になれば、私たち統一教会の信徒はともしびのような立場です。暗黒のような世の中で中心的ともしびになろうとすれば、そのともしびの光がどれほど明るいかが問題になります。一時的にともって消えるともしびでなく、日がたてばたつほど、より大きく、明るく現れることのできる存在にならなければならないのです。

 そのような存在になるためには、手本になる主体を中心として、相対的な関係を結ばなければなりません。主体と相対的関係を結んで二人が合わさって、お互いにやりとりすれば、より明るい光が放てるように、やりとりできる因縁が広ければ広いほど減退するのではなく、より価値的な光を放つ存在になるのです。

 神様は、信仰生活がたるんで後退する人を願うのでなく、ますます高まる人になることを願うのです。ですから、皆さんは内的な心情の世界、外的な生活において広く、高くあって神様の友人になり、神様が臨在なさることのできる一つの聖殿にならなければならないのです。神様は、こういう真の中心になる立場に立つようになれば、訪ねてこられるのです。

 皆さんが夫婦生活をするにおいて、夫が外的な面で手本になる人であるなら、外的な立場で幸福かもしれません。そのように外的な幸福の条件を要求することももちろんですが、内的な幸福の条件を妻に及ぼすことができなければなりません。妻も内的な面でのみ称賛を受ける妻に終わってはならず、外的な面でも称賛を受けられる妻にならなければなりません。夫婦は、お互いに手本になり得る立場を取らなければならないのです。

◆外的な生活と内的な生活をよく併用しなさい


 外的な生活は単調です。皆さんは、朝御飯を食べてから仕事をし、昼食を食べてからまた仕事をし、そして夕食を食べて寝ます。このように単調です。その次には、子供を育てることです。このように人間の外的な生活は単調ですが、その外的な生活の裏面には、広く、高く、深い複雑多端な内的な生活の一面があります。外的なすべての単調な環境を自由自在に動かし、押し進めることのできる、内的な力量をもった人でなければ、間違いなくその環境で失望し、絶望するようになるでしょう。

 外的な生活において、ある程度基盤ができたといって、それで「幸福だ」と言う夫婦は、手本になれない夫婦です。その外的な生活をより輝かせ、より幸福なものにするためには、広くて深い内的な因縁をもたなければなりません。内外が整わなければならないのです。一面だけもっていては駄目で、平面だけもっていても駄目なのです。立体的な内容をもたなければならないのです。

 私たちの一日の生活を見ると、十二時間以上、目を開けて活動します。二十四時間中に八時間程度寝るとすれば、残り十六時間は何のために生きるかというのです。

 単調な生活が習慣化していて、それが人間の生活だと考える人は、世の中に属した人にすぎないのです。その属した生活環境を開拓して、属した環境により高次的な価値の内容を与える生活ができなければなりません。そうしてこそ、悪なる世の中で善の立場を決定できるのです。外的な生活を支配する生活ができない人は、「信仰者」とは言えません。「天の人」とは言えないのです。

 イエス様の外的な生活は単調でしたが、内的には民族のため、世界人類のための生活をしました。そういう内的な人生の価値を抱いて、それを感じて、またそれを体験しながら生きたのです。イエス様が、そのような広く、深い、高い内的な生活をなさったがゆえに、歴史時代において人類の友人になれたし、人類歴史の手本になって、御自分(イエス様)に似るように数千年の歴史を感化させてきたのです。

 私がどのような話をし、どのような行動をしながら生きるかということが重要です。家庭ならば家庭で、お母さんとして子女に対する生活、妻ならば妻として夫に仕えて生きることは、みな一般化したコースを踏んでいるというのです。これが善ですか。このような私たち人間の生活は、手本にできないのです。したがって、より価値があって見習うことのできる生活は、神様と共にあるのです。

◆サタン世界の前に手本になる家庭になれ


 天の側の人は、どのように生きなければならないでしょうか。家庭において妻が夫に接するとき、平面的にだけ接してはなりません。内的な生活を基盤として接しなければなりません。夫が妻に接するのがきのうよりちょっと変わったからといって、妻も夫に冷たく接してはなりません。差があってはならないのです。より良く接してくれるなら、私はより高い内情的な刺激を感じなければならず、冷たく接するといっても、それを批判するより、その悪いところを補充してあげられる自分にならなければなりません。そのような妻は、夫に必要な妻です。夫も、やはり妻の前にそのようにできる人となってこそ、その家庭が発展できるのです。しかし、お互いに欠点を見つけて、ねたみ恨む家庭は後退するようになり、破壊するのです。すなわち、別れざるを得ないのです。

 したがって、家庭を中心として手本になれる基準は、夫婦が内的な人格を中心としてお互いに価値的な内容を認めて、足りない点を補強しながら生きていくのです。そうしてこそ、その家庭が外的なサタンの世界に手本になれるということを、皆さんは知らなければなりません。自分の夫にそのように接する妻、妻にそのように接する夫として終わるのでなく、日がたてばたつほど範囲を広めていって、立体化させなければなりません。自分の家庭の喜びを、すべての人間が必要とするということを知るようになれば、それを世界の前に繁殖し、発展させるために努力する立場に立ってこそ、神様を身代わりした善の中心、善の手本になれる人になるのです。

 このような生活をするためには、どのようにしなければならないでしょうか。自らの生活全体を神様と結びつけさせなければなりません。悪いことがあれば、それを人間の間で解決するのではなく、神様と共に解決しなさい。信仰で解決しなさいというのです。また、良いことがあれば、自分を中心として喜んではなりません。神様と共に喜ぶべきです。

 私とあなたの間に授受が始まっても、いつも、まず神様と私との間において因縁があり、動機になったと考えなければなりません。そのように、すべての問題を神様と共に関係を結び、神様と共に清算しようとする生活体制を立てていく人は、必ず発展するはずです。

◆サタンも避けていく人となろう


 人生の中には蕩減の時代があります。正常の生活や、正常でない生活において、不幸な立場もあるのです。しかし、その不幸を不幸としてとらえてはなりません。不幸の境遇にぶつかったとき、私一人でそれを解決するのではなく、神様と関係を結んで消化していかなければならないのです。

 では、私に不幸なことが起こるのはなぜでしょうか。それは、神様が蕩減の役事をしていらっしゃるからです。蕩減の役事は、民族と世界をかけてするのです。蕩減の役事をするには、善なる人が祭物にならずには蕩減できません。それが復帰の内容なのです。それゆえ善なる私自身が、不幸な立場に立ったとするなら、それは私が、万民を生かすために荷を背負ったことを知らなければなりません。私自身がこういう荷を背負うのは、神様の愛に対する当然の道理なのです。

 このように神様と共に生活して、神様と共に消化していく人がいれば、彼が接するすべてのことは神様と共に始まり、神様と共に終わりを結ぶのです。それゆえ、その人は無限に与えても残ることができ、いつでも無限な関係を結ぶことのできる主体になるのです。

 きょう一日が良かったとしても、「神様、きょうは本当にありがとうございます」と言ってはなりません。また、悲しいからといって「神様、きょうは本当に悲しかったです」と、このように言ってもいけません。良ければ良いなりに感謝し、悪ければ悪いなりに感謝しなければなりません。私自身にはマイナスになるかもしれませんが、公的な分野において、全体の前に良ければ全体のために喜ばなければなりません。私によって全体が良くなり得るなら、喜ぶべきだというのです。

 このように、善は全体に良いものを与えるのです。より貴く、より広い範囲のものを与えようとするのが善であるがゆえに、私はたとえ孤独で苦痛な立場にあったとしても感謝できなければなりません。相手の世界に善を与えるためには、そのような苦痛も感謝できなければならないのです。

 感謝できる人にはサタンが侵犯できません。サタンが侵犯したとしても逃げるのです。たとえサタンの侵犯を受けても、「全体を蕩減させるために、神様が私に試練を与えたんだなあ」と、このように考えるのです。そのような人に接すれば接するほど自分が滅びるので、サタンに「対せよ」と言っても対しないのです。しかし、これを避けていこうとすればするほど、サタンは彼についていくのです。

 神様は、本来良いものだけに対される神様であられるべきなのに、人間始祖が堕落することによって悲しい立場に変わりました。それゆえ、神様がこの人間と一つになるために、その悲しみをすべて引き受けざるを得ませんでした。悲しい表情をせずに、悲しくないという立場に立たないことには、善なる神様、喜びの神様になれません。喜びの出発ができる神様になれないのです。

 したがって神様は、今まで悲しいこの地上のために、苦労の路程を歩んでこられたのです。そうでなくて、「苦労で苦痛の道だから行けない」と考えたなら、善は出発することができなかったでしょう。しかし神様は、どんなに大変で難しくても、この道が善のために行く道であり、より光る善の価値を探すための道であるために、この道を行かれたのです。その道が死の道でも、そこで無限の幸福を探し、永遠の喜びを探していったのです。出発が喜びの出発にならなかったのですが、悲しい内容を喜びで包み、喜びで消化させて進まないことには、喜びの天国を成し遂げることができなかったのです。

 したがって、イエス様は自分の喜びや幸福のための祈祷はしなかったのです。ゲッセマネの園で祈祷する時、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ二六・三九)と言いました。父のみ旨とは何でしようか。万民の悲しみと、万民の死と苦痛を引き受けなさいというのです。イエス様が犠牲になっても、万民に幸福を提示しようとするのが父のみ旨だというのです。

 こういう父のみ旨の前において、無限に苦痛で、無限に恐ろしくて、最後の障壁にぶつかったときは絶望したいけれど、その場で絶望することなく、その絶望を超えて希望をもちなさいというのです。イエス様は、自分の行く道は滅びる道ではなく、世界のために新しい出発の峠を越えるという信念をもってその峠を越えたがゆえに、そこから新しい喜びのキリスト教歴史が出発したのです。

◆悪いものを吸収して命の要素に変えよう


 皆さんの生涯で、三分の二以上が言葉にならない悲惨な生活、言葉にならない苦痛の生活なら、その三分の二の生活をすべて切り離してしまうことができますか。そのようにはできないのです。

 私たちは堕落した子孫であるがゆえに、先祖から、罪悪に接する報いの結実として生まれました。したがって、私たちの生涯には、高低があるのです。では私たちが、低いものは捨てて、高いものだけ取ることができますか。そのようにはできません。すべてを堂々と私の運命として受け入れて、高いものに喜びがあれば、その喜びの内容を中心として、絶望に落ちた悲しみを引き上げなければなりません。そうし得る喜びの余力、希望の余力をもたなければなりません。そういう立場で信仰生活をしなければならないのが、今日、私たち人間の人生路程です。

 ここで皆さんが知るべきことは、「私は、私の生活において、愛と生命と人格の手本を立てなければなりません。私の家庭においても、社会と国家でも、そういう手本を立てなければならない」というとき、そこには良いものだけがあるのではなく、良いものよりは悪いものがよりたくさんあるのです。三分の二以上が悪いものです。良いものは現れません。新聞の社会面を見ても、良い記事よりは悪い記事が多いのです。

 それゆえ、この世を消化して善なる世界を成し遂げるという人が、このようなことに押され、追われているのです。けれども、これをのみ込んで消化し、栄養としてみなすことができなければなりません。そうして、神様の内的な善を植えて、悪の要素を肥料にするか、栄養素にするかして、発展できる動機としなければなりません。それでこそ、生命力をもつことができるのです。

 生命が育つために肥料として吸収するときは、汚いものも必要なのです。汚い肥料をまいた所に種を蒔いても、種には関係ないからです。その種が、汚い灰ならば灰、肥やしならば肥やしに根を下ろして、それを吸収して生命力をもつようになるときは、その肥料が生命体を成長させる要因になるのです。このように、皆さんにも試練と苦痛があっても、その試練と苦痛を消化させられる主体的な力量さえ備えたなら、永久に光る人格体になれるというのです。

 今日私たち統一教会も、悪なる世の中に向かっていく路程にあります。その道中には、統一教会の幸福があり、統一教会の善なる基準がありますが、その幸福と善なる基準は、先に現れません。それは必ず蕩減の道を行かなければならず、責任と使命の道を行かなければならないために、まず良いものとして現れるのではなく、悪く悲しいものとして現れるのです。

 その悲しみは教団的な悲しみですが、民族に代わり得る悲しみであり、世界に代わり得る悲しみです。その悲しみが大きく、高くて広いほど、統一教会を世界化させるための蕩減になるのです。統一教会を滅びるようにするのではありません。このように、すべてを消化することのできる主体的な力量をもって峠を越える日には、統一教会は世界的な基盤を築くことができるのです。

◆世の中の手本になるべき統一教会


 皆さんに先生が、忍耐と克服を強調する理由とは何でしょうか。耐えて越えるならば希望があるからです。しかし、耐えて越えるのに、泣きわめきながら越えるのではありません。克服というのは、難しくても、難しくない姿で耐えて越えるのです。悲しくても、悲しくない姿で耐えて越えなければならないのです。それが真の克服です。やむを得ず越えるのでなく、耐えて越えるのです。歯を食いしばって耐えて越えるのです。孤独で悲しくて苦痛であっても、喜びで消化して越えることができて初めて悪なるものも、地獄も、天国化させることができるのです。それでこそ、真の信仰者として手本になれるのです。また、この世の個人の手本になれる基盤になるのです。さらに、全体的な基盤になるだろうということを皆さんは知らなければなりません。

 皆さんの人生で、三分の二が悲しい生活だとすれば、その三分の二をどのようにしなければならないのでしょうか。神様を中心として、喜びの生活にしなければなりません。天国化させなければならないのです。天国は与えながら生きる所です。神様も、与えてこそ神様になるのです。父母は子に与えてこそ親になるのです。良いものを与えてからも、もっと良いものがあれば、それをまた与えたいのが親の心です。赤ん坊にいくら色とりどりの晴れ着を着せて、いくら良いものを食べさせたしても、それで満足するのではなく、もっと良くしてあげたいと思うのです。与えても、もっと良いものを与えたいのが親の心であり、神様の心です。したがって、皆さんの生涯において三分の二が不幸だというとき、これをどのように消化すべきかということが問題です。

 もし、神様が皆さんに賞金を下さるなら、賞金をあげるその場はどこでしょうか。万民が見る立場で賞金をあげるでしょうか。違います。もちろん、そこでもあげることができます。しかし、その反対の立場でも与えられるのです。多くの人々が「良い」と言いながらついていく、そのような立場よりは、最後の場で下さるというのです。神様に一つしかない宝物なら、一人だけにあげたいのです。すべての人が離れていっても、生き残った者、死の峠でも生き残った人にあげたいというのです。

 では、この賞金をどこでもらいますか。皆さんが、この問題を決定しなければなりません。自分に苦痛が来ても絶望してはなりません。喜びの立場で賞金をもらう人もいるでしょうし、悲しい立場で賞金をもらう人もいるでしょう。喜びを感じながら恩恵を受ける人もいるでしょうし、悲しみに陥ることにより恩恵を受ける人もいるのです。

 ある本を読んだときにも、甲という人は、無限の感銘を受けてそれを絶対的な価値だと思っても、乙という人は、何の感動も感じない可能性もあるというのです。それはなぜかといえば、感覚の方向が違うためです。読む境遇が違うために、その本がどんなに良いとしても感動しないのです。

 神様に接するのに、ある人は喜びの立場で神様に接することができ、ある人は悲しい立場で神様に接することができるのです。したがって、恩恵も様々だというのです。聖霊も、火のような聖霊、水のような聖霊、雲のような聖霊、風のような聖霊があります。

 苦痛に遭うからといって、不幸ではないのです。かえって、いくらでも幸福になれるのです。どこの誰よりも、もっと良くなれるのです。苦痛の中でも幸福を感じるならば、その人が最も幸福な人です。反面、幸福な立場で喜ぶ人は、苦痛な立場に陥っていけば、堕落しやすく落ちやすいけれど、いっそのこと下に下りていって幸福を探し出してくる人は、落ちたくても落ちることができないのです。こういう人々には、行けば行くほど幸福が訪れるのです。

 サタンは常に良い立場に入っていくので、いいとしても、それは瞬間だけです。したがって難しい立場、悲しい立場を消化させていくことのできる力量をもった生活が、信仰生活をするにおいて、恩恵深い生活、健康な生活だということを皆さんは知らなければなりません。

◆神様は宇宙の手本になる中心存在


 それゆえに、悲しいことに遭っても、その悲しみを悲しみで消化するよりも、神様と共に、喜びで消化するのを当然のことと思わなければならないのです。国家と世界のために蕩減路程を行くと考えれば、いかなる困難に遭ってもうれしくなります。世界の蕩減のために神様が私に下さった恩賜の立場だとすれば、その人は、世界と直接関係ないとしても、国家と世界的な価値の立場に入っていくのです。

 恩恵を与えなくても、恩恵を占めることのできる人にならなければなりません。事がうまくいくように恩恵を与えたにもかかわらず、その事がうまくいかなければ、かえって恩恵を失うのです。しかし、恩恵を受けられない人が、自分が恩恵を受けたと消化し、世界のために自分の命を懸けて仕事をし、神様の前に感謝するようになれば、恩恵はその人に行くようになるのです。そのような意味でイエス様は、「生きんとする者は死に、死なんとする者は生きん」と言ったのです。

 より価値ある内容を供給される立場は、笑って喜ぶ立場ではなく、緊張しなければならない立場なのです。では、緊張する立場とはいかなる立場でしょうか。その立場は、悲しみと苦痛が行き交う立場であり、すべてを結んで切る立場なのです。

 イエス様は、死んでどこに行きましたか。この地上で十字架で死んだことだけでもやるせないのに、死んで三日間地獄に行きました。それが試練です。人間は死が最高の恐怖ですが、イエス様には地獄に行くのが最高の恐怖の対象だというのです。イエス様は、三日間地獄に行って何をしましたか。地獄の苦痛を克服できる自分自身になることを問題視した、ということを皆さんは知らなければなりません。

 このような点から見ると、信仰者は悪なる世の中、あるいは悲しい世の中で、その悪と一緒に流れてはならず、その悲しみとともに流れるべきではありません。かえって、その悪を防ぎ、その悲しみを遮って、ここに喜びの条件を提示できなければなりません。そこにおいて、悪なる人が私たちを必要とするために、その環境で中心的な存在になれば手本になる人になれる、ということを皆さんが知らなければなりません。

 そのような意味で神様は、宇宙の手本になる中心存在だというのです。なぜなら、神様は万民の苦痛を嘆いて、絶望された姿で眺めていらっしゃるのではなく、その苦痛をすべて克服して、新しい希望の主人として現れることのできる方であられるので、人類の手本になるのです。

◆神様を見倣って進もう


 皆さんが信仰生活をするにおいて、自分にとって一番良いものを奪われる時もあるでしょう。しかし、それを奪われるからといって不幸なのではありません。神様が祭物を必要とされるなら、良いものを差し上げなければなりません。

 そのようにすれば、困難を困難で終えるのでなく、困難を喜びで迎えられると同時に、喜びが離れないで強固な土台になり、神様の前に残れるようになるのです。喜びの出発をするために、自分に困難な峠が来るということを皆さんは知らなければなりません。

 悪いように見えますが、良いものが実を結ぶのです。交代するのです。お互いに変わるのです。サタンが神側に行って、神様がサタン側に行くようになるというのです。それゆえ、実を結ぶというのは容易なことではないのです。

 皆さんの生活においても、結ぶ時があります。皆さんは、ある円形を描くようになるのです。何代、あるいは数十代、数百代、数千代を通して結んでいくのです。先祖が悪ければ悪いほど、結び目が小さく、多いというのです。けれども、先祖が善良ならば善良なほど、結び目が大きく、少ないのです。その結び目は、自分のためのものではなく、民族のため、国家のための祭物的な結び目だというのです。

 では、天国はどこにあるのでしょうか。「天国は私の心にある」と言いました。私の胸中に天国が入ってくるのは、容易なことではありません。天国は必ず、生活の逆境とサタン世界を倒して初めて私の心の中に入ってくるのです。それで、サタン世界を倒すために蕩減の役事が行われるのです。

 皆さんがそれを知って、み旨を中心として進むにおいて、悲しみを喜びにして消化していかなければなりません。神様が万民の手本になられたように、私たちも悲しみと悪を消化して、喜びと栄光の姿にならなければならないのです。

 また、私たちの前に現れるために、受難の道を克服してこられた神様であられるがゆえに、私たちもその神様を手本にして、そのような立場に立って信仰生活をしていかなければなりません。そうして世界に証することにより、神様の息子、娘になれるということを皆さんは知らなければなりません。


















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訓教経(下)007



文鮮明先生のみ言集

訓教経(下)



良い人々


一九七〇年九月十三日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第三十四巻』


 今までの歴史上には、数多くの人々が善を追求し、真を追求してきました。善と真を追求することは、今日の私たちで終わることではなく、今後も歴史をたどりながら永遠に続くでしょう。

◆良い世界を築くことは人間だけではできない


 私たちが探している良い所、良い社会、良い国、良い世界を考えてみるとき、それは何か分からない不安を感じさせます。ここで私たちが追求している、より高くて良い立場、私たちが探す、より良いこと、私たちが願う、より広い愛、より貴い価値を考えるとき、人間だけでは、そういう世界と社会と家庭と個人をそろえることはできないのです。そのため、私たちは日常生活でより理想的で、より絶対的な何かを追求せざるを得ないのです。

 善は現在の立場から低くなるのではなく、より高まっていく所で良いことが結ばれ、良いことが成されるのです。したがって、現在の立場を克服し、現在の環境を収拾し、現在の私たちのすべての願いや事情を高次的に率いていくことのできる方向を備えずには、より良い世界と、より良い社会、より良い家庭、より良い個人を追求することはできないのです。言い換えれば、善は私以下のことでなく、私以上のことを探していく道でのみ追求することができ、見つけられるものであるため、今日私たちの正常な生活環境を通しては、善をつくり出すことはできないのです。

 また、私たち人間自身が良いということを、家庭に適応させることができ、社会に適応させることができ、あるいは世界に適応させることができますか。今日、限界圏内に生きている私たち自身が良いというそれ自体は、あくまでも自分を中心としたものに帰結するだけです。これが、全体が良いというものとして、中心的な善良なものとして現れるためには、ここにぶつかることを、それ以上の高い次元で率いなければならないというのです。

 それゆえ、私自身が果たして良い人だ、良い人にならなければならない、良い人を望んでいるという観点で、家庭、社会、国家、世界を見るときに、自分自らは行くことができないという事実を、私たちは端的に結論づけられるのです。

 私たち人間が、どんなに固い決心をしたとしても、それは瞬間的に始まって、瞬間的に終わってしまうことが分かります。一年の始めに決心した内容を、三百六十五日を過ごしながら成就する人がどれほどいるでしょうか。どんなに固く決心したとしても、その決心は容易に乱れ消えてしまうので、追求する目的に向かって拍車をかけて進むことができないのです。したがって、私たち人間だけでは、私たちが願っている真の世界を成し遂げることはできず、真の人として無限な価値をもった存在にはなり得ず、絶対的な価値の世界へ進むことはできないというのです。

◆絶対者が必要な人間


 では、ここに必要なものとは何でしょうか。私たちは絶対者を必要とします。私よりもっと大きい方を見習うべきであり、私よりもっと高い方についていくべきであり、私よりもっと強い方を頼っていかなければならないのです。このような点から考えてみるとき、私たちが善を追求しようとするその追求欲が強ければ強いほど、それに反して、間接的な対象のような一つの絶対的な何かを追求しなければならない立場だというのです。

 したがって、願いを達成するためには私自身だけでなく、すべての人の願いの主体になり、すべての力の主体になることのできるもう一つの絶対者の価値が現れざるを得ないのです。すなわち、神様という存在を介入させざるを得ないというのです。人間は、生まれた時から自らの不足さと軟弱さを知り、また未完成から始まって未完成で終結することを知っているので、自分も知らない間に何かを信じ、願いながら進んでいます。こういう中で、信仰心が出てくるようになるのです。

 皆さんが旅立つようになるとき、その道が平坦でないと予感しながらも、自分自らその難しさを解決するという心よりも、他の何かにより、すべての困難が解決されることを願う心をもって旅立つときがあります。この心が、ただ一日の生活において、一瞬の間に起こることだとしても、これは人生行路を代表する一こまに違いありません。このようなことが私たち自らの人格を代表したものであり、軟弱な姿だということを感じるとき、これがまた信仰心の発露になり、信仰心の内容が現れるようになるのです。

 こういう観点で私たちの生活を復活させ、私たちの生涯を復活させて、善を追求するようにさせる主体的な存在が確実に存在するという事実を知り、信仰心を備えていく私自身になったとするなら、私自身が対象の立場でその主体と一つになって、主体の目的と対象の目的が一致する一点を取っていかなければならないのです。そういう人は、どんなに難しい環境であっても、その環境を克服できるのです。どんなに難しい家庭があるとしても、その主体である絶対者のこのような願いと目的があることを確実に知って、確実に悟れば悟るほど、その悟りが私の生涯路程において直接的に新しい力の源泉になるという事実を、皆さんは信仰生活を通して感じることでしょう。

 良い世界を形成するためには、良い国家と良い社会が必要で、良い国家と良い社会を形成するためには、良い個人がいなければなりません。では、自分自らその良い個人になれるでしょうか。これは不可能に近いのです。皆さんが、きょう一日はこのような良いことをするという計画を立てて、朝に希望を抱いて出発するとします。けれども夕方になってその希望を成せてうれしいという心で、きょう一日が私の生涯に輝ける一日になったと自慢して帰ってくることのできる日が、一年間に果たしてどれほどあるでしょうか。そうでない日々が、より多いということを私たちはよく知っています。

 良いことを追求していく私たちは、私自身が主体的な立場で良いことを成立させられない堕落した姿であることを自ら認めざるを得ないのです。そのような心を感じれば感じるほど、私たちの不足を補充し、私たちの未完成なものを補充できる新しい主体を決定する、このようなことが起こるようになったというのです。これを決定するために信仰心が必要であり、宗教が必要なのです。

 では、宗教が追求するものとは何ですか。宗教は「良い人」を追求してくるのです。良い人を追求し、その次には良い社会を追求するのです。神様は、甲という社会と乙という社会だけでなく、世界を形成しているすべての社会、すなわち過去、現在、未来を通して形成されているすべての社会が良くなることを望んでいらっしゃるのです。けれども、現在形成されている社会が良くならないので、神様が苦労しなければならなかったのです。

◆神様の苦痛を解消してさしあげようとするならば


 神様が、なぜ苦痛を受けなければならないのですか。良くない社会を分立し、何の関係もない立場に立つようになれば、神様が苦痛を受ける理由はないのですが、すべての良くない社会に対して歩まれる神様なので、苦痛を受けていらっしゃるのです。さらに、希望の国を追求していかなければならない立場で、数多くの国家がより良い国家になることを願っていますが、それには及ぶことのできない国家圏に対されるので、神様がより悲しまれるしかなく、より苦痛を受けるしかないのです。

 では、苦痛を受けていらっしゃる神様の心を、どのように埋めてさしあげればよいでしょうか。それは、ある個人が熱心に祈り、慰労してくれるからといって埋まるものではありません。主体的な立場で希望の天国を率いていくことのできる一つの良い国が形成されずには、神様の悲しい心を埋めてさしあげることはできないのです。

 世界に対しても同じです。神様の願う世界の基準の前に現在の世界が及ばず、その差が大きければ大きいほど、神様はより大きな苦痛を受けるのです。では、神様はいつその苦痛を解消することができるでしょうか。一個人が良い人になるからといって、神様の苦痛が解消するのではありません。神様の喜ばれる世界を形成してこそ、その苦痛を解消できるのです。

 今日、私たちが善を追求して歩み、良い人になるためには、どのようにしなければならないでしょうか。私が善なる人になるだけで終わってはいけません。神様が願われる善なる人の基準と私の基準との間に差があれば、その差による悲しみを解決しなければなりません。その次に、この人たちを通して、一つの新しい家庭と氏族と民族と国家と世界を形成することが、神様のみ旨なのです。

 しかし、そのみ旨に一致することができない現在のこの社会、そのみ旨が指向する善なる世界に一致できず、差の大きい私たち個人と家庭としては、神様のその心を埋めてさしあげることはできないのです。したがって、少数の群れでもそういう世界を形成する、象徴的な形状を立てられる条件を備えずには、第二の願い、間接的な願いも成し遂げることはできないのです。

 今まで私たちは、みな自分を中心として善を追求してきました。周辺の環境を全部忘れてしまい、ひたすら私自体だけを中心として、動機も私で、結果も私として、すべてを解決しようとしました。しかし、そのような立場で私が善なる人になったとしても、それで神様が願う、その世界に必要な私自身になることはできないのです。

 このような点から考えてみるとき、イエス・キリストは誰よりも苦心した人だといえます。それゆえ聖書のみ言にも「義人はいない、ひとりもいない」(ローマ三・一〇)とあるのです。本当にそうです。イエス様を個人的に見れば少しも欠点がなく、イスラエル民族に代わって堂々と出で立つことができました。しかし、希望の国家を探してこられた神様の前に、再び探し出そうとされる希望の国であるイスラエルと、当時のイスラエルとの間には差がありました。これにより、神様はわびしさと悲しさを感じたというのです。これが神様の悲しみでした。

 神様のその悲しみを、誰が解いてさしあげるのでしょうか。イエス様個人だけでは、その悲しみを解いてさしあげることはできません。イエス様を中心として、その土台の前に現れることのできる国家の形態を備えた基準が出てこずには、神様の喜びの対象として対することができないのです。このように考えてみるとき、イエス様は未来に対する使命を痛感すれば痛感するほど、加重された責任を負っているということを誰よりもよく御存じであったのです。

 私たちが、「良いことをしなければならない、良い行動をしなければならない、良い人にならなければならない」と言うのは、どこに目的をおいて言う言葉ですか。その目的とするところは何ですか。それは私ではありません。私がどんなに良い個人になったとしても、良い家庭の基盤を備えなければならないというのです。個人だけでは家庭に代われないのです。良い家庭を形成できる私自身になろうとするなら、横的な関係が問題になるのです。

 また良い家庭が成されたとしても、それだけでは良い社会を形成できません。良い社会を形成するためには、数多くの良い家庭を連結させなければなりません。そういう社会形態を備えるためには、個人的な家庭だけでは駄目なのです。一社会、一国家について見てみるときも同じで、世界を形成するにもやはり同じです。

 こういう観点から、今日善を追求していく信仰者の道においては、自分を中心として生きる生活になってはならないというのです。私は、主体的な立場にあるようだけれども、それはあくまでも私自身を収拾するための主体であって、目的を成し遂げていくために動く主体ではないのです。

 それゆえ宗教では、絶対順応し、絶対服従し、絶対犠牲になれと教えるのです。言い換えれば、絶対者の前での私自体は、無の立場でついていかなければならず、絶対者を主体視して対象の立場でその絶対者と和合できる姿を追求しなさいというのです。これが信仰路程なのです。

 それはなぜそうなのでしょうか。どんなに良い人だといっても、それだけではいけません。個人個人を横的に連結させ、より高い次元の価値を求めていくことが、復帰途上に処した私たち人間の運命であるためです。神様は、このような私たちの立場を知っていらっしゃるので、「人のために生きなさい」と教えてくださるのです。私自身のためにではなく、「兄弟のために、国のために生きよ」と語られるのです。したがって、イエス様は「何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。……まず神の国と神の義とを求めなさい」(マタイ六・三一、三二)と語られたのです。

◆良い人だけではなく、良い国が成されなければ


 その国とは、いかなる国でしょうか。神様を中心とした国であり、全体のための国です。全体の価値の中で、私の個体が光るのです。個体の価値の中では、全体が光を放つことはできないのです。全体の価値の中で個体が光ることのできる世界が、正に天国です。

 マタイによる福音書第二十五章のみ言に、このような話があります。「わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれた」。これに義人が答えて、「主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか」と言いました。すると、「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである」とイエス様は言われたのです(三五〜四〇節)。

 このみ言はどのような意味かといえば、私たち人間が主体を慕わしく思うほどに、その主体のためには横的に連結しなければならないということです。この話はすなわち、人間が主体を愛することは、必ず横的に連結してこそ可能だという意味です。言い換えれば、主体と対象は縦横の関係なので、縦横が円形になるためには、縦と横が同じでなければならないということです。そのような作用をしてこそ円が描かれるのです。

 私たちは、縦的な神様との関係は重要視するけれども、横的な人との関係は無視するときが多いのです。これは貴い福音であり、間違いなく真理です。ですから、神様に対する縦的な内容が、横的なカインとアベルの関係で一致することがなければ、復帰にならないのです。真理を象徴したすべての内容がここに含まれており、十字架が象徴する意味もここに含まれています。

 それゆえ、誰でもみな良い時や悲しい時、常に神様のことを考えなければなりません。縦的な基準の前には、良い時も神様を考え、難しい時も神様を考えなければならないのです。なぜそうしなければならないのでしょうか。それは、全体が神様と共に一つになるためです。したがって、先生が悲しい時、横的な環境で食口たちと共に悲しむことができる基盤が成されていなければなりません。また、うれしい時も、食口たちと共に喜ぶことのできる基盤が成されていなければならないのです。

 したがって、神様のためにするほどに人のためにしなければなりません。弟子がイエス様に直接してあげなかったにもかかわらず、「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである」と言われたイエス様のみ言の意味を知らなければなりません。

 今日、私たちがどんなに個人的に良い人になったとしても、良い人になっただけでは駄目なのです。言い換えれば、良い人それ自体だけでは、良い家庭を連結することはできないのです。また、良い家庭それ自体だけでも、良い社会を連結することはできません。良い家庭ならば良い家庭同士が連結でき、良い社会なら良い社会同士が、良い国ならば良い国同士が連結できるのですが、良い個人がすぐに良い国と連結することはできないのです。お互いに対等な立場、良い人同士、良い家庭同士ではお互いに横的に連結できます。また、良い国同士でも横的に連結できます。ここに平等、すなわち平和があります。「平和」の「平」は水平を意味します。この「平」なくしては、「和」したとしてもその和合はすぐになくなるのです。統一教会員は、このような事実を忘却してはなりません。

 私たちは、国のために犠牲にならなければなりません。犠牲になるには、どのような立場で犠牲にならなければならないでしょうか。自分を中心として犠牲になるのではなく、民族全体の願いのために犠牲になるのです。国が探し求めるものとは何でしょうか。新しい天国を探し求めるのです。それゆえ、天国を見つけ出すためには、民族が悲しみ、民族が苦痛を受け、民族が悲しむ立場で犠牲になる道以外にはありません。善なる人々が行かなければならない道は、その道しかないのです。終わりの日には、世界のために超民族的な感情をもたなければならないのです。

◆善なる人の要件


 国家を超越した心情的な因縁で、神様の願う息子、娘として神様と縦的な関係を結び、それで終わることなく、横的な関係を結ばなければならないのです。結局、天国を成し遂げられるか成し遂げられないか、絶対者のその基準が地上に顕現するかしないかが、ここにかかっています。したがって、横的基盤をどのように世界化させるかということが問題になるということを、皆さんは知らなければなりません。

 その問題を解決するためには、どのようにしなければならないでしょうか。私自身が吸収されるのではなく、吸収できなければなりません。吸収力が強い民族は、世界を吸収できる民族になるはずです。では、善なる人とはいかなる人でしょうか。良いことに吸収される人です。それだけでなく、悪いことにおいても、自分の本質をひっくり返してでも全く表に出さず、そこに吸収されるのです。しかし、吸収されても吸収したそれ自体を超越するのです。言い換えれば、その社会に吸収されたとしても、その社会の人としてとどまらないで、通り過ぎるということです。それゆえ皆さんに、「我慢しなさい、忍耐しなさい、克服しなさい」と言うのです。そういう過程をたどらずには善なる人になることはできません。

 真の心情をもった人、神様の愛を受ける人ならば、「私の愛を受けなさい」と言うことができなければなりません。そのような人とは、いかなる人でしょうか。悲しい人に対するときには、その人の心情と一致することができ、うれしい人に対するときには、喜びを同感できる人です。堕落するようになった罪のゆえに、悲しむようになるとき、その罪に捕らわれて吸収されるのではなく、私は吸収されるけれども、それに比例して反対に吸収しなければなりません。そうして罪の皮をはがしてあげ、再起させることのできる主体的な役割をしなければならないのです。

 悪は、水が流れて下りていくのと同じで、善は、流れて上がってくるのと同じです。潮水が押されて入ってきて、また押されて出ていくときの現象は、月の引力によって方向が変わることで現れるのです。方向を変えようとすれば、その方向を変えることのできる何かがなければならないのです。それゆえ神様が絶対に必要なのです。

 善なる人は、どこに行っても必要です。また悪人も必要です。では、悪人はなぜ必要なのでしょうか。善なる人に吸収されるためです。難しいときはその困難の主人になり、すべての困難を受け入れることができなければなりません。それを自分の心に全部受け入れるのですが、結局それによって主管されることなく、受け入れてもっと吸収しようとしても吸収できない境地に到達するようになるとき、反対の立場になるのです。吸収されながらも、このような基準をもった人こそ善なる人です。言い換えれば、善なる人は両面的な内容を備えていなければなりません。それゆえ、善なる人は誰でも好むのです。

 神様はどのような方ですか。神様は善であり、良い方です。良いというのは、一方的な面でだけ良いのではありません。縦的な面だけでなく、横的な面でも無限に通じなければなりません。過去の私たちの先祖も絶対的な神様を追求し、探し求めてきたがゆえに、私たち子孫も、どこの誰彼を問わず、そうでなければなりません。縦的な関係にだけ必要な神様でなく、横的にも無限の世界を超えて神様を追求してこそ、神様が喜ぶことができるのです。

 悪人も善なる人を好みます。悪人が善なる人を吸収しようとしても、善なる人には悪人に吸収される要素よりももっと多くの善の要素があるために、悪人も善の要素を吸収するのです。悪人から悪い要素が除去されて善なる要素が残るために、善なるその人によって善の復活の恵みを受けるようになるのです。したがって、善なる人とは、善を無限に供給してあげることのできる拠点になっている人です。

◆良い世界を築くことのできる人


 二人いれば、その二人の中でどちらが善なる人ですか。善を無限に補給してあげることのできる存在、あるいは本性の限界線を器に比喩するならば、その器をいっぱいに満たして、あふれるように与えることのできる主体的な存在が、善なる人です。吸収する過程で不満を表したり、あふれない立場で争うことは悪であり、必ずあふれてこそ善なのです。あふれるようになれば、どのようになりますか。吸収しようとした人を主管するようになるのです。

 ゆえに神様の作戦は、与えて奪ってくる作戦です。与えて奪ってくるには、犠牲にさせて奪ってくるのではなく、復活させて奪ってくるのです。吸収できる二つの物があるならば、吸収できる能力がより強いものは、吸収されるものに対して栄養となるものを補給してあげるのです。

 過去の文化世界も同じです。強い文化は、あまり強くない文化を吸収するのです。善なる人にあっても、より強い善なる人はあまり善良でない人を吸収するのです。ここで強いというのは何かといえば、より多く与えることができ、より補給してあげることのできる内容をもったという意味です。

 それでは、問題は何でしょうか。私たちが滅びるか滅びないか、歴史時代の審判を受けるか受けないかということです。歴史時代の基準を超えて、もっと与えることのできる内容をもったとすれば審判を受けないのです。今日、混乱の渦中にあるこの世界情勢の中で、もらって食べて暮らすならば滅びます。しかし、与えても残ることができれば、間違いなく世界を支配する日が来るでしょう。そういう私たちになるために、個人個人はどのようにしなければならないでしょうか。なおかつ世界に与えるためには、どのようにしなければならないでしょうか。これは一人ではできません。個人、家庭、氏族、民族、国家を経て与えなければならないので、国家が形成されなければならないのであり、民族が形成されなければならないのであり、氏族が形成されなければならないのであり、家庭が形成されなければならないのです。そして、君と私と関係が結ばれなければならないのです。これが問題になるのです。

 どんなに神様を愛し、どんなに神様の恵みを受けたとしても、人を愛することができなければ、結局神様の愛を受けることができないのです。人を好きになれない人は、良い世界を築ける人になれないのです。

 アベルとはどのような人ですか。どのような環境でも喜ぶ人です。それは誰が好むのでしょうか。神様がまず好み、その環境で好まなければなりません。このような内容について考えてみるとき、アダムとエバの家庭で、アベルが責任を全うできなかったということが分かるのです。

 二人がお互いに怨 讐のような感情をもち、耐えられずに対決する立場に立ったとき、いかなる人が残るでしょうか。ここでは、復 讐をするのが鉄則ではありません。その復讐の裏面に一つの条件、すなわち許すことのできる雅量があるならば、復讐は成立しません。より優れたものの前には、より劣るものが吸収されるのです。ここで、どちらが主体で、どちらが対象なのでしょうか。より優れたものが主体で、より劣るものが対象です。

 では、「良い人」とは、いかなる人でしょうか。絶対者であられる神様の前に、絶対的な基準を立てた人です。その絶対的基準には世界も含まれ、国家と民族、そして社会のすべての制度と理念が含まれるのです。そうでなければなりません。そうできる絶対的な環境を備えなければなりません。いかなる社会、いかなる制度圏内でも、私自身が与えることのできる雅量をもった存在にならなければなりません。

 それでは善なる人とは、いかなる人でしょうか。自分が生きている時代だけでなく、未来にまで永遠に与えたいと思う人が、善なる人です。今までそういう人が「聖人」という称号を受けたのです。

 ところで、何を与えるかが問題です。「人を愛せよ」と言いましたが、何を与えるのですか。お金、権力、真理を与えるのではなく、それよりもっと良い「愛」を与えるのです。その愛とは、どのような愛ですか。神様の愛です。絶対的な神様の愛を与えなければならないのです。

 人類歴史上、最後に残ることのできる人とは、どのような人でしょうか。その時代の民族のために与えたくて号泣し、自分一人の身の上を台無しにする立場に入っていっても、恨を抱かずに与えたいと思う人です。与えたいのに民族が受け入れなければ、世界のために与えなければなりません。自分の何らかの利益を願って与えるのではなく、他の人の生命の復活を願いながら与えるのです。生命の復活のためには、自らの肉身を犠牲にしながら、生命が復活した未来の世界を迎える希望によって生きるべきであり、自分の生命よりももっと愛着を感じ、自分の生命よりももっと無限の価値を感じなければなりません。

◆愛の本質


 イエス・キリストがこのように死んでいったために十字架の意義がある、ということを皆さんは知らなければなりません。イエス様は神様のみ旨を知っていたがゆえに、死んでも神様のもとへ行ったのです。神様から受けたので、人類のために与えなければなりません。与えるには、神様を通して人類に与えようとする条件を立てて、与えなければなりません。それゆえ、神様との縦的な基準が設定された以上、ここには、ある時に水平線が引かれなければならないのです。

 天地は、そのような立場で回る軌道を備えているがゆえに、縦的な垂直線に九〇度の横線を引くことのできる平面的な一時が来なければなりません。それゆえ、神様を中心とした愛の因縁を通して築かれた横的な宗教であるキリスト教が、歴史時代のすべての困難を克服し、新しい文化世界を創造し、現世、末世に平面線が引かれる時まで残っているのです。

 私たちは、不平を言ってはいけません。弁解をしてもいけません。私たちは弁解できません。父母の愛がなぜ貴いのでしょうか。これは縦的な愛だけれども、縦的な愛で終わるのではなく、横的な愛が宿るために努力するので、貴いというのです。父母の愛は、子女が誤るのではないかと心配で、生活を通して子女の道案内人になろうという内容を備えています。

 それは何でしょうか。縦的な愛は、必ず横的な愛を創造するようになっています。父母の愛もこういう原則によって、神様の愛を中心として縦横に集約されて築かれたのです。このように、縦横の要素に責任を負ったものが父母の愛であるために、自分の貴いものをそのまま息子に与えようとするのです。ただそのまま受けるようにし、横的に広げようとするのです。愛の本質とは、そのようなものです。

 愛の本質は、相対的関係で成り立つのです。主体と対象の間は、お互いにやりとりすることで円形を描くのです。主体は縦的であり、対象は横的であるがゆえに、これが九〇度の角度になって円形を描くようになります。それゆえ愛の本質は、必ず縦横の内容をもっているのです。縦横の中で何がまず出発するのでしょうか。縦がまず出発します。それゆえ、父母から流れて出てくるのです。愛の内心を分析してみると、縦横の愛の本体があるというのです。

 神様の愛は、縦的な愛です。しかし、神様の愛は縦的な愛だけ終わるのではなく、横的な内容を備えることのできる愛であるがゆえに、横的な息子、娘の前に現れるのです。その息子、娘が縦的な基準で広げるだけでなく、横的にも広げていくことによって、そこで万有の存在が縦的な環境を中心として横的な環境に広がるようになり、世界と天宙が待つのです。

 それで、この愛の心が動機になって世界を支配するとか、あるいは何かを手にしたい、何をしたいと思うようになるのです。それは皆さんが知らないうちに、縦横の愛の因縁が、自身の本質的な心の底に描かれているためです。その本質的な欲求により、皆さんの欲望が満たされるという事実を否定できないのです。

◆良い人とはすべてをあげたのちにももっとあげたいと思う人


 神様の愛は、神様の愛だけで終わることはできないのです。その愛は、必ず人間により横的に伸びていかなければなりません。これは影と同じです。影は実体の形態の代わりに、それに反応する現象として現れるのです。電気でいえば、プラスとマイナスが授け受ければ、必ず反応が生じるように、主体と対象が授け受ければ、反応する極が生じるのです。そのようなことが、違った所で、また展開するのです。

 「善なる人だ」と言うとき、その善の意味とは何でしょうか。善良だという意味です。その善良だという意味の中には、美の感情も入っているし、愛の感情も入っているし、希望の感情も入っています。愛の前に対象になることは美であるがゆえに、主体と対象の関係が決定すれば、必ず希望が描かれるのです。その希望は、作用することで成し遂げられます。希望は距離をおいて成し遂げられていくのです。希望は、必ず関係をもつようになるときに現れるので、ここには距離が生じるのです。

 それゆえ、「善良だ」と言うところには、必ず希望があります。希望がなければ善良になりません。希望がなければ息子、娘をかわいいと思わないというのです。「善良だ」と言うときには希望がかなうのです。ゆえに、善良なことは美の対象になります。それだけでなく、愛も備えているのです。良い子はかわいくもあります。そこには、必ず愛を誘発させる要素があります。したがって、対象的な価値を決定づけると同時に、希望が宿っているのです。

 愛には必ず目的があります。それゆえ、主体と対象は目的がなくてはなりません。このような観点で目的観を中心として弁証法が出てくるようになり、ここで共産主義の弁証法的唯物論が出てきたのです。

 皆さんを見てみると、神様に対しては良くしようとします。しかし、「お父様、私を愛してくださいませ」と言って、自分をもって進んでいってはなりません。自分の中で世界が光ることを願い、神様が自分の中に入って生きることを願うならば、神様はどれほど窮屈で、苦しいでしょうか。宇宙を主管する神様が、針の穴のような皆さんの心の中に入って暮らすとすれば、どれほど重苦しいかというのです。皆さんの欲望は、「神様、私の心に入ってきて私の思いどおりにしてくださいませ」と言うのです。そこには自分の意図があります。しかしイエス様は、「お父様のみ意のままになさってください」と祈祷なさいました。

 カインとアベルを、なぜ復帰しなければならないのですか。それは、横的な主体と対象のいない世の中であるために、カインとアベルを復帰しなければならないのです。そうしようとするならば、主体と対象が、お互いに授け受けなければなりません。これが原則というものです。授け受けることができなければ、横的な面が決定されないために、カインとアベルの復帰が絶対に必要なのです。愛を中心として堕落しなかったとしても、地上には必ず二人が必要なのです。

 親が間違って親の代に希望を失えば、息子の代に期待をかけるのです。親はその息子の代にも希望を成し遂げることができなければ三代目の孫の代に、三代目にも成し遂げることができなければ四代目に、四代目にも成し遂げることができなければ十代、百代を経てでもその希望がかなうことを願うのです。

 その希望を成し遂げるためには、どのようにしなければならないでしょうか。お互いが相争ってはいけません。世界を支配でき、世界を治めることができる善の主権者になるためには、相反する要因をもって、強圧的な腕力でその基準を発展させていってはならないというのです。すべての人が自動的にその基準に吸収され、和合できる主体的な権限をもった一つの国家観、または世界観をもった思想をもたなければならないのです。

◆万民の願う定着地は愛のある所


 個人主義的で利己主義的な人になってはなりません。利己主義的な目的を達成して得た自由というのは、受けるための自由でしかありません。ここには数千、数万の障壁が横たわっています。また、ここにはいかなる国家観や世界観もありません。こういう思想は、極めて危険な思想であり、滅亡する思想です。今日の自由主義思想の傾向は、滅亡する思想だというのです。

 そのような思想の中には、家庭が存在し得ず、氏族が存在し得ず、国家が存在し得ず、世界が存在し得ないのです。縦横の関係で世界を合わせることのできる立場であってこそ、国家が入っていき、社会が入っていき、家庭が入っていき、個人が入っていくことができるのです。そこから離れて出てきて、私だけが流れ者の身の上になるならば、どこでとどまりますか。万民が共通して願うことのできる定着地とは、どこにあるのでしょうか。そこは、愛のある場所です。しかし、瞬間的な愛を中心として四方性を備えていくならば、それは一代で終わってしまうのです。愛は、個人を中心として家庭、氏族、民族、国家が、天地を創造した絶対者がいれば、その絶対者と一つになって、その絶対者の愛が含まれた世界の形態で、現れなければなりません。

 その世界を分析してみれば、家庭を代表した個人があります。その本質においては、個人と家庭が間違いないのです。こういう間違いない個人と家庭が全体化して、一つの代表の形状のようになった国家形態が、理想的な国家だというのです。

 理念的に考えてみるとき、人類歴史において、個人主義思想は終末を迎えています。それゆえ以前皆さんに話したように、良い個人だけでは良い世界と連結できないのです。良い世界と連結するためには、世界的な力量をもった優秀な思想がなければなりません。神様が天地を創造なさる時に、ある構想をもって創造なさったのと同様に、再創造の役事をしなければならない私たちにあっては、神様の心情の道理を通して、世界的な構想を中心として進まなければなりません。したがって、統一理念が必要だというのです。

 今まで、人類は思想を追求してきましたが、この思想が人類に寄与できなかったことにより、この思想をあきらめなければならない時代を迎えたので、今が最後ではないかというのです。その思想を良しとして取り扱った万民が、すべてそれによって生き残れると思っていましたが、今ではあきらめてしまわざるを得ない立場に立っています。ですから、何を選択すべきなのかといえば、人本主義思想ではなく、新しい神本主義思想を選択しなければならないのです。

 今後、神本主義を中心としてこの世界が栄華を享受し、新しい文化世界の絶頂を築くことのできる、そういう思想がありますか。今後における超人類的な、超世界的基準の新しい文化を創建できる宗教がありますか。ないというのです。

 それで今日、この終末時代において、「統一思想」が絶対に必要なのです。人類の前に新しい目的観と新しい世界観を提示して、ここに対する方向はもちろん、環境まで提示しなければならない思想が正にこの「統一思想」なのです。

 では、これを提示するには、どのように提示しなければならないでしょうか。今まで数多くの為政者ならば為政者、主権者ならば主権者がしてきたように、搾取し剥奪して提示するのではなく、自分を祭物にして無限に与えられるように努めて提示しなければなりません。そうして、国境を越えて世界へ伸びていくことのできる横的な愛を拡大しなければなりません。国家を越えて、アジアを越えて、世界を越えることのできる横的な基盤が造成されれば、ここで絶対的な対象の基準が決定するので、神様の愛が現れるのです。

 皆さんが何かのために出発するというときは、必ず出発線か出発点がなければなりません。その線とは何であり、その点とは何でしょうか。線は点の総合です。ゆえに点がなければなりません。正しい点がなければならないのですが、それは何でしょうか。絶対的な主体です。主体の中でも代表的な主体になれば、その主体は全体の象徴になるのです。その主体の中心が、すなわち神様の愛です。

◆愛さずしては本然の世界へ戻ることができない


 神様の愛は、なぜ良いのですか。自分のための愛ではなく、全体のための愛であるからです。また神様の愛は、全体にすべてあげることで終わるのでなく、与えても残るのです。それゆえ、再び主体に帰ってきます。正に、このような愛でなければならないのです。神様が人間を愛するのも、その愛だけで終わるのではありません。その愛に接した人が主体の愛に完全に和合するようになるときには、相対的な人間を通して、その愛を再び送り返すのです。このように、人間は返すことのできる内容をもっているがゆえに永遠なのです。

 入力と出力、入ってくる力と出ていく力を比較してみれば、出ていく力がより小さいのです。神様がなぜ世の中に相対的な愛、すなわち主体と対象の関係を結ぶようにしたのでしょうか。神様は私たち人間に愛を下さいます。その愛は、皆さんの個体にとどまるものです。しかし、神様の愛は私たち人間を通過する間に減少します。入っていくのが入力で、再び出てくるのは出力なのですが、出力はいつも小さくなります。愛が消耗されるというのです。

 では、これをどのように補強するのでしょうか。ここには、もう一つの横的な主体と対象が必要なのです。もう一つの主体と対象が、お互いにやりとりすることで新しいものが補強され、これが横的に結ばれることに、より新しく戻ることのできる力に変わるのです。こういう力の作用が原則なのです。

 したがって、人と人との間で、なぜ愛さなければならないのでしょうか。愛さずしては、神様の愛が戻っていくことができないからです。一点も戻っていけないというのです。縦的な愛の前には、主体と対象の相対的な愛がなければなりません。縦的な愛の力が、相対的な関係にまで行くためには、新しい力を補強しなければなりません。縦的な愛は刺激的な力を補強し、プラス的な刺激を再び貯蓄する作用をするために、神様の愛がその本来の自体まで戻ることができるのです。したがって、縦横の主体と対象のために、縦的な主体と横的な主体が必要なのです。

 横的なものだけではいけません。それは流れ者と同じです。これは、どこに行っても公式として通じます。今までの公式を見ても、縦横の関係で成り立たないものがありません。主体と対象の関係を離れて成り立つ公式はないのです。これを標準にして、公式が成り立ちます。

◆世界のためにすべてを与えよ


 公式とは、外のものではありません。一つの関係を維持するために全体に適用することのできる主体的な内容をもったものがあれば、それが公式になるのです。一つの要件を全体の要件として、代わりに帰結させることができるようになるときに、それが公式として登場するというのです。原則がそうです。公式とは、中心をいいます。中心は、すなわち縦的な基準です。したがって、縦的基準は二つではありません。一つです。

 一つの家庭を見ても、その家の中心は誰ですか。年を取った方、すなわち曾祖父が生きているならば、その曾祖父が中心です。死ぬ時が近くなったといって、家族がそのおじいさんを無視するようになれば、縦的な世界を無視することと同じです。たとえもうろくしたとしても、その家庭の中心は曾祖父です。食べるものがあれば、その方にまず差し上げなければなりません。いくら父親がその国の大統領だといっても、おじいさんに先に差し上げなければなりません。なぜなら、息子は横的であるためです。

 縦的世界は二人ではありません。それゆえ、それは世界的な主義であり、世界的な思想だというのです。分立した思想ではなく、統一した思想として世界的だというのです。今まで、そのような歴史がこの世界の中で繰り広げられてきました。歴史は過去、現在、未来を中心として、より優れた思想を追っていくのです。

 では、この思想はどこで現れるでしょうか。この思想がどこに現れても、中心の立場にまで行かなければなりません。その場は世界の中心です。ゆえに、個人が中心になることもあり得ます。これは世界の中の個人です。また、家庭が中心になることもあり得るし、氏族が中心になることもあり得るし、民族が中心になることもあり得ます。世界的な民族になろうとするなら、中心にならなければなりません。そのためには、世界のために走らなければなりません。世界のために与えなければならないというのです。

 世界のために愛し、世界のために愛される所とはどこでしょうか。そこは天国です。そこはすべての個々人の心の中心であり、すべての家庭の中心であり、氏族の中心であり、民族の中心であり、国家の中心になるのです。このような基準が現れるようになるときには、世界では自動的に統一圏が繰り広げられるのです。

 世界のために、すべてを与えなければなりません。出発から与えると同時に、永遠に与えることのできる立場に立たなければならないイスラエルなのです。勝利者や、記録を出した人があれば、他の人が出てくるまでは、その人に世界のために権威を与えるのです。彼の命令に従わなければならず、また彼は絶対的な中心存在であるために、他の人は相対的な立場に立つのです。これ以上の価値をもつ前には、その場を譲歩できないのです。その立場は大きく、高く、貴いために、真理でいえばより進歩的な真理であり、価値でいえばより価値的なものです。この立場は一つです。それが中心としての立場だというのです。

 人は何のために生まれたのでしょうか。世界のために生まれました。また、神様によって生まれました。皆さんは世界のために生まれましたが、神様は主体であられるので、世界の中心である神様の愛を受けるために生まれたのです。

 では、神様の愛はどこで受けるのでしょうか。世界の中心で受けるのです。言い換えれば、イスラエルという勝利圏内で受けるのです。それゆえ、私たちはイスラエル創建を願って進むのです。そのイスラエル創建は一つの国のためのものではなく、世界のための創建だということを知らなければなりません。

 一つの国のための世界ではなく、世界のための国です。そのような立場に立たなければなりません。世界のための国ならば、まず与えなければなりません。与えたあとで受けるようになるときに、位置が定まるのです。これが授け受けする理致です。このように、私たちが国のために与えて国が受けるようになるときには戻るようになります。どこに戻るのですか。神様の国に戻るようになります。すなわち、カインとアベルの立場に戻るのです。それゆえ、国を中心として、今後世界最高の国家に対して与えなければならないのです。

 天から恵みを受けたとき、その恵みをより大きな分野で消耗しなければ、その恵みは残りません。十の価値の恵みを受けて、十一くらい消耗するようになれば、十の恵みはいつも残るのです。もう一つだけ足して与えれば、十はいつも残るようになるというのです。反対に、十ぐらい要求するのに九ぐらいしか与えることができなかったときは、一つだけでも足りなければ、いつも足りないのです。百点ならば完全であるけれども、九十九点では不完全なのです。不完全なものは、後退してから再び出発しなければなりません。

 試験を受けて九十九点を取ったなら、百点を取るためにはどのようにしなければなりませんか。再び試験を受けなければなりません。それゆえ、世界のための国になれば、世界はその国のための世界になるのです。ですから、世界のためのキリスト教にならなければなりません。今までキリスト教が「世界のために」と言いはしましたが、いまだそうできていません。いまだにできていないので、再び出発しなければならないというのです。

 それゆえ、これから祈祷したとしても、方法を変えなければなりません。神様の立場で、世界のために祈祷しなければならないのです。祈祷する前に、私が神様の右腕になったと考えてみてください。その腕で何を与えなければなりませんか。神様は世界をすべて与えたいのです。あれこれすべてを与えたいというのです。どれほど素晴らしいことでしょうか。

 では、現在の人々にだけ与えるのですか。過去に生まれ、死んでいった霊界のすべての霊人にも与えなければなりません。今は無形で存在しているけれども、彼らも過去には人として生まれたので、一度くらいは神様から受けてみることを願うはずです。ですから、神様はどれほど忙しいでしょうか。千年、万年を与えても、与え切れないのではないでしょうか。それゆえ、忠臣にはなれなくても、神様の頭の中の一つの細胞にでもなるべきではないだろうかというのです。

◆発展できる原動力


 細胞は生命体のために、つまり人体ならば人体の目的のために協助する要素を残してこそ、細胞としての作用をするといえます。そのようにできなければ滅びるのです。細胞が生成されるためには、細胞が構成されて第三細胞を形成できるように、何かを残してこそ生成されるのです。そうでなければみな飛んでいってしまいます。

 今日キリスト教では、「恩賜により、信仰により救いを受ける」と言っています。恵みによって救いを受けるのではなく、行うことによって救いを受けるのです。行いなしには恩賜が成り立ちません。恩賜と行いとは、縦横の関係です。それゆえ、二つを離しては事が成り立たないのです。二つが一つにならなければなりません。

 恵みを受けたなら、受けたほどの価値を返さなければなりません。発展の要因は、ここにあるのです。返すことができなければ発展がないのです。木の枝が伸びるのは、なぜですか。養分を与えることによって伸びるのです。発展の要因は、与えるところにあります。

 善良とは何ですか。発展させることのできる原動力です。したがって、与えなければなりません。与えるには、一番悪いものを与えるのではありません。服などを与えるのではなく、食べ残しを与えるのでもありません。生命を与えなければなりません。生命だけでなく、一つしかない愛まで与えなければなりません。これが親の愛です。それゆえ父母の心情をもって僕の体を使い、汗は地のために、涙は人類のために、血は天のために流し、愛を与えなさいというのです。そうすれば、滅びることがありません。絶対滅びないというのです。

 人間は、世界の中心の立場で愛を受け、また愛するために生まれました。その立場が正にアダム・エバの立場です。皆さんが復帰の因縁によって歩んできたのも、本然のアダム・エバの立場を見つけるためです。ですから、宇宙的な神様の愛を受けて世界を愛さなければなりません。世界のために生きなければならないというのです。一つの国だけのために生きてはいけません。世界を愛する心がなくてはならないのです。

 それゆえ、世界のために生きられる直線を引かなければなりません。ある程度直線を引けば、縦線が引かれます。この縦線さえ引かれれば、神様の愛は自動的に出てくるのです。完全な対象さえ成立すれば、完全な主体は自動的に生まれるというのです。自動的に生まれてプラスになるのです。

 電気に完全なマイナスが生まれれば、プラスが生まれます。完全なプラスが生まれるためには、完全なマイナスにならなければなりません。したがって、神様の愛が完全なプラスになり、主体的な立場に立つためには、代表的な根本がなければなりません。この根本が問題です。これが授け受けることによって完全なプラスになったときには、そこにマイナスを創造する力があるので、マイナスがつくられるのです。このようになるとき、この力さえつかむようになれば一点に集まるのです。これが一点に集まるとき、方向を備えて作用をするのです。

 したがって、縦横に授け受ける人は、必ず第三点を要求しなければなりません。第三点がなければ、愛を与えて受けることのできる環境が繰り広げられないのです。この第三点を必要とするのは正常なことです。主体と対象は、必ず第三点を通過しなければなりません。

 この第三点は、主体の目的、対象の目的のためにも存在しなければなりません。そのようになれば、より大きい核が広がるのです。このように発展するので、個人の体と心が主体になり、その主体を中心として一つの核を成せば、相対に対することのできる主体が生まれるようになります。その次に、男性と女性が一つになり、これを完全に授け受ければ、それが一つの主体になり、核になって、氏族に対することができるようになるのです。そのように発展してきます。家庭が氏族と完全に一つになれば、その氏族を中心として主体になり、民族のために進むことができるようになるのです。また、民族が国家を中心として一つになれば、世界のために進めるようになるのです。それゆえ、イスラエルの国が問題です。

 では、み旨にかなった人の基準とは、どのようなものですか。氏族的に善なる人は、民族的な時代には消えていきます。また、民族的に善なる人は、国家的な時代には消えていくのです。大韓民国の忠臣である李舜臣将軍を、「世界の公臣だ」と言うことができますか。日本の立場から見れば、李舜臣将軍は怨 讐です。韓国を愛した李舜臣将軍は、日本では怨讐だというのです。原則がそうなっているのです。

◆善なる人の基準


 血を流してお互いに勝敗を競った立場では、「怨讐」という言葉を消すことができません。神様の愛を通して授け受けることのできる立場を準備しておかなければ、怨讐はなくなりません。この怨讐をなくそうというのが宗教です。宗教の中でも神様の愛を通して、世界のために与えようとするのがキリスト教です。

 キリスト教は、今まで血を流し殉教をしてきながらも、迫害するローマ帝国のために与えた立場に立ったので、今日世界的な宗教になれたのです。もし復 讐したとか、荷物をまとめて逃亡していたなら、今日のようなキリスト教にはなり得なかったでしょう。反対を受けるその立場で、根を下ろして出てきたのです。

 こういう観点で考えてみるとき、今日の私たちは、何のために生きなければならないのでしょうか。善のために生きなければなりません。善は、神様御自身だけでは成立しません。神様と人間が合わさったとき善が展開されるのです。善の中で、最高の善とは何でしょうか。あるいは良いことの中で、最高に良いこととは何でしょうか。神様の愛です。夫婦の愛ではありません。戦うことではないのです。それゆえ、万民がすべて戦争を嫌うのです。

 皆さん個人だけが善良ではいけません。神様を愛するように人を愛さなければなりません。皆さんが先生を愛しているかどうか分かりませんが、先生を愛さなければなりません。神様を愛するように先生を愛さなければならず、先生を愛するように皆さんの間でもお互いに愛さなければならないのです。これができなくてはなりません。そこでは「私が中心だ」と言って、自分勝手にしてはなりません。すべての人が理解できる立場で、その環境がすべて敬い、中心として侍ることができなければなりません。強制的にではなく、自動的に選別されなければならないのです。

 相手を動かせば自動的に重いものは下に沈むのと同様に、重い人は中心に追い込まれるのです。回るところで重いものは動かないけれども、軽いものはよく動くので周囲で回るのです。重いものは動かないので、自然に中心に動いて入っていくのです。誰に習わなくても、そのようになるのです。ですから、自らその人を中心的な人物として侍ることができるようになるのです。そうしようと思えば、どのようにしなければならないでしょうか。すべてを与えなければなりません。これが、信仰の動機です。

 このような立場から考えてみるとき、私たちは神様の愛を中心として世界のために生まれた人々なので、世界のために生きなければなりません。

◆一生の間、世界のために生きてこそ


 天理の道を行くのですが、ある人は足を引きずって歩いていったりもします。それは歩くことですか、足を引きずることですか。それだけを見れば足を引きずっていても、それも歩くことです。昼寝をしながら歩いても歩くことです。昼寝をしながらも歩くのは、より早く行くためです。寝ていても歩くというのです。すべてが目標のためにです。食べたり寝たりすることも、行くためです。目標のためだという面で考えるときには、寝ても行くことになるというのです。

 私たちは一生の間、世界のために生きなければなりません。小さな国で何もそろえられずに狭い所で暮らすとしても、世界のために生きるべきだというのです。これは、より一層大きいものをつくるための過程であることを知らなければなりません。それはなぜでしょうか。大きい道を行くためです。私たちが今はこうしているけれども、ある程度過ごしてみなさいというのです。誰がなんと言おうと、行かなければなりません。複雑な環境を打破し、他の人が反対したとしても、先生が提示した方向へ行かなければなりません。世界のために行くには、どうやって行かなければならないでしょうか。人を脅かして奪ったり、利用して行くのではなく、人のために与えながら行かなければなりません。

 人を見て、良いとか悪いとかと言ってはなりません。高い人になるためには、低い人をよく収拾しなければならないのです。高いといって、低い人を踏んで上がって行ってはいけません。そのようにすれば、踏まれた人々がすべて上がるようになり、踏んだ人々が下に下りていくようになるのです。これが原則です。それゆえ、「ため」に歩まなければなりません。家庭のために、職場のために歩まなければなりません。職場がうまくいかないとき、会社の社長よりも会社のために生きる人がいるならば、その人がその会社の社長になることができるのです。

 信仰する人として一番怖い人とは、どのような人でしょうか。天に行く道において、「世界のためにどこの誰にもできないことを自分に命令してくれ」と言う人です。そのような人は、世界的な基盤を占めるようになるのです。数十年間、大韓民国の試練と苦痛をみな浴びて、「私が死ぬまですべての十字架を担うのだ」と言わなければなりません。世界を愛するためには、そうでなければなりません。このような受難の道を行かなければならないというのです。世界を愛したい切実な心の前には、差し迫ってくるいかなる平面的な十字架も問題にはなりません。

 平面的な十字架に対し、縦的な十字架を合わせて、天の十字架を担っていかなければなりません。神様は、私の受ける苦痛以上に十字架の苦痛を受けていらっしゃるということを考えるときに、敗者になって神様の前に親不孝者の名を残すことより、この困難を克服することにより、神様が私によってより大きな希望の起源を準備することができる最後の機会だということを感じなければなりません。そのような心を感じて十字架に対するようになるときには、その場がすなわち、幸せな立場です。このように行くことが信仰というものです。

 そのような人は、監獄に引かれて入っていっても、「それが自分には幸福を探し出すことのできる安息の場だ」と言うでしょう。この瞬間は、天国の境界線を貫いて、一つの距離を短縮させることのできる瞬間です。すべての精誠を尽くして、夜も昼も世界のために歩むことにおいて、すべての神経をとがらせ、すべての心を投入して、最高の精誠を込める立場が、正にそのような立場です。その立場は、悲しい立場ではないのです。

 怨 讐のむちが飛び込んでも、頑張って恨みを晴らそうというのです。十回先に打たれて、三回打ち返せば、サタン側では復 讐できません。誤りがないのにもかかわらず十回先に打たれたなら、十回、二十回、何百回打ち返しても、サタン側では抵抗できないというのです。これは世界のためにサタンを屈服させることのできる良い材料になり、世界のすべての悪を除去することのできる良い参考になるのです。

◆自分を主張しない人になれ


 皆さんは、打たれてみたり、死ぬ立場で苦労もして、困難を受けてみなければなりません。それが怨讐ではありません。この立場は、千倍、万倍福を受けることのできる立場です。皆さんは、歴史上の先烈が国を探すために呻吟する孤独な立場でも、忠臣の節義と気概を守って率いてきた、それ以上に克服しなければなりません。また、イエス・キリストが十字架の頂上で呻吟して祈祷した、それ以上の立場まで進まなければなりません。そのような立場でなくては、世界のために生きることのできる立場には、まだ遠いというのです。したがって、そのような道を行くには死がつきまとうのです。

 皆さんは、「いつか倒れても、怨讐を屈服させるのだ」という思いで進まなければなりません。では、皆さんは世界のために、どのようなことをしなければならないのでしょうか。自分の息子、娘のために仕事をしてはなりません。世界のために何かを残さなければならないのです。こういう人々が正に、人類が指向する善の世界に必要な人々です。難しくても弁解するなというのです。自分を持ち出すときには、どうやっても駄目なのです。信仰の本質に通じるしかありません。この原則は、間違いありません。

 先生は人を見れば、すぐに、その人が誰のために生きる人なのか分かります。出発点がどこなのか、国のために生きる人なのか、世界のために生きる人なのか、数言だけ話してみれば一遍に分かるのです。どんなに繕ってみても、先生には分かるのです。しかし、何ももっていない微賤な人でも、行けば行くほど自分自身が立ち直れない恥を感じて、表に現れないで隠れようとする人には、神様はより多く与えてくださるのです。これが原理です。「生きんとする者は死に、死なんとする者は生きん」という理致と同じです。

 先生は今まで、この国に現れようとしませんでした。どのような有能な人が「会おう」と言ってきても会わなかったのです。神様がみな会うようにしてくださるその権限をもち、自慢できる時が来ることを知っているからです。自分に従っている人を前面に押し出していく復帰路程なので、従う人々をそれ以上の立場に立て、それを見て喜ぶのです。それが父母の心です。

 先生がこの国、この民族に対して果たすべき責任を全うできなかったので、まだ大声を張り上げません。原理原則においては大声を張り上げることができますが、私自身を前面に押し出して大声を張り上げることはできないのです。

 それゆえ、私の行く道が忙しいのです。二十四時間、終始行く道が忙しいのです。どんなに疲れていても寝てはならないのです。昼寝でもしたときには、悔い改めます。寝たあとには、恥ずかしくて顔を上げられません。女性が男性の前に体をあらわにするときの心のような恥を感じる、そのような心をもって生きる人間です。

◆良いものの中で一番良いものは神様の愛


 皆さん、どんなに不足して及ばなくても、不平を言ってはいけません。それを有り難く感じなさいというのです。子孫が福を受けるのは、公平な神様であるゆえに、不足してあまり受けなかった人があれば、何百倍の利子を付けて与えてくださるからです。したがって、そのような心をもって生きる人には、良い子孫が生まれるのです。くぼみができれば、埋めなければならないのです。また、低気圧圏が形成されたならば、高気圧圏から分けてやらなければなりません。これが天理の原則なのです。それゆえ、不平を言ってはならないのです。不公平なことがないというのです。今は悪いとしても、それが沃土になって根を下ろし、良い実を結ぶように、神様は国と世界のために必要な人を子孫に送ってくださるのです。

 私たちが生まれたのは、世界のための忠臣になるためです。公式がそのようになっています。世界は永遠に残るのです。ですから、世界の友人になろうというのです。皆さんは、そういう心をもって生きなければなりません。私自身が、世界のために与えることができなければなりません。

 そうしようと思えば、自らの子女を勉強させるのも、世界に与えることのできる道を広げるためにするのです。私がみ旨を知ったのですが、その道を行くことができなければ、自分の息子、娘、または信仰の息子、娘を通してでも、その道を磨くようにすべきだというのです。このように、ありったけの精誠を尽くす人は、一生においてその限界点までは行けなかったとしても、世界において栄光の中心存在として登場するでしょう。ここには、愛の法度を通した因縁が宿っているというのです。

 父母の愛は国境を越えるのです。息子が外国に行ったからといって、故国にいるお母さんのその愛は制約を受けたりしません。お母さんは息子のために涙を流します。体はその国にあるけれども、心は外国にいる息子のために涙を流すのです。汗を流すのも、仕事をするのも、その息子のためにです。これは、愛でなくてはできないというのです。愛の心があるためです。

 では、なぜ愛が必要なのでしょうか。愛は良いことの中の中心であり、神様の愛であるゆえに必要なのです。その神様の愛は、人間を中心とした父子の関係から現れます。それで、子女のための父母の愛の因縁が起こるのです。この愛を中心とした心情の世界が、「統一思想」の基礎になるのです。

 私、個人だけが善良ではいけません。善なる人々が必要なのです。個人だけが善良でも駄目だというのです。善なる人々がいないならば、つくらなければなりません。そのためには父母の心情をもって、僕の体を使って、涙と血と汗ですべてを洗って、磨いて、片づけて生きなければなりません。善なる人々で成された善なる国家がなくては、世界で必要な善なる世界になり得ないのです。

 では、その国家と個人との距離がどれほど離れていますか。何をもってこれを一つにしますか。他のものでは一つにつくる道理がないというのです。それゆえ、心情で連結して、世界のために個人同士で好むことができ、家庭同士で好むことができなければなりません。神様の愛は中心的な愛であるがゆえに、全体の内容になるのであり、これを広げれば、全部だというのです。

 これを縮小すれば、私の個体になります。神様の愛と相手がいない立場にあるときは私一人ですが、私が世界のために、国家のために、氏族のために家庭のために立っているならば、私は世界の中心であり、国家の中心であり、氏族の中心であり、家庭の中心になるのです。このように、私一人の中心は縦的な基準から横的な基準をつくり出すために、第一横的基準、第二横的基準、第三横的基準と幅が広がるのです。復帰歴史は、それをするのです。

 数多くの私たちの先祖、ノアやアブラハムがなぜ責任を全うすることができなかったのでしょうか。みな自分だけを中心にしていたためです。イスラエル民族も、自分たちを中心として世界を料理できると思っていましたが、その反対だったのです。メシヤが来れば、自分の国のために苦労することより、もっと苦労しなければならない峠があるということを知らなかったのです。

 皆さんも、統一教会を信じるときは良いことだけと思っていたでしょうが、一つの峠をもう一度越えなければならないのです。越えたならば谷間、その谷間を経て再び上がっていかなければならないのです。これが私たちの法度です。蕩減を経て、私たちがとどまる最後の頂上に向かって上がっていかなければならないのです。その頂上とはどこでしょうか。国家です。国家の基準まで上がっていかなければならないのです。私たちは、国のためには内的な頂上に向かって越えましたが、谷間を通ってもう一度越えなければなりません。それで、国家を越えなければなりません。これを越える前には行く道がありません。私たちがこの谷間で倒れたり、「この道は嫌だ」と不平を言えば、すべて滅びるのです。

 善なる国を、どうやってつくりますか。今日まで先生は、この作戦をしているのです。皆さんはこのようなことを知って、世界のために、善なる自分をつくるために努力しなければなりません。

 何着もの服をもっていれば、その服を世界のために分けてあげたい心をもたなければなりません。また土地を買うときにも、息子、娘に相続してあげるために買うのではなく、世界のために買える心をもたなければなりません。そうすれば、滅びないというのです。

 私たちがお金を使うとき、国のために、世界のために使うようになれば、光を放つのです。顔にしわがいっぱいの老いた父母が、息子が骨折って作った服を息子のために着たとき、その姿を眺める息子の心には千年、万年忘れることができない孝行の心が爆発して出てくるのです。

 私たちが話さなくても、自ら屈服できる価値的な善なる礎を磨いていくとき、神様のみ旨は間違いなく成されるでしょう。また、動くことのない一つの完全な要がつくられて正常に発展するでしょう。皆さんは、このようなことをよく知らなければなりません。


















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訓教経(下)008



文鮮明先生のみ言集

訓教経(下)



感謝の生活


一九七〇年十月二十五日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第三十五巻』


 この世には多くの人が生きています。人は誰でも、現時点よりは良いあすを希望しつつ、より良い一日を迎えることを誓って、より価値ある内容を求めています。しかし、その価値ある内容を見いだすことができず、その内容を充足できなければ、落胆し絶望するという事実を現実の生活の中で見受けることがあります。

◆人が本来あるべき所


 それでは、人が本来行くべき所とはどこで、とどまるべき所とはどこかというと、今日私たちの願う未来の世界であるということなのです。あすの希望を中心とした生活舞台、あるいはそのような心情の基盤がつくられるところだと考えるのが、現在の人の考え方です。

 本来神様のみ旨を中心として見ると、堕落前の人類の先祖が置かれていた立場は、不幸、嘆息、怨恨、願望といった感情をもって生きる立場ではありませんでした。それは、父母の懐に抱かれて養育される立場であり、保護を受ける立場でした。

 そこにもし不幸の要因があるならば、神様は人間が不幸になる前に、その不幸に責任をもってくださるのであり、あるいはそこに落胆するような要因があるならば、神様がその内容をあらかじめ防いでくださるのです。そういう立場が本然の息子、娘の立場だということを考えると、本来アダムも不幸ではない立場にあり、エバも不幸ではない立場にあったにもかかわらず堕落したということができます。彼らの環境は不幸ではなかったのに、なぜ堕落したのかということが問題となるのです。

 今日の私たち人間を考えると、二人いれば二人の考え方が違い、十人いればその十人の考え方がそれぞれ違います。それゆえ、すべての問題において、分裂、背反、苦衷といったものが起こるのです。

 しかし二人、あるいは十人が一つの目的のために全く同じ立場で進めば、闘争もなく、分裂もあり得ないのです。

 本来、神様はアダムとエバを中心としていらっしゃるべきであり、また、アダムとエバは神様のための立場に立たなければなりません。しかし、アダムとエバが完成しなければ、神様のために存在するという立場に立てないので、アダムとエバは神様のために存在できるようになるまでの成長過程を経なければならないのです。

 この成長過程を経るにおいて、アダムとエバは現時点、すなわち現在を中心とする立場にありましたが、神様はアダムとエバの現在の立場を越えて、未来の立場まで、全体を愛する立場にあったのです。現実の立場は制限された立場であり、自分自身のための立場です。アダムとエバは相対的関係を中心として、神様が指向し願われる目的が何であるかを考えることもなく、自分だけを中心として現実的な内容を観察する立場にあったのです。

 しかし神様は、アダムとエバのように自分自身だけを中心として考える立場からではなく、彼らが生涯を終えたのちの歴史的未来を念頭において、アダムとエバを愛したのです。アダムとエバは、神様が直接現れて語りかけるという事実だけで満足していたかもしれませんが、神様はそれよりも高く、より大きい未来のことを中心として、現実において愛してこられたのです。このような事実を、アダムとエバは知らなかったのです。

 もし、アダムとエバが、神様のその愛がどれほど大きいかということを感じていたなら、彼らは堕落しようとしても堕落することができなかったはずです。しかし、彼らは神様の愛がどれほど大きいかを知らずに、現実の環境でぶつかる事情と、彼らの前にある問題をすべて解決できると感じる立場に立ったがゆえに、そこから問題が発生したということを皆さんは知らなければなりません。

◆人間が失望し絶望するようになった起源


 今日、この地に生きている人間が、自分の置かれている生活環境の中で落胆し、失望するというような、堕落した人間の悲惨な実情を多く見受けます。しかし、このような試練と苦痛が、今日の試練と苦痛として終わるのではなく、未来の基盤を開拓し、準備するために、なくてはならない重要な要素であることが分かれば、現実の生活で失望することはなく、また絶望したり自暴自棄になったりすることもないのです。

 このような環境を経ることにより、未来の自らの願いが強固なものとなり、あすの生命の価値を確固としたものとする現実の価値が、その生活圏内に宿っているということを感じる人は、どんなに困難な環境にあっても、自分のすべてを失望の淵に追いやることはないという事実を推し量ることができます。

 神様は、全体を中心としてアダムとエバを保護し、より永遠の価値を中心としてアダムとエバに接しました。このような膨大な価値ある深い内容を中心としてアダムとエバを立てたにもかかわらず、アダムとエバは、その日その日の立場で考え、感じたがゆえに問題が起きたのです。

 このような事実から察して、今日堕落した先祖の子孫として生まれた私たち人間が、失望し、絶望するといった本性の起源はどこにあるのかといえば、自分を中心にして考えることから始まったということができます。ここから、すべての問題が起こるのです。

 自分が置かれている環境が、自分の願うものとは反対の現象として現れるため、このような環境をかき分けていくために、すべての責任を負って苦闘し、闘争してはいくけれども、自分自らそれに耐えられなくなると失望し、絶望するのです。

◆宗教が行く道


 このような堕落した現実の環境においては、幸福の与件を得ようとしても得られないのは当然の理致です。それゆえ、どんなに立派で偉大な人であっても、その一生の過程を分析すると、幸福や価値的な内容を中心として生活してはいないのです。こういう観点から、真の意味での人生観をもって、感謝して生きている人がどれほどいるかという問題を考えると、そのような人は極めて少ないという事実がよく分かります。

 それはなぜかというと、未来に対する確信をもっていないためです。ですから、あすに対する希望を中心として、今日の生活において、生命力を刺激し得る原動力を補給できないのです。それゆえ堕落した今日の世界の人間は、あすの希望の世界を待たずにはいられないという立場にあることを、きちんと知らなければなりません。

 なぜならば、神様は未来を中心として人間のために成そうとされた内容があったにもかかわらず、人間がそれを受ける立場にまで到達できなかったためです。したがって私たち人間には、その立場を必ず取り戻すべき運命の道が残っているのです。堕落した世界に生きている人間が、このような運命の道を求めていくには、現実生活で苦痛と闘争の過程を経なければなりません。

 そのためには、平坦な生活をつづっていくのではなく、新しい革命を起こしていかなければならないのです。宗教の生活のすべては、革命です。新しく開いていく開拓者の路程をたどらなければ、人間が築くべき希望の世界に到達できないのです。原理のみ言でいうならば、蕩減路程を経て復帰していかなければならないということです。

 蕩減復帰路程とは純粋に、ある公式や法度に従っていく道ではありません。開拓と闘争の過程を経なくてはならないのです。その開拓とは、個人の生に関する問題の解決に限ったことではありません。それは世界的な開拓です。世界的な問題を解決するための開拓なのです。また、その闘争も個人的な闘争ではなく、世界的な闘争なのです。このような事実を、人間は知らずにいるのです。

 今日、私たち人間の生というものは、世界的な戦争の過程に立っているのであり、世界的な開拓の路程に立っているのであり、世界的な新しい革命の隊列に立っているのです。こういう事実を、私たち人間は忘れているのです。

 人類始祖が自分を中心としてあすの希望を忘れ去った立場、すなわち自分を肯定し、あすを否定するという立場で堕落したがゆえに、私たちはきょうの自分を否定し、あすを肯定する立場に立たなければならないのです。未来を肯定し、今日を否定することのできる革命の旗手とならなければ、価値のない人生となり、人生のすべての面で悲哀の仮面を脱ぐことができないのです。これは当然の理致です。

 人間が堕落しなかったのならばともかく、堕落したからには、現実を肯定し、未来を否定した人間始祖の過ちを繰り返していては、堕落圏を抜け出すことはできないのです。それゆえ私たちは、現実を否定し、未来を肯定する立場に立たなければなりません。すなわち、人類の先祖が現実を肯定し、未来を否定することにより堕落したので、現実を否定して未来を肯定するという新しい内容を私たち各自がもっていなければ、人生の正しい道を探し求めていくことはできないのです。

 すると、私たちが、現実をどれだけ否定できるかということが問題となります。その否定の限界点とはどこでしょうか。今日の宗教や堕落世界の圏内での、私たちが求める新しい未来の条件を中心とした否定かというと、その圏内での否定では、新しい未来の世界を求めていくことはできないのです。それゆえ、その圏外まで否定しなければなりません。そうしなければ、圏内の否定圏を勝利の結果としてもってくることができないという事実を皆さんは知らなければなりません。

 では、今日私たちが願う理想とはどのようなものでしょうか。現実を肯定する生活ではありません。信仰生活というのは、あくまでも現実を否定する生活です。現実を否定すると同時に、未来の肯定を強固なものとするのです。

 今日の宗教人が、現実を肯定して未来を否定する立場と、現実を否定して未来を肯定する立場の二つの立場のうち、どちらがより強くなければならないかという問題を考えると、現実を否定して未来を肯定する立場が何よりも強くなければならないということができます。そのような人だけが、未来の愛を見いだすことができるのです。自分を中心とした生活圏内における愛を中心として自分自身を求めたのでは、アダムとエバの犯した嘆かわしい堕落による苦難から抜け出すことはできないのです。これは当然の理致です。

 それゆえ宗教人は、今まで苦難と試練の道を休むことなく行っているのです。その目的は何でしょうか。現実を肯定し、未来を否定した先祖たちの過ちを再び繰り返すのではなく、現実を否定し未来を肯定することです。それが、宗教の行く道だということを知らなければなりません。

◆未来に向けた新しい価値観確立の必要性


 今日私たちは、現在と未来の間で、一日の生活を中心として心と体がひっくり返ると同時に、一日一日がひっくり返るということを知らなければなりません。皆さんの心と体がひっくり返ることにより、きょうとあすが決定されるのです。

 したがって私たちは、一日一日を過ごしていくにおいて、きょうの試練をあすまで持ち込んではならないのです。あすの新しい肯定を追求し、これをあすの新しい肯定に連結するための基盤をきょうももたなければならないということです。そうしなければ、あすという日が、私にとっての幸福の根拠地として現れることができないのです。このような境界線で生命力を維持していく道こそ、信仰者の行くべき道であるということを皆さんは知らなければなりません。

 片手は神様にすがり、片手では世の中にすがっていくのではなく、世の中を否定して、天を肯定していくのが信仰の道です。それでは、未来を肯定して現実を否定することのできる内容があるかというと、今まではありませんでした。心は価値的な方向を追求してきましたが、その追求する方向において、主体的な対象を求めようにも求められなかったのが、今までの信仰生活だったのです。

 それゆえ、ここでは自らあすの約束を確かなものとするための新しい因縁が必要であり、未来に向かう新しい価値観の確立が必要なのです。その確立した価値の内容は、現実における何よりも強く徹底した主体的な内容でなければなりません。そうでなければ、未来の世界を中心として、現実的な観念と現実的な生活舞台を否定し、克服することができないのです。

 個人の信仰路程を見ると、最初のうちは信仰生活をとても上手にします。しかし、日がたてばたつほど、その環境の範囲が広がれば広がるほど、より一層立体性を備えなければならないにもかかわらず、そうできないのです。始めは力強く出発しても、しまいには弱くなってしまうのです。これは未来観の確立がきちんとなされなかったがゆえだということを、皆さんは知らなければなりません。

◆最後の主義


 私たち個人は、百年以内に一時代を生きて、死ぬのです。けれども歴史は、永遠に続きます。歴史を連結させるために個人的な社会があるのであり、家庭的な社会、氏族的な社会、民族的な社会、国家的な社会があるのです。

 この地上には、風土が違い、伝統が違い、歴史的背景が違う様々な種類の民族が住んでいます。これらを何によって一つに結び合わせるのでしょうか。権勢や主権ではできません。世の中のどんな物質をもってしてもできません。これを結び合わせることができるたった一つの方法があるとすれば、それは何でしょうか。

 どのような人であっても、どこで暮らしたいかと尋ねれば、「故郷だ」と言うことでしょう。いくら長い間故郷を離れ、異郷で暮らした老人であったとしても、自らの故郷の山河を懐かしがるものです。自分の父母が死んで数十年がたち、父母を忘れてしまうほどの期間が過ぎたとしても、父母の墓を訪れて、昔の思い出をたどりながら、当時の生活を感じようとするのが人間の心なのです。

 このように考えると、私たちの心は果たしてどこにいることを願うのでしょうか。お金ではありません。自分の父母の家があるので、その家に行くために故郷へ行きたいのではありません。そこにいる愛する父母や兄弟、妻子に会いに行くのです。こう考えると、それは外的なことというより、内的な実証的次元のものであるということを、私たちは否定できません。

 では、この世を結び合わせることができ、一つの目的に帰結し得るものとは何でしょうか。それは愛というものです。その愛は、私たちが生きている現実の中で愛するような愛ではありません。本然の愛なのです。この愛は、どこから始まらなければなりませんか。最高の位置から始まらなければならないのです。神様は絶対者であり最高の方であられるがゆえに、その愛の出発も最高の位置からなされなければならず、その愛がとどまることのできる所も、最高の位置になければなりません。その愛は、天宙的な愛であることを皆さんは知らなければならないのです。

 私たちは、その愛をもって氏族と民族を超越することのできる、愛の化身とならなければなりません。その愛には、個人と氏族、氏族と民族、民族と国家、国家と世界、天宙、あるいは神様まで連結することができる氏族的内容があるのです。すなわちその愛は、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙、神様まで縦的な因縁を結ぶことのできる絶対的な起源であると同時に、横的に世界にまで広げて、世界人類を兄弟の因縁で結ぶことができ、歴史過程に現れたすべての否定的条件を永遠に否定できる、絶対的な愛でなければならないのです。

 したがって、愛を中心として縦的な面での個人、家庭、氏族、民族、国家、世界を超越することができるかというのが問題になります。横的な面においても、社会と文化の風土に対する思潮の変化すべてを超越できるかということが問題となるのです。これが全部可能であるならば、その主義は最後の主義に違いありません。

 縦的にも横的にもそれが可能であり、万民共通の生命を備えた現時点において、心から万民の前に勝利できる愛を備えた主義だとするならば、そしてまた、勝利して万民をして同じ感情を誘発させることのできる主義だとするならば、その主義こそ、人間世界において未来の希望を確かなものとし、未来の願いの基盤を開拓できる一つの母胎となることができるのです。

 ではその愛は、何を中心としたものでしょうか。その愛は、個人を中心としたものではありません。その愛は、家庭だけを中心としたものではなく、氏族だけを中心としたものではなく、民族だけを中心としたものではありません。また、一つの国家だけを中心としたものではありません。愛は、そのすべてを超越するのです。世界を超越して天宙を中心としたものであり、天宙だけでなく神様を中心としたものです。また、神様だけを中心としたものではなく、神様の愛を中心としたものです。

 神様の愛を世界と換えることができるかというと、換えることはできないのです。また、神様の愛を神様自体と換えることができるかというと、それもまた、できないのです。その愛を求めるために神様自体も犠牲になってきたのです。神様御自身も、神様自体にあるその愛のために犠牲になってきたという事実を考えてみると、神様とも換えることのできない根本的な内容が、愛であるということなのです。

 この愛こそが、私たちの骨髄を通ることができ、私たちの血肉を管理する根本となるのではないかというのです。これは、今日堕落した人間の情緒的な生活を通して、如実に現れている事実です。

◆縦的な愛を横的に展開するには


 それでは、縦的な愛をどのように横的に展開するのでしょうか。縦的な愛を横的に展開するためには、自分自体を意識してはなりません。このような縦横の愛を帰結させるための一つの基盤となり得る基点が、この地球上に現れたとするならば、これは私たち人類の希望となるに違いありません。

 それによって、人類が縦的な完成を迎えることができるのであり、横的な完成を迎えることができるのです。それゆえ、完成の基準の前に関係するすべてを否定し、堂々と足を踏み出すことのできる内容があるのです。

 こういう観点から考えると、現実世界において皆さん自身がもっている理念があるとすれば、その理念はどれほど高いでしょうか。それは、皆さんの一生とともに終わるものです。その理念は、どっちみち皆さんが否定すべき圏内でもった理念であるがゆえに、皆さんの一生とともに終わるのです。それはまた、自分の子孫に相続してはならないのです。私の代に清算していかなければならない理念的要件ということです。これを清算するためには、自分自ら今日の生活観念を超越しなければならないのです。

 傾いた月は再び昇り、日陰があれば日向もあるという真理を私たちは知っています。このように高低が交差する時点があることを考えると、今日の世の中は、決して幸福なだけの世界ではないということが分かります。それゆえ、現在の世の中を否定するということは、幸福な世の中を追求するためであると推考できるのです。

 私たちは、神様の愛を観念的に感じるだけでなく、この愛を現実の生活舞台に適用し、誘発していかなければなりません。そのために皆さんが考慮すべきこととは何でしょうか。神様の無限の価値と現実の一つの個体が、どのようにして関係を結ぶかということが問題です。その世界を求めていくのが復帰の道なのですが、個性真理体を超越しては連結されないのです。

 大きい所へ行くためには、小さな所から出発しなければならないのです。それは、私の言葉から始まらなければなりません。私の話す言葉が、未来の世界と関係を結ぶべきであり、私の見て感じることも未来の世界と関係を結ばなければならないのです。

 そのためには、どのようにしなければならないのでしょうか。私一人では駄目なのです。これを皆さんは知らなければなりません。深い境地の修道の道を行くとき、一人で精誠を尽くすのは、神様の対象となるためなのです。しかし、神様のみ旨を展開していくときには、一人ではできないのです。いくら修道の世界ですべてに通じ、その権限が天上世界に知られた立場にあったとしても、また、彼が神様とは縦的に関係を結んだとしても、横的に関係する相対基盤をもっていなければ縦的な基準で終わってしまうのです。

 それゆえ、神様は主体的で縦的な中心の立場にいらっしゃったとしても、地上に生きている人間のところへ来ざるを得ないのです。この地上の存在物はすべて、自分自体だけでは幸福を感じることはできません。私たち人間も、現実の中だけでは幸福を感じることはできないのです。未来に連結される現実で、幸福を感じることができるのです。

 より価値的な未来世界に包括され、吸収され得る現在において、今日の生活の価値を感じなければならないのです。そうしてこそ、未来の世界観を立てることができます。

◆偉大なる名詞「真の父母」


 堕落した世の中にある私たち人間は、中心をもつことができませんでした。堕落した位置にある人間一人では、神様に直接対することができません。それゆえ、神様に直接対することができる一人をこの地に送るというのが再臨思想、メシヤ思想です。

 メシヤはこの地に来て、その使命を一人で成すのではありません。中心となるためには、四方を備えなければならないのです。四方を備えて平等な立場で授け受けることのできる力を備えてこそ、均衡が保たれるのです。そうしなければ、その力が傾けば、均衡が保たれません。少なく与える者は上がり、たくさん与える者は下がるので、平衡が保たれなければ、それは永遠に続かないのです。

 均等になるためには、まず平衡を保つにおいて、原点となる主体が必要です。また、この中心と平衡を保つことのできる対等な価値をもった対象がなければなりません。それで、その主体と対象とを同じ位置に連結することのできる線が引かれて、初めて水平線ができるのです。したがって、ここでは相対的要因が絶対必要だということを、私たちは知らなければなりません。

 では、なぜ神様は、男性の前に女性を必要なものとされ、女性の前に男性を必要なものとされたのでしょうか。これが問題だというのです。それは、一人を立てて自ら生活できるようにするためではなく、二人を立てて彼らが完全に一つの願いを中心として神様の愛をたずさえ、未来の世界に向かって共に生きていくようにするためです。その二人が授け受けるその生活は、極めて希望的な生活です。ここに未来の生活を引き込んで、現実の生活において互いに感知し、感じながら生きていくべきなのですが、そうできる存在とは何かというと、夫婦だというのです。

 そのような家庭で、互いに手を取り合い、幸福を謳歌し、未来を約束し、現実を否定して、未来の世界に確信をもち肯定して進む夫婦がいるならば、いかなる生活環境も彼らを支配することはできないでしょう。現実の生活がどんなに困難であっても、それが未来の世界の前に支障をもたらすのではなく、困難であれば困難であるほど、未来の世界に対するビジョンを与えてくれるのです。そうなれば、いかなる現実の困難も、彼らを拘束できないというのです。

 男性と女性が共に、そのような立場に立って未来を愛し、互いに尊重し合い、未来のためという心で生活し、ここに自ら未来の価値を同伴させて、尊重視することのできる夫婦の因縁を結んだとするならば、ここから幸福の基盤ができることでしょう。

 アダムにはエバ、エバにはアダムが必要であるため、神様は、彼らを理想相対として立てられたという事実を知らなければなりません。その相手となる存在は、現実的に主体と因縁を結ばずしては、未来と連結されないのです。イエス様と聖霊を、主体と対象の立場に立てたのも、この天宙的な事情に通じるための内的事情があったためです。

 こういう観点から考えると、否定すべき現実社会を切り開いていくためには、同志がいなければならず、先生がいなければなりません。より高く上がるためには、先生がいなければならず、同志がいなければなりません。現実において、絶対的な新しいものが歴史と民族の前に投入されるためには、必ず同志として結合し、未来の希望の世界に向かって燃える心をもって進まなければなりません。そこから新しい歴史が創造されていくという事実を否定できないように、天の法度も、このような過程を通してのみ立てられるということを皆さんは知らなければなりません。

 あなた方の家庭は、家庭のことだけで終わってはなりません。皆さんの前には、家庭を中心とした氏族編成という途方もなく大きな目標が置かれています。家庭が完全に一つなってこそ、氏族の前に立つことができるのです。一つとなれなければ、氏族を忌避する立場に立つことになるのです。

 今日まで私たち人間は、これが分からなかったのです。南なら南、東なら東ですべてが解決されるものと思って、今まで苦闘してきたのです。そのようにしても駄目なのです。個人ならば個人、家庭ならば家庭が内外の内容を備えて、み旨を共にする位置に立ってこそ、神様が同伴されるのであり、また、そうすることができる内容を備えてこそ、人類を主管することができるのです。

 どうしてそのようになるのでしょうか。後孫たちが家庭的基盤を中心として、男性と女性として現れるために、男性と女性の代表的な基準が、心情を中心として家庭の前に結束する価値的な内容がなければなりません。そのように結束し、万民が共通的に欽慕することができる対象となってこそ世界を支配することができるのです。それゆえに、「真の父母」という名詞は、偉大なる名詞なのです。もちろん、真理の内容も深みがありますが、「真の父母」という言葉は偉大なる名詞であるというのです。

 ここから未来への出発が保障され、未来に対する確信と価値を保障することができるのです。同様に、現実舞台において価値を保障することができる原点があるとすれば、それはその言葉から来るのです。

◆真の父母を中心とした家庭的革命の必要性


 ここで私たちは、どのようにしなければならないのでしょうか。一つとならなければならないのです。誰を中心として一つとならなければならないのでしょうか。自分を中心として一つとなってはなりません。自分の家庭を中心として、「真の父母」を引っ張ってきて一つとなろうとしても駄目です。「真の父母」の前に、引っ張られていかなければならないというのです。引っ張られていくときに、自分だけ引っ張られていくのではなく、自分の父母なら父母、夫ならば夫、妻ならば妻まで引っ張られていかなければなりません。それだけでなく、自分の家族まで引っ張られていかなければならず、家庭にあるすべての物質まで引っ張られていかなければならないのです。そうして、一つとならなければなりません。

 歴史時代を見るとき、旧約時代は物質を中心として歩み、新約時代は愛を中心として歩んできました。イエス様は愛について話しましたが、人間たちは愛がどのようなものなのかを知らなかったというのです。

 旧約時代は、蕩減のために祭物を捧げました。祭物がなければなりませんでした。このように、祭物を捧げる路程を経てこなければならないというのです。ここでいう祭物とは何かというと、犠牲物だというのです。それゆえに、旧約時代は人間の代わりに贖 罪の祭物として万物を捧げ、物質と共に動物を祭物として捧げたのです。このような時代が、旧約時代でした。

 その次に、イエス様は一段階高めて、神様の愛を紹介しました。旧約時代にはモーセが、愛の神様を紹介することができず、権能の神様、能力の神様、審判の神様だけを紹介しました。しかし、イエス様は、愛を紹介しました。愛の神様を紹介し、愛のイエス様を紹介しましたが、当時の人間たちは受け入れませんでした。

 このような過程を通して、これまで歩んできました。ここで、私たちが知らなければならないことは、父母を中心としなければならないということです。愛は、父母なくしては現れることができません。父母から人が生まれてこそ、愛を授け受けすることができるのです。このような相対基準を備えられずには愛を成すことができないのです。

 万物は、人間のために存在するのです。歴史全体が何に帰結されるかというと、家庭の基準に帰結されるのです。これが宇宙の根本です。父母なくしては子女が生まれることはできません。父母から生まれた子女が、父母を中心として万物を主管しなければなりません。

 皆さんが、み旨を成すために生きなければならないというとき、皆さん一人一人では歩んでいくことはできません。このような内容を、すべて糾合していかなければならないのです。このように糾合したものを、ぎゅっと押さえつければ一つの点となるのです。圧縮すれば一点になるというのです。この一点が二つに分けられれば、ここから衝突が生じるのです。

 立体的に見るとき、歴史は皆さんにとって何に該当するのかといえば、それは家庭に該当するのです。家庭は、歴史的な中心基盤です。

 未来の世界の前に希望を提示するためのすべての革命の目標は、国家や世界ではないというのです。歴史過程において、国家の革命観や、世界の革命観を提示した人はいましたが、家庭の新しい基盤を準備するために、家庭の革命観を提示した主体勢力はなかったというのです。

 それでは、先生は何をしようとしているのですか。家庭の革命がある前に氏族の革命があるはずがなく、氏族の革命がある前に民族の革命があるはずがなく、民族の革命がある前に国家の革命があるはずがなく、国家の革命がある前に世界の革命はあり得ないというのです。それゆえに、個体の完成と共に家庭的な革命をしようとしているのです。

 革命は、既存のものを捨てて破綻させなければ、成し遂げることができません。過去のものを除去しなくては新しいものを成すことはできません。したがって、自分を否定しなければならず、家庭を否定しなければならず、自分の物質を否定しなければなりません。そうしなくてはならないのです。

◆家庭は宇宙の根本


 イエス様は、自分の子供を愛する前に、神様を愛せよと語られました。自分よりも神様をもっと愛せよと語られたのです。それゆえに、イエス様は「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである」(マタイ二二・三七)と語られました。

 私たち人間は生命の根がないために、根を接ぎ木しなければなりません。浮き草のごとく、風が吹けばあちらこちらに流されていってもいいのですか。根がないというのです。このみ言は、このような環境の与件を絶対に必要とする堕落した世界にとっては、福音のみ言なのです。

 それでは、神様をどのように愛するのでしょうか。楽園の宮中に立てておきますか、そうでなければ歩き回らせますか。天国中心ではなく、生活中心へとすり替えることができる道を見つけるために、これまで身もだえしてきたのです。これまで人間世界に、生活中心へとすり替えることができる、その道がなかったので、そのような道がなければなりません。これはどのような話かというと、神様の愛を中心とした、真の愛の主体がいなければならないということです。

 一つの国を中心として見るとき、国の国王を父と見るならば、民は息子の立場であり、地は万物の立場です。同様に、世界を中心として見れば、万民は息子の立場であり、この地球全体は万物の立場であり、世界を中心として来られる主は、父の立場なのです。全天宙を中心として見るときには、天宙の中心である神様は父の立場であり、神様と連結される歴史的な人間は息子であり、すべての被造世界は万物なのです。

 これを縮小させた基本単位が家庭です。ゆえに、家庭における父のもの、息子のものを、すべて神様のものとして捧げなければならないのです。誰の息子、誰のものという区別はなく、すべてを神様のものとして捧げなければならないというのです。ある人は、「物質を除いて息子、娘だけ捧げましょう」と言う人がいます。あるいは、「自分は除いて息子と物質だけ捧げましょう」と言う人もいます。そのようにしては、全体復帰が成されないのです。

 一つの国を形成するためには、主権がなければならず、民がなければならず、国土がなくてはなりません。天の国も、やはり同様です。主権を代表したものが父母であり、民を代表したものが息子、娘であり、国土を代表したものが国です。このうちの一つでも省くことはできません。これは鉄則です。

 それでは、皆さんが国を代表していくべき基盤とは何でしょうか。国の祭壇とはどこでしょうか。家庭です。したがって、家庭において愛する夫婦を中心として、子女と万物が一つとならなければなりません。それが国のものであるならば、世界のものにもなるのです。私自身や子女や万物は、私のものではなく、国のものです。それは間違いありません。ゆえに、国が要求とするときには、いつでも引き渡すことができなければなりません。そうしなくては、国の前に忠の道理を果たすことができないのです。

 国を愛するのは、国から奪うためではなく、与えるためなのです。なぜ世界のために奉仕し、犠牲とならなければならないのでしょうか。「統一思想」は、自分の国を犠牲にして世界を救おうという思想です。これは結局、犠牲ではなく、世界とすり替えることになるのです。大きなものを得るためには、小さなものを犠牲にするのが正常なのです。より価値あるものとすり替える人が、知恵のある人です。それが、世界に行くための正当な道です。人間は、より大きなものを憧憬しようとするのであって、小さなものを憧憬しないのです。より大きなものを望むのであって、小さなものを望みはしないというのです。

 あるものを否定しなさいというのは、否定するだけで終わるのではなく、より大きなものとすり替えなさいということです。この現実の生活圏内で、そのようにすることができる実際的な内容を備えなければならないのに、このような内容を備えることができなかったために、今日人間たちは堕落した世の中の汚染された環境の中で、その生涯を終わるようになっているのです。このような実状を、私たちはよく見ているのです。

◆先生の思想――天宙主義


 すべてのものは、父母と、子供と、万物の立場です。今日、この世の中を生きていく中においても、父母のあとに息子が従ってきて、息子のあとに万物が従ってきているのです。より大きなものを中心として、息子と万物が父母を擁護していくのです。永遠の世界まで、そのようにしていかなければなりません。この堕落した現実から、死の世界にまでそのように導いていかなければならないというのです。父母は息子、娘を導いていかなければなりません。それゆえ、メシヤは息子、娘を救うために導いていかなければなりません。その次には、万物を導いていかなければなりません。万物は、そのために準備されたものではないですか。子供として生まれれば、既に父母となるように準備されているのです。それゆえに、父母の周りには、息子、娘が取り巻いて立っていなければなりません。父母の周りに、息子、娘が永遠に取り巻いて座っていたいと思うその心の基盤が、この地上に現れるようになれば、平和の王国は建設されるのです。

 皆さんは、先生を中心としてその位置を離れず、そばにいたいと思い、現在の自分たちの位置を変えずについていくことができる心をもたなければなりません。すべての所有物もまた一つとなる、それで終わってしまってはなりません。自然的な環境で、天のものとして動くことができ、天のものとして和することができる基盤とならなければならないのです。

 それでは、万民の祭物はどこに行ったのでしょうか。息子の祭物はどこに行き、父母の祭物はどこに行ったのでしょうか。これまでこれらの祭物が一箇所に集まって、父母の懐に抱かれることができる、そのような時が地上にあったでしょうか。人類に対して、「愛する息子、娘よ!
 お前たちの息子、娘は私の孫であり、その孫のものは私のものである」と言うことができる私自身となっているのでしょうか。これが問題なのです。

 家庭がある前に氏族があるはずがなく、氏族がある前に民族があるはずがなく、民族がある前に国家があるはずがなく、国家がある前に世界はあり得ないというのです。それで先生は、天宙主義を唱えるのです。

 天宙主義とは何でしょうか。家庭においていえば、私が生活している家庭に、天下をぎっしり埋め尽くしても余りあるほどの金の宝物があるとしても、そこに酔いしれて生きるのではなく、それを忘れ、常に神様の愛に酔いしれて生きる、そのような家庭です。息子のものは父母のものであり、父母のものは神様のものとして、そっくりそのまま連結させられなければなりません。

 私たちが行く原理の道は、神様の前に物質をまず立たせていく道です。神様は被造世界を創造される時、万物を最初に創造されました。万物が最初に現れ、その次に息子が現れたのです。ゆえに、父の前に進んでいこうとすれば、一番前に万物を立て、その次に息子を立てておいて行かなければなりません。そうしたのちに、父が私たちを呼ばれるのです。

 神様の救援摂理の目的は、万物を取り戻すことではなく、息子を取り戻すことです。息子さえ取り戻せれば、万物はそこに自然と交わるようになっているのです。また、父母さえ取り戻せれば、息子は生まれるようになっているのです。それゆえに、人類の父母を取り戻してくるのが復帰歴史です。皆さんはこれを知らなければなりません。

◆神様の前に感謝を捧げることができる人


 それでは、本当の意味で神様の前に感謝を捧げることができる人とは、どのような人でしょうか。
 自分一人で神様の命令を受けていこうとする人は、どんなにやっても駄目です。そのようにしては完成の位置に行けないのです。甲斐ある位置ではないのです。どんなに自由世界と天地が記憶する恩賜の位置に立ったとしても、そのようにしては駄目だというのです。まず自分の息子、娘と一つとならなければなりません。自分が所有しているすべての物質と一つとならなければならないのです。

 今後、家庭を中心として相続させ、家庭を中心として入籍させなければならない時代が来るのです。私たちにはまだ入籍する国がないので、入籍ができないのです。そうすることができる国がないというのです。このような運命に処している私たちは、ジプシーの群れであり、流浪の群れと同じ身の上であるということを、皆さんは知らなければなりません。

 それゆえに私たちは、どのようにしても一つの土台をつかみ、一つの主権を立てなければなりません。数多くの苦難の圏内で、一つの甲斐ある価値を中心として、世界の民族を復帰させることができる主体性をもった群れとならなければならないのです。

 皆さんは、今後入籍時期があるということを知らなければなりません。祝福を受けることは、入籍することではありません。これは、象徴的な入籍にしかならないのです。ゆえに、私たちは入籍することができる国を探し求めていかなければならないのです。その国は、どのような国でしょうか。
 主権は父母を身代わりし、民は息子を身代わりし、国土は物質を身代わりし、三位一体を成す国です。国家を形成するためには、主権がなければならず、民がなければならず、国土がなければなりません。宗教も同様です。

 今日、皆さんにおいては、私のものか、父のものかという、この関係をどのように展開していくのかが問題です。これが今日、私たちが生活しながら境界線にぶつかる、最も大きな問題です。

 一つの家庭は、一つの国を成すところにおける細胞と同じです。甲という人が、個人としてもつべき要件をすべてもっているのと同様に、一つの家庭は、一つの国家を成すことができる要件をすべて備えているのです。そのような目的をもって、先生は家庭を祝福してあげるのです。

 どのように感謝する生活をすべきなのか

 ここにおいて問題となるのは、皆さんが感謝する生活をするかどうかということです。しているならば、どのように感謝しているのでしょうか。子供の多い人を見れば、その人は苦労が多いというでしょうが、一面では子供がいない人が感じることのできない、そのような幸福を感じるということを知らなければなりません。子供を育ててみた人は、それが分かるはずです。子供を育ててみた人と、子供を育ててみることができなかった人を置いてみるとき、子供を育ててみた人は、子供がどんなに込み入り、騒々しかったとしても人生の生き甲斐を感じるのですが、子供のいない人は、そのようなことを感じることができないのです。

 子供たちによって人生の希望を感じるのです。その処している環境は複雑であるとしても、不幸なことではありません。そこには、あすへの希望が接ぎ木されているというのです。人がもてない息子、娘が多ければ多いほど、各分野で四方性を備え、新しい希望をもつことができるがゆえに、自ら進んで困難な環境を克服することができるというのです。

 このようなことを見るとき、感謝する生活をどのようにするのかということが問題となるのです。皆さんは、常に物質に対しています。ところで人々は、その物質をもって自分の息子、娘にたくさん食べさせようという考えをもっています。しかし、物質をもって国を生かそう、世界を食べさせて生かそうとしなければならないのです。物質に対したとき、その物質が少ないとしても、世界のために与えようと精誠を込める人と、その物質にしがみついて自分の息子、娘のために残してあげようと極端に惜しむ人がいるとすれば、神様が御覧になるとき、どのように思われるでしょうか。

 どんなに小さな物質であったとしても、神様のために精誠を込めたものであるならば、それで世界を掲げて入っていくことができるのです。皆さんは、これを知らなければなりません。もっているものが百ウォンしかない人が、その百ウォンに神様の愛を掲げて入っていくようになるときには、その百ウォンは全体を代表し、その人の人格を代表するということを知らなければなりません。

 一寸の土地であっても、これを「自分の財産である」と言うことはできません。すべては、神様からもらったものだというのです。神様からもらったので、再び戻さなければならないというのです。そのようにするとき、歴史は熟していくのです。そのように受け取ったので、そのように与える人とならなければなりません。そのような人々の世界とならなければ、この地は天国とはなり得ません。

 一日二十四時間の生活圏内で、私が見聞きしているすべてのことは、何のためでしょうか。神様のために見たり聞いたりしなければならないのです。同様に、感じることも、神様のために感じなければなりません。私たちは地上で生活していますが、天上世界の生活と連結させて生活しなければなりません。そのような生活ができない人は、天上世界を体得することができないのではないでしょうか。

◆感謝する生活をすべき私たち


 皆さんが一つの物をあげたりもらったりするときは、世界の物としてあげたりもらったりしなければなりません。このような事実を、皆さんの生活の中でどれだけ感じ、体得して生活しているのかというのです。

 皆さんは、誰のために与え、誰のために受け取るのでしょうか。神様のために与えなければならず、神様のために受け取らなければならないのです。神様のためにもらったので、神様のために与えなければならないのです。神様のために与えたので、自分のためにもらおうとしては駄目なのです。

 皆さんが神様を中心として誰かに一つの物をあげたならば、皆さんを愛される神様は皆さんに、それのみを与えたいと思うのでしょうか、でなければ、それよりももっと大きな物を与えたいと思い、心を痛める境地で死んでも、恥ずかしいと感じる心をもたれるのでしょうか。これが問題となるのです。父母は与えて誇るのではなくて、与えながらも、かえって恥ずかしいと思うのです。

 父母は、子供に与えても他の人と同じように着せることができず、もっと与えたくても与えることができないことを恥ずかしく、恨めしく思うというのです。息子が泣くのを見れば、自然に涙を流す父母の心情があるということを、私たちは感じなければならないのです。それは公的なものです。そのような心情をもった父母から生まれた息子は、立派な息子になるはずです。

 私が与えても恥ずかしがる心の姿勢、もらえば恥ずかしくおそれ多くて、どうしたらいいのか分からないという心の姿勢を常にもって生きる人が、感謝の生活をする人です。このような人を通して新しい歴史が展開するのであり、このような内容を通して天国が成し遂げられるということを、皆さんははっきりと知らなければなりません。

 それゆえに皆さんは、自分が処している位置で、涙を流しつつ感謝しなければなりません。あまりに足りない自分に望みもしなかった物を整えてくださった神様に対して、感謝しなければなりません。恥ずかしさを感じながらもらったので、与えながらも恥ずかしさを感じることができる心の姿勢をもつ人は、絶対に滅びることはありません。そのような人は、感謝する生活をせざるを得ないということを、皆さんは知らなければなりません。

◆私たちが立てるべき伝統――感謝の生活


 もし、アダムとエバが「取って食べてはならない」という神様のみ言を聞いたとき、このみ言を感謝して受け、あまりにも高く尊いお方が「恥ずかしい我々に、このようなみ言を下さるとは」と言って、おそれ多い心で頭を垂れ、自分たちは慎重に行動しようという心をもって生活していたとするならば、堕落はしなかったはずです。

 皆さんは、神様の愛を中心として愛を与えても恥ずかしいと思う心でお互いを尊重し、愛を与えても恥ずかしさを感じることのできる愛の主人公とならなければなりません。このような人たちが生活する家庭が、幸福でないはずがありません。これが今日、公的、私的な問題において、私的な問題を解決し、公的な基盤に連結させることができるたった一つの道であるということを、皆さんははっきりと知らなければなりません。

 このような時代に生きる人は、間違いなく幸福を享受するはずです。時が問題であり、その期間が問題であるだけであって、そのような人は、自分の生活圏内で神様のみ業を受け継いで生きる人なのです。これを知って、皆さん自身の責任が大きいということを考えなくてはなりません。

 歴史過程には立派な人々がたくさんいましたが、与えても足りないことを感じ、もらうときは有り難く受け取る人がいなかったのです。その格好はどうであっても、感謝してもらい、有り難くもらう人のみが神様を愛することができるということを皆さんは知らなければなりません。

 将来、私たちは何を誇るのでしょうか。神様が下さるものをいつでも感謝して受け取り、いつでも有り難くもらえることが私たちの誇りであり、また、有り難く与えられる心をもったということが私たちの誇りです。このような伝統を立てていく皆さんであるならば、その伝統は、世界の歴史とともに切れることがなく、永遠であることでしょう。

 そのように生活する人のみが、神様に感謝する生活をなす人です。私たちが世界に残ることができる道は、すべてのことに感謝する生活をする道だけであるということを、皆さんははっきりと知らなければなりません。

 生死の問題を中心として堕落したことが起源となり、このような曲折の道をつづってきたのですから、これを越えていくためには、現実を否定し、未来を肯定しなければなりません。現実において未来を肯定する心を受け継ぐためには、感謝する思いで、「すべてを与えられる」という心をもたなくてはなりません。このような心がなくてはならないというのです。これを知って実践していく人は、間違いなく神様の息子、娘となれるはずです。

















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訓教経(下)009



文鮮明先生のみ言集

訓教経(下)



真を探して


一九七〇年十二月十三日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第三十六巻』


 人々は、しばしば自分を中心として考えます。誰でも自分は善であり、真実だと認める立場で考えて行動しようとするのを、私たちは日常生活で多く感じることができます。

◆良いことと関係を結ぼうとする人間


 良いことがあれば自分が率先しようとし、うれしいことがあってもそのようにします。あるいは、ある無限の価値の内容があるというときも、自分とまず因縁を結ぼうとするのが私たち人間の性稟です。ここで、果たしてその好むことを所有できる私自身になっているかと反問してみるとき、誰もそうだと答えられないことを私たちは発見するようになります。

 どんなに良い環境があるとしても、その良い環境を称賛する前に、まずその環境が自分とどれだけ関係を結んでいるかを考えなければなりません。私たちは、常にその環境が自分と因縁をもち、自分とともに結果が現れることを願うのです。その環境が良ければ良いほど、永遠であれば永遠であるほど自分と因縁を結びたいと願うのです。このように私たち人間は、自分個人を中心として成されることを願うというのです。

 このように見るとき、私たち自身がどうして自らこのような立場に立つようになったのでしょうか。考えもせず、きまり悪さも感じず、批判をする前に自らそのように堂々と出ていって関係を結ぼうとする原因が、どこにあるのでしょうか。これは本来人間が、そのような立場にいなければならないことを、その心が知っているためです。

 世の中に一つしかない貴いものがあるならば、自分がそれと関係を結ぶことを願うのです。一万人ならば一万人すべてがそれと関係を結びたがり、人類がいれば人類全体がその一つしかない貴いものと、共に関係を結ぶことを願うのが私たち人間の本性だというのです。

 では、すべての人間がその一つを懐かしがり、その一つの価値に集約しようとする心の土台をもったとするならば、その一つに対して闘争の行路を経なければならないでしょう。

 このような私たちの生活圏を冷静に直視してみるとき、この無限の価値のものをもとうとするなら、数千、数万の王と、あるいは人類全体と闘争して勝利しなければならないという問題が生じます。今日、私たちが最高の価値あるその一つと関係を結ぼうとする心の土台、本性それ自体が矛盾しているのではないかということを考えるようになります。

◆価値あるものを万民がどのように共有するかが問題


 万民がそのような価値あるものを共にもつことができるならば、いかなる内容をもってそれと連結することができますか。それと関係を結んで、無限の私の所有物として、無限の私との因縁を称賛するものとして残すことができますか。それだけでなく、それを私だけのものでなく万民のものとして帰することができる、より価値ある内容を刺激することができる環境圏を、どのようにもつかということが問題です。

 今日、私を中心とした欲望の基準と、絶対的な価値の善なることを中心として、万民が喜びながらもつことを願う基準とは、その方向が違い、立場が違います。それゆえ私たちは、この中のどれか一つを糾明しなければならない立場に置かれています。

 誰でも無限に価値あるものをもちたがりますが、その心は、私自身がそのようになることを願ってもつ心ではなく、万民が本性的にもってきた心に違いありません。その心で探していくその価値ある道、価値ある内容に対するにおいて、私たちが生きている現在の環境と、それに対することができる環境との間には差があるのです。

 良いことも私を中心として始まり、終わりを結び、うれしいことも私を中心として始まり、終わりを結ぼうとするので、この宇宙に貴く真実で価値ある内容があるならば、ここに私のほかに誰かが、共に参与することを否定するはずです。それなら、今日私たち各自の心が要求する私を中心として、全体の価値を追求して因縁を結ぼうとすること自体が矛盾だと結論づけるしかないのです。

 では、これを普遍化させて、一般的な価値の内容で高らかに称賛できることとは何でしょうか。いかなる立場でも、この内容を決定せずには解決方案がないのです。もし、この地上に生きている堕落した人間が、自分の生理と生態を中心とした姿でその価値を追求するならば、その人は歴史上にない最高の矛盾した環境に突入するでしょう。

 では、万民が共に彼のように無限なる価値のものを私のものとして、その価値の基準を相続しようとすれば何が必要ですか。現在の私たち自身を中心として、こういう因縁を通じて最高の絶対的な価値のものは一つしかないので、この一つしかない価値のものの前に私が連結されるとき、相反することのない全体の価値であると同時に、個体の価値として称賛を受けることができるのです。では、その道がなければならないとすれば、その道はいったい何でしょうか。これが問題になるというのです。

 こういうことを考えるとき、今日皆さんは自分自身を忘却しやすい立場に立っていることを発見するようになるのです。私という個体は、独自に生まれることができず、継承することもできないのです。私という存在は、父母の血統を通じて生まれて、生きています。このように生きている私たちの人生は、誰かが一世紀以上生きられると壮語しても、一世紀以内に生の終末を迎えるようになっています。

 しかし、人類歴史は一世紀で終わってはならないので、人間にはこの歴史を延長させなければならない責任があるのです。したがって、ここには必ず代の継承問題が起きます。すなわち、相続問題、継承者問題が起きるというのです。私の代わりに、私よりもより輝く価値を継承できる相続者がいてこそ、その人格を中心として、あすの希望の世界、あすの絶対的な価値の世界へ行くことができるのです。

 ところが、今日の私が、未来に価値的な内容を継承してあげることができず、私自身の価値を減退させて犠牲にする立場に立つならば、現実が彼を拒否して、彼の行く道を妨げるのです。

◆未来の世界に残れる人


 では、未来の世界に残れる人とは、どのような人ですか。全体の利益を自分を中心として現時代圏内で消耗する立場に立った人を、未来の世界が歓迎しますか。こういう人は絶対に歓迎しないのです。今日の価値的なことを今日に固着させるよりも、未来のこととして残そうとするところにおいてのみ、未来の価値的なことと私たちが、より近づくことができるのです。そうしようとすれば、どうしなければならないでしょうか。きょうよりもあすの前に、価値的な内容をプラスさせなけばならないのです。その道だけが、絶対的な希望の世界まで到達できる、決定的な要因になるというのです。

 このような運命に置かれている人間なので、人間は我知らず善なることを願い、良いことを敬い、価値あることを慕うのです。かといって、その価値ある良いことが、私とただそのまま関係を結ぶのではありません。必ず、それに値する犠牲の代価を払ってこそ連結されるのです。悪いことは代価を払わなくてもいくらでも連結されますが、良いことは必ず代価を払ってのみ連結されるのです。そのまま流れてしまったり、ある人には必要ないような代価を払うのではありません。歴史過程において誰にでも必要な代価を払ってこそ連結され、残るのです。

 では、誰にでも必要な代価となるものとは何でしょうか。それは正に生命です。二つとない生命だというのです。その次に、その生命をもった人間が追求する高貴な価値になるものとは何ですか。相対になる存在です。その相対になる存在と因縁を結ぶことができるものとは何かというとき、これは愛しかないのです。高貴な生命と、高貴な愛の内容を蒔いて投入する者だけが、万民が共に酔うことのできる、あすの絶対的な幸福の価値圏に到達できるのです。その他の道はあり得ない、と結論づけることができます。

◆生命の帰着点


 今日善なる人、善の道を行く人、永遠で無限のその絶対的な価値をもった生命と因縁をもった世界、絶対的な愛と因縁をもった世界を慕って誓う人は、現在の生活圏内で自分の生命力を未来のために投入でき、その生命とともに自らの愛全体を未来のために投入することができます。そうしてこそ、より価値ある相続圏が広がっていくのです。

 それゆえ、み旨を抱いて新しい理念を追求してきた人々を見れば、自らの生命力を消耗し、自分がもつべき愛のすべての要素を消耗しながら、そのようなことをしてきました。このような人々だけが、歴史を継承し、相続してきたという事実を私たちは否定できないのです。

 それはなぜかといえば、堕落したからなのです。人間が堕落しなかったならば、生まれた時が春で、育つ時が夏なのです。降り注ぐ雨は生命を促すようになり、降り注ぐ太陽は生命の要素を吸収できる原動力になり、吹く風は清新なあすを約束してくれる環境になるのです。

 そのような善なる環境圏に存在して、そこに関係している一切の内容は、人間に相反するものを提示するのではなく、発展を促進させるのです。ところが、人間が堕落することによって、今日このように悲惨な立場で、私たち自身の消耗が必要になったのです。

 このように見るとき、この消耗されることが私たち自身の消耗で終わってしまうのではなく、自分自身に助けになることであり、自らの発展と成長の原肥になるのです。したがって、今日私たちが絶対的な善と関係を結ぼうとすれば、犠牲の代価を払わなければならないというのです。これは私たちが堕落圏内に接していて、堕落の運命圏内に縛られているがゆえに、不可避なことです。

 皆さんが、生涯路程で良いものと関係を結び、絶対的な価値をもったものと関係を結ぼうとするなら、現在の自らの姿そのままを称賛して喜んではなりません。ここには、心が願って関係を結ぼうとするものと、体が願って関係を結ぼうとするものがあります。

 神様が万物を造るとき、絶対的な目的をもって造らなかったならば、神様は絶対的な方になることができないのです。今日、堕落した私たち人間も、一つの目的を中心として、その目的を達成できるものをつくっていこうとしています。これを見るとき、今日私たち人間自体内に、それぞれ違う二つの目的を追求する体と心が存在するという事実は、矛盾したことなのです。

 絶対的な神様が造った被造物として、そうであってはならないのです。神様はお一人なので、その方が造った被造物も、一つの目的をもたなければなりません。そのような一つの目的の中で、神様の子女の名分をもって生まれた人間ならば、一つの目的と因縁を結んで、一切がその目的を中心として関係を結ぶべきであるにもかかわらず、私の個体において一番近い体と心が相反するとはどういうことですか。これは、人間が堕落したためです。

 したがって、この生命が訪ねる目的の帰着点、生命とともに永遠に共にすべき一つしかない愛の帰着点は、必ず一つの目的圏内でだけ成されるのであって、二つの目的圏内では不可能なのです。そのような立場では、「絶対的」という言葉は成立しません。自体内に相対的な圏をもっている立場では、絶対的な価値を探すことができないのです。これが問題です。

 では今日、絶対的価値を探していくところにおいて、出発の基点は何でなければならないでしょうか。真を探していかなければなりません。私が真を明確に意識して、それを否定することができず、胸中でほとばしる認識とか刺激を通じて、それが私の生活に絶えず因縁づくことを願うならば、現在私が置かれている立場を整備しなければならないのです。

 今日、皆さんが父母の血肉を受けて生まれて生きている国家、あるいは世界において、ただそのままでは真を探すことはできません。真を探すためには、ある限界点を立てて、必ず否定か肯定かを分けなければならないのです。二者択一をしなければならないのです。これは不可避なことです。

◆善の主体


 ここで、「心が善なのか体が善なのか分からないではないか」と言う人もいるでしょう。または、体を中心として心を否定することはできるけれど、心を中心として体を否定することはできないと話す人もいるでしょう。

 では、私たちは普遍的に考えてみましょう。私が上手にしたか、しなかったかという問題について見るとき、良心の呵責を受けるか受けないか、心に恥じらいがあるかないかと自ら尋ねるとき、それを感じることができることを皆さんは否定できません。

 私の良心の呵責を受けないというときは、堂々としています。天下がなんと言っても曲げないというのです。宇宙にただ一つしかない、最高の脅迫的な存在が私に直接ぶつかるとしても、そこに屈しません。良心の呵責がないときには、無限に強いというのです。

 その無限の限界点は、どの圏まで行くことができますか。この天地の中心存在が、「否定しろ」と言っても、「はい」と言うことができないのです。どんなに言っても、「いいえ」と言うようになります。神様よりももっと高い方がいるとすれば、その方の前に行っても堂々としているというのです。その圏は絶対的です。

 心が過ちを犯していなければ、父や、先生や、どこの誰がなんと言っても曲げないのです。そのような人々を討伐してしまいたいのです。そこに反対して出れば、「こいつら!」と言います。父も、こいつであり、恩師も、こいつになるのです。みな勝とうとします。心がそうだというのです。

 これを見るとき、良心の呵責を受けない純粋な立場は、何もないようだけれども、そこには絶対的な権限が内在されているのです。では、この内在されている権限が探している価値は、いかなる価値でしょうか。絶対的な価値を追求するはずです。けれども、私たちにそういう事情をもつことができる土台が私の体か、心かと聞くとき、「体だ」と言うことはあり得ないのです。したがって、どちらが中心ですか。それは心なのです。

 私たちが「良い友」と言うのは、良心的なので「良い」と言うのです。友人が美人なので、ハンサムなので、「良い」と言う人がいますか。良心的なので、純粋なので、犠牲的なので、「良い」と言うのです。

 こういうことを考えれば、実は人に教育は必要ないのです。大学の教養だ何だというものは、みな必要ないというのです。みな知っているのです。良心をもっているので、悪いことをするときは、「おい、お前なぜ悪いことをするのか」と言って良心の呵責を受けるようになります。それ以上の教育がありますか。本来は、教育の必要がないというのです。それゆえ問題は、世界の果てから解決されるのではなく、ここから解決されます。皆さんの生活圏内に、解決できる法案が一〇〇パーセント備わっていて、みな知っているというのです。

◆良いことを残そうとし相続しようとする人間


 では、良いことはどうしたいのでしょうか。良いことは投げ捨てて、悪いことを残したい人はいません。それゆえ、良いことは他の所にあるのではありません。自然に結論が出てきます。

 永遠のものは他の所にあるのではありません。良いことは永遠に残るのです。それを残したがります。では、これを残して誰に与えたいのですか。自分の愛する息子に残してあげたいと願うのです。その息子はまた、誰に与えたいですか。やはり愛する彼の息子に与えたがるのです。その息子が世界を支配するようになれば、それは世界的な宝物になるのです。そのように、私たち人間は一番良いものを残したがるのです。

 一番良いものは「金の塊だ」と言うならば、それを残したがるでしょう。けれども、金の塊よりも良いものがありますが、それが正に愛を中心とした生命体です。では、私にとって愛を中心とした生命体とは何かというとき、この関係が一番貴いというのです。

 私を中心として見るとき、「私」はどこから来ましたか。ただ飛んできた人ではありません。父母がいるために子供がいるのです。父母は過去を象徴するのであり、私は現在を象徴するのであり、子供は未来を象徴するのです。過去、現在、未来が一つの線で対面するその焦点、それを糾合して連結する決定的要因とは誰でしょうか。それが今日の「私」だというのです。私は、過去なくして生じないのであり、未来なくして存続できないのです。それゆえ今日、誰でも歴史的な価値を相続しようとするのです。

 大韓民国に良い骨董品があれば、それを自分の物にしたがります。では、国宝第一号の南大門は誰のものですか。大韓民国のものです。大韓民国のものはすなわち誰のものかといえば、私のものという実感は起きませんが、私のものです。大韓民国に私一人生きているとすれば、私のものという実感が起きるはずです。

 では、大韓民国の国宝第一号の南大門は、誰から始まるのですか。私一人から始まるのです。大韓民国がすなわち「私」と言うなら、その国宝は大韓民国のものであると同時に「私のものだ」と言うのです。それを管理することにおいても、「私一人だけで管理すれば良いのに、国民全部が管理するので嫌だ」と言うのです。しかし、一人では管理することができません。国宝全体を自分一人で管理できますか。全体が協力して管理しなければならないのです。良いことはそのようにしなければならないのです。

◆父母の愛より大きい神様の愛


 人は誰でも、良いものがあれば自慢したがります。宣伝したいのです。宣伝したいということは何ですか。関係を結んであげたいということです。宣伝や自慢をなぜするかといえば、君もこのような関係を結べということなのです。人にとって一番良いこととは何ですか。父母が一番良くて、その次は私で、その次には子供です。このようにして歴史は継承されるのです。私たちの生命を連結させて、生命に連結したその環境を中心として、愛の理念が花咲くことができる、そのような環境の根拠地が家庭です。

 家庭を中心として見るとき、子供は「お母さんは永遠に私のものだ」と言ます。そのお母さんは、子供に自らの血肉を分けてやりながら喜びます。これを見るとき、良いこととは何ですか。人のために犠牲になることです。友人が良いというのも、すなわち犠牲になるためです。他人に与えながらも喜ぶのです。喜ぶのは、人のために犠牲になりながら、自分の一番貴いものを与えてももっと多くあげたがるのです。「与えてから、それを再び受ける」と言いながら与えるのでなく、与えながらも、あまりに少なくて恥じらいながら与えるのです。それが、父母の愛です。

 しかし、子供の愛はそうではありません。父母の愛と子供の愛は、違います。父母は与えながらも、より良いものを与えることができないと嘆き、子供は「私は親思いだ」と満足に思うというのです。それで、父母の愛と子女の愛が違うというのです。「私がこのようにしたのに、パパとママは何をしましたか」と言うのです。子供の愛には限界があって、自分という限界線を超えることができません。けれども父母の愛は、自分という限界線を超えるのです。

 こういう愛は、何の愛ですか。この愛が、すなわち神様の愛です。神様の愛の内容が人間の前に現れたものが、父母の愛です。

 では、神様はいかなる方ですか。父母を中心として考えてみるとき、父母より優れていなければなりません。父母は子供だけを愛しますが、神様は世界人類をすべて、父母が私を愛するように愛されるというのです。私を生んでくれた父母は、私だけを愛しますが、神様は万民を私のように愛され、父母以上の立場にいらっしゃる方です。

 では、神様はいかなる方かというとき、千年、万年与えてもまた与えたい、そのような心を絶えずもっていらっしゃる方です。そのような方であるがゆえに、私たちは神様を探すのです。

 万民はなぜ、神様を好んでついていくのでしょうか。神様は、万民のためにすべてを下さりながらも恥じらいながら、「今はこれだけにしかならないけれど、少しだけ待ちなさい、何百倍、何千倍より良いものを与えるから」と言いながら、今現在あげたことで満足されるのではなく、与えながらも未来により良いものを与えると約束され、与えることができる心の余裕をもっていらっしゃる方であるからです。

 そのような方と一緒にいれば、たとえ食べられず、裕福でなくても、幸せだというのです。食べられない立場に入っていけば、未来の希望の刺激が、現実圏内で衝撃的に感じられるのです。かえって新しい決心ができるのです。

 与えながらも恥じる立場、そのような父母をもった子供が、「ママ」と言って抱かれるようになれば、体だけ抱き込みますか。どれほど有り難いでしょうか。その場は、未来のために、お互いに慰労の涙を共に流すことができる立場です。絶望が共にあるのではなく、あすの願いを現在の刺激に感じて、お互いに決意し、お互いがぶつかり合って激励できる爆発的な立場が、正にそのような立場です。

 したがって、そこで現れる現象は、悲惨なものではありません。未来に対する刺激を引き込んで、現実圏内で価値を称賛できる立場は、そういう愛の圏内でだけ成されるのです。それゆえ、その愛の圏内に生きる人は、不幸にならないという結論が出てきます。

◆刈り入れできる人


 では、イエス様は、万民の前にメシヤの使命を果たすために来られましたが、その方はどのような方ですか。自分の生命を犠牲にしながら、千年、万年幸福を祈ってあげることができなければなりません。そうしなければ、万民のメシヤになることはできません。そのような内容をもったがゆえに、イエス様は十字架で亡くなる直前に、怨 讐のために涙で「彼らの罪を赦し給え」と言ったのです。父母でなくては、このようにすることはできないというのです。

 どんなにならず者のような子供、最高の刑を受けて刑場の露と消える息子でも、父母の心は千回、万回許してあげたいのです。父母と子供の間には、許せないことがないのです。ならず者の息子が、絶望の中で、後悔と共に回生できる道が、そこにあるというのです。国家の法があるがゆえにそうなのであって、父母と息子の間には許せないことがないのです。

 これが伝統になったとすれば、そういう愛の圏内でそのような愛を知って育った子供は、親不孝できないのです。絶対に不孝ができないのです。そのような愛の因縁をもった父母の懐で育った子供は、父母の前に服従せざるを得ないのであり、兄弟間でも和合せざるを得ないというのです。

 では、本物の真の人とは、どのような人でしょうか。先に話したように、犠牲となり、奉仕をする人です。現在の自分が消耗されるのを見ても、喜ぶことができる人です。

 消耗される自分自身は消耗で終わるのでなく、未来の収穫の動機になることができるのです。ですから、蒔くことは滅びることでなく栄えることです。このような人が、良いことを追求できる人です。

 そのようになろうとするなら、自分の一身を投げなければなりません。一身をばらまくのです。純粋にばらまきなさいというのです。まくこと自体が犠牲になることであり、自己否定です。そのように円満に自分を否定していくならば、肯定の新しい生命力が発生して、あすの収穫を確約する動機になるのです。

 したがって、良い人は自分を中心とする人ではありません。全体を中心にする人です。では、その全体の限界点はどこですか。国家も、世界もはるかに超えることです。それゆえ宗教世界が出てくるようになったのです。

◆良い人は犠牲になる人


 思想家とか、偉人とか、聖人とは、いかなる人でしょうか。もし今日大韓民国で「おお万民よ!
 我が国の主張を聞きなさい」と主張する人は、国粋的な国は創建するかもしれませんが、世界の前には貢献することができません。聖人の等級に値する人々は、少なくとも世界的な内容をもって主張した人々です。そのような人でなくては聖人になれないのです。

 では、聖人の中の聖人とはどのような人ですか。彼は、世界的なものよりも大きいのです。この地だけのためでなく、天を介在させた人です。それゆえ宗教の指導者や宗教の道主が、聖人の王座に上がっているのです。イエス様もそうであり、釈迦もそうであり、孔子もそうであり、マホメットもそうです。

 最高の価値をもった聖人は、どうしなければならないでしょうか。漠然と神様だけを紹介してはなりません。天がどうだということを紹介しなければなりません。天の人がどうで、天の物質がどうであり、天の組織がどうだということを細密に紹介しなければならないのです。天の生活圏、天の生涯圏、天の国家圏、天の世界圏がどうだということを紹介すべきなのです。彼が主張する世界は、自分を中心とするのでなく、お互いが喜ぶことができる内容を中心にした世界です。そのような世界は、自分を中心にした世界ではありません。

 ここで、人は本来自分のために生まれたのではないという結論が出てくるのです。良いことを探そうとする人は、私のために生まれた人ではありません。それゆえ、私のために生まれた人には、喜べる内容がないのです。個人が中心になるのです。そのようになれば、強圧的な奪取主義になるのです。

 良い人とは、自分の欲望とは関係なく犠牲になる人です。犠牲は、生理的な要求とは反対に、全部否定するところから出発するのです。それは何を意味するのでしょうか。良いことは私を中心とすることではないということです。では、何を中心としますか。他人を中心とすることですが、百年間生きて終わるようなものを中心とするのではなく、永遠に残るものを中心とするのです。

 その永遠とは何ですか。国は滅びても世界は残らなければならないというのです。世界主義が国家主義を支配するのです。より大きいものが、より長く残るためです。私たちは愛しても、大韓民国の人同士愛するのではなく、世界万民を愛そうというのです。世界万民が共に生きようというのです。宗教人はそうなのです。

 ところが、今までの宗教人が一つ発見できなかったことがあります。「イエス様を信じて天国に行こう」と言う、その目的は大きいのに、内容は個人主義になりました。そうなれば、滅びるのです。「イエス様を信じて天国に行こう」と言う時、イエス様が個人を中心として訪ねてきますか。イエス様の目的は、世界を訪ねてくることです。世界圏内に国があって、国家圏内に氏族があって個人があるのです。イエス様は、「まず神の国と神の義とを求めなさい」(マタイ六・三三)と言ったのであって、「その人と、その生活を求めなさい」と言いましたか。

 今日宗教人はみな、目的は大きくて遠くにあるのに、内容はみな個人的だというのです。「私が天国に行く前に、世界万民を天国に送ってから行く」と言わなければならないのです。では、その宗教は滅びますか。私が良くなる前に子供が良くなるようにし、あとで私が良くなるようにというのが父母の愛です。ですから「私が天国に行く前に、世界万民を天国に送る」と言わなければならないのです。

 「私が良くなる前に、国を良くしてから死ぬ」と言わなければなりません。そのような人が愛国者でしょう。私が苦労しても、父母は楽な道を行くようにするのが孝子の道です。私が犠牲になっても、夫のためになろうとするのが烈女の道です。では、烈女の道とは何でしょうか。「烈男」という言葉はないでしょう。これを見れば、韓国語は啓示的なのです。女性が誤ったので、女性がまず責任を果たさなければならないためにそうなのです。女性が責任を全うすれば、その次には男性が成すべき責任が残るのです。この「烈男主義」は、統一教会時代から現れるのです。

◆世界を統一しようとするなら


 自分を絶対視するところに善が存続できますか。存続できません。自分を絶対視すれば、全部逃げるのです。自分より、より大きいことを絶対視するところに、善が走り込むのです。私的なものは滅びるのです。善が逃げれば悪しか残らないので、審判を受けるようになるのです。私的なものを主張すれば栄えますか。滅びるのです。けれども、公的なものを主張すれば栄えるのです。

 では、私的な私は、公的なものの前にどうしなければならないでしょうか。「吸収されよ」というのです。個人よりも、家庭がより公的でしょう。それゆえ、兄弟を愛しなさい、父母を愛しなさいというのです。「あなたのすべてを捧げて愛せよ」と教育するのです。

 今日この世は、自分の家のためにお金を稼ぎ、家のために出世もします。また、自分の父や母、兄弟のために出世することよりも、氏族のために出世しなければならないのです。

 愛するには、個人を犠牲にして氏族を愛し、氏族を犠牲にして民族を愛し、民族を犠牲にして国家を愛し、国家を犠牲にして世界を愛し、世界を犠牲にして天地を愛することができますか。徹頭徹尾そうできると結論づけることができれば、こういう運動は世界的に永遠に残るのです。

 それで今日、先生は「天宙主義」という言葉を使うようになったのです。先生が新しい言葉をたくさん作っておきました。「天宙主義」というのは、世界を一つの家にしようということです。では、この家にはお父さん、お母さんがいなければなりませんが、ここでは天が父で、地は母です。その次に兄弟がいなければなりません。父母は天地で、兄弟は人です。それゆえ、統一教会員の行く方向は、他の人たちと違うというのです。

◆生活哲学の根本


 私たちが御飯を食べるにおいても、私のために食べれば滅びるようになり、見るにおいても、私のために見れば滅びるようになります。においをかぐことも、私のためにかげば滅びるようになり、聞くことも、私のために聞けば滅びるようになります。したがってあすのために、より公的なもののために見聞きし、においをかがなければならないのです。見るのにも、二種類があります。すなわち、私的に見るのか、公的に見るのか。においをかぐのにも、二種類があります。公的なにおいをかぐか、私的なにおいをかぐのか、そのようになっています。

 今日、私たちの体と心が、二つの目的を指向するということは矛盾です。一つを否定しなければなりません。絶対的な一つの肯定の価値を追求していこうとするなら、必ず一つを否定しなければなりません。

 では、この体と心の中で、どちらが私的ですか。食べる物があれば、心は「分けて食べなさい」と言うのに、体は「目を閉じて食べるのだ」と言いながらかんでしまい、かんだからしようがないという条件を掲げて、そのまま食べてしまうのです。これが、生活哲学における根本的な問題です。

 では、心はこのように良いことを願うのに、体はなぜそうではないのでしょうか。心と体の関係を整理できないためなのです。しかしそれは、なるようになっています。自らの生命をすべて尽くして、その生命と関係して愛すれば、なるようになっています。

 真は、世界の果てにあるのではありません。真をなぜ探しますか。誰にでも、みなあるものなのです。開発すればいいことです。真を教える先生や大学教授は、必要ありません。事実、宗教も必要ないのです。そのようなことは、心がすべて知っています。

 私が正しいかどうかということは、三分もかからないで、すべて分かるようになります。既に判決が下りたのに、公判の必要がありますか。私が知っていることをすべて話してあげて、一面をすべて見せてあげて、誰が正しいかというとき、私自身が分かるというのです。全部知りながら、詐欺を働くなというのです。詐欺が他の所にあるのではないのです。ともすれば詐欺師、どろぼうがひょいと出てきて、ともすれば聖人、聖者が出てきます。皆さんがこのことをしているというのです。

◆「ため」にする人生は滅びない


 皆さんは真を尽くすにも、あすの国のために、あすの世界のために、あすの天国のために真を尽くさなければなりません。先生は、一生涯をそのようにしました。皆さんはこれから、与えてももっと与えることができなくて涙を流し、前を見、裏山を眺めながら「あれが私の肉や血と同じならば、この民族に思い切り与えるのに、そうできる血と肉をもっていないことが嘆かわしいなあ」と言いながら、与えても嘆息してみなさい。

 そのようにすれば、滅ぼうとしても滅びず、死ぬ病気にかかっても死なないのです。「私の花のような青春が、この民族のために犠牲になるなら、死んでも恨まない。もっと与えることができないことが恨みだ」と言わなければなりません。こういう人の子孫は滅びません。

 では、「統一主義」とは何でしょうか。この民族に、この「統一思想」です。大韓民国が滅びても、世界のために「統一思想」を植えようというのが「統一主義」です。今後、理想国家を創建できる国民にしようとするなら、いかなる思想をもつようにしなければならないでしょうか。「統一主義」です。それでこそ、世界のものとして残るのです。

 二つの中で、より良いものを一つもつために、悪いもの一つは投げてしまうでしょう。同じものをもっていた人も交換してもつのです。「家庭をもつか、国をもつか」と言えば、愚かな人たちは「ああ、家庭をもつ、私の家庭をもつ」と言うのです。また「世界をもつか、国をもつか」と言う時、「我が国が一番であるから、国をもつ」と言う人は、愚かな人です。考えが足りない人です。世界の中には、大韓民国が何百個も入っていくことができるのです。

 それゆえ、打算的な考えだというのです。商売人たちは、利益を残せば喜びます。宗教をもつことも打算的ですが、その商売というのは、一人で良く生きようというのではありません。商売してお金を稼げば、共に良く生きようというのです。黄色人、白人、黒人ということなく、みな合わせて、合同株式会社をつくろうというのです。お互いが、「黄色人も良い。黒人も良い。白人も良い」と言うことのできる株式会社をつくるのです。

◆私の中にある三十八度線を壊さなければ


 真を探していかなければならないのに、真はどこにありますか。私にあるのです。私にあるのですが、混ざっているのです。

 私たちが「真はどこにあるのか」と言う時、相対的世界は問題になりません。私の中にある真と偽りの三十八度線が問題です。私の中の三十八度線を崩し、解放されて歌を歌う時、大韓民国の三十八度線が通じる以上の喜びを歌うことができる主人になれなくては、三十八度線を打ち破ることはできません。私の中からほとばしる解放の声が、いかなる怨 讐の障壁も崩して余りある意気衝天した解放の権威で現れることができなければならないのです。自分の解放を称賛できる群れにならずには、三十八度線解放を迎えることができないし、より大きい三十八度線だけが生じるのです。

 それゆえ、真は自分を中心にしたものではありません。これが、今までの先生の生活哲学です。良いことが現れれば、それは怨讐です。それは、私を引っ掛けるためのおとりだというのです。誰か良いものをもって現れる時、「これは私のものだ」と言えば、例外なく滅びるのです。世界でも、国でも、何でもみな、「私のものだ」と言えば滅びます。滅びるようになっているというのです。それは、そのままにしておいても滅びるのです。しかし、それを世界のものとするときは、ほっておいても栄えるのです。

 それゆえ聖書では、こういうことを教えてくれるのです。イエス様を愛して信じるのに、多くのことは必要ないのです。皆さんの生活環境で、この境界線が問題です。この境界線では、天が行ったり来たりします。境界線のこちらへ行けば聖人の道で、その反対側へ行けば亡人の道です。悪党が行く道だというのです。今、皆さんはそのような道を行っています。一歩でも誤って踏めば、真っ逆さまに落ちるのです。間違いなく落ちるというのです。それで、「正しい道を行け」というのです。

 私たちが祈祷しなければならない内容とは何ですか。御飯を食べても、きのう食べた御飯よりも、けさ食べる御飯がより価値あるように願わなければなりません。御飯にそれを尋ねれば、「そうだ」と言うのです。食べる人が「にっ」と笑えば、御飯も気分が出るのです。皆さんが喜べば、御飯もうれしいのです。万物も同様なのです。

 時計について見ても、どうせはめられるなら、大統領や聖人の手にはめられたいのであり、殺人強盗の手にはめられたいかというのです。皆さんなら、どう思いますか。殺人強盗の手にはめられれば、朝夕にどれほど鳥肌が立ちますか。時計が生きている物だと考えてみてください。どれほどひやっとしますか。冷たい物に熱い熱がつけば、爆発するのです。冷たい物が暖かい物に入っていけば、深く染み込んで熱くなります。すべてがそうだというのです。皆さんが恵みにつかっていれば、世の中に怨 讐がないのです。この宇宙万物が友人になるのです。

◆真を追求する目的


 皆さんが知らなければならないことは、真を尋ねる道です。すべての人が良いものを願うのは間違いありませんが、世界最高の価値、絶対的な価値のものは二つはあり得ません。ただ一つです。
 皆さんの心は、良いものがあれば自分のものにしたがります。では、自分のものにしたがることが悪いのですか。悪いことでなく、良いことなのです。「それなら、少し前に話したことと違うのではないか」と言うでしょうが、堕落したがゆえにそうなのです。堕落したがゆえに、否定線上をたどっていかなければならないのです。

 堕落しなかったなら、自分の世界とか、どこの国だとかいうことがなかったのです。自分が生まれたその家庭が、世界的な家庭になったのです。また、その家庭が国の出発点であり、氏族の出発点であり、個人完成の出発点になったはずです。これらすべてのものが、一度に成るのです。

 今日、これが堕落圏内に落ちてしまったがゆえに、何の後進国であるとか、先進国であるとか話すのです。先進国ならば、みな先進国になるべきなのに、後進国があるのはなぜでしょうか。堕落しなかったならば、既に統一された世界です。既に、このような世の中にどっぷり浸った世界だというのです。教育と伝統がこのようになっている世界であるがゆえに、善を指向できるのです。善が生活の土台になっていたというのです。

 その本来の土台を失って、堕落の土台になったがゆえに、今日こういう戦いが繰り広げられるのであり、否定するようになるのです。否定と肯定の交差路に立っている存在は、わびしい存在です。

 こういう世界は、信じることができません。朝には否定し、夕方には肯定する、このように回っては変わるのです。皆さんの生活がそうではないですか。こうしたり、ああしたりするというのです。これが恨なのです。ここから脱皮しなければならないために、真を追求しなければならないのです。それゆえ私たちが、この絶対的で唯一の真を探していくのです。真の道を探していくというのです。

◆父母の愛をもってこそ世界を統一することができる


 人間の本性の心は、絶対的な価値のものは全部私のものにしたがります。私のものにして、足でけって疎かにしようというのですか。私のものにして、嫌ってねたもうというのですか。違います。私のものにして、私一人で愛するというのです。ところが、誰でも喜べるものは一つしかないのに、すべての人がつかんではいけないので、神様は、全部がつかんで喜ぶことができる方法を考えたのです。そうでなければ、神様にも大事が起きるのです。

 それで、神様が出したものが愛です。愛のつぼを持って、広げておいたのです。それは、避けられないことです。愛でなくては、和合できないのです。愛のひもを作って、全部ここに酔うならば、せり合うようになるのです。喜ぶというのです。愛の列に会えば、ひもを付けて喜ぼうとするのです。それで万民は、これによって統一の役事を起こすのです。

 子供たちは、父母を自分のものにしたがります。ですから、統一された愛の境地、その愛とは何ですか。父母の愛だというのです。その愛の境地はどうですか。与えてもまた与えたく、与えてもそれが少なくて恥ずかしく思う愛です。ここに和することができる世界的な家庭が生じれば、天国が来ざるを得ないという結論が出てくるのです。

 では、兄弟を国と換えられますか。孤独の身、八代続いた一人息子だというとき、体の不自由な妹でも一人いればいいですか、悪いですか。不自由な中でも目も鼻も不自由だというとき、かといってその八代目の一人息子が、「私には体の不自由な妹は必要ない。いっそ孤独の身が良い」と言いますか。いないよりは、体の不自由な妹でもいるのがより良いというのです。体の不自由な妹でもいれば、私も妹をもったと言うことができるのです。兄弟をもった人の仲間に、入っていくことができるというのです。

 皆さん、仲間に入っていくことができなければ、つらいでしょう。兄弟がいてこそ、兄弟の愛がどうだということが分かるのです。愛するにおいて、どれだけ愛しますか。そこに比例的に愛するか、反比例的に愛するかが問題です。

 体の不自由な妹であるほど、反比例的に愛するようになります。そうでしょう。体の不自由な妹を愛するその兄は、誰よりも兄弟を愛することができる立場に入っていくことができるのです。愛があってこそ、平等が起きるのです。それでこそ「ああ、不幸も来るのだな」と感じるのです。

 それゆえ、神様は愛だというのです。けれども、神様がすなわち愛ではありません。愛は、神様の属性でしかないのです。統一性と普遍性を中心として円滑にしてくれるのが愛であるがゆえに、そこですべてが完成して、終わりを結ぶようになるのです。このように、愛は絶対的に必要なものなので、「神様は愛だ」と言っても神様は寂しがらないというのです。

◆神様の息子、娘になる道


 皆さんが現在置かれている立場を見れば、真と偽りの境界線にいます。これを確実に知らなければなりません。では、皆さんが行かなければならない目的地はどこですか。この人格の最高の完成はどういうものかというとき、万民に対して父母の愛を体得することができる人格者になることです。

 そのようになれば、千年、永遠の歴史時代の尊敬を受けることができる聖人、すなわち王聖人になるのです。聖人の中でも王聖人になるのです。

 それゆえ、すべての聖賢と君子たちは、世界的な内容を中心として万民のための犠牲の道理を教えてくれたのです。では、その目的はどこにあるでしょうか。それは統一の世界、一つの世界を中心とした絶対的な価値の基準を解決するために、避けられない要求だったのです。愛を中心としてのみ可能なのです。

 聖書を見れば、神様は「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである」(マタイ二二・三七、三八)と言いました。それは、私たち人間が守らなければならない戒律なのです。では、反対に神様の最初の戒律は何ですか。神様御自身が、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、あなたの息子、娘を愛しなさい。これが神様のいちばん大切な第一の戒律だ」と言うのです。

 では、神様の息子になれる近道とは何ですか。見えない神様を、どのように愛しますか。ですから、父母が息子を愛する以上に、見える世界の人を愛せよというのです。そうすれば、間違いなく神様の息子、娘になるのです。

 それゆえ、世界万民のために狂い、世界万民のために犠牲となり、世界万民のために自らの四肢五体を分けてあげて死んだ人は、天国へ行くのです。そこで一等になれば、天国の王になるのです。

◆善が行く道


 善が行く道とは、どのような道ですか。公的なものを探していく道です。学校に通う学生たちの話を聞けば「自由思想が一番だ。自由を防げることは許せない」と言います。「自由だ」と言って、お母さん、お父さんを困らせて親不孝することが自由ですか。自由はある原則のもとで成立するのです。この原則を知らなければなりません。公私に対する原則、善悪をわきまえて行かなければならないのです。

 では、あなたと私が共に生きていくにおいて、二人とも滅びない道とはどのようなものですか。それはお互いに譲歩して、お互いのためになる道です。では、二人とも滅びる道とはどのようなものですか。お互いにかみちぎって、お互いに怨 讐になる道です。

 心が和合できる内容をもつ者は、残るのです。善良なために残るというのです。悪いことは滅びなければなりません。それゆえ聖書にも「平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう」(マタイ五・九)とあります。自分を中心として平和にすることができますか。

 仲が良くない二人を和解させる人は、二人の十字架を背負わなければなりません。甲という人と乙という人がけんかをして、お互いに譲らない歴代の怨讐だというとき、彼らを和解させようとするなら、第三者の丙という人は、二人の立場をすべて知らなければなりません。すべて知ってから和解させるべきだというのです。この人は、二人の苦痛をすべて知らなければならないのです。そうでなくては和解をさせることができません。

 悪の世界を善なる世界にしようとするなら、悪の世界において悪に対する苦痛以上の苦痛を感じなければなりません。また、善を成し遂げるための苦痛以上の苦痛を感じることなくして、善を成し遂げることができないのです。私たちが、今そのようなことをしているのです。皆さんは、こういうことを知らなければなりません。

 皆さんは、自ら善の行く道がどうなのかをすべて知っています。教えてあげる必要もないのです。学校で学生が校則に従わないで、自分たちの勝手にすれば、その学校は滅びます。学校のためにしようとするなら、学校の規則に従わなければなりません。大韓民国のためにしようとするなら、大韓民国の法に従わなければならず、天地のためにしようとするなら、天倫に従わなければなりません。神様もこの天倫に従わなければなりません。すべての万物が、この法度によって順応しているのに、これを破綻させれば宇宙が追放します。自動的に滅びるというのです。

◆相反することのない真の世界を訪ねよう


 ゆえに個人よりも家庭、家庭よりも氏族のためにしなければなりません。氏族のために犠牲になる家庭があれば、その家庭は氏族の族長になるのです。これは間違いありません。すべてを犠牲にしたと公認されれば、「族長にならない」と言って逃げても、彼を連れてきて、族長として仕えるというのです。また、民族のために犠牲になる氏族がいれば、その氏族の前に民族を任せようとするのです。そうすれば、その氏族は民族の中心になるのです。こういう民族を中心として主権が成立し、国を探し出すようになるのです。

 その国が、世界のために犠牲になれる立場に立てば、理想世界圏内での新しい世界のために犠牲になれるのです。そのようになれば、これは伝統的思想になり、長く残るのです。それゆえ、永遠のものは、ここから始まるのです。これを絶つ者がいないのです。これを拒否する者はいないのです。

 現在、学生たちが「旧時代の人々はどうだ」とか言いますが、自分たちはどれほど新時代の人ですか。ヒッピー族たちを見てください。こういう世の中なのに、行く所がありますか。物質を中心とした世界観を追求すれば、行き場がないのです。体は肉の塊にすぎません。肉の塊は行き場がないのです。ふさがってしまうというのです。

 けれども、心の世界を中心としたものは無限に広まっていきます。心自体が無限のためです。心は有限圏内にいたがらないのです。すなわち、制限されるようになっていないというのです。ところがこういう心を物質世界に打ちつけておけば、その人に希望があり得るかというのです。それは長く続かないのです。心は無限なので、神様にどんなに侍ったとしても、不足を感じるようになるのです。こういうことを皆さんは知らなければなりません。

 真というものは、世界の果てにあるのではなく、皆さん自身の中にあるということを知って、良いものをえり分けていく立場で、良い土台を成し遂げなければなりません。そのためには、私たちの生活環境で相反する一面を経ていかなければならないのです。これは堕落に対する応報であるがゆえに避けることができないのです。相反するもののないその世界に向かっていく道が、すなわち人生が探していくべき真の道なのです。

 この真の道を行こうとするのが、先生が主張する道です。それゆえ多数のために少数を犠牲にし、公的なもののために私的なものを犠牲にするのは当然のことなのです。これは、当然そうしなければなりません。「私が当然そうしなければ」と言いながら行くことができる思想的な土台をもっている人たちは、真の世界の、真の立場で生きる人に間違いありません。

 そういう立場で関係を結んで生きる人は、その結果が自分と関係を結び、その内容は永遠の世界の所有権を決定できる動機となることができるのです。


















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訓教経(下)010



文鮮明先生のみ言集

訓教経(下)



体恤信仰が必要


一九七一年二月七日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第四十巻』


 この時間は、「体 恤信仰が必要である」という題目で話そうと思います。

 私たち人間がこの地上で信仰生活をしていく道は、一人で行く道ではないということを常に考えなければなりません。

 信仰の道においてその対象は、既に「私」ではなく神様となるのです。どこまでも神様を対象にしていく道です。言い換えれば、主体と対象の関係が神様と私の間に結ばれて、主体から成される事実が対象に及び、対象から成される事実が主体に関係されなければならないということです。

 このような関係が結ばれなければ、み旨と共に成し遂げられる「私」自身となれないのであり、み旨のために動いたというその結果が、天の摂理の前にプラスとなることはできません。

 神様と私たち人間は、必ず相対的な関係をもって連結されなければなりません。言い換えれば、授受作用をして一つとならなければなりません。その一つとなる程度に従って、私たちの生活環境に変遷をもたらすようになるのです。そして、その変遷した内容を私たち自体の生活面から見て、それが過去よりもっと価値的なものとして感じられるようになるとき、私たちは信仰の効果を感じるようになるのです。

◆体恤信仰の出発


 人は大抵、相対的な関係を通して意識するようになります。もちろん、自分の心の中でも考えるでしょうが、大多数は感覚的な器官を通して刺激を受け、相対的な関係を中心として意識している、ということを私たちは知ることができます。信仰生活をするときにおいては、私たちの心の生活だけでなく、その心に感じられた事実を相対的生活環境にどのように適用するのか、ということが最も重要です。

 皆さん自身が、ある信仰の基準のもとで一年ならば一年の間、「私はこれこれこのようにするつもりだ」という計画を立てたならば、その計画が私と関係を結ぶだけでなく、神様とどのように関係を結ぶのか、そして、主体であられる神様と対象である私が一つとなることによって、その結果をこの環境にどのように実らせるかということが、原理的に見るとき重要なことです。

 主体と対象が完全に授け受けすれば、そこには必ず新しい繁殖、すなわち第三の結果をもたらすようになるのです。その第三の結果というものは、主体の目的だけでなく対象の目的、すなわち二重目的をもった結果として現れるのです。ところで、結果として現れたものが、それ自体で、主体と対象が因縁を結ぶ前よりも価値あるものになってこそ、より大きな刺激を感じることができ、より大きな喜びを感じることができる、ということを私たちは知らなければなりません。

 今月ならば今月、信仰的な面で、各自それぞれある目標を立てて実践していくとき、その目標を自分個人の目標と思ってはなりません。その目標はいつも主体と対象の共同目標であり、その結果もいつも主体と対象の協同的な価値の結果として追求している、ということを自ら感じなくてはいけません。これはすなわち、私がすることだとしても、それは私一人がすることではなく、そこには必ず神様が介入していらっしゃるという意味です。私一人が動くのではなく、神様が同伴し、動いていらっしゃるということです。

 このように、神様が共に動いていらっしゃるという事実を感じるようになるとき、ここから「体恤信仰」が出発するということを皆さんは知らなければなりません。ゆえに、日常生活においても、無意味に生活するのではなく、意識をもっているある主体がいれば、その主体と自分の考えを平行させて、自分の一日の生活過程が自分に限られた過程ではなく、主体と一つになって共になす過程として感じられなければなりません。そのような立場に立つようになるとき、「体 恤信仰」が始まるということを知らなければなりません。

◆自分の心を神様の方向とどのように一致させるかが問題


 人には心があります。そして、心には心の門、すなわち「心門」があります。また、神様が私たち人間に対するには「時」があります。もちろん、神様はいつでも私たちに対していらっしゃいますが、私たち自身において、神様が私たちに対してくださるその方向の前に、一致させられる心の門をどのようにもってきて合わせるかということが問題です。これは非常に難しい問題だというのです。

 自然を見れば、春夏秋冬があり朝昼晩があるように、人の性格もみな同じではありません。ある人は春の季節に該当し、ある人は夏の季節に該当し、ある人は秋の季節に該当し、ある人は冬の季節に該当します。また、朝のような型の人、昼のような型の人、晩のような型の人、夜のような型の人がいます。顔形を見ても、各種各様です。

 このように姿が各種各様なのは、もって生まれた性質や生い立ちが、みな異なるためです。身を置いている位置が、全部異なった動機からもたらされた人間であるために、その立っている基準に従って私たちの姿も、みな異なってくるのです。それで、人は一つの中心を中心として、春夏秋冬のような立場に立っているというのです。

 また、春の季節と夏の季節の中間型の人や、夏の季節と秋の季節の中間型の人もいます。このように四方を見るとき、人間がそれぞれ立っている位置は、すべて異なります。ゆえに、人間はいつでも中心を基準にして関係を結ばなければならない立場にあるのです。この中心は、絶対的な基準でなければならないので、この基準が私たちの主体的な立場であらざるを得ません。その主体を中心として、主体自身も回りますが、対象である私たち人間も回っていかなければなりません。

 回っていくときにおいて、神様が春の季節のような性稟で私に対したとすれば、私もその性稟に従っていつでも環境的に調節していき、それに相対する立場で合わせることができなければなりません。そのような立場に立つようになれば、必ず体恤的な刺激を感じるようになるのです。私一人でするのでなくて、必ず天運が協助し、私が望まなくても自然にその環境が成されていくのを細胞で感じることができる位置に立つというのです。

◆信仰者が注意すべきこと


 それでは、信仰生活において最も注意しなければならないこととは何でしょうか。あることに対するとき、ささいなことであろうと、大きなことであろうと、事のいかんにかかわらず、個人的に対してはならないということです。言い換えれば、皆さんの心がぴんと張っていなければならないということです。ぱんぱんに空気を入れ、完全に丸くなった鞠のような心の姿勢をもちなさい。ぺしゃんこでなくて、完全にぴんと張った鞠のような心の状態にならなければならないというのです。そのようにしないで、不安な心だとか、あるいは個人の欲望を中心とした邪悪な心をもてば丸い鞠のような心に角が生じます。

 この心が回るときには、平面的に接触しなければならないのですが、角ができると、とがった先の部分から接触します。そうすると、全体を円滑に刺激させるのでなく、全体に反対的な作用をするようになります。そのような立場に身を置けば置くほど、私たちの良心は呵責を受け、良心の基準がだんだん削減されていくということを考えなければなりません。

 それゆえ、常に円満な鞠のような、ぴんと張った心の態度が必要です。そうして、その心に何かの刺激が入ってくれば、心自体が共鳴できなければなりません。固有の振動数が互いに同じ音叉、すなわち二つを置いて、一つを鳴らせば、もう一つはたたかなくてもその音波に刺激され、同じ振動数で鳴るのと同じように、私たちの心も共鳴体となり得る円満な心をもたなければなりません。そうして、常に、一つの主体から伝達されてくる霊的な波動を感知しようと努力しなければなりません。

 そのため、信仰生活をする人には瞑想の時間が必要なのです。良いことを思い描きつつ瞑想をしなさいというのです。瞑想をするときは、心の門を開け放ち、心を丸くして、神様ならば神様を中心として、神様の本性と私の本性が完全に授け受けできるように、春の季節に該当する人であれば春の季節の主体であられる神様と共にその性稟が、完全に共鳴できる心の姿勢をもたなければなりません。このように共鳴した内容を中心として、自分が要求する目的に対するようになるときは、必ず神様が共にあってくださるのです。

 また、そのような共鳴を感じられない立場で、あることに対するようになるときには、このように考えればいいのです。「神様はこのことを望んでいらっしゃる。私と直接的な関係を結んでいることを私は感じることができないが、関係は結んでいる。神様のみ旨がここにある。今は、このみ旨を中心として私が接触する瞬間だ」と考えればいいのです。あることをなすときにおいて、私一人でしていると思ってはいけません。あることならば、そのこと自体を中心として見るときに、そこには必ず神様のみ旨が既にあるというのです。それゆえに、先を行っているそのみ旨に従っていき、そのみ旨との一致点を期さなければならないというのです。私たちの生活を総合してみれば、そうなっているのです。

◆み旨と一致しようとすれば


 それでは、み旨との一致点を期するためには、どのようにしなければならないでしょうか。純潔な心で、そのことを中心として私の心が完全に授け受けできる、完全に共鳴できる生活態度をはぐくんでいかなければなりません。そうすれば、どんなに難しいことであっても、その難しいことが私にとってマイナスとなるのではなく、プラスとなるのです。そうすれば、そのことによって、今まで処してきた立場よりも一段階前進することができるというのです。

 結局は、神様と主体と対象の立場で、心と体が授け受けする感触を感じながらあることに対していくようになるときには、天が従ってきます。このような感触がないときは、神様のみ旨が先にそこに行っているという、そのように実感する感情をもちながら、ある事物に対して事をなす立場に立つようにすれば、そのことには既にみ旨が来ているために、そのみ旨と私が完全に一体となるのです。

 そうして、み旨がここに来ているので、私はそのみ旨を成し遂げる位置に行くという立場で、相対的なことならば、そのことが動機となっていると考えなさい。そうして、私自体がその動機と一体となって、結果をもたらすようになるとき、それが個人的な目的のためのものでなく、公的な目的に結びつくようになれば、そのことをすることによって、生きがいを感じ、力を感じるようになります。そのような人たちは祈祷生活をしなくても、なすこと以上の効果を上げることができるのです。

 私たちが日常生活で接しているものは、おおむねどのように区分されるでしょうか。物に対する対物関係、次に人に対する対人関係、その次に対人関係での言葉を話す関係があるのです。言葉は間接的な目的、すなわち第三の目的のためのものです。

 そうして、物に対する関係において、天法、あるいは神様の前に引っ掛かってはいけない、人に対する関係においても引っ掛かってはいけない、その次に言葉を話す関係においても、その法に引っ掛かってはいけないというのです。

 私たちが物に対するときにおいては、職場生活が起こるようになり、人に対するときにおいては、人倫関係が起こってくるのです。言い換えれば、道徳関係が起こるのです。そして、言葉を話す関係においては、行動問題が起こってくるのです。これが、私たちが生活圏内で関係を結んでいる与件なのです。

◆物にどのように対すべきか


 それでは、信仰者として物に対するとき、どのように接しなければならないのでしょうか。どこまでも公的に対さなければなりません。公的に接するとき、それが十の価値をもっているとすれば、十の価値だけで見るのではなく、それをどのように千万の価値として見るのか、この価値をどのように、より大きく見るのかということが重要です。たとえ、その物の価値が微々たるものであっても、そこに神様が介在していると考えれば、その価値を千万の比重に高めることができるのです。私が愛する物に、神様が関係しているというとき、物の価値は無限な比重をもって現れるというのです。

 そのような心で物に接するようになれば、その物が実に慕わしく感じられます。皆さんの生活圏内や、皆さんの心の世界で感じたことの中にそのような感応が伝わってくるようになるのです。そのような心をもって事をなせば、その結果は必ず自分一人が期待していたものよりも、もっと立体的な価値の内容をもつようになります。

 一つのことや物に対したことで、私に、環境的に大きな価値の結果を感じるようにしてくれたならば、それによって、私が霊的、内的な価値をより高い意味で占めることができるという位置に立つようになるのです。そうすれば、事をなしたのちにも感謝することができるのです。どんなに、大変なことであっても、私がしている苦労よりも、天的に何百倍、何千倍の価値的な結果が現れるという、そのような価値を感じながら行動する人がいるとすれば、それがどんなに難しいとしても、難しいそのことがかえって感謝の対象となるのです。

 自分一人を置いてみても、対人関係において、ある難しいことに追い込まれ被害を受けるとか、言葉にできないような苦役を克服しなければならない受難の道に入り込んだとしても、その受難の道を自分一人で行くと思ってはいけないというのです。その受難の道を無限なる価値の中心である神様と共に歩んでいると思いなさい。そうして、神様が共にあられる受難の道の前に自分が同参したという事実がどんなに大きな価値であるかを感じ、その苦痛の代価よりも感謝の代価のほうがより大きいということを感じるようになるときは、どんな苦痛の道も感謝の道となり、むしろ神様の前に栄光の道となり得るというのです。

 それゆえ、「物」に対するとき、何の考えももたずに接してはいけません。物は私に、プラスでなければマイナスをもたらすようになると思わなければなりません。すなわち、私にとって福となるか、でなければ災いとなるということです。ゆえに現在、十の立場から私がその物に対するとき、十一の価値となるのか九の価値となるのか、すなわち、マイナスをもたらすのかプラスをもたらすのかということを考えて、マイナスとなる立場を避け、プラスとなり得る立場をどのように立てようかと努力しなければなりません。

◆事物は原則を中心として接しなさい


 皆さんがそのような立場を訪ね求めていくようになれば、どんなことに接しても、既に心が知っているというのです。あることや物に接するようになるとき、それが私にプラスとなるのかマイナスとなるのか、一遍に分かるのです。あることをなすときにおいても、私の心とみ旨が、主体と対象が授け受けするところにおいて一体となってこそ、本来の動機、すなわち神様の創造原理に一致する四位基台圏が起こってくるのです。

 そうして、その物が私と、主体と対象の結果に符合するという価値を発見するようになるとき、それは神様の創造目的の結果が得られたことであるために、神様の対象の物として、善の結果をもたらします。

 このような善の結果を私の周囲にたくさん積んでいくほど、私自体においては再創造の過程の場がだんだん広がっていくのです。高まっていくのです。そのような生活をすれば、どんな物に接しても、既にその物自体から私に波長が来ます。その物に、円満な心で、邪心を断って、共鳴する音叉のような心で深刻に対するようになれば、それが良いとか悪いとかという感情がわき出てきます。

 もし、波長が来ないのであれば、公的な立場から邪心を断ち、心を丸いダイヤルのようにして、事であれば事、物であれば物に、さっと対したときの最初の印象や最初に入ってくる感情を通して、その事物に対しなさいというのです。事をなすときにおいても、無意味な立場から行うのではなく、神様が創造するのと同じ気持ちで、真実なる立場から行うのです。

 そうして、生活の中で感じた最初の感情が、何パーセント的中するかということをいつも注視しなければなりません。そのような生活態度を徐々に習慣化させれば、十のことならば、その中で五、六と、このようにだんだんと、その度が高くなっていくのが分かるようになります。これを育てていかなければならないというのです。その度が高くなっていかなければならないのです。その反面、良くない結果が出てきたときは、それはみ旨を共にしなかったためです。

 このように、私たちの周囲にあるすべての事物に対するときには、無意味に対するのではなく、必ず原理原則を中心として対さなければなりません。四位基台の形態の内容を中心として、自己の体 恤的な感情をどのように開発するのかという問題が、非常に重要であるということを皆さんは知らなければなりません。

 皆さんが職場生活で物に対するときにおいてもそうです。その会社の一員として、会社の物は公的な物であるにもかかわらず、いい加減に対すれば、その人は会社にとってマイナスとなる人です。その物は国の物であり、神様の物であると考えれば、紙一枚にもおろそかに対することができません。

 そのようにおろそかにしない心をもって、その代価を追求し、ささいなことから大きなことに至るまで、全体を心情的な体 恤の度を高めるための条件物として取り戻すために努力し、生活的な感情に連結させるために努力するようになれば、生活圏内で必ず神様が共にされるということは忘れようとしても忘れることができないのです。接すれば接するほど、私が接するそのことにおいて、神様が共にいらっしゃるということを実感的に感じることができるのです。

 自分一人で、何の考えもなく歩き回っていては損害を受けやすいのです。その損害が現在の立場より極めて重大になるときは、そこから打撃を受け、落ちていってしまうのです。それゆえに、この体恤信仰の開発のためには、皆さんは常に物に対していい加減に接してはならないというのです。深刻に接しなければならないのです。これを誤ることによって、信仰の道全体が引っ掛かって倒れる可能性がある条件が、そこで成立することもあり得るのです。

 あることをなすときにも、そのようにしなければなりません。例えば、女性たちが針仕事をするとき、そこには自分の夫のためのものとか、愛する人のためのものとか、あるいは望まない人のための針仕事もあるでしょうが、一様に精誠を込めなければなりません。賃金をもらって針仕事をする人も同じです。

 お金をもらうために、あるいは利益を得るためにただ適当に仕事をしていれば、道がふさがれてしまうのです。しかしながら、その仕事も自分のことのように、私の愛する人の服のように真心を込めた心情でするようになれば、その服を着る人がそれに対するとき、「これは良いものだなあ」と言うのです。もし、体恤信仰をする人がいれば、精誠を込めたか、込めなかったかということを一遍に鑑定してしまうというのです。すべての事物を、そのように注意して見なければなりません。

◆体恤信仰を開発する生活


 先生は、皆さんが笑いながら話をするとき、既に感じが全部伝わってきます。その笑いが神様の前にプラスとなる笑いなのか、マイナスとなる笑いなのかという感じが伝わってくるのです。皆さんもそうなることができるよう、習慣化して開発していかなければなりません。それゆえに、自分を中心として成される周囲のすべての要件には、無意味なものは一つもないのです。すべてのことが、私を開発させ、発展させるための一つの教材として登場するのです。そのような生活態度が必要なのです。ゆえに、一人だからといって自分勝手にはできないのです。

 このような生活態度を中心として生活するようになれば、初めて見る人でも、面識のある人でも、誰であってもいい加減に対することはできないのです。初めて見る人だから適当に対すればいいだろうと、このようにしてはならないのです。その人がどんな人なのか分からないではないかというのです。したがって、このようなすべての心情的な基準を中心として、体恤的な環境を開発するようにしなければなりません。そうして、すべてのことにおいて間違いなく効果的な価値を発見し、喜びを感じたとすれば、その人の信仰生活は観念的なものでなく、実質的なものであり、神様と共に生きる信仰生活なのです。

 そのような生活をする人は、どんなに困難な道を歩んだとしてもへたばりません。もし、死の道に行くとしても、その死がみ旨の前に妥当な死か、そうでないかということを既に知ることができるというのです。苦痛を受け、悔しい目に遭うことも、神様が私を蕩減させるためにすることなのか、マイナスにさせるためにすることなのかということを一遍に知ることができるのです。

 どんなにつらい道に行くとしても、それがすべての体 恤的な感情に接して行く道であるならば、なぜか心強く、希望がわき出てくるのです。反対する喚声が高くなればなるほど、それが衝撃となり、刺激となって、私自体の中心が折れてしまうのではなく、それを良い機会にして爆発的な力が作用するようになり、善意の闘争の力がわき上がってくるのです。このようなことを見れば、私が行く道が神様が共にいらっしゃる道であるのか、そうでないのかということを感じで見分けることができなければなりません。

 そうしないと、生活圏内で堕落が起き、失敗が起き、神様の前に裏切りが起こるようになるのです。これは眠る時に起こるのではありません。私たちが目を開けて活動しながら、すべてのことに対する相対的要件を中心として、私が発展することもあり、後退することもあり得るのです。このような関係であるために、この関係をどのように良く調整して天化された結果をもたらすかということを、随時研究しなければなりません。

 物に対するときもそうですが、人に対するときにおいてもそうです。私が人に対するとき、相手の人が私よりも心情基準が低いというときは、私の基準を低く調整して、相手に対さなければなりません。そうでなければ、私が打撃を受けます。

 したがって、皆さんは自分の先入観を捨てて、公正な立場からはかりのような心で、どのような感じが来るのかということを知らなければなりません。自分が中心になるのではなく、感じを中心として、神様を思いつつ進んでいかなければなりません。主体の前に私は対象の立場となるので、良い結果を基準として、発展させようというのが主体の願いであり、相対である私たち人間の願いとなるのです。

 したがって、私の個体が打診した結果を中心として見るのでなく、さっと見ながら最初の感じと共に、その心に照らして見るのです。そうすれば、最初の感じがすぐに来るのです。最初のうちはよく分かりません。ゆえに、それを発展させなければなりません。そうすれば、「ああ、あの人は良い人だ」ということが分かるようになります。皆さんがそのような度数をだんだん高めていくようになれば、一度だけぱっと見ても、心がどんなか、ということがさっと伝わってくるというのです。

 さあ、皆さんの生活過程を分析して、結果を打診しなければなりません。私が感じることは何パーセント合っている、何パーセント間違いないという、このような内的な因縁を皆さんが環境圏内で結んで打診できるようにならなければなりません。そのような結果を測定できる立場に立たなくては、神様が共にいらっしゃるか悪が共にあるのか、分析することができません。したがって、必ずこのような信仰態度が必要です。この道に乗り出すとき、祈祷をしなくてもかまいません。最初の一歩を踏み出すとき、この道がどんな道か、行けば神様が喜ばれる道か、悲しまれる道かが分からなければなりません。最初に感じる感じで、「ああ、これは良い、悪い」と感じられるのです。悪いと感じるときは、行かないのです。これを鑑定できなくてはなりません。ゆえに皆さんは、環境的に体 恤信仰に対することを開発するために努力しなければなりません。

 だから、皆さんが人を見るときも、何気なく見ては駄目なのです。誰それの正常的な表情はこんなふうだ、ということを分析しなさいというのです。それだけでなく、誰それの正常な態度はあんなふうだ、また、正常な声音はあんなふうだ、笑うのも、正常な笑いはあんなふうだ、ということに対して関心をもたなければならないのです。

◆体恤信仰の重要性


 皆さんが指導者になろうとすれば、今後多くの人に接するとき、その人の正常の基準と非正常の基準、言い換えれば、悲しいときの基準とうれしいときの基準を判断できなければなりません。

 正常的な基準を中心として見るとき、上に上がっていくときはうれしく、下に下がっていくときは悲しいということを、目だけ見ても、表情一つだけ見ても、すぐに推し量ることができなければなりません。既に、話し声が正常的なときはこうであり、うれしいときの話し声はあんなふうだ、良くないときは目の色がどんなふうだ、ということを判断できなければなりません。

 話す語調とか抑揚、態度を見て、あの人があんなふうに話す背後には良くない何かがあるということを、神様と共に私が鑑定しなければならないのです。そのようにすれば、二人が会うとき、表情だけ見ても分かるようになるのです。このように、皆さんがさっと鑑定したことを、実験するのと同じように、それが符合するのか、しないのかということを観察してみなければなりません。それがもし符合したと感じるようになるときは、神様が私と共にあられるのは間違いありません。

 それゆえ生活圏内で、私の感情が神様と密着して同化するのか、反対となるのかを予感を通して分析し、私の生活圏内でどのようにすれば良い結果をたくさん残せるかが、信仰者にとって最も重要なのです。過ぎゆく人を見ただけでも分かるのです。

 ゆえに、一番複雑なのが人間です。ある人が教会に来て、祈祷をして座っていれば、その人をぱっと見れば、元気があるなあ、元気がないなあという感じが伝わってくるというのです。このように対人関係においても、その感じが伝わってきて、あることや物に対する感情も伝わってくるのです。また、言葉を話すときにおいても、自分が共鳴体のような立場に立ち、これが破格的か、でなければ穏やかで安らかか、すなわち和合するためのものか、そうでないかということを直ちに測定しなければなりません。同様に、何パーセント直接的な結果をもたらしたかということを分析しなければなりません。このようなことを皆さんが開発すれば、誰でも体恤信仰圏内に入っていくことができます。

 天に引き回されたのち、天が離れてしまえば、へたばってしまうのです。それはなぜそうかというと、体恤的信仰の重要性を知らないからです。信仰というものは生活圏内で、勝利的結果、すなわち生活圏内で神の目的を中心として結果を打診できる価値的な内容が、私が対する前よりも対したのちに、より良い結果として訪ねてくるときは、どんなに迫害が来てもそのまま押し通していくのです。絶対に屈服しません。しかしながら、そのなした結果がマイナスとなるときは、どんなに力を出そうとしても後退するようになります。

 ゆえに、後退する可能性があることは絶対にしてはならないのです。その被害は、どんなに大きいことでしょうか。一度後退したのちには、それを立て直すのがいかに大変か知れません。一度間違いを犯せば、それを補充するのがどんなに大変かということを考えれば、落ちる可能性のある、すなわちマイナスとなる可能性があることは考えることすらしないというのです。そんなものは見ようともしないのです。また、そんな人とは接しようとすることすらしないのです。

 それゆえに、初めて恩恵を受けると、人をよく敬遠するようになります。物にもやたらにあれこれと接することができなくて、単調な物にだけ対するのです。その人が日常的に欲望をもって動く可能性のある物には、絶対に対することができないようにします。そうでない物、すなわち無関心に対していた物にだけ対するようにします。言葉も、自分を弁明しようとする言葉は話さないようにします。

 実際の信仰生活において、霊的な体験はそのように起こるのです。皆さんは、そのような霊的な体験をすることができなくても、生活で感じられる感じを分析する度数を高めていかなければなりません。

 そのような段階に至れば、どんな現象が起こるのでしょうか。三角的な関係から、直接的な結果を打診できることがたくさん起こるのです。すなわち、第三のこととして、私とは何らの関係もないことでも関係を結ぶことによって、計画的ではないのですが、偶然に体 恤的な感情を感じることができる体験をするようになるのです。このように努力するようになれば、第三点のこととして私と関係ないことであっても、ぱっと感じられる感じを通して、関係を結ばなければならないという考えをもつようになります。このように生活圏内において、発展することができる動機をいくらでも見つけることができます。

◆常に喜び、体恤的な感度を広げよ


 また、皆さんが朝、家を出て夕方戻るときには、絶対にマイナスとなって帰ってきてはいけないのです。帰ってくる時は必ず、朝出て行った時よりもうれしい立場、すなわちプラスとなった立場に立てというのです。そうすれば家庭内の不和が起こりません。もし、マイナスとなって帰ってくれば、自分の妻や息子、娘にもマイナスの感じを与えるようになります。それは罪です。善を追求していかなければならない立場から見るとき、このような立場に立つことは善を傷つける立場になるので、これは神様の前に喜びとなれず、悲しみとなります。

 したがって、家を出て、戻ってくる時は、どんなに困難な立場に処していたとしても、必ずその困難を蕩減しておいて、喜びの条件をもって帰ってこなければなりません。もし、職場で悔しく気分の悪いことがあったとしても、それを家に来て解消しようとしてはいけません。その場で解消するか、でなければ別のことに置き換えて、「それ以上の喜びの条件で蕩減した」というようにしてから、家に入っていかなければなりません。

 そうするために、それを補強し得る間接的な自分だけの秘法をもちなさいというのです。道を歩きながら、わざと電信柱に頭をぶつけて、その痛みをもってでも蕩減の条件を掲げなさいというのです。それをもって蕩減を受けたという、悔い改めの祈祷をするのです。そうでなければ子供たちにあげるあめ玉でも買って、子供たちが喜ぶ姿を思い描いて、その喜びをもって家に入っていきなさい。あるいは、歌が好きな人であれば、昔、自分が好きだった春の歌だとか、秋の歌を歌って、きょうの悲しい感情を越え、昔のうれしかった感情を呼び戻して、それを中心として帰っていきなさいというのです。

 家に入ってくれば、妻に対しても、息子、娘に対しても、そのようなうれしい表情と、うれしい心を授け受けしなさい。そうなれば、職場で打撃を受けた悲しみを、完全に越えることができるのです。滅びるしかなかった環境を食い止めることができるというのです。皆さんは一日の全体を中心として、このような生活態度をもたなければなりません。これが一つの作戦となるのです。一日を何気なく生きては駄目です。

 どんなことに対しても同じです。山なら山を見るとき、その山を中心として神様の創造性に対する感じ、美しいとか神秘的だとかいう感じを通して、神様が私という一つの価値をこのように高貴にするために、あんなにも素晴らしい相対的万物を造られたのだなあということを感じ、喜んで、うれしく思いながら神様の前に賛美を返すようになるとき、そこから衝撃的な刺激を感じるのです。

 そのような立場で完全に授け受けすれば、一つとなるので酔いしれるというのです。そして、その中から離れたくなくなるのです。その中で寝転びたく、幼子のような心になって、また父母のような心を感じることができるようになるのです。

 そのような感情は、何でもない自然を見る中でも感じることができるのです。あるいは、流れていく水を見ながらでも、いくらでも思索にふけることができるというのです。

 このような体 恤的な感度を高めていくようになれば、神様が創造しながら感じられた喜びまでも、共鳴して入ってくるようになるのです。それは、何の考えもなく祈祷することよりも勝り得るというのです。ゆえに、皆さんが生活圏内で、このような生活を中心として体恤的な感度を、どのように培養していくのかということが問題です。

 それゆえに、私が相手に対するとき、どのような表情で対さなければならないかを常に考えなくてはなりません。そのように研究していけば、自分がある表情をしたとき、相手に良い印象を与えた、だから私はどのようにしていかなければならない、このように分かるようになるのです。

 私たちが接するすべての万物は、教材です。私たちがこのような霊的な世界の直接的な感応、あるいは間接的な感応を起こすことができ、関係を結ぶことができる対象は、神様の創造物です。この創造物は神様の性相に似て出てきたものであるため、その中には間接的ではありますが、その性相的な要素があります。

 そうして、その中には私たちが必ず関係を結ぶことができる善の要素、内的な性稟があるので、その性稟に従って動き、連結させるための生活を広めていく人がいるとすれば、その人には、どのようなことも支障を与えることができず、マイナスとならないはずです。

 なおかつ、皆さんは蕩減法を知っています。私が中心的な存在になろうとすれば、公的な立場で蕩減しておく環境をたくさんもたなければなりません。そうせずには、中心存在になることはできません。言い換えれば、私がもっているものをたくさん差し出さなければならないというのです。もっているものをたくさん差し出すというのは損害です。それゆえに、私が困難なことを受ける、被害を受けるというときには、蕩減法で消化しなさいというのです。

◆神様の息子になることができる生活態度


 私が善を行うときにおいて、かわいそうな人のためにも与えますが、怨 讐のためにも誠実に与えるのです。それは、どんなにすてきなことでしょうか。ですから、どんな死地に行っても被害を受けないのです。そのような動機の存在は、怨讐になったとしても、公的な立場から消化して越えていくというのです。そのような状況でも怨讐を考えるのでなく、そのような位置を、両面的な価値を占めることができる唯一の位置だと思い、そこから感じられる深い価値を探求しようというのです。

 それゆえに、いかなる受難の道でも、その受難は自分に被害とはなりません。またそれが、引っ掛かれば死地に落ちてさまようかもしれないサタンの罠だとしても、その罠とは何らの関係がなく、むしろサタンが怨讐視する勝利の結果をもたらすことができるというのです。したがって、このような信仰生活をするときには、サタンがどんなに作用したとしても、神様のものとして和解させることができる立場に立つのです。

 神様は悪なる世界にいたとしても、いつも神様の立場をとることができるお方です。いかなる迫害、いかなる困難があったとしても、それらが私自体をへし折ってしまったり、滅ぼしてしまうことはできません。むしろ、勝利の資料として、勝利の結果をもたらしてくれるのです。これは、神様が六千年の復帰歴史を導いてこられながら、サタンがどんなに反対しても、神様はそれを勝利の結果として体得し、消化させてこられたのと同じことです。そのために、これは間違いなく神様の息子となることができるのです。このような生活態度に、皆さんが関係をもって歩んでいかなければなりません。

 物に対するときよりも、人に対するときの感情がより早いのです。ゆえに、人に対しての研究をたくさんしなければなりません。人に対するとき、言葉で表現しなければなりませんが、言葉だけ言っては駄目です。責任を取れない言葉は言ってはなりません。言い換えれば、行うことができない言葉は言ってはいけないということです。

 互いに授け受けする場で、交流し一つの共同目標を追求していくときは、必ず実践されるものと思い、そのように感じ、それが実現したとき、その二人の間では、言って、行ったその結果に対して互いに喜ぶようになります。このようにして結ばれた友達は、同じ霊界に行くようになるとき、「私」も彼についていくことができます。「私」が常にそのような関係を結び、因縁が結ばれたならば、その友達が行った霊界に「私」もついていくことができるというのです。なぜならば、彼が「私」を相手にすることを何よりも好むようになれば、「私」の足りないところを補い喜ぶことができる、主体の前に進み出て相対的位置を決定することができるためです。

 それで、良い師、良い友達を求めるのです。良い師と親しくし、授け受けしながら喜ぶことができる基準にさえなれば、その師がどんなに立派であっても、その師が占有することができる栄光の位置に同参することができるからです。このような体 恤的な環境を発展させていきなさいというのです。

 皆さんが村に入っていけば犬がほえますが、そのほえる声を何も考えないで聞けば、鳴き声はすべて同じです。その「わんわん」とほえる声は同じですが、霊的な雰囲気を中心として、神様が共にあるという立場から聞いてみると、それが千態万状に異なって聞こえます。村でほえるその犬が、金持ちの家の犬なのか、貧乏人の家の犬なのか感じが伝わってくるというのです。滅びる家の犬がほえる声を聞くと、気分が悪くなります。しかし、善なる家の犬がほえる声は良く聞こえ、そのほえる声に酔いしれるようになります。気分が良いというのです。

 また、赤ん坊が泣いても、その赤ん坊が、繁栄する家の赤ん坊かそうでないかということを、そのような習慣的な立場から聞いてみれば、一遍に知ることができるのです。ちらっと聞いてみれば、「ははあ、あの赤ん坊は何で泣いているのだな」と、それが伝わってくるというのです。そのように伝わってくる感じが合っているか確認してみながら体験をすれば、徐々に的中率が高くなっていきます。そのようにして感度を高めていかなければなりません。

◆善悪は生活の中で決定される


 善悪というものは、思いの中で決定されるのではありません。それは生活圏内で決定されます。天国と地獄は皆さんの観念の世界で決定されるのではなく、生活舞台で決定されるのです。これは重要なことです。

 それゆえに、善なるものなのか悪なるものなのかを分別できなくては、天の道を行くことができません。先生が間違いない、ということは間違いありません。このような何かがあってこそ、将来、人が知らない大きなこともすることができるというのです。

 それをどこから育てていくのでしょうか。生活で育てていかなければなりません。体 恤信仰が重要なので、体恤信仰を育てていかなければなりません。そうしようとすれば、自分と関係した人を絶対にそのまま送り返しては駄目なのです。その人に対する前よりも、プラスとなるようにしなければなりません。その人が私を攻撃したとしても、プラスとなったという条件を残しなさいというのです。そうすれば、私はいつでも商売をして、損をせずに利益を残すというのです。こうして、その人が私を利用しようとしていて目的がそれる時には、その人に奪われたものすべてを再び取り返すことができるのです。

 主体と対象が一つとなるときには、その結果は主体と対象のものとなります。神様が主体となり、私が対象となれば、悪なる人に絶対に支配されないというのです。どんなに悪い人がいるとしても、その人の背後には、その人を後援する先祖たちの善なる功績が残っているのです。それゆえに、善は善なりに、悪は悪なりに奪ってくることができます。このようなことが、私たちの生活の背後を中心として起こっているということを、皆さんは知らなければなりません。

◆心を純粋にして最初の感じを見極め心霊を開発せよ


 ゆえに、一日の生活をそのようにし、接することには何気なく対してはいけないのです。それはすべて、天が実際の生活を中心として天国を成すための一つの材料であり、一つの教材として私に接近させてくれるものです。そうであるほど、それを良い結果として昇華させることができる主体的な自我をどのように発見するか、ということに力を注がなければなりません。

 それを発見するためには、皆さんの感じ、その最初の感じを父の前に常に相談し、共鳴体とならなければなりません。心を開け放ち、昼夜を問わず、いつでも天に対することができるそのような基準にさえなれば、必ず霊波が来るというのです。

 私たちはアンテナと同じです。ゆえに、純粋なアンテナのような立場に立って、霊界の波長を感知することができなければなりません。霊界は常に霊的な波長を送信しています。したがって、私が何かのことをするときにおいて、必ず関係を結んでいるので、どんなことが主体と対象の前に、必要な二重目的の価値となるのかならないのかということが、おのずと分かるようになるのです。

 それを皆さんが、最初の感じを通して分析し、発展させることに努力すれば、自然と自分自らが実際の生活に神様を迎えて生きるようになります。観念的な神様でなく、生活的な神様として侍って暮らせば、この険悪なる世の中で初めて、堕落しないで天国に適した人格を完成することができるのです。

 祈祷を通して、神霊の役事を通して、恩恵の基準に行けるかもしれませんが、それは霊界から霊人たちの協助を受けて成されることです。しかし、本来私たち人間は、生命体だとか生霊体を成すようになっています。私自体に霊があるというのです。ゆえに、霊力を中心として霊の作用を開発してさえおけば、霊人たちが指導してくれなくても、私自体の生霊体において感知することができる能力が生まれてくるのです。

 このようにある基準にまで達するようになれば、神様が悲しまれるとき、私にも形容することができない悲しみが伝わってきます。ある人に会ってから別れて送るとき、言葉に表せない悲しみを感じるようになれば、その人の行く道は、祭物の道でなければ、神様が哀れまれる道です。二つのうちの一つの道であることに間違いありません。そのようなことを実際に感じ、生活圏内で刺激を受けることができる立場に立った人であってこそ、体 恤的な人です。

 それゆえに、体恤信仰というものは霊界から協助してするというよりも、生活圏内で鑑定し、発展させていかなければなりません。自分が被害を受けることなく前進的な信仰過程と生活過程を具備できる人は、間違いなく神様が共にあらざるを得ません。そのように発展した人には、教えてあげれば間違いないので、その人が願わなくても神様が訪ねてこられるのです。

 その反面、祈祷だけして行動できない人には、神様が訪ねてこられても、また離れていくのです。それゆえに、体恤的信仰の基盤を私たちの生活圏内で立てることが、何よりも重要であるということを知らなければなりません。

















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訓教経(下)011



文鮮明先生のみ言集

訓教経(下)



真の人々


一九七一年二月十一日
韓国の麻浦教会 『文鮮明先生み言選集第四十巻』


 きょう、この時間にお話しする内容は「真の人々」という主題です。

◆人々は自分を中心として善し悪しを判断する


 世界中のすべての人々は誰彼を問わず、個人を中心として見ても、全体を中心として見ても、自分を尊重視しないで生きている人は一人もいません。良かったり悪かったり、悲しかったりうれしかったりするような事情を語るとき、第三者を中心として語る人はいません。

 「良い」と言うとき、その中心は誰かと言えば、自分自身なのです。あるいは「悲しい」と言うときも、その中心は誰かといえば、あくまでも自分自身だというのです。その自分というものがいつも主体となり、自分の生涯における幸か不幸かを左右しているのです。このような問題について考えてみるとき、その「自分」という位置が正しい所に立ったならば良いのですが、そうでなく誤った所に立って「良い」とか「悪い」とか言うのであれば、その一生は悲惨なものになるしかないのです。

 もし、歴史的なある「善」があって、悪を批判することができ、真実でないものを除去することができるとするなら、その力は、真実でないものは受け入れないで、除去する作用をするはずです。自分を中心とした主体的な立場で善し悪しの判断を下す立場にあるときは、「真」を擁護できる宇宙的な力は、自分に平安をもたらすのではなく、むしろ反対であり、相反する力として作用するでしょう。

 人間は自分が「良し」とする場に立つようになるとき、「良し」とするその場が真の意味で良い所なのか、そうでなければ悪い所なのかという問題については考えません。ただ、自分自身を中心として一日を生活するとき、すべての人々が日常的に考えるのと同様に「このようなことは、こういう時に良いのであり、あのような時には悪いのだ」と、漠然と判断する立場にあるというのです。しかし、このように漠然とした主体性をもって判断してはならないのです。

 私は、ある位置関係の中心にいます。ある社会団体ならば社会団体も、必ずある中心に侍り、関係をもった環境が連結されて、一つの社会団体を形成しています。国家の一つの中心に侍る国民たちは誰もが、ある地域ならば地域、ある環境ならば環境で、その位置と置かれている立場を必ず設定しているのです。

 その中心を基準として、それが南の方なのか、西の方なのか、あるいは東の方なのか、北の方なのかという方向があるでしょうし、その次には、それが中央からどれほどの距離に位置しているのかという問題が必ず設定されているでしょう。そうしてこそ、そこで自分が主体と関係を結ぶとき、その関係が正しい関係となることができ、四方が公認する関係となることができるのです。

 私たち人間自体について見るときにも、私自体が中心的な立場で一日一日の生活を営む中にあって、良いこと悪いこと、あるいは善なること悪なることを批判しているのです。このような立場で考えてみるとき、今日、ある「真なる中心」があるとするならば、その中心に対して私がどんな方向と内容を中心として良い悪いと判断しなければならないのでしょうか。これは、簡単な問題ではありません。

◆真の人の標準


 自分が国家に代わる中心的な立場で、真なる姿で主体性をもっているという自信をもって自らを判断するとしても、それがその国において果たして「真なる中心」となることができるのかということも問題になるのです。さらには、世界を中心として見るとき、世界には数多くの国があります。数多くの国家は経てきた歴史が異なるため、形成された文化や環境が異なりますが、各々その国家の環境を中心とする主権者がいます。しかし、その主権者がその国を代表しているからといって、彼がその国の「真なる中心」となるのかというとき、それもそのように認めることはできないのです。このように個々の国家を中心として見ても、その一人の主権者を真なる中心存在であると認めることができないとすると、今日、全世界について見るときも同じなのです。

 私たちの人生を中心として、「真なる中心」になり得るのは、どのような人なのかと考えるとき、私たちが現在常識として知っている世界的に有名な人、あるいはある学問的な分野において世界的な権威をもった人だといっても、彼が本当の意味で「真なる人」なのかと考えるとき、これも問題になるのです。天と地において真なる人生として「これが正しい、これが間違っている」という一つの標準的で、中心的でまた価値的な存在は、どのような存在なのかと考えてみるとき、これは深刻な問題なのです。

 ある学校の学生たちの中で、最も真なる学生は誰だというとき、それはあくまでもその学校での話なのです。その学校について見るとき、そこには過去もあり、未来もあります。それなら、その学校で現在最も真であるという学生が、過去も代表することができるのでしょうか。現在の数多くの学校の学生たちの中で、最上を行く中心となることができるでしょうか。ひいては、未来の数多くの学生たちの前に中心になることができるだろうかという問題について考えてみるとき、自信をもつことができないのです。

 また、ある人に対して、「あの人は私たちの村だけでなく、我が国の誰であっても真なる人であると認めることができる」と言うとき、果たしてその人が、過去を代表することができるのか、現在を代表することができるのか、また未来を代表することができるのか、という問題につながっていくのです。

 それでは、一つの真なる主体になろうとするならば、どのようにしなければならないでしょうか。きょう一日だけ主体となることを願う人は誰もいません。真なる主体というのは、きょうだけでなくあすも変わることがなく、未来と連結することにおいても相反したり、遮られたりすることがあってはなりません。真なる存在とは、今日の現実を代表しても真とならなければならず、未来を代表しても真にならなければなりません。ここでいう未来とは、時間的な限界を超えて無限の世界までを指しています。

 このような問題について考えるとき、私たち人間が真になるというのは、どこに標準をおいて言う言葉なのでしょうか。それ自体も私たちは知らなければなりません。今、世界には数十億の人類が生きています。そして、各国ごとに主権者がいます。その主権者の中で、数十億の人類全体を代表できる真の主権者は誰でしょうか。主権者というのは、その国の民族性によって異なります。その国が通過してきた歴史過程、その国の文化的背景や、風習や、環境によって主権者の立場が変わってくるのです。その主権者が唱える政策とか、思想的な方向が歴史の発展とともに変化するというのです。このような漸進的な発展現象を私たちは、歴史過程の中に探し出すことができます。

◆人間の感情は時間と環境の変化によって変わる


 私たち人間は誰でも、真なる人になることを願っています。皆さんは良心の呵責がなければ、誰に対しても堂々とした態度をもって接するようになります。「私が何を間違ったのか」と言って、堂々とその環境において自らの立場を主張するのです。自分の立場を否定すれば、否定するその条件と闘うのです。それでは、そのような立場で主張するその場が、果たして歴史が保障し、時代が保障し、未来が立証できる真なる立場であるのか、という問題になってくるのです。

 一日に関していえば、朝があって、昼があって、夕方があって、夜があります。ところが、朝の気分と、昼の気分と、夕方の気分と、夜の気分は異なります。その人自体は同じであるのに、感じる感情は変化するのです。

 太陽が朝、東の空に昇るとき、その光明な光を眺める気分は、夕陽を眺める時の気分とは違います。その時の自分の心と、自分のすべての感情は、その太陽とともに変化していくのです。自分自体は変わらず、また私の姿は変化することはないけれども、環境の変化によって自分の感情が変化することを感じるようになります。

 昼ならば昼を中心として異なり、夕方ならば夕方を中心として異なり、夜ならば夜を中心として異なります。また、普通の環境で感じる感情と、名勝地に行って感じる感情とは、異なるのです。あるいは山頂で感じる感情、山の谷間で感じる感情、平地で感じる感情、荒野で感じる感情は異なります。

 このようなことから、自分を中心として絶対視し、良い悪いを判断することのできる主体性を主張したがるその人が立っている場所と、その根がどこにあるのかということが問題になるのです。

 人が、今日のこの時代に生きているといって、突然、飛躍的な存在として生まれたのではありません。そこには必ず歴史性があるのです。それは否定することはできません。過去から歴史性を帯び、きょう現在の自分という存在が形成されたのです。自分という存在について考えるとき、ここには必ず自分と関係している世界があるのですが、その世界を抜け出すことはできません。さらには、その因縁をもつ世界を否定することはできません。

 「私」という存在は、必ず父母の因縁に従っていくようになります。また、私を中心として見るとき、ここには親戚が連結されています。兄弟の因縁を中心として、親戚という縁が形成されているというのです。その因縁を広げていくとき、それが一つの氏族となり、民族となり、国家となり、またもっと広げていくと世界になるということを知らなければなりません。

 それで自分を主張するときは、そういう因縁を否定し、そういう関係を否定する立場で主張するのではなく、その因縁と関係のある席上で主張しなければなりません。

◆千態万状の人間の考え


 善なるものとは何であり、悪なるものとは何であるのかという問題を考えるとき、「善とは何であり、悪とは何であるかなど知って何になる。そんなことは宗教家たちが言うことではないか」と言う人々がいるでしょう。また、「今晩先生が語られる話も同じだろう。どうせ、ほかの牧師の話も同じだ」と話す人もいるかもしれません。

 ところで、人間にはどうして善だけが必要であり、悪は必要ないのかということが問題となります。皆さんが生活習性として知っているように、「泣くことが好きな人がいれば、手を挙げてみなさい」と言えば、「そんなことを尋ねる必要があるのか。そんなこと尋ねるなんて、おかしな人だ」と言うでしょう。ただ顔をしかめて「ああ、自分は死んでしまう」と言いながら生きるのが好きな人がいるのかというとき、そのようなことを好む人は一人もいないのです。しかし、「笑って歌いながら暮らすのが好きな人は手を挙げなさい」と言えば、「手を挙げるな」と言っても挙げるようになっているのです。

 それでは、どうして泣くのは悪く、笑うのは良いのかという問題を考えてみるとき、これは千態万状なのです。甲という人は秋の冷たい風が吹いて何だか物寂しいとき、前庭の柿の木に柿が黄色く熟し、葉も黄色く紅葉していてその風景と交わるとき、冷たい風が吹いて柿の木の葉がばらばらと落ちれば、それを見ても涙を流すというのです。それを見て悲しむ人や、心が痛み涙する人がいるというのです。

 神様は詩的感情が豊かで、人間に柿の葉が落ちるのを見て、人生のわびしさを考えてみるように意図されたのです。「人生とは、最後になればあの落葉のように散っていくのだなあ」と言って人生の無常を感じて涙を流す人と、自分の我を通して夫から殴られ痛くて泣く人とでは、千態万状の差があるのです。

 夫にむちで打たれて泣くのにも、千態万状の差があります。夫人たちの中には、夫から打たれて泣きながら「ああ、悔しくて死にそうだ。私はこんな目に遭うために嫁に来たのか」と言う人もいるでしょうし、その反面、むちで打たれながらも「自分はそれでもかまわないけれど、あなたは私にこのようなことをしてうれしいはずがないでしょう」と言いながら、夫のために同情の涙を流す人もいるでしょう。このように、涙を流すのにも種類が異なるのです。

 例えば、三日間飢えるしかない、とてもわびしくて、貧しくて、かわいそうな家庭があるとしましょう。食べる物がなくて、三日間も食べないでいなければならない立場は、どれほど哀れでしょうか。その家庭には息子もいるでしょうし、父親もいるでしょうし、母親もいるでしょうし、孫もいるでしょう。十人家族であれば、十人全員が三日間飢えたのですから、不幸の中の不幸であると感じるでしょう。そうかといって、その家族が三日間だけ食べないでいればどうにかなるという希望があるわけでもなく、そのまま死んでしまうかもしれないとしたら、どうでしょうか。どうすることもできないでしょう。

 しかし、そこでも涙の色が、家族ごとに全部異なるのです。修養をたくさん積んだおじいさんは、「自分が八十余年の生涯で、腹のすいた人の事情が分からなかったけれど、このように三日間御飯を食べることのできない境遇に立ってみて、人生にこのような谷間もあるんだな。ああ、本当に良い教訓を体験した」と言いながら、そのような立場でも立派な考え方をすることもあるでしょう。

 そうかと思えば、おばあさんはそのようなおじいさんを見て、「このじいさん、気が狂ったのか。食べる物がなくて死にそうなのに、黙って座って何を空想しているの」と言って、大騒ぎをするかもしれません。また、その他の家族たちも、各自いろいろな思いをするはずです。

 その十人すべてを並べると、そこには世界的な思いがみな開かれるのです。おなかがすいたというのはみな同じ事情なのですが、その内的な深さや、模様や、事情は十人十色です。

 外形的に見るときは、全員が涙を流して嘆きと絶望の中で、今や最後の時だと号泣しなければならないような事情であるけれども、ある人はかえって、そこで人生の深い谷間の味、人情の深い因縁を見つけることのできる一つの良いチャンスだと考えるでしょう。普通の社会では発見することのできない深い情緒的な流れが、ここで根を下ろせる唯一の貴いチャンスとして消化する契機になるかもしれません。

 しかし自分がそのような立場にあるときに、「生きていられない」と言って身もだえし、それを呪いと恨みのもとだと考え、忌み嫌う人もいるでしょう。このように千態万状だというのです。

◆真の本質


 それでは、真なる人とはどのような人でしょうか。真というのは、流れる水辺にあるものではないということを皆さんは知らなければなりません。水がどんなに勢いよく流れているとしても、磐石の角を一瞬にして丸くするようなことはできません。千年の間ずっと水が流れ続けて、角が削られて丸くなるかもしれませんが、一日にして丸くなるのではないというのです。

 「流れる水と磐石のうち、どちらになるか」と皆さんに聞いたならば、「磐石になる」とは答えても、「流れる水になる」と答える人は誰もいないでしょう。磐石がなぜ良いのですか。揺れることがなく、変わらないからなのです。どんなに歳月が過ぎても変わることがないからなのです。このように考えてみるとき、貴くて良いのはどちらでしょうか。一度良ければそれが流れてしまうのではなく、永続するのです。永遠に持続することを願うのが、人間が願う「真なる幸福」なのです。

 私たちは誰でも、真なる人になることを願っています。ところがその真の人になろうとする思いは、最初から出発したのでしょうか、あるいは中間ぐらいから出発したのでしょうか。または、一番最後に出発したのでしょうか。それを探してみようというのです。私が真の人になろうとする前に、まずは真の人を探してみようというのです。

 歴史時代の中における真の人とは誰なのかと探していくときに、今日という現在だけで探すことはできません。今日は歴史の産物です。過去の真の人とは誰だったでしょうか。また今日の真の人とは誰でしょうか。そして、未来の真の人として残り得る人は誰でしょうか。それらを知らずして、真の人になることができますか。それを知らない人は、どんなに「真の人だ」と主張しても、真の人にはなれないのです。「未来の真の人はこうでなければならない」と言うことができなければならないのです。

 真とは、地域的な条件によって変わったり、環境的な支配を受けるものではありません。それで人々は、金や純金を好むのです。皆さんも純金が好きではないですか。黄金の塊が好きではないですか。金の中でも純金を好むというのです。なぜ純金を好むのでしょうか。それは、環境に支配を受けない超越的な価値をもっているからなのです。過去、現在、未来の環境に支配を受けない超越的な所にあるというのです。過去にもそうであり、現在にもそうで、未来にもそうだというのです。悲しい人が見たとしても、その輝きであり、うれしい人が見ても、その輝きは変わらないのです。昼でも夜でも、変わることがありません。

 「真」であるということは、その属性を追求してみるとき、まず変化してはいけません。変化するものは宝物となることはできません。人造のダイヤモンドと本物のダイヤモンドを比較してみれば、むしろ人造ダイヤモンドが傷もなく、ひびも入っていない場合があります。それでその場では、人造のダイヤモンドのほうがより人気があるのです。しかし、それは時によって変色することがあり、形が変わることがあるのです。しかし、本物のダイヤモンドはそうではありません。環境の条件に支配を受けない、超越的な内容をもっています。

 それで、真の本質を打診するとき、まず変わるものであってはならないのです。その次に、「真」のというのは、どんなに真であるとしても、それが一年ぐらいすればなくなるとしたならどうでしょうか。真の本質には、必ず不変性とともに永遠性がなければなりません。不変性もなければなりませんが、永遠性もなければならないのです。

 また、その次には唯一性がなければなりません。言い換えれば、絶対的でなければならないというのです。絶対的とはどのようなことでしょうか。それだけが主体であるということなのです。それだけが主体であるというのは、どういう意味でしょうか。すべての比較の源泉になり得るということです。言い換えると、正しいとか間違っているということを判断することのできる、決定的な立場であるということなのです。そうではないですか。純金を標準として、偽りの金に純金が何パーセントだと言うではないですか。それだけがもっている場は、二つではなく一つなのです。

 「原器」というものは、フランスの国際度量衡局にたった一つしかありません。世界の数多くの国家で、長さや距離を測定するある道具を作り、「自分の物が良い」とどんなに大声を張り上げて言っても、それをメートルの原器で鑑定したとき、何千分の一、何万分の一でも違っていれば、それは偽物だというのです。「そのくらいかまわないのではないか」と考えるかもしれませんが、厳格に問い詰めれば、何億万分の一でなく、何十億万分の一だけでも違っていれば、それは偽物だというのです。

◆幸福の基準


 それでは、統一教会自体も、真の人、真の宗教人として結びついているか、どうかが問題です。それゆえ、真とは何であるのかをはっきりと知らなければなりません。「真の人」とは、どのような人でしょうか。今日この地上でどんなに優秀な人であったとしても、すべて信じることはできません。世界的な技術者がいるといっても、彼はその分野においては専門家かもしれませんが、人間全体を代表した中心的価値と比較してみるとき、中心となることはできません。「真だ」と言うことができないのです。

 こういう観点で、過去、現在、未来を統合し、真に近い人を推測して見るとき、偉人は真の人となることはできません。聖人は、それでも次元が高く、真の人の部類に入れるだけのことはあります。なぜですか。その人々の主張は、世界的だからです。良い人生を送るとしても、自分だけがそのように生きるのではなく、世界全体が一緒に良い人生を送ろう、幸福に生きるとしても、全体が幸福に生きようというものなのです。

 全体が幸福になろうというときに、自分はじっとしていて、他の人々が幸福になったなら、その時にこっそり入って幸福になろうというような人ではないのです。受動的な人ではないのです。全体が幸福になるにおいて、自分が主導的な役割を果たそうという人なのです。そのために、自らの生命をその目的に投入し、生死を懸けていった人々が、聖人であるということを皆さんは知らなければなりません。

 見てください。ソクラテスは聖人の部類に入っていますか。ソクラテスは、「哲人である」とは言い得ても、聖人にはなり得ません。彼は、「知識と知恵の王子」とは言えるかもしれませんが、「生命の王子である」とは言えないのです。知識と生命とは、別個の問題なのです。今日、知識面において唯物論で生命の価値の有無を主張する部類がありますが、そのような主張は過ぎ去っていくのです。審判を受けなければならない内容なのです。

 今日は、知識を中心としてすべての人を判断するでしょう。大学の総長であれば一番である、というようにです。今後は、知識の比重を中心として人間を判断する時代は過ぎ去っていくのです。それでは、何が貴いのですか。人間にとっては、生命が最も貴いのです。生命が脅威を受けるようになるときが、最も不幸なのです。そのような不幸の場から解放されるときが、最もうれしいのです。

 幸福の基準には、何が左右するのですか。皆さん、知識だと答える人がいますか。幸福の主軸は生命が左右するのです。生命が、より価値的な内容をもっているというのです。その生命の価値が、国と民族を超えて、世界人類を超えるようになれば、その人は聖人となるのです。そのように考えてみると、聖人の中に博士という人はいないのです。そうではありませんか。聖人は、「博士」という言葉すら知らないのです。

 聖人たちは、人ゆえに死んだのであって、知識ゆえに死んだのではありません。それは間違いありません。国のために死んだのではありません。ある国を懸けて死ぬのではなく、真の人間を懸けて死ぬというのです。そのことを皆さんは知らなければなりません。真の人間を懸けて死ぬのですが、真の人間の知識を懸けて死ぬのではなく、真の人間の生命を懸けて死ぬというのです。聖人は、それが違うのです。

◆聖人の道理


 聖人は、何について主張したのでしょうか。聖人が強調した内容は、知識ではありません。より価値があり、より甲斐のある生命を中心とし、国家的ではなく、世界的な宇宙を主管することのできる超環境的な生命の価値を描きながら、それを実践したのです。周囲の環境の中で生命を失うかもしれない中で、世界的な国家を願い死んでいったならば、その人は聖人となることができるのです。

 したがって、ソクラテスは聖人の部類には入らないのです。今日の思潮は、何が動かしているのですか。哲学が動かしています。しかし、哲学は生命とは関係がありません。皆さんは、それを知らなければなりません。哲学は、生命を左右できる根源的な立場にはなれません。生命の対象的な立場に立つことのできる知識の起源にはなるけれども、生命の内容を決定することのできる存在にはなり得ないのです。したがって、哲学は生命を救うことができないという結論を下すことができるのです。

 それでは、聖人たちは何をもって生きたのでしょうか。何かの知識をもって生きたのではありません。もちろん知識を教えてはくれました。人生の道理の一面を教えてはくれましたが、その内容は異なります。

 知識は、知れば知るほど占領していくのです。今日の西欧哲学は、占領的な哲学です。知れば知るほど占領していくというのです。たくさん知れば知るほど自分を超えて、その版図を世界化させようとするのです。何を中心としてですか。自分を中心としてです。

 「世界のための道を追っていく」と言いますが、それはどこまでも自分自身を中心としてなのです。それゆえ、その結果は必ず唯物思想に結集してしまうのです。自分が中心だというのです。哲学は、人生の生命問題を根本的に解決できないために、対象的な価値には属するかもしれませんが、根本的な決定要因にはなり得ないのです。

 聖人たちは、そのようなことを知っていたために知識を追求しませんでした。知識を探求しなかったのです。知識を探求したとしても、平面的なことだけなく、一方的なことだけでなく、両面的な面で探求しようとしました。

 それゆえ聖人の道理は、自分が中心となってはいません。ところが、哲学は何が中心になっているのでしょうか。学(学問)ですが、その学を主張する人を中心としています。これが問題です。聖人は主張はしますが、主張するその人が中心ではないのです。これが違います。

 哲学というのは、主張した人が、いつも問題になるのです。マルクス主義であれば、マルクス主義を主張した人が、主動的な役割をするのです。その思想圏内に全体を融合させるために、世界へと発展させて出ていくのです。そこでは、中心は誰かといえば、人間なのです。人間を中心とした環境的な内容を結束させるにおいて、内在的な作用をするものが、今日の哲学思潮です。

 しかし、聖人の道理はそうではありません。聖人の道理の中心は、人ではなく神様なのです。ここが違うのです。したがって、神様を紹介することのできない人は、聖人の隊列に入ることはできないのです。

 したがって、皆さんは聖人と哲人がどのような人であるのかをはっきりと知り、区別することができなければなりません。哲人は、人間の五官を中心として、本体論や認識論を主張しながら今まで来ました。それはすべて、人間を中心として話していることであり、人間の限界点を超えることはできないのです。

 孔子の教えを見れば、漠然とではありますが、天を中心として教えています。「善のために生きる者は、天が福をもってこれに報い、不善のために生きる者は、天が 禍 をもってこれに報いる」と教えています。この言葉は、善なることをする者には、天が福でそれに報い、悪事を働く者には、天が災難でこれに報いるという意味です。天が介在しているというのです。しかし、具体的なものではありません。具体的な時代に、具体的な神の摂理を追求できる時が来れば、具体的でないものはみな過ぎ去るようになります。

 釈迦も漠然とではありますが、天学に対する膨大な内容を紹介しました。イスラム教は、総合宗教です。それもやはり天を中心として、神様を中心として出てきたものです。イエス様もやはり、神様を中心として来られたのです。彼の教えは、神様を抜きにはしませんでした。ここが違うのです。その教えの中心は人倫ではありません。天倫を中心として道を広めようとしてきたのです。

 では、「天」とは何でしょうか。天を中心として教えて進めば聖人となるのですが、その聖人の道理は何に従おうとするのでしょうか。人意の道理に従おうとするのではなく、天意の道理に従おうとするのです。

 それでは、絶対的な神様がいるとすれば、その神様が願うみ旨とは何でしょうか。一つの国だけを救うことでしょうか。そうではないのです。そのみ旨は世界的なものです。それゆえ聖人の教えは、世界的でなくてはならないという結論が出てくるのです。

 このような観点で、宗教人は天倫を中心として歩まなければなりません。皆さんが知っているように、人倫と天倫があります。人倫道徳という問題は重要ではありますが、物質だけでは駄目なのです。人倫があれば人情があり、天倫があれば天情がなければなりません。

◆幸福は情緒を離れてはあり得ない


 幸福は、情緒的な分野を離れてはあり得ないのです。幸福とは、相対的な事柄を尊重する場でのみ味わえるものであり、独りでは幸福を味わうことはできません。「ああ、私は百万長者であるから独りであっても幸せだ」などと言う人は、狂った人です。必ず情緒的立場を議論することのできる相対条件が必要です。自分が天下を得たとしても、どんなに文化的な生活をしたとしても、必ず相対的要件を中心として、情緒的な感情が通じてこそ価値があるのです。もっている物がどれほど多いとしても、そこに情緒的な内容が欠如していたとすると、それは価値がないのです。流れていってしまうのです。

 それゆえ、人倫道徳にも情緒的な問題がなければなりません。今日人倫を中心として見るとき、私たちは人情の内容をくまなく感じ、感知することのできる環境に生きていますが、人倫の根本というのは人情ではありません。人情が根本ではないのです。情の動機は、人の中にあるのではありません。

 私という存在は、あくまでも結果なのです。その動機とは何であるかと言えば、天なのです。天倫が人倫の動機となり、天情が人情の動機となるのです。ところが、天情について教えてくれた聖人は、多くありません。それゆえ、天を中心として情緒的な問題を教えてくれた内容いかんによって、聖人の価値を決定することができるのです。

 皆さん、幸福な人とはどんな人なのかを考えてみましょう。男性がいれば必ず女性がいなければなりません。それは絶対的です。夫婦がいれば、息子、娘がいなければなりません。それでこそ、人倫を中心とした道徳観念が生まれてくるのです。道徳観念というのは、一人で成立することはありません。前後、左右、上下の因縁を結んでいくとき、道徳観念が成立するのです。

 ある老夫婦がいるとすると、「私たち二人は仲睦まじく出会ったのだから、二人だけで仲睦まじく生きて死んでいったらいい」。そうですか。それでは滅びてしまうのです。そのようにして死ぬのであれば、自らの未来を考えて、しくしくと涙を流すことになります。ですから、息子、娘がいなければなりません。何人ぐらいいなければなりませんか。「息子、娘が多ければ何だと言うのだ。息子一人に、娘一人で十分だ」と、そのように考えますか。それとも、大勢いるのがいいですか。

 木に枝が多いのがいいのですか。それとも、少ないのがいいのですか。良い材木を手に入れようとするのに、枝が少ない木から良い材木が得られると思いますか。枝が多いほど材木が得られる確率が高くなるのです。

 ところが、今私たちの生活が苦しいから、仕方なく息子、娘を少しだけ生もうというのです。食べる物が天地の間にたっぷりとあれば、息子、娘を大勢もちたいと思うのが人間の欲なのです。「そうでない」と言えば、うそになります。それは結局、どういう話なのかといえば、多いのが良いということなのです。

 それゆえ、人倫を中心として見るとき、人情というのは一人で成立するものではないということです。人情というものは、前後、左右、上下の関係で、同僚も多くなければならないし、豊かな情緒的基礎がなければならないのです。それでこそ「幸福だ」と言えます。

◆天情を教えてくれたイエス様


 それでは、人倫と人情だけでよいのでしょうか。駄目です。そのため、聖人たちは天倫について教えてくれたのです。その次には、天情について教えてくれたのです。ところで、今まで生まれて死んでいった聖人たちの中で、天情を教えてくれた人は多くありません。唯一、イエス・キリストだけが天情を教えてくれました。

 イエス様は、三十代の青年になるまで大工の助手をしていました。服を着たとしても、皆さんの着ているような服を着ていたと思いますか。麻や木綿の布地で作ったユダヤの国の服を着ていたことでしょう。そのような青年の身分でした。皆さんはよく知らないでしょうが、イエス様の両親がイエス様をかわいがって育てたと思いますか。義父のひざ元で育ったということを皆さんは考えなければなりません。イエス様は、義父のもとで大工の助手として働きながら、哀れな状況のもとで育ったというのです。三十歳まで結婚することもできなかったのですから、どんなに哀れなことでしょうか。

 しかし、イエス様はとても肝っ玉の大きい方でした。多くのことを考えてこられた方です。「私は今後何をすべきなのか」と考えたのです。その答えは、世界で一番の人の花婿にならなければ、息子になろうということでした。その考えは、素晴らしくありませんか。皆さんも、できないからそうですが、現在の大統領の姪の花婿になっただけでも大騒ぎするでしょう。

 その国の主権者と、情緒的に最も近い立場に立とうとするのが民衆の欲望です。そのようなことを考えるとき、イエス様も天宙の大主宰であられ、天地で最も立派な方があれば、その方を他の人に譲歩することはできないと考えたのです。

◆真の起源と真の人


 もし、ここに年を取った人と、若い人の二人が座って、お互いに自分が真の人であると言い合いをしたとしましょう。私たち人間の立場で見ると、同じ値であるならば年齢の多い人を真の人として迎えなければならないのです。

 しかし、真なる人の顔を一日でも長く見たいと願うのに、年齢が高い人は早く死ぬので困ると条件をつけるときには、若い人であってもいくらでも迎えられるでしょう。仕事をしても若い人がより長く仕事をするという理由で、若い人を迎える要因もあるのです。このように考えてみることもできるのです。

 では、どこから真が出発しなければならないでしょうか。絶対的な神様から出発しなければなりません。絶対的な神様を中心として、天倫を中心とし、人倫の内容を提示した天情と人情が対面できる結合点を見つけなければならないのです。その場は、神様が喜ぶことができ、私たち人間が喜ぶことができる場なのです。その場を探して出会うようになるときには、人間の幸福であり、神様の幸福となるというのです。したがって、天意と人意が合わさって、天倫と人倫が合わさって、天情と人情が合わさる時にだけ、すべてが決定されるのです。

 それでは、真の人とはどのような人でしょうか。真の人は、唯一の神様を自分のものとして完全に占領した人です。神様は絶対者であられるので、神様を完全に占領するようになれば、絶対者にはなることができなくとも、相対的な絶対者にはなることはできるのです。

 「神様は絶対者である」と言いますが、神様御自身も一人では喜ぶことはできません。どんなに天下をすべて手に入れたとしても、一人「ほほほ……」と笑うことができるでしょうか。

 皆さん、世界で一番の大統領が部屋に一人座って、誰もいないのに笑っていたとすれば、何と言うでしょうか。しかし、小さな写真一枚でも、それを眺めて笑うならば、誰も何を言うこともできないのです。このように、相手があれば無限の価値を決定することができるけれども、相手がなければ何にもならないのです。神様も相手が必要なのです。ところが、神様が必要とする相手とは誰なのかといえば、人間しかいないのです。

 それでは、神様が人間に対して何をしようというのでしょうか。ただ眺めてばかりいるのではなく、一緒に暮らそうというのです。暮らすにおいては、愛しながら暮らそうというのです。そのようになれば、神様は父になり、私は息子になるのです。

 このような観点から見るとき、真の人とはどのような人でしょうか。歴史始まって以来、神様を完全に占領した人です。孔子、釈迦、イエス様のような方々も、神様を占領しようとしている途中で死んでいきました。完全に占領することはできませんでした。内容を発表しようとはしましたが、実践はみなできませんでした。完全に実践をして「こうだ」と言えるところまで行ったならば、真の人になるのです。

 それでは、神様だけ完全に占領すれば、それで終わるのでしょうか。違います。神様を占領するだけでなく、神様の中にあるたった一つしかない愛まで完全に占領しなければなりません。そののちに、人情と天情を自分の一身で結束させなければなりません。そのような人だけが、真の人間になれるのです。

 ところが、人間の間だけで真の人であると判定した人についていくとすれば、神様を占領でき、神様の愛を自分のものにすることができるでしょうか。できないのです。それを超えて神様を占領し、神様の愛を占領できる人であってこそ、真の人なのです。

◆真の人と天国建設


 皆さん、蜂が蜜の味を知ったならば、どのようになるのか知っていますか。蜂は、冬には、うまくいっても砂糖水しか口にできません。ところが、雪解けの時が過ぎて、春に蜜の味を知るようになると、どんなにしりをつかんで引っ張っても離れません。昆虫もそうなのに、ましてや神様の愛を中心として死ぬか生きるかという局面に、誰かが命を奪っていこうとしても、分かると思いますか。そのような見事な道があるのです。

 皆さんは愛し合うとき、三人ではなく、二人だけでいるのを願うでしょう。そのため、神様が私の心にいらっしゃり、私とは内外関係であるというのです。私たちの体は、神様の家なのです。

 このように考えてみるとき、人間の先祖アダムとエバとは、どのような人なのでしょうか。体をもった神様なのです。その心に、神様がいらっしゃるというのです。このように内的な主人と、外的な主人の二人が、お互いに万事が一致して、宇宙の平和の基準となり、幸福の絶対安定基準となり、そこから天下の幸福を測るようになっているのです。

 私たち人間の先祖が堕落しなかったならば、どのようになっていたでしょうか。実体をもった神様と内的な神様が一つになって、お互いが愛し合い、み旨が一致する場で生活していくのです。そうして死ぬようになれば、心の世界へと戻っていくのです。

 死ぬとはどういうことかといえば、心の世界へ戻ることなのです。神様と私たちが制限を受ける世界ではなく、無限の活動舞台を相続するために戻るのです。この体を脱ぐ時が、死ぬ時です。よって、死の恐怖を超越することができるのです。

 そういう場に立った人になってこそ、真の人となるのです。ところで、男性だけでいるのは駄目です。男性一人だけでは駄目だというのです。今まで、宗教の教祖の中に女性がいましたか。これからは、教祖の中に女性も出てこなければなりません。男性の教祖と女性の教祖が現れ、互いに自分のほうが偉いと戦うのではなく、二人が一つとならなければなりません。そのようにできる時が理想世界であり、天下が鼻歌を歌うことのできる出発の起源となるということを知らなければなりません。

 このように「真なる人」とは、神様の息子と娘となって、神様と内外の関係を立てて内外が一つとなった、そのような場に立った人なのです。「夫婦一心」という言葉があるでしょう。内外一心というのは、四位基台が一致することのできる一つの決定的な立場なのです。

 人倫と天倫、人情と天情で結束した真の人々によって、この地上に家庭が造成されるようになるとき、真の家庭が現れ、その真の家庭によって真の氏族、真の民族、真の国家、真の世界が現れるのです。真の個人が現れるだけでは、絶対に駄目なのです。

 今日、イエス様を信じる人々は、信仰を通して天国に行こうと考えています。しかし、イエス様の教えはそうではありません。それゆえ、地上に来られるのです。聖書を見ると、地で解かれれば天でも解かれるであろうとあります。イエス様も真の家庭を成し遂げることができなかったために、楽園にいらっしゃいます。天国に入っていくことができなかったというのです。

 本来、人間がこのような場で、善なる家庭を築き、生活をし、そのまま家庭全体が入っていく所が天国であって、父は地獄に行き、母は天国に行き、息子は地獄に行き、娘は天国に行ったとしたなら、そこが何の天国でしょうか。

 天国は、このように家族を率い、家庭だけでなく、法度に一致することのできる民族と国家全体が入っていける所です。今日、そのような国がこの地上に現れていないために、天の国もいまだに天国となっていないのです。

 それで、私たち統一教会では天国をつくろうというのです。神様の愛に一致した真の人々で成された家庭によって、氏族編成、民族編成、世界編成をして、神様を中心とする天国をつくり上げようというのです。この地上で天国をつくってこそ、あの世の天国に行くことができるのです。

 これを標準として生きていく人々だけが、初めて歴史上のすべてを超越した立場に立ち、勝利の権限を立て、天の前に、全人類の前に立つのに不足がないはずです。これが真の人として行かなければならない道である、ということを皆さんは知らなければなりません。



















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訓教経(下)012



文鮮明先生のみ言集

訓教経(下)



私たちの願い


一九七一年二月十二日
韓国の永登浦教会 『文鮮明先生み言選集第四十一巻』


 個人について見てみると、人はそれぞれ自分の家庭や職場で、自分が望む願いがあるのです。ところが、ここには個人の様々な事情があって、望むことはそれぞれ異なるはずです。そして家庭について見ても、家庭は父母を中心として動くために、親が計画したことが思いどおりにいくことが、その家族にとっての願いとなるはずです。

◆理想的な根拠地となっていないこの世


 このように、個人から世界に至るまで関連している人間にとって、その置かれている位置と立場の違いによって各自の願いも異なるのです。願いは互いに異なりますが、それが完全に成就されることを願っているのが、私たち人間の実情です。

 それでは、今日私たちが生きているこの世の中は、果たして私が願っている世の中でしょうか。果たして私は、自分が願っている世の中に生まれ、願いをかなえることのできる環境で生きているのか、という問題について考えてみると、今日私たちが生きているこの世界は、そのような世の中ではないということが分かります。この世に生まれて生きている私たちは、永遠なる幸福を味わうという立場とは相反する環境に置かれているということを、生活の中で常に感じることができるのです。

 職場ならば職場でも、様々な複雑な内容が一個人の自分と関係しているため問題が提議されるのであり、一つの家庭を中心として見ても、その家庭が一つの計画を立てていく過程で、果たして私たちが真の意味で願うことのできる家庭の基盤となり、理想的な家庭であると考えることができるのかといえば、そうなっていないという問題が提議されるのです。それゆえ私たちは、職場や家庭をめぐって望ましくない環境や、相反するすべての環境を除去しなければならない時に置かれているのです。

 また、社会団体を中心として見ても、その団体が現在この社会において、永遠に幸福を受けることができ、この社会で永遠なる希望の光だといえる団体であるのかというと、そうではないことを感じるようになります。

 大韓民国であれば、大韓民国自体について見ると、大韓民国は果たして国民たちが願っているような国でしょうか。言い換えると、大韓民国の環境が個々人に幸福をもたらし、私たちが願う平和や、あらゆる願いを成就できるようになっているのかというのです。そういう環境に整えられていないことを見ると、大韓民国自体も、永遠なる幸福の基盤であるとはいえないのです。

 この世界には多くの先進国家があります。その中でアメリカのような国を見ると、アメリカに住んでいる国民は、正に世界人類の羨望の的である、最高の先進国の国民であることは間違いありません。しかし、そのような環境であるとしても、果たしてその国家の環境が、国民が願う永遠の基盤であるといえるのかというと、そうではないというのです。そこにも必ず矛盾があり、相反することが介在しているのです。これが大きくは世界から、小さくは個人にまで連結しているのです。

 このような観点から、私という一個体を見ても、家庭を見ても、あるいは社会、国家、世界を見ても、私たちが願う理想的な環境の基盤とはなっていないというのです。この地こそ、私たちが永遠に住みたい所であり、この地こそ、私たちが願っていた所であるといえるのかという問題について考えると、この世界はそうではないということを切実に感じざるを得ません。

 ですから今日、私たちはより良い所を探すための希望をもって歩むのであり、それが正に私たちの人生なのです。

◆人間の願いと絶対者の願い


 人々は、「私」という存在がもう少しうまくいくべきであり、成功すべきであると願います。また、自分が置かれている環境の中で中心的なことをしようとし、さらには国家の中心人物になろうとします。世界的な学者や、政治家や、聖人になろうという各自の願いをもって生きています。ところがその願いは、現在自分が置かれている立場での願いではなく、現在の立場を離れた未来の願いなのです。現在より未来に、より高い願いをかけて生きているのです。それは、すべての個人はもちろんのこと、社会や国家も同様な立場です。

 私たちが生きているこの世は、世界人類が願っている希望と目的を成し遂げ得た終着点ではなく、それを成し遂げるための一つの過程なのです。最高の願いをかなえるための過程にとどまっているということを知らなければなりません。

 このように、私たち人間に願いがあるように、人間を創造なさった絶対者がいらっしゃるとすれば、その絶対者にも、やはり願いがあるはずです。個人に対する願いがあるのであり、家庭に対して、国家、世界に対しても絶対者としての願いがあるのです。大韓民国であれば大韓民国の国民に対して、絶対者としての願いがあるのであり、アメリカを中心とした先進国の権威と今の世界で与えられたすべての使命に関しても願いがあるのです。また、民主世界に対しても願いがあるはずです。

 ところが、個々人の願いが異なるといって、その願いが個人の願いとしてのみ残らなければならないのでしょうか。そうでなければ、世界人類が共に一方向を眺める願いとして残るべきでしょうか。もちろん、前後関係と高低の差はあるかもしれませんが、方向だけは一方向に、同じ道を正しく行かなければならないのです。もし、お互いに方向が異なる道を進んでいるとすれば、いかに自分の願いがあったとしても、理想世界とは関係を結ぶことができず、絶対者とも関係を結ぶことはできないのです。

 人々が置かれている立場はそれぞれ異なりますが、願いの終着点に到達することを願う心は、どこの誰に限らず、世界万民が共通してもっているのです。その願いの基準が、過去の人と、現在の人と、未来の人によって異なるのかということを考えてみると、もしそれが異なる場合には、真の幸福を迎えることはできないのです。

 その願いが絶対的な幸福の要素であるならば、過去の人が願ったことも、現在の人が願うことも、未来の人が願うことも、それは一つでなければなりません。その一つの目的、すなわち願いの母体とは、韓国人にだけ限られるものではありません。世界性を帯びて、過去、現在、未来の歴史性を超越しているのです。

 言い換えれば、ある特定の民族だけを基準とする願いではなく、氏族と、民族と、国家を超えた、普遍的妥当性をもった共通の目的と、共通の幸福の要因として、世界万民が追求することのできる終着点となる願いでなければならないというのです。そのようにならなければ、その願いは、人類が願う幸福になり得ません。

 それでは、その願いが人間の幸福だけのためのものであっていいでしょうか。人間だけ存在するのであれば、人間の幸福だけのための願いでもよいのです。しかし、人間以外に神様、すなわち絶対者がいらっしゃるとすれば、その絶対者の願いとは何でしょうか。もし絶対者の願いが、人間以外のものを中心とした願いであれば、人間とは何ら関係がないでしょう。しかし、人間と関係を結んでいる絶対者であれば、人間の願いと相反する終着点は願わないはずです。

 今日キリスト教徒の立場から見ると、神様の理想と願いもやはり、人間と次元が異なる立場では果たすことができないのです。あくまでも、神様の願いと人間の願いが一致できる立場に立ってこそ、神様の願いもかなうことができ、神様の願いがかなうことを願う人間の願いもかなえられるのです。それゆえ、その願いの成就に関しては、人間とは別途に絶対者だけが成就を願うのではなく、絶対者と人間が共にある立場で成就されることを願わなければなりません。このことを私たちは考えざるを得ないのです。

◆過去よりも現在、現在よりも未来が良ければ終着点に到達できる


 皆さん個人の良心についていえば、皆さんの良心は、どんなことでも最高のものを願うのです。良心は、大韓民国であれば大韓民国で一番になりたがります。さらには世界で一番になりたがります。たとえそのようになれない環境にあったとしても、心だけは一番になりたがり、世界を自分のものにしたがるのです。この世界よりも、もっと高い何かがあるとすれば、それとは関係ない立場に立つのではなく、高ければ高いほど、大きければ大きいほど、それと共に関係を結びたがるのが人間の欲求であり、人間の心であるということを否定できません。

 学生たちについていえば、自分の学校で最高の成績を出すのが願いなのです。過去から現在に至るまで、学校の歴史的な基盤を超えることができる、最高の成績を出したいと思うのが学生たちの欲望なのです。このように、最高の記録を出すことができる基準を中心として、学校は新しい歴史的な伝統が立ち、発展するのです。

 その最高の成績を修めることができる基準になる点数が何点かによって、その基準の点数が上がれば上がるほど、その学校は有名になり、発展するのです。十年前に勉強がよくできるある学生が最高の成績を修めたのですが、もし、その学生の成績の記録を現在までも破ることができなかったとすれば、その学校は発展する学校ではないというのです。すなわち、過去を回想する立場では、未来の新しい記録に向かって前進することのできる立場に立つことができないのです。そういう学校は発展しないのです。しかし、きのうよりきょうのこの時間がもっと良く、きょうこの時間より、あすがますます良くなるならば、その学校は無限に発展するのです。そのような学校になれば、その学校は大韓民国のすべての学校を代表することができるのです。それは、いかなる社会団体でも同じです。

 家庭を中心として見ると、家庭も同様です。ある家庭が、「私たちの家庭は、大韓民国で一番良い家庭になろう。父母を中心として愛によって生きる生活が、すべての家庭の標本となり、大韓民国の中心となることができる」と言うならば、その家庭は過去を振り返る家庭ではなく、すべての家庭の先頭に立って、今後、大韓民国に訪れる天運を受ける家庭となるのです。


◆自分を発展させようとすれば


 個人の欲望も同様です。人間は、世の中に貴いものがあれば、その貴いものを自分のものにしたがります。それが人間の欲望です。それでは、この世で最も貴いものとは何でしょうか。絶対者であられる神様がいないという立場から見れば、この世で最も貴いものとは果たして何でしょうか。お金でしょうか。物質と人間を比較すれば、物質よりも人間が貴いのです。人間の中で誰が最も貴いのかといえば、「自分が最も貴い」と考えざるを得ないのです。したがって、人間の中でも正に自分自身が最も貴いというのです。どこの誰を問わず、「自分が最も貴い」と考えるのです。年を取り、もうすぐ死を迎える年齢の老人たちも、「自分自身が最も貴い」と考えるのです。それは、幼い子供たちであっても、青年たちであっても、みな同じなのです。壮年たちも、やはり同じです。人は誰であっても、自分が他人から侵害を受けて萎縮するような環境に置かれることを好まないのです。

 自分を中心に、あらゆる関係が結ばれ、自分が他に影響を及ぼすことができることを願っているのです。それが家庭を越えて社会、国家、世界にまで連結されて、関係が結ばれることを願うのです。

 そのように、関係を結ぶことができる位置に入っていきたければ、その願いに比例する試練を克服し、耐えて越えていかなければなりません。その困難な過程をたどってこそ、普遍的妥当性をもった主体性を備えることができるのです。もしそうでない中で、自分の願いが成就されることを願うならば混乱が生じるのです。

 それゆえ、国家ならば国家を中心として、国民を指導する原則的な指導の要件と方向を提示する規則、すなわち、国民生活のあらゆる指針を提示してくれる憲法があるのです。その法に違反しては進むことができないのです。法がなくては願う位置に進むことができないため、願う位置に進むことができるように、方向を法に一致するようにしてみると、三千万の国民が置かれている立場はそれぞれ異なりますが、同じ法の支配を受けて従わなければならないというのです。

◆ある位置に進もうとすればそこに比例する困難を克服せねば


 皆さん自身が、きょうよりもあすの生活がもっと良くなるように、現実的に決意して歩むことができるかという問題について考えると、その基準が国家が期待する以上の基準になるときには、国家に責任をもって歩むことができるのです。また、世界以上の基準の価値をもって現れるようになる時には、誰が願わなくても世の中の人々は、自動的に皆さんの指導を受けるようになるのです。

 人々は、いかなる人になることを願うのかといえば、偉大な人物、または聖人になりたがるのです。偉大な人になることを願うのです。ところが、偉大な人になろうとすれば、じっとしていてはいけません。必ず、そこに比例する困難を克服しなければなりません。

 国家について見ても、ある国家が先進国の権威をもつことのできる基準にまで進むためには、その国家の国民がじっとしていては絶対にいけないのです。そこには、数多くの困難を克服しなければなりません。どんな国家の国民も克服できない分野で困難を克服し、その難関に比例する勝利の基盤を築かなければならないのです。そのように漸進的にその価値を確かにし、その結果が世界の様々な国家の前に著しく現れるようになれば、初めてその国家の国民は先進国の権威や位置を占めることができる国民になるのです。

 このように見ると、絶対者がいらっしゃるとすれば、絶対者が人間に対して願うことは、人間との関係から抜け出そうとしても抜け出すことができないというのです。言い換えれば、人間の先祖が出発当時から絶対者と共に生活していたならば、その絶対者と人間の先祖は、その時から完全に一致していたはずなのです。そのような立場で、絶対者が人間の先祖に願うことは個人にすぎないことですが、その個人が願うことは正に世界的であり、宇宙的な願いであらざるを得ないというのです。

 皆さんは一人の個人ですが、皆さん個人の欲望は宇宙的なのです。世界のすべてのことが私の欲望と一致するのです。宇宙的な主人がいるとすれば、その主人に侍ることができる、相対的な存在がいるべきなのに、そのためには宇宙的な主人と度胸の合う対象とならなければなりません。

 私たちの先祖を中心として見れば、その先祖も私たちの考えと同様に、全天下を自分の所有として生きたいと願うことは間違いありません。もし、私たちの先祖が絶対者の前で完全にやりとりをすることができ、その絶対者の願いを成し遂げることができるように行動していたなら、今日の人類はどのようになっていたでしょうか。そのようにしたとすれば、その時から人類の願いはかなえられ始めていたのです。

 神様は、人間と関係を結ぶところにおいて、いかなる立場で関係を結ぼうとされるのでしょうか。神様が人間のためを思い、人間を幸福にしてくださろうとするのは、人間だけを幸福にしようというのではなく、そのようにすることで神様も幸福になろうとされるのです。

◆神様と一つになっていたならば


 それでは、神様と人間の関係を中心として見ると、人間は神様の前に果たしていかなる立場にあるのでしょうか。言い換えれば、僕の立場なのか、養子の立場なのか、あるいは息子の立場なのでしょうか。神様が人間を愛するとすれば、いかなる立場で人間に接したいと思うでしょうか。人間の欲望を中心として見ると、僕の立場で接すれば「嫌だ」と言うのであり、養子の立場で接しても「嫌だ」と言うのです。

 人間が、絶対的に神様の前に願うことのできる、最高の価値をもった位置にいるならば、それは「あなたは私の父であり、私はあなたの息子です」と言うことができる立場なのです。また、女性たちは、「あなたは私の父であり、私はあなたの娘です」と言うことのできる立場なのです。人間としては、それ以上願う位置はないのです。

 このような立場から見ると、この宇宙に絶対的な神様がいらっしゃるとすれば、神様と人間はいかなる関係を結びたがるのかといえば、ただ一つの位置を願うというのです。僕の位置でもなく、養子の位置でもなく、息子、娘の位置を願うのです。それが、私たち人間の願いではないでしょうか。

 言い換えれば、絶対者である神様に対して、人間の最高の願いがあるとすれば、それは絶対者の息子になり、娘になる位置に上がるということです。

 それでは、神様の息子、娘になったのちには、どのようにすべきでしょうか。父母の前に親不孝をし、父母の気に入らない立場で、父母のとがめを受ける息子、娘になるべきでしょうか。そうであってはなりません。父母に孝の道理をみな果たして、父母が息子、娘が好きでたまらず、愛さずにはいられないような息子、娘にならなければなりません。人間が願うことは、それしかないのです。それゆえ、人間は神様の愛を受ける息子、娘にならなければならないのです。

 人類の始祖が神様の一人息子になり、一人娘となり、神様の愛を受けていたとすれば、父母である神様と子供である人間とは、離れようにも離れることのできない血縁的な関係が結ばれていたのです。父母の愛を受けることのできる息子、娘となれば、父母のものはすなわち息子、娘のものなのです。例えば、自分が住んでいる家が両親が建てた家であったとしても、「自分の家だ」と話すのと同じなのです。

 それと同様に、神様が天地万物を創造なさったのを見ることもできず、あるいはその関係を知らなくても、それを造られた父である神様がいらっしゃるので、人間が息子、娘であれば、その天地万物は父である神様のものであり、また誰のものでしょうか。息子、娘である人間のものなのです。息子、娘である人間が、その天地万物を「私のものだ」と言えば、父が気分を悪くするでしょうか。父が責任をもって主管するよりも、「自分が責任をもてば、もっと良くすることができる」と息子、娘が言ったとすれば、父母は「おい、お前、そうはさせないぞ」とは言わないのです。

 ヨセフについて見ても、ヨセフが兄弟に「夢で太陽と月と十一の星が自分にひざまずいた」と言ったとき、兄弟たちはその言葉が生意気だと言ってねたんだのですが、両親は気分を悪くしませんでした。ただ「さあ、どうだか」と言いました。これが父母の心情です。

 神様が人間の父母となり、人間は神様の息子、娘となっていたなら、神様が造られた被造世界、すなわち神様が主管なさるすべての被造世界は、神様のものでもあり、人間のものともなるというのです。そのようになっていたならば、人間の価値がどれほど途方もないほどでしょうか。神様をうらやむ必要がないのです。神様が私の心の中にいらっしゃり、私の体の中にいらっしゃり、生活の中にいらっしゃるのです。神様がいらっしゃるのか、いらっしゃらないのかという問題は、考える必要もないのです。

 そのようになっていたなら、神様は観念的に追求する神様ではなく、生活の中で感じる神様、生活の中で合わせていくことのできる神様になるのです。したがって、人間は世界を支配しようとする必要がないのです。

 人間がそのようになっていたなら、現在皆さんが追求する欲望、皆さんが追求する心の作用は必要ないのです。本来皆さんは、今のような立場で願うのではなく、神様を所有し、所有したその基盤の上で出発しなければならなかったのです。そうすれば、皆さんが生まれた立場は、不幸な立場ではなく、幸福な立場になっていたのです。

 両親がいる人は、かわいそうな人ではありません。父母から永遠の愛を受けることができ、生活の中で少しの試練も受けない、自由な環境をもった息子、娘は、幸福な人なのです。人間が初めからこのような環境で出発していたなら、どのようになったでしょうか。人間が出世を願ったり、世界を自分のものにしようというようなことは考えなくても、すべてが果たされたのです。世界よりももっと高いものと関係を結ぼうと考えなくても、既にすべての関係が結ばれていたはずなのです。

◆故障した人間


 ところが、人間がそのような立場で出発することができなかったために、それらをすべてなくしてしまったのです。歴史時代をたどりながら、より良い世界、より価値ある世界を追求するために、数多くの預言者や烈士たちが命を懸けて、押し寄せる闘いの道を進み続けてきたことを私たちはよく知っています。しかし、彼らが願い続けてきた希望の時は、いまだ成されていないのです。それゆえ、皆さんには、より価値あること、より輝かしい人生、より価値ある世界を追求するために努力しようという思いがあるのです。

 人間の最終目的は、世界を占領することではなく、神様を占領することなのです。神様を占領することで終わるのではなく、神様の愛を受けることができる位置にまで行こうとするのです。したがって人間の最高の願いとは何かといえば、そのような位置に立つことのできない人間が、そのような位置に立つことなのです。そのような位置に立つことが、人間の最高の願いなのです。

 それでは、人間を愛する心をもたれた神様の願いとは何でしょうか。このサタン世界から人間を救い出すことなのです。神様は、地獄の世界で呻吟し、苦痛を受けている人間を見たがるような方ではないのです。神様は、万民と父子の関係を結んで愛することができ、万民と共に生きたいと思われるのです。そういう父の立場で、私たちを救うことが、神様の願いなのです。したがって、神様の願いは、人間の願いと一致しているのです。願いが一致しているということは、すなわち父子の関係なのです。

 ここで問題になることとは何でしょうか。私たち自身をじっと見てみると、心と体が一つになれず、常に闘っているのです。私の一個体の中で、心と体がお互いに別の目的を追求しているのです。もし神様が人間を創造なさるとき、二つの目的に向かっていくことができる人間として創造なさったとすれば、神様は絶対者ではありません。一つの思想をもって、一つの目的に向かっていくことができる存在として、絶対的な目的をもって創造なさったとするなら、二つの目的をもつことのできる存在として生まれることはできないのです。

 それなのに、このように矛盾した結果に置かれている事実を見ると、人間は良い意味で、正常に出発したのではありません。私たち自身が故障した立場にあるのか、あるいは神様がいらっしゃらないために、本来このような結果を招くようになっていたのかという、この二つのうちの一つなのです。二つのうちの一つが問題だというのです。しかし、神様がいらっしゃるのにこういう結果が現れたとすれば、それは人間が過ったといえるのです。人間が故障したというのです。それで、故障したところを修理しなければなりません。

 それゆえ、神様は歴史路程を通じて、今まで故障したところを修理することのできる修理工場を建ててこられたのです。それが何かといえば、宗教です。修理工場を建てたなら、技術者が必要となるのですが、その技術者が正に宗教の教祖たちです。

 今日の人間は、故障したラジオと同じです。それゆえ、正常な人となるように修理しなければなりません。そのためには、必ず修理工場に入らなければなりません。必ず修理工場を経てこなければならないのです。

 今までの歴史を見れば、世界文化圏は宗教文化圏内へと吸収されてきています。民主世界を中心としたキリスト教文化圏や、極東アジアを中心とした儒仏仙(儒教、仏教、仙教)文化圏、インドを中心としたヒンズー教文化圏、イスラム教文化圏などの文化圏が形成されたことを見ると、数千年の間、人々は宗教文化圏内に押し入ってきたということが分かります。

 これは修理工場が建てられれば、そこに必要なすべての付属の材料が修理工場の周辺に集まるのと同じです。このような事実を見ると、神様が役事されているということを、皆さんは明確に知らなくてはなりません。

 皆さんが現在の立場で願っていること、人間が願うことのできる最後の願いの基点とは、神様と同じ位置に存在することなのです。すなわち、神様の願いが人間の願いであり、人間の願いが神様の願いとならなければならず、神様のものは私のものであり、私のものは神様のものとならなければなりません。また、「神様の愛は私の愛であり、私の愛は神様の愛である」と言うことができる立場を願うのです。

 そのように一致することのできる関係を結んだならば、人間にこれ以上の願いはありません。しかし先に話したように、人間は故障したラジオのように、既に病にかかっているのです。

◆人間の完成は神様の願い


 もし、人間が神様から永遠の愛を受けることができる息子、娘となっていたならば、すなわち、人類始祖が神様と完全に一つとなった立場で出発していたならば、その出発は、個人の出発であると同時に、宇宙的な存在の出発となることができたのです。

 また、人間が堕落せず最高の願いである神様の息子、娘として成長し、唯一の神様の愛を完全に受けて生きるようになったならば、人間はそれ以上願うことは何もありません。それで終わりだというのです。その立場にいること自体が、個人ではあっても、宇宙的な個人であるというのです。天地万物が、創造なさった絶対者のものであるとしたら、人間はその方の息子、娘であるために、人間のものにもなるのです。

 したがって、人間がその立場に立っていたなら、個人完成をなすと同時に、神様の創造目的が完成されるのです。神様の息子、娘の完成であり、神様が創造なさった天地万物の完成です。そのようにすべてが完成するならば、神様はどうされるでしょうか。喜ばれるというのです。

 ある作家が精誠を込めて作品を完成したとすれば、その作家は、作品を大切にし、後世に残したくなるのです。その作品を永遠に保管したいと思うのです。まして、私たち人間が神様の息子、娘になり、神様の愛を受けることのできる立場にいるなら、神様が数カ月間、あるいは何年間だけ愛してくださったあと捨ててしまわれるでしょうか。人間が百年ほど生きるとすれば、百年間だけ愛し、それ以降は必要ないと捨ててしまわれるでしょうか。そうではありません。永遠に愛そうとされるのです。

 それゆえ、人間が完成して神様の愛を永遠に受けることができるならば、神様は人間を永遠に傍らに置いておきたいと思わずにはいられないのです。絶対者がそのように喜ぶことのできる立場に立たなければならないため、人間も永生しなければなりません。

 人類の先祖であるアダムとエバがそのようになっていたなら、アダムとエバの完成はもちろん、神様のすべての願いが果たされるのです。アダムとエバが完成するということは、神様が創造なさった万物の中心である人間に対して願ったことが、すべて完結することを意味します。そのようになっていたならば、神様がどれほど喜ばれたでしょうか。

 そのように喜ばれる父に侍る息子、娘であれば、どのようにすべきでしょうか。喜ぶべきだというのです。どの程度喜ぶべきかといえば、六・二五動乱(韓国動乱)の時に別れた親子が、数十年ぶりに会って「お父さん!」「息子よ!」と叫びながら抱き合って、涙を流す時の喜び以上でしょうか。それ以下でしょうか。比較する必要もありません。最高の喜びなのです。その喜びを占領するのは、神様のほかには誰もいないのです。したがって、私たちが幸福でなければならないのです。

◆宗教は故障した人間を直す修理工場


 夫婦完成は、家庭完成の出発となります。すなわち、家庭完成は息子、娘の完成であり、夫婦完成が成されることです。父母が神様の愛のもとで、楽しく良い生活をしているのに、その父母から生まれた息子、娘が、泣きながら苦しい生活をすることはないのです。だから夫婦完成は家庭完成なのです。四位基台の完成です。

 このように完成した家庭から、また完成した家庭が現れるのです。そのようになれば、その家庭が氏族を成し、氏族完成をするのであり、その次には民族完成を成し、さらには国家完成と世界完成を成し遂げるのです。その位置は、皆さんが世界で一番になると願う位置ではなく、皆さんが完全に成し遂げて消化しなければならない位置なのです。

 人間はなぜ、世界で一番の位置を願うようになったのでしょうか。それは、人間が故障したからなのです。今日私たちが生きているこの世界は、私たちが願う世界ではありません。ここには私たちが是正し、解決すべき与件がたくさん残っています。したがってこの世界は、私たちが願う理想的な世界ではないのです。

 本来、人類始祖が絶対者であられる神様を中心として一つになっていたならば、そこから夫婦完成とともに、家庭完成、国家完成、世界完成が成されたのです。個性完成だけでなく、宇宙完成までも成されていたのです。これらを失ってしまったので、人間の本然の心は、それを懐かしく思うのです。

 故障したラジオは、その本来の機能を発揮することはなくても、流れてくる電波を受信すれば、「ザー」という音を出すのです。同様に、人間にも本心があり、その作用によってどこかに行こうとするのです。そこが、正に最高の位置です。

 それで、人間が故障したというのです。故障した私たちだというのです。分解して再び手入れをしなければなりません。皆さんの立場がそのようだというのです。

 したがって、宗教とは何かといえば、故障した人間を直す修理工場です。ところで、この修理工場が終末においては、付属品だけを取り替える修理では駄目なのです。それで総合修理工場を造って、総合的に修理をしようというのが統一教会なのです。総合修理工場だけではいけません。総合修理工場の技術者がいなければならないのです。この技術者とは誰かといえば、キリスト教でいう再臨主です。こういう観点から見ると、今日世界のすべての宗教がみな終わりの時に来たので、今日統一教会が総合修理工場としての内容を備えて現れたならば、統一宗教を願う世界万民は、私たちを歓迎しなければならないのです。

◆直すべき人間


 故障したラジオやテレビは、故障した箇所が分かる人が直したなら、一回だけ直せばよいのです。そうすれば、新しいラジオやテレビのように、放送局から送ってくる放送はみな同じように聞くことができ、見ることができます。それが百台であり、千台であったとしても変わりはありません。一億台であっても全く同じなのです。

 同様に、人間の心に神様が入られ喜ばれるとき、それ自体を映し出すことのできるテレビがあり、そのうれしい心を感じることができるようになったならば、万民がみな感じることができるのです。また、神様が悲しまれるとすれば、悲しい声が聞こえるようになるというのです。すべての人々がみなそのようになったとしたなら、この世はどれほど素晴らしい世の中でしょうか。ところが、そのようになっていないので、皆さんを修理しなければならないのです。

 それでは、皆さんは修理工場に入って、ゆっくりと修理されることを望みますか。あるいは早く修理されることを望みますか。それは、皆さん各自の心にかかっています。ある人は、一年かけて修理されることもあるでしょうし、またある人は、十年かかって修理される人もいるでしょう。あるいは、修理工場に入って一生の間修理されて、やがて捨てられてしまう場合もあるでしょう。

 人間始祖が神様と一つになっていたならば、このような問題は起きなかったのです。それは個人完成であると同時に、世界完成であり、個人の喜びであると同時に、世界の喜びなのです。

 そのようになれば一度に天国になっていたのです。ところが、これを成せなかったので再び成さなければなりません。そのようになれば家庭、氏族、民族、国家、世界は自然と完成するようになるのです。家庭完成だけ成されたならば、自然にすべてが成されるようになっているのです。

 神様が真の松の種を蒔いたとすれば、真の松の芽が出てくるのです。永遠に真の松の木として残るのです。ところが、人間はそのようになれなかったのです。真の松の種になるべきなのに、別の種になってしまったのです。

 今日人間は、野性のオリーブの木になったというのです。本来は真のオリーブの木になるべきなのですが、野性のオリーブの木になったのです。そのような木の実は、からすのえさにしかなりません。それでは、真のオリーブの木になるにはどうしなければならないでしょうか。接ぎ木をしなければなりません。野性のオリーブを切って、真のオリーブの木に接ぎ木をするのです。それゆえ、今日人間も再生所に入って接ぎ木されなければなりません。

 真のオリーブの木になれない人間を中心として見ると、人間は理想的な世界を失ってしまったのです。理想的な国を失ったのです。大韓民国は理想的な国ではありません。悪が優勢の国です。この世界も悪が優勢な世界です。善と悪が入り乱れている状況にあるのです。このようになっているものを、解剖して切ってしまわなければなりません。善と悪がお互いに争う立場で、理想的な国や世界を成すことはできないのです。


◆真の息子と娘の結婚式を待つ歴史


 今日、人間が願う理想的な世界と、理想的な国家や、民族や、氏族が生じましたか。生じなかったのです。また理想的な家庭が生じましたか。生じなかったというのです。それは完成した一人の男性と、一人の女性がいなかったからなのです。

 宗教は修理工場であり、失った本郷の道を訪ねていく道です。それで、今まで宗教が何を探し求めてきたのかといえば、理想的な一人の男性と、理想的な一人の女性を探し求めてきたのです。神様が、「この人は私の愛のすべてだ」と言うことのできる一人の男性と、一人の女性を探してきたのです。

 キリスト教で、イエス様は新郎であり、信徒は新婦であるというのは、すなわち世界をすべて収めて、神様の愛を受けることのできる一人の男性と、一人の女性を探すということをいっているのです。完成した一人の男性、一人の女性がこの地上で出会い、婚姻の祝宴をして初めて、新しい世界が開かれるのです。

 それで再び来られる再臨主を何と呼ぶべきでしょうか。新郎と呼ばなければなりません。その新郎が一人の新婦を探し出し、二人が共に小羊の婚宴をしなければならないのです。小羊の婚宴とは何でしょうか。本来、人間始祖は善なる父母として出発すべきでしたが、悪なる父母として出発したために、すべての人間は悪なる父母の血統を受け継いで生まれたのです。

 それゆえ、神様の愛を洗いざらい私の愛のように受け、神様の懐に抱かれて、神様の直系の愛を通した血族として残ることのできる息子、娘になるべきなのに、なれなかったのです。ですから本来の姿に戻らなければなりません。これが正に、新郎新婦を迎える小羊の婚宴なのです。主がこの地上に新郎として来られ、一人の新婦を探して、ある基準の上に接ぎ木しなければならないというのです。それが、キリスト教が主張する内容です。

 宗教の中で代表的な宗教は、キリスト教です。その基準を設定し、確固たる目的を立てた宗教がキリスト教なのです。それで、神様が立てられた宗教はキリスト教であるというのです。それで今日、民主世界がキリスト教文化圏内で発展するのです。真の父母を迎えようとすれば、そのように発展しなければならないのです。

 それでは、今まで宗教は何をしてきたのでしょうか。一人の真の息子を立てるための努力をしてきたのです。神様は一人の真の息子を探し出すために、今まで御苦労なさったのです。それゆえ宗教の教祖の中に女性はいないのです。これは、一人の真の息子を立てるために連結してきたことを意味します。一段階、二段階、三段階、このように上がって最後のバトンを引き受けて勝敗を決定することのできる、一人の主人公である息子を探し求めてきたのです。これが今までの歴史です。

 それで真の息子が現れ、真の娘に出会うようになれば神様が結婚式をしてくださるのです。自分の家の中だけで認められるような結婚式ではありません。

 神様と息子と娘しかいなければ、誰が結婚式をしてくれるでしょうか。神様に対し「結婚式をしてくれ」と言わなくても、時になればすべてを神様が喜ばれて、結婚式をしてくださるのです。最初の主礼は神様なのです。神様がされるしかないのです。

 神様が主礼に立たれれば、気分が良いでしょうか、悪いでしょうか。また主礼に立つのに、息子の結婚式で主礼をされたいでしょうか。僕の結婚式で主礼をされたいでしょうか。あるいは、養子の結婚式で主礼をされたいでしょうか。

 それは尋ねるまでもなく、息子、娘の結婚式で主礼として立ちたいのです。しかし神様は、いまだ息子、娘の結婚式に主礼として立つことができません。

 主礼をされるためには、今後この地を訪ねて来られる再臨主を中心として、決定的な生活基準を設定し、新郎新婦が出会えるようにしなければなりません。そのようになる時、初めて神様が結婚式をなさることができるのです。それでは、神様が結婚式をしてくださるとき、泣きながらされるでしょうか。喜んで笑いながらされるでしょうか。喜んで笑いながらされるのです。

 結婚式とは、男性と女性に分かれているものが、完全に一つになることなのです。そのようになればその男性と女性は、男性の中でも最高の男性となり、女性の中でも最高の女性となるのです。人間は神様と絶対的な関係を結び、神様が「これは私の愛の中の愛であり、骨の中の骨であり、肉の中の肉である」と言うことのできる息子、娘とならなければなりません。そのように、神様が見れば見るほど、愛さざるを得ない息子、娘となり、成長したならば、彼らが「結婚式をしてほしい」と言わなくても、神様のほうからしてくださったはずです。

 そのようになっていたならばどうなっていたでしょうか。神様が彼らの結婚式をしてくださり、どこへ行かれるでしょうか。「二人だけで楽しく暮らしなさい」と言われるでしょうか。あるいは、一緒に暮らそうとされるでしょうか。一緒に暮らすとするならば、どうすべきでしょうか。それが問題です。神様と共に生きようとすれば、人間が喜ぶと同時に、神様も喜ばなくてはなりません。

◆人間の体は外的な神様


 皆さんが神様の息子、娘であれば、父子の関係です。父子の関係とは、父は上であり息子は下にある関係です。上下関係です。ところが息子、娘がよく考えてみると、父母は上座にのみ座っているのです。それで自分も上座に座ってみたいと欲張るようになれば、父母と子が争うようになるのです。そのようなことは、あってはならないのです。それゆえ神様は、上下関係である父子の関係だけを考えられたのではありません。

 私とお前は同じ位置、すなわち夫婦一心、父子一心という位置です。一心になろうとすれば、一人は上にいて、一人は下にいるという状況では成すことができません。父は上にいて息子、娘が下にいては、一心となることはできないというのです。同等な立場で、平面的に位置していてこそ一心となることができます。内的、外的関係が平面線上の位置に立ってこそ一心になることができるのです。夫婦も同じです。横的関係で内外関係、前後関係の位置に立ってこそ、一心となることができるのであり、上下関係では絶対に一心になることはできないのです。

 神様はこのようなことを考えて、人間をどの位置にまで上げておこうとなさったかといえば、神様は内的な父であり、人間は外的な父であるため、神様は内的な父であり、人間は外的な父として一致するようにされたのです。神様は、人間をそのような位置にまで立てようとされたのです。したがって、人間の体は神様の体になるのです。

 もし皆さんが、今この世で最も貴い物をもっているとして、その物をどのように良く保管することができるかを考えてみてください。百重以上の鉄の櫃を作って、その中に隠したとしても、誰かが隠したことを知っていたとすれば安心できるでしょうか。百重以上の鉄の櫃を作った自分よりも、もっと賢い人がいるとしたら、それらを取り出して盗み出す可能性があるというのです。それでは、土を深々と掘り、その中にそれを隠すべきでしょうか。山の頂上に隠すべきでしょうか。

◆神様に侍ることのできる所


 貴い物をもっていれば、毎日のように見て、触って、抱き締めたいのが人間の心です。ここにいるおばさんたちも、愛する息子、娘を仕方なく置いて出掛けたとすれば、安心していられますか。市場に行くとか、どこに行くにしても、しっかりと抱いて出掛けたいのです。赤ん坊のほおに触れながら出掛けたいと思うのです。

 なぜかといえば、自分の肉の中の肉であり、骨の中の骨であるために、一つとなるところに置いておきたいのです。

 それでは、神様が宇宙で最も貴い方であるとすれば、どこで侍らなければならないでしょうか。ある人は、世の中で最も貴い方であるその方を他の人が見たとすれば、「気分が悪い」と言います。他の人が見るようになれば、あなたのものにも、自分のものにも、みんなのものになるようで気分が悪いというのです。他の人には絶対に見えず、私の目にだけ見ることができる所があるとしたら、そこに隠しておきたいのです。そのような場所を研究し、探すというのです。私だけが見ることのできる所に隠しておいて、他の人は絶対に見ることのできない所があればいい、と考えるのです。

 それでは、大きな神様をどこに隠すことができますか。天地を主管される神様を隠すことができる家、あるいはそれぐらいのふろしきがなくてはならないのです。しかし神様をふろしきに包んで、高い空中に置いておきたくはないというのです。私の中に置いておきたいのです。それで、そのようなふろしきがあるのかといえば、それは心のふろしきしかありません。

 心は、十人に侍ったとしても余るぐらいです。心が狭くて神様に侍ることができないという人がいますか。神様を丸ごと占有したいと欲張ったとしても、問題なく、侍っても余るようになっているのです。

 それで自分の心の中に、目に見えない神様を自分だけが知っていて、他の人には見ることができないように隠すというのです。すなわち、神様と私の二人だけで喜ぶことのできる所で侍りたいというのです。人間の欲とは、みなそうなのです。ですから、神様が目に見える方であれば、大変なことになるのです。目に見えない方であるのが理想的なのです。目に見えないため、私がある人を見ても神様が入っていらっしゃるのか、入っていらっしゃらないのか分からないのです。

 もし神様が目に見える方であり、あの人にも神様がいらっしゃり、私の中にも神様がいらっしゃるとすれば、どれほど気分が悪いでしょうか。神様が目に見えないことが、いかに良いことでしょうか。ですから絶対価値だというのです。いかに研究をするとしても、それ以上研究することができないのです。

 見えない神様に、私の中心である心の中で侍っているので、誰かが奪うことができるでしょうか。占領する人がいるでしょうか。いないというのです。それでは、神様は誰のものですか。すべて私のものになるのです。それが一時的ですか、永遠ですか。永遠に私のものであるというのです。それゆえ最も貴く、最も価値ある中心存在であるその方は、永遠であるというのです。その方とは誰でしょうか。自分の中の人です。天地を創造なさった神様は内的神様であり、私たちの体は外的神様であるというのです。

◆人間は目に見える神様


 人類始祖のアダムとエバが堕落しなかったならば、人間は万物の神様、すなわち外的神様になることができました。目に見えない神様は、万物を主管することはできません。それで、目に見える体をもった、神様格に立った人間を造られました。その人とは誰かといえば、堕落せず神様と一体となることのできる、神様の愛のもとで夫婦の因縁を結ぶことのできる人間でした。

 その人間が、外的に現れた神様であったのです。アダムとエバが堕落しなければ、神様はアダムとエバの心の中にいらっしゃるのです。アダムとエバは外的夫婦であると同時に、内的な夫婦であるというのです。したがって、神様と内外共に一つとなった体から生まれた息子、娘は、誰の息子、娘となるでしょうか。外的神様の息子、娘になると同時に、内的神様の息子、娘になるのです。それでは、エバはアダムの妻にだけなるのでしょうか。アダムの妻であり、内的な神様の妻ともならなければならないのです。そのようになったとすれば、人間に堕落はあり得ないのです。これが正に宇宙の秘密なのです。

 コリント人への第一の手紙第三章十六節には、「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか」という内容があります。人間は神様の宮であり、人間の心の中に神様のみ霊が臨在しているというのです。人間がそのような立場にいるとすれば、神様は人間にとっていかなる方でしょうか。正に父であられるのです。ところが人間の堕落によってそのようになれませんでした。それで故障した箇所をすべて直し、新しく再生する総合修理工場の使命を担うために統一教会が現れたのです。

 もし神様が目に見えるとしたならば、アメリカとソ連が神様を奪うための争いをするでしょうか、しないでしょうか。人間は数千年間土地を奪う争いを続け、近ごろは唯心論や唯物論という思想を中心に、人の奪い合いを続けています。こういうもののために熾烈な奪い合いをしているのに、宇宙の主人である神様が人間の目に見えるとしたら、奪い合いの争いをしないでしょうか。それゆえ、神様は人間の目に見えないのが良いことであるというのです。

 神様が目に見えたとすれば大変なことになるのです。神様は目に見えないけれども、自分の心の中で侍っているので、自分には神様がいらっしゃることが分かります。神様と自分が一つになれば、幸福であるというのです。天地を眺めれば、すべてが自分の庭園のように感じられるのです。花を眺めれば、最高の美的境地に到達するようになり、創造なさった当時の喜びを歌いながら生きることができるのです。宇宙のすべてが花畑になり、宇宙のすべてが踊ることのできる園になるというのです。そうして神様の愛がそこに和し、宇宙が喜ぶことのできる音調に合わせて、非常に楽しい一時を過ごすことができるのです。そのようにしていたならば、そのように始まった民族は永遠に持続していたのです。

 宇宙に浮いている人工衛星は、一軌道を回り始めれば、その軌道を永遠に回るようになります。同様に、神様の愛を中心として宇宙が一度喜ぶようになれば、それは終わりを知らず、永遠に続くのです。それで皆さんの心も、神様と一つになろうとするのです。神様のものであり、私のものとなることを願うのです。人間の心は堕落して故障してしまいましたが、このような本性の基準は残っているために希望があるのです。

◆善の道は何倍も大変な道


 その上、被造世界の本体である神様が、私たちを中心としていつも相対関係の立場にいらっしゃるので、私たちの心は常に神様に向かって進もうとするのです。これが正に良心作用です。それで、人間が堕落したことは間違いないのです。

 本来人間は、すべてのことを兼ね備えた基盤の上で出発しなければならなかったのですが、すべてを失ったまま落ちてしまったのです。今日、世界に人類が生きていますが、その多くの人を合わせて分けるとしたら、男性と女性の二つに区分することができます。それでは、大勢の世界人類の中で真の人は誰でしょうか。世界的な聖人は誰かというのです。人々は、世界的な聖人を中心として、彼に似ることを願うのです。

 今や、残された問題とは何でしょうか。人間が堕落してすべてを失ってしまい、下に落ちてしまったのです。男性と女性の二人とも落ちてしまったのです。神様は、落ちてしまった彼らをそのままにしておいてはいけないと考えられ、救いの摂理を進めてこられたのです。人間がこのような神様の救いの摂理を知るようになれば、そこに上がろうとするはずです。

 したがって、真の男性と真の女性を探さなければなりません。これが、正に六千年間宗教が探し求めてきたものなのです。しかし、いまだすべてを成し遂げてはいません。真の男性と真の女性がいなかったために、結婚式をすることができなかったのです。これが人間の歴史です。

 それでは、このようになったこの世界は善なる世界でしょうか、悪なる世界でしょうか。悪なる世界であるので、いつかは滅びてしまわなければなりません。それで「審判」という言葉があるのです。

 皆さん、悪人が悪なる所にいれば、宗教をもつことができるでしょうか、できないでしょうか。もつことができなければ、いかなる道を行かなければならないでしょうか。善なる道を行かなければなりません。悪の世界で生きていたままの状態で生き続ければ、善の道を行くことができるでしょうか。自分を中心としては行くことができないのです。今歩んでいる悪の世界の道から早く戻って、善の道へと進まなければなりません。それゆえ真の宗教は「この世の縁を切りなさい。この世を否定しなさい」と言うのです。真の宗教は否定から出発するのです。

 ところが、今まで私たちはこれをはっきりと知りませんでした。悪の世界で生きている人を見ると、全員が自分を中心として喜ぼうとしています。「お前も私のために喜べ」と、このようにです。このように他人を利用して、国を利用して、世界を利用して、全部利用しようとします。そのようになっています。それが悪の世界の局面だというのです。

 それでは、悪なる人々が悪の世界で、善の道を行くにはどのようにすべきでしょうか。悪なる人々が他人を利用しようとするときに、同じように他人を利用しようとすれば善なる人となることができるでしょうか。ここで悪をけ飛ばし、再び善を立てて行かずには、いくら切実な願いであったとしても善なる人になることができません。善は神様のものであると同時に私のものであり、悪はサタンのものであると同時に怨 讐のものであるため、悪を追い出し、善のみを追求しなければなりません。これが難しいことなのです。

 皆さんがこのような境界線にいるということを知らなければなりません。一歩だけ前に進めば死亡の道へと進み、一歩後ろに後退すれば生命の道へと進むことのできる境界線にいるというのです。落ちる時は、頭が重いために逆さに落ちたはずなので、再び反対に上がる時は、反対方向に上がってこなくてはならないのです。逆に落ちたので、元の位置に戻り本来の姿に戻ることが、いかに難しいことかを皆さんはよく知らなければなりません。道の道を行こうとすれば、このように何倍も困難な道を歩まなければならないのです。

◆堕落した立場では自分を否定しなさい


 自分が善なる道を歩もうとすると、鉄材の下に落ちた状態から、自分を中心として上がることができるでしょうか。自分自身を中心としては上がる道がありません。それで最後となるのです。それでは、どうしなければならないでしょうか。まず、自分自身を否定して、自分より優れた人と絶対的に一つにならなければなりません。自分を前面に立てる人は、絶対に善なる所に行くことはできないのです。

 堕落した立場で自分を主張する人は、堕落した状態にそのまま残るしかありません。しかし、自分を否定して善なる立場に上がれば良いのに、そうするにはどうすべきでしょうか。自分より善なる人に対して絶対服従しなければなりません。ところで、人々は他人に服従することを好むでしょうか。一番嫌います。

 誰かに主管されることを願いません。自分が全部を主管したいと思うのです。それが人間の欲望です。本来、人間が堕落しなければ、世界を主管し万物を主管することが原則です。しかし堕落したために、主管を受けなければならない立場になりました。心は主管することを願うけれども、体は反対の行動をしなければ帰っていく道がないのです。

 人生路程において、より善の実績を残していくことが聖人の道理なのです。人間は、この世界で率先して歩む聖人の教えを受けて、その聖人を中心として、そのみ言と一つとならなければなりません。絶対服従し、絶対従順しなければなりません。生命が途絶えるようなことがあったとしても、そのように生きてきたというとき、その人と共に栄光の場に賛同することができるのです。それは野性のオリーブを、真のオリーブの木に接ぎ木をすることと同じです。

 人が願いを成し遂げようとすれば善の道を模索しなければならないのに、その善の道を探し求めていくのに、自分自身を主張する立場に立っては絶対になりません。

 個人が善なる道、犠牲の道を探していくことは、個人のために行くのではありません。家庭のために探し求めていくのです。個人が犠牲になってこそ家庭が残るのであり、家庭が犠牲になってこそ氏族が残り、氏族が犠牲になってこそ民族が残り、民族が犠牲になってこそ国家が残り、国家が犠牲になってこそ世界が残るようになるのです。私一個人が犠牲となることで、家庭、氏族、民族、国家、世界を探し立てることができるのです。それゆえ、私自身を前面に立てては、絶対に上がることはできないのです。それでこそ善なる道に行くことができるのです。言い換えれば、望ましい家庭を成すためには、自らのすべてを犠牲としなければならないということです。

◆善なる道は「ため」に生きる道


 幼いにもかかわらず、家族の誰よりも自分を犠牲にするようになれば、自然に父よりも、家の中の中心存在としての待遇を受けるようになるのです。家庭のために、誰よりも代表的な立場で犠牲になる立場に立つようになれば、その家庭の父母に代わる中心存在となることができるのです。皆さんは、今まで自分が犠牲になることを悪いとだけ思い、このような事実を知らなかったのです。

 人のために犠牲になれば、その人は犠牲となった人を貴く感じるようになるのです。中心存在にならないように逃げたとしても、中心存在として立てられるのです。中心存在として立てられるだけでなく、人々を主管して指導してあげる立場に立つようになるのです。皆さんはこういうことを知りませんでした。それゆえ「善を積みなさい」という言葉があるのです。善の道に、自分を中心に引っ張り込むことがあるでしょうか。他人のポケットにある物を、私の物だということが善を積むことになるでしょうか。「私の物は私の物で、あなたの物も私の物だ」ということが善でしょうか。そのようなことが善であるのかというのです。もし人間が堕落しなかったならば、それが善となることができたでしょう。人類始祖が堕落しなかったならば、この世界がすべて私のものであるといっても、それは善になるというのです。

 しかし残念なことに、人間始祖が堕落することによって一番下に落ちてしまったため、それが善となることはできないのです。しかし、その法は私たちの心に残っているので、ひたすら善に向かって動こうとするのです。したがって、私が良い所に入ろうとすれば、「私の物はあなたの物であり、あなたの物は国のものであり、国の物は世界の物であり、世界の物は神様の物である」と言えなければなりません。そのようになれば結局、私の物はあなたの物であり、あなたの物は神様の物になるというのです。それを皆さんはよく知らなければなりません。

 今日、人間はそのような立場に立てなかったために、私の物は私の物であり、あなたの物も私の物であるというような悪なる生活をするようになったのです。悪とは何であるかといえば、自分を中心として生活することです。悪はいつかは滅びるものなのです。しかし、私の物はあなたの物であり、あなたの物は神様の物であるという善なる立場に立つならば、神様の物もすべて手に入れることができるようになるのです。どれほど欲をかきたてられる話でしょうか。神様が「必要ない」と言っても、何も心配することはないのです。それゆえ、「私が生きるのはあなたのためだ」ということが、正に善の道であるというのです。

 皆さん、友人も自分を好んでくれて、「ために生きる友達が良い」と言うでしょう。ところが、自分を寂しくさせ続ける友人はどうですか。お互いに「別れるな」と言っても、別れるようになっているのです。そうして、のちに滅びてしまうのです。その反面、「ため」に生きる友人には、けられても、くっついていこうとするのです。自分がくっつくだけでなく、その周囲にいる友人たちもくっつこうとします。そのような人は残るようになるのです。残ることができるのでうれしくなるのです。これが原則です。

 このように、善は自分が他人のために犠牲になるところから発生します。温柔で謙遜なところから善が始まるのであり、犠牲となるところから実が結ばれるのです。

 イエス様も「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」(ヨハネ一五・一三)と語られました。このような愛は、神様の愛より大きいということですか、小さいということですか。それは神様の愛よりも大きいというのです。なぜかといえば、善のために自分を犠牲にしたためです。

 善の道を行くのに自分を主張すれば偽者であり、そのような偽者は滅びていくのです。永遠に滅びるのです。それゆえ、神様がこの地上の人間を救うために一つの方案を模索されたのですが、それが何かといえば、自分を脱皮することのできる分岐点を探して、それを踏み台として反対に上がっていくことなのです。

 言い換えれば、自分のために生きるのではなく、他のために生きなさいというのです。相手が悪人であってもいいというのです。悪人に善を施したにもかかわらず、その人が受け入れなければ、その結実は再び私のもとに帰ってくるのです。悪人にも善はあるのです。したがって、戻ってくるときには、その人の善までも合わせて戻ってきます。善はマイナスになることがありません。必ず、大きくなって戻ってくるのであって、小さくなって戻ってくることはないのです。

 イエス様がおっしゃるには、「死のうとする者」はどうなると語られましたか。「生きる」と語られました。「生きようとするものは死ぬだろう」と語られたのです。これは逆説的な論理です。生きようとする人は、生きることができないのです。滅びるようになっています。また死ぬ覚悟をしている人は、生きることができるのです。このような結果が現れるのです。このように逆説的な論理ではありますが、人生の本然の行路においては、逆説的な論理を取り入れざるを得ないのが、堕落した人間であるということを皆さんは知らなければなりません。

◆まず家庭のために犠牲になりなさい


 人間が本然の状態に戻ろうとすれば、血族を通じていかなければなりません。善なる道を行こうとすれば、善なる父母を通じてのみ行くことができます。それで「両親に孝行しなさい」と言うのです。家庭のために犠牲になることは、悪にはできないことなのです。

 この地に生きているどんな悪人であっても、自分の子供に対する父母の愛の中には種子が残っているのです。父母が自分の子供に「お前も私のように悪人とならなければならない」と教える人がいるでしょうか。自分は殺人強盗犯であったとしても、子供には「お前は絶対に殺人強盗犯になってはならない」と教えるのです。それは反対であるというのです。

 このように人間は堕落しましたが、父母と子の関係においてだけは愛が残っており、本然の愛の形態が同じなので、その愛を通じて本然の位置に戻ることができるのです。もしその愛さえもなければ、人間は本然の位置に戻ることができません。それゆえ、父母の前に孝行しなければならず、家庭のために自分を犠牲にしなければなりません。

 国を中心として見ると、先駆けて涙の道を行かなかった愛国者はおらず、家庭を中心として見ると、先駆けて涙の道を甘受しない孝子はいないというのです。結局、死ななければならないというのです。私を否定する道を行かなければなりません。これを明確に知らなければなりません。このように行く道が善の道です。民族は国のために犠牲になり、国は世界のために犠牲になるべきです。

 本来人間は、家庭の主人であり、氏族の主人であり、国家の主人であり、世界の主人です。ところが、堕落によってこのようなことをすべて失ったために、この原則を探してその過程を通過せずには、そのような位置に上がることができないのです。いかなる環境であっても、時間の長短の差はありますが、この公式を通過しなければならないことは間違いないというのです。

◆聖人になろうとすれば国家と民族を超越すべし


 ここに集まった皆さんは、善なる人とならなければなりませんが、善なる人になる方法は何でしょうか。善なる人になるために、六千年という飽き飽きするほどの歳月がかかったのに、早く善人になる方法はないのでしょうか。そうするには思想が必要なのです。世界主義、国家主義、民族主義、このような言葉を多く使うのですが、民族主義者となるか、世界主義者となるかが問題なのです。

 聖人とはいかなる方でしょうか。聖人は民族主義者とは違うのです。聖人は世界的な方です。聖人は、国家の限界圏内で忠誠を捧げて生きていく人ではないのです。国家的に追い込まれ、追われる人の中に聖人が現れたのです。それはどういうことかと言うと、自分の国を超えて、世界のために努力する人の中に聖人が現れたということです。

 聖人は国家と民族を超越し、世界のために自分の命を投入し、受難の路程も喜びとし、世界的な理念とともに生きようとする信念をもち、命を懸けるという条件を立てて、理想世界を探し求めていく人なのです。世界だけでなく、世界までも超越するのです。

 聖人たちを見てみると、全員が宗教の教祖であるということが分かります。イエス様も聖人です。イエス様は、「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ三・一六)と語られました。この教えの主流思想は人ですか、神様ですか。神様なのです。仏教の釈迦、イスラム教のマホメットも同じです。彼らはみな、神様を中心とした宗教の教祖として出発しました。

 世界の四大聖人を挙げるとき、ソクラテスを聖人として挙げることはできないのです。ソクラテスは知識の王子です。知識は人間の生命を支配することはできません。生命は神様だけが支配することができるのです。生命の価値を探し求めて歩むのが人生であるために、知識を通しては探すことができないのです。博士になったといって、それが人生において価値のあることだと考えるのは、非常に大きな誤算です。その人がもっている知識が、天下がみな認めるだけの知識であるとしても、幼い子供の生命にも満たないものでしかないのです。

 宗教は、生命を支配することのできる権限をもって現れたものであり、哲学は知識を追求するものです。それで、ソクラテスは聖人となることはできないのです。知識は、人の命を解決することができないのです。その事実を皆さんは知らなければなりません。


◆神様と人間が好む主義、思想、宗教


 神様を抜きにして聖人はいないということを考えると、聖人は、神様がいることを象徴したものでしょうか、いないことを象徴したものでしょうか。神様がいるということを象徴したものなのです。世界文化圏は、宗教を中心としてすべて形成されるでしょう?
 いくら立派な政治家や、偉大な民族がいたとしても、やがてみな滅びてしまいました。しかし、宗教だけは数千年間、その伝統を守りながら一歩ずつ発展してきたのです。そうして世界のあらゆる国家が、宗教文化圏内に入ってきたのです。そのような歴史的な事実は、否定することができないのです。このことを見ると、歴史的な主体である神様が存在しないとは主張できないのです。

 皆さんは、民族主義者になりますか、世界主義者になりますか。宗教は世界主義だけではありません。人間にだけ良くしようという主義ではなく、神様にまでも良くしようという主義なのです。しかし、共産主義や民主主義は、人間だけを良くしようという主義なのです。

 それでは、神様だけが好まれる主義であれば良いのでしょうか。原則的にいうと、神様だけが好まれても駄目なのです。神様も好み、人間も好まなければならないのです。共産主義者たちが主張するのを見ると、「神はいない」と言います。彼らは「物質がすなわち生命である」と言うのです。多分「地獄にも行かない」と言うでしょう。共産主義は、結局最後には滅びてしまうのです。

 宗教も、神様だけを中心とする宗教は滅びます。また、人間だけを中心とする宗教や主義思想も滅びるのです。

 それでは、神様と人間にとって良い主義を、神様の世界では歓迎するでしょうか、しないでしょうか。また、人間の世界でも歓迎するでしょうか、しないでしょうか。歓迎するのです。したがって地上天国を成し遂げようというのです。地上天国を成し遂げずに、天上天国に入っていくことはできないのです。

◆私たちの願いは宇宙を主管する立場で神様に侍ること


 神様がいらっしゃるとしたら、神様がアメリカの国民だけを世界の主人にしたいと思われるでしょうか。全世界の人々を、すべて主人にしたいと思われるのではないでしょうか。そのため、国家を中心とする思想は、すべて流れていってしまうのです。どんなに世界を震動させ得る主義があるとしても、自らの民族性を超越できなければ、結局は滅びてしまうのです。

 聖人たちは世界主義を叫びながら死んでいきましたが、その世界主義という思想とともに地上で生きたため、地上に解放の時が来るようになれば、霊界でも解放の時を迎えるようになり、それによって初めて自らの時を迎え、栄光の座につくようになるのです。イエス様は、十字架上で怨 讐たちの福を祈りながら、自分はたとえ死んでいく立場であっても、気概をもって死の道を堂々と行かれたでしょう?
 イスラエル民族の反対を受けながらも、ひたすら天と地のために死んでいかれたのです。

 そのように死んでいったなら、そのような世界が来る時までは、その人を中心として侍っていくのです。その人を主人として、侍りながら生きたいのが天理の原則なのです。それで人間たちは、「善を行いなさい」と教育するのです。ここで善を行いなさいというのは、犠牲になりなさいという意味です。

 言葉なく国のために犠牲になる人は、国運を受けることのできる子孫を残すでしょうし、言葉なく世界のために犠牲となる人は、世界の運勢を受けることのできる子孫を残すでしょう。

 それでは、この世界は何のために犠牲にならなければならないでしょうか。神様のためにです。それでは、神様は何のために犠牲にならなければならないのでしょうか。神様の愛のために犠牲にならなければならないのです。信仰、希望、愛、この三つが常にあるというなら、その中で一番は愛であるという結論は既に出されたのです。神様も愛であるために、愛なくしては生きていくことができないのです。

 神様は愛する息子、娘を失ってしまったために、愛することのできる息子、娘を探し求めてこられました。それで、世界は神様のために犠牲とならなければならず、神様は息子、娘のために犠牲とならなければならないというのです。それでは、神様が息子、娘に会って何をされようというのでしょうか。一つしかない愛の因縁を残そうというです。それを残さずには、後継者が現れることはないのです。そこから初めて、横的にすべてが因縁づくようになるのです。

 それで私たち自身も神様に似なければなりません。神様に似ることなくして、この世界を率いて神様の前に行くことはできません。すなわち、神様と一致することのできる立場に立ってこそ、私たちの願いが成就されるのです。

 それゆえ、先にお話ししたように、真の父母の因縁を中心として、人間を代表することのできる家庭の思想が氏族の思想となるのです。また、そのような氏族の思想は、民族の思想として発展するのであり、民族の思想は、国家の思想として発展するのであり、また国家の思想は、世界の思想として発展していくのです。そうして、世界の思想は神様の思想として、あらゆる生活の中に展開し、発展していくのです。

 このように、ただ神様の愛だけを中心として、全宇宙を主管することのできる立場で神様に侍りながら存在しようとするのが、すべての被造物の願いであり、人間の願いであるということを皆さんは明確に知らなければなりません。


















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訓教経(下)013



文鮮明先生のみ言集

訓教経(下)



前進と停止


一九七一年二月二十一日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第四十二巻』


 私たちが信仰生活をするときに、最も問題になることとは何かといえば、自分自身を中心として、願う目的に一歩近づくのか、そうでなければ後退するのかということです。

◆前進の一路を歩んでこられた神様の復帰摂理


 自分自身が、きょうよりも勝るあすを迎えるために、より価値的な何かを追求すれば追求するほど、そして追求するその内容が大きければ大きいほど、それだけ前進できる速度を倍加させるという気持ちをもたなければ、その追求する目的を成就することは困難です。

 もしそういう目的を中心として進まなければならない立場であるにもかかわらず、進むことができず停止するとしたら、後退の一路を避けることはできません。このような事実を、私たちは日常生活の中でしばしば感じます。

 例えば、ある友人に会って対話をするとき、きのうやりとりした会話よりもきょう交わした話の中に、自らの心を新たに誓うことができる激励の言葉と、より価値ある内容の言葉があったとすれば、そこでは必ず内的に前進を決意することができるのであり、その決意によって生活の中で自らの環境を一歩前進させることができるのです。

 しかし、二人の間の会話の内容が、きのうよりもかえって気落ちさせるような内容であったとすれば、後退するしかない内的事情が残るようになるのです。そのような時には、二人の仲が遠ざかるのはもちろんのこと、自分自身も、対話しなかったよりも悪い結果に陥るようになることを、私たちは日常生活を通じてよく感じます。

 一つの国の運命も同様です。どの国を中心として見ても、その国が前進しているか、停止状態であるか、あるいは後退しているかということが最も大きい問題に違いないのです。このような観点から今日の世界を見ても同様なのです。

 いかなる主義や思想であったとしても、前進の一路を繰り返して、最後には世界の全人類がそこで一つとなり、また一つとなった人類がそれを一代で終えるのでなく、自らの子孫にまで連結する伝統として残すとき、それは歴史の流れの中で、より一層輝くことができるのです。そのような立体的な内容をもっている主義、主張や思想体系は、発展の一路を行くまいとしても行かざるを得ないのです。

 言い換えれば、発展するためには、今までの歴史過程で少しずつ発展してきたあらゆる要件をそのまま消耗させるのではなく、それを生命の要所として、そこで新しい枝と葉が出るようにし、何かを補ってあげなければならないというのです。そうでなければ前進することができないのです。

 このような観点で神様の摂理を見るとき、神様は、過去、現在、未来を通した立場で今までの摂理を発展させているのであり、過去よりも一歩進んだ前進の一路を現在も歩んでいらっしゃることは間違いありません。

 それでは、今まで歩んできて、ある程度まで前進しましたが、これから進むべき未来を前にし、ここからずっと前進できるだろうかと考えるとき、「これ以上前進できない」と言うようになれば、そこから停止状態になるでしょうし、またそこには必ず後退の一路が待ち受けているという事実を知らなければなりません。

◆ずっと前進できるかということが問題


 人は誰でも、失敗することを願わず、成功することを願うのです。すべての人々は、心と体で成功する日を願って追い求めます。失敗は誰も願いません。環境自体もそれを願いませんが、私たちの日常生活においては、成功よりも失敗の度合いが多く漂っているという事実を否定できません。

 さらに私たちは、今日日常生活でそれを体 恤し、痛感する立場にあるということを考えるとき、後退するということは、私たちにとって怨 讐のようなものです。したがって、これを打開してしまい、後退は私とは関係ないという絶対的な立場を固守しなければならないのが、あすへの望みと、希望をもって進む人たちの必然的な要件に違いないということを私たちは知るようになるのです。したがって、きょう勝利の基点をもったとしても、それを自慢するのではなく、あすに控えているかもしれない停止と後退のことを考えて、きょうの勝利を分析し批判することができなければなりません。

 それで、きょういかなる勝利を収めたとしても、その勝利を喜んでばかりはいられない立場にあるのが、きょうよりもより勝ることを願い前進していく人たちの立場ではないかというのです。したがって、きょうの勝利があるならば、その勝利はあすの新しい基盤となるべきであり、きょうの一歩進んだ基盤があるならば、それは一歩前進したことで終わるのではなく、あすの生活的な基盤となり思想的な要件とならなければならないのです。

 そうして、きょう私たちがある勝利を収めたとすれば、それを基盤としてより広い意味のあすを開拓し得る一つの母体、一つの動機として消化し得る自らの能力や自主力をもたなければならないというのです。そうできないならば、現在どんなに勝利をし、前進的な路程を歩んでいるとしても、願いをかなえることはできず、より大きな目的を達成させることは難しいという事実を知らなければなりません。

 私たちは、過去と、現在、そして未来への過程をたどりながら、出たり入ったりする瞬間を連結させているのです。したがって、きょうという日がいかに貴く、現在がいかに貴いかを知らなければなりません。

◆喜びは前進する中で感じるもの


 私たちが生命を維持するためには、呼吸を続けなければなりません。また、そこに相応して栄養を補給しなければなりません。このように、補給した栄養素が循環器を通し互いに交わるとき、きのうと異なるならば、私たちの体の調子は悪くなります。

 しかし正常な体のリズムと歩調を合わせ、きのうよりもきょう、少しでも栄養を与えたとすれば、私たちの体は自然に健康になるのです。そこから新しい前進の基盤が広がっていくことを知ることができるのです。

 このように、皆さんが信仰生活をするときにも、必ず栄養剤のようなものが必要です。また、正常に呼吸をするのと同じような生活態度が必要なのです。すなわち、「私はこのようにして行くべきだ」という独自の信仰基準を中心として、呼吸するように信仰路程を歩まなければならないのです。呼吸するように、生命力を補給することのできる正常な基準がなければならないのです。

 そうすることで、それに相応して栄養を補給することができます。そのようになれば栄養剤をどのように補給するか、正常な信仰基準の前に、正常な栄養剤を補給することのできる補給路を、いかにして補強するかということが前方でも後方でも、前後、左右、四方で問題となるのです。きのうよりもきょう、この時間よりも次の時間に、いかにしてより良い価値ある栄養を補給させるかということが問題だというのです。

 皆さんの信仰生活で、喜びというものは必ず前進して発展をするところでのみ感じることができるのです。それゆえ、いかにすればそのような内容を補強することができるのかということをいつも考えなければなりません。

 人が仕事をするときにも、その仕事をする前よりも、したあとがより悪かったとすれば、そこでは必ず打撃を受けるのです。悪いということは一歩後退したということであり、良いということは一歩前進したということを意味します。

 こういう立場から見るとき、この地に生きている私たち人間は、罪悪の世界で生きているがゆえに、自分が生活する全分野において、「きょう一日の生活は喜ばしかった」と言うことのできる結果を残すのは、極めて困難であることを知らなければなりません。

◆現実問題をどのように処理するかが重要


 十人に接したとすれば、その中で、果たして何人が私に希望をもたらしてくれるだろうかという問題について考えるとき、十人全部がプラス的な結果よりはマイナス的な結果をもたらすことが多いということを、私たちは日常生活で頻繁に感じます。

 では、このマイナス的な結果を、いかに補強することができるでしょうか。それを補強する道がないならば、私たちが活動する環境では、私たちの信仰生活や、進んでいく道に前進的な結果をもたらすことができず、かえって後退の一路にぶつかるしかないということを皆さんは知らなければなりません。

 それゆえ、いつも周知しなければならないことは、私が過去にどのようにしてきたかが問題ではなく、きょうこの時間からが問題だというのです。きょう私が置かれている現実的な問題を中心として、いかに処理していくかが、極めて重要だということを皆さんは知らなければならないのです。

 心で願わない人に接するとき、どのように接すべきであり、また、接したのちに現れた結果をどうすべきかという問題を、まず考えてみなければなりません。それで、どんなに悲しくて孤独な立場にあったとしても、それ以上は下りていかず、それ以上は打撃を受けないという線を引き、それを越えない対人関係をもたなければならないのです。

 職場であれば職場で仕事をする時にも、仕事をする自分自身がいかなる立場にいるのかを知らなければなりません。その職場で自分が一歩前進するのか、後退するのかを考えてみなければならないのです。自分が置かれている職場を中心として、その職場自体が私にとってあすの希望の基盤を確約することができ、きょうにおいても、なくてはならない関係として残り得るのか、という問題を考えてみなければならないのです。

 ところが、もし仕事と私の間に結ばれた関係が、私の信仰生活において必要で適切な内容として残ることができず、ただ安心するぐらいの内容ならば、それは停止でもなく後退の一歩を踏むようになるのです。それゆえ、今現在の立場が、皆さんの生死の問題を左右しているという事実をはっきりと知らなければなりません。

◆目的が明確で動機が良ければ前進


 職場でペンを握って一文字を書くときも、誰のために書いているのかという目的観が明確でなければなりません。自分が自分自身のために生きるよりも、天のみ旨と関係を結び、天のみ旨のために生きることがもっと効果的な結果をもたらします。

 それゆえ、私が生きていくことが私のこととして結論づけられるよりも、天のものとして結果づけられ、天が喜んでこそ私たち自身もうれしいのです。どこまでも私が主体ではなく、天が主体であるため、天が喜ぶことができる内容を立ててこそ、相対的立場にある私たちが喜びを感じることができるというのです。これは自然の原則です。

 あらゆるものの動機は自分と関係していますが、その結果は自分自体を中心としたものではなく、より大きな目的を中心として、その目的にプラスとなる要件にならなければならないのです。一日一日仕事をして生活をする中で、そのような要素をどれだけ残すかということが重要です。きのうよりもきょう、またきょうよりもあす、より高く、より多くそのような要素が積み重なって、それが高くなれば高くなるほど、希望の度数もそれだけ高まるではありませんか。

 私たちがいかなることをするときも、そうだというのです。きのうの心と、きょうの心が出発する時から異なっていなければならないのです。言い換えれば、「過去にはこのような思いで出ていったが、きょうは新しい気持ちで行こう」という覚悟で、出発の動機からそのように正して出るとすれば、間違いなく良い結果をもたらすようになるのです。

 しかしそのようにできず、以前よりも低い立場で、きのうよりも劣る思いで出発したとするなら、必ず後退の一路を歩むようになるのです。そのような環境の中で継続して仕事をすればするほど、そこでは自ら破局を招くようになるのです。

 また、それが一つの方向だけでなく、四方でそのような後退の感情を引き起こしていくならば、いくら目的が大きく、いくら自ら固く決意したとしても、それは停止状態となり、動こうとしても動くことができない、完全に固定された立場となることを私たちは体験するようになるのです。

◆前進させたり後退させるのは自分自身


 私たちが前進と停止の問題について考えてみるとき、これを誰が刺激するのかが問題です。ある外的な環境が私を前進させてくれることは絶対にありません。また、ある外的な事柄が私を後退させることも絶対にありません。

 私を前進させ、あるいは後退させる母体とは誰でしょうか。ある相対的な要件ではなく、まさしく私自身だというのです。あくまでも私自身が問題です。私が相手をした、ある人が悪かったためにそうなるのではなく、私自身に問題があるためなのです。

 したがって皆さんは、自分自身が後退するのも自分ゆえであり、前進するのも自分ゆえであるということをいつも感じなければなりません。自分自身を前進させ、あるいは後退させる母体が、正に自分自身であるというのです。そのような問題が、相手によって生じる問題だと考えてはいけません。自分とは関係なく生じる問題だと考えてはいけないのです。

 自分に生じるあらゆる問題は、必ず自分と関係があるために生じるということを知らなければなりません。そのような問題が、私の生涯においてやりがいのある価値を決定づけるか、あるいはそうでない結実を結ぶかというのも自分自身にかかっているのです。したがって皆さんは、このような問題を清算するための一つの解決方法を考えなければならないのです。

 こういう観点から見るとき、皆さんはあくまでも、自分が主体的な立場で対するあらゆる問題と関係を結び、それを処理して必ず勝利の結果として収めなければなりません。

 私たちが信仰生活において、このような態度と立場を取ることなくして、その生活がどんなに立派だとしても、そこでは受動的な結果しか収められないのです。受動的な結果をもっては、直接的な勝利を収めることができないということを、皆さんははっきりと知らなければなりません。それゆえ、「私は誰によって後退し、また誰ゆえにこのようになった」と言ってはいけません。

◆悲しみも喜びとして消化せよ


 大きな結実を収めるためには、必ずそこに対応する否定的な環境を通過しなければなりません。なぜでしょうか。この世が堕落した世の中であるためです。それゆえ恩恵を受ける前には、必ずサタンの役事が起きるのです。試練の期間が過ぎれば、必ず恩恵を受ける日が来るのです。これはイスラエルの歴史を見ても分かります。

 したがって、悲しいことが迫ったとしても、悲しんでばかりいてはなりません。悲しみで出発したからといって、悲しみで終わりを結ぶのであれば、その人の人生には悲しみが続くのです。しかし、始まりは悲しみであったとしても、終わりを喜びで収拾したとするならば、そこから喜びが出発するのです。

 また、いかに大きな悲しみが襲ったとしても、出発の時からその悲しみを喜びで消化していくならば、その人は過去の悲しみと現実の悲しみを勝利で実らせることができるのです。喜んで環境に対するようになるとき、歴史的な希望の基盤がそこに結実するというのです。

 それゆえ、私たちの前に迫る悲しみの路程を、悲しみで対するなというのです。たとえ悲しみで出発しても、結果を喜びで結ぶようになるときには、あすには喜びの出発を私たちの前にもたらすことができるのです。また出発から喜んで最後まで行くならば、私たちは、過去、現在、未来に喜びを連結させることができる中心的な主体になるのです。このような場に立つとき、神様が干渉せざるを得なくなるのです。

 神様は、過去の勝利だけを考える方ではなく、また未来の勝利だけを誓う方でもありません。過去の勝利をきょうの現実と対比してはいけないのです。神様は、未来の勝利の基盤を現実で準備しようとなさるので、皆さんは、その現実の環境を悲しみの中に追い込んではいけません。

 出発から喜び、良い気分の立場に立って、結果までも喜びで消化することができる立場に立つようになれば、その過程にいかに大きな悲しみがぶつかってきても、それを喜びと恵みで消化することができるのです。ここに関係した立体的な範囲、すなわち霊界と自分を中心とした過去、現在、未来を、天の前に勝利の結果として収めることができるというのです。

 このような事実について考えるとき、そういう峠が多ければ多いほど、「輝く前進をしている」と言うことができるのです。その困難な峠を過ぎれば、私がいかにしてそれを越えたのか自ら考えるようになり、また過ぎ去ったその日が、いつも自分にとって一つの新しい動機となり、激励の材料となって、希望にあふれたあすの強固な基盤になるという事実を、私たちは信仰生活を通じて頻繁に体験するようになるのです。

 きょう皆さんは、自分が前進し後退するすべての因縁は、相対的な要件によってなるのではなく、主体的な自分によってなされるということを明確に知らなくてはなりません。

 それゆえ、イエス様も十字架を背負わなければならなくなったとき「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかしわたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ二六・三九)と祈祷したのです。そこでの中心は神様でした。すなわち、イエス様は自分を中心としたのではなく、神様を中心として祈祷したのです。

 神様はいかなる道を行かれるのでしょうか。神様は、悲しみの道から喜びの道を訪ねていかれるのです。神様は、悲しみの日から出発したので、復帰路程において、いつもまず悲しみの路程をたどらなければならないのです。このような神様の立場を、皆さんは知らなければなりません。

 悪と善が闘争するとき、どちらが損害を被らなければならないでしょうか。悪が損害を被るのではなく、善が損害を被らなければならないのです。それは、損害を被って出発した行路が善の行路だからです。すなわち、神様は損害を被る立場であるために、いつも悲しい歴史を経てから、それを清算しなければならないのです。

 しかし、結果的には悲しみを取り除きながら、あすの喜びの一時を願って進むのが天の復帰摂理です。それにもかかわらず、その結果が喜びの結果をもたらすことができず、出発したときよりももっと大きな悲しみとなったならば、その悲しみの結果をもたらした人は、そこでへし折られ二度と立ち上がることができない、ということを皆さんは知らなければなりません。それが、復帰摂理路程において、み旨に対してきた責任者たちのたどってきた歴史過程なのです。

◆悲しい神様を慰労してさしあげようとすれば


 神様は喜びで出発したのではなく、悲しみから出発したので、その神様が私たちを訪ねてこられるのは、悲しみの日を迎えるために来られるのではなく、喜びの日を迎えるために来られるのは間違いない事実なのです。

 ところが、今日私たちが悲しい立場で出発し、悲しい結果を結んだなら、それこそ私たちが神様を目の前で全面的に裏切り、追い出す結果にしかならないのです。したがって私たちは、いかなる困難があったとしても、悲しみで訪ねてこられる神様を喜びで迎える心の姿勢をもたなければなりません。

 私たちがこのような心の姿勢を備えるならば、悲しみから出発して人間を訪ねてこられる神様であるとしても、私たちに対する瞬間、悲しみを忘れ、喜びの結果をもたらすことができるようになるでしょう。またそのようになれば、その喜びの基準が上昇することによって、ここから復帰されるのです。喜びの心で対するその場から、創造的で新しい前進の歴史が出発できるというのです。

 神様はそのような基盤を敷き広げて、そのような環境を用意しようという人を中心として摂理の基盤を広めようとされるのです。これが、復帰摂理を勝利で終えようとされる神様の避けられない欲求であり、要求に違いないという事実を私たちは知らなければなりません。

 今日多くの人たちは、信仰の道を行くのに「孤独な私に、天よ、福を与えてください。私が困難な道を歩んでいるので、天よ、この道を阻み、私を楽な道に導いてください」と祈ってきました。しかし私たちは、神様がどこの誰よりももっと困難な立場で、この時間にも、私よりももっと大きな苦痛にあえいでいらっしゃることを知り、かえって神様に「あなたの困難を私に分けてください」と言って、偉大なる神様の苦痛を慰労する立場に立たなければなりません。

 ある母親に愛する息子がいて、その息子が死んだとしたなら、その母親は言うに言えないほど悲しむことでしょう。そのような時のその母親の心は、それ以上の悲しみを感じることなくして理解することができません。そのお母さんが味わった悲しみよりも劣る悲しみを味わった人が、その母親を慰労したとしても、その母親は慰労されません。しかし、その母親以上の悲しみを味わった人が慰めながら「私もこのようなことがあった。このような時は、こうすれば損だから、このようにしたらいい」と言うときには、その母親は、そこで自分の悲しい心を収拾することができるのです。

 しかし、その母親の別の息子が母親よりも悲しみながら、「私がお母さんの悲しみを代わってあげることができるなら、どんな困難も克服する」と言ってきたなら、その母親はその息子によって新しい希望を得て、かえってその息子を慰労する立場に立つようになるのです。

 それと同じように、神様がそのような立場で悲しみを受けたとしたなら、私たちは神様が受けられた悲しみがいかに大きいだろうかと、神様のことを考えて涙し、神様に「あまり悲しまないでください」と言うことのできる立場に立たなければなりません。自らの都合は差し置いて、神様を慰めることのできる立場に立たなければならないというのです。そのようになるとき、神様は悲しい立場でも、かえって私たちを慰労なさるのです。

 神様よりももっと苦労する立場に立って、「私がすべての責任を負う」と言って最善を尽くし、迫害と苦痛を受けることを自らの使命とし、それを克服していく人がいるとしたなら、神様はそこから慰労を受けるだろうし、神様のあらゆる事情を打ち明け、その人と共になさろうとするのです。このような事実は私たち人間の心情世界、すなわち情の世界から推測してみても分かるのです。

 したがって、今日私たちがみ旨を歩むうえで常に、悲しい神様をいかに慰労してさしあげるかということを考え、神様を慰労してさしあげるために神様よりももっと苦労しようという心をもたなければなりません。そのようになれば、かえって神様が私たちを慰めてくださる立場に立つようになるし、また私たちを慰める立場に立った神様は、悲しみを忘れて喜びの思いで私たちに接するようになるのです。

 私たちは神様の悲しみを知ったので、神様の悲しみを代わってさしあげるという心で不憫に思い、間接的にでも慰労することのできる立場に立ったならば、神様はそういう私たちの姿を見て、むしろ私たちを慰めてくださる立場に立たれるのです。そのような立場に立つことによって、その瞬間は神様が悲しみを越えることができ、悲しみを忘れることのできる瞬間ではないかというのです。

 このような事実を見るとき、信仰生活において、そのような態度がいかに貴重かということを皆さんは知らなければならないのです。

 私たちが祈祷する時間は、自慢する時間ではなく、祭物を捧げる時間であるということを知らなければなりません。「神様、あなたに悲しみがあるならば、その悲しみを私に蕩減させてください。それだけでなく、私たちの教会のあらゆる悲しみまでも私によって蕩減させてください」と言って、祭物となることを誓い、そのような立場を訪ねていく人がいるならば、彼がいくら遠のこうとしても、神様はその人を訪ねてこられるのです。彼が願わなくても、神様は必ずその人を中心として因縁を結ぼうとなさるのです。

 そういう人を通じてのみ前進できるのが天の役事であるため、神様はそういう基盤をもって進む人に対さずにはいられないのです。

 私たちが信仰生活をするとき、前進の一路を行くためには、悲しい神様を慰労することができる立場に立たなければなりません。悲しい神様を慰労するためには、悲しい立場にあってはなりません。悲しい立場では、悲しい神様を慰労することができないのです。

 したがって、常に感謝する心をもたなければなりません。不平や、不満の思いをもってはいけないのです。み旨のためならば、千回、万回死んだとしても感謝することができ、千回、万回また犠牲になり、天のみ旨のために死ぬことができるならば、これ以上の願いはないという心の姿勢をもたなければなりません。そのような心をもった人は、自分の一代で数十人、あるいは数百人を身代わりすることができるのです。

 そのような心をもって今まで歩んできた道を振り返り、「私は神様を慰労し、神様の喜びのために生きた」と言うことができるならば、その人は死んだとしても死んだ人ではありません。そのように個人的な戦場でのみ戦うのではなく、そのような心をもって範囲を広めて家庭的な戦場で戦っていかなければなりません。私個人が過去にそのような心をもって家庭を抱いて戦ったならば、再び氏族を抱いて戦い、その次には民族、国家、世界を抱きながら戦っていかなければならないのです。

 このように蕩減の段階を広げながら進むならば、私たちが前進できる分野はますます四方にその範囲を広めていくことができるし、それによって私たちは、ずっと発展していくことができるのです。しかし、み旨に対し過去よりもきょうが、きょうよりもあすへと進めば進むほど、だんだんその目標が減少していく立場に立っていれば、それは間違いなく停止する立場を越え、後退する場となるのです。このことを皆さんは知らなければなりません。

◆後退する人は神様も好まれない


 後退する人は世の中の人も嫌いますが、神様も嫌われます。後退する人の後ろには必ずサタンがついてきて、その人の前進をあらゆる方向から阻もうとするのです。そのような立場に立つために、その人は後退の一路を歩むようになるのです。したがって、一歩後退する人は善の立場ではなく、悪なるサタンの立場に立つようになるのです。

 信仰生活には、時代が重要です。自分がいかに信仰生活を堂々となし、み旨の道を力強く歩み、個人的な摂理時代に勝利したとしても、その時代が家庭的な摂理時代圏内に一段階前進し、家庭的な責任を担うべき時には再びそれに合わせて行かなければならないのです。個人的な時代に勝利した結果をもって、家庭的な摂理時代にまで勝利を押し通すことはできないのです。

 過去の信仰生活と現在の信仰生活を見るとき、その様子や領域が同じであるとしても、そこには差があるのです。より前進した時代圏内においては、自分自身も前進しなければならないのです。それにもかかわらず、個人的な使命だけをしていた時のような立場に立っていれば、これは前進しているのではなく、後退しているのです。

 それゆえ、み旨の道を歩む人は、不平不満を言ってはならないのです。いつも体を曲げて大きな罪を犯した罪人のような立場、祭物の立場を取るしかないのです。こういうことが恨めしい復帰の路程なのです。このように恨めしい復帰路程の蕩減は、きょうのある瞬間に完了するものではなく、あす完了するものでもありません。現実、正にきょうのこの時間を中心として完結していかなければなりません。

 それゆえ、私たちは現在を無意味に送ることはできないのです。現実こそ生きるか死ぬかという、私の生死を判決する岐路であり、分岐点として常に私の生命をねらっているのです。このような現実の場があるということを、皆さんははっきりと知らなければなりません。

 現実で敗者となっては、未来においても勝者になれません。また現実で敗者のわびしさを味わった人は、それを「過去の勝利の結果である」とは言えないのです。それゆえ、現実に私たちの怨 讐の中の怨讐が現れることもあり、幸福の中の幸福が覆されたりもするのです。ここで、どのようにすればこの怨讐を捕まえて、幸福の要因を模索することができるのかということは深刻な問題なのです。

 もし我知らず一峠、二峠、三峠と後退の道に落ちていったなら、これを再び前進の道に戻そうとすれば、どれほど大変であるか知れません。また、自分の心にひびが入っているという事実を知って、それを回復しようとするときには、身もだえするほど苦闘しても、独りでは難しいのです。

 それゆえ、信仰の道を行くにおいて、自分が愛することができる息子や、指導者がいるということは、いかに大きな幸福か知れません。そのようなときに、もし自分の主張や主観を唱えては、永遠に行く道がふさがってしまうのです。それゆえ、自分に愛する息子や娘がいれば、彼らに自身のすべての事情を打ち明けて、「これをどのように考え、またいかにすれば良いのか」と相談しなければなりません。

 また師がいるならば、その師にすべての事情を率直に打ち明けて、師はどのように考えるのかと相談をしなければなりません。このように、上下関係で問題を収拾することのできる第二の対象を探さずには、自分一人では難しいのです。

 後退する立場では、どのようにして一歩前進できる動機を探すのでしょうか。自分自身で探すのではなく、第三の対象を通じて探さなければならないのです。それゆえ父母が必要であり、師が必要であり、愛する息子、娘が必要だというのです。こういうことを、皆さんは明確に知らなければなりません。

 このような人がいないときには、天に談判しなければなりません。ところが、既に打撃を受けて後退した所で談判をしようとすれば、過去に前進していたときより何倍もの困難が伴ってくるのです。何倍の精誠を込めても収拾することのできないのが、私たちの信仰の道であるということを皆さんは知らなければなりなせん。

◆今この瞬間がいかに重要であるかを知れ


 このように一刻を争いながら戦う生活をした経験がある人は、一時間がいかに恐ろしいかということをよく知っているはずです。どこの誰かが、でんと現れて語ったとしても、その一言が私をとらえるのか、あるいは私を一歩前進させる動機になるのかということを既に心の中で知るというのです。喜べる対象なのか、そうでなければ悲しむべき対象なのかを知ることができるというのです。こういうことが、今日の信仰生活において重要な問題です。

 このような生活をするには、ただいい加減に動いてはなりません。私を中心として動くのです。それゆえ信仰者は、いかなることがあっても打撃を受けてはなりません。どんなに衝激的な話を聞いたとしても打撃を受けてはならないのです。仮に打撃を受けることが起こり、自分が悔しい立場に立つようになったとしても、それは私を滅ぼすためのものではなく、私を生かすためのものであると考えなければなりません。そのようなことが生じれば生じるほど、未来の時が、私の時が近くに来ていることを知らなければなりません。そしてその環境を越えるために、謙遜な心であらゆる精誠を尽くして祈祷しなければなりません。

 ピラトの法廷で、イエス様にユダヤ人の王かと尋ねたとき、イエス様は堂々と答えることのできる内容が十分にありましたが、自身の今の立場がいかなる立場であるかを知って、またいかなる弁解をしても、その場では受け入れられないことを知っていたために弁解しなかったのです。イエス様がそこで軽率なことを言ったとしたら、天を不信する結果を招くことになったために、天の氏族をいかにつくっていくことができるのかを冷静に考えたのです。

 周囲の環境からの反対が強ければ強いほど、天の氏族はそこに比例して大きくなるのです。それゆえ、み旨を中心として歴史的な伝統を立てるために適切な内容の言葉を残したのです。イエス様がピラトの法廷で、お前がユダヤ人の王かという問いに対し、「そうだ」と答えたのがそれなのです。

 そのような内容は歴史的な勝利を決定し、時代的な中心を決定し、未来の方向を提示した内容なのです。そのような場で責任を全うすることができなかったとしたら、イエス・キリストが立てようとした正常な福音の基盤は築くことができないというのです。したがって、私たちがいつも考えるべきことは、この時間、きょうのこの時間が重要だというのです。

◆神様はどれほど孤独で哀れなお方か


 ある指導者になったならば、壇上に立って多くの大衆の前でみ言を伝えるその時間は、深刻な時間です。指導者が壇上に立ってみ言を伝えるとき、いかにして多くの人々に命の因縁を結び、天と連結してあげるかを考えなければなりません。それが指導者の責任です。

 そしてその場で自分が後退したのか、そうでなければ一歩前進したのかをはっきりと知らなければなりません。後退したにもかかわらず、それをわきまえずそのままでいれば、それを再び収拾する道がないのです。それゆえ、指導者の行く道がいかに深刻で寂しい道であるかということは、自分がそのような生活をしてみない人には分からないのです。

 指導者は個々人の生命に対し責任を負うべき立場であると同時に、あらゆることの先端に立つべき開拓者の立場なのです。弱い立場にいる人には、命の保護者であり、指導者だというのです。きょうの基盤よりも、あすの相対的な基盤をいつも比較する、かわいそうな立場に立っているのが指導者だということを皆さんは知らなければなりません。

 人間の指導者がそうであるのに、ましてこの宇宙に責任を負っている神様の立場はどうでしょうか。未来について知っていらっしゃる神様ですが、同時に人間の父の立場で、地上の人間とお互いに相応的にすべてをわきまえながら決定していかなければ、前進することのできない立場でもあるのです。それゆえ、地上の一人を訪ねて来られる神様の心は、どれほどもどかしいでしょうか。

 皆さんは、指導者の生活がいかに孤独で寂しいものであるかということを感じることで、神様も孤独でかわいそうな方であるということを感じなければなりません。

 それでは、堕落はいつ起きるのでしょうか。堕落は、過去のことではありません。ある瞬間、正にきょうのこの時間に私を引っ掛けて倒す小さな問題が、私の生死を決定するかもしれないのです。堕落は怒涛のように一度に押し寄せてくるものではありません。ある動機から始まり、小さな隙間から知らず知らずにしみ込み、前進の道が破綻する結果をもたらすようになるのです。

 このような恐ろしいことが、過去ではなく、今日現実的に起きているということを、皆さんははっきりと知らなければなりません。

 天とサタンが共に死活を懸けてねらっている場が現実であるということを、皆さんは知らなければなりません。もし現実において一歩前進することができず、後退する立場に立つようになるときには、友人であれ、息子であれ、隣人であれ、家族であれ、全部なくなるのです。それゆえ、この基盤を何としても正しく立てなければなりません。

◆神様が協助できる内容


 天は必ず善であれば上がるようにし、悪であれば下がるようにします。これはやむを得ないのです。上がったり、下がったりする動きがあるのです。したがって、信仰路程では水平線を基準として、善を中心として次第に進んでいくことが、極めて重要な問題なのです。

 一歩前進するために行き、また何かを得るために進んでいくとき、そのためにはどのようにすべきでしょうか。きのうよりも価値ある人になるためには、態度から変わらなければならないのです。

 したがって、明け方から仕事をしなさい。教会に来るときにも、「ただ行く」という心で来てはならず、雑談もしてはなりません。一片丹心、一つの場所に精誠を込めなければならないのです。皆さんが電車に乗ったりタクシーに乗ったりして教会に来る途中で、行き来する多くの人を目にすることでしょう。そのようなとき、彼らに現れたすべての姿をただ見過ごすことなく、それを分別し鑑定して自らの行く道にプラスとなる材料とし、栄養素として吸収できるようにしなければならないのです。

 皆さんが道を行くとき、ありとあらゆる人を見掛けるようになります。それらの人々を見掛けるのは、無言の教えなのです。したがって、皆さんはそのような姿を見るときには、いかなる説教者の説教よりももっと多くを感じ取り、悟らなければなりません。それらはみな、自らの行く道を見せてくれるものであることを知らなければなりません。

 そして自分自身は、み旨のためにあのように全身全霊、全力を尽くしてみたのかを考えてみなければなりません。そのようなことを見るとき、その一時を中心として、一歩前進することのできる材料として、また自身を飛躍させることができる相対的な材料として受け入れることを急がなければなりません。

 皆さんが祈祷するとき「お父様」と言うのは、既にある一人の個人、すなわち金なにがしや朴なにがしの言葉ではありません。神様は金なにがし、朴なにがしに対し公的な摂理路程を歩んだ数多くの先祖たちが、最後に成就しようとしたその目的を中心として、彼らが迎えようとした決定的な瞬間を通じて、気をもませながら祈祷するようにさせるのです。それはすなわち、神様の願いであり要請なのです。

 したがって皆さんは、「いかにすればそういう父の前に公認される人となり、使命を全うすることができるのか」ということを常に考えなければなりません。そうしながら、自分自身を忘れて、天に代わることができる本然の立場で祈祷しなければなりません。

 そうすれば、その祈祷は自分の口を通して出てきたものですが、自分の祈祷ではないというのです。祈祷を通じて自分が恩恵を受けることができるのです。皆さんは自分が感動せずには、絶対に相手を感動させることができないことを知るべきです。

◆前進する信仰者の生活態度


 今日、私たちが置かれている現在というものが、いかに貴重かを知らなければなりません。ところで、ここで皆さんは前進しているのでしょうか、停止しているのでしょうか。停止してはなりません。停止は絶対に願いません。停止とは瞬間的に起きるものです。急傾斜を上るとき、少しでも停止するようになれば間違いなく転がり落ちるのです。信仰の道も同じです。

 皆さんは、いつもこういうことを考えて緊張していなければなりません。急傾斜を上るとき、一歩一歩上がっていくその歩みは、天倫に代わることができる、最も貴いものです。一歩上っていくことは簡単なことではありません。七号目、八号目、九号目を越えて頂上に向かっていくときは、他のことを考えることはできません。一片丹心、頂上だけに向かって上っていかなければなりません。

 そうしていったん頂上に上れば、世の中はすべて自分のものになるのです。自らの視野に入ってくるあらゆる存在も、自らの懐に抱くことがことができ、目の前に展開するあらゆる存在も、主体である自分の前に相対的な因縁を結ぶようになるのです。そうして、それらは自分の前に喜びの対象、栄光の対象として入ってくるのです。そのようなことを感じる場、生涯の中でそのような喜びを神様と共に分かち合い、そのような勝利を体 恤する場には、神様が共にしないわけにはいかないのです。

 そのような時間、そのような時をたくさんもつ人には、神様が共にせずにはいられないのです。自らの歴史的な一代を中心として、私が百という基準をもった者であるのに、二百という基準を備えたとするならば、その人はいかに堕落した道を行ったとしても、二百を備えたその基準が常に彼を守ってくれるのです。困難なところを訪ね、難しいことをしようとするとき、既にそれがうまくいくのかいかないのかは彼の心と霊、すなわち彼の中で分かるというのです。

 皆さんが生命体になる前に、その生命体はどこで育ちますか。その生命体は空中で育つのではなく、自分の心で育っているのです。霊形体と生霊体も空中で育つのではなく、自分の胸中で育っているというのです。それゆえ私たちには、生霊体の感覚、生命体の感覚、あるいは霊形体が感知する何かがあるというのです。したがって皆さんは、それを知り、み旨の道を歩む中で、自分が前進しているか後退しているかを見分けることができなければなりません。

 それを見分けることができなければ、皆さんは停止するようになるでしょう。そのように停止する群れが多ければ多いほど、彼らは新しく入った人々の前に怨 讐となるのです。

 そういう生活、そういう信仰態度が習慣化し伝統化すれば、新しいみ旨の前に大きく使うべき人々が入ってきても、彼らの前に見本となることができず、刺激を与えることができなくなります。先に入った人たちが、生活面や信仰面で新しく入った人たちの前に見本となり、その基盤を築くべきであるにもかかわらず、そうできないときには大審判を受けるようになるということを知らなければなりません。

 それゆえ、私たちは現実で戦わなければなりません。前進するためには、見て、聞いて、感じるというあらゆる感覚、すなわち五感を通じて自分が前進しているのか後退しているのかを感知しなければなりません。五感を通じて入ってくるその感覚の一切は、自分がどんなことをしようが、それが前進できることか、後退することなのかが分かるのです。

 それゆえ、私たちの信仰基準となるのは、祭物となる生活をすることです。祭物となる生活をしなければなりません。したがって、信仰をする私たちがいつも楽しくうれしい日だけを迎えていては、自分を自慢することができる気迫とか、自慢することができる立場を備えることができないのです。なぜでしょうか。個人的な復帰段階を越えれば、家庭的な復帰段階が待っており、家庭的な復帰段階を過ぎれば氏族的な復帰段階が待っており、それを越えれば国家的な復帰段階、世界的な復帰段階が待っているからなのです。

 それゆえ、私たちは天の前に自分の生涯を捧げることができなければなりません。過去よりも迫りくる未来において、より加重された十字架の道を行かなければなりません。祭物となった立場で、自らの生涯のすべてを謙遜に捧げることができる生活態度こそ、信仰路程でより段階を高め前進できる一つの動機となるのです。もし、そのような生活態度をとらなければ、後退の道を繰り返していくしかないということを皆さんは明確に知らなければなりません。

◆天が同情できる基準


 きょうがどれほど貴いかということを皆さんは知らなければなりません。怨讐も、きょうの怨讐が一番怖いのです。過去の怨讐が怖いのでなく、あすに迫りくる怨讐が怖いのではありません。きょう接している怨讐が怖いというのです。皆さんは互いに審判しているということを知らなければなりません。したがって、皆さんは互いに審判の対象であることを知り、そのような審判の途上でお互いに協力して発展することができる動機をつくらなければなりません。

 死亡の限界点と生命の限界点が、きょうこの現実の焦点を中心としてひっくり返っています。したがって、ここで生命と因縁を結ぶか、あるいは死亡と因縁を結ぶかということが問題です。言い換えれば、天と因縁を結んでいくか、あるいはサタンと因縁を結んでいくかという問題が、現実的な基盤で決定されるというのです。こういうことを考えるとき、現実以上に怖いものはないということを皆さんは知らなければなりません。

 そのようなことが生活化した人は、どんなことを見ても、それがサタン的なことなのか、天的なことなのか分かるようになるのです。そうして、もし天が願わないことであれば無慈悲に切ってしまうのです。そこには少しも躊 躇する必要がありません。そのようにできない人は、表面では威勢高々に息巻いていますが、実際はその反対に行動するのです。しかし、自分がなぜそのようなことをするのかは分からないのです。分かるわけがありません。天の摂理を根本的に曲げてしまう行動をしながら、自分がなぜそうなのかが分からないというのです。

 皆さんは個人的な栄光や、栄華をみな捨て去り、十字架にかかって「わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」と言ったイエス様のような立場に立たなければなりません。自分を放棄することのできる動機をもつことにより、また自分を捨て去ってしまうことによって、天が同情することができる基準を立てなさいというのです。その道しかないのです。信仰生活を通じて得ることができる教訓とは、そのような土台の上で、そのような公式路程をたどってこそ収拾することができるのです。またそのように収拾された基盤の上に天の願いが届き、前進の起源を再び設けることができるというのです。このようなことを見るとき、きょうの現実がどれほど恐ろしいかということを知らなければなりません。

 朝、きょうは何をしようかと考えることがあるでしょう。自分が考えることがいかなることであろうと、現実生活で解決しなければなりません。それゆえ一日も安心して生きられないのです。

 先生は一言だけ聞いても、その人が話そうという内容が悲しいことなのか、うれしいことなのか直ちに分かります。誰かが報告しに入ってくれば、ぱっと見るなり心で知ることができます。悲しい知らせであれば、冷たい風がさっと通り過ぎていきます。それがどのようなことなのかは分からないけれど、正常な内容ではないというのです。反応が返ってくるというのです。うれしい知らせもそうです。それも、報告を聞くや否や、直ちに分かります。反応が返ってくるのです。それゆえ、皆さんがきょうの現実の戦いで敗れれば、前進することができません。必ず後退の道を歩むようになるということを明確に知らなければなりません。

 しかし、信仰の道で停止する時間は長くはありません。停止し始めることは飽和状態が迫っていることを意味します。飽和状態というのは、私が私としてこれ以上のことができないというときのことであり、また私の力がこれ以上影響を及ぼすことができないというときのことを意味します。そういうときに停止するようになるのです。そのようなときは、相続をしなければなりません。イサクがヤコブに相続してあげたように、相続する準備をしなければならないというのです。

 名もない末席で、自らのすべてを他人に譲ってあげながら、彼らを祝福してあげ、手ぶらで帰っていく客のような心をもたなければなりません。貴いものを持ってある家に入っていき、すべてを分け与えていく旅人のような心をもつことができなければなりません。

 そのような人は、天が見て同情することのできる人です。自分の所有しているものまでも全部分け与える人を、天は同情なさるというのです。そのような人には、運命上にもって生まれた福の基準があるため、みな分け与え、何もないようでも、天はその人に一時に、それよりも多くの福を与えるのです。自らのすべてをみな分け与えたならば、それ以上に補充されるのです。結局、与えることは損することではなく、利益が残ることなのです。

 したがって飽和状態になれば、すべてを分け与える準備をしなさい。分けてあげるときにも、何かを残しながら分け与えてはなりません。自分がもっている貴い物を、すべて分け与えてあげなければなりません。そうすれば神様が哀れに思われ、皆さんを同情なさるのです。

 そうして、皆さんが手にする福の量を再び満たしてくださることでしょう。それゆえ結局、損をすることではなく、利益を得る立場であるというのです。それゆえ、絶対におごり高ぶってはならないのです。人のために犠牲になりなさいというのです。


















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訓教経(下)014



文鮮明先生のみ言集

訓教経(下)



興亡の分岐点


一九七一年三月二十一日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第四十二巻』


 皆さんは、み旨の道を行く人々です。私たちの願いは、み旨のためになければならないし、私たちの毎日毎日の生活は、み旨をえり分けていく生活にならなければなりません。これは、み旨の道を行く人として当然しなければならない義務だというのです。

◆絶対者の願い


 統一教会が今まで戦ってきた歴史があるならば、その歴史はある特定の個人のための戦いの歴史として残ってはならないのです。人類が願うただ一つのみ旨を中心として、誰でもこのみ旨と共に行かなければならないという、そのような絶対的なみ旨と共に歩んでこそ統一教会の歴史は輝くのです。

 今日統一教会が、ある特定の民族だけのためにみ旨の道を行くのではなく、今までの人類歴史が願い、現時代に生きている万民が願い、さらには未来の子孫が追求できる、そのようなただ一つしかないみ旨を中心として行くならば、統一教会は決して、この時代の環境とともに流れてはいかないはずです。

 統一教会が未来世界において幸福の旗手となり、新しい歴史を創建する勇士として現れることができるかという問題は、統一教会がもっている理念が人類の願っていることと一致する立場に立てるか立てないかというところにかかっています。これを中心に統一教会が歴史的に輝くことができるのかという問題が決定される、という事実を私たちは推し量ることができます。

 こういう観点から、このみ旨というものは人類だけが願うみ旨ではありません。この人類を支配し生み出している歴史的な主人がいるならば、その主人が願うみ旨でないはずがないし、現在の歴史を支配しているある絶対者がいるとするならば、その絶対者が願うみ旨でないはずがないというのです。人類の歴史過程を中心として考えてみるときも、時代の変遷とともに流れいく人間の群像は、私たちは見ることができるかもしれません。しかし、み旨を中心として考えてみるときには、み旨と共に行く人は背後で絶対者が支えになり、時代的な中心としてはっきりと立っているというときには、その人は決して滅びることはないでしょう。

 絶対者の願いは、この世界に善を成し遂げることです。その願いを成就するためには、それと反対になるすべての条件を除去し、勝利できる条件を準備することだという事実を推し量ってみましょう。そのとき、そのみ旨と共に行く人の過程がどんなに険しくて悲惨であっても、それは一つの過程的な現象にすぎないのであって、それが全体に代わることのできる一つの決定的な姿だとは見ることができないのです。

 み旨の道を行く人は、どんなに悲惨な環境に落ちたとしても、むしろそれが自分の発展できる刺激になって、将来に願いの基盤を広めることのできる一つの基盤になるという事実を知らなければなりません。いかなる悲しみの峠があったとしても、それが未来のみ旨を邪魔し、み旨が行く道を崩してしまう動機にはならないのです。

 そのような観点で今日、摂理歴史路程を考えてみるとき、そこには屈曲が多かったことを知っています。ある時代には後退したし、ある時は上がっていく反面、ある時は下りていった事実を私たちは知るようになります。今まで歴史がそのような過程を経てきたし、私たちも一生を通して、やはりそのような過程を経ていくでしょう。私たちがみ旨を中心として一日一日の生活について考えてみても、信念を自ら誓う強い面もあるかと思えば、その反対の立場に立つ場合もあるということを感じるはずです。

 ここから上がっていくその時を喜んでばかりいてもいけないし、下りていく時に寂しく思ってもいけないのです。したがって下りていく時があるならば、そこにあすの希望を確かめ合うことができる一つの安息期間としてこれを消化し、吸収できなければなりません。私たちがそのような生活理念をもつならば、どんなに低い立場にあったとしても自身をより低い立場に引き下ろすのではなく、あすのために誓うことのできる一つの肥料として、一つの基盤として、それを吸収するでしょう。こういう歩みをしなければならないということを知らなければならないのです。

 一日を見てみると、夜があれば昼もあるのです。夜は昼を輝かせるための準備をする期間であり、休息の期間であり、再度錬磨する期間です。これを推測してみるときに、受難の過程には屈曲があるということが分かります。

◆発展できる人


 では、滅びない立場に立つためには、どのようにしなければならないでしょうか。

 ある位置から上がっていくことのできる立場にあるとき、下りていくときもあるということを忘れてしまったなら、下りていく立場に立つようになったとき、上がることのできる道を失ってしまった人になってしまうので、あすの願いに向かって再び出発できる大切なかなめを失った立場になります。そのような立場に立てば、そこで停止状態にならざるを得ないのです。停止状態になると、自分自ら発展できる道もふさがれてしまうのです。

 もしふさがれたその立場が神様の願わない立場になったときには、彼はそこから除去されてしまうのです。これは天理の法度の前に当然の道理だ、ということを私たちは考えざるを得ません。

 したがって私たちが下りていくときになって、その環境に囲まれるようになっても気落ちするのではなく、下りていけば下りていくほど、その内的環境の難しさにぶつかるほど、私たちの内心はみ旨を集約して核心的な基準を心に抱き、所信をもって外的環境に対し押し進んでいくことのできる、根性のある自分をもっていかなければなりません。そのような期間が一年、十年、あるいは一生の間続くとしても、根性のある内的な心をもって押し進んでいくような基盤が残っているならば、いつの時でもその基盤を中心として、再びみ旨の道に向けて出発することのできる道があるのです。

 もしそうできなくて、孤独と困難と試練にぶつかるようになるとき、その環境的な条件に巻き込まれていって、み旨を忘れ、み旨を捨てて、今まで歩んできたみ旨の生活のすべてを新しく批判しながら放棄する立場に立てば、そこでみ旨に対する道が終わりを結ぶようになるというのです。これは間違いない事実です。

 それゆえ信仰者は、み旨の道を行くにおいて滅びるという観念、あるいはみ旨の道を離れるというそのような考えを、絶対もってはならないのです。み旨に対するようになるときには、最高の時があるはずです。どんな人よりも心霊の高い人がいるならば、彼がまずみ旨に対することができるのです。例えて話せば、アンテナが高ければ高いほど遠方で発生する結果をよく受け取ることができるのと同様に、心霊が高い人であるほど、誰よりもまず新しいみ旨を知るようになるというのです。

 ところで、誰よりも先にみ旨を知ったとしても、先に知ったということが問題ではありません。み旨を先に知ったからには、そのみ旨を中心としてどれだけ長い間価値をもって進むのかということが問題なのです。

 そのみ旨を中心として進むにおいて、自分の生活に屈曲があるといって下りていくときにはそのみ旨を捨てて下りていき、上がるときには再びそのみ旨を抱いていこうと思ってはいけません。どんなに上がることのできるときになったとしても、下りていくときにみ旨を抱いていった動機がなければ、その時を自分の時として迎えることができないのです。

 例えば、春夏秋冬という四季が巡っているということを私たちは知っています。春が過ぎれば夏が来るのであり、夏が過ぎれば秋が来るのであり、秋が過ぎれば冬が来るのであり、冬が過ぎれば再び春が来るようになっています。この時、生命をもった種とか、生命をもった草ならば、再び春を迎えるようになる時に、彼らはその前の春よりも、大きくて太くなった姿で新しい出発をすることができます。

 このようにみ旨の道を行くことも、やはり同じです。秋になったといって完全に死んでしまう立場に立つようになれば、それで終わってしまうのです。それ自体がどんなに大きいとしても、それ自体のみでは何の使い道もなくなるのです。

 しかし、秋になって外的にやせこけた枝だけ残ったとしても、そのような環境に支配されるのではなく、それ自体の内芯に集約された生命力を自ら保って、外的な環境を克服できる準備態勢を備えたとしましょう。そうすれば、その木は再び春になった時、その生命力によって天地の前に新しく現れるということを私たちは知っています。

 そのようにして新しい生命として再び息を吹き返す時は、前の年より小さくなるのではなく、より大きくなるというのです。ここには新しい一つの年輪が生まれるというのです。新しい一つの皮が生じて、誰も犯すことのできない確固たる防備の基盤が築かれます。これは誰でも分かる事実です。

 それゆえ、試練というものは人生行路において、あるいはみ旨の道を行くにおいて必ずあるのです。どんなに幸福な人であっても、生まれたその日から死ぬその日まで幸福な人はいないのです。必ず屈曲があるというのです。

◆栄える立場と滅びる立場


 ここで皆さんは、興亡の分岐点について知らなければなりません。滅びる人々はどのようにして滅びるのでしょうか。滅びる人は善ならば善、栄えることのできる道ならばその道を中心として行く途中で、試練と苦痛にぶつかったとき、完全にあきらめてしまう人です。そのような人々は、そこで終わってしまうのです。

 しかし、自分がそれを貴いものだと思って希望に思い、目標として行く過程においていかなる試練や苦痛にぶつかっても、それを克服できる内情的な集約点を結集させて、その土台の上に出発を誓うことのできる自らの準備態勢を備えた人の前には、滅びる道はないはずです。

 善が行く道の前では、時になれば必ず力が加重されるのです。これが善なる道です。善なる人はいつも失望する立場にはいません。一つの峠を越えれば必ず、再逢春する(再び春に逢う)時があるというのです。その時を迎えれば、天が再び善を引っ張ってくれるようになるというのです。したがって、どんなに悲しくて難しくて苦痛な時があったとしても、天の行く道、み旨の行く道、善の行く道は必ず再生できる道だというのです。したがって、神様が訪ねてきて私を導いていくという事実を、いつも心に刻まなければなりません。

 それゆえ油断するのではなく、その時のためには、どんなに苦しくて孤独でも、心を整えて準備し、「その日がいつ来るだろうか」と願う心が切実でなければなりません。どんなに低い立場にあるとしても、その時を願う心をもって進むようになれば、必ずその善の時に会うことができるというのです。このようなことは今日、神秘的な体験をしたことのある人においても、私たちの日常生活でも体験してみることができることです。

 それゆえ、いつも希望の心をもたなければなりません。自分が死地に入っていっても、み旨に対する心、あるいは善に対するその心を中心として行かなければなりません。もし死んで犠牲になる恨があるとしても、そのように進んでいくならば、彼は犠牲になったとしても、彼が抱いたみ旨は残るということを皆さんは知らなければなりません。

 歴史過程に生まれてきて死んでいった聖人、賢哲たちは、世界が反目し、ねたむ不遇な環境に追い込まれるとき、その難しい環境の中で自分の所信を全部あきらめてしまう人々ではありませんでした。難しい環境が迫れば迫るほど、その環境に備えて内心に集約された心をもち、あすの希望がこの時代に実現されないならば、未来時代に再び来るというはっきりとした信念をもって進んだのです。そのような人々が歴史が過ぎるに従って、歴史に偉人や聖人として登場した事実を私たちは知っています。

 したがって、どんなに難しい環境に下りていっても、自暴自棄になる立場に立ってはなりません。善は永遠なのです。善は、必ず発展するのですが、一方的に発展するのではなく、下りていったり上がっていったりしながら発展するのです。一つの峠を越えれば、平地に出会うのであり、平地を過ぎれば、また新しい峠があるのです。このように全部が上がっていったり下りていったりと、授受しながら発展していくというのです。すべては、こういう形で発展していくということを私たちが知らなければなりません。直行することは難しいというのです。

 それゆえ、信仰生活において上下関係や左右に偏る関係があったとしても、気落ちしてはなりません。どんなに環境が偏る恨があったとしても、内心ではみ旨に対する心が変わってはならないし、「私が対するみ旨は必ずなされるはずだ。私が行くみ旨には必ず試練が来るはずだ」という心をもっていかなければなりません。だから難しければ難しいほど、その難しさに備えなければならないし、追い込まれれば追い込まれるほど、その追い込まれることに比例して内心的にその場を譲歩してはならないのです。その難しい環境をもう一度追い出し得る時になれば、皆さんは新しい出発をすることができるということを知らなければならないのです。

 では、滅びてしまう立場とは、どんな立場でしょうか。善を中心として進んでいる途中で自暴自棄になってしまう立場です。善の道を完全に切って背を向ける立場です。そのような人は滅びるのです。

 では、滅びない立場は、どんな立場でしょうか。どんなに難しくても、「私の行ってきたことは善であり、今まで生きてきたことも、真実に違いない」と自信をもっていく立場です。現在否定する環境に出会っても、過去の歴史的な実証を抱いて「私がしたそれだけは、間違いなく真実だ」という信念を中心として行かなければなりません。そこで自ら感じられなかったことを感じた時を中心として、その因縁を失わない立場で精誠を尽くし、自ら時を願う心をもっていくようになれば、必ずその人には春が来るのです。

 それでは、私たちの前にそのような屈曲の時が来る前に、それを任意的に防ぐことのできる方法はないでしょうか。私たちの信仰生活や私たちの一生の行路がそのような屈曲によって発展し、前進していくのですが、これを防ぐ道があるというのです。

 自分自らその問題を解決するために苦心する立場で、今まで内心の因縁を中心としてきたそのことを捨てずに、克服する因縁をもっていけば、その時を迎えることができます。けれども自ら難しい環境にぶつかるようになるとき、それを越えることのできるただ一つの方法があるとするならば、それはどんな方法でしょうか。それは同役者や同志がいなければならないし、師の指導を受けなければならないのです。それが必要だというのです。

◆滅びる立場を避けて行くことのできる道


 皆さんがある絶壁にぶつかったとき、それを克服するにはどのようにしなければならないでしょうか。個人的に解決するのが難しい人は、自分よりも信仰的な面において高い人、自分よりも上にいる人を訪ねて率直に打ち明けて話すことです。「私は私として存在するのではなく、彼についていく人として存在します」と言わなければなりません。彼が「右へ行け」と言えば右に行き、「左に行け」と言えば左に行くのです。また、「上がっていけ」と言えば上がっていき、「下りていけ」と言えば下りていくのです。「私のためでなく、指導する人に代わって存在します」と言うようになれば、その環境を避けていくことのできる道があるというのです。

 それゆえ信仰生活においては同志が必要なのです。同志がいない人は孤独な人です。同志がいればお互いに補充し合い保護することができるというのです。そうすることによって環境の難しさを克服できる道も生じるのです。もし同志がいなければ独断的にみな解決しなければならないのですが、前後関係を一人で解決できる能力がないときには、甚だ難しいことなのです。

 ゆえに、屈曲にぶつかったときは必ず同志や師を訪ねて、私の全体をその人に任せ、生命までも委託できる立場で完全に彼の身代わりとして行くようになるときには、屈曲を克服できるというのです。

 それで私たちが寂しい時とか悲しい時、あるいは孤独な時は、私が身代わりとして行くことのできる人を訪ねてみたり、その道を解決していくために経書を読んだり、有名な人の説教を聞くことが必要だというのです。

 難しい道を避けていくために、このように指導者を先に立たせて道を行くことももちろんですが、その次に、滅びないで避けていくことができる道とは、どんな道でしょうか。十ほどの難しさにぶつかったときに、その十ほどの難しさを中心として心配するなというのです。十ほどの難しさを心配せず、百ぐらいの難しさを探して突進していけというのです。そうすると、十ぐらいの試練は甘受できるだけでなく、それ以上の百ぐらいの試練も受けていくことができるのです。言い換えれば、その問題をジャンピングして飛び込んでいくのです。そうすると、反作用のような作用が起こるようになります。十ぐらいの力をもっていけば立つことができるのですが、百ぐらいの力をもっていってぶつかれば、そこには反作用が起こるというのです。高い所から飛び降りれば、その高さに比例して反作用する力が生じるのと同じ現象が起こるというのです。

 皆さんもそうです。皆さんが心情に打撃を受けて、その場で気落ちして自暴自棄になれば滅びるのです。けれども、ぶつかった問題よりも、もっと大きい問題を自ら進んで迎えられる行動を提示すれば、神様は彼を捨てません。私が当然運命的に行くべき道であるにもかかわらず、神様を中心として真実のために、より犠牲的な立場に立つようになる時、神様が胸に抱いてくださるのです。

 したがって、皆さんが心霊生活において枯渇を感じるようになったとき、これを収拾する方法は、指導者を訪ね、わだかまりなく自分自身のすべての問題を提示して、彼の身代わりとしてついていく姿勢をもたなければなりません。もう一つの方法は、自分が今歩んでいる立場以上の悲惨な立場を探していくことです。そして、自分が今日統一教会で信仰生活をしている基準は、どうなのかを考えてみなければなりません。ただ教会だけを行ったり来たりしていたのか、でなければ家族から試練を受けながら信仰生活をしたのかということです。

 試練が訪れたとき、そこから抜け出すためには、第一にみ旨のための切実な心をもたなければなりません。以前にみ旨のための切実な心をもったならばその心を再び延長して、試練がどんなにつらいとしてもその環境に心を絶対奪われずに、麹になることのできる種を残しておけというのです。もしその心をなくした日には、収拾する道理がないというのです。

◆後退する立場を収拾しようと思えば


 このような方法でも解決できないときは、自らの生命に責任を負うことのできる指導者、あるいは師を訪ねて、あるがままに伝えなさい。残さず率直に話せというのです。相談するのに、「自分に有利なことは話し、自分に有利でないことは話せない」と言ってはいけません。率直にさらけ出せというのです。「あなたが私の代わりになって、私のものを担って導いてください」と、このように率直に伝えて、彼が指導するとおりについていくのです。そうすると私は、私になるのではなくて、彼の身代わりになるのです。その道しかないのです。

 もしそれでも駄目ならば、断行して行くのです。現在ある十字架以上の道を、自ら進んで行けというのです。

 伝道をしているときに打撃を受けた心情を、後方に戻っていって収拾しようとする人がいるならば、その人は、愚かな人です。そのようにしては絶対収拾できません。そのような人は、み旨のために一線に立ってから、天の許しなく後退したという心が、いつも自分の環境を支配するのです。伝道に出掛けて自分が心情に打撃を受けて帰ってきたならば、それを収拾できる道とは何でしょうか。再び伝道に行かなければならないという心を維持し、また行かなければなりません。

 そのように伝道しに出掛けたのに、収拾する道理がなければ、どうするのでしょうか。その次には、伝道に行って後退しなかった人に聞いてみることです。自分が後退して帰ってきたならば、後退しなかった人に、「あなたはどのように闘ったのですか。私に教えてください」と聞かなければなりません。そうすると、こうこうこのように闘えと指示してくれるでしょう。そうすれば、そこに絶対従順しなければなりません。自分の願うとおりにしては、答えが出てきません。ですから、自分を否定してこそ答えが出てくるのです。それが強ければ強いほど、収拾できる道が近づくというのです。

 その次に、収拾する方法は何でしょうか。甲という地域ならば地域、地区ならば地区、区域ならば区域ごとに伝道に行ったのですが、そこで反対する人がいるならば、その人より何倍も暴悪で執拗に反対する人を進んで訪ねていくのです。その方法以外にはありません。

 では、最も賢い方法があるとするならば、どのような方法でしょうか。人が信仰生活をするにおいて試練がないはずがありません。暗い夜のようなものが必ずあるというのです。これを防止できる方法とそういう試練、屈曲が来ることを避けていくことのできる方法がないのかというのです。こういう問題について考えてみるとき、避けていける方法があるというのです。それはどんな方法でしょうか。私が神様に代わって生きる方法です。では、神様に代わって生きる方法とは何でしょうか。人を愛することです。

 ある受難にぶつかった時、そこから抜け出そうとするなら、自分自らの内心的な信仰心を抱いていかなければならないし、次には指導者の指導を受けなければならないし、その次にはそれ以上の十字架の道も自ら進んで行かなければなりません。

 では、そのような屈曲が訪れることを未然に防止できる道はないのでしょうか。道があるならばただ一つ、人を愛することです。人のために生きることです。

 十人いる時、その十人のために生きる人は賢明な人です。その人は自分の思いをもって生きる人ではなく、十人の思いに従っていくのです。従っていく人には迫害がないのです。従っていく人は打ちません。もし十人のために犠牲になれば、十人がみな引っ掛かる前には引っ掛からないのです。

◆他人のために生きるならば滅びるはずがない


 このような意味から、イエス様が十二弟子を率いて三年公生涯路程で準備したものとは何でしょうか。イエス様自身が「ため」に生きてもらう生活ではなく、弟子のための生活をしたというのです。

 その十二弟子は特別な型です。人類歴史の過程において数多くの人類を代表した十二の型なのです。彼らはその時代にいた人々ですが、時代を超えて縦的な歴史時代の人類全体を代表できる標準型です。イエス様はこのような十二弟子を立てて三年間侍る生活をしたのです。三年間の侍る生活はどんなものなのでしょうか。種を蒔いて出てくる芽を育てる生活です。自分のための生活ではなく、人のための生活です。

 そのように大事にしていた弟子たちが勢いをくじかれて出て行くようになれば、イエス様は失望するようになるのです。その十二弟子がイエス様を捨てて行くようになる時、イエス様は自分自ら決断を下し「わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ二六・三九)と、自分を主張しながら神様の前に十字架について談判祈祷を捧げたのです。

 その前には三弟子のために祈ったのです。イエス様が祈った内容は何でしょうか。まずイスラエルの国の未来の興亡問題に対する祈りであったはずです。その次には自分に三年間従って精誠を尽くしてきたその弟子たちのために祈ったのです。そして三弟子のために祈ったことは、イエス様と共に夜を明かして祈る三弟子が、み旨を中心として滅びる立場に入っていかないように祈ったことでしょう。

 言い換えれば、イエス様は自分のために祈ったのではなく、国のために祈り、国の代表者格の三弟子のために涙を流して祈ったというのです。しかし、それがみな駄目になったとき、十字架への道が決定されたのです。そうしてイエス様は、自分の責任として十字架の談判をせざるを得なかったというのです。こういう問題を考えなければならないのです。

 それゆえ、人のために生きる人、すなわち十人のために生きれば、九人が反対しても一人は自分の味方になってくれます。十人中の半分の人が自分に反対しても、残り半分は自分の味方になってくれるのです。いつも垣根になってくれるというのです。私が侵略されることがあれば、私を保護する責任があるのであり、私が苦労をしてあげたならばそれに責任をもつようになるというのです。なぜなら慈しみを受けたからです。

 そのように「ため」に生きる人は、屈曲があったとしても一度にぐっと下りてはいかないのです。上がっていったり下りていったりする人がいるという時、上がっていく人を胸に抱いて、私が彼のために生き、同調するようになれば、暗黒の時を防備できるのです。

 宗教生活において「温柔謙遜で人のために犠牲になりなさい」という話は、私が侵犯を受けずに屈曲を抜け出し、いつでも発展できるように神様が私たちに与えてくださった、限りない愛の道理だということを私たちは知らなければなりません。

 それゆえ、人のために生きていて滅びる人はありません。町内に、本人は一銭もないかわいそうな境遇にありながらも、町内全体の人々に恩徳を施す人がいるとしましょう。その人の一日一日の生活が悲惨だということは、町内の人々もみな知っているはずです。そのような悲惨な人が、もし外部からより悲惨な侵害を受けるようになった時には、近所の人々が団結してそれを防止してくれるというのです。人情を中心とした私たちの生活圏でも、そのようなことが起こるのではないかというのです。

◆何も知らない人間を悟らせてこられた神様


 それは何を意味するのでしょうか。そのような人が、外部から侵害を受けるようにしてはならないというのです。それゆえ、その環境が保護育成してくれて善を中心として眺める希望になるのであり、残すことのできる一つの基盤になるのです。これはみなおのずと知っているので、そのような心が発動してその人を保護しようとするのです。同様に、人のために生きる人は絶対に滅びません。滅びるわけがないのです。滅びようとしても滅びないのです。

 そのようにするとなぜ滅びないのでしょうか。それは父のような生活圏に賛同しているからです。また、神様が行く道がそのようなものだからです。全知全能の神様自身も人間に対し「お前たちは私のために生き、私に絶対服従しなさい」というのではありません。その反対なのです。人間が何も知らないがゆえに悟らせてあげなければならないというのです。どうやって道を行ったらいいか知らないので、教えてあげなければならないのです。

 皆さんは自分の息子一人を教育するのも難しいでしょう?
 その息子は自分の血肉を受け継いだ息子、娘です。お母さんが涙を流せば心が動いて共に涙を流すことのできる息子、娘です。父が涙を流して悲しめば、共に悲しむことのできる心が自然に動く息子、娘であるにもかかわらず、彼らを指導し、育成しようとすると極めて難しくないですか。

 それを考えるとき、今日私たち人間は神様の息子、娘ではないのです。神様がどんなに悲しんでも知らん顔をするのです。これは、人間がサタンの血肉を受けて生まれたためです。むしろ神様が悲しむことを見て賛美します。滅びるのを見れば、喜んで笑うというのです。神様がこういう人間に対して指導し、開拓の方向を教えようというのですから、どれほど苦労の多いことでしょうか。

 しかし、一から百、千、万まで「ため」に生きる心、かわいそうに思う心が神様になかったならば、神様が今まで摂理歴史を胸に抱いてくることができたでしょうか。

 今日まで摂理歴史を導いてこられた神様のその事情と立場は、私たち人間を哀れに思う心から、「私でなければ彼らは滅びる。滅びることが本然の人間に与えられた目的ではないということを確実に知っている私によってでなければ滅びる」というのです。神様は、人間には神様が絶対必要だということを御存じであるために、これを教えるために今までの歴史過程で受難の道も気にも留めずに開拓してこられ、数多くの人間を教育してこられたのです。これが神様の立場です。

 では、今日「人のために犠牲となり奉仕する生活をしなさい」というのは、どんな意味なのでしょうか。かわいそうに思う心をもとうというのです。愛国者がいるとすると、その愛国者は民族が圧迫され苦痛に遭うことに対し、かわいそうだと心にしみて胸痛く思い、その民の痛みを自身の痛みとして直結する人です。その民の悲しみを自身の悲しみとして受け止めるのです。こういう心がなくてはその国に残ることのできる愛国者になることができません。したがって、人のために犠牲となり、人のために生きる人にならなければなりません。

◆真の愛


 今日統一教会員は、「国を愛し、み旨を愛そう」と言います。ここで国を狂ったように愛そうとするなら、個人を狂ったように愛してみなさい。国の善は大きな善であるゆえに、大きな善を見つける前に個人的な小さな善を見つけなさいというのです。個人と個人の善を合わせて大きな善に糾合する前には、国の善の目的を達成することができません。それゆえ、問題は個人です。

 皆さんは、統一教会に通いながら、誰かをどれくらい愛してみましたか。これが問題です。皆さんが何年、何十年間教会に通いながら、自分の心深くにしみた愛をもって、父が同調する心情の立場に立って人々をどれほど愛したかというのです。この問題が、皆さんがあの世に行って神様の愛をどれほど受けられるかということを決定づけるのです。

 一つの生命のために何日間も断食をしてみたし、その生命のために数カ月間も血の汗を流してみたでしょうか。問題はそこにあるというのです。言葉では「神様を愛している、国を愛している」と言うには言います。では、それが私と何の関係があるのか、というのです。そのような話は宙に浮いた話です。

 愛は、自分を中心とした立場で愛すれば成立しません。その人に代わって、その人の立場を擁護し、その人の立場を敬いながら、その人の立場を立てるところで初めて愛という言葉が成立するのです。そうではないですか。愛する人に「お前は私の僕だ」と言いますか。彼を誰よりも敬ってあげ、ほかの誰よりも大切にしてあげ、彼のために存在しようとする立場で愛が成立するのです。そうしないで私を中心として「お前は私がしろと言うとおりしなさい」と言うなら、それは愛ではないのです。

 赤ん坊を愛する父母の愛は、純潔な愛です。その愛は、何も知らない赤ん坊に対して全体を知っている父母が、赤ん坊よりも知らないという立場で、その赤ん坊のために生きる愛です。

 十人のために生きた人がいるならば、その十人が福を受けるようになるとき、その福は自分の福になるのです。町内の隣の家で祭りをするとき、その町内で貧しく暮らしながらお手伝いする人は、その隣の家の祭りが自分の祭りになるのです。そのようなことが自分の喜びの基盤になることが分かるのです。ゆえに十人が福を受けるようになれば、十人のために生きたその人は福を受けることができないとしても、福の影は味わうことができるというのです。恵沢を受けることがあるというのです。

 それゆえ、人のために生きる思想とは、怖い思想です。善は全体のために生き、全体の中心になります。全体のために一つの愛で縛ろうとする立場は、全体の中心が決定される立場なので、善が臨在するというのです。そうでなくて、私を中心として「良い」と言うと、それで終わってしまうのです。「きょうは良かった。腹がいっぱいだ」と言うと、そこからは空腹が始まるのです。「自分のために良かった」と言うと終わってしまうけれど、人のために良いことであるというときには、終わりがないというのです。それゆえ滅びないのです。

◆善の本性と悪の本性


 皆さんが信仰生活をするにおいて、暗闇が訪れるのは事実ですが、その暗闇を防止するためには「ため」に生きなさいというのです。皆さんは、早朝祈祷に行って熱心に祈祷するのですが、早朝祈祷に行くことができなくても、祈祷するその時間に信仰の同志のために、三家庭の門の前で祈ってくるのです。一分でもいいのです。これが早朝祈祷を何時間するよりもいいのです。それが福を受けることです。こういう思想がなければ世界を一つにすることはできません。

 信仰の道はより高く、より貴い立場ですが、えり分けていくことのできない道なので、今日信仰生活をするには、漠然とでもこういう内容を中心として犠牲と奉仕を強調していくというのです。これを皆さんが知らなければなりません。これは何を意味するかというと、私たちの信仰生活において必ず暗黒がやって来るのですが、犠牲と奉仕はその暗黒を防備するための自然的な橋頭堡(注:橋を守るために対岸から橋の通過点を守るもの)であり、一つの要塞的な作用をするので、私たちを愛される神様がこのような道理を教えてくださったのです。では、それがなぜ暗黒を防止する道になるのでしょうか。サタンの本質と反対だからです。

 悪の本質と反対だからです。悪の本質は、自分のために生きろというのです。十人いるならば十人全部を自らの足元に追い込んで利用しようとするのです。そのようにすると一時は従うでしょうが、少し過ぎればみな逃げてしまうというのです。逃げる時は、ただ逃げてはいかないのです。奪っていくのです。全部こそげ落としていくから滅びるのです。落ちて出ていくときは、すべてはぎ取っていくので滅びるようになっているのです。しかし、善のために生きる人には、来るたびに何か持ってきてあげたいというのです。心がそうだというのです。ですから栄えるのです。したがって、皆さんは興亡の分岐点をはっきりと知らなければなりません。これが信仰生活で最も必要なのです。

 皆さんは心霊が暗い時があっても自分を中心として「お父様、私を哀れに思って私の暗闇を除去してください」と祈ってはいけません。かえって人のために奉仕しなさい。統一教会員の中で誰が一番哀れかと探してみて、そのような人がいるならば、彼は私より哀れだなと思う心で、彼のために涙を流せば暗かった心霊が再び生き返るのです。

 こういう調整方法を皆さんは知らなければなりません。結局、人のために生きる心です。神様が同調なさることができて、神様が今進行している作戦の動向とともに、その方向に合わせて同じ形態の立場を取ることのできる立場は、人のためにある立場です。それゆえ人のために生きなければならないのです。

 人について考えてみるとき、漢方医学で四象があるというように、陽質の人と陰質の人がいます。人の体質には東西南北のようなものがあり、また中間性質の人もいます。すべてが違います。ある人は「あの人が嫌いだ」と言うけれど、ある人は「あの人が好きだ」と言うのです。私はその人を見るだけでも嫌なのに、他の人は見るだけでも喜ぶというのです。みな違うのです。それゆえ、醜い女性もお嫁に行くし、みっともない男性も妻をめとるというのです。

 「私はその人が嫌だ」と言うけれど、それは一方的なのであって、全部ではないのです。他の人はその人を好むというのです。ですから人というのは自分の考えのようにすべて一方的ではなく、四方性をもっているために、お互いが違うのです。したがって、私たちは四方性を中心として「ため」に生きる立場にいなければなりません。

 イエス様も十二弟子を中心として「ため」に生きる立場にありました。「ため」に生きるのにおいて、外側から「ため」に生きるのか、内側から「ため」に生きるのか、これが問題です。それなら私たちも外側から「ため」に生きる者になるのか、内側から「ため」に生きる者になるのでしょうか。いわば愛されながら「ため」に生きるのか、愛しながら「ため」に生きるのか、彼を哀れに思いながら「ため」に生きるのか、彼に愛されながら「ため」に生きるのか、これが問題です。ところで、愛されながら「ため」に生きる道理はないというのです。愛されながら「ため」に生きるのは僕です。それは形は「ため」に生きているようですが、「ため」に生きることではないのです。

◆どんな立場で「ため」に生きなければならないのか


 したがって、人のために生きる時は外側から「ため」に生きるのか、内側から「ため」に生きるのかということが全部違います。信仰生活をしようとするなら外側からするよりも内側からしなさいというのです。それでイエス様は、十二弟子を中心としてあなた方のためにするのは、私の良いものをあなた方に分けてあげたくてそうするのだというのです。悪いものがあれば覆ってあげ、悲しいときには慰労してあげるというのです。私がお前たちよりももっと苦労しているではないかというのです。正してあげるのです。これが父母なのです。

 父母は、子供のために生きるのです。父母が子供のために生きるのは、外側から「ため」に生きるのではなく、内側から「ため」に与えるのです。子供が困難な目に遭ったときに、いたわってあげてこそ価値があるのです。高い位置、中心の立場にありながら、「ため」に与えるということが貴いのです。

 それゆえ、皆さんも主人になった立場で統一教会の信徒を愛しなさいというのです。イエス様が貴いのは、その心です。「ため」に生きなくてもいい立場にあるその方が「ため」に生きたので、そこから父母の心が出てくるし、神様の心が芽生えるのです。それは、人間の心ではありません。自分のための心ではないというのです。次元が高いのです。こういうことを皆さんが考えてみなければなりません。

 そのような心をもって進む立場は、神様が動く立場です。神様の代わりに世界人類の中心に立って数多くの人のために生き、福を祈ってあげながら万民が喜ぶことのできることをしてあげるので、万民が彼を好むのです。そのように人に対していると、冬になっても自分の前には春、夏、秋の三つの季節に該当する人がいるのです。どんなに気落ちした立場でも、その人さえ見れば喜ぶというのです。

 したがって「私が中心になって芽をつくる」という心をもって、進んで全体の代わりに乗り出さなければなりません。そのように乗り出していくときに、その人は芽のように苦衷を受けるとしても、それが問題にはなりません。

 このように考えてみるとき、一面では新芽が出てくるというのです。統一教会は一面を見れば停止していているようですが、他の一面では相変わらず新芽が出ているのです。そうすると、それは春の季節になるのです。新芽が出てくるその春の季節を訪ねていくことができ、そこに対して関心をもつ人は滅びません。それとともに生きることができるというのです。道理がそうだというのです。

◆暗闇圏を打開していこうとするならば


 統一教会の文先生も同じです。食口がいなくて寂しいときには山にも行くというのです。また、心が乾ききった時には、昔、み旨のために歩んできたときに受けた迫害と、今日の迫害を比較するのです。昔の苦衷と、今日の苦衷を比較するのです。そのように昔と比較すると、今日は何でもないことが分かるようになります。では、なぜ何でもないことゆえに私の気力が抜けてしまうのでしょうか。それは自分自身を考えたからです。自身ゆえに気力が抜けているという結論が出てくるのです。そのようなときには自分を修正しなければなりません。こういう様々な問題を皆さんが信仰生活でえり分けていくことができなければなりません。

 暗やみが来る時には、必ずみ旨に対する心の種、すなわち麹を失ってはいけません。過去に自分がみ旨のために精誠を尽くしたその心をもって、一度時になれば間違いなく蒔き、格好良く収めるのだという心をもたなければなりません。そのために準備する心、そのために暗闇を切り開いていく心をもたなければなりません。そのような心をもてば、み旨が離れないのです。

 では、暗闇が来る時、どのようにするのでしょうか。自分一人では大変なのです。ですから相手を探して相談をしなさい。では、自らの同伴者や師がいなければどのようにするのでしょうか。子供に教訓を与えるのです。

 イエス様と三弟子の場合が、正にそのような場合でした。イエス様が孤独なとき涙を流すようになれば、彼らが共に涙を流してくれるというのです。自分一人でもなく、三人が共に涙を流すようになれば慰労になるのです。そこで回復するのです。それゆえ必ずそのような相対的な同志が必要であり、師が必要だというのです。これを皆さんは、いつも心に刻まなければなりません。

 その次には、私が十ぐらいの迫害を受けて暗やみが来たなら、百ぐらいの迫害のある立場に入っていきなさいというのです。冒険を断行しなさいというのです。十ほどの受難の立場にあるとき神様が私から離れたとするなら、百ほどの受難の立場に入っていけば、神様は私を再び胸に抱いてくれるというのです。そうではないですか。親不孝な息子が家を出ると、父母は「出ていっても再び帰ってくるだろう」と言って気にも留めないのです。しかし、その息子が死にに行くと、「私は今行けば間違いなく死にます」と言えば、その父母はその息子が行く道を妨げるでしょうか、妨げないでしょうか。「ああ! こいつは!」と言って、行くことができないように邪魔をして抱き抱えるというのです。

 それゆえ、十ほどの迫害によって暗闇に入っていったとするならば、百ほどの試練に向けて死のうが死ぬまいが命を懸けて堂々と行けば、回復することがあるというのです。その次に、皆さんに暗闇が来るのを未然に防止できる方法は、人のために生きることです。十人のために、百人のために生きていけというのです。

 私がこのようにしてこそ祝福を受け、このようにして神様の恵みを受けようとは考えてはいけません。神様がそのように行くので、私もそのように行かなければならないのではないか、という心を中心として粘り強く精誠を捧げる心をもちなさい。そのような心で一生を生きて、手ぶらで霊界に行ったとしても、彼の助けを受けた十人が天国に行ったときには、彼を地獄のどん底にいるようにはできないというのです。その十人が合わさって神様の前に「彼は私たちの生命の中心であり、生命の恩人であり、父母のような方なので、その方を私たちより栄光の席に迎えなければなりません」と言って手を合わせて祈るようになるのです。ですから、彼らの栄光が私の栄光になり得るというのです。

◆滅びない人になろうとすれば


 このような道を行く統一教会員であるならば、統一教会は滅びても、その人は滅びないのです。行っているうちに全部離れてしまって一人残っても、その一人のために生きようという心をもってその一人と相談し、その一人のために犠牲になり、その一人と共に関係を結んでいかなければならないという心をもっていかなければなりません。そのような心をもっていけば、統一教会が滅びても残るものがあるというのです。

 滅びたものを全部処理していけば、滅びるといってもみななくなるのではありません。残るものがあるというのです。一番後ろから行く人は、滅びた切り株を自分のものにしていくというのです。何の話か分かりますか。滅びたとしても、まだお金が残っているならそれを相続していくのです。そうしたとしても誰も反対することはできません。持っていくようになっているのです。こういう人が怖い人です。

 しかし、中間で自分勝手に行動する人は、誰も認めてくれません。しかし、最後まで我慢して耐える人は滅びる立場でも福を受けることができるのです。避難をしても、商売の資本を持っていくことができるのです。

 では、滅びない方法があるならば、それは何でしょうか。もし統一教会の文先生が滅びる人ならば統一教会の文先生よりも忠誠を尽くしなさい。私の思想よりももっと善なる功績の思想をもてというのです。そうすると、今まで統一教会の文先生がつくっておいたすべての功績が、その人を通して終わりを結ぶようになるのです。その人の善のための心が絶対的ならば、神様も「お前だけは使い物になる」と言いながら、より良い道に案内してくださるというのです。悪い道に案内するのではありません。したがって、全体のために動く人は滅びないということを皆さんは知らなければなりません。

 自分だけを中心として行くようになるときは、孤独が訪れてくるのであり、滅亡が訪れてくるのです。しかし、闘ったとしても人のために犠牲になり奉仕すれば、必ず栄えます。犠牲になり奉仕すれば、必ず栄えるようになっています。それで統一教会は、国を探し出すまでこういう作戦を取るのです。これは極めて賢明な作戦です。


















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訓教経(下)015



文鮮明先生のみ言集

訓教経(下)



天国の拠点はどこか


一九七一年八月二十九日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第四十七巻』


 きょうは「天国の拠点はどこか」という題目でお話ししたいと思います。今日私たちが生きているこの世界は、誰もが希望として願ってきた世界ではないことを私たちは知っています。個人が置かれた立場もそうですが、国家と世界全般を見ても、私たちが要求する国家と世界にはなれませんでした。

◆分かれ道に置かれている現時点


 さらに現在のこの世界は、最後の絶壁に当面しています。このように行くべきか、あのように行くべきかという問題に対して、誰も決定的ないかなる方向も提示できない事情に置かれているのです。こういう世界を新しい方向に導いて、善の結果と連結できる希望を迎えることができるかというのです。このように見ると、誰でもこの世界は絶望の世界だと見ざるを得ないのです。

 人間として自分なりの考えをもっている人はいても、この世界の方向を新しく提示して、万国はもちろん、万民がこういう善なる世界に行かなければならないといって、世界の悲しみや苦痛、世界の心痛い事情を体験しながら絶叫する人がいるのかというと、そのような人はいません。

 人間として提示できる方向はみな提示してみましたが、その提示する方向が、人間により高い希望をもたらすことのできる方向になれなかったというのです。それで人間は、人類歴史を通じて現時代に至るまで、これを実現しようとしているのです。

 一つの国を見ても、国に責任を負った主権者ならば主権者が、今後国をどう導くべきかという問題に対して、現在の立場で自分を中心として方向を取っていくけれども、その路線が世界の現情勢を越えて、今後新しい立場で提示できる方向かというと、そうではないのです。また、民主世界を代表する先進国家があれば、その国家の指導者も同じでしょう。

 こういう観点で見ると、自分たちの方向が決定したように提示して主張していますが、現時代の複雑な立場を直視するとき、「今後の世界が行くべき方向はこうだ」と決定的に提示したとしても、それが正当で決定的な方向にはなれないのです。

 このように見ると、人間が提示する方向をもってしては、新しい面で世界を収拾できないのは間違いない事実です。

◆終末時代において神様が提示する方向とその拠点


 では人間以外に絶対者、すなわち神様がいらっしゃるならば、その方はこのような歴史的な終末時代において、いかなる方向を提示するのでしょうか。神様が今のこの世を、人間の心痛い事情と同じ立場で眺めていらっしゃるでしょうか。すなわち神様は、方向や代案のない悲しい立場で眺めていらっしゃるのでしょうか。あるいは、代案と方向を提示なさることはできるけれど、世界がその提示する内容を受け入れることのできない立場になったので、提示できずにいらっしゃるのでしょうか。

 この世界が神様の提示する方向を受け入れることができるならば、この世界は人間が願う新しい希望、新時代の一つの姿を描ける望みがあるのです。しかし、この世界がそれを受け入れる立場になれなかったなら、神様がそれを提示しても、人間はそれを見つけることができません。したがって、人間がそれを模索して探さなければ、この世界は悲惨な世界にならざるを得ないのです。

 神様がいらっしゃるならば、こういう悲惨な結果の世界を眺めて、ただ捨てておかれるのでしょうか。神様は真実であり、愛であるというならば、そのようなことはできないのです。神様は、それに対するある方向と対策を強く求めていらっしゃるはずです。

 そういう方向をもった神様ならば、その神様が接することのできる拠点はどこにあるのでしょうか。この世界自体は拠点になれない、ということは言うまでもありません。また、ある特定の国家を中心としても、やはり神様が内外の内縁を共にできないのです。

 では、ある特定の民族を中心としてはそうできるのかというと、大きい所からだんだん小さい所に下りていくようになるのが分かります。ある特定の一族がいれば、その一族を中心として方向を提示できる基台が残るでしょうか。一族が残らなければ、残る氏族はいるのでしょうか。すなわち、一族を代表できる氏族形態があるのでしょうか。それも自信がないのです。それゆえ神様は、もっと小さい範囲の立場まで下りていき、その立場で、そのような方向を提示するしかないのです。

 ある一族も氏族もなければ、どんな家庭があるのでしょうか。「私たちの家庭は、どんな家庭にも劣らない家庭だ」と、自信をもつ家庭があるかというのです。その家庭の主人が、天倫の新しい方向を提示できて、「神様のみ旨を受け継げる家庭は、私たちの家庭だ」と自信をもって立てるかというと、そのような主人をもった家庭があるとはいえないのです。ですから、神様が提示できる拠点は家庭でもないというのです。

 ではどこへ行くのでしょうか。個人を探すしかないのです。個人を中心として見ると、現在ある面に権威をもった人であるとか、金持ちであるとか、あるいは知識をたくさん備えた人がいれば、彼らに、神様が方向を提示できる内外の事情が整っているかということが問題です。

 その個人自身が、神様が提示する方向に一致できる立場になれず、自らの事情を中心として関係を結んでいる内容が何であっても、その方向に関係を結べない環境をもっている立場になっていれば、そのような人々を中心としては因縁を結ぶことが難しいのです。

 神様が上流層のある特定の個人を通じてその拠点を探すことができず、提示する方向に合う基台をもてなくなったらどうなるのでしょうか。神様の摂理が後退できない限り、中流層に下りていくのです。では、中流層にはそのようなことのできる人がいるでしょうか。自信をもって決定的なある決意をして、「自信があります、私でなければならない」という人がいれば分かりませんが、そのような人がいないときは、その中流層でもやはり、神様が方向を提示できる一人の個人を見つけることができないのです。

 中流層でも、神様が方向を提示できる個人を見つけることができなかったら、どのようにするのでしょうか。下流層に下りていくのです。ところが下流層に下りていって、特定の人を中心として方向を提示できる拠点を見つけようとしても、見つからないときはどうするのでしょうか。こういう私たちの立場で見ると、神様がそのような立場にいらっしゃるとしたら、神様はどうしなければならないのでしょうか。誰かを捕まえて、その事情を訴えることができるでしょうか。

 事情を訴えることのできる人とは、どのような人でしょうか。神様が男性を通じてそのような事情を解怨なさろうとしたのに、そのような個人に会えなかったなら、女性を通じてでもそのようなことができる個人に会う道を模索するしかない、ということはあまりにも当然の事実です。多くの男性の中で優れているといわれる人をみな押しやって、何の関係もない女性に対してこの途方もない方向を提示できる拠点を、神様が訪ねてこられるのです。ある一人の個人を通して方向を提示できる拠点を要求するようになるとき、ここでもまたその拠点を探せなければ、神様はどこへ行くのでしょうか。

 神様が願う人類は、どこに行ってそのような時運を迎えるのかという問題について、当然神様も心配なさるのであり、私たち人間も心配しているのです。

 このようなことを防備しなければならないと知っていらっしゃる神様ならば、神様に責任があるのです。これを防備できる道を模索しなければならないのが神様の責任なら、模索できる環境をすべて失って、誰も信じない女性を中心として、最後の望みの一念を提示できる拠点を願っている立場ならば、今日私たち人間は、それをいかなる立場で迎え入れるのかということが問題になります。

 既に神様を裏切り、神様とは関係ない立場に立っている人間なので、当然処罰を受けるべき立場ですが、世界的なみ旨を残さなければならない基台が人類であるがゆえに、人間を処罰することもできないのです。その心痛い事情を解決する拠点を整えることのできない神様、か弱い未熟な女性を通じて拠点を見つけるのを待ち望む立場にいらっしゃる神様、その神様の心はいかばかりでしょうか。

 「誰も振り返らない老年期の女性を通して神様が訪ねてこられている」と、誰かが自信をもって公布したとして、その女性を信じられる人だと、歓迎する人がいるでしょうか。また、現在、老いた女性の言うことを聞いて、果たして世界を代表する天の話だと受け入れることができるでしょうか。このような問題を考えてみると、これがどれほど難しい問題かということを、私たちが現在生きている環境の中で推察してみても、よく分かることです。

◆天の方向を受け継ぐ拠点になろうとするなら


 私たちは、それがどんなに正しい道だとしても、それを内外共に推察してみて、一つ一つ比較して自分の利益になる道ではないとき、それと関係を結ぶのを嫌がるものです。こういう私たち個人の習慣を見ると、今日私たち個人を訪ねて世界的な内容を訴えようとされる神様の事情が、私たち個人に利益になる条件として合う内容か、ということが問題なのです。

 神様が提示する内容は、十ならば十人、百ならば百人に利益になる結果を残してくれるのではなく、すべて損をするしかないようになっているのです。誰も否定的条件を経ずには、神様が提示する内容を受け入れることはできません。環境的にもそれを認めることができないことが分かるようになるとき、果たしてそれを永遠なものとして相続し、「自分自らの生涯とともにその基台を残す」と言って、責任を負える若者がいるでしょうか。それは、もっと難しいのではないかというのです。

 このように見ると、神様はどこへ行くのでしょうか。老年期の人もそうですが、壮年期の人も神様が手の施しようがないというときは、どうするのでしょうか。世間知らずの青年期の人々を通して、そのようなことを再びしなければならないのではないでしょうか。天の苦しみを知って、自分自身は全体のために千回、万回犠牲になっても、それを感謝し、いかなる受難の道も責任を負って進んでいける若者、特に結婚前の娘たちの中に、そのような人が存在し得るでしょうか。もし、その場を受け継いで進んでいけるか弱い一人の女性がいれば、その女性が立つ立場は、極めて孤独な立場であり、無力な立場でしょう。

 女性の立場を見ると、その立場は非常に孤独な立場です。女性が将来行く道は、自分一人、自主的な立場に立って、行こうとして行ける道ではありません。女性は、どっちみち一人の男性を迎えなければならないし、父母の保護のもとで自由な環境を許されて生きることのできない立場ではありませんか。

 もし天のみ旨の方向を知って、その拠点を受け継ごうとする一人の少女がいれば、その少女は自らの命全体を犠牲にする覚悟をせずには、その拠点を受け継げないということは当然の道理です。それで、すぐに死地に入っていく立場にあっても、すぐに自分の一身の体面と権威が地に落ちて踏みにじられても、その拠点を堂々と受け継ぐという心をもった少女がいるかというのです。

 これはみ旨を知っている男性も受け継ぎ難い立場であり、み旨を知っている女性も受け継ぎ難い立場にもかかわらず、一人の少女がそれを受け継ぐ立場に立ったからには、その場は百回生きるという決意よりも、千回死ぬという決意をしなければならない立場なのです。

 同様に、国も一つの希望の国になるためには、多くの犠牲の代価を払わなければなりません。あすの願いを受け継ぐためには、私が永遠に生きるというよりも、現在の生活の中で千の犠牲、万の犠牲を誓って、これを選んでいける道があれば、それを探し出そうと決意できる人にならなければなりません。

 今日、人間に対して手を引こうにも引けずにいる神様の事情を考えるとき、そういう事情を抱いている神様は私たち人類が迎えるべき世界を代表した主人公であり、国であれば国を代表する主人公であり、家庭であれば家庭を代表する主人公であり、命であれば命を代表する父だというのです。

 しかし、こういう立場にいらっしゃる神様は、どれほど孤独でしょうか。そのような立場にいらっしゃる神様は、幸福ではなく悲惨であり、その立場は無限に孤独な立場に違いありません。誰にも、その孤独の恨の絶頂を推察でき得ない悲惨な立場だというのです。

 そのような悲惨な内情を抱いた神様が、歴史路程において誰にも打ち明けられず、この時代の誰にも吐露できない内容を、一人の少女に心を開いて言える立場を探すしかないとするならば、これは何とも言えないほど悔しい立場であり、言いようのない凄惨な立場ではありませんか。

 もし、全世界が反発する立場にそのような一人の少女がいれば、神様は今まで背信の逆路を耐えてきたそのすべての悔しい心情をさらけ出して、その少女と共に行くと、この世で今まで流したことなかったような涙を流せる瞬間が残るでしょう。そういう瞬間は昼ならば昼、夜ならば夜といういかなる時間も越えて、宇宙の心情をえぐられるような悲しさが行き交う時間であり、その場は誰も同情せざるを得ない悲惨な立場なのです。

 けれども少女自身が神様の内情がそうであることを知って慰労できる立場まで行けなかったので、神様はその少女をつかんで、再び立ち上がって走らなければならない立場に立つようになるのです。こういうことを考えるとき、そういう神様を迎えるために行く道が宗教の道であり、そういう神様に侍ることのできる安息の一日を開拓するために闘っていく生活が、宗教人の生活です。

◆やるせない神様に侍ろうとすれば


 このように見ると、今日宗教人がこの地上で幸福を慕うという事実はあり得ないことです。この地上で肯定的な生活条件を探すということは認められないのです。否定の因縁を尋ねていきながら、否定の極、自分のすべてを犠牲にする最先端に立たなければなりません。自らの命が左右に揺れ動く立場に立って、それを決断できる瞬間を経ていかなければならないのです。そのような決意をもたなければならない人々が宗教人であることは言うまでもありません。

 そのように深刻な神様であれば、自分がその深刻な神様に侍ることのできる息子となり、やるせない神様であれば、私がそのやるせない神様に侍って慰労できる孝子になるという心をもった人がいれば、その人は何を誓わなければならないでしょうか。

 イエス・キリストは福音を伝える過程で、何をその中心の骨子として残したかというと、「生きんとする者は死に、死なんとする者は生きん」という言葉を残しました。こういうことを語られたイエス様の悲運の姿勢を、私たちはたどってみなければなりません。誰も推察できない運命の道を、深く追求する心が激しければ激しいほど、神様の内情の因縁が加重すればするほど、天地を抱き締めて誰よりも痛哭できる立場を体 恤した人でなければ、そのようなことを語れないのです。

 今日、この地上に世界的な主権をもって世界を動かす国家があれば、その国家がただ「あすの希望を抱いて自分の国のみ生きる」と言ったなら、その国家は神様と相反する立場に立つようになるのです。またある民族がそうならば、その民族もやはり神様と相反する立場に立つようになり、氏族、家庭、個人がそうならば、その氏族、家庭、個人もやはりそうなるということは言うまでもありません。この世界が悪の世界であることを知るようになるとき、それを抱いて未練を残した立場は、神様が拠点とすることはできないというのは当然のことです。

 神様が拠点とする国よりは民族のほうが簡単であり、民族よりは氏族が簡単であり、氏族よりは家庭が簡単であり、家庭よりは個人が簡単です。個人の中でも頑固な人より、軟弱な人が簡単なのです。また、主管力の強い男性より、主管力の弱い女性が簡単です。女性の中でも生活において苦しめられ傷を負ったそのような年のいった女性よりも、何も知らず純情に花を咲かせ、善に花を咲かせることのできる年若い女性のほうが易しいと見ることができます。

 一つの拠点を見つけることができたとしても、拠点を見つけた時間からその場においてみ旨を成就していけるかという問題を見るとき、か弱い少女に責任を負わせて一緒に行く神様の立場なら、それは悲惨な歩みなのです。その少女を通してその少女のおばあさんとお母さんを動かし、そのおばあさんとお母さんを通して女性を動かし、その女性を通して男性を動かし、その男性を通して家庭を動かし、その家庭を通して国を動かし、その国を通して世界を動かしていくのです。そのような孤独な悲運の歴史を経て、天国に向かう神様の歩みが、どれほど哀れで痛々しいでしょうか。

 それで、いかなる宗教でも、現在生きている環境であすの希望の内容を提示するとき、その環境でただそのまま生きなさいと教える宗教はありません。現実を否定して、社会制度を否定して、自分の生活の基盤を否定して、自らの生活を否定しなさいと教えるのです。

 悪が世界的な版図を占拠している現時点で、真実というものは悪と関係があるはずがないのです。相対的な条件も求めることのできない立場が、真の基準だと考えるとき、真の基準の人は、今日悪が占拠している社会の条件に歩調を合わせる立場ではあり得ないのです。

 真の宗教は、今日人間が生きている悪の環境で、肯定的な条件を一切要求しません。否定の中でも絶対的な否定をします。絶対否定する立場で、崇高で絶対的な真の根を下ろしたいし、一つの環境をもちたいのが、絶対的な真の立場に立った神様の心です。そのような立場が神様の住みかになるのです。それゆえ、「生きんとする者は死に、死なんとする者は生きん」という逆説的な論法が出てくるのです。これを好む人は誰もいません。

◆天国の拠点はどこか


 では、天国の拠点はどこにあるのでしょうか。キリスト教の信徒の中には、「イエス様を信じて天国に行く」と言う人が多いのです。そのような天国の拠点は、どこにあるのでしょうか。イエス様は、天国がどこにあるのかと聞くペテロに、「神の国は、実にあなたがたのただ中にある」(ルカ一七・二一)と言ったのですが、その天国の拠点はどこにあるのでしょうか。悲しむ心が天国の拠点になれるでしょうか、自分を前面に押し出そうという心が天国の拠点になれるでしょうか、社会を否定する心が天国の拠点になれるでしょうか。これらは、私たちが願う内容をもった拠点ではないのであり、神様が賛同できる天国の拠点でもありません。

 こういうことを考えると、天国の拠点を探す人は、この地上の誰よりも孤独な立場にぶつからなければならないという結論が出てくるのです。それはなぜでしょうか。神様が孤独だからその人も孤独でなければならず、神様が克服の歴史を経てきたので、その人も克服の歴史路程を通過しなければならないのです。

 では天地に悲しみが満ちたとして、人間がその悲しみのみを感じて、悔い改めて痛哭し、涙を流すその場が、天国の拠点になれるでしょうか。それをもってしても駄目です。新しい喜びを享受できる時を願いながら、教団をあがめる反面、この世の罪悪を解決しなければならないという心の決意ができなければなりません。そのような責任を誓える一つの姿を、えり分ける方向がなくては天の拠点はあり得ません。それは言うまでもありません。

 その拠点、天国の拠点はどこでしょうか。人々の中には、「自分は良心的な人間で、社会的に相当な位置であって人々が仰ぎ見る立場にいるので、天国は自分から始まる」と堂々と主張する人がいますが、その人が善と悪が共に出発するという認識をもっているならば、そのような考えも通じるかもしれせまん。しかし、善と悪は同時に出発できません。悪が東に行けば、善は西の方に行かなければならないし、悪が動けば、善は停止しなければならないのです。また、悪が欲望をもてば、善は欲望をもってはならないのです。善と悪は反対です。

 こういう立場で考えるとき、神様が人間世界を訪ねてこられるとき、誰よりも希望をもって天国に因縁を結ぶことができるのかというのです。天国の出発は、人間世界に対する希望をすべて失ってしまったところから始まりました。それゆえ、現実生活で満足している人々の中には、真の宗教人はあり得ないのです。それは、皆さんもよく知っているはずです。

 それゆえ、生死が行き交う運命にぶつかり、悲しみの絶頂に入っていき、自分の存在を認識できない絶望の塗炭の苦しみの中に立つようになるとき、その人生の方向は当然あすを描く習慣的な人生行路に立つのではなく、自らの命までも否定する立場に立って新しい価値をたどっていかなければならないのです。このような論拠から真の善の出発の拠点はあり得るということを、私たちは認めざるを得ないのです。

 こういう観点で見るとき、私の人格が天の拠点だと自信をもてる人がいるでしょうか。いないというのです。また、「私が今抱えている家庭が天の拠点だ。神様がいらっしゃるなら、私たちの家庭を知らないとは言えない」と、自信をもって言える家庭もやはりないというのです。あるいは、私たちの氏族はこれこれの歴史的な善の功績をもっているので、神様が私たちの氏族に知らないふりをできないと、自信をもてる氏族がこの世界のどこにいるでしょうか。そういう民族、国家、主義、思想がどこにあるのかといえば、あきれ返ってしまうというのです。それで、「生きんとする者は死に、死なんとする者は生きん」というのです。

 その言葉には、どんな意味があるのでしょうか。千年生きることを願う人は、悪の世界において、自分自身を千年以上守るために努力する人であってこそ、千年生きるという夢を見ることができるし、万年生きることを願う人は、自分自身を万年以上犠牲にしてもそれを有り難く考えることのできる心をもってこそ、万年生きることのできる希望の拠点を見つけることができます。

 同様に、永遠の命、永遠の幸福、永遠の天国を叫ぶ人がいるならば、彼は永遠を中心として現時点を克服しなければならず、現時点において自分を犠牲にして耐え忍び、乗り越えることのできる立場に立たなければなりません。このような立場に立ってこそ、永遠の拠点が生じるのです。

◆天の拠点になれる一人を探してこられた神様


 では、神様のみ旨はいつ成し遂げられるのでしょうか。そのような人がいれば、そのみ旨はいつ成し遂げられるのでしょうか。そのような人がいなかったために、今日まで神様のみ旨は成し遂げられずにいるのです。

 今まで歴史路程で、この地上に来ては去っていった人の中には、数多くの聖賢たちがいました。今日の文化世界は、その聖賢たちの教えが世界化されていることは言うまでもありません。各国の憲法も、やはり聖賢たちの教えの中の重要な骨子を中心として作られています。

 歴史路程において多くの立派な人々が、この地上に生まれて逝ったのですが、いつ神様がそのような立派な人々と手を取り合って内外の生活理念を相談したことがあったでしょうか。なかったというのです。生活理念といえば、家庭、社会、国家に対するものがあるでしょう。神様が生活理念を相談できる子女がいたなら、神様はこれほど哀れではなかったのです。

 ですから、神様は神様が事情の通じ得る一人を探すために、今まで苦労してこられたのです。その一人に会うために神様は、この地上にイエス・キリストを送るまで、イスラエルの四千年の歴史で多くの預言者を通して、真の一人の男性を標準に立てて収拾するために努力なさったのです。真正の神様は、内心が通じることができ、事情が通じることができ、内的な因縁が一つの共同的な決意とともに、一つの歩みを整える拠点をこの地上で探すことを願う心から受難の道を歩いてこられたのです。

 この地上には人が多いけれど、その人々の中に神様の事情の分かる特定の一人を探してこられたのです。そのような人を探してくるには、歴史路程において平坦な道を通して探してくるのではありません。最も悲惨な歴史過程を通じて探してこられるのです。

 神様と一度話してみることができる男性がいれば、神様はそういう一人の男性を探して初めて、話を一度してみようというのです。その男性と話してみて、その一言によって喜び、その一言を通して一つの因縁をたどって幅を広げ、環境をえり分けて一人の生活圏を一度もってみようというのが、神様の願いだというのです。それで神様は、今までその一人を探してきたのです。

 今日多くの宗教人は、「天国は自分の宗教を通してこそできる」と言います。それはすべて妄想的なことです。数多くの宗教が、それぞれの教祖を中心として、その教祖が教える教理を通して天国ができると言います。キリスト教だけ見ても、数十の宗派に分かれています。自分の宗派でなければ異端視し、サタン視するのが現実です。その教団が神様から公証を受けた立場でそのように言うならば分かりますが、ただ自分の宗派を立て、自分の宗派を残すための欲心からそう言っているのです。動機が純粋ではありません。そういう宗団はいけません。

 宗教の使命において先決問題とは何でしょうか。天国を成し遂げることではありません。それは一次的な目的ではありません。天国が出てくる前に、天国を受け継げる一つの特定の民族が必要なのです。神様はそういう民族をつくるために、選民を選別して選んだのです。歴史上にこういう選民思想があるという事実は、悪の世界に善の一派を残すための主導的な思潮が歴史の背後に残っているということを証しています。

 悪の世界から選民が出てくるようになれば、天国はできます。ところが天国の民が出てくる前に、まず天国の子孫が出てこなければなりません。民と国が出てくる前に、天国を成し遂げることができる家庭が出てこなければなりません。家庭が出てくるには、天が生涯をかけて保障できる一人の男性が出てこなければならず、一人の女性が出てこなければなりません。

 では、そういう男性と女性だけ出てくればいいのでしょうか。そうではありません。その男性と女性を通じて、息子、娘が出てこなければなりません。そうして神様が永遠の息子、娘だと保障できる一つの家庭が出てこなければなりません。このような家庭がなくて、氏族、民族を成し遂げられず、そのような民族なくして国家と世界は成し遂げられないということは極めて当然の事実です。

 したがって、神様が訪ねてこられる拠点は個人です。個人に垣根をつくっているのです。それで今まで宗教は、個人の救いを目的としてきたのです。しかし、神様が探している救いの目的は個人ではありません。家庭です。したがって、天国家庭の基盤を探し立てなければ、天国氏族、天国民族、天国国家、天国世界はあり得ません。

◆神様が探してこられた一人とはどんな人なのか


 では、神様が探している男性とはどんな人でしょうか。どんな姿をしているのでしょうか。聖書に記録されたエリヤの預言を見れば、「この世の終わりの日には悪の世界に浸っている人間を救うことができる主人公が来る」とあります。新しい人間世界の主人公が来るということです。エゼキエル、イザヤ、エレミヤなど四大預言者が預言するのを見れば、すべてその内容です。ではその人とは誰なのでしょうか。今日のキリスト教徒はイエス様だといいます。

 男性の中で、それでも神様が関心をもてる男性とはどんな人でしょうか。聖人です。聖人は世界主義者です。世界主義者でなければ、聖人の位に入っていけません。聖人を見れば、孔子も世界主義者であり、釈迦も世界主義者です。ガリラヤの海辺を歩き回りながら三十三歳の独身男性として、み旨を成し遂げることができずに死んでしまいましたが、イエス様も世界主義者です。マホメットも世界主義者です。

 しかし、ソクラテスは聖人の仲間に入れません。ソクラテスは哲人であって、聖人ではないのです。哲人は真理の王にはなれますが、命を主管できません。違うのです。では、何が命を主管するのでしょうか。宗教のみが命を主管します。宗教の中でもどんな宗教でしょうか。神様に侍る宗教です。聖人には命を動かせる能力があります。聖人は、世界的な主義、思想をもっています。また、神を否定した聖人は一人もいません。

 工場に行ってみれば鋳型を作っています。丸い形や四角形の鋳型を作るのですが、これにお金が一番かかります。ここには精誠を込めなければなりません。ほかの部分は、スイッチを一度押せば、自動的に物が出てきますが、一番難しいのがこの鋳型、日本語で「型」というものです。この鋳型はどんなに堅い金属で、どんなに強い力で押しても形が変わってはいけません。どんなものによっても変形しない堅いものでなければなりません。その鋳型を削るのも、穴だけ開けて置いてはなりません。外側の穴があれば内側があります。この内側が穴にちょうど合わなければならないのです。これが難しいのです。穴を開けることは誰でもできる簡単なことですが、ここに自由に出たり入ったりできる型を作るのが、最も難しいのです。

 神様がこのような型を作ったとすれば、その型にちょうど合って出たり入ったりするものを作るのはもっと大変なことでしょう。それが人なら、神様がそのような人を探すはずです。昼も夜も出たり入ったりしなければならないのですが、神様が「間違いない」と言えるものがなければならないのです。できなくても、それがなければならないのです。神様が完全なことを計画なさるならば、それがなくてはならないのです。神様の心にぴったり合うもの、神様が「そのくらいなら百点だ。満点だ」と言えるものがなければなりません。

 それがきっちり合えば、水や油を注いだとき、流れるでしょうか。水や油を注いでどんなに揺れてもこぼれない、それを見つけるのです。神様は絶対的な方なので、絶対的なものを探すのではないでしょうか。この地上に、そういう男性の型がなければならないのです。そのような男性を神様がつくらなければなりません。

◆聖人のモデルがもつべき三つの条件


 聖人なら聖人のモデルがなければなりません。フランスのパリにあるメートル原器のような原形がなければなりません。その原形の基準は何でしょうか。

 皆さん、好きな服があるとき、それが自分の気に入ってさえいれば良いでしょうか。気にも入るし、体にも合わなければなりません。気に入って着てみて、体にもちょうど合えば気分がいいけれど、体に合わなければがっかりします。その服を着ることはできません。また、体に合っても気に入らず、その服を着て歩けない、合うには合うのですが腕がきつくて動かせず、活動するのに不便だったら、その服は着ることはできません。ですから服は心にも合い、体にも合って、活動するのにも合わなければなりません。三段階ですべて合わなければなりません。そうしてこそいいのです。目的の世界はそこで成されるのです。目的もなく、喜びが生まれるはずがありません。

 皆さんが神様の心に合い、体に合い、生活に合う男性を、聖書の中から「この人だ」と描き出すことができますか。聖書で、神様が探す形の男性を見つけることができるかというと、見つけることはできないのです。

 イエス様はなぜ死んだのでしょうか。そのモデルにぴったり合う人がいるのに「死んだ」と言っては話になりません。ピラトがイエス様を信じたなら、イエス様を殺したでしょうか。祭司長がイエス様を信じたなら、イエス様を殺したでしょうか。彼らの願うモデルがイエス様が願うモデルと同じだったら、イエス様を殺さなかったはずです。

 では、イエス様は志願して死んだのでしょうか、どうしようもなくて死んだのでしょうか。「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(マタイ二六・三九)と祈祷したのを見れば、イエス様は志願して死んだのではありません。そういう祈祷を一度ではなく、三度もしました。この地に死ぬために来たとしたら、そのような祈祷をする必要はないはずであり、楽しく死んでいくことを決意して、その場に立ったはずです。イエス様は、死が恐ろしくてそのような祈祷をしたなら、救世主の資格がないのです。イスラエル民族が、イエス様のみ意と合わなかったから死んだのです。

 こういうことを見ると、イエス様がしたかったその生活、イエス様が会いたかったその人、イエス様が共に話しながら計画して歴史を新しく編成したかった、その背後の前後関係がどうだったかが大きな問題だというのです。

 それは誰も知らないことです。それゆえイエス様は、「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない」(ヨハネ一六・一二)、「わたしが地上のことを語っているのに、あなたがたが信じないならば、天上のことを語った場合、どうしてそれを信じるだろうか」(同三・一二)、「わたしは、火を地上に投じるためにきたのだ。火がすでに燃えていたならと、わたしはどんなに願っていることか」(ルカ一二・四九)と言ったのです。イエス様がこの地上に火を投げたけれど、火はつかなかったのです。

 では、天国に入っていける人とはどんな人でしょうか。まず、神様の心に合う人でなければなりません。どのくらい合わなければならないでしょうか。神様が永遠の目的を中心として、永遠の理念を描いていく方ならば、永遠に合わなければなりません。永遠なる神様に、永遠に心を合わせなければなりません。そうするにはどうしなければならないでしょうか。永遠に心を合わせることができて、永遠にお互いに好むことのできる父の息子にならなければなりません。そのような息子になろうとすれば、悲しみの対象として現れてはなりません。そこに天国があるはずです。

 その次は、神様の体に合わなければなりません。体には方向性があります。方向性として現れるのです。考えは四方の中心点に代わるけれど、体は方向性として現れるのです。神様の体が東に行くといえば、神様の心に合う息子になろうとするなら、神様と共に東に行かなければならないのです。外的な体を中心として現れるすべてのものが一致しなければなりません。

 それだけでいいのでしょうか。そうではありません。神様は和気あいあいとすることを好むのに、かちかちになっていてはいけません。神様が和気あいあいとしているときは、和気あいあいとしなければなりません。内外が合わなければなりません。このように内外さえ合えば良いのでしょうか。そうではありません。

 その次には、神様がなさることと一致しなければなりません。そうしようとするならば、心にないことがあり得るでしょうか。体が嫌がることがあり得ますか。体と心が好むことをしなければならないのです。神様がいらっしゃるならば、神様が喜ぶことがあるというのです。またイエス様が神様の息子ならば、イエス様もそのようなことを喜ばなければなりません。

 そのような立場で体と心を中心として行動が一致しなければならないのですが、その行動が家の中で一致するだけでいいのでしょうか。それは大社会、大世界にも現れなければなりません。その大社会、大世界に対して現れるようになるときは、世界的な権威を備えなければならないし、世界的な法令と威信を備えなければなりません。厳然とすべきときは厳然と行動すべきであり、厳粛にすべきときは厳粛にすべきで、権威をもたなければならないのです。

◆愛と心情の教えが最高の教え


 男性として生まれてきた歴史的聖人のうち、誰が聖人の中の聖人でしょうか。私が好きな人といえばいろいろいます。法学を研究する人は、その法学を中心として好むように、自らの専門分野を中心として好む人がいます。過去にしたことを中心として、好む人がいろいろと違うのです。それはその分野を超えて、全体の分野に適用できないのです。しかし、私が愛する人であれば四方的です。

 このように見ると、神様が一番好きな聖人とは誰でしょうか。簡単です。神様は、何を基準として好まれるのでしょうか。愛をもって好むことのできる人だというのです。そのような方向を中心とした聖人の教えは、どういうものでなければならないのでしょうか。神様の愛を中心として慕い、そこについていきますと、歯を食いしばり、必死になって果たす内容を教えなければならないし、そのように身もだえした事実を残さなければなりません。

 イエス・キリストはこのような点で世界のトップです。彼は、「神様は私たちの主人である。神様は私の父である」と言いました。これは驚くべき結論です。神様は私の父だというのです。そして、自分はその父の骨髄を受け継いだというのです。それゆえ、父が悲しくなれば息子も自動的に悲しくなるのです。父が悲しむときは、それを尋ねてでも共に悲しむのです。

 イエス様は、愛という情緒的な問題を中心として、最高をつかんだのです。最高を手中に入れたというのです。そのうえイエス様は、「私は神様のひとり子だ」と言いました。ひとり子とは何でしょうか。愛があれば、その愛を分けてもつというのではなく、独り占めするというのです。

 それを見ると、イエス様は欲張りだったのです。また、イエス様は世の中の多くの男性の中でも、神様によって初めて生まれた息子でした。つまらない息子、娘はみな必要なくて、本物の息子が必要なのです。絶対者の本物の息子が必要でした。

 では、神様の本物の息子になって何をしようというのでしょうか。神様の暮らしを受け持つ息子になってどうしますか。御飯でも腹いっぱいになるまで思い切り食べて、油気が流れるくらい愛される息子になりたい人がいますか。御飯を食べられず苦労をしても、父のしりについていきながら父の懐に深く隠されている熱い愛情を独占するという息子、そのような息子が最も恐ろしい息子です。

◆神様が願うことは真の家庭を成すこと


 イエス様がこの地上で神様を「父」と呼び、神様の愛を「私の愛だ」と言い、神様が「私(イエス様)なくしては愛することができない」と言ったのを見れば、イエス様は聖人になれる資格があるのです。他の聖人の教えは人倫、すなわち人間の生活圏に入っていきましたが、イエス様の教えのように心情圏にまでは入っていけませんでした。またイエス様は、「私は新郎であり、あなた方は新婦だ」と言いました。自分につき従う者とその主体が関係を結ぶなら、新郎新婦以上の関係を結ぶ立場はありません。相対的な因縁をもてば、それ以上の関係がないのです。そのような意味でイエス様は、「私は新郎であり、あなた方は新婦だ」と語ったのです。

 新郎新婦の関係ですが、今は愛を結んではなりません。終わりの日に、きれいに準備をして迎えようというのです。それで終わりの日に、イエス様が新郎として来る時に、キリスト教徒は新婦になるというのです。また、イエス様は信者に対して、「僕」と言わずに「兄弟」と言いました。

 このように最も情緒的な問題を全部糾合して、どこにくぎを打ったのかというと、家庭にくぎを打ち込みました。これは否定できません。したがって、イエス様が願う根拠地は家庭です。家庭を中心としたのです。

 神様が探している真の息子が出てきたなら、真の娘が出てきて真の夫婦となり、その真の夫婦を通して真の息子、娘が出てきて、その次に真の兄弟が出てくるのです。それは誰が願う基準でしょうか。イエス様が願われる基準です。これをもてなかったなら落第です。孝子になれないのです。その願いの基準は、イエス様が願う基準にもなるでしょうが、イエス様が願う前に、神様が願われる絶対的な基準なのです。

◆天国にはどんな人が行くのか


 親に孝行する時、生まれてから死ぬまで孝行して、歴史の道が孝子の標準を残したとしても、神様を中心として親子の関係にあるイエス様がゲッセマネの園で、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ二六・三九)と深刻に、神様と決定的な問題を解決したその基準を代表できる親思いの祈祷をできる人がいたでしょうか。いなかったのです。

 では、天国に行くためにはどうしなければならないのでしょうか。世の中で楽しみながら生きる夫婦になるよりも、神様の公認のもとで楽しみながら暮らす夫婦にならなければなりません。また、子供を生んで育てるのにも、自分たち同士で関係を結んで、子供を生んで育ててはならないというのです。神様の公認のもとで、世の中の人々がうらやむ親子の絆を結んで、父母ならば父母として息子をより愛さなければならないし、夫婦ならば夫婦間でより愛さなければならないし、兄弟ならば兄弟間でより愛さなければならないのです。

 なぜでしょうか。今日のこの世界が、サタン世界であるからです。悪の世界です。悪の世界で誇る愛と善なる世界で誇る愛とは、次元が違うからです。悪の世界は平面的であり、善の世界は立体的です。それゆえ霊界にいる数多くの天使天軍や千万の霊人たちも、また今まで生まれて逝った歴史的な聖人、賢哲たちも、みなその愛で結ばれているのです。

 したがって、天国に行ける人は、神様を、妻よりももっと愛さなければならないのであり、父母よりももっと愛さなければならないのであり、子供よりももっと愛さなければなりません。そのように愛さなければ、天国に行けないのです。これは絶対的です。それでイエス様は、「わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない」(マタイ一〇・三七)と言いました。またそこにつけ加えて、「また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない」(同一〇・三八)と言ったのです。この話は、イエス様と一番近い人になるよう強調したことにもなりますが、本人の責任感を最も強調したことにもなるのです。

◆イエス様がこの地上に来て探そうとしたもの


 では、天国の拠点とはどこでしょうか。イエス様が、天国はあなたの心にあると言った言葉と、イエス様が求めてきた願いの拠点とが一致するかというと、どうでしょうか。これは聖書のみ見れば、矛盾であり、相反するのです。では、その過程を誰が連結させるのでしょうか。今日、このキリスト教と、イエス様と、聖霊が連結されなければならないのです。ところが、これを知りませんでした。

 イエス様が求めてきたものとは何でしょうか。心の中に天国をもてる男性として、そのようにできる女性を迎えて相対的圏に天国の平面基準圏を成立させずには、平面的な地上に天国は建設できないのです。イエス様が地上に来て個人的に一致した天国の基盤は完成したかもしれないけれど、相手の新婦の環境を中心とした天国の基盤は完成できなかったので、それを願いとしてキリスト教が多くの犠牲の代価を払って道をつくってきたのです。これは、終わりの日まで待ち望むことができるのです。

 したがって、男性が行くべき道とはどんな道でしょうか。最初は自分が完全な人間になることであり、その次に相手に出会うことであり、その次に家庭を成し遂げて息子、娘を生むことです。息子、娘を生んで何になるのかといえば、自分の氏族の族長になるのであり、族長になって善の族長を率いることができる民族長になるのであり、民族長になって主権者になるのであり、主権者になって天のお父様との相対的関係において世界を主管できる最高の勝利者になることです。これが男性の行く道です。

 それで、世界を自分のものにしたいという欲望のない男性はいません。そのような欲望をもっていない男性は男性ではありません。人の仲間にも入っていけない男性です。そういう願いがかなう可能性がないので表現したりしませんが、何も知らない人でも世界を自分のものにしたいのは当然なことなのです。そのような欲望は、人類歴史始まって以来、未来まで永遠に続くのです。そのような欲望がなければ、神様の息子になれません。そのような欲望があるので、神様の息子が宇宙の一番の大王です。言い換えれば、偉大な方だというのです。神様の息子になるなら、世界的なチャンピオンにならなければならないのです。

 そのような男性、世界的な男性になって世界的な最高の相手を探そうとする夢、そのような夢をもたなければなりません。大学に行って学士、博士になって何かの「長」になれば、孤独単身でも良いというかもしれませんが、一人では幸福であるはずがありません。幸福というのは相対的な条件のもとで成立するものです。

 イエス様は、かわいそうな男性です。神様がイエス様に、「天地をお前の思いどおりにしなさい。天も自分勝手にし、地も自分勝手にしなさい」と言ったなら、イエス様はどのようにしたでしょうか。簡単です。天地に不足することのない内外の人格を備えて、「おい! 天下よ、私はこうしたいのだが、お前はどうか」と聞くと、天下が「はーい! そうしてください」という立場を願ったでしょうか、願わなかったでしょうか。

 聖書を見れば、イエス様の当時のイスラエルはローマの植民地だったのですが、税吏は人としての扱いを受けられませんでした。税吏は、国のお金を搾り取ってローマに捧げる、国をむしばむ人でした。そういう税吏とローマ人に対して、イエス様は、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、分からずにいるのです」(ルカ二三・三四)と祈祷しました。それは、イエス様が彼らの僕になるためにそう言ったのでしょうか、彼らをイエス様の僕にするためにそう言ったのでしょうか。彼らをイエス様の僕にしようとして、そう言ったと思います。

 天国を建設しようとするなら、頭の良い人が必要です。天国を設計しようとするなら、頭が良くなければなりません。頭をもった文化人が必要だというのです。イエス様当時は、ローマが必要だったのです。その時ローマ帝国は、すべての文化が集中している地でした。そのようなローマ帝国が必要だったのです。イエス様はローマ帝国がもっている文化圏、それ以上の基盤を夢見ていたのですが、イスラエル民族には到底望めなかったので、この次に使えるという望みをもって彼らの罪に対して赦しをこうたのです。この次に僕にするために、その時は、それしか方法がなかったのです。

 イエス様が天地を思いどおりにできたなら、天下の第一人者になったはずです。ところがそのようにするときは、暴君のように銃や刀で威嚇して強制的に屈服させてはいけません。それが何なのかも知らず、万民が屈服できる人格の圏をもって成されるのです。

 そうして第一人者になれば、その次はどこへ行くのでしょうか。世界の国王になってすべての国の大統領に会い、役人を従えて毎日朝礼をし、国家を治める、そこを中心として教えようとすることで終わるのでしょうか。もしそうであれば、イエス様は孤独な人です。ですから、その次はどこへ行かなければならないのでしょうか。相手を訪ねなければなりません。

 男性が生まれる時、女性がいないのではないかと心配しながら生まれますか。女性がいるということを知って男性として生まれるのです。それを心配して生まれる人はいません。男性として生まれる時には、女性がいるということを知って生まれてくるのです。それゆえ、男性がそのような形をしているのです。また、女性も既に男性がいることを知って生まれるのです。そのように生まれるのは何をするためでしょうか。相手に会うためです。

 イエス様は聖人ですが、聖人の行くべき道とはどこでしょうか。世界を治めることのできる人格者になって、弟子たちを中心として率いて、その次は家庭をもつ男性として生まれたので家庭を訪ねるのではないかというのです。ですから、イエス様の恨とは何かというと、男性としてすることができなかったことです。イエス様は家庭をもつことができませんでした。家庭の主人としてのイエス様になれませんでした。新婦を迎えるための新郎としてのイエス様にはなったけれども、家庭の家長としてのイエス様にはなれなかったのです。

 それから、父としてのイエス様になれませんでした。世の中の人々はイエス様と呼ぶけれど、イエス様を「お父さん」と呼びながら、ひげを抜いたり、背中に上がったり、頭にも上がったりする息子がいませんでした。父親としてのイエス様になれなかったのです。

 イエス様が父親になったら、その次は婿を迎えたかったでしょうか、迎えたくなかったでしょうか。嫁も迎えたかったでしょうか、迎えたくなかったでしょうか。このように考えると、「イエス様と私たちと違うところが何かありますか」と言うかもしれませんが、家系が違うのです。それだけです。ほかに違うところはありません。イエス様が息子を育て、嫁をもらい、その嫁を愛したくなかったでしょうか。また、婿を迎えて愛したかったでしょうか、棍棒で頭を殴りたかったでしょうか。愛するのです。そのような義理の父としてのイエス様になれなかったのです。

 このように考えると、イエス様が探す新婦は、どうしなければならないでしょうか。イエス様が探す兄弟は、どうしなければならないのでしょうか。イエス様には息子、娘がいませんから、私たちが息子、娘になるためには、イエス様に接ぎ木されて養子になるのです。偽物を免れた息子と兄弟にしかなれないというのです。

◆天国の拠点を確立するために行く道


 では天国はどこでしょうか。「あなたの心にある」と言った、その天国とはどこにあるのでしょうか。それがイエス様の探してこられた環境的天国と相反する内容でしょうか、順応できる内容でしょうか。相反してはいけません。順応の道理に合わなければならないのです。環境的な天国が成されることによって、地上天国が形成されるのです。

 地上天国を成そうとするなら、絶対的に必要なものとは何かというと、家庭です。小羊の婚宴とは何でしょうか。神様の計画書どおり、一人の男性と一人の女性が、ぴったり合う理想の実体として現れて、神様が初めて「良し」と言える一人の男性と一人の女性を抱いて「よしよし、私の愛する息子、娘だ」と宣布式をすることです。それが小羊の婚宴です。すなわち、結婚式です。新婦の道理によってえり分けていくのです。

 それはどのようにしなければならないのでしょうか。人間が堕落することによって、本然の基準を失ったので、救いを受けなければなりません。救いとは、病んだ人を病気になる前の本然の立場に復帰させることと同じです。それゆえ、本来神様がなさろうとしたことをしなければなりません。では、神様がしようとされたこととは何でしょうか。両手をにぎって愛に酔い、永遠に離せなくて、昼でも夜でも地獄でも天国でも、どこに行っても「我が娘、我が息子、さあ、来なさい、来なさい」と言える息子、娘をもとうとなされたのです。

 父母には子女を探していく権利があるし、夫には妻を探していく権利があるのです。また、お兄さんには弟、妹を探す権利があるのです。なぜなら、血統が同じで、愛の絆があるからです。それはすべて、初恋の因縁に関係しているのです。お父さん、お母さんも初恋に関係しているし、夫婦も初恋に関係しているし、兄弟も初恋に関係しています。そこには主管の権利があります。

 では、その初恋は誰を中心として関係を結ばなければならないのでしょうか。神様です。人間は神様を中心として初恋を結ばなければならないのに、これができなかったので、今日の世の中が動揺する時勢になってしまったのです。それゆえ動揺する局面になったこの世を、公式の法則を通して押し出さなければなりません。こういう悪の世の中に一つの拠点をつくって、悪の世界と一勝負をするために出発したのが統一教会です。

 先生が出世しようとするのではありません。神様を出世させようというのです。神様を解放しようというのです。イエス様を解放しようというのです。これが「統一思想」です。私たちはそのために決意をし、そのために開拓者になり、そのために受難の路程を克服していこうというのです。それゆえ皆さんは、そのために国境を越え、教派を超えて、ただ一つの目的基準に帰一すべき共同的な責任があるのです。

◆神様を中心として体と心が水平を成す時に天国が成される


 皆さん、心の天国になるためにはどうしなければならないでしょうか。皆さんは、もう心の天国を成しましたか。天国は永遠なる所です。永遠に行く所です。そこに永遠に行こうとするなら、自体が水平にならなければなりません。千年、万年過ぎても水平にならなければなりません。傾いてはなりません。永遠に水平にならなければならないのです。

 では世の中の人を中心として見ると、その水平基準は何でしょうか。私たちの体と心が水平になっていますか。これが問題です。イエス様は、「あなたの心に天国がある」と言いました。天国は永遠の国なので、永遠の国になるためには水平基盤にならなければなりません。水平基盤になるためには、心が水平にならなければならないし、体も水平にならなければなりません。心の水平基準が高く、体の水平基準が低くてはいけないのです。

 一つにならなければなりません。体と心が永遠において、完全に、絶対的に一つになる所で天国が生じるのです。では絶対的に一つになるには、誰を中心としてならなければならないのでしょうか。天国の基準とは誰でしょうか。イエス様が現れたがゆえに、イエス様を中心として一つにならなければなりません。そうするには、どうしなければならないのでしょうか。情緒的な問題から、心と体の問題、生活的な問題にまで一つにならなければなりません。天国は、そこでできるのです。人は、このような内容の目的を成すために生まれたのです。

 こういう観点で自分自身を中心として見ると、天国の拠点とはどこでしょうか。家庭でしょうか。そうではありません。家庭が天国の拠点になる前に、私自身がそれにならなければなりません。私は私なのですが、私のどこでしょうか。心です。その心が神様と水平にならなければなりません。心が神様と水平になったその基準を拠点として、体も水平にならなければなりません。イエス様はこれを失わないために闘ったのです。それゆえ祈祷も、神様の心と自らの心の一致点を中心として祈祷したのです。

 イエス様の心が神様の心に一致したら、その一致点を中心として、その基台の上で神様のみ旨がイエス様の心に移るのです。神様の理念がイエス様の心に移るのです。言い換えれば、神様の心とイエス様の心が一つになったところでは、神様の内的な天国思想がイエス様の心の中に移されるというのです。そのような意味で「夫婦一体」、「親子一体」という言葉が出てくるのです。

 「一体」、一つになるには何がなければならないのでしょうか。お金でもないし、他の何かでもありません。それは情緒的な問題です。「お父様が私を愛し、私はお父様を愛する」ということは、愛の問題でなければ、一つに結べません。そういう基準、イエス様が神様の思想と一致したその思想を受け継いだ心でなければなりません。そうなれば、神様の思想が絶対的ならば、イエス様の思想も千万年の世界の歴史がどんなに詰め寄っても、へし折ることのできない思想になるのです。そのような思想的基盤を中心として、体を一体化させなければならないのです。

◆宗教の道


 私たちの体と心には、主人が二人います。異なります。それで天国を成せないのです。二人の主人が闘っているのに、天国ができるでしょうか。使徒パウロも、「わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう」(ローマ七・二三、二四)と慨嘆しました。「なんというみじめな人間なのだろう」と苦しむ人が、天国のできることを願っているのですが、話になりますか。天国は闘いが評定されてこそできるのです。それゆえ、この闘いをしています。では、ここで何が怨 讐なのでしょうか。心を中心として体が怨讐です。体が怨讐だというのです。それで宗教は、この体を打って正す方法を教えるのです。

 体を打って正す方法は、心に何倍もの強い力を入れて体を引っ張っていくようにするのです。体に子供がくっついていたとしても引っ張っていくのです。かえるに電気を通せば、かえるが四肢を広げるように、そのような力の世界があります。その力さえ受けるようになれば、じっとしていても細胞が破裂していくような力が生じるのです。そういう膨大な発電所があると、この発電所に配線だけしておけば電灯に灯がつくのです。線だけ連結しておけば、その接触によって電気は、あっという間につくのです。そのような力の発源地があるのです。

 その力の発源地に体が接するようになると、その体がいくら悪くて反対しても、その反対するものを導いていくことができるのです。導いていくつかの峠を越えて初めて、そこであきらめさせることができるのです。そうできなかった人は、どうしなければならないのでしょうか。体を強制的に打って正さなければなりません。食べさせず、着せずに、苦労をさせろというのです。宗教の修行の方法は、この二種類しかありません。

 こういう立場にある皆さんが、最も闘わなければならない対象とは何でしょうか。サタンが問題ではありません。サタンの大王とは誰かといえば、自分の体です。良心は天国の見張りなのですが、体は天国の見張りではありません。サタンの国の王宮です。サタンは、この世界の一番になろうとしています。そういう体を打って正すためには、この世界に勝てる力をもたなければなりません。国に勝てる力をもたなければならないし、民族、家庭、自らの情緒的な問題、世の中で起こるすべてのことに、勝てる力をもたなければならないのです。そういう心をもたなければ不安なのです。それゆえ、宗教の道は肉身を中心とするのではなく、肉身を完全に否定するのです。

 「体が嫌だということを、すべてせよ」というのです。「体を否定せよ」というのです。これが真の宗教です。体はサタン世界の拠点です。天国の拠点があって、サタン世界の拠点があれば、その二つが、戦いでも何でもしてこそ、前進あるいは後退が起こるはずです。体は世の中を中心とした悪の立場であるがゆえに、何を中心とするのでしょうか。自分を前面に押し出す主義です。自分を前面に押し出すことが、堕落の第一歩です。

 では天の法度とは何でしょうか。公義を前面に押し出すことです。私的なものはサタンのものであり、公的なものは神様のものです。公義のために行かなければなりません。そのような路程において、あらゆる人がどんなに反対しても、そこに侵害されず、困難な道も生命力をもって行く人がいれば、彼は春を迎える天国人になるでしょう。それゆえ、皆さんは何かの腐敗のにおいが漂っても、そこに侵犯されない群れになりなさい。これが「統一思想」です。

 こういう思想をもつことによって、侵犯されないようにするのはもちろん、新しい時代において一つの種、すなわち中身をもって、自分自らの姿をその環境に如実に表せる自分になろうというのです。そういう愛を植えたので、そういう愛を刈り取らなければならないのです。秋の季節は、刈り取る時です。

◆天国の拠点は人間の心


 では統一の方案は、どこにあるのでしょうか。世界主義では駄目です。世界の民主主義でもってどんなにつくろうとしてもできません。完全な製品を作ろうとするなら、まず付属品を正しく作らなければなりません。ですから、皆さん自体を完全な人としてつくることができる完全な工場をつくらなければなりません。それが何でしょうか。完全な宗教です。完全な宗教を探してくることです。

 統一の方案とは、大韓民国の南北で成されるのが統一の法案なのではありません。人間自身の中で闘っている体と心を、どのようにして闘わないようにさせるか、心が体に対して主導権をとって、平和の基準を維持させるかということです。その体を連結させれば世界になるのです。

 イエス様のみ言を聞いて従う弟子たちは、イエス様がローマ帝国を一時に占領し、イスラエルの国王に君臨するようになれば、自分たちは位を一つずつもらえると思っていたのです。けれども、そんなことは問題ではありません。まず、自分の心の中に天国の基盤を築かなければならないし、その心を中心として体が神様と一つになれる基盤を築かなければなりません。これが一番大きい問題なのです。天国は自分自身から始まるのです。したがって、天国の拠点は自分の心だというのです。

 では、自分が幸福にならなければならないと思い、幸福になろうとするならどのようにしなければならないのでしょうか。体と心が一つにならなければなりません。体は安らかであっても、心は深刻になってみてください。そのような立場で肉を食べて、人より豪華な生活をするからといって、「このくらいで良い」と言えますか。体と心が一つになって、眺めるものすべてを欲しがって踊りたくならなければなりません。心と体、中と外の違う人が人格者ですか。そうではありません。中の形と外の格好が同じでなければならないのです。それゆえ、天国の拠点は私たち自身だというのです。ですから、体と心が一つになれというのです。

◆体と心の統一方案


 体と心を統一する方案とは何でしょうか。人間がどのように堕落したのかというと、信じることができなかったためです。誰を中心として信じることができなかったのでしょうか。自分を中心として信じることができませんでした。「ただイエス様だけを信じれば天国に行く」と言いますが、どこが中心でしょうか。「ただ信じる」と言うけれど、何を中心として「信じる」と言うのでしょうか。自分を中心としてイエス様を信じてはなりません。イエス様を中心として信じなければなりません。イエス様の思想を中心として自分が決心しなければなりません。イエス様の愛を中心として自分が決心をしなければならないし、イエス様の心情を中心として自分が決心をしなければなりません。

 そのように信じて、何をするのでしょうか。一つになろうというのです。その目的観がそのようになっています。それゆえ、最初は信じなければなりません。誰を中心として信じなければならないのでしょうか。主体を中心として信じなければなりません。絶対的にその主体と一つにならなければなりません。

 なぜそのように信じなければならないのでしょうか。どうして信仰を強調するのでしょうか。神様は高い位置にいて、人間はあまりにも低い位置にいるので、人間が条件的に妥当性のある何かを橋として置いたのでは、神様の前に上がっていく道がありません。聖書の上では六千年といいますが、何千万年にもなる距離があるので、今日の堕落した人間が神様を訪ねていくには、あまりにも遠い距離です。行くに行けない道なので、神様は私たちを愛してくださって、ひとり子を送られたのです。

 国家的な次元において、一国家が世界のために三分の一を投入できる立場に立って、このような三カ国が協助すれば、一つの国の予算を越えるのです。そうして十カ国が協助すれば、三カ国を解放できるというのです。そういう世界を成し遂げることができるという目的をもって行くのが、統一の道です。統一の道は、神様が願われる天国への道を待ち望んでいることなので、その道でのみ天国へ行くことが可能なのです。その道以外にはありません。

 自分を中心としたこの世界的な思潮の終末期においては、その道がふさがれてしまったので、他人を中心として行ける一つの方法しかありません。背を向けるしかありません。神様は、これを御存じであられるので、今までこの道を克服してこられながら、個人からそういう思想を願い、家庭、氏族、民族、国家、世界まで動員して、この地球上に天国を建設しようとなさったのです。

 したがって、徹頭徹尾自分から、家庭基盤を模索してみ旨を連結させて、同胞愛を超えた心情のつながりを世界化させる国があるならば、その国は間違いなく、神様が君臨なさる天国になるはずです。その国には悲しみがある前に、喜びと希望があふれるであろうし、苦痛がある前に、苦痛に責任を負える世界の人がいるので、苦痛を感じないでしょう。

 皆さんは、このような世界が天国になれるということを知って、天国の拠点が皆さんの心、心情世界から連結するということを確実に知らなければなりません。



















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訓教経(下)016



文鮮明先生のみ言集

訓教経(下)



模範を打ち立てるべき地上時代


一九七一年十月十七日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第四十九巻』


 きょうは、「模範を打ち立てるべき地上時代」という内容について少しお話ししましょう。

◆宗教人が追求すること


 この地上に生きている人の中で、欲望をもっていない人はいません。どこの誰もが、きょうよりもあすがより良いことを願います。現在暮らしている環境よりも、あす生きていく環境がより良いことを願うのです。言い換えれば、漸進的な幸福の舞台を願うのが人間の欲望だということです。これは老若男女を問わず、また東西を超越しての願いなのです。過去においてもそのように願ってきたし、今もそのように願っており、未来においてもそのような立場を抜け出すことはできないでしょう。

 このように考えると、地上に生きている人間がそうであるように、霊界にいる数多くの霊人もそうであるはずです。別の言い方をすれば、人間がそのような立場に立っており、その人間を造った絶対者がいるとすれば、その絶対者もまた、そうに違いないということは言うまでもありません。

 私たちが欲望を中心として、きょうよりもあすが、より良いことを願いますが、その対象とは何かという問題について考えると、私たち人間世界では、何よりも物質をその対象としています。さらに黄金万能時代を叫ぶ現時代においては、お金というものを貴いものとして、お金さえあれば人間の生死も左右できるという時代に置かれているのです。このように、私たちが好む第一の対象を選ぶとすれば、物質を挙げることができます。その次に、人は権力を手に入れたがります。権力は、自らの権益を得るために必要とされます。人間が、より高い位置につくための価値を追求する立場に立つために願うのが、権力というものです。

 また、私たちは、高くて真なる人格を願っています。言い換えれば、物質や権力を喜びの対象とすると同時に、貴い真なる人を標準として願っているのです。

 しかし信仰の道を行く人は、人間よりも高い位置にある絶対者がいるならば、その絶対者を喜びの対象とするのです。この道を模索してきたのが宗教の道だということを私たちはよく知っています。

 このような人間的な立場を総合すると、宗教を知らない人々は物質、お金を喜びの対象とし、人を喜びの対象としています。一方、宗教を信じる人は、物質に対してももちろんそうであり、人に対してもそうでしょうが、それよりも天をより貴いものと考えようとします。天をより善の対象として、価値の中心に立てようとする群れが宗教人なのです。

 私たちがここで、世の中の人と宗教人とを比較すると、その差とは何でしょうか。世の中の人は自分なりの限界線を中心として、それを最高の善の標準、あるいは願いと欲望の標準としていますが、宗教人はここから一段階進んで、天を標準としているのです。世の中の人は、人が限界点ですが、宗教人は人の段階を越えているのです。お金を必要とし、人も必要としますが、それを基点とするのではなく、それを越えて天を基点にしようというのです。これが、この世の人と宗教人の違う点です。

 宗教人は物質世界に生きており、地上の人間とも関係を結んで生きていますが、ここにあるものを善の対象とするのでなく、これを越えて天という、私たちとは関係を結べないような基準を標準として出発すると同時に、そこで新しい対象の因縁を探してあえぐのです。このような群れが宗教人だということを、私たちはよく知っています。

 この世の人は自分の家族のために、あるいは自分の愛する人のために物質を得ようとあえいでいます。また、より真実なる人を慕い求めています。より真なる人間同士で因縁が結ばれ、一つとなる事情を中心として誇ろうとするのです。これが、一般の人が生涯路程で追求する欲望の帰結点です。

 しかし信仰者らが行く道は、そのような限界点を中心としたものではありません。これを越えなければならないのです。私たちの必要とする物質的要件を、第一条件として立てて、その物質的要件が基盤の条件として残り、神様との因縁を結ぶことができるでしょうか。そうできればいいのでしょうが、それができないのであれば、私たちは物質的な要件を切ってしまわなければなりません。越えなければならないのです。

 さらには、世の中の人が、宗教人の行く道に必然的な基盤、あるいは必然的な要件として因縁を結んだものを、そのまま生かしていくことができればいいのですが、人間を中心とした因縁から抜け出さなければならないのが宗教の道だとすると、これを抜け出さなければならないのです。

◆すべてを否定せよ


 この世の人が必要とするのは、物質や、権力や、人です。宗教人もこのようなものが中心となった世の中に生きていることには違いないのですが、この環境が、新しい跳躍の希望をもって出発するための基台となり得ないならば、どうすべきでしょうか。捨てなければなりません。捨てるのに、私が否定すべきなのか、向こうから私を否定すべきなのかというと、向こうから否定してくればともかくとして、そうでない場合は私が否定しなければならないのです。ここに苦衷があるのです。

 それゆえ聖書で見ればイエス様が、「あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」(マタイ六・二四)、「家の者が、その人の敵となるであろう」(同一〇・三六)、「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである」(同一〇・三四)、「自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つのである」(ルカ一七・三三)と言われたのです。これは全部、逆説的な論理です。私たちは、この環境圏内で、順応の条件を絶対に肯定できない立場に立っているということを、このような教えを通じてかいま見ることができるのです。

 家族が怨 讐だというのですから、その人は世の中で最も哀れな人だといえます。物質は死亡の動機となるという教えを受けたのですから、死亡の陰に対する立場に立つべき宗教人の立場は、物質の前では悲惨な立場ではないでしょうか。切り難く、離れ難い環境を切って出発しなければならないということは、どれほど悲惨なことでしょうか。しかし、悲惨さを感じれば感じるほど、その悲惨さは私を破綻させるものではなく、むしろ私を解放する動機となり得るならば、私たちは断固としてその道を選んで行かなければならないのです。

 神様に欲望があるとするならば、神様もやはり人を願い、万物を願うのではないでしょうか。人を必要とするときは、人に必要な物質も必要とすべき立場にあるにもかかわらず、天が人にこれを拒否せよという条件を提示した原因はどこにあるのでしょうか。因縁を結び、関係はしているけれど、その因縁をもち、関係を結んだことを、再び元に戻し、新しい次元で関係を結ぼうという、ある内的な欲望と念願が神様にあるがゆえに、神様が私たちの前に提示するその欲望の道を設定するために、否定的要因を提示されるのです。これは、自然的な結果なのです。

 それで聖書に「自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つのである」(ルカ一七・三三)、「生きんとする者は死に、死なんとする者は生きん」という言葉があるのです。これはある内容を残して否定しろという話でなく、絶対否定しろというのです。この地で欲望をもって生きようとする人間の前に、死のうとしなさいということです。完全に否定しなさいというのです。置かれている環境とは違う環境に立てというのです。言い換えれば、境界線を越えろということです。その境界線を越える限界線というのは、死です。したがって、死以上の立場を越えろということです。

◆自ら死の場を求めていけ


 しかし、生きるための道を求めていくのが人生の道であるのに、「死の道を行け」と言われて行く人がいるでしょうか。皆さんの一生について考えてみてください。八十、九十を過ぎて死ぬ時が迫ると、「死にたくない」と言いながら死ぬ人が大半です。

 それでも、志願してその場を求めていかなければならないのです。そして、その場に希望をもって進むのか、絶望をもっていくのかといえば、大多数の人が絶望をもっていく道であるはずなのに、希望をもっていかなければならないのです。

 神様は、なぜこのような条件を提示されるのでしょうか。それはこの世界においては、私たちの生きている人間像と、私たちの願う欲望圏が相応的となり得ずに、相克的な立場にあるからです。

 神様と人間との関係において神様の願う基点、基調、あるいは出発点がどこかというと、この世の圏内からは出発したくないのです。人間の欲望圏ではありません。人間の欲望とともに、こうでもいいし、ああでもいいというものではありません。きれいに清算したところから出発しようというのです。人に対する関係において、きれいに清算したところから出発しようということなのです。

 それが、神様の人間の前に提示した、真の信仰の伝統的な道となるのです。言い換えれば、そこで模範となる一つの原則的基準を設定しようというのです。このように見るとき、皆さんが目で見て、耳で聞いて、口で話して、笑って良いというこれが問題なのです。

◆信仰の道では、なぜ低くなり死のうとしなければならないか


 ですから信仰の道では、「自分を高めよ」とは教えません。高まろうとする者は低くなり、低くあろうとする者は高まるといわれています。信仰の道を行く人は、総じて死のうとした人です。この世で希望の中で生きてきて、信仰の道に入った人はほとんどいません。絶望した人や、人間世界の落伍者のような人が求めてくるのが信仰の道です。

 それゆえ信仰の道で高くあろうとする者は、最も愚かな人です。信仰の道を歩みながら高くなろうとあえぐ人は、この世のどんな悪人よりも悪い人です。

 ではなぜ高まろうとすれば低くなり、低くあろうとすれば高まるのでしょうか。ここには境界線があるということです。三十八度線のような境界線があるということをいっているのです。

 我が国と怨 讐の国との間には境界線があります。ここでは生死の決戦が続いているのです。三十八度線は熾烈な戦闘と交戦が続いている所です。もし、こちら側の人が見つかった日には、死ぬか、そうでなければ利用の祭物となるのです。このような時に生きようとすれば、彼はその国の逆賊となるのです。

 怨 讐の捕虜になって生きようとするならば、怨讐に自分の国のすべての秘密を渡さなければならないのです。そうするくらいなら死ぬべきです。死のうと打たれれば、怨讐は殴るには殴るけれども、誤って殴れば、私たちが怨讐を打つことができるのです。私たちが打つ時には、何百倍にもして返すことができます。このように見れば、死によって滅びるのではなく、怨讐がその一人を誤って打つことによって、その何千倍にもして私たちが怨讐を打つことができるのです。そうすると、それはもっともな話です。

 このように見ると、三十八度線はあるということになります。ところで、その死亡の三十八度線は、一箇所にだけあるのではありません。私たちが一生の間、生きている瞬間瞬間、日々、年々の中でこれが慢性的についているとすれば、どうしますか。私がそうで、妻がそうで、息子がそうで、父母がそうで、愛する国がそうで、人類がそうだということが分かれば、どうしますか。あきらめますか。そうすることはできません。億千万年かかったとしても、それを越えなければならないのです。

 知ってみると、その三十八度線というのは、一定の区間に設定されているような三十八度線ではありません。皆さんが五官を通して感じる、その感覚を通じて全部が行き交うのです。自身の骨髄と共に、自身の感情と共に激動しているのです。

 このような皆さんであることを考えれば、生きようとする人は愚かな人です。宗教をもち、その国の国民であるという意識をもった人がそのように考えるとすれば、その人は正常な人ではないという結論が出ます。これをはっきりと知っている人がいるならば、生きようとしても「生きる」とは言えないことでしょう。生きようとする人は死ぬのであり、死のうとする人だけが生きるのです。

 その時は、死ぬことがその国に忠となるのです。なぜでしょうか。悪が善を誤って打った場合には、神様が何百倍も悪を打つことができるからです。一人が犠牲になれば、その代わりに十人を連れ戻す道があります。罰金をもらってくるのです。一人が死ねば、三人以上連れ戻すことができるということです。

◆いつも生活の中でねらっているサタン


 サタンは、どこにいるのでしょうか。サタンは、特定の所にだけいるのではありません。サタンは皆さんの生活舞台にとりついた大王として、皆さんを攻撃しているのです。サタンを屈服させるためには、生きようとしてはなりません。

 皆さんは、サタンが実存するということをはっきりと知っていますか。「言葉では、いそうなものだが、いるのかいないのか私は分からない」という人は、神様が見て期待をかける人にはなれないでしょう。サタンがいることを確実に知る人であってこそ、神様が期待をかけることができるのです。期待をかけたとしても、それが神様のみ旨に対しプラスになるかならないかは、過ぎてみなければ分からないでしょうが、サタンがいることをはっきりと知っている人にだけ、神様は願いをかけることができるのです。

 それゆえ聖書に「死のうとする者は生きる」とあります。死ぬ覚悟をせずには、抜け出す道理はないのです。怨讐サタンが銃口を向けているのに、死ぬ覚悟もせずに免れることができるでしょうか。「えい、どうにでもなれ。どうせ死ぬのだから、一度非常手段を取ってみてから死のう」としなければならないのです。そうするには、サタンのねらいとサタンの動く方向と、反対の道に進んで、サタンを打たなければなりません。

 その時に知恵が浮かばなかったら、「ああ、私たち愛する国民よ、主権者よ、私に知恵を与え給え。この体が全体を代表してサタンを屈服しなければなりません」と言って非常の対策を取らなければなりません。皆さん、映画の中でそのようなスリルある場面を時々見るでしょう。皆さんは、そのように心身を死亡線に置いて、サタンと一大激戦をして勝負をつけるという決心をしなければなりません。

 皆さんは、神様がいらっしゃるということがはっきりと分かりますか。サタンがいるということがはっきりと分かりますか。神様も分からずに、サタンも分からずに生きているのではありませんか。もし知らないのならば、それは皆さんが置かれている位置が、不干渉圏内にあるからです。

 ですから北に行けばサタンで、南に行けば神様なのに、これはその境界線にぶつかなければ分からないのです。「そのような立場にあるのが今の人生だ」と言っても間違いはないでしょう。

 かといって、緩衝地帯で、温水を水で埋めたようにぬるくてはいけません。冷たいなり、熱いなり、はっきりしなさい。中途半端なのは、むしろしないにも劣ります。冷たいなり、熱いなり極端に立てというのです。

 宗教圏とは何かというと、緩衝地帯圏です。神様を中心とした宗教圏は、天国の眷属としてその国を中心とした個人を代表しており、サタン世界の人はサタンの国を中心としてだんだんこの宗教圏を包囲しているのです。宗教を信じる者の中にも、いまだサタンの居場所を清算していない人は多くいます。

 私たちの人生行路で、そのような熾烈な戦闘が行われているのです。私たちが生活圏内で対する人の中で、決闘戦が行われているということを実感する人がいますか。

◆聖書の教え


 こういうことを目で真っすぐ見つめるイエス様が来られたとするなら、そのイエス様が、「生きようとする者は生き、死のうとする者は死ぬ」と教育するでしょうか。皆さんがこういう立場ならば、どんな教育の標準を立てなければならないでしょうか。何も知らない皆さんであるとしても「生きようとする者は死ぬ」と言わざるを得ないのです。そして、「家の者が最も近い」というのではなく、「家の者が、その人の敵となるであろう」と教育するしかありません。

 先生が今まで話したことの中で、他のことはみな忘れたとしても、三十八度線があるということだけは忘れないでください。死亡の地獄である三十八度線があるというのです。そのような観点から聖書を見るべきなのです。ですから聖書で教えていることは、死亡圏内にあるこの世界のことを得るための教えではなく、新しい国に入国することのできる合格者とならしめ、国民とならしめるための教えです。

 この教えは、有り難い教えです。さあ、皆さんは今までそれを有り難く思っていましたか。イエス様は、民族の反逆者として追われに追われて死にました。その社会で家庭破綻分子であり、社会騒乱分子であり、国家狂乱分子扱いをされて、十字架にくぎづけにされて死んだのです。そのような敗者であるとするならば、敗者の代表者がどうして世界を支配する文化圏を形成するようになったかというのです。イエス様が死んで洪吉童(注:小説の主人公。魔法を操って金持ちから財を奪い、貧民たちに分け与えた義賊)のようなことをして、そうなったのではありません。イエス様を死の場に押し出したのは、その背後に絶対的な力が介在したからです。これは、私たちがその結果を打診してみれば、否定できない事実です。

 なぜ、こういう方が聖人になったのでしょうか。イエス様が死ぬとき、聖人という立て札を立てて死にましたか。「ユダヤ人の王だ、民族の反逆者だ」と、共産党式に言えば「反動分子」として追い詰められて死んだのです。

 イエス様はそのように死んだのですが、死んだ境界線とはどこでしょうか。すなわち、いかなる立場で死んだかというと、神様を代表して、天の志操と忠節を代表した立場で死んだがゆえに、神様はイエス様が死んだ価値を伝統として残して、その思想を思想的基調として立てなければならないのです。神様が生きていらっしゃるならば、そうしなければならないのです。そうしてこそ、初めてその国の国民性と伝統が立つのであり、天国の新しい出発の起源がつくられるからです。その基台が残っているのが、今日のキリスト教文化圏です。これは当然のことです。

 皆さんが誰かに会うとき、そこは三十八度線を中心として相手と交戦する立場にあるのです。したがって、「私が彼に捕らわれるか、私が彼を捕まえるか、悪の侵犯を受けるか善の影響を及ぼすか」という観点で万事を解決しなければならないのです。私が汚されてはならないのです。そのような深刻な立場にあるのです。

 サタン世界で生きるために、自分の体一つ保護するのにどれほど大変かというと、国を統治することよりも大変です。サタンの国を統治することよりも難しいというのです。この道がそのように難しい道だというのです。

 境界線があるということをはっきり知って初めて、聖書の内容が解かれます。そのように聖書を見なさいということです。だから犠牲となる立場を行けば、天にとって損となるのではなく、利益となるのです。皆さんは、そのような観点から聖書を見るべきです。

 神様が人間の世の中と因縁を結ぶためには、必ず人間の前に矛盾した条件を提示せざるを得ないのです。その提示条件を持ち出すことなくして、人間が生きるための因縁を結ぶ道理がないのです。他に方法はありません。このような観点から見て、イエス様の教えは境界線を前に、生死の岐路に立っている人間にとっては、それこそ真理です。

◆地上で打ち立てるべき模範の立場


 模範を打ち立てるべき地上時代。今日、人間の世の中で、人間として永遠に残ることができ、歴史時代に光を放つことができる模範を打ち立てようとするときに、生きようとする立場で立てた模範は、崩れていくのです。死のうとする立場で立てたものだけが、模範として残るのです。

 そうなのか、そうではないのか、見てみましょう。孝子の中でも第一の孝子にならなければ、孝子の模範として残ることはできません。ところがその孝子の模範は、より悲惨な立場で設定されるのです。より悲惨な立場というのは、死の場です。死の場でも、最も悲惨に死ぬというような立場で模範が設定されるのです。

 では、模範はどこで立てるのでしょうか。神様が人間を愛しているのならば、「その模範は霊界に行って立てろ」と言われればいいのに、なぜ「地上で立てろ」とおっしゃるのでしょうか。霊界の霊人ならば殺そうとしても死なないでしょうから、死なない体をつくってそのようなことをすれば良いのに、なぜ地上でするようにしたかというのです。おかしくはないですか。しかし、霊界に行ってからでは駄目なのです。生まれる時に、よく生まれなければならないのです。

 人は最初生まれる時は、最も深い水中から生まれるのです。腹中時代は、水中時代です。赤ん坊がお母さんの胎中にいるときは、水中にふわふわ浮いているでしょう。それを考えれば、「わあ、息もできないのにどうやって生きるのか」と言うことでしょう。そのように水の中で生きているので、水を飲み込んで送り出すことになるので、赤ん坊はホースを腹につけて生きているのです。

 また、赤ん坊の栄養分はどこから供給されるのでしょうか。へそから受けます。へそが腹の口です。ですからそれをないがしろにしてはなりません。「へそよ、お前は昔苦労しただろう」と軽くたたいてやりなさい。そのように、へその運動をたくさんすれば健康になるのです。どんなに寒い部屋で寝たとしても、へそさえ出さずに覆って寝れば、下痢をしません。

 ですから水中の時代があり、その次には陸地の時代があります。その次には飛ぶ時代があります。今日人間は飛ぶことをどれほど待ち望みましたか。飛んだというと、世界で最も注目の的となり、世界が飛ぶことで初めて統一されました。アポロ十一号を中心として、飛ぶことにおいて統一されたことがあったのです。

◆三段階の世界を経る人間


 人は水の世界で生き、地の世界で生きました。皆さんが腹中から生まれるとき、「私は陸の世に出て、口から蜜も食べて、餅も食べて、御飯も食べて、牛肉も食べて、何でも食べる」と考えたことがありますか。そのように考えたことがありますか。ここを出ると死んでしまうと思って、へそで息を吸って生きていたことでしょう。それを思うと、どれほど歯がゆいですか。

 それでも、腹の中から外に出ることを案じては、「ああ、出たくない」と思うのです。出ていかないとはいうものの、時が来ればみな出ていくのです。水が流れていくときに、水がぱあっと出ていくのについて外に出れば安産となるのです。ちんと生まれるのです。

 赤ん坊が生まれれば、食べる口が変化します。腹の中にいるときは、へその緒で栄養供給を受け、へその緒で息をしていた赤ん坊が、生まれてからは鼻で息をするのです。そして口で食べます。変わるのです。そうして地上で七十年、八十年生きて死ぬのです。

 地上生活は空気中で、胎内で泳ぎながら生きていたように生きるのです。空気のふろしきの中で生きているのです。では死ぬというのは何でしょうか。死ぬというのは特別なことではなく、第三の人生に出生することなのです。その瞬間が死ぬ時です。

 とんぼも、初めは幼虫として水中で泳ぎ、地上に上がってからもしばらくは這っています。その次に、すいすいと飛び回り、陸地では食べるとは思いもしなかった虫を捕って食べます。天下を自分の舞台として飛び回るのです。昆虫もこのように水で、陸地で、空中で生きるのに、万物の霊長である私たち人間が、地上でだけ生きるのでしょうか。そのようには創造されませんでした。人間には次元の高い翼があるのです。

 宇宙を見てみましょう。皆さんが夜中に起きて、外に出て夜空の天の川を眺めてみてください。眺めれば星が無数にあります。数億の星がいっぱいです。

 光は、一秒間に三十万キロメートル、すなわち一秒に地球を七回り半も回ります。光は、そのように速いのです。そのように速い速度で光が出発して一年かかっていく道を一光年といって、これを一つの単位と定めているのです。ところで、何億光年以上の遠い所にも星があるのです。その星から光が出発してから何億年以上たっても、いまだに地球に到達していない、それほど遠い所にある星もあるのです。

 それほど広大無辺な数億の星があります。この地球のようなものは、ほこりにすぎないくらいです。そうではありませんか。

 あの星の国には、どんなものがあるのでしょうか。ダイヤモンド星があるでしょうか、ないでしょうか。全知全能なる神様が宇宙を造ったとするならば、そのどこかにダイヤモンドの標本となる星が一つくらいあることでしょう。そのように考えることもできる問題です。また純金の星も一つあるでしょうし、ひすい星も一つあることでしょう。宝石の名前をもったのは、みなあることでしょう。神様が知っている宝石は、どれほど多いでしょうか。人間の世の中では見られない宝石星が、宇宙にはどっさりとはめ込まれていることでしょう。

◆万物は神様が人間のために造ってくださったもの


 では、それはすべて何のためにそのように造っておいたのでしょうか。神様のために造ったのではありません。もし人のために造ったとするならば、どうでしょうか。人の運命を変えるのです。

 そのような世界を、朝な夕な行きたい時に行き、来たい時に来て、触りたい時に触り、見たい時に見ることのできる自由な活動舞台として、そのような自然的な姿でそこを舞台に生きることのできる私に一度なってみたいと、誰もが思うものです。

 それでは、この肉身をもってその世界へ行くことができますか。肉身をもっていては苦しいので、牛車を造り、自転車を造って、次にはオートバイを造って、タクシーを造って、ジェット機を造って、人工衛星を造っては大騒ぎするのです。

 皆さん、月の国へ行くのに幾日もかかりますが、さっと行ってさっと来る、そのようなことができる何かをつくることができるとすれば、つくりたいですか、つくりたくありませんか。つくりたいのです。神様は、このような人間の欲を知っているために、神様であるとすれば、そのようなものをみな準備しておかなければならないのです。

 では、それが可能になる時はいつなのでしょうか。この国でそれをつくるための道があるとするならば、国民は千年、万年空中に浮いて踊りますか、踊りませんか。そのようにできる舞台が私たち人間のために準備した大宇宙だとするならば、それを一度占領してみたいのが人間の欲望です。この地上にダイヤモンドがあるのは、本宮の世界に行って拍子を合わせることができるようにするためです。

 では、それをいつ実践できるのでしょうか。死んで初めてできるのです。この肉身をもってはできません。一つの世界を抜け出せば、この宇宙の東の境界線から西の境界線まで、あっという間に行くことができます。「その圏内にある金銀宝石でいっぱいの星は私のものだ」と言って、痛快に宇宙の王子の座から見下ろす時の気分はどれほど良いでしょうか。叫ぶにしても、生前には出したことのない声で叫ぶことでしょう。笑うにしても、今までそれほどまでに笑ったことがないほど、笑うことができるのです。四肢五体がすべて喜びでいっぱいとなり、和動することでしょう。そこは生きては行けない所です。死んで初めて行くことのできる所です。

 統一教会の文先生も、一時そのように考えていました。「ああ、あの星はきれいだろうな。天のお父様が全知全能であられるから……」、もしそういう星がなければ神様の前に行って、「私が願っていたダイヤモンド星はなぜないのですか」と言うと、神様もどうすることもできません。「信じるままになる」と言ったので、神様も約束を履行するしかないのです。

 太陽の光よりも速いのが、私たちの心です。心は、神様よりも大きいのです。それくらいの度胸と基台が私たち人間にあるがゆえ、その尺度を地上につくっておいたのです。では、ここでパスするために誰がサインをしてくれるのでしょうか。「神様、あなたがサインしてくれなければ私は死にます」と言う度胸のある男が先生なのです。それゆえ、宗教を統一して霊界を統一しようというのです。

◆宇宙の所有権と主管圏は地上で決定される


 人がダイヤモンドを貴び、金銀宝石を貴び、すべてを貴んだとしても、一人では幸福にはなれません。ですから人をダイヤモンド以上に貴く思いなさいということです。そうしてこそ神様の理想的な呼吸に合うのです。

 その世界に一度行ってみたいですか。どんなにこの大宇宙の果てが遠くても、東の果てから西の果てまで、あっという間に往来できる素性をもっているのが人間であるゆえに、「万物之衆惟人最貴(注:万物の中で人が最も貴いの意)」というのです。

 そういう世界の所有権と活動舞台の権限と特権の基準を、地上のこの生涯で決定するのです。この地上で私が苦労すること、食べたいものを食べず、着たいものを着ず、したいことをせず、耐えることを拡大することで、その何百倍、何万倍、何億千万倍喜ぶことができ、食べることができ、着ることができ、生きることのできる舞台が一時に展開するのです。

 そのような本然の世界に、実験の責任者としてだけではなく、全体を管理する責任者として登場することのできる喜びの一日が、私たちの人生の道の終わりの日にあることを考えると、死の道が悲しいでしょうか。その代わりに、準備をしなければならないのです。ですから忙しいのです。その準備をどのようにするのですか。その方法を知らなければならないのです。

 世界において今この時代に、このような問題を中心として問題視している人は統一教会の文先生のほかにはいません。いくら著名な博士が多くても、神学博士が多くても、この問題に関しては統一教会の文先生から指導を受けなければならないのです。それは決定的です。また絶対的です。

 では、模範を立てなければならない地上時代において、どんな模範を立てなければならないのでしょうか。この国の歴史に名を残したところで、どうなりますか。一つの本然の原則的な世界を標準にして、そこに合格できるようになるのが重要なのです。そのすべてのケースの規格に合うようにするには、今日孝子の中の孝子にならねばならず、忠臣の中の忠臣にならねばならず、烈女の中の烈女にならねばならないという言葉が出てくるのです。

 ですから天国に行こうとするならば、悲惨に生き、悲惨に行けというのです。人のために命を捨てろというのです。自分のためではなく、人のために、世界のために、天下のために命を捨てろというのです。そうすれば、この天下が大宇宙の主人として立ててくれるのです。

 それで統一教会に来れば、地上で良い暮らしをしようとはしません。ひどい暮らしをして、ひどく苦労して死んで道端に倒れ、犬もくわえていかないような死骸を残したとしても、いつかその場には花の咲く一日が来るのです。そうして結局、そこにはすべての偉大な人々が集まり、都を造ることでしょう。

 それで統一教会員を国のために、世界のためにうんざりするほどの苦労をさせて、孝子、忠臣にしようというのが先生の考えです。

 それゆえ、み旨のために孝子、忠臣の道理を尽くしなさいというのです。聖書を見れば、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」(マタイ二二・三七)というのが第一の戒めだとあります。その次に、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」(同二二・三九)とあります。あなたの隣り人というのは誰のことでしょうか。世界万民が私の隣り人であり、私の兄弟です。ですから、この話は世界万民のために心を尽くし、思いを尽して、命を捧げなさいということです。命を捧げれば尽くしたことになります。

 そうです、み旨のために一度死んでみようということです。どこで死にますか。各自が自分の死ぬ所を探さなければならないのです。一つの爆弾として生まれたならば、爆破するときにはきれいに岩に落ちなさい。どぶに落ちるなということです。「私たちは弾丸のごとく打ち放たれた爆弾だ。岩の上に落ちよう!」というのです。こういう決心をしたがゆえに、今日統一教会の文先生の行くべき道は、いまだ遠いのです。躊 躇することはできません。

 あすの願いの実現者となり、その世界を管理する責任を負う人のいない歴史上で、私がそれを眺めて精誠を尽くして涙を流し、それに対して努力と精誠を、熱と誠を尽くしてこの標準の前に合った一つの帰一点、その一点を求めなければなりません。そのために、生命を惜しみなく捨てる覚悟をして行こうというのが、統一教会の先生がもっている主流的な思想です。ここでは、冒険が内外に連結されています。また、無慈悲な決闘戦を展開しなければならない場面を通り過ぎるのです。

 生命を尽くして成しても死なずに残る基台になったとすれば、これは人類歴史に模範となり、万民の幸福の基調となることでしょう。全天下が、それを和動の基点として大運動を展開するための軸となり得る立場で、神様を動かして人類の願いの基台をすべて結束できる立場に立って、私が動けば動き、私が静ずれば静ずるという宇宙史的な責任感を感じながら生きる男であるとするならば、決して「小さな男」と言えないのではないでしょうか。

 そうして、行きたがらない道へと追い立てるのです。自分のために生まれたと考えているのに、「人のために死ね」と言うなんて、行きたがる人がどこにいるでしょうか。ですから追い立てるのです。この道が個人を超え、家庭を超え、宗族を超え、民族を超え、国家を超えて、旗を掲げて天下に新しい国をもつということのできるような時代圏にまで私たちは行くのです。

 神様はそれを準備するために、イエス様を送るために、イスラエル民族を選民としてユダヤ教を立て、四千年間準備しててきたのですが、その道が閉ざされてしまったがゆえに摂理が延長して、今日このキリスト教を中心として、これを再び訪ねてきたのです。ここで実質的な決定は統一教会がすべきであるので、統一教会は普通の教会ではありません。

◆私たちが打ち立てるべき模範の道


 皆さんがこの途方もない宇宙を主管し得る模範の基準を、この短い地上の生涯路程で立てることができるのです。では、それはいつ立てるのでしょうか。先生もそのような深刻な生活を今でもしており、残る余生が尽きるまでするのです。それで私が死ぬ日、「どんな立場に倒れたとしても、私はこれ以上できません。お父様、私の誠と熱を尽くしました」と言うことができるのです。過去を振り返ると、「これ以上に、このようにすればよかった」というような思いを残したくないのです。いつでも深刻な立場で、生涯を確かめつつ歩んでいるのです。それゆえ、神様は私を愛するのです。

 私が涙することがあれば、霊界に通じる何も知らない人々に涙を流させ、私が苦痛な立場に立つことを案じて、思いもかけない人にその苦痛を分担させる事実を見て、「神様が私を離れているのではなくて、私のためにいらっしゃるのだ」と考えては、きょうもあすも感謝して、余生を大切に迎えようとするのが先生の人生観です。このような思想の前に、皆さんは自分勝手に生活をしてはなりません。天倫が願う歴史的な基準を中心として犠牲となり、霊界にいる私たちの先祖が、私があの世に行くときに隊列を備えて諸手を挙げて歓迎するか、讒訴するかという問題を考えると、聖賢君子が諸手を挙げて、「ようこそいらっしゃいました」と歓迎するその日のために、今準備する道を急がなければならないということを皆さんが知らなければなりません。

 皆さんも先生と同様に、この地上でそのような途方もない宇宙的な基盤を磨くべきことを知って、残る余生を真に価値あるものとして送らなければなりません。ですから年を取った人は、青春時代をただ逃してしまったことを恨めしく感じなければなりません。恨めしく感じなければならないのです。この体が汚されていない純潔な純情が燃え上がる思春期、若い青少年の時期をこのような立場で神様の前に立つことができず、正常な道を行けないということがどれほど恨めしいでしょうか。このようなことを考えれば、その道を行くことのできなかったこの体に賎待とむちが臨み、蔑視と苦役の道が臨んだとしても、それを当然のものとして受けなければならない運命の道と知って、厳粛についていくべき路程が統一教会の道であり、人生の道であるということを皆さんは知らなければなりません。

 それをみな犠牲にさせる恨みがあっても、模範を立てていくべきだというその基準が、鉄石のように残っているということを銘記して、皆さんは今後、どんな終結が結ばれるかを考えてみなければなりません。複雑多端な世界情勢の中で、国家の運命が動搖する国家情勢の中で、あすの願いとあすの希望を中心としたみ旨の前において、私はどんな道を行くべきかという問題を置いて、誰よりも深刻でなければならないのです。誰にでも与えて余りある心をもっていかずしては、正常なみ旨の軌道に乗っているとみなすことができない、ということを皆さんは知らなければなりません。


















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訓教経(下)017



文鮮明先生のみ言集

訓教経(下)



人間の価値と天国の起源


一九七一年十一月二十一日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第五十一巻』


 人は誰でも価値ある存在になろうとします。誰でも名のある人となり、権威ある人となり、重みのある人になることを願うのです。すなわち、価値ある存在になることを願うのです。

◆神様と人間の願いが実現される場


 では、私たちが願うその価値はいかなる所で見つけられるのでしょうか。これが重要な問題にならざるを得ません。さらに宗教人の願いはどこに帰結するのかといえば、天国に入っていき、天国の人になることです。それが彼らの願いなのです。価値ある人間になったのちにとどまろうとする所が、天国だというのです。

 ところが、その天国も段階的になっています。この社会において上中下の階層があるのと同様に、霊界にも上中下があるというのです。パウロが三層の天を見たという、そのような体験的な内容を見ても、聖書で教えている太陽の栄光、月の栄光、また星と星の栄光もそれぞれ違うということを見るときにも、そこにはいろいろな階層があるということが分かります。

 ところで、一つの関係を結ぶためには必ず組織的な秩序がなければなりません。秩序を抜け出すことはできないのです。秩序というのは、前後関係を通じなければ成立しないのです。このような観点から考えてみるとき、私たちは前後関係、上下関係、左右関係を中心とした上中下の階層が存在することが分かります。このように考えてみるとき、天国に入っていく人にもいろいろな階層があるのです。

 では、そういう階層は何によって左右されるのですか。それは価値の問題です。その人がどれだけ価値ある存在かということが、その階層を決定する要因になるというのです。

 人間の願うより価値ある人間の基準と、天が願う基準が一致しなければならないのではないでしょうか。もし、天が願う価値の基準と人間が願う価値の基準が違うときは、天が喜ぶことのできる世界になり得ないのです。天が喜び、私たち人間が喜ぼうとするなら、天が願うことと人間が願うことが一致して、成されなければならないのです。

 そうして私たち人間も喜び天も喜べる、両面の喜びで和して一つの喜びとして連結すれば、そこで初めて幸福の基台が起こるのです。

 幸福というものは、一人ではあり得ないのです。どんなにこの上ない権威をもったとしても、権威をもったその立場が孤独単身の立場であるときには、彼は幸福な人ではないのです。

 自分が中心の立場に立っていれば、その中心と関係している分野が広く、大きければ大きいほど、その広さと大きさによって彼の幸福の基準が左右されるのです。それゆえ人々は、より多くのものを所有しようとするのです。より貴いものを所有することを願うのです。また、より価値あることと関係を結ぼうと、日常生活で努力しているのです。それはなぜでしょうか。より幸福であり得る環境と接するためです。

 それゆえ幸福とは、独りでいる孤独な場にはあり得ないのです。幸福は、相対的関係を結ぶところにのみあり得るのです。そして、その相対的関係は相反的関係ではなく、相応的関係でなければなりません。お互いが和して、お互いを慈しむ相対的関係を結ぶところに幸福があるのです。

 どんなに相対的な関係をもったとしても、お互いが自己中心的な立場にあるならば、幸福はあり得ないのです。お互いが相手のためという、その場があからさまになればなるほど、表面化すれば表面化するほど、それが全体に及べば及ぶほど、その幸福の刺激が全体に高く展開するのです。もし、その場が縮小するときには、幸福も縮小した限界線に制限されて入ってくるのです。

◆人間が追求する人格基準


 それでは、神様御自身について見ると、神様はどうしてこの広大無辺な大宇宙を創造なさったのでしょうか。神様が広大無辺な宇宙を創造されたのは、小さな分野で幸福を探し出そうとしたのではなく、より広大な幸福圏を要求されたからです。この広大無辺な宇宙を、創造主であられる神様と被造物が誰にも永遠に侵犯されない場で、お互いに授け受けることのできる幸福の要因として造ったのではないかというのです。

 その造られた被造物と造った創造主が互いに相克ではなく相応できて、被造物がその価値を発揮するようになれば、創造主もその価値を発揮するようになり、被造物が喜び幸福になるときには、創造主も喜び幸福を味わうことができるのです。そのような場でこそ、創造理想の喜びが実現するのではないかと考えるようになるのです。

 神様がそういう因縁によって人間を造られたがゆえに、人間自身もそのようなことを願うのです。大きいとすると、どれほど大きいことを願いますか。無限なことを願います。もし、自分の相対的人格を追求する何かがあるというなら、それは私たちが考え得る圏内の人格ではないというのです。何千年、何万年かかっても考えられない、それ以上の大きな人格を我知らず待っているのです。

 言い換えれば、私たち人間は我知らず他人の考えも到達し得ず、自身の考えも到達し得ない、それ以上の価値的な人格を追求しているというのです。

 それゆえ、そういう人格を追求する人間自体であるために、そういう人間が主体になったとすれば、その人間が主体として願う相対物も無限に大きいものに違いないのです。この世界全体を自分のものにしたとしても、その世界以上のものまでも願う心が、私たち人間にあるというのです。

 言い換えれば、自分の考えでは追求できない、それ以上の人格の基準を心で描いているがゆえに、相対的世界を願うにも、そのように願うという事実を考えざるを得ないのです。

 このように考えてみるとき、私たち人間の人格の価値の基準はどこにあるのでしょうか。その価値の基準は、制限された時間や空間圏内に一定の、一つの標的のように現れたものに対して、「これだ」と言えますか。もちろん「これだ」と言うことはできても、ある線内に、あるいはある圏内に包まれたものを「これだ」と言いたくはないのです。

 無限と連結した、大宇宙の中心的な立場に立った自分自体として認められる基準を願っているのです。言い換えれば「これだ」と言っても、ある線内でなく、全体が連結したときに「これだ」と言うことができるようにと願うのです。

 それゆえ人間の欲望が無限ならば、その人間が願う人格の基準も無限と通じるのです。ある限界線内でなく、その限界線を出入りすることのできる基準まで拡張するのではないかというのです。

 では、その人格の基準がそのように膨大に拡張していくならば、その中心になることのできる核とは何でしょうか。それが「私」だと考えるかもしれませんが、私自体だけでは核になれないのです。膨大な大宇宙圏内で、私一人であっては中心になれないのです。ここには、私と一緒に相対的価値を追求できる何かがなければなりません。

 では、相対的価値を追求できるその何かとは何ですか。それは私のようなものでなければなりません。私と同じようなものであるけれども、それは相対性をもたなければならないのです。それゆえ人には、男性と女性があるのです。男性もそういう価値の基準を願うと同時に、女性もそういう価値の基準を願わなければならないのです。そのような価値の出発というのは、私を離れてはあり得ないのです。

 では私と一緒に関係を結ぼうとするなら、その関係を結ぶところにおいて一番の基準とは何でしょうか。私と同じものです。したがって、どんなに大きな人格基準をもった人においても、その一番の基準とは結局、自分のような人でなければならないというのです。

◆愛の立場


 人間の世の中には、男性があって女性があります。その男性と女性は価値的な存在であるというのは間違いありませんが、その価値的な存在がどこを根拠にしているかというときに、それは彼を中心として、また、私を中心として決定されるのです。では、彼と私の中心だといえる立場はどんな立場でしょうか。これが問題になります。彼も「その場に置けば良い」と言い、私も「その場に置けば良い」と言える立場とはどんな立場でしょうか。その場を追求してみるとき、それはただ良いという漠然とした立場ではないはずです。

 では、その場とはどこなのかという問題について考えてみましょう。今日私たちが「良い」という名詞をここに適用させてみれば、それは心の奥底だというのです。心の中の深い所に善があれば、その善なる位置が中心になるのです。その心の中の深い位置は、私たちは見ることができません。

 では、その心の中の深い位置はどんな所でしょうか。私一人でいる所ではありません。彼も共にいることのできる位置でなければなりません。そのような位置ならば、彼も私の心の中に入っているべきであり、私も彼の心の中に入っていなければなりません。それが二つではなく、一つでなければなりません。

 そのような場はどこになるのかというとき、その場は愛の場に違いないという結論が出てくるようになります。それゆえ、愛する人同士では心の奥深く愛しているのか、心の中で本当に、真なる心の中で愛しているのかということを追求するのです。

 皆さんが「良い」と言うとき、ただ良いというだけでは何の味もしません。けれども「私の心の底から本当に愛している」と、こう言えば味があるというのです。そのため、お互いが境界線を打破してしまい、二つでなく一つに結束しなければなりません。その結束点は、お互いに静かに向かい合う場ではありません。互いに和して、内外が一つなのか二つなのかも分からない立場です。

 もし、そのような場が繰り広げられたとするなら、それはどんな場でしょうか。先ほど話した、人間が願う価値の基準と天が願う基準、天国が出発することのできるその基準が一致する場です。もしこれがどこか一箇所でも合わないならば、喜びの世界にはならないのです。そこには喜ぶことのできる起源が、喜ぶことのできる動機がないのです。

 では、それがどこから出発して一つに結束するのでしょうか。その結束点とはどこでしょうか。そこは彼が私の中に、私がその中に存在できる場です。皆さん、聖書のヨハネによる福音書第十四章二十節を見ると「わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおる」という言葉があります。その話は、何を中心として述べた言葉でしょうか。

 私たちが「善」というとき、その善というものも相対的な観念ですが、「愛」というときにはその感じはどうですか。「愛」といえば、私と共に一度にぶつかる感じがするというのです。したがってその言葉は、愛を中心として述べた言葉だというのです。愛は愛ですが、どんな愛でしょうか。神様が願う愛に標準をおいて述べた言葉だというのです。心と心の境界線を打破して一致させ、一つに結束させる麹のようなもの、すなわち原因であり、動機であり、母体が愛だというのです。

 その愛は、小さいといえば極めて小さいのであり、大きいといえば極めて大きいのです。愛する人の間ではそうではないですか。この上なく愛する人が一度瞬きしただけでも、ちらっと横目で見ただけでも、それは天地がひっくり返ることのように感じられるのです。また、愛する人がにっこりと一度笑う表情をしただけでも、天地が出たり入ったりするのです。敏感であればそんなにも敏感で、小さいならばそんなにも小さく、大きいならばそんなにも大きくて、見えるといえば見えて、見えないといえば見えないのです。その境界線を壊すことができるのは愛しかないのです。

 それゆえ、愛する人は自身の心に占領されているのです。言葉一つも愛する人を中心として始めようとします。そうではありませんか。愛する人を中心として与えたいのであり、愛する人を中心として受けたいのであり、愛する人を中心としてささやきたいのであり、愛する人を中心として万事を因縁づけたいのです。そうしているうちに愛する人との関係が切れるようになれば、この宇宙全体がみな煩わしくなるのです。

◆幸福の出発地


 幸福や不幸などのすべてのことも、愛する人を中心に繰り広げられるのです。そうなのかそうでないのか、私たちの実際の生活から一例を挙げてみましょう。

 億万長者のおじいさんがいるとしましょう。世俗的に見るときには、みな備えたおじいさんです。息子、娘もあり、お金もあり、権力もあり、外的に見ると人をうらやむことが一つもないほどにあらゆるものがそろっています。ところが、そのおじいさんがやもめだとすれば、そのおじいさんを見て、「ああ、あのおじいさんは天下を代表できる幸福なおじいさんだ」と言えますか。そうなのか、考えてみなさい。そうではないというのです。世の中にどんなにかっこいい男性、女性がいたとしても、その美男美女が一人で暮らすならば、その人は哀れな人なのです。それには、とやかく言う必要がありません。

 では幸福の出発はどこからでしょうか。これは極めて重大な問題に違いありません。幸福というものは価値的基準が成立せずには現れないのです。その価値の基準は、どこから立てられるのでしょうか。私からですか。私からはできないのです。

 価値の基準は、私からは立てられません。私とあなたの間から立てられるのです。私と同じ人がいて、私が彼を完全に愛することができ、彼から完全に愛を受けることのできる場所、完全に与えることができて完全に受けることのできる場所から始まるというのです。

 こういう問題について考えてみるとき、どんなに一人洞窟の中に閉じ込められた体であっても、自分のために命を捧げ、死の道を歩みながらも自分を愛してくれる人がいたならば、その場所で、その愛する人のことを考えるその時間は不幸ではありません。どんなに孤独で、悲惨で生死の行き交う場にあってもその場を克服し、そのすべての環境を制圧できるのです。愛する人が間違いなく私のために努力しており、私がこの道を行くことによって彼が幸福になれるとするならば、死の道でも越えていくことができるのです。

◆愛と生命


 このように考えてみるとき、生命の動機とは何なのかということが問題になるのです。今日、哲学界でも生命と存在が問題になっています。存在が先か、生命が先かということが問題になっているというのです。生命がなくては存在できません。

 ところで、生命は必ず相対的因縁を通じなくては生まれません。相対的因縁を通じることなくして生命が生まれないのです。生命のある前に、相対的因縁がなければならないというのです。それでは、その相対的因縁とはどんな因縁でしょうか。愛の因縁です。相対的な愛の因縁を通じてこそ生命が生まれるというのです。したがって、生命のある前に愛がなければなりません。

 皆さんが生命をもつにも、そういう相対的な因縁があったのです。その相対的因縁とは何かといえば、父母の愛です。その父母の因縁をずーっとさかのぼれば、アダムとエバまで上がっていきます。アダムとエバまで上がっていくと、どのようになるでしょうか。

 アダムとエバもやはり生命をもって存在しようとすれば、そこに相対的因縁である何かがなければなりません。愛そうとする、愛らしくて愛さざるを得ない、そのような内的な因縁をたどることのできる相対的な何かがなければならないのです。このように因縁を結べる相対的な存在を「神様」と言うのです。それゆえ、統一教会で話す「二性性相」という言葉でなくては説明ができません。

 その二性性相は別々にあるのではなく、愛を中心として永遠に一つとなった絶対的な価値の基準を決めなければならないのです。二性性相の中和的主体としていらっしゃる神様です。その神様は漠然と独りでいる方ではありません。相対と共に一致するための、主体的な立場にいらっしゃる方です。では、その神様と一致するための相対的立場にいる存在とは何ですか。人です。

 その神様と人が完全に一つになるべきなのですが、そのようにできる糾合点とはどこですか。言い換えれば、三つが一つに合わさることのできる所とはどこですか。一つに和し、お互いが「彼が私であり、私が彼だ」ということのできる場とはどこですか。こういう問題について考えてみるとき、「隣り人を愛すことを、私の体を愛すようにする愛」、これより大きい愛はないと見るのです。

 では、私の体のように愛することのできるその愛の場とはどこですか。一人で暮らしている男性、あるいは一人で暮らしている女性の中には神様の愛が臨在することができないのです。完全な価値を備えた愛を中心として、完全な価値の決定を下したという先端に立ち、完全に一つになり得るその場に神様の愛は臨むのです。

 イエス・キリストが話した新郎新婦という言葉も、そこに基点をおいて述べた言葉です。彼らが愛で結合するとき、横的な主体と対象である男性と女性の愛に、縦的な神様の愛が介入していくことによって初めて、立体的な愛の圏が成立するのです。このような愛の起源を見いだすことができなかったこと、これが堕落というものです。

◆人間が追求しなければならない価値の基準


 このように見るときに、人間の価値基準は何にならなければならないでしょうか。知識でしょうか。私がある人を愛しているというとき、「彼が修士学位や博士の地位をもっているがゆえに愛している」と言いますか。愛するときには、そのようなものはみななくなるのです。愛するのに、そのようなものは必要ないというのです。その人自体を愛するのです。彼の目が知識より良いのであり、彼の姿が知識より良いのです。その人自体が何よりも良いというのです。そうでなければなりません。

 その場は、知識とか権力のような相対的世界で要求するものより、より価値的な基準の場なのです。それゆえ、その人以外のものが見える場は、真の愛の場ではありません。

 お金によって結婚し、権力によって結婚し、知識によって結婚するのは真の愛ではないというのです。知識が愛の前に立ち、権力が愛の前に立ち、お金が愛の前に立ってはならないのです。直接的な関係は愛が先立たなければならないのです。

 こういう問題について考えてみるとき、人間の価値基準とは何でしょうか。愛を通さずには価値基準が設定されないのです。「愛」という言葉は、相対的観念圏内で成立することであるゆえに、お互いの価値基準も相対的観念圏内で成立するのです。ところで、神様の愛は絶対的であると同時に、変わらぬものであるがゆえに一途です。一つの道を行くのです。ただ一つの道です。それゆえに、垂直を中心として一致することができるのですが、そのように一致するには男性と女性が互いに愛する点で一致するのです。夫婦ならば夫婦間で互いに愛して結合しなければなりません。その結合点がどちらか片方に偏ってはなりません。垂直線にちょうど合って三点がくっつく場、そのような場があったはずです。

 もし昔、アダムとエバが、そのような立場に立っていたならどうだったでしょうか。そうであったならば、神様は多くの力を注ぐ必要はなかったのです。そのようになっていたなら、新しい力を出すための作用は必要なかったでしょう。そのまま結びついているので、少しだけ動いても全体に影響を与えることができるのです。その二人が少しだけ持ち上げれば全体が持ち上がり、少しだけ緩めれば全体が下りていき、広くなれば上がっていき、狭くなれば下りていくようになっているというのです。ところがそれが傾けば、全体がねじれるのです。そのような垂直線と平面的な中心が接することのできる、その基準があるのでないかというのです。

 それが、神様が人間を中心として見る価値基準なのです。そのような価値基準があるはずです。それは知識でもなく、権力でもありません。外的なものではありません。それ自体だけですべてのものを手に入れたように感じ、「その他のことは願わない」と言えるのです。

 それを手にしたのちに、それを成したのちに、より強い垣根となり、より喜べる因縁を全体に適応させるために、もう一つの相対的な感動の世界を拡張させるために外のものが必要かもしれませんが、一番の条件はそれです。それで男性は女性を求めていくのであり、女性は男性を求めていくのです。

 アダムとエバを中心として、そのようになっているのです。アダムはエバを求めていき、エバはアダムを求めていくというのです。では、アダムがエバを求めていくにおいて、エバを中心として求めていきますか。違います。神様を中心として求めていくのです。神様を仰ぎ見て求めていくのです。また、エバがアダムを求めていくにおいても、アダムを中心として求めていくのでなく、神様を中心として求めていくのです。

 言い換えれば、神様の垂直線を中心として相対的立場でお互いを訪ねるというのです。三点が接する場を探していくのです。それゆえ人格の基準、価値の基準というのは、神様を中心とした愛の結合点で初めて出発するのです。これが間違いない原則である、ということを皆さんは知らなければなりません。これが一番の基準です。

◆まず人を愛せよ


 では私たち堕落した人間は、お互いが何を願っていかなければならないでしょうか。神様を願い、神様の愛を願っていかなければなりません。神様の愛が垂直線になっていれば、その垂直線を中心として男性や女性を求めていかなければならないのです。求めていくにおいて、人がここに立っていれば、彼の願う方向と神様の願う方向が直線上になければなりません。そうでしょう。いつも直線上に立っていなければなりません。そうしてこそ発展するのです。それが一日になり、一年になり、十年になり、あるいは一生になって死んでいくのです。

 人格の基準とは何かというとき、今までは哲人とか聖賢が基準になりました。しかし、彼らが主張する思想や世界観は、時代によって変わってきました。彼らが主張した内容は、何でしょうか。価値基準において彼らは、何を中心として話しましたか。それは外的な国だとか、世界を中心として話しました。それで漠然としているのです。私が国を直接愛すことができますか。世界を直接愛すことができますか。できないというのです。では、国を愛するにおいて、代表的な中心とは何でしょうか。世界を愛するにおいては、誰から先に愛さなければなりませんか。個人から愛さなければなりません。

 個人から愛するには、どのように愛さなければなりませんか。男性ならば男性同士が愛するというとき、それはある目的観を中心として、ある結果を追求するために愛するのであって、その他の意味はないのです。男性同士、お互いが愛しますか。その意図が合うからそうなのでしょう。友人はそうしてできるのです。目的を中心とした立場で、お互いに愛するのです。女性同士が好むのも、ある目的観を中心として愛するというのです。もしそれがないならば、愛しはしないのです。好みもしないというのです。

 けれども、男性と女性が愛するにおいては、ある目的観を中心として愛するのではありません。目的観なくお互いに愛するのです。それゆえ、それは動機的愛だといえます。

 こういう立場で考えるとき、世界を愛するには、世界を本当に愛するにおいては、まず人を本当に愛さなければなりません。人を本当に愛するには自らの相手を本当に愛さなければなりません。男性は女性を愛し、女性は男性を愛さなければなりません。それが夫婦です。夫婦になった人々は、自分の相手を愛する心で世界を愛さなければなりません。

 言い換えれば、女性は自分の相手を愛する心で世界の男性を愛し、また自分が男性から愛される価値的な存在であることを知って、世界の女性をそのように愛さなければならないのです。男性も同じです。世界の女性を自分の妻のように貴い女性として愛し、また世界の男性を妻の愛する自分の代身として立てて、妻のために愛さなければならないのです。愛の道は、このようにたどっていかなければなりません。漠然としていてはいけません。

 それで、家庭が国家形成の基準になるのです。どんなに大きな世界を形成するにしても、家庭が基準になるのです。こういう立場で、今日統一教会は天宙主義を叫ぶのです。「天の家庭主義」だというのです。

 お母さん、お父さんが、そのように愛するのです。そのように神様が愛したので、エバが堕落しなかったならば、そのお母さん、お父さんの愛は、絶対的愛になったことでしょう。絶対的愛の場に入っていくというのです。なぜですか。絶対的な神様の愛が垂直になっている、その線に接することのできる相対的立場に入っていき、絶対と一つになり得る相対的愛の圏内に入っていったので、それも絶対になるというのです。

 女性は良い結婚をすれば、夫の権威ある立場に何の功労もなく立つことができるのです。小学校しか行けなかった女性でも、夫が大統領ならば、その夫が行く所はどこでも無事通過するというのです。このように対等な価値を何の条件もなく一度に占領できる手法が、知識世界にありますか。権力世界にありますか。それは、愛の世界にだけあるのです。愛の世界にだけ飛躍的に上がることができる方法があるというのです。

 このように考えるとき、神様の愛を受けるならば、天国へも直行なのです。すべての全体の価値圏に直行でき、干渉するにおいて無理なことを提示できないようにする方法が、愛の世界にあるというのです。

 したがって、アダムとエバが、もしこういう立場で神様を中心として完全に一つになったとすれば、相対的立場でも絶対者と一つになったゆえに、彼らの愛は絶対的な愛になったことでしょう。そのようになったとすれば、そのような絶対的な愛の圏内で生まれた息子、娘も絶対的な愛を受けるようになるので、自然に絶対的な相対圏内に存在するようになるのです。

 絶対的な相対圏で矛盾、相反がなく順応する立場に入っていくようになれば、そこには絶対的な愛が共にあるのであり、彼らは絶対的な愛の道理を受けるようになるのです。そうしてその息子、娘は、平和な愛の垣根圏内で育つのです。そういう雰囲気の中では父母と子女がお互いに和合でき、神様の愛をほめたたえることができるのであり、そこで今日統一教会で話す四位基台の基準、すなわち理想的な家庭の形態が繰り広げられるのです。

 人間の価値基準とは何かというときに、今日の世の中ではその基準を知識におき、思想世界におきました。その思想世界の価値の内容は、目的を中心として追求することはできますが、その目的が成されたのちには、その世界はどこへ行くのでしょうか。全部が、その世界の最高の頂上をかけて戦うのですか。そのようになれば大変です。

 目的を成し遂げたその世界に行ったならば、そこから戻ってくることができなければなりません。それが家庭だというのです。それゆえ家庭は、天国の母国とみなすことができるのです。このような内容をもって出発した宗教が、統一教会です。統一教会は、家庭救援を要求するのです。イエス様について考えてみるとき、それは新郎新婦の名前を通じて尋ねきた道です。

 それゆえ、人間の価値基準はどこにおかなければなりませんか。理想世界に、理想的な世界におくのではありません。理想的な人におかなければなりません。それで、世界を愛そうとするならば人を愛すべきだ、このようになるのです。

◆父母から愛の教育を受けなければ


 それでは人を愛するには、どのように愛さなければなりませんか。その方法を知っていますか。どのように愛さなくてはなりませんか。ただ愛するのではないのです。その愛する方法とは何でしょうか。男性が女性を愛すように、女性が男性を愛すように愛せよというのです。家庭を見れば、女性の前にはお父さんがいて、夫がいて、お兄さんがいます。また、男性の前にはお母さんがいて、妻がいて、妹がいるのです。世界の人をそのように愛しなさい。

 私が生まれるには父母がいなければなりません。では、父母だけいればいいのですか。いいえ。相手がいなければなりません。相手がいなければ永遠に終わりになるのです。そのようになれば、神様に似ることができません。それゆえ父母があると同時に相手がいなければならないし、相手がいると同時に息子、娘がいなければならないのです。

 それで、女性の前にはお父さん、夫、お兄さん、もしくは弟がいるのです。アダムをエバより先に造ったから、アダムがお兄さんになるでしょう。アダムの前には誰がいなければなりませんか。お母さんがいなければならないし、その次には妻がいなければならないし、その次には妹がいなければならないのです。

 では生まれるときは、どのように生まれますか。お母さん、お父さんを中心として生まれるとき、新郎新婦として生まれるのではありません。息子、娘として生まれ、愛の教育を受けるのです。そうではないですか。愛の教育を受けなければなりません。その父母は、息子、娘にどんな教育をしなければなりませんか。知識教育をするのではありません。愛の教育をしなければならないのです。お母さん、お父さんがけんかをすることが愛の教育ですか。

 お互いが一つになる教育をしなければならないのです。天が好むお母さん、お父さんであり、また、お母さんが好むお父さん、お父さんが好むお母さんです。二人とも好むと同時に、私が好むお母さん、お父さんであり、お母さん、お父さんが好む私だというのです。

 そう見るようになれば、神様を中心として見ても、アダムとエバを中心として見ても、四位基台でしょう。全部四位基台だというのです。このように見ても、あのように見ても、みな四位基台だというのです。それゆえ神様の愛を中心として、神様の前に愛の教育を受けなければならないのです。

 それでは、その起源はどこですか。人間から始まるのではありません。神様が父母であるがゆえに、アダムとエバは神様から愛の教育を受けなければならないのです。そのアダムとエバの価値基準の設定はどこから成されるのですか。神様の愛の教育からです。

 では、愛の教育はいつまで受けるのでしょうか。お父さんが知っているすべての価値の基準を推し量ることができるときまで、言い換えれば、成熟する時までは父母の愛を受けて育たなければならないのです。ところで、アダムとエバが神様の愛を受けて育ったという記録が聖書にありますか。愛を受けたという話はなくて、堕落したという話から始まったというのです。

◆神様の愛の教育


 では、愛の神様を中心として愛の教育を受けなければならなかったアダムとエバの、愛の教育基準があったでしょうか、なかったでしょうか。なかったとすれば、神様の理想というものはあり得ないというのです。その愛の教育基準とは何か、ということが問題なのです。

 皆さん、天国に行きたいでしょう。しかし天国に行ってからは、そのような教育を受けることができません。この地で教育を受けて暮らしてから、行かなければならないのです。この地でその教育をしなければ大変なことになるのです。

 では、アダムとエバが教育を受けようとするなら、どのような姿勢をもたなければなりませんか。父母と子の間柄ですから、父母が行く所にはいつもついていかなければならないのです。父母が行くようになれば、どこまでも、いつもついていかなければならないのです。父母が山に登れば山についていき、谷間に下りていけば谷間についていき、洞窟の中に入っていけば洞窟の中についていかなければなりません。いつも、父母と共にいなければならないのです。

 もし神様が息子と離れなければならないなら、離れられるでしょうか。神様は絶対的な方であられるので、絶対的に会いたがるというのです。絶対的な方なので、好むのも絶対的に好むというのです。「何、神様。来たいなら来て、嫌ならやめて、どこかにいたいならいればいい……」、それでいいですか。絶対的でなければなりません。

 それゆえ、神様は子供たちの生命の母体です。そうではないですか。父母はその子供の生命の母体でしょう。生命を育てるのです。生命の母体であり、愛の母体であり、保護の母体です。生命を保護してあげ、育ててあげ、愛してあげるというのです。

 それゆえ、幸福はどこから出てくるのですか。保護圏が成立しなければ生命が脅かされるようになるのです。生命が脅威を受ければ、愛も成立しないのです。今死ぬようになったのに、愛が成立しますか。駄目なのです。それゆえ保護圏がなければならないのです。それで保護圏をつくったのですが、誰から保護を受けなければならないかといえば、天使長だというのです。アダムとエバは生命の起源であられる神様から生命を受け、天使長の保護を受けて愛の教育を受けている途中だったのです。

 アダムとエバがその教育をみな受けていたならば、神様はどのようになさったでしょうか。「私がお前たちをこのように愛したから、エバもこのように愛し、アダムもこのように愛しなさい。お前たちは互いに、私がお前たちを愛したよりももっと愛しなさい」と言われたことでしょう。

 それでは、アダムとエバが二人で、神様が彼らを愛したよりも愛することのできる道とは、どのような道でしょうか。彼らが成熟して二人がお互いを愛する道のほかには、神様よりも愛す道がないのです。

 ではなぜ、神様より自分たちの間でもっと愛さなければならないのですか。お互いがより愛しているからといって、神様をあまり愛さないのではありません。お互いをより愛することによって、その家庭がうまくいき、より愛することによって、神様の主体的な愛がどれほど偉大で、どれほど大きいかということをより一層感じることができるのです。

 神様は、「私があなたを愛するよりも、あなたが私をより愛しなさい」と言うのではなく、「私よりも君たちの間でより愛しなさい」と言われるのです。そのようにできる道を教えてくださるというのです。それが新郎新婦の愛です。結局、その愛は、父母が息子を愛するその愛に劣らない愛なのです。

 そこで子供が父母を愛したこと、すなわち縦的な愛が初めて横的な因縁の愛として出発するのです。かといって、縦的な愛が弱まるのではありません。縦は主体であり、横は相対であるがゆえに、この相対的な価値がより価値あるようになれば、その主体はより大きな価値を感じるのです。

 それゆえ、アダムとエバ自体が互いに成熟し、神様が愛する以上に自分たちの間でより愛することを神様は喜ばれるのです。なぜでしょうか。神様は主体であられるがゆえに、相対がすてきな愛の実体として和すれば、主体はより大きな愛の価値を感じることができるので、神様はそこで幸福を感じるのです。こういう面で神様は、アダムとエバがお互いに愛することをどれほど願われたでしょうか。

 神様御自身は一つの体です。ところで、二性性相の主体としていらっしゃるので、自体内で愛するといいますが、「男性的主体の立場だ。女性的対象だ」といって愛を感じることができるのでしょうか。できるかもしれませんが、男性と女性が分立した立場では刺激的な衝撃を感じることはできないというのです。したがって、アダムとエバが神様自身を差し置いて、自分たちだけでもっと衝撃的に愛するのを見るとき、愛の主体であられる神様は、それを「悪い」とは言われないのです。

 その二人が一つとなったその場を相対として、喜びを感じることのできる主体者であられるので、その相対がより価値的な愛を感じるとき、神様も幸福を感じるというのです。それが、神様の人間創造を中心とした、愛の一番の法度ではないかというのです。したがって、そういう愛の教育を受けずには、その場に行くことができないのです。

◆再臨主はどんな方として来なければならないか


 それでは今日、エデンの園でアダムとエバが堕落せずに受けなければならなかった愛の教育をなし得る、心情的内縁が宿っている宗教がありますか。そのような宗教があるならば、これは「世界的な宗教になるな」と言っても、なるでしょう。

 統一教会に入れば、そのような何かを感じるのです。では、どのように感じますか。女性は最高のお父さんを見つけたという喜びを感じるのです。最高の相手の価値になったら良いのに、という願いの基準を感じるというのです。その次にはお兄さんの中で、世界で一番のお兄さんを見つけた喜びを感じるのです。

 そういう方として来られる方とは誰ですか。再臨主です。皆さんは再臨主がいいですか、初臨主がいいですか。「再臨主」という言葉は、初臨主がみ旨を成就して出てきたのですか、できなくて出てきたのですか。できなくて出てきたのです。したがって、再臨主はどのような方として来なければならないのかといえば、人間の世の中において最高の父として来なければなりません。

 そうでなくては、世の中を救う道理がありません。愛の世界の理想として天国を成し遂げるべきなのですが、そうするには、そういう価値の内容をもたなければなりません。父として、新郎として、兄として、この三大の心情的内容を完全に縦的に、横的に、そして四五度で展開できる、そういう立場の価値を総合した内容をもって来なければならないというのです。そうでなくては、主になることはできないのです。

 人間は、堕落することによって何を失ったのですか。父の真の愛を受けることができませんでした。その次には夫の真の愛を受けることができませんでした。お兄さんの真の愛を受けることができませんでした。これを誰が壊したのでしょうか。誰がそれを壊す動機となったのでしょうか。女性です。エバがそうしたのです。

 それゆえ、女性は歴史過程で再臨主を探し出す時まで、ひどく苦労してきたのです。女性たちが涙を流す時には、すべて愛が踏みにじられて涙を流してきたのです。愛の蕩減をしなくてはなりません。どういう女性の涙なのかといえば、愛の行き違いから流れて出てくるのが女性の涙だった、このようになっているのです。

◆節概と志操


 今日、人類歴史において節概(注:操)に対して話せば、男性が節概をより守らなければなりません。ところで、女性は節概を守らなければならないといいますが、男性は何ですか。男性も志操がなくてはなりません。それはみ旨のための節概をいうのです。目的のための節概がなければならないのです。そして女性の節概は、愛のための節概です。

 それでは、目的のための愛がいいですか、愛のための愛がいいですか。先ほど、「男性同士では目的を中心として愛する」と言いました。そして男性と女性、すなわち夫婦間では愛を中心として愛するといいましたが、このうちでどちらの愛が先ですか。目的を中心とした愛はあとで、愛を中心とした愛が先です。

 したがって、女性は節概を守らなければならないのですから、一つの愛だけを知らなければなりません。また、男性は志操をもたなければならないのですから、一つの目的だけに向かっていかなければなりません。こうしたり、ああしたりしては駄目なのです。一度定めれば、男の一言は千金の重みがあるのですから、一度「やる」と言ったなら、滅びてでもやらなければならないのです。それが道理です。

 なぜですか。アダムとエバを中心として見るとき、天使長は志操を守らなければなりませんでした。自分の行く道を知って志操を守らなければならなかったのです。僕ならば僕の志操を守らなければならないのです。ところがその志操を守れなかったために堕落しました。女性は節概を守れなかったために堕落したというのです。そうではないですか。本来の夫はアダムであるにもかかわらず、天使長に引っ張っていかれたのではないですか。

 ですから、統一教会の原理は、愛を中心として話すのです。このように見るとき、神様が最も嫌うこととは何でしょうか。歴史を通して見るとき、淫乱がはびこれば、必ずその国は滅びました。神様が最も嫌うこととは何かといえば、淫乱です。淫乱を最も嫌われるというのです。これは何ですか。志操を破り節概を破り、食べたところから亡運が芽生えたために、このようになれば風雨が吹き込むのです。今日、この世界も倫理関係が何とも言えないほど紊乱しており、淫乱が膨脹しているので、打ちのめされる時が来るはずだと見るのです。

 では皆さん、「初臨主」が良いですか、「再臨主」が良いですか。初臨主が良いでしょう。「仕方がなく二番目の妻をめとるようになった。婚約をしようとしたけれども、みな線を引いてしまい、やむを得ず二番目にした」と、それが良いですか。二番目の結婚をする人は、最初の愛の十字架を越えなければなりません。それゆえ来られる主は、初臨主が失敗した愛の十字架を越えて、天の前に勝利した立場に立たなくてはならないのです。

 それゆえ十字架で亡くなった主が再び来る時には、栄光の姿で来ることはできないのです。十字架の道に来られなければならないのです。今日、既成教会の信徒は「主は栄光の姿で来られる」と思っているでしょう。十字架に来られ勝利したのちに、初めて栄光の主になるのです。

◆天の父母に侍ろうとするなら


 世界を愛そうとするなら、人間を愛さなければなりません。人間を愛さずして、世界を愛することはできないのです。では、人間を愛するには、どのように愛すればよいのでしょうか。どこから愛さなければならないでしょうか。根から愛さなければなりません。根はどこでしょうか。神様です。その次の根はどこでしょうか。アダムとエバです。その次の根はどこでしょうか。アダムとエバの息子、娘です。

 これを皆さん自身を中心として見れば、皆さんは堕落した人間の子孫として生まれたために、皆さんの父母にそのまますがっていれば、天の父母は入ってくる場所がないのです。それゆえ天の父母に侍り、入ってきてもらおうと思えば、皆さんの父母を移しておかなければなりません。

 皆さんは、皆さんの父母よりももっと良い父母を教えてあげて、それが間違いなければ、今の父母よりも良い父母に侍りますか、侍りませんか。これが問題になるのです。

 さて、一人のお兄さんがいるとしましょう。そのお兄さんが腕白だとします。こうしてもおどけ、ああしてもおどけ、夢に考えてもうんざりするお兄さん。そのようなお兄さんと、天地間に一人だけというおしゃれなお兄さんがいるとすれば取り換えますか、どうしますか。ところで、もしそのお兄さんが泣きわめくならば、どうしますか。お兄さんが「ええっ! お前は私の妹ではないか。私はお前と共に暮らしたいから、頼むからそのようにしないでくれ」と、こう言いながら泣きわめくならば、どうしますか。「うーん、そうしよう」と、こうすればいいですか。足でけってしまわなければなりません。

 ところが、足でけってしまってもすがりついてきたなら、どうしますか。問題は簡単ではないのです。より良い新郎、より良い新婦ができるかもしれないのに、今の新郎や新婦が自分をつかんで放さないとすれば、どうしますか。また、お母さん、お父さんが「やー、こいつ!
 この不孝甚大なやつ、私がお前を生んだのに、お前を生んだ父母に反逆できるか」と言えば、どうしますか。問題は簡単でないというのです。

◆来られる主の思想で愛の秩序を立てなければ


 堕落したのなら、故障が起きたなら、直さなければなりません。直そうとすれば分解しなければなりません。分解せずに直すことができますか。分解しなくてはならないでしょう。では、分解するというのはどうすることですか。現在のお兄さんとの因縁をそのままにしておくというのですか、切ってしまうというのですか。また、今の新郎新婦の因縁を壊すというのですか、そのままにしておくというのですか。分解とは、今までの因縁を壊すことです。

 今日、個人主義の世界の歴史は、全部壊してきた歴史です。今日の民主世界は、キリスト教文化圏であり、キリスト教文化圏は統一文化圏なのですが、博愛主義の世界になり、人類全体が互いに愛さなければならないにもかかわらず、その反対の思潮である個人主義が世界化してしまったというのです。彼らの前に国というものがあるでしょうか。国をみな壊してしまったのです。国がどこにあり、民族がどこにあり、父母と家庭がどこにありますか。みな途絶えたというのです。

 したがって、米国のような国では滅びの行為が繰り広げられているのです。一つのアパートに十軒が住んでいるならば、そこで自分たちの間で夫を取り替えて暮らす遊びをしています。そうしながら「この人は私の妻だ」と線を引くことは独裁だというのです。「何、そんなことがあるのか。それは昔、先祖の考えが足りなくて、楽しく暮らす方法を知らずに定めたのだ。それは独裁である。つまらなくないのか」と言うのです。「一カ月に一回ずつ替えて暮らせば、一年間楽しく暮らせるではないか」と言う、そのような輩がいるというのです。あらゆる歴史が繰り広げられているというのです。全部壊してしまったのです。彼らのお父さん、お母さんがどこにいて、兄弟がどこにいるでしょうか。すべて壊してきたというのです。

 このように自分勝手に分解したことを、私たちが再び作り直さなければなりません。削って磨いて組み立てなければなりません。こういう面で私たち統一教会は、組立工の訓練場所です。

 修理工場に入っていけば分解しなければならないのですが、なぜそうしなければならないのですか。堕落することによってどのようになったのかといえば、一番に真の父を失いました。二番目は真の夫を失い、三番目は真の子女を失いました。みな失ったのです。誰のせいですか。エバのせいかといえば、天使長のせいです。

 今日、この地上にいる人々を見れば、真の父と、真の夫と、真の兄がいないというのです。この地上に生まれた男性は天使長だけだというのです。天使長である父、天使長である夫、天使長である兄、このように天使長だけしかいないというのです。これまで女性は、彼らにくっついて生きていたのです。ですから女性は悲惨だというのです。

 例えて言うと、金持ちの高名なお嬢さんが、作男について暮らしているのと同じだというのです。何の話か分かりますか。そのようになったというのです。男性は、作男の血筋を受けて生まれたというのです。したがって、本来の父の愛、本来の夫の愛、本来のお兄さんの愛を受けてみたことのない女性なのです。

 それゆえ主は父の代わりに、夫の代わりに、そしてお兄さんの代わりに、その三種類の愛をもって来られるのです。この三種類の愛の因縁をエデンで完成できなかったがゆえに、そこで幸福な娘としての位置に落ち着けなかったことが堕落であるがゆえに、主がその三つの愛を総合して、この地上に尋ねこられなければならないというのです。

 では、今日の男性は何でしょうか。すべて天使長の輩です。また、詐欺師だというのです。どんな詐欺師でしょうか。女性をだまし取る詐欺師です。「そうでない」と言う人々は、まだその場に行っていないがゆえに、知らないから、そう言うのです。男性は、そのようになる性格が濃厚なのです。

 さて、イエス様が自分のお母さんに「あなたと私と何の関係がありますか」と言いました。その言葉は良かったですか、良くなかったですか。イエス様は、「天情を立てなければならないマリヤ、あなたは人情を追って、天情を立てなければならない息子の道に反しているのか。あなたと私に何の関係があるのか」と言ったのですが、その言葉は、良かったでしょう。天情と人情は行き違うのです。人が「良い」と言うところには天はないのであり、天が「良い」と言う所には人はいないのです。

 それゆえ、世の中が「良い」と言うところに色目を送り、拍子を合わせていく宗教は長くもたないのです。死の賭けをして、血を流して倒れたりする宗教は、世界の終わりを越えていくのです。それでキリスト教は、今まで死を引き継ぎ、殉教した先烈たちの血の功績によって発展してきたのです。そうする時に、天が共にあるのです。したがって、過激な怨 讐が過激に動員されてぶつかる立場をけ飛ばして、突き上がらなければならないのです。

 そうすれば、そこに天が共にあるのです。その場を通して、その道を通して本然の父母、本然の夫婦、本然の兄弟、本然の子女になれるので、その道を尋ねいくようになれば、世の中がすべて遮るようになるのです。ですから、世の中を捨てなさいというのです。

◆天国の起源


 では、きょうの題目は「人間の価値と天国の起源」なのですが、その起源とはどこでしょうか。家庭です。言い換えれば、お父さん、相対、お兄さん、この三つの愛です。エバが堕落することによって蹂 躙され、失ったこの三大愛を、私の一代にどのように実現させますか。神様のように人類を愛し、死んでいったイエス様のように人類を愛し、生きていらっしゃるときのイエス様のように人類を愛さなければならないのです。

 独身時のイエス様の立場で、その次には霊的な新郎新婦であるイエス様と聖霊の霊的な父母の立場で人類を愛さなければならず、神様の立場で人類を愛さなければならないのです。これが霊肉を中心とした相対基盤です。

 これがアダムとエバと神様が一致できる、三点が結合できる、天情と人情が出合える核心的な決定点です。この決定点を見ることができなかったがゆえに、この終わりの日に初めて新郎新婦の因縁を中心として、天情と人情が結束しなければならないのです。

 そうして、そこで天が探していた真の父母、真の父、真の夫、真の子女の立場を決定しなければならないのです。それが天国の起源になるのです。その天国の起源というのは、人格的基準の愛を中心として決定されなければなりません。これを確実に知らなければなりません。皆さんが天国に行けるか行けないかということは、漠然とはしていないのです。

 では天国に行くためには、どのようにしなければなりませんか。イエス様のようにしなければなりません。イエス様は、十二人の心を合わせるために三年の公生涯路程を歩まれ、死んでも行く道を行くことができず、復活して四十日間でそれを収拾していったのです。これと同様に、皆さんも十二人を糾合させなければなりません。十二人の心を合わせることができる資格者になれなければ、春夏秋冬の四季のある十二カ月を越せないのです。四位基台を中心として、そのようにしなければならないのです。父母を中心として、子女の立場で十二人の心を合わせなければならないのです。

 天国はどこにありますか。天国は他の所にあるのではありません。イエス様も「天国はあなたの中にある」と言いました。「天国は私の心にある」と言いました。それは、どういうことかといえば愛について述べた言葉です。神様の愛を中心として述べた言葉なのです。お前は独りでいるけれども、神様が人を愛してくださるので、独りではないというのです。

 絶対的な愛の基準から見るとき、愛だけがあなたを占領し、あなたの心と道とすべての空間世界を超越し、共にあり得る絶対的要因ではないかというのです。そのような基準で、「天国は私の心にある」と言ったのです。心が恋しがる天国をもっていない人は、実際に暮らせる天国を見ることはできないのです。

 天国は皆さんの中からです。兄弟間にあるのです。これはお母さん、お父さんの代身なのです。それゆえ女性に対するときには、お母さん、お父さんの贈り物であり、その方々の他の面を私に見せてくださるための贈り物として考えなければならないのです。男性を見るときも、お母さん、お父さんの他の面を見せてくれる贈り物として考えなければならないのです。そうしてこそ、それがすべての幸福の起源が宿ることのできる宇宙史的な一つのかなめになるのです。「統一基盤確保」というのも、その基盤の上で行われるのです。

 それゆえ、十二人を狂うように愛してみることのできなかった人は、天国に十二の真珠門があるといいますが、その門を自由に通過できないのです。十二人を狂うように、大人なのか子供なのかも分からず愛して暮らした人間は、どの門の前に行ってもふさがらないのです。それゆえ、狂ってみなければならないというのです。世の中の愛を中心としても狂うのに、天の愛を中心としてはもっと狂わなければならないのです。夜が昼のように恋しく、昼が夜のように恋しくあり得る、昼夜を動かせる情緒的な心情の基準を、神様を中心としてどのように体得するかということが大きな問題です。

◆天国を中心とした人格の価値


 天国の起源はどこですか。まず私が、私の心で父母を誰よりも愛さなければならず、兄弟を誰よりも愛さなければなりません。また家庭をもてば、お互いに最高に愛さなければなりません。

 そうして、花の中の花であり、香りの中で一番の芳香を放つ香りとして、宇宙を代表した価値がそこで結実することを望みながら、お互いが一つに結集するその因縁が強固にならなければなりません。そうしてこそ、そこで完全な種が勃発するのではないかというのです。生命の起源も、そのような愛から、存在価値の起源も、そのような内在的な愛を基盤とするところから始まるのです。

 人格的な価値は、相対を中心として決定されるのです。したがって、夫になった人は妻の前に神様よりも立派な方だと記憶されなければなりません。妻は「私は神様を見ることはできませんでしたが、私の夫を通して神様を見たし、世の中の純粋な愛を知りませんでしたが、夫を通じて世の中の純粋な愛がどのようなものかを知りました。また、夫を通じてお兄さんの愛がどのようなものかを知りました。また、夫を通じて兄弟の愛を私は知りました。夫は、すべての愛を教えてくれた中心者です」と言える女性にならなければなりません。また、夫もそういうお母さんの代表であり、新婦の代表であり、お姉さんの代表の心情を誘発することのできる愛の因縁を体 恤しながら生きていく男性にならなければなりません。

 そういう教育を受けて、「そういう教育でなくては窒息しそうだ」と言うほど、それが生活習慣になり、どんな社会でも年齢の多い人に対するとき、私のおじいさんであり、そうでなければ私のお父さん、お母さんであり、私のお兄さん、お姉さんであると考え、年下の人は私の妹だと考えることのできる心情をもたなければなりません。

 そういう心情が世界の随所に普遍化されれば、そういう家庭での心情が普遍化され得る環境が展開する所ならば、そこは間違いなく天国です。そのように暮らす人は、どこに行っても反対を受けません。彼がどこに行こうが、神様は彼と共にあるのです。それゆえ、彼はどこに行っても孤独ではないのであり、どこに行っても滅びないのです。

 人間の価値基準は、神様の愛を中心として決定されるのです。「天国の起源」は、堕落した人間の世の中の情緒的なすべての問題を超越した基準で、神様を中心として父母の愛、夫婦の愛、子女の愛をより生命線に接近させて、より全体の価値に一致させることのできる立場で、私がどのように体 恤したかというところで展開するのです。私が生きていることは世界のためだという心情と、私の愛の泣き叫びが世界に波及するという心情を感じなければなりません。

 そうして、歴史的なすべての聖人の生活感情と通じることのできる立場に立ったというとき、その一人は歴史の完成であり、時代の完成であり、未来の起源になることができるのです。そのようになるとき初めて、天国を中心とした人格の価値で暮らす人生になる、ということを記憶してくださるようお願いします。


















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訓教経(下)018



文鮮明先生のみ言集

訓教経(下)



完全復帰


 一九七二年五月二十一日
韓国本部教会 『文鮮明先生み言選集第五十七巻』


 私たちはこの地上に生きている数多くの人類が、罪悪の世の中に生きているということを知っています。一生をいくら善良に生きたという人がいても、臨終に際し、自らの生涯を反省してみるとき、自分が果たして善良に生きただろうかと考えるならば、善良に生きた自分自身よりも善良に生きられなかった自分自身を発見せざるを得ないのです。

◆善と悪の岐路に立つ人間


 私たちの一生において、善なることと悪なることを一つ一つ抜き出してみるとしましょう。ここで、最後に善が残ることを願うのが人間の願いですが、善よりは悪が残りやすいのが、私たちの人生行路というものです。

 一つの時代の数多くの人類を総合してみるとき、個人の善と悪を取り除いてみるならば、善よりも悪が残ると考えられます。ですから、この地上に生きている人は、善なる人ではなく悪なる人であり、またこの社会は、善なる社会ではなく悪なる社会であるという結論が出てくるのです。

 歴史路程について長い人類史を観察してみても、真を受け継いで真の歴史にならなければならないにもかかわらず、かえって真よりは悪が残り、悪の歴史が続いてきたという結論を下すようになるのです。ですから私たちは、この世は、善なる世の中ではなく悪なる世の中だと考えざるを得ないのです。

 では、世の中がなぜこのように悪くなったのでしょうか。善が最初に出発して善の種を植えていたなら、植えられたとおりに刈り取るので、善の結果が必ず現れたはずです。しかし、善が最初に植えられたのではなく、悪が先に植えられたのです。善なる土台の上に悪が植えられたのです。これが問題になるのです。

 悪なる土台の上に悪が植えられたとするなら、それは悪のまま続くしかありませんが、善なる土台の上に悪が植えられたので、善なる面と悪なる面がひっくり返りながら歴史は巡るのです。善なる土台の上に悪が植えられたために、最後に残るのは善ではなく悪が残らざるを得ないということを、私たちは全体を推し量ってみて結論づけることができます。それゆえ、今日私たちが生きているこの世は、悪の支配権内にあるということが分かります。言い換えれば、善が全体を主管しているのではなく、悪が主管しているというのです。

 人間は、悪から出発したがゆえに悪なる存在としているしかありませんが、もし善なる絶対者がいらっしゃるならば、その絶対者はどうなさるでしょうか。あるいは絶対者がいる反面、その絶対者に反対する悪なるサタンがいるならば、そのサタンとはいかなる存在でしょうか。こういう問題を考えてみるとき、神様だけは絶対的な立場で善でなければならないのです。その方は、始めも善でなければならず、過程も善でなければならず、終わりも善でなければならないのです。それは間違いない事実です。その方が歩んできた過去も、摂理を推進している現在も、未来も、その方においては善だけが残るのであり、悪というものはあり得ないのです。

 その反対であるサタンがいるならば、そのサタンとはいかなる存在でしょうか。彼においては、善というものはあり得ないのです。彼は、出発から悪であり、過程も悪であり、結果も悪なのです。神様の前に、もしサタンが善なる立場を取ることができるならば、私たち人間が善なる道を探していくにおいて、混線を来さざるを得ません。それゆえ悪は、あくまでも悪なる立場にあるしかないのです。始めも終わりも、サタンは悪でなければならないのです。私たちは、このような結論を下さざるを得ません。

 ところで、善なる神様とその反対の悪なるサタン、両者の間に挟まっているのが、私たち人間です。それゆえ、一生を通して私が善を追求しながら歩むようになるときには、善なる神様が共にあり、その反対に立つようになるときは、悪なるサタンが共にあるのです。これが、現在の私たち人間の運命であるということを私たちは知っています。

 一生の路程において、善なる神様を慕いながら、善だけを残すことができる道をどのように立てていくかということが、人間が何よりも希望することに違いないのです。したがって、絶対的な善を中心としていらっしゃる神様を私たち人間が絶対的に信じ、その方と一つになり得る道を模索するところにおいてのみ、私たちの人生行路が善に始まり、善の過程をたどり、善の結実を結ぶことができるのです。私たちが一生を生きたのちに、善と悪を一つ一つ取り除いてみるとき、悪が善より多ければ悪なる主管圏内に帰結するのであり、善が悪より一つでも多く残るときには、善なる主管圏内に帰結するというのです。

◆完全なる対象的な善の実体を願う神様


 私たち人間の最高の希望は、完全に善なるものとなることです。マタイによる福音書第五章四十八節に「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」とあります。絶対的であり、善の主体であられる神様が私たち人間を本当に愛することを希望するとき、その愛の対象の立場に立つことのできるのが人間であるとします。そうすれば、人間は絶対的な神様の相対的な存在として、善なる存在として立つことを最高に願うのではないでしょうか。その相対的な存在が悪なる立場に立ってうめき、サタンの前に讒訴を受ける立場に立つことを願わないのが、善なる主体ではないでしょうか。これは、言うまでもないのです。それゆえ、完全な善の主体としていらっしゃる神様は、人間に対して完全な対象的な善の実体であることを願うのです。

 では、生まれる時からそうであることを願うでしょうか。また、生まれて一生の間そのように生きることを願うでしょうか。もちろん、そうでしょう。今までもそうでしたが、未来においても善であることを願う神様に違いありません。

 私たち人間が生まれる時から一生の間、善であることを願う神様ではないでしょうか。現在だけでなく、未来の人間に対しても善なることを願うのではないでしょうか。現在と未来もそうであるなら、過去においてもそうであることを願われた神様に違いないのではないでしょうか。そうであったはずです。では、過去において神様が善なる基台を残すために、努力したことがなければならないのです。そうでなければならないのです。

 アダムとエバが堕落した以後に、どのようになったのでしょうか。神様とサタンの間で自ら悪を除去してしまい、善なる立場を決定づけて善なる立場に行くべきアダムとエバでした。しかし、アダムとエバ自体としてはそのようにできないために、善の主体であられる神様がここに介入し、神様とアダム・エバとを連結できる一つの善の基準を決定できる場をもたなければならないのです。

 それが決定される場は、人間が願う最高の基準を中心として決定されなければならないのです。生まれる時から、また成長しても幸福であることを願うのが人間ですが、人間が願うその幸福の最高の中心は何でしょうか。神様を父母として侍ることのできる息子、娘の立場として、アダムとエバが創造されたなら、父母の前に息子、娘として最高の愛を受けることのできる場がアダムとエバが願う最高の希望の場なのです。

 問題は愛です。神様がアダムとエバを愛するならば、アダムとエバはいかなる立場で愛されたいでしょうか。神様の息子として、神様の娘として愛される立場を願うのです。その愛は、完全な愛です。息子として、娘として、完全な愛を受けなければならないのです。

◆堕落により神様の完全な愛を受けられない人間


 堕落したという事実は、神様の息子として一生の間、完全に愛を受けることのできるその場を完成できないことをいうのです。堕落しなかったならば、アダムとエバは絶対的な神様を父母として侍り、息子として一生の間、神様の満ち足りた愛を受けたであろうし、完全な愛を受けたなら、愛の歴史において神様を中心として完全な出発をしたことでしょう。そういう歴史的な出発をすべき私たちの人間始祖が、そうすることができず、そこに到達できなかったのです。これが堕落です。

 完全な愛の主体であられる神様は、完全な愛を施すために人間を創造されたにもかかわらず、愛することができませんでした。それで神様は、堕落した人間ゆえに、悲しみの立場に立たざるを得なかったというのです。

 神様は絶対者であられるので、絶対的な神様が計画したことも絶対的な結果をもたらすべきであったにもかかわらず、人間が堕落することによって、そのような結果をもたらすことができませんでした。また、絶対的な愛を中心として出発すべきであったにもかかわらず、人間が堕落したことにより、その出発ができませんでした。ゆえに、これを必ず成就しなければ絶対的な神様としての権威と位置を維持できないのです。

 それゆえ、神様はそういう基準を再び探し出すために、困難を克服して歩んでこざるを得ないと、私たちはここで結論を下すことができるのです。息子として、神様の愛を中心として完全な出発ができなかったのが堕落です。

 では、息子として完全な愛を受けたのちにはどのようになるでしょうか。完全な夫婦として愛を受けなければならないのです。アダムは男性として生まれ、エバは女性として生まれました。彼らが堕落せずに完全な愛を受ける立場で成熟し、すなわち神様の愛の懐から生まれ育ち、正に神様の円熟した愛の圏内で成熟したならば、彼らは神様の喜ぶ夫婦として、完全な愛の圏内で出発したでしょう。それは言うまでもありません。

 そのようになったならば、その夫婦は不幸だったでしょうか。そうではありません。その夫婦こそは、絶対的な神様の喜ぶ立場に立ったので、神様の愛とともにその夫婦が一つになり、絶対的な愛を中心として相対的な立場に立っているアダムとエバは、正に幸福であったはずです。

 神様がもっている物は、相対的な立場にある彼らの物となり、神様が喜ぶその喜びは、神様だけの喜びでなく、相対的な存在の喜びにもなるために、主体としていらっしゃる神様の喜びは、アダムとエバの喜びとなるのです。すなわち、神様の喜びがアダムの喜びとなり、神様の喜びがエバの喜びとなり、アダムの喜びがエバの喜びとなり、エバの喜びがアダムの喜びとなり、アダムとエバの喜びが神様の喜びになる、正に統一された喜びだというのです。人間と神様がどのような面においても、お互いに不足なく、偏りのない、満ち足りた愛を備えることのできる立場が、円熟な夫婦として愛を受ける立場なのです。

 しかし、アダムとエバは、そういう出発ができなかったのです。それが、堕落のもたらした結果なのです。

 それだけでなく、その次には父母として完全な愛を受けることができなかったので、その父母が子供を生んでも、子供を完全に愛することができないのです。その父母が完全な愛を体 恤したならば、子供にも完全な愛を与えることができるのです。完全な愛を体恤できない立場で子供を生んで愛するならば、その愛は自分たちが体恤した以下の愛であって、それ以上の愛ではないのです。

 このように考えてみるとき、神様が堕落していない本然の真の父母として、子供を愛することができたかといえば、愛することができなかったというのです。

 今日、この地上でも父母の愛について話しています。堕落した世の中の父母も、生命を顧みないで子供を愛します。

 堕落の愛で因縁づけられたその父母も、生命を犠牲にして子供を愛するのを見るとき、堕落せずに完全な子女として、完全な夫婦として、完全な父母として、神様の完全な愛を受けて子供を生んだならば、その子供を愛する心はどれほど強かったでしょうか。それは完全な基準なので、最高に強かったはずです。

 神様もその愛を押しのけることはできないのです。その愛の前に神様も涙を流し、その愛がなければ悲しみを感じざるを得ないので、その愛で絶対者も主管できるのです。

◆神様が人間を創造された理由


 幸福というものは、相対的な要件を通して成り立つのです。情緒的な分野のない幸福というものはあり得ません。幸福は完全な相対的要件を備えて授受する情緒的な基盤をもつようになれば、ここで四方性が自分と関係を結ぶようになります。しかし、相対的要件が整わないときは孤独なのです。孤独には満足や、希望というものはあり得ません。

 このように考えてみるとき、人間が完全な神様の愛を中心として父子の関係を結び、横的に子女になる歴史が展開したならば、その歴史はどれほど驚くべき歴史になったことでしょうか。そのようになっていたなら、縦的な立場に立ち、神様と絶対的な愛を中心として連結されるのはもちろん、その縦的な愛が再び父母を中心として、横的に自分の子孫に連結される、すなわち、神様がアダムとエバを愛するのと同じように、アダムとエバが神様の愛と一致した立場で神様のような立場に立ち、横的に子女を愛することのできる基盤が成立するのです。

 そうなるならば、その子女に対する立場も、神様と一致できる立場になるということを、私たちはここで知らなければならないのです。ゆえに、神様の愛は結局、アダムとエバを通してその子女に行くのです。

 その子女の愛は、子女の愛として終わるのではありません。その子女の愛は、父母を通して因縁づけられるので、それが父母の前に返す基盤になったとすれば、それは「統一原理」でいう、愛を中心とした理想的な四位基台なのです。

 では、神様がいらっしゃるならば、その方には人が必要です。人は、誰が創造したのですか。神様が創造されました。神様は人を必要としはしますが、人をいくらでも創造することのできる能力のある主体者です。これを考えてみるとき、神様は、その人自体が必要なのではないということが分かります。人は造ることができるというのです。では、物質は必要でしょうか。物質も、神様が造ったのです。

 ではなぜ、人を必要とするのでしょうか。人自体は必要でないのに、なぜ必要とするのでしょうか。このような問題について考えてみるとき、その人というものは愛の対象とするために必要なのであって、他の目的があって必要とするのではない、ということが分かります。神様が物質を必要とするでしょうか。権力を必要とするでしょうか。神様には、それはみな必要ないのです。そのようなものはみなもっています。

 神様は絶対者なので、彼の権限を凌駕できる存在はこの世にはないのです。神様がすべてのものを創造したので、ほかに必要なものは存在世界にはないのです。神様が必要とするものは権力でもなく、お金でもありません。神様が知識を必要としますか。必要なものは知識でもありません。

 では、人をなぜ創造したのでしょうか。人の姿を見るために創造したのではありません。ではなぜ創造したのでしょうか。自分の中に相手を備えて作用をし、刺激を感じることのできる、新しい何かを感じるために創造したのです。その他のものは、既にみなもっているのです。それでは、それは何でしょうか。愛の感情を誘発することのできる対象の実体が必要なので人を創造したのです。

 神様の中には、美があるならばそれ以上の美がないほどに、みなそろっています。自分自体よりもそういう内省的なものを相手に反映させて、ここで反応してくる刺激によって、範囲の広い美しい愛の雰囲気を形成するために人を創造したのです。

 したがって、父母が愛する息子と遠方に、地の果てに離れているといっても、それは別れているのではありません。遠ざかれば遠ざかるほど、その愛が遠ざかるのではありません。本当に愛する人間同士は、離れれば離れるほど近づくことを願うのです。そうではありませんか。ここに距離というものはないのです。愛の世界でのみ、距離を超越できるのです。それ以外には、そのようにはできないのです。

 では、無限な神様、無限な存在であられる神様が、その無限圏に通じることができる素性とは何でしょうか。能力ではありません。権勢というものも、その限界圏を越えることはできないのです。その限界圏を越えることができるものとは何でしょうか。それは、愛の力しかないのです。無限なる世界、永遠なる世界を管理できるその本質は権勢でもなく、知識でもありません。愛の力でなくてはならないのです。私たちは、このように考えるしかないというのです。これを考えてみるとき、神様は対象的な愛を必要とするために人間を創造されたのです。

 では、愛はどのように現れるでしょうか。民の愛としてまず現れるでしょうか。民の愛として先に現れるのではありません。兄弟の愛としてまず現れるのでもありません。愛が現れる道を追求してみるとき、愛が現れる一番最初の道は父母の愛です。

◆無限圏に通じることができる素性は愛


 絶対的な神様が、真の愛の伝統を立てるには、いかなる伝統から立てなければならないでしょうか。父母としての愛の伝統をまず立てなければならないのです。それゆえ、神様は父親に違いないのです。神様は父親です。父親として息子を愛する伝統を継承し、真の愛の出発を見なければならないのです。父母として息子を完全に愛し、息子として、すなわち息子、娘として完全な愛の因縁を結ぶことを願ったはずではないでしょうか。そのようになっています。

 その次には何でしょうか。それが成されたのちには、夫婦の愛の因縁を結ばなければなりません。その次には、その夫婦が神様に似て、神様と共に喜ぶことのできる圏をもたなければなりません。神様が父母の愛を備え、息子の愛を備え、夫婦の愛を備えて子女を愛するように、彼らも子女を懐に抱いて愛するようになるとき、ここで一つの軌道を備えて横的に発展するのではないでしょうか。

 それゆえ、父親として完全に愛さなければなりません。完全な愛を受けたその息子と娘が、完全な夫婦としての愛を築くことを神様も願うのです。夫婦の愛を築いたのちには、父母として愛を成し遂げなければならないのです。すなわち、神様がアダムとエバを愛するように、人間も自分と全く同じ立場で子供を愛することを希望してこそ、これが縦横に一致するというのです。

 世の中のどこに幸福があるでしょうか。人間を離れて未来の世界に幸福があるのではないのです。幸福がどこにあるかといえば、自分が出発したその場にあるのです。それゆえ、歴史は幸福を探し求めていくのではなく、幸福の基準の前に歩調を合わせる歴史にならなければならないのです。それにもかかわらず、今日の私たちはそういう原則の基準を失ってしまったために、未来の幸福を追い求める人間になったというのです。

◆完全な愛


 それでは、愛というものは何でしょうか。一〇〇パーセント対象のためにすることです。そのような立場でのみ愛が成立するのです。愛が成立するところにおいて、「私のためになせ」というのでは、完全な愛は成立しません。

 完全な愛は一〇〇パーセント人のための立場で成立するのです。それが原則です。分かりましたか。自分を中心とするところで、愛が成立するのではありません。完全に対象のためになす立場から、完全な愛が始まるのです。人間はそのような目的をもって生まれ、そのような立場にあるために、それを否定できないのです。

 したがって、愛は完全に人のためにするものです。人のために生まれたというところで愛が成立するのであって、私のために生まれたというところには愛がないというのです。愛する夫婦ならば、夫婦間で互いに「ため」に生きることによって愛が成立するのであって、「君は私のために」というところで愛が成立しますか。それは一時的です。それは相手の気分に合わせる愛であって、本物の愛にはならないというのです。このような観点から見るとき、人間は愛の理想のために生まれたのです。

 人のためにすることが、どうして良いのでしょうか。父親や母親、あるいは学校で教育をするときに、みな「君、良いことをしなさい」と言います。では果たして、どのようにすることが良いことなのでしょうか。出ていって人をげんこつで殴り倒すのが良いことなのではなく、人のために自分を犠牲にするのが良いことです。したがって、善良な人や良い人とは、自分を犠牲にする人です。

◆より大きなことのために犠牲になれば、愛の中心者となる


 結局、犠牲になる人は、愛を誘発させることのできる主体になるのです。国のために犠牲になる人は、国の愛を誘発させることができ、家庭のために犠牲になる人は、家庭の愛を誘発させることができ、同志のために犠牲になる人は、同志の愛を誘発させることができるのです。それゆえ、私たち人間は知りませんが、人のために犠牲になることは良いことなのです。

 宗教は、何を教えてくれるのでしょうか。神様の愛を教えてくれます。また、神様の愛の目的を達成しなければならない使命をもっているために、宗教は犠牲を教えてくれるのです。それは当然なことです。宗教は、自体を中心として世界を制覇しようとしてはならないのです。

 先生は、「犠牲になれ」と教えています。先生は、「より大きな国のために犠牲になれ」と言います。この国、この民族に、今まで現れたことのない犠牲の心をもって国のために犠牲になれば、今まで歴史上に現れたことのない愛国精神がここで現れるようになるのです。国民を愛する新しい伝統がここに立てられるようになるとき、その伝統を立てた団体は滅びないのです。今日、先生が国のためにすることは、国を完全に抱き、その国をして世界のために犠牲になるようにしようというのです。

 では、その国はどのようになるでしょうか。世界人類の前に、新しい高次的な世界の愛、愛国ではなく博愛主義的な世界の愛の伝統を、新しく植えるようになるのです。それさえ植えるならば、万民は、その愛の道を好むはずです。それは、過去にも好んだでしょうし、現在も好み、未来にも好むはずです。これを凌駕する時間性、観念性というものはありません。すべてがこれを標準として終着するようになっています。これが母体であり、起源であるゆえに、その愛だけが人類に必要なのです。

 その愛を中心とした平和の世界を追求することが原則であるがゆえに、先生の思想は、国が復帰される日には、その民を集めて世界人類のために犠牲になれと教えるのです。これが先生の探そうとする国です。

 そのようになれば滅びるでしょうか。「滅べ」と言っても滅びません。なぜ滅びないのでしょうか。神様が狂ったように好むからです。神様が好むところには、打つ人はいないのです。神様が嫌えば、サタンが来て打ち、悪党の侵犯を受ける可能性がありますが、神様が狂ったように好むところに誰かが侵犯したなら、容赦しないのです。

 悪神と善神の闘争は、何を中心としてするのでしょうか。愛を中心としてするということを、皆さんは知らなければなりません。結局、人のために、より大きいことのために犠牲になるとき、犠牲になろうという愛の心をもって進む日には、善神が管理するのであり、そうではなく、自分を中心として人を犠牲にして自分を愛する人は、反対に悪神が主管するのです。このように、はっきりと分かれるのです。

 本来、人間は人のために生まれました。人のために犠牲になるために生まれたのです。人のために犠牲になれば、どのようになるでしょうか。愛の伝統が立つだけでなく、彼は愛の中心者になるのです。間違いなく愛の中心者になるのです。

 学校で、いわばその学級全体のために仕事をする人が学級長になるのと同じです。同じ立場にありながらも、人のために生きる立場に立った人が学級長になるのです。一つの国の国民ならば、誰よりも自分の国を愛し、自分の国のために生きるならば、その人は民族的な中心者になるのです。

 愛の中心者になって何をするのでしょうか。頂上に立つのです。中心者は頂上に上っていくのです。頂上に上がっていくようになれば、自動的に群れを指導することができ、主管することができます。主管者になるというのです。これが天理原則です。これを確実に知らなければなりません。

 では、「完全」はどこから始まるのでしょうか。人間の「完全」というものは、どこから出発するのかといえば、私から出発するのです。その完全は、愛を中心としてあり得るのです。いかに堕落した人間が無知な頭脳で考えるとしても、愛を中心として完全を追求するようになっているのです。

◆完全復帰の出発は自己否定するところから


 愛を中心として出発することのできる完全な基準はどこでしょうか。それが「私」です。「私」という立場は、本来、人のために生まれました。人のためになる立場、人のために出発する立場、これが最高の完全な立場です。復帰完成、完全復帰できる人は、人のためにのみ生きた人です。結論がそのようになるのです。

 神様は今どのようにしていらっしゃるのでしょうか。神様は完全な方であるために、人のために今まで生きてこられた方です。ところが、まだ絶対的な基準に到達した相手がいないために、相手が絶対的な基準に到達する時まで、苦労されるのです。

 では、完全復帰はどこから始まるのでしょうか。それは、自己を完全に否定する立場からです。ですから、イエス様は真に偉大な方なのです。「生きんとする者は死に、死なんとする者は生きん」と言われたのを見るとき、イエス様は偉大であり、聖書は偉大だというのです。

 死のうとすることは完全否定です。死のうとする者が生きるので、その人は希望があるのです。生命があるので希望があるのです。

 その方は十字架に行くようになった時、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ二六・三九)と言いました。これを見るとき、その方は自分勝手に生きた人でしょうか。「わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」と言ったのですから、父のみ意のままに生きた人です。お父様のために生まれたというのです。

 その次に、その方が十字架に亡くなるとき、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ二三・三四)と、このように怨 讐のために福を祈ったのです。それは誰のためだったでしょうか。自分のためでしたか。怨讐のためだったのです。怨讐ですが、怨讐が望むことのできる立場に立ったというのです。それゆえ、怨讐は彼の支配下にあるというのです。正に完全に人のために、怨讐のために福を祈ったのですから、彼は完全に人のために生きたのです。

 それゆえ、その方の伝統は歴史を支配せざるを得ないのです。そうでなければ、神様がいないという結論が出てくるのです。神様がそういう方なのに、神様に似たその方が滅びるようになれば、天道はないということです。神様もいないのです。

 ところが、その方に似た息子の姿が地上に現れたので、彼の動きが、神様の願いを成し遂げる行動であるのは当然なことです。彼の思想が世界を制覇したのを見るとき、神様はいらっしゃるというのです。

 このような観点から、既にもっているものは私のものだから、「私のものだ」と言う必要がありません。既に私のものになったのだから、与えようとしなければなりません。そのように神様は考えていらっしゃいます。ですから、神様の息子、娘もそのように考えなければならないというのです。

 では、愛の等級はどのようになっているでしょうか。より大きいことのために犠牲になるほど愛の等級は高まるのです。それゆえ、家庭のために犠牲になることよりも、家庭までも国のために犠牲にする人があれば、彼は愛国者になるのであり、愛国者の家庭になるのです。しかし、愛国者の家庭だけであってはならないのです。さらに家庭と氏族を率いて、国のために犠牲になれば、愛国者だけでなく、愛国氏族になるのです。

◆より大きいことのために犠牲になれば滅びない


 国を建てて私の手中に入れるのだというのと、国を建てて世界の中に入れるということとは違うのです。私の手中に入れようとすれば悪であり、これを世界に、神様の前に捧げようとすれば善になるのです。

 より大きなことのために犠牲になれば、滅びないで残るのです。神様はそういう群れによって完全復帰を計画できるのであって、そのほかのことでは完全復帰というのは夢にも見ないのです。

 それゆえ、復帰の思想は「私はあなたのためにあり、私は家庭のためにあり、家庭は国のためにあり、国は世界のためにあり、世界は神様のためにある」というのです。では、神様は何のためにいらっしゃるのでしょうか。神様は愛のためにいらっしゃいます。こうしてこそ、平和の世界が築かれるのです。

 男性は家庭のために、すなわち相手のために、父母は子供のために、家庭は国のためになければならないのです。より大きなことのためにという、この高貴な伝統を受け継ぐことのできる民族思想を一元化させて国をつくらなければならないのです。そういう国が成されれば、その国はこのような思想を中心として世界化するためにあるのであり、その世界は神様のためにあるのです。

 神様は主体であり、世界はその相手なので、互いが互いのためにあるのです。神様は誰のためにいらっしゃるのでしょうか。神様は相手のためにいらっしゃるのです。その主体と相手は何のために存在するのでしょうか。愛のために存在するのです。ここで初めて、すべてが完成を目の当たりにすることができるということを、皆さんははっきりと知らなければなりません。

 それゆえ、完全完成の出発は、私にあります。私が世界のために犠牲になるとき、完全完成が出発するのです。私が神様のために犠牲になることが、完全完成の出発です。そして神様のために、より一次元高めて、神様の愛のために出発しなければならないのです。

 聖書を見れば、イエス様が「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ一四・六)と言いました。ここで、どうして「愛」を抜いたのでしょうか。今後、統一教会が聖書を改正するならば、先生は「愛」を採り入れようと思います。「私は道であり、真理であり、生命であり、愛である」とです。愛を入れるようになれば、神様も好み、イエス様も好むはずです。「私は道であり、真理であり、命であり、愛であるから、誰もわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできず、神様も幸福になり得ない」と、このようにしようというのです。これが原則です。

 信仰と希望と愛、この三つは常にありますが、その中で一番のものは愛です。そういう伝統的な歴史が裏づけられているためです。今までこれを知らないでいたというのです。ここで知ったので、そのとおりに生きていかなければなりません。

◆宗教は棟になるという教え


 聖書を見れば「真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」(ヨハネ八・三二)とあります。堕落はしたけれども、真理を知って真理どおりに行う人は解放されるというのです。ですから、イエス様もそのように生きたのです。

 聖人という名前をもった人々の中に、自分のために生きた人がいるでしょうか。聖人を見れば、最も弱者で、最も不出来な人です。自分は優秀だと、自分を主張した人が一人もいないのです。聖人は何を主張したかといえば、神様を主張しました。すべて神様のみ意を中心として生きた人々です。ですから、聖人たちはすべて宗教の宗主になっているのです。

 イエス様はキリスト教の宗主であり、釈迦は仏教の宗主であり、孔子は儒教の宗主であり、マホメットはイスラム教の宗主です。彼らはみな、自分を主張した人々ではありません。主体であられる神様のために生きた人々です。「この宇宙の中心は絶対的な神様であるがゆえ、宇宙はその絶対的な神様のためになければならない」ということを、始めから終わりまで主張したのです。それが内面的、心情的基準においてどれほど広く深いかによって、聖人の等位が決定されるのです。

 こういう意味からキリスト教のイエス様という方を見るとき、彼は、ガリラヤの浜辺で漁夫を連れて暮らしていたそのときには、信じられない若者でした。けれども彼は、「私は神のひとり子である」と主張しました。ひとり子だけでなく「私は人類の新郎である。真の息子の愛の伝統を立てなければならず、真の夫の伝統を立てなければならない。私は人類の父である」と言いました。すべてを話したというのです。こういう意味で、真の息子の愛、真の夫婦の愛、真の父の愛、この三つに対して、キリスト教だけが神様を中心として議論したことを見るとき、キリスト教が世界的な宗教にならざるを得ないという結論が自動的に出てくるのです。

 英雄は、世の中からあがめ慕われません。力で世界を自分の思いどおりにしてみようという英雄が、自由にできるでしょうか。そうはできません。それは、完全な絶対者の前に反発することです。反発すれば遠ざかるでしょう。遠ざかれば人間世界から追放されるのです。ですから、宗教は「絶対的なその方の前にマイナスになれ」と教えるのです。

 悪は、絶対者の前にもう一つのプラスの立場を取ろうとするのです。反面、善は他のプラスではなく、絶対的なプラスの前に絶対的なマイナスになろうとするのです。それが何かといえば「私には何もない。人のために生きる」というのです。それで、自分というものは自動的になくなるのです。

 これは気圧でいえば、神様が高気圧圏であれば、私は低気圧圏にならなければならないのです。私が低気圧圏ならば、高気圧に対して、どんなに「来るな」と言っても、来るようになっているのです。低気圧になればなるほど、吹き荒れるのです。それが台風です。そのようになる日には、愛の台風が吹いてきます。これを考えてみるとき、宗教の教えは偉大だ、ということを皆さんは知らなければならないのです。

 宗教というものは、棟になる教えです。棟は一番上ではありませんか。宗教の教えの骨子とは何でしょうか。「犠牲になれ」というのです。そのようにすれば滅びるようですが、滅びません。完全に滅びる日には、かえってひっくり返るというのです。台風が吹くというのです。これが絶対的な主体の前に、絶対的なプラスの前に、絶対的なマイナスになって一つになる運動だというのです。

 この宇宙の終末時代には、この台風が吹けば歴史が飛んでいき、人類が飛んでいき、世界が飛んでいき、民主主義が飛んでいき、すべて飛んでいくというのです。

 このような原則で宇宙は形成され、それが未完成であるために、再度完成させるためには人のために存在する絶対的な価値を追求しなければなりません。そのようにしてのみ、勝利が完全であり得るのです。

 堕落とは何でしょうか。自分を完成の基準と見て、自分を主張し、自慢したのが堕落です。自分を主張したのが堕落です。神様が「善悪の実を取って食べるな」と言ったのに、「善悪の実を取って食べれば神様のようになる」と考えて、取って食べてしまいました。これは自己自慢です。それが堕落の動機です。そのような人間が神様に再び会おうとするなら、自分を中心として自慢するのではなく、神様を中心として自慢しなければなりません。

 神様は絶対的な主体なのですが、その主体の前に自分は相対的立場から位置を探していかなければならないのです。完全な立場とは何かといえば、相対的立場であるゆえに、人のために犠牲にならなければなりません。その立場のほかにはないということを、皆さんは知らなければなりません。ここで初めて完全復帰の出発になるのであり、そのように進む人は完全復帰の過程を行く人です。完全復帰の過程だけでなく、完全復帰の完成まで行くことができるのです。

◆完全復帰の出発地


 では、皆さんは何のために生きなければならないでしょうか。神様が願う理想の国のために生きなければならないのです。神様が願う理想の国がこの地にあるでしょうか。ないのです。ですから、神様の願う理想の国のために犠牲になることは、善なることです。

 先生は、いかなる考えをもっているでしょうか。大韓民国だけを良くしようという考えではありません。大韓民国を犠牲にしてでも世界を救おうという思想をもった人です。そのようにしてでも大韓民国が世界を救う日には、大韓民国は世界の中心国家になるのです。「中心者になるな」と言っても、中心者になるのです。「主管者になるな」と言っても、主管者になるのです。

 これが最も早い道であるので、この道をとっていく人は賢い人です。神様のように賢い人です。

 完全復帰は、私個人から出発するのです。御飯を食べても、自分のために御飯を食べるという人々は完全復帰の道を行けないのです。御飯を食べても、世界のために食べよう、仕事をしても、鎌の柄で土地を耕しても、世界のために耕すという思想をもたなければならないのです。もちろん、何でも国のためでなければならないのです。国を探し建てたのちには、世界を救わなければならないのです。国は、世界を救うために必要なのです。このような思想からのみ完全復帰の道が開かれるのであって、そのほかには道があり得ないのです。

 先生が見る観は、そうだというのです。先生自身も、そのように生きようとしています。御飯を食べるにも、きょう私が何のために食べるのかといえば、この世界のために、この国のために食べて寝るのです。

 先生は一生の間、借金をして暮らしてきました。それが普通の人と違います。皆さんを苦労させても、統一教会の信徒を苦労させても、民族を救わなければならないというのです。それで、着ている服も脱ぎなさいというのです。あるものをみな奪って、苦労させるのです。国を救うためには、全体を犠牲にして進まなければならないのです。

◆極と極から善の文明が出発する


 歴史は、極めて衰退している途上で、新しいものが発展し出てくるのです。また、極めて栄えている中で新しいものが胎動するのです。

 サタン世界が栄えている時には、善が敗れる立場にあるのですが、栄えている世の中から排斥されるものの中から、善なる群れが出てくるのです。滅びて衰退しても、そこからまた善は発展するのです。谷間でなければ、絶頂時代から新しい文化は出発するのです。これは歴史的事実です。

 公的な基準が退廃するようになるときには、必ず新しい公的思潮が登場するようになるのです。神様がいらっしゃるので、そうなるというのです。公的な思潮が退廃するということは何かといえば、この世的な面が栄えるという意味です。どの文化圏でも栄えたのちには、必ず滅びるのです。

 なぜそうなのでしょうか。人倫道徳が、人のために生きようとする思想がなくなるために衰退するのです。そして、失敗した人、貧しい人々がお金を一銭でも多く集めようとするでしょう。そのような世の中は、滅びるようになっています。そこで、反対になる思想が出てこなければなりません。したがって、極と極から新しい善の文明が出発するということを、皆さんは知らなければなりません。

 このような観点から見るとき、すべてが確実でなければなりません。自分を犠牲にし、自分の全体を忘れ、公的な方面に行こうとする人は、発展するようになっています。これが先生の観であり、神様が見る観です。

 ですから、皆さんは食べても寝ても、この原則から抜け出してはならないのです。この原則から抜け出す人は完全復帰の道を発見できないということを、はっきりと悟るように願います。


















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訓教経(下)019



文鮮明先生のみ言集

訓教経(下)



統一方案と私


一九七二年六月一日
韓国の南山聖地 『文鮮明先生み言選集第六十一巻』


 堕落の歴史をたどってきた人間においては、人と人同士の間に隔たりが生じたということを私たちは知っています。そういう隔たりはアダムとエバから始まり、それが歴史をたどりながら、数多くの族属の間に生じ、数多くの国家と国家の間に生じたことを知っています。

 人間同士の関係だけでなく、神様と人間の間にもやはり壁が生じました。また、善の主体であられる神様と悪の主体的立場で善に反対している悪神の間にも、このような壁が生じたのです。堕落によって、統一の運勢というものをこの宇宙は、またこの天宙は迎えられなかったというのです。そういう立場に立っている天と地であり、その中で生きている数多くの国家であり、その中で生きている私たち人間なのです。

 私たち個人について見ても、私たち自体内で心と体に隔たりがあるのです。心と体をどのように一つにするかということが、今までの人類歴史の苦労の基盤であり、その道を解決するために今でも歴史は一つの方向に進んでいっているというのです。そういう立場で、私たちは生きています。

◆統一の道は個人から開始しなければ


 今日この世界は平和を願っています。万民は一つの統一された理想世界を夢見ています。その理想世界というのは、私たち個人個人を通じなくては成すことができないのです。私たち個人個人がそのような理想の基盤を確保し、その環境を広める過程をたどらずには、その世界に到達できないのです。

 このように考えるとき、統一のその日が来るのをどこから迎えなければなりませんか。歴史の終末時代であるこの時に、世界を中心としてその日を迎えることができるかという問題を考えれば考えるほど、これは不可能だと結論づけられるのです。また、国を中心としてそれが可能なのかというと、これも不可能なことなのです。私たちが一つの社会を見ても、社会でも互いに競争しています。互いに紛争しているのです。家庭を中心として見ても、相反した立場をとるという、そういう関係があることを私たちは知っています。

 さらには、私たち個人においても体と心が闘争しているのを見ると、この平和の道、統一の道というものを他の所で求めるのではなく、私たち個人から模索するほかに道はないのです。ある一人が完全に天を代表し、地を代表し、国家を代表し、あるいは民族を代表し、特定の家庭を代表し、全人類を代表して、統一された実体を成し遂げずには、統一の出発をすることができないのです。人類がこのような歴史過程をたどってきたということを知っている私たちにとって、問題は一人の人なのです。

 その一人は天を代表しており、この地を代表しており、歴史を代表しており、人類を代表しており、全体を代表した一人の人間として統一された自我、すなわちそのような人格をもって来る中心存在なのです。そのような存在なくして統一であるとか、理想であるとか、平和の世界とかいうものは、私たちがどんなに待ち焦がれたとしても、成すことができないのです。

 それゆえ神様は、一つの中心を探しているのです。では、その中心をどのように立てなければなりませんか。その中心を世界で立てようとするよりも、まず個人で立てなければならないのです。個人を中心とした世界的な一人の代表者が現れずには、統一的な出発をすることができないために、天はこの一人の中心を探してきたということを、私たちは知らなければなりません。

 この一人が立つことができる場が、メシヤが立つことができる場であり、その一人が現れることが歴史的な願いであり、のみならず摂理的な目的でもあるのです。この一人が現れることによって初めて、この一人は天に代わることができる個人的な出発をすることができ、また統一され得ない人間を代表し、統一された一つの標準になることができるのです。

 この一人は心と体が一つになれると同時に、初めて統一的な一人の個人が成立することによって、その個人を通じて家庭を形成することができるのです。完全な一人が現れることによって、その完全な一人を標準とし環境を収拾できる相対的立場をとるようになれば、その一人の男性を通して、一人の女性を統一するようになるので、ここで初めて一つの家庭が出発することができるのです。その家庭を中心として見ると、その家庭を代表した父母は宇宙を代表し、こうあるべきだという一つのモデルが生じることができるのです。

 その父母を中心として生まれた息子と娘は、父母と完全に一つになることができなければなりません。この地上に数多くの子女たちがいますが、その子女が標準的な子女と一つになれる立場に連結しなければなりません。言い換えれば、父母は父母なりに連結することができる代表的な中心を設定しなければならず、子女は子女なりに中心を代表できる、その中心と一つになれる道をえり分けなければなりません。

 それで、父母と子が一つになるという立場を世界の多くの家庭が標準として、一つになる道についていくことによって初めて、一つの家庭的な統一運勢が起きるのです。その家庭を通して氏族、氏族を通して民族、民族を通して国家、国家を通して世界へと、このような発展的な過程をたどらずには、世界まで統一する役事を私たちは果たすことができません。

◆中心存在は神様の愛で相対的環境を再創造


 ですから、あくまでも天を主としたその中心的な存在が問題になるのです。その中心的な存在が行く道、その個人は何のための歩みをするのでしょうか。個人のための歩みではないのです。その個人は家庭をたどっていかなければならず、世界へと行く道を歩まなければならないのです。その個人が世界だけでなく天地を統一して、神様と永遠な愛で結ばれることができる勝利の一時を迎えるようになる時、初めて人間が願う愛の世界、平和の世界が繰り広げられるのです。

 言い換えれば、統一的な基盤を人間同士の間で備えたとしても、その中に神様の愛が投入されなければ、その世界がどんなに統一の形態を備えたとしても、理想にはなれないのです。神様の愛を中心として永遠の世界が繰り広げられるのであり、神様の愛を中心として平和の世界が繰り広げられるのであって、自分の利益を中心とした、人間の変化する愛を中心としては、平和の世界、統一の世界は成されないのです。

 このように、個人から家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙まで行ける中心点を連結させることができる道がなければなりません。その道は、発展できる道でなければなりません。発展するためにはより大きく、より広い環境と因縁を結ばなければなりません。このように考えると、この地上に天が送った中心存在が来て何をするのかといえば、主体である自分を中心として、相対的環境を再創造して、相対的な価値の存在を設定することなのです。

 その中心存在が一人の男性として来れば、その男性は一人の女性を再創造しなければならないのです。そうして一つの夫婦を築いたならば、その夫婦は子女を中心として家庭を築き、その家庭を一つの母体として全体の環境を、再創造の環境へと進めていかなければなりません。家庭は氏族に、氏族は民族に、民族は国家に、国家は世界へと漸進的発展をたどっていかなければならないというのです。

 では、今この地上に生きている人間にとって問題になることとは何でしょうか。自分が立てる中心を探すことができずにいることなのです。ある中心を標準として、私自体を収拾してえり分け、その中心と一つになることができる自我を、どのように確保するかということを知らずにいるというのです。それゆえ、この中心存在を探して一つにならなければならないのです。

 その次に、家庭を中心として見ると、家庭も同じです。世界に散っている家庭は、この家庭を標準にして一つの形態を備えなければならないのです。また、家庭は氏族を中心として一つの形態を備えなければなりません。民族もやはり同様であり、国家も同様であり、世界も同様です。天地も、やはりそのような道を歩まざるを得ないのです。

 では、この中心存在が行くべき直線路線とは、いかなる道でしょうか。これは再創造の道であると同時に、開拓の道に違いありません。開拓の道であると同時に、漸進的に発展する道であるために、個人から家庭へと移行するには、そのまま移行することはできないのです。家庭を成すためには、家庭が成り立ち、家庭が完成する時まで犠牲になり、自らのすべての力を投入しなければなりません。それは避けられない結論です。

 その中心存在が行かなければならない正しい方向は、個人を犠牲にして、家庭を探していく賭けをしなければならないのです。その次には、家庭を探してその家庭を中心として、中心的な家庭が設定されたならば、その家庭は氏族のために犠牲になり、その氏族の中心として発展していかざるを得ないのです。

 また、その氏族は氏族自体を中心として、そこに落ち着いて自分たちのための立場に立っては、統一の世界、また平和の世界は訪れないのです。氏族ならば氏族を犠牲にして民族を収拾しなければならず、その民族が氏族を拡大した一つの統一的な民族として現れるようになって、初めてこの世界民族の中心を備えることができるのではないでしょうか。このように見ると、その中心が率いる氏族が犠牲とならずには、民族的発展を拡大することはできないのではないでしょうか。したがって、犠牲にならなければならないのです。

 民族も、やはり同じです。民族が一つの国家を形成するためにはどのようにしなければなりませんか。その民族を中心として全体が一つになることは不可能なのです。歴史をそのようにたどり、そういう願いをもってきましたが、一つになれなかったのを見ると、その民族を中心としては自動的に順応し統一されないのではないでしょうか。このような観点で見ると、この民族も、やはり全世界の民族の前に犠牲になり、自分と一つになれる道を模索してあげるという賭けをしなくては、一つの統一的国家を形成できないのではないでしょうか。それは言うまでもないことなのです。

 このように見ると、一つの国が形成されたならば、その国を中心として自動的に世界が統一されるのではありません。世界に向かって一つになることができる作用を提示するためには、その国もやはり犠牲となり、開拓の道を通らざるを得ないのです。それで、その世界がその国を中心として統一的な環境を備えるとき、初めてこの地球星に平和の起源が成されるのであって、そのほかにはどんなに期待しても、平和はどこに来るのかという問題については、方向を見分けることができないのです。

 そこには完全な一つの中心存在が現れて、個人から、家庭、氏族、民族、国家を経て、世界まで統一的な形態を備えるところにおいて初めて平和が成されるために、この統一の道というのはそのまま成されるのではないのです。ここに、莫大な犠牲の代価を払わずには成すことができないという結論を下すことができます。

◆統一できるただ一つの秘法


 これから、統一をするためにはどうしなければならないかということが問題になるのです。一つの道についてお互いが自分を主張して、自分自身のためにすべてを吸収する道だけを探すならば、統一は成されないのです。統一できるただ一つの秘法は、ある特定の一箇所で、他の所のために犠牲になり影響を及ぼすことです。そうして、その主導権を誰がつかんでいくのですか。上から下までその影響を受けて、そこに順応せざるを得ない主体的環境の基盤を分かつところでのみ、統一方案を考えるしかないということが自動的な結論なのです。

 これは、私たち個人について見ても同じです。私たちの体と心を一つにするところにおいて、体は体なりに、心は心なりに互いに主張する立場では、統一は不可能なのです。心ならば心自体が中心になって、体のために犠牲になりながら、どんなに困難な外的環境があっても、そのすべてを克服する主導的な力をもった良心的な人ならば、どんなに体が困難な環境を抜け出そうとしても、抜け出せないようにこれを引っ張っていくことができるということを私たちは知ることができるのです。

 それと同様に、全体の環境がその影響を受けまいとしても受けざるを得ない主体的な使命を、あるいは中心的な使命をすることによって統一が起きるのです。皆さんの友人関係においても、互いに仲が悪くなったとき、もう一度良い絆を結ぶためには、それまで以上に苦労をしなければ昔以上の良い環境を、あるいは友人関係を見つけることができないのです。

 これと同様に、私たちが統一を願うときにも、主体的に使命に耐えて責任を全うすることによって、責任をもったすべての結果を全体が公認して、全体が順応できる一つの立場を設定するところでのみ統一の望みがあるのです。世の中のこともそうですが、天の摂理のみ旨も同じです。

 それゆえ、天は今までこの地上に一つの中心存在を送るために、数千年という長い歳月を通じて犠牲になりました。そのように数千年間犠牲になり、統一するために努力しましたが、統一できませんでした。今日の歴史時代を統一するには、数千年の歴史的受難を蕩減できる基台の上でのみ統一できるのであって、その基台以下では統一できないというのが原理の観なのです。

 今日、歴史時代のすべての受難の責任を負うことができる人とは、歴史時代の受難の実として現れた困難があれば、その困難を自分のこととして消化するために責任をもっていく人なのです。そのような人は、たとえ現在に生きていても、歴史的なすべての悲しみ、歴史的に統一の因縁を結べなかった、そのすべての内容を越えることを覚悟した人だと見ざるを得ないのです。

 このような観点で見ると、メシヤという中心存在が出てくれば、そのメシヤも当然この世界の平和を願うはずです。彼が立つべき立場はいかなる立場かといえば、今まで歴史時代の受難の道に残ったことをどのように消化して、どのように押し出すかという立場で、その環境に押し出されていくという立場でなく、その環境を追い出すことができる決定的な中心存在の立場です。そのような立場を確保せずには、歴史的に待ち焦がれてきた統一の起源を準備できないのです。

 皆さん自身について見るときも、同じです。皆さんも新しい道を行かなければなりません。心と体が一つになっていない人が、「それを自分の思いのままにできる人になる」と言うならば、その人が新しい人になるためには、自分が生きてきた一生で誤ったすべてを一掃してしまうことができる主体的な決意をし、その場で、今まで間違った環境的なすべての与件を押し出すことができるところから、初めて一つの新しい人格が出発するのです。

 このような観点で見ると、今日この国、この民族を中心として統一を願えば願うほど、歴史的な韓民族の受難の道を越えることができる新しい決意をどこから模索するのかという問題を、私たちは考えてみなければなりません。

 現在のこの難しい問題に責任を負うことができ、その主体的な使命を誰が成すのかということが、最も重要な問題だと見ているのです。

 このような観点で見ると、今日食口たちは、統一の理念をもって現れたのです。「宗教を代表して宗教を統一してみよう。宗教統一を拡大して国家統一を成し、国家統一を経て世界統一の理念を、どんな面であれ、展開できれば展開してみよう」と努力するために現れた群れなのです。

◆主体の前に絶対服従することが統一の出発点


 では、彼らが行くべき道はどんな道かといえば、一つの道しかありません。個人から家庭へ進まなければならず、家庭から氏族へ進まなければならず、氏族から民族、民族から国家、国家から世界へ、世界からは天宙に、天宙を経て神様の世界を抱いて、自由に愛し得るその立場まで進まなければならないのです。このように一方通行の道しかないのです。

 御飯を食べるのも、この道のために、一生を犠牲にしてもこの道を開拓するために、この道を拡大するために行かなければならない運命を担った者が、皆さんです。また、皆さんだけでなく、世界人類がそういう悲運に包まれているのです。その道を開拓することは、簡単ではないのです。

 私たち個人個人が、心と体を統一することができない自分を見ると、失望するようになります。心はこのように願うのに、体はその反対を願います。使徒パウロも、やはり心と体が願わない道に行っていることを知って、心は願うが体は反対であるので、肉体が弱いという立場で嘆息したということを私たちは知っています。

 この心と体を一つにするために歴史が動員されて、戦ってきました。ここには神様の摂理も加わり、サタンも加わって戦ってきています。このような私を、どのように思いのままにできるようにするかということが最も大きな問題です。

 これは、堕落した私たち自身では成せないというのです。そこに堕落しない本然の一つの人格を標準にして、そこに連結させるための運動をすることが歴史時代の宗教の使命なのです。それゆえメシヤ思想は、宗教を中心としていなければならないのです。

 メシヤが来る時は一人で来るものの、彼は自分一人の歴史をもって来るのではありません。これは天の歴史を代表し、人類歴史を代表してすべての受難の道を越えて、統一的な価値をもって来るべき方ではありませんか。彼には、歴史の悲しみが宿っているのです。その歴史の悲しみを打倒するために、誰よりも決意した信念をもって、戦って勝利できる自身の歴史をもって来なければならないのです。彼と共に一つになるところでのみ、統一の出発をすることができるのです。

 今日御飯を食べて生きることは、現在のためだけではありません。結婚していない未成年者たちは、何のために戦っていかなければならないかといえば、真の個人を探すために戦うことはもちろんですが、真の個人が一つの中心とともに相対を備えるために戦っていくのです。その主体が願うことにおいて、相対としてできないことがないというのです。それを「できない」と言うときには、統一は不可能なのです。

 できないというこの条件を自分が知りながらも、いまだにもっているときには、その主体と私とはそれくらいの距離が生じるのです。その主体の前に「すべきだ」と言うときは、できないという一切の内容が成立してはならないのです。そのような立場に立たないためには、主体の前に絶対服従しろというのです。絶対服従とはどういうことですか。順応できない内容を完全に否定してしまおうというのです。順応できないことに比例して、反発する内容が残るために、これを完全に除去させるためには絶対従順、絶対服従が必要なのです。これだけが解決の方案です。これが最後の結論であらざるを得ないのです。

 それゆえ「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」(マタイ二二・三七)と言うのです。その言葉は、死を覚悟して命を懸けて立ち向かえということなのです。堕落した人間が自分の主張ができる内容があるというようになれば、それは天と完全に一つになれないのです。そこに「自分を弁解できる環境がある」と言えば、その環境と自分の弁解の要件が、この前に妨げの道になるのであり、壁になるのです。妨げの道と壁を完全に壊そうとするなら、神様を中心として絶対服従しろというのです。

 それゆえ、イエス様もゲッセマネの園で祈祷したこととは何かといえば、私の思いどおりになるなということなのです。「わが父よ、……わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ二六・三九)と言った、その帰結点を願わざるを得ないのです。

 メシヤとして世の人を代表して来たがゆえに、人間の事情をよく知っているメシヤ、すなわちイエス様は、人間を代表して立つときは天の前に相反し、天を代表して立つときは人間の前に相反します。この食い違った道で、二者択一をしなければならないのですが、そうするのに人間世界の側に立ったなら、天との壁がふさがってしまいます。そのようなことができる立場に立っているのがメシヤです。かといって、これを捨てることができない立場に立っているのが、またメシヤなのです。

 それゆえ私のみ旨も、すなわち救い主として人間を救うためのみ旨もありますが、不純の要因を容認しない神様のみ旨を中心として見ると、自分を否定して天のみ旨を主張して立たざるを得ない、メシヤの苦しい立場を、私たちはここでうかがうことができるのです。

 それと同様に、イエス様も、自分の思いを中心としないで、完全否定の立場をわきまえて逝ったのです。そこにおいては、絶対服従です。ここで初めて、イエス様が死んで復活できる道が開けたのです。もし自らの思いを強調して自分の弁解をしたならば、復活も何もないのです。それは避けられない結論なのです。

◆統一方案は愛


 このように見ると、私たちはみ旨の道をどのように前進させ、発展させるのですか。個人は家庭のために統一しなければなりません。統一するためには犠牲にならなければなりません。統一するためには再創造の歴史がなければなりません。再創造の歴史とは何かといえば、自分のエネルギーを投入することです。

 創造歴史とは何でしょうか。神様自身も万物を造るとき、ただ考えどおり造ったのではありません。そこには、自らの力とエネルギーを投入しました。

 自分から消耗戦争をしたのです。これが完全に投入されたあとには、そのまま帰ってこれないのです。帰ってくる時には、何が帰ってくるのですか。愛というものが帰ってくるのです。言い換えれば、十ほどの力を投入したのですが、その十ほどの力の投入を受けて十ほどの価値の対象になったのに、その対象がどのように十以上の力で帰ってこれる道を発見するのですか。それを発見しなくては、神様も継続的な作用、継続的な意欲、継続的な希望をもてないのです。

 帰ってくる時には、何を中心として帰ってくるのですか。ただ投入された力のままでは駄目なのです。そこには愛というものがあるというのです。その愛は何でしょうか。十ぐらいプラスになったものが、自らの理念全体に代わるものに合わさって帰ってくるために、神様はすべてを犠牲にして投入しても喜ぶことができるのです。言い換えれば、愛がなければ帰ってこれないのです。

 父母が子を愛する時は、すべてを与えます。みな投入します。父母がそのように投入し、子が自分の愛の心に対して喜ぶその顔を見るとき、またその父母を喜んでくれて父母の愛する姿を懐かしがるのを見るとき、父母の苦労はここで喜びに変わるのです。このように喜ぶことができるのは、愛を除いてはあり得ないというのです。

 「喜び」という言葉、「幸福」という言葉、あるいは「理想」という言葉は、すべて一人についての言葉ではありません。皆さんは、一人で喜べますか。喜べないのです。一人で喜んだところで、それは良いことではあり得ないのです。一人で理想を夢見たところで、それは理想になれないのです。

 愛も同じです。「愛」も孤立的な個体を中心としてなされるのではありません。相対的観念です。その相対的観念を一つに結んであげられるものとは何でしょうか。知識でもなく、人間の権力でもありません。それは愛しかないのです。

 それゆえ、統一方案は愛です。人間と神様の間の隔たりを統一するのは、人格ではありません。他のどんなことでもなく、愛です。神様から始まる愛を、完全に受けることができる立場に立つのです。

 その愛を受けるための立場に立とうとすれば、完全に一つにならなければなりません。完全に一つになるには、同じ立場で一つになるのではありません。主体と対象の立場で一つにならなければなりません。主体と対象の立場で一つになるには、主体は完全に与えようとしなければならず、主体が完全に与えようとするその場で、対象は完全に受けようとしなければならないのです。こういう関係にならなければなりません。

 百を与えようとする主体がいれば、「私は百を受けなければならない」と言わなければならないのです。百を受けようとすれば、私に自分というものを残しておいては受けることができません。天が百を与えようとするのに、私たち人間が、自分という考えとか、自分という主張とか、自分の何かを中心とし、自分の欲望を中心として受けようとすれば、またそれを残して受けようとすれば、百を満たし得る立場が生じません。自分の欲望があり希望があれば、それが八十、七十、六十、五十になるではありませんか。百をみな受けることができないのです。

 それゆえ百を完全に受けようとするならば、自分がもっているすべてを空にし、すべてをなくして、すべてを否認しなさいというのです。その立場とは、どんな立場でしょうか。全体を捨てて絶対服従する立場です。完全に服従していくようになれば、その人を占領できるというのです。

 孝子とは何でしょうか。父母の意志、父母の言葉など、父母の一切の前に、服従する行動をとる人が孝子です。忠臣もそうではないですか。愛国者も、国のためにすべて服従し祭物になった人ではないかというのです。そのようになっています。

 例えて言えば、最高の高気圧圏に最下の低気圧圏が生じると、ここにはものすごい台風圏が起きます。もしそこに遮る人がいれば、すべて巻き込まれていきます。それは、どれほど速いでしょうか。高ければ高いほど、空であればあるほど、真空になればなるほど、これが一時に一つになるのです。そうではありませんか。その統一の強度というのは、その差が大きければ大きいほど強いというのです。それゆえ、今日信仰世界において、「服従」という術語が、どれほど有り難いかを知らなければなりません。

 言い換えれば、台風が吹いてくるときに、それが強い台風であるほど、高気圧圏と低気圧圏が合う所で完全に真空状態が起きれば、これは急速に吸い込まれていきます。滝は流れる水よりもはるかに速いのです。それと同様に、これは滝のように降り注ぐのです。これを妨げる力がありません。みな散らばっていきます。

 神様が高気圧圏の愛をもっていて、人間は低気圧圏として欽慕の対象になるならば、その間に吹く愛の力で連結されれば、妨げる何もないのです。

◆犠牲と服従は統一の元肥


 一家庭について見てもそうではないですか。夫に対して絶対順応するようになれば、順応したその妻は、夫を完全に占領してしまうのです。そうでありませんか。父母の前に絶対順応するその息子は、父母のすべてを占領できるのです。そこで主体的権限を堂々と主張できるのです。それゆえ父母は、そのような息子と娘があれば、その息子、娘にすべてを相続させようとするのです。同じなのです。

 こういう観点で見ると、信仰するときにどうして「天を中心として絶対服従」という言葉が出てきたのでしょうか。堕落した人間から見れば、これは息が詰まるように嫌な言葉ですが、神側から見るときには、ものすごい贈り物です。

 従順ということが悪いことだと思ったのに、従順になったあとは、その環境に私が参席できるのです。そうではないですか。難しい環境でお互いが志を立てて、そのみ旨の前に絶対服従する人は、早く成功するのです。また、成功するところにお互いが加担し、その道を一緒に行った人は、成功した立場に共に参席できるのです。同様の理致なのです。

 それゆえ、人は決心したなら直行しろというのです。直行しようとするなら、決心したその目標の前に絶対服従しなければならないのです。服従しない人は成功できません。服従すれば成功します。そのようになっています。

 それゆえ今日、まして統一の道を願い、み旨がこの地上に成されることを願う群れは、天が既に主体になっているということを知らなければなりません。その主体が行くべき方向がどうだということも知らなければなりません。個人は家庭のために犠牲になり、家庭は氏族のために、氏族は民族に、民族は国家のために犠牲にならなければならないという段階的な前進路程を、すべて知るべきだというのです。

 ここで、私たちが投入しなければならないことは何でしょうか。自分自身を投入しなければならないのです。心と体を別々に投入するのではなく、心と体を一つにして、一度にすべて投入しなければなりません。

 自分が犠牲になる立場に出るようになれば、そうなのです。犠牲の立場が悪いと思っていたのに、ある目的のために犠牲になってしまえば、心と体が自動的に統一された価値をもって、そこに参加することになるのです。

 心と体が一つにならなくて闘う私自身ですが、ある目的のために犠牲になろうと、「命まで投入する」と言って立つときには、心と体は統一された立場で投入されるのです。死の立場を覚悟して立つというのは、既に統一されたのです。その目的に対しては、心と体が二股ではなくて、一つになったのです。

 人は、何を中心として分かれたのですか。生死の問題によって分かれたのです。生命を中心として心と体が闘っているほどに、一つの死の道を中心として犠牲になると立ち上がることは、それ自体は既に統一性を備えているのです。それゆえ、犠牲になった祭物の前には頭を下げるのです。皆さんも祭物の前に頭を下げるでしょう。祭物の前に、なぜ頭を下げるのですか。これは犠牲になったからなのです。主体の前に犠牲になったので、彼は完全に一つになった立場を表したのです。そのような価値が設定されるのです。

 それゆえ父母が子を愛するときには、心と体を別々に愛するのではありません。一つです。それで貴いというのです。けれども、子が父母を愛するときは、心と体が一つになったのではありません。心と体が一つになっていないのです。しかし、唯一父母が子を愛するときには、生命を超えて愛するのです。これは既に愛を中心として一つになったというのです。

 それゆえ、この地上の人間世界がたとえ堕落した世界ではあっても、父母の愛が一つの情緒的な根になっているというのです。

 では神様のみ旨を中心として見ると、神様のみ旨をどのように成し遂げるのでしょうか。神様を絶対視しなければなりません。神様は主体であられます。私たちは主体であられる神様を中心として、対象の立場で完全に犠牲を覚悟して、完全に一つになれる立場ですべてを克服しなければなりません。「何千年たっても私は落ちることができない。何万年の受難の道でも私は行かずにおれない」という決心を越えれば、信じるままになるというのです。このような立場で、天をつかんで死を覚悟して飛び込むようになれば、統一の源泉は開くようになるのです。

 それゆえ、絶対服従の極みは、生命の終わりまで服従の道を催促するのです。これが人間世界にとって悪いことでしょうか。違います。これは、堕落した人間世界において、統一する一つの秘法になるのです。

 皆さんが、今現在に現れた情勢を見るとき、そのようなことができる自身になっていますか。全体が一つになって、統一ということを中心として、自分の一切を犠牲にしてしまい一線を確保して、北方ならば北方全般にわたり、その影響を及ぼすことができる主体的権限だけをもつならば、私たちは一歩前進するようになるのです。相対しようとしたのにもかかわらず、その人々が相対してくれないで、退くときは私たちが退くのではなく、その人々が退くことになるために、そのまま決心をして出ていくようになれば、私たちは退いた立場と同じくらい前進できるのです。ここから、統一の道は始まるのです。

 南北韓を中心として見ると、私たちが、韓国にとって一番難しいことを踏んで越えることができる群れになってこそ、統一的な主体者になるのです。このような観点から、私たちは民族のために犠牲になろうというのです。

◆神様の喜びは統一を通じて


 私たちは、今や行く道を知りました。結婚していない男性は、神様のみ旨を中心として家庭を探していくのです。家庭を探し祝福を受けるためには、すべてにおいて個人的に犠牲になることができなければなりません。そのように、犠牲になることを願う目的観の前に、全体を吸収することができる完全なマイナス的存在の男性と女性が一つに合わさるようになります。この男性と女性が一つに合わさっても、主体の前にはやはり完全なマイナスです。

 この夫婦というのはどこへ行くのでしょうか。み旨というその道に向かって、二人が合わさって氏族のために投入するのです。氏族は、民族のために投入するのです。民族は、国家のために投入するのです。国家は、世界のために投入するのです。世界は、天宙のために投入するのです。天宙は、神様のために投入するのです。一番最後は、神様の愛なのです。信仰と希望と愛、この三つは常にありますが、その中で一番は愛だというので、一番最後に残るのが神様の愛なのです。

 今まで悲しかった神様の顔に、喜びの顔色が広がるようにしようとすれば、今まで悲しかったこと以上の良いことが起こらなければ、喜びの明るい顔が表れないのではないですか。それが原則です。父母が憤り怒っているのに、「お母さん、お父さん、どうしたんですか。喜んでください」と言えば喜ぶでしょうか。無理なことだというのです。憤るようにした、悲しかったその事情以上の何かをもって見せてあげるとか、それ以上の価値のものを父母の前に因縁づけることによって、初めて父母は悲しかったことを越えて、喜ぶことのできる道が現れてくるのです。

 このような原則を見ると、一番最後に天地が初めて統一できる内容をもって、人類が堕落することによって悲痛であった神様の心を慰労できる道を人間が模索することができ、あるいは刺激を与えることができてのみ、神様に喜びが与えられるのです。それは、とやかく言う必要がありません。このような過程をたどるところでのみ、初めて統一の日が来て、統一の環境が来るだろうと見るのです。

 それゆえ、目的のために絶対順応しなければならず、絶対服従しなければならないのです。そうでない人は成功できません。世の中がそうだというのです。

 主体の前に絶対服従しなければなりません。家庭は個人の主体であり、氏族は家庭の主体であり、民族は氏族の主体であり、国家は民族の主体であり、世界は国家の主体であり、天宙はこの被造世界の主体です。被造世界の主体の天宙が、主体の立場で終わりまで来ましたが、それが主体に立つことができません。神様の愛の前には対象に立たなければなりません。対象に立たなければならない立場に立っているので被造世界は絶対服従圏であり、絶対従順圏です。絶対犠牲になるべき運命に立っているのです。そのようにさえなれば、神様の愛は自動的に分かるのです。

 それゆえ私たちの行く道を知らなければなりません。個人は家庭のために犠牲にならなければならず、家庭は氏族のために犠牲にならなければならず、氏族は民族のために、民族は国家のために犠牲にならなければならないのです。

◆祭物の姿勢


 完全な主体であられる神様の前に私たちが立つときには、今まで個人も主体としての環境を収拾し発展的な主体を立ててきましたが、個人の前に国家が主体であり、国家は世界の前に対象になって、世界は国家の前に主体になります。世界は天宙を主体としますが、この主体がいつも主体で終わっては理想がないのです。

 主体だけがあっていいですか。相対を迎えてこそ理想が出てきます。それゆえ、思春期になれば男性は男性自身だけを考えるのではありません。誰を考えるかといえば、相対になる女性を考えるのです。女性を考えて思春期が始まるのです。その時は、自分だけを考える人はいないのです。

 それゆえ、良い悪いということは自分を考えるところから始まるのではありません。それを知らなければなりません。良いというその出発が、自分を考えるところから始まるのではありません。相対から始まったゆえに、相対のためになるところから出発するのです。

 男性は、男性のために生まれたのではなく女性のために生まれ、女性は、女性のために生まれたのではなく男性のために生まれたのです。生まれたのは、自分のためではありません。自分のために生まれたのではない者たちなのに、自分を主張しているのです。自分を中心とした思想を壊してしまわなければなりません。それだけ壊してしまえば、統一の世界は開かれるというのです。

 サタンが堕落したのは、自己覚醒からです。そこから堕落が始まりました。自分が残っている人は復帰されないのです。み旨に対して弁解することは、エデンの園でエバに対し弁解した天使長と同じです。天を訪ねていくには、感謝と満足しかないのです。皆さんはそれをえり分けておかなければなりません。祭物が不平を言えば、大事が起きるというのです。

 アブラハムがイサクをぎゅうぎゅうに縛って祭物として差し出そうとするとき、イサクが反抗したとするなら、それが祭物なりますか。お父さんが自分をぎゅうぎゅうに縛っても「お父さんに何か訳があるのだろう。お父さんのしたいとおりにしてください」と言いながら、「私をここまで連れてきたお父さんが、私を殺そうとするんだな」という考えをせずに、思いどおりにしてもかまわないと考えなければならないのです。反抗する日には、大事が起きるというのです。刀を持って立つお父さんに対して、反抗しながら足でけ飛ばしたならば、それが祭物になるでしょうか。

 イエス様は、言うならば小羊です。小羊に力がありますか。羊というのは本来、毛を刈っても反抗することのない、すなわち従順屈服する代表的な存在です。羊も大きい羊ではありません。イエス様を小羊といいました。それは何のことかといえば、服従の祭物をいうのです。反抗の祭物ではありません。そうでなくては天国へ行くことができません。

 天国は、順応の世界です。完全なプラスの前に、完全な対象になるためのものです。

 烈女とはどのような人でしょうか。夫しか知らない人が烈女です。孝子とはどのような人でしょうか。父母しか知らない人が孝子です。忠臣とはどのような人でしょうか。国王しか知らない人が忠臣です。愛国者は、その国民とその国しか知らない人です。それゆえ愛国者は、自分の妻もけってしまい、自分の息子、娘が犠牲になる立場に入っていって身を滅ぼしたとしても、国だけを考えるのです。

 寝ても覚めても、食べて寝ることすべてを自分のためにする人々は、神様の怨 讐です。食べることもみ旨のために、あなたのために、寝ることもあなたのために、行くこともあなたのために、生まれたこともあなたのために、死ぬこともあなたのために、これがどれほどすてきな相対かというのです。

 理想相対とは、そのような立場に立った人たちのことです。理想世界は、どこから始まりますか。そういうところで一つになって、初めて始まるのです。そうしてこそ、「全体を犠牲にして探したことが、初めて成されるのでどれほど良いことか」というようなことが起きるのです。

 それゆえ宗教では「服従しろ」と言います。自由がありません。孝子の行く道は父母の前に自由がないのです。忠臣が行く道は国王の前に自由がありません。自由がないことが悪いのですか。それが幸福な道なのです。

◆私たちがもたなければならない統一方案の姿勢


 私たちは、いかなる姿勢をとるべきでしょうか。統一方案の姿勢をもたなければなりません。統一方案の姿勢とはどんなものですか。問題はそれです。そのみ旨の前に、あるいは目的の前に絶対服従することです。私たちは神様のみ旨を知りました。そのみ旨を中心にするにも、神様の愛と心情を中心として絶対服従しなさいというのです。そこで神様の愛を中心として絶対服従するとき、自らの力量以上に尽くしたというときには、かまわないのです。それ以上できないということを知ったとき、それ以上できない人間の限界線を知っているために、その責任を全うしたあとには神様に責任があるのであって、人間に責任があるのではありません。

 皆さん、大きい碾き臼を知っていますか。碾き臼の間に穀物を入れて回せば、皮がむけます。皮がむける間にふるわれて、弱いものはみな引き裂かれて糠になり、屑米になって押されていくのです。それゆえ、固く完全に実った人でこそ、碾き臼に回されれば、主人が願う完全な米ならば米として収められるのではないかというのです。弱いものはねじり出されるのです。

 私は誰のために生きているかということなのです。「生きんとする者は死に、死なんとする者は生きん」と言いました。聖書のみ言は真によく教えてくれました。宇宙の原則を中心としてよく教えてくれたのです。このような問題について見ると、否定できない事実なのです。

 成功を願う人がいるならば、その目的のために犠牲になる生活をしなければなりません。そういう人は早く出世するのです。勉強する人、国家試験ならば国家試験を中心としてその目的を願う時、昼も夜も犠牲になり、そこに絶対服従し、時間を投入して全生命を投入すれば、その試験にパスする成功の時間が近づくのです。それは理致です。神様のみ旨を成すことも同じです。それゆえ先生は、皆さんを投入するのです。

 そうしたなら、滅びるかというのです。先生が滅びましたか。界隈では成功した人なのです。私にはうらやましいことはありません。どこへ行ってもとどまる所があり、どの国でも行こうとすれば行くことができる基盤をすべて築いておきました。この道を行ってみると間違いない道であるので、神様が生きている限り、天がある限り、この道は必ず残るようになっているのです。そのようなことが残ってこそ、神様が悪なるサタンの世の中に威信を立てることができるのです。ですから「死なんとする者は生きる」という言葉、統一はそこから起きるのです。

◆統一の道


 統一できる道を知らなければ行けませんが、知っている群れにおいては、行かないことが怨 讐です。その道は絶対服従であり、従順の道であるので、服従し従順に行くことによって何が起きますか。私が国のために犠牲になり服従し従順にしようと立ち上がるならば、氏族は既に統一された価値の立場に決定づけられるのです。私個人、家庭、氏族、このように闘っていかなければならないのに、国のために一度に犠牲になろうと飛び込めば、どうなるでしょうか。個人統一、家庭統一、氏族統一をすることができなかったとしても、国を統一するために犠牲になれば、氏族統一をして飛び越える立場に行くことができるのです。

 皆さんが愛国者だというとき、その愛国者がみな近所で孝行した人ですか。そのように思いますか。また、今まで生きるときに全体が仰ぎ見るように生活した人ではないのです。国が困難で滅びるその時に出て行き、独り国のために犠牲になっていくようになれば、これは氏族の上に立つのです。それは何の話かというと、個人、家庭、氏族圏は勝利的結果を収められなかったとしても、ジャンプして国のために自分を犠牲にする覚悟で立つならば、氏族勝利圏は取り戻せるというのです。

 このように考えるようになれば、先生の思想が真に見事だというのです。「天宙のために私は死ぬ」と言って立つならば、世界勝利圏を占めるようになります。また「神様の愛のために私は狂った。神様の愛の世界のために私は生きる」と、こうなれば天宙を越えられるのです。

◆統一は血の汗と犠牲と服従と順応の道でなされる


 今私たちは、統一方案を知りました。皆さんは統一族属になって、統一国のために犠牲にならなければなりません。

 問題は「すべてを克服できることならば、私一人をみ旨のために捧げよう。困難な立場があれば、私がまず行ってそれを成し遂げなければならない」と考えるのです。それのほかに統一の方案はありません。成功の道はそれしかないのです。

 そのためには祭物が必要なのです。捧げる時、かすを捧げることができますか。村で氏神に祭祀を捧げるとき、牛をほふるにしても、欠陥のあるものを買ってきてほふりますか。そうではありません。一番良い雌の子牛を選びます。村の氏神に捧げる牛も、良い牛をよりすぐります。ところが死ぬようなもの、今は生きる道がなくて、こうしてもああしても死ぬようなもの、それは神様も嫌うというのです。それは祭物になれません。

 同様に、堂々としていて何をしても能力があり、何をしてもやり遂げることのできる、そのような人でなければなりません。力を出して一回だけ打てば、みな荒れ地にしてしまうような人、すべての容貌を備えた人が必要なのです。実力を備えて、内外を備えて価値あることを天の前に捧げなければなりません。そこで比例的にみ旨の版図が広まるのであり、早く成されるのです。

 これから皆さんは、一致団結し、この国のどこの誰よりももっと深刻な立場に立って、国運を心配しながら天を抱いて祈祷をして、内外のすべての心情を高い立場に立てるために努力しなければなりません。

 統一のその日は、私たちの血の汗と、私たちの犠牲と、私たちの服従と、私たちの順応の道で起きるということを皆さんが確実に知って、これからそのように動く皆さんになってくれるよう願います。そうしてこそ、この国が生きる道が生じるのです。
















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訓教経(下)020



文鮮明先生のみ言集

訓教経(下)



み旨と私たちの生涯


一九七二年六月四日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第五十七巻』


 地上に生きている人間は、誰彼を問わず一日の生活を迎えて、生涯の路程を見つめながら生きています。この生活の中で、善なること悪なることが決定され、神とサタンの役事が連結しているのです。

◆永遠のみ旨の目的と方向が一致した生活、生涯にならなければならない


 では、私たちの一日の生活において、善のほうをどのように残すかということと、私たち各個人の生活の中で悪をどのように退治するかということが、信仰生活をする人にとって重要な問題にならざるを得ないのです。

 み旨の道といえば、それは漠然としたみ旨ではありません。具体的なみ旨です。そのみ旨が指向する目的があれば、その目的に向かっていける方向がなければなりません。どんなに目的があるといっても、方向が一致しなければ、その目的は私たちと関係ないのです。

 それが遠ければ遠いほどないがしろにするのではなく、その方向に対して、私たちはより格別に考えなければなりません。その目的が近ければ、その方向を合わせやすいかもしれませんが、目的とすることが遠ければ遠いほど、その目的を達成するための、その目的と一致する結果を得るための方向に合わせていくことは、極めて難しいのです。その目的が目の前に見えれば、方向を無視したり、考えなくても一遍に行けますが、その目的が遠ければ遠いほど、その方向があいまいになるのです。

 このみ旨の中には、個人的なみ旨もあれば、家庭的なみ旨もあり、民族的なみ旨もあり、世界的なみ旨もあり、最後には天宙主義というみ旨もあるのです。神様が、天と地が一つになり得るみ旨を中心とし、その目的を中心としていれば、私たち人間もその目的を異にしてはならないのです。また、神様が行く方向と私たちの行く方向が一致せずには、神様が願うその目的地に到達することは、不可能だということを知らなければなりません。

 個人がこの地上に生まれて、成功するかしないか、また生活を通して目的を成し遂げることのできる一日一日を残すか残せないかという問題は、どこにあるのでしょうか。その目的を中心として、その目的に対する確実な観点を立てて、そこに的中できる方向、一致できる方向をどのように備えていくかが、何よりも重要な問題なのです。

 どんなに一つの目的をもって出発したとしても、その方向から外れれば、その目的とは関係なくなるのです。したがって、目的をもって進むときはいつも、方向の一致という問題を、私たちは注目しなければならないのです。

 この方向一致ということを中心として見れば、その目的と私は直線上に立たなければならないのです。目的と私とはいつも相対的関係ですから、私たちは直線上でその目的と相対する立場に立たなければなりません。私たちが生活するのを見ても、右足を動かして左足を動かすとき、その目的と直線に一致する位置を取らずには、必ず行き違うものです。

 したがって中庸を取り、その目的と方向がはっきり直線上で一致させ得る自分を発見するところから、目的の結果を達成できるのであって、その直線を無視し、その直線と一致できない時間的な基台上に立てば、目的を成就できるその道から脱線していくことを、私たちは知らなければなりません。

 私たちが話すか、あるいは見て感じる、すなわち五官を通して感じる時においても、自分一人で感じてはならないのです。私一人で感じるという、そのような立場に立ってはなりません。その目的と一致する方向をもった立場で感じる時、その場は、共同的な目的に向けて共同的な方向をとった立場であるがゆえに、神様は必ず共にいらっしゃらざるを得ないのです。これが食い違うようになれば、神様は共にはいらっしゃらないのです。

 なぜそうなのでしょうか。方向が間違っていれば、苦労したすべてが水泡に帰してしまうからです。そこに協助するようになれば、協助しただけ利益になるのではなく、必ず互いに消耗するのです。無駄になるために、そのような立場に立つようになれば、神様が協助できず、共にできないのは当然のことです。

 私たちが朝起きてから、感じるすべての感覚や動作が一つの目的を中心として、いつも直線上に帰一できなければなりません。その点を失うようになる時は、み旨と私とは関係を結べないということを私たちは否定できないのです。

 一日は二十四時間ですが、これを半分に分ければ昼と夜になります。その昼と夜をまた分ければ、朝、昼、夕方、夜になります。夜も十二時を中心として半分に分けると、夜と明け方に分かれます。一日を中心として見れば、朝、昼、夕方があります。一日は短いけれども、春夏秋冬に分けたのと同じです。朝は春と同じであり、昼は夏と同じであり、夕方は秋と同じであり、夜は冬と同じです。これをより細分して見ると、一時間の中でもそういう始まりがあり、過程があり、終点があって、次は成敗の栄誉と恥辱があるのです。

◆信仰者は日々の生活を正しくしなければならない


 すべてがこのような関係で連結すると見れば、私たち人間の一生も同じではないかというのです。幼年時代があれば、少年時代があり、青年時代があり、壮年時代があって、老年時代があります。小さくても大きくても、その形態において、そのような過程を経ていくのです。

 生涯といえば、一生をいいます。生涯というのは長いことをいいます。生まれて少年時代を経て、青年時代を経て、壮年時代を経て老年時代まで、すなわち、生まれてから死ぬまでの過程をいうのです。その過程が、生活を通して連結されるのです。その生活というのは、私たちが一日一日生きていくことをいうのです。

 したがって、生活が誤るようになれば、生涯も誤った結果をもたらすはずです。どんなに立派な生涯を残そうとしても、一日一日の生活が誤るときには、その生涯は必ず誤った結果に到達するということは、どうすることもできない結論なのです。

 これを見れば、信仰者として一番重要視すべきこととは何でしょうか。自分の一生を神様のために捧げると誓っても、その誓うことが問題ではなく、一日一日の生活をどれほど正しく捧げたかが問題なのです。一日の生活を、生涯のどんな価値よりも、もっと重要視せずには生きがいのある生涯が出てこないということは言うまでもありません。

 このように見れば、私たちは一日を何げなく始めますが、この一日が、私たちが願う永遠のみ旨の目的に、その方向が食い違って行くのか、まっすぐ行くのかということを、いつも考えなければならないのです。考えもしない不意の行動によって、永遠のみ旨の道の前に反逆者になり得ることも、その一日の生活の中で起こるのです。これをより細分してみれば、一時間圏内にもそのような境界線に左右されるのであり、その一時間、あるいは一分、一秒が問題なのです。その一分、一秒を間違えば、この方向が永遠に行き違うのです。

 こういう重大な問題が、きょう一日よりは一時間、さらには一分にあって瞬時に左右するという事実を考えれば、一日を重要視するよりも一時間を重要視しなければならないし、一時間を重要視するよりも一分、一秒を重要視しなければならないのです。こういう問題が、私たちにかかわっているということを考えなければなりません。

 皆さんが知っているように、羅針盤は南北を指しています。どんなに東に、あるいは西の方に向きを変えても、それは南北に向くのです。他の力の制裁を受けて避けられない、そういう立場にあっても、その力の作用がなくなれば、自動的に南北に向くのです。言い換えれば、反対に向きを変えてもそこに順応するのではなく、そこに対抗して自分本来の方向に向かって戻ろうとする力の作用がいつもあるのではないかというのです。それは、私たちがよく知っていることです。

 それと同様に、私たち人間自身も神様を中心にして、南北の方向を示す羅針盤のように一つの方向を指示できなければなりません。もし、その方向が食い違うようになれば、食い違いの差ほどの何かがなければなりません。羅針盤を東西の反対方向に向けておけば、自分の位置に戻ろうとする力の作用があるように、私たちには神様に向かう良心の方向性があって、私たちが反対の方向に向きを変えれば、内的な面で、自らの心はその反対の作用をしているという事実が分かるようになる何かがなければなりません。

 そういう作用がなければ、私たち人間は一生を通して神様のみ旨と一致できず、その目的に帰一することもできないでしょう。そういう作用は、古今東西を問わず、いかなる人にもあるのです。その作用とは何ですか。良心の作用です。より純粋な磁石で作った羅針盤であるほど、より南北に一致する方向を指向するのと同じように、純粋な良心をもった人であるほど、その方向はいつも一致するようになるものです。

 それゆえ、人は誰彼を問わず、毎日のように方向を一致させることのできる生活を描いていかなければなりません。ここに善悪の環境がぶつかるのです。左に偏ることもあり、右に偏ることもあるのです。まるで羅針盤の位置を少しだけ移動すれば、中心を探すために左側、右側を行ったり来たりしながら南北と一致する方向に向かうように、皆さん自身も、いつでも一つの目的、その目的と一致する立場を描いていくべきではないかというのです。あたかも私たち人間の生活が、そのような立場に立っているのではないかということを考えれば、私たちの一日が、重要な一日に間違いなく、一時間が重要な一時間でないはずがないのです。

 瞬間の境界線というのは、一日、一時間によって決定されるのではありません。一分、一秒という瞬間を中心として、善悪が判決されていくのではないかというのです。こういう問題について見ると、一日を永遠のように感じることのできる価値がこの一日の中にあるのであり、一時間を一日のような価値の内容で決定できるのがその一時間にあるのであり、一時間は分、秒でも決定できるのです。そのような内容が、ごくわずかな瞬間にあるということを考えてみれば、神様のみ旨は変わるでしょうか。み旨は永遠です。神様のみ旨は変わりません。私たち人間がどんなに変わり、環境がどんなに変わっても、神様のみ旨は変わることができないのです。

 変えることのできないみ旨は、個人が行くみ旨もあり、家庭が行くみ旨もあり、国家が行くみ旨もあるのであり、あるいは世界の人類が、共同的に行くみ旨もあるのです。

 私たちが永遠の世界に行って、永遠に神様のみ旨の中で生活するようになるときは、盲目的であり、無秩序であり、無方向の立場で生きるのではなく、永遠のあるみ旨を中心とした生活から、永遠な生涯が始まるのではないだろうかというのです。こういう問題を考えるとき、私たちが生きている一日の生活というものが、どれほど深刻な生活かというのです。

 死ぬことも瞬時に決定されるのであり、生まれることも瞬時に決定されるのです。私たち人間が生まれること、死ぬことが瞬時に起こり、私たちの一生の運命が一時間、一分、一秒、一瞬に左右されるとすれば、私たちが生きる一日の生活自体が、最も重要だということを知らなければなりません。

 私が悲しむことも、この瞬間から始まるのです。一日を計画して、その計画どおりに悲しむのではありません。もちろん悲しみの動機はあるでしょうが、悲しいという事実は瞬間に結論づけられるのです。うれしいということもやはり朝のように、昼のように、夕方のように、夜のように過程を経るでしょうが、そのうれしいということの終点を見ることのできる時点は、瞬間だというのです。このような問題について見ると、私たちが一度呼吸をして、一度動作することも、み旨とともに一致できるようにしなければならないのです。

 皆さんが射撃場に行って、射撃をしてみれば分かりますが、銃を射って標的に合わせようとすれば、銃の端とターゲットが一致しなければなりません。前の照星と後ろの照門とターゲットが一致しなければならないのです。少しでも食い違う時は、東西四方にそれるのです。よく見えないターゲットの中心点を打つということは、極めて難しいのです。

 さて、永遠において一生の間標的に合わせなければならないなら、言い換えれば、出発したものが永遠に行って的中させなければならないという立場であれば、どれほど難しいでしょうか。

 私たち人間も撃たれた鉄砲玉のように、一生を通して一つの目的に向かっていくのではないでしょうか。行くことは行くのです。食べたり、寝たり、起きたり、反復した生活をしているけれども、何かに向かって行っているのです。では、どこへ行くのですか。これが問題です。一日はどこへ行きますか。私が出発した点と結果の点が一致したのか、私が生きてきた生活がみ旨が行く方向と一致したのかということを見れば、深刻な問題に違いないのです。

◆み旨の出発点と直線になるように方向を合わせるべき信仰者


 人間は、生まれたときの姿は似ているけれども、行こうとする姿は東西四方に行き交うのです。こういうことをしているのが、今までの人類だというのです。こういう道を行かなければならない、あるいはこのような思想をもたなければならないと、今まで多くの人が方向を提示しました。

 それらを見れば、人間がお互いに行こうとするその方向と、神様がみ旨を中心として行く方向とは違うというのです。すなわち、一つの善を中心として見れば、千態万状だというのです。また出発点が、東西南北でそれぞれ違います。ある人はここで出発したり、ある人はあそこから出発したりと、みな違うというのです。

 そのような環境について見れば、神様が行こうとするみ旨の出発点、これが問題にならざるを得ないのです。その出発点から、どんな線を引いていくのでしょうか。その線と一致する生涯を残さない人になってはいけません。彼は、不幸な人です。その人が、善を中心にするとか、あるいは神様のみ旨を中心として、その方向と一致する比例により、千態万状の差が起こるのです。

 自分が、どんなに公平でないと主張しても、このような原則から見れば、公平ではないと主張するそれ自体が、不公平な立場に立った場合もあり得るというのです。公平でないと見るその立場が、ある時にはみ旨の方向と一致する公平な立場の場合もあるのです。

 したがって、人生行路というものは簡単なものではありません。その行路を正さなければならないのです。本来人間は、その行路をまっすぐに行くために生まれたのです。ですから、見るものも、その行路と一致するために見るべきなのが原則ではないかというのです。

 目で見る中心点とはどこですか。その目的と直線になれる方向を正しく見るために、目があるのではないでしょうか。それは言うまでもありません。では、鼻はなぜあるのでしょうか。その直線といつも相対的関係をもって方向を失わないように、先頭でリードするために鼻があるのではないでしょうか。全部がそのようになるのです。口はなぜあるのでしょうか。その目的に向かっていくのに栄養を補給するためにあるのではないでしょうか。

 ではなぜ行くのでしょうか。もちろん何かをするために出たり入ったりするのですが、それ自体がその目的の方向と一致できる歩みを残すために出たり入ったりするのではないでしょうか。この直線と関係を結ぶようにして、その結果に一致できる点を見分けるために、私たちの耳、目、口、鼻と四肢が生じたのではないのでしょうか。

 そういう立場にあるべき私自身が、そこに一致できなくなれば、どんなに私が貴重だとしても、どんなに立派だとしても、無価値なものに落ちて破綻してしまうでしょう。ですから、私たちが話したり、あるいは寝たり、起きたりするすべてのことが、この一つの線を基準にしなければならないのです。

 今日、人間は自分の方向を考えますか。考えません。私は当然正しい方向に一致した立場で出発したし、今でも行っているという習慣的な観念にとらわれているのが、私たち人間の生活なのです。それが弊害です。

 羅針盤のように、どのくらい角度が間違ったかということを知って、これを自然に操縦できる作用をすれば分かりませんが、作用できないときには、私が故意にその作用をして方向を合わせるようにすべきではないかというのが、この世の人間たちとは違う生活をしている、信仰者の生活ではないだろうかというのです。

◆神様と人間が一致する点


 では、神様のみ旨があるとすれば、み旨とは何でしょうか。み旨の中には完成した個人がいなければなりません。み旨と一致できる男性と女性がいなければなりません。また、み旨と一致できる家庭がなければなりません。それは、言うまでもないことです。その家庭が行くべき目的地とは、どこでしょうか。国を探していくことです。み旨と一致できる国がなければならないのです。そうではないでしょうか。そして、み旨の中で一致できる世界がなければならないのです。

 この人間の世の中には、平面的な世界だけでなく、み旨の中に一致できる垂直線がなければなりません。しかし、その垂直線だけではいけません。垂直線に九〇度の角度になる平行線がなければなりません。言い換えれば、立体的な世界と、平面的な横的な世界がなければならないのです。九〇度を中心として、垂直線がとどまることができるのは一点しかないのです。別の点はあり得ません。違う点があれば、それは一度、二度角度が変わるのです。角度が変われば垂直ではありません。

 統一教会には「天宙主義」という言葉があるのですが、その天宙主義とは何でしょうか。垂直線と横の線が、九〇度で一致する方向をいいます。それは昼でも夜でも、昔も現在も未来も同じ角度にあるのです。いつ、どこにもってきて合わせても、九〇度に一致するのです。けれども、私たちは日常生活で、そのような生活をしているかという問題を考えてみると、深刻な問題にならざるを得ないのです。

 「み旨」と言えば、個人がとどまることができるみ旨、家庭がとどまることができるみ旨、国家がとどまることができるみ旨、世界がとどまることができるみ旨、神様と人間が共にとどまりたいみ旨があります。神様は縦的な存在であり、人間は横的な存在であるがゆえに、縦横が永遠に共存できるその点が、中心点なのです。横になったものが中心ということはありません。中心といえば、必ず垂直線なのです。横線には重心がないのです。横線上の一点を中心というのです。一点だけ占有する所が中心点になるのです。中心は二つになれますか。

 天があって地があれば、天と地が軸になって迎えて集まる所は一点しかないのです。この中心は、上にも一つしかなく、下にも一つしかないことが原則なのです。これは二つではありません。

 この一点の中に個人が立たなければならないのです。その一点の中に家庭が立たなければならないのです。ただ範囲が大きくなるのです。範囲が違うだけです。一点を中心として個人があり、一点を中心として家庭があり、一点を中心として国家があり、一点を中心として世界が連結しなければならないのです。この中心は永遠に同じです。そうすれば立つにも、その一点にすべてが集中して立てるのです。皆さんがこまを見れば分かるように、どんなに重いこまでも回り始めれば、軽いこまよりももっとよく回るのです。

 では、この地上にそのような軸が立ち得る位置がありますか。それがないのです。「個人が立ち得るみ旨の立場、あるいは個人が行けるみ旨の道、家庭が立ち得るみ旨の立場、あるいは家庭が行けるみ旨の道、国家が立ち得るみ旨の立場、あるいは国家が行けるみ旨の道、天地が一致できる、縦横が一点に帰結できる、神様のみ旨がすべて成されて人間のみ旨がすべて成し遂げられた」と言えるその点は、神様と人間が一致する立場です。

 神様と人間が分かれては、理想が出てこれません。理想とは、一人で成されるものではありません。理想は、相対的関係で起こるのです。一人だけで喜びが成り立てば、神様が天地万物を造る必要はないのです。喜びというものは、必ず相対的関係、いわば主体と対象の関係で起こるのです。

 理想というのは、一人で成し遂げるのではありません。主体と対象の関係で成されます。相対的関係で起こるのです。その相対的な存在が、お互いに食い違った立場で喜びが生じるのではありません。一点を中心として、同じ位置で会ってこそ喜びになるのです。

 主体と対象は、南北と同じです。もちろんその南北は、お互いに見つめながら、喜びもあります。しかし、見つめれば希望的な喜びはあるかもしれませんが、真の喜びというものは、お互いが一つになるところで生じるのです。一つになるには、どこでならなければならないのでしょうか。南の方を中心としておよそ三分の一くらいから、あるいは北方を中心として三分の一くらいで会うのではありません。真ん中に来て会えばいいのです。なぜそうすればいいのかといえば、真ん中に来てこそ垂直線と一致できる位置が完成するためです。

 そうすれば、この場に臨んで初めて中心が決定され、理想的になるからです。なぜ理想的ですか。平面的な感覚を超越して、立体的な、垂直的な感覚の世界が来るから、より幸福なのです。

 では、平になれる位置とはどこでしょうか。中央です。ここから見ても同じで、あそこから見ても同じで、回って見ても同じで、横に見ても同じで、四方が同じになれば、不平がなくなるのです。不平を言う人は滅びるのです。中央に来て、不平を言えば相対になれないのです。それが平になるようになれば、お互いが同じなのです。同じなら、どのようになるのでしょうか。一つにならなければならないでしょう。そこに幸福があるのです。

 神様が願うみ旨を中心として個人が立つ位置というのは、他の所にあるのではありません。その場は垂直点、中心点であるがゆえに、その中心点に個人が立たなければなりません。その中心に一つとなった夫婦が立たなければならないのです。そこが個人が立つべき立場であり、次は家庭が立つことができる立場です。国家も少し大きいだけであって、同じです。世界が立つ位置も、同じなのです。神様が立つ位置も、やはりそうです。

◆一致した相対なしには理想世界を成し遂げられない


 神様も個人についていくようになる時、天国の行路を行く人がいれば、間違いなくその個人についていこうとするはずです。サタン世界の道を行く人が、どんなに神様に「来い」と言っても、神様はついていかないのです。家庭も同じです。

 天国へ行ける道を行く家庭があれば、「ついてくるな」と言っても、神様はついてくるようになるのです。世の中もそうではないでしょうか。良いものがあれば、心が変わるのです。服を買うときを見ても、良い服、良くない服を見れば、既に良い服に目と心が行くようになります。そうでしょう。良くない服は、私の心にとどまろうとしないのです。より良いもの、より新しいものを求めようとします。

 神様は、天地万物をなぜ造りましたか。今日既成教会の信徒は、「神様は創造主で、私たち人間は被造物ですが、創造主と被造物は同じであり得ますか。違うのです」と言います。すなわち、神様はいつも一人で絶対的な立場、相対がない立場にいなければならないというのです。それ以上の不幸はないのです。どんなにお父さんが国の大統領の権限をもっていたとしても、お母さんが死んで一人で暮らしていれば、幸福ではないはずです。

 では神様は、結局は何ゆえに人を造ったのでしょうか。相対が必要だからです。相対の世界がなくては、理想の世界を成し遂げることができないためです。個人が一致できる生活、家庭が一致できる生活、氏族が一致できる生活、民族が一致できる生活、国家が一致できる生活、次には世界が一致できる生活、これはすべて意味があります。

 幸福な人とは、いかなる人でしょうか。「個人はこのように行かなければならない」という標準があれば、その標準へ行こうという人です。家庭はこのように行かなければならないといえば、その標準どおりに間違いなく行く人は、幸福な人です。もちろん現在は不幸かもしれませんが、その不幸は幸福の基肥になれるのです。ですから、国はこのように行かなければならないという、神様が引いて置いたパターンがなければならないのです。ところが現在、「世界はこのように行かなければならない」というものがありません。「天道は、神様はこのように来なければならない」ということを知らないのです。ですから重心がなく、方向がない、混乱した世の中だというのです。

 罪とは何でしょうか。中心を否定することです。方向を否定することが罪です。アダムとエバがエデンの園で堕落する時、天使が現れて「アダムとエバよ!
 神様がエデンの園のどの木の実でも取って食べなさいと言ったのか」と言った時、「いいえ。他のものはみな取って食べても、善悪の木の実だけは取って食べるなと言いました」という返事を聞いて、サタンが「そうではない」と中心を否定したのです。

 中心を否定することが、悪の起源だというのです。アダムとエバが、それを取って食べるなという方向に行こうとするのに、天使が「そうではない。方向はこうだ」と言ったのです。したがって、悪とは何でしょうか。中心を否定するのであり、方向をすれ違うようにするのが悪です。

◆目的は完全な中心の立場で発展させていかなければならないもの


 み旨の道は、個人の道と同じです。それゆえ目的に向かって行くとき、私が中心、すなわち主体ならば、目的が一つの対象になるのです。主体と対象が行く道は、いつも直線上で往来しなければならないのです。

 そのような関係で行かなければなりません。目的に向かっていくには、目的と私とは二つではなく、一つです。けさ御飯を食べるのも、目的のために食べるのであり、今私が仕事をするのも、目的のためにするのです。主体は対象のためにあるのであり、対象は主体のためにあるのです。出発は、目的のためにあるのです。同じだというのです。目的は、出発とともにあるのです。その二つが加重されればされるほど、遠ざかるのではなく、より一層一つになるのです。

 愛には犠牲が伴わなければならないのです。なぜこういう話をするのかといえば、愛というものは、それ自体のためにあるのではなく、相対のためにあるのです。この観念をはっきりと知らなかったのです。

 こういう観点で見れば、より大きい対象を探していこうというのが人生の道であり、より大きい主体を探していこうというのが人生の道です。私個人を中心として見れば、心と体が主体と対象になっていますが、家庭を中心として、より大きい主体と対象の関係が起こるのです。より広く、より大きい主体と対象を描くことが理想的です。

 人生は、どこへ行くのでしょうか。皆さんは、旅人のような人生だというでしょう。しかし、旅人のようでもありません。旅人が行くには、必ず目的があるのです。そうではないでしょうか。行く道が遠くなれば、旅人の身になるのです。一日に行けるなら、旅人の身にはならないのです。三日、四日、五日、一週間を過ぎてみると、自分の家がないから旅人の身になるのです。そうはいっても、目的のない旅人はいないのです。ですから、旅人にもなれない人生の道を今まで行っているのでないでしょうか。皆さんは、行く目的がありますか。

 行くその道が個人のための目的ならば、家庭もその目的のために行かなければなりません。個人の目的を否定する家庭はありません。個人の目的を生かす家庭です。民族の目的は家庭の目的を生かすことであり、世界の目的は国家の目的を生かしてあげ、神様の目的は世界の目的を否定するのではなく、生かしてあげることができれば理想的です。

 それゆえ、個人の生活を保障してあげられる家庭であり、家庭の生活を保障してあげられる国家であり、国家の生活を保障してあげられる世界であり、世界の生活を保障できる霊界であり、天上天下の生活を保障できる神様が主体にならなければならないのです。「そのような国は嫌いだ」と言えば、不幸になります。

 神様の中には世界の中心も入っていて、国の中心も入っていて、家庭の中心も入っていて、個人の中心も入っていなければなりません。そうであってこそ絶対的な主体になれるのであって、そうでなくては絶対的な主体になり得ません。真の個人が行く道は家庭と直通して、世界が行く道は神様と霊界と直通します。

 したがって、私個人が行くべきみ旨の道と、方向が一致するパターンがなければなりません。家庭はこのように行かなければならない、というものがなければなりません。国家はこのように行かなければならないというパターンがなければなりません。世界はこのように行くべきだという原則がなければなりません。その原則は、今の共産主義でも、民主主義でもありません。その原則はまだ出てこなかったのです。

 それゆえ、まだ中心を知らず、方向を知らないでいます。中心がない立場に立ち、方向がない立場に立ったので、善なる世界でしょうか、悪なる世界でしょうか。中心と方向が薄れれば薄れるほど、その世界は悪なる世界です。中心が明確で、方向が明確な世界は、善なる世界なのです。皆さんが善なる世界の人になるには、中心が明確でなければならず、方向が一致しなければならないのです。

 皆さんは、個人的に間違いない中心と一つの方向をもって行っています。もし、中心から外れるようになるときは、無慈悲に制裁を受けてください。方向が全部違うようになるときは、無慈悲に制裁を受けなさいというのです。どんなに強い制裁が加えられても、方向だけ正してくれるなら、有り難く思わなければなりません。中心をとってくれるときは、有り難く思わなければなりません。

◆統一教会は愛を中心として方向を合わせて行こうという教会


 統一教会は、何をしようというのでしょうか。み旨の道を見分けようというのが、統一教会です。み旨の道を知らずには、統一はあり得ません。個人が行くべきみ旨の道を、どのように行かなければならないのでしょうか。その標準がなければなりません。その標準を誰と定めますか。神様を標準とすれば良いのですが、神様は見えないからもどかしいのです。ですから、一番代表的な人を標準にしなければならないのではないでしょうか。では、その方とは誰でしょうか。神様の心に似て、神様の体に似て、神様の愛に似た、そういう人であれば良いのです。神様の体に似て、心に似て、愛に似れば良いのです。体と心が神様の行く道に似れば、一つになるのです。

 次に、愛とは何でしょうか。相対的な世界の理想的な存在の間で、一致できる絶対的な中心要因なのです。そこで理想が起こるのです。そのようなことができる人になろうとすれば、なれます。私が体と心が一つになり得る立場で、神様の愛のみ慕うことのできる方向さえ整えていれば、神様は絶対的な権限をもっているために、私が地の果てにあっても、いつも神様の愛は自然に来るようになっているものです。

 統一教会が行く道とは、どのようなものでしょうか。個人が行く道はこうすればいいという、代表的な標準人物とは誰でしょうか。歴史上の一番代表的な存在は、イエス・キリストだというのです。なぜイエス・キリストが中心になれるのでしょうか。イエス・キリスト以上の中心の内容を紹介した人がいないからです。何と言ったかといえば、「私は神様の息子である。私を見た者は神様を見た者だ」と言いました。この話は、神様と一つになったということです。

 しかし、イエス様は神様の息子になって、神様と一つにはなりましたが、成し遂げられなかったことが正に愛です。愛を成し遂げられなかったのです。それゆえイエス様は、その愛を成そうとしていらっしゃるのです。愛は一人で成し遂げることができないために、死ぬとき「新郎新婦」という遺言を残したのです。その遺言が成就される日、この地上に希望の家庭と、希望の国と、希望の世界が連結されるのです。

 こういう立場で見ると、イエス様は神様の愛を中心として誰よりも最高の内容を提示したというのです。中心を提示して、方向を正しく提示したのです。個人から家庭、氏族、民族、国家に行くにあたって、その方向と中心が行き違わず、いつも同じ位置で一致して行ける道を教えてくれたのです。

 では、この地上で皆さんは、どのように行かなければならないでしょうか。中心と合わせて行かなければなりません。すなわち、それを手本としなければなりません。歴史上に手本になれる、中心と一〇〇パーセント合致するモデルがなければなりません。それに見習って、だんだんと中心に近づいていける手本をつくるようにしなければ、神様がいないという結論が出てくるのです。歴史路程の聖人たちが、そのようなことをしました。

 統一教会は神主義を主張します。それは、神様を愛する主義です。永遠に愛して、永遠に愛され得る主義です。

 愛は、すべてを統一させることのできる原則です。その愛は、どこに現れなければなりませんか。個人に現れなければならず、家庭に現れなければならず、民族に現れなければならず、国家に現れなければならず、世界に現れなければならず、天地に充満した愛にならなければならないのです。それは、すべての人々が願う欲望です。

◆善が行く公式的路程


 では、統一教会が行く道とは、どのようなものでしょうか。家庭を成し、家庭が良く暮らすために行こうとするのでしょうか。違います。家庭よりは親戚、氏族がよく暮らすようにするためです。

 善は、人のためにするところでのみ出てくるのです。本来、存在するための始まりは、相対のためというところから出発したがゆえに、そうしなければならないのです。

 では、個人は何を願っていかなければならないでしょうか。家庭を願っていかなければなりません。家庭は氏族を願っていき、氏族は民族を、民族は国家を、国家は世界を願っていかなければなりません。その中には、個人があって、家庭があって、氏族があって、民族があって、国家があって、世界があります。このようになれば、このすべてが天の国家になるのです。それで、より大きいもののために犠牲になれというのです。これが善の行く公式的路程です。

 個人より大きいものが家庭であるがゆえに、家庭のために犠牲になるのが善です。家庭は氏族、氏族はより大きいその町内のために犠牲になり、家庭は町内のために生き、その親戚のために生きなさいというのです。そのように生きれば、絶対滅びることがありません。

 家庭を捨てても氏族のために出なければならないなら、間違いなく出ることができなければなりません。氏族を捨てても国のために行くべき道があるならば、皆さんがどんなに行くなと手をつかんでも行くことができなければなりません。これが、統一教会の文先生の思想です。世界のためには未練なく、世界のために出る覚悟をしなければならないのです。

 新しい文明圏は、新しい移動から始まるのです。これは歴史的な事実です。ヤコブの移動からイスラエルの家庭が出発し、イスラエル民族も移動からイスラエルが建国されて出てきました。しかし、世界的な移動のためにメシヤが出てきたのに、世界的な大移動に出発できなかったことがイエス様の恨になったのです。

 私たちが一日の生活をするにおいて、一日は一秒、一分から始まるのです。生活は、生涯の中心を立てるためにするのであり、命の中心を確定するために生活するのです。また、生涯の方向をすれ違わないようにするために何をするのでしょうか。生活するのです。生活は、一日一日の活動を通して積まれるのであり、それが正しく積まれなければ、生涯も行き違うようになります。生活と生涯は違います。生涯は、一生の全体について言うことで、生活は、一日、一時間あるいは一分、一秒についても言えます。いつでも、これを考えなければなりません。

◆「統一思想」の程度


 悪とは何でしょうか。中心を否定することです。中心をもたずに行動することは悪です。また、中心が備わったとしても、方向を異にして行動する時は悪です。ですから、いつも中心と方向を失うなというのです。悪は、中心が揺れることです。死んでも国のために、方向を一致させて死になさいというのです。中心をとって方向が一致した立場で、足一つでもそのために動いて死ぬようになれば、それが条件になるのです。中心と方向が行き違うようになるときは、何の意味もないのです。

 なぜそうなのでしょうか。エデンの園で中心を否定し、方向を否定するところに悪が出発したからです。原理的な基準を探していくにおいて、反対になる立場で行くべきなのが天理の法則、天道であるがゆえに、それを避けることはできず、そのような立場を取らなければならないのです。

 したがって、自分だけを考える人は滅びるのです。自分だけのために世界を制覇するという人は、滅びる者です。共産党は、「私のものは私のものであり、あなたのものも私のものだ」と言います。けれども、私たち統一教会の思想は、「私のものはあなたものであり、あなたのものは国のものであり、国のものは世界のものであり、世界のものは神様のものであり、神様のものは私のものだ」というのです。これが「統一思想」なのです。

 自分自身に尋ねてみてください。私が中心の立場に立っているか、方向を整えて行っているかを自ら冷静に批判して、正しいこととそうでないことをえり分けて、正しいことは残しておき、そうでないことは整備していかなければならないのです。

 初めの出発から中心と方向を一致させていく人は、終わりと始まりを連結させることができるのです。最後の勝利は、主体のものであると同時に、始めから終わりまで行った人に帰ってくるのです。こういうことを知って、皆さんは中心をもって生き、中心をもって生活しなければなりません。

◆賢い人になって天の道を行かなければならない


 知恵深い人は、時を知る人です。時を迎えた人より賢い人は、時を合わせる人です。時を合わせる人より賢い人は、その時を合わせるために冒険をして命を懸けて立ち向かう人です。これが天道の行く道だということを皆さんは知らなければなりません。皆さんは、中心の行く方向に合わせて一分、一秒を直視しながら行かなければならないことを、はっきり知らなければなりません。

 それゆえまばたきしたり、息をしたりする一切を、中心の方向に一致させなければなりません。遠い道を一日中歩いたり走ったりしたのち、初めて休む時も、「何をしてきたのだろうか」と考え、目さえ開けていれば、み旨の道を考えなさいというのです。反省してみなさいというのです。そのようにでもすれば、休んでも、景色を眺めても、心が楽でしょう。そうでなければ、涙を流して悔い改めなければならないのです。先生は、そのような生活をしています。

 それゆえ皆さんは、いつも中心と方向を合わせるために、ありったけの神経を集中させて生きるべきです。いつ、どんな時に脱線するか分からない危険千万な現実であることを知って、み旨のための生涯を、是正していける皆さんになってくれることを願いながら、語りました。

















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訓教経(下)021



文鮮明先生のみ言集

訓教経(下)



神様に対する体恤と私たちの自覚


一九七二年六月二十五日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第五十八巻』


 きょうのみ言の題目は「神様に対する体 恤と私たちの自覚」です。信仰生活をする人において、神様との関係を離れてはその生活が成立しません。言い換えれば、神様がいらっしゃるとすれば、その神様と私たち、または私がどれだけ密接な関係をもっているのか、あるいは生活過程でその関係をもつのはもちろん、その生活を通して一生という生涯路程をどのように連結していくかという問題が最も重要なのです。

◆どれだけ天と共に生きようとしたか


 もし、堕落圏内にいる人間を救おうとされる神様がいらっしゃるとすれば、その神様は、二十四時間ならば二十四時間、いつもこの地上に生きている人間に対して無関心ではいられないということを知らなければなりません。

 この地上の堕落した世界においても、愛する子女をもった父母がいるとすれば、その父母も子に関しては二十四時間、自分が目を開けて意識がある限り、いつも思っているのです。子を思う以上に困難なことが生じればどうか分かりませんが、そうでない限り、いつも息子を思わざるを得ないのが、堕落した世界であっても父母の心情であることを私たちは知っています。

 このような心情から推測すると、堕落していない本然の世界の主体であられる神様がいらっしゃるならば、その神様が今日人類を御自身の子女として見つめている限り、その子女に対して無関心ではいられないということは言うまでもありません。これは当然の事実です。二十四時間、私たちを案じていらっしゃる天があります。それは言葉のみならず、事実だということを感じる人がいるならば、その人は天から遠くにいるのではないという事実を自ら感じるはずです。

 私が行くにしても来るにしても、いかなる行路に立っていても、あるいはいかなる環境に置かれていても、その場には私だけがいるのではなく、天が共にあり、私が見て感じるすべて、あるいは環境にあるすべてのものを認識するのは、私だけが認識するのではなく、私の見る視線を通して神様が私に要求する、そのような同感の視線がここに添えられていて、私が差し出す手には天の同情の手が宿っている立場に立っている、ということを私たちは忘れがちなのです。見て感じて感覚するすべては、天と主体・対象関係において一体的な行動をしているということを実際に感じる人がいるならば、その人は、悪なる立場に行こうとしても行くことができません。

 このような観点から考えるとき、天は私たち人間に対してそのようにしているのにもかかわらず、私たち人間は天に対して共にあろうとしたか、というのです。こういう問題を考えると、皆さんの生活を分析すれば分析するほど、「親不孝」と言わざるを得ないという結論を下すしかありません。

 真の父母の心情をもってこられたその神様が、父親的な愛をもたれた主体であられることを思うときに、私たちがどれほど神様のために気遣い、「その方が心配してはいけない」と自分の生活を節制し、あるいは「その方が苦痛を感じてはならない」と自分の環境を整理して、天を中心として自分の環境的なすべてを相対的条件として一致化させるために、随時努力をしているでしょうか。そのような努力をしている人であるならば、その人は、一人でいても一人でいるのではありません。

 もしそういう立場にあって天が同情し、天が見て「私がお前を守った甲斐があった」という時には、天はそのような人に、どのように対するでしょうか。その人が被害を被ったり、あるいは害を加えられるような環境に置かれれば、それは天が害を被る立場であり、天の悲しみが直接的に連結される立場であるがゆえに、その環境が悪なる環境ならば悪なる環境であるほど、悪に勝利させるよりも、善なる天の前に屈服するように、そのように打開していくであろうということは言うまでもありません。

 こういう観点で見ると、そのような生活的な基盤やある根拠地を、皆さんの生活の裏面で、あるいは生活の表面で確定することなくして、天を体 恤するということは極めて難しいことです。

◆生活の中での神様に対する体恤が私たちの生命の要因


 皆さん、「愛」と言っても、これは漠然とした言葉です。愛というものは一人で、言葉だけでは理解できません。「父母の愛」という話をどんなに説明してみても、父母のいない人にとっては、それは達することのできない境地です。あるいは、「夫婦の愛」をどんなに説明したところで、一人で暮らしている人には理解できないのです。また、「父母の愛がどんなに大きいか」と言っても、子女を生んで育てたことがなく、このような体験をしたことのない人にとっては、それは達することのできない境地なのです。

 結局は、自分が感じることのできる主体や対象圏内において、相手と自分との行動的な一致点をもつことにおいて、相手が好むことを自分が好み、相手の願いが自分の願いとなり、相手の一切が自分の一切に連結するその立場において、その相手に対して愛の感覚を覚えるというのが私たちの日常生活であることを考えれば、「神様」と言っても、漠然としているのです。その漠然とした神様が、どのような環境で私と共に一致点を感じ、出発点を提示するのか、これが最も重要だというのです。

 皆さんが、祈祷する時間にだけそのような因縁を結ぶことができるとすれば、その祈祷時間以上の環境を私の生活圏内に連結させるための努力をせずには、神様と同行しているという事実を体恤するのは不可能なのです。神様と私たち人間について考えてみると、神様というと高いように感じますが、神様はいかなる神様かというと、父親なのです。「私たち人間は神様の子だ、私は息子だ。息子でも、二人といない息子だ。神様はその息子の父親なのだが、世界に数多くいる父親のその誰とも比較できない最高の父親だ」というのです。

 そういう内情的な面を、皆さんの信仰生活において、いかに内心でその幅を広げ、その圏を広めることができるかという問題、それを考えるだけでなく、実践生活において、実践環境において、それをどのように適応させるかという問題を取り上げて考えると、「私の愛する父親が望んでいる心情的要求、すなわち愛のお父様が要求しているのはこれではないか。それゆえ、私はこのように実践しなければならない」となるべきなのです。

 自分と共に実践するその一日の生活、あるいは一カ月の生活はもちろんのこと、一生の生活をそのように考えて、自分一人で報告し、自分一人で感じることのできる生活をするところから、初めて体恤というものが始まるのです。漠然と祈祷していてできるものではありません。

 神霊的な体験のある人において、やっかいなこととは大概何でしょうか。祈祷や集会をする時にはそのようなことを感じるけれど、生活面における同化した体恤圏、または同化させることのできる体恤圏に関しては忘れてしまうのを、私たちは折に触れて見るのです。そうであってはいけないのです。私が祈祷をしてもしなくても、その環境において天が共に役事しているということを感じることのできる自我をいかにして確認し、確定するかということが最も重要なのです。それゆえ、神様に対する体 恤が私たちの生命の要因となることを、皆さんは知らなければなりません。

◆立体的な立場で神様の心情を体恤しなさい


 「神様がいる」というのは言葉だけのことではありません。原理を通して主体と対象の関係を中心として見るときに、神様は不可避的にいなければならないという立場ではなく、神様は私がいる前からいたのではないか、私が考える前からいたのではないか、私のすべての感覚、私の一切を主管する天でないか、という立場なのです。それを認識することが、何よりも重要な問題です。

 認識してから知ることが原則ではないでしょうか。知ってから認識するのが原則でなく、認識してから知るようになっているというのです。私たちが寒いときには、寒いということを分かっていて感じるのではなく、寒ければ、寒いということを感じて分かるのではないでしょうか。これと同様に、神様がいらっしゃるならば、神様がいらっしゃることを皆さんは細胞で感じるべきなのです。その境地が問題なのです。言い換えれば、私たちがいかにして体恤的立場を確定するかということ、これが問題だというのです。

 それが、いかなる環境で認識されるのかというと、皆さんは神秘的な祈祷の中で、祈祷時間にだけそうなることを願っているのではないでしょうか。大多数の人は、自分が精誠を尽くすその時間にそのような縁が結ばれるのです。もちろんそうです。私たちが常習化した罪悪圏内で、このような生活圏をもっているために、善とは程遠いところにあるがゆえに、精誠をすべて尽くして体と心が統一されるその線に近づけば近づくほど、接触点が近づくことは間違いないのですが、それが正常でしょうか。私たちの生活面において、それが正常だとはいえないのです。

 私が聞き、話すこれらすべてのことも、平面的でなく、立体的でなければなりません。「あなた」と呼べば「お前」と返ってくるのも、その響く音波の伝達としてだけではなく、その裏面には必ず心情的内情が天とともに加えられているという立場で話し、聞くにおいても、やはりそのような面を聞くことができるような、体恤的な立場が何よりも貴いのではないでしょうか。

 このような生活を皆さんがするならば、飛ぶ鳥の鳴く声を聞くのも、偶然ではありません。吹く風の音も、偶然ではありません。朝に昇る太陽の光も、自分には無限な何かを教えてくれるのです。このような環境的基台の上で、これをどのように自分が体恤するか、私がいかにして体で感じ、体験し、それをどのように感じるかが問題だというのです。

 宗教は考えることから出発するのでなく、体恤から始まるのです。宗教の認識というのは、ある観念的な知識的論理を通してなされるのではなく、実質的で実際的な体験を通してなされるのです。体験をもつことのできない信仰は、長く続く信仰とはなり得ず、体験をもち得ない信仰の立場では、自信をもつことができないのです。どんなに自信をもったとしても、環境が変わってくれば、その人自身も偏るようになるのです。

 それでは寂しいとき、その寂しさは私だけの寂しさなのでしょうか。寂しかった天があるゆえ、天と共に寂しがることのできる立場に立ったとすれば、私が寂しい以前に、まず天が寂しがっていることを感じることができるならば、これは不幸な人ではないということができます。

 喜ぶのも、私だけが喜ぶのでなく、天と共に喜ぶのです。私が喜ぶ前に、まず天が喜ぶのです。私は平面的に喜びますが、神様は立体的な立場に立って、喜びを感じながら喜ぶ私を御覧になり、私に同調し、私の歌に、あるいは私の踊りに刺激を加え、喜びを増幅されるのです。

 そのような環境で天が私を抱くことのできる立場に立つとすれば、どれほど幸福なことでしょうか。そのような立場を体験した人がいるならば、その体験した瞬間というものは永遠に忘れようにも忘れることができないのです。

 どこに行っても、その感覚は私を支配しているのです。山に行っても、野に行っても、家に行っても、都市に行っても、職場に行っても、一人密室にいても、場所を問わず、自分がうれしかったと感じたそのすべての因縁というものは、いつも自分の心と自分の生活目標の中で、自分の生活環境を収拾しながらあすに引っ張っていくことを感じることができるのです。

◆体 恤的感情を実現してこそ新しい自覚が形成される


 ですから一人でいても考えるのは、「うれしかったその時を再現させよう」ということです。あるいは、孤独で悲しかったときに、神様が私に「強く雄々しくあれ」と勧告したことがあったとすれば、そのような立場で、新しい決意と新しい覚悟をし得る心を再現することができるのではないかと思うのです。

 そのような立場を直接感じ、そのような環境で自分の信仰生活を維持していく人があるならば、それは不幸な人ではなく、幸福な人なのです。その人の当面している環境や、生活する舞台がどんなに悲惨で惨めでも、その人は不幸な人ではありません。孤独で惨めな環境は、その人にとって孤独と惨めさに終わるのではなく、その孤独は未来により大きな希望を要求し、その惨めさは現在のみならず未来に新しい願いを要求する原動力となるのです。そうして初めて、信仰の価値が分かるのです。

 そういう環境で、やっと私だけではないというそのような境地で、自分自らが「私はこういう人間である。神様がいらっしゃる。その神様とは、全知全能な神様であられる。神様と私とは一つだ」という自覚をした立場に立って、自らのすべての所信を一つの目的に、決定的に集中させて勇み立つとき、そこには新しいことが起こるのです。人間には想像できない、新しい結果が起こるようになるのです。

 そのよう体恤的な立場において、自らの新しい自覚をどのように確定するのでしょうか。暴風雨が吹きすさぶといった環境の先端に立ったとしても、押し出されはしないという自覚、いかなる困難な死線が私の前を遮ることがあったとしても、それは問題にならないという自覚をもたなければなりません。

 また、「神様は生きていらっしゃる。神様はすべての悪を審判する公義の主人公であられ、善に対しては絶対的な保護の権限、悪に対しては絶対的な審判の権限をもっていらっしゃる。私は善なる立場に立っているがゆえ、悪を除去することのできる主体的な側ではないのか」と、このように自覚する立場に立って初めて、神様に代わることのできる道が開かれるのです。

 ヨシュアとカレブを代わりに立てて、少数の群れを率いてカナンの祝福の地を求めていくように命令された神様は、まずどんな命令をされたかというと、「強く雄々しくあれ」とおっしゃいました。それは、ただ漠然とした立場で「強く雄々しくあれ」とおっしゃったのではなく、「天が共にあるので強く雄々しくあれ」とおっしゃったのです。

 神様は、皆さんの困難に備えて背後で背水の陣を敷き、皆さんのところへ来て、皆さんに同伴しているという事実を知らなければなりません。苦痛が加重されるほど、その苦痛は皆さんを滅ぼそうとする苦痛ではなく、皆さんの価値を打診するための苦痛だというのです。神様は、そのように見ようとされるのです。

 困難にぶつからせるのは、その困難によって、その人に被害を被らせ、マイナスとなるようにするためではなく、悪なるサタン世界の前に、悪なる歴史時代の人類の前に、失敗の原則に従ってきた人類の前に、また失敗の原則を提示するサタンの前に、彼らとは違うということを提示するための一つの条件にすぎないのです。

 その受難の道を克服することによって、歴史はそこに頭を下げるようになるのです。皆さんが困難な環境を打開して進み出るとき、その環境に置かれていた人類は、新しい望みの人物として追求するようになるのです。これは歴史的な事実です。

 それゆえそういうことを、神様に対する体 恤的感情をどれだけ自分の生活の周辺に誘導し、実現化するかということが問題です。その実現化させる事実が、自分を中心として表現化するとき、自分にだけでなく、自分の生活周辺に、新しい自覚圏を形成することができるのです。

◆完全な対象が現れれば主体形成は自然となされる


 完全な主体があれば完全な対象が生まれる、というのが天地の理致です。完全なものが現れれば、主体形成は自然となされるのです。なぜでしょうか。不完全な圏内であるほど完全なものが現れれば、「その完全を追求して、そこへ行け」とか「行くな」とか言わなくても、必ずついていくようになっているのです。

 どのようについていくのでしょうか。人間には欲望があります。欲望によって優秀な人もそうでない人も、たやすく良くなることができる道があるとするならば、誰でもその道を行こうとするのです。したがって、自分がたやすく良くなることができるような主体に会ったなら、本心は分かるというのです。

 それは、世の中でもそうではないでしょうか。皆さんが道ですれ違うのを、ちらりと見ただけなのに、なんとなく心の引かれる人がいます。またある人に会うと、「何かをくれ」と言うわけでもないのに嫌な人がいます。「くれ」と言うわけでもないのに、見ただけでも気分が悪いのです。これは、その先祖から、自分とは相反する因縁が結ばれているためです。そのような子孫であれば、必ずそうだというのです。

 それゆえ人間の心は、磁石のようなものです。磁石の粉のようなものなのです。神様が絶対的な磁石の主体だとすれば、人間は小さな磁石の粉のようなものだというのです。そうして人間は引きずられていくのです。「引きずられていく」ということが必要だというのです。

 皆さんが道を行ったり、あるいは市場に行くとき「きょう買い物に行けば、どんな人に会うだろうか」というときは、自分という観念から抜け出し、このような観念をもって行きなさいというのです。「私は小さい磁石なのだから神様が役事されているならば、必ず神様と授受をしているはずだ。授受しているのだから、強い磁石の作用をするはずではないか。だから私がその近くへ行けば、私の心を引っ張るものがあるのではないか」と、そこを訪ねていくのです。そのような生活態度が必要なのです。商店に行くにしても、自分の心が引っ張られる所に行って物を買うのです。皆さんは、自意的にせよ、故意的にせよ、このような生活習慣を育てていかなければなりません。

 子供たちが言葉を覚える時に、言葉を覚えるその息子は、お父さんということを分かって「お父さん」と言うのでしょうか。お父さんという言葉の意味を知らずに「お父さん」と言うとき、その息子は、お父さんとは何かが分かるのかということです。それは習慣化されていくうちに「ああ!
 そういうわけで、これがお父さんなんだなあ!」と思うようになるのです。子供たちが言葉を学ぶのを見ると、本当に不思議です。抽象名詞のようなものも、みなどのように知って納得するのでしょうか。それを説明して分からせようとすると、百科事典がみな動員されなければならないはずなのに、何事もないように、そういう言葉をしっかり習っていっているのです。

 信仰生活は、正にそうでなければならないのです。そうするには、皆さんは生活面で、細部的な分野にたくさん接していかなければなりません。たくさん接すると、自然的習慣性によって分かるようになっています。説明に先立ち、自然と自分の解明圏が開かれるようになっています。そのように皆さんはいつも、「私は小さい磁石のような鉄の粉だ」という思いをもたなければなりません。

 では、自分の心はどこに行かなければならないでしょうか。皆さん、朝起きれば、ただそのまま起きて、きのう生きていたその人、金なにがしならば金なにがし、朴なにがしならば朴なにがし、私がきのうの夜寝たので、寝て起きた私は、きのうのその人と変わらない、このように考えてはならないのです。

 子供のような心をもたなければなりません。子供は主体に対して、すべて要求するのが総合的な面なのです。幼い子供においては、お母さん以外には願うものがありません。ほかには欲望の対象がないのです。お母さんだとすれば、お母さんのことばかり考えるのです。すべての生命が、感覚器官とか意識機関が、すべてお母さんに動員されているのです。お乳を飲んでからもお母さん、お乳を飲むためにもお母さん、お母さんしか知らないのです。

 そのような意味において、子供の心情をもたなければならないのです。そうなれば、皆さんが一人で寝る時も、お母さんの懐に抱かれて、お父さんの懐に抱かれて寝るのと同じなのです。

 皆さんがそのような生活をするようになれば、寝て起きて、自分で自分の手を見ても、手が光るのを感じるのです。「私は私ではない」と感じる、そのような境地があるのです。あるときは深い懐に抱かれて無限な愛の圏内にひたる、そのような圏があるというのです。

◆信仰生活には体 恤的感情の体得が必要


 「神様がすべてしてくれるなら、私は信じる。そうしてくれないのに、どうして信仰生活をするのか」と言うけれど、そうではないというのです。天が全部してくれるのではないのです。人間が堕落したがゆえに、人間の求めていくべき復帰の行路があるのではないかというのです。

 では復帰行路の道は、何をもって接近させるのでしょうか。行動で接近させるものではないのです。心で接近させるのです。心しかありません。行動でしようとするならば、六千年を築いてくるということをしなければならないのです。

 けれども心は、本性を通じて直行できるのです。心は何よりも速く、何よりも近く、ここに接することができるのです。心の道以外にはないのです。そのように心で感じて、心で和し、心で喜び、心でそこに対することのできる姿勢が必要なのです。

 神様の愛を受けている人は、自分の主体として侍って生きているその父の愛を受けていることを考えれば、愛する方のすべてを貴く感じるのではないかというのです。ここから、すべてのものが収拾されるのです。愛する人のハンカチ一つを持って、一生を孤独な立場で生活したとしても、その環境を克服することのできる主導的な力がそこにあるということを、私たちはこの世でも見ることができます。

 それと同じように、神様が愛する人を、自分も愛するのです。愛そうとするのです。愛そうとするその人を、私が破綻させることができるでしょうか。その人に協助しなければならないのではないでしょうか。神様の愛する人を、私が蔑視することができますか。歓迎すべきではないでしょうか。

 ここですべてがつながれ、すべてが発展の動機となっているという事実を、今日信仰をもつ人々は、信仰生活をしていながらも知らずにいるのです。それを知らないということは、どういうことでしょうか。そのような生活をしていないということです。それゆえ、「お父様」と言っても、その「お父様」という言葉が骨髄から響いてきません。しかし、天の父は骨髄が響き出し、骨髄が反応を感じることのできる立場にいらっしゃるお父様だというのです。その父は、この世の父親とは違うということです。

 私たちが呼ぶそのお父様は、どれほど苦労されたことでしょうか。数千年間、人類を探し求めてさまよいながら苦労してこられたのは、誰のためでしょうか。結局は、私一人のためです。神様が全世界を動員し、歴史を動員し、宇宙を動員し、今活動しているのは、ひとえに愛する息子、娘一人を探し求めるためなのです。

 それは、イエス様という特定の方だけが行く道ではありません。イエス様を送ったのは、仲保者としてであって、道を開拓させるための先鋒者として送ったにすぎず、その根本の愛の主体として送ったのではないのです。愛の道を開拓し、万民をその愛に参加させるための共同的な目的を開放するために来られた方であって、イエス様自身の目的を成し遂げるために来られた方ではないのです。

 これが問題なのです。皆さんは、寝ながらも「お父様」、独り言にも「お父様」と言うようでなければなりません。世の中で、人々が自分の相手を懐かしがる、それ以上の懐かしさが込み上がらなければならないのです。そうして御飯を食べることも忘れ、眠ることも忘れて、その生活の裏側に天の父に対する慕わしさをもって「お父様」と言えば、天の父がいなくても、その手をつかむことができるのです。そのような、夢のような事実が起こるのです。「お父様」と言うと、お父様の懐に抱かれるのです。このような表現的圏内において、体 恤的感情をいかにして体得するかということが、信仰生活において何よりも貴いということを、皆さんは知らなければなりません。

 そのような体恤の感度、感じるその度数、その量がどれほどかということが、その人の信仰基準になるのです。そういう愛の心情をもっているならば、どこかに移動して「私がこれをしなければならない」と言うときには、「天よ、共にあってください」と言う前に、既に神様は共にあるのです。そのようなことを皆さんが感じるようになれば、「有り難い神様」ということになるのです。

 世の中で、人間を信じるということは容易です。世の中で、人間が相対して話し合ってする信義というものは、言葉で「そのとおり、間違いない」と確かめて、「そうだ」と言えるかもしれませんが、神様の私たちに対する信義というのは、「そうだ」と言って確かめることはできません。確かめる必要もないのです。もはやそれ以上の立場に立った天の信義は、既にその決定的な立場を占めて、すべての問題に臨んでいるということを発見するのです。そうなれば、「ああ! 私は幸福な人だ」ということを感じるのです。

◆父子の関係の心情を体得して外面化させなさい


 結局、信仰生活というのは、外面的な環境と現在の自らの立場を和合させるものではないのです。内面的な生活の裏面を中心として、天と私との関係、父子の関係の心情を体得し、天と私は一つだという心情を体得して初めて、それを内面から外面化させることなのです。

 このようにして全体の前に適応できる人ならば、その人は、天の息子であり、娘に違いないことでしょう。そのように生きる人は、天国生活を代行する人となるに違いないということを、皆さんは知らなければなりません。

 こういう観点で考えると、皆さんが今まで霊的に体験したことは、あまりにも惜しいものが多いのです。皆さんが努力をしなかったとしても、その背後に、天と、歴史始まって以来の大勢の先祖たちが努力した基盤があるのです。そういう基盤を通して伝えられる過程において、多くの犠牲の代価が払われたということを皆さんは忘れてはなりません。

 それゆえ仕事を終えて振り返る時は、「お父様、きょうの仕事はどうでしたか」と考えるようでなければなりません。「私が自分を中心として神様の前に負債を負うようなことをしたか、私が神様の前に負債を蕩減することをしたか」と。負債を負うようなことをしたとするなら、仕事を終えて振り返るときには、涙をにじませる自分を発見できてこそ、正常な人です。

 ある仕事を終えて振り返るとき、「お父様、ありがとうございます」という心がなければ、顔を上げることもできず、それ自体を離れることができずに、涙をのんで帰ってきてからも、悔い改める生活を続けなければなりません。そうでない人は、「天の生活ができない人だ」と考えられるのです。これが、伝統的信仰生活だと思わなければなりません。「お父様」と言って祈祷する時、その「お父様」という言葉にも、千態万状の差があるのです。

 皆さん、文字を書くこと、すなわち書道をとってみても、小学生がもし「天」という字を書くとすれば、ものさしで測って、きっかりと書くのです。そう書けば名筆のようで、初心者はそれが最高に良く書けたと思うかもしれませんが、専門家の目には違うのです。専門家は違うというのです。いい加減に書いたようでも、いい加減のように書いたそれが、地上の全体の標準にぴったりと合っています。そこが違うのです。

 それゆえ、信仰生活に自信をもってはならないのです。自信をもつ人は、愚かな人です。孝の道に自信をもつ人がいるならば、孝はそこで終わるのです。忠義の道に自信をもって自分を認識する者は、そこから下がっていくのです。自分一人で自信をもつということは、死んだのと同じことです。神様が共にいて自信をもてばいいのです。神様が共にいてくださるので、そこでは自信をもたなければなりません。そうなれば、自動的に自信をもつようになるのです。

◆神様とと共に同化できる体 恤圏


 皆さんが公的な壇上に立つとき、その心は死刑場に行く心情そのものになることでしょう。それは、さながら公判廷で判事の峻 厳な判決を待つ、その瞬間に立つ男の心情のようでしょう。すなわち、祭物だというのです。数多くの生命にこの時間、私が責任をもっているのです。善い一言で生かすこともでき、一言間違えれば殺すことにもなるのです。医者が注射を間違えて打てば、その生命を犠牲にしてしまうのと同じような立場です。最も恐ろしい立場なのです。その位置には、天が共にいらっしゃるということです。それゆえ、行けば行くほど頭を上げるのでなく、行けば行くほど頭を下げなければなりません。

 自分はいい加減に過ごしてきたのに、天は内外を分けて私を守っていたということを考えるとき、不孝甚だしい自分を回想しては、神様の有り難さを感じることが多くなければならないのです。それゆえ、その不孝甚だしい恥ずかしさ、その責任が全うできないのであれば、どんなことが起こっても仕方がないという心をもたなければなりません。

 このような事実を皆さんが感じて、自分の生活はこうでなければならないというのが公式化された形態で現れ、それが自分の生活を通して展開されなければなりません。そうして、その生活が神様と一致し、同化され得る環境として現れることのできる体恤圏がつくられ、そのような人と共にいれば、その人のそばに行けば行くほど、離れたくなくなるものです。他の世界は死亡圏なのに、この世界は天の圏なので、訳もなく近くに行きたいのです。「訳もなく」ではなくて、事実がそうなのです。体は知らないので「訳もなく」という言葉が出てきますが、本心は知っているので、事実がそうなのです。しきりとそこへ行きたいのです。これは数学の公式よりも確かな公式のように、皆さんの生活に反映されることを、皆さんは知らなければならないのです。

 それゆえ神様に対する体恤は、「神様がいるのかいないのか分からない」と言うのでは、到底望めません。神様と共にある立場で、「神様は歴史を超越された方ではないか。時代を超越された方ではないか」ということを感じながら、自分が何かを聞いたとすれば、これは現在ではないのです。現在のみで終わるものではありません。ここには必ず歴史性があるのです。

 これがここに来るまでには、どのような道を来たのでしょうか。ですからここで、物質に対する価値観も公認しなければなりません。そこには、こうなる過程において因縁を結んだ人も、製作者も入るのです。これ一つとっても、歴史的な物だというのです。それゆえ自分を考えるときは、私のために天の功がどれほど大きかったかということを感じなければなりません。そうなれば、私はこのようにつまらなく生きることはできません。いい加減に価値のない挙動はできないというのです。

◆すべての存在が投入されて投影された私であることを自覚しなさい


 このような生活は、故意にでもそのようにしていかなければなりません。「私が神様の前に本当に行きたがっている心を知っているではありませんか。この心だけは、間違いありません。私には天と共に生きたいという心があるのです。確かなことではないですか」という思いが、どこの誰が否定しても、否定することのできない確かな思いである限り、その人は天と共に生きることができるのです。それが公式というものです。深い浅いの差、高い低いの差、広い狭いの差はあるかもしれませんが、その範囲にあって接しているということは事実です。

 何を中心として見ても、近ければ熱意が強いのであり、遠ければそれと比例的な立場の熱意を感じるのと同様に、今日私たちが神様を中心として見ても、同じ立場で感じることのできるのが公式的な原則です。それゆえ皆さんが「私」と言うとき、神様を中心として自分が東側に立っているか、西側に立っているかということです。知りたければ、祈祷してみてください。私がどの方向に合わせれば祈祷がよくできるのか分かるのです。それは電波と同じです。アンテナを電波の方向と合わせると、よく通じるように、祈祷してみれば分かります。

 そのように祈祷する人々には、「神様がいない、いる」というような言葉は必要ありません。御飯を食べようとスプーンを持つときも、自動的に感じる何かがあるのです。私たち人というものは、自分一人だけではありません。人とはどんな存在でしょうか。

 人というものは、私一人ではないのです。宇宙の共同的な縁を総合して、結実体として現れたものです。そのような人間には、万物の総合相がすべて入っているのであり、私たちの先祖から受け継いだ数多くの素性が、すべて投入されているのです。

 金なにがしというときも、そのなにがし一人ではありません。彼には植物、鉱物、動物、すべての万物の形態が入っています。今、顔を自分の顔だと感じていますが、その顔になるまでには数万年の歴史を経てきました。数万年にわたって先祖たちの血を受け継いで、今のような形になったのです。それは奇跡的な実体です。

 それだけではなく、その背後には、天の因縁がついてきたので、その人が残っているのです。天の因縁ということを考えると、無限な曲折の因縁をたどり、今日の自分が築かれてきたことを知らなければなりません。

 万物のすべての関係的存在が投入され、投影された実体が自分なのです。「私」と言うとき、「私」というものは今日皆さんが限られた立場での、常習化した自分の立場での「私」ではないのです。この共同目的に代わることのできる主体的な立場で、自我を自覚しなければならないのです。

 人は、そう成っているのです。それゆえ、一人で動くからといって、一人で動くのではなく、宇宙が動くことであり、歴史が動いているということです。そのような意識で自分を実現するとき、この人は偉大なことをすることができます。たとえ制限されたこの地で話したとしても、その話を世界に向かって宣布していることになるのです。

 人とは、そのような存在です。そうではないですか。父母の顔に似ていない子供は、昔の先祖に似ているのです。自分の髪の毛や細胞の一部分にも、自分の何千代前の先祖の分子がみな投入されているのです。宇宙が動いて私一人を造成し、歴史が動いて私一人を形成しているのです。そのような実感をしなければなりません。それは結実なのです。「その結実を輝く結実として現して、栄光の結実として顕現させなさい。花が咲き、香りを漂わすことのできる自分自身となり、実を結ぶべきではないか」と、このような因縁を結んだとして、その因縁の主体が誰かというと、人ではなく、天なのです。

 天は、そこで宇宙的な自我を発見し、体 恤的な心情について論議する者を、冷遇できないのです。天がそのような者を冷遇するならば、存続できないのです。そういう自覚圏内に立って、神様に対する体恤を感じる人は、何でもできます。それゆえ信じる者には、不可能というものがないのです。ここで信じるというのは、自覚した立場で信じることを意味します。

◆神様を体恤するにおいて最も重要なこと


 堕落とは何でしょうか。先後関係が逆になったことです。上が下になり、下が上になって、先のものが後になり、後のものが先になって、相対となるべきものが主体になり、主体となるべきものが相対になったのです。先後関係が食い違ったのです。

 ですから、どちらが主体かというとき「天のものが主体である」という絶対的な観念が必要です。「私」というときに、私が主体ではありません。私は、天の前に対象として立った「私」です。その対象としての私というものは主体の要件に一致化できなければ、対象の価値はなくなるのです。それが原理観です。私の目も、口も、手足も、私の全体も、対象としての私です。主体がいなくなれば生命もないということです。

 女性にとって夫がいなくなれば、生命がないということです。いくら「ある」と言っても、ないのです。いくら人情の厚い町内で住んだとしても、一人で住んでいれば、誰彼となく来ては手を出そうとするのです。それが自動的な原則なのです。それゆえ、ねずみを獲れない猫のように、稼ぎのない夫でも必要なのです。皆さんの主体は誰ですか。天です。皆さんは天のためにあるのです。

 孝の道とは、どんな道でしょうか。自らの主体意識が勃発すれば、親孝行の道は壊れてしまうのです。「母親、父親とは何か。母親、父親は、母親、父親だ」とこうなれば、もう一つの主体意識が出発するのです。そうではないですか。「母親、父親というのだから、母親、父親だ。その年寄りが私を生んでくれたというにすぎないさ。私が『生んでくれ』と言って生んだのではなくて、自分たちがそうしたくて生んだのだ」と、このようになったらおしまいです。そうなっては、どちらも壊れてしまいます。孝というものは、主体意識をもたないのです。「私は対象だ」と、このようにならなければならないのです。

 忠というものも、そうなのです。忠臣が、「国王は国王にすぎない。私が勉強して知っていることは国王より多い。彼の目と私の目と、何が違うのか。同じようについているのに。その体と私の体と、何が違うのか。同じではないのか。その体より私の体ほうが、ましといえばましなのに……」と、こうなれば、忠臣の道は壊れてしまうのです。主体と対象の関係が食い違うようになれば、そうなるのです。

 国の中心である国王とは、どんな方でしょうか。国王は、歴史を受け継いだその国民を代表して、共同的な責任をもった責任者であり、全体を代表した者です。そして全体の前に立った私は、その何分の一かに該当する私なのです。だから違うというのです。

 では、父母とは何でしょうか。自分の血族や氏族を中心として、この氏族が正しく立てるか立てないかという重要な責任を担った中心存在なのです。その父母の前に災いが起これば、自分にも災いが起こるのと同じで、その方が完全で、被害を被ることなく、その方がより光るためには、主体を主体として侍り、対象は対象として順応していかなければなりません。

 そうすることによって、その関係に肉がついて育つのではないかということです。このように考えると、その主体のためというのは、結局は自分のためなのです。最後まで主体のために生きれば、結局は自分に帰ってくるのです。結局は、主体までも占領することができるのです。

 孝の道とは、忠の道とは何でしょうか。主体に対し、完全に占領しようとすることです。

 信仰生活もそれと同じです。今日、信徒たちの中で誰かが一度「私が主体だ」と言う一言を聞いただけで、かっとなり、血を見ることになってやっと、「それみろ」と言う人が出てきたとするならば、そのような人は、天国に行こうとしても行くことはできません。天国というのは、そのようになっていません。主体と対象の関係においての順応の法度に従って、原理原則に和合できる道を行くようになっているのであって、自分がもう一つの主体になり、「ああだこうだ」と言うようにはなっていません。

 皆さんは、常に神様に対する体 恤を、どのようにしなければならないのでしょうか。体恤するにおいて最も重要なことは、「私は対象だ」ということです。対象なのに「良いときだけ対象で、悪いときは対象でない」と言う人がいます。良いときだけ対象で、悪いときは対象でないということがありますか。夫が死ぬような立場に入れば、妻も死ぬ運命にぶつかるのです。夫が死ぬような立場に入ったときに、「あら、あなた、死ぬ立場に入って良かったわ。私は荷物をまとめるわ」と言う妻は、滅びる人です。夫も同じです。妻が死ぬ立場に入ったのに、「ああ、死んで良かった。私はもう一度結婚できる」と言う夫は、滅びるのです。

◆互いに「ため」に生きる対象と主体は滅びない


 ですから、「ため」に生きる対象と、「ため」に生きる主体は、滅びません。皆さんは、それを知らなければなりません。「ため」に生きる主体があれば、「ため」に生きている限り、対象がなかったとしても、対象は現れるようになっています。対象が「ため」に生きているのに、その主体が現れなかったとしても、最後まで行けば現れるようになっています。「私が始めたのだから死ぬまでなし、私の一代で成せなければ何代かかってもする」と言わなければならないのです。何代でも待てば待つほど悪いものではありません。それは、神様が世界的な祝福をしてくださろうと待っているのです。「お前たちは根気のある一族であるから、お前の子孫の代になるまで、十代でも二十代でも待って、この世界的な、歴史的な祝福をお前の一族に与えよう」と、天はこのように考えるのです。

 そのためには、一日待って祝福の願いを成就しますか、一年待って成就するでしょうか。「一日待つ」と言うならば、それは小さいはえのようなものです。それは、誰が見ても大した祝福ではありません。それゆえ、終わりまで耐える者が救いを得るのです。その「救い」とは、普通の救いではなく、最高のものを指して言うものです。「終わりまで」というのは、何百年、何千年もかかるかもしれません。

 それゆえキリスト教は、今まで二千年間犠牲になってきたのです。「来る、来ると言ったイエス様は、なぜこんなにも来ないのでしょうか。イエス様は詐欺師だ」とさえ考えられるほどに待ったのに、どれほど待ちわびては死に、どれほど犠牲になったか知れないのに、どうして来ないのでしょうか。待ちに待って、疲れに疲れ果ててみな疲れ落ち、最後にたった一人残るまで、天は待つことでしょう。

 なぜでしょうか。一等賞を与えようとして、そうするのです。一等賞は、最後に二人いたのでは与えられないのです。そうでしょう。一人だけ残らなければなりません。そのように考えていく信仰者の生活というものは、誰が認めてくれるとか認めてくれないとかが問題ではありません。

 世の中では、あらゆる階層的な発展、秩序というものが必要です。木を見ると、虫に食われた木があります。その葉の半分を虫に食われた木を見て、「私は虫に食われた木は嫌だ」と言って葉を全部取ってしまえば、その木は死んでしまいます。春が来るまで虫に食われずに、その日を願って待たなければなりません。皆さんに対して、このように考えているのです。それが先生の心情です。

 皆さんを一〇〇パーセントは信じていません。また、皆さんに「先生を一〇〇パーセント信じなさい」というのではありません。「信じるならば信じ、信じないのなら信じるな」ということです。けれども皆さんに対して、教えることは正しく教えてあげるのです。それは間違いありません。霊界に行っても、先生を讒訴できないのです。「お前にこのように教えてあげたか、あげなかったか」と言えば、「はい、教えてもらいました」と言うはずです。では「なぜそうしなかったのか」と聞かれたら、どうしますか。私は、責任を追及されるようなことはしないのです。だから先生は、今まで皆さんを指導してきたのです。

 主体と対象の関係において、絶対的に主体のために生き、対象のために生きる人は滅びません。主体と対象がなければ分かりませんが、あれば滅びないのです。もし、絶対的に「ため」に生きたにもかかわらず滅びる立場に立つことになったなら、神様は創造の神様であるので、造ってでも成してくださるのです。信仰者において、心配したり、他人を利用してのさばる人は、いつかは滅びることになるのです。自分の弁明に口が忙しい人は、長く続かないのです。

◆絶対的に主体のために生きてこそ体 恤的な信仰圏内に入る


 皆さんが考えるときは常に、「天は主体だ」と考えなければなりません。「私の目の主体は天だ。だから私が見るとき、一人で見るのではなく、主体のために見なければならない」と思うべきなのです。

 夫が妻に対しても、妻が夫に対しても、「あなたは私を本当に愛していますか」と聞いた時、「愛しているが、この目だけ除いて、すべてを本当に愛している」と答えたなら、うれしいでしょうか。一方の目を除いて、そのほかは「本当に愛している」と言うと……。この一つの目が問題です。「そうであればいい」と言う人がいますか。

 主体と対象の関係の、このような因縁を確実に知ったとすれば、すべてのものが、主体のために存在するものとならなければなりません。見ることもそうであり、聞くこともそうであり、また食べることもそうです。御飯を食べるときも、「ああ、おいしい。ああ、おいしい」と食べるのは自分のために食べることですが、主体のために食べれば、「本当に有り難いことだ」と思うのです。「このような環境に私を連れてきてくれたので、きょうこのような立場で御飯を食べるのだな」と考えれば、一人で食べることにはならないのです。それは、主体のために食べることなのです。寝ることも、そうです。「ああ、私が偉いのでこのように、こういう立場で寝られるのだ」というのではありません。「ああ、天が率いて滅びる運命として終わっても悔いのない私が、今日このようになったのは、その滅びる運命を防ぐために、天が何度も苦労した功があるからだ。本当に感謝する」と、このようでなければならないのです。

 それゆえ、主体のための対象の立場には、不平というものがあってはなりません。不平を言えますか。不平は妄動です。破綻です。信仰の道は不平を許しません。それゆえ、感謝あるのみなのです。皆さん、それを知らなければなりません。

 天はいつも主体としていらっしゃるので、主体と相関した運命をもって、それを離脱する生活の法度、生活の形態はあり得ないのです。ですから報告をしなければなりません。どこに一人でいても、一人でいるのではないのです。どこかへ行って座っても、前後に天が来て、共に座ることを感じるのです。そうして、何を鑑賞するようになるのかというと、心からそれを感じるのです。天のお父様はこれらのすべての様子を見つめて、どのように感じるでしょうか。この国を見つめるときは、どのように感じるのでしょうか。その歴史、その世界がそうならば、そこに必ず関係を結んで入ってくるのです。このような問題などを中心として、いつも皆さんが、「天は主体だ」ということを忘れてはいけないことを、確実に知らなければなりません。さもなければ、体 恤的な信仰圏内に入っていけないのです。

 天理というものは、順序を正しく守るところに成立するのです。それゆえ主体と対象の関係で、天は絶対的な主体だという立場に立たなければなりません。その主体を無視する人は、対象になることができません。自分は絶対的な主体の前に、絶対的な対象になろうというのですから、絶対的に一つなのです。したがって、見て、聞いて、感じるすべてのことは、家庭に入って愛することまでも、すべて対象と主体の立場に立って、天のためにすることなのです。一切がそのようになっています。そのような家庭は滅びません。

 主体と対象が良く授け良く受けたか、良く受けられなかったに比例して、結果が現れるのです。それで、統一教会で私が祝福してあげた祝福家庭に対して、「君たちの容姿は勝手に生じたが、君たちの心性いかんによって、天の恵みを受けることのできる道が開かれるのだ」と言うのです。ある父母から生まれた息子がいるならば、その子を見て父母を知ることができます。どれくらい信仰に関心をもち、天がそこに同調でき、天が共に動くことのできる環境的条件をもってきたかということが、自分の息子、娘を通じて証されるのです。

◆主体と対象関係を生活で徹底化しなければ


 さて皆さん、神様に対する体恤は必要でしょう? したいでしょう? ですから何かの問題にぶつかったなら、自分一人で対処してはいけないというのです。先生が幼い時のころの修養の一つの表題が、それでした。「すべてのことは尋ねて決定しなさい、天に聞いて決定しなさい」ということです。万事を尋ねて、決定しなさいということです。それが絶対必要なのです。皆さんが手紙を書くにしても、それが主体と対象の関係から外れない立場で書かなければなりません。皆さん、特に結婚前の若い男女は、そうでなければなりません。このごろの若い人々、この険悪な世の中の風潮に、ただ従っていく者たちがいるのです。手紙一枚でも、自分勝手に書いてはならないのです。

 皆さんがそのような生活をしてみるならば、自分の考えでも、きょうはうまくいきそうにないし、良くないようでもあるし、思いがけないことが起こるのです。こういうことをよく見分けて、皆さんの生活の軌道として、それに沿って生活しなければなりません。自分はどんな生活をしているかということを知っています。もう既に知っているのです。このようにも生きてみたし、あのようにも生きてみたからです。

 体 恤信仰において、一番重要な要件とは何でしょうか。主体と対象の関係です。「神様はいつも主体だ」として、私を愛している神様なので、私が深刻ならば深刻なほど、神様は私のことを忘れることはできない、傍観してはいられない、ここに共にいらっしゃるということを感じなければなりません。ゆえに、祈祷に先立ち、感謝することのできる生活形態がつくられるとき、そこには天が共にいらっしゃるのです。それは、初めは感じられないのですが、ある段階に入ると感じられるようになるのです。

 冬と春について考えると、冬と春がいつ変わったのか分かりますか。冬が終われば春が始まるのですが、いつまでが冬で、いつからが春だということが分かる人はいますか。それを感じる人がいますか。同じことです。いつが境界線なのか分からないので、いつも「こうなるものだ。冬が過ぎれば間違いなく春が来るのだ」と知っているにすぎません。これと同様に皆さんも、「間違いなくこうなる」ということを知っていなければなりません。知っていてこそ、「ああ、そうなった」と感じるようになります。そうなれば、私がある段階に入ったということが分かるのです。

 それゆえ、この主体と対象の関係を生活的な面で徹底化させるのです。「このようにしよう、国のためにこのようにしよう」と言うとき、国のためにしようというのはどういうことでしょうか。それは、天が国に役事することに参与しようということです。

◆体恤の立場


 先生自身は今まで一生の間、借りをつくるまいとしてきました。私が恩徳を受けたならば、返さなければ、御飯がのどを通らない人なのです。世話になろうとして生まれた人ではありません。皆さんも、このような生活を徹底化しなければなりません。そうしてこそ、その家の威信が立つのです。天国の威信が立つのです。そうでなければ、天の伝統の威信が立たないのです。それゆえ天のために、主体のために生きようという思いが身にしみるようになれば、その主体は現実的に現れることのできない主体であるがゆえに、相対的な世界で借りをつくるべきでないことに違いないのです。これが信仰生活というものです。そのような人は、どこへ行っても歓迎を受けるのです。損害を負わせる人は、どこへ行っても排斥され、利益を及ぼす人は歓迎されるのです。

 このような諸般の問題、主体と対象の関係の正常な実現のいかんを、どのように適応させるかという問題を中心として、皆さんは努力しなければなりません。そうでなくては、体恤というものはあり得ません。

 文を書くにしても、一人でただ書くよりも、「この文は誰のために書こう。愛する天のお父様のために書こう。愛する食口たちのために書こう」とするならば、どれほど意義があるでしょうか。「愛する未来の国を支えるために、私が文を書くのではないのか。私が夜を徹して仕事をするのも、その日の朝を、私が目覚めて迎えたいという願いをもったからであり、きょうのこの時間、この夕べ、夜を明かすことによって、願いが成就される一瞬のために、私が条件を立てることのできる一日となるのではないか」と考えれば、夜を明かす日も、疲れる日ではなく、願いを促す刺激的な時間として受け入れることができるのです。

 そうなれば、神様も人と同じです。神様が本当にそうだとすればです。神様のために公的な立場に立ち、疲れて倒れる人がいたとすれば、天はそれを知らないとされるでしょうか。それゆえ孝子は父母を泣かせるのであり、忠臣は国王を泣かせるのです。烈女は夫を泣かせるのです。力ずくで力を出させるのではありません。過ぎた日を見つめるときに、自動的に完全に包囲されて、自らのすべての事情をありのまま告げることのできる能動的な力をもっているのが孝の道であり、忠の道ではないでしょうか。皆さんは、これを知らなければなりません。

 それゆえ父母は、孝子を見ては、隠れて涙を流すのです。千を与えても足りないと感じ、与えながらも恥を感じるのが父母の心であることを皆さんは知らなければなりません。与えて誇る心ではなく、与えても恥ずかしいと感じるのです。そのような父母の心を知らなければなりません。その心の前では、何でも与えざるを得ない方であるがゆえに、すべてを与えても誇ることができず、もっと与えたいと思うのが父母の心であるということを知らなければなりません。

 そのような父母を主体として侍るならば、その人は不幸な人ではありません。それゆえ皆さんが生活面でお父様を、天を涙させることができなければなりません。私の一代において天が私と共に痛哭した事実があるならば、そのような人は滅びません。孝子を前に置いて、孝子のゆえに涙を流す父母は不幸な父母ではありません。幸福な父母です。その涙は悲しみの涙ではなく、希望の涙であり、喜悦の涙であり、感謝の涙ではないかということです。

 そうであるほど自分が置かれた部署において、新しい自覚圏を拡大して、自分でなければならないという自覚、天が保証できる人がいないので、私たちでなければならないという自覚をもたなければなりません。私たちでなければならないという自覚をもった人として、自分だけの自覚ではなく、天を主体として迎えた立場で自覚をもって、体 恤的な環境圏と、生活圏と、時代的な権限をもたなければなりません。そうして皆さんが新しい目的意識に燃えて進むところに、神様のみ旨が成し遂げられるということを、皆さんは心に銘じなければなりません。

 それゆえ天は、私がなくてはならないという自覚よりも、そのような体恤の環境を皆さんが備えなければなりません。体恤しなければなりません。感じなければならないのです。私がしなければ、こうなるということを感じなければなりません。そのためには遠い立場にいてはなりません。いつも主体と対象の関係で接し、見て、聞いて、食べて、寝るという一切の生活を、私一人でするのではなく、主体と共に、主体の目的のためにするのだということを表面化させて、感じなければなりません。

 このようなことを感じる立場で、天が共にある立場で、新しい自覚をもち、世界へ勇み立つとき、そこで初めて天のみ旨がなされるということを、皆さんが分かってくれることを願います。




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訓教経(下)022



文鮮明先生のみ言集

訓教経(下)



摂理の十字路


一九七二年七月九日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第五十九巻』


 存在するすべての物は摂理によって、言い換えれば、ある主体があって、その主体の統治のもとで存続しています。私たちが「摂理」という言葉を考えるときには、絶対的な主体を肯定して話さないわけにはいきません。

◆原因と結果、主体と対象が完全に一つになるところに幸福がある


 被造世界について見ても、あるいは歴史的な私たち人間について見ても、それらは結果物に違いありません。結果が現れるためには、原因によって過程を通らなければなりません。そこから外れては結果が形成されないのです。そして、結果がより次元の高い原因に属するようになると、その結果はより価値ある目的を追求できるのです。

 しかし、高い次元にある原因が、結果に対して食い違った立場の方向をとっては、原因の追求する結果を迎えることはできないのです。あくまでもその原因が追求する結果に向かって一致した方向を取らなければならないのですが、そこから離脱すると、その結果は原因に符合することができません。それゆえ原因と結果においては過程があり、その過程にはただ一つの方向しかないのであって、二つの方向はあり得ないのです。

 このように考えてみるときに、今日の私たち人間は、原因的な存在ではないのです。完全な原因の存在ならば、それ自体は完全な結果をその場で占めることができなければならないのです。そうしてこそ完全な原因と完全な結果がその場で一つに統一されて、そこで完全な喜びが形成されるのです。

 完全な喜びというものは、ある一方に偏っては形成されません。例えば、二人が会って話すときに、甲という人が話すその言葉に乙という人が完全に一つになるときに、話す人もうれしいのであり、聞き手もうれしいのです。幸福というものも、一人だけの立場では形成されないのです。必ず原因と結果、あるいは主体と対象が完全に一つになるところにのみ幸福があるのです。

 こういう観点ですべての存在の原因と結果について考えてみるときに、存在するものには原因に連結させることのできる方向があるのであり、結果に向かう方向があらざるを得ないのです。それゆえ私たち人間自体について見るとき、私たち人間自体が完全な結果の立場にあるならば、この人間には原因に戻ろうとする願いがあるのです。

 しかし、私たち人間自体について見ると、完全な結果の立場に置かれていると見ることができません。私個人について考えてみるときに、私がもしある絶対的な原因者がいて、その原因者の前に完全な結果者としていつも一致することができ、原因者が追求する、正に完全な対象であるという立場にあるならば、私は人間として最高の結果の立場に立ったのです。そのような立場に立ったなら、その個人は、この世界のいかなる人間を代表しても恥ずかしくない存在なのです。

 また、そういう結果的な存在としてある家庭が出てくれば、その家庭はいかなる時代を通しても恥ずかしくない家庭なのです。そういう家庭が連結されて築かれた国があるならば、その国は神様が、絶対者が追求する、原因的で理想的な国に適合した国に違いないのです。そういう国があるならば、その国は、そこで新しい何かを追求することよりも、原因者と一つになることによって幸福を感じるでしょう。

 あるいは、そういう世界があれば、その世界も同じです。世界がどんなに複雑多端な立場にあったとしても、絶対的な原因が願う結果に立った世界になるといっても、その世界が未来を通してもう一つの結果の存在世界を願うのではなく、そこで終わりを結ぶのです。結果として完成した存在は、原因である主体を再び受け継ぐことのできる立場に戻っていくのです。そのようになるときに、世界的な結果の立場に立ったその世界は、初めて世界的な幸福を追求できるのです。

◆原因を受け継ぎ過程を吸収した結実


 目ならば目も、やはり同じです。見る角度が偏れば、一風変わった角度の視覚を私たちが感じるようになるのです。私たちの手足や体全部が一つの形態として、相対的条件を備えて現れるのには副作用を感じないけれど、それが欠如するときには、欠如した以上の副作用を感じるようになるのです。

 このように考える時、「一人では駄目だ」という結論を下すことができます。どんなに結果が立派でも、その結果が結果のための目的から成されたものでは駄目で、原因が追求するとおりになされたものでなければなりません。原因が追求する過程で離脱した、その結果の目的体はあり得ないのです。その原因と、過程と、方向が一致した立場において、初めて完結、完成の結果になるのであり、そうなるとき、原因を受け継ぐのであり、過程を吸収した完全な結実が結ばれるのです。

 一つの木の実について話すならば、その一つの実が完全な実だというとき、十年育った木から取った実は、十年間のその木の運命のすべてを受け継いだものなのです。それは刈り取られた結果ですが、その刈り取られた結果は、それ自体としてのみ存在するのではなく、その木が経てきた因縁から抜け出すことはできないのです。したがって一年ならば一年間、すなわち春夏秋冬の風霜、変動期のすべての刺激とか、すべての蘇生の感じがその実に完全に投入されているのです。そのような過程をたどり、その実が、十年の歳月を経た木の結実になることができるのです。

 一つの実は、その原因となる木の因縁から抜け出すことはできないのです。一年ならば一年を中心として、葉が出て、花が咲き、実になる時まで、その指向性から抜け出すことはできません。それをすべて吸収して育った木が、ある科に属した木として完全な木であれば、その木の実は完全なのです。もしその木が足りないならば、足りない分だけ、それに該当する実が結ばれるようになるのです。

 これを推測してみるときに、私たち人間も同じではないでしょうか。私たち一個人を見ると、一つの木の葉と同じなのです。その木の葉は、木の葉としてだけあるのではないのです。その木の葉が太陽の光を受けて炭酸同化作用をするのは、その木の葉自体の生の目的をえり分けていくためでもあるのですが、木全体の目的に沿って作用するのです。このようにして木の葉が存在しているのです。

 このように考えてみるとき、私たち人間も同じです。私自身について見れば、父母がいて、その父母の上にはまた父母がいて、ずーっと歴史時代を経て先祖をたどっていくと、最も最初の先祖まで上がっていくはずです。その先祖に従ってある絶対者から出発していたなら、天下を治める絶対者の前で、「人はこうでなければならない。こういった者が完全な人だ」と言って、結果的な一人の男性ならば男性、女性ならば女性が出発をするのではないでしょうか。

 男性と女性について見ると、男性は男性によって生まれたのではなく、女性は女性によって生まれたのではありません。横的関係について見れば、これらは主体と対象の関係になっています。ですから男性も男性のために生まれたのではないし、女性も女性のために生まれたのではありません。お互いのために生まれました。

 このように見る時に、本来生まれる時、男性のために生まれたのではないのが男性であり、女性のために生まれたのではないのが女性だということが分かります。女性がもっている目的は、女性だけでは成すことができません。男性と共に、または男性を通すことによってのみ成されるのです。そこに男性の喜びがあるのであり、女性の喜びがあるのだということは言うまでもないのです。

 この公理を認めるようになると、「進化論」が問題になるのです。また、私たちがこの公理を立てていくようになるときには、今日のいわゆる共産主義哲学として世界的な問題になっている「弁証法」が問題になるのです。それらの言う「相反した立場で、互いに矛盾した立場で対立物が闘争して発展する」という内容は、天理の原則に当てはまらないのです。

◆作用の原則


 力学において力の作用を見るとき、入ってくる力と出ていく力は同じではありません。ある作用をしたときには、入ってくる力よりも出ていく力のほうが必ず小さいのです。入力と出力が同じではあり得ません。入力よりも出力が小さいのです。

 こういう観点で見るとき、アメーバが作用をして、どのようにより大きい物になるのでしょうか。これが問題になります。そのようになるには、二つの要因が必要です。アメーバ全体が自体より大きいものを創造することのできる主体的な創造の能力をもっているか、そうでなければ別の所から力を引き込むことのできる誘導力をもっているかという、この二種類の要因が必要です。この二種類の要因がなければ発展できないのです。

 発展は、どこから形成されるのでしょうか。相対的な条件の環境がそろって、互いによりプラスになることのできる、マイナスもプラスもプラスになることのできる、二つのものがより優れた次元に到達できるところでのみ発展が可能なのです。これが今日、先生の提唱する論理です。

 存在の起源の問題について見るとき、存在するためには運動をしなければならないのですが、運動をしようとするなら力がなければなりません。力はどこから出てくるのでしょうか。一人では力が出てくることはありません。主体と対象関係がなければなりません。存在しようとするなら作用が必要なのであり、作用しようとするなら、必ず主体と対象がなければなりません。

 国家ならば国家間で親交をするときでも、互いにより良い共同的な目的を追求するところでのみ可能なのです。共産世界と民主世界が激烈な闘争をしてきている中で、近世になって和解のムードが起こってきています。ここで、二つの世界がより良くなることのできる目的観を設定して出発するならば、間違いなく二つの世界は統一されるでしょう。

 ここで必要なものとは何でしょうか。よりプラスになることのできる内容を確保して、マイナスになり得る未完成分野を補充しても、余力をもち、自分についてくることのできる新しい目的形態を提示すれば、世界は一つになるはずです。

 すべての存在物は、より良いものを追求するようになっています。なぜ、より良いものを追求し作用できるようになっているのでしょうか。最高の絶対者がいるとすると、最高の絶対者である主体の前に相対的な絶対性を賦与しようとすると、そのような創造観で造らざるを得ません。

 それゆえ、存在する前に力がなければなりません。力があるためには、作用をしなければなりません。作用するにおいては、一人ですることはありません。例えば、誰もいないのに自分一人で話していれば、それは狂った人です。また、どんなに世界的に立派な人だとしても、その人が一人でいるなら、彼は言うまでもなく哀れな人です。妻もなく、家庭もないなら哀れな人です。どんなに立派な人でも、国がなくなるときには、彼は哀れな人です。それは、なぜそうなのでしょうか。より価値的な環境の基台をもっていないからです。それは個人としてもそうで、家庭についてもそうで、国についてもそうで、世界についてもそうです。

 では、哀れな民族とは、いかなる民族でしょうか。世界のために貢献できない民族です。世界に貢献すると、なぜ哀れでないのでしょうか。世界に貢献することによって、世界の原因であられる絶対的な主体と一つになることができます。また、世界的な結果を総合し、先鋒に立って主体を迎えることができ、その民族を通して幸福の道が開かれ、幸福を迎えるにおいて先頭に立つことができるので、より幸福だというのです。

◆一つの起源から始まった結果の世界は必然的に一つ


 こういうことを考えれば、今日の私たちは、存在物に間違いありません。皆さんが存在物であることに間違いない限り、皆さんは相対的観念から抜け出ることができません。それゆえ主体と対象の関係において、縦的主体と横的主体がなければなりません。そうしてこそ理想が成されるのです。

 今日の幸福とか理想とかは、より良い結果的な存在が形成されなければならないのです。その結果的な存在というのは、個人も結果的な存在であり、家庭も家庭として結果的な存在です。あるいは社会ならば社会として、その国ならば国として結果的な存在です。その結果が追求するものは、二つの世界にはなり得ないのです。その世界は一つにならなければなりません。

 もし二つの世界を追求する主体があるならば、そのような主体は絶対的な存在とはなり得ません。原因的な主体が二つの結果を追求するならば、それは絶対的な存在ではありません。「絶対的」という言葉は、ただ一つです。完全な起源というものは、二つでなく一つです。それゆえ、一つの起源から始まった結果の世界は、必然的に一つでなければならないのです。

 こういう観点で今日、歴史時代を経てきた人類を一度見つめてみるとき、この人類というものは現時代に生まれた産物ではなくて、歴史的な産物だというのです。私たちの先祖がそのように歩んできたので、それを受け継いだのです。そこから抜け出ることはできないし、超越することはできません。それは継承的です。方向を新しく設定できないのです。因縁づけられた方向のもとで、それに追従する方向は認めるものの、新しく設定された方向は認めることができません。なぜでしょうか。原因が追求する方向は一つだからです。

 それでは今日、人間について考えてみるとき、人間は原因が追求する本来の主体の前に相対的価値をもつことのできる個人的な出発をしたでしょうか。したとするなら、幸福がどんなものかを体験した先祖がいるはずです。男性ならば男性一人で幸福を感じて、「私だけは幸福な人だ」とは言えないのです。「幸福」というものは、その個人に限られたものではありません。

 その個人は全体を代表し、全体の原因になる主体の幸福に代わった相対的存在であるので、彼は神様に喜びを及ぼすことのできる幸福の要因を反応させた主体に違いないのです。

 したがって、私が喜べば主体であられるその方も喜ばれるのです。私が踊りを踊ったなら、その主体も踊りを踊ったことでしょう。そういう個人は、「人生においてこのようなことが幸福だ」ということを感じて生きたことでしょう。そういう男性がいたならば、その男性と共に生きた女性がいたはずです。女性も、「こういうのが幸福だ」ということを感じて生きたのではないでしょうか。

 このような男性と女性が私たちの本来の先祖だったなら、幸福な基台の上に愛を中心とした家庭を形成したはずであり、そのような家庭で生まれた息子と娘がいたはずであり、その息子と娘は母親と父親の幸福をそのままそっくり受け継ぐことのできる、「これが人生の幸福だ」という伝統を提唱できる歴史的な何かがあったはずです。

 父親と母親が愛する立場は天道の原則と一致した、原則に帰一した立場です。原因であると同時に結果を反映させ、結果であると同時に原因を反映させる、最高の価値追求を確かめる立場です。そしてより良いあすの願いを追求できる、加重的な目的を描くことのできる立場です。そのような立場が、幸福な立場ではないでしょうか。

 その幸福な立場は、すべて引き寄せるような立場ではありません。幸福が訪ねて来るときには、与えたいのです。皆さんの心も、そうではないですか。このように考えてみるとき、人類始祖が真の幸福を描いて生きていたなら、それが歴史的な伝統として残ったはずです。

 そうすれば、真の夫婦の道理はどうでなければならないのでしょうか。それは既に帰結し出発したでしょう。真の父母も、既に設定されたでしょう。真の子女の道理もまた、既に明らかにされたはずです。そうして、その息子は横的な親戚関係において、「このように生きるのが伝統を通した、原因が追求する方向に一致した結果的な氏族だ」と言うことができるのです。

◆天地のパターンとしての個人の原形があってこそ


 そして、氏族を通して数えきれないほど拡大され、構成された、絶対的な原因を通した結果的な国がなければならないのです。その国が、帰結点に立たなければなりません。このようになった世界は、主体と相反するのではなく、いつも相応、相和することができ、より高次的な目的を互いに刺激させることのできる、現実的な基盤をもとうとするでしょう。そこに、初めて幸福があるのです。

 結論づければ、天地のパターンとしての、個人のその原形がなければなりません。このごろの時代はオートメーション時代であるので、型があれば、それを置いて一回だけ作動するようにすれば、カタカタと音をたてながら、同じ模様が刷られて出てきます。そのような型があるでしょう。何万個、何百万個でも印刷することのできる型のような人を、神様は喜ばれるのです。そのような、ある主体がなければなりません。

 方向においても、東西南北や三六〇度に従って、角度と位置が違った立場に、ある円形にならなければならないという何かがあったのではないでしょうか。人間として絶対的な原因を追求し、その原因が追求していく方向と一致することのできる結果になり、その結果において原因を内在させ、また再び自分からの第二の方向を設定できる種がなければなりません。春に種を蒔いて秋に刈り入れ、再び訪れる新しい春を迎えて種を蒔くようになる時に、初めに蒔いた春の種自体に代わることができてこそ完全な種になるのです。

 では人間において、芽が出て実を結ぶというのはどういうことでしょうか。「今私たちが生きていることが芽が出て実を結ぶということだろう」と、そう思いますか。実を結ぶということは、私たち人間の理想です。秋になって刈り入れる時になると、稲は稲同士で、全部一つの俵に入っていくのであって、稲が、「私はとうもろこしの俵に、きびの俵に、小豆の俵に、豆の俵に入って行く」と言いますか。それは主人が分けるままに、一つの俵に入っていくようになっています。豆は豆同士で、小豆は小豆同士で、一つの俵に詰めるのです。

 今日歴史時代を見てみると、今の時は秋の季節です。人類歴史が収穫期にあるというのです。ですから、やせこけた枝のみが残ります。その枝も、過酷な風が吹けば折れてしまうのです。そうすると、根だけ残るのではないのでしょうか。そのような時が来ました。

◆絶対圏的方向をもっているところから絶対的な統一圏が成される


 今日民主世界自体について見ると、民主世界が探し求めている理想郷というものは、今日の現時点を超越することのできる何らの主体性ももっていないし、相対性ももっていません。共産主義も共産主義を中心として世界制覇を夢見てきたけれども、今はかえって紛争しているのを私たちは目の当たりにしているではありませんか。それでは統一の形態をもつことができません。分裂に分裂を重ねて、個人共産主義化段階まで下りていくでしょう。

 また、今日の自由民主世界の結実が個人主義思想です。アメリカに行ってみると、ヒッピー族がいます。彼らは、「そのように生きるのが良い」と言うけれど、私が見るには、良くありません。原則に立っていません。絶対的に吸収できる要件を備えて一致した絶対圏、ただ一つの方向をもっているところから絶対的な統一圏が繰り広げられるのです。ところが、彼らはそうではありません。

 それはわがままです。彼らに国があるでしょうか。国はありません。彼らには家庭もありません。師匠がいるでしょうか。師匠もいません。動物性を中心として、「あなたと私は同じだ」と言うのです。秩序がありません。おばあさんと夫婦生活をする孫もいるという話を私は聞きました。それは動物のすることです。ここには天道もないし、人倫道徳もないし、国やそのすべてのものがないのです。個人主義化され、極端な肉の満足を味わおうという、ふしだらな現実圏内で生きているのです。それではおしまいです。そこから、どんな理想的な人間が出てくるでしょうか。それは滅びることです。滅びないようになったときには、ここに立っている先生が、滅びるようにさせるでしょう。

 現在の文明を見ると、人類の文明は温帯文明です。昔の熱帯文明を経て、今は温帯文明圏内で秋を迎える時が来ました。そうすると、人間世界において真の春の日、中和文明を迎えるようになるのです。春の季節の文明圏は、人類歴史上になかったというのです。

 今日、人間の価値が、このように落ちるとは思ってもみませんでした。病気になったのを治すためには、病気になった結果を中心として治療してはいけないのです。根を引き抜いてしまわなければなりません。過った原因を、選んで引き抜かなければならないのです。これが問題になっています。種は種ですが、正しい種ではなく、中身のないものがあるならば、そのような種を望む人がいるでしょうか。

◆人類が願い、原因者が願う世界のパターン


 このように考えてみるとき、個人的にある摂理的な主体がいるとすると、その主体が見て、「人はこうでなければならない」と言うことのできる型がなければなりません。人には男性と女性があります。したがって、男性と女性になるべきある型がなければならないのですが、それが正に家庭です。

 そして、その家庭に対するあるパターンがなければなりません。世界的完成圏をつくることにおいて、一つの家庭は世界を構成する付属品です。その付属品はどうでなければならない、というパターンがなければなりません。皆さんの家庭が、「天倫大道に代わって執行できる代表的家庭だ」と言える人がいますか。そのような家庭はまだないのです。その次に、氏族ならば氏族も同じです。今まで、国家ならば国家において、「天倫が願う国家はこうでなければならない」という、あるパターンがなかったというのです。

 今日の世界を中心として見るとき、「これは人類が願い、摂理の主体である原因者が願う世界のパターンだ」と言うことができるものがあるでしょうか。ありません。けれども、人間はより高次的なものを、より統一的なものを探していくのです。そうでなければならないのです。一つから出発したので、それはどんなに伸びていき、どんなに多くなったとしても、最後には一つに帰結しなければならないのです。

 このような観点から見るとき、今日人間のパターンをどこから求めるのでしょうか。個人のパターン、国家のパターン、世界のパターンがどこにあるのでしょうか。共産主義や民主主義がそれを代行することができ、ある宗派がそれを代行することができるでしょうか。ある家庭がそれを受け継ぐことのできる家庭になるために、今進んでいるでしょうか。そうではないのです。

 人間は否定から出発したので、否定的な結論を下すほかはないのです。否定的な出発をしたので、否定的な決定をすることによって清算しなければなりません。現実を否定しなければ、ここで勝利するとか、超越できる道はないのです。方法をどんなに模索しても、目的を知らなければ解決する道がないのです。ですから、否定して克服してみようと身もだえするのが、今日の私たちの現実です。

 「人間が否定から出発したので、これを否定して、肯定的な自我を再発見しろ」と提唱してきたのが、宗教が出現するようになった動機です。宗教はそのような使命をもっているのです。

 イエス様が「生きんとする者は死に、死なんとする者は生きん」と言ったのですが、これは背理的な論法です。「先に来た者が後になり、後に来た者が先になる」と言いました。全部反対のことを言ったのです。イエス様を信じれば生きると言わなければならないのに、生きんとする者は死に、死なんとする者は生きんと言いました。その話はすなわち、否定することのできない人は肯定を発見することができないということです。

 このような観点から考えてみるとき、今日の私たちは十字路に立っています。この現実的な世界を直視するときに、私はどこに立っているのでしょうか。不合格品が合格品になるのだという戦いの局面に私が立っているということを、皆さんは知らなければなりません。では、私が不合格品の圏を否定してしまい、合格品になることのできる道をどのように模索すればいいのでしょうか。ここには新しい宇宙的な革命が提示されなければなりません。個人的な革命ではありません。個人として宇宙的な革命を誰が提唱するのでしょうか。

 今日の個人主義思想が、「すべての革命をする」と言いましたが、環境を超越したものでもないし、克服したものでもありません。押されていきながら、次元が下がりながら、落伍していく立場で革命をしてきたのです。それは、結局は滅んでいくことなのです。

◆人は神様を絶対視することなくして帰る道がない


 それでは、私が立つ立場とはどんな所でしょうか。摂理的な十字路圏に立っているのです。そこには、左に行く道もあるし、右に行く道もあります。

 今日、真の人間はどこにいるでしょうか。「わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ二六・三九)と、このようにイエス様がゲッセマネの園で自分の一身をみな否定する立場、生死の岐路に立って神様を抱き抱えて不安や心配のない立場に立ったので、人生のただ一つの歴史的な方向が設定されたのと同様に、今の世の中もそのようにしなければなりません。「私の思いのままにしないでください、私の思いのままにしないでください」と言わなければなりません。

 ところが今日の右翼も左翼も、すべて人間を中心とした考え方です。良心主義や、私だけ中心として生きればいいというのは、みな人本主義です。人本主義の出現は人間の堕落によるものです。神本主義を中心とした人本主義の形成は認めることができますが、神本主義を否定した人本主義の形成は認めることはできません。これを克服するためには人本主義を否定して、神本主義の肯定から人本主義の肯定を重ねて追求しなければなりません。それゆえ人は神様にしがみついて、神様を絶対視せずには帰る道がないという結論を下すことができるのです。

 イエス様のゲッセマネの園での祈祷は、死の道を行くとしても天の道に従っていかなければならないということを、人類歴史の全般の事実として見せてくれたのです。それは今、私たちにも同様に適用されるのです。皆さん個人も同じです。混乱した環境を受け継いで、「私の利益だけを一箇所に集めれば良い」と、このように考えれば滅びるのです。また、自分の党派の利益だけを夢見る人も滅びます。けれども自分の生命を捨てながらも、神様のために最後まで弁護し、また、「自分が生きていること、団体が健在であること、国があることは、その中心である天道のためにある」と擁護し、進み出ることのできる個人や、団体や、民族や、国家は、生きていくのです。今の時が、そのような時なのです。

◆イエス様の十字路


 イエス様はゲッセマネの園で、「父よ、もしできることでしたら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ二六・三九)と祈祷なさいました。けれどもイエス様はその場で、「あなたのみ意は私のみ旨であり、私のみ旨はあなたのみ意でございます」と、こういう祈祷をなさらなければならなかったのです。

 イエス様は、なぜそのような祈祷をするようになったのでしょうか。イエス様が願われた弟子のパターンがあったはずです。そして、イエス様に従う信徒はこうでなければならないというパターンがあったはずです。約束したメシヤを送るようになれば、ユダヤ教はメシヤを迎えるとき、このようにしなければならないというパターンがあったはずです。

 ところが、そこに合格したユダヤ教になることができず、そこに合格するイスラエルの国になることができなかったのです。それでイエス様は、心で第二イスラエルの国とユダヤ教を思い焦がれるほかなかったのです。

 イエス様が心で思い焦がれたユダヤ教とイスラエルの国が、内外に完全に一つになったならば、どうなっていたでしょうか。神様は、イスラエルの国のために、ユダヤ教のために、数千年前にメシヤを送ってくれると約束なさったのですが、そのような約束をしたその民と教会が、神様のみ意のままに一つになっていたなら、イエス様がそのような祈祷をされたでしょうか。「あなたのみ意は私のみ旨であり、私のみ旨があなたのみ意です。あなたが立てた教会と国をしっかりと治めなければならないではありませんか」と、このように祈祷しなければなりませんでした。

 そうしなければならなかったにもかかわらず、国と教会が神様が指導なさろうとした立場とは食い違っていたために、国を取り、教会を取ろうとすると神様に背くようになり、神様に従っていこうとすると、国と教会に反するようになりました。こうした中で、イエス様は教会を捨て、イスラエルの国を捨ててでも神様に従っていかざるを得ない立場に立ったので、そのような祈祷をするしかなかったのです。ですから、イエス様はかわいそうな方です。

 イエス様は、死ぬために来られた方ではありません。無力に倒れるために来られたイエス様ではありません。イスラエルを動員し、今のアブラハムの後孫として祝福を受けた十二支派のアラブ圏の民族を動員して、強大なローマ帝国に対抗していくのに不足のない環境が自然にできていなければなりませんでした。

 その時、ローマのすべての政治風土は弱まっていました。ピラトが総督として治めている小さなイスラエルの国で民乱が起こることを恐れたのを見ると、どれほど行政力が及ばなかったかという事実が一目で分かるではありませんか。

 神様が探していたイスラエルの国とユダヤ教は、どうしなければならなかったのでしょうか。イエス様が考えるには、教会と国はこうでなければならないという基準があったのですが、そういう国や教会はありませんでした。ですから、イエス様が反対を受けたのではありませんか。

 イスラエルの国とユダヤ教がイエス様のみ意のままにし、神様のみ意のままにしていたなら、誰がイエス様に反対し、誰が殺したでしょうか。ピラトは生かそうとしたのに、「バラバを生かして、イエスを殺せ。イエスを十字架につけよ」と誰が言ったのですか。ユダヤ民族が言ったのです。ピラトの妻までも夢を見て、ピラトに「イエス様に手をつけるな」と勧告したのを見れば、イエス様は死ぬようにはなっていなかったのです。

 そういうことを見ると、イエス様は正に十字路に立っていました。摂理の国と摂理の教会を背負い、この世の国とこの世の教会に近づくとき、イエス様は正に十字路に立っていたのです。右側の教会と右側の国は本来イエス様が追求し、願って来た教会と国であるにもかかわらず、左側の教会ができ、左側の国ができました。これは、イエス様のみ意に背くことではありませんか。これを防御するためには、イエス様が犠牲にならざるを得ませんでした。したがって、イエス様が再度、この地上に来られる時まで、ユダヤの国は地で顔を上げることができないのです。

 それゆえイスラエル民族は、二千年の歴史路程をたどりながら、数多くの民族の銃刀の前に、あるいは馬のひづめに踏みつけられて犠牲の祭物になったのではありませんか。一九四八年を中心として、初めて国連の協助を受けて独立をしたということは幸運なことでした。イエス様に反対したイスラエル、ローマ帝国よりももっと大きな世界的な反対圏をもって、孤独な立場で独立したけれども、かき分けていかなければならない道において、堅固に守りを固めた城のような怨 讐の基盤が残っていたのです。

◆完全な種と沃土


 昔は「イエス様を信じる人」と言えば、高く評価されました。あるいは、宗教を信じる人を高く評価しました。今日この時代においては、だんだんそれが下がりつつあります。科学が発達したこの時においては、すべてが分科制度になっているために、細部的な原則に従って一つの分科の中に数多くの人々が糾合されています。

 それで、「それを超越しては人間の価値追求を認めることができない。物質的相対世界を迎えたこの時において宗教は必要か」と、こういう時に入ってきたのです。「宗教は必要ない。宗教が願う理想なんて必要あるのか。宗教が願う人格、宗教が願う家庭、宗教が願う国家観、世界観なんか必要ない!」と、このように主張しているのです。

 このような世界の前に、神様が摂理を推進してこられるならば、神様はどのようにされるでしょうか。絶対的な宗教と、絶対的な神様を中心とした思想を中心となさるはずです。

 では今日、この歴史的な終末の時代において、物質文明が一番端に置かれている現時代において、ここに残るものとは何でしょうか。神様がいらっしゃり、世界が落ちていく落葉のようにならないことを願われるならば、ここに何かがなければならないのではないでしょうか。この世に反対になるもの、神様が提示する絶対的な宗教、絶対的な国家観、絶対的な思想観をもってくる、そういう何かがなければならないのではないでしょうか。このようにして、もう一つの新しい十字架の形成がこの地上に成されなければなりません。

 植えられた畑によって、種の結実は変わるのです。ここで、石だらけの畑に蒔くのか、沃土に蒔くのかという問題が起こるのです。悪なる人に蒔くのか、善なる人に蒔くのかという問題が起こるのです。神様は収穫された結実をもって、石だらけの畑と、とげだらけの畑に蒔くことを願うのではなく、沃土にばら蒔くことを願うはずです。この地上に、神様が沃土として設定し、準備したのが宗教なのです。

 それでは、沃土だと主張している宗教が、本当に沃土になっているでしょうか。沃土というのは種のためにだけ存在しなければなりません。種が必要な要素を吸収するときに、百の要素を吸収できるとすると百の要素を備えて、その相対的エキスを種全体に供給できてこそ、完全な沃土になるのです。

 その完全な種のようなものがキリスト教でいう再臨主なのですが、その方は「この地上に来る」と言いました。メシヤ思想を中心として見るとき、彼が来る時は沃土に向かって来るはずです。では沃土になることのできる教会がありますか。沃土というものは自分のためにあるのではなく、種のためにあります。種のためにあるのですが、種が百ぐらいの必要な要素の吸収力をもっていれば、千、万の要素を備えてもっているほど、それは「沃土」と言えるのです。

 こういう沃土となることのできる宗教や国がありますか。すべて石だらけの畑であり、すべてとげだらけの畑です。沃土というものは、自分のためにあるのではありません。

 ところで、子女たる私たちが神様と分かれたなら、終わりの日に審判を受けるにしても、または称賛されるにしても、再び会う日が来るのです。それは間違いありません。息子が父母の前に親不孝をしたとすると、再び会ってもう一度談判をしてこそ縁を切るか切らないか、分かれるか、情を切るかということが起こるでしょう。親不孝をしたからといって、飛び出したからといって、「こいつ! 出ていったのだから私とは関係ない!」と言って関係を切ってしまう父母はいません。

 出ていったなら再び帰ってきて会える日を待ち、帰ってきた時には、昔そうであったことをもう一度回想して、自分自ら自責して悔い改める立場で、本然の孝の姿をもって現れることを望み、またそのような立場で息子を迎えることを望むのが父母の心です。息子は、そのようにできる要因をもつべきではありませんか。ところが、帰ってきても悔い改めることができずに、「ふん、何だ!」と言うときには分かれるのです。

◆宗教の基台と終わり日の人間


 人間が堕落したので、主体であられ、原因であられるその方が人類の父であり、父母の立場にいらっしゃるならば、その父母は人類に対し、再び会う日を待ち焦がれているのではないでしょうか。会うためには、荷物をまとめて持ってくるのではないでしょうか。孝子として来るならば、もっと良いものを与えようと、ふろしき包みにみな包んで持って来られるのではないでしょうか。

 もしこれを受け入れないならば、この倍になる審判を受けるようになるでしょう。そういう歴史的な終末時代が来なければならないし、終わりの日が来なければならないのです。終わりの日とは何でしょうか。審判する父母を迎えるのか、称賛し歓迎する父母を迎えるのか、この二つのうちの一つの父母を迎える日が、終わりの日です。

 人間がそれを準備しなければならないし、人間が審判を受けて追い出される群れになってはいけないので、人間にそれを教育するために宗教の基盤を広めてきたのです。そういう人間が悔い改めて神様を絶対視し、絶対的に原因を主体とすることのできる姿になることを願うのが、神様の本意ではないでしょうか。これが、摂理の中心思想ではないでしょうか。

 ところがその時になって、「私はこれこれこのようにしてこうなりました。私がこのように本来どおり帰ってきて父母を訪ねようとしたのですが、追い出されて手ぶらで戻ってくるのでは面目が立たないので、体面上、威信上、お金でも集めて贈り物を買ってこようとして、今このように来ました」と、こういう弁解は必要ありません。そこには贈り物は必要ありません。骨身に染みるような心から張り裂けて出てくる「悔い改めの心」が必要なのです。それだけが通じるというのです。

 それで、「悔い改めよ。天国は近づいた」(マタイ四・一七)と言いました。イエス様は、「解放しなさい。天国は近づいた」とは言いませんでした。「悔い改めなさい。天国は近づいた」というこの言葉は、人類の共同的な標語なのです。親不孝をし、自分の主張どおりにしたからです。

 父母の主張に従ってこそ自分の主張が成立するのに、父母を押しのけて自己主張をしたのではありませんか。不忠とは何でしょうか。国王を差し置いて自分を主張したことが不忠なのです。親不孝とは何でしょうか。父母を差し置いて自分を主張したのが親不孝なのです。そうなっているのです。それで宗教は、何を教えてくれたのでしょうか。「神様に絶対従順でありなさい」、これを教えてくれたのです。

 これから、二つの分かれ道が出てくるのです。言い換えれば、今日のこの世界、混濁したこの地上において、人間として人倫道徳を論議しながら、国家観、世界観を願っていますが、これだけをもってしては駄目なのです。ここに風変わりな何かがあって、神様が提示する新しい天道を明らかにして、すべての人類が一つの共同的なパターンの原則を備えた、新しい世界の形態として接近しなければならないのではないでしょうか。その時が、いわゆる終わりの日だというのです。

 ですから、終わりの日とはどのようなものでしょうか。沃土になった所に順応できる人が来なければなりません。失った息子に会おうとして来るその父母が、今までのすべてのものを再び探して荷物を全部まとめて来るに違いないのです。そこには、完全な個人もいるでしょうし、完全な家庭もあるでしょうし、完全な国もあるでしょうし、完全な世界もあるでしょう。それだけでなく、天上天下を統一できる、充満した愛の内容が宿っているはずです。

 それを占領するときには、誰よりもそれを一度に抱き締めて、父の胸に抱かれて入っていくことができるのです。その場は、「私が骨ならばあなたは肉だ」と骨と肉が一つになり得る、共感できる立場であり、喜悦の涙で一つになり得る立場ではないでしょうか。

◆宗教に再臨思想のある理由


 それでは、終わりの日を迎える私たち聖徒の立場は、どうあらねばならないでしょうか。「私はその人が慕わしい。その家庭が慕わしいし、その国が慕わしいし、その世界が慕わしい」と、こう言いながらすべてを忘れてしまって、「神様!
 来てください!」と言うことのできる人がいたとするならば、どうでしょうか。 もし来られる日には、「私はこのように精誠を尽くします。個人として地上でしたかったすべてのことを私がみなしてみたけれど、これに足りないようなので、それ以上いたします。一人の男性として一人の女性を迎えたならば、家庭はこういう家庭をつくり、国はこういう国をつくろうと思います。父であられる神様が願う、すなわち原因が願う世界をつくります。しかし、主体の念願どおり成されるものがなければ、そこに相対的な形態でも備えます」と準備できる心をもって、「あなたが探している息子はこうでしょう。あなたが探している家庭はこうでしょう。あなたが探している国はこうでしょう。あなたが探している世界はこうではありませんか」と言いながら、それを実現してさしあげて、「それを見て感動なさる父を迎えたい」と言う人が出てきたときに、神様がここに訪ねてきて、すべてを抱いて愛することのできる道ができるのではないでしょうか。このようにならなければならないのです。

 イエス様も、十字架上で滅びるしかないイスラエル民族とユダヤ教と連結された世界を見つめて「あなたが私を許してくださるなら、私が死んでも彼らを許してくださり、私を送ってくださるならば最初に来たイスラエルの国に再び送ってください」と、こう言ったのです。死んでいきながらも怨 讐のために福を祈ってあげたのです。「私を許してくださった神様、あなたの愛があるならば、私を通して彼らをも許してください」と、こういう進言の理念が今日、世界の救いの道が延長した動機になったのではありませんか。それを知らなければなりません。

 ですから、個人を代表できる人が必要であり、家庭を代表できる人が必要であり、民族を代表できる人が必要であり、国を代表できる人が必要であり、世界を代表できる人が必要なのです。人が十人いても駄目で、一人を通さなければならないのです。神様は、絶対的な神様であられるので、絶対的な神様が、絶対的な一人の個人を通して出発しなければならないのが原則ではありませんか。ところが、人間の世の中にはそのような人がいないために、「再び神様の愛する息子を送る」と言われたのです。

 それで、宗教に再臨思想があるのです。主が来て審判の公約を提示するのは、滅びるようにするためのものではありません。個人が家庭と共に称賛され、氏族と民族をかけて称賛され、国家と世界をかけて称賛され、天地に代わって称賛されて立ち上がれば、神様が反対する群れを打とうとする時に「私を許してくださるなら、彼らを許してください」と言える、ある国家を代表した天の側の、宗教を代表した天の側の、世界を代表した天の側の、個人を代表した天の側の証し人と、弁護する人がいてこそ、滅びるしかない個人がよみがえるはずであり、家庭がよみがえるはずであり、国がよみがえるはずであり、世界がよみがえるはずです。今日そのようなことのできる宗教があり、そのようにできる信仰をもった宗教人がいるでしょうか。いないというのです。いないので、滅びるのは当然だというのです。

 今日、神学で神を学ぶのですが、学んで知ることでは心情は分かりません。愛によって生きなければなりません。愛を通して体 恤的な生活をしなければならないのです。それで、神様が悲しまれるときに自分も悲しみを感じるのであり、神様が喜ぶときに我知らずうれしくなるのです。

 孝子は、どのようにするのが孝子なのでしょうか。千万里離れているとしても、父母の愛はいつもその孝子の傍らにあるのです。神様の遍在性において、神様はどこに存在されるのでしょうか。知識的な内容に存在されるのではありません。知識というもの、個性真理体というものは、それによって原因と動機が終わって、そのような形態、すなわち再び第二対象を、相手の世界で追求するものなのです。

 しかし、愛はそうではないのです。極と極を超えて遍在を妥当に、可能にするものは子供を愛する思慕の心、子供に向かった父母の心です。愛に通じるその道において、父母は遍在するのです。どこでも、いないところがないのです。それは愛のみが可能です。愛のみが、その息子を完全に支配することができるのです。そうではないですか。全能な権限は、そこに該当するのです。

 それゆえ神様を知り、知るだけでなく、神様と共に生きようというのです。神様が人間を教育して何をなさりたかったのでしょうか。教育して、頭だけ大きくしようというのではありません。伝えてもらい、教えてもらったなら、「行え」と言うのです。「共に生きろ」と言うのです。「生きながら喜ぼう」と言うのです。喜ぶために愛そうというのです。私たちは、このような立場に向かって進んでいるのです。

 そのようになれば、皆さんが神様の遍在性をどのように感じるでしょうか。空気を神様の息のように感じ、台風が吹いたら、それを神様の鼻息のように感じなさいというのです。流れる水があれば、それを、神様がこの世界のために受難の道を克服してきながら流された汗のように感じなさいというのです。

 太陽を見つめるときは、その太陽がこの宇宙全体の生命の要因を象徴していると知って、神様の愛を太陽から学べというのです。神様の心情を体 恤するにおいて、一つの教本であり、教材として展開させたもの、愛する息子、娘を喜ばせるための教材として立てておいたものが、自然です。木の葉を見て自分の息子、娘のように感じ、一人ぶつぶつつぶやくことのできる人がいたなら、その人は聖人に近いのです。

 幸福は、どこにありますか。愛にあるのです。「信仰と希望と愛、この三つは常にあるが、その中で一番は愛だ」と言いました。愛は、無限な遍在性をもっているのです。愛は、無限の存続性をもっているのです。無限の可能性をもっているのです。無限の生命力が、そこで設定されるのです。

 大きな希望をもって、大きな目的を達成するためには、時間的な距離が必要なのです。ところが、その過程を経ていき、その過程がより大きな次元における目的を達成できる日を追求するためには、時間に従っていき、より前進的な刺激を追求しなければならないのです。その刺激を、どこで受けるのでしょうか。知識からでしょうか。到底望めません。知識はそれを「そうだ」と結論を出せば、全部終わってしまうのです。

◆主体的な愛は中心を失って酔うことのできるもの


 皆さん、神様の愛を受けることのできる、宇宙を代表した息子を考えてみてください。御飯を食べても、一人でいても、神様が見えるでしょうか。見えません。それをどのように実感するのでしょうか。この宇宙の万物は、神様のすべての属性をもっています。神様を象徴的に描いておいたものです。キャンバスと同じです。それを眺めて、酔って喜ばなければなりません。

 自分が描いた作品を中心として、昼も夜も酔って眺めて、涙を流して感嘆する人がいたなら、それを描いた画家が、それを見て気分を悪くするでしょうか。「こいつ、なんで泣くのだ」と言うでしょうか。そのような人がいたなら連れてきて、茶の間に通して「なぜそうしているのか」と聞きながら、理由を話させるのではないでしょうか。「ああ、素晴らしい、ああ、慕わしい、ああ、一緒にいたい」と言ったといって、「気が狂っている」と言いますか。

 皆さんが神様を知らなくても、神様の万宇宙にいっぱい詰まっている遍在性が、知識的な主体としていらっしゃるよりも、愛として存在されるので、「私がどのように愛の同感圏を各分野で、民族を越えて世界を通して体恤できるのだろうか」という立場で、神様を再認識するのです。

 それで、神様の愛に立脚した立場に私が立っているという信念をもっていくとき、その愛は個人的な愛ではありません。主体的な愛です。その愛は、誰かに与えたあとで「やー、君にあげたよ」と、このように頭に記憶して、「これくらいあげたんだから……」と、こういう商売根性の愛ではありません。「私が百ぐらいあげたんだから君は私に百一ぐらいくれるべきだ」と、このように願って与えるのではありません。与えながら、恥ずかしがるのです。与えてから、恥ずかしく思わなければなりません。

 父母は、愛する息子にどんなに良い服を着せてあげても、「この地に数多くの王子、王女が生まれ死んでいったではないか。私の息子がその王子たちに劣ると言うのか。私の娘がその王女たちに劣ると言うのか」と、こう言いながら、それ以上愛したいという心をもつのです。したがって、そのような立場で着せてあげた服を考えるときに、世界のその誰よりも、世界のいかなる息子よりもより愛したい父母の心は、より良い服を着せてあげるために涙ににじんだ立場にあるために、そのような父母には、息子がどんなに入り込んでいっても終わりがないのです。

 それゆえ、そこに初めて、酔いしれる愛があるのです。終わりがあれば酔わないのです。一回回っても酔いません。何回も回るときに、中心を失って酔うのです。酔いしれる愛でなければならないのです。

 それゆえ、与えて忘れてしまうことのできる愛、すなわち与えて私が与えたと手帳に記録するのではなく、与えたあとで受けようという心でなく、与えてしまって相手が感謝するところにおいて、受けなくても受けたよりもっと良いという心をもたなければなりません。与える人も申し訳なくて、受ける人も申し訳なくなるときに、その愛だけは永遠に残るのです。「えーい、私の勝手だ」と言って、その次には「ない」と言うのではいけないのです。二人が授け受けてからも、その愛はなくならないようでなければなりません。こういう理想的な夫婦にならなければなりません。

 ところが、妻が夫を愛し、夫が妻を愛して、「ああ、あなたは私が愛するよりもっと愛してください」と言ったなら、それは壊れてしまう愛なのです。愛しても、「私はまだまだ足りません。私はまだ未熟です」と、このように愛したものが一つの基台になり、それが根本となってそこで穀類を刈り取ることのできる、資本の残る愛でなければなりません。そうしてこそ、理想的な家庭になり、国を見つけ出し、みな見つけ出せるのです。

 今は、どんな時でしょうか。終わりの日です。ところが、このパターンの個人、家庭、氏族、民族、国家が、歴史のいつの時代に代表して現れたことがあったでしょうか。ありませんでした。神様に離反した人間の前において、今まで人間歴史は何をしてきたのでしょうか。完全な男性一人を探してきたのですが、見つけることができなかったのです。

 宗教が出現して、何をしたのでしょうか。神様がパターンとして描いていた理想型である一人の男性を、再び探し出そうとしました。その標準に沿って、その標準と一体となる対象の実体を描いてみるために、数多くの宗教の教祖たちが努力しましたが、それはいまだに形成されていません。それゆえ再臨思想があるのです。男性一人を探し出すことができなかったのです。

◆神様の理想とするパターンを中心として真の男性と女性が対面しなければ……


 したがって、男性を探し出すことのできなかった圏内では、夫妻が成立しないのです。それで「独身生活をしろ」と言ったのです。真の個人がいないので、国が必要ないのです。真の国は、真の個人から始まるのです。家庭も必要ないのです。真の男性から、真の女性から始まるのです。まずなければならないのが、真の男性と真の女性ではありませんか。歴史時代に、いまだに真の男性と真の女性のパターンを探し出すことができなかったのです。

 イエス様は、有り難くも神様の愛を受ける「ひとり子」という名前をもって来ました。それゆえ神様の愛、純粋な伝統を受け継いで、そこに相反する内容をもった息子でなく、本質的な愛に和することのできる歴史時代の一人の男性的代表者であり、新郎として来るのです。そうして新婦を迎えることによって、初めて人間世界の前に、男性と女性が神様の理想とするパターンを中心として対面するのです。これが、キリスト教の願う再臨思想です。

 この家庭が現れる前には、どんなに世界に家庭があるとしても、神様の眼中にはないのです。パターンを探し出せというのです。そのような家庭での父母が息子を愛する道理が、今日の人倫道徳の原則になるのではないでしょうか。父母、夫婦、子女の因縁、神様の描く今日の統一教会でいう四位基台の原則に立脚した、理想的な本然の形態の基準をどのように決定するかというのです。

 世界を掛けて統一、平和を夢見るには、こういう基本問題が残っているので、これを解決せずして「統一世界」は訪れないのです。基本問題における、個人的な男性のパターンと女性のパターンを中心として、家庭的パターンを形成するところから、統一の世界は築かれるということを皆さんは知らなければなりません。

 そのような時が、いつでも来るのではありません。そのようなパターンを中心として考えてみるとき、イエス様はそういう個人的パターン、家庭的パターンを成し遂げることができる代表者として来られた方なのです。それでイエス様を中心として、「あなたが成し遂げたかった家庭を成し遂げてください」という理想的なパターンを成し遂げなければならなかったのです。しかし、それを成し遂げることができなかったでしょう? なぜそうなったのでしょうか。沃土がなかったからです。

 イエス様には、摂理に立脚したパターンがあったはずであり、そこから民族的パターンが出てきたはずであり、国家的パターンが出てきたはずであり、その国家を中心として世界的パターンが形成されたはずです。そうなっていたならば、この歴史時代にはそのパターン形態の規格に従って、新しい民族、新しい世界が形成されていたでしょう。それにもかかわらず、それを成し遂げられなかったゆえに、再度そういうパターンを成し遂げなければならないので、一人の男性に代わって再び世界を訪ねて来なければならないのです。この時が、終わりの日です。

 これが、歴史始まって以来、イエス様の時に成されなければならなかったのですが、再びこの時になって、個人と家庭と氏族と民族と国家と世界がそのパターンによって平面的な舞台でみな連結されるならば、個人から家庭、家庭から氏族、氏族から民族、民族から国家、国家から世界まで一度にそのパターンを通過して乗り越えることができるのです。この時が、終わりの日です。

◆終わりの日に勝利的な十字路を経てこそ理想世界が実現される


 そのため、今の時にはどのようにしなければならないのでしょうか。摂理上において、個人的十字路を通過して、家庭的十字路を通過しなければなりません。あるいは氏族的、民族的、国家的十字路を通過しなければなりません。また世界的十字路を通過しなければなりません。通過するのには皆さん自身をもってしては駄目なのです。駄目だというのです。パターンに従って、そこに一致する時にのみ可能なのです。これが一度に、個人を越えてしまえば、家庭が待ち、家庭を越えてしまえば、氏族が待って……。こういう時が来るので、悪なる世界の人倫道徳の形態をそのままにしておいてはいけないので、みな引き裂いておいたのです。国と国もばらばらになり、氏族と氏族の間で戦いが起こり、家庭と家庭の間で戦いが起こり、夫は妻を信じることができず、妻は夫を信じることができず、息子は父母を信じることができず、このようにすべて壊れてしまい、互いに相手の悪口を言う時が、終わりの日なのです。

 これは悪い兆しのようですが、ここに、ある良い対策さえあれば、新しく再編成できるのです。そのために神様が可能な舞台を形成したのが、今日の混乱した、終わりの日です。

 したがって、終わりの日になればなるほど混乱が起こるのです。息子は父母が分からなくなり、父母は息子が分からなくなり、夫は妻が分からなくなり、妻は夫が分からなくなり、弟子は師が分からなくなるのです。国と民がみな別々に分かれるのです。これは悪いことではありません。

 それで私たちは、個人的十字路を正しく乗り越えて、家庭的十字路、氏族的十字路、民族的十字路、国家的十字路、世界的十字路を通過しなければなりません。先ほど話したのと同じように、勝利的十字路を経て、一方が怨 讐の国ならば、それをつぶしてしまい、審判してしまうのでなく、神様に「私どもを哀れに思われるなら、彼らも許してください」と言わなければなりません。そうしてこそカインとアベルの戦いの歴史は、統一の基準が形成されることにより、初めて統一の帰一点に戻ることができるのです。カインとアベルが戦って血を流した歴史なので、血を流すことなしには戻れないのです。

 そのためには、そういう個人が必要であり、そういう家庭、そういう氏族、国、世界が必要です。そういう世界がないので、それを見つけ出そうというのが「統一思想」です。私たちは、個人の十字路に立っていますが、国家の十字路に立っており、国家の十字路に立っているだけでなく、世界の十字路に立っており、世界の十字路に立っているだけでなく、天地の霊界と肉界の十字路に立って、神様の愛を中心として代身的な、原因の前において原因が追求する結果的な実体を成し遂げるために、より全体の価値に代わることのできる中心の立場を決定するために、進んでいっている群れだということを皆さんは知らなければなりません。

 この道をたどっていったのちに、神様は皆さんの父になるのであり、世界が父のものなので世界もまた皆さんのものになるのであり、神様の家庭と神様の国は、皆さんの家庭と皆さんの国であるがゆえに、どんなにみすぼらしい皆さんであっても、万軍の主であり、万王の王であられるその方の息子、娘になるのです。そうなれば、天国に記憶される王女になることができるのであり、王子になることもできるのではないでしょうか。それが聖書で言う、「最初の復活」です。

 私たちは十字路を、どのように越えるのでしょうか。自分の妻を胸に抱いて自分だけを考えるのでなく、妻を胸に抱いたならば国を考えなければならないし、国を胸に抱いたならば世界を考えなければならないし、世界を胸に抱いたならば天地を考えなければなりません。これを段階的に、正常にとどまることのない行路を経ていくようになると、すべての怨讐が待っている十字路は消えてしまい、平坦な通りに入っていき、解放の自由化が形成されるようになり、天地に平和の王国、神様の願われる理想世界は実現されるでしょう。

 こういうことを皆さんが知って、そこに邁進し、その一路に沿って服従していくことが、私たちの行くべき道だということをはっきりと知らなければなりません。













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訓教経(下)023



文鮮明先生のみ言集

訓教経(下)



因縁の行路


一九七二年七月十六日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第五十九巻』


 人が世の中で生きていくにおいて、自分一人では生きていけないことを、私たちはよく知っています。「私」という自分自身を見れば、自分一人だけでは生きていけないのです。

◆因縁と運命の道


 私が一つの所に立つためには、前後左右の四方がなければならず、相互関係が連結する位置を備えなければなりません。そうなれば、「私」の位置が決定されるのです。また、その決定された位置で自分の方向を整えるようになれば、その人がいかなる人かということが区別されるのです。その人がいい人か、悪い人かということが、何により決定されるかといえば、その人が置かれている位置で、方向を見分けていくときに決定されるのです。

 このように見ると、私たち個人が、そういう立場に立っているのは偶然ではありません。そこには必ずある運命が連結しているために、そのような立場に立つしかないのです。

 上下関係について見れば、父母がいて、先には子孫がいなければならないのですが、これを歴史的に見れば、過去があり、現在があり、次に未来に通じるのです。これを自分を中心として見れば、左右と通じ、前後と通じるのです。このように私たち個人は、上下、前後、左右の関係により存続し、位置を決定して方向をとっていくのです。

 この関係というものは、ただ成されるのではありません。この関係が結ばれる前に、必ず因縁がなければならないのです。道を行く途中で思いがけなく一人の人に会ったことが因縁となり、その因縁によって一生になくてはならない、勝敗を決する重大な結果をもたらすことを感じたり、あるいは見たりすることもあります。

 すべてのことに、偶然ということはないのです。偶然のようですが、歴史時代を経てきた人生であるからには、その人生の背後には、私たちには分からなくても、そのような因縁が結ばれているということを知らなければなりません。その会った当事者同士は、一時代圏内にありますが、彼らが会う前の背後というものは、歴史性を帯びているのです。その歴史過程には個人が同参できるのであり、また家庭、氏族、民族、国家、全体が加担して入っていくのです。それだけでなく、一つの国を過ぎて、異邦、さらには全世界がその圏内に加担できるのです。

 人間を中心としてもたらされたこの世界だけではなく、天があれば天までもその背後に介在しているということが考えられるのです。したがって二人が会ったのは、瞬間的な、一時的な基準により成されたのではありません。

 一人の男性と一人の女性が夫婦になれば、その夫婦になったのが二十代ならば二十代、三十代ならば三十代の平面的な人生を過ごした人として会ったのではないのです。縦横、また前後、左右を中心とした膨大な因縁の運命の道が連結して、ある一つの時点で対面したのです。

 そう考えれば、結婚という問題は歴史的な事件だといえるのです。二人が生きていくことは、二人だけが生きていくのではなく、歴史的な人生を代わりに生きていくという結論が出てくるのです。もし神様がいて、そこに神様の因縁が加担されているとすれば、彼らは歴史的な夫婦であるばかりではなく、天倫を代弁できる夫婦として因縁が結ばれていると考えられます。

 ここには平面的に見れば、個人、家庭、氏族、民族、国家、世界を連結させることのできる因縁が連結されていて、縦的な面で見ると、天倫が加担されていると見ることができます。

◆人間の幸、不幸と因縁


 人が人生行路を経ていく過程で現れる生活感情やすべてのことは、その人の生活としてだけ終結されるのではありません。それは歴史的な原因を通して因縁を結んだものであり、その帰結点を願って彼らを引っ張っていくために及ぼされる結果というものは、その個人だけに限定されるものではありません。ゆえに、歴史的な内容が内包された生活をしていく、と私たちは見なければなりません。

 それゆえ、私一人が良くなっていては、喜べる立場にはなれないということを知らなければなりません。男性が一人で喜んでいては家庭が平和ではあり得ず、女性が一人で喜んでいては家庭が幸福ではあり得ないのです。また、その二人が幸せだといって、その家庭が幸福なのではありません。

 現在のこの時点というのは、因縁を通した関係によって成された結果であるがゆえに、その結果はより価値的な因縁を追求するためにあるのであり、その結果を通してより価値的な関係を立体的な面で発展させるためにあるのであり、彼らの幸福は、彼らだけのための幸福ではないのです。彼らの幸福は、過去の不幸を埋め合わせるための幸福にもなり得るのであり、過去に幸福な時があったとすれば、その基準を越えてより良くなれる立場に立つための幸福にもなり得るのです。

 世の中のすべての存在形態は、直線ではありません。それは、上下、高低、動く方向によって発展していくために、高かったものは低くなるのであり、低かったものは高まるのです。運命の道がこのようにすれ違って交差しながら発展していく歴史であることを私たちが知れば、皆さんの生活というものは毎日、毎日変わるのです。

 皆さんの気分も朝夕に変わります。「朝は気分が良かったが、夕方は何だか気分が悪い」、または「春は運が良かったが、夏は運が悪い」、または「昨年は運が良かったが、今年は運が悪い」、または「青年時代は運が良かったが、老年時代は運が悪い」と、このように行き違うすべてのことが、私たちが願ってそのような結果になったのかといえば、そうではありません。

 誰しも永遠の幸福を追求し、願わない人がどこにいるのかというけれども、幸福が続かない場合がたくさんあります。幸福になるのを切に願っているにもかかわらず、不幸が迫ってくるのはいかなる原因のためでしょうか。現実的な舞台が、ある因縁の拍子に合わせて展開されるためです。こういう事実を考えてみると、私たちは運命だけのせいにすることはできないということを知らなければなりません。

 また、因縁によって関係が設定されるのです。そして、その関係は必ず悪くなるか、良くなるかという結論になります。それゆえ、「私が喜び得る関係になるか、悲しくなる関係になるか。私が自慢できる関係になるか、私にとって恥ずかしい関係になるか」ということは、関係を通して必ず結果が現れるので、その関係というものは自分が主動になっているようですが、自分だけの主動で成されるのではありません。ここには必ず、歴史時代のある因縁が連結しているのです。

 始める時に主動的因縁があれば、過程にも主動的因縁が連結され、それがある時になって主動的結果として因縁が結ばれるのです。ですから、その結果が良いものとして現れるか、悪いものとして現れるかということは、自分の一代によって左右されるのではなく、先代から先祖が積んできた功績の因縁によって左右されます。

◆幸福と善の起源


 それなら、善とはどんなものでしょうか。善というものは、自分を中心とするところには成立されないのです。相手のためにするところで成立するのです。自分のためにするところに善があるのではなく、相手のためにするところに善があるのです。

 神様も一日一日天地万物を造り、その万物に対して「見るに良し、善であれ」と言われました。「見るに良し、善であれ」という、その善の出発はどこから始まったのでしょうか。私が一人でいるから善だという、そんな話はありません。相対的な被造物を造っておいて、その被造物を眺めて慈しむ心の姿勢、被造物を愛する心をもつ立場が善だという、歴史的伝統が立てられたのです。

 私たちが「良い人」と言う時、その良い人とはどんな人でしょうか。自分を中心として環境を消化するために動く人ではなく、自分が消化されて環境を動かした人です。そのような人が、善なる人に間違いありません。

 仏教を信じる人々は、積善と慈悲を話します。善を積みなさいということは、どんなことをいうのでしょうか。人のために功績を立てるときに、善が積まれていくのです。善が積まれて完全に成し遂げられるようになれば、その善は相手のものでもないのであり、主体のものでもない立場に立つようになるのです。家庭でも同じです。夫婦が完全に一つになって、夫婦一心を成せば、その夫婦は夫だけのためではないのであり、妻だけのためでもありません。夫婦一心が成されれば、その夫婦は公的なものです。既に夫婦が一つになったときは、それは公的なものです。

 公的ということは、どういうことなのでしょうか。ある環境が主体者と中心的な内容を結合させて、その主体が動くところに完全に歩調を合わせて一致を成せば、そこに善なる土台が起こるのです。甲と乙、二人が一つになるとき、甲という存在によって、あるいは乙という存在によって一つになれば、それは甲のものだけでもないのであり、乙のものだけでもありません。それは二人のものです。その善も二人だけのものではありません。それは全体を代表した、全体のものだというのです。

 幸福というのは、どこから出てくるのでしょうか。完全な幸福というものは、どこで設定されるのでしょうか。私一人だけ幸福になって、幸福が設定されるのではありません。二人とも幸福になるとき、幸福が設定されるのです。二人とも幸福であるとは、どういうことでしょうか。より高い次元の因縁を連結させることができなければならないのです。甲が東から来て、乙は西から来たとすれば、東西が連結するときに幸福が訪れてきて、完全な善が決定されるのです。

 そのように完全な善が決定されることによって、完全な幸福感を感じるようになるのです。なぜそうなのでしょうか。それは因縁についてくる過程において、関係を結んできた数多くの歴史的事件が初めて花を咲かせる時間であるからです。そのような因縁を通して見ると、それは因縁の復活であり、関係を通して見ると、一つの結実として登場する立場なのです。それゆえ、その場が幸福な立場であり、善なる立場です。

◆愛、幸福、慈悲が設定される立場


 では、慈悲とは何でしょうか。完全な善が成立して、誰々のものではなく、より大きいもののために与えることができ、より大きいもののために相対できる立場に立つようになるときに、慈悲の心が出発できるのです。そういう主体の心をもって愛するようになれば、より高い次元の境地が起こってきます。そこで初めて「慈悲深い主体」と言え、「慈悲深い対象だ」と言えるのです。

 自分を中心として横的に愛するからといって、「あ! 慈悲深い主体、慈悲深い対象」とは言えません。二人が一つになって、一つにならない環境を越えた立場で中心になって、一つになっていないところの模範になる公的な立場で公的な主体になって、より公的な基準についてくる人々のために愛の心が流れるようになるときに、慈悲の心が設定されることが分かります。愛もここで繰り広げられるのであり、より次元の高い幸福の要因もここで起こるのです。

 それゆえ皆さんは、より大きいものを中心として、一つにならなければなりません。なぜより大きいものを中心として一つにならなければならないのでしょうか。一つになることによって、そこで自分を越えた立場で、より慈悲深い愛の主体、より慈悲深い善なる主体、より慈悲深い愛の中心が芽生えるためです。愛の中心が大きくなることによって、本来の絶対的な慈悲の主人であり、愛の主体であり、善の主体であられる神様の前に近づき入っていけるがゆえに、私たちはより大きいものと一つにならなければならないのです。

 私たちがより有名な人、より立派な人と一つになろうとするのは、彼と私が一つになれば、彼のものでもなく、私のものでもない、一つの公的なものとして残るためです。この公的なものを主体が相手に再び与える境地で、慈悲と愛の基台が設定されるというのです。

 それゆえ、皆さんは自分一人で生まれたのではありません。一人で生まれた存在はいません。必ず二つの存在が一つになって、そこで「私」という愛を受けることのできる実体が生まれたことは言うまでもないことです。皆さんは、父母の愛を通じて一つになった血統的な基台を通して生まれたのです。より高い基台で生まれたがゆえに、その父母は私を愛さざるを得ないのです。

 お母さん、お父さんがお互いに愛し合わなくても、けんかをしても、私を愛さざるを得ないのはどうしてでしょうか。一つになった基準の上で、より次元の高い対象の存在として生まれたからです。それは、人間が必然的な希望の基準として追求していかなければならない対象であり、人間本然の行路なのです。

◆歴史的因縁と私


 善というのは、一人で成されるのではありません。必ず協同しなければなりません。より新しい革命を提示する歴史的な運動も、やはり同じです。ある思想があって、その思想を中心として、主体者と対象がお互いに一つになったとすれば、その思想は、主体者に属する主唱者の思想か、またはついてくる人の思想でしょうか。それは、ついてくる人の思想であると同時に、提唱した人、すなわち指導する人の思想なのです。

 その思想を中心として一つになれば、その一つになった思想は提唱した人のものだけでもなく、ついてくる人のものだけでもありません。それは、新しい主体の因縁をもって、歴史時代に新しい運動を提示できる善の母体になり、愛の母体になり、生命の起源になるということを、私たちは歴史時代を通して、私たちの生活環境を通して毎日のように感じたり、見たりしているのです。

 このように見ると、皆さん自身もそういう運命の道を見分けていかなければなりません。個人がそのようにするので、国も同じです。一つの国を見ると、その国も一つの国としてあるだけではいけません。一つの国が、主体的な立場で世界に影響を及ぼそうとすれば、世界は、その国家の理念と政策と一つにならなければならないのです。そのようにして一つになったその世界は、その一つの国でもないのであり、世界でもありません。それはより公的な、高い次元の新しいものとして登場して、歴史を新しい方向に率いていかなければならないのです。

 このような観点で考えてみると、「私」というのは、現在の私によって存在するようになったのではなく、必ず因縁を通して存在しているという事実を知らなければなりません。その因縁の道というのは、一方通行ではないのです。南なら南だけを通ってくるのではありません。数千、数万の先祖を経て、私が生まれたのです。

 その先祖の中には、南に向かっていった人もいたであろうし、北、東、西、あるいは上下に行った人もいたでしょう。千態万状の因縁をもった人々が、私という一つの生命体をつくるために歴史的な功を残していったというのです。彼らの中には上がったり、下りたりした先祖もいたであろうし、あるいは前に行く先祖がいる反面、後ろに後退した先祖もいたであろうし、様々な姿であったのではないでしょうか。

 そういう因縁の道を歩んできた人が、ある一つの出発の基点で前進しなければならないのにもかかわらず、前進できず後退するようになるときは、基準から後退しただけの道を蕩減せずには越えることができないのです。それで蕩減が起こるのです。先祖が引っ張ってきたにもかかわらず、自分の代に来てそれを後退させたら、歴史的な蕩減を受けなければならないのです。

 このような悲運の因縁を経てくる歴史圏内に生きている私たち人間であるがゆえに、人間一人の生涯路程には、千態万状なことが起こるのです。きょうは、こうしたら良かったのに、そのようにならないのです。あすは、あのようになることを願うのに、そのようにならないのです。あるいは、青春時代にはこうであることを願うのに、そのようにならないのです。思いどおりにならないのです。

 人の欲望は、いつも今より優れていることを追求するようになっています。今より優れていることを願い、前進することを願うのであって、後退しようとする人は一人もいないのです。ところが、現在生きている人間を見れば、前進しようとするのに、後退しなければならない状況が起こるのです。人間の欲望は前に行こうとするけれども、反対のその因縁を蕩減するためには、反対の道を行かなければならないのです。

 そのような環境で、反対に回っていくべきなのにもかかわらず、前に行こうとしては必ず打ちのめされるのです。病気になったり、あるいは不幸なことが起きるのは、そのような時を通じて、急激に変わる方向の差によって蕩減が起こるからです。それで、個人ならば個人が蕩減をするのであり、家庭ならば家庭が蕩減をするのであり、国家ならば国家が蕩減をするのです。

 皆さんには運命というものがあります。幼い時から運命があるのです。最近見ると、骨相学を研究する人が多いです。手相や人相を見て何がどうだと話をしますが、人というものは歴史的な産物です。耳一つだけ見ても、自分の耳がお母さんの耳に似なかったというのです。

 今の私は先代から連結した、すべての先祖の血と肉を受け継いだ一つの総合した実体としてつくられた存在であるがゆえに、先祖の万物像を代表した立場にあるのです。したがって、現在ある私の姿は、先祖から因縁を結んだその関係を抜け出せません。人は必ず、その反映の結果としての生涯を歩いていかなければならないのです。それゆえ、自動的に高い、低いが起こるのです。これは、自然の道理なのです。

 このような人生の道を歩いていく人間が、これをどのように免れるのでしょうか。これを越えることのできる方案はないのでしょうか。不幸な人には、この不幸の環境を克服して越えられる方案はないのでしょうか。

 あるならば、その方案とは何でしょうか。先祖がもった目的以上の目的をもちなさいというのです。問題はそれです。落ちて下りてきたならば、その落ちて下りてきたのを原状復帰しようとするなら、反対にそれ以上上がらなければならないのです。すなわち、先祖がもたらしたすべての生活方法を克服しなさいというのです。そのような運動をしなければならないのです。

◆因縁の革命をすべき私たち


 皆さんは数千万代の先祖をもちました。先祖の中に、善なる先祖が多かったのか、悪なる先祖が多かったのかといえば、善なる先祖が多かったという人は比較的に少ないでしょう。それはどうしてですか。一生を生きて臨終する瞬間になって、「私が一生の間善なることをたくさんしたのか、悪なることをたくさんしたのか」と回顧してみると、善なることよりも悪なることを多くしたという結論を誰もが下すということを見れば、私たちの先祖のすべてが善なる人になれなかったということが分かります。

 比較的に悪なる先祖が多かったということを考えてみると、私は、「善良であり得る新しい、革新的な運動を提示しなければならない」という心をもたなければならないのです。そうするには、これを克服して越えることのできる方案を模索せざるを得ないのです。

 それで、人間は因縁の革命をしなければならないのです。私がある因縁の結果生まれた存在として、その運命に、その環境にただついていっては、悲惨な立場で破綻する結果にしかなりません。それゆえ、これを革命しなければなりません。反対の道を行かなければならないのです。

 もし、神様がいらっしゃるならば、そういう歴史的な因縁に従って生きている人間を眺めて、「そこでお前が好きなように生きなさい!」と言って、人間を救うことができるでしょうか。絶対に救えません。それゆえ、神様がいらっしゃるならば、反対の行路を提示しなければなりません。それは避けられないことです。

 私たちの先祖は、どのように生きてきたのでしょうか。先祖は、自分を中心として自分の妻、自分の夫、自分の息子、娘、自分のお母さん、お父さんの自我完成、自我目的を成就させるために、自分の一族、自分の家庭を中心に生きたというのです。私の父母もそのように生き、祖父母、高祖父母もそのように生きてきました。

 それで、神様は自分の家庭のために生きては抜け出す道がないから、反対の道を提示するのです。「家庭のために生きるな!
 自分を中心として生きるな!」というのです。神様がいらっしゃるならば、この運動を提示するというのです。

 それゆえ、人類歴史の中で、善なる人は自分のために生きた人ではなく、他の人のために生きた人でした。他の人のために生きるということは、いかなるもののために生きる人間でしょうか。同じ時代に生まれた者として、村のために生きる人は、自分の家のために生きる人より優れている人です。町のために生きる人は、その村のために生きる人より優れた人です。市のために生きる人は、町のために生きる人より優れた人です。

 家庭が尊敬する人より、その村が信任する人にならなければなりません。村だけでなく町で、町だけでなく市で、市だけでなく県で、県だけでなく国で、国だけでなく世界で信任を受けなければなりません。欲望が行く道はそのようになっているのです。小さなことを追求するのではなく、大きいことを追求するのです。

◆「ため」に生きなさい


 このような歴史的な悪の結果としてもたらされた、その因縁の不純分子として生まれた私自身であることを発見したとすれば、もし神様がいらっしゃるなら神様はどんな作戦をなさるのでしょうか。これを維持させる作戦ではなく、破綻させる作戦をなさるのです。反対の道に、反対になる極の方向を経て生かす運動をせざるを得ないのです。このような結論が出てくるのです。

 それゆえ、宗教では反対の道を提示するのです。人間を中心として見れば、人間のために生きなさいというのではありません。神様と人は主体と対象の関係として、一つは南極であり、一つは北極と同じです。南極にいる人を見て、南極のために生きなさいと教えません。「北極のために生きなさい!
 北極を眺めて生きなさい」と教えざるを得ないのです。「あなたのために死のうとするのではなく、神様のために、北極のために死ね!」と、これが今までの宗教の教えなのです。事実、宗教がそのようになっているのを見ると、歴史的な摂理の背後に神様がいらっしゃることを認めざるを得ません。

 私たち人間は、何をしなければならないのでしょうか。神様は原因的な存在で、人間は結果的な存在ですから、原因的な存在のために生きなければならないのです。それで、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」(マタイ二二・三七)と言ったのです。逆になっているのです。

 それから、「生きんとする者は死に、死なんとする者は生きん」と言います。では、何の目的もなく死にますか。神様のために死のうとする人は生き、自分のために生きようとする人は死ぬというのです。それを知らなければなりません。

 そういう反対的教訓があるのを見ると、それは完全な宗教思想です。完全な宗教、完全な神様がいらっしゃるならば、その神様は罪悪になった因縁圏内に固着されている人間を解放させるために、一時に革命をしなければならないのです。それで、人間を信じないで、人間の思想を信じないで神様の思想を信じなさいというのです。これが、人間を救うための神様の最大の秘法ではないでしょうか。そのような結論が出てくるのです。

 完全な宗教とはいかなるものでしょうか。自我否定を教える宗教です。自我否定を自覚すると同時に、その次には何でしょうか。「他我」という言葉は変に聞こえるかもしれませんが、他我すなわち他人のために生きなさいというのです。その他人は、ただの他人ではありません。一つになる目的を中心とした他人です。相対的な私だというのです。神様が造られた天地万物は、造られた物としてだけあるのでなく、自らの性相を発展させたもう一つの我だというのです。

 それゆえ、自我は私を通して形成されるのではありません。そのようなことができるようになれば、私たちは完成した人です。ただ完成できるなら、私たちには希望があり得ません。自我完成は自我を通してなされるのではなく、他我を通して、別のものを通して成されるのです。

 聖書を見れば、「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」(ヨハネ一五・一三)と言ったではないですか。隣人を愛することは、他人を愛することではないのです。大きい環境を自分のように愛し、その愛したものが帰ってくるようになるときは、今の立場ではなく、より次元の高い、全体を包括した、全体が一つになった立場で、愛の主体格を備えることができるのです。

 そうなれば、それがより高い環境に向かって出発できる第二基台になるのです。その基台は第三基台、第四基台として、次元を高めて神様にまで上がるようになっています。それゆえ、人は高次的な希望をもつのです。

◆メシヤが愛をもってくる理由


 皆さんが世界的な人物になることは、易しいことですか。容易ではありません。「村で愛されて、称賛されるような人になったから、これぐらいならいい」と言うかもしれませんが、そこで終わってはならないのです。その環境を土台に、第二の出発をまたしなければなりません。その次は、範囲を広めて、町を通じ、市を通じ、県を通じ、国を通じ、世界を通じていかなければなりません。そうしてこそ初めて跳躍できます。

 地球が一つのミサイル基地のようになって、人工衛星の基地のようになって押し進めなければなりません。どんなに良い人工衛星を造ったとしても、押してくれる推進力がなくなれば、そのような基台がなくなれば崩れるのです。

 しっかりした基台、すなわちいかなる力で押しても、それを反対に押しのけることのできる基台があってこそ人工衛星を飛ばせるのと同じだというのです。宇宙的な跳躍を願って、神様に直行できる心情的ミサイルを発射するようになれば、それを迎える日には、天地はその愛の前に爆破されるのです。爆破されれば、こっぱみじんに砕けるのではなく、こっぱみじんに砕けたものが統一されるのではないかと、このように考えられるというのです。

 では、愛はどこから始まらなければならないのでしょうか。本来、愛の起源は神様です。神様を起源として、神様の息子、娘から始まるのです。そのほかには、人間本来の理想的な愛は出発できる道がありません。

 それが本来の因縁なのにもかかわらず、その因縁を無視し、あきらめてしまって出発したのが堕落です。その放棄した位置を克服するためには、放棄しなかった位置以上の位置を愛する運動をしなければならないのです。

 メシヤとはいかなる人でしょうか。神様を愛せる息子として出てくる人です。神様が、愛する息子を愛せなかったので、愛せない神様の息子を愛するための運動を連結させる方です。

 人間は、神様の息子、娘として愛されることができませんでした。神様の息子と愛の因縁をもてませんでした。神様の息子と愛の因縁をもってこそ神様のもとに戻れるので、人間を神様の愛の主体に戻すことが、メシヤが愛をもってくる目的であり、彼がすべき責任です。

 メシヤが男性として来れば、男性だけではいけないので、そのメシヤを愛せる人、メシヤが愛することのできる神様の娘がいなければなりません。これが、キリスト教でいう「新郎新婦」です。「終わりの日には新郎新婦が来る!」。これは結局、愛を愛らしくもてなかった人間に、愛らしい愛を探してあげようというのです。

 不倫なる愛によって、神様と離別したものが、本然の理想的な愛が立つことによって、原則的な愛の世界に入っていくために、その世界は幸福な世界であり、理想世界になるのです。それが宗教的に見ると、地上天国であり、天上天国になるのではないでしょうか。

◆誰よりも神様を愛せ


 その位置を探し求めようとするなら、復帰をしなければなりません。そうでしょう。独身の男女がお互いにとにかく好きで結婚したのですが、過去をじっと見てみると、愛するその人が他の人を愛したことがあるというのです。そうなれば、喜ぶ人がいますか。

 また、夫を黙って見ていて、浮気をしているようであれば、喜ぶ人がいますか。今まで良かったことがひっくり返るのです。すべて上が下になり、下が上になろうとするのです。堕落した人間もそうなので、神様も同じだというのです。

 神様が息子を迎えようとするとき、怨 讐の息子として生まれて怨讐の愛を受けながら、よだれをだらだら流しながら、「あー、とってもいい」と言って生きている息子のそんな姿を眺めている神様が、そういう息子を愛したいでしょうか。とんでもありません。そのような人は愛したくないのです。見るだけでもただ憎らしく、そのようにし得る人であるほど神様が見れば、神様の心はいかばかりでしょうか。

 こういう観点で聖書を見れば、「誰よりも私を愛せよ」というみ言は、人間において偉大な福音だというのです。未完成であり、絶望圏内の歴史的因縁を抜け出せない人生について見れば、そのような人間の前に「誰よりも私を愛せよ」と言ったのは、これは宇宙的な革命です。宇宙的な革命であると同時に、私たち人間の前に極めて素晴らしい福音です。

 より愛せば、どのようになるのでしょうか。愛せなくてそうなのであって、もっと愛せばどのようになるのでしょうか。運が開けるというのです。人間世界で想像できない高次的な愛の世界が、初めて門を開けるのではないでしょうか。愛の世界が顕現されるのではないでしょうか。

 新しい天地で活気を帯び、歓喜と喜びに満ちた姿で、天地を自分のもののように愛するために第一歩を踏み出す自分が、いかに幸福で、いかに素晴らしいでしょうか。

 それを見れば、神様もうらやましがります。「いいな、お前だけ行かずに私も連れていっておくれ!」と言われるのです。神様もそれを見て、威信上行くことはできなくても、心では待ち焦がれるのです。そんな時、「神様、行きましょう」と言わなければなりません。待ち焦がれてもいないのに、「行きましょう」と言ったとして、行くと思いますか。同じです。人間と同じです。

 それゆえ、イエス様はこの地に来て、「誰よりも自分を愛せよ」と言いました。「妻をより愛してもいけないのであり、父母を愛してもいけないのであり、息子、娘をより愛してもいけないのであり、誰よりも私を愛さずには私の弟子になれない」と言いました。これは革命的な話です。破綻させ、破壊しているような話ですが、建設と希望の交差がここで起こるのです。

◆新しい人生観、世界観、宇宙観の出発点


 ここで、皆さん自身について一度考えてみてください。私が天国に行けるか、行けないか、天国の民なのかどうか、天国の伝統を受け継げる血統になれるのか、なれないのか、一度考えてみましょう。良いものがあれば良いものは私のもの、悪いものはあなたのもの!
 それでは完成の世界、理想の世界が成し遂げられません。そういう観点で世界を眺めたイエス様は、「人生はこのように行かなければならない」と決定したというのです。簡単だというのです。反対に行かなければならないのです。世の中の人々が恨みを晴らそうとすることとは反対にしなければならないから、イエス様は、「怨讐を愛しなさい!」と言ったのです。そこで新しい正義と新しい文化の起源が起こって、新しい個人の人生観と新しい世界観と新しい宇宙観が起こったことは言うまでもないことです。

 皆さん、率直に話してみましょう。独身の男性がいて、友達と話をするとき、「君はまだ結婚していないけれど、将来どんなお嫁さんをもらうの?

 女学校を卒業した女性と結婚するの? 男女共学の学校を卒業した女性と結婚するの?」と聞くなら、今社会制度がこうだから、その男性は、「やー、おれは男女共学を卒業した女性は考えていない」と答えるのです。先生が保守的なので、そのように話すのかもしれませんが、それは保守的ではなく進取的だというのです。

 男女共学の学校を卒業した女子中学生、高校生、または大学生なら、「大学生の女性を妻に迎える」と言う人がいますか。本当に愛そうとするなら、誰一人も横目で見ない、他の考えをしない、そのような女性を相手に願うのです。「男女共学の大学を卒業した女性は、別の面に円熟していて生活するのが少し大変だ」と言います。自分の夫に接するとき、既に自分が大学に通った時のクラスの男子学生と比較するというのです。私より勉強できた誰々は顔がこうで、私も勉強ができたから、プロポーズした第一号、第二号、第三号、そのように比較して分析するというのです。「そのような学生をボイコットしたのに、こういう不肖者に会ってしまった」と言うのです。

 このように見れば、男性ならば処女を願い、女性ならば童貞を願うのです。このように考えるならば、神様がどれほどねたみ、嫉妬が多いか分かりますか。神様はねたむにも天下の大王であり、嫉妬するにも天下の大王です。「私だけ愛しなさい! その代わり私もあなたを死ぬほど愛する」と言うのです。それが悪いことでしょうか。ねたみも良く、嫉妬も良いのです。それゆえ、絶対的な愛で愛せるというのです。

 このように見ると、ねたみが悪いことですか。嫉妬が悪いことですか。愛するようになった立場で自分だけ愛せよとねたみ、嫉妬することが悪いことですか。それは防御的垣根です。誰もが侵犯できない絶対的な防御的垣根です。

◆新しい世界の文化形成の起源


 このように見ると、宗教の有り難いことは、「神様を絶対信じなさい」と言ったことです。これが革命の本位です。「絶対信じなさい! 愚痴を言うな」というのです。愚痴を言ってみたところで白紙一枚の差です。人間の間で何の罪が多くてどうだというけれど、神様の立場から平面的に見れば白紙一枚の差です。「秀でている」と言ったところで、しかり、「できそこない」と言ったところで、しかり、そんなものなのです。

 ですから、「絶対的に信じなさい」というのです。絶対的に信じれば、一時に突破口が生じて越えることのできる道ができます。絶対的な信仰は、運命の道を革新できるという結論が出てきます。また因縁も正すことができ、関係も改善できるのです。新しい時代へと発展させるためには、今まで歴史的に固着されたその関係を改善しなければならないのです。その場は新しい信仰から、信仰は新しい理念から、新しい理念は新しい思想から出発するのです。

 それで、その理念と思想を提唱した人物とは、今日私たちが言う「世界的な聖賢たち」ではないでしょうか。その聖賢たちが追求したこととは何でしょうか。その骨子の思想は、自分を中心にした思想ではありません。人間世界で見れば、彼らは弱者でした。自分の主張はなく、ひたすら天でした。

 因縁のいたずらは、皆さんの運命の前にもってきた悲しみと悲劇を展開させてきているのですが、それを克服するためには、どのようにしなければならないのでしょうか。反対の道を追求するしか道はありません。絶対的に信じなさいというのです。絶対的に信じて越えなければならないのです。

 ある川を飛び越える場合を考えてみましょう。幅跳びにおいて、自らの記録があります。自分の記録が四メートルないし五メートルくらいならば、四メートルくらいの道は簡単に越えることができますが、五メートルという限界線を飛び越えようとすれば、今までなかった悲壮な覚悟をもって、死を覚悟して跳び越えなければなりません。その道しかないのです。

 飛び越えなければならないのに、「飛び越えようか、やめようか! 私は自信がないけれども、足が越えてくれるだろう」と、このように思いますか。「私は自信ないけれども、足が越えてくれるだろう」と思って走る人がいるでしょうか。まず心が問題です。「良い峠である。これは問題ではない」と言って、深刻な心で、それを跳び越えても余りある信念をもって行動してこそ越えられる可能性があるのであって、越えることができるだろうか、できないだろうか、やめようかと思ってはいけません。それでは間違いなく、行く途中で落ちるのです。

 絶対的な信念をもたなければなりません。それは、冒険を追求していく開拓者の行脚の路程では避けられません。「信じる者にはできないことがない」と言いました。その権威が、どれほど素晴らしいですか。それが、神様が人間を求道するための最高の標語ではないでしょうか。「信じる者にはできないことがない!」。運命は、ここで行き違うということを知らなければなりません。

 激動する世界史的な現実を眺めるとき、現実のいかなる主義や思想もそれを克服して越えられると自負できる絶対的な信仰観と生活理念をもって出るようになるときは、その信仰観と生活理念を通じて改革が起こり、新しい世界の文化が形成され始めるでしょう。

 それゆえ、先生は「統一思想」を主張せざるを得ません。しかし、「統一思想」だけではいけません。それが理念化されなければならないのです。理念は、考える相応思想です。思想が理念化されなければならないのです。そして、理念は体系化されなければならないのです。一つから二つ、二つから三つに前進的な体系化が行われなければならないのです。

 思想は、理念を展開させなければならないのです。そうしてこそ、その理念は初めて生活法度になり、実践の場を形成するようになって、それが新しい文化を成すのです。その実践の場においては、理念が高次的であるから、行動も高次的な行動をしなければなりません。そのためには、自分が行くべき目的観に対する強力な考えが先んじなければなりません。構想する考え、それが先立たなくては駄目です。自信をもたなければならないのです。

◆神様が臨在される立場


 皆さんが何かをするとき、「自信があるか」と尋ねるでしょう。少しだけ他の新しいことをするにしても、「君、自信あるか」とこのように聞くでしょう。仕事をするまでは自信があるか、ないか分からないのに、「自信があるか」と聞くのは、私の心が決まり、それ以上越せるかということです。その話はどういうことかといえば、現在当面した問題を克服できる心の方向が整っているかという意味です。そういう心が備わっていれば、心が行くままに体が行くために、変わらず行くようになっているのです。

 イエス様の奇跡のようなものも、同じです。病人のために祈祷するときも、そうです。三つの心に通じなければなりません。神様の心に通じなければならず、私の心に通じなければならず、物の心に通じなければなりません。病気になった人を見れば、体がやつれたのを見て、自分が痛みを感じ、この病人を神様が見れば、どれほど息が詰まるでしょうか。こうして、父母の心情で哀れに痛ましく思いながら、病人という思いではなく彼をつかめば、一遍に病気が良くなるというのです。

 彼を病人と思うより、失った息子、娘、あるいは十年、千年の間探した息子、娘に会ったような愛の心がここに覆われて、その環境を越えることのできる心情の因縁が起これば、すぐに病気が良くなるというのです。奇跡は、特に変わったことではありません。それを同化させることのできる立場、「彼は私であり、私は彼である」という立場、創造原理どおりに二つが一つになるところには、神様が臨在されるのです。神様が臨在されれば、再創造の運動が起こるのです。私の願いがどんなに大きくても、再創造の能力が加えられてこそ、新しい結果が成されるのです。原理が、そのようになっています。

 皆さんもそうなのです。自分の夫は、世に二人とない夫だというのです。その人が未婚の男性として、自分と結婚して一生の間自分だけのために、男性として世界に二人とない、真に尊敬に値する男性です。ところが、自分が過去に失敗があったとすれば、いつも罪責感から抜け出せないのです。それを話さず隠して暮らしたとしても、一生の間罪責感を受けるのです。夫が良くしてくれれば良くしてくれるほど、罪責感を感じるのです。「私は足りない」と、このように思わざるを得ないのです。心がそうなのです。心は偽ることはできないのです。ですから、純粋なその方の前には、純粋な女性にならなければならないのが原則ではないでしょうか。

 こういう観点から、純粋な神様の前に私がどれほど純粋でなかったかという問題を中心として見ると、次元の高い立場で新しい心の本性、心の畑をどのように開発しなければならないかという問題を考えざるを得ないのです。神様はこういう方ですが、私たちは堕落の子孫です。これは背信です。皆さんの先祖が、今まで神様をどれほど背信しましたか。

◆神様が尋ねる愛


 こういう自分を発見するときは、涙で悔い改めなければなりません。涙のない人は、伝統的な信仰の道を行く人ではありません。涙を流すなら、どれほど流さなければならないでしょうか。自分の過去を考えるとき、恥ずかしい自分を回想するときは、恥ずかしくて悔い改めの涙を、そういう自分がこういう恩賜の立場にあることを考えるときには、おそれ多くて感謝の涙を、私の生活の中で誇れるがものがなければ、恥ずかしさとかしこまりの涙を、このような涙を流すしかないのです。

 私は、まだ喜びの涙を流せないのです。その方の前に何かをしてあげて、その方が喜ぶようになるとき、「きょうは私だけうれしいのでなく、あなたもうれしい!」と言って、彼が手を挙げて踊りながら私に「踊ろう」と引っ張り出すとき、その時に初めて喜びの姿でももてるのが人間ではないのでしょうか。

 ですから皆さんは、三大涙を流さなければならないのです。まず最初は、悲しみの涙、その次は、かしこまりの涙、その次は、自らの過去を考えたとき、許され得ない私自身が天の前に許しを受けるための、悔い改めの涙を流さなければなりません。許されない立場にある、このような者を愛すしかない神様に対するときは、おそれ多いのです。「どのようにして、あなたが私のような人を愛さざるを得ないのですか!」と、かしこまりの涙を流さなければならないのです。そうなる時までは、神様が中心となって、私のために主体的な役割をしたのではないでしょうか。

 私が喜べるためには、神様が要求することを私が代わりに返してあげて彼が喜ぶ立場に立って、その次に彼が私をリードして立てて喜ぶ、その場で喜ばなければならないのです。それが今日、堕落した人間として、神様に対する心情の道を開発する正常な路程ではないでしょうか。

 神様の前では、みな子供にならなければならないのです。子供を見ればそうでしょう。こんなにお母さんを困らせてもです。お母さんが自分のために死ぬ立場になってひどい傷を負ったのにもかかわらず、その息子はお母さんの前でえんえん泣くのです。えんえん泣くのに、「私の腕を見なさい、こんなになった腕を見てどうして泣くの!」とお母さんがそう言いますか。

 きのう、そのお母さんは自分の息子、娘のために傷を負ったとしても、物心つかない子供が泣けば、その折れた腕であっても、またその子供のために与えようとします。それはなぜですか。何も知らない世間知らずですから、そうするよりほかないのです。そのような意味から、聖書に「幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう」(マタイ一八・三)とあるのです。そこにはもちろん、子供のように物心がつかず純真でなければなりませんが、父母の心がいつも子供から離れないように、いつも神様の気をひくことができ、神様の慈悲の心と同情の心が離れない人になってこそ天国に行く、ということについて言ったのです。

 そうしようとすれば、どのようにしなければならないでしょうか。物心つかない子供のように神様の愛を恋しがって神様を一番好きになれる立場に立たなければなりません。そうすれば許されるのです。世の中がどうであっても、神様だけ好きにならなければならないのです。子供は、お母さんのほかに他の人を知っていますか。どんなに醜くても、お母さんのところに行くようになっています。お母さんしか知りません。一つしか知らないのです。

 そのような意味から、「子供のようであればできる」という、この比喩の言葉は妥当だと見なければなりません。無知で何も知らない子供ではないのです。一筋、ただお母さんしか知らないそういう愛、愛の道において、神様はそのような純潔な愛を尋ねてこられるのです。横を見て、他の人に対して関心をもつこと、そのようなことは神様と関係ありません。聖書の骨髄思想は、こういう因縁を説明するためのものであることを知らなければなりません。

◆運命と運勢


 このような観点から、皆さんの顔がどんなに醜くても、心配するなというのです。生まれつきのその顔で何十倍、より強力な真心を込めて神様を絶対的に信じるようになれば、その人の運命の道が変わるというのです。

 そうして、自分の先祖以上になり、水平線から落ちて降りてきたものを踏んで上がらなければなりません。それまではサタンが反対します。その道をたどっていけば、悪なるサタンが無慈悲に襲いかかり、強く打ってくるのです。

 悪の主体なるサタンは、歴史上のすべての先祖を悪なる道に落としたがゆえに、何の功労もなくそれを抜け出そうと神様を信じて進む人においては、サタンが、歴史的な先祖を打って捕まえた方法でずっと打つというのです。しかし、先祖がサタンの前に経ていったそのような信念ではなく、それ以上の高次的な信念をもって、ある過程を経ていけば、上がるようになるのです。上がっていって越すようになれば、その次からは開き始めるのです。

 統一教会員を見れば、そのような面があります。ある人は、伝道に行けば、他の人には何もないけれど、行くや否や、人がただ御飯をもってきてくれて、ついて回るというのです。人がぞろぞろついて回ります。その人を見れば、小学校しか出ていなくて、人柄を見ても大したものではありません。けれども、その人が涙を流せば、その近所が涙を流して、その人が明け方に起きれば、全体が明け方に起きるのです。

 それは、世の中で力を出せず犠牲になった多くの先祖の、天の恵みを受けられ得る因縁によって、その時に生まれて、その線を越えることのできる立場に立ったためです。天の運勢、天の昼の運勢を迎え得る立場に立ったためです。それゆえその人は、どこに行こうが被害がないのです。

 しかし、その反対の人がいます。顔もいいのですが、しかし、どこに配置をしてもひどく苦労します。それは昔、先祖が豊かに暮らしたからです。それが蕩減の道に入ってからは、逆に立たなければならない立場になるのです。それを抜け出して上がるには、時間が必要だというのです。

 それゆえ、その期間には必ず邪悪な気運があり、困難があるのです。それを克服できない人は、それ以上絶対上がれません。運命の因縁を越えて、勝利の位置に上がれないのです。それゆえ歴史も公平で、人類の運命の道も公平だと見るのです。

 このように見ると、このようなサインカーブというのは、一個人がそうであり、一家庭がそうです。また、一つの氏族がそうであり、一つの民族もそうです。そのカーブが大きいだけであって、民族もそうだというのです。世界を見れば、世界もそうだというのです。一つが下りていく運勢なら、一つは上がる運勢なのです。サインカーブ、これが審判台です。

◆世界主義時代の到来


 知恵深い人とは、どんな人でしょうか。どうであったとしても、拍子を合わせられる人です。宗教は、そのようにしてきたのです。数千年の運を迎えよう! 数千年苦労してきたが、一時に訪ねてくる数千年の運を迎えようというのです。ここから出発して、この期間に千年の運勢を迎えようというのです。

 それで個人の生活を革命し、家庭生活を革命し、親戚や氏族の生活を革命しなければならないのです。宗教人がその国の民として、民族として生まれて背信者の道を行き、山中で修道をしたのは何のためでしょうか。他の見方をすれば、人間としては落伍者のような立場に立ったのですが、それはどういうことでしょうか。一つの国の国運を競っていくのではなく、世界の運勢に波長を合わせるためのものです。そのような群れが宗教人です。

 それで、キリスト教では、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(マタイ二四・一三)と言いました。その終わりの日とはいつでしょうか。下り坂を行く悲運の歴史が、このように谷間の悲惨な運勢が、新しい解放圏の歴史として繰り広げられて上昇できる、内外が交差する瞬間が歴史時代に訪れることを、宗教は言い続けてきました。その時が、終わりの日です。

 そういう時代において、新しい運勢に乗り、千年王国を地上天国に向けていかなければなりません。そうして勝利の日を迎えるようになるとき、そこにおいて幸福になるのです。ここでどんなに幸福になったところで、そこに到達できません。ここは、すべて地獄です。

 では、皆さんは個人の運命を尊重しますか。個人の運命を打開するために生きず、国家の運命を越えなければなりません。そうすれば歴史は、世界的な思想の時代に登場するのです。神様がいらっしゃる限り、世界主義時代が来るというのです。神様は世界の終着点に向かっていくのに、ただ行くのではなく、教えて、そして行きます。世界的な終末、世界的な思想時代が到来するのです。

 その思想時代には、何をもって連結させなければならないでしょうか。人情ではなく、天情を結合できる思想でなければなりません。その思想の中に天情を結合できるのです。人情に通じることのできる思想もあるでしょうが、天情に通じることのできる思想、人情と天情を結合できる統一的な思想でなければならないのです。神様が降りてくれば天情をもって降りてきて、人間が上がるならば人情をもって上がるために、人情と天情が一点に合わさり得る合一点が必ずあるのですが、それがどこかといえば、人間が願う最大の希望の場、対面の場ではないでしょうか。

 その場が人でいえば、真の男性が真の女性に会う場であり、真の地が真の天に会う場であり、真の人情が真の天情と結合できる場ではないのでしょうか。人情でもあり天情であり、天情でもあり人情、人情と天情が合わさって人情でもなく天情でもないものになり、新しい幸福と理想的なすべてが和解して、そういう幸福の出発がこの地に起これば、それが地上天国であり、世界万民が希望する自由世界、自由の園ではないでしょうか。このように言うことができるのです。

 では、賢い人とはどんな人でしょうか。千年を恋しがって生き、万年を恋しがって生きる人です。万年を迎えるために生きる人です。皆さんは一日努力して、一日成功することを望みますか。一日努力して、それをすべてなくし、また一日努力してすべてなくす人になりますか。一日苦労し、二日苦労し、三日苦労し、十年苦労するけれども、それ以上になる二十年の幸福があればどうしますか。そうしたら、「二十年の幸福のために、十年苦労をしなければならないでしょう!」と言うのです。私たちが一生の間苦労すれば永生するように、幸福になり得る道を、神様が保障してくださいます。ですから、皆さん個人から勝利しなければなりません。

◆先生の思想は天宙主義


 今日、先生の思想は天宙主義です。「天宙主義」という言葉はおもしろいのです。「天宙」とは何でしょうか。家です。天宙主義は、「神様の家の主義」です。家がなぜ良いのでしょうか。家のない人は、かわいそうな人です。家をもっていない人は、故郷がない人です。そうでしょう。家は私が生まれた所であり、私が育った所であり、私が生きる所であり、私が死ぬ所です。

 人生の開始から、豊かに暮らそうが暮らすまいが、すべての因縁をここですべて解き、すべて展示して、のちには荷物をまとめてその家に行くのです。生まれる時にも、その家で泣いて生まれ、逝く時にも、泣いて逝こうが笑って逝こうが、その家から逝かなければならないのです。すべての開始と終わりを最終的に終結できる所が家です。そうでしょう。ですから、家が良いのです。

 今までその家は、どのようになっていたでしょうか。神様を除いた家になっていました。主人を除いた家になっていました。ですから、堕落した世界だというのです。神様を中心にした家ではなく、個人を中心とした家になっていました。

 皆さんは、これから天宙主義を描いていかなければなりません。天宙主義は家主義です。神様の家主義です。神様の家主義なので、その家の生活は神主義の暮らしです。神様は世界の王であり、世界のための暮らしを主導していく主体であるがゆえに、そういう暮らしをしなければなりません。それゆえ、皆さんは自分のために生きてはなりません。自分の夫や自分の妻だけのために生きてはなりません。そのようになっていません。昔とは違うのです。したがって、私たちは家庭を中心として世界へ行くのです。

 堕落は、家庭で始まったのです。家庭で神様に侍ることができなかったので、家庭でまず成し遂げなければなりません。それが復帰です。悲運の歴史を経て落ちて下りてきたので、上がらなければならないのに、世の中と組んでは駄目です。神様だけを考えなければなりません。神様だけ考えずには、上がる道がないのです。

 今日、堕落の悲運圏内に生きている「私」という存在は、原因によってもたらされた結果的な存在であるがゆえに、その結果を抜け出すためには、個人が個人のために生きるのではなく、より大きいもののために生きなければなりません。生きた基準によって善の実績基盤を築くことができれば、その善は自分のものではなく、全体のものにならなければなりません。愛を中心として男性と女性が一つになれば、その家庭の愛というものは男性のものでもなく、女性のものでもないのです。

 それゆえ、ただそのまま戻れません。絶対的な信仰と、絶対的な信念をもった者だけが戻れるために、この道を経ていかずには因縁と人情の道を、因縁と関係している今までの自分の過去の歴史を清算できません。こういう観点から、皆さんは革命家にならなければなりません。皆さんは皆さんの一代において、世界史的な革命を提示すべき偉大な革命家であり、世界を正すことのできる偉大な先鋒者になることを自覚しなければなりません。

 そういう信念が先んじなければなりません。その信念のために立ち居振る舞い、その信念を通して一方通行するようになるときには、それは必ず終わりが来るのです。その果てには大海があるのです。支流として、人が見るには北に流れると思っていたのに、方向転換して一曲がりして流れるようになるときは、南へ流れていたときより先んじることのできる道もあるのです。

◆天国の民になる道


 皆さんはこれから、「君は本当に国を愛したか! 教会を愛したか! 神様を愛したか! 師を愛したか! 神様の家庭を愛したか!」ということを再度批判しなければならないのです。

 天が因縁づけてくれたこの因縁を、この地上に立った自分の家庭の因縁を通して、氏族、民族、国家、世界を経て、永遠の福地である天国の基台を成し遂げることを願って大切に結んであげたその因縁をばらばらに崩れるようにして、自分勝手に分岐ごとに分かれたそのような因縁を抱いて、今日の幸福を夢見る人は滅びるのです。こういう悲愴な時が来ました。

 堕落の悲運の行路をけって、復帰の勝利の因縁を再び回復して、神様だけを中心として神様を愛することに狂い、神様の人を愛することに狂い、神様の氏族を率いることに狂い、神様の民を抱いて指導するのに狂うことのできる皆さんにならなければなりません。

 そのような心をもって生まれて、そのような心をもって生き、そのような心をもって死ぬ人は天国の民になるのであり、天国の家庭の食口になるであろうし、神様の息子、娘になることは間違いないことを知って、こういう目的をもって国を挙げて出動しなければならないことを皆さんが記憶してくれることを願いながら語りました。
















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訓教経(下)024



文鮮明先生のみ言集

訓教経(下)



三時代のための責任


一九七三年八月一日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第六十八巻』


 きょう皆さんにお話しする題目は「三時代のための責任」です。

◆現在の基点


 私たちが一日一日を生活するとき、あるいはこの瞬間について見ても、それは現在にだけつながっているのではありません。「現在」という時、現在を切ってみれば、必ず過去が現在の先端までつながっていることが分かります。

 今私が話しているこの瞬間、ここには必ず過去がつながっているのです。またこの瞬間には、今私が考えている未来がつながっているのです。

 このように考えれば、真の現在の基点はどこでしょうか。この時私たちは、一つの線で表示できるものと、線で表示できない、観念的な境地までの現在を考えざるを得ないのです。このような現在、ないといえばなく、あるといえばあるような現在の一点、現在の一つの線が、今日私たちの日常生活の方向を左右しているということは、恐ろしくも驚くべき事実であらざるを得ないのです。

 一日について見れば、そこにはきのうがあり、あすがあるのです。一カ月を中心として見れば、先月があって来月が来るのです。一年を中心として見れば、昨年があって来年が来るのです。青年時代について見れば、少年時代があって未来の壮年時代があるのです。このように現時代を中心としてみれば、過去の時代があると同時に、未来の時代が連結するという事実を私たちは否定できないのです。

 今日というこの日、現在の位置というのは、過ぎ去る過程にあるとも見ることができると同時に、今後考えもしない未来を迎える瞬間点にあるとも考えることができるのです。過去と現在と未来というものは、一点で動いているというのです。したがって、その現在は、過去を否定する現在であり得ず、未来を否定する現在であり得ないのです。

◆現在に輝く価値の基準


 では、現在に輝く価値の基準はどのようなものでしようか。輝く過去を受け継いだ位置であり、輝く未来を開くことができる位置でその方向を正しく指示できる位置なのです。そのような位置になることができずに、輝く現在の位置を占めることができないのです。私たちが息を吸うのを見ても、息を吸うこと自体が、既に過去を懐かしがり、未来を訪ねているという事実を私たちは考えることができるのです。

 このように見ると、一生もそういう運命の路程を、現在の先端に連結して残されたものであり、歴史もそういう一生を合わせた因縁を連結させて、現在とか未来、あるいは過去とか現実、現世界、現世代ということを築いていくのです。

 その中で歴史的な一時、ある瞬間、歴史を代表する時が、過去のある時になったり、現在の時になることもあるはずなのです。また、未来のどんな時にもなれるのです。したがって、過去は過去のまま、現在は現在のまま、未来は未来のまま、それが切断されて自分勝手に動いたのでは、一つの目的の方向を正しくえり分けていくことができないのです。

 私が行列の中に一員として立って、列を合わせるようになれば、必ず前を合わせて、後ろを合わせることができるような姿勢を取らなければならないのです。あるいは「右へならえ」と言えば、必ず左右関係を見て、右側や左側の方向を合わせずには、標準とする直線の一列を描き出せないのです。

 それと同様に、歴史は、ある人が他のある人のパターンを受け継いでも、それが自分勝手な方向を取ってはならないのです。本来の人間が願う目的、またはこの天地を創造なさった創造主がいるならば、その創造主が願う目的と、私たちが一生を通じて願う目的と、私たちの子孫が願う目的が自分勝手に動いてはならないのです。

◆現在は三時代を連結することができる中心点


 ですから現在は、厳粛な立場で過去を受け継がなければなりません。自分勝手に右側に偏ってはならず、左側に偏ってもならないのです。左右と前後関係、さらには上下関係をえり分けながら過去を受け継ぐことのできる厳粛な位置での現在は容認されますが、これらすべてのものを否定して、これを重要視しない立場で過去を受け継ぐならば、その現在は重要な価値の位置を占めることができないのです。

 現在だけでなく未来に対してもそうです。現在をより輝かせることができる未来と連結する現在の位置を設定しなくては、私たちの希望とか願いとか、より輝くあすを迎えることができないということは言うまでもないのです。

 こういう観点で、現在の位置が貴重だということを私たちは知らなければなりません。それで先生は現在の位置で「私」ということを考える時はいつも、「私」一人を考えることを認めないのです。

 「私」というようになれば、そこには必ず過去があり、現在があり、未来がつながっているのです。それだけでなく、左右があり上下があるのです。前後、左右、上下関係で連結しなければならないというのです。その前後、左右、上下が自分勝手でなく、東西南北ならば東西南北、高低ならば高低において、同じ天宙の方位と平行線に置くことができ、いつも一致することのできる位置を取っていかなければならないというのです。

 上と下を連結させるためには、きょうの「私」が中心になるのです。「私」というのが勝手に立ったといって、「過去の上に合わせてくれ。下に合わせてくれ」と、そのようになっていません。「私」というのは、あくまでも上と下の中間位置にあるので、これがそれれば全部それるというのです。そのような上下関係を調整することのできる、一つの基点がどういうものかといえば、それが現実なのです。また、左右を中心として見ると、左右を調整することのできる中心点も、結局は現在なのです。前後を見てもやはり同様なのです。

 こういう立場で見ると、今日私たちの現在の立場というのは、三時代を連結することのできる一つの中心点であり、三段階を連結することのできる一つの中心点なのです。過去と現在が一致しないところでは、統一を成すことができないのです。

 神様にも目的があり、誰にでも必ず目的があります。ところが、その目的が現在でなく未来のことであるほど、方向性が明確でなければならないのです。その目的が大きければ大きいほど、一年ほどで達成するものではなく、人間の一生の間で達成するものでもありません。数世紀、あるいは数千年歴史を通じてその方向を合わせて、数多くの世代、数多くの人間像をたどってこそ達成されるのです。

 歴史性について考えてみれば、今日私たちの一生というのは極めて短いのです。永遠な歴史路程について見ると、私たちの一生というのは一点にすぎないのです。したがって、ある方向があればその方向に向かって、私たちはいつも一致しなければならないのです。

 もし神様が一つの方向を設定したならば、神様はいつもその方向に向かっていこうとするはずなのです。神様が主導する民族がいれば、その民族もその方向に向かっていくのです。民族の歴史もこの方向を通じて編まれて、その方向を通じて残そうとすることは間違いない事実なのです。

 このような摂理的歴史の方向を私たちが考えると、現在に連結されたところをたどって未来があり、現在が連結されるその場に過去が連結するというのです。ですから、今日の私たちは現在の摂理上に置かれている個人であっても、その個人は個人から始まったのではないと言うことができます。その個人は個人だけではないというのです。その個人は、あくまでも明確な一つの起源から、ある線を描いてきたというのです。その過程で、個人になったその一点というものは、重要な位置だということを皆さんが知らなければならないのです。

◆歴史的運命の一瞬


 一瞬に、その方向が連結するか、しないかということが、自らの生涯路程にひっくり返っているという事実、入れ違っているという事実を、私たちはここで考えずにはいられないのです。

 では、それがどのようにして分かれていくのでしょうか。その方向がどのようにそれていくのでしょうか。一瞬の考えによって方向が変わり、また、ある人に対する対人関係によって一瞬にその方向が変更することもあるのです。

 ある瞬間に一言言うことによって、方向が逆になることもあり、ある瞬間にぶつかった一つの問題によって、方向が変更することもあります。また、感じること、私たちの五官で感じるすべての感情を通じて、その方向の先端が鋭敏に行ったり来たりしているという事実を、皆さんは考えなければならないのです。

 私が今東方に向けて立ったのですが、本当に東方に向けて立ったかというと、東方に向けて立ったとはいうが、本当に東方に立っていると言えないのです。それを知らないのです。東方を中心として、東西南北の線を描いた、その線の中心に向かって立ったとは言えないというのです。「東の方に立った。東側に立った」このように話すことはできますが、私は東の方向に完全に一致した位置にいるので、「私を見習え」と言える立場に立ったかどうかは分からないのです。

 けれども、歴史的方向が必ず目的に向かっていくならば、その歴史が流れる方向に一番近い道というのは一つしかないのです。それを、私たち人間は知りませんが、絶対者がいらっしゃるならば、その方はその一つの方向を知って、正確にその方向に合わせ、前後左右の度数を合わせてそちらに前進させることは間違いないのです。

 皆さんが何か計器のようなもの、電気メーターのようなものを見ると、それを正確にゼロに合わせるように調節し、それを中心に計数的な数を増加して何かを計るでしょう? 左に何度になったのか、右に何度になったのか、上下関係がどのようになったのかということを測定するのと同様に、私たちの人生行路もそのような運命に立っているのではないかというと、これは言うまでもないのです。

 そういう立場に立った私、そういう立場に立ったきょう、そういう立場に立ったこの瞬間というものは真に深刻なのです。歴史的興亡の運命の道に差し掛かることも、きょうそうなったのではありません。きょうの中で、ある一点でそうなるのです。その一点はきょうのある時間でもなく、ある分でもなく、ある秒なのです。瞬間なのです。カチカチというその瞬間に、歴史的方向が行ったり来たりするというのです。

 皆さんの体が病気になったとすれば、病気が一度に突然現れるのではありません。ある時に、一点から影響が及び、マイナス方向に、あるいは左の方向に、あるいは下の方に出発したその瞬間が、病気のかかり始めです。そこから、その点を加えるようになり、その環境を加えるようになれば、それはだんだん下りていくようになり、それを再び押し上げようとすれば、人間がすべての生命を傾けて努力しなければならないのです。このような病気を私たちは考えざるを得ないのです。

 こういう観点で見ると、私たちの人生は何のために生まれたのでしょうか。私が生まれたのは何のために生まれたのですか。「私が生きるために生まれた」と、そのように考えればそれはあまりにも単純なのです。私が生きるのに、何をして生きていくのですか。ただ御飯でも食べて息子、娘を生んで、ただ日常的、習慣的な行路をたどっていくならば、それは今まで現れては去っていった人間たちと同じ回転運動を残すにすぎないというのです。

 そのような人間は歴史時代に、一点を切っておいた存在、すなわち砂煙のように虚空に飛び交って、いかなる関係とも因縁を結べない存在であることに間違いないというのです。どんなに優秀だといっても、彼は孤独な者であり、全体の連合体になっている組織社会には、不必要な存在ではありませんか。彼を何に使うのですか。もし自分勝手に自分が必要だと考えてどこかにくっついても、それによって方向が傾くこともあり、それによって障害にもなり、それによって妨害にもなるのではないでしょうか。そういう私になってはならないのです。

◆歴史的総合実体としての私の責任


 「私」という存在は、ある体制内の関連的な生命圏をもって生まれ、数百、数千代の先祖たちのすべての生命の要因を関係づけ、関連づけて生まれたがゆえに、その多くの生命のあらゆる方向を代表できる現在の位置に立たなければならないのです。自分の先祖がたどってきた、過去全体の方向を総合した実体にならなければならないのです。

 歴史的な先祖を代表した先鋒に立った「私」が、うまくすれば歴史的な善なる先祖の方向を延長させることもできるのです。しかし、誤るようになれば、どんなに良い先祖がいるといっても、彼らが歩んだ道を、洗いざらいへし折ってしまうことになり、否定的な結果をもたらし、善なる先祖の功績を完全に無視してしまい、完全に零点に化する結果をもたらすことにもなるのです。こういうことを考えると、きょうの「現実」ということが、そのように簡単なものではないというのです。慎重で深刻なのが現実だということを皆さんが考えなければならないのです。

 私が見るものもそうです。見るにも過去、現在、未来があり、考えるにも過去、現在、未来があり、行動するにも過去、現在、未来があるのです。全部がそういう関係性をもち、生涯の路程をえり分けていくのが、私たちの人生ではないでしょうか。ここで善なる人と悪なる人が決定されるのです。過去に善なる人が決定されたのではなく、未来に善なる人が決定されるのではありません。悪なる人も過去に決定されたのではなく、未来に決定されるのでもありません。いつ決定されるのでしょうか。きょうなのです。この瞬間だというのです。この瞬間に善なる人が決定されるのであり、この瞬間に悪なる人も決定されるのです。きょう、この厳然な現実を通して決定されるのです。

 その現実に責任を負うことができる人が誰かといえば、他人ではなく私だというのです。その現実を中心として、私が責任を負った立場で行動したがゆえに、その現在は、歴史的関係に登場する瞬間になるしかありません。また、未来の歴史路程に登場する瞬間にならざるを得ません。このような普遍妥当な運命圏をもっているのが、現在だということを知らなければなりません。

 それを個人的に見てもそうであり、あるいはある民族の歴史を見てもそうであり、世界史を中心として見てもそうであり、歴史的なすべてを超越して、神様の摂理史を中心として見ても、そのような関係にあるという事実は否定できないのです。どんなに過去がよく流れてきたとしても、方向が一度それれば、そしてそれが永遠に続くようになれば目的とそれてしまうのです。

 それゆえ、人間は毎日のように調整しなければならないというのです。毎日のように調整するだけでなく、すべての勝敗の結果は、現時点の瞬間で決定されるために、瞬間ごとに調整することのできる人にならなければなりません。そうでなければ、いつどんな時に悪なる位置に、あるいは失敗の位置にぶつかり破産するか分からないのです。こういう運命の道に立っているということを、皆さんが考えなければならないというのです。「ああ、きのうできなかったならば、あすすればいい」と言えばそれで終わりますが、きのうできなかったならば、ここで必ず過去に穴が掘られるはずだというのです。

◆世界人類は、三時代が連結した一つの直線の道を行かねば


 世界史を中心としてある聖人を追慕するという時、彼らをなぜ追慕するようになるのですか。過ぎた日の人であって、現在にいる私たちがその人と何の関係があって、その人が提示した方向、「世界の人間はこのようになるべきだ」と提示した方向に全部が合わせようとするのかというのです。

 では、偉人とはどんな人でしょうか。国家的な運命、ある民族の運命を見つめて、その民族が善なる民族になることができる、あるいは成功することのできる方向を提示するようになれば、彼を民族の愛国者だということができるのです。さらには、世界が善に成り得る方向を提示した人を聖人というのです。それゆえ、愛国者よりも愛国者を越えて聖人に方向を合わせようとするのです。

 現実の一瞬というのは、途方もなく恐ろしいものです。ここにはどんな威嚇よりも、もっと恐ろしい内容があるのです。千年を滅びるようにすることもでき、万年史を滅びるようにすることもできるのが、今日現実の中で渦巻いているという事実を皆さんは知らなければなりません。

 したがって、皆さんが朝起きれば「きょうはこのように歩もう。方向をよく合わせて、線を引いて歩まなければならない。一日の線を引いて歩まなければならない」と言わなければなりません。あるいは一カ月を生活する時、必ず「このように歩まなければならない」と言って、線を引いて暮らさなければなりません。

 その線が徹底していて、間違いなく完全な線であるほど、その瞬間瞬間を連結する一日の中で、ある瞬間を完全に線を引かずには、完全な一日、一カ月として残せないのではないでしょうか。完全な一カ月を残すことができなければ、そこで完全な一年が無駄になるのであり、完全な一年が無駄になる日には、永遠な理念も無駄なものに帰結してしまうのです。

 それゆえ、私たちは瞬間でも、責任をもたない生活をすることができません。責任を負わなければなりません。責任を負うということは容易なことではありません。ある団体の責任を負うとすれば、その団体の方向を提示しなければならないのです。ある家庭に責任を負ったとすれば、必ず方向を中心として責任が伴うのであって、方向もなくただむやみにしては責任者になることはできません。

 歴史的な責任者になるためには、過去、現在の歴史観を通じて、その方向に一致することのできる責任的内容をもって立たなければなりません。そのようになれば、彼は責任者としての任務を全うしたと言えるのであって、そのようにできなければ、その責任者に「責任追及」ということが起きるのです。歴史的に追及するのであり、時代的に追及するのであり、未来的に追及するのです。このように見ると、きょう一日の瞬間が、どれほど途方もない瞬間かということを知らなければなりません。

 成功が他の所で始まるのではありません。ある相対的なものから始まるのではなく、きょう、私から始まるのです。私を中心とした時間圏内で左右されるというのです。時間圏内で左右されるのですが、その時の方向設定いかんによって千態万状に変わるのです。それによって千態万状の形に変化した状態が、そこで展開するようになっています。

◆歴史と現在と未来と神様が願う道


 過去を無視した現在があり得ないために、人間は過去を描くのです。「聖賢の教えがここまで届いた。このように届いた、今、届きつつある。この方が歩もうとしたことがこれであるので、私はそこに合わせなければ」と言わなければなりません。そうするには、いつも過去を見なければならないのです。また、いつも未来を見なければなりません。このように考えると、私たち人間は一人では生きられないというのです。そのような観点で見ると、私たちは歴史と共に生きていることを知らなければなりません。

 人間ならば誰を問わず中心になろうとします。誰でも出世して成功し、「私が中心存在になれば良い」と考えるでしょう? その中心存在になるということは何でしょうか。それは人類を統合した一つの中心線上に立ってみたいということなのです。人それぞれには、そのような一つの線があるのですが、ある人は長く、ある人は短くと全部が異なります。差が出るのです。けれども、神様がいらっしゃるならば、神様が願う道、歴史が願う道、現在が願う道、未来が願う道は二つではなく一つです。二つはあり得ません。このような人間を見れば、事情に縛られて生きる、あるいは因縁に縛られている、また関係をつくってすべてが成されていく、このように見ることができます。

 では人生を中心として、私たち人間が必要とするあらゆる事情だとか、何の因縁であるという内容をひっくるめて見てみると、これをどこに合わせなければなりませんか。「ああ、私はきょう用事がある。その用事に合わせなければならない、み旨も何も、用事に合わせなければならない」と言えば、それは既に間違っているのです。歴史時代と反対の立場に立つようになれば、そこには必ず反対に該当する報応が即刻に臨むのです。

 話すことも、「自分は気分が悪い」と言って、勝手にしてみろというのです。「それは自分なりの方向です、自分なりの生き方です」と、そう言ってはなりません。話をする時は、必ず歴史と合わせなければなりません。過去と合わせなければならず、未来と合わせなくてはなりません。

◆終わりの日の目的に向けて、今日の方向を合わせていかねば


 個人的な未来よりも家庭的な未来が遠いのです。個人の完成時代、理想時代が来たあとで、家庭の理想世界が来るようになっています。家庭的な理想よりも、氏族的な未来はもっと遠いのです。氏族よりも民族、民族よりも国家、国家よりも世界、世界よりも神様のみ旨は、一番あとになるのです。大きいほどあとになるのです。それゆえ、宗教は終わりの日を標 榜し、そこに合わせようとします。宗教のすべての内容を見てみれば、終わりの日、終末時代に適合した完成を標準として、全部教えてくれているというのです。

 不信者が宗教を見れば愚かに見えるのですが、宗教人はそれを本当に素晴らしく思うというのです。そうして、その終わりに方向を合わせようとします。それが違ったとしても、終わりの点と合わせようとします。そうして、それが間違ったとしても、それは普通の人、自分勝手に行く人、あるいは家庭的目的を中心として行く人や、国家的目的のために行く人とは比較にもなりません。彼ら(普通の人)は家庭的目的や、国家的目的をもってぐるぐる回っていますが、宗教人はそれでも終着点を見つめて、後日を見つめて行くというのです。

 そのような歴史性を備えた宗教歴史が長かったのです。民族の歴史より長かったというのです。私たちの家庭的な暮らしよりも長い、この歴史の内容と価値を保有しているというのです。個人が歩むことよりも長い歴史を経てきたのです。神様がいらっしゃるならば、神様もそうされるでしょう。神様が人間を通じて橋渡しをして行こうとすると、こういう道があれば、この道を行こうとする人を中心に摂理せざるを得ません。

 こういう観点で見ると、そういう大目的に向かって方向を合わせようとする人物がいれば、その人物は歴史的な時代に影響を及ぼす人になるはずであり、そのような思想があれば、歴史時代に必然的な影響を及ぼす思想になるのです。その思想圏内で国が動くのです。個人が動くことはもちろんであり、家庭が動くことはもちろんであり、国家が動くことはもちろんであり、世界が動くことができる圏もそこから起きるのです。ところが、そうせずに私が中心になっているのに、そこに世界が動くと思いますか。家庭の中に、私たちの家庭生活を中心とした観に世界が入ることができますか。できないのです。

 遠くの目標に向かって、今日の方向を合わせようとする人が愚かな人ではなく、歴史を愛して、未来を愛して、現在を勝利のものとして連結するために努力する群れだということを、私たちはここで考えざるを得ないというのです。

 それゆえ、人は終わりの日を見つめて行かなければなりません。成功を願ってもすぐさま、若い時代に成功しようという人、若い時代に成功して喜ぼうという人は小人になるのです。一生をたどり、一代をすべて投入し成功を願う人も、その一代に成功したとすれば、成功した人だといえますが、志がある人は一代でなく何十代を経て、私の一代にできなければ私の後代何十代、あるいは何千代を通じてでも、このみ旨を成し遂げるというのです。

 そうして、何千代が間違いなくその方向を通じて歩んだという氏族がいるならば、またそのような民族がいるならば、神様の摂理は必ずそのような氏族と民族を通じて集約的に成されるのです。代表で推薦してでも、そのような氏族と民族を通じて世界史的な完成の志を立てるのです。

◆人類歴史は因果応報の歴史


 このように見ると、今日、現在というものを勝手に生きることはできません。皆さんが一生を生きる間には、朝に気分良く出掛けるや否や、突然の出来事が起こることもあり、思いもよらない友人に会うこともあります。昔の知り合いに会うこともあるでしょう。そのように道端で会って因縁となった人とやりとりして行動したことが、自分の一代に致命的な運命をもたらすこともあります。どこの誰かが会おうという時、願わない約束をして会う場合、その道が人生において、最後の道にもなり得るのです。

 長い歴史について見れば、現在には関係がないけれど、歴史時代の先祖から関係があって、私の時代に蕩減の結末をつけようという因果応報の歴史があります。したがって、今日私の前にある人が現れたならば、その人は偶然な存在ではありません。

 万一、彼が私との瞬間的な出会いで、私の一生を破綻させるようなことがあり、私を殺すようなことがあっても、死ぬその時に、私がどのように死ぬかということが問題です。刃物で刺されて死ぬという最後の道を行く運命に立っても、私が死ぬ瞬間にどの方向を携えて死ぬかということが問題です。自分の欲望をもって死ぬ日には、罠に落ちるのです。しかし、人類のための公的な欲望をもって、そういう方向に曲げておいて死ねば、彼の代を再び引き継いで、その方向について行くことができる人が必ず生まれるというのです。

 そして、そのような先祖を通じて、この時代に生まれた現在の氏族はどうなるでしょうか。彼らが関係を結ぶことができる、内的な因縁を立てなければ方向を失うために、その方向を残すために、神様はその人が不意の運命にぶつかったとすれば、他の人を通じてでも必ずバトンを受け継いで、方向を選んで行けるようにするのです。ある人を中心として始めれば、その人を中心として代を継げば良いでしょう? もし父がそういう使命に責任を負って代を継いだ時、その息子と娘が再びその代を継続することができれば、神様は間違いなくその息子、娘を立てるというのです。

 けれども、その人に息子と娘がなく、また、いたとしても代を継ぐことのできる息子と娘であり得ないときはどうするでしょうか。仕方なくその親戚の中で代を継ぐ人を探すのであり、もし親戚中にもいないときは、その近所でその一族と婚姻の関係を結んでいる八親等までを連結させるのです。関係のある血族がそれを受け継ぐことができないときは、その親戚の中から、親戚の中にもいないときは、その近所の人の中で、それを受け継ぐ人を探すというのです。そうすればその近所の人が福を受けるのです。

◆人生行路の目的


 ですから、私たちの一生をむやみに送ることができないのです。私がどこへ行くのか。角度を測定しなければなりません。探索班が未知の新しい世界を探索しに行く時は、必ず経度何度、緯度何度というように角度を測りながら行くのです。そうしなければ大事になるというのです。その方向が分からなければ、どこへ行くかも分からないのです。それと同様に、私たちの日常生活も角度を測定し、何度どこへ行って、何度上がって、何度下りていって、何度左右へ行くということを、わきまえることができる現在の位置を確定せずには安心して行けないのです。

 人々は、人生が何であるのか、人生はどのように生まれたのか、どのように成されてきたのか、人生が行く行路はどこなのか、ということを知らないために、嘆かわしく結論づけて「人生行路は苦海だ」というのです。苦海ですが、知っている苦海ならば有益だというのです。知りつつ行く苦海というのは、希望があるというのです。けれども、知らずに行く苦海である時はどうしますか。安心して御飯を食べることができますか。皆さんが安心して結婚することができますか。何がそれを保障するのかというのです。保障できないのです。

 このように考えると、私たちは一切の内容を再び糾明しなければなりません。真っ暗な夜中に、方向も知らずに行っていると考えれば、どのように生きることができますか。行けば行くほど見込みがない立場で、皆さんは黙っていられるでしょうか。声をあげて誰かを呼ぶか、死に向かって飛躍するか、超越するかしなければならないのです。

 見込みがなければ、振り返って後ろに戻ってくるか、再び出発をするかという賭けをせざるを得ないのが人生行路であるゆえに、過去の数多くの志のある人や、聖賢賢哲はそのようなことのゆえに生涯を捧げて、死の境界線を往来しながら闘っていったのです。また、今後そのように闘う人々が現れることは間違いない事実だというのです。そういう行路を通るのが人生なのです。

 皆さんは、いつ一家庭の責任を負ったと考えてみましたか。「私の家庭は間違いなく、この世界の人類が歩むことのできる、標本的な家庭となるべく歩む」と考えてみなさい。深刻な問題なのです。「いい加減に流れて、なるがままに生きる」と言いますが、なるがままに生きますか。

 それゆえ、知っている人がいればその方を訪ねて、その方と共に談判をし、その方と共に解決点を立て、きょうの私の位置がいかなる位置か、現実を確定することのできる基盤を設けなければなりません。そうしなくては幸福を探すことができないのです。幸福は現実を離れた位置では探せないものではないでしょうか。未来の幸福ではありません。現実に保障のない未来はあり得ないのです。現実が、過去の結実として登場する、幸福の基点にならなければならず、過去の結実の位置にない現実は、理想的な基点であった過去まで否定することのできる内容にぶつかるのです。

◆現実は歴史的標準点であり未来の起源


 歴史的な結実を、現在で打診しなければなりません。未来の新しい起源と出発を誓うべき位置、そういう内容を決定して前進しなければならない位置が、現実だというのです。

 それゆえ、その現実は歴史的な標準点なのです。過去から現在まで願ってきた、歴史的な標準点にならなければなりません。現実とは何でしょうか。現実は、歩みくる歴史時代に、願われた一つの標準点になるべき時だというのです。

 私から四方が広がるのです。未来と過去は連関性がありません。過去は未来の社会を、横的に連結していないのです。また未来は、過去のどんな時も横的につながっていないのです。それはすべてが点です。私に、そのすべての目的点が集約されています。またその次に、私から目的点を指向して拡大していくのです。それゆえ、皆さんはあすの希望がより一層大きいことを願うのです。

 調整ということはどこで可能かといえば、現実です。未来に行って調整することはできません。過去に調整したというのも駄目だというのです。いつも現実です。皆さんが、過去と焦点を合わせているにもかかわらず、そこから一歩だけそれるようになれば、自分個人だけが滅びるのではありません。自分の一族が滅びることもあるのです。

 イエス様が四千年のユダヤ教歴史、イスラエル歴史を代表して現れた時に、四千年歴史の方向はどこに集約されましたか。イエス様に集約されました。ところが、その焦点がそれたがゆえに、四千年歴史は完全に倒れるようになったのです。霊肉を中心として直行しなければならないのに、霊的に歩んだために、思いがけないところに行きました。突然霊界に上って、霊・肉が分かれたので、再び下りてきてそれを縛っておかなければなりません。そこには蕩減が起きます。高く上ってそれを引き下ろすので、いたずらな消耗がなされて蕩減が起きるのです。

 私がうれしいので「ハッハッ」と笑うとしても、あるいは愛する人同士で、「私たちは幸せだ」と言っても、その幸福を保障できますか。その幸福が未来と関係しますか。あすと関係性をもてますか。それを知らなければ、それは幸福ではありません。

 もし、一人滅びるようになれば、自分一人で滅びると決心して一人で滅びればいいのに、家庭が滅びるようになれば、どれほど悲惨でしょうか。子が悲惨に倒れるのを見なければならず、妻、あるいは夫が悲惨に倒れるのを見なければならないので、それがどれほど悲惨でしょうか。

◆歴史的結実を成し遂げるべき私


 そのような観点で見ると、皆さんが心を合わせなければなりません。こういう面で、蕩減復帰という言葉は本当に有り難いのです。蕩減復帰しようとするなら、過去に失敗したことをそのまま現在に展開して、それより勝らなければなりません。勝らなければ方向が設定されません。それより劣ってはならないのです。少しでも勝れば、前進できる方向が開かれるのです。

 それで、歴史的な偉人の業績を、現在の私たちは受け継ごうとするのです。四大聖人が残した功績とは何でしょうか。彼らは自分勝手に生きたのではありません。彼らは、人生で歩むことのできる代表的な道を人類を代表して提示しました。

 ところがその標準が遠かったというのです。個人として歩み、氏族として歩み、国家が歩み、世界が歩まなければならないというその標準が、漠然と東の方向だというようになっているのです。東の方向に、ゼロの地点に調整ができず、少し傾くとか、少し右に行くとかして偏ることは偏ったのですが、東に行くことだけは間違いないというのです。

 ところでその聖人は、みな宗教指導者だというのです。彼らは、自分一人だけで歩んだ道ではなく、神様の摂理的観と一致することができる目的を描いて歩んだがゆえに、そこに歴史的な人類が動員されたということは否定できない事実なのです。

 現実に、キリスト教ならばキリスト教の一日一日があります。ところがキリスト教の一日一日、現在のキリスト教としての位置とは、どんな位置でしょうか。上がっていくのか、下がっていくのか、左に偏っているのか、ということを考えもしないのです。「ただそのまま行けばいい」と言うのです。「キリスト教の伝統を、ただそのままついていけばよい」と言いますが、それは良いことだというのです。歴史を合わせようとすることは良いけれど、それがイエス様が願った、願いの基準と一致するでしょうか。異なるとすれば、このキリスト教は没落していくというのです。どんなに良い基台をつくっておいたとしても、方向が違えば仕方がないのです。

 それゆえ、過去の一致点を確定することのできる現実で、未来の一致点が出発することができる、今日の現実的基盤を備えなければならないのです。過去は過去なり、現在は現在なりに分離して、私の心と体が行き違ったようになってはならないのです。どのように直線を引くかという、運命圏内に立っているということを知らなければなりません。

 現実がこのような一点に置かれているのに、「私」という現実的中心存在を持ち出して、一つの時代、この時だけを見て生きる人は、最も危険な存在なのです。そのような人は四方へ行っても崩れていくのです。今日「私」というものを引っ張り出そうとすれば、歴史を代表した私にならなければなりません。「私」という現実の基盤というのは、歴史的な標準点になっており、歴史の焦点を代表したがゆえに、歴史的な代表の結実なのです。

 したがって、私個人を中心としてもそうですが、我が国と民族はもちろん、人類を代表した立場で、私が歴史的結実の位置に立ったと言える確信が立たなければなりません。どんな位置でも、代表の位置に立ったと言えるならば、彼は歴史的先端に立っているのです。

 ここで、世界史的な先端に立った代表的な「私」だという自覚を、どのようにするかということが、価値設定の一つの基点になることを皆さんは知らなければなりません。それがむやみにされては、価値的なものであり得ないのです。歴史時代を代表した「私」というとき、過去の歴史よりも下がっていくのではなく、より輝く価値をプラスさせることのできる「私」であれば、私を通じて発展的な未来が継承されるかもしれませんが、歴史時代より劣る「私」であるときはそのようになることができません。このように見ると、「イエス様を信じる人は、イエス様が描いた理想を現実的な理想観として携えなさい!」ということは妥当な結論です。

 そのような立場を調整するのが現実なのです。肉屋に行けば水平秤で計るでしょう? その水平秤を見れば、真ん中に行ったり来たりするのがありますね? それが物を置けば重さによって動くのです。そこに標点が、調整点があるのです。

 それと同様に、現実は調整点です。ところが、違うところに合わせればなんにもならないのです。そのようになっているのが、今日の人生の路程を歩んで行く現在の立場であり、現実の立場であり、瞬間の立場であることを私たちは知らなければなりません。この瞬間に誤るようになれば、サタン側になるのであり、上手に成せば、天の側になることができます。

 神様がこういう歴史時代をたどりながらも、完成の一時を迎えられないのは、現実をなくしたためです。あらゆる先祖が失敗したのは、ある現実で失敗したのです。瞬間に誤ってしまったためなのです。

◆現在とは歴史的結実点、時代的中心点、未来の出発点


 このように考えると、今日私たちが立っている位置は、一つの時代ではありません。三時代をつないでいます。過去の時代を代表した位置であり、未来を連結する位置です。今日というこの位置は過去を代表し、現在にはこの世界が入っています。現在は人類の中心になるのです。現実というのは、過去の世界人類全体を代表した位置であり、この世界を代表した中心点です。

 家庭を代表した中心点を合わせたならば、また国家の中心点を合わせなければなりません。国家基準を中心としたならば、また世界の中心点を合わせなければならないというのです。ですから、初めから世界のための中心点を合わせておけば、他のものは合わせる必要がありません。

 現在というものは、何の中心点にならなければならないでしょうか。世界人類を代表した、世界的な中心点に合わせなければなりません。犠牲ではなく、苦労でもなく、死ぬことがあっても行かなければならないのです。現実はどういうものでしょうか。未来の出発点です。現実というのは歴史的結実点であり、時代的中心点であり、未来に対しては出発点なのです。

 それゆえ、今までどんなに上手に成したとしても、ここで私が一言誤れば滅びるのです。そのように怖いのです。三時代の元凶がうずくまっている位置です。失敗の元凶がうずくまっている位置であり、三時代のサタンの矢が集中した位置です。

 それゆえサタンは、このような点を試すのです。「お前が歴史的な代表の位置に立ったのか。現実的な中心存在として立ったのか」と言うとき、立てなかったとすれば、地獄の門を開けて入っていくようになっているのです。それでは復帰できないのです。復帰完成の点は二つですか。一つしかありません。完成の判を押す場が二つの場でしょうか。一箇所で押すのです。未来の出発点がなくなれば、天国理想も何もすべて不正だというのです。皆さんがこれを確実に知らなければなりません。

◆現実とは三時代のための責任をとらなければならない中心点


 朝、目覚めて起きれば、「ああ、このようになったのだな!」「ああ、先祖たちが私に合わせているんだな!」と、こう言いながら上手に合わせて行けば、先祖たちの道が高速道路のように開かれるのです。

 トンネルを掘る時も同様だというのです。良い所に高速道路があれば、みな高速道路へ行くでしょう?
 ですから、そこが現実的な中心点になるのです。その次には未来的な出発点です。そこから希望の出発をするのです。そこからは、行けども行けども希望です。行けども行けども絶望ではありません。このような立場に立ったことを知らなければなりません。

 それゆえ、三時代のための責任はどこにあるでしょうか。過去にあるのではありません。現実にあります。そういう歴史観をもっているということは、驚くべき事実であることを皆さんは知らなければなりません。

 皆さんが歴史を代表した位置で、どれほど努力しましたか。人類が行くべき中心的な立場を正しく、きれいに磨くためにどれほど努力しましたか。未来の子孫の前に、十字架とか受難の道を残さないためにどれほど苦労しましたか。昼も夜も歴史的方向に合わせて行かなければならないのです。国家基準を越える時まで、誤って合わせていくようになれば悲運に消えていくのです。先生もそのような観点で、現在の立場よりもあすの開拓者の立場で、現在の位置で基準を合わせて行くのではなく、一時代先んじた位置で現在の基準を調整しているのです。一つの時代を先立って行かなければならないのです。

 現実というものは、三時代に責任をもって決定づけるべき中心点であることを、皆さんは知らなければなりません。これは深刻な問題です。さじを一度取ることが、敗者のわびしい道を歩むようにすることもできるし、私が考えるその場で、滅びる運命の兆しが芽生えることもあるのであり、一日勝手に行動したことが、一生を滅ぼすこともあるのです。それゆえ、きょう一日は幸福であろうと考えやすいけれど、一日がどれほど恐ろしいか知らないのです。また、一つのことを誓うとき、天が設定した目標と目的に向けて基準を合わせて歩んでいくきょうを、迎える皆さんにならなければなりません。

















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訓教経(下)025



文鮮明先生のみ言集

訓教経(下)



真なる人と罪


一九七三年八月五日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第六十八巻』


 この世の人々は、堕落したことも知らずにいて、またその中で、信仰するという人々も、堕落がどのようになされたかということをよく知らずにいます。また、本然の人間がどのようなものなのか、その基準もはっきり知らずにいるというのです。漠然と神様を信じ、神様を中心として漠然とした息子の立場で信ずれば、救いを得られるというのが、一般的な信仰観なのです。

◆救援摂理の目的と真なる人が行くべき道


 では、信仰しながら、望むものとは何でしょうか。あるいは救いの目的とは何かというとき、それは言うまでもなく、真なる人にならなければならないという結論に到達するのです。真なる人、その中には、男性と女性がいます。

 では、神側から尋ねるときは、どう答えるでしょうか。神様の願いは何でしょうか。やはり神様も真なる人、すなわち真なる男性と真なる女性を願われるのです。

 信仰者として最高に願うものは、完成した人です。完成した人は、真なる人です。神様が救援摂理の目的を推進してきたその目的はどこにあるでしょうか。これもやはり完成した人であると同時に、真なる人にあります。

 では、神様が見たい人とはどのような人でしょうか。真なる男性と真なる女性を見たいというのです。ところが、堕落によって真なる男性と真なる女性を見ることができなくなったのです。ですから、復帰は真なる人を捜すことです。真なる人を捜すにおいては創造原則において、男性を先に造ったので、真なる男性に出会わなければなりません。真なる男性に出会って、神様が本来志された、願われたところの目的を達成してみようというのが、救援摂理の目的であらざるを得ないのです。

 では、真なる人、真なる男性はどのような道を行かなければならないのでしょうか。それは言うまでもなく、神様の愛を受ける最初の息子にならなければなりません。その息子は養子ではありません。神様の血統を通して、神様の愛の過程を通して血統を受け継いだ息子にならなければなりません。その次には、真なる兄さんにならなければなりません。エデンの園のアダムとエバを中心として見るときに、アダムは、エバの兄さんです。したがって、神様が見たい真なる人は、どうしなければならないでしょうか。真なる兄さんとして完成しなければなりません。

 それから、範囲を少し広めて、現在の人々を見るとき、男性は兄さんになるか、そうでなければ弟にならなければなりません。すなわち、女性においては兄さんになるか、弟になり、男性においても兄さんになるか、弟にならなければなりません。これが男性の行くべき道です。

 その次に、真なる夫にならなければなりません。真なる夫になったなら、真なる夫だけで終わるのではありません。男兄弟がいる場合には、弟もいるでしょうし、弟の家庭もあるはずです。それゆえ、神様の立場から見れば、真なるおじさんが必要なのです。したがって、真なるおじさんにならなければなりません。その次の願いは何でしょうか。真なるお父さんになり、真なるおじいさんにならなければなりません。これが男性の行くべき道だというのです。

 結局は、真なる息子として、真なる兄さんとして、真なる夫、真なるおじさん、真なるお父さん、真なるおじいさんとして行くべき道が男性の行くべき道です。

 その次には、真なる王として行かなければなりません。そうでなければならないのです。家庭の中心だけではなく、社会を経て、一国の成り立ちを見つめるとき、王として行かなければなりません。これが男性の行くべき道です。

 すなわち、男性が行くべき道は神様の直系の血統の因縁をもって生まれた息子、娘の立場で、真なる兄さんとなり、真なる夫となり、真なるお父さんとなり、それから真なるおじさんとなり、真なるおじいさんとなり、それから真なる王にならなければなりません。これが人類のうち、男性として行くべき過程において、必要な標準です。

◆復帰摂理歴史は真なる男性を捜すための歴史


 さあ、このように見るとき、この地上に果たして神様のみ意に一〇〇パーセント一致した真なる息子がいたでしょうか。そのような男性はいなかったというのです。ですから、今まで神様が尋ねきた歴史は、一人の真なる男性、一人の真なる息子としてふさわしい立場に立つことのできるその息子を探し求めてきたのです。その息子を標準とし、今まで役事してきたのです。では、その歴史とは何でしょうか。息子を再創造するための歴史にすぎません。真なる息子として生まれるためには、再創造の過程を経なければなりません。

 この地上で堕落した人間は何を願うのでしょうか。真なる男性であるとか、真なる女性になることを願います。では、真なる人になり得る道を行くためには、どうしなければならないでしょうか。
 堕落した人間をもってしては、到底不可能です。堕落したという言葉は、落ちたという意味です。落ちたという言葉は、正常ではなく、故障したということであり、病気になったということです。

 それゆえ、堕落した位置からは真なる人を望み得る道がありません。ですから、神様は歴史時代を経て、神様の真なる血統と心情をもった一人の息子をつくりあげて送るために、今まで苦労してこられたと、このように見るのです。

 そのような使命をもってくるお方とは誰でしょうか。一人の真なる息子が現れる前には、真なる兄さんも登場することができず、真なる夫も登場することができず、真なる男性としてのお父さんも登場することはできません。また、真なるおじさん、真なるおじいさん、真なる王も登場することはできません。神様が公式的に「そうだ」と言うとしても、世界を代表し得る王位まで占める真なる男性が出現するのではありません。真なる息子が現れる前には、「ああ、私が願っていた、望んでいた男性だ」と言うことのできる帰結点を下すことはできないのです。そのような人は、真なる息子になれないのです。

 では、天国という所は、どのような所でしょうか。偽りの息子が行って暮らす所ではありません。真なる息子が行って暮らす所です。真なる人は真なる息子にならなければならず、真なる人は真なる兄さんにならなければならず、真なる夫として、今、語ったそのすべての内的な因縁を備えた人にならなければなりません。

 では、真なる人の要素を堕落した人間の世の中で、どこから探し出すのでしょうか。堕落した人間同士からは絶対に探し出すことはできません。神様が再びつくる歴史過程を経て、真なる息子が生まれる前には、不可能です。ですから、真なる息子として登場するお方が誰かというと、救世主です。

 真なる息子にならなくては、真なる兄さんになり得る道は出てこないのです。真なる兄さんにならなくては、真なる夫は出てきません。エバが真だというとき、兄さんが真でなくなれば、問題がもはや生じます。皆さんは神様の真なる息子を見たことがありますか。天国に行くという人たちは、天の国に行くという人たちなのに、天の国は王のいない国ではありません。そうではないですか。国には王が中心存在としていなければならないのです。

 では、天の国は、どのように形成されるのでしょうか。王が登場する前に、おじいさんから親戚の関係を中心として、真なるおじさんの過程を経て、真なるお母さんとお父さんの過程を経て、真なる兄弟の過程を経て、真なる息子の過程をみな経た人たちを代表する土台の上に立つのが天の国の王です。王は一番最後に行ってなるのです。このように一国の中には、氏族が入り、家庭が入り、みな入るのです。

◆イエス様はが真なる息子の使命を果たしたのか


 イエス様は「神様の息子だ」と言いましたが、神様は愛することができませんでした。十字架にかかって死ぬようになりましたが、なぜ死の場から引っ張り出して保護してあげられる息子になれなかったのでしょうか。これが蕩減路程において、いまだに罪から脱け出すべき運命に立っているために、真なる息子の立場に立てなかったために、彼を解放させられない神様になったというのです。ですから、イエス様が死ぬとき、背を向けなければならなかった事実を、私たちはここから知ることができるのです。

 盲目的に無条件に信じてはならないのです。神様が本当に世の中に一人しかいない息子として送ったその息子が死ぬのに、なぜ背を向けるのかというのです。全く、そのような父母がどこにいますか。私たちが、そのような父母を信じていて天国に行けますか。保障されますか。イエス様の願いさえも成してくれないのに、イエス様のその切実な祈祷さえも聞いてくれないのに、息子を死の場に送り出したそのような立場に立った神様を、私たちが信じ、「天国に行こう」と言うことができますか。

 では、なぜそうしたのでしょうか。ここには私たち人間が知らない内的段階が多くあったからです。病気になった人を手術して、生かそうという人は、その病気になった人を手術するにおいて、誰よりも病人を愛さなければなりません。今まで病気になって、腐っていくこの罪悪の世を完全に救うために責任を負った立場、すなわち、救いの荷を負った立場に立ったので、救いの使命を果たす前には、神様の愛を受けられないのです。

 ですから、イエス様は神様の愛を受けられずに逝ったというのです。イエス様が神様の愛を受けたなら、あの村この村へと追い払われるでしょうか。家庭から追われ、村から追われ、国から追われ、教会から追われるでしょうか。神様がそのようにしたでしょうか。真なる息子は神様の愛を受けなければなりません。

 このような観点から見るとき、今日、この世に神様の真なる息子がいたのかというのです。「私は間違いなく神様の真なる息子である」と思える人がいますか。歴史的に複雑な内容がジグザグにからまったものを解き、それをみな是正する前には、真なる息子が現れないというのです。そのように複雑だというのです。

 神様はたくさんの能力をもっていらっしゃいますが、もつれたものをそのごとくに解いていかれる立場にあられるのです。しかし、それを解くにおいては、神様が解くことはできないのです。人間が解かなければなりません。人間が解かなければ神様のみ旨が成されません。それゆえ、神様のみ旨が成されない立場では、愛する人をも身代わりに蕩減の祭物にして、それを延長させる作戦をしていくのが神様の摂理の延長なのです。

 では、神様が見たいと思う人は真なる男性ですが、神様が本当に真なる男性に一度出会ったことがあるでしょうか。出会えなかったのです。新郎になろうと身もだえして死んでいったイエス様に出会っただけです。

 イエス様はこの地に来て、神様の愛を受ける息子として、エデンの園で堕落しなかったアダムの立場を身代わりして、エバのような妹をこの上なく愛することのできる、兄弟をこの上なく愛することのできる立場に立つことができなかったというのです。

 お母さんと弟たちが弟子たちの前に来て、イエス様と会おうとするとき、弟子たちが報告するのに「先生の兄弟たちとお母さんが来て探しています」というとき、イエス様は何と言いましたか。
 「私の母と兄弟はどこにいるか。神様のみ旨のとおりに行う者が私の母であり、兄弟である」と言いました。

 皆さん、無条件に信じてはならないのです。イエス様が兄さんになりたい気持ち、兄さんの愛をもってはいましたが、神様が喜ばれる立場で愛することができなかったのです。イエス様には妹がいたはずです。けれども、愛することができなかったのです。弟妹たちを愛することができなかったのです。愛したかったけれど、愛を与えることができないうえに、受けることのできる弟妹になれなかったというのです。

 それから、兄弟を愛したのちに、アダムが行くべき運命の道はどのような道でしょうか。夫でしょう。神様の愛を根こそぎ独占したのちには、彼以外には誰も愛することのできないただ一人として、霊肉を標準として、永遠の愛を契約することのできる、真なる夫婦として愛することのできるそのような家主にならなければならないのです。しかし、イエス様はそのような家主になれませんでした。

◆イエス様の願いとそれを信じる者の願い


 イエス様に「あなたの願いとは何ですか」と尋ねれば、「私は真なる男性になることが願いである。神様の真なる息子になるのが願いであり、神様が愛する妹を愛したいのが願いである」と言うことでしょう。「その次のあなたの願いは何ですか」と尋ねれば、「神様の愛する娘をこの上なく愛する、この上なく愛される夫になりたい。その次には、息子、娘を愛することのできる父母になりたい」と言うことでしょう。父母にだけなっていいでしょうか。「隣家親戚があれば、おじさんになりたい。おじいさんになりたい。その氏族の族長になりたい」と言うことでしょう。これが男性の願いです。

 このように見るとき、イエス様は父母のみ旨も果たすことができず、願いの成就もできず、中間で死んでしまったので、天国に行けず、楽園に行っていらっしゃるのです。楽園はどこかというと、汽車に乗るために待つ待合室のような所です。

 では、イエス様を信じる人々に「あなたの願いは何でしょうか」と問えば、漠然と「新婦になることである!」と言います。「では、新婦になるためには、どうしなければならないのか」と言うと、「そのまま信ずればいい」と言います。しかし、信じるためには、真なる男性に出会うために真なる新婦に代わることのできる立場に立たなければなりません。

 では、男性も新婦になろうと言いますが、男性が新婦になるすべがありますか。これは無条件に男性も新婦、女性も新婦、全く、そのような方法がどこにありますか。これは人倫道徳にもないのです。

 今日のキリスト教は、新婦となって、新郎であられるイエス様を迎えるためのものです。ところが、男性がどうして新婦になり、新郎を迎えることができますか。

 私たちの原理を中心として見るとき、男性は天使長型であり、女性は新婦の立場にあります。ところが、サタンがエバを奪っていったので、真なる男性が来て、再び奪ってこなければなりません。復帰してこなければならないのです。言い換えれば、主であられるメシヤは失った女性を捜すためにくるのです。それゆえ、新婦という言葉が必要であり、新郎という言葉が必要なのです。ですから、キリスト教は新婦宗教であり、新婦宗教なので、女性宗教です。

 終わりの日には、女性団結運動をしなければなりません。女性たちの願いとは何かというと、神様の愛を受ける娘となり、兄さんと弟を愛し、その次には妻になることです。それから、お母さんになることです。おばさんになることです。おばあさんになることです。全部、相対的立場なのです。

 イエス様は息子として、この地に来て、独りぼっちで逝くのが願いではありません。神様がそのようにするためにイエス様を送ったのではありません。

◆真なる男性、真なる女性になるためには


 では、統一教会の教会員たちの願いとは何でしょうか。理想完成、個性完成という言葉を使っていますが、完成というのはどういうことでしょうか。真なる男性となり、真なる女性となることです。そうなるためには、どうしなければならないでしょうか。神様と愛の因縁を結ばなければなりません。神様と愛の因縁を結び、再度、復活した生命圏を体 恤しなくては、神様の国に入ることはできません。

 統一教会ではこれを再現させ、公式的な過程のような道を、このような価値的な結果を誓わせ、このすべての過程を経ることのできる環境、あるいは全体復帰の基準をわきまえて行こうというのです。これが統一教会の教会員たちの行くべき道です。

 そうするためには、皆さんがどうしなければならないでしょうか。皆さんは「私は神様の息子となり、娘にならなければならない。私の体にあるサタンの要素、堕落性をもったサタンの血統がここに込められているので、これをきれいにぬぐい去らなければならない」と言いながら、歴史的な罪を悔い改めなければなりません。したがって、私は歴史的な罪の結実体だという自覚をもたなければなりません。皆さんは歴史的な罪悪の結実体です。

 皆さんの先祖の中には、殺人、強盗をした人もいるでしょうし、ありとあらゆる人々がいることでしょう。数多くの先祖を中心として見るとき、先祖の中にそのような人がいましたが、今の時になって出てきていないだけのことです。また、先祖の中にはいなかったけれども、今の時になって出てきただけのことです。そのような先祖たちもおり、そのような罪ある姿を見せる千態万状の先祖が、今日、皆さんの先祖から氏族圏を中心として、みな連結されているというのです。

 それゆえ、皆さんが真なる男性となり、女性となるためには、どうしなければならないでしょうか。堕落したことを自覚しなければなりません。「私は歴史的な罪の実である」と自覚しなければなりません。

 皆さんは歴史的な罪の結実であるので、歴史的な悔い改めをしなければなりません。これが皆さんが信者としてわきまえていくべき信仰生活の第一条です。ですから、悔い改めなければなりません。

 皆さんは今、青い葉のようですが、中途で離れることもあり得るというのです。秋になって実を結ぶ助けになるそのような葉っぱとしての存在ではなく、実とは何ら関係のない葉っぱとして、中途で離れ得る葉っぱにすぎないというのです。それゆえ、皆さんは歴史的な罪を悔い改めなければなりません。

 皆さんを見れば、皆さんが「誰それは容姿がああだ」と言いますが、あのように見えるのは、現在の自分の父母が生んでくれたということだけで、生まれたのではありません。それは自分の先祖、自分の父母の血統を通して、先祖のその何かを千分の一、万分の一ずつ受けて生まれたのです。約百兆の細胞から成るこの体は、数千万代の先祖たちの血の一筋一筋を分けて総合し、出てきた株式会社と同じだというのです。それが完璧でないだけであって、その要素は四方にからんでいるというのです。

 それゆえ、私には歴史的な罪を断つべき責任があります。無慈悲に清算しなければなりません。自分と闘いなさいというのです。自分にある権威と権勢をみな投入して、自分を征服するのに、最前線に立って、「お前は私の命令どおりにしなければならないのであり、私の願いどおりにしなければならない」と言いながら、自分に対して号令をして出発する歩みが信仰生活の第一歩です。

 皆さんの心を白い白紙にさっと広げ、それを細かくのぞいてみることのできる望遠鏡があって、じっとのぞいてみるとすれば、皆さんが天国に行くことのできる人だと思いますか。もし、何億万倍に拡大する望遠鏡で見るならば、びっくりすることでしょう。

 神様がそれを目で御覧になるなら、何億万倍の拡大鏡よりも拡大させて見ることのできる目でみな御覧になる神様に、罪人が「ああ、天のお父様」と言えば、神様の気持ちはどうでしょうか。そのお父様という言葉が快いでしょうか。地獄の入り口にも行けないそのような立場にいながら、ずうずうしく「私は神様の息子です」とは言えないというのです。

 ですから、宗教では「温和謙遜でありなさい。犠牲奉仕しなさい。あなた方に教えてあげるものはそれしかない」と、そのように追い立てるのです。それしかないのです。信仰の道は順応の道であって、自主の道ではありません。主張の道ではありません。これを知らなければなりません。

 なぜなら、自己を否定しなければならないので、歴史を否定させなければなりません。ここに黒い水があるのに、それを是正するといって、消えますか。否定しなければなりません。完全否定しなければなりません。否定されるときまで、否定しなければならないのです。では、皆さんの手がどれほど善でしょうか。皆さんの目がどれほど善でしょうか。皆さんの耳がどれほど善でしょうか。根本問題はここから解かなければなりません。

 それゆえ、神様の前に出ていって、祈祷することに恥ずかしさを一〇〇パーセント感じる立場、目を開けて神様を見つめるのに、目が恥ずかしさを感じ、全細胞が恥ずかしさを感じ、身の置き所を知らないほどに千年の恨みを抱き、あえぎ得る自らを発見するのが信仰者の正常な軌道の道ではないでしょうか。

 神様がいらっしゃるなら、「生きんとする者は死に、死なんとする者は生きん」というそのみ言が今日、このような立場で、深刻な立場にいる人に対してはこれ以上適切な救いのみ言がないということを感じることができなければなりません。

 私の中に先祖の血がぬたくり回っているというのです。それゆえ、断食をして血を抜いてしまうのです。そのような過程を経なければなりません。歴史的な罪の結実体なので、歴史的な罪の結実を否定するこのような勝負を決める闘いがなければなりません。生命を懸け、これを否定させるためには、自分の肉の生命をみな殺して、否定させ、残ったその力が復活の動機になって、再度、生命を備え、誕生しなければなりません。そうしてこそ、神様が管理、干渉なさることができ、天国に連結され得るそのような生命体になるのであって、サタン世界圏内にある生命体をもってでは駄目です。

◆宗教の道は受難の道、逆説の道、克服の道


 皆さんは、皆さん自身を歴史的な罪の結実として見なければなりません。それから、そのような氏族なら氏族として見なければなりません。氏族は現実として見るとき、すべての民族と関係しています。数千代の氏族の根を受けたので、それを延長して平面的に見れば、国になります。それゆえ、私はこの国が民族の罪に責任をもつべき罪の後孫です。

 言い換えれば、「私はこの民族が受ける罪の代価を代わりに受けなければならない。この世界を連結させることのできるこの世界の罪を、現在に受ける罪の代価を私が代わりに受けなければならない」このような自我を感じなければならないというのです。それが、メシヤとして来られたイエス様が感じた道なのです。私が生きればこの世が生き、私が死ねばこの世が死ぬという、そのような境地まで、そのような自覚をした段階にまで進まなければなりません。

 では、これを切るためにはどうしなければならないでしょうか。自分が反対に帰っていくのです。自分が反対に帰り、その次にも反対に帰らなければなりません。そうでなければ、上に上がるかしなければなりません。この二つの道しかないのです。そのままは行けないのです。下に突破して帰る道と、上に飛躍する道しかありません。

 それゆえ、宗教者たちが行く道は、荒唐無稽の道であり、誰しもが行ける道ではないというのです。下に突破していこうとするので、行きづらい道であり、超越していこうとするので、荒唐無稽な道です。ですから、宗教者たちが行く道は、受難の道であり、荒唐無稽な道です。

 本当に、天の国に行くことを望めば、夫が怨 讐になるのです。イエス様のみ言のように、自分の家の家族が怨讐なのです。その言葉が成就せずには終わりの日を迎え、メシヤであられる主を新郎として侍ることのできる道がないのです。誰が怨讐になるでしょうか。男性の前に女性が怨讐になり、兄弟が怨讐になり、父母が怨讐になり、おじいさんが怨讐になり、その国までも怨讐になるのです。

 したがって、悪なる者たちが主体となったこれに勝たなくては、神様の前に行くことができません。これを超越する前には、神様はこれを取ることができません。もし、その中にあるものを取れば、サタンがもって、遊び、戯れた、残り物に対するのと同じ立場なので、それを取ることはできません。

 そのような観点から見るときに、聖書観ははっきりしているというのです。皆さんが聖書を見れば、それが理論的ではなく、前後が合わない逆説的な論理のようですが、逆説的なので、真理の道と接することができるのです。

 現実に勝たなければなりません。現実の罪悪世界に代わって、自分が責任を負い、自分が蕩減すると同時に、勝たなければなりません。そうでなければ、皆さんの前に死が訪れるのです。ですから、未来を克服しなければなりません。未来の死に対して、地獄なのか、天国なのかという問題を克服しなければなりません。地獄に行くのか、天国に行くのかというのは、死んで決定することではありません。この地上で決定しなければなりません。決定してチケットを買って行かなければなりません。

 歴史的な罪を悔い改め、世界的な罪を悔い改め、現実的サタン圏でサタン側の個人を屈服させなければなりません。女性で言えば、サタン側の個人を屈服させ、サタン側の息子を完全に屈服させてこそ、神様の愛を受けることのできる娘の資格を得るのです。その次には、サタン側の兄さん、サタン側の夫を屈服させなければならず、サタン側のお父さん、サタン側のおじいさん、サタン側の王を屈服させてこそ、エバの解放圏が生まれるのです。

 皆さんはそのようなことを考えたことがありますか。「私は統一教会を信じているので、天国に行く」、そのようなでたらめはないのです。それがそのようなどんぶり勘定からはなっていないのです。ですから、本当に神様を信じるためには、家庭を捨てろという話、兄弟を捨てろという話、それがみな妥当な話なのです。父母を断ち、越えていかなければなりません。後ろに抜け出ていけば勝たなければなりません。越えていかなければなりません。ですから、今まで統一教会は受難の道を歩んできたのです。民族の前に踏まれながら、踏まれる道をかき分けてきたのです。そのように踏まれながらも、今まで滅びなかったのです。岩山を突破していったのです。生命のある木の根は、岩をも壊していくのと同様に、その場から飛躍するのです。韓国で妨害すれば、妨害線を越え、外国にまで行って、基盤をつくり、堂々と登場するのです。

 文先生が知恵があって、そうなのではありません。天運が行く道を、法度に従えば、誰でもみなそのようになるのです。それゆえ、信仰の道は現実の克服と飛躍、あるいは超越の道です。それを知らない人は、地獄に行きます。天国には行けないのです。この世を完全に克服した者であり、この世を完全に超越した者であってこそ、天国に入るのです。そうでなく、一端だけ、一条件でも残れば、サタンが引っ張っていくのです。

 このような問題を見るとき、どれほど信仰の道が困難かということが分かります。一国の国王になって、今や最後の栄枯盛衰を前におき、呻吟する運命の道よりも何百倍、何千倍深刻な問題だというのです。皆さんの人生は簡単ではないのです。自分の人生というものは、最高の権威をもった万王の王の権威まで見つめ、進んでいく道なので、そのことが簡単ではないということを、皆さんは知らなければなりません。

◆先に犠牲になり、愛し、尽くそうとし、死なんとする人となれ


 では、皆さんはどの程度でしょうか。私たち統一教会の教会員たちは「食口」と言いますが、いつ皆さんは兄さんとして、いつ姉さんとして、いつ弟妹として愛したことがあるかというのです。「エデンの園がいくら広く、いくら世界が広いといっても、それはみなやめにして、あなた方同士、兄弟同士、私たち食口同士暮らすのを見たい」と言いながら、神様が訪ねてくるに値しますか。神様が記念し、記念するだけでなく宣伝し、「誰それ兄弟はどこにいるか。そのような兄弟が見たいので、私はそこに行って暮らそう」と言える、訪ねてくることのできるそのような兄弟の因縁をもっているかというのです。もっていますか。

 ですから、マタイによる福音書五章四十八節の「天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」という言葉は何についていう言葉でしょうか。言葉だけではありません。神様御自身が見たい人は、どのような人でしょうか。一人として息子の愛を受け、一人として兄さんの愛を受け、一人として兄貴であるとか弟の愛をみな受け、一人として妻と夫の愛を神様が喜ばれ得る最高の理想的な場で根こそぎ受けるのです。それだけでなく、神様の愛の中で、息子、娘を愛する真なる父母となり、真なるおじさんとなり、真なるおじいさんとなり、真なる王になるのが願いだというのです。

 神様の立場から、皆さんをそのような観点から見るとき、どれほど差があるでしょうか。それは皆さんがよく知っていると思います。自分はどの級にいるかということをよく知っていると思います。ですから、「平和をつくり出す人は神の子である」という言葉を私たちに教えてくれたのです。

 なぜ平和をつくり出す人は神の子だとおっしゃったのでしょうか。平和をつくり出そうとすれば、主人以上の役を果たさなければなりません。十人の複雑なことを和解させようとすれば、十人以上の十字架を負わなくては、和解させることはできないのです。そうなるのです。どういうことかというと、十字架を代わりに負うことのできる立場に立ったかということです。それに従って、和解が生まれるのです。そのように行く道でのみ、神の子が生まれるということなのです。

 ここで語っている人は、習慣的な道を行く人ではありません。今までこの原理が提示し、原則が提示する、そのような立場で先頭に立ち、走ってきた人なのです。私は公席で、「神様が文先生を愛さなければ、神様がいらっしゃらない」ということを断言し、この道を歩んでいるのです。そのような道を今まで開拓してきた人なのです。

 皆さんを愛するにおいて、この道理をどのように経ていくのでしょうか。神様の前に私が愛を受けようといって、神様の愛を受けるのは、愛ではありません。自分が願わなくても、神様が愛さざるを得ない立場で愛を受けることのできるその道をどのように求めていくのでしょうか。愛を受けようと、自分が何かになろうという人は駄目です。絶対に駄目なのです。

 「生きんとする者は死に、死なんとする者は生きん」と言いました。もてなしを受けようとする者は駄目なのです。すなわち、もてなそうとする者は、もてなしを受けるようになるのです。反対なのです。

◆新郎新婦となり、真なる父母になるのがイエス様の願い


 神様が見たい人は本性的な路程を中心として尋ね求めていかなければなりません。神様が愛することのできる最初の男性、神様が愛することのできる最初の女性、この二人が出会うことができれば、ここから初めて神様が「ああ、この地上に今から希望をおくことができる」とおっしゃるというのです。

 神様の摂理のみ旨は、堕落したアダムとエバよりましな男性と女性を願い進んできたのです。それが再臨思想を中心として、メシヤが来て、新郎新婦として出会うのです。それが黙示録で言う小羊の婚宴です。

 小羊の婚宴をして、何をするのでしょうか。父母になるのです。イエス様の願いとは何でしょうか。新郎新婦になることだけが願いではありません。新郎新婦になって、真なる父母になるのです。それがイエス様の願いです。

 男性として生まれれば、男性の欲望が何かというのです。男性として生まれ、そのまま死ぬのが欲望ですか。天下を振動させ、そこで一人の主体としての男性となって、天下が見下ろす中で、一人の新婦に出会い、すてきなウエディング・マーチを響かせたいのが男性の欲望なのです。大学に行くのも、出世をするのも、すべてそこに帰結するのです。ほかのものはないのです。

 ではイエス様の欲望とは何でしょうか。天下を救うことです。天下を救えばどうなるのですか。
 一人で救って死ねば、それはかわいそうな王になるのです。天下をすべて自分の手の中に入れたとしても、「ああ!
 天下が全部自分の手の中に入ったので私は幸福だ」とは言えないのです。一人でそのようになったなら、「何が幸福か、お前が死ねば終わりなのに」と言うのです。天下を統一したとしても、そのそばに妻がいてこそ、多くの人々が彼を見て、「ああ、幸福な聖君よ」と言うのです。そうでなければ、いくら継続してうまくやるといっても、幸福な聖君ではありません。かわいそうな聖君です。それゆえ、イエス様は堂々と結婚しなければなりません。

 それが文先生の願いです。それは間違いないでしょう? 「イエス様、あなたの願いは何ですか?」「私は新郎になりたい」、「その次には何ですか?」「その次にもそれです。それで終わりです」。そうですか。それで終わりではないのです。

 新郎新婦になって何をするのでしょうか。イエス様も男性なので、息子、娘をもちたいでしょうか、もちたくないでしょうか。聖人の先祖なら、男性として生まれたなら、息子、娘をもちたいでしょうか、もちたくないでしょうか。神様も息子、娘をもちたく思われるのに、神様の息子であるイエス様が息子、娘をもちたくないかというのです。それは生理的な欲望なのです。

 ですから、何をしようというのですか。真なる父母、それから真なるおじさんになりたいし、その次には、おじいさんになりたいというのです。それで終わるのではありません。その次には王です。ですから、イエス様は万王の王だといったのです。万王の王には一日ではなれません。それは一人の新婦に出会うところから、家庭を求めるところから、形成され始めるのです。

 では、神様の理想世界にはどのような人々が入って暮らせるのでしょうか。生まれながらに神様の愛を受ける一〇〇パーセント善の息子であり、生まれながらに完全な原則に合格したそのような兄さんであり、あるいは弟妹であり、それから神様の愛に合格した夫であり、お父さんであり、おじさんであり、おじいさんであり、王として登場する人です。そうしてこそ、そのような人が王につくのです。そのような人々であってこそ、王の位置につくのです。

 これを見れば、イエス様はみ旨を成せなかったというのです。それゆえ、皆さんはイエス様より駄目では、天国に行けないのです。イエス様より、勝らなければなりません。その勝り得る方法を教えてあげようというのです。

◆一生の間悔い改めても、足らない歴史的な罪人であることを悟るべし


 皆さんに罪があるなら、何が罪でしょうか。神様の息子になれなかったことが罪です。神様の娘になれなかったことが罪です。私たちは罪人です。誰もが罪人です。それを知らなければなりません。神様が願う兄さんになれず、兄弟になれなかったのが罪です。

 その次には、何が罪でしょうか。神様が願う新郎新婦になれなかったことが罪です。ここには結婚して息子、娘を生んで生活する人々がたくさんいますが、神様が願う新郎新婦にはなれなかったのです。それが罪です。神様が願われるおじさんになれず、神様が願うおじいさんになれず、神様が願う王の道理を守れなかったことが罪です。ですから、どれほどの罪人かをよく知らなければなりません。

 本来、誰彼を問わず、天上王国世界において、皇太子として生まれることのできる権威をもったことが人間の特権です。それが人間の価値です。王女の権威をもって生まれるのが、本来の人間の権威でした。ところが、その権威が失墜したので、父母の前に不孝な人はその権威を喪失したのと同様に、喪失した比例に従って、不孝の烙印が押されるのです。ですから、私たちが神様の前にどれほど不孝をし、どれほど不忠をし、どれほど許されない罪人かということを、皆さんは知らなければなりません。

 このような観点から見るとき、皆さんがいつ本当に神様の愛を受ける息子になるために、娘になるために、生命を懸けて一度努力をしてみたでしょうか。何もないのです。これを見るときに、残るのは悔い改めしかないのです。悔い改めなければなりません。

 兄弟同士いるのに、自分を中心としてどうこう言う者は罪人です。罪人がほかにいるのではありません。本然の男性の行く道、あるいは本然の女性の行く道と、神様が願う善のみ旨を中心として見るとき、そこに不合格な各段階、分野に置かれたそれ自体が罪だということを、認識しなければなりません。

 女性としての行くべき道を女性が失ったので、天上天下に許されない罪人だということを自覚しなければなりません。それゆえ、その罪を許されるためには、夜も昼も、十年の歳月を経ても駄目なら、三十年の歳月をかけて悔い改めるという気持ちをもたなければならないというのです。なぜでしょうか。三時代を経てくるからです。蘇生、長成、完成を反対に上がらなければならないので、三時代以上、苦労の道を行かなければならないのです。

◆歴史的な罪を許されるただ一つの道


 この堕落世界においては、自分一人だけ動くようにはなっていません。堕落したアダムは男性を代表するので、アダム一人が堕落しましたが、その一人が堕落することによって、個人だけでなく、家庭、氏族、国家、世界まですべて引っ掛かったのです。そうして世界人類になったのです。これを復帰するためには、世界に打ち勝ち、国家に打ち勝ち、民族に打ち勝ち、それから氏族に打ち勝ち、家庭に打ち勝ち、個人に打ち勝たなければならないのです。そうでなくては、復帰ができないのです。これがとてつもない課業です。

 それゆえ、今まで天国に行った人はいませんでした。全部、楽園に行っているので、再度烙印を押して天国に行かなければなりません。そうするためには、天上法を皆さんが知らなければならないのです。個人から家庭にどのように進み、家庭から氏族にどのように進み、氏族から民族にどのように進み、民族から国家にどのように進み、国家から世界にどのように進むかを知らなければなりません。

 このように進むだけでなく、世界から再び戻ってこなければ、救えないのです。自分だけ救われては、天国に入れません。自分が救われなければならず、人を救ってあげてこそ、天国に入ることができます。

 自分が救われたのは、神様の協助を受けたからです。ですから、神様の代役者になって、救ってあげなければなりません。そのように救ってあげることによって、神様の信任を受けるようになれば、神様が愛する人として、初めて息子の資格を取得し始めるのです。そこで初めて希望的な兄弟の道、希望的な新郎新婦の道、希望的な父母の道、希望的な親戚の道、希望的な王の道が生まれるようになるのです。このようなとてつもない過程に立っているのが、今日の人間だというのです。

 もし、皆さんがこれを現実で問題視せず、これを打破するために地上で精誠を捧げず、努力しなければ、その道を永遠に行くことができないのです。永遠に行けないのです。

 では、この地上に来られるメシヤというお方はどのような存在なのでしょうか。メシヤは息子として神様の愛を受けることのできる代表者です。メシヤは息子の中の王であり、兄さんの中の王であり、夫の中の王であり、おじさんの中の王であり、お父さんの中の王であり、おじいさんの中の王であり、王の中の王です。そのような歴史の記録をもってこられるお方です。王がいく種類になりますか。 息子としての王、兄さんとしての王、夫としての王、お父さんとしての王、おじさんとしての王、おじいさんとしての王、王としての王、七つの王です。そのような君王、歴史始まって以来、空前絶後の神様の特権をもってこられるお方です。

 そのようなお方を誰が捕まえて殺したのかというと、堕落した人間たちが捕まえて殺しました。そうでなくても、許されない罪人であるにもかかわらず、ここに加えて、メシヤを捕まえて殺しました。ですから、これを自覚しなくては帰る道がありません。メシヤがそのようなお方なので、メシヤを殺した罪を悔い改めなくては、天国に行けません。神様の立場から見れば、私たち人類を代表して死んだのです。また、ローマはサタンの国を代表して殺したのです。このようなとてつもない罪を犯した人間なので、悔い改めなくては救いの道を行くことができないということを、皆さんは知らなければなりません。

 イエス様はどのようなお方として来られたのでしょうか。真正な息子として来たし、兄さんとして、夫として、それから真正なお父さんとして、真正なおじさんとして、真正なおじいさんとして、真正な王として来られたお方であるにもかかわらず、このお方を捕まえて殺したのです。一人だけ殺しても許されないのに、歴史始まって以来、全体を総合した大王の権威をもって来られたそのお方を殺した罪は、何で許しを受けるのでしょうか。許すすべがないというのです。

 それゆえ、許しを受けられるたった一つの道は、死を覚悟してイエス様のために生命を捧げ、祭物になることです。その道以外には、許される道がありません。結論がそれです。ですから、「生きんとする者は死に、死なんとする者は生きん」と言うのです。


◆歴史的な罪を悔い改める道を教えてあげるために現れた統一教会


 皆さん、世の中では自分のお母さんやお父さんを殺せば、許されない罪人です。ところが、このお方は真なるお方です。真なる息子であり、真なる兄さんであり、真なる夫であり、真なるお父さんであり、真なるおじさんであり、真なるおじいさんであり、真なる君王として来た、歴史始まって以来たったお一人しかいないお方です。人類はそのお方を殺したサタンの元凶たちなのです。そのような罪人がどこに行って、頭を上げ、じたばたしながら、自分の主張をしたりするのですか。

 統一教会は、何をするためにこの世に現れたのでしょうか。この罪を悔い改めることのできる道を教えてあげようとして現れたのです。そうするためには、どのような自覚をもたなければならないでしょうか。信仰で救いを得るそのような内容よりも、どのような自覚をもたなければならないでしょうか。悪なる世界を代表した自覚をもたなければなりません。数多くの王を代表した自覚、数多くの夫を代表した自覚、数多くの息子を代表した自覚、そうして、イエス様の前で堂々と自分を主張するのではなく、イエス様に対して生命を捧げようという自覚をもたなければなりません。

 そのような立場で死んでいきながらも、イエス様を愛し、人類を愛し、逝こうとするなら、イエス様の前にあって相対的刺激になって、救いの道を訪ねていけるというのです。

 ですから、世界を代表した自覚をもたなければなりません。男性も世界を代表した自覚をもたなければならず、女性も世界を代表した自覚をもたなければなりません。歴史的な勝利の祭物にならなければならないという自覚、時代的な勝利の主体にならなければならないという自覚をしなければならないというのです。メシヤを殺したので、自覚しなければならないそのような立場で、殺したそのお方の前で、自分が死んで蕩減し、そのお方の哀れみが自分に及ぶことによって、彼と共に復活の栄光に参与しようという心をもたなければなりません。そうでなくては、天国に入ることができないというのが原則なのです。

 それゆえ、先生が行く道はそれを標準として行く道なのです。眠るにおいて、歴史始まって以来一番眠らなかった男になろうというのです。苦労をするにおいても、一番たくさん苦労する人になろうというのです。ですから、私はしなかったことがないのです。人間がすることで、できないことがないのです。今までこの復帰の途上において、誰よりも深刻な立場で苦労の道を経て、民族が反対し、世界の人が反対する場で、それを堂々とかき分け、今日のこの勝利的基盤を築いてきたのです。

◆真なる人になるために、一番下から犠牲奉仕せよ


 皆さんは互いが犠牲奉仕し、自分が及ぼすことのできる影響がどのように現れるかを中心として、行かなければなりません。そのような道を行かなければならないということを、皆さんは知らなければなりません。そして、真なる人と罪ということを、いつも考えなければなりません。

 自分の子供を指導するとき、「お前、立派な人になりなさい」と教えるだけでなく、「立派な人になるためには、これこれこのような道を経なければならない」と教えてあげなければならないのです。お父さんならお父さんとしての責任を果たし、兄なら兄としての責任を果たし、姉なら姉としての責任を果たすのです。言い換えれば、真なる男性、真なる女性の道を行くことができる、真なる兄さん、真なる兄弟、真なる夫婦、真なる親族の因縁をわきまえて行くことができなければなりません。そして、そのような法度に外れない皆さんになってこそ、順理的な路程を経て、一国の民となることのできる道が生まれることでしょう。

 忠臣は自分の子供を後回しにして、その国の民を育てるのです。それをすることができなければならないのです。また、私たちは和合し、統一しなければなりません。そうすることによって、一国を形成しなければなりません。また、私たちは天の国を見つめて行くので、(相手は)東側に入るというが、自分は西側にいるから、東側と関係ないといっては駄目です。天の国は東西で回っています。立体的に回るのです。それゆえ、彼が私であり、私が彼になり得る、このような理想的な世界に向かっていくので、互いがなくてはならないのです。

 ですから、ただ人知れないうちに、静かな所に訪ね入り、瞑想をしながら、神様と相談したいし、解決したいのです。人間だけでは駄目なので、神様と共に一勝負し、かえって自然を慕い、かえって天を慕いながら、長年本然の人間を慕いながら行く道が、信仰の道ではないかというのです。

















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訓教経(下)026



文鮮明先生のみ言集

訓教経(下)



み旨の完成と私たちの使命


一九七四年十二月三十一日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第七十四巻』


 きょう、皆さんにお話ししたいことは「み旨の完成と私たちの使命」という題目のみ言です。

◆神様の救援摂理


 人が行く道には、個人の行く道があると同時に、個人を連結して家庭の行く道があり、また氏族の行く道があって、民族の行く道があり、それから国家の行く道があり、一つの世界が行かなければならない道があるのです。さらには、今日この肉身をもった私たち人間世界だけでなく、この肉身以外の世界、天上世界あるいは霊界という霊の世界にも行かなければならない道があるのです。

 本来人間が行く道を、みな行くことができなかったがゆえに、私たちは世界と共に、私たち統一教会の用語で「天宙」という名詞をもった霊界と肉界が一つになって越えていかなければならない、そして神様に戻らなければならない道を残しているのです。

 このような道を一段階一段階、漸進的過程で上昇するためには、必ずある原則をたどらなければなりません。人間として果たさなければならない責任、すなわち個人として果たさなければならない責任、家庭として果たさなければならない責任、氏族、民族、国家、世界、さらには霊界まで合わせて果たさなければならない責任的過程を、ここで解決しなくては越えていくことができないと見るのが、今日の人類歴史の路程なのです。

 このような漸進的段階の路程を知らない人間だったがゆえに、この人間を悟らせる宗教歴史を通した摂理のみ旨も延長されたのです。このような段階的に清算しなければならない問題が残っているために、この長い間の歴史を神様も完遂することができずに延長してきたのです。この段階的なすべての解決点を、神様御自身がすれば問題は簡単です。

 しかし、本来堕落というものは、神様が責任を負った立場で行われたことではなく、人間の責任下で行われたことであるために、神様は責任を負うことはできないのです。その国の国民が間違ったことを、大統領が直接責任を負えないのと同じです。自分が犯した罪は、自分が清算する条件をもたなければなりません。

 同じように、人類の先祖が堕落することによって、神様の前に罪を犯したのですが、それは神様が清算してあげられないものです。したがって人間自身がその罪を清算できる道を敷かなければならないのですが、その道を敷く中で責任を完遂し、人間の罪を清算しようとすることが、宗教を通した神様の救援摂理なのです。

 人類の先祖が堕落したその日から、私たち人間の世界は、神様のみ旨が成された世界ではなく、神様のみ旨が成されていない悲しい世界、堕落した世界になったのです。すなわち、故障した世界になってしまい、医者が必要になり、修理する責任者を必要とするようになったというのです。したがって、また調整を受けなければならない運命の道を行くべき立場にあるということが、今日私たち人間世界の悲しみなのです。この悲しみをもたらした張本人は、神様の怨 讐であるサタンだと、今日の宗教は主張しています。

 一般の人々は分かりませんが、祈祷をするとか、あるいは神秘の世界に入っていくようになれば、霊的存在があるということを確信できるようになります。これは否定できない、極めて体験しやすい事実です。

 サタンによって堕落がもたらされ、罪をもつようになりました。人間はそこに拘束を受けているために、この拘束を解かずには神様に戻れないのです。これはどんぶり勘定式にするのではありません。例えば、ひもを右に十回縛ったならば、解くためには左に十回解くべきだというのです。解かなければ戻ることはできないのです。

 このような曲折が人間世界に残っているために、人間はまだ神様に対してはっきりと知ることができず、人間とは何かをはっきりと知ることができないのです。はっきりと分からない人間によってつづられた歴史がどこに行くのか、いまだ未解明の過程にとどまっているのです。

◆神様の人間救援の責任


 それゆえに、現世に至ってどのような面においても、世界の人では今後中心的ないかなる理想的形態をも備えることはできない、という結論を下すことができるのです。このような時代に、私たちの願う道があると、跳躍をするか飛躍をしなければならないという話を多くしているのです。

 跳躍をして飛躍をするには、確実で正確な目的を中心として、そのような方向に従った飛躍と跳躍をしなければなりません。目的観が設定されず、方向が決定されずに飛躍したところで、また跳躍したところで、どこに行くのかという問題になるのです。

 このような実情を見る時、どのようにしてこのようになったのでしょうか。これは人間が病気になれば、病気になった所を治して行かなければならないのに、道を誤って行ったためです。病気になったのにその病気を治せない立場に立つことによって、死ぬほかない暗澹たる世界へ進んでいく立場になったのです。これは個人の立場でも世界の立場でも同じです。

 このような観点から、「人間の救いに誰が責任をもつことができるのか」という問題を考えるならば、人間は責任を負うことができないというのです。病気になった人が、自らの病気に責任をもつことはできません。ここには必ず医者を必要とするのです。このような観点から見る時に、人間救援摂理のすべての道を敷くことも、神様以外にはできないというのです。怨 讐がつかんでいるものを解くためには、その怨讐よりすべての面で勝り、すべての面を備えたお方でなければならないのであり、そのようなお方は神様しかいないので、神様だけが救援摂理をすることができるという結論が出てくるのです。

 それでは、今までの全体歴史について見るとき、いつ神様のみ旨がなされたでしょうか。なされなかったというのです。個人完成し、この歴史時代の人類全体を支配していたサタンに敵対して血戦を行って勝利し、神様から「やあ、真なる勝利をなした」と公認を受けた人がいるかというと、いなかったのです。

 個人がそのような公認を受けた歴史がなく、家庭がそのような公認を受けた歴史がなかったというのです。また歴史的にそのような公認を受けた氏族がなく、民族、国家、世界がまだそのような公認を受けられないでいます。皆さんは、「ヤコブがイスラエルという名前を受けたではないか」と言うかもしれませんが、それは選民圏なのです。

 歴史的限界を中心として、神様のみ旨の中にあってその時の時代、僕の時代の基準を中心としては勝利しましたが、養子の時代とか息子の時代、父母の時代圏を中心としては勝利できていないのです。それゆえにイスラエル選民は、縦的基盤を拡大するための摂理を続けてきたということを、私たちは知らなければなりません。

 このように見る時、誰が勝利するのでしょうか。ある哲人が勝利するのでもなく、ある偉人や英雄が出てきてもできないのです。それは力でもできないのであり、知識でもできないのであり、またお金でもできないのです。権力や知識やお金ではできないというのです。

 もし、できる道があるならば、どこから来るのでしょうか。人としては不可能です。既に故障した私たちでは不可能であるために、その根本であり、あらゆる力の源泉である、すべての全体生命の源泉である、サタンよりもっと強い主体がいるならば、そのお方から可能だということを私たちはここで追求せざるを得ないです。そのようなお方が、神様だというのです。神様によってのみそれが可能だというのです。

 ですから、堕落した私たちが神様に戻らなければならないのです。人間へ帰ることでなく、神様に戻らなければなりません。神様に戻ろうとするなら、どのようにしなければならないのでしょうか。すべてをもって、そのまま戻ろうとしてはならないというのです。清算して戻らなければなりません。私が結んでいる権力や、私が結んでいる金力や、私が結んでいる知識は、すべて人為的な関係で成立したものであって、天意的関係で連結したものではないのです。

 それゆえ、ここでどのような公式が出てくるかというと、堕落した結果を否定しなければならないということです。「否定しなくては絶対に清算できない。清算しようとするなら、まず否定的な立場を取りなさい」ということが、宗教で主張せざるを得ない内容として登場すると見るのです。否定すべきだというのです。自分の権力を否定して、自分の知識を否定して、自らのすべての金力を否定しなさいというのです。

 ここで、完全な宗教が完全にもとがえすためには、完全否定から始めなければならないという結論が出てくるようになるのです。それで高等な宗教であるほど、現実を克服する問題を強要するのです。このように環境の克服問題を強調することが、本然の天意に応じ、天意に対し一つの方向を取っていくのに不可避な条件として残っているためだ、ということを私たちはここで分かるのです。

◆歴史的主流宗教


 このように見る時に、長い間の歴史時代に数多くの宗教がありましたが、その宗教の中に、ある一人が立っていれば、東西南北、四方があっても正面から眺めることができるのは一方向だけであるのと同様に、三六〇度方向に数多くの宗教がありますが、その数多くの宗教がすべて中心になるのでなく、正面を通して永生を望むことのできる一つの宗教だけが神様と直通する基盤を敷いてくるのです。それゆえ、宗教の中にも主流宗教があるべきだ、という結論が出てくるのです。

 では、その主流は、どのようにならなければならないのでしょうか。神様のみ旨の前に一致し得る方向を備えなければならないので、神様が要求するそのみ旨と完全に一つにならなければなりません。み旨の完成は、どこから出てくるのでしょうか。神様のみ旨と完全に一つになるところから出てくるのです。誰が一つにならなければならないのでしょうか。人が一つにならなければなりません。では、神様が一つなるようにしてくれるのでしょうか。そうではありません。そのようにできる環境と道はすべてつくってくれますが、行くのは私が行かなければならないのではありませんか。それで「信仰の道」という言葉が出てくるのです。また、「宗教の道」というのが出てくるのです。

 その道は、お母さん、お父さんに見せて、「自分の代わりに行ってくれ」と言っても、お母さんが自分の代わりに行くことはできず、お父さんが自分の代わりに行くことはできない道です。各自が行かなければならないのです。万民が共通的な立場で、昔のおじいさんや今後の数千代の子孫を問わず、どこの誰もがその道を行かなければならないのですが、その道を短縮させるためには、昔の信仰の先祖が行った姿に従っていかなければならないという結論が出てきます。したがって、その道を行くにおいて中心的な方向へ行く宗教思潮がなければならないことを、ここで私たちは知ることができるのです。

 それでは、歴史時代において中心的な宗教とはどのような宗教でしょうか。人間堕落に起源をおいた宗教の中で、長い歴史をもちながら終わりの日に、永遠に向けて宗教を終結させることができ、未来の目的時代まで一貫した方向で続けていくことができる宗教があるならば、その宗教を私たちは歴史の主流宗教と認めることができるのです。

 では、そのような宗教は、まずどこから始まらなければならないのでしょうか。人間から始まったものは、そのような宗教になることができないのです。神様から始まらなければなりません。神様から始まるのですが、善と悪を混ぜてするのではなく、善悪を確実に分けて、善の道はこうで悪なる道はこうだということを、完全に分別していかなければならないのです。善悪を分別させ、宗教の方向性を分別していくことは不可避なことなのです。

 このような観点から見る時、歴史的な宗教の中で、どの宗教よりもキリスト教を中心とした思想が主流になったということは、創世記で知ることができるのです。

 創世記第一章によれば、神様が天地を創造したという、直接的な天地との関係をぴたっと結んで出発するのです。そして、人と神様の関係に対してまで結論づけたのですが、それが何かというと、「神様と人間とは父子の関係だ」というのです。これは驚くべき結論です。「神様と人間とは父子の関係だ」と結論づけたという事実は、偉大な発見です。

 では、人間はどのようにしなければならないのでしょうか。父母と共に行かなければならないというのです。死んでも父母と共に死ななければならないというのです。

 このようなことを考える時、今日私たちが神様をお父様とし、私たち人間が彼の息子というようになれば、ここで私たちは永遠なる神様の前に永遠なる息子になるのです。神様が永遠なる生命の主体であるために、私たちは永遠なる生命の主体の前に相対的な子女の位置に立つがゆえに、永生できるというのです。

 宗教を通して結局、何をしようというのですか。宗教を通して成功しようというならば、その成功の限界点とは何ですか。お金をもうけることでもなく、世界を征服することでもありません。愛を中心として一番近い位置に行こうというのです。その愛は、人間の愛ではありません。神様を中心として一番近い位置に行こうするその結論点とは何でしょうか。神様と人間が一番近い道、その道は夫婦関係でもありません。兄弟関係でもありません。父子の関係なのです。

◆天国に行こうとするなら


 子女の位置に行かなければならないのですが、どのようにして行かなければならないのでしょうか。その方法を知らない時は、「しゃにむに信じて行く」と、このようになるのです。しかし、「しゃにむに信じて行けばよい。しゃにむに行えばよい」ということが通じる時代は、既に過ぎました。旧約時代、新約時代には、それが通じましたが、今の時代は通じないというのです。しゃにむに信じる宗教、しゃにむに行わなければならないという宗教は、今後自分の位置をつかめずに、定着できなくなるのです。

 宗教が天の前に出ていく場合には、神様が要求する、天の側が要求する提示条件を残さなければならないのです。また、もしサタンがあの北方で、神様が南方ならば、北方の人が南方に来ようというなら、そこをパスできる内容をもたなくてはなりません。北方で公認して、南方でも公認しなくてはなりません。

 それゆえ、「サタンの公認を受けて、神様の公認を受けなければならない」という結論が出てくるのです。「そのような法がどこにあるのか」と言うかもしれませんが、天国に行くためにはサタンの公認を受けなければなりません。サタンが放してくれなければなりません。そうしてこのようにサタンが放してくれたと、神様が主張できる内容をもたなければなりません。

 神様の前に行くにおいて絶対的なものは愛です。では、愛でどのように行くのですか。それは一度になるようになっていません。救援摂理の段階を見る時、落ちるにはどこまで落ちるのでしょうか。神様の息子になるべき人間が落ちて、どこまで落ちたのでしょうか。とても激しく落ちてしまったというのです。いくら愛する息子であっても、死ぬ位置に落ちるようになれば、それは考えただけでも気分が悪いのです。ところが、人間はどれほど落ちたでしょうか。死ぬほど落ちたというのです。神様が相対できないくらい落ちたというのです。

 落ちてどこへ行ったのでしょうか。僕に行きました。それでは、誰に引きずられて落ちたのでしょうか。サタンに引きずられて落ちたのです。サタンはどのような存在ですか。神様の前には僕です。そのような僕に引きずられましたが、その僕の愛を受ける息子の位置にも立つことができないのです。その僕と、彼らに引きずられた私たち人間は怨 讐なのです。

 それで、その僕たるサタンの前に、「僕の僕」と言われるようになったのです。僕の僕、怨讐である僕の、その僕のような扱いを受けたのが人間です。それゆえ、人生というのは悲惨であり、絶望の中をさまよいながら行くのです。

◆復帰の道


 では、その僕の僕からどこへ行かなければならないのでしょうか。そのまま行けば、永遠に僕で終わるので、逆に行かなければなりません。僕の僕の位置を捨てて主人になったサタンと対決し、道をふさいでいるのを討って整備し、乗り越えなければならないのです。僕の僕が行かなければならない道は、主人である僕に勝たなければならないのです。主人の僕に勝たなければ、行くことはできないのです。そうではないですか。僕に勝たないと、行くことができないというのです。

 それは、神様とサタンが、公法によって公開裁判をするのです。検事はサタンの側であり、弁護士は天の側です。この検事と弁護士が法的条項により戦うのです。それは国家ならば、国家に利益を与えるようになる時は「善の人だ」と言い、国家に損害を及ぼすようになる時は「悪なる人だ」と言うのと同じです。

 このような戦いが行われていることを、今日、私たち人の世では知らないし、その戦いが私たちの個人生活には影響がないようですが、霊的主体である神様とサタンが歴史を通じてそのような戦いを展開してきたのです。

 ですから、ここで人間が神様の法を中心として神様のところに行くことのできる条件を備えれば、サタンがある法を中心として、人間をその法にかけて「おい、あなたは解放してあげる」と言わざるを得ないのです。「解放してあげる。行きなさい」と、このように言うのです。また神様は「君がまた入ることを願うならば入ることができる」と言うのです。いくら寂しかった神様でも、その内容さえ備えて入っていくようになれば、間違いなく通過させるようになっています。これが原則です。

 これを統一教会では、いわゆる「原理」というのです。その原理というものは何かの化学や科学の原理ではありません。物理学の原理ではありません。これは、堕落した人間が本郷に行く道を帰っていくにおいて、復帰するための人生の原則です。堕落した世界が行かなければならない道だというのです。

 それでは、個人的にその僕に勝ったならば、その次には、どのような段階に上がるようになるのでしょうか。僕に勝ったがゆえにサタンが屈服するようになれば、それからどこへ行きますか。養子の段階に入っていきます。養子に上がります。逆に上がるのです。僕の名前をもってその主人の前に、いくら関係を結んでも息子の位置に行くことはできないのです。絶対にできません。ですから、息子の位置には行くことができなくても、息子を身代わりすることのできる位置にでも行こうとするので、養子という言葉が出てきたのです。聖書のローマ人への手紙第八章を見れば、「アバ、父よ」と呼んで、養子になることを願うという内容があります。そのように私たちの人生の道は、養子になることを願うのです。

 しかし、養子というものがいくら良くできたとしても、片目の不自由な実子ほどにもなれないのです。それが理解できますか。ある億万長者のおじいさんが、すべての財産を相続させなければならないのですが、息子がいなくて養子に相続をするようになりました。その養子は優秀で、その国で一番優れた人物で、内外共にすべて備えていたとしても、その養子を見つめる老人の気持ちはどうでしょうか。「片目が不自由であっても、息子がいたならば良い」と考えますか、考えませんか。考えない人は、父子の関係の分からない人です。父子関係の価値が分からない人だというのです。

 そのように見る時、天地を創造した神様は、養子をもらって宇宙を相続させたいと思うでしょうか。私たち人間でも「それは仕方なくそうするのであって!」と、このように言うのです。私たち人間がそうならば、神様はどうでしょうか。「神様、宇宙で一番優れた、すべての面において人間としては歴史上最高に優秀な人がいるのですが、彼を養子として宇宙を相続させてください!」と言うと、神様は「そうか、それは良い知らせだ」と言いますか。

 このように見る時に、神様が宗教を通じて探す人、神様の真の息子を送りたいことでしょう。これは自然な考えです。それゆえ、養子的宗教時代から直系的子女時代に、その相続を受けることができる、あるいは因縁を連結させることができる道がなければなりません。

 では、僕が養子の位置に行こうとするなら、どのようにしなければならないのでしょうか。神様は世界的なお方であるために、歴史的なお方であるために、絶対的な唯一のお方であるために、そのお方の前に養子として入っていくことのできる人は、善のために生きた歴史的な代表にならなければなりません。そのような人でなければ、神様は選ぶことができないのです。

 アブラハムのような人は、自分の息子まで祭物として捧げながらも神様についていきました。それゆえに信仰の先祖になることができたのです。祝福は、そこでなされるのです。祝福は、そこから出てくるのです。ですから世界的でなければなりません。世界的な人にならなければなりません。

 「私が近所でこれくらいするので、私を立てて世界を救ってください!」と言ったとしても、彼を通じて世界を救うことができますか。世界的な中心存在になるためには世界的な基盤を築き、そこで勝利する過程をたどらなければなりません。そうする時、彼は世界的な代表、世界的な中心者になることができるのです。

 神様も同じです。僕の中から世界的な存在、神様のために生きるにおいて歴史を代表し、時代を代表できる最高の先端に上がったただ一つの存在がなくては、真の僕から養子へ連結できません。これを知らなければなりません。また、養子から直系の息子の段階に入っていくには、どうならなければならないのでしょうか。これも世界的でなければなりません。

◆メシヤ思想


 今から神様の息子がこの地上に来るといって、その時「おいおい、世界的個人基盤を築け。世界的家庭基盤を築け。世界的民族基盤を築け。世界的国家基盤を築け」と言っていては、既に遅いのです。

 それで天は、世界救道の道を広めることよって、特定の民族を用いて僕の立場から世界で一番優れた僕の群れへと、特別に訓練させるのです。数多くの民族がいますが、その中で一つの民族を選び、世界で一番優れた民族として訓練させなければなりません。それは、僕の僕の段階から僕の段階、養子の段階を経て息子の段階にまで至るためには不可避なのです。

 そのような特殊な民族がいなければならないのですが、歴史時代にそのような民族がいたでしょうか。このような観点から「宗教」という名詞をおいて見るときに、選民思想があったという事実は驚くべきことです。歴史時代にそのような人がいて、そのような民族を代表してイスラエル民族がいたという事実は、驚くべき事実です。イスラエル民族は、神様の経綸の中でかなめとされた特定の民族だということを、このような観点から私たちは認めざるを得ないのです。そのような民族がイスラエル民族なのです。

 このようなイスラエル民族を立てて、数千年歴史時代をたどりながら屈辱と試練を克服し、失望と絶望に当面しながらもそれを越えたのです。波がすてきなのは、上がった波が大きいといって、その大きいのがすてきなのではありません。また、上がったその波がぐっと下りていったとして、そこで終わるのではありません。上がって、ぐっと下りていって、下りていって、またぐっと上がるということがすてきなのです。

 歴史も同じです。そのように屈曲の多い歴史時代を経なければなりません。そのような悲惨な歴史過程において、神様が愛する民族は、どのような民族も遭わなかった悲惨な民族史の背景を残さなければなりません。いかなる受難の道でも後退する弱者の群れでなく、前進して克服していく群れなのです。次元の高い所に向かって、倒れればまた起きて前進し、死ぬ日には、あすの後継者の前に遺言として前進を命令できる民族にならなければなりません。

 それが何かというと、特殊な民族です。イスラエル国がそうではないですか。皆さん、第二次大戦の時、ヒトラーが六百万を超えるイスラエル人を殺害しました。ところがその民族は、現在痕跡がなくなったり、減ったのではありません。荒波に乗って入っていき落ちたのですが、生き残ったのです。滅亡、破綻の境地で消えていくそのような滅亡の与件を退け、希望の独立した主権国家としてこの土地に現れ、近世二十世紀文明の後半期において、世界的な注目の対象国家になったのがイスラエル民族です。

 その民族が行く道には、試練が多かったのです。包囲されたそのアラブ国家の包囲網を切り開いていかなければならないのです。ここで後退するようになれば、歴史的に過ぎたすべての波が消えてしまうのです、ここでより一層波を高めて前進し、世界を巻き込む一つの道があれば、その民族は世界に自慢することのできる民族になるはずです。

 そのような余力とそのような未来観をもった思想があるのかという時に、それがメシヤ思想だというのです。一番偉大なことは、それです。いくら山中に入って暮らし、いくら谷底に入っていったとしても、そこでメシヤに出会う日には飛躍するというのです。

 では、メシヤとはどのようなお方でしょうか。目的観を確実に提示するために来られるお方であり、確実な方向をもって来られるお方です。それゆえに彼と共に立って、その目的に向かうようになる時は、一時にその目的を成し遂げられる人になるのであり、一時にその方向と一致することのできる民族になるのです。そのような民族は、今後、歴史的転換期において偉大な中心的使命を果たすことができると見るのです。これがメシヤ思想です。ユダヤ人がもつメシヤ思想だというのです。

◆メシヤの位置


 では、四千年前に約束したメシヤがイスラエル民族に送られましたが、そのメシヤとして来られたお方はどのような存在かということを、皆さんは知らなければなりません。メシヤとして来られたお方はどのような存在でしょうか。まず神様のみ旨の中で個人完成の標準を探し立てなければなりません。それは一代だけではないのです。過去、現在、未来を通じて立てるようになるのです。

 それゆえ、神様が手を挙げて、「おお、人類歴史上において人間としてサタンを個人的に身動きできないように、一から百まで一〇〇パーセント屈服させた代表者である」と言うことができる者はメシヤ以外にはあり得ません。

 それは、どういう問題圏に入っていかなければならないのでしょうか。心情問題圏に入っていかなければなりません。言葉または法では駄目なのです。心情問題に入っていかなければなりません。ですから、そうすることのできる人が来なければならないというのです。

 そのような個人的にみ旨を完成したモデルがいなければなりません。そのモデルは一時的なモデルではありません。三十三年間いて、逝きましたが、一時的モデルではなく永遠のモデルであり、堕落した人類が完全にみな完成して、そのモデル型を備えて、帰る時まで残るべき使命をもったモデルです。そのようなモデルが現れなければなりません。

 そのようなモデル的個人の使命を果たして、神様が「そうだ」と公認できなければなりません。内的、外的なすべての具備条件を備え、判断できる権限をもって来られるお方が誰かというと、救世主です。そのお方は法に引っ掛かったものを解放しなければならず、サタンの法で支配する王を身動きできないように屈服させることができなければなりません。

 そうするためには、国際法だとか、今は国際法も国家を制御できませんが、より大きな公義の法度によって完備された、解決点を提示できる法がなければなりません。そのようになる時は、低い分野の法的条件を超越できるので、そこで解放が起こるのです。世の中と同じなのです。歴史時代を代表して神様のみ旨の個人的完成完結を見て、来られたお方がメシヤです。

 ではメシヤという立場は、どのような立場でしょうか。神様のみ旨を完成すべき立場から見るとき、今までの六千年歴史時代を通して見ても、中心存在がなかったというのです。尺度がなかったのです。メートルなら、そのメートルの原器は一つしかないのです。千万個のメートル計器があっても、それが合うか合わないか、どこかに行って大体合わせてみて、合わないときには、いくら大きいもので作っても、捨てるのです。

 それは、なぜそうでしょうか。万民公義によってこの世代の前に、公法規定の上に立っているからです。人々は互いに自分がいい立場に立とうとするので、法がなければならないのです。それを無視する人は、今日、この組織社会で否定されるのです。

 その次にすべきこととは何でしょうか。神様は家庭的モデルをもつことができませんでした。神様は欲が深いお方です。人は誰に似ましたか。人をよく見ると、結果的存在なので、原因に似たというのです。いくら考えても、自分が原因となる存在ではないからです。原因と結果は相応するものなので、ここでは相応点を取り、対象的帰一点を追求しなければならないのが、相対的関係においての原則です。

 ですから、私がこのようになったのは、その原因の前にそのように一つになるためになったのだという話です。神様がそうなので、私がそうだというのです。私が欲張りであれば、神様も一番の欲張りだというのです。人間は反法度的な欲張りですが、神様は法度的な欲張りなのです。それが違います。

 ですから、私たちもその道理に従えば、欲の目的を達成できます。神様がその目的をみな成し遂げるとしても、私は神様の法度に従いさえすれば、神様の立場、天の国の最上にでも行くことができるというのです。

 では皆さんは、個人的完成を完了したモデル型のメシヤに出会いたいですか、家庭的すべてのことを完結した人類の過去、現在の家庭的モデル型の責任を負ったメシヤに出会いたいですか。それは尋ねてみるまでもないでしょう。尋ねる必要がどこにありますか。それは小学校の子供たち、幼稚園の子供たちに尋ねてみても、みな満点を取るはずですが、同じなのです。

 では、その次の段階はどうですか。家庭を完結することのできるメシヤを迎えたいですか、氏族を完結し、天意を完成させることのできる責任を負ったメシヤを迎えたいですか、国家を中心として数多くの国家のモデル型として完成し、世界に入っていくことのできるメシヤ的責任を負ったお方を迎えたいですか。それも尋ねる必要はないでしょう。欲が深いから! みんなそうです。一番最後には何かというと、天宙までです。

 このような観点からこの宇宙を見つめ、神様の摂理観を見つめるとき、イエス様はどのような男でしょうか。このような深刻な問題について、昼夜の別なく悩んだ代表者です。これは想像して語る話ではありません。知らない人々はただ手探りして、捕まえたものがあれば「ああ、これは私のもの!」と言うというのです。それはもっといいというのです。イエス様は、世界史的な立場で最も深刻だった人です。

◆歴史的終末時代の到来


 皆さん、レスリングのようなものをたまに見るでしょう? レスリングのチャンピオンたちが戦うのを見ると、どれくらい熾烈ですか。普通の人々は見ただけでも、とても手に汗をかくのです。ところが、その人々が戦うにおいて、秘法は多くありません。相手より一つだけ多くもつのです。一つの秘法だけ多くもっていれば、打ち勝つのです。

 それゆえ、世界的に蹂 躙しているサタンを処断し、追放するためには、それ以上の知恵をもたなければなりません。この世界に対し自分が理想世界の完成を目標として前進するなら、私たちの怨 讐になる世界を率いるある代表が、自分の目前に現れるというのです。これは当然の結論です。死亡の力があったなら、その死亡の力が前に現れて四つに組み合うのです。このような世界が近づけば、歴史的終末時代なので、この上ない腐敗時代が来るのです。この上ない混乱時代が来るだろうというのです。なぜでしょうか。神様が歴史時代に語ることのできない秩序の時代、語ることのできない希望の時代をもたらそうとするなら、悪はその反対を行い、この環境を惑わそうとするというのです。

 それゆえ、終わりの日が近づけば近づくほど、あらゆるこの世的秩序に破綻が生じるのです。サタンは必ずそうすることでしょう。父母が子供を理解できず、息子が父母を理解できず、夫が妻を理解できず、妻が夫を理解できず、国の主権者がその民を理解できず、民がその主権者を理解できず、すべて二つに分かれるというのです。そのような時が来るというのです。これは私たちが、理論的に推理し、そのような世界の姿を座っていても考えることができるのです。

 そうして、自分を信じようとするので、これがどこに立たなければならないのか分かりますか。竜巻が吹き、洪水になって、うず巻きができたりするのを見るので、大変です。ですから、「私をちょっと救ってくれ! 私をちょっと救ってくれって!」と言うようになるのです。ですから大変なことになったのです。行こうとすると行くこともできず、死のうとすると死ぬこともできず、生きようとすると生きることもできない、そのような時代になるのです。

 そのようになった次には、どのようなことが起こるでしょうか。神様とサタンが怨讐なら、サタンは「神様、あなたが救おうという人々はあのざまです。あの格好をちょっと見なさい、みっともないですね! あなたの息子、娘にしようという本然の人間があれなので、みっともないですね!」と言うことでしょう。そうすれば、神様は気分がいいでしょうか。神様は胸が詰まるのです。そのような時になれば、メシヤが来ることのできる時になるのです。メシヤが来る可能性がある時代に移るというのです。

 いかなる主権思想もこの世界に向かって叫ぶことができず、いかなる宗教思想もこの世界に向かって叫ぶことができず、いかなる国民、いかなる個人、あるいはいかなる家庭的な倫理も世界に向かって叫ぶことのできない時代が来ます。そのような混乱した世界が来たなら、終わりの日が来たと思いなさいというのです。正に、その時が今です。

 問題はどこにあるのでしょうか。自分自体に中心を立てるしかありません。国の中心をほかの所で探す道はないのであり、世界の中心をほかの所で探す道はないのであり、社会の中心、団体の中心、家庭の中心をほかの所で探す道はないというのです。そのように語り、そのように探していき、絶望の巣窟に入ってしまったのです。

 それゆえ、今からどこで探さなければならないのでしょうか。世界を代表できることも私から、家庭を代表することも私から、国家を代表することも私からです。自らを探さなければなりません。その私は、今日の私ではありません。そうすることのできる代表的存在がいたでしょうか。自分がそのような人を渇望して探すことを望むこの時点で、そのような自分に代わることのできる一人の人がいるなら、その人は億千万金を与えても取り換えられないのです。この国とこの世界を与えても取り換えられないのです。「その人は私に絶対的に必要な人だ」という結論は、妥当な結論ではないかというのです。

 それゆえ、今日、世界で個人的中心をどこに行って探すのでしょうか。これが問題なのです。また、この世界万民が共通的に通じることができ、共通的に帰一できる、世界と民族の前に支援できる家庭的基底の中心点はどこでしょうか。青少年たちがわきまえるべき倫理の基点はどこにあるのでしょうか。国家民族が行くべき道を示す、永遠不滅の歴史を支配でき、一つの単一民族を形成することのできる伝統的中心思想とは何でしょうか。人間だけでは、いくら努力をしても駄目です。するとおりにみなやってみて絶望した私たちでは、希望をもつことができません。

 そのような絶対的な中心があるなら、その中心は個人を身代わりした絶対的中心であり、家庭を代身した絶対的中心であり、氏族、民族、国家を代表した絶対的中心であるに違いないのです。そのようなお方がいらっしゃるなら、そのお方を通してこそ可能なのです。そのお方を通してのみ、一つの道を模索することができるというのは当然の結論です。

 そのお方と関係を結ぶためには、どのようにすべきでしょうか。思想の道で探すことができるのではなく、宗教の道で探すしかないという結論が出てきます。宗教の中の真なる宗教で探さなければならないというのです。そうするためには、今日、人為的に自分が自分の中心を、どこで探すのでしょうか。今日、形成されたそれ自体では探すことはできません。堕落した自体を開発に開発を重ねて、深い本性の原則によって天理に順応できる、本然の自分の姿勢を発見する道しかないというのです。これを仏教では「座禅」だとか、「参禅」と言うのです。

 今の時は、国をつかんでももっと大きい傷を受けるようになり、思いがけない中心に流れていくのです。世界をつかんでももっと遠く遠くに行くというのです。どのような父母をつかんでももっと遠くに行くというのです。ですから、仕方なく自分を中心としてかがんで座って考えるしかない時になったというのです。そのような時が来たのです。

 自分を見いだすためには、どうしなければならないでしょうか。つかんでいては、四方で落ちそうになるので、仕方なく頭を下げて考えるしかないというのです。このような時になったということを知らなければならないのです。民族も頭を下げて考えなければならず、個人も頭を下げて考えなければならず、家庭も頭を下げて考えなければならず、世界も頭を下げて考えなければなりません。さらには、歴史があれば歴史も頭を下げて考えるべき時が来たというのです。私たち人間だけが頭を下げて考えるのではなく、神様も頭を下げて考えるのです。

◆み旨の完成


 では、その考えがどこに行く考えにならなければならないでしょうか。自分に行く考えをもつのではないのです。自分が考え、祈祷をするなら、自分を通じて世界に行き、天に帰る考えをもたなければならないのです。そうして、歴史的なあらゆる批判をみなしておいて、そこに頭を下げ、天に帰る一つの道を模索することができれば、そこから人間と神様との関係を中心とした新しい文化世界創造の起源が形成されるだろう、このように見るのです。それゆえ、私たちはこの点を中心として行こうというのです。自分自身が堕落性をもって生まれた後孫であるので、堕落の仮面をかぶっては駄目なので、捨てなさいというのです。

 ですから、このような高貴な価値の因縁を探すためには、いかなる迫害があっても、それを克服して来なさいというのです。今日の父母と家庭とすべての世界はサタン主管圏であるので、サタンはここに国の力を加重させ、氏族の力を加重させ、宗教の力を加重させて、サタン主管圏内のあらゆるものを総動員し、一つの中心を破綻するために総攻撃する立場に立つことでしょう。そのような立場で新しい道の摸索が可能だというのです。

 では、み旨の完成はどこでするのでしょうか。ある王宮で踊り、笛を吹き、酒を飲み、歌うところでみ旨の完成が行われるのではないのです。生きるか死ぬかというところでみ旨の完成が行われるのです。

 ですから、イエス様はこれを正確に眺めて「生きんとする者は死に、死なんとする者は生きん」と言いました。個人的に死なんとする者は個人的に生きるでしょうし、家庭を率い、死なんとする者は家庭的に生きるでしょうし、民族を率い、死のうとする人は民族的に生きるでしょうし、世界を率い、死のうとする人は世界的に生きるだろうというのです。

 それでイエス様が解き明かしたみ言と共に、キリスト教徒たちは個人的に死ぬ道を行き、家庭的に死ぬ道を行き、氏族的に死ぬ道を行き、民族的に死ぬ道を行き、全体が宗教的に死ぬ道を自発的に行きました。そのような道を歩いてきたのがキリスト教ではないかというのです。

 では、「死」という単語を使った目的は何でしょうか。生の意味を知るためです。では、生の価値は誰がよく知っていますか。生きようとする人は知りません。死ぬ窮地に入って、生死の岐路で天をつかんで生の価値を探ってみた人でなくては知らないのです。

 では、そのみ旨はどこから出発しなければならないのでしょうか。個人を探すところにおいても、いくら個人を探すといっても、私個人から始めるのではありません。天から出発しなければなりません。私個人の復帰も、家庭から、氏族、国家、世界、天に共に連結されて、しなければなりません。一つ一つ別々に離れて蕩減するのではなく、一時に一度に蕩減できる国家基盤、世界基盤があったなら、万民がその公法によって一時に解放され得る道があるはずですが、分かれて段階的に十年、二十年あるいは数百年このように越えれば、大変なことになります。

 このような総括的な中心の基準を段階的に越えることができると同時に、神様のみ旨の完成を代表してすることができ、サタンが屈服できる中心存在として送ろうというお方がメシヤです。このようなメシヤがいれば私は生命を差し出して行かなければならないし、天下を捨てても行かなければなりません。自分の生命が千個あるなら、それをみな捧げても彼に従わなければならないでしょう。

 彼が一つの国家基準を越えるようになれば、国家を越えたその基準によって世界国家が公式的に一度に越えることができるのです。そこで国家が勝利した基準を立て、その公式法度に入っていくようになるときは、氏族的な公式基準も無難に突破するようになるのであり、家庭的な公式基準も突破するようになるのであり、個人全体も公式基準を突破するようになるのです。その国の大統領だけ一つの法度をしっかりと越えるようになれば、その国は救われやすいというのです。

 一国の大統領がその国の政策をうまく立てれば、その国に発展があり、大統領一人が方向を正しく立てて、効果的な結果をその当代に生じるようにすれば、その国の有名な大統領になるのと同じです。

◆メシヤ降臨とイスラエル


 皆さんが頭を下げ、個人の中心を探しているとき、そこに家庭的基準になることのできる中心、あるいは氏族的中心と民族的中心と世界の中心と天宙の中心と神様の心臓部まで全部貫き、一度に解決できるそのようなお方が来られるなら、どれほどいいでしょうか。

 神様は全能であられるのに、それくらいの考えももたないのかというのです。そのようなお方を迎える日には、そのお方が一度巡回すれば、失った国も再び復帰することができるのです、失った世界も再び立てることができ、神様が今までサタンに追放され、嘲弄されたそのすべての悲しみも、一時に解決できるのです。

 そのような準備をしてきたのがキリスト教です。キリスト教がもし来られる主を中心として一つになっていたなら、七年以内に世界は一つになっていたことでしょう。

 ですから、キリスト教徒たちは賢くなるな、愚鈍になりなさいといったのです。その代わり、メシヤだけしか知らないからいいのです。ですから、そのお方が「行け!」と言えば、石の畑でも行くのです。「左の道に行きなさい!」と言えば、自分の考えるのと反対の道でも行くのです。問題は簡単なのです。そのような訓練をさせなければなりません。六千年かかっても、アダム一人を探せなかった摂理歴史をされた神様が、それはどれほど無念で悲しかったでしょうか。

 そのような事実をよく御存じの神様は、愛する人類を救うためには、そのような悲しい歴史段階をすべて越えなくては不可能だということを、一代で失ったものは一代で蕩減復帰しなければならない使命が残っていることをよく御存じなのです。ですから、このような世界史的な代表として責任を担った使命者をメシヤという名前、救世主という名を備え、必ず送らなければならないのです。

 彼のために第一次イスラエル民族は、希望をかけてイスラエル建国理念を再編成しなければなりません。第一イスラエル民族が荒野時代を経ながら闘いの道を誓ったように、私たちは夜も昼も訓練をしなければなりません。

◆メシヤの使命


 神様のみ旨はどこを通して成されるのでしょうか。人間を通してなされるのですが、そのみ旨を成すためにこの地上に来ては逝った、天が送った人々がいたというのです。彼らがアダムから、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、そしてイエス時代の洗礼ヨハネをはじめとしてそれ以後に来ては逝った、十二支派を中心とした十二使徒と七十門徒と百二十門徒です。そうして、霊的父母の基準を中心として、霊的基準を実体に完結させる天的な仕事を準備するのがキリスト教の使命です。キリスト教はこのような使命のもとで世界的な発展をしてきたのです。

 それで今日まで、全世界的に数多くの犠牲を支払ってきたのです。そのような数多くの犠牲の代価で今日の世界的版図を成し遂げたのがキリスト教です。

 では、イエス様が来て、しなければならなかった使命とは何でしょうか。天上天国を完結すると同時に、地上天国を完結することでした。その完結というものは何でしょうか。神様のみ旨を成すことです。その神様のみ旨が成される源泉はどこでしょうか。堕落しなかった本然の世界です。

 では、堕落しなかった本然の世界とはどのような世界でしょうか。そこは神様の愛の中にある地上天国です。天上天国まで直行できる兄弟の伝統を設定した所です。その次には夫婦的伝統、父母的伝統、罪のない真の息子、娘の伝統、その次には罪のない氏族、罪のない民族、罪のない国、罪のない世界が生まれる所が本然の世界ではなかったかというのです。それは神様の愛を中心として成されるというのです。それが地上天国だというのです。

 堕落はその反対なのです。その反対になることによって、誰が王になったのでしょうか。天上天国になっていたなら、神様が王になるはずですが、サタンが王になったのです。このサタンが王になることによって、サタン的な、堕落の兄弟の伝統を結び、夫婦の伝統を結び、父母の伝統を結び、子女の伝統を結び、氏族、民族、国家、世界の伝統を結ぶようになりました。これを清算してしまい、サタンから世界を復帰しなければなりません。そうして全世界的に一時に復帰して、神様の前に帰るために、来られるお方がメシヤです。これがメシヤの使命です。それゆえ、メシヤは万王の王だというのです。

 メシヤはサタンの国全体、この国々を全部なくしてしまい、人類を全部復帰して、このサタンの国の主権者である、サタンを追放してしまわなければならないのです。本然の世界ではサタンは容認されないのです。そうして帰らなければなりません。

 救援摂理というのはその過程的なものとして、歴史時代に現れたのです。この救援摂理を完結するためのものが宗教であり、その中間的橋の役割をするのが宗教だというのです。

 では、四千年を準備してイエス様を送りましたが、イエス様は何をするために来ましたか。天国を成すために、神様のみ旨を成すために来ました。では、どうすれば神様のみ旨を成し、そのみ旨を受け継ぐようになるのでしょうか。サタンの主権を壊してしまい、サタン主権者を屈服させなければなりません。その次に神様のみ意の世界に帰るのです。そうして、そこで神様のみ旨を成し遂げるのです。それでメシヤが来なければならないのです。

 イスラエル民族と一つとなったなら、世界へ通じることができたローマ帝国を、イエス様が死んでキリスト教を中心として四百年にわたって征服するのではなく、生きながら四十年以内に征服してしまって一つにしていたなら、それが中心になっていたなら、世界は一時に地上の一国に帰ってきたことでしょう。

◆イエス降臨の目的


 では、イエス様が死ぬようになった動機とは何でしょうか。どのようにして死ぬようになったのでしょうか。個人から個人の橋を架けられず、家庭の橋を架けられず、氏族の橋を架けられず、民族の橋を架けられず、国家の橋を架けられなかったからです。イエス様が死ぬことによって地上天国を完結できなかったので、地上天国を完結するためには、それを蕩減復帰しなければなりません。

 それゆえ、イエス様と反対にしなければならないというのです。イエス様ができなかったことをしなければなりません。イエス様が成せなかった地上天国を成すためには、家庭を成さなければなりません。さっき話したように、家庭的モデルを完結しなければなりません。個人自体ではサタンを屈服させることのできる権威とサタンの国に対して勝利できる能力をもちましたが、家庭的にサタンを屈服させてサタン世界に立てることのできる権威をもてなかったのです。そのような権威を氏族的にももてませんでした。民族的にももてませんでした。国家的にももてませんでした。その国民全体が反対をしました。

 一人も「イエス様に従った」とは言えないではないですか。世界的な一つの地上天国のために四千年間準備したものが、全部が反対し、相対的基盤が一時に完全に崩れたので、孤立無援なのです。ですから、死ぬしかないでしょう。

 イエス個人を守るものがなくなり、イエス家庭を守るものがなくなり、氏族を守ることができる、民族を守ることができる、国家を守ることができる基盤がなくなったので、サタンが直接イエス様と対決したのです。それゆえ、足場がないイエス様は死んでもみ旨を成さなければならないので、霊的基盤を立てたのです。イエス様の体に対することのできる基盤を世界にまで連結させるべきなのに、これができないので、霊的基準まで二つともなくなれば駄目なので、霊的基準を中心として連結させたのがキリスト教です。

 ですから、キリスト教はイエス様が行った道についていくのです。十字架の道に従っていくのです。イエス様が血を流したので、キリスト教も血を流しながら行くのです。個人的に血を流し、家庭的に血を流し、氏族的に血を流し、民族的に血を流し、国家的に血を流す、歴史的に悲惨な流血劇が生まれるのです。

 それゆえ、終わりの日になるに従って、イスラエル民族は個人的に犠牲になり、家庭的に犠牲になり、民族的に犠牲になり、国家的に犧牲になりました。ヒトラーの六百万虐殺は、個人、家庭、氏族、民族が一時に犠牲の祭物になったのではないかというのです。

 それゆえ、再び来られる主は雲に乗ってきては駄目なのです。雲に乗ってくるというのは、根拠のない話です。イエス様が雲に乗ってきますか。待ってみなさい。それは理論的に合いません。

 アダムが失敗したのをイエス様が後のアダムとして来て、完成しようとしますが、後のアダムとして霊肉を中心として地上に天国を成し、神様の愛の中で結ばれた兄弟の伝統がこの地球上に残り得なかったので、その兄弟の伝統を成し、新しい夫婦の伝統、新しい父母の伝統を成し、罪のない息子、娘を生み、神様が直接主管なさる家庭から、氏族、国家を成し、単一アダム国家、単一アダム民族を成そうとするのです。

 ところが、イエス様が十字架で亡くなったのです。その根本原因は十二弟子が一つになれなかったところにあります。十二弟子のうち三弟子、高弟と一つになれず、それから七十門徒が一つなれず、百二十門徒が一つなれず、その次には国と世界が一つになれなかったので死にました。ですから、これを蕩減復帰しなければならないというのです。

◆イエス様を中心としたみ旨


 では、イエスが結婚していたなら、死んだでしょうか。イエス様が結婚していたなら、息子、娘を生んだはずです。その罪のない息子、娘を全部連れて、接ぎ木する役事をするようになれば、息子、娘だけでも、カイン・アベル蕩減復帰原則において、絶対服従だけするようになれば、一度に氏族編成、民族編成がみななされるのです。

 そうなれば、全部イエス様の指揮下に入るようになって、イエス様は直ちにイスラエル国の王になるのです。そうなっていたなら、誰が捕まえて殺したでしょうか。その時のローマの政治勢力というのは、とても疲労困憊している時でした。イエス様がその時に旗だけ掲げれば、アラブ圏内にいたエジプトの十二支派が一度に団結し、ローマに入っていくことができました。死んで入っていくのではなく、生きて入っていってこそいいのです。追い出され追われていくのでなく、歓迎を受けながらローマに入城しなければならなかったのです。

 そうであったなら、アラブ圏内は既に統一されていたので、今日のイスラム教圏というものはなかったはずです。その当時のローマも仕方がありませんでした。思想的な主導者、責任者になって率いるイエス様の前に、ローマは戦うこともなかったのです。伝道作戦だけすれば、できるようになっていました。火だけつければできるようになっていました。電気のスイッチを上げれば火がちょうどつくように、なるようになっていたのです。

 そのようにしたなら、イエス様が三十三年以後、七年以内でローマを平定できたはずです。そうしていたなら、ローマ民族を越えて世界的基盤を築いたでしょうし、そうなれば、今日のキリスト教はなかったはずです。今日のカトリック教会だとか、ホーリネス教会、メソジスト教会、長老派教会のようなものはなかったはずです。これはイスラエル民族史の延長です。

 イエス様が結婚しなければならないという話は、普遍妥当な話ではないかというのです。イエス様が独身だったので、本当に結婚したかったというのです。結婚する場合には、花嫁なら誰でもいいのではありません。世界で一番の花嫁を求めなければならないのです。イエス様はイスラエル歴史を通じて、選民の中で民族を代表した一人の女性を求めてきたのです。その女性に会うために来たのです。

 それは、誰がならなければならなかったのか知っていますか。ザカリヤ家庭とヨセフ家庭が一つとなったなら、家庭的に宴会をし、息子、娘を生み、場を整え、死んでもイエス家庭を通じて世界に延長できる足場になったことでしょう。これを中心としてキリスト教圏、新しいイスラエル圏世界主義を宣布すべきだったのが本来のみ旨でした。

 ところが、そのみ旨を成せなかったので、イエス様が再び来なければならないのです。再び来るにおいて、メシヤは絶対的な神様のみ旨のために来るので、その神様のみ旨が二つではなく一つであるように、その道も一つです。二つではありません。一つのみ旨を成すために来るメシヤが地上に来る方法も、一つの方法であって、二つの方法はないというのです。

 では、一人のメシヤがこの地に来て、しなければならないこととは何でしょうか。世界的な新しい家庭を編成し、新しい氏族、民族、国家を編成しなければなりませんが、それを果たせずに逝ったので、再び来てそれを代わってしなければならないでしょう。出張に行った会社員が事務をすべて済ませたなら、何をしにもう一度出張に行きますか。同じです。

 メシヤが再び来る方法は、一つだというのです。絶対的な神様の一つのみ旨を成すために来る絶対的な神様の息子が行く道は、いつも永遠不変です。それゆえ、イエス様が肉身で来て、み旨を成せなかったので、再び来るときも、肉身で来なければならないということは、妥当な理論です。

◆み旨の完成と神様の解放


 ですから、先生は「神様の恨みを解こう! イエス解怨、聖霊解怨、歴史的なすべての先祖たちが失敗したものをみな収拾しよう!」と言うのです。

 今まではアブラハムをどのように解放させたでしょうか。それを知らなかったのです。モーセが失敗したのをどうすべきか知らなかったのです。アブラハムが知らなかったのです。イサク、ヤコブが知らなかったのです。洗礼ヨハネも知らなかったのです。イエス様自身もはっきりと知らなかったのです。それをどうしなければならないでしょうか。私はイエス様に会ってみて、洗礼ヨハネに会ってみました。みな会ってみて、みな知っているので、話すのです。

 み旨の完成と私たちの使命ということの結論を付けるなら、今からは生命を注いで最後の激戦場に臨む厳粛な精兵になろうという結論しか下すことはできません。歴史的な恨みの峠を埋めることのできる道があるなら、その道を行かなければなりません。そうなれば、自分一代に願った願いを成就できなくとも、千年、万年その場から称賛の声が聞こえることでしょう。

















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訓教経(下)027



文鮮明先生のみ言集

訓教経(下)



侍る生活


一九七五年五月一日
韓国の清平聖地 『文鮮明先生み言選集第七十八巻』


 今後、皆さんが考えるべきことは、侍る生活を実践しなければならない時に入っていくということです。

◆侍る生活の必要性


 それでは侍る生活をしようとするなら、一番最初に誰に侍らなければならないでしょうか。神様に侍らなければならないのです。神様に侍る目的は、結局私が良くなるためのものです。私が良くなるには神様の愛を受けなければなりません。神様の愛を受けないと、どんなに外的に自分が良くなろうと努力してみたところで効果がありません。神様の愛がとどまることができる人にならなくては良くなることができないのです。

 今日まで統一教会は、迫害の中で真に難しい道を歩んできましたが、今まで滅びず発展してきたのは、神様のみ旨の中にあって神様の愛を受けることのできる立場にあったためです。神様の愛を受ける団体や人は、神様が保護するというのです。

 父母は愛する子があれば、子が考えなくてもいつも思っているのです。この世の中でもそうです。夫婦ならば、夫婦の間で愛する妻や夫に対しては、その当事者が知らなくても考えてあげ、福を祈ってあげ、あるいは助けることのできる道をつくってあげようとします。このような夫婦の愛によって因縁が生じるのです。

 国に対してもそうです。国を愛する人がいるという時、国を愛するその心に感動を受けて、その国民がその人を通して福を受けるようになるというのです。その国を愛する人によって国民全体が福を受けるようになるというのです。それゆえ、その国においてすべての国民が愛国者になることを願わなければなりません。愛国者が多くなればその国は興るのです。それはなぜそうなのかと言えば、一国のすべての存在物が生まれてくるときに、本来、神様の愛の中で保護を受けて生まれたためです。

 したがって神様の愛を受ける存在の前には、我知らず引かれていくというのです。人も引かれていき、お金も引かれていき、すべての万有の存在が引かれていくのです。それはこの実体世界もそうですが、霊的世界も同じです。そのようにだんだん神様の愛をたくさん受ければたくさん受けるほど大きくなっていくことによって、それは自動的に一つの中心的な個人になることができるのであり、団体になることができるのです。また、国民を通して愛を受けることのできる基盤を築けば、世界を動かすことのできる一つの国家になるというのです。

 それが原則であるがゆえに、皆さんは侍る生活をしなければならないのです。このように、侍る生活は何ゆえしなければならないかという問題について考えてみるとき、神様の愛を受けるためだということを知らなければなりません。

 したがって、皆さんはまず神様に侍らなければなりません。神様の愛を受けようとするなら、どのようにしなければならないでしょうか。神様が私たち人間に完全な愛をもって来られるので、私たちも完全な内容を投入しなければならないのです。

 「至誠ならば感天」という韓国の格言があるのですが、真にそれは天理に通じた言葉です。「精誠を込める」というとき、精誠を込めるとは内外をみな尽くすということです。言行深思とすべての実践と、内外のすべての私たちの良心生活圏までもすっかり合わせて捧げるということです。それが精誠です。

 そこで「精」は精神のことを言い、「誠」はみ言を意味する言偏に、成し遂げるという意味の「成」を合わせたものです。それゆえ内外のすべてを成し遂げて捧げるという意味です。そのようになってこそ感天、天が感動するというのです。天が感動することによってその人を考えて、考えるだけなく考えが常にとどまるようになれば、そこには愛が訪ねてくるのです。すべての考えがそこにとどまるようになると愛が連結するのです。

 考えるところに人の心が動くのです。それゆえ精誠を込める立場に立ってこそ、神様の愛を受けることができるのです。神様が私たち人間を愛するように、皆さんが神様のために精誠ですべてのことを捧げれば、そこで初めて神様の愛を感じて、神様を愛することができるというのです。

 本来、人間が堕落したがゆえに、皆さん自身が神様を愛することができないのです。したがって、神様のために精誠を込めることによって神様の愛が私に尋ねてくるのであり、その愛を通して神様を知って神様を愛せるようになるというのです。愛の根源は神様です。

◆堕落人間が神様の愛を受けることのできる道


 私たちがこの愛の歴史を見ると、愛は神様から出発したけれども、それが移されてきた道は、昔アダムとエバの時代にはアダムに移されたのです。アダムを通して愛の歴史が連結してきたのです。

 その話は、神様の愛はお父さんを通じて連結してきたということです。その次に、お父さんを通したその愛は、お母さんを通して移されるようになります。このようにお母さん、お父さんの愛が合わさって結実するようになります。夫婦が愛で一つになることによって、本来の神様の対象的な深い愛をもつことができるというのです。

 夫婦が互いに愛をやりとりすることのできる立場で初めて、第二の愛の主人公になることができるというのが原理観です。第一の愛の主人公は神様ですが、第二の愛の主人公は、アダムとエバが一つになることによって父母になることから始まるのです。

 したがって、父母は愛の第二の主人公だというのです。そのように愛の歴史は神様から父母を通して息子に連結するのです。これが、本来の愛が由来した伝統的歴史だというのです。

 では、私たちが神様の愛を受けようとすれば、どのようにしなければならないでしょうか。これが問題です。今まで人々は「宗教を信じて救いを受けよう」と言ってきたのですが、ここで救いを受けるという言葉の意味は、神様の愛を受けることです。そのために今まで人々は道主を信じてきたというのです。

 各宗教ごとに主人がいるのですが、その宗教の主人とはどんな人でしょうか。人間は堕落することによって父母を失いました。放浪者のような孤児になったのです。こういう立場にあるために、この人々を神様が父母の代わりに愛の因縁を受けるようにしなくては、天の愛圏である内的救いの道理に入っていくことができません。

 したがって神様は道主を送り、道主を神様の愛を受ける息子のような立場に立て、父的使命を代行するようにするのです。そうして神様の愛の圏内に第二次的に入っていこうとするのが宗教だというのです。

◆神様の愛の出発


 キリスト教を見れば、これを備えているというのです。聖父、聖子、聖霊が正にそれです。聖子から聖霊までお父さん神、お母さん神を中心として信じて出てきたということは驚くべきことです。これは、人間がしたことではないというのです。

 天がこのような愛の理想を実現できる一つの母体として地上に宗教的な形態を備えたのですが、そこに第二の神様のような愛の主人公の形態を自ら残すことができるようにしておいたものがキリスト教です。それゆえ「キリスト教は全宗教の中心になることができる」という論理もここで成立するのです。

 神様の愛の摂理はこのような経路を通してくるので、今日の私たちが神様を信じて、また霊肉を中心とした父母に侍るのです。これは驚くべきことです。

 霊界にいる霊人や地上にいる人間において、最高の望みは神様の愛を受けることです。最高の願いも神様の愛を受けることです。ところが今までは、霊界の基準が分かれていました。今までは霊肉の実体として、神様の愛を受けることのできる父母を人間がどんなに探し出そうとしても探し出すことができず、もとうとしてももつことができなかったそのような歴史時代を経てきました。けれども今私たち統一教会時代になって、霊肉を中心とした父母の起源をもつことができるということは驚くべき事実です。

 それゆえ今日、この地上において霊肉を中心として神様の愛を完成的段階に橋渡しすることのできる責任者が、来られる主だというのです。来られる主がこの地上の主人公だというのです。

 では、そういう主人公になろうとするなら何をもたなければならないでしょうか。武器を持ってなるのではなく、権力をもってなるのではなく、何かの言葉をもってなるのではありません。それは正に愛です。公認された愛の立場でその人格が完成する時、それは万世に通じます。どこでも通じないところがありません。霊界でも王宮でも地上世界でも、どこにでもみな通じるのです。

 それで今日すべての人間は、これから来られる主人公を探しているのですが、その主人公はお父さん、お母さんだというのです。このように考えてみるとき、キリスト教で「新郎新婦」とうまく結論を下したというのです。来られる主は父として来るのであり、新婦は母として登場するのです。それが実体を備えて現れるようになる時、神様の愛は彼らを通して初めて出発するというのです。

 今日、私たち統一教会は神様の愛を受けるために信じるのですが、信じるにはどのように信じなければならないかというのです。神様の愛を中心として第二次的な愛の主人のような立場で、霊肉の完成的基盤の上に立ったのが真の父母です。それでその真の父母を中心として至誠をみな尽くす道しかないという結論に達するのです。

 そういう生活が「侍る生活」です。過去には霊界に対して、神様に対して精誠を込めたり祭祀を捧げたりしたのですが、今からはそのようなことをしなくてもよいというのです。

 今では自分の生活が祭祀であるというのです。神様の愛の圏内で美しく生き、その愛を受ける人として権威を立てることのできる生活をすることが祭祀より優るというのです。そのような時になったゆえに、侍る生活を皆さんがしなければならないのです。

◆侍る生活は精誠により真の父母と一つになる生活


 では、侍る生活とはどんな生活でしょうか。至誠をみな尽くす生活です。昔は霊的に神様に対し精誠を込めましたが、今日では実体的な父母の前に孝誠をみな尽くすのです。そのように孝誠を至誠の限り尽くす道が国に対する忠誠の起こりになり、万民に対して万国を代表した聖賢の生き方だったのです。

 したがって今日、この地上で、平面的な立場で父母に侍り孝誠をみな尽くすという事実は、国の忠臣の道理を受け継ぐことができ、世界の聖人の道理を受け継ぐことができる価値あることなのです。それゆえ神様、あるいは真の父母の前に孝子の名前をもって、孝子として公認を受けるということは偉大で驚くべきことです。その場に立つようになるならばイエス様もうらやむはずであり、今までの歴史時代のいかなる道主たちもうらやむということを皆さんは知らなければなりません。

 これから真の父母と皆さんは鉄石のように固く一つにならなければなりません。この関係はこの宇宙のいかなるものによっても切り離すことはできず、ここには異議がないというのです。自分のお母さんとお父さんに対して説明を通してそれを「違う」と言うことのできる論理があり得ますか。力でもって「違う」と言うことができますか。そのようなことは天下にありません。

 それは神様もできず、その誰もができないのと同様に、皆さんが精誠を込めて真の父母と一つになれば、誰もそれについてくることはできないのです。そこで自分だけがもつことのできる、最高の精誠を込めた基盤をもつことによって、神様の愛が父母を通して自身に宿るようになるのです。

 そういう立場に立つことによって、初めて皆さんは原理で教えてくれる神様の愛を中心として、真の父母を中心として初めて皆さんの前に愛がとどまることができるので、四位基台を完成できるというのです。これが侍る立場だということを知らなければなりません。それ以外に他の道はないというのです。

 これから神様の愛を受けなければなりません。神様の愛を受ける道が、その道です。神様の愛はアダムとエバから始まります。彼らが完全に一つになれば、神様と一つになることのできる主体対象関係になるので、第二の主体になるのです。それによって、実体をもった神様の愛の機関になるというのです。その機関を中心として、昔イエス様を信じた以上、道に対し精誠を込めた以上、至誠をみな尽くし孝誠の道理を成せば、自動的に神様の愛の圏内に入っていくことができるのです。

 より一層有り難いことは、昔はどんなに霊的に精誠を込めても、その精誠に対する反応を受けることのできる主体になれなかったけれども、今はそうではないというのです。父母があってその父母に精誠を込めるようになれば、その父母が霊的に反応してもくれるのですが、実体的に会うようになるならば、その父母がどんなに初めて会ったとしても、そばにいることを好むというのです。

 精誠を込めた人はそうだというのです。先生が「それ、それ、なぜ出てくるのか」という人々は精誠を込めなかった人です。精誠を込めた人は、いくら見ても嫌ではないというのです。外的な姿はどんなにみすぼらしくても天の前に精誠を込めれば、その本性が愛の主体の前に対象的な立場に立つので、その完全な対象と完全な主体の間に神様の愛が自然ににじみ出て作用をします。したがって自然に一つになります。いなければ寂しいというのです。この世に生きる楽しみがないというのです。

 それで一番おもしろい話が、御父母様のする話です。また、御父母様が一番喜ぶことが息子、娘が今、何をしているという話、自慢する話、うまくいっている話です。それが父母の楽しみであり、神様の喜びだということを皆さんが知らなければなりません。

◆精誠の重要性


 では、天国はどこにあるでしょうか。空中から落ちてくるのではありません。天国は父母と子の間にやりとりする生活的な舞台が大きく、その中にあるすべての被造物を自らの生活で理想の条件として利用できるおもしろさを一〇〇パーセント享受することのできる所です。そういう所が天国です。天国が別の所にあるのではありません。

 それゆえ仕事をしても、御父母様のためにする仕事がどれほど良いかというのです。私が違うことをしても、私がどんなに苦労をしても、その仕事が父母の命令に従って天道を明らかにすることができ、万民を解放できる驚くべき価値のある仕事だとすれば、それがどれほど有り難く、どれほど福の多いことなのか分かりません。ですから難しくても感謝して、不平不満をもたない生活にならなければなりません。そういう生活がなされるようになる時、その人は天国人になれます。

 その場は皆さんが考えるような、そんなに漠然とした立場ではありません。直接的にお父様、お母様が私の皮膚にぶつかってきて、私の精神にぶつかってくるのです。

 そのようなことが心からの感動の爆発として自分を刺激することを感じれば、その人は既に天国の中で生きている人です。そのようになれば、既にちょっと人に対すれば「あの人は悪い人で、あの人は良い人だ」ということが分かります。そのようになれば皆さんが想像できない、次元の高い直接主管圏内に入ってくるのです。それが原理観です。そのように生きてみてください。

 もし皆さんが、「私がこの品物を先生に差し上げようと三年精誠を込めたにもかかわらず、持っていって差し上げることができません」と、こう言いながら、西方にいる人は東方に向けて、また東方にいる人は西方に向けて御父母様のいらっしゃる天を眺めて、一年の四季を送りながら、季節が変化すれば変化するほど、そこに沿って心がより切実になるならば直接通じます。

 自分があげたい以上のものを受けたことで感謝する、そういう心をもっていけばいくほど仕事がうまくいき、霊的世界が明るくなるというのです。結局は精誠を込めなければならないのです。

 精誠を込めることが重要だということを皆さんが知らなければなりません。皆さんが鏡を見て「この目が御父母様に会いたくて涙を何度流し、この口が御父母様の解怨成就をどれほど叫んでみたことか、この耳が御父母様のうれしい消息を聞くことをどれほど待ち焦がれ、この手がどれほど御父母様の地で血を流して仕事をしたのか。それができないことが恨だ」こういう心を感じなければなりません。その道を尋ねていくことが幸福であり、その道で天と因縁を結ぶことが幸福な道だということを知って行く人は真に幸福な人です。

 その人は誰も支配することができないのです。その人を動かすことのできる人は父母しかいないのであり、その人を感動させることのできる人も父母しかいないのであり、その人を幸福にする人も父母しかいないのです。また、父母もそうです。父母を幸福にできるのはその息子しかないのです。また、父母を喜ばせてさしあげることのできる人もその息子しかないのです。

 父母の願いがあるならば、父母自体にあるのではなく、その息子にあるのです。そうしてその父母の代を継いで、天国の継代を億千万代に相続できる道がここで繰り広げられるということを皆さんは知らなければなりません。

◆愛する心で常に精誠を込めてこそ神様の愛が共にある


 ですから、これからは侍る生活をしなければなりません。夫婦の間でもそうです。夫婦が今まで暮らしてきたのを見れば、言葉では共にすると言うけれども、実際には共にしない家庭が多いのです。自分の主張は自分の主張のままであり、主体・対象関係においては心情的に一つになれなくて、天の前に連結したその何ものもありません。昔と変わったことが何もないのです。それはそういう原則的な愛ができなかったためです。神様に侍る生活において合格した立場に立つことができなかったためにそうだというのです。今後、そのような面で特別に皆さんが努力しなければならないでしょう。

 寝ても覚めても皆さんの考えの中には天が共にあり、父母と共にあると考えなければなりません。「御父母様が何千年ぶりに尋ねてこられた!」と、このように考えてみなければなりません。その父母が何千年ぶりに一度尋ねてくるために、数多くの善なる先祖たちが犠牲の代価を払い、数多くの世界が今まで滅びながら、数多くの国がふらつきながらも立ち上がり、また滅びては立ち上がるという瀬戸際を歩いてきました。

 そうして幸い侍ったその父母、その誰よりも先に侍り精誠を込めたいその父母、そうして「たとえ我が家がわらぶきの家だとしても、その父母が行った道を振り返って尋ねてきて留まることができたならば……、そういう父母に侍ってみることができたら……」と、慕う生活をしなければならないのです。農業をしてもそうだというのです。「ああ、御父母様が来られたならばこれを差し上げなければ」というのが天地の道理です。

 天地といえば天と地をいいます。天地の道理とは何でしょうか。夫婦二人が一つになっていく道、すなわち愛の道をいうのです。それゆえ、愛があればすべてが幸福になるけれど、愛がなくなればすべてが不幸になるのです。愛があればすべてが和動するけれど、愛がなければ荒れ果てて荒野になるのです。問題はそこにあるというのです。

 御父母様が自分の地域に来られれば、御父母様の話を聞いてみたくて、ひたすらに十里の道も飛んでいくことのできる心がなければなりません。教区長とか教域長を通して伝達する消息があれば「私がまず行かなければならない」と、こう言える人にならなければなりません。皆さんはこのような心をもって、今後自分の生活舞台に実現させなければなりません。

 これだけをまず備えれば、どんなに世界に出て行っても恥ずかしくないはずです。例えば御飯を食べても、水を飲んでも、どこに行っても、座っても立っても、誰に対そうが、御父母様の前での幼い心情を彼らの前に見せることができれば、それで満点なのです。

 その場では、知識が重要なのでありません。博士学位が通じるのではありません。それはけんかをしたり、収拾するときに必要なのです。暮らす時に、学位をもって暮らしますか。神様の前で「私は○○博士だ!」と、そう言っては暮らせません。お父さんが息子に「やあやあ、哲学博士なにがし、数学博士なにがし」と、そのようにはできません。御父母様の前では、そのようなことはすべて必要ありません。

 神様の愛を誘導できるただ一つの道は、「至誠ならば感天」それしかないというのです。水を見ても御父母様を考え、何を見ても御父母様を考えなければなりません。先生はそのような人です。

◆侍る生活と天国実現


 先生は清 平が本当に好きです。自然を好む人なのです。一人でいれば心情が乾ききってしまいますが、自然を眺めれば多様な刺激を感じるようになります。それぞれこの宇宙の中に、主人公のためにその存在の姿を表しているということが、どれほど美しいかというのです。

 それで先生は、すべて主体と対象のような感じがするのです。山を見ても真にかわいそうに見え、じっとしていても呼んでいるような霊感が来るのです。自然がそのようなことを見せてくれて、私がそれを感じるようになるのです。そのようなことは一般の人はよく知らないのです。そのような世界を感じられない人は知らないのです。そのようなことを皆さんが考えなければなりません。

 言い換えれば、侍る生活は遠くにあるのではないです。神様の愛の役事は父と母を通してなされるのですが、彼らが一つになれば第二の愛の主体として現れるのです。アダムとエバが一つになっていたなら堕落はなかったのに、これが壊れたのです。それで、これを再現させるための真の父母の愛を中心として、対象的な横的基盤を拡大させる仕事が復帰歴史です。このような生活舞台を備えてこそ地上に天国実現が可能だというのです。

 天国は神様に侍って、御父母様に侍って、愛されて生きる所です。神様と御父母様に侍って、互いに愛する所が天国なのです。

 皆さんがこの愛を夫と妻に適用して、同僚の間に適用しなければなりません。私が御父母様に会いたいのと同様に、父母は自分の兄弟を自分よりももっと愛することを願います。事実がそうなのです。自分の父母には孝行すると言いながら兄弟同士けんかするようになれば、その孝行は成立しないというのです。

 父母は自分を思ってくれる心よりも、兄弟同士がより「ため」に生きることを願うのです。たとえ父母を世話することができなくても「お母さん、すこし待ってください。私は弟(妹)を愛してきます」と言えば、「こいつ、今後役に立つやつだ」と、そういうのが父母の心です。

 それと同様に、兄弟を父母以上に愛するという人は、天国の境界線内で永遠に暮らせる人です。しかし、兄弟を父母のように愛することができない人は、ここから外れるのです。このように、その道理の根本を悟ってみれば簡単だというのです。

 ですから私たち食口の間で一つになるか、なれないかということが問題です。父母の前に孝行できないそういう立場に立ったならば、父母のために自分が精誠を込めたことを、父母の代わりに自分の食口のために与えなさい。そうすれば、父母に孝行した以上のものとして天が受け入れるのです。そのような人は必ず祝福を受けるのです。

◆神様の愛を実現する所は家庭


 祝福の中で一番重要なこととは何でしょうか。お金ではなく、名誉でもありません。権力でもありません。息子、娘がうまくいくことです。皆さんがそれを知らなければなりません。祝福の中で一番良い福は、息子、娘が天の愛を受けることができるように生まれることです。

 そこから、その息子が私より神様の愛をたくさん受ければ、どのようになるでしょうか。山の谷間で降りてきた送電線のようなものを見れば、たるんでいるけれども、片方でつかんで引っ張ればぴんと張ります。同様に息子が天の愛をたくさん受けるようになれば、私がある程度落ちたとしてもぐっと上がることができるのです。恵みを受けるのです。

 そのようにして三代が自分以上にどんどん発展するようになれば、一つの世代を飛躍できるというのです。したがって、福の中の一番の福はお金でも権力でもなく、神様の愛の中に生まれた立派な息子、娘をもつことです。先生は相当にそのような面に関心があります。次に生まれる息子、娘がどのように生まれるかということが、千万金よりもっと重要なのです。

 しかも皆さんが直接的に真の父母を中心としてそのような心情の基盤を築くようになれば、統一教会の道運をもって生まれるのです。天地の運勢をもって生まれます。ある家の父母を見れば、豆のはじけた皮ぐらいにしかならないのに、息子、娘は立派に生まれるそのような場合があります。だから観相家や、四柱によって運勢を占う人までも驚くのです。「どうやってあんな家庭で生まれたのか」と言うのです。それは統一教会の道運があるからです。

 ところが「私が統一教会に入って何年にもなるのに……」こう言いながら、「自分のことを知ってくれ」と言う人がいるのですが、それはよく分かっていない人です。神様が認めて、私の父母が認めて、私の息子、娘が認めればそれでいいのです。

 「誰かを通して認めてくれ」と言ってはなりません。「認めてくれるなら認めて、嫌ならやめろ」そうでなければなりません。神様が認めて、父母が認めて、息子、娘が認めればいいのです。世の中の人がどんなに何といっても、夫婦が一つになって私と一緒に幸福で、私と一緒に感謝すれば、それは幸福な家庭になるのです。四位基台の理想を実現した基盤を備えればいいのです。こういうことを知って、これからは皆さんが家庭でそのような生活をしなければなりません。神様の愛を実践しなさいというのです。

◆精誠さえ尽くせば神様が共にある


 神様の愛はどこから来るのでしょうか。来る秘法は、他のところにあるのではありません。御父母様のために至誠を尽くし、神様のために至誠を尽くせばいいのです。神様のために至誠を尽くせば漠然としているけれども、御父母様のために至誠を尽くせば平面的に運勢が動くので、すべての面で直感的に悟ることが多いというのです。

 例えば、過去のキリスト教徒は上がる時精誠を多く尽くしました。個人で国家基準まで上がることが蕩減復帰路程です。ですから難しかったのです。一段階上がってから間違って一段階落ちれば、上がることができません。そこで巡っている途中で一生を終えるのです。精誠を込めて何段階か行ってからまた落ちれば、そこで滅びるのです。これが国家基準まで上がってくるために、数十万年もかかったのです。ですから霊的な基準を中心として、今までどれほど苦労したかというのです。

 それゆえ昔は、イエス様を信じても道に通じるのが真に難しかったのです。直接指導を受けるというのは真に困難でした。ましてや、愛という心情を感じることは真に難しかったというのです。それが原理的にあり得たでしょうか。堕落圏であるのに、本然の神様の愛がとどまることができますか。

 今までの宗教は、神様の愛ゆえに蕩減の役事をしました。神様を知らなかったなら苦労をしなくてもよかったのに……。宗教を信じることで、かえって罰を受けました。何の罰を受けたのかといえば、サタンが総攻撃し、世の中には今悪質的に罰を受ける動きがいくらでもあるのです。罰を受ける、そのような生活をしてきたというのです。

 ところが今の時代において、私たち統一教会では平面的だというのです。真の父母を中心とした基準になっているために、皆さんが一週間だけ精誠を込めれば通じるというのです。通じることができるのです。必ず御父母様が現れます。先生が現れて教えてくれるのです。これがどれほどの革命なのか知らないのです。

 昔イエス様を信じた人が、霊的にとか祈祷中にイエス様に会うことが簡単だったと思いますか。七年、二十一年の精誠を込めて、初めて何度か会えたというのです。そうして一段階一段階動くことができることを教えてくれるのです。しかし今日、統一教会の信徒はあまりにも簡単だというのです。これは平面的に、あまりにも易しい段階に入ってきたためです。

 また、神様の愛を中心として連結することのできる時代に入ってきたがゆえに、神様の愛の行く所ではすべてのサタン世界は自然に解放されるのです。神様の愛がとどまる所は、サタンの不可侵圏です。これが原理です。

 原理ということは完成圏でもたらされたことをいいます。完成圏は父母がいらっしゃる所なのですが、今日父母がいらっしゃるその完成圏に立っていれば、息子、娘は未完成な人間だといっても、父母の愛を受けることのできる保護圏内に立つことができるのです。

 したがって、父母さえしっかり自分のものにしていれば、サタンがどんなにうようよしていても、そこでは堕落できないという結論が出てくるのです。それが可能なのが私たちの教会であるからには、皆さんが生きている間にここでその心情を体得することができなければ、霊界に行ってこれが何万年、何千万年かかるか分かりません。

 この地上にいるとき、このような感じを皆さんが体験することが、肉身をもったこの驚くべき価値のある時代だということを知らなければなりません。肉身を脱いでしまえば、それが不可能だというのです。どうしますか。人は永遠に地上で生きるのではありません。短い肉身のある期間に皆さんがこれをしなければなりません。裕福に暮らしているからといってそれをするのではなく、貧困な暮らしをしているからといってそれができないのではありません。自分が置かれている立場、立場において、父母に侍る愛の心を誘発させることができなければならないというのです。

◆侍る伝統を世界的に立てていかなければならない私たち


 したがって侍る生活圏を、これから皆さんが拡大していかなければなりません。これが国家基準を越えて世界時代に向かう私たちの使命として、この伝統を立てなければなりません。皆さんがこの伝統さえ立てる日には、今後の世界にいかなる民族が現れても恥ずかしくないはずです。皆さんの権威を堂々と立てても余るでしょう。

 皆さんが、木の枝のように、根から幹が出て枝が広がれば順次的に葉が開くのと同様に、皆さんの伝統の前において、すべての人々が接ぎ木をして走るようになっています。あとで入ってきて、「ああ、私が幹になろう」と言ってはいけないのです。

 こういうことを知って、これから正に侍る生活をしなければなりません。皆さんが侍る生活をするようにしました。それで今まで敬拝しなさいと指示しました。ところがある祝福家庭は「ああ、それしなかったら良いのに」と、そのような人々がいるというのです。その日が来ることを待ち、時間を待ち焦がれて座って、自分が夜を明かしながら、その時間を準備することのできる心をもってみなさいというのです。その時間が、どれほど福の多い時間なのか知らないのです。

 教会でしろということは、全部が自分の生命の代わりにできるという「忠」の心をもてというのです。「忠」というのは何でしょうか。「忠」は中心になった心を立てることです。

 中心になった心とは何ですか。それは自分の心ではありません。父母が中心であり、神様が中心です。その心を立てることが「忠」ではないですか。そのようになっています。ですから皆さんがそのように知って、侍る生活をすることによって、神様の愛の圏内に入っていくことができます。そうすれば、神様の保護圏内にいることができるということを知らなければなりません。これからは、これをしなければなりません。

 それで先生の家庭も、今後はできれば複雑な環境をだんだん避けようとするのです。私一人でそのような境地を感じることができるけれども、お母様とか子供たちがその境地の生活ができるためには、簡素化できる生活が必要だというのです。生活を簡素化しなければならないのです。

 み旨を中心にした生活を、どのようにするのですか。そうするには学校や幼稚園も、み旨を中心にした学校、幼稚園にならなければなりません。生活のすべての環境も、そのような人々がそろって暮らさなければならないのです。これが問題になるのです。生活的雰囲気をどのように造成するかが問題です。

 その次には、一生の間生きていくにおいて接する環境を、そのようにできる環境に早くつくっておかなければならないということを先生は考えています。したがって、原理原則に一致しないものがあり、心的に荷物になり、心に傷を受ける立場に立てば、これは大きな打撃だというのです。

 先生が今では霊界に対して威信を立てました。数多くの道主が、結局はこの統一教会一つのために傍系的な立場で橋渡しをしました。それで、この一つの本然の主流が曲がらないのです。主流が曲がらないようにするためには、四方で協助していかなければならないのです。そうしなければ曲がってしまうというのです。

 そのように犠牲になった傍系的な数多くの宗教を、みな解放してあげました。天使も今までアダム再創造の役事に多くの苦労をしました。しかし解怨はできませんでした。それは神様もそうで、イエス様もそうで、数多くの宗教もそうで、御父母様もそうなのです。それで先生が神様の解怨成就式、その次には父母様解怨成就式、その次にはこの全世界に代わって解怨成就式までしたのです。

 そういう地上の天国が可能であり得る時になったのですが、先生に侍る皆さんに対して、今一番心配することは、今までの皆さんの生活態度を完全に革命しなければならないという事実です。自分たちだけで、巣をつくって入っている人がいます。それは天のためにしていることではありません。

 この愛の原則を中心として、皆さんの家庭を再度実験して構成し、新しい伝統を立て、侍る生活の起源をきちんと準備しなければなりません。この侍る生活を連結させることによって天国実現が可能なことを今悟り、その道に沿ってあすから実践躬 行できる皆さんになってくれるよう願います。



















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訓教経(下)028



文鮮明先生のみ言集

訓教経(下)



相続者


一九七五年八月三日
アメリカ 『文鮮明先生み言選集第七十九巻』


 きょう皆さんにお話しする題目は「相続者」です。

◆幸福よりは不幸の条件がより多い現実


 個人や家庭、あるいはいかなる国家やいかなる世界人でも、人は何かを願っています。私たち個人自体について見ても、個人自体が幸福かと一度尋ねれば「私は幸せだ。永遠に幸福な人だ」と、こう言える人が何人くらいいるかというのです。また、家庭において男性や女性が願うことは幸福な家庭です。幸福な家庭を願って準備しているのです。

 そのような観点で考えてみると、真に幸福な家庭はどれほどあるでしょうか。これが問題だというのです。大きく進んで、一国家や民族を中心として考えてみるときに、主権、あるいは国民全体について見れば、この国とこの国民が本当に幸福なのだろうか、こういう問題について考えてみるとき、問題が多いというのです。

 今、全世界に数十億にもなる人類が生きていますが、果たしてその国家や個人個人が、あるいは家庭が幸福かというときに、これが問題になっているのです。そこには偉大な宗教家もいるでしょうし、あるいは歴史上にまれな哲学者もいるでしょうし、科学者もいることでしょう。

 けれども、彼らが本当に人間世界に真の幸福をもたらすことができるのかというとき、そのようにできずにいるのです。それを願わない人がいなかったし、そのようなことのために努力しなかった人がいませんでした。しかし、私たちにもたらされた現在のすべての条件というのは、幸福だけではなく不幸の条件がもっと多いことを発見するのです。

◆幸福の主人


 ではいったい幸福の主人とは誰でしょうか。幸福の主人とは誰かというとき、皆さんが考えるには「私が幸福の主人だ」と言う人はいないのです。「この国が幸福の主人だ。この世界が幸福の主人だ。ある宗教が幸福の主人だ」と、そのようには主張できないというのです。

 あくまでも「私が幸福にならなければならない」という人は、主人ではないのです。被動的な立場にならなければならないのです。「その国が幸福でなければならない。いずれかの宗教が幸福を成し遂げる使命を果たさなければならない」と言わなければならないのであって、「私は幸福だから私と共にいればすべてが幸福だ」と言うことはできないのです。

 そのような観点で幸福の主人を知らず、幸福の出処を知らずに幸福を探すということ自体がこっけいではないかというのです。

 女性においては男性が幸福の主体になることができて、また家庭においては父母が幸福の主体になることができます。けれどもそれは私たちの生活の一面にはなるけれども、私たちの全体生活を通して私たちの思想的、理想的、理念的な見地では、それも限界性を抜け出せないことを発見するようになります。

 なぜそうなのかといえば、妻は夫を自分の幸福の主体として考えるけれども、その夫も幸福を探しているためです。父母もやはり子女の前では幸福の主体のようだけれど、その主体である父母も幸福を必要として探している立場にあるというのです。

 ですから幸福が問題だというのです。そのような幸福の主人を探さなければならない、発見しなければならないというのです。皆さんが夫と一生の間幸福に暮らすといっても、幸福の主人だと保障はできないし、自分の父母が幸福にしてくれても幸福の主人だとは保障できないというのです。彼らはいつかは逝くのであり、その国も歴史の変遷と変化に当面するようになります。ですから、いつも上がっていったり下りていったりしながら、変化する環境を通過するのです。これを考えるとき、変わらない幸福の主体を私たちは発見しなければなりません。

 私たち人間が想像力をもっと動員し、この宇宙の中でそのような幸福の主人を発見しようとするようになれば、どこに行って帰着するのでしょうか。それはいかなる思想家でもなく、哲学者でもありません。哲学者も行かなければならず、宗教家も一生を生きて逝くようになっているので、歴史とともに去っていってしまうのです。

 人間といつも共にあって幸福の主体として残り、変わる人類社会の生活をすべて収拾することのできる一つの主体が存在するならば、私たちはそのような主体を発見しなければなりません。それでそのような方があるならば、その方は神様でなければならないというのです。

 今まで宗教でも哲学でも、人生において究極的な解答の基点がどこなのかといえば、神様がいるかいないかということです。神様が本当にいらっしゃるならばすべての問題は解決するのです。そのような方がいらっしゃるならば、その方が幸福の主人です。その方だけが幸福の主人になることができます。

 それでは、神様が幸福の主体なのですが、その神様自身は幸福でしょうか。これがまた問題です。神様自身がどんなに幸福の主人でも、一人で幸福でしょうか。「幸福」というものは相対的関係から展開するのです。

 そのような観点から考えると、神様が幸福であろうとするなら、神様も主体であるので幸福であり得る対象がなくてはならないと見ます。幸福の主体であられる神様の前に対象の存在が誰かといえば、この宇宙には人間しかいないというのが結論です。

 人間世界には男性と女性がいます。男性と女性が百万、千万、何億にもなって、この世界人類になるのです。人類の問題はつまり世界的な男性と世界的な女性、すなわち男性と女性の問題です。彼らが理想的な幸福の基準を、内外に主体であられる神様と対象的な人間の価値を解決すればいいことなのです。したがって幸福であり得る神様が、幸福であり得る対象として男性、女性を見つければいいのです。

◆幸福の要件


 それでは、神様が幸福の主体としてもっている一番価値的な要素とは何でしょうか。これがこれから問題になるのです。それは何かといえば、第一に愛です。その次は生命です。その次には何かといえば、幸福だというのです。

 ところが理想がなくては幸福ではあり得ないということを知らなければなりません。理想から幸福が始まるのですが、その理想とは何ですか。理想というのは原因と結果が一つになるところでのみ始まり、主体と対象が一つになるところでのみ始まるというのです。同じなのです。それが縦的、横的にやりとりすることができ、円形的にやりとりすることができるようになれば、それを理想だと言うことができ、そこから幸福が出てくるのです。

 ところで今皆さんが一番問題視することはどこにありますか。生命問題が問題で、愛の問題が問題で、理想問題が問題だというのです。この三種類を結束させずして、また、理想の過程を経ることなしに、幸福ということは成立しません。では、その生命がどんな生命なのかというのです。神様は生命の主体なのですが、永遠な主体であるために、私も永遠な対象にならなければならないのです。そのような人間が神様の前に生命的対象自体を恋しがることは、とやかく言う必要がないことです。

 今、ある夫がいるとしましょう。その夫に妻が、永遠の理想の主体になることを望むならば、すぐに死ぬ夫であることを願いますか。そのようにはできないというのです。そういう観点で考えてみるとき、神様が生命の主体ならば、対象になる私たち人間は永生しなければならない、というのが理論的に合うのです。それゆえ真の生命をもった、永遠な存在性をもった人間にならなければなりません。

 では、生命はどこから始まったのでしょうか。皆さんが考えるとき、生命は私から、私の父母から始まったと考えているというのです。直接的関係はそう見ることができます。

 皆さんを一本の木に例えてみるとき、私たち人間は、木の一つの葉と同じ存在だというのです。そこに作用する枝はお母さん、お父さんのようで、大きい枝は先祖のようで、幹、すなわち真ん中の茎は歴史の伝統的なすべての民族とかあるいは国家になります。そしてその下には根があるのです。

 こういう観点で私たちが推理して考えるとき、見えるものと見えないものがあります。根は見えないのです。普通「あの木が良い」と言うのであって、「根が良い」と言いますか。それは夢にも考えないのです。

 私たちがこのマイクを見てもそうです。マイクは見えるけれど、このマイクの背後にはマイクを作るまでの見えない人間の努力がどれほど隠れているかというのです。見えないことが中心になって、ここに結果として現れたという事実を私たちは発見するようになります。外的に良いことが生じるためには、見えない世界の良き内容をもたなければならないという言葉が成立するのです。

 ここにある人がいるならば、その人を形成している天性や素性、あるいは本性がどうだということがより問題だというのです。皆さんが結婚するならば、相手の顔を見ますか、本性を見ますか。二つとも見て結婚したがるのです。

 皆さんが誰かというとき、その人の内容があります。ところがその人が内容のある人なのか、ない人なのか、というとき、その内容が見えますか。自分の考えとか見えない実力というものが、彼の体を通して現れるようになる時に、その人を実力者だと言い、権威がある人だと言い、元老として取り扱われるのです。こういうことを見るとき、私たちは「見えないことが根拠になって結果として現れる」ということを、普遍的な結論として下すことができます。

 では、誰が幸福でなければならないのかと尋ねれば、「私が幸福でなければならない」という答えがすぐに出てきます。「誰かって誰だ。私が幸福でないと……」と、このように答えるというのです。ここで、幸福であるための先有(前提)条件とは何でしょうか。それは、私が幸福でなければならないというとき、幸福であろうとするなら幸福であり得る内外を準備しなければ、幸福が存在しても手にすることができません。幸福は、自然に来るのではありません。受けることのできる準備ができていてこそ来るのです。

 そうするには、どのようにしなければならないでしょうか。幸福の主体である方がいれば、その方の心に合う私にならなければなりません。それゆえ幸福の主体が神様ならば、神様が好むことのできる私、神様が魅力的に感じる人にならなければなりません。そのようになれば、「おお! 私が幸福でなければ」という話が成立し得るのです。皆さんは自身が幸福でなければならないというとき、幸福であり得るそういう内外の内容を備えているのか、これが問題です。

◆神様が必要とする人


 そうするにはここで、神様がいかなる方なのかということを知らなければならないというのです。神様が何を好むかというのです。神様が権力を必要としますか、お金を必要としますか、知識を必要としますか。神様は永遠な生命をもった御自身の対象的な価値的存在を必要とし、愛をもった人と理想的な人を必要とするというのです。神様が必要とすることは、この三種類しかないのです。

 一つの木があるとするとき、その葉っぱは間違いなく根と通じることができ、幹と通じることができ、枝と通じることのできる素性をもった自体になっているというのです。結局、私の生命は神様と直結するというのです。父母と直結したのではなくて、私から始まったのではなくて、神様から直結した私だということを発見しなければなりません。

 では頂上にある葉と、一番下にある根と関係がありますか、ありませんか。関係があるというのです。全体的に関係があるのです。それなのに木の一つの葉の立場で「私だけが一番だ!」、これでいいのでしょうか。そこに私が必要である前に、小さな枝がより必要であったということを知らなかったというのです。また小さな枝ならば葉も必要であり、より大きい枝が自分より必要だということを知らなかったというのです。また、大きい枝が「幹は私に必要ない」と言うならば、それが自分よりもっと必要なことを知らなかったというのです。また、幹は自体として「私が一番だ。枝も葉も根もみな必要ない」と言うことができますか。そのようにはできないのです。それでは存在できません。幹がどんなに立派だとしても、根が自分より偉大で大きいということを知らなければなりません。

 木の生命は、根があってこそ存続します。根は生命の起源であり、永続的に生命が存続できるようにするのです。では人間世界はいったいいかなる所でしょうか。一つの木に例えれば、霊界というのは根と同じです。それゆえ人は、天地を連結させる歩みをしなければならないというのです。そのような観点で、私たち人間はこの道を尋ねなければなりません。

 男性が「女性は必要ない。男性が一番だ」と、そう言えますか。それでは存続することができないというのです。そのようにすれば一代で終わるのです。一代で終わりになるのです。それゆえ男性が貴いと同時に、女性がもっと貴いということを発見しなければなりません。また、女性もそうなのです。女性は、女性が貴いと同時に男性がより貴いということを発見しなければなりません。互いに貴い存在だということを発見しなければなりません。それはなぜでしょうか。互いにいたわり合い、互いに力づけてあげ、互いに刺激を与えることができてこそ根(基礎)となるので、木は生い茂り、育つはずです。

 皆さんはただ「おお、私が一番だ。葉のような私だけが一番だ」というのですが、葉があるためには小さな枝が必要なのと同様に、私たちは枝がもっと必要なことを知らなければなりません。

 そのような観点で考えてみれば、枝のようなものがお母さん、お父さんだというのです。ではお母さん、お父さんだけが一番ですか。お母さん、お父さんの上にはもっと大きな枝があるというのです。それが一つの氏族、すなわち親戚関係です。そうしてだんだん大きくなれば一つの国家になるのと同様に、氏族ならば氏族よりももっと必要で、より価値的な存在が何かといえば一つの幹、国家ではないかというのです。

 では幹が一番ですか。違います。根が一番です。それよりももっと貴い根があるということを知らなければなりません。正常な生命をもつことができる葉になろうとするなら、私よりも大きい枝、私よりも大きいもう一つの枝、私よりも大きい幹、幹よりも大きい根を所有しなければなりません。そうでなくては、正常な葉としての生命を維持できないのです。

 そのように見れば皆さん自体は何が必要でしょうか。「私が必要だ」というのは答えではありません。私に必要なのは父母だ、その次に父母に必要なのは先祖だ、このようにならなければならないのです。こうして一つの国家形成の起源をたどっていくようになれば、幹のような国家を形成できる伝統的思想とか、その形態があるのです。国民が団結できる形態、国家というのがあって、国家を探して上がっていくようになれば、根があるのと同じ価値がなければならないのです。

◆生命を保つことのできるただ一つの思想


 私が幸福であろうとするなら、どのようにしなければならないでしょうか。「私だけ幸福ならば良い」こういう論理は成立しないのです。皆さんが本物の木の枝になり、木の葉になったと考えてみてください。それならその葉が考えることが「私が丈夫でよくなるべきだ。私が死んではいけない」というよりは、「枝が死んではならない。丈夫でなければならない」このように願うはずです。

 また、木全体が考えるならば、「根が私よりももっと丈夫でなければならない」このように考えないわけにはいかないのです。そうすると葉や枝や幹は「君は永遠に健康であるべきだ」と言うのです。祈祷をしたり、願いがあるならば「君が健康であるように。君が健康であるように」と、毎日のように言うのではないでしょうか。そのように祈祷したことに対して根は、「君が正しい。君が正しい。そうだね、そうだね」と言いながら喜ぶのです。それが正常であるにもかかわらず、木の葉が「まあ、根はかまいません。幹もかまいません。枝もかまいません。私だけが一番です」と、そのように言えますか。そんなことがあり得ますか。

 その木の葉と皆さんを比較してみるとき、皆さんも同様なのです。このように考えてみるとき、木は根が良くなければなりません。私たち人間も、根である霊界に行った先祖が良くなければならないのです。それがすべて幹と連結しているのです。それで、葉っぱも神様を中心としてある部分になっています。

 皆さんが今国にいるならば、同じ国を中心としてここに枝となって、分かれないで互いに連関性をもっているのです。では、先祖と皆さんを離せるでしょうか。神様と皆さんとを離せるかというのです。これが一つの幹を中心として東西南北の大きい枝は国と同じなのですが、世界と国家を離せるかというのです。そのようにはできません。その全部が一つに合わさって私の生命を維持して、その全部が一つに合わさって根の生命と幹の生命を維持する、共同生命維持という結果が成立するということを私たちは知らなければなりません。

 したがって、ここで最も偉大な葉とはどんな葉でしょうか。葉として他の葉に与えることができ、枝に与えることができ、幹に与えることができて、根にまで与えることができる津液(樹液)をどのように捕捉し伝達するかということが問題です。そのようにしょっちゅう供給できる私になるならば、そのような葉は死んでなくなるでしょうか、茂るでしょうか。いきいきするというのです。それを知らなければなりません。健全で強く全体のために尽くすことのできる一つの葉を起源にしたところから、新しい枝が勢いよく出てくるということを知らなければなりません。

 「原理」の「授受作用の原則」においては、与えれば来るようになっています。全体が来るのです。私が与える時は少ないものを与えたけれども、受ける時は枝々の、各葉っぱの、各幹の、根のものまですべて受けることができます。一度に受けることができます。

 では真なる生命をどこで見つけますか。真の生命はどこから来るかというのです。もちろん生命は枝から来るのです。根から一遍に来ることはできないので、みな関係を結ばなければなりません。

 ここで結論づけるならば、自身が一つの生命の位置に対して「私が考えるには、世界の人がみな私よりももっと立派でなければならない」という思想さえもてば、それはより健全な生命をもつことのできる偉大な思想になります。それゆえ私が「生まれたことは私のために生まれたのではなく、全体のために生まれた」という思想をもたなければなりません。この思想は偉大な思想です。生命を保つことのできる、ただ一つの思想です。

 そのような観点で考えれば、そばにある葉が虫に食われるからといって、「切ってしまえ」と、そのように言えますか。どうにかして、自身が犠牲になってでも、そこに消耗するエネルギーを投入してでも防御しようとする作用をしなければならないのです。「夏、暑いにもかかわらず、私のそばにびっしりとあったその葉っぱを、虫が食べてくれてうれしいなあ」、これで良いでしょうか。

 このような観点で見るようになれば、この世界の生命をもった人はすべて葉と同じです。枝が違うだけであって、同じ運命にあるということを知らなければなりません。

 こういう観点で結論づけるようになれば、「君は誰のために生きるの? 君は何のために生きるの?」と聞かれた時の答えは何ですか。「全体のゆえに生きる」というのです。皆さんの感情的観念がそのようになっているかというのです。感情的にそのようになっていますか。総じて、葉がなくても関係なくて、そばで死んでも関係ないという観念をもっているので、これが問題です。

◆全体的な考え方をもたなければ


 神様が根のような立場に立つならば、神様が一番危険とすることとは何でしょうか。互いに殺し合い生かし合い、互いが反目し、嫉視することです。それは神様を殺すことなのです。根が滅びることなので……。神様が一番恐れていることが、それです。ですから互いが反目し、嫉視するようになれば、個人自体の心と体が一つにならなければ個人が滅びるのであり、家庭の夫婦が一つにならずに反目し、嫉視すれば家庭が滅びるのであり、政府と国民が反目し、嫉視すればその国が滅びるのであり、世界自体にそういう立場の国が集まると世界がみな滅びるのです。これは歴史が証明する原則ではないかというのです。

 皆さんが普遍的に見る時に、互いに分立的な考え方が強いでしょうか、全体的な考え方が強いでしょうか。考えてみなさい。分立的な考え方を完全になくさなければなりません。それで神様は、そのようなことをなさらないではいられません。歴史上に神様がいらっしゃるならば、そのようなことをなさらざるを得ないというのです。

 互いに反目し、嫉視すれば、皆さんが死ぬだけでなく神様御自身も不幸になるので、神様もやむを得ずこの人間世界の前にこういう事をするために歴史過程に宣布がなければならないのです。人間世界に神様が生きることができ、人間が生きることのできるただ一つの方法が何かといえば、根のために生き、根のためにある私になれというのです。このような宣布をせざるを得ません。

 それで神様は、宗教を通して今までそのみ業をなしてきていらっしゃいます。神様を絶対的に、自分の生命よりも重要に感じなさい。そういう観念がなければなりません。イエス様もゲッセマネの園で祈ったことを見れば、「私の思いどおりにではなく、お父様のみ意のままにしてくださいませ」と、このように結論をつけたのです。

 なぜそうしたのかといえば、思想と理念のすべての起源はイエス様ではなくて、神様であるためです。イエス様は枝であって根ではないために、枝は死んでも根さえ生きていれば新しい枝は出てくるのです。結局は推理してみればその思想だというのです。他のことはありません。共同運命だというのです。

 共同運命の生命的な秩序は根からであるので、それが一番貴いのであり、その次には幹が貴く、その次には順次的に枝が貴く、その次に葉が貴いのです。

 こういう観念の中に立っている私たち個体である人間が、自体を中心として価値を議論することは正当なことではあるけれども、このすべてのことが分からずに、考えもしないで自分を中心とした価値を論ずることは非正常的だという結論を下すことができます。それは今後除去されるはずです。また、除去しなければなりません。そうしてこそ世界が生き残るのであり、天が幸福であり得る世界をつくりあげることができるのです。

 皆さんは今までどんな観念を中心として生きてきましたか。私を中心として個人主義的に「私がうまくいくべきだ。すべてを無視して、すべてを踏んでも私がうまくいくべきだ」という考え方でした。こういう考え方をもってはいけないのです。「根と幹と枝と全部の葉に代わった私」だということを公認しなければならないのです。そうでなければならないというのです。

 「木の中で葉である私が絶対的だ。私によって木が生きられるのだ」というのはかまわないけれど、「幹とか枝とか根とか……。神様がどこにいるのか。国がどこにあるのか。家庭がどこにあるのか。みないなくても、私だけいればよい」というのは、完全に自滅することなのです。

◆人類を救援する思想


 ではこれから国も生きられて、この国が今後永遠な国として残ることのできる道とは何でしょうか。根と枝と全体のために尽くせる国になり、その中にある葉として全体に代わることができ、世界性を身代わりすることのできる人格をもたなければなりません。そのようなことを主張するならば、それは堂々とした主張です。本来は、そのために個人を重要視するのです。そのような立場では絶対的な私の個人主義はかまいません。そうしないで、国が死ぬのに家庭がありますか。父母がありますか。また、そこに親戚観念がありますか。私たちが犠牲になりこの国が犠牲になっても、世界を生かすべきだというそのような主張がなければならないというのです。

 この世界が懇切に探しているのは、自身のために、あるいは国のために生きるよりも、世界のために生きることのできる人です。そのような運動が、この世界上に現れなければこの世界は滅びるという結論が妥当なのです。そういう主張をして出てくるのは統一教会しかないというのです。

 先生が皆さんを教育する時、「自分のために生きる人になりなさい」という教育は絶対しませんでした。「私が犠牲になってでもこの枝を残すべきだ」「家庭のために自身を犠牲にしなさい」と言ったのです。私たち教会が一つの枝だというようになれば、この教会はこの国のために尽くし、また世界のために犠牲になりなさいというのです。また、一つの国をもつようになる時には、その国を犠牲にしてでも世界を救おうというのです。

 現在世界にある国家を見れば、外交問題を扱う外交官たちがすべて何をしたらよいと考えるのかといえば、他の国を欺いて倒してこそ良くやったと考えます。そうすれば、その世界がどのようになるかというのです。希望がないというのです。私たちは個人が犠牲になり家庭を残し、家庭が犠牲になり氏族を残し、氏族が犠牲になり民族を残し、民族が犠牲になり国家を残し、国家が犠牲になり世界を残し、世界が犠牲になり神様を残そうというのです。

 そのようになる時、皆さんが滅びますか。この枝が滅びますか、幹が滅びますか。そこには繁栄があるのであり、幸福の起源が現れるはずです。そのようにしてこそ統一がなされます。そうでなくては世界を統一する道がないというのです。それで私は家庭に帰って、家庭は氏族に帰って、根に戻ろうというのです。

 それでは、その一つの葉が一人で戻ることができますか。すべての幹の津液が合わさってこそ戻ることができる道が生じるのです。それで根とやりとりしてこそその大きな動き一つから小さな動きまですべて合わせて、そのような立場を運行します。全体が根と円満にやりとりすることができてこそ、理想的生命の木が生まれるのと同じ結果を私たちが追求できるのです。世界を発展させることができることがあるならば、根のために尽くせというのです。

 自分自体から東に伸びた枝は、西のために与えなければなりません。西のために与えるだけでなく南に、北に与えなければなりません。それだけでなく、上下に与えなければなりません。茎が育つところにおいて、枝がなくても育つことができますか。そのような観点で世界的な主導的役割を果たさなければならない国は、枝となる国のためになければならないことは当然の論理だというのです。それゆえ世界のために尽くしてこそ幸せに暮らせるのです。そうしてこそ国を築こうとする神様のみ旨が世界のみ旨として成し遂げられるのではないかというのです。

 皆さんがより高い枝のために生きようとするなら、皆さんは家よりも国のために、国と共に生きなければなりません。ではこの国は何のために生きなければならないでしょうか。世界のために生きなければなりません。また、この世界は何のために生きなければならないでしょうか。神様のために生きなければなりません。そのようになっていますか。

 皆さんは今まで自分自身を捨てて生きられる家庭を見つけることができなかったというのです。家庭を捨てて生きられる一つの教会を見つけることができなかったというのです。教会を捨てて頼って生きられる国を見つけましたか。国を捨てて頼ることのできるその世界を見つけましたか。また、世界を捨てて頼ることのできる神様を見つけましたか。見つけることができなかったというのです。このように頼ることができて、私のために与え保護してくれることのできるところでのみ幸福があるのです。完全な理想的主体を探さなければならないという言葉がそこで成立するのです。

 こういう観点で考えてみるとき、先生のこのような思想は人類が滅びても、今までの歴史が変わっても、いずれにせよ人類がもつべきことであり、私個人が滅びて私の家庭が滅びても、この思想を残しておかなければならないというのです。私一人失うことによって何百倍、何千倍を探し出すことができるというのです。これは驚くべきことなのです。

 誰でも利益が残れば喜ぶでしょう? 利益が間違いなく残るとすれば、資本金や自らの財産でも洗いざらいはたいてしまうのです。利益が残るなら誰でもするのです。それが賢い人だというのです。

◆理想的な道


 この思想で世界を一つにすることができます。それが可能か、そうでないのか。それは既に実験が終わりました。韓国でテストしてみたし、日本に対してテストし、アメリカのような国でもみなテストをしてみました。レバレンド・ムーンを起源とし、五色人種が一つの垣根の中で新しい家族をつくり、新しい世界をつくるという希望に満ちて共同的な生涯の目的を営むことができ、幸福を探し出すことのできる道を行くと自負する事実を見るとき、これは間違いなく成功するでしょう。

 それゆえ行くこの道はどうなのでしょうか。理想的な道へ行こうというのです。これが理想的なのです。原因と結果、主体と対象関係の因縁を確実に秩序的に展開させていく道が理想だという話をしたのです。根が原因であるゆえに葉は結果です。そのような観点で私はなぜ生まれたのでしょうか。大宇宙のために生まれました。大宇宙のために生まれたのです。私が息を吸うのは世界に代わって吸うのです。かと言って「世界の空気がみな入って来て、世界の空気を私がみな吸い込むために他の人は死ぬ」と、こういう話はしないのです。また、私が空気を明け渡してこそ生きると考えることもできます。神様はそのように考えます。

 では、木はなぜ生じたのでしょうか。私のために生まれました。ですから、私とどれほど近いかというのです。それらがすべて神様の造った自然博物館ではないかというのです。「私が博物館の主人の息子だ。主人だ」と、このように考えてみなさい。そこでのみ、こういう思想的観念を探し出すことができるのです。そのような観念というのは、自分のために生きるところでは見つけることができないのです。それゆえ皆さんが食べて生きることは世界の人々のためであり、皆さんが人のために努力しなければならないという論理が成立するのです。

 どんなに菌があっても、その菌を吸収できる自制力をもつようになれば、それがあることによって私が健康な体だという証拠になるのです。それゆえ菌があることによって、菌を防御できる自制力をもつようになるのです。そのような自制力をもてる健康をもつようになるので、菌があるという事実が有り難いことだと見るのです。

 皆さん、宝物というのは、より価値的な存在は変わらないものではないかというのです。ダイヤモンドは強くて侵犯されず、変わらないところに価値があるのです、金というのは黄金の輝き、変わらない輝きに価値があるのであり、真珠というのは変わらない優雅な色に価値があるのではないかというのです。

 それでは、人間はどんな人間が宝物でしょうか。永遠に変わらないで、永遠に色が同じであり得て、万民が喜ぶことのできる光(色)をもった人が宝物のような人だというのです。ダイヤモンドがそのように硬いのは、自分自身のためではありません。黄金がそのように美しい輝きをもっているのは自分自身のためではなく、全体のために、多くの人が好むことができるようにするためです。それと同様に、「私がそうであるのは私が喜ぶためでなく、全体が喜ぶためだ」と言えばいいのです。

◆私たちが相続しなければならないもの


 きょうの題目が何かといえば「相続者」です。皆さんは何の相続を受けてみたいですか。これが問題です。いかなる相続を受けてみたいですか。完全に私が変わらない相続を受ける前には、私たちに幸福はあり得ません。その相続が個人としては永遠に残ることができ、永遠に不変なそのような価値的な存在でなければなりません。したがって神様が主体ならば、主体がいつでも愛することができる人でなければなりません。

 子供たちもそうではありませんか。子供たちが歌う時、お母さん、お父さんがそれを見て喜べば、子供たちは狂ったように得意になるのです。その場で父母は子供と一つになるのであり、子供は父母と一つになるのです。それが幸福なのです。子供が父母を喜ばせれば愛がもっと来るというのです。愛がもっと来るというのです。人間というのは神様の対象であるゆえに、木で例えれば葉になります。ところが一つの葉でも全体のために、全体を良くするために動くというときは神様も喜ばざるを得ないというのです。

 では、何を相続しようというのでしょうか。全体を相続しようというのです。全部を相続しようというのです。何まで。神様まで。神様までも私のものにしようというのです。神様のものはもちろん、神様の生命、神様の愛や神様の理想を私のものにして、神様自身までも私のものにしようというのです。それ以上の相続はないでしょう。したがってその方の愛、その方の国、その方の世界を私が相続するのです。

 神様のすべての福を受けることのできる方法とは何かといえば、一つの葉であっても全部のために吸収できて与えることができれば良いのです。そうすれば、すべて来るのです。葉の中でそのような葉があれば、幹や枝も引っ張ってくることができるというのです。幹までも引っ張ってくることができるのです。

 そのような観点で見れば、宇宙の中心である神様がいるならば、このような思想を中心として天のために、全体の前に天の対象的な価値の存在になると言って、全体に与えようと努力するならば神様が引かれてくるのです。神様のすべての持ち分が移されるのです。それゆえこういう活動をすることによって、福がどこに積まれたとしても、その福を引っ張ってくることができます。

 物質でも、どんな存在もそういう主人、そういう人々を望むのです。こういう観点で見る時に「私はこの宇宙全体を相続することができる資格者だ」と、そのような自負心をもたなければなりません。「私がたとえ葉の立場であっても、私が死ぬ日にはこの宇宙が死んでしまうのだ。私が腐敗して悪くなることは、この木の全体の前に致命傷を与えるということだ」と、こうでなければなりません。そうでなければすべての存在物が讒訴するでしょう。「君、なぜそうなのか」と言って讒訴するというのです。その反面、全体のために生きるときには、すべての霊界やすべての宇宙が称賛するのです。

 本来の、堕落していない時のアダムとエバは、そうでなければならなかったのです。自分が全宇宙のためにあるという存在性を忘却してしまい、全宇宙が自分のためにあると考えたというのです。アダムは最高の完全な人として天地を相続する代表者として登場すべきであり、女性もやはりそのような相対的な存在として登場しなければならなかったというのです。そうしてアダムとエバが一つになることは理想的な父母になると同時に、理想的な王になることではないかというのです。

 それでは、皆さんの欲望とは何でしょうか。自分が完全な人になることであり、理想的家庭をもつことであり、その夫婦が王より高くなることです。また、女性は女王になることです。

 そうして何をしなければならないでしょうか。神様を所有しようというのです。神様の生命を私の生命とし、神様の愛を私の愛とし、神様の理想を私の理想とし、神様と永遠に共に生きようというのです。それが私たちの最高の理想だというのです。

◆人間の最高の理想


 神様は全世界のために生きる方です。神様はどのように愛するのでしょうか。全世界を共に愛します。神様はどうすれば幸福なのでしょうか。全世界の人々が授け受けながら喜ぶのを見て幸福を感じます。神様はそのように生きていらっしゃるのです。

 ところが、私たち人間は堕落したために、幹が分かれてしまいました。ですから、これを殺してしまって肥料とし、逆にして上がっていかなければならないのです。これを逆に発展させようとすれば、私より全体のためにもっと生きなければなりません。私より全体により尽くすことのできる理想がなくては上がっていく道がないというのです。私たちは個人的に強力でなければならず、家庭的に強力でなければならず、氏族的に強力でなければなりません。そうして逆に貫いて上がっていかなければなりません。

 それで地上天国まで根を下ろさなければなりません。神様の理想に接ぎ木をしなければなりません。それで最後には神様を中心として神様のすべてを相続すると同時に、地上の天国と天上の天国を相続しなければなりません。それが私たちの希望なのです。神様だけを相続しては世界が掛け離れてしまうというのです。神様を相続すると同時に地上の天国を、この世界の人を相続して天上の天国を相続しなければなりません。

 皆さんもそうではありませんか。誰よりも自分のために生きる人に引っ張られたいし、一つになりたいと思うでしょう? そうでしょう? 同じだというのです。神様を知り、神様をより愛して神様のために尽くすようになれば、神様も私たちと一つになろうとするというのです。そのようにして神様がもっている愛と神様がもっている地球、この宇宙をみな相続しなければならないのです。

 そうするには、神様のために誰よりも尽くさなければならないし、人類歴史上のどんな主権者や、どんな忠臣、烈士よりも忠誠を尽くして、この世界に忠誠できる人々にならなくてはならないという結論が出てくるのです。

 それゆえ、私は神様が考えられず神様が見たことのない愛の刺激を、相対的な立場で発動させることのできる主体性をもたなければならないのです。そのようにして神様の願いの地上天国、天上天国を成し遂げて受け継ぐべきです。そういう神様が永遠であられ、そういう国が永遠なために、私が永遠になり、私の家庭が永遠で、私の氏族が永遠であり、私の教会と国家が永遠であり得るのです。このような同一体のような一つの共同目的を中心として動く地上実体基盤になってこそ、そこから地上天国が形成されるのではないかというのです。

◆

神様の息子、娘として宇宙の相続者になれ


 ですから皆さんが「神様は私の神様だ」という自負心をもてというのです。そうでなければなりません。「先生の神様にもなるけれど、私の神様にもなるのだ」と、こうでなければなりません。ある意味では「私がより大きく進めば、先生より私にもっと近い神様にすることができる」と、そのようにしなければならないのです。枝が曲がったとしても、それを今からでもまっすぐにしなければなりません。

 神様が皆さんに願うことは、御自分を相続して地上天国と天上天国を引き継ぐことですが、先生が皆さんに願うことは、先生よりももっとまっすぐであり得る皆さんになることを願うのです。皆さんが神様を先生よりも愛するからといって「何だ、これは。こいつ」と、そうは言いません。「早く行け、早く行け」と言いながら、私がどいてあげるというのです。

 先生は、すべてを皆さんに与えたいのです。先生よりももっと深刻で、神様よりももっと深刻でありなさい。そうすれば、すべてを受けることができます。神様よりも深刻ならば、神様のすべてを所有できるというのです。一度にみな受けます。一度にみな受けるというのです。それは話だけでなく、皆さんのやることにかかっているのです。

 この全体を相続しても余るのは、神様よりももっと深刻で、先生よりももっと深刻ならばよいというのです。そうして天地のために生き、神様のために生き、み旨のために生きる道だけがすべてを私のものにできるというのです。

 神様が今まで歴史的に数千年反対を受けながらも後退しましたか。先生は一生の間反対を受けても後退をしなかったのです。どんなに困難があっても戻ろうとはしませんでした。直行しようとしました。僕は戻ろうとするけれど、永遠な主人はまっすぐに行こうとするのです。私が正しい道を行けば、後代の子孫が楽に行くことを知っているためです。そのような意味で先生は世界的な先頭に立って、直行の道を行こうとする男です。

 先生が機関車になったので、皆さんは列車になってついてきなさい。そうするには、先生が行くとおりについてこなければなりません。上がっていくことができれば上がっていくべきであり、「私は上がっていかない」と、こうではいけません。下りていくところで「私は下りていかない」と言えますか。けれども目的地に行けば、荷物を下ろして休む日があるだろうというのです。それゆえ今行くのです。

 機関車は何も積まずに、ただ「シュッシュッポッポッ」といいながら火をたくことだけしました。荷物は積まず、そこではほかのやり方でしますが、一箇所では荷物を積んだというのです。それによって、結局はすべての物が移されるのです。機関車には荷物を積まないのです。皆さんが汽車に乗って遠くへ旅行に行ったとすると、「ああ機関車によって私がここまで来た」このように考えますか。客車ゆえに来たと考えるのです。

 しかし根本を正してみれば客車が連れていったのではなく、機関車が連れていったのです。一つであるがゆえに、それは共同体と同じだというのです。客車と機関車は一つです。一つと見るために全体を愛するのです。手を愛する人は「ああ! 手が美しい」という心で見るように、全体をそのように見るのです。

 先生が「ポッポッ」と言えば、皆さんはブウンブウンと、こうしなければならないのです。皆さんと先生が合わさって、宇宙の相続を受けるその日を迎えることができるならば、どれほど素晴らしいかというのです。皆さんすべてが、そのようにできる相続者になるよう願います。
















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訓教経(下)029



文鮮明先生のみ言集

訓教経(下)



心の鐘の音


一九七九年一月二十八日
アメリカ・ニューヨークのベルベディア修練所 『文鮮明先生み言選集第百三巻』


 きょうは「心の鐘の音」という題目で、み言をお話しする時間をもとうと思います。皆さんが夜、高い山に登るか、あるいは飛行機に乗っていきながら都市を見れば、多くの明かりが見えるはずです。そこに青い明かりや赤い明かりがあれば、その明かりが一際目立つでしょう。また、その中に大きい明かりがあれば、一際その明かりが目立つようになっています。

 このように私たち人間自体について、霊界から見れば、あるいは神様が御覧になれば、それと同じであるということを考えるようになるのです。

◆電球のように光を放つ人間


 人間の心自体は、人間を代表しています。誰でも心のない人はいません。人は心を中心として生きているのです。

 それでは、その心自体が明かりと同じならば、そこには電球がなければならず、その中にはフィラメントがなければなりません。内外が整っていなければならないのです。

 電球が光を放つということは、その電球自体で放つのではありません。見えない背後に、発電所と連結している送電所を通して連結している、ということを私たちは考えるようになります。それでスイッチを入れれば、電気が来て明かりがつくのです。

 それなら、その電気は電球の中にあるのか、どこにあるのかということが問題になるのです。明かりがつくようになるときには、電球の中にもあるけれど、連結されたどこにでも電気があるのです。電気に対して知らない人に「電気はどこにありますか」と尋ねれば、「あのスイッチにある。電気はあそこにある」と答えるでしょうが、その根本は発電所にあるのです。発電所にあるものが、連結されているだけだというのです。

 発電所に行ってみれば、そこでは電気の明かりを放つために、大きい図体の鉄の塊が回っているのです。水力発電は水を引き渡す導管があって、大きな滝を利用することもあるのです。その次に火力発電は、石炭をコンベヤーで運んで、火をたいて蒸気を出して回さなければなりません。普通、電気の明かりの下で勉強する人、あるいは電気の明かりを見る人は、そのようには考えません。なんでもないことと考えるのです。このように見るとき、その電気の線というのは、遠ければ遠いほど、そこには多くの功(誠意)が込められているというのです。数多くの犠牲が払われているということを私たちは考えるようになります。

 皆さん、その電球を見れば、電球が割れても使えなくなり、タングステンでできたフィラメントが切れても使えなくなるのです。それを何度も感じるというのです。電球が割れるのは人に例えれば、死ぬことと同じだというのです。また、その中にあるフィラメント、心のようなそれが切れてもやはり同じです。このように考えてみるとき、皆さんも結局一つの電球のような人間として映って存在しているのだろうと、このように考えるようになります。

◆人間は何によっても倣うことのできない、太陽の光を願っている


 それなら、人間には何ボルトに該当する電球を取りつけることができるでしょうか。電球が固定された小さなものなのか、大きなものなのか。または、私の後ろには、何ワットの明かりがともることのできる線がついているのかということを考えてみましたか。まず電気の線が太くなければなりません。それで「重くて行くことができない。ああ、これは重いなあ」と、このように感じなければなりません。皆さんはそのように感じてみましたか。電線が太ければ太いほど、何万、何億ワットの電球も取りつけることができるのです。線があってソケットがあって、そのソケットはいつも電球を取り替えてつけることのできる装置になっているかということが問題だというのです。

 このように考えるとき、私たち人間をソケットや電球のようなものに比較するならば、皆さんはいかなる立場かということを考えずにはいられないというのです。これを考えてみるときに、私たち人間が生まれて育つすべての過程が、電球とかソケットを取り替えることと同じだというのです。線を太くし、ソケットを大きくして、高いワットの電灯を取りつけるために準備することと同じなのです。

 そうすることは、易しいことでしょうか。「まあ、私は楽に座ってただ明かりを見ていればいいだろう」と言って見物する人には関係ありませんが、本当にそのような立場に立とうとするなら、それはやはり難しいことなのです。

 ところで、人々の中には小さな明かりをもって、ただ自慢しようとする人がたくさんいます。「これが私だ、私。これだ、これ」このように自慢しようとするのです。もし千カンデラの電球があるときに、それをここに一つつけておけば、小さな明かりはみな必要があるでしょうか。必要がないというのです。あってもなくても同じです。かえって厄介で、障害になりやすいのです。そのようなことを考えるとき、神様も同じ思いをされたことでしょう。それで神様は、この宇宙に太陽を造っておかれました。全くまねすることのできない光を造っておかれたというのです。

 私たちに電気が必要なのは、夜があるためであり日陰があるためです。それでは皆さんは電気が必要ですか、太陽の光が必要ですか。私たち人間には、太陽の光がより必要だというのです。なぜならそれ以上はないためです。いくら電球を千個、万個持ってきても、太陽の光の下では無用の物になるのです。

◆神様の心のような純金の心の鐘を鳴らさなければ


 私たち人間世界を見れば、「心の光」という言葉をたまに使います。それがどれほど詩的でしょうか。「心の光、心の光」とそのように言うこともできるのです。それと同様に、きょうの題目は「心の鐘の音」です。では鐘の音とは何でしょうか。知らせるものです。

 皆さん自身も見てみれば、皆さんの心を明かりに例えると、電球のように表示され、音に例えれば、鐘と同じようなものをもっていると、このように言うことができます。電気の明かりがどんなに必要でも、ソケットにつなげなければならず、鐘がどんなにあっても打たなければならないというのです。

 皆さんも心をもっているでしょう。その心の鐘を誰が鳴らしてくれるのかというのです。皆さんは心が作用するのが分かりますか。心はどんな夜中でも、良いことをすれば「良い!」といい、悪いことをすれば「こいつ!」という作用をするのです。

 私たちの心を見れば、皆さんにも心がありますが、皆さんの先祖にも心があります。するとその先祖の先祖の心、心……とずーっと上がっていくようになれば、この宇宙の中心となる何らかの神様がいるならば、その神様に心がありますか、ありませんか。あるというのです。

 すると神様の心と皆さんの心とはどんな関係でしょうか。それは電気と同じです。神様を発電所とすれば、皆さんは一つの電球と同じだというのです。

 電気はプラスとマイナスが、よくやりとりしなければならないのです。二つが一つにならなければならないのです。完全に一つにならなければならないのです。目も二つあるのですが、二つの目の度数がよく合わなければなりません。視神経に入って、角度が焦点によく合わなければならないのです。この耳も同じです。片方が強く聞こえて、もう一方が弱く聞こえては駄目だというのです。同じに聞こえなければなりません。波動数が同じでなければなりません。

 それで障害がないほど、明かりは明るいというのです。障害がなければ、元の発電所の電気量と全く同じになるというのです。全く同じになるには、消耗するもの、電気でいえば抵抗といいますが、抵抗がなくならなければならないというのです。この抵抗というものは電気をつかまえて食べてしまうのです。皆さんも同様だというのです。体と心が純金のように一つになっているのか、そうでなければ木の切れ端のようになっているかというのです。これは純金から純銀、純銅、純鉄、このように多くの系列があるのです。千態万状の系列があるのです。

 ここで電気が願うこととは何でしょうか。全部が純金を願うというのです。純金は堅固で丈夫な大路と同じです。木や石のようなものは絶対に嫌うのです。これと同様に、人も心を通じて電気がすーっと入ってくるようになれば、ベルの音が鳴るのです。心の鐘の音が鳴るというのです。その鐘が一〇〇パーセント純金で完全ならば、神様はその鐘の音を千年、万年聞いても「ああ! いいなあ」と言われるのです。

 皆さんからもすべて心の鐘の音が鳴り響くというのです。自分なりにすべて鳴り響くはずです。ある人は割れた鐘、つぎはぎの鐘、あらゆる鐘がみなあるはずです。その鐘が割れたのか、故障したのか、何がどうなっているのかも知らずに生きている人々がいるというのです。

◆聖人は純粋な真の鐘を鳴らした人


 このように皆さんは一生の間、心の鐘の音を鳴らしながら生きているのです。これを中心として皆さんの心を鳴らしてくれる人がいるでしょうし、近所に鳴らして郡に鳴らす人がいるでしょうし、すべて違うはずです。家でも同じです。家でも正しい人、その家で信じられる人、信用できる人が「やあ、こうしよう」というときには、みなそれを聞いてくれるのです。

 長い歴史時代に数多くの人々が生まれては死んでいきました。ところが、彼らがどの程度の鐘をつくったのかが問題です。その鐘でどれほど鳴らしたのかということが問題です。

 このように考えるとき、今日、学問でも哲学でも宗教でも真の真理だと考えるすべては、この心からにじみ出た一つの表現です。すべて心の表現だというのです。それが純粋で世界的で歴史的なものならば、それは必ずその国の博物館にもっていって保管するようになっています。

 そのように考えてみるとき、今日人類歴史の中で、私たちが記憶できる人々、あるいは歴史の中で追慕する人々とはどんな人でしょうか。このような、純粋な真の鐘を鳴らした人々です。それでは、どんな人が歴史的に残ってきたのでしょうか。力が強かった人ではありません。お金をたくさんもっていた人でもないというのです。

 このように考えてみるとき、それでも歴史の中に残っている聖人とはどんな人物でしょうか。その聖人を語れば、彼らが歴史時代に何世紀、あるいは何千年を代表して鳴らした鐘の音が良いために、それをすべて見習って「私もいい。私もいい」と言って集まったのが一つの宗教文化圏だというのです。

◆真の生命と人格と愛と神様を教えてこそ真の聖人


 それなら聖人たちの中で、本物の聖人とはどんな人でしょうか。これを考えてみなさい。聖人は何を教えなければならないかといえば、真の生命、真の人格を教えてくれなければならないのです。その次には、真の愛を教えなければならないのです。人だけではなく、真の人格の神様までも教えなければならないというのです。

 聖人という人々をじっくり見れば、みな宗教指導者です。教主だというのです。それがなぜそのようになるのでしょうか。彼らは永遠を中心として、歴史を越えて新しい理想を教えてくれ、歴史上ですべての理想をもたらしてくださる神様を教えてくれたからです。それで、その宗教に集まるようになるのです。

 一時的な人、一生を目標に生きた人間は、みな流れていってしまうというのです。それは動物世界も同じです。しかし人だけが違って、永生しようというのです。永生するには悪い人が永生するのではなく、真の人だけが永生するのです。

 ロックフェラーが死にましたが、その人が真であれば真であるほどに反応が大きかったはずです。そのロックフェラーが真なる人であったならば、アメリカの国民が「ああ、我が国がなくなっても、その人は生きていなければならなかった」とこのように話したでしょう。さて、見てみなさい。ロックフェラーはアメリカの副大統領もして、アメリカの国民が知らない人はいないのに、死ぬと「ああ、死んだのか」と、こう言っているというのです。けれども、イエス様という人は、二千年前に十字架にかかって死んだのに、今でも記憶しながら泣く人が多いというのです。どれほど差がありますか。

 では、何が違うのでしょうか。人の外貌が違いますか。外貌はみな同じです。その心の反応として現れたすべての教えが世界のためのものであり、宇宙のためのものであり、歴史のためのものだったというのです。

 このように考えてみるとき、人は歴史について、永生を中心として十年、百年だけではなく千年、万年、億千万年を考えるようになるのです。人が死ねば動物と同じなのに、それを残してどうしますか。近ごろは、宗教を信じないで神様を知らない人も「ああ、名誉を残さなければならない」と言いますが、その名誉を残してどうしますか。愛国者になって記念館に行っても、国が滅びるようになれば記念館もみな壊れるというのにです。名前を残してどうしますか。ですから、滅びたり興ったりする歴史時代に、どんなに良いものを残してみたところで、その良いものも悪く取り扱われることがあるのです。

 一つの国の主権者は、百年も生きることができずにみな死んで、国も何百年、何千年も続かずに滅びますが、永遠に死にもせず、滅びない方がいるとすればどうでしょうか。そのような方がいるならば、自らの名前と名誉をその方の前にすべて任せて依託したいはずです。

◆神様のひとり子であるイエス様も相対を迎えなければ


 神様がいるならば、神様はそのような方です。その方は歴史の主人であり、存在世界の主人であり、永遠に全体を管理する主体者です。このような何かがあるために、心はそれを知っているので、その方に依託し、その方の管轄下に残るために私たちの心の本性が作用するのは間違いないということを知らなければなりません。

 それではお金が必要でしょうか。それはこの世界の物の中の一つです。ただあるものなのです。特に貴いものではありません。しかしながら、人はただいるのではなく、新しく生まれなければならないのです。

 すると聖人たちは、どうして今日人類の心のともしびになり、すべての人を糾合できる源泉になったのでしょうか。こういう問題について考えてみるとき、それは永遠性をもって不変性を論じたためにそのようになったのです。

 そのような聖人は東洋にもいたし西洋にもいましたが、聖人たちの中の中心は誰かというと、イエス様です。どうしてイエス様なのでしょうか。その時代でいえば、イエス様は有名でもなかったはずです。

 では何ゆえに聖人の中で一番なのでしょうか。それを知らなければなりません。なぜなら「私は(神様の)ひとり子だ」と語ったためです。ひとり子は神様の初恋を独占した人です。

 人が嫁いだり、妻をめとって赤ん坊を生むとき、二人目の赤ん坊より初めての赤ん坊を生んで愛するときはこの上なく愛するというのです。私たち人間でさえそうなのに、神様はどうでしょうか。同じです。それでイエス様は一〇〇パーセントの愛を受けて、また「愛の枝を初めて人類世界の前に、私によって伸ばす」という考え方をもったというのです。

 それでは、ひとり子は何をするのでしょうか。イエス様は自分が一人の息子であるのを考えたと同時に、一人の娘を考えたというのです。神様がいらっしゃるならば、神様が愛の神様ならば、一人の娘がいてこそ「ああ、公平な神様だ」と公認されるのです。

 神様は一方の脚だけあるのを好むのではなく、両方の脚がすべてあるのを好むというのです。それでイエス様は「私はひとりの息子だから、ひとりの娘を探さなければならない」と考えたのです。ひとりの娘を探すことができなかったがゆえに、死んでいきながらも「新郎としていつか新婦を探しに来る」と、このように語ったのです。

 今日、キリスト教徒たちにおいては、男性も「私は主の前に新婦だ」と言うのです。どうして男性が新婦になれますか。教会が新婦になれますか。教会が新婦になるという、そのようなことがどこにあるでしょうか。

 するとイエス様は王の王なのですが、「王の王であるその人は、男やもめでなければならない」という法がありますか。その方には相手がいなければならないというのです。

 王の王なるイエス様が、王位に就かれて教育するのに「君は私のように、一人で暮らすのが良い」と言うでしょうか、「君たちのように、二人で暮らすのが良い」と言うでしょうか。二人で暮らすのが良いと言ったはずです。それゆえイエス様が妻をめとらなければならないという話は、極めて原理的なのです。

 では、先生が「イエス様は妻をめとってはならない」という話をするのを、イエス様は喜ばれるでしょうか。イエス様の立場でじっくり考えてみてください。どうでしょうか。イエス様は誰の息子ですか。神様の息子でしょう。すると男性は誰がつくりましたか。女性は誰がつくりましたか。その男性、女性の二人をつくったのは、一つになって生きなさいということなのです。それは最高に神聖なことです。最高に神聖だというのです。

 神様がアダムだけをつくって「良し」と言われたのではなく、エバまでつくっておいて「良し」と言われました。なぜでしょうか。神様も良くて、アダムとエバにも良さそうだったので「良し」と言われたのであり、神様だけ良くて、アダムとエバが良くなければ「良くない」というのです。今までの数多くの宗教、つまり、キリスト教とか仏教とかはすべて独身生活をしてきましたが、先生は「独身生活は罪だ」と、このように話しています。

 その次にイエス様は何を言われたのでしょうか。この世をサタン世界であると見て、「この世の中では求めるものがない」と言われたのです。この世にどんなに良い話があり、いくらどんなものがあっても、耳に留めるものはないというのです。自分が一人の息子として、一人の娘を中心として、一つの家庭を考え、一つの国家を考え、すべてそのように考えたのです。ですから聖人たちの中心になることができるというのです。

 今日では、みんなが自分を主張しているのですが、聖人たち同士でも「君が中心ではなく、私が中心だ」と言い争って主張し、「私が優れている」と言うのではないでしょうか。そういうこともあり得るのです。皆さん同士でも、お互いに負けまいとそう言うでしょう。小さな子供たちもそうです。

◆聖人の中心に認められたイエス様


 すると、誰がそれを認めなければなりませんか。どんなに聖人同士で認めてもいけません。聖人を監督することのできる中心的な神様がいるのならば、そのお方が認めなければならないのです。

 神様がそれを認めるとき、神様の気に入らないのに、ただ争いをやめさせるために認めるでしょうか。そのように認めなければなりませんか。神様が争いをやめさせるために「誰が中心だ」というのではありません。事実がそうなので、中心を決定するのです。神様が公認しようとするなら、神様もすっかりとりこになれるものがなければなりません。つまりそれが愛だというのです。神様にはお金、知識、権力、すべて必要ないのです。すべて必要ありません。

 人として生まれた男性の中でイエス様が「あなたの前に私はひとり子である」と言ったこの言葉が神様の耳にぐっと入ってきたというのです。とても気に入ったのです。神様が「君がひとり子かい?四千年の歴史時代に生まれた人類が神様を父であると信じてきたのに、その中でも君が一番だというのか。君がユダヤ教のモーセよりも、アブラハムよりも、もっと素晴らしいというのか」と言われたときに、イエス様は「イエス、イエス(はい、はい)」と言ったはずです。

 神様は「それじゃあ、どのように私に証明するつもりか」と言われました。するとイエス様は「彼らは天に反することもあり得、背くこともあり得、千回、万回変わることもあり得るけれども、私は億千万年過ぎても変わりません。絶対的です」と、こう言ったはずです。

 そのひとり子の思想を中心として、切っても変わらず、もう少し大きく切っても変わらず、もう少し大きく切ってもなくならず、全体を切ってもなくなりませんでした。二つに切れば、ひとり子が二つに分かれて、十に切ればひとり子が十に分かれるのであって、変わらないというのです。絶対的だというのです。イエス様の観念は絶対的です。誰も自分の立場の候補者になり得ないと考えたのです。そのような人が今までいませんでした。また、そういう女性もいませんでした。

 そうすれば、イエス様はひとり子なのですが、ひとり子であるという人が、この地に現れたというのはどういうことでしょうか。絶対的だというのです。「私は間違いなくひとり子である。細胞を一つ切ってもひとり子である。このような決心とこのような自負心は私が一番である」。このように考えたというのです。「神様、私に命令だけ下してください」、これは命令さえ下せば、どんなことでもするということです。

 そのような意味で、イエス様はひとり子だというのです。聖人の中で愛をかけて一番であると言った聖人は、イエス様のほかにはいません。彼らはこの世の中で、もう少し努力してみようとは言いましたが、根本的に覆そうとはしませんでした。他の聖人たちは、根本的に改造しようとはしなかったのです。適当にある国をよく治めはしましたが、根本的に間違っていると否定して、新しく神様の愛を中心として出発しようとはしなかったのです。

 イエス様が言われたのは「私が知っているのは、神様と自分しかありません」、また「これから私の手で神様を愛することのできる、一人の娘をつくります」ということでした。そうして息子、娘を生んで、新しい家庭をつくり、新しい氏族をつくり、新しい民族、新しい国家、新しい世界を創建しようというものでした。

◆神様の前に自慢できるのは愛の実績しかない


 イエス様の時になってようやく、このような鐘の音が鳴ったというのです。それゆえ、その鳴り響いている鐘の音が、この地上の平面世界だけではなく、神様の胸と神様の愛まで動かしたというのです。神様の心の鐘の音を大きく鳴らせることができたのです。イエス様が鳴らしてくれるその心の鐘の音に、神様は気分が悪かったのではなく、良かったというのです。愛の鐘の音だったからです。

 神様が好きなものは何でしょうか。生命ですか。神様は永生され、すべての生命の源泉であられるので、必要ないというのです。では知識でしょうか。神様は知識の王であり、知識の主体です。では権力でしょうか。神様は膨大な宇宙を動かす大きな権能者です。その次にはお金も、何も神様には必要ありません。

 神様が願われるのは、愛に酔いしれることです。この愛は歌って踊る程度ではなく、それ以上に良いというのです。神様の威信とか体面もみな忘れてしまい、無条件に「良い」と言われます。神様はそれが一番良いと言われるのに、世の中がすべてそうだと言っても、誰も悪口を言う人はいません。愛には高いもの低いもの、広いもの狭いもの、大きいもの小さいものがすべて一つになるのです。

 神様に「私は献金をたくさんしたので、出世するようにしてください」と言えば神様は、金銀財宝のある天国に引っ張っていって「こいつ。お前、ここを見てみろ」と、そう言われるのです。そこで自分の出したものは、紙切れ一つにもならないというのです。それから、私が神様のためにこのようにして、何をして……と自慢すれば、それは神様が今まで復帰摂理歴史をなして来られたことに比べれば、ほこり一つにしかならないというのです。「私を認めてください。私に福を下さり、天国に送ってください」という資格はありません。

 神様の前に自慢するすべてのもの、苦労もたくさんして、金銀財宝も多いけれども、探してみると私たちには、愛したという実績がないというのです。神様が愛したということ、神様が好んだということ、神様の愛を中心として愛したということがないのです。

 その愛の限度はどの程度でしょうか。サタン以上に人類を愛することができ、自分の父母、自分の国のどんな君主以上に愛することのできるそのような愛だというのです。神様が勝利したというしるしは、その愛を探し出したときに結論がでるのです。それ以上のものはありません。

 そうすれば、すべての人類は今競争するのです。この愛を中心として、誰が本物の愛をするかという競争をします。韓国とアメリカと競争し、白人と有色人種と競争し、みな競争するのです。

 神様はお金、文化、そのようなものは見ません。愛をもって見るのです。愛の眼鏡をかけて見るために、愛以外のものは見えないというのです。それで神様は、「愛というものがあの電気の明かりのように明るかったら良いのに」と言われるのです。

 皆さんはレバレンド・ムーンと神様とが、どういう関係なのか知っていますか。私が好きで愛するようになると、殴られても良いし、何と言われても良いというのです。本当にそうならば、皆さんは「私に悪口を言って殺しても良い。私が良いというのだからどうしようもありません」というのです。それが本当に愛することです。

 聖書を見れば、イエス様が「神様、どうして私を捨てられるのですか」と何がどうだと大騒ぎしたのですが、私はそのような言葉は良くないと考えます。取り除くべきです。その時そこで「私はあなたから来て、あなたの愛を引き継いだので、あなたの愛のために栄光の中でこの道も行きます」と言えば、それがどれほど素晴らしかったでしょうか。

 先生は監獄に行っても祈祷をしません。難しいときは、祈祷をしないのです。「私のいる立場は家庭の立場なのですが、神様の願われることは、家庭を犠牲にして氏族を探すことであるので、私は氏族を探すために私の家庭を犠牲にします。今日、統一教会に世界の人、五色人種がみな来たので、これらを犠牲にして、世界人類を解放すると同時に霊界を解放いたします」と、そのような祈祷をするのです。人類に神様が縛りつけられているので、これを解くためには、人類を解放しなければなりません。そうしてこそ、神様は解放されるのです。

◆愛の鐘の音は大きいほど響いて良いもの


 このように見るとき、人類歴史の中で数多くの人々が自分の鐘を鳴らしていき、自分の明かりをつけていったのですが、その中で世界を覆って永遠に残ることのできる鐘の音はどんな音であり、その光はどんな光でしょうか。真の愛の鐘の音です。これをどれほどもったかということによって、天国で自分の権限の設定の可否が決定するのです。

 この世界で小さな鐘、億千万個を「カンカンカン!」と、どんなに鳴らしてみたところで、大きな鐘が「グワン!」と鳴るときには、この鐘の音にみなかき消されてしまいます。それは愛を中心とした鐘の音だというのです。愛を中心とした鐘の音は、大きいほど響いて良いものです。その鐘の音は二十四時間、寝るとき聞いてもよくて、起きて聞いてもよくて、昼に聞いてもよくて、御飯を食べるとき聞いてもよくて、いつでも喜びます。どこに行こうと、好まない所がないというのです。時間を超越して、時間の世界で歓迎しない時がなく、場所の世界で歓迎しない所がないというのです。

 きょうのみ言の題目は「心の鐘の音」です。私の心に愛の明かりを、愛の鐘の音をもって行く人々は勝利するのです。

 私たちは、愛の鐘の音を鳴らさなければなりません。皆さんは良心の呵責を覚えるということを越えて、人をどれほど愛したのかという呵責を受けてみなさい。そうすれば、心も酔いしれます。心がない、心が作用しない位置に入っていくというのです。無性に良いというのです。無性に良くて踊りたくなり、一人で考えても良く、どこか真っ暗な夜に行っても良く、どこでもふとんをかぶって寄って座っていても良いというのです。ただただ良いのです。御飯を食べなくても良く、寝なくても良いというのです。心が酔いしれます。心が酔いしれるというのです。

 そうすることのできる愛の心の音、愛の心の鐘の音、愛を中心とした心の鐘の音を聞かなければなりません。それゆえ「神様が愛する人がいれば、私の家にいつも貴いものを準備しておいてさしあげなければ」と言って、貴いものをいつも準備するのです。神様がそうだというのです。

 それゆえ皆さんが不平を言う余地はなく、理由を付けて論議非難する余地はないというのです。そうすれば誰が悪口を言っても「ああ、私が君たちを今まで愛してあげなかったので、早く来て愛してくれと悪口を言うんだなあ」と、このように考えるのです。悪口を言って反対しても「ああ!
 あの人たちは早く来て自分たちを助けてくれなかったと、あのように言うんだなあ」と、考えるようになります。「愛を受けるためにそうなのだ」と、このように愛ですべてを解釈するのです。

 「君の家を私が十年前に訪ねていれば、今日このように喜んで歓迎するはずなのに、ああ! 十年前に私が訪ねられなかったのがいけなかった」と、このように考えるようになります。自分が監獄に入っていき、死刑を受ける立場に立つならば「ああ! やっとのことで神様を本当に愛しているという承認を受けられる立場に進めるのだなあ」と、このように考えるようになります。

◆真の愛に対しては誰も讒訴することはできない


 愛はどれほど偉大なのかを知らなければなりません。愛の法度においては、サタンも抗議できないのです。干渉することもできません。愛についてはサタンが讒訴できないのです。他のお金、権力、知識などについてはすべて讒訴できますが、愛の法度、真の愛については讒訴できないのです。神様も讒訴できず、サタンも讒訴できないというのです。

 もともとその法度は、地上にも天にもまだ残っているということを知らなければなりません。お金を持って行くときは「私は君にいくらをあげたのだから、私にいくらをくれなければならないではないか」と、このように考えるけれども、愛はそうではないというのです。愛からだけは、よりたくさん返してくれるというのです。百倍、千倍に返してくれるのです。

 霊界から神様が見るとき、皆さんの心に愛の鐘の音が響く立場に入っていくようになれば、明かりがだんだん大きくなるというのです。その光は五色にまばゆいばかりだというのです。神様の目にはそれがダイヤモンドの輝きよりももっと美しく見えるのです。そしてその輝きだけが良いのではなく、その輝きの中には趣があるのです。それは見るほどに良いというのです。何度も見れば見るほどに酔いしれてしまいます。それゆえ神様は愛という言葉を言うのです。

 皆さんが心の愛の鐘を鳴らして天地を動かし、すべての万民を動かすようになれば、神様も「ああ!」と言って動かすことのできる鐘があるということを知らなければなりません。それゆえ愛の涙をどれほど流したのか、愛のつらさをどれほど味わったのか、それが皆さんの財産だというのです。

 私がどのようにすれば愛の心をもつことができるのかを考えてみましょう。今のこの世の中は、患者たちのいる病院だというのです。堕落した世界は病院で、人々はすべて入院した者です。

◆病んだ世の中に愛の薬を投入して治さねばならない


 病院に入院した人は家にどんなにお金があり、権力があり、知識があるといってもそれが問題ではありません。治ることが重要です。それで、愛の薬が必要なのです。

 愛の調剤、愛の薬を投与する日には、どの社会、どこを問わずすべて生き返るのです。それで治れば、自分の息子、娘も愛するすべを知り、自分のお母さん、お父さんも愛するすべを知り、自分の国を愛するすべを知り、自分の世界を愛するすべを知る人になるというのです。病気が治れば、そのようになるというのです。愛のなかったサタンの網を破ってしまい、愛の世界で活動できる人間の歴史が始まるのです。

 それではその人々を治すことができなければ、どうなるでしょうか。偉大な愛を失って、愛の絶望にあえぐ一番悲惨な立場に行くのです。そこが地獄だと考えれば実感がわくでしょう。そのときは「誰のせいで……、その一言を間違ってこのようになったんだなあ」と言って、ほかの人を恨むようになるかもしれません。

 皆さんは誰かを愛していて、その愛する人が自分を裏切るようになれば、どれほど腹が立つでしょうか。それゆえ皆さんは愛の心をぱあっと開けて、愛の鐘の音を天地に響かせなければならないのです。その愛の鐘の音を聞き、愛の心を受けて、彼らが解放されて病気が治り、彼らがまた愛の鐘の音を鳴らすようになれば、どれほどうれしいでしょうか。皆さんがこの地上でそのようになるのを見て、神様が好むのと同様に、皆さんを通して解放された人々がそのようになれば、どれほど気分が良いでしょうか。

 ですから、皆さんはホーム・チャーチ(Home Church:家庭教会)に行くとき、義務的に行くのではなく、愛の心に満ちて行きなさい。自分の息子、娘が監獄に入ったり、自分の愛する人が監獄に入っているならば、自分が監獄に訪ねていかなければならないといって行くのではなく、我知らず監獄へ行くのです。そのような心情で行かなければならないのです。

 そういう愛の心をもって、愛の鐘の音を聞きながら、私が行くといって行くのではなく、我知らず行かないわけにはいかない所がホーム・チャーチだというのです。そのホーム・チャーチは私を滅びるようにするのではなく、私を天国の愛、神様の愛の相続者になるようにする所なのです。そのようになるためには、天が私を導かれることに対して感謝しなければなりません。

◆霊界で必要とする人


 神様の愛は永遠の愛であり、すべてに勝利できる愛なので、すべてが妨げてもみな越えていくというのです。すべてに勝つというのです。数多くの宗教があり、数多くの聖人が現れ、数多くの人々が自分は優れているというこの世の中で、今日レバレンド・ムーンがこういうことを教えているという事実は諷刺的だというのです。

 先生の教えに従って、愛の鐘を打つ皆さんになり、打っている途中で気力が尽きて倒れたりするときは、それで終わるのではありません。億千万年、億万年が過ぎても、また再び継承して、お互いがこの鐘を打とうとするというのです。皆さんが愛の鐘の音を響かせるならば、その愛の鐘の音は主人がいなくても、億千万年鳴り響いていくというのです。

 風が吹き台風が吹いて、ほこりが目に入り、口に入り、耳に入って、すべてがふさがっていれば、愛というものが入っていかないのです。

 霊界で必要とするものは何かといえば、愛の相続を受けることのできる人です。それゆえ霊界から協助するのです。愛の相続を受けることができるので協助するというのです。

 世の中で歴史時代に心の鐘の音を大きく響かせた人がいるといっても、今日の統一教会のように、このように現世において、砂漠のようなこの時代において、こういう鐘の音を響かせたのは最初であると同時に最後なのです。

 それはどういうことかといえば、希望の時であり、全体が完成する時だというのです。それを私たちは知らなければなりません。それ以上に、何があるでしょうか。そこで演劇をする一つの舞台に、私が一人の芸能人として荷担したという事実は、非常に大きな栄光であるということを知らなければなりません。そのような考え方をしなければなりません。

 私たちが、この鐘の音をより大きく響かせなければならないのです。これが鳴り始める日には、永遠にこの鐘の音がなくならないようにしようと、ひたすらすべての力を出し切るはずです。この国がそうなるはずであり、この世界がそうなるはずです。

 それゆえ、この世の中でどんな声よりも、レバレンド・ムーンの声が一番大きいということを皆さんは知らなければなりません。皆さんは心で愛の声を聞いてみなさい。愛する前にまず聞いてみなさいというのです。愛する心があれば、その愛する心で尋ねてみれば返事をするはずです。それを知らなければなりません。それを発見しなければならないのです。間違いなく返事をします。

 その神様の愛の電気線がそうならば、私は愛の電気線を通して、無線機のように線がなくても通じることのできる装置になっているので聞くことができるのです。それは理論的です。

 私たち統一教会の信徒たちは、家に良いもの、立派なものがあれば「まあ! これは私たちの先生に持っていって差し上げられたら良いのに。御父母様に持っていって差し上げられたら良いのになあ」と、このように考えます。また、先生も同じです。父母ならば父母の立場も同じです。良いものがあれば、私たち統一教会員にすべて与えたいのです。アメリカで豊かに暮らす人々が乗っている良い車を私が買ってあげなければならない。私がみんな良い生活ができるようにしてあげなければならないと、このように考えます。同じなのです。それゆえ、水産事業をしたり皆さんが知らない仕事を今たくさんしているのです。

 韓国ならば韓国を中心として見るとき、食口たちは霊的にもそのようになっていますが、肉的にも先生の世話になっているのです。アメリカも先生ゆえに生きているのです。同じです。多くの人を結婚させたりしているというのです。そのようなことをするのです。

 このように、愛の鐘を鳴らさなければなりません。天の王宮で病気になり、みんな今病院に移されているので、彼らを皆さんが兄弟になって治していき、天の王宮へ帰るようにしなければならないのです。

 誰でもそれをもつことを望む人は、みなもっているのです。希望も、望みもみなもっているのです。人々が「これ以上に願うことはない」と言うことのできる最後のその道を紹介できるのが統一教会だと考えるとき、これはどれほど途方もないことかというのです。途方もないことです。

 それゆえ皆さんの立っている高い尾根が皆さんの友であり、皆さんが木陰に立っていれば、その陰が皆さんの友だというのです。また、ある時に寒くてどこかでぶるぶると震えたことがあるとすれば、その場が友だというのです。それが歴史的に貴重な場面だというのです。

 したがって、そこにいる人々をそのような難しさにも耐えることのできるようにする材料、教育の材料を今私が得ていると考えなさいというのです。千年後にもその事実を見るときに、涙を流さざるを得ないのであり、千年後にも慰労せざるを得ないのです。

 皆さん、「先生が苦労した」という話を聞くようになるとき、心は安らかでなく胸が痛むはずです。その代わりに奮発して仕事をしなければなりません。先生一人がそうすることによって、千人、万人がそうして神様の愛に接ぎ木されることができるならば、それはどれほど驚くべきことであり、貴い材料なのかというのです。それは歴史が要求する道であり、神様が立てようとする道ではないかというのです。

 これから愛の鐘の音を、皆さんの心で聞くのです。皆さんの心で愛の鐘の音を……。そのようになれば口が「私の口は愛の言葉を話すようになっているのであって、そうでない言葉は話さないようになっている」と、そのようなことを感じなければなりません。

◆愛の鐘を鳴らしてその鐘の音に従って仕事をしよう


 これからは皆さんが心の鐘の音を鳴らさなければなりません。皆さんがどこに行っても、夜を明かして訪ねて回ろうとし、皆さんがアメリカに来たのであれば、彼らは夜寝ずにひたすらアメリカに来たくて、御飯も食べられないようでなければなりません。

 神様の愛はそれよりもっと強いのです。間違いなく強いのです。私が手を差し伸べ、私の姿が鏡に映るときは、私の姿が神様の愛の姿の代わりであると思い、それを感じるようにならなければなりません。それゆえ神様の愛を分けてあげるために、どれほど切実になり、どれほど涙を流し、どれほど耐え難い思いをし、どれほど苦しめられ、どれほど迫害されたかというのです。そういう心情基盤の上に、責任と義務が必要だということを知らなければなりません。

 皆さんも愛の鐘の音を心で鳴らして、愛の鐘の音に従って仕事ができる姿になるように願います。どんな電球、何ワットの電球を合わせて取り付けても、今ではすべてが準備されています。ソケットも準備され、すべて準備されています。電球さえ取り付ければいいのです。それがあまりに明るくて、すべての人がここに来るはずであり、また音があまりに大きくてすべての人が聞くはずです。そのようにできる私になれば、暗い世界にある一つの灯台と同じだというのです。また、サイレン塔と同じだというのです。

 これから内的な新しい出発が必要だということを感じなければなりません。それで愛の鐘を鳴らそうというのです。















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訓教経(下)030



文鮮明先生のみ言集

訓教経(下)



必ず行かなければならない運命の道


一九八二年十月十七日
韓国本部教会 『文鮮明先生み言選集第百二十巻』


 きょう、皆さんにお話しする題目は「必ず行かなければならない運命の道」です。この言葉は「み旨の道は、生まれながらにして必ず行かなければならない運命となっている」という意味です。

◆生まれながらにして定められた運命の道


 私たちはよく、運命という言葉をたくさん使います。「運命」という言葉を見れば、その「命」という字は、「命」を意味します。そして、「運」という字は「運ぶ」という意味です。ゆえに、この言葉は「命を運ぶ」という意味になります。あるいは、ある全体的な一つの標準になり得る「命題」を置いて、そこに「行く」という意味にもなります。このように、運命の道は必ず行かなくてはいけないのです。

 動物の中で、かえるは主に水の中で生活します。かえるにとっては水の中で生活するほうが陸地で生活するより合っているのです。生まれながらにして、そうなのです。そのように生まれたので、生活するときも、死ぬときも水の中です。そこから外れては行く道がなく、生きる道がないのです。

 また、せみも同じです。せみの卵が成虫になるためには幼虫の段階を経なければなりません。幼虫の時代があるのです。幼虫時代には主にじめじめした地中で生活します。そうかといって、せみが行くべき道は地中ではありません。最終的には、大空を飛ぶことができる道に行かなければならないのです。

 せみの幼虫がどんなに地面に穴を掘って入ったとしても、そこにとどまることはありません。その過程で準備すべきものがあるというのです。それがほかならぬ羽です。それが必要条件であり、絶対条件として、なくてはならないものです。

 幼虫時代から成虫時代に移っていくためには、幼虫時代から飛ぶことができる万端の体制が準備されなければならないのです。そうして反対となる要素である殻を脱ぎ、整備する「時」を必ず経なければなりません。殻を脱がなければならないのです。空中で飛ぶときにはそれに合うように、すべてのものを備えなければならないのです。

 人間もこれと同じように、自分が男性として生まれたならば、必ず男性として行くべき道があり、女性として生まれたならば女性として行くべき道があるのです。女性は結婚すれば子供を産まなければならない運命をもっていますが、その運命に不適合となる時は悲運が訪れてくるようになります。どんなに困難であってもその道は行かざるを得ないのです。そうでなければならないのです。

 女性たちにとって、赤ちゃんを産むのはどうですか。男性でもそれは尋常でないと思うのに、か細い女性が考えるとき、どんなに大変なことでしょうか。死ぬか生きるかの賭けなのです。なぜ、そんなことをしなければならないのでしょうか。そのような道を行かなければ、女性はそこで孤独を感じるのです。ゆえに、女性として行くべき運命があるというのです。

 そこにおいてはどんな提案も勧告も必要ありません。そうでなければいけないのです。そうでなくては、存在価値がなくなるのです。このように見るとき、運命の道というのは男性の運命の道もあり、女性の運命の道もあるのです。二筋の道があるというのです。

 それでは、家庭の運命の道はないのでしょうか。一つの家庭が行かなければならない運命の道もあるというのです。家庭というものは、男性の思うまま、あるいは女性の思うままに、自分の基準だけをもって一方通行するようにはなっていないのです。男性の運命と女性の運命を合わせて、家庭の運命の道を行かなければなりません。

 人はなぜ結婚をするのでしょうか。今の状態でずっと生きればいいのに、なぜするのですか。それは生理的にしなければならないようになっているのです。その道を行かなければ病気になるのです。構造的に見るとき、循環器から何から機能が正常にならないのです。ゆえに、誰であっても正常な過程を経なければならないのです。それが理想的であり、正常的な行路です。

 ここで言う「正常的」という言葉はすべての面で平均を取って、和合することができる中庸の道を行くという意味です。ゆえに、中間の立場を行くことが正常的であり、一方に偏ってはいけないのです。高くもなく、低くもなく、そのように調和をなして行くのが「正常的」だということです。

 このように見るとき、ぺしゃんこになった運命の道を行きたいと思う人は誰もいません。男性として生まれたならば、より良い家庭の運命の道を追求するのです。

◆個人、家庭、社会、世界、神様も行かなければならない運命の道がある


 それでは、結婚とは何でしょうか。夫婦が行かなければならない運命の道を訪ねていくことです。一度結ばれたならば、その運命の道を自分勝手にすることはできないのです。自分の思いどおりにするという話は通らないのです。ですから、嫌いであろうと好きであろうと、横に行こうが後ろに行こうが、どのみち運命の道は行くようになっています。いったん、結婚してしまえば自分勝手にはできないのです。結婚をすれば、「家庭の運命の道」を命を懸けて行かなければならないのです。

 このように、「家庭の運命の道」があるとすれば、「社会の運命の道」もあるはずです。言葉はこのように連結するのです。人間の本性から見るとき、誰でも家庭よりももっと高いものを探し、望むようになっています。生理的にそのようになっています。一段階高めてくれるものを追求するのが私たち人間の本性です。その本性の欲望が作用することを考えるようになるとき、家庭をもって、社会の道に乗ろうとするというのです。社会が行く道に乗ろうとするのです。そうして、社会を開拓しようとするのです。

 一つの社会も「社会の運命の道」があります。そこでは文化背景とか構造的な体制とか、すべてのものが複合的な形態になっていますが、その社会が行くべき一つの運命の道、どうしても行かなければならない運命の道があるのです。そこでその社会が行かなければならない運命の道は平坦なものだけではありません。正常的なものだけではないというのです。それが上がったり下がったりしながら、回りながら、くねくねと行くそのような何かがあるのです。

 その社会が行くべき道は理想的国家を追求することです。理想的国家を願うというとき、その国が行かなければならない道があるのです。また、その国家は連合的な戦線を取って新しい一つの飛躍的な体制を整え、より高い世界的運勢圏へと飛び立つことができる道を追求するのです。

 それでは、国家的運命の道の次には何があるでしょうか。その次には自動的に「世界的な運命の道」があるのです。今は、この世界がどんなに早く回っていくのか予測ができないほどです。そうかといって、世界的な運命の道がなくなるのでしょうか。なくならないのです。運命の道があるにはあるのですが、どこに行くのか、それを誰も知らないのです。このように、一つの地球という星を中心として巨大な「運」を動かして前進しているのが人間世界です。

 それでは、世界的運命圏を閉鎖したのちには何があるでしょうか。人はいわゆる「天運」が来なければならないと言います。そのようなことを言うでしょう? 「天」というものがあれば、天が行かなければならない「運」が、天が行かなければならない運命の道があるというのです。

 それでは、ここにおいて天が行かなければならない運命の道とは何でしょうか。それは神様が行かなければならない運命の道のことです。神様がいらっしゃるならば、その神様が行かなければならない運命の道があるのです。すなわち、神様がいらっしゃるならば、神様も生まれながらにして行くべき運命の道があるのです。

◆人間の運命の道は限界があるが、天の運命の道は無限である


 それでは、私たち人間はなぜ天運を追求していくのでしょうか。神様は一番高く尊く、その方が一番理想的な標準となって、原因と動機、あるいは結果となっています。ですから、その方と一つになることによってすべてのものが始まり、新たに出発することができ、その方と共に新たな決定をなすことができ、結論をつけることができるためです。

 そこにおいて過程的なものは全体的なものを決定することができない立場にあります。ゆえに、運命圏を中心として見るとき、過程にとどまるようになっています。その中で回るようになっているのであって、それを突破して新しい次元のどこにも連結できないのです。

 神様がいらっしゃるとすれば、神様は全知全能であられ、すべてに臨在されるお方として、可能でないことがありません。そこには限界点もないうえに、線もなく、形態もないというのです。

 そのお方に愛があるとすれば、その愛は永遠の愛であるというのです。そのため、愛が行かなければならない運命の道は永遠にそのお方と連結されるのです。そして、そのお方に理想があるとすれば、その理想というのはそのお方から新しい永遠と連結されるものです。

 それでは、人間と神様が異なっている点とは何でしょうか。人間は限界的な運命の道を追求していきますが、神様は無限な運命の道を運行するのです。「追求」するのではなく、「運行」するのです。

 このように見るとき、「一秒」がカチカチしながらどんなに急いで行ったとしても、それは「一分」の道に従っていくためのものです。「一分」もどんなにカチカチしながら休まず行ったとしても、その運命の道は、「一時間」に従っていかなければならないのです。「一時間」も否応なく、「一日」に従って行かなければならないのです。「一日」は「ひと月」に従わなければならず、「ひと月」は「一年」に従わなければならないのです。また、「一年」は「一世紀」に従わなければならないのです。このような論理が形成されるのです。

 そこにおいては百年の中に十年が包含されます。十年の中には一年が入っていきます。自動的に包括されます。また、一年の中には十二カ月が包含されます。ひと月の中には一日が包含され、一日の中には時間が包含され、時間の中には分が、分の中には秒が包含されるのです。

 それでは運命の道の中で、終末点、限界点はどこでしょうか。また、私たち人間が必ず行かなければならない運命の道があるとすれば、どこに行って定着するのでしょうか。どこに行ってとどまりたいと思うのでしょうか。これが問題です。

 男性の運命の道は女性を探していくべきものであり、女性の運命の道は男性を探していき会わなければならないものです。その時の深刻な度合いというものは到底言葉で言い表せません。そうして二人が会って、行くその運命の道は安らかな道でしょうか、難しい道でしょうか、容易な道でしょうか、うれしい道でしょうか。

 今日、この時代は変化する時代、不信の時代として、諸般の問題を置いて、互いに相克、相 衝(注:相いれないこと)が頻繁に起こっています。このように環境圏内に二つの輩がいて、行くところにおいては楽な道だけがあるのではありません。非常に多くの内容が宿っています。草があれば、「[の根」のようなものも絡まっているのですが、それはどんなにもつれていることか、船が何百馬力のモーターを回していったとしても後退するほどです。そのくらいもつれているのです。

 それでも行かなければならないというのです。だから、「ああ、死んでしまう!」と言って、大騒ぎになるのです。そんな運命の道がいくらでもあるのです。

 自分が好きで行くというより、行かなければならない運命の道において、その[のつるをどのようにして突破していくのかということを考えなければならないのです。そうしようとすれば、そこにおいて刀を研がなければならず、様々な準備をしなければならないのです。このような準備、対策が必要なことを考えずに、現在だけの幸福を基地としようすることは、脱落者の予告を抱いていくのだということを知らなければなりません。

◆より大きな運命に従っていかなければならない


 したがって、その国の為政者や国民たちは世界の運勢に従っていかなければならないということを知らなければなりません。

 たとえ「分」が「時間」に「おい、時間! お前はいい加減だ! 私のように、このように時刻どおりに細かく時間を指さずに、何で一時間ずつ飛び越えるのか」と、このように言えるかもしれませんが、「時間」は「お前は私の中に入っていなければならない」と言うときには、それを否定することができません。どんなに「分」が「時間」に自己主張しても無駄です。その前提条件の命題の前に絶対降伏しなければならない運命にあるということを知らなければなりません。

 ゆえに、大韓民国がどんなに立派であっても、世界的運勢の前に「自分は嫌だ!」と言ってはならないのです。絶対命令を受ける過程もあり得るのです。

 「世界の運勢」においても同じです。世界の運勢圏だと言っても、自分自身を否定していかなければならない時があるということを知らなければなりません。「あー、それは嫌だ!」と言えば、完全に破壊されるのです。そのようになれば悲惨になるのです。そこには許しがありません。

 共産党がどんなに大きな声を張り上げても、世界の運勢の前に順応していくのを見てください。自分たちが行く運命を延長的運命として考えてはならないのです。新しい、次元の高い時が来るというのです。

 なぜそうなのでしょうか。昼間働いた人は、夜になれば何時間か寝るのです。歩き回ったのに比例して、そこに反対となる命題の前に、反対の動きの前に、絶対服従しなければなりません。「自分は嫌だ!」と言っていれば除去されるのです。昼間、天下が自分のもののように騒々しく歩き回っていた人に、夜になれば非正常的な現象が起こるのです。いびきをかいて、寝言を言う、そんな現象が起こるのです。それは非正常的なことのように見えますが、それが正常的なことなのです。

 次元の高い運命の道の連結を追求することが、人生です。どんな人であっても、そのような望みをもっています。ところで、そのような欲望をもった人間がある時、飛躍することができるためには絶対服従しなければなりません。自分自ら、今まで運命の条件を提示することができなかったという事実を知らなければならないのです。

◆天運の主流に立つことのできる者


 これまで正常的に歩んだ運命の道から、飛躍的な運命を追求するようになるときには、これまで歩んだ運命の形態そのままを続けてはならないのです。飛躍というくらいなので、形態が異なってくるのです。そこに絶対順応しなければなりません。自分がこれまで正常的な過程で提示してきた要件をもってしては成立しないのです。

 先生が合同結婚式をしてあげるとき、見たこともない人が約八〇パーセントは越えます。自分たちは中学、高校、大学に通い、成人したのですが、一度も会ったこともないそんな人たちを連れてきて結婚させるのです。

 それは、先生が統一教会の責任者として統一教会が行くべき道を開拓しようとするので、そのようなことをしないわけにはいかないのです。これまで私は、一秒も休むことができませんでした。世間では六十何歳であれば停年ですが、先生には停年がありません。

 うちのお母様まで、そのように考えているふしがあります。私が鋼鉄の骨でできていると思っています。しかし、どんな鋼鉄だとしても運動すれば消耗するようになっています。そうかといって、「全部ストップだ!」と、このように言えないのです。なぜでしょう。それが先生の運命の道であるためです。そのような運命をもって生まれてきたので、死ぬ時までそのようにしなければならないのです。

 その運命の道を行くということは、夜も行かなければならないのです。行くべき道は遠いのです。その運命の道を行くとき、これを早く撃破し突破しなければならないというのです。この複雑な過程をそのまま越えていこうとするのは、万民が望む共通的な欲求です。いくら先生だといっても老いていくのです。「死」というものは運命の関門です。誰でも越えて行かざるを得ないのです。

 五色人種を私の目の前にもってきて結ぶのですが、見れば光彩を放つのです。それは愛に狂った光彩です。その光彩で目がたいまつのようになって、「良い新郎、良い嫁をもらうぞ。悪いものは嫌だ!」と言っているのです。

 この世にそんな道理がどこにありますか。全部が良いものを取れば、悪いものは誰が取るのかというのです。そのように、人は自分が考えることだけが一番だと思っているのですが、そうではありません。それは一つの過程です。ほんのちょっとの間だというのです。

 それよりもずっとけた違いで重要なものがあるのですが、それが正に夫婦生活です。家庭で男性が女性を消化するということは大変なことです。女性は良いものをあげればしっぽを振ったりするのですが、少しでも間違いを起こせばかみつくのです。女性たちには失礼な話ですが、事実そのようになっています。

 人はそれぞれ運命の道を探していくのですが、どんな人が知恵深い人であり、どんな人が生き残る人なのでしょうか。自分の運命よりも次元の高い運命の道を探して準備する人が生き残るのです。これが理想的結論です。事実的結論であるというのです。その理想的可能性が今の運命よりも存続する運命の道であるというのです。

 現在の立場から、また再び次元の高い運命の道を行かなければならない今日の歴史的運勢があるとすれば、その運勢圏内において、誰が宇宙の運勢の主流の位置に立つのでしょうか。そのような問題があります。天地の運勢があるとすれば、誰が天地の運勢の主流の位置に立つのかというのです。

 そこには個人も入ることができ、家庭も入ることができます。どの家庭、どんな民族、どんな国家も行くことができるというのです。それゆえに、天運の主流の位置に立って方向を整えて行く人には、一つ一つの運勢をすべて経なくても、きっちりと天運の主流の位置に入っていくことができる道があるのです。

◆最高のものを標準とする者は最高の受難の道を消化しなければならない


 お父様は、お父様の運命の道を行くのです。一つの国の大統領がいくら立派な位置にあったとしても、大統領はその国の運命の道だけに責任を取るのであって、私は世界の運勢を見つけようとする人です。悪口を言われようが世界というふろしきをかつぐのです。

 金サッカ(注:李朝末期の放浪詩人)はののしられ、居酒屋でも冷遇され、村の犬にまでほえられたりしたのですが、彼は全国の山河を巡り歩きながらとても素晴らしい歴史を残していった人です。酒を飲んで、狂ったまねをしたとしても、彼が眠りにつくときには国を抱き、歴史を抱くことができるそのような大きな視野をもって寝たというのです。

 それでは統一教会はいったいどんな運命の道を行こうとしているのでしょうか。友達とするのに、神様と友達になろうというのです。宇宙に一つの主体があって、その主体的な存在の前に対象の資格を追求しようと主張してきたのがレバレンド・ムーンの思想です。とりあえずはすてきであって、その話は合っているのですが、そこに到達するのが大変です。博士学位一つよりも、博士学位二つのほうがもっとすてきでしょう。五つはもっと、もっと、もっとすてきです。上がっていくほど「もっと」という言葉が一つずつ付くので、それはどんなに複雑で難しいでしょうか。

 それで、最高のものを標準とする者は最高の受難の道を消化しなさいという結論が出てくるのです。最高の表題を立てておいて、その道を越えていこうとすれば、最高の主体を望むことに比例した受難の道を消化しなければならないのです。これは自然な道理です。そこには異議がなく、加減がないのです。比例的な受難の道を経なければならないのです。

 今は、世界の頂上級の人たちが私に会おうと言っても、私は簡単には会ってあげません。いずれにしても先生はそのくらいになりました。

 有名な「科学の統一に関する国際会議」(ICUS)の会長団のある人は、「誰々は先生に会ってもらったと自慢していましたが、その人は私の同窓生なのです。私の体面がどうなりますか。私の威信が立たないので先生と一度会うように取り計らってください」と、こんな人もいました。でも、会ってあげないのです。

 ところで、先生が来ると、ただ「私をちょっと助けてください」と言う人がいます。先生はいつでも助けてあげるのではありません。助けてあげるにしても時があるのです。働くときには働いて、助けてあげるときには助けてあげるのです。何であってもそのように分別してしなければならないのです。そのように運命の道にも度数があるのです。戻っていったものを再び戻してきては駄目なのです。前進しなければなりません。

◆神様の心情と愛を中心として天運に乗ろう


 統一教会は神様と友達になろうというのです。その主体の前に対象になろうというのです。神様も必要とするものがあるというのです。神様も相対が必要なのです。この地球星で神様を友達にしようと言う人を見たことがありますか。神様の友達になろうと言う人を見たことがありますか。それはレバレンド・ムーンしかいないはずです。

 「友達になろう」と言うだけでなく、「神様をポケットに入れて共に歩んでいこう」と言うのです。ポケットがどれほど大きいか分かりませんが、とにかく詰め込んで共に歩んでいこうというのです。

 それはどんなポケットでしょうか。宇宙の何百倍にもなるものが入っても余裕があるポケットです。そのようなポケットがあります。人はそんなポケットがどこにあるのかと言うでしょうが、私はあると思うのです。それが何かと言えば、愛のポケットです。真なる愛はちっちゃな穴であってもそのまま入ろうとするのです。愛は、そのような作用を起こし得る動機をもっています。

 それゆえ、若い青年男女、あるいは愛する人々が埠頭とか、プラットホームのような所、あるいは空港に行けば、会うと互いに抱き締めるのです。そのように小さくなる運動をするのです。

 そのように小さくなって一つとなるのです。小さくなって一つとなるのであって、大きくなっては一つになれないのです。それは実に良い秘訣です。小さくなって一つとなるのです。その話はどういうことかというと、非常に大きな神様ですが、そのように小さな穴にも入ることができるということです。

 愛のポケットは、神様を自由に入れることができるポケットです。愛というすべをもってこの上なく困難な状況を見れば、この上なく悲しいというのです。この上なく大きいですが、この上なく悲惨な場にも下りていくことができ、極と極を通過して運動しても余りあるというのです。そのような作用を起こすことができるものが愛なのです。

 それで愛の綱をつかめば宇宙を踏んで上がっていくこともでき、また宇宙を背負うこともできます。宇宙を足の裏につけることもでき、自分の手のひらに載せることもできます。

 神様の友達になろうとするときには欲しいものがありません。天地がすべて、その中で遊びだします。ですから、大韓民国でそんな人が現れたならば、それは知っておかなければなりません。先生はそのような人になろうとするのです。

 皆さんは先生が使用した教材をもって勉強しなければなりません。そうして天運の綱に乗らなければなりません。天運の綱に何をもって乗るのでしょうか。お金をもって? 違います。それでは手段をもって。違います。神様の心情と愛を中心として、天運の綱に乗ろうというのです。

 私、レバレンド・ムーンは哀れな農家の息子として生まれましたが、標準とするものは立派な王家に生まれた皇太子がもっている考えよりも立派だと思うのです。その内容はどんな王座に座って豪語する大王の名称をもった人の考えよりも素晴らしいと考えるのです。彼らは、英国であれば英国、アメリカであればアメリカにおける制限された国民を対象とするそんな基準で一つの国家の代表となっていますが、私は違います。歴史をかけて、過去、現在、未来の人類の前に代表になろうと考えているのです。

◆鶴のように孤高に飛ぶことができなければならない


 ですから、飛ぶときにおいても、雀のように飛んではなりません。鶴のように飛ばなければなりません。鶴が飛ぶときはどのように飛びますか。力を伝えようとS字型に飛んでいくのです。雀はただ飛びますが、鶴は拍子を取って、8の字型に飛ぶのです。そして、高く上がるのです。そうして遠い所を望むのです。

 鶴は足が長いでしょう? その鶴が立つときは必ず一本足で立つようになります。それは天地の度数に合わせようとしてそのようにするのです。口は一つですから、垂直線に従っていこうとするので垂直に立たなければならないというのです。それでこそ道理にかなうのです。

 宇宙の理想的な垂直線は一つです。宇宙は高尚な思想を中心とした生命とか、高尚な愛を中心として回るようになっています。

 鶴は横を見ているよりも首をすっとあげているほうがすてきです。長い首がどんなにすてきか知れません。それは高いアンテナ、竿のようになるのです。高いところを指向する、伸びる力をもっています。その次には線が地球に垂直になります。鶴の体が垂直になります。また翼は分厚くありません。すらっと流線型です。そうして鶴の翼は水平を成すようになります。

 翼を動かさないで最も遠くまで飛ぶことができる鳥が鶴です。高く上がっていくので、じっとしていても遠くまで飛ぶようになっています。ですから同時に最も遠くを見るのです。それは理論がちゃんと合っているのです。

 先生はそのような考えをもって歩んでいます。私は少々太っていますが、体質的には有能な体質をもって生まれました。先生の考えだけは、そのような素晴らしい考えをしています。

 鶴は、誰が悪口を言おうと全く気にかけずに飛んでいくのです。大洋に向かっていくのです。世の中が大騒ぎし、雀は死んでしまうと大騒ぎしても、鶴は飛んでいくというのです。そうして大洋と大陸を飛んでいき、とどまるようになるときには「私は主人である」という位置に来てとどまるようになるのです。とどまるときは、素晴らしい場所を探してとどまるのです。

 しかし、先生はいまだ定着できません。レバレンド・ムーンは、今なお定着できません。私がとどまる定着地を探していくのです。その定着地はどこですか。神様が主体であられるので、神様の前に行って定着しなければなりません。レバレンド・ムーンはそれを運命の道として行くのです。生まれながらにして、そのように生まれたのかもしれません。

 皆さんは、がちょうになりますか、鶴になりますか。がちょうも、一面ではおしりを広げて歩くときにはすてきでしょう。しかし、みな鶴になるのを望んでいるのです。皆さんが鶴になろうとすれば、鶴のように一本足になって立たなければならないのです。そうしなければならないのに、みな足をがちょうのようにしています。それでは不合格です。駄目だというのです。飛ばなくてはなりません。

◆高い所にいるほど低い所を理解して愛することができる


 したがって、鶴になろうとすれば一本足となって、天地の度数を垂直線に合わせることができる心の姿勢をもたなければなりません。人の良心が正しいということ、良心がまっすぐだということはどういうことですか。そこにはどのようにまっすぐだという標的がなければなりません。それは既に垂直線を描いておいて言う言葉です。それを知らなければなりません。

 「人の良心がまっすぐだ」と言う言葉はどこから出てきた言葉ですか。既に天地の一つのセンターに垂直線を描いた中で、そこに対置する並行的基準で比較して、まっすぐである、曲がっているというのです。鶴がそうです。動物の中でそのようなものは鶴以外にいません。

 また、鶴は真っ白なところに真っ黒な部分を兼ね備えています。それは高く飛ぶが、低いところもつつくことができるということです。低いところにも入っていくことができるということです。その時には白いところもなければなりませんが、黒いところも必要なのです。低い所にいる黒い群れが「あなたは上がっていくことだけすべきでしょう、どうしてこんな所に来たのですか」と言えば、「私にも黒いところがあるではありませんか。相対的条件をすべて備えています」と言えるというのです。その次にまた、赤い部分があります。これは情熱があるということです。どのような情熱でしょうか。案内者の情熱が後ろに従ってくるのです。それはどんなに素晴らしいことでしょうか。

 その次に、食べるときは何を食べますか。大部分は陸地にいるものを食べますが、海にいるものも食べます。ゆえに、両方の世界を兼ねることができるというのです。統一教会の先生を鶴に比喩しようとすれば、宗教界でも食べますが、事業世界でも食べます。また、高い所にもいますが、低い所にある穴もつつくというのです。ですから、魚釣りもするのです。それはすべて道理にかなっているのです。そのため、鶴の尾っぽが黒いのです。下りていくときはしりが先につくのです。それはすべて天地の度数に合わせるためにそうするのです。

 代々、韓国民族はこの鶴を愛してきました。それで、枕の両端につける飾りにも鶴が刺繍されるのです。リトル・エンジェルス会館に行けば舞台の所に幕がありますが、そこにも四羽の鶴の絵があります。それは民族を象徴しているのです。鶴とがちょうは鳴き声は似ていますが、その内容は異なります。

 がちょうを見れば、それはよく食べるし、おしりも大きいのです。そうして、ふんも一度にたくさんします。それががちょうです。

 人にも二種類の人がいます。食べるために生きる人と、飛ぶために生きる人、二種類の人がいるのです。皆さんは食べるために生きる部類でなく、鶴のような部類にならなければなりません。やせこけても遠くに飛ばなければなりません。遠くに飛ぼうというのです。

 私たちのお母様の名前が鶴子です。お母様の名前に息子の「子」の字をつけたのは神様の息子と因縁を結んであげるためであったということも知ることができ、また「そのように生まれたために統一教会の母の名をもったのだなあ」と、このように考えられます。

 この話はすてきな話です。お母様! 「韓」というのは韓国を代表し、宇宙も代表し得るのです。「韓」は一つであり、第一という意味です。それは正に統一教会式です。

◆鶴のように生きなければならない


 それで皆さんの口から「私が良い生活をしよう」という言葉を言うことができないのです。

 鶴は大空を飛びますが、私たちは大空を飛ぶことができなくても中空は飛べなくてはなりません。中空(注:韓国語の発音でチュンゴン)と言っても中共(チュンゴン)のことではありません。飛ぶときにはどのように飛ぶのでしょうか。父母についていこうとすれば、頭を高く上げなければならないのであって、地を見ては駄目です。

 皆さんが飛びながら地面を見下ろしていれば、逆さになって突き刺さってしまいます。そうすると、くちばしや頭が突き刺さって、足だけ残ってしまい、誰かが引き抜いてくれなければ、死んで腐ってしまうのです。このような道は命を滅ぼす道であって、運命の道ではなく、滅んでいく運命の道を自分自ら進んで求めていくことです。

 それで飛ぶときには中空を飛ぶのですが、頭とくちばしはどこに行かなければならないかというと、上に行かなければなりません。飛べば飛ぶほど上がっていかなければなりませんか、平行線を飛ばなければなりませんか。上がっていかなければなりません。体も上がっていかなければならないのです。飛ぶときは中空を飛ぶのですが、頭は上がっていかなければなりません。

 それで、皆さんは自分だけのために生きるという言葉を言ってはなりません。結婚はなぜするのですか。天と地のためです。目的が異なる人とは異ならなければなりません。「お前、今どこに行くの?」と言われれば、「天と地を一つとするために」と、言わなければならず、「何を考えているの?」と言われれば、「天と地を一つにする統一世界のことを考えている」とこのように言わなければならないのです。

 「短い人生、そんなふうに生きて何があるんだ? ただ適当に、他の人と同じように生きればいいじゃないか」と言うかもしれませんが、見てください。鶴はがちょうのようには生きられません。そのようにしていては死んでしまうのです。死んでも、やせて死ぬのです。雀のようには生きられないのです。鶴になったならば、鶴のまねをしなくては生きる道がありません。それが、真の父母の因縁に従っていく一族の運命です。先生は、皆さんすべてをそのように見るのです。

◆天運に従っていく統一教会


 統一教会は天運に従っていきます。それでは、天運の中で主流の流れとは何でしょうか。心情です。そのため、神様の心情をぎゅっと抱き締めていこうというのです。そのような心をもたなければなりません。

 神様とはどのようなお方かと言えば、今まで天宙の大主宰となられる王の中の王であり、主人の中の主人であられたのですが、人間始祖が堕落することによって、怨 讐となってしまいました。サタンとは何でしょうか。愛の姦夫です。「姦」という字は女が三人です。女性が三人だというのですが、それが一つとなった女性はどこにいますか。三人の女性の業をするのです。姦夫とは何ですか。愛の怨 讐です。

 神様の血統を受けて生まれなければならない人間が、怨讐の血統を受けて生まれたというのです。ゆえに、この人たちがこれを克服するためには血を抜くことをしなければなりません。それゆえ、宗教は殉教の血を流してきました。主流となる宗教は殉教の歴史をもたなければならなかったという事実を知らなければなりません。高次元的宗教は受難の道を経るのが原則なのです。

 なぜそうしなければならないのでしょうか。怨讐の血を受けたためです。その国の后として選ばれたエバがその国の逆賊奸臣の血を受けて后の位置に上がって座ったというのです。その息子が王の位置に即位したというのです。これが神様の天地運勢を支配する中心位置を誤るようになったことです。これを是正しなければなりません。

 それではどこから是正しなければなりませんか。その位置に上がっていかなければなりません。ところで、神様の心情を中心としなくては上がっていく道がありません。神様の心情を知ろうとすれば、自分の父に会って、父がどんな立場でどのようになったのかを知らなければならず、エバがどのようにして堕落したのかという事実を知らなければなりません。このような、不運の運命の中で生まれた父の立場がどんなに悲惨かということを知らなければなりません。その悲惨さは推し量ることができないというのです。

 ですから、私たちはどんな犠牲を払っても投入して、父の姦夫に敵を討たなければなりません。敵を討つのに銃や刀で討つようになっていません。より大きな愛でなくては敵を討つ道がないと見るのです。だから、その怨讐を愛していってこそ、本来の創造理論に合格した神様の位置に登場することができるのです。なぜかと言うと、サタン、悪魔の天使長も本来、創造当時には神様の愛を受けるようになっていたからです。

 それゆえ、天使長が「あなたが神様になろうとすれば、私は堕落したといえども私を愛したという原則を立てなくては、あなたがこの宇宙を支配する位置には行くことができません」と言ってかみついて離れないのです。ここに掛かっているのです。実にあきれた事実です。

 そのために救援の歴史に数多くの事情を残しながら、これまで歴史の峠道を越えに越えて、解決できなかったまま統一教会の門前にまで神様が訪ねてこられたというのです。レバレンド・ムーンが少年のとき、門前まで神様が訪ねてこられて慟哭されたのです。その時が、レバレンド・ムーンがこのみ旨を知ったときでした。その当時は国もない悲惨な時代でした。日帝の治下にあった時に、一人の農夫の息子として生まれた文なにがしという人は、その村でけんかをすれば親分であり、子供たちの大将でした。

 悪いことをしたとすれば、私は途方もなく悪いことをしたことでしょう。極と極です。悪いことをしたならば、歴史にない悪いことをしたはずです。そんなことができる頭ももっているのです。

 そのような何かがあるので、今まで若い人の気質以上の実力をもって踏ん張って立っているのです。私が話しているのを見れば、年寄りの雰囲気が全然ないでしょう。生き生きしているのです、若い人のように。いくら老木だといっても、その老木の先から出てくる芽は、みずみずしいのです。私は成長していると考えるのです。

 そのような怨恨を解いてさしあげるために、私たちは商売をしても神様の心情をつかんで心情の商売をしているのです。私の同志を糾合するために、野を越え、山を越えてあえいでいるのです。そのようにして行く頂上があまりにも悲惨であるために、悲惨な歴史的な事情をもった神様が来て、慰労してくださらなくてはならないのです。そのような神様がいらっしゃるという事実が、もっと悲惨であるということを皆さんは知らなければなりません。

◆精誠の結果は後世まで残る


 神様のために働くことは世界救援のためであり、世界の心情的主流思想のためです。これまでそれを標的としてきたので、個人の運勢圏を通して、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙の運勢圏を通して、神様の愛の終着点を連結させなければならないのです。

 そうするための相対的理想運命圏が今日、復帰の運命の道をあえぎながら行く私たち堕落した人生が行かなければならない最後の終着点になっています。したがって、終着地のターミナルとあの世のターミナルが同じ水平線上で合わさる道は私たちが行く道しかありません。どんなに探してみても、これしかありません。

 自分を思う人は天国にも行けません。歩く歩幅が異なっているのです。仕方がありません。それが運命の道です。もしそれが駄目ならば、地上に来て、億千万金で自分の息子、娘を蕩減させてでも、そのような心情的誘発点を中心として接触させなければなりません。この基準を経なくては天国に行けません。息の詰まるような内容です。

 私はそれを知っているので、人生をこのように生きているのです。風雲の男のようにお金を世界にまいて回ったりしますが、それはいつでも戻ってくるだろうと考えて、お金の種を蒔いていると考えるのです。失ってしまったものを取り戻すためのえさと考えるのです。良いえさを使ってかかる魚は十年後に、二十年後に、三十年後に誰が釣ろうが釣れるはずです。そのようにしてでもその誰かが釣らなければなりません。釣らなければならないのです。私はいつかは逝く人です。しかしながら、誰かが釣れるようにしようと思っています。どうせなら、釣るときには統一教会の精誠を尽くした人、信仰のある人を通して、釣らせたいというのが先生の欲望です。

 皆さんができなくても、このみ旨と思想を掘り下げていく人は、神様がいる限り、霊界がある限り、善なる先祖をもった後孫が、どのみちこの道を続けていかなければならないのです。それを知っているために、苦労したために、皆さんに受け継がせたいというのが先生の欲望です。それは、父母の欲望です。

 今、私たちが、特別なことをするのは、地上の限られた限界線でとどまろうとすることではありません。無限な世界と連結しようとすることです。そうしようとすれば、このような思想的訓練を経なくては行くことができません。運命の道がそのようになっているのです。嫌いだろうが好きだろうが、ここに拍子に合わせなくてはならないのです。これが天理であることを知らなければなりません。そこにおいては誰も異議がありません。

 泣きながらでもついていかなければなりません。避難していく人は三十八度線を越えるためには泣きながらでも越えなければならないのであって、そこで倒れてしまってはならないのです。足をばたつかせながら泣きながらでもついていかなければならない運命の道です。そのようにして三十八度線を越えていかなければならないのです。必ず行かなければならない運命の道を背負って行くのです。聖書では「世の罪を負って行く神様の小羊を見よ」と言っていますが、統一教会の食口も同じです。「復帰の心情を負って行く統一教会の子女を見よ!」と、このような言葉が出てくるでしょう。心情の十字架を背負って行くのです。

 先生の心情を知っている人はいません。午前二時が過ぎて食口たちを送り出して、一人テーブルの所に座り、涙を流しながら全体のために祈祷する時間があるのです。机の所に座って祈祷しているうちに寝てしまうのが常です。そのように生活しているのです。悲惨なのです。先生の生活は悲惨、正にそれ自体です。それ以外にはないというのです。

 先生が飛行機に乗ってどこかに行くとき、お金を期待して行くのではありません。神様に侍り、神様が楽に行くことができるようにする道案内人として行く、このように考えるのです。私に従ってこられなければならない神様がどんなに悲惨ですか、そのような運命の道が残っているということを知らなければなりません。

 父母の情も知らない無知蒙昧な人間たちは、善なる国の王様の心情を夢にも考えることができないのに、その心情をゆだねることができるでしょうか。神様はおろか、天の民の心も推し量ることができないのに、天の国の王の位置にいる神様と心を合わせるなんて、あきれた、とんでもなく不可能なことです。しかしながら、言葉はそのように言っても、そのためにあえぎ苦しみ、そのようなむちを何度も打たれていると、それが連結されるのです。迫害を受け、監獄暮らしをして、このように滅んでしまう運勢の道を歩んでいても、そのためにあえぎ苦しんでいれば、神様が来られて勧告してくださり、因縁を結んでくださるのです。

 だから、家にいては天国には行けないのです。聖書にもあるでしょう? 「滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない」(マタイ七・一三、一四)と、言っています。私たちは狭く、険しいその道を行くのです。愛の道はつらいのです。分かりましたか。さらに一層孝子の道を行かなければなりません。忠臣の道を行かなければなりません。聖人の道を行かなければならないのです。孝子となれば忠臣にならなければならず、忠臣は聖人にならなければならず、聖人になれば天子にならなければなりません。神様の息子、娘にならなければなりません。そうなろうとすれば、父母の心情を知らなくてはいけないというのです。

 この道は私の人生において行かなければならないのです。死んでしまえばもう、レールはなくなります。これを築いておけば、天頂のレールが敷かれるために、自然に転がっていくのです。そのレールがあれば、あの世に自由に行くことができますが、これができなかった場合には行けません。

 必ず行かなければならない運命の道! 地上世界は一瞬であり、永遠なる世界は霊界です。必ず行かなければならない運命の道ということは、数学を勉強するとき、公式を習う一年生から基礎をしっかり築いておかなければ、通じる道がふさがれるのと同じです。地上は勉強する所であって、公式を習得するところです。ここで、これを良く活用できる訓練をすれば天地が開かれるのです。あの世に行っても神様の心情の活路が開かれるようになります。あるいは、自分の活動舞台であるその環境的因縁が急変したとしても、いくらでも愛を中心として和することが可能になるのです。















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訓教経(下)031



文鮮明先生のみ言集

訓教経(下)



模範生活


一九八四年五月四日
アメリカ・ニューヨークのイースト・ガーデン 『文鮮明先生み言選集第百三十一巻』


◆一 生活の模範


 皆さんは、模範的な生活をしなければなりません。

◆ 1 主食


 食事を作る人を見てみると、必要以上に作っては、さっと捨ててしまいますが、それではいけません。食べる量に合わせて、作らなければなりません。二人いれば、二人が食べる分だけ作って、残さないように準備しなさい。浪費が多いのです。また、いつでも食べています。可能な限り、御飯も食べる時間にだけ食べ、それ以外は食べないようにしなければなりません。飲み物は仕方がありませんが、それ以外のものは、そのようにしなければなりません。そのようにして、少しでも節約しながら外国を援助し、周囲の人々を助ける運動を、生活化していかなければなりません。それが必要です。

◆ 2 副食


 主食の次は副食です。韓国ではおかずに当たるのですが、デザートも副食に入り、果物も入ります。

 浪費してはいけません。皆さんは副食にする物を買ってきて、冷蔵庫に入れて、いつとはなしに出し入れしていますが、それではいけないのです。食べるべき時にだけ食べなければなりません。食べる時以外に食べる習慣は、捨てなければなりません。それは健康にも悪いのです。

 また、りんごや何かを食べる時に、道を歩きながら食べることを、先生は好みません。動物でさえ、歩きながら食べることはありません。一つの場所で、全部食べてからその場を離れるのであって、歩きながら食べる動物がどこにいますか。まして万物の霊長である人間が、そのようにしていいでしょうか。鷲が飛びながら食べますか、鳥が飛びながら食べますか。

 ところが西欧社会では、人込みの中でもそのように食べているのです。東洋社会では、そうではありません。食べる時に食べて、それ以外の時は、おなかがすいても食べないのです。このような訓練をすることは、健康にも良く、長寿の秘訣なのです。

 朝食も、おいしく食べるのです。昼食もおいしく食べて、夕食もおいしく食べるのです。二十四時間食べていれば、おいしく食べる時がありますか。何がおいしいのかというのです。習慣的にそうしていれば、健康にも極めて悪いのです。こういうことを、先生が教えてあげなければならないのです。

 先生は、デザートや、果物などを出されても食べません。わざと食べないのです。ですから、みなしわしわになれば持っていって、また別の物を持ってくるのです。それでも、見ることはあっても、食べないのです。私は、そのようにしています。バナナも真っ黒になるので、仕方なく持っていきます。そのような時に先生は、アフリカの人たちが飢えて死ぬことを考えるのです。それなのに、どうしてそれをつまんで食べることができるでしょうか。そのようなことを考えるのです。そのような生活が、皆さんにも必要なのです。

 御飯を食べる時に食べて、おなかがいっぱいで果物を食べたくない時には、出されても食べるなというのです。次の時に食べなさい。そして水も、のどが渇いた時に飲むのです。皆さんは飲み物があれば、いつでも取り出して飲んでいます。すべてを水で補充して、しきりに飲んでは小便をするので、また水を使うことになるのです。

 ですから、どれほど国家的に損害になっていることか。そうしてお手洗いに行って、一日に何十回と水を流し、捨てているのです。国民全体が一日に二、三回もよけいに行くので、それだけでもどれほどのお金になるのか、どれほど国家的な損害となっていることか、それを考えないのです。

 こういうことを話していいか分かりませんが、先生は小便をしても、できるだけ水を流さないようにしています。二、三度したあとで、流すようにしています。アフリカの人や、かわいそうな人のことを考えて、国民が一人でも節約して、一日に一ドルずつ集めたとしても、相当な額になるのです。それはすごいことなのです。

 それで、お母様にしかられる時があります。小便をして、なぜ水を流さないのかと。わざと水を流さないで出てきたのに、「ああ、忘れたよ」と答えるのです。一度して、もう一度してから二度目に水を流します。そうかといって、便器が悪くなるものでもありません。

 それを一日に三回ずつでもすれば、何リットルになるのかを一度考えてみなさい。何倍にもなる、すごいことなのです。そのように考えるのです。小便をしたあとに水を流さないからといって、それを謗るよりも、このような建設的な考え方をしなければなりません。朝、小便をしたならば、夕方に水を流してもいいではないかと考えるのです。その代わりに、何日かに一回体をよけいに洗えばいいのです。こうすれば、国家的資源がどれほど節約されるでしょうか。貧しい国よりも世界の豊かな国が、そういうことを奨励すべきではないでしょうか。

 それで先生は、毎日のように入浴するのに賛成しません。それは健康にも良くありません。三日に一回ずつ体を洗うのを原則としています。汗を流したときはやむを得ませんが、毎日ではどれほど多くの水を消耗するでしょうか。それでもいいのですか。良くありません。健康にも悪いのです。

 すると「ああ、先生は野蛮人だ」と言うでしょうが、そう言われてもいいのです。そのように見るならば、エデンの園での神様や、アダムとエバも野蛮人でした。昔、最近のようなお手洗いがありましたか。ちり紙がありましたか。何もなかったのです。ですから、そういうことを感謝して、みなそうしなければなりません。そのようにしてでも、この世界を生かさなければならないのです。

 そのように考えることによって、皆さんが世界のことを、常に考えることのできる人となるので、生活的なことを中心として、こういう思想的な観念をもつことが必要だということを知らなければなりません。

 そのように、あらゆる面で模範とならなければなりません。模範となるべきです。十分に食べて、豊かに暮らすことが模範ではないというのです。それを節制するようにし、どうしても必要な時に、適切に消耗することが模範的生活であるということを、知らなければなりません。

 先生は聖日には主に正装をしますが、服を着るときも、できるだけネクタイをしないで過ごそうとしています。家にいるときは、できるだけ上着を着ないで、セーターのようなものを簡単に着るようにしています。

 ネクタイの値段がどれほどになるのか考えてみなさい。その上、ピンまで合わせれば、それらがどれほどの値になるのかというのです。ネクタイをしなくても世界のことを考えながら一生を生きた人と、ネクタイをしながら世界のことを考えることができずに生きた人が霊界に行けば、どちらが神様の近くに行けるのかを考えてみなさい。

 それで、しまってある古い靴を先生が取り出しては、はたいて履くというような生活をしています。かといって、「先生は悪い人である」と言う人がいるでしょうか。統一教会員たちが、「まあ、それは先生が間違っています」と言えば、そのような統一教会は滅びるのです。このように、世界を考えて生きる生活が貴いのです。

 それで副食は、食事の時にだけ食べなさいというのです。しかし、いつもそうしなさいというのではありません。どうしてもそれが食べたいときは、食べてもかまいません。そうかといって、それが罪になるのではありません。しかし、できるだけそのようにすることが健康にも良く、また習慣にしてしまえば本当に楽だというのです。

 また、精神的に見ても、りんご一個もらって食べようと、みなが冷蔵庫を開いて中を見たり、コーラを一杯飲もうと、行ったり来たりすれば、精神的消耗がどれだけ多いと思いますか。食事の時にだけ食べる習慣が必要なのです。

 男性がそのように食べれば、女性が指導をして健全な方向に導いていくのです。女性がそうであれば、男性が指導をしてあげ、男性がそうであれば女性が指導をして、健全な生活規範を立てるのが良いというのです。

◆ 3 飲料水


 その次には飲料水です。世界で飲料水の種類が一番多い所は、米国です。一日に何本飲むのかということも決めなければなりません。できるだけ決めておかなければなりません。今からは、飲料水を飲むときに、先生のみ言を一度聞いた人は「一度、世界を新たに考えてから飲む」と、こう考えなければなりません。それらは、できるだけ節約しなければなりません。

 お金が流れてしまうということをよく考えなさい。そのようなことを考える必要があるのです。そのようなことを、皆さんが考えなければなりません。そうして世界を考え、後代を考え、未来を考えながら生きていく人は、国が記憶し、世の中が自然に記憶し、天が記憶する人であって、すべてが忘れてしまうような人ではないということを知るべきです。

 そのような観点から見ると、先生の指示は、正しい指示なのです。したがって、水が悪いのなら、水の代わりに飲む飲料水を一つ選んで、それを飲まなければなりません。それは、水の代わりに飲むのです。

◆ 4 環境改善


 皆さんの生活環境を改善しなければなりません。家の中と外を整頓しなければなりません。服を掛けるのも、原理的に掛けなければなりません。男性の服は右側、女性の服は左側です。分かりましたか。服を入れるときは、男性の服は上に入れて、女性の服は下に入れるのです。それが原理的です。そのような訓練が必要です。そうすべきなのです。男性の服をすべて下に入れて、女性の服だけ上に入れるようになれば、それは原理に背くことになるのです。

 服を脱ぐときも、ズボンを先に脱いでから上の服を脱いで、ズボンの上に置くべきであって、上の服を先に置くべきではないのです。そのような訓練をしなければなりません。そのような原理的生活によって、環境を整理できなければなりません。男性の靴は右側、女性の靴は左側、また男性の靴は上に、女性の靴は下に、それらをすべて原理的に整理できなければならないのです。

 女性は服を着るとき、何から先に着るのですか。上から先に着ますか、下から先に着ますか。女性は下から着るのが原則です。原理が下から着るようになっているのです。男性も、もちろんそうです。しかし、男性は時々上の服から先に着てもかまいません。

 なぜでしょうか。男性は本来出っ張っているのです。ですから、着てもその形態が見えるのです。ところが女性は、本来、隠すようになっているのです。それが原理的なのです。皆さんは、そのようなことを知って、生活から整理しなければなりません。原理が生活哲学であるということを知らなければなりません。

 ですから、そのような原理的な基準を中心として、主体、対象という概念を中心に常に考えながら、皆さんが宇宙の秩序に歩調を合わせることのできる生活方式を取るべきだというのです。

 物の種類が二つあるとすれば、どのようなものを右側に置くでしょうか。主体的で値段の高いものを右側に置いて、安いものを左側に置かなければなりません。その次に、大小二つのものを置くときは、大きなものを右側に置いて、小さなものを左側に置かなければなりません。それが原理的です。それは、訓練されなければならないことです。

 これを見ると、中央には大きなものを置かなければならず、周囲には小さなものをいくつか置いて、調和がとれるようにしなければなりません。それで美術作品のようなものも、そのような基準から、すべて均衡がとれていなければならないと見るのです。すべてが、そのようになっているのです。

 それゆえ、木も中心の一つを高くすることによって、それは大きくても、それ以外の多くのものの均衡がとれるようになるのです。すべてがそのようになっています。そのようなことを、すべて自然法とともに、原理法に適用し得る考え方をもたなければなりません。

 女性は服を着るとき、濃い色を上に着て、淡い色の服を下に着るでしょう? 真っ赤な服を上に着ませんか。それらはみな自然の理致なのです。その時、足はどうしますか。足はそこでまた、相対的関係を考えなければなりません。下に淡いものを着れば、足は少し濃くして、すべて調和できるように考えるのです。

◆ 5 住宅問題


◆◆① 電 気


 夜寝るとき、明かりをつけたまま寝る人がいるのですが、それではいけません。明かりがないと寝れなかったり、真っ暗だと寝れないというのであれば仕方がありませんが、病的な習慣であるとすれば寝るなというのです。そのような人は夜寝ずに、昼に寝なさい。人は夜寝るようになっているのであって、昼寝るのはすべて病気です。

 住宅があれば、住んでいる家の電気の管理をしっかりしなければなりません。それで先生は、出る時に電気を確認して、あかあかとついていれば、消してから出るのです。そのような習慣をつけるべきです。部屋を出ても、思い出したなら戻って消してくるのです。特に外出する時は、それが絶対に必要です。

◆◆② 水 道


 人々が顔を洗うとき、水道を開きっ放しにするでしょう。歯を磨いて、洗顔して、小便をして、また手を洗うときまで、そのまま水を流しっ放しの人がたくさんいます。顔を洗うときに水を出し、便器に座って事を終えるまで水を出しっ放しにする人がいるのです。

 髭を剃るときもさっと使い、すぐに水を止めなさい。そのような習慣をつけなければなりません。皆さんはどうですか。いかに皆さんが浪費をしていることか。生活する中で、いかに浪費をしながら暮らしているのかを考えなさいというのです。

◆◆③ 電 話


 次は電話です。電話がかかってくれば、一日中受話器をつかんで、一時間でも二時間でも話す人がいるでしょう? いつか、私がベルベディアにいるとき、電話料金が四千八百ドルにもなりました。それで「誰が電話したんだ」と怒ったのです。するとそれが、一千八百ドルに下がったのです。そのように消費が大きかったのです。無駄な電話をかける必要はありません。

 皆さんはどう思いますか。毎日のように男が座って、「アイラブユー。きょうはどうなの」と言いながら電話をするでしょう。それは必要ありません。「アイラブユー」は一カ月に一回だけでも十分です。一カ月間、朝夕に「アイラブユー」と言いながら、気持ちが変わってしまうよりもいいのです。

 何が必要でしょうか。御飯を食べながらもただ、「アイラブユー」と言う、偽りの愛が必要ですか、真実な愛が必要ですか。電話をかけない時は、一日に百回言ってもかまいません。電話をかけて、無駄な話をするからそう言うのです。電話をかけない時は、何百回言ってもいいのです。

◆◆④ 家 具


 家具を見ると、管理だけ上手にすれば、一年十二カ月、何年使ってもきれいなはずなのに、一カ月にも満たず、一年にも満たないで、ぼろ布のようにしてしまうことがあります。机もいい加減に使うので壊れてしまうのです。それらをみな貴く思わなければなりません。貴ければ、愛さなければなりません。

 家具のようなものは、一生涯管理したとしても、きれいでなければなりません。そう思いませんか。そのような考えをしなければならないのです。家具を愛すべきだというのです。家具も、一番最初に作られた状態を保つのです。傷をつけられれば喜ぶでしょうか。皆さんも、老いていくのがうれしいですか。老いてしわしわになるのがうれしいですか。

 ですから先生はできるだけ、一箇所に置いたなら、その場に置いて使うのです。それがちょうどバランスがとれているので、移動するのは嫌いなのですが、大体の女性はそういうことが好きではないでしょう。移動させて、持ち上げて壊したりもします。

 一般的に女性は、きちっと調和がとれるようにして、芸術品として鑑賞するよりは、それを眺めながらおもちゃのように思うのです。その置いた物を、一つの芸術品とは見ずに、おもちゃとして見るのです。おもちゃのように思うでしょう? それは間違っているのです。

◆◆⑤ 備 品


 備品といえば写真とか、アクセサリーのようなものですが、おもちゃなどもみな入るでしょう?
 女性をよく見ると、頭まで備品をつけています。ネックレスなども、全部備品なのです。

 まず、構造に対しての合わせ方を知らなければなりません。それが、高い物だけをそうするのではありません。自分の姿を見て、自分がどんなタイプだから、こんなタイプにしたいということをすべて見て、それが似合わなければなりません。その次に、すべてを管理しなければなりません。

◆◆⑥ 美 化


 そして、美化について考えなければなりません。そのすべてが一つとなっていると考えられるし、すべてが調和して「一つの芸術的な部屋だ」と考えて、「そういう中で私が生活する」という考えが必要なのです。

◆ 6 衣 類


 その次には、着る物です。これが問題です。皆さんもすてきに着ることを好むでしょう。「衣類」というと、男性の洋服のボタンが取れていてはいけません。傾いていてはいけないのです。ある人には四つ付いていて、ある人には三つしか付いていない、そのようではいけません。その時は一つを切り取ってでも、ボタンを三つに合わせなければならないのです。女性は、それを知らなければなりません。夫が服を着るとき、そのような管理をしてあげることができなければならないのです。

 流行は、商売人たちが作り出していることを知らなければなりません。流行にだまされて買う人が多いのです。皆さんはファッションを追いかけるより、中道を行くべきです。他の人たちは上がったり下がったりしますが、私たちはそのまま進めば、平均的に損害を被ることはありません。他の人がパーマをかけたならば、私たちは少々かけ、誰かがカットしたなら、髪の毛を少し手入れする、そのようなことが必要なのです。

 流行は、三年周期で繰り返します。何年か過ぎれば、それがまた戻ってくるのです。ですから先生が衣服を買う時は、できるだけセールシーズンに買います。お金のない人も生活できて、お金がある人も生活できるのですが、お金のない人も格好良く生活できるのが、セールを利用する道です。

 セールシーズンを利用すれば、いつも流行の服を着ることができるという話です。一年分準備しておけば、夏になれば春の物をセールして売るので、季節は過ぎてしまいますが、約一年過ぎれば春物の服をいつでも安く着ることができるのです。いつでも流行の服を着ることができるというのです。それがとても良い節約法なのです。

 二年分を買うとしても、その季節の値段の三分の一の値段で、二年分を買い置きすることができるというようになるのです。そのようにすれば、普通の人の一年分のお金で、二年分準備しても余るというのです。

 先生はニューヨーク地域の家具屋、衣類屋、ある品物の商店などすべてに精通しています。私は品物を安く買います。安く買える所をすべて知っています。ですから「レバレンド・ムーンは、安物だけを買い回っている」と言いますが、安くてもすてきなものを買うのです。

 ある時、お母様のコートを買ったのですが、本来四百ドルから五百ドル近いものが、セールで七十何ドルでした。その服の色が、とてもすてきだったので買ってあげたのですが、最初はあまり良く見えなかったのに、着てみると次第にすてきに見えるのです。そういうものを選ばなければなりません。四季を問わず飽きないもの、着れば着るほど好ましく思う品物を選ばなければならないのです。そのように着始めたのが、今やいつもそれを着て出掛けているのです。ネクタイも同じです。一つで春夏秋冬、四季を問わずに結ぶことのできるネクタイを選ばなければなりません。

◆◆① 服の着方、着用法


 皆さんが外出する時は、必ず右足から出なければなりません。帰ってきた時は、左足から入るのです。そのように定めようというのです。そのようなことが必要なのです。今後原理的に、そのような規範を作らなければなりません。皆さんは、そのように見ることができなければなりません。すべてが一つの対になって、どのように調和をとるかを考えなければなりません。

 皆さんが服を着るのも、着用法に合わせて着る習慣をつけなければなりません。それで、ぐるぐると回って原理的な見方で、すべてを処理していくことができなければなりません。

◆◆② 形 態


 服の形態をよく備えなければなりません。非常に太っている人は、長めの物を着なければなりません。太っている人はいかにすべきかというと、色合いの濃い物を着なければなりません。淡い物を着ると、よけいに太って見えます。そういうことを考えることができなければなりません。形態が必要だというのです。

 太っている人たちは、おなかが出ていて、歩くのも大変なのです。そのようなときは、どのようにカバーするのかを考えなければなりません。ですから、そのようなことも考えて、服を着るときは、できる限り色の濃い服を着なければならないというのです。

 また、太った女性はできるだけ、髪の毛で頭を大きくしてはいけません。頭を小さくして、靴を履くのもできるだけ幅の狭いもの、狭く見えるものを履きなさい。頭も大きく、履き物も大きければ、熊のようです。事実なのです。それでも、一つでもちょっと小さい部分があれば、他人が見るときも、その部分を見て、「ああ、だけど足は小さい」という同情でも受けるのです。

 太った人はネックレスをしたとしても、大きいものをしてはいけません。できるだけ小さくて、細いものをしなければなりません。イヤリングをするときも、小さなものをしなさい。それらをすべて考えなければならないのです。

 そして歩くときは、できるだけまっすぐ歩かなければなりません。そうでなければ、愚かに見えるのです。女性はできるだけ、小足で歩かなければなりません。特に太った人は、そうすべきです。

◆◆③ 端 正


 端正な服装をしなければなりません。ボタンのある服を着るとき、普通ボタンが三つ付いていますが、三つすべてをかけないでいれば、それは完全に落第の評価を受けるのです。一つをちゃんとかけて、二つ開けておけば、「ああ、あの人はそれで二つをかけないでいたんだな」と考えるのです。それは既に見る人が、端正に見えるようにそうしているんだと思って見るのですが、三個すべてのボタンをかけないでいたとすれば、それは落第なのです。あとでうまく整頓できず、そのすべてが散らばってしまうのです。

 そしてシャツのようなものも、ボタン三つを全部かけないでいれば落第なのです。それらはみな必要なことなのです。また、女性は華麗な服を着て座るときは、必ず整えてから座らなければなりません。すべてが端正でなければなりません。

◆◆④ 調 和


 特に女性は服を着るとき、色合いをよく合わせなければなりません。調和が必要なのです。

◆◆⑤ ネクタイ


 男性にとってネクタイは、とても重要なのです。ネクタイの結び方もいろいろあります。先生はいつも、ネクタイをピンで止めています。それを止めていれば、いつでも固定しているのです。一日たっても、しっかり固定しています。ワイシャツに刺すピンがあるでしょう。ピンで固定すると、ネクタイが行ったり来たりしないのです。そして男性は、歩くときもまっすぐ歩かなければなりません。

◆◆⑥ 装身具


 男性も装身具が必要であり、女性も装身具が必要です。それらも端正でなければなりません。

◆◆⑦ 履き物


 その次に、男性も女性も履き物が重要です。履き物は、服に合わせて履かなければなりません。東洋では、大抵靴を脱いで家の中に入ります。ですから、人を何で評価するでしょうか。履き物を見て評価します。体があれだけ大きいから、普通サイズよりこれぐらい大きいだろう。普通サイズより大きいとき、「これはどうである」と言いながら評価するのです。

 履き物をさっとひっくり返してみて、どれだけ長く履いたかを見て、この人がいかなる行動をするのか、どのように歩くのかという性稟までを、みな知ることができるのです。履き物の擦り減り方によって、すべて分かるのです。それを見て、「この人は教育を受けることができなかった人だ」と、直ちに評価するのです。それで、履き物が擦り減るとしても、両側が同じに擦り減らなければなりません。

 ですから履き物を見て、歩くことやあらゆることを評価するのです。東洋の人は、人に会えば履き物をどのように履いたのかをすぐ見るのです。足に対する関心が多いのです。足がどのような形をしているのかというのです。それで人々が見合いをするとき、大抵手と足をまず見るのです。顔、手、足を見るのです。目、鼻、耳、口、手、足を見て、その次には、話しながら笑う表情を見て、すべてを判断するというのです。

 ですから中国のような所で、足を小さくするのも、みなそのような意味があるのです。足が小さければ、貴族であると考えていたのです。手が小さく、足が小さければ、貴く暮らし、貴い人になれるというのです。先生は足が小さいのです。体は大きいのに、反比例して足がとても小さいのです。手も小さいのです。その代わりに厚いのです。それらを見て、直ちに判断できるのです。

 それで、女性はこういう人が理想のタイプで、男性はこういう人が理想のタイプだというのを平均的に見ると、そのようなタイプをさっとつかむことができます。

 それらを見ると、履き物も端正に履かなければなりません。西洋のハイヒールを見て、「どうしてハイヒールを履いたのだろう」と言えば、「まっすぐに歩こうとしてだろう」と考えるのです。女性も歩くときは、まっすぐに歩かなければなりません。気がゆるんで、少し過っても大変なことになるのです。常に、一歩でも用心をしなければなりません。

◆◆⑧ 帽 子


 その次には帽子です。女性も帽子をかぶるでしょう? それはすべて釣り合いをとるためなのです。色に合わせてかぶるのです。その次には、服を着るにも、すべて原理的に着なければなりません。

◆◆⑨ 備えるもの


 物を備えるときには、常にそれらが分かるように置かなければなりません。それで先生は、机をきれいに片づけておくのです。そうすれば、一カ月が過ぎても、誰が手をつけたのか直ちに分かるのです。このごろでは、そのような習慣のすべてに、少し寛大になりましたが、そのような整備が必要だというのです。

 私は「あの日本が、なぜ祝福を受けるのか」と思いましたが、それは環境をきれいにし、良く整えているためだというのです。悪い霊人は悪くするようにし、良い霊人たちはきちんと整理して、神聖にするようにするのです。ですから、良い霊がたくさん来て助けてくれるために、日本があのように早く発展したではないかと、このように見るのです。それで私たちは、そのような面のすべてを、今後生活化していかなければなりません。

◆◆⑩ 保 管


 いかに長く保管するかということです。それが必要です。

◆ 7 体を端正に


◆◆① 頭


 男性も女性たちのように、頭を整えなければなりません。化粧することもそうですし、髪型も自分が見て、右分けがいいか、左分けがいいかを知らなければなりません。左分けがいいというのです。右側を大きくするのがいいのです。これを皆さんはよく考えなければなりません。

◆◆② 顔


 顔は生まれつきのものですが、その表情をどうするかは、すべて皆さんが習慣的に調整しなければなりません。歯が内側に曲がっている人は、極力笑わないようしなさい。なぜでしょうか。女性がそうであれば、毒蛇のように見えるからです。ですからそのような女性は、絶対に口を開けて笑うなというのです。できるだけ口を開けないで笑いなさい。

 また、歯が出ている人は話を多くします。いつも口が開いていておしゃべりをするので、いつでも閉じたり開いたりするのです。そういう人は、できるだけ口を閉じる訓練をしなければなりません。自分の体を管理できなければなりません。すべてをよくわきまえて行動しなければなりません。

 笑うことも同様です。人々の中には、笑うとき口を開けてからすぼめながら笑う人もおり、口をすぼめてから大きく開けて笑う人もいます。よく見てごらんなさい。自分の顔を見て、よく似合った笑い方を研究しなさいというのです。

 女性は、大きく「あっはは」と笑ってはいけません。女性は花です。花。花が咲く時は、音もなく咲くのであって、「パッ」と音をたてて咲きますか。静かに咲くのです。

 こういう訓練をするようになれば、パッと見れば、既にその人がどのような種類の人か、教養のある人か、そうでないかがすぐ分かるのです。

◆◆③ 手足の爪


 先生が西洋にいるとき、一番怖いのが女性の前に行くことでした。爪を見るだけで危険を感じたのです。先生は常に爪を短くしています。それが必要です。少し伸びただけで手足の爪を切ってしまいます。手足の爪を切ることが趣味なのです。手の爪を伸ばしている女性は、仕事をしようとしない女性です。そうではないですか。そんな爪でどうしてタイプを打つことができるでしょうか。仕事をする女性に、どうしてそれが必要なのかというのです。

 また、それを伸ばすのにどれほどの時間がかかるでしょうか。そういうものは必要ありません。一度もしたことがないと恨みになるのであれば、一、二回伸ばしてみるのはかまいませんが、先生はそれを願いません。愛する妻が手を差し出しても、どうやってそれを握って引っ張ることができるでしょうか。ですから、手足の爪を切ることが重要だというのです。

◆◆④ 歩くこと


 そして歩くときは、端正に歩かなければなりません。バランスのとれた歩き方をしなければなりません。バランスのとれた歩き方をしているかどうか、いつも考えなければなりません。安全な歩き方をしなければなりません。

 そして背中が曲がっていてはいけません。頭からまっすぐに立たなければなりません。ですから、座るときもいつもまっすぐに座る練習をしなければなりません。また、座るときは椅子に深く腰掛けなければなりません。そうすれば自然にまっすぐになるのです。それができなければ、腰が曲がるようになるのです。それで、歩き方が重要だというのです。

◆◆⑤ 座り方


 女性がどこかに行って座るとき、寄りかかってはいけません。東洋では、女性が寄りかかって座ることは絶対にできません。女性はおしりが大きいので、座れば自然と楽になるでしょう。しかし、座るときに寄りかかって座ると、赤ん坊に支障が起きるのです。妊娠すれば大変なことになるのです。

◆◆⑥ 言 葉


 東洋の思想では、女性の言葉が垣根を越えるようになれば、その家は滅びてしまうといいます。女性は、言葉数が少ないのです。本来そのようになっています。ところが、言葉が垣根を越えるようになれば、原則から外れるために、その女性と一緒に暮らせば滅びる、という話なのです。

 そして先生は、女性の話し声を聞けばすぐに分かるのです。その人がどのように生き、苦労しながら暮らすのか、幸福に暮らすのか、愛されて暮らすのか、それらが分かります。それで、女性の声が重要なのです。

◆◆⑦ 寝ること


 皆さんの眠るマナーはどうでしょうか。横になって寝る人もいるでしょう。しっかりと眠らなければなりません。安らかに眠らなければならないのです。

 いびきをかいたとしても、体の大きい男性がいびきをかくのであって、女性がそのようにいびきをかくものではありません。女性は、いびきをかいたとしても、「スー、スー」と小さくかくべきなのです。女性が大きないびきをかくのは困ります。そういうとき、首がうなだれるほど、いびきが大きくなるのです。ですから、できるだけ枕を深くあてるのです。

 女性が男性の寝ているところに入っていくときは、横からさっと入らなければなりません。横から後ろ向きに入るのです。夫が先に寝ているのに、妻が「わあっ」と言いながら入れば、問題になるのです。そっと横から入らなければなりません。それが必要です。

◆◆⑧ 健 康


 次に健康です。健康が何よりも一番重要なのです。いくら具合が悪くても、また風邪をひいていたとしても、健康な気分を保たなければなりません。他の人に分からないようにするというような心が必要なのです。少しだけ風邪をひいても、それを顔に出し、少しだけ困難なことがあるといって表情に表す人がいるのですが、そうしてはなりません。健康な表情をしなさいというのです。

 特に女性がそのようにすれば、そのような女性と一緒に暮らす男性は、随分慰められるのです。男性に心配事があっても、「どうしてそんなに心配されるのですか」と言って慰労することのできる、常に健康な表情が必要なのです。

◆二 教会生活


◆ 1 祈祷生活


 祈祷生活が必要です。私たちの信仰生活は副業ではなく、本業であるということを知らなければなりません。

◆ 2 集 会


 集会に参加することは絶対に必要なのです。なぜかといえば、水に例えれば、常に水平のバランスを保つことができるというのです。水平を保つことが絶対に必要なのです。それゆえ、集会に参加することは、絶対に必要なことなのです。

◆ 3 学 習


 常に学ばなければなりません。霊的に学ばなければならず、その次には教育と知識が必要なのです。分からないでいては駄目なのです。特に信仰生活をする人は、霊的な知識と肉的な知識がどれだけ満ちているかということを、常に鑑定しなければなりません。その場合、霊的な知識が常に優先していなければならないということを知らなければなりません。

 また信仰生活をするにおいて、夢のようなものがあり、意味のある夢、暗示、啓示があるのです。皆さんは、それが私といかに関係し、このようなタイプの夢や、幻想のようなものが、どのように影響を及ぼしているのかを全部統計的にかいつまんで、自分の出した統計に合うものに従って、すべて習得していかなければなりません。それは、人によって異なるのです。

◆ 4 伝 道


 伝道は必ずしなければならないのです。赤ん坊を生んで育てたことのない人は、円満にはならないのです。たくさん伝道して、多くの人に対するならば、やがて円満になります。そして、伝道するときは霊界が多くの協助をしてくるのです。そうして、その人に対して私が精誠を尽くせば、その人の性稟を一〇〇パーセント知ることができるのです。

 そのような人を数十名続けて育ててみれば、人は似たり寄ったりなので、すぐに知ることができるのです。人を完全に知ることができるようになるというのです。あの人を私が伝道しようとすれば、どのぐらい時間が必要かということを推測できるようになるのです。

 それでイエス様も、独特な十二弟子を選びました。伝道を十二人以上すれば、精通して理解できるようになるのです。それは絶対に必要なのです。

◆ 5 奉 仕


 その次には奉仕です。「ため」に生きる人にならなければなりません。愛して、「ため」に生きることができなければならないのです。

◆ 6 蕩 減


 蕩減の道を行かなければなりません。特別に定めてそのような祈祷をするとか、常に一年のうちに何度かずつ、自分自身の蕩減の道を行くという期間を設けて、特別祈祷をしなければなりません。それをしてみなければなりません。それをすれば、皆さんにどんなことが起きるでしょうか。信仰者がそれをしてみれば、自然に悲しいこと、困難が訪れることを蕩減してしまうのです。ですから、私がまずあの人の仕事を責任をもってやるということが、いかに貴いか知れないというのです。

◆ 7 和 睦


 その次には、いつも睦まじくなければなりません。教会に行っても、心配するようなことがあれば、いくらでも自分が責任を負わなければならないのです。教会のすべてのことや、教会生活で多くの食口たちに困難なことがあれば、自分が責任をもって睦まじくしなければならない、という気持ちが絶対に必要なのです。聖書にも、「平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう」(マタイ四・九)とあるのです。

◆ 8 体験生活


 体験が必要です。神秘的な体験、霊的な体験が必要なのです。祈祷中に先生を見たり、幻想の中で先生を見たり、夢の中で先生と出会うという現象がしばしば起きるのです。それが短いものではなく、すーっと霊的世界に入っていき、霊的楽園にも入ってみるという現象が起きるのです。そのような体験が必要だというのです。

 そうするには、常に縦的な考えをしなければなりません。皆さんがそのよう(縦的)に考えたならば、今後何かをしようと道を出発するとしても、すぐに良くないということが分かるようになるのです。それを区別しながら進まなければならないのです。そのような体験が必要なのです。

◆ 9 霊界と現実


 霊界でなされることは、現実に現れるというのです。それを皆さんは体験しなければなりません。自分の人生でもそうであり、この社会でもそうであり、それを感知しなければなりません。信仰生活が深まれば、ますます広範囲でそれを感じるようになるのです。

 ですから、あるときは神様が悲しんでいらっしゃる境地に入っていくようになると、我知らずその悲しみを現実の中で自然に体 恤するのです。それで、現実が共鳴体であるというのです。

◆三 社会生活


 私たちは、社会生活をしなければなりません。

◆ 1 時 間


 私たちは、時間圏内で生きています。時間の観念が徹底していなければなりません。時間生活、約束を守るとか、会社の時間を守るとか、学校での時間を守るとか、これらのことをすべて徹底しなければなりません。

◆ 2 尊敬と交流


 出会うすべての人々を尊敬することができ、その次には交流の仕方を知らなければなりません。何か良い交流をしなければならないというのです。常にそのような観念が必要なのです。二人のうち、先に相手を尊敬した人が支配する者となります。

◆ 3 外交と発展


 その次は、外交と発展です。これは自分が出世するためには、必ず必要なのです。そのためには祭日や誕生日の時に、こういうあらゆることを、うまくこなさなければならないのです。会社の責任を負った人は、皆が外交的な舞台へ拡大させていくことができなければなりません。

 外交とは何かといえば、相手側を私に順応できるようにすることなのです。それには言葉と精誠と表示がなければなりません。

◆ 4 職業と姿勢


 仕事をする上での責任として、態度が悪くてはいけません。職業とは何かといえば、第二の自分となるのです。職業とは、仕事とは、第二の私をつくるものであるため、態度のいかんによってその日のすべての生産、働いたすべての実績が左右されるということを知らなければなりません。ですから、態度を良くすることが必要です。

 その職業を、生きている人のように考えてみれば、私の態度が悪くなるときは、職業に対して失礼をし、負債を負うという考え方をしなければなりません。職業は神聖なものである、という考えをしなければなりません。私の第二の生命です。私の延長を、それによって表すものなのです。

◆ 5 主従関係


 いつでも、この大きな社会は、主従関係になっています。そこに、誰が良い影響を与えるのかということが問題なのです。社長が職員に良い影響を与える立場であれば、良い社長になるのであり、職員が社長に良い影響を与えれば、良い社員になるのです。それを知らなければなりません。主従関係を円満にしていかなければなりません。不平は必要ないのです。

◆ 6 社会と私の利点


 私たちの職場が会社であるならば、会社と私の利点が介在するようになります。会社に負債を負う者が多いのです。絶対に会社に負債を負う者となってはなりません。損害だけ負わせたならば、それ

※ 本の続きのページが欠けているため、ここから先は韓国語の原文(文鮮明先生み言選集 第131巻 312〜313ページ)から訳した非公式訳です。本の訳文とは言葉づかいが違います。

 損害だけ負わせたならば、それは取り除かれるのです。取り除かれるようになっているというのです。その次には、国家と連結させて、国家の利益も考えなければならないというのです。

◆ 7 言葉と行い


 このすべてが端正でなければなりません。言行心事、すなわち話すことと行うこと、その次には考えることと働くことが端正でなければならないということです。模範とならなければならないというのです。なぜでしょうか。そうしてこそ、そのすべての環境に適応するようになるということを知らなければなりません。

 さあ、私たちはどのみち、自分一人が生きていくのにこのような過程を経なければならないので、自分自身の生活と教会生活と社会生活を貴く思えなければならないと考えて、このような内容を伝えているのです。なぜかというと、これからは昔とは違うからです。時が変わったというのです。そのようなすべてのものを備える時が来たということです。分かりましたか。「はい」

 それでは、きょう指示し、話したすべてのことを参考にしながら、皆さんがひと月の間、一生懸命に闘い、これからは実績をどのように表すかということに力を注がなければならないのです。今からの実績は――今までは蕩減の実績として多く消耗されましたが――蕩減の実績ではなく、皆さんの利益となる実績として残る時に入ったということを知らなければなりません。今まではサタンがしきりに崩してきましたが、今は皆さんの所有権が拡大する時なので、このようなことを考えて、精誠を尽くして努力しなければなりません。

 さあ、それで、昔はムーニーに関心がありませんでしたが、ムーニーに関心をもつようになってきており、すべての人が皆さんを注視しているので、このような全体的な内容を備えて模範とならなければなりません。そうすることによって、皆さん自身が神様の前に本当に誇られるようになるのです。そのようになるように、先生が指示するのです。



















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訓教経(下)032



文鮮明先生のみ言集

訓教経(下)



真なる世界へ


一九八七年九月二十日
韓国本部教会 『文鮮明先生み言選集第百六十八巻


 きょうは「真なる世界へ」という題目でお話ししようと思います。

 私たちは日常生活をしながら、誰もが生活目標を「善なる生活」と定めています。個人においてもそうですが、家庭も同じであり、国、あるいは世界においても同じです。

◆全体の理想をくくることができる共通分母は愛


 「人」と言えば、男性と女性に分けられます。ですから、「真なる人」と言えば、真なる男性がいなければならず、真なる女性がいなければなりません。この世界を見れば、世界には人だけがいるのではありません。ここには万物がなくてはならず、人間がいなくてはならず、それから理想がなくてはなりません。

 人には理想と希望がなければならないのです。きょう生きることだけをもって終わりとするのではなく、未来を通して希望をもって、より発展することができる、次元の高いところに前進することができる未来の保障を必要とするのです。ですから、この世界には万物があり、人間があり、理想がなくてはならないというのです。

 私たち個人においても同じです。個人が日常生活をするときにおいて、人間である私にとって必要なものとは何でしょうか。物質が必要であり、その次には、私個人だけで生きられるのではないので、人間関係を結ぶことができる人々が必要です。

 それでは、その人々は何を要求するのでしょうか。お互いに助け合うことができる、互いが利益となることができるものを願っているというのです。家庭を中心として見れば、父母がいらっしゃり、子女がいて、その他様々な家族が生活していますが、すべての家族が望む願いがあるのです。そのような共同目標を中心として、全体が喜ぶことができる一つの理想型がなくてはなりません。それでは、その理想型をつなぐことができ、束ねることができるものとは何でしょうか。このような問題をおいてみるとき、それは物質でもなく、人だけをもってしても駄目です。

 男性だけをもってしても駄目で、女性だけをもってしても駄目です。父母のみでも駄目で、子女のみでも駄目だというのです。ここに共通分母が必要となるのですが、それが何かといえば愛なのです。

 「理想的家庭」と言えば、理想的男性がいて、理想的家庭なのではありません。理想的女性がいて理想的家庭なのでもなく、また、理想的物質があるからといって理想的家庭ではありません。理想を連結させることができる、共通分母となり得る「愛」があってこそ理想的家庭を形成することができるのです。

 このことを大きく見れば、理想的な国家も同じです。理想的国家といえば、国土、万物がなくてはなりません。また、国民がいなくてはなりません。理想的国土と理想的国民があると同時に、理想的主権がなくてはなりません。

 主権とは何でしょうか。家庭でいえば父母の位置です。なぜ父母の位置が必要なのでしょうか。国は主権なくして成り立つでしょうか。成り立たないのです。人は平面基準のみでは駄目だというのです。男性が東側ならば、女性は西側ですが、これを連結したものは平面基準にしかならないのです。必ずその平面基準に縦的な基準を連結させることができなくてはなりません。

 国ならば国を中心として見るとき、縦的に家庭と連結するものとは何でしょうか。父母の愛を中心として、国と連結されるのです。また、世界にたった一つの中心主権があるとすれば、その主権と国王の愛が連結されなければなりません。

 それはまた、どこまで連結されなければならないでしょうか。この宇宙に万物を創造され、存在起源を形成された、根本なる神様にまで連結されなければなりません。そうしてこそ縦的な基準が連結されるのです。それで、縦的基準の前に横的基準を連結させなければ理想型が出てくることができないのです。

 理想とは何でしょうか。東でだけ喜ぶものではなく、西でだけ喜ぶものではありません。東西南北どこにでも、絶対に必要なものなのです。それがなければなりません。それがなくては、連結させることができないのです。

◆永遠なる理想世界成立の要件


 それでは神様が存在されるとすれば、神様が善であられ、真なるお方だとすれば、神様が願われるものとは何でしょうか。

 神様が必要とされるものとは何でしょうか。人間それ自体を必要とされるのではなく、万物それ自体を必要とされるのではありません。万物と人間を通した理想的な要素が必要であるというのです。それが何かといえば、「愛」であるというのです。

 真なる神様がいらっしゃるとすれば、真なる愛を中心として連結させるための人間と、真なる人間を中心として連結させるための万物を必要とされるはずです。真なる万物と真なる人間が愛で一つとなった、その基盤の上に真なる神様の愛が臨在するようになっているのです。

 そのため、愛と関係を結ぶことができる内容を省いてしまっては「真」という言葉は言えないのです。「理想」という言葉も同じです。今日、人々は「理想世界」という言葉を使いますが、一体全体、理想世界とは何でしょうか。「理想世界」とだけ言っても漠然としているのです。

 理想世界には絶対的な中心がなければなりません。理想というものは千年、万年を代表するものです。いつでも移動するものではありません。理想世界というものは万年前でも、万年後でも同じです。永遠にそれ自体の本質が変わらない内容をもっていなければならないのです。

 それゆえに、昼でも夜でも必要となるものであり、高くても低くても必要となるものでなければなりません。広くても狭くても必要であり、上下、高低の区別なく、有識、無識に関係なく、全部が絶対に必要とする、そのような内容とならなければならないのです。このようにいうとき、理想的な一つの絶対基準があるとすれば、その基準を中心として必要とする理想的な要件とは何でしょうか。それは「愛」以外にはあり得ないのです。

 今日、人間たちが「どうすれば平和の世界になるだろうか」と言うとき、「民主主義的に選挙をし、国家の主権を中心として、数年ごとに交替して、闘争なく和して暮らせば理想である」と言います。しかし、いくら国家が民主主義基準に立っているとしても、それは平面的です。それは今日の人間たちが一生を中心として営為する環境であって、永生を中心として生きる環境与件となることはできないのです。

 永生というものは、人間からは始まりません。絶対的な存在が形成されなければならず、絶対的な価値が形成されなければならず、絶対的な不変の内容が形成されなければなりません。そうでなくては、永遠なるその概念が設定され得る地上基盤が成立しないというのです。

 このように見るとき、平面的基準に生きている人生に、永生の概念を介入させるためには、絶対的なその基準を介入させるためには、絶対的な存在、絶対的な価値、絶対的な善、絶対的な愛がなくてはならないというのです。

◆男性にとって最も貴いものは女性、女性にとって最も貴いものは男性


 このように見るとき、人間世界を離れ、神様の側から見るとき、神様にとっても一番良いものがあるでしょうか、ないでしょうか。神様にとって一番良いものとは何でしょうか。これが分かれば本当にいいでしょう? 一つの国を中心として見るときも、大統領が一番喜ぶものは何だといって、みんな大騒ぎしています。

 家庭ならば家庭で、お母さん、お父さんが一番好きなものとは何でしょうか。一番好むものを中心として関係を結ぶことによって、自分が行く道が示されるのです。それは個人においてもそうであり、世界においてもそうだというのです。男性にとって一番良いものとは何でしょうか。女性にとって一番良いものとは何でしょうか。

 皆さん、人間が一番好むものとは何でしょうか。その答えを出すにはまず、男性にとって一番良いものを知らなければならず、女性にとって一番良いものを知らなければなりません。

 それでは、男性にとって一番良いものとは何かというとき、男の人たちが言うには、「ああ、私は権力だ」と言って、大統領選挙に出馬するとかなんとか、「国会議員が一番だ」とかなんとか言っていますが、それはよく分かって言っていることではないのです。

 男性にとって一番良いものとは女性です。国を与えても換えることができず、天地を与えても換えることができない、そのような、男性にとって一番、絶対的に良いものとは女性だというのです。そうだとすれば、女性たちは気分が悪くないでしょう? いくら男性の図体が大きいといっても、女性がいなければどうしようもないというのです。

 そして、女性にとって一番良いものとは何でしょうか。どんなに花のように美しい女性にすくすくと育って、紅顔の美しい顔を備えたとしても、その前に男性がいなければ天国ですか、地獄ですか。
 そこに、天国という概念を見つけてくることができますか。

 それゆえに、女性にとって一番貴いものとは何でしょうか。男性です。女性と男性が二人くっついて生活することをよくよく考えてみれば、なんとも不思議なのです。それ、どうして二人で生活するのでしょうか。何のために生活するのでしょうか。御飯を食べて、ただ寝るだけなのに。

 全体を見れば、人というものは食べて寝て、行ったり来たりして、良かったり悪かったりして、そしてまた寝て起きるのです。ここに世の中で起きるすべての内容が入ってくるのです。そうではありませんか。顔の形を見れば、多彩ですか。目、鼻、口、耳の四種類です。丸いところにそれらを描いてはめ込んであるのです。それを二人が見つめながら一生の間を暮らすとは、それはなんという地獄でしょうか。考えてみなさいというのです。

 皆さん、絵画一枚をもって、一生の間毎日のように、朝晩に話し、論議し、触ったりさすったりしながら暮らすと考えてみてください。それは、いかに地獄でしょうか。どんなに名画だといっても、それでは地獄です。ところが、どうして一生の間、触ったりさすったり、けんかして離れることもできないで合わさって、「うれしい」と言っては、またけんかして、このように大騒ぎしているのかというのです。

 何がそんなにいいのかというのです。なぜそんなにいいのかというのです。女性にとって男性自体が良いのですか。男性自体には良いものがないのです。比較してみれば、異なっている部分は一つのところ以外に、ほかにありますか。全部同じなのです。目もあって、鼻もあって、体もみんな同じなのですが、一部分だけが異なっているのです。

◆真なる愛は変わることがない


 どうして、男性は女性が好きなのですか。男性にとって女性が一番良いというのは、女性の体のせいではありません。そこに希望が訪れてくるからです。現実と未来においてこれを越えていかなければならないのです。そのような過程において、必要要件の存在として登場したために、男性や女性はおのずとお互いを絶対視するのです。その絶対視するということは何を中心としたものでしょうか。愛というものを中心としたものです。

 皆さんのおじいさん、皆さんの一番最初の先祖に尋ねてみても、同様な返答をするはずですし、千年のちに、数千万代の後孫を中心として尋ねてみても、同じく答えることでしょう。男性と女性が一緒になったここにおいて、提示されるべき重要な内容とは何か、絶対的要件とは何かというとき、それは愛だというのです。

 それでは、愛を中心として訪ねていくすべての夫婦が、近ごろアメリカのような所を見れば、離婚率が五〇パーセント近くあるというのですが、愛を中心として因縁を結んで出会ったならば、その愛がどうして瞬間的な愛となり、臨時的な愛であり、時間的な愛なのかというのです。これが問題です。

 では、男性と女性がお互いをつかんで生きるところにおいては、どんな愛を中心とするのでしょうか。真の愛を中心とするのです。真なる愛は夜の目で見ても良く、昼の目で見ても良く、若い時の目で見ても良く、老いた時の目で見ても良いですか。おじいさん、おばあさんの目で見ても同じように良いのです。高い山に登ったからといって変わるものではなく、深い谷に行ったからといって変わるものではなく、広い荒野に出ていったとしても、それが散っていくのではありません。

 それは、常に私と共にあり得る絶対的な因縁です。瞬間的でない、絶対的な因縁として、私から離そうとしても離すことができずに絡まった、そのような基盤の上にあるとき、真なる愛の因縁であるということができるのです。皆さんは、そのような真なる愛をもっていますか。家庭では誰でも孝子(孝行息子)を好みます。孝子を嫌いな人がいますか。父母となった人は、みな孝子を好むのです。また、男性も女性も好むのです。未来の人も、みな好むのです。孝子というものは過去、現在、未来、上中下、前後左右を問わず、みな好むのですが、皆が好むことができる内容とは何なのでしょうか。どのような概念を中心としたのでしょうか。愛というものを中心としたというのです。これが貴いことなのです。

 その愛とは、どんな愛ですか。変わる愛ではありません。ある息子が父母を、少年時代は好きだったのが、壮年時代にはあまり好きではなくなって、老年時代には嫌いになったというのでは、その息子は孝子ではありません。変わることがあってはなりません。幼子の時に母親の乳を飲みながら喜んで、母の唇に触ったり、顔を触ったりしながら、神秘的なその位置からすくすくと育っていくときの愛の心情や、大きくなって自由奔放に活動し、社会舞台を引っかき回すような成人となった立場になっても、お母さん、お父さんに対する愛は変わることがないのです。そこには発展というものがないのです。年を取って死ぬようになったからといって、それが変わるのですか。

 ある息子と母親がいるのですが、その息子は七十を越えているのです。その母親は九十を越えているというのです。腰が曲がっていて、頭が白くなって、手も普通の人のような色をしていません。このような母親に、七十を越えた息子が訪ねてきて頭を垂れるその姿は、神聖であり、偉大であるのです。何も知らない人、分別のない人は、「あれなんだ、なんであんなにばあさんを好むのか」と言うかもしれませんが、そのような母親に対して白髪混じりの息子が頭を垂れるのを見れば、それはどんなに美しいことでしょうか。

 子供たち同士で遊ぶことよりも、年取ったおじいさんと話しながら遊んでいるのを見るほうが、どんなに芸術的でしょうか。どんなに深みがあり、すてきなことでしょうか。笑うときにも、白髪が混じって、髭も白く伸ばして、風格があるおじいさんが、風にゆらゆらなびく頭と髭をもって、「ホッホッホッ」と笑うその姿と、子供たちが「ヘヘヘ」と笑うその姿が共にあるとき、高低が和合したそこにおいて、天地が動きだすのです。

 孝子が貴いのはなぜかというならば、幼い時も、成長して成人になった時も、老年時代にも、変わることのない愛をもって父母を敬うからです。そのような人を、孝子というのです。家庭に対して孝子といえば、国に対しての孝子は、忠臣のことをいいます。

 忠臣とはいったい何でしょうか。「忠臣は忠臣だろう、ほかになんと言うんだ」と、簡単に考えればそうなのです。忠臣とは、国王と民のため、忘れることができない愛の媒介体となる人のことです。国民は「彼」を思わずにはいられず、国王は「彼」を思わずにはいられないというのです。国王と国民を、愛の心を中心として、自分の価値以上に価値あるものとして感じ、上下を連結させるために、すべてのものを犠牲にしていくという人を、いわゆる忠臣だというのです。

 それでは、その中心内容とは何でしょうか。愛です。国を愛する心、民を愛する心です。年中、季節は変わるかもしれませんが、その心に満ちあふれてくる、上に向かい下に向かうその愛の心は季節を超越しているというのです。また、東西の幅がどんなに広いといっても、その幅を包括しても余りある、余裕をもった愛をもっているというのです。

 それゆえに、国王がいるとすれば、そのような臣下をもちたいと思うし、兄や姉や、あるいは弟がいるとすれば、そのような兄、姉をもちたいし、弟をもちたいというのです。どうしてでしょうか。変わることのない愛を媒介としてもっているからです。それゆえに、その人はその国の「真なる人」であると言うことができるという、このような概念を中心とした結論が出てくるのです。

◆真なる人と真なる愛


 それでは今、きょうの「真なる世界へ」という主題を中心として考えるとき、真なる男性、真なる女性とはいったい何でしょうか。これが問題です。真なる人とはいったいどんな人でしょうか。それを、何を中心として結論づければいいのかいうとき、それはお金でもなく、知識でもありません。

 今日「ああ、あの人はお金があるだろうか」と、このように言うでしょう? 「お金があるだろうか」と聞く人は真なる人ですか。お金でもって人を測定しているのです。「あの人はお金があるの?」と、このように言うのです。恰幅が良くて、お金があれば万事OKなのです。今日、皆さんもそうなのですか。目をぱちくりさせて、にやにやして、こそこそと歩き回りながら、その人の恰幅を見ては、「あー、この人はお金があるか?」と言って、お金があれば「ヘヘヘ」と言っているのです。お金、好きでしょう。

 その次には権力! 近ごろ、政治家たちは、「権力! 私の生命を懸けて、どこまでも維持しなくては」とやっているのですが、いくらでもやってみなさいというのです。本物か偽物か、それが問題なのです。権力をもって幸福な世界を成すことができ、千年王国を成し遂げることができますか。問題なのです。権力をむさぼる人は、悲惨に消えうせていくのです。

 その次には何ですか。知識です。近ごろの人たちは、特にそうでしょう。チマッパラム(スカートの裾から起こる風:教育ママ的な行為の意味)を起こしながら、「うちの息子、娘に勉強させなくては」とやっているのですが、勉強させてどうするというのですか。御飯をたくさん食べるためですか。御飯といっても、一日に三食を食べるようになっているのであって、十食も食べますか。水を飲むことも同じだし、さじを使うのも同じで、住む所をもって二十四時間生活するのも同じであって、排泄物を出すことも同じです。違うところがありますか。

 ですから、少しおいしい物を食べるだけであり、質がちょっと良い物を食べるだけでしょう? そのおいしくて、質の良い物を食べたからといって、人の質が良くなったり、善良な人になったりしますか。それをちょっと皆さんに聞いてみましょう。おいしくて質の良い物を補給してくれるとして、その補給してもらった当事者が良い人になるのかというのです。身のほどを越えた良い物を補給してもらっていては滅びるのです。身分相応の生活をすべきでしょう。それゆえに、身のほど以下の生活をしなさいというのです。これが安全地帯です。

 それでは、真なる人とはどのような人でしょうか。どんな人が真なる人でしょうか。真なる人たちの目を見れば、「お前はこのようになれ」という規定をつくりません。お前は東側ならば東側にいろという規定をしないのです。愛は規定をしないのです。東側なのですが西側にも来ることができ、西側なのですが南側にも行くことができ、南側なのですが北側にも行くことができ、隅にいるのですが中央にも来ることができる、こういうものです。

 ですから愛が良いのです。どんなに厳格なおじいさんであっても、その懐に孫が忍び込んでくるときには、膝を開いて受け入れるのです。どうして? 何があるために? おじいさんの愛があるためです。それを、けっ飛ばしてしまっては、「来い」と言っても来ません。

 人の生理的構造を見るとき、五官があるのですが、この五官が喜ぶことができる、その本質とは何であり、本性のその通路とは何でしょうか。愛に従っていく、その道しかないというのです。

 それゆえ、愛を中心とするようになるときは、目も耳も鼻も舌も統一され、すべての触覚、感覚も完全に統一されるのです。全体が一つとなるのです。目もこのように行ったり来たりしていますが、愛があるところに行くのです。鼻もこのようにあるのですが、愛があるところに行くのです。口がこのようにありますが、そちらに行き、耳がこのようにありますが、そちらに行くのです。私のすべての霊と肉が、生理、生態のすべての要素が、そこに全部合わせるのです。朝、太陽の光がさせば、すべての草木は自分勝手になっていますが、その芽は、全部太陽の光に合わせるのです。

 それで、家庭では孝子が必要であり、国には忠臣が必要であり、この世界には聖人が必要です。聖人とはどのような人でしょうか。大概、聖人たちは、神様を中心としていたのです。見てください。釈迦、孔子、マホメット、イエス様のような方々は、みな宗主です。宗教指導者です。宗主が、どのようにして聖人となるのでしょうか。

 彼らは、神様を愛するように人間を愛し、神様が永遠の主体であるので、永遠なる主体を包括することができる愛をもって、その統治下にある万民を永遠に包括することができる心をもって愛したというのです。その呼吸と、すべての生活、生態のすべての現象的作用は、全部愛の表示として現れたというのです。

 ですから、神様が関心をもたざるを得ず、人類が関心をもたざるを得ないのです。そのため、彼らの教えは千年の歴史、万年の歴史を克服するのです。距離と時間と空間を超越しているという事実を知らなければなりません。

 それでは、聖子とはどのような人でしょうか。王宮法を守ることができる人です。その国のすべての社会秩序も守りますが、その国に王宮があれば、王宮法を守らなければならないのです。天の国の王宮があって、神様を中心とした直属隊列に通じることができる皇族圏の法があるとすれば、その法を守ることができなくてはなりません。そうしてこそ聖子となるのです。

 イエス様がこの世界に来て、何をまず設定しようとされたのでしょうか。世界の外的環境よりも、天の国の国法を中心として生きたというのです。ですから、彼がこの世で生活したすべてのものは、この終わりの日の世界がすべて過ぎ去り、神様の天の国がこの地上に君臨するようになるとき、自分の国が来ることを確信して、常に神様に侍って生きることができる理想的環境を考えていたというのです。それが王宮法であったというのです。

 その法を守るには、何を中心とするのでしょうか。心情をもって、愛をもって、そのようにしなければなりません。誰かが言って教えてくれる前に、既に行わなければならないのです。家庭から始まって、国、世界、天の国まで、そのすべての本質的内容に不変の要素として備えることができる最も貴いものとは何でしょうか。また、平和の基準になり、幸福の基準となり、私たち人間の理想の基準となり得る、そのすべての根本内容の中心とは何かというのです。それは真なる愛です。

◆真の愛の属性


 真なる愛とは何でしょうか。昼でも夜でも変わることなく、春夏秋冬いつでも変わることなく、若い時も老いた時も変わることなく、今から永遠にそのまま続くことのできる内容に一致して立っている人を「真なる人」と言い、そのような内容を備えた愛を「真なる愛」と言うのです! 分かりましたか。

 女性が、結婚すると大騒ぎして、嫁に行くときは「うれしい」と言ってにこにこ笑い、嫁に行って息子、娘二人を産んでからは、「あー、もう自分の時代になったから、舅、姑は私の言うことを聞かなければならない。夫も私のしりに敷かれなければならない」とやる、そのようなものではありません。最初に「死ぬか生きるか」としたならば、最後まで「死ぬか生きるか」としなければなりません。途中で変わっては駄目なのです。

 今日の女性たちはそうでしょう? すっすっすっすっと計算して、息子、娘を産んでおけば、自分のすべきことは全部やったというのです。「息子、娘を産んだので、夫も自分の言うことを聞かなければならない」と、そのように考えるでしょう? それは良いのです。私の言うことを聞かなければならないという原則は良いのですが、そうしようとすればどのようにしなければならないのでしょうか。簡単なことです。「夫よりも私のほうが父母をより一層愛したので、夫の言う言葉よりも父母は私の言葉を聞かなければならない」ということです。簡単です。言葉は簡単ですが、内容は複雑で、するのは大変です。しかしながら、すべては心の持ち方にかかっているのです。

 そのために体系が必要なのです。思想的「観」というものが必要です。個人観、家庭観、民族観、国家観、世界観が必要であるというのです。それを全部、個人から刺し通すのです。

 理想を刺し通すときに、個人理想、家庭理想、氏族理想、国家理想、世界理想、過去、現在、未来の歴史理想をそのまま串で刺すのですが、「うん、良い」と言える串とはどんなものでしょうか。お金の串ですか。お金の串は先がとがっていません。愛はどんなに鋭いでしょうか。その愛の鋭さといったら、針の先よりももっととがっているのです。愛する夫婦が八十年共に生きたとしても、夫が一言「すっ」と言えば、「あっ」と言ってぶっ倒れてしまうのです。それを見れば、銃を撃つよりももっと痛く、胸を錐で貫くよりももっと痛いのです。

 愛はどんなに鋭く、どんなにひどいものでしょうか。そうでしょう? 愛はあまりにとがっていて、それからとてもひどいというのです。でもその愛は、悪いものではなくて良いものだというのです。その串とは何ですか。愛の串です。何の愛? 真の愛です。

 その真の愛は、個人から国王にまで行かなければなりません。天の国の神様にまで上がっていかなければなりません。皆さんは全部、世界一になりたいでしょう? みんなそうでしょう? 世界最高になりたいでしょう? 世の中は全部滅びたとしても、私はナンバーワンになろうと考えるでしょう。それは、そうあり得るというのです。愛は、そのような特権をもっているのです。この上なく低いのですが、最高の神様の愛を所有することができる能力をもっています。神様の愛を所有した、そこから真なる所有権が広がっていくのです。

 先ほど言ったように、真なる世界には、万物と人間と主権がなくてはなりません。主権は父母の代身です。父母の代身者がいなくてはなりません。世界の国を縮小したものとは何でしょうか。家庭です。家庭で幸福でない人がいくら世界の理想を追求したとしても、それは偽物です。また、どんなに世界的理想をもっているとしても、その国をよく治めることができなければ、偽物です。

 それでは、その主流要素とは何でしょうか。共通分母とは何でしょうか。真なる愛です。真なる愛は昼でも夜でも変わることのない永遠の基準を中心として、歴史性を超越し、伝統の流れに主流思想として残り、それは初めから千年、万年の終わりの世界まで続くものです。こちらの面を経ていき、あちらの面に通じる循環作用を起こすことができるというのです。

 それゆえに、そのような人が地獄にいるとするならば、天の国の王宮がひっくり返るのです。そのような愛をなした人が地獄にいるとするならば、その王宮のすべてのものが総動員して、その人の解放を要求するというのです。

 それでは、天の国の神様の王権があるとして、将来、その王権を人間世界に譲り渡すとするならば、その王権は誰に伝授されるのでしょうか。絶対的な神様であられるので、それを伝授される一つの国がなくてはなりません。そのような一つの民族がなくてはならず、一つの氏族がなくてはならず、一つの家庭がなくてはならず、一人の代表者がいなくてはならないというのです。

◆心と体の統一


 それでは、神様が人間を造り、万物を造られたのですが、最初にどこから統一したのでしょうか。統一の概念は、どこから始まったのでしょうか。男性ならば男性を中心として観察してみると、二重構造になっています。神様は横的なものを連結するために、人の体を東西、四方、八方を中心として物質と連結させたのです。

 その次に、心があります。心は縦的です。心が立つ位置は一つです。神様の心が立つ位置も、私たちの先祖の心が立つ位置も、皆さんの心が立つ位置も一つです。二つではありません。体は垂直を中心として水平を成していますが、縦的基準を中心として千万の階段があるのです。

 皆さんは、「良心が正しい、まっすぐだ」と言うでしょう? なぜ「良心がまっすぐだ、正しい」と言うのでしょうか。それは何を言っているのでしょうか。水平を言うのでしょうか、垂直を言うのでしょうか。垂直を言っているのです。宇宙の中心となる「軸」の前に、常に水平基準に合わせて、距離が同じでなければなりません。上下の距離がもし違ってきたなら、それは除去されるのです。宇宙のバランスと合わせなければなりません。垂直と水平が全部九〇度の角度で合わなければならないのです。

 体は水平を象徴し、心は垂直を象徴するのですが、垂直と平衡が九〇度をとらなくてはならないのです。四つが合わさって、三六〇度になることができるようにとらなくてはなりません。それをとらなくては完全な人間になることができません。そうして、垂直角度を中心として一つとならなければなりません。心と体が一つとなるときには、何を中心としなければならないでしょうか。体を中心として一つとなることはできません。体が調整して、垂直となる心の前に完全に一つとなることができる、九〇度の角度で一つとなることができる「私」を探し出さなくてはなりません。

 その「私」というものは、人が成熟し、初めて愛を知るようになるときに訪れてくるようになるのです。東で暮らしている人が、垣根を越えてずっと向こうの西側を眺め、西側に住んでいる人が垣根を越えて東側を眺めることができるようにしようとすれば、成熟しなければなりません。

 ですから、アダムとエバに「取って食べてはならない」と言ったのです。成熟する時を残しておいたので、そのような勧告をしたという事実を、皆さんは知らなければなりません。男性が女性を知り、女性が男性を知ろうとすれば、必ず天地の道理に縦横の規格を合わせなければなりません。

 男性は縦を代表しているので、その基準を中心として女性は横を代表するのです。個人の心と体と同じように、心を代表する男性と、体を代表する女性が一緒になって夫婦となり、愛で結束した一つの核を成すようになるとき、理想的な夫婦となるのです。

 そのようになれば、その核は四方、どこでも合うのです。この九〇度の角度は東西南北、どこでもぴったり一致するのです。しかし、これが狂うようになると、どこでも狂ってしまうのです。ぴったり合わないのです。それが問題です。

 その心をもって、行動が一つでなくてはなりません。言葉と行動が合っていなければなりません。同じでなくてはならないのです。言葉は口を通して言い、外的に表すものですが、心が核となり、垂直となっているために、その垂直と横が連結できる基準で言葉を発しなければなりません。そのような立場に立たなくては、完全な、規格に合格した者となることはできません。合格しようとすれば、心に思っているとおりに行動しなければなりません。

 その心に思っているとおりになす行動は、国家の行動と国民の行動に通じ、宇宙の大統領がいれば、その大統領と宇宙の民、世界人類と通じ、天の国があれば天の国の王宮法と通じ、天の国で統治を受けるすべての数千億の人類に通じるというのです。

◆神様の統一の起源


 それでは、このようなものが本来、神様を中心としていつ統一されなければならないのでしょうか。神様にも心と体があるでしょう? 私たちは神様に似て生まれたのです。息子、娘がお父さん、お母さんに似ているように、「私」は神様に似ているというのです。

 神様が創造の偉業を立てて、実践理念を追求していく中で、完全に一つとなるところにおいては、何を中心として一つとなるのでしょうか。神様の創造の能力をもって? 違います。愛を中心として一つとなるのです。

 愛を中心として一つとなれば、どのようになるのでしょうか。神様のものであると同時に、愛に属するものとなるのです。妻がダイヤモンドの指輪をはめたとしても、愛の表示としてはめられたその指輪は、誰のものですか。夫のものです。それを知らなければなりません。自分のものではないのです。その指輪が愛の表示として与えられた、愛の表示体であるならば、その愛がなくなるときには、その指輪も逃げていってしまうのです。そうでしょう? 内容は愛です。どんなに金や宝石で飾ったとしても、愛する夫が奪われてしまったならば、それが幸福ですか。

 そのように見るとき、神様の統一的起源はどこにあったのでしょうか。神様の心と体が「よし、できた」と言うことができる神様の完成基準、神様が喜ぶことができ、神様の心と体が喜ぶことができる基準がなくてはなりません。それをつくるために、愛の対象を造ったのです。それが人間です。

 それを分離されたものが、アダムとエバなのです。二人が愛するようになるとき、その愛を中心として、アダムはエバのものとなるのであり、エバはアダムのものとなるのであり、アダムとエバのものは神様のものとなるのであり、アダムとエバのものは万物のものとなるのです。万物が愛と連結されるとき、アダムとエバのものとなり、神様のものとなるのです。

 そうして、愛を中心としてすべてのものが統一されるのです。神様の心と体が一つとなり、神様の二性性相として分離したアダムとエバが一つとなり、そのアダムとエバが一つとなると同時に万物までも一つなることができるのです。この起源が、統一圏が、本来愛を中心として人間と神様と万物の中に設定されたならば、堕落はなかったというのです。

 そのようになったならば、その人は既に神様のものとなっていたことでしょう。アダムも神様のものであり、エバも神様のものであり、愛でつづられた男性は絶対的にエバのものであり、女性も絶対的に男性のものであり、そのような父母は絶対的に息子、娘のものであり、息子、娘は父母のものとなるのです。このように、共同所有の概念基盤が確定されたのです。

◆真の愛の特権


 愛の偉大なところがそれです。上下、高低の距離を超越して、空間と時空を超越して、共同所有の理念を瞬時に共有できる圏内に参席することができる、参加することができる能力が、愛の道にはあったのです! これは驚くべき事実です。

 ゆえに、「私のものだ」と言う人がいるとすれば、愛をつかんで「私のものだ」と言うときには、夫も私のものとなり、その夫がもっている所有物も私のものとなるのであり、その夫が神様をもっているというときには、その神様も私のものとなるのです。これは驚くべき事実です。

 愛する夫がどんな金持ちであるとしても、たんすの中に入っている夫の秘密文書も愛と連結されれば妻のものとなるでしょう? お父さんとお母さんがどんなに厳格であるとしても、息子、娘と切ることのできない愛のひもで結ばれているというときには、その厳格なお父さん、お母さんの所有物は何も知らない無力なその息子、娘の所有とならない道理がないというのです。

 このように見るとき、その愛に同伴する相対的価値をもった人間が絶対的に神様のものとなったときには、その神様は愛を通して誰のものとなるのですか。神様は誰のものとなるのですか。「愛の道を通しては、神様は私のものです」と言うときは、神様が「違う」とは言えないのです。

 真なる愛は、どこであっても同参の権限を享有することができる能力をもっているのです。アメリカにレバレンド・ムーンが行き、そのアメリカを愛することにおいて、どんな民よりも秀でるようになるときには、アメリカの国民が受け入れざるを得ないというのです。滅びるようにしていると誤解を受けていたので、これまでアメリカに行くのが大変だったのであって、今は、「アメリカからレバレンド・ムーンが去っていってしまうかもしれない」と、心配する人が実にたくさんいるのです。

 それゆえに、真なる愛は共有権をもつことができ、相続権を受け継ぐことができる特権があるということを知らなければなりません。彼が立っているところに同参することができる、同位権の権威をもっているというのです。

◆愛の因縁に従って収拾してきた歴史


 神様の統一圏はいつ始まるのですか。アダムとエバを中心として成されなければなりません。旧約時代は祭物を中心として所有物を決定したのですが、それはどういうことでしょうか。愛の因縁が祭物を通して連結されるときは、すなわち祭物と関係した、祭祀を捧げるところからその恵沢を受けようとする群れまでが神様に受け入れられ、愛に連結されるときは、神様の所有権に同参できる価値があるので、祭祀を重要視したというのです。

 それで、旧約時代には祭物を捧げたということを知らなければなりません。それは、万物祭物時代であったのです。その次に、新約時代は子女祭物時代でした。堕落した人間からは血を抜き取らなければなりません。イエス様も十字架で血を流しました。

 このような立場から見るとき、大韓民国は世界的祭壇と同じです。地が南北に、二つに分けられたのは、地を代表した世界的祭物だからです。このように見るのです。大韓民国の民は同一民族であり、五千年の歴史をもち、単一民族の伝統をもっているにもかかわらず、この終わりの日に来て、どのようになってしまったのですか。国が分かれ、言語が分かれ、行動が分かれ、思想が分かれ、基本が分かれたというのです。これを統一しなければなりません。

 新約時代は子女時代です。イエス様は、神様の息子であり、救世主であって、子女です。子女が来て、キリスト教を中心として二股に分離したのです。長子権を中心として闘ったのです。一つは神側から、もう一つはサタン側からです。サタンはカイン側であり、神様はアベル側です。ここで、次子を中心としてすべて勝たなければならないのです。

 そのために、キリスト教をはじめとして、これまで善なる人が血を流してきました。今の時代は何の時代ですか。父母様がこの地上に来て、十字架を負う成約時代です。それが、統一教会の四十年歴史です。

 ここにおいて、伝統の基準として一つだけ残るものは何でしょうか。万物と人間と父母まで進んできた六千年聖書歴史を中心として、ユダヤ教会とキリスト教会と統一教会の三時代を経てきながら伝統として受け継ぐべきものは、統一的主流思想である「愛」しかないという事実を皆さんは知らなければなりません。

 神様を中心として人間が一つとなり、万物が一つとなっていたならば、このような悲惨な歴史はなかったことでしょう。ところが、そのような愛を成し得る男性と女性が、成熟期を迎えることができず堕落することによって、今日の歴史は未完成的「愛」圏内で、混沌とした愛の理想を追求しながら、分立し、混沌となり、互いが拡大、分立、闘争の歴史を経てきました。それが神様の救援摂理を通して収拾されながら、今日、このように約半分が収拾されてきたというのです。ですから伝統歴史は、愛の因縁に従って収拾されてきたという事実を知らなければなりません。

 統一的伝統思想は本来、神様から始まるとき成されるべきでしたが、それが成し遂げられなかったので、歴史を通して、旧約時代、新約時代、成約時代を経ながら愛の伝統をつなぎ、イスラエル民族からキリスト教、統一教会へと連結されているという事実を、世界の人々は知りませんでした。

 しかし今日、世界の人々が知る時が来ました。どうしてでしょうか。表に現れたものを見れば、世界にとって希望的なものはレバレンド・ムーンの思想以外にはないのです。その思想は、「こぶしにはこぶしで」というようなものではありません。打たれて奪ってくるという作戦をなすのです。

◆物質と子女と父母が愛で因縁をもつとき、共同所有が決定される


 親不孝者が父母に対抗すれば、父母はあきれ返って言葉を発することができないのですが、その子供のそのような悲惨な姿を見て、部屋の奥に行って、慟哭して夜を明かしながら子供のために、天の前に祈るのです。それが父母です。そうでしょう? 同じです。

 このような歴史的伝統を中心として、皆さんは旧約時代の物質に血を流させた負債を負っており、新約時代にキリスト教を中心として、四百年の間ローマ帝国を整備し、キリスト教独立国を編成するために数多くの人々が血を流したことに対する負債を負っています。歴史時代に、世界的版図を開拓するためのキリスト教史の中で、いかに多くの殉教の烈士たちの血がつながれてきたことでしょうか。それが今日、皆さんの前に負債として残されたという事実を知らなければなりません。

 それだけでなく、父母様がこの地上に来て、理想的版図をもって天下万民を率い、地上の理想天国へと行進命令をすべき立場にあるにもかかわらず、地獄の道をもいとわず四十年生涯、監獄の道を歩み、路地裏を通った父母様の受難の道に対する負債を返さなければならないという事実を知らなければなりません。旧約時代に該当するものとは何かといえば、今日の「私」の生活圏内の物質です。新約時代に該当するものは子女であり、成約時代に該当するものは皆さんの夫婦です。

 皆さんの家庭を中心として見るとき、父母、夫婦、あるいは兄弟がいますが、その家庭で主体となる方を中心として子女がいます。その次に、物質があります。所有があるのです。物質は旧約時代に該当するものであり、子女たちは新約時代に該当するものであり、その中心的な存在は成約時代に該当するのです。

 これが統一圏を備えるためには、物質を愛するおじいさん、おばあさん、お父さん、お母さん、夫、妻、息子、娘とならなければならず、また、息子、娘を愛することができるおじいさん、おばあさん、お父さん、お母さんとならなければならず、夫を愛することができる妻、妻を愛することができる夫とならなければなりません。その全体が一つとなって、おじいさん、おばあさんは私のものであり、お父さん、お母さんが私のものであり、妻、夫が私のものであり、それから、すべての息子、娘が私のものであると、所有の判定をなすことができる愛の因縁の綱で縛りつけられるようになるとき、理想的版図となるのです。このような事実を、はっきりと知らなければなりません。

 そうして、おじいさんは息子、娘を愛するように、孫を愛さなければならず、孫を愛するように万物を愛さなければなりません。家庭の器物一つにも、おじいさんの愛が宿っているというのです。お父さん、お母さんの愛が流れて入り込んでいるというのです。遠く見れば、この万物と人間は旧約時代と新約時代を通じて、愛の理念の伝統を受け継ぎ、その愛の表示体として結実しているというのです。そのような圏内で主管を受けている「物」であるというのです。

 ここには物質の愛の綱が結ばれていて、子女たちの愛の綱が結ばれていて、父母の愛の綱が結ばれていると思うことができる家庭であってこそ、その「物」はその家庭の「物」となり、永遠な「物」として残されようとするのです。

 さあ、問題は何でしょうか。所有物を決定しなければなりません。私のものであるという所有物を決定しなければならないのですが、今日この地上には、これまでこのような神様の愛を中心とした所有物として決定を受けたものは一つもありません。アダム・エバ自体から、アダム・エバの主管を受けるべきすべての万物も、その愛を中心とした所有物の決定権を受けることができない位置に立っています。そのような堕落した世界です。

 これが再び逆に戻って、神様の愛と真なる父母、真なる人類の先祖となる父母を中心として、神様の愛に一致しなければなりません。アダムとエバが堕落することによって、真なる神様の愛と一致し、「その愛が私の愛であり、私の愛であると同時に神様の愛であり、その愛が夫の愛であり妻の愛であると同時に息子、娘の愛であり、息子、娘の愛であると同時に父母の愛である」と言うことができる愛の版図の所有権、決定権を失ってしまったので、このような版図を再現させ、定着し、安定させない限り、人間世界の理想的天国と、地上世界の平和の世界は実現することができません。これは、はっきりとした結論です。

◆家庭は共有の愛の理想が実践できる核


 私には物質が連結した体があります。この体は、旧約時代での神様の愛を取り戻すための一つの表示体として私にもたらされた祭物です。心と体が一つとなった私の体は、神様の息子となることができる、新約時代を代表した子女の犠牲的な祭物として登場しました。これが、男性ならば男性、女性ならば女性として、イエス様が一人の男性として、新郎として、新婦を迎えて行う小羊の宴、婚姻の宴を通して、理想的父母の位置に着陸することができる基盤を代表した、そのような位置に立ったのです。

 成約時代は、イエス様が再臨され、新婦を迎えて、千年王国の基地から全体を愛で統治することができる世界へと出帆する時代です。イエス様は、それをなすためにこの地上に来られたので、そのような基盤が皆さんの家庭の上に設定されない限り、一つの理想世界は出現することができません。理想世界と連結されないというのです。ですから、このことを神様が急がれ、これまで歴史的、総結論的な決定を得ようとしているのです。それが今日、歴史的終末時代の宗教を通した使命です。その使命の代表者が、統一教会です。統一教会は、これを最後に決定的に成就するための役割を果たさなければならないので、家庭祝福圏を成すのです。ゆえに、体をいい加減に扱ってはいけません。祭物です。

 「私」という男性、息子、娘というものは、新約時代を代表しているのです。その次に、夫婦というものは今日、真の父母の歴史的な天の伝統を受け継ぐため、すべての迫害を受けながら、愛の伝統をつなげてきた実体であるということを知らなければなりません。

 万物、子女、父母、これらは旧約時代、新約時代、成約時代を通して、神様の愛で歴史をつくり、連結させてきた総結実体として、私たちの家庭に集めておいた一つの集合体です。この集合体が、家庭的な祭物を通して、氏族編成、民族編成、国家編成、世界編成へと、再度出発するようになるのです。家庭が定着できる基準が、どんなに厳粛なことかという事実を知らなければなりません。

 それゆえに、今やすべての宗教歴史を通して、旧約時代の復活体と新約時代の復活体と成約時代の復活体が、皆さんの家庭を中心として成し遂げられるのです。夫婦となった者は、父母として成約時代を代表したものであり、子女は新約時代を代表したものであり、物質は旧約時代を代表したものです。それを、縦的なものを横的に蕩減しなければなりません。物質は旧約時代の蘇生、子女は新約時代の長成、父母は成約時代の完成に該当します。皆さんの家庭の夫婦は、真の父母の縦的な愛と横的な愛に一致化することができ、神様の愛と一致化することができ、共有の愛の理想が実践できる核とならなければならないのです。

 神様のものであると同時に私のものであり、私のものであると同時に男性のものであり、男性のものであると同時に女性のものであり、父母のものであると同時に息子、娘のものとして、間違いなく愛でつながれた家庭的伝統基盤を確定しなければならない、という事実を知らなければなりません。それ以外の位置は、すべて許されません。それが設定される前には、国も成立しません。何が一番重要な問題ですか。このことです。神様と一つとなった父母、愛で一つとなった夫婦、その父母と一つとなることができる子女、その子女と一つとなることができる万物、これだけです。それが、家庭に直結されています。その伝統の核を横的に拡大させれば氏族が現れるのであり、氏族が民族、民族が世界へと版図が拡大され、この世界歴史となるはずなのに、これが堕落によってすべて逆さまになってきたので、めちゃくちゃになったというのです。

◆すべてが喜ぶことができる環境を見極めていく生活をすべき


 皆さんがもっている物質を祭物から得たもののように思い、それらに皆さんの愛の心が連結されていなければなりません。農地に出ていき土を掘るとき、汗を流しながら掘らなければなりません。一枚の紙を使うのにも、節約して大事に使わなければなりません。愛してあげなければなりません。おじいさんの愛から、お父さん、お母さんの愛に、そうして孫までの三代を連結しなければなりません。三代の愛を通した一つの表示体として現れなければなりません。このような愛の因縁がそこに宿っているというとき、その「物」は神様の所有の物となるのです。そうでなくては、サタンの「物」となるのです。

 皆さんの体を見れば、服というものは旧約時代に該当し、体は新約時代に該当し、皆さんの良心は成約時代に該当するのです。服をいい加減に着てはならないというのです。愛さなければなりません。このことを考えつつ愛さなければなりません。ここにはおじいさん、おばあさんが喜ぶ愛が宿っていて、お父さん、お母さんが喜ぶ愛が宿っています。

 今日、この地上の若い女たち、青年たちが乱れた行動を起こしています。「お父さん、お母さんがなんで必要か」と言っているのです。このような破倫的な歴史環境が広がっているという、悲惨な事実を知らなければなりません。それを、おじいさんが喜びますか。聞いてみてください、喜ぶかどうか。お父さん、お母さんが喜びますか。夫が喜びますか。息子、娘が喜びますか。愛を受けることができますか。

 座って化粧をして、ルージュを塗ったとしても、自分勝手に真っ赤に塗ることはできません。おじいさんが見たなら、どのように思うでしょうか。「あれを見ろ、心が浮ついているようだ」と言うのです。おじいさんが見てもほどよく、「いつ見ても純真だ」と言い、お父さん、お母さんが見ても、夫が見ても、そのようでなければなりません。

 お父さん、お母さんを愛し、おじいさん、おばあさんを愛し、夫を愛し、息子、娘を愛すれば、すべてが喜ぶのです。そのすべてのものが、愛の因縁を備えた代表の「もの」となってこそ、愛の懐に抱くことができる私の体と一つとなれるのではないですか。この服を着て夫を抱き、キスもすることができ、愛の踊りを踊ることもでき、それが良いというのです。所有物をいい加減に扱うことはできないというのです。

 おじいさん、おばあさんも同じです。老いれば、老いたことを喜ぶのです。花が枯れて死んだとしても、おじいさんが「そのままにしておけ」と言えば、そのままにしておかなければならないのです。お父さん、お母さん、夫が喜ぶ環境を見極めていくことができる生活をしなければなりません。

 皆さんは、そのような生活を自信をもってしていますか。恥ずかしいことはありませんか。恥ずかしい御飯は食べてはいけません。お母さん、お父さんが冬の寒い日、真冬のその寒い時に、息子、娘に食べさせようと、オンドルに近い所に毛布をかぶせておきますが、そのかぶせられた御飯を持ってきてもらって、それを食べる子供たちの幸福感を誰が知っているでしょうか。妻がそうです。その夫が帰ってくるのを夜を明かして待ちながら、「冷たくなかろうか、熱くなかろうか」と考えながら準備してくれる愛のお膳が、どんなに慕わしいものであるかというのです。皆さん方は、それを願うでしょう? 

 夫も同じです。息子、娘、家庭を率いていくためには、社会に出ていき、正義の道理の道を行かなければなりません。自分の骨身を削り、祭物となった生活をして、その愛の因縁を通して得るものです。血と汗と涙を流し、自分の血肉を分け与える愛で因縁されたお金をもって生きる妻の生活、その家庭がどんなに価値あることかというのです。それを、いい加減に使うことはできません。おじいさん、おばあさんから、父母、夫の公認を受けながら生活する妻の価値ある生活、それが真の妻の生活です。

 なぜこのようなことを言うのでしょうか。そのようになるときには、天のものです。神様が、「お前の家庭は私のものだ。お前たちのものは私のものなので、私が保護しなければならない」とおっしゃるときには、そこから千年、万年歴史の繁殖が起こり、繁栄するようになるのです。

◆家庭で天国を成せ


 ですから、すべての歴史的な総祭物的結実体が、皆さんの家庭であるというのです。物質は旧約時代、息子、娘は新約時代、自分は成約時代を代表しているものとして、その三時代の前に負債を負ったものを返さなければならないのです。皆さんが、歴史時代のそれらを蕩減しなければならない立場にあるので、自分の物を自分の物として扱ってはならず、自分の息子、娘を自分の息子、娘として、自分の夫を自分の夫として扱ってはならないというのです。

 このような公法、天理の原則に従って理想的な「観」に一致する基本的な姿勢を備え、評価しながら暮らすことができる男性、女性となり、おじいさん、おばあさん、お父さん、お母さん、夫、妻、息子、娘にならなければならないのです。これらを合わせれば家庭形成が起こるのですが、これが愛の綱によって所有権版図と共有権を受け継ぐことができる基盤とならなくては、地上天国の第一基盤となる家庭になることはできないというのです。

 お金に対するときも、お父さん、お母さんの歴史的なものを蕩減するためのものだということを考えなくてはなりません。神様の涙の跡が、歴史的な義人聖人たちの血の跡が、真の父母の涙の跡が、私たちの先輩たちの血の跡がもつれ合って結実している所有物であると思って、神聖なる聖物として扱うことができなければなりません。

 最初から最後まで、愛の心をもって、本然の愛の伝統で、統一的神様を中心として一致されなければなりません。その理想郷を失ってしまったがゆえに、歴史時代において、どんなに哀れで悲惨な歴史を経てきたことでしょうか。私の時代において、歴史の結果的な終末時代にある私の家庭において、「統一的な起源のための一つの祭物のように、お前の価値を認定するので、お前は私を中心として初めて解怨成就するのだ」と言うとき、万物が涙を流しながら「そのとおりです。アーメン」と言うのです。そのようにできる「物」として使用しなければならないというのです。

 その次に、息子、娘を愛さなければなりません。父ちゃん、母ちゃんになるのは簡単ではありません。生むのは簡単ではありません。息子、娘は天と地を通して生むのです。真なる愛の因縁に従って天地の運勢と連結され、愛の法度に連結され、横的な愛に一致し、縦的な愛に一致し、天地が合徳する、そのような立場にある夫婦の愛を中心として因縁をもった場で子供を生んであげなければならないのですが、そのような立場で子供を生むことができなかったならば、悔い改めなければなりません。子供が過ちを犯した事実を見たならば、その過ちを責める前に、自分自らを悔い改めることができる心をもって、子供を教育できなければなりません。それで、お父さん、お母さんの役割を果たすことは大変なのです。いい加減に生きては駄目なのです。

 また、その次に、夫の役割を果たすこと、妻の役割を果たすことは大変なのです。天と地が理想的基準から眺めて評価する、その評価の対象者として、その価値基準に合格できる人格を備えた妻の位置、夫の位置に立つということは難しいことです。

 その位置において、神様を代表した愛、人類を代表した愛、自分の先祖を代表した愛の基準に立った自分の子孫万代が、「我々の父母は、真なる愛の位置にこのように立つことを望んだ」と言える、その後孫が望む、真なる愛の基準に立った父母の位置を備えるということは、非常に難しいことです。

 そのような内縁的事実を備えることができないときには、天の前に恥ずかしく、父母の前に恥ずかしく、人類の前に恥ずかしく、自分の後孫の前に恥ずかしい姿勢をもって、悔い改める思いをもって生活すべきであるにもかかわらず、首をまっすぐにして、肩に力を入れて、偉そうにして浮気をして回るのですか。どこまでやれるか見てみようというのです。そのような者は、天地の運勢が打ってしまうというのです。

 また、息子、娘に対してもそうです。息子、娘に対して父の役割を果たすことは大変なことです。息子、娘が間違いを起こすようになるときには、黙って、自分自身が悔い改めなければなりません。それをわきまえることができる父母の位置に立つことは、易しいことではありません。分かりましたか。地上天国を成し遂げなければなりません。

◆灯台の使命を果たす家庭になれ


 神様がエデンの園で家庭を中心とした天国理念を喪失したのを復帰するための歴史は、数万年です。聖書歴史を六千年であるといいますが、数万年です。人類歴史を見れば、現在考古学的にも八十万年、百五十万年以上にも見ているのです。

 そのような多くの歴史時代を経ながら、失ってしまった家庭の一つの基準をこの地上に立てられない神様の苦衷は、どれほど大きいことでしょうか。威信喪失、人格喪失、体面喪失などのその悲惨な事実を、言葉で表現できないくらいの曲折に浸っている神様を慰労してさしあげなければならない息子、娘の態度は、どのようなものであるべきでしょうか。

 一歩一歩、一年が終わるときには、年末を中心として清算しなければならず、新年を迎えるための新しい決心をしながら、前進に前進を誓い、発展に発展を重ね、心情的な向上を追求する生涯を経ていかなければならない人生が、この地上で行くべき道であることを忘れてはなりません。

 そこで皆さん方は、家庭を中心として、すべて私のものは神様のものであり、私の息子、娘も神様のものであり、私自身も神様のものであるとし得る、そのような基盤とならなければなりません。

 そうするためには、どうしなければならないでしょうか。皆さんの家庭が、サタン世界の一番底にあってはなりません。上に上がっていかなければなりません。堕落した世界が、「あの家庭は我々の理想的な家庭だ」と言うことができるようにしなければなりません。分かりましたか。

 堕落した人間たちが、「あのような家庭を追求していかなければ駄目だ」と言えるように啓蒙しなければなりません。そのような標識とならなければなりません。灯台にならなければなりません。「彼らは違う、彼らは違っている」と言わせなければなりません。皆さんは違わなければなりません。根本的に違わなければなりません。先生の哲学の根本とは何かといえば、愛です。愛の哲学をもっているのです。

 今日この時間を中心として、先生が「国を生かそう」と言えば、「私は世界を生かすぞ」という腹をもって、先生が「世界を生かすぞ」と言えば、私は天宙を生かし、先生が「天宙を生かそう」と言えば、「私は神様を解放するぞ」と言わなければなりません。こうすることができる人は、王権を受け継ぐのです。王権。分かりますか。それで、聖書でいう「最初の復活」に参与する者となるのです。

 皆さんの家庭が、そのような家庭となり、神様の所有、父母様の所有、大韓民国の所有、アジア人と世界人の所有となってもなお余りある、そのような伝統的基盤の上に立った愛の一族を成して生きる群れとなることを願います。
















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訓教経(下)033



文鮮明先生のみ言集

訓教経(下)



理想的焦点を合わせよう


一九八八年六月一日
韓国本部教会 『文鮮明先生み言選集第百七十八巻』


 一人の個人を中心として見ると、個人の生活は、国家、すなわち大韓民国ならば大韓民国の国法に従って、その国家の政治的方向と、国法が指向する標準に合わせなければなりません。またある会社に属していれば、その会社の規約、あるいは規範を中心として、その部署で自分がしなければならないことと、その焦点を合わせていかなければなりません。

◆すべての存在は一つの焦点を中心として動く


 信仰生活もやはり同じなのです。私個人が信仰生活をするということは、ただ何となくこの地上に生きるということではなく、神様の膨大な摂理にある一つの標準の中で、自分自らが合わせなければならない焦点があるというのです。このような生活的な焦点、生涯的な焦点に合わせて、一日一日の生活を営んでいくのです。生涯は一生ということですが、生涯的な焦点があるのです。

 そのように考えると、大韓民国もやはり、膨大な神様の世界史的摂理圏内に処しているとするなら、そのような国家として行かなければならない焦点があるのです。その次に、世界であれば世界においても、必ず一つの世界を追求していくので、その一つの世界を追求していくところに焦点を合わせていくのです。

 それでは、一つの焦点が中央にあるとすれば、その中央を中心として、四方が全部その焦点に合わせなければ、中央に行くことができません。東の側にいる人が、その東方から中央を探していこうとするなら、西の側にいる人が向かっている方向と、一致し得る道に沿って行かずには、焦点を合わせることができないのです。この宇宙は循環しています。回っているのです。皆さんの心と体も、やはり回っています。定着していないのです。だからといって、直線で立てた垂直線として、一方向を備えていますか。そうではなく、回るというのです。春夏秋冬が回るように、私たちの心も回るのです。

 ではこのように見ると、宇宙全体が循環するときに、循環、運動するその物体の焦点はどこにあるのでしょうか。地球ならば地球を中心として見れば、地球の焦点はどこでしょうか。もちろん太陽系を回るときは、太陽を焦点として回るでしょうが、地球自体内での焦点は何でしょうか。その中心が中心層になって、球形の核心的中心点になるのです。

 それと同様に、神様の摂理も回りながら発展するのです。螺旋状に回りながら、それがだんだんと大きくなるのです。個体が運動するとき、私たち自体の元素ならば元素を中心として見ると、その元素自体が回るには、必ずプラスとマイナスで回るのです。

 その回っているものが一回りして、再び大きくなるためには、他の何かと一つにならなければなりません。二つが一つになって、何かを標準としていくところに、発展的軌道が生じるのです。

 では、神様の摂理を中心として見ると、神様の摂理はどこへ行くのでしょうか。今までの歴史時代の神様の摂理というものは、人類が堕落してしまったので、再創造していく摂理なのです。再創造の摂理過程を通じて、復帰の目的を達成しなければなりません。したがって、再創造とは何かといえば、原理を中心としたその軌道に従って、本然の基準に戻ることなのです。それもやはり、一つの軌道に乗っているのです。

◆見えない内的根源に焦点を合わせなければ


 このように見ると、全体、全体といえば神様がいらっしゃるというのです。神様がいらっしゃり、その次には人類がいて、万物があるのです。これらすべてのものが様々に回転運動をしているのですが、その目標とする焦点とはどこでしょうか。何を中心として動くのでしょうか。

 私たちが生きている社会には、多くの職場がありますが、職場に通う人はその職場で、自分の職務を忠実に行っています。そこでは、必ず自分の会社を中心として、部署ならば部署、課ならば課を中心として命令系統があり、上から下に伝えられたことは、必ず回転するようになっているのです。

 では、その会社自体が願うこととは何でしょうか。会社の利益を追求することです。会社の利益のためにすべての社員は、自分が置かれている各分野を中心として、焦点を合わせなければなりません。また、会社ならば会社自体は、国家が動かすすべての分野に、焦点を合わせなければなりません。それが違うのです。それで、会社が進む方向と、国家が進む方向は違うのです。

 これらすべては異なりますが、統合的な内容とは何でしょうか。統合的に全部を収拾して、一つの体制として管轄できる圏が必要なのですが、それは何でしょうか。会社は国家に属しており、国家は世界に属しており、世界は天宙という天地、大宇宙に属しています。

 では、大宇宙が循環する中心の焦点とは何でしょうか。私たちは、今処して生活しているところより、もっと高い所、より貴い所を探して進んでいるのです。では、その貴いものとは何でしょうか。貴いものとは、全体がもつことを願い、全体が利益のあるものだと思っているものです。それゆえ、人間の世界における宝物は、古今東西を問わず、また現在生きている人、大きい人も小さい人も、老若男女を問わず、すべての人が欲しいと願っています。

 では一番最後に、根源となることのできる、根となることのできる内容とは何でしょうか。このように見ると、あくまでも、外的に現れたものよりも、現れていない内的なもののほうが貴いというのです。

 では、男性ならば男性が合わせなければならない焦点とは何でしょうか。私たちは一生の間、個々人としての人生を営んでいきます。そこには男性もいるし、女性もいるのですが、その男性と女性が合わせなければならない焦点とは何でしょうか。家庭を中心として、愛の因縁を中心に焦点を合わせていくのです。ここでは愛が重要です。すべての外的なものを合わせていくことも私たちに必要ですが、それよりも、見えない内的な根源に焦点を合わせなければなりません。それが愛です。

 では男性を中心として、男性が愛の道を探していき、女性も愛の道を探していくのですが、その焦点、起点とはどこでしょうか。人はそうであるとして、神様がいらっしゃるならば、神様が人間に対して願う焦点とは何でしょうか。その焦点に合わせなければなりません。神様にはお金が問題ではなく、知識が問題ではなく、権力が問題ではありません。あくまでも、原理が指向する真の愛が問題なのです。人間に向かう真の愛、父母の立場に立った神様が、子女の立場にある人間に対してもつ、真の愛の焦点がここにあります。

 その焦点は、勝手に変更することができません。絶対者であられるので、その焦点は絶対的に一つでなければなりません。永遠不滅でなければなりません。では、その焦点が指向する方向とはどこかといえば、これは必ず水平線を中心とした垂直の位置だと結論づけることができます。

◆神様の愛が臨む焦点に方向を合わせるべき人間


 神様が、神様の愛を中心として全宇宙を造ったとすれば、神様の愛を中心としてこの被造世界に向かって合わせようとする焦点は、天が上にあって人間が下にいるので、必ず垂直に通じた道なのです。この道が、神様が取るべき道なのです。私たち人間としては、垂直を中心として九〇度の角度を中心に、横的な基準で合わせなければならないのです。

 では、神様の愛と人間の愛が出合うことのできる焦点とはどこでしょうか。合うことのできる焦点とはどこでしょうか。もちろん人間が神様を愛し、神様の愛を受けているとはいっても、理想的な焦点に合わせるためには、まず神様の縦的基準に横的な基準を合わせなければなりません。

 ですから、愛は二つの方向に合わせることができるようになっています。それで心があり、体があるのです。神様の縦的で垂直的な人格観を構成することのできる、縦的な内的指向性と、外的な指向性が一つにならなければなりません。

 したがって、人は必ず二重構造になっています。花の中にも必ず性相と形状があります。それとともに陰陽の内容が、前後左右に区別されています。では私たち人間にとって、神様の愛が臨むことのできる道は、二つの道でしょうか。一つなのです。垂直線です。

 男性ならば男性自身がその焦点に合わせるためには、男性の心と神様の愛と通じることのできるそのものとが、一つにならなければなりません。垂直線を合わせなければなりません。そうするためには、私たちの体が九〇度にならなければなりません。

 すべての万物が、そのようになっています。この被造世界は、ペア・システムで造られています。ペアになっていないものはありません。必ずプラスとマイナス、相対的存在形態を備えています。これは互いに異なりますが、一つにならなければなりません。

 私たちの体と心も、処している位置が違います。心は縦的なものであり、体は横的なものです。これが一つになり水平線にならずには、本質的な神様の絶対的な愛の方向に一致することのできる垂直線を描くことができません。この垂直線は二つではなく、一つです。

◆全体が和合できる位置は愛の位置


 信仰生活をしている私たちが努力しなければならないことは、心を中心として、どのように体を一つにするのかということです。心は理想を追求し、高くて貴いものを追求します。その高くて貴いものは、自分自らの観念でつくられたものではありません。大宇宙の原則と和合することのできる、理想的存在圏があるのですが、それが理想圏です。その理想圏は、千年前も万年前も変わりがありません。古今東西を包括しても余りあるので、その中に入って、それに反逆することはできません。その中に包容される時、その中にあって全体が和合できる位置にあるのは、愛以外にはありません。

 創造理想というと、そこにはもちろん、原理的な内容がすべて備わっており、すべての原則的な基準がすべて合いますが、その理想も互いが和合しなければなりません。上にあるものが下に和合し、右側が左側に、左側が右側に、そうして円形を保ちながら、すべての分野に和合できる基準は、愛以外にはありません。

 それゆえ、私たちの心と体が完全に一つになることができ、完全な人になることのできる位置はどこでしょうか。縦的な天の愛、天の人格が訪れることのできる縦的な基準の前に、私が九〇度の角度で、横的基準を身代わりしなければならない位置なのです。これを中心としたこの結合点、それが結着する核の舞台が、神様が願う人間の愛の焦点になるのであり、男性ならば男性、女性ならば女性が願う愛の焦点になるのです。

 では、その中央に入って理想的結合をする前に、最も問題になるものとは何かといえば、「私」なのです。皆さんの心と体を中心として、この形態の規格に合い得る、九〇度の角度をどうつくるのかというのです。

 皆さんの思いは高いものを願い、皆さんの行動は遠い所まで影響を及ぼそうとします。何をもつにしても、世界のものをみなもとうとします。東も西も区別なく、東西のすべてを握ろうとします。その次には高いもの、低いもののすべてと関係を結ぼうとします。では、東西のすべてのものと関係を結び、上下のすべてのものと関係を結ぶことのできる力とは何でしょうか。それは愛の力しかないというのです。愛の力は、国境を超越することができ、限界を越えて、相対世界までも包括することができます。表面ではなく、裏面までも包括することができるのです。

 すべての存在物は、それと同じなのです。いくらある元素を分解してみても、プラスとマイナスの性質が核を中心として動くのですが、その核はあくまでも縦的基準、中央線に立って、九〇度を備えた位置で運動しようとするのです。その位置で定着しようとするのであって、どこにでも定着するのではありません。数多くの細胞がありますが、そのような細胞として存在するには、内的、外的基準が、九〇度で合致した焦点を中心に、核を中心として永遠に存在しようとするのです。そこから離れるようになると、分解されてしまうのです。

 このように見ると、人間が毎日生活する中で、何を合わせなければならないでしょうか。焦点とは何でしょうか。心と体を中心として焦点を知ることができるのですが、どれが中心でしょうか。体が中心ではありません。あくまでも、見えない心が中心なのです。

 なぜ見えない心が中心になるのでしょうか。この宇宙の中心が目に見えない神様なので、神様を探していくには、見えるものでは通じることができません。目に見えない、より深いもの、より高いものに通じるのです。

 それで、偉大な人物であるほど秘密が多いのです。深いというのです。また広いというのです。深いということ自体は縦を表示し、広いということは横を表示します。この縦横が別々になっているのではなく、包括されて一つの存在形態を備えなければなりません。そうして、それが運動しなければなりません。運動をするときに、ただするのではありません。縦横が運動するようになると、必ず回るようになるのです。

 それゆえ最も問題になるのは、皆さんの心を中心として一つになることなのです。その心には「私は、これこれこのような道を行く。私は間違いなく、これこれこのような道を行く」という目標があります。一生ならば、一生の目標があります。神様の摂理観を中心として見ると、私たちの一生の目標は、神様の摂理であるみ旨を成すことなのです。

 その摂理のみ旨は、皆さん個人のもとにあるのではありません。個人を超越した位置にあるのです。それゆえ私個人より家庭、家庭より氏族、氏族より民族、民族より国家、国家より世界、世界より天宙統一を、天宙より神様のことをいうのです。

 これを見ると、大きくなっていきますが、最後には一つに戻っていくのです。私から始まってみな拡大させて、最後に戻れば一つなのです。これは実と同じです。種を蒔けば、芽が出て様々な変化形態を備えるようになります。蘭ならば蘭の種が蒔かれて、その種を中心として出てくるときには、根が伸びて、茎が伸びて、枝に葉が茂って花が咲いて、それから実を結んで根元に帰っていくのです。

 私たちも同じなのです。一つの状態で生まれた私たちが、一つを中心としてだんだん大きく関係を結ぼうとします。世界まで関係を結び、どこに戻るのかというと、天に戻らなければなりません。

◆万物を代表した自分になってこそ理想的な焦点に立った人となる


 神様の摂理を中心として願うこととは何でしょうか。神様の摂理を中心として願うこととは、神様の愛の圏だけを中心に影響を及ぼそうというのではありません。人間と神様の愛が一つになり、二つが一つとなった基準を中心として、全体に影響を及ぼそうというのです。

 それゆえ、人間を万物の霊長として造りました。「万物之衆 唯人最貴(万物の中で人間が最も貴いの意)」という言葉のように、人間を万物の霊長として造りました。その霊長となった事実は、人間自身だけを中心として言うのではありません。霊長というのは、必ず天の縦的で宇宙的な代表人格である、神様を中心として言う言葉なのです。内的な私たちの人格において、神様との関係を中心に、それが横的な面で表れた、人間世界について言っているのであり、存在世界について言っていることなのです。

 それゆえ、神様と人間の愛で一つとなった存在は、すべての万物も和合し歓迎するようになっています。ローマ人への手紙を見ると、すべての万物が、人間が堕落したことを嘆息しているとあります。万物までも嘆息しているというのです。もちろん人間も同じです。天使世界までも嘆息し、神様までも嘆息しているのです。

 なぜでしょうか。理想を実現することができなかったからなのです。このように考えると、自分自身がそういう理想的な焦点に立った人になるためには、自分がすべての万物を代表した者だという自覚をもたなければなりません。私が完全に完成して万物の中に入っていく時は、万物自体にも二性性相があり、その二性性相に心があるために、その心と私の完成した体と心の方向と、いつも合致しているのです。ゆえに、そこで一つになります。同化できるというのです。

 詩を詠み、文学を創作する人たちが情緒的な面を体 恤して語るというものを私たちが見て、内外のすべての動きを形容して表現した文章だということを強く感じれば感じるほど、それに比例して相対的に感じるものが大きいのです。

 花ならば、それを赤ん坊として象徴することができ、動物ならば、それを自分が愛する赤ん坊に象徴することができ、愛する人として象徴することができるのです。万物全体が、完全に愛を中心として一つとなったその位置では、小さなものでも全体を代表することができるのです。

 自分の髪の毛ならば、それを一本、二本抜いても大したことはありませんが、この髪の毛が私の生命体をもった完全なものだという時には、この髪の毛は、私の体全体と和合するのです。もちろん、処している位置と級は違っても、これは完全に私と和合するのです。その和合する焦点は、どこにあるのでしょうか。それが愛です。

 愛の本質的内容が和合できればできるほど、それは長く続き、完全なものとしてあるものの前に、第三のものの前に、また第四のものの前に、標準型として現れることができるのです。言い換えれば第三、第四のものの前に、第五マイナスがあれば、第四の主体性のプラスとして、第五と作用を起こすことのできる内的基盤が成立するのです。このようにして、宇宙はすべて連結するのです。

◆すべては愛から出発して愛に帰る


 この宇宙全体が、何によって存続するのでしょうか。宇宙全体が存在し、その位置に属して存続する、その内的基盤とは何でしょうか。それは愛なのです。愛を中心として「バーン」と打てば、すべての万物が共鳴するのです。ここに元素があるならば、元素のプラスとマイナスが一つになったその基準が垂直を中心として、形態が九〇度の垂直を中心として一つになっていれば、必ず神様の愛は自動的にやって来るようになっています。

 それで、目も見てみると、必ず二つの焦点が合うようになっているのです。息も焦点を合わせるのです。必ず合わせなければなりません。言葉もよく聞こえるためには、音響の焦点が合っていなければなりません。耳も焦点が合ってこそ、よく聞こえるようになるのです。その焦点は、いい加減にはなっていません。すべての存在物が、相対的要件を中心として、垂直と横的な関係を成して、これが核を成して回るようになっています。

 回るときに、自分勝手に回るのではなく、必ず軸を中心として回るのです。地球ならば地軸を中心として必ず回るのです。太陽系ならば、太陽系を中心として太陽が勝手にひっくり返るのではありません。必ず軸を中心として大宇宙の方向に、垂直と合わせて回っているのです。

 手の細胞ならば細胞自体も、絵で見るならば、これが逆さにもなっており、反対にもなっており、下にもなっているけれども、必ずそのような原則を中心として連結されています。手ならば手一つを中心として、垂直と横的な基準を中心として、すべて連結して大きいものを成していくのです。

 では、理想的要素とは何でしょうか。一つの花も全体が動くのであって、花一つだけが動くのではありません。全体の生命の根源、生命の根本まで激動させる作用をし得るものとは何なのでしょうか。それは愛なのです。

 本来すべての存在物は、相対圏から始まるようになっています。私たち人間の世界でも同じです。男性と女性が生まれるには、必ず父母の愛から出発するようになっています。愛の幹の中で繁殖するようになっているのです。その次に、この愛の幹の中で伸びていって、結局愛の実を通じて愛の幹に戻っていくのです。それゆえ、皆さんのような男性や女性が、食べたり着たり、何か買うことが貴いというよりも、その心からいつも愛の幹を逃がさないことのほうが貴いのです。

 では、その幹に連結したものとは何でしょうか。自分の父母です。その父母を中心として見れば、金氏ならば金氏の家系の中から、一つの枝のように伸びて、枝の中から枝が伸びて、ずっと連結されています。皆さんは父母の愛の幹を垂直として、自らのその愛を中心として、平衡を保つ生活をしようとしているのです。

 子供たちを見れば、そうではないですか。生まれたばかりの赤ん坊をじっと見てみると、その赤ん坊は何を願いますか。お母さんのおっぱいを願うでしょう。少し大きくなって赤ちゃん言葉を話し始め、言葉をしゃべるようになれば、誰にまず話をしますか。最も愛の幹になっている人に話しかけるのです。

 「お母さん、お父さん」と言うのであって「お父さん、お母さん」ではありません。「お父さん、お母さん」と言うよりも、大慨「お母さん、お父さん」と言うのです。男性でも女性でも話す時には、「お母さん、お父さん」と言うのであって、「お父さん、お母さん」とは言わないのです。

 情緒的な面で、そうなのです。けれども、対外的な世の中で表現する時は、お父さん、お母さんを「父母」と言います。「母父」とは言わないのです。その「父母」という言葉は、横的な世界で秩序を連結するために、父親がまず生じたということなのです。それゆえ、これらすべてのものは情緒的な問題に連結しているのです。

◆人は愛の焦点に合わせて生きなければ


 皆さんが考えるお金とか、何かの知識とか権力は、みな付属品です。それは一生が過ぎたのちには必要ありません。あの世に行って、私が何か物理学の博士ならば、物理学博士だといって振る舞うことができないというのです。既にあの国、霊界に行けばすべて分かります。

 霊人体は、これに通じることができるでしょうか、できないでしょうか。私たち人間を顕微鏡で見れば、それはみなくっついていますが、霊人体の目で見ると、地球と太陽系のように、それが浮いているというのです。浮いていて、いくらでも通じることができるのです。ですから、それがどのように生じたのか、習わなくてもみな分かります。自分が生きることのできる理想的な方向を通じるならばば、習わなくてもすべて分かるのです。どうして習わなくても分かるのでしょうか。全部が愛の根を中心として関係しているために、愛の位置にさえ入っていくならば、すべて見えて分かるようになっています。

 聖書にも「善悪の実を取って食べれば、目が開くだろう」という言葉があります。その「目が開く」という言葉は何を意味しているのでしょうか。男性が女性を知り、女性が男性を知ること、すなわち異性に対することを知ること、それ以上のことはありません。男性として生まれて、女性を知らなければ、それは愚か者でしょう。最高の理想とは何でしょうか。男性が行くべき最高の理想的焦点とは、女性なのです。女性ですが、どんな女性でしょうか。自分の心にぴったり合う女性、若くても合うし、年を取っても合うし、永遠に合う女性なのです。

 そのような女性の何に合わせるのでしょうか。鼻に合わせますか、目に合わせますか。目も年を取るとしわくちゃになります。鼻も全部そのようになります。顔もみなしわくちゃになるのです。焦点を何に合わせて生きるのですか。それは愛なのです。

 老いた夫婦が愛するのと、若くて生き生きした青春期にある新郎新婦が愛するのと、どちらがより素晴らしいでしょうか。青春にある若者たちは、「ああ、それは聞くまでもなく、若者の愛が最も素晴らしい」と言うかもしれませんが、そうではありません。若者は、愛しても縦的な型が残ります。どんなに愛しても、この型が残るのです。自分の主張があり、個性が生きていて、縦的、横的基準が残っているというのです。このような形態が少し大きくなれば、年の多い老夫婦の愛は、もう少し円満に丸くなるというのです。

 青春男女の愛が良いですか。縦的、横的があるので、凸凹が残るというのです。それゆえ離婚は、若い人に多いのです。しかし四十を越え、六十になった老夫婦たちに、離婚は多くありません。

◆真の愛で一つになったものは永遠に発展していく


 では一生の間、何の幹に首を結わえて生きようとするのでしょうか。男性も女性も、愛なのです。何の愛でしょうか。真の愛です。絶対的に一つの神様の愛、一つの絶対的な愛を見本として生きなければならないし、いつか一致させなければならない神様と人間とを一致させて、宇宙を代表した核の愛で作動できる位置を、人間はあくまでも追求するのです。それが理想圏です。

 理想主義者だからといって、幻想的な世界を追求するのではありません。理想主義者は、愛を除いては理想を描くことができないのです。男性がどんなに優秀だといっても、理想だという時は、既に女性を中心として考えているのです。そのようなときに理想圏が広がるのです。女性もそうでしょう。男性の理想は、女性の理想とは、ぴったり合うというものが異なっているのです。女性と男性は違います。上下に、東西にというと、違うのです。それが、焦点を合わせることができます。あくまでも、真の愛で一つになったものは、分かれるという論理は形成されません。

 それゆえ世の中の人々は、初愛の情を抱いて、一生の間生きていきます。どんなに美人のおばあさんでも、初愛を教えてくれた人が見栄えの悪いおじいさんだとしても、その初愛のおじいさんを忘れられないのです。初愛とは何かといえば、初めて方向を合わせることです。男性は右側であり、女性は左側であるので、この二つは方向が違うのです。ところが、速く来て合わせたという時、そのままぶつかったなら平べったくなるのです。これがぴたりと合えば、縦的な基準が回るようになっています。縦的な基準を私たちは知りませんが、それは必ず回っています。回る力があって、回る作用があれば、回るようになっているのです。回る準備を、完全に備えているというのです。

 それゆえ速く来たとしても、中央線に来たときには回るようになっています。回るときには、縦的な垂直を中心として回るようになっているのです。そのように見ると、女性の愛だけを中心に男性が回るでしょうか、男性がまず愛して、女性が回るでしょうか。男性と女性を中心とした、その愛を軸として回らなければならないのです。

 なぜ、男性と女性の愛を軸として回らなければならないのでしょうか。永遠なる神様の軸の愛が、ここに来ているからなのです。それで、ここに接ぎ木をするのです。接ぎ木をすればどうなるでしょうか。神様の軸があるならば、そこに男性と女性の愛の球形が形成されるというのです。そうして一つになって、速く回れば回るほど、二つはくっつくというよりも、円心力の作用により拡散されます。それで、東西に一つになったものが、南北に分かれようとしながら、回るようになります。そうしてどのようになるでしょうか。垂直は降りてくるのです。

 では、それが一つの位置を中心に、このように降りてきてさまよいながら回って、いつ定着するのでしょうか。垂直を中心として、横的に一つになって運動しますが、どのように定着するのでしょうか。必ず垂直を中心として分かれていくのです。

◆神様と人間が会う愛の焦点は二つはあり得ない


 この宇宙のすべての存在は、そのようになっています。この宇宙がどんなに大きいといっても、必ず軸を中心として回るのです。太陽系ならば、太陽系に衛星がありますが、その太陽系自体が勝手に回るのではありません。必ず大宇宙圏内で、宇宙を標 榜して垂直関係と均衡を取り、平行線を中心として、横的な基準の位置で回るのです。

 それゆえ、皆さんの細胞もそのような基準に合わせて、連結していると見なければならないのです。では皆さんの五官が、何にすべての焦点を合わせようとしているのでしょうか。お金でもなく、知識でもなく、権力でもありません。愛です。真の愛です。その焦点が愛にあるというのです。この愛を中心に焦点を合わせるので、真の愛をもってこそ、すべてが動くのです。

 霊人体と肉体とは違うでしょう。霊人体の感覚と肉体の感覚が共用することのできる、一つの焦点は何によって成されるのでしょうか。それだけ「バーン」とすれば、男性と女性の横的な位置で、すべての細胞が作動するようになるのです。また、この細胞が作動しながら、縦的な神様がいるならば、神様が作用できる基準が、必ずなければなりません。その基準がどこで合うようになるのかというと、九〇度の焦点の位置で合うのです。

 人間は、万物を代表した人間であり、神様は、縦的な基準で中心になる神様として、二つが初めて会って一つになることができるその焦点は、二つはあり得ません。永遠の焦点なのです。愛の九〇度です。設計する時、これができていれば、これを変更することのできる何らの論理もありません。造り直すなら、宇宙をすべて造り直さなければなりません。これを壊してしまったなら、すべてのものが、みなよじれてしまうのです。いつもこの角度に合わせるように、すべての宇宙の存在は協力するようになります。

 それゆえ愛の道を探していく時は、力が出ます。愛の道を探していけば、なぜ力が出るのでしょうか。良いことは、宇宙がすべてを押し出してくれるからなのです。一人が押してくれるのではありません。全体が押してくれるので、強い力で発展するのです。速いというならば、それ以上速いものはありません。光が一秒間に三億メートルの速度で走っていきますが、愛の速度はそれよりもっと速いのです。光まで支配できるのです。

◆愛は人間を連体的存在として存続するようにする


 皆さんが祈祷する時、どのようにしなければならないでしょうか。皆さんの心を、水平線にしなければなりません。皆さんの体を、水平線にしなければなりません。水平線には世界があります。世界と個人が水平線になって、通じなければなりません。

 それゆえ自分という存在は、金なにがしが、自分の家系を代表しているのです。父親を代表し、母親を代表し、兄弟を代表したという意識をもたなければなりません。ここに焦点を合わせなければなりません。それだけでなく、自分は金氏の一族を代表したというのです。私は大韓民国を代表し、またその次には、世界を代表したというのです。これは八段階の差があります。個人、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙、神様まで八段階です。

 皆さんの心はどうかといえば、自分を一番に立てようとします。皆さん、一番になってみたいでしょう。一番になりたくない存在はありません。なぜでしょうか。最高の神様の愛を天秤で量るからなのです。神様の愛にすべてが接しようとします。この球形を中心として、数多くの細胞が連結し、核の力と共鳴することのできる相対圏を成して生きなければならないので、すべてが一番になろうとするのです。

 男性も、女性を除いて一番になろうとするのです。また、女性も男性を考えずに、そうなることを願うのです。男性が、「私は、女性までも代表した男性だ」と言います。何を中心としてでしょうか。愛を中心として、女性は私の中にあるというのです。愛というような人格があれば、男性はプラス的な内的性相であり、女性はマイナス的な外的形状です。それゆえ「私は誰か」というと、金なにがしならば金なにがしで終わってしまうのではありません。宇宙と連結されているのです。連体的体制圏内に存続する人間なのです。

 そして皆さんが「私」という時は、既に歴史的な存在なのです。皆さんの先祖たちの要素が、みな入っているのです。数千、数万の先祖たちの細胞要素をみな受けているのです。それは何でしょうか。先祖から今まで、先祖たちが植えてきたお金のふろしき包みを、すべて持ち出してきて総合した、株式会社のようなものなのです。皆さんを見ると、皆さんの母親も入っているし、父親も入っているし、おじいさん、ひいおじいさん、何百代、何千代前のおじいさん、おばあさんが、すべて入っているというのです。そのように連結されています。

 ですからある形態において連結させたものとは何でしょうか。愛です。愛から生まれたのではありませんか。生命が連結させたのではありません。おじいさんの生命、息子、娘の生命、その生命が何で連結されるのでしょうか。生命を得ても愛がなければ、すべてが切れてずたずたになります。愛が下地になって、生命がつながっているために、愛によって私たちの生命が動こうとするのであって、生命によって愛が動こうとしますか。

 愛のために人は、死ぬことができなければなりません。根が残っていれば、枝を切ってしまっても、根を通じて出てくるでしょう?
 同じなのです。より根源的であり、より原始的な内容が愛であるために、根を残しておけば、幹は切ってしまっても、根を通じて再び出てくるのです。

 それゆえ、若い男女が愛の道を求めるために、生命を投げることは異常ではありません。生命より、もっと貴いものを探していかなければなりません。生命を捨てるのは、自分ゆえに捨てるのでしょうか、夫ゆえに捨てるのでしょうか。投身自殺をしたり、そういうことが起こるのは、自分のせいでしょうか、夫のせいでしょうか。それは自分のせいではありません。なぜ自分のせいで、自分の生命を捨てるのでしょうか。それは相手のせいでもありません。それは何でしょうか。愛というものは、そのようなものなのです。愛という絶対的な相手を通じて、定着しようとするのです。定着するのに、一度ドンと挿したならば、これを抜き取ることはできません。そこに順応しなければならないのです。

 男性も女性も愛を中心として、縦的な愛が「ドーン」といって決定されたときには、そこに絶対服従するようになっています。服従することが原則なのに、服従できないものになったので、この宇宙が除去するのです。「君は死んでしまいなさい」と言うのです。自分の心が決定するのではなく、宇宙が決定するのです。「相手を破壊する、か細い身分になったので、君は存在価値がない」と言って、宇宙が除去してしまうのです。

 涙はなぜ出るのでしょうか。涙が出る前に、胸が痛くて苦しいでしょう。それは、授けて受けることのできる道が、ふさがれているためなのです。病気になれば痛いのと同様に、痛みが来るのです。愛の痛みが一番怖いのです。病気の中で、最も怖い病気とは何の病気でしょうか。愛の病いです。愛が実ることのない恋煩い、思いのみで愛している病気にも薬がないというのに、まして本物の愛ゆえに病気になったら、それを治す薬があるでしょうか。ないのです。

 恋煩いは、その本質的な真の愛を中心としてのみ、治すことができます。彼が思慕し、忘れることのできない愛の主体とか対象だけを、理想型としての本来の運動ができるようにしてあげなければならないのであって、そうでなければ相反する事態が起こるのです。

◆愛の焦点をつかむ人にならなければ


 皆さん、真の愛の代表者になりたいでしょう? 皆さんの欲望を見てみると、全部代表になりたがっているのです。家の中でも、自分を中心としてすべてが行われ、母親、父親も自分を中心として、姉、兄、弟(妹)も自分を中心として生きるのを願うのです。全部が理想的焦点を願うのです。

 それは何かというと、愛を中心とした焦点です。すべてが、必然的に願わざるを得ないその焦点が、人間の生活圏内をかすめていくのです。かすめていくその愛の焦点が、皆さんをつかまなければならないでしょうか、皆さんがその愛の焦点をつかまなければならないでしょうか。私たちがつかまなければならないのです。

 その焦点の時というものが皆さんを訪ねてきて、「さあ、ここに場所があるので座ってください」と、応対して座らせておくでしょうか、ただそのまま、公平に過ぎるのでしょうか。公平に過ぎるというのです。皆さんが、捕まえて乗らなければならないのです。昼も夜もなく、仕事をして疲れたとしても、その時が来たなら夜でも昼でも、さっと捕まえて乗らなければならないのです。それで宗教世界では、食べずに夜を明かして祈祷し、他の人々が豊かに暮らしている時に貧しく暮らして、ただ乞食のように待っているのです。

 統一教会には、「真の父母」という言葉があります。真の父母、父母の立場としての焦点があります。個人的立場の焦点、家庭的焦点などがあるというのです。個人的焦点の父として備えていくことは、家庭的な父になることです。そうなった時、家庭的父と個人的父、二人いるところに来て何かを頼む時に、個人的父の立場で対してあげなければならないでしょうか、家庭的父の立場で対してあげなければならないでしょうか。

 個人は過ぎ去りました。家庭を中心として、上がらなければならないのです。では、氏族的基準の父、家庭的父、個人的父を呼ぶとすれば、氏族的父に対すべきでしょうか、家庭的父に対すべきでしょうか、個人的父に対すべきでしょうか。

 家庭的父を呼べば無視し、個人的父を呼べばけってしまい、氏族的父を呼ぶことができるようにしておけば、その氏族圏内には家庭も入っているし、個人も入っているのです。では、国家的父の時代において、一族、文家の一族とか、何かこういう話をする時には、知っているふりをすべきでしょうか、してはいけないでしょうか。国家的基準を中心として「お父様」と呼んだ人には対することができても、氏族的基準を中心として「お父様」と呼んだとしても、既に過ぎ去ったので対することができないというのです。

 では世界的時代において、世界的父の位置で歩んでいるのに、大韓民国から「お父様」と呼ぶ人たちが来て「ああ、世界的なお父様、世界的なお父様をやめて、大韓民国のお父様になってください」と言えば、けってしまうべきでしょうか、引っ張っていくべきでしょうか。けってしまわなければならないのです。

 天宙の父母の位置に進もうとするのに、「ああ、世界のお父様ではなく、あなたは私たちだけを中心として、天宙は放棄してください」と言う時は、どうすべきでしょうか。けってしまうべきでしょうか、けらずにいるべきでしょうか。けってしまわなければなりません。一番最後に神様を中心とする時まで、それをすべて経なければなりません。

◆全体の中心になるのは真の愛だけ


 一つの位置に立っていますが、焦点は個人を中心として世界的であり、歴史的です。家庭を中心としても歴史的であり、氏族を中心としても歴史的です。国を中心としても代表の位置であり、天地を代表した位置です。垂直を中心として、神様の縦的な愛が、重りを下げることのできる位置に立ったのです。ですから、すべての人々がこの重りに、横的に合わせればよいのです。

 それゆえ、重りを中心として個人が立てば、その次には家庭を中心として立たなければなりません。家庭の中心とは何かといえば、この重りです。家庭の中心、氏族の中心、みな一つです。ですから、民族の中心が同じであり、国家の中心が同じであり、世界の中心が同じであり、天宙の中心が同じであり、神様の中心が同じなのです。

 もっていって付ければ一つなのです。平衡を維持しているのです。縦的基準を中心として、ここに合わせろといえば、ぐるぐると世界が回るのです。九〇度で共に回る時、ここに二重の影がかかってはいけません。一つにならなければならないのです。

 そのようなことのできる代表は、お金を中心としては不可能なのです。知識を中心として、そのようなことができるでしょうか。知識を中心としては、どんなに専門家であり、学者であっても、自分の専門分野しか知らないのです。それしか知らないというのです。全体の中心になることができるものは真の愛です。万世の勝利の軸を挿すことのできる、真の愛に焦点を合わせた男の偉大性、人間の価値性を天は称賛し、全宇宙が称賛するのです。

◆愛の焦点を合わせて生きてこそ理想世界に行ける


 理想的焦点を合わせましょう。それが分かりますか。それを知っていても、「私は神様の愛に対する代表者です。個人として、家庭として、氏族として、民族として、国家として、世界としてという時、恥ずかしくありません」と言わなければなりません。

 私個人の愛を、縦的な愛と一つに合わせるならば、間違いなく結ばれます。神様の柱があって、その柱に個人的に合わせることのできる穴があるならば、ぴったり入るというのです。また家庭的にも、その茎に穴があって、合わせれば入っていき、氏族も入っていくというのです。みな、入っていくところがないので、神様の中に入って打ちつけられるようになるのです。

 頂上に行っては戻るのです。「今まで上がってくる時は、あなたを中心として上がってきましたが、下りていく時は、私が頂上にいるので、私を中心として下りていかなくてはなりません」と、このようになるのです。ですから、神様が私の後ろに立たなければならないというのです。それでも神様が「ああ、そのとおりだ」と言うのです。

 そこに栄光が宿るのです。そこに勝利の永遠の版図が広がるのです。その頂上に上がると、神様は内的に上がり、私が下りていくと内的に下りていきます。ずーっと下りてきて中央に行って、さっと回ると核が生じるのです。

 これで愛の核が、この天地間に全宇宙を代表した焦点として決定されたならば、今日のこのような邪悪な天地が生じなかったのです。神様について、分かっていないではありませんか。自分はあくまでも、第二の結果的な存在なのです。第一の原因的な存在ではありません。

 それゆえ、皆さんが愛の焦点を合わせずには、理想世界に上がることはできません。ここに上がって、個人として立ったという時には、一番低いところにいたとしても、神様が世界に合わせようとする時、自分も上がっていくのです。国家に合わせれば、自分も下りていくのです。垂直があるので自由自在なのです。

 ですから、個人ならば個人に合わせ、家庭ならば家庭に合わせて上がらなければなりません。それゆえ自分は、焦点上にいなければなりません。私は個人を代表し、また世界的な代表者であり、歴史的な代表者です。愛を中心に焦点上で、家庭を中心としてもそうであり、氏族を中心として、民族を中心として、国家を中心として、世界を中心としてそうだというのです。ですから、そういう者がいれば、そのような者に合わせて上がっていく日には、神様の相対となって絶対に滅びません。

 このようになると、相対圏が既に三六〇度を包括するようになっているので、水平圏とその旗の下にあるすべての存在は、その圏内に包括されるようになっています。何も教えてあげる必要もありません。男性と女性が結婚して愛することを、誰が教えてあげますか。昔、おばさんたちがお嫁に行く時は、昔の法に従ってお嫁に行ったでしょう? お見合いもせずにお嫁に行ったのです。父親、母親だけを見てお嫁に行ったというのです。行けばどのように愛して、どのようにキスするかをすべて習ったでしょうか。習いませんでした。

 習わなくても、自然にすべて分かるようになっています。動物もそれをみな知っているのに、なぜ人が知らないのでしょうか。くもの子もそうであり、ありの子もそうであり、目に見えないおぼろげなものも、すべてのペアが愛することができるのです。愛を教えようとすれば、世界の図書館に本がぎゅうぎゅう詰めになるのです。それを解釈してみると、世界に解釈できないものはないというのです。

◆真の愛の位置に焦点を合わせてこそ人間の欲望が完成される


 ですから、神様がどれほど有り難い方でしょうか。その位置に行ってみると、習わなくても自然に分かるようになり、世の中のことがよく分かるようになるのです。それでその位置に入っていけば、これが焦点になっているので共鳴するのです。共鳴圏になるのです。すべての球形は、焦点を通じて相手の世界に反応するのです。

 ここでさっと入っていくと、神様が足元にもいるし、「上にいる」と言えば上にいるし、「そばにいる」と言えばそばにいるし、右側で「神様!」と言えば、こちらから答えます。手を広げながら「神様!」と言うと、神様が「うん、うん」とおっしゃるのです。こちらに向かって「神様」と言うと、「うん」と言い、あちらに向かって「神様」と言うと、「うん」と言うのです。私が表示する所には全部現れます。そのような位置があるのです。

 釈迦のような方も、そのような境地に入っていって、こういう神秘を体験して、「天上天下唯我独尊」と言ったのです。正に、その位置を通り過ぎる時に感じたのです。その位置で生きたのではありません。「天上天下で私が一番なのだなあ」と言う時、どれほど幸福でしょうか。その位置で生きたなら幸福でしょうか、不幸でしょうか。この髪の毛一本が「私に見習え」と言って宇宙に叫び、細胞が「私に見習え」と言う時は、宇宙が「はーい」と言うのです。

 それゆえ霊界に行けば、神様がどこにいらっしゃるかを教えられずに、ただじっとしていても既に回るようになるのです。方向をぴったり合わせます。磁石でもそうなのに、なぜ人がそうできないでしょうか。そのような位置に入っていくと、悪い人、良い人が分かります。ちらっと見て「あいつは駄目だ」と、すぐ分かるのです。目で見る時、角度がゆがむからなのです。自分はこう行くのに、鼻が鼻として合わないのです。自然に分かるのです。

 すべての焦点を、理想的な核に合わせなければならないのです。それが真の愛なのです。真の愛の位置に行く時は、すべてのものの代表の位置に行くのです。人間のすべての欲望を完成させることのできる代表の位置、それが真の愛の焦点です。

 その位置をつかむ時、個人も勝利的個人になるのです。チャンピオン歴史時代に、真の愛を中心として、家庭的チャンピオン、氏族的チャンピオン、民族的チャンピオン、国家的チャンピオン、世界的チャンピオンになるのです。万世に一万種のチャンピオンの大王である神様の前に、堂々と相対的位置に立つのです。

 個人で一等になり、家庭で一等になれば、里(村)で一等になることができ、その次に面(町)でチャンピオンになるのではないですか。面のチャンピオンが郡のチャンピオンになり、郡のチャンピオンが道(県)のチャンピオンになり、道(県)のチャンピオンが国家のチャンピオンになり、国家のチャンピオンが世界のチャンピオンになり、世界のチャンピオンが天宙を代表し、その次には神様の前にチャンピオンになるのです。神様の前にはそれしかないので、神様が頂上ならば、私は下の軸になるのです。これからこのような焦点を決定するのは、自分にかかっているのです。

 一番最初にも話しましたが、堕落したために再創造をしなければならないのですが、再創造の過程は復帰の道を行くことなのです。再度その基準を探して、原理原則に符合することのできる、代表的真の愛にその焦点を合わせなければなりません。そのような位置に進めば、全体が自然に合うようになるのです。そうしてこそ、神様が共にするのです。上がれば、そこでいつでも共にいるようになります。そのようなことができる位置に立つと、神様をいつ呼んでも、答えるようになっています。

◆神様の心情を知り、意のままに生きてこそ神様が共になさる


 皆さんが祈祷する時、統一教会の信徒として祈祷しますか、天地を代表した神様の息子、娘として祈祷しますか。自分のために祈祷をする人は、愚かな人です。自分は家庭を代表したので、家庭として氏族のために祈祷しなければなりません。さらには氏族を越えて、世界と神様のために祈祷しなければなりません。

 神様の心情圏は驚くべきものです。神様の心情圏を知らなければなりません。「神様の悲しい心を、私が地上で解いてあげようとしているのに、あなたはこのような個人を探すことを願っていますが、私が代表ではないのでしょうか」。「家庭を代表した、家庭の代表者であり、氏族を代表した、氏族的代表者ではないですか」。「民族を代表することのできるこの道を歩んできたし、国家を代表することのできるこの道を歩んできたし、世界を代表した聖人たちが歩むことのできなかった道を、すべて歩んでいるではないですか」と言う時、「よしよし、我が息子よ」と言うようになるのです。

 そうでなければ、宇宙を代表した中心の位置に立った神様が呼ぶでしょうか。端の位置にいる時は答えるかもしれません。神様が旅行に出掛けて、朝食をとり、昼食をとっているだけの位置にいるときに呼んだならまだしも、中央の玉座に正座していらっしゃるその方を見てみれば、個人の福のために、行楽のために呼ぶ時に答えるでしょうか。けってしまわなければなりません。世界の問題をめぐって訴えなければなりません。

 愛に焦点を合わせなければなりません。「私は、これこれこのような代表者です」と言えなければなりません。韓国の地のために涙を流すことよりも、北朝鮮の地のために、生き地獄のような所で呻吟する彼らの立場と、情勢を考えながら涙を流さなければならないのです。韓国の地を忘れて、北朝鮮の地をより重要視しなければなりません。

 自分の側を犠牲にして、より大きい側のために奉献していくところに、天理が従い、天法がそこに応じるのであって、世界については何も知らずに、自分の現在の国だけを考えて、自分だけを中心として「民族よ、どうにでもなれ」と言えば、処断されなければなりません。それは、民族が打ち、世界が打ってしまうのです。

◆真の愛に焦点を合わせた世界的な代表者になれ


 神様は宇宙の代表者です。神様は世界の代表者です。また、神様は大韓民国の代表者になることができ、文氏一族の代表者であり、私たちの家庭の代表者であり、私たち男性の代表者であり、女性の代表者なのです。

 正に軸だというのです。真の愛を中心として、いつも上がったり下がったりするのです。これを引っ張って割れると、神様が降りてくるのです。世界的にこれが完全に統一された時には、神様がどこに来るでしょうか。人間の真ん中に入って来るというのです。人間の世界に、理想的膨脹が起こるのです。このようになると、神様は自然に地球星の真ん中、人間の世界に降りて来られるようになるというのです。

 これが直線のようですが、一つは父の線であり、もう一つは母の線です。父母を中心とし、子女を中心としたものなのです。その中に神様が臨むのです。氏族を成せば神様がこのくらい入ってきて、その次に民族を成せばこれくらいまた入ってくるのであり、国家を成せばこれくらいまた入ってくるのであり、世界を成す時、東西南北が共に統一を成し遂げて、どこに行っても自分を代表するようになるのです。

 東西南北を備えた東は西を代表し、南を代表し、北を代表します。なぜでしょうか。その位置にみな集まるからなのです。このようにみな集まれば、一つの点にしかならないのです。原理で見れば、三対象目的が成し遂げられた所です。そのような論理が形成されるのです。理想的な焦点を迎えることが、真の愛の焦点であるということを知らなければなりません。

 皆さんは、どんな代表者になりたいですか。何を中心としてですか。真の愛の神様も、愛の串で真ん中をきゅっと刺されるのを好むでしょうか、好まないでしょうか。愛の骨が生じるのを好みますか、生じないのを好みますか。皆さんも同じなのです。それが永遠に、自分の中心にあることを願うのです。

 それで、このような軸を形成した位置で神様に侍り、世界に侍って、未来の国家と未来の理想的家庭、未来に構成される人格を追求しながら、真の愛の焦点に合わせるために努力した者は、滅びずに必ず勝利者となり、栄光の一日を迎えて、神様の前に世界的代表者として、永遠無窮に幸福であることを願います。




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訓教経(下)034



文鮮明先生のみ言集

訓教経(下)



故 郷


一九八九年二月十二日
韓国本部教会 『文鮮明先生み言選集百八十七巻』


 きょう、皆さんにお話しするみ言の題目は「故郷」です。

◆故郷に対する回想


 人は大抵、年が若い時には故郷を離れたがるものです。それは、先生も同じでした。幼いころから物心がついて考えたことなど、すべての過去のことを思い出してみれば、咸 鏡道がどのようになっていて、平 安南道がどのようになっていて、黄海道がどのようになっていて、それから江 原道から慶 尚南北道、全羅南北道、忠 清 南北道がどのようになっているのかということが気になったのです。それは皆さんも、みな同じだったことでしょう。それで、二十代を前後して全国を歩き回ったことも回想されます。

 その時に感じたすべてのもの、懇切に願えば願うほど、相対的立場にある国が幸福で平安であったならば、それほど印象的なものではなかったことでしょう。しかし、貧しく暮らす村々を経ながら、あるいは山野に行き来しながら感じたことは、「この哀れな民族」ということでした。そのような思い出は今も忘れられません。

 そうして、私はこの民族の中の一人として生まれ、外国の勢力に支配を受けながら自分の心中と生活環境を誇ることができない悲惨な姿、そのすべての内的な苦衷が大きければ大きいほど、民族を眺めたとき、その衝撃的であきれ返るほどの事実を忘れることができなかったことが、今思い出されるのです。

 さらに進んで、韓国がどうだというとき、日本がどうで、中国がどうで、世界がどうだとしながらさらに広げて考えるようになるとき、外国に出てみるようになれば、一遍に自分の国と比較されるのです。皆さんも、みなそうでしょう。

 我が国と豊かな国を比較して見るとき、その差が大きければ大きいほど、その比較される環境で格差を感じると同時に、そこにおいて歓迎されず隔離され、自分自ら苦衷を慰労する環境となれず四方からそのような苦衷に取り囲まれるのです。そのような心的苦痛を与えたすべての環境的与件は、改めて国の不足を嘆かせ、将来このような不足な国をどうすれば良い国に導いていけるのかという問題について考えるとき、それ自らが解決することができない、導くには不足な自分と環境とを思うときに、そこから来る苦衷は到底言葉で言い表すことができません。

 このような立場からその範囲を広げて考えてみましょう。私たちの人生が単なる七十年の人生として終わるならばどうか分かりませんが、私たちの人生というものは永遠の問題を中心として生きているのです。

 それでは霊界があって、皆さんが死後に霊界に行くようになれば何を考えるでしょうか。その世界は広大な世界です。皆さんはよく知らないでしょうが、広大無辺なる世界です。そのような世界に入っていき、すぐに感じるようになることは、「私が暮らしていた故郷の地よりも私が暮らしていた世界、地球星がどうで、こうで」ということです。

 皆さんは、民族間の差別や背後の文化的な格差だとか、相いれない生活様相などに悩まされながら暮らしているこの地において、自分を主張し、すべてのことを収拾したいと思い、自分の主張と自分の価値を残したいと思うのです。それらのものが過去に過ぎ去るのではなく、その世界に行っても鮮やかによみがえるのです。

 その世界が自分で測定できず、自分の考えの中に自由に吸収することができない膨大な世界であればあるほど、より一層懐かしくなるものが故郷の地、あるいは地球星での生活ではないかというのです。

 それでは皆さんが霊界に行き、永遠の世界を歩んでいく生活をするようになるとき、いつになればそれを忘れるようになるのでしょうか。皆さんは、どのように思いますか。何日ぐらいかかると思いますか。何年ぐらいたてば忘れると思いますか。

 その世界に行って出会う人は、自分には見慣れない人々です。そのような不慣れな環境に私がもし一人で立ったとしたなら、気持ちはどうですか。皆さん、一度考えてみてください。そこにおいて何かを思うようになるとき、自分に懐かしい人々、過ぎし日の、心の中から抜き去ることができない情緒的な関係を結んだすべての因縁から、抜け出すことができないのです。

 自分が霊界に入っていき、その世界において思うことは「お母さん、お父さんはどうなり、おじいさん、おばあさんはどうなっただろうか」と、そのようなことなのです。

◆宗教人たちが追求する故郷


 宗教を信じる人々がこの世の人々と異なっている点とは何かといえば、彼らは一生の間、霊界を標準として生きているということです。宗教というものは、神様と出会って生活しようとするところから始まるのです。

 各宗教団体の教祖たちが残していった経典の内容は、人間の暮らしを紹介したものではありません。それは永遠の世界、超然とした世界の内容を中心として、神様ならば神様がいらっしゃるところと神様が住まれるところを中心として、私たちがそこと関係を結ぶことができる内容を教えてくれたものです。

 そして、宗教生活をするその生活が深刻であればあるほど、人生の問題を全部捨てて越えていけばいくほど、神様、あるいは主のために、すべてのものを投入するのです。宗教の目的のために愛する父母と愛する故郷、そして愛する祖国と人生の路程を経ていくべきこの地球星を捧げたということができる宗教人がいますか。世界の人類のためにすべての精誠を捧げ、自分の思いや活動の目的も、この一つの目的のために投入したとするとき、その人が霊界に行くようになれば、どうなると思いますか。「ああ、行きたくない」と言うと思いますか。

 深く広いその世界の環境が、私たち人間世界と異なれば異なるほど、そこに対する関心はどれほど大きいことでしょうか。「どうだろうか。どうだろうか」としながら、しきりと気になるのです。
 まだ結婚していない若者が、「嫁に行ったら、婿に行ったらどうなるだろうか」と思うのと同じように、欽慕の心情をもって第二の故郷をもちながら生きる人々が、宗教人ではないのかというのです。

 そのような所のために涙を流し、生涯を投入し、すべての精誠を尽くすところにおいて、この世からはむち打たれ、冷遇されるとすれば、それは深刻な立場です。そのような深刻な立場において、この世のすべてのことを知り、それと比較した結果、自分が行く道がより価値ある道であるとすれば、「私がぶつかる外的なすべての反対現象は、私をして後世における希望の基準をもたらしめるのではないか」と考えるようになるのです。

 宗教人たちの中でも、平坦な宗教生活をする人もいるし、困難な宗教生活をする人がいるし、平凡な生活をする人がいる一方で、深刻な立場で宗教生活をする人もいて、その宗教に帰依しながらも自分の利益のために生きようとする人がいるかと思えば、自分の永遠なる生命と本質的な価値のために生きようとする人など、様々な人々がいます。そのような千態万状の生涯路程における困難は、その基準に従って千態万状の系列や階級、あるいは方向があるのではないかというのです。

◆心と体がとどまることができる故郷


 私たち人間は、心と体をもっています。それでは、皆さんの心の故郷と体の故郷は違いますか。同じでなければなりません。それでは、永遠なる私の心の故郷がどこであり、また、永遠なる私の体がとどまることができる所とはどこでしょうか。これは深刻な問題なのです。

 人間が価値の問題を論じるとき、私たちはよく「あの人は立派な人だ」と言います。しかしながら、その人が自分の故郷でだけ暮らしていては、故郷というものが分かりません。また、国にだけ住んでいてはその国の貴重さを知らないのです。アジアを経て、世界を経て、遠くに離れれば離れるほど、離れた距離に比例して、また、故国を離れた時間が長ければ長いほどその時間に比例して、故郷は消えてなくなるのではなく、より一層懇切なものとなるのです。

 このようなことを見るとき、人は一箇所に定着して生きるのですが、定着した基地を中心として東西南北に拡大し、因縁をつくりながら生きようとすることも、人間の生涯を成していく一つの要因ではなかろうかというのです。

 それでは、皆さんの心と体を中心として本当に故郷で生きてみたのでしょうか。これが問題です。故郷とはどのような所でしょうか。生まれてから学ぶことのできるものの中で八〇パーセント以上を教えてくれた教材が残っている所です。そこには、父母がいらっしゃるのです。

 お父さん、お母さんというものは、言葉は簡単です。お父さん、お母さんは誰にでもいるお父さん、お母さんですが、そのお父さん、お母さんに対する立場によって千態万状の価値基準が設定されるのです。私が悲しいときのお父さん、お母さんは私にとって慰労のお父さん、お母さんです。うれしいときのお父さん、お母さんはその喜びをより一層刺激してくれるお父さん、お母さんとなるのです。

 息子、娘が喜ぶ姿を見て悲しむ父母はいません。そのようなことを見るとき、悲しいときに共に同伴者となり、うれしいときに共に同伴者となって、私の物心がつく時まで、生活する一切の面倒を見てくれる主体者としての私の同伴者が父母なのです。

 すなわち、私が寂しいとき寂しさを慰労し、困難なときは困難なことを慰労してくれ、病気になれば病気になったことを心配し、慰労してくれながら、私が育って物心がつく時まで、私の心身を中心とした同伴者であったというのです。その同伴者が変化してしまえば、困るのです。同伴者として永遠に変わることがない立場に立っているのが、父母です。

 それゆえ、その変わらない父母を中心として、その父母にひもをつけておいて、私が遠くに行ったとしても再び戻ってきたいのです。また、良い所があれば、そこにお連れしたいのです。世界中、どんなに遠い所に行ったとしてもその中で良い所があれば、その良い所に自分だけ行きたいと思うのではなく、父母と共にそれを分かち合いたいというのです。

 どうしてそうなのでしょうか。父母は、変わることのない私の心と体の同伴者であるからです。私が寂しいとき、寂しさの中にいる私を慰労してくれる最大の同伴者が父母であり、私がうれしいとき、その喜びを共にたたえることのできる最大の同伴者が父母であるためです。人間は、変わることがない同伴者がいる所を中心として生きたいと思うのです。

 それでは、故郷には誰がいるのでしょうか。父母がいます。また、父母の上にはおじいさん、おばあさんがいます。おじいさん、おばあさんとお父さん、お母さんは違います。どちらが近いかと問われれば、分別がつかない時にはお父さん、お母さんのほうが近いと思うのですが、長い歴史をおいて、私たちのお父さん、お母さんは誰の保護を受けたのかと考えてみるときには、どうですか。私がお父さん、お母さんを変わることのない主体者として恋い慕うのと同様に、お父さん、お母さんもそうであるというのです。

 このように見るとき、人間の中心的先祖はどのようなお方でしょうか。私たちの先祖がいるのですが、その中で一番中心に立つ者が誰かというとき、それは私たち人間の根本となる先祖ではないのかというのです。その先祖に先祖がいたとすれば、そのお方はその先祖が父母として仕えた方ではないでしょうか。そのお方こそ、人間を創造された神様であり、私たちの父であられるのです。

 そのお方を通して、私たちの父母の心を永遠に引きつけることができ、私たちのおじいさん、おばあさんの心を永遠に引きつけることができ、数多くの先祖たちの心を引きつけることができるのであり、引きつけるだけでなく、それが一つに束ねられるのです。

◆故郷に対する懐かしさと「郷心」


 人はどんなに遠くに離れたとしても、根本を離れることはできません。変わることのない心情的、情緒的な根本を離れることができないようになっているのが私たち人間です。なぜならば、人間の根がそこから広がっていったからです。根を越えられる存在はいないので、故郷に対する懐かしさと「郷心」は、誰もがみなもっているのです。

 故郷は良い悪いを超えて、忘れられない所です。どこか海外に出るとか、遠い世界へと離れれば離れるほど、そこにいるとき雨が降れば、雨が降るという現象は同じなのですが、その雨に対する私の心は故郷との距離によって違ってくるのです。また、環境の与件によってもそれは異なってくるのです。皆さんが友達と会うとか、愛する人と同伴してそこにおいて暮らすとしても、故郷を離れた時には自分の妻も自分と同じ心情で故郷を慕い、感じてくれることを願うのです。また、自分の妻だけでなく、息子、娘も故郷に連れていき、心の深いところに大切にしまい込んである追憶を分かち合いたいと思うのです。

 このように見るとき、故郷というものは私の人生における重要な教育材料を八〇パーセント以上供給してくれる所であるために、私たち人間から故郷との因縁を断ち切ってしまうものは何もないではないかというのです。

 幼稚園時代、小学校時代、その次に中学高校時代、その次に大学、その次に社会に出ていき出世して成功したというとき、故郷を離れ遠くに行けば行くほど故郷と離れていくようですが、人々の心の中で一番忘れられないのが、幼稚園時代であるというのです。小学校に通ったときよりも、お母さん、お父さんの手に引かれながら幼稚園に行き、先生と歌を歌い、踊りを踊ったことが、物心がついたのちに回想すれば、より強く残っているというのです。中学校よりも小学校、高等学校よりも中学校、大学よりも高等学校がより思い出されるのです。そうであったのが、大学院だとか、博士コースに行くようになれば、だんだんと離れていくのです。

 それはどうしてでしょうか。幼い時には、家庭を中心としてお母さん、お父さんと兄弟だけを考えていたのが、大学を出て、どんどん大きくなっていきながら分別がつけば、どのようになるかというと、「私は何々にならなければならない」ということを中心として、外に向かって出ていこうとするのです。そのように外に出ていくようになれば、一つの中心との間の距離はだんだん遠くなるのです。

 しかしながら、故郷というものがあるために、どんなに出世したとしても、いくら博士になって成功したとしても、どこに行こうとするのですか。「ああ、私の妻と息子、娘のところに」と言うでしょうが、息子、娘を率いてどこに行くのですか。「錦衣還郷(故郷に錦を飾る)」という言葉があるように、故郷に行こうとするのです。人は、故郷を離れれば離れるほど寂しいものです。寂しくなるのです。

◆故郷に対する情緒


 このように私たちが人生を生きていく中において、皆さんはどのような環境の中にあるのかというのです。人が年を取れば、十代にはどうで、二十代にはどうだったというようになるのです。故郷でどうだったということ、故郷の何という山はどうで、何という山はどうだったということが回想されるのです。幼かったときそこを巡り歩きながら過ごしたこと、山に登って野生の花を摘み、あるいは山菜を摘んだりした、このような様々に感じた事実は心の中から取り去ってしまうことはできないのです。

 また、幼かったとき、自分の家の近くに栗の木があったとか、あるいはアカシアの木があったとすれば、その記憶がよみがえってくるのです。アカシアの木は、とげがたくさんある木なのですが、季節になると花が咲くのです。そのアカシアの花が咲くようになれば、その香りがどんなにかぐわしいか知れません。その香りは実に高尚な香りなのです。

 そのアカシアの木を、ただ眺めているだけではないのです。行くや否や、登っていくのです。かささぎは大概、その巣をアカシアの木にたくさん作ります。かささぎは利口な鳥です。アカシアの木は普通の木と違って実に丈夫なのです。それで、かささぎが巣を作るのですが、それも一番高い所に作るのです。

 皆さん、かささぎが鳴けば良い知らせがあるという言葉があるでしょう? 朝、「クワッ、クワッ、クワッ」と鳴けば、それが良くて、何がどうだこうだと言うでしょう? また、かささぎは気候について分かるのです。今年は雨が、どこにたくさん降るだろうということが分かるというのです。かささぎが巣の出入口をつけるのを見て、「あー、今年はどういった風が吹くな」ということを知ることができるというのです。そうして、「今年は台風が吹くので農作業が駄目だな」と分かるというのです。かささぎは、風が吹かない方に巣の出入口をつけるからです。

 そして、ひなを愛するその動物たちの母性愛、父性愛というものは大変なものです。ある時はそれを思うと痛々しいくらいなのです。普通の鳥たちを見れば、卵がかえるときに対面するのですが、会ってから数カ月しかたっていないとしても、その母性愛には差がありません。先生は幼かったとき鳥たちをたくさん捕まえてみたから、それをよく知っているのです。母性愛というものはつがいで暮らす鳩のような鳥だけでなく、どんな鳥であっても、みな同じなのです。

 特にかささぎのような鳥は、人が巣を降ろそうと登っていけば、来てつつくのです。それで、そのまま木に登っていけば問題となるのです。よく見てみると、巣を木の上に結い、その次には泥をくわえてきて繕い、わらくずをもってきてそこに置くのです。それを見れば、本当にひなを愛する心情が分かるのです。どこからか綿のようなもの、ふかふかしたものをもってきて巣を作るのですが、それは、人間が作った居間よりも優れているのです。

 そのようにして巣を作っておいて、雌がそこに入って卵を産むのです。かささぎの卵は本当にきれいです。薄く青みがかっているのですが、そこにひびが入ってひなが生まれるのです。先生はそれに関心があって毎日のように登っていきました。そうすると、一番最初はかささぎたちが大騒ぎするのです。しかし、毎日のように登ってきたとしても何の異常もないので、それからは、登っていくとかささぎたちも「クワッ、クワッ」とあいさつするのです。「また来たな、よく見ていきな」と言うのです。

 このようにして、登ったり降りたりしながら先生はずっと見守ってきたのですが、卵からかえってから鳥が育つのは本当に早いのです。そうして鳥に情が移っていったのです。そうすると、かささぎがひなを産んで出ていくようになると、どんなに悲しいか知れません。そのかささぎのひなたちがすっかり大きくなって飛んでいく時には涙が出てくるのです。それを見て、「私もかなり情が深いのだなあ」ということを感じました。そのようなアカシアの木、刺がはえていて見た目は良くない木ですが、自分が因縁をもったことは、一生の間忘れることはできません。

 また、小川がありました。先生が故郷にいたころ、そこに棲んでいる魚という魚はみな捕まえてみました。そこにはどじょうがいて、うなぎがいて、かにがいて、とても多くの淡水魚がいたのですが、それを全部捕まえるのです。

 それらを捕まえて放しておく大きな池があればいいのですが、なかったのです。近ごろは家でも魚を育てたりするでしょう? そんなことができる池があればどんなに良かっただろうかと思ったのです。全部捕まえてそこで育ててみれば楽しいのに、池がないのでそんなことができますか。

 それで、そのころは物心もついていなかったので、穴を掘って水たまりを作り、捕まえた魚をそこに入れておいたのです。そのころは、魚は水の中にいれば生きると思っていたのです。ところが、一晩すると全部死んでいたのです。それを見て、「真心を込めてお前を生かそうとしたのに、何で死んだのか」と言ったのです。その事情も知らずにです。

 それを見れば、先生は情的な人です。死んだ魚を見て、「お前のお母さんが泣くだろうなあ」と言ったのです。そう言いながら魚を見て泣くのです。「僕が泣いてあげるよ」と言いながら一人で泣くのです。そのようにしながら過ごしたすべてのことが思い出されるのです。成長するときにおいて、情緒的な多くの教材を残してくれる所が故郷です。

 山を眺めるときも、忘れられないすべての情緒的な網が張られています。また、小川を見るときもそうです。小川があればそこにも様々な魚が棲んでいて、多くの虫たちが棲んでいるのです。それらのものを学びの材料として活用しながら、自分が大きくなるときにおける知識を授けてもらうのです。故郷の山河にあるすべての動植物をはじめとする、自然界に関したものを教材とするのです。そのように、自分の内的な人間が育つ際の豊 饒性を身につけるための多くの材料を残してくれる所が故郷ではないかというのです。

◆故郷は心情の博物館


 ですから、人は誰でも故郷の山河を懐かしむのです。そうではありませんか。先生は自然が本当に好きでした。山に行き、座って昼寝をするのです。大きな木に寄り掛かり、自然の中で昼寝をするのです。そうしながら、山菜も採って食べたりして、こうしたすべてのことが忘れられません。

 そうしたことを見るとき、故郷は私たちが情緒的な人間として育つことができるよう、基本的な教材として私に提供されたものであると、このように考えるのです。

 皆さん、昔小学校に通っていたころ、机に穴が開いていたならば、それを今でも思い出すでしょう? どこがどうなっていて、どこがどうだということが思い出されるのと同様に、その山河にある木はすべて同じ木であっても、その木々の姿が自分の印象の中に残っているのです。それらのものが自分のすべての情緒的な面における追憶として残り、記憶に残る一つの教材として残された博物館であったのです。

 また、小さいころは他の村の子供たちとけんかしたりするでしょう? それで、鼻血が出ればお母さん、お父さんを探して行くでしょう? ところがお母さん、お父さんは、「こいつめ、なんでけんかをして、また鼻血を出して帰ってくるのか」としかるのです。

 母は息子が外でけんかをして殴られて帰ってくると、しかりつけるでしょう? そうしたことは大きくなって子供を育ててみれば、その心情を理解することができるのです。その時には「お母さんはなんであんなふうにするのか。鼻血が出ているのに、反対にしかりつけてくる」と思ったのですが、物心がついてみると、その時の母親をつかんで「母さんありがとう」と言うことができたなら、母親はどう思っただろうかと考えるのです。

 このように見てみると、そのすべての材料の中で一番忘れられない材料とは何でしょうか。それは情緒的な面のものです。

 うちの母親を思うと本当に哀れです。日帝の時代に田舎でたくさんの息子、娘を抱えて生活しようとすれば、近ごろのように金を出して買える安物のナイロンのようなものでもありますか。服などは全部木綿で作るのです。綿を植えて種を取り、機で織って服を作るのです。

 母の機織りは手際が良かったのです。普通の人の二倍以上を織りました。普通の人は布地四十尺を織ろうとすれば、一日に五尺ずつ織っても八日かかるのですが、母は一日半もあれば織ってしまうのです。忙しい時は一日に一疋(=二反)織るときもありました。

 そうして、母がたくさんの布地を織ると足が腫れて、それを先生に見せてくれました。その時、「足、痛くない、母さん? 一日中していたからどんなに痛いだろう?」と言うと、母は、「痛いもんか。それをしなくてどうやって生きるんだ」と言うのです。そうして、その足を見せて、「これ、見てみな」と言うので触ってみると、足がすっとへこんでいったのが忘れられません。そうしながらも、子供たちのためにそれをなんとも思わずに苦労したその母の姿、そのようなことが忘れられないのです。

 ですから、どこかに行けば行くほど、一番懐かしいのは母親です。その次に、自分が遊んだ兄弟たち、姉妹たちです。先生には二歳年上の姉がいました。その姉は、誰よりも先生のことを愛してくれました。私が何かなくて騒ぐと、自分のものをくれるのです。嫁入り前の時はそうではないですか。嫁に行く前にはみんな、小さなふろしき包みを持っていたのです。

 母に向かって、「何々が必要だ」と言っても、母がいつでもそれを準備できますか。そうすると、その姉は自分のふろしき包みをくまなく探って、私を呼んで「ほらほら、ここにある、ここにある」と、そのようにした思い出が浮かんでくるのです。そのようなすべてのものが情緒的な面において絡まり合って忘れることができないのです。小さかったときの、そのすべての印象がどんなに刺激的か知れません。

 ゆえに、自分の人格の素養を備えるにおいて、情緒的な面や生活的な面をそこで教わるのです。
 韓国人は、服のことについて他の所に行って教わりますか。故郷で全部教わるのではないですか。どのように着て、何が良いとか悪いとかいうものを、全部教わるのです。その次に、生活するすべてのこと、どのように生活するのかを、全部教わるのです。このようなことを見ると、そのすべてのことが、情緒的背景が、深い因縁と歴史をもっているために、それらを忘れてしまうことはできないのです。

 情が交流しながら、自分の一家のことを思い、子女を思う父母の愛がそこに残っているため、「私の心はそこから離れられない因縁をもっているのだ」というときには、母親がどんなに恋しいか知れません。

 それゆえに、故郷は自分の忘れられない教材であり、心情の中に残された博物館のようなものです。それで、故郷が忘れられないのです。

 また、故郷は自分が育っていくときの八〇パーセントの原資材を供給してくれる所です。自分の人格を中心として原資材を供給してもらうことにおいて、心情的分野を中心としては、どんな有名な大学の博士になったとしても、故郷以上に心情的材料を供給してくれる所はありません。

 なぜそうかといえば、故郷には父母がいて、おじいさんがいて、お姉さんがいるのですが、その人たちとの情緒的関係は永遠に従っていこうとするものだからです。一時ではないのです。死ぬ時までその心を抱いていくのです。

 自分の家族は、死んだのちにおいても忘れられないのです。一生の間、その胸に溶けてなくなるごとくに抱いていくのです。それは自分の一族も同じです。それゆえに、情緒的な面で、悠久なる因縁を中心として誰もが暮らす所であるために、故郷は貴いものなのです。その「貴い」ということは、変わることのない愛を中心として言う言葉です。

 先生が故郷を離れ、ソウルに来たとすれば、ソウルは異郷です。そこでは平 安道定 州の地が故郷の地となるのです。外国に出るようになると、どうなりますか。ソウルが故郷になるのです。また、外国に出ていけば、京畿道の人でも慶 尚道の人でも全羅道の人でも、みな自分の同胞となるのです。

 「同胞」と言えば、自分の国の人ということです。「自分の国」と言うときには母、父、兄、姉の年輩の人がすべて入るのです。誰もがお母さん、お父さんのことが好きなように、同胞に会えば風習も同じであり、生活環境も同じであるので、故郷で暮らすのと同じように感じるのです。どの地域の人であっても、困難なことがあれば、自分がお兄さんやお姉さんを助けてあげる心情で、助けてあげるようになるのです。

◆霊界と故郷


 それでは、皆さんが霊界に行くとすれば、どこを懐かしがるでしょうか。霊界に行けば、何千年前に生きた霊人たちとも会います。いつの時代の人かと聞いてみれば、「あなた方には分からない」と答えるのです。何千年前の人のことが、どうして分かりますか。そして、「どこの地域ですか」と聞いてみると、アジア地域だとかいうことは彼らは知っているのです。

 霊界も同じです。霊界に行っている人たちに故郷があるというときには、霊界が故郷ですか、地球星が故郷ですか。霊界に住みながらも故郷がどこかと聞けば、地球星のどこだと答えるというのです。なぜそうなのですか。地球星が自分の故郷とどれほど離れていますか。部落でいえば、数百万個の中の一つにしかならないのに、それを全部包括している地球星が自分の故郷であると答えるのです。なぜ? 自分の国を愛しているからです。

 国を愛することは、お母さん、お父さんを愛することであり、兄弟を愛することであり、自分の姓氏を愛することです。皆さんが自分の宗族(姓と本貫が同じ結縁集団)に出会うと、みんなうれしいでしょう? 金海金氏ならば、金海金氏がどんなに多くても、どこか異郷の地に行って金海金氏同士が出会えば、一人は殺人強盗で、もう一人は何かの強盗であったとしても、互いに信じ合うのです。それが理解できますか。それはどうしてですか。情緒的な距離が同位圏に立っているためです。

 それゆえに、霊界に行って誇ることとは何でしょうか。ほかにはありません。皆さんが霊界に行ったとき、神様が「お前、地上で何をしてきた」と問えば、「私はお金をたくさん使ってきました」と答えるのですか。どれくらい人を慕いながら生きたのか、ということが問題となるのです。それが重要なのです。

 十人の子供をもった父母がいるとすれば、その十人の子供たちが東西四方に散らばり生活しているその国は、父母にとって近いですか、遠いですか。どこであろうと、父母の心の中では近いというのです。ソ連にいるとすれば、ソ連が共産党の主体国であり、北韓にいるとすれば、北韓が共産党の主権国であるとしても、そこは遠くないのです。

 それゆえに、環境的国家の状況や文化の背景、あるいは社会的体制が相反する立場にあるとしても、父母の心はそれを克服、超越し、統一的感情で動くということを知ることができます。この世的に見れば、怨 讐視すべき環境にいるとしても、自分の息子がその地に埋まるようになるときには、その国は怨讐の国ではありません。息子がそこで世話になって生きたというときには、たとえ共産国家であるとしても憎くはないというのです。

 同じように、父母の心情をもって世界人類のために生きる人には、その人類が行って住むところが良いというのです。そうすれば、将来、自分が霊界に行くとき、そのすべての人々が自分に向かって子供が父母を慈しむように「ああ、あなた!」と、このように歓迎するのではないかというのです。

 霊界は時空を超越しています。「誰々に会いたい」と思えば、現れるのです。ただそれには精神統一が必要です。心と体のテレパシーが合わなくてはなりません。電波でいうと、電波が合えばラジオから音が出てくるのと同じです。そのように姿勢を整えれば、「誰かに会いたい」と思えばすぐに現れるのです。

 どのような姿で? 親しければ親しい姿をして、怨 讐であれば怨讐の姿で現れるのです。自分が一番忘れられない姿で現れるのです。そのような世界であるがゆえに、父母の心情をもって、慕わしい心情をもって、因縁を結んだ人々を中心として世界のすべての人々のために生きたというとき、霊界に行ったすべてのその愛情を受けた人々はみな、自分を擁護し、歓迎するというのです。そこには国家がありません。国家は一つです。ここには英国、フランス、イタリア、ドイツなどがありますが、そこは一つです。すべてなくなり、最後には情緒的な追憶だけが残るのです。

◆霊界での侍りの中心


 故郷には、自分のことを永遠に忘れられずに主体の立場から思う父母がいて、兄がいるのです。弟がどこか別の所に行ったからといって、兄が弟を忘れてしまいますか。「愛する弟はどこに行ったのか」と言うでしょう。また、姉さんがどこかに行ったとしても忘れてしまわないのです。

 情緒的な追憶の内縁というものは、それを克服する力がありません。ゆえに、人は愛から生まれ、愛を中心として生きるようになっています。このような結論を出すことができます。生まれてのちのすべての追憶の感情を振り返ってみるようになるとき、人は愛を中心として生きる人が幸福な人です。したがって、霊界に行くとき高い位置に生きたい人は、その誰よりも他の人のために涙をたくさん流す人とならなければなりません。父母の心情で、父母の体で。

 自分が裕福に暮らしているといって、心安らかに思ってはいけないというのです。山のてっぺんから見下ろして、「あれは我々のビルだ」と言って誇るなというのです。そのビルが目をむいて「お前たちがビルを建てるとき、国民を搾取し国を欺瞞し、自分勝手にして建てたものではないか!」と言うというのです。

 このように見るとき、先生は国と世界のためにこの道を歩んできました。過ぎ去りし先生の歴史がそうであるように、皆さんもそうでなければなりません。もらった人、負債を負った人は僕となるのです。主人にはなれません。負債を負う人は、主人になれないというのです。

 それゆえに、今でもそうですが、どこに行こうが、先生はその地域の一番高い所を探していきます。行って祈祷するのです。「この地域で生きて死んでいったすべての霊人たちが、この地域をどんなに愛しているでしょうか。私がここに来ましたので、愛していた善霊たちがいるからには、愛したいその心の前に架け橋となってあげよう」と祈祷するのです。

 そのようなとき、自分よりも愛の高さが低いのに「愛してあげたいから協助してくれ」と、このようにして協助してくれますか。協助できないのです。しかしながら、高い位置に立って「善なる霊たちよ、私が高い愛の心をもってこの地域を祝福しようとするので協助してくれ」と祈れば、役事するというのです。福を祈れば、その福を祈ったことがその地に植え付けられるのです。

 本性の手を広げ、「私の懐で今晩はゆっくり休みなさい」と言えるおじいさんの心、お母さん、お父さんの心、神様がいれば神様の心をもって深刻に寝床に入り、涙をぽろぽろと流すようになるとき、そこで生きて死んでいった善なる霊たちが見るときに、涙を流すでしょうか、流さないでしょうか。その地の山水は、それが分かるというのです。変わることのない山や変わることのない自然は、知っているというのです。地は、地の主人がどのような人であるかが分かるというのです。「私がこの地の上でお前が願った、歴史上のどんな人よりも父母の心情をもって第一歩を踏んだので、悲しかった過去の歴史を忘れ、私と共にきょうから新たなる世界に出発すべし!」と言えば、「アーメン」と言うことでしょう。天国は、そのような人たちが行くところです。

 それではあの世に行って、「霊界において歴史始まって以来、褒めたたえ侍ることができる人が現れた」となることができる、ナンバーワンの人とは誰でしょうか。死んでいった霊人たち、先祖たちのために、彼らの恨を解いてあげようとし、この地上の現在の曲折の責任を負って解いてあげようとし、将来、後代の後孫たちの前に恨めしいものを残さないために、自分の時代に愛を中心として清算してしまおうという人です。

 たとえ、東西南北に追われ、休むこともできず、夜寝ることもできずに追われてきたとしても、そのような方が、あの世では侍ることの中心になるということは、間違いありません。

 霊界に行き、誰かが大声を張り上げれば、既に分かるというのです。「あれはどういう声なのだなあ」と分かるのです。皆さんが愛の和音を備えた主人公となって、そのような功労をもった人となって、大声を張り上げれば雲の群れのように押し寄せてくるのです。そのような世界が、皆さんの前にある永遠なる生涯路程に待っているということを知らなければなりません。私たちは、無限なる世界を旅行しながら、神様の人格を探し求めていかなければならないのです。

◆愛の幸福


 皆さん、星の国に行きたくありませんか。数千億個にもなる星の国が私たちの活動舞台です。それでは、何をもてばそのような世界に行っても戻ってくることができるのでしょうか。神様を愛することです。その心情の母体のようなものを中心とすれば、拡大されてのち、戻ってきても疲れないのです。行ったとしても、戻ってくることを思えば疲れないというのです。

 愛する妻と子供たちを食べさせるために、お金を稼ごうと千里の道へと出発したとき、困難なことは無限にあるのですが、愛する妻と子供たちのことを思えば越えていけるのと同じように、どんなに無限なる世界へと活動舞台が広がったとしても、疲れずに自由自在に行った来たりすることができるのです。

 人生というものがそうではありませんか。寝て起きて、行って来て、良かったり悪かったりすることではありませんか。それでは、何を中心として寝て起きて、何を中心として行って来て、何を中心として良かったり悪かったりするのですか。女性たちが烈女になろうとすれば、寝て起きることが夫を中心としなければなりません。行ったり来たりすることも、何を中心とするのですか。夫です。その次に、良かったり悪かったりすることも何を中心とするのですか。自分中心ではありません。夫を中心としてです。それが幸福な人です。反対に、与えようとしても与えることができず、受けようとしても受けることができない人は、不幸な人です。

 何を中心として与えたり受けたりしたいですか。パンですか、餅ですか。友達同士において喜ぶものとは何ですか。顔ですか。手ですか。情であって、愛です。不幸な人は、与えようとしても与えることができず、受けようとしても受けることができないのです。

 しかし、夫が死んだそのような妻の立場に立っても、愛をもって高く大きなものを与えることができるときには、夫があの世に行っても復活させることができ、引き上げることができるのです。そのような妻となる道を歩んでいくならば、どんなにか幸福でしょうか。また、夫の立場からも、たとえ妻を失って寂しいとしても、それを越えて妻以上の大きな本然の心情をもって永遠なる基盤をつくり、その世界に行き、かわいそうな妻を解放させることができる夫がいるとすれば、その夫はどんなに堂々として立派でしょうか。そうすることができるのは、お金ではありません。権力でもありません。知識でもありません。ただひとえに、本質的に流れ出る父母の愛、本質的に流れ出る同胞愛、すべて愛です。

 皆さん、忠孝烈が儒教思想の核心ですが、忠の中心とは何ですか。その思想の本質は何ですか。愛です。君臣間の引き裂くことができない愛が、一体を成すのです。孝子とは何ですか。父子間にそのような愛がなくてはなりません。例えば、父母が年老いてしまい、子供は若いとしましょう。年を考えれば四十年、あるいは六十年の差があって相対化できないような遠い距離にあるのですが、子供が母を訪ねていき、そのしわくちゃな母の顔にとても若い子供の顔がくっつくのを見るとき、美しいですか、美しくありませんか。美しいというのです。

◆本郷を訪ねていこうとすれば


 「故郷」がきょうのみ言の題目ですが、私たちが永遠に安息し暮らすことができ、幸福の基盤を無限なる世界に拡大してもまた、無限なる世界に縮小させることができる力の母体である愛の王宮があるとすれば、誰でもそこに行って住みたくなるのです。そのような世界で生活したいというのです。そのような本郷の地、本郷の故郷をもちたいと思うでしょう?

 それでは、一方向性の世界に行き定着しようとするのですか、四方性の世界の故郷に行き定着するのでしょうか。それが、皆さんの人生に残った課題なのです。私たちの心の本来の心情的度量というものは無限です。球形体を東西南北、前後左右に拡大し、宇宙までも接することができる素質をもっているのです。そのように無限に拡大しようとするのが私たちの本性であるにもかかわらず、皆さんがそのような愛の本性の前にどれくらい協助してあげるのかというのです。深刻な問題です。

 東に西に、南に北に、前後左右に伸びたいと思う本性の愛の心情圏が私の本性であるにもかかわらず、私自身が力を与えて伸びていくことができる援助者となっているのか、それとも反対者となっているのかというのです。援助者となるときには、宇宙全体が私の故郷となるというのです。それでは、故郷を思うように祖国の地を思ってみたことがあるでしょうか。外国に行っているので、その立場を越えることを先生は発見しました。

 ですから、イエス様が「怨 讐を愛せよ」と言われたことは、イスラエル版図圏内で語られたものではありません。天上世界の道理を知り、大宇宙圏内の故郷を思う心をもってみるとき、部落で争ったことを許すことは問題ではないというのです。

 ゆえに、心情を中心として風霜をたくさん経験した人は、不幸な人ではありません。霊界が分かってみれば、そうなのです。貧乏だからといって不幸なのではありません。子供一人のために億千万金、どんな地をあげても買うことができない宝物の価値として、ひと月の自分の月謝を出す父母のその期待は天地が同和するというのです。貧乏が不幸なことではありません。そのような根気ある父母の子孫を通して、そのような母たちの系統を継いだその後代の中から、世界を愛することができる聖子が生まれたというのです。

 私たちは、故郷を訪ねていかなければなりません。肉的な故郷は自分が生まれた所ですが、霊的な故郷はあの世の世界です。肉的な故郷は横的な故郷ですが、霊的な故郷は縦的な故郷です。皆さんは横的な故郷をたどって世界を愛していってこそ、縦的な故郷を愛することができるのです。

 この地球で生きることは、横的な愛をなす訓練と同じです。「私は韓国人ですが、万民と結婚することができる」と、このように考えるとき、五色人類を自分の姉妹のように愛し、自分の妻のように愛したい心情がわくのです。それは、天の心情ではないですか。

 きょうの題目が「故郷」と言うからには、忘れてはならないことは、肉の故郷は自分が生まれた所ですが、霊の故郷もあるということです。それではこの霊が「霊的な故郷を捨てて肉的故郷に行こう」と、そのようには言わないのです。自分をすべて忘れてしまい、母、父、兄弟をすべて忘れてしまっても、「神様を愛せよ」と言うのです。

 心の故郷の福地を探し求めていくべき人生の行路の前に、落伍者とならないためにも、故郷を越え、この国を越えて、人類を越えて愛したのち、神様とあの世にいる先祖たちと将来の後孫を抱き愛していかなければなりません。そのような道を行く人々は、高い天の故郷において主人の位置にとどまるのです。それが天理原則です。

 皆さんも横的な人生行路を経て、縦的な天上世界の本郷の父を訪ねていき、その永遠なる父の家で幸福になることができる息子、娘となることを願います。それが故郷を訪ね求めていくすべての人々の希望の基地となることでしょう。

















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訓教経(下)035



文鮮明先生のみ言集

訓教経(下)



根本思想


一九九〇年一月十二日
韓国の宗教会館 『文鮮明先生み言選集第百九十六巻』


 きょうのみ言の題目は「根本思想」です。

◆人生の問題は神様を中心とした聖人の教えにより解決すべき


 先生は、大韓民国の白衣民族の一人として生まれましたが、宗教という問題を中心として誰よりも苦心してきた人です。さらには、人生の問題、人間の問題について懸命に努力してきた人なのです。

 人間の問題を、誰が解決すべきなのでしょうか。このような問題について考えるとき、人間だけで解決することはできないのです。それでは、何によって解決するのでしょうか。聖人の教えによって解決しなければなりません。

 普通「聖人」と言えば、皆さんもよく知っているように、四大宗教の教祖を中心として言ったものです。それでは、その教祖たちは何を中心として、その生涯を歩んだのでしょうか。それは、絶対的な価値の問題でした。神様がいるのかという、神様に関する問題です。

 宗教が哲学と異なるところとは何でしょうか。宗教の始まりが神と共に生活することであるのに対し、哲学はそうではないのです。どの宗教を見ても、必ずその背後では神秘境を連結させ、神様という背後で働く主体を中心として、そのみ旨を成すために出発しました。そのため、教祖は神様と生活舞台を共にして始めたのです。

 それでは、神様と共に出発する生活とは、いかなる生活なのでしょうか。個人的な生活でしょうか。そうではない生活でしょうか。それが問題なのです。個人的生活を標準として神様と共に出発した宗教なのか、あるいは家庭を中心として神様と共に出発した宗教なのか、さらには氏族であれば氏族を中心として神様と共に生活するために出発した宗教なのでしょうか。民族であれば民族を中心として神様と共に出発したものなのかということが問題なのです。次には、国家と共に神様を中心とした生活舞台を備えて進むのか、その次は、世界の問題です。また、霊界と肉界があるとすれば、霊界と地上界、天と地まで問題となるのです。

◆なぜ自己の完成のためすべてを否定しなければならないのか


 宗教が出発するにおいて、家庭の救いの論理を唱えた宗教がどこにあったでしょうか。また、社会の救い、氏族の救いを唱えた宗教がどこにあったでしょうか。国家の救いを主張する宗教の出発はなかったでしょうか。これらのことが問題となるのです。

 大多数の宗教を見れば、個人の救いについて説いています。個人が救われなければならないというのです。すべて個人を中心として出発しました。それゆえ高次的な宗教を見れば、その教祖の説く教理というのは、現世から隔離させようとするものです。出家を強調しています。これは仏教だけでなく、キリスト教も同じです。

 出家とは何でしょうか。出家するということは、一つの氏族の姓を通して生まれたとすれば、その伝統的な歴史の背景がすべて私を包囲しているために、その背後の前衛隊のような家庭を否定するということです。出家すること自体、国を否定しなければならず、生活していた社会を否定しなければならず、生活していた家庭を否定しなければならず、家庭における父子の関係までも否定しなければならないのです。これが問題となるのです。

 私たちが生活するにおいて、運命の道は、私たち個々人が努力して開拓することができますが、宿命の道を開拓することはできません。それでは父子の関係、父と息子であるとか、父母を中心とした子女であるといった父子の関係を切ることのできるものとは何でしょうか。これが問題となります。一人の独裁者が、「あれはお前の父親ではなく、あれはお前の息子ではない」と、千年、万年教育したとしても、それを革命することはできません。

 それでは、出家とはいったい何でしょうか。父子の関係までをも否定して出ていく理由は、どこにあるのでしょうか。出家という言葉は、両親との関係を維持したまま出ていくことをいうのでしょうか。それとも、両親との関係を否定し、自らの修道の目的を成就するために、自分を中心としていたあらゆるものを捨て去り、自己完成を目的として出ていくことなのでしょうか。あくまでも自己の完成を目標としたものです。

 宗教はすべて、自己完成を目的としています。ですから高次的な宗教はすべて、独身生活を強調するのです。よく見ると、親子の縁までも否定し、さらには子孫を否定するということまでします。それは、なぜなのでしょうか。どうしてそうしなければならないのでしょうか。深刻な問題です。そうではないですか。カトリックにも、神父や修道女たちがいるでしょう。仏教も、やはり同じです。すべてを捨てて、世界を否定し、国を否定し、自分の家庭を否定し、自分の父母を否定し、男性が女性を否定し、女性が男性を否定するのですが、どうしてそうしなければならないのでしょうか。根本問題がここから出てきます。このような問題は、深刻な問題だと言わざるを得ません。

◆宗教の起源


 それでは、どうして否定しなければならないのかという論法、論理、教理の教えを、いかにして教団で打ち立てるのでしょうか。それは、キリスト教でもあいまいなのです。仏教もそうです。だからといって、批判するのではありません。立派だということは言うまでもありませんが、根本問題に関していえば、そうだということです。

 儒教もそうです。「元亨利貞は天道の常であり、仁義礼智は人性の綱である」という言葉があるのですが、どれほど良い言葉でしょうか。「天」とは何でしょうか。たとえ天があったとしても、私との関係を一〇〇パーセント、始まりとともに永遠に結ぶことのできる天でなければ、私がその天を理想的な天として侍ることはできないのです。始まりが天であると同時に、過程と終わりのすべてが永遠に天でなければなりません。その天と共に私は幸福でなければなりません。不幸であってはならないのです。幸福でなければなりません。その天と私が一つになる時、すべてがうらやましく思い、すべてがそれを尊び、すべてがそれに従っていくことができなければなりません。そのことが、この個体が生まれついた一つの特殊な民族に限られた内容となってはなりません。人種を超越し、思想を超越していかなければならないのです。

 このように、宗教の起源、教祖たちの起源をよく見てみると、神様と共に生活を始めたことから教団が始まったのです。

 それではここで、教祖と神様との関係を考えるならば、神様に従っていくべきでしょうか。教祖に従っていくべきでしょうか。これは大きな問題です。教祖と神様の関係においては、教祖も神様に従っていかなければならないのです。どの程度でしょうか。その神様が絶対的な神様であるとすれば、絶対的についていかなければならないのです。それでは絶対的に従い得る神様と私との関係、神様と教祖との関係、神様と私との関係よりも神様と教祖の関係と、教祖と私との関係をいかにして連結させていくのか、これは簡単な問題ではありません。

◆すべての関係をどのように結ぶかが問題


 先生は、霊界とか宗教界に対するこういう問題すべてを中心として苦労したことによって、神秘的な世界があるということを知りました。神様がいるか、いないかというならば、神様はいるのです。間違いなくいるのです。その神様と教祖との関係、教祖と信徒との関係、信徒と世界との関係など、関係の世界が問題なのではないでしょうか。その関係を、どのように強固なものにするのでしょうか。一軒の家を中心として見ても、父子の関係、夫婦の関係、兄弟の関係、すべてが関係ではないですか。また、家庭と家庭との関係もあります。

 いかに自分が立派だとしても、家庭との関係において脱落してはいけません。自分と家庭との関係における中心、家庭と家庭との関係における中心とは何でしょうか。さらには、氏族と氏族との関係においての中心とは何でしょうか。すべての人間は、関係の世界から離れることはできないのではないでしょうか。

 宗教を中心として、個人と個人との関係を自分たちの間で結ぶことができます。仏教であれば、仏教を信じる人間同士で結ぶことができます。それでは、仏教を信じる人と別の教団の人とはどうなるでしょうか。これが問題なのです。「私たちは関係などない。絶対的に関係がない」と言うのですが、それはいったい誰が決めたことなのでしょうか。教団をつくり、教祖を立てるとき、「あなた方はそのような関係を結ぶべきである」という神様の意を動機として始まったのであれば、そのような神は必要ないのです。そのような教祖は必要ないという結論が出てくるのです。

 「家 和 万事成」という言葉があります。家和万事成となるには、おじいさんとおばあさんとの関係、夫婦関係、姉妹関係、兄弟関係が理想的でなくてはなりません。しかしそうかといって、おばあさん、おじいさんが自分たちだけ仲良くし、また夫婦だけで仲良くし、兄弟だけで仲良くするようではいけないのです。おばあさんと息子、息子と息子、嫁と息子、これらが縦的に横的に、前後左右にみな和してこそ家が和するということです。ファ(和)というのは、おしなべてという意味の「和」の字ではないですか。「ファハク(化学)」というときのファ(化)というのは、本質が変わって一つになることを意味しますが、この和という字には本質があるのです。私であれば、私の個性があります。個性があって一つとなるのです。

 一つの家を考えるならば、おじいさんとおばあさん、お母さんとお父さん、それから兄弟、これだけでも六人になります。ここに親戚まで関係し、いとこまで含めると、どうなりますか。一家にいとこまでが住むのです。いとこまでが住んだとすれば、何人になりますか。こう考えると、果たして家が和するということは容易なことでしょうか。こうして分析してみると、困難だということが分かります。なぜでしょうか。私たち個々人の体と心は争っています。三十八度線も、世界の戦争も問題ではありません。

 その戦争の動機は、どこから生じるのでしょうか。その根本は、どこにあるのでしょうか。私から生じるのです。「人」には男性と女性がいて、男性、女性を見ると心と体の両面があります。だとすると、宗教を信じるときに、心と体の両方で信じるべきでしょうか、心だけで信じるべきでしょうか。これが問題です。心と体が一つになって信じることが理想的なのですが、心と体が一つになっていなければ、神様はまず心を中心として一つとならしめ、心が主体となって、心を通して一つとなるようにするのです。

 「心がまっすぐだ」という言葉があります。そのまっすぐというのは垂直を意味します。心が神様と完全に一つとなり、その一つとなった心と、私の体を一つにしなければなりません。これが今日、宗教生活をするにおいて生涯にわたってなすべき課業なのです。

 それでは、どのようにして心で体を支配するか、これが問題です。それには二種類の方法しかありません。神様と共に生きる、神意を知る立場に立っているとすれば、神様の意を中心として生きなければならないのです。ところが、体がついてこないのです。心がプラスで、体がマイナスとなっていればどれほど良いでしょうか。ところが、この体がプラスの立場にあるのです。体がプラスとなっているというのです。ですから、プラスとプラス同士反発するのです。

◆心と体が一つになるには体を打つ生活をしなければ


 いかにして一つとするのでしょうか。根本理想を見いだしたとするならば、強力な信仰心をもって、その理想を中心として、変わらない心で絶対的な姿勢をもって体を弱化させなければなりません。体を弱化させなければならないのです。それゆえ、苦行をするのです。苦行を好む人がいるとでも思いますか。苦行を好む体が、この世のどこにあるでしょうか。

 では、「仕方なく、無理やりすることで理想が実現する」という論理を見いだすことができますか。これは理論的な矛盾です。喜んでやってもうまくいかないのがこの天地だというのに、無理にやったところで完成できるでしょうか。それは矛盾です。

 それでは、なぜ宗教生活が体を打つ生活なのでしょうか。心を中心として、プラスに対してマイナスをつくるためです。マイナスをつくらなければなりません。マイナスさえつくってしまえば、「一つとなりなさい」と言う必要はないのです。マイナスに戻ることによって、心と体が一つになるのです。

 心と体が一つになれば、どうなるでしょうか。これも問題です。その根本問題が、どうしてそうなのでしょうか。今の世の中は分析的な論理でなければ通じないのですが、その論理が公式と統計に結びつくものでなければなりません。

 今までの科学世界の発展は、単位を中心とした公式の発展です。公式を抜きにしては発展しないのです。コンピューター・システムも、すべてそのようになっています。私たちはそれらを、最高に便利なものとして使用しているのです。そのような私たち人間の素性、性質は、もともと分析的で論理的であり、そのように論理的で分析的である結果、損害が生じることを絶対に嫌うのです。

 それでは、体が好みもしない所へついていって、私が修道の世界に対して覚醒することができるのでしょうか。また、そうすることで完成できるでしょうか。ですから宗教は、良心を中心として体を打たなければなりません。宗教は、絶対的に体を打たなければなりません。なぜ、このようになったのでしょうか。

 神様がいるとするならば、どうして体を打たなくてもいいように創造できなかったのでしょうか。こう考えるために、神様を否定するのです。なぜかは分かりませんが、病気になったことは事実です。

 それでは、宗教ではなぜ体を苦労させるのでしょうか。良心基準の前に体を弱化させることによって、従わせられるようにするためなのです。これを弱化させて完全に引っ張っていき、三年間くらい率いて習慣化しなければなりません。なぜでしょうか。絶対的に信仰を強力化するためなのです。自分の愛する人や、国、世界などをすべて捨て去り、絶対的に修道の基準の前にこの体を修養し、一致できる帰一点を発見しなさいということです。宗教というものはみな、どの宗教でもそのように教えなければならないのです。そうでなくては、宗教世界に発展をもたらすことはできず、人格革命をもたらすことはできません。

 それゆえ、断食をし、絶食をして、さらには苦行をして、社会に出て迫害を受け、反対されるのです。反対されようが、されまいが、宗教の目的の成就のために、体が死にそうだと大騒ぎしてもかまうことなく、それをすべて忘れ、心の前に体が順応する自我を求めて、つらい生活をすること、これこそ宗教生活なのです。

◆心と体が一つになったのちはそのような男女が結婚して一つとならねば


 個人を通してそのように良心基準を合わせるとするならば、家庭基準はどうすればよいのでしょうか。家庭をもったとすると、それらを率いて心の世界の統一圏を成すということは、どれほど大変でしょうか。国を背負っていくことが、どれほど大変でしょうか。ですから、そのような問題を簡素化するために出家をするのではないでしょうか。

 出家して何をするのでしょうか。完全なる修道の成就、目的を達成したのちには、男性の修道者、女性の修道者はどうすべきなのでしょうか。二人が一つとならなければなりません。それで終末、すなわち今まで教えてきたすべての修道の時代が終わる時には、修道者たちも結婚すべき時が来るのです。

 なぜそうなのでしょうか。外的世界は、みな誤った結婚をすることで腐ってしまいます。悪魔の巣窟、サタンの巣窟となっているのです。どのように教示するのでしょうか。神様がいるとするならば必ず、「この者たち。お前たちはみな人倫道徳を中心として見れば道理に外れているので、滅びるであろう。それを正すためには標本が必要である。ゆえに、僧侶が結婚し、修道女や神父が結婚して標本になるべきだ」と言われることでしょう。それでは、こういうことを経典を通してどのように説明するのでしょうか。経典にはないのです。

 四大聖人はすべて宗教の教祖です。その教祖を中心として、数千年の歴史を重ねながら後退するのではなく、人類を包括してきました。包括するのは教祖たちがしたのではありません。

 それは、天運を動かす中心となる絶対的な神様が、教祖たちの志が良いので、彼らを立てて教材として使ったのです。そう言うべきであり、「私たちの教祖は神様だ」と言ってはいけないのです。もしも「教祖が神様だ」として、「絶対的な神様だ」と言うならば、問題が大きいのです。

◆人間は結果的存在であり第二存在


 私たち人間は、第一原因から始まりました。第一原因とは何でしょうか。その方は、私たち人間が描く理想以上の理想をもった方で、行ったり来たりしながら、いろいろなことを考えているような方ではありません。絶対者であられるので、その方が考える理想は、絶対的理想です。どの教祖でも、それ以上となることはできません。そのように考えるべきです。どんなに優秀な教祖、優秀な宗教指導者、世の中がひっくり返るような宗教家がいたとしても、神様を中心としていなければなりません。私を中心とするならば、大変なことになります。それはなぜでしょうか。人間は、あくまでも第一存在ではなく結果的存在です。第二存在なのです。

 それでは、その第二存在はどうして生まれたのでしょうか。私にとっての第一存在は、両親です。その両親の第一存在は、おじいさんとおばあさんです。このように上がっていくのです。おじいさん、おばあさんの第一存在は誰ですか。曾祖父母です。人間の先祖を中心として考えると、神様がいるとするならば、神様までさかのぼっていくのです。

 その神様のみ意とは、いかなるものでしょうか。宗教を打ち立てて、個人を救援するというのが神様のみ意でしょうか。家庭の救援でしょうか、国家の救援でしょうか、世界の救援でしょうか、天地の救援でしょうか。地上にも地獄があり、天上にも地獄があります。この救援というのは、天上天下にある地獄を撤廃するものでなければなりません。地上と天上の地獄をすべて撤廃し、天国をつくろうとする方こそ、絶対的に善なる方なのです。

 人というものは、自分の住んでいる家が一番だと思うものです。どんなに豪華な住宅が多いとしても、貧しい人にとっては天幕の家、幌馬車のような所で一家仲良く、楽しく食べ、喜んで生活するほうが、大きな家で豪華な食事をしながら暮らすよりも、かえって幸せなのです。自分の住居とは、自分自身の幸福の基地です。

 貧しい人や労働者は、工場のそばにあるゆがんだ家でも、幸せだと感じながら暮らすことができ、農民は、わらぶきの家でも幸福を感じることができるのです。王宮で生活する人以上に幸福になれないという論理は成立しません。

 それは、何を中心としてそう言うのでしょうか。外的な所有舞台ではありません。環境の舞台ではありません。内的な心的世界の環境舞台と所有の権限をもち、心を思いどおりに主管することのできる立場に立てば、天下を見下ろして、邪悪な戦場で強いといって威張っている人に対しても、自慢することができるのです。

 心が大きく、その理想が高次的であるならば、体は低い所にあっても幸福を感じるのです。麦飯を食べても、白い御飯と肉を食べても、生きていくのは同じなのですが、何を中心として生きるのでしょうか。体を中心として生きるのではありません。心を中心として生きるのです。心の世界における環境的理想を思い描きながら、「ああ、私はなんて幸せなのだろう」と言える人は、大統領よりも幸せだということができます。

◆宇宙の根本真理


 宇宙の根本真理とは何でしょうか。先生は、このような問題について悩んできた人です。それで談判をしたのです。そうして神様を発見しました。「あなたを発見したからには、生きるか死ぬかの賭けなのです。どうか根本を教えてください」と談判をしました。そういう意味で、失礼ではありますが、イエス様が神様に談判をしたこと、仏教の釈迦が神様がいるとすれば神様に談判をしたこと、儒教でいえば孔子が神様に談判したこと、イスラム教のマホメットが神様に談判したこと、この文総裁という人が神様に談判をしたことのうちで、どの基準が高いと思いますか。仏教は「ああ、そんなこと聞く必要はありません。仏教が一番です」と言い、キリスト教は「ああ、それだったらキリスト教です」と言うでしょうが、そうでしょうか。儒教ならば儒教、イスラム教ならばイスラム教もそう言うことでしょう。このイスラム教徒は、反対しようものなら片手には剣、片手にはコーランを持って脅迫さえするのです。こうなったのはなぜでしょうか。先生は神様に向かって、必死に「あなたはいかなるお方ですか」と、その根本を明らかにしたのです。根本思想を。

 それでは、神様と人間との関係はいかなるものでしょうか。神様がいるかいないかという問題は、世界の問題です。今日、唯物史観と唯心史観の二元論でも、「心が先か、体が先か」と言うではありませんか。知ってみると、心が先でもなく、体が先でもありません。心と体が一つとなっていないがゆえに、こうになったのです。それを知らなければなりません。民主世界の発達は心を拡大したものであり、共産主義の発達は体を拡大したものです。ですから、争いが起きるのです。この争いをいつ食い止めるのでしょうか。民主世界と共産世界を一つにすることよりも、問題は皆さん自身にあるのです。

 こういう問題を考えるとき、私が悩んで標語として立てたのが「宇宙主管を願う前に自己主管を完成しなさい」ということです。第一標語がこれです。考えてみると、人や宗教はみな、世界を支配し、天地を支配することを願いますが、自分自身を主管することはできないのです。東に行けば東に合わせることができ、西に行けば西に合わせることができ、南に行けば南に合わせることができ、北に行けば北に合わせることができ、上に行けば上に合わせることができ、下に行けば下にも合わせることができ、拡大して三六〇度、どこにでも合わせることのできる私、宗教を通してこのような人格完成の基準を打ち立てることができるか、できないか、これは深刻な問題なのです。

◆真の愛で神様と最短距離で結ばれる


 皆さんは、神様の息子のように、娘のように近い立場に立ちたいですか。神様を近所のおじさんとして仕えて生きたいですか。これを神様に尋ねると、「何を聞いているんだ。横的ではなくて、縦的に最も近い父子の関係ではないか」と答えられるのです。なぜ父子の関係なのでしょうか。これは縦的な関係です。夫婦関係は横的です。では、縦が先でしょうか、横が先でしょうか。それでは、どうして縦が先なのでしょうか。どうしてそうでしょうか。

 世の中のすべての物が創造されるとき、創造主が水平を見ながらつくられたのです。それゆえ良い物、良い材木、良いものは垂直になっているものが多いのです。茎は、すべて垂直に育ちます。そうでしょう。穀物を見ても、葉はみな横になっていても、茎だけはまっすぐなのです。茎には、根の茎と芽の茎があります。これは、どちらも垂直です。

 また、私たちの人間始祖が第二の原因であるとすれば、第一原因である天は高い所にあり、私は低い所にいるのです。ですから、神様の愛と人間の愛についていえば、愛は縦的であるに違いありません。ここで、一つの概念を定義づけて進まなければなりません。完全に縦的に垂直となることのできる作動とは、何の作動でしょうか。知識ではありません。知識は直行しません。知識は回りながら進みます。それではお金でしょうか。お金は天から降ってくるものではなく、地でごろごろと転がります。権力も垂直にはなれません。これを知らなければなりません。しかし、真の愛というものは、最短距離を通るのです。

 真の愛は、最短距離を通っていくものなのです。それゆえ、上から下に通じる真の愛があるとすれば、それは垂直であるに違いないのです。少しでもゆがんでいれば、それは垂直とは言えません。何が宇宙の中の最短距離の垂直を占領できるでしょうか。それは唯一、真の愛です。

 父母は、愛する息子が危険にさらされたとき、回り道をして救いに行くでしょうか。いくら自分の命が貴いといっても、命が問題ではありません。最短距離で通じるのです。この宇宙の中心とは何でしょうか。垂直的内容のうちで、一番の最短距離に位置するものは何でしょうか。同時に、それがすべての価値の中心になっているとすれば、世界はそこから位置の決定が可能となるのです。この垂直を中心として、東方なり、南方なり、北方にいることになるのです。

 垂直という言葉は、先に垂直があって言っているのではありません。これは横を、水平線を前提条件として言っているのです。上というのは、上を中心として言っているのではありません。下をまず認めたうえで言っているのです。右側というのは、左側があることをまず認めたうえで言っているのです。女性ばかりがいるならば、女性という言葉は使いません。女性という言葉は、男性を先有決定(前提)要件として言っているのです。相対的概念を中心とした言葉です。

 それゆえ、宇宙で最も正しい垂直を探せというとき、知識をもっては探し出すことができません。権力をもっても求めることはできません。また、お金でも求めることはできません。しかし、愛によっては可能だと考えるのです。

 神様は絶対的な方であるがゆえ、神様の愛は絶対的であるがゆえに、絶対なる真なのです。それゆえ、その愛は最短距離を占めるのです。

◆相対のために生まれ存在する宇宙


 人間関係について一言つけ加えれば、哲学に入門する人は本を読んで、「なぜ私が生まれたのか」と考えます。これは深刻な問題です。女性は男性から冷遇をされることがうらめしくて、「ああ、悔しい。男に生まれて一度復 讐してやりたい。輪廻転 生してそうできたらいいのに」と考えそうなものですが、そうであってはなりません。

 女性、男性が生まれるのは、人が生まれるのは、誰ゆえでしょうか。子は父母ゆえに生まれました。そうではないですか。また、なぜ父母がいなければならないのでしょうか。子供のためにいなければならないのです。父母という言葉は、子供を前提とした言葉です。子供という言葉は、父母を前提条件とした言葉です。その先有(前提)条件のために関係が結ばれるのです。自分を中心として関係が結ばれることはありません。

 男性は女性のために生まれました。男性として真の男性になろうとするならば、真の息子にならなければなりません。真の息子になるには、孝行者にならなければなりません。さらには真の夫婦とならなければなりません。妻は女性を代表した者であり、夫は男性を代表した者なのです。全世界の男性、女性の代表者です。また、動物世界は雄と雌、イオン世界は陽イオンと陰イオンから成っています。このように宇宙は、すべてペア・システムになっています。そうして雄と雌は、すべて縦的な愛を中心として繁殖して生きるのです。

 それゆえに、なぜ男性が生まれたのかといえば、男性のためにではなく、女性のために生まれたのです。天地の理致がそうなっているのです。東洋思想も陰陽を中心として言うのですが、陰陽が合わされなければなりません。そうでなければ未完成品です。それでは、陰陽合徳は何によって成されるのでしょうか。愛によって成されるのです。それゆえ、男性が女性のために生まれたのはなぜでしょうか。愛のためなのです。男性の愛は、男性にはありません。女性にあります。女性の愛は男性にあります。私自体に愛があるのではありません。

◆宇宙の根本


 宇宙の根本は、愛と生命と血統です。神様は愛の主体であり、生命の主体であり、血統の主体です。それがなければ、私たち人間は愛を感ずることができません。ここにいる皆さんもみな、愛をもっています。生命をもっています。血統をもっています。それは何ですか。自分一人では分かりません。しかし、ここに自分の相手がさっと現れたならば、愛の周波が来るのです。生命がうごめくのです。血が沸くのです。そうでしょう。それが誰に似てそうなのかというのです。根本なくして生まれるはずはありません。

 神様も同様なのです。神様にも愛があり、生命があり、血統があります。

 私が一人の男性であるならば、それは男性を代表しているのです。皆さんは、そうありたいでしょう。「私は男性を代表している」と言うとき、何をもってそうだと言えるでしょうか。勉強してですか。お金を集めてですか。権力でですか。絶対に不可能です。世界の男性の中で、愛することにおいて負けることのない代表者が立ったならば、すべての男性が「そのとおりだ」と言うことでしょう。愛の代表者となれば、皆が好むのです。善人、悪人を問わず、皆が好きになるのです。女性も同じです。自分が一番になりたがるのです。何を中心としてですか。お金ではありません。愛を中心としてです。

 男性が生まれたのは女性のためであり、女性が生まれたのは男性のためです。それゆえ、神様が互いに貴いものを取り替えておきました。女性の愛の包みは、男性がその主人です。男性の愛の包みの主人は、誰ですか。女性です。

 女性が主人なのですが、何の主人の資格をもっているのでしょうか。王権です。粗末なわらぶき屋根の家に住む夫の女としてではありません。愛の王権を代表した主人なのです。そのように考えて結婚式をすれば、地面が揺れるほどに太鼓を打ち鳴らし、めでたいとウエディング・マーチを響かせるのです。そうせずに、世の中を知らずに、真っ暗な夜になれば、女性だけで何が楽しいでしょうか。では、なぜ男性と女性が結婚するのでしょうか。愛のためです。どんな愛ですか。絶対的な真の愛です。

 次に、父子の関係は誰も切り離すことができず、革命できないものです。父子の関係は絶対的です。そこに流れる愛は、絶対的な愛です。そのような関係が絶対的なものであるとすれば、母親と父親は絶対的でなければならないでしょうか、相対的でなければならないでしょうか。父母は絶対的です。父母と息子、娘の関係が絶対的であるがゆえ、母が出ていき、父が出ていったとしても、また、けられてぐるぐる回ることはあっても、離れることはないのです。

 また、夫婦二人が生活するにおいても、絶対的な愛がなければなりません。ところが、最近結婚して一週間もたたないうちに離婚する者がいます。それは真の夫婦でしょうか。偽りの夫婦です。

 「愛ゆえに生まれた」と言うと、気分がいいと思いませんか。昔の両親の懐が恋しいでしょう。忘れられません。そこは革命できません。行って入ろうとします。なぜでしょうか。愛は根源だからです。愛が動機となっているために、その流れる過程は、愛の関係をもたずしては完全に連結されることはありません。私は愛の結実体です。男性が生まれたのは愛を追求した結果であり、女性もまたそうなのです。

◆神様は私たちの父


 それでは、神様とはいったい誰なのでしょうか。神様は、私たちの父なるお方です。仏教では人格的神を発見することはできません。万象帰一法を論じて、人格的神をどうやって発見するのでしょうか。内外に知、情、意の感情に通じることのできる神様を、どうやって発見するのですか。そうではないですか。愛する孝行者をもった父母は、その子が泣けばどうしますか。「ああ、私の息子よ」と、どこの教祖であれすべて無視し、ぎゅっと抱き締めて泣き、もっている良い表情というものすべてをつくるのです。

 その愛とは、何の愛でしょうか。私のための愛では、大変なことになります。宇宙はこれを歓迎しません。創造の根本まで見れば、宇宙の根本である神様は、絶対的な方です。それゆえそれを見て、私の信じる神様は、本当に偉大な神様だと考えるのです。

 その絶対者が信じることのできる絶対的なものとは何でしょうか。神様も絶対的な平和、絶対的な幸福を求めているのですが、それをもたらすものとは何でしょうか。お金ですか。お金はいくらでも作ることができます。知識ですか。神様は知識の大王です。権力ですか。神様は全知全能です。それでは何でしょうか。真の愛なのです。絶対的な神様も、愛には絶対的に仕えるのです。

◆真の愛は相対のために一〇〇パーセント投入する


 ですから、神様はどんなに力があっても、真の愛の息子、娘を見れば、「私のものを全部あげよう」とされるのです。真の夫は真の女性に、「私のものをすべてあげよう」と言うのです。「私のものは私のものだ」と言うならば、それは真の愛ではありません。どうあるべきなのでしょうか。完全に回らなければなりません。授け受けしなければなりません。神様が天地を創造したのも、そのような理由からなのです。

 今日、既成教会の牧師たちの説教では「創造主は偉大であり、被造物は俗なもの」だと言っています。しかし、それはよく知らないのでそのように言っているのです。それは、愛の神様であるという論法を取り消すという結果になります。神様の愛、イエス様の愛、愛という言葉は相対性を離れては成立しません。神様の相対は誰でしょうか。「万物之衆 唯人最貴(万物の中で人が最も貴いの意)」という言葉があります。そのとおりなのです。

 神様がなぜ天地を創造されたのでしょうか。愛のためです。神様自身がその理想的愛を打ち立てようとされるのは、投入です。完全投入です。一〇〇パーセント以上、一二〇パーセントの投入です。

 それゆえ真の愛をもって生きる人は、その時代にいくら迫害を受けたとしても一二〇パーセント以上、何百パーセント以上投入することのできる本性の起源と連結しているために、歴史が支配することはできません。いくら独裁者が、その時代に破綻させ、無としてしまったとしても、この世界は再現されるのです。いくら老いた親でも、愛を再現させるのと同様に、いくら独裁者が押さえつけたとしても、歴史を超越して再現し、その権威を堂々と立てるのです。

 ですから、修道の世界の教祖たちがその時代に迫害を受けるのです。迫害を受けない人がどこにいるでしょうか。しかし、投入したものを取り戻すことのできる環境ができ、その時代以降には現れるようになっているのです。

 神様は天地をどのように創造されたのでしょうか。神様の相対となれるのは人間しかいません。それで自己を一〇〇パーセント投入したのです。では、どうして投入したのでしょうか。知恵の王であるのに。完全に投入して神様はゼロ、無となり、あちら側は百二十となるのです。気圧でいうと、こちらは低気圧中の低気圧である真空状態となり、あちらは高気圧となるので、循環作用が起きて自動的な発展の原則、自動的な運動の原則を追求するのです。それは何によってでしょうか。愛によってそうなるのです。宇宙の根本が愛であるがゆえに、このような原則によってこうなるのです。

◆永生は真の愛を中心として


 それでは、神様も人格的神であるので、心と体があるでしょうか。あります。神様にも愛があるのでしょうか。あります。神様にも生命があるのでしょうか。あります。神様にも血統があるのでしょうか。あります。これらすべては、自分一人では成り立ちません。相対が必要なのです。相対があってこそ可能なのですが、神様は縦的であるため、縦的な基準を中心として連結しようとするのです。縦的な場で、子女の立場で成長し、夫婦となるのです。だんだん大きくなり、気がつけば男性と女性が一つになるのです。どこで合わさるのでしょうか。僕の立場でです。

 そうすれは、どうなるのでしょうか。その中に息子が入り、その中に神様が入ってくるのです。円における弦です。上弦、下弦を縮小したものとなり、アダムとエバは一つの副体のようになるのです。骨と肉のようになるのです。ですから、「天のお父様」という言葉は、血統関係のないところでは成立しないのです。神様とは誰でしょうか。真の愛を中心とした縦的な父です。

 このように見るとき、こういう縦的な真の愛を中心とした父、その父が創造主なのですから、堕落しなかったならば、天地を通じる真の愛の道は直短距離なので、垂直の前に九〇度とならざるを得ないのです。

 堕落しなかったならば、縦的愛である父母の愛と生命と血統を中心として、九〇度に立った真の父母となったはずです。しかし堕落することによって、完成した父母をもち得ませんでした。完成した父母をもったならば、この完成した父母の真の愛、真の生命、真の血統がこの中央で合わさるのです。

 ですから球形を中心として見るとき、最も高い所とはどこかというと、中央です。皆さんはすべての存在の中心存在になりたいのです。それはなぜでしょうか。そこに行ってこそ、神様の愛に接することができるからです。神様の愛に接したならば、どうなるでしょうか。神様が私のものとなり、神様の所有のすべてが、私のものとなるのです。

 このように考えると、男性と女性が結婚するのは何のためでしょうか。愛のためなのです。愛して何をするというのでしょうか。中央に行き、神様と愛の関係を結ぶことで神様を私のものとし、神様の愛を私のものとし、神様の所有を私のものとするのです。それによって愛を中心として、相続権が連結されるのです。その次には、神様と永遠に共に生きることができるのです。

 皆さん、そうではないですか。真の愛を感じ、呼吸するようになれば永遠に生きるようになるのです。霊的世界の体験の中に、このようなものがあります。息を吸い込むと、とても気持ちが良くて、吸っても吸ってもまた吸いたいのです。先生は、漠然とした話をしているのではありません。真の愛の圏内に入ると、息を千年、万年吸い込んでも限りなくいいのです。また千年、万年息を吐き出しても気持ちがいいのです。「真の愛が動く所に永生がある」という論理を打ち立てることができるのです。

 永生はどこにありますか。息を永遠に吸い込んでも良く、永遠に吐き出しても幸せなのです。そのような愛を中心として呼吸する世界に、真の愛を中心とした永生があるのです。

 それで、このような二人の親を通して愛を受け継いた私なのです。ですから、男性でも女性でも愛をもっていない人はいません。男性も女性も父母の血肉を受け継ぎ、父母の生命を受け継いでいるので、男性にも女性にも愛があり、生命があり、血肉があるのです。

 それが、どのようになっているかというと、一つは縦的であり、もう一つは横的です。こういう生命権を備えるために、男女が結婚するのです。結婚式の日とはどんな日かというと、天地を所有する日です。神様がいくら絶対的な方であっても、この愛と私は離れることのできない関係となるのです。

 それでは、皆さんの心とは何でしょうか。縦的に天から受け継いだ、すなわち神様の愛と血統を通して受け継いだ、内的な私であるといえます。内的な私、すなわち縦的な私なのです。それでは、体とは何でしょうか。堕落していない、本然の根本理想によって受け継いだ体的な私、九〇度に立った私です。ですからその私とは、堕落していない真の父母の愛と、生命と、血統を受け継いで生まれたために、私は心と体の二つからできているのです。一つは内的な神様を中心とした人格、もう一つは体的、横的な父母を中心とした人格、そして二つが愛を中心として、生命と血統を中心とした男女の混合的な統一圏がつくられる中で生まれてきたので、皆さんは二つの性稟をもっているのです。ですから、神様に似ているのが心なので、心は内的な私なのです。

 宇宙の秘密とは何でしょうか。祈祷してみると、答えは簡単なものでした。父子の関係なのです。その父子の関係とは何でしょうか。普通の父子の関係ならば、堕落した世の中にもあるのです。父親が息子を売り渡し、息子が父親を殺す世の中ではありませんか。

◆堕落とは志操を守れなかったこと


 それでは堕落とは何でしょうか。神様の最も貴いものを盗んだ、悪魔の業です。最も貴いものとは何でしょうか。愛と生命と血統なのですが、これらを汚したということです。ですから歴史時代において、神様が一番嫌われたのは淫乱です。

 ローマはなぜ滅びたのでしょうか。外勢の侵略によって滅びたのではないのです。今日、全世界が滅びつつあるのはなぜでしょうか。淫乱のせいです。悪魔が淫乱をまき散らしたので、世界的に淫乱の風に巻き込まれていく人類の姿となった暁には、鉄槌が下されることでしょう。教団がそうなれば教団が滅び、国がそうなれば国が滅び、誤った歴史の行く手はみな崩れ去るのです。誰がそうするのでしょうか。人がそうするのではありません。国ではありません。神様がそれを嫌われるのでそうなるのです。

 ですから真の宗教を求めようというのです。宗教では何を求めていますか。真の神様です。今まで救いの役事を行ってこられたような神様が、理想的な神様ではありません。教祖を教育し、導かなければならない神様ではありません。「神様は何をなさりたいのでしょうか」と尋ねると、教えたいとは言われません。神様も生きたいのですが、何をもって生きたいかというと、愛を中心として生きたい神様なのです。それが答えです。何の愛ですか。自分と同様に神様の心と体が九〇度に合わさって完全に一つとなった愛です。何が神様の心を統一させるのでしょうか。真の愛です。

 それでは真の愛とはいったい何でしょうか。完全に犠牲となり、一〇〇パーセント投入しても忘れてしまう愛です。神様が今までどうして歴史時代において人間の過ちを見ながらも耐えることができたのでしょうか。世の中の人であれば、すべて抹殺してしまったことでしょう。しかし、愛しているのです。

 真の愛とは何ですか。真の愛は堕落した世界に一つだけ残っています。唯一縦的な基準が残っています。神様に代わる立場で、父母が自分の子供を愛すること、それだけが地上に残っているのです。それゆえ、救いの摂理も可能であり、ならず者の子供も父母の愛の前では変わるのです。

 幸福はどこにあるのでしょうか。皆さんの心の中にあるのです。神様自身も何を中心として生きたいでしょうか。真の愛を中心として生きたいのです。真の愛をもった男女と共に生きたいのです。そうではないですか。父母は子供たちをみな抱きたいでしょう。神様は真の愛をもった息子、娘を、この地でしっかりと抱いて生きたいと思われるのです。

 堕落とは何ですか。堕落とは志操を失ったことです。成長する前に故障したのです。成長したならば神様と共に一体理想を成し、神様の息子、娘となるのです。ところで、堕落とは何でしょうか。僕である悪魔サタンが、王侯と王を打ち立てようとした天地の愛の理想圏を蹂 躙したということです。強奪したのです。

 それゆえ神様が根となり、神様が幹となって神様の愛による愛の花、愛の実を収穫すべきであったのに、これを横的に天使長が蹂躙して入り込み、すべて否定したのです。そうして悪魔の子たちの世の中となったのですが、これは自分を中心とした思想なのです。「ため」に生きるという思想ではありません。私のためにという思想、これは個人主義に通じます。それは地獄行きなのです。

◆真の愛は完全に投入して忘れてしまうもの


 統一教会が世の中の反対を受けながらも、どうして発展してきたのでしょうか。ここに神様の戦略とサタンの戦略があります。悪魔の戦略とは打って、殴っては失ってしまう戦略です。損害賠償しなければならないのです。神様の戦略とは、打たれて奪い返す戦略です。ですから歴史上の善なる人は、打たれた基盤の上で、悪魔の世界を奪い返すということをしてきました。

 打たれるというのは何を中心として打たれるのでしょうか。サタン世界の人は、すべてを否定するのです。国の忠臣も、宗教の聖人の教えも、否定するのです。どうしてでしょうか。それは、サタン世界の人々の救いのために必要なものだからです。本来、宗教は必要ありませんでしたが、それは故障したがゆえに立てられた病院なのです。

 ですから、各宗教に再臨思想があるのです。キリスト教でいうメシヤとは何でしょうか。偽りの父母が現れ、偽りの根を植えたので、真の父母が現れ、幹と枝を新しく接ぎ木するということです。接ぎ木をすることによって、堕落していない神様の愛の圏内の父母をもったという条件を立てて、これを再び収拾するというのです。そのための方策としてあるのが宗教機関です。

 知ってみると、そういうことなのです。本来先生は、キリスト教を信じていませんでした。私の両親はキリスト教を好んではいませんでした。なぜ、イエス様だけが救い主なのでしょうか。イエス様よりもましな救い主もいるであろうに。イエス様は、イスラエルの国を救おうとしたのですが、失敗して亡くなりました。世界の救い主となれなかったのに、どうしてメシヤなのでしょうか。こう考えると、世界の救い主となれなかったので、世界の救い主となるためには再び来なければならないのです。

 先生がキリスト教に関心をもったのは、天地の道理は愛で始まり、愛に帰結するといっているからです。愛が抜けている教理は、おしまいなのです。それゆえ、僧侶も神父も終わりの日には結婚する時が来なければならないのです。

◆悪の世界を本然の世界へと戻さねば


 ここに、神様を中心として四大教祖が集まったとしましょう。その教祖たちに向かって神様が、「お前たちの願いは何か」と尋ねると、答えは同じです。教祖も信徒もそうなのです。誰が私をより愛しているかということです。そうではないでしょうか。聖書を見ると、「誰よりも私を愛さなければ私の弟子となることはできない」とあるのです。のちには、両親よりも、他の誰よりも私を愛しなさいということです。

 偽りの父母が、ここに悪の世界をつくったので、真の父母が来て、悪の世界を殺すわけにはいかないので、これを接ぎ木して本然の神様の愛を中心として善の世界へと戻さなければならないのです。縦横の神様の愛を受け継ぎ、心と体が統一された父母の血肉を受けて私の体が統一されたならば、悪魔の活動基地はなくなるのです。心と体が一つとならなければ、そこに該当する分野は悪魔の領土となるのです。

 地獄と天国が別々にあるのではありません。みな私の中にあるのです。皆さん自身が愛を中心として体を感化し、愛を中心として自分の生命を越えて自らの血統を否定する運動を起こしてこそ、この邪悪でみだらな世の中をきれいに清算することができるのです。

 そのような神様の道理を教えることによって、神様の家庭倫理、神様の氏族倫理、神様の民族倫理、神様の国家倫理、神様の世界倫理が地上に広まるのです。そうなってこそ、地上天国となり、地上天国で生きてきた人がそのまま行くところが天上天国だといえます。知ってみると簡単なことです。

 これを知っていたがゆえに、文総裁は打たれながらもやってきたのです。全世界の五十億人類が旗を掲げて「文総裁をたたきのめせ」と言いました。そうなることを願っていたのです。ところが、なかなかそうはならないのです。そのために受難の道を行くのです。

 宗教から個人、家庭、氏族、民族、国家、世界まで総動員で打ってきたのです。打ちたければ打てというのです。打って倒れない限りは、損害賠償をすべきだということです。天の作戦は打たれて損害賠償を請求し、静かに応酬するという作戦です。サタンは強奪していきますが、殴って奪っていったとしても、結局は失うのです。

 それゆえ、第一次大戦でも、打った側が滅びました。どうしてでしょうか。天法がそうなっているからです。第二次大戦でも、打った側が滅びました。第三次大戦も、思想的に共産党が打ってくるのです。誰を打つのですか。レバレンド・ムーンをです。同じ打つにしても、そのまま転がり落ちてしまえば滅びます。いつ打とうが、中央線で垂直の所をしっかりとつかむのです。打っても、一回りさえすればいいのです。端の方に行って、一回りしようとすれば十年、二十年かかります。

 このように、統一教会が迫害を受けながらも発展してきたことは歴史的な謎ですが、その秘訣は「ため」に生きるというところにあるのです。神様の創造の法度に沿って神様が失ったものを再創造する過程において打たれることがあれば、損害賠償を求めるべきなのです。

 そのような意味で、先生は今頭翼思想を唱えていますが、頭翼思想とは簡単なものです。個人が豊かに生きることを願うならば、皆さんの家庭のために命懸けで生涯を生きるべきなのです。すなわち、「ため」に生きよということです。そうすれば、その家全体を相続することになるのです。

 いくら一番上の孫だとしても、弟や妹を殴ってよこしまに自分のためにだけ生きる者は、流れ去ってしまうのです。どうしてでしょうか。悪魔の系列に属する者だからです。悪魔は自分を中心とします。おごりたかぶりは神様の怨 讐です。

 真の家庭の主人とは、その家庭のために犠牲となり、「ため」に生き、愛する生活しながらも、それを忘れることのできる人です。十年、二十年、老いて死ぬまでそのように生きる人は、主人となるに違いないのです。

◆神様の救いの道の目的


 善が行く道は、愛を通した理想を中心として行く道です。個人的愛観、家庭的愛観が理想ではありません。統一教会の愛観は垂直です。垂直的な愛観をもって、思想的な観を変えなければなりません。垂直的な観を備えた、平衡線的観の愛なのです。九〇度です。これを知っているので、民族を超越し、人種を超越するのです。

 統一教会員は、日本人であれ、アメリカ人であれ、「お前は黒人と結婚せよ」と言えば、これに異議を唱える者はいません。なぜでしょうか。何千年前に失った兄弟を探し出すことだからです。知ってみると、私の兄弟なのです。顔が黒いがゆえにどれほど苦労したかと、抱き締めて泣くのです。号泣から始まるのです。その号泣は一生の間、止めることはできません。何がそうさせるのでしょうか。愛です。真の愛。

 統一教会に行けば、みな気が狂うと人々は言いますね。私は賢明な人間です。世界でずば抜けていると言われる人々に会っては、理論的な闘争に勝って覇権を握った人間です。ですから、世界の宗教指導者たちも私のことを好むのです。多分私が直筆で手紙を書いて送りさえすれば、駆けつけてくることでしょう。理論に合わない教理は、二十一世紀には必要ありません。理論に合わず、現実生活に利益をもたらし得ない宗教は、必要ありません。

 では、何が問題なのでしょうか。神様が国を救うことよりも、家庭を救うことを願われるでしょうか。神様は、世界の救援が目的なので、たとえ家庭を犠牲にしても、神様の民族を探し立てようとされるのです。これを知らなければなりません。

 神様の救援の目的は、民族よりも国家を願われるために、民族を犠牲にさせ、白衣民族を犠牲にさせてでも、大韓民国を独立国家として立てようとなさるのです。そのような神様の国はありません。国家を犠牲にさせてでも、世界を救おうとされるのです。この地上の世界を犠牲にし、永遠の霊界に行ったすべての霊魂を解放しようとします。さらには、神様自身が解放されなければなりません。

 堕落した人類を抱いて生きられる神様も、拘束された神様です。神様の解放まで論ずることができる時代まで行かなければならない宗教の目的地があるのに、ある段階にとどまって個人救援のために山中で祈祷だけしていても駄目なのです。地球上では、毎年二千万人の人々が飢えて死んでいます。十年であれば二億ですよ。

 私たちは、それを知っているので、知っている人が十字架を背負わなくてはなりません。「世界の宗教界において知っている人が、十字架を背負わなければならない」と、こう言いながら四十年の歳月を風雪に苦しんできた男がここに現れたのです。その気迫を見れば、天地を囲っても余るぐらいなのです。

 私が神様のみ旨を知るようになってから、統一教会を犠牲にさせ、万教を犠牲にさせながら世界の救いを唱えてきました。ですから統一教会は、予算よりも何百倍もの多くのお金を投入して超教派運動をしており、宗協運動をしているのです。そして世界舞台では宗教財団をつくり、莫大な資源を投入しています。統一教会の人々の血を売るようなことをしているのです。世界のために投入しなさいというのです。

 神様のように投入したなら蘇生の春が、歓喜の愛の理想を中心として神様が楽しく踊ることのできる本然の理想世界が訪ねてくることを知っているために、このことのためには東で十字架を背負おうが、西で十字架を背負おうが、家の中で十字架を背負おうが、男性が女性についての十字架を背負おうが、人類のために、必ず誰かがそれを背負わなければならないのです。そうでなくては、腐ったくぼみの水がきれいになることはありません。

 私たちがそのようなことをして、そのような世界を発見しました。数十年前、四十年前に、「これこれこのような時代が来る」と言ったのですが、それがみな成されたのです。どうしてでしょうか。よく考えると、そのようになっているのです。なぜでしょうか。真の愛を中心としたものを反対する勢力は折れていくようになっているのです。それが公式どおりに、春夏秋冬、公式どおりにたどっていくのです。

 それゆえ、このような理論的な思想体系を立てるようになったのです。思想は、自分勝手に成るのではありません。個人観、家庭観、氏族観、民族観、国家観、世界観、天宙観、神観、愛観がすーっと直短距離でなければなりません。縦的な神様の愛を中心とした、直短距離の思想を中心とした観を発見するようになれば、すべて終わりになるのです。縦を中心とするために、横線はつくれないのです。「愛が先か、生命が先か」と言うとき、「生命が先である」と言う人がいるかもしれませんが、それは違います。愛が先なのです。「父母が先か、子供が先か」と言えば、父母が先なのです。父母のもとに子供たちが生まれるのです。

 結果が混乱するようになった事実を明らかにするためには、原因を明確に知らなければなりません。統一教会は原因を明確に知って、邪悪で混乱しており、滅びるしかないこの世界を一つの曲がり角で、歴史を通じて世界舞台において収拾している群れなのです。

 興ったり、滅びたりする道は「ため」に生きる道で分かれるのです。そうではないですか。易学の世界においては、自然科学世界では入力と出力を見ると、常に入力が出力よりも大きいのです。しかし、愛の世界では入力よりも出力のほうが大きいのです。愛があることによって、欠けていきつつある世の中が均衡をとることができるようになるのです。他のために生き、犠牲となる基台と、そうしてももっとしたいと思う心をもつ真の愛の伝統を受け継ぐことによってのみ、この世を収拾することができるのです。

 「ため」に生きる道、それは親孝行の愛の道です。忠臣の愛の道です。聖人の愛の道です。聖人の愛は、人類のための愛です。聖者は天地を愛して、天の王宮の法まで守ることができます。神様まで心情的に侍ることができるのです。皆さんは、そのような縦的な位置をしっかりつかまなければなりません。

 聖者の道理と神様の愛の道理を学ぶことなくしては、万教の平和の基準を探し出すことはできません。これが、私たちが今後到着しなければならない目的地ではないでしょうか。

















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訓教経(下)036



文鮮明先生のみ言集

訓教経(下)



神人思想の完成


一九九〇年一月十九日
韓国の国際研修院 『文鮮明先生み言選集第百九十七巻』


 きょうお話しするみ言の題目は、「神人思想の完成」です。神様と人の思想の完成ということです。

◆宇宙の根本


 一つの「思想」になるには、体系的な内容をもった観を備えなければなりません。個人思想とか民族思想とか世界思想とか、あるいはこのごろの宇宙思想などを挙げてみると、その概念が漠然と離れているのではなく、個人と社会と国家と世界は連関性をもっているのです。このように体系的な関連性をもった一つの観をもつようになるとき、「思想」と言います。

 学者たちは今まで、神様に対しては大慨関心をもってきませんでした。大多数の学者は、帰納的な方法を通して原因を追求する学問的研究をしているために、神様を認めるということは極めて難しいことです。研究していけばいくほど、それが確実になるのではなく、あいまいになるのです。物質界あるいは実存性を認めて探求するのでなく、観念や考える中で認識を通して認めなければならないので、これは最も難しいといえば難しい問題だといえます。

 しかし、宗教人は違います。宗教人は反対に、演繹的方法を通して「神様は存在する」と認め、それを中心としてすべてを観察して解決していくのです。

 今日の科学者は、宇宙は力によって形成されたといいます。こういう話を中心として、「力が先か、作用が先か」と、こういう問題が起こります。作用によって力が出てくるのか、力によって作用するのか、こういう問題を私たちが考えるとき、作用によって力が出てくるというのです。力がある前に作用があります。

 では作用は一人でできますか。宇宙のすべての存在が作用を通して動くのですが、その作用は一人ではできません。必ずそこには、主体と対象の関係が成立しなければなりません。遠心力と求心力の関係のような、そういう環境的条件を必要とします。

 では主体と対象とは何でしょうか。一般的によく知っている話を借りていえば、電気にはプラス、マイナスがあります。そのような主体は、対象があって一つになるために作用をするというのです。その作用をするために、なぜ直線作用ではなく回転作用をするのかというのです。直線作用では、宇宙の生成は不可能です。三点を必要とするところから、あらゆる構造の平面的、あるいは立体的な立場を追求できるのです。

 このように考えてみると、そのすべては球形作用、循環作用をするというのです。循環作用をするのに、それが円形的循環作用をするというのです。このことを考えてみれば、プラス・マイナスの作用が分かります。電気作用を見ればよく分かるように、作用するには必ず循環作用をするというのです。

 ではこの宇宙の根本に入っていき、神様が存在するならば、神様はどのように存在しているのかというのです。こういう根本的なことが問題になるのです。人間は人格をもっています。知情意をもった価値的基盤の上に人格が構成されています。それでは、その神様自体も私たち人間と何らかの関係があるとすれば、必ず知情意の人格的な神様であるに違いありません。このような原因的な存在であることを、私たちは認めざるを得ません。

 ここで神様のもつ思想と人間の思想が二つでなく、分離できない一つのものとして帰結しなければなりません。そうしてこそ、人間世界の理想実現が可能であるだろうし、また神様自体が人間を通して追求しようとするその目的も完結するのです。

◆神様に絶対的に必要なもの


 このように話せば、神様が願い、神様が一番必要とするものは何でしょうか。神様が必要とするものは、私たち人間が必要とする物質的な欲求として登場する経済問題や知識問題、名誉問題のようなものではありません。

 神様は創造の能力をもっているので、物質を自由に手にすることができます。また全知全能なる主体であられるので、知的なすべての要因の根本になるのです。神様は経済万能を可能にできる主体であり、また知識万能を可能にもできる主体であられます。その方にとっては、知識が必要なのではありません。また、絶対者であられるその神様に、物質の絶対性は必要ありません。

 では神様は絶対者なのですが、絶対者が絶対視できるものとは何でしょうか。絶対者である神様は何を中心として絶対的な神様の位置を決定しようとするのでしょうか。神様自体を服従するようにできる何かがあるというのです。

 どんなに立派な名教授だとしても、天真爛漫な、何も知らない子供が知識を探求するのに接するようになるときは、自分のすべてを注いで与えたいと思うのです。純真な、本性に近いそのような姿を目の当たりにするときは、自分自体を投入したいというのです。そのような心が、みなあるのです。

 このように考えてみると、神様御自身も何を中心として絶対的な位置にありたいでしょうか。こういうことは哲学的な世界では議論の対象になり得ません。なぜなら、哲学では神様自体を知らないからです。これは宗教世界でのみ可能なことです。

 今日の既成教会の信仰者は、「神様は公義の審判主である」と考えています。では本質的で理想的なその道を探していくのに、公義の審判主としての権力を行使しながら暮らすことが神様の願うことでしょうか。違います。究極に行って、絶対的な神様自体も絶対屈服できるその何かがあるとすればどれほどうれしいでしょうか。そのように考えるようになります。絶対的な神様自体も絶対的に屈服でき、絶対的に好むことのできる何かがあるというときは、神様自身もどれほどうれしいだろうかというのです。

 自分の現在の立場を固着させるのではなく、移動し、ついていきながら、そこに和合しながら自分自身を同化させようとする、そのようにできる面がなければ、神様自身は作用できません。何かを行使するためには、神様自体も喜べるものがなければならないのです。絶対的に好むことのできるものがあって、それと共にやりとりできるところにおいてのみ喜びを感じられるのです。一人では駄目なのです。

 このように考えてみると、神様自体が極めて喜べる絶対的なものがあるとすれば、それは何でしょうか。正に愛なのです。神様にも真の愛が必要です。

◆神様と愛


 では、神様自体は私たち人間のように耳、目、口、鼻を備えたそのような方でしょうか。それは、私たちがそうだと認めることができます。なぜでしょうか。私たちは第一の存在ではなくて、第二の存在です。第一の存在は原因的存在で、私たちは結果的存在なのですが、結果的存在の私たちが五官をもっているので、神様自体も私たちには測定できないけれど、五官的内容をもっていると見るのです。

 このように考えてみると、神様自体が絶対好むことのできるものが愛ならば、原因的存在が絶対好むことが愛ならば、人間自体も愛を中心として絶対好むことができるそのような気質がなければなりません。そうしてこそ神様と人間の関係において、作用や統合、あるいは融合が起こり得るというのです。そうすると、神様も御自身を中心として絶対的主体になることよりも、神様自体が絶対視できる一つの主体を探そうとするのです。それは何でしょうか。それは絶対的な愛です。

 神様自体も私たち人間と同様に良心があり、体があります。では神様自体において、体と心が何によって一つになるのでしょうか。物質を中心として、お金が恋しくて一つになるのでしょうか。知識が恋しくて一つになるのでしょうか。そのようなものは理想になれません。

 神様自体の体と心が完全統一を成し遂げることができるという時は、それは絶対的な主体性をもったということです。絶対者、神様なるその方も絶対視できる、価値ある内容を中心として一つになるようになれば、それは何でしょうか。絶対的な神様の体と心自体もそこに順応できる内容とは、正に愛です。愛を中心として体と心が一つになるというのです。

 では、皆さんが五官をもっているように、神様も五官をもっているならば、その五官で何をするのでしょうか。愛を探していくのです。絶対的に愛することのできる愛の対象があれば、神様の目は完全に覚まされるでしょう。完全に幸福な目になるでしょう。また、そのようになれば、聞くことも最高の理想的なことになるでしょうし、においをかいだり、味を見たり、触ってみる触感などというすべての五官が理想的なものになるでしょう。

 神様の五官が絶対的に統一されるその基準は、真の愛です。真の愛があるという時は、神様の目がそこに集中し、神様の臭覚、神様の聴覚、神様の味覚、神様の触覚など全部がそこに集約されるのです。神様自体も愛を絶対視したい心があるというのです。神様自体も永遠に絶対的な愛に仕えて、愛と共に暮らしたいという概念がないときは、暮らす楽しみがないのです。

 このように考えてみると、原因的存在である神様も結果的存在である私たち人間と同様に体と心があるのですが、その体と心の統一は真の愛によってなされるというのです。体と心が一つになったその喜びは、私たちの外的五官の喜びを増してくれるでしょう。また内的な五官があるならば、内的な五官の喜びを満たしてくれる要素にもなるのです。

◆神様の理想


 では神様の理想とは何でしょうか。愛を中心として統一された、体と心が喜べる絶対的な立場、絶対的な理想を追求することです。

 愛というものは一人ではできません。必ず相手がなければなりません。神様にとってその相手が、正に人間なのです。現代の神学思想においては、創造主は神聖なものから出発し、被造物は俗なるものから出発したと見ています。しかし、そのように見てはいけません。神様が人間を造る時、いたずらで造ったのではありません。深刻に、自らのすべての精力をみな投入したというのです。

 ここに美術家や、あるいは文学作家もいらっしゃるかもしれませんが、傑作品を作ろうとする時は、自分のすべてを投入するのです。一つの工芸品を作る時においても、心身のすべてを投入するものです。まして、神様が愛の対象を造るという時、その心身全体を投入しないでしょうか。心身全体を投入せずには愛の対象を得ることはできません。神様自身も最大の精力を投入して傑作品を造り、愛の対象とするはずです。

 このように考えてみると、被造物をなぜ造ったのかというとき、根本に行って愛ゆえに造ったというのです。愛の完成のための展開体として、一つの母体を完成できる性稟を展開させたのと同じ構成体が被造世界です。

 鉱物世界もそうではないでしょうか。プラス・イオンとマイナス・イオンが一つになるには、ある原則があります。元素を中心として化学室で研究する人は、どんなに立派な教授だといっても、元素が合わないものはどんなに力を加え、どのようにしても一つにはできません。けれども、自然に相手になるときは、「一つになるな」と言っても自然に一つになるのです。

◆主体と対象の原則


 ですから、完全なものが存在するようになるとき、完全な対象物である相手が生まれるというのです。それが宇宙の原則です。そのような論理を探し出さなければ、完全な神様の対象の存在を形成できません。完全な主体があれば、完全な対象は生まれるものです。電気でもそうです。完全なプラスが生まれれば、マイナスが自然に生まれるのです。

 今日の人類も同じです。男性と女性の数がどのように合うのかというのです。私たちは計算しないけれども、天地の道理において自然に合うようになっているのです。同様に、良心と体が一つになった完全な男性が存在するようになれば、どこかにその相手が現れるようになっています。それゆえ女性と男性の比率を見れば、大体同じだというのです。

 このように考えてみると、被造世界は鉱物世界、植物世界、動物世界がすべて対になっているというのです。それが、軸を中心として球形の運動をしているのです。あらゆる細胞も、すべて細胞核を中心として副体が運動するのです。

 すべての万物は、最高の人間から、級は低いけれども動物の世界まで、対になっています。次元が低い立場のすべての元素も、たとえ級は違って表象の内容は違っていも、全部が主体と対象としてお互いに慕い、和そうという運動をするというのです。

 では人において、なぜ男性と女性が生まれたのでしょうか。人においては男性、女性、動物世界では雄と雌、植物世界では雄しべ、雌しべがあるのですが、これがすべて相対的な基準で成された原因はどこにあるのでしょうか。原因がそうでなくては、結果がそのようにはならないというのです。そのような意味から、「神様は二性性相の主体である」という論理が成立するのです。

 では、主体なるその方が、このすべての関係の世界、被造世界を管理するにおいて、何で管理するのでしょうか。知識で管理するのではありません。既に知識は、みな投入されています。物質の力でもってするのではありません。何をもってこれを調整するのでしょうか。同じです。愛をもって調整するというのです。

◆神様と人間が願う理想基準


 神様が私たち人間始祖を造られたのは、いたずらをするためとか、何か業をするためではありません。愛ゆえに造ったというのです。愛の属性は、いかなる内容をもっていますか。私たち人間社会で見れば、愛には相続権があります。皆さん、そうではないでしょうか。愛の関係を結べば男性のものは女性のものになり、女性のものは男性のものです。愛の関係を中心として考えてみると、父母のものが息子のものになり、息子のものが父母のものになるのです。

 「親子一身」という言葉も、愛を除けば成立しません。そこには愛と生命と血統が連結しています。この三つの要件が必要なのです。

 では、愛と生命を引き離すことができるでしょうか。私自身を見ると、私にも愛があります。「愛はどこから来ましたか」、「どこから来るかなんて、どこから来ますか! 根源から来たのではないですか」、「君、どこから生まれたのですか」、「お母さん、お父さんから生まれたのではないですか!」、「そのお母さん、お父さんはどこから……?」、「愛と生命と血統から」、こういう問題が重要です。これは宇宙の根本問題です。

 神様と人間が願う理想基準がどのようになっているのかといえば、愛の問題を中心とするのです。愛が行くところには生命がついていくものであり、生命が行くところには血筋がついていくものです。それは何かといえば、血筋が連結されれば生命が躍動するものであり、生命が躍動するところには愛が存在するようになっています。それで「血は水より濃い」と言うのです。

 では、神様の願う最高の理想的基準は何でしょうか。愛を中心として相対理想を成し遂げることです。神様が万物を創造した時、その創造は何を基盤としたのでしょうか。神様自身が愛の主体だというのです。神様自身が生命の主体だというのです。それを肉では感じることができないけれども、皆さんが霊界に対する体験があれば分かるでしょう。神様自身も愛と生命と血統をもっているというのです。

 では神様の愛と神様の生命と神様の血統を一時に衝動させることができて、一時に激動させることができて、一時に最高に同化させることのできる力とは何なのかというと、権力でもなく知識でもありません。それは真の愛の力です。

 今日堕落した人間の世の中は、皆さんが御存じのように現世の何をもってしても収拾できません。主人がいないというのです。世の中は故障した世界です。その何かが誤っています。誤ったそこにも、その誤った中にも根源的な内容が一つ残っているというのです。それが何かといえば、父母の愛です。

◆真の愛とは


 神様が愛の主体ならば、その主体がもっている愛は相手のための愛です。今まで神様と人間の理想が実現されませんでした。それが現実の実践の場で実現していたなら、神様と対等な資格を備えた偉大な人物が出てきたでしょう。

 ところが今日、人間の世の中は、故障した世の中です。何かが間違っているというのです。その内容が何なのか今までは分かりませんでしたが、何かが間違ったのです。故障しましたが、根源的な一つ残った内容が何かといえば、父母が子のためになす愛なのです。これが人間世界において、天の世界と関係を結べる、残った最後の思想です。それが父母が子のためになす愛だというのです。父母が子を愛する愛は、無条件的な愛です。与えても与えても忘れてしまう愛、愛しても愛しても忘れてしまう愛、これが父母の愛なのです。そうではないですか。

 父母が子に対していつ何々を買ってあげたなどと手帳に書いておいて、総計を出し、子が成長してから利子をつけてもらおうと思いますか。そうはしません。自分のすべてを投入するのです。体と心を投入しても惜しくありません。自分のすべてをそこに投入しても惜しくないというのです。

 そういう力がどこから来たかというのです。根源的な内容にそのような力がなければ、出てくることはないのです。それが一世代だけではありません。数千、数万世代の人類歴史を経てきながらも変わらない愛の作用が続いてきたのです。そのようにしてきた動機の存在が、正に神様なのです。

 その愛が真の愛です。人間世界で見つけることのできる、父母が息子のために本当に愛する、その愛です。それは与えて忘れてしまう愛です。千回、万回与えても忘れてしまう愛です。投入してもまた投入したいのです。それゆえ、青少年が思春期時代に愛する相手に会うようになれば、自分の全部をあげてもまたあげたいのです。すべてはたいてあげても、また与えたいのです。根源的な愛が芽生えるようになれば、そのような作用をするようになるのです。

 そのような作用が人間の世の中に根としてまだ消えないで残っているために、神様が天を訪ねていけるように磁石のように方向を悟らせるので、良心はいつもより善良で、より良く、より真実なことを追求するのです。本来の根源的なその作用が絶えずあるので、そのような作用が続くのです。

 このように考えてみると、神様が真の愛の対象としてすべての被造世界を造る時、その根本的な精神は神様御自身を一〇〇パーセント以上投入することでした。そのような精神的起源から、思想的起源から被造世界を造ったというのです。

 信仰者は祈る時、「天のお父様!」と言います。それは先祖の時から信じてきて、習慣的に言っている言葉ではありません。「お父様」という言葉は、血統が連結すると同時に生命が連結していて、愛が連結しているというのです。これはどの時代も同じです。数千、数万代が過ぎても、親子の関係には血統が連結していて、生命が連結していて、愛が連結しているのです。

◆

愛と生命


 ではここで見ると、生命が先ですか、愛が先ですか。根本価値的な絶対的基準をどのように立てるかという問題について考えてみると、生命が絶対的ですか、愛が絶対的ですか。神様においても絶対服従したいのが「最高の真の愛だ」と言えるので、愛が一番です。神様も愛を中心としては、永遠に服従しながら生きたいというのです。

 それゆえ、真の師とはどんな人でしょうか。月給をより多くあげるというところに行こうと考えるなら、それは偽物です。真の師は、自分のすべての知識を与えても忘れてしまうのです。

 「私に世話になって、みな習って弟子になったのだから、年頭になったらあいさつをしに来るべきなのに、なぜ来ないのですか」と、(私の価値を)知ってくれと言うのは、「欲しい」と言うことと同じです。真の師はすべて与えても心が満足せず、与えてはまた与えたいと思うのです。研究して、いつも与えようとするのです。

 それでも自分の研究が終わらない時は、「私がしようと思う話はみな話したけれども、まだ終わっていないので、君が代わりに私の仕事を続けてこの深いみ旨のために努力する弟子になりなさい」と言えなければなりません。そういう師が真の師です。結局、すべての愛と生命と血統と若さを投入できるそのような道を行く人が、真の師なのです。

 真の夫も同じです。愛しても愛しても忘れてしまいます。十年の間、その人のために与えても忘れてしまうのです。一生の間、五十年、あるいは七十年、八十年の間、老いて死ぬほど愛しても忘れてしまう夫です。一生の間相手のために生き、愛しても、もっと相手のために生きたいし、もっと愛したいと思う、そのような夫が真の夫です。

 真の妻も同じです。このように愛で結ばれた夫婦は、生命を投入できなければなりません。愛が生命を連結させることができるのです。生命が愛を連結させるのではありません。愛ゆえに生命が連結されるのです。

 また、お父さん、お母さんの生命が合わさって、血筋を通して私が生まれたのです。生命が動くことによって、血統も一つになるのです。皆さんもみなそうではないですか。父母の中で、お父さんの血筋だけを受け継いだとは考えないのです。父母の血筋を受け継いだというのです。

 では、父母の血筋だけ受け継いだのですか。父母の生命と愛も受け継いだのです。これが一時に動員できるものとは何でしょうか。生命だけでは駄目です。力のある男性と力のある女性が二人で、「私たちが生命をもって愛を激動させることができ、血筋を受け継ぐことができる」と言えば、生命がそこで動きますか。そこには、連結させることのできる根がありません。連結されないのです。

 しかし、どんなに大きい図体の男性と女性だといっても、愛が芽生え始めれば自然に運動が起こります。何が運動させるのですか。生命が運動をさせるのでなく、愛が運動をさせるのです。

 それでは、真の家庭とはいかなる家庭でしょうか。おじいさんは孫のために自らの生命を投入しても忘れてしまうことができ、おばあさんもそのようにでき、夫もそのようにでき、妻もそのようにでき、孫もそのようにでき、すべてがそのようにできる家庭が、真の家庭です。それで古語に、「家 和 万事成」と言いました。その「家和して」という言葉は簡単ですか。おばあさん、おじいさん、お母さん、お父さん、自分たち夫婦、息子、娘といえば八人なのですが、八人が何をもって和しますか。

 この全員が絶対視できる、お母さん、お父さんも、おばあさん、おじいさんも、妻と夫、息子も絶対視できる、それを破れない絶対的中心は何かというのです。おじいさんの心も動かせて、全員の心を動かせるのが真の愛です。真の愛を中心とするところにおいて、家和して万事成るというのです。

◆神様の思想


 では、神様の思想とはいったい何でしょうか。神様は愛の主体であり、生命の主体であり、血統の主体なるお方です。神様が絶対的なお方であるがゆえに、私に伝授されたその愛も絶対的です。私に伝授された生命も、たった一つです。誰にも侵犯できません。神様が引き継がさせてくださった血統も、ただ一つです。宇宙全体と対応して対置できるこういう驚くべき一つの価値的内容を、自分自身がもっているというのです。愛の力がどれほど偉大かというのです。

 そして、皆さんの中にある生命は誰に似ていますか。全権的な神様に似ています。皆さんの中にある血統が誰に似ていますか。神様です。血統は神様の命の綱を調整できます。それゆえ皆さんが血を見れば、はっと驚くでしょう。それは根本からわき出てくる、ある源泉があるためです。

 では、人類始祖は、神様が喜べる男性と女性になりましたか。なれなかったというのです。私たちの人類始祖が神様の愛を受け継ぎ、神様の生命を受け継ぎ、神様の血統を受け継ぐべき親子関係の立場をなぜ失ってしまったのかというのです。これは深刻な問題です。

 では、皆さんにおいて真の愛はどこにありますか。「私にある!」と言える自信がありますか。木があれば、その木の葉は全部違います。葉は違うけれど、その葉の細胞一つに根もあり、幹もあり、みなあるのです。それを持っていって植えれば、ただそのままで繁殖するのです。

 では、神様が私たち人間を理想的な相手として造ったと言いますが、どうしてその存在がこういう姿になったのでしょうか。植物も細胞繁殖が可能なのに、神様が人間の真の真理の核をどこでも繁殖し、拡大できる内容をもってなぜ造れなかったのでしょうか。

 創造自体は愛のためのものです。その愛自体は一〇〇パーセント、一〇〇〇パーセント投入しなければならないのです。知識の王としていらっしゃる神様が、理論的なすべての結果がどうであるということをみな打診できるその方が、天地創造の起源に対して人間がどんな論理で抗議し、反駁するだろうということを御存じである神様が、そこに引っ掛かるようになされたのでしょうか。

 知識の王なる神様は、創造当時に愛の対象を創造するために一〇〇パーセント、一二〇パーセントを投入しました。御自身のすべてを完全に投入なさいました。聖書では、「神様が言葉で創造された」と言うのですが、その話は骨と肉、すべての精髄を投入したということです。

 そのようにすることによって、神様は完全に高気圧的な立場に立っていて、完全に真空状態に、真空度何百度の真空状態に入っていくのです。その相手の前に最高の高気圧圏をつくってやろうというのです。すると循環運動をするようになります。二つが循環するには、中央を通じて循環しなければなりません。直線で運動しては、共存圏というものがなくなります。

 このように、神様は一〇〇パーセント以上投入したのです。それで真空状態になることによって、自然循環するのです。神様は、「私が絶対者だから、君たちは絶対的に服従しなさい!」と言う方ではありません。その愛の内容は、完全投入です。「ため」に生きるところから出発したのであって、「ため」に生きなさいというところからは出発しませんでした。この「ため」に生きなさいという概念を、誰がもってきたのかというのです。これが問題です。

 例えて言えば、皆さんは心をもっているでしょう。良心があるのです。皆さんの良心は、「かわいそうな人をみんな助けなさい」と言います。韓国人に一億ウォンずつ分けてあげたとしましょう。すると良心は、「韓国人だけでなく、北朝鮮の人にまで分けてあげなさい」と言うのです。本然の良心は偉大だというのです。このように良心は、絶対基準に立っているのです。

 また、大韓民国の国民にみなあげたなら、「あちらの北方にいる中国人にあげなさい」と言うのです。中国の十二億の人にみなあげたなら、また「あちらのアフリカでは一年に二千万名が飢え死にしている!」と言うのです。事実がそうです。一日に六万名が死んでいくのです。それを神様が御覧になって、「お前はよく食べて、お前は死ね」と言うでしょうか。水のように、高い所にあれば下りていくのです。空気も多くある所から、少ない所に行くのです。それで均衡、平均をとらなければなりません。それが、道理の尋ね求める道ではないのかというのです。このように、平等を必要とするのです。

◆宇宙の作用


 先生は今まで、どのようにして発展してきましたか。先生はサタンをよく知っています。皆さんはサタンが何か知らないでしょう。また、神様を誰よりも先生はよく知っています。歴史始まって以来神様を誰よりもよく知り、サタンを誰よりもよく知っている人は先生しかいません。サタンの秘密、神様の秘密をすべて知っています。誰かがこれを発見する前まで、人間世界には解放がありません。

 堕落しなければ、どのようになったのでしょうか。この体が神様の家です。コリント人への第一の手紙第三章を見れば、「あなたの体が聖殿になったことが分からないのか」というみ言があります。聖殿です。堕落していない本然の真の愛を通じて、心と体が完全に一つになり得るその立場に立ったなら、体と心が完全に共鳴するのです。共鳴、知っているでしょう。周波数が同じになれば、片方を鳴らすと他の片方も一緒に鳴る、共鳴体になるのです。

 この体が共鳴体になるのは、お金では駄目です。権力でも駄目です。知識でも駄目です。真の愛がなければなりません。真の愛は、鳴るようになれば永遠に共鳴するのです。それで釈迦は、「天上天下唯我独尊」と言いました。真の愛の境地に入ってみると、体と心が共鳴するその焦点の間に入っていくと、天地がみな見えるのです。その境地に入っていくと、一つの焦点の中で神様が一番奥にいらっしゃるというのです。

 では、先生が一つ尋ねます。病気になればどうして痛いのですか。神経が刺激されてそうなるのです。神経が刺激されて、やりとりする道がふさがったがゆえに病気になったのであり、病気になったために痛いのです。その何かが追い出します。

 また電気についていえば、天気が曇ればプラスの電気、陽電気が追い出されるのです。そうして陰電気が動員されて、天から雷が落ちるのです。電気の原理において、プラスとプラスは反発します。マイナス同士も反発します。では、何億ボルトものプラス電気とマイナス電気が一度に集まるのでしょうか。違います。プラスならばプラスの電気がすべて合わさって、大きくなるというのです。それは電気原論によって、そうなります。

 宇宙は相応・相反作用をもっています。今までは相反作用を悪いことだと思ってきました。しかし、そうではないのです。相反作用を保護の論理としてどのように消化させますか。歴史を変遷させることのできる論理が、そこで形成されるというのです。

 プラスとプラスが「和そう」とする時、合わさらなければなりません。マイナスとマイナスも合わさらなければならないのです。そうでなければ、何億ボルトがどこから出てくるのでしょうか。一度には出てきません。ただ、条件が何かといえば、プラス電気がマイナス電気と相手を決定した時に限って、プラスはプラスと反発し、マイナスはマイナスと反発するのです。それは相手を保護するためなのです。

 例えば男の友達が十人いて、女の友達も十人いるとすれば、相手が決定していないときは、男十人の友達はみな合わさることができます。同じ理論で、女性も十人の友達全員が自由に合わさることができます。しかし、男性十人の友達の中で一人の友達が、自分のマイナス的な相手が決定すれば、九人の友達に「来い」と言いますか、どうですか。一つの布団の中で毎日のように寝ていた友達にもかかわらず、お嫁さんを一人迎えたその次の日からは、友達が来ることを嫌がります。「誰々!」と言えば、「あ、どうしたの」と変わるのです。反発するのです。

 同様の理論です。宇宙は、相対理想を必ず保護するようになっています。主体と対象が生じてやりとりできる圏内に入っていけば完全保護です。宇宙の原則がそうです。それゆえ先生は仕事をするとき、血、汗を流してするのです。私が完全なプラスの立場で、完全投入するのです。そうすれば、相手が生まれるのです。

 神様がそうだというのです。今まですべてを創造する時に、神様が完全な主体の立場で完全投入されたがゆえに、創造されて出てきたのです。いつの日か、神様にとって人間が完全な相対になる時、愛の雷が落ちるだろうというのです。神様も愛を好むために、そのような日を待っているのです。雷が落ちれば光ります。また雷は鳴ります。それが何であるか知っていますか。雷を鳴らすのは自然の結婚式です。自然が愛する音です。

 人間も同様だというのです。男性、女性も愛する時、どうですか。三代が一つの部屋で愛する声が町内に響き、天地が振動し得るそういう真の愛で愛するようになれば、神様が「喜ばしい」と言って踊ることができるというのです。三代が一つの部屋で愛しながら「楽しい」と言える、統一したそういう家和して万事成るの要がつくられる時、神様が踊るというのです。

◆宗教は堕落した人間の再生工場


 皆さんはそのようにできる自信がありますか。ですから、私たちは救われなければなりません。故障したというのです。再び再生工場に行かなければなりません。宗教が再生工場です。そうするには絶対服従しなければなりません。神様が餅を作ろうが、石を作ろうが、目を作ろうが、鼻を作ろうが、それに不平を言ってもいいでしょうか。すべて炉に入って、瓶の中で一度溶けなければなりません。

 そのような面で、「先生がそういう代表的な人間だ」と言ったとしても、皆さんが「そうではない」と言える材料がありますか。世の中がみな「違う」と言うことを「そうだ」と言って、今では先生が「来るな」と言っても訪ねてきて、門の前で敬礼するようになりました。それは、先生がそうさせたのではありません。宇宙がそうさせるのです。「お前が滅びたくなければ、神様が愛する文総裁、主体の前にマイナスの要素で和合しなさい! そうすれば宇宙が保護する」と、そう言うのです。

 では、病気になって痛いというのはどういうことでしょうか。神経系や血管がうまくやりとりしなければならないのに、その道がふさがったのです。完全に主体と対象が一つになって循環軌道を備えるようになる時、宇宙が保護するのですが、それが欠如しています。欠如しているので激しく押すのです。「あなたは不合格者なので、この宇宙の共存法に和合できない」と追い出す力が、痛みとして現れるのです。投薬が、その道を開いてくれるのです。そうすれば再び循環するのです。

 それゆえ、反作用は悪いことではないのです。今日の科学者は相応・相反関係において、相応・相反を反対の概念と見ますが、そうではありません。主体・対象圏を備えたすべてのものは、和合するようになっています。そのような論理によって、先生はどこかに行って話す時、すべての最善を尽くします。そうすれば、必ず事は成し遂げられるようになっています。完全なプラスが存続するところには、完全なマイナスが現れるものです。さらに、愛の理想をもって行動する時には、一〇〇パーセント現れます。神様の愛の配給をもらって食べて生きるということより、神様の愛を配給してあげながら暮らすこと、それはどれほど素晴らしいことでしょうか! 神様が愛する人がいれば、その愛する人が自分よりももっと優れていることを願うのであって、劣っていることを願いますか。皆さんが結婚する時、自分の相手が自分より優れていることを願うでしょう。また、父母は息子が自分より優れていることを願うのです。それが人間の本性です。

 私たちの人生もそうです。自分のために暮らす人は去っていくのであり、公的に暮らす人は残るのです。個人よりも家庭がより公的であり、家庭よりも氏族がより公的であり、氏族よりも民族がより公的であり、民族よりも国家がより公的であり、国家よりも世界が、世界より天宙が、天宙より神様、神様より神様の愛がより公的です。神様の愛のために暮らす人は、すべての人間の法と天上世界の法を超えることができます。それは死亡圏を支配できます。

 先生は死ぬ、生きるということを問題としません。ここのこの世よりも、あの世の霊界をはっきりと知っているので、どこに行くのか知っており、すべて知っている世の中であるゆえに、死を恐れません。それで、大きなことをしてきたのです。

◆堕落の根源


 歴史は、蒔いたとおりに収めるのです。人類歴史は、堕落に始まりました。その堕落の内容が、正に愛を蹂躙したことです。神様とこの宇宙が一番重要視する愛と生命と血筋を、悪魔が蹂躙したのです。

 アダムとエバが堕落したのちに、下半身をなぜ隠したのですか。そのような問題をキリスト教では知らずにいます。神様が、なぜアダムとエバを追放してしまったのでしょうか。愛の対象として造られたのに、どれほど重要な問題があって追放してしまったのでしょうか。その愛は、ひとえに神様を中心とした愛でなければなりません。

 アダムとエバの結婚式は、神様の結婚式です。神様は縦的な父母です。縦というのは一つの立場、一つの点しかありません。神様は横的にすべてなすことはできません。縦的な基準で連結させる人がいなければなりません。神様と人間との縦的な愛は、最高の直短距離を通らなければならないのです。それは垂直線です。この垂直線を中心として、人間が成長して家庭を成し遂げなければならないのです。男女の真の愛も垂直線しかないのです。九〇度の角度で対を成さなければなりません。

 皆さんが知るべきことは、球形世界の最高の高い位置がどこかといえば、中心点だということです。表面で一番高い位置はどこかといえば、中心点です。皆さんはみな中心存在になりたいでしょう? 何を中心として? 球形の理想圏を中心としてです。理想は、球形のことをいいます。それは天地創造の本然の理想です。

 その中心の中央に神様が臨在なさるのです。縦的な愛と横的な愛が合わさって、愛の核が相対的人間と一つになって爆発し、愛の一体性、縦横の一体性が繰り広げられるのです。縦的な生命体と横的な生命体である神様と私たち人類の先祖の生命の一体点、神様の血筋と私たち人類の善なる先祖の血筋が結合できる一体点がそこです。その点は一つしかありません。ところが、悪魔の血を受けたというのです。

 それで、歴史は植えたとおりに取り入れるために、淫乱で堕落したがゆえに、終わりの日には一人の女性が十二人以上の男性を相手にするのです。また、一人の男性が十二人以上の女性を相手にする時です。方向を失ってしまいました。中央で方向を示さなければならないのに、何度何分なのかも分からないのです。どこに行っているのかも分かりません。このような混乱した世の中になってしまいました。

 ローマがなぜ滅びたのか知っていますか。淫乱のためです。それが理想を破壊した根源であり、命を破壊した根源であり、血統を蹂躙した根源です。

 悪魔は神様の愛を中心とした姦夫です。これは、先生が発表した歴史的な宣言です。堕落した後孫である皆さんの血筋には、悪魔の血筋が連結されています。悪魔の生命と悪魔の愛の起源をもっているのが、堕落した人類です。これをどのように清算するかというのです。それゆえ、メシヤが来なければなりません。

◆堕落の血統を清算しようと思えば


 皆さんは、お父さんから生命が連結されました。ところが、間違ったお父さんに巡り合ったのです。サタンがお父さんになって全部汚してしまったので、真のお父様が来なければなりません。これがメシヤ思想です。神様と一体になった男性が来なければなりません。悪魔の根、天使長の根に連結したすべては、神様と永遠に生きるには何ら関係がありません。

 それで宗教を立てて、その法を見分けていくのです。体を打たなければならないのです。断食、奉仕のようなことをすべてしなければなりません。体を打つのは、体を弱くさせて心の命令に順応できるようにするためなのです。また、もう一つの方法は精誠を尽くすことです。修行して精誠を尽くし、心の力を何百倍強く投入しなければなりません。この方法しかないのです。

 宗教を信じながら、肉的に満足して生きようというのは偽者です。体を打たなければなりません。そのようにすることによって、悪魔の血を取り出さなければならないのです。悪魔の生命体、悪魔の愛の体を取り出さなければなりません。

 それで、人類を神様が直接干渉できないのです。自分が愛していた恋人を奪っていって子供を生ませた者を訪ねていって、悪魔の側で愛せますか。これは空言ではありません。それゆえ、ローマも淫乱で滅び、多くの先進国も淫乱で滅びていくのです。

 これを誰が清算しなければなりませんか。汚した血統を誰が清算しなくてはなりませんか。これが六千年歴史の宿命的な課業です。誰がこの誤った血統を正さなければなりませんか。人生は、本来から苦海ではありません。堕落していなかったならば、人生は幸福に連結されていたでしょう。しかし、誤った愛の原則を中心とした、悪魔の愛と悪魔の生命と悪魔の血筋を引くことによって、嘆かわしい怨恨のくぼみに落ちてしまったのです。ここから抜け出さなければなりません。そうしようとすれば、切ってしまって接ぎ木をしなければなりません。「元のオリーブの木になれ」と言ったのに、野のオリーブの木になってしまったのです。アダムの根から、アダムの愛から、真の愛を通して一つにならなければなりません。

 サタン世界で愛することよりも、神様をもっと愛さなければなりません。これが先生の生活哲学です。今までの愛国者の残した愛以上に国を愛せというのです。ある孝子の残した孝行以上に父母に孝行しなさいというのです。聖人が残した以上に世界のために生きなさいというのです。イエス様ができなかった神様に対する愛以上に神様を愛せというのです。そうでなければ神様と関係を結べません。なぜなら、悪魔の血筋で汚された実績をもっているからです。

◆神人の理想完成の立場


 こうして四大宗教が統一宗教として連合すべき時であるにもかかわらず、自分の宗派を中心に流れていっています。これでは歴史性に対置する主体性をもてません。世界が一つになるべきなのに、闘ってもいいのかというのです。そのような意味で、先生が統一宗教を主張することは偉大な発言です。ですから、これらを合わせなければなりません。何を中心として合わせなければならないのでしょうか。本然の愛、本然の生命、本然の血筋を中心としてしなければなりません。

 それは誰の力でもってでしょうか。神様とアダムの力をもってです。神様の愛とアダムの真の愛、神様の真の生命とアダムの真の生命、神様の真の血統とアダムの真の血統を通して接ぎ木をすることで、すべて終わるのです。

 根は神様とアダムの根なのですが、ここに悪魔の根を入れたのです。ですから、それを切ってしまい、真の父母の本然の真の愛と、真の生命と、真の血統を中心とした枝を接ぎ木することによって、本然の世界の基準で和するのです。

 天地を見分けていける最後の人間として、「神人思想の完成」の立場を、何でもって手にできるのでしょうか。そうするには愛がなければならず、真の生命が汚されてはなりません。浮気をしてはならないのです。万世の人類に純潔な血筋を残し、神様の愛が垂直線で通じることのできる完成した個人、家庭、氏族、一国を夢見ながら成し遂げなければなりません。万国がそういう立場に立ってこそ、地上天国と天上天国の合徳時代が来るのです。

 それで各自の心の中に生活の中心の神様、すべての再創造に協助できる神様として侍ることができるように忠告するのです。「ため」に生きる愛においては統一的原理が展開します。アダムとエバが神様を互いに自分のものにしようとすればけんかが起こりますが、「私が神様をまず自分のものにしようとするのはあなたのためなのであり、私が家庭の貴いものを手にしようとするのは、私たち家庭のためなのである」と言うようになれば、睦まじくなるのです。同じなのです。

 皆さんが世界において、「この宇宙で一番貴いもの、真の愛、真の生命、真の血統を私たちがまず自分のものにしなければなりません。それらを私たちがまず手にするのは、世界のためにである」と言えば、世界の人がみな歓迎するというのです。「ため」に生きる愛を中心としてこそ、神様も統一点を合わせることができるのです。

 皆さんが国と世界を生かそうと一つになって「ため」に生きるようになれば、できないことがありません。ですから、「ため」に生きる皆さんになって、ぜひ皆さんの千万代の後孫を中心として、称賛を受けられる皆さんになることを繰り返しお願いしながらみ言を終わります。
















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訓教経(下)037



文鮮明先生のみ言集

訓教経(下)



真の統一と一つの世界


一九九〇年三月三十日
アメリカ・ニューヨーク 『文鮮明先生み言選集第二百一巻』


 「統一」という言葉は、身分の高い人も低い人も、善なる人あるいは悪なる人も、誰しもが願っており、人類が存続する限り、永遠に残る言葉です。また統一は、人間はもちろん、すべての万物と神様までも願われることです。

◆統一は真の愛を中心として成される


 人間世界での真というものは、変わるようになっています。今日哲学思想界に指折りの有名な大家がたくさんいますが、弟子たちはいつも師を踏んでのし上がろうという欲望をもっています。人間がもっている欲望は、どれほど大きいでしょうか。人は神様までも、「あっちへ行け、そっちへ行けと命令できる私になりたい」という不可能に近い欲望をみなもっています。それは東洋人だけでなく、西洋人も同じです。

 このように、欲望の限界の分母はみな統一されています。学校の職員は校長になりたがり、大学の職員は大学総長になりたがり、国民は大統領に、宇宙の一員としては宇宙の中心者である神様の代わりになりたがるのです。こういう欲望の方向性があることを否認できないのが現実です。それでは、このように大きな欲望をもった人間が、探し求める本物の真とは何でしょうか。男性にとって本物の真は女性であり、女性にとって本物の真は男性です。そして、神様にとって本物の真は完成した人間であり、人間にとって本物の真は神様です。それで人間と神様との関係の解決は、あらゆることの解決の根本となるのです。

 なぜならば、真の男女を通じてのみ統一的な真の愛を見いだすことができ、神様と人間も真の愛を中心として統一を成し遂げることができるからです。真の愛を中心として、男性と女性の絶対的価値があります。真の愛は、生命を捨ててでも服従しようとするのです。絶対的神様も真の愛を絶対的価値の中心として、最高の貴い立場に立てておかれたのです。神様も真の愛の前では、絶対服従しながら生きたいのです。

 「愛」という言葉は、一人で成し遂げることはできません。相対的世界に愛を立てるためには、絶対的な神様までも愛をより絶対的な立場に立て、その愛を中心として生きたいと思わなければならないのです。こういう観点がなければ、与え受ける相対理想世界はなかったでしょう。

 結婚とは、男女の絶対価値である真の愛を横的にして絶対服従して生きながら、神様の縦的な絶対価値である真の愛を占領するためのものです。横的人間の愛を通して、神様の縦的愛を占領しようというのが結婚です。

 人間はなぜ生まれたのでしょうか。そこには原因と目的、創造理想があります。神様の天地創造の理想があるのです。心底愛する妻を、何千億ウォンと交換できるでしょうか。「天地と神様までもすべてあげるから、あなたが心から愛する夫と換えよう」と言われて、交換する妻がどこにいるでしょうか。

 人類歴史について見ると、人生観、宇宙観、神観などすべての問題は、真の男性と真の女性が、神様の真の愛を中心として絶対に統一されるところで解決されるのです。これが絶対価値の根源地なのです。神様も絶対価値が必要だというのです。このようなものがなければ、「神様も悲しみと苦痛を感じる」という論理を立てることができないのです。

 人間の欲望の限界線を定めることのできる存在が、この宇宙にあるだろうかと探してみましたが、それは真の愛以外にはありませんでした。

 今まで誰もそのような天機(注:天の機密)に対して知る人がいませんでした。初めてこの時代に先生が現れて発表することによって、博物館にもなく、図書館にもなかった天国のものが出てきたのです。神様が知り、サタンが知り、それから第三の人物として先生が知っているのです。そのほかには誰も知らないのです。ですから、歴史的宣布です。

 先生の教えは、救世の真理です。人類が永遠に必要とする真の愛は、生命のみ言です。再臨主が世の中を救おうとして来られるなら、鉄の杖で審判してはなりません。殴っては、ただの一人も永遠に屈服させることはできないのです。親不孝な子でも、自分のために苦労して手がひきがえるの手ようになって縮んで開かないほどになった母親の手とともに、流れる愛の涙の前で蘇生できる道があるのです。

 審判の大王であり、天地を思いのままに主導する神様であっても根真の愛なくしては天宙統一は不可能なのです。真の愛のためには、困難は問題にはなりません。私の生命を投げ捨ててでも進める力が、真の愛にはあるのです。

◆神様の戦略戦術とサタンの戦略戦術


 今まで人類歴史を見ると、多くの人が真の統一と一つの世界を尋ね求めてきたし、天も真の愛を探そうと苦労されてきました。しかし、どうして真の統一と真の一つの世界と真の愛をもった人がいなかったのでしょうか。それは、人間の堕落によるためです。真の統一の動機は、私の妻、息子、娘、親戚、国家、天地、このように相手側にあるのではありません。自分自身にあるのです。

 歴史を通して見ると、神様の戦略戦術と悪魔の戦略戦術は正反対です。神様の戦略戦術は打たれて損害賠償を請求して進んでいく作戦ですが、それに反してサタンは先に打っても奪われていくのです。

 天は奪われたといって、それを殴って奪い返そうとするのではありません。主人として堂々と出ていって打ち、奪い返せる能力の持ち主でありながらも打たれるのです。父母が打たれながら、親不孝の子を悔い改めさせる道を行くのと同じことです。天理の公道を立てるために、神様自らが静かに訪ねていかれ、「主人が来たら、これこれこのようにしなさい」と教えてあげたにもかかわらず、サタンは讒訴するのです。教えてあげようとして行った主人が、むしろ打たれるというのです。しかし、打たれれば損害賠償までも受け取ってくるのです。

 歴史を見ると、孔子も当時は「喪家の狗」と言われていましたが、歳月が過ぎてから「聖人」と言われるようになったのです。生前に聖人になった人が、誰かいましたか。イエス様はいかなるお方でしょうか。ローマ帝国から反乱罪で追い込まれて亡くなった方です。このように、彼らはその時はみな悲惨に死んでいきましたが、歴史を経ながら次第に上がっていったのです。損害賠償を請求するには「十年、二十年の間に終えてくれ」とは言いません。期限が長ければ長いほど、世界を完全に包囲するのです。

 数千年間、耐えに耐えて損害賠償を全部計算すれば、銀行に預金したお金が利子を生み続け、のちにはその銀行まで買っても余り得るお金になるのと同じです。

 神様は待ちながら訪ねてこられる方であり、打たれて奪ってくる戦術を使われる方です。お兄さんが博士で、どんなに権威をもっていたとしても、障害をもった弟にふざけてげんこつを与えたとしたら問題になるのです。

 悪なる世界は全面的に破壊すれば、天運が助けてすべて越え、跳躍させてくれるものです。神様は、先生にそのような体験をするようにしてくださいました。迫害を受けるということは、怨 讐の所有権の相続を受ける、また別の方法なのです。

◆最後に残る主人公


 神様が愛する人は、いつも天運の保護を受けるのです。真の愛というものは見えないのですが、最も貴い宝物なのです。人間は総じて目に見える宝物を好みます。それは不変性をもっているからです。黄金は不変の光、ダイヤモンドは不変の硬さ、真珠は不変の調和の光があります。また、宝物は永遠性をもっているので、誰もが好むのです。

 私たち人間の中で、宝物のような存在は誰かと考えてみると、それは正に聖人です。聖人の教えは、右往左往することはありません。ある聖人が正しく教えたとすれば、彼の教えは霊界に行っても天上法でも通じる不変の教えとなるのです。自らの教えが地上では変わらないと主張したとしても、天上世界に行って拍子がとれない日には、偽りの聖人として烙印が押されるのです。

 では、聖人の中で本物の聖人とは誰でしょうか。神様がもし霊界に行っている四大聖人を呼んで、「お前たちの願いは何か」と尋ねられて、「私たちの願いは、私たちの宗教を通して天下統一することです。神様は地上の大いなる主人であられ、すべてのものの主人であられるので、そのようなあなたの前に一番近くにいるようになれたなら幸せです。神様、あなたの娘がいれば、私はあなたの娘婿になりたいです」と答えたならどうでしょうか。

 神様の初めての愛を受けるひとり子になるという人が、最終地点に残れる主人公になるのです。真の愛だけが問題になるのです。その宗主の中でイエス様は、「ひとり子である」と言われましたが、み旨を成せず、「再び来る」と言われました。イエス様もその愛を自ら発表はしましたが、実現はできませんでした。先生もその愛を実現するために、一生を捧げてきました。イエス様もそのような面では、先生を認めざるを得ないのです。

◆神様が人間を創造された目的


 私たちの生命は、両親の愛から来ました。ですから結局のところ、神様に戻っていくのです。絶対的な神様までも、真の愛の前では絶対服従し、その真の愛に絶対的に侍って生きようとされるのです。すなわち、神様の真の愛を最高の絶対中心として立てたのです。神様が父であられ、私たちが子であるというなら、父親が行いもせず、子供にだけ「行うように」と言えますか。それは、理論的に不条理なことです。

 神様が私たちに絶対服従を命令しようとするなら、神様御自身もその貴いものに絶対服従したうえで、そのような命令をしなければならないのです。このように神様までも絶対服従して生きたいと思う真の愛こそ、地獄までも占領できる要になるのです。私たちが真の愛を所有するようになれば、あらゆる悲しみと苦痛もその愛の中に消化され、喜びとなるのです。言い換えれば、個人的権力、知識、財力などを主張するそれ以上の絶対的権限で、この宇宙に残したいものが、人間本性の欲望である真の愛なのです。

 では、真の愛はどこから来たのでしょうか。言うまでもなく、根本であられる神様の真の愛から来ました。神様もそのような愛を望まれているがゆえに、そこに由来したのです。

 嫁に行く女性たちに聞くと、心の中で「男性は私より優秀であったら良いのだが……」と考えます。男性も「自分の妻になる人が、自分よりも優秀であれば良いのだが」と考えるのです。また父母であれば誰しも、「自分の子供が自分より立派になったら良い」と願っているのです。

 そのような心はすべて神様から来たものであり、真の愛を中心として言うのです。そのような原因的内容を追求すると、根本から来たがゆえに、それが伝えられた現実的な私にとっては否定できない真理なのです。

 神様の根本がこのようなものであることを推理的、帰納的に結論を下してみると、神様も、真の愛の対象は神様よりもっと優秀であることを願う、という心をもっていらっしゃるのです。これが、本性の起源となるのです。人間と同じです。神様は愛の相対を通して、喜びを得ようとして創造なさいました。

 彫刻家が傑作品を一つ作るのも、どれほど大変でしょうか。昼夜の別なく、夜を明かしながら体力を消耗させ、全力投入して作品一つを作るのです。それはみな、どこから来た心でしょうか。喜びを味わうために、愛の対象を創造なさった根本から来た心ではないでしょうか。

 神様の真の愛の対象として造られたのが人間です。「万物之衆 唯人最貴(万物の中で人が最も貴いの意)」という言葉は、そのとおり合っている言葉です。神様も愛の相対的パートナーを必要として人間を造られました。すべての万物を、中心となる人間をまねて和合し、吸収できるように造ったのも、愛の理想のためなのです。

 被造世界を見回してみると、鉱物世界、植物世界、動物世界、人間世界、すべてがペア・システムになっています。どうしてすべて対になって存在するのでしょうか。鉱物世界も陽イオンと陰イオンが作用するのです。元素と元素同士も、何でもくっつけたからといって結合するわけではありません。相対的要因が合わなければ、神様も命令できないのです。それと反対に、お互いに相対的要件が合えば、神様でも止めることはできません。級は低くても、このように鉱物世界の作用も、愛の創造理想型のモデルの核に反応できるように、そこに通じることができるようにつくられたのです。

 それゆえ真の愛の本質を中心としては、神様の心情から堕落しない人間の心情とすべての万物、鉱物世界まで通じるようになっています。その場に入っていけば、岩とも通じます。私たちがそのような立場に入っていけないのが、堕落なのです。

◆「ため」に生きようとする真の愛をもって統一を願わなければならない


 知ってみると、男性は女性のために生まれ、女性は男性のために生まれました。相手のために生まれたというのです。今日の人々は、自分は自分のために生まれたと思っていますが、そうではありません。男性は女性のために、女性は男性のために生まれました。自分のためではなく、相手のために生まれました。みな「ため」に生きようとする真の愛のためなのです。男女が陰陽の調和で愛の理想を成すために、神様がそのように創造されたのです。

 今日世の中の人々は、人間が進化、発展してきたと信じているのですが、アメーバに対する例だけ挙げても、雄だけで発展し始めたのではなく、雄と雌が共に作用し、発展してきたものが現れたのです。この進化論が大きな問題です。低級なものからより高級なものへと発展するためには、雄と雌の愛の過程を通じなければならないのです。そうでなくては発展はあり得ません。

 構成の形態、構造、これらが同じであるといって、「進化した」と言えるでしょうか。猿の骨を持ってきて人間の骨格と同じだからといって、「猿が人になった」と言えるでしょうか。雀とほおじろとは姿形が似ています。毛色が若干違うだけであって、それらの骨を持ってきて見ると全く同じです。だからといって、雀とほおじろを対にすれば、ひなが産まれるでしょうか。ひなは産まれません。また西洋の人を見れば、比較的毛がたくさん生えていますが、だからといってゴリラの雌と西洋の男性を結婚させたなら、人が生まれるでしょうか。そうではないのです。

 このように愛の門を通過させ、種別に区別して創造したものを、誰も横的に占領できる権限はないのです。種の区別は、このように厳格なものです。

 では意識が先でしょうか、実在が先でしょうか。これが世の中の問題になっています。そこで思想が分かれて問題になっているのです。

 人はみな目をもっています。それでは、その目がこの地に生じるようになったときに、太陽があることを知っていたでしょうか。知らなかったでしょうか。目は確かに太陽を見ることができるように作られました。しかし、その目自体がそのような事実を知っていて、そのように生まれたのでしょうか。あるいは、知らないながらも偶然にそのように備わって生まれたのでしょうか。確かなことは、背後にそのすべての秘密を知っていらっしゃる方がいて、そのように作られたという理論を避けざるを得ないのです。

 また生まれてから、この空間世界に生きながら、ほこりが入らないように目に窓格子のようにまゆ毛もつけたのです。また涙が出てくる涙腺があるのですが、この涙腺はなぜ必要でしょうか。空間世界は熱により水分が蒸発するようになっているために、蒸発する所に水をまいてあげなければならないゆえに生じたものです。

 既にこういうことをすべて知って、それに対応する装置を備えて生まれたという事実を見ると、意識的に論理的な百科事典を背景にして、そこに従って存在実存圏が形成されたという論理を否定できないのです。これでも「実在が先である」と言うのでしょうか。このように見れば、神様がいらっしゃるというのです。

 その神様が、神様の最大の愛のパートナーとして、天地間のペア・システムの被造物の中の主人の立場に立てた傑作品の存在が、正に人間なのです。私たち自身なのです。

 人は横的な真の愛の因縁ももって生きるようになっているのです。大工が家を建てる時、水平をまず見るでしょうか。それとも垂直をまず見るでしょうか。水平を先に見るのです。「水平」は垂直を認めている言葉です。それでは垂直が先でしょうか。水平が先でしょうか。垂直が先なのです。

 「女性」という言葉は、男性が先にいて出てきた言葉です。「男性」という言葉は、女性を先有(前提)条件にして出てきた言葉です。「上」という言葉は、下を考えて言う言葉で、「右側」という言葉は左側を先に認めたうえでの言葉なのです。

 このように先有(前提)存在圏を認めるということは、相手の「ため」に存在する相対圏を証明することであり、これは真の愛でもって「ため」に生きることを目的として成立した創造であったということを物語っています。神様の真の愛は投入して与え、また投入してまた与えたとしてもそれを忘れてしまう愛です。与えたという記憶が残っている限り、愛は無限に回ることはできません。愛は無限に運動するものであるがゆえに、与えたというその記憶にとどまってはならないのです。与え続け、また与えたとしても忘れてしまうため流れていくのです。

 それでは天地を与えても換えることのできない価値をもった愛を、誰が私たちに与えてくださったのでしょうか。父母が下さいました。それを言い換えると、根本に戻れば、神様が下さったのです。神様はこの無限な価値をもった愛を父の立場で、与えても忘れ、その愛を受ける息子、娘が神様を裏切ったとしても、それでもまた与えられるのです。そのような果てしない神様の愛ゆえに、今日皆さんもこの立場に来て、座っていられるのです。

 皆さんにも愛する息子や娘がいるでしょう。子供のために服を買う時、たくさんの良い服がある中で、あまり良くない服を買うしかないとき、その父母の心はどうでしょうか。もっと良い服を買ってあげることができず、残念に思うその父母の心情の奥底で天理の根が連結されるのです。

◆真の愛が行く道は「ため」に生きる道


 真の愛が行く道は、何かをしてもらうための道ではなく、「ため」にしてあげるための道です。「ため」に生き、与える道に真の愛があるのであって、何かをもらおうとするところに真の愛があるのではありません。

 それで神様御自身も愛する相手を創造なさるとき、神様御自身が「ため」に生きる立場に立って、神様が所有しているすべてを一〇〇パーセント投入しても、もっと投入したいと思われたのです。こういう心をもった本然の中心存在が、天地を創造された神様です。それで真の愛とは一〇〇パーセント、一〇〇〇パーセント「ため」に生き、すべて与えてしまい、真空状態になることです。

 空気でいえば、絶対低気圧が生じるようになれば高気圧圏は自動的に生じるというのと同じ理論です。それゆえ絶対的に「ため」に生きようとする所には、無限の力が連結するのです。神様はこのように人間のためにしようとされるのです。そのような立場にあるので、もっと与え、さらに与えようとする本性の作用が、ひっきりなしに続くことにより、あらゆる万物が永存できます。

 それゆえ、「真の愛の道は永遠に生きる」という論理が介在するのです。真の愛の起源であられる神様から、その真の愛のパートナーとして造られた人間が、神様の思いどおりに成熟して絶対不変の真の愛の相続を受けていたなら、私たち人間の世界には根本的な統一の歴史が展開され、戦争とか血を流すような心痛い歴史はなかったはずです。

 怨 讐がいたとしても、神様がどうして罰を与えられないのかといえば、その怨讐を愛するその父母と妻と息子、娘がいるということを知っていらっしゃるゆえです。神様も涙の谷間を越えて、その怨讐を誰よりも愛するその父母と妻と子の心情を体 恤するとき、むち打てないのです。神様の愛とはそのような愛なのです。

 そのような神様の心情を本当に感じるようになれば、怨 讐に対してかたきを討つようなことができるでしょうか。神様の愛を知れば、かえって人を送って怨讐を助けてあげなければならないのです。そうすれば、愛を中心として一つに抱こうとするその大道の前に、私が近く立つようになり、そこに天地が震え、神様も涙を流すようになるのです。

 そのような立場から見ると、「怨讐を愛せよ」という言葉の意味が理解できるのです。そのような力が出てくるのは、知識でもなく、お金でもなく、権力でもありません。真の愛にのみあるのです。

 私たちがきょうも生き、あすも生き、十年、百年、千年、万年を生きようとするところにおいて、願いとは何でしょうか。それはお金ではありません。この国ではありません。統一の絶対的起源となる神様の真の愛です。私たちの手足が裂かれるような恨みがあったとしても、愛する子供を尋ねていかずにいられるでしょうか。それは、永生を求めていく真の愛の道を放棄できるのかということです。

 真の父母である神様の愛をもって、縦的な神様の代わりに世の中の五色人種を超え、自分の愛する息子、娘よりも、自分の妻子よりも、自分の父母よりも、自分の国を愛する以上に、いかなる忠臣、烈女以上に愛しながら生きようと努力しなければならないのです。

 真なる神様の愛は、「ため」に生きようとするところに根を置くのですが、それに反して今日の私たち人間世界の愛は、自分の「ため」にしてくれというところに根を置いているのです。堕落したために生じた結果なのです。私だけの「ため」にしなさいという論理の中では、統一はあり得ません。相対圏が犠牲となって破壊をもたらすのみです。それゆえ、独裁者を全宇宙が支援することはないのです。

 それでは、真の愛を中心とした統一的論理の根拠はどこで立てることができるのでしょうか。第一に神様がいらっしゃり、それからアダムとエバがいます。男性であるアダムは大きく、女性であるエバは小さいけれども、神様だけが占領すればすべてが成し遂げられるようになっています。アダムが先に行き、エバはアダムのあとをついていって神様を発見したなら、この神様を誰が最初につかむでしょうか。自分を主張する者には統一はありません。しかし、神様と共に「ため」に生きるという立場で考えると、「私が神様を先につかもうとするのは、あなたのためです」と言えば、小さい奥さんは歓迎するのです。また女性も、「私が神様を先につかもうとするのは、あなたのためです」と言うと、夫が喜ぶようになるのです。

 こういう姿を神様が御覧になり、「お前たちはどこでそんなことを学んだのか」と言われれば、「神様が本来このようにつくられ、理想的な創造に従って真の愛が行く道がそのような道であることを私たちが知ったので、このようにするのです」と答えたなら、神様が手を差し伸べて、「我が娘よ。我が息子よ」とおっしゃるのです。ここで統一が成されるのです。

◆良心は天下を与えても換えることのできない私の主人


 私たち人間は、人生を生きる間に自分と最も近く、天下を与えても換えることのできない主人がいるにもかかわらず、それを知らず、罪に捕らえられて生きる不幸な群れであったということを知らなければなりません。その主人が、正に私の良心なのです。この良心が私たちのためにどれほど忠告をし、昼も夜も悪い考えをする時に、どれほど制裁をしてきたでしょうか。

 このように心は真の主人の姿をもち、私を保護しようというのに、体とは怨 讐となっています。心と体の争いをやめさせるまでは、天国はないのです。ですから、私の主人と私の師と父母の立場に立って私を正しい人にし、天地の大いなる父母であられ、大いなる師であられ、大いなる主人であられる神様の前に一体化させるために、努力するこの第二の主人である良心を蹂 躙し、無視してはならないのです。

 今まで、体は空腹だといっては、盗みを働き、もう少し楽に生きるために強盗を働き、本然の起源を虐待したのです。この体の勢力圏をどのように処断しなければならないかという問題が、課題として残っています。

 先生はその問題に関して誰よりも多くの血、汗を流してきました。「宇宙主管を願う前に自己主管を完成せよ」というのが、先生がこの道を開拓してきた時の標語でした。「宇宙主管を願う前に、世の中のあらゆることと関連をもつ前に、自己主管を完成せよ」と言いました。主人になることができ、師になることができ、父母になれるこの心を、私の体が千年、万年仕えたとしても不足であるという自分自身を発見するとき、初めてここに天運が臨むのです。心は体のためにしたがりますが、体は心のためにしようとはしません。これが問題です。問題は自分自身にあるのです。社会にあるのではありません。

 自分の家に問題があればお兄さんが悪く、お姉さんが悪く、お父様が悪いのではなく、私が悪いからなのです。自分から正しくして、他人を批判する第二、第三の基準を立てなさいというのです。私が一つになってこそ、堂々と一つになった世界で生きることができるのであって、私が一つになれないのに、全体が一つとなった所でいかにして一つになれるでしょうか。それで、自動的に退くようになっているのです。

 心を踏みにじり、心を無視し、心を疲れさせ、気をもませたこの体が、主人になってはならないのです。体をつかんで心と共に「ため」に生きることのできる私になった時に、幸福が訪れてくるのです。そこに神様が臨在されるというのです。

◆故郷へ行こうとするなら宗教を通さなければならない


 今日の人間世界での愛は、私を中心とした愛ですが、それがどこと関係があるのかといえば、心ではなく体です。この体が悪魔の舞踏場であり、悪魔の錨 綱を結ぶくいになっています。心が天に代わるプラスの立場にあるのに、体がまた別のプラスになって心をもてあそんでいるのです。これを是正しなければならないのが、私たちの生涯の義務なのです。

 これを御存じであられる神様が、修理工場としてつくられたのが宗教です。宗教は心と体を永遠に統一させることのできる人をつくる修理工場です。そのような人をつくれない宗教は、すべて偽りの宗教です。それゆえ天が通告するのは、心を中心としてより悪なる体があるので、この体を強制的に屈服させなさいというのです。強制的にでもそのようにすることです。それゆえ、「断食しなさい。犠牲になり、奉仕しなさい。死んだ思いで生きなさい」と言うのです。

 体の欲望を弱化させて心の思うままに順応できるように、三年ないしは五年以上習慣性を伝授するためのものが宗教生活です。宗教生活は、イエス様を信じて天国に行こうという次元のものではありません。

 その次に、「休まず祈祷しなさい」と言われました。悪魔は二十四時間私たちを通して活動し得るのです。しかし、神様は縦的な立場にのみいらっしゃいます。心は縦的であるので、神様は縦的な立場にのみいらっしゃるため、心を通じずには活動できません。サタンは三六〇度、どこでも活動できるので、サタンの活動の前に体が負けるようになっているのです。

 心は垂直の立場にあって、垂直は一つです。横的基盤ではないので、垂直は横的基盤に現れることはできません。それで環境が強い体に引っ張られていきやすいため、お前は茎の立場、一つしかない垂直の立場で精誠を尽くし、祈祷して三倍、四倍の力を心に受けて、体を立ち直らせ自由に処理して三年ないしは五年引きずりながら習慣化させなさいというのです。その二つの方法以外には、修理できる道はありません。

 そのような修養の門を通じずには、本郷的な人間の道を尋ねていけないのです。哲学の道、知識の道、良心の道だけでは駄目なのです。心と体が一つにならなければなりません。心は縦的で、体は横的ですが、根本で堕落しなかったなら、心と体は一つになったでしょう。それが本然の神様の理想の前で一つになれないようにしたのが、怨 讐である悪魔なのです。

 その悪魔が人間を堕落させたのですが、聖書では「善悪の実を取って食べて堕落した」とあります。ところがその善悪の実を取って食べて、どこを隠したでしょうか。口を隠したでしょうか。手を隠したでしょうか。下部を隠しました。手で取って、口で食べたのに、なぜ下部を隠しましたか。それが悪を蒔いた種となったからです。

 人間始祖は、成熟していない時に堕落しました。歴史的な人間の世の悪の血筋が、そこから伸びるようになったのです。それゆえ終末になれば、春にそのように蒔いたので、秋になれば全世界的に青少年がアダムとエバのように愛の倫理を破壊させて、退廃の風潮が広がるようになるのです。そのような時になったなら、サタンの全権時代が地上に到来したということを知りなさいというのです。その時が今です。

 このようになる時、神様の撤退と審判が訪れます。今日のアメリカ、ヨーロッパ、日本など、世界の先進国を見てください。東西四方から押し寄せるフリー・セックスと淫乱の波を誰が遮ることができるでしょうか。大きな問題です。末 梢神経の刺激を求めていく享楽主義、乱れた愛にも飽き足らず、麻薬や幻覚剤を求める人類の終末になってきています。

 それはみな、体が死亡へと引っ張っていく道であって、決して心の道ではありません。天地の大道において、人間を本然の始発地である神様の懐に引き渡すべき良心の使命と召命は、すべて失敗しました。誰かが世界人類をこのような環境から救援の道へと導けなければなりません。それが統一教会です。

 世の中には希望がありません。統一教会は、真の愛の理想として、神人と心身を統一する所です。神様と人を統一し、心と体を統一するのです。神様は真の愛、真の生命、真の血統をもっていらっしゃり、私たちはそこから出てきたのですから、私たちにも真の愛があり、真の生命があり、真の血統がなければなりません。人間は神様の真の愛を中心として、親子一身の関係をもって生まれたので、神様の心と体が真の愛で自然に統一されているように、私たち人間の心と体も真の愛で自然に統一されていなければならなかったのです。

 ところが、サタンの愛、生命、血統を受け継いだ堕落人間となることによって、心と体がサタンと神様の一線となり、争いが続けられています。地獄と天国は別の所にあるのではなく、私たち自身にあるのです。

◆愛の三大属性


 誰でも文総裁の言葉どおりに行えば、体を屈服させて、心と一〇〇パーセント一つになれます。それが統一教会の力です。方位磁石は、プラス・マイナスの方向さえしっかりと定めてあげれば、方向を整えます。それと同じです。そのようになれば、心と体が一つになった皆さんは、神様の愛のパートナーとして、永遠の対象になるのです。そういう愛をもった者は、永遠の神様を所有した者になるというのです。

 愛の属性には相続権があり、同居権があり、同参権があります。愛する夫が大統領ならば妻は小学校も出ていなかったとしても、夫のものは自分のものであり、昼夜いつでも共に同居できるのはもちろん、同参できる権限もあるのです。それで、愛は偉大だというのです。

 愛にはこのように相続権、同居権、同参権という偉大な三大属性があるために、神様の絶対的愛、不変的な真の愛と一致した立場に立つようになれば、神様がいらっしゃるところに私がいつも加勢でき、いつでも同居できる権限をもつようになるのです。そのようになれば、私が目を閉じなくても神様を見ることができ、涙を流すようになるのです。神様の悲痛な心情を体 恤した者は、道を歩いていても、足を止めて号泣するのです。そのような体恤的世界があるのです。

 堕落した世の中でも、お母さんは子供が外地で不意の事故に遭ったなら、それを感じて分かる場合がたくさんあります。寝ていても、「誰々」と叫んで起きるのです。愛にはそのような力があるために、その愛と一体になれば、二つの世界はすべて共存し、二つが共に住むというのです。共存するだけでなく、分かるというのです。言い換えると、千年、万年「ため」に生きても、もっとしてあげたいというそのような真の愛を、私の心と体に一〇〇パーセント吸収できる性相を備えるようになる時、心には神様の真の愛の根が生じ、神様が感じるすべてが通じるようになり、体は自動的にそこに共鳴するのです。

 心の世界の真の愛を中心として、共鳴体となれるように創造されたのが体なので、心と体が統一世界を備えようとすれば、神様の本質的な真の愛を回復しなければならないという課題が残っています。これは重要な問題です。

 このような真の愛に共鳴する理論を中心として見ると、私たち人間がそこに一体化して共同一体圏内に入っていけば、「神様の愛が私の愛であり、神様の生命が私の生命であり、神様の血統が私の血統であり、神様の所有である被造世界が私の被造世界である」と言える、天下を抱いた父母の心をもって天国に入籍するようになっているのです。

 そのようなことを知っている先生が、五色人種を、私を生んだ父母よりも、兄弟よりももっと愛そうという心をもって生きてみると、峠を越えて今日の統一教会を世界最高の立場にまで上げるようになりました。神様の導きのもと、真の愛が宿る所には天運が共にあり、神様の愛が永住するのです。

◆サタンも親子の関係で一体化した真の愛の前には順応する


 アダムとエバがただそのまま育って成熟したなら、神様の愛の対象、愛の配偶者となっていたはずです。ところが、あすになれば夫婦の生涯の契りを、結婚式をしようとしていたのに、その晩、盗賊が新婦を奪い去って逃げたというのです。それで連れていかれた所で生きたのですが、新婦が過去に新郎になるはずだった男性を忘れず訪ねていったとき、その男性が「ああ、歓迎するよ。おいで」と言うでしょうか。

 神様がいらっしゃるならば、なぜ世の中をこのようにしたままでいるのでしょうか。神様は世界に手を出したいのですが、心痛い心情を抑え、悪が植えられたので、悪が滅びる時になるまで待っていらっしゃるのです。蒔かれたので収穫の時を待っていらっしゃるのです。木陰で淫乱によって一組が蒔いたものが、秋になって全世界に拡大した青少年の淪落の姿、状態を見ているのが現代です。

 それを誰が食い止めるのでしょうか。父母も食い止められず、誰もできないのです。ところが悪魔は神様に対して、「あなたの創造理想を中心として、愛の絶対圏の理想である真の単一氏族圏をつくるための愛の血統圏が、このようにみな滅んで破壊した形になったにもかかわらず、今でも創造理想的理論が適用されると思いますか」と言いながら、あざ笑って出てくるのです。

 そのような時、神様は何と答えられるでしょうか。どれほどあぜんとされることでしょうか。本来の主人の息子となるべきだったのに、怨 讐の息子となって抜け出そうとしても抜け出せない苦しみの中に陥っている人類を眺められる神様の心情が、いかに悲痛なものであるのかを知っている人がいるでしょうか。

 ですから神様は、どれほどかわいそうな方でしょうか。神様と完成したアダムとエバのように天使長を愛した者であってこそ天国に入っていけるのが原則であるので、イエス様も失敗しないアダムの完成者として来られ、どのようにしてでも神様と共に怨讐を愛したという条件を立てなければならなかったのです。そうでなくては天国に入っていけないようになっているのです。それゆえ、イエス様は「怨讐のために、ローマ兵のために祈祷しなさい」と言われたのです。

 科学の世界では、一ページ、一文字でも前後が合わなければ、結果は一致しません。無知には完成はあり得ません。先生もこの問題に関して、生涯苦労してきました。神様と人間が真の愛を中心として一体化したところには、すべての勝利の道が確立されるので、サタンも親子の関係で一体化した真の愛の前には順応するのです。

 このような真の愛の基準について見ると、アダムとエバは、ペア・システムでつくられた愛の自然の園を見ながら学び、成長するようになっていました。アダムとエバを教育する愛の博物館なのです。アダムとエバは、万物が対で生まれ、愛し合い、子供を生んで生きていくのを見て育つようになっていました。

 アダムとエバはこのように成熟して、神様の愛を代表したプラス的王子が男性であり、マイナス的愛の王女が女性であるということを悟るようになっていました。女性が考えるには、「あの男性が正に私に必要な男性だわ」と信じるようになり、男性も女性に対して、「本当に私にとって必要な女性だ」と言うのです。

◆メシヤが背負う重大な責任


 男性は縦的で、女性は横的なのですが、真の愛は縦的、横的に出会うことができ、定着できる交差点は九〇度です。そのような創造の原則が絶対的公式となっているのですが、その公式から抜け出してはなりません。その定着できる交差点は、九〇度を成すようになります。なぜなら真の愛が探し求める道は、最短距離を通じるためです。

 真の愛は戻らず最短距離を行きます。上から下に下りてくる最短距離は、垂直しかありません。それで、神様と人間の真の愛の道は一つなのです。その垂直の前で、男性は東方にいて、女性は西方にいるのですが、この真の愛も直短距離を通じるので、九〇度以外には出会う道がないのです。

 人間が成熟して男女が真の愛を中心として、最短距離を行ってお互いに出会えば、縦的な垂直線と横的な水平線が出会って、自動的に九〇度になるのです。真の愛で愛すればそうなるのです。その点が正に垂直と水平が出会う点であり、絶対的な価値をもった位置として、絶対価値はその場にあるのです。その点は、一つしかない真の愛を結ぶ中心点であり、モデルになる点です。

 しかし、アダムとエバが成熟する前に、天使長ゆえに角度がずれてしまったのですが、これが正に堕落です。ですから、角度を合わせなければなりません。人間は堕落を通じて、悪魔の血を受けました。それで、自分のことだけを考える主義と、自覚性と、主体性を備えて出てきたのが悪魔の行動であったため、堕落した人間は、自分第一主義ですべてを考えるようになったのです。神様に似た善なる人は、全体の「ため」に生きる人であり、サタンに似た悪なる人は、自分の「ため」に生きる人なのです。

 ここで天地が分かれ、天国と地獄が分かれ、善なる人と悪なる人、公人と私人に分かれます。聖書を見ると、野生のオリーブと真のオリーブの比喩があるのですが、サタン世界の野生のオリーブの中で分立させて探し出した人類が、宗教圏内の野生のオリーブです。それは、メシヤによらずしては、真のオリーブになれません。ただし、野生のオリーブですが、神様の所有圏の中にある野性のオリーブです。それで神様が自由にできるのです。それは、将来再臨主が来られたとき、一度に切って接ぎ木をしやすいように準備してきたのです。

 そうして真のオリーブになり、本然の状態に戻っていくのです。そうするには、野性のオリーブを一度に切って、真のオリーブの芽に接ぎ木しなければなりません。主が来られたなら、一度に切って接ぎ木をするのです。

 それゆえ、たとえどんなに宗教をよく信じる人々であったとしても、父を訪ねていかなければなりません。なぜなら、本来の父から生命の種を受けずに生まれたからです。その父が、メシヤです。私たち人間は、本来の真の愛を中心として、神様の血統と連結した真の息子、娘としての一体となった種の理想を成せなかったがゆえに、メシヤが来なければなりません。

 それでは、メシヤとは誰でしょうか。真の父母として来て、偽りの父母から生まれて偽りのもので植えつけられた根を引き抜き、本然の形態を復帰し、サタンを追放して、すべてが歓迎できる自由、解放の天国世界をつくるべき責任をもって来られる方が、メシヤです。それで私たちは、その方を通じて本然のエデンの園、罪を犯さない本然の世界へ戻らなければなりません。

◆神様が創造摂理をなさった目的


 神様は、縦的な真の愛を中心とした私の父です。キリスト教神学では、「神様は聖なる方であり、人間は俗なるもの」と言っています。そのように見れば、俗なる者と聖なる方とはどのようにして因縁を結べるでしょうか。それは、永遠に不可能なことです。そのような神学は、今後終わりの日にはみな必要なくなるのです。

 真の愛の共鳴圏に入っていけば、天地がはっきりと見えてくるのです。堕落しなかったなら、天地がはっきりと見えるのです。釈迦が、「天上天下唯我独尊」と言ったのも、その共鳴圏の核心に入っていってみれば、天下がみな私の手中に入っており、神様が私の中にいらっしゃり、天理が私と共に連結しているがゆえに、そのようなことを言えたのです。真の愛の共鳴圏に入っていけば、信仰は必要なく、救世主も必要ありません。救世主も堕落の産物であり、信仰も堕落の産物です。

 神様が創造の摂理をなさった理由は、第一に、真の愛の対象を探すためでした。愛ゆえに創造されたのです。第二に、体をもつようにするためです。神様も、体がなくてはならないからです。体は貴いものです。天上天国に体をもった息子、娘が来るようになり、神様も体をもち、形を整えた父として臨在しなければなりません。その体が、アダムとエバの体の内的形態です。

 また、人間の心と体はお互いによく似ています。それにもかかわらず、お互いに一つになっていないのは、体がサタンの舞台になっているからです。このサタンの舞台を生涯を通して清算できなければ、あの世に行っても苦労するようになります。

 それでは、神様と本然のアダムとエバは、どこで出会うのでしょうか。神様の愛と真の父母の愛、神様の生命と真の父母の生命、神様の血統と真の父母の血統が結合するところは、垂直と水平を連結する九〇度しかありません。その点が、真の愛を成立させる公式点です。

 神様は縦的な真の愛の父母で、堕落しないアダムとエバは横的な真の愛を中心とした父母です。垂直と東西、縦横です。このような二つの父母の愛、生命、血統を受け継いで生まれた私の心は、縦的な私になるのです。

 キリスト教でも、心とは何でしょうか。神様の縦的な真の愛を受け継いだ、縦的な私です。神様の血統を受け継いで愛をもち、神様に似て生まれたものが心なのですが、その心は縦的な神様から受けたものなのです。そして、体は横的な父母、真の父母から受け継いだものです。

 父母の愛、生命、血統を受け継いで生まれた私の心は、縦的な私となり、体は横的な私となって、この縦的な私と横的な私が統一体となる時、人間は永遠の神様の真の愛のパートナーになるのです。神様の愛は永遠なので、私たちも永遠に生きるのです。永生の論理もそこから出てきます。真の愛以外には永生はありません。

 それでは人間にとっての真の愛の起源地と真の生命の起源地、そして真の血統の起源地は果たしてどこでしょうか。私たち人間と神様が一つになり得る愛の宮殿、生命の宮殿、血統の根源地とはどこでしょうか。この三つが和合できるところが、正に人間の性器です。

 ところで、この性器が、天理を破綻した凶悪な宮殿となり、悪の根源地となってしまいました。そこに偽りの愛と、偽りの生命と、偽りの血統が植えられました。神聖であるべきそれが、天地の一番の悪となったのです。

 それゆえ、神様の前にみだらな都市とみだらな国は滅びるのです。それは、神様が最も嫌うことです。ローマが滅びたのも、他の理由があったのではありません。ソドムとゴモラが硫黄の火に包まれたように、節操を守らないことにより、淫乱におぼれて滅びたのです。

 それゆえ、皆さんは愛の問題を革新しなければならず、血筋が変わってしまったのを正さなければならず、心と体の争いに休戦条約を結んで永遠に心の前に服従させることのできる体をつくらなければならないのです。

◆「ため」に生き、さらに「ため」に生きなさい


 今日、女性が嫁に行く時、「どうして嫁に行くのか」と聞けば、「愛されるために行く」と答えます。しかし、皆さんは「夫の両親を愛するために嫁に行く」と答えなければなりません。「義理の弟とその一族を愛するために、そこに属する国を愛するために嫁に行く」と言えば、その女性は何年もしないうちにその家門の母の立場、祖母の立場、嫁以上の位置を占める立場に立つようになるのです。

 そのように「ため」に生きようとすれば、歴代の先祖の基準を超えて初めて歴史始まって以来の必勝の勝勢者として、「神様の息子と娘である」と言える天道の道を行く巨人の生涯として残れるようになるのです。反対に、「私のために生きなさい」と言えば、押されて隅に追い込まれ、後ろのほうに追い込まれて、あげくの果てには門の外に追い出される身になってしまうのです。

 このように、「ため」に生きる真の愛と一つになってこそ家庭の統一も可能になるのです。口数少なく十年、百年を自分の子のために与え続ける親の愛は輝くのです。腹の毛がすべて抜けるほどに二十一日間外に出ることもなく、耐えながら卵を抱いて、ひよこをかえすめんどりを見ても、私たちは学ばなければならないのです。親鳥はひなのために、外に出たくても出ることはできないのです。ひなに毒蛇が近づけば、親鳥はかまれ死ぬ瞬間まで毒蛇をつついて、ひな鳥を保護しようとするのです。小さな動物でもそうだというのです。

 理想的愛の対象を探すことに失敗したがゆえに、正義の血統の根を下ろせないこの世の中に、皆さんは新しい生命の種を植えなければなりません。


 私たちはみな父母の心情で、僕の体をもって、汗は地のために、涙は人類のために、血は天のために流しながら、天地創造の大いなる主人であられる私たちの親なる神様の恨みを解いてさしあげなければなりません。歴史的な責任と使命を忘れることなく、救世の道に共に前進する皆さんになるようにお願いします。

















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訓教経(下)038



文鮮明先生のみ言集

訓教経(下)



女性解放


一九九二年四月十二日
韓国本部教会 『文鮮明先生み言選集第二百二十九巻』


 今日歴史を通じて苦労した人々がいるとすれば、もちろん男性もいるでしょうが、女性がより多く苦労しました。一つの家庭においても、その家庭を率いていく生活の底辺において、直接責任を負っている人とは誰かというと、女性です。衣食住を中心とした生活をしていくのにおいて、女性がすべての責任を負っているのです。

◆女性は家庭生活の中心であり責任者


 男性と女性の違うところとは何でしょうか。男性は外的な活動をして、女性は家庭において内的な活動をするということです。子女を教育するにおいて家庭に責任をもっているのです。このように見るとき、女性でも男性でも生涯を整えて歩んでいくことは簡単ではありません。一つの家庭がある国家の社会に抱かれて、その国家と共に、その社会の複雑多岐な環境を貫いていき、その社会と歩調を合わせていきながら、生活を営為していくのは簡単なことではありません。

 いくら内的な面で家庭が平安であるとしても、社会が混乱したならば、混乱したその外的な影響が家庭内に及ぶのです。また、その社会を越え、国家が外的に混乱をもたらすようになれば、家庭もやはり動揺するのです。もっと大きく発展させて言うならば、一つの世界ならば世界を中心として見るときも同じです。世界の外的な面が大きく動揺するようになるとき、その動揺するすべてのものが家庭に波及するのです。

 摂理史においても同様です。摂理史が平坦な道を行かずに蕩減の道を行くときには、その蕩減の道が家庭にまで影響を及ぼすのです。このように見るとき、家庭というものは、それ自体独立しているものではありません。社会の中にあり、国家の中にあり、世界の中にあり、天と地の中にあるのです。

 それでは家庭において、生活の中心になるのは誰でしょうか。もちろん男性も中心となりますが、主に女性が、家庭ですべての責任を負って生活しているのです。まず衣食住の問題においても、直接その生活の前線で責任を負っていくのは女性です。また、家庭に困難なことがあるとき、男性はその困難なことを間接的に感じますが、女性は直接的に感じるのです。

◆人類歴史の中で一番大きな困難は家庭の分裂


 これまでの人類の歴史をずっとたどってみれば、それは戦争史でした。歴史時代を経ながら数多くの戦争がありました。その戦争の中には、国に対する様々な戦争もあったでしょうし、第一次、第二次世界大戦をはじめとした、すべての戦争がありました。しかしながら、そのような戦争よりも、直接的に家庭にあって一番難しい戦争とは何かといえば、夫婦が不和になること、父母と子女が不和になることです。

 結局、どのような問題があるのでしょうか。男性と女性を中心として最初の生活基盤となる家庭においての分裂、闘争の問題が、外的な世界のすべての問題よりも、もっと大きな問題になるのです。各家庭で生活する人々の心に、大きな傷を与える可能性のあるものが夫婦間の衝突であり、父子関係の衝突であると見るのです。

 それゆえに、女性は歴史を経て生活する中で、多くの涙を流したのです。男性も、もちろん涙を流したでしょうが、涙を流した大多数の人々は女性なのです。

 その女性たちの中には、おばあさんの年代、自分の母親の年代、その次に自分の妻の年代の女性たちがいるのですが、この女性たちの根は一つではありません。女性の世界が男性と合わさり家庭を成す背後を見れば、おばあさんの根が異なり、母親の根が異なり、自分の相対の根が異なっているのです。

 ですから、この系統は引き継がれません。一つの家の中において見るときも、そうだというのです。おばあさん、母親、自分の妻が因縁を結んでいるのですが、横的な面において血統的関係がつながれていないというのです。ゆえに、どんなに素晴らしい女性でも、夫婦が離婚するようになれば、その家と関係がなくなり別れてしまうのです。それは母親もそうであり、自分の妻もそうだというのです。

 このように涙を多く流した人は女性ですが、女性が涙を流すようになった根本動機とは何でしょうか。男女関係、愛という問題を中心として女性は多くの涙を流したのです。ですから、歴史始まって以来、愛の問題を中心としてより多く苦しめられたのは女性であったと、このように見るのです。

 それで終わるのではありません。国に何かの大変動が起これば、男性は思いのまま社会活動をすることができますが、女性は制限された環境、家庭という垣根から抜け出るのは簡単ではありません。何か困難なことが生じれば、男性は母や妻に家庭を任せて家を出て、自由に行動することができますが、女性は困難な環境でも自分の家族、息子、娘を中心として家庭から抜け出るのは難しいのです。

 このような立場から男性と女性を中心として比較してみるならば、人類歴史始まって以来、誰が多く涙を流したかというならば、男性ではなくて女性だというのです。

◆女性が困難と悲しみの歴史を経てきた理由


 それでは、女性の立場を総括的に見るとき、人間世界でこのような生活をしている女性を理解してあげる何かの機関があるかといえば、ないというのです。女性としての困難や悲しみを保護してあげ、その女性のすべての悲しみを解決することができる国ならば国、そのような機関があったのかというのです。それもなかったというのです。

 すべての責任を要求する立場では女性が重要な責任を負っているのですが、家庭において女性を保護する何の体制もなく、社会においてもそのような体制はなく、国を越えてもやはりそのような体制ができていません。

 どうしてそのようになったのかといえば、それは蕩減時代を経てきたためです。女性が蕩減すべき道が東にもあり、西にもあり、南にもあり、北にもあるというのです。東西四方に連結していて、一方でなく前後、左右、上下、全体の球形的な面で責任を負わなければならなかったために、その女性を保護し得る体制をもつことができなかったというのが、今までの歴史でした。

 このように、男性と離れることができない相関関係をもってきながら、困難な立場で涙を流さざるを得ない人々が女性たちだったのです。それゆえに、悲しみの象徴として表示されるのが涙であり、苦痛の象徴として表示されるのが涙であるというとき、それは女性たちがこれまで歴史時代を経てきながら残してきた特権的遺物であるといえるのです。

 その中には祖母の涙、その次には母親の涙、妻の涙、姉の涙があります。自分の一家族があれば、大概四代まで連結されています。おじいさんとおばあさん、母と父、その次に自分の夫婦、息子と娘、このように四系列の三段階が連結されています。これが四数、三数に連結されています。このように、全体の家庭が生活していくときに、平均的に女性が涙を多く流してきたのはなぜか、人間には分からなかったのですが、神様の摂理から見るとき、歴史の発展過程において蕩減の責任を負っていたためだったのです。

 宗教的な面から見れば、男性を対象として見ても、宗教を信じる人々は宗教を信じない人々よりも涙をより多く流さなければなりません。悔い改めなさいということです。洗礼ヨハネがイエス様の来臨を証言するとき、「悔い改めよ、天国は近づいた」と言いました。「天国は近づいた」と言い、「解放された」とは言いませんでした。最初の言葉が「悔い改めなさい」ということでした。

 悔い改めるということは、涙を通じなくては駄目なのです。このように、宗教を中心とした圏内の男性世界は一般社会の男性世界よりも涙を多く流してきたのですが、それはなぜかというと、これも蕩減という内容があるためです。

 男性が宗教的な面で責任を負い蕩減することと、女性が家庭において責任をもち蕩減することを見るとき、摂理史的な立場において男性が涙を流したのは、男性解放を成し遂げるためであったのです。それで、これまでの歴史は男性解放圏に向かってきたのです。人間は家庭を越え、氏族、民族、国家を越えて、世界まで越えて理想郷に向かっていくのですが、男性においては世界の果てを越えるようになるとき初めて、「私は解放者だ!」と言うことができます。そのようにしようとすれば、その世界が平面世界でなく球形世界であるからには、地の果てに行き、向こうの反対側を回って戻ってこなければならないというのです。

 これまで歴史を通して、おおよそ神様を信じない外的な世界の男性と、宗教圏内にいる男性がいたのですが、宗教世界の男性が涙を多く流さなければならなかったのです。したがって、真正なる宗教指導者は、涙の生活をしなければなりません。なぜそうなのでしょうか。蕩減しなければならないからです。この二つの面を見るとき、女性は家庭生活をしながらその中で涙を多く流し、宗教を指導するすべての男性は、その教会を中心として対社会的な涙をたくさん流してきたのです。

 男性は宗教を中心として涙を流し、女性は家庭とか生活四方において涙をたくさん流したのですが、どちらが、よりつらかったでしょうか。もちろん男性も対社会的に隔離され、生活することはつらいでしょうが、それよりも女性が、よりつらい立場に立っているというのです。

 この悲しい人々が、どこで出会うのでしょうか。宗教の形態で出会うのです。宗教の内的な要素を見るとき、男性と女性がいるのですが、これを比例的に見れば、歴史的なすべての宗教を維持し、その外的な面までも拡大させることができる動機となるものとは何でしょうか。もちろん男性が主導したのですが、宗教を中心として悲しい涙を流した男性と、より悲しい涙を流した女性が合わさって宗教を今まで形成し、引っ張ってきたのです。そのような代表的な宗教が、キリスト教なのです。

◆真の愛に出会い愛の解放を受けるための闘争歴史


 キリスト教とはどのような宗教かというと、新婦宗教です。誰のための新婦ですか。新郎のための新婦です。今日キリスト教において、その新婦たちがこれまで涙を流しながら蕩減の道を経てきた一つの目的は、真なる新郎に一度出会うことです。ところがその新郎は、いつでも現れるのではありません。一時です。

 それでは、新郎に出会おうとする目的とは何でしょうか。それは、すなわち解放を受けるためであり、蕩減の道であるがゆえに、それから抜け出るためなのです。女性一人では抜け出ることはできません。なぜ女性一人では抜け出ることができないのでしょうか。これが問題です。お金がなくて解放を受けられないのではありません。知識がなくて受けられないのでもありません。権力がなくて受けられないのでもありません。真の愛の因縁をもつことができなかったからです。

 それで、真の愛によって解放を受けるために、新郎に出会うことを願うのです。真なる愛をもってくる新郎に出会うことによって、解放を受けることができる時が始まるのです。その時初めて、その男性自体も宗教から解放されなければならないのです。

 そうして、宗教の悲しい環境から解放を受けると同時に、女性も共に解放を受けなければなりません。それでは、どのようにして解放を受けるのでしょうか。その総責任者であるメシヤが来なければなりません。そのメシヤは天の真なる愛をもって来られるのですが、その真なる愛を中心として男性と女性が解放を受けるのです。男性は、宗教から解放を受けなければならないのです。これまでの宗教歴史においては、女性が指導した宗教はありませんでした。大概、聖人は男性です。その男性がこの悪なる世界と闘争してきたのです。

 そうして宗教指導者たちは大概受難の道を歩み、犠牲となってきたのです。その代表が、イエス様です。その当時の政治風土の環境を開拓していかなければならないがゆえに、男性を代表した宗教指導者たちは、常にその国の主権者と闘争してきたのです。それでは、家庭における女性は誰と闘争したのでしょうか。男性と闘争してきたのです。歴史がそのようになっているのです。女性は男性との愛を中心として、みな闘争してきたのです。

 ですから家庭においては、女性が男性を中心として愛の解放を追求してきました。また、対社会においては、男性が愛を根本的な面で破綻させようとする悪魔と闘争してきました。このような戦いをなしてきたのです。それでは数千年歴史を経てきながら、その戦いに勝利した版図をもった者がいましたか。どんなに女性が涙を流したとしても、その愛において男性に対する闘争過程で解放を受けることができたのかというのです。

 また、男性が真の愛の主人の立場で勝利し、悪魔の誤った愛を中心として結ばれた愛を再び取り戻すための蕩減の道において、解放を受けることができたのかというのです。これまで誰も解放を受けることができなかったというのです。そのような戦争が継続され、今日まで流れてきたのです。

◆宗教は真の愛の理想的家庭を取り戻すためのもの


 このように見たとき、その宗教というものは、あるいは家庭というものは、何を取り戻すためのものなのかといえば、理想的家庭を取り戻すためのものなのです。もし、真の愛の理想的家庭を成すことができたならば、宗教も終わりであり、女性たちの涙も終わるのです。その時が、終わりの日です。

 終わりの日になればなるほど、どのような現象が起こるのかというと、すべてのものが混乱するのです。男性が先なのか女性が先なのか、分からなくなるほどになってしまうのです。女性だけが涙を流すのではなく、男性も涙を流すようになっています。なぜでしょうか。将来の行くべき道が漠然として分からないからです。ゆえに、宗教を指導する人だけが涙を流すのではなく、社会で生活している男性たちも涙を流すのです。そうして、全部が同じ位置に立つようになっているのです。

 今が、そのような時であって、混乱の時代です。宗教が宗教の位置を守ることができず、社会が社会の位置を守ることができないでいるのです。社会の歴史的流れ、そのような疲弊した風土が教会を襲い、教会の疲弊したすべての流れが家庭を襲うのです。したがって、家庭の基盤も、宗教の基盤も、外的な国の基盤も、自分自ら自主的な立場で、愛を中心として解放圏を備えたものは一つとしてないのです。

 過去から現在までの歴史を見るとき、数千年歴史を経てきながら、すべての人々が理想を思い描き、平和を思い描きながら歩んできたというとき、その理想と平和を一つにまとめることができ、その平和の門を開くことができ、解放の門を開くことができるものとは何でしょうか。それはお金でもなく、知識でもなく、権力でもありません。内的な家庭において、あるいはすべての宗教において、真なる愛のみが宗教圏を克服し、家庭圏を克服することができるのです。

 宗教というものは、家庭を抱いていかなければならないものです。世の中にはたくさんの家庭があります。ここに来ている人たちも、その背後にはみな家庭があるのです。その家庭をどのようにして平和にするのでしょうか。宗教的側面から見るとき、その使命を完結する宗教とは、どこにあるのでしょうか。仏教、儒教、イスラム教の区別なく、みな同じ立場にあります。

 キリスト教は、男性宗教ではありません。女性宗教です。新婦宗教だというのです。西欧文明は、今やアジアを訪ねてくるのです。アジアは男性的大陸であり、アメリカ大陸は女性的大陸です。なぜ女性的大陸なのでしょうか。その宗教と思想面から、新婦宗教を信じているキリスト教文化圏だからです。それで、男性的アジアを訪ねてくるのです。

 イエス様もアジア系として生まれました。ところが、アジアで体を失ってしまいました。それを蕩減復帰するために、これまで西欧文明はローマを中心として反対に流れていったのです。本来、イエス様が死ななければ、インドの仏教圏、極東アジアの儒教宗教圏がキリスト教を中心として統一圏をまず成さなければなりませんでした。宗教圏が統一を成さなければなりませんでした。

 宗教圏に立っている最高指導者は霊界と通じるために、将来天が行く方向を知っています。それゆえ、イエス様が国を収拾してローマから独立し、イスラエルの十二支派圏がカナンを復帰して、分かれていたその地が統一される時には、間違いなくアジアが吸収されるのです。

 それでは、どのようにして収拾するのでしょうか。霊界で全部教えてくれるのです。霊界に行ってみれば、宗教というものが男性と女性を解放するためのものであるということが分かるようになります。なぜならば、堕落により拘束を受けている立場にあるからです。

 ゆえに宗教というものは、終わりの日に男性と女性を解放するためのものです。その男性と女性の解放は、特定国家においてではありません。総括的な世界舞台において男性と女性が解放を受け、天の愛と共に新しい出発をする時が終わりの日であり、すべての宗教が唱える末世であるのです。

◆男性と女性は愛の解放を受けなければならない


 男性と女性が解放を受けなければなりません。何の解放を受けなければならないのかというと、愛の解放です。どんなに生活が苦しいとしても、愛が宿っている所では、その貧しさを克服しても余りあるのです。そこからすべての力が補充され、愛する所では、たとえ何もなくても何もかもが集まろうとするのです。こうして世界のすべての被造万物が、愛の本質要素に吸収されるのが原理です。

 聖書を見れば「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」(マタイ二二・三七)とあります。なぜ愛さなければならないのでしょうか。神様が、本質的な愛の主体であられるからです。愛するようになれば、その位置は神様の愛を中心として万物を主管しようとする相対的位置となるため、その愛する心をもっていることは、プラスとマイナスのようにすべてが一つとなるというのです。

 「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」(マタイ二二・三九)とイエス様が主張されたことも、愛です。自分以上に愛することができる位置を取り戻すまでは、神様の愛の圏内に入ることはできません。歴史上の戦争や争いなどが起こるようになったのも、結果的に愛を取り戻すことができなかったからです。

 これまで愛を探し、もがきつつ、疲れ果ててしまったのが私たち人間です。愛に飢えた人間たちなのです。今日、社会における青少年の問題の混乱相も、その根本を探ってみれば、お金でもなく、知識でもなく、何かの力でもありません。そこには、愛が欠如していたのです。

 愛は愛ですが、それは何の愛でしょうか。一時的な愛では駄目です。春夏秋冬のように異なっていても、その本質においてはすべて同じです。冬は寒いですが、その寒さは愛を支配しません。そして、寒い冬にも愛を再び輝かせることができます。冷たいものが圧力を与えれば、縦的に伸び上がっていける、このような刺激的な業をなすのです。それは呼吸と同じです。息を吐き、吸うのと同様に、冬には萎縮し、夏には拡張するのです。季節の変化に従って愛の本質が変質することはないのです。その作用と形態は異なりますが、本質と本量においては消耗されないのです。愛のゆえに、すべてのものの結果がそうなっているのです。

 それでこのような代表的な宗教、この世界全体からこれを解放するための主流的宗教があるとすれば、その宗教は必ず愛を中心とした宗教の内容とならなければならないのです。このよう見たとき、他の宗教よりもキリスト教は、神様に対して「父、子」という言葉を使いました。また、イエス様は「花婿、花嫁」という言葉を使いました。その教えの核心は国ではなく、父子関係、夫婦関係です。「私は花婿であり、皆さんは妻である。私は兄であり、皆さんは弟、妹である」という、こういったすべての教えの核心は、家庭の解放です。

 それでは、イエス様はどこから生活を出発されたかったのでしょうか。花婿となられる方は、どこから生活されたかったのでしょうか。家庭から生活しなければなりません。それではその家庭生活というものは、どこと連結されなければならないのでしょうか。男性が涙を流しながら世の中と闘争してきた蕩減の道に立った、教会と連結されなければなりません。外的世界や国家形態の生活圏も愛を中心として連結されるのです。それがみ旨の完成であり、私たちの宗教の完成です。

 そうすれば家庭の完成が成されるのです。お金でもなく、知識でもなく、権力でもなく、愛を中心として完成がなされるのです。

◆解放圏は天と地を越えた位置に設定しなければならない


 女性解放をなすとき、家庭から解放するのでしょうか、教会から解放するのでしょうか、世界から解放するのでしょうか、天と地から解放するのでしょうか。もし、家庭からだけ解放するというならば、女性解放は成し遂げられません。

 しかし、家庭解放圏なくしては教会解放圏が起こりません。そして教会を越え、国家解放圏、世界解放圏が起こり、霊界解放圏まで起こるようになるのです。そうして天宙解放圏が起こるのです。解放圏をどこに設定しなければならないのかというと、国を越え、世界を越え、天と地を越える位置に設定してこそ、解放の世界が来るというのです。

 それでは、メシヤが来られて花嫁となるキリスト教をどこに導いていかれるのでしょうか。たとえ家庭に定着してそこで暮らすとしても、その暮らしている場は、自分たちがとどまるべき所ではありません。家庭をもち、国を越え、世界を越え、天と地を越える場に定着しなければならないのです。

 堕落することなくアダム・エバが完成するときには、天と地の代表者となるのです。神様がこの宇宙を代表した中心である人間を造られるようになるとき、彼らはすべての男性を代表し、女性を代表した者です。彼らは人類を代表した根っこでした。そうしてこの根っこ一つが、すべての幹と枝と実を全部もっているのです。

 アダムとエバが神様を中心として愛の理想を完成したならば、その位置は家庭的完成の基盤にもなりますが、社会完成の基盤にもなるのです。社会完成の基盤となると同時に、その伝統に従った国が生じ、その伝統に従った世界が生じ、その伝統に従った膨大なる天と地の民が生じるのです。そのようになるその動機とは何かといえば、真の愛であるというのです。

 ところで真の愛というものは、男性と女性を中心として成されるものであって、一人では成し遂げることはできません。男性と女性を永遠に引っ張っていく力をもったものが真の愛です。歴史時代に男性と女性が互いを殺し合うような家庭の最大の患難の時、そのような困難な曲折があるとしても、それを難なく越えさせられるものが、男性と女性が一つとなった愛です。

 その愛があったならば、その愛を中心としていたならば、社会がいくら困難なものであっても問題ではありません。世界環境がどんなに混乱していても、天地がどんなに混乱していても、愛を目的にして、分立することのない個人的な道、家庭的な道、氏族的な道、民族、国家、世界的な道を直行してきたことでしょう。

◆解放されようとすれば女性は男性の三倍以上蕩減の道を行かねばならない


 そのように歩むことができなかったのはどうしてですか。堕落したからです。それでは、どのようにして堕落したのでしょうか。もちろん第一の責任はサタンにありますが、第二の責任はエバであり、第三の責任は男性であるアダムです。サタンは誰と一つとなったのかといえば、エバと一つとなったのです。

 結局、サタンが神様の代わりの立場から、その愛を植えつけたので今日、人類世界の愛の根が神様とならずに悪魔になったのです。魔鬼が根っこになったのです。ヨハネによる福音書第八章を見れば、「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって」(四四節)という言葉があります。私たち人類において、その根っこが間違ったのです。ですから、その間違った根っこを逆さにしなければなりません。

 ここで根っこをひっくり返すことができる張本人とは誰かといえば、女性です。その根っことなる人間の出発が、家庭であるというのです。それゆえ、女性はこれまで家庭から解放を受けられませんでした。その家庭がそのまま世界を越え、天の国へと通じることができませんでした。女性が愛を中心として堕落したためです。

 それでは、誰がまず蕩減を受けなければならないのでしょうか。女性です。女性は男性の三倍以上涙を流さなくてはならないのです。なぜそうしなければいけないのでしょうか。サタンが蕩減することを嫌うからです。また、サタン世界にいる男性たちが蕩減することを嫌うからです。宗教を信じることを嫌うというのです。宗教を信じることを歓迎する男性を見たことがありますか。人生においてつらく、破れるようになったので仕方なく慰安所を尋ね求めて信じるのであって、もともと男性は宗教を好みません。

 そうして蕩減復帰するためには、女性を中心として涙をたくさん流さなければなりません。女性は息子のためにも涙を流し、夫のためにも涙を流さなければなりません。家庭に問題が生じれば男性が先に涙を流すでしょうか、女性が先に涙を流すでしょうか。女性です。その女性の涙の谷間というものは、夫のためにも泣き、子供のためにも泣き、父母のためにも泣くのです。家庭に困難なことがあれば、女性が全部そこにおいて責任を負い、主人の立場に立つのです。女性を見るとき、この世の誰よりも多くの蕩減の十字架を負ってきているのです。

 そうして、神様が解放を受けるためにも、かわいそうな者を解放しなければならないので、女性を解放しなければならないというのです。女性解放をしなくては、男性解放はありません。それで新婦宗教であるキリスト教文化圏が世界を支配することができたということは、驚くべき事実です。

◆小羊の婚宴の一等花嫁条件


 それでは来られる花婿はおばあさんの花婿ですか、母親の花婿ですか、私の花婿ですか。それが問題です。新郎は一家に三人必要です。おばあさんの新郎、母親の新郎、私の新郎がいなければなりません。

 おばあさん、母親、嫁、娘まで四人が花婿を探し求めるようになるのですが、来られる花婿はお一人です。ですから競争するようになります。それで、一等花嫁という言葉が出てくるのです。小羊の婚宴をするようになれば、特等花嫁を選出しなければなりません。その中でも、一番素晴らしい人はどんな人ですか。顔が美人の人ではなく、涙をたくさん流す人です。おばあさんよりも、母親よりも、妻よりも、姉が涙を多く流せば、そのお姉さんが中心となるのです。

 その涙は、何のために流すのでしょうか。息子、娘をもったならば息子、娘を解放し、その次に自分の夫を解放するためです。自分のために涙を流す人は必要なく、無駄です。どうしてそうなのでしょうか。女性が堕落することによって、夫があのようになったのであり、息子、娘がその影響圏内にいるために、息子、娘のために涙を流さなくてはならず、夫のために涙を流さなくてはならないのです。その一家のすべての先祖の伝統を再び立てるために涙を流した方々が、女性です。ですから、女性がかわいそうなのです。

 今や主が来られるというとき、おばあさん、母、妻、姉と、このように四代が暮らしている場合、互いが「主のところに先に行く」と言えば、大変です。「おばあさんよりも私がもっと福を受けなければならない、主を自分の花婿にしなければ」と言えば問題が起こるというのです。それでは、これをどのように選抜しなければならないでしょうか。自分を中心として涙をたくさん流し、自分を中心として蕩減の道を行こうとする人たちは後ろに下がっていくのです。涙を流すのですが、一家のために、おばあさんのために、母のために、妻のために涙を流すことができるそんな姉がいるとすれば、そのお姉さんが代表者となるのです。

 男性は堕落した天使長の後継者であるために、女性の後ろにいなくてはなりません。復帰されていくエバは士大夫(注:家柄の高い人の意)の一人娘と同じです。女性は父と母を尋ね求めていく立場にあり、男性という者は、これは僕がエバを蹂 躙したために、今は僕の位置に立って侍らなければならないというのです。

◆真の愛によってのみ世界史的解放が可能である


 ゆえに、男性も女性も真の愛を探し求めていかなければなりません。お金を見て結婚した人は地獄に行くのです。愛を中心とした創造理想の中にはお金を見て結婚する法がありません。知識を見て結婚した者も全部地獄行きであり、力を見て結婚した女性も全部地獄行きです。そのような原理はありません。それでは男性と女性が何を見て動かなければならないのかといえば、真の愛です。

 人類全体が願うものとは何かといえば、解放されることです。解放を受けてこそ平和を望むことができるのであって、解放なくして「平和」を言うことはできません。世界史的解放を受けなくてはなりません。それゆえに、世界はだんだん広がっていくのではなく、歴史とともにだんだん狭まってきて、一日の生活圏内に入ってくるようになります。どんなに世界が広いとしても、一時間、一分圏内に世界が狭まるようになれば、それを一遍に乗り越えていくことができる道というものは知識でもなく、権力でもなく、お金でもありません。真の愛のみが可能であるというのです。

 真の愛は平面的に、水平的にも行くことができ、四五度にも行くことができ、垂直にも行くことができます。真の愛の世界は愛すれば愛するほど、弱くなるのではなく強くなるのです。それで真の愛は貴いというのです。

 世の中においては、愛するとか何か他の力というものは、作用すれば小さくなります。入力は出力よりも大きくなっています。作用するものはすべて負荷がかかるので消耗が起こるのです。その絶縁体が妨害作用をするところを突破していくとき、必ず消耗が起こるのです。しかし、真の愛の世界はだんだん小さくなるのではなく、だんだん大きくなっていくのです。

 聖人とは、世界人類を愛した人です。そのため、聖人たちはみな世界史的な宗教指導者です。一族を越え、数多くの国境を越えて人類を包摂してきたものが、愛を中心とした世界的宗教圏です。その宗教圏が死亡の世界を突き抜けてきて、世界まで全部門を開き、国境を越えて解放するための過程にあるというのです。国家を越えて、世界を愛そうとする人が聖人です。

◆イエス様は真の愛の家庭を成しに来られたお方


 「聖子」と言えば神様の息子のことですが、そのお方は神様はもちろんのこと、天と地を愛そうとする人です。天と地の愛の圏だけでなく、天の国の王宮法まで愛そうとする人です。聖子は天の国の王子であるので、天の国の王宮法も守り、地上世界の王宮法もすべて守らなくてはなりません。その上に、天の国の王孫たちも愛し、天の国の民も愛し、地上の国の王孫たちも愛し、地上の国の民も愛さなくてはなりません。

 そうして二つの世界の宮殿と、二つの世界の民を愛することができるようになるときには、「神様の息子である」と言うのです。神様の息子は、この地上の民も必要であり、この地上の王族たちも必要であり、あの世の民も必要であり、あの世の王族も必要なのです。

 今日、キリスト教では「イエス様が結婚する」と言えば、あお向けにひっくり返ることでしょう。イエス様が死ななかったならば、花婿となるイエス様は世界に一人しかいなかったのですが、その時、特等の花嫁がいれば、イエス様は男性なので、その特等の花嫁候補を見て結婚したい思いになったというのです。

 そのような思いをもったとして神様が、「それは罪だ!」と、そのようには言われないのです。私が神様であっても、願っていた希望のみ旨を成し遂げることができる真の愛の主人公と真の愛の妻がいれば、真の家庭となれと祝福してあげたはずです。逃げても追いかけていき、祝福してあげることでしょう。

 イエス様は、真の愛を取り戻すために来られました。その真の愛は、一人の人から始まるのです。イエス様が死ななかったならば、婿になったというのです。聖書に「私は千人のうちにひとりの男子を得たけれども、そのすべてのうちに、ひとりの女子をも得なかった」(伝道の書七・二八)という言葉があります。一千の男性の中の中心がイエス様なのですが、一千の女性の中の中心を探し出すことができなかったというのです。

◆天の愛をもった花婿が来る時の現象


 そのような女性の中心を探し出して、女性を解放しなければなりません。今まで女性たちが涙を流しましたが、誰のためでしょうか。男性のためです。男性のために多くの涙を流したのですが、その男性が偽物の男性であるというのです。それで女性たちは、悔しくてもただ耐えながら、神様に祈祷するのです。 舅 を見ても、自分の夫を見ても、息子を見ても、全部父の味方です。すべてが男性の側であるというのです。ですから「舅を見ても信じることができず、夫を見ても信じることができず、息子を見ても信じることができない」と、そのように思うのです。

 そうして女性たちは、男性たちのために多くの涙を流すのです。ところが、今や本物の花婿となられる一人のお方、愛のお方が来られて接ぎ木するのです。

 どうしてそうならなければならないのでしょうか。女性は今まで、真の愛を中心として春を迎えようとしても迎えることができなかったのです。春がなかったというのです。常に秋、でなければ冬だったのです。夏もありませんでした。ですから花開くことができなかったのです。堕落することによって春の季節を失い、夏の季節も失ってしまったのです。秋の季節から冬の季節に越えていかなければならないのですが、それが簡単ではないというのです。秋から冬を越えてこそ春が訪れてくるのですが、この冬がヒマラヤ山脈にあるエベレストよりももっと高いというのです。これを越えなければなりません。

 ですから神様は、家庭的患難時代において、家庭をますます引き上げるのです。家庭を引き上げ、また教会を引き上げるのです。それで一番最後には教会や家庭が、共に全部見えるようになるのです。

 今の世の中を見てみれば、家を出ていった息子、娘たちが全部同じ立場で堕落するのです。会って何時間もたたず、少しあいさつしただけでも愛し合うのです。それは、一日愛圏です。永遠なる愛が、一日愛の果てに来ました。また、愛の問題において「男女の愛が信じられない」と言って、「男は男同士で結婚しよう」といった、そんなことが起こっています。男性が男性と結婚し、女性同士で結婚する人々がたくさんいます。そのようになれば、人類絶滅となるのです。

 誰がこのようにしてしまったのでしょうか。神様は、そのようにすることはできないのです。悪魔が、そのようにしたのです。昔は永遠なる愛を願っていたのですが、一分愛圏内になったのです。そうして「性の解放だ」、「フリー・セックスだ」と言って、一度会って嫌いになればそれで別れるのです。そのような立場にあって、男性も女性もみな不幸なのです。そのように人間は、絶望の淵で絶叫しているのです。そこには希望がありません。

 男性世界が拡大されたものが世界です。そのような男性を中心として縮小した形態、一つの核、細胞は、やはり家庭です。そして、そのような家庭でおじいさんのために涙を流し、父のために涙を流し、息子のために涙を流すそのような人と、それとは反対におじいさんに涙を流させ、父に涙を流させ、それから息子に涙を流させる人の二種類の人がいるとすれば、どちらのほうが残らなければなりませんか。

 それでは、四段階から見るとき、ここで涙を流した代表とは誰でしょうか。縦的な三段階になっている論理を中心として見るとき、その中でも一番十字架を多く負った人が主人の位置に行くのです。

◆イエス様の伝統的思想の起源


 国においてもそうです。愛国者とは何かといえば、その国のすべての国民を越えて、ある人とか、その人の事情を思いやることができる中心存在です。その事情を思いやるところにおいては、良い事情を思いやることは、いつ、どんな時でも簡単です。祝宴を張っている家で、良いものをお膳に調えてもらえば、それを食べるのは簡単です。しかし、それと反対にならなければなりません。

 困難なことに責任を負い、全体を良くしてあげるために涙を流す歴史をもった人は、その一族の根っことなるのです。ねぎやにんにくのように、真ん中から出る茎の根っこは、磐石を貫いていかなければなりません。そうせずに曲がれば、ここからあのてっぺんまで全体が曲がってしまうのです。ゆえに、真ん中から出る茎の根は、磐石を貫こうとしなくてはなりません。まっすぐに伸びなければなりません。

 このように見るとき、家庭において、将来善なる世界が来たときに賞を受けることができる中心存在とは誰かというと、その家庭のために涙を多く流した人です。国において、どのような人が福を受けるのかといえば、国のために生死の圏を越えて、すべての国民たちを代表して十字架の立場を守り通した人です。その人が国の中心となるのです。それが当代でできなければ、その血族から、いつかは必ずその国の主人が生まれるのです。

 この世界においても同様です。誰が世界の中心となるのでしょうか。涙を流すときは、宗教圏内で涙を流すだけでなく、死の道を自ら請いながら長い歴史的時間を経てきたそのような宗教が、この世界を指導することができる責任的立場に立つのです。このように見るとき、血を多く流した宗教がキリスト教です。したがって神様も、キリスト教を通して第二次世界大戦で、世界の統一を許諾されました。それは、歴史始まって以来初めてのことです。

 第二次大戦の時、連合国を中心として枢軸国と対峙して戦いましたが、その時、宗教文化圏が初めて世界を統一するようになったのです。それは、イエス様の思想をもったからです。

 イエス様は、ガリラヤの海辺で漁夫や取税人や遊女を連れて雑多なことをしていると、追われて死んだ方です。ユダヤ教が、「邪悪な輩の集団だ」と言って追い込んで殺したのです。それでは死んだそのお方が、どのようにして世界の文化圏を形成し、世界統一の伝統的精神を、歴史の流れを越えて成就したのでしょうか。その時代にローマとその対峙圏にあったイスラエル圏内において、世界の誰よりも十字架を負ってより犠牲となった人であるからです。

 何をして犠牲となったのでしょうか。聖書を見れば、イエス様は「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ二七・四六)という祈祷と、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ二六・三九)と、このように祈祷したというのです。これを見れば、神様の前に、イエス様の考えはなかったということです。神様の前に、自分の生命はなかったというのです。

 一番高い神様の前にそうだったのであり、それから一番悪い人たち、自分を十字架につけ、くぎを打ち込み、やりでわきを突き刺したそのローマの兵卒に対して祈祷するのに、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ二三・三四)と、そのようにされたのです。ローマを一時に呪っても余りある、天の雷で打って復 讐してもすっきりしない、そのような立場で、彼らに福を祈ってあげることのできる愛があったというのです。そこには怨 讐の概念がないのです。イエス様には自分を中心とした概念がありませんでした。皆さんは、これがイエス様の伝統的思想の起源になったということを、はっきりと知らなければいけません。

◆神様を解放することができる人


 イエス様は自己の主張がありませんでした。神様の前において自分を考えませんでした。死の場において、ローマの兵卒が地獄に行くことを心配しながら怨讐を愛されたのです。神様を愛することにおいてこれ以上はなく、怨讐までも愛することにおいてこれ以上がありません。人格基準が神様と同じであったというのです。神様の息子、娘を救うことにおいて、自分の威信がありませんでした。自分がありませんでした。

 失ってしまった息子、娘を救う求道の道を行かれる神様は、イエス様と同じ立場に立っています。悪魔が怨 讐なのですが、その悪魔の子供たちを自分の息子、娘として、悪魔よりももっと愛さなければならない立場が、神様の立場であるというのです。ですから、どんなにかわいそうなことでしょうか。

 イエス様を死なさざるを得なかった神様を解放するためには、イエス様以上の死ぬことのない愛と死ぬことのない人格的版図を中心として、神様もその前においては、御自分は死ぬとしても息子を死の場に立たたせることはできないという、そのような人が現れなければなりません。そのような人が現れることによって、天と地が解放されるのです。
















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